★阿修羅♪ > 中川隆 koaQ7Jey > 100330
 
g検索 koaQ7Jey   g検索 3bF/xW6Ehzs4I
 前へ
中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100330
http://www.asyura2.com/acpn/k/ko/koa/koaQ7Jey/100330.html
[近代史02] ゴールドマン・サックス一人勝ちの秘密教えます_1_ 勝ち組になりたかったらこれ位の努力はしようね 中川隆
12. 中川隆[-8849] koaQ7Jey 2019年8月10日 05:55:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3884]

2019年8月10日
マレーシア、ゴールドマン現役・元幹部ら17人訴追 1MDB巡り

[クアラルンプール 9日 ロイター] - マレーシア当局は9日、政府系投資会社1マレーシア・デベロップメント(1MDB)を巡る汚職疑惑を巡り、米金融大手ゴールドマン・サックスの複数部門の現役・元幹部など17人を刑事訴追した。

訴追されたのは、ゴールドマン・サックス・インターナショナルのリチャード・ノード最高経営責任者(CEO)や中国の電子商取引大手アリババ・グループ・ホールディングのマイケル・エバンス社長ら。

ゴールドマンは債券発行を通じた65億ドルの資金調達を支援。マレーシア検察当局によると、規制当局に提出した書類に虚偽や誤解を招く記述や重要な省略が見つかるなどしたという。

トーマス司法長官は声明で、一部の幹部に会社が犯したとみられる罪の責任を問うとし、禁錮刑や罰金を求刑する考えを明らかにした。

ゴールドマンは訴追について誤りと主張し、争う方針を示した。
https://jp.reuters.com/article/malaysia-politics-1mdb-goldman-idJPL4N2554KI?il=0
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/364.html#c12

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
191. 中川隆[-8857] koaQ7Jey 2019年8月10日 06:26:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3876]
米国指令で「広島」原爆投下地決定したのは昭和天皇 !? 2013年8月 6日
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-ba5e.html


−現人神と神格化され、国民は直接会う事が出来ずご真影を拝まされていた昭和天皇の、これが実像だったのか。戦前昭和、先の戦争、戦後日本に幻滅を覚える−

 本日8月6日は「広島原爆の日」です。昭和20年(1945年)のこの日人類初となる原子爆弾が投下されてから、今年で満68年となります。

 今回はこの広島原爆投下に関して、大変語りづらい「昭和史の真実」を見ていこうと思います。

 こと「日本史」に限ってみても、さまざまな新資料の発見などにより近年各時代に新たな光が当てられ、従前の定説を覆す学説や見方が現われてきています。

 その一つが上古に起きた有名な大化の改新です。従前はこれによって我が国は、より文明的な律令国家へと向かうことになったなど肯定的な捉え方が主流でしたが、それとは異なる負の側面が最近クローズアップされてきているのです(これについてはいずれ記事にするつもりなので、今回種明かしはしません)。

 また一昨年の『真実の近現代概略史(4)』で既に見たとおり、坂本龍馬をはじめとする薩長土肥の下級武士たちが原動力と教えられた明治維新は、実はユダ金ロスチャイルド(&フリーメイソン)が裏で糸を引いていたのでした。

 その構図は日清戦争、日露戦争、日米戦争まで変わることなく続いたのでした(ただし日米戦争頃から米国ロックフェラーが新たに加わった)。

 お断りしておきますが、私が今回のようなことを述べるのは、虚飾に覆われた偽りの歴史ではなく、あくまで「真実の歴史」を知りたいからなのです。
                       
 タイトルとした『米国指令で「広島」原爆投下地決定したのは昭和天皇 !?』は、実は2011年8月『昭和天皇の戦争責任(1)』記事の中で既に述べられていたことです。「述べられていた」と他人事なのは、この記事は私自身が書いたものではなく、あるサイト記事の転載であるからです。

 この記事には「昭和天皇の戦争責任は明白だ」としか思えないエピソードがふんだんに盛られていますが、今回はそのうち「広島原爆投下」に特化して見ていこうということです。 
                       
 その前に、昭和天皇は先の戦争に本当に関与していたのかどうかだけは簡単に見ておかなければなりません。

 これについては、極東軍事裁判における、日米開戦時の首相だった東條英機の「我々は、陛下のご意志に逆らうことは有り得ないのであります。」という証言がすべてを物語っています。

 なおこの証言を知った昭和天皇は、超A級の戦争犯罪人として処刑されるのではないか、と焦ったそうです。それから天皇は、キーナン主席検事に上流階級の女性を提供するなどの裏工作を必死で行ったというのです。

 終戦までの昭和天皇は宮中の書斎にナポレオン像を置いていたほどの大のナポレオン狂で、太平洋戦争はナポレオンの戦略・戦術をなぞったものだった、という指摘もあります。

 緒戦となる真珠湾攻撃「成功」の報に接した時は、欣喜雀躍したそうです。

 戦時中の天皇は十分聡明で、一つ一つの作戦に御前会議などで直接指令を発していた、というのです。
                    
 このような「戦争好きの馬鹿ロマンチスト」(戦後のある華族の昭和天皇評)という戦時中の天皇の実像の延長線上に、今回問題となる「原爆投下地広島」決定問題があるのです。

 広島に原爆が投下された8月6日の2ヶ月前となる6月、この時点で昭和天皇は原爆投下の情報を当時の実質的米国権力者のスティムソン陸軍長官からの指令で受け取っていたのです。

 もちろんスティムソン陸軍長官から直々にということではありません。同長官はまずグルー駐日大使に伝えました。それから日本側の「ヨハンセングループ」に伝えられ、それを経由して宮中の天皇に届いたのです。

 ヨハンセングループとは何でしょう?これは当時の日本最大の米国スパイグループを意味しています。驚くべきことに「鬼畜米英」が叫ばれていた戦時中に、米国のスパイたちが暗躍していたのです。

 ヨハンセンとはある特定の個人を指す米国のスパイコードネームです。誰かといえば当時外交官だった吉田茂です。戦後名宰相とうたわれ最長政権を築いた吉田の戦前・戦時中の姿はスパイだったのです。

 中心人物の吉田茂のほかに、牧野伸顕、樺山愛輔、岡田啓介、米内光政ら外交官や海軍首脳がいました。当然のことながら彼らは戦後A級戦犯指定を免れています。

 余談ながらー。ヨハンセン吉田の孫が、今「ナチス容認」発言で国際的物議をかもしている麻生太郎副総理です。なお戦後A級戦犯指定を解かれ、首相となり60年日米安保条約を締結した岸信介は、戦後米国CIAのスパイでした。その“偉大な祖父”を尊敬しているのが安倍晋三首相なのです。

 今この国を牛耳る極右政治家二人の祖父が、共に米国の売国スパイだった。何ともグロテスクな構図ではありませんか。

 終戦直後の昭和天皇とマッカーサーとの会見は単なるセレモニーで、実は終戦の前に連合国側は天皇家の存続と昭和天皇の生命、財産の保全を決めていたのです。天皇制をうまく利用する方が日本統治上好都合と判断したからです。

 それを事前に知らされていた昭和天皇は、だからこそポツダム宣言も安心して受諾したのです。

 それはともかく。米国側からヨハンセングループを通して原爆投下地を決定するよう要請された昭和天皇は、「広島」と返答しました。

 なぜ広島だったのか?それには理由があったのです。

 その時点で終戦決定していた天皇にとって、一番の障害となることが予想されたのが陸軍の存在です。終戦と聞いてクーデターを起こしかねなかったからです。

 ついでに言えば昭和天皇は大の陸軍嫌い、裏を返せば「大の海軍びいき」でした。緒戦の真珠湾攻撃からミッドウェーなど各海戦がまず行われたように、日米戦争は海軍主導の戦争だったのです。

 しかし海軍の責任を追及することは天皇の戦争責任に直結するため、戦後その事実は隠蔽され、陸軍にすべての責任を押しつける「陸軍悪玉説」「海軍善玉説」が広く流布することになったのです。

 さて広島には陸軍の半分を指揮する第二総軍司令部がありました。ここが壊滅すればクーデターが防止できる。そう読みきった天皇は、「広島」と米国側に伝えたのです。

 マンハッタン計画により史上初の原子爆弾を完成させることに成功した米国は、第2次世界大戦のどこかでその威力を確かめたくてうずうずしていました。しかし同じ白人種であるドイツ国民に対して使用するつもりはまったくなく、当初からターゲットは黄色人種の日本国民だったのです。

 歴史の皮肉として昭和天皇が介在し、人類初の原爆が「広島」に投下されました。しかし広島ならずとも、日本の主要都市のどこかに原爆が落とされるのは確定的だったと言えます。

 だから以上述べたことが史実だったとしても、今さらあの世の昭和天皇を責めても詮無いところがあります。しかしこれ一つ取っても、「昭和天皇の戦争責任」は大有り、言い逃れ出来ないはずです。

 それにしても米国の手口は巧妙かつ狡猾です。日本の天皇を人類初の原爆投下の共犯者にしてしまったのですから。以来68年経っても米国政府が日本国民に謝罪しないのは、それが大きな理由なのかもしれません。 

 (大場光太郎・記)

関連記事
『昭和天皇の戦争責任(1)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-6425.html

『真実の近現代概略史(4)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-ecc7.html

http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-ba5e.html


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c191

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
192. 中川隆[-8856] koaQ7Jey 2019年8月10日 06:34:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3877]

2013年 08月 16日
太平洋戦争は帝国陸軍vs天皇・海軍の戦争だった!
https://nueq.exblog.jp/20859870/


     
     
     
わざと負けた帝国海軍

                           
太平洋戦争は

             帝国陸軍 vs 昭和天皇+海軍+アメリカの戦争

            GHQが使用を禁止した「 大東亜戦争 」と云う言葉

         ユダヤ:コミンテルン vs 反コミンテルンの第2次世界大戦
            コミンテルン = インターナショナリズム = 共産主義

                         講演会のお知らせ

日本敗戦の日:1945年8月15日から昨日で68年!


b0221143_1291444.jpg


                     左)8月15日 玉音放送後の皇居前
              右)ポケットに手を突っ込んだマッカーサーと昭和天皇
                         9月27日 米大使館公邸

b0221143_1294967.jpg


                    左)広島原爆投下1時間後の原子雲
                      投下機B29エノラ・ゲイより撮影
                  中)広島原爆CG再現 byクローズアップ現代
                         画像出典 : 浜野巌治
                    右)311:3月15日の3号機の原子雲
                http://stumsky.tumblr.com/post/5390163606/3
           ( ネバダ砂漠での核実験と3号機原子雲の類似写真はこちらをどうぞ )

表題にあるように、「 太平洋戦争 」は、日本 vs アメリカ の戦争ではなく、
帝国陸軍 vs 昭和天皇+帝国海軍+アメリカ の戦争だったのです。

にわかには信じがたいこの構造。
しかし、これは事実です。

一体、なぜ、第2次世界大戦:アジア戦線は起きたのか?
それは偶然か? 必然か?

と、問うならもちろん、「 必然 」 であり、そのように仕組んだ勢力があります。
その辺りの詳細は、若狭和朋さんと鬼塚英昭さんの著書に譲るとして、


b0221143_12122367.jpg


                左) 若狭和朋 「 日本人に知られては困る歴史 」 上下巻
                中) 鬼塚英昭 「 20世紀のファウスト 」 上下巻
                右) 鬼塚英昭 「 原爆の秘密 」 国内編・国外編

若狭和朋さんの著書の内容に関しては

                日本人に知られては困る歴史

で、紹介しています。
日本人必読の書です。

その複雑怪奇な内容と推移を、僕の情報筋からの内容をまとめて、あえて簡略化して云うなら、226事件( 1936:昭和11年2月26日 )によって昭和天皇は極度のトラウマ状態となり、これが原因で上記のような構造へと導かれます。

226事件は、公表的には帝国陸軍:皇道派の青年将校たちが「 昭和維新・尊皇討奸 」「 天皇親政 」をスローガンに企てたクーデター未遂とされていますが、これは事実のホンの一部分を取り上げたものにしか過ぎません。
実際には、昭和天皇を捕獲:廃帝にし、一応公表上、昭和天皇の弟とされている秩父宮を新しい天皇に据えるべく起こした帝国陸軍最強の第2師団( 仙台師団 )に依るクーデターで、青年将校たちの決起はその先遣隊だったのです。
先遣隊の暗殺&天皇捕獲に続いて、仙台から上野に秩父宮と共に向かっていた仙台師団は、帝国海軍陸戦隊が戦車隊まで繰り出して青年将校の先遣隊をが完全制圧したため、プランを断念せざるを得なくなってしまいます。


b0221143_1214163.jpg


                      左) 警視庁を占拠した反乱軍
                         中) 当時の新聞記事
                    右) 上陸した海軍陸戦隊の装甲車

                             画像出典
               中)89歳ブログ:紫蘭の部屋 「 (53)二、二六事件 」
               左右)探検コム 「 写真と証言で綴る『二・二六事件』」

ここに昭和天皇の帝国陸軍トラウマが始まり、これに若狭さんや鬼塚さんが描くところのユダヤと日本に依る満州共同経営を日本側が一方的に反故にしたことが重なって、ゾルゲ事件や帝国海軍:特に山本五十六と米内光政に依る対米開戦と云う日本( = 帝国陸軍 )敗戦へのプランが策定・実行に移されることになります。

つまり、

  1) 帝国陸軍の独走とそれを阻止したい天皇の戦い
  2) 満蒙支配権を巡る
       扶餘チュルク五族協和 vs 満州ユダヤ経営+世界鉄道( 帝国 )
  3) 支那利権を巡る列強の対立
  4) ユダヤ( コミンテルン )撲滅勢力 vs ユダヤコミンテルン世界帝国
  5) コーカソイド( 白人種 )による有色人種奴隷支配のステルス化
       vs 白人支配からの解放を目指す「 大東亜共栄 」

といった、国際的・国内的様々な要因を背景として、1)2)5)を日本の国内条件として「 日本の第2次世界大戦 」が策定されていきます。
また、コーカソイド( 白人種 )ユダヤ・サイドからは、日露戦争の戦後処理(1905)の怨念を契機に、第1次世界大戦(1914) 〜 満州事変 〜 日支戦争 〜 日米開戦 へと連なる一連の流れを作り、世界で唯一コーカソイドに対抗しうる勢力へとその力を回復( 織田信長時代以来 )した日本を完膚なきまでに叩き潰して完全奴隷化・日本解体を目指した30年計画でもあったのです。

予定通りに行けば、日本はドイツのようにアメリカとソ連で分け合う完全植民地となったことでしょう。

ところが、ここで異変が起こります。
アメリカの非ユダヤ勢力が、ルーズベルトのコミンテルン( マルクス共産主義 = インターナショナリズム )路線と、同じく隠れコミンテルンのチャーチル、それに共産主義のスターリンの密約よる世界乗っ取りにどうやら気づいたようで、これがルーズベルトの暗殺に動きます。 クリント・イーストウッド監督 : デカプリオ主演:FBIを造ったフーバー長官の映画 「 J・エドガー 」 は、この辺りの真相をほのめかしています。 そしてこの映画の封切り直前にはルーズベルト直前の大統領:フーバー大統領を描いた「 Freedom Betrayed 自由は裏切られた 」がアメリカで出版されています。 そう、「 自由は裏切られた 」 のです。


b0221143_12164247.jpg


                             J・エドガー
                    左上)執務室に入るフーバー長官
                         左中)機密ファイル
          真ん中の囲みに100%ユダヤ人:エレノア・ルーズベルト夫人の名前
             ルーズベルトはルーツ:スペインではローゼンブルグだった
                   左下) フーバー長官の秘書との問答

異変 : ルーズベルト大統領の暗殺とトルーマン大統領の就任によって、対日戦略は大転換されます。 すでに共産主義国となったソ連、支那の赤化( 共産主義化 )への防波堤とするために日本列島の活用が新戦略として浮上します。

  広島・長崎への原爆投下は対日本戦には不要ながら、
  マンハッタン計画の生みの親:バーナード・バルーク子飼いの
  ジェームス・バーンズ国務長官によってソ連への警告と
  イエローモンキーをモルモットにした動物実験として行われます。
  本当は多くの広島・長崎人が被曝による癌などで大量に死亡してますが、
  そのデータはAABCがすべて持ち帰り、
  被曝による癌などの後遺症や死亡者数は極めて軽重である
  とのマヤカシが日本国内では蔓延しています。

  広島・長崎に原爆を落した本当の訳
  

  ユスタース・マリンズによる内容で、ここでは、
  1945年5月のサンフランシスコの会議を主題としてますが、
  日本との停戦を引き伸ばして原爆を落とすプランは1月には決定されていたし、
  前年の10月頃から計画されていたフシがある。
  5月は原爆完成日程の確定と決定事項の伝達の場だったのだろう。

こうして対共産主義防波堤として、日本に資金と技術を投下して日本の高度成長が始まりますが、旧帝国陸軍勢力と田中角栄+ケ小平による中国の原爆開発が推進されるに至って、アメリカは大方針を再度転換します。
その象徴的事件となったのが、1976年のロッキード事件による田中角栄の失脚、及び1985年の「 御巣鷹山事変 」と、その直後のプラザ合意です。

詳しくは

    フクシマは核兵器製造工場?

をご覧ください。


さて、話題を、帝国海軍の裏切り行為へと戻します。

日本はアメリカとの戦争を絶対避けなければならない。
と云う大前提の下にありました。

ご存知のように、アメリカはヨーロッパ戦線に参入するために、そして絶対にアメリカ人を戦場に送らないと約束して3選したルーズベルト大統領にとって、アメリカ国民が怒り心頭になって逆にルーズベルト大統領に参戦を要求するシチュエーションを必要としていました。

そこに、アメリカの歴代の戦争手口が参考になりました。
古くは、インディアンがやったことにされている頭の皮のまる剥ぎや、アラモ峠の戦いなどで培った偽装先制攻撃を日本に適用することとなり、日本側協力者と共謀して、ハワイ真珠湾への奇襲攻撃と宣戦布告文章の遅刻偽装を行い、これによりだまし討ちの既成事実を作り上げ、狙い通りに「 卑怯なイエローモンキー 」への報復にアメリカ社会が沸騰するように仕向けました。
もちろん、ルーズベルトにはフィリピンのマッカーサーから、日本海軍が真珠湾攻撃を目指して千島列島に集結中との報告は出ていましたが、一切手出しないように指示の電文を飛ばしています。 そしてアメリカ時間12月7日(日)、911の時と同じく、レーダーのスウィッチを落としていたのです。


b0221143_12192963.jpg


                         真珠湾攻撃 と 911
                   どちらもレーダーがOFFになっていた。
                   911直後、子ブッシュが口にしたのが
                     「 リメンバー・パールハーバー! 」
                  ご丁寧にも2001年5月に江沢民出資の
       映画「 パールハーバー 」が封切られ、前宣伝は行き届いていたのでした。


山本五十六による真珠湾攻撃の計画は半ば唐突に登場し、連合艦隊司令長官辞任をちらつかせながら海軍首脳部に迫り、わずか50日前に認められたものです。 これによって南方作戦で対フランス・対オランダを制し、インド洋に進出してイギリスの補給線を断ってエジプトのナチスを側面支援。 同時にインドの独立を達成するというシナリオが根底から覆されてしまいます。
しかも当の山本五十六連合艦隊司令官は真珠湾攻撃時、日本国内から司令を出していたのです。

そして、真珠湾攻撃やその後の展開のポイントを列挙するなら、

 ・ 9年前に米軍は真珠湾攻撃と全く同じシミューレーション演習。
   ※ まるで911の数年前の、WTCに突っ込む3流ハリウッド映画みたいだ。
 ・ ルーズベルトは日本が行動を起こすように仕向けるプランを1年前から用意。
 ・ ルーズベルト大統領は日本海軍の動きと目的をすべて知っていた。
 ・ 対米宣戦布告が真珠湾攻撃に遅れるよう工作した。工作現場担当者は、
   野村吉三郎駐米大使・井口貞夫参事官と奥村勝蔵一等書記官。
   ※ 戦後、井口は米大使に、奥村は事務次官・スイス大使へと大出世。
 ・ 山本五十六は対アメリカ不戦を反故にして強引に対米戦線を開いた。
 ・ 真珠湾で沈めたのは老朽艦ばかり。 空母は無傷。
 ・ かけがいのないハワイの海軍大工場と巨大燃料タンクは無傷。
 ・「 リメンバー・パールハーバー! 」の合言葉となって
   アメリカが第2次世界大戦に参戦するきっかけを作った。


   これによって絶対優勢だった欧州のドイツと東洋の日本が惨敗することになる。

真珠湾攻撃に関して、海軍少将だっだハーバードのモリソン教授は米海軍の依頼で編纂した公刊戦史の中で

  真珠湾に対する攻撃は、日本海軍自らが戦後表明したように、
  まったく戦力的必要からはるかにかけ離れたものであって、
  これは戦略的には愚の骨頂であった。

  何人(なんびと)も戦史上で、侵略者に対し
  これ以上致命的であった作戦の事例を探し求めることは出来ない。
  すなわち、戦術面では恒久的施設( ドッグヤード等 )と
  燃料タンクを攻撃せず、艦船のみに攻撃を集中する錯誤を犯した。
  戦略的に見ればこれは馬鹿げている。
  さらに政略的に見れば、それは取り返しのつかない失敗だった。

  この背信的攻撃が、アメリカ国民をして全力をあげて対日戦争に突入させ、
  また、真珠湾の「 不名誉な日 」を償うには、全面的勝利を得る以外、
  彼らを満足させることがないよう結集させたことから、
  この真珠湾攻撃は最低の戦略だった。

と、酷評しています。

つまり、米内海軍大臣と山本五十六聯合艦隊長官、南雲機動部隊司令官は、アメリカ側が望むすべてを提供し、日本が敗戦に至るすべての条件を設定したわけです。
https://nueq.exblog.jp/20859870/


わざと負けた帝国海軍
https://nueq.exblog.jp/20859900/

太平洋戦争は

             帝国陸軍 vs 昭和天皇+海軍+アメリカの戦争

            GHQが使用を禁止した「 大東亜戦争 」と云う言葉

         ユダヤ:コミンテルン vs 反コミンテルンの第2次世界大戦
            コミンテルン = インターナショナリズム = 共産主義

                         講演会のお知らせ


更に、海軍は

 ・ 長期持久戦の戦略方針を捨てて、いきなり無謀ともいえる
   積極的な太平洋前面攻略に着手する。
   つまり、アリューシャン列島・ミッドウェー経由でハワイ攻略、
   オーストラリア北部〜フィジー・サモア攻略を計画。


b0221143_1221389.jpg


                        画像出典 : 戦跡の歩き方


軍事のいろはの「 い 」は、補給 = ロジスティック。
補給線が長く伸びきってしまえば、時間がかかる。 補給線を分断されやすい。
「 無謀な太平洋攻略 」 とは、このことで、ワザと負けるために方針転換したと
云っても過言ではないお粗末さです。


そして起きたのが、ミッドウェー海戦での大惨敗。
山本五十六の指示で南雲機動部隊がミッドウェー攻略に出撃するが、圧倒的に優勢だった日本海軍が、まさかの空母4隻の沈没:機動部隊の壊滅と云う前代未聞の惨劇となる。
アメリカ側の空母は沈没は3隻中の1隻。
ここから日米の形成は逆転してしまい、以降は連戦連敗の敗走を続けることとなります。


b0221143_12214642.jpg


                     左)大爆発を起こす空母「 加賀 」
        右)311の放射線線量と何も変わらない戦中の隠蔽・改竄の大本営発表
                               ↑
                      時系列が逆ですが。。。(^o^)ゞ

しかも時の総理大臣:東条英機には知らせることなく、東条は一ヶ月以上遅れてミッドウェーの真実を知ることになる。 自軍の壊滅を知らずして一体どのような戦略が組み立てられるのだろうか?

 ・ 山本五十六はミッドウェー攻撃をゴリ押しした。
 ・ 出撃の目的は敵機動部隊の殲滅にありながら、
   南雲司令官はミッドウェー島攻略を主眼とした。
 ・ 当初空母艦載機は艦船攻撃用の魚雷を装着していた。
 ・ 偵察機出動30分前、突然ベテラン偵察員がはずされ、
   初出動の新米偵察員に交代させられる。
 ・ 偵察機があろうことか、雲の上を飛んだ。
   雲の上から偵察など出きっこない! ( 日本はレーダーを持ってない )
 ・ 敵空母艦隊がいないので魚雷を地上攻撃用の爆弾に装着換え。
 ・ 偵察機は帰りに雲の下を飛んでやっと敵空母艦隊を発見。
 ・ 敵空母艦隊近接情報で爆弾を魚雷に再度装着換え。
 ・ 装着換え中に敵航空部隊が襲来し、空母4隻他機動部隊壊滅。
 ・ ベテランパイロットほぼ全滅。
 ・ 山本五十六はミッドウェー攻撃直前、呉で愛人と同宿。
   まるで311当日の盗電:清水社長の赤坂:韓国キャバレーみたいだ。


そして1943年4月18日、山本五十六はラバウル近傍で米軍機の攻撃で墜落。
死亡と伝えられていますが、果たして、、、、、、
ノリエガ、フセイン、ビン・ラディンなどの例もあるように
本人の希望通り戦後は南洋の島かハワイで優雅な一生を送ったとも考えられます。

帝国海軍はその後も更に、

 ・ トラック諸島、ガダルカナル、ニューギニアにおける戦略上の大錯誤。
 ・ マリアナ沖海戦( 日空母7隻 vs 米空母15隻 )での七面鳥撃ちで
   日本海軍ほぼ全滅状態に。
 ・ フィリピン:レイテ沖海戦での「 栗田艦隊謎の反転 」
   防備丸空きのマッカーサー本隊を目前になぜか突然の反転・戦線離脱。
   栗田は戦後、栗田工業を起こし、東証一部企業に。
 ・ 90万人の帝国陸軍を南洋に無理やり送り込みながら
   海軍は補給を行わず、陸軍兵士の9割は飢餓や
   栄養失調・免疫低下に伴うマラリアで死亡。
   戦闘で死亡したのはたったの1割と云われている。


と、日本敗戦に向けて忠実に布石を打っていったように見受けられます。


縷々検証してきたように、海軍の行状は、アメリカに参戦の口実を与え、帝国陸軍の戦力を削ぎ、ワザと日本が負けるように振る舞った。としか言い様がありませんし、事実そのような意図を持っていた。とある筋より聞かされています。
また、当時海軍内では、「 主敵は陸軍だ! 」とも叫ばれてたのです。

こうした海軍の行状や戦場での状況は海上自衛隊作戦幕僚などを歴任した是本信義さんの著書の中で詳しく論じられています。

b0221143_1223465.jpg


              是本信義 「 誰も言わなかった海軍の失敗 」 2008/07

                 是本信義
                 1936年 福岡県生まれ
                 1959年 防衛大学校卒業
                 1959年 海上自衛隊入隊
                        護衛艦艦長、護衛隊司令、
                        艦隊司令部幕僚、総監部防衛部長、
                 1991年 海上自衛隊退官
                 2006年 民間企業の経営職を経て執筆活動に専念

           是本氏は、枝葉末節から枝ぶり・幹・樹、そして森に至るまで
           見事に描ききっていますが、
           残念なことになぜ、そこに森があるのか?
           森を育んだ環境・地勢(地政)学的視野がありません。
           つまり、なぜ失敗したのか?
           について、最初から画策されていたと云う 「 政略的・地政学的 」 視座がない為、
           帝国海軍の不甲斐なさが強調される結果となっています。

そして、御前会議の内容は翌日にはアメリカ側に伝わっていました。
その連絡ラインが、鬼塚英昭さんによると、吉田茂 〜 樺山愛資( 貴族 )〜 駐日アメリカ大使:グルーのラインでリークされていたとのことです。 そしてグルー大使離日後は、吉田茂が直接ヨーロッパ経由で伝えていたものと推測されます。
日本軍の暗号も、その暗号表が事前にアメリカ側にもたらされていたとしても別に驚くにはあたりません。


b0221143_12261427.gif

ゾルゲグループに依る日独伊3国同盟への誘導と、ソ連をドイツと挟撃する戦略への誘導、それにヨハンセングループによる日本国内のトップシークレットの連合国側へのリークなど、昭和天皇を中心とする日本敗戦への綿密な深層潮流の準備がなされていたことが窺えます。

ところが、太平洋戦争緒戦段階での日本軍の快進撃が、昭和天皇に色気を出させた様だ。 とある情報筋は伝えています。 もちろんその内容はアメリカ側に筒抜けです。
これが、アメリカ側による停戦回避 = 過酷な日本攻撃と、2発の原爆を誘い込んだ可能性も指摘されています。

また、黒田善治と云う重慶から司令を出す天才的魔物は、一体どこからの司令を受けて日本を支那大陸の底なし沼に誘い込んだのでしょうか?

その中枢には上で触れたように「 コミンテルン = インターナショナリズム = 共産主義 」と云うドス黒い世界的な闇が広がっていますし、その対抗軸としてレトリック的に( 言葉上の意味合いで )誕生した 「 自由主義経済 」陣営なるものの両天秤を操るユダヤ金融勢力、或いはユダヤを隠れ蓑に用いる青い血が身体に流れる勢力、更にそれらと対抗する自由を標榜する勢力など、 現代に至る難問が待ち受けているようです。

進駐してきたアメリカGHQは、30箇条の検閲により、「 大東亜戦争 」と云う語の使用を禁止し、「 太平洋戦争 」なる単語を作り出します 。 「 大東亜戦争 」と云う語に含まれる「 アジアの正義の確立 」と云う匂いを完全に抹殺し、「 日本によるアジア侵略 」と云う概念を日本人やアジア人に植えつけるための政策です。

「 日本の侵略 」と云う語を今では何の抵抗もなく使うニッポン人が多いですが、侵略者は16世紀以来変わることなくコーカソイドの連中です。

   ※ コーカソイドの中に僕は多くの友人を持ちます。
      コーカソイドの連中 と云うのは、勢力としての。
      と云う意味であり、一般の生活者のことではありません。

アジアの国々は、コーカソイド+ユダヤによる分断工作により、いがみ合う関係に陥っています。 中華民国も中国共産党もアメリカやユダヤ・コミンテルンによって誕生し操られてきた勢力です。 それは昭和天皇や帝国海軍が同じように操られ、国内騒動を拡大した結果として招いてしまった第2次世界大戦アジア戦線であり、戦後のアメリカ植民地と化してしまった現在の亡国ニッポンの姿です。 幕末、徳川慶喜が最も恐れたのが国内を二分する内戦状態。 慶喜の恭順によって国内戦は最小限に食い止めることが出来ました。( 薩長の東北追撃戦は英米の内戦拡大の意を受けてのことです。)

そろそろニッポン人は、にほん人へと目覚める必要があるのではないでしょうか?


                     Japanって、どこの国よ?
                     ジャパンとニッポンとにほん


亡国日本、その最期のトドメが 「 TPP 」 です。
これを阻止し、フクシマの棺桶化や全国の土壌除染を行い、全国民に内部被曝完全除去を無料で実施し、侵略者:コーカソイド支配層をこの地球上から葬るためにも、現在の 「 明治簒奪ニッポン政府 」 を叩き潰し、日本人に卑屈な 「 お上 」 根性を植え付けてしまった江戸時代を逆上って、ヨーロッパによるアジア蹂躙を蹴散らす勢いだった 「 大うつけのバサラ 」 織田信長時代の 「 にほん人 」を取り戻し、にほん人によるにほん人のためのにほん政府を創り上げようではありませんか!


                         ザビエル 〜 黒船 〜 TPP
                織田信長 = チンギス・ハーン + レオナルド・ダ・ヴィンチ
                          安倍晋三 = 井伊直弼

   

https://nueq.exblog.jp/20859900/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c192

[リバイバル3] 高配当銘柄を買うとこういう目に遭う _ JT 日本たばこ産業 (2914) 中川隆
3. 中川隆[-8855] koaQ7Jey 2019年8月10日 06:42:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3878]

2914 - JT 2019-08-08〜 - 株式掲示板 - Yahoo!ファイナンス掲示板

313 ai_***** 8月10日 00:05


(中間決算 業績)
15 / 調営3,288 / 償却152 / 支利19 / ☆3,117
16 / 調営3,183 / 償却240 / 支利40 / ☆2,903
17 / 調営3,146 / 償却236 / 支利54 / ☆2,856
18 / 調営3,178 / 償却289 / 支利69 / ☆2,820
19 / 調営2,877 / 償却346 / 支利142 / ☆2,389
☆ = 調整後営業利益 - 無形資産償却費 - 支払利息

(中間決算 期中平均株式数)
15 / 1,799,878,919
16 / 1,790,842,738
17 / 1,790,981,910
18 / 1,791,202,858
19 / 1,779,826,267

(中間決算 法人実効税率)
15 / 28.8%
16 / 26.5%
17 / 24.9%
18 / 25.0%
19 / 17.9%
* 法人所得税費用 / 税引前四半期利益

(中間決算 為替レート 1ドル当たり)
15 / 120.30円 / 57.47ルーブル
/ 0.66ポンド / 0.90ユーロ
16 / 111.70円 / 70.29ルーブル
/ 0.70ポンド / 0.90ユーロ
17 / 112.34円 / 57.98ルーブル
/ 0.79ポンド / 0.92ユーロ
18 / 108.67円 / 59.34ルーブル
/ 0.73ポンド / 0.83ユーロ
19 / 110.06円 / 65.34ルーブル
/ 0.77ポンド / 0.89ユーロ

JTの業績は2015年12月期をピークに下落しています。不動産売却益やリストラ費用、ライセンス一時金などの変動要因を除いた業績はこの4年で▲23%下落しました。

国内加熱式たばこの出遅れと新興国通貨安・円高による為替影響により営業利益が▲411億円減少し、アメスピ、エチオピア、フィリピン、インドネシア、ロシア、バングラデシュにおける1兆3,000億円買収により償却費用と利息が+317億円増加したことが要因です。

一方、この4年で自社株を▲1.1%減少させるとともに、法人実効税率が▲10.9%減少しています。

法人税が急激に減少している理由ははっきりと分かりませんが、2018年3月の寺畠氏社長就任が要因ではないかと考えられます。

それまでJT本体が円とドルで資金調達していましたが、2018年9月にJTが1,000億円を調達するのに合わせて、JTIとして初めて10.25億ドル、約5.5億ユーロ、4.0億ポンドの資金調達を実施しました。現地通貨での資金調達は円に比べて支払利息が増える一方、為替変動を小さくするメリットがあります。また、JTI本社がスイスジュネーブにあり、ジュネーブ州の法人実効税率は13.49%(2020年1月〜)となっており、日本の実効税率30.86%に比べて極端に低くなっています。今回法人税率が10%以上も変動しているのはこの資金調達の変更が大きく影響しているのではないかと予想されます。

これまでの日本(国内部門)主導からスイス(海外部門)主導へと変わりつつあるJT。海外のノウハウを活用し、真のグローバル企業への昇華が期待されます。
https://finance.yahoo.co.jp/cm/message/1002914/a3ja3t/105/313
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/976.html#c3

[近代史3] 中野剛志 _ アメリカで大論争の「現代貨幣理論」とは何か 中川隆
33. 中川隆[-8854] koaQ7Jey 2019年8月10日 09:23:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3879]

2019年8月10日
アングル:MMT理論、5つの疑問点
Reuters Staff


[ワシントン 7日 ロイター] - 米国を中心に話題となっている現代貨幣理論(MMT)について、5つの質問に対する答えをまとめた

◎主な考え方は

高名な経済学者のジョン・メイナード・ケインズと同様、MMTの提唱者らは、就労を望む人すべてが職を得るのに必要な需要が不足している時、政府が需要不足を補う上で重要な役割を担えると考えている。

経済学者ハイマン・ミンスキーの考え方も参照している。ミンスキーは金融バブルに関する仕事が最も有名だが、市場システムには完全雇用を達成できない傾向が本来備わっているとの考え方も示している。

MMT提唱者らは、ケインズと同時代の学者アバ・ラーナーの著作からも、貨幣需要に関する独自の見解を導き出している。MMTの考え方では、政府だけが発行し、かつ政府が財およびサービスに支出できる通貨で納税するよう国民に強制できる政府の権限が、貨幣需要の根幹を成す。つまり政府支出は、全景気サイクルを通じて需要を安定させる全国民への雇用を保証するプログラムなど、中核的な政策に利用できるというのがMMTの見解だ。

◎インフレを招かないのか

MMT提唱者らの考えでは、自国通貨を持つ政府には「予算制約」がない。言い換えれば、いつでも通貨を発行できるので資金が不足することはない。MMT理論では財政政策を経済安定化の主要な道具とみなしており、選挙で選ばれて政府の要職に就いた人々が雇用の保証などの目的達成に必要な支出決定を行うことに信頼を置く。

それではインフレを招くからこそ過剰な支出を監視する独立した中央銀行が必要なのだ、との指摘もある。MMT提唱者もインフレのリスクは承知しており、そのリスクが制約となって政治家に誠実な行動をとらせると考えている。MMTの枠組みでは、インフレは実物資源の限界の産物であり、インフレを抑制するために支出、税制、各産業の規制政策を決めるのは議会の役割だと見なされている。

◎雇用はどうなる

MMT提唱者は労働力を主な資源と見なしている。中心的な考え方は、労働力の過少利用が米経済の慢性的な問題であり、米連邦準備理事会(FRB)が近年、物価目標の達成に苦心している主因である、というものだ。提唱者は、就労を望む者全員に政府は雇用を保証すべきだと主張する。景気サイクルの良し悪しに応じ、民間部門の就労人数に対する政府保証職に頼る人数の割合は伸縮し、景気拡張期には民間部門が人材獲得のため賃金を引き上げる必要が生じるため、人々は高賃金につられて民間の職を求める。

◎FRBに残される役割は

MMT理論では、FRBはおおむね無駄な存在だと見なされている。MMTの枠組みでは、議会が参照金利(ゼロの場合もあり得る)を決め、FRBがそれを運用する。しかし全国民に雇用が保証されるため、完全雇用を達成するというFRBの責務は形骸化する上、物価も財政的な手段によって制御されることになる。FRBには金融監督の役割が残るほか、危機時の「最後の貸し手」機能も維持される。

◎裏目に出ないか

MMT理論では、選挙で選ばれた要職者および政府の規制機関に大きな信頼が置かれ、これらが正しく振る舞い、予算運営で卓見に富み、物価も非常に正確に制御できるとされている。批判派は、金融市場と世界的な資金フローが反乱を起こす可能性が見過ごされている、と指摘する。

MMTの枠組みでは、為替は変動相場制となる。米国財政への信頼が失われればドルが下落し、輸入物価の上昇を通じてインフレが起こったり、さらに悪いことに金融危機につながる恐れがある。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/314.html#c33

[政治・選挙・NHK264] 共闘の4年間と野党連合政権への道***日本共産党創立97周年記念講演会*志位委員長の講演 AAA+
1. 中川隆[-8853] koaQ7Jey 2019年8月10日 14:49:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3880]
日本共産党や労働組合は日本経済を永遠に立ち直らせなくする目的でマッカーサーと GHQ が合法化した


マッカーサーの歪んだ人格

連合軍総司令官として日本に乗り込んできたダグラス・マッカーサーには多くの知られていない逸話があり、その一つは事実上「日本共産党」の創設者だという事です。

日本共産党と名乗る団体は戦前から存在し、日本をソ連の植民地にするため活動していたが、非合法テロ組織という位置づけでした。

日本の統治者として君臨したマッカーサーには人格上の欠陥があり、『ニセ写真』作りを趣味にしていた。

         

硫黄島に米国旗を立てる写真とか、マッカーサーがフィリピンの海岸に上陸した写真などは全部”やらせ写真”でした。

マッカーサーは映画監督のように戦場で写真や動画撮影を指示し、気に入った構図で自分がヒーローに見えるように報道させていました。

厚木飛行場の輸送機からコーンパイプを咥えて降りてくる写真も、専属カメラマンに映画撮影のように撮影させました。


この時日本軍は武装解除されていたが、襲われるのではないかという恐怖心から、マッカーサーは小便を漏らしていました。

日本に到着してからも彼は、あらゆる写真で自分が格好良く見えるように撮影するため、専属の撮影スタッフを周囲に置いていました。

昭和天皇とマッカーサーが面会した有名な写真があり、マッカーサーは作業服のような軍服のズボンに手を突っ込んでいます。


正装ではなく平服で、胸のボタンを全部止めず、身体を斜めにして立っていたのも計算しつくした『構図』でした。

昭和天皇が自分よりかなり背が低いのが目立つように、昭和天皇を直立不動にさせ、自分がくつろいでいるように撮らせました。

当時新聞を統制していたのはGHQなので、新聞に掲載する写真も記事も、GHQが決めていました。


「マッカーサーが日本の支配者であって、天皇はこれほどみすぼらしい」と日本人に見せ付けて天皇を貶める目的でした。


GHQは何の根拠で日本を占領していたのか

マッカーサーについて70年間一度も議論されず、タブーになっている事は、実は正式な資格が無いのに日本を統治していたという事実です。

マッカーサーは連合軍司令長官だったが、一体何ゆえに日本の支配者となったのか、この根拠が曖昧なままなのです。

日本が1945年8月15日に停戦したとき「ポツダム宣言を受諾し、占領地を放棄する」と言いましたが、アメリカが日本本土を占領して良いとは誰も言っていません。


アメリカ大統領や国連事務総長、あるいは国連安保理が任命したからと言って「だから何?」という事です。

降伏したら占領されるのが当たり前という主張もあるが、それなら日本はロシアを占領できるし、朝鮮や中国の占領は正しかった事になります。

1945年9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリ上で、連合国各国と日本代表団が日本の降伏文書に署名調印しました。


文書には連合国軍最高司令官の指示に基づき、日本政府は日本軍と日本国民を従わせると書かれているが日本占領には触れていない。

8月15日の玉音放送でも、9月2日の降伏文書でも連合軍が日本を占領できるとは書かれていない。

日本軍の武装解除については書かれているが、連合軍の日本占領には、天皇や他の誰も合意していない。


マッカーサーが小便を漏らしながら厚木飛行場に降りたのは8月30日、連合軍先遣隊が厚木に到着し武装解除したのは8月28日だった。

9月2日に降伏文書に調印し、9月15日にGHQ本部が日比谷に設置され、GHQによる日本統治が始まった。

だがマッカーサーは武装解除までは良いとして、一体どのような条約や合意に基づいて「日本占領」をしたのだろうか。


この写真も自分は立派に見え、天皇は「みすぼらしい小男」に見えるよう計算されている
mig


日本国憲法はアルバイトに書かせ脅迫して成立させた

法的根拠がないのに一介の軍人が日本を占領して独裁者になった事が、その後の日本の70年に大きな悪影響を与えた。

例えばマッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、政府が帝国憲法の改正案を示すと、これを拒絶して独自の憲法を創作させました。

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に命じて適当な憲法草案を書かせて、日本政府に無断で新聞に発表しました。


東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は新憲法が非民主的だとして辞職し、マッカーサーは「もう一度東京を空襲してやろうか」と言って議会を脅迫しました。

日本人は新聞に書いてあるからには日本政府が作ったのだろうと思い込んだが、実際にはマッカーサーがアルバイトに書かせた落書きでした。

東京大学などの法学者もこのやり方に怒り、新憲法反対の立場を取ったが、GHQは反対するものを「戦争犯罪人」として逮捕していきました。


新憲法に反対するものは戦犯になり処刑されるか刑務所に入れられると分かり、反対する人間は居なくなりました。

こうしてできたのが現在の「日本国憲法」であり、日本人は一切関わっていないし、民主主義とは正反対の経緯で成立しました。

マッカーサーが日本を統治するために優遇したのが共産主義者で、特に逮捕歴がある共産主義者を好んで重用しました。


GHQを創設するとすぐに、共産主義者や反政府主義者を釈放させ、労働組合や政党を結成させました。

こうして誕生したのが日本共産党と日本社会党で、事実上GHQが合法化し創設したのです。

マッカーサーの意図は日本の「犯罪者」である天皇や旧時代の権力者に対抗させるため、反政府主義者に力を持たせる事でした。


マッカーサーの共産党優遇

マッカーサー自身は共産主義者ではなかったが、それ以上に日本の「右翼」を嫌っていたので、共産主義者を重用しました。

GHQは主要な新聞社に共産主義者を雇用するよう圧力を掛け、応じなければ事実上活動できなくしました。

こうして日本の新聞社やNHKの上層部は共産主義者や戦前の逮捕者、反政府主義者になり、今日まで続いています。


マスコミだけではなく銀行や企業にもこうした圧力が掛けられ、自動車で有名な「日産」などは特に酷かったとされている。

日産は戦前には三菱や三井以上の最大の財閥だったが、戦争に協力したとしてほとんど解体されました。

自動車生産も認められなかったが、朝鮮戦争勃発で軍事生産が必要になり、共産主義者を経営に参加させる条件でようやく認められました。


こうしたGHQの共産党優遇は1948年まで続いたが、1949年になると米ソ冷戦が始まり、米本国は日本を再軍備させる方針に突然変わりました。

その変化は急激なもので、それまで日本人をわざと飢えさせては笑いものにして楽しんだり、なるべく日本経済が破綻するように仕向けていました。

ところが1949年のある日から、本国は「日本軍を再結成させろ」「日本の産業を立て直せ」と命令してきました。


マッカーサーは最初本国からの指示を無視していたが結局従わざるを得なくなり、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。

マッカーサーの間違いは誰の目にも明らかになり、その後アメリカは何度も日本軍を再建しようとしては、日本政府と対立する事になります。

この後日本ではマッカーサーの後遺症で反日カルト政党が大ブームになり、今も日本を破壊するために”日々努力”しているようです。


マッカーサーの占領下では日本を貶めたり日本を破壊する事が正しいとされ、日本の為に貢献する人は戦犯や右翼と決め付けられました。

マスコミは全てGHQの統制下にあったので「日本国民はマッカーサー様を心から慕っています」などの気持ち悪い記事が量産された。

北朝鮮の新聞が金正恩を褒めるのと同じで、これほど気持ち悪い事はない。


そして当時GHQの為に報道していた新聞やテレビは、当時の本当の事を決して話そうとしない。

▲△▽▼

日産はなぜルノーに乗っ取られたのか


日産は90年代に経営破綻してルノーが買収したが、どうしてこうなったのでしょうか。

1991年から98年にかけて確かに日本は不況だったが、他の自動車メーカーは破綻していません。


有名な逸話として日産では社長や経営陣にモデルチェンジの決定権がなく、工場長が決めていました。

座間工場など有力な工場長は労働組合幹部を兼ねていて、労働組合の合意がないとモデルチェンジできませんでした。

日産マーチは8年間モデルチェンジしないと労組と約束し、他の車も老朽化したまま放置されました。


トヨタは4年ごとにモデルチェンジしていたのに日産は6年か8年ごとなので、その差は販売に現れました。

こうして日産はホンダにも抜かれて国内3位メーカーになり、海外でも売れず経営破綻に至りました。

日産の労働組合が強大な力を持つに至ったのは、GHQ(連合軍総司令部)の命令で、日本軍に協力した懲罰でした。


各国政府が都合よく日産を利用した

日産は戦前満州や朝鮮の軍事輸送に深くかかわり、陸軍の軍用車の大半を生産していました。

GHQはこれを問題視して財閥解体したうえに、自動車の生産を禁止しました。

禁止しただけでなくGHQは日産を「戦犯企業」と定義し、戦前の逮捕者や共産党員、在日韓国人を経営に参加させるよう強要しました。


この強要は戦前軍部に協力した朝日新聞などの新聞にも行われ、日本の新聞は共産党員や左翼活動家らが支配することになりました。

日産の自動車生産は数年後に許されたがトヨタと大差がついていて、本格的に再開されたのは1950年の朝鮮戦争以降でした。

皮肉なことに米軍は朝鮮での戦争協力を日本に依頼して、日産にも軍事協力を求めてきました。


戦前は日本軍べったりだったが、戦後も米軍の軍事企業として再開を許されたのです。

朝鮮戦争は終わったが続いて高度成長時代になり、日産の自動車生産は順調に増えました。


ここで襲い掛かったのはオートバイや自動車メーカーの乱立で、日本政府はメーカー統合を強要しました。


GHQは日産労組や幹部に共産党や左翼活動家を採用させ、大混乱に陥れた

GHQが指名した人物なので日産は絶対に解雇できない


フランス対日本になった理由

スカイラインなどを生産していたプリンス自動車を日産が吸収合併したのが、これが後に禍根となった。

プリンス側は対等合併と聞いていたのに実際は合併すると日産側の社員が威張り散らし、プリンス社員は解雇されたり苛めで辞めされられた。

日産はスカイラインという美味しいブランドだけを利用し、GTRなどの人気車を生み出しました。


このプリンス統合も労組や経営陣に激しい対立を生み、経営破綻につながっています。

1990年に日本はバブル崩壊し車の売れ行きが急減、日産が得意とした若者向けスポーツカーは全滅しました。

ここでまた日本政府とフランス政府がちょっかいを出してルノーに買収させ、事実上ルノーの子会社になりました。


ルノーは実は日産以上のダメ会社で、フランス政府は手を焼いて「日産とくっつけて国営化しよう」と考えました。

これがマクロンのルノー日産三菱国営化で、工場も本社も日本から奪い取ってやると宣言していました。

いわば日本への宣戦布告であり、日本側はゴーン逮捕という「真珠湾攻撃」で報復しました。


ここまで見てきて日産を混乱させている本当の原因は、戦前から続いている政府の過干渉だと考えられます。



http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/338.html#c1

[政治・選挙・NHK264] れいわ山本代表 都知事選「選択肢として排除せず」の真意(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
4. 中川隆[-8852] koaQ7Jey 2019年8月10日 14:52:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3881]
山本太郎は北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者

れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ


山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。


▲△▽▼


ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。

右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという
言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。

大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/332.html#c4

[政治・選挙・NHK264] (インタビュー)大元帥たる昭和天皇 歴史学者・吉田裕さん(朝日新聞) 肝話窮題
2. 中川隆[-8851] koaQ7Jey 2019年8月10日 14:56:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3882]

2013年 08月 16日
太平洋戦争は帝国陸軍vs天皇・海軍の戦争だった!
https://nueq.exblog.jp/20859870/


     
     
     
わざと負けた帝国海軍

                           
太平洋戦争は

             帝国陸軍 vs 昭和天皇+海軍+アメリカの戦争

            GHQが使用を禁止した「 大東亜戦争 」と云う言葉

         ユダヤ:コミンテルン vs 反コミンテルンの第2次世界大戦
            コミンテルン = インターナショナリズム = 共産主義

                         講演会のお知らせ


日本敗戦の日:1945年8月15日から昨日で68年!


b0221143_1291444.jpg


                     左)8月15日 玉音放送後の皇居前
              右)ポケットに手を突っ込んだマッカーサーと昭和天皇
                         9月27日 米大使館公邸


b0221143_1294967.jpg


                    左)広島原爆投下1時間後の原子雲
                      投下機B29エノラ・ゲイより撮影
                  中)広島原爆CG再現 byクローズアップ現代
                         画像出典 : 浜野巌治
                    右)311:3月15日の3号機の原子雲
                http://stumsky.tumblr.com/post/5390163606/3
           ( ネバダ砂漠での核実験と3号機原子雲の類似写真はこちらをどうぞ )


表題にあるように、「 太平洋戦争 」は、日本 vs アメリカ の戦争ではなく、
帝国陸軍 vs 昭和天皇+帝国海軍+アメリカ の戦争だったのです。

にわかには信じがたいこの構造。
しかし、これは事実です。

一体、なぜ、第2次世界大戦:アジア戦線は起きたのか?
それは偶然か? 必然か?

と、問うならもちろん、「 必然 」 であり、そのように仕組んだ勢力があります。
その辺りの詳細は、若狭和朋さんと鬼塚英昭さんの著書に譲るとして、


b0221143_12122367.jpg


                左) 若狭和朋 「 日本人に知られては困る歴史 」 上下巻
                中) 鬼塚英昭 「 20世紀のファウスト 」 上下巻
                右) 鬼塚英昭 「 原爆の秘密 」 国内編・国外編

若狭和朋さんの著書の内容に関しては

                日本人に知られては困る歴史

で、紹介しています。
日本人必読の書です。


その複雑怪奇な内容と推移を、僕の情報筋からの内容をまとめて、あえて簡略化して云うなら、226事件( 1936:昭和11年2月26日 )によって昭和天皇は極度のトラウマ状態となり、これが原因で上記のような構造へと導かれます。

226事件は、公表的には帝国陸軍:皇道派の青年将校たちが「 昭和維新・尊皇討奸 」「 天皇親政 」をスローガンに企てたクーデター未遂とされていますが、これは事実のホンの一部分を取り上げたものにしか過ぎません。
実際には、昭和天皇を捕獲:廃帝にし、一応公表上、昭和天皇の弟とされている秩父宮を新しい天皇に据えるべく起こした帝国陸軍最強の第2師団( 仙台師団 )に依るクーデターで、青年将校たちの決起はその先遣隊だったのです。
先遣隊の暗殺&天皇捕獲に続いて、仙台から上野に秩父宮と共に向かっていた仙台師団は、帝国海軍陸戦隊が戦車隊まで繰り出して青年将校の先遣隊をが完全制圧したため、プランを断念せざるを得なくなってしまいます。


b0221143_1214163.jpg


                      左) 警視庁を占拠した反乱軍
                         中) 当時の新聞記事
                    右) 上陸した海軍陸戦隊の装甲車

                             画像出典
               中)89歳ブログ:紫蘭の部屋 「 (53)二、二六事件 」
               左右)探検コム 「 写真と証言で綴る『二・二六事件』」


ここに昭和天皇の帝国陸軍トラウマが始まり、これに若狭さんや鬼塚さんが描くところのユダヤと日本に依る満州共同経営を日本側が一方的に反故にしたことが重なって、ゾルゲ事件や帝国海軍:特に山本五十六と米内光政に依る対米開戦と云う日本( = 帝国陸軍 )敗戦へのプランが策定・実行に移されることになります。

つまり、

  1) 帝国陸軍の独走とそれを阻止したい天皇の戦い
  2) 満蒙支配権を巡る
       扶餘チュルク五族協和 vs 満州ユダヤ経営+世界鉄道( 帝国 )
  3) 支那利権を巡る列強の対立
  4) ユダヤ( コミンテルン )撲滅勢力 vs ユダヤコミンテルン世界帝国
  5) コーカソイド( 白人種 )による有色人種奴隷支配のステルス化
       vs 白人支配からの解放を目指す「 大東亜共栄 」

といった、国際的・国内的様々な要因を背景として、1)2)5)を日本の国内条件として「 日本の第2次世界大戦 」が策定されていきます。
また、コーカソイド( 白人種 )ユダヤ・サイドからは、日露戦争の戦後処理(1905)の怨念を契機に、第1次世界大戦(1914) 〜 満州事変 〜 日支戦争 〜 日米開戦 へと連なる一連の流れを作り、世界で唯一コーカソイドに対抗しうる勢力へとその力を回復( 織田信長時代以来 )した日本を完膚なきまでに叩き潰して完全奴隷化・日本解体を目指した30年計画でもあったのです。

予定通りに行けば、日本はドイツのようにアメリカとソ連で分け合う完全植民地となったことでしょう。

ところが、ここで異変が起こります。
アメリカの非ユダヤ勢力が、ルーズベルトのコミンテルン( マルクス共産主義 = インターナショナリズム )路線と、同じく隠れコミンテルンのチャーチル、それに共産主義のスターリンの密約よる世界乗っ取りにどうやら気づいたようで、これがルーズベルトの暗殺に動きます。 クリント・イーストウッド監督 : デカプリオ主演:FBIを造ったフーバー長官の映画 「 J・エドガー 」 は、この辺りの真相をほのめかしています。 そしてこの映画の封切り直前にはルーズベルト直前の大統領:フーバー大統領を描いた「 Freedom Betrayed 自由は裏切られた 」がアメリカで出版されています。 そう、「 自由は裏切られた 」 のです。


b0221143_12164247.jpg


                             J・エドガー
                    左上)執務室に入るフーバー長官
                         左中)機密ファイル
          真ん中の囲みに100%ユダヤ人:エレノア・ルーズベルト夫人の名前
             ルーズベルトはルーツ:スペインではローゼンブルグだった
                   左下) フーバー長官の秘書との問答


異変 : ルーズベルト大統領の暗殺とトルーマン大統領の就任によって、対日戦略は大転換されます。 すでに共産主義国となったソ連、支那の赤化( 共産主義化 )への防波堤とするために日本列島の活用が新戦略として浮上します。

  広島・長崎への原爆投下は対日本戦には不要ながら、
  マンハッタン計画の生みの親:バーナード・バルーク子飼いの
  ジェームス・バーンズ国務長官によってソ連への警告と
  イエローモンキーをモルモットにした動物実験として行われます。
  本当は多くの広島・長崎人が被曝による癌などで大量に死亡してますが、
  そのデータはAABCがすべて持ち帰り、
  被曝による癌などの後遺症や死亡者数は極めて軽重である
  とのマヤカシが日本国内では蔓延しています。

  広島・長崎に原爆を落した本当の訳
  

  ユスタース・マリンズによる内容で、ここでは、
  1945年5月のサンフランシスコの会議を主題としてますが、
  日本との停戦を引き伸ばして原爆を落とすプランは1月には決定されていたし、
  前年の10月頃から計画されていたフシがある。
  5月は原爆完成日程の確定と決定事項の伝達の場だったのだろう。

こうして対共産主義防波堤として、日本に資金と技術を投下して日本の高度成長が始まりますが、旧帝国陸軍勢力と田中角栄+ケ小平による中国の原爆開発が推進されるに至って、アメリカは大方針を再度転換します。
その象徴的事件となったのが、1976年のロッキード事件による田中角栄の失脚、及び1985年の「 御巣鷹山事変 」と、その直後のプラザ合意です。

詳しくは

    フクシマは核兵器製造工場?

をご覧ください。


さて、話題を、帝国海軍の裏切り行為へと戻します。

日本はアメリカとの戦争を絶対避けなければならない。
と云う大前提の下にありました。

ご存知のように、アメリカはヨーロッパ戦線に参入するために、そして絶対にアメリカ人を戦場に送らないと約束して3選したルーズベルト大統領にとって、アメリカ国民が怒り心頭になって逆にルーズベルト大統領に参戦を要求するシチュエーションを必要としていました。

そこに、アメリカの歴代の戦争手口が参考になりました。
古くは、インディアンがやったことにされている頭の皮のまる剥ぎや、アラモ峠の戦いなどで培った偽装先制攻撃を日本に適用することとなり、日本側協力者と共謀して、ハワイ真珠湾への奇襲攻撃と宣戦布告文章の遅刻偽装を行い、これによりだまし討ちの既成事実を作り上げ、狙い通りに「 卑怯なイエローモンキー 」への報復にアメリカ社会が沸騰するように仕向けました。
もちろん、ルーズベルトにはフィリピンのマッカーサーから、日本海軍が真珠湾攻撃を目指して千島列島に集結中との報告は出ていましたが、一切手出しないように指示の電文を飛ばしています。 そしてアメリカ時間12月7日(日)、911の時と同じく、レーダーのスウィッチを落としていたのです。


b0221143_12192963.jpg


                         真珠湾攻撃 と 911
                   どちらもレーダーがOFFになっていた。
                   911直後、子ブッシュが口にしたのが
                     「 リメンバー・パールハーバー! 」
                  ご丁寧にも2001年5月に江沢民出資の
       映画「 パールハーバー 」が封切られ、前宣伝は行き届いていたのでした。


山本五十六による真珠湾攻撃の計画は半ば唐突に登場し、連合艦隊司令長官辞任をちらつかせながら海軍首脳部に迫り、わずか50日前に認められたものです。 これによって南方作戦で対フランス・対オランダを制し、インド洋に進出してイギリスの補給線を断ってエジプトのナチスを側面支援。 同時にインドの独立を達成するというシナリオが根底から覆されてしまいます。
しかも当の山本五十六連合艦隊司令官は真珠湾攻撃時、日本国内から司令を出していたのです。

そして、真珠湾攻撃やその後の展開のポイントを列挙するなら、

 ・ 9年前に米軍は真珠湾攻撃と全く同じシミューレーション演習。
   ※ まるで911の数年前の、WTCに突っ込む3流ハリウッド映画みたいだ。
 ・ ルーズベルトは日本が行動を起こすように仕向けるプランを1年前から用意。
 ・ ルーズベルト大統領は日本海軍の動きと目的をすべて知っていた。
 ・ 対米宣戦布告が真珠湾攻撃に遅れるよう工作した。工作現場担当者は、
   野村吉三郎駐米大使・井口貞夫参事官と奥村勝蔵一等書記官。
   ※ 戦後、井口は米大使に、奥村は事務次官・スイス大使へと大出世。
 ・ 山本五十六は対アメリカ不戦を反故にして強引に対米戦線を開いた。
 ・ 真珠湾で沈めたのは老朽艦ばかり。 空母は無傷。
 ・ かけがいのないハワイの海軍大工場と巨大燃料タンクは無傷。
 ・「 リメンバー・パールハーバー! 」の合言葉となって
   アメリカが第2次世界大戦に参戦するきっかけを作った。


   これによって絶対優勢だった欧州のドイツと東洋の日本が惨敗することになる。

真珠湾攻撃に関して、海軍少将だっだハーバードのモリソン教授は米海軍の依頼で編纂した公刊戦史の中で

  真珠湾に対する攻撃は、日本海軍自らが戦後表明したように、
  まったく戦力的必要からはるかにかけ離れたものであって、
  これは戦略的には愚の骨頂であった。

  何人(なんびと)も戦史上で、侵略者に対し
  これ以上致命的であった作戦の事例を探し求めることは出来ない。
  すなわち、戦術面では恒久的施設( ドッグヤード等 )と
  燃料タンクを攻撃せず、艦船のみに攻撃を集中する錯誤を犯した。
  戦略的に見ればこれは馬鹿げている。
  さらに政略的に見れば、それは取り返しのつかない失敗だった。

  この背信的攻撃が、アメリカ国民をして全力をあげて対日戦争に突入させ、
  また、真珠湾の「 不名誉な日 」を償うには、全面的勝利を得る以外、
  彼らを満足させることがないよう結集させたことから、
  この真珠湾攻撃は最低の戦略だった。

と、酷評しています。

つまり、米内海軍大臣と山本五十六聯合艦隊長官、南雲機動部隊司令官は、アメリカ側が望むすべてを提供し、日本が敗戦に至るすべての条件を設定したわけです。
https://nueq.exblog.jp/20859870/


わざと負けた帝国海軍
https://nueq.exblog.jp/20859900/

太平洋戦争は

             帝国陸軍 vs 昭和天皇+海軍+アメリカの戦争

            GHQが使用を禁止した「 大東亜戦争 」と云う言葉

         ユダヤ:コミンテルン vs 反コミンテルンの第2次世界大戦
            コミンテルン = インターナショナリズム = 共産主義

                         講演会のお知らせ

更に、海軍は

 ・ 長期持久戦の戦略方針を捨てて、いきなり無謀ともいえる
   積極的な太平洋前面攻略に着手する。
   つまり、アリューシャン列島・ミッドウェー経由でハワイ攻略、
   オーストラリア北部〜フィジー・サモア攻略を計画。


b0221143_1221389.jpg


                        画像出典 : 戦跡の歩き方


軍事のいろはの「 い 」は、補給 = ロジスティック。
補給線が長く伸びきってしまえば、時間がかかる。 補給線を分断されやすい。
「 無謀な太平洋攻略 」 とは、このことで、ワザと負けるために方針転換したと
云っても過言ではないお粗末さです。


そして起きたのが、ミッドウェー海戦での大惨敗。
山本五十六の指示で南雲機動部隊がミッドウェー攻略に出撃するが、圧倒的に優勢だった日本海軍が、まさかの空母4隻の沈没:機動部隊の壊滅と云う前代未聞の惨劇となる。
アメリカ側の空母は沈没は3隻中の1隻。
ここから日米の形成は逆転してしまい、以降は連戦連敗の敗走を続けることとなります。


b0221143_12214642.jpg


                     左)大爆発を起こす空母「 加賀 」
        右)311の放射線線量と何も変わらない戦中の隠蔽・改竄の大本営発表
                               ↑
                      時系列が逆ですが。。。(^o^)ゞ


しかも時の総理大臣:東条英機には知らせることなく、東条は一ヶ月以上遅れてミッドウェーの真実を知ることになる。 自軍の壊滅を知らずして一体どのような戦略が組み立てられるのだろうか?

 ・ 山本五十六はミッドウェー攻撃をゴリ押しした。
 ・ 出撃の目的は敵機動部隊の殲滅にありながら、
   南雲司令官はミッドウェー島攻略を主眼とした。
 ・ 当初空母艦載機は艦船攻撃用の魚雷を装着していた。
 ・ 偵察機出動30分前、突然ベテラン偵察員がはずされ、
   初出動の新米偵察員に交代させられる。
 ・ 偵察機があろうことか、雲の上を飛んだ。
   雲の上から偵察など出きっこない! ( 日本はレーダーを持ってない )
 ・ 敵空母艦隊がいないので魚雷を地上攻撃用の爆弾に装着換え。
 ・ 偵察機は帰りに雲の下を飛んでやっと敵空母艦隊を発見。
 ・ 敵空母艦隊近接情報で爆弾を魚雷に再度装着換え。
 ・ 装着換え中に敵航空部隊が襲来し、空母4隻他機動部隊壊滅。
 ・ ベテランパイロットほぼ全滅。
 ・ 山本五十六はミッドウェー攻撃直前、呉で愛人と同宿。
   まるで311当日の盗電:清水社長の赤坂:韓国キャバレーみたいだ。


そして1943年4月18日、山本五十六はラバウル近傍で米軍機の攻撃で墜落。
死亡と伝えられていますが、果たして、、、、、、
ノリエガ、フセイン、ビン・ラディンなどの例もあるように
本人の希望通り戦後は南洋の島かハワイで優雅な一生を送ったとも考えられます。

帝国海軍はその後も更に、

 ・ トラック諸島、ガダルカナル、ニューギニアにおける戦略上の大錯誤。
 ・ マリアナ沖海戦( 日空母7隻 vs 米空母15隻 )での七面鳥撃ちで
   日本海軍ほぼ全滅状態に。
 ・ フィリピン:レイテ沖海戦での「 栗田艦隊謎の反転 」
   防備丸空きのマッカーサー本隊を目前になぜか突然の反転・戦線離脱。
   栗田は戦後、栗田工業を起こし、東証一部企業に。
 ・ 90万人の帝国陸軍を南洋に無理やり送り込みながら
   海軍は補給を行わず、陸軍兵士の9割は飢餓や
   栄養失調・免疫低下に伴うマラリアで死亡。
   戦闘で死亡したのはたったの1割と云われている。


と、日本敗戦に向けて忠実に布石を打っていったように見受けられます。


縷々検証してきたように、海軍の行状は、アメリカに参戦の口実を与え、帝国陸軍の戦力を削ぎ、ワザと日本が負けるように振る舞った。としか言い様がありませんし、事実そのような意図を持っていた。とある筋より聞かされています。
また、当時海軍内では、「 主敵は陸軍だ! 」とも叫ばれてたのです。

こうした海軍の行状や戦場での状況は海上自衛隊作戦幕僚などを歴任した是本信義さんの著書の中で詳しく論じられています。


b0221143_1223465.jpg


              是本信義 「 誰も言わなかった海軍の失敗 」 2008/07

                 是本信義
                 1936年 福岡県生まれ
                 1959年 防衛大学校卒業
                 1959年 海上自衛隊入隊
                        護衛艦艦長、護衛隊司令、
                        艦隊司令部幕僚、総監部防衛部長、
                 1991年 海上自衛隊退官
                 2006年 民間企業の経営職を経て執筆活動に専念

           是本氏は、枝葉末節から枝ぶり・幹・樹、そして森に至るまで
           見事に描ききっていますが、
           残念なことになぜ、そこに森があるのか?
           森を育んだ環境・地勢(地政)学的視野がありません。
           つまり、なぜ失敗したのか?
           について、最初から画策されていたと云う 「 政略的・地政学的 」 視座がない為、
           帝国海軍の不甲斐なさが強調される結果となっています。


そして、御前会議の内容は翌日にはアメリカ側に伝わっていました。
その連絡ラインが、鬼塚英昭さんによると、吉田茂 〜 樺山愛資( 貴族 )〜 駐日アメリカ大使:グルーのラインでリークされていたとのことです。 そしてグルー大使離日後は、吉田茂が直接ヨーロッパ経由で伝えていたものと推測されます。
日本軍の暗号も、その暗号表が事前にアメリカ側にもたらされていたとしても別に驚くにはあたりません。


b0221143_12261427.gif


ゾルゲグループに依る日独伊3国同盟への誘導と、ソ連をドイツと挟撃する戦略への誘導、それにヨハンセングループによる日本国内のトップシークレットの連合国側へのリークなど、昭和天皇を中心とする日本敗戦への綿密な深層潮流の準備がなされていたことが窺えます。

ところが、太平洋戦争緒戦段階での日本軍の快進撃が、昭和天皇に色気を出させた様だ。 とある情報筋は伝えています。 もちろんその内容はアメリカ側に筒抜けです。
これが、アメリカ側による停戦回避 = 過酷な日本攻撃と、2発の原爆を誘い込んだ可能性も指摘されています。

また、黒田善治と云う重慶から司令を出す天才的魔物は、一体どこからの司令を受けて日本を支那大陸の底なし沼に誘い込んだのでしょうか?

その中枢には上で触れたように「 コミンテルン = インターナショナリズム = 共産主義 」と云うドス黒い世界的な闇が広がっていますし、その対抗軸としてレトリック的に( 言葉上の意味合いで )誕生した 「 自由主義経済 」陣営なるものの両天秤を操るユダヤ金融勢力、或いはユダヤを隠れ蓑に用いる青い血が身体に流れる勢力、更にそれらと対抗する自由を標榜する勢力など、 現代に至る難問が待ち受けているようです。


進駐してきたアメリカGHQは、30箇条の検閲により、「 大東亜戦争 」と云う語の使用を禁止し、「 太平洋戦争 」なる単語を作り出します 。 「 大東亜戦争 」と云う語に含まれる「 アジアの正義の確立 」と云う匂いを完全に抹殺し、「 日本によるアジア侵略 」と云う概念を日本人やアジア人に植えつけるための政策です。

「 日本の侵略 」と云う語を今では何の抵抗もなく使うニッポン人が多いですが、侵略者は16世紀以来変わることなくコーカソイドの連中です。

   ※ コーカソイドの中に僕は多くの友人を持ちます。
      コーカソイドの連中 と云うのは、勢力としての。
      と云う意味であり、一般の生活者のことではありません。

アジアの国々は、コーカソイド+ユダヤによる分断工作により、いがみ合う関係に陥っています。 中華民国も中国共産党もアメリカやユダヤ・コミンテルンによって誕生し操られてきた勢力です。 それは昭和天皇や帝国海軍が同じように操られ、国内騒動を拡大した結果として招いてしまった第2次世界大戦アジア戦線であり、戦後のアメリカ植民地と化してしまった現在の亡国ニッポンの姿です。 幕末、徳川慶喜が最も恐れたのが国内を二分する内戦状態。 慶喜の恭順によって国内戦は最小限に食い止めることが出来ました。( 薩長の東北追撃戦は英米の内戦拡大の意を受けてのことです。)

そろそろニッポン人は、にほん人へと目覚める必要があるのではないでしょうか?


                     Japanって、どこの国よ?
                     ジャパンとニッポンとにほん


亡国日本、その最期のトドメが 「 TPP 」 です。
これを阻止し、フクシマの棺桶化や全国の土壌除染を行い、全国民に内部被曝完全除去を無料で実施し、侵略者:コーカソイド支配層をこの地球上から葬るためにも、現在の 「 明治簒奪ニッポン政府 」 を叩き潰し、日本人に卑屈な 「 お上 」 根性を植え付けてしまった江戸時代を逆上って、ヨーロッパによるアジア蹂躙を蹴散らす勢いだった 「 大うつけのバサラ 」 織田信長時代の 「 にほん人 」を取り戻し、にほん人によるにほん人のためのにほん政府を創り上げようではありませんか!


                         ザビエル 〜 黒船 〜 TPP
                織田信長 = チンギス・ハーン + レオナルド・ダ・ヴィンチ
                          安倍晋三 = 井伊直弼

   

https://nueq.exblog.jp/20859900/

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/326.html#c2

[近代史02] こんな女に誰がした_1 (天皇陛下を恨んでね) 中川隆
34. 中川隆[-8856] koaQ7Jey 2019年8月10日 20:01:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3877]
1日に何十人もの米兵と……! 歴史の闇に葬られた「日本の慰安婦」たち 2018年7月30日掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/07300650/?all=1

終戦から2週間足らずで慰安所第1号が開業


 太平洋戦争終結から73年。戦争を知っている世代が絶える時も着々と近づいているが、歴史にはまだまだ埋もれた秘話がある。たとえば、日本にも「慰安婦」がいたという不都合な真実――。

 終戦から2日後の8月17日、東久邇内閣が成立。最初の閣議後すぐに、国務大臣の近衛文麿は警視総監の坂信彌に対し、「日本の娘を守ってくれ」と依頼した。坂はすぐさま東京都料理飲食業組合の役員2名を呼びつけ、「特殊慰安施設協会」(通称RAA)の設立を指示。設立声明では「狂瀾を阻む防波堤を築き、民族の純潔を百年の彼方に護持培養すると共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす」と謳った。(RAA協会沿革誌より)

「進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」という求人看板が銀座のど真ん中に立ち、8月27日には慰安所第1号として「小町園」が東京都大田区に開業。終戦から2週間足らずである。開業までのスピードも目覚ましかったが、規模も空前絶後だ。小町園を皮切りに、立川、調布、福生、北多摩、築地、人形町、向島などに次々と慰安所が開業、千人規模の慰安婦を募集する求人広告が新聞紙上を頻繁に賑わせた。5千人の女性が慰安婦として肉体を酷使したとされる。

 集められた慰安婦たちは大部屋をカーテンなどで仕切っただけの場所で、1日に何十人もの米兵の相手をさせられた。60人という記録もある。数十分に1人とセックスした計算だ。当然、劣悪な環境下で性病にかかったり、腰が立たなくなったり、精神に異常を来す女性が続出。鉄道に飛び込んで自殺した19歳の女性もいた。慰安所では毎日血にまみれた洗濯物が風にひるがえっていたにちがいない。「日本の娘を守ってくれ」の結果が、この阿鼻叫喚の風景だったのである。


『水曜日の凱歌』
乃南 アサ 著


 RAAをとりあげた小説『水曜日の凱歌』(乃南アサ著)にこんな一節がある。慰安婦たちと同居することになった14歳の少女の前で警察官に、ある慰安婦がこう絶叫するのだ。「日本の男ども! 誰もかれも、女のまたの間から生まれたくせに、その恩も忘れやがって、利用するときだけしやがって! 戦争中は『産めよ殖(ふ)やせよ』で、戦争に負けた途端に、今度は同じまたを外人どもに差し出せとは、何ていう節操のなさなんだっ!」。見てはいけないものを見てしまった多感な年頃の少女の気持ちを思うと切ない。

 占領軍は1946年3月、兵士に性病が蔓延するのを怖れ、慰安所への立ち入りを禁止した。「民族の純潔」という美辞麗句のために売り飛ばされた上、今度は職を失った「新日本女性」たちは、街娼となって街の闇へと消えていったのであった。
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/07300650/?all=1
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/332.html#c34

[近代史3] 「効率よく焼き尽くせ」 空襲成功のため、日本家屋まで再現した米軍の「用意周到」
「効率よく焼き尽くせ」 空襲成功のため、日本家屋まで再現した米軍の「用意周到」【戦争と日本人(3)】2019年8月10日
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/08100605/?all=1


ダグウェイ実験場の日本村
アメリカ陸軍がダグウェイ実験場に建設した実験用住居の日本村。1943年(US ARMYhttps://www.dailyshincho.jp/article/2019/08100605/?photo=1


 この7月、米国人建築家フランク・ロイド・ライト(1867−1959)設計の8件の建築物が、世界文化遺産に登録されることが決定した。今回指定を受けたのはすべて米国にある建造物だが、ライト設計の建造物は日本にもいくつか残っている。中でも有名なのが、東京・日比谷にあった帝国ホテル(愛知・明治村に移築)だろう。そしてちょうど100年前の大正8(1919)年、ライトの弟子として共に来日した人物が、アントニン・レーモンドだった。

 ***


アントニン・レーモンド(出典:(株)新建築社発行、「新建築1956年4月号」1956

 その後18年にわたり日本で暮らしたレーモンドが残した建造物は、ライトと比べてかなり多い。代表的なところでは東京女子大学、聖心女子学院、聖路加国際病院、米国やフランス、ソ連の大使館などがある。モダンな鉄筋コンクリートの自宅を米国大使館の近くに構え、日本の漆工芸家、木版画家、宗匠などと交流し、書や茶など日本の芸事(げいごと)も積極的に学んでいたという。

 レーモンドが米国に戻ったのは1938(昭和13)年だった。友人と組み、ニューヨークで設計事務所を開いていた彼のもとに、「スタンダードオイル」社から仕事の依頼が入ったのは、43年初頭である。同社は「焼夷弾」の製造会社。第2次世界大戦が始まり、すでに1年あまりが経っていた。(以下、〈〉内引用は秋尾沙戸子氏『ワシントンハイツ─GHQが東京に刻んだ戦後─』より)。


正確な「日本家屋」を再現 畳、座布団も配置


砂漠の中のまるでモデルハウスのような家屋。1943年の5月以降、繰り返し焼夷弾を落とし、落下軌道、落下地点、発火範囲、火災の規模、燃焼能力、消火の可能性など、細かいデータをとっていった。日本村とドイツ村の航空写真、1943年(US ARMY[Public https://www.dailyshincho.jp/article/2019/08100605/?photo=3

〈日本の労働者が住む家屋を設計してほしい。3×6の畳と障子を用い、さらに屋根は瓦にしてほしい〉

 何とも奇妙な注文。が、それは空襲で使用する「焼夷弾」の燃焼実験のためだった。実際に日本の家屋を建築した上で焼夷弾を落とし、データを集め分析しようというのである。

 日本に長く滞在していたレーモンドは、当然、日本の建築物について精通していた。依頼を承諾したレーモンドの指示のもと、ユタ州の砂漠にあるダグウェイ試験場において日本の木造長屋の街並みが再現されていった。3カ月後、2階建ての3棟の木造住宅を4列、12棟の長屋が2組完成する。

〈(砂漠の中のまるで)モデルハウスのような家屋に、(1943年の)5月以降、繰り返し焼夷弾が落とされた。そして、落下軌道、落下地点、発火範囲、火災の規模、燃焼能力、消火の可能性など、細かいデータをとっていった〉

 それらの家屋は正確さが重視されていた。家屋の内部には畳が敷かれ、卓袱台(ちゃぶだい)、布団、座布団が配置されていた。箸や炭火鉢、洗い桶といった台所用品、さらには雨戸や物干し台も再現され、庇(ひさし)の下には欄干も取り付けられていた。爆撃実験は雨戸を開けた状態と閉めた状態(すなわち昼と夜の想定)の、その両方で行われた。

〈トタン屋根と瓦屋根の2種類を造り、建材もできるだけ日本のヒノキに近いものが使われた。(レーモンドの)自伝によるとそれは、ロッキー山脈の「シトカ産のスプルース」だという。また、漆喰の代用として壁材は南西アメリカで使われている「アドビ」という土壁を用いた〉

 実験に使用するほど大量の畳を、米国国内で生産するのは不可能だった。そのため、米国海軍が出動し、ハワイに暮らす日系人の家庭から掻き集めている。

 さらには〈日本と同じ装備の“消防団”までが組織され〉、鎮火実験も行っていたという。すぐに鎮火されたのでは、日本を火の海にできない。米国はこうした実験を繰り返すことによって、空襲の精度を上げていったのである。

 レーモンドは後に自伝でこう記している。

〈私と妻にとって、日本を負かす意味をもつ道具をつくることは、容易な課題ではなかった。日本への私の愛情にもかかわらず、この戦争を最も早く終結させる方法は、ドイツと日本を可能な限り早く、しかも効率的に敗北させることだという結論に達した〉


占領期、米軍とその家族たちは日本人とどう接し、何を残していったのか? GHQは焦土と化した日本をどうデザインし、我々の生活に何を埋め込んでいったのか?  日米双方の新資料と貴重な証言から洗いなおした傑作ノンフィクション

レーモンドの「もうひとつ別の顔」

 B29による空襲が本格化したのは、この翌年1944年11月からだった。終戦まで続いたこの無差別爆撃により、250以上の都市が被災。死亡者およそ33万人、負傷者43万人、被災戸数は233万戸と伝えられている。

 さて、そのレーモンドだが、建築家以外にもうひとつ別の顔があったと秋尾氏は指摘している。米国立公文書館別館に保存されている「レーモンドファイル」。それによるとレーモンドは、かつて米陸軍の諜報部に所属していたという。諜報を担う部署G2(参謀2部)から情報調整局大佐に宛てられた報告書には、こうあった。1942年5月の日付である。

〈レーモンドは次のように申告している。そのためなら、戦時中は喜んでいまのビジネスの成功を投げうって軍に戻ると。
 日本で、反国軍勢力軍との間に摩擦を大きくさせて内部崩壊を促すために、日本における彼のリベラルな知人たちとの接触を復活させる〉

 つまりレーモンド自ら、日本で反対分子を煽動して、国家転覆を図ることを軍に提案していたのだ。しかも報告書によれば、レーモンドは来日以前、すでにスイスにおいて、ドイツとオーストリアに米国のスパイ組織を作る活動をしていた。日本に18年滞在していたことについては先に紹介したが、その際には〈軍に対抗する日本人グループに多く接触していた〉と、報告書には記されていた。

 終戦から3年後の1948年、レーモンドは再び日本の地を踏んだ。灰燼に帰した東京で事務所を起こし、リーダーズダイジェスト東京支社のほか、離日までの25年間に教会や学校、個人宅など、ゆうに30を超える建築物の設計を精力的に行なった。
 それらの建築群は、レーモンドにとっての鎮魂の墓標だったのだろうか。

デイリー新潮編集部
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/08100605/?all=1
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/568.html

[政治・選挙・NHK264] 山本太郎が安倍首相の“対韓国強硬姿勢”を「小学生高学年並み」と批判した理由! 国益上のマイナスを具体的に訴え(リテラ) 赤かぶ
7. 中川隆[-8855] koaQ7Jey 2019年8月10日 21:17:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3879]


山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者

れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ


山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。


▲△▽▼


ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。

右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという
言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。

大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)




http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/355.html#c7

[近代史3] 林千勝の陰謀論を考える _ 日米戦争を策謀したのは昭和天皇か、近衛文麿か? 中川隆
24. 中川隆[-8857] koaQ7Jey 2019年8月11日 02:02:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3877]
【討論】大東亜戦争の真実[桜R1-8-10] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=EpuYlwj_xwY


パネリスト:
 鈴木荘一(歴史家)
 山正之(コラムニスト)
 長浜浩明(作家・古代史研究家)
 林千勝(戦史研究家)
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
司会:水島総

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/457.html#c24

[政治・選挙・NHK264] 保守も取り込み始めた山本太郎を襲う、週刊誌沙汰スキャンダル  新恭(まぐまぐニュース) 赤かぶ
8. 中川隆[-8856] koaQ7Jey 2019年8月11日 06:38:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3878]
山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者

れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ


山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。


▲△▽▼


ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。

右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという
言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。

大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/369.html#c8

[近代史3] 中国の お見合いは人身売買の事 中川隆
9. 中川隆[-8858] koaQ7Jey 2019年8月11日 10:04:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3876]

「妻として売られた」外国人女性1100人を救出 中国当局
〔AFP=時事〕(2019/06/24-11:15)

中国警察は昨年、妻として「売られた」東南アジア出身の女性1100人超を救出した。中国公安省が21日、発表した。(写真は資料写真)


8歳少女の集団レイプ殺人、男6人に有罪判決 インド

 同省は、ミャンマー、カンボジア、ラオス、ベトナム、タイの警察と7月から12月にかけて実施した合同捜査で17人の子どもも救出したと述べている。同省の発表によれば、当局は捜査により、1300人超(このうち外国人は260人)の身柄を「拉致、人身売買、結婚詐欺」の容疑で拘束したという。

 公安省報道官は、「近年、国内および海外の犯罪者らが共謀し、仕事や結婚を約束して近隣諸国の女性らを中国におびき寄せたり、中には女性を誘拐して妻として売ったりしている」と述べた。

 中国では、長年続けられていた一人っ子政策と親が男子を望む傾向により、男性の方が女性より3300万人近く多く、これだけの人数の男性が生涯独身となる可能性に直面している。

 その一方、主に貧困から抜け出すために中国人男性と結婚するカンボジアやベトナム、ラオス、ミャンマーといったメコン諸国出身の若い女性たちは毎年数万人に上っている。しかし、一部の女性たちは結婚詐欺に遭い、虐待されたり、中国の移民法によって拘束されたり、売春を強要されたりするリスクにさらされている


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/107.html#c9

[リバイバル3] 車中泊向けの軽バン、ホンダ「N-VAN」の実用度 中川隆
126. 中川隆[-8857] koaQ7Jey 2019年8月11日 10:36:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3877]

2019年08月11日
拡大するアウトドア5千億円市場 キャンプ場の課題

キャンプ場の多くは自治体経営で商売はうまくない


アウトドアは登山からキャンプに

アウトドア市場の拡大が続き、2019年は約4500億円、年3%成長として4年以内に5000億円規模に達する。

歴史的に見ると最初のアウトドアブームは江戸時代のお伊勢参りや花見などの行楽で、明治期に関所がなくなり旅行ブームになった。

戦前から戦後には大学の登山部を中心とした登山ブームがあり、バブル期にはスキーやアウトドアブームがありました。



バブル崩壊後はお金がかからない娯楽としてハイキングや軽登山が人気になり、最近はソロキャンプなどが流行っています。

飛鳥時代の最初の文献では、既に貴族が花見をしているので、ずっとアウトドアブームだったという事もできる。

日本のアウトドア人口は登山に集中していて、「レジャー白書」によると登山人口は1200万人だそうです。


平成元年には登山人口は600万人だったのに、30年間で倍増したのには安全性の向上が関係していました。

昭和期には登山で遭難した3割がなくなっていたが、現在は携帯電話の普及などで1割に低下しています。

たとえ遭難しても9割助かるという安心感から、多くの人が登山するようになりました。


アメリカは登山人口160万人、キャンピングとハイキングがそれぞれ3000万人、RVキャンプ1600万人となっています。

アメリカ人のアウトドアとはでかいRV車で乗り付けて、バーベキューで騒いでテントで寝るのを指しています。

日本のオートキャンプ人口はバブル期に1500万人だったが、デフレで700万人減少し、最近は840万人台に盛り返している。

キャンプ場の2割以上が赤字

日本のキャンプ場の多くは公営でバブル期に作られ、2割以上が赤字経営だといわれています。

赤字でも観光客が来ることで村にお金を落としていくので、公費で赤字を補填しています。

ちなみに車でみんなが利用する道の駅も、補助金で建設して税金などで優遇されても3分の1が赤字です。


そこまでしないと田舎に観光客は来ないので、自治体が赤字を補填して来てもらって金を落としてもらうという考え方です。

キャンプ場にテントを張るだけだと1泊数百円の事が多く、満員になるのは夏休みだけなので、赤字になり易いビジネスです。

だが田舎には空き地が無限大にあり、「この空き地を何かに使えないか」という発想からキャンプ場になります。


こうした公営キャンプ場では物品やサービスや、より快適な環境を提供して高い料金を取るのが難しい。

そうしたサービスを充実させるには元手が掛かり、失敗したら自治体の赤字になるので、しり込みして現状維持になります。

成功しているキャンプ場は何も持たずに行っても、至れり尽くせりのサービスがあり、高い料金を取っています。


キャンプ場の特徴として、キャンプ慣れしてる人は道具を全て持ってくるので、場所代の数百円しか使いません。

ところが年1回しかキャンプしない人は全ての道具をキャンプ場で借りるので、キャンプ場からすると儲かるお客です。

毎月来る上級者よりたまに来る初心者が増えた方が、自治体やキャンプ場は儲かります。


こうした経営のうまいヘタが、今後キャンプ場の明暗を分けるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80639517.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/865.html#c126

[国際27] 食品テロ事件で関東大震災の時、朝鮮人が井戸に毒を入れたり、放火をしたニュースを思いだした 怪傑
2. 中川隆[-8856] koaQ7Jey 2019年8月11日 10:42:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3878]
朝鮮人虐殺:親の目の前に子供たちを並べて首を切った「本庄事件」
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/10/03/204724


先日、本ブログで、虐殺被害者の遺族が95年目にして初めて慰霊祭に参加した「藤岡事件」を取り上げた。

今の群馬県藤岡市で起きたこの事件は、現地に居住していた朝鮮人17名が、警察署内に保護されていたにもかかわらず、暴徒と化した周辺住民に引きずり出されて殺されたという悲惨な事件だ。

しかし、隣の埼玉県では、もっと凄惨な事件がいくつも起こっている。その一つが「本庄事件」である。

■ 「町送り」が引き起こした埼玉県内の朝鮮人虐殺事件

関東大震災時、埼玉県内で発生した朝鮮人虐殺事件には、他地域のそれとは異なる特徴があった。それは、現地に居住していた朝鮮人がその場で殺されたのではなく(一部そういう事例もあるが)、主に、他所から避難してきた人々も含む朝鮮人の集団が、「町送り」と呼ばれる移送の過程で周辺住民に襲撃され、殺されたことだ。[1]


 埼玉県警察部は、東京から避難してきた朝鮮人、県内で拘束した朝鮮人を県外に移送しようとする。移送する目的は朝鮮人を自警団の暴虐から守るためと言われているが、はたしてそうなのだろうか。そのように漫然と、自明のように言われているだけで、真実のところはまだ解明されてない。

 本当のところは案外、朝鮮人を隣の町、隣の県へ厄介払いしたかっただけなのかもしれない。真に保護を考えていたとするならば、対応に疑問が多すぎる。自警団から守るために移送するなら、自警団に警護させて移送すること自体がおかしいし、さらに徒歩による移送は朝鮮人を危険な自警団、民衆の前へ無防備に長時間に渡って晒すことになる。

 移送するとしても県外のどこへ移送しようとしていたのかはっきりしていない。長野県か新潟県とも言われているが、現在の資料からは確実にはわからない(略)県警は最終目的地はともかく、当面はおそらく群馬県の高崎の連隊への保護移送を考えたのではないか。

 そこで自警団による町送りは群馬への道、中山道を北へたどることとなった。だが、県や警察部が、政府、軍、群馬県や高崎連隊と緊密な連絡を取った上で、当面の群馬への移送をしていたとの資料は残っていない。(略)

警察に「保護」された朝鮮人たちは、9月3日、埼玉県南部の川口付近から出発して、旧中山道を北へ北へと町や村ごとに引き渡されながら、順送りに護送されていった。[2]


 九月三日、午後二時に川口警察署は消防組、在郷軍人の力を借り、保護していた朝鮮人百六十人(推定。人数についてははっきりしていない)を蕨町へ移送、集結させた。川口でいろいろなかたちで保護拘束された朝鮮人は、この、江戸時代の五街道の一つ、中山道の県内第一次の宿であった蕨で合流させられた(川口から直接自動車で移送されたり、個々的、小集団で蕨に送られた者がいた可能性もなくはない)。

(略)

 蕨においては、虐殺はなかったが、虐殺には至らない「自警団によるいわゆる『朝鮮人狩り』が行われた」(略)。これら「狩られた」朝鮮人は、やはり川口から送られてきた集団に合流させられたと考えられる。

 蕨に集められた朝鮮人たちは、その蕨から北に向かって駅伝、町送りにさせられる(略)。

武器を持った自警団が周りを固めて、次々に伝達、送致し県外に送り出そうとしたのである。送る人間、自警団員は担当(自分の居住する地域)する町、村、字あざごとに変わるが、送られる朝鮮人は変わらない。

 送る自警団は自分の担当する町、村、字を出るまで送るだけだから、伝達が終ればいくらでも休める。だが送られる朝鮮人には休みなし。送るほうは早く嫌な、危険な(と思われていた)役割から解放されたい、(略)いきおい休ませずに急がせるのが自然である。

 護衛の警官もついていた。しかしそれは装備と人数において自警団に圧倒的に劣っていた。それも熊谷などの民衆、自警団の暴走を止められなかった一つの理由である。

朝鮮人たちは、周囲を武装した自警団に取り囲まれ、しばしば彼らから暴行を受けながら、何十キロもの道をひたすら歩かされた。

残暑厳しい中を、食事や水も与えられず、目的地も分からないまま連行される不安と恐怖から、途中で何人かの朝鮮人が逃亡を図った。しかし、疲労困憊し、土地勘もない彼らが逃げ切れるはずもなく、たちまち捕えられて殺された。ほとんどが鳶口やツルハシを打ち込まれて惨殺されたという。

彼らが蕨から約50キロの熊谷にたどり着いたときには、出発から約30時間が経っていた。4日の夕方である。ここで最初の集団虐殺が行われた。[3](熊谷事件)


 熊谷町柳原地区の自警団に護送された朝鮮人が熊谷町の中心部へ、英泉の描いた八丁の地から中心部の筑波との境にさしかかろうとした時、熊谷町の中心部のほうから群集となった民衆が手に手に武器を持って押し寄せてきた。

 引き継ぐはずの熊谷町中心部の自警団がすでに暴徒化していた。自警団だけでなくやはり暴徒化した熊谷町の町民が多く加わっていた。群衆は一旦暴走し始めたら止まるところを知らない。そして熊谷町中心部入り口で熊谷町最初の殺戮が行われた。

 おとなしく送られてきた朝鮮人に民衆が集団で襲いかかり、牙をむけたところに熊谷の虐殺の特徴がある。

(略)

 中心部入り口における殺戮に加わった民衆は、その昂奮をそのまま市街地へ持ち込んだ。彼らは血がついた刀、竹槍、棍棒を持って逃げた朝鮮人を探し、みつけ出しては殺す。そこに自警のかけらは少しもない。狂気に支配されたとはいえ、血に飢えた者が獲物を捜し求め、狩りを楽しみ、みつけたら殺戮を楽しむ、というのが実相である。

 殺戮は逃げた朝鮮人に向けられるだけではすまなくなった。逃げた者を探して殺すだけでは満足できなくなった殺戮者たちは、おとなしく数珠繋ぎで連行されている、拘束されている朝鮮人へも攻撃の刃を向けるようになった。

 手を縛られたまま逃げる者、それを追いかける男。おとなしく縛られたままでいる朝鮮人、それを引っ立てて刀の試し斬りにする男。自分で殺したくて、「こっちへまわせ」と息巻いている男。熊谷の町の中心部は、薄暮そして暗闇の中で殺戮のし放題であった。

熊谷町内で殺された朝鮮人の数は、およそ70〜80人と推定されている。[4]

■ 「町送り」で生き残った人々が皆殺しにされた本庄事件

画像出典:『かくされていた歴史』

蕨から北に「町送り」された朝鮮人の一部は、途中からトラックに乗せられ、4日正午頃、埼玉県北部の本庄警察署に到着している。また、本庄町内に居住していた朝鮮人や、県南部から別のトラックで移送されてきた人々なども加わり、本庄警察署には相当数の朝鮮人が収容されていた。[5]

本庄からは、目的地?の群馬県はもう目の前である。本庄署は収容していた朝鮮人の一部をトラックに乗せて群馬県に向けて出発させたが、県境で群馬側に引き継ぎを拒否され、やむなく引き返したところ、県境近くの神保原村で暴徒化した群衆が襲撃してきた。群衆は4日の真夜中までの間に、取り残された朝鮮人のほとんどを殺してしまった。犠牲者は42人と伝えられている。[6](神保原事件)

神保原での襲撃を逃れたトラックが本庄警察署に戻ってくると、これを知った群衆は次第に本庄署に集まりはじめ、トラック上の朝鮮人たちを襲い、さらには警察署内の演武場に収容されていた朝鮮人たちをも殺し始めた。この時の様子を、現場を目撃した元本庄署巡査の新井賢二郎氏が次のように証言している。[7]


 本庄署では、前夜(三日夜)から保護していた朝鮮人が四十三名いたが、電話で、デマにおびえた人達から出動要請があって、警官は出はらっていた。私が、警察に残って外からの電話に出ている時、警察がからっぽであることを見ていった奴がいたのだ。

(略)

 本庄署へ引きかえしてきた三台のトラックは、朝鮮人を満載していた。私もそのトラックに乗っていたが、集まってきた群衆のなかに青木紋九郎というギュウタロウ(注:遊郭で客引き等を行う男子従業員)がいた。その紋九郎が、「あいつは、朝鮮人の偽巡査だ。あいつからやっちまえ」と煽動した。それがあいずとなって、一斉に群衆が襲いかかり、あの惨劇がはじまったのだ。

(略)

 惨殺の模様は、とうてい口では言いあらわせない。日本人の残虐さを思い知らされたような気がした。何百人という群衆が暴れまわっているのを、一人や二人の巡査では、とうてい手出しも出来なかった。こういうのを見せられるならいっそ死にたいと考えたほどだ。

 子供も沢山居たが、子供達は並べられて、親の見ているまえで首をはねられ、そのあと親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。それも、途中までやっちやあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。後でおばあさんと娘がきて、「自分の息子は東京でこのやつらのために殺された」といって、死体の目玉を出刃包刀でくりぬいているのも見た。

 当時演武場は、警察署の方からではなく、町役場の方から電灯をひいていたので、演武場の電気は警察の方からは、消すことができなかった。私は演武場の中の四十三人が見つかっては大変だからと、電気を消すように役場の方へ頼んだが、一向に通ぜず、そのうちに、演武場の中の朝鮮人も見つかってしまったのだ。「ここにいた」というわけで、群衆は演武場へおしかけ、四十三人ことごとく殺してしまった。朝、私が演武場へ行ったとき、立てかけてあった畳の陰にいて助かった二人の婦人から水をくれ、と頼まれ、小使にもたしてよこすから、といっている間に、朝早くからやってきた群衆に見つかり、昨夜の凶行場所につれていかれ、ベンチの上でさし殺されてしまった。私はどうすることもできなかった。

 警察署の構内は前夜の凶行で血がいっぱいだった。長靴でなければ歩けなかったほどだ。警察署の構内で殺されたのは八十六人だが、本庄市内で殺されたのもいた筈だ。死体も見たが十五、六人位……二十人まではいなかったと思う。

 署内の留置場の中にいて一人助かったが、これも群衆が「凶行を見られてしまったからには、朝鮮へでも帰って話されたら大変」というわけで、留置場の鉄棒の間から、竹槍で突こうとしたのだが、あっちへ逃げ、こっちへ逃げて、とうとう助かったのだ。これは後でどこかへ送られた。

 私は長い間、朝鮮人の「アイゴウーアイゴウ」という悲痛な叫びが耳からはなれなかった。

こうして、「町送り」で移送されてきた人々は、そのほとんどが県境を越えることなく殺されてしまった。

[1] 山岸秀 『関東大震災と朝鮮人虐殺』 早稲田出版 2002年 P.138-139
[2] 同 P.142-143
[3] 同 P.156-165
[4] 同 P.119
[5] 関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会
 『かくされていた歴史 ― 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』 1974年 P.41
[6] 同 P.38-40
[7] 同 P.98-103
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/10/03/204724  

http://www.asyura2.com/19/kokusai27/msg/148.html#c2

[国際27] 食品テロ事件で関東大震災の時、朝鮮人が井戸に毒を入れたり、放火をしたニュースを思いだした 怪傑
3. 中川隆[-8855] koaQ7Jey 2019年8月11日 10:43:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3879]
警察署に保護された朝鮮人を「普通の日本人」たちが引きずり出して叩き殺した「藤岡事件」
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/09/15/204546


■ 95年目にして初めて被害者遺族が慰霊祭に参加

先日、関東大震災時の「藤岡事件」で虐殺された被害者の遺族2名が来日し、事件から95年目にして初めて、現地での慰霊祭に参加したという報道があった。

毎日新聞(9/7)[1]:


 関東大震災(1923年9月1日)で虐殺された朝鮮人の遺族2人が来日し、東京都内で7日、記者会見した。韓国で昨年8月に遺族会が結成されてからメンバーの訪日は初めて。「埋もれている事実は多い。遺族にとっても過去について改めて知るのはつらいが、真実は明らかにされるべきだ」と訴えた。

 来日したのは、祖父を殺害された権在益(クォン・ジェイク)さん(61)と、祖父の兄が犠牲になった曹光煥(ソ・ガンファン)さん(57)。

 (略)

権さんは「日韓の市民の多くは虐殺事件について知らないのではないか。埋もれている真実がもっと明らかになれば、日韓関係は改善し、東アジアの平和につながると思う」と語った。

 曹さんは、9月1日の朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文送付を小池百合子東京都知事が取りやめたことについて「だからといって虐殺の事実がなくなるわけではない。日韓双方が発展的な見地から協力して事実を明らかにし、追悼することが大事だ」と話した。

共同通信(9/9)[2]:


1923年の関東大震災後に起きた朝鮮人虐殺の犠牲者の慰霊碑がある成道寺(群馬県藤岡市)で9日、恒例の慰霊祭が営まれ、碑に名が刻まれた男性の孫権在益さん(61)が韓国から来日し、初めて参拝した。これまで男性の親族は誰も訪れていないといい、権さんは「弔いに来るのに95年かかった。慰霊に感謝している」と語った。

画像出典:毎日新聞

■ 千名以上の暴徒が警察署から朝鮮人を引きずり出して叩き殺した

この事件は、震災発生から4日後の9月5日と翌6日、群馬県多野郡藤岡町(現・藤岡市)で発生した。

「関東」大震災といっても、震源(相模湾付近)から遠い北関東のこのあたりは揺れも比較的小さく、地震そのものによる被害は軽微だった。また、地震と火災で壊滅状態になった東京や横浜では深刻な食糧難が発生したが、農村地帯のこちらはむしろ被災地に食糧を供給する側だった。つまり藤岡事件は、地震による混乱もない中、朝鮮人への差別意識を流言によって煽られた民衆が実行した、「純粋なヘイトクライム」だったと言える。

加害者たちを裁いた第一審の判決文によれば、事件1日めの9月5日の状況は以下のようなものだった[3]。


 以上の判決文の内容をみると、藤岡警察署は朝鮮人のいわゆる不逞行為を恐れて地域住民が騒動を起こすことを防止する目的で朝鮮人17人を「検束」したが、数百人の地域住民が駆け付け、藤岡警察署留置場に乱入し、17人の朝鮮人のうち、李在浩をのぞいた16人を留置場から引っ張りだして殺害したというものである。

 李在浩が除外された理由は次のようである。はじめ、狂奔した群衆が朝鮮人17人のうち3、4人を留置場の前に引っ張りだして殺害した後、再び朝鮮人2人を事務室につれていって、東京で爆弾を投げただろう、放火をしただろうと質問したが、朝鮮人が言葉の意味を理解できなかったので、外につれていって消防展望台の横で殺した。すると、それを見た留置場の朝鮮人たちは留置場の床下や天井に隠れ、李在浩は屋根をうち壊してどこかへと逃げた。李在浩が逃走したのは確実だが、その後の行方については定かではない。

(略)

 殺害に使われた道具には竹槍、棍棒、鳶口、日本刀、手槍、猟銃のほか、鍬、木材、木の棒、鎌、針金、石、木刀、心張棒、鉄棒などが使われたことが判決文から確認できる。狂奔して警察署まで襲撃した数百人の群衆による殺害がどのような形で行なわれたのか想像もできないが、9月5日の藤岡事件では、様々の種類の多くの棒が証拠として押収されたことをみると、打ち殺しが多かったと推定される。

 被告人荒井滋の場合は、「同署裏手六地蔵附近二於テ、所持ノ日本刀ヲ以テ一鮮人二斬付ケ、次テ右留置場附近二於テ、右日本刀ヲ以テ鮮人三名ノ背部其他ヲ突刺シタル上、更二同所二於テ他ノ日本刀ヲ以テ一鮮人ノ背部ヲ突刺シ、何レモ他ノ者卜協力シテ、順次之ヲ殺害シ」たとした。心張棒をもった大原袈裟吉の場合は、「同署留置場前二於テ所持ノ心張棒ヲ以テ鮮人二名ノ頸部其他ヲ乱打シ、他ノ者卜協力シテ、順次之ヲ殺害シ」たという。

(略)

 ここで恐ろしいのは、あらゆる被告人が、最初、警察署もしくはどこの場所で、朝鮮人何人を、どの部位を、どの順序で、どのように協力して殺害し、その後、どこに移動してどのようにしたかを、きわめて正確に覚えている事実と、途中、自警団員何人かは、朝鮮人をどのように処理するかを、計画した後実行に移した事実である。(略)当時被告人たちがこのように淡々と、そして明確に朝鮮人殺害の事実を語ったということは、尋問をうける当時も朝鮮人は殺してもかまわないという認識あるいは意識が強かったことを物語っているものではないだろうか。

しかも、事件はこれだけでは終わらなかった。翌日、自ら保護を求めて藤岡警察署にやってきたもう一人の朝鮮人も殺されている[4]。


 (略)9月6日正午ごろ、群馬県多野郡日野村の自警団員と同行して藤岡警察署にやってきた朝鮮人車鳳祚の名前が確認される。藤岡警察では、調査を通じて彼が不逞鮮人でないことを確認し、その事実を地域住民に知らせたにもかかわらず殺害された。

(略)

 結局、車鳳祚は自ら保護を求めて警察署に行ったところが、かえって狂奔した民衆「数千人」によって殺害されたのである。「判決文」には、(略)だれが車鳳祚を殺したのかについては明示されていない。ただ、「大勢カ一鮮人ヲ留置場ノ方ヨリ引出シテ盛二殴リ居タル」という鈴木常蔵の予審調書の内容からわかるように、9月5日夜に発生した事件と比較すると、車鳳祚は前夜より多い日本人「数千人」に袋だたきにされて死んだものと推定される。ここで「数千人」という数字は、藤岡周辺地域に居住する、老若や婦女を除いたほとんどの青壮年が参加したとみてよいだろう。9月6日の藤岡事件は先述のように、朝鮮人殺害より警察署襲撃と官舎および器物破壊などを重要犯罪として処理して判決を下した事件であっただけに、車鳳祚の殺害にたいしては、いっそうの惨憺さを禁じえない。

狂気に駆られた大群衆に引きずり出され、取り囲まれ、有無を言わさず袋叩きにされて殺されていった被害者たちの恐怖と苦痛はどれほどのものだったか。これは普通の人間が想像できる範囲をはるかに越えている。

■ 朝鮮人の虐殺より官憲への反抗を重く見た日本の司法

この藤岡事件も含め、朝鮮人を虐殺したとして自警団員が起訴された事件はわずか22件(被告人総数203名)しかない。(軍隊や警察が加害者となった事件は最初から無視。)これは、当時の日本政府の方針が、法治国家としての責任を果たしたかのような外観を作るために一応加害者(ただし一般人に限る)の処罰はするが、やりすぎるとデマを流した官憲自身の責任を追求されかねないのでそれは最小限にとどめる、というものだったからだ。[5]

藤岡事件の場合、37名が起訴されたものの、実刑判決を受けた加害者は裁判が進むにつれて

 第一審:25名 → 控訴審:9名 → 上告審:2名

と減少し、最高刑も懲役3年に過ぎなかった。日本人9名が虐殺された福田村事件では最終的に実刑7名、最高刑が懲役10年だったのに比べると、いかに朝鮮人の命が軽く見られていたかが分かる。[6]

しかも起訴した検察は、朝鮮人の虐殺そのものよりも、その過程で被告人らが警察署を襲撃し、署内の器物を損壊したことのほうを重大視していた。[7]


(略)

ところで、ここで見逃してはならないことがある。A(注:警察襲撃による朝鮮人虐殺事件)の実刑率が高いのは、藤岡事件の場合、事件を担当した樫田忠美検事が、初日の朝鮮人虐殺より、2日目の警察署襲撃や警察署の器物破壊を重視した結果であった。

 このような姿勢は、1923年11月5日、前橋地方裁判所で開かれた藤岡事件の審理法廷で、樫田検事が警察署を襲撃し、器物を破壊した加害者たちを責めたてる内容にも明確にあらわれている。


被告等が五日の夜騒いだ事は流言輩語を信じ、熱狂の余り為したとするも、幾分諒解したるが、六日の夜にも再び騒ぐと言う事は何の有様ぞ。警察を破壊、官舎や署内に闖入し、箪笥や机や椅子や諸帳簿を引摺り出して叩き壊し、放火するが如きは何故か。鮮人はまだしもとするも、警察に何の遺恨があるか。何を意味するものか。これ即ち平素警察に好意を持って居らぬのではないか。(中略)依って五日の騒擾より六日の騒擾が重いと見るのである。

検察から見れば、朝鮮人虐殺は官憲も民衆と共有していた(というより大日本帝国政府が長年民衆に植え付けてきた)差別意識の暴発に過ぎなかったのに対し、警察署襲撃は許されざる権力への反抗だったからである。


[1] 『関東大震災 虐殺朝鮮人遺族2人が来日「真実は明らかに」』 毎日新聞 2018/9/7
[2] 『虐殺朝鮮人、群馬で慰霊祭 95年後に初、韓国の孫が参拝』 共同通信 2018/9/9
[3] 姜徳相ほか 『関東大震災と朝鮮人虐殺』 論創社 2016年 P.95-96
[4] 同 P.97-98
[5] 山田昭次 『関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任』 創史社 2003年 P.97-99
[6] 同 P.102
[7] 『関東大震災と朝鮮人虐殺』 P.91

http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/09/15/204546  

http://www.asyura2.com/19/kokusai27/msg/148.html#c3

[国際27] 食品テロ事件で関東大震災の時、朝鮮人が井戸に毒を入れたり、放火をしたニュースを思いだした 怪傑
4. 中川隆[-8854] koaQ7Jey 2019年8月11日 10:44:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3880]
関東大震災後の民衆(自警団)の手による朝鮮人虐殺


87年前の今頃は
http://vergil.hateblo.jp/entry/20100905/1283693861

私の住んでいるこのあたりでも、朝鮮人狩りが行われていたはずだ。

関東大震災後の朝鮮人虐殺については、いまだに真相究明も謝罪も行われていない。
それどころか、この恥ずべき事実を否定しようとする歴史歪曲本が本屋に平積みになっているという、恥の上塗り的状態が今の日本の現実なのだ。

あのとき、いったい何が行われたのか。ほんの断片ではあるが、現場を体験した人々の証言でたどってみたい。

まずは、民衆(自警団)の手による虐殺。


■東京都葛飾区 旧四ツ木橋周辺(昨日、この近くで朝鮮人殉難者追悼式が行われた)


 二日目(九月二日〕に四ツ木橋を越え、本田村(現・葛飾区)の庭先をかりてみんなで野宿をしたわけです。ちょうど二日めの晩に「津波ダァー」という声がしたのでみんな線路にあがって枕木に帯で体をつないだりしたが、津波なんかいっこうこないので帯をほどきました。ところが八〜九時頃、「朝鮮人がせめてきたぁ」という声が流されて、みんな殺気だっちゃった。「竹をだせ!」「槍を出せ!」、棒きれもっている奴はナイフで先をとがらせて、集まった人たちだけで臨時自警団をつくり、周囲をかためた。その頃は芋が盛りで芋の葉っぱが人の顔にみえたりしてそれをつついたりしました。

 そしたら土手の方からバンバンバンと銃砲をうつような音がきこえてきました。あくる朝、放水路のところを歩いていったら、―当時荒川放水路は工事中で朝鮮人は安い労働力として使われた、日本人の賃金にくらべれば二分の一位でした。―そこに行ってみると無惨な屍臭がして、土手に、五人、六人と死んでいました。傷跡は明らかに刀で切られたり、竹でつかれたりした死骸でした。からだに日本刀で斬られた断面がありました。人相が朝鮮人でした。

〔中略〕

この荒川土手のところでは一軒の農家があったのですが、昼過ぎ七〜八人の朝鮮人が農家のまわりに逃げてきて自警団やそこいらにいた人につかまり、有無をいわず袋だたきにあい、五分もたたないうちにめった打ちにして殺されてしまったのをみました。当時あそこは工事をしていたので玉石はいっぱいあって、土手の上からみんな玉石を投げて加勢して殺したんですよ。(島川精証言)


 たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突きさしたりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、三○人ぐらい殺していたね。荒川駅の南の土手だったね。(青木某(仮名)証言)


■千葉県八千代市周辺


 九月の一○日か一五日頃、大和田新田に三人の朝鮮人を受け取りに来いという触れが回った。夕方に三人の朝鮮人が連れてこられ、道路のつきあたりに座らせられた。一本松にある五軒の家から一人ずつ出て、朝鮮人を殺し、死体を村の入会地に埋めた。五軒の家は盆や彼岸には線香や団子をあげて供養した。(阿部こう証言)


 軍隊から朝鮮人をくれるから受け取りに来いという連絡が村からあって、三人の朝鮮人を受け取ってきた。目隠しをし、竹の棒に縛って、後ろに穴を掘って落ちるようにして、従兄が撃ち殺した。死体は共同墓地であるもみよ墓地のはずれに埋めた。この墓地一帯が公団住宅地になるので、遺骨を掘り出して現在の墓地に移した。(君塚国治証言)


 地震から数日後の朝、半鐘が鳴るので行ってみると、半鐘に上る梯子に朝鮮人が繋がれて立っていた。彼は中台墓地に連れられて目隠しされて松の木に縛られ、銃で撃たれて穴に埋められた。(八木ケ谷妙子証言)


 九月七日に習志野収容所から朝鮮人をくれるから取りに来いといわれて、住民たちは一五人受け取り、これを各区に分け、高津区は三人引き受けた。翌八日また二人受け取り、都合五人の首を切ってその死体をなぎの原に穴を掘って埋めた。九日の深夜にまた一人もらい受けて直ちに殺害し前回の穴に埋めた。(高津の一農民の日記)


■神奈川県横浜市


 横浜の中村町周辺は、木賃宿が密集した町だった.木賃宿には朝鮮人労働者が多く住みつき、数百人からいたように思う。

 この近くの友人宅を訪ねていて地震にあった私は、だから、世に有名な朝鮮人虐殺の実態を、この目でつぶさに目撃することになった。二日朝から、朝鮮人が火を放って回っているという流言がとぶと、ただちに、朝鮮人狩りが始まった。

