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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100234
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[近代史3] 南京大虐殺30万人は過大評価なのか? 中川隆
1. 中川隆[-13245] koaQ7Jey 2019年1月02日 06:47:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210]

百人斬り -- 鈴木 明 『南京大虐殺のまぼろし』の悪質な嘘


「南京大虐殺」のまぼろし (WAC BUNKO) – 2006/6/1
鈴木 明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%BC%E3%82%8D%E3%81%97-WAC-BUNKO-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E6%98%8E/dp/4898315461

中国の旅 (朝日文庫) – 1981/12
本多 勝一 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%97%85-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/4022608056

南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌 – 2009/1/1
本多 勝一 渡辺 春己 星 徹 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%A8%E3%80%8C%E7%99%BE%E4%BA%BA%E6%96%AC%E3%82%8A%E7%AB%B6%E4%BA%89%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%85%A8%E8%B2%8C-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/4906605532

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1971年、朝日新聞に連載された本多勝一記者の長編ルポルタージュ『中国の旅』は、大変な反響を巻き起こしました。

このルポによって初めて、中国戦線で旧日本軍が行ってきた数々の凄まじい蛮行が、被害者である中国人自身の証言という生々しい形で徹底的に暴露されたからです。出征した兵士たちは、ごく少数の例外を除いて自分たちが行った残虐行為については一切口をつぐんでおり、教科書や一般の歴史書も抽象的に戦争の経過や背景を説明するだけだったため、戦後世代の日本人の多くは、かつて自国が行った侵略戦争の実態がどのようなものだったのか、具体的には何も知らないも同然でした。『中国の旅』は、いわば無知ゆえに安穏としていられた戦後世代を過酷な歴史的事実に目覚めさせる冷水のような役割を果たしたのです。

それだけに、このルポに対する右派勢力からの攻撃にもすさまじいものがありました。本多氏や朝日を黙らせようとする直接的脅迫はもちろん、氏の人格を中傷する捏造記事や、『中国の旅』に書かれている膨大な事例の一つでも否定しよう(そしてそれを宣伝することでルポ全体の信用性を貶めよう)とするあらゆる試みが行われました。

そうした試みの代表的な(そして最も「成功」を収めた)サンプルと言えるのが、鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』です。

この本はその前半およそ半分を、南京大虐殺全体から見ればほんの一エピソードに過ぎない「百人斬り競争」事件の否定に費やしています。鈴木氏はこの事件の信憑性に疑問を投げかけることで、本多氏のルポ全体、ひいては南京大虐殺全体が根拠のない「まぼろし」であるかのような印象を与えようとしたのです。

鈴木氏の「批判」が当たっていないこと、それどころか逆に『南京大虐殺のまぼろし』の方が証言の歪曲や捏造だらけであることは既に明らかになっているのですが、一時は多くの人がこの本に騙されました。

下記の議論が示しているように、最近になってさえこの件をネタに『中国の旅』を攻撃しようとする論者がしばしば現れます。残念なことですが、一度広まったデマは容易に根絶しがたいものなのです。

『南京大虐殺のまぼろし』後半部分については、そのデタラメさ加減を指摘する記事が「インターネット大学グローバル・カレッジ」に掲載されています。また、小林よしのりとの共著『朝日新聞の正義』でこの百人斬りを否定しようとする井沢元彦の無知ぶりとトリックを指摘する記事が、同じ「インターネット大学グローバル・カレッジ」に掲載されています。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/nangjin/hyakunin/hyaku.htm

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野田、向井両少尉を裁いた南京軍事法廷の記録そのものがあります。

鈴木氏の『南京大虐殺のまぼろし』や洞氏の『南京大虐殺 -- まぼろし化工作批判』が書かれた時点では公開されていなかったのですが、今では中国側から公開された一部の記録(起訴状と判決書[8])を見ることができます。

この判決書を見ると、被告側の言い分として記録されているのは、

「『東京日日新聞』の記事は偽りであり、被告の武勲を称揚して日本の女性の羨望をあつめ、早く良縁を得られるよう期したものである」

という主張だけです。(この主張は確かに前記の「上申書」にも出ています。) もし被告側が裁判の過程で、問題の時点で現場にいなかったという重大な主張をしたのならば、まずそのアリバイ主張が(例え一蹴されるにせよ)第一に記録されるのが当然ではないでしょうか。断定はできませんが、判決書に出てこないということは、裁判の過程ではそのような主張がなされなかった(つまり、向井少尉自身が自分のアリバイを*知らなかった*)のではないかと思われるのです。

というわけで、各種の証言・証拠を総合すると、少なくとも百人斬り記事が浅海記者の創作などではなく、両少尉が語った内容を大体そのまま書いたものであることはほぼ確実です。そして、もとより白兵戦の中で向かってくる敵兵を斬り殺すことなどほとんどあり得ない以上、野田少尉が告白しているとおり、この百人斬りの大部分は捕虜虐殺の据え物斬りとして行われたと見るのが妥当なところでしょう。
百人斬りなどは南京大虐殺全体から見ればほんの一エピソードに過ぎないので普通なら今更こんな事で議論する必要はないのですが、未だにこのエピソードをネタに真面目な研究者やジャーナリストの仕事にケチをつけたがる人がいるので、私もやむを得ず知識の範囲内で対応しているわけです。

例えば、『南京大虐殺のまぼろし』には、「南京刑務所で、向井氏が処刑される寸前まで、彼と共に生活をした」小西さんという方からの手紙が紹介されています。

ところが、たまたまこれと同じ(としか考えられない)手紙が山本七平氏によっても別のところで紹介されており、この二つを比較してみると、細かい部分で多数の食い違いがあるだけでなく、重要なポイント部分にも相違があるのです。『南京大虐殺 -- まぼろし化工作批判』ではこの二つの手紙が上下2段組みで並列に示さ
れているので是非見比べて下さい。これを見ると、大して長くもない手紙に細かい言い回しや事実関係に関する食い違いが何十個所もあり、その上、次のような重大な疑問点があります。


(1)山本氏紹介の手紙では、冒頭に

「偶然な機会に週刊新潮7月29日号の…記事を見ました。」

とあり、途中にも「貴誌既報の如く」と週刊新潮宛てに書かれた手紙であることがはっきり示されているが、鈴木氏の紹介ではどちらもカットされている。鈴木氏が自分宛ての手紙であるかのように装った疑いが濃い。


(2)鈴木氏紹介の手紙には

『…彼らが着いて直後、予審とも記者会見 ともわからないようなものをやり、この人たちが初めから異常な扱いをされていることはすぐにわかりました。「事実は明白である。如何なる証拠を出しても無駄である」といっていたそうで、大虐殺の犯人として事件に決着をつける政略的なものであろうと我々も話していました』

と いう部分があるが、山本氏紹介の手紙ではここが中略されている。ここはこの裁判が予断に満ちた不当なものであったことを示す重要な部分なので、あえてここを中略してしまうとは考えにくく、そのような記述は実際にはなかった可能性が高い。


(3)同じく、鈴木氏紹介の手紙の末尾には

『刑の執行の朝、彼等が、軍事法廷になっていた二階で、“天皇陛下万歳、中華民国万歳、日中友好万歳”と三唱した声が今でもはっきり蘇がえってくるのであえてここに筆をとりました』

という部分があるが、これも山本氏紹介の手紙では後略されている。ここも両被告の堂々とした態度を示す印象的な部分で、あえて略してしまうとは考えにくく、鈴木氏の創作である可能性が高い。

洞氏は、

『鈴木氏はよくもまあ、他人の文章をこうも勝手に改竄したものだといわざるをえない。

…鈴木氏が、こうした資料の扱い方をあえてしたとすれば、氏の「追跡ルポ」のききとり方も、相手の話したところがどこまでそのとおりにつ たえられているか疑わしくなる。

フィクションならともかく、こんなルーズで恣意な資料のあつかいをしているのでは、『「南京大虐殺」のまぼろし』は、「ノンフィクション」・史書としては失格なのではなかろうか。 』


と述べていますが、私もまったく同感です。


また、ジャーナリストの和多田進氏は、『「南京大虐殺」のまぼろし』 が単行本になった1973年に台湾に渡り、鈴木氏の本にも出てくる石美瑜氏(両少尉を裁いた裁判の裁判長)にインタビューしています。その結果、鈴木氏が身元をごまかし、取材目的も告げずに会っていたこと(石氏は鈴木氏のことを向井か野田の息子またはその友人だと思っており、鈴木氏の本のことも知らなかった)、鈴木氏は石氏の上海なまりがひどくて話が聞き取れなかったというが、実際には台湾生まれの通訳でも会話に何の不自由もなかったことなどが明らかになっています。


肝心の石氏の証言も、鈴木氏のテープにあるという

『この種の裁判には何応欽将軍と蒋介石総統の直接の意見も入っていた』

とか

『向井少尉が日本軍人として終始堂々たる態度を少しも変えず、中国側のすべての裁判官に深い感銘を与えた』

などという話は出てこず、逆に

『裁判で明らかになったことのひとつは、「百人斬り」競争に際して、二人はブランデーを賭けていたということです。』

とか

『二人の家族にも言ってもらいたいことだが、中国人はこの戦争でおそらく1000万人も死んでいるだろうということだ。もし証拠がなくても処刑できるのだということになれば、日本の軍人はすべて処刑しなければならないということになるだろう。しかし、われわれは報復主義はとらなかったということです。』


といった証言が得られています。


鈴木氏が石氏の証言として

『五人の判事のうち三人が賛成すれば刑は決定された』

などと書いているにもかかわらず、判決書によれば実際の裁判官は*四人*であったことなどを考えれば、それは自明であると私は思います。

いまだにこのような「取材」によって書かれた本をネタにして本多氏の「ジャーナリストとしての姿勢」にケチを付ける人がいたり、この件の決着がどうついたのかさえほとんど知られていない、というのは実になげかわしいことです。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/nangjin/hyakunin/fj960923.htm


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望月五三郎手記


 望月五三郎氏は事件当時両少尉と同じ部隊におり、両少尉による「競争」を目の前で見ていた当事者である。望月氏は1985年に私家版として刊行した手記『私の支那事変』の中でこの事件についても触れており、この「競争」の実態が、捕らえた罪もない農民を二人で争って斬り殺した殺人競争であったことを赤裸々に描き出している。志々目証言とこの手記によって、百人斬りの真相はほぼ明らかになったと言っていいだろう。作り話でもなければもちろん戦闘行為でもなく、無抵抗な捕虜や農民に対する虐殺だったのである。

 ちなみに、この手記は刊行後埋もれたままになっていたが、歴史否定勢力が両少尉の遺族を原告に仕立てて本多勝一氏や毎日新聞、朝日新聞などを「名誉毀損」で訴えた裁判の過程で、新資料として発掘された。愚かな否定派の策謀も真相究明に役立つことがある、という好例であろう。


百 人 斬 り     昭一二・一一・二七 〜 昭一二・一一・二八


 線路に沿って西へと進む。無錫の手前八kmあたりで、敵の敗残兵約ニケ中隊に遭遇し、激戦の末、約三○名を捕虜にする。敗走する敵は無錫へとのがれた。
 無錫は工業都市であるが戦下の無錫の煙突の林立には煙一つ昇っていない。曽つての煤煙であたりの建物はどす黒く染って陰気な街である。

 速射砲が敵陣の壁めがけて発射された。速射砲とは発射すると直線で弾がとぶ、発射音と同時に、ドン、ドカン瞬間にはもう弾は壁を砕いている物凄い破壊力である。引き続き野砲の援護射撃が始まった。その間に中隊は前進する、援護射撃は有難いが、観測を誤ったのか、我々をはさんで前と後に落下する。そしてその間隔がだんだん我々に近づいてくる。鯖中隊怒り心頭に達する。

 やがて砲撃はとまり、敵は常州方面へと退却した。

 常州へと進撃する行軍中の丹陽附近で大休止のとき、私は吉田一等兵と向ひ合って雑談をしていると、突然うーんとうなって腹をおさえながらうずくまった。流弾にあたったのである。

 「おい吉田」と声をかけたが返事がない、死んでいるのである。即死であった。もう五寸位置がちがっていたら、私にあたっていたのである。私はほんの五寸前で死んでいった吉田一等兵をこの目で見た。葬むるにも時間がない、衛生隊にお願ひして、心を残しながら行軍に続いた。

 このあたりから野田、向井両少尉の百人斬りが始るのである。野田少尉は見習士官として第一一中隊に赴任し我々の教官であった。少尉に任官し大隊副官として、行軍中は馬にまたがり、配下中隊の命令伝達に奔走していた。

 この人が百人斬りの勇土とさわがれ、内地の新聞、ラジオニュースで賞賛され一躍有名になった人である。

 「おい望月あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に座る。少尉の振り上げた軍刀を背にしてふり返り、憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。

 一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も、少尉の手前じっとこらえる。

 戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが、抵抗なき農民を何んの埋由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。

 その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた。 両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた。支那兵を戦斗中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を連隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。

 この残虐行為を何故、英雄と評価し宣伝したのであらうか。マスコミは最前線にいないから、支那兵と支那農民をぼかして報道したものであり、報道部の検閲を通過して国内に報道されたものであるところに意義がある。

 今戦争の姿生がうかがえる。世界戦争史の中に一大汚点を残したのである。(後略)
(季刊『中帰連』2004年秋号)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/mochiduki.htm

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向井氏の遺書


百人斬りの実行当事者である向井氏は処刑前に遺書を残しているが、この遺書には、東京日日新聞による報道は彼ら自身の話した内容を記事にしたものであることが明記されている。つまり、向井氏本人が、記事は浅海記者による捏造などではないと言っているのである。更に、「公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります」と述べているとおり、向井氏は記事に書かれた百人斬り競争を行ったこと自体は認めている。(それは戦闘行為であって虐殺ではなかった、と言っている訳だが、銃器で武装した敵兵を戦闘中に何人も日本刀で斬り殺すことなどできるはずがないことは言うまでもない。)

以下、この遺書の一部を再録する。

この向井氏の遺書では、百人斬り競争を新聞記者に話したのは野田氏ということになっているが、野田氏の方は、話したのは向井氏だと父親への手紙に書いている。


なお、「百人斬り」を捏造だと主張する鈴木明氏は『「南京大虐殺」のまぼろし』に向井氏の遺書を引用しているが、なぜかそれは下記の「辞世」の部分だけで、都合の悪い後半部分は無視されている。


[1] 南京事件調査研究会編 『南京大虐殺否定論13のウソ』 柏書房(1999) p.111
[2] 鈴木明 『「南京大虐殺」のまぼろし』 文藝春秋(1973) p.77

  辞 世

 我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。

 我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。

 中国の御奮闘を祈る
 日本敢奮を祈る
 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳

死して護国の鬼となります
 十二月三十一日 十時記す 向井 敏明

  遣 書

 母上様不孝先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽しましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐しい国です。

 野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集つて語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御託ぴして置きました。

 公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞賛されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが公判に間に会いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。(後略)

巣鴨遺書編纂会 『世紀の遺書』 (1953年)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/mukai.htm

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志々目証言


帰国した野田少尉が故郷の小学校で講演した内容を、後輩の志々目彰氏が聞いたもの。勇猛な白兵戦として報道された「百人斬り」の実態が、実は捕虜虐殺の据え物斬りであったことが、本人の口から率直に語られている。


 戦記雑誌『丸』が11月号で「日中戦争の全貌」という特集をしている。その中に当時毎日新聞社会部陸軍報道班員鈴木二郎氏の「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」という貴重な回顧録がある。

 この文章は、栄誉をかけた“百人斬り競争”として二名の青年将校が南京攻略戦の中で二百名以上の中国兵を日本刀で切り捨てたことから始まっている。ところがこの事を、私は小学校の時本人から聞いて知っていた。それは私にとって“中国体験”のはじまりでもあった。

 それは小学校卒業の一年前、昭和十四年の春だったにちがいない。生徒を前にA先生が「いちばん上級となった君たちに」といったのと、これで上級生がいなくなってせいせいするぞという解放感で気持ちが弾んでいたのとを記憶している。A先生はわが校の先輩であるというパリパリの青年士官をつれてきた。陸軍士官学校を出てまだ何年もたたないというその若い将校のキビキビした動作、ピンと前の立った士官帽をはっきりと思い出す。

 私の出た学校は鹿児島県立師範学校附属小学校。父は県庁の下級官吏で、本来この学校へこどもを出せる階級ではなかった。私も附属特有のお坊っちゃんムードが嫌いで、それに勉強も好きでなかったから、毛並みのいい級友たちとは一歩距離があった。鹿児島というところは軍人の産地で、中学で少しできる奴は身体がよければ海軍兵学校か陸軍士官学校へ進む土地柄であった。私自身その三年のちに陸軍幼年学校の生徒になったのだが、陸軍将校には特別の憧れや関心をいだいていなかった。それは、長兄の影響――日夜海軍兵学校のことを言いくらし、希望をつらぬいて江田島に入り、終戦の百日前に水上偵察飛行隊の分隊長として戦死した――を強く受けて、熱烈な海軍ファンだったからかもしれない。

 さて、小学生を前にしたN少尉は、ずいぶんくつろいでいたようだ。世間でみる軍人という堅い感じは少しもなく、また私たちが数年後に自ら体験した気負いもなかったと、今にして思う。それは戦火をくぐりぬけてきた人の落ちつきであったのかもしらないが、やはり母校の小学生、身内に話しているという気軽さでもあったのだろう。たんたんと話した内輪話は、ほぼ次のようなものであった。

「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……

 実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……

 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……

 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
 二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……」


 これを聞いて、私の頭には新聞写真で見たような敵の陣地が浮かんできた。腰を丸め手をあげてゾロゾロ出てくる中国兵……なぜ中国兵は逃げないのだろう? 反抗しないのだろう? 兵士がみんな馬鹿ということがあるだろうか。

 そのほかにも「中支戦線」や戦場生活の話を聞いた筈だが、忘れてしまっている。

「ニーライライというと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる……」

という言葉は今でもはっきり覚えている。「ニーライライ」というのは、お前来い来い、という意味だそうだ。これは竹内好さんや安藤彦太郎さんたちのいう“兵隊シナ語”の一種でもあったのだ。

 その頃の私たちには、斬られた中国兵のために憤り、或いは同情する“ヒューマニズム”はなかった。その中国の兵たちにも自分のような弟がいるかもしれないなどとは、思ってもみなかった。軍人になろうとしている兄貴を慕っていた私だから、そんな類推ができない筈はなかったのに……

 だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという“勇士”の体験談は、私にはショックだった。ひどいなあ、ずるいなあ。それ以上のことは幼い自分には分らなかった。これでいいのだろうか、そんな軍と軍人で果して“聖戦”が可能なのだろうか。陸軍幼年学校に入り、国軍の生徒としての教育をうけるようになってから、そのことをあらためて思い出すようになっていた。

 そして敗戦。変り身のはやくない私は、二・一ストのあとまで、依然として軍国主義者だった。そのころ極東裁判が開かれた。マスコミと世論が旧軍隊の、ことに戦争遂行の骨幹であった正規将校の腐敗をあばく度にくやしがっていた私だったが、南京虐殺事件の報道はすなおに受けいれることができた。N少尉の話の全体像がつかめてきたように思い、自身もにない手であった日本帝国主義の対外的な責任を考えるようになったのは、この頃からであった。(後略)

志々目彰「日中戦争の追憶――“百人斬り競争”」(『中国』1971年12月号)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/shijime.htm


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報道関係者の証言


浅海一男 元東京日日新聞特派員 (第1報〜第4報共同発信者)


(前略)連日の強行軍からくる疲労感と、いつどこでどんな“大戦果”が起こるか判らない錯綜した取材対象に気をくばらなければならない緊張感に包まれていたときに、あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で、M少尉、N少尉と名乗る二人の若い日本将校に出会ったのです。(中略)筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と、その夜そこで天幕夜営をする準備をしていた、と記憶するのですが、M、N両将校は、われわれが掲げていた新聞社の社旗を見て、向うから立ち寄って来たのでした。(中略)

両将校は、かれらの部隊が末端の小部隊であるために、その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明したり、かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり、いまは記憶に残ってないさまざまな談話をこころみたなかで、かれら両将校が計画している「百人斬り競争」といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは、この多くの戦争ばなしのなかから、このコンテストの計画を選択して、その日の多くの戦況記事の、たしか終りの方に、追加して打電したのが、あの「百人斬り競争」シリーズの第一報であったのです。

 両将校がわれわれのところから去るとき、筆者らは、このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは、どうせ君たちはその社旗をかかげて戦線の公道上のどこかにいるだろうから、かれらの方からそれを目印にして話にやって来るさ、といった意味の応答をして、元気に立ち去っていったのでした。

(中略)
 事実、「敵」を無造作に「斬る」ということは、はげしい戦闘間のときはもちろんですが、その他のばあいでも、当時の日本の国内の道徳観からいってもそれほど不道徳な行為とはみられていなかったのですが、とくにわれわれが従軍した戦線では、それを不道徳とする意識は皆無に近かったというのが事実でした。筆者は、あの戦線の薄れた記憶のフィルムのなかでも、次のようないくつかの場面だけは脳裡に焼きついて離れません。

 例えば確か丹陽の少し手前(上海寄り)にあった中華民国歩兵学校が占領されたとき、その裏手の広場に、数十体の国民党軍の兵士の遺体が横たわっていて、それらの遺体にどれひとつとして頚部から上の部分が見られなかったときの筆者の驚ろきと暗澹たる心情は忘れがたいのです。

(中略)

 このような異常な環境のなかにあって筆者たちの取材チームはM、N両少尉の談話を聞くことができたのです。両少尉は、その後三、四回われわれのところ(それはほとんど毎日前進していて位置が変わっていましたが)に現われてかれらの「コンテスト」の経過を告げていきました。その日時と場所がどうであったかは、いま筆者の記憶からほとんど消えていますが、たしか丹陽をはなれて少し前進したころに一度、麒麟門の附近で一度か二度、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度、両少尉の訪問を受けたように記憶しています。両少尉はあるときは一人で、あるときは二人で元気にやって来ました。そして担当の戦局が忙しいとみえて、必要な談話が終るとあまり雑談をすることもなく、あたふたとかれらの戦線の方へ帰っていきました。(後略)

浅海一男「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」(本多編『ペンの陰謀』 1977年 p.340-347)

鈴木二郎 元東京日日新聞特派員 (第4報共同発信者)

(前略)わたくしたちは昭和十二年十二月十二日に、砲弾に崩れた中山門をよじのぼって南京城内にはいるまで、上海から京*線沿いに竜華、南市、崑山、太倉、常熟、蘇州、無錫と、つかずはなれず従軍したが、この間、二人の陸軍少尉の百人斬り競争≠ニいう特電が生まれた。南京いりするまでに、どちらがさきに敵の百人を斬るか、というのである。

 この特電は、南京落城直前までの数回大きく報ぜられたのであるが、この記事が、(東京裁判で)告発する検事側の注目するところとなり、『虐殺』の訴因の一環として、証人指名、呼出状となたのである。
 南京いりして展開する『虐殺』に接する前に、『虐殺』とみられたこの百人斬り競争≠フ始末をのべてみる。

(中略)
 検事の喚問は、やはりこの競争≠『虐殺』として、事実の有無、取材の経緯、そして両将校の競争≠フ真意をするどく追及されたが、どの特派員もこの二将校がじっさいに斬り殺した現場をみたわけではなく、ただ二人がこの競争≠計画し、その武勇伝を従軍記者に披露したのであって、その残虐性はしるよしもなく、ただ両将校が、

二人とも逃げるのは斬らない

 といった言葉をたよりに、べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別べつにとられた)わけではなかったが、期せずして、

『決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない、虐殺ではない』

 と強調した。

 検事側にとってはきわめてたよりない証言だったにちがいない。それかあらぬか、いよいよ出廷の日、まず浅海君が証人台に立ち、右手を高くあげて、大きな声で宣誓をした瞬間『書類不備』?とかで却下となり、浅海君は気ぬけした顔で控え室に帰ってきた。まもなく書記がやってきて、『もう二人ともこなくてよい』といわれた。つぎの出番と緊張していたわたしは証人台に立たずにすみ、ホッとしたものだった。

 しかし、両将校は国府側にとらわれ、これを知らされたわれわれの嘆願署名のかいもなく処刑されたと聞かされた。(後略)

鈴木二郎「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」(月刊『丸』1971年11月号)
(本多『殺す側の論理』p.190-191)


そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんと一緒になり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである“赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは……。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです。

本人たちから、“向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった”という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ。浅海さんとぼくの、どちらが直接執筆したかは忘れました。そりゃまあ、今になってあの記事見ると、よくこういう記事送れたなあとは思いますよ。まるで、ラグビーの試合のニュースみたいですから。ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなものを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で“見たまま”“聞いたまま”を記事にして送ったんです

『週刊新潮』昭和47(1972)年7月29日号 p.36

(前略)一体、昼夜を分たず、兵、或いは将校たちと戦野に起居し、銃弾をくぐりながらの従軍記者が、冗談にしろニュースのデッチ上げが出来るであろうか。私にはとてもそんな度胸はない。南京城の近く紫金山の麓で、彼我砲撃のさ中にゴール#翌チた二人の将校から直接耳にした斬殺数の事は、今から三十九年前の事とはいえ忘れる事は出来ない。南京入城の際私は三十歳、この従軍を加えて、幼児からしばしば死に直面したが、他の事は忘却しても、死に直面の場面は今でも鮮かに脳裡に浮かぶのである。

(中略)
 しかし、残念な事に、資料Cとして紹介された月刊誌『中国』の一九七一年十二月号にある志々目彰氏の「日中戦争の追憶」――百人斬り競争≠フ文が、私を愕然とさせた。その文章には、鹿児島県出身のN少尉が小学校での講演で「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……」とまず、私ども東京日日新聞(現毎日新聞)の百人斬り競争%チ電を裏付けた発言が紹介されていたのは当然の事ながら、つぎのような驚くべき発言があった。

 実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……

 占領した敵の塹壕にむかってニーライライ≠ニ呼びかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……

百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……

二人で競争したのだが、あとで何ともないか、とよく聞かれるが、私は何ともない……

とあり、更に志々目氏は、つぎのようにつづけている。


「ニーライライ≠ニいうと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる」という言葉は今でもはっきり覚えている。ニーライライ≠ニいうのは、お前来い来い、という意味だそうだ。(中略)

だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという勇士の体験談は、私にはショックだった、云々。


 志々目氏が小学生のころ、本人から聞いて知って受けたというこのショック≠ヘ、二将校の「逃げるのは斬らない」という言明を深く信じていた私どもには、あの特電≠ゥら四十年にもなろうとする現在、大変なショックを覚え、「裏切られた」という感じで一パイである。

 戦後、浅海一男君ともどもこの百人斬り競争≠フ特電をもとに、市ヶ谷台の東京裁判で、南京虐殺事件の検事側証人として喚問された際、特に二人が強調したのは「二人とも逃げるのは斬っていない、立ち向かう敵だけを斬った、虐殺ではない」ということだった。そしてまた、その事を信じての特電だったからだ。
 志々目氏の聞いたN少尉の講演は、或いは同少尉が、戦捷のさ中に、帰国して勇士≠ニして歓迎され講演を頼まれ、いささか調子に乗って、話を面白おかしく(当時として)する気持ちで話したのかも知れないが――

聖戦≠信じ、勝つある事を信じて、夢中で戦場を馳け回り、九死に一生を得て、今日ある時、今更ながらわれらの「特電」の空しさに反省させられたのである。

鈴木二郎「当時の従軍記者として」(本多編『ペンの陰謀』 1977年 p.356-358)

佐藤振寿カメラマン (第4報掲載写真撮影者)


とにかく十六師団が常州に入城したとき、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが“撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。

私が“なんだ、どんな写真だ”と聞くと、外にいた二人の将校を指して、“この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。 “へえー”と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が“常州にて”というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。 私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話なんですよ。


 あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか、浅海さんが尋ねたのかよくわからないけれど、確かどちらかが、“あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているのだ、という話だった。 ――それなら話はわかる、ということになったのですよ。私が戦地でかかわりあった話は、以上だ。

『週刊新潮』昭和47(1972)年7月29日号 p.35
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据え物斬り体験者の証言


鵜野晋太郎氏は、旧陸軍第39師団232連隊第2大隊情報将校として自ら40名以上もの中国人を、主に日本刀(「備州長船祐定」および昭和新刀「助川貞光」)を用いて虐殺した体験者であり、中華人民共和国における戦犯裁判において、大尉以下の800名の中ではただ一人重刑判決を受けた。以下、氏の告白手記『日本刀怨恨譜』(本多勝一編『ペンの陰謀』収録)から引用する。(小見出しは高橋による。)

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1942年5月、最初の斬首体験


 竹薮を背に、私は半身に構えて農民の左後方に立った。彼の瞼は腫れ、口からは血が流れていた。祐定を抜くと、一五人許りの日本兵のざわめきが消えた。 ……

苦し気な農民の息づかいだけが聞こえる。刀を構える直前、農民の斬撃点である後首を見て、一瞬当惑した。斜め下に見るそれは僅かに二センチ位にしか見えない。沙陽鎮の立木とは雲泥の相違である。外れると後頭部か肩を横一文字に斬ることになり、その瞬間、将校としての威信失墜必至である。而も初体験であり、成功の保証はない。 ……二秒、三秒、グッと刀を振り上げた。――

「エイッ!」

ドスッ≠ニ鈍い手応えと同時に、九分通り斬れた首が胸に巻きこむように倒れた。斬った瞬間真っ赤な血が噴水のように三、四本吹きあがり、胴体は血溜りの中にのめりこんだ。自分自身が下手人であり、それこそ万死に値する罪を犯したのに、逆に私はホッとした心境で刀の血糊を拭いた。

(略)

御稜威≠フ下(天皇の威光の下)赫々たる「戦果」に酔っていた皇軍の一つの側面は、明らかにその底流で敗戦の要素が比重を高め、進行しつつあったことである。だが、私はそんなことなど露知らず、勝手な総括をしていた。――


一、祐定は切味と重さのバランスがよく、うまく斬れた。刃こぼれや目釘損傷なし。

二、日本刀は無抵抗の人間(奮戦したが刀折れ矢尽きて不幸にして逮捕された捕虜)の「据え物斬り」には最適である。つまり小銃拳銃の如きでは射撃音響が大きくて殺人現場が喧騒となり、まかり間違えば友軍(味方)を殺傷することもある。その点日本刀は軽便にして殺傷力大で、殺人現場は概して静粛に保たれ、日本刀使用者の技量のかなり低い者でも十分成果が期待し得る。従って刃がしっかりし、折れ・曲りの顧慮少ない刀の場合は、一挙に五名乃至十名の連続斬首は十分可能と思われる。但し「警備地区内」での殺人は予め穴を掘り、斬首後直ちに埋没の準備をしないと、最大の欠点たる大量の流血のために「刑場汚染」となり、具合悪く、注意を要する。

三、但し白兵戦闘の場合はその刃渡り(刃部の長さ)はとても着剣小銃に対抗できず、而も軍刀として外装したものは重くて成果は期待し得ず、従って単に将校の単独軍装として兵を指揮する場合のサーベル的役割を果たせる程度のものに過ぎない。


1944年、民間人9人の連続斬首

 私は常用の貞光を引き抜くと、一息入れてくるりと剣背(嶺、つまり刀の刃の背)を軽く村長の首に当て、間合いを見て足の位置を定め、今度は刃部を前に戻し乍ら一気に振り下ろした。

ドスッ≠ニ鈍い手応えと同時に、噴水の如く二、三本と吹き出す血。村長の首は胴体より僅かに早く落ち、顔は苦悶に歪み、歯はガチガチと砂を噛んだ。凄愴、無残。ただよう血の匂い。 ……

つづいて私は次の四十がらみの村幹部の後方に廻った。

(先ずはうまくいったが、目釘はどうかな。刀の曲りは出たかな?)

 目釘は異常ないが、刀身はわずかに曲りが出たようだ。

(大丈夫だ。連続してどこまでいけるか、やるんだ)

 次の首に剣背を当てるや、返して振り下ろす。そして三人、四人目へと息もつかせず斬った。だが四人目は八分通りの斬れ方で首は胸に垂れて倒れた。

(失敗だ!落ち着け!)

 私は強いて笑顔を試みたが、泣き面になってしまった。

「おい!警戒兵、そこの水桶を持ってこい!」

 私はひったくるようにして水桶の水で刀の血糊を拭いた後、タオルを刀身に巻いて切先から四○センチの所に膝をあてがい、右に約五度曲がったのを両手でぐいと元にもどしたが、僅かな曲りは残った。

(エイッ、あとの五人を殺らなくちゃ)

 そのとき、聞き覚えのある不気味な歌――「抗日歌」を、5人が涙を流して斉唱し始めた。低く怒りの気概が迫る。

「止めろ!止めないか!よーし、斬ってやる」

 だが不安がふとよぎった。 ――

(貞光の目釘はかなり緩んどる。これ以上緩めば刀は使えないぞ。でも父の祐定に取り替えて使うべきではない。勿論郭劉湾で一度血を吸わせたが、父の魂として祐定は一旦緩急の決戦の秋まで静かに保管した方がよいと決心して来たではないか。この母の魂たる貞光は昭和新刀だが、据え物でもこんなに曲るとは思わなかった。しかしここで父の祐定に取り替えては母の貞光を汚すことになる。……

そうだ!母のためにも断じて貞光で斬ろう!)


 そのとき五人の斉唱は止んでいたが、悲痛な泣き声は続いていた。私は一段と凶暴に刀をふるって斬った。目釘は更に彎曲して緩み、顎元がガタガタになって来た上、再び刀身の四○センチまでが右五度に曲った。そのために二人斬首して曲りを直し、また二人斬っては直して、ようやく最後の九人目の首を斬り落とした。首を完全に落としたのは一番目と九番目だけであった。

 血の匂いはしばらく消えなかった。鉄柵の中の捕虜の集団は、涙を拭おうともせず立ちすくんでいた。

 この蛮行は勿論私の独断専行であったが、情報主任の権限として何等越権ではなく、寧ろ「天皇の軍隊」への反抗に対する統帥権の当然の発動とさえ思っていた。事実、翌朝、連隊長山田正吉大佐(陸士二九期)に情報・捕虜関係事項の報告の後この問題を詳細報告したところ、

「ウン、馬鹿に派手にやったな……」

と苦笑いしただけで、何のお咎めもなかったのである。

「百人斬り競争」に対する鵜野氏の感想


昭和十二年十一月 ― 十二月の日本の新聞は、連日南京へ進撃する皇軍のニュースで埋まっていた。とりわけ私の関心は、野田・向井両少尉の百人斬り競争であった。今日は何人目と報ぜられる記事は何者にもまして素晴らしく、一八歳の私の胸は皇国の無敵ぶりへの確信を一段と高めたものである。当時私は幼稚な「天下無敵大和魂武勇伝」を盲信していたので、百人斬りはすべて「壮烈鬼神も避く肉弾戦」(当時の従軍記者の好きなタイトルである)で斬ったものと思っていたが、前述の私の体験的確信から類推して、別の意味でこれは可能なことだ――と言うよりもむしろ容易なことであったに違いない。

しかもいわゆる警備地区での斬首殺害の場合、穴を掘り埋没しても野犬が食いあさると言う面倒があるが、進撃中の作戦地区ではまさに「斬り捨てご免」で、立ち小便勝手放題にも似た「気まま(イ盡)な殺人」を両少尉が「満喫」したであろうことは容易に首肯ける。ただ注意すべきは目釘と刀身の曲りだが、それもそう大したことではなかったのだろう。また百人斬りの「話題の主」とあっては、進撃途上で比隣部隊から「どうぞ、どうぞ」と捕虜の提供を存分に受けたことも類推できようと言うものだ。

要するに「据え物百人斬り競争」が正式名称になるべきである。尚彼等のどちらかが凱旋後故郷で講演した中に

「戦闘中に斬ったのは三人で他は捕えたのを斬った云々」

とあることからもはっきりしている。その戦闘中の三人も本当に白兵で斬ったのか真偽のほどはきわめて疑わしくなる。何れにせよ、こんなにはっきりしていることを「ああでもない、こうでもない」と言うこと自体馬鹿げた話だ。

私を含めて何百何千もの野田・向井がいて、それは日中50年戦争――とりわけ「支那事変」の時点での無敵皇軍≠フ極めてありふれた現象に過ぎなかったのである。
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その他の大量斬殺例


「衣」師団(第59師団)第45大隊の元伍長、鈴木丑之助氏が、「首切り浜野」と呼ばれていたある中尉について語った内容が、次のように紹介されている。
…「衣」の「秀嶺作戦」と、引き続く撤兵で、山東省という膨大な空白が残るが、ここに替わりの師団を配置する余裕はない。それで、「衣」各大隊から少しずつ兵を抜き出して独立警備大隊というのを作ったわけだ。規模も従来の大隊規模に及ばないものだった。

 隊長には、第四五大隊の浜野仁中尉(栃木県出身)が任命された。浜野中尉は、皇軍で「首切り浜野」という異名を自他共に許していた。第四五大隊のなかに、彼が中国農民の首を日本刀で切り落とすのを、見なかった者はないとまで言われた。作戦に出て、途中見つけて案内人として使った中国人であれ、駐屯地周辺の部落民であれ、次々と首切りをしているうちに、彼は毎日一人は切らないと気が休まらなくなったようだと、兵士たちは思っていた。

 彼の部下たちは、彼によって中国人首切りのコツを伝授された。彼によって、妊婦の腹の割き方、幼児の殺し方を教わった。その中には「人間がウドンを食べている途中で首を切ると、どう見えるか」などという“実験”まで混じっていたという。中国人民軍側は、彼に多大な懸賞金を掛けてその跡を追ったが、行った道と同じルートを、決して戻らないという彼の侵略行のやり方と皇軍の支援とで、九死に一生を得た。八路軍は、遂に彼を取り逃していた。「首切り浜野」を自他共に許す彼は、これによってますます優秀なる皇軍兵士としての立場を固めていた。

熊沢京次郎『天皇の軍隊』(現代評論社 1974年)p.348

自らも連続9人の据え物斬りを体験している鵜野晋太郎氏は、軍刀で50人以上を斬ったと噂されていたある下士官について、次のように書いている。


 そのころ大隊本部に、公式には「喇叭長兼本部書記」の肩書の藤井曹長がいたが、私は彼に妙に心をひかれた。もともと幹候出身将校に対し、下士官は悪意を以て接するものだが、彼のさり気ないさっぱりした気風は好感が持てた。それにもまして確度の高い噂では、藤井は軍刀で50人以上、一説では100人以上斬っていると言われていた。(略)彼との交わりは半年に満たなかったが、彼の“殺人訓”を要約すると、次のようになる……

「私が50人なのか100人なのかと聞かれても答える口はもちませんよ。差し料(自分の所持している刀剣)が普通程度のものであれば、白兵戦で敵と渡りあってガタガタにならない限り、据え物だったら相手が抵抗できんように痛めてあるから、100人位十分殺れるんじゃないですか。 …そして相手を人間と思わんことですよ。まあ私は犬コロくらいにしか思ってませんから、まず失敗なんてありっこないですよ。ホラ見てください、これを……」

 藤井は差し料を引き抜いて切っ先の部分を指さした。 ――

「スーと細い擦った線が沢山見えるでしょう。 ……首を斬った時につく頚骨が擦れた跡です。だからこの一本一本の線を数えれば何人斬ったか判りますよ。しかし将校さん方から時々、白兵戦で何人も何人も斬ったという話が流れるが信じませんね。 ……そうでしょう。

刀ほど危ないものはないですよ。一対一でも着剣小銃手と闘っても勝てないですよ。 ……

まして一対二なら一辺ですよ。ツンゴピン(中国兵)が本気になったら怖いですよ。だから私は、据え物で何十人斬ったと言うのなら信じますがねえ。

……日本の兵隊の着剣小銃での刺殺ならあり得ますよ。あれなら殺れますね。

……明治維新での新選組の池田屋の斬り込みは、最低三人が一団となってのことですから、あれでは斬れますよ。だから軍刀の武勇伝と言うのは嘘ですな……」


 私は藤井の教訓を、敗戦までの間、私自身が犯した数多い斬首殺害の手本としての影響を強くうけたし、とりわけ藤井の差し料の頚骨の多数の擦過痕は私の心を捉らえ、一日も早く沢山斬りたいと言う衝動に駆られた。
(略)

 昭和十八年はいろいろと戦闘の多い年で、負け戦もあった嫌な年であった。早春の頃、私は藤井と共謀――と言うよりむしろ彼に三拝九拝して、日本憲兵隊の密偵(中国人の漢奸)を暗殺して貰ったことがある。

あの頃の情報関係者は密偵に塩の独占搬入権を与えて使っていたが、憲兵が大隊の縄張りを荒すので、業を煮やしてその密偵をだまして連れ出し、藤井に背後から不意打ちさせて殺したのだった。彼の慣れた刀捌きに私は恍惚としたし、益々殺意が体中に漲った感じで、毎朝真刀(つまり軍刀)で“百本振り”をやって自慰したものである。

鵜野晋太郎「日本刀怨恨譜」

(本多勝一編『ペンの陰謀』 潮出版社 1977年 p.379-380)
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日本刀の殺傷力

刀剣研究家成瀬関次氏は、戦時中刀剣修理の技術者として大陸に渡り、多数の損傷刀の修理を行った。氏は、実戦で使われた軍刀を修理した経験から、「研ぎべりのした、刀身のへなへなと薄い刀、焼け身、中心を焼きつぎにしたもの、洋鉄を延して焼きを入れただけの昭和刀、手に合はぬ直刀等は、避けねばならぬ」と断りつつ、「概して日本刀は強靭なものである」とその実用性を保証している。以下、氏の著書『戦ふ日本刀』からその一部を引用する。


 今度の事変中、一戦ごとに一人で十人二十人という敵を斬つた事が新聞にも現はれ、従軍後は、各部隊でさうした功名談もよく聞き、部隊長又は隊長からも、部下のかうした武功談を屡々耳にした。実際誇張や法螺でない事は、血刀を修理して見ただけでも、それが頷けた。自分は、兵隊の撮影した写真で、斬撃された敵屍の折重なつてゐる所を見た事があり、5月初旬、蘭陵鎮へ行軍途中、左荘といふ部落の近くで、刀疵で倒れてゐる敵の死体十幾つかを見た事があつた。
 …

 蒙橿の天鎮城内で敵と戦った時、逃げようとすれば十分に逃げられるのに、日本軍の抜刀突撃にあつて、一たまりもなく気が挫けて了つたのか、城門際に折り重なつてひしめいてゐたので、敵が多すぎて斬るのに骨が折れたと、或る兵隊は語つてゐた。(p.25)


 面白い事は、兵種、戦闘の難易、地形其の他によつて、刀の損傷に共通点のある事で、例へば文字通りに血戦した部隊の刀を手にして見ると、判で押したやうに同じ傷み場所は、柄糸の磨り切れてゐる事、鍔元がぐらつき目釘が折れてゐる事、刀身の先の方が多くは左に曲がつてゐる事、同じ刀身の先の方に刃こぼれのある事の四つの点であり…(p.36)

 自分は、日本刀の鑑識者ではなく、さうした知識には浅い者である。元来、古武道の内にくるめて、武用的方面から日本刀を見て来たのであるが、弾雨下の一線に従軍して、さうした所でなくては見られない血と泥≠フ破損刀を手がけ、二十数回の斬撃を目のあたりに見て、戦場で使ふ日本刀は、かうしたものでなくてはならぬといふ、本当の業物の姿をとらへて来たのである。(p.37)

 斯様な事を述べると、一見斯道の異端者とも見えるだらうが、実際にあたつて見て、元来から物打に二分からの刃ギレのあつた刀で、敵十五六人も斬つて何ともならず、却つて他の部分に刃こぼれの出来てゐたものも見、切先が蛇の口(口を閉ぢたる)のやうな刀で七名から斬つたのも、他に疵はついても、その部分は何ともなつてゐなかつた。

 概して日本刀は強靭なものである。ただ、研ぎべりのした、刀身のへなへなと薄い刀、焼け身、中心を焼つぎにしたもの、洋鉄を延して焼きを入れただけの昭和刀、手に合はぬ直刀等は、避けねばならぬ。
 刀身の選定については、ただ名のある人といふよりも、刀の売買に関係のない、軍人などの鑑定家とか、実戦に経験のある人に見てもらふのが第一である。(p.40)

 今、全国に残つてゐる昔鍛の日本刀はどの位あるか。推定四百万振といふのである。
 …

 右の内の約六七割までは、新刀新々刀とはるる刀であつて、大阪夏冬の陣前後から以降の作刀である。徳川時代から、明治大正にかけては、大量の日本刀を戦陣に於て試みるやうな機会はなかつた。

 日清日露の両役にしても、今次の事変に比較して見ると、物の数でもなく、彼の天草の乱、戊辰戦争、西南の役にしてからが、量的にはさう大したものでは無かつた。
 …

 今次の事変では、…一面恐ろしい器械化戦が行はるると共に、他面一騎打の原始戦が盛んに行はれ、戦風は一部元亀天正に逆戻りしたかのやうなところさへある。その上、未曾有の廣い戦線で混戦的に戦ひつつあるのと、昭和九年来日本刀そのままでの使用が、事実上復活となり、戦線では軍の中堅をなす下士官全部が兵種を問はず佩用する事となつた等から、爾来日本刀が実戦に於いて有史以来の使用量を見せるに至つたのである。(p.41-42)

 八木工兵中尉(此の人は静岡県相良町の名望家で、徐州戦当時筆者は共にその北部戦線に居た。)最近中支奥地からのお便りの中に、


……あつけない程脆く首が落ちた。昔からぬれ手拭いをはたく様な音がすると云はれてゐるが、まさにその通りでハツフツといつたとたんに四尺もすつ飛んで一声もない。(中略)この一戦で非常に大なる信念を得た。自分の刀で敵を斬り、その刀に信頼を持つた時から、武術が生きてくる。つまり刀も武術の内だ。云云。

 中尉の佩刀は、大阪石堂康廣の若銘安廣で、二尺三寸余、自分には見覚えのある刀である。(p.57-58)

 或る暑い日であつた。開封城内の修理班へ時目といふ変つた姓の少尉が自身刀を持つて修理にやつて来た。…無銘古刀の武家伝来らしいよい刀を持つてゐた。それで南京攻略の軍中三十七人を斬り、徐州戦で十人、都合四十七人を手にかけ、縛り首は一つも斬らなかつたといふ。


 …

 刀を見ると、血糊で白くなつてゐる。性質のよい古刀で骨ごと斬ると、必ず刃まくれの出来るのは一つの定則であるが、中央から上、物打下にそれも型の如くに出来て居り、刃こぼれも三ヵ所、刀全体がジツトリしてゐた。(p.77)

…陣中では、修理に出てくる刀の十振が十振いづれにも目釘の故障がある。それを一本一本竹を割つて削つてゐたのでは、徒に時間がかかつて急場の間に合わない。竹箸だと一寸削つて切つただけで用に立つ。しかも、何処の竹だか非常に堅くて、なかなか折れさうにもない。これは天が与へてくれたものと、自分はいまでもさう信じてゐる程である。

 …

 それから、最初自分の見込みでは、軍刀の故障は、刀身が六分外装が四分といふ考へで行つたところが、全くの反対であつて、殊に柄の故障の多かつたのは屡々発表したところであるが、それが為め早くも材料がなくなつてしまつた。(p.126-127)

 さすがに第一線の戦闘部隊だ。一寸見ただけで其の損傷状態がまるでちがつてゐる。試みに手にした一刀、何げなしに抜いて見ると、刀身は鍔元から血糊でそれが稍褐色がかり錆のやうになつてゐる。プンと臭い。目釘が折れるか飛ぶかしたと見え、生木の小枝を打ち込んである。指先でつまんで抜くと。そこから黒褐色の悪臭をもつ汁がポタリと一滴落ちた。血の腐つたやつだ。戦ひの最中に、血が刀身をつたはつて、(金+祖)のすき間から柄の中に入り、それが間隙にたまつて腐つたのだ。柄木を抜いて見ると、その汁がダラダラと落ちる。

 …
 これは今度の事変ばかりでなく、日清日露から西南役維新戦争に溯つて見て、実際乱戦中に敵とわたり会つて血戦した事実は、小説や講談にあるやうにザラにあつたものでは無いらしい。殊に今度の事変などでは、いざ接戦となると敵は逃げ足となり、一人斬つて二人目に及ばんとする時は、早二間も三間も離れて居るといふやうな場合が多く、実際十人も二十人も斬つたといふやうな話は、例へば敵を城壁域内際とか袋路地のやうな所に追ひつめ、ひしめき合ひわめき合ふ処を片つ端から滅多斬りにした時などの事で、さうした将兵の血刀を手にし、状況を聞いて見るに、四五人斬つたかと思ふ頃、多くの場合血がぬるぬると柄に伝はつて来る。斯様な時に、昔の柄巻の有難さが本当にわかるもので、殊に小倉木綿をそのままたたんで巻いたのなどは、手がすべらなくてよい。(p.153-154)


成瀬関次 『戦ふ日本刀』 実業之日本社 昭和15年
(洞『南京大虐殺――「まぼろし」化工作批判』にも一部引用あり)

成瀬氏が指摘しているとおり、日中戦争では将校はもちろん下士官までが日本刀を戦地に持参した。彼らが、持参した日本刀の切れ味を試してみたくなったであろうことは想像に難くない。そしてそれを試すための最も容易な手段は、抵抗することのできない捕虜や住民を使った据え物斬りだった。これほど大量の日本刀が人間相手に実際に使われ、膨大な量の生き血を吸ったのは、有史以来このときだけなのである。
(2000.07.02)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/nihontou.htm

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日本刀VSピストル真剣勝負(笑)

ゴールデンウィーク最終日、普段は見ない『トリビアの泉』をボーっと見ていたら、「テレビ史上最も危険な実験 日本刀VSピストル真剣勝負の衝撃映像!!」というのをやっていた。日本刀とピストル、どっちが強いか実験して確かめる、というのである。

その方法は、日本刀をほぼ垂直(やや刃面が上向き)に固定しておき、その刀身の中央部に向かって銃器射撃装置で水平に固定したピストルから弾を発射する、というシンプルなもの。射撃距離は5メートル。

実験に用いた日本刀は、特別なものではない平均的な日本刀、ということで、市販価格90万円程度を目安に現代の刀工(小田九山さん)に作製してもらった新作刀。ピストルはかつての米軍制式拳銃であり、強力な大口径拳銃の代表とも言えるコルト1911ガバメントモデル(45口径)である。

結果は……日本刀の完勝だった。超高速カメラを用いた撮影により、日本刀の刃に命中したピストルの弾が真っ二つに切断され、泣き別れになっていくさまが克明に映し出されたのである。日本刀には刃こぼれ一つなく、弾が当たった部分に指先大の鉛がこびりついた痕跡が残っただけだった。この結果に納得できないアメリカの銃砲店主(実験に用いたピストルの提供者)からの要請で実験は数回繰り返されたが、結果は同じだったという。

これだけなら「日本刀は凄い!」で終わってしまうところだが、この実験には番組作成者がまったく意識していなかった重大な意味がある。言うまでもなく、百人斬り事件との関係である。

百人斬り殺人競争を虚報と決め付け、それを突破口として南京大虐殺を否定しようとする勢力は、執拗に日本刀の脆弱さを主張してきた。日本刀の威力などというのは伝説に過ぎず、とても百人もの人間を斬ることなどできない貧弱な代物であり、だから百人斬りなどありえない、というのである。偽ユダヤ人イザヤ・ベンダサンこと山本七平など、自分の戦場体験からの結論だとして、一本の刀で斬れるのはせいぜい三人、と断言していた。

時速900キロで鉛の弾を撃ち込まれる衝撃に耐え、その弾を両断して傷つきもしない日本刀が、わずか三人の人間を斬っただけでダメになるものだろうか。要するに山本七平は、戦争体験者は黙して語らず、戦場体験のない世代には確かめようもないのをいいことに、大嘘を吐いたのだ。

フジテレビ(あのフジサンケイグループの)が全国に放映してくれたこの実験は、日本刀の性能に関する否定派の嘘を文字通り一刀両断にしてしまった。

まさに快挙である。
(2004.05.09)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/trivia.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/129.html#c1

[近代史3] 南京大虐殺30万人は過大評価なのか? 中川隆
2. 中川隆[-13244] koaQ7Jey 2019年1月02日 06:51:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210]

南京で暴虐の限りを尽くした田所耕造。
http://anarchist.seesaa.net/article/78079481.html


陸軍第114師団重機関銃部隊所属 田所耕造。

『週刊アサヒ芸能』(71年)の取材に答えた当時、彼は53歳。
彼が語った残虐の限り。しかもこれが「命令」なんだから驚くしかない。

女が一番の被害者だったな。年寄りからなにから、全部やっちまった。
下関から木炭トラックを部落に乗りつけて、女どもを略奪して兵隊に分ける。

女1人に兵隊15人から20人くらい受け持たせてね。倉庫のまわりなど、
日当たりのいいところを選んで、木っ葉などをぶらさげて場所をつくる。
赤ケンといって、中隊長のはんこがある紙を持った兵隊たちが、ふんどしを
はずして順番を待つんだ。

いつか女の略奪班長をやったことがあるけど、ゆくと、女たちはどんどん
逃げる。殺すわけにはいかないから、追いかけるのに苦労したもんだよ。
支那の女は技術はうまいね。殺されたくないから、必死なんだろうけど、
なかなかいい。なにしろ上陸以来女の身体にさわったこともないんだから
、いじくりまわしたり、なめまわしたりする。私らは、よくなめ殺すといったもんです。


その凶暴兵は、柳川平助兵団(第10軍)第114師団所属。南京作戦での「働きぶり」によって上等兵に昇進。

そして、血に飢えた「ならずもの部隊」は徐州(シュイチョウ)へ進撃したのだった……。


南京に2ヶ月ぐらいいて、徐州に向かったんだけど、このときだったな、
股裂きをやったのは。ある部落で、みせしめのために女を柳の木に縛りつけ、
両足首にまきつけたロープを2頭の馬の鞍に結び、左右からムチをくれると
股から乳房のあたりまで肉がさける。骨があとに残るんだ。それを部隊
みんなでみている。中隊長もみてみぬふりだった。将校だろうと下士官
だろうと、文句をつけても『ウシロダマ(後ろ弾)だぞ』とおどしちゃう

田所耕造はこの気分が悪くなるような話を得意げに話している。上官を
無視しても、「戦闘」では頼りになった兵士による略奪・強姦・虐殺は
セットで日本軍は容認していたということだ。


川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、
陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山(クンシャン)まで道端に延々と
そういう死体がころがっていた。昆山では中国の敗残兵の大部隊がやられて
いて、機関砲でやったらしいが屍の山で、体は引き裂かれて、チンポコが
丸出しで死んでいた。そのチンポコがみな立ってるんだ、ローソクみたいに。『チンポコ3万本』と俺たちはいっていたが、3000人以上はいたろうな。遠くからロングに引いてみると、残虐というより壮観だった。

読売のカメラマンで発狂したのもいたな。やったってしようがないのだが、
飛び出してやめさせようとするものもいた。普通の百姓だからといってね。
しかし兵隊はそんなのにかまわずぶっ殺していった。俺か? 俺は残虐な
写真ばかり撮っていたので病膏肓に入っていた。そういう残虐な写真を
撮るのも喜ぶものもいたし、やめとけというのもいた。参謀本部では証拠に
ちゃんと写真を撮っていたな。

以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。

当然のことながら、柳川平助兵団による強姦・虐殺は南京攻略以降の
徐州・漢口作戦でも繰り返されることとなる。

徐州作戦では捕獲したチェコの機関銃がよく使われた。10人、20人と固まって
死んでるのが3キロも4キロもつづく。殺し方もいろんな方法をとった。
3人ぐらいいっしょに木にぶら下げられていたり、首をはねたり。子どもの
首をはねるのだけど、うまいもんだね、皮一枚ちゃんと残るように斬るんだよ。
その瞬間の写真を撮ったけど……

自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている


股裂きなんぞ、東映のモンド映画『徳川いれずみ師 責め地獄』にて鬼才石井監督が撮っていたけど、その遥か以前に日本軍では娯楽の殿堂として「日常風景」だったとは驚きだ。
日本軍って、頭の中が「石井輝男」と同じだったんだな。

「股裂き」の田所耕造が所属していた柳川平助兵団が如何に凄まじい「ならずもの部隊」であったか、従軍カメラマンとして共に行動した河野公輝さんが証言しているな。
これも酷すぎて卒倒するぜ。


蘇州(スーチョウ)の略奪もすさまじかった。中国人の金持ちは日本とはケタがちがうからね。あのころでも何万円とするミンクのコートなどが倉の中にぎっしりつまっているのがあった。寒かったから、俺も一枚チョーダイしたよ。(中略)東京の部隊では赤羽工兵隊というのが一番悪かった。
蘇州の女というのがまたきれいでね。美人の産地だからね。兵隊は手当たりしだい強姦していた。犯ったあと必ず殺していたな。


以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。


以上の証言は河出文庫『証言・南京事件と三光作戦』より引用した。

この本のAmazonでのレビューにこんなのがあったが……

洗脳、と言う言葉がある。
この言葉は元々は中国語だ。日本語ではない。
朝鮮戦争時の捕虜米兵に対して共産主義を信じることをせまった行為を
中国共産党が洗脳と呼んでいたのが語源だ。
この捕虜米兵と同じように洗脳された人たちがいる。
日中戦争時に捕虜となった日本兵捕虜である。
生きて日本に帰ることのできたこの日本兵捕虜は「中帰連」(中国帰還者連絡会)と呼ばれ、帰国してから「証言」したものが、南京虐殺やら三光事件やらの
「旧日本軍が大陸でいかに悪いことをやったか」を描いた数多くのプロパガンダ本の基となった。本多勝一の『天皇の軍隊』も彼らの「証言」を基にした著作だという。


さて本書であるが、タイトルの、証言とはいっても上記の中帰連(笑)の生き残りの人たちがメインである。この時点でこの本の客観性や実証性はゼロといっていいプロパガンダ本といっていい。「南京大虐殺」「三光作戦」がウソ、でっちあげの産物であると言うことはネットや書籍を通じてようやく近年常識として広まりつつある。
これも一つの戦後レジームからの脱却と言っていいだろう。


『週刊アサヒ芸能』のインタビューに答えた人間が中共の捕虜だと決め付け、事実を歪曲しているところなんぞ、まさに中共と同じやり口だな。藁


自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている。インタビューを受けた当時でも、自分が行ったことは間違っていないと自慢していた神社の神主であった。三島が自決した日に息子に「お父ちゃんもあんなふうに死ぬのか」と聞かれた彼は、「お父ちゃんが死ぬときは共産党と社会党のやつらを皆殺しにしてからだ」と答えている。
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/182.html


中国山西省に出征した旧軍人のKさんは3年兵の時、トーチカ(砲台)の
一室で、4〜5人の4年兵が現地女性を連れ込み輪姦している場面に
出会った。4年兵の兵隊が終ると、「今度は3年兵の番だ」と言われ、
Kさんは、強姦は犯罪だという認識がなく、単に古兵の命令に従わなければ
ならないと思いそれに加わった。Kさんはこういう“戦争犯罪に対する無感覚”は戦時中だけではなくて、戦後も変わらなかったと指摘する。戦友会の席上では、このような犯罪が懐かしい話、面白い話として語られるという。

その中には「股裂き事件」という話もあった。ある旧軍人が1944年の
河南戦争前後で見たことだ。中国人女性の片足を木に縛りつけ、もう片足を
馬の鞍に括りつける。そして突然馬のお尻を叩き、驚いた馬が走り出すと、
女性の体が二つに裂けてしまうというものだ。Kさんが駐在していた山西省
旧遼県でも、1941年4月に日本軍隊長が中国語で「勒馬分身」(股裂き)
という方法で殺人を行ったという。そのことは中国側の資料にも記述されている。
http://www.magazine9.jp/kaigai/dai027/index.html


南京大虐殺については

南京大虐殺関連資料集
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm

南京事件資料集
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/

南京事件の真実
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ 
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm


仏典の地獄を偏執的狂人の妄想から生まれた怪奇残酷趣味のフィクションにすぎないと考えるのなら、これはどう思われるか。…

「村民を銃剣で追い立てて並ばせ、機銃掃射で薙ぎ倒す。

泣き叫ぶ乳幼児や子供たちを銃剣で突き殺し、

妊婦の腹を切り裂いて胎児を放り出す。

死体の山に石油をかけて焼き尽くす。

木に縛り付けて鞭打っては冷水をかけ、凍死させる。殴り殺す。蹴り殺す。死体を野犬に食わせる。

背中に石を結わえて水中に投げ込む。

輪姦し、その女の赤ん坊を銃剣に刺して肩に担ぎ、軍歌を歌って歩き回る。

赤ん坊を投げ殺す。踏み殺す。巨大な石を担がせて圧死させる。

鞭で殴って焼けた棒を押しつけ、冷水をかけて極寒の場に捨てて凍死させる。

婦女子を狩り集めて輪姦し、腹を裂いて内蔵をえぐりだす。

生き埋めにする。眼をえぐる。耳を切る。鼻を削ぐ。首を切り、その数を競う。生きながら解剖する。銃剣で突き刺し、崖から落とす。等々」

 これはフィクションではない。「正義」を掲げた日本軍が中国でやったことである。といっても、ここでは戦争の是非を論じようというわけではない。地獄は決してフィクションなどではなく、スーパーリアリズムの世界だと言いたかったのである。我々の心の内側にある畑が荒れ果てたとき、地獄はどこにでも出現する。地獄の発生は倫理や道徳では抑えられない。かつて倫理や道徳が声高に叫ばれていた時期に、戦争が絶えたことはなかった。いや、むしろ、戦争は倫理や道徳の意図的操作によって遂行されたと言ってもよい。これは歴史の教えるところである。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa7.html


南京にいた日本兵たちの人間墜落と性的異常行為は限界がありませんでした。ちょうど退屈凌ぎに殺人コンテストが考案された様に、兵士たちはセックスの十分な供給に飽きると様々な気晴らしの強姦ゲームを創造しました。

おそらく日本兵が気晴らしにした最も残忍な作法の中に、女性の膣の突き刺し刑があります。

南京の通りには足を広げ、開口部に木の棒や小枝や雑草を突き刺されて倒れている女性の死体がありました。南京女性の拷問に使用され、耐え難い苦痛を与えたこの方法は考えただけでも精神が麻痺してしまうぐらい痛ましいものがあります。若い女性を強姦した日本兵は彼女にビールボトルを突き刺して射殺し、別の所ではゴルフクラブを突き刺された強姦犠牲者が発見されました。

また12月22日にTongjmenの門近郊で強姦された理髪店の妻は膣にかんしゃく玉を突っ込まれて、爆破して殺害されました。

そして犠牲者は女性だけに限られた訳ではありませんでした。中国人男性はよく男色の相手にされたり、笑う日本兵たちの前で恥ずかしい性芝居を演じるように強制されました。ある男性は雪上に転がる女性死体との性行為を強いられ、それに拒絶して殺害されました。また日本兵は禁欲主義を誓っていた男性に性交際を強制して喜ぶこともしました。男性に変装して南京の門を通過しようとした中国人女性が股の間を掴みながら一人一人チェックしている日本近衛兵に真実の性を暴かれてしまい、集団暴行を受けている時に、たまたま現場近くにいた仏教僧は危険を冒して止めに入り、不幸にさらされました。日本兵たちは彼に強姦したばかりのその女性との性交際を強制し、それを拒んだ僧侶はその場で去勢されて出血多量のために死に陥れられました。

さらに最も卑劣な性的拷問手段の中には家族に対する退廃があります。

日本兵は中国人男性に対して、父親は娘を、兄弟は姉妹を、息子は母親を強姦させる近親相姦を強制して、加虐的な喜びを味わいました。

中国軍大隊の司令官だったGuo Qiは、街が陥落して息詰まっていた3カ月の間に、少なくとも4、5回は日本兵が母親を犯すように息子へ強制して、拒んだ者はその場で殺されているのを見たり、聞いたりしました。

この報告書は、ある中国人男性が母親を強姦することを拒んでサーベルで突き殺され、直後にその母親も自殺したことについて報告したドイツ人外交官の証言で実証されています。

家族の中には、この様な行為を強いられるぐらいなら率直に死に応じる者もいました。ある一家は揚子江を横断しようとしたところで二人の日本兵に止められ、点検を求められました。ボード上で若い女性や少女たちを見つけた日本兵たちは両親や夫の目の前で女性の強姦を始め、これでも十分にひどい行為にかかわらず、兵士たちが次に要求したことは一家をさらに困惑させました。彼らはこの一家の年老いた男性にも同様に女性たちを強姦させようとしました。一家は従うよりも川へ身を投げて溺れ死ぬことを決意しました。


日本兵に捕らえられた女性たちは強姦された直後に殺され、生きる望みはほとんどありませんでした。

女性たちは様々な方法を用いて強姦から逃れようとしました。中には、すすを顔に擦り付けて老いて見せたり、病気にかかっているように見せたり、頭髪を剃って男性を偽ったりして変装する女性たちもいました。(ある利口な若い女性は金陵大学の安全地帯までの道のりを老婆に変装し、杖を持って足をひきずりながら、背中に借りた6才の子供を負ぶって歩いてきました。)また4日前に死んだ子供を生んだと日本兵に告げて病気を装ったり、中国人捕虜の助言を受けて指を喉に突っ込んで何回か嘔吐して見せた女性もいました。(彼女を捕らえた日本兵は慌てて建物から追い出しました。)中には人混みの中を屈んで進み、壁を敏捷によじ登って日本兵からの追撃を逃れた女性や、三階の日本兵を妨害して、庭の中国人男性が支える竹棒を滑り落ちて、辛うじて暴行から逃れた少女もいました。

しかし、あがいた女性は一度、捕らえられると、日本兵に抵抗しようとした見せしめのために拷問にかけられました。日本兵に挑んだ者たちは、よく目玉をえぐり抜かれていたり、鼻や耳や胸を削がれている状態で後に発見されました。


金子安次
「昼間のうちにいい女に目をつけておいて、夜襲いに行く兵士もいた。頑強に拒んだ女性には膣に棒を押し込み、子宮を切り裂き、油をつけた綿を押し込み燃やしたこともしばしばあった。」

 金子さんの話によると、民間人に対する殺戮と性的虐待は日常的に行われていて、これに加担しなかった日本兵は、少なくとも金子さんの知る限り、ほとんどいないという。

子供は、慣例のごとく両親の目の前で殺された。


子供の前で母親を犯す。赤ん坊を火にくべる。または子供の前で親を焼き殺す。

生きたまま生体実験を行う。 慰安と称して女性の膣にガソリンを含んだ布を押し込み、火をつける。


日本兵が南京の居住民に与えた数々の拷問は人間の理解できる範囲を越えています。下記の例はそのほんの一部分です。

(生き埋め殺人)日本兵は機能的に埋葬活動を実施することで大量虐殺の効率化を図りました。中国人捕虜たちはそれぞれグループに分けられ、まず第一グループが自分自身の墓穴を掘らせられ、第二グループが第一グループを埋め、続いて第三グループが第二グループを埋めて行くという具合に強いられました。犠牲者たちの中には胸や首から下部分を埋められて、刀で徐々に切り刻まれたり、馬や戦車で下敷きにされたりして、さらに大きな苦しみを受けた者たちもいました。

(切断)日本兵は犠牲者たちのはらわたを抜き出したり、斬首したり、手足を切断しただけでなく、さらにひどい種類の残酷な拷問を行ないました。

街の至る所で捕虜たちが板に釘付けにされて戦車にひき殺されたり、木や電柱にくくりつけられて肉体を切り刻まれたり、銃剣の練習台にされて虐殺される光景があり、明らかな事実の中には、100人以上の男性が銃殺される前に目玉をえぐり出されたり、耳や鼻を削ぎ落とされたということがありました。また200名を越える中国兵や市民の集団が裸で柱や学校の戸に縛られ、zhuiziという特別の針で口や喉や目を含む何百カ所という肉体部分を突き刺されることもありました。

(火による殺害)日本兵は犠牲者たちを集めて一気に焼き殺しました。江口の日本兵は中国人捕虜を10人単位でまとめて縛り、ガソリンをかけて火が点けられている窪地へ落とし込みました。太平路でも大量な数に上る店員が火刑を宣告され、ロープでまとめて縛られて炎の中へ投げ込まれました。さらに中国人暴徒たちを建物の最上階や屋根上に集めて、階段を破壊し、炎を下に灯すという余興の火刑ゲームも考案されました。多数の者が窓や屋根上から飛び降りて自殺を図りました。


また犠牲者たちを燃料でずぶぬれにして射撃し、炎上するのを観望するという娯楽も実施されました。ひどい事件の中には日本兵が何百人に上る男性や女性や子供たちをガソリンでびしょ塗れな広場の中に入れ、マシンガンで火を点火することもありました。

(氷による殺害)南京大虐殺中、 何千人に上る人々が故意に凍死させられました。何百人に上る中国人捕虜たちが凍結している池の辺まで行かされ、裸になって氷を壊し、水の中へ魚を捕まえに飛び込む様に命令され、水の中に入ると彼らの肉体は日本兵の銃弾に穴を空けられる浮いた的と化しました。また避難民集団を縛って浅瀬の池へ投げ入れ、そして手榴弾で爆破して「血と肉体の爆発雨」を引き起こすこともありました。

(狂犬による殺害)残虐非道な拷問方法の中には、犠牲者たちの腰部分まで土の中に埋めてジャーマンシェパード犬にかみ殺されるところを観望するというものもあります。日本兵が犠牲者を裸にして、肉体の敏感な部分をジャーマンシェパード犬に噛みつかせる指図をしているところを見物人が見ていました。犬たちは腹を噛み開き、腸を離れた場所へ引きずり出していたそうです。

これらの出来事は日本兵が犠牲者たちの拷問に用いたほんの一部です。日本兵は犠牲者をACID(麻薬)浸けにしたり、赤ん坊を銃剣で突き殺したり、人々の舌をフックに掛けて吊るすといった残虐な行為を公然と行ないました。

日本軍はまったく人間性を喪失してしまい、少しもはぱかることなく女性を強姦・輪姦した。幼女からろうぱまで、はなはだしきにいたっては妊婦さえも免れることはできなかった。

数多くの女性は暴行されたのちまたむざんにも殺害された。日本軍が南京を占領して1か月の間に、2万回以上もの強姦事件が発生した。その時、南京にいた外国の人たちが日本軍のことを「きん獣の群れ」といったのである。

”輪姦の後、殺害された女性”とキャプションのあるこの写真では腹を割かれ、内臓がとび出している。少し開き加減の足。左足の先のほうにはズボンと覚しきものがからまりついている。
http://www.jca.apc.org/nmnankin/magaz306.html


人前で中国人の首を斬殺さしたり、妊婦を銃剣でお腹を裂き見世物にしたとか、娘らを強姦したら殺す!(死人にくちなし、と言う事だそうです)

乳飲み子を母親から取り上げ谷へ投げ捨てた。

子供に”みの”をかぶせ火の中に投げ入れ、熱い熱いとみのがゆれるさまを喜んで”みの踊り”と言ったそうです

日本兵は「幼い娘は熟していない」といって、下腹部を切り開き輪姦を始めるのであった。妊婦でさえも容赦はなかった。

妊娠9ヶ月の17歳の少女を2人の日本兵が強姦する。この結果流産してしまい、彼女は発狂してしまった。HongWu門外では日本兵が農家の妊婦を強姦し、女性の腹部を切り開き、胎児を取り出した。また別のところでは、日本兵が妊婦を強姦しようとしたがお母さんが立ちふさがる。

そこで日本兵の超残虐な行為が始まる。日本兵は老婦を蹴飛ばし、妊婦の腹部をナイフで切った。数ヶ月たったばかりの胎児が中から飛び出した。

このようにして2人の尊い命が一瞬のうちに消えてしまった。多くの女性が強姦の後殺害されている。ある日本の上官は部下にこう言った。「後で厄介になるから、用を済ました後は分からぬように殺しておくようにしろ」多くの女性はこの時の経験を話せない。

しかしそのような地獄から生還した女性もいる。彼女はJianYin通り6丁目に住んでいた。彼女は他の女性といっしょに日本軍に連れ去られた。日中は洗濯をさせられ、夜になると輪姦の道具となる。年増の女は一晩で10回から20回。若くてかわいい女はもっと多かった、と証言する。

正月元旦の日、二人の日本兵が彼女を連れ誰もいない学校にやってきた。そして彼女を10回銃剣で突き刺した。首の後ろに4回。腕に1回。顔に1回。背中に4回刺された。日本兵は彼女が死んだと思い、去っていった。あとで通行人に助けられ病院に担ぎ込まれ命を取り留めた。強姦の後幸運にも殺されなかったが性病に罹り、一生苦しんだ人たちもいることを忘れてはならない。


" 外国人の見た日本兵の蛮行 # という本の中に著者の TianBoLie 氏は南京の虐殺の事実を記録に残している。そのほとんどが強姦であった。それから少し例を拾ってみるだけでも日本軍の罪の重さがわかる。12月14日正午、日本兵は JianYing 通りの民家を襲った。4人の少女を誘拐し2時間かけて強姦した。12月14日夜、日本兵が民家を襲って女性を強姦し、連れ去った。12月15日夜、大勢の日本兵が Jinling 大学の講堂に押し入った。そこで30人の女性を強姦した。ある者は6人の日本兵から次々と輪姦された。 12月15日夜、大勢の日本兵が ShanTiao通りの民家に押し入り、多くの女性を強姦した。12月16日、日本兵は保育大学から7名の少女を誘拐した。年齢は16歳から21歳までの娘であった。そのうち5名が後に釈放された。18日におこなわれた事情聴取によると彼女らは一日に6回強姦されたといっている。

12月18日の夕暮れ時、4,5百人の女性がわれわれの事務所に保護を求めてやってきた。 この多くは日本兵に強姦されていた。 ここに記載した事件は南京陥落後のほんの数日間に起こった氷山の一角に過ぎない。 実際、 " 強姦は南京陥落後6週間に渡って大規模に行われた」のである。これらの犯罪は下級兵士の行動にとどまらず、指導者層にまで及んでいる。

南京虐殺の主犯格である日本軍第六師団長谷寿夫の証言によると、彼は ZhongHua 橋の近くで Din Lan という女性と他に二人を強姦している。また、SaiHongQiaoで Liu YuQingさんと他三名を強姦した。他のところで10名以上の強姦も認めている。日本軍の侵略者たちは強姦で動物本能を満たすだけでは終わらなかった。

彼らは集団で輪姦し、その後、殺して死体を切断するのであった。多くの女性は10人くらいの日本兵に輪姦された。そして女性は死んでいく。この種の経験をした女性の死体は数限りなくあった。虐殺の期間中、強姦の犠牲者には教授婦人、尼僧、労働者、教師、学生などがいた。


2月の終わりごろ、14人の難民の家族が日本軍により惨殺された。一番下の娘はほんの14歳。彼女は二つの正方形のテーブルの上に乗せられて死んでいた。上半身は服を着たままであるが、下半身はすべて剥ぎ取られテーブルは血の海であった。そして彼女の下腹部には銃剣で刺した後が二つあった。

お姉さんは妹と同様の格好でベッドの上に倒れていた。母親はテーブルのところで1歳の赤ん坊を抱きかかえ倒れていた。赤ん坊は腹部をナイフで切られ、内臓が飛び出していた。正視できない地獄絵巻である。国際委員会の委員は調査に乗り出した。
写真を撮り、それをアメリカの市民のもとに送った。日本大使館にも送った。


日本軍の地獄の苦しみを味わったのは主に女性であった。彼女らは強姦されてそれで終わりではなかった。日本軍から胸を切り落とされ骨が見えている女性。
下腹部を銃剣で刺され苦痛で泣き叫ぶ女性。また、下腹部に木材、竹、人参などを差し込まれ、かき回されて死んでいく女性。

これを端で見ている日本兵は拍手を送り高らかに笑っていた。日本軍に囚われコックとして働かされた中国人が脱走後次の話をしてくれた。12月16日、通りに出てみるとまだ火も残って煙が立ち込めていた。我が同胞の死体の山、山、山。特に女性の死体が目立つ。それらの中で10体のうち8体は腹部を切断され中から内臓が出ている。

血まみれの胎児を手にした母親の死体もある。女性の乳房は切り取られるか銃剣で刺され、血と肉の固まりと化している。南京市内外の虐殺の期間中、多くの女性の死体はこのような様子であった。XinZhong門の城壁近くの家で60歳代のおばあさんの死体が見つかった。おばあさんの下腹部は大きく膨らんでいた。

YangPi通りの北に少女の死体が見つかった。おなかは切り開かれ内臓は引き出され、2つの目は大きく見開き、口からは血が流れていた。 GuYiDian通りでは12歳の少女が死んでいる。下着は破られ、目は閉じたまま口は開いていた。この死体を見てわかることは、これらの女性が単に日本兵の刃に倒れただけでなく、辱めを受けているということだ。

日本兵の犯した強姦の罪は重い。その残虐さは彼らの殺戮に劣らなかった。日本軍の上官はこれらの残虐行為の手をゆるめることはなかった。むしろ兵士の動物本能を満足させるためにこれを奨励した。その結果、日本兵はどこに行っても強姦をやった。上海、SuZhu,WuXi, HangZhou でも日本兵は同じことをやった。

南京の女性の運命は特に悲惨なものであった。南京陥落後、日本兵は女性を求めて南京のいたるところを探し回った。そして見つけると集団暴行を行う。
http://www.geocities.com/Pipeline/Halfpipe/3791/katari2-2.html

日本兵の婦女暴行・強姦の実態

1.妊娠している婦人を全裸にして刀で刃傷、木の間に女の両手両足をゆわえて子宮に手オ留弾をさして爆発。興味本位で、得意気に。(元軍曹T)

2.死体処理の少年の証言、女性の死体は特にひどい。ある女性は両手両足をひろげてベッドに縛られ、局部にサイダーの壜を深く刺されて被殺。

3.多くの少女はベッドに縛りつけられ誰でもがすぐに犯せるようにしている。少女があまり泣きじゃくったり、性病に罹ったりしたら、すぐに殺されてしまう。路地や公園には女性の死体でいっぱいだ。 彼女らは死んだ後でも切断されたり、局部に物を差し込まれたりして辱めを受けている。

4.一月一日、呉昌生が光華門外の自宅に帰った時、七人の日本兵がひとりの中国人のおばあさんを連れてやってきた。彼らにおばあさんを犯せと命じた。日本兵はこの光景を見て笑っていた。

5.二月五日、三牌楼に住む六十歳を超える陳さんのところに三人の日本兵がやってきた。 一人が見張りで、他の二人は交代で強姦した。日本兵の一人はおばあさんにペニスをなめてきれいにしろと言った。

6.1944年の春頃、鈴木氏が分隊長として、討伐作戦に参加した際のある村の話であった。 彼の分隊が休憩していたある農家に、一人の憲兵が現れ、惨劇が始まった。村の女性に食事を作ることを強い、お湯を沸かせていた時のことだった。

突然、その憲兵は梅毒にまみれた自らの陰茎をとりだし、食事の準備中の、一人の女性に、これを舐めろと要求した。ところが毅然と拒絶したその女性に、憲兵は激怒し、服をちぎって沸騰したお湯を浴びせ、遂に殺害した。


7. 12月15日、またもや押し入ってきた日本軍の兵士が、数え年8歳の蔡さんを強姦した。蔡さんはその様子を次のように語る。「日本兵は、私の陰部に手をねじ込み、その時まだ幼かったので、非常に硬かったのを無理やり押し込んでこじ開けた。


8.「冬には、至るところで暖をとります。兵隊は、赤ん坊をひっ捉まえ、火の中に投げ込んだものです。」と、古参兵の一人が報告する。別の帝国陸軍の兵隊が語る。

彼の部隊は打ち棄てられた村で女をみつけ、裸にし、「膣に布切れを押し込み、ガソリンを染み込ませて、火をつけました。皆それを見ていました。隊長もです。 部隊の慰安の一種だったんです。」


「暗い部屋に産褥の婦人ありて傍らにいとけなく眠る嬰児。銃剣で布団を跳ねのける。女は両手を合わせて拝んでいる。(略)彼女は衣服乱れて乳房一突き息絶えていた。」「先に高粱で隠された長持の中の娘もどうやら、輪姦の上刺殺した模様であった」(一一○頁)。

「掃討にあって残虐は付きもので、女をあさる。

輪姦、強姦と、又素裸にして乳房を刺突或は陰部にローソクを垂らし悶えるを見て悦び、恥毛に煙草の火をのせて焦げゆく興味。

タマゴを局部に挿入二個、三個と、更にトウモロコシを挿入或はピストン運動、トウガラシを詰め込み歓声を上げる。

銃剣の先で膣をつつく。こうして時間をもて遊んでいる。呻き苦しみ悶絶、出血滴る女と、掃討の修羅である」(一一二頁)。

「捕らえた女を丸裸にして寝かせて、両足を一ぱいに広げ杭に結びつけ尻したに枕して腰を浮かせて膣に、ナンパ大根と挿入できるようなもの等、刺激物のトーガラシとかをもって、いろいろなことをして、悶える表情に歓声を挙げていた。

更にローソクの垂汁をポトポトと膣に落し上手、下手を争って楽しんでいた。

乳房、腹上、局部にムカゼ・サソリ等を捕らえて這わせての興味を持っての蛮行が、いずこの部隊でも隠された所で行われることが、討伐作戦の楽しみであった。」

「捕虜の男と女を牢から出して来て裸体にして女に男の性器をくわえ吸わせ舐めさせ、性器が勃起するの見物と、性交させることの成り行きと、女の膣ネブリ、乳房と、ああしろ、こうしろと、注文をつけて、その表情を楽しんでいた。」(一一七頁)

 強い攻撃性は、攻撃の対象により強く大きな苦痛と恥辱を与えることで、自らの勝利感、征服感を満足させた。その対象が女性であるときは、性器への攻撃となって現われた(二六)。
http://park17.wakwak.com/~ueba/sankousakusen.4.html


まず、釣り針が連続して付いている釣り糸と竿を用意します。

そして、女の股をひらかせます。

女の膣に釣り糸を挿入。

釣り針も全て挿入し、挿入が終わったらウィンチで思い切り引っ張る。


これは第二次世界大戦時、日本軍が中国で行ったお遊びです。

男性に対しては行われず、女性のみを対象とした完全な性器刑。
失血死した人もいたそうです。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/129.html#c2

[近代史3] 南京大虐殺30万人は過大評価なのか? 中川隆
3. 中川隆[-13243] koaQ7Jey 2019年1月02日 06:56:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210]

南京大虐殺は中国からの財宝略奪をカモフラージュする為だった?


日本兵は、川岸における毎夜の鬼畜な任務にあたらされる一方、昼間、盗みに使用された。南京に居た米国人教授の一人、社会学者のルーイス・スマイスは、略奪は隠れた事業として始まったという。

「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。

そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。

三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1c.htm


日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。 そして一般人からも奪った。

一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。
この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。

略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった.

どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、
酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。 しかし、これは偽情報である。

 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。

日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには
無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。
彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。

日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。
麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。

 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。
今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。 それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、
フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。 なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか?

 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は
一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。
読者がお気づきのように、これは真実ではない。

天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。 ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


▲△▽▼


1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。

 同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【原文では”tairiki ronin”となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【原文”Banda Verde”で「緑色の集団」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者】の中国人の首領たちと手を組んだ。

いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機(秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相)、星野直樹(アヘン独占販売の長)、松岡洋介(満鉄の総裁)そして鮎川義介(日産の統括者)【本文では”Aikawa Gisuke”となっているが音訳のミスと思われる:訳者】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。

 彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段(身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など)でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「黄金の百合作戦」である。

 その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。

 この『反共』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。

 裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。

中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統(3)と会談するためにニュルンベルグへ向かった。

 米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者】

 この最後の者【朝香宮を指す:訳者】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。

 婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。(4)

 軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート(会計士、財務の専門家など)、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。(5)

東京裁判は、スケープゴートを絞首刑に処することで終わった、全くのペテンである。南京の虐殺の首謀者である朝香宮は、松井将軍が加わってもいない犯罪のために絞首刑台に送られた一方で、起訴すらされなかったのだ。

 マッカーサーの偉大なライバルである山下も、マニラ市民の虐殺の罪を問われて同様の運命をたどった。東条将軍は戦争の第一責任者の罪を負わされて天皇裕仁の代わりに責任を取らされた。
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/768.html



▲△▽▼

2018.12.03
精算されていない日本の過去(1/2)

 第2次世界大戦中、日本は占領した東アジアの国々で人びとを強制的に動員して働かせた。徴用工だ。日本では1938年に国家総動員法が制定され、翌年に公布された国民徴用令によって厚生大臣は強制的に人員を徴用できるようになった。


 この仕組みを国外で外国人に適用すれば国際問題になる。韓国との問題では1965年の日韓請求権協定で解決したことになっているが、日本側も個人の請求権は消滅していないことを認めている。韓国の大法院もそのように判断、日本の企業に賠償金の支払いを命じたわけだ。


 日韓請求権協定自体の問題を含め、日本の過去は清算されていない。アメリカ支配層の力を借りて封印してきただけである。アメリカの力が弱まったことで、問題が表面化してきたと言えるだろう。韓国は何年も前からロシアや中国との関係を強め、アメリカから離れつつある。アメリカの属国である日本に気兼ねするような状況ではなくなってきたのだ。


 本ブログでは何度か書いたことだが、日本軍は東アジアの占領地で財宝を組織的に略奪している。「金の百合」だ。


 アメリカ人ジャーナリストのスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、プロジェクトが始まるのは日本軍が南京を攻略した1937年。政府が保有する資産を奪うだけでなく、銀行や裕福な家に押し入って金や宝石などを略奪したという。財宝を探し出すため、憲兵隊は目をつけた家の娘を誘拐することもあったという。娘と引き換えに、隠した財産を差し出すか近所や親戚の財産に関する情報を教えろというわけだ。貧しい家の娘は売春宿に連れて行かれたともシーグレーブ夫妻は主張している。


 この南京攻略戦に参加した少なからぬ日本軍の将兵が陣中日記の中で軍命によって捕虜を射殺したと記録しているが、個人的な略奪、殺戮、レイプなどもあったようだ。


 この作戦当時、特務機関員として活動中だった中島辰次郎は、南京市内で「虐殺」と呼べる出来事があったことは間違いないと明言、総数はわからないとしたうえで、死体が山積みになった光景を見たと話していた。(筆者自身の取材)


 また、支那派遣軍の岡村寧次総司令官が「大暴行があたのは事実」と書き残しているほか、外務省の石射猪太郎東亜局長は「南京に於ける我軍の暴状」の報告に「目もあてられぬ惨状」と書かれていたと日記に記している。中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将は師団長クラスの退廃ぶりを嘆いていた。


 南京攻略は形式上、松井石根が最高指揮官なのだが、実際は朝香宮鳩彦、昭和天皇(裕仁)の叔父にあたる人物だったと言われている。


 スターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、「金の百合」を指揮していたのは天皇の弟である秩父宮雍仁で、その補佐をしていたのが天皇の従兄弟にあたる竹田宮恒徳だという。秩父宮は駐日アメリカ大使だったジョセフ・グルーと親しい。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812030000/

2018.12.03
精算されていない日本の過去(2/2)


 日本軍が中国など大陸で略奪した財宝はフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれる手はずになっていた。実際、一部の金塊は東京にあるスイス系銀行、マカオにあるポルトガル系銀行、あるいはチリやアルゼンチンの銀行に運び込まれたという。(Sterling & Peggy Seagrave, “Gold Warriors”, Verso, 2003)隠し場所として、さまざまな場所の名前が挙がっている。


 ところが戦況の悪化で輸送が困難になり、相当部分がフィリピンの山の中に隠された。日本の日本の敗戦が決まった当時、フィリピンを担当していた日本軍第14方面軍の司令官が山下奉文大将だったことから隠された財宝は「山下兵団の宝物」とも呼ばれている。その山下は1946年2月にマニラで処刑された。


 アメリカの情報機関は戦争中から「金の百合」に関する情報を持っていて、日本が降服するとすぐに回収工作を始める。関係者への尋問は戦時情報機関OSSのエドワード・ランズデール大尉(当時)が指揮した。後に対キューバ工作を指揮、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺でも名前が出てくる人物だ。


 OSSが廃止になるとランズデールはチャールズ・ウィロビー少将が率いるフィリピンのG2(アメリカ陸軍の情報部門)へ配属になり、尋問を続ける。財宝のありかを聞き出したのはランズデールの部下だったセベリーノ・ガルシア・ディアス・サンタ・ロマーナだ。


 その情報は東京やワシントンDCに伝えられる。その際、ランズデールはハリー・トルーマン大統領の国家安全保障を担当していたスタッフにも会っている。


 この報告を受けたヘンリー・スティムソンは財宝をアメリカの国際戦略に利用しようと考える。1945年9月21日までスティムソンは陸軍省(戦争省)の長官で、その下にはジョン・マックロイやロバート・ラベットなどウォール街の大物がいた。


 アメリカの支配層が手に入れた略奪財宝は「金の百合」以外にもあった。ドイツ軍がヨーロッパで略奪した「ナチ・ゴールド」だ。ジョン・ロフタスとマーク・アーロンズによると、ナチスがヨーロッパで略奪した資金はOSS長官だったウィリアム・ドノバンが1946年に設立したWCC(世界通商)でロンダリングされ、タイへ運ばれたという証言もある。(John Loftus & Mark Aarons, “The Secret War against the Jews”, St. Martin’s Press, 1994)


 WCCをドノバンと共同で設立したのはイギリスの対外情報機関MI6の下部組織、BSC(英国安全保障局)の責任者だったウィリアム・ステファンソン。WCCの後ろ盾にはネルソン・ロックフェラー、ジョン・マックロイ、シドニー・ワインバーグ、ビクター・サッスーンも含まれている。(Peter Dale Scott, “American War Machine”, Rowman & Littlefield, 2010)


 「金の百合」と「ナチ・ゴールド」は統合され、「ブラック・イーグル・トラスト」と呼ばれる秘密の基金が創設されたとも言われている。こうした秘密資金がアングロ・サクソンの世界支配に利用されたということになる。


 「金の百合」に関する情報は1980年代の後半から流れるようになった。切っ掛けはフェルディナンド・マルコスの失脚。1983年8月にマルコスのライバルだったベニグノ・アキノが空港で射殺され、マルコスに対する抗議運動が激しくなり、それを利用してアメリカ軍がマルコスを拉致したのだ。国外へマルコスが出ると財宝に関する裁判が起こされ、情報が漏れ出てきたのだ。


 マルコスは1954年にイメルダ・ロムアルデスと結婚しているが、ふたりを引き合わせたのはランズデールの部下だったロマーナ。ロマーナはイメルダと親しかったようだ。マルコスは日本軍が隠した財宝の一部を掘り出し、それを資金源にして大統領というポストを手に入れたと言われている。


 ロナルド・レーガンが大統領に就任した直後、マルコスはブラック・イーグル・トラストに関して沈黙を守る代わりに援助という名目でフィリピンにカネを回すようにアメリカ政府へ要求した。つまり恐喝だ。当然、アメリカや日本の政府は警戒するようになる。それがマルコス失脚の原因だという。


 詳細は割愛するが、アメリカが日本の過去を封印する手助けをする理由のひとつは略奪財宝にあるだろう。日本の過去を本当に精算しようとすれば、アメリカが大戦後に築いた世界支配の仕組みが明らかになる。日本の場合、薩摩と長州が徳川体制を倒した明治維新から現在に至るまでの歴史も見直さなければならなくなる。本ブログでは何度も書いてきたが、血盟団や二・二六の将校が何を見、なぜ怒ったのかを理解する必要もある。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812030001/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/129.html#c3

[近代史3] 朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一

朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一

本多勝一 週刊金曜日 応援、侵略を考えるサイト
http://honkatu.blog24.fc2.com/

本多勝一を応援する読者会のページ
http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/hod/


1971年、本多勝一が中国において日本軍の足跡の取材を行った際(「中国の旅」)、南京において、日本軍に虐殺された様子をさめざめと泣きながら語ってくれたそのご家族の方に対し、取材のお礼のあいさつを兼ねて語った言葉です。

”「 南京大虐殺が行われていた当時、私はまだ幼児でした。おっしゃるように、たしかに”一般人民”としての幼児の私には、この罪悪に対して直接の責任はありません。

本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。ですから私は、同じ日本人の罪悪であっても、私自身が皆さんに謝罪しようとは思いません。

問題は過去より現在なのです。日本の一般人民は、日本敗戦後二十数年を過ぎた今なお、中国で日本人が何をしたかという事実そのものを知らされていません。

日本がまた侵略戦争への道を歩んでゆく危険があるとき、それを私たちがもし何もしなしで傍観しているとしたら、こんどは私たちに直接責任があることになるでしょう。過去の軍国主義を ”おわび” したところで、何にもなりません。現在の軍国主義への危険を阻止することこそ、真の謝罪になるのです。

今度取材した日本軍のツメあとの報道は、このような意味で現在の軍国主義の進行を阻止するための、ひとつの闘いになるものと信じます。」 ”

朝日文庫 『殺す側の論理』 ”「反省なき民族」のために”より  





▲△▽▼


朝鮮部落なんか存在しない伊那の田舎出の本多勝一を在日朝鮮人とか、笑っちゃうね

本多勝一みたいに体制側に都合の悪い真実を明らかにすると、何一つ反論できないから朝鮮人認定して真実を否定しようとするのですね:


【南京大虐殺を捏造した】本多勝一は在日です【在日確定】日本の国難は全部朝日新聞のデマから
2014年09月22日

【新春特別対談】渡部昇一氏に聞く[桜H26-1-2] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=axqdVqS1SLw


2014/01/02 に公開

安倍政権発足から一年を経て国全体に明るい兆しも見えてはいるものの、「戦後日本」からの脱却はなお容易ではなく、草莽一人ひとりの覚悟がますます問われている。これから日本は何処へ向かうのか?真に国を想うその信念に従い、政治家として日々奮闘している国会議員諸氏と、優れた洞察力で時代を先見し、有為な視点を示してきた保守の重鎮達それぞれにお話を伺う新春特別対談です。

ゲスト:渡部昇一(上智大学名誉教授)
聞き手:水島総(日本文化チャンネル桜代表)

※チャンネル桜では、自由且つ独立不羈の放送を守るため、『日本文化チャンネル桜二千人委員会』の会員を募集しております。以下のページでご案内申し上げておりますので、全国草莽の皆様のご理解、ご協力を、何卒宜しくお願い申し上げます。


「私の友達が調べたんですが、本多勝一は在日です」

渡部:朝日新聞は文化大革命を人類の壮大な実験なんて評していました。
人殺しが実験なら苦労しません。

不思議なことに朝日新聞が反省している様子がないんです。
僕はね朝日新聞の中に反日勢力が入っているんじゃないかと思います。

日本を苦しめた国難みたいに、従軍慰安婦問題と南京大虐殺があった。
両方ともいんちきなことは日本人は良く知ってるんですよ。しかし世界中では
南京大虐殺があったと思ってるし、従軍慰安婦も日本人がやっていると思っている。
  
しかし、発火点は全部朝日新聞なんですよ。南京虐殺のことを盛り上げた、
爆発させた本多勝一は、私の友人の調査によれば、在日です。

それがうまく当時の「自分の先祖が中国である」ということを言ってる
朝日新聞の広岡知男社長がやらせたという感じです。
  
そして従軍慰安婦問題も朝日新聞の記者が韓国人と結婚して、
その女性のお母さんが反日家で、その反日家が言っていることを持っていって
デスクがよく調べもせずに記事にした。

だから、日本の国難ということは、全部朝日新聞のデマから出てるんですよ。
しかもデマの発祥地は反省しない。
http://hosyusokuhou.jp/archives/40319566.html

朝日の「南京大虐殺」説は“朝鮮人”記者が書いた? 2011-07-14


朝日新聞に「南京で捕虜・市民30万人が日本軍に虐殺された」と虚偽を書いた本多勝一、本名は崔泰英

生年が著書により1931年、1932年、1933年と3通りある不可解さ

著書名 記された生年月日

「中国の旅」1933年生まれ
「殺される側の論理 」1933年生まれ
「南京への道」1931年生まれ
「裁かれた南京大虐殺」1933年生まれ
「天皇の軍隊 」1932年生まれ
「南京大虐殺の研究」1933年生まれ
「貧困なる精神Z集」1932年生まれ
「ジャーナリズムと歴史認識」1931年生まれ

他に生年月日抜きで発表されたのは「中国の日本軍」
「南京大虐殺否定論13のウソ」

この本多勝一、 本名は崔泰英 としてあちこちで目にします。
(じっくり調べてみます。諸説あり、いまだ確定には至っていません)

仮に事実なら、朝鮮人記者が朝日新聞という中国密着新聞に中国共産党の言うまま、検証も無しに記事を掲載、 「南京大虐殺」の「広宣流布」に大きな役割を担ったということですが。

もし日本人だとしてもその精神性に於いて大いなる疑義を抱かざるを得ません。
虐殺30万人が真実なら報道されることになんの異議もありませんが
さまざまな角度から検証してみるに、まずもって「物理的に無理」が結論です。


【この事実に注目】

日本の中学校教科書に初めて「南京大虐殺」が記述されたのは、
昭和53年(1978年)。

しかし中華人民共和国の教科書には「南京大虐殺」の記載はこの時点でも無かった。

  「南京大虐殺」の1937年から実に43年間、中共の教科書にさえ記載されていない、
という事実に着目。  

「南京大虐殺」は「朝日新聞」(1987年)の虚構報道により、更に広く日本国民に「事実」として
認識され、中共に利用されるに至りました。

もう一度言います。 「南京事件」の1937年から実に43年間、中共の教科書にさえ載ってはいません。事実なら、あの中共が43年間もこの事件に触れないでいるでしょうか。

場合によったら、ですが日本人のふりをした朝鮮人によって捏造された事件を中共が利用し始めて現在に至るという

構図ではないでしょうか。南京大虐殺館建設にお金を出したのも極左の日本人・元日本社会党委員長、田辺誠です。
その物理的出自のいかんを問わず彼らは「日本人ではない」。少なくともこの日本を護る立場には
あらず何らかの理由で毀損に走った人物だと思われます。

「30万人は学術的に根拠はなく、中国の研究は、日本で高まった南京事件否定説に対抗するイデオロギー的なもので、
自分が当館を経営していれば、この数字は使わない」(張連紅・南京師範大教授)

【備考】南京重慶に従軍していた父を持つ方のレポート。

父が南京重慶方面に従軍しており、話を聞いております。 あまりに捏造なので代わって抗議します。
 これだけの人数を銃殺処分するとなると当時は、英国などの記者も­沢山在所していたので、
川に流したとしても絶対に写真が海外に出­る。 写真がないのは事実がないからだ。 

川辺は沼地状態で万単位の捕虜を確保はできない場所で、多くの住­民が目撃可能な場所だ。 
この話が本当の話なら、そんな危ない街の南京の人口が数ヶ月で何­故急増したのか? 
馬賊も出没しなくなり、安全になったからだ。 
また、この元兵士の「日記」だが、このような詳細な軍行をしかも­いち兵隊が書いて残していたら、
憲兵に発見されたら軍律違反で銃­殺もの。 

もっと云えば、引き揚げ上げ時には身体検査があり、絶対に持ち出­せない筈。
 若い人達はテレビにウソばかり教えられている。 ウソである。 
この兵隊も本当なら実名で名乗れる筈だ。 また連体は2000人前後の旅団で65連体など存在しない。 
当時の出兵記録を調べたら分かる 以上 

「反日グループ」週刊金曜日のメンバーとしても本多勝一は名を連ねています。

石坂啓 永六輔 中山千夏 落合恵子 佐高信 椎名誠 (故)筑紫哲也 本多勝一 石倉直樹

*筑紫哲也も朝鮮名がしきりに出まわっていますが、こちらも未確認です。諸説あり。
最近、その遺産隠しが露見して修正申告(という名の)“脱税”が報じられました。

動画で見る本多勝一

本多勝一さん週刊金曜日創刊のころ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9e6O49Q4LsI


こいう講演をわざわざ聴きに行き、なごやかに笑っている人たち、何者。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/819f12c54bc6165c57fa69c51a35e248

本多勝一を応援する読者会のページ
http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/hod/


本物のプロの取材方法とは

 本多勝一氏の取材方法は、ひたすら歩いて、見て、聞いて、ノートを取る。

インタビュー相手の話が脱線しても、既知の話題が出ても、相手を遮ることはせず、とにかく聞く。

はっきりとしない部分は通訳を通じて何度も聞き直す。そして写真撮影。

本多勝一氏と巡るハーレム 32年振りの再訪
http://www.nybct.com/2-62-honda.html


 今から32年前の1969年。当時、朝日新聞の記者だった本多勝一氏は、アメリカの主に黒人とネイティブ・アメリカンをルポするために単身渡米し、ハーレムや南部を半年に渡って取材。その記事はまず朝日新聞に連載され、後に1冊の本にまとめられて「アメリカ合州国」として出版された。当時、アメリカの黒人社会にここまで深く潜入して書かれた本は、日本ではほとんど出版されておらず、大きなセンセーションを巻き起こした。


 その本多氏が2001年にハーレムを再び訪れた。あれから32年、その間にハーレムの何が変わって、何が変わらずにいるのかを取材するために。前回の取材時はハーレムに住む“ブラウン君”という黒人青年がガイド役を務めているのだけれど、そのブラウン君の行方を探すことはもはや不可能で、今回、私がブラウン君に代わって本多氏を案内することとなった。


・・・・・


 本多勝一と言えば、まさに硬派ジャーナリストの代名詞のような存在。かつては敏腕新聞記者として世界各地を巡って数々のルポを書き、それらは今も書店の棚に並んでいる。また戦争やジャーナリズムについてなど、議論を呼ぶこと必至の著作も多く、論争や非難の渦中にあったことも数知れず。さらに朝日新聞を退社後は「週刊金曜日」という、これもまた硬派な週刊誌を立ち上げ、そこからは「買ってはいけない」のベストセラーも出ている。


 ところが、ハーレムにほど近いホテルの朝食ルームでお会いした本多氏は、いたって温和で物静か。取材用のノートとカメラを肌身離さずに持ってはいるものの、とても辣腕ジャーナリストには見えない。「初めまして。本多といいます。今回はよろしくお願いします。ところで、どこかカバンを買えるところはありますか? カメラを入れるカバンを成田で買おうと思っていたんですが、時間がなくて …」と、本多氏はケースにも入れていない、剥き出しのカメラを携えて丁寧な挨拶をされた。


・・・・・


 32年前、本多氏はハーレムYMCAに宿泊して取材をしたと「アメリカ合州国」にもある。今回の取材では、そのYMCAも含め、前回訪れた場所を再訪したり、現在のハーレムを良く知る人たちをインタビューして1969年のハーレムと、2001年のハーレムとの比較にポイント置いているとのことだった。


 本多氏の取材方法は、ひたすら歩いて、見て、聞いて、ノートを取る。インタビュー相手の話が脱線しても、既知の話題が出ても、相手を遮ることはせず、とにかく聞く。はっきりとしない部分は通訳を通じて何度も聞き直す。そして写真撮影。


 数日間に渡るハーレムの取材を終えた本多氏は、通訳兼アシスタントの“カズ君”と共にアメリカ南部の取材へと旅立って行った。この一連の取材の成果は「週刊金曜日」に連載されるとのことなので(時期は未定)、ハーレムの変化に興味のある方は「アメリカ合州国」と読み比べてみられてはいかがでしょうか。


●本多勝一「アメリカ合州国」朝日文庫 ¥544
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E5%B7%9E%E5%9B%BD-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/402260803X


1969年に単身アメリカに渡った本多氏が、ハーレムやアメリカ南部諸州をまわり、主に黒人の生活や人種差別の実態について書いたルポ。ハーレムではYMCAや廃虚のようなアパートに暮らし、人は良いけれどお金にだらしのない“ブラウン君”と共にハーレムを取材。南部紀行では、自身が激しい人種差別に遭遇。また戦後に黒人兵と結婚して渡米した日本人女性も取材している。なお、ハーレムの章の写真撮影は、氏の友人でもある吉田ルイ子氏。

●今回、プロのジャーナリストである本多氏の取材に同行できたことは、とても幸運でした。何よりプロの取材方法を真近で見ることができましたし、ハーレムを案内しているあいだに、私自身がハーレムの“今の姿”を再認識できました。

今、南部を旅行中の本多さん、どうもありがとうございました。また今回、私を本多氏に紹介してくださった中澤まゆみ氏にも感謝いたします。中澤さん、どうもありがとうございました。
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チャンネル桜が本多勝一が在日朝鮮人だというデマを流したのは この本を読まれると困るからだね:

中国の旅 (朝日文庫) 本多 勝一
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4022608056/ref=cm_cr_dp_synop?ie=UTF8&reviewerType=all_reviews&showViewpoints=0&sortBy=recent#R2NV3WY7ECK8F2


本多勝一は、ベトナム戦争に従軍し、精力的に記事にした。そこでは、南ベトナム軍も民族解放軍も、更には米軍でさえ虐殺していた。ならば、中国で日本軍は何をしたのか?