 根岸橋のたもとに、通称「根岸の別荘」と呼ばれる横浜刑務所があって、そこのコンクリート壁が全壊したため、囚人がいちじ解放されていたが、この囚人たち七、八百人も加わって、捜索隊ができた。彼らは町中をくまなく捜し回り、夜を徹して山狩りをつづけたのである。

 見つけてきた朝鮮人は、警察が年令、氏名、住所を確かめて保護する間もなく、町の捜索隊にとっ捕まってしまう。ウカウカしていると警察官自身殺されかねない殺気だった雰囲気だった。そうしてグルリと朝鮮人を取り囲むと、何ひとついいわけを聞くのでもなく、問答無用とばかり、手に手に握った竹ヤリやサーベルで朝鮮人のからだをこづきまわす。それも、ひと思いにバッサリというのでなく、皆がそれぞれおっかなびっくりやるので、よけいに残酷だ。頭をこづくもの、眼に竹ヤリを突き立てるもの、耳をそぎ落とすもの、背中をたたくもの、足の甲を切り裂くもの……朝鮮人のうめきと、口々にののしり声をあげる日本人の怒号が入りまじり、この世のものとは思われない、凄惨な場面が展開した。

 こうしてなぶり殺しにした朝鮮人の死体を、倉木橋の土手っぶちに並んで立っている桜並み木の、川のほうにつきだした小枝に、つりさげる。しかも、一本や二本じゃない。三好橋から中村橋にかけて、載天記念に植樹された二百以上の木のすべての幹に、血まみれの死体をつるす。それでもまだ息のあるものは、ぶらさげたまま、さらにリンチを加える……人間のすることとは思えない地獄の刑場だった。完全に死んだ人間は、つるされたツナを切られ、川の中に落とされる。川の中は何百という死体で埋まり、昨日までの清流は真っ赤な濁流となってしまった(田畑潔証言)


 なにしる天下晴れての人殺しですからね。私の家は横浜にあったんですが、横浜でもいちばん朝鮮人騒ぎがひどかった中村町に住んでいました。

 そのやり方は、いま思い出してもゾッとしますが、電柱に針金でしばりつけ、なぐるける、トビで頭へ穴をあける、竹ヤリで突く、とにかくメチャクチャでした。

 何人殺ったということが、公然と人々の口にのぼり、私などは肩身をせまくして、歩いたものだ。(美田賢二郎証言)

以上、山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺』(創史社)より引用。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20100905/1283693861

▲△▽▼

関東大震災後の熊谷市での虐殺
http://vergil.hateblo.jp/entry/20100926/1285505416


前回に引き続き、民衆(自警団)の手による虐殺を取り上げる。

今回取り上げるのは埼玉県熊谷市で起きた事例だが、東京や神奈川での虐殺例とは少し状況が異なっている。

震災によって壊滅的打撃を受けた東京や神奈川では、被害に打ちのめされた民衆が流言飛語に煽られて虐殺に走ったが、北埼玉はさほどの被害を受けておらず、民衆は冷静だった。そのままであれば、東京方面から流れてきた朝鮮人被災者たちを、普通に被災者として受け入れることもできたはずである。
しかし実際には、ここで民衆による虐殺としては最大級と言ってもいい大虐殺が起こってしまった。

山岸秀著『関東大震災と朝鮮人虐殺』(早稲田出版、2002年)によれば、


 九月四日の夕刻、女・子どももいる、疲れ切っていた朝鮮人の一団が、周りを刀、つるはし、鳶口などで武装した民衆の「自警団」によって固められ、足を引きずるようにして、旧中山道を群馬に向けて歩かされていた。

 朝鮮人の周りを囲む民衆の自警団員はもちろん、少数ついていた警護の警察官も、中山道をどこまで歩いたらいいのか、目的地はどこなのか知らなかった。なぜ朝鮮人を送るのかさえわかっていなかった。重い足を引きずりながらの行き先の定まっていない、理由のはっきりしていない朝鮮人の駅伝・町送りの一行であった。

 送られてきた朝鮮人が、埼玉県北部の大里郡熊谷町(現・熊谷市)の市街中心部に入ろうとした時、街道筋を警備していた大勢の自警団員と民衆が鯨声をあげて襲撃してきた。手に手に、日本刀、竹やり、梶棒、鳶口などの凶器を持っていた。抵抗もせず必死で逃げ惑う朝鮮人を追いまわし、引きずりまわし、翌日の夜明けまでに数十人が、街中で、市民のみている前で殺戮された。

というような状況だったらしい。

以下、同書から、虐殺の目撃者や遺体の処理を行った人々の証言を引用する。


 翌朝(五日)、自転車で熊中(熊谷中学、今の熊谷高校)へ行く途中に、たくさんの死体を見ました。一番多かったのは、秩父線の踏切の手前(線路の南側)、今マンションの建っているあたりです(当時は砂利置き場になっていた)。のど笛が切られて血の塊が出ている人、肩からけさがけに切られている人、頭に穴をあけられている人などがいてそこに犬がたむろしていました。


 死んだ人達は、荒川の土手の脇にあった共同墓地に埋められました。暑い時だから死体が腐って、穴の中がぶつぶつ煮い立ちました。そのにおいは、まことに臭いものです。あまりに臭いので、誰もそばを通れなくなりました。……焼いたのは、埋めてから一週間くらい経ってからでした。


 「中家堂」〈熊谷の老舗の製菓販売店、現・本町二丁目〉のあたりで見ていました。朝鮮人を列からずり出して、殺すのです。警察はべつにとがめませんでした。……その時私は、眼の前で日本刀を持って来た人が、「よせ、よせ」というのをふりきって、日本刀で朝鮮人を斬ったのを見ました。……こんな時に斬ってみなければ切れ味がわからないといって、斬ったのだそうです。


 小此木園の所で〈熊谷老舗の茶店、現・本町一丁目、本町は宿場の頃から中心部〉、綱で縛られて護送されている朝鮮人に出会いました。……忘れられないことは……朝鮮人の背中にみんな竹槍がささっていることです。


 ……朝鮮人達が、中仙道から前の道に入って来ました。汗を流して、真黒な顔で、日本人にみんな結わえられていました。日本人は胴を結わえて一人の朝鮮人を持っている人、手と足をそれぞれ結わえて引っ張る人といました。


 熊谷寺では、生から死まで見ました。寺の庭では一人の朝鮮人を日本人がぐるって取りまいたグループが、五つほど出来ました。そして殺すたびに「わあ、わあー」「万才、万才」と喊声が上がるのです。


 翌朝〈五日〉、自転車で熊中〈現・熊谷高校〉へ行く途中に、たくさんの死体を見ました。一番多かったのは、秩父鉄道の踏切の手前〈線路の南側〉、今マンションの建っているあたりです〈当時は砂利置き場になっていた〉。……人数は二・三○人いたでしょうか、はっきりしません。その他多かったのは、皮肉なもので、熊谷警察のあたりです。本町三丁目から四丁目にかけてです。それから熊谷寺の前にもありました。


 この大原墓地へは、熊谷の警察署周辺と熊谷寺で殺された死体を運んできたのだと思います。翌日〈五日〉火葬場で働いていた竹さんが荷車に積んできました。当時は、佐渡で巡査だった鈴木さんという人が、上寺〈熊谷圭寸の別称〉の留守居をしていました。その人が焼くのがうまいので教えてもらい焼きました。まきを積み、石油をかけ、こもをかけて、焼いたのです。穴を掘ったり、焼く仕事は竹さんがやりました。……立ち会ったのは、竹さんと、鈴木さんと私だけです。……焼いてしまうまで憲兵が四、五人このまわりを、昼も夜も巡視していました。……

暑い時だから、死体は臭くなるし、ひどい殺し方でした。けさがけに斬ってあったり、傷だらけでした。死体はみんな、針金で手を縛られたままでした。だから人には見せられないですよ。当時、火葬場はあったのですが、あまり死体の数が多いので、穴を掘って焼いたのです。

なぜこんな事態になってしまったのか。
同書によれば、東京方面から伝わってきた流言によって民衆が不安を募らせる中、その真実性を裏付けるかのような埼玉県内務部長名による通牒が通達されたのが大きなきっかけとなったらしい。


    庶発第八号
    大正一二年九月二日
                          埼玉県内務部長
    郡町村宛
    不逞鮮人に関する件

 東京に於ける震災に乗じ暴行をなしたる不逞鮮人多数が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又其間過激思想を有する徒之に和し、以て彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其の毒手を揮(ふる)はんとする虞(おそれ)有之候。就ては之際(このさい)警察力微力であるから町村当局者は、在郷軍人分会、消防手、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ、一朝有事の場合には速やかに適当の方策を講ずるよう至急相当手配相成度き旨其筋の来牒により此段移牒に及び候也

東京・横浜のケースも同様だが、民衆の不安を煽って虐殺に駆り立てた官憲の責任は極めて重い。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20100926/1285505416  

http://www.asyura2.com/19/kokusai27/msg/148.html#c4

[国際27] 食品テロ事件で関東大震災の時、朝鮮人が井戸に毒を入れたり、放火をしたニュースを思いだした 怪傑
5. 中川隆[-8853] koaQ7Jey 2019年8月11日 10:45:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3881]
朝鮮人の言うことが誇張表現ではなかった例

■「虐殺」という表現について

 関東震災後の日本人による朝鮮人殺害について、「虐殺」と表現するのが適当かどうか。今回の参考文献に、以下のような記述があった。俄かに信じられない(あるいは信じたくない)内容だと感じると同時に、ここに書かれているのはやはり事実なのではないかと思う。正直に言って、どう取り扱うべきかは手に余る問題だったので、虐殺と言う表現の妥当性については、各位の判断にお任せする。


 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。
 
 所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、

婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり……

身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。

(姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年)


 
 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。

しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。


 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、

という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。


 女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。
(『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104)


当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。

植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。

日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。
http://www5d.biglobe.ne.jp/DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm



2. 中川隆[-8859] koaQ7Jey 2019年7月25日 05:08:03: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3855] 報告
▲△▽▼

〈関東大震災から80年〉 朝鮮人女性への残虐な性的虐待

荒川放水路の四ツ木橋付近での虐殺に関する証言に次のようなものがある。


 「22、3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは四ツ木橋の下流の土手だ。

西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。

1挺か2挺の機関銃であっという間に殺した。

それからひどくなった。

四ツ木橋で殺されるのをみんな見ていた。

なかには女もいた。


女は……ひどい。

話にならない。

真っ裸にしてね。いたずらをしていた」

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会「風よ 鳳仙花をはこべ」教育史料出版会、1992年、58〜59ページ)


 これは朝鮮人女性を性的にもてあそんだうえで虐殺したということなのであろう。

これは例外的な事件ではない。

女性に対する性的虐待、虐殺の事例は数多くあった。


 東京府南葛飾郡での朝鮮人女性に対する虐待、虐殺事件

 湊七良、亀戸五の橋で朝鮮人女性のむごたらしい惨死体を見た。

「惨殺されていたのは30ちょっと出たくらいの朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。

しかも妊婦である。

正視することができず、サッサと帰ってきた」

と回想した。
(「その日の江東地区」『労働運動史研究』第37号、1963年7月、31ページ)


 亀戸署内では習志野騎兵連隊の軍人たちが朝鮮人や日本人労働者たちを虐殺した。

この状況を目撃した羅丸山の証言によると、殺された朝鮮人のなかには「妊娠した婦人も一人いた。

その婦人の腹を裂くと、腹の中から赤ん坊が出てきた。

赤ん坊が泣くのを見て赤ん坊まで突き殺した」

(崔承万「極熊無筆耕−崔承万文集−」金鎮英、1970年、83ページ)


 当時砂町に住んでいた田辺貞之助は多数の朝鮮人惨殺死体を見た。


「なかでも、いちばんあわれだったのは、まだ若い女が、腹をさかれ、6、7カ月くらいと思われる胎児が、腹ワタの中にころがっているのを見たときだ。


その女の陰部には、ぐさりと竹槍がさしてあった。

なんという残酷さ、

あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった」

(「恥ずべき日本人」『潮』1971年9月号、98ページ)


 野戦銃砲兵士第一連隊兵士の久保野茂次は1923年9月29日の日記に岩波少尉たちが小松川で

「婦人の足を引っ張り又は引き裂き、あるいは針金を首に縛り池に投げ込み、苦しめて殺した」

ことを記した。

(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編「歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺」現代史出版会、1975年、18ページ)


 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺の歴史的意味


 上記のような朝鮮人女性に対する言語に絶する虐殺の残酷さは、民族差別にさらに女性差別が加わって行われた結果であろう。

このような日本人の行動は、朝鮮人が暴動を起こしたとデマが流されたので、自衛のために自警団を結成したといったものではなく、極めて攻撃的である。

それは民族的には支配民族としての優越心、性的には男性としての優越心に発した行動であったと思われる。


 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺に関しては、当時も、その後も議論、反省されることは皆無だった。

その無反省がアジア・太平洋戦争の時期の「従軍慰安婦」制度を生み出したといえないだろうか。

吉野作造は、千葉で行われた朝鮮人少年に対する日本人の虐殺事件をつぶさに日記に記し、その末尾に「これを悔いざる国民は禍である」と記した。

(「吉野作造著作集」14、岩波書店、1996年、357ページ)


 日本人拉致事件発表後の他者のみに厳しく自己に甘い日本人の二重基準を見ると、朝鮮や中国に対する日本人の良心喪失を憂慮し続けた吉野の言葉を日本人は今もう一度かみしめなければならないように思われる。

(山田昭次、立教大学名誉教授)

http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2003/j05/0305j0827-00001.htm


関東大震災直後の朝鮮人に対する殺人行為


 当時,埼玉県の「児玉郡本庄町」や「大里郡熊谷町」(いずれも当時の名称,現在の本庄市・熊谷市)で発生した朝鮮人殺戮事件は,関東大地震発生後,東京方面ですでに起きていた朝鮮人などに対する殺人行為から彼らを保護する目的で,その被害の少なかった埼玉県や群馬県方面に彼らを避難させようとする最中に起こされた出来事である。

 本庄町のばあい,地元の住民たちによって結成された自警団が,本庄警察署に到着したトラックに乗っていた朝鮮人たちに襲いかかり,リンチに発展した。

警察は人員不足から阻止することもできないまま,この事件で50人から100人程度の朝鮮人を殺させた。

しかも,殺された朝鮮人たちは,妊婦の女性や子どもたちも大勢含まれていた。


 それでも,このリンチにくわわった者の多くは,事後に開廷された裁判の判決では「執行猶予付の騒擾罪」を受けるだけの「穏便な処分」で済まされていた。

さらにあとでは「恩赦」があり,彼らの刑罰は免除されてもいた。


これが,朝鮮人の子どもたちの首を刎ね,女性(妊婦)にも竹槍を突きさし,男性を日本刀で切りさいて殺す,などという凶行を働いた人たちに対する「事後の法的刑罰」であった。 


この歴史的な殺人事件の犯人たちは,大地震後の社会不安の状況のなかで「流言蜚語」に惑わされてしまった結果,本庄町では,警察が避難させるために保護し護送してきた子どもや妊婦も含む朝鮮人たちを,50人か100人くらい殺してしまった。

けれども,事後にいちおう裁判がおこなわれたものの,犯人たちは「執行猶予」付きの判決で「実質無罪にされ」だけでなく,さらに恩赦もあって,受けた刑をとり消してもらっていた。


第2次大戦後後に法務省の高官は,外国人〔=在日韓国・朝鮮人など〕は「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」(1965年の発言)と言ってのけた。


 関東大震災直後に起きた朝鮮人〔など〕の虐殺事件は,それよりも32年も前の悲惨な出来事であったけれども,すでに庶民の次元で「朝鮮人はけしからぬ奴ども」だから,「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」という残虐な情念に即して,同じ地震の被災者でもあった朝鮮人たちを「殺してもかまわぬ」という気持を実行に移していた。


裁判の最中に殺人行為に関してみなで哄笑する

 1) 殺人行為の様子

 1910年に朝鮮〔当時は大韓帝国と称していた〕を軍事的に脅して合邦し,植民地にした日本帝国であった。

朝鮮民族の底しれぬ怒り・恨みを買ったことはいうまでもない。

この事実が反転されて,日本人・日本民族側の気分においてはどうなったかといえば,朝鮮民族を心底でひどく恐れる感情を醸成してもいた。

 関東大震災直後,官庁関係〔警察・政府・戒厳司令部など〕から意図的に提供された《流言蜚語》を真に受けた庶民たちは,

「朝鮮人が井戸に毒を撒いている」

「朝鮮人たちが徒党を組んで攻めてくる」

と聞かされたのだから,大地震のために混乱した状況のなかで自衛し,朝鮮人どもを「捕まえてなんとかしてもかまわぬ」と考えた。

ある意味でこの考えは理の必然でもあった。


 国家当局側,それも一部で作為的な虚報を流した部署の関係者においては,たとえば軍隊は「東京などでは朝鮮人が反抗したといった理由で銃剣で刺殺或いは射殺するなどの虐殺をおこなった。

こうしたことは,目撃者の談話などでも明らかにされている」。


さらに,その「流言の拡大に驚いて,日本刀,竹槍,鳶口,棍棒などで武装した自警団が各地に出現したが,こうした軍隊,警察の行動をみて,凶暴な行動に出たことはいうまでもない」。

 「各地で “鮮人狩り” がはじまった」。

その「あまりのひどさに驚いて出したと」いう「9月3日の警視庁の宣伝ビラ『急告』も」「鮮人の大部分は順良にして・・・」といいながらも「『不逞鮮人の妄動』を否定していない」始末であった(前掲『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』13頁)。

萱原白洞「東都大震災過眼録(1924)」の写真は,震災後にその記憶を頼りにして描かれた絵画であるが,よくみると右下部分には「虐殺された朝鮮人の死体」が転がっていた(つぎの左側にその部分を切りとった画像をかかげておく)。

まわりの人たちは「朝鮮人をやっつけたぞ!」といって「歓声を挙げている」図である。

これは,萱原の網膜に焼きついて忘れられなかった記憶を復元させたものである。

     

 この絵画全体(9月1日参照)を観察すると,警察官をはじめ,法被を着た男,そして手に棒切れをもった子どもまで描かれていることに気づく。

前段の著作『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』に説明された当時の,官民一体になる殺人実行の現場の様子がこの絵画には正直に写されている。

 前掲右側の写真は,関東大震災時における殺人行為を現わした〈有名な1葉〉である。

警察官と民間人が「殺した朝鮮人2体」を,それも民間人は棒で突くかのような格好で,あたかも記念写真を撮るかのように構えている(前掲書,口絵より)。


「凶器は日本刀,鳶口,竹槍,鉄棒や長さ6尺位の棍棒,小刀,包丁或いは石棒など奇抜なものがズラリ」(同書,167頁)。


 2) 裁判の様子

 さて,警察が東京方面からトラックに乗せて避難させてきた朝鮮人を殺した人たちのうち,埼玉県熊谷市の人びとに対する裁判もおなわれていた。『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』はその一場面をつぎのように描写している。


 a) ある被告の答弁。

裁判長から「お前は首を落とす積りで再びやったというぢゃないか」と叱られると

「そうです。そうですが首は落ちませんでした」

といい,石を打ちつけたことについては,「黒い石はこの位でした」と大きな輪を作る。

満廷もクスクス笑う。

事件とは思われぬ光景だ(158−159頁,1923年10月22日『東京日日』夕刊)。


 b) 「裁判長の突っ込みも茶気たっぷりで曽我廼家の芝居でも見ているようだ」。

「裁判長が『お前は一番最年長だのにどうしてそう無分別だ』と揶揄すると『毎晩4合ずつ引っかけやすのでツイその』と満廷を笑わせてひとまず休憩・・・」。

〇〇万治は

「私は倒れていた鮮人を殴っていると警官が『もう死んでいるからいいじゃないか』と申しました」
(159頁,1923年10月23日『東京日日』)。


 c) 「〇〇隣三郎は事実を是認したがこの樫棒で殴ったろうといわれた時ヘイそのちょっとやったまででと答え,

裁判長からこの6尺もある樫棒ではちょっとやられたってたまるものかといわれ,判官はじめ満廷も吹き出させた。

また,それがそのちょっと飲んでいたものですからというのに,裁判長が酒を飲んでいたのか,ちょっととはどの位飲んでいたのかと問われ,4合ですと答えてまた満廷を吹き出させた」(161頁,同上)。


 d) 「『本庄警察の方が騒がしかったのでいって見ますと,3台の自動車に鮮人が乗せられてその内ころがり落ちた3鮮人の胸を刺しました。

一ぱい機嫌でしたからついへゝゝ』

とありのままを申し立て『お前のやった事について今日はどう思っている』ときかれても返事も出来ぬ程の被告である」(175頁,1923年10月25日『東京日日』朝刊)。


それにしても,殺人事件の裁判であるにもかかわらず,この法廷に関する当時の報道をとおしても「ずいぶんに和気あいあい」とした雰囲気が,よく伝わってくるではないか。


 そもそも,関東大震災時のこうした虐殺事件で犯人=被告となって裁判を受けた人びとは,関係した非常に多人数の犯行者全員を被告とするわけにもいかない事情があったため,しかたなくその代表として選ばれ応じて出廷していた一部の者であった。

したがって,前段 a) b) c) d) に紹介した法廷におけるやりとりのように,人殺しの犯人たちにしてはふざけたような口調さえ聞こえてくる。

 つまり,関東大震災のさい「惹起された他民族殺戮行為」は,官憲がわがでっち上げた朝鮮人騒擾「説」を契機に起こされていた。

しかもこのように,殺人事件の審理とも思われない〈身内を庇うかのような共有の感情〉のなかで,被告たちが裁かれていた(!?)のであるから,その「異常な事態を異常とも思わない」当時の時代精神の恐ろしさがあらためて疑われてよい。


 要するに,この大量殺人事件を裁くために開廷された場所においては,裁判官にも被告にも傍聴席にも「満廷に笑いの渦」が吹き出ていたというのである。

そもそも軍隊が,多数の朝鮮人・中国人を大衆の面前で虐殺していただけでなく,社会主義者・無政府主義者もついでにといっていいように,無法なかたちでもって捕縛・虐殺していた。

これでは,国家機関である裁判所が,関東大震災時において殺人行為を犯した一般庶民をまともに裁けるはずもなかった。
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2394667



3. 中川隆[-8858] koaQ7Jey 2019年7月25日 05:08:35: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3856] 報告
▲△▽▼

歴史の汚点といえば、大正12年(1923年)関東大震災のときの朝鮮人虐殺はどうであろう。
日本人はよくアメリカ人のマネが得意だといわれるが、なぜこのような、おぞましいことまでまねる必要があったのだろうか。

それもたんなる排斥にとどまらず、虐殺の挙にでたところなど、出藍の誉れというべきか。

しかもその虐殺は、政府筋の計画的煽動に乗って一般の民間人がおかした犯行だという点で、アウシュビッツのことは、その存在さえも知らなかったというドイツ人のばあいとも異なる。


震災がおそった9月1日の午後、東京市内の被害状況を巡視した内務大臣水野錬太郎(元朝鮮総督府内務総監)は、その惨状のなかにあえぐ人々のいら立ちがが支配階級に向けられることを防ぐためには、朝鮮人と社会主義者の弾圧が必要であると判断し、

1日夜から2日夜にかけて、東京、神奈川の各警察署に朝鮮人暴動のデマを流させ、

さらに3日午前、朝鮮人暴動の「事実」についての電文を作成、船橋海軍無線送信所から全国地方長官当宛に打電させた。


中山競馬場の名物になっていたこの無電台が1971年夏撤去され、「なつかしい風物詩」が消え去ったことを嘆く人も少なくないという。

しかしわたしはあの不気味な鉄塔をながめるたびに、背筋に寒気をおぼえずにいられなかった。



朝鮮人暴動のデマは、またたく間に日本全国にひろまり、警察とそれに呼応した民間の自警団は、政府公認の朝鮮人虐殺を開始した。


竹槍で刺し、トビグチで頭を割り、ノコギリで首をひき、さしみ包丁で妊婦の腹をさく……


阿鼻叫喚の地獄絵図のなかで、抵抗のすべもなく殺されていった朝鮮人の数は6,000人をこえた。



「ハダカ同然の死がいが、目をあけたまま頭を北にして空地に並べられていました。

数は二百五十ほど。

ノドを切られて気管や食道が見えている人、

首筋を切られて肉がザクロのようにわれている人、

無理に首をねじ切られたらしく、皮と筋がほつれている人…


なかでもあわれだったのは、まだ若い女性の腹が真一文字に切りさかれ、その中に六、七ヶ月の胎児が目をとじて姿でした」



以上は仏文学者田辺貞之助氏が目撃した、その日の朝鮮人の姿である。



「旦那、朝鮮人はどうですい。

俺ァきょうまで六人やりました。…

天下晴れての人殺しだから、豪気なもんでさァ。…

電信柱へ、針金でしばりつけて、…

焼けちゃってナワなんかねえんだからネ…。


そして、殴る、蹴る、鳶で頭へ穴あける、竹槍で突く、めちゃめちゃでさァ。



けさもやりましたよ。…

奴、川へ飛び込んで、向かう河岸へ泳いで逃げようとした。…

みんなで石を投げたが、一つも当たらねえ、でとうとう舟を出した。


ところが旦那、強え野郎じゃねえか。十分位も水の中へもぐっていた。

しばらくすると、息がつまったとみえて、舟のじきそばへ頭を出した。

そこを舟にいた一人の野郎が、鳶でグサリと頭を引掛けて、ズルズル舟へ引きよせてしまった。…

舟のそばへ来れば、もうめちゃめちゃだ。

トビグチ一つでも死んでいる奴を、刀で斬る、竹槍でつく…」


『横浜市震災誌』に記録されている、ある日本人のその日の武勇談である。



サンフランシスコ震災で、日本人排斥運動が燃えあがったとき、大統領テオドル・ルーズベルトは怒りにふるえてこれを非難したという。

大統領が国会に送った年頭教書(1906年12月4日)を読むと、大統領は日本人排斥運動を「ウィキッド・アブサーディティー(悪辣な愚行)」と痛罵し、これがアメリカの恥であることを述べ、もしこのような愚行がやまないならば、日本人保護のために、軍隊を動員するとまでいきまいている。



日本のばあいどうか。


虐殺が行われた大正12年から今日にいたるまで、わたしたちは、責任ある日本の為政者から、一言たりとも陳謝の言葉を耳にした記憶はない。

いや、「貧乏人は麦を食え」で勇名を馳せた池田勇人元首相からは一言きいたことがある。


「朝鮮を併合してから、日本の非行に対しては私は寡聞にして存じません」。

http://blog.livedoor.jp/danjae/archives/51404976.html



4. 中川隆[-8857] koaQ7Jey 2019年7月25日 05:09:23: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3857] 報告
▲△▽▼

震災当時、修羅の巷と化していた東京近郊では、もう一つの惨劇が発生していました。
事実無根の流言蜚語に踊らされた人々が、次々に無辜の朝鮮人を虐殺していったのです。


 元来、巨大地震などの激甚災害襲来直後には、情報の空白が生まれ、その中でさまざまな流言蜚語が生まれるといわれています。

関東大震災の時にもやはり、根拠の定かではない怪しげな噂が東京周辺を駆け巡っています。

最初は巨大地震再来や大津波襲来、富士山大噴火の噂が流れました。

これら自然の脅威に関する噂は、震災の記憶が生々しい間には威力を振るいますが、事態が小康を得るにつれ、次第にフェードアウトしていきます。

これに取って代わるように頭をもたげて来たのが、世情不安に絡む諸々の噂です。

地震によって刑務所から放たれた受刑者たちが暴動を起こすと言う噂、平生の世の中に不満を持つ社会主義者たちが混乱に乗じて暗躍すると言う噂…。


そして、日本社会で虐げられてきた朝鮮人が、震災を千載一遇のチャンスとばかりに日本人に対する逆襲を行うと言う噂です。

世情不安型の噂の中でも、朝鮮人に関する噂に対する反応は、前二者に比べてひときわ鋭敏だったようで、つまるところそれが虐殺に結びつきました。


 当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。

背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。

植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。


そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。

その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。

しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。

日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。

日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。

小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。


 惨劇を招いた流言はどこから発生したのか。

噂・流言研究の題材としては定番中の定番ともいえるようなこの関東大震災時流言ですが、実のところ最初の流言が、いつ、どこで発生したのかについて、はっきりとしたことは分かっていないようです。

確認できる範囲でもっとも早い段階の事例だと思われるものは、地震が発生した9月1日当日の夕方、横浜市本牧町あたりのもののようです。

実際には、似たような噂が同時多発的に発生していたと見るのが自然でしょう。

最初に囁かれた噂は、「地震の混乱に乗じて朝鮮人が放火を行っている」という様なものです。


噂は夜を越えるうちに、朝鮮人による強盗、強姦、殺人、井戸水への毒の投げ込みという形へ発展していきました。

噂の伝播・変質をもっと長いスパンで捉えた場合には、「朝鮮人が伊豆大島に爆弾を仕込んで地震を起こした」というような突飛なものまでも発生したようです。


 井戸水へ毒を投げ込まれるという毒水流言は、古くその歴史を遡る事ができ、決して関東大震災に特有の珍しいものではありません。

中世ヨーロッパでは、(大正期日本における朝鮮人と同じように差別待遇を受けていた)ユダヤ人が井戸水にペスト菌を投げ込むと言う噂が流れた事があります。

日本国内の酷似した事例では、明治19年、愛知県下之一色村(当時。現在の名古屋市中川区下之一色)での出来事があります。

当時、全国的にコレラが流行しており、下之一色でも患者が発生しました。

そこで官憲が公衆衛生維持のために井戸水へ消毒薬を投げ込んだのですが、これを見た村人たちは「住人を殺害するために毒薬を投入した」と誤解し、竹槍や鎌で武装して暴動を起こしました。

そして鎮圧に動いた官憲と衝突、双方に死者を出しています。

若干余談になりますが、この名古屋の事例からは、人間には自分の命を脅かす者を容赦なく殺す部分があることをうかがえます。

虐げられた朝鮮人の存在は、震災時に毒水流言の真実味を補強する材料となりましたが、虐殺という行為に直接つながったのは、民族差別とは別次元の要素なのかもしれません。


 地震によって井戸水が濁るのは良くあることです。

関東大震災の時も上野でこの現象があり、知識のない一般人にとっては、これが毒水流言の真実味を補強する材料となりました。


 東京帝国大学教授・吉野作蔵の調査によると、

「朝鮮人はもともとテロ活動を目論んでいたが、震災の破壊と混乱を千載一遇のチャンスとして蠢動しはじめた」

という見方が、数多くの流言の底流にあったと思われる節があります。

そう考えた人たちにしてみれば、「火災被害の拡大も朝鮮人の暗躍のせい」となりました。


 また偽情報の傾向を追っていくと、朝鮮人の襲撃は神奈川方面から東京を目指して行われると考えられていたようです。

あるいは、噂の伝播の傾向と一致するものなのでしょうか。

 このように流言蜚語による混乱が生じた場合の対処には、正確な情報の周知徹底が必要である事は論を待ちません。

現代的な感覚で言えば、行政の広報や、各種マスコミが正しい情報を発信する役割をになう事になります。

では関東大震災の時、各種情報インフラはどのような状態だったのでしょうか。


 当時まだテレビなど存在していなかった事は言わずもがなですが、大正12年にはラジオの放送も行われていませんでした。

NHKによるラジオ放送開始は、震災から2年後の1925年(大正14)の話です。

この時代の情報伝達の手段としては、電信・電話網が重要な役割をになっていたようですが、これも被災して壊滅状態。

在京各社の新聞報道も社屋の被害により停止状態。

復旧が順調だった東京日日新聞の場合で、新聞の発行が再開されたのは5日の夕刊から。遅いところでは19日になるまで新聞記事を発行する事ができませんでした。


これに対し、震災の被害を被らなかった地方新聞は、流言の内容を真に受け、そのまま報道するという失敗(脚注参照)を犯しています。

また地震により発令された戒厳令の関係で、官憲による情報管制も敷かれました。


 その官憲は、早い段階においては流言の内容を信じ、むしろ自分が朝鮮人虐殺に加担していたと言われています。


官憲は自分自身が流言情報の権威付けを行った上でこれを民衆に向けて発信し、そこから跳ね返ってきた情報を自分で受信してそれを信じ込むという過ちを犯してしまったようです(脚注参照)。


官憲による虐殺は、関連資料の多くが隠蔽されたため、実態が良く分かっていません。


そもそも、この流言の発生源が、他ならぬ官憲であったとする陰謀論の見方も根強く、これが一定の説得力を有しているようです。


亀戸事件・甘粕事件など、憲兵隊は流言による混乱に乗じて、日ごろから自分達が不穏分子と見なしていた集団の「粛清」を行ってもいます。

マッチポンプの可能性すら疑われている憲兵に比べ、警察や震災を受けて発足した戒厳令司令部は、比較的早い段階で流言はあくまで流言に過ぎないことを看破し、事態の収拾に向けて動き出しています。


 日本では伝統的に隣組的な組織が存在しており、その点で自警団の結成をうながす素地はあったと言えます。

関東大震災時に結成された多くの自警団も、もともとは朝鮮人に限らず火事場泥棒に対し、また、地震被害に対処するために自然結成されたものでした。

自警団に参加していた人の言によると、飢餓と流言が自警団を虐殺行為へと駆り立てたという実感があるようです。

また、民衆の中でも流言が流言である事に気づいている人が少なくなかったのかもしれません。


しかしながら、そのことに気づきつつ、これを積極的に吹聴した者もいました。

また、内容に不信を持っていても、頭からそれを否定するような事をしにくい空気があったようです。


噂を否定する事で回りから浮き上がってしまう恐れもあったのでしょうし、万一の危険の可能性を見逃してしまう事を恐れたからなのかもしれません。


ある種の使命感に駆られて積極的に言いふらした者もいたようですが、不思議なもので、事実かどうかは怪しいことを自覚しているはずの情報も、「事実である」と言う触れ込みで吹聴して回っているうちに、話者の中で次第に紛れもない事実であると認識されれるようになっていくようです。


 自警団の活動は、流言が盛んに飛び交い始めた前述の1日夜を越えたあたりから始まりました。

手近で武器になりそうなもの、中には銃や日本刀で武装した彼らは、中世ヨーロッパの魔女狩りを彷彿とさせる朝鮮人狩りを開始しました。

外見上では日本人との明確な差異を認められない朝鮮人を識別するために用いられた方法の代表的なものが、「十五円五十銭」と発音させてみる方法です。

朝鮮人には、「チュウゴエンコチュッセン」としか発音できない人が多いそうです。


この方法は官憲も用いていました。


これ以外の識別法としては、「教育勅語の暗誦」「座布団と言わせる」「歴代天皇の名前を答えさせる」「ザジズゼゾ、ガギグゲゴを発音させる」「君が代を歌わせる」「いろはカルタを言わせる」などといったものがあったようです。


もちろんこの方法は、簡易ではあるものの確実な識別法ではなく、勘違いから日本人や中国人も殺害されています。


被害者数は調査主体でまちまちですが、「朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人」(内務省警保局調査)、「2711人」(吉野作造調査)、「6415人」(独立新聞調査)などの数字があがっています。内務省警保局の算出した数はあまりにも少ないと言えます。


事後の事務処理を簡略化するため、「虐殺」の認定条件を極端に厳しくしている可能性があるようです。

その反面、独立新聞=朝鮮人側の新聞が提示した6000人超と言う数字も、他の事実との整合性に問題があるために絶対的に信頼の寄せられるものではありません。

政治的思惑がもっとも薄いと思われるのが、吉野作造による調査結果ですが、組織力=調査力において他の二者に見劣りする感が否めないのも事実です。

なお、この件に関する犠牲者をもっとも多く出したのは、神奈川県ということで間違いないようです。


 最終的に事態が沈静化に向かったのは、民衆が警察などが発信する情報を受け入れて冷静さを取り戻したためではなく、自警団が軍による力での押さえつけに屈したからだと見るのが妥当なようです。

民衆が理性的な判断を行ったのは、力で行動を押さえつけられ、文字通り手も足も出なくなってからの事でした。

なお余談になりますが、当時の警察は、人員数はもちろん、そしてその武装の内容においても、自警団に劣っていたため、最終的には軍部の軍事力を背景にして事態の沈静化に乗り出さなければならなかったようです。


■各地方紙の誤報 ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P61より抜粋


「朝鮮人大暴動 食糧不足を口実に盛に掠奪 神奈川県知事よりは大阪、兵庫に向かひ食料の供給方を懇請せり。

東京市内は全部食料不足を口実として全市に亘り朝鮮人は大暴動を起こしつつあり……」(河北新報、九月三日)


「歩兵と不逞朝鮮人戦斗を交ゆ 京浜間に於て衝突す 

火災に乗じ不逞鮮人跋扈 近県より応援巡査派遣……」
(福島民友新聞、九月四日)


「放火・強盗・強姦・掠奪 驚くべき不逞鮮人暴行 

爆弾と毒薬を所持する不逞鮮人の大集団二日夜暗にまぎれて市内に潜入 

警備隊(自警団のこと)を組織して掃討中……」(河北新報、九月四日)


「不逞鮮人凶暴を極め飲食物に毒薬や石油を注ぐ 

彼らは缶詰に似た爆弾を所持しつつあり」

(北海タイムズ、九月五日)


■官憲の主な動き(時系列) ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P66より抜粋

九月二日十四時ごろ:内務省警保局長より呉鎮守府、地方長官宛電報。

東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不貞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。

スデニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ十分周密ナル視察ヲ加エ、鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加エラレタシ。


九月二日夕刻:警視庁、戒厳令司令部に、朝鮮人による火薬庫放火計画があると報告。

同    :警視庁菅下各警察署に通達。
 
鮮人中不逞ノ挙ニツイテ放火ソノ他凶暴ナル行為ニイズルモノアリテ、現ニ淀橋・大塚等ニ於テ検挙シタル向キアリ。

コノ際コレラ鮮人ニ対スル取締リヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラレタシ。


 九月三日十六時三十分:海軍省船橋送信所所長電信発信(独断)。全国で受信。

船橋送信所襲撃ノオソレアリ。至急救援頼ム。騎兵一個小隊応援ニ来ルハズナルモ、未ダ来タラズ。


九月四日八時十分:船橋送信所電信発信。

本所(船橋送信所)襲撃ノ目的ヲ以テ襲来セル不逞団接近、騎兵二十、青年団、消防隊等ニテ警戒中、

右ノ兵員ニテハ到底防御不可能ニ付約百五十ノ歩兵ノ急派取計イ度ク、当方面ノ陸軍ニハ右以上出兵ノ余力ナシ。


■不逞鮮人

 震災当時の政治用語。抗日的な運動を行う朝鮮人に対し、官憲が用いた呼称。

この言葉にも当然、「朝鮮人」と同じ問題が付きまとう。


 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。

 
 所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、

一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、

婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり……


身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。

(姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年)


 
 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。

実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。

そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。

しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。


 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、

その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、


という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。


なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。


 女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。

したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。

(『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104)


 魔女狩りを彷彿とさせる、集団ヒステリーが生んだ狂気か。


 この「虐殺」に関する話は、関東大震災を起源とする「防災の日」の各種行事の場面などでも、滅多に触れられる事がないのだという。

この種のイベントは専ら自然災害としての地震の恐ろしさに対する啓蒙を目的に行われるものらしく、天災から派生した人災についてはほとんど言及しないのだそうだ。そして、その現状を無念に思う韓国人・朝鮮人は多い。


参考文献
山岸秀 、2002年、『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』、早稲田出版
http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm



5. 中川隆[-8856] koaQ7Jey 2019年7月25日 05:11:33: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3858] 報告
▲△▽▼

1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生。
この時政府の宣伝

「朝鮮人や社会主義者が震災に乗じて内乱を企てている」

に乗せられた民衆は、社会主義者、労働組合幹部や朝鮮人に対して野蛮なテロを行い、9.3日、亀戸事件により南葛労働組合の指導者・川合義虎らの社会主義者やアナーキストらが亀戸警察署で虐殺された。

9.16日、大杉栄が妻・伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一と共に甘粕正彦憲兵大尉に殺害された。


 9.7日、政府は、関東大震災時の混乱に対して「治安維持の為の緊急勅令」を公布した。

これは、前に成立を見なかった「過激社会運動取締り法案」を、このたびは天皇の名のもとに議会の審議を要しない緊急勅令という形で公布したということである。

しかし、政府はなお満足せず、やがて治安維持法に向けて着々と周辺整備していく。


 「第一次共産党事件」と「関東大震災直後の反動攻勢」に接して、獄中闘争組の中からも解党的方向が提起されたようである。

幸徳秋水の大逆事件、関東大震災時の大杉栄虐殺事件という官憲側のテロル攻勢に「緊急避難」の名目で党の解党止む無し論が強まっていった。


 これに関連して福永操は次のように述べている。

「革命運動の犠牲者たちは、人民が(人民のほんの一部でもが)その犠牲の意義をみとめて心の中で支持してくれると思えば、よろこんで死ねるであろう。

なさけないのは、大逆事件関係者に対する日本の一般民衆の反感がものすごかったことであった。

事件そのものにまったく無関係であった社会主義者たちまでが、この事件のとばっちりを受けて、『主義者』というよびかたのもとに一括して世間からつまはじきされて、文字どおり広い世間に身のおきどころもない状態になったことであった。

労働運動も火が消えたような状態になった」(福永1978)。


 以下、検証する。 


【関東大震災発生】

 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。

地震の規模はマグニチュード7.9、震度6であった。

焼失家屋24万戸、崩壊家屋2万4千棟、死者5万9千人、行方不明者を入れると犠牲者は10万人以上という被害が発生した。

これにより関東一円の商工業地区が壊滅的大打撃を受けた。被害総額は当時の金で約100億円(当時の一般会計の6.5年分、現在で数兆円)と推定される。


 関東大震災の翌9.2日急遽、軍による戒厳令司令部を設置した。

この日、後藤新平が内務大臣に就任している。

 警視庁は、非常事態に備えて臨時警戒本部を設置し、正力官房主事が特別諜報班長になって、不穏な動きを偵察する任務を持ち、その行動隊長として取締まりに専念した。

後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。


「内務大臣・後藤新平と正力の繋がり」について


 正力は、この後藤新平と深く繋がっており、「直接ルート」の間柄。正力の富山四高時代の友人にして官房主事であった品川主計は、回想録「叛骨の人生」の中で「正力君は、後藤新平内務大臣に非常に信用があった」と記している。

同書に拠れば、越権的な「汚れ役」(ダーティーワーク)仕事を躊躇無く引き受けることで信頼を得ていったとのことである。

「仕事の鬼としての出世主義的性格」が強かった、ということになる。

正力は、後藤内相の下で警視庁警務部長となる。

同時に、財界のご意見番的存在であった郷とも親しくなって行った。


【流言飛語飛び交い、朝鮮人、社会主義者、アナーキストの検束始まる】


 直後、

「朝鮮人、中国人、社会主義者、博徒、無頼の徒が放火掠奪の限りを尽くしている」

との噂が飛び交い始めた。

発生源は在郷軍人会、民間自警団辺りからとされているが、今日なお真相不明である。


 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、「朝鮮人による放火、井戸への投毒」という風評を逆手に取って朝鮮人と社会主義者、アナーキストの検束を始めた。

9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。


 東京朝日の石井光次郎営業局長の次のような証言がある


 「建物は倒壊しなかったものの、9月1日の夕刻には、銀座一帯から出た火の手に囲まれ、石井以下朝日の社員たちは社屋を放棄することを余儀なくされていた。

夜に入って、石井は臨時編集部をつくるべく、部下を都内各所に差し向けた。

帝国ホテルにかけあってどうにか部屋を借りることは出来たが、その日、夜をすごす宮城前には何ひとつ食糧がない。

そのとき、内務省時代から顔見知りだった正力のことが、石井の頭に浮かんだ。

石井は部下の一人にこう言いつけて、正力のところへ走らせた。


 『正力君のところへ行って、情勢を聞いてこい。

それと同時に、あそこには食い物と飲み物が集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい』。

間もなく食糧をかかえて戻ってきた部下は、意外なことを口にした。

その部下が言うには、正力から、

『朝鮮人が謀反を起こしているという噂があるから、各自、気をつけろ。

君たち記者が回るときにも、あっちこっちで触れ回ってくれ』

との伝言を託されてきたというのである。


 そこにたまたま居合わせたのが、台湾の民生長官から朝日新聞の専務に転じていた下村海南だった。

下村の『その話はどこから出たんだ』という質問に、石井が『警視庁の正力さんです』と答えると、下村は言下に『それはおかしい』と言った。

『地震が9月1日に起るということを、予想していた者は一人もいない。

予期していれば、こんなことになりはしない。

朝鮮人が9月1日に地震がくることを予知して、その時に暴動を起こすことを企むわけがないじゃないか。

流言飛語にきまっている。断じてそんなことをしゃべってはいかん』。


 石井は部下から正力の伝言を聞いたとき、警視庁の情報だから、そういうこともあるかも知れないと思ったが、ふだんから朝鮮や台湾問題を勉強し、経験も積んできた下村の断固たる信念にふれ、朝鮮人謀反説をたとえ一時とはいえ信じた自分の不明を恥じた。

正力は少なくとも、9月1日深夜までは、朝鮮人暴動説を信じていた。

いや、信じていたばかりではなく、その情報を新聞記者を通じて意図的に流していた」


 内務官僚上がりの石井のこの証言に加えて、戒厳司令部参謀だった森五六の回想談によると、正力は腕まくりして戒厳司令部を訪れ、

「こうなったらやりましょう」と息まいている。


この正力の鼻息の荒い発言を耳にした時に、当時の参謀本部総務部長で後に首相になる阿部信行をして、「正力は気が違ったのではないか」と言わしめたという。


 正力にまつわる一連の行動を分析した佐野は、

[正力は少なくとも大地震の直後から丸一日間は、朝鮮人暴動説をつゆ疑わず、この流言を積極的に流す一方、軍隊の力を借りて徹底的に鎮圧する方針を明確に打ち出している]

と結論づけている。

更に、警視庁に宛てた亀戸署の内部文書にも、


「この虐殺の原因はいずれも警察官の宣伝にして、当時は警察官のごときは盛んに支鮮人を見つけ次第、殺害すべしと宣伝せり」

と書いてあり、中国人労働者が300人ほど虐殺された大島事件も、正力がこの事件を発生直後から知っていたのは、間違いないと自身を持って断定するのである。


【関東大震災時事件その@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺】


 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、

「朝鮮人による放火、井戸への投毒、襲撃」、

「震災の混乱にまぎれて、朝鮮人と社会主義者が政府転覆を図っている」

という風評を逆手に取って警察と軍による朝鮮人、中国人、社会主義者、社会主義的労働者の検束を始めた。


 9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。

自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺も発生している。

無抵抗の者を陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが一方的に撃ち殺したところに特質がある。この時官憲テロルに倒れた朝鮮人は3千名、中国人は3百名。

 その後毎年、9.1日は共産主義運動、朝鮮民族運動の逃走記念日として追悼されていくことになる。


【関東大震災時事件そのA、川合義虎らが虐殺される亀戸事件発生】


 9.3日午後10時頃、亀戸事件の被害者となる南葛労働組合の指導者にして共産青年同盟初代委員長にして党員北原龍雄と共に第一次共産党事件後の留守委員会を構成していた川合義虎ら8名の社会主義者と、アナーキスト系の元純労働組合長・平沢計七らが亀戸警察署に拘束監禁された。


 9.5日、河合義虎ら7名の革命的労働者(北島吉蔵、山岸実司、吉村光治(南喜一の弟)、加藤高寿、近藤広造、鈴木直一)、アナーキスト系の平沢計七らが亀戸警察署で虐殺された。

これを「亀戸事件」と云う。

 その遣り口が憤激に耐えない次のような史実を残している。

古森署長は事後対策を警視庁に上申。この時のこの時の警視庁官房主事が正力松太郎(米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った)で、正力は軍隊への応援依頼、千葉県習志野騎兵第13連隊(田村騎兵少尉指揮)がやって来て、留置された中から最も指導能力を有していた危険な人物を選別し、演武場前広場へ引きずり出し、銃剣と軍刀で虐殺した。

 その虐殺の様について今日奇跡的に伝えられた二葉の写真があり、これを見るに多数の刺傷はそれとしても生きたまま打ち首にされている。

遺体は家族に引き渡されず、二、三日放置された後、荒川放水路の一般の火葬死体の中に投擲された。

田村少尉らは軍法会議にもかけられておらず、「この乱痴気が軍隊と警察と裁判所、検事局と監獄とを、内部から腐敗堕落させた」(志賀義雄「日本革命運動の群像」)とある。

 ちなみに、南喜一は、弟の吉村光治虐殺という権力の横暴に義憤して、共産党活動に入った。

「大正13年の春、私は工場や家を全部処分し、17万円の金をつくつた。

妻子に4万円渡し、13万円を持って、亀戸の南葛飾労働組合に入った。

共産党に入党したのだ」、


「大正15年の共同印刷の争議までは、命ぜられることを名誉とし、火の中でも水の中へでも喜んで飛び込んだ」(「南喜一著作全集」)とある。


【関東大震災時事件そのB、中国人留学生・王希天虐殺事件発生】


 この時、東京中華日キリスト教青年会幹事、中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生・王希天は、亀戸署に拉致監禁された上陸軍に引き渡され、陸軍将校の手で斬殺されている。

死体は切り刻まれて川に捨てられた。

警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」。警察と軍の関係を取り持っていたのは、官房主事の正力であった。


 10.20日、中国代理公使から王の殺害について抗議が為される。

中国政府は王希天殺害調査団を派遣してくることになり、一気に国際的大事件となった。日本政府はその対応に苦しむことになった。

警視庁はじめとする当局は口裏を合わせて知らぬ存ぜぬの「徹底的に隠蔽するの外無し」対応に終始した。

結局、事件そのものは当時の日中の力関係を反映し、最後にはうやむやのままに葬り去られることになった。


【関東大震災時事件そのC、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件発生】


 9.16日関東大震災の混乱に際して、アナーキストで社会運動家のリーダー的存在だった大杉栄は妻・伊藤野枝(いとうのえ、28歳)、甥(おい)の橘宗一(たちばなそういち、6歳)と共に甘粕憲兵大尉(あまかすまさひこ、32歳)に殺害された。

享年38歳。妻野技は1895年1月12日生、享年28歳、甥橘宗一は1917年4月12日生、享年6歳。


 この日、大杉は、その妻(婚姻はしていなかったので正式には同棲)の伊藤野枝と横浜鶴見にあった弟の家から自宅へ帰る途中に東京憲兵隊本部に検束された。

一緒にいた甥の橘宗一も一緒に連れ去れた。検束された大杉達は、麹町憲兵分隊に連行された。


午後8時頃、取調中だった大杉に対し、部屋に入ってきた憲兵大尉《甘粕正彦がいきなり背後から大杉の喉に右腕を回し締め上げた。

大杉がもがき後ろに倒れると、背中に乗りさらに締め上げ絞殺したと伝えられている。

続いて伊藤野枝も絞殺され、橘宗一は部下の憲兵が殺害し、遺体は憲兵分隊内にあった古井戸に投げ込まれた。


 ちなみに甘粕のその後は次の通り。

大杉虐殺事件の軍法会議の進行は非常に早かった。戒厳令下の10.8日に第一回、以後、11.16日、17日、21日の4回で結審となり、12.8日に10年の禁固刑に処せられたものの、軍閥団体の助命運動によって3年で出獄、満州国へ渡り参議の地位に上り詰めていく。


 この大杉栄の拘束・殺害が発端となって、軍部による社会主義者の徹底的な弾圧が始まる。


【官房主事・正力松太郎の暗躍】


 この時、警察と軍の関係を取り持っていたのは、警視庁官房主事の正力松太郎であった。

これを追跡してみる。正力は米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、特高制度の生みの親であった。

後に読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買うことになる。


 9.2日、大震災の翌日急遽、軍による戒厳令司令部が設置された。

船橋の海軍無線送信所から「付近鮮人不穏の噂」の打電が為されている。

今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。


 9.3日、「内務省警保局長」名で全国の「各地方長官」宛てに、要約概要「鮮人の行動に対して厳密なる取締要請」電文打たれる。

内務省が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。


実際には「不逞鮮人暴動」は根拠が曖昧で「流言飛語」の観がある。


この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。

つまり、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。


 9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。

 9.11日、更に、正力官房主事名で、

「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令


が発せられている。

 研究者によると、正力が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」のデマを一番最初にメディアを通じて意識的に広め、虐殺を煽ったのは、なんと、官房主事の正力自身であった。

自身も「悪戦苦闘」という本で、

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。

当局者として誠に面目なき次第」


と弁解しているように、朝鮮人大虐殺の張本人と目されている。

 この時、朝日新聞の記者の1人が警視庁で正力官房主事から、

「朝鮮人むほんの噂があるから、君たち記者があっちこっちで触れてくれ」

と示唆されたことを明らかにしている。

しかし、専務の下村海南が「流言飛語に決まっている」と制止したと云う。


「正力の胡散臭さ」について

 後に読売新聞の社主となって登場してきた正力松太郎には「負の過去」がある。


関東大震災当時、警視庁官房主事という警察高級官僚であった正力こそ朝鮮人大虐殺の指揮官であった形跡がある。

こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていく。

その意味で、「読売新聞建て直しの功労者」ではある。

しかし、正力の本領は当時の「聖戦」賛美にあった。

新聞でさんざん戦争を煽った。

これが為、松太郎はA級戦犯指名で巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。

しかし、政権与党に食い入り常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。

「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」


 こうしたムショ帰りの権力主義者の社主に忠誠を誓い、その負の遺産を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。

日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。
http://www.gameou.com/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_oosugisakae.htm


正力松太郎の生態はもっと研究されて良いように思われる。
内務省特高課(戦前日帝の諜報・弾圧機関)の創設者にして終始黒幕で在り続けた後藤新平に見出され、米騒動、関東大震災時の「暗躍」で「血塗られた強固な同盟」が確立する。以下、この関係を追跡する。


【後藤新平の履歴(1857〜1929)】


 岩手県水沢市の小藩出身。

幕末の蘭学者高野長英の親族。

須賀川医学校を卒業して医師となりも愛知県立病院長を経て内務省に入る。

1892年衛生局長(現在の厚生省事務次官)。

その間ドイツに留学し、プロイセン国家の統一ドイツ建国過程をつぶさに見て、ビスマルク政治に憧憬したと伝えられている。

1895年日清戦争で台湾を割譲させたが、4代目台湾総督になった児玉源太郎が後藤を見出し民政長官となって赴任。


後藤は、「アメと鞭を併用した辣腕政治」で判明するだけで抗日ゲリラ1万1千余名を虐殺している。

結果的に「台湾島民の鎮圧と産業開発で名声を高めた」。


 後藤は、台湾総督府初代民政長官を皮切りに、以後、

1906年満鉄初代総裁、1908(明治41)年桂太郎内閣の下で逓信大臣兼鉄道院総裁、1916(大正5)年寺内正毅内閣の下で内務大臣、

続いて1918(大正7).4.23日外務大臣、

山本権兵衛内閣の下で内務大臣再任を歴任し、晩年に伯爵の位を得ている。


植民地政策の統合参謀本部・満鉄調査部を設置したのも後藤である。

未解明であるが、阿片政策にも手を出しており、その収入が機密費として縦横に駆使された形跡がある。


 その政治的軌跡は、伊藤博文の後継者。後藤は言論統制に著しく関与している。

 1919(大正8)年、後藤は、寺内内閣の総辞職を機会に欧米視察の旅に出た。

訪問先はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、オランダ。

帰国するやいなや、「大調査機関設立の議」建白書を政府に提出している。

これは、アメリカのCIA(中央情報局)のような強力な組織を設立せよという構想であった。


【内務省】


 内務省は、一口で云えば「天皇制警察国家」と呼ばれる当時の大日本帝国の最高官庁であった。

要するに内政にかかわる一切の行政権を一手に握っている中央官庁であった。

現在の機構に当て嵌めれば、国家公安委員会、警察庁、公安調査庁、消防庁、自治省、厚生省、労働省、建設省、農林省の一部、法務省の一部、文部省の一部的機能を持つ官庁であった。

全国の知事と高級官僚は、内務官僚が任命し派遣するというシステムで、地方行政は市町村議会の監督権まで含めて内務省が握っていた。

内務官僚は、天皇直属であり、平常時の警察機構、緊急時の法律に対抗する緊急勅令権、警察命令権を握っており、いわば万能であった。


 大逆事件の年の1911(明治44)年に高等課特高係(特高)が新設され、後に特別高等部に昇格し、得意な指揮系統を持つ事になった。

新聞の統制など言論動向の調査は特高の中の検閲課の任務であり、更に全国の警察機構の元締め内務省警保局の図書課でも行われた。

両者の関係は、図書課が本庁であり、検閲課は出先機関となる。


 内務省本省の図書課は、後藤新平内務大臣時代の1917(大正6).9月、直接の声係りでロシア革命への対応を意識して拡張された。

同時に警視庁の人員増強も要請され、当時の6000名が6年後には1万2000名に倍増された。特高も同時期に12名から80名へと約7倍化している。


【正力松太郎の履歴(1857〜1929)】

 1885(明治18).4.11日、富山県の土建請負業の旧家に生まれる。

青春時代を柔道に打ち込む。

 1911(明治44)年、東京帝国大学法科大学独語科卒業(26歳)。

翌年に内閣統計局に入り、高等文官試験に合格し、1913(大正2).6月、警視庁に雇用される。

直ちに警部となり、翌年に警視、日本橋堀留署長となる。


 1917年、第一方面監察官。

 1918(大正7)年、米騒動鎮圧に一役買い、勲章を貰う。

 1919(大正8)年、刑事課長。

 1920(大正9)年、普通選挙大会の取締まり、東京市電ストの鎮圧。

 1921(大正10)年、警視庁で警視総監に次ぐbQの位置とされる官房主事となり、高等課長を兼任(36歳)。


本人自身が「私ほど進級の早いのはいません」(「週間文春」1965.4.19日)と語っている。


 1923(大正12)年、正力の警視庁官房主事、共産党の猪俣津南雄宅にスパイを送り込み、早稲田大学研究室の捜査、6.5日、第一次共産党検挙を指揮した。

 「米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、

読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、

軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った」。


 「関東大震災時の暗躍」


 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。


 関東大震災の翌9.2日急遽、後藤新平が内務大臣に就任し、非常事態に備えて軍は戒厳令司令部を、警視庁も臨時警戒本部を設置した。

この時、正力は官房主事であったが、特別諜報班長になって不穏な動きの偵察、取締まりに専念した。

後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。


 今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。


「不逞鮮人暴動」に如何ほどの根拠があったのか不明であるが、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。

こうして、内務省が流した「朝鮮人暴動説」が全国各地の新聞で報道され、この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。


 後藤−正力ラインが警戒したのは、社会主義者の動きであった。

9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。

9.11日、正力官房主事名で、「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令が発せられている。


 後藤−正力ラインはこうした通達のみならず、実際に迅速に先制的官憲テロをお見舞いしていった。


@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の多数虐殺、

A、川合義虎らが虐殺される亀戸事件、

B、中国人留学生・王希天虐殺事件、

C、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件)


等が記録されている。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mascomiron_yomiurico2.htm


53. 2010年10月25日 07:30:46: FtBpZiRG09
>僕は朝鮮人は大嫌いだし、
嫌日も結構だが、とは書いたが、朝鮮人の好き嫌いなんてことは訊いてないんだが(笑)
共産党な人だったのか・・・・・といいたいところだが実際は、朝鮮人も大好きなんでしょうね。
>混乱の中で、朝鮮人や社会主義者が暴動をたくらんでいるというデマが流れ、当局も
>「震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ…」
デマを聞きつけた上で、電信自体が海軍の持っていたものしか使えなかったことから
誤った情報が唯一の報告となって電信が打たれたのが現実。

実際はコレらしい↓
「東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不貞ノ目的ヲ遂行セントシ、
現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。
スデニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ十分周密ナル視察ヲ加エ、
鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加エラレタシ。」

あくまで取締りだったし、地方の鎮守府宛に発信されたので罹災民衆には届いていない。
それ以前に、この時点では社会主義者出てきてないけどね。
予め震災が起こることを予測し、それを利用して流言を流すとかできないだろ、普通に考えて。
現代科学でもムリ。

>この時政府の宣伝「朝鮮人や社会主義者が震災に乗じて内乱を企てている」に乗せられた民衆は
電信不通、電話不通、携帯なんてもちろんない。新聞社も関東方面はまともな配達は不可能
そんな状況で1日や2日で朝鮮人虐殺計画を広めるというのは根本的に無理、というより無茶。
元々、計画として民衆に流布していたというのなら可能だが。

震災によって不安にかられた民衆が、異民族排他に動いたのが、この結果。
社会主義者については、時期を狙っていた可能性はあったかも知れないがね。


それにして、またコピペネタ見つけて、無駄に長いだけのコピペ馬鹿中川隆に戻ったか。
===========================================

五月晴郎さん
>日本統治下の朝鮮は情報も厳しく統制されていた。
厳しいというのは、どういうのが厳しいとみるかで違ってくると思いますが。
どちらかというと詳細を知りたいですね。どこまでセーフで、どこからアウトだったとか。

>大震災時朝鮮人虐殺に関連する朝鮮人側のハングル資料なんかあるの?
自分も日本資料しか見れないのでなんとも。あるかどうかと考えれば、ないんじゃないですかね。
当時、日本に在住していて、朝鮮に戻った人が書いていない限り。
横浜市震災誌に出てきた李根榮さんみたいな人が書いていませんかね。

>あったとしても朝鮮人側が書いたの分かったらアレで残されてないだろうし
アレとはなんぞや?
コピペ馬鹿中川隆のいうところの、大震災を利用した社会主義者抹殺陰謀説
(今ならともかく印刷された大正13年当時ならそう言われておかしくない)物まで
印刷された本が残ってるくらいですから、朝鮮人側が書いた本でも、
仮にあったとすれば、全く残っていないとは思えませんけどね。
もっとも朝鮮にのみ流通していれば朝鮮戦争で消されている可能性もありますけど。

>虐殺行動自体は、真偽混じった情報を計画性を持って流し
まぁ、それは後知恵じゃないですか?としか言えませんね。
上でも書いたように、社会主義者については、時期を狙っていた可能性はあるでしょうが。


54. 中川隆 2010年10月25日 10:40:00: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q
必死だね。
(そんな状況で1日や2日で朝鮮人虐殺計画を広めるというのは根本的に無理、というより無茶。)

朝鮮人を搾取して絶えず朝鮮人の怒りを感じていたんだから、後藤新平と正力松太郎はいざという時の準備をして待っていただけさ。

資料としてこれも貼っとくよ:


「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告がある。

民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。

しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。

いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。

 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html


関東大震災に便乗した治安対策


陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒

 正力が指揮した第一次共産党検挙が行われたのは、一九二三年(大12)六月五日である。

 それから三か月も経たない九月一日には、関東大震災が襲ってきた。

このときの警視庁の実質的な現場指揮者は、やはり正力であった。

この一九二三年という年は、日本全体にとっても正力個人にとっても激動の年であった。

月日と主要な経過を整理し、問題点と特徴を明確にしておきたい。


 六月五日に、第一次共産党検挙が行われた。

この時、正力は官房主事兼高等課長だった。

 九月一日に、関東大震災が起きた。正力の立場は前とおなじだった。

 一二月二七日には、虎の門事件が起きた。この時、正力は警務部長だった。

 虎の門事件の際、警備に関して正力は、警視総監につぐ地位の実質的最高責任者である。

警視総監の湯浅倉平とともに即刻辞表を提出し、翌年一月七日に懲戒免官となった。

ただし、同じ一月二六日には裕仁の結婚で特赦となっている。


 以上の三つの重大事件を並べて見なおすと、

第一次共産党検挙と虎の門事件の背景には、明らかに、国際および国内の政治的激動が反映している。

その両重大事件の中間に起きた関東大震災は、当時の技術では予測しがたい空前絶後の天災であるが、この不慮の事態を舞台にして、これまた空前絶後で、しかも、その国際的および国内的な政治的影響がさらに大きい人災が発生した。

朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件である。


 さて、以上のように改めて日程を整理してみたのは、ほかでもない。本書の主題と、関東大震災における朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件との間に、重大な因果関係があると確信するからである。

そこで以下、順序を追って、虐殺、報道、言論弾圧から、正力の読売乗りこみへと、その因果関係を解き明かしてみたい。


 どの虐殺事件においても明らかなことは、無抵抗の犠牲者を、陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが、一方的に打ち殺したという事実関係である。

正力は、当然、秩序維持の責任を問われる立場にあった。

正力と虐殺事件の関係、正力の立場上の責任などについては、これまでにも多数の著述がある。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-1.html


「朝鮮人暴動説」を新聞記者に意図的に流していた正力


 正力自身も『悪戦苦闘』のなかで、つぎのように弁明している。

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」

 これだけを読むと、いかにも素直なわび方のように聞こえるが、本当に単なる「失敗」だったのだろうか。

以下では、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆に当たって参考にした資料に加えて、それ以後に出版された新資料をも紹介する。

いくつかの重要な指摘を要約しながら、正力と虐殺事件の関係の真相にせまってみる。

 興味深いことには、ほかならぬ正力が「ワンマン」として君臨していた当時の一九六〇年に、読売新聞社が発行した『日本の歴史』第一二巻には、「朝鮮人暴動説」の出所が、近衛第一師団から関東戒厳令司令官への報告の内容として、つぎのように記されていた。

「市内一般の秩序維持のための〇〇〇の好意的宣伝に出づるもの」

 この報告によれば、「朝鮮人暴動説」の出所は伏せ字の「〇〇〇」である。


伏せ字の解読は、虫食いの古文書研究などでは欠かせない技術である。

論理的な解明は不可能ではない。

ここではまず、情報発信の理由は「市内一般の秩序維持」であり、それが「好意的宣伝」として伝えられたという評価なのである。

「市内一般の秩序維持」を任務とする組織となれば、「警察」と考えるのが普通である。さらには、そのための情報を「好意的宣伝」として、近衛第一師団、つまりは天皇の身辺警護を本務とする軍の組織に伝えるとなると、その組織自体の権威も高くなければ筋が通らない。

字数が正しいと仮定すると、三字だから「警察」では短すぎるし、「官房主事」「警視総監」では長すぎる。「警視庁」「警保局」「内務省」なら、どれでもピッタリ収まる。

 詳しい研究は数多い。

『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編によれば、すくなくとも震災の翌日の九月二日午後八時二〇分には、船橋の海軍無線送信所から、「付近鮮人不穏の噂」の打電がはじまっている。


 翌日の九月三日午前八時以降には、「内務省警保局長」から全国の「各地方長官宛」に、つぎのような電文が打たれた。

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、

すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」


 正力の『悪戦苦闘』における弁解は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」となっていた。

では、この「虚報」と正力の関係、「失敗」の経過は、どのようだったのだろうか。


 記録に残る限りでは、正力自身が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」の噂を一番最初に、メディアを通じて意識的に広めようとしたのは、なんと、正力自身なのである。


 シャンソン歌手、石井好子の父親としても名高かった自民党の大物、故石井光次郎は、関東大震災の当時、朝日新聞の営業局長だった。

石井は内務省の出身であり、元内務官僚の新聞人としては正力の先達である。

震災当日の一日夜、焼け出された朝日の社員たちは、帝国ホテルに臨時編集部を構えた。

ところが食料がまったくない。

石井の伝記『回想八十八年』(カルチャー出版社)には、つぎのように記されている。


「記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎が官房主事だった。


『正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。

それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい[中略]』といいつけた。

それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。

ところが、帰って来た者の報告では、正力君から、


『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』


と頼まれたということであった」

 ところが、その場に居合わせた当時の朝日の専務、下村海南が、「それはおかしい」と断言した、


予測不可能な地震の当日に暴動を起こす予定を立てるはずはない、

というのが下村の論拠だった。

下村は台湾総督府民政長官を経験している。

植民地や朝鮮人問題には詳しい。

そこで、石井によると、「他の新聞社の連中は触れて回ったが」、朝日は下村の「流言飛語に決まっている」という制止にしたがったというのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html


東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見


 ただし、石井の回想通りに、朝日が「朝鮮人暴動説」報道を抑制したのかどうかについては、いささか疑問がある。

内務省筋が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。


『大阪朝日』は九月四日、「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると」、という書き出しで、さきの船橋送信所発電とほぼ同じ内容の記事を載せた。

『朝日新聞社史/大正・昭和戦前編』には、震災後の東京朝日と大阪朝日の協力関係について、非常に詳しい記述があるが、なぜか、大阪朝日が「朝鮮人暴動説」をそのまま報道した事実にふれていない。


『大阪朝日』ほかの実例は、『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』に多数収録されている。

この基本資料を無視する朝日の姿勢には、厳しく疑問を呈したい。


 東京の新聞でも、同じ報道が流されたはずなのであるが、現物は残っていないようである。

わたしが目にした限りの関東大震災関係の著述には、東京の新聞の「朝鮮人暴動説」の報道例は記されていなかった。

念のためにわたし自身も直接調べたが、地震発生の九月二日から四日までの新聞資料は、実物を保存している東京大学新聞研究所(現社会情報研究所)にも、国会図書館のマイクロフィルムにも、まったく残されていなかった。


 たしかに地震後の混乱もあったに違いないが、そのために資料収集が不可能だったとは考えにくい。

報知、東京日日(現毎日)、都(現東京)のように、活字ケースが倒れた程度で、地震の被害が軽い社もあった。

各社とも、あらゆる手をつくして何十万部もの新聞を発行していたのである。

各社は保存していたはずだから、九月一日から四日までの東京の新聞の実物が、まるでないというのはおかしい。

戒厳令下の言論統制などの結果、抹殺されてしまった可能性が高い。


 ところが意外なことに、『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会)には、新聞報道の「混乱」の「最もよい例」として、「九月三日付けの『報知』の号外」の「全文」が紹介されていた。

要点はつぎのようである。


「東京の鮮人は三五名づつ昨二日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋に捕らわれし者約百名」


「程ヶ谷方面において鮮人約二百名徒党を組み、一日来の震災を機として暴動を起こし、同地青年団在郷軍人は防御に当たり、鮮人側に十余名の死傷者」


 同書の編著者で、当時は東海大学教授の山本文雄に、直接教えを乞うたところ、この号外の現物はないが、出典は『新聞生活三十年』であるという。


 実物は国会図書館にあった。著書の斉藤久治は当時の報知販売部員だった。

同書には、新聞学院における「販売学の講演」にもとづくものと記されている。

発行は一九三二年(昭7)である。のちの読売社長、務台光雄は元報知販売部長で、同時代人だから、この二人は旧知の仲だったに違いない。

ところが、この二人が残した記録は、肝心のところで、いささか食い違いを見せるのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-3.html


号外の秘密を抱いて墓場に入った元報知販売部長、務台光雄


 務台の伝記『闘魂の人/人間務台と読売新聞』(地産出版、以下『闘魂の人』)には、務台が、震災直後から一週間ほど社の講堂で寝泊まりしたことやら、その奮闘ぶりが克明に描き出されている。

「活字が崩れてしまったので、大きい活字を使って、号外のような新聞を、四日には出すところまでこぎつけた」ということになっている。

ところが、『新聞生活三十年』には、「写真1」のような「九月一日」付けの報知号外のトップ見出し部分のみが印刷されているのである。

「四日」と「一日」とでは、この緊急事態に際しては大変な相違がある。


 謎を解く鍵の一つは、まず、『別冊新聞研究』((4)、77・3)掲載、「太田さんの思い出」という題の、務台自身の名による文章である。

そこでは、「直ちに手刷り号外の発行を行う一方、本格的新聞の発行に着手、まず必要なのは用紙だ」となっている。

地震で電気がこないから、輪転機が動かせない。

輪転機用の巻紙もない。

だが、活字を組んでインクを塗れば、「手刷り」印刷は可能だった。

しかも、「手刷り」には、もう一つの手段があった。


 さきの『新聞生活三十年』を出典とする「朝鮮人暴動説」の号外は九月三日付けだが、「写真2」のようなガリ版印刷である。

本文中には、「汗だくになって号外を謄写版に刷る」という作業状況が記されている。


 務台のフトコロ刀といわれた元中部読売新聞社長、竹井博友の著書、『執念』(大自然出版局)によると、電気がこないので九月九日まで、「四谷の米屋からさがしてきたガス・エンジンでマリノニ輪転機を動かして」いたという。

普段よりは印刷能力が低かったので、手刷りやガリ版印刷で補ったのであろう。

晩年の務台から直接取材したという『新聞の鬼たち/小説務台光雄(むたいみつお)』(大下英治、光文社)では、震災当日に「手刷り」と「謄写版」の号外を出した事を認めている。

つまり、務台自身が、段々と真相の告白に迫っていたのだ。


 もう一つの手段は、近県の印刷所の借用である。

斉藤久治の表現によれば、「報知特有の快速自動車ケース号(最大時速一時間百五十哩)」で前橋の地方紙に原稿を届け、九月七日までに、「数十万枚を東京に発、送し、市内の読者に配ることに成功した」という。

 さて、そこからが一編の歴史サスペンスを感じさせるところである。

『新聞生活三十年』の本文には、問題の号外の文章は復原されていない。

そのほかにも本文には、「朝鮮人暴動説」報道に関しての記述はまったくないのである。

 「写真2」は同書の実物大(WEB上の注:87ミリ×53ミリ)である。

もともとのガリ版が乱筆の上に、かなりかすれている。

しかも、極端に縮尺されているから、拡大鏡で一字一字書き写してみなければ、判読できない状態である。

結果から見て断言できるのは、「写真2」のガリ版号外が、『新聞生活三十年』の本文の記述を裏切っているということである。


奇妙な話のようだが、当時の言論状況を考えれば、真相は意外に簡単なことかもしれない。

著者の斉藤が、手元に秘蔵していたガリ版号外の内容を後世に伝えるために、検閲の目を逃れやすいように判読しがたい状態の写真版にして、印刷の段階で、すべりこませたのかもしれないのである。

 わたしは、このガリ版号外の件を『噂の真相』(80・7)に書いた。

読売の役員室に電話をして務台自身の証言を求めたが、返事のないまま務台は死んでしまった。

あの時代の人々には、この種の秘密を墓場まで抱いていく例が多いようだ。残念なことである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-4.html


「米騒動」と「三・一朝鮮独立運動」の影に怯える当局者


「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、発生地帯の研究などもあるが、いまだに決定的な証拠が明らかではない。

軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告もある。

民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。

しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。


いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。

 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。

 さきに紹介した「内務省警保局長出」電文の打電の状況については、「船橋海軍無線送信所長/大森良三大尉記録」という文書も残されている。

歴史学者、松尾尊兌の論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」(『思想』93・9)によると、

大森大尉は、

「朝鮮人襲来の報におびえて、法典村長を通じて召集した自警団に対し四日夜、

『諸君ノ最良ナル手段ト報国的精神トニヨリ該敵ノ殲滅ニ努メラレ度シ』

と訓示したために現実に殺害事件を惹起せしめ」たのである。


 九月二日午後八時以降と、一応時間を限定すれば、「噂」「流言」、または「好意的宣伝」を積極的に流布していたのは、うたがいもなく内務省筋だったのである。

 なお、さきの船橋発の電文例でも、すでに「戒厳令」という用語が出てくる。

「戒厳」は、帝国憲法第一四条および戒厳令にもとづき、天皇の宣告によって成立するものだった。

前出の『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、この経過をつぎのように要約している。


「一日夜半には、内相官邸の中庭で、内田康哉臨時首相のもとに閣議がひらかれ、非常徴発令と臨時震災救護事務局官制とが起草された。

これらは戒厳に関する勅令とともに二日午前八時からの閣議で決定され、午前中に摂政の裁可を得て公布の運びとなったのである」


 前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」によると、この戒厳令公布の手続きは、「枢密院の議を経ない」もので「厳密にいえば違法行為である」という。

ただし、このような閣議から裁可の経過は、表面上の形式であって、警視庁は直ちに軍の出動を求め、それに応じて軍も「非常警備」の名目で出動を開始し、戒厳令の発布をも同時に建言していた。


 戒厳令には「敵」が必要だった。

警察と軍の首脳部の念頭に、一致して直ちにひらめいていたのは、一九一八年の米騒動と一九一九年の三・一朝鮮独立運動の際の鎮圧活動であったに違いない。

 首脳部とは誰かといえば、おりから山本権兵衛内閣の組閣準備中であり、臨時内閣に留任のままの内相、水野錬太郎は、米騒動当時の内相だった。

その後、水野は、三・一朝鮮独立運動に対処するために、朝鮮総督府政務総監に転じた。


 震災当時の警視総監、赤池濃は、水野の朝鮮赴任の際、朝鮮総督府の警務部長として水野に同行し、一九一九年九月二日、水野とともに朝鮮独立運動派から抗議の爆弾を浴びていた。

 震災発生の九月一日、東京の軍組織を統括する東京衛戍司令官代理だった第一師団長、石光真臣は、水野と赤池が爆弾を浴びた当時の朝鮮で、憲兵司令官を勤めていた。

 つまり、震災直後の東京で「市内一般の秩序維持」に当たる組織の長としての、内相、警視総監、東京衛戍司令官代理の三人までもが、朝鮮独立運動派から浴びせられた爆弾について、共通の強い恐怖の記憶を抱いていたことになる。

さらに軍関係者の方の脳裏には、二一か条の要求に反発する中国人へのいらだちが潜んでいたにちがいない。

 その下で、警視庁の実働部隊の指揮権をにぎる官房主事、正力は、第一次共産党検挙の血刀を下げたままの状態だった。

正力自身にも、朝鮮総督府への転任の打診を受けた経験がある。


 かれらの念頭の「仮想敵」を総合して列挙すると、朝鮮人、中国人、日本人の共産党員または社会主義者となる。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html


戒厳司令部で「やりましょう」と腕まくりした正力と虐殺


 戒厳司令部の正式な設置は、形式上、震災発生の翌日の午前中の「裁可」以後のことになる。だが、震災発生直後から、実質的な戒厳体制が取られたに違いない。

前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」には、当時の戒厳司令部の参謀だった森五六が一九六二年一一月二一日に語った回想談話の内容が、つぎのように紹介されている。

「当時の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、腕まくりして司令部を訪れ

『こうなったらやりましょう』

といきまき、阿部信行参謀をして

『正力は気がちがったのではないか』

といわしめたと語っている」


 文中の「阿部信行参謀」は、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となった。

これらの戒厳司令部の軍参謀の目前で、腕まくりした正力が「やりましょう」といきまいたのは、どういう意図を示す行為だったのであろうか。

正力はいったい、どういう仕事を「やろう」としていたのだろうか。

「気がちがったのではないか」という阿部の感想からしても、その後に発生した、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量「保護」と、それにともなう虐殺だったと考えるのが、いちばん自然ではないだろうか。


森五六元参謀の回想には、この意味深長な正力発言がなされた日時の特定がない。


だが、「やりましょう」という表現は、明確に、まだ行為がはじまる以前の発言であることを意味している。

だから、戒厳司令部設置前後の、非常に早い時点での発言であると推測できる。

警察と軍隊は震災発生の直後から、「保護」と称する事実上の予備検束を開始していた。

その検束作業が大量虐殺行動につながったのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-6.html


「社会主義者」の「監視」と「検束」を命令していた警視庁


 関東大震災後の虐殺事件では、直接の殺人犯を二種類に分けて考える必要がある。

 第一の種類は、いわゆる「流言」「噂」または「情報操作」にあおられて、朝鮮人や中国人を無差別に殺した一般の自警団員などの民衆である。

前項で検討した材料から判断すれば、虐殺を煽ったのは正力ほかの警察官であり、こちらの方がより悪質な間接殺人犯である。

背後には日本の最高権力の意思が働いていた。


 同じ中国人の殺害でも、のちにくわしくふれる王希天のような指導者の場合には、ハッキリと「指名手配」のような形で拉致監禁され、しかも、職業軍人の手で殺されている。

日頃から敵視していた相手を、地震騒ぎに乗じて殺したことが明らかである。

朝鮮人についても同じような実例があったのかもしれない。

社会主義者の虐殺に関与したのは、明白に、警察と軍隊だけであった。

これらの、相手を特定した虐殺の関与者が、第二の種類の職業的な直接的な殺人犯である。

その罪は第一の種類の場合よりもはるかに重いし、所属組織の上層部の機関責任をも厳しく問う必要がある。

上層部による事後の隠蔽工作は、さらに重大かつ悪質な政治犯罪である。


 正力らが犯した政治犯罪を明確にするために、虐殺事件の問題点を整理してみよう。

 中国人指導者の王希天や日本人の社会主義者の場合には、かれらが警察と軍の手で虐殺されたのは、いったん警察に「指名手配」のような形で拉致監禁されたのちのことである。

警察の方では、軍に身柄を引き渡せば殺す可能性があるということを、十分承知の上で引き渡している。

軍の方が虐殺業務の下請けなのである。

当時の制度では、戒厳令のあるなしにかかわらず、市内秩序維持に関するかぎりでは警視庁の要請で軍が動くのであった。

全体の指揮の責任は、警視庁にあった。警視庁と戒厳司令部の連絡に当たっていたのは、官房主事の正力であった。


『巨怪伝』では、つぎのような経過を指摘している。

「九月五日、警視庁は正力官房主事と馬場警務部長名で、

『社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよ』

という通牒を出した。

さらに十一日には、正力官房主事名で、

『社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ』

という命令が発せられた」


 これによると、「社会主義者」の「監視」または「検束」に関する警視庁の公式の指示は、九月五日以後のことのようである。

ところが、「亀戸事件」の犠牲者、南葛労働組合の指導者、川合義虎ら八名の社会主義者が亀戸署に拉致監禁されたのは、それ以前の「三日午後十時ごろ」なのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-7.html


「使命感すら感じていた」亀戸署長の暴走を弁護する正力


『関東大震災と王希天事件/もうひとつの虐殺秘史』(田原洋、三一書房、以下『関東大震災と王希天事件』)では、川合義虎ら八名の社会主義者が近衛騎兵によって虐殺された「亀戸事件」の経過を細部にわたり、「時系列にしたがって検分」している。

 かれら八名の社会主義者が

「三日午後十時ごろ、理由も何もなく、狙い打ちで検束されてしまった」

時点では、十一日の「検束」命令どころか、五日の「監視」通牒さえ出ていなかったのである。


 亀戸署管内では、別途、それに先立って、中国人大量虐殺の「大島事件」と、反抗的な自警団員四名をリンチ処刑した「第一次亀戸事件」も発生している。

署長の古森繁高は、社会主義者らの生命を奪うことに「使命感すら感じていた」という点で、「人後に落ちない男」であった。


古森は、「朝鮮人暴動説」が伝えられるや否や、自ら先頭に立ってサイドカーを駆使して管内を駆け巡り、「二夜で千三百余人検束」し、「演武場、小使室、事務室まで仮留置場にした」のである。


 社会主義者の検束に当たって古森が「とびついた」のは、「三日午後四時、首都警備の頂点に立つ一人、第一師団司令官石光真臣」が発した「訓令」の、つぎのような部分であった。

「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」

 つまり、社会主義者が朝鮮人の「暴動」を「悪用」する可能性があるから、注意しろという意味である。

『20世紀を動かした人々』(講談社)所収の「正力松太郎」(高木教典)には、正力が亀戸事件について語った当時の新聞談話が収録されているが、つぎのような説明ぶりで、古森署長の行動の後追い弁護になっている。


「実際、二日、三日の亀戸一帯は、今にも暴動が起るという不安な空気が充満し、二日夜も古森署長は部下の警官を集めて決死の命令を下す程、あたかも無警察の状態で、思想団、自警団が横行していたそうで、

軍隊の力を頼んで治安維持を保つべく、ついにこうしたことになったのであるが、

今回の事件はまったく法に触れて刺殺されたものである。

警官が手を下したか否かは、僕としては、軍隊と協力、暴行者を留置場外に引き出したことは事実であるが、刺殺には絶対関与していないと信ずる」


 この新聞談話から、社会主義者にかかわる部分を抜き出して、検討してみよう。

 まずは、「思想団」が「横行していたそうで」というが、そのような事実があったと主張する歴史書は皆無である。

つぎには、「法に触れて刺殺」と断定していうが、せいぜいのところ、留置場のなかで抗議の大声を挙げたり、物音を立てたぐらいのことであって、

そのどこがどういう「法に触れ」たのかの説明がまったくない。

「暴行者を留置場外に引き出したことは事実」としているが、これも同じ趣旨である。

正力はいったい、どの行動を指して「暴行」だと断定しているのだろうか。


 最後の問題は、「[警察側が]刺殺には絶対関与していないと信ずる」という部分にある。

正力としては、虐殺の責任を「軍隊」になすりつけ、監督責任を逃れたかったのであろう。

だが、すでに指摘したように、当時の制度では警視庁の要請で軍が動くのであった。


『関東大震災と王希天事件』には、古森署長がみずからしたためた「第一次亀戸事件」に関する報告が収録されている。

警視庁が編集した『大正大震火災誌』からの引用である。

引き渡しの理由は、「兵器ヲ用ウルニアラザレバ之ヲ鎮圧シガタキヲ認メ」たからだとなっている。

古森は、「兵器」による「鎮圧」を予測しつつ、または希望しつつ、反抗的な自警団員四名を軍に引き渡したのだ。

結果は、違法なリンチ処刑だった。


 この四名の自警団員の場合は、道路で日本刀を持って通行人を検問していた。

警官が検問の中止を勧告したところ、「怒って日本刀で切りかかった」のだそうである。本人たちは、警察が流した「朝鮮人暴動説」に踊らされていたわけだから、中止勧告が不本意だったのだろう。

留置場内で警察の悪口を並べ、「さあ殺せ」とわめいたりしたようである。

「結局、軍・警察の処置は妥当と認められ、四人は死に損となった」とあるが、リンチ処刑が「横行」するような「無警察」状態を演出したのは、いったいどちらの方なのだろうか。

 しかも、『関東大震災と王希天事件』ではさらに、この四日夜の「第一次亀戸事件」を、川合義虎ら八名の社会主義者の虐殺、いわゆる「亀戸事件」への導火線になったのではないかと示唆している。

反抗的な自警団員四名の引き渡し以後、留置場内は「前にもまして騒然となった」のである。そこで「古森は、ついに五日午前三時」、川合らを騎兵隊に引き渡した。同書では時系列の記述の最後を、つぎのように結んでいる。

「古森は『失態』を告発する恐れのある川合らを抹殺した。

両次亀戸事件の犠牲者十四人の死体は、こっそり大島八丁目に運ばれ、多くの虐殺死体にまぎれて焼却された」


 同書はまた、この「両次亀戸事件」に、中国人指導者王希天虐殺事件と大杉栄ら虐殺事件に共通する「パターン」を指摘する。

「法にしばられる警察は、自ら手を下さずとも、戒厳令下で異常な使命感と功名心に燃え狂っている中下級軍人を、ちょっとそそのかすだけで、目的をとげることができた」のである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-8.html


留学生で中華民国僑日共済会の会長、王希天の虐殺事件


 さらに重大な問題は、すでに何度か記した在日中国人の指導者、王希天の虐殺事件であった。

 ここで「さらに重大な問題」と記した意味には、虐殺そのものとは別の側面も含まれている。

この事件は、読売の紙面が輪転機にかける鉛版の段階で削除されるという事態を招いていた。

つまり、この事件は、本書の主題の読売の歴史に、深い影を落としているのだ。


 元警視庁警務部長が、こともあろうに首都の名門紙に「乗りこむ」という事態は、一種の政治犯罪を予測させる。

だが、およそ重大な犯罪の背景には、間接的または一般的な状況だけではなくて、直接的な契機、または引くに引けない特殊な動機があるものである。

とくに、一応は正常な社会人として通用してきた人物を「重大な犯罪」に駆り立てるためには、それだけ強力で衝動的な動機が必要である。

わたしは、この事件の真相を知ることによって初めて、長年の、もどかしい想いの疑問の核心部分に達したと感じる。

読売の紙面の鉛版削除という稀有な事態を招いたこの事件こそが、正力の読売「乗りこみ」という、これまた稀有な事態の直接的な動機だと、確信するに至ったのである。


 関東大震災と朝鮮人・社会主義者の虐殺の関係は一応、一般にも広く知られている。

 だが、虐殺の被害者の中でも「中国人」の三文字は、これまで付け足りのようだった。

とくに知られていなかったのは、王希天虐殺事件そのものと、その国際的な重要性であった。

中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生、王希天は、陸軍将校から斬殺されていた。

「行方不明」と発表されていた王希天の捜査、調査活動は、当時の政界、言論界を揺るがす国際的な大事件に発展していたのである。


 一九九五年には、さまざまな角度から日本の戦後五〇年が問われた。

試みに、その年の暮れの集まりで会った在日朝鮮人の研究者と、駐日特派員の中国系ジャーナリストに、「王希天虐殺事件を知っていますか」という質問を向けてみた。

案の定、二人とも、まったく知らなかった。

詳しく話すと、真剣な表情で耳を傾けてくれたのちに、「大変に貴重な情報を教えていただき、ありがとうございました」と、ていねいにお礼をいわれた。

その後、何人かの日本人ジャーナリストにも同じ質問を向けてみたが、やはり、王希天の名を知っている人は非常に少ない。

ただし、わたし自身も数か月前に知ったばかりで、自慢などできる立場ではなかった。「五十歩百歩」そのものである。


 王希天が代表としてノミネートされる中国人の大量虐殺事件については、いまから七三年前の一九二三年(大正12)、関東大震災の直後に、中国政府が派遣した調査団が訪日している。

日本政府が対応に苦慮した国際的大事件である。ではなぜ、そんな大事件が、いまだに広くどころか専門家にさえ知られていないのだろうか。


 中心的な理由は簡単である。

当時、日本政府首脳が「徹底的に隠蔽」の方針を決定し、全国の警察組織を総動員して、新聞雑誌(放送は発足前)報道をほぼ完全に押さえこんだからである。

基本的には、そのままの言論封鎖状況が続いているのだ。


 王希天は、関東大震災の直後、亀戸署に留置されたのち陸軍に引き渡され、以後、警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」となっていた。

陸軍当局も、当時は警視庁官房主事兼高等課長の正力松太郎を実質的責任者とする警視庁も、王希天殺害の事実を知りながら、国際的追及の最中、必死になって、ひた隠しにしていた。

実際には王希天は、陸軍の野戦重砲第三旅団砲兵第一連隊の将校たちにだまされて連れ出され、背後から軍刀で切り殺されて、切り刻まれて川に捨てられていた。

事件そのものは、当時の日中の力関係を反映し、最後には、賠償問題さえうやむやのままに葬り去られた。


 象徴的なドラマは、「支那(ママ)人惨害事件」と題する読売新聞(23・11・7)の社説および関連記事の周辺に展開された。

同社説(別掲)と記事をそのまま載せた地方向けの早版は、少部数だが輪転機で刷り出され、発送まで済んでいたのだが、急遽、検閲で不許可、発売禁止となり、各地で押収されたのである。

同時に、その問題の紙面には、「写真3、4」のような鉛版段階での削除という稀有の処置が取られた。


 関係資料は十数点ある。

戦後最初の大手メディア報道は、毎日新聞(75・8・28夕)の「『王希天事件』真相に手掛かり/一兵士の日記公開/『誘い出して将校が切る』」だが、同記事の段階ではまだ、王希天殺害についての証言は、所属部隊の一兵士の「伝聞」にしかすぎない。

以後、日本の研究者、ジャーナリストらの招きで、王希天の遺児が来日した際に、数件の報道があった。

しかし、残念ながら、それらの報道の中には、当時の言論弾圧状況の紹介がなかった。

 専門雑誌の記事、少部数の単行本、断片的なマスコミ報道、それだけでは世間一般どころか普通の企業ジャーナリストの目にさえ、「事件は存在しない」と同様である。

わたしが湾岸戦争以来、「マスコミ・ブラックアウト」と名付けている現象である。

王希天事件の場合には、この現象が意識的かつ政治的に作り出され、しかも、約四分の三世紀にもわたって続いていることになる。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-1.html


「震災当時の新聞」による偶然の発掘から始まった再発見


 おおげさなようだが、わたし自身も、この問題に関する「マスコミ・ブラックアウト」の被害者の一人である。

というのは、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆の際、わたしは王希天について何も知らなかった。

正力と関東大震災後の虐殺事件の関係を調べるために、何冊かの関係書に当たったが、そこには王希天のことは書いてなかった。

実際には、すでにそのころ、雑誌論文や何冊かの単行本に、王希天に関する研究が発表されはじめていたのだが、わたしの資料探索は、そこまで達していなかったのである。


 旧著の発表後にも、つぎつぎと新たな資料が発表されていた。

 前出の『関東大震災と王希天事件』の終章の題は「事件発掘史」となっているが、それによれば、王希天に関して戦後に最初の国内論文が発表されたのは一九七二年である。

 関西大学講師の松岡文平は、『千里山文学論集』(8号)に「関東大震災と在日中国人」を発表した。

その研究の発端の説明は、「震災当時の新聞に、王の『行方不明』が大きく報じられているのに疑問を抱き」始めたからとなっている。

つまり、当時の新聞を調べていたら、偶然、「王希天」というキーワードに突き当たったわけである。


 一九七五年に出版された『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)には、松岡論文を米軍押収資料など裏付け、さらに発展させた横浜市立大学教授、今井清一の研究が収められている。

だが、その時点では、王希天虐殺の事実については、つぎのような推測の範囲にとどまっている。

「野重[野戦重砲第三旅団砲兵]第一連隊の将校が、おそらく旅団司令部の意もうけて人に知られない時間と場所とを選んで殺害したのであろう」


 『甘粕大尉』の著者、角田房子は、一九七九年に同書の中公文庫版の「付記」として、つぎのように記している。

「『甘粕大尉』執筆中私は、関東大震災直後のドサクサの中で惨殺された王奇天を調べたが、努力の甲斐もなく確かな資料を見つけることが出来なかった。

 本書初版は昭和五十[一九七五]年七月二十五日に出版された。それから一ヵ月後、八月二十八日の『毎日新聞』夕刊に『「王奇天事件』真相に手掛り/一兵士の日記公開』という記事と、王奇天の経歴が発表された。関連記事は九月一日夕刊にもあった」

 角田は「希」を「奇」と誤記している。わたしの旧著、『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社、79刊)は、この『甘粕大尉』の「付記」が書かれたのと同じ年の、一九七九年に出版されている。そのころまでは、こんな状況だったのである。

 さきの毎日報道から七年後、『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋(よう)は、王希天を殺した本人の「K中尉」こと、元砲兵中尉(のち大佐)の垣内八州男を探し当てた。

垣内は、拉致された王希天の「後ろから一刀を浴びせた」ことを認める。

「[殺害を指示した佐々木大尉]は、上から命令を受けておったと思います。……

後で、王希天が人望家であったと聞いて……驚きました。

可哀そうなことをしたと……[殺害現場の]中川の鉄橋を渡るとき、いつも思い出しましたよ」、

などと、その後の心境を、ポツリ、ポツリと告白する。


『将軍の遺言/遠藤三郎日記』(宮武剛、毎日新聞社、86刊)は、毎日新聞の連載記事をまとめたものである。

のちに紹介するが、遠藤は当時、垣内中尉の直属上官だった。

 つい最近の一九九三年に発行された『震災下の中国人虐殺/中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』(仁木ふみ子、青木書店、以下『震災下の中国人虐殺』)には、「日本側資料について」の項目がある。

それによると、「軍関係資料」の内、参謀本部関係は米軍による接収以前に処分されており、防衛庁戦史資料室には皆無である。

警視庁関係は米軍に接収され、現在は国会図書館と早稲田大学で一部のマイクロフィルムを見ることができる。

一部の、しかし、きわめて貴重な資料が、外務省外交史料館に、「一目につかない工夫をして保存」されていたようである。

『関東大震災/中国人大虐殺』(岩波ブックレット、91刊)の著者でもある仁木ふみ子は、以上のような資料探索の結果、ついに、外務省外交資料館に眠っていた「まぼろしの読売新聞社説」までを発見した。

 これだけの材料が揃っているのを知ったとき、とりわけ、「まぼろしの読売新聞社説」の「発見」について、最初に『巨怪伝』の記述を目にしたとき、徐々に、そしてなお徐々に徐々に、長年の疑問と戦慄の想いが、わたしの胸の奥底からこみ上げ、背筋を走り、全身に広がり始めた。

これらの発見は、わたし自身にとっても、大変な半生のドラマの一部だったのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-2.html


「相手は外国人だから国際問題」という理解の重大な意味


 以上の資料に接するより一六年前、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』の仕上げの段階で、わたしは一応、国会図書館のマイクロ・フィルムで当時の読売の記事を検索していたのである。

そこには明らかに、輪転機にかける鉛版の段階での削除と見られる紙面があった。だが、その時には、それ以上の詳しい追及をする時間の余裕がなかった。

そこで旧著では、「なお、読売新聞の紙面そのものの細部にわたる調査も必要である」という心覚えを残し、つぎの点だけを中間報告として記しておいたのである。

「実物をみると、関東大震災の記事に、相当量の、鉛版段階における全面削除がみられる。一部の残存文字から察するに、震災時の朝鮮人、社会主義者に関する記事であることに間違いない」

 ところが、「間違いない」と断定的に書いた記事内容の推測は、不十分であった。

まずは「中国人」が抜けていた。

拡大した「写真5」で見れば、全面を削り取られた一九二三年一一月七日の読売記事の残存文字のなかには、明らかにルビ付きで「王希天氏(おう き てん し)」とあるのだが、その意味が、当時のわたしには分からなかった。

その左隣の、やはりルビ付きの「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」の方だけに気を取られて、王希天を朝鮮人だと思い込んでしまったのである。

残念といえば残念だが、わたしは、長年の戦慄の想いに終止符を打ち、この訂正と調査不足の告白を余儀なくしてくれた諸氏の研究に感謝する。


『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋の場合には、わたしとはまったく逆で、偶然の機会に王希天事件の存在を知り、それから追跡取材を開始した。

 念のために田原本人にも直接聞いて確かめたが、田原は別の用向きで、元陸軍中将の遠藤三郎と会った。

話がたまたま関東大震災当時におよび、遠藤が、当時は大尉で、江東地区の第一線の中隊長だったと語った。

田原が「大杉栄が殺されましたね」と相槌を打つと、遠藤は意外なことを語りだした。

 正確を期すために、田原の著書の方から引用すると、遠藤は、「大杉栄どころじゃない。もっと大変な(虐殺)事件があったんだ」と言い出した。

「オーキテンという支那人(原文傍点有り)労働者の親玉を、私の部隊のヤツが殺(ヤ)ってしまった。

朝鮮人(原文傍点付有り)とちがって、相手は外国人だから、国際問題になりそうなところを、ようやくのことで隠蔽(いんぺい)したんだ」

 文中の支那人(原文傍点有り)と朝鮮人(原文傍点有り)の傍点は、田原が付けたものである。

遠藤が育った時代の用語そのままだから、別に他意はないと思う。

最大の問題は「相手は外国人」の部分にある。

 わたしの場合、この部分を自分のワープロで入力した時に、初めて、その意味の重大さに気付いた。


それまでの頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」を、関東大震災の際の「虐殺被害者」という項目で一括して考えていたのである。

「虐殺」を告発する立場の人々の多くは、わたしと同じ錯誤に陥っている可能性が高いと思う。

ところが、立場が違えば、同じ物が別の角度から見える。時の権力の頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」の三者は、まったく別の項目で整理されていたのである。

とくに「中国人」は、別扱いの「外国人」だった。

監督官庁としても外務省が加わるから、行政上では決定的な違いが出てくる。


 震災時の朝鮮人の大量虐殺事件も、もちろん重大であるし、国際的にも非難を浴びた。

しかし、当時の国際法の秩序からいえば、植民地保有とその支配自体は非合法ではない。

許しがたいことではあるにしても、いわゆる欧米列強の帝国主義国を中心とする国際外交上で考えるかぎりでは、日本人の社会主義者の虐殺問題と同様の国内問題である。

ところが、中国人の虐殺となると、当然のことながら、明確に外国人の虐殺であり、国際外交上の問題とならざるをえない。

だから遠藤は、「大杉栄どころじゃない」と語ったのである。


 しかも、当時の日本は、満鉄の利権拡大を中心に、中国東北部への侵略の意図を露骨にしていた。

第一次世界大戦中の一九一五年(大4)には、火事場泥棒で奪った旧ドイツ領の青島に増兵を送って威圧を加えながら、対中国二一ヵ条要求を突き付け、その内の一六ヵ条を承認させていた。

中国の内部での反日運動も高まっていたし、国際的な批判も日を追って増大していた。

だから、「中国人指導者・王希天」の虐殺は、現在の日本人が感じるよりも、はるかに重大な国際問題だったのである。


 その後の資料探索で、田原は読売の紙面の削除を知り、紙面の検索をしている。田原は、事前に、その削除された紙面の執筆者が、中国通の著名記者、小村俊三郎だということまで知っていた。

「中国問題に詳しい小村俊三郎」については、『読売新聞百年史』にも非常に簡単ながら、その「入社」が、松山社長時代の項に記録されている。それだけのキャリアが認められる人物だったのである。

しかし、削除された紙面の内容については、まだ、残存文字という手掛りしかない。田原は、非常に残念そうに、つぎのように記していた。

「削除された記事は、いまとなっては復原の方法はない。

『読売』のバックナンバーは、削られた白紙のままだし、小村も記録は残していない」

 田原はさらに、つぎのような想像を付け加えていた。

「そこで推測するしかないが、この記事の筆者は小村俊三郎記者であった。

彼は期するところがあって、ある“過激な”記事を書こうとした。検閲にかけたのでは通りっこないから、何らかの策を使って『鉛版』をとり、ともかく早版を刷り出すところまでは行った。

が、いよいよ近郊版を刷ろうとしたところで誰かにストップをかけられてしまった。

鉛版工のベテランが、指定された記事に削り(のみを使う)を入れる。……

と、そのとき、小村が必死の形相で近より『ここだけ削り残してくれ』と耳打ちする。

あるいは何らかの方法で、小村の“頼み”が伝えられた。

残せといった文字は『王希天』の三文字であった。

この三文字が残っていれば、何が書かれていたか、およその察しはつくのである」

 田原の想像は、おそらく「当たらずといえども遠からず」であろう。

さきにも記したし、「写真3」で明らかなように三文字のみではないが、「王希天氏(おう き てん し)」と「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」という決定的に重要なキーワードだけが、なぜか明瞭に残っているのだ。

とうてい偶然の結果とは思えない。

戒厳令が敷かれていた当時のことだから、その鉛版がはまっていた輪転機の側には、警察官、それもかなり重要な地位の検閲のベテランが、にらみを利かせていたのではないだろうか。

そうだとすれば、まさに、その目の前で、緊迫の鉛版削りのドラマが展開されていたことになる。

 この想像のドラマの緊迫感が、わたしの全身に、いい知れぬ戦慄を走らせるのだ。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-3.html


「まぼろしの読売社説」の劇的発見! 分散して資料を温存か?


 さて、それだけのドラマを秘めた削除紙面の実物が、また、なんとも劇的なことには、その後に発見されたのである。

削除は二か所にわたっていて、二面は社説、五面は関連記事であった。

「写真6、7」の「要保存/発売禁止トナレル読売新聞切抜」がそれである。

 発見者の仁木は、元日教組婦人部長である。

会ってみると、かつてのいかめしい肩書きとは違って、優しい教師そのままの気さくな人柄だった。

「定年後に時間ができて、ただただシラミ潰しに探し回っただけのことですから……」と、静かにほほ笑む。

とくに事前にお願いしたのでもないのに、貴重この上もない発見資料のコピーをも用意してくれていた。

わたしは、それを押し頂いて、発見の経過をうかがった。


 仁木は、『震災下の中国人虐殺』の中で、つぎのように記している。

「これは『要保存、発売禁止となれる読売新聞切抜』と墨書されて、外務省外交資料館にひっそりとしまわれていたのであった」

 この「ひっそりと」という表現の裏にも、おそらく大変な戦慄の人間ドラマが潜んでいたようなのである。

仁木は、「人目につかない工夫をして保存」されていたという表現もしている。

くわしくは同書を参照していただきたい。

何か所にも分かれて外務省外交資料館の資料管理状況が記されている。

とりあえず簡略に要約紹介すると、「書類を分散させて一見関係なさそうな項目の下に配列し」てあったのである。

最後には、つぎのように謎を解く鍵の人名が出てくる。


「だれがこのような文書配列をしたのであろうか。

事件の結末に何とも納得できなかった一青年事務官が、歴史の検証の日に備えて、暗号のように分散させ保管したのではなかったか。

かれの名は多分守島伍郎である。後の駐ソ大使、戦後は自由党代議士一期。

日本国連協会専務理事、善隣学生会館理事長をつとめ、一九七〇年、七〇歳で亡くなった」


 田原によれば、守島は、「同じ外交出身のワンマン吉田茂(一八七八〜一九六七)とは一定の距離を保ち、『オレは社会党から出てもおかしくはない』と語ることもあった」という。

いわゆるリベラル派であろう。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-4.html


中国側の調査団は「陸軍の手で殺されたと思う」と語って帰国


 さて、以上はまだ、王希天虐殺事件をめぐる緊迫のドラマの導入部にしかすぎない。

もう一度、物語の主人公を紹介し直し、この事件の国際的および国内的な位置付け、引いては歴史的な意味を確認し直したい。

 王希天は、当時はエリートの留学生で、その後に満州国がデッチ上げられる中国東北部の吉林省から来日していた。

推定二七歳。東京中華留日キリスト教青年会の幹事、および中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった。


1948年、東京にて、前列右から周恩来、王希天
写真提供:仁木ふみ子


 事件発生当時においても、日本国内の報道よりも中国での報道の方が早かった。

『中華日報』(23・10・17)の社説では、「共済会長王希天が警察に捕らわれたまま行方不明」という事態を「故意の隠蔽」と疑い、「軍、警察の手」によって「殺された」可能性を指摘していた。

仁木はさらに、王希天の出身地、長春、吉林省の新聞、『大東日報』(23・11・1)の記事から、つぎのような憤激の呼び掛けの部分を紹介している。


「本件発生につき考うるに彼等は吾に人類の一分子と認めざる方法を試みたるものなり。

吾々もし放任し、彼等を問罪せず黙認せば吾々は人間にあらざるなり。同胞起きて醒めよ」


 情報源は、捜索に当たった王希天の友人の留学生や、震災発生後、上海に送還された中国人労働者たちだった。

上海や吉林省などの現地の憤激を背景にして、北京政府も調査団を日本に派遣した。

日本側当局は事実の隠蔽に終始したが、中国側代表団は帰国する前に日本の外務省書記官に対して、「王希天は大杉栄同様陸軍の手で殺されたと思う」と語っていた。

『震災下の中国人虐殺』では、「まぼろしの読売新聞社説」という小見出しを立てて、つぎのように指摘している。

「十一月七日、『読売新聞』の朝刊は発売禁止となり、二面の社説と五面の記事を削りとって、この部分は空白のまま発行された。

政府に強烈なインパクトを与えたといわれる『まぼろしの読売社説』は復原すると次のようである」

 以下、二面の社説、「支那人(ママ)惨害事件」の全文は、巻末(367頁・WEB版(15)資料)に小活字で紹介する。

とりあえず要約すると、「惨害」の犠牲者を「総数三百人くらい」としている。

「支那人労働者の間に設けられた僑日共済会の元会長王希天も亀戸署に留置された以後生死不明となった事実」を指摘し、「重大なる外交問題」の真相を明らかにしないのは、「一大失態」だと論じている。

 結論部分は、「本事件に対する政府の責任は他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。[中略]

故に吾人は我が国民の名において最後にこれをその陸軍に忠言する」となっている。

 仁木は、この「まぼろしの読売新聞社説」を、つぎのように評価している。

「戒厳令下の執筆であるが、実に堂々たる論調である。[中略]

一本の筆に正義を託す記者魂が厳然とそこに立つ」


 同時に鉛版から削除された五面の記事は、

「支那政府を代表し抗議委員が来朝する/王氏外百余名の虐殺事件につき精査の上正式に外務省へ抗議申込/我態度を疑う公使館」

という三段大見出しで、本文約八〇行である。

これは、もしかするとわたしの新発見なのかもしれないが、削除された二面の社説の下のベタ記事を眺めていたら、「虐殺調査委員/支那から派遣する」という本文七行の「北京四日国際発」電が残っていた。

いずれも記事の本文では「調査委員」または「特別委員」となっているのに、見出しで「抗議委員」または「虐殺調査委員」と表現している。

社説の題にも「惨害」とある。

当時の読売新聞のデスクの、この事件に対する判断基準が伝わってくるような気がする。

 読売の全面削除された社説は当然、王希天その人と中国側の動きを知り、その惨殺の事実を知るか、またはその事実にせまりつつあったジャーナリストの存在を示している。

 全面削除の社説を執筆した小村俊三郎(一八七二〜一九三三)は、「外務省一等通訳官退職後、東京朝日、読売、東京日日など各新聞社で中国問題を論評、硬骨漢として知られる中国通第一人者」だった。

王希天事件については、その後も独自の調査を続け、外務省に「支那人被害の実情踏査記事」と題する報告書を提出している。

 しかもこの小村俊三郎は、日露戦争後のポーツマス条約締結で有名な小村寿太郎と、祖父同士が兄弟の再従兄弟の関係にあった。

いわば名家の出でもあるし、もともと東京の主要名門紙に寄稿するコラムニストなのだから、顔も広い。

政府筋が個人的に攻撃すれば逆効果を生み出しかねない。

当時の松山社長時代の読売には、そういう人材が集まっていたのである。

『巨怪伝』では、当時の読売の報道姿勢を、つぎのように指摘している。

「大杉栄殺害の事実を、時事と並んでいち早く号外で報じたことにも示されるように、関東大震災下に起きた一連の虐殺事件の真相と、政府の責任を最も鋭く追及したのが読売新聞だった」

 もしかすると、内務省関係者は、田原が想像したような、「王希天」の三文字をかすかに残す印刷現場でのひそかな抵抗のドラマにも気付いて、警戒の念を高めていたのかもしれないのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-5.html


九二四件の発売禁止・差押処分を大手紙の社史はほぼ無視


 さて、ここで愕然とせざるをえないのは、日本の三大新聞、朝日・毎日・読売、すべての社史に、ほぼ共通する実情である。

王希天虐殺事件はもとより、関東大震災下の言論弾圧に関しての記述が、あまりにもお粗末なのである。

 まずは前項の「まぼろしの読売社説」の件であるが、『読売新聞百二十年史』を最新とする読売の社史には、たったの一行の記述もない。

それどころか、関東大震災後に報道規制があったことすら、まったく記されていない。

改めて呆れはしたが、読売のことだから、さもありなんと諦めた。


 毎日新聞はどうかというと、『毎日新聞七十年』にはまったく記載がないが、最新の『毎日新聞百年史』には、つぎのように記されている。

「新聞は“大杉栄殺し”を直感したが、戒厳令下、報道の自由はなかった」

 ただし、これだけでは、陸軍憲兵隊による社会主義者大杉栄の一家惨殺事件のみが、報道規制の対象になったかのような、誤解が生れかねない。

「王希天」の三文字はもとより、「朝鮮人」という単語も、「中国人」という単語もない。

 朝日の場合も、『朝日新聞の九十年』には確かに、「惨禍の中で特報や号外を連発」の見出しはある。

「『大阪朝日』数十万部を増刷して、船と汽車で東京に送」ったことなどの奮闘の経過は、八頁にもわたって克明に記されている。

だがやはり、報道規制の「キ」の字も出てこないのである。

 朝日は『百年史』を発行せずに、「百年史編修委員会」名で、創立から数えると一一一年目に当る一九九〇年から『朝日新聞社史』全四巻の社内版発行を開始し、一九九五年から全巻を市販している。

本文六五九頁の第二巻、『朝日新聞社史/大正昭和戦前編』には、つぎのように記されている。

「震災直後の流言からおこった社会主義者や朝鮮人の陰謀騒ぎで多数が殺された事件の実態は、九月二日に出された戒厳令によって報道が差し止められ、東朝[東京朝日]は十月二日になってその一部の報道が許された」

 ここでかろうじて「朝鮮人」という単語が、報道差し止めとの関係で登場する。

しかし、「中国人」も「王希天」もない。


 この状況は、いかにも不自然であり、不都合なのである。

国際的にも評判の「横並び」方式による隠蔽工作が、いまだに継続されているのではないかとさえ思えるのである。

 歴史的な資料がなかったわけではない。

さきに挙げたほかにも、たとえば、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会、75刊)では、これらの一連の虐殺事件に関する「ジャーナリズムの沈黙と右傾化」と、それを促進した権力の「強圧」を指摘している。

出典として『災害誌』(改造社編)などを挙げており、当時の新聞統制の模様を、つぎのように要約している。

「甘粕事件、内鮮人殺害、自警団暴挙に関する差止事項を掲げた日刊新聞で、発売頒布を禁止されたものは、寺内内閣当時の米騒動の際における処分に比すべきものと見られ、

新聞紙の差押えが、十一月頃まで殆ど三十以上に及び、一新聞紙の差押えが優に二十万枚に達したものがあった」


 ただし、ここにも「中国人」が登場しないという弱点があるし、さらには、この数字でも実は、まだまだ控え目だったようなのである。

おそらく、ここでいわれている「米騒動の際における処分に比すべきもの」という水準をはるかに越えていたに違いない。

日本の言論弾圧の歴史上、最大規模の問題として根本的な見直しをせよ、日本のメディア史の研究をやり直すべきだと、強調せざるをえないのである。

『関東大震災と王希天事件』の著者、田原は、当時の内務省警保局図書課の秘密報告を入手し、「表1」の「(秘)震災に関する記事に依り発売禁止並びに差押処分に付せられたる新聞件数調」を作成している。

「総件数」は、なんと、さきの『災害誌』の「三十以上」という数字を一桁以上も上回り、「九二四件」に達しているのである。

その内、「亀戸警察署刺殺事件に関する記事」(王希天行方不明記事を含む)と分類されているものだけでも、「三〇件」である。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-6.html


後藤内相が呼び掛けた「五大臣会議」で隠蔽工作を決定


 これだけの言論弾圧を行った当時の内務大臣は、いったい誰だったのであろうか。

 おりから新内閣の組閣中で、

関東大震災発生の九月一日までは留任中の水野錬太郎(一八六八〜一九四九)、

二日からは再任の後藤新平(一八五七〜一九二九)だった。

つまり、内務大臣としては水野の先輩に当る後藤が、この激動の際に、二度目の要職を引き受けていたのである。


 後藤が果たした役割については、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』に、つぎのように記されている。


「一〇月中旬に王希天の行方不明が報道され、同二〇日に中国代理公使から王の殺害について抗議をうけると、日本政府も対策の検討をすすめた。

内務省当局では大島事件、王希天事件を両者とも隠蔽する意見で、

一一月七日には閣議のあと後藤内相、伊集院彦吉外相、平沼騏一郎法相、田中陸相、それに山本首相も加わって協議したうえ、

『徹底的に隠蔽するの外なし』と決定し、中国がわとの応対方法については警備会議に協議させることになった」


 この「閣議のあと」の「協議」については、『関東大震災と王希天事件』にも『震災下の中国人虐殺』にも、さらに詳しい記述がある。

内務省や外務省の関係者の記録が残されているからである。

「協議」の場は「五大臣会議」と通称されている。

 本稿の立場から見て、もっとも重要なことは、この「五大臣会議」が行われた「一一月七日」という日付である。

つまり、「まぼろしの読売社説」を掲載した少部数の早版が、輪転機で刷り出されてしまい、その後に急遽、鉛版が削られた日付なのである。

日付の一致は偶然どころではない。

これこそが「協議」開催の原因であることを示す明白な記録が、すでにたっぷりと発掘されているのである。

 閣議後に協議を呼び掛けたのは後藤である。

だが、内務大臣の後藤が「五大臣会議」を発案したという経過の裏には、なにやら、ご都合主義の謀略的な臭気がただよう。


 本来の建て前からいえば、内務省は、犯罪を捜査し、処罰すべき主務官庁である。

ところが後藤個人は、すでに簡略に紹介したように、外務大臣時代に推進したシベリア出兵とそれに続く米騒動に際して、外務省の霞倶楽部の記者たちと紛争を起こしたり、報道取締りの先頭に立ったりしていた。

メディア界の進歩的勢力とは激しい対立関係にあった。

すでに紹介したように「新聞連盟」結成工作、ただし時期尚早で実らず、などの「新聞利用」なり「新聞操縦」政策を展開していた。

ラディオ放送の支配に関する構想をも抱いていたはずである。

後藤は、しかも、首相の座を狙う最短距離にいた。

その機会に備えて、メディア界の敵対分子を排除したいと腹の底で願っていた可能性は、非常に高い。

当の読売社説の内容自体も重大な問題ではあったが、それを逆手を取って政府部内の主導権を握り、一挙に、かねてからの狙いを実現しようと図ったのではないだろうか。

 政府部内の主導権を握る上では、王希天の虐殺事件は絶好の材料だった。

後藤と田中陸相とは不仲だったというし、外務省は国際世論上、日頃から言論統制には消極的だった。

ところが、この際、後藤と相性の悪い陸軍は加害者であり、被告の立場である。

外務省は国際世論対策で四苦八苦である。

いまこそ特高の親玉、内務官僚の出番であった。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-7.html


「荒療治」を踏まえた「警備会議」と正力の「ニヤニヤ笑い」


『関東大震災と王希天事件』では、関係者が残したメモ類を多数収録している。

その日の午後五時から開かれた「警備会議」の冒頭で、岡田警保局長は、つぎのような発言をした。

「本日、急に五大臣会議を開いたのは、今朝の『読売』のためであります。

相手の出方を待つ姿勢で、政府がふらふらしていると、新聞に対する取締まりも徹底を欠くし、むずかしい。

今朝は、

危いところで削除 → 白紙のまま発行

という荒療治になってしまったが、今後は隠蔽の方針も定まったことであるし、お互いに緊密なる連携のもとに、ことを進めたいと思うので、よろしくご協力をお願いします」

 早版地区に送られた少部数の「削除前」の読売は、配達直前に押収されていた。

「五大臣会議」の決定は、あくまでも政府段階での正式決定であって、内務省はすでに隠蔽工作を実施していた。

検閲の実務担当者たちは、「まぼろしの読売社説」を目にした時、冷汗三斗の思いだったに違いないのである。

「警備会議」は、実務担当者による実行手段の相談の場である。

そこには、なんと、小村寿太郎の長男の小村欣一が、外務省情報部次長の立場で参加していた。

読売社説の執筆者、小村俊三郎は、東京高等師範学校に在学中、寿太郎の邸宅に書生として住み、この欣一の家庭教師をしていた。

岡田警保局長が、小村たちに事情を話して隠蔽の「諒解を求むる」という方針を報告すると、欣一は、小村たちについて、「主義上の運動者」だから「諒解を求ることすこぶる困難なるべし」という意見をのべ、「考慮を要する」と注意した。

 いやはや、こうなると最早、何ともものすごい接近戦である。

敵味方入り乱れての白兵戦の様相である。

関係者たちは、上を下への大騒ぎ、という感じがしてくる。

 警視総監の湯浅倉平は「すこぶる沈痛なる態度」であった。

以下、関係者のカナまじりのメモに残された湯浅の「熱心説述」を、ひらがなで読みやすいようにしてみよう。


「本件は、本官のいまだ際会せざる重大問題なり。

本件は実在の事件なれば、これを隠蔽するためには、あるいは新聞、言論または集会の取締をなすにつきても、事実においてある種の『クーデター』を行うこととなる義にて、誠に心苦しき次第なり。

また本件は必ず議会の問題となるべきところ、その際には秘密会議を求め得べきも、少くとも事前あらかじめ各派領袖の諒解を求めおく必要あり。

 さればとて、本件の隠蔽または摘発、いずれが国家のため得策なるかは、自分としては確信これ無く、政府において隠蔽と決定したる以上、もちろんこの方針を体し、最善の努力をなすべきも、自分の苦衷は諸君において十分推察されたし」

 この「苦衷」を訴えた警視総監、湯浅倉平は、その後、正力松太郎とともに虎の門事件で責任を追って即日辞任届けを提出し、のち懲戒免官、恩赦となる。

警視総監になる以前に岡山県知事、貴族院議員になっていた。

虎の門事件の恩赦以後には、宮内相、内相となっている。

 湯浅の発言のあとには、「北京政府が派遣する調査団および民間調査団の調査にどう対処するか、新聞取締などが話題」になった。

新聞取締に関する警保局長の提案は、つぎのようであった。

「適当の機会に主なる新聞代表者を招致し、大島町事件は厳密調査を遂げたるも、結局事実判明せず、

ついては事実不明なるにかかわらず揣摩(しま)憶測して無根の記事を掲載するにおいては、厳重取締をなすべき旨を告げ、

もって暗に発売禁止の意をほのめかせば、効果あるべし」


 この発言内容には、当時の言論弾圧の実情が露骨に表れている。

警保局長はさらに、「新聞取締の必要上、戒厳令撤廃の延期」まで提案したが、これには同意者が少く、そのままとなった。

 この時にはまだ官房主事兼高等課長だった正力松太郎は、職責からいえば、当然、右の「警備会議」に出席しているはずであるが、以上に挙げた資料の「警備会議」の発言者の中には、正力の名はない。

まだ位が低いのである。

もちろん、研究者たちは、正力の存在を十二分に意識してきた。

 田原は、遠藤元中将から直接の証言を得て、詳しい経過を記している。


 正力は、遠藤を警視庁に呼び出していた。

「ニヤニヤ笑いを浮かべ」ながら、「聞き込みも一応終わっています」などと脅しを入れた。

すでに後藤と「五大臣会議」の間にただよう「臭気」を指摘したが、この件で、正力または内務省勢力は、陸軍と対等に取り引きができるネタを握ったわけである。

その強みが正力の顔に表われていたのではないだろうか。

田原はさらに、その後の読売への正力の乗りこみと、小村俊三郎の退社との因果関係をも指摘している。

『将軍の遺書』の方には、つぎのような日記添付「メモ用紙」部分の記載がある。

「佐々木兵吉大尉、第三旅団長の許可を得て、王希天のみをもらい受け、中川堤防上にてK[垣内]中尉、その首を切り死がいを中川に流す。[中略]

正力警備課長[警視庁官房主事の誤記]は、その秘密を察知ありしが如きも深く追及せず」

 以上、概略の紹介にとどめるが、いやはや、驚くべき本音の記録の連続である。

これらの発言記録を発見したときの、田原ら先行研究者の興奮が、じかに伝わってくるような気がするのである。


 事件の翌年、一九二四年(大13)二月二六日に、正力は読売「乗りこみ」を果たす。

 同年一〇月四日、読売記者の安成二郎は、築地の料亭で開かれた前編集長千葉亀雄の慰労会での会話を、あとでメモし、「記憶のために」と注記しておいた。

本人が三六年後に自宅で再発見したこのメモは、『自由思想』(60・10)に発表された。

内容のほとんどは、大杉栄ら虐殺事件の関係であるが、その最後の短い(三)は、つぎのようになっている。

「(王希天はどうしたんでせう、軍隊では無いでせうが……)と千葉氏が言うと、

正力氏は(王希天か、ハハハ)と笑って何も言はなかった」


 この正力の「ハハハ」という笑い声は、どういう響きのものだったのだろうか。

壮年期の正力の声については、『経済往来』(10・3)に、「男性的で丸みがあり、声量があって曇りがない」と記されている。

六尺豊かの大男が、柔道で鍛え、警官隊を指揮してきたのだったから、それだけの迫力のある声だったに違いない。

だが、「虐殺」の話題で出た「ハハハ」という笑い声には、いわゆる「地獄の高笑い」のような、真相を知りつつとぼける不気味さが、漂っていたのではないだろうか。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-8.html


戒厳令から治安維持法への一本道の上に見る正力の配置


 軍や警察当局が恐れていたのは、新聞報道の内容や新聞そのものだけではなかった。

小村欣一の発言にもあったように、「主義上の運動者」の動きもあった。

すでに「警備会議」の「話題」にものぼっていた「民間調査団」がある。

そこには、読売の小村記者以外に、東京日日(毎日系)、大阪毎日、東京朝日の記者が参加していた。

かれらは中国から来日した宗教家の調査団と接触する一方、吉野作造邸で協議をしていた。北京政府が派遣した調査団も、吉野作造邸に立ち寄っていた。


 吉野作造(一八七九〜一九三三)は、東大法科卒で、同大教授として政治史を講義していた。

デモクラシーを「民本主義」と訳したことでも知られている。

東大新人会の総帥でもあり、いわゆる大正デモクラシーの理論的主柱ともいうべき存在であった。

後日談になるが、関東大震災の翌年に当たる一九二四年(大13)には、朝日新聞社論説顧問に迎えられ、五か月あまりで退社した。

退社の原因は、「五ヶ条のご誓文は明治政府の悲鳴」という講演内容などを、右翼団体が「不敬罪」として告発したためである。

『朝日新聞の九十年』でも、退社の経過について、「検察当局の意向もあり」と記している。

「不敬罪」の告発自体は不起訴となったが、この件でも朝日は「白虹事件」の時と同様、右翼と検察のチームプレーに屈服したのである。


 さて、以上のような状況を背景にしながら、強権の発動による王希天虐殺事件の隠蔽工作が行われたのだが、それはまず戒厳令下にはじまっている。戒厳令は約二か月半も続いた。

解除は一一月一六日である。『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、戒厳令の解除後に「かわって憲兵が大増強され、警察官もまたピストルまで配備された上に増員された」と指摘する。

 戒厳令下、および以後の虐殺問題報道の全体像をも、調べ直す必要があるだろう。

田原は、王希天虐殺事件の隠蔽工作と大杉殺害事件の関係を、つぎのように示唆する。


「王希天事件は『行方不明』扱いで、十月十七日から二十日にかけて、各紙に掲載された。

『殺害』をにおわせる記述は厳重にチェックされたので、さりげない震災エピソード風に受けとめられ、やがて“関係者”以外には忘れられた。

大杉栄殺害事件で、甘粕らがスケープゴートとなった意味は、単に『犯人』を買って出ただけでなく、報道操作の陽動作戦に必要な犠牲バントとしての役割もあったのである」

 大杉栄殺害事件の軍法会議の進行は、非常に早かった。

戒厳令下の一〇月八日に第一回、以後、一一月一六日、一七日、二一日の四回で結審となり、一二月八日には、甘粕に懲役一〇年などの判決が出ている。

この間の新聞報道は、シベリア出兵以来の「反ソ」キャンペーンとも呼応している。

社会主義者への世間一般の反感をも土台にして、甘粕らに同情的な風潮さえ作り出したようである。


 その後、甘粕はたったの三年で釈放され、満州国の黒幕となる。

緊急事態を根拠にして公布された「治安維持勅令」は、そのまま法律化され、翌々年の一九二五年(大14)に制定される治安維持法への橋渡しの役割を果たした。

このようなドサクサまぎれの突貫工事によって、外にはシベリア出兵、内には米騒動、関東大震災という人災、天災のはさみうちの混乱のなかで、昭和日本の憲兵・警察支配、治安維持法体制は完成を見たのである。


 わたしは、正力の読売「乗りこみ」を、以上の政治状況と深くかかわりながら企まれた一大政治謀略に相違ないと確信している。

 さらにさかのぼれば、当時の読売が「出る釘は打たれる」のたとえ通りの襲撃目標に選ばれた理由には、まさに日本のメディア史の矛盾を象徴するような典型的経過があったというべきであろう。

 第一の理由は、その明治初年以来の歴史的ブランドである。

第二の理由は、「白虹事件」残党を中心に形成されつつあった大正デモクラシーの「メディア梁山泊」としての位置づけである。

最後の第三の理由、すなわち、「まぼろしの読売社説」をめぐるオロドオドロの衝撃ドラマは、それらの歴史的経過の必然的な帰結であった。

読売は、日本の歴史の悲劇的なターニング・ポイントにおいて、右旋回を強要する不作法なパートナー、正力松太郎の、「汚い靴」のかかとに踏みにじられたのである。

 日本の最高権力と、それに追随する勢力は、関東大震災という天災を契機として、大量の中国人とその指導者を虐殺し、卑劣にも、その事実の徹底的な隠蔽を図った。

この虐殺と隠蔽工作とは共に、以後ますます拡大される中国大陸侵略への狼煙の役割を果たした。

 正力社長就任以後の読売新聞は、最左翼から急速に右旋回し、「中道」の朝日・毎日をも、さらに右へ引き寄せ、死なばもろとも、おりからのアジア太平洋全域侵略への思想的先兵となった。

正力の読売「乗りこみ」は、いいかえれば、この地獄の戦線拡大への坂道を転げ落ちようとしている日本にとって、雪だるまを突き落とす最初の、指のひと押しの位置づけだったのではないだろうか。

 正力本人は、戦後にA級戦犯として巣鴨入りした。

だが、この時も、アメリカの世界政策上の措置によって、その罪は裁かれずに終わってしまった。

今こそ改めて、多数の中国人労働者と王希天の虐殺事件とその報道状況とを、日本のジャーナリズムの歴史の中央に位置づけ直し、事実関係を確認し直すべきなのではないだろうか。

自社の歴史を正確に記して過去を反省するか否かは、また、メディア企業の決定的な試金石でもあろう。

 わたしは一応、読売新聞広報部に電話をした。本書に記したような事実を読売新聞は把握しているか、今後の社史などで明らかにする予定があるか、などを問いただした。

しかし、「お答えすべき筋のことではないと思う」という、番犬の唸り声のような返事だけだったので、この件について、本書を「公開質問状」とすると告げた。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-9.html




6. 中川隆[-8855] koaQ7Jey 2019年7月25日 05:14:18: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3859] 報告
▲△▽▼

大河『いだてん』に関東大震災「朝鮮人虐殺」を示唆するシーンが! 右派の虐殺否定デマに抗した勇気
https://lite-ra.com/2019/06/post-4779.html
2019.06.17 『いだてん』が関東大震災「朝鮮人虐殺」を示唆! リテラ
    
    朝鮮人虐殺を示唆した『いだてん』(番組HPより)

 16日放送のNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』が話題になっている。関東大震災時に起きた、朝鮮人虐殺を示唆する描写に踏み込んだからだ。

 ご存知のとおり、関東大震災は1923(大正12)年9月1日に起きたのだが、『いだてん』の主人公のひとり・マラソンランナーの金栗四三も当時東京府女子師範学校で教員として勤めており、震災に遭遇する。

 ドラマ中盤、ちょうどお昼時だった東京の街を地震が襲う。地震そのものも以上に火災の被害も大きく、浅草から日本橋、芝まで炎に包まれ、2日かけて東京が焼き尽くされる。なかでも浅草の被害は大きく、シンボルだった凌雲閣の倒壊をはじめ、2日で街が消えるほどの壊滅的な被害を受ける。

 混乱さめやらぬなか四三は、浅草で行方不明になっている同僚教師を懸命に探すのだが、そこで棒を手にした数人の男に声をかけられる。

 男らは「おまえ、日本人か? どこから、どうやって来た?」と、四三にいきなり出自を問う。四三が「いやいや、どぎゃんも、こぎゃんも……」と出身である熊本訛りで答えると、男らは「なんだ? なんだ、その言葉? 日本人じゃないな」四三を取り囲む。四三が「熊本! おら熊本だげん!」と答えても、「くまもとぉ?」とさらに問い詰める。

 そこへたまたま、四三の教え子の父親で医師の大作があらわれ、「娘の学校の先生だ、日本人だ」「大丈夫だ!」と、四三を助け出したことから、なんとか事なきを得たが、男らは「本当か!?」としつこく詰め寄っていた。

「ご無事で何より」と無事を労う四三に、大作は先ほどの男らについて「自警団ですよ」「この災害のどさくさで、根拠のない流言飛語が出回っている。大きな余震がくるとか、井戸に毒がまかれたとか、とんでもないデマがね」と説明する。

 時間にしてわずか1分足らずの場面で、「朝鮮人」という言葉こそ出していないものの、関東大震災時に起きた「朝鮮人虐殺」を描いたものだ。

 大作が流言飛語が飛び交っていると説明していたとおり、実際の震災時も「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れた」「火をつけて回っている」などのデマ・流言飛語が飛び交い、それを信じた自警団を称する日本人たちにより多くの朝鮮人たちが殺害された。

 また熊本訛りの四三に対し「おまえ日本人か?」「なんだその言葉? 日本人じゃないな」と問い詰めていたのも、実際に当時「アイウエを言え」「教育勅語を言え」などと詰め寄り言葉に詰まったり発音が違ったりすると「朝鮮人だ」として暴行するという行為が横行していたことに基づいている。また、四三のように棒を手にした自警団に「朝鮮人だろう」と取り囲まれるというのは、実際、当時中学生だった故・黒澤明監督も同様の体験を自伝のなかに記している(https://lite-ra.com/2017/09/post-3425.html)。

■右派の圧力のためか、「朝鮮人」という言葉は使わなかったが…

 もちろん、『いだてん』も本来は「朝鮮人」という言葉をきちんと盛り込んで、「朝鮮人虐殺」というヘイトクライムを明確に描くべきだったと思うが、それでも現在の言論状況で、NHKがゴールデンタイムの看板ドラマで朝鮮人虐殺を示唆する場面を描いただけでも価値がある。

 というのも、近年、関東大震災時の朝鮮人虐殺の史実を闇に葬りなかったことにしようという歴史修正の動きが激しくなっているからだ。

 ネトウヨのみならず、ヘイト本や極右雑誌などがこぞって「朝鮮人虐殺はなかった」というデマや、「本当に朝鮮人の暴動があった」というデマを掲載し、朝鮮人虐殺否定を盛んに喧伝している。

 また東京都の小池百合子知事は、2017年から、それまで歴代都知事が毎年9月1日に行ってきた朝鮮人犠牲者の追悼式典への追悼文を取りやめた。

 さらに安倍首相も、2016年「政府は、関東大震災時における朝鮮人、中国人等の虐殺事件に日本政府が関与したことを事実として認定するか」との質問主意書に対し、「お尋ねの「関東大震災時における朝鮮人、中国人等の虐殺事件に日本政府が関与したこと」については、調査した限りでは、政府内にその事実関係を把握することができる記録が見当たらないことから、お尋ねについてお答えすることは困難である」との答弁書を出すなど、明らかな史実をなかったことにしようとしている。

 関東大震災の際、デマによって大規模な朝鮮人のジェノサイドが起き、警察や軍がこれに加担したのは、保守系の歴史学者も認めている歴史的事実であり、なにより、当時を生きた人々による膨大な証言が残されている。

■右派の虐殺否定はデマ、数々の資料が描く朝鮮人虐殺の凄惨な現場

 朝鮮人虐殺否定デマが活発化していた2014年、震災当時の証言や記録で構成されたノンフィクション本『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(加藤直樹/ころから)が出版されているが、同書には、公文書や軍の資料、戦後の検証記録から、被害者の朝鮮人、目撃した一般住民、さらには作家の芥川龍之介や国学者である折口信夫の証言まで、虐殺の事実を裏付ける資料がいくつも紹介されている。

 たとえば、『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会)にも収録された葛飾区四ツ木橋付近の地元住民からの聞き取り。ここには自警団と称する民間の日本人による凄惨きわまりない“朝鮮人狩り”の目撃証言がいくつも登場する。

「四ツ木橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを切って下に落とした。旧四ッ木はしの少し下手に穴を掘って投げ込むんだ」

「(自警団が殺したのは)なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」

 もっと生々しいのは子どもたちの証言だ。同書では、関東大震災から半年の間に書かれた子どもの作文を紹介しているが、そこには子どもならではのあまりにリアルすぎる目撃談が大量に出てくるのだ。

「朝鮮人がころされているというので私わ行ちゃんと二人で見にいつた。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによつてみた。すると頭わはれて血みどりにそまつていた」(横浜市・高等小学校1年女児)

「私たちは三尺余りの棒を持つて其の先へくぎを付けて居ました・それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だけがころがつて居ました」(同1年女児)

「歩いて居ると朝鮮人が立木にゆはかれ竹槍で腹をぶつぶつさられ(刺され)のこぎりで切られてしまひました」(同小学校男児)

「するとみなさんがたが朝鮮人をつついていましたからは(わ)たくしも一ぺんつついてやりましたらきゆうとしんでしまひました」(横浜市尋常小学校4年男児)

■デマを広めた張本人・読売社主の正力松太郎も後にデマを認めていた

 さらに、自警団だけでなく、警察、軍隊まで出動して「戦争気分」で朝鮮人を虐殺した。当時、習志野騎兵連隊に入隊していた越中谷利一はこう記している。

「(亀戸駅付近に止まっていた列車の内外を調べ)その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民のなかからは嵐のように沸きおこる万歳歓呼の声──国賊!朝鮮人は皆殺しにしろ!」(『関東大震災の思い出』)

 実際、朝鮮人の暴動デマは、戦後、衆院議員、読売新聞社主として政界、マスコミ界に君臨した正力松太郎が警視庁官房主事時代に広めたことがわかっている。

『九月、東京の路上で』でもそのことは指摘されていて、「デモや集会を取り締まり、朝鮮人学生のひそかな独立運動に目を光らせていた」正力がそのデマに振り回され、「軍人達に『こうなったらやりましょう!』と腕まくりをして叫び、警視庁に駆けつけていた新聞記者たちには『朝鮮人が謀反を起こしているといううわさがあるから触れ回ってくれ』と要請する」とある。

 だが、その正力は後に、この朝鮮人暴動がデマだったと認めているのだ。正力の回顧録『米騒動や大震災の思い出』にはこんなくだりがある。

「しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちにようやく夜の10時ごろに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。(中略)要するに人心が異常なる衝撃を受けて錯覚を起し、電信電話が不通のため、通信連絡を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第であります(後略)」
 
 普通の人々が持つ潜在的な差別意識と恐怖心、加えて震災で通信が寸断され、何が正確な情報が分からなくなった時、虐殺は起こった。歴史修正主義者やネトウヨがどういおうと、これはまぎれもない事実なのだ

■『いだてん』は伊藤博文暗殺でもネトウヨから攻撃を受けていたが

 つまり、『いだてん』は、今回、右派政治家やネトウヨのデマ、歴史修正主義に屈することなく、こうした当たり前の史実を描こうとしたということだ。『いだてん』の場合、必ずしもこの1分足らずの場面があってもなくても、ストーリーの大勢には大きな影響はなかっただろう。それでもあえてこの場面を入れたのには、脚本の宮藤官九郎をはじめとした、製作陣の明確な意図があったことは間違いない。

 本サイトは『いだてん』について、国家主義や戦争と無縁ではいられないオリンピックというテーマを描くことの難しさについて書いたことがある。さらに『いだてん』はいまの日本で扱うと炎上しやすい近現代史を描くという高いハードルにも取り組んでいる。実際、伊藤博文暗殺に関するナレーションひとつで、ネトウヨ連中からイチャモンをつけられるなどしている。

 そんななかでも最もコントラバーシャルなトピックのひとつである朝鮮人虐殺について、『いだてん』がなかったことにせず少しでも描いたことは評価に値する。今後、戦争に突入していく日本をどう描くのか、ヒトラーのベルリン五輪をどう描くのか、そのベルリン五輪に日本選手として出場した朝鮮半島出身者たちの存在をどう描くのか。視聴率の低さばかりがニュースになっている『いだてん』だが、このチャレンジはもっと注目されていいのではないか。


http://www.asyura2.com/19/kokusai27/msg/148.html#c5

[日本の事件17] プチエンジェル事件の真相
73. 中川隆[-8864] koaQ7Jey 2019年8月11日 14:16:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3870]
練炭は使わなかったが、エプシュタインが独房内で「自殺」した
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908110000/
2019.08.11 櫻井ジャーナル

 ジェフリー・エプシュタインが8月10日に独房内で「自殺」した。7月23日には「ほぼ意識をなくし」て倒れているところを発見されているが、今回は手遅れ。「自殺」を試みた人物に対する監視は厳しくなるはずだが、そうした様子は窺えない。​​ニューヨーク・タイムズ紙は午前7時30分頃に首をつった彼の死体が発見されたとしているが、7時30分に病院へ運び込まれるエプシュタインが目撃され、消防署へ心停止の通報があったのは午前6時38分とする証言​​もある。死亡した状況が不明確だ。その前日、裁判所は事件に関する2000ページの文書を公表していた。

 エプシュタインが未成年の女性を有力者へ性的な目的で提供していることが明るみに出はじめたのは2005年3月。2008年6月に彼は有罪を認めて懲役18カ月を言い渡されているが、州刑務所ではなく郡の営巣へ入れられ、しかも3カ月半で週に6日間は1日12時間、外へ出ることが許されている。処罰は寛大で、待遇は特別だったわけだ。

 ​事件を地方検事として担当したアレキサンダー・アコスタはエプシュタインについて、「情報機関に所属している」ので放っておけと言われたとしている。なお、アコスタはドナルド・トランプ政権で労働長官を務めていたが、今回の件が浮上すると辞任している。

 確かにエプシュタインの背後には情報機関や治安機関の影がちらつく。例えば、彼の妻だったギスレイン・マクスウェルの父親はミラー・グループを率いていたロバート・マクスウェル。この人物は1960年代からイスラエルの情報機関であるモサドのエージェントだったとも言われている。このロバートは1991年11月、カナリア諸島沖で死体となって発見された。その翌月にボリス・エリツィンはソ連を消滅させたが、その工作に絡んでマクスウェルはCIAとKGBを脅していたとも言われている。

 エプシュタインが運営していた小児性愛のネットワークは有力者へのサービスであると同時に、有力者を脅す材料を集めるという目的があった。顧客の様子は全て音声や映像で記録されていたというのだ。

 そうした顧客のリストをエプシュタインの自宅から2009年に持ち出した人物がいる。その人物によると、リストは「小児性愛ネットワーク」を解き明かすもの。それが事実なら、アル・カポネ時代のシカゴと基本構造は同じ。この問題は西側の恐喝による支配システムを明らかにする突破口になる。

 今回は厳しい処罰が予想されていたエプシュタインは有罪を認めず、そのリストを反撃の材料に使おうとしていたと言われている。すでに不適切な行為を強制されたと主張している女性から何人かの有力者の名前が明らかにされているが、エプシュタインが全体像を口にしたなら、アメリカやイギリスのエリートはパニックに陥る可能性がある。そうした顧客の中に日本人や中国人が含まれていても驚かない。

 本ブログではすでに書いたことだが、小児性愛の問題はイラクを先制攻撃したアメリカ主導軍にも波及する。占領地ではそうしたことが行われていたというのだ。そうした事実を隠蔽、あるいは自身も参加していたひとりだと噂されたいるのがデイビッド・ペトレイアス。その当時、彼は第101空挺師団の司令官だった。

 これも本ブログで紹介済みだが、エプシュタインの恐喝人脈はロイ・コーンという弁護士につながる。この人物はドナルド・トランプの顧問弁護士を務め、ジョセフ・マッカーシー上院議員の顧問だった。マッカーシーとの関係でFBIの長官だったJ・エドガー・フーバにもつながる。

 そのコーンと親しくしていた密造酒業者で後に大手酒造メーカーを経営するルイス・ローゼンスティールもスキャンダルで有力者を脅していたと言われている。その同業者だったサミュエル・ブロンフマンもこの人脈に含まれ、これには犯罪組織やCIAも関係する。ローゼンシュタインに対し、アメリカで酒の販売が合法になる準備をするよう、1922年にアドバイスしたのがウィンストン・チャーチルだとされている。

 エプシュタインの「自殺」で胸をなで下ろしたエリートは少なくないだろうが、流れている情報が正しいなら、恐喝の構造は残る。そうしたエリートに支配されている庶民にとっても重大な問題だ。


http://www.asyura2.com/0505/nihon17/msg/722.html#c73

[近代史3] プチエンジェル事件の深すぎる闇 中川隆
49. 中川隆[-8863] koaQ7Jey 2019年8月11日 14:17:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3871]
練炭は使わなかったが、エプシュタインが独房内で「自殺」した
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908110000/
2019.08.11 櫻井ジャーナル

 ジェフリー・エプシュタインが8月10日に独房内で「自殺」した。7月23日には「ほぼ意識をなくし」て倒れているところを発見されているが、今回は手遅れ。「自殺」を試みた人物に対する監視は厳しくなるはずだが、そうした様子は窺えない。​​ニューヨーク・タイムズ紙は午前7時30分頃に首をつった彼の死体が発見されたとしているが、7時30分に病院へ運び込まれるエプシュタインが目撃され、消防署へ心停止の通報があったのは午前6時38分とする証言​​もある。死亡した状況が不明確だ。その前日、裁判所は事件に関する2000ページの文書を公表していた。

 エプシュタインが未成年の女性を有力者へ性的な目的で提供していることが明るみに出はじめたのは2005年3月。2008年6月に彼は有罪を認めて懲役18カ月を言い渡されているが、州刑務所ではなく郡の営巣へ入れられ、しかも3カ月半で週に6日間は1日12時間、外へ出ることが許されている。処罰は寛大で、待遇は特別だったわけだ。

 ​事件を地方検事として担当したアレキサンダー・アコスタはエプシュタインについて、「情報機関に所属している」ので放っておけと言われたとしている。なお、アコスタはドナルド・トランプ政権で労働長官を務めていたが、今回の件が浮上すると辞任している。

 確かにエプシュタインの背後には情報機関や治安機関の影がちらつく。例えば、彼の妻だったギスレイン・マクスウェルの父親はミラー・グループを率いていたロバート・マクスウェル。この人物は1960年代からイスラエルの情報機関であるモサドのエージェントだったとも言われている。このロバートは1991年11月、カナリア諸島沖で死体となって発見された。その翌月にボリス・エリツィンはソ連を消滅させたが、その工作に絡んでマクスウェルはCIAとKGBを脅していたとも言われている。

 エプシュタインが運営していた小児性愛のネットワークは有力者へのサービスであると同時に、有力者を脅す材料を集めるという目的があった。顧客の様子は全て音声や映像で記録されていたというのだ。

 そうした顧客のリストをエプシュタインの自宅から2009年に持ち出した人物がいる。その人物によると、リストは「小児性愛ネットワーク」を解き明かすもの。それが事実なら、アル・カポネ時代のシカゴと基本構造は同じ。この問題は西側の恐喝による支配システムを明らかにする突破口になる。

 今回は厳しい処罰が予想されていたエプシュタインは有罪を認めず、そのリストを反撃の材料に使おうとしていたと言われている。すでに不適切な行為を強制されたと主張している女性から何人かの有力者の名前が明らかにされているが、エプシュタインが全体像を口にしたなら、アメリカやイギリスのエリートはパニックに陥る可能性がある。そうした顧客の中に日本人や中国人が含まれていても驚かない。

 本ブログではすでに書いたことだが、小児性愛の問題はイラクを先制攻撃したアメリカ主導軍にも波及する。占領地ではそうしたことが行われていたというのだ。そうした事実を隠蔽、あるいは自身も参加していたひとりだと噂されたいるのがデイビッド・ペトレイアス。その当時、彼は第101空挺師団の司令官だった。

 これも本ブログで紹介済みだが、エプシュタインの恐喝人脈はロイ・コーンという弁護士につながる。この人物はドナルド・トランプの顧問弁護士を務め、ジョセフ・マッカーシー上院議員の顧問だった。マッカーシーとの関係でFBIの長官だったJ・エドガー・フーバにもつながる。

 そのコーンと親しくしていた密造酒業者で後に大手酒造メーカーを経営するルイス・ローゼンスティールもスキャンダルで有力者を脅していたと言われている。その同業者だったサミュエル・ブロンフマンもこの人脈に含まれ、これには犯罪組織やCIAも関係する。ローゼンシュタインに対し、アメリカで酒の販売が合法になる準備をするよう、1922年にアドバイスしたのがウィンストン・チャーチルだとされている。

 エプシュタインの「自殺」で胸をなで下ろしたエリートは少なくないだろうが、流れている情報が正しいなら、恐喝の構造は残る。そうしたエリートに支配されている庶民にとっても重大な問題だ。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/358.html#c49

[政治・選挙・NHK264] 安倍晋三に「寝言は寝てから言ってほしい」と山本太郎!  赤かぶ
15. 中川隆[-8865] koaQ7Jey 2019年8月11日 15:09:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3869]
山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者
れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ


山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。


▲△▽▼


ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。

右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという
言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。

大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)


http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/379.html#c15

[政治・選挙・NHK264] 「れいわ新選組」経済政策公約歩みと今後の課題(植草一秀の『知られざる真実』) 赤かぶ
2. 中川隆[-8864] koaQ7Jey 2019年8月11日 19:52:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3870]
山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者

れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ

山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。


▲△▽▼


ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。

右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという
言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。

大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)


http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/383.html#c2

[近代史02] 作曲家フルトヴェングラーとは何であったのか? 中川隆
23. 中川隆[-8863] koaQ7Jey 2019年8月11日 20:59:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3871]

ベートーベン交響曲 第9番 二短調 合唱 1951年バイロイト公演 バイエルン放送局録音とされるCDについて
http://solarisu.sakura.ne.jp/WF/WF-Koment/Bayreut-9-Beturokuon.html


 ベートーベンの第9のCDといえばフルトヴェングラーのバイロイト盤にとどめをさす。戦後、再開されたバイロイト音楽祭1951年の初日、7月29日の公演のライブ録音。もちろんモノラル録音だ。のちに録音のいいステレオ盤がたくさん発売されたが、レコード芸術などの評論家や読者を対象とした雑誌のアンケート調査でもいつもこれが1位になっていた。僕自身、録音のいいステレオ盤をいろいろ聞いていたが、このフルトヴェングラー盤に出会って第9の神髄に触れることができた。

 有名な録音だけにいろいろ憶測が言われてきた。詳しくはあとで述べるが、この録音は 英EMIによって録音された。レコード化を目的としていたかは、実際のところわからない。EMIはウイーンフィルやフィルハーモニアオーケストラを使ってスタジオ録音を始めていた。SP時代をのぞくと、レコード化を目的としたライブの録音は他には知らない。この年(1951年)カラヤン指揮のワーグナーの楽劇を録音するため、EMIは録音チームを送った。ついでにフルトヴェングラーの第9を録音してみようという話になったのだろうか。公演は29日1回だけだったらしいが、現地のラジオ局(バイエルン放送協会)も録音してラジオで放送されたらしい。それで放送局にEMIとは別の録音テープがあるのではないかといううわさが以前からあった。

 そのうわさされていたバイエルン放送局所蔵の録音テープが出てきて、2007年に日本フルトヴェングラーセンターがCD化し会員向けに頒布された。大げさかもしれないがファンにとっては衝撃的なニュースだった。

 案内されてきたCDは会費込で6000円した。あまり高すぎるため、聴きたかったが、買わなかった。そうしたらその年(2007年)の12月にORFEOから通常販売され入手できた。
(ORFEO C754081B)

 この録音の発掘は当然、かなりの話題になった。2007年9月号のレコード芸術に感想記事が寄せられている。フルトヴェングラーセンター会長中村政行、フルトヴェングラー研究家桧山浩介、そして音楽学者(評論家)金子建志の3人。まだORFEO盤は発売されていないので、センター盤を聴いてでの感想ということになる。

 いままでEMI盤で言われてきたのはゲネプロ(総練習)をメインに使用し、本番のテープも一部使用した、という説(テープを編集した跡がある)。ほぼこれは当たっていると思う。バイエルン放送局のテープ(以下B盤)は咳ばらいなどの聴衆のオーディエンスノイズがはっきり聞き取れる。部分的にEMI盤と同一と思われる個所もあるらしいが、あきらかに別録音という印象を受けた。

 中村、桧山両氏はB盤を29日の本番だと指摘。演奏の完成度もEMIより高いという意見を述べられているが、金子氏はまったく逆の意見だ。その根拠は、演奏の仕上がりの完成度はEMI盤の方が高くB盤は楽器のバランスやアンサンブルの点で最終し上がりの前の状態で完成度が低いと指摘している。金子氏の指摘はスコアを使用して詳細を極めている。ぼくはスコアは持っておらず、金子氏の指摘についての確認は出来ないが、B盤の演奏にEMIより完成度が低いという印象は持てなかった。金子氏の指摘で判るのは、終楽章のソロトロンボーンの箇所と、ピッコロ、トランペットが突出しているところ。ピッコロとトランペットの箇所は、マイクアレンジの差かもしれないが、仮に、EMI盤が本番として、フルトヴェングラーが修正した、という説は、十分考えられる。しかし、咳などの聴衆のノイズについては、オーケストラの楽員もしくはコーラスの団員が発したものではないか、という説は無理があると思う。第一楽章初めのあたりの咳はマイクに近く、オーケストラ団員というのはわかるが、マイクから遠い会場ノイズがあちこちに散見できるからだ。

 金子氏がB盤をゲネプロと指摘する根拠がほかにもある。第3楽章のまえにソリストが入場する足音が聞かれる個所のことだ。(ORFEO盤はここのところはカットされていてる。)本番ならソリストが入場すれば拍手がおこるはずと指摘している。これはたしかにそのとおりだと思うが、一方でゲネプロならソリストの入場は第4楽章のまえでいいのではないかとも思うが。B盤は第3楽章が終ってすぐ第4楽章が始まっているので、たとえゲネプロであっても本番と同様に演奏したい、というフルトヴェングラーの要望があったのではと、憶測もできる。

 EMI盤の憶測がいくつか明らかになった。第4楽章中間あたり、”vor Gott"と合唱がフォルテで歌い、声を長く伸ばす、有名な箇所があるが、最後、瞬間的に合唱、トランペットのレベル(音量)が上がる。これは、レコード制作時にわざとレベルを上げて、演出したのではないかという疑問だ。B盤はそのような音量の変化はない。したがって作られたものだと判った。さらに、その"vor Gott"のあと、長大なゲネラルパウゼ(総休止)がある。これが異常に長い。それも疑問がもたれた。しかしB盤も同様に長く、この点については特に元テープを触ってないということがわかった。

 僕自身、どうにもわからない点がある。それは最後のつめの箇所。フルトヴェングラーの第9の最後のところは、猛烈なクレッシェンドをかけて終わる。フルトヴェングラーの第9の録音はかなりあって、ほとんどCDで聴くことができ、この終結のところはどれもうまくいっているが、このEMI盤はオケが混乱して終わっている。まったく縦の線がそろっていない。誰が聴いてもこれはわかる。B盤はこの箇所がうまくいっていて問題ない。レコード化にあたってなぜB盤を採用しなかったのか。結局、新たな疑問が生じた。

 B盤はバイエルン放送局が録音した、言われている。関係者の証言もあるみたいだ。しかし、僕はこれはEMIが収録したものだと思う。理由はいろいろあるが、それまでバイロイトでのコンサートの録音の経験はなかったはずで、マイクのセッティングに手間がかかり、本番、ゲネプロの収録までにいろいろ試行錯誤(マイクテスト)しているはずで、別々にしているとは考えにくい。それと、マイクアレンジや音質は別、という意見があるが、ぼくが聴いた限りでは、「同じマイクアレンジ」だと思う。たしかに、先に書いたピッコロやトランペットのバランスの問題はあるが全体の音の印象はEMI盤と同じ、という印象だ。根拠はもう一つ。当時のラジオ放送局にこれだけバランスのいい録音が出来る技術は持ってなかったという点だ。フルトヴェングラーは1954年にもバイロイトで同じ第9を公演していて、この方は間違いなくバイエルン放送協会が録音したテープが残されている。それはCDで聴くことができる。かなりバランスの悪い録音で、はっきりいって鑑賞に耐えられるような代物でなく、3年後という技術の進歩も考えても、B盤がバイエルン放送局の技術で録音されたとは考えられない。ほかのケースを例に出してもいい、51年、52年、53年のウイーン、51年のザルツブルグ、54年のルツエルン、バイロイトなど、いずれも放送局の録音での第9が残されて聴くことができるが、いずれも録音のクオリティは51年のバイロイト盤には遠く及ばない。

 僕の解釈、ゲネプロと本番をEMIが収録した。おそらく、録音権でEMIとバイエルン放送協会とのあいだに争いがあったのではないかと思う。録音はEMIが収録し、本番かゲネプロのどちらかのテープをEMIがバイエルン側に提供する。放送は1回限りで、コピーテープを他の放送局に提供しない、という契約をしたのではないかと思う。コピーテープはスエーデンにあるらしいが、放送時に局が録音したのではないかと思う。今回のバイエルン放送協会で発見されたテープには、「たとえ部分的にでも、放送することは禁止」と書かれているという。一度放送した後で記述されたとおもわれ、EMIとの契約を意味しているのではないだろうか。

 1970年代後半から80年ころにかけて、放送局が所蔵していた音源からの流出と思われる、コンサートライブのレコードがチェトラ、BWS(ブルーノワルターソサエティ)、メロドラムといったレーベルから大量に発売された。フルトヴェングラーのライブもたくさん出てきた。それ以降も、放送局所蔵の録音テープの発掘が続けられて、散発的に発売されていた。それらのなかに、今回のバイロイトの録音テープは発売されなかった。つまり、バイエルン放送局で厳重に管理され、再放送はもちろんコピーテープも作られなかったということだ。

 このEMIの録音についていくつかヒントを与えたい。1999年に歴史的録音を発掘してCDを発売しているテスタメントからオットー・クレンペラーの第9のライブ録音が発売された。1957年11月15日の公演の録音。放送局が録音したのならよくあるケースだが、録音はEMIがした。当然、録音のクオリティは高い。クレンペラーの第9はこの演奏会に前後して、まったく同じメンバーでセッション録音された。レコードとして発売されたのはもちろんセッション録音の方。ライブの方は99年にテスタメントが発売するまで録音の存在さえ知られていなかった。似たケースがほかにもある。53年8月ザルツブルグでシュワルツコップフのヴォルフリサイタルがおこなわれた。ピアノはフルトヴェングラー。シュワルツコップの細君でEMIで力を持っていたウオルター・レッグが私的に聴くために、このコンサートの録音を指示した。結果的には選曲してEMIからレコード化されたが、珍しいケースだと思う。いままであえて名前を出さなかったが、バイロイトのフルトヴェングラーの録音やクレンペラーの第9の録音はレッグの指示だと思う。

 EMIはフルトヴェングラーのベートーベンの交響曲をウイーンフィルで順次録音していた。1954年フルトヴェングラーが亡くなって、2番、8番、9番は録音されなかった。9番がセッション録音がされていたら、51年のバイロイトの録音はクレンペラーのケースのようにお蔵入りになっていたと思う。

 えらい長くなってしまったが、EMI盤とB盤の比較だが、B盤の方が演奏がいいと思う。全体が有機的に連続しており、EMI盤のような編集の痕もなく自然。それに録音は明らかにB盤に軍配が上がる。EMI盤のLPの海外、国内の初期盤、後の盤(70年代)とも比較したがB盤の方が音質がいい。同じ収録なのになんで差があるのか謎である。バイエルン放送局の別録音の根拠になるが、どうしてもそれは信じられない。

 1点だけ問題がある。第4楽章はじめ有名な歓喜の主題がチェロで静かに始まるところ、有名な箇所だがEMI盤はほとんど聞き取れないほどのピアニッシモで開始されるが、B盤はラジオ放送のためそのままでは聞こえないので、音量を上げている。金子氏が指摘している通りでここでノイズレベルが上がる。再発売の際にはここはもとのダイナミックスに修正してほしい。感興をそぐ。   日本フルトヴェングラーセンター製作のLP盤について(2010年12月2日、ブログの記事を転載)


 レコード番号:WFHC−014A/D 日本フルトヴェングラーセンター製作。プレスはドイツらしい。一般市販品ではなく会員頒布。

全曲4面にカットされている。丁寧に作られた盤だ。重量盤。
 
 冒頭、出だしのバイオリンの音に違和感を覚えた。高音が少し持ち上がったきつい音だ。第2楽章の冒頭のバイオリンのトッティも同様。第3楽章はバイオリンがよく歌うところが多いがこれも同じ印象。結局、最後までこの違和感は消えず、楽しめなかった。

 トランペットは耳に突き刺さるような音で、終楽章の四重唱はソプラノがキンキンした。

 同じマスターを使用してCD化されたオルフェオ盤と聞き比べてみた。オルフェオ盤のほうがはるかに聞きやすく、違和感なくEMI盤との音の雰囲気の差は少ない。一帯どうゆうことなのだろうか考えた見た。

 アナログ音源の録音をLP化する場合、最近はデジタル化したマスターを使っている場合が多い。編集がしやすいこととノイズなどの処理をしやすいからだと思う。このLPはその点どうなのかと思いながら、添付されていた解説を読んでいたら38cm/sのフルトラックテープでコピーしたものを使用したと書かれていた。日本センターが最初に頒布したCDのマスターはDATにコピーしたと書かれていたので、LPはデジタル処理は避けたようだ。

 フルトヴェングラーおたくはオリジナルにこだわって、もとのマスターテープの音をイコライジングなどでマスターの音をいじられることを嫌う。

 このLPの音はマスターテープの音をそのままLP化したのではないかと思う。オルフェオのCDは、聴きやすいように音質を改善したのではないだろうか。それでセンター製のCDの音はどうなのだろうかとおもった。

 それと終楽章に古いテープ特有のレベル変動がかなりあった。60年近く経っているので劣化していて当然だが、聴いていて気になる。CDもレベル変動はあるがそんなに気にならない。デジタル処理で修復したのかもしれない。

 CDでは気が付かなかった点がもう一つある。第4楽章の歓喜のテーマの出だしのところが頭の音が切れている。テープを繋いだあとだとはっきり判る。オルフェオのCDでは気が付かなかった。それでこの部分CDを聴いてみた。LPははっきり判るが、CDははっきりしない。まえに書いたがここでノイズレベルが上るのでボリウムを操作した、と書いたところだ。なんとも微妙。もう少し聞き比べをしてみたい。

 CDとの音質差はLPのほうが一皮むけたような明解な音がしている。LPのほうが高音が持ち上がっていることが理由かもしれない。

 ついでにEMI盤のLPとも比較してみた。使ったLPは東芝AB9116E(手持ちのLPではこれがベストだと思っている)。やはり耳になじんでいるせいか総合的な点でEMI盤のほうが音質が安定していていい。まったく違和感なく聞ける。
 
 このフルトヴェングラーセンター製のLPは、値段が高いことについては、特殊なもので本来商業的に販売された物でなく、希少で骨董的な価値も高いため仕方が無い。結局内容としては期待はずれだった。

 この録音、改めて聴いて判ったが、EMI盤には残念ながら及ばないと思う。終楽章の音質劣化は致命的だ。

http://solarisu.sakura.ne.jp/WF/WF-Koment/Bayreut-9-Beturokuon.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/482.html#c23

[番外地7] フルトヴェングラー _ ベートーヴェン名演集 中川隆
3. 中川隆[-8862] koaQ7Jey 2019年8月11日 20:59:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3872]

ベートーベン交響曲 第9番 二短調 合唱 1951年バイロイト公演 バイエルン放送局録音とされるCDについて
http://solarisu.sakura.ne.jp/WF/WF-Koment/Bayreut-9-Beturokuon.html


 ベートーベンの第9のCDといえばフルトヴェングラーのバイロイト盤にとどめをさす。戦後、再開されたバイロイト音楽祭1951年の初日、7月29日の公演のライブ録音。もちろんモノラル録音だ。のちに録音のいいステレオ盤がたくさん発売されたが、レコード芸術などの評論家や読者を対象とした雑誌のアンケート調査でもいつもこれが1位になっていた。僕自身、録音のいいステレオ盤をいろいろ聞いていたが、このフルトヴェングラー盤に出会って第9の神髄に触れることができた。

 有名な録音だけにいろいろ憶測が言われてきた。詳しくはあとで述べるが、この録音は 英EMIによって録音された。レコード化を目的としていたかは、実際のところわからない。EMIはウイーンフィルやフィルハーモニアオーケストラを使ってスタジオ録音を始めていた。SP時代をのぞくと、レコード化を目的としたライブの録音は他には知らない。この年(1951年)カラヤン指揮のワーグナーの楽劇を録音するため、EMIは録音チームを送った。ついでにフルトヴェングラーの第9を録音してみようという話になったのだろうか。公演は29日1回だけだったらしいが、現地のラジオ局(バイエルン放送協会)も録音してラジオで放送されたらしい。それで放送局にEMIとは別の録音テープがあるのではないかといううわさが以前からあった。

 そのうわさされていたバイエルン放送局所蔵の録音テープが出てきて、2007年に日本フルトヴェングラーセンターがCD化し会員向けに頒布された。大げさかもしれないがファンにとっては衝撃的なニュースだった。

 案内されてきたCDは会費込で6000円した。あまり高すぎるため、聴きたかったが、買わなかった。そうしたらその年(2007年)の12月にORFEOから通常販売され入手できた。
(ORFEO C754081B)

 この録音の発掘は当然、かなりの話題になった。2007年9月号のレコード芸術に感想記事が寄せられている。フルトヴェングラーセンター会長中村政行、フルトヴェングラー研究家桧山浩介、そして音楽学者(評論家)金子建志の3人。まだORFEO盤は発売されていないので、センター盤を聴いてでの感想ということになる。

 いままでEMI盤で言われてきたのはゲネプロ(総練習)をメインに使用し、本番のテープも一部使用した、という説(テープを編集した跡がある)。ほぼこれは当たっていると思う。バイエルン放送局のテープ(以下B盤)は咳ばらいなどの聴衆のオーディエンスノイズがはっきり聞き取れる。部分的にEMI盤と同一と思われる個所もあるらしいが、あきらかに別録音という印象を受けた。

 中村、桧山両氏はB盤を29日の本番だと指摘。演奏の完成度もEMIより高いという意見を述べられているが、金子氏はまったく逆の意見だ。その根拠は、演奏の仕上がりの完成度はEMI盤の方が高くB盤は楽器のバランスやアンサンブルの点で最終し上がりの前の状態で完成度が低いと指摘している。金子氏の指摘はスコアを使用して詳細を極めている。ぼくはスコアは持っておらず、金子氏の指摘についての確認は出来ないが、B盤の演奏にEMIより完成度が低いという印象は持てなかった。金子氏の指摘で判るのは、終楽章のソロトロンボーンの箇所と、ピッコロ、トランペットが突出しているところ。ピッコロとトランペットの箇所は、マイクアレンジの差かもしれないが、仮に、EMI盤が本番として、フルトヴェングラーが修正した、という説は、十分考えられる。しかし、咳などの聴衆のノイズについては、オーケストラの楽員もしくはコーラスの団員が発したものではないか、という説は無理があると思う。第一楽章初めのあたりの咳はマイクに近く、オーケストラ団員というのはわかるが、マイクから遠い会場ノイズがあちこちに散見できるからだ。

 金子氏がB盤をゲネプロと指摘する根拠がほかにもある。第3楽章のまえにソリストが入場する足音が聞かれる個所のことだ。(ORFEO盤はここのところはカットされていてる。)本番ならソリストが入場すれば拍手がおこるはずと指摘している。これはたしかにそのとおりだと思うが、一方でゲネプロならソリストの入場は第4楽章のまえでいいのではないかとも思うが。B盤は第3楽章が終ってすぐ第4楽章が始まっているので、たとえゲネプロであっても本番と同様に演奏したい、というフルトヴェングラーの要望があったのではと、憶測もできる。

 EMI盤の憶測がいくつか明らかになった。第4楽章中間あたり、”vor Gott"と合唱がフォルテで歌い、声を長く伸ばす、有名な箇所があるが、最後、瞬間的に合唱、トランペットのレベル(音量)が上がる。これは、レコード制作時にわざとレベルを上げて、演出したのではないかという疑問だ。B盤はそのような音量の変化はない。したがって作られたものだと判った。さらに、その"vor Gott"のあと、長大なゲネラルパウゼ(総休止)がある。これが異常に長い。それも疑問がもたれた。しかしB盤も同様に長く、この点については特に元テープを触ってないということがわかった。

 僕自身、どうにもわからない点がある。それは最後のつめの箇所。フルトヴェングラーの第9の最後のところは、猛烈なクレッシェンドをかけて終わる。フルトヴェングラーの第9の録音はかなりあって、ほとんどCDで聴くことができ、この終結のところはどれもうまくいっているが、このEMI盤はオケが混乱して終わっている。まったく縦の線がそろっていない。誰が聴いてもこれはわかる。B盤はこの箇所がうまくいっていて問題ない。レコード化にあたってなぜB盤を採用しなかったのか。結局、新たな疑問が生じた。

 B盤はバイエルン放送局が録音した、言われている。関係者の証言もあるみたいだ。しかし、僕はこれはEMIが収録したものだと思う。理由はいろいろあるが、それまでバイロイトでのコンサートの録音の経験はなかったはずで、マイクのセッティングに手間がかかり、本番、ゲネプロの収録までにいろいろ試行錯誤(マイクテスト)しているはずで、別々にしているとは考えにくい。それと、マイクアレンジや音質は別、という意見があるが、ぼくが聴いた限りでは、「同じマイクアレンジ」だと思う。たしかに、先に書いたピッコロやトランペットのバランスの問題はあるが全体の音の印象はEMI盤と同じ、という印象だ。根拠はもう一つ。当時のラジオ放送局にこれだけバランスのいい録音が出来る技術は持ってなかったという点だ。フルトヴェングラーは1954年にもバイロイトで同じ第9を公演していて、この方は間違いなくバイエルン放送協会が録音したテープが残されている。それはCDで聴くことができる。かなりバランスの悪い録音で、はっきりいって鑑賞に耐えられるような代物でなく、3年後という技術の進歩も考えても、B盤がバイエルン放送局の技術で録音されたとは考えられない。ほかのケースを例に出してもいい、51年、52年、53年のウイーン、51年のザルツブルグ、54年のルツエルン、バイロイトなど、いずれも放送局の録音での第9が残されて聴くことができるが、いずれも録音のクオリティは51年のバイロイト盤には遠く及ばない。

 僕の解釈、ゲネプロと本番をEMIが収録した。おそらく、録音権でEMIとバイエルン放送協会とのあいだに争いがあったのではないかと思う。録音はEMIが収録し、本番かゲネプロのどちらかのテープをEMIがバイエルン側に提供する。放送は1回限りで、コピーテープを他の放送局に提供しない、という契約をしたのではないかと思う。コピーテープはスエーデンにあるらしいが、放送時に局が録音したのではないかと思う。今回のバイエルン放送協会で発見されたテープには、「たとえ部分的にでも、放送することは禁止」と書かれているという。一度放送した後で記述されたとおもわれ、EMIとの契約を意味しているのではないだろうか。

 1970年代後半から80年ころにかけて、放送局が所蔵していた音源からの流出と思われる、コンサートライブのレコードがチェトラ、BWS(ブルーノワルターソサエティ)、メロドラムといったレーベルから大量に発売された。フルトヴェングラーのライブもたくさん出てきた。それ以降も、放送局所蔵の録音テープの発掘が続けられて、散発的に発売されていた。それらのなかに、今回のバイロイトの録音テープは発売されなかった。つまり、バイエルン放送局で厳重に管理され、再放送はもちろんコピーテープも作られなかったということだ。

 このEMIの録音についていくつかヒントを与えたい。1999年に歴史的録音を発掘してCDを発売しているテスタメントからオットー・クレンペラーの第9のライブ録音が発売された。1957年11月15日の公演の録音。放送局が録音したのならよくあるケースだが、録音はEMIがした。当然、録音のクオリティは高い。クレンペラーの第9はこの演奏会に前後して、まったく同じメンバーでセッション録音された。レコードとして発売されたのはもちろんセッション録音の方。ライブの方は99年にテスタメントが発売するまで録音の存在さえ知られていなかった。似たケースがほかにもある。53年8月ザルツブルグでシュワルツコップフのヴォルフリサイタルがおこなわれた。ピアノはフルトヴェングラー。シュワルツコップの細君でEMIで力を持っていたウオルター・レッグが私的に聴くために、このコンサートの録音を指示した。結果的には選曲してEMIからレコード化されたが、珍しいケースだと思う。いままであえて名前を出さなかったが、バイロイトのフルトヴェングラーの録音やクレンペラーの第9の録音はレッグの指示だと思う。

 EMIはフルトヴェングラーのベートーベンの交響曲をウイーンフィルで順次録音していた。1954年フルトヴェングラーが亡くなって、2番、8番、9番は録音されなかった。9番がセッション録音がされていたら、51年のバイロイトの録音はクレンペラーのケースのようにお蔵入りになっていたと思う。

 えらい長くなってしまったが、EMI盤とB盤の比較だが、B盤の方が演奏がいいと思う。全体が有機的に連続しており、EMI盤のような編集の痕もなく自然。それに録音は明らかにB盤に軍配が上がる。EMI盤のLPの海外、国内の初期盤、後の盤(70年代)とも比較したがB盤の方が音質がいい。同じ収録なのになんで差があるのか謎である。バイエルン放送局の別録音の根拠になるが、どうしてもそれは信じられない。

 1点だけ問題がある。第4楽章はじめ有名な歓喜の主題がチェロで静かに始まるところ、有名な箇所だがEMI盤はほとんど聞き取れないほどのピアニッシモで開始されるが、B盤はラジオ放送のためそのままでは聞こえないので、音量を上げている。金子氏が指摘している通りでここでノイズレベルが上がる。再発売の際にはここはもとのダイナミックスに修正してほしい。感興をそぐ。   日本フルトヴェングラーセンター製作のLP盤について(2010年12月2日、ブログの記事を転載)


 レコード番号:WFHC−014A/D 日本フルトヴェングラーセンター製作。プレスはドイツらしい。一般市販品ではなく会員頒布。

全曲4面にカットされている。丁寧に作られた盤だ。重量盤。
 
 冒頭、出だしのバイオリンの音に違和感を覚えた。高音が少し持ち上がったきつい音だ。第2楽章の冒頭のバイオリンのトッティも同様。第3楽章はバイオリンがよく歌うところが多いがこれも同じ印象。結局、最後までこの違和感は消えず、楽しめなかった。

 トランペットは耳に突き刺さるような音で、終楽章の四重唱はソプラノがキンキンした。

 同じマスターを使用してCD化されたオルフェオ盤と聞き比べてみた。オルフェオ盤のほうがはるかに聞きやすく、違和感なくEMI盤との音の雰囲気の差は少ない。一帯どうゆうことなのだろうか考えた見た。

 アナログ音源の録音をLP化する場合、最近はデジタル化したマスターを使っている場合が多い。編集がしやすいこととノイズなどの処理をしやすいからだと思う。このLPはその点どうなのかと思いながら、添付されていた解説を読んでいたら38cm/sのフルトラックテープでコピーしたものを使用したと書かれていた。日本センターが最初に頒布したCDのマスターはDATにコピーしたと書かれていたので、LPはデジタル処理は避けたようだ。

 フルトヴェングラーおたくはオリジナルにこだわって、もとのマスターテープの音をイコライジングなどでマスターの音をいじられることを嫌う。

 このLPの音はマスターテープの音をそのままLP化したのではないかと思う。オルフェオのCDは、聴きやすいように音質を改善したのではないだろうか。それでセンター製のCDの音はどうなのだろうかとおもった。

 それと終楽章に古いテープ特有のレベル変動がかなりあった。60年近く経っているので劣化していて当然だが、聴いていて気になる。CDもレベル変動はあるがそんなに気にならない。デジタル処理で修復したのかもしれない。

 CDでは気が付かなかった点がもう一つある。第4楽章の歓喜のテーマの出だしのところが頭の音が切れている。テープを繋いだあとだとはっきり判る。オルフェオのCDでは気が付かなかった。それでこの部分CDを聴いてみた。LPははっきり判るが、CDははっきりしない。まえに書いたがここでノイズレベルが上るのでボリウムを操作した、と書いたところだ。なんとも微妙。もう少し聞き比べをしてみたい。

 CDとの音質差はLPのほうが一皮むけたような明解な音がしている。LPのほうが高音が持ち上がっていることが理由かもしれない。

 ついでにEMI盤のLPとも比較してみた。使ったLPは東芝AB9116E(手持ちのLPではこれがベストだと思っている)。やはり耳になじんでいるせいか総合的な点でEMI盤のほうが音質が安定していていい。まったく違和感なく聞ける。
 
 このフルトヴェングラーセンター製のLPは、値段が高いことについては、特殊なもので本来商業的に販売された物でなく、希少で骨董的な価値も高いため仕方が無い。結局内容としては期待はずれだった。

 この録音、改めて聴いて判ったが、EMI盤には残念ながら及ばないと思う。終楽章の音質劣化は致命的だ。

http://solarisu.sakura.ne.jp/WF/WF-Koment/Bayreut-9-Beturokuon.html
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/162.html#c3

[番外地7] フルトヴェングラー _ ベートーヴェン名演集 中川隆
4. 中川隆[-8861] koaQ7Jey 2019年8月11日 21:28:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3873]

巨匠フルトヴェングラーの「名盤」の真相 第一回 「バイロイトの第九」の「真相」
本間俊哉 2016年8月29日

巨匠フルトヴェングラー(一八八六年生、一九五四年没)の数ある録音の中でも、最も声望の高いものといえば《バイロイトの第九》であろう。一九五一年七月二九日、バイロイト祝祭が第二次大戦後に再開された折の、記念演奏会の演奏記録である。

フルトヴェングラーは、一九五四年八月九日にも同じくバイロイト祝祭のオープニング・コンサートでベートーヴェンの《第九》を演奏し、録音も残っている(セブンシーズ国内盤【KICC-1053】)が、もともとがプライベート録音で音質が劣悪すぎ、演奏の真価を問うことはできない。

通常、フルトヴェングラーの指揮した《バイロイトの第九》といえば一九五一年録音の演奏を指す。とはいえ、これは実のところ、問題だらけなのだ。

2種の《バイロイトの第九》

《バイロイトの第九》は、演奏年月日が同じで、収録された演奏の異なるものが二種、存在する。一つはイギリスHMV(EMIと同一の会社)が一九五五年に2枚組LP【ALP-12986~7】として初めて発売したもの(これは後述するがCD時代になってからいろいろ手が加えられている)。もう一つは日本フルトヴェングラー・センターが二〇〇七年に会員用にCD頒布【WFHC-013】し、同年暮れに独オルフェオ【C754081】からも一般向けにリリースされたものである。EMI発売盤をE盤、オルフェオ盤(つまり日フルトヴェングラー・センター盤)をO盤とする。

O盤は、バイエルン放送局内で「放送禁止」と書かれた箱に保管されていたテープから復刻されたもので、発見者である日フルトヴェングラー・センターは、「従来のE盤ではなく、このO盤こそが本物の本番ライヴ録音である」と主張している。E盤はいろいろに原テープを編集したもので、O盤は一貫した録音であるから、E盤は本番の一発録音としては信憑性に欠ける、ともセンターは主張するのである。

だが、一聴して分かるようにE盤を貫く只ならぬ緊迫感や高揚は、O盤には見られない。特に、終楽章の結尾のプレスティッシモ(最高に速く≠ニいう演奏指示)が、E盤では勢いあまって演奏が怒涛のように完全に崩壊しているが、O盤は最後まで冷静に整った演奏ができており、本番舞台らしい熱気がまるで感じられない。

さらに、E盤の全曲をなんど聴いてもセンターが主張するような、テープ編集の痕跡はどこにも見られない。一九五一年における一発勝負の舞台録音である。まだEMIは磁気テープ録音を導入したばかりだった。テープの編集は、ハサミとセロハンテープで行なっていた。だから、録音時はもちろん、その後のマスター・テープの編集等の加工があれば、録音年代から見ても、どうしても聴き手に分かる跡が残ってしまう筈である。

センターは、具体的にE盤の終楽章における”vor Gott”のフェルマータ(長く伸ばす≠ニいう演奏指示)末尾のクレッシェンドは不自然で、誰かがマスター・テープに手を入れた証拠と強調しているが、注意して聴き直しても特に不自然さは感じられない。これは、音楽雑誌等で複数のプロの批評家や録音エンジニアも述べていることである。

O盤も一聴してあからさまなテープ編集跡はないが、E盤に問題がない限りマスター・テープの編集云々は意味がない議論である。

音楽批評家・平林直哉氏によるとこのコンサート当日、公演本番の少し前に全曲の通し稽古があったとソプラノ歌手のシュワルツコップが証言しているとのことで、この通し稽古こそがO盤の正体ではないかと平林氏は述べているが、私もこの意見に賛同する。平林氏は前述の”vor Gott”のフェルマータ末尾のクレッシェンドについても、「EMIが操作したようには感じない」と著書にも書いている(《フルトヴェングラーを追って》青弓社)。

私も、日フルトヴェングラー・センターの、このO盤を発掘して世に問うた功績は大いに認めるものだ。しかし、完全に裏を取り、E盤がどういった録音であったかを資料等によってはっきりさせない(確実な証拠もないのに、センターは「E盤はリハーサル録音と本番録音の混合」と決めつけている)まま公にしたために、このような混乱が起きていることを、センターには直視して欲しいと思う。

私の考えでは、《バイロイトの第九》はE盤で聴くべきだ。あるいは、E盤があればそれで良い。E盤とO盤とでは、聴いていて受ける感銘の度合いにかなりの差があるからだ。

足音入り

一九九〇年に東芝EMIからリリースされた《バイロイトの第九》のCD【TOCE-6510】は、指揮者の「足音入り」ということで話題になった。帯にもその旨が書かれている。舞台にフルトヴェングラーが登場して指揮台に乗り、聴衆に挨拶をするまでの足音が録音に含まれていたからである。それだけでなく、演奏開始直前にオーケストラに向かってフルトヴェングラーが何ごとか話しかける音声が八秒ほど入り、開演前、終演後の熱烈な拍手も、ややたどたどしいが録音技師が始まりを揃えようとしている感があった。

従来のディスクでは、フルトヴェングラーの足音も話し声もいっさい含まれてはいなかった。また、開演前の拍手はなく、終演後の拍手はあまり綺麗に録られておらず、フェイド・アウトもいま一つ手際が良くなかった。しかし一九九〇年以降、この《バイロイトの第九》のEMI系録音盤には、必ず足音、声、整った拍手が収録されている。ただし、テープの継ぎ目が明らかで、後付けの効果音であることははっきりしていた。

この効果音は、東芝EMI盤よりEMIミュージック・ジャパン盤SACD【TOGE-11005】のほうがさらに手際が良い。テープ編集の痕跡は殆んど分からない。私は、最近のデジタル技術を駆使したものだと思う。演奏直後の熱狂的な拍手が、ひとしきり鳴り渡った後でフェイド・アウトするのも綺麗に整えられている。

先ごろ亡くなった音楽批評家・宇野功芳氏はこの音声についてオーケストラに「虚無の中から聞こえて来るように」と注意した、と《フルトヴェングラーの全名演名盤》(一九九八年、講談社)で書いているが、本当かどうかはかなり疑わしい。この本の前身である著書《フルトヴェングラーの名盤》(一九七七年、芸術現代社)でも、すでに宇野氏は同じように書いていた。この時点で、指揮者の声入りのレコードはまだ出ていない。

宇野氏は個性的な辛口批評で知られ、カリスマ的批評家として大いに活躍した。特に、日本で無名だった数多くの名演奏家たち(指揮者ハンス・クナッパーツブッシュ、ピアノ奏者リリー・クラウス、ヴァイオリン奏者チョン・キョンファ等々)を意欲的に紹介し、人気を博すまでに導いた功績は極めて大きい。

だが、彼は日本ではまだあまり知られていないことなどについて、手前勝手な作り話をよく書く人物でもあり、私はこの「虚無」云々の「注意」も、恐らく氏の想像だろうと思っている。

初版HMVのLPレコード【ALP1286-7】を聞いても開演前の拍手はいっさい収録されておらず、演奏直前の声もなく、終演後の拍手はたちまちブツリと消されてしまう。だから、揃った拍手や指揮者の声は、私はEMIがCD時代に入ってから臨場感を演出させるために施したものであろうと思う。

日フルトヴェングラー・センターが生前のフルトヴェングラー夫人(一九一一年生、二〇一三年没)にこのCDを聴かせたところ、夫人も足音や話し声に関して「おかしい」と訝しげであったという。夫人は一九四三年にフルトヴェングラーと結婚して以来、ほぼ常にフルトヴェングラーの舞台や録音には立ち合っていた。もちろん、この時も賓客として客席にいたのである。

そもそも、これから《第九》のような大作を演奏しようという、ホール内の誰もが緊張している本番直前に、指揮者がこと改めて演奏者たちに口頭で注意をしたりすることは、まず考えられない。私の聴いた数多くの《第九》の実演でも、このようなことは決してあり得ないことだった。

録音と発売の経緯

この《バイロイトの第九》のプロデューサーはウォルター・レッグという人物(一九〇六年生、一九七九年没)である。

レッグはEMIの重役で、二〇世紀を代表する多くのアーティストをEMIの専属とし、自らプロデューサーを務めて彼らのスタジオ録音を厳しく監修し、主にオペラとオーケストラ曲において、いくつもの歴史的名盤〈R.シュトラウスの楽劇《ばらの騎士》(指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン、録音:一九五六年)や名ソプラノ歌手マリア・カラス(一九二三年生、一九七七年没)の数多くの傑作オペラ録音、大指揮者オットー・クレンペラー(一八八五年生、一九七三年没)によるオーケストラ曲の名演盤等々〉を制作したことで知られる。だが、《バイロイトの第九》のプロデューサーとなったのはまったく偶然のことだった。

一九五〇年、若きカラヤン(一九〇八年生、一九八九年没)に肩入れするレッグはフルトヴェングラーと決定的なトラブルを起こした。もともとフルトヴェングラーとカラヤンの仲は険悪だった。この事件は長い説明を避けるが、要はレッグがプロデューサーを務める歌劇《魔笛》のカラヤンによるスタジオ録音を、オーケストラも歌手たちもほぼ同じフルトヴェングラーの同曲上演の直後に設定し、実質的にフルトヴェングラーをカラヤンの練習指揮者に仕立ててしまったのである。

このことを知って怒り心頭に達したフルトヴェングラーは、同年で切れるEMIとの録音契約更新に当たり、「一九五一年以降の録音では二度とレッグをプロデューサーとしないこと」を条件に挙げたほどである。

バイエルン州のバイロイトは大作曲家リヒャルト・ワーグナーのオペラの聖地であり、ワーグナー家の当主だったヴィニフレート・ワーグナー〈ワーグナーの一人息子ジークフリート・ワーグナー(一八六九年生、一九三〇年没)の妻、一八九七年生、一九八〇年没〉が熱烈なナチ信者だったために、一九五一年まで本来のオペラ・ハウスとしての機能を果たすことが禁止されていたのである。因みにヴィニフレートは死ぬまでナチズムとヒトラーの崇拝者だった。

一九五一年から、ヴィニフレートが引退してバイロイト祝祭の開催にはいっさい関わらず、全権を彼女の長男ヴィーラント(一九一七年生、一九六六年没)、次男ヴォルフガング(一九一九年生、二〇一〇年没)に譲渡すること、ナチズムを完全撤廃することを条件として、連合国軍はこの祝祭再開を許可した。ここに、バイロイト祝祭は6年ぶりに復活したのである。

この祝祭(音楽祭)は一風かわっており、ワーグナーの創造したオペラしか上演しない。そもそも、ワーグナーのオペラを理想的に上演できるように、ワーグナー自身が開催を決め、劇場までを建設したのである。だから演目は限られるが、演出等において新しい試みを積極的に導入することによって、新鮮な舞台を創り上げているのである。運営はワーグナーの血族によって行なわれている。

一八七六年にこのバイロイト祝祭劇場が完成した時、その記念としてワーグナーは自ら指揮棒を執り、劇場でベートーヴェンの《第九》を演奏した。ワーグナーは大作曲家であったばかりでなく名指揮者でもあった。

そこで、第二次大戦後の祝祭復活記念にも、その故事に倣って《第九》のコンサートを催すことを祝祭関係者たちは企画した。そのタクトを任される名誉ある役割は、祝祭関係者たちはワーグナー・オペラの指揮者としても世界的に知られている当代第一の指揮者、フルトヴェングラーに果たしてもらいたかったのである。

祝祭主催者中の最高責任者はヴィーラント・ワーグナーだった。彼はフルトヴェングラーを直接たずねて演奏を打診したが、同時期に催されるザルツブルク音楽祭との兼ね合いを考えて、フルトヴェングラーは即答を避けた。フルトヴェングラーは、ザルツブルク音楽祭における指導者の一人というべき立場にあったからである。この年も、すでにモーツァルトの《魔笛》と、ヴェルディの《オテロ》を数回にわたり上演することがすでに決まっていた。二作とも、なかなか大掛かりなオペラである。

一方ヴィーラント・ワーグナーは、復活なったバイロイト祝祭で、できればワーグナーのオペラを一作なりとフルトヴェングラーに上演して欲しい意思もあった。すでに上演する作品の指揮者の用意はできていた〈ハンス・クナッパーツブッシュ(一八八八年生、一九六五年没)とカラヤン〉が、フルトヴェングラーが来てくれるとなれば、指揮者の急遽交替も辞さない構えだったのだ。当時の欧州楽壇で、いかにフルトヴェングラーが尊敬されていたかがよく分かる。

だがヴィーラントは、予想以上に多忙だったフルトヴェングラーの都合を考え、開幕記念演奏会の《第九》演奏のみに交渉を絞り、遂に説得に成功した。「あなたに、大戦後の再開なったバイロイト祝祭の最初の音を出して欲しいのです」というヴィーラントの言葉が、迷っていたフルトヴェングラーの心を動かしたという。

この話を耳にしたレッグは、早速「バイロイトで演奏する《第九》をライヴ録音してはどうか」とフルトヴェングラーに申し出たが、フルトヴェングラーは「音響効果が良くない」という理由で断わっている。レッグは同年バイロイト祝祭に招かれてオペラの指揮をする、カラヤンの上演をライヴ録音してレコード化するつもりだった。

一九五一年七月二九日、バイロイト祝祭は第二次大戦後ようやく再開され、オペラ上演に先立つ記念コンサートでフルトヴェングラーは《第九》を指揮した。EMIのレッグは、「記録用」といった軽い気持ちでこれをライヴ録音した。本命のカラヤンのオペラ録音の方がレッグにすれば重要だったが、ことのついでだった。

先に書いたように、演奏前と終演後の拍手がきちんと収録されていないのも、この録音がレッグにとっては大して重要な仕事ではなかったからだろう。それでも録音責任者である彼は「プロデューサー」には違いなかった。

終演後、楽屋に自分を訪れたレッグに対して、フルトヴェングラーは「《第九》の演奏はだめだったかなあ?」と問いかけ、「むかし聴いた《第九》のほうがずっと良かったですよ」と返答された。終演後、夢うつつのような状態だったフルトヴェングラーは完全に無防備だったので、レッグのこの言葉に心底ショックを受けてひどく落ち込んだ、と居合わせたフルトヴェングラー夫人はインタビューに応えて話している。この言葉がレッグの本音だったか、それとも自分を拒否したフルトヴェングラーに対するちょっとした嫌がらせだったかは分からない。

EMIは一九五〇年からフルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるベートーヴェン交響曲全集の企画を立てていたが、一九五四年末にフルトヴェングラーは六八歳で急逝してしまう。EMIは交響曲の「第二」、「第八」、「第九」の録音を済ませていなかった。

関係者の誰も、フルトヴェングラーがそんなに早死にするとは思っていなかったのである。しかし、「交響曲全集」を完成させるためにEMIは躍起になった。

そして、まず一九七二年、「交響曲第八番」の録音をEMIはリリースした。一九四八年にフルトヴェングラーがストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団を客演指揮したテープがスウェーデン放送局で見つかって、レコード化されたのである。

次に一九七九年になって、一九四八年にロンドンに、フルトヴェングラーがウィーン・フィルを率いて楽旅した際の「交響曲第二番」の録音がようやくロンドンの放送局のテープからレコード化された。これは、フルトヴェングラーの指揮によるこの交響曲の唯一の録音である。EMIは、録音テープの存在確認から発売まで、放送局との交渉に数年かかった。

ただし、両曲とも録音状態は極めて劣悪であり、鑑賞用というより熱烈なフルトヴェングラーのマニア向けである。「第二交響曲」にしても、オーケストラはウィーン・フィルだが、その美質はまったく聴き取ることができない。指揮者の表現も聴き取れず、異常に情報量が少ないディスクである。

結局フルトヴェングラーの指揮による『ベートーヴェン交響曲全集』のレコード・セットがEMIから発売されたのは、フルトヴェングラーの没後二五年となる一九七九年のことだった。

肝心の《第九》は、フルトヴェングラーが亡くなった時点で、EMIが使用できるマスターとしては、差し当たり二点の録音テープが存在した。レッグが録音したバイロイトでの演奏と、死の年にルツェルン音楽祭でフィルハーモニア管弦楽団他を指揮した、スイス放送局が保存していた演奏録音である。フィルハーモニア管弦楽団のオーナーはレッグだったので、EMIでのレコード化が検討された。

ともにライヴ録音であり、音質の点ではルツェルン音楽祭の録音の方が新しい分やや良かったが、ソプラノのシュワルツコップ(一九一五年生、二〇〇六年没)がレコード化に賛同しなかったため、EMIはルツェルン音楽祭の記録ではなく、バイロイト祝祭の録音を使用することに決めた。シュワルツコップは前者における自分の歌唱がベストではないと考えたらしい。因みに、シュワルツコップはレッグの妻だが、フルトヴェングラーのことを終生尊敬してやまなかった。フルトヴェングラーも、シュワルツコップの優れた才能を認め、最後まで彼女を繁々と起用した。

バイロイト祝祭の演奏でもソプラノはシュワルツコップで、こちらのレコード化には彼女は異議を唱えなかった。

この《バイロイトの第九》の録音は、非公式のもので「ハイファイ」ではない、という理由からこれまで発売されなかった、とアメリカEMI初出盤LP(一九五六年発売)の解説には記述があり、要するに《バイロイトの第九》はあくまでテスト用の録音で、音質の問題で発売用のマスター・テープとは区別して保管されていたものであろう。そのままであれば、遠からず廃棄されていたかも知れない。

ついでながらこの時お蔵入りしたルツェルン音楽祭の《第九》は、一九八〇年になって国内盤二枚組LPで、レコード会社二社からほぼ同時にリリースされた。日本コロムビア盤(アメリカ・ワルター協会原盤、OB7370~71)と、キングレコード盤(イタリア・チェトラ原盤、K19C21~2)で、前者は《第九》のみ二枚四面に《第九》のみをカッティングし、価格は二八〇〇円でリリース。後者は第四面に同じ指揮者によるベートーヴェンの「交響曲第八番」の一九五四年のライヴ録音(演奏はウィーン・フィル)が組み合わされて、三八〇〇円でリリースされていた。音質はだいたい互角とされ、フルトヴェングラーのファンはどちらを選択するか悩んだ。

この演奏は、特にフルトヴェングラーのファンに《ルツェルンの第九》と称され、巨匠最晩年の演奏記録として愛聴された。いまでは放送局のオリジナル・テープから制作した正規版SACD【KICC-17】までが出ている(セブンシーズ)。

この《ルツェルンの第九》は、指揮者の没年ということもあってか、バイロイト盤に比べて劇的効果はそれほどでないが、枯淡の境地というか枯れたなりの味わいがあって、バイロイト盤よりこちらを好む音楽ファンも少数派ながらいる。

だが、フルトヴェングラーの指揮する《第九》を聴くならやはりバイロイト盤が最上だろう。楽器のバランスも、ルツェルン盤はトランペットがオン・マイク過ぎて、ときどき耳障りになる。バイロイト盤はティンパニがやや遠いが、他はなんら問題ないし、SACD化によって音質の鮮度もずいぶん上がった。

一九五四年当時、レッグはカラヤンにとって初めての「ベートーヴェン交響曲全集」を鋭意制作中(レーベルはもちろんEMI、オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団)で、自分が特別に力を入れて録音したわけではないフルトヴェングラーのバイロイトにおける《第九》をリリースしたところで、それがセンセーショナルな成功を収め、歴史的名盤として持て囃されるとは思ってもいなかったであろう。《バイロイトの第九》の録音とは、まさに偶然の産物だったのだ。

SACD

東芝EMIは、二〇〇七年にEMIミュージック・ジャパンと名を変え、つかのま日本のEMI盤を統括した(二〇一二年、ユニバーサル・ミュージック合同会社に吸収され、遂にEMIは消滅する)。フルトヴェングラーに関しては驚いたことに、主要なディスクをすべてハイブリッドSACDで発売するということで、フルトヴェングラー・ファンを驚喜させた。値段もSACDにしては比較的安めに設定されていた。普及版としてのSACDハイブリッド盤だけでなく、割高ながらSACDシングルレイヤー盤も発売した。

SACDとは、フィリップス社(現在は音楽ソフト制作を廃止)とソニーが共同開発した最先端技術によるCDのことである。”Super Audio CD”の略で、従来のCDよりも多くの情報を記録できる。ハイブリッドSACDは音溝が二層に別れており、普通のCDプレイヤーでも再生できるが、シングルレイヤーSACDは音溝が一層なので、SACD再生可能機でなければ再生できない。現時点ではハイブリッドよりシングルレイヤーの方が割高である。

EMIミュージック・ジャパンのSACDは、従来の音源をそのまま引き継ぐのではなく、英EMI本社のオリジナル・マスター・テープやSPの金属原盤を使用して、復刻を一からやり直すということだった。その結果、一九五一年録音のケルビーニ作《アナクレオン》序曲、チャイコフスキー作「交響曲第四番」、《弦楽セレナーデ》抜粋などは、以前と比べて非常に優れた音質になった。

《バイロイトの第九》は、東芝EMIの頃から音質の劣化が取り沙汰されていた。CD時代になってそれが特に問題となっていたが、その中では先に触れたように一九九〇年に東芝EMIからリリースされた【TOCE-6510】が最良の音質と言われた。やがて、二〇〇五年に平林直哉氏の制作による、グランドスラム・レーベルの【GS-2009】が出て、優れた音質という点では非常に高い評価を得た。このグランドスラム盤は最初期の状態優秀なLP盤からのCD復刻である。

だが、二〇一一年にEMIミュージック・ジャパンのハイブリッドSACDが出て音質を一新し、一気に決定盤の座を我がものにした。現在は、一部がワーナー・クラシックスから継続してリリースされている。EMI本社のオリジナル・マスター・テープからマスタリングしたSACDで、「これ以上はあり得ない」音質を誇った。

この盤は、聴衆ノイズを極力ていねいに除いているのも特徴である。もともとの音楽の感興を損なわない程度でのノイズ取りはした、とCDのライナーノーツにも書かれている。

私はシングルレイヤーの三枚組SACD【TOGE-15201~03】を持っているが、これに含まれる《バイロイトの第九》は、音質の向上もさることながら、よくもここまで、と思うほど咳払い等の聴衆ノイズが綺麗に除去されている。以前から歴史的録音の過度なノイズ除去には好感が持てなかった私だが、このフルトヴェングラーSACDシリーズを聴いていらい認識が変わった。

現在の大手メーカーの技術は極めて高度で、少し前までの、ノイズとともに演奏の良さまで削り取ってしまうような不手際はあまりない、と言っていい。響きの豊かさ、自然な残響なども元とまったく変わらない。同じく聴くならば、音楽に集中できるディスクの方が受ける感銘は圧倒的に深い。空気感がどうこう、という聴き手もいるが、それは個人的嗜好であって万人の求めるものかどうかは判らない。臨場感とか空気感とかをあれこれ言う人もいるが、それなら一切の雑音やミスを排したスタジオ録音をどう思っているのか、聞いてみたいところである。

ライヴ録音の演奏ミスを正す、ということにも賛否両論あるが、私はどちらか一極には左袒し得ない。この《バイロイトの第九》でも、一つ大きなミスの修正がある。オリジナル録音の第三楽章、東芝EMI盤【TOCE-6510】の[9:55]にはホルン・ソロに重大なミスがあり、これは本当にだらしない。天上の憩いを思わせるくだりで、ホルンは特に重要なのに、失敗しているのだ。ところが、EMIミュージック・ジャパン盤の同じ箇所[9:59]では綺麗に修正されている。ミスがなくなっているのである。

これは、非常に大胆な試みと言っていい。大指揮者フルトヴェングラーの録音の中でも、歴史的遺産の最右翼に属する演奏を一部とはいえ改変してしまったのである。

初めて聴いたときは、ハッとするほど驚いたが、あるていど聴き慣れてみると、絶対に修正されていた方が聴いていて心地良い。あのミスのために、ずっと味わわされていた興醒めから解放されるのである。

これは好き好きだろうが、頑なにライヴ録音はまったくそのままで聴くべきだ、ノイズ除去や修正は間違っている、といった主張は今の私は必ずしも賛同しかねる。とりわけ、重要な箇所での演奏ミスや客席での大きな咳払いなどは、興を殺ぐこと夥しいものがある。下手に手を加えた跡が残るような修正は耳障りだが、そうでないならある程度までは容認しても良いと私は思っている。
http://www.britannia.co.jp/column/2016/08/149/
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/162.html#c4

[近代史02] 作曲家フルトヴェングラーとは何であったのか? 中川隆
24. 中川隆[-8860] koaQ7Jey 2019年8月11日 21:28:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3874]

巨匠フルトヴェングラーの「名盤」の真相 第一回 「バイロイトの第九」の「真相」
本間俊哉 2016年8月29日

巨匠フルトヴェングラー(一八八六年生、一九五四年没)の数ある録音の中でも、最も声望の高いものといえば《バイロイトの第九》であろう。一九五一年七月二九日、バイロイト祝祭が第二次大戦後に再開された折の、記念演奏会の演奏記録である。

フルトヴェングラーは、一九五四年八月九日にも同じくバイロイト祝祭のオープニング・コンサートでベートーヴェンの《第九》を演奏し、録音も残っている(セブンシーズ国内盤【KICC-1053】)が、もともとがプライベート録音で音質が劣悪すぎ、演奏の真価を問うことはできない。

通常、フルトヴェングラーの指揮した《バイロイトの第九》といえば一九五一年録音の演奏を指す。とはいえ、これは実のところ、問題だらけなのだ。

2種の《バイロイトの第九》

《バイロイトの第九》は、演奏年月日が同じで、収録された演奏の異なるものが二種、存在する。一つはイギリスHMV(EMIと同一の会社)が一九五五年に2枚組LP【ALP-12986~7】として初めて発売したもの(これは後述するがCD時代になってからいろいろ手が加えられている)。もう一つは日本フルトヴェングラー・センターが二〇〇七年に会員用にCD頒布【WFHC-013】し、同年暮れに独オルフェオ【C754081】からも一般向けにリリースされたものである。EMI発売盤をE盤、オルフェオ盤(つまり日フルトヴェングラー・センター盤)をO盤とする。

O盤は、バイエルン放送局内で「放送禁止」と書かれた箱に保管されていたテープから復刻されたもので、発見者である日フルトヴェングラー・センターは、「従来のE盤ではなく、このO盤こそが本物の本番ライヴ録音である」と主張している。E盤はいろいろに原テープを編集したもので、O盤は一貫した録音であるから、E盤は本番の一発録音としては信憑性に欠ける、ともセンターは主張するのである。

だが、一聴して分かるようにE盤を貫く只ならぬ緊迫感や高揚は、O盤には見られない。特に、終楽章の結尾のプレスティッシモ(最高に速く≠ニいう演奏指示)が、E盤では勢いあまって演奏が怒涛のように完全に崩壊しているが、O盤は最後まで冷静に整った演奏ができており、本番舞台らしい熱気がまるで感じられない。

さらに、E盤の全曲をなんど聴いてもセンターが主張するような、テープ編集の痕跡はどこにも見られない。一九五一年における一発勝負の舞台録音である。まだEMIは磁気テープ録音を導入したばかりだった。テープの編集は、ハサミとセロハンテープで行なっていた。だから、録音時はもちろん、その後のマスター・テープの編集等の加工があれば、録音年代から見ても、どうしても聴き手に分かる跡が残ってしまう筈である。

センターは、具体的にE盤の終楽章における”vor Gott”のフェルマータ(長く伸ばす≠ニいう演奏指示)末尾のクレッシェンドは不自然で、誰かがマスター・テープに手を入れた証拠と強調しているが、注意して聴き直しても特に不自然さは感じられない。これは、音楽雑誌等で複数のプロの批評家や録音エンジニアも述べていることである。

O盤も一聴してあからさまなテープ編集跡はないが、E盤に問題がない限りマスター・テープの編集云々は意味がない議論である。

音楽批評家・平林直哉氏によるとこのコンサート当日、公演本番の少し前に全曲の通し稽古があったとソプラノ歌手のシュワルツコップが証言しているとのことで、この通し稽古こそがO盤の正体ではないかと平林氏は述べているが、私もこの意見に賛同する。平林氏は前述の”vor Gott”のフェルマータ末尾のクレッシェンドについても、「EMIが操作したようには感じない」と著書にも書いている(《フルトヴェングラーを追って》青弓社)。

私も、日フルトヴェングラー・センターの、このO盤を発掘して世に問うた功績は大いに認めるものだ。しかし、完全に裏を取り、E盤がどういった録音であったかを資料等によってはっきりさせない(確実な証拠もないのに、センターは「E盤はリハーサル録音と本番録音の混合」と決めつけている)まま公にしたために、このような混乱が起きていることを、センターには直視して欲しいと思う。

私の考えでは、《バイロイトの第九》はE盤で聴くべきだ。あるいは、E盤があればそれで良い。E盤とO盤とでは、聴いていて受ける感銘の度合いにかなりの差があるからだ。

足音入り

一九九〇年に東芝EMIからリリースされた《バイロイトの第九》のCD【TOCE-6510】は、指揮者の「足音入り」ということで話題になった。帯にもその旨が書かれている。舞台にフルトヴェングラーが登場して指揮台に乗り、聴衆に挨拶をするまでの足音が録音に含まれていたからである。それだけでなく、演奏開始直前にオーケストラに向かってフルトヴェングラーが何ごとか話しかける音声が八秒ほど入り、開演前、終演後の熱烈な拍手も、ややたどたどしいが録音技師が始まりを揃えようとしている感があった。

従来のディスクでは、フルトヴェングラーの足音も話し声もいっさい含まれてはいなかった。また、開演前の拍手はなく、終演後の拍手はあまり綺麗に録られておらず、フェイド・アウトもいま一つ手際が良くなかった。しかし一九九〇年以降、この《バイロイトの第九》のEMI系録音盤には、必ず足音、声、整った拍手が収録されている。ただし、テープの継ぎ目が明らかで、後付けの効果音であることははっきりしていた。

この効果音は、東芝EMI盤よりEMIミュージック・ジャパン盤SACD【TOGE-11005】のほうがさらに手際が良い。テープ編集の痕跡は殆んど分からない。私は、最近のデジタル技術を駆使したものだと思う。演奏直後の熱狂的な拍手が、ひとしきり鳴り渡った後でフェイド・アウトするのも綺麗に整えられている。

先ごろ亡くなった音楽批評家・宇野功芳氏はこの音声についてオーケストラに「虚無の中から聞こえて来るように」と注意した、と《フルトヴェングラーの全名演名盤》(一九九八年、講談社)で書いているが、本当かどうかはかなり疑わしい。この本の前身である著書《フルトヴェングラーの名盤》(一九七七年、芸術現代社)でも、すでに宇野氏は同じように書いていた。この時点で、指揮者の声入りのレコードはまだ出ていない。

宇野氏は個性的な辛口批評で知られ、カリスマ的批評家として大いに活躍した。特に、日本で無名だった数多くの名演奏家たち(指揮者ハンス・クナッパーツブッシュ、ピアノ奏者リリー・クラウス、ヴァイオリン奏者チョン・キョンファ等々)を意欲的に紹介し、人気を博すまでに導いた功績は極めて大きい。

だが、彼は日本ではまだあまり知られていないことなどについて、手前勝手な作り話をよく書く人物でもあり、私はこの「虚無」云々の「注意」も、恐らく氏の想像だろうと思っている。

初版HMVのLPレコード【ALP1286-7】を聞いても開演前の拍手はいっさい収録されておらず、演奏直前の声もなく、終演後の拍手はたちまちブツリと消されてしまう。だから、揃った拍手や指揮者の声は、私はEMIがCD時代に入ってから臨場感を演出させるために施したものであろうと思う。

日フルトヴェングラー・センターが生前のフルトヴェングラー夫人(一九一一年生、二〇一三年没)にこのCDを聴かせたところ、夫人も足音や話し声に関して「おかしい」と訝しげであったという。夫人は一九四三年にフルトヴェングラーと結婚して以来、ほぼ常にフルトヴェングラーの舞台や録音には立ち合っていた。もちろん、この時も賓客として客席にいたのである。

そもそも、これから《第九》のような大作を演奏しようという、ホール内の誰もが緊張している本番直前に、指揮者がこと改めて演奏者たちに口頭で注意をしたりすることは、まず考えられない。私の聴いた数多くの《第九》の実演でも、このようなことは決してあり得ないことだった。

録音と発売の経緯

この《バイロイトの第九》のプロデューサーはウォルター・レッグという人物(一九〇六年生、一九七九年没)である。

レッグはEMIの重役で、二〇世紀を代表する多くのアーティストをEMIの専属とし、自らプロデューサーを務めて彼らのスタジオ録音を厳しく監修し、主にオペラとオーケストラ曲において、いくつもの歴史的名盤〈R.シュトラウスの楽劇《ばらの騎士》(指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン、録音:一九五六年)や名ソプラノ歌手マリア・カラス(一九二三年生、一九七七年没)の数多くの傑作オペラ録音、大指揮者オットー・クレンペラー(一八八五年生、一九七三年没)によるオーケストラ曲の名演盤等々〉を制作したことで知られる。だが、《バイロイトの第九》のプロデューサーとなったのはまったく偶然のことだった。

一九五〇年、若きカラヤン(一九〇八年生、一九八九年没)に肩入れするレッグはフルトヴェングラーと決定的なトラブルを起こした。もともとフルトヴェングラーとカラヤンの仲は険悪だった。この事件は長い説明を避けるが、要はレッグがプロデューサーを務める歌劇《魔笛》のカラヤンによるスタジオ録音を、オーケストラも歌手たちもほぼ同じフルトヴェングラーの同曲上演の直後に設定し、実質的にフルトヴェングラーをカラヤンの練習指揮者に仕立ててしまったのである。

このことを知って怒り心頭に達したフルトヴェングラーは、同年で切れるEMIとの録音契約更新に当たり、「一九五一年以降の録音では二度とレッグをプロデューサーとしないこと」を条件に挙げたほどである。

バイエルン州のバイロイトは大作曲家リヒャルト・ワーグナーのオペラの聖地であり、ワーグナー家の当主だったヴィニフレート・ワーグナー〈ワーグナーの一人息子ジークフリート・ワーグナー(一八六九年生、一九三〇年没)の妻、一八九七年生、一九八〇年没〉が熱烈なナチ信者だったために、一九五一年まで本来のオペラ・ハウスとしての機能を果たすことが禁止されていたのである。因みにヴィニフレートは死ぬまでナチズムとヒトラーの崇拝者だった。

一九五一年から、ヴィニフレートが引退してバイロイト祝祭の開催にはいっさい関わらず、全権を彼女の長男ヴィーラント(一九一七年生、一九六六年没)、次男ヴォルフガング(一九一九年生、二〇一〇年没)に譲渡すること、ナチズムを完全撤廃することを条件として、連合国軍はこの祝祭再開を許可した。ここに、バイロイト祝祭は6年ぶりに復活したのである。

この祝祭(音楽祭)は一風かわっており、ワーグナーの創造したオペラしか上演しない。そもそも、ワーグナーのオペラを理想的に上演できるように、ワーグナー自身が開催を決め、劇場までを建設したのである。だから演目は限られるが、演出等において新しい試みを積極的に導入することによって、新鮮な舞台を創り上げているのである。運営はワーグナーの血族によって行なわれている。

一八七六年にこのバイロイト祝祭劇場が完成した時、その記念としてワーグナーは自ら指揮棒を執り、劇場でベートーヴェンの《第九》を演奏した。ワーグナーは大作曲家であったばかりでなく名指揮者でもあった。

そこで、第二次大戦後の祝祭復活記念にも、その故事に倣って《第九》のコンサートを催すことを祝祭関係者たちは企画した。そのタクトを任される名誉ある役割は、祝祭関係者たちはワーグナー・オペラの指揮者としても世界的に知られている当代第一の指揮者、フルトヴェングラーに果たしてもらいたかったのである。

祝祭主催者中の最高責任者はヴィーラント・ワーグナーだった。彼はフルトヴェングラーを直接たずねて演奏を打診したが、同時期に催されるザルツブルク音楽祭との兼ね合いを考えて、フルトヴェングラーは即答を避けた。フルトヴェングラーは、ザルツブルク音楽祭における指導者の一人というべき立場にあったからである。この年も、すでにモーツァルトの《魔笛》と、ヴェルディの《オテロ》を数回にわたり上演することがすでに決まっていた。二作とも、なかなか大掛かりなオペラである。

一方ヴィーラント・ワーグナーは、復活なったバイロイト祝祭で、できればワーグナーのオペラを一作なりとフルトヴェングラーに上演して欲しい意思もあった。すでに上演する作品の指揮者の用意はできていた〈ハンス・クナッパーツブッシュ(一八八八年生、一九六五年没)とカラヤン〉が、フルトヴェングラーが来てくれるとなれば、指揮者の急遽交替も辞さない構えだったのだ。当時の欧州楽壇で、いかにフルトヴェングラーが尊敬されていたかがよく分かる。

だがヴィーラントは、予想以上に多忙だったフルトヴェングラーの都合を考え、開幕記念演奏会の《第九》演奏のみに交渉を絞り、遂に説得に成功した。「あなたに、大戦後の再開なったバイロイト祝祭の最初の音を出して欲しいのです」というヴィーラントの言葉が、迷っていたフルトヴェングラーの心を動かしたという。

この話を耳にしたレッグは、早速「バイロイトで演奏する《第九》をライヴ録音してはどうか」とフルトヴェングラーに申し出たが、フルトヴェングラーは「音響効果が良くない」という理由で断わっている。レッグは同年バイロイト祝祭に招かれてオペラの指揮をする、カラヤンの上演をライヴ録音してレコード化するつもりだった。

一九五一年七月二九日、バイロイト祝祭は第二次大戦後ようやく再開され、オペラ上演に先立つ記念コンサートでフルトヴェングラーは《第九》を指揮した。EMIのレッグは、「記録用」といった軽い気持ちでこれをライヴ録音した。本命のカラヤンのオペラ録音の方がレッグにすれば重要だったが、ことのついでだった。

先に書いたように、演奏前と終演後の拍手がきちんと収録されていないのも、この録音がレッグにとっては大して重要な仕事ではなかったからだろう。それでも録音責任者である彼は「プロデューサー」には違いなかった。

終演後、楽屋に自分を訪れたレッグに対して、フルトヴェングラーは「《第九》の演奏はだめだったかなあ?」と問いかけ、「むかし聴いた《第九》のほうがずっと良かったですよ」と返答された。終演後、夢うつつのような状態だったフルトヴェングラーは完全に無防備だったので、レッグのこの言葉に心底ショックを受けてひどく落ち込んだ、と居合わせたフルトヴェングラー夫人はインタビューに応えて話している。この言葉がレッグの本音だったか、それとも自分を拒否したフルトヴェングラーに対するちょっとした嫌がらせだったかは分からない。

EMIは一九五〇年からフルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるベートーヴェン交響曲全集の企画を立てていたが、一九五四年末にフルトヴェングラーは六八歳で急逝してしまう。EMIは交響曲の「第二」、「第八」、「第九」の録音を済ませていなかった。

関係者の誰も、フルトヴェングラーがそんなに早死にするとは思っていなかったのである。しかし、「交響曲全集」を完成させるためにEMIは躍起になった。

そして、まず一九七二年、「交響曲第八番」の録音をEMIはリリースした。一九四八年にフルトヴェングラーがストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団を客演指揮したテープがスウェーデン放送局で見つかって、レコード化されたのである。

次に一九七九年になって、一九四八年にロンドンに、フルトヴェングラーがウィーン・フィルを率いて楽旅した際の「交響曲第二番」の録音がようやくロンドンの放送局のテープからレコード化された。これは、フルトヴェングラーの指揮によるこの交響曲の唯一の録音である。EMIは、録音テープの存在確認から発売まで、放送局との交渉に数年かかった。

ただし、両曲とも録音状態は極めて劣悪であり、鑑賞用というより熱烈なフルトヴェングラーのマニア向けである。「第二交響曲」にしても、オーケストラはウィーン・フィルだが、その美質はまったく聴き取ることができない。指揮者の表現も聴き取れず、異常に情報量が少ないディスクである。

結局フルトヴェングラーの指揮による『ベートーヴェン交響曲全集』のレコード・セットがEMIから発売されたのは、フルトヴェングラーの没後二五年となる一九七九年のことだった。

肝心の《第九》は、フルトヴェングラーが亡くなった時点で、EMIが使用できるマスターとしては、差し当たり二点の録音テープが存在した。レッグが録音したバイロイトでの演奏と、死の年にルツェルン音楽祭でフィルハーモニア管弦楽団他を指揮した、スイス放送局が保存していた演奏録音である。フィルハーモニア管弦楽団のオーナーはレッグだったので、EMIでのレコード化が検討された。

ともにライヴ録音であり、音質の点ではルツェルン音楽祭の録音の方が新しい分やや良かったが、ソプラノのシュワルツコップ(一九一五年生、二〇〇六年没)がレコード化に賛同しなかったため、EMIはルツェルン音楽祭の記録ではなく、バイロイト祝祭の録音を使用することに決めた。シュワルツコップは前者における自分の歌唱がベストではないと考えたらしい。因みに、シュワルツコップはレッグの妻だが、フルトヴェングラーのことを終生尊敬してやまなかった。フルトヴェングラーも、シュワルツコップの優れた才能を認め、最後まで彼女を繁々と起用した。

バイロイト祝祭の演奏でもソプラノはシュワルツコップで、こちらのレコード化には彼女は異議を唱えなかった。

この《バイロイトの第九》の録音は、非公式のもので「ハイファイ」ではない、という理由からこれまで発売されなかった、とアメリカEMI初出盤LP(一九五六年発売)の解説には記述があり、要するに《バイロイトの第九》はあくまでテスト用の録音で、音質の問題で発売用のマスター・テープとは区別して保管されていたものであろう。そのままであれば、遠からず廃棄されていたかも知れない。

ついでながらこの時お蔵入りしたルツェルン音楽祭の《第九》は、一九八〇年になって国内盤二枚組LPで、レコード会社二社からほぼ同時にリリースされた。日本コロムビア盤(アメリカ・ワルター協会原盤、OB7370~71)と、キングレコード盤(イタリア・チェトラ原盤、K19C21~2)で、前者は《第九》のみ二枚四面に《第九》のみをカッティングし、価格は二八〇〇円でリリース。後者は第四面に同じ指揮者によるベートーヴェンの「交響曲第八番」の一九五四年のライヴ録音(演奏はウィーン・フィル)が組み合わされて、三八〇〇円でリリースされていた。音質はだいたい互角とされ、フルトヴェングラーのファンはどちらを選択するか悩んだ。

この演奏は、特にフルトヴェングラーのファンに《ルツェルンの第九》と称され、巨匠最晩年の演奏記録として愛聴された。いまでは放送局のオリジナル・テープから制作した正規版SACD【KICC-17】までが出ている(セブンシーズ)。

この《ルツェルンの第九》は、指揮者の没年ということもあってか、バイロイト盤に比べて劇的効果はそれほどでないが、枯淡の境地というか枯れたなりの味わいがあって、バイロイト盤よりこちらを好む音楽ファンも少数派ながらいる。

だが、フルトヴェングラーの指揮する《第九》を聴くならやはりバイロイト盤が最上だろう。楽器のバランスも、ルツェルン盤はトランペットがオン・マイク過ぎて、ときどき耳障りになる。バイロイト盤はティンパニがやや遠いが、他はなんら問題ないし、SACD化によって音質の鮮度もずいぶん上がった。

一九五四年当時、レッグはカラヤンにとって初めての「ベートーヴェン交響曲全集」を鋭意制作中(レーベルはもちろんEMI、オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団)で、自分が特別に力を入れて録音したわけではないフルトヴェングラーのバイロイトにおける《第九》をリリースしたところで、それがセンセーショナルな成功を収め、歴史的名盤として持て囃されるとは思ってもいなかったであろう。《バイロイトの第九》の録音とは、まさに偶然の産物だったのだ。

SACD

東芝EMIは、二〇〇七年にEMIミュージック・ジャパンと名を変え、つかのま日本のEMI盤を統括した(二〇一二年、ユニバーサル・ミュージック合同会社に吸収され、遂にEMIは消滅する)。フルトヴェングラーに関しては驚いたことに、主要なディスクをすべてハイブリッドSACDで発売するということで、フルトヴェングラー・ファンを驚喜させた。値段もSACDにしては比較的安めに設定されていた。普及版としてのSACDハイブリッド盤だけでなく、割高ながらSACDシングルレイヤー盤も発売した。

SACDとは、フィリップス社(現在は音楽ソフト制作を廃止)とソニーが共同開発した最先端技術によるCDのことである。”Super Audio CD”の略で、従来のCDよりも多くの情報を記録できる。ハイブリッドSACDは音溝が二層に別れており、普通のCDプレイヤーでも再生できるが、シングルレイヤーSACDは音溝が一層なので、SACD再生可能機でなければ再生できない。現時点ではハイブリッドよりシングルレイヤーの方が割高である。

EMIミュージック・ジャパンのSACDは、従来の音源をそのまま引き継ぐのではなく、英EMI本社のオリジナル・マスター・テープやSPの金属原盤を使用して、復刻を一からやり直すということだった。その結果、一九五一年録音のケルビーニ作《アナクレオン》序曲、チャイコフスキー作「交響曲第四番」、《弦楽セレナーデ》抜粋などは、以前と比べて非常に優れた音質になった。

《バイロイトの第九》は、東芝EMIの頃から音質の劣化が取り沙汰されていた。CD時代になってそれが特に問題となっていたが、その中では先に触れたように一九九〇年に東芝EMIからリリースされた【TOCE-6510】が最良の音質と言われた。やがて、二〇〇五年に平林直哉氏の制作による、グランドスラム・レーベルの【GS-2009】が出て、優れた音質という点では非常に高い評価を得た。このグランドスラム盤は最初期の状態優秀なLP盤からのCD復刻である。

だが、二〇一一年にEMIミュージック・ジャパンのハイブリッドSACDが出て音質を一新し、一気に決定盤の座を我がものにした。現在は、一部がワーナー・クラシックスから継続してリリースされている。EMI本社のオリジナル・マスター・テープからマスタリングしたSACDで、「これ以上はあり得ない」音質を誇った。

この盤は、聴衆ノイズを極力ていねいに除いているのも特徴である。もともとの音楽の感興を損なわない程度でのノイズ取りはした、とCDのライナーノーツにも書かれている。

私はシングルレイヤーの三枚組SACD【TOGE-15201~03】を持っているが、これに含まれる《バイロイトの第九》は、音質の向上もさることながら、よくもここまで、と思うほど咳払い等の聴衆ノイズが綺麗に除去されている。以前から歴史的録音の過度なノイズ除去には好感が持てなかった私だが、このフルトヴェングラーSACDシリーズを聴いていらい認識が変わった。

現在の大手メーカーの技術は極めて高度で、少し前までの、ノイズとともに演奏の良さまで削り取ってしまうような不手際はあまりない、と言っていい。響きの豊かさ、自然な残響なども元とまったく変わらない。同じく聴くならば、音楽に集中できるディスクの方が受ける感銘は圧倒的に深い。空気感がどうこう、という聴き手もいるが、それは個人的嗜好であって万人の求めるものかどうかは判らない。臨場感とか空気感とかをあれこれ言う人もいるが、それなら一切の雑音やミスを排したスタジオ録音をどう思っているのか、聞いてみたいところである。

ライヴ録音の演奏ミスを正す、ということにも賛否両論あるが、私はどちらか一極には左袒し得ない。この《バイロイトの第九》でも、一つ大きなミスの修正がある。オリジナル録音の第三楽章、東芝EMI盤【TOCE-6510】の[9:55]にはホルン・ソロに重大なミスがあり、これは本当にだらしない。天上の憩いを思わせるくだりで、ホルンは特に重要なのに、失敗しているのだ。ところが、EMIミュージック・ジャパン盤の同じ箇所[9:59]では綺麗に修正されている。ミスがなくなっているのである。

これは、非常に大胆な試みと言っていい。大指揮者フルトヴェングラーの録音の中でも、歴史的遺産の最右翼に属する演奏を一部とはいえ改変してしまったのである。

初めて聴いたときは、ハッとするほど驚いたが、あるていど聴き慣れてみると、絶対に修正されていた方が聴いていて心地良い。あのミスのために、ずっと味わわされていた興醒めから解放されるのである。

これは好き好きだろうが、頑なにライヴ録音はまったくそのままで聴くべきだ、ノイズ除去や修正は間違っている、といった主張は今の私は必ずしも賛同しかねる。とりわけ、重要な箇所での演奏ミスや客席での大きな咳払いなどは、興を殺ぐこと夥しいものがある。下手に手を加えた跡が残るような修正は耳障りだが、そうでないならある程度までは容認しても良いと私は思っている。
http://www.britannia.co.jp/column/2016/08/149/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/482.html#c24

[政治・選挙・NHK264] <点描・永田町>「国会の野良犬」山本太郎氏の野望(時事通信) 赤かぶ
11. 中川隆[-8859] koaQ7Jey 2019年8月11日 22:54:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3875]
山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者
れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ

山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。


▲△▽▼


ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。

右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという
言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。

大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/389.html#c11

[リバイバル3] 単独の90歳女性西穂で救助 2015年07月17日 _ 90歳過ぎたら単独行は止めよう 中川隆
3. 中川隆[-8861] koaQ7Jey 2019年8月11日 23:17:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3873]
「劔岳は岩と雪の殿堂である。人身とも鍛錬された人よ来たれ」83歳「行くか」→遺体で発見 2019/08/08


 6日北アルプス剱岳に登山中行方が分からなくなっていた福岡県の登山者とみられる男性が遺体で発見されました。

遺体で発見されたのは行方不明となってる福岡県、田川郡香春町の無職、上田繁さん(83)とみられています。

上市警察署によりますと上田さんは6日一人で上市町の馬場島から入山し、7日、早月小屋を出発後、午前11時30分ごろ「道を間違え、迷っている」という妻への連絡を最後に、行方が分からなくなっていました。県警山岳警備隊がヘリコプターで捜索していたところ、8日正午過ぎ標高およそ2800メートルの源次郎尾根付近の岩場で上田さんとみられる男性を発見、その後、死亡が確認されました。

遺体には足の骨折や全身に擦り傷がみられ、誤って転落したものとみられています。

ところで、今年は先月からの夏山期間中に遭難事故が多発していて、8日までに49件の事故が発生、遭難者は51人となっていて梅雨明けが早かった去年よりも件数、遭難者ともに増えています。

今年の山岳地帯は20度を超える気温が高い日が続いていて、暑さによる脱水症状や疲労が原因とみられる事故が目立っているという事です。

県警は登山者に対し事前に水場を確認するなど水分補給に努めることや体力の消耗を抑える計画を立てるなどの対策を呼びかけています。
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1565270016/l50
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/799.html#c3

[リバイバル3] 卵を毎日食べるのは健康に良いのか?、悪いのか? 中川隆
1. 中川隆[-8860] koaQ7Jey 2019年8月12日 01:53:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3874]
 2015.11.10
その「卵」の食べ方は、育毛に逆効果です!
https://kayseydo-ikumou.com/ikumou-tamago/

育毛といえば育毛剤やシャンプーなどにばかり目がいってしまいがちですが、実は育毛で重要なのはバランスの取れた食事をとり、しっかりと栄養素を摂取することが大切なのです。育毛に必要な栄養素には、「亜鉛」「ミネラル」「ビタミンE」「タンパク質」などがあります。その中で特に重要なのはなんといってもタンパク質になります。そして、そんなタンパク質を効率よく摂取するのに必要な食材が「卵」なのです。

Contents
1 優等生な栄養食品「卵」とは1.0.1 卵の主成分(可食部100g中)


2 食事での育毛は「卵」が鍵になる2.1 ビオチンが含まれている食べ物

3 育毛に逆効果になってしまう「卵」の食べ方3.1 日本人の大好きな卵料理「卵かけごはん」はNG
3.2 「ビオチン」を邪魔する「アビジン」は熱に弱い3.2.1 効率よく摂取できる卵料理
3.2.2 効率よく摂取できない卵料理

3.3 育毛に効果があると言われていている「レシチン」は熱に弱い

4 「卵」といえば「コレステロール」が気になるところですが
5 「卵」には育毛以外にも効果がある成分が入っています5.1 卵に含まれる「コリン」で脳の活性化
5.2 卵に含まれる「メチオニン」には抗酸化作用