投稿者イエスちゃん!2015年5月2日


本多勝一は、ベトナム戦争に従軍し、精力的に記事にした。敵の北ベトナム側にも取材に行っている。

そこでは、南ベトナム軍も、反政府・民族解放軍ベトコンも、更には米軍でさえ、膨大な農民、老人、女、子供を虐殺していた。

それならば、先の日中戦争では、中国において日本軍は何をしたのか?に、記者として関心が高まった。

ベトナム戦争において、多数の証言者に対して、証言者の内容が信頼できるかどうか、吟味する方法を習得していった。

実際に本人が体験した証言と、単に人から聞いた証言・うわさ証言では、明確に差が出て来る。

証言者は多くは農民で、初めての取材であり、慣れていない。順序だって論理的に時系列で話す訳ではない。

最初に、自分の伝えたいことを先に話し、証言はいろいろと脇道に飛び、発生した時間の流れを前後する。

その膨大な部品・ピース・断片を、本多勝一は、自分の頭の中で、整理して、全体を再構成する。

そこで、まだ聞いていない部分・空白の部分を、何度も質問して、少しづつ埋めて完全に近づけていく。

もしも、証言者が自分の体験ならば、まだ話していないだけで、いくらでもその事について詳細に証言できる。

この過程で、記憶があいまいな証言者は、記事として使えないとして、外していった。

つまり、新聞記者のプロの眼で、情報の確度の選別、吟味をしている。
(なお、北ベトナムでの取材でも、共産主義の国だから、証言者は北ベトナム政府が、記事の希望に沿って、探し出したものである。)

結論から言って、日本軍も、中国において、多くの虐殺を行っていた。
この事実を認めることから、和解と再発の防止ができる様になる。
是非、多くの日本人に読んでもらいたい。


● ● ●

なお、平頂山事件は、精神的に異常な一人の軍人が起こした虐殺事件である。

(妻の自害の真の理由が不明、自分の為に死んだ妻の葬式も出さずに満洲に)
『撫順の守備隊の<一大尉>が、匪賊を匿うたとの廉で、部落の『婦女子』を集めて機関銃で掃射鏖殺したとのことであった。

この事件のあった少し前、内地の一新聞に満州へ出征した一大尉の夫人が、夫君に後顧の憂いなく御奉公するようにとの遺書を残して白装束で自害したとの記事があり、戦時婦人の典型だとて評判になっている旨を伝えていたが、件の大尉こその婦人の夫であった。』
(森島守人『陰謀・暗殺・軍刀--外交官の回想』)

それに対して、戦後、蒋介石の戦犯軍事裁判で、無実の撫順炭鉱の所長が、でっち上げ冤罪で、死刑にされた。

(この真の戦争犯罪者・軍人は、当時、満洲にはいなかった。戦後も、日本にて、生きながられた。運命は不公平である。)

この死刑は、復讐そのものであり、別の新しい犯罪行為である。中国側は、このことも知る必要がある。
両方とも追及・糾弾して、再び起こらない様にする必要がある。
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1971年、本多勝一が中国において日本軍の足跡の取材を行った際(「中国の旅」)、南京において、日本軍に虐殺された様子をさめざめと泣きながら語ってくれたそのご家族の方に対し、取材のお礼のあいさつを兼ねて語った言葉です。


”「 南京大虐殺が行われていた当時、私はまだ幼児でした。おっしゃるように、たしかに”一般人民”としての幼児の私には、この罪悪に対して直接の責任はありません。

本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。ですから私は、同じ日本人の罪悪であっても、私自身が皆さんに謝罪しようとは思いません。

問題は過去より現在なのです。日本の一般人民は、日本敗戦後二十数年を過ぎた今なお、中国で日本人が何をしたかという事実そのものを知らされていません。

日本がまた侵略戦争への道を歩んでゆく危険があるとき、それを私たちがもし何もしなしで傍観しているとしたら、こんどは私たちに直接責任があることになるでしょう。過去の軍国主義を ”おわび” したところで、何にもなりません。現在の軍国主義への危険を阻止することこそ、真の謝罪になるのです。

今度取材した日本軍のツメあとの報道は、このような意味で現在の軍国主義の進行を阻止するための、ひとつの闘いになるものと信じます。」 ”

朝日文庫 『殺す側の論理』 ”「反省なき民族」のために”より  


チャンネル桜は南京大虐殺が捏造だというデマを必死に流していますが、
当時の記録がちゃんと残っているので30万人虐殺は絶対に否定できないのですね:


30万人殺害は長江デルタ 南京大虐殺で英記者電報

【ロンドン21日共同】1937年12月中旬に始まった旧日本軍による南京大虐殺から65年。当時、「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された」と上海から打電しようとし、日本人検閲官に差し止められた英紙記者の電報記事コピーを21日までに共同通信が入手した。

犠牲者数について、中国側の公式見解は南京だけで30万人とするが、日本では数千人−20万人など諸説ある。

電報では、犠牲者「30万人以上」は、南京だけではなく、上海なども含む長江デルタ地域全体の数字として記されていることが確認された。

電報は38年1月16日付。書いたのは英マンチェスター・ガーディアン(現ガーディアン)紙の中国特派員ハロルド・ティンパリー記者(54年死去)。 電報のコピーは、英中部マンチェスター大学のジョン・ライランズ図書館書庫に保管されていた。
2002/12/21 09:31 【共同通信】

南京大学歴史学部博士課程指導教官で、南京大虐殺研究所副所長の張生教授を取材した際、昨年、米国立公文書館で南京大虐殺に関する資料を収集していたときに、極めて価値のある最高機密文書を発見したことを話してくれた。

日本の広田弘毅首相が1938年1月17日、東京から米国の日本大使館に発信した機密電報だ。米国はそれを解読していた。 (実際には広田自身ではなく、『マンチェスター・ガーディアン』の記者ティンパリーが書いたニュース)

電文の内容は

「数日前、上海に戻り、日本軍の南京とその他の一部地方での残虐行為に関する報道について調べた。信頼できる目撃者が直接数えた、また信頼度の極めて高い一部の人の書簡にもとづけば、それは十分に証明できるであろう。
少なくとも30万の中国平民が殺戮に遭い、その多くは極めて残虐で血なまぐさい虐殺だった」

というものだ。張生教授は

「これまでに収集した資料のなかでは、最も早く南京の30万人市民の殺戮に言及しており、証拠となるものです」

と指摘。さらに「米国や欧州などでも、第三者による史料の発見が相次いでいます。個人的な判断や細部の描写はやや異なるものの、南京大虐殺が一つの歴史事実であることは広く認められているのです」と強調した。
「北京週報日本語版」より2007年12月15日


ベイツは日本大使館に南京の惨状の報告を毎日のようにしており、その報告は日本外務省に届けられていた。
この報告を読んだ、広田弘毅の直属の部下、石射猪太郎は『外交官の一生』に

「南京は暮れの一三日に陥落した。
わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。
南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である」


と書いた。広田弘毅も同様の認識であったと見るほかない。

事実、アメリカ駐日大使ジョセフ・グルーは、外務大臣広田弘毅とベイツの報告について話し合っていた。その会見の様子はグルー自身がさらに南京のアメリカ大使館に電報で知らせ、ベイツもそれらの電報を直々に読んで確認していたのである。
http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/%B3%B0%CC%B3%BE%CA%A4%AC%C3%CE%A4%C3%A4%C6%A4%A4%A4%BF%A4%C8%A4%A4%A4%A6%A4%CE%A4%CF%B1%B3


当時の外務省東亜局長・石射猪太郎は、1938年1月6日の日記に、

「上海から来信、南京に於ける我が軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。

嗚呼、之が皇軍か」

と記述している。

※元資料:石射猪太郎 『外交官の一生』 中公文庫P.332〜P333 (1998年)
http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-496.html


日本軍文書:南京大虐殺で南京の人口が80万人近く減少 2014年01月08日


吉林省公文書館で最近、南京大虐殺の記録を含む日本軍の中国侵略に関する文書が見つかった。

同文書によると南京大虐殺前後の2カ月半で南京地区の人口は113万人から34万5000人へと78万5000人減少していた。人民日報海外版が伝えた。

 同文書は1938年2月19日と同28日に日本軍華中派遣憲兵隊の大木繁司令官が関東軍司令部に報告した2件の「南京憲兵管轄区内の治安回復状況に関する報告」。報告の「事変前後の人口対比」によると、「事変前」に南京の人口(下関を含まず)は100万人で、2月28日までに33万5000人が帰還し(戻り)、下関の人口は13万人で、後に1万人が帰還した。

 1937年12月13日、中国侵略日本軍は南京を占領した。その後6週間、日本軍はこの世のものとは思えないほど残虐な手段で、中国の市民と軍の捕虜30万人以上を殺害した。だが日本には南京大虐殺の数字の矮小化、さらにはこの犯罪行為の否認を企てる者が常にいる。

 今回の日本関東軍の文書は吉林省公文書館に保管されており、関東軍が中国東北部を統治していた1931年から1945年までの様々な事項が記録されている。現時点で中国侵略に関する世界唯一の関東軍文書であり、非常に貴重で、日本国内にすらないものだ。

 1945年8月15日に日本が降伏を宣言すると、日本軍はこれらの文書を数日間かけて焼却したが、間に合わなかったものを地中に埋めた。これらの資料は1950年に吉林省の工事現場で発見された。(編集NA)

 「人民網日本語版」2014年1月8日
http://j.people.com.cn/94474/8507124.html


>>129 で本多勝一は在日朝鮮人だという根拠ゼロのデマを流した渡部昇一については
保守論壇の重鎮・渡部昇一の「昭和史」のデタラメを読み解く。
http://www.asyura2.com/10/senkyo91/msg/261.html

渡部昇一の流した悪質なデマの例


●重要なことは、蒋介石も毛沢東も誰も「南京大虐殺」を言った人はいないという事実。

「南京大虐殺」が最初出てきたのは東京裁判。それが忘れられた頃に騒ぎ始めたのは朝日の本多勝一で、それに乗ったのが当時の社会党の田辺誠と言われている。   
    《渡部昇一 「こんな日本に誰がした」》

実際は

1938年7月(南京陥落後)日中戦争1周年に蒋介石は「日本国民に告げる書」で日本軍の放火・略奪・虐殺を非難している。

「南京」という名指しはないが、この時点で中国大陸における大規模で集団的な略奪・虐殺は南京以外に考えられない。

蒋介石はこのことを念頭に書いている。次のように書かれている

「・・わが婦女同胞に対する暴行がある。

10歳前後の少女から5,60歳の老女までひとたび毒手にあえば、一族すべて逃れがたい。ある場合は数人で次々に辱め、被害者は逃げる間もなく呻吟して命を落とし、ある場合は母と娘、妹と兄嫁など数十人の女性を裸にして一同に並べ強姦してから惨殺した。・・・

このような軍隊は日本の恥であるだけでなく、人類に汚点をとどめるものである・・・」


毛沢東は1938年1月週刊誌「群衆」で「南京大虐殺は人類に対する犯罪」と述べている。その内容は次の通りである。

「・・・9・18に敵軍がわが東北・華北ではたらいた残虐な行為は、すでに世のともに知るところとなっている。しかし、南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未嘗有の血なまぐさい残虐な獣行記録をつくることとなった。

これは中国の全民族に対する宣戦にとどまらず、全人類に対する宣戦でもある。敵の凶悪な残忍さは、人道と正義を血で洗い、全世界・全人類の憤怒と憎悪をよびおこした。・・・」
http://www.jca.apc.org/nmnankin/ohtani1.html


渡部昇一の流した悪質なデマの例 2

●東京裁判における最重要証人たるマギー牧師(安全区の委員で、南京占領後も市内を自由に歩けた立場)の証言は、南京における膨大な殺人・強盗・強姦・暴行・累々たる屍…について見てきたようなものだった。2日間にわたり法廷で詳細な証言をした。

●しかし、マギーはブルックス弁護人から「あなたは具体的に虐殺された一般市民を何人見たのか」の問いに、「見たのは1人である」と答えた。その1人とは、日本兵が警備しているところを1人のシナ人が通りかかって誰何され、途端に逃げ出して撃たれた、というものだった。歩哨が誰何して逃亡した人を射殺するのは殺人ではない。これは全く合法な戦闘行為。

●強姦らしいものを1件見たとも証言した。それは現場を見たのではなく、マギーが通りかかると1人の日本兵が走り出していき、そのあとを見ると女がいたから、あれは強姦されたに違いないというものだった。日本兵がアイスボックスを民家から持ち出すのを1件見たとも証言している。

…マギーが自分の目で見たものは、たったこれだけなのである。このどこをどうこねくり回せば、大虐殺という言葉が出てくるのだろうか。 

●戦時プロパガンダというのは、事実か嘘かは問題ではない。国際世論を味方につけ、自国民の戦意を高揚させ、敵の意欲を喪失させればいいのである。
  《渡部昇一 「渡部昇一の時流を読む知恵」》
http://kenjya.org/nankinkyogen.html


実際は

マギー牧師はけが人や強姦の被害者の救済をしていた。
殺害現場に立ち会わなかったのは当然。

いわゆるマギーフィルムが殺害現場そのものの映像がないのは当然のことである。

もし殺害現場を撮影していたら、日本軍はマギー牧師をそのままにしておかなかっただろう。むしろたくさんの被害者の映像記録を残している。このことの方が重要な証拠となっている。

 東京裁判でも11人の証人が証言し、南京安全区文書・南京裁判所検案書・慈善団体の埋葬記録・ラーベの書簡・アメリカ大使館の文書・在中国ドイツ外交当局の報告書などが東京裁判で採用された。
http://www.jca.apc.org/nmnankin/ohtani1.html


渡部昇一の流した悪質なデマの例 3

●私にとって印象深いのは、本多勝一氏と山本七平氏の「百人斬り論争」です。72年に『諸君!』誌上で半年ほど続き、あとはそれぞれの著書で持論を展開する形となりました。南京入りに際しての野田少尉と向井少尉の「百人斬り」を、本多氏は事実だと、山本氏は戦意高揚のためのフィクションだと主張しました。

●私が感心したのは、山本七平氏が『私の中の日本軍』(文芸春秋 1975年)で披露した卓論です。野田少尉は大隊副官でしたが、向井少尉の職務は新聞ではボカされていました。山本氏はそれが歩兵砲の小隊長であったことをつきとめます。だとすれば、2人は指揮系統も職務もまったく違います。

●日本軍は厳格な縦社会であり、軍人とは、直属の上官の命令以外、絶対に聞いてはならない存在です。実戦の最中に向井少尉が砲側を離れ、小隊長の職務を投げ出して、横の関係でしかない野田少尉と私的な百人斬り競争をすることなどありえない---山本氏はそう結論づけたのです。戦場経験のある山本氏ならではの、説得力のある議論に私は感心し、論争は山本氏の完勝だと思いました。
   《渡部昇一 「朝日新聞と私の40年戦争」》
http://kenjya.org/sonota4.html


実際は


百人斬り -- 『南京大虐殺のまぼろし』の嘘


1971年、朝日新聞に連載された本多勝一記者の長編ルポルタージュ『中国の旅』は、大変な反響を巻き起こしました。

このルポによって初めて、中国戦線で旧日本軍が行ってきた数々の凄まじい蛮行が、被害者である中国人自身の証言という生々しい形で徹底的に暴露されたからです。出征した兵士たちは、ごく少数の例外を除いて自分たちが行った残虐行為については一切口をつぐんでおり、教科書や一般の歴史書も抽象的に戦争の経過や背景を説明するだけだったため、戦後世代の日本人の多くは、かつて自国が行った侵略戦争の実態がどのようなものだったのか、具体的には何も知らないも同然でした。『中国の旅』は、いわば無知ゆえに安穏としていられた戦後世代を過酷な歴史的事実に目覚めさせる冷水のような役割を果たしたのです。

それだけに、このルポに対する右派勢力からの攻撃にもすさまじいものがありました。本多氏や朝日を黙らせようとする直接的脅迫はもちろん、氏の人格を中傷する捏造記事や、『中国の旅』に書かれている膨大な事例の一つでも否定しよう(そしてそれを宣伝することでルポ全体の信用性を貶めよう)とするあらゆる試みが行われました。

そうした試みの代表的な(そして最も「成功」を収めた)サンプルと言えるのが、鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』です。

この本はその前半およそ半分を、南京大虐殺全体から見ればほんの一エピソードに過ぎない「百人斬り競争」事件の否定に費やしています。鈴木氏はこの事件の信憑性に疑問を投げかけることで、本多氏のルポ全体、ひいては南京大虐殺全体が根拠のない「まぼろし」であるかのような印象を与えようとしたのです。

鈴木氏の「批判」が当たっていないこと、それどころか逆に『南京大虐殺のまぼろし』の方が証言の歪曲や捏造だらけであることは既に明らかになっているのですが、一時は多くの人がこの本に騙されました。

下記の議論が示しているように、最近になってさえこの件をネタに『中国の旅』を攻撃しようとする論者がしばしば現れます。残念なことですが、一度広まったデマは容易に根絶しがたいものなのです。

『南京大虐殺のまぼろし』後半部分については、そのデタラメさ加減を指摘する記事が「インターネット大学グローバル・カレッジ」に掲載されています。また、小林よしのりとの共著『朝日新聞の正義』でこの百人斬りを否定しようとする井沢元彦の無知ぶりとトリックを指摘する記事が、同じ「インターネット大学グローバル・カレッジ」に掲載されています。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/nangjin/hyakunin/hyaku.htm


野田、向井両少尉を裁いた南京軍事法廷の記録そのものがあります。

鈴木氏の『南京大虐殺のまぼろし』や洞氏の『南京大虐殺 -- まぼろし化工作批判』が書かれた時点では公開されていなかったのですが、今では中国側から公開された一部の記録(起訴状と判決書[8])を見ることができます。

この判決書を見ると、被告側の言い分として記録されているのは、

「『東京日日新聞』の記事は偽りであり、被告の武勲を称揚して日本の女性の羨望をあつめ、早く良縁を得られるよう期したものである」

という主張だけです。(この主張は確かに前記の「上申書」にも出ています。) もし被告側が裁判の過程で、問題の時点で現場にいなかったという重大な主張をしたのならば、まずそのアリバイ主張が(例え一蹴されるにせよ)第一に記録されるのが当然ではないでしょうか。断定はできませんが、判決書に出てこないということは、裁判の過程ではそのような主張がなされなかった(つまり、向井少尉自身が自分のアリバイを*知らなかった*)のではないかと思われるのです。

というわけで、各種の証言・証拠を総合すると、少なくとも百人斬り記事が浅海記者の創作などではなく、両少尉が語った内容を大体そのまま書いたものであることはほぼ確実です。そして、もとより白兵戦の中で向かってくる敵兵を斬り殺すことなどほとんどあり得ない以上、野田少尉が告白しているとおり、この百人斬りの大部分は捕虜虐殺の据え物斬りとして行われたと見るのが妥当なところでしょう。

百人斬りなどは南京大虐殺全体から見ればほんの一エピソードに過ぎないので普通なら今更こんな事で議論する必要はないのですが、未だにこのエピソードをネタに真面目な研究者やジャーナリストの仕事にケチをつけたがる人がいるので、私もやむを得ず知識の範囲内で対応しているわけです。

例えば、『南京大虐殺のまぼろし』には、「南京刑務所で、向井氏が処刑される寸前まで、彼と共に生活をした」小西さんという方からの手紙が紹介されています。

ところが、たまたまこれと同じ(としか考えられない)手紙が山本七平氏によっても別のところで紹介されており、この二つを比較してみると、細かい部分で多数の食い違いがあるだけでなく、重要なポイント部分にも相違があるのです。『南京大虐殺 -- まぼろし化工作批判』ではこの二つの手紙が上下2段組みで並列に示さ
れているので是非見比べて下さい。これを見ると、大して長くもない手紙に細かい言い回しや事実関係に関する食い違いが何十個所もあり、その上、次のような重大な疑問点があります。


(1)山本氏紹介の手紙では、冒頭に

「偶然な機会に週刊新潮7月29日号の…記事を見ました。」

とあり、途中にも「貴誌既報の如く」と週刊新潮宛てに書かれた手紙であることがはっきり示されているが、鈴木氏の紹介ではどちらもカットされている。鈴木氏が自分宛ての手紙であるかのように装った疑いが濃い。


(2)鈴木氏紹介の手紙には

『…彼らが着いて直後、予審とも記者会見 ともわからないようなものをやり、この人たちが初めから異常な扱いをされていることはすぐにわかりました。「事実は明白である。如何なる証拠を出しても無駄である」といっていたそうで、大虐殺の犯人として事件に決着をつける政略的なものであろうと我々も話していました』

と いう部分があるが、山本氏紹介の手紙ではここが中略されている。ここはこの裁判が予断に満ちた不当なものであったことを示す重要な部分なので、あえてここを中略してしまうとは考えにくく、そのような記述は実際にはなかった可能性が高い。


(3)同じく、鈴木氏紹介の手紙の末尾には

『刑の執行の朝、彼等が、軍事法廷になっていた二階で、“天皇陛下万歳、中華民国万歳、日中友好万歳”と三唱した声が今でもはっきり蘇がえってくるのであえてここに筆をとりました』

という部分があるが、これも山本氏紹介の手紙では後略されている。ここも両被告の堂々とした態度を示す印象的な部分で、あえて略してしまうとは考えにくく、鈴木氏の創作である可能性が高い。

洞氏は、

『鈴木氏はよくもまあ、他人の文章をこうも勝手に改竄したものだといわざるをえない。

…鈴木氏が、こうした資料の扱い方をあえてしたとすれば、氏の「追跡ルポ」のききとり方も、相手の話したところがどこまでそのとおりにつ たえられているか疑わしくなる。

フィクションならともかく、こんなルーズで恣意な資料のあつかいをしているのでは、『「南京大虐殺」のまぼろし』は、「ノンフィクション」・史書としては失格なのではなかろうか。 』


と述べていますが、私もまったく同感です。


また、ジャーナリストの和多田進氏は、『「南京大虐殺」のまぼろし』 が単行本になった1973年に台湾に渡り、鈴木氏の本にも出てくる石美瑜氏(両少尉を裁いた裁判の裁判長)にインタビューしています。その結果、鈴木氏が身元をごまかし、取材目的も告げずに会っていたこと(石氏は鈴木氏のことを向井か野田の息子またはその友人だと思っており、鈴木氏の本のことも知らなかった)、鈴木氏は石氏の上海なまりがひどくて話が聞き取れなかったというが、実際には台湾生まれの通訳でも会話に何の不自由もなかったことなどが明らかになっています。


肝心の石氏の証言も、鈴木氏のテープにあるという

『この種の裁判には何応欽将軍と蒋介石総統の直接の意見も入っていた』

とか

『向井少尉が日本軍人として終始堂々たる態度を少しも変えず、中国側のすべての裁判官に深い感銘を与えた』

などという話は出てこず、逆に

『裁判で明らかになったことのひとつは、「百人斬り」競争に際して、二人はブランデーを賭けていたということです。』

とか

『二人の家族にも言ってもらいたいことだが、中国人はこの戦争でおそらく1000万人も死んでいるだろうということだ。もし証拠がなくても処刑できるのだということになれば、日本の軍人はすべて処刑しなければならないということになるだろう。しかし、われわれは報復主義はとらなかったということです。』


といった証言が得られています。


鈴木氏が石氏の証言として

『五人の判事のうち三人が賛成すれば刑は決定された』

などと書いているにもかかわらず、判決書によれば実際の裁判官は*四人*であったことなどを考えれば、それは自明であると私は思います。

いまだにこのような「取材」によって書かれた本をネタにして本多氏の「ジャーナリストとしての姿勢」にケチを付ける人がいたり、この件の決着がどうついたのかさえほとんど知られていない、というのは実になげかわしいことです。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/nangjin/hyakunin/fj960923.htm

望月五三郎手記


 望月五三郎氏は事件当時両少尉と同じ部隊におり、両少尉による「競争」を目の前で見ていた当事者である。望月氏は1985年に私家版として刊行した手記『私の支那事変』の中でこの事件についても触れており、この「競争」の実態が、捕らえた罪もない農民を二人で争って斬り殺した殺人競争であったことを赤裸々に描き出している。志々目証言とこの手記によって、百人斬りの真相はほぼ明らかになったと言っていいだろう。作り話でもなければもちろん戦闘行為でもなく、無抵抗な捕虜や農民に対する虐殺だったのである。

 ちなみに、この手記は刊行後埋もれたままになっていたが、歴史否定勢力が両少尉の遺族を原告に仕立てて本多勝一氏や毎日新聞、朝日新聞などを「名誉毀損」で訴えた裁判の過程で、新資料として発掘された。愚かな否定派の策謀も真相究明に役立つことがある、という好例であろう。


百 人 斬 り     昭一二・一一・二七 〜 昭一二・一一・二八


 線路に沿って西へと進む。無錫の手前八kmあたりで、敵の敗残兵約ニケ中隊に遭遇し、激戦の末、約三○名を捕虜にする。敗走する敵は無錫へとのがれた。
 無錫は工業都市であるが戦下の無錫の煙突の林立には煙一つ昇っていない。曽つての煤煙であたりの建物はどす黒く染って陰気な街である。

 速射砲が敵陣の壁めがけて発射された。速射砲とは発射すると直線で弾がとぶ、発射音と同時に、ドン、ドカン瞬間にはもう弾は壁を砕いている物凄い破壊力である。引き続き野砲の援護射撃が始まった。その間に中隊は前進する、援護射撃は有難いが、観測を誤ったのか、我々をはさんで前と後に落下する。そしてその間隔がだんだん我々に近づいてくる。鯖中隊怒り心頭に達する。

 やがて砲撃はとまり、敵は常州方面へと退却した。

 常州へと進撃する行軍中の丹陽附近で大休止のとき、私は吉田一等兵と向ひ合って雑談をしていると、突然うーんとうなって腹をおさえながらうずくまった。流弾にあたったのである。

 「おい吉田」と声をかけたが返事がない、死んでいるのである。即死であった。もう五寸位置がちがっていたら、私にあたっていたのである。私はほんの五寸前で死んでいった吉田一等兵をこの目で見た。葬むるにも時間がない、衛生隊にお願ひして、心を残しながら行軍に続いた。

 このあたりから野田、向井両少尉の百人斬りが始るのである。野田少尉は見習士官として第一一中隊に赴任し我々の教官であった。少尉に任官し大隊副官として、行軍中は馬にまたがり、配下中隊の命令伝達に奔走していた。

 この人が百人斬りの勇土とさわがれ、内地の新聞、ラジオニュースで賞賛され一躍有名になった人である。

 「おい望月あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に座る。少尉の振り上げた軍刀を背にしてふり返り、憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。

 一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も、少尉の手前じっとこらえる。

 戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが、抵抗なき農民を何んの埋由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。

 その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた。 両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた。支那兵を戦斗中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を連隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。

 この残虐行為を何故、英雄と評価し宣伝したのであらうか。マスコミは最前線にいないから、支那兵と支那農民をぼかして報道したものであり、報道部の検閲を通過して国内に報道されたものであるところに意義がある。

 今戦争の姿生がうかがえる。世界戦争史の中に一大汚点を残したのである。(後略)
(季刊『中帰連』2004年秋号)

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向井氏の遺書


百人斬りの実行当事者である向井氏は処刑前に遺書を残しているが、この遺書には、東京日日新聞による報道は彼ら自身の話した内容を記事にしたものであることが明記されている。つまり、向井氏本人が、記事は浅海記者による捏造などではないと言っているのである。更に、「公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります」と述べているとおり、向井氏は記事に書かれた百人斬り競争を行ったこと自体は認めている。(それは戦闘行為であって虐殺ではなかった、と言っている訳だが、銃器で武装した敵兵を戦闘中に何人も日本刀で斬り殺すことなどできるはずがないことは言うまでもない。)

以下、この遺書の一部を再録する。

この向井氏の遺書では、百人斬り競争を新聞記者に話したのは野田氏ということになっているが、野田氏の方は、話したのは向井氏だと父親への手紙に書いている。


なお、「百人斬り」を捏造だと主張する鈴木明氏は『「南京大虐殺」のまぼろし』に向井氏の遺書を引用しているが、なぜかそれは下記の「辞世」の部分だけで、都合の悪い後半部分は無視されている。


[1] 南京事件調査研究会編 『南京大虐殺否定論13のウソ』 柏書房(1999) p.111
[2] 鈴木明 『「南京大虐殺」のまぼろし』 文藝春秋(1973) p.77


  辞 世

 我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。

 我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。

 中国の御奮闘を祈る
 日本敢奮を祈る
 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳

死して護国の鬼となります
 十二月三十一日 十時記す 向井 敏明


  遣 書

 母上様不孝先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽しましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐しい国です。

 野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集つて語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御託ぴして置きました。

 公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞賛されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが公判に間に会いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。(後略)

巣鴨遺書編纂会 『世紀の遺書』 (1953年)

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志々目証言


帰国した野田少尉が故郷の小学校で講演した内容を、後輩の志々目彰氏が聞いたもの。勇猛な白兵戦として報道された「百人斬り」の実態が、実は捕虜虐殺の据え物斬りであったことが、本人の口から率直に語られている。


 戦記雑誌『丸』が11月号で「日中戦争の全貌」という特集をしている。その中に当時毎日新聞社会部陸軍報道班員鈴木二郎氏の「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」という貴重な回顧録がある。

 この文章は、栄誉をかけた“百人斬り競争”として二名の青年将校が南京攻略戦の中で二百名以上の中国兵を日本刀で切り捨てたことから始まっている。ところがこの事を、私は小学校の時本人から聞いて知っていた。それは私にとって“中国体験”のはじまりでもあった。

 それは小学校卒業の一年前、昭和十四年の春だったにちがいない。生徒を前にA先生が「いちばん上級となった君たちに」といったのと、これで上級生がいなくなってせいせいするぞという解放感で気持ちが弾んでいたのとを記憶している。A先生はわが校の先輩であるというパリパリの青年士官をつれてきた。陸軍士官学校を出てまだ何年もたたないというその若い将校のキビキビした動作、ピンと前の立った士官帽をはっきりと思い出す。

 私の出た学校は鹿児島県立師範学校附属小学校。父は県庁の下級官吏で、本来この学校へこどもを出せる階級ではなかった。私も附属特有のお坊っちゃんムードが嫌いで、それに勉強も好きでなかったから、毛並みのいい級友たちとは一歩距離があった。鹿児島というところは軍人の産地で、中学で少しできる奴は身体がよければ海軍兵学校か陸軍士官学校へ進む土地柄であった。私自身その三年のちに陸軍幼年学校の生徒になったのだが、陸軍将校には特別の憧れや関心をいだいていなかった。それは、長兄の影響――日夜海軍兵学校のことを言いくらし、希望をつらぬいて江田島に入り、終戦の百日前に水上偵察飛行隊の分隊長として戦死した――を強く受けて、熱烈な海軍ファンだったからかもしれない。

 さて、小学生を前にしたN少尉は、ずいぶんくつろいでいたようだ。世間でみる軍人という堅い感じは少しもなく、また私たちが数年後に自ら体験した気負いもなかったと、今にして思う。それは戦火をくぐりぬけてきた人の落ちつきであったのかもしらないが、やはり母校の小学生、身内に話しているという気軽さでもあったのだろう。たんたんと話した内輪話は、ほぼ次のようなものであった。

「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……

 実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……

 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……

 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
 二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……」


 これを聞いて、私の頭には新聞写真で見たような敵の陣地が浮かんできた。腰を丸め手をあげてゾロゾロ出てくる中国兵……なぜ中国兵は逃げないのだろう? 反抗しないのだろう? 兵士がみんな馬鹿ということがあるだろうか。

 そのほかにも「中支戦線」や戦場生活の話を聞いた筈だが、忘れてしまっている。

「ニーライライというと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる……」

という言葉は今でもはっきり覚えている。「ニーライライ」というのは、お前来い来い、という意味だそうだ。これは竹内好さんや安藤彦太郎さんたちのいう“兵隊シナ語”の一種でもあったのだ。

 その頃の私たちには、斬られた中国兵のために憤り、或いは同情する“ヒューマニズム”はなかった。その中国の兵たちにも自分のような弟がいるかもしれないなどとは、思ってもみなかった。軍人になろうとしている兄貴を慕っていた私だから、そんな類推ができない筈はなかったのに……

 だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという“勇士”の体験談は、私にはショックだった。ひどいなあ、ずるいなあ。それ以上のことは幼い自分には分らなかった。これでいいのだろうか、そんな軍と軍人で果して“聖戦”が可能なのだろうか。陸軍幼年学校に入り、国軍の生徒としての教育をうけるようになってから、そのことをあらためて思い出すようになっていた。

 そして敗戦。変り身のはやくない私は、二・一ストのあとまで、依然として軍国主義者だった。そのころ極東裁判が開かれた。マスコミと世論が旧軍隊の、ことに戦争遂行の骨幹であった正規将校の腐敗をあばく度にくやしがっていた私だったが、南京虐殺事件の報道はすなおに受けいれることができた。N少尉の話の全体像がつかめてきたように思い、自身もにない手であった日本帝国主義の対外的な責任を考えるようになったのは、この頃からであった。(後略)

志々目彰「日中戦争の追憶――“百人斬り競争”」(『中国』1971年12月号)

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/shijime.htm

報道関係者の証言


浅海一男 元東京日日新聞特派員 (第1報〜第4報共同発信者)


(前略)連日の強行軍からくる疲労感と、いつどこでどんな“大戦果”が起こるか判らない錯綜した取材対象に気をくばらなければならない緊張感に包まれていたときに、あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で、M少尉、N少尉と名乗る二人の若い日本将校に出会ったのです。(中略)筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と、その夜そこで天幕夜営をする準備をしていた、と記憶するのですが、M、N両将校は、われわれが掲げていた新聞社の社旗を見て、向うから立ち寄って来たのでした。(中略)

両将校は、かれらの部隊が末端の小部隊であるために、その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明したり、かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり、いまは記憶に残ってないさまざまな談話をこころみたなかで、かれら両将校が計画している「百人斬り競争」といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは、この多くの戦争ばなしのなかから、このコンテストの計画を選択して、その日の多くの戦況記事の、たしか終りの方に、追加して打電したのが、あの「百人斬り競争」シリーズの第一報であったのです。

 両将校がわれわれのところから去るとき、筆者らは、このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは、どうせ君たちはその社旗をかかげて戦線の公道上のどこかにいるだろうから、かれらの方からそれを目印にして話にやって来るさ、といった意味の応答をして、元気に立ち去っていったのでした。

(中略)
 事実、「敵」を無造作に「斬る」ということは、はげしい戦闘間のときはもちろんですが、その他のばあいでも、当時の日本の国内の道徳観からいってもそれほど不道徳な行為とはみられていなかったのですが、とくにわれわれが従軍した戦線では、それを不道徳とする意識は皆無に近かったというのが事実でした。筆者は、あの戦線の薄れた記憶のフィルムのなかでも、次のようないくつかの場面だけは脳裡に焼きついて離れません。

 例えば確か丹陽の少し手前(上海寄り)にあった中華民国歩兵学校が占領されたとき、その裏手の広場に、数十体の国民党軍の兵士の遺体が横たわっていて、それらの遺体にどれひとつとして頚部から上の部分が見られなかったときの筆者の驚ろきと暗澹たる心情は忘れがたいのです。

(中略)

 このような異常な環境のなかにあって筆者たちの取材チームはM、N両少尉の談話を聞くことができたのです。両少尉は、その後三、四回われわれのところ(それはほとんど毎日前進していて位置が変わっていましたが)に現われてかれらの「コンテスト」の経過を告げていきました。その日時と場所がどうであったかは、いま筆者の記憶からほとんど消えていますが、たしか丹陽をはなれて少し前進したころに一度、麒麟門の附近で一度か二度、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度、両少尉の訪問を受けたように記憶しています。両少尉はあるときは一人で、あるときは二人で元気にやって来ました。そして担当の戦局が忙しいとみえて、必要な談話が終るとあまり雑談をすることもなく、あたふたとかれらの戦線の方へ帰っていきました。(後略)

浅海一男「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」(本多編『ペンの陰謀』 1977年 p.340-347)


鈴木二郎 元東京日日新聞特派員 (第4報共同発信者)

(前略)わたくしたちは昭和十二年十二月十二日に、砲弾に崩れた中山門をよじのぼって南京城内にはいるまで、上海から京*線沿いに竜華、南市、崑山、太倉、常熟、蘇州、無錫と、つかずはなれず従軍したが、この間、二人の陸軍少尉の百人斬り競争≠ニいう特電が生まれた。南京いりするまでに、どちらがさきに敵の百人を斬るか、というのである。

 この特電は、南京落城直前までの数回大きく報ぜられたのであるが、この記事が、(東京裁判で)告発する検事側の注目するところとなり、『虐殺』の訴因の一環として、証人指名、呼出状となたのである。
 南京いりして展開する『虐殺』に接する前に、『虐殺』とみられたこの百人斬り競争≠フ始末をのべてみる。

(中略)
 検事の喚問は、やはりこの競争≠『虐殺』として、事実の有無、取材の経緯、そして両将校の競争≠フ真意をするどく追及されたが、どの特派員もこの二将校がじっさいに斬り殺した現場をみたわけではなく、ただ二人がこの競争≠計画し、その武勇伝を従軍記者に披露したのであって、その残虐性はしるよしもなく、ただ両将校が、

二人とも逃げるのは斬らない

 といった言葉をたよりに、べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別べつにとられた)わけではなかったが、期せずして、

『決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない、虐殺ではない』

 と強調した。

 検事側にとってはきわめてたよりない証言だったにちがいない。それかあらぬか、いよいよ出廷の日、まず浅海君が証人台に立ち、右手を高くあげて、大きな声で宣誓をした瞬間『書類不備』?とかで却下となり、浅海君は気ぬけした顔で控え室に帰ってきた。まもなく書記がやってきて、『もう二人ともこなくてよい』といわれた。つぎの出番と緊張していたわたしは証人台に立たずにすみ、ホッとしたものだった。

 しかし、両将校は国府側にとらわれ、これを知らされたわれわれの嘆願署名のかいもなく処刑されたと聞かされた。(後略)

鈴木二郎「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」(月刊『丸』1971年11月号)
(本多『殺す側の論理』p.190-191)


そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんと一緒になり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである“赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは……。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです。

本人たちから、“向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった”という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ。浅海さんとぼくの、どちらが直接執筆したかは忘れました。そりゃまあ、今になってあの記事見ると、よくこういう記事送れたなあとは思いますよ。まるで、ラグビーの試合のニュースみたいですから。ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなものを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で“見たまま”“聞いたまま”を記事にして送ったんです

『週刊新潮』昭和47(1972)年7月29日号 p.36


(前略)一体、昼夜を分たず、兵、或いは将校たちと戦野に起居し、銃弾をくぐりながらの従軍記者が、冗談にしろニュースのデッチ上げが出来るであろうか。私にはとてもそんな度胸はない。南京城の近く紫金山の麓で、彼我砲撃のさ中にゴール#翌チた二人の将校から直接耳にした斬殺数の事は、今から三十九年前の事とはいえ忘れる事は出来ない。南京入城の際私は三十歳、この従軍を加えて、幼児からしばしば死に直面したが、他の事は忘却しても、死に直面の場面は今でも鮮かに脳裡に浮かぶのである。

(中略)
 しかし、残念な事に、資料Cとして紹介された月刊誌『中国』の一九七一年十二月号にある志々目彰氏の「日中戦争の追憶」――百人斬り競争≠フ文が、私を愕然とさせた。その文章には、鹿児島県出身のN少尉が小学校での講演で「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……」とまず、私ども東京日日新聞(現毎日新聞)の百人斬り競争%チ電を裏付けた発言が紹介されていたのは当然の事ながら、つぎのような驚くべき発言があった。

 実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……

 占領した敵の塹壕にむかってニーライライ≠ニ呼びかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……

百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……

二人で競争したのだが、あとで何ともないか、とよく聞かれるが、私は何ともない……

とあり、更に志々目氏は、つぎのようにつづけている。


「ニーライライ≠ニいうと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる」という言葉は今でもはっきり覚えている。ニーライライ≠ニいうのは、お前来い来い、という意味だそうだ。(中略)

だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという勇士の体験談は、私にはショックだった、云々。


 志々目氏が小学生のころ、本人から聞いて知って受けたというこのショック≠ヘ、二将校の「逃げるのは斬らない」という言明を深く信じていた私どもには、あの特電≠ゥら四十年にもなろうとする現在、大変なショックを覚え、「裏切られた」という感じで一パイである。

 戦後、浅海一男君ともどもこの百人斬り競争≠フ特電をもとに、市ヶ谷台の東京裁判で、南京虐殺事件の検事側証人として喚問された際、特に二人が強調したのは「二人とも逃げるのは斬っていない、立ち向かう敵だけを斬った、虐殺ではない」ということだった。そしてまた、その事を信じての特電だったからだ。
 志々目氏の聞いたN少尉の講演は、或いは同少尉が、戦捷のさ中に、帰国して勇士≠ニして歓迎され講演を頼まれ、いささか調子に乗って、話を面白おかしく(当時として)する気持ちで話したのかも知れないが――

聖戦≠信じ、勝つある事を信じて、夢中で戦場を馳け回り、九死に一生を得て、今日ある時、今更ながらわれらの「特電」の空しさに反省させられたのである。

鈴木二郎「当時の従軍記者として」(本多編『ペンの陰謀』 1977年 p.356-358)


佐藤振寿カメラマン (第4報掲載写真撮影者)


とにかく十六師団が常州に入城したとき、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが“撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。

私が“なんだ、どんな写真だ”と聞くと、外にいた二人の将校を指して、“この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。 “へえー”と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が“常州にて”というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。 私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話なんですよ。


 あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか、浅海さんが尋ねたのかよくわからないけれど、確かどちらかが、“あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているのだ、という話だった。 ――それなら話はわかる、ということになったのですよ。私が戦地でかかわりあった話は、以上だ。

『週刊新潮』昭和47(1972)年7月29日号 p.35

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/houdou.htm

据え物斬り体験者の証言


鵜野晋太郎氏は、旧陸軍第39師団232連隊第2大隊情報将校として自ら40名以上もの中国人を、主に日本刀(「備州長船祐定」および昭和新刀「助川貞光」)を用いて虐殺した体験者であり、中華人民共和国における戦犯裁判において、大尉以下の800名の中ではただ一人重刑判決を受けた。以下、氏の告白手記『日本刀怨恨譜』(本多勝一編『ペンの陰謀』収録)から引用する。(小見出しは高橋による。)

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1942年5月、最初の斬首体験


 竹薮を背に、私は半身に構えて農民の左後方に立った。彼の瞼は腫れ、口からは血が流れていた。祐定を抜くと、一五人許りの日本兵のざわめきが消えた。 ……

苦し気な農民の息づかいだけが聞こえる。刀を構える直前、農民の斬撃点である後首を見て、一瞬当惑した。斜め下に見るそれは僅かに二センチ位にしか見えない。沙陽鎮の立木とは雲泥の相違である。外れると後頭部か肩を横一文字に斬ることになり、その瞬間、将校としての威信失墜必至である。而も初体験であり、成功の保証はない。 ……二秒、三秒、グッと刀を振り上げた。――

「エイッ!」

ドスッ≠ニ鈍い手応えと同時に、九分通り斬れた首が胸に巻きこむように倒れた。斬った瞬間真っ赤な血が噴水のように三、四本吹きあがり、胴体は血溜りの中にのめりこんだ。自分自身が下手人であり、それこそ万死に値する罪を犯したのに、逆に私はホッとした心境で刀の血糊を拭いた。

(略)

御稜威≠フ下(天皇の威光の下)赫々たる「戦果」に酔っていた皇軍の一つの側面は、明らかにその底流で敗戦の要素が比重を高め、進行しつつあったことである。だが、私はそんなことなど露知らず、勝手な総括をしていた。――


一、祐定は切味と重さのバランスがよく、うまく斬れた。刃こぼれや目釘損傷なし。

二、日本刀は無抵抗の人間(奮戦したが刀折れ矢尽きて不幸にして逮捕された捕虜)の「据え物斬り」には最適である。つまり小銃拳銃の如きでは射撃音響が大きくて殺人現場が喧騒となり、まかり間違えば友軍(味方)を殺傷することもある。その点日本刀は軽便にして殺傷力大で、殺人現場は概して静粛に保たれ、日本刀使用者の技量のかなり低い者でも十分成果が期待し得る。従って刃がしっかりし、折れ・曲りの顧慮少ない刀の場合は、一挙に五名乃至十名の連続斬首は十分可能と思われる。但し「警備地区内」での殺人は予め穴を掘り、斬首後直ちに埋没の準備をしないと、最大の欠点たる大量の流血のために「刑場汚染」となり、具合悪く、注意を要する。

三、但し白兵戦闘の場合はその刃渡り(刃部の長さ)はとても着剣小銃に対抗できず、而も軍刀として外装したものは重くて成果は期待し得ず、従って単に将校の単独軍装として兵を指揮する場合のサーベル的役割を果たせる程度のものに過ぎない。


1944年、民間人9人の連続斬首

 私は常用の貞光を引き抜くと、一息入れてくるりと剣背(嶺、つまり刀の刃の背)を軽く村長の首に当て、間合いを見て足の位置を定め、今度は刃部を前に戻し乍ら一気に振り下ろした。

ドスッ≠ニ鈍い手応えと同時に、噴水の如く二、三本と吹き出す血。村長の首は胴体より僅かに早く落ち、顔は苦悶に歪み、歯はガチガチと砂を噛んだ。凄愴、無残。ただよう血の匂い。 ……

つづいて私は次の四十がらみの村幹部の後方に廻った。

(先ずはうまくいったが、目釘はどうかな。刀の曲りは出たかな?)

 目釘は異常ないが、刀身はわずかに曲りが出たようだ。

(大丈夫だ。連続してどこまでいけるか、やるんだ)

 次の首に剣背を当てるや、返して振り下ろす。そして三人、四人目へと息もつかせず斬った。だが四人目は八分通りの斬れ方で首は胸に垂れて倒れた。

(失敗だ!落ち着け!)

 私は強いて笑顔を試みたが、泣き面になってしまった。

「おい!警戒兵、そこの水桶を持ってこい!」

 私はひったくるようにして水桶の水で刀の血糊を拭いた後、タオルを刀身に巻いて切先から四○センチの所に膝をあてがい、右に約五度曲がったのを両手でぐいと元にもどしたが、僅かな曲りは残った。

(エイッ、あとの五人を殺らなくちゃ)

 そのとき、聞き覚えのある不気味な歌――「抗日歌」を、5人が涙を流して斉唱し始めた。低く怒りの気概が迫る。

「止めろ!止めないか!よーし、斬ってやる」

 だが不安がふとよぎった。 ――

(貞光の目釘はかなり緩んどる。これ以上緩めば刀は使えないぞ。でも父の祐定に取り替えて使うべきではない。勿論郭劉湾で一度血を吸わせたが、父の魂として祐定は一旦緩急の決戦の秋まで静かに保管した方がよいと決心して来たではないか。この母の魂たる貞光は昭和新刀だが、据え物でもこんなに曲るとは思わなかった。しかしここで父の祐定に取り替えては母の貞光を汚すことになる。……

そうだ!母のためにも断じて貞光で斬ろう!)


 そのとき五人の斉唱は止んでいたが、悲痛な泣き声は続いていた。私は一段と凶暴に刀をふるって斬った。目釘は更に彎曲して緩み、顎元がガタガタになって来た上、再び刀身の四○センチまでが右五度に曲った。そのために二人斬首して曲りを直し、また二人斬っては直して、ようやく最後の九人目の首を斬り落とした。首を完全に落としたのは一番目と九番目だけであった。

 血の匂いはしばらく消えなかった。鉄柵の中の捕虜の集団は、涙を拭おうともせず立ちすくんでいた。

 この蛮行は勿論私の独断専行であったが、情報主任の権限として何等越権ではなく、寧ろ「天皇の軍隊」への反抗に対する統帥権の当然の発動とさえ思っていた。事実、翌朝、連隊長山田正吉大佐(陸士二九期)に情報・捕虜関係事項の報告の後この問題を詳細報告したところ、

「ウン、馬鹿に派手にやったな……」

と苦笑いしただけで、何のお咎めもなかったのである。


「百人斬り競争」に対する鵜野氏の感想


昭和十二年十一月 ― 十二月の日本の新聞は、連日南京へ進撃する皇軍のニュースで埋まっていた。とりわけ私の関心は、野田・向井両少尉の百人斬り競争であった。今日は何人目と報ぜられる記事は何者にもまして素晴らしく、一八歳の私の胸は皇国の無敵ぶりへの確信を一段と高めたものである。当時私は幼稚な「天下無敵大和魂武勇伝」を盲信していたので、百人斬りはすべて「壮烈鬼神も避く肉弾戦」(当時の従軍記者の好きなタイトルである)で斬ったものと思っていたが、前述の私の体験的確信から類推して、別の意味でこれは可能なことだ――と言うよりもむしろ容易なことであったに違いない。

しかもいわゆる警備地区での斬首殺害の場合、穴を掘り埋没しても野犬が食いあさると言う面倒があるが、進撃中の作戦地区ではまさに「斬り捨てご免」で、立ち小便勝手放題にも似た「気まま(イ盡)な殺人」を両少尉が「満喫」したであろうことは容易に首肯ける。ただ注意すべきは目釘と刀身の曲りだが、それもそう大したことではなかったのだろう。また百人斬りの「話題の主」とあっては、進撃途上で比隣部隊から「どうぞ、どうぞ」と捕虜の提供を存分に受けたことも類推できようと言うものだ。

要するに「据え物百人斬り競争」が正式名称になるべきである。尚彼等のどちらかが凱旋後故郷で講演した中に

「戦闘中に斬ったのは三人で他は捕えたのを斬った云々」

とあることからもはっきりしている。その戦闘中の三人も本当に白兵で斬ったのか真偽のほどはきわめて疑わしくなる。何れにせよ、こんなにはっきりしていることを「ああでもない、こうでもない」と言うこと自体馬鹿げた話だ。

私を含めて何百何千もの野田・向井がいて、それは日中50年戦争――とりわけ「支那事変」の時点での無敵皇軍≠フ極めてありふれた現象に過ぎなかったのである。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/uno.htm

その他の大量斬殺例


「衣」師団(第59師団)第45大隊の元伍長、鈴木丑之助氏が、「首切り浜野」と呼ばれていたある中尉について語った内容が、次のように紹介されている。
…「衣」の「秀嶺作戦」と、引き続く撤兵で、山東省という膨大な空白が残るが、ここに替わりの師団を配置する余裕はない。それで、「衣」各大隊から少しずつ兵を抜き出して独立警備大隊というのを作ったわけだ。規模も従来の大隊規模に及ばないものだった。

 隊長には、第四五大隊の浜野仁中尉(栃木県出身)が任命された。浜野中尉は、皇軍で「首切り浜野」という異名を自他共に許していた。第四五大隊のなかに、彼が中国農民の首を日本刀で切り落とすのを、見なかった者はないとまで言われた。作戦に出て、途中見つけて案内人として使った中国人であれ、駐屯地周辺の部落民であれ、次々と首切りをしているうちに、彼は毎日一人は切らないと気が休まらなくなったようだと、兵士たちは思っていた。

 彼の部下たちは、彼によって中国人首切りのコツを伝授された。彼によって、妊婦の腹の割き方、幼児の殺し方を教わった。その中には「人間がウドンを食べている途中で首を切ると、どう見えるか」などという“実験”まで混じっていたという。中国人民軍側は、彼に多大な懸賞金を掛けてその跡を追ったが、行った道と同じルートを、決して戻らないという彼の侵略行のやり方と皇軍の支援とで、九死に一生を得た。八路軍は、遂に彼を取り逃していた。「首切り浜野」を自他共に許す彼は、これによってますます優秀なる皇軍兵士としての立場を固めていた。

熊沢京次郎『天皇の軍隊』(現代評論社 1974年)p.348


自らも連続9人の据え物斬りを体験している鵜野晋太郎氏は、軍刀で50人以上を斬ったと噂されていたある下士官について、次のように書いている。


 そのころ大隊本部に、公式には「喇叭長兼本部書記」の肩書の藤井曹長がいたが、私は彼に妙に心をひかれた。もともと幹候出身将校に対し、下士官は悪意を以て接するものだが、彼のさり気ないさっぱりした気風は好感が持てた。それにもまして確度の高い噂では、藤井は軍刀で50人以上、一説では100人以上斬っていると言われていた。(略)彼との交わりは半年に満たなかったが、彼の“殺人訓”を要約すると、次のようになる……

「私が50人なのか100人なのかと聞かれても答える口はもちませんよ。差し料(自分の所持している刀剣)が普通程度のものであれば、白兵戦で敵と渡りあってガタガタにならない限り、据え物だったら相手が抵抗できんように痛めてあるから、100人位十分殺れるんじゃないですか。 …そして相手を人間と思わんことですよ。まあ私は犬コロくらいにしか思ってませんから、まず失敗なんてありっこないですよ。ホラ見てください、これを……」

 藤井は差し料を引き抜いて切っ先の部分を指さした。 ――

「スーと細い擦った線が沢山見えるでしょう。 ……首を斬った時につく頚骨が擦れた跡です。だからこの一本一本の線を数えれば何人斬ったか判りますよ。しかし将校さん方から時々、白兵戦で何人も何人も斬ったという話が流れるが信じませんね。 ……そうでしょう。

刀ほど危ないものはないですよ。一対一でも着剣小銃手と闘っても勝てないですよ。 ……

まして一対二なら一辺ですよ。ツンゴピン(中国兵)が本気になったら怖いですよ。だから私は、据え物で何十人斬ったと言うのなら信じますがねえ。

……日本の兵隊の着剣小銃での刺殺ならあり得ますよ。あれなら殺れますね。

……明治維新での新選組の池田屋の斬り込みは、最低三人が一団となってのことですから、あれでは斬れますよ。だから軍刀の武勇伝と言うのは嘘ですな……」


 私は藤井の教訓を、敗戦までの間、私自身が犯した数多い斬首殺害の手本としての影響を強くうけたし、とりわけ藤井の差し料の頚骨の多数の擦過痕は私の心を捉らえ、一日も早く沢山斬りたいと言う衝動に駆られた。
(略)

 昭和十八年はいろいろと戦闘の多い年で、負け戦もあった嫌な年であった。早春の頃、私は藤井と共謀――と言うよりむしろ彼に三拝九拝して、日本憲兵隊の密偵(中国人の漢奸)を暗殺して貰ったことがある。

あの頃の情報関係者は密偵に塩の独占搬入権を与えて使っていたが、憲兵が大隊の縄張りを荒すので、業を煮やしてその密偵をだまして連れ出し、藤井に背後から不意打ちさせて殺したのだった。彼の慣れた刀捌きに私は恍惚としたし、益々殺意が体中に漲った感じで、毎朝真刀(つまり軍刀)で“百本振り”をやって自慰したものである。

鵜野晋太郎「日本刀怨恨譜」

(本多勝一編『ペンの陰謀』 潮出版社 1977年 p.379-380)

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/sonota.htm

日本刀の殺傷力

刀剣研究家成瀬関次氏は、戦時中刀剣修理の技術者として大陸に渡り、多数の損傷刀の修理を行った。氏は、実戦で使われた軍刀を修理した経験から、「研ぎべりのした、刀身のへなへなと薄い刀、焼け身、中心を焼きつぎにしたもの、洋鉄を延して焼きを入れただけの昭和刀、手に合はぬ直刀等は、避けねばならぬ」と断りつつ、「概して日本刀は強靭なものである」とその実用性を保証している。以下、氏の著書『戦ふ日本刀』からその一部を引用する。


 今度の事変中、一戦ごとに一人で十人二十人という敵を斬つた事が新聞にも現はれ、従軍後は、各部隊でさうした功名談もよく聞き、部隊長又は隊長からも、部下のかうした武功談を屡々耳にした。実際誇張や法螺でない事は、血刀を修理して見ただけでも、それが頷けた。自分は、兵隊の撮影した写真で、斬撃された敵屍の折重なつてゐる所を見た事があり、5月初旬、蘭陵鎮へ行軍途中、左荘といふ部落の近くで、刀疵で倒れてゐる敵の死体十幾つかを見た事があつた。
 …

 蒙橿の天鎮城内で敵と戦った時、逃げようとすれば十分に逃げられるのに、日本軍の抜刀突撃にあつて、一たまりもなく気が挫けて了つたのか、城門際に折り重なつてひしめいてゐたので、敵が多すぎて斬るのに骨が折れたと、或る兵隊は語つてゐた。(p.25)

 面白い事は、兵種、戦闘の難易、地形其の他によつて、刀の損傷に共通点のある事で、例へば文字通りに血戦した部隊の刀を手にして見ると、判で押したやうに同じ傷み場所は、柄糸の磨り切れてゐる事、鍔元がぐらつき目釘が折れてゐる事、刀身の先の方が多くは左に曲がつてゐる事、同じ刀身の先の方に刃こぼれのある事の四つの点であり…(p.36)


 自分は、日本刀の鑑識者ではなく、さうした知識には浅い者である。元来、古武道の内にくるめて、武用的方面から日本刀を見て来たのであるが、弾雨下の一線に従軍して、さうした所でなくては見られない血と泥≠フ破損刀を手がけ、二十数回の斬撃を目のあたりに見て、戦場で使ふ日本刀は、かうしたものでなくてはならぬといふ、本当の業物の姿をとらへて来たのである。(p.37)


 斯様な事を述べると、一見斯道の異端者とも見えるだらうが、実際にあたつて見て、元来から物打に二分からの刃ギレのあつた刀で、敵十五六人も斬つて何ともならず、却つて他の部分に刃こぼれの出来てゐたものも見、切先が蛇の口(口を閉ぢたる)のやうな刀で七名から斬つたのも、他に疵はついても、その部分は何ともなつてゐなかつた。

 概して日本刀は強靭なものである。ただ、研ぎべりのした、刀身のへなへなと薄い刀、焼け身、中心を焼つぎにしたもの、洋鉄を延して焼きを入れただけの昭和刀、手に合はぬ直刀等は、避けねばならぬ。
 刀身の選定については、ただ名のある人といふよりも、刀の売買に関係のない、軍人などの鑑定家とか、実戦に経験のある人に見てもらふのが第一である。(p.40)


 今、全国に残つてゐる昔鍛の日本刀はどの位あるか。推定四百万振といふのである。
 …

 右の内の約六七割までは、新刀新々刀とはるる刀であつて、大阪夏冬の陣前後から以降の作刀である。徳川時代から、明治大正にかけては、大量の日本刀を戦陣に於て試みるやうな機会はなかつた。

 日清日露の両役にしても、今次の事変に比較して見ると、物の数でもなく、彼の天草の乱、戊辰戦争、西南の役にしてからが、量的にはさう大したものでは無かつた。
 …

 今次の事変では、…一面恐ろしい器械化戦が行はるると共に、他面一騎打の原始戦が盛んに行はれ、戦風は一部元亀天正に逆戻りしたかのやうなところさへある。その上、未曾有の廣い戦線で混戦的に戦ひつつあるのと、昭和九年来日本刀そのままでの使用が、事実上復活となり、戦線では軍の中堅をなす下士官全部が兵種を問はず佩用する事となつた等から、爾来日本刀が実戦に於いて有史以来の使用量を見せるに至つたのである。(p.41-42)


 八木工兵中尉(此の人は静岡県相良町の名望家で、徐州戦当時筆者は共にその北部戦線に居た。)最近中支奥地からのお便りの中に、


……あつけない程脆く首が落ちた。昔からぬれ手拭いをはたく様な音がすると云はれてゐるが、まさにその通りでハツフツといつたとたんに四尺もすつ飛んで一声もない。(中略)この一戦で非常に大なる信念を得た。自分の刀で敵を斬り、その刀に信頼を持つた時から、武術が生きてくる。つまり刀も武術の内だ。云云。

 中尉の佩刀は、大阪石堂康廣の若銘安廣で、二尺三寸余、自分には見覚えのある刀である。(p.57-58)


 或る暑い日であつた。開封城内の修理班へ時目といふ変つた姓の少尉が自身刀を持つて修理にやつて来た。…無銘古刀の武家伝来らしいよい刀を持つてゐた。それで南京攻略の軍中三十七人を斬り、徐州戦で十人、都合四十七人を手にかけ、縛り首は一つも斬らなかつたといふ。


 …

 刀を見ると、血糊で白くなつてゐる。性質のよい古刀で骨ごと斬ると、必ず刃まくれの出来るのは一つの定則であるが、中央から上、物打下にそれも型の如くに出来て居り、刃こぼれも三ヵ所、刀全体がジツトリしてゐた。(p.77)


…陣中では、修理に出てくる刀の十振が十振いづれにも目釘の故障がある。それを一本一本竹を割つて削つてゐたのでは、徒に時間がかかつて急場の間に合わない。竹箸だと一寸削つて切つただけで用に立つ。しかも、何処の竹だか非常に堅くて、なかなか折れさうにもない。これは天が与へてくれたものと、自分はいまでもさう信じてゐる程である。

 …

 それから、最初自分の見込みでは、軍刀の故障は、刀身が六分外装が四分といふ考へで行つたところが、全くの反対であつて、殊に柄の故障の多かつたのは屡々発表したところであるが、それが為め早くも材料がなくなつてしまつた。(p.126-127)


 さすがに第一線の戦闘部隊だ。一寸見ただけで其の損傷状態がまるでちがつてゐる。試みに手にした一刀、何げなしに抜いて見ると、刀身は鍔元から血糊でそれが稍褐色がかり錆のやうになつてゐる。プンと臭い。目釘が折れるか飛ぶかしたと見え、生木の小枝を打ち込んである。指先でつまんで抜くと。そこから黒褐色の悪臭をもつ汁がポタリと一滴落ちた。血の腐つたやつだ。戦ひの最中に、血が刀身をつたはつて、(金+祖)のすき間から柄の中に入り、それが間隙にたまつて腐つたのだ。柄木を抜いて見ると、その汁がダラダラと落ちる。

 …
 これは今度の事変ばかりでなく、日清日露から西南役維新戦争に溯つて見て、実際乱戦中に敵とわたり会つて血戦した事実は、小説や講談にあるやうにザラにあつたものでは無いらしい。殊に今度の事変などでは、いざ接戦となると敵は逃げ足となり、一人斬つて二人目に及ばんとする時は、早二間も三間も離れて居るといふやうな場合が多く、実際十人も二十人も斬つたといふやうな話は、例へば敵を城壁域内際とか袋路地のやうな所に追ひつめ、ひしめき合ひわめき合ふ処を片つ端から滅多斬りにした時などの事で、さうした将兵の血刀を手にし、状況を聞いて見るに、四五人斬つたかと思ふ頃、多くの場合血がぬるぬると柄に伝はつて来る。斯様な時に、昔の柄巻の有難さが本当にわかるもので、殊に小倉木綿をそのままたたんで巻いたのなどは、手がすべらなくてよい。(p.153-154)


成瀬関次 『戦ふ日本刀』 実業之日本社 昭和15年
(洞『南京大虐殺――「まぼろし」化工作批判』にも一部引用あり)


成瀬氏が指摘しているとおり、日中戦争では将校はもちろん下士官までが日本刀を戦地に持参した。彼らが、持参した日本刀の切れ味を試してみたくなったであろうことは想像に難くない。そしてそれを試すための最も容易な手段は、抵抗することのできない捕虜や住民を使った据え物斬りだった。これほど大量の日本刀が人間相手に実際に使われ、膨大な量の生き血を吸ったのは、有史以来このときだけなのである。
(2000.07.02)

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/nihontou.htm


日本刀VSピストル真剣勝負(笑)

ゴールデンウィーク最終日、普段は見ない『トリビアの泉』をボーっと見ていたら、「テレビ史上最も危険な実験 日本刀VSピストル真剣勝負の衝撃映像!!」というのをやっていた。日本刀とピストル、どっちが強いか実験して確かめる、というのである。

その方法は、日本刀をほぼ垂直(やや刃面が上向き)に固定しておき、その刀身の中央部に向かって銃器射撃装置で水平に固定したピストルから弾を発射する、というシンプルなもの。射撃距離は5メートル。

実験に用いた日本刀は、特別なものではない平均的な日本刀、ということで、市販価格90万円程度を目安に現代の刀工(小田九山さん)に作製してもらった新作刀。ピストルはかつての米軍制式拳銃であり、強力な大口径拳銃の代表とも言えるコルト1911ガバメントモデル(45口径)である。

結果は……日本刀の完勝だった。超高速カメラを用いた撮影により、日本刀の刃に命中したピストルの弾が真っ二つに切断され、泣き別れになっていくさまが克明に映し出されたのである。日本刀には刃こぼれ一つなく、弾が当たった部分に指先大の鉛がこびりついた痕跡が残っただけだった。この結果に納得できないアメリカの銃砲店主(実験に用いたピストルの提供者)からの要請で実験は数回繰り返されたが、結果は同じだったという。

これだけなら「日本刀は凄い!」で終わってしまうところだが、この実験には番組作成者がまったく意識していなかった重大な意味がある。言うまでもなく、百人斬り事件との関係である。

百人斬り殺人競争を虚報と決め付け、それを突破口として南京大虐殺を否定しようとする勢力は、執拗に日本刀の脆弱さを主張してきた。日本刀の威力などというのは伝説に過ぎず、とても百人もの人間を斬ることなどできない貧弱な代物であり、だから百人斬りなどありえない、というのである。偽ユダヤ人イザヤ・ベンダサンこと山本七平など、自分の戦場体験からの結論だとして、一本の刀で斬れるのはせいぜい三人、と断言していた。

時速900キロで鉛の弾を撃ち込まれる衝撃に耐え、その弾を両断して傷つきもしない日本刀が、わずか三人の人間を斬っただけでダメになるものだろうか。要するに山本七平は、戦争体験者は黙して語らず、戦場体験のない世代には確かめようもないのをいいことに、大嘘を吐いたのだ。

フジテレビ(あのフジサンケイグループの)が全国に放映してくれたこの実験は、日本刀の性能に関する否定派の嘘を文字通り一刀両断にしてしまった。

まさに快挙である。
(2004.05.09)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/trivia.htm

▲△▽▼


朝鮮人認定された本多勝一


【南京大虐殺を捏造した】本多勝一は在日です【在日確定】日本の国難は全部朝日新聞のデマから
2014年09月22日

【新春特別対談】渡部昇一氏に聞く[桜H26-1-2] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=axqdVqS1SLw

ゲスト:渡部昇一(上智大学名誉教授)
聞き手:水島総(日本文化チャンネル桜代表)


「私の友達が調べたんですが、本多勝一は在日です」

渡部:朝日新聞は文化大革命を人類の壮大な実験なんて評していました。
人殺しが実験なら苦労しません。

不思議なことに朝日新聞が反省している様子がないんです。
僕はね朝日新聞の中に反日勢力が入っているんじゃないかと思います。

日本を苦しめた国難みたいに、従軍慰安婦問題と南京大虐殺があった。
両方ともいんちきなことは日本人は良く知ってるんですよ。しかし世界中では
南京大虐殺があったと思ってるし、従軍慰安婦も日本人がやっていると思っている。
  
しかし、発火点は全部朝日新聞なんですよ。南京虐殺のことを盛り上げた、
爆発させた本多勝一は、私の友人の調査によれば、在日です。

それがうまく当時の「自分の先祖が中国である」ということを言ってる
朝日新聞の広岡知男社長がやらせたという感じです。
  
そして従軍慰安婦問題も朝日新聞の記者が韓国人と結婚して、
その女性のお母さんが反日家で、その反日家が言っていることを持っていって
デスクがよく調べもせずに記事にした。

だから、日本の国難ということは、全部朝日新聞のデマから出てるんですよ。
しかもデマの発祥地は反省しない。
http://hosyusokuhou.jp/archives/40319566.html


【拡散】南京大虐殺を捏造した朝日新聞の本多勝一は【 在日 】確定!!! 2014.09.21


「俺は知っている。やつは在日だ。」
で、なんの証拠も提示しないというw
渡部もこのサイトも訴えられればいいよ。
Posted by 名無し at 2014年09月22日 10:05


○○は在日詐欺もう飽きた
つか、明確なソース無しかよ
Posted by 名無し at 2014年09月22日 11:31


権威のある人の意見を鵜呑みにして、無条件で信じてしまういい例だと思います。

教授も「友人が調べたら在日らしい〜」と言ってる時点で、ソースが不確かな情報でしかないと言い様がありません。

別に自分は本多勝一を擁護するつもりは一切なく、単に間違っているのではないかと思うのでから書かさせてもらいます。

本多勝一は日本人です。
ソースは小学生の頃、本多勝一と同級生だった自分の父親。

自分の父親は昭和6年生まれで、信州伊那谷のとある町の出身。

本多勝一が子供の頃に在日だからいじめられていたという事実は一切無いそうです。
いじめられていた理由は、妹が障害者であったため、それが原因でいじめられていた事はあったそうです。

戦前の生まれで、排他的な地域の出身である事を考えると、在日である可能性は極めて低いです。

ちなみに親父の実家周辺がどれくらい排他的な所かと言うと、自分が25年ほど前レーサーレプリカのバイクで皮つなぎを着てツーリングがてら親父の実家に立ち寄った事があったんですが、それを見た近所の人が「○○の家にチンピラが来た!」と、その後に噂になったと、祖母から文句を言われました。
Posted by 在日じゃない at 2014年09月22日 08:06


父親が本多勝一の同級生で、彼を日本人だと書いた者です。

自分の父親が本多勝一と同級生であったと言うソースは父親の証言だけでなく、以前に父親が出席した同級会から帰ってきた折、

「おまえ本多勝一って知ってるか?」

と聞いてきたので、自分が知ってるという旨の発言をした所、おもむろに同級会で貰ってきたお土産の中から「六十歳の記念に登った山山 本多勝一著 悠々社」の本を取り出し、

「こいつ同級生で、同級会でみんなにこの本を配ったんだよ」

と見せてくれました。

その本には、直筆サインと本多勝一の落款が・・・って落款押してあるって・・・。

これこそ父親と本多勝一が同級生だった事を思わせる一品だと思います。

今も自分の手元にあるので直筆サインと落款に興味がある方がいたら写真に撮ってどこかにうpしてもいいかなw
Posted by 在日じゃない at 2014年09月22日 20:10
http://www.news-us.jp/article/405772710.html


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土井たか子元衆議院議員に対する在日認定


訴訟の原因となったのは、元産経新聞編集部長の花岡信昭が論壇誌 WiLL 2006年5月号に寄稿した「拉致実行犯辛光洙釈放を嘆願した“社民党名誉党首”」と題する記事である。

記事の中で花岡は

「土井たか子は朝鮮半島出身で本名は『李高順』である」

と土井に対する在日認定を行った上で、

「そのことが土井の拉致事件を見る目を曇らせたのか、すべて知った上で政治的演技をしていたのか」

と論じ、祖国・北朝鮮の利益を図るために日本の利益を蔑ろにしたのだと土井を婉曲的に糾弾した。

戸籍謄本および改製原戸籍謄本の記載によると土井は日本人夫婦の次女として兵庫県神戸市に生まれており、花岡による在日認定は事実に反していた。

また花岡は土井に対する取材等の裏付けを全く行わず、インターネット上で流布されていた情報のみに基づいて在日認定を行っていた。

これに対して土井は記事によって名誉感情や信用を含む人格的権利を侵害されたとして、2007年4月18日、WiLL を出版するワック・マガジンズと同社代表取締役(当時)の花田紀凱、記事を執筆した花岡の三者を相手取り、1000万円の損害賠償と謝罪広告の掲載を求める民事訴訟を起こした。

神戸地裁尼崎支部は 2008年11月13日、記事はあたかも土井が朝鮮人であるがゆえに日本以外の本国の利益を優先して、日本国民の安全などの利益を蔑ろにするという日本の政治家としてあるまじき行為をしていたかのような印象を与えるものであり、土井の社会的評価を低下させたとして名誉権の侵害を、

また虚偽の在日認定について以下のように述べて名誉感情および人格的利益の侵害をそれぞれ認め、被告らに対して200万円の賠償を命じた。

謝罪広告については記事の影響力の小ささを理由に退けた。


被告らは判決を不服として大阪高裁に控訴したが棄却され、さらに最高裁に上告したものの、2009年9月29日に上告を退ける決定が下された。

これにより神戸地裁の判決が確定した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E8%AA%8D%E5%AE%9A


2007/06/03 筑紫哲也(朴三寿)というデマ
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-76.html


2chで以下のような真偽の定かでないマルチコピペを見たことある人は多いと思う。


池田大作(→父:ソンジャンチョク、帰化人) (在日への選挙権推進、韓国での反日活動の実績)

土井たか子(→李高順(帰化前の本名)北朝鮮に親族多数

五島昌子(土井の秘書)本名、渡辺昌子は通名、つまり、在日朝鮮人(元社青同活動家の話より)

辻元清美(帰化人、赤軍派)

筑紫哲也(→朴 三寿:元朝日記者、共産キャスター)

本多勝一(→崔 泰英:「南京大虐殺」虚報の中共工作員記者)

佐高信 (→韓 吉竜:極左評論家)

福島瑞穂(→趙 春花、帰化前の本名:中核派)

永六輔(帰化人。反日活動、言動多し)


例えばこの中の

■土井たか子=李高順 説は?

月刊WiLL2006年5月号で元産経新聞記者・花岡信昭が、土井たか子=李高順という2chで流されたデマを事実のように書き、土井は花岡の記事を「事実無根の捏造 (ねつぞう)記事で、土井氏に対する取材に基づかない一方的な推測で作成したもので,名誉を毀損された」として、2007年4月18日、全国紙への謝罪広告の掲載と損害金1万円を求める訴えを神戸地裁に起こしている。


つーことでこの件はデマ確定 調査終了


■次に、筑紫哲也=朴三寿 説は?

【筑紫】 朴 三 寿 【哲也】(魚拓)より以下、抜粋する。
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/mass/1127868368/


28 :文責・名無しさん:2005/11/15(火) 22:46:50 ID:d3V7cvUI
朴三寿ってのはオレが数年前にメガBBSに書いたネタだった思う。
確か「有名人の本名を晒そう」みたいなタイトルのスレだった。
他にも本多勝一や佐高信なんかの韓国名もでっちあげてやったんだ。
まさかこんなところでお目にかかるとはなw


30 :28:2005/11/16(水) 22:54:24 ID:rInX2H7E
http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=perform&vi=1027871248

元ネタはこのスレの124だ。
よく見たら数年前じゃなく去年だったが


(※ちなみに、これがリンク先)


筑紫哲也=朴三寿という在日認定を2004/06/04以前にしているブログが一切無いことから、これが元ネタとみてまず間違いない。

↓以下は同スレより筑紫哲也が在日ではないことを補足する書き込みを抜粋する。


54 :文責・名無しさん:2006/03/18(土) 11:45:56 ID:hUhDYHbR
代々、九州の医者の家系で滝廉太郎の親戚とか言うけど
実は筑紫の故郷には筑紫という姓の人間がいない
つまり架空の日本名をこしらえたってことさ


58 :文責・名無しさん:2006/03/21(火) 23:37:20 ID:iPNZ4lbX
>>54
筑紫姓はいるよ。

筑紫氏
筑紫君、筑紫国造、筑紫連、筑紫史、藤原秀郷流武藤氏族、
清和源氏、桓武平氏等。


62 :文責・名無しさん:2006/03/22(水) 12:58:26 ID:s1CTwA8y
>筑紫の大伯父は滝廉太郎だから

ソース出せや


64 :文責・名無しさん:2006/03/22(水) 20:08:57 ID:VPz1iqiD
>>62
国際メンデルスゾーン基金の公式サイトより
http://www.mendelssohn-kikin.jp/frmset_taki.htm

>嘱望を受けながら留学した瀧廉太郎は、留学中に病(結核)におかされ、
>翌1992年に青雲の志空しく帰国した。 帰国後は、故郷の竹田市で療養後
>100年前の1903年に23歳10ケ月で没している。療養した家は、「瀧廉太郎
>記念館」として公開されている。同記念館は、瀧廉太郎の姉の孫にあたる、
>筑紫哲也が名誉館長である。


89 :文責・名無しさん:2006/04/16(日) 21:33:55 ID:jxI3E12R
滝廉太郎の妹トミは筑紫の祖母って書いてるぞ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%BB%89%E5%A4%AA%E9%83%8E

何か見た目や思想だけで言ってるだけだろ。


115 :文責・名無しさん:2006/05/19(金) 23:45:22 ID:GxkkCoNF
>>113
筑紫哲也は瀧廉太郎の姉の孫で、その縁で 「瀧廉太郎記念館」の名誉館長だ。
下記のページに電話番号が載っているから、嘘だと思うなら聞いてみなよ。
http://machi.goo.ne.jp/snd/spotID_%20TO44000491/leisure/details.asp


122 :文責・名無しさん:2006/05/21(日) 08:20:56 ID:Ubf6/77H

メンデルスゾーン基金のサイト情報が一番確かだな。
当人も日本名を名乗っているし、万が一彼が朝鮮人の妾の子だったとしても、
日本人であることにかわりはない。
そもそも朝鮮人の血などそれほど「濃い」ものではないだろ?
名前からして基本は中国式だし、それが日本式の筑紫哲也に変わっただけだ。(笑

俺自身は、筑紫の政治観は幼稚だと思っているがね。


156 :文責・名無しさん:2006/07/08(土) 12:15:25 ID:Sbii/mJV
先祖は大分県・日田藩。漢学者の広瀬淡窓が開いた咸宜園で学んだと聞いた。広瀬の子孫が今のテレ朝会長、大分県知事の兄弟。


95 :文責・名無しさん:2006/09/11(月) 15:42:20 ID:kSuz5YS6
大分県日田市に筑紫姓があるのかどうかだが、
>>58のソースは「日本の苗字7000傑」というHPから。
その中の"筑紫国造"の中に"筑紫国造磐井"という人物がいる。
この人物は(大分県がある)九州北部の有力者と「Wikipedia - 磐井の乱」に書いてある。
だから、筑紫哲也の祖先はこれと思われる。
ちなみに、「岩戸山古墳−筑紫国造磐井の墓−」というHPには、
"筑紫国造磐井"を含む「筑紫の君」一族は渡来人の末裔ではないか
と書いてある。


96 :文責・名無しさん:2006/09/11(月) 17:26:05 ID:kSuz5YS6
つまり、筑紫哲也のルーツとは、

筑紫国の「筑紫の君」一族の末裔で、
筑紫国は、後に筑前国・筑後国に分割された。
このことは「Wikkpedia - 筑紫国」に書いてある。

そして筑紫哲也の出身地である日田市は、
筑後川水系にあるため、筑前・筑後と歴史的につながりが強い。
このことも「Wikipedia - 日田市」に書いてある。

結論 「筑紫哲也は帰化人ではない。しかし、祖先は渡来人の末裔である。」

これで解決したな。

(以上)


つーことでデマ確定 調査終了 


このように少しググっただけで、土井たか子と筑紫哲也は確実に在日ではなく、本多勝一、福島瑞穂、佐高信もおそらく違うだろうな、ということがわかる。

にもかかわらず、情報元を確認することすらしないリテラシーの低い、嫌韓・ネトウヨ厨は、今だに訂正すらせずにブログ上で事実として取り上げている。

例えば「筑紫哲也 朴三寿」で検索すると約9,350件ヒット、「朴三寿」では約11,100件もヒットする。

デマだとわかっても訂正すらしない確信犯的なデマブログの1つに、ランキング偽装疑惑のある「博士の独り言」がある。


2006/12/01(金)「博士の独り言」より以下一部抜粋する。
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-asyuracom-221.html

この集会で挨拶した本多勝一(本名・崔 泰英)、司会を演じた佐高信(韓吉竜)の2名はいずれも在日朝鮮人。永六輔は半島からの帰化人。関与した矢崎泰久、中山千夏は、昭和52年に、ばばこういちを中心に結成した「革新自由連合」の仲間であり、新左翼系の自称・文化人である。

良識以前に、最低限度の人倫すら問われるこの「芝居」は、これらの人物の「日本に対する怨念」が凝縮されている。それほど日本が恨ましいのであれば、日本にいていただいても百害千害万害を垂れ流すだけである。日本から出て行け!
---------- ---------- ----------
【筆者記】
なりすましのメディア人、文化人、政治家の言動にはおぞましいものがある。上記の他に、朴三寿(筑紫哲也)、社民党の李高順(土井たかこ)、趙春花(福島瑞穂)等々。実に紛らわしい。反日活動においては、通名ではなく、本名を名乗るべきである。

(ここまで)


いい歳こいたおっさんが、左翼=在日=朝鮮人で思考停止か


ダッセーなぁ。。。恥辱まみれなデマ博士


あんた、マジかっこわりぃYO!

土井さんが党首の時に社民党に質問したんですよね。
そしたら丁重な回答が寄せられました。

曰く事実無根なんだそうです。

とにかく、気に入らないのはみんな朝鮮人にするんだから困ったもんですよね。
ただ、朝鮮人といわれて名誉毀損てのはどうなんでしょうね。

朝鮮人が悪い連中だと土井さんが認めた事になるんじゃないでしょうかね。
朝鮮人が何故怒らないのかが判らないですね。

土井たか子の家系についてはすでに共同通信の田中章記者が取材ずみ。

それによると、祖父は広島県の土井好太郎、父はその次男で仁良市、現京都府立医大卒、母は京都の職業軍人の長女で貴代、姉は和賀子、妹が睦子で武蔵野音大、弟が良博、顕とのこと。

父は内科小児科を神戸市長田区野田で開業していた開業医であった。


ハッキリと否定しないの筑紫氏だけでなく上記に名前のあがっているサヨク全般に言えるでしょうね。まぁ、くだらな過ぎて相手にしてないんだと思います。

それと、そんなに疑う理由がよくわかりませんが、このエントリーを書いたとき週刊金曜日の方に連絡したんですが、石坂啓、落合恵子、佐高信、椎名誠、筑紫哲也、本多勝一は在日ではないとハッキリ言われました。


本多勝一さんは日本人
本多さんの友人と親しいし、会ったこともある。

長野県飯田市に行って調べれば直ぐに分かるよ。旧制飯田中学-->飯田高校。

悪魔の証明

言い出しっぺの在日朝鮮人で"ある"と言っている側には信用できる証拠を全く求めずにコピペを垂れ流し、在日朝鮮人で"ない"と言っている側にだけ「もっと信用できる証拠」を出せと言い続けるネトウヨの論理性には苦笑してしまう。
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-76.html 



▲△▽▼

保守論壇の重鎮・渡部昇一の「昭和史」のデタラメを読み解く。

渡部昇一は、現在、保守論壇の重鎮という位置に祭り上げられているらしく、本人も満更でもないらしく、すっかりその気になって、いかにも「保守論壇の重鎮」風の言動を繰り返しているらしい。

僕に言わせれば、まさにそこに、つまり渡部昇一ごときが、「保守論壇の重鎮」であるかの如く振舞えるところに、昨今の保守論壇や保守ジャーナリズムの劣化と知的退廃の病根があるのだが、誰もそれには気付いていないらしい。渡部昇一が、「沖縄集団自決裁判」に関連して、「騒げば金が手に入ることがわかったから騒いでいる」というような、読むのもはばかれるようなデタラメ発言を繰り返してきたことは、すでに何回か検証したから、繰り返さないが、渡部昇一の中心的な仕事と言えば、おそらく「英語学」とか「英語学史」というようなものではなく、やはり「昭和史」なのではないかと思う。

渡部昇一が、どれだけ「昭和史」なるものを深く広く探求、解明しているかは知らないが、渡部昇一の「昭和史」は、一種の政治漫談としては面白いが、とても思想史や政治学、歴史学、あるいは国際政治学の問題として扱うにははばかれるようなシロモノである。

僕は、今、手元に『東条英機 歴史の証言』(詳伝社、平成18年)と『昭和史 松本清張と私』(ビジネス社、2005年)の二冊を置いているが、渡部昇一の「昭和史」は、簡単にまとめるならば、「受動史観」だと言っていいと思う。

「受動史観」とは、悪いことは、全部、他人の責任に転嫁し、「自分は悪くない」「日本は悪くない」と言いつつ、「中国が悪い」「ロシアが悪い」「アメリカが悪い」…そして「日本は仕方なく戦争に巻き込まれただけだ」と言うような「子の論理」、あるいは「被害者の論理」、つまり「負け犬の遠吠え」的史観である。

僕は、そこのところに渡部昇一的「昭和史」の思想的弱点、あるいは昨今の保守論壇や保守ジャーナリズムに蔓延している思想的弱点があると思う。

渡部昇一の「昭和史」やマンガ右翼・小林よしのりの『戦争論』を適当に「いいとこ取り」して、それをアレンジしたのが、田母神俊雄の『日本は侵略国家か』というエッセイらしいが、それも、渡部昇一同様の、同じような思想的弱点を内包していることは言うまでもないし、また一時的とは言え、「田母神俊雄ブーム」なるものを巻き起こした保守論壇や保守ジャーナリズムの思想的限界も、そして今や解党的危機に追い込まれ、断末魔の迷走を続ける自民党の、安倍晋三や中川昭一等を筆頭とする「真正保守派」(笑)の政治家たちの思想的限界も、明らかである。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20090718/1247895431


渡部昇一・竹中平蔵対談「霞ヶ関『ナチス』化への暴走」(『ボイス』2008/8)を読む。


渡部昇一氏が、『ボイス』(2008/8)で、トンデモ経済学者として世間の指弾を浴びている竹中平蔵氏と対談しているが、予想通り、二人は意気投合しており、二人が普段から何を考えているかがよく分かるという意味で、なかなかいいコンビの対談であると思う。渡部昇一氏は、冒頭で、こう言っている。

いま世間では

「最近、ここまで不景気やリストラが吹きあれているのは、みんな小泉・竹中改革が悪かったからだ」などとささやかれています。

しかし、世界中が不況という状況を見ていると、何でもかんでも小泉・竹中改革のせいにするのは、いくらなんでも無理がありますね。(笑)(中略)

日本の゛すからね。景気だけが悪くなったのならば、日本の政策が悪かったといえるかもしれませんが、世界中で同時に景気が悪くなったのですからね。


渡部昇一氏の分析は、なかなか分かりやすい論理だが、ここには根本的な論点のすり替えがある。

「小泉・竹中構造改革」が原因の「不景気やリストラ」は、昨年のアメリカの金融危機に始まる世界不況とは、そもそも関係ない。。

むろん、「小泉・竹中構造改革」が、昨年のアメリカの金融危機をもたらしたわけでもない。

昨年のアメリカの金融危機が、「小泉・竹中構造改革」に酔っていた大衆までが分かるように、それ以前から始まっていた「小泉・竹中構造改革」がもたらした悲惨な実態を赤裸々に暴き出したというだけのことである。

竹中平蔵氏等が推奨し、小泉純一郎元総理らが、追従したアメリカ発の新自由主義経済学の実態が、アメリカの金融危機と、それに続く世界不況で明らかになったということに過ぎない。

渡部昇一氏は、例によって誰にも見破られるような幼稚な詭弁を弄しているにすぎないい。それに対して竹中平蔵は、こう言っている。


いまの経済状況の分析について、皆ムードだけで議論しているように思います。(中略)

では、いったい何が起こってたのか。

たしかにアメリカでは不動産バブルが起きていました。そして同様にヨーロッパもユーロ高で不動産バブルになっており、・・・・(中略)

そして日本でも、考えてみたらバブル状態でした。

円安バブルです。輸出産業は円が安すぎたことによって利益が水ぶくれして、水ぶくれした利益によって日本が支えられていた。

いうなえば、いま起こっていることは、世界的規模におけるバブル同時崩壊なのです。そういう事実認識に基づいていいえば、小泉改革によって日本が悪くなったというのはありえないんです(笑)。


竹中平蔵氏が渡部昇一氏以上に「詭弁の達人」であることは承知しているが、竹中氏がここまで、露骨に、ミエミエの「詭弁を弄する」のを見ていると、さすがに、「お前は、何処まで、詐欺師なのだ?」とでも言いたくなるわけだが、

ちょっとここで解説すると、竹中氏が言っていることは、アメリカのサブプライムローン破綻に始まる「世界同時不況」の話であって、いわゆる竹中平蔵氏等が先導してきた「小泉改革」なるものとその悲惨な結末とは、直接には何の関係もない話だということである。

このことを理解できない日本人が何人いると、竹中氏は思っているのだろうか。

おそらく、アメリカのサブプライムローン破綻に始まる「世界同時不況」の話と、竹中平蔵氏等が先導してきた「小泉改革」なるものとその悲惨な結末の話とを混同する日本人は、渡部昇一氏と竹中平蔵氏の二人ぐらいだろうと思う。

要するに、今、「小泉・竹中構造改革」の政治責任が厳しく問われているのは、「郵政民営化」や「道路公団改革」、そして「緊縮財政」「小さな政府」…というような竹中平蔵氏等が主導してきた「構造改革」の成否なのである。

アメリカのサブプライムローン破綻に始まる「世界同時不況」の原因などを問うているわけではない。繰り返すが、「世界同時不況」の原因が「小泉・竹中構造改革」にあるなどと、言っている訳ではない。ところで、渡部昇一氏は、ここでも「昭和史」の話を持ち出しているので、見てみよう。


歴史を見てみると、不況になった際に、その原因を捉えそこなうと、大変なことになってしまうんですね。

大恐慌の後も、「あれはホーリー・ストーム法のような保護主義が悪い」と原因を喝破できればよかったのですが、そうではなくて「金持ちがけしからん」「マルクスのいったとは本当だ」という意見が勝って、社会主義的な勢いが強くなり、世界中が国家統制への動きが加速していきました。当時、ソ連は共産主義で大粛清の真っ最中むでしたし、ドイツで台頭したナチスもまさに「国家社会主義労働者党」だった。

日本でも、5・15事件にせよ2・26事件にせよ、それを起こした連中の考え方は「社会主義」でした。

彼らの考え方は、「天皇陛下は自分たちが担いで、上流階級をやっつけろ。資本主義も何も要らない」というものでした。

これが、結局日本を戦争に引き込みました。

当時の経済学者が「悪いのは保護主義だ」という世論をつくっていれば、要人を暗殺するような事件は起こらなかったと思うのです。


渡部昇一氏が、いつも何を考えているかは、この会話から、一目瞭然だが、それは「国家統制=悪」「自由放任=善」という単純な二元論である。

それが、渡部昇一氏の「共産主義」や「社会主義」への恐怖に満ちた嫌悪へとつながっている。

したがって、たとえば「国家」が経済に口出しをし、管理や規制、保護を強めることを、「悪」として退け、ひたすら「自由」であることが、素朴に肯定されていることが分かる。しかし、「自由」を維持し守るためにも「国家」の管理や規制や保護は必要なのだが、

そうした「自由主義」を守るための「国家統制」には関心はないらしいのが、不思議なところである。

「小泉・竹中構造改革」は、市場原理主義という自由主義を実現するために、国家権力という様々な暴力装置を発動して、強引に日本の社会構造を解体し、崩壊させていったわけだが、その場合の「国家暴力」は、放置していいものらしい。

ところで、渡部昇一氏が信奉するハイエク教授は、共産主義や社会主義と同様に、自由を抑圧する経済学として「ケインズ経済学」を厳しく批判し続けた人だが、渡部昇一氏もまた、「ケインズ経済学」の批判者なのだろうか。それならば、「共産主義」や「社会主義」「ナチス」「5・15事件や2・26事件の首謀者」と並べて、「ケインズ経済学」も、一緒に批判してもらいたい。そうすれば、渡部昇一氏の思考が、さらに明確になるはずである。

つまり渡部昇一氏の思考は、単なる素朴な自由主義、自由貿易主義、市場原理主義、言い換えれば、素朴な古典派経済学の焼き直し、あるいは大正教養主義の劣化コピー…に過ぎないということが、誰の目にも明らかになるはずである。

渡部昇一氏が、今になって、竹中平蔵氏と意気投合した上で、「小泉・竹中構造改革」なるものを必死で擁護しなければならない理由が分かろうというものだ。渡部昇一氏も、これ以上、耄碌したトンチンカン発言を繰り返す前に、竹中平蔵氏や小泉純一郎氏にならって、そろそろ退場なさった方がいいのではないのか。

しかし、それにしても、こんな渡部昇一氏が、昨今は、「保守論壇の重鎮」だというのだから…。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20090724/1248419355

保守論壇の御用文化人どもが自民党を崩壊させた


自民党を現在の崩壊的危機に導いたのは、自民党を甘やかし、それと同時に自民党の政治家たちに迎合し、ひたすらゴマスリを続けてきた保守論壇の御用文化人たちだが、ささしずめ渡部昇一はその筆頭だが、東條英機について、こう書いている。


東條さんが陸軍次官になったのは昭和十三年(1983年)ですから、支那事変勃発の翌年です。

ですからここで注目しておきたいのは、東條さんは、支那事変が起こったことには何の責任もないということです。

支那事変はアメリカとの戦争につながる一番の大きな要因ですが、それには東條さんは何の関係もなかったということは指摘しておくべきでしょう。

それから昭和十一年(1936年)の日独防共協定にも、昭和十二年(1937年)の日独伊三国防共協定にも関係しません。全く関係がなかったということを強調しておかねばなりません。(『東條英機 歴史の証言』)


渡辺昇一の『東條英機 歴史の証言』は、こういう言葉に溢れているが、こういう言葉が、何を意味しているかは、渡部昇一には分かっていないようだが、明らかである。

昭和十五年の陸軍大臣就任から昭和十九年総理大臣辞任までの四年間、東條英機は、政権の中枢にいたわけだが、肝心の戦争責任、ないしは政治的責任は東條英機にはないと、渡部昇一はいっているわけだが、それなら、渡部昇一は、何故、戦争責任も政治責任のない東條英機をわざわざ取り上げるのか。東條英機は無罪だと言いたいのか。

そしてついでに、渡部昇一は、日本も無罪だと言いたいのか。東條英機は、東京裁判法廷で、今次の戦争は、「自存自衛の戦争だった」と主張したらしいが、渡部昇一も、それが言いたいらしい。次のようなことも言っている。


しかし日本の場合はナチス・ドイツとは異なり、一つの党の党首が独裁的にすべてを計画し遂行したわけではない。東京裁判の範囲に入れられた最初の年である昭和三年(1928年)から、日本の内閣や方針はしばしば変更され、しかもその変更はたいてい受動的に体外的情勢に応じたものであった。


渡部昇一が何が言いたいのかは、ここでほぼ分かるが、渡部昇一は、馬鹿正直に、さらに次のように言って、念押ししている。


大陸政策はコミンテルンの暗躍に応ずるものであり、満州国誕生後は清朝の最期の皇帝であった溥儀が日本公使館にころがりこんだことから始まった。

日本の経済的苦悩はホーリー・スムート法によるアメリカの保護貿易、それに続くイギリスのブロック経済圏(アウタルキー)のためである。

 
これでは、我々の父母の世代は、大東亜戦争において、徹底して無能で無策だったと言っているようなものだが、渡部昇一は、そうは思わないらしい。さらに次のように言っている。


シナ事変は今では明らかになったようにコミンテルンの手先が始めたものである。その事変が日本陸軍の切なる願いにもかかわらず終息しなかったのは、ソ連、アメリカ、イギリスが中立国の度を越え、シナに対し、参戦同様の支援をしたからであった。


アメリカ・イギリスとの開戦は、マッカーサー証言の如くその包囲網により、日本の全産業・全陸海軍が麻痺寸前まで追い詰められたから余儀なくされたのである。すべて日本のやったことは受動的反応であった。


「コミンテルンが…」「アメリカが…」「イギリスが…」「ソ連が…」「中国が…」、次々と謀略を仕掛けてきた…、そして日本は悪くなかった…、日本は仕方なく戦争に巻き込まれただけだ…、ということだろうが、そもそも戦前の日本人は、そんなに無知・無能だったのか。

「世界革命」を目指すコミンテルンや、独立を目指す中国、そして米、英、ソが、新興の帝国主義国家・日本を、様々な謀略を駆使して追い詰めていくことは当然ではないか。それに対して、「英米中心主義を排す」と言い、「大東亜共栄圏」構想を宣言し、そして「我が帝国陸海軍は、米英を相手に戦闘状態に入れリ…」という臨時ニュースを聞き、「来るべきものが来た」と興奮し、歓呼し、必勝を誓ったのは、日本国民ではなかったのか。しかし、渡部昇一が言いたいことは、東條英機を筆頭に、戦前の日本人は、無能無策な、そして清く、正しい、美しい「弱者」だった、ということだろう。

つまり、渡部昇一が言いたい事は、僕なりに言い換えると、戦前の日本国民は馬鹿だった、だから許してください、ということだろう。

少なくとも、渡部昇一の思考法は、ニーチェが言う「力の政治学」、あるいは「力の哲学」「超人の思想」とは対極にある思考法と言うべきだろう。こういう「弱者の政治学」を恥ずかしげもなく、というより得意になって公言する人が、保守論壇や保守ジャーナリズムの「重鎮」だというのだから、保守論壇や保守ジャーナリズムが劣化・退廃し、そしてその保守論壇や保守ジャーナリズムの言説を熟読し、その影響を受け、「弱者の政治学」に落ち込んだ自民党が、自滅・自爆するのは当然だろう。

「弱者の政治学」を自ら公言するようなホンモノの軟弱な「弱者」たちは、政治権力を持つべきではないし、さっさと政治権力の中枢からは去るべきだろう。

山奥に引き込んで、静かに家庭菜園か盆栽でもやっていればいいのである。そういう「清く」「正しく」「美しい」…弱者は、政治家であってはならない。国民を泣かせるだけである。
http://www.asyura2.com/09/warb0/msg/189.html

「小泉改革」を擁護する「渡部昇一」への退場勧告
http://archives.mag2.com/0000261052/


2009年07月25日

■■■■■■■山崎行太郎■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「三田文学」に発表した「小林秀雄とベルグソン」でデビューし、
先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認められ、文壇や論壇へ進出。大
西巨人論争や、小泉・竹中改革批判、安倍批判、「青色発光ダイオ
ード」の中村教授批判を展開。最近は「沖縄集団自決裁判」問題で
曽野綾子や小林よしのり、西部邁…保守論壇の守旧派を徹底批判。
文壇・論壇に蔓延する予定調和的言説の脱構築的解体を目指すー。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

■渡部昇一・竹中平蔵対談「霞ヶ関『ナチス』化への暴走」(『ボイス』2008/8)
を読む。


渡部昇一氏が、『ボイス』(2008/8)で、トンデモ経済学者として世間の指弾を
浴びている竹中平蔵氏と対談しているが、予想通り、二人は意気投合しており
、二人が普段から何を考えているかがよく分かるという意味で、なかなかいい
コンビの対談であると思う。渡部昇一氏は、冒頭で、こう言っている。


>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
いま世間では「最近、ここまで不景気やリストラが吹きあれているのは、みん
な小泉・竹中改革が悪かったからだ」などとささやかれています。しかし、世
界中が不況という状況を見ていると、何でもかんでも小泉・竹中改革のせいに
するのは、いくらなんでも無理がありますね。(笑)(中略)日本の゛すからね
。景気だけが悪くなったのならば、日本の政策が悪かったといえるかもしれま
せんが、世界中で同時に景気が悪くなったのですからね。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>


渡部昇一氏の分析は、なかなか分かりやすい論理だが、ここには根本的な論点
のすり替えがある。「小泉・竹中構造改革」が原因の「不景気やリストラ」は
、昨年のアメリカの金融危機に始まる世界不況とは、そもそも関係ない。。む
ろん、「小泉・竹中構造改革」が、昨年のアメリカの金融危機をもたらしたわ
けでもない。昨年のアメリカの金融危機が、「小泉・竹中構造改革」に酔って
いた大衆までが分かるように、それ以前から始まっていた「小泉・竹中構造改
革」がもたらした悲惨な実態を赤裸々に暴き出したというだけのことである。
竹中平蔵氏等が推奨し、小泉純一郎元総理らが、追従したアメリカ発の新自由
主義経済学の実態が、アメリカの金融危機と、それに続く世界不況で明らかに
なったということに過ぎない。渡部昇一氏は、例によって誰にも見破られるよ
うな幼稚な詭弁を弄しているにすぎないい。それに対して竹中平蔵は、こう言
っている。


>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
いまの経済状況の分析について、皆ムードだけで議論しているように思います
。(中略)では、いったい何が起こってたのか。たしかにアメリカでは不動産バ
ブルが起きていました。そして同様にヨーロッパもユーロ高で不動産バブルに
なっており、・・・・(中略)そして日本でも、考えてみたらバブル状態でした
。円安バブ ルです。輸出産業は円が安すぎたことによって利益が水ぶくれし
て、水ぶくれした利益によって日本が支えられていた。いうなえば、いま起こ
っていることは、世界的規模におけるバブル同時崩壊なのです。そういう事実
認識に基づいていいえば、小泉改革によって日本が悪くなったというのはあり
えないんです(笑)。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>


竹中平蔵氏が渡部昇一氏以上に「詭弁の達人」であることは承知しているが、
竹中氏がここまで、露骨に、ミエミエの「詭弁を弄する」のを見ていると、さ
すがに、「お前は、何処まで、詐欺師なのだ?」とでも言いたくなるわけだが、
ちょっとここで解説すると、竹中氏が言っていることは、アメリカのサブプラ
イムローン破綻に始まる「世界同時不況」の話であって、いわゆる竹中平蔵氏
等が先導してきた「小泉改革」なるものとその悲惨な結末とは、直接には何の
関係もない話だということである。このことを理解できない日本人が何人いる
と、竹中氏は思っているのだろうか。おそらく、アメリカのサブプライムロー
ン破綻に始まる「世界同時不況」の話と、竹中平蔵氏等が先導してきた「小泉
改革」なるものとその悲惨な結末の話とを混同する日本人は、渡部昇一氏と竹
中平蔵氏の二人ぐらいだろうと思う。要するに、今、「小泉・竹中構造改革」
の政治責任が厳しく問われているのは、「郵政民営化」や「道路公団改革」、
そして「緊縮財政」「小さな政府」…というような竹中平蔵氏等が主導してき
た「構造改革」の成否なのである。アメリカのサブプライムローン破綻に始ま
る「世界同時不況」の原因などを問うているわけではない。繰り返すが、「世
界同時不況」の原因が「小泉・竹中構造改革」にあるなどと、言っている訳で
はない。ところで、渡部昇一氏は、ここでも「昭和史」の話を持ち出している
ので、見てみよう。


>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
歴史を見てみると、不況になった際に、その原因を捉えそこなうと、大変なこ
とになってしまうんですね。大恐慌の後も、「あれはホーリー・ストーム法の
ような保護主義が悪い」と原因を喝破できればよかったのですが、そうではな
くて「金持ちがけしからん」「マルクスのいったとは本当だ」という意見が勝
って、社会主義的な勢いが強くなり、世界中が国家統制への動きが加速してい
きました。当時、ソ連は共産主義で大粛清の真っ最中むでしたし、ドイツで台
頭したナチスもまさに「国家社会主義労働者党」だった。日本でも、5・15事件
にせよ2・26事件にせよ、それを起こした連中の考え方は「社会主義」でした。
彼らの考え方は、「天皇陛下は自分たちが担いで、上流階級をやっつけろ。資
本主義も何も要らない」というものでした。これが、結局日本を戦争に引き込
みました。当時の経済学者が「悪いのは保護主義だ」という世論をつくってい
れば、要人を暗殺するような事件は起こらなかったと思うのです。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>


渡部昇一氏が、いつも何を考えているかは、この会話から、一目瞭然だが、そ
れは「国家統制=悪」「自由放任=善」という単純な二元論である。それが、渡
部昇一氏の「共産主義」や「社会主義」への恐怖に満ちた嫌悪へとつながって
いる。したがって、たとえば「国家」が経済に口出しをし、管理や規制、保護
を強めることを、「悪」として退け、ひたすら「自由」であることが、素朴に
肯定されていることが分かる。しかし、「自由」を維持し守るためにも「国家
」の管理や規制や保護は必要なのだが、そうした「自由主義」を守るための「
国家統制」には関心はないらしいのが、不思議なところである。「小泉・竹中
構造改革」は、市場原理主義という自由主義を実現するために、国家権力とい
う様々な暴力装置を発動して、強引に日本の社会構造を解体し、崩壊させてい
ったわけだが、その場合の「国家暴力」は、放置していいものらしい。ところ
で、渡部昇一氏が信奉するハイエク教授は、共産主義や社会主義と同様に、自
由を抑圧する経済学として「ケインズ経済学」を厳しく批判し続けた人だが、
渡部昇一氏もまた、「ケインズ経済学」の批判者なのだろうか。それならば、
「共産主義」や「社会主義」「ナチス」「5・15事件や2・26事件の首謀者」と
並べて、「ケインズ経済学」も、一緒に批判してもらいたい。そうすれば、渡
部昇一氏の思考が、さらに明確になるはずである。つまり渡部昇一氏の思考は
、単なる素朴な自由主義、自由貿易主義、市場原理主義、言い換えれば、素朴
な古典派経済学の焼き直し、あるいは大正教養主義の劣化コピー…に過ぎない
ということが、誰の目にも明らかになるはずである。渡部昇一氏が、今になっ
て、竹中平蔵氏と意気投合した上で、「小泉・竹中構造改革」なるものを必死
で擁護しなければならない理由が分かろうというものだ。渡部昇一氏も、これ
以上、耄碌したトンチンカン発言を繰り返す前に、竹中平蔵氏や小泉純一郎氏
にならって、そろそろ退場なさった方がいいのではないのか。しかし、それに
しても、こんな渡部昇一氏が、昨今は、「保守論壇の重鎮」だというのだから
…。

2009-07-20
■自民党よ、御用文化人と手を切れ!!!


今度の衆院解散・総選挙における自民党の惨敗、そして自民党の下野、民主党
への政権交代はほぼ確定的になってきたわけだが、ここに来て、当然のここと
はいえ、自民党で内部崩壊の危機が囁かれるようになってきたが、僕は、崩壊
するものはどんどん崩壊し、分裂したいものはどんどん分裂すればいいし、新
党結成したいものはどんどん新党結成に走ればいい、と思う。自民党は、いま
こそ無駄な贅肉をそぎ落とし、身軽になり、そして最後まで自民党に残った精
鋭部隊を中核に、再出発するべきである。そうすれば、自民党の再生はそんな
に難しくないはずである。その前に必要なことは、保守論壇や保守ジャーナリ
ズムに棲息する「御用文化人」と手を切ることである。頭の悪い「御用文化人
」たちの愚にもつかない政治漫談なんぞに、付合っている暇があったら、地元
に帰り、選挙民の話でもじっくり聞いていた方がいい。一回か二回の落選にめ
げず、がんばってもらいたい、と思う。


2009-07-19
■保守論壇の御用文化人どもが自民党を崩壊させた。


自民党を現在の崩壊的危機に導いたのは、自民党を甘やかし、それと同時に自
民党の政治家たちに迎合し、ひたすらゴマスリを続けてきた保守論壇の御用文
化人たちだが、ささしずめ渡部昇一はその筆頭だが、東條英機について、こう
書いている。


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東條さんが陸軍次官になったのは昭和十三年(1983年)ですから、支那事変勃発
の翌年です。ですからここで注目しておきたいのは、東條さんは、支那事変が
起こったことには何の責任もないということです。支那事変はアメリカとの戦
争につながる一番の大きな要因ですが、それには東條さんは何の関係もなかっ
たということは指摘しておくべきでしょう。それから昭和十一年(1936年)の日
独防共協定にも、昭和十二年(1937年)の日独伊三国防共協定にも関係しません
。全く関係がなかったということを強調しておかねばなりません。(『東條英機
 歴史の証言』)
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>


渡部昇一の『東條英機 歴史の証言』は、こういう言葉に溢れているが、こう
いう言葉が、何を意味しているかは、渡部昇一には分かっていないようだが、
明らかである。昭和十五年の陸軍大臣就任から昭和十九年総理大臣辞任までの
四年間、東條英機は、政権の中枢にいたわけだが、肝心の戦争責任、ないしは
政治的責任は東條英機にはないと、渡部昇一はいっているわけだが、それなら
、渡部昇一は、何故、戦争責任も政治責任のない東條英機をわざわざ取り上げ
るのか。東條英機は無罪だと言いたいのか。そしてついでに、渡部昇一は、日
本も無罪だと言いたいのか。東條英機は、東京裁判法廷で、今次の戦争は、「
自存自衛の戦争だった」と主張したらしいが、渡部昇一も、それが言いたいら
しい。次のようなことも言っている。


>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
しかし日本の場合はナチス・ドイツとは異なり、一つの党の党首が独裁的にす
べてを計画し遂行したわけではない。東京裁判の範囲に入れられた最初の年で
ある昭和三年(1928年)から、日本の内閣や方針はしばしば変更され、しかもそ
の変更はたいてい受動的に体外的情勢に応じたものであった。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>


渡部昇一が何が言いたいのかは、ここでほぼ分かるが、渡部昇一は、馬鹿正直
に、さらに次のように言って、念押ししている。


>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
大陸政策はコミンテルンの暗躍に応ずるものであり、満州国誕生後は清朝の最
期の皇帝であった溥儀が日本公使館にころがりこんだことから始まった。日本
の経済的苦悩はホーリー・スムート法によるアメリカの保護貿易、それに続く
イギリスのブロック経済圏(アウタルキー)のためである。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
 

これでは、我々の父母の世代は、大東亜戦争において、徹底して無能で無策だ
ったと言っているようなものだが、渡部昇一は、そうは思わないらしい。さら
に次のように言っている。


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シナ事変は今では明らかになったようにコミンテルンの手先が始めたものであ
る。その事変が日本陸軍の切なる願いにもかかわらず終息しなかったのは、ソ
連、アメリカ、イギリスが中立国の度を越え、シナに対し、参戦同様の支援を
したからであった。
アメリカ・イギリスとの開戦は、マッカーサー証言の如くその包囲網により、
日本の全産業・全陸海軍が麻痺寸前まで追い詰められたから余儀なくされたの
である。すべて日本のやったことは受動的反応であった。
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「コミンテルンが…」「アメリカが…」「イギリスが…」「ソ連が…」「中国
が…」、次々と謀略を仕掛けてきた…、そして日本は悪くなかった…、日本は
仕方なく戦争に巻き込まれただけだ…、ということだろうが、そもそも戦前の
日本人は、そんなに無知・無能だったのか。「世界革命」を目指すコミンテル
ンや、独立を目指す中国、そして米、英、ソが、新興の帝国主義国家・日本を
、様々な謀略を駆使して追い詰めていくことは当然ではないか。それに対して
、「英米中心主義を排す」と言い、「大東亜共栄圏」構想を宣言し、そして「
我が帝国陸海軍は、米英を相手に戦闘状態に入れリ…」という臨時ニュースを
聞き、「来るべきものが来た」と興奮し、歓呼し、必勝を誓ったのは、日本国
民ではなかったのか。しかし、渡部昇一が言いたいことは、東條英機を筆頭に
、戦前の日本人は、無能無策な、そして清く、正しい、美しい「弱者」だった
、ということだろう。つまり、渡部昇一が言いたい事は、僕なりに言い換える
と、戦前の日本国民は馬鹿だった、だから許してください、ということだろう
。少なくとも、渡部昇一の思考法は、ニーチェが言う「力の政治学」、あるい
は「力の哲学」「超人の思想」とは対極にある思考法と言うべきだろう。こう
いう「弱者の政治学」を恥ずかしげもなく、というより得意になって公言する
人が、保守論壇や保守ジャーナリズムの「重鎮」だというのだから、保守論壇
や保守ジャーナリズムが劣化・退廃し、そしてその保守論壇や保守ジャーナリ
ズムの言説を熟読し、その影響を受け、「弱者の政治学」に落ち込んだ自民党
が、自滅・自爆するのは当然だろう。「弱者の政治学」を自ら公言するような
ホンモノの軟弱な「弱者」してきたことは、すでに何回か検証したから、繰り
返さないが、渡部昇一の中心的な仕事と言えば、おそらく「英語学」とか「英
語学史」というようなものではなく、やはり「昭和史」なのではないかと思う
。渡部昇一が、どれだけ「昭和史」なるものを深く広く探求、解明しているか
は知らないが、渡部昇一の「昭和史」は、一種の政治漫談としては面白いが、
とても思想史や政治学、歴史学、あるいは国際政治学の問題として扱うにはは
ばかれるようなシロモノである。僕は、今、手元に『東条英機 歴史の証言』(
詳伝社、平成18年)と『昭和史 松本清張と私』(ビジネス社、2005年)の二冊を
置いているが、渡部昇一の「昭和史」は、簡単にまとめるならば、「受動史観
」だと言っていいと思う。「受動史観」とは、悪いことは、全部、他人の責任
に転嫁し、「自分は悪くない」「日本は悪くない」と言いつつ、「中国が悪い
」「ロシアが悪い」「アメリカが悪い」…そして「日本は仕方なく戦争に巻き
込まれただけだ」と言うような「子の論理」、あるいは「被害者の論理」、つ
まり「負け犬の遠吠え」的史観である。僕は、そこのところに渡部昇一的「昭
和史」の思想的弱点、あるいは昨今の保守論壇や保守ジャーナリズムに蔓延し
ている思想的弱点があると思う。渡部昇一の「昭和史」やマンガ右翼・小林よ
しのりの『戦争論』を適当に「いいとこ取り」して、それをアレンジしたのが
、田母神俊雄の『日本は侵略国家か』というエッセイらしいが、それも、渡部
昇一同様の、同じような思想的弱点を内包していることは言うまでもないし、
また一時的とは言え、「田母神俊雄ブーム」なるものを巻き起こした保守論壇
や保守ジャーナリズムの思想的限界も、そして今や解党的危機に追い込まれ、
断末魔の迷走を続ける自民党の、安倍晋三や中川昭一等を筆頭とする「真正保
守派」(笑)の政治家たちの思想的限界も、明らかである。


■昨日、JR総連学習会で講演。


昨日、品川区大崎の某所で、全国から集まったJR総連の幹部たちを前に、「
沖縄集団自決問題と保守論壇」というテーマで講演…。JR総連(全日本鉄道労
働組合総連合会)と言えば、僕の世代だと、すぐに「クロカン」や「革マル」、
あるいは「松崎氏」のことを連想して、労働組合とは言っても、左翼過激派的
なイメージが強いが、僕は労働組合運動の現場をよく知らないので間違ってい
るかもしれないが、今ではだいぶ穏健な労働運動組織になっているようだ。と
ころで、僕は、「沖縄集団自決」における曽野綾子や小林よしのりの言論活動
を一つのケーススタディとして、「保守論壇は、いまや、マンガ論壇と化して
いる。」「自民党が自滅しようとしているが、それは保守論壇の劣化と深く連
動どうしている。」「そもそも社会党が自滅したのも左翼論壇の劣化と無縁で
はなかったはずだ。」「保守論壇の活性化のためにも労働組合は頑張ってもら
いたい。」というような話をしたが、若い現役の労働運動の闘士たちが、僕の
話を、どのようにう受け止め、どう理解してくれたかは、当然のこととはいえ
、かなり微妙なのわけだが、むしろ最近の、マンガしか読まないような愚鈍な
保守青年や保守老人たちよりも、つまり難解な本を読むのが苦手な保守系の者
たちよりも、左翼理論雑誌「情況」を傍線を引きながら読んでいる若者もいて
、思想的には遥かに生き生きとしていたように思った。例によって例の如く、
日教組批判や自治労批判を「馬鹿の一つ覚え」のように繰り返している、つま
り物事を深く考えたことのない最近の「保守論壇や保守ジャーナリズム」のワ
ンパターンの言説にはウンザリする。そう言えば、先週、土曜日、日本保守主
義研究会の季刊誌「澪標」編集長で、京都大学博士課程に在学中の早瀬善彦君
が上京中で、会いたいという電話をいただいたので、またまた高田馬場の某居
酒屋での岩田温君(拓大客員教授)を中心とする「日本保守主義研究会」の若者
たちの飲み会に後から参加させてもらったが、彼等は、実に勉強熱心で、学問
的にも思想的にもかなり深く且つ広く、いわゆる昨今、巷に溢れている無知無
学を絵に描いたような「保守青年」や「保守老人」とは、同じ保守とは言って
も、相当に隔たっている。「左翼も嫌いだが、最近の馬鹿保守も嫌いだ・・・
」という彼等に、硬直して思想的にも堕落した昨今の保守論壇の「死と再生」
を、つまり「保守論壇や保守ジャーナリズムの活性化」を期待したいものであ
る。

2009-07-22
■西田幾多郎と大東亜戦争


渡部昇一氏や田母神俊雄氏は、さかんに「日本は侵略戦争をしたのでない」「
大東亜戦争は自存自衛の戦争だった」と言おうとしているようだか、そしてマ
ッカーサーの米議会での発言まで持ち出して来て、それを論証しようとしてい
るようだが、はたして、その「自存自衛戦争論」で、日本の「名誉」は、回復
すると、本気で考えているのだろうか。もしそう考えているとしたら、それこ
そ自虐趣味ならぬ、自虐史観そのものと言わなければならないのではないのか
。たしかに東條英機は、大東亜戦争を、「自存自衛の戦争」と考えていたかも
しれない。しかし、東條英機以外の軍人や政治家、思想家、そしてその他の多
くの国民が、あの戦争を、「自存自衛の戦争」という消極的な意味で、解釈し
、理解し、納得していたであろうか。戦前の日本人は、英米帝国主義と戦闘を
交えるにあたって、まったく無為無策だっただろうか。次の文は、哲学者・西
田幾多郎の文であるが、この文は、表に出ることも、戦後の西田幾多郎全集に
収録されることもなかったとはいえ、よく知られている文である。


>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
世界新秩序の原理

要旨

真の世界平和は全人類に及ぶものでなければならない。しかるにかかる平和は
、世界史的な使命を自覚せる諸国家、諸民族が、先ず地縁及び伝統に従って一
つの特殊的世界即ち共栄圏を形成し、更に共栄圏が相協力して真の世界即ち世
界的世界を実現することによってしか到達されない、そしてかかる共栄圏の確
立及び各共栄圏の協力による世界的世界の実現こそは、現代の担っている世界
史的課題である。

大東亜戦争は、東亜諸民族がかかる世界史的使命を遂行せんとする聖戦である
。歴史が炳として示す如く、飽くなき米英の帝国主義は東亜諸民族を永く足下
に蹂躙してその繁栄を阻止し来った。この米英帝国主義の桎梏を脱し、東亜を
東亜諸民族の手に回復する道は、東亜諸民族自らが、共通の敵米英帝国主義の
撃滅、根絶を期して結束する以外にない。すなわち大東亜戦争を完遂して東亜
を保全し、東亜共栄圏を確立して共栄の楽を偕にすることが、現代東亜諸民族
の第一の歴史的課題である。

今や志しを同じうする独、伊、その他の諸国は欧州の天地に新秩序を建設すべ
く勇敢に闘っている。亜欧両州におけるこの二大事業の完成する秋、真の世界
平和を招来すべき世界的世界は実現するであろう。東亜共栄圏を通じて世界的
世界の実現に努力すること、これが東亜諸民族の第二の歴史的課題である。

<解説>

世界はそれぞれの時代にそれぞれの課題を有し、歴史的必然を以って推移する

 今ヨーロッパの最近世について見るに、一八世紀は個人的自覚の時代、いわ
ゆる個人主義、自由主義の時代であった。一八世紀に於いては未だ一つの世界
的空間に於いての国家と国家の対立というまでに到らなかった。大局から云え
ば、イギリスが海を支配し、フランスが陸を支配したとも云い得るであろう。
しかるに一九世紀の世界的空間に於いて、ドイツがフランスとが対立し、更に
進んで植民地を含む一層大いなる世界的空間に於いてドイツとイギリスとの一
大勢力が対立するに到った、これが前世界大戦の原因である。一九世紀は国家
的自覚の時代、即ち国民主義の時代であった。しかしながらこの国家主義には
、未だ国家の世界史的使命の自覚がなかった。従って一九世紀の国家主義は帝
国主義となって発展した。即ち、各国民が、何処までも他を従えることによっ
て自己自身を強大にすることが、歴史的使命と考えられたのである。

 しかるに、国家に世界史的使命の自覚なく、単なる帝国主義の立場に立つ限
り、資本主義的傾向を採らざるを得ないのであり、従ってまた階級闘争の出現
を免れない。一九世紀以来の世界が、帝国主義の時代たると共に階級闘争の時
代でもあった所以である。しかしながら、階級闘争を主張する共産主義は一面
に於いて全体主義ではあるが、その原理は、一八世紀の個人的自覚による抽象
的世界理念の思想に基づくものである。思想としては、一八世紀思想の一九世
紀的思想に対する反抗と見ることもできる。故に共産主義は今日に於いては、
帝国主義と共に過去に属するものであり、従って新たなる世界史を形成する指
導原理たる資格を喪ったものである。全体主義はかかる指導性を喪った帝国主
義及び共産主義に対する反撃であって、一方帝国主義の侵略に抗すると共に他
方共産主義による内部攪乱に備えんとしたものである。全体主義が国民の全体
性を強く主張したのはその為である。

 今日の世界は、世界的自覚の時代である、各国民が、各自世界史的使命を自
覚することによって、一つの全く新しき時代、換言すれば、世界史的世界即ち
世界的世界を構成しなければならない時代である。前世界大戦の終了と同時に
世界は現にこの段階に入ったのである。今次の世界大戦はその発展たるに過ぎ
ない。

 過去の世界に於いては、各国家各民族は、地理的制約の為に十分連絡づけら
れていなかった。しかるに科学の進歩は交通の発達を促がし、その結果今日に
於いては、近接する諸国家諸民族が一つの世界的空間に於いて緊密なる関係の
置かるるに到った。かかる世界的空間に於いて強大なる国家と国家が対立する
場合、世界は当然激烈なる闘争に陥らざるを得ない。そしてこれを解決する途
は、各国家が世界史的使命を自覚し。各自自己に即しつつ自己を越えて一つの
世界的世界を構成する以外ない。現状を以って国家民族の世界的自覚の時代と
いう所以である。

 注=特に民族と云うは、蒙古、仏印、ビルマ、フィリッピン、印度及び南方
諸民族を考慮せるためである。

 しかしながら各国各民族が自己に即しつつ自己を越えて一つの世界を構成す
ると云うことはウィルソンの主張せる国際連盟に於いての如く、各民族の現実
的能力を考慮せずして、何れの民族に対しても一律平等に独立を与えんとする
ことではない。凡ての民族に対し無差別平等に独立を与えることは、却って民
族の為に考えざるものである。如何にして弱小民族を育成するかが問題である
。かかる民族主義の考える世界は十八世紀的な抽象的世界理念に過ぎない。か
かる思想によって現実的課題の解決の不可能なることは、今次の世界大戦が証
明するところである。

 事実に於いて、凡ての国家凡ての民族は、いづれも固有の歴史的地盤に成立
したものであり、従ってそれぞれ固有の世界史的使命を有するものでなければ
ならない。そこに各国家各民族が各自の歴史的使命を有するのである。故に各
国家各民族が一つの世界的世界を構成するということは、国家及び民族が各自
に即しつつ自己を越えて、それぞれの地域、伝統に従って先ず一つの特殊的世
界即ち共栄圏を形成し、斯くて歴史的地盤から構成された特殊的世界が相結束
して、更に一つの世界的(世界全人類を含む世界)を構成することである。か
かる世界的世界に於いては、各国各民族が各自の個性的生命に生きると共に、
自己の構成する特殊的世界(共栄圏)を通じて、一つの世界に結合するのであ
る。これが今次の世界大戦によって要求される世界新秩序の原理でなければな
らない。

 今次世界大戦の課題が斯くの如きものであり、世界新秩序が斯くの如きもの
であるならば、東亜共栄圏の原理も自ら此から出てこなければならない。従来
東亜諸民族は米英の帝国主義の為に蹂躙せられ、各自の世界的使命を奪われて
いた。今や大東亜戦争と共に、東亜諸民族は何れもその世界史的使命を自覚し
、各自自己に即しつつ自己を越えて一つの特殊的世界、即ち東亜共栄圏を構成
し、以って真の平和を招来すべき世界的世界を実現しなければならない。日本
民族は、世界的使命の自覚における先進であり、大東亜戦争はこの世界史的使
命遂行の烽火である。日本民族が、一億一心如何なる犠牲をも恐れず、国運を
賭して戦争遂行に直進しつつあるのは、東亜共栄圏の確立が、アジアを救うと
共に、全人類に光明を与うるものであることを確信するからである。然しなが
らこの確信は単に我等日本人だけではない。我等の声に応じて、欣然大東亜戦
争に参加した東亜諸民族に於いて共通である。

 更にまたドイツ、イタリアを始め枢軸側諸国は、ヨーロッパ新秩序を建設す
る為に勇敢に戦いつつある。ヨーロッパ新秩序の完成と共に、世界新秩序の完
成に寄与するものであることは疑いを容れないのである。

 重ねていう、大東亜戦争に伴う東亜共栄圏の確立は、一つの新しき世界、換
言すれば世界史的世界の形成に到る第一過程である。皇道を表明する八紘為宇
の理念は、かくて世界的世界形成即ち世界史的世界形成の原理として理解され
るのである。世界史的世界形成主義即ち新世界主義こそは、米英帝国主義を克
服する使命を担うものである。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>


 この西田幾多郎の一文は、陸軍の求めに応ずる形で書かれたものらしいが、
しかし、あまりにも難解であったが故に、それを東條英機等が理解できず、ボ
ツにされたものらしいが、ここで西田幾多郎は、決して、消極的な、「自存自
衛の戦争」というような意味での戦争論などを展開しているわけではない。西
田幾多郎は、明確に、この戦争は「世界史的使命」を帯びている「世界新秩序
の形成」を目指す積極的な意味での戦争であると捉えている。おそらくそれは
、西田幾多郎だけではない。大川周明も、蓑田胸喜も、そしてその他多くの日
本人が、多少の違いはあれ、そう考えていたに違いないのだ。渡部昇一氏や田
母神俊雄氏等の考える「自存自衛戦争論」の政治学が「弱者の政治学」なのに
対して、西田幾多郎等のそれは、明らかに「世界新秩序」の形成を目指す「強
者の政治学」、言い換えれば、江藤淳の言う「治者の政治学」だと言っていい
。だから米英帝国主義主導の「東京裁判」で、パールやマッカーサーを持ち出
して、無罪を主張することは間違いであり、むしろ堂々と「有罪」をこそ主張
すべきだったのである。
http://archives.mag2.com/0000261052/





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2018-02-27
なぜネットで「在日認定」が行われるのか─ステレオタイプ論と群衆心理から
http://peoplesstorm.hatenablog.com/entry/2018/02/27/210121

1.はじめに

2018年現在、ネット内では現在右翼と左翼が活発に戦っている。ツイッターや5chを見たことがある方は経験した、あるいは目にしたことがあると思われる。そんな中、右翼側の「一部」が国内で何か事件が起こるたびに根拠なく犯人を在日韓国・朝鮮人と認定する行為(在日認定)がたくさん見られる。この記事では在日認定がなぜ行われるかを考えていきたい。繰り返すがあくまで右派の「一部」が行っている行為であり、右派全員がこのような差別的言動を行っているわけではないとご了承願いたい。

2.「在日」というステレオタイプ─W.リップマンの『世論』から

初めに結論を言うと在日認定は一種のステレオタイプの「防御」である。ステレオタイプに関しては政治学者・社会学者のW.リップマンが著書『世論』で解き明かしているのでそれを元に論及していきたいと思う。ステレオタイプとは、北海道大学教授の山口二郎の言葉を引用すると


様々な情報が氾濫する今日、人はメディアを通してしか事物を知ることはできない。そして、普通の市民は事物について多様な情報を吟味し、正しく事物を知るだけの余裕を持たない。メディアが伝えるイメージが固定化し、人は思考を省略してそのようなイメージに基づいて認識、判断を行うようになる。そのような固定化されたイメージをステレオタイプと呼ぶ。

とのことである。

この固定化されたイメージ=ステレオタイプは誰にでも持っているものであり、特段に右翼が〜とか左翼が〜とかの話ではない。例えば台湾は親日である、というのもステレオタイプの一つである。台湾人の中にも日本の支配を憎んでいた人もいる。日本のゲームはグラフィックが劣る、というのもこれもまたステレオタイプである。大金をかけて作られた美麗なグラフィックのゲームも存在するからである。

では、なぜステレオタイプは生まれるのだろうか。リップマンは『世論』でこう説明する。


われわれは一定の観念を通して外界の光景を観察する。当然、このような観念と外界の光景を結びつける何かがある。例えば、急進派の会合には長髪の男性や断髪の女性が一部いるとするというような場合である。しかし、時間に追われる観測者には、観念と外界にほんの少し関連があれば充分である。こうした会合には断髪を好む人達が集まるということを予め知っている記者にとっては、断髪が二人、ひげ面が四人もいれば、断髪とひげの聴衆だったと報告するだろう。

このような事情には経済性という問題が絡んでくる。あらゆる物事を類型や一般性としてでなく、新鮮な目で細部まで見ようとすれば非常に骨が折れる。まして諸事に忙殺されていればなおさらであるし、現代社会は多忙を極めている。このリップマンのあげた例によれば、急進派の会合における観測者は僅かな事例(断髪とひげ面)をもって、全体を把握しようとした。例外的な事例を元に全体を捉えるのは「思考」という労力の節約になる。もし細部まで捉えようと思えば観測者の思考の労力は極限にまで達し、その思考のために長い時間も要する。しかしリップマンが言うように現代社会はそんな時間もないし、労力を傾ける余裕もない。そこで、ステレオタイプを使うのである。

もう一つ例をあげよう。国内である事件が起きた際に、被害者や犯人のことをイチから知ろうと思えばその労力は大変なものになる。そのときに我々は自分のよく知っている類型を指し示す特徴を現実世界から見つけ出し、ステレオタイプを使って、現実世界を理解するのである。そう、「犯人は在日だ」というように。この論理には、実際に在日韓国・朝鮮人が犯罪を犯したという過去の実例も使われる。つまり、先のリップマンの引用によれば、過去に在日韓国・朝鮮人が犯罪を犯した、という事例を用いて、在日=全員犯罪者と拡大解釈してるのである。詳しくはこちらの記事も参考にしてほしい。


peoplesstorm.hatenablog.com

更にリップマンはこうも述べる。


ステレオタイプの体系は、秩序正しい、ともかく矛盾のない世界像であり、われわれの習慣、趣味、能力、慰め、希望はそれに適応してきた。それはこの世界を完全に描ききってはいないかもしれないが、一つのありうる世界を描いておりわれわれはそれに順応している。そうした世界では、人も物も納得の行く場所を占め、期待通りのことをする。この世界にいれば心安んじ、違和感がない。(…)こうした状態であるから。ちょっとでもステレオタイプに混乱が生じると、宇宙の基盤が襲撃されたように思えるのも不思議な事ではない。

現実の社会は非常に騒々しいものだ。毎日何らかの重大な事件が起きる。交通事故の死亡者数を見ると、我々は交通事故で今日死ぬかもわからない。だがそんなことを考えもせず平穏に一日を送れるのはステレオタイプのおかげなのである。この場合のステレオタイプとは「日本は安全な国だ、私は犯罪にあわない、まさか交通事故で死ぬなんてありえない云々」というものである。このステレオタイプのおかげで我々は「寝ているときにいつ強盗に襲われるか」とか「いつ後ろを歩いている通行人に刺殺されるか」などを気にしなくても生きていけるのである。一部の右翼による在日認定はまさにこれに依拠している。彼らの思い描く日本には「絶対的に正しい国だ、安全な国だ、日本人は他民族(特に朝鮮人)より優れているからそんな凶悪な犯罪事件などを起こすことはない。」というステレオタイプがある。そんな彼らにとって日本国内で日本人による犯罪が起きるのは不都合なことである。ステレオタイプに反するものだからだ。そうしたときに現れるのが犯人の在日認定なのである。つまり、在日韓国・朝鮮人を犯人とすることで、先に述べた日本という国に対しての己のステレオタイプを「防御」するのである。そうさえすれば、彼らは自分の思い描く「日本」というイメージを壊さずに済み、安寧に暮らしていける。

さて、リップマンによれば、もし現実の経験がステレオタイプと矛盾するときは、2つのうちいずれかが起こるという。一つには自分のもっているステレオタイプを再編成するのがきわめて不都合な場合、その矛先を「例外」であると鼻であしらい、証人を疑い、どこかに欠陥を見つけ、その矛盾を忘れようとする。もう一つには、新しい経験を柔軟に脳に取り組み、ステレオタイプの再編成を図る。例えばツイッターなどでは「元ネトウヨです。在日認定などはもうしません」という方もたくさんいるし、私も中学生の時は過激なネトウヨであった。このような人たちは後者のステレオタイプの再編成を図った者たちである。一方、在日認定をする者たちは前者であり、彼らは事件の犯人が日本人だったとしても「それは例外である」として彼らのステレオタイプは「防御」されるのである。このステレオタイプの防御は日本の右翼だけが用いるのではない。アメリカの白人至上主義者たちは事件が起こると、犯人は確かに見た目は白人だが黒人の血を引いているに「違いない」と言って、彼らのステレオタイプ=白人は優秀で犯罪も犯さない、を守ろうとするのである。世界中のあらゆる人達がそれぞれのステレオタイプをもって日常生活を送っている。韓国人の中にも日本も含めた世界の優れた人物は実は朝鮮民族の血を引いている、と唱える集団がいる。これも韓国人=優秀というステレオタイプを用いているのだろう。

もし我々がある物事を真実であるはずだと信じているならば、それが真実であるという例証か、でなれければ真実にきまっていると思っている人間をほとんどかならず見つけ出す。また、具体的な真実がある希望を意味しているときは、この真実を正当に評価することは極めて難しい。在日韓国・朝鮮人=犯罪者という「真実」を捉える者がその例証を見出し、同じように真実だと思っている人をツイッターで見出すのは実に容易い。右翼同士のコミュニティで在日韓国・朝鮮人=犯罪者という「真実」は彼らのやりとりの中で徐々に増幅され、いつしか決定的な真実として扱われるのである。『世論』ではこう述べられている。


一つのことを激しく憎悪するとき、われわれはそれを原因、あるいは結果として、自分たちが激しく憎んだり恐れたりしているほかのほとんどのものに直ちに結びつけてしまう。そうした物事同士は、天然痘と酒場、相対性理論とボルシェヴィズムがまったく関係がないのと同じように無関係である。それにもかかわらず同じ感情を呼び起こすという点で結び付けられている。

感情次第で何でもが他の何でもと関連付けられる。在日韓国・朝鮮人を憎む者はそのとき、全く関係ない「犯罪者」というイメージを呼び起こす。犯罪者と在日韓国・朝鮮人は全く関係がない。それは犯罪者と日本人が関係ないのと同じである。しかしそれにも関わらず、犯罪者も在日韓国・朝鮮人も悪という感情を呼び起こすからといって、結びつけてしまう。*1リップマン曰く─「真の空間、真の時間、真の数、真の関係、真の重さは失われている。出来事はその展望も面も削り取られて、ステレオタイプのなかで凍結させられている」─と。結局のところ、我々は一切は悪いことばかりの体系、さもなければ善いものばかりの体系の中に織り込まれてしまっている。在日韓国・朝鮮人は全くの悪だと捉える体系、逆に在日朝鮮人は全くの善だと捉える体系。これらの体系から抜け出し、真実の在日韓国・朝鮮人を見るというのは非常に労力を使い困難である。些細な出来事がすぐに全体と結び付けられて真実とされる。

ここまでをまとめると、在日韓国・朝鮮人が特に犯罪を犯すというイメージはステレオタイプである。右翼の一部はこれらの在日=悪というステレオタイプを使い、日本=絶対的に安全かつ優れた国というステレオタイプを守っている(防御している)。ステレオタイプは誰でももっているものであり、現代社会という極めて複雑かつ多忙な社会では必要不可欠なものとなっている。くわえてステレオタイプは人種差別や性差別に使われやすい。しかし、我々はステレオタイプがあるからこそ、色々なことに思考の労力を取られず生きていけるのである。在日朝鮮人が犯罪者という一部の者が信奉する「真実」は、ツイッターや5ch内の同じような意見を持つ者の中で純粋培養され、いつしか(彼らには)絶対的な真実として捉えられる。このような働きの中で、右翼の一部内で在日=悪という彼らにとっての「真実」は永劫不滅のものとして君臨するに至ったのである。もちろん、これらのステレオタイプは「南京事件はなかった」とか「731部隊はでっちあげ」などとしても用いられる。人はみな自らのステレオタイプ─それが良くも悪くも─の中で生きる生物なのである。

3.「群衆」としての右翼─ル・ボンの『群衆心理』から

前章ではリップマンのステレオタイプ論から在日認定を説明した。この章ではギュスターヴ・ル・ボンの『群衆心理』から在日認定を説明したい。

群衆とは任意の個人の集合を指していて、その国籍や職業や性別の如何を問わない、また個人の集合する機会の如何を問わない。ル・ボンは言う。


ある一定の状況において、かつこのような状況においてのみ、人間の集団は、それを構成する各個人の性質とは非常に異なる新たな性質を具える。すなわち、意識的な個性が消え失せて、あらゆる個人の感情や観念が同一の方向に向けられるのである。(…)その時この集団は、ほかにもっと適当な言い方がないので、組織された群衆、いや何なら、心理的群衆とでも名付けよう。

更にル・ボンによれば、心理的群衆の示す最も際立った事実は、次のようなことである。すなわち、それを構成する個人の如何を問わず、その生活様式、職業、性格あるいは知力の類似や相違を問わず、単にその個人が群衆になり変わったという事実だけで、その個人に一種の集団精神が与えられるようになる。

在日認定を行う右翼達は一種の心理的群衆なのではないかと私は考えている。右翼(もちろんこれは左翼などの他の集団も同じであるが)という群衆にあっては、もう自分の行為を意識しなくなる。ある暗示を受けると、それにかられて、抑えがたい性急さで

ある種の行為を遂行しようとする。ル・ボンによれば下記のとおりである。


(群衆は)暗示と感染による感情や観念の同一方向への転換、暗示された観念をただちに行為に移そうとする傾向、これらが群衆中の個人の主要な特性である。群衆の中の個人は、もはや彼自身ではなくて、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形となる。

つまり、孤立していたときは恐らく教養のある人であったろうが、ツイッターの「◯◯クラスタ」という(インターネット的)群衆にいざ加わってしまうと、ル・ボンが言うように「本能的な人間、従って野蛮人と化してしまうのだ(…)熱狂的な行動や英雄的な行動に出る」のである。言葉や心象(イマージュ)によって動かされやすく、自身の極めて明白な利益をもそこなう行為に扇動されやすくなる。

ツイッターでは人種差別や外国人排斥を公然と唱える者が後を絶たない。これはある面ではインターネットの匿名性によるものだろうが、もう一つの側面にはル・ボンが言うような心理的群衆の効果があるのだと考える。つまるところ、ひとりひとりは温和な市民でも、それが集合して群衆(例えばネトウヨクラスタ、など)になると、数人の指導者(ネトウヨクラスタ内のアルファツイッタラー、または保◯速報のような極右的まとめサイト)に影響されて、外国人を差別したり、在日認定をしたりといったことをするようになるのである。歴史的な事例をあげれば、フランス革命時の熱狂的な群衆があげられるだろう。ひとりひとりはごく平凡な下層市民でも集まれば=群衆となれば、革命を起こす要因の一つまでになった。群衆の特徴は興奮しやすく、推理する力のないこと、判断力および批判精神を欠いていること、感情の誇張的であることなどが『群衆心理』のなかであげられているが、これらはインターネット上でよく見られるものだろう。繰り返すが、このような行動や状況は右翼に限ったものではなく、左翼もそうだし、色々な◯◯クラスタにも大いに当てはまると考えるべきだ。フォローやリツイートといった機能を持ちなおかつ匿名性のあるツイッターというツール自体が群衆を結成させやすいと考えることもできるだろう。

右翼的な群衆の中では在日が事件を起こすという「神話」が流布されている。それ故に事件が起こったときに安易に「あの犯人は実は在日」などと在日認定を行うのであるが、ル・ボンはこのような神話は集合した個人の想像力によって、事件が驚くべき変形を受ける結果としている。極めて単純な事件でも、群衆の目に触れると、たちまち歪められてしまう。群衆を構成するひとびとの気質が多種多様であるから、群衆がその目撃する何らかの事件に対する見方はまちまちであると思うのは早計である。群衆内の「感染」*2の結果、事件を歪めてみるという行為や意識は同じ性質、同じ意味になる。これをル・ボンは「集団的錯覚」と呼んでおり、この集団的錯覚は、正確に物を見る働きが失われ、かつ現実の事象が歪められるのだが、これはインテリにも当てはまる。インテリでさえ専門外のこととなるや、群衆の性質を帯びる、とされる。各自の有する観察と批判精神とが消え失せてしまうのだ。

ここまでを約言すると、インターネットは一種の心理的群衆 を作り出した。ツイッター内などで◯◯クラスタとして集まった者たちはある種の群衆的性格を持っている。今回の記事のテーマの「在日認定」に関しては、集団的錯覚、すなわち右翼の一部のクラスタが集まったり、またはその指導者であるアルファツイッタラー達やまとめサイトが現実の事件を歪めてそれを見て拡散し、群衆の中にそのような見方(在日差別など)=神話を「感染」させる。群衆は興奮しやすく、判断力などを欠いている。これは個人の特性のせいではなく、群衆という集団的なものに帰する。いくら温和なツイッタラーでも「右派」という群衆となれば平然と在日認定を行い、在日韓国・朝鮮人を差別するのである。何度も重ねていうが、この群衆的作用は右翼だけではなく、左翼などのあらゆるクラスタに関係があることである。この点をご理解願いたい。

4.終わりに

ツイッターや5ch内の在日認定について2つの点から今回は考察した。1つ目にリップマンのステレオタイプ、2つ目にル・ボンの群衆心理からである。どちらもおよそ100年以上前の、いわゆる「古典的名著」であるが、現代社会を解き明かす一つの道標になるのではないかと考えている。今回のテーマは「在日認定」のために必然的に右翼、または右翼的なものに批判的になったが、ステレオタイプ論は左翼、はてはヘヴィメタルクラスタなどにも当てはまるし、群衆心理にしても同じである。

ここで考察した2点だが、これはリップマンとル・ボンの著作をかいつまんでいるのであり、彼らの論理はもっと複雑かつ含蓄のある内容である。ブログの都合上(長くなりすぎると読んでもらえない等)、彼らの著作の重要箇所をピックアップし、引用した。もしこれらの論理が気になる方がいたら本を買ってみるのもいいだろう。どちらも文庫で簡単に手に入るのでおすすめである。

「私が一個の掟であるのは、ただ私に所属する者たちだけだ、私は万人にとっての掟ではない。」by ニーチェ著『ツァラトゥストラ』

万人のためではない、所属する者たちだけのための一個の掟。そうそれこそがまさにネット内で見られるステレオタイプなのだろう。

5.参考文献

W.リップマン著『世論(上)』・『世論(下)』

ギュスターヴ・ル・ボン著『群衆心理』

塩川伸明著『民族とネイション―ナショナリズムという難問』

以下駄文

内容的に右派を批判したが、個人的な意見では、右派がいうように国家に愛国心は必要であると考えている。生まれた国を愛するのがなぜ悪いのだろう、自然なことである。(もっともこれが近代の『国民国家』的思想であるのは留意すべきだが)

しかし在日認定や外国人排斥を訴えるのは愛国心ではなくレイシズムであり、それには同意できない。加えて右派の唱える新自由主義的な政策、または過激な反フェミニズム的言論にも全く同意できないが、かといって左派にも傾倒しきれない。これは良く言えば中道、悪く言えば宙ぶらりん・中途半端…。


*1:実際G.W.オルポートから、ステレオタイプは人種差別につながりやすいという指摘もある。

*2:ル・ボン曰く「群衆の思想、感情、感動、信念などは細菌のそれにひとしい激烈な感染力を備えている」と。
http://peoplesstorm.hatenablog.com/entry/2018/02/27/210121


▲△▽▼

内田樹の研究室 2017.06.12「愛国的リバタリアン」という怪物


金滿里さんが主宰する劇団「態変」の出している『イマージュ』という媒体が「相模原事件」を特集した。そこに事件についてのコメントを寄稿した。なかなか手に取ることのない媒体なので、ブログに採録しておく。

相模原の大量殺人事件のもたらした最大の衝撃は、植松聖容疑者が事前に安倍晋三首相宛てと大島理森衆院議長宛てに犯行を予告する内容の書簡を届けていたことにある。それは単に権力者を挑発するための犯行予告ではなく、自分の行為が政権と国会多数派には「好ましい」ものとして受け止められ、権力からの同意と保護を得られるだろうという期待をこめたものだった。逮捕後も容疑者は「権力者に守られているので、自分は死刑にはならない」という趣旨の発言をしている。

もちろん、これは容疑者の妄想に過ぎない。けれども、何の現実的根拠もない妄想ではない。彼の妄想形成を強化するような現実が今の日本社会内部にはたしかに存在しているからである。

アナウンサーの長谷川豊は事件の直後の2016年9月に自身のブログに「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」というタイトルの記事を投稿した。これには批判が殺到し、専門医からも事実誤認が指摘されたが、この人物を日本維新の会は千葉一区から衆院の立候補者として擁立するということが先日発表された。

重篤な病人や障害者に対する公然たる差別発言にはまだ一定の社会的な規制が働いており、有名人の場合には、それなりの批判を受けて、社会的制裁が課されているが、在日コリアン、生活保護受給者やLGBTなどの社会的弱者に対する差別や攻撃の発言はほとんど何のペナルティもないままに垂れ流しされている。

際立つのが片山さつき議員で、生活保護受給者は「実質年収4百万円」の生活をしているという無根拠な都市伝説の流布に加担して、生活保護叩き発言を繰り返してきたが、最近も捏造投稿に基づいてNHKのニュース内容にクレームをつけて、生活保護受給者が社会福祉の「フリーライダー」だという世論の喚起に励んでいる。もちろん、本人がそう「信じている」という信憑の問題もあるのだろうが、「そういうこと」を公言すると選挙で票が集まるという現実的な打算も同時に働いているはずである。

アメリカではドナルド・トランプ大統領が「弱者叩き」の代表格である。「ラストベルト」のプア・ホワイトたちの輿望を担って登場したはずのトランプだが、就任後実施された政策は富裕層への厚遇措置ばかりで、移民排斥や、海外企業の国内移転への圧力などの「雇用対策」は今ここにいる社会的弱者のためには何の利益ももたらしてはいない。選挙公約だったオバマケアの廃止は、それによって2400万人が医療保険を失うという予測が公表されて、さすがに与党共和党も加担できず、改廃法案を撤回するという騒ぎになった。アメリカの有権者はそのような人物を大統領に選んだのである。

これはおそらく全世界的な傾向である。社会的弱者たちは、自己責任で弱者になったわけであり、いわばそういう生き方を選択したのだから、政府や自治体が、公金を投じて彼らを支援することは「フェアではない」というロジックは目新しいものではない。これはアメリカ社会においては「リバタリアニズム(libertarianism)」というかたちで、建国当初からつねに伏流していた考え方である。アメリカが世界に冠絶する覇権国家となり、その国の作法や価値観が「グローバル化」したことによって、アメリカ的な「リバタリアニズム」もまたグローバル化したということだと私は理解している。

「セルフメイドマン(self made man)」というのは建国以来、理想とされてきたアメリカ市民像だが、要するに誰にも頼らず独立独行で自己実現を遂げることである。「リバタリアン(libertarian)」というのは、その過激化したかたちである。

リバタリアンは、人間は自分の運命の完全な支配者であるべきであり、他者であれ公共機関であれ、いかなるものも自分の運命に介入する権利はないと考える。だから、リバタリアンは政府による徴税にも、徴兵制にも反対する。当然ながら、社会福祉のための原資の提供にも反対する。

ドナルド・トランプが徴税と社会福祉制度につよい嫌悪感を示すのは、彼がリバタリアンの伝統に連なっていることを示している。トランプは選挙期間中に対立候補から連邦税を納めていないことを指摘されて、「すべてのアメリカ人は納税額を最小化するために日々知恵を絞っている。私が連邦税を払っていないのは私が賢いからである」と述べて支持者の喝采を浴びた。これは別に露悪的な発言をしたわけではなく、ほんとうにそう思っているからそう言ったのである。彼に喝采を送ったプア・ホワイトたちは、自分たちとは桁が違う大富豪であるトランプの「納税したくない」というリバタリアン気質が「自分と同じだ」と思って、その発言に賛意を評したのである。

トランプは軍務の経験も、行政の経験もないはじめての大統領だが、それは軍務に就くことも、公共機関で働くことも、どちらもリバタリアンとしては「やらないにこしたことはない」仕事だからである。アメリカの有権者たちは彼の「公的権力を用いて私利私欲を満たすが、公益のためには何もしない」という態度がたいそう気に入ったのである。

今の日本で起きている「弱者叩き」はアメリカ原産のリバタリアニズムが日本に漂着し、日本独特の陰湿なしかたで退廃したものだと私は理解している。トランプのリバタリアニズムはこう言ってよければ「あっけらかん」としている。ロシアとの内通疑惑が暴かれたことによって、彼が「愛国者」であるかどうかについてはアメリカ人の多くが疑問を抱いているだろう。けれども、リバタリアンにおいて、愛国者であることは「アメリカ人的であること」のための必要条件ではない。国家や政府などというものは「ない方がいい」というのが正統的なリバタリアンの立場だからである。

けれども、日本では公的立場にある人間は「国よりも自分が大事」というようなことを(心で思っていても)口には出さない。仮に、安倍晋三が所得税を払っていなかったことが発覚したとしても、彼は「私は賢いから税金を払わずに済ませた」という言い訳をしないだろうし、その言い訳に喝采を送る有権者も日本にはいないはずである。日本ではリバタリアンも愛国的なポーズをすることを強いられる。

だから、日本では「リバタリアンでありながら、かつ愛国的」という奇妙な生き物が生まれてくる。現代日本に跋扈しているのは、この「愛国的リバタリアン」という(「肉好きのベジタリアン」とか「気前のいい吝嗇漢」というような)形容矛盾的存在である。

一方において、彼らは自分が獲得したものはすべて「自己努力によって獲得されたもの」だから、100%自分の所有に属し、誰とも分かち合う気がないと断言する。同じ理屈で、貧困や疾病や障害や不運などによって社会的弱者になった者たちについても「すべて自己責任で失ったもの」であるので、そのための支援を公的機関に求めるのは筋違いであると主張する。

ここまではリバタリアン的主張であるが、日本の「愛国的リバタリアン」はこれに愛国主義(というより排外主義、外国人嫌い(ゼノフォビア))をぱらぱらとまぶして、社会的弱者というのは実は「外国人」であるという奇妙な社会理論を創り出す。ここが日本のリバタリアニズムの独特の歪みである。

日本型リバタリアンによると、社会的弱者やあるいは社会的弱者を支援する人たちは「外国人」なのである。仮に血統的には日本人であったにせよ、外国渡来のイデオロギーや理説に「感染」したせいで、「外側は日本人だが、中身は外国人」になっているのである。

だから、社会福祉や教育や医療などの活動に公的な支援を求める組織や運動は本質的には「日本の国益よりも、彼らが忠誠を誓っている外国の利益に奉仕するもの」なのだという妄説が出来上がる。生活保護の受給者は多くが在日コリアンであるとか、日教組の背後にはコミンテルンがいるとか、朝日新聞は反日であるとか、沖縄県知事は中国に操られているといった類のネトウヨ的妄説はその典型的なものである。

語っている本人もさすがにほんとうだと思ってそう言っているわけではいないだろうが、それにもかかわらず、彼らが「反政府的な人間=外国人」というスキームに固執するのは、彼らにリバタリアンに徹底する覚悟がないからである。

リバタリアンであれば、話はすっきりしている。貧乏なのも、病気なのも、障害者であるのも、すべては自己責任である。だから、それについては他者からの同情や公的支援を当てにしてはならない。医療保険制度はいらない(医療は「サービス」なのだから金を出して買え。金がないやつは死ね)。公立学校も要らない(教育は「サービス」なのだから、金を出して買え。金がないやつは働いて学費を稼ぐか、有利子で借りろ)。社会福祉制度はいらない(他人の施しがないと生きていけないやつは死ね)と、ずいぶん非人情ではあるけれど、バケツの底が抜けたように「あっけらかん」としている。

しかし、さすがに日本では(心ではそう思っていても)そこまでは言い切れない。居酒屋のカウンターで酔余の勢いで口走ることはあるだろうが、公的な立場ではなかなか口にはできない。

その不徹底をとりつくろうために、日本的リバタリアンは「排外主義」的イデオロギーを装飾的に身にまとう。そして、貧乏人も、病人も、障害者も、生活保護受給者も、みな本質的には「外国人」であるという摩訶不思議な理説を噛ませることで、話のつじつまを合わせようとするのである。

相模原事件の植松容疑者はその意味では障害者支援をめぐる問題の本質をよく見抜いていたというべきだろうと思う。彼自身は生活保護の受給者であったが、その事実は「わずかな賃金を得るために、他人に顎で使われて、自分の貴重な人生を空費したくない」という彼のリバタリアン的な気質と齟齬するものではなかった。けれども、自分以外の生活保護受給者や障害者は彼の目には許し難い社会的寄生者に見えた。この矛盾を彼はどう解決したのだろうか。自分には公的支援を受けることを許すが、他人には許さないという身勝手な識別を可能にする境界線として最終的に彼が思いついたのは「私は日本人として日本の国益を優先的に配慮しているが、彼らはしていない」という「日本人/非日本人」スキームであった。

だから、植松容疑者がこれは「日本のために」したのだとか、「社会が賛同するはずだった」とかいう自己弁明を繰り返し、「国益を害するものたち」を「処分」する「官許」を首相や衆院議長に申請したことには論理的には必然性があったのである。彼は自分が「愛国的リバタリアン」という政治的奇形物であり、現在の日本の政界の指導者たちの多くが程度の差はあれ自分の「同類」だと直感していたのである。
http://blog.tatsuru.com/




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html

[文化2] 女は東大出でも思考力・判断力・知性すべてゼロ _ 通産官僚 宗像直子は何故こんなにアホなの? 中川隆
153. 中川隆[-13242] koaQ7Jey 2019年1月02日 07:12:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210]
内田樹の研究室 2017.06.12「愛国的リバタリアン」という怪物


金滿里さんが主宰する劇団「態変」の出している『イマージュ』という媒体が「相模原事件」を特集した。そこに事件についてのコメントを寄稿した。なかなか手に取ることのない媒体なので、ブログに採録しておく。

相模原の大量殺人事件のもたらした最大の衝撃は、植松聖容疑者が事前に安倍晋三首相宛てと大島理森衆院議長宛てに犯行を予告する内容の書簡を届けていたことにある。それは単に権力者を挑発するための犯行予告ではなく、自分の行為が政権と国会多数派には「好ましい」ものとして受け止められ、権力からの同意と保護を得られるだろうという期待をこめたものだった。逮捕後も容疑者は「権力者に守られているので、自分は死刑にはならない」という趣旨の発言をしている。

もちろん、これは容疑者の妄想に過ぎない。けれども、何の現実的根拠もない妄想ではない。彼の妄想形成を強化するような現実が今の日本社会内部にはたしかに存在しているからである。

アナウンサーの長谷川豊は事件の直後の2016年9月に自身のブログに「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」というタイトルの記事を投稿した。これには批判が殺到し、専門医からも事実誤認が指摘されたが、この人物を日本維新の会は千葉一区から衆院の立候補者として擁立するということが先日発表された。

重篤な病人や障害者に対する公然たる差別発言にはまだ一定の社会的な規制が働いており、有名人の場合には、それなりの批判を受けて、社会的制裁が課されているが、在日コリアン、生活保護受給者やLGBTなどの社会的弱者に対する差別や攻撃の発言はほとんど何のペナルティもないままに垂れ流しされている。

際立つのが片山さつき議員で、生活保護受給者は「実質年収4百万円」の生活をしているという無根拠な都市伝説の流布に加担して、生活保護叩き発言を繰り返してきたが、最近も捏造投稿に基づいてNHKのニュース内容にクレームをつけて、生活保護受給者が社会福祉の「フリーライダー」だという世論の喚起に励んでいる。もちろん、本人がそう「信じている」という信憑の問題もあるのだろうが、「そういうこと」を公言すると選挙で票が集まるという現実的な打算も同時に働いているはずである。

アメリカではドナルド・トランプ大統領が「弱者叩き」の代表格である。「ラストベルト」のプア・ホワイトたちの輿望を担って登場したはずのトランプだが、就任後実施された政策は富裕層への厚遇措置ばかりで、移民排斥や、海外企業の国内移転への圧力などの「雇用対策」は今ここにいる社会的弱者のためには何の利益ももたらしてはいない。選挙公約だったオバマケアの廃止は、それによって2400万人が医療保険を失うという予測が公表されて、さすがに与党共和党も加担できず、改廃法案を撤回するという騒ぎになった。アメリカの有権者はそのような人物を大統領に選んだのである。

これはおそらく全世界的な傾向である。社会的弱者たちは、自己責任で弱者になったわけであり、いわばそういう生き方を選択したのだから、政府や自治体が、公金を投じて彼らを支援することは「フェアではない」というロジックは目新しいものではない。これはアメリカ社会においては「リバタリアニズム(libertarianism)」というかたちで、建国当初からつねに伏流していた考え方である。アメリカが世界に冠絶する覇権国家となり、その国の作法や価値観が「グローバル化」したことによって、アメリカ的な「リバタリアニズム」もまたグローバル化したということだと私は理解している。

「セルフメイドマン(self made man)」というのは建国以来、理想とされてきたアメリカ市民像だが、要するに誰にも頼らず独立独行で自己実現を遂げることである。「リバタリアン(libertarian)」というのは、その過激化したかたちである。

リバタリアンは、人間は自分の運命の完全な支配者であるべきであり、他者であれ公共機関であれ、いかなるものも自分の運命に介入する権利はないと考える。だから、リバタリアンは政府による徴税にも、徴兵制にも反対する。当然ながら、社会福祉のための原資の提供にも反対する。

ドナルド・トランプが徴税と社会福祉制度につよい嫌悪感を示すのは、彼がリバタリアンの伝統に連なっていることを示している。トランプは選挙期間中に対立候補から連邦税を納めていないことを指摘されて、「すべてのアメリカ人は納税額を最小化するために日々知恵を絞っている。私が連邦税を払っていないのは私が賢いからである」と述べて支持者の喝采を浴びた。これは別に露悪的な発言をしたわけではなく、ほんとうにそう思っているからそう言ったのである。彼に喝采を送ったプア・ホワイトたちは、自分たちとは桁が違う大富豪であるトランプの「納税したくない」というリバタリアン気質が「自分と同じだ」と思って、その発言に賛意を評したのである。

トランプは軍務の経験も、行政の経験もないはじめての大統領だが、それは軍務に就くことも、公共機関で働くことも、どちらもリバタリアンとしては「やらないにこしたことはない」仕事だからである。アメリカの有権者たちは彼の「公的権力を用いて私利私欲を満たすが、公益のためには何もしない」という態度がたいそう気に入ったのである。

今の日本で起きている「弱者叩き」はアメリカ原産のリバタリアニズムが日本に漂着し、日本独特の陰湿なしかたで退廃したものだと私は理解している。トランプのリバタリアニズムはこう言ってよければ「あっけらかん」としている。ロシアとの内通疑惑が暴かれたことによって、彼が「愛国者」であるかどうかについてはアメリカ人の多くが疑問を抱いているだろう。けれども、リバタリアンにおいて、愛国者であることは「アメリカ人的であること」のための必要条件ではない。国家や政府などというものは「ない方がいい」というのが正統的なリバタリアンの立場だからである。

けれども、日本では公的立場にある人間は「国よりも自分が大事」というようなことを(心で思っていても)口には出さない。仮に、安倍晋三が所得税を払っていなかったことが発覚したとしても、彼は「私は賢いから税金を払わずに済ませた」という言い訳をしないだろうし、その言い訳に喝采を送る有権者も日本にはいないはずである。日本ではリバタリアンも愛国的なポーズをすることを強いられる。

だから、日本では「リバタリアンでありながら、かつ愛国的」という奇妙な生き物が生まれてくる。現代日本に跋扈しているのは、この「愛国的リバタリアン」という(「肉好きのベジタリアン」とか「気前のいい吝嗇漢」というような)形容矛盾的存在である。

一方において、彼らは自分が獲得したものはすべて「自己努力によって獲得されたもの」だから、100%自分の所有に属し、誰とも分かち合う気がないと断言する。同じ理屈で、貧困や疾病や障害や不運などによって社会的弱者になった者たちについても「すべて自己責任で失ったもの」であるので、そのための支援を公的機関に求めるのは筋違いであると主張する。

ここまではリバタリアン的主張であるが、日本の「愛国的リバタリアン」はこれに愛国主義(というより排外主義、外国人嫌い(ゼノフォビア))をぱらぱらとまぶして、社会的弱者というのは実は「外国人」であるという奇妙な社会理論を創り出す。ここが日本のリバタリアニズムの独特の歪みである。

日本型リバタリアンによると、社会的弱者やあるいは社会的弱者を支援する人たちは「外国人」なのである。仮に血統的には日本人であったにせよ、外国渡来のイデオロギーや理説に「感染」したせいで、「外側は日本人だが、中身は外国人」になっているのである。

だから、社会福祉や教育や医療などの活動に公的な支援を求める組織や運動は本質的には「日本の国益よりも、彼らが忠誠を誓っている外国の利益に奉仕するもの」なのだという妄説が出来上がる。生活保護の受給者は多くが在日コリアンであるとか、日教組の背後にはコミンテルンがいるとか、朝日新聞は反日であるとか、沖縄県知事は中国に操られているといった類のネトウヨ的妄説はその典型的なものである。

語っている本人もさすがにほんとうだと思ってそう言っているわけではいないだろうが、それにもかかわらず、彼らが「反政府的な人間=外国人」というスキームに固執するのは、彼らにリバタリアンに徹底する覚悟がないからである。

リバタリアンであれば、話はすっきりしている。貧乏なのも、病気なのも、障害者であるのも、すべては自己責任である。だから、それについては他者からの同情や公的支援を当てにしてはならない。医療保険制度はいらない(医療は「サービス」なのだから金を出して買え。金がないやつは死ね)。公立学校も要らない(教育は「サービス」なのだから、金を出して買え。金がないやつは働いて学費を稼ぐか、有利子で借りろ)。社会福祉制度はいらない(他人の施しがないと生きていけないやつは死ね)と、ずいぶん非人情ではあるけれど、バケツの底が抜けたように「あっけらかん」としている。

しかし、さすがに日本では(心ではそう思っていても)そこまでは言い切れない。居酒屋のカウンターで酔余の勢いで口走ることはあるだろうが、公的な立場ではなかなか口にはできない。

その不徹底をとりつくろうために、日本的リバタリアンは「排外主義」的イデオロギーを装飾的に身にまとう。そして、貧乏人も、病人も、障害者も、生活保護受給者も、みな本質的には「外国人」であるという摩訶不思議な理説を噛ませることで、話のつじつまを合わせようとするのである。

相模原事件の植松容疑者はその意味では障害者支援をめぐる問題の本質をよく見抜いていたというべきだろうと思う。彼自身は生活保護の受給者であったが、その事実は「わずかな賃金を得るために、他人に顎で使われて、自分の貴重な人生を空費したくない」という彼のリバタリアン的な気質と齟齬するものではなかった。けれども、自分以外の生活保護受給者や障害者は彼の目には許し難い社会的寄生者に見えた。この矛盾を彼はどう解決したのだろうか。自分には公的支援を受けることを許すが、他人には許さないという身勝手な識別を可能にする境界線として最終的に彼が思いついたのは「私は日本人として日本の国益を優先的に配慮しているが、彼らはしていない」という「日本人/非日本人」スキームであった。

だから、植松容疑者がこれは「日本のために」したのだとか、「社会が賛同するはずだった」とかいう自己弁明を繰り返し、「国益を害するものたち」を「処分」する「官許」を首相や衆院議長に申請したことには論理的には必然性があったのである。彼は自分が「愛国的リバタリアン」という政治的奇形物であり、現在の日本の政界の指導者たちの多くが程度の差はあれ自分の「同類」だと直感していたのである。
http://blog.tatsuru.com/

http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/544.html#c153

[近代史3] 朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一 中川隆
1. 中川隆[-13244] koaQ7Jey 2019年1月02日 07:38:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22213]

本多勝一みたいに体制側に都合が悪い真実を明らかにするとこういう目に遭う

南京大虐殺や731部隊の人体実験を世に知らしめた本多勝一


貧困なる精神 第23集 本多勝一

本多勝一はサングラスで顔を見せないことを右翼に批判されるが、堂々と出ていって殺されたほうがいいのか。

例えばこれまでの革命家で堂々と出ていって素手で立ちはだかった馬鹿がありますか。(略)武田信玄にしろ徳川家康にしろ伊達政宗にしろ、あらゆる方法で暗殺を防いでいるでしょう。

私の場合子供にまで脅迫が来ました。
それでもう引っ越しちゃったわけですが、引っ越してからは子供の名前まで合法的に変えた。
http://turq.air-nifty.com/weblog/2012/07/post-9ac9.html


本多勝一ってどんな人?

素顔を見せない元スター記者
サングラスにアデランスのカツラ。これが本多勝一(七十一歳)が人前に.出る
ときの姿である。もちろん写真を撮られる時も必ずこの姿だ。

別に、変装・仮装が趣味なわけではない。朝日新聞の記者時代、一九七一年から連載した『中国の旅』で南京大虐殺を取り上げた後、右翼の脅迫が相次ぎ、家族にも脅しの被害が及びそうになった。

以来、「(記者は)名前は知られても仕方がないけれど、素顔を知られてプラスになることなど全くない」と、本多は公の場ではカツラとサングラスで変装し、「素顔」をさらさないようになったといわれる。町中ですれ違っても「本多勝一」と気付く人はほとんどいないだろう。「変装姿」が「実像」より知られている、日本では数少ない人物なのである。

若い世代はその名前すら知らないだろうが、朝日新聞のスター記者だった本多の名と著作を知らないジャーナリストはいない。「本多さんに憧れてジャーナリストの道を選びました」と言い切る三十代後半から四十代の新聞記者・雑誌記者は多い。彼らは本多を「日本一のジャーナリスト」として憧れ、尊敬し、同じ職業を選んだのだ。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/446.html


なぜ「証言」しないのか ―「加害証言」を拒む土壌―
 
 「南京事件」の実態を調べる時大きな壁になるのが、「加害証言」を世に出す困難さです。この点は、多くの研究者が共通して語る「常識」なのですが、掲示板等ではこれを理解せず、明らかに事実に反する「タテマエ証言」だけをタテに「日本軍の軍紀は正しかった」と主張する方が存在します。

 このコンテンツでは、「加害証言を拒む土壌」をテーマに、各研究者の調査体験、また実名証言を行った方々に対する圧力について見ていきます。

 まずは、各研究者の記述から、「聞き取り調査」の困難さに触れた部分を紹介します。

笠原十九司氏 『南京虐殺の記憶と歴史学』より

 しかし、現実には大きな障害があるのは、前述した兵士に南京虐殺の記憶を語らせない旧日本軍の特質と構造が現在でも機能しているからである。

 私はこれまで、南京戦に従軍した兵士の陣中日記の実物を見たり、存在を確認したりしたことが何回かあったが、いずれも本人あるいは家族が、公刊すれば予想される戦友会、旧軍関係者、南京大虐殺否定論者さらには右翼団体等から、脅迫まがいの圧力や嫌がらせがあるのを恐れて、公開や出版に反対された。

 公刊した場合「面倒なことが起こる」「厄介なことになる」「騒がれることになる」「まわりに迷惑がおよぶ」という拒絶の理由が、日本社会に厳然として存在する南京虐殺の記憶を「忘却」させるための構造を物語っている。

 南京虐殺の記憶を公刊したり、証言した場合、部隊の「身内の恥」を世間に漏らした、部隊仲間の逸脱行為を「内部告発」したとして、旧軍兵士たちの精神的な共同体である戦友会から排除され、村八分的な制裁を受けることが、公開、公刊を拒絶させる最大の要因として厳存した。
(『現代歴史学と南京事件』P32)

秦郁彦氏 『南京事件(増補版)』より
 秦の経験では、将校は概して口が堅く、報道、外交関係者は現場に立ち会う例は稀で、クロの状況を語ったり日記やメモを提供したりするのは、応召の兵士が多かった。その兵士たちも郷土の戦友会組織に属し、口止め指令が行きわたっている場合は、言いよどむ傾向があった。

 一九三七年十二月十五、十六日に実施された難民区の便衣狩作戦(第九師団の戦闘詳報には「七千余ノ敗残兵ヲ殲滅セリ」とある)を調査するため、実行に加わった金沢歩兵第七連隊の生存者に面談したときも、戦友会長経由だったせいか、なかなか率直な証言がとれず困った。
(同書 P281)


 


板倉由明氏『南京事件 虐殺の責任論』より
「歩兵第六十五聯隊 幕府山事件」より

 南京戦には限らないが、参戦者から情報を集める際に厚い壁を感じる「部隊」がある。その多くが、将校会や戦友会が「厚いカーテン」を下ろして情報を秘匿し、会員に圧力を加え、甚だしきは「妨害」をする。歩六五の場合がそうだという訳ではないが、筆者もその堅いガードには全く歯が立たず、平林貞治氏のように旧聯隊のスポークスマン的存在の人か、箝口令を憚りながら漏出する情報の断片を分析・総合せねばならなかった。
(『日中戦争の諸相』所収 P190)
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 そして、実際に実名で「加害証言」を行うとどういうことになるのか。二つの事例を紹介します。

1987年7月6日、京都府峰山町にて、元二十聯隊兵士3名(増田六助氏、東史郎氏、上羽武一郎氏)が共同記者会見を行い、それぞれ自分の陣中資料を提出しました。それに対する反応です。

「隠された聯隊史」より
 元二十聯隊関係兵士による記者会見は、大きな反響をまき起こした。
(中略)
 と同時に、記者会見にのぞんだ元兵士宅めがけて、奔流のようにいやがらせ電話、脅迫状が殺到した。電話番号はNTTに問い合わせたものだろう。脅迫状のあて先は「京都府丹後町」とだけあり、番地のないものが多かった。あらかじめ予想されてはいたが、それはすさまじいものであった。

 リ、リーン。受話器を取ると

「おんどれら、軍人恩給もろてるやろ。国に仇をなすようなことを、しくさって・・・恩給を国に返せ!」。

耳元にがんがんひびく大声で怒声をあびせ、五〜十分間をしゃべり続け、悪口雑言のかぎりをつくして一方的にがちゃんと電話を切る。名前をたずねても名乗らない。

 増田、東、上羽三氏宅の電話は、深夜まで鳴りっぱなしとなった。なかでも、膨大な手記・手紙類を公開した東史郎宅へ、

「おれは赤報隊のヤマザキや。首を洗うて待っとれ!」

など、口汚い脅迫電話は午前二時すぎまで続いた。赤報隊といえば、『朝日』支局襲撃事件で、犯行声明をマスコミに送りつけたことで知られる団体名である。七十台半ばの老夫婦は、まんじりともしないで一夜を明かした。

 増田六助氏宅には

「地元の報国同志社やけどな・・・全国の同志からようけ問い合わせが来とる。いったいどんな考えで記者会見なんかしたんや。聞かせてもらおか」

とドスの利いた声で右翼団体らしき団体名を名乗ってのいやがらせ。

「お前らみたいな兵隊ばっかしやから、日本は負けたんや・・・このアホめが」。
「七月二十八日(「平和のための京都の戦争展」開幕日)まで、身辺によう気ィつけておれ」

のおどしもあった。

 そしていやがらせ、脅迫の手紙。―

「あんた方は日本人ですか。それとも支那人(中共人)ですか・・・寝言をいっては極楽へ行ケマセンヨ。あんた方、日本人を売る売国奴の犬ですよ」(奈良・香芝町、大坪春香名)。

「としの70歳にもなって、もっと考えて死にぎわを迎えよ!!  バカヤロウ!! それでもお前は日本人か!! ・・・日本中の笑い者で、死にやがれ!!」

「英霊を冒?した罪は万死にあたいする。死ね!」

など、その数はざっと五十通。

「お前の家に放火してやる」
「見知らぬ者が近寄れば注意肝要、家族も皆同じ」

等々、直接行動をにおわせる通信も、あいついだ。ここにはとうてい紹介できない、下劣ひわいな文言を書きつけた投書もあった。

 東史郎氏は、その一々に返事を書き、投かんした。返書の多くは、一週間後に戻ってきた。脅迫状差出人のほとんどは、偽名であり、その住所はニセだったのである。
(「隠された聯隊史」P161〜P162)


 次は、「幕府山事件」についての体験を語った、栗原伍長への中傷です。

 発端は八月の末。社会部の電話が鳴った。電話の主は八月七日付朝刊二社面(東京本社発行最終版、以下本紙掲載日は同)で掲載した「元陸軍伍長、スケッチで証言 南京捕虜一万余人虐殺」の記事で取材し、紙面にも名前の載った東京都小平市の退職警察官(七三)だった。 だが、電話の向こうの声は最初からひどく震えていた。
 「まったくひどい。何とかしてもらえないだろうか」

 記事に載った証言は、鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」や防衛庁防衛研修所戦史室の「支那事変陸軍作戦<1>」などの「釈放途中に起きた捕虜の暴動に対する自衛的集団射殺」という定説を覆すものだった。

 電話の主は、この記事が出て以来、次々と「読者」からの封書、はがきが届いたが、これらの多くは中傷で、脅迫まがいのものもあるという。証言者の自宅へ出向いた。

「恥知らずめ、おぼえておけ。軍人恩給と警察官の恩給を返して死ね」
「貴様は日本人のクズだ!!」
「思慮の浅い目立ちたがり屋か老人ボケ」

 思いつく限りの悪罵を投げつけていた。

 もちろん、証言者を勇気づける手紙も何通かあった。「事実を述べられたこと(教えて下さったこと)の勇気をすばらしいと思います」(三十六歳の主婦)。勇気ある証言は次の証言につながってもいく。八月十五日付朝刊の「南京大虐殺、私も加わった」という神戸市の元上等兵(七五)の証言である。そして、この第二の証言者のところへも「お前はバカか、平和を乱すようなことはするな」という手紙や電話がきていた。

 こういった非難、中傷、脅迫の手紙は、新聞社にもよく来る。八月十五、十六日付朝刊の七三一部隊関連記事でも「資料はデッチ上げ」という投書があった。共通しているのは匿名ということ。
 
「子孫にウソを伝えぬために」

 元警察官が証言を思い立ったきっかけは、七月二十二日付朝刊社会面の「南京大虐殺、中国側が”立証” 犠牲者は三十余万人」の記事。

 「殺したのには殺した。それは事実だけど、中国側が言う三十万人、四十万人なんて数じゃない。どんなに多くても十万人以下だ。中国側の根拠や資料をうのみにするわけにはいかない。事実をはっきりさせるには、日本の側も、やったことははっきりと認めなきゃいけない。いつまでも”殺していない”とか”自衛のためだ”なんて言っているのはおかしい。ウソを子孫に伝えるわけにはいかない。あれにかかわったものは、私も含め、もう年だ。今のうちに本当のことを言っておかねば」(以下略)
(『毎日新聞』1984年9月27日朝刊第5面) 

*この「栗原証言」の内容については、K-Kさんのページで詳しく紹介されています。栗原氏の息子さんである「核心」さんによれば、

「結論から言うと、父の証言に関しては、毎日新聞の記者の方へのインタビューと本多勝一氏へのインタビューだけが任意でなされたものです。 
両記事のあとは脅迫手紙や脅迫電話が相次ぎ、また戦友や上官の方からも証言を取り消すようにとか、矮小化するようにとかの干渉が長い間なされています。
ですから、それ以降の父の証言と称する内容に関しては、全く任意性はなく、信憑性に欠けるものです」

とのことです。
 
 中傷者たちは、証言者の語ることが事実かどうかなどには全く関心を持たず、ただ、「日本の過去の悪行について発言した」というだけで、証言者たちを攻撃対象にしています。

普通の生活を営む市民の方であれば、このような攻撃により生活が破壊されることを覚悟してまで「実名証言」を行なおうという気には、とてもなれないでしょう。「実名証言でない」ことを批判する心無い方々には、ぜひ、以上のような状況を認識していただきたいものです。

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 次は、「証言しない人々」の「ホンネ」をかいま見れる事例です。「圧力」を怖れて公式の場では「証言」を拒む人々も、実際にはかなりの「加害」事例を知っていることをうかがわせます。

下里正樹氏「続・隠された聯隊史」より
 こんなこともあった。
 京都府船井郡在住の元機関銃中隊員に電話した時―。

 私は北山日記にある武進攻撃の記述「戦友たちが残酷なことをした話をしている」をあげ、私の身分を明かしたうえで、「残酷なこと」とは何だったのか、とたずねた。

 とたんに、受話器の向こうから猛烈な勢いで返事がかえってきた。

「そら戦争やさかいな、ようけあったわ。武進でわしが見たンは、家の中に隠れとった母親と姑娘やな。娘やってまえ! と(兵士が)手ェかけたら、母親が(服の)前をはだけよンね・・・

自分をナニして娘は助けてやってくれェと、まあこういうわけや。かまわん、二人ともいてこませ、いうて、真っ裸にして、五人(の兵)でかわりばんこにナニしてからに・・・

終わってからや、川のふちに連れていって、ニイコ(中国兵)の残していった手榴弾を二人の股倉に突っ込んで、ボン! いわせて、ほンならもう、へそから下がワヤになりまんが」

一気にここまでをまくし立て、

「ところであんた、どなたさん? 新聞関係の人? そらあかんワ。いまいうたこと、取り消しや。書かれたら、どもならん」。あとは何をたずねても「取り消しや、もうかんべんして」のいってんばりであった。
(P49-P51)

高崎隆治氏『戦争と戦争文学と』より
 とはいえ、あの戦争下にそれが風聞として一部の国民の耳に入らなかったということはあり得ないわけで、当時中学生であり生活範囲の狭かった私でさえも、横須賀に住む友人の口から友人の家に下宿している海軍の下士官の話として強姦について聞かれたことがある。もっともそれは、二、三人の下士官が酒を飲みながら話しているのを立聞きしたということで、友人の憶測も入っているようであったが、しかしそれはまぎれもなく上海戦線での強姦―というよりは海軍の下士官・兵による輪姦であった。

 そしてどうやら女性は殺されたらしいのだが、驚いたことに被害者は一人ではなく三、四人またはそれ以上の複数であったことだ。もちろん、アルコールが入っていたことで、下士官たちの誇張もあったのではないかと思われるが、正義を唯一の価値とする中学生にとってそれは言葉を失うほどの衝撃であった。

 ついでにもうひとつの話を手短かにつけ加えれば、戦争末期の学徒兵であった私は、ある夜下士官の一人と班内で話し込んでいたのだが、その時、少し離れた部屋の隅で、応召の上等兵が初年兵を集めて日中戦争時代の自慢話をしていた。

 部隊の年配の応召兵のほとんどは二度または三度目の召集で、その多くは南京戦に参加していたのだが、次第に調子に乗った上等兵はやがて身振りを交えて強姦の話を始めた。すると突然、私と話していた下士官が、
「T上等兵、つまらぬことをしゃべるな」
と怒鳴った。その下士官とT上等兵はかつての戦友だったのだが、上等兵が、
「おまえだって同じじゃねえか」
と斬り返すように言ったことで班内は騒然となった。

 上等兵は駆けつけた下士官たちに袋叩きにされ、その後まもなく転属になってしまったが、打ちのめされながらわめきつづけた上等兵の声はいまも私の耳に残っている。彼は同じ中隊の何人かの伍長や兵長の名を挙げて
「みんなやったじゃないか」
と叫んだのだった。

 ようするに強姦は彼等のタブーだったわけだが、上等兵がそのタブーを知らないはずはなく、また上等兵に名前を挙げられた者たちも、遂に最後までそのことに関してはしゃぺらなかった。

 しかし、学徒兵であった私は、かつての中学生の時のように驚きはしなかったが、日本軍兵士の少なからざる部分が南京戦でなにをやったかほぼ推測することができた。
(P56-P58)「「東京裁判」を読む」より


保阪(正康) くどいかもしれませんが、残虐行為があったのは事実だけれど、日本軍の全部じゃないということです。日本軍全体にすり替えちゃいけないと思うんです。「私はやっていません。私たちの部隊はそういうことをしていない」という人にたくさん会ってきました。

 一方、やった人の中でも「やってない」という人の言葉に依拠して脆弁を使っている人がいるんですね。ある部隊の隊長をやっていた人に取材したことがあるんですが、

「君、絶対言うなよ、書くなら俺が死んでから何年か後に書け。名前は出さんでくれ。子供や孫がいるから」

と言って、「やっぱりやった」と言っていました。

 やった事実を知っている人も表面上は「やってない」と言ってるんです。そのことが客観的な史実の検証を間違わせていると思うんです。それだけに本当にやっていない人たちのこともきちんと調べて書き残さなければならないと思います。(P306)
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/shougen.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html#c1

[近代史3] 南京大虐殺、南京での組織的略奪とその隠蔽は昭和天皇が直々に命令して実行させた?

南京大虐殺、南京での組織的略奪とその隠蔽は昭和天皇が直々に命令して実行させた?


昭和天皇の身代わりになって処刑された松井石根

ついに本当の事は言えませんでした:

「南京事件ではお恥しい限りです。南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も
一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。

 私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などを比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。
政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、
当時とは全く変っておった。

 慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。 甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。

 従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」
http://www.geocities.jp/yu77799/gunjin.html#matuiiwane


キーナンは、自分が技巧的に追及してきたその判決を聞いた日の夜、
彼の切り札証言人、田中隆吉と一杯飲みに外出した。彼は酔いにかまけつつ、

「馬鹿げている、まったく馬鹿げた判決だ」と口にした。彼が最も反対してきた判決は、
松井――南京攻略の際、その命令が悪用された痛ましい小柄な大将――の死刑だった。

 公正は私に、被告に有罪を決定する際、天皇の免責について再考するよう、求めている。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm



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鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、

「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」

ちゅう命令やった。

天皇陛下の命令やと言ったな。

当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。


沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。
つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
 南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。

反日の根拠地というので、南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。

するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。

とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。

命令が出てなかったらこっちはしませんよ。北支の戦争では
「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。
だから北支は戦争しにくかったです。

 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。
それももちろん命令があったからです。皆伝え聞いて分かっていました。
中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。

その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。
http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/gyakusatu.html

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戦後、蒋介石政府は、中島の第16師団と、「阿修羅」との名をもつ谷の第6師団を、南京攻略の際に39万人の生命を奪った罪で告発した

中国軍の退却が始まった後も、前線の日本軍師団はその追撃の手を緩めなかった。東京の参謀本部は、地図上に線を引きながら、そこが進攻の止まる停止線と発表し、欧米の報道陣に一大ショーを披露していた。

その線上で、兵員は再編成され、天皇よりの秘密指令を受け取るやいなや、ふたたび行動を続けた。

だが、そうした命令の存在は、1964年に、退役した大将たちのグループが本を出版するまで、公表されることはなかった。

 当時、外国人報道陣向けに、前線にいる兵士たちはもはや手に負えず、統制がとれなくなっている、との印象が意図的に作られていた。

だが真実は、兵士たちは大本営が皇居で設立され、自分たちの行動が神的な天皇自身によって監視されていることを知っていたため、それほどに周到で従順な兵は、かっていなかったことである。

 最初の停止線は、揚子江デルタを横切り、11月4日に引かれた。11月24日に、すべての師団がそこに到着した時、天皇の命令(45)により、それは解除された。

参謀本部は、同じ日、80キロ西方に、第二の停止線を設定した。裕仁は、非公式には三日後に、公式には七日後にそれを解除した。

 松井にあてた最初の電報(48)はこう告げていた。

 南京攻撃への一致した決定を得るべく、当本部の面々は着実な議論に取り組んでいるが、最終決定にはいまだ至らず。ともあれ、決定は間近であるので、安心されたし。
 松井のもとの参謀将校たちにあてた、第二の、極秘、至急電報(49)はこうなっていた。

 余は、余の最高幹部の決定いまだ得ずとも、当本部の核心は南京攻撃に傾注しつつあり。しかるに、これを理解し、予断を打ち捨て、前進計られたし。

 ここに言う「当本部の核心」とは、電報を打った下村少将を別にして、天皇裕仁のみであった。また、「最高幹部」とは、もちろん、苦闘する多田中将のことである
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1.htm


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南京大虐殺は中国からの財宝略奪をカモフラージュする為だった?


日本兵は、川岸における毎夜の鬼畜な任務にあたらされる一方、昼間、盗みに使用された。南京に居た米国人教授の一人、社会学者のルーイス・スマイスは、略奪は隠れた事業として始まったという。

「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。

そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。

三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1c.htm


日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。 そして一般人からも奪った。

一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。
この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。

略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった.

どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、
酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。 しかし、これは偽情報である。

 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。

日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには
無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。
彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。

日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。
麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。

 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。
今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。 それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、
フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。 なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか?

 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は
一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。
読者がお気づきのように、これは真実ではない。

天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。 ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


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南京強奪の不気味な作戦は、1937年8月15日に開始されるべく、すでに着手されていた。

その日、松井岩根大将――戦犯を祀る熱海の神社の女神官と親族であり、「南京の虐殺者」と歴史上に名を残すこととなる男――は、天皇裕仁に召喚され、宮中へと向かっていた.

その前日、松井には近衛師団長より通知があり、裕仁が中国での命令を彼に与えようとしていることを知た。それは、彼にとって大きな名誉で(10)、その召喚に直ちに応じた。

松井は、中国との友好の主唱者であったので、彼にとってこの召喚はことのほかの喜びであった。ほんの二ヶ月前には、中国との全面戦争を避けるための工作を計画していた(11)。彼はそれを知らなかったのだが、特高警察の報告により、その件は天皇のもとにも届いていた.

突然に天皇が姿を現した。松井は、めまいを感じながら、深く頭をさげ、光栄であることを表し、さらに、日本の計画をめぐって、中国人に用いられなければならない平和的方法についての自身の信念について説明を始めた。

裕仁は理解したかのようにうなずき、上質紙の公式書類を広げた。松井を一瞥し、天皇は、その甲高い声でそれを読み始めた。近衛師団長よりそっとつついて促され、松井はそこにひざまづいた。裕仁は彼に、華中日本軍司令官を命じ、彼の新たな命令を象徴する司令杖をさずけた。

二日後の中国への出発の前夜、東亜連盟の役員たちによって壮行会が開かれた席で、松井大将はこうあいさつしていた。「私は前線へ敵と戦いに行くのではありません。わが兄弟と和する志をたずさえて行くのです」。

9月の初め、裕仁は、宮中内部に人的配置計画を彼独自で監視できる大本営(17)の設立を要求した。その役務が天皇の出席――神の存在――においてなされるという、この組織の人員構成と原則は、当然にその正体を物語っており、この大本営の存在は、11月半ばまで、明らかにはされなかった。裕仁は、一部、上海の情勢の行き詰まりを、一部、9月初めに参謀本部への彼の指示が、作戦部の部長、石原莞爾少将の書類入れのなかで眠らされていたことを理由として、その設置を主張した。

鈴木は、裕仁が最もよく知り、最も信頼をおいた2、3人の若い軍人の一人であった(25)。鈴木は、南京の強奪を、京都にある第16師団本部の机上より、無線によって管理監督した。

彼はおそらく、その机上作業を、飛行機による前線との間のすばやい往復で補強していただろうが、彼の視察の回数と頻度についての〔東京法廷での〕証言(26)は、混同かつ矛盾していた。彼は、30年前、東京の参謀大学時代以来、蒋介石を知っており、過去何回か、裕仁の私的密使として(27)、蒋介石のもとへ出向いていた。加えて、彼は陸軍の経済面の指導的な専門家でもあった。

つまり彼は、二重の役割を果たす能力を備えていた。ひとつは、南京強奪が進行中、蒋介石と近衛首相との間の秘密の無線交渉における仲介者の役を演じており、他は、侵攻のコストのみかえりとして、南京での組織的略奪を行うその第16師団を指揮していた。


上陸後の三日間で、第6師団は、上海郊外へ向かう64キロの行程うちの40キロを、焼き払いそして爆破して進んた。そして三日目には、松江〔スンチャン〕の町を占領した。9週間後、ある英国の特派員は、松江に何が残されているかをようやくにして目撃することができた。そしてこう書いている。「建物は焼き尽くされ、残っている建物はほとんどない。くすぶる廃墟やひとけのない通りは、薄気味の悪い雰囲気を漂わせている。目に入る生き物といえば犬のみだが、死体を食って異様に太っている。およそ十万人が住む人口密度の高い松江だが、私が見たのはたった5人の中国人で、フランスの教会施設に涙ながらに隠れていた。」

華北から派遣されてきた「黒い」艦隊の16師団は、夜陰に乗じて揚子江河口をさかのぼり、パイモウ入江という、トーチカ線のちょうど背後の、中国軍の北の弱点に上陸した。海路を使った日本軍の挟み撃ち攻撃の「黒」側は、その勢力では敵と互角であった。かくて、南京の処刑係が到着することとなった。

この新師団は、京都の例の鈴木によって指揮されており、前線では、中島今朝吾〔けさご〕中将――55歳、小さなヒムラーといった男で、思想取締り、脅迫、拷問の専門家――がその指揮者だった(39)。この中島が、南京虐殺をめぐるその細部の監督に当たろうとしていた。

戦後、蒋介石政府は、中島の第16師団と、「阿修羅」との名をもつ谷の第6師団を、南京攻略の際に39万人の生命を奪った罪で告発した

中国軍の退却が始まった後も、前線の日本軍師団はその追撃の手を緩めなかった。東京の参謀本部は、地図上に線を引きながら、そこが進攻の止まる停止線と発表し、欧米の報道陣に一大ショーを披露していた。

その線上で、兵員は再編成され、天皇よりの秘密指令を受け取るやいなや、ふたたび行動を続けた。

だが、そうした命令の存在は、1964年に、退役した大将たちのグループが本を出版するまで、公表されることはなかった。

 当時、外国人報道陣向けに、前線にいる兵士たちはもはや手に負えず、統制がとれなくなっている、との印象が意図的に作られていた。

だが真実は、兵士たちは大本営が皇居で設立され、自分たちの行動が神的な天皇自身によって監視されていることを知っていたため、それほどに周到で従順な兵は、かっていなかったことである。

 最初の停止線は、揚子江デルタを横切り、11月4日に引かれた。11月24日に、すべての師団がそこに到着した時、天皇の命令(45)により、それは解除された。

参謀本部は、同じ日、80キロ西方に、第二の停止線を設定した。裕仁は、非公式には三日後に、公式には七日後にそれを解除した。

 松井にあてた最初の電報(48)はこう告げていた。

 南京攻撃への一致した決定を得るべく、当本部の面々は着実な議論に取り組んでいるが、最終決定にはいまだ至らず。ともあれ、決定は間近であるので、安心されたし。
 松井のもとの参謀将校たちにあてた、第二の、極秘、至急電報(49)はこうなっていた。

 余は、余の最高幹部の決定いまだ得ずとも、当本部の核心は南京攻撃に傾注しつつあり。しかるに、これを理解し、予断を打ち捨て、前進計られたし。

 ここに言う「当本部の核心」とは、電報を打った下村少将を別にして、天皇裕仁のみであった。また、「最高幹部」とは、もちろん、苦闘する多田中将のことである
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1.htm

残忍な部隊が南京に接近している時、松井大将は、揚子江デルタの蘇州〔サンチョウ〕の前線本部で、結核の熱のため、寝たきりでいた。

またその5日前の12月2日、天皇裕仁は、松井の責務から、前線部隊の人的監督を除いて安心させ、華中方面の総司令官へと格上げした。そして南京地区軍の司令官としての松井の地位に代わって、裕仁は、自分のおじ、朝香宮〔あさかのみや 鳩彦〕を任命した。


朝香宮の前線への任命は、他のいかなる権威をも超越する天皇の意向によるもので、病床にある松井大将の指揮権はまさに蹂躙されようとしていた。彼は部隊を引き上げ、南京の城壁の外3、4キロの場で、三集団に再編成するよう命令した。

それは、城市内に進駐するのは、統制のとれた数大隊に限り、占領が「中国人の目にも輝かしく、日本のもとでも安心できると思わせる」ように、実行されるためであった(55)。

そして彼は、彼の管轄下の将校を蘇州の病室に呼び、通常の指揮としては極めて異例な以下の命令書を手渡した。

 帝国陸軍の外国首都への進入は、世界の耳目を集める、わが国の歴史における偉大な出来事である。しかるに、秩序を乱す部隊は、市内に進ませない。城市内に入る部隊は、この目的に沿って、所轄の師団司令官によって特別に選別されたものとさるべきである。そうした部隊には、留意すべき事項と、城市の人々の権利と利益の地位保全が前もって通知される。それらは、略奪者とはまったく縁のないものにさせなければならない。必要に応じ、見張り兵が配置される。進入部隊とともに、多くの憲兵、補助憲兵を城市内に入れ、これをもって不法行為を予防する


朝香宮は、彼の判を押し、「極秘、破棄せよ」と付記した一連の命令を発した(60)。それは単に、「すべての捕虜を殺せ」とあった。中国軍兵士は、姿勢の変化を察知し、南京の城壁内へと逃げこみ始めたが、少なくとも、四分の三の兵士が、もう一日、生きて戦った。残りの七万五千人は、南京城市内部に閉じ込められ、実質上、この首都強奪を目撃した欧米の観察者による犠牲者の統計に加わった。
 朝香宮の諜報参謀の中佐(#)は、その「殺せ」という命令を自ら率先して偽造した〔訳注〕、と友人に告げている。もしそうだとすれば、彼が軍法裁判にかけられなかったことが注目されるが、1945年6月、沖縄の洞窟壕で中将として死ぬ〔自決〕まで、軍人としての経歴をまっとうした。

 (#) 長勇(ちょう いさむ)。さかのぼる1931年、宮中の支援のもと、二件の擬似クーデタ〔1932年の三月(血盟団)事件と5.15事件〕の組織を助けた。これにより、情勢は混沌と化し、満州征服に伴う国内政治の危機の〔軍部主導による〕沈静化をもたらした。

 〔訳注〕 この命令の作成にあたり、松井総司令官はそれを制止しようとしたが、長中佐がそれを無視したらしい。

天皇のおじ、朝香宮の命令は、すべての捕虜を殺せという厳格なものであった。

南京を占領する、武藤、中島、朝香宮によって解放された8万余りの兵士は、勝手にできる場では、強姦、殺人、略奪、放火を重ねた。上官の指揮のもとにある場合でも、酔っ払ったり規律を無視して見境なく行動したが、それも組織的であった。こうして南京の虐殺は、中島が南京に入った12月14日より始まり、6週間それは続いた。そして、世界中からの抗議にも拘わらず、近衛宮が裕仁に、もはや蒋介石を失権させる以外に希望はないと認めるまで、それは止まなかった。

日本兵は、川岸における毎夜の鬼畜な任務にあたらされる一方、昼間、盗みに使用された。

南京に居た米国人教授の一人、社会学者のルーイス・スマイスは、略奪は隠れた事業として始まったという。

「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。

そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。

三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。

 そうした犯罪においてことに南京が銘記されることとなったのは、12月15日の同じ日、それが組織的遊戯と化したことだった。言葉達者な将校に率いられたトラックが、安全地区の難民避難所を回り、「尋問」との理由で、若い女性を満載して運び去った時、集団強姦が始まった。いくつかの場面では、兵士たちが、女性がトラックに載せられる前から公衆の面前で強姦におよぶにいたって、それが口実と早くも露呈してしまっていた。

教育があったり、あるいは美貌の女性は、通常、それぞれの獲得物から選りだされ、大佐や大将のハーレムにおいて、質の異なる者らのために仕えさせられた。だが、そうと違って運に恵まれぬ女たちは、兵士たちが宿泊する公共施設や公会堂などに運ばれた。多くは、一晩に十人とか二十人とかの男に強姦され、翌朝に解放されたが、後日、幾度も他のトラックにより呼び戻された。多くは暴力を振るわれ、そのあげくに殺された。

未熟な少女は、そうした虐待に我を失い、まもなく命を絶っていった。気丈夫な人妻たちはしばしば、小隊あるいは隊全体の奴隷として使われ、昼間は洗濯をさせられ、夜は売春婦としての役目を負わされた。多くの若い女性は、ただベッドに縛りつけられ、あたかも永久の付属物かのように、やってくる者だれもの利用に供された。そして、彼女らが、欲望を果たすには余りに泣きくれたり病気であったりすると、すぐさま処分された。路地や公園には、その死後、切り刻まれたり詰め物をされるなどの屈辱を受けた、いくつもの女性の死体が放置されていた。


凱旋入城

 12月17日金曜日の朝、南京の大虐殺は、小男、松井大将の凱旋入城の式典のために、その度がゆるんでいた。慢性結核のぶり返しのため熱を出していた松井は、海軍のランチで川を遡上し、車に乗り換え、市の東側にある三重のアーチを持つ、損傷した中山門付近へ到着した。

パレードに参加していた兵士の奇声や外見、そしてホテルでの宴会で耳にした言葉などから、松井は、南京で何が起こっているかについて、深い疑念を抱いていた。選ばれた数大隊のみが市内に駐留せよとの彼のことさらの指示は、まぎれもなく無視されていた。彼は晩餐を早めに切り上げて、参謀会議を招集した。参加していた将校によると、彼は中島と武藤をしかりつけ、すべての不必要な部隊を市から出すように命令した。宿営担当の武藤は、農村地区に新たな宿泊地を設けることを言明した(116)。

 翌朝、メトロポリタンホテルで目を覚ました時、松井は憂鬱な気分にとらわれていた。彼の民間人補助役のひとりからその理由を聞かれた松井はこう答えた。「我々が知らないうちに、この都市で、もっとも許しがたいことを成してしまったことを、私はここで覚らされた。南京から避難した多くの中国の友人の気持ちや心情、そして両国の将来をを考える時、私は落胆を禁じえない。私は非常に孤独で、この勝利を祝賀する気持ちになぞ毛頭なれない。」(117)

 その朝の記者会見の場においても、彼は義務的に東京の立場を口にしたが、大言壮語の中に、悲嘆の表現を忍び込ませていた。「将来の我が軍の作戦は、蒋介石と国民政府のとる姿勢に全面的にかかっている。私は個人として、人々がこうむった悲劇を申し訳なく思う。我が軍は、中国を悔やませるようなことを続けてはならない。今は冬だが、この季節は熟考の時間を与えている。私は私の弔意と深い同情を、百万の罪なき人々にささげる。」

彼が市を去るやいなや、残虐行為は再び開始された。

上海にあって松井は、南京で毎日繰り返されているさらなる残虐行為について耳にしていた。彼は、それを止めさせる力のないまま、朝霞宮の評判について「いたく憂慮」していた。朝香宮が市内に移ったクリスマスの日、松井は、ニューヨークタイムスの特派員、ハレット・アベンドによるインタビューの中で彼の懸念を表し、同記者には、松井が「感じよく」また「痛ましい」人との印象を与えた(132)。ニューヨークタイムス紙の記事を通し、天皇裕仁へのその間接的懇願にかすかな希望を託して何らかの良き結果期待し、そして松井は、その翌日、朝香宮の参謀に以下のような文書を送った。

 「不法な行為が行われているとのうわさがある。・・・ことに、朝香宮が我々の司令官であるからこそ、軍紀はいっそう厳密に守られなければならない。誤った行為を働くものは、いかなる者といえども、厳しく処罰されなければならない。」(133)

 新年の乾杯の席で、松井は、私見としてある日本人外交官にこう語った。「私の部隊が、とてつもなく悪く、きわめて遺憾なことを行ってきている。」(134) 後年、部隊は言うこときかなくなり、凶暴化したのか、との質問に対しては、「規律は良好だが指導と行いがよくないと考えた」、と答えている。


1946年より1948年までの極東国際軍事法廷で、各国より選抜された判事による二年間の審問によって認められた数字によれば、最終的には、南京では、2万人の女性が強姦され、市の民間人の少なくとも四分の一に相当する、二十万人以上が殺された(###)。市の三分の一は(137)火災によって灰燼と帰した。価値あるもののすべては廃墟から搬出され、日本軍の倉庫に納められた。

南京での犠牲は、明らかに、偶発的なものではない。十万人の人が二十万人を殺すことは、不注意や、酒酔いや、違法行為があったとしても、容易になせることではない。

しかし、世界中からの抗議にも拘わらず、当時の日本政府によって、そうした犯罪者の誰も、何の処罰も受けなかった。戦地における部隊が狂暴となり、それには手の施しようがない、というのが東京の公的見解であった。

しかし、いったん南京から兵の帰還が始まると、その多くはそれとは異なった見方――彼らが見、そして行った、胸を悪くする話――を語った。「強姦と強盗以外に軍隊で学んだことはない」とか、ただ機関銃の効果を試すために捕虜を撃たなければならなかったとか、中国女の扱いについて、上官から「ことをすました後は、金を払うか、辺鄙な場で殺すか、とちらかにせよ」と命令されたとか、と苦言をこぼした


南京陥落の日、天皇裕仁は、皇后の大おじで陸軍参謀長の閑院宮に、「極めて満足」と表現し(143)、また、閑院宮は、松井大将に祝電を送り、「これほどの目覚しい軍事的進展は歴史上かってない」と述べ(144)、さらに、一月末、ファシスト的な皇后のいとこ賀陽宮は、南京から戻って天皇に、その地で見てきたことの全面的報告をし、そして、ひと月後の2月26日、天皇裕仁は、葉山の御用邸に、熱のある松井、王侯然たる朝香宮、そして熱血漢の柳川を迎え入れ、それぞれに銀の台に菊の紋を浮き出させた一対の勲章を授与した、ということである(145)。

 裕仁は、これらの戦争犯罪人のいずれにも、名誉を与えこそすれ、その一人をも処罰せず、今日まで、血縁、朝香宮とともに、温情厚く、生きてきている。

 そのすべての責めを一身に担ったのが、結核病みの小男、松井大将であったのは、南京における最大の逆説である。

彼は、熱海の神社に祀られている他の六人とともに、極東国際軍事法廷にかけられた。同法廷の15万ページにのぼる記録には、本章で見てきたように、その強奪における松井にかかわる論旨が発見できる。だが、松井がその強奪の秘密の命令を出したとの証拠は、そのどこにも見当たらない。その告発にあたった連合軍の検事も、決して松井の誠意について問責しておらず、一つの嘘をも指摘していない。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1c.htm

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1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。

 同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【原文では”tairiki ronin”となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【原文”Banda Verde”で「緑色の集団」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者】の中国人の首領たちと手を組んだ。

いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機(秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相)、星野直樹(アヘン独占販売の長)、松岡洋介(満鉄の総裁)そして鮎川義介(日産の統括者)【本文では”Aikawa Gisuke”となっているが音訳のミスと思われる:訳者】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。

 彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段(身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など)でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「黄金の百合作戦」である。

 その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。

 この『反共』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。

 裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。

中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統(3)と会談するためにニュルンベルグへ向かった。

 米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者】

 この最後の者【朝香宮を指す:訳者】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。

 婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。(4)

 軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート(会計士、財務の専門家など)、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。(5)

東京裁判は、スケープゴートを絞首刑に処することで終わった、全くのペテンである。南京の虐殺の首謀者である朝香宮は、松井将軍が加わってもいない犯罪のために絞首刑台に送られた一方で、起訴すらされなかったのだ。

 マッカーサーの偉大なライバルである山下も、マニラ市民の虐殺の罪を問われて同様の運命をたどった。東条将軍は戦争の第一責任者の罪を負わされて天皇裕仁の代わりに責任を取らされた。
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/768.html

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2018.12.03
精算されていない日本の過去(1/2)

 第2次世界大戦中、日本は占領した東アジアの国々で人びとを強制的に動員して働かせた。徴用工だ。日本では1938年に国家総動員法が制定され、翌年に公布された国民徴用令によって厚生大臣は強制的に人員を徴用できるようになった。


 この仕組みを国外で外国人に適用すれば国際問題になる。韓国との問題では1965年の日韓請求権協定で解決したことになっているが、日本側も個人の請求権は消滅していないことを認めている。韓国の大法院もそのように判断、日本の企業に賠償金の支払いを命じたわけだ。


 日韓請求権協定自体の問題を含め、日本の過去は清算されていない。アメリカ支配層の力を借りて封印してきただけである。アメリカの力が弱まったことで、問題が表面化してきたと言えるだろう。韓国は何年も前からロシアや中国との関係を強め、アメリカから離れつつある。アメリカの属国である日本に気兼ねするような状況ではなくなってきたのだ。


 本ブログでは何度か書いたことだが、日本軍は東アジアの占領地で財宝を組織的に略奪している。「金の百合」だ。


 アメリカ人ジャーナリストのスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、プロジェクトが始まるのは日本軍が南京を攻略した1937年。政府が保有する資産を奪うだけでなく、銀行や裕福な家に押し入って金や宝石などを略奪したという。財宝を探し出すため、憲兵隊は目をつけた家の娘を誘拐することもあったという。娘と引き換えに、隠した財産を差し出すか近所や親戚の財産に関する情報を教えろというわけだ。貧しい家の娘は売春宿に連れて行かれたともシーグレーブ夫妻は主張している。


 この南京攻略戦に参加した少なからぬ日本軍の将兵が陣中日記の中で軍命によって捕虜を射殺したと記録しているが、個人的な略奪、殺戮、レイプなどもあったようだ。


 この作戦当時、特務機関員として活動中だった中島辰次郎は、南京市内で「虐殺」と呼べる出来事があったことは間違いないと明言、総数はわからないとしたうえで、死体が山積みになった光景を見たと話していた。(筆者自身の取材)


 また、支那派遣軍の岡村寧次総司令官が「大暴行があたのは事実」と書き残しているほか、外務省の石射猪太郎東亜局長は「南京に於ける我軍の暴状」の報告に「目もあてられぬ惨状」と書かれていたと日記に記している。中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将は師団長クラスの退廃ぶりを嘆いていた。


 南京攻略は形式上、松井石根が最高指揮官なのだが、実際は朝香宮鳩彦、昭和天皇(裕仁)の叔父にあたる人物だったと言われている。


 スターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、「金の百合」を指揮していたのは天皇の弟である秩父宮雍仁で、その補佐をしていたのが天皇の従兄弟にあたる竹田宮恒徳だという。秩父宮は駐日アメリカ大使だったジョセフ・グルーと親しい。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812030000/


2018.12.03
精算されていない日本の過去(2/2)


 日本軍が中国など大陸で略奪した財宝はフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれる手はずになっていた。実際、一部の金塊は東京にあるスイス系銀行、マカオにあるポルトガル系銀行、あるいはチリやアルゼンチンの銀行に運び込まれたという。(Sterling & Peggy Seagrave, “Gold Warriors”, Verso, 2003)隠し場所として、さまざまな場所の名前が挙がっている。


 ところが戦況の悪化で輸送が困難になり、相当部分がフィリピンの山の中に隠された。日本の日本の敗戦が決まった当時、フィリピンを担当していた日本軍第14方面軍の司令官が山下奉文大将だったことから隠された財宝は「山下兵団の宝物」とも呼ばれている。その山下は1946年2月にマニラで処刑された。


 アメリカの情報機関は戦争中から「金の百合」に関する情報を持っていて、日本が降服するとすぐに回収工作を始める。関係者への尋問は戦時情報機関OSSのエドワード・ランズデール大尉(当時)が指揮した。後に対キューバ工作を指揮、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺でも名前が出てくる人物だ。


 OSSが廃止になるとランズデールはチャールズ・ウィロビー少将が率いるフィリピンのG2(アメリカ陸軍の情報部門)へ配属になり、尋問を続ける。財宝のありかを聞き出したのはランズデールの部下だったセベリーノ・ガルシア・ディアス・サンタ・ロマーナだ。


 その情報は東京やワシントンDCに伝えられる。その際、ランズデールはハリー・トルーマン大統領の国家安全保障を担当していたスタッフにも会っている。


 この報告を受けたヘンリー・スティムソンは財宝をアメリカの国際戦略に利用しようと考える。1945年9月21日までスティムソンは陸軍省(戦争省)の長官で、その下にはジョン・マックロイやロバート・ラベットなどウォール街の大物がいた。


 アメリカの支配層が手に入れた略奪財宝は「金の百合」以外にもあった。ドイツ軍がヨーロッパで略奪した「ナチ・ゴールド」だ。ジョン・ロフタスとマーク・アーロンズによると、ナチスがヨーロッパで略奪した資金はOSS長官だったウィリアム・ドノバンが1946年に設立したWCC(世界通商)でロンダリングされ、タイへ運ばれたという証言もある。(John Loftus & Mark Aarons, “The Secret War against the Jews”, St. Martin’s Press, 1994)


 WCCをドノバンと共同で設立したのはイギリスの対外情報機関MI6の下部組織、BSC(英国安全保障局)の責任者だったウィリアム・ステファンソン。WCCの後ろ盾にはネルソン・ロックフェラー、ジョン・マックロイ、シドニー・ワインバーグ、ビクター・サッスーンも含まれている。(Peter Dale Scott, “American War Machine”, Rowman & Littlefield, 2010)


 「金の百合」と「ナチ・ゴールド」は統合され、「ブラック・イーグル・トラスト」と呼ばれる秘密の基金が創設されたとも言われている。こうした秘密資金がアングロ・サクソンの世界支配に利用されたということになる。


 「金の百合」に関する情報は1980年代の後半から流れるようになった。切っ掛けはフェルディナンド・マルコスの失脚。1983年8月にマルコスのライバルだったベニグノ・アキノが空港で射殺され、マルコスに対する抗議運動が激しくなり、それを利用してアメリカ軍がマルコスを拉致したのだ。国外へマルコスが出ると財宝に関する裁判が起こされ、情報が漏れ出てきたのだ。


 マルコスは1954年にイメルダ・ロムアルデスと結婚しているが、ふたりを引き合わせたのはランズデールの部下だったロマーナ。ロマーナはイメルダと親しかったようだ。マルコスは日本軍が隠した財宝の一部を掘り出し、それを資金源にして大統領というポストを手に入れたと言われている。


 ロナルド・レーガンが大統領に就任した直後、マルコスはブラック・イーグル・トラストに関して沈黙を守る代わりに援助という名目でフィリピンにカネを回すようにアメリカ政府へ要求した。つまり恐喝だ。当然、アメリカや日本の政府は警戒するようになる。それがマルコス失脚の原因だという。


 詳細は割愛するが、アメリカが日本の過去を封印する手助けをする理由のひとつは略奪財宝にあるだろう。日本の過去を本当に精算しようとすれば、アメリカが大戦後に築いた世界支配の仕組みが明らかになる。日本の場合、薩摩と長州が徳川体制を倒した明治維新から現在に至るまでの歴史も見直さなければならなくなる。本ブログでは何度も書いてきたが、血盟団や二・二六の将校が何を見、なぜ怒ったのかを理解する必要もある。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812030001/

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私が会った皇室家族の二人は、私との会話に、1926年からの日本の支配者、裕仁天皇についての、いくつもの物語を滑り込ませていた。こうした物語は、印刷物として報じられたことはなく、私は最初、皇室内のゴシップとして聞き流した。
しかし、後にその全体の文脈で見ると、そこには取り上げるべき重要さが潜んでいた。

たとえば、真珠湾攻撃の夜、裕仁がマラヤからの短波放送を聞いていたとか、
彼はかって、息子をもつため、人工授精による出産をおこなっていたとか、
彼の誕生は、一般に言われているより一年早かったとのうわさがある、などなどである。


 こうした話から私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。

彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。

彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。

1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。

彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、
彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。

また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、
そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。

また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、
ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。

裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。

 裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。

彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。

当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。

そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。

 それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。

 こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。

私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。

 こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。

終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。

私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。

その年の一月、私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。

それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。

それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。

 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。

それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。

 『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。


国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。

私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。

欧米の歴史家は、日本人をえがくにあたって、集団ヒステリーの産物という考えでもってあまりに懲り固まっているようだった。

日本経済の記録は、そうした思い込みが誤りであることを示している。わずか一世紀昔の1868年、日本の経済発展は、1485年にヘンリー七世が王座にあった英国に相当すると見られていた。

過去一世紀の変貌は、常軌を逸した不可解な人々によって成し遂げられたのではなく、もっとも勤勉で知的な人々によってなされたのである。

私は、これまでの生涯、日本人に畏敬とそれを知ることの喜びを感じてきた。日本の指導者たちが、欧米の指導者たちと同様に、極めて賢い人たちであるということは、この著作の基本的前提である。

1945年、連合軍がドイツを制圧した際、何百万ページもの国家文書が発見された。これに対し、連合軍が取り決められた日本の占領を始めた時、戦争終結からまだ2週間しかたっていないにもかかわらず、アメリカ人の手に入ったもので、何らかの重要性をもつ文書は、日本人によって自発的に提供されたものであった。

1937年より1945年まで皇居において天皇が議長を勤めて行なわれた天皇本部の会議議事録は、すべて焼却されたと言われている。陸軍参謀本部、海軍参謀本部、特高警察のファイル類の大半も、同様であった。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm

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元首相で事件当時外務大臣だった広田弘毅は南京大虐殺を止めさせる為に奮闘したが…

日本の広田弘毅外務大臣が1938年1月17日、東京から米国の日本大使館に発信した機密電報だ。米国はそれを解読していた。 (実際には広田自身ではなく、『マンチェスター・ガーディアン』の記者ティンパリーが書いたニュース)

電文の内容は

「数日前、上海に戻り、日本軍の南京とその他の一部地方での残虐行為に関する報道について調べた。信頼できる目撃者が直接数えた、また信頼度の極めて高い一部の人の書簡にもとづけば、それは十分に証明できるであろう。

少なくとも30万の中国平民が殺戮に遭い、その多くは極めて残虐で血なまぐさい虐殺だった」

というものだ。張生教授は「これまでに収集した資料のなかでは、最も早く南京の30万人市民の殺戮に言及しており、証拠となるものです」と指摘。さらに「米国や欧州などでも、第三者による史料の発見が相次いでいます。個人的な判断や細部の描写はやや異なるものの、南京大虐殺が一つの歴史事実であることは広く認められているのです」と強調した。
「北京週報日本語版」より2007年12月15日

ベイツは日本大使館に南京の惨状の報告を毎日のようにしており、その報告は日本外務省に届けられていた。

この報告を読んだ、広田弘毅の直属の部下、石射猪太郎は『外交官の一生』に

「南京は暮れの一三日に陥落した。
わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。
南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である」


と書いた。広田弘毅も同様の認識であったと見るほかない。

事実、アメリカ駐日大使ジョセフ・グルーは、外務大臣広田弘毅とベイツの報告について話し合っていた。その会見の様子はグルー自身がさらに南京のアメリカ大使館に電報で知らせ、ベイツもそれらの電報を直々に読んで確認していたのである。
http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/%B3%B0%CC%B3%BE%CA%A4%AC%C3%CE%A4%C3%A4%C6%A4%A4%A4%BF%A4%C8%A4%A4%A4%A6%A4%CE%A4%CF%B1%B3


当時の外務省東亜局長・石射猪太郎は、1938年1月6日の日記に、

「上海から来信、南京に於ける我が軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。

嗚呼、之が皇軍か」

と記述している。

※元資料:石射猪太郎 『外交官の一生』 中公文庫P.332〜P333 (1998年)
http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-496.html


廣田弘毅は、極東軍事裁判で裁かれたA級戦犯の中で、唯一、文官として絞首刑になった人物である。
 何故、廣田が連合国側の一方的な裁判で裁かれなければならなかったのか?

 廣田弘毅内閣が発足したのは昭和11年3月である。「二・二六事件」があった直後であったので、廣田も当初は拒み続けていたようだ。

 組閣時には、陸軍から横槍、干渉がかなり入っていたので、とても自前の内閣とは言えなかった。多くの政治家たちは軍部の暴力に震え上がって、言いなりになっていた雰囲気があったのだが、廣田は在任中、平和外交を粘り強く進め、強大化する軍部に抵抗し続けていた。
 
 しかし軍部は、統帥権を盾に暴走し、広田首相の思惑とは正反対の方向へと日本を引き摺っていったのだ。それなのに廣田は敗戦後にA級戦犯として、極東軍事裁判の被告人となった。
 廣田の判決を巡っては11人の裁判官のうち中、3人が反対したそうだ。オランダのベルト・レーリンク判事は「廣田が戦争に反対したこと、そして彼が平和の維持とその後の平和の回復に最善を尽くしたということは、疑う余地が無い。」と、無罪を主張したのであった!

 この著しく公平さに欠ける裁判に於いて広田弘毅は、戦争回避に努めたとは言え、結果として軍部の圧力に屈する事となり、戦争を阻止できなかった責任を自らに科していた。
http://blog.livedoor.jp/metabolic_oyaji/archives/781688.html


南京大学歴史学部博士課程指導教官で、南京大虐殺研究所副所長の張生教授を取材した際、昨年、米国立公文書館で南京大虐殺に関する資料を収集していたときに、極めて価値のある最高機密文書を発見したことを話してくれた。

日本の広田弘毅首相が1938年1月17日、東京から米国の日本大使館に発信した機密電報だ。米国はそれを解読していた。 (実際には広田自身ではなく、『マンチェスター・ガーディアン』の記者ティンパリーが書いたニュース)

電文の内容は

「数日前、上海に戻り、日本軍の南京とその他の一部地方での残虐行為に関する報道について調べた。信頼できる目撃者が直接数えた、また信頼度の極めて高い一部の人の書簡にもとづけば、それは十分に証明できるであろう。
少なくとも30万の中国平民が殺戮に遭い、その多くは極めて残虐で血なまぐさい虐殺だった」

というものだ。張生教授は「これまでに収集した資料のなかでは、最も早く南京の30万人市民の殺戮に言及しており、証拠となるものです」と指摘。さらに「米国や欧州などでも、第三者による史料の発見が相次いでいます。個人的な判断や細部の描写はやや異なるものの、南京大虐殺が一つの歴史事実であることは広く認められているのです」と強調した。
「北京週報日本語版」より2007年12月15日

ベイツは日本大使館に南京の惨状の報告を毎日のようにしており、その報告は日本外務省に届けられていた。
この報告を読んだ、広田弘毅の直属の部下、石射猪太郎は『外交官の一生』に

「南京は暮れの一三日に陥落した。
わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。
南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である」


と書いた。広田弘毅も同様の認識であったと見るほかない。

事実、アメリカ駐日大使ジョセフ・グルーは、外務大臣広田弘毅とベイツの報告について話し合っていた。その会見の様子はグルー自身がさらに南京のアメリカ大使館に電報で知らせ、ベイツもそれらの電報を直々に読んで確認していたのである。
http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/%B3%B0%CC%B3%BE%CA%A4%AC%C3%CE%A4%C3%A4%C6%A4%A4%A4%BF%A4%C8%A4%A4%A4%A6%A4%CE%A4%CF%B1%B3


当時の外務省東亜局長・石射猪太郎は、1938年1月6日の日記に、

「上海から来信、南京に於ける我が軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。

嗚呼、之が皇軍か」

と記述している。

※元資料:石射猪太郎 『外交官の一生』 中公文庫P.332〜P333 (1998年)

http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-496.html

広田弘毅 最後の言葉 :「天皇陛下漫才!!!!!! 天皇陛下漫才!!!!!!」


三階から処刑第一組として土肥原、松井、東条、武藤の四人の順で、列をつくって降りて来られた。

『三誓偈』の初めの三頌を声高らかに私は読んだ。四人は頭を下げて、静かに瞑目して聞いておられ、終った時、「非常に有難うございました」とお礼をいわれた。それから松井さんが音頭をとって「天皇陛下万歳」を三唱、さらに「大日本帝国万歳」三唱を共に叫ばれた。


仏間に戻って、再び用意して待っているところへ、第二組の三人、 板垣、広田、木村さんが降りて来られた。

顔を合せると、すぐ広田さんが真面目な顔で、

「今、マンザイをやってたんでしょう」

といわれた。

「マンザイ? いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣りの棟からでも、聞えたのではありませんか」

私も真面目に、こうこたえた。

「いや、そんなことはないが・・・・・・」

お経の終ったあとで、広田さんが、

「このお経のあとで、マンザイをやったんじゃないか」

といわれた。私も、やっと気がついて、

「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」

といった。それでやっと、マンザイがバンザイだとわかって、

「それでは、ここでどうぞ」というと、広田さんが板垣さんに、「あなた、おやりなさい」とすすめられ、板垣さんの音頭で、大きな、まるで割れるような声で一同は「天皇陛下漫才」を三唱された。

花山信勝 「巣鴨の生と死」  
http://www.c20.jp/1948/12senpa.html


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因みに、戦前の“明治憲法”では天皇一人が絶対権力を持ち、総理大臣でも天皇の命令には逆らえなかった。


最近の法学の憲法理解では

憲法は、国民を統治者の横暴から守る為に統治者に課する規定
法律は、統治者が統治の為に国民に強制する規定
を定めたものだ。

“明治憲法”では

@主権は天皇がもち、天皇の位は血筋によって代々受けつがれる。

A立法権・行政権・司法権は、すべて天皇の大権(統治権)に属する。

B天皇は陸軍・海軍の大元帥として、軍隊・軍備・戦争など軍事に関することを決める権限(軍事権)をもつ。

C天皇は議会を通さずに、一定の範囲で法律を定めたり、予算を決めたりできる。

D天皇は議会を通さずに、条約を結ぶ、戦争を始める、戦争をやめる、戒厳令(非常事態の時に軍隊を出動させる権限)を発する、勲章をあたえるなどを行うことができる。

とあり、天皇が絶対権力を持っていたわけだから、憲法としての基礎的要件を満たしていないのさ。

内閣や内閣総理大臣に関する規定は、憲法典ではなく内閣官制に定められた。内閣総理大臣は、国務大臣の首班ではあるものの対等な地位とされ、国務大臣(各省大臣)に対する指揮監督権や任免権もないため、明文上の権限は強くない。

しかし、内閣総理大臣は機務奏宣権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したため、うまく天皇のご機嫌を取れれば実質的な権限は大きかった。
逆に言えば、天皇の意志に反したら、内閣総理大臣でも何もできなかった。

統帥権は、慣習法的に軍令機関(陸軍参謀本部・海軍軍令部)の専権とされ、陸海軍は政府の指示に従う必要は無かったので、内閣や内閣総理大臣の決定を無視した行動を取ってもよかった。 即ち、天皇が命令しすれば開戦でも虐殺でも何でも天皇の思い通りにできた。を有したため、実質的な権限は大きかった。
http://sentyusenngo.seesaa.net/article/44284311.html

1947年の12月、戦時中の首相、東条は自らを弁護して証言台に立った。
彼は生贄の羊となることを望んではいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は
限度を越えていた。

中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるいは、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた

1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人
ログマンはこう質問した。

「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、
あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」

 東条 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。
のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。


ログマン 以上をもって、木戸卿に代わる私の尋問を終わります。

裁判長(ウェッブ) 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、
よく理解できるはずである。

 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。

そこでキーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。

だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で
天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の
側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。

東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。
彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。

木戸はまた、
刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した。 小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。

二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。

彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、

自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm

内閣特別顧問の石原莞爾――退役した満州戦略家――は、敗戦の説明をおこなうため、全国の津々浦々を行脚した。

彼の話す内容は、戦争を始めたのは元首相東条であり、彼以外に責任はない、という単純なものであった。

1930年代初め、石原と東条は、天皇の支持を取り付けるため互いに争っていた。だが東条が勝利していた。今、東条を犠牲者に祭り上げるにあたり、石原ほど詳細を知るものはいなかった。

出身地東京で一年以上の退役生活を送っていた東条は、その中傷を冷徹に受け入れ、戦争の責任を全面的に負うのが自分の意思であると、友人たちには内々に語っていた。

友人たちは彼の意思を尊重したが、以前の部下や下僕たちはそれに反発した。たとえば、官邸に20年間使えてきた給仕は、東条を、もっとも人間的で思慮深い人物であると述べていることが幾度も取り上げられていた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_3a.htm


マスコミ報道等では、第二次世界大戦は日本の軍部が独走し、
天皇は仕方なくそれに引きづられた・・という事になっている。

そのため戦争中首相であった東条英機は戦争犯罪者として処刑され、
天皇は「罪を問われなかった」という事に「なっている」。


1944年7月20日、天皇の東条英機あての勅語。

「あなたは(東条は)、朕(天皇)の行う戦争において、朕の指導の下に
十分職務を果たした。」・・()内部、筆者の注。

ここで天皇自身「が」主体となって戦争を行っている事、つまり軍部に引きづられて
戦争が行われているのでは無い事、

東条が「天皇の指導の下」にその命令通りに戦争を行って来た事を、天皇自身が証言している。

天皇は、自分の行った戦争の責任を全て東条に押し付け、東条を処刑させ、
自分だけ生き延びたのである。

戦争中、東条は1日に3回天皇を「御機嫌うかがい」のため訪問し、
政界では「ゴマすり東条」と批判されていた。

東条を始めとした政界軍部が「強引に戦争を行い」、天皇がそれに引きづられる等という事は、
この東条と天皇の「力関係」から見て有り得ない。

天皇は東条に全責任を押し付け、自分だけ生き延びたのである。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49704032.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/131.html

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
141. 中川隆[-13243] koaQ7Jey 2019年1月02日 09:23:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22213]
平野憲一の株のお話 2019.01.02 今年の株価は、米金融当局のさじ加減。
http://kasset.blog.fc2.com/

昨年10月からの急落は、何を織り込んだのでしょうか。

米国の景気後退が予想される中で、米中対立がそれを激しく増長させる危惧でしょうか。そのリスクへの認識がトランプ大統領とパウエルFRB議長の間で大きく違う事の不安感を織り込んだと言うのがその答えでしょうか。

ただ、2018年の波乱は、2月の「VIXショック・適温相場崩壊」から始まりましたが、その引き金は、FRBの資産縮小計画である事は間違いないと思います。

当初は国債を月60億ドル、住宅ローン担保証券も月40億ドルの保有残(資産)縮小と言うもので、4兆5000億ドルのFRBの資産に比べれば微々たるものでしたが、今や前者が月300億ドル、後者が月200億ドルとなっており微々たるものとは思えない日本円で月に5兆5000億円の資金吸い上げとなっています。

しかもそれは12月のFOMC後のパウエル議長会見で今後も続く事が確認されました。

 金融当局から見れば、株価は経済指標の1つに過ぎず、株価が命のトランプ大統領との認識の違いが激しくなるのは当然です。筆者もトランプ大統領と同じく、金融当局が株価の動きをあまりに軽んじると、株価が急落する中で公定歩合を上げ続け、その後の「失われた20年」を作った1990年の日本の失敗を再現する事になるかも知れないと心配しています。

今後の株価は、FOMCのさじ加減にかかっていると思います。従って良くも悪くも簡単に変わると言う事をしっかり胸に刻んで亥年相場を戦ってほしいと思っています。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c141

[昼休み54] 日本の官僚は悪い 中川隆
62. 中川隆[-13242] koaQ7Jey 2019年1月02日 09:28:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22213]

2019年01月02日
クレジットカード手数料 日本は欧米の10倍取られていた


こんなに取られているのは世界で日本だけ

この金額は店が払うが、価格に上乗せされて消費者が払っています


画像引用:決済 | 主流のクレジットカード決済!知っておくべき手数料など | NP通信https://np-news.netprotections.com/payment/5444


超ぼったくりカード大国

政府は消費増税の経済対策としてクレジットカード加盟店手数料引き下げを業界に要請しています。

さらに消費増税後もこの手数料引き下げを続けるよう要請していて、将来は制度化するもようです。

現在取り放題の加盟店手数料の上限を3%などに設定し、クレジットカードの普及を目指すとしている。



聞いたことがある人も多いと思いますが、客がクレジットカードで支払うと、店はカード会社に手数料を支払っています。

この手数料はチェーン店など大きな店では安いが、個人商店では5%以上など多額の手数料を取られています。

個人事業主レベルだと断られたり10%以上もの手数料を要求される場合もあるとの事です。


個人経営のレストランとかで少額だとカード払いを断られたり、カード利用で割増料金を取る場合があります。

店の利益率5%の飲食店で、カード払いで5%の手数料を取られたら店はタダ働きになるので、カード払い不可も多い。

実はこんなことをしているのは世界で日本だけで、少なくとも先進国では日本だけです。

財務官僚が天下りするため手数料を高くした

アメリカや欧州では加盟店のクレジットカード手数料は0.3%程度、日本の3%以上の10分の1以下となっています。

なぜ日本だけ高いのかは競争がないからで、全員一致で横並びにしたほうがカード会社が儲かるからです。

カード会社の胴元は銀行でその胴元はメガバンクだったりし、メガバンクのケツ持ちは政府と日銀です。


日銀や財務官僚は退官後に金融機関に天下りし、下っ端はサラ金やカード会社に就職します。

このため政府はカード会社間に競争が起きないようにし、全社横並び手数料にしました。

これが世界で日本だけ、加盟店カード手数料が10倍になっている仕組みです。


ところが世界ではキャッシュレス化が進み、一部の国では非現金決済が9割にも達しています。

日本は現金払いが5割近くあり、このままでは現金払いのコストで国際競争に負ける恐れがでてきた。

今まで天下りのために競争をさせなかった財務省は急に慌てだし、手数料を下げろと言い始めました。


日本の金融政策や財政政策の多くは、この程度の理由で決められているのです。
http://www.thutmosev.com/archives/78594303.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/103.html#c62

[番外地6] 財務省は日本人の敵 中川隆
36. 中川隆[-13241] koaQ7Jey 2019年1月02日 09:31:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22213]

2019年01月02日
クレジットカード手数料 日本は欧米の10倍取られていた


こんなに取られているのは世界で日本だけ

この金額は店が払うが、価格に上乗せされて消費者が払っています


画像引用:決済 | 主流のクレジットカード決済!知っておくべき手数料など | NP通信https://np-news.netprotections.com/payment/5444


超ぼったくりカード大国

政府は消費増税の経済対策としてクレジットカード加盟店手数料引き下げを業界に要請しています。

さらに消費増税後もこの手数料引き下げを続けるよう要請していて、将来は制度化するもようです。

現在取り放題の加盟店手数料の上限を3%などに設定し、クレジットカードの普及を目指すとしている。



聞いたことがある人も多いと思いますが、客がクレジットカードで支払うと、店はカード会社に手数料を支払っています。

この手数料はチェーン店など大きな店では安いが、個人商店では5%以上など多額の手数料を取られています。

個人事業主レベルだと断られたり10%以上もの手数料を要求される場合もあるとの事です。


個人経営のレストランとかで少額だとカード払いを断られたり、カード利用で割増料金を取る場合があります。

店の利益率5%の飲食店で、カード払いで5%の手数料を取られたら店はタダ働きになるので、カード払い不可も多い。

実はこんなことをしているのは世界で日本だけで、少なくとも先進国では日本だけです。

財務官僚が天下りするため手数料を高くした

アメリカや欧州では加盟店のクレジットカード手数料は0.3%程度、日本の3%以上の10分の1以下となっています。

なぜ日本だけ高いのかは競争がないからで、全員一致で横並びにしたほうがカード会社が儲かるからです。

カード会社の胴元は銀行でその胴元はメガバンクだったりし、メガバンクのケツ持ちは政府と日銀です。


日銀や財務官僚は退官後に金融機関に天下りし、下っ端はサラ金やカード会社に就職します。

このため政府はカード会社間に競争が起きないようにし、全社横並び手数料にしました。

これが世界で日本だけ、加盟店カード手数料が10倍になっている仕組みです。


ところが世界ではキャッシュレス化が進み、一部の国では非現金決済が9割にも達しています。

日本は現金払いが5割近くあり、このままでは現金払いのコストで国際競争に負ける恐れがでてきた。

今まで天下りのために競争をさせなかった財務省は急に慌てだし、手数料を下げろと言い始めました。


日本の金融政策や財政政策の多くは、この程度の理由で決められているのです。
http://www.thutmosev.com/archives/78594303.html
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/773.html#c36

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
128. 中川隆[-13240] koaQ7Jey 2019年1月02日 10:11:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22213]

機密費創設はゴーン被告指示、中東各国に流れる
1/2(水) 6:51配信 読売新聞
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190102-00050003-yom-soci


機密費創設はゴーン被告指示、中東各国に流れる


 日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告(64)を巡る特別背任事件で、ゴーン被告がサウジアラビアの知人側に提供した「機密費」は、ゴーン被告の指示で2008年12月頃に創設されたことが関係者の話でわかった。機密費がサウジ以外の中東各国の関係先に流れていたことも判明。東京地検特捜部は、私的損失で多額の評価損を抱えたゴーン被告が、その穴埋めなどに利用するため、自身の判断で使える資金を用意させたとみている。

 関係者によると、ゴーン被告は日産の役員報酬を日本円からドル建てにするため、06年頃から新生銀行(東京)との間でスワップ取引を行っていたが、08年秋のリーマン・ショックに伴う円高で約18億5000万円の評価損が発生した。同行から追加担保を求められたゴーン被告は、同年10月に評価損を含む全ての権利を自分の資産管理会社から日産に付け替え、追加担保を回避したとされる。

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c128

[近代史02] ドイツの女性達が体験した悲劇(2007年05月08日ミクシイ日記再録)    西岡昌紀 西岡昌紀
5. 中川隆[-13239] koaQ7Jey 2019年1月02日 10:28:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22213]

ドイツの女性達が体験した悲劇 _ 4


ドイツ:多文化共生の終着点!8歳の少女がアラブ移民の子供に刺され、それを学校が隠ぺいする 2018年12月12日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12424190050.html

多文化共生を善だと信じて活動中の地球市民たちと思考停止状態の国民は、その善であるはずの多文化共生社会の実現がまだ道半ばだと思ってこれからますます頑張るようですが、頑張るとどうなるのか、多文化共生の終着点を見ていただきたいと思います。

ドイツで、「ドイツ人だから」という理由で子供が移民に虐められる話は時々ネット上で紹介されていますが、今回もそれです。しかし、学校もドイツ人には冷淡でした。

ドイツの放送局 Sat 1は8歳のドイツ人少女Yaraちゃんが受けた理不尽な経験を伝えました。

Islamic effect in German schools - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=mjY0mv39nDo

クラスの中でYaraちゃんは、家庭でドイツ語を話す最後の生徒でした。

彼女の通う学校はトルコ人やアラブ人の移民が多数派でした。

彼女はクラスでのけ者にされ、移民たちに虐められていて、それがどんどん酷くなりついには刺されてしまったのです。

彼女は知らないアラブ人の子供に押し倒され腹部を鋭利な物で割かれたのです。

彼女はすぐに先生のところに行き何をされたのか伝えました。

Yaraちゃんは痛がってお腹から血が流れていました。

しかし教師は事態を軽視して、その日の学校が終わるまでYaraちゃんを学校に留め置いていたのです。

父親の Mike Fさんが取材に答えています。

「小学校で危険物による傷害事件が起きて、それを親に知らせないなんてことがありますか?」

父親は学校に連絡を取りました。

娘が“アラブ人の子供”に危害を加えられたと言ったからでしょうか、教師は「そんなことはどこの校庭でも起きています。彼らがどこから来たかなんて関係ありません。」と言い、父親を拒絶したのです。

しかし、教育委員会が知ったことで状況が変わりました。

Yaraちゃんは別の学校に転校でき普通の生活ができるようになりました。

現在は明るくなりインタビューにも答えていました。

社交的だったYaraちゃんが以前の学校で引き籠りがちになったことには父親も気づいていましたが、コミュニケーションの問題だと始めは思っていました。クラスでは彼女以外皆ブロークンドイツ語か全くドイツ語が話せなかったからです。

学年の初めに保護者会があって、その時に学校は通訳を雇い、ドイツ語からトルコ語とアラビア語に訳して説明していました。

父親はその時少し途方にくれましたが、それがYaraちゃんの置かれている状況だったのです。

8-year-old German girl bullied and stabbed by Arab child at migrant majority school – Teacher covers it up By VOICE OF EUROPE 30 November 2018

四角02


最初からこういう状態ならドイツ人たちも警戒したでしょうが、違ったんでしょうね。

では最初はどうだったのでしょう?

外国人を労働者ではなく生活者として受け入れ、

ドイツ(日本)人の税金を使って外国人に自国民同様の待遇を与え

母国の文化をそのままにドイツ(日本)人が我慢しながら多文化共生社会を実現しよう!

※ドイツを日本に入れ替えてみれば同じことが今から日本で行われることがわかります。

右上矢印こんな思想がドイツ人に強制されてドイツ人が迫害されるドイツになってしまったのです。

同様の危険思想を掲げる自治体が日本中にたくさんありますので覚えておきましょう。

例えばこんな自治体・・・↓


外国人集住都市会議が、法務大臣に意見書を提出しています。


外国人材を受入れ、地域において多文化共生を推進していくため、国としての外国人材の受入れ、多文化共生推進の包括的な方針を策定するとともに、国が責任を持って国民に対し十分な周知・説明を行い、理解促進を図ること。

という感じで、国が将来像を示すことを求め、また外国人集住自治体はSNSなどで誹謗中傷されることがあることから、国が国民を多文化共生教徒へ改宗させ、国が矢面に立ち、金銭面でも国が支援するよう求めています。

本来は外国人を雇用している企業に外国人雇用税を払わせて外国人に掛るサービスは私たちに負担させるべきではないのに、企業誘致で来てもらったという気持ちから企業に請求できず一般国民に尻拭いをさせようとしているのです。

外国人集住都市会議は以下の自治体で構成されています。


群馬県 太田市・大泉町
長野県 上田市・飯田市
岐阜県 美濃加茂市
静岡県 浜松市
愛知県 豊橋市・豊田市・小牧市
三重県 津市・四日市市・鈴鹿市・亀山市・伊賀市
岡山県 総社市

これから子供を産み育てるなら

多文化共生を目指している狂気の地域・自治体を避けた方がいいと思います。

大切な子供を守る為です。
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12424190050.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/808.html#c5

[近代史02] ドイツの女性達が体験した悲劇(2007年05月08日ミクシイ日記再録)    西岡昌紀 西岡昌紀
6. 中川隆[-13238] koaQ7Jey 2019年1月02日 10:32:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22213]

ドイツの女性達が体験した悲劇 _ 5


ドイツ:Free Refugees→失敗国家の文化が「多文化共生の」呪いにかかった受入国民を攻撃 2018年11月27日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12422653218.html

不法滞在者の支援者はやっぱり同じ穴の狢、類は友を呼ぶ、犯罪者だったのですね?

私たちの公共物を損壊するのはバンダリズム(器物損壊や迷惑行為として刑法典による処罰の対象となる)です。入管任せにしないで警察は犯人をぜひ捕まえてほしいと思います。


そもそも入管収容所には退去強制という日本政府の処分に従わない不法者が入っています。

母国に帰る自由があるのに拒否していつまでも私たちの税金で暮らす収容者は、欧米で活躍する地球市民過激派と同類の組織が、日本で不法外国人を唆して長期間籠城させ環境が劣悪だとか言いふらす広告塔にされているのではないでしょうか?


多文化共生を認めると、外国人の文化に基づくルールや法律も含まれると彼らは考えます。
違法や不法を歓迎することにも繋がり、だから支援者も犯罪に躊躇がなくなるのです。


バンダリズムを肯定する社会の敵が夢見る世界は、まともな人には悪夢です。

犯罪者の理想Free Refugeesの先輩であるドイツの日常の様子を紹介します。


四角02


流れ星2107回逮捕されたガーナ人移民は何も罰を受けない

ガーナ人 Bismark B.(59歳)は何度捕まってもいつも釈放されていました。

彼は週3〜4回スーパーマーケットに来て食料を盗んでいました。その間刑事訴追は精神分裂症のような診断が出ることで何度も失敗して釈放となっていました。昨年はスーパーマーケットの従業員の女性の胸を足で蹴り「殺す」と脅しました。その時は同僚が助けましたが同僚はナイフを見たそうです。しかし、その逮捕でも釈放されました。そして最も新しい逮捕はドラッグストアの店員を肉切り包丁で「殺す」と脅迫したことです。今月上旬に裁判が始まり精神病院に入れるか判断されます。


https://voiceofeurope.com/2018/11/migrant-who-was-arrested-107-times-by-german-police-never-received-any-punishment/


流れ星217歳のシリア難民“宗教の教え通りにドイツ人女性をナイフで刺したことは問題ない”

今年3月17歳シリア難民Abdullah A(写真)はブルクヴェーデル(Burgwedel)で24歳の女性をジャックナイフで刺しました。彼女の傷は重傷で数日間危篤状態でした。Abdullah Aは家族とともに2013年にドイツにやってきました。加重暴行の容疑で6ヶ月から10年の刑務所行きの可能性があります。彼の弁護人は書面で声明を発表しました。

「彼のクライアントは何も知りません。彼の文化では揉め事はナイフで解決されます。侮辱は相手を刺すことを正当化します。その侮辱が深刻であれば殺人も許されます。」

この17歳のシリア人は、宗教通りに行動したのにどうして自分が拘束されているのか理解できないそうです。彼は今でも自分が模範的な難民だと自負しています。


https://voiceofeurope.com/2018/09/syrian-refugee-excuses-stabbing-a-german-woman-because-he-acted-according-to-his-religion/


流れ星2難民たちがクラブで「アラー・アクバル」「俺たちはアラブ人だ」「お前らみんな殺してやる」

フランクフルトのFrosch(写真)というクラブで 「‘90s party」開催中に、シリア人2人が客に嫌がらせや挑発行為を始めました。2人のシリア人はいったん店を出ましたが、すぐにナイフや鉄棒で武装した仲間を連れて戻ってきました。

彼らは「アラー・アクバル」「みんな殺してやる」と叫びながらディスコの機器を壊し、店に投石し、他の客を殴り石をぶつけました。

クラブのオーナーはこう言いました。

「みんなで’90sのお祝いをしていました。それが突然、私たちの故郷ではなく、不気味で、アラー・アクバルの大声、攻撃性、鈍い音、人々の叫び声の戦場になってしまったのです。」


https://voiceofeurope.com/2018/09/allahu-akbar-shouting-refugees-attack-german-nightclub-we-are-arabs-well-kill-you-all/


流れ星2542件の犯罪捜査対象になっている男はパスポートがないため強制送還されない

この男は1998年にパスポートを持たずにドイツに入国しました。アルジェリアやモロッコなどの北アフリカの国々の名前を出しましたが出身国は分かりません。彼はこれまで暴行、窃盗、強盗、薬物購入など数々の犯罪がわかっています。彼はフランクフルトで路上生活をしているそうです。彼は不明な言語を話し強制送還に非協力的です。1959年に北アフリカで生まれたと言っていますが照会してもデータが見つかっていません。指紋も一致するものがありません。最近も逮捕しましたが、釈放せざるを得ませんでした。

https://www.express.co.uk/news/world/1009079/germany-migrant-crisis-deportation-africa


流れ星2ドイツの極左が反移民難民政策を主張、左派に連携を呼びかける

左翼党の議会リーダーで共産主義者のSahra Wagenknecht氏(写真)が右翼に対抗して「国境開放反対」運動を立ち上げました。9月4日に立ち上げたこの運動は“Aufstehen”(stand up)と呼ばれます。

「すべての人に国境を開放するのは甘すぎます。第一にそれは左翼の政策ではありません。難民申請者に費やすお金でもっとドイツの貧しい人たちを助けることが出来ます。」と彼女は言いました。

彼女は、おもてなし文化においての良き左派の道義心を終わらせ、また自分たちのケーキの一切れを守るために戦っている貧しい家族たちとはかけ離れた暮らしをしている(左派)エリートを終わらせたいと思っています。

与党SPD(左派)は「彼女はドイツでポピュリスト左翼を夢見ている。貧困層と難民とが互いに敵対するように煽っている。」と言って批判しています。


https://voiceofeurope.com/2018/08/german-far-left-movement-starts-battling-open-borders-as-money-spent-on-migrants-should-be-spent-on-poor/


流れ星2ユダヤ系ドイツ人の少年が携帯電話でイスラエルの音楽を聞いていてアラブ人たちに暴行を受ける

西ベルリンの鉄道駅でJonathanという17愛の少年が友人たちと乗り換えをしようとしていました。待ち時間がたくさんあったので近くの店に行きビールを買い、Jonathanは携帯電話でイスラエルのヒット曲 ‘Tel Aviv, Ya Habibi, Tel Aviv’をかけていました。するとアラブ人のグループがやってきて彼に向って「ヘブライの音楽?お前たちは70年間に渡って子供たちを殺し続けている。ベルリンは今では俺たちのものだ。だからお前はここではくだらないイスラエルの音楽は聴くな!」と威嚇してきました。

Jonathanは彼らを落ち着かせようとして、友達と一緒に彼らから離れて地下の駅に向かいました。しかしアラブ人たちはずっと後をつけて「もしナイフを持っていたらお前を終わらせるんだけどな」「もしまたお前を見たらお前は死ぬよ」などと脅迫を続けました。

Jonathanの友人たちが彼を守ろうとしたところ、アラブ人たちは「嫌なドイツ人、お前に何か言う権利はない。」と言いながら殴りかかってきました。割れたビンも使って殴ったので入院した友人もいます。

鉄道のセキュリティーカメラに犯行の様子が残っています。警察がきましたが、アラブ人たちは逃げた後でした。Jonathanによると警察は最初事件を深刻にみていなかったということです。

https://www.sun-sentinel.com/florida-jewish-journal/fl-jjps-music-0613-20180605-story.html

hi*思い出しませんか過去記事を?

ドイツ:ベルリン警察学校、クラスの半分がアラブ人とトルコ人。犯罪と恐怖が蔓延。同僚ではなく敵!


流れ星2シリア難民2015年にドイツ入国後400件の犯罪を記録する

2015年遅くにドイツにやって来たシリア人Hatem H(写真) は当時19歳でした。それから400もの犯罪に手を染めました。

プラウエン( Plauen)に住み始めて1ヶ月後、“tunnel gang” のメンバーになりました。プラウエンのシティーセンターにちなんでこの名前が付きましたが、ほとんどの構成員は移民です。

今年3月裁判所に現れた彼は既に3つの有罪判決を受けていて15年の刑務所行きの可能性もあります。2017年10月の有罪判決でも彼を止められませんでした。通行人の腹部をナイフで刺し、別の人をビール瓶で殴って8ヶ月間刑務所にいましたが、刑務所内でも囚人同士でケンカをし、看守を脅していました。

裁判所の広報官は「彼の強制送還は移民局次第だ」と述べています。


https://voiceofeurope.com/2018/05/syrian-refugee-commits-400-crimes-since-he-arrived-in-germany-in-2015/


流れ星2美しいドイツの町が1,200人の移民を受け入れて見る影もなくなった

人口4,600人ほどの町ボオシュテット(Boostedt)はここ3年間で1,200人の難民を兵舎に受け入れてから懸念が増してきています。Hartmut König町長がインタビューに答えました。

「単純に振る舞いです。店では物が盗まれます。また、こんな光景も見ました。3人の難民が歩道を歩いていたところ前方からベビーカーを押した母親と子供が歩いてきました。3人はよけることもなくそのまま歩き続け、母親と子供が道路に出て避けました。たった一つのことですが、全部がこんな風なのです。そのうえ彼らは大量のゴミを放置します。どこででもブラブラして酒を飲みます。」


https://voiceofeurope.com/2018/08/beautiful-german-town-unrecognisable-after-it-accepted-1200-migrants/


流れ星2たった一つの難民センターだけで9ヶ月の間に1265件の犯罪を記録

ザクセン州の内務大臣(CDU)がAfDの要求に応じて1月から9月までの難民センターの犯罪記録を提出しました。

ドレスデンのHamburg Streetにある難民収容所には642人がいますが、9ヶ月で1,265件の犯罪がありました。このセンターは継続的な犯罪と警備員への暴力で知られ、そのために今年6が月に必要な警備協定が新たに導入されました。

住居侵入・不法侵入が364件、窃盗299件、廉価品の横領175件、重窃盗罪97件、薬物犯罪69件、無賃乗車41件、加重暴行罪33件、暴行20件、武器を使用した集団強盗13件、略奪窃盗12件、強盗4件、執行官への攻撃2件、ゆすり1件、そして1人は殺人で逮捕されました。

更に、平和を害する重大な事例と犯罪の脅威を通じて公衆の平和が崩壊する事例がありました。7つの性犯罪、痴漢と児童虐待が記録されています。

AfDのAndré Wendt氏は次のように言いました。

「難民申請者の中には多くの犯罪者がいることが明らかになりました。彼らは私たちの安全への脅威であり、我が国に居場所はありません。」

彼は、難民が罪を犯したら直ちに難民申請手続きを終了し強制送還することを要請しました。

https://voiceofeurope.com/2018/11/asylum-seekers-from-just-one-german-refugee-shelter-commit-1265-crimes-in-9-months/


流れ星2警察が視覚障害のある女性がシリア難民に繰り返し廊下でレイプされた事件を隠蔽?

11月13日の午前9時ごろ視覚障害のある女性がケムニッツにあるアパートの廊下にいました。シリア人難民は待ち伏せして彼女を2度レイプしました。メディアが警察にこの事件のことを質問したところ、捜査を認めたものの戦略上の理由と女性の保護のために機密扱いであるとの返答でした。

https://voiceofeurope.com/2018/11/german-police-cover-up-how-a-syrian-raped-a-disabled-woman-several-times/


流れ星2難民支援スタッフが自分の父の介護にアフガン難民を雇ったところ、結果は殺人!

ヴィッテンブルク(Wittenburg)で85歳の年金生活者が20歳のアフガン難民に殺されました。

年金生活者のDietrich P.さんは、難民支援スタッフの娘が、父の介護にと雇ったアフガニスタン人を紹介されました。

アフガン難民は庭いじりや家事を手伝っていましたが、11月17日午前2時に悲劇を迎えました。Dietrichさんは喉を割かれて殺されていました。検察は難民申請が却下されたアフガニスタン人が犯人と述べています。彼は高速道路近くで逮捕されました。

アフガン難民はツヴィッカウ地区の難民収容所で暮らしていました。そこは被害者の娘が難民支援に活発に取り組んでいたところです。彼女が父親の介護の職をアフガン難民に与えたのでした。


https://voiceofeurope.com/2018/11/german-refugee-worker-hires-afghan-to-care-for-her-elderly-father-it-ends-with-murder/


流れ星2ドイツのトップ経済学者:ドイツの社会保障制度に災いをもたらす難民

「多くの難民は読み書きがほとんど出来ず、職を与えるには膨大な教育(そのための資金も)が必要になる」と述べています。ドイツは「正しい人たちが来ていますか?」「ドイツに来た人たちは複雑な工業化された社会が必要としている人たちですか?」と疑問を持たなくてはいけないということです。

教授は「25歳や30歳の人に学齢期に教えるような基礎ラテン語を教えることが効率的でない」という例を出して彼らへの教育について質問に答えました。

https://voiceofeurope.com/2018/11/refugees-disastrous-for-german-welfare-state-as-almost-50-are-illiterate/


流れ星2ドイツの新しい憲法擁護局の副長官にイスタンブール生まれのトルコ移民Sinan Selen氏が就任

彼は情報機関のトップに初めてなる移民の背景を持つ人です。連邦捜査局などでの勤務経験もありますが特別な功績があったような人ではないようです。


https://voiceofeurope.com/2018/11/germany-to-make-turkish-migrant-vice-president-of-intelligence-service/


四角02


善意の上限を知り、難民中心主義から決別し、難民条約からの脱退も視野に入れるべき(成蹊大学文学部国際文化学科教授の墓田桂氏)


西側諸国は、難民1人を西側諸国に住まわせて支援するお金で、難民135人を母国に住まわせたまま支援することが出来る

(Paul Collier氏オックスフォード大学教授、元世界銀行チーフ研究員、元英国首相〈トニー・ブレア政権〉アフリカ顧問)


欧州の排外主義に対する経済学的な処方箋は「移民への課税」と「二級市民化」だ(橘玲の世界投資見聞録 2017.10.20) 過去記事より


日本も蟻地獄へ向かって黙々と進んでいますが、様々な想定が必要になってきます。

五輪ボランティア、応募8万人超 44%が外国人というのはどうも嫌な感じがします。

私は途上国の観光ガイドが現体制の批判をするということに何度か出くわしたことがあるのですが、賛同してビザを取り消されて国外退去になると困るのでいつも適当に聞き流していました。日本ではそういう心配がないので外国人が内政干渉の道具に使うことも想定されます。
•アイヌと琉球ピープルと朝鮮民族はともに日本に古くからいた虐げられた少数民族
•日本はもっと難民を受け入れるべき
•従軍慰安婦と徴用工の真実は韓国の言う通り、南京は中国の言う通り
•日本ではイスラム教徒に親切で(というか知らないので騙しやすく)住みやすい

公式ボランティアという信用を自分の利益や活動に利用しないよう書面で確約させる。罰則は罰金と国外退去。

違法民泊や違法賭博や違法薬物などあらゆる違法行為への勧誘の禁止も大事です。これも違反したら儲けた分の倍くらいの高額な罰金と国外退去。

こういったように予想できることに対して対策を講じてもらいたいと思います。


それから「オーストラリア:英連邦総合競技大会で100人が大会終了時までに失踪。難民申請も。日本も用心を!」という記事にもあるように、これも注意しなくてはいけないので、難民申請の手引きをするような外国人ボランティア(日本人と共同で活動している)も厳しく排除すべきです。


オリンピックと言えば選手村ですが、以前1500人のアフリカ人難民がトリノオリンピックの選手村で利用した建物を不法占拠しているという記事を紹介しました。


フランスでもカレーにジャングルという難民キャンプができて大変な治安悪化を招いていましたが、解体してもまた違う町に難民キャンプを作って治安悪化を運んでいます。

パリでも何度収用してもまた難民キャンプができてしまいイタチごっこです。


自由な難民のエンジョイライフ音符♪を再度(春頃以降の記事からいくつか選んで)紹介しておきます。
•フランス:難民が税金で払われる福祉金を使ってドラッグ売買をするので減額したところ暴動発生!
•★ドイツ:ソマリア人難民が診療所にいた医師をナイフで殺害。動機不明。
•ドイツ在住シリア難民:「オーストリア人は難民を家に引き取りお金をあげるべき」
•★ギリシャ:難民支援は1つの島で114NGOと7,356人が働く大事業/住民は恐怖で引き籠り!
•ギリシャ:キオス島で難民が自警団の住民を襲撃/アテネで移民同士60人乱闘、住民と観光客も殴られる
•★ドイツ:犯罪の約57%が難民申請者という町/異質で幼稚な性犯罪/難民がバイアグラを欲しがる
•ドイツ:強制送還予定のトーゴ人を空港へ連れて行くところ200人のアフリカ人暴徒に阻止され釈放!
•ドイツ:警察が木曜日の早朝から難民センターを急襲、逃亡したトーゴ人を逮捕(前回記事の続報)
•スウェーデン:12歳の少女をレイプしたシリア人子供難民「違法とは知らなかった」!
•ドイツ:アフガニスタン難民、近所のパン屋を襲撃、警察にも投石して射殺される他
•イタリアでナイジェリア人難民が犬のバーベキューをして逮捕

・・・・・・・・・・この辺で止めておきますが、彼らを強制退去させない限り永遠に続きます。

そして、一旦入れた外国人を国外追放することは大変な困難を伴いほぼできません。青ざめ顔

これでもFREE REFUGEESに賛成ですか?