6 育毛に必要な栄養素6.1 亜鉛
6.2 ミネラル
6.3 ビタミンE
6.4 タンパク質

7 まとめ

優等生な栄養食品「卵」とは

卵は体に必要な栄養素がビタミンCと食物繊維以外すべて含むとされる食品です。主成分のタンパク質には、食事からとらなければならないアミノ酸「必須アミノ酸」がバランスよく含まれています。

卵の主成分(可食部100g中)
•エネルギー・・・・・・・・・151kcal
•タンパク質・・・・・・・・・12.3g
•鉄・・・・・・・・・・・・・1.8mg
•ビタミンA(レチノール)・・140μg
•ビタミンE・・・・・・・・・1.0mg
•ビタミンB2・・・・・・・・・0.43mg

アミノ酸がバランスよく含まれている食品を評価するのに「アミノ酸スコア」というものがあります。それはアミノ酸の構成を比較、栄養価を評価する指数で、たんぱく質の量や9種類の必須アミノ酸の量と種類などのバランスを評価し、それが100に近いほどアミノ酸のバランスが良いとされています。卵のアミノ酸スコアはなんと、最高点の100なのです。

食事での育毛は「卵」が鍵になる

「卵」といえば、家庭料理でもレパートリーが多く、お財布にもやさしいので、日常的に食べる機会が多い食材の一つです。

「卵」が育毛に効果があることを知っている方も多いと思いますが、「卵」には「ビオチン」という成分が多く含まれていて、ビオチンはタンパク質を構成しているアミノ酸の代謝を促してくれる効果があり、育毛に効果がある栄養素の中でも髪の毛に直接効果がある、数少ない栄養素となっています。さらに「卵」には、髪の毛を健康に保つために必要な「ミネラル」「セレニウム」「亜鉛」「硫黄」なども含まれています。中でも「硫黄」はタンパク質を構成するアミノ酸の中でも一番重要な「含硫アミノ酸」と密接に関係しています。含硫アミノ酸が不足していると、いくら他のタンパク質があっても髪の毛は育たないので、「卵」は育毛には欠かせない食材と言えるのです。また、ビオチンには育毛効果の他にも、血行促進、白髪の防止、美肌効果、寝付きを良くする効果などがあり、美容の面から見ても非常に効果的な成分なのです。

ビオチンが含まれている食べ物
•卵
•チーズ
•いわし
•レバー

ビオチンは上記の食べ物などに多く含まれていますが、その中でも「卵」は特に身近な食べ物で、食べる機会が多いのではないかと思います。ビオチンは”卵の黄身”に多く含まれています。ですが、レシピによっては育毛効果どころか、逆に抜け毛の原因になってしまう場合があるのです。

育毛に逆効果になってしまう「卵」の食べ方

yudetamago

「卵」特に”卵の黄身”には育毛に効果のある「ビオチン」が多く含まれているのですが、”卵の白身”には「アビジン」という成分が含まれています。このアビジンという成分が曲者なのです。アビジンはビオチンと混ざると育毛に効果のあるビオチンが体内に吸収されるのを妨げてしまうのです。さらに、アビジンをとりすぎてしまうと、他の食べ物で摂取したビオチンも吸収されなくなるので、どんどん育毛効果がなくなっていくだけでなく、逆に抜け毛などの原因になってしまうこともあるのです。

日本人の大好きな卵料理「卵かけごはん」はNG

「ビオチン」を摂取するために「卵」を食べる場合は、黄身と白身が混ざってしまうレシピがNGなのです。なので日本人が愛して止まない「卵かけごはん」は極力避けるようにした方がいいでしょう。どうしても「卵かけごはん」が食べたいという場合は、白身は我慢して黄身だけで「卵かけごはん」を作ると、アビジンを摂取するのを避けることができるのでオススメです。

「ビオチン」を邪魔する「アビジン」は熱に弱い

黄身だけを食べるなら気にしなくてもいいのですが、どうしても白身も食べたいという場合は、生ではなく加熱してください。白身に含まれている「アビジン」に熱を加える事で、ビオチンと結合することを防げますので、火を通した卵料理ならビオチンを効率よく摂取することができます。ただし、同じ火を通した卵料理でも、熱を加える前に黄身と白身を混ぜてしまう料理は、混ぜた段階でアビジンとビオチンが結合してしまうので、熱を加えてもアビシンとビオチンの結合を防ぐことが出来ませんので注意してください。

効率よく摂取できる卵料理
•ゆでたまご
•目玉焼き

効率よく摂取できない卵料理
•卵焼き
•スクランブルエッグ

「ゆでたまご」や「目玉焼き」もしっかりと火を通してください。温泉卵や半熟玉子は危険です。

育毛に効果があると言われていている「レシチン」は熱に弱い

また、卵の黄身には「レシチン」という成分も含まれています。この成分も育毛に効果があると言われています。ただレシチンは加熱してしまうとダメになってしまうので、生で食べるのがいいとされています。レシチンには卵の黄身に含まれている「卵黄レシチン」と、大豆に含まれている「大豆レシチン」の2種類あり、育毛の効果があるのは「大豆レシチン」の方だと言われています。卵の黄身に含まれている「卵黄レシチン」は、あまり育毛には効果がないので、卵を食べる際にはビオチンの摂取を優先して、加熱した卵を食べるようにした方がいいでしょう。

「卵」といえば「コレステロール」が気になるところですが

cholesterol

この様に「卵」は育毛に非常に効果がありますが、「卵」といえば「コレステロール」が気になるところ。しかし、実際には「卵」の過剰摂取でコレステロール値が上がったという実験結果は存在しないのです。

「卵」を食べ過ぎるとコレステロール値が上がり、動脈硬化の原因になるという話は、1913年にロシアでウサギに卵を食べさせる実験を行ったところ、コレステロール値の上昇や動脈硬化の症状が出たことから始まります。その後、この実験を行ったロシアの研究機関が、実験は間違っていたことを認めるのですが、世間では間違いを認めたことは話題にならず、実験から100年以上経った今でも、実験が間違っていたことが認知されていません。そもそも、草食動物のウサギに、動物性の食べ物である「卵」を食べさせているのですから、実験結果が正しいわけがありません。ですので、「卵」の食べ過ぎでコレステロール値が上昇したり、動脈硬化の原因になったりはしませんので、安心して「卵」で育毛を実践しましょう。

ですが、何事にも限度というものはありますので、いくらなんでも1日に何十個も「卵」を食べるのはやめておいたほうがいいでしょう。一日1〜2個ぐらいがおすすめです。もし少し多く卵を食べる時は、食事バランスを考えて、野菜も沢山食べることをおすすめします。

「卵」には育毛以外にも効果がある成分が入っています

卵には育毛以外にもいろいろな素敵な効果があります。

卵に含まれる「コリン」で脳の活性化

「コリン」は、記憶・学習に深く関わる神経伝達物質「アセチルコリン」を生成するために必要な栄養で、「コリン」が不足すると「アセチルコリン」が減少し、学習能力の低下や記憶障害の原因となってしまいます。コリンを食べることで学習能力がアップしたとい実験もあります。またアルツハイマー予防にも注目されている成分なのです。コリンは卵の卵黄に多く含まれています。大豆やナッツ類、肉や魚にもコリンは含まれていますが、卵黄のコリンは食品の中でも吸収されやすいと言われています。

卵に含まれる「メチオニン」には抗酸化作用

老化の原因といわれている「活性酸素」。卵には必須アミノ酸のメチオニンが含まれており、メチオニンから作られた抗酸化物質が体の老廃物を排除し、代謝を良くする働きがあります。メチオニンは他にも肝臓を守ったり、がん予防に大きな働きがあることが分かってきています。

育毛に必要な栄養素

育毛に必要な栄養素は他にもあります。
•亜鉛
•ミネラル
•ビタミンE
•タンパク質

これらの栄養素が育毛に必要な栄養素となっています。女性の髪には特に必須となっていますので、これらの栄養素をバランスよく摂取するようにしましょう。

では、これらの栄養素にどのような効果があり、どんな食材を食べれば摂取することが出来るのかについて1つずつ説明していきたいと思います。

亜鉛

亜鉛には新陳代謝を高めてくれる効果があり、髪の毛を作る毛母細胞の分裂や再生を促してくれますし、髪の毛を守るキューティクルを作るためにも欠かすことのできない栄養素となっています。亜鉛は、納豆、アーモンド、ピーナッツなどの豆類や、海苔、ごま、いわし、豚レバー、高野豆腐などに多く含まれています。より高い効果を得るためには、ビタミンCやクエン酸を一緒に摂取することをオススメします。

ミネラル

ミネラル、または鉄分は、髪の毛に栄養素を運んでくれる成分で、いくら育毛に効果的な栄養素を摂取しても髪の毛まで届かなければ意味が無いので、育毛には必須な成分となっています。ミネラル(鉄分)は、レバーやほうれん草などの他に、干しエビ、マグロ、牛肉、干しひじき、ピーマンなどにも多く含まれており、こちらもビタミンCと一緒に摂取することで、吸収を助けてもらうことができ、より高い効果を得ることができます。

ビタミンE

ビタミンEは、抜け毛の原因と言われている過酸化脂質が生成されるのを抑えてくれる効果や、女性ホルモンの分泌をスムーズにしてくれる効果があり、過酸化脂質が抑えられることによって、毛母細胞へ血液が流れやすくなり、頭皮の血行促進、果ては育毛へと繋がっていきます。ビタミンEは、オリーブオイルやアーモンド、ごま、ピーマン、うなぎ、アボカドなどに多く含まれています。

タンパク質

髪の毛の成分は99%が、約18種類ものアミノ酸が結合して作られたケラチンというタンパク質だと言われており、このタンパク質が不足してしまうと髪の毛が細くなり、抜け毛や髪の毛が千切れてしまう原因となってしまいます。そんな髪の毛にとって一番重要だと言っても過言ではないタンパク質は、豆腐などの大豆製品、チーズ、牛乳などの乳製品、鶏肉、卵、まぐろなどに多く含まれています。抜け毛が気になる方、特に女性の方は上記の栄養素をバランスよく摂取することで、育毛効果を期待することができます。


こうして見てみると、育毛に必要な栄養がたくさん入っている卵は、育毛食材と言えるでしょう。なので料理の仕方次第なのです!ですがオムライス、茶碗蒸し、卵焼きなども美味しいんです。。。食べれないストレスがかからない程度に、ちょっと気にしてみてはいかがでしょうか。

まとめ

•卵には育毛にいい「ビオチン」という成分が入っている。

•卵には他にも「ミネラル」「セレニウム」「亜鉛」「硫黄」など髪に必要な成分が入っている。

•ただし、食べ方には注意!育毛どころか逆に抜け毛の原因に。生卵は、白身と黄身を混ぜないように!
https://kayseydo-ikumou.com/ikumou-tamago/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/941.html#c1

[リバイバル3] 卵を毎日食べるのは健康に良いのか?、悪いのか? 中川隆
2. 中川隆[-8859] koaQ7Jey 2019年8月12日 02:04:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3875]
髪にいい食べ物1位は卵!ゆで卵は育毛効果が期待され、あの食べ方はNG!?
2016.12.10


 アメリカで多くの人に見られているサイトに「TOP TEN OF CITY」というのがある。ここで「Top 10 Foods for Healthy Hairs」、つまり「髪にいい食べ物トップ10」が発表され、1位に選ばれたのがなんと卵だったという。

 卵かけご飯や納豆というのは、日本人の朝食でごく一般的な風景。毎日卵かけご飯という人もいるだろう。ところがそう聞いて、「毎日、卵かけご飯を食べているのに、薄毛が解消されない」と怒る気持ちもわかる。確かに、卵を食べたからといって毛が増えたという実感はなさそうだが、フードコンサルタントで栄養士の中川貴子氏はこう言うのだ。

「卵には、髪が生成されるために必要となるほとんどの栄養素が含まれています。髪の材料となるタンパク質も豊富。また、黄身には『ビタミンH』と言われるビオチンも豊富に含まれている。ビオチンは髪の毛を作るアミノ酸の代謝を促進する働きがあり、育毛効果が高い成分で、卵は発毛・育毛効果の高い食べ物です。しかし、食べ方を間違えると発毛、育毛効果は得られません」

 その間違った食べ方というのが「卵かけご飯」なのだという。

 中川氏がさらに説明する。

「生卵の状態で食べること、白身と黄身をかき混ぜることがダメなのです。その理由は、白身にあります。白身にはアビシンというタンパク質が含まれており、これが黄身の中にあるビオチンと結合すると、ビオチンが体内に吸収されるのを妨げてしまう。ですから、卵をかき混ぜれば混ぜるほど、育毛効果はなくなってしまうのです」

 それでは、このビオチンを効果的にとるためにはどうすればいいのか。

「ズバリ、ゆで卵です。『かき混ぜない状態で過熱している料理』が最適で、目玉焼きもいい」(前出・中川氏)

 今や学会では、卵を多く取ってもコレステロール値が上がることはない、と断言している。ゆで卵と目玉焼きなら、これは手軽だ。
https://www.asagei.com/excerpt/71778
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/941.html#c2

[近代史3] 卵の黄身と白身は掻き混ぜてはいけない

卵の黄身と白身は掻き混ぜてはいけない


2015.11.10
その「卵」の食べ方は、育毛に逆効果です!
https://kayseydo-ikumou.com/ikumou-tamago/


育毛といえば育毛剤やシャンプーなどにばかり目がいってしまいがちですが、実は育毛で重要なのはバランスの取れた食事をとり、しっかりと栄養素を摂取することが大切なのです。育毛に必要な栄養素には、「亜鉛」「ミネラル」「ビタミンE」「タンパク質」などがあります。その中で特に重要なのはなんといってもタンパク質になります。そして、そんなタンパク質を効率よく摂取するのに必要な食材が「卵」なのです。

優等生な栄養食品「卵」とは

卵は体に必要な栄養素がビタミンCと食物繊維以外すべて含むとされる食品です。主成分のタンパク質には、食事からとらなければならないアミノ酸「必須アミノ酸」がバランスよく含まれています。

卵の主成分(可食部100g中)
•エネルギー・・・・・・・・・151kcal
•タンパク質・・・・・・・・・12.3g
•鉄・・・・・・・・・・・・・1.8mg
•ビタミンA(レチノール)・・140μg
•ビタミンE・・・・・・・・・1.0mg
•ビタミンB2・・・・・・・・・0.43mg

アミノ酸がバランスよく含まれている食品を評価するのに「アミノ酸スコア」というものがあります。それはアミノ酸の構成を比較、栄養価を評価する指数で、たんぱく質の量や9種類の必須アミノ酸の量と種類などのバランスを評価し、それが100に近いほどアミノ酸のバランスが良いとされています。卵のアミノ酸スコアはなんと、最高点の100なのです。

食事での育毛は「卵」が鍵になる

「卵」といえば、家庭料理でもレパートリーが多く、お財布にもやさしいので、日常的に食べる機会が多い食材の一つです。

「卵」が育毛に効果があることを知っている方も多いと思いますが、「卵」には「ビオチン」という成分が多く含まれていて、ビオチンはタンパク質を構成しているアミノ酸の代謝を促してくれる効果があり、育毛に効果がある栄養素の中でも髪の毛に直接効果がある、数少ない栄養素となっています。さらに「卵」には、髪の毛を健康に保つために必要な「ミネラル」「セレニウム」「亜鉛」「硫黄」なども含まれています。中でも「硫黄」はタンパク質を構成するアミノ酸の中でも一番重要な「含硫アミノ酸」と密接に関係しています。含硫アミノ酸が不足していると、いくら他のタンパク質があっても髪の毛は育たないので、「卵」は育毛には欠かせない食材と言えるのです。また、ビオチンには育毛効果の他にも、血行促進、白髪の防止、美肌効果、寝付きを良くする効果などがあり、美容の面から見ても非常に効果的な成分なのです。

ビオチンが含まれている食べ物
•卵
•チーズ
•いわし
•レバー

ビオチンは上記の食べ物などに多く含まれていますが、その中でも「卵」は特に身近な食べ物で、食べる機会が多いのではないかと思います。ビオチンは”卵の黄身”に多く含まれています。ですが、レシピによっては育毛効果どころか、逆に抜け毛の原因になってしまう場合があるのです。

育毛に逆効果になってしまう「卵」の食べ方

yudetamago

「卵」特に”卵の黄身”には育毛に効果のある「ビオチン」が多く含まれているのですが、”卵の白身”には「アビジン」という成分が含まれています。このアビジンという成分が曲者なのです。アビジンはビオチンと混ざると育毛に効果のあるビオチンが体内に吸収されるのを妨げてしまうのです。さらに、アビジンをとりすぎてしまうと、他の食べ物で摂取したビオチンも吸収されなくなるので、どんどん育毛効果がなくなっていくだけでなく、逆に抜け毛などの原因になってしまうこともあるのです。

日本人の大好きな卵料理「卵かけごはん」はNG

「ビオチン」を摂取するために「卵」を食べる場合は、黄身と白身が混ざってしまうレシピがNGなのです。なので日本人が愛して止まない「卵かけごはん」は極力避けるようにした方がいいでしょう。どうしても「卵かけごはん」が食べたいという場合は、白身は我慢して黄身だけで「卵かけごはん」を作ると、アビジンを摂取するのを避けることができるのでオススメです。


「ビオチン」を邪魔する「アビジン」は熱に弱い

黄身だけを食べるなら気にしなくてもいいのですが、どうしても白身も食べたいという場合は、生ではなく加熱してください。白身に含まれている「アビジン」に熱を加える事で、ビオチンと結合することを防げますので、火を通した卵料理ならビオチンを効率よく摂取することができます。ただし、同じ火を通した卵料理でも、熱を加える前に黄身と白身を混ぜてしまう料理は、混ぜた段階でアビジンとビオチンが結合してしまうので、熱を加えてもアビシンとビオチンの結合を防ぐことが出来ませんので注意してください。

効率よく摂取できる卵料理
•ゆでたまご
•目玉焼き

効率よく摂取できない卵料理
•卵焼き
•スクランブルエッグ

「ゆでたまご」や「目玉焼き」もしっかりと火を通してください。温泉卵や半熟玉子は危険です。

育毛に効果があると言われていている「レシチン」は熱に弱い

また、卵の黄身には「レシチン」という成分も含まれています。この成分も育毛に効果があると言われています。ただレシチンは加熱してしまうとダメになってしまうので、生で食べるのがいいとされています。レシチンには卵の黄身に含まれている「卵黄レシチン」と、大豆に含まれている「大豆レシチン」の2種類あり、育毛の効果があるのは「大豆レシチン」の方だと言われています。卵の黄身に含まれている「卵黄レシチン」は、あまり育毛には効果がないので、卵を食べる際にはビオチンの摂取を優先して、加熱した卵を食べるようにした方がいいでしょう。

「卵」といえば「コレステロール」が気になるところですが

cholesterol

この様に「卵」は育毛に非常に効果がありますが、「卵」といえば「コレステロール」が気になるところ。しかし、実際には「卵」の過剰摂取でコレステロール値が上がったという実験結果は存在しないのです。

「卵」を食べ過ぎるとコレステロール値が上がり、動脈硬化の原因になるという話は、1913年にロシアでウサギに卵を食べさせる実験を行ったところ、コレステロール値の上昇や動脈硬化の症状が出たことから始まります。その後、この実験を行ったロシアの研究機関が、実験は間違っていたことを認めるのですが、世間では間違いを認めたことは話題にならず、実験から100年以上経った今でも、実験が間違っていたことが認知されていません。そもそも、草食動物のウサギに、動物性の食べ物である「卵」を食べさせているのですから、実験結果が正しいわけがありません。ですので、「卵」の食べ過ぎでコレステロール値が上昇したり、動脈硬化の原因になったりはしませんので、安心して「卵」で育毛を実践しましょう。

ですが、何事にも限度というものはありますので、いくらなんでも1日に何十個も「卵」を食べるのはやめておいたほうがいいでしょう。一日1〜2個ぐらいがおすすめです。もし少し多く卵を食べる時は、食事バランスを考えて、野菜も沢山食べることをおすすめします。

「卵」には育毛以外にも効果がある成分が入っています

卵には育毛以外にもいろいろな素敵な効果があります。

卵に含まれる「コリン」で脳の活性化

「コリン」は、記憶・学習に深く関わる神経伝達物質「アセチルコリン」を生成するために必要な栄養で、「コリン」が不足すると「アセチルコリン」が減少し、学習能力の低下や記憶障害の原因となってしまいます。コリンを食べることで学習能力がアップしたとい実験もあります。またアルツハイマー予防にも注目されている成分なのです。コリンは卵の卵黄に多く含まれています。大豆やナッツ類、肉や魚にもコリンは含まれていますが、卵黄のコリンは食品の中でも吸収されやすいと言われています。

卵に含まれる「メチオニン」には抗酸化作用

老化の原因といわれている「活性酸素」。卵には必須アミノ酸のメチオニンが含まれており、メチオニンから作られた抗酸化物質が体の老廃物を排除し、代謝を良くする働きがあります。メチオニンは他にも肝臓を守ったり、がん予防に大きな働きがあることが分かってきています。

育毛に必要な栄養素

育毛に必要な栄養素は他にもあります。
•亜鉛
•ミネラル
•ビタミンE
•タンパク質

これらの栄養素が育毛に必要な栄養素となっています。女性の髪には特に必須となっていますので、これらの栄養素をバランスよく摂取するようにしましょう。

では、これらの栄養素にどのような効果があり、どんな食材を食べれば摂取することが出来るのかについて1つずつ説明していきたいと思います。

亜鉛

亜鉛には新陳代謝を高めてくれる効果があり、髪の毛を作る毛母細胞の分裂や再生を促してくれますし、髪の毛を守るキューティクルを作るためにも欠かすことのできない栄養素となっています。亜鉛は、納豆、アーモンド、ピーナッツなどの豆類や、海苔、ごま、いわし、豚レバー、高野豆腐などに多く含まれています。より高い効果を得るためには、ビタミンCやクエン酸を一緒に摂取することをオススメします。

ミネラル

ミネラル、または鉄分は、髪の毛に栄養素を運んでくれる成分で、いくら育毛に効果的な栄養素を摂取しても髪の毛まで届かなければ意味が無いので、育毛には必須な成分となっています。ミネラル(鉄分)は、レバーやほうれん草などの他に、干しエビ、マグロ、牛肉、干しひじき、ピーマンなどにも多く含まれており、こちらもビタミンCと一緒に摂取することで、吸収を助けてもらうことができ、より高い効果を得ることができます。

ビタミンE

ビタミンEは、抜け毛の原因と言われている過酸化脂質が生成されるのを抑えてくれる効果や、女性ホルモンの分泌をスムーズにしてくれる効果があり、過酸化脂質が抑えられることによって、毛母細胞へ血液が流れやすくなり、頭皮の血行促進、果ては育毛へと繋がっていきます。ビタミンEは、オリーブオイルやアーモンド、ごま、ピーマン、うなぎ、アボカドなどに多く含まれています。

タンパク質

髪の毛の成分は99%が、約18種類ものアミノ酸が結合して作られたケラチンというタンパク質だと言われており、このタンパク質が不足してしまうと髪の毛が細くなり、抜け毛や髪の毛が千切れてしまう原因となってしまいます。そんな髪の毛にとって一番重要だと言っても過言ではないタンパク質は、豆腐などの大豆製品、チーズ、牛乳などの乳製品、鶏肉、卵、まぐろなどに多く含まれています。抜け毛が気になる方、特に女性の方は上記の栄養素をバランスよく摂取することで、育毛効果を期待することができます。


こうして見てみると、育毛に必要な栄養がたくさん入っている卵は、育毛食材と言えるでしょう。なので料理の仕方次第なのです!ですがオムライス、茶碗蒸し、卵焼きなども美味しいんです。。。食べれないストレスがかからない程度に、ちょっと気にしてみてはいかがでしょうか。


まとめ

•卵には育毛にいい「ビオチン」という成分が入っている。

•卵には他にも「ミネラル」「セレニウム」「亜鉛」「硫黄」など髪に必要な成分が入っている。

•ただし、食べ方には注意!育毛どころか逆に抜け毛の原因に。生卵は、白身と黄身を混ぜないように!
https://kayseydo-ikumou.com/ikumou-tamago/



▲△▽▼


髪にいい食べ物1位は卵!ゆで卵は育毛効果が期待され、あの食べ方はNG!?
2016.12.10

 アメリカで多くの人に見られているサイトに「TOP TEN OF CITY」というのがある。ここで「Top 10 Foods for Healthy Hairs」、つまり「髪にいい食べ物トップ10」が発表され、1位に選ばれたのがなんと卵だったという。

 卵かけご飯や納豆というのは、日本人の朝食でごく一般的な風景。毎日卵かけご飯という人もいるだろう。ところがそう聞いて、「毎日、卵かけご飯を食べているのに、薄毛が解消されない」と怒る気持ちもわかる。確かに、卵を食べたからといって毛が増えたという実感はなさそうだが、フードコンサルタントで栄養士の中川貴子氏はこう言うのだ。

「卵には、髪が生成されるために必要となるほとんどの栄養素が含まれています。髪の材料となるタンパク質も豊富。また、黄身には『ビタミンH』と言われるビオチンも豊富に含まれている。ビオチンは髪の毛を作るアミノ酸の代謝を促進する働きがあり、育毛効果が高い成分で、卵は発毛・育毛効果の高い食べ物です。しかし、食べ方を間違えると発毛、育毛効果は得られません」

 その間違った食べ方というのが「卵かけご飯」なのだという。

 中川氏がさらに説明する。

「生卵の状態で食べること、白身と黄身をかき混ぜることがダメなのです。その理由は、白身にあります。白身にはアビシンというタンパク質が含まれており、これが黄身の中にあるビオチンと結合すると、ビオチンが体内に吸収されるのを妨げてしまう。ですから、卵をかき混ぜれば混ぜるほど、育毛効果はなくなってしまうのです」

 それでは、このビオチンを効果的にとるためにはどうすればいいのか。

「ズバリ、ゆで卵です。『かき混ぜない状態で過熱している料理』が最適で、目玉焼きもいい」(前出・中川氏)

 今や学会では、卵を多く取ってもコレステロール値が上がることはない、と断言している。ゆで卵と目玉焼きなら、これは手軽だ。
https://www.asagei.com/excerpt/71778

▲△▽▼

週に3個以上の卵を摂取、心疾患のリスク増大か 米研究
2019.03.18 Mon posted at 18:28 JST
https://www.cnn.co.jp/fringe/35134378.html

週3個以上の卵や1日当たり300ミリグラムのコレステロールを摂取する人は心疾患や早死にのリスクが高まる可能性があるとの調査結果が明らかになった/Photo Illustration/Thinkstock


(CNN) 1週間に卵を3〜4個食べる人や、食事から1日当たり300ミリグラムのコレステロールを摂取する人は、そうでない人に比べて心疾患や早死にのリスクが高い――。そんな調査結果がこのほど医学誌JAMAに発表された。

論文を執筆した米ノースウエスタン大学のビクター・ゾン氏によると、卵の黄身は特にコレステロール値が高く、卵1個には大きなもので約186ミリグラムのコレステロールが含まれる。

研究チームは、2万9000人あまりについて平均で17年半にわたって追跡調査した米国内の6研究グループのデータを詳しく調べた。

その結果、心血管系の疾患を発症していたのは計5400人で、うち1302人は脳卒中(死者を含む)、1897人は心不全(同)を発症し、113人はそのほかの心疾患のため死亡していた。それ以外の原因で死亡した患者は6132人だった。

今回の調査では、食事からのコレステロール摂取が1日当たり300ミリグラム増えると、心疾患に関連したリスクは3.2%高まり、早死にする可能性は4.4%増えるという結果が出た。

卵は1日当たりの消費量が半個増えるごとに、心血管系疾患のリスクは1.1%上昇し、早死にリスクは1.9%上昇するとしている。

この結果は、過去の研究と矛盾する部分もある。その理由として、過去の研究では、卵の消費と他の不健康な行動(運動不足や喫煙、不健康な食生活など)との関係を考慮していなかった可能性が考えられる。

加えて、コレステロールの多い食品は一般的に、飽和脂肪や動物性たんぱく質も多く含まれる。

一方、今回の研究では、そうした要因も包括的に評価したとゾン氏らは述べている。

今回の研究にはかかわっていないコロラド大学医学校のロバート・エッケル氏は、医師にとっても患者にとっても、このテーマは重要だと指摘する。

同氏によると、卵の消費や食事からのコレステロール摂取と、心血管系疾患との関係は長年の論議の的になっているが、最近の研究では重要性は薄いと考えられていた。

しかし今回の研究は従来の研究に比べてはるかに包括性が高いとエッケル氏は指摘、「心臓にいい食生活に対し、卵の消費やコレステロール摂取が及ぼす悪影響を考えると、コレステロールの多い食品の摂取を制限することの重要性を見過ごすことはできない」と解説している。
https://www.cnn.co.jp/fringe/35134378.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/569.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 食べ物、農業関係投稿リンク 中川隆
35. 中川隆[-8858] koaQ7Jey 2019年8月12日 02:17:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3876]
卵の黄身と白身は掻き混ぜてはいけない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/569.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/812.html#c35
[不安と不健康16] “早死にする人”ランキング 短命にある共通点とは…(ZAK×SPA!)  赤かぶ
129. 中川隆[-8857] koaQ7Jey 2019年8月12日 02:18:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3877]
卵の黄身と白身は掻き混ぜてはいけない


2015.11.10
その「卵」の食べ方は、育毛に逆効果です!
https://kayseydo-ikumou.com/ikumou-tamago/


育毛といえば育毛剤やシャンプーなどにばかり目がいってしまいがちですが、実は育毛で重要なのはバランスの取れた食事をとり、しっかりと栄養素を摂取することが大切なのです。育毛に必要な栄養素には、「亜鉛」「ミネラル」「ビタミンE」「タンパク質」などがあります。その中で特に重要なのはなんといってもタンパク質になります。そして、そんなタンパク質を効率よく摂取するのに必要な食材が「卵」なのです。

優等生な栄養食品「卵」とは

卵は体に必要な栄養素がビタミンCと食物繊維以外すべて含むとされる食品です。主成分のタンパク質には、食事からとらなければならないアミノ酸「必須アミノ酸」がバランスよく含まれています。

卵の主成分(可食部100g中)
•エネルギー・・・・・・・・・151kcal
•タンパク質・・・・・・・・・12.3g
•鉄・・・・・・・・・・・・・1.8mg
•ビタミンA(レチノール)・・140μg
•ビタミンE・・・・・・・・・1.0mg
•ビタミンB2・・・・・・・・・0.43mg

アミノ酸がバランスよく含まれている食品を評価するのに「アミノ酸スコア」というものがあります。それはアミノ酸の構成を比較、栄養価を評価する指数で、たんぱく質の量や9種類の必須アミノ酸の量と種類などのバランスを評価し、それが100に近いほどアミノ酸のバランスが良いとされています。卵のアミノ酸スコアはなんと、最高点の100なのです。

食事での育毛は「卵」が鍵になる

「卵」といえば、家庭料理でもレパートリーが多く、お財布にもやさしいので、日常的に食べる機会が多い食材の一つです。

「卵」が育毛に効果があることを知っている方も多いと思いますが、「卵」には「ビオチン」という成分が多く含まれていて、ビオチンはタンパク質を構成しているアミノ酸の代謝を促してくれる効果があり、育毛に効果がある栄養素の中でも髪の毛に直接効果がある、数少ない栄養素となっています。さらに「卵」には、髪の毛を健康に保つために必要な「ミネラル」「セレニウム」「亜鉛」「硫黄」なども含まれています。中でも「硫黄」はタンパク質を構成するアミノ酸の中でも一番重要な「含硫アミノ酸」と密接に関係しています。含硫アミノ酸が不足していると、いくら他のタンパク質があっても髪の毛は育たないので、「卵」は育毛には欠かせない食材と言えるのです。また、ビオチンには育毛効果の他にも、血行促進、白髪の防止、美肌効果、寝付きを良くする効果などがあり、美容の面から見ても非常に効果的な成分なのです。

ビオチンが含まれている食べ物
•卵
•チーズ
•いわし
•レバー

ビオチンは上記の食べ物などに多く含まれていますが、その中でも「卵」は特に身近な食べ物で、食べる機会が多いのではないかと思います。ビオチンは”卵の黄身”に多く含まれています。ですが、レシピによっては育毛効果どころか、逆に抜け毛の原因になってしまう場合があるのです。

育毛に逆効果になってしまう「卵」の食べ方

yudetamago

「卵」特に”卵の黄身”には育毛に効果のある「ビオチン」が多く含まれているのですが、”卵の白身”には「アビジン」という成分が含まれています。このアビジンという成分が曲者なのです。アビジンはビオチンと混ざると育毛に効果のあるビオチンが体内に吸収されるのを妨げてしまうのです。さらに、アビジンをとりすぎてしまうと、他の食べ物で摂取したビオチンも吸収されなくなるので、どんどん育毛効果がなくなっていくだけでなく、逆に抜け毛などの原因になってしまうこともあるのです。

日本人の大好きな卵料理「卵かけごはん」はNG

「ビオチン」を摂取するために「卵」を食べる場合は、黄身と白身が混ざってしまうレシピがNGなのです。なので日本人が愛して止まない「卵かけごはん」は極力避けるようにした方がいいでしょう。どうしても「卵かけごはん」が食べたいという場合は、白身は我慢して黄身だけで「卵かけごはん」を作ると、アビジンを摂取するのを避けることができるのでオススメです。


「ビオチン」を邪魔する「アビジン」は熱に弱い

黄身だけを食べるなら気にしなくてもいいのですが、どうしても白身も食べたいという場合は、生ではなく加熱してください。白身に含まれている「アビジン」に熱を加える事で、ビオチンと結合することを防げますので、火を通した卵料理ならビオチンを効率よく摂取することができます。ただし、同じ火を通した卵料理でも、熱を加える前に黄身と白身を混ぜてしまう料理は、混ぜた段階でアビジンとビオチンが結合してしまうので、熱を加えてもアビシンとビオチンの結合を防ぐことが出来ませんので注意してください。

効率よく摂取できる卵料理
•ゆでたまご
•目玉焼き

効率よく摂取できない卵料理
•卵焼き
•スクランブルエッグ

「ゆでたまご」や「目玉焼き」もしっかりと火を通してください。温泉卵や半熟玉子は危険です。

育毛に効果があると言われていている「レシチン」は熱に弱い

また、卵の黄身には「レシチン」という成分も含まれています。この成分も育毛に効果があると言われています。ただレシチンは加熱してしまうとダメになってしまうので、生で食べるのがいいとされています。レシチンには卵の黄身に含まれている「卵黄レシチン」と、大豆に含まれている「大豆レシチン」の2種類あり、育毛の効果があるのは「大豆レシチン」の方だと言われています。卵の黄身に含まれている「卵黄レシチン」は、あまり育毛には効果がないので、卵を食べる際にはビオチンの摂取を優先して、加熱した卵を食べるようにした方がいいでしょう。

「卵」といえば「コレステロール」が気になるところですが

cholesterol

この様に「卵」は育毛に非常に効果がありますが、「卵」といえば「コレステロール」が気になるところ。しかし、実際には「卵」の過剰摂取でコレステロール値が上がったという実験結果は存在しないのです。

「卵」を食べ過ぎるとコレステロール値が上がり、動脈硬化の原因になるという話は、1913年にロシアでウサギに卵を食べさせる実験を行ったところ、コレステロール値の上昇や動脈硬化の症状が出たことから始まります。その後、この実験を行ったロシアの研究機関が、実験は間違っていたことを認めるのですが、世間では間違いを認めたことは話題にならず、実験から100年以上経った今でも、実験が間違っていたことが認知されていません。そもそも、草食動物のウサギに、動物性の食べ物である「卵」を食べさせているのですから、実験結果が正しいわけがありません。ですので、「卵」の食べ過ぎでコレステロール値が上昇したり、動脈硬化の原因になったりはしませんので、安心して「卵」で育毛を実践しましょう。

ですが、何事にも限度というものはありますので、いくらなんでも1日に何十個も「卵」を食べるのはやめておいたほうがいいでしょう。一日1〜2個ぐらいがおすすめです。もし少し多く卵を食べる時は、食事バランスを考えて、野菜も沢山食べることをおすすめします。

「卵」には育毛以外にも効果がある成分が入っています

卵には育毛以外にもいろいろな素敵な効果があります。

卵に含まれる「コリン」で脳の活性化

「コリン」は、記憶・学習に深く関わる神経伝達物質「アセチルコリン」を生成するために必要な栄養で、「コリン」が不足すると「アセチルコリン」が減少し、学習能力の低下や記憶障害の原因となってしまいます。コリンを食べることで学習能力がアップしたとい実験もあります。またアルツハイマー予防にも注目されている成分なのです。コリンは卵の卵黄に多く含まれています。大豆やナッツ類、肉や魚にもコリンは含まれていますが、卵黄のコリンは食品の中でも吸収されやすいと言われています。

卵に含まれる「メチオニン」には抗酸化作用

老化の原因といわれている「活性酸素」。卵には必須アミノ酸のメチオニンが含まれており、メチオニンから作られた抗酸化物質が体の老廃物を排除し、代謝を良くする働きがあります。メチオニンは他にも肝臓を守ったり、がん予防に大きな働きがあることが分かってきています。

育毛に必要な栄養素

育毛に必要な栄養素は他にもあります。
•亜鉛
•ミネラル
•ビタミンE
•タンパク質

これらの栄養素が育毛に必要な栄養素となっています。女性の髪には特に必須となっていますので、これらの栄養素をバランスよく摂取するようにしましょう。

では、これらの栄養素にどのような効果があり、どんな食材を食べれば摂取することが出来るのかについて1つずつ説明していきたいと思います。

亜鉛

亜鉛には新陳代謝を高めてくれる効果があり、髪の毛を作る毛母細胞の分裂や再生を促してくれますし、髪の毛を守るキューティクルを作るためにも欠かすことのできない栄養素となっています。亜鉛は、納豆、アーモンド、ピーナッツなどの豆類や、海苔、ごま、いわし、豚レバー、高野豆腐などに多く含まれています。より高い効果を得るためには、ビタミンCやクエン酸を一緒に摂取することをオススメします。

ミネラル

ミネラル、または鉄分は、髪の毛に栄養素を運んでくれる成分で、いくら育毛に効果的な栄養素を摂取しても髪の毛まで届かなければ意味が無いので、育毛には必須な成分となっています。ミネラル(鉄分)は、レバーやほうれん草などの他に、干しエビ、マグロ、牛肉、干しひじき、ピーマンなどにも多く含まれており、こちらもビタミンCと一緒に摂取することで、吸収を助けてもらうことができ、より高い効果を得ることができます。

ビタミンE

ビタミンEは、抜け毛の原因と言われている過酸化脂質が生成されるのを抑えてくれる効果や、女性ホルモンの分泌をスムーズにしてくれる効果があり、過酸化脂質が抑えられることによって、毛母細胞へ血液が流れやすくなり、頭皮の血行促進、果ては育毛へと繋がっていきます。ビタミンEは、オリーブオイルやアーモンド、ごま、ピーマン、うなぎ、アボカドなどに多く含まれています。

タンパク質

髪の毛の成分は99%が、約18種類ものアミノ酸が結合して作られたケラチンというタンパク質だと言われており、このタンパク質が不足してしまうと髪の毛が細くなり、抜け毛や髪の毛が千切れてしまう原因となってしまいます。そんな髪の毛にとって一番重要だと言っても過言ではないタンパク質は、豆腐などの大豆製品、チーズ、牛乳などの乳製品、鶏肉、卵、まぐろなどに多く含まれています。抜け毛が気になる方、特に女性の方は上記の栄養素をバランスよく摂取することで、育毛効果を期待することができます。


こうして見てみると、育毛に必要な栄養がたくさん入っている卵は、育毛食材と言えるでしょう。なので料理の仕方次第なのです!ですがオムライス、茶碗蒸し、卵焼きなども美味しいんです。。。食べれないストレスがかからない程度に、ちょっと気にしてみてはいかがでしょうか。


まとめ

•卵には育毛にいい「ビオチン」という成分が入っている。

•卵には他にも「ミネラル」「セレニウム」「亜鉛」「硫黄」など髪に必要な成分が入っている。

•ただし、食べ方には注意!育毛どころか逆に抜け毛の原因に。生卵は、白身と黄身を混ぜないように!
https://kayseydo-ikumou.com/ikumou-tamago/

▲△▽▼


髪にいい食べ物1位は卵!ゆで卵は育毛効果が期待され、あの食べ方はNG!?
2016.12.10

 アメリカで多くの人に見られているサイトに「TOP TEN OF CITY」というのがある。ここで「Top 10 Foods for Healthy Hairs」、つまり「髪にいい食べ物トップ10」が発表され、1位に選ばれたのがなんと卵だったという。

 卵かけご飯や納豆というのは、日本人の朝食でごく一般的な風景。毎日卵かけご飯という人もいるだろう。ところがそう聞いて、「毎日、卵かけご飯を食べているのに、薄毛が解消されない」と怒る気持ちもわかる。確かに、卵を食べたからといって毛が増えたという実感はなさそうだが、フードコンサルタントで栄養士の中川貴子氏はこう言うのだ。

「卵には、髪が生成されるために必要となるほとんどの栄養素が含まれています。髪の材料となるタンパク質も豊富。また、黄身には『ビタミンH』と言われるビオチンも豊富に含まれている。ビオチンは髪の毛を作るアミノ酸の代謝を促進する働きがあり、育毛効果が高い成分で、卵は発毛・育毛効果の高い食べ物です。しかし、食べ方を間違えると発毛、育毛効果は得られません」

 その間違った食べ方というのが「卵かけご飯」なのだという。

 中川氏がさらに説明する。

「生卵の状態で食べること、白身と黄身をかき混ぜることがダメなのです。その理由は、白身にあります。白身にはアビシンというタンパク質が含まれており、これが黄身の中にあるビオチンと結合すると、ビオチンが体内に吸収されるのを妨げてしまう。ですから、卵をかき混ぜれば混ぜるほど、育毛効果はなくなってしまうのです」

 それでは、このビオチンを効果的にとるためにはどうすればいいのか。

「ズバリ、ゆで卵です。『かき混ぜない状態で過熱している料理』が最適で、目玉焼きもいい」(前出・中川氏)

 今や学会では、卵を多く取ってもコレステロール値が上がることはない、と断言している。ゆで卵と目玉焼きなら、これは手軽だ。
https://www.asagei.com/excerpt/71778


▲△▽▼

週に3個以上の卵を摂取、心疾患のリスク増大か 米研究
2019.03.18 Mon posted at 18:28 JST
https://www.cnn.co.jp/fringe/35134378.html

週3個以上の卵や1日当たり300ミリグラムのコレステロールを摂取する人は心疾患や早死にのリスクが高まる可能性があるとの調査結果が明らかになった/Photo Illustration/Thinkstock


(CNN) 1週間に卵を3〜4個食べる人や、食事から1日当たり300ミリグラムのコレステロールを摂取する人は、そうでない人に比べて心疾患や早死にのリスクが高い――。そんな調査結果がこのほど医学誌JAMAに発表された。

論文を執筆した米ノースウエスタン大学のビクター・ゾン氏によると、卵の黄身は特にコレステロール値が高く、卵1個には大きなもので約186ミリグラムのコレステロールが含まれる。

研究チームは、2万9000人あまりについて平均で17年半にわたって追跡調査した米国内の6研究グループのデータを詳しく調べた。

その結果、心血管系の疾患を発症していたのは計5400人で、うち1302人は脳卒中(死者を含む)、1897人は心不全(同)を発症し、113人はそのほかの心疾患のため死亡していた。それ以外の原因で死亡した患者は6132人だった。

今回の調査では、食事からのコレステロール摂取が1日当たり300ミリグラム増えると、心疾患に関連したリスクは3.2%高まり、早死にする可能性は4.4%増えるという結果が出た。

卵は1日当たりの消費量が半個増えるごとに、心血管系疾患のリスクは1.1%上昇し、早死にリスクは1.9%上昇するとしている。

この結果は、過去の研究と矛盾する部分もある。その理由として、過去の研究では、卵の消費と他の不健康な行動(運動不足や喫煙、不健康な食生活など)との関係を考慮していなかった可能性が考えられる。

加えて、コレステロールの多い食品は一般的に、飽和脂肪や動物性たんぱく質も多く含まれる。

一方、今回の研究では、そうした要因も包括的に評価したとゾン氏らは述べている。

今回の研究にはかかわっていないコロラド大学医学校のロバート・エッケル氏は、医師にとっても患者にとっても、このテーマは重要だと指摘する。

同氏によると、卵の消費や食事からのコレステロール摂取と、心血管系疾患との関係は長年の論議の的になっているが、最近の研究では重要性は薄いと考えられていた。

しかし今回の研究は従来の研究に比べてはるかに包括性が高いとエッケル氏は指摘、「心臓にいい食生活に対し、卵の消費やコレステロール摂取が及ぼす悪影響を考えると、コレステロールの多い食品の摂取を制限することの重要性を見過ごすことはできない」と解説している。
https://www.cnn.co.jp/fringe/35134378.html

http://www.asyura2.com/13/health16/msg/134.html#c129

[不安と不健康15] コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ)  赤かぶ
313. 中川隆[-8856] koaQ7Jey 2019年8月12日 02:18:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3878]
卵の黄身と白身は掻き混ぜてはいけない


2015.11.10
その「卵」の食べ方は、育毛に逆効果です!
https://kayseydo-ikumou.com/ikumou-tamago/


育毛といえば育毛剤やシャンプーなどにばかり目がいってしまいがちですが、実は育毛で重要なのはバランスの取れた食事をとり、しっかりと栄養素を摂取することが大切なのです。育毛に必要な栄養素には、「亜鉛」「ミネラル」「ビタミンE」「タンパク質」などがあります。その中で特に重要なのはなんといってもタンパク質になります。そして、そんなタンパク質を効率よく摂取するのに必要な食材が「卵」なのです。

優等生な栄養食品「卵」とは

卵は体に必要な栄養素がビタミンCと食物繊維以外すべて含むとされる食品です。主成分のタンパク質には、食事からとらなければならないアミノ酸「必須アミノ酸」がバランスよく含まれています。

卵の主成分(可食部100g中)
•エネルギー・・・・・・・・・151kcal
•タンパク質・・・・・・・・・12.3g
•鉄・・・・・・・・・・・・・1.8mg
•ビタミンA(レチノール)・・140μg
•ビタミンE・・・・・・・・・1.0mg
•ビタミンB2・・・・・・・・・0.43mg

アミノ酸がバランスよく含まれている食品を評価するのに「アミノ酸スコア」というものがあります。それはアミノ酸の構成を比較、栄養価を評価する指数で、たんぱく質の量や9種類の必須アミノ酸の量と種類などのバランスを評価し、それが100に近いほどアミノ酸のバランスが良いとされています。卵のアミノ酸スコアはなんと、最高点の100なのです。

食事での育毛は「卵」が鍵になる

「卵」といえば、家庭料理でもレパートリーが多く、お財布にもやさしいので、日常的に食べる機会が多い食材の一つです。

「卵」が育毛に効果があることを知っている方も多いと思いますが、「卵」には「ビオチン」という成分が多く含まれていて、ビオチンはタンパク質を構成しているアミノ酸の代謝を促してくれる効果があり、育毛に効果がある栄養素の中でも髪の毛に直接効果がある、数少ない栄養素となっています。さらに「卵」には、髪の毛を健康に保つために必要な「ミネラル」「セレニウム」「亜鉛」「硫黄」なども含まれています。中でも「硫黄」はタンパク質を構成するアミノ酸の中でも一番重要な「含硫アミノ酸」と密接に関係しています。含硫アミノ酸が不足していると、いくら他のタンパク質があっても髪の毛は育たないので、「卵」は育毛には欠かせない食材と言えるのです。また、ビオチンには育毛効果の他にも、血行促進、白髪の防止、美肌効果、寝付きを良くする効果などがあり、美容の面から見ても非常に効果的な成分なのです。

ビオチンが含まれている食べ物
•卵
•チーズ
•いわし
•レバー

ビオチンは上記の食べ物などに多く含まれていますが、その中でも「卵」は特に身近な食べ物で、食べる機会が多いのではないかと思います。ビオチンは”卵の黄身”に多く含まれています。ですが、レシピによっては育毛効果どころか、逆に抜け毛の原因になってしまう場合があるのです。

育毛に逆効果になってしまう「卵」の食べ方

yudetamago

「卵」特に”卵の黄身”には育毛に効果のある「ビオチン」が多く含まれているのですが、”卵の白身”には「アビジン」という成分が含まれています。このアビジンという成分が曲者なのです。アビジンはビオチンと混ざると育毛に効果のあるビオチンが体内に吸収されるのを妨げてしまうのです。さらに、アビジンをとりすぎてしまうと、他の食べ物で摂取したビオチンも吸収されなくなるので、どんどん育毛効果がなくなっていくだけでなく、逆に抜け毛などの原因になってしまうこともあるのです。

日本人の大好きな卵料理「卵かけごはん」はNG

「ビオチン」を摂取するために「卵」を食べる場合は、黄身と白身が混ざってしまうレシピがNGなのです。なので日本人が愛して止まない「卵かけごはん」は極力避けるようにした方がいいでしょう。どうしても「卵かけごはん」が食べたいという場合は、白身は我慢して黄身だけで「卵かけごはん」を作ると、アビジンを摂取するのを避けることができるのでオススメです。


「ビオチン」を邪魔する「アビジン」は熱に弱い

黄身だけを食べるなら気にしなくてもいいのですが、どうしても白身も食べたいという場合は、生ではなく加熱してください。白身に含まれている「アビジン」に熱を加える事で、ビオチンと結合することを防げますので、火を通した卵料理ならビオチンを効率よく摂取することができます。ただし、同じ火を通した卵料理でも、熱を加える前に黄身と白身を混ぜてしまう料理は、混ぜた段階でアビジンとビオチンが結合してしまうので、熱を加えてもアビシンとビオチンの結合を防ぐことが出来ませんので注意してください。

効率よく摂取できる卵料理
•ゆでたまご
•目玉焼き

効率よく摂取できない卵料理
•卵焼き
•スクランブルエッグ

「ゆでたまご」や「目玉焼き」もしっかりと火を通してください。温泉卵や半熟玉子は危険です。

育毛に効果があると言われていている「レシチン」は熱に弱い

また、卵の黄身には「レシチン」という成分も含まれています。この成分も育毛に効果があると言われています。ただレシチンは加熱してしまうとダメになってしまうので、生で食べるのがいいとされています。レシチンには卵の黄身に含まれている「卵黄レシチン」と、大豆に含まれている「大豆レシチン」の2種類あり、育毛の効果があるのは「大豆レシチン」の方だと言われています。卵の黄身に含まれている「卵黄レシチン」は、あまり育毛には効果がないので、卵を食べる際にはビオチンの摂取を優先して、加熱した卵を食べるようにした方がいいでしょう。

「卵」といえば「コレステロール」が気になるところですが

cholesterol

この様に「卵」は育毛に非常に効果がありますが、「卵」といえば「コレステロール」が気になるところ。しかし、実際には「卵」の過剰摂取でコレステロール値が上がったという実験結果は存在しないのです。

「卵」を食べ過ぎるとコレステロール値が上がり、動脈硬化の原因になるという話は、1913年にロシアでウサギに卵を食べさせる実験を行ったところ、コレステロール値の上昇や動脈硬化の症状が出たことから始まります。その後、この実験を行ったロシアの研究機関が、実験は間違っていたことを認めるのですが、世間では間違いを認めたことは話題にならず、実験から100年以上経った今でも、実験が間違っていたことが認知されていません。そもそも、草食動物のウサギに、動物性の食べ物である「卵」を食べさせているのですから、実験結果が正しいわけがありません。ですので、「卵」の食べ過ぎでコレステロール値が上昇したり、動脈硬化の原因になったりはしませんので、安心して「卵」で育毛を実践しましょう。

ですが、何事にも限度というものはありますので、いくらなんでも1日に何十個も「卵」を食べるのはやめておいたほうがいいでしょう。一日1〜2個ぐらいがおすすめです。もし少し多く卵を食べる時は、食事バランスを考えて、野菜も沢山食べることをおすすめします。

「卵」には育毛以外にも効果がある成分が入っています

卵には育毛以外にもいろいろな素敵な効果があります。

卵に含まれる「コリン」で脳の活性化

「コリン」は、記憶・学習に深く関わる神経伝達物質「アセチルコリン」を生成するために必要な栄養で、「コリン」が不足すると「アセチルコリン」が減少し、学習能力の低下や記憶障害の原因となってしまいます。コリンを食べることで学習能力がアップしたとい実験もあります。またアルツハイマー予防にも注目されている成分なのです。コリンは卵の卵黄に多く含まれています。大豆やナッツ類、肉や魚にもコリンは含まれていますが、卵黄のコリンは食品の中でも吸収されやすいと言われています。

卵に含まれる「メチオニン」には抗酸化作用

老化の原因といわれている「活性酸素」。卵には必須アミノ酸のメチオニンが含まれており、メチオニンから作られた抗酸化物質が体の老廃物を排除し、代謝を良くする働きがあります。メチオニンは他にも肝臓を守ったり、がん予防に大きな働きがあることが分かってきています。

育毛に必要な栄養素

育毛に必要な栄養素は他にもあります。
•亜鉛
•ミネラル
•ビタミンE
•タンパク質

これらの栄養素が育毛に必要な栄養素となっています。女性の髪には特に必須となっていますので、これらの栄養素をバランスよく摂取するようにしましょう。

では、これらの栄養素にどのような効果があり、どんな食材を食べれば摂取することが出来るのかについて1つずつ説明していきたいと思います。

亜鉛

亜鉛には新陳代謝を高めてくれる効果があり、髪の毛を作る毛母細胞の分裂や再生を促してくれますし、髪の毛を守るキューティクルを作るためにも欠かすことのできない栄養素となっています。亜鉛は、納豆、アーモンド、ピーナッツなどの豆類や、海苔、ごま、いわし、豚レバー、高野豆腐などに多く含まれています。より高い効果を得るためには、ビタミンCやクエン酸を一緒に摂取することをオススメします。

ミネラル

ミネラル、または鉄分は、髪の毛に栄養素を運んでくれる成分で、いくら育毛に効果的な栄養素を摂取しても髪の毛まで届かなければ意味が無いので、育毛には必須な成分となっています。ミネラル(鉄分)は、レバーやほうれん草などの他に、干しエビ、マグロ、牛肉、干しひじき、ピーマンなどにも多く含まれており、こちらもビタミンCと一緒に摂取することで、吸収を助けてもらうことができ、より高い効果を得ることができます。

ビタミンE

ビタミンEは、抜け毛の原因と言われている過酸化脂質が生成されるのを抑えてくれる効果や、女性ホルモンの分泌をスムーズにしてくれる効果があり、過酸化脂質が抑えられることによって、毛母細胞へ血液が流れやすくなり、頭皮の血行促進、果ては育毛へと繋がっていきます。ビタミンEは、オリーブオイルやアーモンド、ごま、ピーマン、うなぎ、アボカドなどに多く含まれています。

タンパク質

髪の毛の成分は99%が、約18種類ものアミノ酸が結合して作られたケラチンというタンパク質だと言われており、このタンパク質が不足してしまうと髪の毛が細くなり、抜け毛や髪の毛が千切れてしまう原因となってしまいます。そんな髪の毛にとって一番重要だと言っても過言ではないタンパク質は、豆腐などの大豆製品、チーズ、牛乳などの乳製品、鶏肉、卵、まぐろなどに多く含まれています。抜け毛が気になる方、特に女性の方は上記の栄養素をバランスよく摂取することで、育毛効果を期待することができます。


こうして見てみると、育毛に必要な栄養がたくさん入っている卵は、育毛食材と言えるでしょう。なので料理の仕方次第なのです!ですがオムライス、茶碗蒸し、卵焼きなども美味しいんです。。。食べれないストレスがかからない程度に、ちょっと気にしてみてはいかがでしょうか。


まとめ

•卵には育毛にいい「ビオチン」という成分が入っている。

•卵には他にも「ミネラル」「セレニウム」「亜鉛」「硫黄」など髪に必要な成分が入っている。

•ただし、食べ方には注意!育毛どころか逆に抜け毛の原因に。生卵は、白身と黄身を混ぜないように!
https://kayseydo-ikumou.com/ikumou-tamago/

▲△▽▼


髪にいい食べ物1位は卵!ゆで卵は育毛効果が期待され、あの食べ方はNG!?
2016.12.10

 アメリカで多くの人に見られているサイトに「TOP TEN OF CITY」というのがある。ここで「Top 10 Foods for Healthy Hairs」、つまり「髪にいい食べ物トップ10」が発表され、1位に選ばれたのがなんと卵だったという。

 卵かけご飯や納豆というのは、日本人の朝食でごく一般的な風景。毎日卵かけご飯という人もいるだろう。ところがそう聞いて、「毎日、卵かけご飯を食べているのに、薄毛が解消されない」と怒る気持ちもわかる。確かに、卵を食べたからといって毛が増えたという実感はなさそうだが、フードコンサルタントで栄養士の中川貴子氏はこう言うのだ。

「卵には、髪が生成されるために必要となるほとんどの栄養素が含まれています。髪の材料となるタンパク質も豊富。また、黄身には『ビタミンH』と言われるビオチンも豊富に含まれている。ビオチンは髪の毛を作るアミノ酸の代謝を促進する働きがあり、育毛効果が高い成分で、卵は発毛・育毛効果の高い食べ物です。しかし、食べ方を間違えると発毛、育毛効果は得られません」

 その間違った食べ方というのが「卵かけご飯」なのだという。

 中川氏がさらに説明する。

「生卵の状態で食べること、白身と黄身をかき混ぜることがダメなのです。その理由は、白身にあります。白身にはアビシンというタンパク質が含まれており、これが黄身の中にあるビオチンと結合すると、ビオチンが体内に吸収されるのを妨げてしまう。ですから、卵をかき混ぜれば混ぜるほど、育毛効果はなくなってしまうのです」

 それでは、このビオチンを効果的にとるためにはどうすればいいのか。

「ズバリ、ゆで卵です。『かき混ぜない状態で過熱している料理』が最適で、目玉焼きもいい」(前出・中川氏)

 今や学会では、卵を多く取ってもコレステロール値が上がることはない、と断言している。ゆで卵と目玉焼きなら、これは手軽だ。
https://www.asagei.com/excerpt/71778


▲△▽▼

週に3個以上の卵を摂取、心疾患のリスク増大か 米研究
2019.03.18 Mon posted at 18:28 JST
https://www.cnn.co.jp/fringe/35134378.html

週3個以上の卵や1日当たり300ミリグラムのコレステロールを摂取する人は心疾患や早死にのリスクが高まる可能性があるとの調査結果が明らかになった/Photo Illustration/Thinkstock


(CNN) 1週間に卵を3〜4個食べる人や、食事から1日当たり300ミリグラムのコレステロールを摂取する人は、そうでない人に比べて心疾患や早死にのリスクが高い――。そんな調査結果がこのほど医学誌JAMAに発表された。

論文を執筆した米ノースウエスタン大学のビクター・ゾン氏によると、卵の黄身は特にコレステロール値が高く、卵1個には大きなもので約186ミリグラムのコレステロールが含まれる。

研究チームは、2万9000人あまりについて平均で17年半にわたって追跡調査した米国内の6研究グループのデータを詳しく調べた。

その結果、心血管系の疾患を発症していたのは計5400人で、うち1302人は脳卒中(死者を含む)、1897人は心不全(同)を発症し、113人はそのほかの心疾患のため死亡していた。それ以外の原因で死亡した患者は6132人だった。

今回の調査では、食事からのコレステロール摂取が1日当たり300ミリグラム増えると、心疾患に関連したリスクは3.2%高まり、早死にする可能性は4.4%増えるという結果が出た。

卵は1日当たりの消費量が半個増えるごとに、心血管系疾患のリスクは1.1%上昇し、早死にリスクは1.9%上昇するとしている。

この結果は、過去の研究と矛盾する部分もある。その理由として、過去の研究では、卵の消費と他の不健康な行動(運動不足や喫煙、不健康な食生活など)との関係を考慮していなかった可能性が考えられる。

加えて、コレステロールの多い食品は一般的に、飽和脂肪や動物性たんぱく質も多く含まれる。

一方、今回の研究では、そうした要因も包括的に評価したとゾン氏らは述べている。

今回の研究にはかかわっていないコロラド大学医学校のロバート・エッケル氏は、医師にとっても患者にとっても、このテーマは重要だと指摘する。

同氏によると、卵の消費や食事からのコレステロール摂取と、心血管系疾患との関係は長年の論議の的になっているが、最近の研究では重要性は薄いと考えられていた。

しかし今回の研究は従来の研究に比べてはるかに包括性が高いとエッケル氏は指摘、「心臓にいい食生活に対し、卵の消費やコレステロール摂取が及ぼす悪影響を考えると、コレステロールの多い食品の摂取を制限することの重要性を見過ごすことはできない」と解説している。
https://www.cnn.co.jp/fringe/35134378.html

http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html#c313

[近代史02] 小泉先生が ○○○ になった理由 中川隆
15. 中川隆[-8861] koaQ7Jey 2019年8月12日 05:20:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3873]


小泉進次郎 と 稲川会
mixiユーザー 2010年07月11日
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4791082&id=54664293


1.小泉家の系譜


 小泉家は、今の神奈川県横須賀市で、とび職を生業とし、任侠道で、小泉組を名乗っていた 小泉由兵衛 にさかのぼる。 その息子である 小泉又次郎 は、とび職であり、かつ小泉組の組長だった。又次郎は、代議士になり、逓信大臣を務めた。又次郎は龍の刺青をしていた為、”刺青の又さん”と呼ばれた。
 又次郎は、本妻との間に子はなく、めかけの 石川ハツ の子供が一人あり、それが小泉芳江だ。芳江は婿を取り、その婿に入ったのが鹿児島で漁師を生業にしていた 旧姓 鮫島純也だ。 純也も代議士となり、佐藤内閣、池田内閣で防衛庁長官になっている。

 純也と芳江の間に出来た子供は5人で、長男が小泉純一郎(元総理)であり、次男が小泉正也。長女が信子 であり、障害未婚を通し、議員宿舎で小泉純一郎代議士と同居していたことで有名。
 次女は 隆子で既婚。
 そして、末っ子が 道子で子が一人いるが、離婚して、道子の子供は戸籍上、純也の養女になっている。

 純一郎は、製薬会社のお嬢様、宮本佳代子 と結婚し、子供を3人もうけた。
 
 純一郎が佳代子と純一郎のDVが原因で離婚するまでにもうけた子供のうち長男の孝太郎と次男の進次郎は 純一郎の妹の道子のもとで育てられた。 第三子は、男子であるが、佳代子の側が裁判の末に親権を得た。

2.純一郎の半生

 純一郎は、地元の高校を卒業後、2回大学受験に失敗し、二浪で慶応大学経済学部に入る。その後、二年慶応大で留年し、三度目の留年が決まった直後の1967年4月に湘南地域にて、慶応大の女子大生を強姦し、逮捕されるものの、精神障害の為、都立 松沢病院精神科に強制入院となる。
 この頃、父 小泉純也が防衛庁長官をしていたこともあって、表ざたにならなかったが、地元の人は広く知る所であり、この事件の損害賠償にかかる民事裁判は、2004年6月15日 朝10:20分に東京地裁 609号法廷で行われた。

 この後、純一郎は1967年4月から6月まで、統合失調と解離性人格障害の為、都立 松沢病院精神科で療養した後、レイプ事件もあり、イギリスのロンドン大学の一般聴講生となるが、英語が苦手だったこともあり、単位は取得できなかった。
 帰国後、ようやく慶応大学を卒業する。

 レイプ事件は、純一郎が代議士2年目の時に、再度婦女暴行事件を起したが、示談で解決した。

 純一郎が代議士である期間の大半の時期に、選挙対策委員長を努めたのが、稲川会の石井会長と懇意にしていた任侠筋の竹内清 元神奈川県議会議長だった。


 
3.進次郎の半生

 小泉進次郎は、純一郎がたった四年余りで、純一郎が、(宮本)佳代子と離婚した後、純一郎の妹の道子のもとで育てられた。
 進次郎はあまり勉強が好きではなかった為、関東学院小学校、関東学院中学、関東学院高校、関東学院大学経済学部経営学科に進路を得た。
 その後、しばらく無職の時期を経て、父、純一郎が首相になった後、父が米国コロンビア大学の ジェラルド・カーチス教授 に面倒を頼んで、コロンビア大学の修士課程を修了する。
 その後、共和党系のシンクタンクで、日本の官僚も出向する CSIS (戦略国際問題研究所)の 対日戦略研究所という部署で、ジャパン・ハンドラーとして有名な マイケル・グリーン氏の指導のもと、補助調査員としてマイケル・グリーン氏のかばん持ちを経験した。

 帰国後、衆議院選挙に立候補するが、その時も稲川会系の筋の人が選挙対策委員長をつとめており、現在でも稲川会との関係が深い。
 掲載した写真は、雑誌 フライデーに掲載された 進次郎氏と稲川会系の 竹内清 元神奈川県議会議長である。
 
 進次郎氏と稲川会が交際していること自体が悪いとは言えないかもしれないが、進次郎氏が稲川会との交際を隠蔽するかの如き態度は、透明性の観点からして、いかがなものだろうか??はっきりと国民の目の前に提示した上で、国民の判断を仰ぐべきではないか?? 


4.進次郎氏と事務所費問題

  進次郎氏が純一郎元首相から、地盤を引き継いだ後、テナントビルの一室を借りて、政治団体である「小泉純一郎同士会」、「自民党神奈川県第11選挙区支部」、進次郎氏の政治資金管理団体である「泉進会」、政治団体である「小泉進次郎同志会」の4つの団体を設置していた。
 このうち、「泉進会」は別として、一つの事務所なのに、「小泉純一郎同志会」が379万円、「自民党第11支部」が609万円、「小泉進次郎同志会」が32万円を、家賃他の事務所経費を計上している。

 実際の事務所費は、物件から推定して500万円〜600万円程度とみられ、400万円から500万円が、この三重計上によって裏金として捻出されていて、政治資金規正法の不実記載にあたる可能性があり、裏金が良からぬ使い方をされた可能性がある。
 小泉氏側の事務所費に関しては、民主党 参議院議員の 桜井充 議員も 小泉政権下で2003年03月に、参議院予算委員会で質問しており、今回、日刊ゲンダイ が 小泉進次郎 事務所に文書で質問したが、未だ回答は届いていない。
 (この事務費不正処理問題は、日刊ゲンダイの2010.6.11号に掲載されています。)

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1428133199
http://blogs.yahoo.co.jp/shion1082001/43102496.html

https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4791082&id=54664293

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/307.html#c15

[近代史02] 小泉先生が ○○○ になった理由 中川隆
16. 中川隆[-8860] koaQ7Jey 2019年8月12日 05:23:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3874]

2019年08月11日
小泉進次郎のルーツは横須賀の顔役「刺青の又」!
https://85280384.at.webry.info/201908/article_67.html?1565533130


 昔は任侠の世界、つまりヤクザから代議士となる者が珍しくなかった。炭坑やダム、飯場、港湾作業への人夫出し、手配師などでカネをため込んだ連中が名誉を求めて国会に打って出た。

 小泉進次郎のルーツは小泉由兵衛にさかのぼる。今の神奈川県横須賀市で、とび職を生業とし、任侠道で、「小泉組」を名乗っていた。 

 その息子である「小泉組」の組長、小泉又次郎は、背中いっぱいに龍の刺青を彫り、「刺青の又さん」として横須賀ではちょっとした顔役だった。

 又次郎はその後、横須賀の海軍工廠などへの人夫出しで荒稼ぎをし、それを元手に代議士となり、商工大臣にまで上り詰めた。

 本妻との間に子はなく、妾の石川ハツとの間に子供が一人いた。小泉芳江である。芳江は鹿児島で漁師を生業にしていた鮫島純也を婿に迎え入れた。純也も義父の後釜となって代議士となり、のちに防衛庁長官に就任。

 純也と芳江の間に出来た子供は5人。長男が純一郎。長女、信子は生涯未婚を通し、議員宿舎で純一郎と同居していた。

 純一郎は、エスエス製薬のお嬢様、宮本佳代子と結婚し、子供を3人もうけた。
 
 純一郎の暴力(DV)が原因で離婚。長男の孝太郎と次男の進次郎は純一郎の妹の道子のもとで育てられた。 第三子の男子は佳代子が裁判の末に親権を得た。

 純一郎は、地元の高校を卒業後、2回大学受験に失敗したあと慶大に入る。2年留年し、3度目の留年が決まった直後の1967年4月に慶大の女子学生を強姦し、逮捕された。しかし精神病で都立松沢病院精神科に強制入院となる。

 このころ、父純也が防衛庁長官だったため表沙汰にならなかったが、地元では周知の事実。

 強姦事件の損害賠償にかかる民事裁判は2004年6月15日、東京地裁609号法廷で行われた。

 この後、純一郎は1967年4月から2カ月間、統合失調と解離性人格障害で松沢病院で療養した後、レイプ事件もあり、英国に渡った。

 ロンドン大学の一般聴講生となったが、英語が苦手で単位を取得できなかった。 そんな純一郎がやすやす慶大を卒業した。 当時の日本の私学はそんな程度だった。

 純一郎が代議士2年目の時に再度、婦女暴行事件を起したが示談で解決したそうだ。

 小泉純一郎の選挙対策委員長を努めたのが、広域暴力団「稲川会」の石井会長と懇意にしていた任侠筋の竹内清・元神奈川県議会議長だったという。
https://85280384.at.webry.info/201908/article_67.html?1565533130

2019年08月11日
ジャパン・ハンドラーのカバン持ちだった小泉進次郎!
https://85280384.at.webry.info/201908/article_68.html?1565535458


 小泉進次郎は父、純一郎がたった4年余りで佳代子と離婚した後、純一郎の妹、道子のもとで育てられた。

 進次郎は父親と同様に、勉強が好きではなかった。そこで関東学院の小学校から大学までの進路を選んだ。

 その後、しばらく無職の時期を経て、父、純一郎が首相になった後、父のコネで米国コロンビア大学のジェラルド・カーチス教授に預けられた。この男は知る人ぞ知るジャパン・ハンドラーである。

 ジャパン・ハンドラーとは、米国の意のままに行動する「操り人形」を要請する面々のことである。

 さらに進次郎はその後、CSIS(戦略国際問題研究所)の対日戦略部署で、ジャパン・ハンドラーとして有名なマイケル・グリーンのカバン持ちをした。
 
 進次郎も父と同じく稲川会と関係が深いという。


  ここからも分かるように小泉純一郎、進次郎親子には、表面上のさわやかな顔とは別の、闇にまぎれた素顔があった。
https://85280384.at.webry.info/201908/article_68.html?1565535458
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/307.html#c16

[リバイバル3] ボッタクリ アンプ _ FM Acoustics の世界 中川隆
40. 中川隆[-8859] koaQ7Jey 2019年8月12日 05:49:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3875]

FM155MKUR | オーディオスペースコア − ピュアオーディオの店

FM Acoustics FM155MKUR
定価(税込) ¥2732400 販売価格 (税込)


あのFM155MKURがやっと入荷しました!

20年以上の155の完成度の高さは他に類を見ません!

これぞプリアンプというサウンドに驚きと一生モノとしての安心感を感じることができます。

試聴ご希望の方はご予約お待ちしております♪

納品、設置、ボイッシングなど全国各地対応可能です。
ご相談下さい。
https://www.as-core.co.jp/FM155MK2Ra

FMアコースティック社FM155MKURプリアンプ入荷♪
オーディオスペースコア 2018-02-23
https://blog.goo.ne.jp/audiospacecore/e/79ed8cfc02d002ead920b1c98ba1f454


ようやくFMアコースティックのプリアンプの新製品FM155MK2Rがコアにやってきました♪

FM155といえばコアがずっとずっと発売当初からあらゆるパワーアンプと組み合わせたり、他社のプリアンプと比較試聴したりして、圧倒的パフォーマンスでいつも驚かされていたお勧めプリアンプですが、20年ぶりにモデルチェンジしまして今回MK2となりました。

コアの展示はMK2Rなのでリモコン付です。

リモコン操作できるのは、ボリウムのアップとダウンのみですがSLOWとFASTと使い分けれますので操作感はとても良いですね!

電源はリモコン部の電源もあるのでどうなるかと思っていましたが、電源ユニット内部でアンプ用電源の他にリモコン用の電源が別々に供給されています。

今回は電源ケーブルが珍しくインレット式になっていますので、電源ケーブルも交換できます!

見た目では左側のインプットセレクターつまみの形状が違うのと、-20dBのボタンがロジック式になりインジケーターが点いてる程度で殆どデザインは変わってないですね。


内部はかなり変更されています!

モジュールは以前のFM155が2個でしたが、1個になっています。
それとボリウムのゲインが変わっていますので回路の定数変更がされていると思います。

また、電源ユニットの出力がACではなくDCになっていますので本体内部にはノイズを出すダイオードはないので音質的に有利です。

以前の20年間に渡って素晴らしい音楽を届けてくれたFM155ですが、気になる点もありました。
それは、

@:ボリウムゲインが高すぎて、小音量時にギャングエラーが出る。
A:@を解決する為に-20dBスイッチを使うと音質がかなり劣化してしまう。
B:欲を言えば高域が若干硬い。
C:他社の価格が何倍もするプリアンプと比較したら音像が少し大きすぎる。
D:あと、残留ノイズが多い

こんなところでしょうか。。

今回のFM155MK2Rはリモコン付なので@のままではとてもじゃないけど夜は聴けないですが、あっさりと解決していました。

ギャングエラーはないので静まった真夜中でもFMサウンドで音楽楽しめます!!

Aは必要ないので割愛。

Bはこれは見事に解決しています!伸びに変わっていて倍音がとっても伸びています。

Cも見事に解決しています!Cが今まで価格に比例していて300万クラスに若干負けていた部分ですが、これは見事ですね!
低域のリアルな大きさやボーカルの奥行き方向の実在感は超ハイエンドです!

Dも見事に低くなっていて聴感上のS/Nもかなり良くなってます!


そして使いこなし術です。

まずは当方のお客さまには全員にお伝えしていますが、入力1は今回のMK2も音良くないですね!
同じくMK2も是非入力4がお奨めです!緊張感が全く違います。

インシュレーターはゴムではなくウレタン系の柔らかいものに変更になっていますが、やはりFMくらいに特性が極めて正確になるとインシュレーターの効果は抜群にでますね!

リプラスのHG-HR石英で格段によくなります!

FMは多分音を聴いてウレタンにしているんでしょうが、他のあらゆる素材の音色を考えたらウレタンが一番無難だったんでしょう。

しかしリプラスのインシュレーターは素材の音色が可聴帯域外なのでビックリするくらい解像度が上がります!

電源ユニットの下のインシュレーターもかなり変化します。
また、電源ユニットから出るノイズもそれなりに多いので高周波を誘導してやるとS/Nがドンッ!とあがりますね!


他にもチューニングポイントはいくつかありますので今後色々試してみたいと思っています!

当店ではFM411MK3と組み合わせて試聴できますが他のパワーアンプと組み合わせても試聴しレポートしていきたいと思います!

さて、比較試聴の動画です!!

これは入荷するまでに組み合わせていたYBA SignatureのPREとFM AcousticsのFM411MK3パワーアンプです。


YBA-SigunaturePREとFM411MK3パワーアンプとの組み合わせ - ニコニコ動画
https://www.nicovideo.jp/watch/sm32782528


そして、FM155MK2RとFM411MK3の組み合わせのサウンドです!

FM155MK2RとFM411MK3パワーアンプとの組み合わせ - ニコニコ動画
https://www.nicovideo.jp/watch/sm32782573


両者とも素晴らしいサウンドですが、FM155の時は高域が若干ですがキツく音像が大きい印象が目立ち、YBA-SIG-PREとの組み合わせの良さも結構ありましたが、FM155MK2Rの組み合わせですと、FM同士のピッタリと整合したサウンドに加え、滑らかなのにとっても張りがあって緊張感があり完成度が高く素晴らしいです!

FM245やFM255の上位機種のクォリティーをこのFM155MK2Rであっさり実現し、ある部分では超越してしまうのはFMの技術の素晴らしさに改めて脱帽です。。

今後は逆パターンや色んなパワーアンプでの比較試聴もしてみたいと思います♪
https://blog.goo.ne.jp/audiospacecore/e/79ed8cfc02d002ead920b1c98ba1f454
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/754.html#c40

[リバイバル3] ボッタクリ アンプ _ FM Acoustics の世界 中川隆
41. 中川隆[-8858] koaQ7Jey 2019年8月12日 05:53:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3876]

福井県 オーディオスペースコアさん訪問記♬ 禁断のKRELL 2019年08月10日
https://ameblo.jp/507576/entry-12503714818.html


FM ACOUSTICS|禁断のKRELL
https://ameblo.jp/507576/theme-10078694024.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/754.html#c41

[日本の事件17] プチエンジェル事件の真相
74. 中川隆[-8857] koaQ7Jey 2019年8月12日 06:02:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3877]

2019.08.12
自分の身に危険が迫っていると考えていたエプシュタイン

 有力者に未成年の男女を提供していた容疑で逮捕され、留置されていたジェフリー・エプシュタインが8月10日に「自殺」したと報道されている。自分の隠したい秘密を握る人物の死で秘密が守れたと安堵の胸をなで下ろしている有力者は少なくないだろう。有力者にとって好都合な死だったわけだ。何者かが口封じしたのではないかと疑っている人も少なくない。

 エプシュタインは7月6日に逮捕されたが、​看守や何人かの収容者に対し、何者かが自分を殺そうとしていると語っていた​という。裁判が終わるまで彼は生きていられないのではないかと推測する人もいたが、本人もそう考えていたのかもしれない。

 収監されていた人物、自らに死の危険が迫っていることを口にしていた人物もいる。そのひとりがジョン・F・ケネディ大統領を暗殺したとされたリー・ハーベイ・オズワルドを射殺したとされているジャック・ルビーだ。

 ルビーは1964年4月に死刑が宣告されたが、上訴裁判所はそれを取り消している。その年の6月にウォーレン委員会のメンバーとダラスで面談したルビーはテキサスにいては命が危ないという理由でワシントンDCへ移すように強く求めている。

 自分は真実を話す用意があるが、テキサスでは無理だとしていたのだが、結局、ワシントンDCへの移送は認められない。そして1967年1月にパークランド病院でガンのために55歳で死亡したとされている。

 一方、エプシュタインは死んでいないと主張する人もいる。この人物が病院へ運び込まれた際の写真が存在するのだが、その顔が死人にしては不自然だというのだ。

 確かに、エプシュタインが死んだことを示す証拠は明らかになっていない。死んだときの様子も不明だ。エプシュタインに法廷で証言させないためなら、救出してどこかへ隠してもかまわない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908110000/
http://www.asyura2.com/0505/nihon17/msg/722.html#c74

[近代史3] プチエンジェル事件の深すぎる闇 中川隆
50. 中川隆[-8856] koaQ7Jey 2019年8月12日 06:03:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3878]

2019.08.12
自分の身に危険が迫っていると考えていたエプシュタイン

 有力者に未成年の男女を提供していた容疑で逮捕され、留置されていたジェフリー・エプシュタインが8月10日に「自殺」したと報道されている。自分の隠したい秘密を握る人物の死で秘密が守れたと安堵の胸をなで下ろしている有力者は少なくないだろう。有力者にとって好都合な死だったわけだ。何者かが口封じしたのではないかと疑っている人も少なくない。

 エプシュタインは7月6日に逮捕されたが、​看守や何人かの収容者に対し、何者かが自分を殺そうとしていると語っていた​という。裁判が終わるまで彼は生きていられないのではないかと推測する人もいたが、本人もそう考えていたのかもしれない。

 収監されていた人物、自らに死の危険が迫っていることを口にしていた人物もいる。そのひとりがジョン・F・ケネディ大統領を暗殺したとされたリー・ハーベイ・オズワルドを射殺したとされているジャック・ルビーだ。

 ルビーは1964年4月に死刑が宣告されたが、上訴裁判所はそれを取り消している。その年の6月にウォーレン委員会のメンバーとダラスで面談したルビーはテキサスにいては命が危ないという理由でワシントンDCへ移すように強く求めている。

 自分は真実を話す用意があるが、テキサスでは無理だとしていたのだが、結局、ワシントンDCへの移送は認められない。そして1967年1月にパークランド病院でガンのために55歳で死亡したとされている。

 一方、エプシュタインは死んでいないと主張する人もいる。この人物が病院へ運び込まれた際の写真が存在するのだが、その顔が死人にしては不自然だというのだ。

 確かに、エプシュタインが死んだことを示す証拠は明らかになっていない。死んだときの様子も不明だ。エプシュタインに法廷で証言させないためなら、救出してどこかへ隠してもかまわない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908110000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/358.html#c50

[近代史3] プチエンジェル事件の顧客と噂されている秋篠宮・高円宮はロリコンなのか? 中川隆
36. 中川隆[-8855] koaQ7Jey 2019年8月12日 06:05:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3879]
2019.07.25
欧米の著名人を窮地に追い込む可能性があるリストを持つ容疑者がほぼ意識不明

 ​独房内で「ほぼ意識をなくし」、倒れているジェフリー・エプシュタインを看守が発見した​と報じられている。首にけがをしているようで、病院へ運ばれた。自殺を図ったのか、病院へ移りたかったのか、ほかの囚人に襲われたのか、あるいは別の原因があるのかは不明だ。


 ​本ブログ​でも書いたように、エプシュタインは「友人」のリストを反撃の材料に使おうとしていたと言われている。このリストをエプシュタインの自宅から2009年に持ち出した人物によると、それは「小児性愛ネットワーク」を解き明かすものだという。しかも顧客には著名人の名前が記載されている。日本なら容疑者が「練炭自殺」しそうな事件だ。


 10年余り前にもエプシュタインは同様の容疑で起訴されているが、その時は「寛大な処分」ですんだ。担当地方検事でドナルド・トランプ政権の労働長官だったアレキサンダー・アコスタによると、​エプシュタインは「情報機関に所属している」ので放っておけと言われた​という。


 その話の信憑性を高める背後関係もある。エプシュタインの妻だったギスレイン・マクスウェルの父親はミラー・グループを率いていたロバート・マクスウェルだが、この人物は1960年代からイスラエルの情報機関に協力、あるいはそのエージェントだったと言われている。しかもイギリスやソ連の情報機関ともつながっていた可能性がある。


 小児性愛の問題はアメリカ主導軍がイラクを先制攻撃、占領を始めた当時にも問題化している。その事実を隠蔽、あるいは自身も参加していたと噂されたひとりがデイビッド・ペトレイアス。当時は第101空挺師団の司令官だった。後にCIA長官を務めるが、2012年に辞任している。陸軍情報部に所属していた予備役中佐との性的な関係と情報の漏洩が原因だとされているが、真の理由は別にあるとも言われている。


 こうした問題はアメリカ以外、例えばイギリスや日本でもあると言われているが、もみ消されているようだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201907250000/



▲△▽▼



練炭は使わなかったが、エプシュタインが独房内で「自殺」した
2019.08.11 櫻井ジャーナル
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908110000/


 ジェフリー・エプシュタインが8月10日に独房内で「自殺」した。7月23日には「ほぼ意識をなくし」て倒れているところを発見されているが、今回は手遅れ。「自殺」を試みた人物に対する監視は厳しくなるはずだが、そうした様子は窺えない。​​ニューヨーク・タイムズ紙は午前7時30分頃に首をつった彼の死体が発見されたとしているが、7時30分に病院へ運び込まれるエプシュタインが目撃され、消防署へ心停止の通報があったのは午前6時38分とする証言​​もある。死亡した状況が不明確だ。その前日、裁判所は事件に関する2000ページの文書を公表していた。

 エプシュタインが未成年の女性を有力者へ性的な目的で提供していることが明るみに出はじめたのは2005年3月。2008年6月に彼は有罪を認めて懲役18カ月を言い渡されているが、州刑務所ではなく郡の営巣へ入れられ、しかも3カ月半で週に6日間は1日12時間、外へ出ることが許されている。処罰は寛大で、待遇は特別だったわけだ。

 ​事件を地方検事として担当したアレキサンダー・アコスタはエプシュタインについて、「情報機関に所属している」ので放っておけと言われたとしている。なお、アコスタはドナルド・トランプ政権で労働長官を務めていたが、今回の件が浮上すると辞任している。

 確かにエプシュタインの背後には情報機関や治安機関の影がちらつく。例えば、彼の妻だったギスレイン・マクスウェルの父親はミラー・グループを率いていたロバート・マクスウェル。この人物は1960年代からイスラエルの情報機関であるモサドのエージェントだったとも言われている。このロバートは1991年11月、カナリア諸島沖で死体となって発見された。その翌月にボリス・エリツィンはソ連を消滅させたが、その工作に絡んでマクスウェルはCIAとKGBを脅していたとも言われている。

 エプシュタインが運営していた小児性愛のネットワークは有力者へのサービスであると同時に、有力者を脅す材料を集めるという目的があった。顧客の様子は全て音声や映像で記録されていたというのだ。

 そうした顧客のリストをエプシュタインの自宅から2009年に持ち出した人物がいる。その人物によると、リストは「小児性愛ネットワーク」を解き明かすもの。それが事実なら、アル・カポネ時代のシカゴと基本構造は同じ。この問題は西側の恐喝による支配システムを明らかにする突破口になる。

 今回は厳しい処罰が予想されていたエプシュタインは有罪を認めず、そのリストを反撃の材料に使おうとしていたと言われている。すでに不適切な行為を強制されたと主張している女性から何人かの有力者の名前が明らかにされているが、エプシュタインが全体像を口にしたなら、アメリカやイギリスのエリートはパニックに陥る可能性がある。そうした顧客の中に日本人や中国人が含まれていても驚かない。

 本ブログではすでに書いたことだが、小児性愛の問題はイラクを先制攻撃したアメリカ主導軍にも波及する。占領地ではそうしたことが行われていたというのだ。そうした事実を隠蔽、あるいは自身も参加していたひとりだと噂されたいるのがデイビッド・ペトレイアス。その当時、彼は第101空挺師団の司令官だった。

 これも本ブログで紹介済みだが、エプシュタインの恐喝人脈はロイ・コーンという弁護士につながる。この人物はドナルド・トランプの顧問弁護士を務め、ジョセフ・マッカーシー上院議員の顧問だった。マッカーシーとの関係でFBIの長官だったJ・エドガー・フーバにもつながる。

 そのコーンと親しくしていた密造酒業者で後に大手酒造メーカーを経営するルイス・ローゼンスティールもスキャンダルで有力者を脅していたと言われている。その同業者だったサミュエル・ブロンフマンもこの人脈に含まれ、これには犯罪組織やCIAも関係する。ローゼンシュタインに対し、アメリカで酒の販売が合法になる準備をするよう、1922年にアドバイスしたのがウィンストン・チャーチルだとされている。

 エプシュタインの「自殺」で胸をなで下ろしたエリートは少なくないだろうが、流れている情報が正しいなら、恐喝の構造は残る。そうしたエリートに支配されている庶民にとっても重大な問題だ。






▲△▽▼

2019.08.12
自分の身に危険が迫っていると考えていたエプシュタイン


 有力者に未成年の男女を提供していた容疑で逮捕され、留置されていたジェフリー・エプシュタインが8月10日に「自殺」したと報道されている。自分の隠したい秘密を握る人物の死で秘密が守れたと安堵の胸をなで下ろしている有力者は少なくないだろう。有力者にとって好都合な死だったわけだ。何者かが口封じしたのではないかと疑っている人も少なくない。


 エプシュタインは7月6日に逮捕されたが、​看守や何人かの収容者に対し、何者かが自分を殺そうとしていると語っていた​という。裁判が終わるまで彼は生きていられないのではないかと推測する人もいたが、本人もそう考えていたのかもしれない。


 収監されていた人物、自らに死の危険が迫っていることを口にしていた人物もいる。そのひとりがジョン・F・ケネディ大統領を暗殺したとされたリー・ハーベイ・オズワルドを射殺したとされているジャック・ルビーだ。


 ルビーは1964年4月に死刑が宣告されたが、上訴裁判所はそれを取り消している。その年の6月にウォーレン委員会のメンバーとダラスで面談したルビーはテキサスにいては命が危ないという理由でワシントンDCへ移すように強く求めている。


 自分は真実を話す用意があるが、テキサスでは無理だとしていたのだが、結局、ワシントンDCへの移送は認められない。そして1967年1月にパークランド病院でガンのために55歳で死亡したとされている。


 一方、エプシュタインは死んでいないと主張する人もいる。この人物が病院へ運び込まれた際の写真が存在するのだが、その顔が死人にしては不自然だというのだ。


 確かに、エプシュタインが死んだことを示す証拠は明らかになっていない。死んだときの様子も不明だ。エプシュタインに法廷で証言させないためなら、救出してどこかへ隠してもかまわない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908110000/


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/362.html#c36

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
187. 中川隆[-8857] koaQ7Jey 2019年8月12日 06:37:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3877]
『「米中貿易戦争と円高デフレ」前半』田村秀男 AJER2019.8.12(3) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=WIOykHR6GaI
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c187
[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
18. 中川隆[-8856] koaQ7Jey 2019年8月12日 09:28:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3878]
サウンドパーツ WE300B シングルエンド/ステレオ構成のアンプを作る
http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html

WE300Bシングルアンプ回路設計と製作@
 
 最近の専門誌の製作記事の多くには失望させられることが増えました。

著作者の権威とは、多くの経験と見識に満ち、「その道でメシを食っていない」高度なアマチュアであって、専門誌はその作品の披瀝で読者の興味を惹くものです。

現実はどうでしょう? 

専門誌の編集者がタレント的に作った「馴れ合い」の数人の、実に経験の浅い方の試作会の様相を呈し、編集側の要望もただ安く作れ…だけに固執しているそうです。

それでは著作者の権威も何もありません。内容の格調を感じさせる記事は極端に減り、当然読者は減る一方です。

その中でも長年に亘り見識ある記事を書いておられる少数派の方とはご面識もあるのですが。

全国の真空管自作ファンが僅か10名ほどの著作者の記事だけを信じてアンプを自作したり、キット製作でお茶を濁している現実がある一方、「どげんかせんといかん」と各地に真空管ファンの集いが出来ているのは大変好ましく、それらの集いを良識と品位のあるリーダーが牽引されているのは実に喜ばしいことです。

決して一部の「親分肌」の方たちに席巻されたり、時に招かれる特定著作者の方に偏らず、逆に著作者の方に強い刺激とアマチュアの見識の高さを見せつけて欲しいと願います。

 一方真空管アンプキットは『音楽再生』は形だけのプラモデル的製品ばかり、他方ではワカル者からみれば法外な価格のアンプも売られてギョーカイは品位を失っています。

浅薄さはオーディオ界を貶めるもので、ファンは法外な価格=高級品とのイメージ先行から脱却してほしいと思います。高価なものにはウソも無い――と云うのも現実です。

 そこでかなり前に連載し、ちょっとした理由からその連載を勝手に消してお叱りを受けた300B/SE(シングルエンド)アンプの製作について、新たな見方から我流に解説します。

この連載の発端は或るお客様(S氏…とします)がお知り合いから譲渡されたキットを改造したいとのご希望からで、その改造範囲で当方が提案した回路が根幹となります。

そのキットの音質に関して真空管アンプには全く無縁だったS氏が「この音何とかならないか…」と頂いたのがキッカケではありますが、当方はメーカーで普段はご相談に応じることは控えていますので念のため。

連載は途中に寄り道し「余談」も入る上、いつ<充電>のため休むか、いつ終えるのかは判りません。

 正直私は『また300B/SEか…』と思っている人間です。満7年時にウエスタンの91型のコピーを2年に亘って120台ほど製作・販売、同年に限定10セット+試作1セットの300Bパラプッシュアンプも製作し、このパラプッシュは阪神淡路大震災で壊れた1組を除けば全部健在です。シングルとパラプッシュを合計しただけでも球数300本近くなりますが、『Live U』というMONOプッシュを長く販売してきた実績もあるので、300Bアンプの製作数を球の本数に換算すれば1000球に相当するアンプを作ったことになります。。

 <91型>はご本家ウエスタン・エレクトリック社の唯一の300Bシングルエンドのアンプで、電圧配分にも忠実なコピー(オリジナルの初段はヘッドアンプなので省略)に徹底したのが特徴でした。

他に製作した多くのWE300Bを使ったアンプも、今ならこうしたかも…と云う部分がありますが、その後の考察や音楽表現力を求める姿勢の変化なので仕方ありません。

 この20年間以上、専門誌に300B症候群的な記事が常時溢れていて食傷気味なのは私だけではないでしょう。それゆえ『300Bだけが真空管じゃあるまいし』と反駁する思いもあるのです。

専門誌がイタズラに作ってしまったその風潮は、先日ヤフオクで落札された<WE300Aペア>の金額にも表れています。何と2本で801000円!! 気ちがい沙汰(放送禁止用語?)です。

…余談ながら私が習った先輩からは「3極管にペアと云う考えは無い」と云っていました。EP/IP曲線が異なればそれは別のタマ、僅かなバイアス電圧の変動に大きく電流値が変る多極管にはペアが必用でも、バイアス値よりも使用電圧の設定に大きく影響される3極管は、同じ動作ポイントなら特性が揃っていて当然だから…ペアになってしまうのです。

2本が80万円もする300Aの値打ちを云々する立場にはありませんが、ソコまで価値を付けた球なら出力トランスには最低でも@20万円のもの(そんな金額の、正当なOPTなど存在しない?)を使われるのでしょうし、それ相応のオーディオシステムとアンプ製作の腕をお持ちなのでしょう。私なら製作は幾ら大枚を頂戴してもお断り…作ったアンプに80万円相当の球を差し込んで2年以内に壊れようものなら製作者が疑われ、恐らく2本分80万円の損害保証をさせられるでしょう。おおコワ、さわらぬ神に祟りなし。

 例えがワルくて恐縮ながら、300Bばかりを礼賛するのはMモンローが嫌いで吉永小百合が好き…と云っているような気もし、食わず嫌いの妙な憧れを300Bに抱き過ぎるのも滑稽です。

良い多極管にシッカリ予算を投入して作ればとても豊穣な音のアンプも出来ますし、それなりに物量を投入して「コレぞ300Bの音」と信じていても実際にはドライバー回路の音を大きく反映しているからです。それほどドライバー球の選択と使用法も失敗しないための大切な要素です。

 でもこれほど300Bと騒ぐワケ…それを冷静に分析すればなるほどシングルアンプなら作る意欲も湧くか…と思い当ります。WE300Bは高価ですが2本なら何とかなりそうです。球が高いのですから真剣にアンプを作ろう…と云う気にもさせて…それなりに音の良さそうなOPTや部品を選びます。比較的簡単に8W以上の出力が出ますから家庭では必要かつ十分です。

そこで私も考えを改め、折角なら本当に300Bが持てる実力を出来る限り出してくれそうなシングルエンドのアンプを作ってやろう…と云うのが今回の目的です。

 恐らくWE300Bの多くはタンスに大切にしまわれたままになっているでしょう。
サウンドパーツのお客様にも過去25年以上の保有者だけでも数えきれないほど居られ、それ以降今に至るまで25歳トシをとられてもまだ1000本以上がタンスに眠っていると予想します。

中には300Aの保有者も居られるので、いっそそれをヤフオクに出して80万円也で手放し(ヤナギの下にどじょうは2匹居なくて、その後高価な出品額の300Aは総スカンのようですが)、欧州旅行にでも行ってホンモノのクラシックを聴いて来られる方がパートナーのため…と提案したいほどです。

 さて、からかうのもホドホドにして本題に入りましょう。

 300Bはプレート損失(プレート電圧×プレート電流の最大定格)40Wのタマで、WEご本家の91型が実質プレート電圧350V×プレート電流80mA=28Wという設定は70%の超余裕設計です。

この本家本元の使い方以上の酷使(LUX/MB300などは酷使しています)さえしなければ恐らく30年は軽くモチます。そのLUXでも頂部が大きく黒ずんでもまだ平気です。
つまり過去にWE球でヘタった例を知らないものですから、70%の使用法なら創業30年の経験から30年以上でも大丈夫…と証明できます。

従って「大切なタマだから…」と91型用法を下回る「余裕を持った設計…」と云う考えはあまり意味を持ちません。60%の用法でも前述の70%の用法と事実上寿命は変わらないと思われ、逆に「もっと良い音があるのでは?」と欲求不満がつのるだけです。

300Bの本当に良い音を聴きたければ本家本元「お墨付き」の用法を採用した方が実力を知ることになります。

従って今回の連載はこれを基本に設計するのが大前提です。もし31年目に壊れても、それまでホンモノの音を聴いて来たのならが納得…というものです。

 さて下図は最近の専門誌に掲載されたキットの回路です。

http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html

   
 
 記事の解説を読んで総轄すれば「魅力ある音」で、2〜3Wを超えた辺りで歪率1%を超え、6Wで5%〜8Wなら10%…というもの、5%も歪むと誰でも実際には聴き苦しくなります。

著者はこの解説記事を引き受けて本当は困ったろう…と想像します。2〜3Wで1%を超え…というトコロで既に著者の苦しい思いが伝わります。キット価格は中国球付き21万円だそうです。

この回路は間違ってはいませんが、明らかにスイング不足です。逆説的に言えば大きく歪率を改善できる余地があります。

今回は他社製品の批判が目的ではありませんがなぜスイング不足か? なぜ小出力で歪むのか…次回からの解説でお判りになるでしょう。


 WE300B・SEの設計と製作A

 300B/SEアンプを作る前に、アンプの正しい設計のための大原則の幾つかについて、最近は述べられることがありませんので解説します。

<入力電圧とパワーの関係>

 300B/SEなら高域の歪がわずかに耳障りとなるギリギリが8Wほどです。このポイントで歪率3%を少し切る程度でしょう。

 一般にアンプの入力電圧はオーディオの世界では<0dB=0.775V/RMS 1kHz>の時にフルパワーに達することと決められています。

入力信号が実効値0.775V≒ピーク1Vの時に最大パワーに達するようにパワーアンプは設計しなさい…と云う大原則です。

そうでないとプリから何Vもの大きな出力を入れないとパワーが出ないアンプや、僅かにボリュームを上げただけでスピーカーを破るほどのパワーが入る…など作り手任せの勝手な基準になるからです。

元々0dBでの「信号伝送」と云う取り決めが『大原則』で、ムカシはチューナーとか録音機の出力も0dB/0.775Vで「送り/受ける」と決められていたのに、SONYとPhilipsから出たCDプレヤーから2V以上の基準ができ滅茶苦茶になってしまったのです。…マランツ7・マッキン22プリのフォノ・イコライザーからCDに切り替えると、大きくボリュームを絞る…と云う状況はこの時から起きました。

「RMS=実効値」と云うのは、直流は一定電圧で山と谷が無いのと同じように交流の山の部分で谷間を埋めた値を示す値です。

交流波形のピーク部分を表すのが「ピーク値」、エネルギー値=RMS/実効値はピーク値を√2で割った数値ですから電圧では約0.71倍です。

もっと判り易い例では、家庭に来ている電圧が100V…と云うのはRMS/実効値=仕事量のことでピーク値は波形の山ですから141V来ています。

音楽信号はピーク値で云うときも実効値で云うときも有るので使い分けます。xxV/ピーク…とか○○V/RMSの出力…などと表現します。

パワーは電圧の二乗ですからピークパワーはRMSの2倍、『ミュージックパワー』ばピークパワーのことで、アンプの出力は仕事量としてのRMS表示が原則です。スピーカーに入る信号はRMSの2倍のピークパワーに注意しなければなりません。

 300B/SEも大原則の0dB入力時にRMS/8W超に達するものとして設計します。無論もっと大きな電圧を入れれば歪みながらも出力は増え、半導体アンプとは異なって急激に大きく歪むことはありません。

しかし仮に半導体のアンプで最大400W…と記してあれば、それも入力0dBの時に達するワットですから、そのアンプが8Wの時には0.775Vのたった2%(400W×2%=8W)時と言うことになります。現実に同じオーディオ装置でその2台を使い分けることは無いでしょうが、使う時には大出力アンプは高感度過ぎて使いにくいコトから半導体大パワーのアンプの多くには「入力用固定アッテネーター」をつけて万が一に備えると共に使い易くしています。

ボリューム以外に<−20dB>などのレバースイッチが付いているのがその例です。−20dB=10%のことで、つまり大パワーアンプは入力でいきなり感度を落さないと家庭で使うには不便であることが判ります。このスイッチをONしておけば過大入力は不可能なので0dBが入っても40W以上にはならない理屈です。でも折角のプリの信号をいつも抵抗で10%に落とすなんて愚の骨頂とも言えます。

逆説的に云えば、このスイッチを入れっ放しで使うなら、家庭で400Wのアンプを使う必用性など無い…と云えます。パワーは音質とは無関係ですから「力がある」…など専門店や専門誌に踊らされているだけです。

 でも300B/SEのアンプも入力信号0dBに達しないと最大パワーにならない…と云うのでは、ソコソコ能率の良いスピーカーを使っていても、20W以上のパワーのアンプと同居する時には感度が低い印象を与えるので不利です。そこで今少し入力感度を良くして、0.3〜0.5VRMS…つまりピークで0.5V前後の入力で最大パワー8Wに達するように作っておくのが一般的です。

<利得の考え方>

 では300Bから比較的歪の少ない8Wを取り出すにはどのように設計するのでしょうか?

出力管は一定のスイング電圧を要求します。スイング電圧はドライブ電圧と同じで、大きな信号をプレートから取り出すために指定のドライブ電圧をグリッドに入れてやります。

これはその球のバイアス電圧と一致します。つまりバイアス電圧とはスイング電圧のための入り口の高さのようなもの、固定バイアス(Fixt Bias)の時にはグリッドにはマイナス電圧を、自己バイアス(Self Bias)ならカソードにプラス電圧を作ります。

指定のバイアス電圧をスイング=ドライブするためにはバイアス電圧以上の大きな信号電圧を増幅段で稼がないと300Bは最大電圧を少ない歪率で出せません。

 ここで300Bのデータをご覧ください。マキシマムで使うのはコワいし200〜300Vのデータで作るのは2A3みたいで勿体無い…表は単なるデータですからメニューは自分で決めねばなりません。

       
 
 この表で<プレート電圧>はバイアス電圧を差し引いた実効値値のこと、パワーは球のプレートに於ける値、セカンド(二次)〜サード(三次)高調波はdB値が大きいほど歪が少ないことを表します。

この表でWE91型で採用されているものが今回の設計値です。

 <プレート350V・バイアス-71V・負荷抵抗(OPT)2.2kΩ>

…で、示された歪率の時に球出力9.6Wであることが判ります。つまり71Vドライブしたら得られる値です。 負荷抵抗が小さく…8Ω出力へのステップダウン比も小さい…つまりOPTによる音作りを避けることができて良い音質が期待できます。

従ってアース電位0Vに対し71V+350V≒420Vをプレートに掛けないと歪の少ない8Wは得られません。

 一方先に述べた原則論では、バイアス電圧71Vはアンプの入力信号が0dBの時に300Bのグリッドに送り込めるピーク電圧とする必用があります。前に述べたとおりもう少し感度を良くしてピーク電圧0.5Vで設計する方針ですから入力から300Bまでの利得を130〜150倍にし、しかも70V以上の歪の少ない信号を300Bに入れないとダメ…と云うことになります。

 以上で設計の要素が決まりました。

70V以上もの大きなスイング電圧の要求が300Bの持つ宿命です。深いバイアス電圧を持つ球ほど増幅段の設計は音を決定づける大きな要素になります。

91型は元々が光学録音再生用のプリ段を持ったアンプです。利得の大きなWE310A×2段でプリ部とドライブ回路を持つ構成、現代アンプでは91型の初段の310Aは不要です。

知っておく必要があるのは、多極管ドライブの最大の欠点は13kHzくらいから急速に高域の落ちる特性です。

WEはNFBで上手く特性を取っているものの、オーディオアンプでは310Aの1段ドライブですからそれは感度落ちなどムリが生じます。

折角皆さんお好きな「直熱三極出力管」の良い特性を生かすにはドライバーに多極管は用いたくない…と云うのがホンネです。周波数特性の良い『オール三極管構成』で作るところに醍醐味があるのです。

 ここで前回示したキットの回路をご覧ください。増幅段は6SN7で2ユニット入りの球ですが、1ユニットの利得は理想でも20倍ほど、仮に2ユニット並列でも内部抵抗が半分になるだけで利得が大きく増えるわけではありません。

回路図の6SN7 と300Bとは直結なので、300Bのカソード電圧182Vから6SN7のプレート電圧110Vを差し引いたバイアス電圧は72V、これは確かに91型のセオリー通りなのですが、感度から見ればスイング電圧の不足は明らかです。

 WE300B/SEの設計と製作B

<初段管を決める>

 初段を何にするか…選択肢が多過ぎて困ります。

音の良い球にしたいのは誰しも同じ思いですが、2段目以降を考えると利得はそれほど必用ありません。

設計条件は0.5V入力程度でフルパワーを目指すのですから、スイング電圧75V程度として150倍あれば良く、初段の「稼ぎ過ぎ」は逆に困るのです。
したがって初段はせいぜい15〜20倍とし、2段目は10倍〜15倍程度に選ぶのが妥当です。

 真空管の係数にひとつに<μ/増幅率>があります。この数値がそのまま真空管の増幅度…ではありません。<μ>次の計算に用いる係数に過ぎないのです。

  真の増幅度=μ×{RL÷(Rp+RL} RLとは負荷抵抗 Rpとは真空管の内部抵抗)

 フツーの回路で大まかに云えば真の増幅度はμの50〜70%くらいと考えてよく、代表的な球はB電圧を250V程度としたときに次の目安となります。

末尾の数字はこの球がどれほどの出力電圧が取れるか…を表す目安です。

元々このデータはRCA発表の「CR結合データ」つまりプレート抵抗と次段のグリッド抵抗(正しくはグリッドリーク抵抗)とを直流カットのため「カップリング=結合コンデンサー」で結んだ時のもの、ラジオ技術社<オーディオ用真空管マニュアル>にも掲載され、著作者の多くが参考にして回路設計をするバイブルのような存在…からの抜粋です。

  12AX7 μ100   53〜70倍  ピーク最大電圧25〜37V
  12AU7 μ17〜20 13〜14           18〜33V
  12AT7 μ60    35〜40          35〜40V
   6SN7  μ20    15〜16          38〜53V
   6SL7  μ70    37〜50          38〜54V


 倍率はカソードにバイパスコンデンサーを付けた時(=電流帰還を掛けない)の値で、全て双3極管ですが1ユニットのデータです。

このデータだけだと出力最大電圧は12AX7や6SL7が多く取れて具合が良いように見えますが、このように大きい電圧を得るために大きな値のプレート抵抗を必要としている背景があり、余り現実的な数値ではないことを理解しておく必要があります。つまりプレート抵抗を大きく取ると次段のグリッドはそれ以上の大きな値を選択しなければならないので何かと具合が悪いのです。

 もっと大きな出力電圧を得るには電源電圧250Vを上げます。300B/SEの場合、2A3の電源電圧300Vに比べれば楽に400V以上の電源電圧が得られますからそれは容易です。

この数字が重要な意味を持っていることにも気付かされます。それはキットによくある初段と2段目との直結です。直結にすると2段目の各部電圧から初段のプレート電圧を差し引く動作になります。

真空管は1本1本の動作規定があっても実際には良くも悪しくも大変ラフであり、また経年変化で電流が落ちてくるときもあります。初段と2段目とに限らず「直結」はアンプが完成したときだけ設計通りに動作しますが、経年で変化したり球を交換すれば異なる動作になる場合もあるので定期的にチェックを要し、安心して長期に使えるものではありません。

「直結」でたった1個のコンデンサーを省略できても、たとえばスピーカーが2ウェイ以上のシステムなら中高域のユニットには当然低域カット用のコンデンサーが在る…などの矛盾もあるワケです。アンプ内のコンデンサーには製作者しだいで遥かに良品が使えます。直結で2段目以降の電源供給電圧が制約されて思うようなドライブ電圧が得られず、それを避けて大きな電源電圧を求めれば市販の電解コンデンサーの耐圧を超える余計な対策や特殊部品が必要になるなど、難しいことが増えます。

 このデータに話を戻しましょう

初段の球は、バイアス電圧(=カソード電圧)が低い2段目の球のドライブのため15〜20Vの信号電圧を送り込めば良いのですから上記候補球はこの点は全てOKです。
でも2段目の利得も考えると初段に大きな利得は必用がありません。従って候補は12AU7と6SN7となります。

6SN7は6J5が2ユニット入ったタマ。大まかにはWE262B/347とも6CG7/6FQ7/12BH7とも類似、5692は高信頼球です。実際には12AU7とは定数がチョット異なるだけの類似球、ここではキットなどに多く採用され入手も比較的容易で一般的な6SN7を使うことにします。

 余談ですが、ルックスからMT管を嫌ってGT管を選ぶ方は著作者の方にも多いのですが、真空管の発達の歴史から見ればそれは偏見です。

確かにGT管は外観は堂々としていて好ましいのですが、プレート面積はMT管と同等で意外と小さく電極の支え方もプアです。シールドしにくいので外来ノイズを拾うこともあり、MT管のように電極を支えるピンがそのまま端子となっているのと違ってガラス管内からリード線を引き出して端子尖端でハンダしているので、ハンダ不良がノイズや接触不良の原因となることも多く体験しています。

振動がノイズの原因となる「マイクロフォニック」はほとんどの場合カソードの振動で、上下のマイカの支持方法でも明らかにGT管の構造は不利です。このことはパワーアンプ初段もプリアンプでも重要です。

またGT管やST管は余りに種類が少なく選択肢が限定されます。
 
 ここでWEが発表している262A(262Bもほとんど同じです)の、含蓄の多いデータをご覧ください。このデータは原則論そのもので、理解すると今の専門誌に掲載される多くの回路が何か大切ものを忘れている気がします。

 Amplification Factorは利得倍率、Plate Resistanceは262の内部抵抗でプレート電流が小さいと当然ながら内部抵抗は大きいことにも注目、Load ResistanceはRLつまりプレート負荷抵抗のことです。

出力はミリワット表示ですが大きければ出力電圧も高く取れます。セカンド/サード・ハーモニクスは2次高調波/3次高調波歪のことで、値が大きいほど歪が小さいことを表します。

初段はなるべく歪の少ない設計が求められます。データは6SN7とも類似する部分が多いので動作の傾向がつかめます。

 初段の音は2段目・3段目でどんどん増幅されるのですから、B供給電圧が大きく取れても、意味なくプレート電圧を高くする必要はありません。

今回の設計では入力信号0.5V前後から15〜6倍してくれれば良い…と云うことはプレートで歪の少ない信号電圧が10Vも出てくれれば十分なので下記データのプレート電圧112.5Vと云う部分に注目します。

球にもよりますが、初段がプレート電圧100Vを割ると音が少し暗く重くなり…つまり高域の延びを感じなくなります。また140Vを超えると低域が薄くなる傾向があります。

専門誌の著作記事が面白くないのはこの辺りの著述をもっと著作者の思いを入れて述べないからで、それは著作者の方に聞くと編集でかなり文面をカットされてしまうようですから、面白さを欠いている犯人は編修者かもしれません。

 下表で112.5V〜135Vと云う設定が在るのは初段として見る限り「わが意を得たり」、このデータを見るたびに音とプレート電圧に関係を「WEさんはよく判ってらっしゃる」と感じてしまうのです。


http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html 
    
 
 ここで初段のカソード電圧の設定について、私の経験をお話しします。
それはバイアス電圧が大き過ぎると何となく音に躍動感が無くなる…と云う傾向で、飽く迄個人の感覚です。

そこで初段はバイアスを適当に小さく取ることも大切な気がします。アンプとしては理論上ミニマム1Vあれば良いのです。

カソード電圧=スイング電圧ですから、予想される入力信号電圧(この場合は1V未満)に対して大きなバイアス電圧を設定すると…水深の深いのに僅かに起きた波を増幅させる…からだと思っています。

もしバイアス電圧を許せる限り低めに取ると、アンプが最大出力に達する時に入力信号もバイアスに対しても十分に大きくスイングするのでイキイキするような気がするのです。

このことはプリのラインアウトに使うタマにも共通します。ただ、余りにギリギリでは歪率に影響しますから「程度問題」です。

 そこで上表の112.5Vを採用した場合にも−3.0V/2.8mAのデータに注目します。倍率15.5倍・内部抵抗15kΩです。

この「内部抵抗」と云う数値は、私のように専門教育を受けていない人間には計算方法が判りませんからタマのメーカー発表値に従うしかありません。

「内部抵抗値」を知るために考えられる方法は単段で動作回路を組み、プレートの出力を結合コンデンサー経由で1MΩ以上の大きな抵抗で受けて適当な信号入力と出力電圧を測っておき、次にその抵抗を可変抵抗に替えて、先に測定したのと同じ条件で信号電圧が先の結果の丁度半分になるような抵抗値が「内部抵抗」に近いと考えます。出力を受ける抵抗を十分大きくして開放に近い動作から、抵抗値を下げてピッタリ半分の電圧にになった時、内部抵抗と負荷抵抗が並列になっていると予想できるからです。

 実際には真空管の回路を考えるときにイチイチそのような係数を実験から見出すのは大変厄介で意味もなく、回路設計は多くのデータから常識的にやれば良いのです。

そこで私は球を単純に抵抗と考える<プレート電圧÷プレート電流>を回路設計上の球の≪内部抵抗≫と考えて回路設計しています。

するとこのWEデータに於いては、発表の15kΩに対して私の計算値は112.5V÷0.0029A=38.8kΩにもなって、メーカー発表「内部抵抗」の2倍以上になるのですが、RLは大きいほど歪が減る…とデータは云っているのですから問題はありません。。

同じ表で、例えば最も電流値の多い使い方をしたいなら、マキシマム・データの112.5V÷0.004A=28kΩと云うふうに回路計算するのです。WEデータでは13.4kΩですがこの我流計算値を使う方が問題がないことを経験から見出しています。実際にRL=rpつまりメーカー発表値の内部抵抗と同じ抵抗値のプレート抵抗にすると、とても歪っぽい印象で聴けたものではありません。

 ちょっとハナシが反れますが、例外としてはマッキン275の12BH7のプレート抵抗が400V近いプレート電圧時にたったの12kΩと云う例があります。これはプッシュで打消し効果を狙った上にNFBを考てのこと、プレート電圧を極端に高く設定することで出力管に必要な大きなドライブ電圧を送り込み、出力管自体は異例なほど大きなカソードNFBを掛けて利得はほとんど無い「電力変換」のみとさせるだけで、前段の12BH7で大出力時に要求される大きなスイング電圧を得てしまおうとする使い方です。凄いコトを考えた設計ですが、プッシュに大量NFBとう回路設計だから可能なもので300B/SEではとても採用できない手法です。

 また私はトランス結合とかプリOPT出力の計算の時は<プレート電圧÷プレート電流×0.6>をトランスの一次インピーダンスのミニマムの値としています。このことは300Bなど3極管とOPTの負荷インピーダンスの計算時に述べる予定ですが、あの「負荷曲線」から最適負荷を求める面倒さを避ける、いわば『簡易計算法』が<実質プレート内部抵抗の0.6倍>となることに気付いたのです。

このことは多くの製作経験と試行錯誤から得た、トラ結での優れたデータを得るに必要な要素です。

 初段の設計方針の結論として負荷抵抗RLの計算は、メーカー発表の「内部抵抗」は参考と割り切り、球を単純抵抗とした<プレート電圧÷プレート電流>を使うのが回路設計も容易で歪率が少ないと云う点でも優れていますから、今後この値で計算を進めることにします。

http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html


 さて上表の右半分はプレート抵抗の選び方で、<R=rp>とは負荷抵抗=プレート抵抗を内部抵抗と同じにした時のものです。

前述の通り「内部抵抗」は球を抵抗とみた数値…つまり単純にプレート抵抗での電圧降下も1rpにつき112.5V…と云うことになりますから、供給B電圧は単純にプレート電圧の2倍の225Vにしなさい…と云うことになります。表では単純に<R=2rp>とか<R=5rp>を「提案?」していますが、これはプレート電圧を112.5Vに固定した時の値なので、1rp増えるごとにB電圧を112.5Vづつ上げろ…という意味なので簡単に実現できません。<R=5rp>と云うとB電圧は112.5V×5倍+元のプレート電圧=675V…もの高圧を求めていて、それは理想でも「理論」に過ぎません。歪率改善のためには得られるだけ大きなB電圧を得て、できるだけ大きなプレート抵抗を使うのが良い…と云うことを示唆するデータを提示したよ…とWEのデータは云いたいワケです。

 ただここで重要なコトも学びます。それはWEさんの主張するデータによれば、プレート負荷抵抗RLが内部抵抗rpを下回ることはアタマっから想定外でデータの発表すら無いと云うことです。

このコトを言い換えれば、もしB電圧の2分の1(R=rp)を超えるプレート電圧を設定すると、<RLプレート抵抗>が<rp内部抵抗>よりも小さいことになる…のですから、歪増加と云う点からも避けるべきなのです。

もしお手元に最近の専門誌の真空管アンプ回路図があれば、著作者がどのようなB電圧とプレート電圧の関係にしているか…興味をもって見てください。案外「設計真意不明」が多くあります。

折角のB電圧を習慣的に前段用<π型フィルター>として抵抗とコンデンサーで構成する「デカップリング」回路でドロップさせ、結果としてプレート抵抗を小さい値にしたり、供給B電圧の2分の1を遥かに上回るプレート電圧を設定している例が実に多いのです。

 WE300B/SEの設計と製作C

 <2段目=ドライバー管の動作を決める>

 やや唐突ですが、ここで2段目の通称「ドライバー段」の設計に移ります。

初段管と出力管の設計はそう難しいものではありません。でも2段目は違います。特に大きなスイング電圧を要求する300Bでは色んな条件があります。

300Bはμ=3.85倍…つまり単純に前段までの音を3倍以上も増幅するのですから、300A×2本に大枚80万円をはたいても「前の音」を3倍も増幅して聴かせている音…とも云えるのです。

つまりシングルエンドのアンプだから…と云っても出力管1本で音が決まるハズも無く、同じようにOPT(出力トランス)とか整流管・限られた部品・ハンダの種類だけで決まるのでもありません。

そこが自作の愉しみ…と云うワケですが、ネットに溢れる不真面目で無責任な議論は全てを針小棒大の如く述べ、今ハヤりの表現をすれば『上から目線』のあたかも100年も1万本も真空管アンプを聴いて来たかのような記述もあって大嘘だらけ、既成概念に溢れた「頭上のハエ」も一杯いるみたいです。世の中辛口でモノを述べると『上から目線』と叱られそうですからウッカリ言えませんが…。

 さて、2段目までの歪が多ければ歪っぽい音、暗ければ暗く・明るい音なら明るく…正直に出力するのも<直熱三極管>殿の持つ宿命、ドライバー段を妥協したり安直に考えると後悔します。

製作経験ではWE349/3結やEL34/3結、果てはWE421Aによるドライブから誰もが試みるドライバートランスの使用まで、実に多くのパターンのSEアンプを作りました。
どれもがそれなりの特徴を持ちますが、意外に「音」で苦労するのがドライバートランス、特に一次側に電流を流すタイプは何を試みても独特のキャラクターを感じてしまいます。

それがオーナーのお好みかどうか…と云うのが運命の分かれ道です。この記事ではフツーのCR結合回路の解説が目的ですので、トランス結合は後日に回します。
 
 蒸留水のように味も素っ気も無い、スピーカーからはミュージシャンの感情など伝わって来ない平板な音しか出ないアキュフェーズやエクスクルーシブに代表されるな高価な半導体アンプや、LUXあたりのKT88とか50CA10に高過ぎる電圧を掛けた高帰還型で性能だけを謳う低域の薄〜いアンプから、始めてチョイと出来の良いWE300B/SEを聴くとある種のショックがあります。

それがとても音楽的でシングルとしてはパワーも有るので意外とどのスピーカーも上手く鳴らし、声やピアノなどの再生もアキュやエクスの比では無く優れてナマナマしいからです。

そのことを、まるでヒヨコから孵った時に初めて接する人間を親と間違うように、WE300B/SEだけが唯一無二の真空管アンプであるかのように思われて吹聴され、ワル乗りの専門誌で「これでもか〜これでもか」と年間何度も製作記事掲載を繰り返して「良い良い」と過去20年以上も吹き込まれたら、純真無垢なファンは誰もが300Bを真空管アンプの最高峰だと思っても仕方ありません。

でもそのアンプがドライバー段の音も大きく反映しているのは勿論、300Bそのものの「用法」やOPTの性格が加わると実は「300Bシングルアンプ」には一つとして同じ音はありません。

300Bをつかったアンプの全部が良いワケなどあり得な〜〜い…のです。

まして300BのメーカーがWE以外にも多く存在する現在は「寿命3万時間」のWEと同じ性能だと云われても、1日4時間・年間250日聴いて1千時間ですから30年先にウソと判って文句は言えない、どうやら特性もWE発表値とは随分異なるようですから音も違って当然です。本当なら<300B>ではなく<299.5>とか<300.5>の名称にすべきではないか…と思いますが、本家本元が優しい会社なのか異議など誰も云わず、懲りずに益々300B同族が増殖しています。例えば<WE300B>の音に<KR300B>は近くても、<KR300B>にも独自の魅力が有る…と冷静に考えたいと思います。


 ≪閑話休題≫

 300Bをスイングするためにドライバー管に要求されることは

 ・想定する300Bの基本動作であるバイアス電圧71Vに余裕をもってピーク80V程度の信号電圧を送り込む。

 ・利得10〜15倍を得る。


 この2点であり、なるべく歪の少ない方法が望まれます。幸い300Bはコト<WE91型>の回路をみる限り400kΩ近いグリッド抵抗を使っています。これは直熱三極管では異例とも云うべき大きさ、回路設計では大変有り難い優秀なタマです。RCA50がグリッドリーク抵抗に10kΩ以下を指定しているのに比べても突出して「丈夫」、2A3なら最大グリッド抵抗の発表値は500kΩですが、これはマユツバもイイとこで100kΩでもグリッド電流が流れてしまう球がほとんどです。

グリッド電流が流れてグリッド電圧がアース間で+になってもカソードのバイアス値はほとんどそのままですからプレート電流が増えます。放置すると始めの内は自己バイアスなら電流は下げ方向に働こうとはするもののグリッドのプラス化はドンドン進んで、結果としてバイアス電圧はプラス方向に進んで電流が増える悪循環が起き「最大プレート損失=最大定格」を超えてプレートが赤熱⇒暴走…となって球を痛め、最悪の時は壊れます。サウンドパーツが出力管用にグリッドチョークを作る理由がこれです。

 さて初段に6SN7を使ったので2段目には前に述べた候補はあるものの、フツーに2段目も6SN7の1ユニットを使いたいのが当然です。従って2段目も6SN7の1ユニットを使うことにします。

前回のデータで、6SN7は概ね15倍の利得が有ります。

80V近い信号出力を得るには下表のデータを参考にするともっと大きなB電圧を得て、プレート電圧も大きくする必用があります。

 そのデータをご覧ください。やはりRCA発表のCR結合データをラジオ技術「真空管マニュアル」から転載します。


http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html
 
     
 
 このデータの見方は次の通りで、真空管を語る時には良く出てくる表現でもあるのでシッカリ理解すると設計することが面白くなります。

 Ebb  B供給電圧…つまりプレート抵抗に加える電源側の電圧

 Rp=プレート抵抗(フツーはRLと云います)。この場合はMΩ…0.047=47kΩなど3例を示す Rg=次段のグリッド抵抗値 Rk=カソード抵抗 Ib=プレート電流 

 Ec=グリッド電圧/RMS⇒この値はRk/Ω×Ib/mA÷1000(電流の単位をミリアンペアからアンペアにする)…でも求められます。 

 Eb=プレート電圧⇒プレート電圧は、例えば表の左端の例を取ると Ebb/B電圧100V-47k×Ib/1.05mA=Eb/50.6V…としても求められます。

 Esig=入力信号電圧/RMS

 Eout=入力信号が上記の場合の例の際、プレートから得られる信号電圧/RMS A=利得倍率=Eout÷Esig KF=歪率

  
  表の段落の最下部分の記載は使用例の最大値を示しています。Esig/Maxの際のEout/Max⇒その際の利得倍率と最大例を許容している歪率を示します。

  つまり、表の左端の例では0.95V/RMSが信号に入った時にはプレートに12.5V/RMSの信号が発生し、その時は13.1倍の利得が有り、その数値は歪率3.9%の際のものである…と云うことです。

  音楽信号はピーク値ですから、この√2倍となります。

  100Vと250Vの電源部の各3例の、プレート抵抗と次段のグリッドリーク抵抗との関係や、その利得倍率などに特に注意してよ〜くデータを見ると、プレ ート電圧と信号出力電圧の関係が判ってき  ます。このコトに深い洞察力を持てば自ずから真空管の本来持つ動作と、ひいては回路設計に大きな興味が生じるのです。

 
 この表から2段目の6SN7の動作を探ります。

電源電圧100Vの動作例は無視して250Vの例で、最も大きなスイング電圧を得られる動作は表の最下項に記された<Eout>から、プレート電圧47kΩの52.5Vと100kΩの53Vで事実上同じです。

 300Bをスイングするとして、その動作例を表から抜き出しますと

 ・プレート抵抗47kΩ  300Bのグリッド抵抗270kΩ カソード抵抗2.2kΩ プレート電流2.4mA バイアス5.28V(カソード2200Ω×2.4mAで計算できる)プレート電圧137V

 ・プレート抵抗100kΩ  300Bのグリッド抵抗470kΩ カソード抵抗3.9kΩ プレート電流1.31mA バイアス5.11V プレート電圧119V

設計するアンプは大切なWE300Bを使うのですから、当然当店のグリッドチョーク<GCH-60>の使用が前提です。

<GCH-60>の定格は

 抵抗値9kΩ、インピーダンス250kΩ@30Hz/2.2MΩ@1kHzで、30Hz時の最大許容入力60V/RMSつまりピーク84Vで、1kHz時にはピーク100V以上でも問題の無いコトを確認しています。

従ってプレート抵抗100kΩ時に要求される300Bのグリッドリーク抵抗に470kΩのデータはグリッドチョークにもそのまま適用できますが、実際にはもっと安全圏のプレート抵抗47kΩのデータの方が好ましいと考えます。

 一方プレート電圧と<Eout>の関係を見ると、次の球のグリッド抵抗が『十分に大きな値』ならプレート電圧137Vの約38%の交流出力電圧が実効値=RMSで得られることも判ります。

表の他のデータから予想しても6SN7のように内部抵抗がある程度低い球なら、プレート電圧の35%〜40%の実効値出力が得られそうです。逆に云えば次段のバイアス電圧の2.5倍〜3倍のプレート電圧が確保できれば求めるドライブ電圧が得られそうです。このプレート電圧と次段のドライブ電圧との「比例関係」に気付くことはアンプ設計の過程で記憶すべき発見です。

このページの下の方にある連載冒頭のキットの回路図を思い出して下さい。6SN7の2ユニット並列でもプレート電圧は110Vと云う設定で本当に300Bがドライブ出来るのでしょうか?

 実際にはピーク電圧で80Vが欲しいのですから80V÷√2≒57Vつまり60Vほどの実効電圧を得れば300Bがスイングできる…と予想しても差し支え無いでしょう。60Vの実効信号電圧を得るにはプレート電圧はこの約3倍の170〜180Vを得られれば十分余裕ある設計になりそうです。
 
 ここで思い出して頂かねばならないのは、WE262Aの動作例で述べた歪の少ない設計手法⇒⇒

・プレート電圧の最低2倍はB供給電圧が欲しい。

・出来れば球の内部抵抗の1倍以上のプレート抵抗にしたい。

 …と云う条件です。では6SN7の1ユニットの動作を表すEp/Ip曲線を見ましょう。
        
表の軸縦がプレート電流mA、横軸がプレート電圧でグラフ内の数値はバイアス電圧です。

単純に横軸180Vのラインを見ると、電流は2.5mA程度から上の方が線が立っていて良さそうです。仮に2.5mAとの交差点を見るとバイアスは−7.5V程度、5mAなら−6Vほどです。

しかしココで重要な計算をする必要があります。それは6SN7の「プレート損失」のチェックです。
        

 この表は抜粋なので判りにくいのですが、データの3行目の5.0(※7.5)の数字の単位がプレート最大損失=最大定格/Wを表します。

しかしこのデータは詳細に調べると<6SN7GTB>に代表される高規格球のもので、末尾に何も付かない<6SN7>は半分の2.5Wmaxですから要注意です。

 しかもカッコ内に内部ユニットを2ユニットとも使うなら2ユニットの合計で7.5W以下でのオペレーションにしなさい…との規定もあります。

ここでは初段の使い方を低めに設定するので2段目には同じ球の第2ユニットを使うとして、最大4Wを上限としましょう。

つまり180Vのプレート電圧を必用とする一方で、電流との積は4Wを下回らないとヤバいのですから4W÷180V=22mA以下(フツーの6SN7なら13mA以下)、それでも十分余裕はあります。

 余裕があるならもっと電流を流す方が良いだろう…と考えるととんでもない間違いをします。

ナゼならもう一つの重要な要素を忘れてはなりません。それは3極管は電流を増やそうと思えばバイアスを下げなければならないからです。バイアス電圧=スイング電圧です。

300Bのグリッドに80Vを送り込むにしても6SN7は利得は15倍が限界です。そこで80V÷増幅倍数15≒5.3V…つまり6SN7自身のバイアスが、もし5.3Vを割り込むと初段からの信号電圧が門前払いとなって受け入れられず、結果は重要な2段目として300Bに十分大きいスイング電圧を送り込めません。

ここでついでに初段も検証しておけば、初段も15倍するとして、2段目のバイアスを6V程度に決めても初段は最初に想定した0.5V以上のバイアス電圧を確保すれば良い…ことになるので何ら問題はありません。

 再びEp/Ip表を見た時、−6Vよりも深いバイアスでプレート電圧180Vのラインを読むと5mAまでの好きな電流値を選べることが判ります。

ここでも大きなポイントがあります。仮にプレート抵抗の両端に、球の内部抵抗と同じ電圧の最低180Vを与えるとしてプレート抵抗値を計算すると180V÷0.005A=36kΩ…となります。これは今回の回路設計ではプレート抵抗としてミニマムの抵抗値と考えます。ナゼならWE262Aで学んだように、プレート抵抗を内部抵抗に比べて大きな値にすればするほど歪が減る…という結果が得られるのです。そのためには電源部から安直に電圧を降下させてしまうB回路のフィルター回路そのものの設計が絡むことは後に説明します。

 以上でドライバー段の大まかな計算がまとまりました。

つまり-6Vよりも大きなカソード電圧と、プレート電圧180V(アース間ならバイアス電圧6Vを加算して186V)以上を与えると300Bを少ない歪率で余裕をもってドライブできそうです。

でもドライバー球の「音」も大きな要素、何度も繰り返しますが後段の300Bで4倍近くもドライバー段以前の「音」を増幅されるのです。

経験から申せば、このプレート電圧180V…と云うのは6SN7/同GTB/5692の「音楽的な音」として許せるプレート電圧の上限ギリギリです。

その意味は、プレート電圧が200Vを超えるようなオペレーションの傾向としては、低域が薄くて高域寄りになって行く傾向があるからです。

設計上もっと大きなプレート電圧を与える方が良さそうではあっても、アース間にて200Vを少し下回る辺りが許せる「好い音」である限界と考えて下さい。

コレは飽く迄個人的主観ですが、自分用ではなくヒト様にアンプをお届けして来た実績から得た「経験値」であり、単純に電気回路だけを追究している技術屋さんが設計する回路とは主観…立ち位置が異なる、音楽優先姿勢からの主張です。
仮にドライバー段にWE349・6V6・EL34等々の3結を使う場合でも250Vで設計すると、アンプそのものにドライバー段のキャラが色濃く着き、面白くありません。それらの使用に於いてももフシギと実質プレート電圧は200V±20Vが良く、球をパワーチューブと同じ使い方をすべき部位でもありません。それはカソード電圧が高くなることにも要因が隠されているような気がします。

 このようにプレート電圧の設定は「音決め」に大きく関与しますから、出力管も含めてどのような球でも製作後に必ず多少は調整すべき項目なのです。

アマチュアの方がアンプや出力管の音質を述べる際、わずか1台か2台作ったり聴いたりしたから…と云ってあたかも「あらゆる想定を試みた…」かのように述べたり、他からの「伝聞証拠」を自身の意見のように吹聴するのは『口害』です。無論我々プロは尚更…で、アンプのどの部分にも多くの可能性や未体験の音があり、その意外な素晴らしさに喜んだり嘆いたりするものです。

そして音が万一気に入らない時には、そのアンプが正しい設計か否かも大いにアヤシむことです。

どのようなアンプであっても正しく動作しているコトが最低の条件です。

アンプが完成して音が出たら終わり…ではなく、アンプの完成は音の調整では「始まり…」そのものです。

キットでもその外観に惑わされることなくまず回路も見れば、お粗末な部分は一杯あって球や電圧について設計者がどこまで理解しているのかは疑問、購入には二の足どころか三の足も踏みます。

 何せWE300Bのプレート電圧を350Vに絞った動作例だけでも、最初に表でお示しした通り6例もあるのです。無論筆者も全部の音など知る由もなく、その検証など生涯ムリですから「WE様」唯一製品化した91型シングルのオペレーション例を信じて作るのをオススメする所以です。

でも勘違いしてはならないのは、同社では「91型」は小劇場用のローコスト製品としての 位置付けに過ぎず、実物を見ると配線材から使用部品まで比較的ローコストなものを使用しているのです。

 WE300B/SEの設計と製作D

 <電源部を考える>

 ここでいきなり全回路をご覧ください。


http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html

この回路図は回路設計は当方で、実機製作とそれに基づく微修正後の回路の作成はS氏の手になります。各部電圧等の設計との誤差は5%以内に収まりました。

真空管…特に増幅段に関しては<RCA/CR結合データ>でも『50%の誤差でも概ね動作は変わらない』そうですから、ドライブ電圧の能力は電圧比例で変化しても動作そのものは意外とラフでから問題はありません。

 S氏はお知り合いから300B/SEキットの完成品を譲り受けました。元のオーナーは音質にご不満なのですから当然S氏もご納得は行かず、悩まれた末に当方にキット付属の回路図を送って来られてサデッションして欲しいとのご依頼頂いたのです。
KIT添付の回路図は敢えて掲載しませんが、初段と2段目を直結とした、KIT製品に関心のある方にはお馴染みのもので、回路として見たときに多くの矛盾が見て取れるのが惜しいです。

 サウンドパーツはこれでもメーカーですから、製作時間を束縛されるそのようなご相談には本来深入りしません。いい加減な忠告や進言は後日に尾を引く懸念もあります。

でもソコは人間…S氏に上手く乗せられてしまったのですが、ほぼ当方設計の通りに製作されたことは敬服できます。

多くの経緯を経てやっと下図に示した回路図に至りました。

http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html


 ところで誤解されないようお断りしますが、この連載をルル述べてきたのは飽く迄シングルアンプを設計する基本を、300Bを例にこの機会にサウンドパーツ流に解説しているに過ぎません。

 誤りは無いとは思うものの「交流理論」に基づく学者的解説ではなく、ご注文頂いて当方にて製作している300B/SE回路でもありません。

本来はKITという、誰が作っても一定の成果が保証されるはずの製品が、<300B>と云う著名な真空管の名を冠しただけでAKB48的人気でWE球を用いなくても高価に売られます。

音質よりも「売らんかな」を優先してアマチュアの自作ファンを欺いているので、その納得の行かない部分を同じ材料なら「私ならこうする…」と云う独断的な解説をしています。

KITは回路だけではなく…例えばアースポイントの取り方などもイイ加減で、KITと云う名で「逃げて」います。ハムが出ても「直熱管には常識」と非常識な言い逃れをするのですから呆れます。

それはごく一部の例外を除いて全くのウソ、少なくとも高能率スピーカーの50センチ前でハムを感じるなら改善の余地があ

  ※掲載記事に沿って2013年2月に実機に基づき訂正された回路図です

    今後2段目のプレート抵抗を56〜47kΩに変更して、少しプレート電圧を高めに設定の予定です

    増幅段のヒーターも現実には電源トランスのヒーター端子2ヶ所とB巻線のセンタータップを33Ωの抵抗2個で結んでいます
 

<整流>

 電源部に整流管を使う理由は「真空管アンプはかくあるべし」という既成概念とルックスから来るものです。

設計通りの電圧と電流が得られるなら整流管はそれなりに便利ですが、ソケットが合うからと云って自由に交換できる…と思うとヤケドします。

傍熱整流管を使うとヒートアップ・タイムが稼げるメリットがあります。

今回のように直熱出力管を使うアンプに直熱整流管を使うと、ヒートアップ時間がほぼ同じなので整流管からB電圧が加わると同時に電流のほとんどを消費する出力管にも電流が流れ、コンデンサーに必要以上の電圧は加わらないのですが、傍熱出力管のアンプに直熱整流管を用いると、マッキンMc30/Mc60に例はあるものの、ダイオードの両波整流と変わらないので大きなメリットはありません。

 整流管の良いトコロは「両波整流」であり、冷静な回路設計ではデメリットの方が多いと思います。

その理由はフィラメント/ヒーターの消費電力と変換効率、ダイオードによる両波整流も同じように優れています。

 余談ですが専門誌では「ケンカ中」の某国製の整流管とか真空管をベタホメしたり、それを装備したアンプに高評価を与えたりしています。

最初だけ良くて2〜3年で球の天頂部や側部に黒点や妙な焼け跡がつくのが某国球の実態でこれはハッキリ異常です。往年の良い真空管でも長く使うと確かに天頂と側面の一部は少し茶っぽくなるもののそれは正常、黒い斑点が着くことなどはあり得ず明らかに内部金属が劣悪で短命の証拠です。

私個人としては、世の中で最も早く良いタマが入手できなくなるのは整流管だと考えています。最も一般的で高性能なGZ34は良いものが既に少なくて高価です。

ステレオ構成のアンプでは電流容量が整流管1本では不足する上、劣化とともに電流が落ちてしまう整流管をフィールドスピーカーに使わない理由も将来を危惧するのが理由です。

整流管は

・劣化する…整流管は回路の電流容量にもよりますが、当然経年で劣化します。多くは出力管より短命で消耗品と言え、私には274B刻印に10万円を投資する意味が理解できません。整流管が劣化してエミッション電流が流れると、それは整流管で得られる電流と逆の方向なので、整流管はエミッション電流をプラスした電流を回路に供給しようとします。その結果はムリをして電流を出そうとするので急速に劣化が進む…と云う結果になります。

厄介なのは、整流管の劣化が判るのは本当にダメになって音に影響が出るようになってからです。時にはチェックしませんと寿命までアンプは正常と思い込んでしまうワケです。

・エネルギー・ロスがある…ヒーター・フィラメントのロスがあります。最終型のGZ34で5V×1.9A〜5U4/5Z3系なら5V×3Aはロスであり、電源トランスの発熱源ともなります。

 また理論上のAC電圧×√2倍で得られるDC電圧は、何のロスも見込まない無負荷時であり、実際は最大許容電流値の80%消費くらいの時の経験値として

 ダイオードは交流の1.3倍程度の直流電圧

 5U4/GZ34で1.2倍
 5R4/5Y3系で1.1倍
 274に至っては1.05倍〜1.1倍 

 …コレは飽く迄目安ですが、これほど大きな内部損失の影響がありますから出力管の動作ポイントは整流管の交換で容易に変化します。。

 今まで5U4を使っていたアンプに274を使ったら低域の重心が増して…などと云う記述の理由が、同じ交流から得られる直流電圧の差です。たとえば5U4から400Vを得ていたものが274への差し替えで350Vしか得られなければ回路設計は根本的に変わりますから当然音も変化、やや低域寄りになるでしょう。それなら274でも400Vを得られるよう電源トランスの交流タップを別に付けておいたら……ブラインドテストをしたら誰も変化には気付かない…と思います。

チマタには「神話」が溢れていて、それを一蹴すると非難されそうですが、音質が鈍重になった…という方も多く知っています。

まして電流容量は5U4の250mAに対し274/5R4では150mAですから、上記のようなステレオ構成の300B/SEではホントは274の電流不足からもっと電圧が落ちてしまいます。

 さて整流管を使う方法は2つ、整流管の直後をコンデンサー接地する『コンデンサー・インプット』と、チョークを直列に入れてからコンデンサーで接地する『チョーク・インプット』があります。

 コンデンサー・インプットでは、整流した直流はそのコンデンサーが充電するまでの間は短いとは云えアースと短絡状態に陥ることから、整流管には大きなストレスが生じます。その充電時間はコンデンサー容量が大きいほど長いので整流管を痛めないようコンデンサーの容量が規定されています。274=4μF・5U4=40μF・GZ34/5AR4=60μFなどです。でも実際の91型アンプを見ると274を20μFとして使っています。コレは恐らく91型が電解コンデンサーを「2階建て」つまりアース間とで20μFを直列にしたものを更に2重(並列)構成しているからで、直列では10μFなのですが、更にそれを並列にして20μFとなります。

フィルムやオイルコンは「静電容量」ですから充電時間は瞬時で整流管の負担は大きい、でも電解コンデンサーならやや緩慢に充電されるから球を痛める要素が緩和される…からだと思われます。

 チョーク・インプットでもチョークを通ってからコンデンサーに充電されることに変わりはありません。でもチョークコイルには抵抗値がありますので整流管はショート状態にはならない…いわば保護回路です。従ってチョークコイルの抵抗値の規定があります。最も大きな抵抗値を要求しているのがやはり274で75Ωです。もし274などをチョーク・インプットとして使う時、許容電流の大きなチョークを使うと抵抗値はたった30Ω…というケースもあります。その時には抵抗を40Ω程度直列にして抵抗値を増やす必用がある…と云えます。

今回の提示回路に、どのような整流管でも問題ないように整流管の直後に75Ωを入れてあるのはそれが理由です。

 なおチョーク・インプットで取れる電流値は、理論上は電源トランスの交流電圧の0.9倍ですが、実際にはチョークの抵抗値とも絡みますので0.83〜0.85倍と見ておけば良いでしょう。

無論チョーク・インプットに使うチョークは『十分大きな値』が指定なのですが、一般にチョークのヘンリー表示は規定電流時のヘンリー数が記してあるので、電流値に余裕があればヘンリーも大きくなるのがフツーです。そこで実際には5Hと記されたチョークを使っても、次のコンデンサーが40μF程度ならチョークインプットとして動作する場合もありますが、常識的には7H程度以上で抵抗値も60Ω以上あるものを選びます。チョーク・インプットではチョークも電源トランスも唸る傾向があることにも注意します。伏せ型の電源トランスでは常識的に装備前にボルトの締め付けを確認する必要があるでしょう。

なお、シングルアンプの製作においてチョークインプットのみでリップルが大きく取れることはほとんどありません。もう1段チョークか抵抗でパイ型フィルターを組むのが賢明です。

 以上の計算で、同じ電源トランスを使っても両波整流のコンデンサーインプットなら、フツーはトランスのAC電流と同じDC[電流が得られます(表現はトランスメーカーで異なります)。

同じトランスからチョークインプットなら得られる電圧が理論値0.9倍なのは「損」のように思いますが、コンデンサーインプットの約1.5倍程度の電流が得られますからエネルギーは同じです。

ブリッジ整流はAC電流の約0.7倍と計算します。最近一部でナゼかもてはやされる「片波/半波整流」は電源トランスによほどシッカリしたものを使わないと、直流がトランスに流れるのでウナリや振動が出ます。またAC電流値の3分の1程度の電流しか得られない…と考える方が良いでしょう。単純に考えれば「片波/半波整流」はトランスの巻線が片側接地されるのだけがメリット、両波も同じでセンタータップが接地されます。取れるDCが両波は波形の+側への単純折り返しなのにブリッジはパルスであり、「片波/半波整流」は波形を一つづつ飛ばします。その分をコンデンサーの充電・放電で補うので、コンデンサーの音色が大切になります。私個人の考えですが、トランスの巻線が接地しているのは交流信号の「帰路」として観た時には大きな要素で、ブリッジや倍電圧整流はその点で面白くありません。

両波はトランス巻線がブリッジの2倍必要でセイタクだと云うデメリットがありますが、最初から取れるDC波形が美しい上にコンデンサーの充放電の動作に大きく依存しない電源です。

 真空管の大先輩から伺ったハナシによると「実は真空管で一番難しいのが整流管」だそうです。

多くは両波整流管ですから同じ管内に2個のプレートがあります。もしフィラメント/カソードとその周囲を囲んでいるプレートの精度がイイカゲンだと整流の波形の高さが異なります。それはリップルとなって効率も落ちます。一方多くの整流管の最大定格はAC500Vからの整流=DC化です。AC500Vは実効値なのでピーク電圧は約700Vです。2つ封入されたプレートの一方に交流のプラス波形700Vが掛っている時、もう一方のプレートにはマイナス波形の700Vが掛っていますから、その電圧差は1400Vを超えます。そこで整流管の最大耐圧は多く1450Vと記されているのです。

1450Vもの電圧差がガラス管の中で僅か数ミリで向き合っているので、当然に真空度も高くなければならず、それは出力管の比ではないそうです。

このように整流管は恐ろしいほど厳しい定格で成り立っていますから、目視でも良く見る必要があります。274のアンドン型プレートの中に「逆V時型」に吊られたフィラメントは丁度中央に位置しなければなりません。欧州の<U18/20>とか<FW4-500>等を見ると、プレート・フィラメント間が極端に狭く、余りの作りの良さに惚れ惚れしますが、米国製はラフです。

 直熱整流管のフィラメントは見ていれば判るほど、動作させれば熱で伸びます。そのフィラメント伸びを頂部のコイルスプリングや釣りバネで支えて逃げてあるものは、プレートが頂部から見た時に縦向きとして使うことで整流管の水平使用ができます。末尾に<Y>と付くものは水平使用にも耐える耐震構造だそうです。

 RCA83は水銀整流管で、DC化効率も1.2倍を少し上回るほど高効率です。

ただ最初だけは注意が必要で、使用する向き…多くは直立…でフィラメントのみ1時間程度余熱します。フィラメントの余熱で徐々に溜まっていた水銀が霧化し、球内は白くて見えなくなってやがて再び透明になります。それを終えて後にB電圧を加えても既に内部の水銀蒸気で満たされている状態が出来ているので問題なく使えます。その後電源を切ると冷えるまでに球の底部に水銀が溜まって次回使う時に発熱で正しく霧化します。83を使うアンプの多くは「余熱」スイッチを付けて高圧をいきなり印加しないようにしますが、実はそれは球を交換した場合だけで良いのです。…という根拠は、多くのバルブチェッカーに採用されているのが高圧用がRCA83、バイアス用が5Y3なのです。この場合83は試験機内で横方向に寝かせて取り付けてあり、試験機の盤面を水平か前側を下にして縦に使っても内部の水銀は水銀蒸気となる前の蒸発粒子の粗い時にプレートやフィラメントには触れませんから問題ありません。試験機を側面を下にして使えば83は多分壊れます。水銀蒸気がフィラメントに触れると一瞬紫色に輝いて後、フィラメントのコーティングカーボンが剥離して2度と使えなくなります…私に限らず、多くの失敗した者が申すのですから間違いありません。バルブチェッカーに83の余熱スイッチなんて無く、昔日の軍では蹴飛ばしたり放り上げたり乱暴な扱いを受けています。 このように一番最初のみ使用を誤らなければ問題ないのですが、多くはアンプの完成と同時に底を上にしたままチェックしますからその時にダメにするか、その時ダメにならなかった時には正立させたときに必ずダメにしてしまいます。

 つまり83整流管付きアンプを裏返しでチェックする時には5Z3と差し替えて行うか、最低30分の余熱が必用です。


 電源部からプレート用に高圧を供給する時に誤って解釈されているのは、電源部のコンデンサーの持つ意味です。

「リップルの少ない直流を得る」ことだけが目的と思われ、最近は半導体のリップル除去回路でチョークを略すものも増えています。

でももっと大切な目的が有ります。それは…

『プレート回路の帰路』

 でもあることです。

各段の真空管で増幅された信号はプレート抵抗(当然出力トランスも含む)の両端に発生し、増幅された交流信号として取り出されます。

取り出す信号はプレート〜接地間に生じたものであり、そのためにはプレート負荷抵抗のB側が交流的に接地していなければなりません。その役をコンデンサーが担っています。

当然コンデンサーには質の高いものが必要ですが、一方では出来る限り低域まで伸ばす必要がある…つまりコンデンサーは「低域時定数」でプレート抵抗と絡んでいます。

増幅段に用いるプレート抵抗の多くは大変大きな値の抵抗ですから、増幅段のB側を接地するコンデンサーはそれほど大きな値は必用ありません。
でも出力管のプレートにつながるOPT/出力トランスの実測抵抗値は低い値を示すので無視できません。

その抵抗値が大型コアでロスの少なさを強調したものなら100Ω程度の抵抗値しかありません。

もしチョーク後でOPTに直結されるコンデンサーに、粋がって旧来のオイルコン10μFを使った…とします。この場合の低域カット周波数は

 159÷(0.1kΩ×10μF)=159Hz

 …つまり、低域は約160Hzで既に3dBも落ち、それ以下はもっと落ちてしまいます。それ以下の低域はチョーク〜整流管を通じてトランスのセンタータップからアースに落ちるのです。従ってこの場合最低でも40μF以上の値、極端には大きなμFほど自然な低域が得られる…と考えても良いことになります。

 さてこのアンプで増幅段へ行く供給電圧にドロップ用の抵抗を入れないのはナゼでしょうか?

それはこの回路ならOPTに行くB電圧は大きな容量の電解コンデンサーとチョークでプリアンプの電源並みにリップルの無いものとなっているからです。

十分リップルが取れてさえいれば増幅段が仮に2段で構成されていてもπ型フィルターの必要性は全くなく、今まで申したように供給電圧は高いほど、その分プレート抵抗を大きな値にして歪率の小さな増幅段が設計できるのですから、チョーク後のコンデンサーの+側から増幅段にも直接供給しても良い…と云うよりも遥かに理想的な供給方式となります。

 注意するのは、前述の通りコンデンサーはプレートで得られた信号を取り出すために接地するのも大きな使命ですから、どの段に電圧を供給する場合でもこのコンデンサーから直接格段のプレート回路に「枝分かれ」するように送ります。そうでないとプレート〜プレート間の配線の持つ僅かな直流抵抗が干渉を生みます。コンデンサーから各部独立で供給すれば、その配線が持つ僅かな抵抗値はプレート抵抗の一部となるだけ、一切の干渉がなくて電源部が前の段との間でもつ「低域時定数」が無くなるのでブロッキング発振などの恐れも皆無となります。

 さきほどオイルコンデンサー…つまり油含浸箔コンデンサーについて少し述べました。

PCB/ポリ塩化ビフェニールは有毒物質ですから、幾ら当時のコンデンサーの音が良かった…などの風評から「何でもあり」のオーディオとは申しても使うコトは犯罪ですから止めましょう。

私がガキの頃、豆腐のような形状のオイルコン(恐らくPCB入り?)を電気技師だった父親からもらって分解したことがありました。何マイクロファラッド(μF)かは記憶しませんが、油を抜くと茶色の薄紙が錫箔と密着して巻かれてあるだけで、幅7〜8センチ×長さ10mほどの端っこに表裏二つ電極から薄い金属がガラス端子の内側に接続されていました。無論その時は何も感じず、面白くもないので捨てただけです。PCBで手はベタベタになり、ひょっとしたらその後にアトピーになった原因だったかもしれません。余談ですがそれが原因と云うのはアヤシクとも、アトピーは数年前に奇跡的に治るまで何十年も私を苦しめました。

 問題はオイルコンの構造です。電極は金属箔の7〜8センチ×10mと云う大きな面積のわずか7〜8センチの部分にしか付いていません。アンプの電源で使うだけならは「蓄電器」であれば良いので、それでも動作だけなら不都合はありませんが、この構造から想像しただけでも高域での伝達特性が良いとは思えません。仮にそのオイルコンが10μFとして、現代のフィルムコンデンサーなら同じ構造でも長い方の10mの側に電極が付けられます。僅かに電極をずらせてぐるぐる巻きにしてから両端に出ている金属箔に「ハンダ溶射」してリード線を出す構造です。同じ10μFであっても高域特性は段違いだと誰でも想像できます。

これが一部ファンに珍重され、スピーカーネットワークなど音声回路の低域カット用に旧いられるオイルイコンの音の悪さの原因です。大音量では何とかなっても、微弱信号では全く情報量が欠落する欠点があります。

そこで211や845などのアンプでよく見かけるオイルコンは少なくとも現代のフィルム型のオイルコンならともかく、30年以上も前のものを用いると高域の魅力は薄れます。


 WE300B/SEの設計と製作E
 
 <出力管まわりの設計>

 いよいよ300Bそのものの解説となるワケですが、実際にはそのオペレーションはこれまでの段階でほとんどお話ししているので語ることはほとんどありません。

300Bは自己バイアスの時には最大プレート損失40W/100mAですが、固定バイアスではマックス70mAの規定があり、常識的にプレート損失も9割を超えてはなりません。これは全ての球に言えることです。

自己バイアスの<91型>ではカソード抵抗に880Ωを用い、80mAと規定しますのでバイアス計算では880Ω×0.08A=70.4Vです。ではこれが本当のバイアス電圧でしょうか?

WEのマニュアルには300BのフィラメントをDC点火するとき、フィラメントの基準電圧を3.5Vと見て計算するように…との記述があります。

 私も先輩にバイアス電圧を仮に70Vと設定したとき、DC点火するとフィラメント1番に+5V/4番に0Vを掛けてDC点火するので、それぞれのバイアスは65Vと70Vとみなせることから、当然65Vの側にやや多めの電流が流れ、従って精度の高い熱温度計で観測すると1番側のフィラメントの方が4番側よりも温度も高くなっている…と教えられました。

 でもコレは全くウソだったことを後日知ります。

その実験はこうです。

DC点火の際、電流容量があればハムバランサーはなるべく小さな値の固定抵抗2個で構成します。仮に20Ωを1番と4番に付けてその中点にカソード抵抗880Ωを付けてアースに落とします。

実験をしたときにはプレート電流はピッタリ80mAでした。1番ピン(フィラメント5V側)と4番ピンの間にはハムバランサー40Ωによって125mAが流れています。プレート電流もカソード抵抗に向かって流れますから、この場合は80mAのピッタリ半分の40mAが加算されますので125mA+40mA=165mAが流れ、1番ピンから880Ωには20Ωの抵抗で3.3Vの電位差が生じます。

一方4番ピン側からは125mAと逆方向にカソード抵抗に向かって40mAが流れますから125mA−40mA=85mAが流れ、同じように880Ωに向かって1.7Vの電位差があります。つまり3.3V+1.7Vでフィラメント5Vと計算は合います。これはプレート電流がピッタリ半分づつフィラメントに流れていると想定した理想数値なのですが、何と現実もその通りになったのです。

 つまり先輩がプラス側からの方が電流が多いと言ったのは全くのデマであり、空想にに過ぎなかったのです。実はこの現実は後日UV211や845のように10Vのフィラメントでも確認できました。

211球は1000V/自己バイアスでも約50Vと300Bよりもバイアスが浅く、正直のところ両フィラメント端子から全く同じ電流値が流れたことにはびっくりしました。20VのフィラメントのGM70も全く等しい電流値でした。

ここで気付くのが880Ωの自己バイアス抵抗には別途に3.3Vの電圧がバイアス値として存在することです。僅かとは云えこの分だけ電流帰還が掛ることになるのです。このことはバイアス抵抗にバイパスコンデンサーを付けるよりもフィラメント1番/4番に2端子からアースにバイパスコンデンサーを付ける方が少しでもゲインが多くなることになります。

 もし固定バイアスで製作したとき、ウエスタンの云うフィラメント固有のバイアス値3.5V(前述では3.3Vになることを証明)も計算しておきませんと、単純にマイナス71Vを与えたのでは3.5V分電流が減ります。

 300Bのように5Vなら余り気にすることはありませんが、<GM70>のようにフィラメントが20Vもあるものは大問題です。しかもこの球は電流も大きいのでほとんどが固定バイアスで製作することになります。

ではこの場合のフィラメント固有のバイアス値は幾らか…と申しますと300Bがフィラメントの66%ですからほぼ13.5Vになるのも事実です。固定バイアスー90Vを作れば規定の電流が流れるか…と思えば、自己バイアスとして13.5Vが既に掛っているので、バイアス電圧は76.5Vが得られるよう設計しておく必要があるのです。

 負荷抵抗RLは次の機会に述べます。

http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html

サウンドパーツ ホームページ
http--www.soundparts.server-shared.com-index.html
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c18

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
19. 中川隆[-8855] koaQ7Jey 2019年8月12日 09:34:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3879]

サウンドパーツ ホームページ
http://www.soundparts.server-shared.com/index.html


資料室→→往年のアンプ回路から学ぶ
http://www.soundparts.server-shared.com/filebox.html


この資料室では

・プロ機器の真空管アンプ回路図
・サウンドパーツ製作アンプの回路図
・サウンドパーツがアンプ設計や専用部品開発のヒントを得た回路図と背景
・その他あまり公開されていない興味ある図面・画像・サウンドパーツで機器から起こした回路図

 ――などを順次掲載します.


 米国ウエスタン・エレクトリックやWESTREXのアンプの回路図の多くは資料が公開されていますが、ここではメインテナンスを通じて提供された回路図を転載致しました。他の回路図はドイツから入手したものやお客様からご提供頂いたものです。

 誠文堂新光社/浅野勇氏著/監修の「魅惑の真空管アンプ正編・続編」とラジオ技術の各誌から許可なく一部回路図を転載させて頂いておりますが、真空管アンプのヒストリーをご理解頂くには格好の著書でもあります。

 今ご活躍の著者の製作記事のコピー製作に走る方が多い昨今、それらとは異なる見地から今後の真空管アンプのご研究を促すという意味でお役立て頂ければと思います。


・シングルアンプの出力管にグリッドチョークを用いる例

シングル出力段にグリッドチョークを用いる例は浅野勇著「魅惑の真空管アンプ」の巻頭/古典回路解説に複数の例が紹介されています。グリッド電流の流れ易い古典3極管のグリッド回路には直流抵抗が小さくてインピーダンスの大きなグリッドチョークが必須と云えますが、それは高価で当時は特性面でも期待できなかったドライバートランスよりも小型さとコスト面で優れていたのでしょう。RCA50/250のようにグリッド抵抗10kΩ以下…との制約があるように3極管はグリッド電流が流れ易いもの、直流抵抗の低いグリッドチョークは大切な古典3極管に必須とも云えます。WE300Bは比較的グリッド電流が流れにくい球ですが、メーカー発表データに疑問があるのは2A3で、Max0.5MΩを鵜呑みにして設計すると、時には100kΩでもグリッドに2V以上が発生、最悪の場合は電流が増え続けてバイアス値が下がる悪循環を起こしてプレート電流の暴走となり、プレートが赤熱するものもあります。

 グリッドチョークはグリッド電流そのものは防止できませんが、直流抵抗の少ない分だけバイアス電圧に影響が無いので暴走には至りません。

 下記のうちHMVアンプの応用例はプッシュプル用のプレートチョークから位相反転している例で、実に巧妙ながらもグリッドの保護と言う点からは意味が無く、採用を躊躇します。プレートチョークの利点は電源電圧が低くても十分なプレート電圧が得られる、ひいては大きな利得も得られることで、グリッドチョークを併用すると再生周波数の両端が落ちる場合がありますから、併用は十分測定をしなければ失敗します。

 それにしても浅野勇氏は多くの文献から数限りない回路に深い洞察をしておられたに相違ないのですが、「魅惑の真空管」では真空管の使用例だけに的を絞っておられます。著作書の目的からはそれも仕方ありませんが、古典的アンプ全体の回路回析や、それら資料の公開と研究成果も発表して欲しかったと思います。旧いものの中にはコストの制約を受けずに凝った回路のものも多く、それも「ひとつのロマン」であり、技術者の苦労が偲ばれます。

 サウンドパーツの回路は「シンプル・イズ・ベスト」を標ぼうしていますが、もし次々に新たな真空管が開発登場する時代に生まれていれば多分同じコトをして真空管を徹底活用するとか、「これでもか!」的回路の遊びも楽しんだでしょう。現代は例えば出力トランスなど格段に良い特性のものがあるので、入力信号に対してアンプは如何に「増幅する電線」に徹するか…が大切と考えており、その意味でピュアオーディオに徹するという原点に常に位置したいのです。



・出力管に多極管を用いてグリッドチョークでさらに大きな利得を得る

  ※この回路図ではアンプ全体のアースが漏れています

    
http://www.soundparts.server-shared.com/filebox.html


・タンノイ(あのTANNOY?)での例でAFTと記すもののグリッドチョーク・スグにコピーを作れるアマチュア志向の回路 

    

     


・マーシャルのアンプでは入力段にも出力段にもグリッドチョークを入れています 

   
   

・HMVのPX25プッシュプルはドライバー段プレートチョークで位相反転⇒PX25の贅沢なアンプの例は下記のDECCAに軍配!
 
   

サウンドパーツが出力管にグリッドチョークを用いるきっかけとなったDECCAのPX25プッシュプルアンプ 

 このコンソールは大変豪華な作りで、中でもチューナーの周波数切替のイルミネーションは電源オンと共にウットリ見とれる素晴らしさです。今となって惜しいのはアナログが10インチ盤しか使えないことです。勿論回路も技術の賜物として外観に負けていません。

 フォノ入力トランスの2次側からイコライザー回路を経て出力段に至る見事なまでの全段プッシュプル構成。増幅はL63(6J5)に統一してメンテを容易にし、出力管PX25にグリッドチョークを使用しています。PX25のグリッドがグリッドチョークによって磁気結合していると、前段までの信号は出力管の両グリッドに同じ振幅で与えられ、同時に貴重なPX25もグリッドチョークの小さな抵抗値によりグリッド電流が原因の暴走から保護できます。グリッドチョークに抵抗を並列に入れているのは低域時定数が不安定になるのを回避する目的で、大きなヘンリーのグリッドチョークは超低域が不安定になりがちなので低域端を抵抗値で調整したものです。

    


・同じくダブルプッシュプルWE133Aパワーアンプの回路…コレはグリッドチョークとは無関係のWプッシュの例です

    

 WE133Aアンプは電源部が別体のミキサー内蔵用アンプですが、軽度のNFBも掛けて20〜20KHzを保証、WE124系と同じ出力トランスをわずか8Wのアンプに奢り、内部配線材ひとつを取り上げても大量に作られた124シリーズのどれとも比べものにならないコストの掛け方、1086と同じパラフィン含浸綿巻線と内容にこだわっています。

 余談ですが、よく見ないと回路図だけではお気付きにならないでしょうが、かの有名なWEのカップリング用オイルコン(例の縦長の35_×10_×80_H程度のアレです)はNFBには用いられているものの、カップリングは0.03μFのマイカです。同様に129ラインアンプでもカップリングはサンガモ辺りの小型オイル、前述の角ばったWE製コンデンサーはNFB回路で、察するにWEは音質的にはあのコンデンサーは採用したくなかったのかも知れません。86型は採用しているのですが。

 133Aは出力管は349A、個人的にはWEアンプ中で最も音質面で優れる好ましいアンプと思っています。ホールトーンを重視するアンプ群の中でも端正で情報量も多く、まさにモニターたる性格です。124シリーズのように社内QC運動によりビス1本から部品に至るまでコストを重視の時代が到来し、アンプそのものもPA向けになって行ったのとは一線を画します。ただテレフンケンV69と同様インプットトランスを使用して(このアンプのためだけに618Bインプットトランスは2次側にセンタータップが在ります)のダブルプッシュ方式は600Ωの伝送系が可能なプロ機では簡単でも一般的なプッシュプルアンプへの応用は不可能です。そこでサウンドパーツでは<入力反転チョーク>を開発する道を選んだのです。グリッドチョークならインプットトランス固有の音質面での色づけや特性の影響はほとんどありません。ちなみに入力反転チョークは1:1の2巻線ファイラ巻きのトランスと原理は同じですから特性は極めて優秀、いわば1次側の無いトランスです。オーディオ自作派にはコイルを嫌う向きもありますが、マイクロホンやMCカートリッジからスピーカーに至るまで音響はコイルのお世話にならずして増幅系を構成できません。その意味ではコンデンサーも然りで、直結アンプにこだわってもスピーカーのネットワークやイコライザーにはコンデンサーを使わない訳には行きません。

 プッシュプルアンプの位相反転をP-K分割型とかリークムラード型で片付けようとすると、真空管の微妙な特性差や経年変化を考えると、その動作は見かけの「安直」さとは程遠い調整が必要な難しいものだと言わざるを得ません。

 133AアンプやテレフンケンV69の音質を聴いてこの回路の音の良さを知ると、今更ながら現代アンプのほとんどに採用されているプッシュプル反転回路は考えたくなくなり、あのキレの悪さとか平板な音の原因ではないか?との疑いがあります。NFBに「おんぶに抱っこ」で誤魔化しているのがP-K分割/リークムラード反転回路とも云えます。

 デッカ<デコラ>の出力段グリッドチョークの働きとか多極管のUL接続の持つ裸特性の良さまで考察を進めたとき、当店のプッシュプルアンプに採用する『完全バランスプッシュプル』に帰結するのは自然な流れ…と云えます。


⇒ここにWE1126Aラインアンプを追記します。回路的には133Aを更に理想的に追究した…と云えますがパワーアンプではないところが残念です。回路図では見辛いのですが2段目にはプッシュプル用グリッドチョークを用いて、初段5極管による(極論すれば上下の出力が必ず狂っている)プッシュの信号出力をグリッド「磁気結合」によって再合成、グリッドチョークのみが可能です。

 蛇足ですが、アンプと云えばオイルコンばかりのプアな電源と、3極管シングルアンプ至上主義の方には考え付かない回路構成なのが133Aや1126の構成です。WE至上主義でもあるそれらの多くの方々は、133Aなどの魅力有る音質を確認や想像することも無いままご自分に都合の良いアンプのみをピックアップします。時代と共に進化するWE本家そのものの回路追究精神は無視することが多いのです。当時どのようなパーツや部品が作られたか(電解コンデンサーの例のように)時代考証的な発想と並行して真空管の発達と回路を考察する必要があり、そこから音質を想像するのも愉しいことです。

   

・プッシュプル出力トランスのB+/センタータップに直列に<センターチョーク>を挿入した例。

 <Loveシリーズ>パワーアンプの全て採用しているのが出力トランスへの「センターチョーク」です。ここに掲載しているのは数多い例の中でも余りに有名なアンプ、使われている真空管そのものも憧憬の的です。 

でもこの「センターチョーク」回路を採用したアンプは近年発表例が無く、まして過去のメーカー製品には全く採用された例がありません。

 サウンドパーツのこの回路に関する考え方は次の通り、チョークの動作解析の詳細は避けますが「素人的」と一笑に付して頂くことは勝手でもこの方式の採用での音の変化は笑えません。WE古典機共通のこの回路、解析結果を教えて頂ければ嬉しく思います。

 …出力トランスは当然その特性の範囲で1次で作られた信号を2次側に変換します。ただ電源側にはコンデンサーが控えており、B+回路に回り込んだ音声信号を交流的に接地すべきそのコンデンサーとの間で低域時定数が発生します。その意味で電源はリップル低減だけが目的ではなく十分低い時定数でキレイな直流を送ってくれなければ出力トランスで発生した限界低域よりも上の周波数をも一部コンデンサーで接地してしまいます。シングルアンプでは出力トランスのDC抵抗値と電源部の出口のコンデンサーとで低域時定数が成立しますので、トランスの抵抗値が大きいか電源出口のコンデンサーを大きな容量にすればトランスの特性通りの低域が出力されます。

 一方プッシュプルトランスはどうでしょうか? 旧来のトランスによくある「単巻き」では巻き始め(仮にP1)と中点(B+)との間の抵抗値は中点と巻き終わり(P2)の間との抵抗値よりも小さく、電源出口のコンデンサーが十分大きければOPTの巻線抵抗値の差とでシングルと同じように低域時定数が成立します。一方オイルコン時代のコンデンサー容量そのものが大きく取れない時代には、周波数特性の良い2〜5H程度のチョークをOPTのセンタータップとコンデンサー間に入れることで先ほどのOPTの抵抗差にチョークの抵抗を加えて、低域時定数を再生周波数の低域側に影響を与えない数値にまで追い込んだのです。その後WE86アンプからは電解コンデンサーが採用され(8本が林立します)、容量値が大きく取れることになって低域時定数が容易に下げられ、センターチョークの必要性がなくなったと思われます。

 現代トランスの多くはファイラ巻き…つまり複数線並列巻きで、P1〜B+〜P2間に直流抵抗の差はほぼ皆無です。トランスは電源との関係において「フロート」しています。これも考え方としては正解のひとつだと思います。ただヒアリングでは良いコアのトランスを持ってきて十分低域は出るものの低域の楽器の奥行き方向の定位感があまりイメージできません。これは半導体アンプは勿論、真空管のNFBアンプを常用している方には理解してもらいにくい現象です。それらのアンプでは楽器の音も人の声もスピーカーにベタッとして離れず、ステレオは左右の分離だけで奥行き方向の「定位感」が希薄です。

 でも前述のようにここをセンターチョーク式として周波数特性に優れたチョークをセンターに付加して電源との時定数を確立すれば低域のシッカリ感が違ってきます。どなたでも聴けばドラムやベース、ピアノの左手に奥行方向の音像定位が明確になるのが判ります。従って意識して電源部との間で低域時定数を作ったプッシュプル回路も成立する訳で、その良い例がWEの古典回路だと考えます。<Love One>に採用のトランスはイマドキの市販品には珍しくなった「単巻き」ですが特性面では優れていますので、回路にセンターチョークを加えています。奥行きの定位表現も十分でこのファイラ巻き全盛時代でによくぞメーカー(橋本電気)が作ったと思います。

 一方<Love Three>ではOPTのファインメットに対し、高価な100ミクロン・コアのセンターチョークを使用し、ファインメットと音的には絶妙の組み合わせとしています。低域の性格を在来のプッシュプルアンプのやや甘い音質から高域では滑らかさを、全体では立ち上がりの鋭さとスピードのあるものとしています。それゆえにエコー感も奥行き表現も有るのです。全ては下記回路に代表され、WE86型までほとんどのプッシュ、さらには99型/100型(高圧アンプでオイルコン電源ゆえの処置)に至るまでWEがこだわり続けた「センターチョーク方式」の賜物です。

 ただ、サウンドパーツの方式では多極管ウルトラリニア回路にセンターチョークを採用した結果、A級動作を超えて働こうとすると信号の大小で当然電流値が変化し、その結果センターチョークはチョーク本来の脈流を排除する方向に動作します。つまり定電流回路として動作しますのでA級動作範囲を大きく取り、<Love Three>ではもっと大きなパワーを欲するときにはチョークをショートAB級への変えられるスイッチを付けています。またE130Lではスクリーン電圧が最大250Vとの制約があるのでチョークは2コイルファイラ巻きの高級品で、同一信号でプレートもスクリーンもスイングしないと正しく動作してくれないことを確認、この方式の採用は試作段階で大変苦労しました。


 <回路図中のL1がセンターチョークです>
   


 <回路図中のL1=136-A.Retがセンターーチョークです>
   


 サウンドパーツの現行製品の基本回路

http://www.soundparts.server-shared.com/filebox.html

 この回路の優位性をご認識頂きたいためにルル述べてきたのが正直なところです。

リークムラード型プッシュプルやP/K分割回路しか知らない方にはこの音質を予想すらできないと思います。

 前述のWE133AやテレフンケンのV69アンプではでは音質的に優れていても業務用のアンプとして主に600Ωの伝送系に対応するように作られているのは仕方ありません。

 これをサウンドパーツのプッシュプルアンプでは、ごく一般的な家庭用オーディオのプリアンプ等どのような出力に対しても幅広い入力インピーダン特性をもつ『入力反転グリッドチョーク』としていることが大きく異なります。この方法は過去に全く採用された例が無い点ではサウンドパーツの『特許』とも言える使用法ですが、いまどき高い特許申請をしても真空管アンを売ってそのコストが回収できるものでもありません。

また3極管を使ったWEアンプだけが採用した『センターチョーク』を多極管ウルトラリア接続でも使っています。従って回路ではAクラス動作領域を広げないとパワーが取れません。センターチョークは「定電流回路」で、大パワー領域に入る信号に応じて電流が変化するAB1級での設計は無意味なのです。

 下記したサウンドパーツの基本回路図では、出力段プレートから初段カソードへのFNBの例も記入していますが、これは製品では採用していません。でも現代スピーカーで軽度のNFBも必要と考える方のために加えておきました。近年は出力トランスの2次側から初段へのNFBがほとんどですが、ダブルプッシュでは上下のプレートから直接初段のカソードにNFBを掛けます。WE133Aのように直流カット用のコンデンサーを用いず、ごくわずかに電流も返すことで周波数としては0HzからNFBを掛けていることになり、初段のバイアスの変化が無いように設計します。DCカットのコンデンサーを入れないことで信号回路との低域時定数の干渉を無くすことが出来ます。

 飽くまで下図はあらゆる要素を織り込んで記しているだけで、多極管でもウルトラリニア回路の特性は抜群ですからNFBの必要はありません。初段のグリッドや入力反転チョークのCTタップ〜アース間に入る抵抗の意味はココでは解説を略します。

 この回路を見て音質が悪いハズが無いとはお考えになりませんか?

出力段のUL接続では多極管の性格が極めて3極管に近くなります。シングルアンプでも初段/出力段に3極管を用いた2段アンプは多少ラフな設計をしても歪みは少なく設計出来ますから、プッシュでも全2段構成は大変有利です。しかもそのようなシングル2段構成を『水面に映したような』プッシュプルとすることで、どの段を見てもプッシュによる歪みの打ち消し効果があるのです。実際には音を良くするためのノーハウは更に有るとはいえ、誰が作っても失敗しない回路にはそれぞれの真空管・出力トランス・電源の構成・採用部品の音質がより濃く反映されて当然です。つまり全ての部分「本当の」音がモロに出てきます。回路による欠点に隠されいた多くの要素が音に反映されるのです。

 <※の抵抗はNFB用で当店製品には採用しませんが、どうしてもNFを掛けたい方のためのご参考です>

   

 今後はマッキンやマランツの回路例などの回路図を掲載て行きますのでご期待下さい

http://www.soundparts.server-shared.com/filebox.html



http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c19

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
20. 中川隆[-8854] koaQ7Jey 2019年8月12日 09:44:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3880]

サウンドパーツの真空管アンプ
http://www.soundparts.server-shared.com/prodct.html

音楽を聴くことのみ徹底追究したサウンドパーツのアンプ

≪サウンドパーツの音質に対する考察≫

『音が良い』アンプやスピーカーと言っても「音」に基準など無く、好みが人それぞれで異なる以上「良い音」は無数に在ります

私たちプロとは「買って頂く」立場なので
専門誌の著作のように「音が良い」を毎号どの記事も繰り返す「万人受け」は通じず
一人一人のオーナーが満足されるものを作らねばならない宿命を持ちます

でも著作にはある種の権威づけだけで、事実はアマチュアに飛びついて貰えるような予算の制約などもあるので
実際に本当に音楽愛好者に満足して貰えるようなアンプやスピーカーは作れず、市販キットもその延長線に在ります

コストを切り詰めても、根幹を成す出力トランスなどにはそれなりの予算も必要なので、著作で作るコピー製品には限界があります

一方、AUDIOを自認するにはヴィンテージならマッキン/マランツ/JBL/タンノイ/アルテック
現代ならアキュやエクスクルーシブやB&Wを持たねば何となく他から認められない…との感覚があるようです

つまり日本中に溢れるこれらの機器に大枚を払えば標準以上の『良い音』のハズです

リッチな方ならスグにも揃えられるそれらは、本当に音楽を奏でてくれるのでしょうか

マネキン肌・演奏者は横一列に並んでいるだけ・感情面で伝わってくるものが無い
そんな音楽なら高級ラジカセでも再現できるのです

日頃からより良い音を求めて精進し、多くの方のご意見とかオーディオ仲間からのアイディアにも耳を傾け
無数の実験と時間を経て多数のオーナーのご満足を得られるまでに至ったサウンドパーツの製品

真剣に良い音楽ソフトを聴けば、聴くほどに真価を発揮します

音楽ソフトには今まで聴いたことない部分や表現が含まれていたのです
他の製品との比較される「修羅場」を何百もクリアしてご愛用頂き
今のサウンドパーツが存在しています

一方で専門誌が自作派の「受け」を狙ウ目的だけで作った<直熱三極管>ブーム

古典真空管には職人の魂を感じるような素晴らしいものもありますがそれはコレクターアイテム

何でも三極管なら優れている…と思うのは大間違いで音が淡泊なだけの球も多く
時代の要求で性能を追求して生まれた多極管も用法を工夫すれば実に音楽表現に優れるものがあります

ところが大出力を得る目的で作られた著名メーカー製プッシュプルは往年のマッキン/マランツのコピーばかり…

マッキン/マランツの真髄は「凝った出力トランス」なのですからコピー製品は『似て非なるもの』に過ぎません

しかもアメリカ的発想は性能とパワー競争だけの音楽性を競ったものとは言い難く
何台買い、何台作ろうとも『満足』にはほど遠いのです


サウンドパーツは83年に真空管/パーツ専門店として富山市で創業

32年間のアンプ製作数は1300台も軽く上回り、中でもプリアンプが半数近くを占めます
全ては一人で製作する手配線のアンプ、主力アンプのトランスも経験豊富なメーカーの手になる専用特注品です


画像はプリアンプ<Love Five>フルバージョンの内部です

http://www.soundparts.server-shared.com/prodct.html


茶色いコンデンサーの幅は約30ミリで数年前に生産を終えたPanasonic製アルミ箔型、金属膜がメッキと同じ蒸着型とは音のクォリティがまるで違います

長い経験から音質面で十分配慮しスペースにも考慮した部品の使い分け、カラゲ配線、ハンダも鉛フリーの銀・銅を含む特注品

≪家庭で音楽鑑賞を愉しむのにピッタリの良いアンプをとは……≫

アンプ自作マニアに製作例が多い≪三極管シングルアンプ≫は比較的少ない投資で簡単に作れるので人気が有って当然です

サウンドパーツも『シングルアンプこそ最良の管球アンプ』という三極管シングルアンプに傾倒した時期があり
WE300Bシングルアンプは著名な『91型』回路だけでも130台以上を作りました

シングルアンプは球の個性を試すには絶好であり素直な音質も魅力です

でもアマチュアが「製作意欲」を満足させるための手段としてはシングルが最高でも
メーカーがその音質=楽器や声を本当にナマナマしく=再現させ、音楽リスナーのために作るにはもっと上の質を狙わねば存在意義がありません

他方メインテナンス業務でWEやKlangfilmなど映画・スタジオ業務用アンプの音質にも惹かれるものがありました

それはアンプ設計者・製作者の立場から見た回路や部品、優れた特性への興味もさることながら
「声と楽器」の再生に関して名俳優やミュージシャンを納得させ、一方では聴衆を魅了した音色だったと容易に想像できます

黄金時代の映画界は、例えばMGMではミュージシャンとダンサー8000人を丸抱え…というカネ掛け放題

音声機器にも現代オーディオ界など足元にも及ばない予算を掛けることが許されました

俳優やミュージシャンから『これは私の声ではない』『俺の楽器の音ではない』と言われるような器機は淘汰されます

そんなアンプやスピーカーこそ、特性だけを誇る現代AUDIO製品よりも「声と楽器」をナマナマしく聴かせるのです

サウンドパーツが初期の数年にハマった3極管シングル(SE)アンプ

今は貴方がハマっておられるかもしれませんが敢えて申します

それは
良い性格のトランスと部品で構成さえすれば
家庭で十分なパワーもあり音の立ち上がりやキレも良いものです

つまりシングルアンプは回路が単純で稀少な古典三極管へのこだわりという点では一つの選択肢

但し原回路のヒストリーを考察しないで専門誌の著者の作品や旧泰然とした回路にコダワルと音も『旧い』ものになります

『旧い』の定義とは…中域が充実して聴きやすくゆったりとして声が良い…という程度のもので「当然」です

サウンドパーツの<KR/PX25シングル>は当店唯一の直熱三極管のシングルアンプ
最新技術を盛り込んだ100μコアトランスを採用

シングルはコアの磁化が起きるのでファインメットはフツーの2倍のコア材でも低域では不利

かといってフツーの300〜350ミクロン・コアでは音は鈍重で「情報」として重要な小音量時がまるでダメ

完成品として大きなコスト差の無い100ミクロンコアの採用で低域も良く高域は実に爽やか…


大容量コンデンサーによる電源部

フィラメント点火はスイッチング電源(エネルギーロスが小さいので発熱でも有利)
グリッドチョークによる出力管の長寿化や音質の向上
…そこまで腐心してこそシングルアンプは存在価値があります

ではサウンドパーツのプッシュプルアンプの音質はどうでしょうか

 多くのプッシュプルアンプは音質が「マネキン肌」で演奏者は横に並んでいるだけ…と云う印象

演奏者の意気込みとか臨場感は伝わらず、リスナーはメロディを追うだけになります

原因は…「多重負帰還」・高い動作電圧・AB1級動作・中味のプアなトランス等々…
それらの欠点を知り尽くしたサウンドパーツのアンプは
演奏者の意気込み・奥行き方向に広がる音場表現・微妙なニュアンス・伝わってくる感情…を体感して頂けます

シングル構成のアンプよりも上手く、スピード感でも勝るのです
サウンドパーツの<Pushi-Pull>の音は<自然食>…つまり会話の邪魔にならず音量を上げてもウルサクない

名演奏や歌声に時間の経過を忘れ、アレもコレもと聴きたくなる…気持の高揚があります

 ナゼ他の多くのプッシュプルアンプと差があるのか?
WEモニター用<133A>/Telefunken<V69a>やKlangfilmのプッシュプルを原点としているからです

この2台に共通するのが初段も出力段もプッシュプルで構成する『ダブルプッシュプル』という回路

理論上も歪は極端に少なく、ヒアリングでも奥行きの表現が上手くて大変自然な音色があります

当時の出力トランスや回路技術から負帰還=NFBも軽度に掛けて特性を良くしています
最大パワー付近まで全く騒がしくなくて≪楽器やヒトの声の再生≫が一味も二味も違います

サウンドパーツがご家庭でフツーに使える同じ考え方で同じ回路のアンプを製作するためには
入力反転用チョークと云う部品の開発が必要でした

入力反転チョークを使うとシンプルな構成で特性も音も良いPush-Pullアンプがとても簡単に作れます

サウンドパーツ開発のこの部品は、自作マニアへの方も多く採用され「良さ」と簡単さが実証されています

 ファインメットに代表される新材料トランス・コアや巻線技術、それに使用部品も当時より格段に優れる現在
「良き時代」のプロ機の『思想』はそのままで更に優れたアンプが作れるのです
50年代後半のオーディオ黎明期マランツ・マッキンは「消費者向け」特性/パワー重視の大量生産品

楽器の音と声の再生…と云う観点では明確に映画界・スタジオ用などのプロ用アンプには劣ります

音楽表現に優れるサウンドパーツのパワーアンプは全て『ダブルプッシュプル』NON-NFBアンプです

さらに下記の回路図をご覧ください

http://www.soundparts.server-shared.com/prodct.html


サウンドパーツが2013年春から採用のプッシュプル

⇒プレート固定抵抗がプッシュ用チョークとなり、コレ以上シンプルな回路はない!
新採用のドライバ―段用プッシュプル専用プレートチョークは音の伸び・奥行の定位感と躍動感が素晴らしい

※出力管用GCH-60を固定抵抗にしても有効です

データ上も当然ながら全く歪感の無い音楽の楽しさを実感させるもの
シンプルな回路構成中に唯一<足し算>をしているのが出力トランスへのセンターチョーク

A級動作を完璧にするセンターチョークはWEの技術
今のアンプに生かしても奥行表現などでは有効です


市販プッシュプルの欠点とは

そのほとんどが<リークムラード型>という回路で構成されています

少々解説明が長くなりますがここで判り易くその宿命的欠陥を解説しましょう
パワーアンプは原則として1Vの音楽信号が入った時に最大パワーになるよう設計します

どの出力管も多くの使用例があり、300Bなら60〜80V・EL34なら25〜35Vのドライブ電圧を要します

単純にはアンプの信号入力を300Bなら60〜80倍、EL34なら25〜35倍に増幅してやれば最大パワーに達します

ところが<リークムラード型>は必ず増幅2段で構成しますから250倍〜1000倍もの有り余る利得となり
そのままでは超高感度アンプとなることからNFB/負帰還で前述の必用な倍率まで落します

NFBはアンプのダンピングを良くしたり、特性改善に一定の効果があります
またNFBを掛ける前の「裸特性」が歪みの多いものであってもかなり是正します
実際<リークムラード型>は初段がシングルで、それは歪を生じる要因にもなります

そこで2段目のプッシュプル「位相反転段」で、ワザと逆位相に歪ませて初段と歪の打消しを図っています

でもそれは理想的動作であり、アンプ完成初期だけ完璧に動作しても経年で狂ってしまうのがほとんどです

また安直な設計から元々その歪打消し効果そのものがイイ加減なことも多いのです
しかしNFBは、ほぼ上手く是正しますから大変好都合なのです

では何も云うことは無いじゃないか…オっとそうは上手く行きません
NFBと云う技術には音質からみて失うものも多くあって「交流理論」だけでは成立しないのです

それは「余計に稼いで/多く返す」ために情報量も減ってしまうコト…測定では判らない要素です

「情報量」には奥行きの要素・演奏の周囲の情報・本信号に付随している微信号が含まれています

アンプのダンピング特性が良ければ音の切れ味が良くなる…と云うのはウソです
DF/ダンピングファクターは多ければ良いのではなく、スピーカーとの相性の要素です

例えばウーハに必然の高域カットのコイルを入れたらその抵抗分で計算上DFは大きく落ちます

数値だけが一人歩きする余り意味のないもの、大型スピーカーなら1ケタ台の数値が適正でしょう

結局<リークムラード型>は安直な設計を許す「毒を以て毒を制す」…方法です
NFBは特性の改善に効果的でも≪音を良くする≫…要素ではありません

サウンドパーツの<完全Wプッシュプル>は

初段球に適切なゲインの球を選んで出力管のスイング電圧を得ると同時に位相反転もやってしまいます

初段からプッシュプルですから歪はシングルに比べて格段に少なく、大振幅時ほど効果があります

しかも出力管用グリッドチョークを併用しますので、その磁気結合から得られる特性は
初段のプッシュプル動作に多少の偏差が生じたとしても出力管には均等なプッシュプル信号を送り込みます

多極管の出力管はUL/ウルトラリニア結合として三極管並みの良い裸特性の部分で使っています

初段球には三極管を用いますから、2段構成では出力管との間で歪の「自動打消し作用」も働きます

出力トランスには二次巻線抵抗値の小さなものを特注してDFを適正値にしています
以上からアンプに入力された情報は「何も足さない・何も引かない」的に大切に増幅されています

素材に良い構成部品を選び、動作ポイントを熟慮と経験値から「良い音」を探すのです

その結果は安直設計⇒NFB…とは異なるナマナマしさの溢れる音質となり
歪み成分も少ない大変聴き易いものとなるのです

それは印刷とスクリーンで見る景色が異なるように、奥行きと実在感の表現の差となって表現されます


  ≪Love Music≫シリーズ・アンプ 

パワーアンプは

プッシュプルには≪Love One≫と≪Love Three≫があります

さらに≪Love Three≫シリーズはボディ共通で出力管にPX25/EL34/E130Lの3種や6550/KT88も選べます

≪Love Three≫には現在最高の出力トランス…FINEMET大型コア出力トランスを標準で搭載

奥行き表現に優れた<完全A級・センターチョーク内蔵>モデルが標準です
一聴すれば判る一般のプッシュプルアンプとは全く異次元の音楽表現力を有しています


プリアンプは
最新の≪Love Five≫に至るまで3世代の歴代プリ・ベストセラー製品としてこだわりがあり
プリ製作600台超の実績から≪Love Five≫はサウンドパーツのプリアンプ『最終到達点』と考えています

「LCR型イコライザー」はアナログ盤の再生の最良の方式、心臓部のインダクター(コイル)が他では作れません

CD/DAC用に本格的なバランス入力もある真空管プリアンプも世界中に存在しません

増幅系の入り口に位置するプリアンプ

プリでスポイルされた音はシステム全体からは当然出ないのです

いつもパワーアンプに信号を送り続ける心臓部<ライン部>に高級スーパーパーマロイ・コア出力トランスを採用

真空管たった1段で構成されるので他のプリのような2段NFB型やSRPP出力機とデジタル臭の無さでは段違い

しかも出力トランス方式は出力の低インピーダンス化と真空管の持つエネルギー圧縮化で「力と自然感」を両立させます

サウンドパーツのアンプに他の真空管アンプの「真似」は存在しません
真空管には、真空管固有の音の良い電圧/電流配分と云う重要な要素があります
専門誌の著作の多くも「ベストの電圧/電流配分…」というコトに着目し詳しく述べている例はありません

まして市販アンプの設計を見ると、余りに無頓着で熟慮した痕跡は皆無に近いのです

WE300BとかPX25等々…優秀な出力管がその前段の音を『増幅』している意識が無いとイイ音などありません

サウンドパーツの1200台製作実績と云う圧倒的な経験から得られたノーハウは
「真空管の最良の用法」と電源部への考察です

実際には無用な最大パワーを少し犠牲ににしてでも最適の球のオペレーションで動作させる…

同じ真空管を使っても『真空管アンプはどれも同じ』では決してありません

『音楽を聴く道具』を提供することを絶対の信条としています
≪オーディオ≫はヒトによっては蒐集であり、珍しかったり高価な機器の保有も自慢の対象となります

美しくて希少で高価なものを持ちたい…心理を否定しませんが
音楽鑑賞はリッチな方の特権ではありません

このイズムはサウンドパーツの極めて「原価率」の大きな価格構成にも反映させています

オーディオ・ファンの原点として音楽の再現性を最大の目標としていることだけは変えないで欲しいのです

本当に音楽の好きなヒトが望むものは音楽シーンの再現が限りなく「らしい」こと
製作者自身、音楽を聴くときに「求めるもの」が在って、聴けば好きかそうでないか…の判断は明確で

他に納得の行くものが無いので自身作るほかなく
いつのまにか40年以上自作し、29年以上プロとして追究して来た帰結の製品として現行製品があります

製作者として好きなジャンルはJAZZ60%クラシック40%、楽器ならピアノ・サックス・圧倒的にヴォーカル≪声≫…です

ここ数年前から微力ながら「コレは…」と思うミュージシャンを支援/応援しています


<パワーアンプ>

サウンドパーツのプッシュプルアンプは<Love Threeシリーズ>として3種があります

KR製 PX25

Tungsram  E130L
Svetlana EL34WC

の搭載機を選べます

どのプッシュプルも使用する球の最も「美味しい」部分…つまり電圧と電流配分を優先し、パワーだけを追究してはいません

またE130LもEL34も「ウルトラリニア結合」という裸特性が極めて三極管に近い動作の無帰還アンプで音がイキイキしています
音質面で多極管が古典三極管に劣る…と云うのは専門誌や多くの盲信から出た根拠のない説・流言で
多極管の美点を求めて電圧・電流配分などを追い込み、回路を究めた記事やアンプは無く、サウンドパーツでは
淡泊で美しいことに終始しがちな直熱三極管の音に「豊穣さ」や「色気」を加えた感じを得ています

特にE130Lは東欧で音声用に開発された、特性的にはEL34とKT88の中間的な存在で世界で唯一サウンドパーツだけがアンプとしています

E130Lの呼称は、この球が1万時間の高信頼管であることを表し、音質はEL34の華麗さに低域のエネルギー感を加えたものです

E130Lアンプは僅かな改造でいつでもEL34/KT88/6550などのアンプに改造が可能
EL34のアンプはそのままでKT88/6550に差し替えでき、どのアンプも現在の健康度をテスターでチェックできる端子があります

画像はE130L球 同じボディでKR/PX25もEL34も構築でき、EL34アンプは6550などと無改造で互換性があります


画像は初期出荷のものです

http://www.soundparts.server-shared.com/prodct.html


回路がシンプルゆえにワイアリングも単純に見えます

実際には配置を凝縮し端子板を上手く使っているのでそのように見えるのです
青いコンデンサーは米国Musicap、アルミ箔膜にメタライズを密着させた理想のもので音質は滑らかそのものです

右のコイル2個は<センターチョーク>でA級定電流動作を選択した時に奥行き感や音の明瞭感が加わる独自のものです

最新のプッシュプルの回路がこれ

http://www.soundparts.server-shared.com/prodct.html


<Love Three>には市販アンプには無い≪ファインメット≫コア出力トランスと
100ミクロンカットコア出力トランスのバージョンが選べます

この豪華な仕様からは考えられないお求め安い価格です

生き生きした躍動感とエッジの効いた低域に爽やか高域、何と言ってもナマナマしいのが特徴です

ファインメット・コアは全体を通じての品の良さ・声などの自然感と情報量が最大の特徴

100μ(ミクロン)コアはキレ味と低域のバランスが特徴です

いずれのトランスも創業時からお取引のある<テクトロン>製

他の部品も25年以上の長いお取引先の強い協力体制の下サウンドパーツ製品のクォリティと価格が維持できています


 <Love Three>E130L/EL34> 

新たに開発したドライバー段用プッシュプルチョークを標準装備するバージョンが新価格となりました

<ファインメット63VA出力トランス>

PX25/440000円 EL34/360000円 E130L/370000円

※ドライバ―段に高信頼球E80cc採用…オプション設定6000円高


出力トランスのコアとは…

サウンドパーツのオリジナル出力トランスには最高級と云われる2種のコアを採用しています

ファインメット・コアは約23μ厚のアモルファスを鍛造して焼きなまし18μ厚にしたもの

その結果、更にヒステリシス特性が「立った鋭い特性」となり
応答性が他のコアに比べて格段に優れ、巻線技術でもロスが少なく情報量の多さが自然感を伴います

その表現力と低域表現やツブツブの情報量は目を瞠るものがあります
高価ゆえに、良さを知っていてもファインメット出力トランスを他のメーカは採用しません

サウンドパーツがロープライスで販売しているのでとても太刀打ちできないのです

今までEL34の良さを知らずに軽んじていた方も低域の良さ・楽器と声の再現性の良さに驚かれるしょう

ピアノでは指が鍵盤を叩く「ゴトゴト」とハンマーが弦を打つ音がキッチリ分離して判り
爽やかな高域はペットやバイオリンや声楽も澄みきって伸び伸び表現し、痛快ですらあります

全ての楽器の奥行き方向の存在感・実感を伴うライブの雰囲気は最高です
スタジオ録音では室内のエコー成分と基音とが明確に分離して心地良く愉しい
それはWプッシュプルに<センターチョーク>回路という極めて贅沢な構成を採用した恩恵です

この回路の原点はWE製の旧いプッシュプルアンプですが、現代アンプに採用した例はありません

≪Love Three≫では使用する真空管の「音色の良い部分」を得るための電圧/電流に腐心しています

意味の無いパワー重視や必要以上の特性を求めると失うものも一杯あるのです
逆に言えば、特性とパワー重視で設計されたアンプでは未体験の音質がソコに存在します

サウンドパーツのパワーアンプの表現力の高さは最近急速に認められ、多くの受注を頂戴して「ご支持」頂いております

お手持ちの球やKT88/6550での製作等も特注品としてお受けしております
http://www.soundparts.server-shared.com/prodct.html


サウンドパーツ ホームページ
http://www.soundparts.server-shared.com/index.html

サウンドパーツ 300B プッシュプル・アンプ
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/114.html

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c20

[リバイバル3] 孫正義の詐欺の手口 中川隆
3. 中川隆[-8853] koaQ7Jey 2019年8月12日 11:47:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3881]

2019年08月12日
ソフトバンクファンドにハッピーエンドはない


孫社長が言ってる利益はコストを計算せず、含み益を利益だと主張している


画像引用:利益は驚異の2兆円超。ソフトバンクグループの決算に孫正義氏「どうでもいい数字」── ヤフー子会社化の真意も語るhttps://www.businessinsider.jp/post-190439

ソフトバンク・ビジョンファンドは成功しているか?

ソフトバンクは10兆円ファンドに続く第2段を発表し、合計20兆円ファンドになると発表しました。

ソフトバンク・ビジョンファンドは表向き大成功していて、孫社長は株主発表会で年間利益1兆円と報告していました。

だが中身を知ればファンドは利益どころかまだ1円の利益も発生しておらず、絵に描いた餅でしかない。



孫社長が発表した利益1兆円とは、株式の購入や企業買収に要したコストは計算しない一方で、確定していない含み益を利益に入れています。

例えば個人の投資で株や投信の購入は差し引かず、まだ決済していないのに含み益を「儲かった」と自慢しているような話です。

ネット上にはこうした投資家が大勢居るが、孫社長も業績を良く見せたいために、同じことをしています。


ビジョンファンド立ち上げではサウジアラビアなどから多額の投資を受けていて、彼らには一定の配当を支払う契約になっている筈です。

つまり投資とは借金と同じで、他人から投資を受けたら年利何パーセントかを加えて返さなくてはなりません。

ビジョンファンドにはもっと大きな問題があり、それは投資額が巨大すぎるために、相場そのものを押し上げてしまっている点です。


例えば新興IT企業の株価が1000円だとして、ソフトバンクが株を買う事で1500円や2000円に跳ね上がり、表面上の含み益になっています。

株価が上がり続けている間は含み益だが、ソフトバンクが投資を縮小し始めたら、すべての歯車は逆回転し始めるでしょう。

ソフトバンクが買う事で本来の価値より上げられた株価は、ソフトバンクが売ることで暴落するのです。

ソフトバンク・ファンドは株価下落を乗り切れるか

アメリカでは90年代から2000年代までに4000社以上のヘッジファンドが存在したが、現在まで残っているのは数社だけだそうです。

ビジョンファンドはヘッジファンドではなくもっと長期の投資をしているが、ファンドが長期間生き延びるのはとても難しいのです。

第一弾ビジョンファンドが10兆円を使いつくしつつあり、懸念された資金枯渇による価値下落が近づいている。


すると孫社長はもう10兆円を投資すると言い、再び巨額資金を投入して株価を押し上げようとしています。

その10兆円を使ったらまた投資を集め、最終的に100兆円規模のファンドにすると発言しています。

投資家から投資資金を集めて高値で買う事で株価は上がり、資金がなくなったらまた投資資金を集めて株価を買い支えるのです。


ビジョンファンドにとって金の成る木になっているのが未公開株で、新興企業を買収して上場すると、ファンドには巨額の資金が還流する。

これも世界的な株価上昇が続けば儲かり続けるが、いったん下げ始めれば買収した会社は損失に変わってしまう。

ソフトバンク・ビジョンファンドは実態としてまた利益を生み出していないし、孫社長が利益だと言い張っているのは含み益に過ぎない。


欧米の大口ファンドの10年間生存率は、おおよそ50%前後といわれていて、10年間生き延びる確率が五分五分です。

高額で買う事で株価を上げるという大胆な手法のビジョンファンドは、果たして10年・20年の歳月を生き残れるのでしょうか?

長い年月の間にはリーマンショックのような世界的な経済危機もあるでしょうから、そうした激動を乗り切れるとは思いません。
http://www.thutmosev.com/archives/80659151.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/965.html#c3

[近代史3] ソフトバンク 孫正義は日本人の敵 中川隆
4. 中川隆[-8852] koaQ7Jey 2019年8月12日 11:47:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3882]

2019年08月12日
ソフトバンクファンドにハッピーエンドはない


孫社長が言ってる利益はコストを計算せず、含み益を利益だと主張している


画像引用:利益は驚異の2兆円超。ソフトバンクグループの決算に孫正義氏「どうでもいい数字」── ヤフー子会社化の真意も語るhttps://www.businessinsider.jp/post-190439

ソフトバンク・ビジョンファンドは成功しているか?

ソフトバンクは10兆円ファンドに続く第2段を発表し、合計20兆円ファンドになると発表しました。

ソフトバンク・ビジョンファンドは表向き大成功していて、孫社長は株主発表会で年間利益1兆円と報告していました。

だが中身を知ればファンドは利益どころかまだ1円の利益も発生しておらず、絵に描いた餅でしかない。



孫社長が発表した利益1兆円とは、株式の購入や企業買収に要したコストは計算しない一方で、確定していない含み益を利益に入れています。

例えば個人の投資で株や投信の購入は差し引かず、まだ決済していないのに含み益を「儲かった」と自慢しているような話です。

ネット上にはこうした投資家が大勢居るが、孫社長も業績を良く見せたいために、同じことをしています。


ビジョンファンド立ち上げではサウジアラビアなどから多額の投資を受けていて、彼らには一定の配当を支払う契約になっている筈です。

つまり投資とは借金と同じで、他人から投資を受けたら年利何パーセントかを加えて返さなくてはなりません。

ビジョンファンドにはもっと大きな問題があり、それは投資額が巨大すぎるために、相場そのものを押し上げてしまっている点です。


例えば新興IT企業の株価が1000円だとして、ソフトバンクが株を買う事で1500円や2000円に跳ね上がり、表面上の含み益になっています。

株価が上がり続けている間は含み益だが、ソフトバンクが投資を縮小し始めたら、すべての歯車は逆回転し始めるでしょう。

ソフトバンクが買う事で本来の価値より上げられた株価は、ソフトバンクが売ることで暴落するのです。

ソフトバンク・ファンドは株価下落を乗り切れるか

アメリカでは90年代から2000年代までに4000社以上のヘッジファンドが存在したが、現在まで残っているのは数社だけだそうです。

ビジョンファンドはヘッジファンドではなくもっと長期の投資をしているが、ファンドが長期間生き延びるのはとても難しいのです。

第一弾ビジョンファンドが10兆円を使いつくしつつあり、懸念された資金枯渇による価値下落が近づいている。


すると孫社長はもう10兆円を投資すると言い、再び巨額資金を投入して株価を押し上げようとしています。

その10兆円を使ったらまた投資を集め、最終的に100兆円規模のファンドにすると発言しています。

投資家から投資資金を集めて高値で買う事で株価は上がり、資金がなくなったらまた投資資金を集めて株価を買い支えるのです。


ビジョンファンドにとって金の成る木になっているのが未公開株で、新興企業を買収して上場すると、ファンドには巨額の資金が還流する。

これも世界的な株価上昇が続けば儲かり続けるが、いったん下げ始めれば買収した会社は損失に変わってしまう。

ソフトバンク・ビジョンファンドは実態としてまた利益を生み出していないし、孫社長が利益だと言い張っているのは含み益に過ぎない。


欧米の大口ファンドの10年間生存率は、おおよそ50%前後といわれていて、10年間生き延びる確率が五分五分です。

高額で買う事で株価を上げるという大胆な手法のビジョンファンドは、果たして10年・20年の歳月を生き残れるのでしょうか?

長い年月の間にはリーマンショックのような世界的な経済危機もあるでしょうから、そうした激動を乗り切れるとは思いません。
http://www.thutmosev.com/archives/80659151.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/549.html#c4

[近代史3] プチエンジェル事件の顧客と噂されている秋篠宮・高円宮はロリコンなのか? 中川隆
37. 中川隆[-8851] koaQ7Jey 2019年8月12日 12:10:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3883]

勾留中に死亡の米実業家、監房の見回り実施されず 情報筋
2019.08.12 Mon posted at 10:20 JST


勾留中に死亡したエプスタイン被告。監房の見回りが実施されていなかったという/WPEC/Miami-Dade County Sheriff's Office



ニューヨーク(CNN) 性的人身売買で起訴された米実業家ジェフリー・エプスタイン被告(66)がニューヨークの拘置所内で死亡した件で、被告が自殺したとみられる夜に、一定時間ごとの見回りが実施されていなかったことが分かった。事情に詳しい情報筋が11日に明らかにした。

エプスタイン被告は10日早朝の遺体発見時、特別収容区画内の監房にひとりで勾留されていた。当初は同房者がいたものの、何らかの理由で別室に移されたという。

情報筋によると、同施設の規定では、自殺監視リストから外れたばかりの者をひとりで収容してはならないと定めている。エプスタイン被告は先月23日、首をつろうとした跡が見つかったため自殺防止房に移されたが、監視措置は先月末に打ち切られていた。

また、特別収容区画では看守が30分ごとに収容者の様子を見て回るよう定めた規定もある。収容者が眠っている様子の場合、看守は問題がないことを確認する必要があるという。

看守が虚偽の文書を作成して見回りを実施したことにしていた場合、刑事訴追される可能性もある。

連邦刑務所局は11日、コメントを控えた。

連邦当局者は10日、CNNに対し、エプスタイン被告の死に事件性はないと明らかにした。刑務所局の発表では「自殺とみられる」と説明し、連邦捜査局(FBI)が捜査中としている。

エプスタイン被告は、未成年の少女を対象とした性的人身売買組織を運営したとして、ニューヨーク連邦地検に起訴された。無罪を主張した後、7月上旬から収監されていた。
https://www.cnn.co.jp/usa/35141176.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/362.html#c37

[日本の事件17] プチエンジェル事件の真相
75. 中川隆[-8850] koaQ7Jey 2019年8月12日 12:10:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3884]

勾留中に死亡の米実業家、監房の見回り実施されず 情報筋
2019.08.12 Mon posted at 10:20 JST


勾留中に死亡したエプスタイン被告。監房の見回りが実施されていなかったという/WPEC/Miami-Dade County Sheriff's Office



ニューヨーク(CNN) 性的人身売買で起訴された米実業家ジェフリー・エプスタイン被告(66)がニューヨークの拘置所内で死亡した件で、被告が自殺したとみられる夜に、一定時間ごとの見回りが実施されていなかったことが分かった。事情に詳しい情報筋が11日に明らかにした。

エプスタイン被告は10日早朝の遺体発見時、特別収容区画内の監房にひとりで勾留されていた。当初は同房者がいたものの、何らかの理由で別室に移されたという。

情報筋によると、同施設の規定では、自殺監視リストから外れたばかりの者をひとりで収容してはならないと定めている。エプスタイン被告は先月23日、首をつろうとした跡が見つかったため自殺防止房に移されたが、監視措置は先月末に打ち切られていた。

また、特別収容区画では看守が30分ごとに収容者の様子を見て回るよう定めた規定もある。収容者が眠っている様子の場合、看守は問題がないことを確認する必要があるという。

看守が虚偽の文書を作成して見回りを実施したことにしていた場合、刑事訴追される可能性もある。

連邦刑務所局は11日、コメントを控えた。

連邦当局者は10日、CNNに対し、エプスタイン被告の死に事件性はないと明らかにした。刑務所局の発表では「自殺とみられる」と説明し、連邦捜査局(FBI)が捜査中としている。

エプスタイン被告は、未成年の少女を対象とした性的人身売買組織を運営したとして、ニューヨーク連邦地検に起訴された。無罪を主張した後、7月上旬から収監されていた。
https://www.cnn.co.jp/usa/35141176.html
http://www.asyura2.com/0505/nihon17/msg/722.html#c75

[近代史3] プチエンジェル事件の深すぎる闇 中川隆
51. 中川隆[-8849] koaQ7Jey 2019年8月12日 12:11:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3885]

勾留中に死亡の米実業家、監房の見回り実施されず 情報筋
2019.08.12 Mon posted at 10:20 JST


勾留中に死亡したエプスタイン被告。監房の見回りが実施されていなかったという/WPEC/Miami-Dade County Sheriff's Office



ニューヨーク(CNN) 性的人身売買で起訴された米実業家ジェフリー・エプスタイン被告(66)がニューヨークの拘置所内で死亡した件で、被告が自殺したとみられる夜に、一定時間ごとの見回りが実施されていなかったことが分かった。事情に詳しい情報筋が11日に明らかにした。

エプスタイン被告は10日早朝の遺体発見時、特別収容区画内の監房にひとりで勾留されていた。当初は同房者がいたものの、何らかの理由で別室に移されたという。

情報筋によると、同施設の規定では、自殺監視リストから外れたばかりの者をひとりで収容してはならないと定めている。エプスタイン被告は先月23日、首をつろうとした跡が見つかったため自殺防止房に移されたが、監視措置は先月末に打ち切られていた。

また、特別収容区画では看守が30分ごとに収容者の様子を見て回るよう定めた規定もある。収容者が眠っている様子の場合、看守は問題がないことを確認する必要があるという。

看守が虚偽の文書を作成して見回りを実施したことにしていた場合、刑事訴追される可能性もある。

連邦刑務所局は11日、コメントを控えた。

連邦当局者は10日、CNNに対し、エプスタイン被告の死に事件性はないと明らかにした。刑務所局の発表では「自殺とみられる」と説明し、連邦捜査局(FBI)が捜査中としている。

エプスタイン被告は、未成年の少女を対象とした性的人身売買組織を運営したとして、ニューヨーク連邦地検に起訴された。無罪を主張した後、7月上旬から収監されていた。
https://www.cnn.co.jp/usa/35141176.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/358.html#c51

[政治・選挙・NHK264] れいわ、野党共闘に意欲も消費税率ダウンが条件+市民連合の要望書がいい+Kカメハメハ他界(日本がアブナイ!) 笑坊
2. 中川隆[-8851] koaQ7Jey 2019年8月12日 13:37:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3883]
山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者


れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ

山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


____


斉藤まさし(2018、8最高裁にて公職選挙法違反で有罪)が山本太郎の街宣に現れた!

やはり山本太郎は操り人形だったのね。


山本太郎の選挙を指揮していると言われてる斉藤まさしが新宿西口で行われた「山本太郎の街頭演説」の場に現れた。

元俳優の山本太郎を使って革命を目指す斉藤まさしの姿が良くお分かりになったでしょう。

監督の指示に従って演技をする、山本太郎は未だに役を演じているように見えますね。

しかし、その俳優は色々問題のある人物だった。

週刊新潮に強姦魔だと書かれても、名誉棄損で訴えることが出来ない。法廷で争う事が出来ない山本太郎という男を担いでしまった。

ME TOO のプラカード持ってパフォーマンスしていた議員達は山本太郎に強姦されたと勇気をもって告発した女性にはダンマリか!

未成年の女の子を強姦しても、革命家斉藤まさしの書いたシナリオ通りを演じておけば、参議院議員にもなれるか。

もし、事実じゃなないのなら、何故週刊新潮を訴えないのか?

____


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。


▲△▽▼


ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。

右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという
言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。

大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/404.html#c2

[政治・選挙・NHK264] れいわ、野党共闘に意欲も消費税率ダウンが条件+市民連合の要望書がいい+Kカメハメハ他界(日本がアブナイ!) 笑坊
5. 中川隆[-8853] koaQ7Jey 2019年8月12日 16:10:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3881]
真実を明らかにされるとみんなが困るみたいだね(嘲笑い)
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/404.html#c5
[リバイバル4] サウンドパーツ 300B プッシュプル・アンプ 中川隆
9. 中川隆[-8855] koaQ7Jey 2019年8月12日 18:28:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3879]

サウンドパーツ WE300B シングルエンド/ステレオ構成のアンプを作る
http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html

WE300Bシングルアンプ回路設計と製作@
 
 最近の専門誌の製作記事の多くには失望させられることが増えました。

著作者の権威とは、多くの経験と見識に満ち、「その道でメシを食っていない」高度なアマチュアであって、専門誌はその作品の披瀝で読者の興味を惹くものです。

現実はどうでしょう? 

専門誌の編集者がタレント的に作った「馴れ合い」の数人の、実に経験の浅い方の試作会の様相を呈し、編集側の要望もただ安く作れ…だけに固執しているそうです。

それでは著作者の権威も何もありません。内容の格調を感じさせる記事は極端に減り、当然読者は減る一方です。

その中でも長年に亘り見識ある記事を書いておられる少数派の方とはご面識もあるのですが。

全国の真空管自作ファンが僅か10名ほどの著作者の記事だけを信じてアンプを自作したり、キット製作でお茶を濁している現実がある一方、「どげんかせんといかん」と各地に真空管ファンの集いが出来ているのは大変好ましく、それらの集いを良識と品位のあるリーダーが牽引されているのは実に喜ばしいことです。

決して一部の「親分肌」の方たちに席巻されたり、時に招かれる特定著作者の方に偏らず、逆に著作者の方に強い刺激とアマチュアの見識の高さを見せつけて欲しいと願います。

 一方真空管アンプキットは『音楽再生』は形だけのプラモデル的製品ばかり、他方ではワカル者からみれば法外な価格のアンプも売られてギョーカイは品位を失っています。

浅薄さはオーディオ界を貶めるもので、ファンは法外な価格=高級品とのイメージ先行から脱却してほしいと思います。高価なものにはウソも無い――と云うのも現実です。

 そこでかなり前に連載し、ちょっとした理由からその連載を勝手に消してお叱りを受けた300B/SE(シングルエンド)アンプの製作について、新たな見方から我流に解説します。

この連載の発端は或るお客様(S氏…とします)がお知り合いから譲渡されたキットを改造したいとのご希望からで、その改造範囲で当方が提案した回路が根幹となります。

そのキットの音質に関して真空管アンプには全く無縁だったS氏が「この音何とかならないか…」と頂いたのがキッカケではありますが、当方はメーカーで普段はご相談に応じることは控えていますので念のため。

連載は途中に寄り道し「余談」も入る上、いつ<充電>のため休むか、いつ終えるのかは判りません。

 正直私は『また300B/SEか…』と思っている人間です。満7年時にウエスタンの91型のコピーを2年に亘って120台ほど製作・販売、同年に限定10セット+試作1セットの300Bパラプッシュアンプも製作し、このパラプッシュは阪神淡路大震災で壊れた1組を除けば全部健在です。シングルとパラプッシュを合計しただけでも球数300本近くなりますが、『Live U』というMONOプッシュを長く販売してきた実績もあるので、300Bアンプの製作数を球の本数に換算すれば1000球に相当するアンプを作ったことになります。。

 <91型>はご本家ウエスタン・エレクトリック社の唯一の300Bシングルエンドのアンプで、電圧配分にも忠実なコピー(オリジナルの初段はヘッドアンプなので省略)に徹底したのが特徴でした。

他に製作した多くのWE300Bを使ったアンプも、今ならこうしたかも…と云う部分がありますが、その後の考察や音楽表現力を求める姿勢の変化なので仕方ありません。

 この20年間以上、専門誌に300B症候群的な記事が常時溢れていて食傷気味なのは私だけではないでしょう。それゆえ『300Bだけが真空管じゃあるまいし』と反駁する思いもあるのです。

専門誌がイタズラに作ってしまったその風潮は、先日ヤフオクで落札された<WE300Aペア>の金額にも表れています。何と2本で801000円!! 気ちがい沙汰(放送禁止用語?)です。

…余談ながら私が習った先輩からは「3極管にペアと云う考えは無い」と云っていました。EP/IP曲線が異なればそれは別のタマ、僅かなバイアス電圧の変動に大きく電流値が変る多極管にはペアが必用でも、バイアス値よりも使用電圧の設定に大きく影響される3極管は、同じ動作ポイントなら特性が揃っていて当然だから…ペアになってしまうのです。

2本が80万円もする300Aの値打ちを云々する立場にはありませんが、ソコまで価値を付けた球なら出力トランスには最低でも@20万円のもの(そんな金額の、正当なOPTなど存在しない?)を使われるのでしょうし、それ相応のオーディオシステムとアンプ製作の腕をお持ちなのでしょう。私なら製作は幾ら大枚を頂戴してもお断り…作ったアンプに80万円相当の球を差し込んで2年以内に壊れようものなら製作者が疑われ、恐らく2本分80万円の損害保証をさせられるでしょう。おおコワ、さわらぬ神に祟りなし。

 例えがワルくて恐縮ながら、300Bばかりを礼賛するのはMモンローが嫌いで吉永小百合が好き…と云っているような気もし、食わず嫌いの妙な憧れを300Bに抱き過ぎるのも滑稽です。

良い多極管にシッカリ予算を投入して作ればとても豊穣な音のアンプも出来ますし、それなりに物量を投入して「コレぞ300Bの音」と信じていても実際にはドライバー回路の音を大きく反映しているからです。それほどドライバー球の選択と使用法も失敗しないための大切な要素です。

 でもこれほど300Bと騒ぐワケ…それを冷静に分析すればなるほどシングルアンプなら作る意欲も湧くか…と思い当ります。WE300Bは高価ですが2本なら何とかなりそうです。球が高いのですから真剣にアンプを作ろう…と云う気にもさせて…それなりに音の良さそうなOPTや部品を選びます。比較的簡単に8W以上の出力が出ますから家庭では必要かつ十分です。

そこで私も考えを改め、折角なら本当に300Bが持てる実力を出来る限り出してくれそうなシングルエンドのアンプを作ってやろう…と云うのが今回の目的です。

 恐らくWE300Bの多くはタンスに大切にしまわれたままになっているでしょう。
サウンドパーツのお客様にも過去25年以上の保有者だけでも数えきれないほど居られ、それ以降今に至るまで25歳トシをとられてもまだ1000本以上がタンスに眠っていると予想します。

中には300Aの保有者も居られるので、いっそそれをヤフオクに出して80万円也で手放し(ヤナギの下にどじょうは2匹居なくて、その後高価な出品額の300Aは総スカンのようですが)、欧州旅行にでも行ってホンモノのクラシックを聴いて来られる方がパートナーのため…と提案したいほどです。

 さて、からかうのもホドホドにして本題に入りましょう。

 300Bはプレート損失(プレート電圧×プレート電流の最大定格)40Wのタマで、WEご本家の91型が実質プレート電圧350V×プレート電流80mA=28Wという設定は70%の超余裕設計です。

この本家本元の使い方以上の酷使(LUX/MB300などは酷使しています)さえしなければ恐らく30年は軽くモチます。そのLUXでも頂部が大きく黒ずんでもまだ平気です。
つまり過去にWE球でヘタった例を知らないものですから、70%の使用法なら創業30年の経験から30年以上でも大丈夫…と証明できます。

従って「大切なタマだから…」と91型用法を下回る「余裕を持った設計…」と云う考えはあまり意味を持ちません。60%の用法でも前述の70%の用法と事実上寿命は変わらないと思われ、逆に「もっと良い音があるのでは?」と欲求不満がつのるだけです。

300Bの本当に良い音を聴きたければ本家本元「お墨付き」の用法を採用した方が実力を知ることになります。

従って今回の連載はこれを基本に設計するのが大前提です。もし31年目に壊れても、それまでホンモノの音を聴いて来たのならが納得…というものです。

 さて下図は最近の専門誌に掲載されたキットの回路です。

http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html

   
 
 記事の解説を読んで総轄すれば「魅力ある音」で、2〜3Wを超えた辺りで歪率1%を超え、6Wで5%〜8Wなら10%…というもの、5%も歪むと誰でも実際には聴き苦しくなります。

著者はこの解説記事を引き受けて本当は困ったろう…と想像します。2〜3Wで1%を超え…というトコロで既に著者の苦しい思いが伝わります。キット価格は中国球付き21万円だそうです。

この回路は間違ってはいませんが、明らかにスイング不足です。逆説的に言えば大きく歪率を改善できる余地があります。

今回は他社製品の批判が目的ではありませんがなぜスイング不足か? なぜ小出力で歪むのか…次回からの解説でお判りになるでしょう。


 WE300B・SEの設計と製作A

 300B/SEアンプを作る前に、アンプの正しい設計のための大原則の幾つかについて、最近は述べられることがありませんので解説します。

<入力電圧とパワーの関係>

 300B/SEなら高域の歪がわずかに耳障りとなるギリギリが8Wほどです。このポイントで歪率3%を少し切る程度でしょう。

 一般にアンプの入力電圧はオーディオの世界では<0dB=0.775V/RMS 1kHz>の時にフルパワーに達することと決められています。

入力信号が実効値0.775V≒ピーク1Vの時に最大パワーに達するようにパワーアンプは設計しなさい…と云う大原則です。

そうでないとプリから何Vもの大きな出力を入れないとパワーが出ないアンプや、僅かにボリュームを上げただけでスピーカーを破るほどのパワーが入る…など作り手任せの勝手な基準になるからです。

元々0dBでの「信号伝送」と云う取り決めが『大原則』で、ムカシはチューナーとか録音機の出力も0dB/0.775Vで「送り/受ける」と決められていたのに、SONYとPhilipsから出たCDプレヤーから2V以上の基準ができ滅茶苦茶になってしまったのです。…マランツ7・マッキン22プリのフォノ・イコライザーからCDに切り替えると、大きくボリュームを絞る…と云う状況はこの時から起きました。

「RMS=実効値」と云うのは、直流は一定電圧で山と谷が無いのと同じように交流の山の部分で谷間を埋めた値を示す値です。

交流波形のピーク部分を表すのが「ピーク値」、エネルギー値=RMS/実効値はピーク値を√2で割った数値ですから電圧では約0.71倍です。

もっと判り易い例では、家庭に来ている電圧が100V…と云うのはRMS/実効値=仕事量のことでピーク値は波形の山ですから141V来ています。

音楽信号はピーク値で云うときも実効値で云うときも有るので使い分けます。xxV/ピーク…とか○○V/RMSの出力…などと表現します。

パワーは電圧の二乗ですからピークパワーはRMSの2倍、『ミュージックパワー』ばピークパワーのことで、アンプの出力は仕事量としてのRMS表示が原則です。スピーカーに入る信号はRMSの2倍のピークパワーに注意しなければなりません。

 300B/SEも大原則の0dB入力時にRMS/8W超に達するものとして設計します。無論もっと大きな電圧を入れれば歪みながらも出力は増え、半導体アンプとは異なって急激に大きく歪むことはありません。

しかし仮に半導体のアンプで最大400W…と記してあれば、それも入力0dBの時に達するワットですから、そのアンプが8Wの時には0.775Vのたった2%(400W×2%=8W)時と言うことになります。現実に同じオーディオ装置でその2台を使い分けることは無いでしょうが、使う時には大出力アンプは高感度過ぎて使いにくいコトから半導体大パワーのアンプの多くには「入力用固定アッテネーター」をつけて万が一に備えると共に使い易くしています。

ボリューム以外に<−20dB>などのレバースイッチが付いているのがその例です。−20dB=10%のことで、つまり大パワーアンプは入力でいきなり感度を落さないと家庭で使うには不便であることが判ります。このスイッチをONしておけば過大入力は不可能なので0dBが入っても40W以上にはならない理屈です。でも折角のプリの信号をいつも抵抗で10%に落とすなんて愚の骨頂とも言えます。

逆説的に云えば、このスイッチを入れっ放しで使うなら、家庭で400Wのアンプを使う必用性など無い…と云えます。パワーは音質とは無関係ですから「力がある」…など専門店や専門誌に踊らされているだけです。

 でも300B/SEのアンプも入力信号0dBに達しないと最大パワーにならない…と云うのでは、ソコソコ能率の良いスピーカーを使っていても、20W以上のパワーのアンプと同居する時には感度が低い印象を与えるので不利です。そこで今少し入力感度を良くして、0.3〜0.5VRMS…つまりピークで0.5V前後の入力で最大パワー8Wに達するように作っておくのが一般的です。

<利得の考え方>

 では300Bから比較的歪の少ない8Wを取り出すにはどのように設計するのでしょうか?