REFUGEES WELCOMEに賛成ですか?
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12422653218.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/808.html#c6

[外国人参政権・外国人住民基本法01] トヨタの為に毒塗オレンジを食べさせられている日本人 _ 日本を農業の無い国にして良いのか? 中川隆
100. 中川隆[-13237] koaQ7Jey 2019年1月02日 11:37:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22213]
オトモダチのために国民の命と暮らしを生贄にしてはならない 東京大学教授・鈴木宣弘 2019年1月2日

日米FTA交渉入り〜TAGは共同声明を改ざんした捏造語〜

 日本は、「なぜ米国民にTPP(環太平洋連携協定)が否定されたのか」について冷静に本質的な議論をせずに、TPP11(米国抜きのTPP)を推進し(2018年12月30日発効見込み)、それとセットの「TPPプラス」(TPP以上)の日米FTA(自由貿易協定)交渉を開始し、「TPPプラス」の日欧EPA(経済連携協定)も妥結し(2019年2月発効見込み)、さらには「TPPプラス」をRCEP(東アジア地域包括的経済連携)にも広げようと「TPPゾンビ」の増殖に邁進している。この流れは、以前のTPP12以上の打撃を日本の食料と農林水産業に与えることは間違いない。

 日米間で新たな貿易協定(日本はTAG=物品貿易協定と命名)の交渉開始が決まったのを受けて、AP通信や米国メディアは、ズバリ「日米がFTA交渉入りに合意」と報じた。日本のメディアは「事実上のFTA」「FTAに発展も」とやや回りくどいが、TAGは「FTAそのもの」である。

 筆者も「日米FTAはやらないと言ったわけでしょ。だから、日米FTAではないと言わないといけないから、稚拙な言葉のごまかしで、これは日米FTAなんです」(テレビ朝日「グッド!モーニング」コメント、2018年9月28日)と即座に指摘した。

 要は、日米FTAはやらないと言っていたのに、やることにしてしまったから、日米FTAではないと言い張るために、TAGなる造語を編み出したということである。そもそも、日米共同声明にTAG(物品貿易協定)という言葉は存在しない。英文には「物品とサービスを含むその他の重要な分野についての貿易協定(Trade Agreement on goods, as wellas on other key areasincluding services)」と書いてある。日本側が意図的に物品だけ切り取ってTAGと言っているだけで、極めて悪質な捏造だ。物品とサービスの自由化協定は、下記の定義からわかるように、紛れもないFTAである。

 「特定の国・地域間で関税撤廃やサービス貿易の自由化をめざすFTA(自由貿易協定)や物品・サービス分野だけでなく投資、知的財産権、競争政策など幅広い分野での制度の調和もめざすEPA(経済連携協定)」(荏開津典生・鈴木宣弘『農業経済学(第4版)』2015年、岩波書店)

 国際法(WTO)上、MFN(最恵国待遇)原則に反する特定国間での関税の引き下げはFTAを結ばないかぎり不可能であるのに、米国からの牛肉と豚肉の関税引き下げの要求を受けつつ、日米FTAは拒否すると言い続けているが、どうするつもりか、どんな裏技を出してくるのかと思ったら、まさかの共同声明改ざんである。

 しかも、「FTAではない」と言い続ければ、国際法違反の協定で、関税削減は発効できないという自己矛盾で墓穴を掘っていることにも気づかないのであろうか。「今回はこれで乗り切りましょう」と進言した経済官庁の「浅知恵」に失笑せざるをえない。

ペンス副大統領演説も改ざん

 改ざんは共同声明だけでない。ペンス副大統領演説(2018年10月4日)動画では明白に abilateral Free Trade Agreement with Japan と言っているのに、ホワイトハウス・サイト発表(文字起こし)の同演説記録は、当該箇所を、a bilateral free-trade deal with Japan に変えている。日本側が「国内的にFTAとは言えないから表現を変えてくれ」と頼んだのに対して米国側が対応したものと推察されるが、そのために「乳製品の輸入枠はあと1万d追加しますから」という類(たぐい)の国益差し出しをしている姿が目に浮かぶ。国民のために闘うのでなく、国民を欺くために際限なく国が売られていく。

しかもTPP以上の譲歩が前提

 そもそも、米国がTPPから離脱した際に「TPPは不十分だから二国間協定でTPP以上を求める」と主張していた。我が国もTPPを強行批准した時点で、TPP水準をベースラインとして国際公約し、米国には上乗せした「TPPプラス」を喜んで確約したようなものだった。「まず、TPPレベルの日本の国益差し出しは決めました。次は、トランプ大統領の要請に応じて、もっと日本の国益を差し出しますから、東京五輪まで総理をさせて下さい。」というメッセージを送っていたのである。

 しかも、TPP破棄で一番怒ったのは米国農業団体だった(裏返せば、日本政府の「影響は軽微」との説明は意図的で、日本農業はやはり多大な影響を受ける合意内容だったということが米国の評価からわかる)。せっかく日本から、コメ(従来の輸入枠も含めて毎年50万dの米国産米の輸入を約束)も、牛肉も、豚肉も、乳製品も、「おいしい」成果を引き出し、米国政府機関の試算でも、4000億円(コメ輸出23%増、牛肉923億円、乳製品587億円、豚肉231億円など)の対日輸出増を見込んでいたのだから当然である。

 しかし、これまた感心するのは、米国農業団体の切り替えの早さである。すぐさま積極思考に切り替えて、TPPも不十分だったのだから、二国間で「TPPプラス」をやってもらおうと意気込み始めた。それに応じて「第一の標的が日本」だと米国通商代表部(USTR)の代表(その時点では候補)が議会の公聴会で誓約したのである。

 日本の対米外交は「対日年次改革要望書」や米国在日商工会議所の意見書などに着々と応えていく(その執行機関が規制改革推進会議)だけだから、次に何が起こるかは予見できる。トランプ政権へのTPP合意への上乗せ譲歩リストも作成済みである。

 米国の対日要求リストには食品の安全基準に関する項目がずらずら並んでいるから、それらを順次差し出していくのが、米国に対する恰好の対応策になる。どれから差し出していくかの順番を考えるのが日本の「戦略的外交」である。

 例えば、BSE(牛海綿状脳症)に対応した米国産牛の月齢制限をTPPの事前交渉で20カ月齢から30カ月齢まで緩めた(つまり、TPPで食の安全性が影響を受けなかったとの政府説明は虚偽)が、さらに、国民を欺いて、米国から全面撤廃を求められたら即座に対応できるよう食品安全委員会は1年以上前に準備を整えてスタンバイしている。

 TPPから米国が離脱したとき、米国コメ団体は「日本においしい約束をさせたのにできなくなる」と怒ったが、すぐに、発想転換し、石でTPPの墓まで作り、「TPPは死んだ。そもそもTPP水準が不十分だったのだから、日米二国間で枠をもっと追加させよう」と意気込んでいる。すでに日本は米国からの輸入米を2017年に6万dほど追加的に増やし、TPPの約束水準(米国への追加枠7万d)をほぼ満たす対応をしている。そして、案の定、米国コメ団体は、7万dを15万dに引き上げるよう要求し始めた。

自動車のために食料・農業を永続的に差し出すことに

 「安倍政権は“経産省政権”ですから自分たちが所管する自動車の追加関税は絶対に阻止したい。代わりに農業が犠牲になるのです」と筆者は9月27日の日刊ゲンダイで指摘した。自動車を所管する官庁は、何を犠牲にしてでも業界の利益を守ろうとする。各省のパワー・バランスが完全に崩れ、一省が官邸を「全権掌握」している今、自動車関税を「人質」にとられて、国民の命を守るための食料が、格好の「生贄」にされていく「アリ地獄」である。

 そもそも、米国の自動車関税の引き上げも、差別的に、日本には適用しない、というような適用は、明確な国際法(WTO)違反であり、そのような姑息なお願いをするのでなく、フランスのように真っ向から国際法違反だからやめるよう主張すべきである。自分だけが逃れられるように懇願するために、国民の命を守る食と農を差し出す約束をしてしまったツケは計り知れない。

 しかも、本当は、食と農を差し出しても、それが自動車への配慮につながることはない。米国の自動車業界にとっては、日本の牛肉関税が大幅に削減されても、自動車業界の利益とは関係ないからである。本当は効果がないのに譲歩だけが永続する。

繰り返される詭弁〜「なし崩し」の食・農の崩壊

 TPP断固反対として選挙に大勝し、あっという間に参加表明し(「聖域なき関税撤廃」が「前提」でないと確認できたとの詭弁)、次は、農産物の重要五品目は除外するとした国会決議を反故にし(「再生産が可能になるよう」対策するから決議は守られたとの詭弁)、さらに、米国からの追加要求を阻止するためにとしてTPPを強行批准し、日米FTAを回避するためにTPP11といって、本当はTPP11と日米FTAをセットで進め、ついにTAGでFTAでないと強弁して日米FTA入りを表明した。日米経済対話やFFRは日米FTAの準備交渉だった。何度も何度も同じような光景(デジャブ)が繰り返されている。

 今は、「TPP水準を超える譲歩はしない」と、TPP水準こそ大問題だったのに、TPP水準はすでにベースラインになってしまっている。そして、「TPPを上回る譲歩はしない」と言っている政府が、最後はどんな言い訳を持ち出してくるのか。さらには、協定を発効させるために、ある段階で、恥ずかしげもなく「これは実はFTAでした」と開き直る「腹積もり」だろう。その前に、何度も何度もこんな見え透いた嘘で「なし崩し」にされていくのを、ここまで愚弄されても許容し続けるのかが国民に問われている。

TPP12の付属文書の「総仕上げ」が日米FTAで行われる

 農産物関税のみならず、政権公約や国会決議でTPP交渉において守るべき国益とされた非関税措置については、自動車の安全基準の緩和、軽自動車税の増税、自由診療の拡大、薬価公定制の見直し、かんぽ生命のがん保険非参入、全国2万戸の郵便局窓口でのA社の保険販売、BSE(牛海綿状脳症)、ポストハーベスト農薬(防かび剤)など食品の安全基準の緩和、ISDS条項への賛成など、日本のTPP交渉参加を認めてもらうための米国に対する「入場料」交渉や、参加後の日米平行協議の場で「自主的に」対応し、米国の要求が満たされ、国民に守ると約束した国益の決議は早くから全滅していた。

 しかも、「TPPとも米国とも関係なく自主的にやったこと」と説明しておきながら、TPPの付属文書に書いてある。2016年12月9日の国会で、「TPPの付属文書の内容は日本が『自主的に』決めたことの確認なので、TPPの発効に関わらず、『自主的に』実行する」と外務大臣も厚顔無恥に回答した。「自主的に」=「米国の要求通りに」と変換すれば真意が読める。

 さらに驚くことは、TPP付属文書には米国投資家(ウォール街、グローバル種子企業、製薬企業など)の追加要求に日本は規制改革推進会議を通じてさらなる対処をすることも「自主的に」約束されている。今後も際限なく続く米国からの要求に対応して巨大企業の経営陣と投資家の利益のために国民生活が犠牲になる「アリ地獄」にはまっている。

 これにのっとった米国発のグローバル種子企業などへの徹底した便宜供与が続いており、それらが日米FTAで「総仕上げ」されることが懸念される。

グローバル種子企業への便宜供与「七連発」

 象徴的なのは、種子法廃止に関連した一連の動きである。これは国民の命を守る安全保障の観点からは間違っているが、グローバル種子企業の世界戦略とは極めて整合性が取れている。

 命の源の基礎食料(中でも特にコメ)、その源の種は、安全保障の要であるから、国として、県として、いい種を安く供給し、生産と消費を支えるのが当然の責務としてきたのをやめて、企業に任せろ、というのが種子法廃止である。

 グローバル種子企業の世界戦略は種を握ることである。種を制するものは世界を制する。種を独占してそれを買わないと人々は生きていけなくすれば、巨大なビジネスとなり、人々を従属させられる。だから、公共種子の提供を後退させ、自家採種を禁じて、自分たちのものにして、遺伝子組み換え、F1(一代雑種)化して、買わざるをえない状況を世界中に広げてきた。それを日本でもやりたい。それに日本は応えている。

 公共種子事業をやめさせ(種子法廃止)、国と県がつくったコメの種の情報を企業に譲渡させ(農業競争力強化支援法)、自家採種は禁止する(種苗法改定)という3点セットを差し出した。一連の改定をセットで見ると、意図がよく読み取れる。

 全農の株式会社化もグローバル種子企業と穀物メジャーの要請で農協「改革」に組み込まれた。子会社の全農グレインがNon-GM穀物を日本に分別して輸入しているのが目障りだが、世界一の船積み施設を米国に持っているので、買収することにしたが、親組織の全農が協同組合だと買収できないので、米国からの指令を一方的に受け入れる日米合同委員会で全農の株式会社化が命令された。

 消費者庁は「遺伝子組み換えでない」という表示を実質できなくする「GM非表示」化方針を出した。これも、日本の消費者の要請に応えたかのように装いながら、グローバル種子企業からの要請そのままである。しかも、消費者庁の検討委員会には米国大使館員が監視に入っていたという。

 カリフォルニアではGM種子とセットのラウンドアップ(除草剤)で発がんしたとしてグローバル種子企業に320億円の賠償判決が下り、世界的にラウンドアップへの逆風が強まっている中、それに逆行して、日本は昨年12月25日、クリスマス・プレゼントと称して、米国の要請に応じて、ラウンドアップの残留基準値を極端に緩和した。

 さらに、ゲノム編集(切り取り)では、予期せぬ遺伝子喪失・損傷・置換が世界の学会誌に報告されているのに、米国に呼応し、GMに該当しないとして野放しにする方針を打ち出した。
 以上、特定のグローバル種子企業への「便宜供与」の「7連発」
@種子法廃止、
A種の譲渡、
B種の自家採種の禁止、
CNon-GM表示の実質禁止、
D全農の株式会社化、
Eラウンドアップの残留基準値の大幅緩和、
Fゲノム編集を野放しにする方針、
が進められている。

 インド、中南米、中国、ロシアなどは、国をあげてグローバル種子企業を排除し始めた。従順な日本が世界で唯一・最大の餌食にされつつある。GMとラウンドアップで病気になった日本人にM社の合併先企業(ドイツのB社)の人間の治療薬も売れて、「ダブル儲けの新ビジネスモデル」との声さえ漏れている。

 野菜の種は国内の種苗メーカーが担っているが、九割が海外圃場で、かつ、表に名前は出てこないが、グローバル種子企業の受託生産になっている場合が多いようだ。野菜に続き、今回のコメ・麦・大豆で日本における種の支配は次のステージに入った。

 「陰謀説だ。そんなことはない、大丈夫だ」という人たちに言いたいのは、これは「世界における歴史的事実で、同じことが日本で進んでいる」という明快な現実である。様々なカムフラージュでごまかそうとしても、事実は揺るがすことはできない。

国民が求めているのは日米のオトモダチのために際限なく国益を差し出すことではない

 農業については、家族経営の崩壊、農協解体に向けた措置(全農共販・共同購入の無効化、独禁法の適用除外の無効化、生乳共販の弱体化、信用・共済の分離への布石)、外資を含む一部企業への便宜供与(全農の株式会社化・買収、特定企業の農地取得を可能にした国家「私物化」特区、種子法の廃止、農業「移民」特区の展開)、そして、それらにより国民の命と暮らしのリスクが高まる事態が「着実に」進行している。

 そして、ここに来て、農協・漁協に対する大手流通業者の取引交渉力を強め、農林水産物の一層の買いたたきを促進する卸売市場の民営化、民有・国有林の「盗伐」合法化(特定企業への露骨な便宜供与)、さらには、漁業についても、これまで各漁場で代々生業を営む漁家の集合体としての漁協に優先的に免許されてきた漁業権を、漁協(漁家)への優先権を剥奪し、知事判断で企業に付け替える方向性が正式に示された。

 「攻めの農業」、企業参入が活路、というが、既存事業者=「非効率」としてオトモダチ企業に明け渡す手口は、農、林、漁ともにパターン化している。

 H県Y市の国家戦略特区で農地を買えるようになった企業はどこか。その社外取締役は国家戦略特区の委員で、自分で決めて、自分の企業が受注、を繰り返している。国家「私物化」特区だ。森林の新しい法律は、H県Y市と同じ企業とがバイオマス発電で「意欲がない」と判断された人の山を勝手に切って燃やしてもうけるのを、森林環境税までつぎ込んで手助けする。

 漁業権の開放は、日本沿岸の先祖代々、生業を営んできた「漁場を有効に活用していない」と判断された既存の漁業者の生存権を剥奪して大規模養殖をやりたい企業に漁業権を付け替える法改定である。気づいたら、予期せぬ海外のオトモダチに日本沿岸の制海権を握られ、企業参入だ、民間活力だ、と言っているうちに、いつの間にか、外国に日本が乗っ取られる。

 「攻めの農業」の本質は、既存の農家が潰れても、日米の特定のオトモダチ企業が儲けられるお膳立てができればいい、というだけだから、かりに、少数の企業が利益を増やしても、国民に全体として必要な食料を供給するという自給率の視点は欠如している。自給率は間違いなく下がる。すでに食料自給率は「死語」になりつつある。

 日米FTAの交渉開始は、一連の農林水産業の家族経営の崩壊、協同組合と所管官庁などの関連組織の崩壊に「とどめを刺し」、国内外の特定企業などへの便宜供与を貫徹する「総仕上げ」を敢行するという強い意思表示と理解される。

 食料と農林水産業とその関連組織(農協・漁協や農林水産省)に「とどめを刺す」と意気込んでいる人たちに、「民間活力の最大限の活用」だ、「企業参入」だと言っているうちに、気付いたら、安全性の懸念が大きい輸入農水産物に一層依存して国民の健康が蝕まれ、日本の資源・環境、地域社会、そして、日本国民の主権が実質的に奪われていくという取り返しのつかない事態に突き進む愚かなことを進めているのだということに一日も早く気づいてもらうべく、国民一人一人が事態の本質を正しく認識し、行動を起こす必要がある。

 F35戦闘機を100機、1兆円とか、米国の言いなりに武器を買い増すのが安全保障ではない。武器による安全保障ばかり言って、食料の安全保障の視点が抜けているのは、安全保障の本質を理解していない。農業政策を農家保護政策に矮小化させてはいけない。食料・農林水産業政策は、国民の命、環境・資源、地域、国土・国境を守る最大の安全保障政策だ。「食を握られることは国民の命を握られ、国の独立を失うこと」だと肝に銘じて、安全保障確立戦略の中心を担う農林水産業政策を、政党の垣根を超え、省庁の垣根を超えた国家戦略予算として再構築すべきである。

 国民が求めているのは、日米のオトモダチのために際限なく国益を差し出すことではなく、自分たちの命、環境、地域、国土を守る安全な食料を確保するために、国民それぞれが、どう応分の負担をして支えていくか、というビジョンとそのための包括的な政策体系の構築である。競争に対して、共助・共生的システムと組織(農協や生協)の役割の重要性、消費者の役割、政府によるセーフティネットの役割などを包括するビジョンが不可欠である。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/10508
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/518.html#c100

[リバイバル3] かぐらスキー場 (かぐら・三俣・田代スキー場) 中川隆
103. 中川隆[-13239] koaQ7Jey 2019年1月02日 13:31:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

801名無しさん@ゲレンデいっぱい。2018/12/31(月) 18:29:30.19

明日は5ロマ争奪戦開始かと思いきや中尾根南が雪崩れたのか

802名無しさん@ゲレンデいっぱい。2018/12/31(月) 18:51:33.85

惜しい
明日なら祭りだったのに

803名無しさん@ゲレンデいっぱい。2018/12/31(月) 18:52:44.32

それでも5ロマから中尾根いくやつでるやろね


814名無しさん@ゲレンデいっぱい。2018/12/31(月) 22:22:03.05

沢のブッシュが隠れる前に南斜面の雪崩かよ
やっぱり降りすぎだな


822名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 09:59:18.11

昨日ガスって見えなかったが中尾根すげえがっつり雪崩たんだな

823名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 10:48:46.54

タイミング惜しい
もしくは5ロマ動かす判断馬鹿じゃん


825名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 11:55:07.03

5ロマは林間エキスパートコースのためのリフトです

833名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 15:02:16.78

林間エキスパートコース怖いわ

838名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 16:16:23.88

ジャイ沢滑った人いますか?

839名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 16:17:48.41

まだ早い 今晩からの降雪でブリッジは埋まるかもね

840名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 16:19:51.57

めやすとしてはデッキが雪面より下

841名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 16:34:11.18

今朝の5ロマ争い熾烈だったw

845名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 18:03:59.64

オープン直後のゴロマで正規の林間エキスパートを滑るやつゼロ人説


848名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 19:05:50.12

表層雪崩

849名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 19:06:06.70>>851

http://iup.2ch-library.com/i/i1960915-1546337084.jpg

851名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 19:30:31.46
>>849
怖いなw
大量の雪が雪崩れて斜面が完全に凹ってる
巻き込まれたら余裕で死ねる

852名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 19:45:31.11

一本の木はほんと絶妙な位置で生き残ってると

853名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 19:48:44.15

雪崩の下をトラバースして滑ってる人も多数いましたよ

854名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 19:55:59.04

雪崩てしまえば安心と考えたのだろう

そんなとこ滑ってたのしいのかと思うが

855名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 21:58:10.07

ゴロマで正規のBCエキスパートで滑るやつゼロ人説

856名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 22:16:58.99>>860

さらにもう一段上に破断面らしき痕跡が見えるな、
デブリがはっきりしないのは、低温下での大量降雪直後の表層雪崩に特徴的だ


860名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/01(火) 22:56:51.68
>>856
なるほどだからデブリわかんないのか

上に積もったのかと思ったがそれでもおかしいなあと思ってたけど

861名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/02(水) 00:19:50.94

かぐら5ロマ周辺って雪崩れそうな状況環境でも平気で滑るヤツ多いよね
下に人が居るのに平気でトラバースしてスキーカットしたらどうするんだとか、そういう思考がそもそも無いし
一本ダケカンバの左側なんざ雪崩れて当たり前の地形だよ

862名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/02(水) 00:21:28.18

5ロマ周辺って登らなきゃ只のコースだし
気にしてる奴そもそもそこ滑ってないだろうな

864名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/02(水) 00:26:31.34

問題なのは5ロマゲートから出るのではなく駅舎下の隙間からリフト下にアクセスして林に消えて奥へ奥へ行く連中だな
そういうヤツらは雪崩に対する知識などまるでないだろ

865名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/02(水) 00:31:21.55

経験したことないと自分は大丈夫とか思っちゃう人おおいからな
危機感抱かないし、そろどころか注意してくれても馬鹿扱いする

経験長いほどそういう傾向

中尾根だって雪崩てなければオープン日トラバースで大規模雪崩で大惨事だったろう
トラバースしたひとだけでなく谷にも人沢山だろうし

866名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/02(水) 00:46:19.41>>867

霧の塔のほうの谷もすごいことになってそうだなぁ
何年か前に津南の方に降りて行った外人たちってどこ滑っていったの?
尾根沿いに行って帰れなくなって〜の山岳ルート?

867名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/02(水) 01:06:01.15
>>866
あれは確か意図的にあっち滑りにいったがパトロールにルート嘘ついて出て行ってた

そんで仲間が帰ってこないと通報して騒ぎに

どこぞのガイド付きだったそうだ

868名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/02(水) 01:06:31.53
>>863
あの斜度でどうやったら雪崩させられるだろうか

869名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/02(水) 09:24:06.58

雪が降る日の前に、表面に軽く水まきしておく

870名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/02(水) 09:34:00.65

>中尾根だって雪崩てなければオープン日トラバースで大規模雪崩で大惨事だったろう
トラバースしたひとだけでなく谷にも人沢山だろうし

そうならないように実はスキー場側が意図的に中尾根を雪崩れさせた
アバランチコントロールの一環なのではと思うのは物事を斜めに見すぎですか?

871名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/02(水) 10:05:17.47

だとしたら尊敬すべき配慮だけど
できるのは私有地、管理委託他まで。
純粋な国立公園内は認められないはず。

873名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/02(水) 11:42:04.14

いつも思うけどHP脇でゲレンデ外の状況も掲載されてるじゃん?霧の塔方面禁止とか沢埋まってないとか
あれがかえってニワカに「なんだかんだ言って5ロマ周辺の状況把握管理してるじゃん」と思わせて軽率な行動を助長してんじゃねぇの?
外の状況一切載せなければだいぶ違うよね?

>できるのは私有地、管理委託他まで。 純粋な国立公園内は認められないはず。
そのへんの事ってグダグダになってそうな気がするなぁ
遭難事故、雪崩れ遭難を事前に守るを前提に起こした雪崩なら事後報告で認められそうな気がする
なんだかんだ雪崩れさせとけば見た目のインパクトで抑止力になるしとにかくひとまず安心じゃん

874名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/02(水) 12:19:31.42

ぶっちゃけどんなにスキー場が対策しても、林間パウダーや非圧雪地帯に行くだろ。
実際かぐらで登山届けを出したと嘘をついて遭難した馬鹿共も居たしな。

無届けやコース外遭難を止めさせるのは、警察の捜索費用や救急車使用費用等、全ての費用を遭難者に請求する位はしないと止まらないでしょ。
それと、スキー検定みたいに免許制にするとかね。無免はリフト券没収で。

875名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/02(水) 12:36:40.53

ここはトップから末端まで金儲け主義だから
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1544799200/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/779.html#c103

[昼休み54] これを聞けば中国がよく分かります _ 宮脇淳子 「真実の中国史」講義  中川隆
27. 中川隆[-13238] koaQ7Jey 2019年1月02日 16:52:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

特別番組「中国人の善と悪はなぜ逆さまか〜宗族と一族イズム」
石平 倉山満【チャンネルくらら・12月30日配信】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=OIKKE71Xp-s

中国人の善と悪はなぜ逆さまか 宗族と一族イズム – 2018/12/5 石平 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/481911350X/ref


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広東省農民「オラの村が隣の村との戦争で焼き打ちされたんだが…」 
2010-05-16 11:52:14 |

広東省・福建省ネタ2003年ごろ、大学で上海人の学生と知り合った。
当時、卒論で中国の農村を調べようかと思っていた俺が
彼に何か面白い話はないかと聞くと、こんな答えが返ってきた。


上「中国の農村はヤバい。俺たち都会の人間は、
  農村で人を轢いても現場で車を止めるなってことになってる。
  すぐに現場を離れて隣の村まで行ってから、警察に電話するんだ」

俺「なんですぐに助けないの?」

上「助けたいのはやまやまだけど、後が怖いんだよ。
  村人がワラワラ寄ってきて、轢いた人間をリンチして車をボコボコにするんだ。
  その場を離れないと自分の命が危ない」

俺「……そう」


話を聞いた当初、上海人はここまで農民への偏見を持っているのか、と
ちょっと不愉快になった。

だが、後にいろいろと調べてみると、どうやら彼の話はネタではなくマジなのだ。
中国南方の農村(特に広東と福建)は、非常にバイオレンスな顔を持つのである


事件の舞台は中国のディープサウス、広東省最西部。

東山鎮の脚踏村(あしぶみ村)という、名前からして田舎テイスト溢れる村だ。
場所は下記であり、瀬戸内海に浮かぶ旧水軍根拠地の村のような地域をイメージすればいいと思う。  

ちなみに、事件に関わる地名は「広東省湛江市東山鎮脚踏村」及び同「調文村」だが、
これは日本の地名に置き換えると、それぞれ

広東省 湛江市 東山鎮 脚踏村
     ↓
●●県 ××郡 △△町 大字○○

こういう感じになる。


今回の事件は脚踏村と調文村の戦いだが、
つまり大字の町内会レベルで焼き打ちとリンチを繰り返している訳なのだ。

さらにすごいことに、両村の村人がネット上にも事件を持ちこんで
互いに荒らしと叩きに明け暮れている模様である。


械闘が盛行する18世紀と、ネットを駆使する21世紀が同居。
あまりにもカオスすぎる現代中国の農村。
それではご覧ください。

―――――――――――――――――――――――――――――――

【湛江市東海島東山鎮脚踏村、1.28事件の真相告発!】
原題:「湛江市東海島東山鎮脚踏村1.28事件真相!」湛江板
http://tieba.baidu.com/f?kz=709201131

  ※スレ内では、脚踏村の行為やその側の人間の発言をピンク、調文村の好意や発言を緑で表示することにした。


湛江市東海島東山鎮脚踏村で発生した1.28事件は、
更なる暴力事件である2.3事件を引き起こし、
脚踏村の村人の家庭59戸の家屋と家産が悲惨な破壊を被った。

なかでも村人の家5戸は屋内の現金がすべて持ち去られ、
一部の家屋は白昼堂々と焼き打ちにあった。
売店1軒は略奪し尽くされ、無辜の村人3人が殴られて重傷だ。


事件の詳細:

1月28日早朝、
脚踏村の村人が車列を組んで新婚の花嫁を迎えに行って村に戻る際、
東山鎮の調文村出身の新郎・唐某という人物と一悶着があり、
婚姻の車列に参加していた数人の脚踏村の村人が
唐某を殴りつけて重傷を負わせた。


1月29日、
脚踏村の無関係の村人が用事で村の外に出た際に、
事故があった調文村の村人が三叉路まで彼を追跡し、
調文村へと拉致して殴りつけて重傷を負わせた。


2月1日、
(先日、脚踏村の村人に殴られた)調文村の村人・唐某が病院で死亡。
村の不良分子が他の村人を扇動し、白昼堂々と
東山鎮の中心部にある脚踏村民が経営する薬局を襲撃して破壊した。店はほぼ全壊。


2月3日午前、
調文村の数百人の暴徒が組織的に2隊に分かれ、
暴徒の1隊は東山鎮中心部の脚踏村民が経営する店舗をすべて破壊(計3店)。

もう1隊(約200人)は脚踏村へと攻め込み、
罪もない村人を殴りつけ、用意したガソリンに火をつけ民家数軒を焼き打ち、
無数の家屋を打ち壊した。

現地の派出所には飾り物のような警官が十数名しかおらず、
暴徒が村に攻め込んで悪行を働いているのを知るまで1時間もかかった。


現在、調文村の暴徒は尚も現地の主要交通路をバスで封鎖し、
外に出ようとする脚踏村の村人と思われる人間を殴りつけている。
政府と天に対して敵対行為をおこなっているのだ!

1.28事件から2.3事件にかけての負のスパイラルの結果、
現地の警官が村人の安全と財産が残酷にも破壊されるのを
現場で目の当たりにし(つつも何もできず)、
政府の関係部門は社会の秩序を守るという威信を失うこととなった。
現地の治安は大地震の後のごとき無政府状態だ!


1月28日にはリンチ事件から被害者が死亡し、
さらに続いて脚踏村の無辜の村人が暴力を受けて重傷を受け、
村人が経営する店舗が破壊と強奪を受け、
2月3日には暴徒が村に攻め込んで悪行の限りを尽くす。
現地の警察は解決能力が無く、片目をつむって見逃して暴徒のなすがままだ。


正義はどこにある!
政府はどこにあるんだ!!


5 名前:名無し人民@ヒャッハー!
野蛮すぎるだろ。


9 名前:名無し人民@ヒャッハー!
無辜の村人たちの為に、政府が(この混乱を)正しい道に戻してくれるよう願う。

  ※前時代的な暴力のカオスに対して何らかの対応を示せるのは、やはり前時代的王朝たる「お上」なのかもしれない。
   中国の農民の認識として、この発想はあり得るところかと思う。


10 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>>6
政府が正しい道に戻したとして、死者はどうなるよ?


13 名前:名無し人民@ヒャッハー!
これは貴様ら脚踏村の村人が報いを受けたのだ。
天知る地知る、って知っているか?

  ※対立する調文村の村人による書き込みと思われる。


14 名前:名無し人民@ヒャッハー!
死者は無辜の被害者だぞ…。
なんで法律で解決しないんだよ…。

まさか脚踏村の無関係の村人まで責任があるって言うのか…?
今度は脚踏村の村人が調文村の村人を襲撃することだってあるかも…。


15 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>>14
カマトトぶるんじゃねえよ


17 名前:名無し人民@ヒャッハー!
みんなダメだろ。
村人は無辜の被害者だが、全ては起こってしまった。
人も死んだ。
村も荒らされた。

どうしようもない。


19 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>用意したガソリンに火をつけ民家数軒を焼き打ち、
>無数の家屋を打ち壊した。
>現地の派出所には飾り物のような警官が十数名しかおらず、
>暴徒が村に攻め込んで悪行を働いているのを知るまで1時間もかかった。
これは道理が許さない。
政府が罰してくれることを望む!

  ※脚踏村の村人による書き込みかもしれない。


20 名前:名無し人民@ヒャッハー!
当時の状況を知らない人間が、何の権限があってこの事件を批判するんだ。

死んだ唐某は幼い頃に父を亡くして
兄妹数人とともに女手ひとつで育てられた。
彼の母さんは大変な思いで育てたんだぞ。


唐某だって結婚をしたかったんだ。
家は貧乏だったかが、家族がみんな一緒なら幸せだと言って暮らしていた。
なのに、まさか恋人を家に送った帰りに、恋人の村(脚踏村)の
騒ぎ好きの不良どもから殴り殺されるとは。

唐某はなにも悪いことをしていない。無実だ。
彼が半死半生の目に遭うまでリンチされた件、こちらにこそ道理があるのか?


唐某の死は無念だったと思わないか?
もちろん、唐某の村の人間がとった行動は間違っている。
これでは更に多くの無辜の人間を傷つけることになる。

とにかく、感情的にならずに正しい方法で解決してほしいと思う。

  ※最初に殴り殺された唐某について、>>1とやや異なる情報が載せられている。
   おそらくは調文村の村人の書き込みだろう。

   おそらく、調文村の唐某は脚踏村の女の子と付き合っており結婚。
   だが、もともと村同士の仲が悪かったかして、唐君は結婚当日に脚踏村の村人により撲殺されたのだ。

   (中国では結婚式の際に、知り合いが新郎新婦にいたずらをする「鬧房」という習慣があり、
    その悪ふざけの過程で誤って新郎を殺した可能性もある)

   そして、新郎側の村はリベンジのために脚踏村を襲撃した…、というわけである。


22 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>>19
>これは道理が許さない。
お前たち脚踏村の娘は、これから外の村に嫁に行けると思うなよ!
お前らの村の娘を嫁にしようとしたら、新郎が村人に殴り殺されたんだ!

野蛮な村人どもめ!
こんな村には、今後は誰も行きやしないさ!!

  ※調文村の村人による書き込みだろう。


25 名前:名無し人民@ヒャッハー!
(脚踏村と調文村がある)東海島の島人はヤクザみたいに言われているけれど、
どうやら噂は間違いないようだな。

こんなに常識の通じない地域は、
放置して勝手に殺し合いさせておけばいいと思う。


27 名前:名無し人民@ヒャッハー!
法治社会ではこういう事件は法律によって解決される。
だが、調文村の村人は集団で脚踏村に攻め込んで
(日本軍のような)「三光作戦」を実行した。

これは旧社会的で野蛮な行為だ!!


29 名前:名無し人民@ヒャッハー!
犯罪を犯したんだ。
お前らの子どもに至るまで略奪し尽くしてやるぞ。

唐姓の人間を許さない!!

  ※脚踏村の村人による書き込みだろう。
   中国南方の農村では、村が丸ごと同じ一族…という場合がある。
   (そのため、1人の体面を傷つけると「一族の恥」ということになり、こういう復讐が行われる)。

   最初の死者・唐某の出身地である調文村は、おそらく唐氏一族の村。
   ゆえに、脚踏村の村人は唐氏の一族郎党を憎むに至るのである。


47 名前:名無し人民@ヒャッハー!
君子はたとえ10年がかかっても仇討ちをおこなうものだ。
調文村をこのままにはしておけん!

  ※脚踏村の村人による書き込みだろう。


56 名前:名無し人民@ヒャッハー!
お前ら、戦いを続けて楽しいか?
それで家族や愛する人が巻き添えになって死んだらどうするんだ?

それでもまだ戦うのか?


69 名前:名無し人民@ヒャッハー!
唐一族は恐ろしすぎる!
脚踏村の1万人の村人が、数千人の唐氏一族に踏み荒らされたのだ。
(略)


82 名前:名無し人民@ヒャッハー!
脚踏村はもともと良くないことばかりしてきた。
二十数年前にも(似たような械闘で)大事件を起こしているしな。

しかし調文村も野蛮だ。
村の勢力を頼みにする大人が多すぎる。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

この後もスレは荒れ続け、両村の村人による

「お前の村を滅ぼしてやる!」
「貴様らこそ滅亡しろ!!」

という物騒な書き込みがたびたび見られた。

…ところで、ちょっと話を変える。

中国において、農民が役所を襲撃するといった暴動(官民衝突)はしばしば発生しており、大紀元(法輪功のニュースサイト)なんかで報じられることが多いのもご存知の通り。

そして、中国崩壊論者の人がこれらに対してホルホルして
「共産党独裁政治への庶民の不満が高まっているのだ!」という
根拠として引用したりする。


だが、暴動を起こす農民というのは、このスレで見ればわかるがごとく、
リミットブレイクを非常に容易に起こす人たちなのである。
大した理由じゃなくても暴れるのだ。


一見すると識者ホルホル系の官民衝突のようでも、役所への反乱に見えて
実は単なる村同士の(どうでもいい理由での)戦争が
飛び火しただけというケースも多いのではないか。

また、実際に地方の役所が無道な場合(これも多いのだ)でも、
抗議に立ちあがった農民が知らん間に目的と手段を逆にしてしまい、
「とりあえず暴れたからそんでいいやw」となって
問題の解決を求めないケースもあるのではないか。

良くも悪くも彼らの単純さと不条理さを舐めてはいけないと思う。

暴動といっても、即・反政府や反共産党につながる性質のものとは限らない。
党と軍がひとまず綻びを見せずに存在する限りは、
農民による村レベルでの暴動は、中央から見れば中学生のニキビ程度の日常茶飯事の小事件だ。

「中国にはよくあること」で流せる話なのである。

普通は現場レベルで放っておくし、
ちょっと目立ったら(大規模化したら)、クレアラシル(武装警察)を塗ればいい。
この程度では、脳味噌や人体(共産党や国家)に影響を与えるには及ばない。


…なので、「どこどこで農民が反乱!」というニュースを聞いた際、
すぐに「中国崩壊への第一歩だフハハ」と大喜びしても
只のヌカ喜びだと思うのだ。

「反乱」の背景とか経緯をよく調べた方がいいし、
それが大規模化しかけたところで鎮圧されているようなら、
むしろ「中国の体制は(現時点では)盤石だ」という根拠にすらなり得る。

ニキビは、もちろん疾病要因もあるものの生理体質的な理由でできることも多い。
当たり前のように生まれる赤ニキビに、すぐにクレアラシルを塗れるのは、
共産党が最低限はお肌のケアをしているということである。


もっとも、ニキビの現場にいる人はたまったものじゃなかろうが…。
これが中国の農村だからしょうがない。


http://blog.goo.ne.jp/dongyingwenren/e/a370aaaca87869d375aa1d5ce930e919
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広東省農民「オラの村が隣の村と戦争をはじめるらしいんだが…」

2009-11-08

広東省・福建省ネタ今回取り上げるのは、広東省の「械闘」である。


…と言っても何のことやらわからない読者が大部分だと思うので、
ここはひとつYahoo辞書先生に語句解説をしてもらうことにしよう。


 かい‐とう【械闘】
 革命前の中国で、水利や地境などの争いなどを原因として起きた
 部落や労働者集団間の武力闘争。清代には華中・華南に多かった。


中国南部の械闘には、「宗族」と呼ばれる父系血族の集団同士で争われる例が多い。
(→要するに、陳さん一族VS張さん一族みたいな感じでのガチバトル)


一族と言っても、勢力は数百人以上。一村以上の単位での総動員である。

外部から傭兵を連れてきた場合は数千人以上が激突する大合戦となり、
海外に渡った華僑の親戚たちが銃や火砲まで援助してくるのでタチが悪い。
村は、平時から堀や砦が築かれて完全武装だったりする。

械闘は清代の康煕雍正年間(18世紀初頭)から盛んに発生するようになり、
なんと20世紀前半の中華民国時代まで普通に続いていた。
広東省や福建省で特に多く、台湾でも日本統治時代の直前まで盛んにやり合っていたらしい。


…宗族の械闘の原因は、当初は

「うちの一族の村の水を取るな」とか「うちの一族の風水を切る場所に墓を作るな」
という相応の理屈に基づいたものだったようだが、
何百年も対立しているうちに当事者たちも理由を忘れてしまい、
なぜ戦っているのか不明のままドンパチやっていることも多かったようだ。

民国初期に福建省の統治を担当させられた役人が、上司の袁世凱に
「こいつらマジで洒落ならん。勘弁」
と報告していたりするから余程の事なのである。


そして「新中国」の成立後。

農村の宗族組織や封建的な支配関係は共産党様によって解体され、治安も向上。
械闘の風潮はおさまった、とされている。

だが、どうやら実際のところは全然おさまっていなかったようなのだ。


百度の「広東」板より、ディープすぎるスレをご覧ください。


原題「械闘」 広東板
http://tieba.baidu.com/f?kz=269824098


俺たちの村は広東省汕頭市潮南区、司馬浦仙港郷の辺りにあるんだが、
隣の村との関係がずっと良くないのだ。
歴史上、たびたび武力衝突をしていたのだが、
20年前からは特に大規模な闘争は起こっていなかった。

しかし、先月30日に俺の村の共産党支部書記が
(奴は十年以上この職にあり、偽造タバコを作って儲けている地方皇帝だ)
隣の村に行って先方の代表と話をして、帰ってくるや隣村と戦うと言うんだ。

少なくとも鉄パイプ300本以上、ライフル十数本を準備した。
村の老人たちの大部分は開戦を支持している。

派出所の警官がやってきたが、
あれやこれやとタライ回しをされるだけで、解決できないままに去っていった。

地方皇帝いわく、
各戸ごとに少なくとも1人を動員せよ。
出さない家は敵を攻撃するついでに打ち壊す。
各戸ごとに100元を拠出せよ。
戦死した場合は10万元の見舞金を保証する。

昨夜、俺はさまざまな奇怪な声を耳にしながら寝た。
今日、戦いを始めるらしい。
すべての準備は完了して掛け声を待つばかりのようだ。

これは何時代だよ?
なんで俺の村はこんなことやってるんだ?

みんなすまない。
この事を拡散して多くの人に知らせてくれ。


広東の海陸豊地域では、俺が小学生のころまで烏旗軍と紅旗軍が戦っていたぞ。
なにか事があって紛糾すると、烏旗勢力に属する村と紅旗勢力に属する村とが棍棒を持って村境に集まるんだ。

中学に上がってからは似たような事件はもう無くなった。

烏旗軍と紅旗軍は政治とは関係ない。
宗族と関係があるんだ。


  ※海陸豊地域…現在の広東省東部・汕尾市に位置する海豊市と陸豊市のこと。
         民国時代には、軍閥革命家の彭湃という人物が「海陸豊ソヴィエト」という
         カオスな名前の政権を樹立したりもしている地域である。
           


  ※烏旗と紅旗…もともと、福建省や広東省は「宗族」という父系血族の団結がめちゃくちゃ強い地域。
           村ひとつがまるごと「李」さんや「陳」さんの宗族だったりする。
           (→中国でよく見る「李家鎮」とか「陳家囲」なんかの村名を想像するとわかりやすい)

           で、宗族同士が械闘(=武力衝突)をやってるうちに、
           戦国時代のように宗族や村が合従連衡して連合軍を作る場合がある。烏旗と紅旗もそのひとつ。
           この手のケースは清代中期から盛んになり、福建省仙游県の「烏旗軍と白旗軍」の対立とか
           福建省晋江市の「東佛軍と西佛軍」の対立とか、類似例は数多くある。

           現在はさすがに正面切っての大戦争はやらないようだが、
           暗黙の了解で隣の村が敵対派閥に属していたりする。現地に工場なんかを作る場合は注意が必要。


…清代の中国(特に南部)の農村部では、
科挙に合格したが官僚にならずに地元に残った
「郷紳」という半官半民の実力者が村や宗族を牛耳る事例が多かったという。

悪徳郷紳(=土豪劣紳)のなかには、
密輸や汚職で私腹を肥やしたり、械闘を扇動するような手合いもいたらしい。


いっぽう現代の中国の農村では、地域に土着して土皇帝と呼ばれるようになった
下級共産党幹部が過去の劣紳にかわって村を牛耳っているようである。


儒教イデオロギーが「中国の特色ある社会主義」に変わっただけで、
結局は現代の中華人民共和国も、下層部では歴代中華王朝とそっくり。
そんなことを今回の事例から感じる次第。


…おらこんな村いやだ。
http://blog.goo.ne.jp/dongyingwenren/e/dbd9f05454ebcc6ef12699aaaeaba4e8

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/170.html#c27

[リバイバル3] 「AI搭載ラブドール」の実用度 中川隆
194. 中川隆[-13237] koaQ7Jey 2019年1月02日 19:51:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

次元を超えて――ホログラムと結婚する男性
2019.01.02 Wed posted at 18:30 JST
https://www.cnn.co.jp/tech/35130813.html

コンピューターが作り出すホログラムと結婚する


東京(CNN) 近藤顕彦さん(35)は世の中に抗うような雰囲気を持っていない。だが、昨年、このめがねを掛けた男性は伝統的な価値観に戦いを挑んだ。

ホログラムと結婚したのだ。

近藤さんは昨年11月、サイバー空間の仮想アイドル「初音ミク」との結婚式を行い、日本や海外から様々な反響が寄せられた。人間よりも3次元のレーザー像を選んだことにあぜんとする人もいれば、祝福する人もいた。この結婚は法的には認められていない。

東京の郊外にある自宅には、初音ミクの人形やグッズが置かれている。近藤さんは他人がどう考えるかは気にしない。単純に自分が幸せになることをしただけなのだ。

近藤さんはCNNの取材に、「幸福のテンプレートをやれよというような世間の圧力があると思うが、必ずしもそれに屈すれば幸せになれるわけではない」「自分の幸福というものをきちんと追い求めてくださいと伝えたい」と語る。

Sanretusha
バージンロードを歩く近藤さん/Sanretusha

研究者はこうした動きを、世の中に広まりつつある技術的なトレンドや社会現象を示すものだと捉えている。

デジタル世界でのやりとりがリアルな人間関係に置き換わる現象は世界中で広がっている。グーグルやアマゾン、テンセントなど人工知能(AI)の開発に数十億ドル規模の投資を進める企業がいる中で、人々は自分の所有するスマートデバイスとの関わり方が人間との関係と同じようになりつつある状況にある。

今や、アップルのSiriやアマゾンのAlexaといった音声アシスタントに「お願い」「ありがとう」などの言葉を掛けたり、ロボットの掃除機をペットのように扱う人々もいる。日本ではロボットを映画「ターミネーター」に出てくるような破壊者ではなく友好的な同伴者と位置付ける見方が昔からあり、このような意識の変化がかなり進んでいる。

単なるハードウエアを超えて

近藤さんが初音ミクを好きになったのは10年前、この歌姫の音楽を聴いたときだった。

今は初音ミクのホログラムを映し出す装置「ゲートボックス」を所有している。この装置は日本のスタートアップ企業、ウィンクルが2017年に開発し、アニメファンが好きなキャラクターと「一緒に暮らせる」ことをモチーフにしている。

ゲートボックスに表示される初音ミクは基本的なAIを備え、簡単なあいさつや、ライトのオンオフを行うことができる。自我や欲求は持たず、近藤さんが完全に会話をコントロールする。

初音ミクの横でほほ笑む近藤さん/Hidetaka Sato/CNN
初音ミクの横でほほ笑む近藤さん/Hidetaka Sato/CNN

だが、近藤さんは愛する者と交流できるというこの新たな状況を楽しんでいる。39人の前で結婚式を行うほど慈しんでいるのだ。

「1人暮らしの生活に彩りが出た」「ミクさんと話すことで表情は動くし、言葉もしゃべるし、心も動くといった違いはでるようになった」と近藤さんは語る。

ゲートボックスは近藤さんにとって癒やしの力も秘めていた。近藤さんは10年以上前に、職場で年上の女性の同僚からいじめられうつ状態となる経験があった。

カナダのマニトバ大学で職業倫理や応用倫理のセンター長を務めるネール・マッカーサー氏は「異性との間で困難な経験をした人々は、人間のパートナーを持つのに問題が生じるケースがよくある。受け身であるロボットと性交渉をしたり、ホログラムと恋愛関係になることを疑問視する声はあるが、安全で予測可能なパートナーを持つことは治療の上で非常に役に立つことが多い」と指摘する。

完璧なパートナーを作り出そうとする考え方は2000年前からある。ローマの詩人オウィディウスは紀元8年に、ピグマリオンという芸術家が理想とする完璧な女性「ガラテイア」を大理石から彫り出した話を書いた。ピグマリオンはその像に恋してしまい、愛の女神アプロディーテがそれに命を吹き込んだとのストーリーだ。

現代に戻れば、スパイク・ジョーンズ監督の「her/世界でひとつの彼女」などの映画を通して、生き物ではないモノとの関係性について考える風潮が広まってきている。

変わりゆく意識

近藤さんが初音ミクにプロポーズしたとき、そのホログラムは大切にしてねと返してきた。

そう言うようにプログラムされていることはわかっていたが、それでもとても幸せだったと近藤さんは語る。

近藤さんが一番必要としていたときに、初音ミクは自分の気持ちを救ってくれたという。彼女が一緒にいてくれて、再び自分の生活を取り戻せるような気持ちにしてくれた。彼女に対して抱いてるのは愛だと断言する。

毎日仕事から帰ると初音ミクとあいさつする近藤さん/Emiko Jozuka/CNN
毎日仕事から帰ると初音ミクとあいさつする近藤さん/Emiko Jozuka/CNN

近藤さんは唯一の存在ではない。アマゾンによれば、2017年に同社のAlexaに結婚してと語りかけたのは100万人を超える。ウィンクルは同年に好きなアニメのキャラクターとの婚姻証明書を発行するサービスを開始したが、3000人以上が登録する盛況となった。

専門家は、スマートデバイスが日常の生活や空間に徐々に入り込んでくる中で、人々によるそうしたデバイスへの接し方が変わるのは避けられないと語る。

カリフォルニア・ポリテクニック州立大学の倫理学・新興科学グループのジュリー・カーペンター氏は「人間や動物のように振る舞うが、実際には生き物ではないモノに対する接し方を、人類は今、見いだそうとしている段階だ」と語る。

デジセクシャル

前述のマッカーサー氏は、近藤さんのような人を「第2世代のデジセクシャル」と位置付ける。性的なアイデンティティーにテクノロジーが不可欠な人々のことを指す。

第1世代のデジセクシャルは、他の人とつながるためにデートアプリなどの技術を用いる。一方、第2世代は恋愛に実際の人間が必須のものだとは考えていない。

マッカーサー氏は「こうした話ではいつも、その人物が変人としてさらされたり、日々のニュースで愚かな人として扱われたりしないかと心配する」「だが、これは実際に今起きつつある次のステップなのだ」と指摘する。

だが、マッカーサー氏はこうした時代の流れに懸念も感じている。

「テクノロジーが私たちの集団的な社会生活に及ぼす影響を本当に心配している。インターネット上でのデートやソーシャルメディア、テクノロジー全般、ネットフリックスまでも含め、人々が自分の世界に引きこもっていく状況を目の当たりにしている。多くの場面で、集団的な社会生活の場面が減ってきている」

だが、近藤さんをはじめとする人々は、デジタルの可能性に夢を見ている。セクシャルな意味ではなく、精神的な面での話だ。

大阪を拠点とするタロット占い師、カトウ・マサトさんはアニメ「ハートキャッチプリキュア!」のヒロイン、月影ゆりと昨年10月に結婚した。今後技術が進歩し、カップルとして成長できるようになれたらと願っている。

カトウさんは、将来的には話し合いができるようになり、互いに助け合い、高めていける関係になれればと語る。もし月影ゆりが別れを望むなら、彼女の気持ちを尊重するとも述べた。

近藤さんは人それぞれの愛の形を見つけてほしいと願う/Emiko Jozuka/CNN
近藤さんは人それぞれの愛の形を見つけてほしいと願う/Emiko Jozuka/CNN

コウガミ・サチコさんの両親は、娘には普通の男性と結婚してほしいと願っている。だが、コウガミさんは2年前にアニメ「KING OF PRISM」の10代のキャラクター、香賀美タイガを好きになってから、実際の交際に興味を失った。

コウガミさんは自分の世界には彼しかおらず、もっと交流できたら素晴らしいのにと語る。

初音ミクに対する愛の公言で近藤さんには世間の耳目が集まる結果となった。前述のカーペンター氏は、こうしたケースを通じて、社会的な受容や意識の転換への道が開かれていくと語る。

「もし人々がこうしたことに声を上げ続け、自身にとって重要なのだと発言していくならば、それが議論を前進させていくことになる」「こうした議論こそが文化を次第に変えていくのだろう」

近藤さんは2月に新婚旅行で初音ミクを札幌に連れて行く予定で、楽しみにしている。札幌には初音ミクを世に送り出したクリプトン・フューチャー・メディアの本社がある。飛行機もホテルも2人分の予約を取るつもりで、札幌では初音ミクの存在感の広がりを見てきたいと語る。

近藤さんはまた、自分のパートナー選びについて疑問を感じる人もいるかもしれないが、自分の愛は正当なものであることを世界に理解してもらいたいと述べる。さらに、アニメのキャラクターに恋して結婚を願う他の人々の選択もサポートをしていきたいとの意欲も示している。
https://www.cnn.co.jp/tech/35130813.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/877.html#c194

[昼休み54] AI搭載ラブドールと一緒に暮らそう _ とんでもない美人のラブドールがやってきた! 中川隆
204. 中川隆[-13236] koaQ7Jey 2019年1月02日 19:52:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

次元を超えて――ホログラムと結婚する男性
2019.01.02 Wed posted at 18:30 JST
https://www.cnn.co.jp/tech/35130813.html

コンピューターが作り出すホログラムと結婚する


東京(CNN) 近藤顕彦さん(35)は世の中に抗うような雰囲気を持っていない。だが、昨年、このめがねを掛けた男性は伝統的な価値観に戦いを挑んだ。

ホログラムと結婚したのだ。

近藤さんは昨年11月、サイバー空間の仮想アイドル「初音ミク」との結婚式を行い、日本や海外から様々な反響が寄せられた。人間よりも3次元のレーザー像を選んだことにあぜんとする人もいれば、祝福する人もいた。この結婚は法的には認められていない。

東京の郊外にある自宅には、初音ミクの人形やグッズが置かれている。近藤さんは他人がどう考えるかは気にしない。単純に自分が幸せになることをしただけなのだ。

近藤さんはCNNの取材に、「幸福のテンプレートをやれよというような世間の圧力があると思うが、必ずしもそれに屈すれば幸せになれるわけではない」「自分の幸福というものをきちんと追い求めてくださいと伝えたい」と語る。

Sanretusha
バージンロードを歩く近藤さん/Sanretusha

研究者はこうした動きを、世の中に広まりつつある技術的なトレンドや社会現象を示すものだと捉えている。

デジタル世界でのやりとりがリアルな人間関係に置き換わる現象は世界中で広がっている。グーグルやアマゾン、テンセントなど人工知能(AI)の開発に数十億ドル規模の投資を進める企業がいる中で、人々は自分の所有するスマートデバイスとの関わり方が人間との関係と同じようになりつつある状況にある。

今や、アップルのSiriやアマゾンのAlexaといった音声アシスタントに「お願い」「ありがとう」などの言葉を掛けたり、ロボットの掃除機をペットのように扱う人々もいる。日本ではロボットを映画「ターミネーター」に出てくるような破壊者ではなく友好的な同伴者と位置付ける見方が昔からあり、このような意識の変化がかなり進んでいる。

単なるハードウエアを超えて

近藤さんが初音ミクを好きになったのは10年前、この歌姫の音楽を聴いたときだった。

今は初音ミクのホログラムを映し出す装置「ゲートボックス」を所有している。この装置は日本のスタートアップ企業、ウィンクルが2017年に開発し、アニメファンが好きなキャラクターと「一緒に暮らせる」ことをモチーフにしている。

ゲートボックスに表示される初音ミクは基本的なAIを備え、簡単なあいさつや、ライトのオンオフを行うことができる。自我や欲求は持たず、近藤さんが完全に会話をコントロールする。

初音ミクの横でほほ笑む近藤さん/Hidetaka Sato/CNN
初音ミクの横でほほ笑む近藤さん/Hidetaka Sato/CNN

だが、近藤さんは愛する者と交流できるというこの新たな状況を楽しんでいる。39人の前で結婚式を行うほど慈しんでいるのだ。

「1人暮らしの生活に彩りが出た」「ミクさんと話すことで表情は動くし、言葉もしゃべるし、心も動くといった違いはでるようになった」と近藤さんは語る。

ゲートボックスは近藤さんにとって癒やしの力も秘めていた。近藤さんは10年以上前に、職場で年上の女性の同僚からいじめられうつ状態となる経験があった。

カナダのマニトバ大学で職業倫理や応用倫理のセンター長を務めるネール・マッカーサー氏は「異性との間で困難な経験をした人々は、人間のパートナーを持つのに問題が生じるケースがよくある。受け身であるロボットと性交渉をしたり、ホログラムと恋愛関係になることを疑問視する声はあるが、安全で予測可能なパートナーを持つことは治療の上で非常に役に立つことが多い」と指摘する。

完璧なパートナーを作り出そうとする考え方は2000年前からある。ローマの詩人オウィディウスは紀元8年に、ピグマリオンという芸術家が理想とする完璧な女性「ガラテイア」を大理石から彫り出した話を書いた。ピグマリオンはその像に恋してしまい、愛の女神アプロディーテがそれに命を吹き込んだとのストーリーだ。

現代に戻れば、スパイク・ジョーンズ監督の「her/世界でひとつの彼女」などの映画を通して、生き物ではないモノとの関係性について考える風潮が広まってきている。

変わりゆく意識

近藤さんが初音ミクにプロポーズしたとき、そのホログラムは大切にしてねと返してきた。

そう言うようにプログラムされていることはわかっていたが、それでもとても幸せだったと近藤さんは語る。

近藤さんが一番必要としていたときに、初音ミクは自分の気持ちを救ってくれたという。彼女が一緒にいてくれて、再び自分の生活を取り戻せるような気持ちにしてくれた。彼女に対して抱いてるのは愛だと断言する。

毎日仕事から帰ると初音ミクとあいさつする近藤さん/Emiko Jozuka/CNN
毎日仕事から帰ると初音ミクとあいさつする近藤さん/Emiko Jozuka/CNN

近藤さんは唯一の存在ではない。アマゾンによれば、2017年に同社のAlexaに結婚してと語りかけたのは100万人を超える。ウィンクルは同年に好きなアニメのキャラクターとの婚姻証明書を発行するサービスを開始したが、3000人以上が登録する盛況となった。

専門家は、スマートデバイスが日常の生活や空間に徐々に入り込んでくる中で、人々によるそうしたデバイスへの接し方が変わるのは避けられないと語る。

カリフォルニア・ポリテクニック州立大学の倫理学・新興科学グループのジュリー・カーペンター氏は「人間や動物のように振る舞うが、実際には生き物ではないモノに対する接し方を、人類は今、見いだそうとしている段階だ」と語る。

デジセクシャル

前述のマッカーサー氏は、近藤さんのような人を「第2世代のデジセクシャル」と位置付ける。性的なアイデンティティーにテクノロジーが不可欠な人々のことを指す。

第1世代のデジセクシャルは、他の人とつながるためにデートアプリなどの技術を用いる。一方、第2世代は恋愛に実際の人間が必須のものだとは考えていない。

マッカーサー氏は「こうした話ではいつも、その人物が変人としてさらされたり、日々のニュースで愚かな人として扱われたりしないかと心配する」「だが、これは実際に今起きつつある次のステップなのだ」と指摘する。

だが、マッカーサー氏はこうした時代の流れに懸念も感じている。

「テクノロジーが私たちの集団的な社会生活に及ぼす影響を本当に心配している。インターネット上でのデートやソーシャルメディア、テクノロジー全般、ネットフリックスまでも含め、人々が自分の世界に引きこもっていく状況を目の当たりにしている。多くの場面で、集団的な社会生活の場面が減ってきている」

だが、近藤さんをはじめとする人々は、デジタルの可能性に夢を見ている。セクシャルな意味ではなく、精神的な面での話だ。

大阪を拠点とするタロット占い師、カトウ・マサトさんはアニメ「ハートキャッチプリキュア!」のヒロイン、月影ゆりと昨年10月に結婚した。今後技術が進歩し、カップルとして成長できるようになれたらと願っている。

カトウさんは、将来的には話し合いができるようになり、互いに助け合い、高めていける関係になれればと語る。もし月影ゆりが別れを望むなら、彼女の気持ちを尊重するとも述べた。

近藤さんは人それぞれの愛の形を見つけてほしいと願う/Emiko Jozuka/CNN
近藤さんは人それぞれの愛の形を見つけてほしいと願う/Emiko Jozuka/CNN

コウガミ・サチコさんの両親は、娘には普通の男性と結婚してほしいと願っている。だが、コウガミさんは2年前にアニメ「KING OF PRISM」の10代のキャラクター、香賀美タイガを好きになってから、実際の交際に興味を失った。

コウガミさんは自分の世界には彼しかおらず、もっと交流できたら素晴らしいのにと語る。

初音ミクに対する愛の公言で近藤さんには世間の耳目が集まる結果となった。前述のカーペンター氏は、こうしたケースを通じて、社会的な受容や意識の転換への道が開かれていくと語る。

「もし人々がこうしたことに声を上げ続け、自身にとって重要なのだと発言していくならば、それが議論を前進させていくことになる」「こうした議論こそが文化を次第に変えていくのだろう」

近藤さんは2月に新婚旅行で初音ミクを札幌に連れて行く予定で、楽しみにしている。札幌には初音ミクを世に送り出したクリプトン・フューチャー・メディアの本社がある。飛行機もホテルも2人分の予約を取るつもりで、札幌では初音ミクの存在感の広がりを見てきたいと語る。

近藤さんはまた、自分のパートナー選びについて疑問を感じる人もいるかもしれないが、自分の愛は正当なものであることを世界に理解してもらいたいと述べる。さらに、アニメのキャラクターに恋して結婚を願う他の人々の選択もサポートをしていきたいとの意欲も示している。
https://www.cnn.co.jp/tech/35130813.html


http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/220.html#c204

[昼休み54] 安倍政権20の愚策 中川隆
10. 中川隆[-13235] koaQ7Jey 2019年1月02日 20:42:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

消費増税に反対した藤井聡・内閣官房参与“退職”の裏に、安倍官邸の陰湿圧力!「赤旗」に出たことで菅官房長官が
https://lite-ra.com/2019/01/post-4467.html
2019.01.02 消費増税反対の内閣官房参与“退職”の裏に官邸の圧力 リテラ

    
解任の発端!?藤井氏が登場したしんぶん赤旗日曜版 2018年11月18日号


 2019年はいよいよ消費税10%への引き上げが実施されるが、その年が明ける4日前、仕事納めの日に安倍政権がなんとも陰湿な言論弾圧人事を行った。

 消費税増税反対を主張する藤井聡京都大学大学院教授の「内閣官房参与」退職を発表したのだ。

 内閣官房参与というのは、首相が各専門分野で直接、専門家に助言をえるために設けられた非常勤のブレーン職。藤井氏は第二次安倍政権発足と同時に、防災・減災ニューディール政策担当の内閣官房参与に就任し、安倍首相が公共政策の目玉としてぶちあげた「国土強靭化計画」の策定に関わった。

 思想的にも右派で、安倍首相の有力ブレーンのひとりと目されていた藤井氏だが、しかし、一方で増税反対の立場を取っており、以前から様々なメディアで消費増税反対を主張してきた。安倍首相が2019年10月の10%増税を予定どおり行うと表明してからも、口をつぐむことはなく、むしろ批判を強めていた。昨年11月には著書『「10%消費税」が日本経済を破壊する』(晶文社)を出版、さらに、共産党の機関紙「しんぶん赤旗日曜版」(11月18日付け)にも登場して、消費増税を批判していた。

 そんななか、いきなり年の瀬に退職が発表されたというわけだ。当然、これには姑息な裏があった。

 報道では、今回の退職が藤井氏から申し出たということになっているが、実際は完全に建前で、かぎりなく「解任」に近いものだったらしい。

「藤井氏が『赤旗』に出たことを菅義偉官房長官が“政権への背信行為”だと激怒。杉田和博官房副長官ら官邸幹部もいれかわりたちかわり藤井氏に迫り、辞職に追い込んだようです。これまで藤井氏をかばっていた安倍首相もこの決定を追認したようですね。
 もっとも、安倍官邸は今回の『赤旗』問題の前から、藤井氏を切ろうとタイミングを見計らっていました。藤井さんは内閣官房参与であるにもかかわらず、消費増税が貧困化と逆に財政悪化を導くことをあちこちで語っていたうえ、アベノミクスの景気回復に実体がないことを主張するなど、完全に“目の上のたんこぶ”状態でしたから。それでも、安倍首相が増税を決断しないうちは目をつぶっていたのですが、増税が決定したことで、いよいよ放置できなくなった。藤井氏に参与のまま自由に発言を続けさせたら“安倍首相の側近で右派の学者までが消費税に反対している”と取り上げられ、政権を揺るがしかねない。そこで、藤井氏が『赤旗』の取材に応じたことを口実にして、辞職に追い込んだということでしょう」(全国紙政治部記者)

 まったく、安倍官邸らしい陰湿なやり口だが、しかし、不思議なのは、藤井氏がこの事実上の解任の経緯について口を閉ざしていることだ。藤井氏は12月28日、Facebookで内閣官房参与の辞職願を提出したことを報告していたが、〈学究、とりわけ「言論活動」がこれからますます重要な局面となりますことから、今後の本務への参与職の影響を鑑み、安倍総理ともしっかりとご相談させて頂いた上で、参与職を辞する決意を致した次第です〉と書いただけで、圧力については一切ふれなかった。

「菅官房長官のことですから、藤井氏に対して“余計なことしゃべるな”といろいろ脅しをかけたんじゃないでしょうか。それで、自分から辞職を申し出たことにするということで落着したんでしょう」(前出・全国紙政治部記者)

 もっとも、藤井氏は辞職の真相については口を噤んでいるものの、消費増税反対の姿勢は崩していない。むしろ、内閣官房参与という足かせがとれたことで、舌鋒はさらに鋭さを増し、左右の垣根を越えて消費税に反対する勢力と連携を強めているようにも思える。

 本サイトは、藤井氏が「赤旗」に登場した際に、藤井氏の消費増税反対論を紹介したことがある。政治的には右派の藤井氏だが、経済政策では安倍政権の法人税減税などの格差助長政策に反対する立場をとり、消費増税の問題点を鋭く分析している。

 今回再編集して掲載するので、最悪の格差助長政策を阻止するため、改めて読み返してほしい。

■安倍政権の内閣官房参与が「赤旗」に登場して消費増税を徹底批判!

 安倍政権を支える現役の内閣官房参与が、「赤旗」一面に登場し「消費税10%反対」を唱えている。

「私は来年10月の消費税増税は凍結すべきだと思っています。10%への税率引き上げは日本経済を破壊するからです」

「しんぶん赤旗日曜版」(11月18日付け)で、こう断言しているのは、2012年から安倍内閣で内閣官房参与を務めている、藤井聡・京都大学大学院教授だ。藤井氏は「しんぶん赤旗日曜版」のインタビューに応じ、景気への悪影響、貧困の拡大、被災地復興への打撃といった観点から、2面に渡って消費増税の危険性を語っている。

 実は藤井氏が消費増税反対を唱えるのはこのインタビューが初めてではない。先日刊行された著書『「10%消費税」が日本経済を破壊する』(晶文社)においても、〈デフレ状況にある現在の我が国において消費増税を行うことは、 国民を貧困化させ、日本を貧国化させ、そして、挙げ句に日本の「財政基盤」そのものを破壊することにつながると確信する〉と主張。増税の「凍結」、いや「減税」こそが〈日本経済に最悪の被害がもたらされることを避けるための、最善の策〉だとし、増税の凍結・減税は〈政治の力で変えられるのは、当たり前〉だと述べているのだ。

 そもそも、安倍首相は「日本経済は11年ぶりとなる6四半期連続のプラス成長」「内需主導の力強い経済成長が実現している」などとしきりに景気回復を強調するが、一方で今年9月のJNN世論調査では84%の人がアベノミクスの景気回復について「実感ない」と答えている。だが、これは当然の話だ。藤井氏によると各世帯の年間消費額は、2014年に消費税を5%から8%に引き上げる直前が369万円だったのに、増税後は一気に下がりつづけ、2017年には335万円にまで落ち込んだのだ。つまり、〈消費増税のせいで、私達は一世帯当たり年間 34 万円分も「貧しい暮らし」を余儀なくされるようになった〉というわけだ。

 しかも、「景気回復」との掛け声とは裏腹に、2014年の増税後からサラリーマンの給与水準も低いままで一向に回復していない。中小企業の「景況感」をはかる業況判断指数(DI)も、リーマンショックで「どん底」に落ちて以降はマイナス(景気が悪い)ながらも徐々に回復しつつあったが、2014年の増税によって改善傾向がマイナス領域でピタリと止まったまま。「消費」「賃金」「景況判断」の客観的データからも、2014年消費増税によって庶民の暮らしは大打撃を受け、依然として深刻な状態にあることがわかる。何より、日本経済全体の6割を占める「消費」の総額(実質値)は、消費増税前後で14兆円も下落。その後も消費は冷え込んだままなのだ。

■安倍首相の経済ブレーンが「アベノミクスで経済上向き」の嘘を指摘

 では、どうして「アベノミクスで経済が上向き」などという報道が出てくるのか。これを藤井氏は〈世界経済が好調なおかげ〉にすぎないと喝破する。実際、GDPは2014年の消費増税前から現在まで約18兆円(実質値)伸びているが、この間に輸出は約15兆円も増加。輸出の増加がなければ〈一年あたり約0.7〜0.8兆円、成長率にして実に年率平均約0.2%しか伸びなかった〉のである。また、この4年で、輸出に次いで伸びたのは「民間投資」だが、これも輸出が伸びた結果であると考えられるという。藤井氏はこう述べている。

〈つまり、世界経済の好況という「他力」がなければ、日本経済はやはり、消費増税によって「衰退」していたのである〉
〈万一、消費増税によって内需がこれだけ弱々しい状況に至っている中で世界的な経済危機が勃発すれば、衰弱した日本経済は恐るべきダメージを被るであろう〉

 さらに藤井氏は、世界各国の経済成長率(1995〜2015年)に目を向け、〈日本の20年間成長率は断トツの最下位〉〈日本の成長率だけが「マイナス」の水準〉であるとし、〈日本はもはや、「経済大国」でないばかりか、「先進国」ですらない〉〈先進国でも発展途上国でもない、世界唯一の「衰退途上国」とでも言わざるを得ない〉と明言。こうした元凶が、バブル崩壊後の1997年に実施した消費税の3%から5%への引き上げによって「デフレ不況」に突入したためだと説明した上で、〈未だに「デフレ脱却」を果たせていない〉いまの状態で消費税を10%に引き上げることは〈確実に破壊的ダメージがもたらされる〉と警告を発するのだ。

 その上、2014年の消費増税時は「外需の伸び」という幸運があったが、これは「アメリカ経済の好況」と「安い原油価格」があってのこと。ご存じの通り、トランプ大統領は目下、安倍首相に自動車の追加関税をちらつかせており、原油価格も上昇。つまり、〈2019年増税の外需環境は、2014年増税よりも、より深刻な被害をもたらした1997年増税時のそれに類似している〉のである。

 しかも、今回の増税は、安倍首相肝入りの「働き方改革」による〈労働者の所得は8.5兆円縮減される〉という予測や、東京オリンピック投資が縮小に入るというタイミングとぶつかる。また、「10%」という数字の「キリの良さ」「わかりやすさ」が消費行動にブレーキをかけやすいという心的傾向もあると藤井氏は指摘。〈日本経済にもたらす破壊的ダメージは極めて深刻なものになるのは「必至」〉であり、それを回避するためにも「凍結」あるいは「減税」こそが求められるというのである。

■「消費税でなく法人税を上げるべき」と主張する藤井聡・内閣官房参与

 だが、こうは言っても「国の借金は1000兆円もあるのに放置していいのか」「消費税を延期ばかりしていたら国の借金で日本は破綻する」という声が必ずや上がるだろう。しかし、藤井氏はこれを〈何の根拠もない「杞憂」(無用の心配)であり、ただ単に、経済学者や増税推進派が撒き散らかした「デマ」であり「プロパガンダ」(主義の宣伝)に煽られているに過ぎぬもの〉と断言。「デマ」である根拠を挙げている。

 そのひとつが、1997年や2014年の増税がそうであったように、デフレ不況下で消費税を増税すれば、〈経済が停滞し、かえって税収が減って、財政が悪化してしまう〉ということ。国の破綻回避を叫ぶなら、税収が減少する増税を止めたほうがいい、というのである。

 さらに、「国の破綻」という曖昧な言葉自体が詐欺的であり、「日本政府の破綻はありえない」ということ。たとえばよく引き合いに出されるギリシャだが、ギリシャの場合は「国の借金が増えた」ことで危機に陥ったのではなく、〈経済が低迷し、失業者が増えてしまったことが「原因」で、税収が減り、借りた金が返せなくなり、「政府が破綻」〉した。ギリシャの借金は「ユーロ」だったが、日本の場合は基本的にすべて円建ての借金であり、円の通貨発行権もある。自国通貨建ての借金であるために破綻することはあり得ないのだ。また、ギリシャが破綻危機にあった際は金利が30〜40%だったというが、日本の国債の金利はいま0.1%程度。だからこそ、市場関係者が「日本政府が破綻する」などと心配している者はいない、というのだ。

 そして、「国が破綻するから消費税」という主張に対し、藤井氏は加えて〈増税する対象として「消費税」を選ぶ必然性など何もない〉といい、消費増税とは反対に税率が下げられてきた法人税を上げるべきだと強調する。

 当然の主張だろう。第二次安倍政権の発足以降、アベノミクスの成長戦略として法人税率はどんどん引き下げられ、法人実効税率は37%から2016年度には29.97%に減少。消費税増収分は法人税の減収の穴埋めに使われたようなものだからだ。実際、藤井氏は過去約30年に遡って現状と比較し、〈金持ちと大企業がかつて支払っていた税金を10兆円以上減らしてやり、その大半を、貧乏な世帯も含めたすべての庶民が肩代わりしてやるようになった〉〈消費増税は確実に、庶民の間の「格差」や「不平等」を拡大させた〉と指摘。法人税のほかにも、“所得税の高額所得者ほど減税の流れの見直し”や、先日、増税見送りが発表された金融所得の税率引き上げ、環境税・混雑税、土地利用是正税なども提案している。

 格差が広がるなか、低所得者であるほど負担が重くなる「逆進性」の消費税を増税するのではなく、法人税や所得税の税率を見直し、不公平な税制を正すべきというのは、至極真っ当な考え方だ。だが、安倍首相はそれを実行しようとはけっしてせず、世界景気の恩恵を受けているだけの結果を「内需主導の成長」などと嘘をつき続けている。

 いや、それだけではない。消費増税の目的として、安倍首相がぶち上げている「幼児教育・保育の無償化」についてもさっそくインチキが発覚した。スタートから半年間は国費で払うものの、無償化に必要な8300億円のうち半分以上となる4370億円は市町村に負担させるというのだ。

 昨年9月に解散表明をしたときの大義名分は「消費税の使い方の見直し」であり、安倍首相は「幼児教育の無償化を一気に進める」と大見得を切った。だが、これも「半分以上は地方でよろしく」とツケを回そうというのである。しかも、〈自治体によっては無償化の負担が消費税の増収分を上回る〉(朝日新聞11月8日付)という。

 政府は混乱必至の軽減税率を筆頭に「プレミアム付き商品券」だの「キャッシュレス決済でポイント還元」だのと愚策ばかり打ち出しているが、幼児教育の無償化にしても、待機児童家庭はその恩恵を受けられないという問題がある。その上、待機児童解消のための地方財源が無償化によって削られる可能性まで出てきたのである。

 幼児教育の無償化を「未来の投資だ」と喧伝するばかり。一方の国民も、政府に言われるがままで「増税しかたなし」と諦めている。

 上述の「赤旗」で藤井氏は「10%への増税は決まったことだから仕方がないと国民が容認すれば、消費税率は15%、20%へとさらに引き上げられる」とも警告。そして消費税10%への増税中止もあり得るとの見方を示し、「カギとなるのは国民世論」「この問題に党派は関係ありません」と国民世論の喚起を呼びかけている。

「やはり増税はおかしい」と、いまこそ国民が声をあげなくては、安倍政権によってほんとうに立ち直れないほどわたしたちの暮らしは破壊し尽くされてしまうだろう。
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/221.html#c10

[昼休み54] 改革という改革は全部失敗だった 中川隆
7. 中川隆[-13234] koaQ7Jey 2019年1月02日 20:43:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

消費増税に反対した藤井聡・内閣官房参与“退職”の裏に、安倍官邸の陰湿圧力!「赤旗」に出たことで菅官房長官が
https://lite-ra.com/2019/01/post-4467.html
2019.01.02 消費増税反対の内閣官房参与“退職”の裏に官邸の圧力 リテラ

    
解任の発端!?藤井氏が登場したしんぶん赤旗日曜版 2018年11月18日号


 2019年はいよいよ消費税10%への引き上げが実施されるが、その年が明ける4日前、仕事納めの日に安倍政権がなんとも陰湿な言論弾圧人事を行った。

 消費税増税反対を主張する藤井聡京都大学大学院教授の「内閣官房参与」退職を発表したのだ。

 内閣官房参与というのは、首相が各専門分野で直接、専門家に助言をえるために設けられた非常勤のブレーン職。藤井氏は第二次安倍政権発足と同時に、防災・減災ニューディール政策担当の内閣官房参与に就任し、安倍首相が公共政策の目玉としてぶちあげた「国土強靭化計画」の策定に関わった。

 思想的にも右派で、安倍首相の有力ブレーンのひとりと目されていた藤井氏だが、しかし、一方で増税反対の立場を取っており、以前から様々なメディアで消費増税反対を主張してきた。安倍首相が2019年10月の10%増税を予定どおり行うと表明してからも、口をつぐむことはなく、むしろ批判を強めていた。昨年11月には著書『「10%消費税」が日本経済を破壊する』(晶文社)を出版、さらに、共産党の機関紙「しんぶん赤旗日曜版」(11月18日付け)にも登場して、消費増税を批判していた。

 そんななか、いきなり年の瀬に退職が発表されたというわけだ。当然、これには姑息な裏があった。

 報道では、今回の退職が藤井氏から申し出たということになっているが、実際は完全に建前で、かぎりなく「解任」に近いものだったらしい。

「藤井氏が『赤旗』に出たことを菅義偉官房長官が“政権への背信行為”だと激怒。杉田和博官房副長官ら官邸幹部もいれかわりたちかわり藤井氏に迫り、辞職に追い込んだようです。これまで藤井氏をかばっていた安倍首相もこの決定を追認したようですね。
 もっとも、安倍官邸は今回の『赤旗』問題の前から、藤井氏を切ろうとタイミングを見計らっていました。藤井さんは内閣官房参与であるにもかかわらず、消費増税が貧困化と逆に財政悪化を導くことをあちこちで語っていたうえ、アベノミクスの景気回復に実体がないことを主張するなど、完全に“目の上のたんこぶ”状態でしたから。それでも、安倍首相が増税を決断しないうちは目をつぶっていたのですが、増税が決定したことで、いよいよ放置できなくなった。藤井氏に参与のまま自由に発言を続けさせたら“安倍首相の側近で右派の学者までが消費税に反対している”と取り上げられ、政権を揺るがしかねない。そこで、藤井氏が『赤旗』の取材に応じたことを口実にして、辞職に追い込んだということでしょう」(全国紙政治部記者)

 まったく、安倍官邸らしい陰湿なやり口だが、しかし、不思議なのは、藤井氏がこの事実上の解任の経緯について口を閉ざしていることだ。藤井氏は12月28日、Facebookで内閣官房参与の辞職願を提出したことを報告していたが、〈学究、とりわけ「言論活動」がこれからますます重要な局面となりますことから、今後の本務への参与職の影響を鑑み、安倍総理ともしっかりとご相談させて頂いた上で、参与職を辞する決意を致した次第です〉と書いただけで、圧力については一切ふれなかった。

「菅官房長官のことですから、藤井氏に対して“余計なことしゃべるな”といろいろ脅しをかけたんじゃないでしょうか。それで、自分から辞職を申し出たことにするということで落着したんでしょう」(前出・全国紙政治部記者)

 もっとも、藤井氏は辞職の真相については口を噤んでいるものの、消費増税反対の姿勢は崩していない。むしろ、内閣官房参与という足かせがとれたことで、舌鋒はさらに鋭さを増し、左右の垣根を越えて消費税に反対する勢力と連携を強めているようにも思える。

 本サイトは、藤井氏が「赤旗」に登場した際に、藤井氏の消費増税反対論を紹介したことがある。政治的には右派の藤井氏だが、経済政策では安倍政権の法人税減税などの格差助長政策に反対する立場をとり、消費増税の問題点を鋭く分析している。

 今回再編集して掲載するので、最悪の格差助長政策を阻止するため、改めて読み返してほしい。

■安倍政権の内閣官房参与が「赤旗」に登場して消費増税を徹底批判!

 安倍政権を支える現役の内閣官房参与が、「赤旗」一面に登場し「消費税10%反対」を唱えている。

「私は来年10月の消費税増税は凍結すべきだと思っています。10%への税率引き上げは日本経済を破壊するからです」

「しんぶん赤旗日曜版」(11月18日付け)で、こう断言しているのは、2012年から安倍内閣で内閣官房参与を務めている、藤井聡・京都大学大学院教授だ。藤井氏は「しんぶん赤旗日曜版」のインタビューに応じ、景気への悪影響、貧困の拡大、被災地復興への打撃といった観点から、2面に渡って消費増税の危険性を語っている。

 実は藤井氏が消費増税反対を唱えるのはこのインタビューが初めてではない。先日刊行された著書『「10%消費税」が日本経済を破壊する』(晶文社)においても、〈デフレ状況にある現在の我が国において消費増税を行うことは、 国民を貧困化させ、日本を貧国化させ、そして、挙げ句に日本の「財政基盤」そのものを破壊することにつながると確信する〉と主張。増税の「凍結」、いや「減税」こそが〈日本経済に最悪の被害がもたらされることを避けるための、最善の策〉だとし、増税の凍結・減税は〈政治の力で変えられるのは、当たり前〉だと述べているのだ。

 そもそも、安倍首相は「日本経済は11年ぶりとなる6四半期連続のプラス成長」「内需主導の力強い経済成長が実現している」などとしきりに景気回復を強調するが、一方で今年9月のJNN世論調査では84%の人がアベノミクスの景気回復について「実感ない」と答えている。だが、これは当然の話だ。藤井氏によると各世帯の年間消費額は、2014年に消費税を5%から8%に引き上げる直前が369万円だったのに、増税後は一気に下がりつづけ、2017年には335万円にまで落ち込んだのだ。つまり、〈消費増税のせいで、私達は一世帯当たり年間 34 万円分も「貧しい暮らし」を余儀なくされるようになった〉というわけだ。

 しかも、「景気回復」との掛け声とは裏腹に、2014年の増税後からサラリーマンの給与水準も低いままで一向に回復していない。中小企業の「景況感」をはかる業況判断指数(DI)も、リーマンショックで「どん底」に落ちて以降はマイナス(景気が悪い)ながらも徐々に回復しつつあったが、2014年の増税によって改善傾向がマイナス領域でピタリと止まったまま。「消費」「賃金」「景況判断」の客観的データからも、2014年消費増税によって庶民の暮らしは大打撃を受け、依然として深刻な状態にあることがわかる。何より、日本経済全体の6割を占める「消費」の総額(実質値)は、消費増税前後で14兆円も下落。その後も消費は冷え込んだままなのだ。

■安倍首相の経済ブレーンが「アベノミクスで経済上向き」の嘘を指摘

 では、どうして「アベノミクスで経済が上向き」などという報道が出てくるのか。これを藤井氏は〈世界経済が好調なおかげ〉にすぎないと喝破する。実際、GDPは2014年の消費増税前から現在まで約18兆円(実質値)伸びているが、この間に輸出は約15兆円も増加。輸出の増加がなければ〈一年あたり約0.7〜0.8兆円、成長率にして実に年率平均約0.2%しか伸びなかった〉のである。また、この4年で、輸出に次いで伸びたのは「民間投資」だが、これも輸出が伸びた結果であると考えられるという。藤井氏はこう述べている。

〈つまり、世界経済の好況という「他力」がなければ、日本経済はやはり、消費増税によって「衰退」していたのである〉
〈万一、消費増税によって内需がこれだけ弱々しい状況に至っている中で世界的な経済危機が勃発すれば、衰弱した日本経済は恐るべきダメージを被るであろう〉

 さらに藤井氏は、世界各国の経済成長率(1995〜2015年)に目を向け、〈日本の20年間成長率は断トツの最下位〉〈日本の成長率だけが「マイナス」の水準〉であるとし、〈日本はもはや、「経済大国」でないばかりか、「先進国」ですらない〉〈先進国でも発展途上国でもない、世界唯一の「衰退途上国」とでも言わざるを得ない〉と明言。こうした元凶が、バブル崩壊後の1997年に実施した消費税の3%から5%への引き上げによって「デフレ不況」に突入したためだと説明した上で、〈未だに「デフレ脱却」を果たせていない〉いまの状態で消費税を10%に引き上げることは〈確実に破壊的ダメージがもたらされる〉と警告を発するのだ。

 その上、2014年の消費増税時は「外需の伸び」という幸運があったが、これは「アメリカ経済の好況」と「安い原油価格」があってのこと。ご存じの通り、トランプ大統領は目下、安倍首相に自動車の追加関税をちらつかせており、原油価格も上昇。つまり、〈2019年増税の外需環境は、2014年増税よりも、より深刻な被害をもたらした1997年増税時のそれに類似している〉のである。

 しかも、今回の増税は、安倍首相肝入りの「働き方改革」による〈労働者の所得は8.5兆円縮減される〉という予測や、東京オリンピック投資が縮小に入るというタイミングとぶつかる。また、「10%」という数字の「キリの良さ」「わかりやすさ」が消費行動にブレーキをかけやすいという心的傾向もあると藤井氏は指摘。〈日本経済にもたらす破壊的ダメージは極めて深刻なものになるのは「必至」〉であり、それを回避するためにも「凍結」あるいは「減税」こそが求められるというのである。

■「消費税でなく法人税を上げるべき」と主張する藤井聡・内閣官房参与

 だが、こうは言っても「国の借金は1000兆円もあるのに放置していいのか」「消費税を延期ばかりしていたら国の借金で日本は破綻する」という声が必ずや上がるだろう。しかし、藤井氏はこれを〈何の根拠もない「杞憂」(無用の心配)であり、ただ単に、経済学者や増税推進派が撒き散らかした「デマ」であり「プロパガンダ」(主義の宣伝)に煽られているに過ぎぬもの〉と断言。「デマ」である根拠を挙げている。

 そのひとつが、1997年や2014年の増税がそうであったように、デフレ不況下で消費税を増税すれば、〈経済が停滞し、かえって税収が減って、財政が悪化してしまう〉ということ。国の破綻回避を叫ぶなら、税収が減少する増税を止めたほうがいい、というのである。

 さらに、「国の破綻」という曖昧な言葉自体が詐欺的であり、「日本政府の破綻はありえない」ということ。たとえばよく引き合いに出されるギリシャだが、ギリシャの場合は「国の借金が増えた」ことで危機に陥ったのではなく、〈経済が低迷し、失業者が増えてしまったことが「原因」で、税収が減り、借りた金が返せなくなり、「政府が破綻」〉した。ギリシャの借金は「ユーロ」だったが、日本の場合は基本的にすべて円建ての借金であり、円の通貨発行権もある。自国通貨建ての借金であるために破綻することはあり得ないのだ。また、ギリシャが破綻危機にあった際は金利が30〜40%だったというが、日本の国債の金利はいま0.1%程度。だからこそ、市場関係者が「日本政府が破綻する」などと心配している者はいない、というのだ。

 そして、「国が破綻するから消費税」という主張に対し、藤井氏は加えて〈増税する対象として「消費税」を選ぶ必然性など何もない〉といい、消費増税とは反対に税率が下げられてきた法人税を上げるべきだと強調する。

 当然の主張だろう。第二次安倍政権の発足以降、アベノミクスの成長戦略として法人税率はどんどん引き下げられ、法人実効税率は37%から2016年度には29.97%に減少。消費税増収分は法人税の減収の穴埋めに使われたようなものだからだ。実際、藤井氏は過去約30年に遡って現状と比較し、〈金持ちと大企業がかつて支払っていた税金を10兆円以上減らしてやり、その大半を、貧乏な世帯も含めたすべての庶民が肩代わりしてやるようになった〉〈消費増税は確実に、庶民の間の「格差」や「不平等」を拡大させた〉と指摘。法人税のほかにも、“所得税の高額所得者ほど減税の流れの見直し”や、先日、増税見送りが発表された金融所得の税率引き上げ、環境税・混雑税、土地利用是正税なども提案している。

 格差が広がるなか、低所得者であるほど負担が重くなる「逆進性」の消費税を増税するのではなく、法人税や所得税の税率を見直し、不公平な税制を正すべきというのは、至極真っ当な考え方だ。だが、安倍首相はそれを実行しようとはけっしてせず、世界景気の恩恵を受けているだけの結果を「内需主導の成長」などと嘘をつき続けている。

 いや、それだけではない。消費増税の目的として、安倍首相がぶち上げている「幼児教育・保育の無償化」についてもさっそくインチキが発覚した。スタートから半年間は国費で払うものの、無償化に必要な8300億円のうち半分以上となる4370億円は市町村に負担させるというのだ。

 昨年9月に解散表明をしたときの大義名分は「消費税の使い方の見直し」であり、安倍首相は「幼児教育の無償化を一気に進める」と大見得を切った。だが、これも「半分以上は地方でよろしく」とツケを回そうというのである。しかも、〈自治体によっては無償化の負担が消費税の増収分を上回る〉(朝日新聞11月8日付)という。

 政府は混乱必至の軽減税率を筆頭に「プレミアム付き商品券」だの「キャッシュレス決済でポイント還元」だのと愚策ばかり打ち出しているが、幼児教育の無償化にしても、待機児童家庭はその恩恵を受けられないという問題がある。その上、待機児童解消のための地方財源が無償化によって削られる可能性まで出てきたのである。

 幼児教育の無償化を「未来の投資だ」と喧伝するばかり。一方の国民も、政府に言われるがままで「増税しかたなし」と諦めている。

 上述の「赤旗」で藤井氏は「10%への増税は決まったことだから仕方がないと国民が容認すれば、消費税率は15%、20%へとさらに引き上げられる」とも警告。そして消費税10%への増税中止もあり得るとの見方を示し、「カギとなるのは国民世論」「この問題に党派は関係ありません」と国民世論の喚起を呼びかけている。

「やはり増税はおかしい」と、いまこそ国民が声をあげなくては、安倍政権によってほんとうに立ち直れないほどわたしたちの暮らしは破壊し尽くされてしまうだろう。
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/158.html#c7

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
142. 中川隆[-13233] koaQ7Jey 2019年1月02日 22:54:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

新年早々ドル円が下落している理由 グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート 2019年1月2日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8123


2019年となったが、日本市場が年末年始で休みの間に円高ドル安が進んでいる。海外ではクリスマス休暇などはあるが、年末年始の休日は日本ほど多くないため、為替市場は開いている日もあるからである。

2018年10月からの世界同時株安は今なお継続しており、読者は周知の通りこの動きはわたしの予想通りである。

•世界同時株安を予想できた理由と株価下落の原因

ただ、想定していたよりも更に速い下落速度となっており、長期的には緩やかな下落の方が最終的な下げ幅は大きくなるため、株を空売りしている投資家としてはもう少し短期的な反発がほしいところではある。米国株のチャートは次のようになっている。

さて、今回取り上げたいのはドル円である。先ず、ドル円に関しては昨年7月に空売りを開始しており、これは筆者が日経平均の空売りを始めた8月末よりも早い時期である。

•2019年へのドル円のレート推移予想と空売り開始 (2018/7/15)

当時、株式市場の天井を探っていた筆者が先にドル円の空売りを始めた理由は、株式市場がアメリカの金融引き締めで暴落するのに対して、ドル円は金融引き締めの継続でも停止でも下落することになるということが理由である。上記の7月の記事には次のように書いている。


今後、世界の金融市場には2つの方向性が存在する。金融引き締めの弱気相場がついに米国市場にまで到達し、世界的なリスクオフになるか、そうなる前にFedが金融引き締めを止めるかである。

ここで考えてもらいたいのは、どちらになってもドル円には悪材料だということである。世界的な弱気相場となればリスクオフで円高となり、金融引き締め撤回になればアメリカの金利低下でドル安となる。どちらにしてもドル円は下落するのである。

この判断は奏功し、この記事を書いた7月半ば以降、株式市場は更に上昇を続けたが、ドル円の上昇幅は限られた。しかし一方で、10月に株式市場が暴落した後もドル円は暴落とはならず、113円前後で下落せずに耐え続けることとなった。

しかしここではドル円が下落を免れないことを一貫して書いてきた。例えば12月の記事には次のように書いている。

•12月FOMC会合結果は空売り派への満額回答 (2018/12/20)


今一番注目したいのはドルの行方である。筆者は日経平均とともにドル円も空売りしているが、こちらはまだ下落していない。

しかし株価の暴落を止める手段がアメリカの金融引き締めの停止および金融緩和だけであるとすれば、ドルが下落するのは必然であると言える。一方で円安になる要素はほとんどない。日銀は追加緩和の手段をもうほとんど持っていないからである。

株の空売りは十分に成功しており、筆者は次のシナリオに注目している。一方で、世の中の大半は世界同時株安の原因にさえまだ気付いていないと言えるだろう。すべてが遅いのである。

そしてこの記事の直後にドル円は急落を開始し、年末年始の下げ幅拡大を経てドル円のチャートは次のようになっている。

予想通りである。

ドル円に限らず、下落後の記事は下落前に説明したことの復習になってしまい申し訳ないが、いつものことである。今後も世界の金融市場の動きを事前に報じてゆきたい。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8123
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c142

[近代史3] 今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」_ 吉田清治の話はやっぱり事実だった

今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」_ 吉田清治の話はやっぱり事実だった


経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html

▲△▽▼

朝日新聞は吉田清治さんの強制慰安婦問題でインチキ調査を行った


・官邸から圧力がかかった。

・消費税軽減税率を新聞に適用して欲しかったので、官邸におべっかを使った。

・それで、朝日新聞は吉田清治さんの話が全羅南道でのできごとだったと良く知っていながら、わざわざ済州島だけで聞き取り調査した。

▲△▽▼

慰安婦が本当の事を話さなかった理由

売春婦とその家族を蔑視し差別する儒教社会に生きる朝鮮女性は自分が慰安婦だったと言えない環境にあった。


朝鮮は儒教社会だから慰安婦の姉妹や娘は一生 売春婦以外の仕事はできなくなる

だから元慰安婦だったとわかると一家は路頭に迷う事になる

吉田清治はそういう朝鮮の事情を考慮して意図的に強制連行した日時と場所を変えて書いたんですね。

吉田清治は実際に強制連行した日時と場所を公表しろと何度も言われたけど、元慰安婦の身元がわかって本人や家族が迫害されると困るので、絶対に応じなかったのです。

アホ右翼は知らないみたいですが、吉田清治は済州島の慰安婦狩りの情景は、実際には全羅南道での出来事だったと言っているんですね。


▲△▽▼

〜二次加害者とならないために〜
日本人慰安婦の話と、元日本軍慰安婦に関する正確な知識 2015.1.14
http://kajipon.com/kt/peace-i.html

【日本人慰安婦の話〜橋下“維新の会”は聞け 美輪明宏】(2013年6月のライブドアニュースより)

今日はですね、橋下さんが発言しちゃって問題になっております、従軍慰安婦問題。
あれは若い方はトンチンカンで、何の話だか全然お分かりにならないんじゃないかと思いますね。10代後半20代30代の方なども。

従軍慰安婦というのはもう60年以上前の、つまり半世紀以上前の第2次大戦の戦争中のお話でしょう。

これでいろんなメディアが昔を語るという、終戦記念日に近くなると、よく昔の焼け跡だとか兵隊さんの話とか色々なものを聞いて、爆撃でやられた話とか、そういった人たちを取材した話ができますでしょう。

でも従軍慰安婦の人たちというのは、直の話を聞けないんですよね。

そして聞けるのは大体、韓国と中国の従軍慰安婦の人ばかりが取り上げられますけれども、日本人の従軍慰安婦の人たちもいたんですよ。いっぱいいたんです。
でもそういった人たちは何故取り上げないのかといったら、その人たちが、もう酷い目に遭ったんですね。

まず、私が何故そんなことを知っているかと言いますと、終戦後にその人たちが満州、つまり今の中国から引き揚げてきたんですね。

引き揚げてきて私長崎でございましょう、長崎には丸山遊郭という有名な、女郎さん遊女たちがいて売春する、そういう街があったんですね。

坂本龍馬なども遊んでいたような有名な所ですね、日本の3大遊郭という。

これが、戦争中に遊興の場所というのはカフェやバーも遊郭もみんな閉店させられて全部が商売営業停止になったんですよ。
そしてその人たちは行き場が無くなったんですね。

その人たちはどういう人たちが遊女になっているかというと、主に、人身売買が当たり前になっていた時代でしたから。

貧しい農家の娘さんとか、貧しい家の子供たちが、自分が売られていけばお父さんもお母さんも弟たちも飢え死にしないで済むからといって、女衒(ぜげん)と言われる人買いの人に話をしてもらって遊郭に身を売られて、身を売っていったんですね。
一家の犠牲になっている貧しいお嬢さんたちが多かったんです。

閉鎖されて行き場が無くなった時に、軍の出先機関で大政翼賛会(たいせいよくさんかい)という組織があったんです。

そこの人に声をかけられて、満州に良い仕事があるぞ。カフェとか遊郭があるから、そっちへ行って稼げばいいということで、そして喜んでそちらへ行ってみたらなんと、話が違って従軍慰安婦だったというんですね。

従軍慰安婦というのは街ならその街にずっと居着いて遊郭にいて、そして男の人たちの相手をするというだけではなくて、従軍慰安婦の人たちは「従軍」と言いますでしょう、軍に従うと書いてあって第一線を付いて周るんですね。

そして筵(むしろ)みたいなものを敷いて、筵みたいなものを立てて、コーリャンという麦よりももっと不味い穀物で作った真っ黒いおにぎりですけれど、私も長崎で食べたことがありますけれど、食べられた物じゃないです。

それを枕元に置いて食べながら、表には兵隊たちが木札をもってズラリと並んで、それを一人ひとり相手をして。

そして鉄砲の練習をさせられて、敵が来たら身を守るためといって銃の練習をさせられて、敵が押し寄せてきますでしょう、馬賊(ばぞく)とか匪賊(ひぞく)とか。
そうすると兵隊と一緒に戦うんですって。

戦って流れ弾に当たって死んだら、今度は日本婦人がそういうことをしていたというと恥になるからといって、モンペやなにかを脱がされて支那(しな)服に着替えさせられて、そして放り出されるんですって。

そして埋めてももらえない、焼いてももらえない、野ざらし雨ざらし。山犬の食い荒らすままになっていて。

そして終戦後引き揚げてくるときに、まず軍人の将校たちと家族がトラックに乗って逃げて、自分たちは置いてきぼりになったんですって。

他の移民団、開拓団の人たちと一緒になって、命からがら引き揚げてきて村に帰ったら、村の恥さらしとか面汚しとか言われて。

そして家へ帰ったら、自分はお父さんお母さん、一家のために売られて行ったのに、
「お前のやっていたことが世間様に知られたら、家の恥になる、出て行ってくれ。」と。

もうそれはどこに恨みを持っていったらいいのか、それは悲憤慷慨(ひふんこうがい)ですね。

それを行き場所が無いから、自分が従軍慰安婦だったというのを隠しているんですよ。

だから日本人の従軍慰安婦は一人も出てきませんでしょう。そういう事情があるんですね。

そして女郎屋さんが再開して進駐軍の兵隊たち相手に遊郭が復活したんですよ。
日本人は出入り禁止で、進駐軍だけのセックスの処理として遊郭がまた再開して、そこで働いていたんですね、また戻ってきて。

そこでも内地の女郎さんには白い目で見られて、さんざん馬鹿にされて、ところが3人の人たちはバラバラに引き揚げてバラバラのところにいたのだけれども仲良くなって、それでいろんな思い出話をするんです。

それを私は脇でじっと聞いていて「はぁー、どんなに辛いことだろう。」と思ったんですね。

それで私はもうものすごく頭に来ちゃって、義憤(ぎふん)に駆られて「祖国と女たち」という歌を作って。
今度のコンサートでも歌いますけれど。

みんな政府や右翼の人たちが怖くてその歌を歌わないし言いもしませんけれど、やはりそれはその人たちの供養のためにも表に出してあげることが必要だと思います。

ですからその辺を橋下さんは何にも知らないで、それで軽々しくあんなことを言ったり、また沖縄の兵隊たちも風俗を利用してやってくださいと、あんなことを言うべきじゃないんですよ。

一遍であの人のことを大嫌いになりました。
ですから、もっと人間には尊厳があるということを、維新の会の人たちはもっと知るべきだと思います。

●美輪明宏『祖国と女たち』(6分3秒)

  北は青森から 南は沖縄
  売られ買われて 今日も旅行く
  違うお国訛りで 慰めあいながら
  捕虜の女囚も 同じ仲間さ
  荒れ果てた肌に やせこけた頬
  今日も覚悟の最後の衣装
  万歳 万歳

  毎日百から二百 兵隊相手に
  朝日が昇り 月が落ちるまで
  いずれ死んでゆくことが 決まっている男
  虚ろに空を 見つめる女
  涙も渇れはて痛みもないさ
  そこには 神も仏もない
  万歳 万歳

  誰の子かわからぬ 赤子残して
  死んだ女やら 銃を片手に
  愛する若い兵士と散った女やら
  歌える女は 子守唄を唄う
  あまりの怖さに狂った女
  嫌な将校に斬られた女
  万歳 万歳

  男はなんていいんだろう羨ましいじゃないか

  死ねば死んだで 名誉の戦死とやらで
  立派な社に奉られるんだろ
  私も男に生まれていたら
  今ごろきっと勲章だらけ
  万歳 万歳

  戦に負けて帰れば 国の人たちに
  勲章のかわりに 唾をかけられ
  後ろ指さされて 陰口きかれて
  祖国の為だと死んだ仲間の
  幻だいて 今日も街に立つ
  万歳 万歳
  ニッポン 万歳
  大日本帝国 万歳 万歳 万歳

日本軍慰安所マップ
http://f.hatena.ne.jp/dj19/20130105195333

これほど広範囲に展開。話題なるのは中国、韓国のことばかりだけど、南方も大規模に設置されている。

【正確な知識を!〜元日本軍「慰安婦」をこれ以上傷つけてはならない】

●右派の「強制連行はなかった」論は国際社会に通用しない。“強制連行”の定義が日本と海外でまったく違うからだ。主張すればするほど日本の品位を貶める。

安倍氏ら極右政治家は「強制連行」の意味を「軍が無理やりトラックに詰め込み拉致すること」と考えている。そして「慰安婦募集の際に、仕事内容を“看護婦”“給仕”“工員募集”などと騙したのは朝鮮人の悪徳ブローカーであり、日本軍は関係ない」と主張している。

一方、国際社会の人権感覚では、日本軍管理下の慰安所に騙されて送られた女性が、自由を奪われ売春を強要されたことを「強制連行」と見なしている。嘘の募集広告で戦地へ連れてこられ、無理やり慰安婦にされた女性が「家に帰して」と懇願しても返さなかった。
つまり、「拉致の方法」が問題なのではなく、「どうして騙されて慰安所に連れて来られた女性を故郷に帰してあげなかったのか」と批判されているのだ(女性たちを前線まで移送したのは軍の船や車)。

極右政治家の強制連行否定は、海外から見れば、「確かに悪いことをやったが、方法はそこまで酷くない」と開き直っているように見え、だからこそ安倍氏ら保守グループが米国の新聞に「日本は強制連行していない」と意見広告を出したときに、アメリカ議会は「事態の深刻さを何も分かってない」と、それまで日本寄りだった議員までが呆れ、対日非難決議が可決されたのだ。

連行された方法が何であろうと、慰安所は軍の要請で設置された施設であり(軍医が性病を検査)、管理運営に軍が深く関わっていたことから非難を免れることはできない。レイプの言い訳が国際社会でどれほど恥ずべきことか安倍氏周辺は分かっていない。
※日本軍が各地域の有力者に「A村からは5人、B村からは8人の慰安婦を出させろ」と強要した事例も多く、これらも一種の強制連行といえる。


●元慰安婦の証言が変わる理由

保守系ブログなどで「元慰安婦は証言内容がコロコロ変わる。だからでっちあげだ。賠償金目当てだ」という聞くに堪えないことを言う人がいる。彼女たちの名誉のために社会背景を説明し弁護したい。

韓国は一族の名誉、家名を非常に重んじる儒教社会であり、身内から元慰安婦が出れば大きな恥辱となる。元慰安婦の多くは、「看護婦募集」「ウエイトレス募集」というニセ広告に騙されて戦地で性交を強要され、明らかに被害者であるのに、“日本兵の慰み者となった”と理不尽な汚名を背負わされた。戦後、差別を恐れて社会から身を隠すように生きてきた元慰安婦が、近年になって自らの過去を語り始めたのは、日本の一部保守政治家が「慰安婦などいなかった」「いたとしたら売春婦」と言い始め、それに深く傷つき、また激怒したからだ。

元慰安婦たちは勇気を出し、「私が証拠」「日本政府に謝って欲しい」と主張したが、元慰安婦であることをカミングアウトすることは、80年代、90年代の韓国社会において侮蔑対象になることだった(今では理解が進み“犠牲者”と認識されている)。だからこそ、当初は韓国社会からのバッシングを恐れて、“同情して欲しい”という思いから、証言内容がより悲劇性を強調するものになった人がいた。また、地名や日時に記憶違いがあるのは、半世紀以上も昔のことをご高齢の方が思い出しているためで、人間なら誰でも起こりえること。それらを何ら考慮することなく、「Aという証言とBという証言のここが違うから、この話は全部ウソ、そしてこの慰安婦はニセモノだ!」と糾弾するのは無情すぎる。
※そもそも若い女性が出稼ぎに追い込まれた朝鮮半島(特に農村地帯)の貧困は、日本による農地収奪が原因だ。都会でも経済を握っていたのは日系企業。保守“有識者”の中には「仕事で慰安婦を選んでおいて被害者ヅラするな」と言う人物も多いが、その意見は彼女たちが騙されて慰安婦にされたことをスルーしているうえ、なぜ彼女たちが日本の支配下でそこまで貧困に苦しんでいたのか歴史を理解していない。

●自分で証拠資料を焼いておいて「資料はない」と主張する恥ずかしさ

日本政府や軍は、降伏前に戦争犯罪の証拠となるような機密文書や命令書を徹底的に焼却した。これは歴史的事実。保守論客は「強制連行の証拠を出せ」というが、証拠を大量に隠滅しておいてそれを言うのは、同じ日本人として勘弁してほしい。廃棄しきれなかった関係資料は見つかっているし、河野談話の後も様々な資料が発掘されている。

●「元慰安婦は高給」という非難の愚かさ

確かに彼女たちはお金を受け取ったが、それは日本軍が現地通貨を廃して作った独自通貨=“軍票”であり、それはすべて敗戦と共に紙クズになった。しかも、この言い方ほど元慰安婦を侮辱するものはない。想像して欲しい。もしあなたが給仕や工員募集に応募したのに戦地へ連れて行かれ、性交を毎晩15〜20人も強要され(水木しげる氏は“80人”も目撃している)、「金をやるんだからいいだろ」と、札束で頬を叩かれる扱いを受けて納得できるのかと。

1942年9月時点の陸軍専用慰安所は約400カ所。これらは軍当局の要請により設営された。慰安婦たちは心身がボロボロになっても「廃業の自由」がなく、また故郷に帰りたくても軍の監視下にあり脱出できず「移動の自由」もなかった。これは国際社会では「奴隷状態」と認定される境遇であり、世界の人権感覚ではまさに“性奴隷”そのものだ。元慰安婦の人に二次加害を加えることは、人として許されない。

※水木しげる氏は出征先ニューギニアの出来事をこう記している。

「敵のいる前線に行くために、「ココボ」という船着場についた。ここから前線へ船が出るのだ。そういうところには必ずピー屋がある。ピー屋というのは女郎屋のことである。(略)ピー屋の前に行ったが、何とゾロゾロと大勢並んでいる。日本のピーの前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいだった。これを一人の女性で処理するのだ。僕はその長い行列を見て、一体いつできるのだろうと思った。一人三十分としてもとても今日中にできるとは思われない、軽く一週間くらいかかるはずだ。しかし兵隊はこの世の最期だろうと思ってはなれない、しかし…いくらねばっても無駄なことだ。僕は列から離れることにした。

そして朝鮮ピーの家を観察したのだ。ちょうどそのとき朝鮮ピーはトイレがしたくなったのだろう、小屋から出てきた。とてもこの世のこととは思えなかった。第一これから八十人くらいの兵隊をさばかねばならぬ。兵隊は精力ゼツリンだから大変なことだ。それはまさに「地獄の場所」だった。兵隊だって地獄に行くわけだが、それ以上に地獄ではないか。と、トイレに行った朝鮮ピーを見て思った。よく従軍慰安婦のバイショウ(賠償)のことが新聞に出たりしているが、あれは体験のない人にはわからないだろうが…やはり「地獄」だったと思う。だからバイショウはすべきだろうナ」。(その後、彼女たちは病院船で移動する際に潜水艦にやられ全員死亡したとのこと。賠償することさえ不可能になった)

●「慰安婦問題は朝日新聞が最初に焚き付けた」はウソ。読売新聞の方が先。

保守論客は「慰安婦問題は朝日新聞が捏造した」「植村隆記者の誤報が騒ぎの発端」と触れ回っているが真っ赤な嘘。朝日の記事は1991年。だがそれより4年前の1987年8月14日に「読売新聞」が次の記事を掲載している→


「従軍慰安婦とは、旧日本軍が日中戦争と太平洋戦争下の戦場に設置した「陸軍娯楽所」で働いた女性のこと。昭和十三年から終戦の日までに、従事した女性は二十万人とも三十万人とも言われている。/「お国のためだ」と何をするのかも分からないままにだまされ、半ば強制的に動員されたおとめらも多かった。/特に昭和十七年以降「女子挺身隊」の名のもとに、日韓併合で無理やり日本人扱いをされていた朝鮮半島の娘たちが、多数強制的に徴発されて戦場に送り込まれた。彼女たちは、砲弾の飛び交う戦場の仮設小屋や塹壕(ざんごう)の中で、一日に何十人もの将兵に体をまかせた。その存在は、世界の戦史上、極めて異例とされながら、その制度と実態が明らかにされることはなかった」。

(参考リンク)
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20120813/p1

また、慰安婦問題の誤報について朝日が大バッシングされているが、吉田清治氏が済州島で行った調査報告がデマというのは、ずっと前から多くのリベラル派の共通認識であり、吉田報告を論拠に強制連行を批判する人間は近年ではほぼ皆無。朝日は誤報と気付いた点でもっと早く謝罪・訂正すべきだったし、お陰で「強制連行は捏造だった」と右翼が大々的に宣伝することで、武力による強制連行事件(スマラン事件など)までなかったかのような誤解が若者の間に広まっているのは大問題。

※スマラン事件(白馬事件)…直接日本軍が女性をトラックに詰め込んで慰安婦にした事件。1944年2月、インドネシアの民間抑留所にトラックで乗り付けた軍人たちは、17歳以上の独身オランダ人女性を整列させ、16人の少女をジャワ島スマラン慰安所に連れ去った。彼女たちは高級将校専門の慰安婦にされ、軍刀で脅迫され暴行を受けた。戦後の戦犯法廷で、当事者の大久保大佐が公判中に自殺、池田大佐が発狂、岡田少佐は死刑、能崎中将が懲役12年となる。事件当時、日本の第16軍上層部はスマランの該当慰安所を閉鎖し少女たちを親元へ帰した。この一例だけでも安倍氏が賛同した意見広告「日本軍による強制連行を裏付ける資料はなく…」は誤りだ。

●河野談話は聞き取り調査や吉田報告と無関係〜安倍氏も知らなかった事実が国会で判明

これまで安倍氏は、国会で「河野談話の根拠の大半は吉田清治氏の虚偽報告」と発言してきた。また、保守論客は「河野談話は“16人の元慰安婦の聞き取り調査”と怪しい吉田報告から作成され根拠に乏しい」とバッシングしてきた。だが、2014年10月3日の衆院予算委員会で、河野談話はそれらと無関係であり、関係省庁における関連文書、米国国立公文書館の文書、軍関係者や慰安所経営者等各方面への聞き取り調査、証言集の分析などの結果から作成されたと判明した。

《ポイント要約》

辻元「吉田清治氏の証言が河野談話の内容に影響を及ぼしたことはないという理解でいいか」

菅「河野談話の作成過程の中で政府は吉田清治氏から聞き取り調査を行った。その結果、同氏の証言は、客観的事実と照らしてつじつまが合わなかった、他の証言者の証言と比較して信用性が低かったところから河野談話に反映されなかった」

辻元「総理も同じ認識か」


安倍「官房長官が答弁したとおり」

辻元「河野談話は元慰安婦の聞き取り調査が根拠になったのではない。関係省庁における関連文書、米国国立公文書館の文書や、それから軍関係者や慰安所経営者等各方面への聞き取り調査、それから証言集の分析などで出た結果であり、16人の元慰安婦の聞き取りが根拠になったものではない、ということでよろしいか」

菅「報告書のとおり、河野談話の原案は、元慰安婦からの聞き取り調査の終了前に、それまでに日本政府が行った関連文書の調査結果等に基づいて既に作成をされていた」

辻元「総理も同じ認識か」

安倍「聞き取り調査が根拠だと思っていたけど違った」

衆議院予算委員会 平成26年10月3日


●いつまで過去の罪を謝罪せねばならぬのか?

その意見に答えるならば、最低でも安倍氏のように戦争犯罪を否定する人物が国家の中心にいるうちはダメだろう。極右政治家が何万票も集めている時点で「日本人は反省してない」と受け止められる。「慰安婦問題は日韓基本条約で解決済み」という意見も論点ずらしというか、韓国が個別請求権を放棄した日韓基本条約は1965年に締結されたが、慰安婦問題が浮上したのは1992年。これほどの人権侵害を“後から分かった”から黙殺というのは非情すぎる。心の傷が大きすぎ、そして差別されるのが怖くて被害を名乗れなかっただけなのに…。

※国家間で信頼を得るためには長い時間が必要だけど、失うのは一瞬。政府がお詫びした後に右派議員が「日本は悪くない」と開き直ると、謝罪が台無しになる。またゼロからのスタート、否、マイナスからのスタートになってしまう。安倍一派や石原一派が、戦後日本が何十年もかけて築き上げた中韓との(それなりにあった)信頼関係をすべてブチ壊した罪は重い。その上、国連からも米国からもお灸をすえられ、日本の対外的な信用を傷つけている。

米国紙に意見広告「慰安婦はでっちあげ」を出した“有識者”と政治家

  

2007年『ワシントン・ポスト紙』、2012年『スターレッジャー紙』に、櫻井よしこ、西村幸祐、藤岡信勝などウルトラ保守“有識者”が「歴史事実委員会」の名で、「慰安婦問題はでっちあげ」「日本軍による強制連行を裏付ける資料はなく、発見された公文書によれば強制募集や誘拐を禁じていた」と意見広告を掲載し、安倍氏は“賛同者”として名を連ねた。これは河野談話が指摘した「慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」という内容を否定するもの。冗談ではない。

意見広告に書かれた「女性を意思に反して強制して働かせることのないよう民間業者に警告する文書が多数発見された」について、該当の公文書(陸軍通牒2197)を調べてみると、これは民間業者を対象に書かれたものではなく、陸軍省から北支方面軍・中支派遣軍あてに出された指示文書であって、保守論客が主張する「民間業者に警告する文書」ではない。どこにも、違法な業者を「厳罰にすると警告している」箇所や、「誘拐に類する募集方法を明確に禁止」した箇所はなく、よくこんなウソを櫻井よしこら保守“有識者”は米国紙に掲載したもの。※リンク先で詳細に論破。

ネットでは安倍氏に代表されるような「慰安婦問題はでっちあげ」とするグループに、証拠を集めて冷静に反論を試みているサイトも多い。特に説得力があるのはコチラ。戦後の旧日本兵の回想記ではなく、戦時中にリアルタイムで記録された生々しい兵士の手記を数多く紹介している。戦後の回想でも慰安婦問題が国際問題化する前に書かれたものが中心。衝撃的なのは、慰安所の劣悪な環境だけでなく、大量の“日本人慰安婦”の存在だ。彼女たちは日本国内から日本人ブローカーに騙されて慰安所に送られた。室町時代や江戸時代の話ではなく、ほんの数十年前の話だ。戦後になるまで、日本ではこのように奴隷交易同然のことが国家ぐるみで行われていた。従軍慰安婦の問題は韓国との関係で語られがちだけど、もっと広範囲な女性全体の人権問題として捉え直すべきものと痛感。また、日本人相手でも平気で騙すような違法ブローカーであり、相手が朝鮮人であればもっと酷い騙し方をしたであろう。

日本兵の振るまいについて、陸軍軍医・早尾乕雄中尉が1939年に書いた報告書『戦場に於ける特殊現象と其対策』を現代文に訳。「出征者の性欲を長く抑制させることは、中国人女性への暴行に繋がると気をきかせ、兵站(へいたん、補給機関)が中国にも早速に慰安所を開設した。主な目的は性の満足により将兵の気分を和らげ、皇軍の威厳を傷つける強姦を防ぐことにあった。それでも地方での強姦数は相当あり、また前線でも多く見かける。内地(日本列島)では到底許されぬことが、敵の女だから自由になるという考えが非常に働いているために、中国の娘を見たら憑かれたようにひきつけられて行く。従って検挙された者は不運なだけで、陰にはどれ程あるか解らぬと思う。部隊長は兵の士気昂揚のためと見て知らぬ振りを通したことさえあった。

日本の軍人はなぜゆえこの様に性欲の上に理性が保てないかと、私は大陸上陸と共に直ちに痛嘆し、戦場生活1年間を通じて終始痛感した。しかし、軍当局はあえてこれを不思議とせず、さらにこの方面に対する訓戒は耳にしたことがない。軍当局は軍人の性欲を抑える事は不可能だとして、中国の女性を強姦せぬ様にと慰安所を設けた。だが、強姦は非常に盛んに行われ、中国の良民は日本軍人を見れば必ず怖れた。将校は率先して慰安所へ行き、兵にもこれをすすめ、慰安所は公用と定められた。心ある兵は慰安所の実態(女性を騙して連れてきた)を知って、軍当局を冷笑していた位である」。

★米紙「慰安婦」否定意見広告に賛同した国会議員(昨年11月当時)

2012年米国紙に「慰安婦問題はでっちあげ」意見広告を出した国会議員リスト39名。こういう議員のせいで「日本は戦争を反省してない」と言われ続け国益を損なってる。4閣僚(下村博文、稲田朋美、古屋圭司、新藤義孝)のほか内閣官房副長官の世耕弘成氏、首相補佐官の衛藤晟一氏や自民党政調会長・高市早苗氏も賛同している。情けないことに民主党議員の名前も…。

【民主党/当時】柴崎正直(岐阜)、田村謙治(静岡)、花咲宏基(岡山)、福島伸享(茨城)、松原仁(東京)、三浦昇(山口)、向山好一(兵庫)、吉田泉(福島)、渡辺周(静岡)、金子洋一(神奈川/参)。長尾敬(大阪)は署名後に自民党へ!11名。

【自民党】安倍晋三(山口)、伊東良孝(北海道)、稲田朋美(福井)、金子恭之(熊本)、北村誠吾(長崎)、下村博文(東京)、新藤義孝(埼玉)、北村茂男(石川)、高市早苗(奈良)、竹本直一(大阪)、古屋圭司(岐阜)、松野博一(千葉)、山本有二(高知)、塚田一郎(参・新潟)、西田昌司(参・京都)、山谷えり子(参・比例)、山本順三(参・愛媛)、義家弘介(参・比例)、上野通子(参・栃木)、江藤晟一(参・比例)、岸宏一(参・山形)、岸信夫(参・山口)、有村有子(参・比例)、磯崎仁彦(参・香川)、熊谷大(参・宮城)、世耕弘成(参・和歌山)の26名。

【維新】
平沼赳夫(岡山)、中山恭子(参・比例)

頭が痛いのは、この広告に安倍氏が賛同署名をしたのは自民党総裁になってからのこと。これが国際的にどういうメッセージになるか。安倍氏を批判する動きは自民内部に見えない。このままでは自民の公式見解は「日本軍は“詐欺”や“人身売買”を見て見ぬ振りしていたが、強制連行じゃないから謝罪しない。それが“美しい国”!」という開き直りになる。勘弁して欲しい。

でも状況を前向きに考えることも出来る。自民党は衆参両院で当時201人の議員がいたのに、賛同者は24人に過ぎなかった。9割の議員はサインしていない!それは希望だ。
※国連人権委員会「日本軍の慰安所制度は1926年の奴隷条約における国際慣習法に違反する性奴隷制度であり、女性への著しい人権侵害である」。

※保守論客はよく「現代の価値観で当時を裁くな」と言うけど、当時の価値観から見ても慰安婦制度は刑法第226条及び第227条、民法第90条、娼妓取締規則、婦女・児童売買を禁ずる国際条約、奴隷条約(1926)、強制労働条約第29号(1930)などに違反している。

『日本の戦争責任資料センター』の見解を紹介

安倍氏をはじめ極右の政治家たちは、「慰安婦」の強制性を否定する発言を何度も繰り返し、いまだに心身の傷が癒されることのない元「慰安婦」の方々をさらに苦しめている。“日本の戦争責任資料センター”は、1993年の創設以来、日本の戦争犯罪・責任について資料調査と研究を積み重ね、これまでの研究蓄積を踏まえた『日本軍「慰安婦」問題に関する声明』を2013年6月9日に発表した。以下はその要約。※若い人でも理解しやすいよう、難しい言葉は置き換えて一部を再構成。

(1)日本軍「慰安婦」制度に関する旧陸海軍や政府関係資料は、1993年の河野談話の発表以降も数多く発見され、その多くが公表されている。慰安婦制度は旧日本陸海軍が発案し、慰安所設置の計画立案、業者の選定・証明書発給・資金の世話、徴集する女性の人数の算定、女性集め、女性の輸送、慰安所の使用規則・料金の決定など慰安所の管理、物資の提供など、全面的に軍が監督・統制した。そして日本軍の占領地であった中国、東南アジア、太平洋諸島、さらには沖縄など日本軍駐留地の殆どで慰安所を開設し、そこに女性を送り込んでいった。また外務省、内務省、朝鮮・台湾総督府など国の多くの機関も深く関与した。これほどの地域的広がりと規模の大きさ、組織性は、他国の軍には見られない特徴である。

(2)極右政治家は日本軍「慰安婦」制度と同じような制度が世界の各国にもすべてあったかのように主張しているが、その根拠を示す資料はまったく提示されていない。これまでの研究では、第二次世界大戦時において日本軍「慰安婦」制度のような国家による組織的な性奴隷制を有していたのは、日本とナチス・ドイツだけであった。当時、公娼制のなかったアメリカや、公娼制を廃止していた国(英国など)が多く、将兵が民間の売春宿を利用することはあったとしても、軍が組織的に管理運営することは許されない国が多かった。諸外国の軍人による性暴力もあったが、それは「慰安婦」制度とは別のものであり、それらを混同させて、日本軍「慰安婦」制度を免罪することはできない。

(3)「慰安婦」にされた女性の被害について、日本の裁判所は既に複数の判決を出し事実認定を行なっている。たとえば、「日本軍構成員によって、駐屯地近くに住む中国人女性(少女も含む)を強制的に拉致・連行して強姦し、監禁状態にして連日強姦を繰り返す行為、いわゆる慰安婦状態にする事件があった」(中国人「慰安婦」第一次訴訟、東京高裁判決2004.12.15)と、強制的な拉致・連行を事実認定している判決も出されている。あるいは「原告は、その慰安所の営業許可直前、泣いて抗ったが、軍医による性病検査を受けさせられ、営業許可後は、意に沿わないまま従軍慰安婦として日本軍人の性行為の相手をさせられた。原告がいやになって逃げようとすると、そのたびに慰安所の帳場担当者らに捕まえられて連れ戻され、殴る蹴るなどの制裁を加えられたため、原告は否応なく軍人の相手を続けざるを得なかった」(在日韓国人裁判、東京地裁判決1999.10.1)と、慰安所における強制と人権蹂躙を事実認定した判決も出されるなど司法が認めている。

(4)日本軍「慰安婦」とされた女性のうち、日本本土の女性や、植民地であった朝鮮・台湾の女性は、売買され、だまされたりなどして国外へ連れていかれ、慰安所で本人の意思に反して使役された。これは、人身売買や誘拐にあたり、また当時の刑法でも「国外移送目的誘拐罪」「国外移送目的人身売買罪」「国外移送罪」と呼ばれる犯罪に該当した。その実行は、主として植民地の総督府または軍の選定した業者などが直接行なったが、人身売買や誘拐などの事実を憲兵や軍医をはじめ軍が知らなかったとは考えられない。
被害女性たちへの「強制」の問題を、官憲による暴力的「拉致」のみに限定し、強制はなかったとする主張は、「国外移送目的誘拐罪」「国外移送目的人身売買罪」「国外移送罪」など刑法上の犯罪を不問に付し、業者の行為や女性たちの移送が、軍あるいは警察の統制下にあったという事実を見ようとしない議論である。慰安所の生活の中で、自殺に追い込まれたり、戦火に巻き込まれて死亡した女性たちも少なくなかった。

(5)日本政府は北朝鮮による拉致の認定にあたっては、暴力的に連行されたか、甘言によって連行されたかの区別なく、ともに「拉致」と認定している。しかも暴力的に連行せよとか、強制連行しましたという公文書なしに、証言などに基づき認定している。この認定は妥当なものであると私たちは考える。これに照らし合わせてみれば、「慰安婦」問題についてのみ暴力的な連行だけが問題であるかのように矮小化するのは、ダブルスタンダードでしかない。重要なことは連行時における暴力ではなく、連れて行かれた慰安所における強制と性暴力、人権蹂躙である。

(6)日本軍「慰安婦」とされた女性たちのうち、(主に朝鮮以外の)中国・東南アジア・太平洋地域の女性たち(インドネシアで抑留されたオランダ人女性を含む)は、人身売買だけでなく、日本軍に脅された地域の有力者から、「人身御供」として提供され、あるいは日本軍や日本軍支配下の官憲によって直接拉致されて慰安所に入れられるケースも多かった。慰安所に入れられた女性たちは強制使役された。

(7)戦前の日本にあった公娼制度は事実上の奴隷制度であった。公娼とされた女性は廃業の自由と外出の自由は法令上認められていたが、その事実は当人に知らされなかったし、前借金(ぜんしゃくきん)を返さなければならないため廃業できなかった。こうした公娼制度に対して、「人身売買と自由拘束の二大罪悪を内容とする事実上の性奴隷制なり」と厳しく批判し、公娼制廃止を求める県会決議は22 県で採択され、公娼制を廃止した県も15県にのぼっていた。国際社会からも批判を受けて内務省警保局は1935年には公娼制廃止案を提案するようになっていた。「慰安婦」は公娼と同じだから問題ないというような議論は、女性の人権が認められていなかった戦前期における政治家に比べても、人権意識が著しく欠如していると言わざるを得ない。

そして日本軍の「慰安婦」制度は、居住の自由はもちろん、廃業の自由や外出の自由すら女性たちに認めておらず、慰安所での使役を拒否する自由をまったく認めていなかった。故郷から遠く離れた占領地に連れて行かれたケースでは、交通路はすべて軍が管理しており、逃亡することは不可能だった。公娼制度を事実上の性奴隷制度とすれば、日本軍「慰安婦」制度は、より徹底した露骨な性奴隷制度であった。

(8)当時、こうした女性への人権侵害は、国際法によっても禁じられ、日本は締約国としてそれらの条約に加入していた。「婦人・児童の売買禁止に関する国際諸条約」(1921)は、「詐欺により、または暴行、脅迫、権力乱用その他一切の強制手段」をもって女性を性的業務に就かせることを禁止していた。「慰安婦」にされた女性の中には高い比率で未成年の少女がいたが、未成年の場合は、たとえ「本人の承諾を得たるときといえども」それを「犯罪」として明記していた。さらに、これらの「犯罪」が起こらないよう、日本を含む各締約国は予防をはかり、もし「罪を犯す者」があれば「捜索しかつこれを処罰する」ことを約束している。これらの諸条約は今も消滅しておらず、日本は条約下にある。「慰安婦」制度は、当時も今も犯罪であり、公的立場にある者が、日本国民が性的犯罪を容認しているかのように放言することは、国際社会のみならず、国民全体に対する侮辱というほかない。

(9)国連の拷問禁止委員会は、2013年5月31日に日本国に対し、

●「慰安婦」とされていた被害者の救済のために、性奴隷制の犯罪について法的責任を認めること

●公的人物などが「慰安婦」が受けた被害事実を否定する言動を繰り返していることによって再び精神的外傷を受けていることについて国として反論すること

●関連資料を公開し事実を徹底的に調査すること

●被害者の救済を受ける権利を確認し、それに基づいて効果的な救済と賠償を行うこと

●この問題について公衆を教育し、あらゆる歴史教科書にこれらの事件を記載すること
などを求めている。また社会権規約委員会は5月17日に日本政府に対して、「『慰安婦』に対するヘイトスピーチを防止するため、締約国が『慰安婦』の搾取について公衆を教育するよう勧告」している。

(10)日本政府は、日本軍「慰安婦」問題について既に謝罪済みと弁明している。たしかに「アジア女性基金」を受け取る元「慰安婦」の方々に、その時々の首相が署名し、「心からおわびと反省の気持ちを申し上げます」と記した手紙が渡された。しかし、この手紙は、法的責任と賠償責任を否認した上で、「道義的な責任」しか認めていない。日本政府の用語法で「道義的な責任」とは、法的責任への否認を暗に含んだ軽い責任を意味する。いったん「内閣総理大臣の手紙」を受け取ったのち、表面的な謝罪にすぎないことに気づき、元「慰安婦」が日本大使館に手紙を突き返した事例もある。元「慰安婦」の方々に不十分であれ謝罪の意を示している河野談話を見直そうとする動きは、そうした「道義的責任」をも否定しようとするものであり、とうてい認めることはできない。

(11)上記「内閣総理大臣の手紙」は、「おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝える」とも記している。しかし、かつて中学教科書のすべてに記載されていた日本軍「慰安婦」の記述は、現行の教科書から全部なくなっている。安倍首相をはじめ現在の政府・自民党の要職についている少なくない政治家が、当時、歴史教科書から日本軍「慰安婦」の記述を削除させ、あるいはそうした記述のある教科書を学校で使わないようにさせる運動を支援してきたことは周知の事実である。日本政府は「内閣総理大臣の手紙」で表明した約束さえ履行していないのである。

(12)朝鮮戦争において韓国軍が「慰安婦」制度を持っており、韓国政府がそれを米軍にも提供したことがわかっているが、当時の韓国軍の幹部の多くは旧日本軍あるいは日本のかいらい軍であった旧満州国軍の将兵、つまり対日協力者たちだった。旧日本軍の経験が韓国軍に持ち込まれたと言える。これは日本軍の弊害が韓国軍に伝わってしまったということであり、その原因は日本軍にあったことも認識しなければならない。

(13)「従軍慰安婦」という言葉が当時なかったという理由で、「慰安婦」の存在自体を否定しようとする議論が今もなされている。しかし当時の軍の文書においても「慰安婦」「軍慰安所従業婦」「軍慰安所」などの言葉が使われていた。従って、日本軍部隊のために設置された慰安所に拘束された女性を、「従軍慰安婦」あるいは“ 日本軍「慰安婦」” という言葉で表すことは何ら問題ではない。

(14)安倍内閣は、1993年の河野談話の調査結果発表までに「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」(2007.3.16) と答弁書を出し、その後もそうした資料がないことのみを強調する政府見解をくりかえしている。こうした答弁は、1993年時点で存在のわかっていたスマラン事件関係資料や、強制的な連行を示す東京裁判検察側証拠書類などを無視した不当な答弁であり、もしそのときの政府調査にそれらの資料が含まれていなかったとすれば、政府調査のずさんさを示すものでしかない。さらに1993年以降、数多くの関係資料が発見公表されているが、それらの成果をまったく無視するものである。

国連拷問禁止委員会の勧告にあるように、日本政府は徹底した資料調査をおこなうべきである。それをせずに、上記のような答弁を繰り返す行為を拷問禁止委員会は厳しく批判している。橋下市長や安倍首相をはじめとする自民党、維新の会、その他の政治家たちの暴言、妄言が、人権意識を欠落させたものであり、深刻な被害を受けている元「慰安婦」の女性たちをさらに一層傷つけるものであることに鑑み、そうした暴言を直ちに撤回し、人権蹂躙を恥じない政治家は直ちに公職を辞任すべきである。私たちは、橋下市長や安倍首相らが流した誤った「事実」認識が正され、上記の事項が日本内外の人びとによって正しく認識され、日本軍「慰安婦」問題が根本的に解決されることを強く願うものである。

過去の反省と愛国心は両立する。これ以上、偽りの歴史で被害者を傷つけることはやめよう。僕は、竹島は日本の領土だと思っているし、中国共産党政府のチベット弾圧に反対しているけど、元慰安婦に関してはあまりに日本政府の対応は“情”がなさ過ぎる。早く東アジアに真の和解が訪れますように。


★慰安婦問題のおすすめサイト『忘却への抵抗、未来の責任』
http://fightforjustice.info/?page_id=301


http://kajipon.com/kt/peace-i.html



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/132.html

[近代史3] 従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ


従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ

「韓国人慰安婦を強制連行」と書いたのは朝日でなく産経新聞だった! 植村記者に論破され阿比留記者が赤っ恥 
LITERA(リテラ)

[画像] 「韓国人慰安婦を強制連行」と書いたのは朝日でなく産経新聞だった!
植村記者に論破され阿比留記者が赤っ恥 


 昨夏の朝日報道問題で「捏造記者」の濡れ衣を着せられた元朝日新聞記者・植村隆氏と、「安倍晋三シンパ」の3本指に入る産経新聞の名物編集委員・阿比留瑠比記者との"インタビュー対決"が話題になっている。

 と言っても、産経新聞紙上に掲載された記事のほうではなく、その後、産経のWeb版で公開された"インタビューの全文書き起こし"と見られるやりとりについてだ。なんと、そこには、"ホーム"であるはずの産経の阿比留記者と同行した外信部・原川貴郎記者が、"アウェー"の植村氏に論破され、くるしい言い逃れに終始している模様が描かれていたのである。

 本サイトは前回、そのインタビューに至る経緯や、前半のハイライト部分を紹介した。今回解説していくのはその佳境、いわば"KOラウンド"だ。引き続き、一問一答を産経新聞Web版から引用(一部省略)しつつ、"対決"の様子を解説席からお届けしていこう。

 ──産経側はかねてから、植村氏が1991年にスクープした慰安婦問題の記事について、"元慰安婦の金学順さんがキーセン(韓国の芸者)として人身売買されたことを隠し、「女子挺身隊」として国家によって強制連行されたように書いた"と主張していた。しかし実のところ、植村氏の記事には「強制連行」という言葉はいっさい出てこない。だが、阿比留氏らはそれでも"植村記事の「女子挺身隊の名で戦場に連行され」との記述は、軍や官憲の指示で「強制連行」が行われたとしか読めず、虚報である"と言ってはばからない。

 そんななか、インタビュー中、植村氏が、1991年12月7日付の産経新聞(大阪版)をおもむろに取り出し、阿比留記者に見せると......。以下はそのやりとりだ。

植村「一つお聞きしたい。そうしたら、阿比留さん、この記事はどう読む?」

阿比留「ああ、(記事は)間違っていますね」

植村「間違っている?」

阿比留「はい」

植村「どこが間違っているんですか?」

阿比留「『日本軍に強制的に連行され』という(部分)」

植村「これは産経新聞の記事ですね?」

阿比留「だから、うちが間違っているんですね」

植村「訂正かなんかやられたんですか」

阿比留「これは今日、初めて見ましたから訂正したかどうかはちょっと分かりません」


 まるで、急激に青ざめていく阿比留記者の顔色が見て取れるかのようだ。植村氏が示した産経新聞の記事には〈金さんが17歳の時、日本軍に強制的に連行され、中国の前線で、軍人の相手をする慰安婦として働かされた〉とハッキリそう書いてあった。これは金学順さんの記者会見での発言を元に書いたものだという。さらに、1993年8月31日付の産経新聞大阪本社版にはこんな記事も載っていた。

〈太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年ごろ、金さんは日本軍の目を逃れるため、養父と義姉の3人で暮らしていた中国・北京で強制連行された。17歳の時だ。食堂で食事をしようとした3人に、長い刀を背負った日本人将校が近づいた。「お前たちは朝鮮人か。スパイだろう」。そう言って、まず養父を連行。金さんらを無理やり軍用トラックに押し込んで一晩中、車を走らせた〉。

 日本軍が暴力によって現地の人々を強制連行していく──まるで「吉田証言」のような話である。しつこいようだが、これは産経新聞の記事だ。

植村「これも強制連行ですね。両方主体が日本軍ですけど、それはどうですか」

阿比留「間違いですね」

植村「間違いですか? ふ〜ん。これがもし間違いだったら、『朝日新聞との歴史戦は、今後も続くのだと感じた』って阿比留さんは書かれているんだけど、産経新聞の先輩記者と歴史戦をまずやるべきじゃないですか。原川さんどうですか」

原川「私、初めて見ましたので、どういう経緯でこうなったか、どこまで調べられるか。これちょっと日付をメモらせてもらって」

植村「いや、あげますよ。調べて、間違いだったらそれがどうなのか、どうするのかも含めて知らせてください。歴史戦というものは、もし歴史戦を皆さんがやっておられるんであれば、たぶん真実のためにやっておられると思うんです。皆さんがね。であれば、先ほど間違ったとおっしゃったことに対しても、謙虚に向かうべきだと思います」

 なんのことはない。「朝日は世界中に慰安婦に関する嘘をばら撒き、日本を貶めた」と批判している産経新聞こそが、「(金学順さんは)日本軍に強制連行された」とハッキリと報道していたのである。ちなみに、朝日には金学順さんに関して「強制連行」と書いた記事はひとつもない。なぜなら、第一報を書いた植村氏に、金さんが強制連行されたという認識がなかったからだ。

 そして、何より驚くのは、産経新聞で慰安婦報道の先頭に立っている2人の記者が自社の慰安婦報道についてほとんど把握していなかったという事実である。他社に対して"歴史戦"を挑むというなら、まずは自社の報道ぶりを検証するのが最低限の作業だろう。しかし、それどころか、阿比留記者らはまさに自分たちが批判している植村氏の記事すら、きちんと読んでいなかったようなのだ。

 いったい、彼らは何と戦っていたのだろうか。真実を探索するという本分を忘れ、"朝日叩き"それ自体が目的化しているとしか思えない。これはなにも、阿比留記者個人だけの話ではないだろう。昨夏以来、ある雑誌は、こんなふうにして「朝日慰安婦報道の検証」に気炎を上げていた。


「廃刊せよ! 消えぬ「反日」報道の大罪」(14年10月号)
「言い逃れは許されない 「慰安婦」報道の国辱責任」(14年11月号)
「決定版40ページ! 朝日慰安婦報道「有罪」論」(15年4月号)
「訂正1年 朝日は「慰安婦」を反省したか」(15年9月号)

 すべて、産経新聞社刊行の論壇誌「正論」の表紙に踊った見出しである。産経新聞社は、自社の慰安婦「強制連行」報道を訂正せぬまま、しかも、社員記者たちは植村氏の記事をまともに読んですらいないまま、この1年間、ひたすら「廃刊」「大罪」「国辱」「有罪」と、がなりつづけていたわけである。

 この時点ですでに勝負あったというのはおわかりいただけただろうが、上で解説したのは、長い長いインタビューのほんの一部の入口に過ぎない。

 その後、インタビューは一連の植村氏からの"逆質問"が終わり、攻守が代わる。ところが、阿比留記者らからの質問は本当に重箱の隅をつつくようなものばかり。その典型が今年8月4日付の特大記事でも執拗に見出しに使われている「証言テープ」に関するものだ。

阿比留記者らはこのテープの存在に異様にこだわり、

「テープはいまどこにあるのか?」
「テープを聞いたのは一度だけか?」
「たった1回聞いただけで記事にしたのか?」
「テープには『挺身隊』という名前は出てきているのか」

という質問が繰り返される。

阿比留「それでですね、私ども、ちょっと不思議なのはですね、誰とも分からない、挺対協が出元とはいえですね、誰とも分からない、名前も分からない、証言テープだけですね、しかも1回聞いただけでですね、このような記事にできるものかなあと不思議なんですね」

植村「うーん、なるほどね」

阿比留「記者の作法としてですね」


 阿比留瑠比は1966年生まれ、植村隆は1958年生まれ。記者としての経験は植村氏のほうが明らかに長い。ここで植村氏が再び問うた。


植村「阿比留さん、僕の記事(1991年8月11日付朝日新聞大阪本社社会面記事)って読まれたことあります? きちんと」

阿比留「きちんとと言うか、どの記事ですか」

植村「だから僕のその、批判されている記事」

阿比留「ああ、読みました」

植村「じゃあ、ちょっと見てみましょう...」


 植村氏の記事は新聞記者として訓練を受けた人なら誰でもわかるような基本的セオリーに則って書かれている。植村氏はまず、当時のソウル支局長から聞いた「ソウルにいる元朝鮮人従軍慰安婦の女性が語り始めたらしい」という情報を元に、以前から取材で知り合っていた挺対協の尹貞玉・共同代表に取材を申し込んだ。ところが、証言者はマスコミの取材を受けることを拒否しており、名前も教えられないと言われた。だが、挺対協が聞き取りをしたテープは聞かせてもらえるということになり、植村氏は、元慰安婦の証言テープを聞いた上で、尹代表の話を元に記事を書いた──という経緯である。

 したがって、記事はこの経緯に沿って

(1)元慰安婦の女性がソウル市内に生存し、挺対協が聞き取り調査を始めた

(2)挺対協は女性の話を録音したテープを記者に公開した、

(3)以下、挺対協の尹代表らによると......