出力管は一定のスイング電圧を要求します。スイング電圧はドライブ電圧と同じで、大きな信号をプレートから取り出すために指定のドライブ電圧をグリッドに入れてやります。

これはその球のバイアス電圧と一致します。つまりバイアス電圧とはスイング電圧のための入り口の高さのようなもの、固定バイアス(Fixt Bias)の時にはグリッドにはマイナス電圧を、自己バイアス(Self Bias)ならカソードにプラス電圧を作ります。

指定のバイアス電圧をスイング=ドライブするためにはバイアス電圧以上の大きな信号電圧を増幅段で稼がないと300Bは最大電圧を少ない歪率で出せません。

 ここで300Bのデータをご覧ください。マキシマムで使うのはコワいし200〜300Vのデータで作るのは2A3みたいで勿体無い…表は単なるデータですからメニューは自分で決めねばなりません。

       
 
 この表で<プレート電圧>はバイアス電圧を差し引いた実効値値のこと、パワーは球のプレートに於ける値、セカンド(二次)〜サード(三次)高調波はdB値が大きいほど歪が少ないことを表します。

この表でWE91型で採用されているものが今回の設計値です。

 <プレート350V・バイアス-71V・負荷抵抗(OPT)2.2kΩ>

…で、示された歪率の時に球出力9.6Wであることが判ります。つまり71Vドライブしたら得られる値です。 負荷抵抗が小さく…8Ω出力へのステップダウン比も小さい…つまりOPTによる音作りを避けることができて良い音質が期待できます。

従ってアース電位0Vに対し71V+350V≒420Vをプレートに掛けないと歪の少ない8Wは得られません。

 一方先に述べた原則論では、バイアス電圧71Vはアンプの入力信号が0dBの時に300Bのグリッドに送り込めるピーク電圧とする必用があります。前に述べたとおりもう少し感度を良くしてピーク電圧0.5Vで設計する方針ですから入力から300Bまでの利得を130〜150倍にし、しかも70V以上の歪の少ない信号を300Bに入れないとダメ…と云うことになります。

 以上で設計の要素が決まりました。

70V以上もの大きなスイング電圧の要求が300Bの持つ宿命です。深いバイアス電圧を持つ球ほど増幅段の設計は音を決定づける大きな要素になります。

91型は元々が光学録音再生用のプリ段を持ったアンプです。利得の大きなWE310A×2段でプリ部とドライブ回路を持つ構成、現代アンプでは91型の初段の310Aは不要です。

知っておく必要があるのは、多極管ドライブの最大の欠点は13kHzくらいから急速に高域の落ちる特性です。

WEはNFBで上手く特性を取っているものの、オーディオアンプでは310Aの1段ドライブですからそれは感度落ちなどムリが生じます。

折角皆さんお好きな「直熱三極出力管」の良い特性を生かすにはドライバーに多極管は用いたくない…と云うのがホンネです。周波数特性の良い『オール三極管構成』で作るところに醍醐味があるのです。

 ここで前回示したキットの回路をご覧ください。増幅段は6SN7で2ユニット入りの球ですが、1ユニットの利得は理想でも20倍ほど、仮に2ユニット並列でも内部抵抗が半分になるだけで利得が大きく増えるわけではありません。

回路図の6SN7 と300Bとは直結なので、300Bのカソード電圧182Vから6SN7のプレート電圧110Vを差し引いたバイアス電圧は72V、これは確かに91型のセオリー通りなのですが、感度から見ればスイング電圧の不足は明らかです。


 WE300B/SEの設計と製作B

<初段管を決める>

 初段を何にするか…選択肢が多過ぎて困ります。

音の良い球にしたいのは誰しも同じ思いですが、2段目以降を考えると利得はそれほど必用ありません。

設計条件は0.5V入力程度でフルパワーを目指すのですから、スイング電圧75V程度として150倍あれば良く、初段の「稼ぎ過ぎ」は逆に困るのです。
したがって初段はせいぜい15〜20倍とし、2段目は10倍〜15倍程度に選ぶのが妥当です。

 真空管の係数にひとつに<μ/増幅率>があります。この数値がそのまま真空管の増幅度…ではありません。<μ>次の計算に用いる係数に過ぎないのです。

  真の増幅度=μ×{RL÷(Rp+RL} RLとは負荷抵抗 Rpとは真空管の内部抵抗)

 フツーの回路で大まかに云えば真の増幅度はμの50〜70%くらいと考えてよく、代表的な球はB電圧を250V程度としたときに次の目安となります。

末尾の数字はこの球がどれほどの出力電圧が取れるか…を表す目安です。

元々このデータはRCA発表の「CR結合データ」つまりプレート抵抗と次段のグリッド抵抗(正しくはグリッドリーク抵抗)とを直流カットのため「カップリング=結合コンデンサー」で結んだ時のもの、ラジオ技術社<オーディオ用真空管マニュアル>にも掲載され、著作者の多くが参考にして回路設計をするバイブルのような存在…からの抜粋です。

  12AX7 μ100   53〜70倍  ピーク最大電圧25〜37V
  12AU7 μ17〜20 13〜14           18〜33V
  12AT7 μ60    35〜40          35〜40V
   6SN7  μ20    15〜16          38〜53V
   6SL7  μ70    37〜50          38〜54V


 倍率はカソードにバイパスコンデンサーを付けた時(=電流帰還を掛けない)の値で、全て双3極管ですが1ユニットのデータです。

このデータだけだと出力最大電圧は12AX7や6SL7が多く取れて具合が良いように見えますが、このように大きい電圧を得るために大きな値のプレート抵抗を必要としている背景があり、余り現実的な数値ではないことを理解しておく必要があります。つまりプレート抵抗を大きく取ると次段のグリッドはそれ以上の大きな値を選択しなければならないので何かと具合が悪いのです。

 もっと大きな出力電圧を得るには電源電圧250Vを上げます。300B/SEの場合、2A3の電源電圧300Vに比べれば楽に400V以上の電源電圧が得られますからそれは容易です。

この数字が重要な意味を持っていることにも気付かされます。それはキットによくある初段と2段目との直結です。直結にすると2段目の各部電圧から初段のプレート電圧を差し引く動作になります。

真空管は1本1本の動作規定があっても実際には良くも悪しくも大変ラフであり、また経年変化で電流が落ちてくるときもあります。初段と2段目とに限らず「直結」はアンプが完成したときだけ設計通りに動作しますが、経年で変化したり球を交換すれば異なる動作になる場合もあるので定期的にチェックを要し、安心して長期に使えるものではありません。

「直結」でたった1個のコンデンサーを省略できても、たとえばスピーカーが2ウェイ以上のシステムなら中高域のユニットには当然低域カット用のコンデンサーが在る…などの矛盾もあるワケです。アンプ内のコンデンサーには製作者しだいで遥かに良品が使えます。直結で2段目以降の電源供給電圧が制約されて思うようなドライブ電圧が得られず、それを避けて大きな電源電圧を求めれば市販の電解コンデンサーの耐圧を超える余計な対策や特殊部品が必要になるなど、難しいことが増えます。

 このデータに話を戻しましょう

初段の球は、バイアス電圧(=カソード電圧)が低い2段目の球のドライブのため15〜20Vの信号電圧を送り込めば良いのですから上記候補球はこの点は全てOKです。
でも2段目の利得も考えると初段に大きな利得は必用がありません。従って候補は12AU7と6SN7となります。

6SN7は6J5が2ユニット入ったタマ。大まかにはWE262B/347とも6CG7/6FQ7/12BH7とも類似、5692は高信頼球です。実際には12AU7とは定数がチョット異なるだけの類似球、ここではキットなどに多く採用され入手も比較的容易で一般的な6SN7を使うことにします。

 余談ですが、ルックスからMT管を嫌ってGT管を選ぶ方は著作者の方にも多いのですが、真空管の発達の歴史から見ればそれは偏見です。

確かにGT管は外観は堂々としていて好ましいのですが、プレート面積はMT管と同等で意外と小さく電極の支え方もプアです。シールドしにくいので外来ノイズを拾うこともあり、MT管のように電極を支えるピンがそのまま端子となっているのと違ってガラス管内からリード線を引き出して端子尖端でハンダしているので、ハンダ不良がノイズや接触不良の原因となることも多く体験しています。

振動がノイズの原因となる「マイクロフォニック」はほとんどの場合カソードの振動で、上下のマイカの支持方法でも明らかにGT管の構造は不利です。このことはパワーアンプ初段もプリアンプでも重要です。

またGT管やST管は余りに種類が少なく選択肢が限定されます。
 
 ここでWEが発表している262A(262Bもほとんど同じです)の、含蓄の多いデータをご覧ください。このデータは原則論そのもので、理解すると今の専門誌に掲載される多くの回路が何か大切ものを忘れている気がします。

 Amplification Factorは利得倍率、Plate Resistanceは262の内部抵抗でプレート電流が小さいと当然ながら内部抵抗は大きいことにも注目、Load ResistanceはRLつまりプレート負荷抵抗のことです。

出力はミリワット表示ですが大きければ出力電圧も高く取れます。セカンド/サード・ハーモニクスは2次高調波/3次高調波歪のことで、値が大きいほど歪が小さいことを表します。

初段はなるべく歪の少ない設計が求められます。データは6SN7とも類似する部分が多いので動作の傾向がつかめます。

 初段の音は2段目・3段目でどんどん増幅されるのですから、B供給電圧が大きく取れても、意味なくプレート電圧を高くする必要はありません。

今回の設計では入力信号0.5V前後から15〜6倍してくれれば良い…と云うことはプレートで歪の少ない信号電圧が10Vも出てくれれば十分なので下記データのプレート電圧112.5Vと云う部分に注目します。

球にもよりますが、初段がプレート電圧100Vを割ると音が少し暗く重くなり…つまり高域の延びを感じなくなります。また140Vを超えると低域が薄くなる傾向があります。

専門誌の著作記事が面白くないのはこの辺りの著述をもっと著作者の思いを入れて述べないからで、それは著作者の方に聞くと編集でかなり文面をカットされてしまうようですから、面白さを欠いている犯人は編修者かもしれません。

 下表で112.5V〜135Vと云う設定が在るのは初段として見る限り「わが意を得たり」、このデータを見るたびに音とプレート電圧に関係を「WEさんはよく判ってらっしゃる」と感じてしまうのです。


http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html 
    
 
 ここで初段のカソード電圧の設定について、私の経験をお話しします。
それはバイアス電圧が大き過ぎると何となく音に躍動感が無くなる…と云う傾向で、飽く迄個人の感覚です。

そこで初段はバイアスを適当に小さく取ることも大切な気がします。アンプとしては理論上ミニマム1Vあれば良いのです。

カソード電圧=スイング電圧ですから、予想される入力信号電圧(この場合は1V未満)に対して大きなバイアス電圧を設定すると…水深の深いのに僅かに起きた波を増幅させる…からだと思っています。

もしバイアス電圧を許せる限り低めに取ると、アンプが最大出力に達する時に入力信号もバイアスに対しても十分に大きくスイングするのでイキイキするような気がするのです。

このことはプリのラインアウトに使うタマにも共通します。ただ、余りにギリギリでは歪率に影響しますから「程度問題」です。

 そこで上表の112.5Vを採用した場合にも−3.0V/2.8mAのデータに注目します。倍率15.5倍・内部抵抗15kΩです。

この「内部抵抗」と云う数値は、私のように専門教育を受けていない人間には計算方法が判りませんからタマのメーカー発表値に従うしかありません。

「内部抵抗値」を知るために考えられる方法は単段で動作回路を組み、プレートの出力を結合コンデンサー経由で1MΩ以上の大きな抵抗で受けて適当な信号入力と出力電圧を測っておき、次にその抵抗を可変抵抗に替えて、先に測定したのと同じ条件で信号電圧が先の結果の丁度半分になるような抵抗値が「内部抵抗」に近いと考えます。出力を受ける抵抗を十分大きくして開放に近い動作から、抵抗値を下げてピッタリ半分の電圧にになった時、内部抵抗と負荷抵抗が並列になっていると予想できるからです。

 実際には真空管の回路を考えるときにイチイチそのような係数を実験から見出すのは大変厄介で意味もなく、回路設計は多くのデータから常識的にやれば良いのです。

そこで私は球を単純に抵抗と考える<プレート電圧÷プレート電流>を回路設計上の球の≪内部抵抗≫と考えて回路設計しています。

するとこのWEデータに於いては、発表の15kΩに対して私の計算値は112.5V÷0.0029A=38.8kΩにもなって、メーカー発表「内部抵抗」の2倍以上になるのですが、RLは大きいほど歪が減る…とデータは云っているのですから問題はありません。。

同じ表で、例えば最も電流値の多い使い方をしたいなら、マキシマム・データの112.5V÷0.004A=28kΩと云うふうに回路計算するのです。WEデータでは13.4kΩですがこの我流計算値を使う方が問題がないことを経験から見出しています。実際にRL=rpつまりメーカー発表値の内部抵抗と同じ抵抗値のプレート抵抗にすると、とても歪っぽい印象で聴けたものではありません。

 ちょっとハナシが反れますが、例外としてはマッキン275の12BH7のプレート抵抗が400V近いプレート電圧時にたったの12kΩと云う例があります。これはプッシュで打消し効果を狙った上にNFBを考てのこと、プレート電圧を極端に高く設定することで出力管に必要な大きなドライブ電圧を送り込み、出力管自体は異例なほど大きなカソードNFBを掛けて利得はほとんど無い「電力変換」のみとさせるだけで、前段の12BH7で大出力時に要求される大きなスイング電圧を得てしまおうとする使い方です。凄いコトを考えた設計ですが、プッシュに大量NFBとう回路設計だから可能なもので300B/SEではとても採用できない手法です。

 また私はトランス結合とかプリOPT出力の計算の時は<プレート電圧÷プレート電流×0.6>をトランスの一次インピーダンスのミニマムの値としています。このことは300Bなど3極管とOPTの負荷インピーダンスの計算時に述べる予定ですが、あの「負荷曲線」から最適負荷を求める面倒さを避ける、いわば『簡易計算法』が<実質プレート内部抵抗の0.6倍>となることに気付いたのです。

このことは多くの製作経験と試行錯誤から得た、トラ結での優れたデータを得るに必要な要素です。

 初段の設計方針の結論として負荷抵抗RLの計算は、メーカー発表の「内部抵抗」は参考と割り切り、球を単純抵抗とした<プレート電圧÷プレート電流>を使うのが回路設計も容易で歪率が少ないと云う点でも優れていますから、今後この値で計算を進めることにします。

http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html


 さて上表の右半分はプレート抵抗の選び方で、<R=rp>とは負荷抵抗=プレート抵抗を内部抵抗と同じにした時のものです。

前述の通り「内部抵抗」は球を抵抗とみた数値…つまり単純にプレート抵抗での電圧降下も1rpにつき112.5V…と云うことになりますから、供給B電圧は単純にプレート電圧の2倍の225Vにしなさい…と云うことになります。表では単純に<R=2rp>とか<R=5rp>を「提案?」していますが、これはプレート電圧を112.5Vに固定した時の値なので、1rp増えるごとにB電圧を112.5Vづつ上げろ…という意味なので簡単に実現できません。<R=5rp>と云うとB電圧は112.5V×5倍+元のプレート電圧=675V…もの高圧を求めていて、それは理想でも「理論」に過ぎません。歪率改善のためには得られるだけ大きなB電圧を得て、できるだけ大きなプレート抵抗を使うのが良い…と云うことを示唆するデータを提示したよ…とWEのデータは云いたいワケです。

 ただここで重要なコトも学びます。それはWEさんの主張するデータによれば、プレート負荷抵抗RLが内部抵抗rpを下回ることはアタマっから想定外でデータの発表すら無いと云うことです。

このコトを言い換えれば、もしB電圧の2分の1(R=rp)を超えるプレート電圧を設定すると、<RLプレート抵抗>が<rp内部抵抗>よりも小さいことになる…のですから、歪増加と云う点からも避けるべきなのです。

もしお手元に最近の専門誌の真空管アンプ回路図があれば、著作者がどのようなB電圧とプレート電圧の関係にしているか…興味をもって見てください。案外「設計真意不明」が多くあります。

折角のB電圧を習慣的に前段用<π型フィルター>として抵抗とコンデンサーで構成する「デカップリング」回路でドロップさせ、結果としてプレート抵抗を小さい値にしたり、供給B電圧の2分の1を遥かに上回るプレート電圧を設定している例が実に多いのです。


 WE300B/SEの設計と製作C

 <2段目=ドライバー管の動作を決める>

 やや唐突ですが、ここで2段目の通称「ドライバー段」の設計に移ります。

初段管と出力管の設計はそう難しいものではありません。でも2段目は違います。特に大きなスイング電圧を要求する300Bでは色んな条件があります。

300Bはμ=3.85倍…つまり単純に前段までの音を3倍以上も増幅するのですから、300A×2本に大枚80万円をはたいても「前の音」を3倍も増幅して聴かせている音…とも云えるのです。

つまりシングルエンドのアンプだから…と云っても出力管1本で音が決まるハズも無く、同じようにOPT(出力トランス)とか整流管・限られた部品・ハンダの種類だけで決まるのでもありません。

そこが自作の愉しみ…と云うワケですが、ネットに溢れる不真面目で無責任な議論は全てを針小棒大の如く述べ、今ハヤりの表現をすれば『上から目線』のあたかも100年も1万本も真空管アンプを聴いて来たかのような記述もあって大嘘だらけ、既成概念に溢れた「頭上のハエ」も一杯いるみたいです。世の中辛口でモノを述べると『上から目線』と叱られそうですからウッカリ言えませんが…。

 さて、2段目までの歪が多ければ歪っぽい音、暗ければ暗く・明るい音なら明るく…正直に出力するのも<直熱三極管>殿の持つ宿命、ドライバー段を妥協したり安直に考えると後悔します。

製作経験ではWE349/3結やEL34/3結、果てはWE421Aによるドライブから誰もが試みるドライバートランスの使用まで、実に多くのパターンのSEアンプを作りました。
どれもがそれなりの特徴を持ちますが、意外に「音」で苦労するのがドライバートランス、特に一次側に電流を流すタイプは何を試みても独特のキャラクターを感じてしまいます。

それがオーナーのお好みかどうか…と云うのが運命の分かれ道です。この記事ではフツーのCR結合回路の解説が目的ですので、トランス結合は後日に回します。
 
 蒸留水のように味も素っ気も無い、スピーカーからはミュージシャンの感情など伝わって来ない平板な音しか出ないアキュフェーズやエクスクルーシブに代表されるな高価な半導体アンプや、LUXあたりのKT88とか50CA10に高過ぎる電圧を掛けた高帰還型で性能だけを謳う低域の薄〜いアンプから、始めてチョイと出来の良いWE300B/SEを聴くとある種のショックがあります。

それがとても音楽的でシングルとしてはパワーも有るので意外とどのスピーカーも上手く鳴らし、声やピアノなどの再生もアキュやエクスの比では無く優れてナマナマしいからです。

そのことを、まるでヒヨコから孵った時に初めて接する人間を親と間違うように、WE300B/SEだけが唯一無二の真空管アンプであるかのように思われて吹聴され、ワル乗りの専門誌で「これでもか〜これでもか」と年間何度も製作記事掲載を繰り返して「良い良い」と過去20年以上も吹き込まれたら、純真無垢なファンは誰もが300Bを真空管アンプの最高峰だと思っても仕方ありません。

でもそのアンプがドライバー段の音も大きく反映しているのは勿論、300Bそのものの「用法」やOPTの性格が加わると実は「300Bシングルアンプ」には一つとして同じ音はありません。

300Bをつかったアンプの全部が良いワケなどあり得な〜〜い…のです。

まして300BのメーカーがWE以外にも多く存在する現在は「寿命3万時間」のWEと同じ性能だと云われても、1日4時間・年間250日聴いて1千時間ですから30年先にウソと判って文句は言えない、どうやら特性もWE発表値とは随分異なるようですから音も違って当然です。本当なら<300B>ではなく<299.5>とか<300.5>の名称にすべきではないか…と思いますが、本家本元が優しい会社なのか異議など誰も云わず、懲りずに益々300B同族が増殖しています。例えば<WE300B>の音に<KR300B>は近くても、<KR300B>にも独自の魅力が有る…と冷静に考えたいと思います。


 ≪閑話休題≫

 300Bをスイングするためにドライバー管に要求されることは

 ・想定する300Bの基本動作であるバイアス電圧71Vに余裕をもってピーク80V程度の信号電圧を送り込む。

 ・利得10〜15倍を得る。


 この2点であり、なるべく歪の少ない方法が望まれます。幸い300Bはコト<WE91型>の回路をみる限り400kΩ近いグリッド抵抗を使っています。これは直熱三極管では異例とも云うべき大きさ、回路設計では大変有り難い優秀なタマです。RCA50がグリッドリーク抵抗に10kΩ以下を指定しているのに比べても突出して「丈夫」、2A3なら最大グリッド抵抗の発表値は500kΩですが、これはマユツバもイイとこで100kΩでもグリッド電流が流れてしまう球がほとんどです。

グリッド電流が流れてグリッド電圧がアース間で+になってもカソードのバイアス値はほとんどそのままですからプレート電流が増えます。放置すると始めの内は自己バイアスなら電流は下げ方向に働こうとはするもののグリッドのプラス化はドンドン進んで、結果としてバイアス電圧はプラス方向に進んで電流が増える悪循環が起き「最大プレート損失=最大定格」を超えてプレートが赤熱⇒暴走…となって球を痛め、最悪の時は壊れます。サウンドパーツが出力管用にグリッドチョークを作る理由がこれです。

 さて初段に6SN7を使ったので2段目には前に述べた候補はあるものの、フツーに2段目も6SN7の1ユニットを使いたいのが当然です。従って2段目も6SN7の1ユニットを使うことにします。

前回のデータで、6SN7は概ね15倍の利得が有ります。

80V近い信号出力を得るには下表のデータを参考にするともっと大きなB電圧を得て、プレート電圧も大きくする必用があります。

 そのデータをご覧ください。やはりRCA発表のCR結合データをラジオ技術「真空管マニュアル」から転載します。


http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html
 
     
 
 このデータの見方は次の通りで、真空管を語る時には良く出てくる表現でもあるのでシッカリ理解すると設計することが面白くなります。

 Ebb  B供給電圧…つまりプレート抵抗に加える電源側の電圧

 Rp=プレート抵抗(フツーはRLと云います)。この場合はMΩ…0.047=47kΩなど3例を示す Rg=次段のグリッド抵抗値 Rk=カソード抵抗 Ib=プレート電流 

 Ec=グリッド電圧/RMS⇒この値はRk/Ω×Ib/mA÷1000(電流の単位をミリアンペアからアンペアにする)…でも求められます。 

 Eb=プレート電圧⇒プレート電圧は、例えば表の左端の例を取ると Ebb/B電圧100V-47k×Ib/1.05mA=Eb/50.6V…としても求められます。

 Esig=入力信号電圧/RMS

 Eout=入力信号が上記の場合の例の際、プレートから得られる信号電圧/RMS A=利得倍率=Eout÷Esig KF=歪率

  
  表の段落の最下部分の記載は使用例の最大値を示しています。Esig/Maxの際のEout/Max⇒その際の利得倍率と最大例を許容している歪率を示します。

  つまり、表の左端の例では0.95V/RMSが信号に入った時にはプレートに12.5V/RMSの信号が発生し、その時は13.1倍の利得が有り、その数値は歪率3.9%の際のものである…と云うことです。

  音楽信号はピーク値ですから、この√2倍となります。

  100Vと250Vの電源部の各3例の、プレート抵抗と次段のグリッドリーク抵抗との関係や、その利得倍率などに特に注意してよ〜くデータを見ると、プレ ート電圧と信号出力電圧の関係が判ってき  ます。このコトに深い洞察力を持てば自ずから真空管の本来持つ動作と、ひいては回路設計に大きな興味が生じるのです。

 
 この表から2段目の6SN7の動作を探ります。

電源電圧100Vの動作例は無視して250Vの例で、最も大きなスイング電圧を得られる動作は表の最下項に記された<Eout>から、プレート電圧47kΩの52.5Vと100kΩの53Vで事実上同じです。

 300Bをスイングするとして、その動作例を表から抜き出しますと

 ・プレート抵抗47kΩ  300Bのグリッド抵抗270kΩ カソード抵抗2.2kΩ プレート電流2.4mA バイアス5.28V(カソード2200Ω×2.4mAで計算できる)プレート電圧137V

 ・プレート抵抗100kΩ  300Bのグリッド抵抗470kΩ カソード抵抗3.9kΩ プレート電流1.31mA バイアス5.11V プレート電圧119V

設計するアンプは大切なWE300Bを使うのですから、当然当店のグリッドチョーク<GCH-60>の使用が前提です。

<GCH-60>の定格は

 抵抗値9kΩ、インピーダンス250kΩ@30Hz/2.2MΩ@1kHzで、30Hz時の最大許容入力60V/RMSつまりピーク84Vで、1kHz時にはピーク100V以上でも問題の無いコトを確認しています。

従ってプレート抵抗100kΩ時に要求される300Bのグリッドリーク抵抗に470kΩのデータはグリッドチョークにもそのまま適用できますが、実際にはもっと安全圏のプレート抵抗47kΩのデータの方が好ましいと考えます。

 一方プレート電圧と<Eout>の関係を見ると、次の球のグリッド抵抗が『十分に大きな値』ならプレート電圧137Vの約38%の交流出力電圧が実効値=RMSで得られることも判ります。

表の他のデータから予想しても6SN7のように内部抵抗がある程度低い球なら、プレート電圧の35%〜40%の実効値出力が得られそうです。逆に云えば次段のバイアス電圧の2.5倍〜3倍のプレート電圧が確保できれば求めるドライブ電圧が得られそうです。このプレート電圧と次段のドライブ電圧との「比例関係」に気付くことはアンプ設計の過程で記憶すべき発見です。

このページの下の方にある連載冒頭のキットの回路図を思い出して下さい。6SN7の2ユニット並列でもプレート電圧は110Vと云う設定で本当に300Bがドライブ出来るのでしょうか?

 実際にはピーク電圧で80Vが欲しいのですから80V÷√2≒57Vつまり60Vほどの実効電圧を得れば300Bがスイングできる…と予想しても差し支え無いでしょう。60Vの実効信号電圧を得るにはプレート電圧はこの約3倍の170〜180Vを得られれば十分余裕ある設計になりそうです。
 
 ここで思い出して頂かねばならないのは、WE262Aの動作例で述べた歪の少ない設計手法⇒⇒

・プレート電圧の最低2倍はB供給電圧が欲しい。

・出来れば球の内部抵抗の1倍以上のプレート抵抗にしたい。

 …と云う条件です。では6SN7の1ユニットの動作を表すEp/Ip曲線を見ましょう。
        
表の軸縦がプレート電流mA、横軸がプレート電圧でグラフ内の数値はバイアス電圧です。

単純に横軸180Vのラインを見ると、電流は2.5mA程度から上の方が線が立っていて良さそうです。仮に2.5mAとの交差点を見るとバイアスは−7.5V程度、5mAなら−6Vほどです。

しかしココで重要な計算をする必要があります。それは6SN7の「プレート損失」のチェックです。
        

 この表は抜粋なので判りにくいのですが、データの3行目の5.0(※7.5)の数字の単位がプレート最大損失=最大定格/Wを表します。

しかしこのデータは詳細に調べると<6SN7GTB>に代表される高規格球のもので、末尾に何も付かない<6SN7>は半分の2.5Wmaxですから要注意です。

 しかもカッコ内に内部ユニットを2ユニットとも使うなら2ユニットの合計で7.5W以下でのオペレーションにしなさい…との規定もあります。

ここでは初段の使い方を低めに設定するので2段目には同じ球の第2ユニットを使うとして、最大4Wを上限としましょう。

つまり180Vのプレート電圧を必用とする一方で、電流との積は4Wを下回らないとヤバいのですから4W÷180V=22mA以下(フツーの6SN7なら13mA以下)、それでも十分余裕はあります。

 余裕があるならもっと電流を流す方が良いだろう…と考えるととんでもない間違いをします。

ナゼならもう一つの重要な要素を忘れてはなりません。それは3極管は電流を増やそうと思えばバイアスを下げなければならないからです。バイアス電圧=スイング電圧です。

300Bのグリッドに80Vを送り込むにしても6SN7は利得は15倍が限界です。そこで80V÷増幅倍数15≒5.3V…つまり6SN7自身のバイアスが、もし5.3Vを割り込むと初段からの信号電圧が門前払いとなって受け入れられず、結果は重要な2段目として300Bに十分大きいスイング電圧を送り込めません。

ここでついでに初段も検証しておけば、初段も15倍するとして、2段目のバイアスを6V程度に決めても初段は最初に想定した0.5V以上のバイアス電圧を確保すれば良い…ことになるので何ら問題はありません。

 再びEp/Ip表を見た時、−6Vよりも深いバイアスでプレート電圧180Vのラインを読むと5mAまでの好きな電流値を選べることが判ります。

ここでも大きなポイントがあります。仮にプレート抵抗の両端に、球の内部抵抗と同じ電圧の最低180Vを与えるとしてプレート抵抗値を計算すると180V÷0.005A=36kΩ…となります。これは今回の回路設計ではプレート抵抗としてミニマムの抵抗値と考えます。ナゼならWE262Aで学んだように、プレート抵抗を内部抵抗に比べて大きな値にすればするほど歪が減る…という結果が得られるのです。そのためには電源部から安直に電圧を降下させてしまうB回路のフィルター回路そのものの設計が絡むことは後に説明します。

 以上でドライバー段の大まかな計算がまとまりました。

つまり-6Vよりも大きなカソード電圧と、プレート電圧180V(アース間ならバイアス電圧6Vを加算して186V)以上を与えると300Bを少ない歪率で余裕をもってドライブできそうです。

でもドライバー球の「音」も大きな要素、何度も繰り返しますが後段の300Bで4倍近くもドライバー段以前の「音」を増幅されるのです。

経験から申せば、このプレート電圧180V…と云うのは6SN7/同GTB/5692の「音楽的な音」として許せるプレート電圧の上限ギリギリです。

その意味は、プレート電圧が200Vを超えるようなオペレーションの傾向としては、低域が薄くて高域寄りになって行く傾向があるからです。

設計上もっと大きなプレート電圧を与える方が良さそうではあっても、アース間にて200Vを少し下回る辺りが許せる「好い音」である限界と考えて下さい。

コレは飽く迄個人的主観ですが、自分用ではなくヒト様にアンプをお届けして来た実績から得た「経験値」であり、単純に電気回路だけを追究している技術屋さんが設計する回路とは主観…立ち位置が異なる、音楽優先姿勢からの主張です。
仮にドライバー段にWE349・6V6・EL34等々の3結を使う場合でも250Vで設計すると、アンプそのものにドライバー段のキャラが色濃く着き、面白くありません。それらの使用に於いてももフシギと実質プレート電圧は200V±20Vが良く、球をパワーチューブと同じ使い方をすべき部位でもありません。それはカソード電圧が高くなることにも要因が隠されているような気がします。

 このようにプレート電圧の設定は「音決め」に大きく関与しますから、出力管も含めてどのような球でも製作後に必ず多少は調整すべき項目なのです。

アマチュアの方がアンプや出力管の音質を述べる際、わずか1台か2台作ったり聴いたりしたから…と云ってあたかも「あらゆる想定を試みた…」かのように述べたり、他からの「伝聞証拠」を自身の意見のように吹聴するのは『口害』です。無論我々プロは尚更…で、アンプのどの部分にも多くの可能性や未体験の音があり、その意外な素晴らしさに喜んだり嘆いたりするものです。

そして音が万一気に入らない時には、そのアンプが正しい設計か否かも大いにアヤシむことです。

どのようなアンプであっても正しく動作しているコトが最低の条件です。

アンプが完成して音が出たら終わり…ではなく、アンプの完成は音の調整では「始まり…」そのものです。

キットでもその外観に惑わされることなくまず回路も見れば、お粗末な部分は一杯あって球や電圧について設計者がどこまで理解しているのかは疑問、購入には二の足どころか三の足も踏みます。

 何せWE300Bのプレート電圧を350Vに絞った動作例だけでも、最初に表でお示しした通り6例もあるのです。無論筆者も全部の音など知る由もなく、その検証など生涯ムリですから「WE様」唯一製品化した91型シングルのオペレーション例を信じて作るのをオススメする所以です。

でも勘違いしてはならないのは、同社では「91型」は小劇場用のローコスト製品としての 位置付けに過ぎず、実物を見ると配線材から使用部品まで比較的ローコストなものを使用しているのです。


 WE300B/SEの設計と製作D

 <電源部を考える>

 ここでいきなり全回路をご覧ください。


http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html

この回路図は回路設計は当方で、実機製作とそれに基づく微修正後の回路の作成はS氏の手になります。各部電圧等の設計との誤差は5%以内に収まりました。

真空管…特に増幅段に関しては<RCA/CR結合データ>でも『50%の誤差でも概ね動作は変わらない』そうですから、ドライブ電圧の能力は電圧比例で変化しても動作そのものは意外とラフでから問題はありません。

 S氏はお知り合いから300B/SEキットの完成品を譲り受けました。元のオーナーは音質にご不満なのですから当然S氏もご納得は行かず、悩まれた末に当方にキット付属の回路図を送って来られてサデッションして欲しいとのご依頼頂いたのです。
KIT添付の回路図は敢えて掲載しませんが、初段と2段目を直結とした、KIT製品に関心のある方にはお馴染みのもので、回路として見たときに多くの矛盾が見て取れるのが惜しいです。

 サウンドパーツはこれでもメーカーですから、製作時間を束縛されるそのようなご相談には本来深入りしません。いい加減な忠告や進言は後日に尾を引く懸念もあります。

でもソコは人間…S氏に上手く乗せられてしまったのですが、ほぼ当方設計の通りに製作されたことは敬服できます。

多くの経緯を経てやっと下図に示した回路図に至りました。

http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html


 ところで誤解されないようお断りしますが、この連載をルル述べてきたのは飽く迄シングルアンプを設計する基本を、300Bを例にこの機会にサウンドパーツ流に解説しているに過ぎません。

 誤りは無いとは思うものの「交流理論」に基づく学者的解説ではなく、ご注文頂いて当方にて製作している300B/SE回路でもありません。

本来はKITという、誰が作っても一定の成果が保証されるはずの製品が、<300B>と云う著名な真空管の名を冠しただけでAKB48的人気でWE球を用いなくても高価に売られます。

音質よりも「売らんかな」を優先してアマチュアの自作ファンを欺いているので、その納得の行かない部分を同じ材料なら「私ならこうする…」と云う独断的な解説をしています。

KITは回路だけではなく…例えばアースポイントの取り方などもイイ加減で、KITと云う名で「逃げて」います。ハムが出ても「直熱管には常識」と非常識な言い逃れをするのですから呆れます。

それはごく一部の例外を除いて全くのウソ、少なくとも高能率スピーカーの50センチ前でハムを感じるなら改善の余地があ

  ※掲載記事に沿って2013年2月に実機に基づき訂正された回路図です

    今後2段目のプレート抵抗を56〜47kΩに変更して、少しプレート電圧を高めに設定の予定です

    増幅段のヒーターも現実には電源トランスのヒーター端子2ヶ所とB巻線のセンタータップを33Ωの抵抗2個で結んでいます
 

<整流>

 電源部に整流管を使う理由は「真空管アンプはかくあるべし」という既成概念とルックスから来るものです。

設計通りの電圧と電流が得られるなら整流管はそれなりに便利ですが、ソケットが合うからと云って自由に交換できる…と思うとヤケドします。

傍熱整流管を使うとヒートアップ・タイムが稼げるメリットがあります。

今回のように直熱出力管を使うアンプに直熱整流管を使うと、ヒートアップ時間がほぼ同じなので整流管からB電圧が加わると同時に電流のほとんどを消費する出力管にも電流が流れ、コンデンサーに必要以上の電圧は加わらないのですが、傍熱出力管のアンプに直熱整流管を用いると、マッキンMc30/Mc60に例はあるものの、ダイオードの両波整流と変わらないので大きなメリットはありません。

 整流管の良いトコロは「両波整流」であり、冷静な回路設計ではデメリットの方が多いと思います。

その理由はフィラメント/ヒーターの消費電力と変換効率、ダイオードによる両波整流も同じように優れています。

 余談ですが専門誌では「ケンカ中」の某国製の整流管とか真空管をベタホメしたり、それを装備したアンプに高評価を与えたりしています。

最初だけ良くて2〜3年で球の天頂部や側部に黒点や妙な焼け跡がつくのが某国球の実態でこれはハッキリ異常です。往年の良い真空管でも長く使うと確かに天頂と側面の一部は少し茶っぽくなるもののそれは正常、黒い斑点が着くことなどはあり得ず明らかに内部金属が劣悪で短命の証拠です。

私個人としては、世の中で最も早く良いタマが入手できなくなるのは整流管だと考えています。最も一般的で高性能なGZ34は良いものが既に少なくて高価です。

ステレオ構成のアンプでは電流容量が整流管1本では不足する上、劣化とともに電流が落ちてしまう整流管をフィールドスピーカーに使わない理由も将来を危惧するのが理由です。

整流管は

・劣化する…整流管は回路の電流容量にもよりますが、当然経年で劣化します。多くは出力管より短命で消耗品と言え、私には274B刻印に10万円を投資する意味が理解できません。整流管が劣化してエミッション電流が流れると、それは整流管で得られる電流と逆の方向なので、整流管はエミッション電流をプラスした電流を回路に供給しようとします。その結果はムリをして電流を出そうとするので急速に劣化が進む…と云う結果になります。

厄介なのは、整流管の劣化が判るのは本当にダメになって音に影響が出るようになってからです。時にはチェックしませんと寿命までアンプは正常と思い込んでしまうワケです。

・エネルギー・ロスがある…ヒーター・フィラメントのロスがあります。最終型のGZ34で5V×1.9A〜5U4/5Z3系なら5V×3Aはロスであり、電源トランスの発熱源ともなります。

 また理論上のAC電圧×√2倍で得られるDC電圧は、何のロスも見込まない無負荷時であり、実際は最大許容電流値の80%消費くらいの時の経験値として

 ダイオードは交流の1.3倍程度の直流電圧

 5U4/GZ34で1.2倍
 5R4/5Y3系で1.1倍
 274に至っては1.05倍〜1.1倍 

 …コレは飽く迄目安ですが、これほど大きな内部損失の影響がありますから出力管の動作ポイントは整流管の交換で容易に変化します。。

 今まで5U4を使っていたアンプに274を使ったら低域の重心が増して…などと云う記述の理由が、同じ交流から得られる直流電圧の差です。たとえば5U4から400Vを得ていたものが274への差し替えで350Vしか得られなければ回路設計は根本的に変わりますから当然音も変化、やや低域寄りになるでしょう。それなら274でも400Vを得られるよう電源トランスの交流タップを別に付けておいたら……ブラインドテストをしたら誰も変化には気付かない…と思います。

チマタには「神話」が溢れていて、それを一蹴すると非難されそうですが、音質が鈍重になった…という方も多く知っています。

まして電流容量は5U4の250mAに対し274/5R4では150mAですから、上記のようなステレオ構成の300B/SEではホントは274の電流不足からもっと電圧が落ちてしまいます。

 さて整流管を使う方法は2つ、整流管の直後をコンデンサー接地する『コンデンサー・インプット』と、チョークを直列に入れてからコンデンサーで接地する『チョーク・インプット』があります。

 コンデンサー・インプットでは、整流した直流はそのコンデンサーが充電するまでの間は短いとは云えアースと短絡状態に陥ることから、整流管には大きなストレスが生じます。その充電時間はコンデンサー容量が大きいほど長いので整流管を痛めないようコンデンサーの容量が規定されています。274=4μF・5U4=40μF・GZ34/5AR4=60μFなどです。でも実際の91型アンプを見ると274を20μFとして使っています。コレは恐らく91型が電解コンデンサーを「2階建て」つまりアース間とで20μFを直列にしたものを更に2重(並列)構成しているからで、直列では10μFなのですが、更にそれを並列にして20μFとなります。

フィルムやオイルコンは「静電容量」ですから充電時間は瞬時で整流管の負担は大きい、でも電解コンデンサーならやや緩慢に充電されるから球を痛める要素が緩和される…からだと思われます。

 チョーク・インプットでもチョークを通ってからコンデンサーに充電されることに変わりはありません。でもチョークコイルには抵抗値がありますので整流管はショート状態にはならない…いわば保護回路です。従ってチョークコイルの抵抗値の規定があります。最も大きな抵抗値を要求しているのがやはり274で75Ωです。もし274などをチョーク・インプットとして使う時、許容電流の大きなチョークを使うと抵抗値はたった30Ω…というケースもあります。その時には抵抗を40Ω程度直列にして抵抗値を増やす必用がある…と云えます。

今回の提示回路に、どのような整流管でも問題ないように整流管の直後に75Ωを入れてあるのはそれが理由です。

 なおチョーク・インプットで取れる電流値は、理論上は電源トランスの交流電圧の0.9倍ですが、実際にはチョークの抵抗値とも絡みますので0.83〜0.85倍と見ておけば良いでしょう。

無論チョーク・インプットに使うチョークは『十分大きな値』が指定なのですが、一般にチョークのヘンリー表示は規定電流時のヘンリー数が記してあるので、電流値に余裕があればヘンリーも大きくなるのがフツーです。そこで実際には5Hと記されたチョークを使っても、次のコンデンサーが40μF程度ならチョークインプットとして動作する場合もありますが、常識的には7H程度以上で抵抗値も60Ω以上あるものを選びます。チョーク・インプットではチョークも電源トランスも唸る傾向があることにも注意します。伏せ型の電源トランスでは常識的に装備前にボルトの締め付けを確認する必要があるでしょう。

なお、シングルアンプの製作においてチョークインプットのみでリップルが大きく取れることはほとんどありません。もう1段チョークか抵抗でパイ型フィルターを組むのが賢明です。

 以上の計算で、同じ電源トランスを使っても両波整流のコンデンサーインプットなら、フツーはトランスのAC電流と同じDC[電流が得られます(表現はトランスメーカーで異なります)。

同じトランスからチョークインプットなら得られる電圧が理論値0.9倍なのは「損」のように思いますが、コンデンサーインプットの約1.5倍程度の電流が得られますからエネルギーは同じです。

ブリッジ整流はAC電流の約0.7倍と計算します。最近一部でナゼかもてはやされる「片波/半波整流」は電源トランスによほどシッカリしたものを使わないと、直流がトランスに流れるのでウナリや振動が出ます。またAC電流値の3分の1程度の電流しか得られない…と考える方が良いでしょう。単純に考えれば「片波/半波整流」はトランスの巻線が片側接地されるのだけがメリット、両波も同じでセンタータップが接地されます。取れるDCが両波は波形の+側への単純折り返しなのにブリッジはパルスであり、「片波/半波整流」は波形を一つづつ飛ばします。その分をコンデンサーの充電・放電で補うので、コンデンサーの音色が大切になります。私個人の考えですが、トランスの巻線が接地しているのは交流信号の「帰路」として観た時には大きな要素で、ブリッジや倍電圧整流はその点で面白くありません。

両波はトランス巻線がブリッジの2倍必要でセイタクだと云うデメリットがありますが、最初から取れるDC波形が美しい上にコンデンサーの充放電の動作に大きく依存しない電源です。

 真空管の大先輩から伺ったハナシによると「実は真空管で一番難しいのが整流管」だそうです。

多くは両波整流管ですから同じ管内に2個のプレートがあります。もしフィラメント/カソードとその周囲を囲んでいるプレートの精度がイイカゲンだと整流の波形の高さが異なります。それはリップルとなって効率も落ちます。一方多くの整流管の最大定格はAC500Vからの整流=DC化です。AC500Vは実効値なのでピーク電圧は約700Vです。2つ封入されたプレートの一方に交流のプラス波形700Vが掛っている時、もう一方のプレートにはマイナス波形の700Vが掛っていますから、その電圧差は1400Vを超えます。そこで整流管の最大耐圧は多く1450Vと記されているのです。

1450Vもの電圧差がガラス管の中で僅か数ミリで向き合っているので、当然に真空度も高くなければならず、それは出力管の比ではないそうです。

このように整流管は恐ろしいほど厳しい定格で成り立っていますから、目視でも良く見る必要があります。274のアンドン型プレートの中に「逆V時型」に吊られたフィラメントは丁度中央に位置しなければなりません。欧州の<U18/20>とか<FW4-500>等を見ると、プレート・フィラメント間が極端に狭く、余りの作りの良さに惚れ惚れしますが、米国製はラフです。

 直熱整流管のフィラメントは見ていれば判るほど、動作させれば熱で伸びます。そのフィラメント伸びを頂部のコイルスプリングや釣りバネで支えて逃げてあるものは、プレートが頂部から見た時に縦向きとして使うことで整流管の水平使用ができます。末尾に<Y>と付くものは水平使用にも耐える耐震構造だそうです。

 RCA83は水銀整流管で、DC化効率も1.2倍を少し上回るほど高効率です。

ただ最初だけは注意が必要で、使用する向き…多くは直立…でフィラメントのみ1時間程度余熱します。フィラメントの余熱で徐々に溜まっていた水銀が霧化し、球内は白くて見えなくなってやがて再び透明になります。それを終えて後にB電圧を加えても既に内部の水銀蒸気で満たされている状態が出来ているので問題なく使えます。その後電源を切ると冷えるまでに球の底部に水銀が溜まって次回使う時に発熱で正しく霧化します。83を使うアンプの多くは「余熱」スイッチを付けて高圧をいきなり印加しないようにしますが、実はそれは球を交換した場合だけで良いのです。…という根拠は、多くのバルブチェッカーに採用されているのが高圧用がRCA83、バイアス用が5Y3なのです。この場合83は試験機内で横方向に寝かせて取り付けてあり、試験機の盤面を水平か前側を下にして縦に使っても内部の水銀は水銀蒸気となる前の蒸発粒子の粗い時にプレートやフィラメントには触れませんから問題ありません。試験機を側面を下にして使えば83は多分壊れます。水銀蒸気がフィラメントに触れると一瞬紫色に輝いて後、フィラメントのコーティングカーボンが剥離して2度と使えなくなります…私に限らず、多くの失敗した者が申すのですから間違いありません。バルブチェッカーに83の余熱スイッチなんて無く、昔日の軍では蹴飛ばしたり放り上げたり乱暴な扱いを受けています。 このように一番最初のみ使用を誤らなければ問題ないのですが、多くはアンプの完成と同時に底を上にしたままチェックしますからその時にダメにするか、その時ダメにならなかった時には正立させたときに必ずダメにしてしまいます。

 つまり83整流管付きアンプを裏返しでチェックする時には5Z3と差し替えて行うか、最低30分の余熱が必用です。


 電源部からプレート用に高圧を供給する時に誤って解釈されているのは、電源部のコンデンサーの持つ意味です。

「リップルの少ない直流を得る」ことだけが目的と思われ、最近は半導体のリップル除去回路でチョークを略すものも増えています。

でももっと大切な目的が有ります。それは…

『プレート回路の帰路』

 でもあることです。

各段の真空管で増幅された信号はプレート抵抗(当然出力トランスも含む)の両端に発生し、増幅された交流信号として取り出されます。

取り出す信号はプレート〜接地間に生じたものであり、そのためにはプレート負荷抵抗のB側が交流的に接地していなければなりません。その役をコンデンサーが担っています。

当然コンデンサーには質の高いものが必要ですが、一方では出来る限り低域まで伸ばす必要がある…つまりコンデンサーは「低域時定数」でプレート抵抗と絡んでいます。

増幅段に用いるプレート抵抗の多くは大変大きな値の抵抗ですから、増幅段のB側を接地するコンデンサーはそれほど大きな値は必用ありません。
でも出力管のプレートにつながるOPT/出力トランスの実測抵抗値は低い値を示すので無視できません。

その抵抗値が大型コアでロスの少なさを強調したものなら100Ω程度の抵抗値しかありません。

もしチョーク後でOPTに直結されるコンデンサーに、粋がって旧来のオイルコン10μFを使った…とします。この場合の低域カット周波数は

 159÷(0.1kΩ×10μF)=159Hz

 …つまり、低域は約160Hzで既に3dBも落ち、それ以下はもっと落ちてしまいます。それ以下の低域はチョーク〜整流管を通じてトランスのセンタータップからアースに落ちるのです。従ってこの場合最低でも40μF以上の値、極端には大きなμFほど自然な低域が得られる…と考えても良いことになります。

 さてこのアンプで増幅段へ行く供給電圧にドロップ用の抵抗を入れないのはナゼでしょうか?

それはこの回路ならOPTに行くB電圧は大きな容量の電解コンデンサーとチョークでプリアンプの電源並みにリップルの無いものとなっているからです。

十分リップルが取れてさえいれば増幅段が仮に2段で構成されていてもπ型フィルターの必要性は全くなく、今まで申したように供給電圧は高いほど、その分プレート抵抗を大きな値にして歪率の小さな増幅段が設計できるのですから、チョーク後のコンデンサーの+側から増幅段にも直接供給しても良い…と云うよりも遥かに理想的な供給方式となります。

 注意するのは、前述の通りコンデンサーはプレートで得られた信号を取り出すために接地するのも大きな使命ですから、どの段に電圧を供給する場合でもこのコンデンサーから直接格段のプレート回路に「枝分かれ」するように送ります。そうでないとプレート〜プレート間の配線の持つ僅かな直流抵抗が干渉を生みます。コンデンサーから各部独立で供給すれば、その配線が持つ僅かな抵抗値はプレート抵抗の一部となるだけ、一切の干渉がなくて電源部が前の段との間でもつ「低域時定数」が無くなるのでブロッキング発振などの恐れも皆無となります。

 さきほどオイルコンデンサー…つまり油含浸箔コンデンサーについて少し述べました。

PCB/ポリ塩化ビフェニールは有毒物質ですから、幾ら当時のコンデンサーの音が良かった…などの風評から「何でもあり」のオーディオとは申しても使うコトは犯罪ですから止めましょう。

私がガキの頃、豆腐のような形状のオイルコン(恐らくPCB入り?)を電気技師だった父親からもらって分解したことがありました。何マイクロファラッド(μF)かは記憶しませんが、油を抜くと茶色の薄紙が錫箔と密着して巻かれてあるだけで、幅7〜8センチ×長さ10mほどの端っこに表裏二つ電極から薄い金属がガラス端子の内側に接続されていました。無論その時は何も感じず、面白くもないので捨てただけです。PCBで手はベタベタになり、ひょっとしたらその後にアトピーになった原因だったかもしれません。余談ですがそれが原因と云うのはアヤシクとも、アトピーは数年前に奇跡的に治るまで何十年も私を苦しめました。

 問題はオイルコンの構造です。電極は金属箔の7〜8センチ×10mと云う大きな面積のわずか7〜8センチの部分にしか付いていません。アンプの電源で使うだけならは「蓄電器」であれば良いので、それでも動作だけなら不都合はありませんが、この構造から想像しただけでも高域での伝達特性が良いとは思えません。仮にそのオイルコンが10μFとして、現代のフィルムコンデンサーなら同じ構造でも長い方の10mの側に電極が付けられます。僅かに電極をずらせてぐるぐる巻きにしてから両端に出ている金属箔に「ハンダ溶射」してリード線を出す構造です。同じ10μFであっても高域特性は段違いだと誰でも想像できます。

これが一部ファンに珍重され、スピーカーネットワークなど音声回路の低域カット用に旧いられるオイルイコンの音の悪さの原因です。大音量では何とかなっても、微弱信号では全く情報量が欠落する欠点があります。

そこで211や845などのアンプでよく見かけるオイルコンは少なくとも現代のフィルム型のオイルコンならともかく、30年以上も前のものを用いると高域の魅力は薄れます。


 WE300B/SEの設計と製作E
 
 <出力管まわりの設計>

 いよいよ300Bそのものの解説となるワケですが、実際にはそのオペレーションはこれまでの段階でほとんどお話ししているので語ることはほとんどありません。

300Bは自己バイアスの時には最大プレート損失40W/100mAですが、固定バイアスではマックス70mAの規定があり、常識的にプレート損失も9割を超えてはなりません。これは全ての球に言えることです。

自己バイアスの<91型>ではカソード抵抗に880Ωを用い、80mAと規定しますのでバイアス計算では880Ω×0.08A=70.4Vです。ではこれが本当のバイアス電圧でしょうか?

WEのマニュアルには300BのフィラメントをDC点火するとき、フィラメントの基準電圧を3.5Vと見て計算するように…との記述があります。

 私も先輩にバイアス電圧を仮に70Vと設定したとき、DC点火するとフィラメント1番に+5V/4番に0Vを掛けてDC点火するので、それぞれのバイアスは65Vと70Vとみなせることから、当然65Vの側にやや多めの電流が流れ、従って精度の高い熱温度計で観測すると1番側のフィラメントの方が4番側よりも温度も高くなっている…と教えられました。

 でもコレは全くウソだったことを後日知ります。

その実験はこうです。

DC点火の際、電流容量があればハムバランサーはなるべく小さな値の固定抵抗2個で構成します。仮に20Ωを1番と4番に付けてその中点にカソード抵抗880Ωを付けてアースに落とします。

実験をしたときにはプレート電流はピッタリ80mAでした。1番ピン(フィラメント5V側)と4番ピンの間にはハムバランサー40Ωによって125mAが流れています。プレート電流もカソード抵抗に向かって流れますから、この場合は80mAのピッタリ半分の40mAが加算されますので125mA+40mA=165mAが流れ、1番ピンから880Ωには20Ωの抵抗で3.3Vの電位差が生じます。

一方4番ピン側からは125mAと逆方向にカソード抵抗に向かって40mAが流れますから125mA−40mA=85mAが流れ、同じように880Ωに向かって1.7Vの電位差があります。つまり3.3V+1.7Vでフィラメント5Vと計算は合います。これはプレート電流がピッタリ半分づつフィラメントに流れていると想定した理想数値なのですが、何と現実もその通りになったのです。

 つまり先輩がプラス側からの方が電流が多いと言ったのは全くのデマであり、空想にに過ぎなかったのです。実はこの現実は後日UV211や845のように10Vのフィラメントでも確認できました。

211球は1000V/自己バイアスでも約50Vと300Bよりもバイアスが浅く、正直のところ両フィラメント端子から全く同じ電流値が流れたことにはびっくりしました。20VのフィラメントのGM70も全く等しい電流値でした。

ここで気付くのが880Ωの自己バイアス抵抗には別途に3.3Vの電圧がバイアス値として存在することです。僅かとは云えこの分だけ電流帰還が掛ることになるのです。このことはバイアス抵抗にバイパスコンデンサーを付けるよりもフィラメント1番/4番に2端子からアースにバイパスコンデンサーを付ける方が少しでもゲインが多くなることになります。

 もし固定バイアスで製作したとき、ウエスタンの云うフィラメント固有のバイアス値3.5V(前述では3.3Vになることを証明)も計算しておきませんと、単純にマイナス71Vを与えたのでは3.5V分電流が減ります。

 300Bのように5Vなら余り気にすることはありませんが、<GM70>のようにフィラメントが20Vもあるものは大問題です。しかもこの球は電流も大きいのでほとんどが固定バイアスで製作することになります。

ではこの場合のフィラメント固有のバイアス値は幾らか…と申しますと300Bがフィラメントの66%ですからほぼ13.5Vになるのも事実です。固定バイアスー90Vを作れば規定の電流が流れるか…と思えば、自己バイアスとして13.5Vが既に掛っているので、バイアス電圧は76.5Vが得られるよう設計しておく必要があるのです。

 負荷抵抗RLは次の機会に述べます。

http://www.soundparts.server-shared.com/make300bse.html

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/114.html#c9

[リバイバル4] サウンドパーツ 300B プッシュプル・アンプ 中川隆
10. 中川隆[-8854] koaQ7Jey 2019年8月12日 18:29:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3880]

資料室→→往年のアンプ回路から学ぶ
http://www.soundparts.server-shared.com/filebox.html


この資料室では

・プロ機器の真空管アンプ回路図
・サウンドパーツ製作アンプの回路図
・サウンドパーツがアンプ設計や専用部品開発のヒントを得た回路図と背景
・その他あまり公開されていない興味ある図面・画像・サウンドパーツで機器から起こした回路図

 ――などを順次掲載します.


 米国ウエスタン・エレクトリックやWESTREXのアンプの回路図の多くは資料が公開されていますが、ここではメインテナンスを通じて提供された回路図を転載致しました。他の回路図はドイツから入手したものやお客様からご提供頂いたものです。

 誠文堂新光社/浅野勇氏著/監修の「魅惑の真空管アンプ正編・続編」とラジオ技術の各誌から許可なく一部回路図を転載させて頂いておりますが、真空管アンプのヒストリーをご理解頂くには格好の著書でもあります。

 今ご活躍の著者の製作記事のコピー製作に走る方が多い昨今、それらとは異なる見地から今後の真空管アンプのご研究を促すという意味でお役立て頂ければと思います。


・シングルアンプの出力管にグリッドチョークを用いる例

シングル出力段にグリッドチョークを用いる例は浅野勇著「魅惑の真空管アンプ」の巻頭/古典回路解説に複数の例が紹介されています。グリッド電流の流れ易い古典3極管のグリッド回路には直流抵抗が小さくてインピーダンスの大きなグリッドチョークが必須と云えますが、それは高価で当時は特性面でも期待できなかったドライバートランスよりも小型さとコスト面で優れていたのでしょう。RCA50/250のようにグリッド抵抗10kΩ以下…との制約があるように3極管はグリッド電流が流れ易いもの、直流抵抗の低いグリッドチョークは大切な古典3極管に必須とも云えます。WE300Bは比較的グリッド電流が流れにくい球ですが、メーカー発表データに疑問があるのは2A3で、Max0.5MΩを鵜呑みにして設計すると、時には100kΩでもグリッドに2V以上が発生、最悪の場合は電流が増え続けてバイアス値が下がる悪循環を起こしてプレート電流の暴走となり、プレートが赤熱するものもあります。

 グリッドチョークはグリッド電流そのものは防止できませんが、直流抵抗の少ない分だけバイアス電圧に影響が無いので暴走には至りません。

 下記のうちHMVアンプの応用例はプッシュプル用のプレートチョークから位相反転している例で、実に巧妙ながらもグリッドの保護と言う点からは意味が無く、採用を躊躇します。プレートチョークの利点は電源電圧が低くても十分なプレート電圧が得られる、ひいては大きな利得も得られることで、グリッドチョークを併用すると再生周波数の両端が落ちる場合がありますから、併用は十分測定をしなければ失敗します。

 それにしても浅野勇氏は多くの文献から数限りない回路に深い洞察をしておられたに相違ないのですが、「魅惑の真空管」では真空管の使用例だけに的を絞っておられます。著作書の目的からはそれも仕方ありませんが、古典的アンプ全体の回路回析や、それら資料の公開と研究成果も発表して欲しかったと思います。旧いものの中にはコストの制約を受けずに凝った回路のものも多く、それも「ひとつのロマン」であり、技術者の苦労が偲ばれます。

 サウンドパーツの回路は「シンプル・イズ・ベスト」を標ぼうしていますが、もし次々に新たな真空管が開発登場する時代に生まれていれば多分同じコトをして真空管を徹底活用するとか、「これでもか!」的回路の遊びも楽しんだでしょう。現代は例えば出力トランスなど格段に良い特性のものがあるので、入力信号に対してアンプは如何に「増幅する電線」に徹するか…が大切と考えており、その意味でピュアオーディオに徹するという原点に常に位置したいのです。

・出力管に多極管を用いてグリッドチョークでさらに大きな利得を得る

  ※この回路図ではアンプ全体のアースが漏れています

    
http://www.soundparts.server-shared.com/filebox.html


・タンノイ(あのTANNOY?)での例でAFTと記すもののグリッドチョーク・スグにコピーを作れるアマチュア志向の回路 

    

     


・マーシャルのアンプでは入力段にも出力段にもグリッドチョークを入れています 

   
   


・HMVのPX25プッシュプルはドライバー段プレートチョークで位相反転⇒PX25の贅沢なアンプの例は下記のDECCAに軍配!
 
   


サウンドパーツが出力管にグリッドチョークを用いるきっかけとなったDECCAのPX25プッシュプルアンプ 

 このコンソールは大変豪華な作りで、中でもチューナーの周波数切替のイルミネーションは電源オンと共にウットリ見とれる素晴らしさです。今となって惜しいのはアナログが10インチ盤しか使えないことです。勿論回路も技術の賜物として外観に負けていません。

 フォノ入力トランスの2次側からイコライザー回路を経て出力段に至る見事なまでの全段プッシュプル構成。増幅はL63(6J5)に統一してメンテを容易にし、出力管PX25にグリッドチョークを使用しています。PX25のグリッドがグリッドチョークによって磁気結合していると、前段までの信号は出力管の両グリッドに同じ振幅で与えられ、同時に貴重なPX25もグリッドチョークの小さな抵抗値によりグリッド電流が原因の暴走から保護できます。グリッドチョークに抵抗を並列に入れているのは低域時定数が不安定になるのを回避する目的で、大きなヘンリーのグリッドチョークは超低域が不安定になりがちなので低域端を抵抗値で調整したものです。

    

・同じくダブルプッシュプルWE133Aパワーアンプの回路…コレはグリッドチョークとは無関係のWプッシュの例です

    

 WE133Aアンプは電源部が別体のミキサー内蔵用アンプですが、軽度のNFBも掛けて20〜20KHzを保証、WE124系と同じ出力トランスをわずか8Wのアンプに奢り、内部配線材ひとつを取り上げても大量に作られた124シリーズのどれとも比べものにならないコストの掛け方、1086と同じパラフィン含浸綿巻線と内容にこだわっています。

 余談ですが、よく見ないと回路図だけではお気付きにならないでしょうが、かの有名なWEのカップリング用オイルコン(例の縦長の35_×10_×80_H程度のアレです)はNFBには用いられているものの、カップリングは0.03μFのマイカです。同様に129ラインアンプでもカップリングはサンガモ辺りの小型オイル、前述の角ばったWE製コンデンサーはNFB回路で、察するにWEは音質的にはあのコンデンサーは採用したくなかったのかも知れません。86型は採用しているのですが。

 133Aは出力管は349A、個人的にはWEアンプ中で最も音質面で優れる好ましいアンプと思っています。ホールトーンを重視するアンプ群の中でも端正で情報量も多く、まさにモニターたる性格です。124シリーズのように社内QC運動によりビス1本から部品に至るまでコストを重視の時代が到来し、アンプそのものもPA向けになって行ったのとは一線を画します。ただテレフンケンV69と同様インプットトランスを使用して(このアンプのためだけに618Bインプットトランスは2次側にセンタータップが在ります)のダブルプッシュ方式は600Ωの伝送系が可能なプロ機では簡単でも一般的なプッシュプルアンプへの応用は不可能です。そこでサウンドパーツでは<入力反転チョーク>を開発する道を選んだのです。グリッドチョークならインプットトランス固有の音質面での色づけや特性の影響はほとんどありません。ちなみに入力反転チョークは1:1の2巻線ファイラ巻きのトランスと原理は同じですから特性は極めて優秀、いわば1次側の無いトランスです。オーディオ自作派にはコイルを嫌う向きもありますが、マイクロホンやMCカートリッジからスピーカーに至るまで音響はコイルのお世話にならずして増幅系を構成できません。その意味ではコンデンサーも然りで、直結アンプにこだわってもスピーカーのネットワークやイコライザーにはコンデンサーを使わない訳には行きません。

 プッシュプルアンプの位相反転をP-K分割型とかリークムラード型で片付けようとすると、真空管の微妙な特性差や経年変化を考えると、その動作は見かけの「安直」さとは程遠い調整が必要な難しいものだと言わざるを得ません。

 133AアンプやテレフンケンV69の音質を聴いてこの回路の音の良さを知ると、今更ながら現代アンプのほとんどに採用されているプッシュプル反転回路は考えたくなくなり、あのキレの悪さとか平板な音の原因ではないか?との疑いがあります。NFBに「おんぶに抱っこ」で誤魔化しているのがP-K分割/リークムラード反転回路とも云えます。

 デッカ<デコラ>の出力段グリッドチョークの働きとか多極管のUL接続の持つ裸特性の良さまで考察を進めたとき、当店のプッシュプルアンプに採用する『完全バランスプッシュプル』に帰結するのは自然な流れ…と云えます。


⇒ここにWE1126Aラインアンプを追記します。回路的には133Aを更に理想的に追究した…と云えますがパワーアンプではないところが残念です。回路図では見辛いのですが2段目にはプッシュプル用グリッドチョークを用いて、初段5極管による(極論すれば上下の出力が必ず狂っている)プッシュの信号出力をグリッド「磁気結合」によって再合成、グリッドチョークのみが可能です。

 蛇足ですが、アンプと云えばオイルコンばかりのプアな電源と、3極管シングルアンプ至上主義の方には考え付かない回路構成なのが133Aや1126の構成です。WE至上主義でもあるそれらの多くの方々は、133Aなどの魅力有る音質を確認や想像することも無いままご自分に都合の良いアンプのみをピックアップします。時代と共に進化するWE本家そのものの回路追究精神は無視することが多いのです。当時どのようなパーツや部品が作られたか(電解コンデンサーの例のように)時代考証的な発想と並行して真空管の発達と回路を考察する必要があり、そこから音質を想像するのも愉しいことです。

   


・プッシュプル出力トランスのB+/センタータップに直列に<センターチョーク>を挿入した例。

 <Loveシリーズ>パワーアンプの全て採用しているのが出力トランスへの「センターチョーク」です。ここに掲載しているのは数多い例の中でも余りに有名なアンプ、使われている真空管そのものも憧憬の的です。 

でもこの「センターチョーク」回路を採用したアンプは近年発表例が無く、まして過去のメーカー製品には全く採用された例がありません。

 サウンドパーツのこの回路に関する考え方は次の通り、チョークの動作解析の詳細は避けますが「素人的」と一笑に付して頂くことは勝手でもこの方式の採用での音の変化は笑えません。WE古典機共通のこの回路、解析結果を教えて頂ければ嬉しく思います。

 …出力トランスは当然その特性の範囲で1次で作られた信号を2次側に変換します。ただ電源側にはコンデンサーが控えており、B+回路に回り込んだ音声信号を交流的に接地すべきそのコンデンサーとの間で低域時定数が発生します。その意味で電源はリップル低減だけが目的ではなく十分低い時定数でキレイな直流を送ってくれなければ出力トランスで発生した限界低域よりも上の周波数をも一部コンデンサーで接地してしまいます。シングルアンプでは出力トランスのDC抵抗値と電源部の出口のコンデンサーとで低域時定数が成立しますので、トランスの抵抗値が大きいか電源出口のコンデンサーを大きな容量にすればトランスの特性通りの低域が出力されます。

 一方プッシュプルトランスはどうでしょうか? 旧来のトランスによくある「単巻き」では巻き始め(仮にP1)と中点(B+)との間の抵抗値は中点と巻き終わり(P2)の間との抵抗値よりも小さく、電源出口のコンデンサーが十分大きければOPTの巻線抵抗値の差とでシングルと同じように低域時定数が成立します。一方オイルコン時代のコンデンサー容量そのものが大きく取れない時代には、周波数特性の良い2〜5H程度のチョークをOPTのセンタータップとコンデンサー間に入れることで先ほどのOPTの抵抗差にチョークの抵抗を加えて、低域時定数を再生周波数の低域側に影響を与えない数値にまで追い込んだのです。その後WE86アンプからは電解コンデンサーが採用され(8本が林立します)、容量値が大きく取れることになって低域時定数が容易に下げられ、センターチョークの必要性がなくなったと思われます。

 現代トランスの多くはファイラ巻き…つまり複数線並列巻きで、P1〜B+〜P2間に直流抵抗の差はほぼ皆無です。トランスは電源との関係において「フロート」しています。これも考え方としては正解のひとつだと思います。ただヒアリングでは良いコアのトランスを持ってきて十分低域は出るものの低域の楽器の奥行き方向の定位感があまりイメージできません。これは半導体アンプは勿論、真空管のNFBアンプを常用している方には理解してもらいにくい現象です。それらのアンプでは楽器の音も人の声もスピーカーにベタッとして離れず、ステレオは左右の分離だけで奥行き方向の「定位感」が希薄です。

 でも前述のようにここをセンターチョーク式として周波数特性に優れたチョークをセンターに付加して電源との時定数を確立すれば低域のシッカリ感が違ってきます。どなたでも聴けばドラムやベース、ピアノの左手に奥行方向の音像定位が明確になるのが判ります。従って意識して電源部との間で低域時定数を作ったプッシュプル回路も成立する訳で、その良い例がWEの古典回路だと考えます。<Love One>に採用のトランスはイマドキの市販品には珍しくなった「単巻き」ですが特性面では優れていますので、回路にセンターチョークを加えています。奥行きの定位表現も十分でこのファイラ巻き全盛時代でによくぞメーカー(橋本電気)が作ったと思います。

 一方<Love Three>ではOPTのファインメットに対し、高価な100ミクロン・コアのセンターチョークを使用し、ファインメットと音的には絶妙の組み合わせとしています。低域の性格を在来のプッシュプルアンプのやや甘い音質から高域では滑らかさを、全体では立ち上がりの鋭さとスピードのあるものとしています。それゆえにエコー感も奥行き表現も有るのです。全ては下記回路に代表され、WE86型までほとんどのプッシュ、さらには99型/100型(高圧アンプでオイルコン電源ゆえの処置)に至るまでWEがこだわり続けた「センターチョーク方式」の賜物です。

 ただ、サウンドパーツの方式では多極管ウルトラリニア回路にセンターチョークを採用した結果、A級動作を超えて働こうとすると信号の大小で当然電流値が変化し、その結果センターチョークはチョーク本来の脈流を排除する方向に動作します。つまり定電流回路として動作しますのでA級動作範囲を大きく取り、<Love Three>ではもっと大きなパワーを欲するときにはチョークをショートAB級への変えられるスイッチを付けています。またE130Lではスクリーン電圧が最大250Vとの制約があるのでチョークは2コイルファイラ巻きの高級品で、同一信号でプレートもスクリーンもスイングしないと正しく動作してくれないことを確認、この方式の採用は試作段階で大変苦労しました。


 <回路図中のL1がセンターチョークです>
   


 <回路図中のL1=136-A.Retがセンターーチョークです>
   


 サウンドパーツの現行製品の基本回路

http://www.soundparts.server-shared.com/filebox.html

 この回路の優位性をご認識頂きたいためにルル述べてきたのが正直なところです。

リークムラード型プッシュプルやP/K分割回路しか知らない方にはこの音質を予想すらできないと思います。

 前述のWE133AやテレフンケンのV69アンプではでは音質的に優れていても業務用のアンプとして主に600Ωの伝送系に対応するように作られているのは仕方ありません。

 これをサウンドパーツのプッシュプルアンプでは、ごく一般的な家庭用オーディオのプリアンプ等どのような出力に対しても幅広い入力インピーダン特性をもつ『入力反転グリッドチョーク』としていることが大きく異なります。この方法は過去に全く採用された例が無い点ではサウンドパーツの『特許』とも言える使用法ですが、いまどき高い特許申請をしても真空管アンを売ってそのコストが回収できるものでもありません。

また3極管を使ったWEアンプだけが採用した『センターチョーク』を多極管ウルトラリア接続でも使っています。従って回路ではAクラス動作領域を広げないとパワーが取れません。センターチョークは「定電流回路」で、大パワー領域に入る信号に応じて電流が変化するAB1級での設計は無意味なのです。

 下記したサウンドパーツの基本回路図では、出力段プレートから初段カソードへのFNBの例も記入していますが、これは製品では採用していません。でも現代スピーカーで軽度のNFBも必要と考える方のために加えておきました。近年は出力トランスの2次側から初段へのNFBがほとんどですが、ダブルプッシュでは上下のプレートから直接初段のカソードにNFBを掛けます。WE133Aのように直流カット用のコンデンサーを用いず、ごくわずかに電流も返すことで周波数としては0HzからNFBを掛けていることになり、初段のバイアスの変化が無いように設計します。DCカットのコンデンサーを入れないことで信号回路との低域時定数の干渉を無くすことが出来ます。

 飽くまで下図はあらゆる要素を織り込んで記しているだけで、多極管でもウルトラリニア回路の特性は抜群ですからNFBの必要はありません。初段のグリッドや入力反転チョークのCTタップ〜アース間に入る抵抗の意味はココでは解説を略します。

 この回路を見て音質が悪いハズが無いとはお考えになりませんか?

出力段のUL接続では多極管の性格が極めて3極管に近くなります。シングルアンプでも初段/出力段に3極管を用いた2段アンプは多少ラフな設計をしても歪みは少なく設計出来ますから、プッシュでも全2段構成は大変有利です。しかもそのようなシングル2段構成を『水面に映したような』プッシュプルとすることで、どの段を見てもプッシュによる歪みの打ち消し効果があるのです。実際には音を良くするためのノーハウは更に有るとはいえ、誰が作っても失敗しない回路にはそれぞれの真空管・出力トランス・電源の構成・採用部品の音質がより濃く反映されて当然です。つまり全ての部分「本当の」音がモロに出てきます。回路による欠点に隠されいた多くの要素が音に反映されるのです。

 <※の抵抗はNFB用で当店製品には採用しませんが、どうしてもNFを掛けたい方のためのご参考です>

   

 今後はマッキンやマランツの回路例などの回路図を掲載て行きますのでご期待下さい

http://www.soundparts.server-shared.com/filebox.html

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/114.html#c10

[リバイバル4] サウンドパーツ 300B プッシュプル・アンプ 中川隆
11. 中川隆[-8853] koaQ7Jey 2019年8月12日 18:30:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3881]

サウンドパーツの真空管アンプ
http://www.soundparts.server-shared.com/prodct.html


音楽を聴くことのみ徹底追究したサウンドパーツのアンプ

≪サウンドパーツの音質に対する考察≫

『音が良い』アンプやスピーカーと言っても「音」に基準など無く、好みが人それぞれで異なる以上「良い音」は無数に在ります

私たちプロとは「買って頂く」立場なので
専門誌の著作のように「音が良い」を毎号どの記事も繰り返す「万人受け」は通じず
一人一人のオーナーが満足されるものを作らねばならない宿命を持ちます

でも著作にはある種の権威づけだけで、事実はアマチュアに飛びついて貰えるような予算の制約などもあるので
実際に本当に音楽愛好者に満足して貰えるようなアンプやスピーカーは作れず、市販キットもその延長線に在ります

コストを切り詰めても、根幹を成す出力トランスなどにはそれなりの予算も必要なので、著作で作るコピー製品には限界があります

一方、AUDIOを自認するにはヴィンテージならマッキン/マランツ/JBL/タンノイ/アルテック
現代ならアキュやエクスクルーシブやB&Wを持たねば何となく他から認められない…との感覚があるようです

つまり日本中に溢れるこれらの機器に大枚を払えば標準以上の『良い音』のハズです

リッチな方ならスグにも揃えられるそれらは、本当に音楽を奏でてくれるのでしょうか

マネキン肌・演奏者は横一列に並んでいるだけ・感情面で伝わってくるものが無い
そんな音楽なら高級ラジカセでも再現できるのです

日頃からより良い音を求めて精進し、多くの方のご意見とかオーディオ仲間からのアイディアにも耳を傾け
無数の実験と時間を経て多数のオーナーのご満足を得られるまでに至ったサウンドパーツの製品

真剣に良い音楽ソフトを聴けば、聴くほどに真価を発揮します

音楽ソフトには今まで聴いたことない部分や表現が含まれていたのです
他の製品との比較される「修羅場」を何百もクリアしてご愛用頂き
今のサウンドパーツが存在しています

一方で専門誌が自作派の「受け」を狙ウ目的だけで作った<直熱三極管>ブーム

古典真空管には職人の魂を感じるような素晴らしいものもありますがそれはコレクターアイテム

何でも三極管なら優れている…と思うのは大間違いで音が淡泊なだけの球も多く
時代の要求で性能を追求して生まれた多極管も用法を工夫すれば実に音楽表現に優れるものがあります

ところが大出力を得る目的で作られた著名メーカー製プッシュプルは往年のマッキン/マランツのコピーばかり…

マッキン/マランツの真髄は「凝った出力トランス」なのですからコピー製品は『似て非なるもの』に過ぎません

しかもアメリカ的発想は性能とパワー競争だけの音楽性を競ったものとは言い難く
何台買い、何台作ろうとも『満足』にはほど遠いのです


サウンドパーツは83年に真空管/パーツ専門店として富山市で創業

32年間のアンプ製作数は1300台も軽く上回り、中でもプリアンプが半数近くを占めます
全ては一人で製作する手配線のアンプ、主力アンプのトランスも経験豊富なメーカーの手になる専用特注品です

画像はプリアンプ<Love Five>フルバージョンの内部です

http://www.soundparts.server-shared.com/prodct.html


茶色いコンデンサーの幅は約30ミリで数年前に生産を終えたPanasonic製アルミ箔型、金属膜がメッキと同じ蒸着型とは音のクォリティがまるで違います

長い経験から音質面で十分配慮しスペースにも考慮した部品の使い分け、カラゲ配線、ハンダも鉛フリーの銀・銅を含む特注品

≪家庭で音楽鑑賞を愉しむのにピッタリの良いアンプをとは……≫

アンプ自作マニアに製作例が多い≪三極管シングルアンプ≫は比較的少ない投資で簡単に作れるので人気が有って当然です

サウンドパーツも『シングルアンプこそ最良の管球アンプ』という三極管シングルアンプに傾倒した時期があり
WE300Bシングルアンプは著名な『91型』回路だけでも130台以上を作りました

シングルアンプは球の個性を試すには絶好であり素直な音質も魅力です

でもアマチュアが「製作意欲」を満足させるための手段としてはシングルが最高でも
メーカーがその音質=楽器や声を本当にナマナマしく=再現させ、音楽リスナーのために作るにはもっと上の質を狙わねば存在意義がありません

他方メインテナンス業務でWEやKlangfilmなど映画・スタジオ業務用アンプの音質にも惹かれるものがありました

それはアンプ設計者・製作者の立場から見た回路や部品、優れた特性への興味もさることながら
「声と楽器」の再生に関して名俳優やミュージシャンを納得させ、一方では聴衆を魅了した音色だったと容易に想像できます

黄金時代の映画界は、例えばMGMではミュージシャンとダンサー8000人を丸抱え…というカネ掛け放題

音声機器にも現代オーディオ界など足元にも及ばない予算を掛けることが許されました

俳優やミュージシャンから『これは私の声ではない』『俺の楽器の音ではない』と言われるような器機は淘汰されます

そんなアンプやスピーカーこそ、特性だけを誇る現代AUDIO製品よりも「声と楽器」をナマナマしく聴かせるのです

サウンドパーツが初期の数年にハマった3極管シングル(SE)アンプ

今は貴方がハマっておられるかもしれませんが敢えて申します

それは
良い性格のトランスと部品で構成さえすれば
家庭で十分なパワーもあり音の立ち上がりやキレも良いものです

つまりシングルアンプは回路が単純で稀少な古典三極管へのこだわりという点では一つの選択肢

但し原回路のヒストリーを考察しないで専門誌の著者の作品や旧泰然とした回路にコダワルと音も『旧い』ものになります

『旧い』の定義とは…中域が充実して聴きやすくゆったりとして声が良い…という程度のもので「当然」です

サウンドパーツの<KR/PX25シングル>は当店唯一の直熱三極管のシングルアンプ
最新技術を盛り込んだ100μコアトランスを採用

シングルはコアの磁化が起きるのでファインメットはフツーの2倍のコア材でも低域では不利

かといってフツーの300〜350ミクロン・コアでは音は鈍重で「情報」として重要な小音量時がまるでダメ

完成品として大きなコスト差の無い100ミクロンコアの採用で低域も良く高域は実に爽やか…


大容量コンデンサーによる電源部

フィラメント点火はスイッチング電源(エネルギーロスが小さいので発熱でも有利)
グリッドチョークによる出力管の長寿化や音質の向上
…そこまで腐心してこそシングルアンプは存在価値があります

ではサウンドパーツのプッシュプルアンプの音質はどうでしょうか

 多くのプッシュプルアンプは音質が「マネキン肌」で演奏者は横に並んでいるだけ…と云う印象

演奏者の意気込みとか臨場感は伝わらず、リスナーはメロディを追うだけになります

原因は…「多重負帰還」・高い動作電圧・AB1級動作・中味のプアなトランス等々…
それらの欠点を知り尽くしたサウンドパーツのアンプは
演奏者の意気込み・奥行き方向に広がる音場表現・微妙なニュアンス・伝わってくる感情…を体感して頂けます

シングル構成のアンプよりも上手く、スピード感でも勝るのです
サウンドパーツの<Pushi-Pull>の音は<自然食>…つまり会話の邪魔にならず音量を上げてもウルサクない

名演奏や歌声に時間の経過を忘れ、アレもコレもと聴きたくなる…気持の高揚があります

 ナゼ他の多くのプッシュプルアンプと差があるのか?
WEモニター用<133A>/Telefunken<V69a>やKlangfilmのプッシュプルを原点としているからです

この2台に共通するのが初段も出力段もプッシュプルで構成する『ダブルプッシュプル』という回路

理論上も歪は極端に少なく、ヒアリングでも奥行きの表現が上手くて大変自然な音色があります

当時の出力トランスや回路技術から負帰還=NFBも軽度に掛けて特性を良くしています
最大パワー付近まで全く騒がしくなくて≪楽器やヒトの声の再生≫が一味も二味も違います

サウンドパーツがご家庭でフツーに使える同じ考え方で同じ回路のアンプを製作するためには
入力反転用チョークと云う部品の開発が必要でした

入力反転チョークを使うとシンプルな構成で特性も音も良いPush-Pullアンプがとても簡単に作れます

サウンドパーツ開発のこの部品は、自作マニアへの方も多く採用され「良さ」と簡単さが実証されています

 ファインメットに代表される新材料トランス・コアや巻線技術、それに使用部品も当時より格段に優れる現在
「良き時代」のプロ機の『思想』はそのままで更に優れたアンプが作れるのです
50年代後半のオーディオ黎明期マランツ・マッキンは「消費者向け」特性/パワー重視の大量生産品

楽器の音と声の再生…と云う観点では明確に映画界・スタジオ用などのプロ用アンプには劣ります

音楽表現に優れるサウンドパーツのパワーアンプは全て『ダブルプッシュプル』NON-NFBアンプです

さらに下記の回路図をご覧ください

http://www.soundparts.server-shared.com/prodct.html


サウンドパーツが2013年春から採用のプッシュプル

⇒プレート固定抵抗がプッシュ用チョークとなり、コレ以上シンプルな回路はない!
新採用のドライバ―段用プッシュプル専用プレートチョークは音の伸び・奥行の定位感と躍動感が素晴らしい

※出力管用GCH-60を固定抵抗にしても有効です

データ上も当然ながら全く歪感の無い音楽の楽しさを実感させるもの
シンプルな回路構成中に唯一<足し算>をしているのが出力トランスへのセンターチョーク

A級動作を完璧にするセンターチョークはWEの技術
今のアンプに生かしても奥行表現などでは有効です

市販プッシュプルの欠点とは

そのほとんどが<リークムラード型>という回路で構成されています

少々解説明が長くなりますがここで判り易くその宿命的欠陥を解説しましょう
パワーアンプは原則として1Vの音楽信号が入った時に最大パワーになるよう設計します

どの出力管も多くの使用例があり、300Bなら60〜80V・EL34なら25〜35Vのドライブ電圧を要します

単純にはアンプの信号入力を300Bなら60〜80倍、EL34なら25〜35倍に増幅してやれば最大パワーに達します

ところが<リークムラード型>は必ず増幅2段で構成しますから250倍〜1000倍もの有り余る利得となり
そのままでは超高感度アンプとなることからNFB/負帰還で前述の必用な倍率まで落します

NFBはアンプのダンピングを良くしたり、特性改善に一定の効果があります
またNFBを掛ける前の「裸特性」が歪みの多いものであってもかなり是正します
実際<リークムラード型>は初段がシングルで、それは歪を生じる要因にもなります

そこで2段目のプッシュプル「位相反転段」で、ワザと逆位相に歪ませて初段と歪の打消しを図っています

でもそれは理想的動作であり、アンプ完成初期だけ完璧に動作しても経年で狂ってしまうのがほとんどです

また安直な設計から元々その歪打消し効果そのものがイイ加減なことも多いのです
しかしNFBは、ほぼ上手く是正しますから大変好都合なのです

では何も云うことは無いじゃないか…オっとそうは上手く行きません
NFBと云う技術には音質からみて失うものも多くあって「交流理論」だけでは成立しないのです

それは「余計に稼いで/多く返す」ために情報量も減ってしまうコト…測定では判らない要素です

「情報量」には奥行きの要素・演奏の周囲の情報・本信号に付随している微信号が含まれています

アンプのダンピング特性が良ければ音の切れ味が良くなる…と云うのはウソです
DF/ダンピングファクターは多ければ良いのではなく、スピーカーとの相性の要素です

例えばウーハに必然の高域カットのコイルを入れたらその抵抗分で計算上DFは大きく落ちます

数値だけが一人歩きする余り意味のないもの、大型スピーカーなら1ケタ台の数値が適正でしょう

結局<リークムラード型>は安直な設計を許す「毒を以て毒を制す」…方法です
NFBは特性の改善に効果的でも≪音を良くする≫…要素ではありません

サウンドパーツの<完全Wプッシュプル>は

初段球に適切なゲインの球を選んで出力管のスイング電圧を得ると同時に位相反転もやってしまいます

初段からプッシュプルですから歪はシングルに比べて格段に少なく、大振幅時ほど効果があります

しかも出力管用グリッドチョークを併用しますので、その磁気結合から得られる特性は
初段のプッシュプル動作に多少の偏差が生じたとしても出力管には均等なプッシュプル信号を送り込みます

多極管の出力管はUL/ウルトラリニア結合として三極管並みの良い裸特性の部分で使っています

初段球には三極管を用いますから、2段構成では出力管との間で歪の「自動打消し作用」も働きます

出力トランスには二次巻線抵抗値の小さなものを特注してDFを適正値にしています
以上からアンプに入力された情報は「何も足さない・何も引かない」的に大切に増幅されています

素材に良い構成部品を選び、動作ポイントを熟慮と経験値から「良い音」を探すのです

その結果は安直設計⇒NFB…とは異なるナマナマしさの溢れる音質となり
歪み成分も少ない大変聴き易いものとなるのです

それは印刷とスクリーンで見る景色が異なるように、奥行きと実在感の表現の差となって表現されます

  ≪Love Music≫シリーズ・アンプ 

パワーアンプは

プッシュプルには≪Love One≫と≪Love Three≫があります

さらに≪Love Three≫シリーズはボディ共通で出力管にPX25/EL34/E130Lの3種や6550/KT88も選べます

≪Love Three≫には現在最高の出力トランス…FINEMET大型コア出力トランスを標準で搭載

奥行き表現に優れた<完全A級・センターチョーク内蔵>モデルが標準です
一聴すれば判る一般のプッシュプルアンプとは全く異次元の音楽表現力を有しています


プリアンプは
最新の≪Love Five≫に至るまで3世代の歴代プリ・ベストセラー製品としてこだわりがあり
プリ製作600台超の実績から≪Love Five≫はサウンドパーツのプリアンプ『最終到達点』と考えています

「LCR型イコライザー」はアナログ盤の再生の最良の方式、心臓部のインダクター(コイル)が他では作れません

CD/DAC用に本格的なバランス入力もある真空管プリアンプも世界中に存在しません


増幅系の入り口に位置するプリアンプ

プリでスポイルされた音はシステム全体からは当然出ないのです

いつもパワーアンプに信号を送り続ける心臓部<ライン部>に高級スーパーパーマロイ・コア出力トランスを採用

真空管たった1段で構成されるので他のプリのような2段NFB型やSRPP出力機とデジタル臭の無さでは段違い

しかも出力トランス方式は出力の低インピーダンス化と真空管の持つエネルギー圧縮化で「力と自然感」を両立させます

サウンドパーツのアンプに他の真空管アンプの「真似」は存在しません
真空管には、真空管固有の音の良い電圧/電流配分と云う重要な要素があります
専門誌の著作の多くも「ベストの電圧/電流配分…」というコトに着目し詳しく述べている例はありません

まして市販アンプの設計を見ると、余りに無頓着で熟慮した痕跡は皆無に近いのです

WE300BとかPX25等々…優秀な出力管がその前段の音を『増幅』している意識が無いとイイ音などありません

サウンドパーツの1200台製作実績と云う圧倒的な経験から得られたノーハウは
「真空管の最良の用法」と電源部への考察です

実際には無用な最大パワーを少し犠牲ににしてでも最適の球のオペレーションで動作させる…

同じ真空管を使っても『真空管アンプはどれも同じ』では決してありません

『音楽を聴く道具』を提供することを絶対の信条としています
≪オーディオ≫はヒトによっては蒐集であり、珍しかったり高価な機器の保有も自慢の対象となります

美しくて希少で高価なものを持ちたい…心理を否定しませんが
音楽鑑賞はリッチな方の特権ではありません

このイズムはサウンドパーツの極めて「原価率」の大きな価格構成にも反映させています

オーディオ・ファンの原点として音楽の再現性を最大の目標としていることだけは変えないで欲しいのです

本当に音楽の好きなヒトが望むものは音楽シーンの再現が限りなく「らしい」こと
製作者自身、音楽を聴くときに「求めるもの」が在って、聴けば好きかそうでないか…の判断は明確で

他に納得の行くものが無いので自身作るほかなく
いつのまにか40年以上自作し、29年以上プロとして追究して来た帰結の製品として現行製品があります

製作者として好きなジャンルはJAZZ60%クラシック40%、楽器ならピアノ・サックス・圧倒的にヴォーカル≪声≫…です

ここ数年前から微力ながら「コレは…」と思うミュージシャンを支援/応援しています


<パワーアンプ>

サウンドパーツのプッシュプルアンプは<Love Threeシリーズ>として3種があります

KR製 PX25

Tungsram  E130L
Svetlana EL34WC

の搭載機を選べます

どのプッシュプルも使用する球の最も「美味しい」部分…つまり電圧と電流配分を優先し、パワーだけを追究してはいません

またE130LもEL34も「ウルトラリニア結合」という裸特性が極めて三極管に近い動作の無帰還アンプで音がイキイキしています
音質面で多極管が古典三極管に劣る…と云うのは専門誌や多くの盲信から出た根拠のない説・流言で
多極管の美点を求めて電圧・電流配分などを追い込み、回路を究めた記事やアンプは無く、サウンドパーツでは
淡泊で美しいことに終始しがちな直熱三極管の音に「豊穣さ」や「色気」を加えた感じを得ています

特にE130Lは東欧で音声用に開発された、特性的にはEL34とKT88の中間的な存在で世界で唯一サウンドパーツだけがアンプとしています

E130Lの呼称は、この球が1万時間の高信頼管であることを表し、音質はEL34の華麗さに低域のエネルギー感を加えたものです

E130Lアンプは僅かな改造でいつでもEL34/KT88/6550などのアンプに改造が可能
EL34のアンプはそのままでKT88/6550に差し替えでき、どのアンプも現在の健康度をテスターでチェックできる端子があります


画像はE130L球 同じボディでKR/PX25もEL34も構築でき、EL34アンプは6550などと無改造で互換性があります

画像は初期出荷のものです

http://www.soundparts.server-shared.com/prodct.html


回路がシンプルゆえにワイアリングも単純に見えます

実際には配置を凝縮し端子板を上手く使っているのでそのように見えるのです
青いコンデンサーは米国Musicap、アルミ箔膜にメタライズを密着させた理想のもので音質は滑らかそのものです

右のコイル2個は<センターチョーク>でA級定電流動作を選択した時に奥行き感や音の明瞭感が加わる独自のものです

最新のプッシュプルの回路がこれ

http://www.soundparts.server-shared.com/prodct.html


<Love Three>には市販アンプには無い≪ファインメット≫コア出力トランスと
100ミクロンカットコア出力トランスのバージョンが選べます

この豪華な仕様からは考えられないお求め安い価格です

生き生きした躍動感とエッジの効いた低域に爽やか高域、何と言ってもナマナマしいのが特徴です

ファインメット・コアは全体を通じての品の良さ・声などの自然感と情報量が最大の特徴

100μ(ミクロン)コアはキレ味と低域のバランスが特徴です

いずれのトランスも創業時からお取引のある<テクトロン>製

他の部品も25年以上の長いお取引先の強い協力体制の下サウンドパーツ製品のクォリティと価格が維持できています


 <Love Three>E130L/EL34> 

新たに開発したドライバー段用プッシュプルチョークを標準装備するバージョンが新価格となりました

<ファインメット63VA出力トランス>

PX25/440000円 EL34/360000円 E130L/370000円

※ドライバ―段に高信頼球E80cc採用…オプション設定6000円高

出力トランスのコアとは…

サウンドパーツのオリジナル出力トランスには最高級と云われる2種のコアを採用しています

ファインメット・コアは約23μ厚のアモルファスを鍛造して焼きなまし18μ厚にしたもの

その結果、更にヒステリシス特性が「立った鋭い特性」となり
応答性が他のコアに比べて格段に優れ、巻線技術でもロスが少なく情報量の多さが自然感を伴います

その表現力と低域表現やツブツブの情報量は目を瞠るものがあります
高価ゆえに、良さを知っていてもファインメット出力トランスを他のメーカは採用しません

サウンドパーツがロープライスで販売しているのでとても太刀打ちできないのです

今までEL34の良さを知らずに軽んじていた方も低域の良さ・楽器と声の再現性の良さに驚かれるしょう

ピアノでは指が鍵盤を叩く「ゴトゴト」とハンマーが弦を打つ音がキッチリ分離して判り
爽やかな高域はペットやバイオリンや声楽も澄みきって伸び伸び表現し、痛快ですらあります

全ての楽器の奥行き方向の存在感・実感を伴うライブの雰囲気は最高です
スタジオ録音では室内のエコー成分と基音とが明確に分離して心地良く愉しい
それはWプッシュプルに<センターチョーク>回路という極めて贅沢な構成を採用した恩恵です

この回路の原点はWE製の旧いプッシュプルアンプですが、現代アンプに採用した例はありません

≪Love Three≫では使用する真空管の「音色の良い部分」を得るための電圧/電流に腐心しています

意味の無いパワー重視や必要以上の特性を求めると失うものも一杯あるのです
逆に言えば、特性とパワー重視で設計されたアンプでは未体験の音質がソコに存在します

サウンドパーツのパワーアンプの表現力の高さは最近急速に認められ、多くの受注を頂戴して「ご支持」頂いております

お手持ちの球やKT88/6550での製作等も特注品としてお受けしております
http://www.soundparts.server-shared.com/prodct.html

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/114.html#c11

[リバイバル3] ジャズ喫茶「ベイシー」の選択 _ JBLの本当の音とは 富山誠
143. 中川隆[-8852] koaQ7Jey 2019年8月12日 18:43:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3882]
2019年 08月 12日
Catbossさんの進化した装置 GRFのある部屋
https://tannoy.exblog.jp/30736015/

先月からの夜香さんや横浜のMさんのJBLの装置のめざましい進化に、刺激を受けられたcatbossさんが、JBLの375ドライバーのアンプを、クレルのSA-100からMさんのところと同じFirstのSit-1のアンプに変えられて、音がめざましく進歩したという知らせを受けたので、茅野の家に行く途中にお寄りしました。

お盆の中央高速は、とんでもなく混みます。普段は、一時間のところを順調でも3時間は掛かります。その中で、事故が起きればそれは致命的に混雑を引き起こします。なんとか大混雑を避け、catbossさんのところに到着したのは、夕方になっていました。山間の桃源郷のような田園地帯にあるお宅ですが、到着したときは、まだ暑さが残っていましたが、このところの猛暑日ではなかったので助かりました。


f0108399_10553127.jpg


前回お邪魔したときは、このようにSPはむき出しで、実験を繰り返されておりました。375のホーンには、2385Aというホーンが取り付けられ、高音のドライバーは、2405でしたが、今回は蜂の巣型の537-500ホーンに変わり、2405も075のドライバーになり、そのホーンは、オリジナルのアルミホーンから同じアルミだけれど、ホーンの表面が光沢仕上げになっていました。

f0108399_22034221.jpg


それと、最近の流れから、サウンドアクセラレーターの実験もされていました。catbossさんらしく、ありなしを比較できるように、端子を工夫されて、すぐに有る無しの比較が出来ます。


f0108399_22145529.jpg


前回お邪魔したときから比べて、SPの箱のお化粧や、フロントバッフル、ドライバーの固定台等、外観も垢抜けてきました。音も整理され、特にSit-1導入後の音の真価はめざましい物があるそうです。


早速音を聴かせていただきました。いや〜良い音です!Sit1で音が変わったそうです。全体のバランスが取れて、音に色気があります。先日のMさんのお宅のクラシックの音も、とてもJBLからなっているとは思えなかったのですが、catbossさんのお宅の音は、それに透明感と奥行きが出ています。とてもホーン型の375から出ている音とは思えません。


夜香さんや横浜のMさんとの一番の違いは、CONEQを使わずに、バランスを取っていることです。CONEQの効果は大変大きいのですが、最初のマイクで部屋の特性を測るときのやり方でも、結果は大きく変わります。そして、CONEQを通しているときは、 16bit/48KHzの音ですから、アナログ音源とかDSDの音源だとS/N比も変わって来ます。catbossさんは、それらのデジタルEQを使わずに、チャンネルデヴァイダーの微調整でバランスを取っておられます。長年PAをされた来た、プロの耳が活きていますね。その透明な音は、ネットワークを使っている普通のJBLはもちろん、音の軸を合わせていないタイプのJBLからは決して聞こえないバランスの取れた音です。


横浜のMさんのパラゴンは基本的な3ウェイです。夜香さんのところは、基本は3ウェイで、下はヤマハのSWを使い、上もリボンツイーターを補強している5ウェイ構成です。catbossさんは、低音のEL15と中音の375の間に、中低音としてLE14を使用して、375の負担を軽減しています。その為、構成上高さが高くなり、最上部の075の向きにも気を配っています。


音の素晴らしさに、聴く側のテンションも上がってきました。近寄って聞かせて貰うと、075と375の音の軸が、右側だけ本の少しだけすれているような気がしました。転倒防止のための台座のネジを片側だけ外してもらい1mmほど内側に向けてみました。すると、家のDDDユニットの調整と同じで、軸が合うと音のバランスが変わり、触っていない方の左側の音も変わります。


調整の検証のため、LE14の音量を少しだけ小さくして貰うと、全体のバランスがらりと変わります。すべてが連携してバランスを取っているのですね。マルチチャンネルのバランスの取り方の難しさが解ります。

f0108399_10511691.jpg


調整前掛けたムターのベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲も、少しだけ音像が大きかったフレストのモーツァルトのクラリネット協奏曲の音も、実在感が一気に出てきました。ほんの少しの調整だけど、軸を物理的に合わせるのは、音の一体感と会場の空気感が出てきますね。クラシックばかりではなく、パトリシア・バーバーのピアノの実在感、ヴォーカルは素晴らしい音ですね。


家でも、音のチェックに使うダラス交響楽団のサンサーンスの第三番のオルガンも聴いてみました。さすがにLE15の低域で、家では聴けない最低音のオルガンが会場の空気を揺るがせているのが解ります。


catbossさんのJBL4ウェイシステムは、定評ある、もはやヴィンテージと言われる名器を使っていながら、音は少しも旧くなく、SACDも楽々と再現する、極めて現代的な普遍の音だと感心しました。それにつけても、箱も台も自作されていて、積み上げてバランスを取る、この難しい作業をされているcatbossさんの経験深さに脱帽です。


SAの実験もいろいろと試していかれるそうです。まずは、SPの位置調整を行うことが大事ですね。SPの位置が合っていないと、部屋の影響を受けて、逆起電力の発生も多くなります。それらのバランス調整が合っていれば、不要な音の発生も抑えられて、自然な音が再生されると思いました。まずは、装置本来の音を確かめ、バランスの調整を行うことが、マルチチャンネル調整の基本であることを知らされました。

f0108399_10190179.jpg


catbossさんのところへお邪魔すると何時も驚かされるのは、整理された棚と、落下防止のストッパーや温度調整をモニターするための温度計の設置です。最近はフローティングボードも上手く整理されています。下段の黒いsit1は人の住みやすいい範囲での音の調整がされていて、オーバーヒート気味の時は、音の鮮度がやはり落ちるそうです。そういうプロの厳格な基準も取り入れて、さらっとならしています。並んでいるJBLのパワーアンプも、マランツのプリアンプもすべて、catbossさんの手が入り念入りに調整されているのです。S/N比の高さに驚きます。その背景の黒の暗さこそが、音楽を浮かび上がらせる効果を支えているのです。そういう、仕事をされてきた当然の手法が、活かされてるのでこの素晴らしい立体感が現れるのでしょうね。


二時間ほどお邪魔して暗くなった表に出ると、先ほどとは違った涼しい高原の風が吹いていました。素晴らしい田園生活。これもcatbossさんが選んだ豊かな生活なのです。暗い山道を、ハイビームにして走ると、ヘッドライトにたらされた部分のハイライトと、背後の真っ暗な山が迫ってきます。光では暗さですが、オーディオでも背景の静けさといきいきとスポットライトオあたる対比が大事なのだと思いました。
https://tannoy.exblog.jp/30736015/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/402.html#c143

[近代史3] 韓国の大卒失業者 新卒で正社員就職は1割だけ 中川隆
4. 中川隆[-8851] koaQ7Jey 2019年8月12日 19:12:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3883]

2019年08月12日
韓国のスラム地区タルトンネはどんな場所なのか


不法占拠地に勝手に建てた家


https://cdn.crowdpic.net/detail-thumb/thumb_d_9E5699A4F72B1B5303EA0BC6414D78A4.jpg

スラム地区タルトンネ

韓国には多くの貧困地区が存在したが、最大のものはソウルの九龍村で「タルトンネ」と呼ばれている。

日本人旅行者が多い釜山にもタルトンネがあり、観光地化しようという試みもされている。

タルトンネは月の町という意味で、斜面に沿って丘の上まで伸びているので、月まで続くように見えるという。



韓国は歴史的に見ると1945年から48年まで米軍占領期だったが、失政により飢餓や疫病や暴動が頻発した。

48年に大韓民国が独立したが50年に朝鮮戦争が勃発し、1953年に停戦したが9割以上を一時北朝鮮に占領されるなど大きな被害が出た。

1955年頃から戦後ベビーブームがあり、貧困世帯には住居がなかったので斜面にバラックなどをを建てて住み着いた。


1970年代から高度経済成長が始まり、80年代からは空き家が目立つようになっていった。

90年代になると都市の土地不足からタルトンネを取り壊して再開発する動きが広まった。

ほとんどのタルトンネが取り壊された中で、ソウルと釜山のタルトンネを芸術村にする試みもあった。


一時的に観光客を集めたが、住民側にメリットが無く、観光客からすると一度見れば十分という事だった。

タルトンネを下から見上げると色とりどりの屋根が続き面白いが、中に入ると貧しいバラックに適当な色を塗っただけです。

住民の多くは高齢の日雇い労働者か無職で、僅かな収入を頼りにその日暮らしをしている。


電気、ガス、水道がない場合も多く、夏の冷房や冬の暖房もないことが多い。

韓国の貧困事情

韓国には大きなスラム街以外にも、パイプとブルーシートなどを組み合わせた掘立小屋が各地で散見される。

見た目で明らかに経済的に困窮している人や、路上で生活しているらしい人も結構いる。

韓国の貧困問題には雇用習慣が大きく関係していて、若者と中高年の失業者が多い。


韓国では新卒採用の文化がなく、兵役を終えて専門資格などを取得した20代後半で採用する企業が多い。

サムスンなどは平均30歳で採用して45歳で解雇すると言われ、たった15年間しか働けない。

大企業を解雇されると中企業に移り、次は小企業、次は零細企業、最後はアルバイトや屋台などで生活する。


それもできなくなると浮浪者のようになり、最後にタルトンネやスラムにたどり着く。

韓国の社会保障支出はGDP比10%で、OECDに報告した29カ国中最下位にとどまっている。(日本は20%)

韓国の基礎生活保障は生活費すべてを保証するものではなく、一人当たり月3万円代しか支給されない。


日本の生活保護は月12万円以上で、医療費や税金や公的費用一切が免除なので、実質20万円以上に相当する。

韓国の物価も上がっているので月3万円では生活できないが、収入があると給付額を引かれてしまう。
http://www.thutmosev.com/archives/80671952.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/491.html#c4

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 豊川悦司・加藤あい 同窓会へようこそ−遅すぎた夏の帰郷・昔の恋人に導かれ死の淵へ(TBS 1999年)

豊川悦司・加藤あい 同窓会へようこそ−遅すぎた夏の帰郷・昔の恋人に導かれ死の淵へ(TBS 1999年)


動画
https://www.youtube.com/watch?v=qoo9ngO2rGA


同窓会へようこそ−遅すぎた夏の帰郷・昔の恋人に導かれ死の淵へ…20年間封印され続けた故郷の過去とは

TBS 月曜ドラマスペシャル
放送期間 1999/08/16〜1999/08/16

原作 田渕由美子の漫画
演出: 関本広文
演出・脚本: 源孝志
脚本: 成田はじめ

音楽 溝口肇
主題歌 ガーデンズ「エンドレスサマー」(作詞・作曲:伊秩弘将、編曲:田辺恵二)
挿入歌:ガーデンズ「潮風の行方」(作詞・作曲:伊秩 弘将、編曲:田辺恵二))

東京に住む旬一(豊川悦司)の元に倉敷の高校の同級生名簿が届く。
二十年前に倉敷を離れて以来、当時の恋人の祥子(加藤あい)とも音信不通となっていた。そんな折、祥子から電話が入り、旬一は再会を約束。現れたのは祥子の娘・夏生(加藤あい=二役)だった。二十年前の祥子にそっくりの夏生の姿に、旬一は過去と現在の区別がつかなくなる。


キャスト

豊川悦司
加藤あい
風吹ジュン
金子賢
茂森あゆみ
筒井康隆、
峰岸徹

http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-33688
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/570.html

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 豊川悦司・加藤あい 同窓会へようこそ−遅すぎた夏の帰郷・昔の恋人に導かれ死の淵へ(TBS … 中川隆
1. 中川隆[-8850] koaQ7Jey 2019年8月12日 20:28:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3885]
ドラマ「同窓会へようこそ〜遅すぎた夏の帰郷〜」ロケ地 2016年09月05日
http://mpapa63.blog117.fc2.com/blog-entry-187.html


昨年11月、ドラマ「幽婚」の録画ができたことで、古いテレビドラマを見返している内、
「幽婚」に負けないくらい好きなドラマ「同窓会へようこそ 〜遅すぎた夏の帰郷〜」を
じっくり見てみました。(何故かこちらもヒロインが幽霊です)

これは昔ビデオで録画していたものをDVDに移したもので、ハイビジョンテレビで見ると
少しぼやけた映像ですが、倉敷の町が大好きな私にはとても貴重な作品です。

ネットで検索しても再放送を希望する声がたくさんあります。スカパーのTBSチャンネルで
再放送して欲しいとリクエストも入れておきました。デジタルでしっかり録画したいものです。


このドラマは、ふとしたことから届いた同窓会名簿から記憶の中から消していた故郷、倉敷の
同窓会に参加するため帰郷した主人公、坂木旬一(豊川悦司)が、すでに亡くなっていた
かつての恋人、中原祥子(加藤あい)の娘と名乗る夏生、実は祥子の幽霊(加藤あい 二役)に
翻弄されながら大事な人々を思い出していくという物語です。


この中で夏生からの留守番電話「蔵(倉)のティールームでしばらくお待ちしています」の
伝言を聞き駆けつける喫茶店がどこだろうと気になっていました。

旬一が泊まっている「アイビースクエア」にあのような喫茶室がないのは知っていたのですが
ネットで色々検索したら、やっとそれらしいお店を発見しました。

忙しくてしばらく一緒にドライブしていなかった妻と行ってみることにしました。

アイビースクエアの駐車場に車を止めて300mぐらいでしょうか歩いて行くとありました。

それがこちらの「夢空間はしまや」さんです。
はしまや店内

ドラマではこんな感じで登場します。
ドラマのシーン

ロフト席に座っているのが加藤あいさんです。

素敵な雰囲気のお店で、ママさんにお尋ねしたらロケ時の記念写真を見せてくださいました。

表通りから20〜30mぐらい路地を入っていったところにあります。
はしまや通路

素敵な庭があり、店の表にはさり気なく針金アート?も置いてあり心が洗われます。
石段を上がっていった所がティールームです。
はしまや表

今まで子供たちの小さい頃から何十回と倉敷には行きましたが、お気に入りの喫茶店というものは
ありませんでした。やっとお気に入りの喫茶店が見つかりました。
http://mpapa63.blog117.fc2.com/blog-entry-187.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/570.html#c1

[政治・選挙・NHK264] 山本太郎氏・れいわへ政権交代で「消費税廃止」「奨学金返済チャラ」を実現できる(Business Journal) 赤かぶ
5. 中川隆[-8849] koaQ7Jey 2019年8月12日 21:36:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3886]
山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者

れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ

山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


____


斉藤まさし(2018、8最高裁にて公職選挙法違反で有罪)が山本太郎の街宣に現れた!

やはり山本太郎は操り人形だったのね。


山本太郎の選挙を指揮していると言われてる斉藤まさしが新宿西口で行われた「山本太郎の街頭演説」の場に現れた。

元俳優の山本太郎を使って革命を目指す斉藤まさしの姿が良くお分かりになったでしょう。

監督の指示に従って演技をする、山本太郎は未だに役を演じているように見えますね。

しかし、その俳優は色々問題のある人物だった。

週刊新潮に強姦魔だと書かれても、名誉棄損で訴えることが出来ない。法廷で争う事が出来ない山本太郎という男を担いでしまった。

ME TOO のプラカード持ってパフォーマンスしていた議員達は山本太郎に強姦されたと勇気をもって告発した女性にはダンマリか!

未成年の女の子を強姦しても、革命家斉藤まさしの書いたシナリオ通りを演じておけば、参議院議員にもなれるか。

もし、事実じゃなないのなら、何故週刊新潮を訴えないのか?

____

無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/416.html#c5

[政治・選挙・NHK264] 立憲民主党の票はれいわ新選組に流れたのか(三春充希(はる) ☆みらい選挙プロジェクト) 肝話窮題
7. 中川隆[-8851] koaQ7Jey 2019年8月13日 03:20:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3884]
山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者
れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ

山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


____


斉藤まさし(2018、8最高裁にて公職選挙法違反で有罪)が山本太郎の街宣に現れた!

やはり山本太郎は操り人形だったのね。


山本太郎の選挙を指揮していると言われてる斉藤まさしが新宿西口で行われた「山本太郎の街頭演説」の場に現れた。

元俳優の山本太郎を使って革命を目指す斉藤まさしの姿が良くお分かりになったでしょう。

監督の指示に従って演技をする、山本太郎は未だに役を演じているように見えますね。

しかし、その俳優は色々問題のある人物だった。

週刊新潮に強姦魔だと書かれても、名誉棄損で訴えることが出来ない。法廷で争う事が出来ない山本太郎という男を担いでしまった。

ME TOO のプラカード持ってパフォーマンスしていた議員達は山本太郎に強姦されたと勇気をもって告発した女性にはダンマリか!

未成年の女の子を強姦しても、革命家斉藤まさしの書いたシナリオ通りを演じておけば、参議院議員にもなれるか。

もし、事実じゃなないのなら、何故週刊新潮を訴えないのか?

____


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。



http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/425.html#c7

[近代史3] 文在寅大統領の大衆扇動とその背景にあるアメリカの分断統治政策

文在寅大統領の大衆扇動とその背景にあるアメリカの分断統治政策


いわんかな#26-2【韓国輸出管理強化問題の本質】
堤堯・馬渕睦夫・高山正之・日下公人・志方俊之・福島香織 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ujroL7cB-sc

2019/08/12 に公開

韓国の輸出管理強化問題を振り返り総まとめ!

多くの日本人が知らなければいけないこととして「戦後の日韓の対立」は、米国のディープステートが望みそう仕向けて来たことである。

・戦後の日韓の対立関係はオバマまでのアメリカの巧妙な工作

・竹島問題、反日教育、慰安婦問題も同じ(アメリカが韓国の背後で支援・仕組んでいたこと)

・ラスク書簡

 1951年8月10日(サンフランシスコ平和条約調印直前)
 米国国務次官補ディーン・ラスクから韓国に通達された書簡
 韓国による竹島の領土権の主張を却下している

・米国は日本が復興しないように、巧妙に韓国に画策してきているが、度々一杯喰らわされることもある


▲△▽▼


韓国文政権、反日の本性現す 2019/8/12
久保田るり子(産経新聞編集委員・國學院大學客員教授)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190812-00010003-jindepth-int&p=1


■ 大衆扇動の大統領府

「加害者の日本が盗っ人猛々しく大声をあげる状況を決して座視しない」

8月2日、韓国をホワイト国待遇から外した日本政府の閣議決定を受けて文在寅大統領が韓国大統領府(青瓦台)で発した言葉は異様なまでに敵対的だった。佐藤正久外務副大臣が「日本に対して無礼だ」と批判すると、韓国メディアは青瓦台に追随し一斉に「日本、次官級が妄言!」と大騒ぎした。

「盗人猛々しい」といえば不倫関係のなどの修羅場の「捨て台詞」だが、文政権から日本政府にこの暴言が投げかけられたのは2度目である。今春、文喜相(ムン・ヒサン)国会議長が、「慰安婦問題の解決には天皇の謝罪が必要」と述べ、日本が批判すると文氏は「謝罪する側が謝罪せず私に謝罪しろとは何事か。盗っ人猛々しい」と啖呵を切った。

このとき大方の日本人は怒りとともに仰天したものだ。韓国はここまで礼を失するまでに墜ちたか、反日無罪とはいうが、この反日は常軌を失している、と。

注目すべきは反日の発信源がほかならぬ青瓦台であることだ。文政権が日本の輸出規制問題に関し日本との全面対決を決定したのは日本の参院選直後の7月下旬とされるが、以来、文政権の大衆扇動はさらに激しさを増した。

「挑戦に屈服すれば歴史はまた繰り返される」

「我々は二度と日本には負けない」

「日本の措置は…世界経済に大きな被害を及ぼす利己的な迷惑行為」

「居直りといえる状況をわれわれは座視しない」

「今後、起きるであろう事態の責任は全面的に日本政府にあることを明確に警告する」

「第二の独立運動精神で韓日(日韓)経済大戦に必ず勝利する」

「(日本企業の被害を顧みない安倍政権の行動は)神風自殺爆撃が行われた真珠湾空爆が想起される」「経済侵略!」「経済侵犯!」「悲壮な覚悟!」

これらが大統領自身や青瓦台幹部、与党幹部が発したセリフだ。発言は文政権に近い地上波テレビや24時間ニュースを通じ、連日報道されている。3品目の輸出管理強化の内容やホワイト国からの除外がアジア各国と同レベルであることなどの解説より韓国の被害が強調されているため、「報復」「不当性」「打撃」などの刺激的な用語だけが耳に残る。

扇動的な報道にナショナリズムは熱くなってきた。保守系の朝鮮日報、中央日報など一部が、韓国政府に批判的な記事を掲載するや、大統領府報道官が名指しで非難した。これが発端となり、世論が執筆記者への個人攻撃を始めた。


すでに「反日」は文政権への忠誠メルクマールになった。

地方議会が不買運動に参加、中部の忠清南道議会は「親日清算」の特別委員会を作った。ソウル市は市内マラソン大会のスポンサーから「韓国ミズノ」など日本ブランドを外した。8月初旬、札幌開催のカーリング大会には韓国2チームが不参加だった。東京オリンピック不参加運動も始まっている。反日イコール愛国、反日不参加イコール売国奴の構図を広げようとする左派の動きが目立っている。

■ 巧妙に仕組まれた反日、狙いは「大韓民国」の否定?

文政権は2017年5月スタート以来、巧妙に反日を仕組んできた。

最初のターゲットは慰安婦合意(2015年12月28日)の破棄だった。当初、文政権は歴史問題と安保協力の「ツートラック」を掲げた。だが一方で、ソウル、釜山の日本の在外公館前に立つ慰安婦像は自治体条例で公共物に指定した。そして「交渉過程を検証する」とし民間人を入れた「慰安婦合意検証タスクフォース」をつくり、「合意過程に問題があった」などと政治問題化した。

文大統領は有名な左派系市民団体「参与連帯」の共同代表だった大学教授、鄭鉉栢(チョン・ヒョンベク)氏を女性家族部長官に任命した。鄭氏は安倍首相が2015年、米上下両院合同会議で演説した際の「謝罪と反省」を求める抗議活動に参加、ソウルの日本大使館前集会(水曜集会)で日本に公式謝罪を求める演説した人物。つまり運動家だった。

鄭氏は長官に就任するや活発に活動を開始し、慰安婦問題関連資料の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界記憶遺産登録を支援すると表明、次いで日本が十億円を救出した「和解・癒し財団」を「活動を点検する」として停止した。文大統領は日韓合意を棚ざらしにして財団幹部らを辞任に追い込んでいった。その後、韓国政府は2018年11月21日に財団が解散手続きに入ったと発表、2019年7月5日に解散させた。日韓合意はこうして破棄された。

次にターゲットにしたのが徴用工訴訟だ。就任直後から「被害者問題は解決されていない」「個人請求権は残っている」と問題を蒸し返していた文大統領だが、まず動き出したのは文政権の支持団体の韓国労組だった。2017年夏、ソウル市内の龍山駅前と仁川市の富平公園に、やせ細りツルハシを持った徴用工像が建てられた。設置したのは韓国の2大労働団体(ナショナルセンター)などが作った「強制徴用労働者像建築委員会」だった。

文大統領は2017年夏、「光復節」(日本統治からの解放記念日)に「今後は南北が共同で強制動員被害者の実態調査をすることも検討」と述べている。そして一方で大統領は韓国大法院長(日本の最高裁判所長官)に韓国法曹界で代表的な親北左派として知られる金命洙(キム・ミョンス)氏を任命した。

金氏は左派判事グループ「国際人権法研究会」会長を務め、「文政権に極めて近い人物」で国会の人事聴聞会でも思想傾向から報告書に「司法の中立性」への疑問が付記されたほどだったが、最終的には国会承認を受けた。韓国ではこのときから徴用工裁判は「金氏就任で賠償命令ありき」との見方だった。

大法院長となった金氏は、前大法院長の司法行政乱用および朴槿恵前政権との「裁判取引」をクローズアップした。朴前政権が判事の政治性向を監視していたとされる「ブラックリスト作成疑惑」の捜査を指示し、文政権の「積弊清算」に全面協力した。すでに文政権下の権力機関となっていた検察当局が韓国外務省を強制捜査し、国際法律局、東北アジア局、企画調整室などから外交文書を押収した。

この文書を根拠に朴前政権の秘書室長らが「裁判取引」に関与した容疑などで次々に逮捕された。そして約1年後、大法院で金大法院長支持の多数派が形成され2018年10月30日の徴用工賠償判決を迎えた。賠償判決後の12月には韓国海軍艦艇による自衛隊機レーザー照射事件が起き日韓関係はもはや後戻りができない情勢となった。

2019年1月10日、文大統領は新年の年頭会見でこう述べた。『韓日(日韓)の間には三十五年ほどの不幸な歴史があった。この歴史のため新たに外交関係を樹立するさいに韓日(日韓)基本条約を締結したが、すべてが解決されていないとされる問題がいまも続いている。これは韓国政府が作り出したものではなく過去の不幸な長い歴史のために作られた問題である』として、日本政府は過去に対して『もっと謙虚な態度を取るべきだ』とした。

「謙虚な態度」とは何か。加害者の日本は傲慢であり、被害者の韓国の主張こそが正しいという意味であろう。文大統領は慰安婦合意破棄と徴用工賠償判決を「成果」として、この新年演説を行ったとみることができる。

それでは日韓の根幹にかかわる請求権問題を覆すことが、韓国文在寅政権のどんな国益に資するというのだろうか。文政権はスタート以来、彼らの物差しで現在の事態に導くべく周到に動いてきたのは事実である。文政権は経済失策への批判を反日でしのいでいるなどといわれるなか、8月6日、文大統領はこう述べた。「南北経済協力で平和経済が実現すれば、われわれは一気に日本の優位に追い付くことができる」。この発言には反日を民族主義へ導き、南北融和への原動力に誘導しようとの意図も垣間見える。

日韓国交正常化(1965年)を基盤とする現在の日韓関係は「65年体制」と呼ばれ、慰安婦問題や徴用工賠償判決は65年体制の否定であることから、文政権の日韓関係否定は「大韓民国の否定」につながるとの見方もある。

大韓民国の否定とは、初代大統領、李承晩以来の保守政権(朴正煕、全斗煥、盧泰愚、李明博、朴槿恵)への敵意と否定だ。文大統領は「韓国には民主政権が3つ存在する。金大中、盧武鉉、文在寅」と主張する。文氏は親米知日反北を否定し、反米反日親北のみを「民主国家」としているのだ。

■ ついに始まった反安倍ろうそく集会

韓国で7月下旬から本格化したのは反安倍ろうそく集会である。「安倍糾弾」の大看板が立ち人々が「NO安倍」のプラカードを掲げる集会は7月末に始まり、毎週土曜、ソウル中心部の光化門広場を中心に、今月3日は数千人規模にふくれあがり、日本統治からの解放記念日の8月15日をピークに続く。労働組合など左派市民団体がすでに600以上参加しており、主催の「民主労総」の職業活動家たちがステージでアジテージョンを叫んで気勢を上げている。

労組のほかは「6・15共同宣言実現南側委員会」「祖国統一汎民族連合」「全国大学生代表者協議会」(民大協)といった左派でも過激な親北団体で反日と親北が合体している。彼らは2年9カ月前の朴槿恵前大統領弾劾ロウソクデモの立役者たちで反日集会は弾劾デモとそっくりだ。

「極右安倍は軍国主義」は「北朝鮮の主敵」なのだ。何より「民主労総」など左派団体は文政権の主力支持層。集会は「歴史歪曲、経済侵略、平和威嚇の安倍糾弾ロウソク文化祭」と名付けられ、地方都市の大田、春川、釜山、蔚山などにも拡大している。政権の扇動した反日愛国の夏、韓国の反日ナショナリズムは危険水域に入っている。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/571.html

[近代史3] 馬渕睦夫 韓国が反日である理由 _ 日本と隣国とを対立させ統治する分割統治 中川隆
7. 中川隆[-8853] koaQ7Jey 2019年8月13日 05:07:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3883]
いわんかな#26-2【韓国輸出管理強化問題の本質】
堤堯・馬渕睦夫・高山正之・日下公人・志方俊之・福島香織 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ujroL7cB-sc

2019/08/12 に公開

韓国の輸出管理強化問題を振り返り総まとめ!