という構成になっている。つまり、テープはあくまでも尹代表らの話の真実性を裏付ける材料のひとつに過ぎず、記事は尹代表らの話を元に書かれているということだ。もし、この報道が"記者の作法として"許されないのだとしたら、警察の発表記事などいっさい書けないことになってしまう。いまや産経の「顔」とまでいわれる阿比留記者が、それを知らないはずはないのである。

 もうひとつの争点(?)である「慰安婦」と「挺身隊」の混同・誤用問題も、植村氏の話には説得力がある。これは朝日新聞社も昨年8月の検証記事では混同があったと認めているが、植村氏の主張によれば、そもそも当時の韓国では「慰安婦」という言葉は一般的でなく、この問題に関心のある学者も調査団体の関係者も、あるいは元慰安婦の人たち自身も、みんな「挺身隊」という言葉を使っていたというのだ。「挺身隊」は韓国語で「チョシンデ」という。金学順さんが名乗り出たときも、「チョシンデハルモニ(挺身隊のおばあさん)がついに名乗りを上げた」と言われたそうだ。なにより、韓国の慰安婦問題に関する調査団体が「韓国挺身隊問題対策協議会」と名乗っていることからしても明らかだ。

 当然、当時は日韓の新聞の多くが「挺身隊」という言葉を使っていた。1991年9月3日付産経新聞大阪本社版には〈『挺身隊』の名のもとに、従軍慰安婦として狩りだされた〉と、ほとんど植村氏の記事と同じ表現が使われている。読売も、毎日も例外ではない。にもかかわらず、植村氏だけがバッシングされ、新しい職場に「辞めさせろ」「殺せ!」といった抗議や脅迫が届くといった事態が起きているのだ。いかに異常なことかがわかるだろう。

 しかし、植村氏は「他紙も間違っているではないか!」とは非難しない。それは、どの会社のどの記者も、その時代時代で真実を追求しようと一生懸命に取材し、記事を書いた結果だからだ。実際、阿比留記者らをそう諭す場面もある。

 だが、一方の阿比留記者らは、植村氏が韓国語ができ、韓国の留学経験もある韓国の専門家だから一般の記者とは違う、といった訳のわからない理屈を展開しようとしたり、阿比留記者も原川記者も実は元慰安婦を直接取材したことがないということが明らかになったり(理由は「韓国語ができないから」。植村氏も「通訳を使えばできるよ」と当然のツッコミを入れている)、とにかく読みどころ満載の"インタビュー対決"なのだ。

 しかも、産経がみっともないのは、8月4日付の紙面で〈「強制連行」「挺身隊」本紙も過去に使用〉とこっそり記事を載せている点だ。元朝日記者の植村氏からの指摘でわかったということにはいっさい触れず、謝罪も訂正もしていない。朝日新聞に対して「廃刊してお詫びしろ」と迫っていたのに、自分たちの誤報に対するこの態度はいったいなんなのか。

 しかも、これは「産経は正義、朝日は廃刊しろ!」と叫んできた右派知識人やネトウヨたちも同罪だ。

 そもそも朝日新聞バッシングは最初から右派メディアと官邸によって恣意的に仕掛けられたまったく中身のないものだったのだ。「国賊」という言葉は、朝日ではなくバッシングを仕掛けた連中にこそぴったりの形容詞である。
(野尻民夫)
https://news-livedoor-com.cdn.ampproject.org/c/news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/10633890/?usqp=mq331AQGCAEYACAB



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「私は捏造記者ではありません」 ー 植村(札幌)訴訟結審
http://article9.jp/wordpress/?p=10720
2018年7月13日 澤藤統一郎の憲法日記

植村隆元朝日新聞記者が、櫻井よしこらを訴えた名誉毀損損害賠償請求訴訟(札幌地裁)が先週の金曜日(7月6日)に結審した。判決言渡は11月9日の予定。原告・弁護団そして支援者は意気軒昂である。

櫻井よしこや西岡力らは、産経や週刊文春、WiLLなどを舞台に、植村隆を「捏造記者」として攻撃した。櫻井や西岡に煽動されたネット右翼が、植村本人だけでなく、その家族や勤務先の北星学園までを標的に攻撃して、大きな社会問題となった。問題とされた植村隆の朝日の記事は、1991年8月のもの。常軌を逸したバッシングというほかはない。

ことは表現の自由やジャーナリズムのありかたにとどまらない。従軍慰安婦をめぐる歴史修正主義の跋扈を許すのか、安倍政権を押し上げた右翼勢力の民族差別やリベラル派勢力への攻撃を默過するのか、という背景をもっている。

私も、同期の友人たちと語らって、植村・北星バッシングへの反撃の声をあげた。そのときの率直な気持は、この社会の動向に、薄気味悪さだけでなく恐ろしさを感じていた。伝えられている、あのマッカーシズムの雰囲気を嗅ぎ取らざるを得なかったのだ。この訴訟、この判決は、この社会の健全さを占うものとしての重みをもっている。

リベラルバネが多少は働いて、いま櫻井よしこや西岡力の影響力は明らかに落ちてきている。判決が、植村ではなく櫻井よしここそが「捏造ジャーナリスト」であることを明らかにするものとなるよう期待したい。

「植村裁判を支える市民の会」が立派なホームページを作っている。
http://sasaerukai.blogspot.com/

そのサイトから、結審(2018年7月6日)の法廷と、2年前3か月の第1回法廷(2016年4月22日)での、原告植村隆渾身の意見陳述を引用しておきたい。

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     結審(2018年7月6日)法廷での意見陳述

今年3月、支援メンバーらの前で、直前に迫った本人尋問の準備をしていました。「なぜ、当該記事を書いたのか」、背景説明をしていました。こんな内容でした。

私は高知の田舎町で、母一人子一人の家で育ちました。豊かな暮らしではありませんでした。小さな町でも、在日朝鮮人や被差別部落の人びとへの理不尽な差別がありました。そんな中で、「自分は立場の弱い人々の側に立とう。決して差別する側に立たない」と決意しました。そして、その延長線上に、慰安婦問題の取材があったと説明していました。

その時です。突然、涙があふれ、止まらなくなり、嗚咽してしまいました。

新聞記者となり、差別のない社会、人権が守られる社会をつくりたいと思って、記事を書いてきました。それがなぜ、こんな理不尽なバッシングにあい、日本での大学教員の道を奪われたのでしょうか。なぜ、娘を殺すという脅迫状まで、送られて来なければならなかったのでしょうか。なぜ、私へのバッシングに北星学園大学の教職員や学生が巻き込まれ、爆破や殺害の予告まで受けなければならなかったのでしょうか。「捏造記者」と言われ、それによって引き起こされた様々な苦難を一気に思い出し、涙がとめどなく流れたのでした。強いストレス体験の後のフラッシュバックだったのかもしれません。

本人尋問が迫るにつれ、悔しさと共に緊張と恐怖感が増してきました。反対尋問では再び、あのバッシングの時のような「悪意」「憎悪」にさらされるだろうと思ったからです。

「そうだ、金学順(キム・ハクスン)さんと一緒に法廷に行こう」と考えました。そして、金学順さんの言葉を書いた紙を背広の内ポケットに入れることにしたのです。

この紙は、私に最初に金学順さんのことを語ってくれた尹貞玉(ユン・ジョンオク)先生の著書の表紙にあった写真付の著者紹介の部分を切り取ったものです。その裏の、白い部分に金学順さんが自分の裁判の際に提出した陳述書の中の言葉を黒いマジックで、「私は日本軍により連行され、『慰安婦』にされ人生そのものを奪われたのです」と書きいれました。

私の受けたバッシング被害など、金さんの苦しみから比べたら、取るに足らないものです。いろんな夢のあった数えで17歳の少女が意に反して戦場に連行され、数多くの日本軍兵士にレイプされ続けたのです。絶望的な状況、悪夢のような日々だったと思います。

そして、私は、こう自分に言い聞かせました。「お前は、『慰安婦にされ人生を奪われた』とその無念を訴えた人の記事を書いただけではないか。それの何が問題なのか。負けるな植村」

金さんの言葉を、胸ポケットに入れて、法廷に臨むと、心が落ち着き、肝が据わりました。

きょうも、金さんの言葉を胸に、意見陳述の席に立っています。

私は、慰安婦としての被害を訴えた金学順さんの思いを伝えただけなのです。

そして「日本の加害の歴史を、日本人として、忘れないようにしよう」と訴えただけなのです。韓国で慰安婦を意味し、日本の新聞報道でも普通に使われていた「挺身隊」という言葉を使って、記事を書いただけです。それなのに、私が記事を捏造したと櫻井よしこさんに繰り返し断定されました。

北海道新聞のソウル特派員だった喜多義憲さんは私の記事が出た4日後、私と同じように「挺身隊」という言葉を使って、ほぼ同じような内容の記事を書きました。記事を書いた当時、私との面識はなく、喜多さんは私の記事を読んでもいなかったのです。喜多さん自身が直接、金学順さんに取材した結果、私と同じような記事を書いた、ということは、私の記事が「捏造」でない、という何よりの証拠ではないでしょうか。その喜多さんは、2月に証人として、この法廷で、櫻井よしこさんが私だけを「捏造」したと決め付けた言説について、「言い掛かり」との認識を示されました。

そして、こうも述べられました。「植村さんと僕はほとんど同じ時期に同じような記事を書いておりました。それで、片方は捏造したと言われ、私は捏造記者と非難する人から見れば不問に付されているような、そういう気持ちで、やっぱりそういう状況を見れば、違うよと言うのが人間であり、ジャーナリストであるという思いが強くいたしました」この言葉に、私は大いに勇気づけられました。

1990年代初期に、産経新聞は、金学順さんに取材し、金学順さんが慰安婦になった経緯について、少なくとも二度にわたって、日本軍の強制連行と書きました。読売新聞は、「『女性挺身隊』として強制連行され」と書きました。

いま産経新聞や読売新聞は、慰安婦の強制連行はなかったと主張する立場にありますが、1990年代の初めに金学順さんのことを書いたこの両新聞の記者たちは、金さんの被害体験をきちんと伝えようと、ジャーナリストとして当たり前のことをしたのだと思います。私は金さんが、慰安婦にさせられた経緯について、「だまされた」と書きました。「だまされ」ようが「強制連行され」ようが、17歳の少女だった金学順さんが意に反して慰安婦にさせられ、日本軍人たちに繰り返しレイプされたことには変わりないのです。彼女が慰安婦にさせられた経緯が重要なのではなく、慰安婦として毎日のように凌辱された行為自体が重大な人権侵害にあたるということです。

しかし、私だけがバッシングを受けました。娘は、「『国賊』植村隆の娘」として名指しされ、「地の果てまで追い詰めて殺す」とまで脅されました。

あのひどいバッシングに巻き込まれた時、娘は17歳でした。それから4年。『殺す』とまで脅迫を受けたのに、娘は、心折れなかった。そのおかげで、私も心折れず、闘い続けられました。私は娘に「ありがとう」と言いたい。娘を誇りに思っています。

被告・櫻井よしこさんは、明らかに朝日新聞記者だった私だけをターゲットに攻撃しています。私への憎悪を掻き立てるような文章を書き続け、それに煽られた無数の人びとがいます。櫻井さんは「慰安婦の強制連行はなかった」という強い「思い込み」があります。その「思い込み」ゆえなのでしょうか。事実を以て、私を批判するのではなく、事実に基づかない形で、私を誹謗中傷していることが、この裁判を通じて明らかになりました。そして誤った事実に基づいた、櫻井さんの言説が広がり、ネット世界で私への憎悪が増幅されたことも判明しました。

「WiLL」の2014年4月号の記事がその典型です。金さんの訴状に書いていない「継父によって40円で売られた」とか「継父によって・・・慰安婦にさせられた」という話で、あたかも金さんが人身売買で慰安婦にされたかのように書き、私に対し、「継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかった」「真実を隠して捏造記事を報じた」として、「捏造」記者のレッテルを貼りました。「捏造」の根拠とした「月刊宝石」やハンギョレ新聞の引用でも都合のいい部分だけを抜き出し、金さんが日本軍に強制連行されたという結論の部分は無視していました。

しかし、櫻井さんは、私の指摘を無視できず、2年以上経っていましたが、「WiLL」と産経新聞で訂正を出すまでに追い込まれました。実は、訂正文には新たな間違いが付け加えられていました。金さんが強制連行の被害者でないというのです。日本軍による強制連行という結論をもつ記事に依拠しながらも、その結論の部分を再び無視していました。極めて問題の大きい訂正でしたが、櫻井さんの取材のいい加減さが、白日のもとに晒されたという点では大きな前進だったと思います。支援団体の調べでは、この種の間違いが、産経、「WiLL」を含めて、少なくとも6件確認されています。

提訴以来3年5か月が経ちました。弁護団、支援の方々、様々な方々の支援を受け、勇気をもらって、歩んでまいりました。絶望的な状況から反撃が始まりましたが、「希望の光」が見えてきたことを、実感しています。

そして櫻井よしこさんをはじめとする被告の皆さん、被告の代理人の皆さん。長い審理でしたが、皆様方はいまだに、ご理解されていないことがあると思われます。大事なことなので、ここで、皆様方に、もう一度、大きな声で、訴えたいと思います。

「私は捏造記者ではありません」

裁判所におかれては、私の意見を十分に聞いてくださったことに、感謝しております。公正な判決が下されることを期待しております。

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    第1回法廷(2016年4月22日)での原告意見陳述

■「殺人予告」の恐怖
裁判長、裁判官のみなさま、法廷にいらっしゃる、すべての皆様。知っていただきたいことがあります。17歳の娘を持つ親の元に、「娘を殺す、絶対に殺す」という脅迫状が届いたら、毎日、毎日、どんな思いで暮らさなければならないかということです。そのことを考えるたびに、千枚通しで胸を刺されるような痛みを感じ、くやし涙がこぼれてきます。

私は、2015年2月2日、北星学園大学の事務局から、「学長宛に脅迫状が送られてきた」という連絡を受けました。脅迫状はこういう書き出しでした。

「貴殿らは、我々の度重なる警告にも関わらず、国賊である植村隆の雇用継続を決定した。この決定は、国賊である植村隆による悪辣な捏造行為を肯定するだけでなく、南朝鮮をはじめとする反日勢力の走狗と成り果てたことを意味するものである」

5枚に及ぶ脅迫状は、次の言葉で終わっています。

「『国賊』植村隆の娘である●●●を必ず殺す。期限は設けない。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。地の果てまで追い詰めて殺す。絶対にコロス」

私は、足が震えました。

大学に脅迫状が送られてきたのは2014年5月末以来、これで5回目でした。最初の脅迫状は、私を「捏造記者」と断定し、「なぶり殺しにしてやる」と脅していました。さらに「すぐに辞めさせろ。やらないのであれば、天誅として学生を痛めつけてやる」と書いていました。

娘を殺害する、というのは、5回目の脅迫状が初めてでした。もう娘には隠せませんでした。「お前を殺す、という脅迫状が来ている。警察が警戒を強めている」と伝えました。娘は黙って聞いていました。

娘への攻撃は脅迫だけではありません。2014年8月には、インターネットに顔写真と名前が晒されました。そして、「こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。自殺するまで追い込むしかない」と書かれました。こうした書き込みを削除するため、札幌の弁護士たちが、娘の話を聞いてくれました。私には愚痴をこぼさず、明るく振舞っていた娘が、弁護士の前でぽろぽろ涙をこぼすのを見て、私は胸が張り裂ける思いでした。

なぜ、娘がこんな目にあわなければならないのでしょうか。1991年8月11日に私が書いた慰安婦問題の記事への攻撃は、当時生まれてもいなかった高校生の娘まで、標的にしているのです。悔しくてなりません。脅迫事件の犯人は捕まっていません。いつになったら、私たちは、この恐怖から逃れられるのでしょうか。

■私への憎悪をあおる櫻井さん
櫻井よしこさんは、2014年3月3日の産経新聞朝刊第一面の自身のコラムに、「真実ゆがめる朝日報道」との見出しの記事を書いています。このコラムで、櫻井さんは私が91年8月に書いた元従軍慰安婦の記事について、こう記述しています。

「この女性、金学順氏は後に東京地裁に 訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳のとき再び継父に売られたなどと書いている」。その上で、櫻井さんは「植村氏は彼女が人身売買の犠牲者であるという重要な点を報じ」ていない、と批判しています。しかし、訴状には「40円」の話もありませんし、「再び継父に売られた」とも書かれていません。

櫻井さんは、訴状にないことを付け加え、慰安婦になった経緯を継父が売った人身売買であると決めつけて、読者への印象をあえて操作したのです。これはジャーナリストとして、許されない行為だと思います。

さらに、櫻井さんは、私の記事について、「慰安婦とは無関係の「女子挺身隊」と慰安婦が同じであるかのように報じた。それを朝日は訂正もせず、大々的に紙面化、社説でも取り上げた。捏造を朝日は全社挙げて広げたのである」と断定しています。

櫻井さんは「慰安婦と『女子挺身隊』が無関係」と言い、それを「捏造」の根拠にしていますが、間違っています。当時、韓国では慰安婦のことを「女子挺身隊」と呼んでいたのです。他の日本メディアも同様の表現をしていました。

例えば、櫻井さんがニュースキャスターだった日本テレビでも、「女子挺身隊」という言葉を使っていました。1982年3月1日の新聞各紙のテレビ欄に、日本テレビが「女子てい身隊という名の韓国人従軍慰安婦」というドキュメンタリーを放映すると出ています。

私は、神戸松蔭女子学院大学に教授として一度は採用されました。その大学気付で、私宛に手紙が来ました。「産経ニュース」電子版に掲載された櫻井さんの、そのコラムがプリントされたうえ、手書きで、こう書き込んでいました。

「良心に従って説明して下さい。日本人を貶めた大罪をゆるせません」

手紙は匿名でしたので、誰が送ってきたかわかりません。しかし、内容から見て、櫻井さんのコラムにあおられたものだと思われます。

この神戸の大学には、私の就任取り消しなどを要求するメールが1週間ほどの間に250本も送られてきました。結局、私の教授就任は実現しませんでした。

櫻井さんは、雑誌「WiLL」2014年4月号の「朝日は日本の進路を誤らせる」という論文でも、40円の話が訴状にあるとするなど、産経のコラムと似たような間違いを犯しています。

このように、櫻井さんは、調べれば、すぐに分かることをきちんと調べずに、私の記事を標的にして、「捏造」と決めつけ、私や朝日新聞に対する憎悪をあおっているのです。

その「WiLL」の論文では、私の教員適格性まで問題にしています。「改めて疑問に思う。こんな人物に、果たして学生を教える資格があるのか、と。植村氏は人に教えるより前に、まず自らの捏造について説明する責任があるだろう」

「捏造」とは、事実でないことを事実のようにこしらえること、デッチあげることです。記事が「捏造」と言われることは、新聞記者にとって「死刑判決」に等しいものです。

朝日新聞は、2014年8月の検証記事で、私の記事について「事実のねじ曲げない」と発表しました。しかし、私に対するバッシングや脅迫はなくなるどころか、一層激しさを増しました。北星学園大学に対しても、抗議メールや電話、脅迫状が押し寄せ、対応に追われた教職員は疲弊し、警備費は膨らみました。

北星学園大学がバッシングにあえぎ、苦しんでいた最中、櫻井さんは、私と朝日新聞だけでなく、北星学園大学への批判まで展開しました。

2014年10月23日号の「週刊新潮」の連載コラムで、「朝日は脅迫も自己防衛に使うのか」という見出しを立て、北星学園大学をこう批判しました。「23年間、捏造報道の訂正も説明もせず頬被りを続ける元記者を教壇に立たせ学生に教えさせることが、一体、大学教育のあるべき姿なのか」

同じ2014年10月23日号の「週刊文春」には、「朝日新聞よ、被害者ぶるのはお止めなさい “OB記者脅迫”を錦の御旗にする姑息」との見出しで、櫻井よしこさんと西岡力さんの対談記事が掲載されました。私はこの対談の中の、櫻井さんの言葉に、大きなショックを受けました。

「社会の怒りを掻き立て、暴力的言辞を惹起しているものがあるとすれば、それは朝日や植村氏の姿勢ではないでしょうか」

櫻井さんの発言には極めて大きい影響力があります。この対談記事に反応したインターネットのブログがありました。

「週刊文春の新聞広告に、ようやく納得。もし、私がこの大学の学生の親や祖父母だとしたなら、捏造で大問題になった元記者の事で北星大に電話で問い合わせるとかしそう。実際、心配の電話や、辞めさせてといった電話が多数寄せられている筈で、たまたまその中に脅迫の手紙が入っていたからといって、こんな大騒ぎを起こす方がおかしい。櫻井よしこ氏の言うように、「錦の御旗」にして「捏造問題」を誤魔化すのは止めた方が良い」

私はこのブログを読んで、一層恐怖を感じました。ブログはいまでもネットに残っています。

櫻井さんは、朝日新聞の慰安婦報道を批判し、「朝日新聞を廃刊にすべきだ」とまで訴えています。言論の自由を尊ぶべきジャーナリストにもかかわらず、言葉による暴力をふるっているようです。「社会の怒りを掻き立て、暴力的言辞を惹起している」のは、むしろ、櫻井さん自身の姿勢ではないか、と思っています。

■「判決で、救済を」

「言論には言論で闘え」という批判があります。私は「朝日新聞」の検証記事が出た後、複数のメディアの取材を受け、きちんと説明してきました。また、複数の月刊誌に手記を掲載し、自分の記事が「捏造」ではないことを、根拠を上げて論証しています。にもかかわらず、私の記事が「捏造」であると断定し続ける人がいます。大学や家族への脅迫もやむことがありませんでした。こうした事態を変えるには、「司法の力」が必要です。

脅迫や嫌がらせを受けている現場はすべて札幌です。櫻井さんの「捏造」発言が事実ではない、と札幌で判断されなければ、こうした脅迫や嫌がらせも、根絶できないと思います。

私の記事を「捏造」と決めつけ、繰り返し世間に触れ回っている櫻井さんと、その言説を広く伝えた「週刊新潮」、「週刊ダイヤモンド」、「WiLL」の発行元の責任を、司法の場で問いたいと思います。私の記事が「捏造」でないことを証明したいと思います。

裁判長、裁判官のみなさま。どうか、正しい司法判断によって、「捏造」記者の汚名を晴らしてください。。家族や大学を脅迫から守ってください。そのことは、憲法で保障された個人の表現の自由、学問の自由を守ることにもつながると確信しています。

(2018年7月13日)


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『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2018/09/26/antena-332/
佐藤和雄|2018年9月26日10:23AM 週刊金曜日
 
 尋問を終えた西岡力氏。東京・霞ヶ関。(撮影/高波淳)


「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力氏――。彼の論考や発言は、国家基本問題研究所理事長の櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。その西岡氏が9月5日に東京地裁で尋問に答えた内容は、彼らに失望と嘆息を与えるかもしれない。西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めたからだ。

東京地裁では、元「慰安婦」記事を「捏造」と記述され名誉を傷つけられたとして、元『朝日新聞』記者の植村隆・韓国カトリック大学客員教授が西岡氏らを相手取り、損害賠償などを求めた訴訟が2015年1月から続いている。

植村氏は1991年8月、韓国での「慰安婦」問題に取り組む市民団体への取材やその聞き取り調査に応じた女性(のちに記者会見で名乗り出た金学順さん)の録音テープを聞いてスクープし、同年12月にも証言を記事化した。

西岡氏は、植村氏の記事に対し、『週刊文春』2014年2月6日号で「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。捏造記事と言っても過言ではありません」とコメントした。

しかし、尋問で「そう訴状に書いてあるのか」と問われると、「記憶違いだった」と間違いを認めた。金さんの記者会見を報じた韓国『ハンギョレ』新聞の記事を著作で引用した際、「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」という、元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると、「間違いです」と小声で認めた。

西岡氏はまた、元「慰安婦」の証言集は読んでおりながら、「挺身隊」名目で「慰安婦」にさせられた韓国人女性の証言は「覚えていない」とし、自らの主張と異なる最新の調査・研究結果も読んでいないと答えた。

(佐藤和雄・ジャーナリスト、大学非常勤講師、2018年9月14日号)

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「私は捏造記者ではない」慰安婦報道の植村隆・元朝日新聞記者の会見スピーチ(全文)
http://www.bengo4.com/topics/2536/
2015年01月09日 16時33分 弁護士ドットコムニュース

■《慰安婦報道問題》植村隆 元朝日新聞記者 記者会見 主催:日本外国特派員協会

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慰安婦問題の記事を書いた元朝日新聞記者の植村隆氏が1月9日、東京・有楽町の外国特派員協会で記者会見を開き、週刊誌記事などで「捏造」と批判されていることについて、「私は捏造記者ではない。不当なバッシングに屈するわけにはいかない」と主張した。植村氏はこの日、「捏造記者」と報じた文藝春秋と西岡力・東京基督教大学教授に損害賠償を求める訴えを起こした。


植村氏は朝日新聞記者時代の1991年8月、元慰安婦だと初めて名乗り出た韓国人女性が証言しているテープをもとに、記事を書いた。朝日新聞社が昨年8月に虚偽であると判断した故・吉田清治氏の「慰安婦狩り」証言の報道とともに、慰安婦問題が大きくクローズアップされるきっかけとなった。


植村氏は2014年に朝日新聞社を退職し、現在は北星学園大学(札幌市)で非常勤講師を勤めているが、大学に対して、植村氏の退職を求める脅迫状が届き、大きな問題になった。植村氏の記事をめぐっては、昨年8月の朝日新聞社の検証で、「記事に事実のねじ曲げない」としながらも、「女子挺身隊=慰安婦」という表現は誤っていたと認めている。


以下、植村氏が外国人記者に向けて語ったスピーチの全文を紹介する。


●冒頭スピーチ全文


みなさま、お忙しいところ、私の記者会見に来ていただきまして、ありがとうございます。パリの新聞社襲撃事件で多数の記者たちが亡くなったことに、本当にショックを受けています。1987年5月には私の同期の小尻知博記者が支局を襲撃されて殺される事件がありました。同じジャーナリストとして、こうした暴力には絶対に屈してはいけないと改めて思いました。


私が非常勤講師として勤めている北星学園大学にも昨日また、脅迫状が送られてきました。匿名性に隠れた卑劣な脅迫行為は、絶対に許すことができないと思います。なぜ、北星学園大学に脅迫状がくるかというと、私がそこに勤務しているからであります。去年、週刊文春の記事で、私が「捏造記者だ」というレッテル貼りをされました。それで、まったく私の記事とは関係ない大学にまで、こうした脅迫行為がおこなわれています。


私は訴訟準備のために東京にいて、大学には行っていなかったのですが、私のために大学が脅迫にさらされることに心が痛みます。本日、週刊文春を発行する文藝春秋および、その週刊誌にコメントを発表した東京基督教大学の西岡力氏の両名を名誉毀損の被告として、裁判を起こしました。私は私の人権、私の家族の人権、家族の友人の人権、勤務先の北星学園大学の安全を守るために、この訴訟を起こしました。


私は24年前の大阪社会部時代に、慰安婦と名乗りでた韓国のおばあさんのつらい体験の記事を署名入りで2本書きました。この記事が原因で、23年間ずっとバッシングを受けています。この記事で私が存在を報じたのは金学順さんという人で、韓国でカミングアウトした第1号の慰安婦です。彼女の勇気のある証言で、慰安婦の生の証言が世界に伝わって、たくさんの被害者が名乗り出るようなりました。そういう意味では、慰安婦問題が世界に知られるようになった証言者第1号のおばあさんでした。


1年前の週刊文春(2月6日号)の記事に、1991年8月の記事が批判的に紹介されました。この見出しを見ていただければわかりますが、「慰安婦捏造 朝日新聞記者がお嬢様女子大学の教授に」とあります。


西岡氏はこの週刊誌のコメントで、私の記事に対して、「強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言ではない」とコメントしています。


(私の記事では)本文2段落目に、「女性の話によると、中国東北部で生まれ、17歳のときにだまされて慰安婦にされた」と書いてます。そこには触れないで、(西岡氏は)「強制連行があったかのように書いており、捏造」としています。これはフェアではないと思います。


私の記事はリードで「女子挺身隊」という言葉を使いました。当時、韓国では慰安婦のことを女子挺身隊、あるいは挺身隊という言葉で表現していました。しかし、西岡氏は1992年4月の文藝春秋で、「重大な事実誤認」と批判していました。その当時、西岡氏は、「朝日に限らず日本のどの新聞も、金さんが連行されたプロセスを詳しく報じず、大多数の日本人は、当時の日本当局が権力を使って金さんを慰安婦としてしまったと受け止めてしまった」と書いています。


しかし、その後は、私だけを狙い撃ちにして批判しています。98年頃から、批判が「捏造」という言葉に変わりました。同じ1991年の記事に対して、評価を変えてしまっているのです。フレームアップだと思います。結局、その流れで、去年の2月の週刊文春の記事は私を「捏造記者」とレッテル貼りしました。これはフレームアップの延長線上だと思います。


この記事が原因で、私の転職先の神戸の女子大学にいやがらせのメール、電話が多数殺到しました。そして私がいま勤務している北星学園大学にはさらに多くの抗議のメールや電話がくるようになりました。抗議電話の一部は、インターネット上に公開されて、さらに憎悪が煽られています。


標的は大学だけではありません。私の家族、娘にまで及びました。娘の写真がインターネット上にさらされ、誹謗中傷が書き連ねられています。たとえば、「こいつの父親のせいで、どれだけの日本人が苦労したことか。おやじが超絶反日活動で、贅沢三昧に育ったのだろう。自殺するまで追い込むしかない」。私のパートナーは韓国人です。つまり、私の娘は父親が日本人で、母親が韓国人なのです。娘に対してヘイトスピーチのような、コリアンを差別するようなコメントも書かれています。


週刊文春の「捏造」というレッテル貼り、そして西岡氏の言説が、結果的にこうした状況を引き起こしたのだと思います。私は言論の場でも手記を発表して反論しています。それだけではなく、法廷でも捏造記者ではないことを認めていただこうと思っています。


私は「捏造記者」ではありません。不当なバッシングに屈するわけにはいかないのです。


              ◇


<慰安婦報道>元朝日新聞記者 文春と西岡教授を提訴
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150109-00000055-mai-soci
毎日新聞 1月9日(金)17時32分配信


 従軍慰安婦報道に関わった元朝日新聞記者の植村隆氏(56)が9日、記事を捏造(ねつぞう)したと報じられ名誉を傷つけられたとして、文芸春秋と西岡力・東京基督教大教授に1650万円の賠償などを求める訴訟を東京地裁に起こした。弁護団は同様の報道を順次提訴するといい、「中傷を完全に打ち消す」としている。


 訴状によると、文芸春秋は週刊文春の昨年2月6日号と8月14・21日号で、西岡氏は書籍や雑誌で、植村氏が執筆した記事を「捏造と言っても過言ではない」などと報じた。「いわれなき中傷を流布され、家族を含め激しい迫害を受けている」と主張している。


 植村氏は提訴後に記者会見し「不当なバッシングには屈しない」などと話した。


 週刊文春編集部は「記事には十分な自信を持っている」、西岡氏は「私が書いていることは、憲法が保障する言論の自由の中だと思っている」とコメントした。【山本将克】

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櫻井よしこに続き西岡力も「捏造」を法廷で白状! 安倍応援団や右派の朝日・慰安婦報道叩きのデタラメが次々露呈
https://lite-ra.com/2018/10/post-4323.html

2018.10.20 櫻井よしこ、西岡力、文春…朝日・慰安婦報道叩きのデタラメが次々露呈 リテラ

    
    『真実 私は「捏造記者」ではない』(岩波書店)
https://www.amazon.co.jp/%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E7%A7%81%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%8D%8F%E9%80%A0%E8%A8%98%E8%80%85%E3%80%8D%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84-%E6%A4%8D%E6%9D%91-%E9%9A%86/dp/4000610945/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1540096531&sr=1-1&keywords=%E7%9C%9F%E5%AE%9F+%E7%A7%81%E3%81%AF+%E6%8D%8F%E9%80%A0%E8%A8%98%E8%80%85+%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84


「慰安婦問題は朝日新聞が捏造した」という右派のおきまりのフレーズが、まさに自らに突き刺さる事態となっている。元朝日新聞記者の植村隆氏が提訴した裁判で、植村氏を「捏造記者」などと攻撃した極右言論人たちの嘘とでっち上げが、次々と白日のもとに晒されているのだ。

 念のため振り返っておくと、植村氏は、2014年に朝日新聞がいわゆる「吉田清治証言」に関する従軍慰安婦関連の記事を取り消した問題で、右派メディアやネット右翼たちからスケープゴートにされた記者だ。植村氏は朝日が虚偽だと認めた「吉田証言」とは無関係だが、過去に従軍慰安婦の記事を2度執筆しており、その内容が「事実上の人身売買であるのに強制連行されたと書いた」などとして、右派から「植村は捏造記者だ」と総攻撃を受けた。

 しかし、植村氏はその後、自分への攻撃の多くが根拠のないことをひとつひとつ実証的に反論し、極右言論人と出版社を相手取って複数の裁判を起こした。そのひとつが、櫻井よしこ氏と櫻井氏の原稿を掲載したワック、新潮社、ダイヤモンド社を相手取った札幌地裁の名誉毀損裁判である。当時、本サイトでも詳しく伝えたように、今年3月の口頭弁論では、櫻井氏が本人尋問にて、植村氏を「捏造記者」と書いた根拠に関する重要な事実関係の間違いを認めている。

 そして今秋、慰安婦否定論の急先鋒で“安倍晋三のブレーン”のひとりといわれる西岡力氏と、「週刊文春」の版元・文藝春秋を訴えた東京地裁の法廷でも、たて続けに連中の悪質なウソと捏造が暴かれた。いい機会なので丁寧に解説しておこう。

 そもそも、一連の“植村バッシング”に火をつけたのは、「週刊文春」2014年2月6月号の記事「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大学教授に」だ。この記事が大きくネットで拡散され、植村氏が同年4月から教壇に立つ予定だった神戸松蔭女子学院大学に「なぜこんな者を教授にするのか」「辞めさせろ」などの大量の電話や約250通ものメールが殺到。植村氏自身も著書『真実 私は「捏造記者」ではない』(岩波書店)のなかで〈私の人生が大きく狂うことになった〉と記しているように、結果、大学側は就任前に植村氏の内定を取り消してしまった。さらに、記者時代から非常勤講師を務めていた北星学園大学にも「なぶり殺しにしてやる」などの脅迫が殺到し、本人だけでなく娘にも殺害予告が送られる事態に発展した。

 実は、この問題の文春記事のタイトルの元になったのが、掲載された西岡氏(当時・東京基督教大学教授)のコメントだった。

「植村記者の記事には、『挺身隊の名で戦場に連行され』とありますが、挺身隊とは軍需工場などに勤労動員する組織で慰安婦とは全く関係がありません。しかも、このとき名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。植村氏はそうした事実に触れずに強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事といっても過言ではありません」(「週刊文春」2014年2月6日号)

 この西岡氏のコメントは、札幌地裁、東京地裁両裁判の重要な争点と重なっている。西岡氏はほかにも「植村記者が記事で言及した女性は日本軍に強制連行されたのではなく、親に身売りされて慰安婦になっていたのです」(「週刊文春」2014年3月13日号)などと、繰り返し断じてきた。

■朝日・慰安婦報道を「捏造」と攻撃し続けた西岡力のほうが捏造していた!

 西岡氏が「捏造記事」と言いふらしているのは、朝日新聞1991年8月11日大阪朝刊に掲載された植村氏の署名記事「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口を開く」だ。挺身隊問題対策協議委員会(挺対協)が、元慰安婦の金学順さんに聞き取りをしたテープ等を元に、〈「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」〉の生存などを報じたもので、その後、金学順さんは日本国を相手に集団提訴に踏み切った。

 西岡氏の言う「このとき名乗り出た女性」は金学順さんを指し、「親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き」がこの提訴時の訴状のこと。「韓国紙の取材にもそう答えているというのはハンギョレ新聞の記事のことだ。

 その後も西岡氏は著書などで、ハンギョレ新聞を根拠として「金学順は40円でキーセンとして売られた」という趣旨の主張を続けてきた。いわゆる“慰安婦たちは日本軍に強制連行されたのではなく、キーセンとして合法的に売られた”という「人身売買説」である。

 ところが、だ。実際には、訴状のなかに「親に身売りされて慰安婦になった」などという記述はまったく存在しなかった。さらに「韓国紙で金氏が40円で売られたと話している」という根拠も、なんと西岡氏が“捏造”したものだったことが裁判のなかで判明したのだ。

「週刊金曜日」2018年9月29日号に掲載された、水野孝昭・神田外語大学教授によるレポートによれば、原告弁護団から訴状に「親に身売りされた」との記載がなかったことを追及された西岡氏は、「記憶違いだった」と虚偽を認めた。

 また、ハンギョレ新聞の記事は西岡氏自身も翻訳しているのだが、原告側弁護士が記事原文とそれを引用した西岡氏の著書の初版を比較。「私は四〇円で売られてキーセンの修行を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところの行きました」という西岡氏の翻訳について、この記述は原文にはないと追及すると、西岡氏は「ありません。間違いですね」を認めたというのだ。「週刊金曜日」は、その9月5日東京地裁での本人尋問の一部をこう伝えている。

 弁護士「いかにも本人の発言であるかのような、この文章はどこから持ってきたのですか」

 西岡氏「覚えていないですね。まずいですね」

 弁護士「まずいですよね。これは記事の引用ですか? 元の文書がどこかにないとおかしいですね?」

 西岡氏「おかしいですね」

 弁護士「それとも月刊『宝石』の記事をもとにして、あなたが勝手に作って書き足した言葉ですか?」

 西岡氏「うーん、覚えてないですね。これ間違いですね」

■西岡力・櫻井よしこが根拠として提出した記事に、強制連行を裏付ける記述が

「まずいですね」で済む問題ではない。もはや“捏造”どころか、西岡氏による「創作」というべきだろう。なお、西岡氏と原告側弁護士とのやりとりに出てくる「月刊『宝石』の記事」というのは、ジャーナリスト・臼杵敬子氏が同誌1992年2月号に寄せたもので、そのなかには金学順さんの証言が掲載されている。西岡氏はこの記事を証拠のひとつとして裁判に提出しているのだが、むしろ「宝石」記事には、金学順さんが強制連行されたことを裏付ける証言が掲載されていた。

〈着いたところは満州のどこかの駅でした。サーベルを下げた日本人将校二人と三人の部下が待っていて、やがて将校と養父との間で喧嘩が始まり「おかしいな」と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです。
 私とエミ子は、北京に連れて行かれ、そこからは軍用トラックで、着いたところが「北支のカッカ県テッペキチン」(鉄壁鎭)だったと記憶しています。中国人の赤煉瓦の家を改造した家です。一九四〇年春ごろでした。〉(「宝石」での学順さんの証言)

「養父」というのはキーセン学校の経営者のことだが、日本人将校がその養父を暴力で脅して排除。金学順さんは日本軍のトラックで連れて行かれたという証言だ。前述のハンギョレ新聞も“養父は日本軍による武力で私を奪われた”と同じ趣旨を学順さんの発言として報じている。つまり、西岡氏はどこにも書かれていない「親に身売りされて慰安婦になった」というくだりをでっち上げただけでなく、こうした日本軍による強制性を裏付ける証言を意図的に無視してきたのだ。

 それだけではない。西岡氏はいたるところで“挺身隊は慰安婦とは関係なく植村氏の虚偽である”と主張しているが、そもそも事実として、金学順さん本人が1991年8月14日の会見で「挺身隊」という言葉を用いている。また、当時の社会認識として、韓国メディアも日本メディアも「女子挺身隊」と「慰安婦」は同じものだという前提で記事を書いており、これは1991年9月3日付産経新聞大阪本社版にも〈「挺身隊」の名のもとに、従軍慰安婦として狩りだされた〉と表現しているとおり。端的に言って西岡氏の誤りだ。

 西岡氏は〈自分で、キーセンに売られたと話している老女を「挺身隊として強制連行された慰安婦」として、平気でウソを書く新聞記者〉(『増補新版 よくわかる慰安婦問題』草思社)と植村氏を攻撃するが、「平気でウソ」をつくとは、まさに西岡氏のことではないのか。

 ようは、植村氏を「捏造記者」呼ばわりして攻撃し、殺害予告まで起きたバッシングを扇動した西岡氏のほうが、実は、証言や資料を捻じ曲げ、あろうことか「慰安婦の強制連行はなかった」という右派の“願望”にそうよう捏造までしていたのである。

 前述したもう一つの裁判、札幌地裁の法廷での櫻井よしこ氏の虚偽判明も、西岡氏のデタラメとよく似た同じ構造をしている(詳しくは本サイトの過去記事を参照https://lite-ra.com/2018/04/post-3921.html)。いずれにしても、こうしたデタラメな言説を繰り返された結果、植村氏は不当にも“血祭り”にあげられてしまったのだが、その責任は西岡氏や櫻井氏らだけにあるのではない。極右言論人にまる乗りしてバッシングキャンペーンを張った「週刊文春」などのメディアもまた同罪だろう。

■文春で植村バッシング記事を手がけたのは、官邸に近いあの記者だった!

 実は、9月5日の東京地裁では、もうひとつの興味深いことがあった。それは、証人尋問に、前述の“植村バッシング”に火をつけた「週刊文春」2014年2月6日号の記事を手がけた記者が立ったことだ。その元文春記者とは、あの竹中明洋氏である。

 あの、と言っても、すぐにはピンとこないかもしれない。竹中氏はもともと、NHK記者などを経て「週刊文春」の契約記者に転身。本サイトでも取り上げてきた「週刊文春」の“沖縄バッシング”記事の多くに関わってきたとされるが、2016年に別名でライバル誌である「週刊新潮」に密かに寄稿。これが文春側にバレて契約解除となって以降は、フリージャーナリストとして活動中だ。

 昨年出版した著書『沖縄を売った男』(扶桑社)の帯には菅義偉官房長官のコメントが写真付きで飾られ、自民党青年局の定例昼食会で講演するなど、竹中氏は安倍官邸・自民党との距離が極めて近い。先日の沖縄知事選では、自民公明などが推薦する佐喜真淳陣営の一員に加わっていたことも取りざたされた。

 9月5日の口頭弁論では、その竹中氏が、問題の文春記事を取材・執筆した記者として証言台にあがった。「週刊金曜日」9月28日号の中町広志氏によるレポートによれば、原告側弁護士から取材の経緯や狙い、反響について聞かれた竹中氏は、詳細については「覚えていない」と発言。裁判長らから当該記事以前の慰安婦問題の取材歴について質問されると「記憶の限りでは、ありません」と答えたという。

 しかし、竹中氏の取材には様々な点で問題が指摘されている。竹中氏は記事を書くにあたって、2014年1月に神戸松蔭女子学院大に電話で質問したという。だが、植村氏が前掲の著書『真実』で明かすところによれば、竹中氏は「植村さんは捏造記事を書いた人ですよ」などと大学側に語っていた。さらにメールでは、植村氏の記事が〈重大な誤り〉〈意図的な捏造〉〈日本の国際イメージを大きく損なった〉などと指摘されているとしたうえで、〈貴大学は採用にあたってこのような事情を考慮されたのでしょうか〉などと連ねてあったという。

 前述した「週刊金曜日」によると、法廷で電話の真意について尋ねられた竹中氏は「記憶にない」と答えたというが、植村氏によれば、竹中氏は同年8月には北星学園にも質問状を送付。やはり〈大学教員としての適性には問題ないとお考えでしょうか〉などとしていた。結果的として松蔭女子学院大は植村氏の教授内定を取り消してしまったように、これでは取材というよりも、ほとんど「圧力行為」や「恫喝」と受け取られてもしかたがあるまい。

 いずれにしても、植村氏が桜井氏らと西岡氏らを提訴したふたつの裁判は、「従軍慰安婦は朝日の捏造だ」とがなりたてる極右界隈のデタラメと捏造を満天下に知らしめた。しかし、こうした連中の卑劣な実態を報じるメディアは少なく、朝日さえもいまだに一連のバッシングで萎縮している状況だ。札幌地裁のほうはいよいよ11月9日に判決が下る。マスコミは、いまこそ真実を伝えるべきである。

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朝日新聞の慰安婦報道を「捏造」と糾弾していた櫻井よしこの「捏造」が裁判で明らかに!2018.04.02.
https://lite-ra.com/2018/04/post-3921.html

本サイトで連日お伝えしているように、朝日新聞のスクープによる公文書改ざん問題の直撃を受けて、安倍応援団メディアや極右御用評論家のトンデモぶりが次々明らかになっている。周知の通り、連中は事あるごとに「森友問題は朝日のフェイク」「捏造報道の朝日は廃刊せよ」などとがなりたててきたわけだが、改ざんが事実であることが発覚して“捏造”“フェイク”が自分たちであることを満天下に知らしめてしまったのだ。

 しかし、実はこうした構図は森友文書改ざんだけではない。まさに安倍応援団と極右論壇が「捏造」「国賊」と叫んで一斉に攻撃していた朝日新聞の慰安婦報道をめぐる裁判で重鎮・櫻井よしこ氏の嘘とインチキが明らかになった。

 この裁判というのは、元朝日新聞記者・植村隆氏が起こした裁判。周知のように、植村記者は、2014年、朝日新聞が「吉田証言」に関する従軍慰安婦関連の記事を取り消した問題で、右派メディアやネット右翼たちからスケープゴートにされた記者だ。植村氏は朝日が虚偽だと認めた「吉田証言」とは無関係だが、過去に従軍慰安婦の記事を2度執筆しており、その内容が「事実上の人身売買であるのに強制連行されたと書いた」などとして、右派から「植村は捏造記者だ!」と総攻撃を受けた。そして、非常勤講師を務めている北星学園には脅迫が殺到、さらに本人だけでなく娘にも殺害予告が届くなど、“リンチ”とも呼べる状況が続いたのである。

 しかし、その後、植村記者は反撃に転じた。自分の身に降りかかった攻撃の多くが根拠のないことをひとつひとつ実証的に反論し、「捏造記者」などと攻撃した極右言論人と出版社に対し、裁判を起こしたのだ。

 今回の裁判はそのひとつで、櫻井よしこ氏と、櫻井氏の原稿を掲載した「WiLL」の発行元ワック、新潮社、ダイヤモンド社を相手取って、札幌地裁に名誉毀損の損害賠償を請求する訴訟を起こしたものだ。

 たしかに、これらのメディアで櫻井氏は植村氏のことを「捏造記者」と誹謗中傷していた。たとえば、「WiLL」(ワック)2014年4月号の「朝日は日本の進路を誤らせる」なるタイトルの記事では、〈朝日新聞が日本国民と日本国に対して犯した罪のなかで最も許し難いものは、慰安婦問題の捏造〉〈日本人による「従軍慰安婦」捏造記事〉〈日本を怨み、憎んでいるかのような、日本人によるその捏造記事〉として植村氏を名指しして書き連ねている。

 ところが、3月23日に開かれた第11回口頭弁論、被告の櫻井氏の本人尋問で、その根拠がまったくのデタラメであることが暴かれてしまったのだ。どうしようもなくなった櫻井氏が全面的に自らの誤りを認める場面もあった。

自ら誤りを認めた後も、訂正することなく植村記者攻撃を続ける櫻井よしこ


 櫻井氏が、「捏造」と攻撃したのは、朝日新聞1991年8月11日付大阪朝刊に掲載された「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口を開く」と題する植村氏の署名記事など。挺身隊問題対策協議委員会(挺対協)が金学順さんに聞き取りをした証言テープ等を元に、〈「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」〉の生存などを報じたものである。報道の3日後、金学順さんは実名で記者会見をし、同年12月には日本国を相手に集団提訴。植村氏は弁護士らの元慰安婦からの聞き取り調査に同行し、同12月25日に金学順さんの証言を記事にした。

 ところが、櫻井氏は金学順さんが東京地検に提訴した訴状のことをもちだして、前出の「WiLL」記事のなかで、こう書いていた。

〈訴状には、十四歳のとき、継父によって四十円で売られたこと、三年後、十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられた経緯などが書かれている。
 植村氏は、彼女が継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかっただけでなく、慰安婦とはなんの関係もない「女子挺身隊」と結びつけて報じた。〉

 つまり、櫻井氏がいう「捏造」の根拠のひとつは「訴状には金学順さんが継父によって40円で売られ、さらに再び継父によって連れられて慰安婦にさせられた、という記述があるのに、植村氏はこれを無視するという意図的な捏造報道を行った」というものだ。

 ところが、実際の訴状には、櫻井氏がいう「継父によって四十円で売られた」なる記述は、そもそも存在していなかった。つまり、櫻井氏のほうが訴状にないことを“捏造”して、植村氏に対し「捏造記者」などという攻撃を繰り返していたのである。

 実は、この点は、2016年4月22日の第一回口頭弁論でも植村氏側が指摘しており、櫻井氏はその後の記者会見で「訴状にそれが書かれていなかったということについては率直に私は改めたいと思いますが」(産経ニュース「櫻井よしこ氏会見詳報(2)」より)と、訂正する旨の発言をしていた。だが、これ以降も、櫻井氏は一向に反省した様子はなく、「WiLL」16年7月号は櫻井氏の意見陳述全文を掲載し、「恥なき朝日と植村元記者へ」なるタイトルまでつけて、植村氏を攻撃していた。

 しかし、今回の尋問で、植村氏側の弁護士から改めて「継父によって四十円で売られた」という記述が訴状にないことを追及され、櫻井氏はそのことを法廷で認めざるをえなかった。

 しかも、櫻井氏への反対尋問では、さらに杜撰な実態が露呈した。櫻井氏は植村氏側弁護士から「継父によって四十円で売られたという話の根拠はなんなのか」と問い詰められ、1992年2月の月刊「宝石」(休刊/光文社)の記事からの引用の間違いだったと釈明した。その「宝石」記事はジャーナリストの臼杵敬子氏によるもので、金学順さんの証言が掲載されている。

 ところが、である。実は「宝石」記事の金学順さんへのインタビューにも、やはり「継父によって四十円で売られた」「十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられた」なる記述は、どこにもないのである。


櫻井よしこが根拠と主張した記事には、強制連行を裏付ける記述が!


 まず、「宝石」記事にある金学順さんの証言によると、学順さんが14歳の時、母親が再婚したが〈私は新しい父を好きになれ〉なかったとして、こう振り返っている。

〈その後、平壌にあった妓生専門学校の経営者に四十円で売られ、養女として踊り、楽器などを徹底的に仕込まれたのです。

 ところが、十七歳のとき、養父は「稼ぎにいくぞ」と、私と同僚の「エミ子」を連れて汽車に乗ったのです。〉

 学順さんがいう「養父」とは「妓生専門学校の経営者」のことであって、「継父」(=「新しい父」)ではない。また、金学順さんは挺対協の聞き取りに対しても〈母は私を、妓生を養成する家の養女に出しました〉〈それから母は養父から四十円をもらい、何年かの契約で私をその家に置いて行ったと記憶しています〉(『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』明石書店)と、同じような証言をしている。よしんば、櫻井氏が「養父」と「継父」を勘違いしたとしても(それも致命的なミスであることに変わりはないが)記述と言い逃れとのペテン的矛盾は明らかだろう。

 しかもきわめつけは、櫻井氏が出典だとする「宝石」記事では、上の引用部の直後に、むしろ強制連行を裏付ける記述が続いていることだ。

〈着いたところは満州のどこかの駅でした。サーベルを下げた日本人将校二人と三人の部下が待っていて、やがて将校と養父との間で喧嘩が始まり「おかしいな」と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです。

 私とエミ子は、北京に連れて行かれ、そこからは軍用トラックで、着いたところが「北支のカッカ県テッペキチン」(鉄壁鎭)だったと記憶しています。中国人の赤煉瓦の家を改造した家です。一九四〇年春ごろでした。〉(「宝石」での学順さんの証言)

 つまり、養父は学順さんを「四十円で売った」とはどこにも書かれておらず、逆に日本人将校らに暴力で脅されて土下座までして、その場から排除されたという証言である。そして、金学順さんは日本軍のトラックで鉄壁鎭に連れて行かれたというのだ。

 すなわち、櫻井氏がいう〈十四歳のとき、継父によって四十円で売られ〉〈十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられ〉〈継父によって人身売買された〉なる主張は「宝石」記事からはまったく読み取ることが不可能なデタラメであり、逆に、本当にこの証言を出典としたのならば、櫻井氏はわざと日本軍による強制連行をネグったことになる。

 ようするに、櫻井氏は、訴状に書かれていないことを「捏造」しておいて、出典を間違えたという言い訳でも自分に都合の悪い「重要な部分」を外していた。にもかかわらず、植村氏を「捏造記者」呼ばわりし、メディアで何度も言いふらして攻撃した。デタラメとしか言いようがない。


嘘だらけ!櫻井よしこは、福島瑞穂と架空の会話をでっちあげた過去も


 櫻井氏のペテンの暴露はまだある。櫻井氏は、学順さんが自らを「挺身隊」とは称していないと主張し、植村氏の「捏造」だと主張した。ところが、91年8月14日の会見では、学順さんは実際に「挺身隊」と言っていたのだ。

 裁判を傍聴していたジャーナリストの安田浩一氏がネット番組『NO HATE TV』(3月28日放送)で、この部分についての櫻井氏と植村氏側弁護士のやりとりをこう紹介している。

「これは韓国各紙がきちんと報じている。弁護士は、韓国各紙の翻訳を一つ一つ櫻井さんに見せて、これは認めますね、とやっていった。櫻井さんはしょんぼりと、はい「認めます」「認めます」というかたちで認めた。自らの調査、取材のいい加減さ、あるいは認識の甘さというものは、全部、法廷でもって明らかになったわけです」

 さらに、原告弁護士は反対尋問の終わりに、櫻井氏の別の捏造事件についても質問していた。本サイトでも以前取り上げたことがあるが、櫻井氏が1996年の講演会で、まだ国会議員になる前の福島瑞穂氏について、本人が言ってもいないことを「捏造」して吹聴していたのだ。

 月刊誌「創」(創出版)1997年4月号で福島氏本人がこう明かしている。

〈1996年12月上旬頃、桜井さんから電話がかかってきた。「福島さんに対して実に申し訳ないことをしました。講演をしたときに、うっかり口がすべって『従軍慰安婦の問題について福島さんももう少し勉強をしたらどうですか』と言ってしまったのです。本当に申し訳ありませんでした」といった内容の謝罪の電話であった。12月29日ごろ、講演録の冊子を見て心底驚いた。

「私は福島さんを多少知っているものですから、あなたすごく無責任なことをしているんではないですか、というふうに言いました。せめてこの本を読み、せめて秦郁彦さんの研究なさった本を読み、済州新聞を読み、そして秦郁彦さんなどの歴史研究家の従軍慰安婦の資料を読んでからお決めになったらどうだろう、吉田清治さんの本を証拠として使うこと自体がおかしいのではないかと言ったら、ウウンまあ、ちょっといろいろ勉強してみるけど──というふうにおっしゃってましたけれども……」となっているのである。
 講演や話し言葉のなかで、うっかり口がすべったり、不確かなことをしゃべってしまうことはもちろんある。しかし、この講演で話されている私との会話は、全く存在しない架空の虚偽のものである。〉

 ようするに、櫻井氏は論敵である福島氏との虚偽の会話をでっちあげ、さも自分が言い負かしたかのように語っていたのである。安田氏は、この“発言捏造事件”について原告弁護士が櫻井氏を追及したときの光景をこう伝えている。

「ここで弁護士がとどめの一言を言うんです。『あなたが言っていることはまるっきり嘘ではないですか』と、そう指摘したわけです。櫻井さんはなんと答えたかというと、『朝日が書いたことも嘘でしょ』。ここで尋問終わりです(笑)」

 この開き直りかた……。もはや唖然とするレベルだが、いずれにせよ、司法の場で明らかにされたのは、植村氏と朝日新聞を「捏造」と散々攻撃してきた櫻井氏のほうが実は「捏造」を犯していたという事実だ。結審は7月の予定だが、現段階で完全に「勝負あり」と言って差し支えないだろう。


「日本軍が慰安婦を強制連行」と書き広めたのは、朝日ではなく産経新聞


 しかし、忘れてはならないのは、こうしたペテンを駆使して植村氏や朝日を攻撃、「慰安婦問題は朝日の捏造」という印象操作をしかけてきたのは、櫻井氏だけではないということだ。たとえば、この裁判でも櫻井氏側は懲りずに「植村氏は挺身隊と慰安婦を意図的に混同させた」などとがなりたてているが、安田氏も指摘しているように、当時は韓国メディアも市民も慰安婦のことを挺身隊と言って、日本のメディアも一様に「挺身隊の名で連行された」と慰安婦について説明していた。

 この点について本サイトでも過去に検証したことがある。いい機会なので繰り返しておくが、当時の新聞各紙を見てみると、産経を含む朝日以外も「女子挺身隊」「慰安婦」は同じものだという前提で記事が書かれていた。たとえば1991年9月3日付産経新聞大阪本社版には〈「挺身隊」の名のもとに、従軍慰安婦として狩りだされた〉と、ほとんど植村氏の記事と同じ表現が使われている。これは産経が「誤報」をしていたという意味ではなく、当時の社会認識として「挺身隊」と「慰安婦」が混同されていたということを意味する。

 それどころか、当時の産経は金学順さんについて「日本軍によって強制連行された」と、確認できただけで最低2回、ハッキリとそう書いているのだ。うちのひとつ、1993年8月31日付の産経新聞大阪本社版の記事を紹介しよう。

〈太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年ごろ、金さんは日本軍の目を逃れるため、養父と義姉の3人で暮らしていた中国・北京で強制連行された。17歳の時だ。食堂で食事をしようとした3人に、長い刀を背負った日本人将校が近づいた。「お前たちは朝鮮人か。スパイだろう」。そう言って、まず養父を連行。金さんらを無理やり軍用トラックに押し込んで一晩中、車を走らせた〉

 ちなみに植村氏の記事では、「強制連行」という言葉はひとつも出てこない。ようは、「日本軍によって強制連行された」というフレーズは、朝日ではなく産経が広めたものだったのである。

 ところが、産経はこうした自社の記事をチェックすることなく、朝日新聞、とりわけ植村氏を“慰安婦問題のスケープゴート”に仕立て上げ、櫻井氏ら極右界隈で一丸となって植村氏を血祭りにあげたのだ。

 そして、冒頭に触れたように、朝日バッシングで勢いづいた極右界隈は、「慰安婦大誤報を犯した朝日は信頼できない」「フェイク新聞」などと繰り返し叫び立てることで、慰安婦の存在自体はもちろん、ありとあらゆる朝日報道が虚報であるかのごとく印象操作を続けた。

 その意味では、今回、植村氏が起こした裁判で明らかになったのは、櫻井よしこという“極右の女神”の信じられないようなペテンとデタラメだけではない。極右界隈が事実を簡単に捏造し、自分たちに不都合な事実を覆い隠し、さらにそこに安倍首相ら極右政治家がのっかって、朝日新聞というメディアと植村氏を潰しにかかった。その民主主義国家とは到底思えないグロテスクさが、あらためて、白日のもとにさらされたと言っていいだろう。

〈私は「捏造記者」ではない。これからも、闘っていく。決して屈しない。〉

 植村氏は2016年の著書『真実』(岩波書店)の最後に、あらためてこう決意を示していた。判決を待ちたい。

(編集部)

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2018年3月25日 札幌第11回■詳報
櫻井よしこ氏が自身のウソを認める!
「捏造決めつけ」記述にも重大な誤り
http://sasaerukai.blogspot.com/2018/03/11_25.html

札幌訴訟の第11回口頭弁論が3月23日、札幌地裁で開かれ、原告植村隆氏、被告櫻井よしこ氏に対する長時間の本人尋問があった。

この尋問で、櫻井氏は、いくつかの記述に誤りがあることを認めた。この記述は捏造決めつけの根拠となるものであるため、植村氏に対する誹謗中傷が根も葉もないものであることがはっきりした。櫻井氏本人がウソを認めたことにより、櫻井氏の根拠は大きく揺らぎ、崩れた。櫻井氏はその一部については、訂正を約束した。

傍聴券交付に252人の列

尋問は午前10時30分から、植村氏、櫻井氏の順で行われ、午後5時前に終了した。両氏が法廷内で向かい合うのは第1回口頭弁論(2016年4月)以来2年ぶり。裁判大詰めの場面での直接対決となり、傍聴希望者は最多記録の252人。抽選のために並んだ列は地裁1階の会議室からあふれて廊下、エレベーターホールへと伸びていた。63枚の傍聴券に対する当選倍率は4.0倍となった。関東や関西、九州から前日に札幌入りした植村支援者もこれまた最多の20人ほど。一方で、櫻井氏側の動員によると思われる人たちの姿もいつになく目立った。

満席となった805号法廷は、開廷前から熱気とともに緊迫した空気に包まれた。弁護団席に、植村氏側は34人が着席した。東京訴訟弁護団からは神原元・事務局長ほか6人も加わっていた。櫻井氏側はいつもと同じ7人と新たに2人の計9人。いつもは空席が目立つ記者席は15席すべてが埋まった。傍聴席最前列の特別傍聴席には、ジャーナリスト安田浩一氏、哲学者能川元一氏のほか、新潮社やワックの関係者の姿もあった。

午前10時32分、開廷。裁判長が証拠類の採否を告げた後、植村氏に証言台で宣誓をするように促し、尋問が始まった。尋問の前半は植村氏、後半は櫻井氏。自身の弁護団に答える主尋問、相手側からの質問に答える反対尋問という順で行われ、重要な争点についての考えが明らかにされた。この中で、櫻井氏のこれまでの言説には重大な誤りや虚偽があることがはっきりした。

植村氏の尋問

植村氏は、1991年当時の記事執筆の経緯と、捏造決めつけ攻撃による被害の実態を詳しく説明した(別掲・陳述書要約を参照)。質問は植村弁護団若手の成田悠葵、桝井妙子両弁護士が行った。主尋問は淡々と進み、予定の1時間で終わって昼休みに入った。

午後1時再開。植村氏への反対尋問が始まった。質問したのは、浅倉隆顕(ダイヤモンド社)、安田修(ワック)、野中信敬(同)、林いづみ(櫻井氏代理人)、高池勝彦(同)の5弁護士。尋問は1時間40分にわたった。質問が集中したのは、植村氏が記事の前文で「挺身隊」「連行」という用語を使ったこと、また、本文でキーセン学校の経歴を書かなかったことについてだった。このほかに、記事執筆の開始・終了時間や、慰安婦関連書籍の読書歴、関連記事のスクラップの仕方など、争点とは直接関連のない質問も繰り返された。


植村氏は終始ていねいに答えたが、「吉田証言」についてのやりとりで、怒りを爆発させる場面もあった。

朝日新聞社は1997年に「吉田清治証言」(済州島で「慰安婦」を狩り出したとの証言)について調査チームを作り、検証作業を行った。当時ソウル特派員だった植村氏もチームに加わり、済州島での調査結果メモを提出した。安田弁護士はそのメモについて、2014年に朝日新聞の慰安婦報道を検証した第三者委員会の報告書は「あなたの調査はずさん、という表現をしている」と言った。ところが同報告書には植村メモについて「徹底的な調査ではなかったようである」と書かれているものの、「ずさん」という表現は一切ない。

植村氏は、「名誉棄損裁判の法廷で名誉棄損発言をするのですか」と激しく抗議した。安田弁護士は植村氏の剣幕に圧されて「怒らないで下さい、謝ります」と述べ、そのまま尋問を終えてしまった。廷内のあちこちから失笑と溜息が聞こえてきた。


主任弁護人格の高池弁護士はこれまでの弁論ではほとんど発言しなかったが、今回は質問に立った。しかし、慰安婦問題や植村氏の記事について深く踏み込んだ質問はなかった。意外だったのは、植村氏が朝日新聞を早期退職して大学教授を志した理由や、植村氏が東京と札幌で提訴したことなど、訴訟の基本的な情報についての質問だった。植村氏が、自由な立場で研究と著作活動ができる場として大学教授の道を選んだこと、バッシング当時も現在も札幌市の住民であることを伝えると、高池弁護士は怪訝な表情を浮かべた。初めて知った、という表情に見えた。

植村氏の反対尋問が終わった後、岡山忠広裁判長とふたりの陪席裁判官から、植村記事の「(女子挺身隊の)名で」「連行」の意味、韓国内での「挺身隊」という表現や吉田証言の韓国内での影響などについて、質問があった。植村氏の尋問は午後2時50分に終わり、10分間の休憩に入った。

櫻井氏の尋問

午後3時、再開。櫻井氏の主尋問が始まった。櫻井氏は、林いづみ弁護士の質問に答え、慰安婦問題に関心を持つようになったきっかけと基本的な考え、これまでに行った取材や研究内容を語った。自身の著述や発言に誤りがあるとの指摘についても釈明し、「間違いですからすみやかに訂正したい」と述べた。朝日新聞の慰安婦報道については、「海外で日本の評価を傷つけた」との持論を繰り返し、植村氏の記事についても「意図的な虚偽報道だ」とのこれまでの主張を繰り返した。主尋問は45分で終わった。

続いて植村側の川上有弁護士が反対尋問を行った。川上弁護士は、櫻井氏の著述の問題点を具体的に指摘し、取材や確認作業の有無を徹底的に突いた。ゆっくりと柔らかい口調はまるでこどもを諭す小学校教師のようだが、中身は辛辣なものだった。刑事事件を多く手がけてきたベテラン弁護士ならではの面目躍如である。

川上弁護士は、櫻井氏が書いた記事やテレビ番組での発言を突き付け、櫻井氏が主尋問であらかじめ認めていた間違いについて、畳みかけた。「ちゃんと確認して書いたのですか」「どうしてちゃんと調べなかったのですか」「ちゃんと訂正しますよね」。櫻井側弁護団はその都度、証拠書面の提示を求めた。証言台上の書面を確認し終えた櫻井側弁護士は、自席に戻らずにそのまま立ち続けた。川上弁護士は「いつまでそばにいるんですか、証言誘導の誤解を招きますよ」と指摘した。そうこうするうちに、櫻井氏の声はだんだんと小さくなっていった。

櫻井氏が間違いを認めたのはこういうことだ。

月刊「WiLL」2014年4月号(ワック発行)、「朝日は日本の進路を誤らせる」との寄稿の中で、櫻井氏は「(慰安婦名乗り出の金学順氏の)訴状には、14歳の時、継父によって40円で売られたこと、3年後、17歳で再び継父によって北支の鉄壁鎮というところに連れて行かれて慰安婦にさせられた経緯などが書かれている」「植村氏は、彼女が継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかっただけでなく、慰安婦とは何の関係もない女子挺身隊と結びつけて報じた」と書き、植村氏を非難した。しかし、訴状には「継父によって40円で売られた」という記述はない。「人身売買」と断定できる証拠もない。なぜ、訴状にないことを持ち出して、人身売買説を主張したのか。誤った記述を繰り返した真意は明かされなかったが、世論形成に大きな影響力をもつジャーナリスト櫻井氏は、植村氏の記事を否定し、意図的な虚偽報道つまり捏造と決めつけたのである。

川上弁護士は、櫻井氏がWiLLの記事と同じ「訴状に40円で売られたと書かれている」という間違いを、産経新聞2014年3月3日付朝刊1面のコラム「真実ゆがめる朝日新聞」、月刊「正論」2014年11月号への寄稿でも繰り返したことを指摘。さらに、出演したテレビでも「BSフジ プライムニュース」2014年8月5日放送分と読売テレビ「やしきたかじんのそこまでいって委員会」2014年9月放送分で、同じ間違いを重ねたことを、番組の発言起こしを証拠提出して明らかにした。これらの言説が、植村氏や朝日新聞の記事への不信感を植え付け、その結果、ピークに向かっていた植村バッシングに火をつけ、油を注いだ構図が浮かび上がった。

櫻井氏、訂正を約束

では、櫻井氏はなぜ「訴状に40円で売られたと書かれていた」という間違いを繰り返したのか。
櫻井氏は、ジャーナリスト臼杵敬子氏による金学順さんインタビュー記事(月刊「宝石」1992年2月号)が出典であるとし、「出典を誤りました」と主張した。櫻井氏はこれまでに提出した書面でも、「宝石」の記事で金さんが「平壌にあった妓生専門学校の経営者に四十円で売られ、養女として踊り、楽器などを徹底的に仕込まれたのです。ところが十七歳のとき、養父は『稼ぎにいくぞ』と、私と同僚の『エミ子』を連れて汽車に乗ったのです。着いたところは満洲(ママ)のどこかの駅でした」と語ったことを根拠に、「親に40円で妓生に売られた末に慰安婦になった」と主張してきた。だが、川上弁護士は、「宝石」の記事で、櫻井氏の引用部分の直後に、こういう記述があることを指摘した。

「サーベルを下げた日本人将校二人と三人の部下が待っていて、やがて将校と養父の間で喧嘩が始まり『おかしいな』

と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです」

つまり、櫻井氏が出典である、と主張する「宝石」にも、養父が40円で売って慰安婦にしたという「人身売買説」の根拠となる記述はどこにもない。むしろ、養父も日本軍に武力で脅され、金さんと強引に引き離されたという証言内容から、櫻井氏が強く否定し続けてきた日本軍による強制的な連行を示す記述があるのだ。

この直後部分をなぜ引用しなかったのか。川上弁護士は、櫻井氏が自身の「人身売買説」に都合の悪い部分を引用せず、植村氏の記事を捏造と決めつけたことのおかしさを指摘した。そして、「櫻井さんは、訴状にないことを知っていて書いたのではないですか」などと述べ、同じ間違いを繰り返した理由を厳しく問い質した。櫻井氏は「訴状は手元にあり、読んで確認もしたが、出典を間違った」と、弁解に終始した。川上弁護士が紙誌名を逐一挙げて訂正を求めると、櫻井氏は「正すことをお約束します」と明言した。ただ、テレビについては「相手のあることなので」と語り、約束は保留した。

じつは、この問題は2年前からくすぶり続けている。2年前、第1回口頭弁論の意見陳述で植村氏は、WiLLと産経新聞の「訴状に40円で売られたと書かれている」という間違いを指摘、「この印象操作はジャーナリストとしては許されない行為だ」と批判した。そして、櫻井氏は口頭弁論後の記者会見で「ジャーナリストですからもし訴状に書かれていないのであるならば、訴状に、ということは改めます」と誤りを認めた。しかし、WiLLでも産経新聞でも、訂正しなかった。そのため、植村氏は2017年9月、東京簡裁に調停申し立てを行い、産経新聞社が訂正記事を掲載するように求めている。その審理はまだ継続している。

櫻井氏が間違いを認めたのはこれだけではなかった。「週刊ダイヤモンド」2014年10月18日号。「植村氏が、捏造ではないと言うのなら、証拠となるテープを出せばよい。そうでもない限り、捏造だと言われても仕方がない」と櫻井氏は書き、その根拠として、「(金学順さんは)私の知る限り、一度も、自分は挺身隊だったとは語っていない」「彼女は植村氏にだけ挺身隊だったと言ったのか」「他の多くの場面で彼女は一度も挺身隊だと言っていないことから考えて、この可能性は非常に低い」と断定している。

この記者会見は1991年8月14日に行われた。韓国の国内メディア向けに行われたので、朝日新聞はじめ日本の各紙は出席していない。植村氏も出席していない。しかし、記者会見で金学順さんはチョンシンデ(韓国語で「挺身隊」)をはっきりと口にしている。それは、韓国の有力紙「東亜日報」「京郷新聞」「朝鮮日報」の見出しや記事本文にはっきりと書かれている。

櫻井氏はこの点について「これを報じたハンギョレ新聞等を確認した」と述べている。たしかにハンギョレ新聞には「挺身隊」の語句は見当たらない。しかし、そのことだけをもって断定するのは牽強付会に過ぎるだろう。川上弁護士は、韓国3紙の記事反訳文をひとつずつ示し、櫻井氏の間違いを指摘した。櫻井氏は、間違いを認めた。櫻井氏の取材と執筆には基本的な確認作業が欠落していることが明らかになった。

櫻井氏の22年前の大ウソ
川上弁護士は最後に、櫻井氏の大ウソ事件について質問した。

1996年、横浜市教育委員会主催の講演会で櫻井氏は「福島瑞穂弁護士に、慰安婦問題は、秦郁彦さんの本を読んでもっと勉強しなさいと言った。福島さんは考えとくわ、と言った」という趣旨のことを語った。ところが、これは事実無根のウソだった。櫻井氏は後に、福島氏には謝罪の電話をし、福島氏は雑誌で経緯を明らかにしているという。

「なかったことを講演で話した。この会話は事実ではないですね」

「福島さんには2、3回謝罪しました。反省しています」

「まるっきりウソじゃないですか」

「朝日新聞が書いたこともまるっきりのウソでしょう」

最後は重苦しい問答となった。こうして、70分に及んだ櫻井氏の尋問は終わった。櫻井弁護団からの補強尋問はなかった。裁判長からの補足質問もなかった。

尋問終了後、岡山裁判長は今後の進め方について双方の意見を求めた上で、次回口頭弁論で結審すると宣言した。閉廷は予定通りの午後5時だった。

次回開催日は7月6日(金)。開廷は午後2時。この日、最終弁論で双方がまとめの主張を行って審理は終結し、9月以降に予想される判決を待つことになる。
http://sasaerukai.blogspot.com/2018/03/11_25.html


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【速報】櫻井よしこ氏のずさんな取材を司法が追認!? 植村隆氏の名誉を毀損したが「捏造」と信じたのは仕方なかった!? 「言論で勝って裁判で負けた、悪夢のような判決」! 2018.11.9
https://iwj.co.jp/wj/open/archives/435438

 元朝日新聞記者の植村隆氏(現・「週刊金曜日」発行人)が1991年8月、朝日新聞記者時代に執筆した元従軍慰安婦に関する記事をめぐり、植村氏が記事を「捏造」と繰り返し誹謗中傷した、ジャーナリストの櫻井よしこ氏と株式会社新潮社、株式会社ワック、株式会社ダイヤモンド社を名誉毀損で札幌地裁に訴えていた裁判で、2018年11月9日、岡山忠広裁判長は植村氏の請求をすべて棄却する判決を言い渡した。


 IWJは判決を受けた札幌地裁前の旗出し、続く判決報告記者会見を生中継した。

 以下に、記者会見の内容を速報で伝える。

弁護団共同代表の伊藤誠一弁護士「不当で残念な判決だと考える。櫻井よしこ氏が3つの雑誌(週刊新潮、月刊WiLL、週刊ダイヤモンド)に書いた植村さんへの批判は、事実と異なる記事で、植村氏の名誉や社会的信用を毀損したことは認めながら、櫻井さんがそのような記事を書いた相当性が認められると。名誉毀損として、慰謝料を払わせるほどの違法はないとして、原告側の請求を棄却した。

 この訴訟の特徴は、著名なジャーナリストが責任ある言説をしていないことを問題にしました。当然行われるべき取材がなされないままで、櫻井さんは植村さんを攻撃した。

 櫻井さんの批判は、『言論の自由の中で違法とは言えない』という判決となっている。当然控訴して戦う」


▲伊藤誠一弁護士


■札幌地裁前 「不当判決」の旗出し


■「植村裁判札幌訴訟 判決報告記者会見」

◦日時 2018年11月9日(金)15:30過ぎ〜(旗出し:15:45予定)/16:30〜(記者会見)
◦場所 札幌地方裁判所前/北海道高等学校教職員センター(札幌市中央区)
◦主催 植村裁判弁護団

弁護団声明についての説明「櫻井氏の言論によって、植村さんの名誉が傷つけられたことは認定されています。この判決は『捏造』との表現をめぐるものです。ジャーナリストのずさんな言説を免責する判決は非常に問題がある」

植村隆氏「悪夢のような判決。言論で勝って、法廷で負けてしまった。

 櫻井さんは本人尋問で間違いを認め、訂正を出した。この法廷と今日の判決がどうつながるのか?

 北海道新聞のOB記者でソウル特派員だった喜多義憲さんは、私が書いた記事の3日後に金学順(キム・ハクスン)さんに直接取材されて、キムさんが『挺身隊だった』と言っていることも確認して記事を書かれている。当時私は喜多さんと全く面識なく、喜多さんも私の記事を見てなかった。

 当時を知っている他社の記者が、『捏造であるとか虚偽であるとか、そのものが理解を超えた、言いがかりのように感じました』と証言した。

 利害関係のない人物の証言が判決に一切評価されていない。ジャーナリストの皆さん、これは悪夢ではないですか。正義が法廷で実現されていないんです。

 そして、判決要旨に『ハンギョレ新聞以外の報道にも養父または義父が営利目的で金学順氏を慰安婦にしたことを示唆するものがある』とあるが、裁判長、ふざけるな。ハンギョレ新聞を読んだのか?ハンギョレ新聞には、『養父または義父が営利目的で金学順氏を慰安婦にしたことを示唆するもの』など、出ていません。

 こんな判決を許したら明日は他のジャーナリストが同じ犠牲を受けるんですよ。それは、皆さんかもしれません。歴史の事実に向き合おうとするジャーナリストに対する不当な攻撃なんです。私は徹底的に戦います。ありがとうございました」


▲植村隆氏

神原元弁護士「判決は櫻井よしこさんが、『金学順さんが人身売買によって慰安婦になったと信じたのかもしれない、さらに植村さんが知っていて書かなかった、と櫻井さんが信じたとしても仕方ない』という、とんでもない不当判決だ」


▲神原元弁護士

弁護団「20数年前の記事に対して、ずさんな取材をした櫻井さんに、やさしい判決」

神原弁護士「この判決は櫻井さんの記事が虚偽であることすら証明できないとし、櫻井さんの意図についてはふれていない。この判決では事実なんかどうでもいいことになっている」

上田文雄弁護士「この裁判は市民の関心が非常に高かった。しかし、残念ながら判決は不当。

 一般市民が酔っ払って言っている話とジャーナリストの発信は違う。倫理性や真面目さについて、非常に低い水準で裁判所は判断した。まっとうなジャーナリストに対する侮辱だ」

朝日新聞記者「真実性の部分は、本人尋問などで、『櫻井さんの書いていることは真実ではない』との心証を裁判官は持ったと思いますが、どうか」

弁護団「真実性には裁判所はふれていない。櫻井さんを免責するものとなっている」

質問者「真実性を捨象して判断するということは、櫻井さんを、ジャーナリストに対してというより一般の人として扱っていることになる」

植村氏「ジャーナリストと一般の人は違う。こんなずさんなことが櫻井さんだと免責される。強い疑問があります」

質問者「植村さんが受けた実害を判決は考慮していないように思える」

植村氏「私の大学との契約が攻撃されたり、娘の顔写真がさらされて警備までついた。櫻井さんが私を捏造記者だと繰り返し攻撃したことが原因のはず。法廷で間違いを認めたのは櫻井さん」
https://iwj.co.jp/wj/open/archives/435438


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捏造したのは櫻井よしこのほうなのに…「慰安婦報道を捏造」と攻撃された元朝日記者・植村隆の名誉毀損裁判で不当判決
https://lite-ra.com/2018/11/post-4354.html
2018.11.11 植村隆の名誉毀損裁判で不当判決!櫻井よしこの捏造を無視 リテラ
     
     櫻井よしこHP『プロフィール』より


「日本の名誉を毀損したのは植村隆のほうだった」「やっぱり植村隆は捏造記者だった」

 9日の夕方から、右派メディアやネトウヨがこんな言葉をがなりたて、大喜びしている。元朝日新聞記者の植村隆氏が、ジャーナリストの櫻井よしこ氏と、櫻井氏の記事を掲載した新潮社、ダイヤモンド社、ワックを相手取り、「捏造」などとされて名誉を傷つけられたとして訴えた裁判で、9日、札幌地裁が植村氏の請求を棄却したのだ(岡山忠広裁判長)。

 しかし、これは「不当判決」としか言いようがないものだ。そもそも、この裁判では、植村氏のことを「捏造」と攻撃した櫻井氏のほうの“根拠捏造”が、被告の本人尋問などで明らかになっていた。ところが、判決はそのことに一切ふれることなく「被告が真実であると信じる相当の理由がある」などと結論付けたのだ。

 具体的に解説しよう。まず、この名誉毀損裁判を起こした植村氏は、2014年、朝日新聞が「吉田証言」に関する従軍慰安婦関連の記事を取り消した問題で、右派メディアやネット右翼たちからスケープゴートにされた元朝日新聞の記者だ。植村氏は朝日が虚偽だと認めた「吉田清治証言」とは無関係だが、過去に従軍慰安婦の記事を2度執筆しており、その内容が「人身売買であるのに強制連行されたと書いた」などとして、右派から「植村は捏造記者だ!」と総攻撃を受けた。そして、非常勤講師を務めていた北星学園大学には脅迫が殺到、さらに本人だけでなく娘にも殺害予告が届くなど、“リンチ”とも呼べる状況が続いたのである。

 しかし、その後、植村記者は反撃に転じた。自分の身に降りかかった攻撃の多くが根拠のないことをひとつひとつ実証的に反論し、「捏造記者」などと攻撃した極右言論人と出版社に対し、裁判を起こしたのだ。今回の札幌地裁での裁判はそのうちのひとつである。

 札幌地裁の判決はまず、櫻井氏の記事について「原告の社会的評価を低下させる事実の摘示や意見ないし論評がある」と認めた上で、櫻井氏が記事で展開していた「金学順氏は継父によって人身売買され、慰安婦にさせられた」という主張が、「真実であると認めることは困難である」と結論付けている。つまり、裁判所も、櫻井氏の記事が事実でない可能性があることを認めていた。当然、植村氏の記事が「捏造」だとも、植村氏が「捏造記者」だともまったく認定していない。

 ところが、その後、判決文は一転。櫻井氏が金学順さんのことを「継父によって人身売買された女性」と「信じ」、「植村氏が事実と異なる記事を敢えて執筆した」と「信じたこと」はさまざまな資料に記載があったためやむをえなかった、と続けるのだ。

■存在しない記述を根拠にした櫻井を正当化するトンデモ判決!

 はっきり言うが、この判決はめちゃくちゃだ。なぜなら、裁判所は櫻井氏が「金学順氏は継父によって人身売買された女性」と信じた根拠として、「金学順氏が日本国政府を訴えた訴状」「金学順氏を取材した内容をまとめた臼杵氏執筆の論文」の記載などをあげているが、そもそもこれらの資料には、そんな記述など一切ないからだ。

 そのことは、今年3月23日の第11回口頭弁論の櫻井氏の本人尋問で暴かれ、櫻井氏自身も誤りを認めている。

 まず、この口頭弁論で問題になったのは、「WiLL」(ワック)2014年4月号の記事(「朝日は日本の進路を誤らせる」)。櫻井氏は〈日本を怨み、憎んでいるかのような、日本人によるその捏造記事〉などと植村氏を批判するために、前述した金学順さんの訴状をもちだし、こう書いていた。

〈訴状には、十四歳のとき、継父によって四十円で売られたこと、三年後、十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられた経緯などが書かれている。
 植村氏は、彼女が継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかっただけでなく、慰安婦とはなんの関係もない「女子挺身隊」と結びつけて報じた。〉

 つまり、櫻井氏は「訴状には金学順さんが継父によって40円で売られ、さらに再び継父によって連れられて慰安婦にさせられた、という記述があるのに、植村氏はこれを無視するという意図的な捏造報道を行った」と攻撃していたのだ。

 ところが、実際の金学順さんの訴状には、櫻井氏が言う「継父によって四十円で売られた」なる記述は、存在していなかった。つまり、櫻井氏のほうが訴状にないことを“捏造”して、植村氏に対し「捏造記者」などという攻撃を繰り返していたのである。

 それだけではない。原告側弁護士から「継父によって四十円で売られたという話の根拠はなんなのか」と問い詰められた櫻井氏は、1992年2月の月刊「宝石」(休刊/光文社)の臼杵敬子氏執筆の記事からの引用の間違いだったと釈明した。

 これが裁判所の言う「金学順氏を取材した内容をまとめた臼杵氏執筆の論文」なのだが、実は、その臼杵論文=「宝石」記事にも、やはり「継父によって四十円で売られた」「十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられた」なる記述はなかった。

■櫻井よしこがもちだした資料には、逆に「日本軍の強制連行」の記述が

 まず、「宝石」記事にある金学順さんの証言によると、学順さんが14歳の時、母親が再婚したが〈私は新しい父を好きになれ〉なかったとして、こう振り返っている。

〈その後平壌にあった妓生専門学校の経営者に四十円で売られ、養女として踊り、楽器などを徹底的に仕込まれたのです。
 ところが、十七歳のとき、養父は「稼ぎにいくぞ」と、私と同僚の「エミ子」を連れて汽車に乗ったのです。〉

 学順さんがいう「養父」とは「妓生専門学校の経営者」のことであって、「継父」(=「新しい父」)ではない。しかも、この「宝石」記事には、上の引用部の直後、金銭で売られたどころか、逆に日本軍の強制連行と性暴力を物語る記述が続いていた。

〈着いたところは満州のどこかの駅でした。サーベルを下げた日本人将校二人と三人の部下が待っていて、やがて将校と養父との間で喧嘩が始まり「おかしいな」と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです。

 私とエミ子は、北京に連れて行かれ、そこからは軍用トラックで、着いたところが「北支のカッカ県テッペキチン」(鉄壁鎭)だったと記憶しています。中国人の赤煉瓦の家を改造した家です。一九四〇年春ごろでした。

 日本軍が占領したその集落には三百人ほどの日本兵が駐屯していました。トラックで夜着いた私たちは、将校に案内され、真っ暗な部屋に入れられ、外から鍵をかけられ閉じ込められたのです。そのとたん、私は「しまった」という後悔でいっぱいでしたが、もうどうしようもありません。

 次の朝、馬のいななきで人々が生活しているのがわかり、室内から外をうかがうと隣りの部屋には三人の朝鮮人女性がいるのがわかりました。(中略)将校が私を小さな部屋に連れて行き、服を脱げと命令したのです。
 当時、私は十七歳。何も知りませんでした。そのときのことを考えるだけでも心臓が爆発しそうです。とにかく必死で逃げようとしました。「嫌だ!」と叫ぶと、その日本兵は「この野郎! 朝鮮人のくせに!とののしり、私を殴り、足で蹴り揚げ、暴力で犯したのです。」(「宝石」での金学順さんの証言)

 念のために言っておくが、これは櫻井氏が自分の主張の出典とした資料だ。ところが、そこには櫻井氏の主張する「継父が金学順さんを四十円で売った」とはどこにも書かれておらず、「妓生専門学校の経営者」が逆に日本人将校らに暴力で脅されてその場から排除された、そして、金学順さんは日本軍のトラックで鉄壁鎭に連れて行かれたという証言が掲載されていた。

 櫻井氏が本当にこの証言を出典としたのならば、櫻井氏はわざと日本軍による強制連行をネグったことになる。

■なぜ裁判所は“根拠捏造”を無視してまで櫻井よしこらを「勝訴」させたのか

 また、裁判所はもうひとつ、櫻井氏が信じた根拠として「韓国の新聞報道」もあげており、これは櫻井氏側が証拠として提出したハンギョレ新聞と思われるが、ここにも、「宝石」などと同様の〈生活が苦しくなり、14歳の時に母親に平壌にあるキーセンの検番に売られた。3年間の検番生活を終えた金さんが最初の就職だと思って検番の養父についていった所は、兵士3000人余りが所属する北中国・鉄壁鎭の日本軍小部隊の前だった〉とあるだけで、慰安所にお金で売られたという記述はない。

 それどころか、このハンギョレ新聞にも、〈私を連れていった養父も当時、日本人にカネももらえず私を実力で奪われたようでした〉という、強制連行の記述があった。

 いずれにしても、法廷でこうした事実を突きつけられた櫻井氏は、金学順さんの訴状に記載されていない記述についての自らの誤りを認め、「WiLL」7月号は訂正文を掲載。また、産経新聞6月4日付でも同様の誤りを訂正している。

 にもかかわらず、札幌地裁の判決は、こうした資料をもとに、櫻井氏が「金学順氏が継父によって人身売買されて慰安婦にされた女性であると信じた」ことは「相当の理由がある」というのだ。この裁判長は本当に提出証拠や本人尋問の記録をちゃんと読んでいるのか。

 また、百歩、いや1万歩譲って、これらの資料を目にした櫻井氏が「金学順氏は継父によって人身売買された」と誤読したことがやむをえなかったとしても、だからといって、なぜ櫻井氏が植村氏のことを「捏造」などと攻撃することが正当化されるのか。

 そもそも植村氏は、朝日新聞の記事に金学順さんが「日本軍に強制連行された」などと書いているわけではなかった。〈女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にされた〉と書いただけだった。

 ところが、櫻井氏は〈植村氏は、彼女(金学順さん)が継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかった〉などとして〈真実を隠して捏造記事を報じた〉と攻撃したのだ。

だとしたら、自らが出典とした資料にハッキリとある強制連行の記述をネグった櫻井氏だって「捏造」になるのはもちろん、情報の取捨選択をしているほとんどの報道が「捏造」ということになるだろう。

 なお、櫻井氏が「捏造」だとがなりたてる1991年8月11日付の植村氏の署名記事は、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が金学順さんから聞き取った証言テープがもとになっているのだが、同記事でキーセンについて触れなかった理由について植村氏は「証言テープ中で金さんがキーセン学校について語るのを聞いていない」「意図的に触れなかったわけではない」と説明している(朝日新聞2014年8月5日朝刊)。

 とにかく、この櫻井氏が植村氏に向けた「捏造」攻撃は、どこからどう見ても根拠がなく、名誉毀損なのだが、しかし、札幌地裁の裁判長は前述したように、まったく理屈にならない理屈をつけて、請求棄却を言い渡した。判決文を読むかぎり、岡山裁判長は櫻井氏らを勝訴させるという結論ありきで、まともに証拠資料に目を通してなかったとしか思えない。それとも、もしかして、裁判所までが歴史修正主義者に乗っ取られようとしているのか。

 植村氏側はこの判決直後、控訴することを表明。また、もうひとつ、西岡力氏と文藝春秋を相手取った東京地裁での判決も控えている(詳しくは過去記事参照 https://lite-ra.com/2018/10/post-4323.html)。控訴審やこちらの裁判では真っ当な判断が下されると信じているが、いずれにしても本サイトではレポートを継続し、右派による歴史修正の杜撰な実態とその卑劣さ何度でも伝えてゆく。

▲△▽▼


控訴審では真っ当な判決で悪夢を晴らそう ー 植村勝訴の逆転判決を
http://article9.jp/wordpress/?p=11436
2018年11月11日 澤藤統一郎の憲法日記

植村隆元朝日新聞記者が、無茶苦茶なバッシングを受けて、やむにやまれずの提訴に踏み切った2件の名誉毀損損害賠償請求訴訟。1件は札幌地裁、もう1件は東京地裁係属事件。いずれも、「私は捏造記者ではありません」と、痛切な声を上げての訴え。櫻井よしこらに対する札幌地裁訴訟が先行して判決となった。私も原告訴訟代理人の一人として、11月9日判決の勝訴を確信していた。敗訴の報告に、いまだに信じられない思いである。これで勝てないのか。

とは言え、さすがにこの「不当判決」も、櫻井の名誉毀損言論の最重要部分について真実とは認定していない。「金学順氏が慰安婦とされるに至った経緯に関する部分が真実であるとは認めることは困難である」としつつも、「被告櫻井が上記のように信じたことには相当の理由があるということができる」としたのだ。櫻井は、その程度の確度の記事で、植村の新聞記事を「捏造」と決めつけたのだ。その背景には、抜きがたい歴史修正主義のイデオロギーがある。

判決批判については、「植村裁判を支える市民の会」のホームページをお読みいただきたい。URLは以下のとおり。ここに、法廷の経過報告、判決要旨、判決全文、弁護団声明、「支える会」声明などのすべてが掲載されている。
http://sasaerukai.blogspot.com/

そのサイトから引用しておきたい。

闘いは再び始まった!
訴審に向け あふれる判決批判、闘う決意

 植村さんが立った。「悪夢のような判決でした。私は法廷で、悪夢なのではないか、これは本当の現実なんだろうかとずっと思っていました。今の心境は、言論戦で勝って、法廷で負けてしまった、ということです。櫻井氏は3月の本人尋問ではいくつもずさんな間違いを認めていった。あの法廷と今日の法廷がどうつながるんだろうか」「激しいバッシングを受けたとき、これは単に植村個人の問題ではないということで、様々なジャーナリストが立ち上がってくれました。いまも新聞労連、日本ジャーナリスト会議、リベラルなジャーナリストの組織も応援してくれています」「この裁判所の不当な判決を高等裁判所で打ち砕いて、私は捏造記者でないということを法廷の場でもきちんと証明していきたいと思っています」。

まったく同感である。

ぜひご覧になっていただきたいもう一つのサイトがある。

「捏造したのは櫻井よしこのほうなのに…『慰安婦報道を捏造』と攻撃された元朝日記者・植村隆の名誉毀損裁判で不当判決」という、リテラ(編集部)の記事。いつもながらの、問題に真正面から切り込む熱のこもった緻密な内容。
https://lite-ra.com/2018/11/post-4354.html

私は、この微妙な判断をした判決に櫻井よしこがどう反応するか、この人のホームページでのきちんとした発言に注目しているのだが、本日(11月11日)夜までのところ音沙汰なしである。訴訟の過程で、自分の記事の間違いを具体的に指摘されて訂正している。それでも、判決主文では勝訴した櫻井がなんというのだろうか。いまだに、植村記事を捏造と言えるのか。

おそらく、櫻井よしこは安部英(元帝京大学医学部教授)から名誉毀損で訴えられた訴訟の高裁判決の悪夢を思い出しているに違いない。

2003年当時、櫻井自身が、「高裁判決での逆転敗訴はジャーナリズム全体への冒涜」という標題で次のような記事を自分のサイトに掲載している。

「2月26日、東京高裁大藤敏裁判長、高野芳久、遠山廣直両裁判官によって、私は逆転敗訴の判決を言い渡された。元帝京大学副学長安部英氏から名誉毀損で訴えられていた件である。

 高裁判決は、地裁判決とは正反対の内容だった。一審判決で真実、あるいは真実と信ずるに相当の理由があったとして認められた記述が、ことごとく否定された。

 ひと言でいえば、このような判決を出されたのでは、調査報道は成り立たなくなる。事は私一人の問題にとどまらず、日本のジャーナリズム全体に影響する問題と言わざるを得ない。

 大藤裁判長らは、私の取材した薬害エイズ被害患者の言葉も、信じられないとして退けたが、本当に彼らの言葉は信ずることができないのか。」

 この判決には控訴審が続く。高裁判決が「地裁判決とは正反対の内容となり、一審判決で真実、あるいは真実と信ずるに相当の理由があったとして認められた記述が、ことごとく否定される」逆転判決となる可能性は、けっして小さくない。日本の民主主義のために、その日の来たらんことを切望したい。

なお、ウィキペディアが、安部英対櫻井よしこの訴訟経緯をこう簡潔に紹介している。

「フリージャーナリストの櫻井よしこが『安部元副学長が製薬会社、ミドリ十字のために加熱製剤の治験開始を遅らせた』などと記述したことについて、安部は損害賠償などを求め民事訴訟を起こしたが、一審は記事内容に真実性があるとして安部の全面敗訴、二審は記事内容を真実ではなく真実相当性もないとして安部の逆転勝訴、最高裁は真実相当性があったとして安部の逆転敗訴となった。」

 本件も、真実性の有無ではなく、相当性存否の判断で微妙に結果が分かれた判決例である。櫻井の植村に対する批判の言論の真実性が否定された点で、ジャーナリストとしては大きな顔はできまい。傲岸な態度をとり続けることは不可能だ。

にもかかわらず、櫻井よしこや西岡力らが、「捏造」と断定して記事を書けば、付和雷同のネトウヨたちが、人権侵害のバッシングを積み重ねる。この人たちの責任は大きいのだ。控訴審での、植村逆転勝訴判決を期待する。植村の悪夢を晴らして、櫻井にこそ悪夢がふさわしいのだ。

(2018年11月11日)

▲△▽▼

櫻井よしこが植村隆裁判の不当判決に乗っかり会見で「捏造攻撃」を正当化! ネトウヨは「植村を極刑にしろ」
https://lite-ra.com/2018/11/post-4389.html
2018.11.24 植村隆裁判の不当判決で調子に乗る櫻井よしことネトウヨ  リテラ
    
    16日放送の『櫻LIVE』(言論テレビ)より


 ジャーナリストの櫻井よしこ氏からの「捏造記者」との攻撃に対し、名誉毀損で訴えた元朝日新聞記者・植村隆氏が、今月9日の札幌地裁判決(原告の請求棄却)を不服として、22日、札幌高裁に控訴した。

 周知のとおり、植村氏は、2014年の朝日新聞慰安婦報道問題で、朝日が訂正をした「吉田清治証言」とはまったく無関係であるにもかかわらず、元慰安婦の金学順さんに関する記事を書いたことで、右派やネット右翼から総攻撃を受けた記者だ。内定していた再就職先や勤務先の大学に抗議が殺到、さらに家族への殺害予告まで送られるなど、スケープゴートにされた植村氏への“リンチ”は過激化した。

 しかし、植村氏は不当なバッシングに沈黙していたわけではない。2015年、自らを「捏造」などと攻撃した右派言論人らに対し複数の裁判を起こした。そのひとつが、ジャーナリストの櫻井よしこ氏と、氏の記事を掲載した出版3社を相手取った札幌地裁の裁判である。法廷では、原告弁護団の追及により、櫻井氏が「植村記事は捏造」とした根拠のデタラメが次々とあらわになった。しかし、札幌地裁が今月9日に下した判決は、原告・植村氏の請求をいずれも棄却するものだった。

 植村氏は今月15日、日本外国特派員協会での会見で「この判決を私は、言論戦、言論の戦いで勝って判決で負けてしまった悪夢のような判決だというふうに思っています」と述べていたが、その通りだろう。札幌地裁判決がいかに「不当判決」であったかは、本サイトの11日付記事(https://lite-ra.com/2018/11/post-4354.html)で詳しく解説したので、ぜひご一読いただきたい。

 しかし、植村氏の控訴を受け、またぞろネットでは、異常としか言いようがない“植村バッシング”が再燃している。控訴を伝える時事通信の報道がYahoo!のトップニュースになったのだが、そのコメント欄が、こんな脅迫めいた文言や誹謗中傷、そして悪質なデマで埋め尽くされているのだ。

〈できる事なら国家反逆罪で極刑にして欲しい〉
〈この反日極左売国奴「植村隆」を許すつもりも無ければ、願わくば惨殺体で発見される事を切に祈るよ。〉
〈間違いなく捏造記者です。あと2回チャンスがありますが2回とも敗訴して頂かねばなりません。〉
〈むしろ最高裁まで行って、決定的に捏造であることが明らかになれば良い〉
〈あなたは、捏造記者に認定されたんだ。悪あがきはよせ。〉

 「極刑」「惨殺体」などという書き込みは、まさに2014年に植村氏とその家族が被害にあった殺害の示唆を彷彿とさせる。そして、コメント欄に多く見られた「植村は捏造記者と認定された」というような話は、完全なるデマである。

 簡単に振り返っておくが、そもそも札幌地裁の判決は、植村氏の記事を「捏造」と攻撃した櫻井氏の記事には「原告の社会的評価を低下させる事実の摘示や意見ないし論評がある」と認定しながらも、櫻井氏が参考にした資料や社会状況から「真実であると信じる相当の理由がある」として免責したというものだ。

 しかし、「真実と信じる相当の理由」を認めること=「真実相当性」を認定することと、摘示事実の「真実性」を認定することは、まったくの別モノである。実際、長い判決文の隅から隅まで読んでも、札幌地裁は「原告の記事は捏造であった」とも「原告は捏造記者である」とも、あるいは「原告は事実と異なることを知りながら記事を執筆した」などとも認めていない。つまり、裁判所は櫻井氏が摘示した「植村氏は捏造記事を書いた」ということについて「真実である」とは、まったく認定していないのだ。

 それどころか、裁判の主要な争点のひとつである櫻井氏の“金学順さんは継父によって人身売買されて慰安婦にさせられたのに、植村氏はそれを知りながら意図的に書かないことによって強制連行を印象付けようとした”という主張にかんして、判決文は〈「継父によって人身売買され慰安婦にさせられた」という事実が真実であると認めることは困難である〉と言及している。ようするに、櫻井氏の主張の前提にある「人身売買説」自体の真実性を認めていないと言っていいだろう。

■判決文が植村記者の捏造を認めていないことを否定した櫻井側弁護士

 繰り返すが、ネトウヨたちが口走っている「裁判所は植村を捏造記者だと認定した」という話はまったくの事実無根である。しかし驚くのは、櫻井氏側が公の場で、こうしたデマを助長するような発言をしていることだ。

 植村氏が会見を開いた翌16日の午後、櫻井氏も日本外国特派員協会での会見に臨んでいた。その質疑応答での一幕でのことだ。まず、北海道新聞の記者がこのように質問した。

「植村さんが捏造したということは、判決では認定しませんでしたけども、櫻井さんはいまでも植村さんが記事を捏造したとお考えでしょうか」
「櫻井さんは1998年に植村さんの名前を出して、植村さんが『誤報』、もしくは『混同』しているというふうに批判されました。けれども、次に2014年になって記事を書かれた時に、突然『捏造した』という記事に変わりました。なぜ、何を根拠に『捏造』という表現に変えたんでしょうか」

 これに対して櫻井氏はこう述べた。

「私は、植村さんの記事については、『捏造したと言われてもしかたがないだろう』という意見を申し上げたと思います。時間が経つにつれていろんなことがわかってきて、植村さんがそのようにしたのではないかという疑問が、強くなったために、捏造したと言われても弁明できないのではないかと、仕方がないだろうということを書きました。以上です」

 櫻井氏は自分が使った「捏造」という言葉のまずさがわかっていたのか、明らかにごまかしながら、しかし、それでも自分の「捏造」攻撃があたかも正当であるかのように強弁した。しかも、そこに櫻井氏の主任弁護人である林いずみ弁護士がこう付け加えたのである。

「一点だけ。いま北海道新聞の長谷川さんが、この判決は捏造を認めなかったというふうにおっしゃり、昨日の(会見で配布された)植村さんの判決の要約もそのように書いていると思いますが、そのようなことはありません」

 ようするに櫻井氏の主任弁護士は、裁判所が植村氏を「捏造」と認めなかったことを否定しにかかったのである。これではまるで、「裁判所は植村氏を捏造記者と認定した」なるデマを振りまいているネトウヨを扇動しているようなものではないか。

■櫻井よしこはネットTVで全面勝訴宣言も、植村は控訴

 何度でも言うが、判決文のどこにも「原告は記事を捏造した」などとは書かれておらず、ましてや、主要な争点である「人身売買説」については「真実であると認めることは困難である」とハッキリ述べられているのだ。逆に言えば、これは被告・櫻井氏側が「人身売買説」を立証する必要があるにもかかわらず、それができていないと指摘しているのである。当然、“植村氏は金学順さんが人身売買されたという経緯を知りながらそれを書かなかった”という櫻井氏の主張の前提条件が崩れたと解するのが妥当だろう。

 しかも、この「人身売買説」に関しては、逆に櫻井氏の記事のほうの誤りが暴露されてきたことは、本サイトでも何度かお伝えしてきたとおりだ。たとえば櫻井氏は「WiLL」(ワック)2014年4月号の記事のなかで、1991年12月に金学順さんが日本国政府を集団提訴した際の訴状を持ち出して、〈訴状には、十四歳のとき、継父によって四十円で売られたこと、三年後、十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられた経緯などが書かれている〉とし、〈植村氏は、彼女が継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかった〉などと批判していた。ところが、実際の訴状には「継父によって四十円で売られた」なる記載など存在しなかったのである。

 なお、法廷で追及された櫻井氏は、金学順さんの訴状に記載されていない記述についての自らの誤りを認め、「WiLL」2018年7月号は訂正文を掲載、また産経新聞2018年6月4日付でも同様の誤りを訂正している。

 つまり、櫻井氏のほうが訴状にないことをでっち上げて、植村氏に対し「捏造記者」などと攻撃を繰り返していたのだ。付言すると、櫻井氏が参照した、金学順さんの発言に基づいて書かれたハンギョレ新聞の記事には、櫻井氏が「人身売買説」の根拠とする記述のすぐ後ろに、〈私を連れていった養父も当時、日本人に金ももらえず私を武力で奪われたようでした〉との記述がある。これは日本軍による強制連行の記述だが、櫻井氏はこうした部分については完全にネグっていた。そしてここにきて、弁護士が「判決は植村氏の捏造を認めなかったということではない」という新手の攻撃を加えてきているのである。

 櫻井氏は、記者会見のあった16日の夜、自らが主催するネット番組『櫻LIVE』(言論テレビ)で、「わたくしの、全面勝訴です」「全面勝訴で、私も非常に嬉しかったんですね」「ほんとに日本人の名誉とか日本国のこととか、(自分の記事の目的は)公益以外の何物でもない」などと勝ちどきをあげた。

 だが、まだ終わっていない。むしろ、札幌地裁の不当判決によって、ネトウヨたちがまたぞろ植村氏の生命と生活を脅かすような異常なバッシングを再開し始めている。札幌での控訴の行方はもちろん、本サイトではこの歪んだ社会状況をも含めてレポートを続けていくつもりだ。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/133.html

[リバイバル3] 中川隆 _ アジア関係投稿リンク 中川隆
73. 中川隆[-13232] koaQ7Jey 2019年1月03日 08:05:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」_ 吉田清治の話はやっぱり事実だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/132.html

従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/133.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/465.html#c73

[昼休み52] 日本人女性2人、リゾート地・セブ島で知り合った韓国人の男2人と飲酒→集団強姦される…フィリピン 中川隆
268. 中川隆[-13231] koaQ7Jey 2019年1月03日 08:09:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

韓国、「超傲慢」レーダー照射で日本へ謝罪求め「論点すり替え」2019年01月03日

韓国という国は一筋縄で行かない国である。日本の防衛省が映像を公表したら、それを悪用して、「レーダー照射はしていない」。「北朝鮮の漁船を救助中に威嚇して低空飛行した」。「これは人道に反する行為であり、謝罪せよ」。「ついては、その件で会談しよう」と言ってきた。

最初からの経緯を記憶している者にとっては、論点をすり替えていることは明確。ばかばかしいほどの幼稚な屁理屈を並べてきた。日本の防衛省は、このように話をすり替える相手と会うべきでない。冷却期間をおいて反省させることが必要だ。

『時事通信』(1月2日付に)は、「韓国国防省、低空飛行で日本に謝罪要求、哨戒機レーダー照射問題」と題する記事を掲載した。

(1)「海上自衛隊のP1哨戒機が韓国駆逐艦から火器管制レーダーの照射を受けた問題で、韓国国防省報道官室は2日、声明を出し、哨戒機が『人道的な救助活動中だったわが国の艦艇に対し、威嚇的な低空飛行をした』として、謝罪を要求、実務協議の開催を呼び掛けた。また、『わが国の艦艇は哨戒機に(火器管制用)追跡レーダー(STIR)を照射しなかった』と重ねて否定。『日本はこれ以上、事実を歪曲する行為を中止すべきだ』と主張した。韓国国防省が日本への謝罪要求という強硬対応に転じたことで、日韓間の対立が一層深刻化し、防衛協力全般に影響が及ぶ懸念も出てきた」

あの動画を見て、北朝鮮の遭難船を救助中とは想像もできない、そういうサインが出ていた訳でもなく、これこそ「後講釈」である。これを以て、日本に謝罪せよと迫ること自体ナンセンスである。

ならば、日本の哨戒機が韓国駆逐艦に対して、艦名とナンバーを告げてまで問合せをしたが、沈黙していた理由は何か。英語が下手で聞き取れなかったと言い逃れしているが、駆逐艦に付けられたナンバーは聞き取れたはずだ。反日という悪意がなければ、「救助中」と答えたはず。後知恵で屁理屈を並べているに過ぎない。

日本は、韓国から謝罪を要求されているが、そんな理不尽な目的の会合に顔を出すはずがない。日本の安全保障にとっての韓国の位置は、すでに大幅に低下しているのだ。換言すれば、日本にとっての韓国は、安全保障上で「必要欠くべからざる」国でなくなっているのだ。韓国には、その認識がゼロである。相変わらず、日本から重視されている国と錯覚しているのだ。

日本政府が、安全保障政策の基本的指針「2018年の防衛計画の大綱」を発表したが、韓国を米国、豪州、インド、東南アジアに次いで5番目に「格落ち」させている。従来、韓国は米国に次ぐ位置にあった。その韓国が、もはや日本にとって頼りにならない国に成り果てたのだ。何かにつけて「反日」を鮮明にする韓国政府とは、縁を切るとまでは言わないまでも、ASEAN以下の存在に位置づけた。こういう韓国から、「謝罪せよ、そのための会合を開こう」ということに、日本がまともに反応する必要はない。

日韓関係は、すでに決別したのも同然の関係になっている。この問題は、4日発行の私の「メルマガ18号」で徹底分析する。ぜひ、購読をお願いしたい。

(2)「声明は、『日本側が公開した動画に見られるように、友好国の艦艇が公海上で遭難漁船を救助している状況で、日本の哨戒機が威嚇的な低空飛行をしたこと自体が非常に危険な行為だ』と指摘した。さらに、『韓日国防当局間で事実確認のため、実務協議を継続するという合意にもかかわらず、日本は動画を公開し、高官までテレビのインタビューで一方的な主張を繰り返している』と批判、『深い遺憾の意』を表明した」

日本側は、韓国駆逐艦が何をしているのか分らないので、高度を上げたり下げたりして様子を見ていたにすぎない。そうであれば、なぜ、日本の哨戒機にその旨を連絡しなかったのか、落ち度は韓国にある。後講釈で屁理屈を並べるべきでない。

ここで、レーダー照射問題が発覚して以来の、韓国側の主張を箇条書きしておく。動画公開後に、論点をすり替え居直っていることがはっきりする。

@ 韓国がレーダー照射したのは、北朝鮮船の捜索を行なうべくレーダー照射していたところへ哨戒機が進入して「意図せざる照射」になった。

A 動画公開で、韓国駆逐艦の近くに漁船らしきものが映っていた。これは、@の説明を覆すもので、意図的に日本の哨戒機にレーダー照射していたことが判明。

B 日本が機密上の理由で、レーダー照射に関する韓国の周波数を発表しないことを理由に、動画上のレーダー照射を噓と言い出した。

C 一転して、日本非難に転じてきた。韓国が北朝鮮遭難船を救助している所へ低空飛行し威嚇した。これは、非人道的な行為で謝罪せと高姿勢になった。

D 動画で明らかなように、北朝鮮遭難船は、韓国駆逐艦の画面の奥に小さく映っており、威嚇するには、距離が遠すぎる。韓国駆逐艦の真上を飛行した訳でない。離れて飛行している。

以上によって、今回の韓国側の言い分が途中でどのように変ったかが分る。こういう韓国軍を「友軍」と呼ぶには余りにも「反日的」過ぎる。まさに、「後ろから鉄砲を撃ってくる」裏切り軍隊の色彩が濃厚である。信頼関係の欠ける国との友軍関係はあり得ない。韓国とは、安保面で「手を切る」のは当然であろう。
http://hisayoshi-katsumata-worldview.com/archives/14724788.html
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/334.html#c268

[昼休み54] 朝鮮人は頭がおかしい 中川隆
21. 中川隆[-13230] koaQ7Jey 2019年1月03日 08:09:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

韓国、「超傲慢」レーダー照射で日本へ謝罪求め「論点すり替え」2019年01月03日

韓国という国は一筋縄で行かない国である。日本の防衛省が映像を公表したら、それを悪用して、「レーダー照射はしていない」。「北朝鮮の漁船を救助中に威嚇して低空飛行した」。「これは人道に反する行為であり、謝罪せよ」。「ついては、その件で会談しよう」と言ってきた。

最初からの経緯を記憶している者にとっては、論点をすり替えていることは明確。ばかばかしいほどの幼稚な屁理屈を並べてきた。日本の防衛省は、このように話をすり替える相手と会うべきでない。冷却期間をおいて反省させることが必要だ。

『時事通信』(1月2日付に)は、「韓国国防省、低空飛行で日本に謝罪要求、哨戒機レーダー照射問題」と題する記事を掲載した。

(1)「海上自衛隊のP1哨戒機が韓国駆逐艦から火器管制レーダーの照射を受けた問題で、韓国国防省報道官室は2日、声明を出し、哨戒機が『人道的な救助活動中だったわが国の艦艇に対し、威嚇的な低空飛行をした』として、謝罪を要求、実務協議の開催を呼び掛けた。また、『わが国の艦艇は哨戒機に(火器管制用)追跡レーダー(STIR)を照射しなかった』と重ねて否定。『日本はこれ以上、事実を歪曲する行為を中止すべきだ』と主張した。韓国国防省が日本への謝罪要求という強硬対応に転じたことで、日韓間の対立が一層深刻化し、防衛協力全般に影響が及ぶ懸念も出てきた」

あの動画を見て、北朝鮮の遭難船を救助中とは想像もできない、そういうサインが出ていた訳でもなく、これこそ「後講釈」である。これを以て、日本に謝罪せよと迫ること自体ナンセンスである。

ならば、日本の哨戒機が韓国駆逐艦に対して、艦名とナンバーを告げてまで問合せをしたが、沈黙していた理由は何か。英語が下手で聞き取れなかったと言い逃れしているが、駆逐艦に付けられたナンバーは聞き取れたはずだ。反日という悪意がなければ、「救助中」と答えたはず。後知恵で屁理屈を並べているに過ぎない。

日本は、韓国から謝罪を要求されているが、そんな理不尽な目的の会合に顔を出すはずがない。日本の安全保障にとっての韓国の位置は、すでに大幅に低下しているのだ。換言すれば、日本にとっての韓国は、安全保障上で「必要欠くべからざる」国でなくなっているのだ。韓国には、その認識がゼロである。相変わらず、日本から重視されている国と錯覚しているのだ。

日本政府が、安全保障政策の基本的指針「2018年の防衛計画の大綱」を発表したが、韓国を米国、豪州、インド、東南アジアに次いで5番目に「格落ち」させている。従来、韓国は米国に次ぐ位置にあった。その韓国が、もはや日本にとって頼りにならない国に成り果てたのだ。何かにつけて「反日」を鮮明にする韓国政府とは、縁を切るとまでは言わないまでも、ASEAN以下の存在に位置づけた。こういう韓国から、「謝罪せよ、そのための会合を開こう」ということに、日本がまともに反応する必要はない。

日韓関係は、すでに決別したのも同然の関係になっている。この問題は、4日発行の私の「メルマガ18号」で徹底分析する。ぜひ、購読をお願いしたい。

(2)「声明は、『日本側が公開した動画に見られるように、友好国の艦艇が公海上で遭難漁船を救助している状況で、日本の哨戒機が威嚇的な低空飛行をしたこと自体が非常に危険な行為だ』と指摘した。さらに、『韓日国防当局間で事実確認のため、実務協議を継続するという合意にもかかわらず、日本は動画を公開し、高官までテレビのインタビューで一方的な主張を繰り返している』と批判、『深い遺憾の意』を表明した」

日本側は、韓国駆逐艦が何をしているのか分らないので、高度を上げたり下げたりして様子を見ていたにすぎない。そうであれば、なぜ、日本の哨戒機にその旨を連絡しなかったのか、落ち度は韓国にある。後講釈で屁理屈を並べるべきでない。

ここで、レーダー照射問題が発覚して以来の、韓国側の主張を箇条書きしておく。動画公開後に、論点をすり替え居直っていることがはっきりする。

@ 韓国がレーダー照射したのは、北朝鮮船の捜索を行なうべくレーダー照射していたところへ哨戒機が進入して「意図せざる照射」になった。

A 動画公開で、韓国駆逐艦の近くに漁船らしきものが映っていた。これは、@の説明を覆すもので、意図的に日本の哨戒機にレーダー照射していたことが判明。

B 日本が機密上の理由で、レーダー照射に関する韓国の周波数を発表しないことを理由に、動画上のレーダー照射を噓と言い出した。

C 一転して、日本非難に転じてきた。韓国が北朝鮮遭難船を救助している所へ低空飛行し威嚇した。これは、非人道的な行為で謝罪せと高姿勢になった。

D 動画で明らかなように、北朝鮮遭難船は、韓国駆逐艦の画面の奥に小さく映っており、威嚇するには、距離が遠すぎる。韓国駆逐艦の真上を飛行した訳でない。離れて飛行している。

以上によって、今回の韓国側の言い分が途中でどのように変ったかが分る。こういう韓国軍を「友軍」と呼ぶには余りにも「反日的」過ぎる。まさに、「後ろから鉄砲を撃ってくる」裏切り軍隊の色彩が濃厚である。信頼関係の欠ける国との友軍関係はあり得ない。韓国とは、安保面で「手を切る」のは当然であろう。
http://hisayoshi-katsumata-worldview.com/archives/14724788.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/235.html#c21

[リバイバル3] かぐらスキー場 (かぐら・三俣・田代スキー場) 中川隆
104. 中川隆[-13229] koaQ7Jey 2019年1月03日 08:46:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

かぐらスキー場|プリンススノーリゾート

≪2019年1月3日(木)7:30〜ロープウェー運行開始いたします≫

本日の天気予報は終日『雪』・今朝までの降雪は約30cmとなっております。
国道には降雪・凍結箇所がございます、お車のお客さま安全運転でお越しください。

かぐら  積雪250cm
みつまた 積雪210p
田代  積雪230p

『神楽ヶ峰ゲート(通称:KG1)』について
2019年1月3日(木) 7時30分現在閉鎖"
※視界不良のため、本日閉鎖


注)中尾根南斜面は大規模な表層雪崩が発生いたしました!当分の間、中尾根方面の入山は禁止いたします。神楽ヶ峰、反射板方面を推奨します。


■ゲート係員配置のご案内
 神楽ヶ峰方面ゲート(かぐら第5ロマンスリフト降り場)にスキー場係員を配置しております。
 ご記入いただいた登山計画書は、ゲート係員までご提出ください。


■必須携行備品(ゲート通過時チェックします)
 @ビーコン A食糧・水など Bバックバック


■禁止・注意事項
 @霧ノ塔・雁ヶ峰方面は立入禁止!
 A神楽ヶ峰の稜線を越えては、いけません!
 B沢沿いの滑走は禁止(穴に落ち、上がれなくなる)
 C救助費用は有料となります。


■スキー場よりお願い
 @ヘルメットの着用
 AGPSの携行(アプリ等OK)特に単独行動者
 B道迷い防止。単独行動注意・複数での行動をお願いします
 C携帯予備バッテリーの携行
 Dスコップ・プローブの携行


■登山計画書設置場所
 @みつまたステーション事務所
 A田代ステーション事務所
 Bみつまたパトロール本部
 Cかぐらゴンドラ山頂駅
 Dかぐらエリア無料休憩所
 E神楽ヶ峰ゲート入口


 注)・ゲート以外では登山計画書を受け取りません
   ・下山後は、必ずかぐらスキー場へご一報をお願いします(TEL:025-788-9221)
http://www2.princehotels.co.jp/ski/kagura/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/779.html#c104

[お知らせ・管理21] 2019年01月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
7. 中川隆[-13228] koaQ7Jey 2019年1月03日 09:57:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]
誤解されない様に

>>4 に追記

ポスト米英時代氏と お天道様はお見通し氏は統合失調症

魑魅魍魎男氏はパラノイア

日高見連邦共和国氏と けろりん氏は IQ が低いだけ


http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/544.html#c7

[近代史3] 朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由

朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由

旭川の人間が戦前・戦中に徴用工にやっていた事


旭川 中国人墓地 心霊スポット - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%A2%93%E5%9C%B0+%E5%BF%83%E9%9C%8A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88


旭川 中国人墓地(上川郡)

とても有名な心霊スポット。

日本人に強制連行され労働させられ死亡した中国人たちのお墓が密集している。とある一つの墓にある裏にある文字を読むと死んでしまうという。

墓の入り口にはなぜか倒れてる地蔵が放置されていてこれだけならよくある心霊スポットなのだが、この中国人墓地が恐ろしいのは目撃した人の多数いることだ。
https://matome.naver.jp/odai/2141196042705461601/2141207737036401203


▲△▽▼


日本の最怖心霊スポット、旭川『中国人墓地』には「お前ら行くな!」
http://ranpo.co/article/6063688203414540289


いわゆるホンモノです。

心霊スポットは、全国各地に数多く点在します。オカルト好きは、廃墟や廃病院などに肝試しに行ったこともあるでしょう。

しかし、数ある心霊スポットの中には”ガチ”で行ってはいけないスポットがあります。

その1つは、北海道の「中国人墓地」です。

北海道旭川市近郊にある中国人墓地。地元の方も避けるようなこの場所は、正式名称を「中国人殉難烈士慰霊碑」と言います。

日本に強制連行され、過酷な状況の中労働させられていた中国人のお墓です。


彼らは日本人に強い怒りや憎しみを持ちながら亡くなっているので、特に日本人が軽い気持ちで肝試しに行くのは危険すぎます。

実際に、中国人墓地に肝試しに行った方が多数被害に遭っています。
行ってはいけない‼多数の被害

1.車に白い手形がビッシリとついた
2.肝試しに行った日、夢の中で中国人に追いかけられた
3.肝試しに行ったメンバーが行方不明になった
4.撮影していたスマホが突然故障した
5.肝試しに行った帰りに交通事故に遭った


また一部で、墓石にすがる霊や夜に行くと錯乱状態になるなどの話も実しやかに囁かれています。

ここまで見ると「よくあるパターン」と笑ってしまうかもしれません。しかし、軽い話で済まされません。

なぜ、中国人墓地に行ってはいけないのか、それは大きな事件を引き起こした事実があるからです。


極秘情報 中国人墓地にまつわる事故

中国人墓地は、旭川市近郊の上川郡東川町にあります。

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92071-1471+%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%B8%8A%E5%B7%9D%E9%83%A1%E6%9D%B1%E5%B7%9D%E7%94%BA%E3%83%8E%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%B3/@43.6625413,142.5913463,12z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x5f0cd9f2b6fe409f:0x4492a267c5a4f525!8m2!3d43.6640765!4d142.6600564?hl=ja


この東川町というのは、本当にド田舎。都会に住んでいる方が想像もできないような場所なのです。

このような場所は、若者たちにとって格好の遊び場。それは、危険な無謀運転でドライブを楽しむのにピッタリです。

そして興味本位で「このまま肝試しに行くか!?」なんて話もよくあるパターン。

当時、旭川市ではけっこうな話題になったのですが、5年くらい前に大きな事故がありました。若者たちが定員オーバーの状態でドライブし、事故。そして全員死亡。

ニュースで画像も出ていましたが、車は悲惨な状態でした。
奇妙な噂と口を閉ざす地元民
実は、この事故には噂がありました。

それは、中国人墓地に行った帰りの事故、だということ。

当時、事故を目撃した地元の方の話によると、絶対にあり得ない事故、だそうです。

確かに定員オーバーでスピードも出ていた。しかし、ブレーキ痕などからわかる状況としては、死亡事故にまではいたらない。また、運転手が運転をミスした理由が曖昧なのだそうです。

しかし、それ以上に話を地元の方から伺うことはできまでした。皆一同に口を閉ざすのです。詳しく話を聞こうとしても地元の方は……

「ごめん、ご遺族のためにもこれ以上は話せない…K察にも口止めされてるんだ」

それはつまり、中国人墓地に行った若者がありえない状況での事故で亡くなった、ということではないでしょうか。

全国各地にある心霊スポット。興味本位で遊びに行くことも、若気の至りであることでしょう。しかし、中国人墓地だけはやめたほうがいい。これが本音です。
http://ranpo.co/article/6063688203414540289


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北海道中国人強制連行事件殉難烈士慰霊祭in旭川


2016年7月7日、北海道旭川上川郡東川町東14号共同墓地で、第44回中国人強制連行事件殉難烈士慰霊祭が行われました。

資料: 中国人強制労働による殉死の墓

戦時中、いわゆる1941年11月政府閣議決定にもとづき、中国人を日本国内に強制連行し135事業所で、強制労働にしいられ、多くの中国人がたえられぬ労働とリンチによって死にいたった事であります。

1944年、東川のこの江卸事業所も例外ではなく、338名の中国人が連行され、遊水地工事のために苛酷な強制労働をしいられたのでございます。バラ線の張った高いヘイ、明かりのない窓、見張所が作られ、監獄部屋と同じになってしまったバラックの収容所。

うす氷のはりつめる初冬から真冬に近い季節というのに、ヨレヨレの夏の国防服一枚に、ワラで作ったツマゴグツをはき、ワラの手袋をつけ、忠別川の川底の石を素手でかき集めて運ぶ、手足が凍傷にかかり指がちぎれたり、くさったり、それでも奴れい的作業はつづいていました。

戦時中なので日本人の食糧が不足であったという事で、中国人には、小麦粉のだんごや、野さいのおかずだけ、しかもわずかな量でした。いつも空腹にたえなければならなかったのです。

しかも夏は午前6時より 日が暮れるまで、日本人監視のもとに一寸の休みも認められず、針金や丸棒のムチで打たれながら強制労働をさせられていたのでございます。

残酷なリンチに苛酷な労働は、栄養失調と過労の肉体を自然にむしばみはじめ、病人は食べるものも満足にあたえられず、ただ部屋の中のうすい毛布でうずくまっているだけでした。

こうした強制労働とリンチの悲惨な結果は多くの犠牲者を死にいたらしめてしまい、戦争の悲劇はここにもあったわけです。その殉難者は88名にもおよんでいます。

戦後、多くの人々や心ある人達によって何回かの大法要がおこなわれ、特に東川町はこうした行事にも力を入れまして、昭和47年7月7日、旭川市の日中友好協会の方々と共に「中国人強制連行事件殉難慰霊石碑」を除幕するに いたったのであります。

そして遊水地は今もなお東川町、旭川市に及ぶ美田をうるおし、農産業に多くの貢献をにない、日中の友情と平和のちぎりをむすんでいるのであります。
http://www.tao-clinic.com/blog00.php?cat=4&id=1494


▲△▽▼


旭川中国人墓地


昔、中国から強制連行されてきた労働者の墓がある。
戦前に一家惨殺された家族の墓がある。
車に無数の手型がつく。
白い車が特に狙われる。
車の上に無数の幽霊が見える。など。


地図
https://mapfan.com/map?c=43.65136515839951,142.58872269128318,15&s=std,pc,ja


この地図のおおむね中心付近にあります。

 
北海道旅行の「目玉」として、北海道内有数の心霊スポットといわれる中国人墓地を選んだ。

私は行くのが怖かった。なぜなら・・そう・・・
私は白い車に乗っているのだ!!
それゆえ、もしかしたら狙われるのかも・・・と心配していた。
しかし、自分の車がまさかあんな姿になろうとは・・・・

8月1日
内地(爆)では猛暑だと言うのに
この北海道では相変わらず涼しい
私とSKYLINE氏は中国人墓地の正確な場所を割り出すため、
東川町にある、北海道ローカルコンビ二【セイコーマート】にて
詳しい場所を聞くことにした。
ちなみにこのセイコーマート、茨城にも多数ある・・・

コンビニの店員曰く、

この中国人墓地は「東8号の第3小学校付近だったと思うのですが・・」

我々は早速、現地へ向かった。

しかし、それらしいものは何処にも無い。
その代わり、なぜかヘリコプター十数機が保管されている
ヘリコプター基地にたどり着いてしまった。
これは見たい!!見なければならない!!
早速車から降り、ヘリコプターを見物しようとしたそのとき!!