多くの日本人が知らなければいけないこととして「戦後の日韓の対立」は、米国のディープステートが望みそう仕向けて来たことである。

・戦後の日韓の対立関係はオバマまでのアメリカの巧妙な工作

・竹島問題、反日教育、慰安婦問題も同じ(アメリカが韓国の背後で支援・仕組んでいたこと)

・ラスク書簡

 1951年8月10日(サンフランシスコ平和条約調印直前)
 米国国務次官補ディーン・ラスクから韓国に通達された書簡
 韓国による竹島の領土権の主張を却下している

・米国は日本が復興しないように、巧妙に韓国に画策してきているが、度々一杯喰らわされることもある



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/551.html#c7

[政治・選挙・NHK264] 衆院選候補者調整「協力する」=山本太郎〜改憲は非常に危険だ。寝言は寝てから言ってほしい」と/時事通信・msnニュース 仁王像
1. 中川隆[-8852] koaQ7Jey 2019年8月13日 07:21:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3884]
山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者

れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ


山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


____


斉藤まさし(2018、8最高裁にて公職選挙法違反で有罪)が山本太郎の街宣に現れた!

やはり山本太郎は操り人形だったのね。


山本太郎の選挙を指揮していると言われてる斉藤まさしが新宿西口で行われた「山本太郎の街頭演説」の場に現れた。

元俳優の山本太郎を使って革命を目指す斉藤まさしの姿が良くお分かりになったでしょう。

監督の指示に従って演技をする、山本太郎は未だに役を演じているように見えますね。

しかし、その俳優は色々問題のある人物だった。

週刊新潮に強姦魔だと書かれても、名誉棄損で訴えることが出来ない。法廷で争う事が出来ない山本太郎という男を担いでしまった。

ME TOO のプラカード持ってパフォーマンスしていた議員達は山本太郎に強姦されたと勇気をもって告発した女性にはダンマリか!

未成年の女の子を強姦しても、革命家斉藤まさしの書いたシナリオ通りを演じておけば、参議院議員にもなれるか。

もし、事実じゃなないのなら、何故週刊新潮を訴えないのか?

____


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。



http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/428.html#c1

[リバイバル3] 古いアンプやスピーカーにはリスクが有る 中川隆
58. 中川隆[-8854] koaQ7Jey 2019年8月13日 08:13:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3882]
天災などで海水を被ったりしたオーディオ機器はみんな保険屋さんを使って買い替えるらしい。

保険屋が現物引き取り、最近隆盛のリサイクル業者が買い取ってヤフオクなどに流すそうで、気を付けないと

確かに水没したアンプが出品されているのは結構見かける。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/832.html#c58

[近代史3] 中国人に愛国心や公共心が完全にゼロな理由 _ 中国人は宗族から宗族の利益になる様な悪事をやる事を毎日強要されている 中川隆
4. 中川隆[-8853] koaQ7Jey 2019年8月13日 17:45:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3883]
2019年08月13日
中国で借金をすると一族全員末代まで追われる


2008年にほとんどゼロだった家計債務が急増している


画像引用:https://gentosha-go.com/mwimgs/a/9/-/img_a9238a04d9bd29a7116cd9832e3afb6026722.png

中国には個人破産制度がない

中国では今個人の借金がすごい勢いで増えていて、家計債務の増加率がGDP成長率の2倍に達しています。

これがどのくらい凄いかというと、日本の成長率は1%なのでその2倍でも2%だが、中国の成長率は6.5%なので2倍だと13%に達します。

毎年個人債務の合計が13%も増加したら、数年後にどうなるかは想像がつきます。



最近中国の消費が急増しているという話を耳にすると思いますが、その消費は全て借金で購入しています。

日本旅行も爆買いも不動産も自動車も、株式投資もネット消費もスマホ決済も、ぜんぶ借金で消費しています。

最近中国では信用スコアによって無審査でお金を借りれる制度が誕生し、かなりの勢いで普及しています。


これは無審査なのではなく個人情報全てをアリババに把握されているので、申し込んだ時には審査が終了しているのです。

中国には個人情報保護はないので、アリババに登録すると無断でどこかから集めたデータで信用スコアを作ります。

年収や消費金額や家賃金額や延滞、借金総額や住宅ローン、親の資産や借金もアリババは全て把握しています。


なので申し込んだ瞬間に「融資額1万元」などと表示され、あたかも無審査でお金を貸してくれる錯覚に陥ります。

90年代から2000年代に日本ではサラ金や闇金が流行ったが、中国版サラ金はもっとえげつない事をします。

中国人の平均年収は北京上海で100万円以上、都市部で80万、地方で40万円、農村部で20万円のように大きな格差が存在しています。

1人の借金が一族全員の借金になる

しかも同じ北京上海でも100万円以上は一流企業の正社員だけ、農民工と呼ばれる非正規労働者は半分以下となっています。

なので中国には「平均」年収のような考え方が当てはまらず、北京の上級公務員は200万円以上だが貧困農民はまだ年収3万円以下です。

アリババ等のアプリキャッシングは少額を借りて返済することで限度額が上がり、最終的に年収の10倍まで借りれます。


年収の10倍では返済不能で回収できない気がするが、中国の法律ではその心配がないのです。

中国には自己破産で借金が帳消しになる制度が無く、しかも本人が返せない借金は親戚一同の共同債務になります。

さらに本人がなくなっても借金は消えず、すべての親戚に子々孫々まで請求が続くのです。


親族の連帯責任であるため、親族に一人でも債務不良者が居ると一族の信用スコアを下げられます。

家族ではもっと被害が大きく、例えば父が借金したまま行方不明だと、子供が大学に入学できなかったりします。

信用情報は売買され共有されているので、アパートの入居を拒否されたり、社会のあらゆる場面で不利益をこうむります。


アプリキャッシングを滞納したために電車やバスのチケットを販売拒否されるといった例も実際に起きています。

中国でGDPの2倍の速度で個人債務が急増しているという怖さが、ここにあるのです。

消費による経済成長というのも、不良債務を生み出してバブル崩壊する可能性が高い。
http://www.thutmosev.com/archives/80679391.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/138.html#c4

[近代史3] こうの史代 _ この世界の片隅に (MAPPA 2016年)

こうの史代 _ この世界の片隅に (MAPPA 2016年)


『この世界の片隅に』は、こうの史代の同名漫画を原作とする、片渕須直監督・脚本、MAPPA制作の長編アニメーション映画。2016年公開。

動画
https://www.dailymotion.com/video/x70sa5b


監督 片渕須直
脚本 片渕須直
原作 こうの史代『この世界の片隅に』

音楽 コトリンゴ
主題歌 コトリンゴ「みぎてのうた」

撮影 熊澤祐哉
編集 木村佳史子
制作会社 MAPPA


『この世界の片隅に』は、こうの史代による日本の漫画作品である。

『漫画アクション』(双葉社)にて2007年1月23日号 - 2009年1月20日号まで連載された。

原作との相違点

映画は原作と以下のような相違点がある。


物語冒頭、幼少のすずが海苔を届ける途中で人さらいと遭遇するエピソードの時期が「昭和9年1月」から「昭和8年12月」へと早められた[71][72]。映画では演出プラン練り直しなど種々の経緯を経てこのエピソードの時期を昭和8年12月に設定したという[71]。映画ではクリスマス商戦で賑わう街の様子が描かれているが[72]、この年はクリスマスイブ前日の12月23日に皇太子の誕生という出来事があり[72][71]、その日から年明けまでは祝賀ムードが続いていたはずであることから[71]、物語冒頭のエピソードはそれ以前の日付であると設定された[72][71][注釈 1]。

映画では嫁と小姑の関係にあるすずと径子の対比を主軸として、原作における主要な登場人物であった遊女のリンの登場場面が少なくなっており[73][74][75]、周作、リン、すずの三角関係にまつわるエピソードが描かれない[76][77]。これに伴い、原作においてすずとリンの再会を仲立ちする遊女のテルの登場場面は1カットのみとなり、台詞はない。ただし、すずの回想で名前が言及される場面があり、また原作ではテルの死後、リンを通じてすずに手渡されたことになっている遺品の艶紅を、映画でもすずが所持している描写がある[77]。

映画では、女性の目線から描かれた原作を補う形で、艦船や戦闘機といった兵器のディテールや男性の登場人物の想いなど、男性的な目線の描写を追加したものになっている[78][79]。劇中の昭和20年3月(原作第26話)における最初の呉軍港空襲で、円太郎がすずと晴美を庇って伏せる場面では、米軍機と空中戦を繰り広げる紫電改に搭載された誉エンジンに対する、円太郎の思い入れを語る台詞が追加されている[79]。また映画のこの場面では、すずが戦争の光景に見とれ、すずの想像の中でカラフルな爆煙が絵筆を用いて表現されるという、モノクロで描かれた原作にはない描写があるが、これも当時の軍艦の高角砲には識別のための着色弾が混じっていたという史実を踏まえたアレンジである[80][75]。

日本の敗戦を伝える玉音放送を聞いたすずが激昂して家を飛び出した後、掲げられた太極旗を見て泣き崩れる場面の台詞が変更されている[73][81][82][74][75]。原作第39話では、すずは自分たちの信じていた正義が失われたと感じ、他国を暴力で従えていたからこの国は暴力に屈するのかと独白するが、映画では、自分は海の向こうから来た米や大豆で出来ているから暴力に屈しないといけないのかと独白する。これについて片渕は、当時の日本の食料自給率が高くなく、海外から輸入される穀物に頼らざるを得なかった状況があり、原作と同じようなことを語るのに、ずっと炊事をやってきた生活人のすずが食料に絡めて反応をしたほうが彼女らしくていいと思ったと述べている[73][82]。「#反戦映画としての評価」も参照。関連する描写として、すずが闇市を訪れる場面では、モブキャラクターが台湾米のことに言及する、原作にない台詞が追加されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E7%89%87%E9%9A%85%E3%81%AB_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/572.html

[近代史3] こうの史代 _ この世界の片隅に (MAPPA 2016年) 中川隆
1. 中川隆[-8852] koaQ7Jey 2019年8月13日 18:55:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3884]

終戦記念スペシャルドラマ この世界の片隅に

2011年8月5日、日本テレビ系にて放送された北川景子主演の終戦記念ドラマ。


原 作「この世界の片隅に」こうの史代 (双葉社刊 漫画アクション連載)
脚 本:浅野妙子
音 楽:羽毛田丈史


動画
https://www.youtube.com/watch?v=DTdOcQO8M7c

キャスト

北條すず:北川景子
北條周作:小出恵介
白木リン:優香
水原 哲:速水もこみち
北條円太郎:篠田三郎
北條サン:市毛良枝
北條径子:りょう
晴 美:小西舞優
北條千鶴:芦田愛菜

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/572.html#c1

[近代史3] 世にも奇妙な物語 _ 恐竜はどこへ行ったのか

1994年 ホラー 七夕の特別編
世にも奇妙な物語 恐竜はどこへ行ったのか


動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%96%E3%81%AB%E3%82%82%E5%A5%87%E5%A6%99%E3%81%AA%E7%89%A9%E8%AA%9E+%E6%81%90%E7%AB%9C%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%B8%E8%A1%8C%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B

叫び。奇妙な出来事に遭遇したとき人はその恐ろしさに叫びます。人がうっかり入り込んでしまうまで奇妙な世界は決して教えてくれないからです。
それがどんなに恐ろしい世界かを。

恐竜はどこへ行ったのか?は1994年の七夕の特別編に放送された世にも奇妙な物語の一エピソードである。
グロさと佐野史郎氏の怪演が光る一作である。
なお主演は「あーさーくーらー」や「おとりになります」でおなじみ松下由樹。


【あらすじ】
真っ白な空間で叫ぶ松下由樹。冒頭のナレーション。

そして始まる本編。
水谷裕美(松下由樹)は「自虐症患者の精神メカニズム」という論文を書きあげようと、その患者で地下室に隔離されている田口教授(佐野史郎)と面会する。
彼はかつて研究室で発狂し、自分の体を傷つけて、ここに運び込まれたのだった。


「シッ!奴らが眠ってる!起こすんじゃない!」


田口は急に叫びだす。面食らう水谷。
そして田口はこう続ける。


「爬虫類は好きか?爬虫類は純粋だ他人を気にすることはない自分自身のままでいるわたしもだんだん爬虫類の気持ちがわかるようになってきた!レロレロレロレロ!!はははは!」


完全にくるってる…。しかし水谷はなぜ自分自信を傷つけるのか?と田口に聞く。
すると…


「あっ…やつらがくる…逃げなくては…」


急に何かに怯えだす田口。拘束衣のまま体を揺らしながら逃げようとする。


「うぉぉぉぉ!?くるぅ!くるぅぅぅぅぅぅぅっ!」


すると急に田口の拘束衣がざっくりと切り裂かれたのだ。
なにもないのに…。なにもいないのに…。


しかし病院側はこれを拘束衣を破くほど暴れたから過去の古傷が開いただけと判断。
腑に落ちない水谷は田口に再度面会をする。


「教授は…ご存じなんでしょ?」
「深淵を除きこむときこちらもまた深淵から覗かれてる…ニーチェ!」


相変わらず話が通じない。そして田口はこう言う。


「お前の頭の中には爬虫類の脳がある!」
「なんですって?」
「137ページ6行目!」
田口は水谷が持ってきた論文を読み上げた。


簡単に訳すと
人類の脳には進化の痕跡がある。一番奥深くにあるR領域。もっとも原始的な本能をつかさどる部位であり、「爬虫類の脳」と呼ばれる。
沈没する船からネズミがいなくなるのはなぜか?
火山島の噴火の前にトカゲや鳥がいなくなるのはなぜか?
答えはR領域の天変地異を予知して危機を回避する能力にある。しかし人類は進化の過程でそれを忘れてしまった。
爬虫類の脳の真の力はその先にある。


「今日の講義は終わり!グガーッ…」
そういうと田口は眠りこけてしまう…。


場面は代わって水谷はとある生物学者に会いに行く。
彼はかつて田口と論争した男であった。
水谷は大脳生理学が本領の田口が自分の専門を荒らしたこと。田口の論は学界から黙殺されたことを知る。
そして田口が発表した問題の論文、そのタイトルは

恐竜はどこへ行ったのか?

恐竜がどうして絶滅したのか?それは古生物学最大の謎である。
それに田口はとある説を唱えた。


恐竜は絶滅していない。隕石衝突を予知した恐竜は別の場所に逃げたのだ。それは隕石が降り注ぐ地球上ではない。
別の次元だ。


あまりにも突飛なこの説は当然黙殺された。


普通はこのことが原因で発狂したと取れる。
しかし、田口はなぜ体をさかれたのだろうか…?
疑問は増えるばかりだ。


気になって仕方がない水谷は閉鎖された田口の研究室に向かう。
そこにいたかつての助手から田口は「ディノペプチン」という薬を作るのに没頭していたことを知る。
そして自傷事件が起きたと知る。


そのころ田口のCTスキャンの結果が出た。
彼の脳はR領域が肥大化していたのだ…。
そのこととディノペプチンについて田口に問いただすと田口は発狂しだす。


「帰ってくれ!」


散々問題行為を起こしたため、水谷は隔離病棟から追い出されてしまう。


もう気になって仕方がない…。水谷は封鎖された田口の研究室に不法侵入する。
そこには田口が自説の証明のために撮ったビデオがあった。
その中でギアナ高地で採集した原子植物から生成されたディノペプチンをマウスに投薬する田口。
マウスを水中に沈める田口。するとマウスは消えてしまったではないか。
このマウス同様恐竜たちは異空間に旅立った。そして隕石を回避したのだと田口は力説する。


しかしこれでは恐竜はどこにいったのかは見ることができない。なので自分で投薬して確かめようとする田口。
すると画面が急に乱れだす。砂嵐となった画面の向こうでは田口が何か素晴らしい光景をみて高揚している声だけが聞こえる。


「なに!?なにがみえるの!?知りたい…」


水谷の興味はドンドン膨らんでいっていた。そして彼女はとうとうディノペプチンを摂取しようとする。


「やめるんだぁ!ディノペプチンは危険だ!好奇心が身を滅ぼすぞ!それは人間が触れてはならない世界なんだ!」


そう。田口は何かを見たのを隠すために錯乱したふりをしていたのだ。


「真実を見てみたい…」


制止を振り切り水谷はディノペプチンを摂取してしまう…。


「くるなぁぁぁぁっ!うわぁぁぁっ!」


また何者かに怯えだす田口。そして次の瞬間。


グチャリ…。


なんと田口の頭が無くなってるではないか。
そして水谷の周りを白い靄のようなものが漂い始めた…。


【結末】
靄はどんどん濃くなり真っ白な空間になっていく。
そう。冒頭で水谷が叫んでいた空間である。


なにかの吠える声が聞こえる。
振り向くと巨大な肉食恐竜が水谷の後ろにいた。
そう。恐竜はこの世界に逃げ込んでいたのだ。


水谷は冒頭のように叫ぶ。
足元には巨大な足跡があった…。


叫び。彼女は叫んでいる。奇妙な世界を目の当たりにして…。それは明日あなたが目撃する世界なのかもしれません。


【余談】
•おそらくモデルとなった話はラヴクラフトの「彼方より」だろう。


追記・修正はディノペプチンを摂取してからお願いします。
https://www49.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/22685.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/573.html

[政治・選挙・NHK264] 「れいわ」「N国」の“はらはら感覚”に見える政治の希望と失望(ダイヤモンド・オンライン) 赤かぶ
10. 中川隆[-8851] koaQ7Jey 2019年8月13日 23:48:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3887]
山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者
れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ


山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


____


斉藤まさし(2018、8最高裁にて公職選挙法違反で有罪)が山本太郎の街宣に現れた!

やはり山本太郎は操り人形だったのね。


山本太郎の選挙を指揮していると言われてる斉藤まさしが新宿西口で行われた「山本太郎の街頭演説」の場に現れた。

元俳優の山本太郎を使って革命を目指す斉藤まさしの姿が良くお分かりになったでしょう。

監督の指示に従って演技をする、山本太郎は未だに役を演じているように見えますね。

しかし、その俳優は色々問題のある人物だった。

週刊新潮に強姦魔だと書かれても、名誉棄損で訴えることが出来ない。法廷で争う事が出来ない山本太郎という男を担いでしまった。

ME TOO のプラカード持ってパフォーマンスしていた議員達は山本太郎に強姦されたと勇気をもって告発した女性にはダンマリか!

未成年の女の子を強姦しても、革命家斉藤まさしの書いたシナリオ通りを演じておけば、参議院議員にもなれるか。

もし、事実じゃなないのなら、何故週刊新潮を訴えないのか?

____


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。



http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/448.html#c10

[近代史3] こうの史代 _ この世界の片隅に (MAPPA 2016年) 中川隆
2. 中川隆[-8853] koaQ7Jey 2019年8月14日 04:52:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3885]

『この世界の片隅に』の凄さを3つのポイントで語ります - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=luKRzLlkJtk


2019/08/03 に公開

「この世界の片隅に」NHK放送を記念して、2016年11月20日に配信された動画から『この世界の片隅に』の凄みを解説した部分をみなさまにお届けします。お楽しみください。

岡田斗司夫ゼミ11月20日号「『この世界の片隅に』誰もが評論を諦める高難易度作品を語るよ!!
宮ア駿あなたが川上量生にそれを言っちゃいます?」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=arleVFlk1ko

岡田斗司夫ゼミ11月27日号「『この世界の片隅に』で見えたTVアニメーション崩壊前夜!
中抜きでアニメ業界総ブラック!
業界のおカネ事情は?〜アニメ・イズ・デッド第二弾」対談・山本寛(アニメ−ション監督) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fQFFWq7hgNw
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/572.html#c2

[近代史3] こうの史代 _ この世界の片隅に (MAPPA 2016年) 中川隆
3. 中川隆[-8852] koaQ7Jey 2019年8月14日 05:09:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3886]

【特別公開】岡田斗司夫ゼミ#155完全版
「対談:真木太郎 :『この世界の片隅に』プロデューサー初登場! この時代に監督の好きな作品を作ってもらう重要ポジションプロデューサーとは?」2016.12.4 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=f9iQpv0neG8

プロデューサー暴走!「この世界の片隅に」30分カットしたのは正解だった〜でも完全版を作る理由 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fTyTA_dJbe8
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/572.html#c3

[近代史3] こうの史代 _ この世界の片隅に (MAPPA 2016年) 中川隆
4. 中川隆[-8851] koaQ7Jey 2019年8月14日 05:31:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3887]
解説「この世界の片隅に」が起こした5つの革命 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5mRE6Of0kW4


出演者
 山田玲司 漫画家
 奥野晴信 湘南のゴーストライター
 しみちゃん コメントキャッチャー&聴き上手でおなじみカリスマ美容師

2016年12月14日放送 #92 山田玲司のヤングサンデー
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/572.html#c4

[近代史3] こうの史代 _ この世界の片隅に (MAPPA 2016年) 中川隆
5. 中川隆[-8850] koaQ7Jey 2019年8月14日 05:34:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3888]

映画 「この世界の片隅に」 監督・片渕須直 インタビュー (一部カット修正版) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=h02HM5InHJI
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/572.html#c5
[政治・選挙・NHK264] 「れいわ」「N国」の“はらはら感覚”に見える政治の希望と失望(ダイヤモンド・オンライン) 赤かぶ
12. 中川隆[-8849] koaQ7Jey 2019年8月14日 05:50:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3889]

『民主党と小沢一郎』は日本を無茶苦茶にした

『れいわ新選組』は日本を滅ぼす

『N国』は日本を救う
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/448.html#c12

[リバイバル3] 廃墟と化した水上温泉 中川隆
134. 中川隆[-8851] koaQ7Jey 2019年8月14日 10:32:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3887]

インバウンド「様」成長戦略 2019-08-14
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12506128070.html


 発展途上国がなぜ「観光業」に依存するかといえば、大きく、

(1) 製造業やサービス業の資本投資が不十分で、国民の雇用を十分に確保できない

(2) 人件費や物価が安い

 と、二つの理由がありますが、先進国がなぜ「外国人観光客依存の経済」」に落ちぶれるのかと言えば、第一次グローバリズム末期のイギリスが典型ですが、

(3) 将来のための投資に踏み込むことができず、過去の先人の遺産に頼る
 ことになるためです。


 発展途上国は「安いから」、先進国は「投資する根性を無くしたから」こそ、いわゆるインバウンド観光に頼ることになるわけです。


 もっとも、我が国の場合は、長期デフレで衰退途上国として人件費や物価がどんどん安くなっている状況で、将来への投資に背を向け、過去の日本人の遺産にすがり、
「インバウンドが成長戦略」
 などと、意味不明なことを政治家が宣っているわけでございます。


 日本の場合、(1)の理由は全くありません。単に、将来のための投資を推進しさえすれば、「外国人様〜」「中国人様〜」などとやる必要はなくなります。


 ところが、何しろ日本は政府までもが緊縮財政で、将来への投資を拒否しているわけで、日本経済がインバウンド様に依存する羽目になるのは、必然でございます。

『インバウンドとは 訪日外国人、旅行者・消費額が急増

 「インバウンド」と呼ばれる訪日外国人旅行者は2012年以降、急速に拡大している。18年は3119万人で、3000万人の大台を初めて突破した。中国経済の減速や日韓関係の悪化で、先行きに不透明感が増しつつある状況でも伸びは続いており、19年1〜6月も、半期として過去最高の1663万人を記録した。

 人口減少などで国内の個人消費は伸び悩んでおり、インバウンド需要は地域経済のけん引役となっている。旅行消費額も訪日客の増加に伴い拡大しており、18年は4兆5189億円となった。国籍・地域別では中国が全体の34.2%を占めトップ。次いで韓国が13.0%、台湾(12.9%)、香港(7.4%)が続き、上位はアジア勢が独占する。

 政府は東京五輪・パラリンピックが開催される20年にインバウンド4000万人、旅行消費額8兆円を目標に掲げている。一方、外国人観光客が押し寄せる地域では、街中のごみや交通混雑などの観光公害が社会問題となってきた。インバウンドを地域活性化につなげるため、住民生活との両立が課題となっている。』


 断っておきますが、わたくしは別に、
「外国人観光客は来るな」
 などといいたいわけではありません。


 とはいえ、とりあえずは「日本国民が豊かになり、日本国民の消費で観光業を発展させる」のが先だろう、と主張しているのです。


 加えて、現在の日本のインバウンド「様」成長戦略は、

・日本国民(政府含む)が将来への投資を拒否し、過去の先人の遺産に縋りついで食つなぐという、実に情けない考え方が基本

・外国人様に媚び、駅の表示について日本語と英語以外が増えるなど、日本国民が不便を被っている

・インバウンドを利用し、民泊や白タクなど、シェアリング・エコノミーと称するレント・シーキングが進んでいる


 と、実に惨め、かつ邪な発想に基づいているのです。


 加えて、中国や韓国の例を見れば分かりますが、インバウンドは「外交」「政治」により需要が急減するリスクが常にある。外国様に依存する経済を「成長戦略」などといってのける、その感覚が理解できない。


 ということは、あれですか、観光業が依存する中国様のご機嫌を取り、今後、二度と中共に逆らわないようにいたしますか。さもなければ、観光業が大打撃を被りますよ、といった話になってしまうでしょう。


 ここまで、落ちぶれたのです、日本は。反中・反韓の傾向が強い安倍支持者の方々が、なぜか政府のインバウンド成長戦略を批判しない。不思議です。

 皆さんの大嫌いな中国人、韓国人(わたくしも嫌いだけど)をどんどん日本に招き入れているのは、安倍政権なのですよ。特に、安倍政権は中国人に対する観光ビザを規制緩和しまくっております。


 ちなみに、日本国民の観光消費額は、現在、絶賛「横ばい中」です。

【日本人国内旅行消費額の推移(億円)】


http://mtdata.jp/data_65.html#ryokou

 日本の政治(あるいは「政治家」)は、とりあえずデフレ脱却し、日本人の旅行消費額を増やすことを目指すべきです。


 このままインバウンド「様」成長戦略などとやっていると、将来は、日本人女性が外国人「様」に身体を売り、男性はトゥクトゥクならぬ白タクで外国人様を運び、小銭を稼ぐ国に落ちぶれます(もうなりつつあるけど)。それでいいんかい?


 わたくしは、そんな日本は絶対にお断りです。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12506128070.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/624.html#c134

[近代史3] 訪日外国人による観光公害 地元住民の被害は限界 中川隆
2. 中川隆[-8850] koaQ7Jey 2019年8月14日 10:33:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3888]

インバウンド「様」成長戦略 2019-08-14
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12506128070.html


 発展途上国がなぜ「観光業」に依存するかといえば、大きく、

(1) 製造業やサービス業の資本投資が不十分で、国民の雇用を十分に確保できない

(2) 人件費や物価が安い

 と、二つの理由がありますが、先進国がなぜ「外国人観光客依存の経済」」に落ちぶれるのかと言えば、第一次グローバリズム末期のイギリスが典型ですが、

(3) 将来のための投資に踏み込むことができず、過去の先人の遺産に頼る
 ことになるためです。


 発展途上国は「安いから」、先進国は「投資する根性を無くしたから」こそ、いわゆるインバウンド観光に頼ることになるわけです。


 もっとも、我が国の場合は、長期デフレで衰退途上国として人件費や物価がどんどん安くなっている状況で、将来への投資に背を向け、過去の日本人の遺産にすがり、
「インバウンドが成長戦略」
 などと、意味不明なことを政治家が宣っているわけでございます。


 日本の場合、(1)の理由は全くありません。単に、将来のための投資を推進しさえすれば、「外国人様〜」「中国人様〜」などとやる必要はなくなります。


 ところが、何しろ日本は政府までもが緊縮財政で、将来への投資を拒否しているわけで、日本経済がインバウンド様に依存する羽目になるのは、必然でございます。

『インバウンドとは 訪日外国人、旅行者・消費額が急増

 「インバウンド」と呼ばれる訪日外国人旅行者は2012年以降、急速に拡大している。18年は3119万人で、3000万人の大台を初めて突破した。中国経済の減速や日韓関係の悪化で、先行きに不透明感が増しつつある状況でも伸びは続いており、19年1〜6月も、半期として過去最高の1663万人を記録した。

 人口減少などで国内の個人消費は伸び悩んでおり、インバウンド需要は地域経済のけん引役となっている。旅行消費額も訪日客の増加に伴い拡大しており、18年は4兆5189億円となった。国籍・地域別では中国が全体の34.2%を占めトップ。次いで韓国が13.0%、台湾(12.9%)、香港(7.4%)が続き、上位はアジア勢が独占する。

 政府は東京五輪・パラリンピックが開催される20年にインバウンド4000万人、旅行消費額8兆円を目標に掲げている。一方、外国人観光客が押し寄せる地域では、街中のごみや交通混雑などの観光公害が社会問題となってきた。インバウンドを地域活性化につなげるため、住民生活との両立が課題となっている。』


 断っておきますが、わたくしは別に、
「外国人観光客は来るな」
 などといいたいわけではありません。


 とはいえ、とりあえずは「日本国民が豊かになり、日本国民の消費で観光業を発展させる」のが先だろう、と主張しているのです。


 加えて、現在の日本のインバウンド「様」成長戦略は、

・日本国民(政府含む)が将来への投資を拒否し、過去の先人の遺産に縋りついで食つなぐという、実に情けない考え方が基本

・外国人様に媚び、駅の表示について日本語と英語以外が増えるなど、日本国民が不便を被っている

・インバウンドを利用し、民泊や白タクなど、シェアリング・エコノミーと称するレント・シーキングが進んでいる


 と、実に惨め、かつ邪な発想に基づいているのです。


 加えて、中国や韓国の例を見れば分かりますが、インバウンドは「外交」「政治」により需要が急減するリスクが常にある。外国様に依存する経済を「成長戦略」などといってのける、その感覚が理解できない。


 ということは、あれですか、観光業が依存する中国様のご機嫌を取り、今後、二度と中共に逆らわないようにいたしますか。さもなければ、観光業が大打撃を被りますよ、といった話になってしまうでしょう。


 ここまで、落ちぶれたのです、日本は。反中・反韓の傾向が強い安倍支持者の方々が、なぜか政府のインバウンド成長戦略を批判しない。不思議です。

 皆さんの大嫌いな中国人、韓国人(わたくしも嫌いだけど)をどんどん日本に招き入れているのは、安倍政権なのですよ。特に、安倍政権は中国人に対する観光ビザを規制緩和しまくっております。


 ちなみに、日本国民の観光消費額は、現在、絶賛「横ばい中」です。

【日本人国内旅行消費額の推移(億円)】


http://mtdata.jp/data_65.html#ryokou

 日本の政治(あるいは「政治家」)は、とりあえずデフレ脱却し、日本人の旅行消費額を増やすことを目指すべきです。


 このままインバウンド「様」成長戦略などとやっていると、将来は、日本人女性が外国人「様」に身体を売り、男性はトゥクトゥクならぬ白タクで外国人様を運び、小銭を稼ぐ国に落ちぶれます(もうなりつつあるけど)。それでいいんかい?


 わたくしは、そんな日本は絶対にお断りです。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12506128070.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/527.html#c2

[近代史3] 日本円と日本の物価は異常に安過ぎる _ 1ドル=50円 が適正価格 中川隆
12. 中川隆[-8849] koaQ7Jey 2019年8月14日 10:34:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3889]

インバウンド「様」成長戦略 2019-08-14
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12506128070.html


 発展途上国がなぜ「観光業」に依存するかといえば、大きく、

(1) 製造業やサービス業の資本投資が不十分で、国民の雇用を十分に確保できない

(2) 人件費や物価が安い

 と、二つの理由がありますが、先進国がなぜ「外国人観光客依存の経済」」に落ちぶれるのかと言えば、第一次グローバリズム末期のイギリスが典型ですが、

(3) 将来のための投資に踏み込むことができず、過去の先人の遺産に頼る
 ことになるためです。


 発展途上国は「安いから」、先進国は「投資する根性を無くしたから」こそ、いわゆるインバウンド観光に頼ることになるわけです。


 もっとも、我が国の場合は、長期デフレで衰退途上国として人件費や物価がどんどん安くなっている状況で、将来への投資に背を向け、過去の日本人の遺産にすがり、
「インバウンドが成長戦略」
 などと、意味不明なことを政治家が宣っているわけでございます。


 日本の場合、(1)の理由は全くありません。単に、将来のための投資を推進しさえすれば、「外国人様〜」「中国人様〜」などとやる必要はなくなります。


 ところが、何しろ日本は政府までもが緊縮財政で、将来への投資を拒否しているわけで、日本経済がインバウンド様に依存する羽目になるのは、必然でございます。

『インバウンドとは 訪日外国人、旅行者・消費額が急増

 「インバウンド」と呼ばれる訪日外国人旅行者は2012年以降、急速に拡大している。18年は3119万人で、3000万人の大台を初めて突破した。中国経済の減速や日韓関係の悪化で、先行きに不透明感が増しつつある状況でも伸びは続いており、19年1〜6月も、半期として過去最高の1663万人を記録した。

 人口減少などで国内の個人消費は伸び悩んでおり、インバウンド需要は地域経済のけん引役となっている。旅行消費額も訪日客の増加に伴い拡大しており、18年は4兆5189億円となった。国籍・地域別では中国が全体の34.2%を占めトップ。次いで韓国が13.0%、台湾(12.9%)、香港(7.4%)が続き、上位はアジア勢が独占する。

 政府は東京五輪・パラリンピックが開催される20年にインバウンド4000万人、旅行消費額8兆円を目標に掲げている。一方、外国人観光客が押し寄せる地域では、街中のごみや交通混雑などの観光公害が社会問題となってきた。インバウンドを地域活性化につなげるため、住民生活との両立が課題となっている。』


 断っておきますが、わたくしは別に、
「外国人観光客は来るな」
 などといいたいわけではありません。


 とはいえ、とりあえずは「日本国民が豊かになり、日本国民の消費で観光業を発展させる」のが先だろう、と主張しているのです。


 加えて、現在の日本のインバウンド「様」成長戦略は、

・日本国民(政府含む)が将来への投資を拒否し、過去の先人の遺産に縋りついで食つなぐという、実に情けない考え方が基本

・外国人様に媚び、駅の表示について日本語と英語以外が増えるなど、日本国民が不便を被っている

・インバウンドを利用し、民泊や白タクなど、シェアリング・エコノミーと称するレント・シーキングが進んでいる


 と、実に惨め、かつ邪な発想に基づいているのです。


 加えて、中国や韓国の例を見れば分かりますが、インバウンドは「外交」「政治」により需要が急減するリスクが常にある。外国様に依存する経済を「成長戦略」などといってのける、その感覚が理解できない。


 ということは、あれですか、観光業が依存する中国様のご機嫌を取り、今後、二度と中共に逆らわないようにいたしますか。さもなければ、観光業が大打撃を被りますよ、といった話になってしまうでしょう。


 ここまで、落ちぶれたのです、日本は。反中・反韓の傾向が強い安倍支持者の方々が、なぜか政府のインバウンド成長戦略を批判しない。不思議です。

 皆さんの大嫌いな中国人、韓国人(わたくしも嫌いだけど)をどんどん日本に招き入れているのは、安倍政権なのですよ。特に、安倍政権は中国人に対する観光ビザを規制緩和しまくっております。


 ちなみに、日本国民の観光消費額は、現在、絶賛「横ばい中」です。

【日本人国内旅行消費額の推移(億円)】


http://mtdata.jp/data_65.html#ryokou

 日本の政治(あるいは「政治家」)は、とりあえずデフレ脱却し、日本人の旅行消費額を増やすことを目指すべきです。


 このままインバウンド「様」成長戦略などとやっていると、将来は、日本人女性が外国人「様」に身体を売り、男性はトゥクトゥクならぬ白タクで外国人様を運び、小銭を稼ぐ国に落ちぶれます(もうなりつつあるけど)。それでいいんかい?


 わたくしは、そんな日本は絶対にお断りです。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12506128070.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/189.html#c12

[政治・選挙・NHK264] 韓国の知識層からも「安倍を早く何とかしてくれ!」 安倍政権 戦略なき対韓外交(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
7. 中川隆[-8848] koaQ7Jey 2019年8月14日 12:23:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3890]
国交断絶すれは解決するだろ


http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/458.html#c7

[近代史3] 革命は軍や警察が国家を裏切り市民側に就かないと成功しない

革命は軍や警察が国家を裏切り市民側に就かないと成功しない

2019年08月14日
香港市民に味方する香港警官が一人も居ない理由
http://www.thutmosev.com/archives/80689774.html


香港警察にも市民側に寝返る人が居そうだが一人も居ない。

彼らは武士でも騎士でもないので、自ら考えて行動することは無い


http://wedge.ismedia.jp/mwimgs/3/b/1200m/img_3b742e4f83cbd05b88489eafb7dfa151129515.jpg


香港警察が市民の為に戦わない理由

香港では犯罪容疑者を中国本土に送還する法律を巡って大規模デモが発生し、市民数十万人が参加しました。

19年8月に入ると香港警察の取り締まりが強化され、デモ側もゲリラ的な抵抗活動に転換した。

警察はデモ隊にたたいたりするようになり、黒シャツを着た黒シャツ隊がデモ隊の白シャツ隊を攻撃している。



この黒シャツ隊については香港警察の警察官が制服から黒シャツに着替えている動画が投稿されている。

香港警察が「愛国派」の市民を装ってデモ隊を襲撃し、当然ながら警察は現場に現れない。

黒シャツ隊の攻撃で警察に通報しても警官隊はわざと時間をかけて登場するのが恒例になっている。


そのくせ香港警察はデモ隊がデモを始めた時には素早く登場し、催涙弾や棒で鎮圧している。

デモを鎮圧する警察という図式は世界共通だが、中国と中国の植民地にしかない「ある現象」には注目せざるを得ない。

それは中国3000年の歴史の中で、市民や国民や農民の為に立ち上がり、皇帝や国家と戦った人は居ないという点です。


世界の多くの革命は市民の抵抗がきっかけだが、必ず軍や警察が国家を裏切り、市民側に就くことで政府が倒れている。

フランス革命やロシア革命、ソ連崩壊、ベルリンの壁崩壊、東ドイツ崩壊、アメリカ独立など枚挙にいとまがない。

日本では1936年(昭和11年)に226事件が起きたが、放棄した青年将校の目的は貧困農民を救う事でした。

中国の兵士は武士や騎士ではなかった

兵士や警官が国家を裏切って、圧倒的に劣勢な市民側について戦うのは、かなり高度な教養をもった社会でないと起きない。

アフリカの独裁国家や中南米では「市民を裏切ってマフィアや権力者に就く警官」は大勢居るが、逆は1人も居ない。

同じように中国や中国の植民地だった国々では、軍や警察が市民を救うために国家と戦争をするなどという事は起きない。


北朝鮮は世界一の貧困国家で国民は常に飢えているが、一度も革命や大規模暴動が起きたことはありません。

日本人から見ると不思議でしょうがないが、武士が槍一本で国家と戦うのは、日本や高度な先進社会にしかありません。

日本の武士は天皇に次ぐ地位と権力を持ち、形式上の地位を持つ文官や貴族より遥かに強大でした。


武士は兵士ではなく「士」であるから自らの志に基づいて行動し、自分で善悪を判断する。

西洋の騎士も同じで単なる兵士ではなく貴族であり、自分で善悪を判断し自分の意志で行動する。


中国の兵士はこれとはまったく違い、最底辺の農民の息子がなるもので、決して皇帝につぐ位などにはならない。

日本と中国朝鮮は過去に何度も戦ったが、一度たりとも大陸側が勝ったことはなく、引き分けがせいぜいでした。

この理由は中国の将軍や兵士は、例え勝っても貴族になったりせず、略奪くらいしか楽しみがなかったからでした。


日本の武士団は郷土と一族の期待を一身に背負って出陣し、勝てば大名や将軍になり天下を取れた。


中国や朝鮮で軍人による革命は起きないのは、そもそも軍人や警官には意思が無く、社会的な使命もなかったからです。


清を倒した辛亥革命を起こしたのは革命家の孫文で、軍人は利害を計算して孫文に就いただけでした。


香港警察の警官が考えているのは、自分が出世したり利益を得る事だけで、武士や騎士ではないのです。

もし香港警察の警官が「民主主義のために中国と戦おう」と言って戦車の前に立ちふさがったら驚くが、そういう事は起きないでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80689774.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/574.html

[近代史3] 革命は軍や警察が国家を裏切り市民側に就かないと成功しない 中川隆
1. 中川隆[-8850] koaQ7Jey 2019年8月14日 13:25:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3889]

2019年06月13日
香港は民主主義の夢を見るか 中国は懐柔と鎮圧で対抗



ウクライナの民主化暴動と比べると、香港がいかに生ぬるいか分かる。

画像引用:https://www.cnn.co.jp/storage/2014/02/19/4f15efa5db0a9bfb3ea6ea6900f28b0b/ukraine-protest-fire.jpg

香港の民主化デモは日本の官邸デモと正反対

香港では犯罪容疑者の本土引き渡しを可能にする条例をめぐって、数十万人の抗議デモが起きている。

同様の民主化デモは2014年にも発生したが、首謀者らの逮捕で完全に鎮圧された。

日本でも官邸前や省庁や国会前をデモ隊が取り囲み、時として10万人以上を集める事がある。



民主主義国のデモと香港のデモが決定的に異なる点があり、それは少数派か多数派かということです。

日本では国政選挙で選ばれた最大政党が与党になり政府をつくるので、抗議するデモ隊は必ず少数派です。

例えデモ隊が100万人集めたとしても、有権者の過半数は民主党や自民党に投票していました。


フランスのデモ隊も同様で、政府はデモ隊の要求を一切無視して鎮圧しても、なんら非民主的ではない。

デモ隊は「国会を停止しろ」「政府を解体しろ」「共産主義独裁を実現しよう」など必ず非民主化を主張しています、

香港はこれとは違い、選挙が行われていないので国民や有権者はいくら多数でもデモ以外で意思表示はできない。


中国への香港返還以前には、立法会選挙と行政長官委員選挙が行われていたが、現在は事実上行われていない。

立法会選挙の投票権を持つのは香港住民(子供を含む)の約半数で、行政長官委員選挙の選挙権を持つのは住民の1割に過ぎない。

そのうえ行政長官を選ぶ委員の半数は中国が任命しており、残りの半数も中国が推薦した人しか立候補できない。


立法会選挙も同様に、中国の推薦を受けた人しか立候補できず、反中国的な人に投票する選択肢はない。

このように香港の「選挙」は中国を歓迎するか、投票しないかの2つの選択肢しか用意されていない。


フランスや日本のデモ隊が民主主義廃止を要求しているのに対し、香港のデモは選挙や民主主義の実施を要求している。


プラカード持って歩いただけで政府が倒れたら、世界中の政府が倒れている
c9ba2c7cfc9546baa078f3ca51958ad2_18
画像引用:https://www.aljazeera.com/mritems/Images/2019/6/9/c9ba2c7cfc9546baa078f3ca51958ad2_18.jpg


香港の民主化は実現しない

2014年の香港民主化デモは学生が中心で、中心メンバーが逮捕されるとあっけなく鎮静化しました。

学生は大学生という身分が保障されているから学生なので、退学になったり拘束されたら学生への影響力を失う。

他の学生メンバーは「運動から抜ければ有利な就職ができるが、続けると家族に不幸が及ぶ」などアメとムチで飼いならされた。


学生運動は所詮こんなもので、一時的な熱狂のあとは熱が冷めたようにやる気を失ってしまう。

今回は多くの労働者も参加しているので、社会に混乱を起こして中国を困らせることはできるでしょう。

中国が困り果てて香港を手放したり民主化するかと言えば、それは大いに疑問です。


世界の独裁国家や軍事国家の民主化は、民衆ではなく軍隊の寝返りで発生することが多い。

フランス革命やロシア革命は民衆の蜂起がきっかけになったのは確かですが、政府が倒れたのは軍が寝返ったからでした。

ソ連崩壊もそうだし、明治維新での徳川幕府崩壊も旗本百万旗や徳川親藩が幕府の指示に従わなくなったからでした。


新政府軍が江戸を包囲した時、江戸城に集まった武士はわずか500人だけで、徳川軍は存在していませんでした。

北朝鮮で何百万人餓死しても革命が起きないのは軍が寝返らないからで、民衆がいくら蜂起してもそれだけで政府は倒れないのです。

香港にはそもそも香港を守る香港軍が存在しないので、軍が中国を裏切って民衆側につくのもありえません。


わずかな可能性があるとすれば香港警察が中国支配下から離脱し民衆側に就くことですが、そうした可能性も無いように思えます。

オウムの幹部はかつて「プラカード持って歩いても革命は起きない」と言ったが、現実はその通りなのです。

2014年ウクライナ騒乱のように全住民を巻き込む内戦に発展するほどであれば、国そのものが吹き飛んで倒れる可能性がある。
http://www.thutmosev.com/archives/80115932.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/574.html#c1

[近代史3] 米軍は何故日本に駐留しているのか? 日本は何故軍隊が持てないのか?

東京を囲むように米軍基地がある。
横須賀に海軍もある。

東京に敵は攻めて来るか?
なら、東京周辺は、何のために?

天皇家を守るために、又ク-デタ-を心配して駐屯しているのだそうだ。


▲△▽▼

日本人の反乱に恐れおののいていた天皇家の人々


梨本宮伊都子妃の日記

梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。


伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。

 『昭和33年7月14日。
 きみ、きっと、これが僕の運命だね。
 明仁皇太子』

 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。

 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。

 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』


(3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを

 昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。

 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。

 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。

 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0822.html


▲△▽▼


April 29, 2017

天皇メッセージ発見者・進藤栄一氏に聞く 「苛烈な現実 今も」 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ift.tt/2oRPQmn

「天皇メッセージは、1947年9月に宮内庁御用掛の寺崎英成が米国側に伝えたものを米本国に送った報告電文で、昭和天皇がすすんで沖縄を米国に差し出すという内容だった。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の日記でも裏付けられた。昭和天皇実録でも確認されている」

―当時の背景は。

「まだ占領軍内で沖縄をどうするか意見が分かれていた。軍事化を進めて共産主義の対抗基地に使うというタカ派と、日本の民主化を進めることが平和構築につながるとするハト派が拮抗(きっこう)していた。そこへ天皇メッセージが出て来て、それを軸に占領軍内での沖縄の位置付けが反共拠点として要塞(ようさい)化すべきだというものへと明確化していった。それが天皇メッセージの歴史的意義だ」

「さらに翌48年2月に寺崎が2度目の天皇メッセージを届ける。その中で『南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を含め』て反共防衛線をつくるべきだと提言する。最も恐るべきは日本の共産主義化だと。これは戦前以来の発想だった」

―沖縄は日本から切り離され米施政権下を経て72年に日本に復帰した。だが米軍基地の集中は変わらず、基地の自由使用など“軍事占領”ともいえる実態は今も続いている。

「沖縄が日本に復帰した後も米軍基地は残り、逆に強化されている。これは天皇メッセージに始まる沖縄の苛烈な現実の帰結だ」
https://kuantan.me/2017/04/29/april-29-2017-at-0501am/


▲△▽▼

昭和天皇の発言記録(1946・4〜6)ホイットニー文書


昭和天皇 神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要する。


この文書は、昭和天皇ヒロヒトが占領軍司令部に対し表明した見解の要約が全編にわたり記された、「極秘」扱いの、英文三頁以上にわたるメモランダムである。

1946年4月から6月の間に、東京駐在の国務省員によって作成され、マッカーサーの腹心であったコートニー・ホイットニーの私物として保管された後、1970年代前半にヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に寄贈され、1978年に機密解除されている。


ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと感じている。

日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。

徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。

この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。

日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。

それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。

しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。

政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。

私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。

しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。日本の労働者は、物事を真似する事において、義務を等閑にして自分の権利を利己的に追求しやすく 、米国のストライキから有害な影響を受けるので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。

自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に「煌く平和」の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。

私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。

彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/


▲△▽▼

世界の多くの革命は市民の抵抗がきっかけだが、必ず軍や警察が国家を裏切り、市民側に就くことで政府が倒れている。

フランス革命やロシア革命、ソ連崩壊、ベルリンの壁崩壊、東ドイツ崩壊、アメリカ独立など枚挙にいとまがない。

日本では1936年(昭和11年)に226事件が起きたが、放棄した青年将校の目的は貧困農民を救う事でした。


兵士や警官が国家を裏切って、圧倒的に劣勢な市民側について戦うのは、かなり高度な教養をもった社会でないと起きない。

アフリカの独裁国家や中南米では「市民を裏切ってマフィアや権力者に就く警官」は大勢居るが、逆は1人も居ない。

同じように中国や中国の植民地だった国々では、軍や警察が市民を救うために国家と戦争をするなどという事は起きない。


北朝鮮は世界一の貧困国家で国民は常に飢えているが、一度も革命や大規模暴動が起きたことはありません。

日本人から見ると不思議でしょうがないが、武士が槍一本で国家と戦うのは、日本や高度な先進社会にしかありません。

日本の武士は天皇に次ぐ地位と権力を持ち、形式上の地位を持つ文官や貴族より遥かに強大でした。


武士は兵士ではなく「士」であるから自らの志に基づいて行動し、自分で善悪を判断する。

西洋の騎士も同じで単なる兵士ではなく貴族であり、自分で善悪を判断し自分の意志で行動する。


中国の兵士はこれとはまったく違い、最底辺の農民の息子がなるもので、決して皇帝につぐ位などにはならない。

日本と中国朝鮮は過去に何度も戦ったが、一度たりとも大陸側が勝ったことはなく、引き分けがせいぜいでした。

この理由は中国の将軍や兵士は、例え勝っても貴族になったりせず、略奪くらいしか楽しみがなかったからでした。


日本の武士団は郷土と一族の期待を一身に背負って出陣し、勝てば大名や将軍になり天下を取れた。


中国や朝鮮で軍人による革命は起きないのは、そもそも軍人や警官には意思が無く、社会的な使命もなかったからです。


清を倒した辛亥革命を起こしたのは革命家の孫文で、軍人は利害を計算して孫文に就いただけでした。


香港警察の警官が考えているのは、自分が出世したり利益を得る事だけで、武士や騎士ではないのです。

もし香港警察の警官が「民主主義のために中国と戦おう」と言って戦車の前に立ちふさがったら驚くが、そういう事は起きないでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80689774.html

 2014年の香港民主化デモは学生が中心で、中心メンバーが逮捕されるとあっけなく鎮静化しました。

学生は大学生という身分が保障されているから学生なので、退学になったり拘束されたら学生への影響力を失う。

他の学生メンバーは「運動から抜ければ有利な就職ができるが、続けると家族に不幸が及ぶ」などアメとムチで飼いならされた。


学生運動は所詮こんなもので、一時的な熱狂のあとは熱が冷めたようにやる気を失ってしまう。

今回は多くの労働者も参加しているので、社会に混乱を起こして中国を困らせることはできるでしょう。

中国が困り果てて香港を手放したり民主化するかと言えば、それは大いに疑問です。


世界の独裁国家や軍事国家の民主化は、民衆ではなく軍隊の寝返りで発生することが多い。

フランス革命やロシア革命は民衆の蜂起がきっかけになったのは確かですが、政府が倒れたのは軍が寝返ったからでした。

ソ連崩壊もそうだし、明治維新での徳川幕府崩壊も旗本百万旗や徳川親藩が幕府の指示に従わなくなったからでした。


新政府軍が江戸を包囲した時、江戸城に集まった武士はわずか500人だけで、徳川軍は存在していませんでした。

北朝鮮で何百万人餓死しても革命が起きないのは軍が寝返らないからで、民衆がいくら蜂起してもそれだけで政府は倒れないのです。

香港にはそもそも香港を守る香港軍が存在しないので、軍が中国を裏切って民衆側につくのもありえません。


わずかな可能性があるとすれば香港警察が中国支配下から離脱し民衆側に就くことですが、そうした可能性も無いように思えます。

オウムの幹部はかつて「プラカード持って歩いても革命は起きない」と言ったが、現実はその通りなのです。

2014年ウクライナ騒乱のように全住民を巻き込む内戦に発展するほどであれば、国そのものが吹き飛んで倒れる可能性がある。
http://www.thutmosev.com/archives/80115932.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/575.html

[近代史3] 米軍は何故日本に駐留しているのか? 日本は何故軍隊が持てないのか? 中川隆
1. 中川隆[-8849] koaQ7Jey 2019年8月14日 14:02:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3891]
2017年05月04日
安倍首相、2020年まで憲法改正表明 日本国憲法の暗黒面

マッカーサーは尿漏れしながらタラップを降り、独裁者になった
img_0
引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0


憲法改正の日程

安倍首相は憲法記念日の5月3日、憲法改正推進のフォーラムにビデオメッセージを寄せて改憲を訴えました。

首相はメッセージで、新憲法が2020年に施行されるようにしたいと具体的な年限を示した。

また憲法9条について、自衛隊の存在が明記されるように追加し、位置づけを明確にしたいと語った。


自民党総裁の任期は3年で2回まで続けて就任できるので2018年までだったが、3回に延長されたので2021年9月まで可能になった。

日本国総理大臣には期限がないので、理論上は自民党の総裁でなくなっても、総理を続けることは出来る。

改正には衆議院参議院が別々に3分の2以上の賛成を得た上で、国民投票で過半数の賛成を得る必要がある。


国民投票の過半数は憲法の日本語で定義されておらず、護憲派は有権者の過半数だと主張していたが、これだと絶対に憲法改正はできない。

日本国憲法は英語で書いた文章を日本語に翻訳したので英語の原文が存在し、一応「日本語から翻訳した」事にしている。

GHQの原文では「投票者の過半数」と書かれているので、日本人の半分しか投票に行かなくても改正可能だという解釈になった。


2020年に改正憲法施行とすると1年前には国民投票が必要で、その1年前には衆参両院の法案審議を始める必要がある。

その前に改正憲法の条文を明確に決定して国民に示す必要があり、2017年か遅くとも2018年には示されなくてはならない。

2012年に自民党から示された憲法改正案は、はっきり言えば稚拙の印象があり、架空戦記小説に似ている。


日本国憲法の根本的矛盾

2012年自民党案は改正内容が多岐に渡っていて、個別の議論だけで数年を要し、その間に政権が交代したら白紙になってしまう。

緊急に必要なのは「戦争の権利」あるいはもっと穏やかに「自衛権の明記」、それと憲法改正手続きの簡素化の2点だけです。

衆参両院でそれぞれ3分の2が必要なのは、当時のアメリカ軍が日本を敵国と見なしていたため、憲法を改正できないようにしたのです。


世界のどの国でも多数決の原則に基づいて議会の過半数で改正できるのが当たり前で、両院それぞれの3分の2としているのは全世界で日本だけです。

この制度では衆議院で100%の議員が改正賛成でも、参議院の3分の1の議員が反対したら憲法改正はできません。

少数意見が通り多数意見が排除される仕組みで、こういう制度を「独裁政治」と言います。


なぜ独裁を奨励するのかといえば、日本国憲法が成立した1946年の日本は、1人の軍人が全ての権限を握る「独裁国家」だったからです。

この軍人とは東条英機ではなく米軍人のダグラス・マッカーサーで、公式な資格がないのに勝手に憲法を作って議会に承認させました。

誰もこれを指摘しないので自分で書くが、マッカーサーは連合軍総司令官で、トルーマン大統領から日本占領を命じられた。


だが一体何故、「ただのアメリカ軍人」が日本を占領して議会や政府に命令し、憲法を勝手に作り変える権限を。アメリカ大統領が与えるのだろうか?

連合国(=国連)が任命したというが、日本は国連加盟国ではないので、そいつらに指図される筋合いがない。

1945年8月に日本が受け入れたのはポツダム宣言だけであって、米軍の日本占領に合意しても居ない。

トルーマン大統領は「天皇の処遇」「憲法を自由に作る」「戦争裁判を開く」などの権限を与えたが、なぜアメリカ大統領にこうした権利があると考えるのかも謎です。


独裁者になった尿漏れ男

1945年8月28日、帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーがパイプを咥えて降り立った。

マッカーサーは写真にはこだわりがあり、硫黄島の有名な写真や、厚木に降り立った写真など、すべて演出させた「やらせ写真」でした。

厚木の輸送機から降りるマッカーサーは、日本軍人から襲撃される恐怖から、尿を漏らしながらタラップを降りました。


マッカーサーは開戦時にフィリピンにいたが、部下を置き去りに逃げ出し、沖縄や本土では民間人への空襲を命令した、そんな人間でした。

マッカーサーは軍事法廷や天皇の処罰などをチラつかせながら憲法(帝国憲法)改正を命じ、帝国議会は現行憲法(帝国憲法)の改正案を示した。

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、日本側はマッカーサーの命令を拒否し、時間を掛けて改正すると回答しました。


1946年1月、日本政府はGHQに憲法改正案を提出したが、GHQは却下し独自の憲法を作成する事にした。

特にマッカーサーを激怒させたのが天皇の身分を存続させる点で、彼は天皇を「犯罪者」として定義させたがった。

イラクやアルカイダの首謀者をアメリカは犯罪者と定義したが、あれと同じ事を日本でもやりたかったようです。


脅迫で可決した日本国憲法

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。

ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。


ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、

GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。

若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。

東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。


例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。

東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。

日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。

リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。
http://www.thutmosev.com/archives/70762817.html


▲△▽▼


2016年08月19日
日本国憲法を作ったのは軍隊のアルバイト
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html

マッカーサーはやらせ写真を作るのが大好きで、こういう写真を撮らせてはマスコミに掲載させた。

http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/c/8/c8d8b55f.jpg


日米両国の高官が「日本国憲法を作ったのは我が国だ」と主張している。


日本国憲法の珍論争

日本国憲法を作ったのは誰かという珍論争が日米の政府当局者で勃発し、互いに牽制している。

8月15日に大統領候補ヒラリークリントンの応援演説をした、副大統領のバイデンが次のように発言した。

「日本が核兵器を持てないように、我々が日本の憲法を書いたのを、トランプ候補は知らないのではないか」


この前に対立候補のトランプは様々なヒラリー批判や民主党批判をしていて、その中に次のような演説があった。

「日本には米軍駐留陽を負担してもらう。あるいは米軍に頼らず核武装して自分で守ってもらう」という趣旨の発言だった。

バイデンはトランプへの反論として、日本が核武装出来ないことを指摘し、そうなるように我々が憲法を作ったと話した。


実際はどうかというと、日本国憲法に核武装を禁止した条文はないし、軍隊の保有も軍事行動も禁止するとは書かれていない。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」


「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と憲法に書いてあるのに陸海空軍が存在するのは周知の事実で、これは次の理由による。

『国権の発動たる戦争』は先制攻撃『武力による威嚇又は武力の行使』は侵略戦争という意味で書かれていた英語の日本語訳だとされている。

国の主権者による戦争の禁止、恫喝行為と武力行使禁止、それらを行うための軍事力禁止と書かれています。


終戦後に軍事政権樹立した日本

ひっくり返すと侵略戦争や先制攻撃以外の戦争は認められているし、軍事力による反撃も、核保有も禁止していません。

集団的自衛権もミサイル防衛も、安保法制も、もちろんどこにも禁止とは書いてありません。

バイデン副大統領の発言の半分は誤解ですが、もう半分の「我々が憲法を作った」の部分はどうでしょうか。


英語の原文があり、それを日本語に訳したから「変な日本語」になっているのですが、そもそも英語の原文が存在するのが奇妙です。

時間を追って経緯を見るために1945年(昭和20年)8月15日に戻ってみます。

8月30日に帝国海軍厚木飛行場にマッカーサーが降り立って、パイプを咥えた有名な写真を撮ったが、このポーズはやらせだった。


マッカーサーという男はこういう記念写真が大好きで、硫黄島に旗を立てる写真などを作っては見せびらかしていた。

それはともかく10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、軍による独裁には従わないとして東久邇宮内閣は総辞職しました。

マッカーサーは連合軍という軍隊の司令官にすぎず、日本政府や議会に命令する立場に無いのに、勝手に軍事政権を作った事になる。


日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


アルバイトに適当な憲法を書かせて「拒否するなら何発でも原爆を落す」と議員らを脅迫した。


軍事政権が作った憲法

マッカーサーは民政局長のコートニー・ホイットニーに憲法作成を命令し、ホイットニーはアルバイト職員らに草案を書かせた。

こうして約7日間で書き上げたのが「日本国憲法」の原文の英語版でした。

当時日本の新聞はGHQの支配下にあったので、マッカーサーは日本政府に伝える前に、勝手に新聞で発表してしまいました。


先に日本政府に伝えるとまたゴネだして、内容を変更したり無効になると考えたからでした。

日本の国会議員らは新聞を読んで初めて憲法の内容を知り、激怒して絶対反対の態度を取りました。

するとマッカーサーは「新憲法を承認しなければもう一度戦争だ、原爆をまた落す」と言って脅迫しました。


東京大学などの法学者は新憲法を違法だと言い、反対の態度を取ったが、これも「認めなければ戦犯にしてやる」と脅迫して認めさせました。

当時マッカーサーはA級戦犯、B級戦犯などランク付けし、連合軍に反抗的な公務員や学者らを逮捕しては処刑していました。

GHQを恐れた東京大学は「憲法学」という学問を作り、日本国憲法は日本国民が作ったと言い出しました。


これが今日に残っている「憲法学」で、マッカーサーが「戦犯になるか憲法を認めるか」と脅迫して作らせた学問です。

GHQ支配下の新聞、NHKはこぞって「国民が新憲法を作った」という嘘の報道を繰り返し、やがて嘘の方が事実として広まりました。

帝国議会は「もういちど原爆を落とされたいか」と脅迫され、ほとんど審議せず新憲法を承認しました。


新憲法は「国民が作った」という宣伝の後で、1947年(昭和22年)5月3日に施行され、今日に至っている。

これを誰が作ったと考えるかはその人の考え次第だが、少なくとも日本の総理大臣や国会議員はまったく関与していない
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/575.html#c1

[近代史3] 米軍は何故日本に駐留しているのか? 日本は何故軍隊が持てないのか? 中川隆
2. 中川隆[-8848] koaQ7Jey 2019年8月14日 14:16:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3892]


左翼日本人は何故みんな反共に変わったのか

2018年3月31日
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。
https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/


▲△▽▼

山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。
http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/495.html

よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが

重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか

不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする
http://maru101.blog55.fc2.com/blog-date-201408.html

▲△▽▼


ang********さん 2009/6/22 07:16:49
重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。

父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1427486559


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月7日
@mayshigenobu @cinematoday
重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月9日
@cinematoday @mayshigenobu
ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。
https://twitter.com/mayshigenobu/status/486330664204001280


▲△▽▼


重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。
https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/

▲△▽▼

日本赤軍のテルアビブ空港襲撃事件が世界中に大きな衝撃の理由


イスラエルとパレスチナの紛争に、全く利害関係を持たないはずの日本の極左組織が、命を掛けて参加した理由が分からないことである。

 彼らは宗教的にイスラム教を信奉しているわけでもないし、命をかけるほどの利益があるわけでもない。

従がって、イスラエルの空港に日本赤軍と称する組織が命がけの攻撃をする理由は、西洋人は勿論、中東の人々にも理解できなかった。

何故、日本赤軍は、自分たちの命を犠牲にしてイスラエル空港を攻撃したのか? 

そしてそれに輪を掛けて理解できなかったことは、日本政府がこの襲撃事件に遺憾の意を表明して、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払ったことである。
http://www.araki-labo.jp/samayoe017.htm






▲△▽▼

左翼運動・マルクス主義運動には国際金融資本が資金提供していた


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html


アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。

 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。

(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/575.html#c2

[近代史3] プチエンジェル事件の顧客と噂されている秋篠宮・高円宮はロリコンなのか? 中川隆
38. 中川隆[-8847] koaQ7Jey 2019年8月14日 14:30:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3893]
エプスタイン・ミステリー
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-2ab5be.html
2019年8月14日 マスコミに載らない海外記事


2019年8月12日
ポール・クレイグ・ロバート

 読者の皆様が私を信頼して下さっているのをありがたく思っている。だが、私は皆様のためにエプスタイン問題を解明することはできない。多分私は皆様がそれについて慎重に考えるのをお手伝いできるだろう。

 まず第一に、多くの拘置所「自殺」は殺人だ。1995年にジェシー・トレンタドゥエの兄弟ケネスは、オクラホマシティー爆撃に関係していた「行方不明の男」と誤解され、連邦捜査官に連邦刑務所で殴り殺された。刑務所は、ケネスは獄房で首をつったと主張した。州検死官は、自殺という判断を承認するのを拒否し、ずっと後に、たくさんの圧力を受けて、隠蔽に対する抵抗をやめた。刑務所は埋葬のために死体を家族に返すより、遺体を火葬にすることを望んだ。だがソルトレークシティー弁護士のジェシーは怪しく思っていた。遺体が返却された時、激しいメイクアップで覆われていた。調査で、明らかに自らつけたものではなく、首吊りで生じるはずがない頭部裂傷や、いたる所の痣や火傷や他の打撲傷が見つかった。明らかに、ケネスは拷問にかけられ、自白を得ようとする取り組みで殴り殺されたのだ。ジェシーは、24年間家族のために公正な結果を得ようとしているが、アメリカ司法省に妨害されている。

 自殺監視されている時、人は自殺できない。元被収容者や看守や矯正関係者がエプスタインは首吊りで自殺していないと確信をもって語っている。

 我々にとって唯一の疑問は次のことだ。エプスタインはエリート・メンバーを守るために殺されたのだろうか? エプスタインは闇の国家によって抜け出し、良く似た容姿の遺体に置き換えられたのだろうか?

 先週、非常に多くの著名な人々が関係しているから、エプスタインは裁判まで行けないだろうと言った人たちは「陰謀論者」として捨て去られた。今週我々は「陰謀論者」が正しかったことを知っている。エプスタインは裁判まで行き着けなかったのだ。

 だが我々は彼が死んでいることを知らない。Intellihubのこの記事は読者を引き付けるために公表されたでっちあげかもしれない。
https://www.intellihub.com/prison-workers-4chan-post-10-minutes-before-news-of-jeffrey-epsteins-death-hit-media-guy-in-a-green-dress-military-outfit-switched-him-out/

 あるいはそれは疑念を持たれる自殺から注意をそらすため闇の国家が発表した虚報かもしれない。CIAの対諜報トップ、ジェームズ・ジーザス・アングルトンは、かつて私にCIAが何かをうまくやろうとする時には、異なった、相いれない言説をメディアに流して、混乱させると言った。その結果、調査するべきことが余りに多く、人々は互い、どの話が正しいか議論することになり、出来事の事実は決して捜査されないと彼は言った。今は、インターネットであらゆる種類の言説で、出来事を混乱させて、隠蔽できる。

 誰かが、ある見解を「陰謀理論」と呼んで、信頼性を損なおうとしているのを聞いたら、疑っていただきたい。CIAは、公式説明に対する懐疑論者の信用を失墜させて、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺の説明を支配するため「陰謀理論」を発明した。

 彼の小児性愛行動の捜査によって危険にさらされることがない、彼を良く知る人々が、彼の遺体を確認し、非公式専門家がDNAで遺体確認するするまで、エプスタインはCIAアジトで、未成年の女性と一緒に暮らし、人生を楽しんでいるのかどうか我々は知ることができない。これらの措置でさえ、捜査官たちが賄賂をもらわなかったり、脅迫されたりしなかったのかどうか我々は知るよしもない。

 混乱や疑いを増やすため多くのことが行われるだろう。既にケネディ大統領殺人で、遅れた検死報告書や、信じ難い一発の銃弾説明を支持する病理学者が関与した例がある。
https://www.zerohedge.com/news/2019-08-11/epsteins-autopsy-results-delayed-pending-further-information

 矛盾する情報が日ごとに増える。エプスタインが彼の「自殺」の少し前に、自殺監視から外されたという当局筋からの情報が報じられている。自殺防止獄房では自殺できないから、自殺という判断を裏付けるには、この報道が必要なのだ。

 我々に対して明快な説得力ある説明が与えられる可能性は少ない。知るための唯一の方法は、状況をきわめて慎重に検討し、絶えず変わる話を考慮して決めることだ。ケネディ大統領暗殺、ロバート・ケネディ暗殺、マーティン・ルーサー・キング暗殺、アメリカ艦船リバティー号へのイスラエル攻撃や9/11事件などの公式説明は決して本当ではない。

 エプスタイン裁判はアメリカ・エリートの信用を失墜させたはずで、決して起きてはならないことだった。同じ理由で、何が本当にエプスタインに起こったか、我々は決して知ることはないだろう。

 Paul Craig Robertsは元経済政策担当財務次官補で、ウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者。ビジネス・ウィーク、スクリップス・ハワード・ニューズ・サービスとクリエーターズ・シンジケートの元コラムニスト。彼は多数の大学で教えた。彼のインターネット・コラムは世界中の支持者が読んでいる。彼の新刊、The Failure of Laissez Faire Capitalism and Economic Dissolution of the West、HOW AMERICA WAS LOST、The Neoconservative Threat to World Orderが購入可能。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/362.html#c38

[日本の事件17] プチエンジェル事件の真相
76. 中川隆[-8846] koaQ7Jey 2019年8月14日 14:30:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3894]
エプスタイン・ミステリー
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-2ab5be.html
2019年8月14日 マスコミに載らない海外記事


2019年8月12日
ポール・クレイグ・ロバート

 読者の皆様が私を信頼して下さっているのをありがたく思っている。だが、私は皆様のためにエプスタイン問題を解明することはできない。多分私は皆様がそれについて慎重に考えるのをお手伝いできるだろう。

 まず第一に、多くの拘置所「自殺」は殺人だ。1995年にジェシー・トレンタドゥエの兄弟ケネスは、オクラホマシティー爆撃に関係していた「行方不明の男」と誤解され、連邦捜査官に連邦刑務所で殴り殺された。刑務所は、ケネスは獄房で首をつったと主張した。州検死官は、自殺という判断を承認するのを拒否し、ずっと後に、たくさんの圧力を受けて、隠蔽に対する抵抗をやめた。刑務所は埋葬のために死体を家族に返すより、遺体を火葬にすることを望んだ。だがソルトレークシティー弁護士のジェシーは怪しく思っていた。遺体が返却された時、激しいメイクアップで覆われていた。調査で、明らかに自らつけたものではなく、首吊りで生じるはずがない頭部裂傷や、いたる所の痣や火傷や他の打撲傷が見つかった。明らかに、ケネスは拷問にかけられ、自白を得ようとする取り組みで殴り殺されたのだ。ジェシーは、24年間家族のために公正な結果を得ようとしているが、アメリカ司法省に妨害されている。

 自殺監視されている時、人は自殺できない。元被収容者や看守や矯正関係者がエプスタインは首吊りで自殺していないと確信をもって語っている。

 我々にとって唯一の疑問は次のことだ。エプスタインはエリート・メンバーを守るために殺されたのだろうか? エプスタインは闇の国家によって抜け出し、良く似た容姿の遺体に置き換えられたのだろうか?

 先週、非常に多くの著名な人々が関係しているから、エプスタインは裁判まで行けないだろうと言った人たちは「陰謀論者」として捨て去られた。今週我々は「陰謀論者」が正しかったことを知っている。エプスタインは裁判まで行き着けなかったのだ。

 だが我々は彼が死んでいることを知らない。Intellihubのこの記事は読者を引き付けるために公表されたでっちあげかもしれない。
https://www.intellihub.com/prison-workers-4chan-post-10-minutes-before-news-of-jeffrey-epsteins-death-hit-media-guy-in-a-green-dress-military-outfit-switched-him-out/

 あるいはそれは疑念を持たれる自殺から注意をそらすため闇の国家が発表した虚報かもしれない。CIAの対諜報トップ、ジェームズ・ジーザス・アングルトンは、かつて私にCIAが何かをうまくやろうとする時には、異なった、相いれない言説をメディアに流して、混乱させると言った。その結果、調査するべきことが余りに多く、人々は互い、どの話が正しいか議論することになり、出来事の事実は決して捜査されないと彼は言った。今は、インターネットであらゆる種類の言説で、出来事を混乱させて、隠蔽できる。

 誰かが、ある見解を「陰謀理論」と呼んで、信頼性を損なおうとしているのを聞いたら、疑っていただきたい。CIAは、公式説明に対する懐疑論者の信用を失墜させて、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺の説明を支配するため「陰謀理論」を発明した。

 彼の小児性愛行動の捜査によって危険にさらされることがない、彼を良く知る人々が、彼の遺体を確認し、非公式専門家がDNAで遺体確認するするまで、エプスタインはCIAアジトで、未成年の女性と一緒に暮らし、人生を楽しんでいるのかどうか我々は知ることができない。これらの措置でさえ、捜査官たちが賄賂をもらわなかったり、脅迫されたりしなかったのかどうか我々は知るよしもない。

 混乱や疑いを増やすため多くのことが行われるだろう。既にケネディ大統領殺人で、遅れた検死報告書や、信じ難い一発の銃弾説明を支持する病理学者が関与した例がある。
https://www.zerohedge.com/news/2019-08-11/epsteins-autopsy-results-delayed-pending-further-information

 矛盾する情報が日ごとに増える。エプスタインが彼の「自殺」の少し前に、自殺監視から外されたという当局筋からの情報が報じられている。自殺防止獄房では自殺できないから、自殺という判断を裏付けるには、この報道が必要なのだ。

 我々に対して明快な説得力ある説明が与えられる可能性は少ない。知るための唯一の方法は、状況をきわめて慎重に検討し、絶えず変わる話を考慮して決めることだ。ケネディ大統領暗殺、ロバート・ケネディ暗殺、マーティン・ルーサー・キング暗殺、アメリカ艦船リバティー号へのイスラエル攻撃や9/11事件などの公式説明は決して本当ではない。

 エプスタイン裁判はアメリカ・エリートの信用を失墜させたはずで、決して起きてはならないことだった。同じ理由で、何が本当にエプスタインに起こったか、我々は決して知ることはないだろう。

 Paul Craig Robertsは元経済政策担当財務次官補で、ウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者。ビジネス・ウィーク、スクリップス・ハワード・ニューズ・サービスとクリエーターズ・シンジケートの元コラムニスト。彼は多数の大学で教えた。彼のインターネット・コラムは世界中の支持者が読んでいる。彼の新刊、The Failure of Laissez Faire Capitalism and Economic Dissolution of the West、HOW AMERICA WAS LOST、The Neoconservative Threat to World Orderが購入可能。


http://www.asyura2.com/0505/nihon17/msg/722.html#c76

[近代史3] プチエンジェル事件の深すぎる闇 中川隆
52. 中川隆[-8845] koaQ7Jey 2019年8月14日 14:31:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3895]
エプスタイン・ミステリー
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-2ab5be.html
2019年8月14日 マスコミに載らない海外記事


2019年8月12日
ポール・クレイグ・ロバート

 読者の皆様が私を信頼して下さっているのをありがたく思っている。だが、私は皆様のためにエプスタイン問題を解明することはできない。多分私は皆様がそれについて慎重に考えるのをお手伝いできるだろう。

 まず第一に、多くの拘置所「自殺」は殺人だ。1995年にジェシー・トレンタドゥエの兄弟ケネスは、オクラホマシティー爆撃に関係していた「行方不明の男」と誤解され、連邦捜査官に連邦刑務所で殴り殺された。刑務所は、ケネスは獄房で首をつったと主張した。州検死官は、自殺という判断を承認するのを拒否し、ずっと後に、たくさんの圧力を受けて、隠蔽に対する抵抗をやめた。刑務所は埋葬のために死体を家族に返すより、遺体を火葬にすることを望んだ。だがソルトレークシティー弁護士のジェシーは怪しく思っていた。遺体が返却された時、激しいメイクアップで覆われていた。調査で、明らかに自らつけたものではなく、首吊りで生じるはずがない頭部裂傷や、いたる所の痣や火傷や他の打撲傷が見つかった。明らかに、ケネスは拷問にかけられ、自白を得ようとする取り組みで殴り殺されたのだ。ジェシーは、24年間家族のために公正な結果を得ようとしているが、アメリカ司法省に妨害されている。

 自殺監視されている時、人は自殺できない。元被収容者や看守や矯正関係者がエプスタインは首吊りで自殺していないと確信をもって語っている。

 我々にとって唯一の疑問は次のことだ。エプスタインはエリート・メンバーを守るために殺されたのだろうか? エプスタインは闇の国家によって抜け出し、良く似た容姿の遺体に置き換えられたのだろうか?

 先週、非常に多くの著名な人々が関係しているから、エプスタインは裁判まで行けないだろうと言った人たちは「陰謀論者」として捨て去られた。今週我々は「陰謀論者」が正しかったことを知っている。エプスタインは裁判まで行き着けなかったのだ。

 だが我々は彼が死んでいることを知らない。Intellihubのこの記事は読者を引き付けるために公表されたでっちあげかもしれない。
https://www.intellihub.com/prison-workers-4chan-post-10-minutes-before-news-of-jeffrey-epsteins-death-hit-media-guy-in-a-green-dress-military-outfit-switched-him-out/

 あるいはそれは疑念を持たれる自殺から注意をそらすため闇の国家が発表した虚報かもしれない。CIAの対諜報トップ、ジェームズ・ジーザス・アングルトンは、かつて私にCIAが何かをうまくやろうとする時には、異なった、相いれない言説をメディアに流して、混乱させると言った。その結果、調査するべきことが余りに多く、人々は互い、どの話が正しいか議論することになり、出来事の事実は決して捜査されないと彼は言った。今は、インターネットであらゆる種類の言説で、出来事を混乱させて、隠蔽できる。

 誰かが、ある見解を「陰謀理論」と呼んで、信頼性を損なおうとしているのを聞いたら、疑っていただきたい。CIAは、公式説明に対する懐疑論者の信用を失墜させて、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺の説明を支配するため「陰謀理論」を発明した。

 彼の小児性愛行動の捜査によって危険にさらされることがない、彼を良く知る人々が、彼の遺体を確認し、非公式専門家がDNAで遺体確認するするまで、エプスタインはCIAアジトで、未成年の女性と一緒に暮らし、人生を楽しんでいるのかどうか我々は知ることができない。これらの措置でさえ、捜査官たちが賄賂をもらわなかったり、脅迫されたりしなかったのかどうか我々は知るよしもない。

 混乱や疑いを増やすため多くのことが行われるだろう。既にケネディ大統領殺人で、遅れた検死報告書や、信じ難い一発の銃弾説明を支持する病理学者が関与した例がある。
https://www.zerohedge.com/news/2019-08-11/epsteins-autopsy-results-delayed-pending-further-information

 矛盾する情報が日ごとに増える。エプスタインが彼の「自殺」の少し前に、自殺監視から外されたという当局筋からの情報が報じられている。自殺防止獄房では自殺できないから、自殺という判断を裏付けるには、この報道が必要なのだ。

 我々に対して明快な説得力ある説明が与えられる可能性は少ない。知るための唯一の方法は、状況をきわめて慎重に検討し、絶えず変わる話を考慮して決めることだ。ケネディ大統領暗殺、ロバート・ケネディ暗殺、マーティン・ルーサー・キング暗殺、アメリカ艦船リバティー号へのイスラエル攻撃や9/11事件などの公式説明は決して本当ではない。

 エプスタイン裁判はアメリカ・エリートの信用を失墜させたはずで、決して起きてはならないことだった。同じ理由で、何が本当にエプスタインに起こったか、我々は決して知ることはないだろう。

 Paul Craig Robertsは元経済政策担当財務次官補で、ウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者。ビジネス・ウィーク、スクリップス・ハワード・ニューズ・サービスとクリエーターズ・シンジケートの元コラムニスト。彼は多数の大学で教えた。彼のインターネット・コラムは世界中の支持者が読んでいる。彼の新刊、The Failure of Laissez Faire Capitalism and Economic Dissolution of the West、HOW AMERICA WAS LOST、The Neoconservative Threat to World Orderが購入可能。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/358.html#c52

[政治・選挙・NHK264] 枝野氏も豹変させた山本太郎の圧倒的な存在感 密かに進む「野党結集」の中心か(PRESIDENT Online) 赤かぶ
16. 中川隆[-8847] koaQ7Jey 2019年8月14日 17:37:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3893]
山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者


れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ

山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


____


斉藤まさし(2018、8最高裁にて公職選挙法違反で有罪)が山本太郎の街宣に現れた!

やはり山本太郎は操り人形だったのね。


山本太郎の選挙を指揮していると言われてる斉藤まさしが新宿西口で行われた「山本太郎の街頭演説」の場に現れた。

元俳優の山本太郎を使って革命を目指す斉藤まさしの姿が良くお分かりになったでしょう。

監督の指示に従って演技をする、山本太郎は未だに役を演じているように見えますね。

しかし、その俳優は色々問題のある人物だった。

週刊新潮に強姦魔だと書かれても、名誉棄損で訴えることが出来ない。法廷で争う事が出来ない山本太郎という男を担いでしまった。

ME TOO のプラカード持ってパフォーマンスしていた議員達は山本太郎に強姦されたと勇気をもって告発した女性にはダンマリか!

未成年の女の子を強姦しても、革命家斉藤まさしの書いたシナリオ通りを演じておけば、参議院議員にもなれるか。

もし、事実じゃなないのなら、何故週刊新潮を訴えないのか?

____


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/464.html#c16

[近代史3] 馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国 中川隆
17. 中川隆[-8849] koaQ7Jey 2019年8月14日 19:41:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3891]
2019.08.14
抗議活動が盛り上がらず、過激路線で注目を集めようとする香港の運動


 香港国際空港が8月12日から数千人のグループに占拠され、旅客機の発着ができなくなったと伝えられている。11日にデモに参加した女性が負傷したことへの抗議が呼びかけられ、それだけの参加者が集まったのだという。そうした参加者の中にはアメリカの国旗を掲げ、国家を歌う参加者がいる。

 アメリカやイギリスにとって香港は略奪の橋頭堡であり、情報機関が麻薬取引で儲けたカネを動かし、ロンダリングする拠点であり、地下経済と地上経済の通路でもある。米英両国の支配層が香港に執着している理由はそこにあり、その手先になることで個人的な利益を得ようとしている人もいるだろう。

 空港占拠の直前、8月8日からツイッター上にアメリカのジュリー・イーディー領事が黄之鋒(ジョシュア・ウォン)や羅冠聰(ネイサン・ロー)を含む反中国運動の指導者たちと会っているところを撮影した写真がアップロードされている。JWマリオット・ホテルで撮影されたのだという。


 イーディー本人によると、外交官としての赴任地はエルサレム、リヤド、ベイルート、バグダッド、台北、上海、ドーハ、そして香港。戦争地帯や秘密工作の拠点と言われる地域を移動している。そうしたこともあり、彼女はCIAの非公然オフィサーだと噂されている。

 すでに本ブログでも指摘したことだが、今年の3月や5月には活動の指導者、例えば李柱銘(マーチン・リー)がアメリカを訪れ、マイク・ポンペオ国務長官やナンシー・ペロシ下院議長らと会談している。李柱銘は2014年9月から12月まで続いた「佔領行動(雨傘運動)」の際、ワシントンDCを訪問し、NEDで物資の提供や政治的な支援を要請していた人物だ。

 そのほかの反中国派指導者には香港大学の戴耀廷(ベニー・タイ)副教授、陳日君(ジョセフ・ゼン)、黎智英(ジミー・ライ)が含まれ、余若薇(オードリー・ユー)や陳方安生(アンソン・チャン)も深く関与していた。黎智英はネオコンのポール・ウォルフォウィッツと親しいとも言われている。NEDはCIAの工作資金を流すための組織だ。

 1989年には北京で学生による抗議活動があったが、その時のアメリカ大統領はCIAの非公然オフィサーだと言われていたジョージ・H・W・ブッシュ。そのブッシュは北京駐在大使として、大学時代からの友人でCIA高官のジェームズ・リリーを任命している。その時に反政府活動を指揮していたグループには方励之、柴玲、吾爾開希などが含まれていた。

 この運動は鎮圧され、体制転覆に失敗する。指導部はCIAやイギリスの情報機関MI6が作っていたイエローバード作戦(黄雀行動)と呼ばれる逃走ルートで国外へ脱出させている。その際、中継地になったのが香港だ。そこからフランスを経由してアメリカへ逃れた。

 香港の抗議活動はアメリカやイギリスに操られていることは間違いないだろうが、両国の影響力は世界的に低下している。東アジアも例外ではない。

 そのアメリカで外交を担当するマイク・ポンペオ国務長官は8月1日から3日にかけてタイのバンコックを訪問、ASEANの外相会談に出席した。そこで中露の代表とも会ったようだが、成果なくタイを離れている。アメリカは各国から相手にされなくなっている。少なくとも特別な存在ではなくなった。

 現在、アメリカ政府は大きな問題を抱えている。例えばイランとの対立、中国との経済戦争、ロシアとの間で高まる軍事的な緊張、朝鮮問題だが、いずれも仕掛けたのはアメリカ。こうした問題の背景にはアメリカ帝国の衰退があるのだが、その原因はドル体制の崩壊にある。

 アメリカの支配層は1980年代に中国やソ連の資本主義化を目論んだ。中国はケ小平が1980年に新自由主義を導入、ソ連では欧米信者のミハイル・ゴルバチョフが実権を握った。

 しかし、中国では1980年代の半ばに新自由主義が生み出す社会の歪みが深刻化して軌道修正が図られ、ゴルバチョフは新自由主義の導入に難色を示す。

 軌道修正に起こったアメリカは中国で反政府運動を煽り、天安門広場での大規模な抗議活動につながるのだが、体制転覆には失敗した。それに対してソ連ではKGBがCIAと手を組み、ゴルバチョフを排除して米英の傀儡であるボリス・エリツィンに実権を握らせることに成功。そのエリツィンが1991年12月にソ連を消滅させた。

 この段階でアメリカの支配層は自国が唯一の超大国になったと認識、他国に気兼ねすることなく単独で行動できるようになったと考えた。そして国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランが作成される。その中心がポール・ウォルフォウィッツ国防次官(当時)だったことからウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。

 そのドクトリンはソ連が消滅して米英の属国になり、中国の若手エリートはアメリカに洗脳されたという前提で成り立っている。その前提が21世紀に入り、ウラジミル・プーチンを中心とする勢力によるロシアの再独立で揺らぎ始めるのだ。

 米英は2014年にネオ・ナチを使い、ウクライナでクーデターを成功させたが、これが裏目に出た。当初の計画ではウクライナを制圧することでEUとロシアを分断、ロシアからEUという巨大マーケットを奪うことで経済破綻させるつもりだったのだが、EUとロシアを分断できず、ロシアと中国を結びつけることになった。カネ儲けしか考えていない中国のエリートがアメリカを離れてロシアにつくとは思っていなかったようだ。

 中国とロシアを再属国化するためにアメリカの支配層はもがいているが、香港の出来事もそうしたもがきのひとつと言えるだろう。

 しかし、香港での工作もアメリカの思惑通りには進んでいないように見える。空港の占拠は抗議活動のパワー不足を補うために考えられたのだろう。現在の動員力では街を舞台にした行動ではインパクトがないため、さほど広くなく、社会への影響がある空間として空港が選ばれたのではないかということ。

 ところで、エマニュエル・マクロン政権の労働者を敵視する政策に対する反発で2018年11月からフランスで始まった抗議活動の「黄色いベスト」を政府は暴力的に鎮圧、10名以上の死者と多くの負傷者が出ている。1万人近くが逮捕されたとも言われている。沖縄の基地問題を無視する西側の有力メディアにとって、この抗議活動は香港ほどのニュース価値はないようだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908140000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/135.html#c17

[近代史3] 馬渕睦夫 韓国が反日である理由 _ 日本と隣国とを対立させ統治する分割統治 中川隆
8. 中川隆[-8848] koaQ7Jey 2019年8月14日 20:03:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3892]
馬渕睦夫×河添恵子 八重洲ブックセンタートークショー(日韓問題・香港デモ・ディープステート) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JZqq4bczl1k


令和元年7月19日
主催:八重洲ブックセンター
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/551.html#c8

[近代史3] アメリカは日本が貿易交渉で抵抗するたびに韓国に反日政策を依頼し、慰安婦などで騒いでもらって日本の汚点にしていた 中川隆
2. 中川隆[-8847] koaQ7Jey 2019年8月14日 20:04:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3893]
馬渕睦夫×河添恵子 八重洲ブックセンタートークショー(日韓問題・香港デモ・ディープステート) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JZqq4bczl1k


令和元年7月19日
主催:八重洲ブックセンター
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/522.html#c2

[政治・選挙・NHK264] <毎日新聞・熱血!与良政談>れいわの動き広げるには=与良正男  赤かぶ
2. 中川隆[-8846] koaQ7Jey 2019年8月14日 20:07:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3894]
山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者

れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ

山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


____


斉藤まさし(2018、8最高裁にて公職選挙法違反で有罪)が山本太郎の街宣に現れた!

やはり山本太郎は操り人形だったのね。


山本太郎の選挙を指揮していると言われてる斉藤まさしが新宿西口で行われた「山本太郎の街頭演説」の場に現れた。

元俳優の山本太郎を使って革命を目指す斉藤まさしの姿が良くお分かりになったでしょう。

監督の指示に従って演技をする、山本太郎は未だに役を演じているように見えますね。

しかし、その俳優は色々問題のある人物だった。

週刊新潮に強姦魔だと書かれても、名誉棄損で訴えることが出来ない。法廷で争う事が出来ない山本太郎という男を担いでしまった。

ME TOO のプラカード持ってパフォーマンスしていた議員達は山本太郎に強姦されたと勇気をもって告発した女性にはダンマリか!

未成年の女の子を強姦しても、革命家斉藤まさしの書いたシナリオ通りを演じておけば、参議院議員にもなれるか。

もし、事実じゃなないのなら、何故週刊新潮を訴えないのか?

____


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/468.html#c2

[近代史3] 韓国輸出規制の目的 _ 韓国企業に渡してたフッ化水素(ウラン濃縮素材)の3割は北朝鮮に流れていた 中川隆
22. 中川隆[-8848] koaQ7Jey 2019年8月14日 21:37:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3892]

2019年08月14日
韓国への制裁第3弾はあるか 信用状保証停止すれば韓国は破産


韓国の貿易依存度は高く、信用状保証がなくなったら打撃は大きい

画像引用:https://stat.ameba.jp/user_images/20190113/02/koshioheikuroh/77/c5/p/o1015087714337915747.png?caw=800

韓国への制裁第3弾は何か

日本政府は韓国に対して、半導体3品目輸出厳格化とホワイト国除外につづく対韓制裁第3弾を準備していると言われている。

世耕弘成経済産業相は8月8日、半導体3品目以外にも不適切事案があれば厳格に対処すると話した。

第3国への無断転売や軍事利用などの恐れがあった場合、3品目同様に輸出許可を厳格化できる。



他に可能性があるのは韓国への渡航自粛などの勧告で、反日暴動などで日本企業や旅行者に被害が出れば発動されるかも知れない。

最近第3次韓流ブームで日本の中高生や若い女性に韓流アイドルファンが増え、ウォン下落や値引きで安くなったソウル旅行などが増えている。

そうした女性たちに被害が出たら日本の世論が激高し、「なぜ政府は渡航禁止にしなかったか」という議論になるでしょう。


逆に韓国から日本へのビザなし渡航の制限なども可能だが、国際的に正当化するには韓国人の犯罪が激増しているとか、工作員を潜入させたなど具体的な被害事実が必要になる。

韓国人への就労ビザ発行の厳格化も可能だが、観光客や韓国人労働者が減ると産業界から苦情が出るでしょう。

他に考えられる制裁は信用保証停止で、韓国の通貨ウォンは1997年に国家破産しているので国際的な通貨として使用できない。


そこで日本の銀行が韓国銀行の「信用状」を保証し、もし韓国が破産したら日本が保障する事になっている。

つまり日本は韓国の保証人なのだが、それにしては保証人に敬意を払っていないし、無礼なように思われる。


韓国への信用保証停止は最終兵器


韓国が他国と貿易をする時、確実に(ドル建てで)代金を支払うという信用状を相手に差し出します。

だが相手国は韓国ウォンなんか信用できないと言って応じず、取引をしてくれません。


そこで日本のメガバンクが「韓国が破産したらわたしが代わりにドルで払いましょう」と言って保証しています。


日本のメガバンクはボランティアではなく手数料を取って保証していて、保証人になる事でいくらかの利益を得ています。

いままで(1997年以降)踏み倒されたことはないが、今後韓国は経常赤字国に転落するので、このビジネスは日本側に不利になるかも知れない。


韓国は貿易黒字だが貿易以外の収支がほとんど赤字で、今後長期間経常赤字になるとIMFが警告している。


経常赤字になると韓国は外貨不足になり、ジンバブエやベネズエラのようにドルによる支払いができなくなる恐れがある。

そこまで行かなくても外貨準備高が減少し、通貨危機や経済危機に弱い経済構造になります。


韓国は97年の国家破産後に外国からの投資を受け入れて経済成長したが、投資された分の配当を外国に支払っている。


年3%以上成長すれば問題ないが、3%以下だと輸出で稼いでも配当などを差し引くと経常赤字になります。

韓国は19年か20年には人口マイナスに転じ、米中対立などの影響で成長率は2%以下に落ち込むと予想されています。


すると韓国を信用保証している日本の銀行は債務を背負わされるリスクが高まり、保証業務をやめるかも知れません。


これは「韓国への制裁」ではないのでWTOも文句を付けられません。

ただアメリカは日韓対立そのものを不快に思っていて、軍事協力への影響を避けたいと考えている。

日本が制裁を連発するとアメリカから苦情が出るので、その辺は慎重を期す必要があります。


韓国が一方的に日本を攻撃し、やむを得ず日本は対処するという形を取ったほうが良いでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80685037.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/518.html#c22

[近代史3] こうの史代 _ この世界の片隅に (MAPPA 2016年) 中川隆
6. 中川隆[-8847] koaQ7Jey 2019年8月14日 21:44:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3893]
被爆前の街並み鮮明に 広島原爆資料館が動画公開 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=3w_B28g8qL8


2017/07/06 に公開


広島市の原爆資料館は6日までに、原爆が投下される約10年前に市中心部を撮影した16ミリフィルムをデジタル処理し、ホームページで公開を始めた。広島県産業奨励館(現・原爆ドーム)や、にぎわう街の様子が鮮明に見られる。動画は、同市の故・河崎源次郎(かわさき・げんじろう)氏が撮影した3分9秒のモノクロで、音はない。1963年に資料館に寄贈された。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/572.html#c6

[政治・選挙・NHK264] ロンブー淳が明かす「山本太郎に口説かれたこともある」 令和のトップランナーに訊く(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
3. 中川隆[-8846] koaQ7Jey 2019年8月14日 21:58:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3894]
山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者
れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ

山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


____


斉藤まさし(2018、8最高裁にて公職選挙法違反で有罪)が山本太郎の街宣に現れた!

やはり山本太郎は操り人形だったのね。


山本太郎の選挙を指揮していると言われてる斉藤まさしが新宿西口で行われた「山本太郎の街頭演説」の場に現れた。

元俳優の山本太郎を使って革命を目指す斉藤まさしの姿が良くお分かりになったでしょう。

監督の指示に従って演技をする、山本太郎は未だに役を演じているように見えますね。

しかし、その俳優は色々問題のある人物だった。

週刊新潮に強姦魔だと書かれても、名誉棄損で訴えることが出来ない。法廷で争う事が出来ない山本太郎という男を担いでしまった。

ME TOO のプラカード持ってパフォーマンスしていた議員達は山本太郎に強姦されたと勇気をもって告発した女性にはダンマリか!

未成年の女の子を強姦しても、革命家斉藤まさしの書いたシナリオ通りを演じておけば、参議院議員にもなれるか。

もし、事実じゃなないのなら、何故週刊新潮を訴えないのか?

____


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。



http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/470.html#c3

[近代史3] 米軍は何故日本に駐留しているのか? 日本は何故軍隊が持てないのか? 中川隆
4. 中川隆[-8848] koaQ7Jey 2019年8月15日 03:18:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3892]

昭和天皇は何故負けるのがわかっている太平洋戦争に突き進んだのか?

天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元 訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm#mokuji
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E9%99%B0%E8%AC%80+%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%9F%E3%83%8B&i=stripbooks&adgrpid=52019632743&gclid=EAIaIQobChMIssrhk7DJ4gIVCwYqCh2RjwzYEAAYASAAEgIyRvD_BwE&hvadid=338580746102&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=b&hvrand=831006335091229886&hvtargid=kwd-334760778916&hydadcr=4073_10899429&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_3otvhjudwd_b


ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。

「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。

私は裕仁を子供の頃から存じている。

彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。

しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm


▲△▽▼

私が会った皇室家族の二人は、私との会話に、1926年からの日本の支配者、裕仁天皇についての、いくつもの物語を滑り込ませていた。こうした物語は、印刷物として報じられたことはなく、私は最初、皇室内のゴシップとして聞き流した。
しかし、後にその全体の文脈で見ると、そこには取り上げるべき重要さが潜んでいた。

たとえば、真珠湾攻撃の夜、裕仁がマラヤからの短波放送を聞いていたとか、
彼はかって、息子をもつため、人工授精による出産をおこなっていたとか、
彼の誕生は、一般に言われているより一年早かったとのうわさがある、などなどである。


 こうした話から私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。

彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。

彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。

1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。

彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、
彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。

また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、
そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。

また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、
ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。

裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。

 裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。

彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。

当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。

そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。

 それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。

 こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。

私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。

 こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。

終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。

私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。

その年の一月、私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。

それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。

それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。

 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。

それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。

 『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。


国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。

私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。

欧米の歴史家は、日本人をえがくにあたって、集団ヒステリーの産物という考えでもってあまりに懲り固まっているようだった。

日本経済の記録は、そうした思い込みが誤りであることを示している。わずか一世紀昔の1868年、日本の経済発展は、1485年にヘンリー七世が王座にあった英国に相当すると見られていた。

過去一世紀の変貌は、常軌を逸した不可解な人々によって成し遂げられたのではなく、もっとも勤勉で知的な人々によってなされたのである。

私は、これまでの生涯、日本人に畏敬とそれを知ることの喜びを感じてきた。日本の指導者たちが、欧米の指導者たちと同様に、極めて賢い人たちであるということは、この著作の基本的前提である。

1945年、連合軍がドイツを制圧した際、何百万ページもの国家文書が発見された。これに対し、連合軍が取り決められた日本の占領を始めた時、戦争終結からまだ2週間しかたっていないにもかかわらず、アメリカ人の手に入ったもので、何らかの重要性をもつ文書は、日本人によって自発的に提供されたものであった。

1937年より1945年まで皇居において天皇が議長を勤めて行なわれた天皇本部の会議議事録は、すべて焼却されたと言われている。陸軍参謀本部、海軍参謀本部、特高警察のファイル類の大半も、同様であった。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm



▲△▽▼
▲△▽▼

櫻井ジャーナル2019.05.02

日本で天皇の代替わり儀式が行われる中、米政府はベネズエラでクーデターに失敗

 日本のマスコミは天皇が退位する、即位すると騒いでいる。彼らにとって天皇とは「至高の存在」なのだろう。日本は第2次世界大戦で降伏する前と同じように天皇制官僚国家であり、その元首は天皇だということである。


 しかし、徳川時代の天皇は忘れ去られた存在だった。当時の天皇は生活に困窮し、短歌を売っていたという話を聞いたこともある。徳川の拠点である江戸に住む人びとが「公方様」として意識していたのは徳川家だ。


 その忘れられた天皇を発掘し、徳川に代わる体制の象徴にしようとした人びとがいた。その人びとによって現在の天皇制、明治王朝が誕生した。その後ろ盾がイギリスの支配層だ。


 徳川から明治へ移行する時期、つまり明治維新の頃、イギリスはビクトリア女王が君臨していた。心霊術にのめり込んでいた人物として知られている。


 女王は夫のアルバート(ドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ公の次男で、夫妻はいとこの関係)からアドバイスを受けていたとされているが、それ以上に影響力を持っていたと思われるのがネイサン・ロスチャイルド、セシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、アルフレッド・ミルナー(ミルナー卿)など。


 言うまでもなくロスチャイルドは強大な金融資本の支配者でローズのスポンサー。ステッドはジャーナリストで、ブレッドはビクトリア女王の相談相手だ。後にブレッドはエドワード7世やジョージ5世の顧問を務めることになる。


 当時のイギリスはいわゆる産業革命で生産力が上がったものの、商品が思うように売れない。国内では貧富の差が拡大、民の貧困化が深刻になる。そこで始めたのが麻薬取引と侵略戦争。中国(清)の富を奪うためにアヘン戦争を始めたのが1840年。その年にビクトリア女王とアルバートが結婚している。イギリスが「世界経済の覇者」と呼ばれるようになるのはそれ以降だ。大英帝国とは侵略と略奪で成り立っていた。


 中国より前にイギリスが植民地化していたインドでは1857年に傭兵(セポイ)が武装蜂起、一般のインド人を巻き込んで大反乱になった。鎮圧されたのは1859年。その年にアヘンと武器の取り引きで大儲けしていたジャーディン・マセソンは日本へふたりのエージェントを送り込む。ひとりは歴史小説で有名なトーマス・グラバーで、赴任地は長崎。もうひとりはジャーディン・マセソンの創設者一族に属すウィリアム・ケズウィックで、赴任地は横浜。


 明治政府は1872年の琉球併合から台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争というように東アジア侵略を開始、その背後にはイギリスが存在していた。日本人はイギリスの支配者に操られていたと言える。


 そのイギリスは1899年からボーア戦争(南アフリカ戦争)を開始、金やダイヤモンドを産出する南アフリカを制圧する。その直前に南アフリカではダイヤモンドが発見され、その利権に目をつけたイギリスの支配者たちが引き起こした戦争だった。後に首相となるウィンストン・チャーチルもこの戦争で頭角を現している。この戦争で世界の金をイギリスが支配するようになり、金本位制を採用する国々の通貨も支配できるようになった。


 ちなみにチャーチルは貴族階級の家に生まれたが、父親のランドルフ・チャーチルは甘やかされて育ったプレーボーイで、46歳のときに梅毒が原因で死亡している。


 生前、ランドルフはネイサン・ロスチャイルドから多額の借金をしていたことでも知られ、その額は現在の価値に換算すると数百万ポンド、つまり数億円。いくらでも借りられたという。ランドルフがロスチャイルドを裏切らない限り、借金は返済する必要がなかったようだ。


 ネイサン・ロスチャイルドと親しい関係にあったジョージ・ピーボディーは銀行を経営していたが、そのパートナーがジュニアス・モルガン。その息子がジョン・ピアポント・モルガンだ。ネイサンはこの若者をアメリカにおけるビジネスの責任者にしている。そして巨大銀行のJPモルガンが生まれる。関東大震災以降の日本に大きな影響力を及ぼすことになるのはこのJPモルガン。


 この銀行が中心になり、アメリカでは1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒し、ファシズム体制を樹立させようというクーデターが計画されている。


 そのJPモルガンが駐日大使として日本へ送り込んできたのがジョセフ・グルー。本ブログでは繰り返し書いてきたが、グルーと親しかった日本人には秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介、松岡洋右などが含まれる。中でも親しかったのは松岡。戦争が始まり、離日する直前にグルーがゴルフした相手は岸だ


 要するにイギリスとアメリカの金融資本はつながっているのだが、その金融資本を中心とする支配層がベネズエラの石油を狙っている。


 4月30日にもクーデターが試みられたが失敗、フアン・グアイドと反政府派の象徴になっているレオポルド・ロペス(2014年のクーデター未遂で自宅軟禁中だったが、クーデター派によって解放されていた)はスペイン大使館へ逃げ込み、クーデターに参加した兵士25名はブラジル大使館へ逃げ込んだ。


 クーデタの失敗を受け、アメリカのマイク・ポンペオ国務長官はメディアに対し、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領は航空機でキューバへ逃げようとしていたが、ロシアの説得で留まったと主張している。実際はごく狭い地域で混乱があっただけで、基本的に国内は安定、逃亡するような状況ではなかった。ポンペオは失笑を買っただけ。


 アメリカ支配層が発する嘘の質が急速に劣悪化している。アメリカを中心とする支配システムの崩壊は早いかもしれない。アメリカの支配システムが崩れれば、日本の天皇制官僚制も維持できなくなる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905010001/


櫻井ジャーナル 2019.04.24

米支配層が維持しようとした天皇制官僚体制の恥部がひとつ明らかに

 インドネシアのバンカ島で日本軍の兵士は1942年2月、22名のオーストラリア人看護師を銃殺したという。海の中を行進させ、機関銃で射撃、ひとりを除いて殺害したのだが、その前に看護師は兵士から性的暴行を受けていたことを示す証拠の存在が明らかにされた。(​英語​、​日本語​)証拠を隠滅し、なかったことにするという手法は今でも使われている。NGT48のケースもその一例だが、隠しきれないこともある。


 日本のアジア侵略は1872年の琉球併合から始まるが、アメリカとの戦争は1941年12月7日の真珠湾攻撃から。1942年6月のミッドウェー海戦で日本の艦隊が敗北するまで日本側は勝ち戦だと考えていたようだ。そうした中、バンカ島での虐殺は引き起こされたことになる。


 外国へ攻め込んだ軍隊の兵士が女性に性的に暴行するという話はしばしば聞く。日本軍に限った話ではない。日本軍の特徴はブレーキがきかなくなることにあると言えるだろう。性的暴行への対策として日本軍が作り上げたのが慰安婦の仕組みだ。戦争経験者は次のような文章を残している。


 「日本軍は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと『慰安所』の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた。」(高見順著『敗戦日記』)


 「あえて言いますが、ほとんどの男は、とても自分の家族、自分の女房や子供たちに話せないようなことを、戦場でやっているんですよ。中国戦線では兵士に女性を強姦することも許し、南京では虐殺もした。そのにがい経験に懲りて、日本軍は太平洋戦争が始まると、そうしたことはやるな、と逆に戒めた。」(むのたけじ著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、2008年)


 「そこで、出てきたのが『慰安婦』というものです。その主体は朝鮮から来た女性たちでした。日本の女性も来ましたが、これは将校専用です。』(前掲書)


 「女性たちにここへ来た事情を聞くと、だまされた、おどされた、拉致された、というように、それは人によってさまざまだった。」(前掲書)


 「何人もの女性たちを船に乗せてインドネシアまで連れてくるためには、軍の了解が絶対に必要です。・・・やはり、慰安婦は軍部が一つの作戦としてやったことで、まったく軍の責任だった。」(前掲書)


 敗戦後、日本の将兵が戦場で行ったことを批判的に語るおとなもいたが、多くの「元兵士」にとって身に覚えのある話であり、口にすることはできなかっただろう。勿論、事実を否定することもできない。1945年に20歳代だった人は1975年でも50歳代だ。日本社会には戦場の記憶が鮮明に残っていた。荒唐無稽な話はできない。


 戦争経験者が少なくなるに連れ、妄想を平然と口にする人が増えてくる。メディアもそうした妄想の拡散に協力した。


 それでも慰安婦の存在を否定できないため、商売として行っているのだから問題がないと言う人もいるが、その考え方は日本人の堕落、退廃を示している。


 第2次世界大戦の前、JPモルガンの強い影響下にあった日本では新自由主義的な経済政策が採用され、庶民の生活水準は悪化し、東北地方では娘の身売りが増えた。欠食児童、争議なども社会問題になっている。こうした貧富の差を拡大させる政策を推進したのが浜口雄幸内閣だ。


 そうした政策に反発する人も少なくなかった。その結果、浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺され、その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺された。井上は当時、日本でも最もJPモルガンに近いとされていた人物。団もウォール街と緊密な関係にあった。


 その年の5月には五・一五事件が引き起こされ、1936年2月には二・二六事件だ。血盟団にしろ、二・二六事件の将校にしろ、娘を身売りしなければならないような状況を作った支配層への怒りが行動の背景にはある。


 井上が殺された1932年に駐日アメリカ大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。このことは本ブログで繰り返し書いてきた。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかもグルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーである。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあったわけだが、1933年から45年4月にかけての期間はウォール街と敵対関係にあったニューディール派がホワイトハウスで主導権を握った。ニューディール派の中心的な存在がフランクリン・ルーズベルト大統領だ。


 ルーズベルトが急死するとウォール街がホワイトハウスを奪還、ドイツのナチは救出され、日本の天皇制官僚システムは存続することになる。戦争責任も曖昧なまま幕引きになった。


 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる


 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)


 ウォール街は日本を支配するシステムとして大戦前から天皇制官僚システムを使っていた。それを戦後も存続させるため、戦争責任の追及と民主化の推進という儀式を早く終わらせる必要があった。


 そこで1946年1月に戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)を設立、48年11月に判決が言い渡されている。その年の12月23日に東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されているが、これは「民主化」を演出するセレモニーにすぎない。本来なら処罰されて当然であるにもかかわらず被告席にいない人がいた。


 そして新たな憲法が制定される。その憲法は第1条から第8条で天皇制の存続を定めている。「象徴」という修飾語をつけてはいるが、天皇制の存続を謳っている。「戦争の放棄」を定めたその後、第9条だ。


 戦後日本の進む方向を決めたジャパンロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。内務官僚、思想検察、特別高等警察といった戦前日本の治安体制の中枢は戦後も要職に就いている。「国体」は護持されたのだ。


 バンカ島での出来事をオーストラリア政府が封印したのは日本の「国体護持」を望むウォール街の意向に沿った行動だと言えるだろう。その国体に関わる儀式が近く行われる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904230000/




4. 中川隆[-9853] koaQ7Jey 2019年6月02日 08:25:12: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2505] 報告
▲△▽▼

長周新聞 昭和天皇による日米戦争策謀論

アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。

だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。


国民は皆“お国のため”といって国に殺された。天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ! それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。

米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。


アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/2902


対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。

アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。


マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

「戦後の方が食糧がなかった」というのが実態だが、占領軍が食糧を持ち去ってないような状況にして、「食糧援助」と称して恩義を売る。飢餓作戦をやっていた。

占領期の検閲問題なども暴露されていない。きれいにマインドコントロールされるようになっている。マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。

そういうことについても、一切知らせてはならないと、徹底した検閲をやった。日本のメディアは、自分らで自主検閲するようにするし、朝日新聞なんかは自主検閲要領というのをプレスコードの線に沿ってつくっていた。それはいまでも続いているしもっとひどくなっている。一方で、GHQは新聞やラジオなどを直接にも利用して、宣伝していった。第2次大戦についてのアメリカ軍を美化する心理作戦でも、商業新聞に直接GHQが原稿を書いていたり、NHKの「真相はこうだ」という特集などもそうだ。


米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。

戦後のアメリカの検閲のやり方を見ても、報道内容をチェックするばかりではなく、郵便物や電話まで開封、盗聴する。しかも検閲してないような格好をしてやる。戦前の検閲は、伏せ字で検閲したことが分かる形だったが、アメリカの方はまだ陰険だ。内容は、原爆を公表してはならない、戦争の悲惨さを公表してはならない、反米的なものは許さないというものだった
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm

真珠湾攻撃をやるまえに海軍自身が「石油は2年しかもたない」といっていたが、天皇も軍部も最初から負けるとわかっていてアメリカとの戦争に突っ走った.