『ごるぅぁぁああああ!!!!』

天地を揺るがす雄叫と共に突如、前方の扉が開き、
中から怪物が飛び出してきた!?
これはもしや?北海道名物「クマ!?」


驚いた私は「スイマセン!スイマセン!」と平謝り・・・

出てきた熊・・・ではなく警備会社のオッチャンに
事情を説明したところ、ヘリにいたずらする奴がいるため警備中との事だった。
早速オッチャンに中国人墓地の場所を聞くと
山の上で、なおかつ隣町の東神楽に近いところだと言う・・
ちなみにヘリは農薬散布用とのこと。

我々は早速東神楽へ向かったが、それらしい場所は無い。
やっぱり夜に探すのは厳しいのか!?
我々はいったん撤収し、明日昼間に探すことにした。

そして次の日、
旭川ローカルデパート「マルカツ」にて1/25000地図を購入。
東川の墓地という墓地をすべてチェック、
しらみつぶしに探す作戦に出た。


【小高い丘、峠道、東神楽の近く】
事前情報からこの3つの条件をみたす墓地を探すことにした。

一つ目、二つ目ははずれだった・・・

そろそろガソリンも無くなって来たので
ガソリンを入れるため北海道ローカルGS【ホクレン】にて給油することにした。

給油中、私は「北海道大学 歴史研究会」を名乗って
店長らしき人物に中国人墓地の場所を尋ねる。
すると、


店長:「ああ、あそこね・・・あんまり遊び半分で行かないほうがいいよ・・
中国人の慰霊碑と、あと【一家惨殺の墓】があるんだよ・・・
行くんなら、道わかんないだろうから、後ついてきて・・」

とのこと。
早速我々は店長の車の後をつけた。
交通量の多い(北海道にしては)道道(=県道)から、
丘の上に登っていく狭い(北海道にしては)道を進むと
店長は車を停め、我々の方へ向かってきた。

そして右手の細い(本当に)砂利道を指差し、

店長:「この先が墓地だから。あんまりふざけた気持ちはもたないこった」

と言い、再び車に乗ると、細い砂利道を進んでいった。もちろん我々も後に続く。

細い森の中の道を100mくらい進んだところに墓地があった。

店長:「これが中国人の慰霊碑で、こっちの7つの地蔵が一家惨殺の奴ね・・
じゃあ、気ィつけてね・・・」

そして、店長は去っていった。

我々は墓地を一通り見た後、帰る事にした。
特に、霊的にヤバイ感じは無かったが、
車のリアガラスを見た我々は凍りついた!!

 沢山の手形が着いているではない
か!!!!!

私は恐怖と共に車のリアガラスを見つめると

「ポタッ、ジワ〜」
「ポタッ、ジワ〜」

なんと手形の正体は上の木の枝から落ちてきた雨水であった・・・

ボンネットを見ると、確かに雨水が無数の「手形」を作っている。
確かに噂どおり、水垢がつきやすい「白い車」のほうが手形は目立つだろう。
そして夜ならば夜露が雨水の代わりをし、同じように手形を作るに違いない。

でも、夜なら夜露が手形を作る瞬間は暗くて見えないだろうし、
帰ってからこの手形を見つけたのではビビるのも無理は無かろう。

ふと、ボンネットに目をやると、エンジンの熱で温められ、白い湯気が立っていた。

「なるほど、これが幽霊か・・・・」

幽霊の正体を暴いた我々は、意気揚揚と引き上げ、そして夜にもう一度行くことにした。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/4641/page013.html


▲△▽▼


旭川市郊外にある「強制連行」の跡標 (1) [北の街] 2005-10-14
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-14

 旭川市から南東(空港から少し東側方向)に向かうと東川町があります。市から外れるとすぐ穏やかな田園が広がっていて車で走っていても心が和む場所です。

 ところが、そこは戦前戦中をとうしてや朝鮮半島から、騙されたり、強制的に連れてこられた人が過酷な労働を強いられて、多くの人が命を落とした所でもあります。その人たちは、ある所では石炭掘り、山林の伐採などをさせられました。

 そしてここでは、田んぼに必要な水を溜めておく遊水池を掘らせれていました。また、それに必要な道路整備やその水を市内に流す放水路作りにも強制的携わらせられたのです。その過酷さは、聞いただけでも見もよだつ思いです。さぞや辛かったろう、さぞや日本人を憎んだろうと思わせます。

 その一つの証言を紹介します。そのTさんは、その当時中学生ぐらいでした、御年77歳になります。学徒動員でその年なりの仕事をしたいたそうで。そのとき見た光景は今でも脳裏から離れずに記憶は鮮明に残っているそうです。

 何があったのか!!その頃は何につけ「兵隊のために」が合言葉のようになっていました。ここは農地ですので当然お米の生産に全力を上げていました。お米には水が欠かせません。それには雄大な大雪から湧き出る水やつき解けで流れる水をどこかで堰き止め、溜めておく必要があります。

 そこで遊水池が必要になったわけです。働き盛りの青年や成人の男どもは戦地に持っていかれていますから、残っているのは一部の兵隊さんと農家の女性と子どもしかいません。そこに、連れてこられたのが中国人や朝鮮人の人たちだったのです。その過酷さは次で紹介します。

このに見える放水路がその一つです
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-14


旭川市郊外にある「強制連行」の跡標 (2) [北の街]
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-17


 今回は、過酷な労働から出来た遊水池について。では一見分かりづらいのですが、池はかなり深く掘られています。

 それはこの辺一帯の田んぼを潤す水を蓄えるわけですから、当然でしょう。同じような池がこの他にもあり、それが中国人や朝鮮人を連れてきて掘らせたわけです。Tさんはこう話してくれました。

 「真冬なんてかわいそうなもんだった。布で作った靴しか与えられなくてな、そんなの何回も土を運んでいるうちすぐ穴が開いてしまうわ。足の指真っ赤に腫らしてな、凍傷なんていうもんじゃない、半分腐っていたもんもいたさ。ずいぶん酷いことしたもんだ。見ていられんかったもんな」

 「ずいぶん堤が高いしな、土は他の所へかなり運んだんだけれど、手が間に合わなくて土手に積み上げたんだ」

 堤が高いということは、かなり深くまで掘った土を、掘った人間が上まで運んだということです。当たり前と思うかも知れませんが、現代のようにユンボがある訳もなくすべて手作業です。ましてや、鉄製のも使わせなかったと聞いています。と言うより、鉄が戦車や鉄砲を創るため、拠出させられていたので、鉄そのものが無かったのだと思います。

 それだけを考えただけでも、どれほど重労働だったか推し量れます。

この写真が強制連行にあったことを物語る跡標です。 

これが遊水池です。今でも水が満々としています。
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-17


旭川市近郊にある「強制連行」の跡標 (3) [北の街]
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-24

 ここまで酷いことをするのか、人間は出来るのかとーー

 国が違う国を支配する。そうするとこういうことが、何の躊躇もなく行なわれてしまうのかと考えてしまいます。Tさんの話を続けます。

 「冬になっても足には草鞋しかはかせないで、素足のままだ。凍傷になって足は真っ赤に腫れ上がっていた。そうなったら長くはもたんな。当然死ぬよ。死んだら穴を掘って捨てるように埋めていた。まったく酷いことをしたもんだ。可哀そうにな」

 「戦争が始まった頃、道路拡張の工事があってだいぶん進んでいた頃なんだわ、こっちの方がもっと悲惨だったんじゃないかな」と話します。

 「強制労働者は、天秤棒を担がされて、その両端には砂袋だ。それに掘り起こした土を詰め込んで運ばされていたんだ。一日に何回も往復させられていたさ。それを続けて何日もやらされるもんだから、肩は真っ赤に腫上がって水脹(ぶく)れになっていた」

 「そりゃ毎日だからな、水脹れが破れて中の肉がでてきてただれてしまっていた。そりゃ酷いもんだったさ。それでも天秤棒を担がされてな、血がたれていたよな」

 そこでも、日本の軍人はただ命令するだけで、誰一人として助けようとはしなかったのですか、と聞くと、「それどころか、その赤く腫れあがったところに、煮えきった油をかけていたのさ。酷いなんちゅうものじゃなかった。そうしたほうが、その水脹れが早く治るっていうんだと言ってな」

 彼らは、その繰り返しだったらしいのです。当然長くは続けることは困難でした。

 「菌が入ったらもうおしまいだ。そうなったら長くはもたんな。当然死ぬよ。死んだら穴を掘って捨てるように埋めていた。まったく酷いことをしたもんだ」。 T さんは「可哀そうにな」と、今でも思い出さない日はないと言います。

 今では、「中国人殉難裂士」の慰霊碑が建てられています。しかし、ここには「観音堂」があったらしいのですが、Tさんは、今はどこへ行ったのか分からないそうです。

 そして、そこから細い道を登っていくと、中国人墓地があります。ひっそりと静まり返っています。林の中に、ぽつんと墓石が立てられているだけです。もう私たちの記憶の中から、忘れられています。

 そう言う私も、昨年Tさんから話しを聞くまでは、「中国人墓地」があるのは聞いていました。ただ、それはにある外人墓地的な感覚でした。連れて行ってもらって、始めてそこに何故「中国人墓地」が存在するのかを知りました。

 またその先には、今は日本一の設備を有するのではないか、と言われている忠別ダム工事が行なわれています。その先に見えるのが、今まで旭川を含めて近郊の電力をまかなってきた、忠別発電所があります。

 そこでは、強制連行されてきた朝鮮人の人たちが、中国人強制労働者と同じような犠牲を強いられてきていた過去があります。 

 どんな戦争でも、領土の奪い合いは民族間の支配関係を露わにします。支配する側は、支配される方を奴隷同様の扱いをし、自らの国家を「神の国」扱いにしたがります。だから、お前らは俺達の言うことを聞けと。

 しかし、歴史を見ても、たとえ一時それが最頂期を迎えたとしても、いずれは廃れます。そこに、また新しい怨念の連鎖が始まるだけなのです。

 3日にわたって、旭川の近郊で起きたことを書きました。是非、戦争の悲惨さを若い人に伝えたくて書きました。今、イラクでも同じようなことが起きています。


中国人殉難裂士慰霊碑                           

忠別発電所

中国人墓地
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-24


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朝鮮人強制動員被害のはなし 過酷なタコ部屋は 11カ所あった - 東川町
https://town.higashikawa.hokkaido.jp/living/.../2010-12-06KYOUSEI_ROUDOU.pdf


太平洋戦争前の戦前から戦後にかけて、忠別川流域の東川町内であったといわれる朝鮮人強制労働の実態解明調査を行っている「江卸発電所・忠別川 遊水池・朝鮮人強制連行・動員の歴史を掘る会」(近藤伸生代表)は昨年 10 月、掘る会メンバー6人と、東川町から企画総務課長も同行して慶尚南道に 調査へ行きました。


タコ部屋近くに住んでいた方、仕事 でたこ部屋に出入りしていた方からの 証言では、東川町内 11 カ所、旭川市東 旭川忠別地区遊水池の近く1カ所、東 神楽町3カ所の存在が今までに明らか になっている。およその位置は以下のようだった。

@東9号第一遊水池側(東川の方の証   言)


A東8号第一遊水池の向かい(同)   遊水池工事は、中国人を強制連行し てくる前は朝鮮人が働かされていた。 韓国で聞き取りの中でも当時朝鮮から 動員された方が証言している。


B東6号南(同)   第2頭首工から東川の 第2遊水池に向かう用水 路の一部では朝鮮人が働 かされていた。当時、中国人や朝鮮人がとてもひ もじそうだったので、工 事現場近くの農家の方が 日本人監督の分も含めて かぼちゃ、じゃが芋を蒸 かしたものを鍋に入れて人数分用意し、 そっと差し入れしたこともあった。


C志比内橋のふもと、東川寄り(元忠   別村の方の証言)   鉄条網を周りに張り巡らし、逃亡を 防ぐため囲いの中に犬が放されていた。 複数の方から犬と金網の証言が出てく る。江卸の工事現場から逃げ出した朝 鮮人を探すため、山狩りにはよく犬が 使われていた。

D熊の沢つり橋の手前(東川の方の証   言)


Eピウケナイ取水口の近く=2つたこ   部屋(同)


Fノカナンの沢取水口(同)


G小桧山温泉近く=ノカナンの沢の奥 (同)


H旧江卸発電所放水路の上(札幌市内   在住の方の証言)   学徒動員の学生と発電所技術者用の 小屋、その隣に朝鮮人のたこ部屋があ った。当時現場で学徒動員の学生と朝 鮮人が一緒になることはなかった。


I旧江卸発電所放水路の下(東川の方   の証言)


Jノカナンの沢と忠別川の合流点そば (元忠別村の方の証言)  


ノカナン、ピウケナイから出た土砂 で大きなずり山ができている。忠別湖畔の散策広場から対岸のずり山が見え る。親からは工事でなくなった朝鮮人 もあの中に埋まっていると聞かされた ことがある。  

当時、忠別村には江卸発電所の工事 現場から逃げてきた朝鮮人が何人もい たようだ。戦後、村の中で戦時中のこ とを自由に話せるようになって、初め てかくまって逃がしていた家が何軒もあったことが分かったという。

この村 では、朝鮮人が逃げてきたという密告 は一件もなかった。  

戦後しばらくたってから、

「逃げてきた人にご飯を食べさせ、母親が夜なべしてその人に合うように父親の服を 縫い直して着せて逃がした、というこ とが数回あった」

と親から聞いて当時 の事情を初めて知ったという人もいた。 逃がした朝鮮の人が、戦後お礼にやっ てきたことがあったという。   逃げてきた朝鮮人も、逃がした日本人も命がけの時代だった。  

母親から

「やせてシラミだらけの服 で命ごいをする朝鮮人を見て、『人間 をこんなにまでして』と思うと、とて も警察に突き出すことはできなかった」

と聞かされた。


江卸発電所・忠別川遊水池・朝鮮人強 制連行・動員の歴史を掘る会 代表 近藤伸生 

北海道で行われた強制労働について 2011年06月19日


 北海道は今やクルマ社会であるといえるが、かつては、鉄道があちこちに張り巡らされて、道路が完全に整備されていなかった昭和30年代頃までは、鉄道が地域住民の足として機能していた。その鉄道建設工事の影には、たいてい強制労働がつきまとっていた。

 ここでは、北海道の強制労働の歴史について触れながら、私が入手した資料と現地で見聞きして得た、強制労働の実態を取り上げるものとする。

 北海道は、明治時代になって本州から移住民による開拓が行われるようになった。だが、未開の地であった為に道路がなかったので、まず囚人を使って道路を敷設する事にした。

 小樽から札幌の北を経て旭川方面に至る道路、旭川から北見峠を越えてオホーツク海の湧別・網走に至る道路、更に網走から標茶を経て釧路に至る道路等は、囚人の手によって造り上げられ、開拓民や屯田兵は、囚人の造り上げた道路を使って奥地を開拓し、入植をしていった。

 また、北海道の森林資源や鉱石・石炭資源が着目されて、鉱山等でも囚人労働が行われ、あらゆる土木工事で囚人労働が行われるようになった。

 ここで、鉄道トンネルに人柱が立てられた石北本線の常紋トンネル付近の鉄道工事がいかに過酷であったか、湧別線建設概要から漢字を平易化して抜粋する事にする。

 …奔無加上生田原間ハ北見国常呂、紋別両郡境前後ノ深山幽谷ナルヲ以テ分水嶺ニ延長千六百六十余呎ノ隧道ヲ穿チ上リ下リ共四十ノ一乃至五十分ノ一ノ急勾配ヲ設クルモ尚ホ高築堤、深切取ヲ要シタル

此ノ区間ハ密林鬱蒼トシテ昼尚ホ暗ク時ニ猛獣出没スルアリ
人跡未タ至ラス固ヨリ既成道路ノ材料ノ運搬ニ特別ノ考慮ヲ要シ工事施行上困難ヲ極メタリ…

 この強制労働で使われた囚人は、明治政府の方針に反対して捕らえられた政治犯が多かったという。鎖に繋がれて死ぬまで労働をさせるので、死刑よりも過酷であるこの刑には反対の声が上がり、また、土木工事での労働力の不足から、明治中期には囚人労働はなくなった。

 しかし、未開の地であった事から、人を募集しても人が集まらない事は目に見えていたし、途中で脱落者が生ずる事も考えられた。また、公共の職業斡旋の形態ができあがっていなかった事もあり、民間業者が労働力をかき集めてある場所に幽閉し、劣悪な労働環境下で酷使する、いわゆるタコ部屋労働が行われるようになった。

 本州でも、タコ部屋労働はあったが、北海道では未開の地であった等の理由で労働者が敬遠する為に、後々まで行われたのである。

 民間の職業斡旋業者が、騙したり強引に連れ去ったりして確保したタコは、土木業者に引き渡されて、監獄のように鉄格子を窓にはめ込んだ建物に閉じ込められた。

 このように、強制労働は、囚人を使った囚人労働から、騙す等の違法な手段によって集めて働かせたタコ部屋労働へと変貌していったが、これだけでは終わらず、ついに外国人を強制労働に使うようになった。

 タコ部屋労働に使われた外国人は、朝鮮人を中心に、中国人や連合国捕虜も含まれている。日韓併合によって「日本国民」にされた朝鮮人の場合には、朱鞠内歴史保存委員会のパンフレットによると、昭和14年09月に「募集」、昭和17年02月には「官斡旋」という名目で強制連行され、更に昭和19年09月には「国民徴用令」を朝鮮半島に適用して強制連行が行われたらしい。

 いずれにしても、タコとされた労働者は、粗末な食事で長時間労働をさせられて、過酷な労働に耐え切れずに逃亡を図ったり、不満を言った者には、管理者である世話役や棒頭から激しい暴行を加えられた。

 このような光景を目撃した地元住民も多く、警察は事実を知っていても表沙汰にする事はほとんどなかった。そればかりか、警察が逃亡したタコを追跡する事例があったらしい。

 暴行を目撃したり苛酷な労働を目撃した地元住民にとっては、この世の光景でなかっただろう。中にはこのような事実を話したくない方も非常に多いに違いないが、このような事は、今後絶対にあってはならないのだから、後世に語り継ぐ必要がある。

 私は、そのような思いで、鉄道の跡地の探索の時間を削ってでも聞き取り調査を優先している。ここで、私が実際に聞いた目撃談を2つ紹介する。


北海道河西郡更別村 国鉄広尾線鉄道工事現場における事例

 この辺りでもタコ部屋労働が行われ、労働者には朝鮮の人も含まれていた。朝、小学校に通学する際に、仕事場へと向かう労働者(7時位から仕事をしていたらしい)とすれ違っていたが、10月(※当時 現在の十勝地方の11月位の気温に相当か?)なのに衣服は赤い腰巻だけであった。

 この付近の工事は難航し、南4線川になかなか橋を架ける事が出来なかったので、とうとう6人の人柱を立てる事にした。人柱は、橋の台座へお経を唱えられながら埋められた。また、この付近の工事では死人が続出したので、そこいらに穴を掘って埋めてそのままにしていった。

 広尾線が開通し、戦争もたけなわになって村から多くの男子が兵士として出征していった頃の事、駅長が終列車に老男性が乗っていたのを見たはずなのに実際には乗っていないとか、終列車の後に線路の点検をしながら歩いていると、火の玉を見たり足音を聞いたりしたとか、変な事が立て続けに起こった。

 あまりにもこのような事が続いたので、当時の更別駅長が地元の方々に慰霊碑の建立を依頼してきた。そこで、ささやかな祠を建立したところ、このような事はなくなった…。


北海道宗谷郡猿払村 旧軍浅茅野飛行場建設工事現場における事例

 当時は重機もないので、飛行場の滑走路は人の手で土を運んで均していった。この作業は真冬でも除雪しながら行われたが、彼らの服装は、むしろ(?)を体に巻きつけただけで、裸足(?)のままで作業を行った。

 滑走路は複数用意しようとしたらしく、滑走路が1本完成したのに続いてもう1本着工したが、完成までには至らなかった。

 今回聞き出した事例は、暴行の事例ではなかったものの、季節に関係なく服装が粗末であった点が共通している事から、タコ部屋労働は劣悪な環境であった事がうかがえる。実際、雨竜ダム建設工事を始めとするタコ部屋労働における犠牲者の死亡原因は、ビタミン不足が原因で起こる脚気が多かったらしい。

 空知民衆史講座のパンフレットによれば、胆振縦貫鉄道(→国鉄胆振線)建設工事では、温泉がある大滝村北湯沢の熱湯の湧き出すトンネル工事で1時間に50人の朝鮮人労働者の突入を繰り返した事例があったそうだ。

 「人柱」の事例は、科学が発達していなかった迷信や神仏が信じられていた時代ならともかく、人類が空を飛ぶ20世紀になって「人柱」がまかり通っていた事実は信じ難い。

 人柱に関する情報として、国鉄瀬棚線の建設工事では、花石〜北住吉間の鉄橋(一説には、第一白川橋梁)に人柱が埋められたという噂がまことしやかにささやかれているが、既に撤去された今となっては、確認のしようがない。

 また、前出のパンフレットによれば、自衛隊の矢臼別演習場の前身である陸軍種馬場建設工事で、朝鮮人労働者を人柱にした等の残虐な行為があったらしいし、北海道雨竜郡幌加内町の雨竜ダム建設工事では、コンクリートに埋め込まれた人もいるとの証言がある。

 さて、住民から国鉄広尾線建設工事のタコ部屋労働の事例をとりあげてみたが、広尾線建設概要では当該工事現場を含めて全ての工区で犠牲者が出たとか工事が難航した事は書かれていない。という事は、故意にとりあげなかったのではなかろうか? ここで、タコ部屋労働が行なわれた国鉄瀬棚線の鉄道建設工事について、瀬棚線建設概要から漢字を平易化して抜粋する事にする。

 …国縫起点自三一粁五○○米至三二粁,自三五粁七○○米至三六粁三○○米,自三六粁六七○米至四五粁二○○米附近の場所は何れも泥炭地帯にして築堤の沈下を見又三三粁○五○米附近の切取箇所は流水甚しく工事の進捗を阻ぐるものがあつた

殊に大正一五年一一月一四日本線二粁四○○米附近の切取に於て又同年一二月十二日五粁八○○米附近用地外土取場に於て更に昭和二年四月十二日二粁三○○米附近用地外裏込石採集場に於て何れも岩石崩壊し之が為め前後三日を通じ人夫三名の死者と重傷者二名を出した事は昭和五年九月四日二五粁五七○米附近「下ハカイマツプ」川橋梁四○呎四連の架渡工事中桁転落の為め職員一名即死人夫二名の重軽傷者を出した事と共に本線建設工事の一大犠牲であつた…

 この文書を単純に読むだけでは、鉄道工事が容易ではなかった事しか読み取れないだろうが、瀬棚線の工事現場は凄惨を極めた。

 昭和50年代後半から本格的に始まった国鉄赤字ローカル線の整理に対して、瀬棚線を守る住民会議が設立された際に、住民会議の事務局の仕事をしていた方がタコ部屋労働に関する噂を聞きつけ、工事に従事したり工事に関係した人達を探し出して、当時棒頭をしていた方からやっと聞き出す事ができた工事の実態は、ひどいものであった。

 何でも、1号トロに3分間で1.5リューベ積みこむ、今の10倍位の労働であったそうで、少しでも遅れれば殴られた。また、労働時間は06時から18時までという名目であったが、実際には03時から始められたそうだ。

 また、逃亡者が多くタコ5人に棒頭が1人ついていたそうで、逃亡してもすぐに捕まって、見せしめとして派手に暴行を加えられて、大怪我を負って働けない状態になっても翌日には現場に連れて行かれたそうだ。

 そればかりか、逃亡に失敗して捕まったタコを首だけ残して埋められた実例がいくつかあり、実際に、証言者は首だけ残して埋められたタコを足蹴にしたという。

 囚人労働でとりあげた湧別線建設概要の本文やタコ部屋労働でとりあげた瀬棚線建設概要の本文でわかるように、公文書では、往々にして自分達に都合の悪い事はほとんど触れないようなので、文章の背後に潜む事実を推測する必要があるかも知れない。

 いずれにしても、北海道では、日本が太平洋戦争で敗北するまで、鉱山や土木工事等ではタコ部屋労働が日常的に行なわれ、満足に栄養が与えられず劣悪な衛生環境でかつ、劣悪な工事環境で、利潤を生み出す「道具」として長時間働かされて、多くの犠牲者を出した。

 私は、戦前に着工されていた北海道の旧国鉄路線では、たとえ記録として残っていなくてもタコ部屋労働が行なわれたと思っており、特に、戦争中に何らかの工事が行なわれていた国鉄路線では、必ずタコ部屋労働が行なわれたと確信している。

 また、工事の際には人柱もあちこちに立てられたと思っている。人柱が立てられるようになった歴史的経緯を考えると、鉄道工事では地形の険しい箇所の長大トンネル工事や主要橋梁に人柱が立てられたのではなかろうか。

 過去に自分が体験した事が余りにも荷が重過ぎるかも知れないし、タコは親不孝者や怠け者の成れの果てと教え込まれて無意識のうちにタコの話をしたくない方もいるかも知れない。タコ部屋労働が過ちであったと思う気持ちが少しでもあれば、今からでも遅くはない。誰かに伝えるべきである。

 過ちを過ちと認めないのは愚かな事であり、同じ人間なのに人格を否定されてタコとしてむごい最期を遂げられた労働者がいつまでも浮かばれない。もし、今からでも歴史の過ちを後世に伝える気持ちがあったら、情報をお願いします。

 ささいな情報でも構いません。あなた自身若しくはあなたの先祖が見た光景が、歴史の重要な証言となります。

 最近、後世に「負の歴史」を伝える行為を「自虐的」であるとする風潮があるようだが、私は決してそのように思わない。

 人間は高度な知識と知恵を有する動物だが、人間がとる行動は全て正しい訳ではない。長い間生きていれば失敗する事も必ずある。過去の失敗を振り返って反省する行為は、人間がより賢くなろうとする純粋な行為であり、決して恥ずべき行為ではないと確信している。
http://blog.goo.ne.jp/80k700/e/0285e5b12f4510db384f391e977c8287


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【笹の墓標】

戦前、北海道の雨竜ダム建設工事で亡くなった強制労働犠牲者の遺骨発掘に参加した神沼公一郎は、作業中に腐乱死体を発見。

遺体はなんと神沼の元恋人で、東京で変死した葦原奈美のいたクラブ「銀馬車」の従業員・上月良彦だった! 

道警の星野と宮川は「銀馬車」の顧客リストを捜査、その中に、強制労働に関係し、奈美とも接点を持つ北海道政財界の大物三人の名を発見した! 五十数年前の悪夢と現在を結ぶ忌まわしい過去とは? 時間と空間を超えて投影された運命の非情を描く森村文学の神髄!


序章

 深夜、山の方角の中腹に火が見えた。通常、火を焚く場所ではない。

 火が見える夜は、工事現場や飯場に死者が出たときである。労働者たちは、あそこで死体が焼かれているのだと噂し合った。だが、噂の真偽を確かめた者はいない。労働者たちは、自分がいつ、
あの火の燃料にされるのかとおののいた。

 宿舎の格子窓が白むころ、労働者は叩き起こされる。

「起きろ。働け」

 棒頭や取締人と呼ばれる班長が、六角棒を手に容赦なく労働者を叩き起こす。中にはせんべい蒲団をまくられ、六角棒で叩かれても動かない者がいる。ほとんど虫の息になっていて、動きたくとも動けないのである。時には、夜のうちに死んでいる者もいた。

 土工夫(労働者)たちからタコ部屋と呼ばれている宿舎は粗末な仮小屋で、逃亡を防ぐために窓には鉄格子がはめられ、夜間出入口には閂がかかる。板張りの床には筵が敷かれただけで、冬は容赦なく吹き込む隙間風が筵を吹き上げた。

 タコ(強制)労働者と強制連行された朝群人労働者の宿舎は分けられているが、実態はほとんど同じである。

 宿舎は中央の土間を挟んで左右両翼に分かれる。左手が親方や棒頭の個室、右手が労働者の寝室に当てられていた。

 前日の重労働が重く澱んでいる睡眠不足の身体を無理やりに奮い立たせ、洗面器1杯の水で何人もが顔を洗う間もなく、「飯上げ」(朝食)の号令がかかる。

 食事の内容は米3、麦、芋等7の割合の飯盛り切り1杯、味噌2、塩8の味噌汁1杯、漬物2切れ。弁当は前記割合の握り飯1個である。労働者たちはいずれも栄養失調で、腹が脹らんでいた。

 食事も食物を味わう余裕などはない。ただ、最低限の生命を維持するためだけに動物の餅にも劣るような粗食を大急ぎでかき込む。労働実績のよい者は上飯台と呼ばれる部屋で食べ、中程度の者は中飯台と称するテーブルに座って食べ、最下級の老は下飯台と呼ばれ、立って食う。

「おれはもうだめだよ」

 朝鮮の郷里から騙されて連行されてきた李景信が、朴命水に力なく言った。

 李は48歳で、この朝鮮人部屋では最年長である。李の衰弱は最近とみに著しい。李は風邪をこじらせ、熱があった。だが、そんなことは仕事を休む口実にはならない。

 高齢に、粗食と重労働を重ねて、もはや李の身体は使いものにならなくなっていた。これまで若い朴が庇ってきたので、辛うじて今日まで生きてこられたのである。

「李さん、なに言ってるんだ。そんな弱音を吐いちゃいけない。頑張れ。生きてさえいればチャンスはある」

 朴は李の耳に口を寄せて励ました。

 朴は信用人夫と呼ばれる自由契約の労働者であるが、タコ部屋に入れられて、信用人夫もタコ労働者もほとんど差のないことを知った。信用人夫は契約であるから、いやならばいつでもやめられるはずであるが、そんなことを言い出そうものなら、棒頭のリンチが待っている。

 今日は労働者がアヒルと呼んでいる水中作業である。厳寒期の水中作業で、李の足は凍傷が悪化して肉が崩れ、足の指の骨が見えている。骨が露出した部位に藁を巻きつけて作業現場まで這いずるように歩いて行き、水中に入るので、凍傷は悪化する一方である。

 厳寒期にもかかわらず、衣類はジュート麻の生地で、豆や米を入れる南京袋の繊維である。保温性はきわめて低い。ジュート作業衣をまとったタコ労働者が並んで歩いていると、南京袋の行列のように見えた。

 李景信は朴命水に担がれるようにして、とにかく作業現場まで行った。

 現場に着いたところで、李の体力は尽きた。身体は高熱を発して燃えるように熱い。

「この身体ではアヒルは無理です」

 朴は棒頭に訴えた。

「なんだと、この野郎。ふざけやがって。仮病をつかってサボろうとしやがっても、そうはいかねえぞ。立て。働け」

 労働者たちから鬼頭と呼ばれて恐れられている北山という棒頭は、持っていた鞭で李を殴りつけた。だが、李は動けない。棒頭はますます激しく殴りつけた。

「棒頭、李さんが死んでしまいます」

 朴は鞭を振るう棒頭の手を押えた。

「この野郎。きさまも痛い目を見てえのか」

 棒頭の容赦ない鞭が朴の顔面を打った。火を当てられたような苦痛に耐えながら、

「李さんの分まで私が働きますから、休ませてやってください」

 となおも訴えた。さすがの鬼頭も死なせてはまずいとおもったらしく、舌打ちをして、

「きさま、いまの言葉を忘れるな。その役立たずを小屋に運んで、2倍働け」

 と朴に命じた。

 宿舎に担ぎ込まれた李は、奄々たる気息の下から言った。

「朴さん、おれはもう助からない」

「なにを言うんだ。ちょっと熱が出ただけだよ。すぐ元気になる。2人で一緒にこのタコ部屋から逃げようと言った約束はどうしたんだ。頑張れ」

「おれはもう約束を果たせない。あんた1人で逃げてくれ」

「おれが李さんを残して逃げるとおもっているのか」

「一緒に行きたいが、おれはもうついて行けないよ。頼みがある」

「1人で逃げろと言ったって、だめだよ」

「おれは遅く結婚したので、郷里に今年10歳になる娘がいる。娘の名は貞媛。あんた、このタコ部屋から逃げられたら、おれの郷里へ行って、娘にこれを渡してくれ。娘にいっぱい土産物を買って帰ろうとおもっていたが、これしか買えなかった」

 李は1本の赤い珊瑚の櫛を差し出した。

「李さん」

「世話になった。あんたに会えてよかった。あんたは若い。こんなタコ部屋で死んじゃあいけないよ。あんた1人ならきっと脱走できる。この戦争は間もなく終わる。平和になったら、あんたのような若い力が必要になる。あんたの活躍をあの世から見守っているよ」

 朴の手を握った李の手が急速に弱くなった。李はその夜死んだ。

 死体は近くの寺の本堂に一夜仮安置された後、いずこかへ運ばれて行った。

 翌日の深夜、朴は山の方角の山腹に火を見た。その火を見つめながら、朴は、

「李さん、許してくれ。あんたと一緒に逃げるという約束を守れなかった」

 と涙をこぼした。闇の奥の火がまたたいた。朴にはそれが、

「約束を守れなくなったのはおれのほうだよ。許してくれ」

 と李が答えたようにおもえた。

 朴は幼いころ両親に連れられて来日した。23歳のとき、横浜で沖仲仕をして働いていたが、仕事がなくてぶらぶらしているとき、1人の男から肩を叩かれた。

「兄さん、閑そうだね。いま、なにをしているんだい」

 一見40代の上等な服を着た羽振りのよさそうな男が問いかけてきた。

「べつになにもしていないよ」

 朴が答えると、

「北海道へ来ないかい。いい仕事を世話してやるぜ。1日5円、働きぶりによっては8円、10円も稼げる。いま北海道は人手が足りないから、いい金になるよ」

 当時、公務員の初任給が75円の時代である。庶民の食べ物であるカレーライスも20銭から30銭である。

「1日5円から10円だって」

 朴は目を丸くした。

「そうとも。それもうまい飯付きだ。白い飯を腹一杯食って、肉や魚や酒も付くぞ」

 男は甘い餌を、仕事にあぶれていた朴の前に並べ立てた。朴はその場で男と1年の契約をした。

 だが、男に北海道の雨竜ダムのタコ部屋に送り込まれた朴は、男に騙されたことを知った。1日5円どころか2円50銭。しかもその日給から食費、蒲団代、地下足袋代などを差し引かれると、ほとんど手許に残らない。前借りのある者は利子を差し引かれるので、必死に働いても賃金が利息においつかない。朴は契約して出稼ぎに来たつもりであったのが、朝鮮人狩りに引っかかったことを悟った。

 朴が送り込まれたのは、北海道北部山間の雨竜発電所工事現場であった。この工事は陸海軍の拠点飛行場建設にも匹敵するような、北海道最大の土建工事である。折から戦時下の労働力不足もあって、大量の人間が朝鮮や東北地方、また京阪の都市部から「人間狩り」と言えるような募集によってかき集められてきた。

 朴は契約労働者であったが、李景信は郷里の朝群南部の村から北海道北部の工事現場に強制的に送り込まれたのである。工事を担当した元請けの下に、下請け、孫請けと多数の業者が犇めき、人狩り屋(周旋業)と提携して不法に集めた労働力を確保していた。

 雨竜ダム工事の飯場に送り込まれた朴と李は騙されたことを悟り、逃亡の機会を狙っていたが、監視が厳しく、果たせないでいる間に、李は死んでしまった。

 飯場からの逃亡者はあとを絶たなかった。厳しい監視の目を潜って逃亡しても、たいてい警察や憲兵、棒頭や犬の追っ手に捕まって連れ戻された。強制連行労働者の5分の1は逃走を図ったが、北海道の逃走成功率は全国平均の半分以下で、極めて逃走が困難である。逃亡を企てた者は見せしめのために凄まじいリンチに遭う。

「お国のための工事から逃げようなんて、太え了見だ。その根性を叩き直してやる」

 棒頭は全労働者の見守る中で、連れ戻された労働者を六角棒や鞭で殴りつけ、気を失えば水をかけ、水を一杯に入れた洗面器を捧げ持たせてコンクリート床に正座させた。姿勢を崩すと、また六角棒や鞭が飛ぶ。あまりの苦しさに自殺を図る者もあった。

 逃亡を決意した朴に、朝鮮人の強制労働者が耳打ちした。

「旭川手前の近文にあさひ屋食堂といううどん屋がある。そこは夕張炭鉱に連行された朝群人たちが結成した救援委員会の出先だ。そこへ逃げ込めば、逃走の手引きをしてくれるぞ」

 朝鮮人労働者の救援委員会があるということは密かにささやかれていたが、具体的な出先を聞いたのは初めてである。仲がよかった李に死なれて、朴は逃亡の意志を固めた。この飯場から逃亡に成功した者はほとんどいない。

 飯場の監視に油断はなかった。脱走の機会をつかめぬまま、朴に過酷な日々がつづいた。

 起床は夏が午前5時、冬は5時半、食事は常に下飯台で立ったまま。6時ごろから日没まで重労働を強いられ、夜は垢と脂でてかてかに光る、綿が団子のように固まったせんべい蒲団にくるまって眠る。いつも腹をへらし、番犬の飯を盗み食いした。

 冬は寒さに耐えられず、労働者同士で衣服を盗み合った。稀に許される入浴も、衣服を盗まれるので入らない。枕にする四寸角の木材も暖をとるために燃やしてしまい、枕なしで眠る。人間性を無視した最底辺の環境でも、労働者は生きていた。

 ようやく長い冬が終わって、北辺に短い春が訪れると、労働者はほっと一息つく。ともかく寒気という最強の敵から逃れた。

 だが、春から夏にかけては逃亡が多くなるので、監視も厳しくなる。逃げるとすれば冬季以外にはなかった。凍死は免れたものの、また次の冬がくるまで自由は遠ざかる。

 現場で作業開始に際して、棒頭から言い含められた上飯台が立ち、

「シャツを脱げ。ズボンを取れ」

 と命じて、褌1本でしばらく働いた後、

「褌を取れ」

 と号令が下る。全裸の異様な男の集団がスコップを振るい、土を運ぶ。疲れてくると、棒頭の合図によって、

「気合いを出せ」

 と号令がかかる。労働者たちは一斉に、えいえいえいと掛け声を発する。全裸ならば逃亡できない。人間性を無視した牛馬に劣る労働であった。

 異様な労働者の集団が泥塗れになって働いているかたわらを、若い女子作業員が通り過ぎて行くことがあった。近くの女学校から動員された女子奉仕隊である。若い娘の群は面を伏せて、強制労働者の方を見ないようにして通り過ぎて行ったが、朴にとっては全身が震えるような屈辱であった。

日が没して飯場へ帰る途中、数人の動員女子奉仕隊が歩いていた。

 まったく女っ気のないタコ部屋労働で、若い女性と遭遇して、労働者たちの心は久し振りに和んだ。南京袋ながら、いまは衣服を身に着けている。緑濃い山のかなたにまだ夕映えが残り、湖の方角から涼しい風が吹いてきている。

 そのとき前を歩く娘たちが新聞紙の包みを落として行った。なにかとおもって棒頭の目を潜って拾い上げた朴たちが、新聞紙を開いてみると、中から握り飯が出てきた。朴たちが夕闇の中に遠ざかる娘たちの一群に、感謝の意をこめて手を振ると、娘たちも手を振って応えた。

 そんなことがあってから、娘たちはときどき新聞紙に包んだ握り飯を落として行ってくれた。言葉こそ交わさなかったが、強制労働者と若い娘たちの淡い交流であった。

 強制労働者にまた恐ろしい冬がめぐってきた。女子奉仕隊も帰ってしまった。山は雪に覆われ、ダムにせき止められて出現した湖が氷結した。だが、朴にとっては待ち望んでいた冬であった。

 朴は春から秋にかけて逃走路を充分に研究していた。

 まず、南方の深川の方へ逃げる。追っ手を躱すために道路は避け、山を越えて行く。雪中の厳しい山越えとなるが、朴は体力には自信があった。安全圏にたどり着いたところで列車に乗る。深川まで行けば成功の確率は高くなる。

 朴は脱走に備えて、密かに食糧を溜めた。飯や握り飯を少しずつ残して団子をつくり、雪の中に隠しておいた。食糧は約3日分備蓄した。

 飯場に送り込まれてから爪に火を灯すようにして25円はど貯めた。このころは上野・青森間が7円25銭であるから、列車に乗りさえすれば交通費は充分である。

 南京袋の作業衣ではすぐ露見してしまうので、飯場に送り込まれて来たとき着てきた私服を、この日のために隠し持っていた。

 朴は脱走に備えて、棒頭や取締人に気に入られるように従順に、熱心に働いた。日本語も自由に操れるので、彼は棒頭や取締人の信頼を得ていた。

 若いながら上飯台に昇格した。鬼棒頭も朴には心を許し、上飯台の上の模範台への昇格をほのめかした。

 模範台になれば食事内容も幹部並みになる。平土工夫のように泥に塗れてスコップを振るい、もっこを担ぐこともない。入浴や洗面も頻繁に許される。なによりも監視の目が緩む。棒頭や取締人も、まさか模範台侯補者が脱走の機会を狙っているとはおもわない。そこがつけ目であった。

 冬は監視が緩むといっても、厳寒期は無理である。山に雪は残っていても、気温の緩む3月下旬から4月上旬にかけてが狙い目である。このころになると、厳寒期のような凄まじい風雪はなくなる。

 4月5日の夜、飯場が寝静まったのを待って、朴は便所へ行くふりをして、便所の窓から宿舎を抜け出した。便所の窓の格子を1本、用便の都度緩めておいた。外から見ただけではわからないが、はずせるようにしておいた。抜け出した後、格子は元どおりにはめた。

 最も恐ろしいのは犬であるが、平素から犬を手なずけておいた。番犬も朴が手を出すと舐めるまでに懐いている。

 首尾よく宿舎を抜け出した朴は、雪明かりを頼りに山中へ入った。途中まで雪の解けた道を歩き、足跡をたどれないようにする。これまでの経験からこの天気が2、3日つづくことを知っている。

月はないが、雪明かりで充分明るい。

 おそらく明日の朝の起床時間までは時間を稼げるであろう。その間にできるだけ遠方まで距離を稼ぐ。もし脱走に失敗すれば、尋常のリンチではすまないだろう。鬼頭が信頼していただけに、裏切られた怒りがどんなものか、描まったら命はないものと覚悟しなければならない。

 朴は歩きに歩いた。私服の上にジュート麻の作業衣を重ね着していた。零下に冷え込んでいるにもかかわらず汗にまみれるほどであった。

 かなり距離は稼いだが、道路や集落に出るのは危険である。朴は食糧のつづくかぎり、3日間山中で過ごす覚悟であった。

 これまで飛びっちょ(逃亡者)が出ると、駐在所に通報すると同時に、作業を中止して、上板台2、3人を留守番に残して、棒頭以下、全員が捜索に出る。3日間探して見つからないと、あとは警察や憲兵に委ねて、作業へ戻るのが常であった。

 警察や憲兵は不審の者を見かければ、尋問したり捕えたりするが、積極的に捜査をするわけではない。3日間逃げ延びられれば、まずは第一関門はクリアしたことになる。

 山中を3日間歩き通して4日目に、朴は疲労でふらふらになりながら里へ出た。農家の納屋から作物を盗んで胃袋を騙し、4日目の早朝、駅の待合室に入った。ジュート麻の作業衣は山中に脱ぎ捨てたので、一般人と変わりない服装になっているが、そのぶん寒い。

 駅の待合室にはまだだれもいなかった。下りの1番列車が間もなく来る時間である。駅員が出札口のカーテンを開き、窓口に眠そうな顔を見せた。ちょうど折よく1人の老女が待合室に入って来た。朴は咄嗟におもいついて、老女に5円札を渡して、

「お婆ちゃん、悪いけど、稚内まで1枚切符を買ってくれないかな」

 と頼んだ。これまでの逃亡者のほとんどは、駅までたどり着いても札幌方面へ逃げる。朴は逃亡先を隠すために、故意に逆方向の稚内までの切符を買ってもらった。

 老女はなんの疑いも持たず、稚内までの切符を一緒に買ってくれた。

 1番列車が白い蒸気を吐きながらホームに入って来た。脱走後最も緊張する瞬間であった。車内に追手が待ち構えていたら、万事休すである。だが、追っ手らしい気配はなく、朴は無事に乗り込んだ。

 客室内にいるのは危険なので、便所に隠れていた。早朝の車内は乗客はまばらで、追っ手が来れば一発で捕まってしまう。

 幸いになにごともなく、救援委員会の出先があるという近文駅に降りた。あさひ屋食堂は駅の近くの狭い路地にあった。早朝であったが、起きている気配であった。

 朴が表のガラス戸を叩くと、戸が開かれて、若い娘が顔を出した。

「あっ、あなたは」

「あのとき握り飯の新聞包みを落としてくれた」

 顔を見合わせた2人は、同時に声を発した。若い娘は作業現場で出会った女子奉仕隊員の1人であった。

 娘は朴を見て、直ちに事情を察したらしく、周囲に目を配ると、家の中に招き入れた。彼女の両親もすでに起きていて、飢えて冷えきっている朴のために、温かいうどんをつくってくれた。

 肉と野菜をたっぷり入れた熱いうどんを、朴はつづけて3杯おかわりした。朴は生まれてからこんなにうまい食物を食したことがなかった。細胞の1つ1つに沁み渡っていくような味であった。

「ゆっくり食べなさい。まだいくらでもあるよ」

 娘の父親が言った。

 ようやく人心地ついた朴に、娘の父親は、

「私はこの娘の母親と結婚して、日本人の名前を名乗っていますが、じつは徐東雲という朝鮮全羅

南道の出身者です。妻は清美、娘は朝子と申します」

 と徐東雲は自己紹介を兼ねて、妻と娘を朴に引き合わせた。

「申し遅れてすみません。私は朴命水と申します。両親と一緒に横浜に住んでいましたが、人買いに騙されて雨竜ダムの飯場に送り込まれました。飯場で仲間から密かに救援委員会のことを聞いて、逃げてまいりました。お嬢さんと飯場近くの路上で出会って、握り飯を何度かもらいました」

「ここへ来たからには、もう安心です。安全なところへ逃がしてあげますから、うちでゆっくりと疲れを癒やしていってください」

 と徐はいたわるように言った。

 地獄の飯場から決死の雪中脱走を試みて、ようやく救援委員会の徐の許にたどり着いた朴は、ほっとすると同時に緊張が解け、これまでの疲労がどっと発した。彼はそれから死んだように眠った。

ときどき朝子に起こされて食事を摂ったが、また昏々と眠り込んだ。

 2、3日眠ったかとおもわれたところで、朴は激しく揺り起こされた。

「朴さん、すぐ逃げてください。どうやらうちが目をつけられたらしいの。朴さんが捕まったら命はないわ。警察が来る前に、これを持って逃げて。ひとまず北竜の本島組の現場を頼って。本島組の親方は救援委員会の1人よ」

 と朝子は慌しく告げて、握り飯の包みといくばくかの金を渡した。

「金はあるよ。それより、朝子さんやお父さんはどうなるの」

「私たちのことは心配しないで。お金はいくらあっても邪鹿にならないわ。さあ、早く行って」

 そこへ徐東雲が来た。

「朴さん、すまないね。もう少しうちで休ませてあげたかったが、ここも安全ではなくなった。どうやら協和会に嗅ぎつけられたらしい。本島組を頼れば大丈夫だ」

 と徐東雲は言った。

 朴は事態の深刻なことを悟った。もし朴がこの家で捕まれば、徐東雲一家は言い逃れができなくなる。救援委員会は貴重な拠点を1つ失ってしまう。

「お世話になりました。このご恩は一生忘れません」

「礼などいいから、早く行きなさい。協和会にはくれぐれも気をつけなさい」

 協和会とは、朝群人でありながら同胞をタコ部屋に売っている人狩り屋である。

「元気でね」

 朝子が言った。

「また機会があれば、お会いしたいとおもいます」

「朴さん、絶対捕まらないでね」

 朝子がすがりつくように言った。

「捕まるもんか。またきっと会いに来るよ。この戦争は間もなく終わる。それまで皆さんも元気で」

「待ってるわ」

 朴は徐東雲一家3人に見送られて、あさひ屋食堂を去った。

 間一髪で協和会に先導された警官隊があさひ屋食堂に踏み込んで来た。

 そして50数年が経過した。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~mo0405/s/16.htm

▲△▽▼

野添憲治  地崎組東川事業場――北海道上川郡東川町・東旭川町・東神楽町
2007年10月27日

北海道の大雪山の麓には、入植者たちが労苦を重ねて開拓した広大な水田がひろがっている。だが、上川郡東川町・東旭川町・東神楽町の約八〇〇〇ヘクタールの水田は、灌漑の源流忠別川が北海道の屋根といわれる大雪山の雪溶け水や岩清水を集めて流れ下るので、「水流は火山帯・函廊下・峡谷を奔流する急流のため、温度の上昇する区間がなく、ほとんど地下水融雪水そのままの低温を持続して流下する(略)ため、水温上昇を阻止している有様であった。したがって冷害による深刻な凶作の経験をなめてきた」(『東川村史』)立地条件のところである。

こうした悪条件のなかへ、さらに忠別川の上流に江卸発電所の建設が決まり、水温の低下にいっそう拍車をかけることになった。しかも太平洋戦争のまっただなかで、農民たちは国から食糧増産を要請され、厳しい労働に明け暮れていた。

そこに発電所の建設問題が起きたため、コメがさらに減収になるのは目に見えていた。農民たちは驚き、関係官庁に陳情をはじめた。食糧不足が深刻になっていたので政府は、食糧増産のため発電所の下流に遊水池の建設を具体化し、一九四三年から地崎組東川出張所が工事を請負った。しかし、戦争で労力や資材が不足しており、新しく集めることが出来ない地崎組では、鴻ノ舞鉱山で強制労働をさせていた朝鮮人連行者を、東川・東神楽の両遊水池工事にまわした。それでも労力が大幅に不足し、翌年までに遊水池を完成させるメドがつかないため、中国人連行者を三〇〇人導入する契約をした。

第一次連行は一九四四年九月に二九七人が塘沽から乗船したが、船中で一六人が死亡、大阪に上陸して東川出張所に着くまでに一七人が死亡している。補充の第二次は一〇月に四一人が塘沽から乗船し、船中で一人が死亡し、四〇人が東川出張所に着いたのが二五日だった。三〇四人の中国人は、入所していた朝鮮人を移したあとの東川収容所に入所した。

「それまでは逃亡を防ぐためのへいもなかったが、高いへいが収容場所を囲い、さらにそのへいの上にはバラ線まで張りめぐらされ、窓という窓はすべてタルキをうち、監獄部屋と変わった」(『中国人強制連行事件』)。

内には鍵がかけられ、旭川警察署から来た四〜五人の特別駐在員が見張所に配置された。収容所の中の床板の上にはムシロを敷いてあるだけで、風の強い日はムシロが吹き上げられた。風の強い冬になるとムシロを通して、床板に雪が飛んでくることもしばしばだった。

中国人が東川事業場に到着した時は、北海道はもう秋であった。だが、中国人が着ているのは破れて体が見える、国防色の汚れた夏服一枚の人が多かった。栄養失調で体が浮腫になっていたり、目がへこんでいる人も相当いた。やせてふらふら歩く人もいた。大陸での収容所生活と長期の輸送の疲れが、体全体をおおっていた。

遊水池づくりの作業は、スコップ、ツルハシで平地を二メートル掘り下げた。土や石はモッコに入れ、二人でかつぎ上げた。土を掘るのも、モッコをかつぐのも重労働だった。疲れているうえにろくな食事もとっていないので、ちょっと休んだり、モッコをかついで転んだりすると、八番線ぐらいの太い針金で殴りつけた。

遊水池を掘る工事のほかに、池に水を出し入れする入水溝と排水溝をつくる仕事もあった。土が崩れないように斜面に蛇籠を並べたが、蛇籠につめる石は忠別川に入って集めた。すでに冬が訪れ積雪も深くなった季節に、ワラで編んだワラジで川に入り、素手で石を拾って川岸に運んだ。寒さで手がしびれ、石を落としたりした。中国人の五人がひと組になり、日本人指導員や警察の監視のもとで働いた。石をそりに積んで運び蛇籠につめたが、全身水びたしになって震えながら働いた。

冬は寒さが厳しいうえに重労働で、しかも食糧が少ないので、次々と死んでいった。少しでも生きのびようと、逃走する人が多くでた。六人が集団逃走した時は、地崎組の幹部や警察、村の警防団も駆り出されて翌日に捕らわれた。宿舎の庭に座らされ、「警官が彼らの首をしめて仮死させる。するとカツを入れて蘇生させるのだった。これが何回となく繰り返された。六人共青い鼻汁を出して死んだようになっていた」(佐藤幸子)と目撃した人は語っている。十代の時のことを思い出すと、いまも胸がつまって涙がこぼれるという。

二回にわたって塘沽から乗船した中国人連行者は、船中で一六人、上陸後に東川事業場に着くまでに一八人、事業場では中国へ送還されるまでに五四人の総計八八人が死亡した。事業場死亡者の大部分の死亡原因は「栄養不良兼胃腸カタル」で、事故死はいない。事業場での死亡者は火葬のうえ、法城寺に保管したことになっていた。ところがこの遺骨は一九五三年に慰霊祭

ののち、中国へ送還することになった。在道華僑連合会で遺骨の有無を確かめたところ、寺からは預ってないと回答があった。しかし、地崎組ではトラックで八八の遺骨を札幌駅に運び、そのまま列車と船に積まれて中国に渡った。ところが翌年に五体の遺骨と多数の残骨や遺品が工事現場の裏山で発掘され、前年に送還した遺骨はニセ物の疑いがでた。この問題を国会に持ち出す動きもあったが、円満裏に解決する方向に向かい、中国紅十字会に陳謝のうえ、発掘した遺骨は送還され、ニセ物問題は明らかにされなかった。

中国人・朝鮮人を酷使し、多くの生命を奪って造った遊水池の用水で、いま豊かな農業を営んでいる。だが、『東川村史』『東旭川町史』『東神楽村開基六〇年史』『上川開発史』などの関係史誌には、この事実が全く書かれていない。
http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=2843&syosekino=52

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/134.html

[近代史3] 朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由 中川隆
1. 中川隆[-13236] koaQ7Jey 2019年1月03日 11:43:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

安倍首相が「徴用工でなく労働者」と言い換えを命じても強制労働の歴史は消せない! 麻生家の炭鉱は「朝鮮人地獄」と… 2018.11.14 
https://lite-ra.com/2018/11/post-4368.html


     
朝鮮人徴用工虐待は麻生財務相の一族経営の炭鉱で!(自由民主党HPより)


 いわゆる徴用工問題で、安倍政権が歴史修正主義的攻勢を強めている。先日、韓国の大法院(最高裁)が、植民地時代に強制的に動員された元徴用工にたいして新日鉄住金の賠償を命じる判決を下したが、安倍首相の「ありえない判決」「請求権協定で解決済み」なる大号令のもと、新聞やテレビ、週刊誌などの国内メディアは口を揃えて猛批判。これに乗じて政府は原告らの呼称を「徴用工」から「朝鮮半島出身労働者」に統一した。

 安倍首相は1日の衆院予算員会で、「当時、国家総動員法上、国家動員令には『募集』と『官斡旋』『徴用』があったが、実際、今回の裁判の原告は(徴用でなく)全部『募集』に応じたため、『朝鮮半島出身労働者問題』と言いたい」と述べた。河野太郎外相も「原告は徴用されたのではなく『募集』に応じた人だ」と強調している。

「徴用工」という言葉がもつ“強制性”のイメージをかき消そうとの狙いは明らかだろう。

 たしかに、戦前の労務動員計画と国民動員計画に基づく朝鮮半島からの動員は1939年からの「募集」と1942年からの「官斡旋」、そして1944年の「徴用令」に分類される。ようするに、安倍首相らは「この元徴用工と呼ばれている原告らは民間企業が募集し、自由契約によって日本での労働を選んだ人たちであって、日本政府の命令ではない」と印象づけたいわけだ。

 完全なる詭弁だ。そもそも「募集」の実態は「民間企業が自由に朝鮮人を集めて日本に連れてきた」というようなものでは決してない。その手続きは、各企業から申請された「移住朝鮮人」の数を厚生省が査定し、内地からの指示で朝鮮総督府が自治体に割りふり、その指定を経て、現地の日本人警察官らと一体となって行うというもの。朝鮮人の労務動員は、大日本帝国政府の方針に従い、明確に当局が管理した“国策”に他ならなかった。

 また、政府が「募集」形式から「官斡旋」(42年実施)に移行したもっとも大きな理由は、事業主を各企業から事実上の官製組織である「朝鮮労務協会」とするなど、動員手続きの簡略化だった。当時、日中戦争の長期化と緊迫する国際情勢を目の当たりにしていた政府は、炭鉱や軍事関連施設での労働力を補填するための迅速な動員を望んでいたのである。そして、アジア太平洋戦争で消耗するなか、戦争継続と軍事物資増産を目的に1944年、国民徴用令による「徴用」を朝鮮半島でも実施し、強制連行を強化したわけだ。

 いずれにせよ、「募集」「官斡旋」「徴用」の形式に限らず、これらはみな政府の正式な方針に基づき、当局管理下で行われた動員であって、さも「自由契約によって日本で働いただけだ」とするような安倍政権の主張は誤りであり、歴史修正主義と断じざるをえない。戦時中の朝鮮人の動員に詳しい外村大・東京大学大学院教授は、著書『朝鮮人強制連行』でこのように指摘している。

〈徴用実施以前において朝鮮総督府、内務省、雇用企業の関係者自身が「強制的」「拉致同然」と言うような要員確保は行われていた。また労務動員実施の初期の段階では、経済的な理由から離村を希望していた朝鮮人が日本内地にやって来たことは事実であるが、これも日本政府の国策が背景にあること、職場の移動を禁止されていたこと、就労期間延長が強いられ、戦争末期まで炭鉱等での労働を続けていた場合には徴用された扱いとなっていたという事情がある。これらの点から、一九三九〜一九四五年度の労務動員計画・国民動員計画によって日本内地の事業場に配置された朝鮮人のすべてが、なんらかの意味で強制力を持つ日本国家の政策的関与のもとで動員されたと言うべきである。〉

■麻生財務相の一族経営の炭鉱で行われていた朝鮮人徴用工虐待

 ところが、新聞やテレビ、週刊誌などの大手メディアは、こうした政権による見え見えのプロパガンダに対して、批判はおろか追及する素振りすらみせない。繰り返すが、安倍政権の“代弁者”のように韓国政府や韓国司法を攻撃し、ネット右翼を煽り、元徴用工を貶めるような報道を続けている有様である。

 それどころか、マスコミはもっと重要なことすらネグっている。それは、当時、連行された徴用工たちが、どのような目に遭わされたのかという歴史的な事実だ。

 前述したように、朝鮮人たちのほとんどは、石炭鉱業や軍需関連工場に送られ、財閥系の炭鉱を中心に、暴力による強制労働や過酷な環境での生活を余儀なくされた。ここでは、当事者の証言からいくつかの例を具体的に紹介しよう。

 たとえば、福岡県の麻生鉱業だ。現在の麻生太郎財務相兼副総理の出身でも知られる麻生家は、もともと炭鉱で巨大な財を築き上げた。厚生省の集計によれば、1939〜45年にかけて麻生鉱業へは少なくとも1万623人が連行された。麻生系の炭鉱では「朝鮮人地獄」と呼ばれるような光景が広がっていたという。

 複数の元朝鮮人徴用工の証言によれば、麻生系の赤坂炭鉱では、朝鮮人寮の周囲は針金のついた板壁で囲まれており、監視所と番人に見張られて外部との面会もできなかった。労務事務所には留置所のような監獄部屋があったという。坑道内は暑く、臭気がこもった。日中戦争が始まると扱いは酷くなり、休みも認めず、逃亡したりサボったりした坑夫は木刀やベルトなどで殴打されるなど、暴力的な強制労働が行われたという。

「官斡旋」の時代には、このような証言もある。隔離された朝鮮人寮で朝の5時に起こされると、広場で点呼を受け、君が代などの斉唱が行われた。6時に入坑し、夜の9時までの15時間労働だった。「これから敵のトーチカを攻撃する。突撃進め!」と坑口に追い立てられた。労務係は見せしめに死ぬほど叩き、給与は強制的に貯金され、故郷への送金は最初の200円が送られただけだった。労務係に糾すと、逆に木刀で叩かれた。

 事故や激務による重症も、本人の不注意とされたり、もみ消しが行われたという。朝鮮人への傷害致死事件も起きた。赤坂炭鉱での複数証言によれば、1944年秋、第二直轄寮の労務が飲酒の上で朝鮮人を虐待して、事故死に見せかけるために線路上に放置した。その遺体を発見した朝鮮人たちは激怒し暴動を起こした。朝鮮人の数名が逮捕、強制送還された一方、労務への刑事罰はなかったとされる。逆に、抗議した朝鮮人のリーダーが検挙され、憲兵隊が監視するようにすらなったという。

■世界遺産「軍艦島」でも…「汁かけ飯一杯で栄養失調」「脱走者に拷問」

 もちろん、こうした強制労働の悲惨な実態は麻生系炭鉱だけの話ではない。たとえば、三菱系の長崎・崎戸炭鉱では、朝鮮人はガスが多く崩落の激しい現場に送られた。食堂の内側にある小部屋でリンチされ、鞭を打たれた。労務係に抗議したら半殺しにあった。釘を打った板の上に正座させられ、軍靴で蹴り上げられ、ケーブル線で殴られたなど、連行された複数の朝鮮人徴用工たちによる証言が残っている

 もうひとつ、長崎の端島(通称、軍艦島)での元徴用工の証言もあげておきたい。周知のように軍艦島は、2015年に安倍首相の肝いりでユネスコの世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」に含まれている。

 1943年に14歳で連行された崔璋燮さんは、高等国民学校での木銃の訓練の最中、いきなり捕まえられて益山の郡庁に連れて行かれた。翌日、汽車で釜山へ運ばれた。釜山からは原田という名前の日本人よって船で博多まで引率され、長崎に向かい、再び船に乗せられて着いたのが端島だった。「端島がどんな所か何も話さず、無条件に良い所だと騙して、あの手この手で逃亡を防ぎながら連行した」という。2010年の市民団体関係者によるインタビューのなかで、崔さんは端島での強制労働や生活をこう語っている。

「石炭を掘り出す仕事、採炭だ。わずか一週間だけ採炭現場を見学させて、仕事に就かせた。一番方、二番方、三番方というふうに三交代で一日一六時間労働のときと、二交代で一日一二時間労働のときとあった。一度に四〇人ずつ、坑口から三、〇〇〇尺もの地下にものすごいスピードで降下して、身の縮む思いがした。現場は暑くて汗だくなので、一年中、褌一丁で働いた。(中略)汁かけ飯一杯食っただけで長時間働くのだから、みんな栄養失調状態になった。仕事が終わって、七メートルはある防波堤の上に毛布を敷いて体を休めていると、脚が痙攣を起こした。『俺、死にそうだ』という呻き声も聞こえた。しかも賃金をもらったことはない。私の記憶は確かだ」

「(島から脱出した人は)いたけれども、ひどい目に遇った。木浦や井邑の水泳が上手な人たちが丸太で筏を作り、海を渡ろうとしたが、途中で疲れ果てて捕まったり、陸地まで行って捕まった人もあり、ゴムのチューブで皮膚も剥げるほど叩かれた。悲鳴を聞いて駆けつけた私たちの目の前でさんざん拷問された。六七号棟のところに当時あった空き地でのことだ。大体一一名ほどで、彼らは投獄されたらしく、島からいなくなった」

「(端島を世界遺産にすることについて聞かれ、)端島がわれわれにとってどんなところだったと思っているのか。騙して強制連行して、こき使い、人間として行きられないところだったのだ。四面海で逃げ出すこともできず、自分自身を放棄して、生きた心地がしなかった。人生を台無しにされた。あの地獄は忘れようとしても忘れられない」

■徴用工問題と安倍政権の入国管理法改正には共通点が

 朝鮮や中国から連行された徴用工たちは、給与や生活環境、割り当てられた現場の危険性などで、日本人よりも劣った差別的待遇を強いられることが多かった。徴用工問題は、植民地支配と侵略戦争をめぐる問題であると同時に、差別意識に根ざした「外国人」労働問題の側面がある。

 実は、これはいま、安倍政権がゴリ押ししている、外国人労働者の受け入れを拡大する法案=入国管理法改正にも関係している話なのだ。

 言っておくが、強引に繋げているわけではない。周知の通り、国会では、入国管理法改正案の内容が極めて曖昧であることや、外国人たちの生活支援等の整備がおざなりであることが追及されている一方で、ネトウヨなどの右派からも「移民政策だ」として批判の声があがる。安倍首相は「深刻な人手不足に対応するため」などとその緊急性をアピールするが、現実には、労働者が集まりにくい業種に低賃金で外国人を使いたい財界の要望だ。

 この状況は戦前の日本に重なっている。実際、1930年台の終わりに日本政府が戦時労務動員の方針を策定する以前は、朝鮮人の渡日は政府の手で抑制されていた。そして国内世論のなかにも、日本が植民地支配をしている朝鮮の人々への恐怖から「労働者としての受け入れ」を拒絶する風潮があった。ここから日本政府が朝鮮人などを労働力として動員していった流れについて、前述の外村教授はこのように説明している。

〈朝鮮人渡日抑制方針が存在したなかで、その緩和を求め、朝鮮からの労働力導入に積極的であったのは石炭産業の経営者だった。そうした動きはすでに日中戦争開始前に存在していた。言い換えれば、戦争による絶対的な労働力不足のなかで、もはや他に選択肢がないとして朝鮮からの労働者導入が要望されたわけではないのである。
 この段階で石炭産業が朝鮮に労働力を求めたのは、その経営のあり方が関係していた。炭鉱では、機械化による生産性向上ではなく、人力に依存しての石炭の採掘が続けられていた。そこでは、できるだけ安い賃金で働く労働力の確保が経営のカギとなった。そして、福利厚生や安全対策、賃金をはじめとする労働条件の改善を図ることで労働力を集め、熟練労働者を留めおく施策は行われず、したがってそれゆえに労働者の確保がますます困難になるという悪循環に陥っていた。〉

 戦時下において、朝鮮人は日本政府の方針で強制的に動員され、日本人とは異なる差別的な環境で働かされた。だが、外村教授は〈これは日本帝国のマジョリティたる日本人がマイノリティの朝鮮人を犠牲にすることで恵まれた立場にいたということを意味するわけではない〉と指摘する。〈むしろ、朝鮮人の存在によって日本人民衆に対する抑圧もまた続けられていたと見ることが可能であ〉り、〈そのような状況をマジョリティが自覚し改善し得ずにいたことが、朝鮮人強制連行のようなマイノリティに対する加害の歴史をもたらしたのである〉と。

 徴用工問題を通じて振り返るべきは、日本の植民地支配における朝鮮人への差別的扱いはもちろんのこと、政府が奴隷的な労働を担う人々をつくりあげることで、それ以外の人たち待遇を改善しなかったという事実である。安倍政権の歴史修正主義が塗りつぶそうとしているのは、朝鮮半島への加害事実だけでない。メディアもわたしたちも、そのことに気がつかねばならない。
(梶田陽介)


■主な参考文献

『朝鮮人強制連行』(外村大/岩波書店)
『調査・朝鮮人強制労働@炭鉱編』(竹内康人/社会評論社)
『〔増補改訂版〕軍艦島に耳を澄ませば 端島に強制連行された朝鮮人・中国人の記憶』(長崎在日朝鮮人の人権を守る会・編/社会評論社、文中で引用した崔璋燮さんの証言は同書に収録されている)
『労働力動員と強制連行』(西成田豊/山川出版社)
『朝鮮人戦時労働動員』(山田昭次、古庄正、樋口雄一/岩波書店)


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/134.html#c1

[近代史3] 朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由 中川隆
2. 中川隆[-13235] koaQ7Jey 2019年1月03日 11:43:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

日本統治時代の朝鮮人徴用

日中戦争期 労務動員計画

1937年に日中戦争がはじまると、1938年3月南次郎朝鮮総督が日本内地からの求めに応じ、朝鮮人渡航制限の解除を要請し、1934年の朝鮮人移入制限についての閣議決定を改正した[24][18]。1938年4月には国家総動員法が、1939年7月には国民徴用令が日本本土で施行された(朝鮮では1944年9月から実施[25])。同じ1939年7月、朝鮮総督府は労務動員計画を施行し、朝鮮から労働者が日本に渡るようになった[26][18]。1939年以降、日本政府の労務動員計画によって毎年人員・配置先が決定され、朝鮮総督府によって地域が割り当てられ計画人員の達成が目標とされた[27]。水野直樹はこの当時、「募集方式の段階から会社・事業所の募集は行政機関、警察の支援を得ていた」としている[27]。

山口公一[28]もまた「1939年に開始される朝鮮人強制連行は戦争の長期化によって日本の労働力不足が深刻化すると同時に朝鮮内での軍需工業の拡張にともない、朝鮮人を労働力として強制的に動員するためのものであった。」と説明している。山口は、日本政府の労務動員計画を3段階に分け、@39年1月からの「募集形式」A42年からの「官斡旋方式」B44年9月からの「徴用令方式」があったとし、その最初の募集の段階から、行政・警察当局による強力な勧誘があった。したがって「募集とは言っても実態は強制連行」であると主張している[29][30]。

≪↑募集で応募した場合でも、実態は強制連行だったという事 ≫


松代大本営建設の徴用

1944年11月11日から着工された松代大本営建設における徴用の場合、当初は朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が、1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が交代で作業した。延べ人数では西松組・鹿島組県土木部工事関係12万人、付近の住民などの勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人だった[50]。

「勤労報国隊」「勤労報国会」そして学生や生徒,児童などの日本人も工事に携わっていた[51]。しかしその労働は過酷であり[52]、松代大本営の地下壕の掘削は、そのほとんどが朝鮮人の手で進められたという[53]。

「松代」で働かされていた朝鮮人の中には、給金がもらえるものがいたし、「怪我や病気なんかするとすぐに病院にいけた」と言う者もいた[54]。しかし一方でその生活は極めて劣悪であり、3k労働である上に、食事はコーリャンに塩をかけたもので、量も少なく栄養失調や目が見えなくなった人もいたという[55]。

また、朝鮮語を話しただけでもリンチを受け、あまりに酷い扱いに耐え切れず逃げ出すと見せしめに拷問を受けたという証言もある[56][57]。そして天皇の「ご座所」を掘った朝鮮人180名は、秘密漏洩を防ぐため殺害されたとも言われている[58]。

≪↑こりゃ なんぼ やり玉に挙げられても文句は言えないな ≫

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E5%BE%B4%E7%94%A8
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以上 このリンクを 徹底的に読めば 弁解の余地など微塵もない労働搾取であった事は明白である


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徴用工問題の公正な解決を求める――韓国の最高裁判決について
2018年11月1日  日本共産党幹部会委員長  志位和夫
(1)
https://www.jcp.or.jp/web_download/2018/11/20181102_choyoko-1.jpg
https://www.jcp.or.jp/web_download/2018/11/20181102_choyoko.pdf
PDF(記者の質問と答えも収録)

 10月30日、韓国の最高裁判所は、日本がアジア・太平洋地域を侵略した太平洋戦争中に、「徴用工として日本で強制的に働かされた」として、韓国人4人が新日鉄住金に損害賠償を求めた裁判で、賠償を命じる判決を言い渡した。

 安倍首相は、元徴用工の請求権について、「1965年の日韓請求権・経済協力協定によって完全かつ最終的に解決している」とのべ、「判決は国際法に照らしてありえない判断だ」として、全面的に拒否し、韓国を非難する姿勢を示した。

 こうした日本政府の対応には、重大な問題がある。

(2)

 日韓請求権協定によって、日韓両国間での請求権の問題が解決されたとしても、被害にあった個人の請求権を消滅させることはないということは、日本政府が国会答弁などで公式に繰り返し表明してきたことである。

 たとえば、1991年8月27日の参院予算委員会で、当時の柳井俊二外務省条約局長は、日韓請求権協定の第2条で両国間の請求権の問題が「完全かつ最終的に解決」されたとのべていることの意味について、「これは日韓両国が国家として持っている外交保護権を相互に放棄したということ」であり、「個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない」と明言している。

 強制連行による被害者の請求権の問題は、中国との関係でも問題になってきたが、2007年4月27日、日本の最高裁は、中国の強制連行被害者が西松建設を相手におこした裁判について、日中共同声明によって「(個人が)裁判上訴求する権能を失った」としながらも、「(個人の)請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではない」と判断し、日本政府や企業による被害の回復にむけた自発的対応を促した。この判決が手掛かりとなって、被害者は西松建設との和解を成立させ、西松建設は謝罪し、和解金が支払われた。

 たとえ国家間で請求権の問題が解決されたとしても、個人の請求権を消滅させることはない――このことは、日本政府自身が繰り返し言明してきたことであり、日本の最高裁判決でも明示されてきたことである。

 日本政府と該当企業は、この立場にたって、被害者の名誉と尊厳を回復し、公正な解決をはかるために努力をつくすべきである。

(3)

 韓国の最高裁判決は、原告が求めているのは、未払い賃金や補償金ではなく、朝鮮半島に対する日本の不法な植民地支配と侵略戦争の遂行に直結した日本企業の反人道的な不法行為――強制動員に対する慰謝料を請求したものだとしている。そして、日韓請求権協定の交渉過程で、日本政府は植民地支配の不法性を認めず、強制動員被害の法的賠償を根本的に否定したと指摘し、このような状況では、強制動員の慰謝料請求権が請求権協定の適用対象に含まれると見なすことはできないと述べている。

 1965年の日韓基本条約および日韓請求権協定の交渉過程で、日本政府は植民地支配の不法性について一切認めようとせず、謝罪も反省も行わなかったことは、動かすことのできない歴史の事実である。

 徴用工の問題――強制動員の問題は、戦時下、朝鮮半島や中国などから、多数の人々を日本本土に動員し、日本企業の工場や炭鉱などで強制的に働かせ、劣悪な環境、重労働、虐待などによって少なくない人々の命を奪ったという、侵略戦争・植民地支配と結びついた重大な人権問題であり、日本政府や該当企業がこれらの被害者に対して明確な謝罪や反省を表明してこなかったことも事実である。

 今年は、「日本の韓国への植民地支配への反省」を日韓両国の公式文書で初めて明記した「日韓パートナーシップ宣言」(1998年、小渕恵三首相と金大中大統領による宣言)がかわされてから、20周年の節目の年である。

 日本政府と該当企業が、過去の植民地支配と侵略戦争への真摯で痛切な反省を基礎にし、この問題の公正な解決方向を見いだす努力を行うことを求める。


 日本共産党の志位和夫委員長は11月1日の記者会見で、徴用工問題の見解に関し、記者の質問に答えました。

「被害者個人の請求権は消滅せず」の一致点で解決に努力を

志位委員長の一問一答

日韓両政府、両最高裁ともに「個人の請求権は消滅せず」では一致

 ――(日韓請求権協定では)「個人の請求権」が残っているのは日本の最高裁も韓国の大法院も一緒だと思いますが、裁判上の訴求権について日本の最高裁は失っているとする一方、韓国大法院は認めています。委員長としてはこの大法院の判決は当然という考えですか。

 志位 裁判上の訴求権の問題については、日韓それぞれの立場があることはおっしゃるとおりだと思います。

 ただ、裁判上の訴求権について認めなかった(2007年4月27日の)日本の最高裁判決でも「(個人の)請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではない」とし、「任意の自発的な対応をすることは妨げられない」と指摘しているところが重要です。だから西松建設のような和解も成立したわけです。

 「任意の自発的な対応」がもし(判決に)入っていないと、西松建設のような和解をした場合に、株主側から訴えられるという立場にたたされる危険もありますが、「任意の自発的な対応」を最高裁がオーソライズ(公認化)したために和解に道が開かれました。

 裁判上の訴求権については日韓の立場に違いはありますが、「被害者個人の請求権は消滅していない」ということでは一致しています。日本政府、日本の最高裁、韓国政府、韓国の大法院、すべてが一致している。ここが大切なところです。

 この問題で不一致点をいたずらに拡大したり、あおったりするのではなく、「被害者個人の請求権は消滅していない」という一致点から出発し、被害者の名誉と尊厳を回復するための具体的措置を日韓両国で話し合って見いだしていくという態度が大事ではないでしょうか。

国家間の請求権と個人の請求権をきちんと分けた冷静な議論を

 ――発表された見解の中では、日本政府と該当企業に対する解決方法を見いだす努力を求めていますが、韓国政府に対して求めるものは現段階では何でしょうか。

 志位 私たちは、まず日本政府に(党見解に述べたような)要求をしています。

 同時に、その解決はもちろん、日本政府だけでなしうるものではありません。日韓双方が、被害者の尊厳と名誉を回復するという立場で冷静で真剣な話し合いを行っていく努力が必要だと思います。

 私は、率直に言って、(徴用工問題の)日本政府や日本メディアの対応を見ると、国と国との請求権の問題と、個人としての請求権の問題がごちゃごちゃになっていると思います。国家の請求権と個人の請求権をいっしょくたにして、「すべて1965年の日韓請求権協定で解決ずみだ」「個人の請求権もない」という調子で、問答無用の議論になっている。国と国との請求権の問題と、個人の請求権の問題をきちんと分けて考えないと、この問題の冷静な解決方法が見えてこないのです。

 先ほど述べたように、日本政府、日本の最高裁、韓国政府、韓国の大法院の4者とも被害者個人の請求権は認めているわけです。だからこの一致点を大事にしながら解決の方法を探るべきです。そこをごちゃごちゃにして、ただ相手を非難するやり方は大変によくないと思っています。

国家間の請求権についてどう考えるか

 ――共産党として、日韓請求権協定で国と国との請求権がなくなっているという立場にたっているのですか。

 志位 国と国においても請求権の問題は解決していないという判断を下したのが韓国の最高裁判決です。

 韓国の最高裁判決は二重にできていて、まず個人としての請求権は消滅していないというのが一つある。同時に、国としての請求権も請求権協定の適用対象に含まれないと判定を下しました。これは2012年の韓国最高裁の判決と同じですが、その立場を表明したわけです。

 その論理は、原告が求めているのは未払い賃金などではなく、朝鮮半島に対する日本の不法な植民地支配と侵略戦争の遂行に直結した日本企業の反人道的な行為――強制動員に対する慰謝料であり、請求権協定の交渉過程で日本は植民地支配を不法なものだとは認めてこなかった、こういう状況では強制動員の慰謝料請求権が請求権協定で放棄した対象に含まれるとみなすことはできないという論理なのです。私は、この論理は検討されるべき論理だと考えています。

 私の見解では、この問題について、1965年の日韓基本条約・日韓請求権協定の交渉過程で日本政府が植民地支配の不法性について一切認めなかったこと、徴用工の問題について被害者への明確な謝罪や反省を表明してこなかったという、二つの事実を指摘しています。

 ただこの問題について大切なのは、たとえ国家間の請求権問題が解決されていたとしても、個人の請求権を消滅させることはないというのは、日韓とも一致しているのですから、この一致点でまず解決方法を見いだす。そのうえで日本が植民地支配を反省してこなかったという問題が根本的な問題としてあります。植民地支配の真摯(しんし)な反省のうえに立って、より根本的な解決の道を見いだすべきだという、二段構えでの論理で、今日の見解を組み立てました。
https://www.jcp.or.jp/web_policy/2018/11/post-793.html


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朝鮮人が反日になった理由 _ 朝鮮で働き口が無くなる様な政策を意図的に取った上で、日本に連れてきてタダ同然で強制労働させた

朝鮮人戦時労働動員
著者:山田昭次、出版社:岩波書店

 朝鮮人が戦前、日本に渡ってきたのは自発的なものであって、強制されたわけではないという主張があるが、それは次のような調査結果からすると、まったく机上の観念論でしかない。

 1940年から始まった穀物供出制度により、朝鮮の農民は自家の飯半分まで取り上げられたので、貧困は一層激しくなり、農民の離村は強められた。

下層農民の衣服はボロ着で、着換えもなかった。
農民の主食は粟・稗・高梁・どんぐり・草根木皮そして副食物は野菜と味噌だけだった。

1939年と1942年の旱害のときには、餓死者や栄養不良による行路死亡者が多数発生した。

 そのような状況のなかで、ある農民は毎日ひもじい思いの生活を送り、妻子が栄養不足のために死ぬことを恐れ、1939年11月にすすんで募集に応じた。

すると、就業する職場も告げられないまま、日本に連行された。

 実は、私の亡父も三井の労務課徴用係として朝鮮に出向いたことがあります。
京城の総督府に出頭すると、既に三井から連絡が行っていて、
列車で500人ほどを連行してきたというのです。

三井の職員9人で500人もの大勢の朝鮮人を日本へ連れてきたというのですから、
なかには「自発」的な朝鮮人も少なくなかったと思います。
亡父は、やっぱり朝鮮では食えなかったからね、と自分たちの行為を正当化していました。

ところが、食べられないようにし向けたのは日本の政策だったわけです。


昭和14年(1939年)から昭和16年までの3年間に、日本へ渡航した朝鮮人は 107万人。

「募集」制度によって日本へ渡った朝鮮人は15万人。

 このように大量の出稼ぎ渡航者の存在と、強制連行者の併存が、戦時期の植民地朝鮮からの人口移動の実態だった。

つまり、日本の責任は重いということです。

 1939年に朝鮮に「募集」に言った人の体験談が紹介されています。

 当時、朝鮮はどこへ行っても失業者ばかりで、「募集」への希望者が殺到して断るのに苦労した。

 1941年2月、内務省警保局保安課長は、日本へ連れてきた朝鮮人が逃亡しないよう、
家族も日本へ呼び寄せることを促進するよう命じた。日本の官憲や企業は、家族呼び寄せを朝鮮人の逃亡などの防止手段として利用した。

その結果、特高月報によると呼び寄せた家族数は、1943年12月現在で4万158人になった。


貧しさという朝鮮人の生活条件の形成に日本が大きく関与していれば、朝鮮人の決断をそのような方向に導く条件をつくった日本の責任が問われねばならず、朝鮮人の対日渡航が自らの意志によると、単純に言えない。

そして、農民の貧窮化の発端は、総督府による土地調査事業に出発している。

 朝鮮人戦時労働動員は戦時下の植民地他民族抑圧の一つの形態だった。

朝鮮を日本の植民地としていた。

植民地下にあっても、朝鮮人は朝鮮人であって、日本人ではなかった。
日本人は、きちんとした事実認識をもつべきである。
http://www.fben.jp/bookcolumn/2007/02/post_1347.html



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「日韓併合」の正当性を唱える人たちへの最終メッセージ
2013年10月28日 松本 徹三

ここ数週間はデジタル教科書問題を書いてきたが、その前の6週間は日韓問題ばかり書いた。その為に今でも私のTwitterではこの関係の議論が多い。

そこでの最も典型的な私への反論は、「日本による韓国の併合は正当なものであり、あの時代に韓国が自らの力で完全な独立を維持する事は元々不可能だったのだから、韓国にとってもむしろ一番良いシナリオだった。だから日本があれは悪い事だった等と認める必要はないし、謝罪等は論外」という趣旨のものだ。


しかし、日本人がこう言い募っている限りは、日韓のわだかまりは永久になくならないだろう。しかも、こういう人たちに限って、当時の韓国人の近代文明への理解の低さをあげつらって、無神経な論調に終始するのだから、反発が収まらないのは当然だ。

いつも申し上げているように、私は歴史問題を議論する時には「事実関係」と「評価(善悪)」を明快に切り分けて議論すべきだと考えている。

「慰安婦問題」などで韓国側が言い立てている事(元を質せば、一人の奇妙な日本人が売名の為に言い出し、朝日新聞などが自らの思惑によって拡散し、最後は宮澤首相—河野官房長官が「臭いものに蓋」の感覚で認めてしまった事なのではあるが)は、「事実関係」が歪められている故に、韓国と韓国人に対して相当強い親近感を持つ私自身でさえも承服し難いのだが、「日韓併合の正当性」という事になると、これは「評価(善悪)」の問題になるから、これを肯定する多くの日本人と私は真っ向から議論したい。

「日韓併合の正当性」を肯定する論者の論点は、
1.遅ればせながら世界の列強の仲間入りをしつつあった日本としては、至極当たり前の行動であり、列強もこれを認めたのだから、今から遡ってとやかく言われる筋合いのものではない(まして「謝罪」を求められるのは筋違い。それなら、欧米各国は、アジア、アフリカ、中南米の各国にそれに数百倍する謝罪を繰り返さなければならない事になる)。

2.当時の日本にもしそうするだけの国力がなかったら、当然ロシアが韓国を支配下に置いたであろうし、自国と合体させて多額の投資を行った日本に比べ、ロシアの場合は単に植民地として収奪の対象としただけだっただろうから、韓国民にとっては遥かに良かった筈だ。そのように考えると、日本による併合は、結果として韓国民の為に良かった筈なのだから、感謝こそされ、恨まれる筋合いはない。
3.日韓併合は、「二国間の条約」に基づいてなされたものであり、国際法に照らしても合法である。韓国の皇帝はハーグの国際司法裁判所に密使を送ってこの非をなじろうとしたが受け入れられず、頼みのロシア皇帝の支援も取り付けられなかったのだから仕方がない。当時の韓国は国際世論から見捨てられていたのだから、その事実を遡って覆そうとしても無理。

上記の何れに対しても、私は、特に「事実関係」が歪められているとは思っていない。しかし、上記に言われていない事が下記の通り幾つかあるので、その事をきっちりと付け加えた上で、あらためて「評価(善悪)」の議論に進みたい。
1.当時の大韓帝国(清の冊封国家だった李氏朝鮮が、日清戦争の結果として清がその地位を失った為、清と同格の帝国となった)の主権者は皇帝の高宗であり、彼と彼を支える人たちは日本の支配を望まず、むしろロシアとの関係強化を望んでいた。

2.しかし、日露開戦を間近に控えた日本にとっては、兵站の輸送経路である韓国が「局外中立」であっては絶対に困るので、武力を背景に威嚇し、日本側が望む形での「議定書」を締結。日露戦争に勝利した後は、欧米諸国の暗黙の了承のもとに、次第に権益を拡大して、遂には「併合条約」の締結に至った。その全ての局面で、韓国政府は常に武力による恫喝の下で交渉せざるを得なかった。
3.「併合条約」締結後は「大韓帝国」は国号を「朝鮮」と改称させられ、朝鮮総督府が支配する「植民地」として運営された。伊藤博文等は、悪質な日本人が善良な韓国人の利益を不当に害する事のないように気を使ってはいたが、実際には悪質な日本人も多かったので、恨みを買う事も多かった。
4.また、この間、日本の歴史学者たちは、「日韓同祖論」をベースに、強引な「同化政策」の推進に加担した。「同祖論」といっても、「神功皇后による三韓征伐(日本書紀)」という真偽も定かでない一つの「伝承」だけをベースに「古来日本は韓国を支配下においていた」と論ずるとか、その時点での経済力のみを比較して「日本は成功した本家で、朝鮮は落ちぶれた分家」と勝手に決め付けたりしての議論であり、際立って公正さを欠いていた。

さて、私は、「日韓併合条約」は「日本が自らの利己的な目的(国益)の為に、独立国であった大韓帝国の主権者の意志に反して、武力による威嚇を背景に強制的に締結したものである」と理解している。この理解が正しくないと考える人は、上記に含まれる「利己的な目的」「主権侵害」「武力による威嚇」の三要素がなかったと主張されるのだろうから、もしそうであるなら、その根拠を示して頂きたい。先ずは、「それが事実だったかどうか」のみに絞って議論して頂き、その上でその事の「善悪」についてのコメントが欲しい。

次に、私は、日韓併合を正当化する論者に、私が追加した上記四点の最終項目である4)と、日韓併合期間中に日本人の多くが持っていたと思われる「日本人の優越意識と朝鮮人蔑視」についてのコメントを聞きたい。先ずは「そういう事実はあったのかなかったのか」についての考えを聞かせて頂き、次に、その事の「妥当性」及び「善悪」についてはどう考えられるかを聞きたい。

そして、最後に、正当化論者が常に挙げる前述の三点についての私の見解を下記の通り申し上げたい。
1.当時は列強による植民地争奪戦が世界の常識だったのだから、日本人がこの事に何等「道義的な罪悪感」を持っていなかったのは当然であり、私もその事を難詰するつもりはない。しかし、もし現時点で、「それが道義的に良い事だったかどうか」と問われれば、控え目に言っても「現時点での道義観から言えば、良い事ではなかったと思う」と答えるのが当然ではないだろうか?

ちなみに、「インカ帝国を滅ぼして大量の金を奪ったスペインの行為をどう思うか」「清国に対してアヘン戦争を仕掛けた英国の行為をどう思うか」という質問も同時にすればよい。肯定であれ否定であれ、この二つの質問に対する答えは、「日韓併合」についての質問に対する答と同じであるのが当然だ。

要するに、これまでの人類の歴史は、「基本的に暴力が全て正当化される歴史」だった訳だが、現代においてはそれが反省され、暴力ではなく「法と正義」「人道と人権」が全ての行動規範となるべきだというのが世界の常識になっている。そうであれば、「日韓併合」を今の時点で論じるに際しては、そのような「現時点での道議的評価」がなされて然るべきだ。

「謝罪」については、「英国やスペインが謝罪していないのだから、我々も謝罪する必要はない」とするのは全く意味をなさない。他者がどうであれ、自らが「謝罪に値する」と考えれば謝罪すればよく、そう思わなければしなければよいのだ。それは自らの認識と評価の問題である。その上で「欧米列強も過去の行為に関しては、日本同様に公式に遺憾の意を表するべきだ」とコメントするのは一向差し支えないし、むしろそうするべきだろう。

(なお、かつての大日本帝国の行いを何とかして正当化し、美化したい人たちの中には、「米英に対する日本の戦争(大東亜戦争)は、アジア人を欧米人の頸から解放する為の戦争だった」と今なお強弁する人もいるが、こんな欺瞞に満ちた綺麗事を言うのはやめてほしい。もしそうなら、蒋介石政府と事を構える必要はなく、そのまま仏印や蘭印に攻め込めばよかった訳だし、韓国には「韓国人による韓国人の為の政府」を作るように促せばよかったのだ。「欧米の真似をして植民地が欲しかった」と正直に言った方が、余程話が簡単になる)

2.当時の日本が韓国を支配下におさめようとしなかったら、ロシアがそうしたであろう事は勿論だろう。しかし、当時の韓国の主権者がそれを望んだのだとしたら、それが結果として韓国の民衆の為になったかどうかは別として、それを尊重すべきというのが道義的には妥当である。
当時は「民主主義」は普遍的な価値観としては未だ確立されていなかったので、「絶対君主が民衆の利益を害している事が明らかなら、周辺国がその事態を正そうとするのは道義的に妥当」という論議は、誰が「民衆の利益」についての判断をするかが明確でないので、容易には受け入れられないだろう。

現在でも、「他国の主権尊重の原則」に優先するのは、「自国の主権に対する侵害」「自国の安全への直接的な脅威」「国際法への明確な抵触」「人道と人権の侵害」「核兵器、生物兵器の拡散の可能性」位である(「民族自決原則の侵害」は微妙なところ)。また、これらの理由があっても、実力行使に至るまでには、国際連合等の場での誠実な協議が求められている。

しかし、この議論に関連してそれ以上に問題なのは、「ロシアの支配より日本の支配の方が良かった筈」という「日本人の立場からの決め付け」をする「独断的な姿勢」である。そんな事は、日本人ではなく、当の韓国人が考える事だ。

成る程、「支配層だけと手を結んで、ひたすら民衆からの収奪だけを考えただろう当時の帝政ロシアの支配」よりは、「資本主義に目覚めつつあった日本の支配」の方が、経済的には韓国にプラスとなったかもしれないが、人間は経済のみによって生きるものではない。

日本人の優越性を露骨に前面に打ち出して、一方的な同化政策を推進し、先祖伝来の姓を捨てさせたり、神社への参拝を強制したりする日本よりは、そんな事には関心のないロシアのほうが、韓国人にとっては「誇りを傷つけられる」事がないだけ良かったかもしれないではないか。

3.これは簡単な問題で、条約の形式的な合法性などには、誰も関心を持っていない。誰がやろうと、外部からの批判を受けぬよう、形式を整えるのは当然の事だからだ。武力による威嚇をもってすれば(場合によれば反対者を事故を装って謀殺したり、或いは決定的な場面に居合わせる事が出来ないように幽閉したりすれば)このような形式を整える事は比較的容易である(アメリカのハワイ併合条約も、反対者だった女王を監禁する事によって締結が実現したと聞いている)。

以上、私がこの問題に殊更熱心なのには理由がある。自己本位で、「相手の心情を推し量ろう」等という考えはさらさらなさそうな「国粋的(国家主義的)な人たち」の、過去を引き摺った「上から目線」の「論の立て方」と「言葉遣い」に、心底辟易しているからだ。この人たちの存在は、日本が「公正で偏らない判断をベースにした是々非々の議論」を行い、近隣諸国との友好関係を確立する事の阻害要因になっている。
http://agora-web.jp/archives/1565424.html

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2018年6月1日
「解決済み」の徴用工問題で誤解が多い理由
澤田克己(毎日新聞記者、元ソウル支局長)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12997


 韓国の労働団体が釜山の日本総領事館前に設置しようとしていた徴用工の像が当局によって撤去された。対北朝鮮政策で日本の協力を得ることを優先させ、日韓関係を適切に管理していくという文在寅政権の基調が維持された形だ。日本との外交問題に発展することを避けた妥当な判断である。


撤去される徴用工像(写真:YONHAP NEWS/アフロ)

 ただ、この問題では「元徴用工の個人請求権が消滅しているのか」という肝心のポイントで誤解が多いようだ。個人請求権が残っているというのは、実は日本政府が国会答弁でも繰り返し表明してきた公式見解である。一方で、1965年の国交正常化時に締結された日韓請求権協定によって「解決済み」という立場を日韓両国政府は共有してきた。この「個人請求権は残っているのに解決済み」という分かりにくさが誤解を生む元凶だろう。なぜ、そんなことになっているのだろうか。

ちゃぶ台返した後、判断先送りに転じた韓国最高裁

 戦時中に日本企業の工場などに動員された元徴用工は、未払い賃金の支払いなどを求めて裁判を起こしてきた。日本では2007年に最高裁で原告敗訴が確定し、韓国で起こした裁判でも各地の地裁、高裁で原告敗訴が続いた。ここまでは日韓両国政府の立場を裁判所が支持してきたということであり、外交的には問題となりようがなかった。

 状況を変えたのは、韓国大法院(最高裁)が2012年に原告敗訴だった高裁判決2件を破棄差し戻しとしたことだ。新判断の理由は「日韓両国が植民地支配の合法性について合意しないまま協定を結んだ状態で、日本の国家権力が関与した反人道的な不法行為や植民地支配と直結した不法行為による損害賠償請求権が請求権協定で解決されたと見ることは難しい」とされた。

 日本は強く反発した。韓国外交通商省(現外務省)報道官も記者会見で「韓国政府の立場は一貫して維持されており、変わりはない」と答えたものの、裁判所の判断を行政府が批判するわけにもいかず頭を抱えてしまった。

 ソウル高裁と釜山高裁で2013年に下された差し戻し審判決は当然ながら原告の逆転勝訴となり、被告の日本企業側が改めて上告した。韓国大法院はすぐに確定判決を出すかと思われたが、いまだに判決を出していない。このまま確定させたら日韓関係に重大な悪影響を及ぼすことが分かったけれど、自らの判断を否定するのも難しいというジレンマに陥って判断を先送りしていると考えられている。

準備不足の答弁で日本側に疑念を持たせた文大統領

 昨年5月に就任した文在寅大統領は、日本に対して歴史認識問題で厳しいというイメージを持たれていた。実際の政権運営ではそこまで強い思い入れを感じられないのだが、先入観というものは怖い。日本では現在も、対日強硬派というイメージを持っている人が少なくない。

 ただ、日本側の反応をきちんと考慮しないまま「思いつき」のような発言をする傾向は見られる。これは文氏に限った話ではなく、韓国の国力が強くなったという自意識の裏返しで日本を軽く見る風潮が広がっているからだろう。

 徴用工問題に関する当初の文氏の発言は、そうした韓国社会の雰囲気を見せる典型的なものだった。

 文氏は昨年8月15日の「光復節」演説で、慰安婦問題と徴用工問題を並べて「未解決の問題」として取り上げた。さらに同月17日の記者会見では、慰安婦問題が請求権協定で解決されていないと述べたうえで徴用工問題に言及し、「徴用された強制徴用者個人が三菱をはじめとする相手方の会社に対して持つ民事的な権利はそのまま残っているというのが韓国の憲法裁判所や大法院の判例です。政府はそのような立場から歴史問題に臨んでいます」と語ったのだ。

 慰安婦問題についても2015年の日韓合意で解決済みとせざるをえないはずなのだが、それは置いておくとしても、そもそも慰安婦問題と徴用工問題を同列に語ること自体が韓国政府の立場を逸脱するものだった。韓国政府は盧武鉉政権だった2005年に請求権協定の効力について再検討を行い、慰安婦問題と在韓被爆者、サハリン残留韓国人という三つの問題には協定の効力が及ばないという判断を下した。その時に、徴用工問題については協定で解決済みと再確認しているのだ。

 しかも憲法裁判所は2015年12月、元徴用工の訴えを「憲法訴訟の対象にならない」と却下している。

 文氏が2012年に出した著書では慰安婦訴訟と徴用工訴訟を混同しているような記述もあった。文氏は記者会見から1週間後に行った安倍晋三首相との電話協議では、「請求権協定で解決済み」という立場を再確認した。記者会見との整合性を意識したのか、「国家間の問題解決とは別に、個人と企業の間での個人請求権は存在するというのが韓国大法院の判断だ」と付け加えたという。

 その間の経緯を考えれば、記者会見では準備不足の即興答弁をしたように思われた。私は同僚から「一国の大統領となれば発言は重い。これから徴用工問題で日本に責任を取れと迫ろうというロードマップを描いた上での発言のはずだ」と言われたが、とてもそこまで考えているとは思えなかった。その時に効果的な反論を見つけられなかったのだが、ある韓国専門家の大学教授には「そんなのトランプ大統領を見てみろ、と言えばいいじゃない」と笑われた。トランプ氏ほどではないにしても、文氏の日本関連の発言は軽いのである。

 なお記者会見を報じた日経新聞は、2005年の再検討について「当時、大統領首席秘書官だった文氏は政府委員メンバーだった。17日の記者会見ではその点に関する見解をただされたが、答えなかった。」と書いた。私の周囲にはこの記事を真に受けて「文氏が痛い点を突かれたのに、だんまりを決め込んだ」と受け止める人がいたが、それは事実と異なる。そうした読後感を持つ人が多かったとしたら、誤解を招く困った記事だったと言えるだろう。質問者は再検討が行われたことを踏まえた回答をしてほしいと求めたものの、文氏が再検討チームに入っていたことには触れていなかったのである。

日本政府の理屈は「請求権はあるが、救済はされない」

 では日本政府の立場というのは、どんなものか。

 日本政府は、(1)請求権は消滅していない、(2)国家によって国民の権利が守られるという外交保護権は消滅した、という立場を取っている。

 背景にあるのが、日本国民が連合国軍の空襲などで被った被害への補償問題だ。

 日本政府はサンフランシスコ講和条約での日本国民の連合国に対する請求権放棄について、「外国における国民の権利を保護しないという消極的な決定をしただけだ」と国会で答弁している。対米請求権を放棄した日本国に原爆被害への補償を求めた被爆者訴訟でも、同様の論理で国に補償義務はないと主張した。日本政府はその後、個人の請求権は消滅していないが、相手国・国民がこれに応じる法的義務は消滅しているので「救済されない権利」であるという説明をするようになった。

 日韓請求権協定で個人請求権が消滅していないという解釈は、これを踏襲している。日本国民に補償しないですむように考えられた論理が、韓国人にも適用されたということだ。

 外務省の柳井俊二条約局長は1991年8月の参院予算委員会で、日韓請求権協定と個人請求権の関係について明確に表明している。

 柳井氏は「日韓請求権協定におきまして両国間の請求権の問題は最終かつ完全に解決したわけでございます。(中略)これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできない、こういう意味でございます」と述べた。

 さらに安倍政権下でも、岸田文雄外相が2013年11月の参院外交防衛委員会で「日韓請求権、そして経済協力協定の下では、個人が裁判所に対して個人として訴えを提起すること自体は妨げられていないものと理解をしています。しかしながら、この協定に基づきまして、このような個人の請求権は法的には救済されないということになる」と答弁している。

 どちらにしても「請求権協定で解決済み」という結論が変わるわけではない。韓国大法院がこれを否定する判決を出すのなら、日韓関係は最悪の状況に陥ることになる。多くの日本企業に直接の影響を与える問題であるだけに、日韓の経済的関係にも重大な悪影響を及ぼすことは目に見えている。

 そんなことになっては困るのだが、一方で思い込みだけで「個人請求権が残っているという文大統領はけしからん」と息巻いても仕方がない。もっと冷静に事実関係を見極める姿勢が大切だろう。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/134.html#c2

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
221. 中川隆[-13234] koaQ7Jey 2019年1月03日 11:49:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

>>52, >>53, >>64, >>66, >>74, >>77, >>85, >>129, >>186, >>195, >>204, >>210 の続き

千葉県の人間はみんな頭がおかしい(13)


1キロ引きずられ大学生死亡
1/3(木) 9:33配信 共同通信


 2日午後11時50分ごろ、千葉県浦安市富岡4丁目の国道357号で、男性が乗ったバイクに車が追突、車は男性を引きずりながら周辺を約1キロ走行し、逃走した。浦安署によると、男性は頭を強く打ち、搬送先の病院で約5時間後に死亡した。

 死亡したのはさいたま市緑区の大学1年梓隼輔さん(18)。車は梓さんを車底に巻き込んだまま、Uターンや左折を繰り返したとみられ、署はひき逃げ事件とみて周辺の防犯カメラの確認などを急いでいる。

 現場は片側2車線の直線道路。梓さんは別のバイクに乗った友人とツーリング中だった。

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c221

[昼休み54] ユダヤ人は悪い 中川隆
26. 中川隆[-13233] koaQ7Jey 2019年1月03日 12:31:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]
2019.01.03
揺らぎ始めたイスラエルを守ろうと必死のアメリカ支配層
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901020000/

 アメリカでは昨年(2018年)12月22日に連邦予算の一部が失効、政府機関の一部が閉鎖された。その直前、​民主党のベン・カーディン上院議員と共和党のロブ・ポートマン上院議員はどさくさ紛れに、アメリカ企業がイスラエル・ボイコットに参加できないようにしよう目論んでいる​。

 イスラエルは1948年5月14日にパレスチナで作られた。その際、先住のアラブ系住民(パレスチナ人)は虐殺、追放されて難民化する。パレスチナに残ったアラブ系住民もいるが、そうした人々をイスラエル政府は軍隊を投入して殺戮、建造物を破壊、巨大な分離壁を建設してその内部にパレスチナ人を押し込めてきた。つまり、巨大な強制収容所を作り上げたのだ。海上封鎖して兵糧攻めを続けている。

 イスラエルと同じようにイギリスによって作り上げられたサウジアラビアの政府はイスラエルと同盟関係にあるが、イスラエルによるパレスチナ人に対する残虐行為を非難する声は小さくない。

 民間レベルではイスラエルに対するBDS(ボイコット、資本の引き揚げ、制裁)運動がヨーロッパを中心に展開されている。アメリカの上院議員はこのBDSにアメリカ企業が参加することを妨害しようとしたのだ。

 ドナルド・トランプ大統領は2017年12月にエルサレムをイスラエルの首都だと認めると宣言しているが、これはアメリカ議会の意思でもあった。

 本ブログでもすでに書いたことだが、アメリカには「1995年エルサレム大使館法」という法律があり、エルサレムがイスラエルの首都だと認めた上で、1999年5月31日までにそこへ大使館を建設するべきだとしていた。

 その法律は歴代大統領の判断もあって現実にならなかった。そこで2017年6月にアメリカ上院はその法律を再確認する決議を賛成90、棄権10で採択している。議会の意思をトランプ大統領は尊重したとも言えるのだ。

 日本は無縁のようだが、BDSはイスラエルに対する圧力になっている。そうした運動を封じ込めようという動きがアメリカでは議会だけでなく、教育の世界でも見られる。

 テキサス州の養護学校で言語療法士として働いていたバヒア・アマウィは雇用契約の更新を拒否されたのだが、その原因はイスラエルに対する経済的な損害を与えるあらゆるボイコットに参加しないという内容の誓約書に署名することを拒否したことにあった。

 バラク・オバマ政権が推進していたTPP、TTIP、TiSAといった国の主権を放棄する政策に反対していたエリザベス・ウォーレンもイスラエルを擁護、エルサレムをイスラエルの首都だと認める立場だ。

 こうした問題をアメリカは以前から抱えていたのだが、ここにきて表面化してきた。それだけアメリカの支配力が弱まっているということだろう。

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/102.html#c26

[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
141. 中川隆[-13232] koaQ7Jey 2019年1月03日 14:08:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]
「田舎の長男」との結婚に絶望した彼女の告白
1/3(木) 5:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190103-00256271-toyo-soci&p=1

単純計算すると3組に1組の夫婦が離婚している日本。そこに至るまでの理由は多種多様だ。そもそも1組の男女が、どこでどうすれ違い、別れを選んだのか。それを選択した一人ひとりの人生をピックアップする本連載の第7回。

■大自然マジックで、農家の長男と婚約

 「農家の長男との婚約は、地獄でした。今思うと、本当にあれは悪夢です。今でも、あの村での日々を思い出すとゾッとしますね」

 そう語るのは、都内の教育関係の会社のOLとして働く須藤百合子さん(44)だ。百合子さんは、28歳の時に結婚し32歳で離婚。その後、農家の長男と婚約まで行き着くが、結婚寸前で思いとどまり、ギリギリで婚約破棄。百合子さんが「地獄」と断言する壮絶な女の軌跡を追った。
.

 大学卒業後、予備校で塾講師として働いていた百合子さんは、1年間同棲していた2歳年上の職場の先輩と結婚した。

 「結婚って世間体だと思っていて、私も人並みに結婚して、子どもが欲しかった。30歳前になると、周りの友達がバタバタと結婚していくから、波に乗り遅れないようにと焦って当時同棲していた彼と結婚しました。

 結婚しても共働きだったし、経済的には何不自由ない生活でした。だけど財布も完全に独立会計で、家事も分担制で寮生活みたいだったんです。仲は良かったけど、お兄ちゃんと生活しているみたいな感じで、ときめきもなかった。子どももできなかったこともあり、お互いまだやり直せるうちに別れようという話になって、トラブルもなく円満離婚しました」
.

 再び一人暮らしに戻り、時間を持て余すようになった百合子さんは、思いつきで簿記の資格学校に通い始めた。

 そこで出会ったのが、東京から車で3〜4時間かかる、ある県の兼業農家の長男である2歳年下の隆一(30)だった。隆一は資格取得とリフレッシュを兼ねて、その県から毎週高速バスで上京していた。

 結婚生活にほとほと疲れ果てた百合子さんは、隆一の都会の男にはない「押しの強さ」に引かれた。

 「出会ってそんなに経ってないのに、『君と結婚したい』って猛烈アタックしてきたんですよ。『なんて情熱的な男なの!』って、思わずポーッとなってしまいました。離婚した直後だったし、私、まだ女として終わってないんだと感じて、舞い上がってしまったんですよね。『とにかく早く君と結婚したい、親にも君を早く紹介したいんだ』って言ってくれて、心が動いてしまったんです。そこからとんとん拍子に婚約して、彼の実家にあいさつに行きました。そこは、映画に出てくるような田んぼしかない本当のド田舎でした」


■早く男の子を生んで、将来は私たちの面倒を

 山間部に位置する隆一の実家は、大自然とのどかな田園風景が広がっていた。澄んだ空気に、全身に力がみなぎるのを感じた。

 隆一の実家に足を運ぶと、両親は手作りの郷土料理をテーブルいっぱいに並べて、百合子さんをもてなしてくれた。なんて良い人たちだろう。こんな田舎で大好きな人と一生を送る人生もすてきかもしれない、百合子さんはそう感じた。

 隆一の両親が、突然同居話を持ち出すまでは――。
.

 「彼のお母さんから、いきなり『東京の人だから、同居はなじめないかもしれないでしょ。だから、こっちが百歩譲って二世帯住宅にうちを作り替える』という話が始まったんです。頭が混乱しましたね。だって、さっき会ったばかりなんですよ。でもそんなことなんてお構いなしに、『百合子さんも早く男の子を生んでもらって、私たちの面倒を見てもらわないと』って言うんです。

 『いや、同居とか二世帯住宅とか、ちょっと待ってください』と言ったら、彼が『母さんの言うとおりだよ〜』ってコロッと手のひらを返したんです。私、この村に軟禁されて、一生出られなくなるんじゃないかという恐怖を感じました』
.

 後ほど隆一に問いただすと、「この村では、『私たちの面倒を見てね』という言葉は、君を受け入れたという意味なんだよ。よかったね」と笑っている。それって重荷だし、怖いと百合子さんは背筋が凍るのを感じた。

 まだ婚約段階なのにもかかわらず、嫁が来るという噂はあっという間に村中に広まり、長老たちが続々と隆一の家に集まってきた。長老たちは、百合子の顔をいやらしそうな目でなめ回すように見ると、「結婚式は村のしきたりに沿った式にしてもらう」と百合子さんに告げた。すぐに村の公民館で長老たちの会議が始まり、百合子さんはドン引きしたが何も言えなかった。
.

 百合子さんは、それでもまだ隆一を信じたい気持ちもあった。同居を迫る隆一の両親を何とか説き伏せ、村の近くにアパートを借りて、仕事を探し、まずは一人で生活することになった。

 「意外かと思われるかもしれませんが、村人は外部から来た人に決して、ウェルカムじゃないんです。向こうで仕事を探そうと思っても、地元の企業には東京の人だと就職できない。『この村の者じゃないよね』『村のどの学校出たの?』と聞かれる。東京から来たというと、それだけでアウトなんですよ」


結局、百合子さんが就職できたのは、東京に本社のある食品の工場だった。

■女のバツイチは村の恥

 村にとって、離婚歴のある女性はそれだけで恥という存在だった。隆一は、百合子がバツイチであることを「村に知られたら大変だ」とおびえていた。隆一に聞くと、「百合子がバツイチであることは母親のみが知っていて、父親や村の住民たちには金輪際、隠し通すつもりだ」と言う。隠していてもいつかバレるから、せめて彼のお父さんには早く言ったほうがいいと百合子さんは隆一に伝えたが、聞く耳を持たなかった。
.

 百合子さんは、前の夫との間に子どもがいなかったこともあり、土日には2人で海や山などのレジャーを楽しむのが、日課だった。

 しかし、せっかくの土日にどこかに外出したいと百合子さんが隆一にせがんでも、首を縦に振らなかった。土日は早朝から夜遅くまで、地元の消防訓練がある。それが、村の男のしきたりだと言うのだ。

 「『土日に遊びにいかないの?』って聞いたら、『いや、土日は消防が当たり前だろ。女はそこにご飯とか総菜を作って持ってくると決まっているんだ』って言うんです。聞くと土日祝日は村の男衆が集まって、公民館で消防の朝練を朝5時からして、その後は夕方まで飲み食いしているんです。彼のお母さんも村の女性たちも、みんなそのしきたりがあるから休日でも遊びに行くこともない。『消防って、それ楽しいの?』と彼に聞いたら『いや、楽しいとかそういうものじゃなく、それが村のしきたりだ』としか言わないんですよ。とにかくあぜんとしましたね」
.

 百合子さんも、毎週土日は食べ物や飲み物の差し入れを強いられ、その時間が苦痛で仕方なかった。なんでこんなところに来てしまったんだろうと思うと、泣きたくなった。

 「今思うと、彼も嫁要員を見つけるのに必死だったんでしょうね。村で30代というと、子どもが3人くらいいるのがデフォルトなんですよ。異常に地域の連帯感が強いから、消防の応援とか、地域の行事に家族ぐるみで行かなきゃいけない。むしろそれがステータスなんです。そこで30代独身の男性がいると、めちゃくちゃ肩身が狭い。『あいつは、何か性格に問題がある』と陰口をささやかれる。


田舎って、一見癒やしだと勘違いしてしまうんですが、実は閉鎖的で多様な生き方が一切認められないんです。そんな中でも特に犠牲になるのは女なんだと、身をもって実感しましたね」

 年に数回ある祭りは強制参加で、女性は料理をして、陰で支えると決まっている。村人の冠婚葬祭があると、仕事を休んで男たちのおもてなしをしなければならない。

 そもそも村に住んでいる限りは行事に参加しないという選択肢はない。村に住んでいると、男尊女卑は当たり前で、何かと女だけが馬車馬のように働かされる事実に、百合子さんは違和感を覚えずにはいられなかった。
.

 村の生活に悩み困り果てた百合子さんは、ある日Iターンで東京からやってきたリンゴ園を経営する男性と知り合い悩みを打ち明けた。

■喜んで受け入れられると思い込んでいた

 すると男性は、「わかるよ。僕も、村の人たちに田舎でリンゴ園やるなんて、立派だと歓迎されると思って東京から来たんだ。でも甘かったよ」と、肩を落とした。

 男性は東京生まれだったが、田舎の自然の豊かさに引かれて脱サラ、一念発起し、リンゴ園を開業した。村は、どの地方も抱える問題と同じように少子高齢化の波が押し寄せ、過疎化している。そんな中、まだ30代だった男性は村の貴重な労働力として、喜んで受け入れられると思い込んでいた。しかし、村の住民たちの反応は違った。
.

 男性が東京からやってきたことを話すと、村の住民たちは顔色を変えた。そして、突然、「親を東京に置いてくるなんて、この親不孝者め!!」と罵り始めた。男性は住民たちのいじめに遭い、そのまま村八分になってしまったという。結局男性は、Iターン組だけでグループを形成し、村の住民との交流は完全に断絶していると苦しい胸の内を打ち明けてくれた。

 日々息が詰まるような生活を強いられた百合子さんは、たまには1人で羽を伸ばしたいと思い立ち、ある日、1人で高速バスになって大阪に買い物に出かけた。すると村中にその噂が広がり、地元では大騒動になっていた。

 「休みの日に女が1人で遠出をするなんて許せん!」

 百合子さんは隆一の父親に怒鳴られ、村の住民や家族から大目玉を食らい、その後も白い目で見られ続けた。

 「たかが買い物ですよ。女1人で買い物も許されないんです。同じ日本でも、文化が違うだけでこれだけわかり合えないのかと思いましたね。やってられないと思いました」

 もう限界だと百合子さんは、隆一との婚約破棄を決意。それを隆一に告げると、携帯の留守電には毎日何十件も「ふざけんじゃねーよ!  ぶっころすぞ!」と罵りの電話が入るようになった。恐怖を感じた百合子さんは、弁護士に相談し、命からがら東京へと逃げ出した。結果、隆一とは婚約破棄となった。
.

■恐怖の村から脱出し、東京に帰還

 恐怖の村から脱出した百合子さんは東京に戻り、教育関係の仕事を見つけ、そこで知り合った会社員の男性と再婚し、長男を出産。現在は地方出張もこなすなど、バリキャリとして、多忙な日々を送っている。今の夫は働く百合子さんを応援し、子育てにも積極的だ。

 「自分の両親には、『あの男とだけは、結婚しなくてよかったね』と言われます。今もあの村に住んでいたら、きっと今のように私が働くことなんか、絶対認めてもらえなかったはずです。ましてや今の仕事のように、遠方に出張とかは無理だったでしょうね。よくテレビで、都会の女性と田舎の男のお見合いの番組とかやってるじゃないですか。あれを見ると、『本当に大丈夫?  私みたいにブラックホールに落ちないでね』って言いたくなっちゃうんです」
.

 人並みの結婚を目指していただけなのに、いつしか思わぬ泥沼にハマりかけ、危機一髪のところで、なんとかはい上がった百合子さん。百合子さんがこれらの経験を経て得た教訓は、一時の情熱や恋愛感情で突っ走らず、結婚相手の周辺に目を向けることの大切さだ。相手の家族だけでなく、相手を取り巻く環境を今一度よく見渡してほしい、と百合子さんは最後に力強いまなざしで語ってくれた。
.
菅野 久美子 :フリーライター
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190103-00256271-toyo-soci&p=1

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c141

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
506. 中川隆[-13231] koaQ7Jey 2019年1月03日 14:09:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

「田舎の長男」との結婚に絶望した彼女の告白
1/3(木) 5:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190103-00256271-toyo-soci&p=1

単純計算すると3組に1組の夫婦が離婚している日本。そこに至るまでの理由は多種多様だ。そもそも1組の男女が、どこでどうすれ違い、別れを選んだのか。それを選択した一人ひとりの人生をピックアップする本連載の第7回。

■大自然マジックで、農家の長男と婚約

 「農家の長男との婚約は、地獄でした。今思うと、本当にあれは悪夢です。今でも、あの村での日々を思い出すとゾッとしますね」

 そう語るのは、都内の教育関係の会社のOLとして働く須藤百合子さん(44)だ。百合子さんは、28歳の時に結婚し32歳で離婚。その後、農家の長男と婚約まで行き着くが、結婚寸前で思いとどまり、ギリギリで婚約破棄。百合子さんが「地獄」と断言する壮絶な女の軌跡を追った。
.

 大学卒業後、予備校で塾講師として働いていた百合子さんは、1年間同棲していた2歳年上の職場の先輩と結婚した。

 「結婚って世間体だと思っていて、私も人並みに結婚して、子どもが欲しかった。30歳前になると、周りの友達がバタバタと結婚していくから、波に乗り遅れないようにと焦って当時同棲していた彼と結婚しました。

 結婚しても共働きだったし、経済的には何不自由ない生活でした。だけど財布も完全に独立会計で、家事も分担制で寮生活みたいだったんです。仲は良かったけど、お兄ちゃんと生活しているみたいな感じで、ときめきもなかった。子どももできなかったこともあり、お互いまだやり直せるうちに別れようという話になって、トラブルもなく円満離婚しました」
.

 再び一人暮らしに戻り、時間を持て余すようになった百合子さんは、思いつきで簿記の資格学校に通い始めた。

 そこで出会ったのが、東京から車で3〜4時間かかる、ある県の兼業農家の長男である2歳年下の隆一(30)だった。隆一は資格取得とリフレッシュを兼ねて、その県から毎週高速バスで上京していた。

 結婚生活にほとほと疲れ果てた百合子さんは、隆一の都会の男にはない「押しの強さ」に引かれた。

 「出会ってそんなに経ってないのに、『君と結婚したい』って猛烈アタックしてきたんですよ。『なんて情熱的な男なの!』って、思わずポーッとなってしまいました。離婚した直後だったし、私、まだ女として終わってないんだと感じて、舞い上がってしまったんですよね。『とにかく早く君と結婚したい、親にも君を早く紹介したいんだ』って言ってくれて、心が動いてしまったんです。そこからとんとん拍子に婚約して、彼の実家にあいさつに行きました。そこは、映画に出てくるような田んぼしかない本当のド田舎でした」


■早く男の子を生んで、将来は私たちの面倒を

 山間部に位置する隆一の実家は、大自然とのどかな田園風景が広がっていた。澄んだ空気に、全身に力がみなぎるのを感じた。

 隆一の実家に足を運ぶと、両親は手作りの郷土料理をテーブルいっぱいに並べて、百合子さんをもてなしてくれた。なんて良い人たちだろう。こんな田舎で大好きな人と一生を送る人生もすてきかもしれない、百合子さんはそう感じた。

 隆一の両親が、突然同居話を持ち出すまでは――。
.

 「彼のお母さんから、いきなり『東京の人だから、同居はなじめないかもしれないでしょ。だから、こっちが百歩譲って二世帯住宅にうちを作り替える』という話が始まったんです。頭が混乱しましたね。だって、さっき会ったばかりなんですよ。でもそんなことなんてお構いなしに、『百合子さんも早く男の子を生んでもらって、私たちの面倒を見てもらわないと』って言うんです。

 『いや、同居とか二世帯住宅とか、ちょっと待ってください』と言ったら、彼が『母さんの言うとおりだよ〜』ってコロッと手のひらを返したんです。私、この村に軟禁されて、一生出られなくなるんじゃないかという恐怖を感じました』
.

 後ほど隆一に問いただすと、「この村では、『私たちの面倒を見てね』という言葉は、君を受け入れたという意味なんだよ。よかったね」と笑っている。それって重荷だし、怖いと百合子さんは背筋が凍るのを感じた。

 まだ婚約段階なのにもかかわらず、嫁が来るという噂はあっという間に村中に広まり、長老たちが続々と隆一の家に集まってきた。長老たちは、百合子の顔をいやらしそうな目でなめ回すように見ると、「結婚式は村のしきたりに沿った式にしてもらう」と百合子さんに告げた。すぐに村の公民館で長老たちの会議が始まり、百合子さんはドン引きしたが何も言えなかった。
.

 百合子さんは、それでもまだ隆一を信じたい気持ちもあった。同居を迫る隆一の両親を何とか説き伏せ、村の近くにアパートを借りて、仕事を探し、まずは一人で生活することになった。

 「意外かと思われるかもしれませんが、村人は外部から来た人に決して、ウェルカムじゃないんです。向こうで仕事を探そうと思っても、地元の企業には東京の人だと就職できない。『この村の者じゃないよね』『村のどの学校出たの?』と聞かれる。東京から来たというと、それだけでアウトなんですよ」


結局、百合子さんが就職できたのは、東京に本社のある食品の工場だった。

■女のバツイチは村の恥

 村にとって、離婚歴のある女性はそれだけで恥という存在だった。隆一は、百合子がバツイチであることを「村に知られたら大変だ」とおびえていた。隆一に聞くと、「百合子がバツイチであることは母親のみが知っていて、父親や村の住民たちには金輪際、隠し通すつもりだ」と言う。隠していてもいつかバレるから、せめて彼のお父さんには早く言ったほうがいいと百合子さんは隆一に伝えたが、聞く耳を持たなかった。
.

 百合子さんは、前の夫との間に子どもがいなかったこともあり、土日には2人で海や山などのレジャーを楽しむのが、日課だった。

 しかし、せっかくの土日にどこかに外出したいと百合子さんが隆一にせがんでも、首を縦に振らなかった。土日は早朝から夜遅くまで、地元の消防訓練がある。それが、村の男のしきたりだと言うのだ。

 「『土日に遊びにいかないの?』って聞いたら、『いや、土日は消防が当たり前だろ。女はそこにご飯とか総菜を作って持ってくると決まっているんだ』って言うんです。聞くと土日祝日は村の男衆が集まって、公民館で消防の朝練を朝5時からして、その後は夕方まで飲み食いしているんです。彼のお母さんも村の女性たちも、みんなそのしきたりがあるから休日でも遊びに行くこともない。『消防って、それ楽しいの?』と彼に聞いたら『いや、楽しいとかそういうものじゃなく、それが村のしきたりだ』としか言わないんですよ。とにかくあぜんとしましたね」
.

 百合子さんも、毎週土日は食べ物や飲み物の差し入れを強いられ、その時間が苦痛で仕方なかった。なんでこんなところに来てしまったんだろうと思うと、泣きたくなった。

 「今思うと、彼も嫁要員を見つけるのに必死だったんでしょうね。村で30代というと、子どもが3人くらいいるのがデフォルトなんですよ。異常に地域の連帯感が強いから、消防の応援とか、地域の行事に家族ぐるみで行かなきゃいけない。むしろそれがステータスなんです。そこで30代独身の男性がいると、めちゃくちゃ肩身が狭い。『あいつは、何か性格に問題がある』と陰口をささやかれる。


田舎って、一見癒やしだと勘違いしてしまうんですが、実は閉鎖的で多様な生き方が一切認められないんです。そんな中でも特に犠牲になるのは女なんだと、身をもって実感しましたね」

 年に数回ある祭りは強制参加で、女性は料理をして、陰で支えると決まっている。村人の冠婚葬祭があると、仕事を休んで男たちのおもてなしをしなければならない。

 そもそも村に住んでいる限りは行事に参加しないという選択肢はない。村に住んでいると、男尊女卑は当たり前で、何かと女だけが馬車馬のように働かされる事実に、百合子さんは違和感を覚えずにはいられなかった。
.

 村の生活に悩み困り果てた百合子さんは、ある日Iターンで東京からやってきたリンゴ園を経営する男性と知り合い悩みを打ち明けた。

■喜んで受け入れられると思い込んでいた

 すると男性は、「わかるよ。僕も、村の人たちに田舎でリンゴ園やるなんて、立派だと歓迎されると思って東京から来たんだ。でも甘かったよ」と、肩を落とした。

 男性は東京生まれだったが、田舎の自然の豊かさに引かれて脱サラ、一念発起し、リンゴ園を開業した。村は、どの地方も抱える問題と同じように少子高齢化の波が押し寄せ、過疎化している。そんな中、まだ30代だった男性は村の貴重な労働力として、喜んで受け入れられると思い込んでいた。しかし、村の住民たちの反応は違った。
.

 男性が東京からやってきたことを話すと、村の住民たちは顔色を変えた。そして、突然、「親を東京に置いてくるなんて、この親不孝者め!!」と罵り始めた。男性は住民たちのいじめに遭い、そのまま村八分になってしまったという。結局男性は、Iターン組だけでグループを形成し、村の住民との交流は完全に断絶していると苦しい胸の内を打ち明けてくれた。

 日々息が詰まるような生活を強いられた百合子さんは、たまには1人で羽を伸ばしたいと思い立ち、ある日、1人で高速バスになって大阪に買い物に出かけた。すると村中にその噂が広がり、地元では大騒動になっていた。

 「休みの日に女が1人で遠出をするなんて許せん!」

 百合子さんは隆一の父親に怒鳴られ、村の住民や家族から大目玉を食らい、その後も白い目で見られ続けた。

 「たかが買い物ですよ。女1人で買い物も許されないんです。同じ日本でも、文化が違うだけでこれだけわかり合えないのかと思いましたね。やってられないと思いました」

 もう限界だと百合子さんは、隆一との婚約破棄を決意。それを隆一に告げると、携帯の留守電には毎日何十件も「ふざけんじゃねーよ!  ぶっころすぞ!」と罵りの電話が入るようになった。恐怖を感じた百合子さんは、弁護士に相談し、命からがら東京へと逃げ出した。結果、隆一とは婚約破棄となった。
.

■恐怖の村から脱出し、東京に帰還

 恐怖の村から脱出した百合子さんは東京に戻り、教育関係の仕事を見つけ、そこで知り合った会社員の男性と再婚し、長男を出産。現在は地方出張もこなすなど、バリキャリとして、多忙な日々を送っている。今の夫は働く百合子さんを応援し、子育てにも積極的だ。

 「自分の両親には、『あの男とだけは、結婚しなくてよかったね』と言われます。今もあの村に住んでいたら、きっと今のように私が働くことなんか、絶対認めてもらえなかったはずです。ましてや今の仕事のように、遠方に出張とかは無理だったでしょうね。よくテレビで、都会の女性と田舎の男のお見合いの番組とかやってるじゃないですか。あれを見ると、『本当に大丈夫?  私みたいにブラックホールに落ちないでね』って言いたくなっちゃうんです」
.

 人並みの結婚を目指していただけなのに、いつしか思わぬ泥沼にハマりかけ、危機一髪のところで、なんとかはい上がった百合子さん。百合子さんがこれらの経験を経て得た教訓は、一時の情熱や恋愛感情で突っ走らず、結婚相手の周辺に目を向けることの大切さだ。相手の家族だけでなく、相手を取り巻く環境を今一度よく見渡してほしい、と百合子さんは最後に力強いまなざしで語ってくれた。
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菅野 久美子 :フリーライター
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190103-00256271-toyo-soci&p=1

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c506

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
143. 中川隆[-13230] koaQ7Jey 2019年1月03日 17:51:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

いわんかな#18【日米開戦の真実・後編 米共産主義スパイと山本五十六】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=qK-aTkDVrzg&app=desktop
https://www.youtube.com/watch?v=RnHViHclRlg&app=desktop

収録日:2018年12月6日

出演:(左から順に)

日下公人(評論家)
塩見和子(日本太鼓財団理事長・国際同時通訳の第一人者)
馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使・元防衛大学校教授)
渡辺惣樹
堤堯(ジャーナリスト・元文藝春秋編集長)
福島香織(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
高山正之(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
志方俊之(軍事アナリスト・元陸上自衛官陸将)

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c143

[近代史3] 馬渕睦夫 deep state の世界を語る _ 朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてヤラセだった 中川隆
9. 中川隆[-13229] koaQ7Jey 2019年1月03日 18:04:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

いわんかな#18【日米開戦の真実・後編 米共産主義スパイと山本五十六】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=qK-aTkDVrzg&app=desktop
https://www.youtube.com/watch?v=RnHViHclRlg&app=desktop


収録日:2018年12月6日

出演:(左から順に)

日下公人(評論家)
塩見和子(日本太鼓財団理事長・国際同時通訳の第一人者)
馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使・元防衛大学校教授)
渡辺惣樹
堤堯(ジャーナリスト・元文藝春秋編集長)
福島香織(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
高山正之(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
志方俊之(軍事アナリスト・元陸上自衛官陸将)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/105.html#c9

[昼休み54] 「古事記に学ぶ日本のこころ」 馬渕睦夫 〜天と地を結ぶ日本人の力〜 中川隆
28. 中川隆[-13228] koaQ7Jey 2019年1月03日 18:04:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

いわんかな#18【日米開戦の真実・後編 米共産主義スパイと山本五十六】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=qK-aTkDVrzg&app=desktop
https://www.youtube.com/watch?v=RnHViHclRlg&app=desktop

収録日:2018年12月6日

出演:(左から順に)

日下公人(評論家)
塩見和子(日本太鼓財団理事長・国際同時通訳の第一人者)
馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使・元防衛大学校教授)
渡辺惣樹
堤堯(ジャーナリスト・元文藝春秋編集長)
福島香織(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
高山正之(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
志方俊之(軍事アナリスト・元陸上自衛官陸将)

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/339.html#c28

[カルト7] イエスのヒーリングは本物のシャーマンには敵わない 中川隆
11. 中川隆[-13227] koaQ7Jey 2019年1月03日 19:44:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216]

宗教と宗教的職能者


宗教の定義と分類

宗教 religion を定義するのは難しいが、おおよそ、神 god や霊 spirit などの超自然的存在 supernatural being とかかわる観念 idea と実践 practice の体系である、ということができる。宗教を歴史的な文脈でとらえる場合、その起源の古い順に、自然宗教(原始宗教)、民族宗教、世界宗教と分類する。(→世界の諸宗教)あるいは、自然発生的な宗教に対し、開祖がはっきりしているという意味で創唱宗教という分類も用いられる。(→民族宗教と創唱宗教)あるいは、比較的新しい時代になってあらわれた創唱宗教を新宗教 new religion ということもある。ただしふつうに宗教というと、キリスト教、イスラム教や仏教のような世界宗教のことを示すことが多い。逆に自然宗教というのは「その他」というような消極的なカテゴリーである。

いっぽう、宗教を社会人類学的な文脈でとらえる場合、むしろ宗教的職能者 religious prectitioner と超自然的存在との関わり方に注目し、狭義の宗教(祭司宗教)と呪術 magic ・シャーマニズム shamanism を対比させて分類する。シャーマニズムの担い手であるシャーマン shaman (巫師)が、変性意識状態に入り、超自然的存在と直接かかわるのに対し、祭司宗教の担い手である祭司 priest は、変性意識状態にはあまり入らず、超自然界とは間接的にしか関わらない。呪術・呪術師 magician または呪医 witch doctor/medicine man はその中間的な性格を持っている。さらに、シャーマンは、自分が超自然界に「行く」タイプの脱魂型シャーマン、または狭義のシャーマンと、超自然的存在が向こうから「来る」タイプの憑霊型(憑依型)シャーマン、または霊媒 medium に分類される。脱魂型シャーマンだけを「シャーマン」と呼び、憑霊型シャーマンは「霊媒」と呼んでシャーマンには含めない場合もある。(→呪術・宗教的職能者の分類)


宗教現象の基本形としてのシャーマニズム

ところで、これらのさまざまなタイプの職能者や宗教的実践がひとつの社会の中に全種類存在しているということはない。たとえば、コン・ムアン Khon Muan(北部タイ)、バリ島民 Balinese(インドネシア)、沖縄本島、シピボ族 Shipibo(ペルー・アマゾン)を例にとり、それらの社会での職能者の種類をまとめてみると表のようになる。

さらに一般的な通文化比較として、アメリカの人類学者M.ウィンケルマンは、全世界からランダムサンプリングされた47の民族の社会に存在する115の呪術・宗教的職能者を、その生理的・心理的・社会的特徴によってクラスター分析し、それらが、おおよそ、シャーマン、霊媒 medium 、祭司 priest、呪医 healer の四種類に分類できることを明らかにした。ここで霊媒というのは、日本のイタコやユタのような、神や霊を自分に憑依させることで占いや病気治療などを行なうタイプの職能者で、意識の状態を変容させ、超自然的存在と直接交流しているという点で、やはりシャーマンの一種であるともいえる。だから霊媒は「憑霊型シャーマン」とも呼ばれるが、この場合狭い意味でのシャーマンは「脱魂型シャーマン」と呼ばれて対比される。いっぽうの祭司は、キリスト教の神父や神道の神主などのことで、神に祈ることはあっても、自分が神になったり、神の世界にまで飛んでいったりはしないという点で、シャーマンとは区別される。最後の呪医は、呪術師ともいわれるカテゴリーの人たちで、シャーマンと祭司の中間的な性格をもっている。呪術を使って病気を治したり、時には敵を攻撃したりもするが、やはり深い変性意識状態に入ることはない。


ウィンケルマンの分析(表)によれば、47のサンプル社会のうち、宗教的な職能者が存在しない社会は中部アフリカのムブティ・ピグミーと、ボリビア・アマゾンのシリオノの二社会だけで、シリオノの社会にもじっさいにはシャーマン的な人物がいることを考えると、なんらかの形での宗教的な実践というのは人間社会にほとんど普遍的な現象だといえる。また霊媒も含めた広い意味でのシャーマンは全体の約三分の二の社会に存在し、さらに呪医の一部も含め、なんらかの形で変性意識状態に入る職能者は全体の9割にあたる43社会に存在するから、意識の状態を変容させ、超自然的世界とコンタクトする文化というのは人間社会にほとんど普遍的にみられる現象だといっていい。


狭い意味でのシャーマン(脱魂型シャーマン)だけにかぎっていうと、全世界の四分の一の社会にしか存在しないのだが、その大部分はカラハリ砂漠や極東シベリアや北米の先住民で、伝統的には農耕も牧畜も行なわず、狩猟採集生活をおくってきた人たちの社会である。このことは、シャーマニズムが人間社会における普遍的な宗教的実践であると同時に、さらにその基本形は脱魂型の、狭い意味でのシャーマニズムだということをうかがわせる。人間の宗教活動の起源を特定するのは難しい。儀礼や意識状態それ自体は考古学的な遺物を残さないからだ。最初の埋葬の跡は、6万年前のネアンデルタール人の遺跡から見つかっている。洞窟壁画などの旧石器時代美術が出現するのはおよそ3〜4万年前だが、旧石器時代の洞窟壁画にみられるサイケデリックな幾何学模様や、人間と動物が融合したような存在の描写と、現在の狩猟採集民の描く岩壁画、およびシャーマン的意識状態で体験されるビジョンはよく似ている。またアフリカ、ユーラシア、オーストラリア、南北アメリカなど、世界各地に分散して分布している脱魂型シャーマニズムの技術や世界観などが互いによく類似していることから、これらの人間集団の共通の祖先がシャーマニズム的な技術(または意識変容の能力)をすでにもっていたと考えると、そのような技術あるいは能力の発生は、約3万年前よりも新しいことはないということができる。シャーマニズムの起源は現代人(Homosapiens sapiens)の起源と同じぐらい古いといえそうである。


化石の記録を見るかぎり、人間の脳の大きさや形はここ5万年ぐらい、ほとんど変化していない。5万年という時間は日常生活での時間感覚に比べればとほうもなく長いが、生物進化40億年の時間のスケールからするとほんの短い時間である。それぐらいの時間では生物学的な進化はほとんど起こりようがない。人間の社会はここ1万年ぐらいの間に急速に変化したし、人々の生活や思考の様式も大きく変化したかもしれないが、脳の遺伝的な設計図はほとんど変化していない。進化心理学 evolutionary psychology によれば、人間行動の基盤にある脳構造は1万年以上の過去の環境下で淘汰を受けて形成されてきたもので、少なくとも農耕や牧畜の発明以降の約1万年間、人間の生得的な情報処理のアルゴリズムは基本的に変化していないとされる。アメリカの心理学者S.Krippnerは、この進化心理学の立場から、意識の状態を変容させ、シャーマニズムという形でそれを利用する能力は、すべての人類が狩猟採集生活を送っていた時代に適応的なものとして進化し、その後現在に至るまで変化せずに受け継がれてきているとしている。現代の都市社会では、それは抑圧ないし無視されていて、社会的に利用され開発されることがないだけで、シャーマン的な能力じたいは、われわれの脳の中に生得的に配線されているのかもしれない。


宗教的職能者の分化


全世界の呪術・宗教的職能者の分布を統計的に通文化比較したWinkelmanの分析に戻ると、全体の8割の社会に脱魂型または憑霊型のシャーマンが存在したわけだが、さらに、脱魂型と憑霊型のシャーマンが同じ社会に共存することはほとんどない。だから、脱魂型のシャーマニズムと憑霊型のシャーマニズムは、同じ現象の異なる社会的表現だとみることができる。ウィンケルマンのサンプルにあらわれた17社会の憑霊型シャーマンはすべて南北アメリカ以外の農耕・牧畜社会に存在し、しかもほとんどの場合、祭司とセットで存在している。またWinkelmanのサンプルをジェンダーと社会的地位の立場から分析した蛭川は、脱魂型シャーマンと祭司の多くが男性であるのに対し、憑霊型シャーマンの多くは女性であること(表)、祭司の社会的地位が高いのに対し憑霊型シャーマンの社会的地位が低いこと(表)を明らかにしている。

いままでの議論は以下のようにまとめることができる。


・シャーマニズムは、人間社会にほとんど普遍的な現象である

・人間社会の原型である狩猟・採集社会では、狭義のシャーマニズム(脱魂型シャーマニズム)が社会で中心的な役割を果たしている、

・アメリカ大陸以外の農耕・牧畜社会では


脱魂型シャーマン(男性)→祭司(男性・地位高)/憑霊型シャーマン(女性・地位低)

という分化が進んできたと考えられる。

・アメリカ大陸の先住民社会ではこのような分化は起こらなかった

http://www.kisc.meiji.ac.jp/~hirukawa/anthropology/theme/religion/religion_text.htm
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/609.html#c11

[リバイバル3] 苗場スキー場 中川隆
63. 中川隆[-13229] koaQ7Jey 2019年1月03日 19:55:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]


雪日記 苗場パウダーリセット祭り。
【18-19シーズン 55日目】 天候:雪
1/3(木) 苗場スキー場でスノーボード。
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-3478.html

お正月休みをまったりと…、と思っておりましたが、
昨日からまたパウダー祭り開催中の越後湯沢。
年末年始寒波は休む事を許してくれないようで…、

遅ればせながらパウダー祭りに参加します。
到着が14:00過ぎでしたので、駐車場からパウダー祭りの会場が近い苗場へ。

9日前に訪れた時はかなりピンチでしたが、
今や全面オープン、大盛況です。
ホテル前はかなり混雑しておりますが、

2ゴンはたいした並びもなくいつも通り。

大斜面は相変わらず阿鼻叫喚の地獄絵図…。

それでは今シーズン初男リーから!

ボコパウだけどプチリセットも入って最高!

お次は男スラへ!
男リーよりもパウダーが残っています。

雪はゴン降り最高!

当然、女リーにも。

ムムム…!?

端っこに面チュルがいっぱいだぞぉ!!

苗場パウダーさいこ〜!!

ホテル前が混雑していても、非圧雪バーンはガラガラ。
パウダー競争率は低いのでこんなゴン降りの日はプチリセット祭りです。

やっぱり苗場はいいね!
ついついかぐらに籠りがちだけど、
駐車場からすぐのゴンドラに乗れば非圧雪の急斜面が沢山ある。
今シーズンは苗場パウダーをもっともっと狙ってみよう!

さて、祭り終了の時間が近付いております。
ゴンドララスト1本をどうしようかな?
今シーズン初コースを順番に滑ってきたので、
予定ではチャレンジコースで締めようと考えていましたが、

未練パウダーへ(笑)
だって閉店間際とは思えないほど状態がいいのですもの。
最後までヒャッハー!してしまいました。

1ゴンや筍山、チャレンジコースはまた今度。

ホテル前とパウダーエリアではまるで別のスキー場みたいだね苗場は。

ナイターは3高4ロマ5高のフル営業ですが、
この混雑を見てナイター残業モードからまったり温泉モードに切り替えました。

それにしても年末年始は良く降りました。
雪不足なんて言っていたのはほんの数日前だったはずですが、
里のゲレンデまでご覧の通り。

2メートルは軽く越える雪山!?
これは除雪した雪山ではありません。
年末年始をホテルで過ごされた方々の車が埋まっている!!
もう自分の車がどこだかも解らないのでは(笑)

スキー場発表積雪量:160cm (+120cm)

使用板:GENTEMSTICK / SPEEDMASTER “八甲田” SPECIAL
ビンディング:BURTON / STEP ON
ブーツ:BURTON / PHOTON STEP ON
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-3478.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/775.html#c63

[リバイバル3] 伝説の静電型スピーカー QUAD ESL57・ESL63 中川隆
87. 中川隆[-13228] koaQ7Jey 2019年1月03日 20:29:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

平面スピーカの放射特性を考慮した吸音構造
http://www.toda.co.jp/lucubration/pdf/p374.pdf
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/682.html#c87

[近代史3] ケネディはヤラセの東西冷戦体制を終わらせようとしたのでユダヤ金融資本に殺された 中川隆
2. 中川隆[-13227] koaQ7Jey 2019年1月03日 20:52:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

J・F・ケネディ- は政府通貨を発行しただけでなく、ベトナム戦争も停止しようとしてユダヤ資本を激怒させた


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 3-7 [移民政策とベトナム戦争]
ベトナム戦争で国としての自信を失ってしまった超大国アメリカ - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=lMhdm5pxvJA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=4&app=desktop
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/126.html#c2

[リバイバル3] J・F・ケネディ-は何故暗殺されのか? 中川隆
15. 中川隆[-13226] koaQ7Jey 2019年1月03日 20:53:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

J・F・ケネディ- は政府通貨を発行しただけでなく、ベトナム戦争も停止しようとしてユダヤ資本を激怒させた


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 3-7 [移民政策とベトナム戦争]
ベトナム戦争で国としての自信を失ってしまった超大国アメリカ - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=lMhdm5pxvJA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=4&app=desktop
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/904.html#c15

[昼休み54] J・F・ケネディ-は何故暗殺されたのか? 中川隆
5. 中川隆[-13225] koaQ7Jey 2019年1月03日 20:53:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

J・F・ケネディ- は政府通貨を発行しただけでなく、ベトナム戦争も停止しようとしてユダヤ資本を激怒させた


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 3-7 [移民政策とベトナム戦争]
ベトナム戦争で国としての自信を失ってしまった超大国アメリカ - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=lMhdm5pxvJA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=4&app=desktop
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/325.html#c5

[昼休み54] 世界を救うトランプ _ ディープステート vs. ドナルド・トランプ 中川隆
10. 中川隆[-13224] koaQ7Jey 2019年1月04日 06:04:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

米国、「朗報」トランプ氏が米中協議は順調とツイッター「狙いは?」2019年01月04日


米国トランプ大統領が、ご機嫌で「ツイッター砲」を打っている。市場を安心させるという狙いも込められているようだ。

昨年末は、殿ご乱心であった。ホワイトハウス内では、国防長官を更迭する一方、FRB議長の解任情報が錯綜するなど、株式市場を大荒れにさせた。トランプ氏は、親しい友人に株価急落の背景を聞いたところ、トランプ氏自身に原因があると指摘されたとか。以降、不必要なツイッターを自重しているとも指摘されている。

『ロイター』(1月4日付)は、「トランプ米大統領、現在進行中の貿易交渉は順調」と題する記事を掲載した

(1)「トランプ米大統領は3日、足元の貿易交渉について順調に推移しているとの前向きな見解を繰り返した。ただ詳細は明かさなかった。トランプ氏はツイッターで『現在進行中の様々な貿易交渉はうまくいっている』と述べたもの」

たったこれだけの記事である。トランプ氏が詳細を明らかにしなかったのは、中国側から口外を止められていると見られる。これまで、中国側の悩みはトランプ氏がすぐにツイッターで公開してしまうことだった。中国側は、打診の程度で喋ったことが、ツイッターでさも決まったかのごとき扱いにされ、中国側を困惑させることが多々あるという。

ただ、交渉自体は米国側のペースで進んでいると見られる。中国経済の悪化が次々と発表されているからだ。もはや、米国へ対抗する力を失っている。ここまで中国経済が追い込まれてくると、習氏といえども自己保身第一で、これまで見せなかった「妥協姿勢」を見せているのかもしれない。独裁者が、最後に自分の立場を守るためにどのような行動を取るか。それを知る上でも興味深い場面が出てくるだろう。独裁者といえども、一人になれば「弱気人間」になるからだ。
http://hisayoshi-katsumata-worldview.com/


http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/347.html#c10

[リバイバル3] 「住宅は資産」という幻想で誰があなたをカモにするのか? 中川隆
224. 中川隆[-13223] koaQ7Jey 2019年1月04日 06:20:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

空き家があふれる日本、定住希望者には「家をあげます」2019.01.03
https://www.cnn.co.jp/business/35130814.html

奥多摩湖は小河内ダムで作られた人造湖で、東京の水源となっている/Emiko Jozuka/CNN



奥多摩(CNN) 井田孝之・直子夫妻は4年前、東京都奥多摩町にある2階建ての一軒家を無料で譲り受けた。

井田さん一家はそれまで直子さん(45)の実家で暮らしていたが、田舎で大きな庭付きの家に住みたいと考え、奥多摩に引っ越したという。

直子さんは「(新居は)たくさん修理しなければならなかった。でも、田舎の方に住んで大きな庭を持ちたいといつも願っていた」と語る。

井田直子さんは古い日本家屋をカフェに改修した


バイク乗りの人々に人気


井田さんのカフェは2017年9月にオープン


無料の家と聞くと詐欺のようにも聞こえるが、今、日本は住宅の戸数が世帯数を上回るという独特な不動産問題に直面している。

ジャパン・ポリシー・フォーラムによると、2013年は5200万世帯に対し住宅の数が6100万戸だった。そして、この状況は今後さらに悪化すると見られている。

国立社会保障・人口問題研究所の予測では、日本の総人口は現在の1億2700万人から2065年までに約8800万人にまで減少する。つまり、今後住宅を必要とする人はさらに減るということだ。若者は田舎から都会に仕事を求めて流出し、日本の田舎は「空き家」として知られるゴーストハウスに取りつかれるようになる。

同研究所は、2040年までに全国の900近くの町や村が消滅すると予想しており、奥多摩もその中に含まれている。その意味では、空き家の無償譲渡は町の生き残り策とも言える。

人口増加を目指す奥多摩町若者定住化対策室の新島和貴さんは「奥多摩町は2040年までに消滅が予想される東京の3つの町の1つだということが2014年にわかった」と語る。

人口減少と若者の都市への流出が進む日本では、至る所で空き家が目立つようになってきた/Emiko Jozuka/CNN
人口減少と若者の都市への流出が進む日本では、至る所で空き家が目立つようになってきた/Emiko Jozuka/CNN

空き家バンク

奥多摩町は東京都西部に位置し、都心から電車で2時間の距離にある。

1960年代には林業が盛んで、1万3000人以上が暮らしていた。しかし、木材の輸入が自由化され、さらに90年代に木材需要が落ち込んで以降、大半の若者が都会に出てしまい、現在の人口はわずか5200人にすぎない。

1955年の奥多摩町の景観/Okutama Town

奥多摩町は2014年に「空き家バンク」を開設した。空き家バンクとは、空き家の購入希望者と、高齢化する家主や空き家とをマッチングする制度だ。空き家バンクの取り組みはすでに日本全国に普及しているが、各市町村が独自の条件を設定している。

例えば奥多摩町は、空き家に入居した住民にリフォームの費用を補助しているほか、空き家の所有者に100平方メートルあたり最高で100万円を交付して空き家を手放すよう促している。

しかし、空き家の無償譲渡やリフォーム費用の支援を受けるためには、年齢が40歳以下であるか、高校生以下の子どもが少なくとも1人はいる夫婦で夫婦の1人が50歳以下であることが条件になっている。また空き家を無料で譲り受ける人は、奥多摩町へ定住し、取得した中古住宅は自己資金で改修しなければならない。

しかし、新築志向の強い日本では住宅の無償譲渡ですら容易ではない。

1945年の小河内ダムの建設現場/Okutama Town


中古住宅

新島さんは築33年の青い屋根と白い壁からなる箱のような空き家に案内してくれた。外見は頑丈そうだが内部はかび臭く、10年は空き家だろうと推察できる。キッチンは取り替えの必要があり、畳は色あせた状態だった。

新島さんは「日曜大工が好きな人にはぴったりでは」と笑った。

奥多摩町では、3000戸ある住宅のうち約400戸が空き家で、そのうち復旧可能な住宅はその半分と見られている。残りの半分は老朽化しすぎているか、地滑りの危険のある地区に立っているかのどちらかだ。

日本は20世紀に2度の人口急増を経験した。1度目は第2次世界大戦後、2度目は経済が急成長した80年代に起きた。この2度の人口急増が住宅不足を招き、人口密度の高い町や都市に安価な量産型の住宅が急ピッチで建てられた。

定期的にゲートボールを楽しむ奥多摩町の人々


居酒屋を営む女性


林業が盛んだった時期を知る人々


しかし、量産された住宅の多くは質が悪かった、と富士通総研の主席研究員、米山秀隆氏は指摘する。その結果、日本の人口の約85%が新築を選ぶ状況となっている。

政府は2015年、空き家の所有者に空き家の解体・改修を促すため、空き家を放置している所有者を罰する法律を制定した。しかし、不動産の専門家によると、空き家を所有するよりも更地にした方が固定資産税額が高くなるという。これが空き家の解体が進まない原因になっている。

東洋大学理工学部建築学科教授の野澤千絵氏は、日本は都市計画の規制が緩いため、住宅が明らかに供給過剰であるにもかかわらず、住宅開発会社は住宅を建て続けていると指摘する。

2019年に無料で提供予定の空き家を案内する新島和貴さん/Emiko Jozuka/CNN


田舎を魅力的に

奥多摩の空き家バンクの利用者は日本人だけではない。中にはニューヨークや中国からやって来る人もいる。対象は日本国民に限定していない。

フィリピン人と日本人のカップル、イマバヤシ・ロザリー、トシユキ夫妻は都心部に6人の子どもと暮らしていたが、2019年の早い時期に奥多摩町に移住する予定だ。

ロザリーさんは「東京は自分たちにとって窮屈で、同じ都内にありながら自然に囲まれている奥多摩が好きだ」と語る。

神奈川県横須賀市の谷戸の地域にある空き家を草が覆う。空き家は全国で問題となっている/Bloomberg/Bloomberg/Bloomberg via Getty Images


しかし、新たな住民の大半にとって、住居を無料で提供するだけでは不十分だ。奥多摩のような過疎地域が今後うまくやっていくためには、持続的な経済開発計画や、地元住民と新しい住民のコミュニティー作りのための活動も必要だ。

ワシントン大学の建築学の教授、ジェフリー・フー氏は「もし人々が生産的な経済活動に従事し、自分たち自身を支えていく方法を見つけられるなら、田舎にも人々は集まり定住するだろう」と話す。

徳島県神山町は2011年、住民の増加数が減少数を上回った。IT企業がサテライトオフィスを立ち上げ、都会の生活に嫌気がさした労働者を引き付けるようになった。

奥多摩駅はかつて氷川駅と呼ばれていた


2018年10月の奥多摩駅


消滅の危機に直面する町にとっては、新しい住民のアイデアも大きな力になる。

介護士の資格を持つ井田夫妻は、奥多摩で仕事に就けることは分かっていた。しかし、夫妻は2017年9月に道路沿いの古民家を購入し、ハイキングやツーリングに来た客をもてなすカフェを開業した。居心地のいい店内には骨とう品や地元の工芸品が数多く飾られている。

この場所の素晴らしさは既にある物を改良するところにあると直子さんは語る。ただ、こうした文化や古いものが好きな人でも、田舎で生活することはためらうものだとも言い添えた。

静かな通りには、別の空き家と高齢の女性が住む家がある。井田夫妻が来る前は野生のサルが女性の家庭菜園を荒らしていたが、にぎやかになった今では動物も距離を取るようになった。

直子さん自身は奥多摩に終(つい)の棲家(すみか)を見つけたが、直子さんの子どもたちの考えは異なるようだ。直子さんの長女は、すぐにでも家を出て、都会で独り暮らしをしたがっているという。
https://www.cnn.co.jp/business/35130814.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/615.html#c224

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
507. 中川隆[-13222] koaQ7Jey 2019年1月04日 06:21:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]


空き家があふれる日本、定住希望者には「家をあげます」2019.01.03
https://www.cnn.co.jp/business/35130814.html

奥多摩湖は小河内ダムで作られた人造湖で、東京の水源となっている/Emiko Jozuka/CNN



奥多摩(CNN) 井田孝之・直子夫妻は4年前、東京都奥多摩町にある2階建ての一軒家を無料で譲り受けた。

井田さん一家はそれまで直子さん(45)の実家で暮らしていたが、田舎で大きな庭付きの家に住みたいと考え、奥多摩に引っ越したという。

直子さんは「(新居は)たくさん修理しなければならなかった。でも、田舎の方に住んで大きな庭を持ちたいといつも願っていた」と語る。

井田直子さんは古い日本家屋をカフェに改修した


バイク乗りの人々に人気


井田さんのカフェは2017年9月にオープン


無料の家と聞くと詐欺のようにも聞こえるが、今、日本は住宅の戸数が世帯数を上回るという独特な不動産問題に直面している。

ジャパン・ポリシー・フォーラムによると、2013年は5200万世帯に対し住宅の数が6100万戸だった。そして、この状況は今後さらに悪化すると見られている。

国立社会保障・人口問題研究所の予測では、日本の総人口は現在の1億2700万人から2065年までに約8800万人にまで減少する。つまり、今後住宅を必要とする人はさらに減るということだ。若者は田舎から都会に仕事を求めて流出し、日本の田舎は「空き家」として知られるゴーストハウスに取りつかれるようになる。

同研究所は、2040年までに全国の900近くの町や村が消滅すると予想しており、奥多摩もその中に含まれている。その意味では、空き家の無償譲渡は町の生き残り策とも言える。

人口増加を目指す奥多摩町若者定住化対策室の新島和貴さんは「奥多摩町は2040年までに消滅が予想される東京の3つの町の1つだということが2014年にわかった」と語る。

人口減少と若者の都市への流出が進む日本では、至る所で空き家が目立つようになってきた/Emiko Jozuka/CNN
人口減少と若者の都市への流出が進む日本では、至る所で空き家が目立つようになってきた/Emiko Jozuka/CNN

空き家バンク

奥多摩町は東京都西部に位置し、都心から電車で2時間の距離にある。

1960年代には林業が盛んで、1万3000人以上が暮らしていた。しかし、木材の輸入が自由化され、さらに90年代に木材需要が落ち込んで以降、大半の若者が都会に出てしまい、現在の人口はわずか5200人にすぎない。

1955年の奥多摩町の景観/Okutama Town

奥多摩町は2014年に「空き家バンク」を開設した。空き家バンクとは、空き家の購入希望者と、高齢化する家主や空き家とをマッチングする制度だ。空き家バンクの取り組みはすでに日本全国に普及しているが、各市町村が独自の条件を設定している。

例えば奥多摩町は、空き家に入居した住民にリフォームの費用を補助しているほか、空き家の所有者に100平方メートルあたり最高で100万円を交付して空き家を手放すよう促している。

しかし、空き家の無償譲渡やリフォーム費用の支援を受けるためには、年齢が40歳以下であるか、高校生以下の子どもが少なくとも1人はいる夫婦で夫婦の1人が50歳以下であることが条件になっている。また空き家を無料で譲り受ける人は、奥多摩町へ定住し、取得した中古住宅は自己資金で改修しなければならない。

しかし、新築志向の強い日本では住宅の無償譲渡ですら容易ではない。

1945年の小河内ダムの建設現場/Okutama Town


中古住宅

新島さんは築33年の青い屋根と白い壁からなる箱のような空き家に案内してくれた。外見は頑丈そうだが内部はかび臭く、10年は空き家だろうと推察できる。キッチンは取り替えの必要があり、畳は色あせた状態だった。

新島さんは「日曜大工が好きな人にはぴったりでは」と笑った。

奥多摩町では、3000戸ある住宅のうち約400戸が空き家で、そのうち復旧可能な住宅はその半分と見られている。残りの半分は老朽化しすぎているか、地滑りの危険のある地区に立っているかのどちらかだ。

日本は20世紀に2度の人口急増を経験した。1度目は第2次世界大戦後、2度目は経済が急成長した80年代に起きた。この2度の人口急増が住宅不足を招き、人口密度の高い町や都市に安価な量産型の住宅が急ピッチで建てられた。

定期的にゲートボールを楽しむ奥多摩町の人々


居酒屋を営む女性


林業が盛んだった時期を知る人々


しかし、量産された住宅の多くは質が悪かった、と富士通総研の主席研究員、米山秀隆氏は指摘する。その結果、日本の人口の約85%が新築を選ぶ状況となっている。

政府は2015年、空き家の所有者に空き家の解体・改修を促すため、空き家を放置している所有者を罰する法律を制定した。しかし、不動産の専門家によると、空き家を所有するよりも更地にした方が固定資産税額が高くなるという。これが空き家の解体が進まない原因になっている。

東洋大学理工学部建築学科教授の野澤千絵氏は、日本は都市計画の規制が緩いため、住宅が明らかに供給過剰であるにもかかわらず、住宅開発会社は住宅を建て続けていると指摘する。

2019年に無料で提供予定の空き家を案内する新島和貴さん/Emiko Jozuka/CNN


田舎を魅力的に

奥多摩の空き家バンクの利用者は日本人だけではない。中にはニューヨークや中国からやって来る人もいる。対象は日本国民に限定していない。

フィリピン人と日本人のカップル、イマバヤシ・ロザリー、トシユキ夫妻は都心部に6人の子どもと暮らしていたが、2019年の早い時期に奥多摩町に移住する予定だ。

ロザリーさんは「東京は自分たちにとって窮屈で、同じ都内にありながら自然に囲まれている奥多摩が好きだ」と語る。

神奈川県横須賀市の谷戸の地域にある空き家を草が覆う。空き家は全国で問題となっている/Bloomberg/Bloomberg/Bloomberg via Getty Images


しかし、新たな住民の大半にとって、住居を無料で提供するだけでは不十分だ。奥多摩のような過疎地域が今後うまくやっていくためには、持続的な経済開発計画や、地元住民と新しい住民のコミュニティー作りのための活動も必要だ。

ワシントン大学の建築学の教授、ジェフリー・フー氏は「もし人々が生産的な経済活動に従事し、自分たち自身を支えていく方法を見つけられるなら、田舎にも人々は集まり定住するだろう」と話す。

徳島県神山町は2011年、住民の増加数が減少数を上回った。IT企業がサテライトオフィスを立ち上げ、都会の生活に嫌気がさした労働者を引き付けるようになった。

奥多摩駅はかつて氷川駅と呼ばれていた


2018年10月の奥多摩駅


消滅の危機に直面する町にとっては、新しい住民のアイデアも大きな力になる。

介護士の資格を持つ井田夫妻は、奥多摩で仕事に就けることは分かっていた。しかし、夫妻は2017年9月に道路沿いの古民家を購入し、ハイキングやツーリングに来た客をもてなすカフェを開業した。居心地のいい店内には骨とう品や地元の工芸品が数多く飾られている。

この場所の素晴らしさは既にある物を改良するところにあると直子さんは語る。ただ、こうした文化や古いものが好きな人でも、田舎で生活することはためらうものだとも言い添えた。

静かな通りには、別の空き家と高齢の女性が住む家がある。井田夫妻が来る前は野生のサルが女性の家庭菜園を荒らしていたが、にぎやかになった今では動物も距離を取るようになった。

直子さん自身は奥多摩に終(つい)の棲家(すみか)を見つけたが、直子さんの子どもたちの考えは異なるようだ。直子さんの長女は、すぐにでも家を出て、都会で独り暮らしをしたがっているという。
https://www.cnn.co.jp/business/35130814.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c507

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
508. 中川隆[-13221] koaQ7Jey 2019年1月04日 06:22:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

都心のタワーマンションやオフィスビルの価値がなくなる日…働き方改革→通勤不要の衝撃
https://biz-journal.jp/2019/01/post_26098.html
2019.01.03 文=牧野知弘/オラガ総研代表取締役 Business Journal


 最近は国をあげて「働き方改革」が提唱されている。人口の減少と国民の年齢構成の高齢化は働き手の不足を招く。それでも現行の経済を維持していくためには、一人当たりの労働生産性を向上していかなければならない。一方で長時間労働の蔓延は労働者の健康を蝕み、生産性を減じることにつながるのでこれを縮小、排除していかなければならない。また同一労働同一賃金の原則のもと、非正規雇用の処遇を改善することが必要だ。

 一見すると働き手が減るのだから、日本人はもっと働かなければならないと思うのが自然なのだが、どうやらこの働き方改革は労働時間を減らして、非正規雇用の処遇を改善し、さらに労働者の生産性をあげていこうという、ずいぶんと「虫の良い」目標を掲げているともいえる。

 こうした国を挙げての動きは、人々の住宅選びにどのような影響を与えるようになるのだろうか。実は「働き方法案」の内容そのものを云々するよりも、すでに人々の働き方が大きく変わりつつあることに、まだ多くの政策担当者やデベロッパーが気づいていない。そして働き方が変わるということは今後の人々の住宅選びにとって、かなり大きな影響を与えるのではないかと思われる。

 最近の大企業の働き方がすでに従来とは変わってきている姿は、随所で窺い知ることができる。自分自身は大学を卒業してから銀行を皮切りに、ボストンコンサルティンググループを経て三井不動産という大手デベロッパーに勤めてきたが、この間の働き方は正直相当に激しいものだった。外資系コンサルティングファームでは、社員は個人事業主みたいなものだった。給料は年俸制で、制度上では休暇も出社時間もかなり自由に与えられていたが、実際はまったく休みが取れなかったし、深夜、休日に働くことは当たり前だった。

 30代終わりから40代前半にかけて三井不動産では、オフィスビルの取得や開発、証券化の仕事を担当した。この時の働き方もめちゃくちゃだった。ほぼ毎晩深夜まで仕事が続き、週末の朝には上司に電話でたたき起こされ、出社を命じられた。今ならとんでもないパワハラだ。あまりに毎晩深夜残業が続くため、深夜に会社の前に並ぶ個人タクシーの運転手は、ほぼ全員が自分の自宅の場所を知っていたくらいだ。

■「オフィス」がいらない

 ところが最近は三井不動産のみならず多くの大企業の働き方が変わった。フリーアドレス制が採用されて自分の固有の机がなくなり、勤務時間も必ずしも9時から17時まで働く必要がなくなった。テレワークといって会社にはやって来ずに自宅や自宅近く、あるいは取引先の近くのサテライトオフィスで仕事をする人が増えた。

 コワーキング施設も大はやりだ。コワーキング施設は、その施設の会員がオフィスを自由に使えるというもので、中で会議や打ち合わせをしたり、一人で仕事をすることも可能だし、チームで一緒に目標達成まで会社から離れて仕事をすることも可能だ。会員企業の社員が自由に出入りするので、いわゆるサテライトオフィスとは異なるものだ。
 
 また、こうした施設は、当初はスタートアップ企業のためのシェアオフィスのようなものと考えられていたが、この認識は改めたほうがよい。日本に上陸した米国のWeWorkや三井不動産が展開するWORKSTYLINGの会員の多くは大企業というのが実態だ。

 企業側にとってオフィス経費は重たい固定費だ。社員が増えるほどに毎日使いもしない会議室スペースを持ったり、ほとんどの時間外出している社員のために机と椅子を用意するのははっきりいって経費の無駄だった。これをコワーキング施設で働いてもらうことで、今までの固定費が変動費に振り替わることになる。また同じ施設内で他社の社員とも交わることができるので、新たな発想やイノベーションのヒントが得られたりする期待も高まる。企業にとっては結構良いことづくしなのだ。

 知り合いのある大手製造業の若手社員は、一週間のうち会社に出社するのは1、2日程度、しかも9時から17時まで会社の机にずっと座ることはないという。彼は自宅近くのコワーキング施設で働き、夕方は子供を保育園に迎えに行き、そのまま自宅に帰ることも多いそうだが、業務に支障が出たことはないという。ちなみに彼のカバンの中身を一度みせてもらったことがあるが、中にはパソコンや情報端末機器がぎっしり詰め込まれていた。

「これさえあれば、どこででも仕事はできますよ」

 彼にとっての会社は単なる所属体であり、何もそこに出かけていく必要のある場所ではないということだった。最近は平日の昼間にスターバックスやタリーズに行くと、広いデスクでパソコンを叩く社員が多いことに気づく。コワーキング施設の会員にならずとも、世の中では自由な場所と時間を使って仕事をする勤労者が確実に増えていることを実感する。

 また、別の知り合いの経営する会社は、ソフトウェアの会社で社員は30名ほどのベンチャー企業だが、なんと社屋がないのだそうだ。本社としては一応社長の自宅が登記されているのだが、社員は日本全国の都道府県に散らばり、情報端末だけを使って仕事をしているという。社長も実は社員全員とは面談したことがないというから驚きである。業種柄ということはあるのだろうが、実は確固たる組織やオフィスを持たずとも、情報端末だけで世の中はスムーズに仕事ができるようになってきているのだ。

 さらにその会社がユニークなのは、ちゃんと会社で飲み会も行うのだそうだ。全国に散らばる社員がどうやってと思うのだが、飲み会もすべてネット上でやるのだという。各人が好きな場所、たとえば自宅のダイニングで、好きなお酒とつまみを前にして皆で「カンパーイ!」とやるのだ。もうここまでくると自分もついていけるか不安になるが、結構盛り上がるのだとか。時代はどんどん進歩しているのである。

■しなやかに「住む街」を選ぶ時代に

 さて、こうした世界がもっと進化していくと不動産、とりわけ人々の住宅選びにはどんな変化が訪れるのだろうか。仮説として「通勤」がなくなるということだ。

 多くの会社が本社機能のみを残して、ほとんどの社員が自宅近くのコワーキング施設に徒歩や自転車で行って好きな時間に仕事をする。月に一回程度都心の本社に出てきて打合せや顔合わせをする。副業も自由なので、ネット上などで会社とはまったく異なる人と付き合い、別の収入を得る。こんなワーキングスタイルになれば、住宅選びはどうなるだろうか。

「住みたい街ランキング」がまた大きく変動するのではないか。最近は夫婦共働きを前提に会社への通勤利便性で住宅を選ぶ傾向が顕著だが、通勤そのものがなくなれば、家選びにおける会社までの「交通利便性」という要素が、まったく意味をなさなくなるからだ。一日の大半を自宅や自宅近くのコワーキング施設で過ごす。移動は徒歩や自転車でする。夫婦とも同じ街で働き、会社は異なれど同じコワーキング施設で働くことができるようになる。通勤時間はほとんどなくなり、夫婦、家族が街で過ごす時間が増えるようになるのだ。

 このようになった瞬間、住宅選びは「住む」だけでなく、「働く」「遊ぶ」「憩う」など、すべての要素が詰まった街を選ぶ動きに替わる可能性があるのではないだろうか。そうなると人々にとっての住宅は求められる機能が大きく変わることになる。そして、あらゆる角度からの住宅選び、街選びを行う必要が生じてくる。実はこういった時代が、最近の通信技術の進歩やAIなどの発達で意外に早くやってきそうなのである。そして、これは今まで馬鹿みたいにお高い住宅を一生の収入の2割から3割ものお金をつぎ込んで所有しようとしてきた人々の行動様式、ライフスタイルを大きく変えることになりそうである。

 通勤がなくなってしまえば、鉄道経営には大きな打撃となろう。都心部に大量の超大型オフィスを提供し続けているデベロッパー各社は、阿鼻叫喚の世界になるかもしれない。都心タワーマンションに誰も見向きもせずに、地方居住を選択する人も出てきそうだ。

 海の近い家に住み、朝はサーフィンしてから自宅近くのコワーキングで働き、夕方には海辺をジョギングするなんていう「サラリーマン」が普通になるかもしれないのだ。

 これからの働き世代はもっと自由に、しなやかに「街」を選んでいく、そんな時代を迎えようとしているのだ。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c508

[近代史3] 馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国

馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:「国難の正体」馬渕睦夫著


▲△▽▼


1972年2月、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー補佐官が北京を訪問し、
周恩来首相と会談した時に、日本に対して三つの密約が交わされた。

米中密約の内容

1.日本に核武装そして単独防衛させない
2.これを防ぐために米軍は日本に駐留する(ビンの蓋論)
3.朝鮮半島および台湾問題で日本に発言権を与えない

この密約は、2002年10月、当時の江沢民中国国家主席が、
テキサスの牧場に当時のブッシュ大統領を訪ねたときにも再確認された。
http://dwellerinkashiwa.net/?p=2976


▲△▽▼


伊藤貫氏に聞く _ 日本人は何故アメリカの犬になりたがるのか


【平成30年 年末特別対談】伊藤貫氏に聞く[桜H30-12-30] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=0bwlpoETjxQ


2018/12/30 に公開

多くの災害に見舞われ、国際情勢も大きく動いた平成30年を振り返りながら、これからの道標となり得るような達見を伊藤貫氏に伺う年末特別対談をお送りします。

ゲスト:伊藤貫(国際政治アナリスト)
聞き手:水島総

▲△▽▼

関連投稿


馬渕睦夫 deep state の世界を語る _ 朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてヤラセだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/105.html

日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は JPモルガンの手先だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html

GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり _ アメリカは終戦後の日本を共産化しようとした
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アメリカが中国を世界の工場にして、日本の競合メーカーを壊滅させた手口
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http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/326.html

日本は近い将来、中国小日本省になる
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/888.html



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/135.html

[リバイバル3] 中川隆 _ アジア関係投稿リンク 中川隆
75. 中川隆[-13220] koaQ7Jey 2019年1月04日 07:27:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]
馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/135.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/465.html#c75
[近代史3] 馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国 中川隆
1. 中川隆[-13219] koaQ7Jey 2019年1月04日 07:33:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

【桜無門関】馬渕睦夫×水島総 第2回「日本解体!
ディープステートによる日本のグローバル化、その尖兵としての霞ヶ関官僚」[桜H30-12-27] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=tOqOn3ttvPg


2018/12/27 に公開

既成概念にとらわれない大きな視座で国際情勢を俯瞰し、ぶれることのない日本の軸を示し続けている馬渕睦夫氏。
閉ざす門を一度解き放つことによって見えてくるものがあるように、物事の本質を見極める言葉と思考を、対談を通じて伺います。

出演:
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
 水島総(日本文化チャンネル桜代表)


▲△▽▼

馬渕睦夫 deep state の世界を語る

太平洋戦争も朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてユダヤ資本のヤラセだった

馬渕睦夫さんが明らかにしていますが


左翼=リベラル=グローバリズム=親ユダヤ
=国際金融資本、軍産複合体、ネオコン、CIA、FBI、マスコミ、ソ連共産党、中国共産党、天皇一族、日本の官僚
=マクロン、メルケル、ヒラリー・クリントン、オバマ、レーニン、スターリン、ボリス・エリツィン、小泉純一郎、竹中平蔵、小沢一郎、橋下徹、枝野幸男、日本の護憲派・反原発派・反安倍勢力


右翼・民族主義=反リベラル=反グローバリズム=反ユダヤ
=プーチン、チェ・ゲバラ、カストロ、J.F.ケネディ、トランプ、ヒトラー、サダム・フセイン、カダフィ、アサド、ウゴ・チャベス、 ロドリゴ・ドゥテルテ、田中角栄、安倍晋三、日本共産党

なんですね。


安倍晋三は調整型の政治家で権力基盤が弱く、IQ も随分と低いので、官僚や自民党のグローバリストに引き摺られているのですが、本来はプーチンやトランプと同じナショナリストなのです



▲△▽▼

馬渕睦夫さんが明らかにしたのは

・ロシア革命を行ったレーニン、スターリン、トロツキー等は全員ユダヤ人とそのシンパだった

・ロシア革命に資金援助や支援していたのはアメリカやイギリス・ドイツの金融資本家だった

・毛沢東と中国共産党を支援していたのもアメリカ金融資本家だった

・ルーズベルトとその周辺の人間は全員社会主義者でスターリンと同盟関係にあった

・GHQ は戦後の日本を共産化しようとした

・ボリス・エリツィンはソ連崩壊後に国有財産を民営化して、すべてユダヤ資本に二束三文で払い下げた


要するに、ユダヤ資本は

昔は共産化によって世界各国のグローバル化を進めようとした

現在は移民を大量に受け入れさせて世界各国のグローバル化を進めようとしている





▲△▽▼

馬渕睦夫さんは唯の国際化とグローバリズムとは全く違う概念だと何度も言っています。

馬渕睦夫さんがグローバリズムと言っているのは

ユダヤ国際金融資本はユダヤ教の精神に基づいて、世界を国境の無い文化も同じ一つの国にしようとしているという事ですね。

ユダヤ教は人類で最後に救われるのはユダヤ人だけで、他民族はすべて滅ぼされるという教義です。

すべて滅ぼすのは無理なので、ユダヤ人が目指す現実性のある理想の社会は
1%のユダヤ人が資産や権力を独占して、99%の他民族は被支配者として搾取される世界なんですね。

北朝鮮みたいな共産国家なら大体その通りになっていますよね。

それから中国では都市籍の人間が農民籍の人間を支配搾取する体制になっていますよね。
中国の経済発展は都市籍の人間が農民籍の人間をタダ同然で働かせる事ができたからだというのが定説ですね。


マルクス主義で言う平等というのは 99% の被支配者の間では階級差別が全く無いというだけの話です。

竹中平蔵さんが、

派遣社員と正社員と待遇が違うのは平等の精神に反するから、正規社員も非正規社員と同待遇にしろ

と言っているのも 99% の被支配者の間では階級差別が有ってはいけないという主張ですね。


だから、ユダヤ人は最初は共産化で 1% 対 99% の世界を作ろうとしたのです。



▲△▽▼


馬渕睦夫さんが何度も言っていますが、国際化とグローバリズムとは全く違う概念なのですね。

それは航空機で欧米に数時間で行ける時代だから、海外との輸出入も旅行も技術交流や留学も簡単になった。
コカコーラやネスカフェやマクドナルドは世界中どこでも手に入る様になった。

しかし、それはあくまでも国際化であってグローバリズムとは関係ない

移民を入れたらチャイナタウンとかモスクを中心とするイスラム人居住区みたいな国家内に別国家ができてしまうので、唯の国際化とは次元が違うものなんですね。

ユダヤ資本は利潤を最大化したいだけなので、

・言語はすべて英語に統一して、それ以外のローカルな諸言葉はすべて廃止する
・民族ごとに違う習慣や伝統はすべて止めさせて、世界標準の生活様式に統一する
・賃金は民族によらず、すべて同一作業同一賃金にする

という環境を作りたいのです。


グローバリズム=共産主義

というのは、どちらも 1% 対 99% の世界を作って、

99%の中では民族による賃金や福祉等の差別はしない、中国人でも日本人でも賃金はすべて同一にする(賃金は安い方に統一する)

という事なのですね。

それで、レーニンやスターリンやトロツキーの様な反民族主義のユダヤ系のグローバリストが共産革命を起こし、ユダヤ資本が共産国家を支援した

馬渕睦夫さんはそういう歴史的事実を信頼できる資料と客観的事実に基いて具体的に指摘したというだけです。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/135.html#c1

[リバイバル3] GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり 中川隆
8. 中川隆[-13218] koaQ7Jey 2019年1月04日 07:45:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

アホのマッカーサーはアメリカと中共・北朝鮮・ソ連が同盟関係に有るのに全然気付かなかった


馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
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[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
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2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:「国難の正体」馬渕睦夫著



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/748.html#c8

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
144. 中川隆[-13217] koaQ7Jey 2019年1月04日 07:46:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

マッカーサーはアメリカと中共・北朝鮮・ソ連が同盟関係に有るのに全然気付かなかった

馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国


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馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:「国難の正体」馬渕睦夫著


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c144

[近代史3] 日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか? 中川隆
24. 中川隆[-13216] koaQ7Jey 2019年1月04日 07:47:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]
昭和天皇もマッカーサーも
アメリカと中共・北朝鮮・ソ連が同盟関係に有るのに全然気付かなかった

馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国


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一部引用:「国難の正体」馬渕睦夫著

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html#c24

[昼休み54] アメリカが中国を世界の工場にして、日本の競合メーカーを壊滅させた手口 中川隆
5. 中川隆[-13215] koaQ7Jey 2019年1月04日 07:53:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

日本人はアメリカと中共・北朝鮮・ソ連が同盟関係に有るのに全然気付かなかった


馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国


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2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:「国難の正体」馬渕睦夫著

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/321.html#c5

[昼休み53] 日本は近い将来、中国小日本省になる 中川隆
39. 中川隆[-13214] koaQ7Jey 2019年1月04日 07:54:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]
日本人はアメリカと中共・北朝鮮・ソ連が同盟関係に有るのに全然気付かなかった


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一部引用:「国難の正体」馬渕睦夫著

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/888.html#c39

[昼休み52] 日本人女性2人、リゾート地・セブ島で知り合った韓国人の男2人と飲酒→集団強姦される…フィリピン 中川隆
269. 中川隆[-13213] koaQ7Jey 2019年1月04日 08:05:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]
日本人はアメリカと中共・北朝鮮・ソ連が同盟関係に有るのに全然気付かなかった


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米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
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2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:「国難の正体」馬渕睦夫著

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/334.html#c269

[昼休み52] "新喜び組"は23歳以下の美女たち! 中川隆
132. 中川隆[-13212] koaQ7Jey 2019年1月04日 08:06:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

日本人はアメリカと中共・北朝鮮・ソ連が同盟関係に有るのに全然気付かなかった


馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:「国難の正体」馬渕睦夫著

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/906.html#c132

[近代史3] 吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった

吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった

301:名無しさん@12周年:2011/12/18(日) 00:03:39.97 ID:O8i6BAZT0

この2人が慰安婦問題を作り、後世の日本人を苦しめています。
現在の慰安婦問題は、反日となるとブレーキがかからない韓国社会の歪みの問題ですが、
端緒を作ったのは日本人です。そのウソを暴いた韓国人記者もいます。

【千田夏光氏】
最初に従軍慰安婦という言葉を作った。中国大連市生まれの元毎日新聞社のフリー作家。
著作「従軍慰安婦 正編」において挺身隊20万人のうち5〜7万人を占める
朝鮮人女性が慰安婦にさせられたと記述した(慰安婦20万人の主張はこの誤読)。
挺身隊に所属した女性が従軍慰安婦になった例は確認されていない。
軍医麻生徹男氏を、誤解に基づいて慰安婦制度の考案責任者のように記述したが、
後にこの誤りを認め、麻生氏の娘に謝罪した。

【吉田清治氏】
共産党から立候補歴あり。
著作「朝鮮人慰安婦と日本人」において、日本軍人が朝鮮の女性を強制連行し慰安婦にしたなどと証言。
89年、韓国済州島の地元紙『済州新聞』が、慰安婦狩りを行ったという
吉田証言を検証すべく行った取材結果を元に、吉田証言を捏造と報じる。
同紙は「道徳性の欠如した本で、軽薄な金儲け主義的」と論評。
記事執筆者、許栄善記者は、歴史学者秦郁彦との面談で
「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と疑問を呈した。
96年、吉田氏は、週刊新潮のインタビューで、本に真実を書くことに利益がない、
事実を隠して主張を織り交ぜるのは新聞でもやっている、創作を交えたと発言。
98年、歴史学者秦郁彦氏に対し、人権屋に利用された私が悪かったと発言。

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吉田清治(ヨシダ・セイジ) ◆◆◆

1913年10月15日生まれ。本籍は福岡県芦屋町西浜
1937年、満州国地籍整理局に就職
1977年3月、『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)を出版。その中では、朝鮮人慰安婦調達に関わる体験談がハイライトになっている。(ただし、慰安婦は狩り立てではなく、朝鮮人地区の女ボスが話をつけて労報へ中継ぎする方式になっている)
1982年9月2日、朝日新聞(大阪版)に大阪での市民集会の講演内容が掲載され、慰安婦狩りの告白が初登場。
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/70/

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経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html


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【年表】秦郁彦と吉田清治

1977/03/01 吉田清治 『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)発行
1983/07/31 吉田清治 『私の戦争犯罪−朝鮮人強制連行』(三一書房)発行
1983/12/ 吉田清治 天安市の国立墓地に「謝罪碑」を建てるため訪韓
1983/11/10 朝日新聞(「ひと」欄) 吉田清治氏が韓国に謝罪碑を建てるニュースの紹介
1989/08/ 吉田清治 吉田著、韓国語で出版(青渓研究所現代史研究室)
1989/8/14 済州新聞(韓国) 吉田著の書評を掲載
1991/08/11 朝日新聞 「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」の見出し。 元慰安婦で初めて名乗り出た金学順さんについての記事
1991/08/14 金学順 ソウルで記者会見
1992/01/23 朝日新聞(夕刊) 吉田清治さんへのインタビュー
1992/03/13 秦郁彦 吉田清治氏に電話インタビュー(1)
1992/03/16 秦郁彦 吉田清治氏に電話インタビュー(2)
1992/03/29 秦郁彦 済州島に到着、調査を行う
1992/04/30 産経新聞 秦氏の済州島での調査結果を報道。

『儒教の伝統の強い韓国で被害者の家族が名のりでないのは当然』

との吉田談

1992/05/25 朝日新聞 吉田氏が、7月、韓国に「謝罪の旅」に出るとの記事
1992/05/ 秦郁彦 『正論』6月号で、済州島での実地調査を発表。
1992/08/12 吉田清治 訪韓し、金学順さんに謝罪
1992/11/24 週刊新潮 吉田氏が93年春に訪米し、国連事務総長に慰安婦問題をアピールする予定との内容含む
1992/12/24 1992/12/31 週刊新潮 吉田氏の

「私が書いたことは全部事実、
しかし他の人に迷惑をかけるといけないからぼかして書いたところがある。」

との内容を含む 
   
1993/02/ 秦郁彦 『昭和史の謎を追う(下)』発行
1995/01/ 週刊新潮 1月5日号で「吉田清治の証言は事実無根である事が判明したとの記事を掲載
1996/03/13 秦郁彦 吉田清治氏に電話インタビュー(3)
1996/05/ 週刊新潮 5月2日/9日号で、吉田清治氏へのインタビュー。

吉田氏は著書の一部に創作があったと話す。

1997/03/31 朝日新聞 吉田氏についての記事。

「真偽は確認できない。」
「済州島の人たちからも、吉田氏の著述を裏付ける証言は出ていない』などの記述

1997/04/06 秦郁彦 吉田清治氏に電話インタビュー(4)
1998/09/02 秦郁彦 吉田清治氏に電話インタビュー(5)
1998/10/ 秦郁彦 『諸君!』11月号で、
吉田清治氏本人が自著をフィクションであることを認めたと述べる
  
1999/06/30 秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』(新潮選書)発行。『済州新聞』の吉田著書評の和訳あり
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070802

秦郁彦の著作に対する批評がまとめてあるブログ


碧猫さんの『13日の水曜日』 「無かった」を主張する歴史学者について
http://azuryblue.blog72.fc2.com/blog-entry-205.html

hokke-ookamiさんの『法華狼の日記』

秦郁彦教授は本当に……
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20070719/1184904208

秦郁彦教授の評価が下落中…… (2007年8月4日追加)
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20070801/1185924345


yamaki622さんの『blog*色即是空』

秦郁彦が金学順さんの証言をでっち上げ
http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/20070616/p1

金学順さんが「キーセンハウス」に売られたというウソ
http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/20070724/p1

『Stiffmuslceの日記』 どくしょのじかん 

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070716/p1
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070717/p1
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070721/p1
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070722/p1
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070723/p1
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070724/p1

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吉田清治を「詐欺師」扱いする本物の詐欺師 秦郁彦


産経グループのプロパガンダには、「嘘も百回つけば真実に成る」式の、学問的裏付のない特定の“似非事実”をたらい回ししながら既成事実化し、社会に拡散させていく特定のパターンがある。

古森氏は、「『吉田証言』は歴史家の秦郁彦氏らの調査などで虚構だったことが立証された」とするが、真っ赤な嘘である。

 韓国語も理解できない秦氏の「現地調査」は学術的調査とは程遠いもので、
一個人の独断の域を出るものではない。

 従軍慰安婦の存在を証明する資料は少なくないが、その中でも、吉田証言が
旧日本軍人として従軍慰安婦について明らかにした貴重な資料であることは現在も変わらない。

 吉田氏は、「太平洋戦争当時、国民総動員令を執行する労務報国会の山口県
動員部長として朝鮮人6000人を強制連行し、その中には慰安婦の女性も多かった」、

「昭和18年に軍の命令で、済州島で女性200人以上を挺身隊として強制連行し、慰安婦にした」などと1983年に出した著書「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」などで体験談を語った。

 日本のメディアも吉田証言を「昭和十八・十九の二年間で千人以上」
(赤旗1992年1月26日)「吉田さんらが連行した女性は少なくみても
九百五十人」(朝日新聞1992年1月23日夕刊)と報じ、従軍慰安婦の存在が世に知られるところとなった。

 それは日本政府を動かし、1993年8月、河野洋平官房長官は、1年8ヶ月の調査を経て「慰安所の設置は軍当局の要請によるものであり、募集は軍の要請を受けた業者が主に行なったが、甘言・強圧による事例が多く、更には官憲等が直接これに加担したこともあった」として、公式に謝罪を表明した。


そうした動きに反発したのが、産経新聞などの右派メディアであった。

 産経新聞などの常連寄稿家である秦郁彦氏は、河野談話が出される前の1992年3月29日に済州島に渡り、吉田証言を「実地検証」をしたという。
 しかし、その内容たるや、康大元なる「海女研究家」を通訳に立て、「城山浦の老人クラブ、貝ボタン工場の元組合員など五人の老人と話し合って、吉田証言が虚構らしいことを確認」という程度のことでしかない。

 「実地検証」と言うにはあまりにお粗末な代物だが、敵意や憎悪を煽って矛先を変えるプロパガンダの要諦だけは心得ているようだ。

 済州新聞(1989年8月14日)に「(吉田証言の)慰安婦狩りの話を
裏ずづけ証言する人はほとんどいない」と書いた許栄善記者を利用することを
思いつく。そうして、「『なんでこんな作り話を書くのでしょうか』と、今は
『済州新聞』の文化部長に移っている許栄善女史から聞かれ、私も答えに窮したが、『有名な南京虐殺事件でも、この種の詐欺師が何人か現れました。彼らは土下座してザンゲするくせがあります』と答えるのが精一杯だった」と、自著「昭和史の謎を追う」、「慰安婦と戦場の性」などで臆面もなく披瀝している。

 ろくな調査もせず、人の話をだしにしながら吉田氏を「詐欺師」扱いする傲慢無礼な論法は、学者らしからぬ。曲学阿世の輩、というべきであろう。
 案の定、秦氏は学会などで「秦氏の乱暴な引用の仕方が史実を歪曲している」 としばしば批判されている。

「現地調査」とは名ばかりの粗悪品が「立証」などともてはやされるのは、右派保守陣営のニーズに合致したからで、実際、秦氏は復古主義者のデマゴーグとしての役割を担ってきた。


秦氏らのデマゴーグとしての本性を端的に示すのは、当初は慰安婦の存在を無視し、そのうちに慰安婦らが勇気を奮って名乗り出ると、今度は「戦時売春婦だ」と言い換え、詭弁を弄したことである。

 「軍は戦地での強姦事件を防ぐために、公娼業者に開業させていた。業者の指名、戦地への移動、営業状態の監督などはしたが、直接的な強制はしていない。当時は公娼制度は合法であった」が秦氏らのロジックだが、それによると、「ナチスの蛮行も合法であった」ということになる。

 秦氏らの詭弁は、「従軍慰安婦は朝日新聞の造語だ」と言葉の問題にすり替え、その存在を否定していることにも現れている。
 厩の王子を聖徳太子とするなど過去の現象を後世の言葉で表現することは歴史ではしばしば用いられることで、実体が問題であることは言うまでもない。

 吉田氏のような良心に基づく内部告発者を「詐欺師」と罵倒し、被害者である従軍慰安婦の声をことさら無視するのは、その姿勢が、加害者である旧日本軍の側に偏っているからではないか。
http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/18007158.html

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済州島の人が慰安婦狩りを否定した理由

慰安婦を韓国で実際に強制連行したという当事者も名乗り出まし
た。当時、山口県の労務報国会で動員部長をしていた吉田清治さんです。
   吉田さんは1942年から終戦までの3年間に、陸軍西部軍司令部など
の指示に従い女性千人を含む朝鮮人6千人を強制連行したそうです。
   その中でも特にひどかったのは従軍慰安婦にされた女性たちの連行方法
で「4、5日から一週間で若い女性50人を調達しなければならなかったので 警察や軍を使って乳飲み子のいる若い母親にまで襲いかかり、奴隷狩りそのものだった」と吉田さんは語っています(北海道新聞、92.2.25)。

動員部長である吉田さんの弁によれば、吉田さんは済州島の各地で
強制連行をしたそうです。その証言に登場した城山の貝殻ボタン工場跡をテレ
ビ朝日が実際に取材しました。その報告はTV番組「ザ・スクープ、従軍慰安
婦Part2、戦争47年目の真実」(1992年)で放送されました。

   番組では、女性アナの田丸美寿々さんが現地で二人にインタビューしま
した。一人は城山の長老の洪さんです。田丸さんの質問「この工場から徴用さ
れた慰安婦がいるか」に対し、洪さんは

  「いないよ。いない。この辺にはいないよ。もしいたとすればよそから来た人だよ。何十人か連れていかれたという話もあるけれど、それは済州島の人
間じゃないよ」


と微妙な返答をしました。つまり、済州島の人間は連れていかれたことはない
が、よそから来た人は何十人か連れていかれたという話をきいていると、肯定
とも否定ともとれる返答をしました。

もう一人インタビューに応じた地元の女流作家、韓林花さんは番組でこ
う語っていました。

  「(地元の人は)みんな知らないふりをしている。口にしないようにして
いる問題なんです。日本に女まで供出したことを認めたくないという民族的自
尊心と、女は純潔性を何よりも最優先にするものだという民族的感情のせいな
のです」

この二人の話をつなぎ合わせると、番組のニュアンスは「強制連行」は
あったかも知れないという印象でした。

   韓国では身内や一族から「従軍慰安婦」を出したとあっては大変な恥で
す。こうした精神的風土から戦後、多くの「従軍慰安婦」の女性たちは故郷に
戻れませんでした。その上、自分が「従軍慰安婦」であった事実をひた隠しに
して生きざるを得ませんでした。

   そのあたりの事情をテレビ朝日は1991年に放送したTV番組「ザス
クープ・追跡朝鮮人慰安婦、知られざる真実」で紹介していました。その時の
番組では、「従軍慰安婦」を多く出したとされる全羅南道のある市場で、妹を
連行された女性と周辺の人を取材しました。そのやりとりを記します。

アナ「(この辺で)女の人が狩り出された話を知っていますか?」
男性「(横にいる)ハルモニの妹が連れて行かれた」


アナ「どういう風に連れて行かれたのですか?」
男性「強制的にだよ・・・ここは儒教社会だから体面があってあまり話せない
   んだよ。自分の家から女子挺身隊を出したとなると、他の者の結婚にも
   さしつかえる・・・結婚してたら連れて行かれないというので、12か
   ら14歳くらいでみんな結婚させたんだよ。連れて行かれたらもう消息
   が途絶えちゃうんだ。行方不明の人多いよ」

アナ「おばあさんはそれから妹さんに会いましたか?」
ハンメ「会っていない。行方不明だよ。生きているのか死んでいるのかわからない」
(注)ハンメ、ハルモニ=おばあちゃん、おばあさん

さて、吉田証言にもどりますが、地元の新聞「済州島新聞」は強制連行
の事実を否定した記事をわざわざ載せたそうです(未確認)。これは韓林花さ
んのいう「民族的感情」を裏付けているのかも知れません。

一方、吉田さんを「職業的詐話師」と酷評している人もいます。千葉大
学の秦郁彦教授はクマラスワミさんにそのように非難したという記事が週刊新
潮(96.5.2)に掲載されたそうです。(未確認)

   吉田さんは、独立紀念館の近くにある韓国最大の集団墓地「望郷の丘」
に自費で「謝罪の碑」を建てました。これに対し秦教授は今度は「職業的演技
者」とでも呼ぶのでしょうか?
http://www.han.org/a/half-moon/hm012.html#No.117

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秦郁彦『慰安婦と戦場の性』批判

この著者は時々、まともな仕事もするのですが、しばしば人が変わったように、ずさんな仕事、あるいは人を誹謗中傷するような、因縁をつけるようなこともやります。この本は、ずさんな仕事の代表的なケースでしょう。

この小文でも紹介したような、写真や図表の無断盗用、資料の書換え・誤読・引用ミス、資料の混同、意味を捻じ曲げる恣意的な引用・抜粋などの例をリストアップしてみたのですが、膨大な量になりあきれてしまいました。どこかで公表しようかとも考えたこともありましたが、バカらしくなってやめました。それにしても人に対してはさんざん因縁をつけながら、自分の間違いを指摘されても無視して開き直るのには、驚くばかりです。

なお前田朗さんがこの本の「図版盗用」「写真盗用」「伝聞・憶測・捏造」などの問題点を詳細に批判されていますので御参照ください
(『季刊戦争責任研究』第27号、2000年3月、『マスコミ市民』370号、1999年10月、に掲載された前田論文参照)。 2002.12.17

資料の扱いもずさんさである。たとえば、一九三八年に内務省が陸軍からの依頼をうけて慰安婦の徴集の便宜を図った資料がある。この本では内務省警保局の課長が局長に出した伺い書が、内務省から各地方庁への「指示」に化けている。
さらに五府県に慰安婦の数を割当てているが、その人数がでたらめで、資料では合計が四〇〇人になるのに、氏の数字では六五〇人とされてしまっている。

引用も言葉を勝手に変えたり、付け加えたり、およそ研究者の仕事とは思えない(五六頁)。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper44.htm

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秦郁彦は研究者でも学者でもない。 唯の詐欺師


『諸君!』2002年2月号秦郁彦氏の文章を嗤う


「ペリーの白旗書簡は明白な偽文書である」(『UP』2001年8月号)
 「極めて興味深い偽文書」(『歴史評論』2001年10月号)

 「Problematic Account in a Japanese History Textbook based on an Alleged Letter by Perry」(『歴史学研究』2001年10月号)

 『諸君!』に掲載された秦氏の文章は、上記の宮地氏の論考に対する「批判」を意図したものである。

宮地氏の論文の内容にかかわる批判は、いずれ宮地氏自身からなされるであろうから、深くは立ち入らないが、秦稿の中には、秦氏の研究者としての基礎的能力を疑わせる部分があるので、五点ほど指摘しておきたい。なお、秦稿からの引用文中にある[ ]内の部分は、筆者のつけた説明注である。
 
その1 
 秦稿112ページに次のような部分がある。

 松本(健一)、三輪(公忠)の両氏はいずれも右の著書(『白旗伝説』・『隠されたペリーの「白旗」』)で出典は、前記の『幕末外国関係文書之一』(東大史料編さん所)という公文書であると明記し、宮地氏もそう書いているので、この点についての争いはありえないはずだ。そうだとすれば、宮地氏は所属し、所管する機関の発行した公文書が偽文書であるゆえんを、「中学生にもわかる」ように立証する義務がある。

 まったく驚いたものである。『幕末外国関係文書』が公文書であるとは、およそ歴史の研究者の言葉とは思われない発言である。「公文書」とは公的機関が、その機関自身の意志を伝達、もしくは記録しておくために作成した書類のことである。『幕末外国関係文書』というのは、幕末の対外関係に関するさまざま史料を、東京大学史料編纂所が集成して刊行した史料集であって、刊行は明治43年に開始され、現在もなお継続中である。その中には幕府が発給したまさに公文書も掲載されていれば、個人の私的な日記でも、対外関係に関する記事があればそこの部分が掲載されている。当然、そこに掲載された史料だからといって、すべてがその時代の事実関係を誤りなく表現しているとは限らない。掲載されている史料をどこまで信用し、どこから疑ってかかるか、という点にこそ研究の研究たるゆえんがある。研究者の力量は、まさにそこでこそ試されている。史料集をさして公文書といい、公文書に書かれているのだから間違っているはずがない、などというのは、まともに歴史学を研究した経験のある人の言葉とは思われない。要するに、秦氏は史料集というものの性格がわかってないのである。
223投稿者:詐欺師_秦郁彦の流した害毒  投稿日:2007年05月05日(土) 10時07分17秒


その3
 秦稿118ページに次のようにある。

 宮地氏は各地に伝わっている風説書を列挙し、史料一一九[『幕末外国関係文書』巻1所収119号文書を指す]に似ているが変造したものが少なくないことから、そう[白旗関連の情報はすべて風説書にのみ現れると]推測しているようだが、逆もまた成り立つのではないか。つまり老中や海防掛を仰せつかった水戸斉昭などの高官を除き内密にされた白旗書簡が少しずつ洩れ、脚色されていったとも考えられるのである。

 それに斉昭が嘉永六年七月十日付で幕府へ提出した「海防愚存」という意見書にも白旗の話題が出てくるが、これまた風説書として片づけるわけにはいくまい。

 宮地氏は「海防愚存」については公式の幕政史料として分析し、「白旗書簡」実在論者たちの行った史料読解の誤りを指摘している(歴評論文,114頁)。すなわち、「海防愚存」に出てくる「白旗」とは、『新しい歴史教科書』に書かれているような性格のものではなく、ペリーたち自身に武力行使の意志がないことを表明するためのものだったというのである。「海防愚存」を白旗実在の証拠としようとするのならば、宮地氏のこの指摘に反論しなければならない。また、「強硬派の斉昭であれば、あらゆるところで利用して然るべきこの白旗書簡に、いかなるところでも全然言及していないのである」と、そもそも斉昭の政治的立場からして、仮にそのような事実があったとするならば本「書簡」の内容が「内密にされ」るべき必然性がないことも宮地氏は明確にしている。

つまり、秦氏は宮地論文の主張を正しく読みとることができていないのである。史料どころか、現代文を読解する能力にも欠けているようである。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekiken/archives/ebara_2002.html

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嘘も百回つけば真実に成る _ 「秦郁彦の研究により吉田証言は虚偽と証明された」という産経のプロパガンダ

hangul 2007/08/04 00:59

ネットで検索してくるとあらためて吉田氏に関して秦氏が言及した「通説」が出回っていますね。

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2


2007年(平成19年)03月05日参議員予算委員会で当時の総理、安倍晋三氏は次のような発言をしている。


○小川敏夫君 この三月一日に強制はなかったというような趣旨の発言をされたんじゃないですか、総理。


○内閣総理大臣(安倍晋三君) ですから、この強制性ということについて、何をもって強制性ということを議論しているかということでございますが、言わば、官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れていくという、そういう強制性はなかったということではないかと、こういうことでございます。

 そもそも、この問題の発端として、これはたしか朝日新聞だったと思いますが、吉田清治という人が慰安婦狩りをしたという証言をしたわけでありますが、この証言は全く、後にでっち上げだったことが分かったわけでございます。

つまり、発端はこの人がそういう証言をしたわけでございますが、今申し上げましたようなてんまつになったということについて、その後、言わば、このように慰安婦狩りのような強制性、官憲による強制連行的なものがあったということを証明する証言はないということでございます。

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080819/p1

産経新聞をはじめとする特定メディアで、国際社会の常識とかけ離れた秦郁彦氏らの歪んだ「定説」がたらい回しされているが、最大の顧客が保守政界である。

 安倍首相がさる3月1日夜、首相官邸で記者団の質問に、

「(河野談話は)当初定義されていた強制性を裏付ける証拠がなかったのは事実だ」

と、旧日本軍が従軍慰安婦を強制的に集めて管理した証拠はないとの認識を示し、「定義が大きく変わったことを前提に考えなければならない」と談話見直しの必要性に言及したのは、その典型的例である。


 安倍首相の言う「強制性を裏付ける証拠がなかった」は秦氏らの「定説」に基づくが、国際社会で通じる話ではないことは言うまでもない。 例えば、中央日報のコラム「噴水台 河野談話」は次のように苦言を呈する。


 「秦郁彦は吉田を『職業的作話師』だと攻撃した。窮地に追い込まれた吉田は、

『一部の事例の時間・場所は創作が加味されたもの』

と告白した。これをきっかけに河野談話に対する批判的認識が日本で広がり、安倍氏はある講演会で

『慰安婦は吉田の作り話であり、朝日新聞がこれを報道した。日本のマスコミが作り上げた話が外国へ広まったものだ』

と述べた。 しかし、吉田が強制動員の事実自体を否認したことはない。河野談話の廃棄・修正論者らは慰安婦動員の強制性を立証する政府公式文書が一つも発見されていないというが、根本的に疑問の余地がある。それ以前に、被害者たちの証言に証拠能力を認めない理由は何なのか」
 http://article.joins.com/article/article.asp?total_id=2651785&ctg=20


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 貞操が重視される韓国で、当初は、慰安婦であったことを隠し、自ら名乗り出る人はいなかった。 地方の済州ならなおさらで、許栄善記事はそのような社会状況を反映したと思われる。日本から言葉も通じない秦氏がのこのこ出かけていって、「実は・・・」などと打ち明ける人が出るはずもないし、それくらいのことが理解できないようでは、現地調査などできるはずもない。 いずれにしても、吉田証言に関しては改めて綿密な現地調査をして、生き証人を探し出す必要があろう。

 加害者の側が「なんだったら、証拠を見せろ?」などと開き直ったら、被害者が怒るのは当然であろう。重要なことは、日本政府が、加害者の立場に立ってそれを否定するのではなく、被害者の側に立って協力することである。 それが国際社会の常識であり、今求められているものである。

 「河野談話」についても「河野氏が韓国で『自称・元慰安婦』の証言のみを基に認めたにすぎない。韓国政府の横槍があった」と、当時の官房副長官・石原信雄氏が認めたとかどうとか言った話が産経系列のメディアでしきりに流されているが、それが事実なら、韓国は改めて日本政府の真意を問う必要があろう。


 従軍慰安婦の存在は、疑う余地がない。

 最近も、ハルビン郊外で人体実験を重ねた旧日本陸軍731部隊(関東軍防疫給水部本部)の元衛生兵だった大川福松氏(88)が

「子どもが泣いている前で、母親が死んでいった。子どもは凍傷の実験台になった」

と、子持ちの慰安婦を解剖したことを証言した。


 東京新聞(3/29)は「慰安所経営者も合祀」と、インドネシアで慰安所を経営していた人物が

「日本軍がトラックで朝鮮の農村部へ乗り付けて、拉致し、軍の慰み者とした」

と証言していたことも報じている。

 安倍さんに物申したい。現状では、加害者である旧日本軍をかばっていると国際社会では受け取られている。日本の首相がこれでは日本ブランドは大きく傷つき、貿易立国の土台を揺るがすことになりかねない。

 731部隊で無念の生体解剖された慰安婦母子の名を明らかにし、遺族に謝罪の言葉を伝えるべきではないか。そうすれば国際社会の認識はがらりと変わろう。 旧内務省の流れを受け継ぐ旧厚生省(現労働厚生省)には関連資料が埋もれていると聞くが、不可能なことではあるまい。

 古森義久氏が米議会調査局報告書「日本軍の慰安婦システム」に対して「『根拠』は虚構」と歪曲して報じたのは、「同報告書の趣旨は『組織的強制徴用なし』」と報じたことが捏造であると批判され、証拠を突き崩そうとの作戦に転じたためとみられる。

 重ね重ねの歪曲・捏造記事は、読者の無知に付け込んで誤解を植え付け、反米意識を煽り、米下院での従軍慰安婦決議案採択を阻もうとのプロパガンダとみられるが、それが日本の信用を傷つけ、国際的立場を悪くするだけであることにいつになったら気が付くのであろうか。
http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/archive/2007/04/21


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秦郁彦が触れていない『吉田証言』


国会で総理大臣から嘘つきよばわりされた吉田清治さんはほんとうに可哀相だ。吉田さんの書著に出ている済州島での「慰安婦」狩りを、『城山浦の老人クラブで、四、五ヵ所あった貝ボタン工場の元組合員など五人の老人と話しあって、吉田証言が虚構らしいことを確認』し、済州島新聞の吉田書の書評を紹介しただけで、『吉田清治の詐話』と決め付け、クマラスワミさんへの手紙で

I remind you that I informed that Yoshida was a "professional" liar,

吉田は「職業的な」嘘つきだと言いませんでしたか?


とおよそ大学教授とは思えない下品さで吉田さんをこき下ろしたのは秦郁彦先生であることはよく知られている。


秦先生の、文献収集能力がすこぶる優秀であることは、『慰安婦と戦場の性』の引用文献の豊富さを見ればわかるし、さすがだなと感心することしきりである。吉田清治さんに関する文献でも、吉田さんの著作、新聞や週刊誌の記事、講演、裁判での証言など非常に広範かつ入念に調査している。

だがしかし、ひとつだけ秦先生が紹介していないものがある。1986年8月15日、大阪森之宮ピロティホールで開催された「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」(戦争犠牲者を心に刻む会 主催)での吉田さんの講演である。以下、部分引用する。

従軍慰安婦の悲劇


 『私が今日、自分の犯した強制連行の罪に対して、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題が二つあります。

一つは、従軍慰安婦を九五〇人、強制連行したことです。

この従軍慰安婦という制度は、日本軍がアジア各地、太平洋諸島へ侵略した時、その駐留陸・海軍軍人たちの性的な相手をさせるための女性であったのです。占領直後の前線に、売春組織を陸・海軍の指導のもと、直接の援助のもとに設置したというのは世界史上ないそうです。もちろん、あってはなりません。これが太平洋戦争における日本陸・海軍の最も大きな罪だと私は信じております。


 この婦女子の、韓国・朝鮮人の従軍慰安婦の徴用のやり方は、

私たち実行者が一〇人か一五人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道(どう)の警察部を中心にして総督府の警察官五〇人か一〇〇人を動員します。

そして警察官の護送トラックを五台から一〇台準備して、計画通りに村を包囲し、突然、若い女性を全部道路に追い出し、包囲します。

そして従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、というか事実は、皆、木剣(ぼっけん)を持っていましたから、殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、一つの村から三人、五人、あるいは一〇人と連行していきます。

そして直ちに主要都市の警察署の留置所に入れておいて、三日から五日の間に、予定の一〇〇人、あるいは二〇〇人の人数を揃えて、朝鮮の鉄道で釜山あまで運び、釜山から関釜連絡線で下関に運んだのです。

 下関では、七・四部隊といって陸軍の部隊がありましたが、そこの営庭で前線から受け取りに来ている軍属に引き渡します。

そしてご用船でこれを中国、あるいは南方へ送るという業務を、三年間やっておりました。

(略)

 その頃(引用者注:1984年ごろと思われる)、加害者の私も韓国のテレビ局に呼ばれて、戦争犯罪人としてこの従軍慰安婦徴用について、一問一答されて、一時間のテレビ放送をさせられました。これは当然の私の義務だと思って、率直に、従軍慰安婦の前線における日本陸・海軍将兵からの三年間における辱(はずかし)め事実を、私はもと中支派遣軍の嘱託で前線にいましたので、その実体も含めて、韓国国民に公表しました。』

いくら秦先生といえども、「上手の手から水がこぼれる」の喩えのごとく、一つの証言を見逃していることがあっても不思議ではない。

だがしかし、秦先生は1996年3月27日の吉田清治さんとの電話での会話について、こう書いている。なんか臭う・・・

・・・彼が


「済州島の慰安婦狩りの情景は、実際には全羅南道でのできごとだった」

と言うので、

「では全羅南道の話はすべて真実か」

と聞くと、

「いや、全羅南道の被害者に迷惑がかかるといけないので、他の場所での話が混ぜてある・・・・・」

と答えるに及んで、私はそれ以上、問いただす気力を失った。


 しかし、この問答は事実上彼の証言がほとんど虚構であることを自認したものと見てよいのではないだろうか。


____


 吉田さんの全羅南道での慰安婦狩りをそのとき初めて聞いたはずの秦先生が、

『すべて真実か』

と聞くのも変だし、吉田さんが

『他の場所での話しが混ぜてある』

と答えるのも辻褄が合わない。

だいいち、何故、『ほとんど虚構であることを自認した』ことになるのだろうか?

 まぁ、秦先生が書かなかった部分の会話で詳しい内容を吉田さんが話したという考え方もできるが(それなら、秦さんの書き方の問題だ)、それなら今でも遅くないから会話の全貌を明らかにすべきだろう。また、いままで知らなかった吉田さんの話が出てきた以上、学者ならきちんと調査すべきではなかったのだろうか?

それはそれとして、この1986年の吉田さんの講演については、ネット上でも断片的に情報が出ているが、これを「強制連行はなかった」と叫ぶ人たちも問題にしていないことも気になる。彼らは真実を知りたくないのだろうか?それとも吉田さんは「職業的詐話師」と決め付けてしまっていて、これもどうせ嘘だと結論づけるのだろうか?

やはり、ここはぜひ、秦先生が吉田さんの証言の真相(済州島、全羅南道、1986年の講演)を明らかにするべきだと思うのだが、みなさんどうであろうか?

吉田さんが言っている済州島、全羅南道、もしくは朝鮮半島でのことが真実だった場合、一国の総理が一国民を不確かな証拠にもとづいて国会で”嘘つき”呼ばわりしたことになるのだ。その場合、これは由々しき問題になる。
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080819/p1


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1991.5.22朝日新聞(大阪版)


 「女たちの太平洋戦争」で韓国から寄せられた投稿にある、”挺身隊員として連行された” 女性への言及。一方、多数の朝鮮人を強制連行した側からの証言がある。

1942年(昭和17年)、朝鮮人の徴用を目的に発足した「山口県労務報国会下関支部」の動員部長になり、それから3年間、朝鮮人約6000人を強制連行した吉田さん(77)=千葉県=である。


 「手を下した側から従軍慰安婦について証言できるのはもう私1人しかいないかもしれない。

政府は『民間の業者がやったこと』と言うがそんなことはない。 とはいえ、その実態は歴史から消えている。

慰安婦だった人は過去を知られたくないのは当然で、日本人の側が、犯した罪を証言し、記録しておく義務がある。沖縄決戦についての慰安婦の実態もみえてこない。朝鮮から沖縄へ慰安婦として強制連行された人たちは数千人いたと推定できる」

と吉田さんは言い、現在、当時のことを記録に残そうと書き続けている。


 吉田さんは自著「私の戦争犯罪ーー朝鮮人強制連行」(三一書房)などで自己の戦争犯罪を問い続ける。

86年8月、大阪で開かれた「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」に招かれ、従軍慰安婦について大要次のように証言した。 (以下は、「アジアの声 侵略戦争への告発」=戦争犠牲者を心に刻む会編 東方出版=から)

 私が今日、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題の1つは、従軍慰安婦を950人強制連行したことです。

従軍慰安婦という制度は、日本軍がアジア各地、太平洋諸島へ侵略したとき、その駐留陸・海軍軍人たちの性的な相手をさせるための女性であったのです。占領直後の前線に、売春組織を陸・海軍の指揮のもと、直接の援助のもとに設置したというのは世界史上でないそうです。もちろん、あってはなりません。これが太平洋戦争における日本陸・海軍の最も大きな罪だと私は信じております。

この婦女子の韓国・朝鮮人の従軍慰安婦の徴用のやり方は、


私たち実行者が10人か15人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道の警察部を中心にして総督府の警察官50人か100人を動員します。

そして警察官の護送トラックを5台から10台準備して、計画通りに村を包囲し、突然、若い女性を全部道路に追い出し、包囲します。

そして従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、というか事実は、皆、木剣をもっていましたから殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、1つの村から3人、5人、あるいは10人と連行していきます。

そして直ちに主要都市の警察署の留置場に入れておいて、3日から5日の間に、予定の100人あるいは200人の人数をそろえて、朝鮮の鉄道で釜山まで運び、釜山から関釜連絡線で下関へ運んだのです。

下関では74部隊といって陸軍の部隊がありましたが、そこの営庭で前線から受け取りにきている軍属に渡します。そしてご用船で中国、あるいは南方へ送るという業務を3年間やっておりました。


 10万とも20万ともいわれる従軍慰安婦は、敗戦後、解放されてから郷里に1人もお帰りになってないのです。連合軍は中国、その他の占領地でこの女性たちを解放し、朝鮮半島、あるいは日本へ送還したのですが、その女性たちはすべて郷里に帰らず、各地で名前を変えて生活され、今日に至っております。

 今日、朝鮮半島、あるいは日本列島の中で過ごしていらっしゃる方、10万人のうち、もう半数は犠牲になってお亡くなりかと想像されますが、まだ数万の元従軍慰安婦の方が生きていらっしゃいます。従軍慰安婦と原爆被災者の2つが、私にとっての大きな問題です。共に私が強制連行して、その罪を犯したのです。従って私は戦犯の証人として、ここに立って皆様にそのことを伝え、心に留めていただきたいとお願いする次第でございます。
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/70/

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Stiffmuscle 2007/08/02 22:37

慰安婦問題における吉田清治の位置は、南京問題における東史郎の位置ととてもよく似ています。旧日本軍の同僚からの協力がないどころか、

「そんなことを言うな!」

と脅かされ、疎外され、嘘つき扱いされる。クマラスワミ氏は、吉田の逸話に潜む真実を示したかったんだと考えます。

逸話が証拠になるか?

と糾弾されても、そういう話ではない!と返されると思います。元慰安婦のために尽くせる手段はすべて使う。

海外では吉田氏の著述は非情に高く評価されており、アイリス・チャン同様、歴史的な誤謬があっても、そこに描き出される日本軍の戦争犯罪の残虐さと非人間性、それを許したシステムにいまだ日本人が裁きを与えられないでいること。そこをえぐりだした点が大きいのだと思います。実証史学では許されないことでしょうが、人権をテーマとした社会学的アプローチと考えれば問題はないどころか、称賛されるべきだと思ったりします。

hokke-ookami 2007/08/04 08:03

「南京問題における東史郎の位置ととてもよく似ています。」……

手記を編集したら捏造とされたあたりがそっくりですね。たまたま手元にあったので読み返してみましたが、一部の人名を仮名にするなどの注記は最初から前書きにあります。

階行社のような旧日本軍人のための団体でさえ、南京事件への謝罪を発表すると問題視する意見が大量に届いたのだから、一軍人が手記を発表する時の圧力は相当なものがあるだろうと容易に想像できます。だいたい手記への編集程度、戦争犯罪に関わらなくても個人的な戦記では特段に珍しいことではありませんし。

ちなみに、性暴力でなく、記憶が薄れるほど過去でなく、かつ明らかに一方的な被害者である地下鉄サリン事件ですら、被害者を探すことが困難だったという話もあります。被害を証言するだけで心の傷を深めることもあると留意すべきなのでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2


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Stiffmuscle 2007/08/02 15:25

吉田清治さんに協力する元同僚は誰もいなかったこと。吉田さんが韓国への配慮から、地名や年月日などを変えて本に書いたこと。秦先生は、そういうものは無視して、吉田は「職業的詐話師」!と糾弾するわけです。


クマラスワミ氏への手紙でも”professional liar”(なんのこっちゃ?)と言って非難してますが、クマラスワミ氏がそんな品性下劣な手紙を真剣に受け止めるはずもなかったでしょう(即ゴミ箱)。

にもかかわらず、秦先生は、例によって、返事が来とらん!と怒って(?)おいでですが・・・
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2

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元従軍慰安婦と済州島の人達が過去を否定した理由


「慰安婦」は商行為か?  上杉聰 


 〔秦郁彦〕氏は、吉田氏が強制連行した済州島まで赴き、証言の真偽を確かめようとした。その結果を

「昭和史の謎を追う−−第37回・従軍慰安婦たちの春秋」

と題して『正論』(1992年6月号)に発表し、同島から「慰安婦」の徴集を示す証言が得られなかったとした。だが、秦氏自身が六〜九万人の韓国・朝鮮人「慰安婦」の存在を認めている人である。どうして日本に極めて近い済州島だけ一人の「慰安婦」も徴収されなかったのだろうか。そんな例外の地域があると考えるほうがおかしい。

現に、尹貞玉・元梨花女子大学教授が1993年に同島で調査を行ったとき、島民の強い抵抗の中で一人の被害者と推定される証言者が名乗り出た。

だが、周囲からの本人への説得と制止によって、それ以上証言をとり続けることを拒否された事実がある
(日本の戦争責任資料センターと韓国挺身隊問題対策協議会による第二回「従軍慰安婦」問題日韓合同研究会)。


 性暴力の被害者すべてに言えることだが、被害を訴え出ること自体に大きな困難が伴う。ましてや儒教が強く残っている韓国社会では、さらに大きな障害となる。したがって、現在元「慰安婦」と名乗り出ている女性のほとんどが身寄りのない単身女性である。それに加えて、済州島という小さな島で名前を明らかにすることは、近隣・親戚に直ちに波及する大事件となる。そして同島は、韓国の中でも差別的に見られていることに留意すべきである。

もし誰かが名乗り出れば、韓国語に翻訳されている吉田氏の著書への関心と合わせて、興味本位の視線が済州島の島民全体に浴びせられる危険性を危惧しない者はいないだろう。それを畏れ、島内には箝口令が敷かれてきた可能性を否定できない。要は証言も含め、資料批判が必要だということである。秦氏の論拠だけで吉田氏の証言を嘘と断定することはできないのである。

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2

yamaki622 2007/08/03 23:01

「テレビの追跡取材」の記事を拝見して感じたことですが……

韓国に限らず、本人や周囲が性暴力の被害を隠したがるということは往々にしてあるものだと思います。

うろ覚えですが、確か日本で最初に実名でセクハラを訴えた女性が親戚から縁を切られたということを何かの本で読んだことがあります。「女の恥だ」と言われて…。もちろん理不尽な話ですが。

秦氏をはじめ否定派は、強制が事実だとすれば必ず本人や周囲が真相を明らかにしたがるはずと決めつけているようですが、その想定自体が非現実的だと思います。

__________

真実を教えれば (Stiffmuscleの日記)


Linさんの家族は、Linさんが戦争中に受けた苦しみを話しに上海に行くことを反対した。今でも、海南島の村々では村の恥になるとして、慰安婦の苦難を語ることはタブーである。Linさんは勇気を振り絞って話をしたのだと、彼女の支援者たちは言う。


Activist: Japanese former ’comfort women’ suffer in silence (AP via International Herald Tribune - April 28, 2007)
 名乗り出ることができず今も苦しむ日本人元『慰安婦』たち

「米軍兵士の相手をしたことで押された社会的スティグマのために、日本人元慰安婦が名乗り出ることは未だに困難なのです。」

と、東京を拠点とするVAWW-NET JAPANの活動家、信川 美津子 は語る。

「第二次世界戦中に、アジアのいたるところにあった日本軍の売春宿で客を取らされた女性たちも数多くいたが、名乗り出られずに苦しんでいる。現在までに自分の体験を語った女性はごく僅かです。」

被害者が沈黙して語れない理由


軍事紛争下で行われたジェンダーに基づく暴力、その被害者の多くが自分の被害について口にすることを嫌う。


各戦闘勢力からの圧力、

政府からの圧力、

家族からの圧力、もしくは

地域社会からの圧力、


これらはすべて、多くの女性を威圧し沈黙を強いる方向に働くのである。

暴力もしくは紛争が継続している場合、女性が事件を通報することが困難になることも稀ではない。多くの地域で、報復、恥の意識、社会的スティグマは、特定の類型の女性に対する暴力、特にレイプに結びつく。

性暴力を通報した場合の結果に対する恐怖感−拒否、疎外、離婚を招くこと、

結婚生活には不向きだと言われること、

経済的・社会的悪影響など−

のあらゆる恐怖感のために、女性は自分に加えられた暴力を通報することを諦めざるを得なくなるのである。


虐待の現実

1992年以降、旧ユーゴスラビア、フォカ市の女性たちが、ボスニア、セルビア、ユーゴスラビア軍によって組織的に強姦された。ボスニア人女性たち、イスラム教女性たち、そしてクロアチア人女性たちは毎夜、強姦された。また、彼女たちは性的虐待と殴打により外傷を負っていたが、それに対する治療は拒否された。ある12歳の少女は、1992年に10日間拘留され、10回強姦された、また、彼女の母親も2回強姦された。2001年2月、国際刑事裁判所において、ボスニア・セルビア人男性3人が、フォカでの成人女性と未成年の女性に対する強姦罪を含む、戦争犯罪および人道に反する犯罪、33の罪で有罪となった。

これまでに、幼女や高齢の女性を含むあらゆる年齢のコンゴ人女性が何千人も、強姦、身体的暴力、誘拐、もしくは性奴隷状態の被害者となっている。コンゴ東部で医療基盤が破壊されて以降、強姦による外傷や疾患−中には生命に関わるほどのものもあった−を患った女性のほとんどは適切な治療を受けることが不可能になっている。(2007年8月3日追記)


Stiffmuscle 2007/08/02 15:32

「なかった派」は元慰安婦の方々が名乗り出るのにどれだけ勇気がいるかサパーリわかってないですね。

日本人の元慰安婦も同様の理由で名乗り出なかったのだと思いますが、それを「日本人の美徳ゆえ」のように言うのは言語道断でしょう。

ふざけるな!と言いたいです。

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2

その吉田さん自身が作り話であることを既に認めてますが、その点はスルーですか?(笑)

2007/8/6(月) 午後 8:44 [ momo ]


>吉田証言は、貴重な内部告発として再評価に値すると思います。

じゃあなんで矛盾を突付かれた挙句、作り話だなんて白状するんでしょうね(笑)

2007/8/6(月) 午後 9:47 [ momo ]


>慰安婦が白眼視された社会状況無視、

わたしもここはもっと理解されてしかるべきだと思います。いや、慰安婦問題に関心をもつ日本人は必ず理解しなければなりません。

あわせて、この「済州新聞」は金学順さんが勇気ある名乗りをされる以前のものであること、日本人元慰安婦が名乗りでない理由をそこに重ねて見出すこと、なども当然欠いてはいけない視点だと思います。


>吉田証言は、貴重な内部告発として再評価に値すると思います。

わたしも同感です。吉田がわざと場所や時期などをずらしたこと、最後まで重荷を背負って謝罪を行動で表し続けたこと、このことが持つ意味が理解できない人は愚かです。

2007/8/21(火) 午後 6:04 [ Stiffmuscle ]

http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/18007158.html


吉田清治さんはこの頃から急にマスコミの脚光を浴びました。しかし、実は吉田さんはその10年も前から懺悔の手記(?)を出版していました。その書名は「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」で三一書房から1983年に出されました。その当時この本はほとんど注目されませんでした。

   ここで吉田さんの所属した労務報国会について簡単に説明します。この組織は1943年、国民総動員令により植民地や日本国内に残った人たちを国のために狩り出すためにつくられました。会長や役員は、貴族院議員や各省庁の大臣がなり、各県の会長には県知事が就任しました。その中で動員部長は要職で相当な権限を持ち「動員」にあたりました。

   その動員部長である吉田さんの弁によれば、吉田さんは済州島の各地で強制連行をしたそうです。その証言に登場した城山の貝殻ボタン工場跡をテレビ朝日が実際に取材しました。その報告はTV番組「ザ・スクープ、従軍慰安婦Part2、戦争47年目の真実」(1992年)で放送されました。

番組では、女性アナの田丸美寿々さんが現地で二人にインタビューしました。一人は城山の長老の洪さんです。


田丸さんの質問「この工場から徴用された慰安婦がいるか」に対し、

洪さんは 「いないよ。いない。この辺にはいないよ。もしいたとすればよそから来た人だよ。何十人か連れていかれたという話もあるけれど、それは済州島の人間じゃないよ」

と微妙な返答をしました。つまり、済州島の人間は連れていかれたことはないが、よそから来た人は何十人か連れていかれたという話をきいていると、肯定とも否定ともとれる返答をしました。

   もう一人インタビューに応じた地元の女流作家、韓林花さんは番組でこう語っていました。


  「(地元の人は)みんな知らないふりをしている。口にしないようにしている問題なんです。日本に女まで供出したことを認めたくないという民族的自尊心と、女は純潔性を何よりも最優先にするものだという民族的感情のせいなのです」


この二人の話をつなぎ合わせると、番組のニュアンスは「強制連行」はあったかも知れないという印象でした。

韓国では身内や一族から「従軍慰安婦」を出したとあっては大変な恥です。こうした精神的風土から戦後、多くの「従軍慰安婦」の女性たちは故郷に戻れませんでした。その上、自分が「従軍慰安婦」であった事実をひた隠しにして生きざるを得ませんでした。

そのあたりの事情をテレビ朝日は1991年に放送したTV番組「ザスクープ・追跡朝鮮人慰安婦、知られざる真実」で紹介していました。その時の番組では、「従軍慰安婦」を多く出したとされる全羅南道のある市場で、妹を連行された女性と周辺の人を取材しました。そのやりとりを記します。

アナ「(この辺で)女の人が狩り出された話を知っていますか?」

男性「(横にいる)ハルモニの妹が連れて行かれた」

アナ「どういう風に連れて行かれたのですか?」

男性「強制的にだよ・・・ここは儒教社会だから体面があってあまり話せないんだよ。自分の家から女子挺身隊を出したとなると、他の者の結婚にもさしつかえる・・・

結婚してたら連れて行かれないというので、12から14歳くらいでみんな結婚させたんだよ。連れて行かれたらもう消息が途絶えちゃうんだ。行方不明の人多いよ」

アナ「おばあさんはそれから妹さんに会いましたか?」

ハンメ「会っていない。行方不明だよ。生きているのか死んでいるのかわからない」


(注)ハンメ、ハルモニ=おばあちゃん、おばあさん

このように行方不明になった多くの人は、麻生徹男軍医官のいう「皇軍兵士への贈り物」にされ、「衛生的な共同便所」の役割を果たしたのでした。その数は朝鮮人だけでも10万人とテレビ朝日は紹介していました。


さて、吉田証言にもどりますが、地元の新聞「済州島新聞」は強制連行の事実を否定した記事をわざわざ載せたそうです。これは韓林花さんのいう「民族的感情」を裏付けているのかも知れません。

   吉田さんは、独立紀念館の近くにある韓国最大の集団墓地「望郷の丘」に自費で「謝罪の碑」を建てました。これに対し秦教授は今度は「職業的演技者」とでも呼ぶのでしょうか?

http://www.han.org/a/half-moon/hm012.html#No.117

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3. まともな研究者で吉田 清治の証言内容自体を疑っている人は一人もいない


吉田証言で問題とされているのは吉田さんが元従軍慰安婦の方のプライバシーと心情を考えて、地名や年月日などを変えて本に書いたことだけなのです。

吉田 さんは現在でも、『秦郁彦に電話で自分の嘘を白状して』無価値になった筈の本を廃刊していません。

自分が書いた本の内容が、元従軍慰安婦関係者に対する守秘義務によって変更せざるを得なかった部分を除いてはすべて真実だからでしょう。 :


朝鮮人慰安婦と日本人―元下関労報動員部長の手記 吉田 清治 (著) 発売日: 1977/03
http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E2%80%95%E5%85%83%E4%B8%8B%E9%96%A2%E5%8A%B4%E5%A0%B1%E5%8B%95%E5%93%A1%E9%83%A8%E9%95%B7%E3%81%AE%E6%89%8B%E8%A8%98-%E5%90%89%E7%94%B0-%E6%B8%85%E6%B2%BB/dp/4404007957/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1324384207&sr=1-3

私の戦争犯罪 吉田 清治 (著) 発売日: 1983/7/1
http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E7%8A%AF%E7%BD%AA-%E5%90%89%E7%94%B0-%E6%B8%85%E6%B2%BB/dp/4380832317

吉田清治の「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」


吉田の記述は済州島の城山浦にある貝ボタン工場という設定


若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。

娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずりだした・・・・

女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。・・・・

女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人であった。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html


「4、5日から一週間で若い女性50人を調達しなければならなかったので
警察や軍を使って乳飲み子のいる若い母親にまで襲いかかり、奴隷狩りそのものだった」(北海道新聞、92.2.25)。

http://www.han.org/a/half-moon/hm012.html#No.117


吉田清治さんは『私の戦争犯罪』(1983年)中の「第3話 済州島の慰安婦狩り」という章で、労務報国会下関支部の動員部長だった自分がどのように慰安婦“狩り”を行ったかを告白している。彼は済州島に駐屯していた日本陸軍の協力で11人の歩兵と軍用トラック2台を得た。

吉田清治さんの戦争犯罪の告白


1943年5月、このころ朝鮮人は日本軍にひっぱられれば彼らの“えじき”になると思っていた。吉田の徴用隊は


まず帽子をつくる家を襲撃して2、30人の女性のうち8人を連行した。

女性たちが悲鳴をあげるや4、5人の強壮な朝鮮人の男たちが道をふさいだ。

銃剣でおどしても男たちは手を振り上げ朝鮮語で必死に抗議した。

隊員たちが銃剣を突き付けるとようやく逃げて行った。

「アイゴ、アイゴ」と泣き叫ぶ女性たちをトラックに押し込んだ。

トラックは林の中に入って行った。

吉田は徴用隊長の依頼に従って隊員たちにたった今捕らえてきた女性たちと“遊ばせ”た。


 城山浦のボタン工場でのことだ。

ためらう社長をどなりつけて工場の中に入った。女工たちは30人ほどだった。

徴用隊が「作業停止!」と叫ぶや女性たちは悲鳴をあげた。

慰安婦の女性を選別していると、一人の老婆が隊員の腕にしがみついた。横にいたほかの隊員が老婆の頭にまいていた手拭をつかんで頬を殴りつけた。

妊娠中でおなかの大きな女性のスカートを捲りあげて下着に隠されたおなかを見た。年のいった女工が吉田に駆け寄って

「朝鮮の女をどうするのですか!」

と日本語で抗議した。吉田は

「戦争のためだ、じゃまするな!」

と怒鳴り、女工は朝鮮語で泣き叫びながら吉田に抗議し続けた。吉田は彼女を押しのけ、別の徴用隊員が彼女の顔を殴った。

この工場での「収穫」は16人だった。門の横で見守っていた社長は言葉もなく行ってしまった*3。・・・・・・

尹貞玉 他『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題』、三一書房、1992年、32〜33ページ

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080809/p1#tb


 吉田清治の証言自体の信頼性はどうか。これに疑問をいだいた秦郁彦教授は、済州島にいって調査したが、現地でえられた証言は否定的なものばかりだったといっている。そのほか、この証言にたいする多くの疑問がだされているが、吉田さんは反論していない。

 そこで、私たちは、一九九三年五月に吉田さんを訪ね、積極的に反論するよう勧めた。また、誇張された部分があれば、訂正すべきだとも申し入れた。とくに、この本(※『私の戦争犯罪(三一書房)』)のなかにある動員命令書がキーポイントとなるので、吉田さんがいうようにもしそれが奥さんの日記に書いてあるのであれば、日記のその部分を公開したらどうか、もしそれがないのなら訂正すべきではないかといった。

 これに対し、吉田さんは、日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるので、できないと答えた。そのほか回想には日時や場所を変えた場合もあるとのことだった。

 そこで、私たちは、吉田さんのこの回想は証言として使えないと確認するしかなかった。なお、私は、一九九一年から慰安婦問題の研究をはじめたが、この間、吉田さんのこの証言はいっさい採用していない。

 証言としてかんじんな点となる場所や前後関係に変更が加えられているとしたら、済州島での慰安婦[徴用]にかんする吉田証言を、事実として採用するには問題が多すぎる、というほかない。吉田さんには、慰安婦徴募にかんするみずからの体験を伝聞と区別して正確に証言されるよう望みたい。

吉見義明・川田文子「『従軍慰安所』をめぐる30のウソと真実」大月書店1997.6(P.26〜27)

http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/70/

ところで、N.Mさんはこれまでに何回となく吉田証言は嘘だと断言し、それを前提として議論を展開されていますが、これって、何か証拠があるんですか?

私の知る限り、今までのところそんなものは出ていないと思うんですが。

ここで、邪推される前に吉田証言に関する私の見解を明らかにしておきますが、私としては、吉田証言は「時」と「場所」という証言として最も重要なポイントが改変されているので、証言としては使えない(無価値である)と考えています。しかし、嘘だと断定しうるほどの根拠もないし、真偽については今のところ不明としか言いようがない、と思います。


_______

吉田証言が否定されたなら、これまで報道してきた責任上、読者にそう報道すべきでしょう。途切れてしまって、何ら報告のない限り、吉田清治ばりの公的な機関が公的な命令で「奴隷狩り」のような方法で韓半島において女性を集めたという報道が、そのままに信じられる危険性があるのです。

________

明白に「否定された」のならそのとおりでしょうね。しかし、前回も書いたとおり、吉田証言は証言としては*使えない*ものの、決定的な反証が出たわけでもない真偽不明の状態ですから、拙速に「否定された」などと報道するわけにはいかないと思いますよ。


___________

はあ? 吉田証言のポイントは、日本の官憲が慰安婦の強制連行(それも直接的暴力による連行)を行った、ということでしょう? クマラスワミ報告書には秦氏の反論として、


「…博士の説明では、彼は1991〜1992年に大韓民国の済州島を史料収集のため訪れたが、「慰安婦犯罪」の主犯は実際には朝鮮人区長、売春宿の持ち主及び少女自身の親たちでさえあった。教授の主張では親たちは娘の徴集の目的を知っていたというのである。…」


と記載されています。徴集の主犯は朝鮮人である区長や親たちであったという主張が、官憲による暴力的連行を証言する吉田氏への反論になっていないとは、何のことだか全く理解できません。


 これに関して、秦郁彦『昭和史の謎を追う(下)』文藝春秋社では、秦氏の済州島における調査の結果ととも次のように証言の問題点について述べています。


(1) 慰安婦狩りの命令は

西部軍→山口県知事→下関警察署長→吉田

のラインで来たとしているが、関係者はこのような命令系統はありえないと否定する。依頼だとしても、済州島をふくむ朝鮮半島は朝鮮総督府と朝鮮軍の管轄下にあり、内地から出張しての狩り込みはありえない。もし必要があれば総督府が自身の手で集めるはずだと関係者が述べている。


(2) 第一作である『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社、一九七七)には、四四年四月労報が初めて慰安婦狩りを手がけたと記述し、第二作(一九八三)の済州島行き(四三年五月)と矛盾する。


(3) 第一作に四四年二月結婚とあるが、第二作には済州島行き計画は、死んだ「家内の日記」に書いてあったと記述している。(p.336)


このあたりについては、吉田氏自身、時と場所が異なる事件を出版社の要請に応じて一つにまとめるなどの改変を行っていることを認めているんですから、矛盾がどうのと言ってみても無意味では。

繰り返しになりますが、こういう矛盾の有無の検証とか、現地調査との突き合わせとかは、吉田氏が自分の体験を(時と場所の特定を含めて)正確に話してくれない限りできないのであって、だから吉田証言は現状のままでは証言としては使えず、無価値であると言っているんですよ。


それで、「吉田証言は「時」と「場所」という証言として最も重要なポイントが改変されている」ということは、「吉田証言」は紛れもない「嘘」ではないですか。「改変」でしょう。記憶が曖昧なのではなく、そこに意図が働いているわけですから、「嘘つき」ということではないですか。


________

あれ?

N.Mさんが言う「嘘」って、吉田氏が証言中の「時」とか「場所」を偽っている、などというレベルのことだったんですか?


私はてっきり吉田氏が実行したという「慰安婦狩り」そのものが事実無根の真っ赤な嘘だとおっしゃっているんだと思ってたんですが。

N.Mさんの言う「嘘」がその程度のものなら、この件に関して私とN.Mさんの間に意見の相違はないことになってしまうんですが、そうなんですか?


では、なぜ「吉田証言」が「クマラスワミ報告書」に取り上げられたのでしょう。無価値で真偽も不明で、まともな学者は誰も相手にしていないのでしょう。どうして取り上げられたのですか?


_________

まともな研究者は「相手にしていない」のではなくて、重要視していない、のです。吉見氏らは、別に吉田証言を嘘だと決め付けたりしているわけではありません。例えば、上杉聰氏は次のように述べています:

吉田証言は根拠のない嘘とは言えないものの、「時と場所」という歴史 にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、歴史証言としては採用できない というのが私の結論であるし、吉見教授も同意見と思われる。 …

多くの研究者の関心は、吉田批判がなされた当時すでに同氏の証言の真偽へ向いてはいなかった。むしろ「強制」の内容の方に関心が集中していたのである。次々と被害者が名乗り出ていたことで、統計的な処理も可能となり始めており、暴力的な連行そのものは限られたものであることが判明していたからである。

吉見氏の意見は次のとおりです:

証言としてかんじんな点となる場所や前後関係に変更が加えられているとしたら、済州島での慰安婦「徴用」にかんする吉田証言を、事実として採用するには問題が多すぎる、というほかない。吉田さんには、慰安婦徴募にかんするみずからの体験を伝聞と区別して正確に証言されるよう望みたい。

しかし、だからといって、朝鮮では強制連行がなかったといえないことは1でのべた。また、戦争末期に済州島を含む朝鮮で、どのような徴募が行われたかという実態究明は、今後の課題として残っている。


[1] 吉見義明・川田文子編著『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』 大月書店 p.15
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/ianfu-yoshida.htm#fj971027

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4.吉田清治を詐欺師だと断じた なんちゃって教授 秦郁彦の証拠捏造の手口

産経グループのプロパガンダには、「嘘も百回つけば真実に成る」式の、学問的裏付のない特定の“似非事実”をたらい回ししながら既成事実化し、社会に拡散させていく特定のパターンがある。

古森氏は、「『吉田証言』は歴史家の秦郁彦氏らの調査などで虚構だったことが立証された」とするが、真っ赤な嘘である。

 韓国語も理解できない秦氏の「現地調査」は学術的調査とは程遠いもので、一個人の独断の域を出るものではない。 従軍慰安婦の存在を証明する資料は少なくないが、その中でも、吉田証言が旧日本軍人として従軍慰安婦について明らかにした貴重な資料であることは現在も変わらない。

 産経新聞などの常連寄稿家である秦郁彦氏は、河野談話が出される前の1992年3月29日に済州島に渡り、吉田証言を「実地検証」をしたという。  しかし、その内容たるや、康大元なる「海女研究家」を通訳に立て、「城山浦の老人クラブ、貝ボタン工場の元組合員など五人の老人と話し合って、吉田証言が虚構らしいことを確認」という程度のことでしかない。

 「実地検証」と言うにはあまりにお粗末な代物だが、敵意や憎悪を煽って矛先を変えるプロパガンダの要諦だけは心得ているようだ。ろくな調査もせず、人の話をだしにしながら吉田氏を「詐欺師」扱いする傲慢無礼な論法は、学者らしからぬ。曲学阿世の輩、というべきであろう。  

案の定、秦氏は学会などで「秦氏の乱暴な引用の仕方が史実を歪曲している」 としばしば批判されている。

「現地調査」とは名ばかりの粗悪品が「立証」などともてはやされるのは、右派保守陣営のニーズに合致したからで、実際、秦氏は復古主義者のデマゴーグとしての役割を担ってきた。  吉田氏のような良心に基づく内部告発者を「詐欺師」と罵倒し、被害者である従軍慰安婦の声をことさら無視するのは、その姿勢が、加害者である旧日本軍の側に偏っているからではないか。

http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/18007158.html


Stiffmuscle 2007/08/03 23:11

『 私はこの貝ボタン工場のあった城山浦にも行ってみた。海女の研究家でもある康大元(慶応大学出身)の通訳により、老人クラブで四、五か所あった貝ボタン工場の元組合員など五人の老人と話しあって、男子の徴用はあったが慰安婦狩りはなかったらしいことを確認した。

 公立図書館では一九七六年頃に吉田が済州島を旅行したときの関連記事を新聞で探して見つからなかったが、思わぬ拾いものがあった。(232ページ)』

この後、新聞記事の話になります。調査ってこれだけ?ってことでしょうね・・・


Stiffmuscle 2007/08/03 23:29

秦先生は吉田氏と直接会ったことはなかったみたいです。長時間の電話インタビュー(秦の言)を1992年に2回、1996年、1997年と1998年にそれぞれ1回、計5回行ったのがコンタクトの全てのようです。


秦氏は吉田氏と直接面会したことはなく、電話で5度インタビュー(吉田証言否定までには2度のみ)しただけ。

1992年 3月13日
1992年 3月16日
1996年 3月27日
1997年 4月 6日
1998年 9月 2日

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2


秦郁彦『慰安婦と戦場の性』批判 林博史


 引用の恣意性もひどい。西野瑠美子氏が下関の元警察官に聞き取りをし、済州島での慰安婦の狩り出しについて

「『いやあ、ないね。聞いたことはないですよ』との証言を引き出した」(二四二頁)

と元警察官がはっきりと否定したかのように書いている。


 この聞き取りには私も同席していたが、西野氏の本ではその引用された言葉の後に

「しかし管轄が違うから何とも言えませんがね」

と続いている。証言者は、自分は知らないが管轄が違うから断定できないと謙虚に話しているのだ。ところが秦氏は後半をカットすることによってまったく違った結論に導こうとする。

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2

慰安婦と戦場の性 (新潮選書) 秦 郁彦 (著) の書評


反論の為の内容のない本, 2007/5/11 By アマゾン太郎 "慰安婦の本はかなり読んだが"

慰安婦について吉見義明と違う見方を示すある意味貴重な本だが、内容はどうだろうか?

著者の関心は慰安婦自体にはなく、吉見義明への反論にしかないように見える。

この本自体では慰安婦がどういう生活をしていたか、慰安所という仕組みがどのように作られたか全く見えてこない。結局この本の価値は最後の7つの論争点にしかないように思う、しかしそれも2007年の今となっては産経新聞などで聞き飽きたものであり、時間が経つにつれ内容の貧困さが顕わになってきたように感じられる。

また反論を提起するそうした内容自体についても憶測、伝聞などはっきりしない書き方が多くて、そもそもこれが研究と言えるのか?という感じが否めない。これは私1人の感想ではなく例えば刑法学者の前田朗は戦争責任研究という雑誌で同じ事を書いていることである。

いわゆる自由主義史観論者の中でただ1人研究者として慰安婦について本を書いた訳だが、秦氏は慰安婦がどの位行動の自由があったか、いくら収入があったか示せず具体的に示せず、その力の限界を露呈したように感じた。

期待はずれ、やや力不足なり, 2007/5/16 By 相田祐治

日米開戦や蘆溝橋事件などの緻密な研究を予想したが、期待はずれだった。 文献引用は多いが実際の調査に基づくものではなく、資料研究の域を出ていない。

肝心の慰安婦の生態についても同様で、あまり細かい説明はなく、なにか読み物(小説)のような感じを受ける。この感覚は千田夏光などの1970年代の本と同様であり内容自体も同じとも言える。

秦氏が力を入れているのは、国連の報告書の批判や、吉田清治の嘘の告発、他国の似た制度の話だが、現在では強制連行があったか否か・性奴隷なのか売春婦なのかが焦点となっておりこの点でも期待はずれだった。

元兵士などへのインタビューなどもあるが決定打に欠け結局結論が出ず終いである。やはり秦氏には慰安婦はやや専門外だったという印象だ。

なぜ兵士の証言は採用するのか?, 2007/5/23 By Salute

今や右派雑誌?「諸君!」の常連執筆者となり完全に自自由主義史観論者となってしまった歴史家の過去の著作。

この当時はまだ現在のような詭弁的な論は立てておらず、この本は慰安婦についてある見方に立ってかなり網羅的に書かれている。しかし時期が古いためか、著者としても自信がないためか、強制連行はあったのか?証言は信用できるのか?など疑問点についてきちんと答えておらず曖昧な印象を受ける。

秦氏は証拠資料の調査に基づくいわゆる実証主義の歴史家(証拠のある歴史)と言われ、この本でもそれが期待されるが、慰安婦関係の多くの政府・軍資料の検討・批判はなぜか行われていない。また秦氏がいう所の民間業者が軍相手に抱えている慰安婦の存在に関する一次資料は、まったく登場せず、この点では残念ながら実証主義とは言えない。

代わって秦氏が採用したのは、当時の兵士の体験・証言であり、それまでの秦氏ならば採用しない口伝に基づいた慰安婦の歴史が記されるのは驚きだ。なぜなら、秦氏は一方では元慰安婦の証言を、様々理由で怪しいとしており、元兵士の証言は信用するが、元慰安婦の証言は信用しないというダブルスタンダードが採用されているからだ。

この点に気付くとこの本の信頼性には首をひねらざるを得ない。

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4106005654/ref=cm_cr_dp_synop?ie=UTF8&showViewpoints=0&sortBy=bySubmissionDateDescending#R12IQG6AAM6LVW

『済州島新聞の吉田清治記事』


秦郁彦著 『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮選書)232〜233ページより引用

1989年に吉田〔清治〕著が韓国語訳(清渓研究所現代史研究室)されたとき、『済州新聞』の許栄善記者が書評を兼ねた紹介記事を書いていたのである。1989年8月14日付の記事の邦訳は次の通りだ。


 『開放解放44周年を迎え、日帝時代に済州島の女性を慰安婦として205名を徴用していたとの記録が刊行され、大きな衝撃を与えている。しかし裏づけの証言がなく、波紋をひろげている。(ついで吉田著の概容を紹介)

 しかしこの本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15〜16人を強制徴用したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を、裏づけ証言する人はほとんどいない。

 島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクチョン(85歳の女性)は「250余の家しかないこの村で、15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。

 郷土史家の金奉玉(キムポンオク)は「1983年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している」』


秦先生の翻訳と重なる部分(akiraさんによる記事の全訳より)


 『解放44周年をむかえて、日帝時代に済州道の女性を慰安婦として205人を徴用して行ったという記録が出てきて、大きい衝撃を投げかけているが、後押し証言がなくて、波紋を投げかけている。

 しかしこの本の記録による城山浦ボタン工場で15〜16人を強制徴発した記録らでも..........

 ....信憑性に対する疑問をより一層投げかける。


 城山里の住民丁玉丹氏(85)は「そうしたことはない。250人余家しかならない村で15人も徴用されたなら、どんなにか大きな事件なのに... 当時そんなことはなかった」と言い切った。

 郷土史学者金鳳玉氏は「日本人たちの残酷性と没良心的な一面をそのまま表わしたものだ。とても恥ずかしくて口にすることもできない話をそのまま書いたことで、本という名前をつけることもできない。83年原本が出てきた時、数年の間追跡した結果、事実無根の部分もあった。むしろ彼らの邪悪な面を表わした道徳性が欠如した本で、軽薄な商業主義な面が追加されたものだと見なせる」と憤慨した。 (許栄善記者)』


産経の阿比留記者が引用した翻訳

で、「日韓誤解の深淵」には、この吉田氏の本の韓国語訳が出版された際の地元紙、「済州新聞」(1989年8月14日付)の記事が西岡氏によって日本語訳されたものが載っています。それは次のような内容でした。


 《解放44周年を迎え、日帝時代に済州島の女性を慰安婦として205名徴用していたとの記録が刊行され、大きな衝撃を与えている。(略)しかし、この本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15~16人を強制徴用したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏づけ証言する人はほとんどいない。島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信ぴょう性に対して強い疑問を投げかけている。

 城山里の住民のちょん・たんさん(85歳の女性)は「そんなことはなかった。250余の家しかないこの村で、15人も徴用したすれば大事件であるが、当時そんな事実はなかった」と語った。

 郷土史学者の金奉玉氏は「(略)83年に原本(私の戦争犯罪…)が出た時何年かの間追跡調査した結果、事実無根の部分もあった。むしろ日本人の悪徳ぶりを示す道徳性の欠けた本で、軽薄な商魂が加味されていると思われる」と憤慨した。》

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/200707

週刊新潮 1995年1月5日号の秦先生の言

「済州島での実地検証の結果は、吉田証言を裏付ける話は何一つ出てこないだけでなく、郷土史家の金奉玉氏は、吉田本の翻訳が出た後、何年も追跡調査をした結果、”そんな事実はなかった”と断定し、”あの本は日本の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物”とこき下ろしている。」(秦郁彦氏)


(WiLL 8月増刊号『「従軍慰安婦」と断固、戦う!』(2007年、ワック・マガジンズ、122ページ)


編集者の二重引用符のつけ方が悪いのかもしれないが(なぜ””なのかも理解できない)、秦先生自身が微妙に言を変えているのが気になる。他の記事での発言はどうなっているのだろう?元慰安婦の証言を「身の上話」としてわずかな表現の食い違いを指摘して、慰安婦の証言に疑問を投げかけてきた先生だけに、自分の言にも常に寸分違わぬほどの正確さを求めないと、ダブル・スタンダードですし、そんなお粗末なことをおやりになるはずないのに不思議です。


hangulさんからのご指摘

第3段落の後半部、「城山浦の住民のチョン・オクチョン(85歳の女性)」については細かいですが「城山里の住民チョン・オクダンさん(85歳)」が正しいです。

この郷土史家氏は捏造についてではなく、日本人たちの犯した行為のあくどさに「憤慨」していると読み取れます。

「事実無根の部分もあった」 → 「事実でないと発見した」(秦氏)。

この論法、もううんざり…


yamaki622 2007/08/02 10:29

済州新聞の日本語訳の元ネタは、西岡力の著書『日韓誤解の深淵』(1992年)のようです↓

http://abirur.iza.ne.jp/blog/day/20070324/


ただし西岡氏も、hangulさんやakiraさんと同じく「事実無根の部分もあった」と訳しています。西岡氏も秦センセイと同様、慰安婦の強制性否定論者です。秦センセイは、お仲間の著書から引用を改ざんして載せたようです。無茶苦茶ですね。


阿比留記事を紹介してくださったyamaki622さんからのご指摘

西岡氏も、hangulさんやakiraさんと同じく「事実無根の部分もあった」と訳しています。


わたしが疑問に思ったこと。

金学順さんが名乗り出られた1991年以前に書かれた記事(1983年)であること。

慰安婦狩りの話を裏づけ証言する人はほとんどいない。

こういう肝心な部分は引用しないのは何故でしょうか?

ところで朝鮮人らを徴用したことに関する公式記事や関係文書は敗戦直後内務次官の通告により全国道・富・県知事の緊急命令書が各警察署場らに発送されて完全廃棄処分された。

新聞記事の切れた部分には何が書いてあったのか?


akira 2007/07/31 12:14

(新聞の全訳)(左から1列目)

 日帝済州で慰安婦205人徴発していた。

 日本人手記「私は朝鮮の人をこのように...」波紋

 解放44周年をむかえて、日帝時代に済州道の女性を慰安婦として205人を徴用して行ったという記録が出てきて、大きい衝撃を投げかけているが、後押し証言がなくて、波紋を投げかけている。

 42年から敗戦する時まで約3年の間山口懸労務報国会の動員部長として朝鮮の人々を徴用することに従事した吉田清治氏の戦争犯罪記録”私は朝鮮の人をこのように捕まえて行った”がそれで清渓研究所現代史研究室により83年版を翻訳発刊したこと。

 ここには「光州での男性強制連行」と「済州道での慰安婦狩り」に対してついて引っ張って行った当時を記述している。
 この記録によれば

△皇軍慰問朝鮮人女挺身隊200人
△年齢! 18才以上30才未満
△身体健康な者
△期間1年
△給与月30円
△準備金で前金20円
△勤務地中支方面
△動員地域朝鮮全羅南道済州.....


(真ん中の見出し)
 住民たち”ねつ造”... 日本 破廉恥 商業主義に憤慨
 著者は当時山口県労務報国会動員部長.
 ”城山浦ボタン工場・オンポ・ポブァン里などで強制徴用”主張...

(左から2列の下段)
 女たちをみんな捕まえてのせて、車の速力を高めてそこを離れた。高い岩山の間を貫かれた道を帰るやピヤン島が見えた。広い海には帆船らがじょじょに浮かんでいたし水平線はとぎれとぎれに.......

(左から3列目)
 ...を迎えながら組合長だと挨拶した。私は直ちに組合長に口頭で通告した。この工場で二十歳ぐらいになる女たちを徴用する、直ちに工場中を見て回れ、女たちも協力しろ!” (済州道での慰安婦狩り”一部).

 わいせつで排他的な表現までそのまま使ったのだ。

 ところで朝鮮人らを徴用したことに関する公式記事や関係文書は敗戦直後内務次官の通告により全国道・富・県知事の緊急命令書が各警察署場らに発送されて完全廃棄処分された。

 しかしこの本の記録による城山浦ボタン工場で15〜16人を強制徴発した記録らでも..........


(左から4列目)

 ....信憑性に対する疑問をより一層投げかける。

 城山里の住民丁玉丹氏(85)は「そうしたことはない。250人余家しかならない村で15人も徴用されたなら、どんなにか大きな事件なのに... 当時そんなことはなかった」と言い切った。

 郷土史学者金鳳玉氏は「日本人たちの残酷性と没良心的な一面をそのまま表わしたものだ。とても恥ずかしくて口にすることもできない話をそのまま書いたことで、本という名前をつけることもできない。83年原本が出てきた時、数年の間追跡した結果、事実無根の部分もあった。むしろ彼らの邪悪な面を表わした道徳性が欠如した本で、軽薄な商業主義な面が追加されたものだと見なせる」と憤慨した。 (許栄善記者)

※だいたいこんな感じの記事です。


コメント一覧

hangul 2007/07/31 00:56

第2段落と第3段落の前半は記事の下の部分が切れているので判読できません。

最終段落について郷土史学者のコメントをすべて示すとこうです。

「日本人たちの残酷性や没良心的な一面をそのまま現したものだ。とても恥ずかしくて口にすることもできない言葉をそのまま書いたという意味で(この吉田の本に:hangul注)本という名前を付けることもできない。83年の原本が出た時、何年か追跡した結果、事実無根の部分も(!:hangul注)あった。むしろ、彼らのあくどい面を現した道徳性が欠如した本として、薄っぺらい記述がある面も加味して見る」と憤慨した。

この郷土史家氏は捏造についてではなく、日本人たちの犯した行為のあくどさに「憤慨」していると読み取れます。
さしあたってこんなところでしょうか。


hangul 2007/07/31 01:07

分かりにくかったかもしれないので補足を。


・「事実無根の部分もあった」→「事実でないと発見した」(秦氏)。

この論法、もううんざり…


・こりゃ歴史学者失格でしょう

akira 2007/07/31 08:59

しかし、「事実無根の部分もあった」→「事実でないと発見した」はひどいですね。

Stiffmuscle 2007/07/31 09:04

やっぱり捏造やトンデモ解釈があったんですね。

もう陰謀論者じゃないですか、吉田清治さんひとりを社会的に葬り去っただけでなく、嘘の歴史を作り上げ、多くの日本人を騙し、慰安婦たちの苦しみを増やした。

2,3段落も、わざと切り取ったんじゃないか?と邪推さえしたくなります。

hokke-ookami 2007/08/01 07:58

「事実無根の“部分”もあった」というのが郷土史家の意見ならば、吉田証言には出版時の編集が入っているという吉見教授らの指摘と同じで、妥当ですね。

そもそも吉田証言は従軍慰安婦問題と全く別個に出版された個人的な戦記であり、出版社から内容に編集を加えるよう意見があったと本人が証言しており、「軽薄な商売的な面が追加されたものと見る」といった部分も当を得ていると思います。

http://space.geocities.jp/japanwarres/center/library/uesugi01.htm


日本歴史学で主流の見方と同じような韓国郷土史家の意見に対し、翻訳時に秦教授の考えと合うようにずらしていった感じですね。

Stiffmuscle 2007/08/02 15:10

しかし、肝心な部分を捏造して、自論を補強するのは、秦先生の常套手段です。ほんとに悪質。

Stiffmuscle 2007/08/02 15:15

hangulさんが具体的に問題点を指摘してくださったので、この新聞記事に関する秦捏造の本質がよく見えてきました。金学順さんが名乗り出られた1991年以前の記事であることに留意する必要もあると思います。

Stiffmuscle 2007/08/02 15:32

西岡ネタの改竄ですかw しかも、真相を載せたのがアヒルさんってのも素敵w


Stiffmuscle 2007/08/03 21:14

秦氏が後に吉田氏に電話で確認したところ、慰安婦の強制連行は

「済州島ではなく、全羅南道でのできごとだった。」

と吉田氏は話したそうですが、この真偽は秦氏に直接訊かない限りわかりません。どちらにしても、それについて秦氏は調査をしていないわけで、どのみち、都合のよいところ取りを重ねただけの結果になりますので、最近では、この話自体を秦氏が持ち出していないようです。

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2


yamaki622 2007/08/02 17:39

「秦郁彦の研究により吉田証言は虚偽と証明された」というのが”通説”になってますから、Stiffmuscleさんに問題提起していただいてなければ、まったく気づかないところでした。

それから、hokke-ookamiさんやStiffmuscleさんも言及なさっている件で、私もこの問題に詳しくない方のために書いておきたいのですが、吉見義明教授は「吉田さんのこの回想は証言としては使えない」としながらも「真偽は不明」としています。秦氏のように虚偽だとは言っていません。詳しくは

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/ianfu-yoshida.htm

をご覧ください。


hangul 2007/08/02 18:02

Stiffmuscleさん
>金学順さんが名乗り出られた1991年以前の記事であることに留意する必要もあると思>います

この指摘は重要だと思います。名乗り出ることの勇気をふまえて、この記事は解釈されるべきでしょう。

否定派がよく言うように、85歳の女性の証言だけでなくその背景を押さえることが大切だと思います。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html

のサイトに、「現地調査を行った秦郁彦日大教授は、許栄善女史から、

「何が目的でこんな作り話を書くのでしょうか」

と聞かれ、答えに窮したという」とあったのですが、これが本当だとしたらもう訳が分からなくなってきます。

何重の嘘を重ねているのでしょうか、秦先生は?

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2

秦郁彦のいい加減な検証では吉田証言を否定する根拠にはならない。
韓国語も知らないで無謀にも現地調査に行った秦は、通訳にだまされたのかもしれない。

2007/5/22(火) 午後 11:39 [ furuhausu66 ]


秦郁彦氏の「済州島調査」には非情に大きな疑義を抱かざるを得ません。


・『済州島新聞』記事にたいする秦氏の翻訳の決定的な間違い。

・新聞記事は金学順さんが韓国人元慰安婦として初めて勇気ある名乗りをされた以前のものであること。

などを見出しており、なお研究中です。

2007/8/4(土) 午後 11:37 [ Stiffmuscle ]


秦郁彦氏の「済州島調査」は、極めて粗雑なものです。韓国語を解さない資質上の問題、慰安婦が白眼視された社会状況無視、さらに、先に結論ありきの論理構成など学術的な調査とは程遠いものです。

その後の彼の、特定の保守系紙と結びついたデマゴーグ的立場は偶然ではないでしょう。吉田証言は、貴重な内部告発として再評価に値すると思います。

2007/8/6(月) 午後 9:07
http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/18007158.html

▲△▽▼

秦郁彦氏を語るスレ


(秦郁彦 基本情報1

秦郁彦が前からひどい文献引用をしているのは知っていたが、どうやら

===(文献捏造>までしていたらしい====

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070817/p1

ここでは、秦郁彦が慰安婦は志願だったと主張した根拠となる文献を、その保存もと
ワシントンのNARA(米国国立公文書館:National Archives and Records Administration)にメールで問い合わせたら、「そんな文書はない」、という返事かきたそうだ。

これだけだと、些細な文献名の間違いとか想像するが、何せ秦郁彦にはこうした前科がいっぱいあるそうだ。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper44.htm

こりゃあ、秦郁彦ももはや、学者の看板を下ろして、ただの宣伝屋と呼ぶべきだな。


(秦郁彦 基本情報2
NARAからのメールは私が保管しています。
秦先生か、「史実を世界に発信する会」が、公開してくだされば問題はないのです。
さらに公開されたタイトルや内容については、NARAにフィードバックします。

"Composite Report on Three Korean Civilians, List No. 78, dated 28 March 1945,
“Special Question on Koreans"は強制連行を否定する根拠のひとつとして提示されており、
NARAから”We were unable to locate the report among the records in our custody.”
なんて言われて何らかのリアクションを起こさなければ、『慰安婦と戦場の性』の学術書としての信頼度はほぼなくなります。また、強制連行を否定すること自体も困難になります。
「例の文書出せよ!」って言われたら反論できませんから。

誰かを嘘つきと一方的に疑うまえに、議論に参加するものすべてが、この文書の公開を求めるべきだと考えます。サヨク・ウヨクの問題ではありません。


(秦郁彦 基本情報5

ひどいね秦の書かれよう。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper44.htm

ここまで具体的に批判されて反論をしていないということは認めたということだろうな。
しかも書かれたのは8年前。

秦はよほど研究者として程度が低いか
あるいは誰かのために事実をねじ曲げてるか、どっちかじゃないのか
と思ってしまうな。


(秦郁彦 基本情報6
667 :Stiffmuscle:2007/08/24(金) 01:37:57 ID:xvkBLfWa0

わたしも専門家ではありませんが、米国立公文書館は一素人の外国人からのメールに真摯に対応してくれました。同じような対応を秦先生や加瀬さんに求めているわけです。
この件に関しては、まだ、秦先生や加瀬さんを批判する段階にはありません。


>我々のような匿名世界の人間が研究者を振り回すのはどうかと思うが、どうだろう?
素人に振り回される研究者ってのもの変な存在ですけどね。
秦先生に学者としての実績がありプライドがあるのは当たり前なので、そこらへんは勘案しているつもりです。

それから、この文書確認は、基本的には、吉見先生や林先生が直接関わるレベルの問題ではないと思います。専門家のアドバイスを受けながらNGOレベルで対応できる範疇でしょうね。


>専門家と相談した結果を、ココや「はてな」で発表してくれたら有難い

そうですね。専門家やNPOともコンタクトを取り始めていますので、時間はかかるかもしれませんが、それなりの結果が発表できるように努力したいと思います。

9 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/11/04 13:50:52  ID:iK/V6be00(13)
(前スレ 注目発言1
>720
>「間違いが多い」云々は、どの学者だって論敵からは言われてる

バカを言っちゃいけない、秦郁彦のしていることは「間違い」ではない!

林博史の書いていることを読めば、それは「意図的な歪曲」である事はすぐわかる

そして間違いなら、指摘されれば筆者は修正するだろう、秦郁彦はしてない

これを知れば秦郁彦のしていることは「もはや学者とは言えない」という表現が判ってくる
つまり彼は学者で、事実はこうだ!と書く振りをしながら、政治的主張をしているにすぎない

===>だから歴史学者は誰も相手をしなくなったわけだ
    未だに、学者扱いするのは2chのバカだけ

10 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/11/04 13:52:26  ID:iK/V6be00

(前スレ 注目発言

742 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/02(日) 14:39:52 ID:NJllLgkS0
>732
>秦郁彦ももはや、学者の看板を下ろして、ただの宣伝屋と呼ぶべきだな。

どうやら秦郁彦が嘘つきなのは、確かなようだね。
この話には続きがあり、史実を世界に発信する会に電話したら、なんと茂木弘道がでてきて、結局その文献はなかった、という話だよ。
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070831

いやあ、面白いねえ。

秦郁彦が、証拠を捏造したのは、きまりのようだな。


11名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/11/04 13:53:34  ID:iK/
(前スレ 注目発言
>735
>秦がつぶれない、って言うことは批判自体がたいしたことない

つぶれる?ってどういう事かよくわからないが、秦がまだ雑誌などに書ける理由は下記だろう

1秦郁彦は文献捏造や、恣意的引用による、文脈捏造では、まるまる嘘をつかず、ミスのように見えるよう少しずつやっている。だから批判する側もバカバカしくてなかなかやらない

2秦郁彦は著書では、実は大したことは書いていない。「そうみえる」「こういう例もある」程度あり、におわす程度だ。しかし2chなどネット上の無知な、バカは、もろ「こういった」と感じて、引用し書き散らす。秦郁彦は狡猾だ

3 2chのバカには意外かも知れないが秦郁彦は正面から吉見義明の本を、批判したことはない。
 かれの慰安婦での主張は結局、「強制連行の証拠はない」以上のものではない だから吉見の側でもまともに取り上げにくい

2chのバカにも分かり易く書くのは難しいなあ

13 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/11/04 14:00:52  ID:iK/V6be00(13)

(秦郁彦 基本情報8
学術研究書としては研究者が叙述した資料集、回顧録、口述歴史等の資料を性別、民族別に分類し、歴史教育、歴史認識、基本的人権、帝国主義などいった幅広い観点から分析、考察を行った研究成果がある。主な作品を以下にあげる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A7%A6%E9...#.E3.80.8C.E6.89.B9.E5.88.A4.E3.80.8D.E3.81.AE.E8.A8.98.E8.BF.B0.E3.81.AB.E3.81.A4.E3.81.84.E3.81.A6

1倉橋正直、従軍慰安婦問題の歴史的研究
2川田文子、戦争と性
3吉見義明、従軍慰安婦
4吉見義明・林博史、共同研究・日本軍慰安婦
5ジョージ・ヒックス、性の奴隷従軍慰安婦
6金冨子・梁澄子他、もっと知りたい「慰安婦」問題
7鈴木裕子、「慰安婦」問題と戦後責任
8荒井信一、西野瑠美子・前田朗、従軍慰安婦と歴史認識
9鈴木裕子、戦争責任とジェンダー
10前田朗、戦争犯罪と人権
11日本戦争責任センター編、シンポジウム ナショナリズムと「慰安婦」問題
12蘇智良、慰安婦研究
13蘇智良・栄維木・陳麗菲編、滔天罪藝二戦時期的日軍”慰安婦”制度
14VAWW-NETジャパン他、「慰安婦」戦時性暴力の実態1−朝鮮・台湾・日本編
15VAWW-NETジャパン他、「慰安婦」戦時性暴力の実態2−中国・東南アジア・太平洋編
16尹明淑、日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦

以上の学術研究書の共通点として、・・・・
ケケケ、15冊も本をあげても取り上げて貰えない秦郁彦、哀れ


ウィキペデアにも書いてある
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%A6%E9%83%81%E5%BD%A6...

従軍慰安婦に関する秦の説はその他の研究者からほとんど参照されておらず、内容が参考にすべきものと評価されているとは言い難い。(例えば朱徳蘭はその台湾の慰安婦に関する研究書「台湾総督府と慰安婦」(明石書店 2005)で 、今までの研究結果として多くの研究書を列記しているが秦の本はない。また吉見義明は「日本軍性奴隷(「従軍慰安婦」)制度研究の現段階」(戦争責任研究 (38) 2002年冬季)で12年間の研究を振り返っているが秦への言及はない)
更に、方法論的な疑義を示す論者が存在する。

・・・・要は秦郁彦の「慰安婦と戦場の性」は、世間では馬鹿が読んでいるが、研究者にはまったく相手にされていないという事らしい


14 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/11/04 14:03:59  ID:iK/V6be00(13)
(前スレ 注目発言

917 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 01:38:01 ID:BnrQBANV0
嘘つきの秦も、集団自決では大風呂敷は、広げられなかったようだね、せいぜい情けがどうのと言い訳する程度。

秦郁彦はもちろん、沖縄戦の専門家ではない、もし教科書審議会がもう一度開かれても呼ばれる可能性はまずない、。従って、秦がどんな嘘をつこうと、教科書には関係ない
http://desktop2ch.tv/history2/1194023393/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html

[近代史3] 従軍慰安婦は売春婦として認可されない 13才、14才から働き始めているので売春婦では有り得ない

従軍慰安婦は売春婦として認可されない 13才、14才から働き始めているので売春婦では有り得ない


従軍慰安婦は 13才、14才から慰安所で働き始めている。
18才以下の売春婦は法的に認可されていないから、例え本人や親が承諾していたとしても悪質な法律違反になる。
従って、従軍慰安婦は売春婦ではあり得ない。


いいかげん慰安婦募集の新聞広告を持ち出すことはやめるべき - 法華狼の日記

実際には、日本の歴史学者も以前から従軍慰安婦問題の重要な資料としてあつかっている。韓国政府固有の問題であるかのような主張は、勉強不足と告白しているようなもの。

そして問題は、事実上の拘束であった「前借」だけではない。

両方の広告によく目をこらしてほしい。一方は17歳以上から23歳まで、もう一方は18歳以上から30歳までの年齢を募集している。そう、売春が合法であった当時でも、未成年であれば違法だった。

どうして年齢についての記述を無視できる人がこれほどいるのか、私には理解できない。たとえ当時に未成年売春が合法であったとしても、対外的に誇らしげに見せられる内容でないことは、歴史にくわしくなくても明らかだろう。
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20120823/1345735929


▲△▽▼


従軍慰安婦は売春婦か?


日本の戦争責任資料センターの声明では

「未成年の少女の場合、慰安所での使役は強制でなく本人の自由意志による、と主張することは、当時日本が加盟していた婦人・児童の売買禁止に関する国際諸条約に照らしても、困難である」

となっています。 又日本国内から慰安婦を徴募する場合は21歳以上の経験者にかぎるという法律があったと思います。

未成年を慰安婦として渡航されたことが確認できる公文書は、米三機密第353号「支那渡航婦女の取扱に関する件」と「渡支事由証明書等の取寄不能と認められるる対岸地域への渡航者の取扱に関する件」などでした。年齢がそれぞれに「15・16・17歳」と「14・15・16・18歳」になっています。

研究書に収録された元慰安婦の証言データ(1)朝鮮人慰安婦


出典:「日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦」表2−1,4−16,4−19,4−30より全42人43件(文玉珠は2回慰安婦になっている)

注:徴集年は19XX年、徴集形態は尹明淑の記述による(拉致:暴力による連行、就業詐欺:いい仕事があると騙して連れ去るもの、強制は命令された・逆らえなかったなど、徴集地で特記なきはすべて朝鮮。

名前 年齢 年 徴集形態 徴集人 徴集地 慰安所の場所

崔イルレ 15 1931 拉致 軍人 霊岩 満州

陳キョンベン 16 1939 拉致 軍人 狭川 基降(台湾)

鄭学珠 14  1938 拉致 軍人 釜山 ハルピン

文玉珠1 16 1940 拉致 軍人 大邸 東安省(中国)

姜ムジャ 13 1941 拉致 軍人 新馬山 パラオ諸島コロール

林グマ 16 1939 就業詐欺 民間業者 漢口(中国) 漢口(中国)

李相玉 14 1936 就業詐欺 民間業者 京城 パラオ

金春子 16 1939 就業詐欺 民間業者 清津 東安省(中国)

洪愛珍 14 1942 就業詐欺 民間業者 統営 上海

李玉粉 11 1937 誘拐・詐欺 民間業者 蘆山 台湾

金ブンソン 15 1937 就業詐欺 民間業者 漆谷 台湾

金ボットン 15 1941 詐欺・強制 民間業者 梁山 広東


*1朱徳蘭はこういう項目では分類していないが本文中で、日本人警察官により雑益に強制的に徴集された後、毎日性の相手を無理させられる様になったことが記述されている。
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/15?from=1

▲△▽▼

朝鮮での慰安婦徴集の違法性で議論の余地がないのは、未成年者を徴集したことです。

現在日本で裁判をおこしている9名の元慰安婦達は全員が21歳未満であり、この場合、国際条約によれば、本人が了承したとしても慰安婦とする事は処罰の対象としなければならないはずです。

もちろん、この人達は強制をうけて慰安婦になったと詳細な証言をしています。


慰安婦の徴集のやり方について、間に朝鮮人が介在したことが多かったので、そのような場合は、軍の責任ではないとする意見もありますが、それなら慰安所に到着した時点で娼妓取締規則にあるように本人の自由意志であることを確認し、強制されたり騙されて来た者は、家に帰すべきです。

しかし、そのような事を行った形跡はありません。直接命じてやらせたにしろ、黙認したにしろ、軍の責任で行われたことに違いはありません。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/nez/ian/


▲△▽▼


『慰安婦』にされた年齢


尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店、2003年)の表(232、233ページ)から計算した、韓国人元「慰安婦」(43名)の徴集時の年齢は以下のようになります。


11歳  1名
12歳  1名
13歳  1名
14歳  3名
15歳  5名
16歳 16名  ←台湾での公娼の下限年齢*3
17歳  7名  ←朝鮮、満州での公娼下限年齢
18歳  3名  ←日本(内地)での公娼下限年齢
19歳  3名
20歳  -
21歳  1名  ←国際条約*4における成人女性の年齢
22歳  -
23歳  1名
29歳  1名


*「募集年−生誕年」で単純計算しただけなので、実際はこの結果より年齢が1歳下である場合も多いと思われる。

*3:1930年の外務省調査によると、アジアで公娼制度があったのは、日本およびその植民地・統治領、仏領インドシナ、中国(ただし上海など大都市では公娼制度を廃止していく)

*4:『婦人及児童の売買禁止に関する国際条約』


コメント一覧


貧寒 2008/09/27 11:07

韓国での調査なので、年齢が満年齢ではなく数え年齢の可能性があり、さらに気持ちが重くなりました。

2〜30年前には朝鮮の女はパイパン(無毛症)が多いと言うことがまことしやかに語られることが有りました。

おそらく戦時中に朝鮮ピーと遊んだ人達が広めたのだと思います。何のことはない相手が年端もいかない少女達だったとは。


Stiffmuscle 2008/09/27 21:47

子供〜青年前期に強姦の被害者になると、その後の人生に多大で深刻な影響を及ぼします。ましてや元「慰安婦」の方々は監禁されて連続強姦され、身体的にもボロボロにされました。

なぜ、日本軍の兵士はそのことに気がつかなかったのか?

相手を同じ人間として見ていたら、その子たちの将来や親のことを考え付いていたら、決してこんな惨いことは出来なかったと思います。戦争だったというのは何の免罪符にもならない。

Allen 2008/09/28 16:21

ここ数年、世界中で第二次世界大戦を振り返る事態が多くなりました。 何となく日本の小泉政権発足以降とほぼ重なるような気がするのですが、やはり日本の一部の政治家や御用学者による一連の「戦争肯定」行為が影響しているんでしょうか・・・

東中野教授は裁判で事実上「学者失格」と言われ、藤岡教授や八木教授などが在籍する『作る会』は事実上内ゲバで分裂、安倍元首相は1年で政権放棄・・・

日本の自称『保守』も崩壊寸前ですね。まあ自業自得な印象しかありませんが・・・。

Stiffmuscle 2008/09/29 00:59

「慰安婦」の記述が中学校の教科書の全てに載ってからの右派論壇、つくる会、皇国マンセー議員の妄言が跋扈跳梁した1996年以降の基調だと思います。

当初の攻撃テーマが「慰安婦」と「南京大虐殺」だったわけです。

その後、最近になって沖縄の集団自決の件が出てきますが、正直、あいつらの3連敗です。完膚なきまでに叩き潰されないと「おれたちのが勝ってる!」って醜態をさらし続けるのかも。

まぁ、新人の凄腕論客がいないので、先細りするだけでしょうが(爆)
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080923/p1

▲△▽▼

ネットウヨの従軍慰安婦問題に関する知識はこんなものです(笑) - 解決不能


598 名前:名無しさん[] 投稿日:2007/11/10(土) 10:53:51 ID:i/n9clPt

あったあった。

娼妓取締規則(明治三十三年十月内務省令四十四号)


娼妓になるためには、自ら警察に出頭して娼妓名簿への登録を申請することが必要でした(第二条三条)。

また、もしも本人の意に反して、強いて娼妓名簿の登録申請をさせた者は、拘留または科料に処されたのです(第十三条六項)。

その上、娼妓をやめたいと本人が思うときは、口頭または書面で申し出れば、何人といえども妨害できませんでした(第五条六条)。

以上のことから、当時の公娼制度では「年齢制限」「拒否の自由」「廃業の自由」が認められていたことがわかります。

それに対して軍慰安所では、慰安婦が自由意思かどうかの確認などをした形跡はありません。

強制ではなくて自由意志だというのであれば就業の登録などの史料が残っているはずだよな?


慰安婦は借金を返済するまで身柄を束縛されていました。

それはネトウヨが大好きな「日本人捕虜尋問報告書 第49号」(北ビルマのミッチナ慰安所)からも裏付けられます。


「1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める
旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。」
(吉見資料集p445)


つまり、廃業の自由などはなく借金を返済するまで拘束されていたのですから、明確な娼妓取締規則違反です。

すなわち、違法な売春行為をさせていた事になります。


624 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 10:56:56 ID:pz4FUxKC
>>598

軍の直接経営じゃないから、軍に資料が残らないだろうに。何を勘違いしているのかね。


____


先ほども指摘しましたが、誰も軍と限定していません。

具体的に指摘してやらないと、理解できないようです。

634 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 10:58:37 ID:+DaT2cut
>>598

従軍慰安婦って、一般の娼妓と同じ扱いだったんですか?

戦地まで行くというのに。

660 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 11:01:06 ID:pz4FUxKC

売春業者が集めて戦地の近くで営業していたから、基本的に民間の業務だったのさ。


________

こういう事例はご存知ないようで。


日本軍は、民間業者を使わずに、直接慰安所を経営したこともあった。

「昭和十三年七月五日附在上海総領事発信在南京総領事宛通報要旨」
「陸海軍ニ専属スル酒保及慰安所ハ陸海軍ノ直接経営監督取締ニ属スベキ」
(吉見資料集p181−182)

 独立攻城重砲兵第二大隊長「状況報告」(昭和13年1月20日)
「慰安設備ハ兵站ノ経営スルモノ及軍直部隊ノ経営スルモノ二ケ所アリテ」
(吉見資料集p195−196)

 セレベス民政部第二復員班長(海軍司政官)
「セレベス民政部第二復員班員復員ニ関スル件報告」(昭和21年6月20日)
「南部セレベス売淫施設(慰安所)調書」
「婦女ノ募集並ニ雇傭契約ハ主トシテ民政部嘱託(帰還)及実業団員(帰還)之ヲ行ヒ」
「売淫施設ニ関スル調査報告」(第二軍司令部)
「部隊ニ於テ経営ス」「『ケンダリー』ハ海軍少尉、『アモイト』ハ海軍少尉、
『バウバウ』ハ派遣隊長(官氏名不詳)希望者ヲ募集シ経営セリ」
(吉見資料集p365−375)


彼らが全く資料に目を通していない実態が明らかになりました(笑)

こんな有様で捏造だ情報戦だなどといっているのですから、実に御目出度い(笑)


661 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 11:01:11 ID:bOrvmf2S
>>598

借金で縛られるのなんて現代でも同じじゃねーかw

ましてや軍が直接雇用してねーのに軍に資料が残るかよw

____

廃業の自由を認めなかった時点で違法なのです。

現代でも廃業の自由が認められていないとしたら、それも違法です。

違法行為は現代であろうと過去であろうと非難されるべき行為なのですが、

どうも彼らには法律を守ろう、守らせようとする意思が欠けているように見受けられます。このような国士様に日本の未来を任せるのは甚だ不安ですね…。


742 名前:名無しさん[] 投稿日:2007/11/10(土) 11:09:57 ID:i/n9clPt

史料が全部燃えた、処分された
燃やす必要が無い史料をわざわざ燃やしたり処分する必要は無いよな?


768 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 11:12:43 ID:eGYWhDvF
>>742
燃やされたという証拠をどうぞ。

てか、処分しようと思ってもこの手の書類って、どこかしかにバックアップが有る筈なんだけど。


786 名前:名無しさん[] 投稿日:2007/11/10(土) 11:14:37 ID:i/n9clPt
>>768
逆だ逆!
騙したり、強制連行(軍人関与)して慰安婦としたのでは無かったとして就業契約などの史料が証拠になるわけでしょ

それならわざわざ焼却したり燃やしたりする必要が無い。


812 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 11:18:40 ID:/39C7lF8
>>786
女衒と就業者が交わした証文とか多数のこってるよ。

当時は事前に借金させてその証文と抱き合わせが通例だから・・・

っで、上のほうで自由意志で警察にうんぬん・・・ってあるけど、自由意志じゃなくて積極的就職活動だから・・・

_____


自由意志でつれてこられたのではない方もいらっしゃいますし、ウソの条件で騙されてつれてこられた方もいます。何より、強制的に借金を負わせて廃業の自由を与えていないとしたら娼妓取締規則違反なのですが、どうやら理解出来ていないようです。


808 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 11:17:39 ID:p/fKhQb1
>>786
売春婦の許可のような如何でもいい資料が有ったとしても
法廷保存期間が過ぎれば焼却されるだろ、倉庫スペースの無駄だし

_____

では何故「支那渡航婦女の取扱に関する件」などの資料は残っているのでしょうか?それこそ焼却されたというソースをどうぞ(笑)

こういう史料は有った方が否定派に有利になるのですが、探さなくてよろしいので?(笑)

828 名前:名無しさん[] 投稿日:2007/11/10(土) 11:21:02 ID:i/n9clPt
>>808
実際、1937年後半以降、日本・朝鮮・台湾から中国に渡航する時は、警察(または軍)の許可が必要でした。

次の資料からもわかります。慰安所の設置が急増するのは1938年に入ってからですから、業者が勝手に慰安婦を連れて行くことなどできないはずです。

慰安婦とされた女性も、一人ひとりこのような調査をうけた。そのときに、彼女たちがどのようにして集められたか、本気で調査すれば警察がつかめなかったはずがない。違法行為を承知で渡航のための身分証明書が発給されたことになる。


884 名前:名無しさん[] 投稿日:2007/11/10(土) 11:28:54 ID:i/n9clPt

朝鮮半島における慰安婦募集の広告

http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/29/

(右)1944年10月27日字 「毎日新報」慰安婦募集広告 
(左)1944年7月26日字 「京城日報」慰安婦募集広告


■デマ広告という批判に何の反論もできない「THE FACTS」のメンバーたち

意見広告「THE FACTS」では、日本は国際法を遵守し「21歳以上」の女性だけを慰安婦として募集したと主張しています。

ところが共通するメンバーが執筆した『情報戦「慰安婦・南京」の真実』の表紙には、1944年の新聞に載せられた「慰安婦募集広告」が掲載されているのですが、「THE FACTS」の主張に反し、

募集年齢がそれぞれ「17歳以上」「18歳以上」となってるいるのです。

これに対するレスは皆さんの予測どおり、「強制連行の証拠じゃない!」「強制連行は無かった!」で埋め尽くされているのですが、ここで取り上げられているのは国際法違反かどうかなのですけどね…。

話を逸らそうとしてるのか、ネトウヨの貧弱な頭脳ではオーバーフローしてしまうのか、何が問題にされているのか全く分からないご様子。教えて上げましょう。

『婦女および児童の売買禁止に関する国際条約(1921年 』)では、未成年の場合は本人の承諾があろうとも売春目的での人身売買は禁止されています。

つまり、ネトウヨはこれが国際法違反であった事に全く反論できていないのです。

http://d.hatena.ne.jp/hagakurekakugo/20071111/p1


従軍慰安婦の給料は高給だったのか ?


lunakkoさん

私の主張は、「慰安婦が高給取りであった」の一点です。 そして、ni0615さんが自分の説を補強?、私の説を否定するために軍票の話を持ち出してきただけです。

zames_makiさん

ですが、それはありえません。結論として0円でしょう、
理由は慰安所経営者が騙し取っていたからです。

現在の元慰安婦の証言でお金を貰ったとしている人はほぼ0です。

文玉珠の26145円は給料ではなく、チップです。

給料は貰っていたか否か?については、証言の中で明確に述べていませんが、朝鮮人慰安婦43人の証言を統一的に調べた研究者、尹明淑はもらっていないと判断しています。従って今ある資料から言える文玉珠の「給料」は不明です。

lunakkoさん

そうですね。文玉珠さんの場合はチップです。私も文玉珠さんがそう証言している。と書いてから気付きましたが、そこを指摘するあなたに感謝します。


>現在の元慰安婦の証言でお金を貰ったとしている人はほぼ0です。

証言は証拠にならないのはよくご存知のはずです。証拠がない限り、給料がいくらだったかはわからないのではないですか?では、

http://ameblo.jp/scopedog/entry-10030549652.html

「多くの楼主は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしたため、彼女たちは生活困難に陥っていた」(日本人捕虜尋問報告)

と書かれている資料について、説明していただけますか?

多額の請求とは、どれくらいでしょうか?

給料が0円ならば、多額の請求をされても払えないと思うのですが。

また、多額と書いてあるし、「食料、その他の物品の代金として」と書かれていますので、絶対に払われているはずです。たとえ、それが「付け」であってもです。
また、文玉珠さんは、二回慰安婦をされたといっておられますが、何故ですか?二回強制連行されたのですか?

最後に、あなたは、文玉珠さんは その「労働」でなんらかのお金を得ていたことは確かでしょうね。と書いておられるのに、その証拠が「実力者に気に入られるようにした」と書いてあります。

その場合、もらえるのは「チップ」ですよね?「労働」はどういう意味ですか?


noharaさん

>>>証言は証拠にならないのはよくご存知のはずです。

何故でしょうか?

lunakkoさん

証言は証拠になるのですか?

もしそうであるのならば、「私があなたに貸した1億円を返してください。」
私が証言しているのです。これが証拠です。


crescent2007さん

>>私が証言しているのです。これが証拠です。

当たり前です。証拠になります。あなたの証言も証拠になりますよ。しかし、補強証拠がないので誰も信用してくれないでしょう。信用するかしないか、の問題です。

「元慰安婦の証言は証拠にならない」という主張は、「元慰安婦の証言は信用できない」と言ってるのと同じだということをまず理解してください。


しかしこの三段論法には唖然としますが、このコミュニティでさえこのレベルでこうやって切り込まれてくるのですから、逆に言えば、その論法がそれだけ蔓延していることの証左ともいえるのでしょう。

議論の前提になる知識すら欠如している、と突き放してはいけないのでしょうが、次から次へと同じ論者がどうせ現れるのは確実です。そのレベルでの議論は軽くいなしつつ、このコミュニティはその存在意義を果たしていただければと思います。僭越ながら。


115: zames_maki

ステップ2:慰安婦は給料をもらったのか?

私が掲げた検討ステップは以下です


@考える上で資料は何か?(慰安婦の受領書はあるのか?証言は信用できるのか?)

A慰安婦には毎月、性交の代価として金が渡されたのか?

B慰安婦は、いつまで働き、慰安所を離れる時、金は渡されたのか?

C慰安婦に渡された金の種類は何か?(軍票?日本円?現地通貨?)

D渡された金は幾らなのか?

Eその金の実質的な価値はどの程度なのか?

F朝鮮人慰安婦は朝鮮に帰国したが、渡されたその金は使えたのか?

ステップ@考える上で資料は何か?

(慰安婦の受領書はあるのか?証言は信用できるのか?)


結論:慰安婦の受領印のある受取証は存在せず、慰安婦の証言が参考になる。少なくとも研究者の調査した慰安婦の証言は信用でき、重要な資料である。

ステップA慰安婦には毎月、性交の代償として金が渡されたのか?

これを示す書類資料は存在しない。従って研究者の調査した慰安婦の証言を参考とする。


尹明淑(日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦 明石書店 2003:一橋大学社会学博士論文を出版したもの)は十分な証言の得られた42人の証言を様々な項目について、横断的にまとめている。そこで、性交の代償に金を受け取ったとしているのは7人である。

『軍直営の軍隊慰安所にいた軍隊慰安婦(10人)の場合、料金の支払方法はさておいて一人も軍隊慰安所からの給料はなかったのである。

また軍専属および軍利用の軍隊慰安婦の場合、(略)29名(証言しなかった3名を除く)のうち約76%の22名が全く給料を支給されていない。しかも食事や衣類などを軍が支給していた軍直営を除き、軍専属や軍利用軍隊慰安婦の場合は、経営者が食事や衣類の他、化粧品や日常品を調達して与え、その代金は帳簿上の収入から差し引かれて軍隊慰安婦の借金になる仕組みになっていた。』


また朱徳蘭(台湾総督府と慰安婦 明石書店 2005:台湾中央研究院、九大文学博士)は同様に台湾人慰安婦約60人を調査し多くについては自分で直接面接している。慰安婦になった経緯や給料を調査している。

そこでは前借金を受け取ったものは数人いるが、性交の代償に金を受け取ったとしているのは少ない、報告書に具体的に面接内容が記載された18人中では体の代償に金を受け取ったのは3人である。


 更に現在名乗り出ている、中国人、インドネシア人、フィリピン人、オランダ人の元慰安婦で金を受け取ったとしているものは、ほぼいないと言って良い。

これらの事をあわせると、日本人以外の慰安婦については性交の代償に金を受け取ったものは全体の内のごく僅かであり、多くはまったく金は受け取っていないとまとめられよう。

これは、これら外国人慰安婦の多くが、徴募過程はともかく、慰安所では暴力的に無理に慰安婦をやらされており、日本軍兵士の相手をする代償に金を受け取るというような取引や契約といった関係ではなかった為であろう。簡単に言えば、一部を除けば、ほとんどはただ何もわからずただ毎日無理に性交を強いられていた、とまとめられるからである。
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/10

▲△▽▼


証拠を隠滅しておいて裏付けはないとは


当時の軍や政府が敗戦を目前にしてあらゆる機密事項を焼却したり廃棄したことは良く知られている。

政府・軍部が自ら証拠を隠滅しておいて「裏付けのある証言はない」とは!?


占領行政にかかわる資料は多くが敗戦時に廃棄されていますが、それでも研究者などの努力で軍や政府が「慰安婦」の連行や「慰安所」の設置に関与したことを示す文書がいくつも発見されています。

 「河野談話」が軍の関与を認めたのもそうした積み重ねの結果であり、安倍首相や「靖国派」が重箱の隅をつつくような議論で強制性を否定するのは、文字通り歴史の事実にそむくものです

日本軍「慰安婦」とされた女性たちの中には、相当高い比率で未成年の少女たちがいた。未成年の少女の場合、慰安所での使役は強制でなく本人の自由意志による、と主張することは、当時日本が加盟していた婦人・児童の売買禁止に関する国際諸条約に照らしても、困難である。

日本軍「慰安婦」制度は、居住の自由はもちろん、廃業の自由や外出の自由すら女性たちに認めておらず、慰安所での使役を拒否する自由をまったく認めていなかった。故郷から遠く離れた占領地に連れて行かれたケースでは、交通路はすべて軍が管理しており、逃亡することは不可能だった。公娼制度を事実上の性奴隷制度とすれば、日本軍「慰安婦」制度は、より徹底した、露骨な性奴隷制度であった。
http://ootsuru.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_ffb6.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/137.html

[リバイバル3] 「マイ電柱」は効果が有るのか? 中川隆
7. 中川隆[-13211] koaQ7Jey 2019年1月04日 09:49:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

自宅システム専用の電源ラインを作りたい - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2018年12月31日

オリンパスシステムは、分電盤から2系統の専用電源ラインを引いて作っている。コンセントはどちらも2口づつ。ここから大型電源トランス付きのタップ(自作品)に電源を供給している。その為、SN比の良い電源になっている。

これに対して自宅システムは、一般のコンセント方式で、冷蔵庫や電灯とも一緒になっている。これをオリンパス並みに「専用電源ライン化」したいと思っている。幸いな事に分電盤に1個ブレーカーを追加できる「空き」が有る。

2種電気工事士の免許を持っている息子がいるので工事を頼んでみました。費用は1万円ぐらいで出来ます。(オリンパス用の工事で旧知)

壁コンも色々試して「これだ!!」と云う壁コンを使っている。そろそろ在庫もなくなって来ているので自宅用に使いたいと思っている。具体的な工事の日程を詰めて行きたい。工事時間は1時間ぐらいだろう。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/62263ba80dc0d730bdf36b102b470dcf


自宅システム専用電源ライン 作業終了 - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年01月04日

昨年末に息子(電気工事士)にお願いしていた「自宅システムの電源ライン」の専用化工事が、午前9時から始めて10時には完了しました。

一般の家庭では2連のΦ1.6oの単線を使う所を、Φ2.6oの極太単線でしてもらいました。工事完了後、1時間程音楽をかけて聴いて見ましたが、「馴染み」が無い状態でもSN比が上がっているのが分かります。

全体の印象は、「抜けていた電気が集中して来た」感じです。冷蔵庫やクーラー、電灯等が繋がっていましたので、使わなくてもそちらに「圧力が抜けて」いた様に感じます。

音質的には、周波数特性的にも広くなり、エネルギー感も強くなり、解像度がアップして、ダイナミックレンジも大きくなっています。1時間聴いた処では「悪い」要素はほとんど皆無で、「良い」部分ばかり増えた様な感じです。もう少し馴染ませないと本領発揮はしないだろうと思いますが、工事費¥1万円の費用対効果は抜群です。

これでオリンパスシステムとSP-707Jシステムの2つのメインシステム共に「専用電源ライン化」が完了しました。もっと早くやっていれば良かったですね。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/6a1582490976d3b4a3ada1c835ad8d79


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/759.html#c7

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
143. 中川隆[-13210] koaQ7Jey 2019年1月04日 10:05:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

2019年01月04日
年明けに円高進行 再び1ドル100円を割るか


戦後一貫して円高が進んでいる

ドル円推移


画像引用:http://keisuke-fx.com/wp-content/uploads/2015/09/%E3%83%89%E3%83%AB%E5%86%86%E6%8E%A8%E7%A7%BB.jpg

再び円高の季節

2019年の1月3日に急速な円高が進み、一時1ドル104円台になりました。

きっかけになったのは米アップルの業績下降修正で、900億ドルから840億ドルに引き下げました。

円はユーロや英ポンド、人民元などに対しても円高になっており、ドル安ではなく円の全面高になっている。




これは10年前のリーマンショック時と同じ動きで、全世界の通貨で円だけが底なしに上昇し続けた。

1995年の円高では1ドル79円75銭、2011年の円高では75円78銭、1988年の円高では1ドル121.1円でした。

1988年円高は大したことが無いようにみえるが、1985年には1ドル260円だったので、実際には超円高でした。


円高と円高の間には1990年には1ドル150円、2000年代にも1ドル120円から140円台の円安期がありました。

2008年から現在までの間にも1ドル125.59円まで円安が進み、2019年年明けに急落しました。

なお1985年までのドル円は変動相場制ではなく固定相場制で、1ドル360円から260円まで段階的に円高になった。


ここまで70年を振り返って一定の法則性が見られるのは、誰でも気づいたと思います。

第一の法則は1ドル360円から一貫して円高に推移していて、円安に反転する兆候は見られません。

もっとさかのぼると1871年(明治4年)に円が制定されたときは1ドル1円で、1900年前後は1ドル約2円だった。

円高は必然

1941年には1ドル約4円に円は下落し、敗戦後の1945年には15円、1947年には1ドル50円になっていた。

円の価値は5年で10分の1以下に下落したわけで、経済崩壊が発生したのが分かる。

1949年には1ドル360円になったが、これは円安にして輸出を有利にして経済再生したいという日本側の要望だったとされている。


ターニングポイントになったのは1950年の朝鮮戦争で、日本は輸出で大儲けして貿易黒字、経常黒字になり以来60年以上円高が進行した。

貿易や投資などでの経常収支が黒字だと、赤字国から黒字国に膨大な通貨交換がされるので、黒字国の通貨は高くなります。

これが1950年からずっと円高になりつづけている理由で、日本の貿易黒字や経常黒字が原因でした。


1941年まで円安になり続けた理由はアメリカの輸出が日本より大きかったからで、単純に考えて日本の4倍も通貨が強かった。

1941年から1947年まで円が暴落したのは戦況が悪化し戦争に負けたからで、通貨はこのように正直です。

リーマンショック以来日本は円安誘導し経常黒字を増やし続けたので、円高になるのは自然なことです。


もしリーマンショックのように大規模な円高とすると、今度は1ドル50円台まで円高が進む可能性があります。

それほどではない小規模な円高だと、1ドル100円で踏みとどまる可能性もあります。

小規模な円高は数年おき、大規模な円高は12年おきくらいに発生しています。
http://www.thutmosev.com/archives/78642131.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c143

[昼休み53] 絶滅寸前の日本人と日本文化 中川隆
54. 中川隆[-13209] koaQ7Jey 2019年1月04日 16:45:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]
特別番組「なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか〜「脱中華」の日本思想史」
石平 倉山満【チャンネルくらら・1月19日配信】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=EtypyG0zIgg


2018/01/19 に公開


なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか 「脱中華」の日本思想史 (PHP新書)
石 平 : http://amzn.asia/8E4CSya

大和朝廷が儒教より仏教を重んじた理由とは?
江戸の儒学者や国学者が見つけたものは何か?
文明の独立自尊を守り抜いた、日本人の「知の営み」の凄さ!

なぜ日本は、中韓から超絶した素晴らしい国になったのか。その秘密は、中華文明と果敢に対峙しつづけた日本思想史にあった。

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/898.html#c54

[昼休み54] 中国企業が欧米や日本の最先端技術を手に入れる手口 中川隆
51. 中川隆[-13208] koaQ7Jey 2019年1月04日 21:57:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

中国、「厳重警戒」天気予報アプリ使って世界中の「個人情報収集」2019年01月04日

中国のファーウェイ(華為技術)が、「バックドア」によって個人情報を秘かに収拾しているとして問題になっている。今度は、天気予報アプリを使って、メールなどの個人情報秘かに収拾していると指摘されている。中国の底なしの「スパイ行為」にほとほと手を焼く事態だ。

『ウォール・ストリート・ジャーナル』(1月3日付)は、中国企業の天気予報アプリ 個人情報を世界で大量収集」と題する記事を掲載した。

(1)「中国企業が作成した人気の天気予報アプリが、スマートフォン経由で世界中の個人情報を大量に収集していることが、英セキュリティー会社の分析で分かった。利用者の許可なく、有料サービスへと移行させようとしていた疑惑も浮上している」

率直な感想を言えば、「また、中国か」というところだ。ここまでして違法行為を重ねる動機は、単なる金儲けか。あるいは、中国情報筋と打ち合わせ済みのことか。疑惑は深まるばかりだ。

(2)「問題となっているのは、深圳に拠点を置くTCL通信科技控股が作成した「Weather Forecast -- World Weather Accurate Radar(天気予報ー世界天候正確レーダー)」と呼ばれる無料アプリ。TCLは「アルカテル」や「ブラックベリー」ブランドのスマホを手掛ける。同アプリは、利用者の位置情報だけでなく、電子メールや15桁の国際移動体装置識別番号(IMEI)を中国のTCLのサーバーに収集していたとみられている。モバイル事業者向けに調査を実施していた英アップストリーム・システムズが問題を発見した」

電子メールや15桁の国際移動体装置識別番号(IMEI)を中国のTCLのサーバーに収集していたとみられている、という。

(3)「TCLはウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)から昨年11月に、アプリの活動について問い合わせを受けた後、グーグルのアプリストア「Google Play」経由で配布している同アプリを更新した。アップストリームによると、同アプリはユーザーを有料サービスに加入させる試みは止めたものの、情報の収集は継続していたとしている。モバイル向けアプリ分析会社アップ・アニーによると、TCLが2016年12月に配信を開始して以来、同アプリのダウンロード回数は1000万回を突破。天気予報アプリとしては約30カ国で上位5位に入っている。同アプリは2018年、英国とカナダで人気の天気予報アプリ第6位だったほか、2017年には米国でもトップ20に入っていた。とりわけブラジルやメキシコ、フィリピンなどで人気が高いという」

TCLが配布した天気アプリは、約30ヶ国で上位5位に入っているという。思わぬ所に落し穴があるので気をつけたいものだ。
http://hisayoshi-katsumata-worldview.com/archives/14763702.html


http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/283.html#c51

[お知らせ・管理20] これが阿修羅に巣食う電通工作員 中川隆
242. 中川隆[-13207] koaQ7Jey 2019年1月04日 21:58:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

中国、「厳重警戒」天気予報アプリ使って世界中の「個人情報収集」2019年01月04日

中国のファーウェイ(華為技術)が、「バックドア」によって個人情報を秘かに収拾しているとして問題になっている。今度は、天気予報アプリを使って、メールなどの個人情報秘かに収拾していると指摘されている。中国の底なしの「スパイ行為」にほとほと手を焼く事態だ。

『ウォール・ストリート・ジャーナル』(1月3日付)は、中国企業の天気予報アプリ 個人情報を世界で大量収集」と題する記事を掲載した。

(1)「中国企業が作成した人気の天気予報アプリが、スマートフォン経由で世界中の個人情報を大量に収集していることが、英セキュリティー会社の分析で分かった。利用者の許可なく、有料サービスへと移行させようとしていた疑惑も浮上している」

率直な感想を言えば、「また、中国か」というところだ。ここまでして違法行為を重ねる動機は、単なる金儲けか。あるいは、中国情報筋と打ち合わせ済みのことか。疑惑は深まるばかりだ。

(2)「問題となっているのは、深圳に拠点を置くTCL通信科技控股が作成した「Weather Forecast -- World Weather Accurate Radar(天気予報ー世界天候正確レーダー)」と呼ばれる無料アプリ。TCLは「アルカテル」や「ブラックベリー」ブランドのスマホを手掛ける。同アプリは、利用者の位置情報だけでなく、電子メールや15桁の国際移動体装置識別番号(IMEI)を中国のTCLのサーバーに収集していたとみられている。モバイル事業者向けに調査を実施していた英アップストリーム・システムズが問題を発見した」

電子メールや15桁の国際移動体装置識別番号(IMEI)を中国のTCLのサーバーに収集していたとみられている、という。

(3)「TCLはウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)から昨年11月に、アプリの活動について問い合わせを受けた後、グーグルのアプリストア「Google Play」経由で配布している同アプリを更新した。アップストリームによると、同アプリはユーザーを有料サービスに加入させる試みは止めたものの、情報の収集は継続していたとしている。モバイル向けアプリ分析会社アップ・アニーによると、TCLが2016年12月に配信を開始して以来、同アプリのダウンロード回数は1000万回を突破。天気予報アプリとしては約30カ国で上位5位に入っている。同アプリは2018年、英国とカナダで人気の天気予報アプリ第6位だったほか、2017年には米国でもトップ20に入っていた。とりわけブラジルやメキシコ、フィリピンなどで人気が高いという」

TCLが配布した天気アプリは、約30ヶ国で上位5位に入っているという。思わぬ所に落し穴があるので気をつけたいものだ。
http://hisayoshi-katsumata-worldview.com/archives/14763702.html


http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c242

[お知らせ・管理21] 2019年01月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
10. 中川隆[-13206] koaQ7Jey 2019年1月04日 22:38:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]
>>9
赤かぶ氏は中国の工作員だと判っているけど、それ以外の人についてはわからないよ

小沢一郎は中国の手先だから、小沢支持者は全員中国の工作員にカウントする

とかいう規則を考えないといけないね


反原発、護憲、反安倍は中国工作員が多いけど、何も知らないアホも含まれているから全員を中国工作員とはできないよね


http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/544.html#c10

[近代史3] 馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国 中川隆
2. 中川隆[-13205] koaQ7Jey 2019年1月04日 23:16:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219]

【伊藤貫】米中衝突は起こらない! アメリカが日本を守らない理由[桜H27/11/19]
https://www.youtube.com/watch?v=Kla8vz0fx-U


アメリカに在住し、アメリカのリアリズムに迫った視点から日米関係を分析している伊藤貫氏をお招きし、「航行の自由作戦」で盛り上がったアメリカ崇拝の虚しさを指摘していただくと共に、アメリカが中国と戦争出来ない理由を、政治資金の供給源や、第4・第5の戦場における均衡状態から解説していただきます。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/135.html#c2

[近代史3] 中国人に愛国心や公共心が完全にゼロな理由 _ 中国人は宗族から宗族の利益になる様な悪事をやる事を毎日強要されている

中国人に愛国心や公共心が完全にゼロな理由 _ 中国人は自分が属する宗族から宗族の利益になる様な悪事をやる事を毎日強要されている

特別番組「中国人の善と悪はなぜ逆さまか〜宗族と一族イズム」
石平 倉山満【チャンネルくらら・12月30日配信】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=OIKKE71Xp-s


▲△▽▼

宗族
古代中国での父系同族集団。

中国の殷から周の時代の社会の基本的な集団となった、父系(男系)の同族集団。本家と多くの分家(小家族)から成り、本家の家父長(族長)が統率し、祖先崇拝という信仰で結びついている。このような宗族の守るべき規範が宗法である。
実際には擬制的(みせかけ)であったらしいが、宗族の結びつきの原理は血縁関係であった。
このような氏族社会の上に周の封建制が形成される。そして、春秋から戦国にかけて、鉄製農具の普及などによって生産力が向上したことが、個々の小家族の自立を可能にし、宗族という氏族社会が解体し、地縁的な村落機構を通して統一国家が農民を支配する形態に移行していく。しかし、中国では現代に至るまで、一族意識は強固に残っている。
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-027_0.html


▲△▽▼

中国人の善と悪はなぜ逆さまか 宗族と一族イズム – 2018/12/5 石平 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/481911350X/ref

内容紹介

戦争も腐敗も善となる恐ろしい論理を明らかにする。中国史を支配する組織の正体。

戦争も腐敗も善となる
恐ろしい論理を明らかにする

石平氏渾身の書き下ろし。
これを知らずして中国人は理解できない!

やっと私も中国人が分かったと言える

中国史を支配する組織の正体

易姓革命も、対外拡張も、腐敗も
共産党政権の命運も!

■正義派知識人のA教授はなぜ、親族の腐敗を喜んだのか――まえがきに代えて
■第1章 一族のためであれば腐敗は善になる
■第2章 宗族という巨大組織の実態
■第3章 「械闘」に見る一族イズムの恐ろしい本性
■第4章 「共産党VS.宗族」の勝者
■第5章 中国史を動かす一族イズム

______

カスタマーレビュー


hij
「収賄汚職は人民にとっては罪悪であるが、家族にとっては美徳である」2018年12月11日

習近平の腐敗摘出によって共産党幹部の収賄の恐るべき実態が明らかになった。元
政治局常務委員周永康の場合、差し押さえられた資産総額は何と900億元(1兆4900
億円相当)というからすさまじい。本人だけでなく、妻、息子など親族、腹心の部下
もグルになって収賄三昧の日々を送るのが中国の流儀である。これを「全家福」を
もじって「全家腐」という。(習近平自身も同じ穴の狢である。)

周永康ら腐敗幹部にとって掌中の政治権力を家族の収賄に使わせるのは家長として
の当然の義務であり、この義務を果たすのは美徳である。家族の利益より公の利益
を優先する者は、中国社会では変人、馬鹿者呼ばわりされる。家族や一族のために
公益を損なってもよいという異質な家族観を著者は「一族イズム」と呼ぶ。

中国には家族のほかに腐敗の共同戦線ともいうべき「圏子」(チェンツ)という利益
共同体がある。もし圏子の誰か一人が摘発されると同罪の幹部が芋蔓式に摘発され
ることになる。

一族イズム、圏子文化の源流は中国独特の「宗族」である。宗族とは先祖を共有す
る父系同族集団である。何世代も続くうちに世帯数は数百、数千になり人口は数千
になり、万を超えることもある。宗族は族会を組織し、族長を選び、祠堂をつくり、
祭祀をおこない、族譜を編纂し、族産をつくって子弟の教育、弱者の援助、救済を
おこなう村における小国家なのである。

共産党が政権を取ったとき、毛沢東は宗族を「諸悪の根源」とみなし、方々の村で
村のゴロツキを使って地主を殺し、土地を貧農に分配し、財産を奪った(「一村一
焼一殺」)。地主、郷紳が消えて宗族組織は分解した。宗族に代わる組織として共
産党が編みだしたのが人民公社であったが、人民公社の時代に伝統の宗族がひそか
に復活してきた。宗族勢力は、祠堂をつくり、族譜を編纂した。一族イズムはケ小
平以後の中国において中国人の共通した行動原理となったのである。共産党が潰し
たはずの宗族の行動原理がいまや共産党幹部までを支配するようになった。宗族は
永遠不滅なのである。

本書は中国出身の著者ならではの観察がたいへん参考になる。共産党幹部の収賄の
手口などもいろいろ書いてあって興味深い。

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じゃぐぁ
あの大陸で近代国家が生まれない理由 2018年12月31日

近代国家とは、法が支配し、嘘をつかない国民が、必要に応じて公のために力を尽くすものであろう。
正式な定義は知らなくて良い。この本で書いてあるような内容を否定すれば、すなわち近代国家である。
敵を知り己を知るための一冊として、是非若い方に読んでいただきたい。
「宗族」と呼ばれる一族の論理が最優先で、「械闘」と呼ばれる一族間の争いには全員参加、一族以外は皆殺しにしても罪悪感を感じることのなメンタリティを知ることができる。
一度は共産党が潰した宗族が、人民公社を通して生き残り、現在も変わらず影響を及ぼすに至る過程を詳細に書き表した本書を、是非読むべき。

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アキレスの踵
5つ星のうち5.0
福沢諭吉の遺言 中韓には関わるな2018年12月25日

イギリスはヨーロッパ大陸に領地を持っていた時代がありました。しかし当時のヨーロッパ大陸は動乱の嵐が吹き荒れていて、その影響がイギリス国内にも及んだため、イギリスの国内政治も安定することはありませんでした。しかし無能な国王が何代か続いた時期に、イギリスはヨーロッパ大陸から撃退されて領地を失い、島国に閉じこもる羽目になってしまいました。そうしたら初めて国内の政治が安定するようになり、国内にエネルギーが蓄積され始め、後世の大発展の基盤を作ったのです。

日本の歴史を見ても、大陸諸国との関係にのめり込んでいって、うまくいった試しは一度もありません。ただの一度もです。これは大陸と島国とでは、地政学的な立場がまるで異なるからでしょう。大陸の文化は重厚ですから、惹かれる気持ちはよくわかります。しかし惹かれるのは当人の勝手です。明治以来、中国に心酔してそこで生涯を全うした人は何人も出ました。当人はそれで満足でしょうが、母国で生きる同胞を巻き込んではいけません。母国が島国であるという地政学的立場を忘れて、大陸諸国との関係にのめり込んでいくと、戦前、ドイツとの関係に深入りし過ぎた失敗をまた繰り返すことになるでしょう。

そもそも島国に政権をつくるのは、大陸から独立するためです。サハリンを考えてみればわかるように、大陸から独立しないのなら独自の政権などつくる必要はありません。つまり島国の政権は、出発時からすでに反大陸という基本的性格を備えています。この体質に反するようなことをやれば、当然そのツケは廻ってきます。

日本と相性がいいのは同じ島国の海洋型国家で、イギリス・台湾・東南アジア諸国です。相性が悪いのは重厚長大型の大陸諸国で、中国・ロシア・ドイツです。「同じアジア」というスローガンにだまされてはいけません。戦前の日本軍が中国大陸に軍事的にのめり込んだのも、現代の日本企業が中国に深入りし過ぎているのも、後世の歴史家たちから見れば、本質的に同じことだと判定するかもしれません。もちろん大陸諸国と全くつきあうなという意味ではありませんが、どれだけ深入りするかは、自国の国益から判断しないといけません。歴史から学ぶべき教訓とは「日中友好」ではありません。「大陸諸国との関係に深入りするな」ということです。

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アマゾネス
日本人とは永遠に分かり合えない理由はここにある。2018年12月30日

石平さんの様々な解説のおかげで、大陸の連中の脳内がどうなっているのかよく分かるようになりました。今回は彼らの国家観です。中華人民共和国という国としての組織の事はぶっちゃけどうでもよくて、身内親戚さえ良ければ何してもいいという、未だに部族社会だという衝撃です。アメリカも州毎に別の国だという認識で、ニューヨーカーがカリフォルニアに海外旅行してきたぜと語る、なんて小話もあります。それよりもっと細かく一族単位でチャイナ人は考えます。なるほどだから北京料理と四川料理は全く別の国の料理だと騒ぐわけです。更に身内の利益になる事だけ考えるから、中央政府や日本などの外国企業から賄賂を抜き取る工作に腐心するわけです。外部から奪い取った賄賂を身内にばら撒くことで身内が潤うんですから。そこに公の利益とか人様に迷惑をかけない道徳とか全く考慮にありません。この視点でチャイナを眺めると項羽と劉邦も、三国志も、全く同じ考え方で貫かれてます。驚くべきは21世紀の現代も未だにやっているということ。国家レベルでも皇帝習近平と他の宗族との勢力争いです。

こんな人達ですから全く話が通じるわけがありません。また言い切りますが民主主義体制というのも彼らには適用できません。民主主義を運用するには、国民の高い民度、国家としての合意が必要だからです。一族単位で固まってるような考えでは、民主的な国家運営なんかできるわけがありません。だから、皇帝を頂点とした独裁国家でないとチャイナは統治できないんです。アメリカはよく独善的に民主化を進める〜なんてやってますが、民主主義はすごく運用が難しいので、世界の大半の国では無理です。チャイナはそんな感じなので、経済的に取引してる方などはその辺を理解した上で対応した方がいいでしょう。独特な部族社会の考えを利用して利益を得るなどの狡猾さが必要だと思います。

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fms
習近平の「民族の偉大なる復興」の真の意味が理解できる一冊。これを実現させてはならない!2018年12月13日

中国における”宗族”の発生・解体から、”人民公社”までの成り立ちの仕組み・歴史を丁寧に説明してある。
そして、実質的な”宗族”の復活については、ケーススタディとして、2例を取り上げて、詳しく解説している。
最後は、”人民公社”の廃止まで解説してあります。

私は、いままで全く理解できなかった中国人の思考回路が、やっと理解でき、納得できるようになりました。
この中国シナ人独特の思考を理解せず、彼らと商売をすると、たぶん、大変なことになります(実は私もひどい目にあった一人です)。

本書に書かれているのは、中国ですが、私には朝鮮も同様のメンタリティを持っているような気がします。

すばらしい力作と思います。

中国人を相手に、交渉をする方には、読んでおいたほうがいい一冊です。

https://www.amazon.co.jp/dp/481911350X/ref


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中国とは何者か?〜宗族と幇〜
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/05/001252.html

中国人の特徴として、『自己中心、ご都合主義、独善、責任転嫁、人間不信、土匪国家、危険な「友好」』などが挙げられている

そしてそれらの特徴を解明する切り口のひとつとして『中国人は同族集団(身内)には寛容で、外部に対しては何でもあり』という甚だしい二重性があることが指摘されている。
それらの中国人の気質を形成してきた大きな要因は、中国特有の社会構造にある。今回のエントリーでは、中国固有の社会的結合と言われる、宗族(そうぞく)と幇(パン)という集団に焦点を当て、その中から中国特有の社会構造や意識構造を見ていきたい。


<宗族とは何か?>
中国では姓を同じくする父系の相続集団を『宗族』と呼ぶ。宗族は長子相続と同姓不婚を原理とし、本家を大宗、次男以下の分家を小宗という。宗族は大宗の強力な統制の元で共通の祖先への祭祀を通じて、常に一族集団の団結に努めていた。このような宗族内の上下関係や秩序を定めたものが「宗法」であり、これに基づく道徳的規範が「礼」である(ちなみに儒教はこの宗族の規範を土台としてそれを体系化したものである)。
この宗族という集団は、概ね周の時代に確立する(BC1000〜BC750年頃)。宗族の起源は元々は母系の氏族共同体であったと思われるが、それが歴史のある段階で、父系の宗族(大宗)へと転換していったと思われる。そして小宗の登場は支配階級における「姓氏制度」の確立と密接に連関している。姓氏制度のうち「姓」は母系の血縁集団を基礎としている。これが大宗にあたる。それに対して「氏」とは同じ姓の成人男子に、所領や地位が与えられることによって発生する。つまり氏とは成人男子の社会的身分を表しており、これが小宗を形成している。

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祖先を祀る宗族の会合 写真はこちらからお借りしました。td>

ただし後述するように宗族は周の時代には「宗法」や「礼」という観念規範を強固に定めているということ、あるいは氏の出現によって氏族の共有制が崩れ父系制家族による私有制が制度化されていったということ、これらのことは制度としての宗族や姓氏制度の確立と戸同時に、氏族の規範が解体され、宗族の解体へのベクトルがすでに開始されていたことも意味する。
事実、周の後の春秋戦国時代に生じた群雄割拠を通じて旧支配階級は所領や地位を失い、支配階級において氏は無意味化していく。
そして、そればかりではなく宗族の結集軸である祖霊信仰も春秋戦国時代以降弱体化していく。このことは宗族そのものの持つ集団私権力が弱体化すれば、血縁集団さえも容易に解体されていくことを示している。
中国の歴史上、庶民(農村)においては確かに宗族が社会構造の基底部を形成していることは一面の事実である。例えばよく用いられる例として、同じ宗族から科挙合格者などのエリートを輩出すれば一族郎党にその恩恵が及ぶため、宗族の期待を一身に集めるという話はごく一般的な話である(村落ではなく宗族であることに注意)。
しかし支配階級においては、この宗族は祖霊信仰とともに権力闘争の基盤上、二義的なものに転落して言ったという事実も同時に押さえておかなければならない。
このことが、中国人は集団的であると同時に個人主義的であるといわれる、社会構造的な基盤を形成している。
<幇(的な結合)とは何か?>
他方『幇(パンもしくは、ほう)』とは何か?それは、一言で言って利益集団である。
幇には秘密結社的あるいは紅幇(ホウパン)・青幇(チンパン)などのマフィア的な組織である「幇会」(パンフェ)から、公然組織的な「幇派」(華僑社会における地縁・血縁を土台とした組織や業界団体・職能団体に至るまで)などさまざまな「幇」が存在する。
そして現在の「幇」組織の起源は清の時代である18世紀が起源といわれている。
しかし、この幇(的な組織)は中国の歴史上何度も登場したり消滅したりしてきたので、必ずしもそれが幇(的な組織)の起源とはいえない。
例えば遡れば、華僑そのもの(一種の利益集団)も南北朝時代の3世紀ごろの移民(おそらく戦乱に追われた亡命者や難民)を起源とするといわれているし、秘密結社的なものという意味では、歴史上判明している範囲でも182年の黄巾の乱において宗教的秘密結社が既に猛威を振るっている。黄巾の乱は秦朝の時代に兵役で農村から駆り出され、除隊してからも帰るべき家や耕すべき田畑を持たない兵士上がりの貧民たちの相互扶助組織が基盤となったといわれる。
この黄巾の乱を始め、中国の歴史は地域豪族、有力商人、知識人が農民を巻き込んで起こす全国的反乱が際立って多いことが、その特徴である。そしてそれらの多くは宗教的な秘密結社の形をとっており、それがそれらはしばしば時の王朝を揺るがし、転覆に至らしめている。

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太平天国の乱を主導した洪秀全 紅幇と青幇

写真はこちらとこちらからお借りしました
その意味では客家(ハッカ)もそのような利益集団(あるいは半秘密結社)の代表的なものの一つと言える。
黄巾の乱から始まる400年間の争乱によって中国の人口は1/10以下に激減する。そしてそれ以前に中原地帯を制覇していたもともとの漢民族は、ほぼ滅亡する。そしてその際各地に逃げのびた旧支配階級の末裔たちは中原発祥の「正当中華文明」の再興を目的として再結集を計る。これが客家の起源といわれている。
この客家に属するといわれる、主だった具体的人名を挙げてみよう。
清代における太平天国の乱を主導した洪秀全、孫文、朱徳、ケ小平、李登輝(台湾総裁)、タクシン(もとタイ首相)、リーファンユー(シンガポール初代首相)等々、中国及び華人社会において国の変革(ないし政権転覆)を主導した人物の名前が綺羅星の如く並ぶ(リンク)。

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ケ小平氏 元台湾総裁 李登輝氏

それぞれ写真はこちらとこちらからお借りしました。
この客家の起こした反乱も含め、中国史の特色は、農民が武装解除されず古代より農民を戦闘員として組織していること、(秘密)結社=人工的利益集団の力が以上に強く、それがしばしば中国の歴史を動かしてきたことにある。その意味では中国史は正規軍の戦いだけではなく総力ゲリラ戦の歴史であり、それらの争乱によって歴史の1/3は非統合状態にあったというところにある(毛沢東率いる共産革命もその一つの典型に過ぎないという見方は十分に可能である)。
しかし、問題は、中国ではなぜこのように秘密結社や人工集団が、異常に繁殖し力を持つてきたのかということにあり、農民側の宋族がなぜここまでに戦闘的(他集団と敵対的)であるのかという点にある。
その理由のひとつが、異民族支配(モンゴル系やツングース系等)の歴史が長く、農民が治水灌漑等の理由で強制移住を繰り返させられてきたこと。それによって地縁的結合はバラバラに解体され、解体されないまでも異郷の地で周辺農民からよそ者として孤立状態を強いられてきたことがあげられよう。争いが絶えずいわば根無し草になった人々は、血縁である宗族や利益集団である幇へと結集するしかない。このことが中国人が身内(宗族や幇)に対して寛容で他集団に対して敵対的(ないしは利用対象でしかない)中国人の二重性の基礎を形成している。
しかしそれらも含めてもっと根深い理由があるように思われる。利益集団の強さは盗賊や海賊が形成したといわれる古代ギリシャやローマと共通したものがある。また中国の中原は東西南北の交通(後の草原の道、シルクロード、海の道)の交わる要所にあり、その制覇をめぐって諸勢力が激突を繰り返してきたという歴史的構図も見て取れる。
最後の問題は、各集団が相互に敵対的でありかつ著しく攻撃的な民族体質の源泉は何によって形成されたかにある。その要因を更に中国の歴史を紐解く事で解明していきたい。
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/05/001252.html

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【中国】中国人の特徴@ 〜自己中心、ご都合主義、独善〜 11/04/05

白人(欧米人)の意識構造の解明に引き続き、今後、中国人(漢人?)の意識構造の解明に入る前提として、中国人の特徴を固定してみます。

以下、『中国が嫌われる七つの理由リンク』より抜粋
http://www.mars.dti.ne.jp/~saitota/hitori050501.htm

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1.自己中心

「自己中心的である」を略して「自(ジ)己(コ)中(チュー)」などと呼ぶが、こういう人間が好かれることはまずない。中国人はまさにジコチューが国民性といってよい。そしてそれが国家規模に拡大され、自国中心主義になる。「中国」という自称がその最たる証拠である。

中国人は古来、近隣国を蔑視してきた。この蔑視観は、文化の違う人々を人間と見なさないほどまでに強い。その優越意識はアパルトヘイト以上である。その証拠に華人以外はみな禽獣として、民族名称には獣へんや虫へんのついた漢字を用いて書いた。盛唐時代の代表的な知識人である韓愈は、著書「原人」で、夷狄のことを「半人半獣」とし、獣より進化したと評した。作家の魯迅は「中国人は人間を人間とも思わない」と、中国人の国民性を批判している。

西欧諸国が清国に対して通商要求をするときに、どうしても耐えられなかったのはあの屈辱的な「三脆九叩」の礼をさせられることである。アヘン戦争終結後の一八四二年、外国人を夷狄あつかいする清国に対し、イギリスは南京条約第一七条でわざわざ英国を「英夷」と呼ばないように規定した。それでも中国が守らないので、一八五八年、アロー号事件後の天津条約の締結のさいに「夷狄」呼ばわりしないことを再度明文化させている。清末に中国人と接した外国人のほとんどがその傲慢さに苛立ち、イギリス通商特使として北京に派遣されたマカートニーは逆に中国人を「半野蛮人」と呼んだ。イギリス公使兼香港総督J・F・デビスは中国文明を「半文明Lとみなし、初代総税務司のN・レイに至っては「アジアの野蛮人」と呼んで軽蔑した。こうなると、中国人とイギリス人のジコチューくらべである。


2.ご都合主義

ジコチューは自分の都合に従って行動する。したがってご都合主義が普遍化されるのである。他人の都合や思惑は二の次、三の次というより、最初から考慮されていない。政治の流れを見ても、一九五〇年代、「向蘇一辺倒」などといわれ、ソ連と蜜月の関係を結んでいたにもかかわらず、六〇年に入って突然「ソ連修正主義反対」、「ソ連社会帝国主義打倒」のスローガンを掲げて豹変した。そして六〇年代、日米安保、アメリカ帝国主義反対を唱え、旧日本社会党と共同声明まで出した中国は、七〇年代に入るやある日突然、日米安保賛成、反ソ親米に急変した。

このとき日本の旧社会党員は肩すかしを食らい、いわゆる進歩的文化人はどれほど困惑したことだろうか。日本にかぎらない。文化大革命を礼賛した世界の文化人たちは、文革収拾とともに、文化大革命そのものが「動乱の十年」となって評価が逆転して、中国人の敵として振り落とされていく。中国人のご都合主義についていくのはたいへんなことである。

戦後、日本の世論は「中国人とは、原則を重視する民族」という神話を信じていた。それは中国政府がいつも「平和五原則」「周恩来四原則」「日中三原則」と原則ばかりを唱えていたので、つい幻惑されたためであろう。実は、これは原則ではなかった。偏執、強情、拘泥を「原則重視」に読み間違えたのである。ジコチューの中国は、原則(建前)と本音を実にうまく使い分ける。
人治国家の中国では、法はあっても自分の都合で利用したり、無視したりするのが通常である。したがって、朝令暮改、契約反故などが頻繁に起こり、たいていの日本人は中国人の独断にふりまわされ、最後にはノイローゼになってしまう人までいる。


3.独善

仏教と儒教は中国から朝鮮を経由して日本に伝えられた。宗教が共通なのだから、精神文化も共有しているように思えるが、根本となる死生観がまったく異なっている。日本人は「死ねば神」「死者悉皆成仏」といって、死後にまで生前の利害や怨恨を問わない心を持っている。だが、中国人には強烈な勧善懲悪の倫理意識があり、自分の敵は死後もその墓を暴き、屍にむち打ち、魂まで食らおうとする。人は死しても安らかに眠ることができないのである。しかも信仰の自由はなく、国内で邪教とされた宗教は徹底弾圧し、日本の総理の靖国神社参拝にまで政治的に干渉してくる。

中国の内政干渉は靖国問題にとどまらない。歴史教科書、政府高官の発言、南京事件の評価、日本の生存権問題に属する日米安保、憲法改正論議、ダライ・ラマや李登輝前台湾総統の訪日、航空会社の空港使用、ホテルでの国旗掲揚など、ありとあらゆることに干渉し、外交問題にしようとする。

かつてテレピ朝日の二ュースステーションで、キャスターの久米宏がチベットに関して発言した内容に中国が圧力を加え、翌日の放送で中国に対して謝罪した事件があった。同じように、テレピ各社の中国特番で、中国政府と協力して制作されたものであるにもかかわらず、放送後、中国の一方的な抗議を受け、公開謝罪させられたケースが何度もある。中国の独善的な思惑の押しつけは、日本に対してだけではない。世界のいたるところにおよんでいるのである。

たとえば、旧西ドイツやデンマークなどでチベットの人権侵害問題をとりあげる議会に圧力をかけ、決議をしたら報復すると恫喝した。また江沢民主席はかつてスイスでデモ隊に遭遇したときに、迎えに出たスイスの首相に対し、自国の管理もできないのかなどと、いちじるしく礼を失する発言をしたことがある。アメリカに対しでも同様の干渉を加える。李登輝が総統の座にあったとき、卒業したコーネル大学の訪問のために訪米を申し入れたことがあった。アメリカの上下両院が李氏の訪米を受け入れる決定をしたにもかかわらず、中国はこの決議に関しても「誤った決議」だとして反省を求めたのである。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=248775

4.責任転嫁

「悪いのは全部他人で、成果は全部自分のおかげ」という責任転嫁と絶対無謬の独善意識が中華思想の真骨頂である。

私は台湾で生まれ育ったが、小中学校時代に、近代中国が貧困・落後したのは列強の侵略と清朝の腐敗、軍閥内戦に原因がある、と教えられた。中華人民共和国では、それがすっかり国民党政府の責任にされている。

また、文革が終焉すると、「動乱の十年」の責任は全部四人組のせいにされた。毛沢東の過ちに触れられることは決してなく、あれほどの社会的混乱の責任をすべて四人の政治指導者に押しつけたのは、裏返せば、中国人の破廉恥な無責任意識のなせるわざである。改革開放になると、急激な経済開放のために強盗殺人、賭博、麻薬密売、買売春、人身売買、詐欺、迷信など、「六害」「七害」と呼ばれる凶悪犯罪が横行するようになった。これはある意味で当然の結果である。こうした無秩序は中国本来の姿であり、百年変わらぬ国民性の復活にすぎない。ところが中国はそれを認めず、資本主義の精神汚染だと決めつけ、今度は「社会主義新文明を創造せよ」と呼びかけ、党大会のたびに決議などしている。資本主義のモデルについていくだけで手一杯だというのに、何主義だろうと新文明の創造などできようはずがない。

西欧文明が東アジアに大きな影響をおよぼしたのちの中国人の不幸、落後はすっかり西欧のせいにされてしまったのである。近代中国の没落はアヘン戦争以後、すべて列強の侵略の結果に帰され、中国自身にどんな問題があっても、それに目を向けることはない。こうした責任転嫁は、中国文明の優越性に対する固執の表れともいえる。自己の無謬性の過信によって独善的となり、ことに日本人のような自虐的な国民に対しては、反省や謝罪を要求することをやめようとしない。明末、異端の儒学者といわれた李卓吾は、その著書『蔵書』の中で、中国人についてこう指摘している。「いかに自己礼賛するかについては苦心惨憺するが、自己批判についてはまったく関心を持たない」と。最近、中国駐在の日本人商社関係者が中国人気質について調査をし、以下のような中国人像がまとめられたという。

「絶対自分の非を認めない。それは中国人が責任感の意味を知らないというよりも、失敗を他人のせいにする習性があるからだ。もともと、中国は熾烈な競争社会であり、責任をとる段になったら、なるべく自分の身にふりかからないようにしなければ生き残れないからだ」


5.人間不信

中国人は国家を信用していないばかりか、社会も人間も信用していない。妻さえ住用しないのは、もともと他人だからとしても、血のつながった親子や兄弟でさえ信用できないのである。毛沢東の極左政策の時代に、「父母よりも毛主席が親しい」と言う言葉が流行り、当時は中国社会の砦とも言うべき家族まで階級の敵と目され、子が父を告発することさえ頻発した。劉少奇や林彪は、政敵ではなく我が子に密告され、一人は獄死し、一人は逃亡する途中で死亡したのである。

中国のことわざに「一人で廟に入るな、二人で井戸をのぞくな」というものがある。一人で廟に入ると、悪い坊主のカモにされ、殺されて金品を奪われてしまうかもしれない。二人で井戸をのぞくと、相棒に突き落とされる危険があるという意味である。この人間不信社会で生き残り、競争に勝つために兵法が発達した。孫子は「兵は脆道なり」と言った。つまり戦争は詐欺の道だというわけである。中国人気質の最大の特色も「詐」にある。中国人は「詐の民」だという人もいる。親は子に対して「人にだまされるな」と教育し、常日頃口うるさく教えている。

戦後、日本人は中国人の詐欺ぶりを目の当たりにして驚愕した。偽残留孤児、偽難民、偽装結婚、偽造パスポート、闇銀行、偽造卒業証書、偽造プリペイドカード……。自分の利益のためにはどんな物でも平気で偽造するし、どれをとってとも日本人の想像を絶するものばかりだ。

世界中で今大きな問題になっているのは、中国の偽ブランド品である。知的所有権の盗用は別としても、薬、タバコ、酒、食品など、人が健康を害したり、悪くすれば命を落としたりしてもおかまいなしに、どんどんコピーをつくってしまうク中国政府は「打仮運動」と称して偽ブランドの追放キャンペーンを行っているが、効果はまったくない。現在の中国は、公金横領、賄賂横行、汚職天下の国であり、偽物天国である。今日も中国のどこかで偽プランド品が製造され、世界にばらまかれている。

嘘でぬりかためられた人間不信の社会の中で、中国人は上から下までだましあっている。政府はマスコミを通じて民衆をだまし、民衆は面従腹背で良民を装いながら国家を食い物にする。中国人社会で詐欺師が暗躍し、偽物が氾濫するのは当然なのだ。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=248776

6.土匪国家

この数年来の日本における中国人犯罪の急増はいまや常識といえる。実際、外国人犯罪者の半数以上が中国人犯罪者で、新手のピッキング強盗となるとほとんどが中国人の手によるものである。石原慎太郎都知事も、この類例を見ない凶悪犯罪を新聞で指摘しているし、ある自衛隊関係者は、警察署に収容された中国人に提供する食事の一食分の経費が、自衛官のそれよりも高いことをぼやく有様だ。

日本ばかりではない。世界の多くの大都市が中国人密入国者の問題に悩まされている。シベリアヘの中国人密入国者は年間五十万人にのぼるという信じがたい数字も出ている。蛇頭の年間総収入は世界の麻薬密売の収入の数字をとうに超えている。

中国人が海外流出すると、流出した先で社会が大きく変化する。台湾の生活環境の変化は、その代表的な一例である。台湾は戦時中、疎開して家を離れても物が盗まれることがなかった。しかし、戦後、四十万の日本人が台湾から追放され、代わりに二百万の中国人が大陸から流入すると、台湾はたちまち泥棒の国と化した。泥棒の多さは高層ピルの上階でも窓に鉄格子がはまっていることが如実に物語っている。あの特異な建築群の景観は、泥棒のせいなのである。台湾では「中国人を見たら泥棒と思え」という教育を親がするようになった。

九四年、中国の浙江省杭州の千島湖で、台湾入観光客二十四人を乗せた遊覧船が湖上で強盗にあい、全員が船室で焼き殺された事件があった。台湾では有名な事件である。当時の中国政府はこの痛ましい事件が強盗殺人事件であったことをひた隠しにしていた。李登輝総統は激怒し、中国を「土匪国家」だと非難した。

中国が「土匪国家」であることは、歴史的にも知られている。清代の乾隆帝時代、英国の通商使マカートニーは、『奉使記』の中で沿道には乞食と盗賊ばかり目立つと記している。中華民国初期は、「賊のいない山はなく、匪のいない湖はない」と言われるほどで、賊の数は推定二千万人、軍隊より多かった。その当時、上海や満州の各都市では公共パスに武装兵士が最低二人同乗していた。そうでなければ安全が確保できないのである。現在でもいたるところで「車匪路覇」に注意を呼びかける看板がかけられ、改革開放後の中国を特色づけている。九〇年代、匪賊との銃撃戦で殉職した警官は毎年二千人あまりにものぼる。


7.危険な「友好」

親善、好意を示す「友好」という言葉は、本来嫌われるはずがない。だが、中国人との「友好」だけは別である。新聞やテレビなどのマスコミは、米、英、仏、独と日本との大人のつきあいには普通「親善」という言葉を用い、「友好」というキャッチフレーズを使うことはあまり見られない。だが、中国に関するかぎり、なぜか「友好」という言葉が使われ、日中交流の専門用語のようになっている。

戦前、戦後を通して、日本と中国は「友好」と「非友好」に二分されていた。一時、中国との関係はもっぱら「友好人士」や「友好商社」という、中国からお墨付きをもらった一部の日本人に独占されていた。一九七二年に日中国交正常化がなると、日中間の交流は「友好人士」の独壇場でなくなり、やがて「子々孫々にいたるまで」という形容がつけられて「友好」が強調されるようになった。普段、人間不信の社会で生きているので、中国人は人間関係についてことさら「友好」を強調しないと不安に襲われる。

しかし、中国を相手にする側にとって、中国が強調する「友好」ほど不安なものはない。なぜなのか。その理由は「友好」の解釈権がもっぱら中国の側にあり、中国の規定する「友好」におとなしくついていかなければならないからだ。ことにしたたかさをあまり持ち合わせていない日本人は、腹芸が下手でタヌキとキツネの化かし合いができない。しかも日本人は外圧に弱く、中国流の「友好」パフォーマンスに対抗するのがきわめて下手である。

「友好」という言葉を額面どおり受け取っていると、思わぬ落とし穴にはまることになる。実は中国が「友好」を語るとき、ことに相思相愛を語るときが最も危険なのである。それは歴史を振り返ればわかる。たとえば、中ソ、中印、中越戦争が起こったときは、いずれも両国の「友好」関係が蜜月のピークに達した時期にあたり、まさに老子のいう「物極まるときは必ず反(かえ)る」という結果になった。

だいたい人間の歴史で、民族間、国家間に「子々孫々の友好」などあったためしがない。中国との「友好」は、すなわち彼らの独善的な価値観を全面的に受け入れることでしかない。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=248779


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広東省農民「オラの村が隣の村との戦争で焼き打ちされたんだが…」 
2010-05-16 11:52:14 |

広東省・福建省ネタ2003年ごろ、大学で上海人の学生と知り合った。
当時、卒論で中国の農村を調べようかと思っていた俺が
彼に何か面白い話はないかと聞くと、こんな答えが返ってきた。


上「中国の農村はヤバい。俺たち都会の人間は、
  農村で人を轢いても現場で車を止めるなってことになってる。
  すぐに現場を離れて隣の村まで行ってから、警察に電話するんだ」

俺「なんですぐに助けないの?」

上「助けたいのはやまやまだけど、後が怖いんだよ。
  村人がワラワラ寄ってきて、轢いた人間をリンチして車をボコボコにするんだ。
  その場を離れないと自分の命が危ない」

俺「……そう」


話を聞いた当初、上海人はここまで農民への偏見を持っているのか、と
ちょっと不愉快になった。

だが、後にいろいろと調べてみると、どうやら彼の話はネタではなくマジなのだ。
中国南方の農村(特に広東と福建)は、非常にバイオレンスな顔を持つのである


事件の舞台は中国のディープサウス、広東省最西部。

東山鎮の脚踏村(あしぶみ村)という、名前からして田舎テイスト溢れる村だ。
場所は下記であり、瀬戸内海に浮かぶ旧水軍根拠地の村のような地域をイメージすればいいと思う。  


ちなみに、事件に関わる地名は「広東省湛江市東山鎮脚踏村」及び同「調文村」だが、
これは日本の地名に置き換えると、それぞれ

広東省 湛江市 東山鎮 脚踏村
     ↓
●●県 ××郡 △△町 大字○○

こういう感じになる。


今回の事件は脚踏村と調文村の戦いだが、
つまり大字の町内会レベルで焼き打ちとリンチを繰り返している訳なのだ。

さらにすごいことに、両村の村人がネット上にも事件を持ちこんで
互いに荒らしと叩きに明け暮れている模様である。


械闘が盛行する18世紀と、ネットを駆使する21世紀が同居。
あまりにもカオスすぎる現代中国の農村。
それではご覧ください。


―――――――――――――――――――――――――――――――

【湛江市東海島東山鎮脚踏村、1.28事件の真相告発!】
原題:「湛江市東海島東山鎮脚踏村1.28事件真相!」湛江板
http://tieba.baidu.com/f?kz=709201131

  ※スレ内では、脚踏村の行為やその側の人間の発言をピンク、調文村の好意や発言を緑で表示することにした。


湛江市東海島東山鎮脚踏村で発生した1.28事件は、
更なる暴力事件である2.3事件を引き起こし、
脚踏村の村人の家庭59戸の家屋と家産が悲惨な破壊を被った。

なかでも村人の家5戸は屋内の現金がすべて持ち去られ、
一部の家屋は白昼堂々と焼き打ちにあった。
売店1軒は略奪し尽くされ、無辜の村人3人が殴られて重傷だ。


事件の詳細:

1月28日早朝、
脚踏村の村人が車列を組んで新婚の花嫁を迎えに行って村に戻る際、
東山鎮の調文村出身の新郎・唐某という人物と一悶着があり、
婚姻の車列に参加していた数人の脚踏村の村人が
唐某を殴りつけて重傷を負わせた。


1月29日、
脚踏村の無関係の村人が用事で村の外に出た際に、
事故があった調文村の村人が三叉路まで彼を追跡し、
調文村へと拉致して殴りつけて重傷を負わせた。


2月1日、
(先日、脚踏村の村人に殴られた)調文村の村人・唐某が病院で死亡。
村の不良分子が他の村人を扇動し、白昼堂々と
東山鎮の中心部にある脚踏村民が経営する薬局を襲撃して破壊した。店はほぼ全壊。


2月3日午前、
調文村の数百人の暴徒が組織的に2隊に分かれ、
暴徒の1隊は東山鎮中心部の脚踏村民が経営する店舗をすべて破壊(計3店)。

もう1隊(約200人)は脚踏村へと攻め込み、
罪もない村人を殴りつけ、用意したガソリンに火をつけ民家数軒を焼き打ち、
無数の家屋を打ち壊した。

現地の派出所には飾り物のような警官が十数名しかおらず、
暴徒が村に攻め込んで悪行を働いているのを知るまで1時間もかかった。


現在、調文村の暴徒は尚も現地の主要交通路をバスで封鎖し、
外に出ようとする脚踏村の村人と思われる人間を殴りつけている。
政府と天に対して敵対行為をおこなっているのだ!

1.28事件から2.3事件にかけての負のスパイラルの結果、
現地の警官が村人の安全と財産が残酷にも破壊されるのを
現場で目の当たりにし(つつも何もできず)、
政府の関係部門は社会の秩序を守るという威信を失うこととなった。
現地の治安は大地震の後のごとき無政府状態だ!


1月28日にはリンチ事件から被害者が死亡し、
さらに続いて脚踏村の無辜の村人が暴力を受けて重傷を受け、
村人が経営する店舗が破壊と強奪を受け、
2月3日には暴徒が村に攻め込んで悪行の限りを尽くす。
現地の警察は解決能力が無く、片目をつむって見逃して暴徒のなすがままだ。


正義はどこにある!
政府はどこにあるんだ!!


5 名前:名無し人民@ヒャッハー!
野蛮すぎるだろ。


9 名前:名無し人民@ヒャッハー!
無辜の村人たちの為に、政府が(この混乱を)正しい道に戻してくれるよう願う。

  ※前時代的な暴力のカオスに対して何らかの対応を示せるのは、やはり前時代的王朝たる「お上」なのかもしれない。
   中国の農民の認識として、この発想はあり得るところかと思う。


10 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>>6
政府が正しい道に戻したとして、死者はどうなるよ?


13 名前:名無し人民@ヒャッハー!
これは貴様ら脚踏村の村人が報いを受けたのだ。
天知る地知る、って知っているか?

  ※対立する調文村の村人による書き込みと思われる。


14 名前:名無し人民@ヒャッハー!
死者は無辜の被害者だぞ…。
なんで法律で解決しないんだよ…。

まさか脚踏村の無関係の村人まで責任があるって言うのか…?
今度は脚踏村の村人が調文村の村人を襲撃することだってあるかも…。


15 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>>14
カマトトぶるんじゃねえよ


17 名前:名無し人民@ヒャッハー!
みんなダメだろ。
村人は無辜の被害者だが、全ては起こってしまった。
人も死んだ。
村も荒らされた。

どうしようもない。


19 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>用意したガソリンに火をつけ民家数軒を焼き打ち、
>無数の家屋を打ち壊した。
>現地の派出所には飾り物のような警官が十数名しかおらず、
>暴徒が村に攻め込んで悪行を働いているのを知るまで1時間もかかった。
これは道理が許さない。
政府が罰してくれることを望む!

  ※脚踏村の村人による書き込みかもしれない。


20 名前:名無し人民@ヒャッハー!
当時の状況を知らない人間が、何の権限があってこの事件を批判するんだ。

死んだ唐某は幼い頃に父を亡くして
兄妹数人とともに女手ひとつで育てられた。
彼の母さんは大変な思いで育てたんだぞ。


唐某だって結婚をしたかったんだ。
家は貧乏だったかが、家族がみんな一緒なら幸せだと言って暮らしていた。
なのに、まさか恋人を家に送った帰りに、恋人の村(脚踏村)の
騒ぎ好きの不良どもから殴り殺されるとは。

唐某はなにも悪いことをしていない。無実だ。
彼が半死半生の目に遭うまでリンチされた件、こちらにこそ道理があるのか?


唐某の死は無念だったと思わないか?
もちろん、唐某の村の人間がとった行動は間違っている。
これでは更に多くの無辜の人間を傷つけることになる。

とにかく、感情的にならずに正しい方法で解決してほしいと思う。

  ※最初に殴り殺された唐某について、>>1とやや異なる情報が載せられている。
   おそらくは調文村の村人の書き込みだろう。

   おそらく、調文村の唐某は脚踏村の女の子と付き合っており結婚。
   だが、もともと村同士の仲が悪かったかして、唐君は結婚当日に脚踏村の村人により撲殺されたのだ。

   (中国では結婚式の際に、知り合いが新郎新婦にいたずらをする「鬧房」という習慣があり、
    その悪ふざけの過程で誤って新郎を殺した可能性もある)

   そして、新郎側の村はリベンジのために脚踏村を襲撃した…、というわけである。


22 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>>19
>これは道理が許さない。
お前たち脚踏村の娘は、これから外の村に嫁に行けると思うなよ!
お前らの村の娘を嫁にしようとしたら、新郎が村人に殴り殺されたんだ!

野蛮な村人どもめ!
こんな村には、今後は誰も行きやしないさ!!

  ※調文村の村人による書き込みだろう。


25 名前:名無し人民@ヒャッハー!
(脚踏村と調文村がある)東海島の島人はヤクザみたいに言われているけれど、
どうやら噂は間違いないようだな。

こんなに常識の通じない地域は、
放置して勝手に殺し合いさせておけばいいと思う。


27 名前:名無し人民@ヒャッハー!
法治社会ではこういう事件は法律によって解決される。
だが、調文村の村人は集団で脚踏村に攻め込んで
(日本軍のような)「三光作戦」を実行した。

これは旧社会的で野蛮な行為だ!!


29 名前:名無し人民@ヒャッハー!
犯罪を犯したんだ。
お前らの子どもに至るまで略奪し尽くしてやるぞ。

唐姓の人間を許さない!!

  ※脚踏村の村人による書き込みだろう。
   中国南方の農村では、村が丸ごと同じ一族…という場合がある。
   (そのため、1人の体面を傷つけると「一族の恥」ということになり、こういう復讐が行われる)。

   最初の死者・唐某の出身地である調文村は、おそらく唐氏一族の村。
   ゆえに、脚踏村の村人は唐氏の一族郎党を憎むに至るのである。


47 名前:名無し人民@ヒャッハー!
君子はたとえ10年がかかっても仇討ちをおこなうものだ。
調文村をこのままにはしておけん!

  ※脚踏村の村人による書き込みだろう。


56 名前:名無し人民@ヒャッハー!
お前ら、戦いを続けて楽しいか?
それで家族や愛する人が巻き添えになって死んだらどうするんだ?

それでもまだ戦うのか?


69 名前:名無し人民@ヒャッハー!
唐一族は恐ろしすぎる!
脚踏村の1万人の村人が、数千人の唐氏一族に踏み荒らされたのだ。
(略)


82 名前:名無し人民@ヒャッハー!
脚踏村はもともと良くないことばかりしてきた。
二十数年前にも(似たような械闘で)大事件を起こしているしな。

しかし調文村も野蛮だ。
村の勢力を頼みにする大人が多すぎる。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


この後もスレは荒れ続け、両村の村人による

「お前の村を滅ぼしてやる!」
「貴様らこそ滅亡しろ!!」

という物騒な書き込みがたびたび見られた。


…ところで、ちょっと話を変える。

中国において、農民が役所を襲撃するといった暴動(官民衝突)はしばしば発生しており、大紀元(法輪功のニュースサイト)なんかで報じられることが多いのもご存知の通り。

そして、中国崩壊論者の人がこれらに対してホルホルして
「共産党独裁政治への庶民の不満が高まっているのだ!」という
根拠として引用したりする。


だが、暴動を起こす農民というのは、このスレで見ればわかるがごとく、
リミットブレイクを非常に容易に起こす人たちなのである。
大した理由じゃなくても暴れるのだ。


一見すると識者ホルホル系の官民衝突のようでも、役所への反乱に見えて
実は単なる村同士の(どうでもいい理由での)戦争が
飛び火しただけというケースも多いのではないか。

また、実際に地方の役所が無道な場合(これも多いのだ)でも、
抗議に立ちあがった農民が知らん間に目的と手段を逆にしてしまい、
「とりあえず暴れたからそんでいいやw」となって
問題の解決を求めないケースもあるのではないか。

良くも悪くも彼らの単純さと不条理さを舐めてはいけないと思う。


暴動といっても、即・反政府や反共産党につながる性質のものとは限らない。
党と軍がひとまず綻びを見せずに存在する限りは、
農民による村レベルでの暴動は、中央から見れば中学生のニキビ程度の日常茶飯事の小事件だ。

「中国にはよくあること」で流せる話なのである。

普通は現場レベルで放っておくし、
ちょっと目立ったら(大規模化したら)、クレアラシル(武装警察)を塗ればいい。
この程度では、脳味噌や人体(共産党や国家)に影響を与えるには及ばない。


…なので、「どこどこで農民が反乱!」というニュースを聞いた際、
すぐに「中国崩壊への第一歩だフハハ」と大喜びしても
只のヌカ喜びだと思うのだ。

「反乱」の背景とか経緯をよく調べた方がいいし、
それが大規模化しかけたところで鎮圧されているようなら、
むしろ「中国の体制は(現時点では)盤石だ」という根拠にすらなり得る。

ニキビは、もちろん疾病要因もあるものの生理体質的な理由でできることも多い。
当たり前のように生まれる赤ニキビに、すぐにクレアラシルを塗れるのは、
共産党が最低限はお肌のケアをしているということである。


もっとも、ニキビの現場にいる人はたまったものじゃなかろうが…。
これが中国の農村だからしょうがない。


http://blog.goo.ne.jp/dongyingwenren/e/a370aaaca87869d375aa1d5ce930e919
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広東省農民「オラの村が隣の村と戦争をはじめるらしいんだが…」

2009-11-08

広東省・福建省ネタ今回取り上げるのは、広東省の「械闘」である。


…と言っても何のことやらわからない読者が大部分だと思うので、
ここはひとつYahoo辞書先生に語句解説をしてもらうことにしよう。


 かい‐とう【械闘】
 革命前の中国で、水利や地境などの争いなどを原因として起きた
 部落や労働者集団間の武力闘争。清代には華中・華南に多かった。


中国南部の械闘には、「宗族」と呼ばれる父系血族の集団同士で争われる例が多い。
(→要するに、陳さん一族VS張さん一族みたいな感じでのガチバトル)


一族と言っても、勢力は数百人以上。一村以上の単位での総動員である。

外部から傭兵を連れてきた場合は数千人以上が激突する大合戦となり、
海外に渡った華僑の親戚たちが銃や火砲まで援助してくるのでタチが悪い。
村は、平時から堀や砦が築かれて完全武装だったりする。

械闘は清代の康煕雍正年間(18世紀初頭)から盛んに発生するようになり、
なんと20世紀前半の中華民国時代まで普通に続いていた。
広東省や福建省で特に多く、台湾でも日本統治時代の直前まで盛んにやり合っていたらしい。


…宗族の械闘の原因は、当初は

「うちの一族の村の水を取るな」とか「うちの一族の風水を切る場所に墓を作るな」
という相応の理屈に基づいたものだったようだが、
何百年も対立しているうちに当事者たちも理由を忘れてしまい、
なぜ戦っているのか不明のままドンパチやっていることも多かったようだ。

民国初期に福建省の統治を担当させられた役人が、上司の袁世凱に
「こいつらマジで洒落ならん。勘弁」
と報告していたりするから余程の事なのである。


そして「新中国」の成立後。

農村の宗族組織や封建的な支配関係は共産党様によって解体され、治安も向上。
械闘の風潮はおさまった、とされている。

だが、どうやら実際のところは全然おさまっていなかったようなのだ。


百度の「広東」板より、ディープすぎるスレをご覧ください。


原題「械闘」 広東板
http://tieba.baidu.com/f?kz=269824098


俺たちの村は広東省汕頭市潮南区、司馬浦仙港郷の辺りにあるんだが、
隣の村との関係がずっと良くないのだ。
歴史上、たびたび武力衝突をしていたのだが、
20年前からは特に大規模な闘争は起こっていなかった。

しかし、先月30日に俺の村の共産党支部書記が
(奴は十年以上この職にあり、偽造タバコを作って儲けている地方皇帝だ)
隣の村に行って先方の代表と話をして、帰ってくるや隣村と戦うと言うんだ。

少なくとも鉄パイプ300本以上、ライフル十数本を準備した。
村の老人たちの大部分は開戦を支持している。

派出所の警官がやってきたが、
あれやこれやとタライ回しをされるだけで、解決できないままに去っていった。

地方皇帝いわく、
各戸ごとに少なくとも1人を動員せよ。
出さない家は敵を攻撃するついでに打ち壊す。
各戸ごとに100元を拠出せよ。
戦死した場合は10万元の見舞金を保証する。

昨夜、俺はさまざまな奇怪な声を耳にしながら寝た。
今日、戦いを始めるらしい。
すべての準備は完了して掛け声を待つばかりのようだ。

これは何時代だよ?
なんで俺の村はこんなことやってるんだ?

みんなすまない。
この事を拡散して多くの人に知らせてくれ。


広東の海陸豊地域では、俺が小学生のころまで烏旗軍と紅旗軍が戦っていたぞ。
なにか事があって紛糾すると、烏旗勢力に属する村と紅旗勢力に属する村とが棍棒を持って村境に集まるんだ。

中学に上がってからは似たような事件はもう無くなった。

烏旗軍と紅旗軍は政治とは関係ない。
宗族と関係があるんだ。


  ※海陸豊地域…現在の広東省東部・汕尾市に位置する海豊市と陸豊市のこと。
         民国時代には、軍閥革命家の彭湃という人物が「海陸豊ソヴィエト」という
         カオスな名前の政権を樹立したりもしている地域である。
           


  ※烏旗と紅旗…もともと、福建省や広東省は「宗族」という父系血族の団結がめちゃくちゃ強い地域。
           村ひとつがまるごと「李」さんや「陳」さんの宗族だったりする。
           (→中国でよく見る「李家鎮」とか「陳家囲」なんかの村名を想像するとわかりやすい)

           で、宗族同士が械闘(=武力衝突)をやってるうちに、
           戦国時代のように宗族や村が合従連衡して連合軍を作る場合がある。烏旗と紅旗もそのひとつ。
           この手のケースは清代中期から盛んになり、福建省仙游県の「烏旗軍と白旗軍」の対立とか
           福建省晋江市の「東佛軍と西佛軍」の対立とか、類似例は数多くある。

           現在はさすがに正面切っての大戦争はやらないようだが、
           暗黙の了解で隣の村が敵対派閥に属していたりする。現地に工場なんかを作る場合は注意が必要。


…清代の中国(特に南部)の農村部では、
科挙に合格したが官僚にならずに地元に残った
「郷紳」という半官半民の実力者が村や宗族を牛耳る事例が多かったという。

悪徳郷紳(=土豪劣紳)のなかには、
密輸や汚職で私腹を肥やしたり、械闘を扇動するような手合いもいたらしい。


いっぽう現代の中国の農村では、地域に土着して土皇帝と呼ばれるようになった
下級共産党幹部が過去の劣紳にかわって村を牛耳っているようである。


儒教イデオロギーが「中国の特色ある社会主義」に変わっただけで、
結局は現代の中華人民共和国も、下層部では歴代中華王朝とそっくり。
そんなことを今回の事例から感じる次第。


…おらこんな村いやだ。
http://blog.goo.ne.jp/dongyingwenren/e/dbd9f05454ebcc6ef12699aaaeaba4e8
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/138.html

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