天皇が一番怖かったのは日本のなかでの革命だった。満州事変のまえの2・26事件にしても、日本は農村恐慌で農民一揆も2000件もあり、社会不安が起こる危険性が高かった. ソ連や中国に負けるわけにはいかなかった、どうしてもアメリカに負けなければならなかった

そうした背景があって青年将校が事件を起こした。事件そのものは鎮圧したが、天皇や上のものは、共産革命が日本でも起こることを念頭においていただろうし、それをもっとも恐れただろう。

太平洋戦争でアメリカに負けたというが、そのまえに中国でさんざんにやられている。それが日本の敗戦を決定的にしたのだ。

 日本軍は中国人や朝鮮人を「チャイナ」とか「ヨボ」とかいってべっ視しきっていた。創氏改名をさせ、名前も宗教も認めない、日本に労働力として強制連行したり、兵隊にとっていた。中国に負けて撤退となると、「勝った、勝った」という大本営発表がうそだったということになり、国内で大混乱になる。それこそ革命が起こり、天皇の首が危なくなる。だから、「中国からの全面撤退」は絶対に認められなかった。それよりも天皇制を維持するために、負けるとわかりきったアメリカとの戦争に突入した。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/utunomiyamutuo.htm


負けると分かった戦争に突き進み、いくら負けてもやめることはせず、原爆投下になって無条件降伏をした。45年2月、吉田茂などが関わり近衛文麿の天皇への上奏文がある。それは、米英は国体を守ってくれること、もっとも恐るべきことは敗戦にともなって起こる人民の革命だというものであった。

天皇とその側近がもっとも心配していたのは、国体が護持されるかどうか、自分たちの地位が守れるかどうかだけであった。だまされて死ににいかされた兵隊たちが返ってきたら、反乱を起こし、自分たちの支配の地位が剥奪されるという不安であった。

日米戦争に突き進むとき、すでに中国で打ち負かされており、戦死者は20万人近くになっていた。ここで支配勢力が心配したことは、中国撤退となると、天皇の権威が崩壊することであり、反乱・革命が起きることであった。そして日米戦争に突き進んだ。

天皇を頭とする政治家、財閥などは、原爆投下を絶好のチャンスとして、アメリカに降伏し、命乞いをした。そして戦争に駆り立て犠牲を強いた人人には何の償いもせず、民族的な利益のすべてを売り飛ばすことでその支配の地位を守ってもらう道を選んだ。
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/2873


大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった

まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった

武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した

敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をした

そして日本はアメリカの属国になった


あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。

日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。


丸ごと米単独占領 支配階級・日本を米国に売る

占領軍には1発も銃弾は飛ばなかった。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

ドイツの場合は行政機構は壊滅しており、官僚機構も軍隊も解体したが、日本は軍隊は解散させるが、官僚機構はすべてそのまま残した。日本は空襲でも官庁がやられていない。国会議事堂はそのままきれいに残った。大蔵省や日銀も戦前からの建物がそのままだ。

ドイツは戦争に協力したマスメディアなどはすべて廃刊になった。日本は違った。悪かったのは軍部だけで、天皇はじめ、官僚機構がそうだし、独占企業、マスコミ、全部が元元平和主義者のような顔をして生き残った。それが単独占領を保障したわけだ。みなアメリカに協力して民族的な利益を売り飛ばしていった。

アメリカは日本占領に50万人の兵力を用意していた。しかし20万人でよいといって削った経緯がある。戦前の体制がそっくりアメリカの配下になったからできたことだ。いかに日本の支配階級が売国的かがわかる。
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/2907

日本は海外に巨大な権益を持つ帝国主義国であるがアメリカの屈辱的な植民地的隷属下にあるという特質を持っている。

 このような日本社会のさんざんな崩壊状況は第二次大戦に根源がある。
あの戦争では320万人が犠牲となった。あらゆる家族で親類に戦死者がいないところはないというほど殺された。

あの戦争は天皇を頭とする独占資本集団が、国内をさんざんに搾取収奪して、
狭隘な国内市場から海外に求めて侵略につぐ侵略、戦争につぐ戦争を繰り返し、
最後に中国への全面侵略戦争を引き起こし、米英仏蘭列強の植民地争奪戦に突入して敗戦となったものであった。

 ところがアメリカの対日参戦は、アジアをファシズム国の侵略から解放するためでも、社会主義ソ連とともに日独伊ファシズムとたたかって民主主義の世界を実現するためでもなかった。

アメリカは中国市場を奪う野望とともに、日本をたたきつぶし単独で占領するという明確な計画を持って臨んだものであった。

 そして天皇をはじめとする独占資本集団、政治家や官僚、大新聞など、戦争を指導してきた支配層は、人人には「鬼畜米英」「一億総玉砕」などとあおり立てながら、実際には「国体の変革」すなわち人民の革命を恐れ、米英に救いを求めていった。

自らすすんでアメリカによる日本支配を担うこと、日本の民族的な利益のすべてを売り飛ばすことによって、自分たちの支配の地位を守ってもらう道を進んだ。


現在むき出しにあらわれた日本社会の植民地的隷属状態は、日本の政財官界から新聞界などあらゆる支配勢力が、アメリカの利益のために自ら進んで日本の民族的利益を根こそぎ売り飛ばしてきたことによって進行した。

かつて旧満州を統治するのに六〇万余の軍隊を必要とした。

かつてマッカーサーは「天皇は一〇〇万の軍隊に匹敵する」といったが、
四万人ほどの米軍で日本を隷属支配しているのは、アメリカの意向をくんで自分から進んで働いて地位を得るという売国的な支配勢力の存在があるからである。
https://www.chosyu-journal.jp/column/11624



5. 中川隆[-9852] koaQ7Jey 2019年6月02日 08:32:25: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2506] 報告
▲△▽▼

長周新聞
第二次大戦はおかしな戦争だった ほとばしる体験者の証言 2005年11月26日
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/3064

 戦後60年をへたいま、戦争体験者のあいだで当時の苦しかった経験、目撃したほんとうのことを語りつがねばならないという思いはつのる一方である。下関で開催中の「原爆と下関空襲展」(主催・下関原爆被害者の会)では、これまで子どもや孫にも語ったことがなかったなまなましい体験が、堰(せき)を切ったように語られている。論議は、これまで疑問に思っていたことやおおいかくされてきた真実を明るみにしつつ発展している。こうしたなかで、戦争中から、戦後の今日にいたるまで一貫して、あの戦争で体験したほんとうのことを語らせぬ力が働いてきたことが浮き彫りにされている。


 米軍にも大本営にもつのる疑問

 「原爆と下関空襲展」のとりくみをとおして、市内各所で埋もれていた体験が掘り起こされ、米軍の関門海峡への機雷投下にはじまる下関空襲の全貌(ぼう)がより鮮明にされてきたことが、市民に歓迎されている。日本の軍事力が壊滅状態に追いこまれ、敗戦がすでに決定的であったときに、米軍が機雷による海上封鎖で日本全土を飢餓状態に追いこむ必要がなぜあったのか。なぜ米軍は軍事施設や軍需工場は温存して、一般市民を焼き殺す作戦を計画的に強行したのか。こうした疑問は、戦地に兵隊として動員され生死の境をくぐって帰還した体験者のいまわしい記憶とも響きあい、「あの戦争はいったいなんだったのか」の問題意識をともなって論議が発展している。

 そのなかで、これまでかくされてきた事実、「おかしな戦争だった」という体験者の特徴的な声を、いくつか上げてみたい。

 「真珠湾攻撃のとき、日本を北上して真珠湾にむかったが、すでにアメリカは日本が攻撃に来ることを知っていて、カナダの沖で潜水艦を二隻沈めた。そんなことは戦後かくしてきた」

 「海軍は一年しかたたかえないとわかっていた。そのとおり一年は戦果があったがその後海軍の母艦は四隻とも南方で沈められていた。もう戦地に行けば死ぬことはわかりきっていた」

 「ガダルカナルの海戦でも日本海軍は壊滅させられたが、アメリカは沈没して海に投げ出された兵隊たちにむかって機銃掃射して皆殺しにした」

 「硫黄島付近では、一隻に200人の兵隊を乗せて十数隻の船で移動したが、グラマンが機銃掃射し、助かったのは一隻だけだった。その一隻に80機のグラマンが集中攻撃してきた。必死で逃げてやっと助かった」

 「後田から石神町にかけて、民家の一軒に3、4人ずつのフィリピンにむかう兵隊を出港までのあいだ、泊めたことがあった。子ども心に表情が暗かったのを覚えている」

 「あのころは空で守る戦斗機も、護衛する戦艦もなかった。輸送船が丸裸で南方にむかうが、バシー海峡にかくれていたアメリカの潜水艦にみなやられて沈没させられた。大本営はなぜあんなことをしたのか」

 「戦艦大和に出撃命令が出たときに乗り組んだが、徳山港を出るときは片道の石油しか積まなかった。海上特攻隊と命名されて生きては帰れぬといいわたされた。豊後水道にさしかかるころには、すでに米軍の偵察機に発見され、種子島のところでアメリカの航空機500機以上が襲いかかって爆弾や魚雷の雨を降らせた。護衛艦もなく、迎え撃つ飛行機は一機も飛ばなかった。沈没して油と炎が漂うなかをたくさんの日本兵が必死に泳いで助けを求めていた。米軍機が海上に浮かんでいる一人一人を狙って機銃で撃ってきた。あれは人間のやることではない」

 「山口の連隊に召集され、昭和20年はじめに中国に渡った。ほんとうの銃を持たされたのは5人に一人だけで、あとの4人は木製の銃だった。短剣は竹だった。腰に巻く弾倉の中身は空だった。戦斗訓練もないまま貨車に乗って、B29の空襲をさけて、昼は動かず夜だけの行動だった。米軍は中国でも焼夷弾や機銃掃射を毎日のようにやっていた。日本軍は中国人に顔を覚えられるのを恐れて、顔に墨を塗って行軍していた」

 「中国に召集されて湖南省の長沙にいたとき、米軍のB29の編隊が来て、25万都市を一夜にして焼け野原にしたことを目のまえで見た。中国人に聞くと“日本軍がいるから、アメリカは都市をみんな焼いていく”といっていた。日本は中国に侵略したが、アメリカも蒋介石をおして中国を占領しようとしていたのだ」

 「兄は関東軍だったのでシベリア送りにならずに帰ってきた。満蒙開拓団や、一般の兵隊はやられたのに、すぐ帰ってきたのはうれしかったが、おかしいと思ってきた」

 このような体験はなにをものがたるか。


  体験は何を、物語るか  気脈通じた日米支配層

 1941(昭和16)年12月の日米開戦は、日露戦争以後、中国を中心にしたアジアの広大な権益をめぐって対立していた日本とアメリカの確執が行き着いた結果であった。当時、アメリカは日本への経済封鎖による戦争挑発を強め、天皇制軍国主義は、中国侵略戦争で抗日勢力が強大化するなかで、ようやく点と線を維持するのに精一杯で面を確保することはおよびもつかず、その打開にむけて右往左往する状況であった。当時、中国本土に投入された陸軍兵力は138万人。陸軍動員総兵力の65%に達していた。

 のちに原爆投下計画の中心を担ったスチムソン米陸軍長官が40年6月までにニューヨークタイムズに送った手紙のなかで、「日本は中国戦線で泥沼に入りはじめた」と記しており、アメリカは日本政府が「中国側に有利」な和平提案をおこなっていることを公式に認めていた。

 こうしたなかで、天皇制政府は1940(昭和15)年、南進政策を強行。日独伊三国同盟を結んだが、これはアメリカとの戦争に窮余の一策を求めるものであった。だが、このとき昭和天皇は、「アメリカに対しても打つ手がないというならば、致し方あるまい。……自分はこの時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となったときに、一体どうだろうか。この如き場合が到来した時は、総理も自分と労苦を共にしてくれるだろうか」(『木戸幸一日記』)と、敗戦を想定する状況であった。

 海軍の永野修身・軍令部総長は、天皇から対米戦争で「日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と問われたのにたいして、「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束なし」と答える状況で、敗戦は必至とみなしていた。

 一方アメリカは、日本の奇襲を待って日本との戦争に乗り出した直後には、「天皇を象徴として利用」することを対日占領政策として公式に定め、空襲において皇居の攻撃を禁止することを厳命。元駐日大使・グルーらが吉田茂、近衛文麿ら日本の「和平派」とされる人脈をつうじて、その方向を貫いた。

 1942年6月のミッドウェー海戦の敗北後、日本の戦局は加速度的に悪化の一途をたどった。1944(昭和19)年6月、サイパンで日本軍守備隊3万人が玉砕、住民約一万人が犠牲となった。これにつづくマリアナ沖海戦でも、日本海軍は空母3隻、航空機430機を失う大敗北。日本の航空機動部隊は壊滅状態となっていた。

 中国戦線では、44年4月から40万の大軍を動員して開始した大陸打通作戦が鉄道の主要駅とその付近を一時的に占領するだけで、補給はつづかず、伸びきった戦線はいたるところで反撃にあい、守備軍をひいたあとには、たちまち八路軍、新四軍と遊撃隊が進出、解放するという状況であった。7月には、ビルマからインドへの侵攻作戦であるインパール作戦に失敗。死者3万人と戦傷病者4万5000人を出し、作戦の中止をよぎなくされた。

 こうして「大東亜戦争」の象徴的存在として一時、幅をきかせた東条内閣が倒壊するにいたった。近衛文麿は「サイパン戦以来、海軍当局は連合艦隊はすでに無力化せりといい、陸軍当局もまた戦局全体として好転の見込み絶対なしというに一致せる者の如し。即ち、敗戦必死なりとは陸海軍当局の斉(ひと)しく到達せる結論にして、只今日はこれを公言する勇気なしという現状なり」(『近衛日記』)と記し、東条内閣のすげ替えを国外に示すことで終戦工作を有利にすすめる算段を示すまでになっていた。

 こうして45年2月、吉田茂が起草した近衛の上奏文が天皇に届けられた。「敗戦よりも敗戦によって起こりうる共産革命」を恐れ、アメリカが「国体護持」を保障していることを断定的に記したこの上奏は、近衛がグルーの名を出して天皇に説明したように明らかにアメリカの支配層と気脈をつうじたものであった。


  攻撃の対象は人民、軍部ではなかった

 制海権、制空権を確保したアメリカは潜水艦による日本の輸送船をことごとく撃沈する方針をとると同時に、マリアナ基地からB29による日本本土への空襲を開始。45年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて94都市の家屋・家財を焼き払い、広島・長崎への原爆投下を頂点に70万人を殺傷した。さらに、機雷1万1000個を日本の主要湾岸に投下し、内航・外航の大小の船舶をことごとく撃沈、日本国民を徹底的に飢餓状態に追いこむ作戦を強行するにいたった。

 アメリカの攻撃の対象は、「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、国民全体が“この戦争は負けだ”と思わないかぎり戦いは終わらない」という米軍将校の訓辞に見るように、すでに日本の軍部ではなく、無辜(こ)の非戦斗の人民大衆であった。人民を抑えつけなければ占領支配ができないという意味であった。
 日本は飛び立つ飛行機も軍艦も失い、武器もない状態で反撃能力を完全に喪失していた。B29は日本本土への空襲で世界の戦史上まれにみる低い損失率を誇り、七月段階では、ハルゼー提督の艦隊が日本の沿岸を自由に遊弋(よく)し、艦砲射撃と艦載機による機銃掃射など勝手気ままにふるまった。
 この時期、日本から和平打診の情報がアメリカの新聞で報道され、沖縄戦のさなかの5月には降服の打診がおこなわれたが、アメリカ政府が公式に拒否した事実も明らかにされている。

 当時、アメリカにとっては、なによりも戦後のソ連の影響力を排除し、日本を単独占領支配すること、そのために日本の人民の反米的要素、革命的な気力を喪失させることが最大の眼目となっていた。45年2月のヤルタ会談で、ドイツ敗北後の3カ月後にソ連が参戦することが約束されたことは、アメリカ支配層がそれまでに計画的に日本を制圧することを至上命令とした。そのために、原爆の開発と日本への投下計画「マンハッタン計画」をおしすすめ、広島・長崎への投下を強行したのである。


  「国体護持」が狙い、原爆投下も感謝

 天皇制政府は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

 海軍大臣であった米内光政は広島・長崎に原爆が投下されてすぐの8月12日、つぎのように語っている。

 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである」

 こうして、戦後のアメリカによる占領支配への道が開かれた。


  占領後は言論弾圧、記録映画も写真も没収

 戦争体験者はこれまで、体験が語れなかった状況について、「子どもからなんで戦争に反対しなかったのかとつめ寄られ、それから絶対に話さないようになった。戦時中は思っていても口に出していえば監獄に送られる時代だった」「戦後は、戦争のせの字でもいうとまわりから白い目で見られてきた。だからしゃべってこなかった」と共通して語っている。

 ここには、天皇制軍国主義の弾圧とともに、戦後の「民主主義」の装いをしたアメリカ賛美の風潮のもとで、ほんとうのことを語ることがはばかられてきたことが示唆(さ)されている。

 マッカーサーが厚木に到着してただちに敷いたプレスコード(新聞紙法)は、「連合国占領軍について破壊的な批判は一切してはならないし、また、これらの軍隊に対して不信や憤慨を招く恐れがあることはなにも書いてはならない」というもので、ほんとうのことをいってはならないという徹頭徹尾の言論弾圧であった。
 アメリカはその理由として、「日本の軍国的国家主義の根絶」と「自由主義傾向の奨励」をあげ、これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。

 プレスコードの「禁止項目」には、「占領軍・占領政策・アメリカ批判」「占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写」「左翼宣伝」などとともに、「飢餓の誇張」などがあり、高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。

 これには新聞・雑誌・刊行物、放送、演劇脚本・映画・紙芝居・幻灯など、言論・文化のあらゆるものが対象とされ、一般市民の手紙・葉書などの郵便物、電報・電話の傍受にいたるまで徹底したものであった。しかも、「民主主義」のたてまえから「検閲が知られるようなことが絶対にないように、それを暗示することもふくめて、残してはならない」ことまで指示。違反したものには、沖縄送りなどのきびしい刑罰を設定していたことも、明らかとなっている。

 日本の商業マスコミ、「共産党」中央指導部、社会民主主義の政治勢力はおしなべて、こうした占領政策を賛美し、人民が戦争体験の真実を語ることを抑圧する支配構造が形成されてきた。この構図は今日まで生きて作用してきたといえる。
 新たな戦争の危険がさし迫るいま、戦争の犠牲になった肉親、知人、友人の死をむだにしないために、日本の真の平和を実現するために、ほんとうのことを語り伝えることは、なににも増して重要になっている。

 戦後60年をへたいま、戦争体験者のあいだで当時の苦しかった経験、目撃したほんとうのことを語りつがねばならないという思いはつのる一方である。下関で開催中の「原爆と下関空襲展」(主催・下関原爆被害者の会)では、これまで子どもや孫にも語ったことがなかったなまなましい体験が、堰(せき)を切ったように語られている。論議は、これまで疑問に思っていたことやおおいかくされてきた真実を明るみにしつつ発展している。こうしたなかで、戦争中から、戦後の今日にいたるまで一貫して、あの戦争で体験したほんとうのことを語らせぬ力が働いてきたことが浮き彫りにされている。

 米軍にも大本営にもつのる疑問

 「原爆と下関空襲展」のとりくみをとおして、市内各所で埋もれていた体験が掘り起こされ、米軍の関門海峡への機雷投下にはじまる下関空襲の全貌(ぼう)がより鮮明にされてきたことが、市民に歓迎されている。日本の軍事力が壊滅状態に追いこまれ、敗戦がすでに決定的であったときに、米軍が機雷による海上封鎖で日本全土を飢餓状態に追いこむ必要がなぜあったのか。なぜ米軍は軍事施設や軍需工場は温存して、一般市民を焼き殺す作戦を計画的に強行したのか。こうした疑問は、戦地に兵隊として動員され生死の境をくぐって帰還した体験者のいまわしい記憶とも響きあい、「あの戦争はいったいなんだったのか」の問題意識をともなって論議が発展している。

 そのなかで、これまでかくされてきた事実、「おかしな戦争だった」という体験者の特徴的な声を、いくつか上げてみたい。

 「真珠湾攻撃のとき、日本を北上して真珠湾にむかったが、すでにアメリカは日本が攻撃に来ることを知っていて、カナダの沖で潜水艦を二隻沈めた。そんなことは戦後かくしてきた」

 「海軍は一年しかたたかえないとわかっていた。そのとおり一年は戦果があったがその後海軍の母艦は四隻とも南方で沈められていた。もう戦地に行けば死ぬことはわかりきっていた」

 「ガダルカナルの海戦でも日本海軍は壊滅させられたが、アメリカは沈没して海に投げ出された兵隊たちにむかって機銃掃射して皆殺しにした」

 「硫黄島付近では、一隻に200人の兵隊を乗せて十数隻の船で移動したが、グラマンが機銃掃射し、助かったのは一隻だけだった。その一隻に80機のグラマンが集中攻撃してきた。必死で逃げてやっと助かった」

 「後田から石神町にかけて、民家の一軒に3、4人ずつのフィリピンにむかう兵隊を出港までのあいだ、泊めたことがあった。子ども心に表情が暗かったのを覚えている」

 「あのころは空で守る戦斗機も、護衛する戦艦もなかった。輸送船が丸裸で南方にむかうが、バシー海峡にかくれていたアメリカの潜水艦にみなやられて沈没させられた。大本営はなぜあんなことをしたのか」

 「戦艦大和に出撃命令が出たときに乗り組んだが、徳山港を出るときは片道の石油しか積まなかった。海上特攻隊と命名されて生きては帰れぬといいわたされた。豊後水道にさしかかるころには、すでに米軍の偵察機に発見され、種子島のところでアメリカの航空機500機以上が襲いかかって爆弾や魚雷の雨を降らせた。護衛艦もなく、迎え撃つ飛行機は一機も飛ばなかった。沈没して油と炎が漂うなかをたくさんの日本兵が必死に泳いで助けを求めていた。米軍機が海上に浮かんでいる一人一人を狙って機銃で撃ってきた。あれは人間のやることではない」

 「山口の連隊に召集され、昭和20年はじめに中国に渡った。ほんとうの銃を持たされたのは5人に一人だけで、あとの4人は木製の銃だった。短剣は竹だった。腰に巻く弾倉の中身は空だった。戦斗訓練もないまま貨車に乗って、B29の空襲をさけて、昼は動かず夜だけの行動だった。米軍は中国でも焼夷弾や機銃掃射を毎日のようにやっていた。日本軍は中国人に顔を覚えられるのを恐れて、顔に墨を塗って行軍していた」

 「中国に召集されて湖南省の長沙にいたとき、米軍のB29の編隊が来て、25万都市を一夜にして焼け野原にしたことを目のまえで見た。中国人に聞くと“日本軍がいるから、アメリカは都市をみんな焼いていく”といっていた。日本は中国に侵略したが、アメリカも蒋介石をおして中国を占領しようとしていたのだ」

 「兄は関東軍だったのでシベリア送りにならずに帰ってきた。満蒙開拓団や、一般の兵隊はやられたのに、すぐ帰ってきたのはうれしかったが、おかしいと思ってきた」

 このような体験はなにをものがたるか。


  体験は何を、物語るか  気脈通じた日米支配層

 1941(昭和16)年12月の日米開戦は、日露戦争以後、中国を中心にしたアジアの広大な権益をめぐって対立していた日本とアメリカの確執が行き着いた結果であった。当時、アメリカは日本への経済封鎖による戦争挑発を強め、天皇制軍国主義は、中国侵略戦争で抗日勢力が強大化するなかで、ようやく点と線を維持するのに精一杯で面を確保することはおよびもつかず、その打開にむけて右往左往する状況であった。当時、中国本土に投入された陸軍兵力は138万人。陸軍動員総兵力の65%に達していた。

 のちに原爆投下計画の中心を担ったスチムソン米陸軍長官が40年6月までにニューヨークタイムズに送った手紙のなかで、「日本は中国戦線で泥沼に入りはじめた」と記しており、アメリカは日本政府が「中国側に有利」な和平提案をおこなっていることを公式に認めていた。

 こうしたなかで、天皇制政府は1940(昭和15)年、南進政策を強行。日独伊三国同盟を結んだが、これはアメリカとの戦争に窮余の一策を求めるものであった。だが、このとき昭和天皇は、「アメリカに対しても打つ手がないというならば、致し方あるまい。……自分はこの時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となったときに、一体どうだろうか。この如き場合が到来した時は、総理も自分と労苦を共にしてくれるだろうか」(『木戸幸一日記』)と、敗戦を想定する状況であった。

 海軍の永野修身・軍令部総長は、天皇から対米戦争で「日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と問われたのにたいして、「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束なし」と答える状況で、敗戦は必至とみなしていた。

 一方アメリカは、日本の奇襲を待って日本との戦争に乗り出した直後には、「天皇を象徴として利用」することを対日占領政策として公式に定め、空襲において皇居の攻撃を禁止することを厳命。元駐日大使・グルーらが吉田茂、近衛文麿ら日本の「和平派」とされる人脈をつうじて、その方向を貫いた。

 1942年6月のミッドウェー海戦の敗北後、日本の戦局は加速度的に悪化の一途をたどった。1944(昭和19)年6月、サイパンで日本軍守備隊3万人が玉砕、住民約一万人が犠牲となった。これにつづくマリアナ沖海戦でも、日本海軍は空母3隻、航空機430機を失う大敗北。日本の航空機動部隊は壊滅状態となっていた。

 中国戦線では、44年4月から40万の大軍を動員して開始した大陸打通作戦が鉄道の主要駅とその付近を一時的に占領するだけで、補給はつづかず、伸びきった戦線はいたるところで反撃にあい、守備軍をひいたあとには、たちまち八路軍、新四軍と遊撃隊が進出、解放するという状況であった。7月には、ビルマからインドへの侵攻作戦であるインパール作戦に失敗。死者3万人と戦傷病者4万5000人を出し、作戦の中止をよぎなくされた。

 こうして「大東亜戦争」の象徴的存在として一時、幅をきかせた東条内閣が倒壊するにいたった。近衛文麿は「サイパン戦以来、海軍当局は連合艦隊はすでに無力化せりといい、陸軍当局もまた戦局全体として好転の見込み絶対なしというに一致せる者の如し。即ち、敗戦必死なりとは陸海軍当局の斉(ひと)しく到達せる結論にして、只今日はこれを公言する勇気なしという現状なり」(『近衛日記』)と記し、東条内閣のすげ替えを国外に示すことで終戦工作を有利にすすめる算段を示すまでになっていた。

 こうして45年2月、吉田茂が起草した近衛の上奏文が天皇に届けられた。「敗戦よりも敗戦によって起こりうる共産革命」を恐れ、アメリカが「国体護持」を保障していることを断定的に記したこの上奏は、近衛がグルーの名を出して天皇に説明したように明らかにアメリカの支配層と気脈をつうじたものであった。


  攻撃の対象は人民、軍部ではなかった

 制海権、制空権を確保したアメリカは潜水艦による日本の輸送船をことごとく撃沈する方針をとると同時に、マリアナ基地からB29による日本本土への空襲を開始。45年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて94都市の家屋・家財を焼き払い、広島・長崎への原爆投下を頂点に70万人を殺傷した。さらに、機雷1万1000個を日本の主要湾岸に投下し、内航・外航の大小の船舶をことごとく撃沈、日本国民を徹底的に飢餓状態に追いこむ作戦を強行するにいたった。

 アメリカの攻撃の対象は、「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、国民全体が“この戦争は負けだ”と思わないかぎり戦いは終わらない」という米軍将校の訓辞に見るように、すでに日本の軍部ではなく、無辜(こ)の非戦斗の人民大衆であった。人民を抑えつけなければ占領支配ができないという意味であった。

 日本は飛び立つ飛行機も軍艦も失い、武器もない状態で反撃能力を完全に喪失していた。B29は日本本土への空襲で世界の戦史上まれにみる低い損失率を誇り、七月段階では、ハルゼー提督の艦隊が日本の沿岸を自由に遊弋(よく)し、艦砲射撃と艦載機による機銃掃射など勝手気ままにふるまった。

 この時期、日本から和平打診の情報がアメリカの新聞で報道され、沖縄戦のさなかの5月には降服の打診がおこなわれたが、アメリカ政府が公式に拒否した事実も明らかにされている。

 当時、アメリカにとっては、なによりも戦後のソ連の影響力を排除し、日本を単独占領支配すること、そのために日本の人民の反米的要素、革命的な気力を喪失させることが最大の眼目となっていた。45年2月のヤルタ会談で、ドイツ敗北後の3カ月後にソ連が参戦することが約束されたことは、アメリカ支配層がそれまでに計画的に日本を制圧することを至上命令とした。そのために、原爆の開発と日本への投下計画「マンハッタン計画」をおしすすめ、広島・長崎への投下を強行したのである。

  「国体護持」が狙い、原爆投下も感謝

 天皇制政府は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

 海軍大臣であった米内光政は広島・長崎に原爆が投下されてすぐの8月12日、つぎのように語っている。

 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである」

 こうして、戦後のアメリカによる占領支配への道が開かれた。


  占領後は言論弾圧、記録映画も写真も没収

 戦争体験者はこれまで、体験が語れなかった状況について、「子どもからなんで戦争に反対しなかったのかとつめ寄られ、それから絶対に話さないようになった。戦時中は思っていても口に出していえば監獄に送られる時代だった」「戦後は、戦争のせの字でもいうとまわりから白い目で見られてきた。だからしゃべってこなかった」と共通して語っている。

 ここには、天皇制軍国主義の弾圧とともに、戦後の「民主主義」の装いをしたアメリカ賛美の風潮のもとで、ほんとうのことを語ることがはばかられてきたことが示唆(さ)されている。

 マッカーサーが厚木に到着してただちに敷いたプレスコード(新聞紙法)は、「連合国占領軍について破壊的な批判は一切してはならないし、また、これらの軍隊に対して不信や憤慨を招く恐れがあることはなにも書いてはならない」というもので、ほんとうのことをいってはならないという徹頭徹尾の言論弾圧であった。
 アメリカはその理由として、「日本の軍国的国家主義の根絶」と「自由主義傾向の奨励」をあげ、これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。

 プレスコードの「禁止項目」には、「占領軍・占領政策・アメリカ批判」「占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写」「左翼宣伝」などとともに、「飢餓の誇張」などがあり、高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。

 これには新聞・雑誌・刊行物、放送、演劇脚本・映画・紙芝居・幻灯など、言論・文化のあらゆるものが対象とされ、一般市民の手紙・葉書などの郵便物、電報・電話の傍受にいたるまで徹底したものであった。しかも、「民主主義」のたてまえから「検閲が知られるようなことが絶対にないように、それを暗示することもふくめて、残してはならない」ことまで指示。違反したものには、沖縄送りなどのきびしい刑罰を設定していたことも、明らかとなっている。

 日本の商業マスコミ、「共産党」中央指導部、社会民主主義の政治勢力はおしなべて、こうした占領政策を賛美し、人民が戦争体験の真実を語ることを抑圧する支配構造が形成されてきた。この構図は今日まで生きて作用してきたといえる。
 新たな戦争の危険がさし迫るいま、戦争の犠牲になった肉親、知人、友人の死をむだにしないために、日本の真の平和を実現するために、ほんとうのことを語り伝えることは、なににも増して重要になっている。
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/3064


6. 中川隆[-9851] koaQ7Jey 2019年6月02日 08:39:19: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2507] 報告
▲△▽▼

オルタナティブ通信 昭和天皇による日米戦争策謀論
http://alternativereport1.seesaa.net/

自民党「大物」政治家の資金源

 「小泉総理の父、祖父が、第二次大戦中、中国侵略を進めた大政翼賛会の政治家であり、安倍晋三官房長官の祖父が、中国侵略の中心人物、岸信介であり、麻生太郎外務大臣の祖父が、中国侵略軍の中核に居た吉田茂である」という家系の意味するもの。

 1939年4月、陸軍省軍事課長、岩畔豪雄を中心に、三井、三菱、大倉財閥の出資で満州に「昭和通商」という商社が作られた。
 主な業務はアヘン密売であり、実働部隊として岸信介、佐藤栄作、池田勇人、吉田茂がアヘン密売に関与し、満州国の運営資金をアヘン売買で調達した。

 これは、1894年の日清戦争で勝利した日本の内務省衛生局長、後藤新平が、「満州経営の資金調達のため、アヘンを国策として売買すべし」と主張して以来の日本の国策だった。後藤は、後に満鉄初代総裁になっている。

 戦後、自民党から出て首相になった4人の人物が、膨大な部署のある軍部の、しかも満州の、たった1つの部署に集中していた、というのは偶然にしては余りに不自然である。
 4人の首相は、全員麻薬売買を中心的に担い、右翼の「大物」と言われる児玉誉士夫等は、むしろアヘン売買では「小物」であり、4人の首相が麻薬売買の中心に居た。

 中国における麻薬の売人が、戦後4人も日本で首相になった、その理由としては、アヘン売買の利益が敗戦とともに日本に持ち帰られ、自民党「大物」政治家の権力獲得資金源になって行った可能性が、極めて高い確率で考えられる。
 侵略戦争の中核に居た人物等の末裔が、現在、政治権力の中枢に居るのは偶然ではなく、彼等の活動資金の源に理由がある。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49243912.html


狂人達の世界帝国建設の夢

 1932年、中国に侵略を続ける日本軍は満州帝国を建国する。満州の運営資金は、事実上アヘン密売業者里見甫が全て出資し、表側の満州帝国総裁が後藤新平であれば、裏側の総裁が里見であった。
 里見は中国大陸全土に及ぶ自分のアヘン密売網を侵害する者がいれば、直ちに惨殺する殺人鬼であり、アヘン密売の利益を全て満州建国に注ぎ込む私利私欲の無い指導者として、日本軍部の軍人皆の恐怖と尊敬の的となった。

 また関東大震災の混乱に乗じ、戦争に反対するアナキスト大杉栄とその妻を絞殺した警察官甘粕正彦も、満州帝国の治安維持責任者となり、里見と共に帝国の治安を乱す者を容赦無く惨殺する殺人鬼として二人三脚で活躍した。
 一方、甘粕は満州鉄道映画製作部を指導し、「中国大陸の新しい帝国を舞台にしたロマンチックな映画」を製作する「ひ弱」でロマンチックな映画青年でもあった。

 甘粕と里見には、新しい大帝国に賭けるロマンチックな夢、情熱が巨大であればあるほど、その夢の障害になる者に対して凶暴な殺人鬼となる点が共通していた。
 大帝国建設、世界制覇という政治・経済的ロマンティシズムが大量殺戮を生み出す点は、里見、甘粕、ヒトラー、ジョージ・ブッシュあるいはロックフェラー、ロスチャイルド全員に共通する人間的欠陥である。彼等は全員世界制覇という「自分の夢」の中の住人であり、「現実世界」に生きてはいない。自分の行う大量殺戮の「現実」が見えず、見ようとしない。そのような「現実逃避型」の人間に政治を行う資格は無い。

 しかし、世界制覇、世界統一というロマンチックな夢は、最も一般市民、庶民に熱烈な支持を受ける。帝国建設というロマンチックな夢の実現の障害物を大量殺戮する殺人鬼ほど、民衆の絶大な支持を得、絶対的権力者となる。ナポレオン、ヒトラー、スターリン等への民衆の熱狂的支持はそれを物語っている。

 世界帝国実現のロマンチックな夢には、冷静な計算が必要になる。石油も鉄鉱石もなく戦争に突入する日本軍部には冷静な計算が無かった。三流の夢である。
1つ1つの企業、地域、国を順次支配下に置き、その経営、運営を成功させて行くロスチャイルド、ロックフェラー、ブッシュ一族には一流の計算能力がある。
ロマンチックな夢、狂人のような殺人鬼、冷静な実務家は1人の人間の中で共存し得る。カミソリのように頭脳の切れる優秀な天才こそ狂人になる。彼等は一流の狂人である。
 実務に優秀でロマンチックで壮大な夢を語り得る政治家ほど魅力的ではないか?政治的ロマンティシズムの行き着く先はヒトラーである。

 ナチスへの反省から生み出されたこの政治学の基本は、最近全く議論されなくなってしまった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49604157.html


1897年、日清戦争に勝利した日本は中国を支配するチャンスを手に入れる。
当時内務省衛生局長であった後藤新平は、中国に日本の支配下にある大帝国を作るべきであると強く主張し、帝国運営に中国大陸でのアヘン売買の利益を充てるべきであると主張する。

これは、日本国内の食品、薬品の安全管理の総責任者、内務省衛生局長がアヘン売買を全面的に推進する意向を示したものであり、日本の暴力団は一斉に中国でのアヘン売買に乗り出す。

後に中国大陸のアヘン売買を独占する、アヘン帝国を作り上げる里見甫もその一人であった。里見は、東条英機内閣成立の最大資金源となり、東条が日本を第二次世界大戦に本格的に突入させて行く。
広島、長崎への原爆投下という悲惨な結果を生み出した戦争は、里見のアヘン資金が引き起こしたものであり、それを推進したのが後藤新平であった。
後藤は後に初代満州帝国総裁となり、アヘン売買による満州帝国建国という国策は決定的になる。

里見のアヘン帝国は、中国とベトナム、ラオス国境にまで及び、ゴールデン・トライアングルと呼ばれる、戦後一貫して世界最大の麻薬生産地帯であったこの地域は、まさに後藤の国策と里見の活動によって形成される事になる。(アフガン戦争後はアフガニスタンが世界最大の麻薬生産地帯となっている。)

また里見のアヘン・ビジネスのパートナーとなるイスラエルのアイゼンベルグは、中国共産党に深い人脈を作り、一貫して中国共産党のアヘン売買の実働部隊となるイスラエルのアイゼンベルグ社を戦後、設立する。
世界の麻薬ビジネスの礎石を、まさに里見と後藤が築いた事になる。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49600765.html


1842年、アヘン戦争に敗北した中国清王朝は統治能力を失い、事実上アヘン売買を仕切る宗財閥と、それを支えるイラクのサスーン財閥に中国の経済的支配権が移る。
 上海の古式豊かな外灘(バンド)と呼ばれる街並、建築物は、全てサスーンが建造した物であり、上海の街を作ったのはまさにサスーン財閥だった。

 サスーンは上海を起点に中国中部から南部=華中・華南を結び、さらにフランス領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)を結ぶ中南支横断鉄道建設を計画し、中国北部を支配する日本の満州鉄道と連結し、中国全土と東南アジアを鉄道で統一しようとしていた。

 第二次大戦中、日本の諜報組織はアヘン売買を手掛け、中国においてはフランス諜報組織、宗財閥、アヘン売買組織サスーンと協力関係にあった(協力しなければアヘンは入手できない)。サスーンは英国諜報組織MI6と協力し、中国全土に「キングス・サービス」という諜報組織のネットワークを張り巡らせた。

 中国北部の日本の諜報組織、東南アジアのフランス諜報組織は、鉄道で統一される「大アジア」の中核、サスーンの諜報組織の補完物であった。

 現在の中国の中央銀行、香港上海銀行はサスーンの銀行に店舗を間借りして設立された。中国国民党・蒋介石の最大資金源がサスーンであった。このサスーンと宗財閥の実働部隊であったアジア全域に及ぶ李一族は、現在も中国の李鵬首相(元)、李承全国家主席、台湾の李登輝総統、シンガポールのリー・クアンユー首相(注)等を結ぶ李一族の地下経済ネットワークとして、共産主義中国の崩壊後を担うアジアの統一政権の基盤を着々と準備しつつある。

 アジア全域を支配したサスーン財閥に優秀な後継者が育たなかったため、壮絶な縄張り抗争と殺し合いの末、アジア全域のアヘン密売を握ったのがイスラエル最大の軍事産業アイゼンベルグ社であった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49431165.html


 日本に訪れた昭和初期の大不況で、生活に困った日本人の多くは中国大陸に渡った。それは日本のヤクザ、暴力団も同じであった。
生活に困った日本人は、日清戦争以後、半ば日本と世界各国の植民地のようになった中国に渡り、莫大な利益を求めて中国でビジネスを行った。

 その中で、三井、三菱といった大財閥に資金を出資させた右翼の大物、里見甫(はじめ)の昭和通商という企業は、目立たないが最大手の企業であった。里見がそこで扱うのは麻薬、アヘンであった。アヘンを扱う暴力団のフロント企業に、三井、三菱といった大財閥が出資していた事になる。

 中国大陸のアヘン市場は、アヘン戦争以降イラク出身のサスーン財閥の独占市場であったが、英国軍部と結び付いたサスーンは、中国大陸とアヘンの供給地東南アジアにおいて、フランス軍が勢力を伸ばし、さらに日本軍が中国大陸において大規模な侵略を始めると、少しずつその勢力範囲を狭めて行った。
 中国国民党を支持していたサスーンは、中国共産党とは折り合いが悪く、最終的に共産党が政権を取ると、サスーンは中国のアヘン市場を失う事になる。

 この世代交代につけ込んだのが里見であった。里見は三井、三菱を背後にした資金力と飛び抜けた商才で、中国の地下経済を支配する青パン、紅パンと呼ばれる秘密結社にまで幅広く人脈を広げ、一時期は英国を始めとしたアングロサクソンを排除し、中国のアヘン市場を支配下に置いた。
 その背後には、サスーンを中国アヘン市場から追い出し、次の世代の中国アヘン市場を狙うアイゼンベルグ社(後にイスラエル建国の中心となる)と里見との提携があった。米国全土の麻薬組織、マフィアの「統一」を果たした「殺人株式会社」の軍事部門アイゼンベルグと、日本の大物右翼、三井、三菱財閥が連携していた。この日米マフィア連合が英国麻薬業者の追い出しを行っていた。麻薬争奪戦争であった。

 アイゼンベルグは第二次世界大戦中、戦後におけるイスラエルの建国を目指して日本に「研修」に来ていた。後進国の日本がどのようにして産業を育成したかは、これからイスラエルを建国しようとするアイゼンベルグにとって、一つのモデルとなる。
 日本政府が国営で八幡製鉄所を作り、経営が軌道に乗り、一定の時期が来ると民間に企業を「払い下げ」、民間企業、新日鉄としたその手法はアイゼンベルグによって十分に研究、吸収され、戦後イスラエルの産業復興の手法として、アイゼンベルグによって生かされる。

米国最大のマフィア組織であるアイゼンベルグと、日本の大物右翼、ヤクザである里見甫はここで出会う。アイゼンベルグの経営者ショール・アイゼンベルグは、1940年に新日鉄の会長であった永野重雄の娘と結婚している。そこから日本の産業界のイスラエル人脈は延々と続く事になる。現在の麻生外務大臣の経営する、麻生セメントの親会社ラファルジュ(フランスのセメント会社)のさらに親会社がアイゼンベルグである。

 この昭和通商で、里見甫の部下として「金儲け」のため麻薬売買を担った人物達の中に、右翼の大物、児玉誉士夫、そして岸信介、佐藤栄作、池田勇人がいた。
これは、戦後の日本で自民党の総理大臣になる面々が「偶然」にも昭和通商で麻薬売買を行っていたという事ではなく、中国のアヘン売買で「荒稼ぎ」した里見甫とイスラエル、アイゼンベルグの資金が、戦後の日本の権力者を生み出して来た事を意味する。

 日本が第2次世界大戦に突入して行く契機となったのが、東条英機の大政翼賛会の結成であった。野党までが戦争賛成なる「挙国一致」体制の成立で、野党による与党のチェック、戦争反対の声が完全に抹殺されてしまった。

東条英機はこの大政翼賛会の結成を、野党議員の「金による」買収で成し遂げた。その買収資金の提供を求め、東条が「泣き付いた」相手が右翼の大物、里見甫であった。里見とアイゼンベルグの麻薬資金が日本の戦争体制を「成立」させていた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49599920.html


1941年、上海のプロテスタント教会を次々と日本軍のスパイ組織、上海海軍武官府・特別調査部の兵士達が急襲する。日本の諜報組織は、プロテスタント教会が麻薬組織サスーンの事務所になっているとの情報を得て、教会を急襲した。

元々、中国の小さな地方都市に過ぎなかった上海を開発し、租界と呼ばれる街路を整備したのは、麻薬業者のサスーンであった。

第二次大戦中までは、上海の街並みの全ての建築物が、サスーンによって建造されたと言われる程、上海はサスーンの街であった。

しかし満州帝国を建設し、さらに南下しようとする日本軍にとって、敵国・英国と一体化したサスーンの上海支配を壊滅させる事は必要不可欠であった。そこにはサスーンの麻薬組織を破壊し、日本軍部の資金源である里見甫の昭和通商に、アヘン売買を独占させる目的もあった。

 教会を急襲した当時の上海海軍武官府・特別調査部の記録によると、教会の地下にはサスーンの事務所が置かれ、そこからは英国諜報組織MI6の中国エージェントの名簿、秘密結社フリーメーソンの祭壇、おどろおどろしいフリーメーソンの儀式の用具が発見されたと言う。

 日本の軍部は、このフリーメーソンの祭壇を見て、「頭のおかしなカルト」が関わっているといった程度の認識しか持たなかった。その事が、後に日本の太平洋戦争における壊滅的敗北という事態を招く、諜報上の大失敗になるとは全く予想もしていなかった。

 当時、日本軍は東南アジアに侵攻していたフランス軍と協力関係にあった(注)。中国の中部、南部を支配する英国に対し、北部を支配する日本軍と東南アジアのフランス軍で挟み撃ちにする戦略であった。
フランスは日本にとって敵国であったが、敵の中に「協力者」を作るのは諜報の常識であり里見に協力するアイゼンベルグは、フランス軍と日常的に連絡を取っていた。アイゼンベルグは日本に到達する前に、イスラエル国家建設を目指して、世界各国のユダヤ人街を巡り、各国の財閥に支援を仰いでいた。

当時、フランスの統治下にあったアルジェリアの経済界は、ユダヤ人街が独占支配しており、アイゼンベルグはアルジェリア支配のため、ユダヤ財閥と一体化していたフランス諜報部に深い関わりをもっていた。
東南アジアを支配するフランス軍の実態は、そこでゴムや米作の大農園を経営するフランスの穀物商社ドレフュスであったが、後にドレフュスはアイゼンベルグ社の子会社になる。

このパイプでフランス軍と日本軍は密通していた。

 しかしアイゼンベルグは単に日本で技術を学び、中国で麻薬売買を行い、利益を得るためだけにアジアに来ていたのであろうか?

 1935年、ロンドンでは国際ユダヤ財閥会議が開かれ、サスーンの街である上海から東南アジアに至る中南支横断鉄道の建設と、それを要とした南アジア大帝国の建設、その地域の資源開発が決議されていた。その出資者は、アイゼンベルグとサスーン、ドイツのオットー・ウルフ財閥、ロスチャイルドであった。

アイゼンベルグは日本と協力しながら、同時に日本の敵国・英国サスーンとも協力し、中国中部、南部、東南アジアに渡る南アジア大帝国を作り上げようとしていた。アイゼンベルグは、そこにイスラエルを建国しようとしていたのだ。

 そのアイゼンベルグが日本に「協力」する意図は、アイゼンベルグの南アジア大帝国により、中国北部の日本の満州帝国を「飲み込み」、アジア統一大帝国イスラエルを建国する事にあった。

稚拙な諜報能力しか持たない日本政府が、夢にも想像出来ない戦略であった。
そしてアイゼンベルグは、麻薬売買において自分と対立するサスーンとも結び、日本、英国、フランスのどの国が戦争に勝利しても、そこにイスラエル建国の可能性を確保する戦略を取っていた。

そこには、米国の過酷なマフィア戦争を勝ち抜いてきた、戦略家アイゼンベルグの才覚が見事に発揮されていた。

石油も鉄鉱石もなく米国との戦争に突入してゆく、粗末な外交能力しか持たない日本、ロンドンのユダヤ財閥会議の動きさえ察知出来ていない稚拙な日本の諜報能力、これが日本を壊滅に導く。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49600090.html


1941年、創立と同時にCIA(当時はOSS)は、中国において急速に勢力を伸ばしつつあった中国共産党の実態調査に取りかかる。

 中国に全くコネクション(つながり)の無かったCIAは、ボスである英国諜報組織MI6に依頼し、MI6の中国における出先機関であった麻薬密売組織サスーン財閥に協力を要請する。しかし中国国民党と連携し中国南部に帝国を作ろうとしていたサスーンは、共産党とは関係が険悪であり、結局中国南部の帝国建設でサスーンに協力していたアイゼンベルグをCIAに紹介する。

 アイゼンベルグと共に満州建国資金をアヘン売買で稼ぎ出していた里見甫の元に、CIA局長ワイルド・ドノヴァンから派遣されて来たのは、ドノヴァンの親友で部下でもあるウィリス・バード中佐と北京語の通訳としてパレット大佐であった。

 アイゼンベルグと里見は、後にCIAの中国支部の事務所が設置される延安にバードを連れて行き、中国共産党の諜報組織の代表、恵生に引き合わせる。後に中国共産党の諜報組織、中国特務機関(中国のCIAに該当する)の長官として戦後長く君臨し、中国共産党の秘密警察、暗殺部隊の指揮官として中国の政治家・官僚達に恐れられる事になる中国共産党の「影の実力者」恵生である。

結局パレットの通訳では時間がかかり過ぎるため、英語の出来る通訳として、この会談には江青女史が同席する事になった。毛沢東夫人の江青である。

 会談では、日本軍と戦闘を繰り返す中国共産党に米軍とCIAが全面的に協力する事が決定される。

(山極晃著「米戦時情報局の延安報告と日本人民解放連盟」大月書店) 

 米軍にとっても日本軍は敵であり、CIAと中国共産党は利害が一致していた。

世界の動きが見えていた里見は、石油も鉄鉱石もなく米国との戦争に突入して行く日本政府の無能さに軽蔑しか感じていなかった。日本の国の枠から飛び出し、アイゼンベルグと共に英仏と協力しながらアヘンを売買していた里見は、もはや日本人ではなく「帰るべき故郷」の無い国際人になっていた。

 満州は里見にとって自分の作った芸術作品であり、日本国家とは何ら関係が無かった。無能な日本国家が滅亡する事を里見は嘲笑していた。

そしてこの時に始まった中国共産党とイスラエル・アイゼンベルグ、CIAの協力関係は、2007年現在まで絶える事なく継続し続けている。

 71年の米国、中国の国交回復、CIA出身のヘンリー・キッシンジャーによる米国、中国の経済協力関係等は、この諜報における中国と米国、イスラエルとの一体化のごく一部が表に出たものに過ぎない。米国が中国にミサイル技術を供与してきたイスラエル・ルートがこれである。(売ったのはCIA放送局と異名を持つCBSTV社長ウィリアム・ペリーである。)戦後、中国共産党の核兵器開発を担って来たのはアイゼンベルグ社である。事実上、中国をボスとしている北朝鮮の核兵器開発の技術はパキスタンから学んだものであったが、パキスタンの核兵器開発を担ってきたのがアイゼンベルグであり、そこに北朝鮮を同席させて「学ばせた」のはアイゼンベルグである。

特に軍事面では、中国共産党とはアイゼンベルグの事である。  

 この中国共産党、CIA、アイゼンベルグの協力関係は41年に始まっていた。

恵生、アイゼンベルグ、CIAの会談では、中国共産党がその活動拠点の山間部、農村でアヘンを生産し、CIAとアイゼンベルグ、里見がそれを売り捌く事で一致を見る。この会談後、中国共産党は特に福建省南部、江西省の井崗山地域でアヘンを大々的に生産し始める。その利益は中国共産党、イスラエル・アイゼンベルグ、CIAの間で折半される。

この構造は2007年現在まで変わらない。アヘン販売ルートを支配しているアイゼンベルグとCIAは、中国共産党には無くてはならない協力者である。

このアヘン取引を基本に、イスラエル・アイゼンベルグは核兵器技術と最新鋭の通常兵器を中国共産党に販売し、CIAも中国に兵器を販売し続けて来た。

中国共産党は、アヘン売買の利益を兵器購入代金に充てて来た。中国共産党、イスラエル・アイゼンベルグ、CIAは皆「同じ商売仲間」である。

 70年代初頭、ベトナム戦争により中国政府と米国政府が対立していた時も、中国特務機関とCIAのビジネス・パートナーには何ら変化は無かった。

敵と結ぶ、それが諜報である。

 国家同士が激しく対立する時、諜報機関同士も激しく対立するならそのような諜報機関は三流四流である。国家同士が激しく対立する時、敵国と今までにも増して親密な友好関係と利害の一致を裏側で作り出す、その事によって戦争は回避され自国民の生命が守られる、それが諜報の仕事である。国家にとっての敵国と利害の一致を作り出し、戦争を回避し国民の命を守る・・諜報の本質は自分の国家を裏切り、自分の愛する国家の国民の命を守る事にある。自分の愛する国家の国民の命を守り、自国を裏切り、敵国にも睨まれ、孤立して犬死にする事が諜報員の仕事である。誰も気付かず評価もされず、しかし自分の愛する自国民の命が戦争の回避で救われ、その事を唯一自分の勲章として名誉を感じ、犬死にして行くのが一流の諜報員の仕事である。

第二次世界大戦中は、中国アヘン売買の利益は3等分され、一方では満州帝国を壊滅させようとする中国共産党とCIAの武器購入費用となり、他方では里見の満州帝国を守るための武器購入費用となった。敵国同士の資金源が同一である矛盾など、中国共産党もアイゼンベルグもCIAも里見も誰も問題にせず、矛盾などとは考えない。それが諜報というものであり戦争というものである。これが「当然の常識」であるという認識がないと、「世界の実相」は 遂に最後まで見えて来ない。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49603529.html


 1932年、満州帝国初代総裁に就任した後藤新平は、同盟国ドイツでヒトラーの兵器を独占的に製造するクルップ社の重役ゲハイムラート・ウィーネフェルトを顧問に採用する。やがてウィーネフェルトがヒトラーの命令で駐米ドイツ大使に転出すると、その秘書フリードリッヒ・ハックがそのまま満州帝国総裁顧問に就任する。

 ハックは当時、ベルリン日本領事館の名誉領事であったドイツ軍のアドルフ・シンツィンガー元陸軍少佐と「シンツィンガー・ハック社」という兵器商社を経営する武器商人であった。ハック社は日本軍、特に日本海軍御用達の大型機械、
戦艦用部品専門の商社であり、ハック社が無ければ日本が中国侵略に使用する武器、食料、軍需物資を運搬する船舶が動かなかった。

 このハック社のもう一人の共同経営者で、日本と欧州を行き来し、日本が中国侵略に使用する兵器、太平洋戦争に使用する軍艦部品、その工作機械を日本、満州に運び込んでいたのがポール・ブルームというアイゼンベルグの親友であった。

 ブルームがヨーロッパで買い付けて来る兵器と軍艦部品は、アイゼンベルグと里見甫が行う中国でのアヘン密売の利益で支払われた。日本の中国侵略戦争は、アヘン密売人アイゼンベルグとその親友・武器密輸商ブルームが陰で支えていた。

 このハック社の創業資金は、南アフリカの金塊業者オッペンハイマー一族から出ていた。ブルームは第二次世界大戦後、CIAの初代日本支局長になり、吉田茂首相を連日呼び付け、戦後日本の国家政策を全て決定して行く。
 軍人で政策には精通していないダグラス・マッカーサーが、表向きの日本の支配者であれば、 ブルームは国会で通過する法案の細部まで細かな命令を出す「裏側の支配者」となる。

 かつて吉田茂首相は、満州で里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」の社員、里見の部下としてアヘン密売に従事、日本の中国侵略資金の捻出を担当していた。そのアヘンの利益で吉田茂、里見からブルームは満州帝国に納入する兵器の代金を得ていた。満州帝国をアヘン密売と武器密売で支えた吉田茂とブルームが、首相とCIA日本支局長として、事実上、戦後の日本の進路を独裁的に決定して行く。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49604875.html

第二次世界大戦中、中国大陸で満州帝国国務院に勤務する一方、里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」で、吉田茂等と共にアヘン密売に従事し、満州帝国建設資金を調達していた岸信介は、戦後、戦争犯罪人として巣鴨拘置所に収監される。
巣鴨から釈放されると岸は、満州帝国の日本語新聞「大陸新報」の社長であった福家俊一と密談を重ね、日本に新しい政党を作る準備を始める。

福家は満州時代、アヘン密売を巡り里見の情報屋として、新聞「大陸新報」の情報ネットワークを駆使し他のアヘン密売組織を「摘発」し、里見は福家の情報の下、他の密売人を次々に殺害して行った。
福家は戦後、里見のアヘン資金を日本の政界に持ち込むエージェントとして、岸首相、福田赳夫首相、美濃部亮吉東京都知事の選挙資金を拠出する「政界仕掛け人」と呼ばれる事になる。

53年、自由党から出馬し国会議員となった岸は、54年、米国で「2大政党制」を強く主張するロックフェラーの民主党に習い、日本民主党を旗揚げし幹事長となる。この日本民主党には社会党等の労働運動勢力も含まれていた。
岸のその行動は2007年現在の小沢一郎と極めて類似している。(小沢の著書には、ロックフェラーが推薦文を書いている)
岸の政界資金は福家を通し里見から出ていた。

52年4月25日付の日本統治軍GHQの「防諜レポート」には、里見と福家が密談し岸に政界工作資金を提供している点について、「要監視、注意」と報告を出している。

55年8月、日本ではまだ無名であった岸は、重光葵外相と共に訪米しダレス国務長官と会談し、雑誌「ニューズウィーク」の表紙を飾る。重光外相は一切報道されず、無名の岸が「次期日本の総理大臣」と報道され、一躍米国で有名になったのである。

満州帝国に武器を納入していた武器商人ポール・ブルームは、OSS(CIA)の欧州責任者アレン・ダレスの部下であり、ブルームの納入する兵器代金は中国でのアヘン売買の利益で支払われ、実際に支払っていたのは里見であった。

この資金が欧州での米国スパイ組織ダレス機関の活動資金として役立っていた。岸はその里見の部下であった。岸は訪米し満州時代からのビジネス・パートナー、ダレス兄弟の1人と会談しただけであった。

ニューズウィークはダレスのボス、ブッシュ大統領一族の経営するハリマン銀行会長エイブリル・ ハリマンが創立した雑誌であった。

ブッシュのボス、ロックフェラーが2大政党制度を強く主張し米国で民主党の絶大な支援者である事を、岸はボスの里見から教えられていた。
ロックフェラーのコピーを日本で行うよう、岸は里見から指示されていたとも言える。
岸は訪米中、ニューズウィークの編集長オットー・カーンの紹介で、戦後日本の政治家としては初めてロックフェラー三世と会談する。岸はロックフェラーの「お墨付き」を貰って来たのである。

 日本に帰国すると岸には24時間、ロックフェラーとブッシュの子分、ニューズウィーク日本支局長オンプトン・パケナムが「英語語学教師」として付き従う事になる。岸は24時間、ロックフェラーとブッシュに監視される事になる。

57年、岸は里見のアヘン資金で首相となると、6月、即座に訪米しアイゼンハワー大統領、ロックフェラー三世と会談し、日本に永久的に米軍を駐留させる事で同意する。
ゴルフ好きであった岸を会談の合間にゴルフに誘い出し、一緒にゴルフコースを回ったのは、常に祖父プレスコット・ブッシュであった。
ブッシュと岸がゴルフをしている間に、ブッシュの経営する軍事産業専門の投資会社カーライルの子会社、デュロン銀行社長ダグラス・デュロン国務次官が、日本に米軍を常駐させる日米安保条約の素案をタイプし、また日本の自衛隊に売り付ける兵器の見積もりを計算していた。

65年、里見が亡くなると、岸は恩師の死に涙を流しながら達筆な毛筆で「里見甫」と大書する。その文字がそのまま里見の墓標に刻印される事になる。

里見の資金を引き継ぐ後継者が、岸信介である事を遺族全員が認めていたからである。その岸の人脈と金脈を引き継ぎ、首相となったのが現在の安倍総理である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605010.html


現代日本を作った男ブルーム

第二次世界大戦後、初代CIA日本支局長となり、日本の主要官庁責任者、大臣、首相を連日呼び付け、政策、法律の細部に渡り細かな指示を与え、事実上戦後日本の「運営者」となるポール・ブルームは、1898年、日本の横浜に生まれた。
南アフリカの金塊生産を独占するオッペンハイマー一族の末裔であるブルームの父母は、横浜で金塊取引業を営んでいた。

1897年の日清戦争に勝利した日本は、中国大陸での資源開発や投機ビジネスに乗り出し、続々と富裕層とビジネスマンが中国へ渡航して行った。
また後に満州帝国総裁になる内務省官僚、後藤新平の「中国でのアヘン密売を奨励し、その利益で中国に大帝国を建設すべし」という主張に合わせ、日本の暴力団、右翼組織が続々と中国での麻薬ビジネスに乗り出して行った。
そして崩壊寸前であった中国の清王朝の発行する紙幣など誰も信用せず、当然、中国満州でのアヘン取引は金塊で決済されていた。その金塊を供給していたのが南アフリカのオッペンハイマー一族であり、その日本支部ブルーム一族であった。

1842年のアヘン戦争以来、中国で行われる米国のアヘン貿易を独占して来たのは、ブッシュ大統領一族のラッセル社であった。中国大陸でブッシュ一族の行うアヘン貿易の決済も、ケミカル銀行を窓口としてオッペンハイマー一族の提供する金塊で行われていた。
ケミカル銀行は、シティバンクの経営者でもあるジェームズ・ベーカー一族の経営する銀行である。

1991年、父ブッシュがイラクと湾岸戦争を行った時の国務長官ベーカー、2007年現在のイラク戦争に協力するように、ドイツ、フランスを説得して回った子ブッシュの欧州特使ベーカー、その一族はアヘン戦争時代から、ブッシュ一族のアヘン密売のマネージャーとなっていた。

かつては、ブッシュの行うアヘン密売の決済をベーカーがケミカル銀行でマネジメントし、現在はブッシュの行う湾岸戦争とイラク戦争を、相変わらずベーカーが閣僚、特使としてマネジメントしている。

現在でも世界各地で行われる麻薬密売の決済には、南アフリカのオッペンハイマー一族が提供する金塊が使用されている。その代表的窓口となっているのが、 決して警察が立ち入る事の出来ないオフショアである、英国領バミューダの投資会社ミノルコの口座であるが、この麻薬密売の決済企業ミノルコは、ベーカー一族の経営するシティバンクの代表取締役ウォルター・リストン、シティバンクの顧問弁護士ロバート・クレアが経営している。

アヘン戦争の昔も現在も、麻薬密売の決済は、ブッシュ大統領、そしてベーカー一族の銀行シティバンクとケミカル銀行が行っている。
また現在でも、麻薬密売に使われる金塊はオッペンハイマー一族が提供しているが、カナダの金塊生産を独占するオッペンハイマーの子会社、バリック・ゴールド社の経営者が父ブッシュである。
アヘン密売人ブッシュが、オッペンハイマー一族の「子分」である事は、今も昔も変化が無い。

1900年代初頭、続々と中国大陸での麻薬密売に乗り出した里見甫など、日本の暴力団の麻薬「決済」を担ったオッペンハイマー日本支部が、横浜のブルーム一族であった。そのブルームが、つまり南アフリカのオッペンハイマー一族が、戦後日本の進路の全てを細部に渡り決定して来た。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605378.html

1945年、第2次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来ると、日本の政治は米軍の命令通りに行われ米軍の指揮下に入る。日本の総理大臣を毎日呼び付け、連日細かい指示を与えたのがCIA日本支局長ポール・ブルームであった。
ブルームが2007年現在の日本の出発点を決めていた。

ブルームは1898年、日本の横浜に生まれた。世界の金塊GOLD、ダイアモンドを独占支配する南アフリカのオッペンハイマー一族にブルームは属していた。父母は横浜で貴金属商を営み、中国に金塊を輸出していた。

当時、日本は中国へ軍隊を送り込み侵略戦争を行っていた。日本の軍隊に必要な武器、弾薬、ジープ、戦車等の購入費用に困った日本政府は、中国で麻薬、アヘンの密売を命令し、その利益で武器を購入していた。
当時、中国は国家が崩壊状態であり、国の印刷する紙幣というものが無かった。
日本政府の麻薬密売と武器購入は金塊で支払いが行われていた。ブルーム一族はその金塊を提供していた。

中国での戦争が拡大すればするほど、武器はたくさん必要となり、支払いのための金塊もたくさん必要となった。貴金属商のブルーム=オッペンハイマーにとって、戦争によって商売が拡大した。オッペンハイマー一族は、商売の拡大と共に優秀な営業マンを必要とした。
オッペンハイマー一族が目を付けたのが、日本育ちのポール・ブルームである。

中学卒業と同時に、ブルームは本家のオッペンハイマーに呼び寄せられ、ジュネーブのハイスクールに入学する。その時ブルームは、米国のCIAヨーロッパ支局長アレン・ダレスの下で諜報員(スパイ)としての訓練を開始する。
現在のブッシュ大統領一族は、オッペンハイマーのカナダ支部であるバリックゴールド社の経営者であり、オッペンハイマーの提供するダイアモンドを使った
ドリル製造会社ドレッサー社の経営者である。石油を掘り出しダイアモンドを鉱山から掘り出すためのダイアモンド・ドリルのメーカーである。
ブッシュ大統領一族は、オッペンハイマー一族の下請け人一族であり、CIAの創立資金を提供していたのが、このブッシュ大統領一族であった。
オッペンハイマーの優秀な営業マンとしての教育を、オッペンハイマーの下請け人ブッシュ一族=CIAが請け負った事になる。

当時、ヨーロッパではナチス・ドイツ=アドルフ・ヒトラーがユダヤ人を大量に殺害しその財産を奪っていた。ヒトラーがユダヤ人から奪った貴金属、金塊の販売を担当していたのが、ブッシュ一族の経営するユニオン銀行であり、ユニオン銀行のヨーロッパ支店長が後にCIA長官になるアレン・ダレスであった。
ブッシュ一族のユニオン銀行のヨーロッパ支店長ダレスが、そのままCIAのヨーロッパ支局長であった点にブッシュ=オッペンハイマー一族とCIAの一体化が読み取れる。ブルームはこのダレスによって育てられ、後にCIA日本支局長となる。

こうして見ると、CIAがブッシュ=オッペンハイマー一族の「私的」な情報収集組織=スパイ組織として発足している事が分かる。

当時、CIAヨーロッパ支局長のダレスの下には、ブルームの他に同じオッペンハイマー一族のヘンリー・キッシンジャーがいた。
ブルームは日本へのCIA工作員=スパイであり、キッシンジャーはソ連(ロシア)に対するCIA工作員(スパイ)であった。同じダレスの部下として、同じオッペンハイマー一族として、ブルームとキッシンジャーはジュネーブの地で、しばしば共に食事や個人的交友をしたであろう事が想像される。(資料が残っていないため、この点は想像である。)

スパイを養成するには子供の頃から訓練しなければならない事は、高校時代からダレスに教育されたブルームが一番知っていた。1945年、CIA日本支局長となったブルームは、日本人のCIA工作員(スパイ)となる人材を探し始める。
ブルームは、当時、日本の吉田茂首相を毎日呼び付け、日本の政治に様々な命令を下していた。ブルームはしばしば吉田茂の自宅を訪問もし、深夜まで吉田首相と会談した。その時ブルームが目を付けたのが吉田茂首相の孫であった。
ブルームは吉田首相の孫を自分の家に引き取り、子供の頃から工作員(スパイ)として徹底的に教育し育て上げる。
この吉田首相の孫が、2007年現在の麻生太郎外務大臣本人であり、日本の次期首相候補の最有力者である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49607501.html


 第二次世界大戦後、日本に進駐して来た米軍GHQには、冶金(やきん)課という部署が設けられた。金塊を生産する国ではない日本に、金塊、貴金属を扱う専門部署が設けられた事は、極めて奇妙であった。

 日本軍は第二次大戦中、中国大陸や朝鮮半島で中国、朝鮮の人々を多数殺害し、その財産を略奪し、また中国においてアヘンを密売し、その莫大な利益を蓄積していた。
 戦争終結間際、日本軍はその莫大な利益を金塊、プラチナ、ダイヤモンドに代えて飛行機で日本本国に持ち帰っていた。その莫大な貴金属は日本各地に隠され、また日銀の地下金庫に保管されていた。

 その隠された財産を摘発、没収するため、GHQには貴金属担当の専門部署が設けられていた。

 戦後GHQは、日本軍の隠した貴金属を次々と発見していくが、発見されたものは米国政府の命令で米国本土に送り、米国の財産としなければならなかった。
 しかし、日本軍部が自己所有として記録に残した貴金属と、実際に米国本土に送還された貴金属の量には圧倒的な「差」があった。日本軍の隠した貴金属摘発を担当したのは、GHQのマッカート少将であったが、実際に実務を仕切ったのは冶金課長のジョージ・パーディであった。 

 なおパーディがGHQから貴金属を奪うに当たっては、オッペンハイマー一族のポール・ブルームCIA日本支局長が当然大いに協力した。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605569.html


 第二次世界大戦後、CIA日本支局長として日本に米軍基地を常駐させる等、現在の日本の政治路線を事実上決定し、また2007年現在の麻生太郎外務大臣を育てたポール・ブルーム。第二次大戦中、CIAにおけるブルームの上司は、後にCIA長官となるCIAヨーロッパ支局長アレン・ダレスであった。

当時CIAの活動資金は、ブッシュ大統領一族の経営するユニオン銀行から出ており、ダレスはユニオン銀行ヨーロッパ支店長でもあった。


ブッシュ=ダレス=ブルームは、第二次大戦中における日本の軍事力増強に全面的に協力していた。ブルームの経営する(つまりブッシュの経営する)武器密輸商「シンツィンガー・ハック」社は、日本海軍の軍艦建造に必要な軍艦部品、金属を専門に輸出していた。敵であるはずの米国が日本の軍事力の増強の中心にいた。日米戦争=日本と米国の対立・戦争は「茶番劇」であった。

一方、1930年代、米国議会に日本との戦争実行を強く働きかけていたのはブッシュの経営するハリマン銀行社長エイブリル・ハリマンであり、日本との戦争に備え米軍が兵器を大量に購入し始めると、その兵器を製造し「金儲け」に専念し始めたのもブッシュのハリマン銀行の支配下にある軍事産業であった。

日米戦争・・米国政府に武器を売り付け「金儲け」するブッシュ一族は、同時に部下のブルームを使い、日本に兵器と軍事物資(鉄鋼製品、ニッケル、チタン等の希少金属)を販売し利益を上げていた。

また、日本に鉄輸出を禁止し、米国国内での「日本との開戦論」をアオった悪名高い「ハル・ノート」の起草者コーデル・ハル国務長官は、ブッシュの顧問弁護士だった。

第二次世界大戦で日本人と米国人が戦争で殺し合う、その兵器は日米両方ともブッシュ一族が製造し、殺し合えば殺し合う程、ブッシュ一族に大金が転がり込む仕組みになっていた。

日本との戦争を開始したルーズベルト大統領の大統領選挙資金は、バーナート・バルークが大部分出資し、バルークがルーズベルトの閣僚人事の全てを単独で決定していた。この「ルーズベルト政権の独裁者」バルークは、ブッシュのハリマン銀行の社員であった。

日本への鉄輸出を禁止し、他の業者を排除し、日本への軍事用鉄鋼輸出の独占体制を作ったのがブッシュであり、その実働部隊がブルームである。

このブルームの弟子・麻生太郎が、2007現在の日本の次期首相候補である。

戦争が誰の自作自演であるか明らかである。

ブルームが日本軍に納入した兵器、軍事物資の代金は、日本政府直属の麻薬密売人、里見甫(はじめ)が全額支払っていた。日本が中国に侵略し建国した満州帝国で麻薬密売を担当し、日本の戦争資金を作っていたのが里見であった。

ブルームがブッシュの命令で日本軍に兵器を運び込み、里見が支払う。里見はブッシュ=CIA=ブルームのパートナーであった。

米国との戦争を開始した日本の東条英機内閣。その東条が総理大臣となった時の選挙資金を出していたのが、ブッシュのパートナー里見であった。

日本と戦争を始めたルーズベルトの大統領選挙資金を出していたのもブッシュ一族であった。戦争で日米に兵器を売り「金儲け」したのもブッシュであった。

戦争が誰の自作自演であるか、極めて明確に出ている。

1840年、アヘン戦争で英国が勝利すると、中国での麻薬売買が急速に拡大する。この麻薬密売を担当したのが青パンと呼ばれる中国マフィアである。不思議な事に、この青パンは麻薬代金を手形で支払っていた。手形は支払期限が来るまで現金に出来ない。しかしインド等から麻薬を密輸してきた船舶会社、密輸人は、すぐに手形を現金化して再び出航したい。そこで、この手形を支払期限前に買い取り現金化し、手数料を取る(手形の割引)銀行が必要になる。しかし相手は中国マフィアであり、手形の支払日に中国奥地に逃亡し、または暴力で支払いに抵抗して来る可能性がある。従って、この手形を現金化する銀行は中国マフィアのボスとして中国全土を監視下に置き、マフィアの逃亡を許さず、しかも「力づく」でマフィアに支払いを強制出来る中国マフィアの支配者=帝王でなければその任務は務まらない。この手形銀行がブッシュ一族のハリマン銀行であった。

ブッシュ一族は、中国の闇社会の帝王として君臨する独裁者一族であった。

日本の満州帝国の支配人=資金の元締めである里見は、このブッシュ一族の麻薬ネットワークの一部を担っていた。中国麻薬密売におけるブッシュのパートナー里見。そしてCIA経営者ブッシュの部下ブルーム。この2人が日本軍の軍事力を作り上げていた。

そして里見の麻薬ビジネスのパートナーには、後にイスラエルを建国し、世界最強のスパイ組織モサドを創立するショール・アイゼンベルグがいた。

2007年現在、ブッシュ大統領が「イスラエルを中心に世界を統一する」=NWOニューワールドオーダー=新世界秩序を作ると主張する理由がここにある。

また、里見の部下には右翼の大物で、後に中曽根康弘元首相の総理大臣選挙資金源となる児玉誉士夫がいた。児玉は戦後CIA日本エージェント=工作員となる。従って国鉄を民営化しJRを作った中曽根元首相は、CIAの対日本工作資金で首相になった事になる。

また、児玉は自民党の創立資金を出資した人物であり、自民党がCIAの対日本工作として、CIAの下部組織として創立された事が分かる。

また、里見の麻薬密売組織の部下には、吉田茂(後に自民党総理大臣、2007年現在の外務大臣麻生太郎の祖父)、佐藤栄作(後に自民党総理大臣)、池田勇人(後に自民党総理大臣)、岸信介(後に自民党総理大臣、2007年現在の安倍晋三首相の祖父)がいた。

日本の自民党と歴代総理大臣がCIAの対・日本工作として「作り出され」て来た歴史が、この中国麻薬密売組織の中に明確に浮かび上がって来る。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49607677.html





7. 中川隆[-9850] koaQ7Jey 2019年6月02日 08:44:26: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2508] 報告
▲△▽▼

オルタナティブ通信 昭和天皇による日米戦争策謀論 2

「1944年1月、昭和天皇は参謀総長と軍令部総長から結論として太平洋戦争に勝機はないと報告され、木戸内大臣に和平計画を立てるよう指示した。

木戸は当然のことながら、この指示の意味は皇室財産を守ることが第一であり、日本を平時の状態にする準備は二番目であると理解したのである。

二番目の状況を達成するには時期尚早だったができた。木戸は皇室の財政顧問でもある主要銀行の経営者たちを招集し、会議を開いた。彼らの提案で、天皇の現金が東京から銀行間無線でスイスに送金されたのである。東京にある天皇の銀行口座の残高が事実上ゼロになったが、スイスの銀行の番号口座残高が急激に増加したのだった。横浜正金銀行のスイスの支店は次に、天皇の仮名による銀行投資にドイツの信用を付け、天皇の流動資産の換金能力をさらに高めた。他の財閥の大企業経営者たちも天皇の現金の流出に気づき、アフガニスタン、トルコ、スペイン、ポルトガル、スウェーデン、朝鮮、香港、満州、フランス、ドイツなどに預金していた現金を引き出し、スイスの銀行へ送金した。彼らはまた、ブエノスアイレスにある銀行の法人や個人口座の数も増やしたのである。

占領期間中、日本銀行が横浜正金銀行の業務を引き受けることになり、この結果、皇室財産の財務上の秘密が継続して保証されたのである。」

私が書いた赤十字と天皇の秘密は、このマニングの本で真実であることが理解できよう。
日本赤十字社は、現在でも、皇室が支配的立場にあることを知らねばならない。この赤十字組織が、世界を支配する勢力の一支部なのだ。マニングの本には、天皇がいかに金塊をアルゼンチンに運んだかの詳細な内容も書かれている。

もう少し具体的に、赤十字国際委員会(ICRA、本部ジュネーブ)について書くことにしよう。では、アダム・レポーの『ヒットラーの秘密銀行』から引用する。
「赤十字国際委員会が各国諜報機関から、スパイを潜入させる標的として狙われたのは当然のことだった。大戦中でも枢軸国、連合国を問わず自由に越境して、救援活動ができる国際的組織だったからだ。また、情報収集も任務のひとつで、職員たちは双方の捕虜や軍指導者たちに対する質問権を与えられていた。」

『ヒットラーの秘密銀行』から、もう一つ引用したい。ナチス資産について書かれているが、ドイツの枢軸国日本の姿もみえてくる。

「英米仏三国は1945年8月、スイスに預けられているナチスの資産の所有権を主張するもスイス政府の対応ぶりは相変わらずのものだった。三国の主張はどんな法律を根拠とするものか理解に苦しみ、また連合国によるドイツ占拠の事実は『ドイツ国境を越えて法的効力を持つことはほとんどない』という言い逃れに終始した、とSNBの報告書は記している。

「スイスに預けられたナチス資金」を「スイスに預けられた天皇の秘密資金」と置き換えるならば、私が書いてきたことが事実であることが理解できよう。『ヒットラーの秘密銀行』には、スイスの銀行について書かれている。日本に関係する記事に触れておこう。国際決済銀行(BIS)がスイスにある。この銀行が、ナチスと日本と戦争中も取引を続けた。では引用する。

「BISの総裁はアメリカ人トーマス・マッキトリック、ゼネラル・マネージャーはフランス人ロジェ・オボワン、ゼネラル・マネージャー代理はドイツナチ党員のパウル・ヘクラーだった。大戦中の理事には、ライヒスバンク副総裁で後に戦死とされたエミール・プール、同総裁のヴァンター・フンク、その他ロンドン、ブリュッセル、ローマ、日本から派遣された銀行家たちが顔を揃えていた。(略)ベルリンにとっては好都合なことに、戦時中のBIS総裁は、ナチスの略奪金塊の主要ルートだったスイス国立銀行の総裁エルンスト・ウェーバーだった。(略)第一次世界大戦の敗戦国ドイツが連合国に対して負っていた賠償金をヤング案に基づいて回収することを目的に、数カ国の中央銀行が1930年5月に設立した銀行だったのである。ニューヨーク・ファースト・ナショナル銀行など世界の主要金融機関が共同出資し、これらの国々および日本が理事を送り込んだ。(略)BISの設立資本金は五億スイスフランで、ベルギー国立銀行、イングランド銀行、フランス銀行、ライヒス・バンクという中央銀行五行によって保証されることになった。これに日本の代理を務める日本銀行団、およびモルガン銀行、ファースト・ニューヨーク銀行、ファースト・シカゴ銀行から成る米国銀行団も参加した。」

ここまで書いてきて、戦争というものが、金融と深く結びついていることが理解できたはずである。BISとスイス国立銀行は深く結びついている。私の推測の域を出ないが、
天皇はスイス国立銀行に「皇后名」で、BISに「天皇名または仮名」で、最低二口の秘密口座を持っていたと思われる。マニングの推定「35億ドル」以上ではなかろうか。35億ドルでは少な過ぎる。

<中略>
日本の作家で井上清の名を挙げた。2000年に濱田政彦の『神々の軍隊』がでた。この本の中で濱田は天皇の秘密資金に触れている。引用する。私のこれまでのストーリーを追認するものである。

「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などスイス、バチカン、スウェーデンの銀行などに預けられていた。(略)中でも国際決済銀行、通称“バーゼルクラブ”は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。(略)

内大臣木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和十九年一月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃がすよう指示した。

そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに戦争協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。(略)皇室とバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界の闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏にみえるのは、その資産を戦後の日本復興に使ったからなのかも知れない。M資金の闇は深い。」

濱田政彦の書いていることは間違いない。ただし、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏にみえるのは、その資産を戦後の日本復興に使ったからなのかも知れない」には全く賛成できない。私は昭和天皇が戦後も、マニングが書いているように蓄財作戦に熱中していたと思っている。天皇家の秘密資金の一部がM資金となり、多くの人々を悩ませたのである。

計算機を手にして、当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的数字がクローズアップされる。
それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は37億2000万円。」木下道雄(元侍従次長)の『側近日記』が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。

「ところで終戦直後の天皇家の財産は37億5000万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7912億円である。」

この数字の十数倍近くをスイス銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100億円を切っていた。

天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。

天皇の「キリスト教入信」対策は、この二つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。

これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。
それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。それとも、広田弘毅のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060828


天皇一族は売春業者

 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。

しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。

貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html


日本の天皇家は古代からただひとつの家系がつながってきた。これは世界に類を見ない。また昭和天皇は敗戦の時にマッカーサーに対して、「全ての私財と自分の命をも放棄する。国民を救って欲しい。」と言い、マッカーサーはこれに感動したと学校では習ってきた。

 ところがこれらは全くの創作のおとぎ話であった。私達は米軍の策略にまんまと騙されてきたのだ。

昭和天皇が終戦時に国民を配慮した気配は全くない。ひたすら私財の保全にだけ心血を注いだ。それを米軍は日本支配の道具として位置づけることで国民の洗脳に成功した。
結局、学校教育は米軍の指図による創作だ。さらに右翼などは天皇システムを保護する事で米軍の日本支配に貢献してきたのだ。見事な策略と言うほかは無い。

立ち直る見込みのない、無能そして国賊的日本政府のていたらくは、殺人総合商社アメリカの商売の成功を示すものである。

1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社
日本郵船が創立される。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、
欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、
欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。

そこで福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを
公然許可すべき」という指示を天皇に与える。

賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に
「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、
天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。
(福沢諭吉全集 第15巻)

1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い
仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で
大々的に行われた。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は
天皇の言葉を信じた。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」
日本人女性の数は数十万人。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は
「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の
売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で
あれば10数年分の給与を手に入れていた。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族の
サギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。

その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、
大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性を
だまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の
売春業者であった。
天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」
された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に
売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。

数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。
これが従軍慰安婦の原型である。

日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。

この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、
三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、
全額三菱財閥の出資で建設する。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の
新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を
「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する
「売春業参加のお礼」として建設された。
(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。

また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と
協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。

こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が
蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた
米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で
1億ドルを超えると記録されている。

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、
女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、
ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。

戦争中全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で
「無給」で重労働を行っていた。

そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって
戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく
自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。

また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し
略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に
運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」
という巨大な壷に蓄財された。

中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争
は天皇の個人的蓄財のために行われていた。

この問題を調査したエドワード・ベアは、
「天皇一族は金銭ギャングである」
と吐き棄てるように語っている。
(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)
1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族は
この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、
海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、
スイスに850万ポンド、
ラテンアメリカに1004万ポンド等、
広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、
天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。

この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した
蓄財は累計で5〜10億ドルに上るとしている。
(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。

広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本を
どのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、
天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金
を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が
日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そして
スイス銀行まで遠路運搬されていた。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた
日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されて
いる最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路
アルゼンチン、スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など
何も考えていない事は明白である。
(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」
マルジュ社)。

なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた
商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の
対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは
何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が
「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員
であったのか?

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を
借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、
港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、
莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。

天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の
金融ビジネスマンである。

そしてここでも「何故か」CIAと天皇は
「共同経営者」である。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を
「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが
虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのも
スイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に
「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族
の蓄財を隠していた。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪
ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。
(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 
ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。

1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。

日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い
女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が
社会問題化し、それを禁止した法律であった。

天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」
(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の
「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、
1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、
日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇
の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し
米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、
人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語る
のがジャーナリストの仕事である。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の
無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。
http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607

1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。
 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。

 同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【原文では”tairiki ronin”となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【原文”Banda Verde”で「緑色の集団」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。

実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者】の中国人の首領たちと手を組んだ。 いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。

効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機(秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相)、星野直樹(アヘン独占販売の長)、松岡洋介(満鉄の総裁)そして鮎川義介(日産の統括者)【本文では”Aikawa Gisuke”となっているが音訳のミスと思われる:訳者】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。

 彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段(身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など)でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「黄金の百合作戦」である。

 その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。

 この『反共』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。

 裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。

中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統(3)と会談するためにニュルンベルグへ向かった。

 米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者】

 この最後の者【朝香宮を指す:訳者】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。

 婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。(4)

 軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート(会計士、財務の専門家など)、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。(5)

 1941年にフィリップ・ペタン内閣は日本がインドシナ半島北部を占領することを認めた。近衛文麿は『交渉による平和』を望んだが裕仁の説得に失敗し、辞意を表明した。宣戦布告の決意をし、天皇は東条将軍を首相に指名した。彼は満州で組織的な略奪を行った岸の一党【原文ではclanつまり悪党集団:訳者】の手下であった。

 パールハーヴァーの『だまし討ち』(6)は、東南アジアにおける日本の好戦性を解き放つシグナルであった。日本はタイ、スマトラ、ビルマに侵攻し、グアムとホンコンをその手にした。さらにマッカーサー将軍をフィリピンの領地から追い出した。新たに付け加えられた領地は憲兵隊によって組織的に略奪された。秩父宮はシンガポールに黄金の百合の総合本部を置いた。専門家たちが目録をつくるためにそこにすべての分捕り品が集められた。

 フィリピンでは欧米の銀行が黄金の百合のエキスパートたちの第一目標であったが、彼らはフィリピンの財宝を奪い取って、筆頭株主が裕仁その人である横浜正金銀行【原文は英語Yokohama Specie Bank:訳者】、台湾銀行、そして他の国有銀行の財産にしたのである。その黄金の一部は戦争の経費に充てられた。スイス、ポルトガル、アルゼンチン、そしてチリの銀行が洗浄に使われた。

 憲兵隊と黄金の百合の実行者たちが奪った富はシンガポールの集中させられ、最終目的地である日本に輸送されるためにマニラに運ばれた。
[黄金の百合からブラックホールの資金へ]
ミッドウエイの戦いの後、東南アジアにおける軍事的な力関係は米国に有利に傾いた。日本は海上輸送の支配権を失った。裕仁と帝国の第一人者たちは帝国の敗北を予想し始めた。

 それ以来、公式には富士山麓で結核療養中であることになっていた秩父宮に率いられてきた黄金の百合作戦は、マニラで足止めを食らっている戦争の分捕り品を救うことに必死になった。秩父宮はまず病院船を使って金を輸送し、その後その金を日本の山地に作られた地下壕に溜め込んだ。

1943年には、米国が効果的な海上封鎖体制を確立したため、そのような方法は取れなくなった。財宝はマニラの波止場で山のようになりだした。秩父宮はそこで地下壕建設のための特殊な技師の集団を作り、分捕り品を地下に隠す作業を始めた。マニラではかつてスペインの町であったイントラムロスの地下が使用され、巨大な収容能力を持つ場所を提供できた。

 品物を慎重に移送できる一つの通路が波止場とイントラムロスの間を直接に結びつけた。秩父宮は歴史的な場所や教会、大学など、爆撃がほとんど無いあらゆる場所をつなぐように選んでいった。

 マニラの北で竹田宮が洞窟を使って地下壕の網の建設を監督した。専門家たちが恐ろしいほど効果的な大量のワナの兵器を仕掛けた。爆発物、毒ガスのカプセル、水や砂を使ったワナ。南京虐殺の実行者の息子であるもう一人の皇族の朝香宮孚彦【原文ではTakahitoとなっているが「たかひこ」の誤り:訳者】親王と、シンガポールのヒーローであり差し迫った米軍の攻撃に立ち向かうためにフィリピンに派遣された山下将軍が、この地下での作戦に加わった。技師たちと奴隷たちは組織的に生きながら地下に埋められた。

 マッカーサーがフィリピンを再征服し始めたとき、皇族たちは急いで未だ地下に入れることができなかった財宝を隠そうとした。黄金を積んだ船が船員を乗せたまま沈没させられた。日本の敗戦はマニラ市民の虐殺と占領を終わらせたが、その後に皇族たちは潜水艦で逃亡した。

 1945年から米国の諜報機関が黄金の百合の存在に気付いた。諜報員であるジョン・バリンジャー(John Ballinger)は、漁民に変装して黄金をいっぱいに入れた箱が病院船に積み込まれるのを観察することができた。マッカーサーは彼のライバルである山下を逮捕し、彼の腹心をこの日本の将軍のお抱え運転手である小島老人に対する尋問官とした。

そのセベリノ・ガルシア・サンタ・ロマナは山下の行動に関する膨大な情報を手に入れ、隠匿場所の正確な数をつきとめることができた。『サンティ』【サンタ・ロマナの別称と思われる:訳者】はこうして『山下の財宝』の守り手となった。彼は、OSSの元局員であり最近までウイロウビィ(Willoughby)将軍(8)の特務機関G−2と協力していた謎の男エドワード・ランドセイル(Edward Landsale)(7)が作戦の指揮をとるまでは、ずっとマッカーサーの命令の下にとどまった。

 トルーマン大統領にこの件が任されて以来、掘り出された分捕り品はブラック・ホールと呼ばれる対共産主義の戦いの資金として使用されることになった。あるロウズベルトの顧問に認知されたこの計画は、ドイツ、イタリア、日本によって盗まれた黄金を親米政権の財源として使い、次に、『危険なアカ』の脅威にさらされる多くの『民主国家』の深奥でこの資金により選挙を操作することから成り立っていた。

 ロバート・アンダーソンの助けを受けてあるスペシャリストが資金を洗浄した。サンティが探し出した黄金は42カ国の170の口座に納められた。CIAの銀行口座ネットは、東南アジアから盗まれた富を隠し、金の値段を米国の経済的利益にとって都合の良いあるレベルで維持することを可能にした。(9)
財産は日本に戻ってくる

 米国当局によって押収された分捕り品は当初3つの異なった財源を潤した。四谷資金は、マッカーサーの秘密の右腕であるG-2の長官チャールズ・ウイロウビィの活動を支えた。彼はフランコ将軍とファシスト警察の手法の賛美者である。第2の資金は、日本におけるニュルンベルグ裁判に匹敵する東京裁判の判事ジョセフ・ケーナンの名前が付けられたのだが、非常に明確な機能を持っていた。共産主義に対するマッカーサーの戦いの同盟者へと変身した帝国のメンバーを免責するために証人たちを買収することだった。

東京裁判は、スケープゴートを絞首刑に処することで終わった、全くのペテンである。南京の虐殺の首謀者である朝香宮は、松井将軍が加わってもいない犯罪のために絞首刑台に送られた一方で、起訴すらされなかったのだ。

 マッカーサーの偉大なライバルである山下も、マニラ市民の虐殺の罪を問われて同様の運命をたどった。東条将軍は戦争の第一責任者の罪を負わされて天皇裕仁の代わりに責任を取らされた。最も戦略的な資金は、疑いも無くM資金である。それは日本で共産主義者や社会主義者が権力を握ることを妨げる戦いのために運用された。戦後、つかの間の社会主義政権は、M資金投下のおかげで米国好みの吉田茂によって、失墜させられたようである。この資金は敗戦日本の公式な歴史に出資するためにも利用された。

 児玉誉士夫が「私は敗北した」という文章を出版したのはこれである。この本は、CIAを通してM資金をつぎ込まれたものであるが、笹川良一や岸信介などの将来の日本の大物、つまりマッカーサーによって称揚された国粋主義者たちを免責するのに役立った。
 1951年に講和条約が締結された。その第14条で、日本はその犠牲者に対して補償するための必要な手段を整える必要のないことが規定された。ブラックホールへと転換された黄金の百合は秘密のままにしておかねばならなかった。

 1952年以来、CIAと日本の特務機関に率いられた一つの組織がM資金を担当した。この資金は、満州での略奪の責任者であり東条の戦争内閣の閣僚であった岸信介の首相選出を許した。アイゼンハワー政府はこの極端な反共主義者である戦犯を好んだ。
 M資金は、田中角栄、竹下登、中曽根康弘、宮沢喜一などの多くの首相に財源を提供した。田中は、ニクソンがM資金の引出権を彼に約束したのだが、これを選挙資金と汚い工作のために頻繁に運用した。

 黄金の百合の一部は日本でこのように投資され、自由民主党の母胎から誰が将来の首相になるのかを決める者たちによって浪費させられた。
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/768.html


日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、占領地の宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。そして一般人からも奪った。

一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。

略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった.

どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。しかし、これは偽情報である。

 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。

日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。

日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。

 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか?

 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。読者がお気づきのように、これは真実ではない。天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。

 日本はひどく痛めつけられ、戦争が終わったときには、かろうじてどうにか食っていける状態だったと、わたしたちは告げられる。事実は、驚くほど少ない工場と住宅しか破壊されておらず、それもひどい損傷を受けていなかった。そして、インフラストラクチャーの損害はわずかだった。広く世間に知られている損害のほとんどは、普通の日本人が住んでいた数百万軒の紙と木でできたマッチ箱のような家だった。彼らの苦悩は大君主たちの見解には加えられていなかった。

 日本を共産主義に対する防波堤にしようという切迫した必要性に取り憑かれていたので、ワシントンは戦時の指導者たちと皇室のメンバーと金融のエリートたちが、十二のアジアの国々を破壊し、窮乏状態に陥れたことに関して、いかなる責任からも免責した。

わずかに日本の戦争中のエリートたちがスケープゴートとして死刑に処せられた。幾人かは指導者たちの安らぎのために、責めを負って強制されたり、濡れ衣を着せられた。戦後の占領の終わりの頃には、すべての日本の戦犯は自由の身になった。
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


日本の昭和天皇ヒロヒトは、敵国であった米国の兵器を日本に輸入し日本軍部に売り付け、その利益を私的に「着服」し、スイス銀行に隠し蓄財していた。そのスイス銀行の口座はヒトラーと天皇ヒロヒトの「共同名義」の口座であった。

 ヒトラーと昭和天皇ヒロヒトは、戦争を起こし兵器を密売し、共に「私腹を太らせていた」。

ディロン社の代理人として、米国製兵器の密売を行っていたのが昭和天皇ヒロヒトである。ドイツにおけるヒトラー、日本における昭和天皇ヒロヒトの役割は同一であり、従って兵器密売のスイス銀行の「決済口座」がヒトラーと昭和天皇ヒロヒトの「共同名義」になっていた。

 第二次世界大戦末期、ヒトラーは自分の資産と部下を続々とアルゼンチンに逃し始める。天皇ヒロヒトも戦争末期、長年の武器密売の利益を金塊の形で、アルゼンチンの銀行に大量に密かに輸送し隠し預け始める。

 戦争末期、中国に残された日本人の多くは、日本に帰る船が無く中国、朝鮮で殺害され、女性は強姦され殺害され続けていた。天皇はその日本人を全員「見殺し」にし、船舶を「独占」し、武器密売の利益を金塊の形でアルゼンチンへ大量輸送し続けた。
http://alternativereport1.seesaa.net/


1945年.日本の敗戦が決定的になると.天皇一族は.この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ.海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて.スイスに850万ポンド.ラテンアメリカに1004万ポンド等.広島.長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中.天皇は自分の蓄財を海外に次々と.逃がす事に専念する。

この問題を調査したマーク・ゲインは.海外に天皇が逃した蓄財は.累計で5〜10億ドルに上る.としている(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。
広島.長崎に原爆が落とされ.膨大な死傷者が出.戦後.日本を.どのように再出発させるか.を考えなくてはならない時期に.天皇は.ひたすら自分の蓄財を守るため.数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは.莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され.アルゼンチンの銀行.そしてスイス銀行まで遠路.運搬されていた。中国では.日本に逃げ戻るための船舶が無く.逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数.強姦殺人され.子供が殺害されている最中.天皇は貴重な船舶を独占し.自分の金塊を遠路.アルゼンチン.スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く.日本人の事など.何も考えていない事は.明白である(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」 マルジュ社)。

 なお.天皇が.第2次大戦中.「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の.天皇の共同経営者が.CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは.何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

 天皇は戦後.このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り.CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に.港区の不動産を次々に買収し.またハイテク産業に投資し.莫大な蓄財を.さらに莫大に膨れ上げさせて行く。

天皇は神でも「象徴」でもなく.単なる金儲け主義の.金融ビジネスマンである。
そして.ここでも.「何故か」.CIAと天皇は「共同経営者」である。

 天皇は.1940年代初頭から.スイス銀行に少しづつ蓄財を「移し」始めるが.ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが.虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し.ナチス・ヒトラーの口座の中に.「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい.そこに天皇一族の蓄財を隠していた。天皇と.ヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する.略奪ビジネスのパートナーであり.ナチスと天皇は一体であった(アダム・レボー「ヒトラーの秘密銀行」 ベストセラーズ・・また.濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。

 1924年.米国は「排日移民法」という法律を成立させる。日米関係は.まだ険悪ではなく.日本から.余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し.それを禁止した法律であった。

 天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の.「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に.1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については日本を憤慨させるに十分なものであった。」

 この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。
日本人女性を.だまし.売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した.それに憤慨.激怒し.米国と戦争を始めた.と天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は.神でも.「象徴」でも無く.人間のクズの集団である。
http://alternativereport1.seesaa.net/

1945年、第二次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来る。

今後の日本をどうするか、米軍の指揮官ダグラス・マッカーサーとの交渉を担当したのが、当時の大蔵省事務次官池田勇人(後に首相)の部下、渡辺武であった。

渡辺の自伝である「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」(東洋経済新報社)によると、渡辺と米軍の最初の「大きな交渉テーマ」は、米国の銀行ディロン・リードに
対する日本と天皇一族の借金返済問題であった。

明治憲法第11条により、日本の陸海空軍全ての指揮権は天皇にあり、政治・軍事の全責任は天皇にあった。米軍が天皇の戦争責任を問題にせず、真っ先に銀行ディロンの代理人として借金の取り立てを行った事は、戦争の目的が金であった事、そして米軍が米国政府の代理人などでなく銀行ディロンという私的機関の「代理人」である事を良く示している。

しかも奇妙な事に、日本は戦争のための兵器購入資金を敵国の米国ディロンから「借り入れ」ていたのだ。さらに貸し付けた側の銀行ディロンの社長が、米国の戦争省長官ウィリアム・ドレーパーであった。米軍の陸海空軍全ての指揮権を持つ戦争省長官ドレーパー本人が、敵国・日本の陸海空軍全ての指揮権を持つ天皇に
戦争資金を貸し付けていた。

ディロンの親会社が、現在のブッシュ大統領一族の経営する軍事産業専門投資会社カーライルであり、そのブッシュの経営するハリマン銀行の取締役ロバート・ ラヴェットが、戦争省次官として自分の経営する兵器会社から米軍に武器を納入していた。米軍の兵器と日本軍の兵器購入資金は、同一のハリマン=カーライル=ディロンから出ていた。

日本軍と米軍が「殺し合えば殺し合う程」この銀行が儲かる「仕組み」になっていた。この銀行の私的利益のために日本と米国の軍人は「殺し合い」をした。

この金儲けシステムの米国側にドレーパーがおり、日本側に天皇が居た。

ドレーパーの銀行ディロンは、戦争で莫大な利益を得た。
天皇も日本軍の兵器購入資金の一部を私物化し、スイス銀行に莫大な財産を蓄積した。天皇が戦争責任を問われなかったのは当然である。
日本人と米国人に「殺し合い」を行わせ金儲けする、ディロン=ハリマン銀行の日本支店長が天皇であった。最初から天皇は「日本と日本人の命」を「敵国に売り渡して」いた。

なお天皇は、スイスに莫大な蓄財が出来た感謝の印に、「敵国の戦争指揮官」ドレーパーに勲一等瑞宝章を与え表彰している。
http://www.asyura2.com/07/senkyo38/msg/517.html

カーママン社は、カーママンと昭和天皇ヒロヒトが共同で設立した兵器商社である。

天皇はこの商社を通じ、日本軍の使用する兵器を敵国・米国から密輸し、その販売利益を「天皇個人の財産」として、スイス銀行の口座に密かに蓄財し続けていた。

 天皇はディロン社の日本代理人であり、第二次世界大戦の武器密売で利益を蓄積した武器密売人であった。

 天皇と同じ会社ディロンで「働く」カーママン。商社カーママン社を天皇と共同経営する「天皇の同僚」カーママンが、広島、長崎へ投下された原爆の製造担当者であった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/59498275.html



8. 中川隆[-9849] koaQ7Jey 2019年6月02日 08:50:12: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2509] 報告
▲△▽▼

>>3
櫻井ジャーナル 昭和天皇による日米戦争策謀論 2

関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その1)

 1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲った。死者/行方不明者は10万5000人以上、その損害総額は55億円から100億円だという。当然のことながら金融機関もダメージを受けた。


 そこで政府は被災地関係の手形で震災以前に銀行割引したものを1億円限度の政府補償を条件として日本銀行が再割引したのだが、銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したため、手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。


 そうした中、復興資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断し、森賢吾財務官が責任者に選ばれた。交渉相手に選ばれた金融機関がアメリカのJPモルガン。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助。1920年の対中国借款交渉を通じ、JPモルガンと深く結びついていた。


 当時、JPモルガンを指揮していたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えている。


 日本に対して大きな影響力を持ったラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。1899年から1902年にかけての南アフリカ戦争で世界の金を支配することにイギリスは成功、金本位制を最小した国々の通貨を支配できる立場になった。JPモルガンはイギリスの巨大金融資本の影響下にあった金融機関だ。


 金解禁(金本位制への復帰)の結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする考え方をする人物だった。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。


 その1932年にアメリカでは大統領選挙があり、巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破って当選する。


 そのルーズベルトは大統領に就任する17日前、つまり1933年2月15日にフロリダ州マイアミで開かれた集会で銃撃事件に巻き込まれた。ジュゼッペ・ザンガラの撃った弾丸はルーズベルトの隣にいたシカゴ市長に命中、市長は死亡した。群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外したと考える人も少なくない。


 次期大統領を狙っていた可能性があるわけで、背後関係などをきちんと捜査する必要があったのだが、何も事情を聞き出せない、あるいは聞き出さないまま、ザンガラは3月20日に処刑されてしまった。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809010000/


▲△▽▼


関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その2)

 本ブログでは何度も書いてきたが、ルーズベルトが大統領に就任するとJPモルガンをはじめとするウォール街の勢力がクーデターを計画する。スメドリー・バトラー海兵隊少将によると、1934年の夏に「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。


 その訪問者はJPモルガンと関係が深く、いわばウォール街からの使者。ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうとしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、50万名規模の組織を編成して恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。


 バトラーの知り合いだったジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。


 バトラーとフレンチは1934年にアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だったという。


 バトラー少将は計画の内容を聞き出した上でクーデターへの参加を拒否、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げる。ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろ、というわけである。


 クーデター派の内部にはバトラーへ声をかけることに反対する人もいたようだが、この軍人は名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で、軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があった。


 1935年にはニューディール派以上のウォール街を批判していたヒューイ・ロング上院議員が暗殺されている。彼は当初、ルーズベルト政権を支持していたが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になることをウォール街が恐れたことは想像に難くない。ロングが大統領になれなくても、ニューディール派の政策を庶民の側へ引っ張ることは明らかだった。


 一方、日本ではウォール街とつながっていた人物が殺されている。ひとりは1930年に銃撃されて翌年に死亡した浜口雄幸、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も実行された。団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。


 1932年にアメリカ大使として来日したジョセフ・グルーのいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。日本の皇室はウォール街と深く結びついていたとも言える。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 ルーズベルト政権と対立関係にあったJPモルガンは関東大震災から戦後に至るまで日本に大きな影響力を維持していた。大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809020000/


▲△▽▼


2018.09.13
米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その1)

 ロシアのウラジオストックで2015年から毎年開催されているEEF(東方経済フォーラム)はウラジミル・プーチンの外交戦略において重要な意味を持っている。アメリカは東アジアの軍事的な緊張を高めようとしているが、それに対抗してロシアは緊張を緩和、地域の経済発展につなげようとしているのだ。プーチンの戦略に中国や韓国は賛成、連携している。この3カ国に朝鮮も加わった。

 今年のEEFは9月11日から13日に開かれているが、そこで朝鮮は自国の鉄道と韓国に鉄道を結びつけることに前向きな姿勢を見せた。ロシアには以前からシベリア横断鉄道を延長して朝鮮半島を南下させようという計画がある。その計画とリンクしていることは間違いないだろう。


 この鉄道計画はロシアから天然ガスや石油を輸送するパイプラインの建設計画、そして中国の一帯一路とも関係している。大英帝国の時代からアングロ・サクソンの基本戦略はユーラシア大陸の周辺部分から内陸部を締め上げていくというもの。物資の輸送が海運中心だった時代は効果的な戦略だったが、そうした戦略を高速鉄道やパイプラインは揺るがせている。


 現在、東アジアでアメリカの戦略に従っている数少ない国のひとつが日本。その日本に対し、プーチンは前提条件なしで平和条約を結ぼうと日本側へ提案したという。ソ連/ロシアと中国の制圧を長期戦略の中心に据えているアメリカは日本がソ連/ロシアや中国と友好関係を結ぶことを許さない。プーチンも当然、そうしたことを熟知している。アメリカの政策で疲弊している日本へのちょっとしたメッセージだ。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809120000/


米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その2)


 アメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高めようとしてきた。2009年に総理大臣となった鳩山由紀夫は東シナ海を「友愛の海」にしようと提案したが、これはアメリカ支配層を激怒させたことだろう。その後、日本ではマスコミが鳩山を攻撃、鳩山は2010年に首相の座から引きずり下ろされた。


 そして登場した菅直人内閣は中国との関係を破壊する。2010年に「日中漁業協定」を無視して石垣海上保安部は中国の漁船を尖閣諸島の付近で取り締まったのだ。それ以降、日本は中国に敵対する国になった。


 こうした政策は日本の企業に打撃を与える。中国は日本企業にとって重要なマーケットだったからだ。アメリカの中東政策は石油価格を暴騰させる可能性があるのだが、これも日本にとっては大問題。ロシアという中東より低コストで安定的なエネルギー資源の供給源が日本の近くに存在するが、ロシアとの関係を深めることをアメリカ支配層は許さないだろう。


 こうしたアメリカの政策は一貫したもの。1955年6月に鳩山一郎内閣はソ連と国交正常化の交渉を始めた。その一方、重光葵外務大臣(副総理)は同年8月に訪米してジョン・フォスター・ダレス国務長官と会談、「相互防衛条約」の試案を提示した。


 その試案の中で「日本国内に配備されたアメリカ合衆国の軍隊は、この条約の効力発生とともに、撤退を開始」、「アメリカ合衆国の陸軍及び海軍の一切の地上部隊は、日本国の防衛6箇年計画の完遂年度の終了後おそくとも90日以内に、日本国よりの撤退を完了するものとする」としている。


 日本とソ連は「歯舞、色丹返還」で領土問題を解決させる方向で動き始めたのだが、ダレス米国務長官は激怒、2島返還でソ連と合意したらアメリカは沖縄を自国領にすると恫喝したという。沖縄は歴史的に独立国であり、その意味でもアメリカの姿勢は傲慢だ。


 こうした恫喝はあったが、鳩山首相は1956年10月、河野一郎農相をともなってモスクワを訪問、鳩山首相とニコライ・ブルガーニン首相(ソ連閣僚会議議長)は日ソ共同宣言に署名して12月に発効した。それにタイミングを合わせるように鳩山は引退する。


 鳩山一郎の辞任を受けて行われた自民党総裁選でアメリカは岸信介を後押しするが、中国やソ連との交流を促進しようとしていた石橋湛山が勝つ。その石橋は2カ月後に病気で倒れ、首相臨時代理を務めることになったのが岸。翌年の2月に岸は首相に選ばれた。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130000/


米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その3)

 明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。


 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。


 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。勿論、イギリスやその後継者であるアメリカの支配層(巨大資本)の利益に反することを日本が行えば「制裁」されることになる。


 イギリスは他国を侵略するため、傭兵を使ったり第3国に攻撃させたりする。例えば、インドを支配するためにセポイ(シパーヒー)と呼ばれる傭兵を使い、アラビア半島ではカルトのひとつであるワッハーブ派を支配が支配するサウジアラビアなる国を樹立させ、パレスチナにイスラエルを建国させている。


 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。


 このイギリスの主体は金融界、いわゆるシティ。1923年の関東大震災で日本政府は復興資金の調達をアメリカのJPモルガンに頼るが、この銀行の歴史をたどるとシティ、より具体的に言うとロスチャイルドへ行き着く。アメリカの金融界はウォール街とも呼ばれるが、そのウォール街でJPモルガンは中心的な立場にあった。


 このウォール街を震撼させる出来事が1932年に起こる。この年に行われた大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。ニューディール派は巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を認め、ファシズムに反対するという看板を掲げていた。巨大企業の金儲けを優先させ、労働者から権利を奪い、ファシズムを支援するウォール街とは考え方が正反対だった。圧倒的な資金力を持つウォール街の候補、現職のハーバート・フーバーが敗北したのは、言うまでもなく、それだけ庶民のウォール街への反発が強かったからだ。


 1933年から34年にかけてウォール街はニューディール政権を倒すためにクーデターを計画、この計画はスメドリー・バトラー海兵隊少将によって阻止された。こうしたことは本ブログで繰り返し書いてきたとおり。庶民の反発はニューディール派より巨大資本に批判的だったヒューイ・ロング上院議員への人気につながるのだが、このロングは1935年に暗殺された。


 ロングは当初、ルーズベルト政権を支持していたのだが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になったなら、ウォール街を含む支配層は大きなダメージを受けることになり、内戦を覚悟でクーデターを実行することになっただろう。


 そうしたウォール街の強い影響を受けていたのが関東大震災以降の日本。JPモルガンと最も親しかった日本人は井上準之助だった。アメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者、団琢磨もアメリカ支配層と強く結びついていた。このふたりは1932年、血盟団によって暗殺された。


 この年、駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと関係が深い。つまり、彼のいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻で、グルー自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 第2次世界大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。グルーと親しかった岸信介。その孫にあたる安倍晋三が戦前レジームへの回帰を目指すのは、日本をウォール街の属国にしたいからだろう。


 それに対し、ロシアと中国は関係を強めている。ドナルド・トランプ政権は軍事的にロシアを脅しているが、それに対し、プーチン政権は9月11日から15日にかけてウラル山脈の東で30万人が参加する大規模な演習ボストーク18を実施。​その演習に中国軍は3200名を参加させている​。経済面で手を差し伸べる一方、軍事的な準備も怠らない。


 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。そうした従属関係が日本経済を窮地に追い込んでいる。この矛盾に日本の支配システムがいつまで耐えられるだろうか?(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130001/

▲△▽▼


2018.09.21 自民党総裁選という茶番

 自民党の次期総裁を決める同党国会議員による投票が9月20日に行われ、安倍晋三首相が石破茂を破って3選が決まったという。茶番としか言い様がない。安倍に限らないが、日本の総理大臣は基本的にアメリカ支配層の傀儡にすぎず、彼らの意向に反する人物が選ばれれば強制的に排除される。安倍も石破もそうした類いの人間ではない。


 アメリカ支配層の戦略は国内におけるファシズム化と国外における侵略。本ブログでは何度も書いてきたが、アメリカの巨大金融資本は遅くとも1933年の段階でアメリカにファシズム政権を樹立させようとしていた。そこで、1932年の大統領選挙で勝利したフランクリン・ルーズベルトを排除するためにクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将の告発で明るみに出ている。


 ウォール街からナチス政権下のドイツへ資金が流れていたことも知られているが、そうしたパイプ役のひとりがジョージ・ヒューバート・ウォーカー。ロナルド・レーガン政権での副大統領を経て1989年に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたる。


 アメリカの好戦派がソ連に対する先制核攻撃を作成した1950年代、彼らは地下政府を編成する準備をしている。「アイゼンハワー10」と呼ばれる人びとによって権限を地下政府へ与えることになっていたのだ。


 その延長線上にFEMA、そしてCOGがある。COGは緊急事態の際に政府を存続させることを目的とした計画で、ロナルド・レーガン大統領が1982年に出したNSDD55で承認され、88年に出された大統領令12656によってその対象は「国家安全保障上の緊急事態」へ変更された。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)


 1991年12月にソ連が消滅するとネオコンはアメリカが唯一の超大国にあったと認識、92年2月には国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成する。旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようとしている。中でも中国が警戒され、東アジア重視が打ち出された。


 このDPG草案が作成された当時の国防長官はリチャード・チェイニーだが、作成の中心になったのは国防次官だったポール・ウォルフォウィッツ。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。この長官と次官はネオコンのコンビで、2001年に始まるジョージ・W・ブッシュ政権ではそれぞれ副大統領と国防副長官を務めた。


 唯一の超大国になったアメリカは国連を尊重する必要はないとネオコンは考え、単独行動主義を打ち出す。アメリカの属国である日本に対しても国連無視を強制、1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が作成されてから日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていった。日本人を侵略戦争の手先として利用しようというわけだ。勿論、その延長線上に安倍内閣は存在する。


 安倍は「戦後レジーム」を嫌悪、「戦前レジーム」へ回帰しようとしているらしいが、この両レジームは基本的に同じ。戦後レジームとは民主主義を装った戦前レジーム。関東大震災以降、日本はJPモルガンを中心とするウォール街の影響下にあり、その構図は戦後も続いている。JPモルガンが敵対関係にあったニューディール派のルーズベルト政権は1933年から45年4月まで続くが、この期間は日本の支配者にとって厳しい時代だった。


 1932年に駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて関係が深い。いとこであるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻なのだ。


 グルーは皇室とも深いパイプを持っていた。結婚相手のアリス・ペリー・グルーの曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通い、そこで後の貞明皇后と親しくなったという。


 グルーの人脈には松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。


 松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 安倍晋三が目指す戦前レジームとはアメリカの巨大金融資本が日本を支配する体制にほかならない。彼がアメリカ支配層に従属しているのは当然なのだ。戦前レジームへの回帰とアメリカ支配層への従属は何も矛盾していない。これを矛盾だと考える人がいるとするならば、その人は歴史を見誤っているのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809210000/

▲△▽▼


元徴用工への損害賠償を認めた韓国での判決が日本軍による略奪へ波及するか?
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811040000/
2018.11.05 櫻井ジャーナル

 元徴用工が新日鉄住金に損害賠償を求めた訴訟で、韓国の大法院は10月30日に同社への支払を命じた。大法院は日本の最高裁に相当、これで合計4億ウォンの支払いを命じたソウル高裁の判決が確定した。日本政府は徴用工の問題は1965年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決している」という立場だが、個人の請求権は消滅していないと大法院は判断したのだ。かつて、日本政府もこの事実を認めていた。1965年当時の韓国大統領は1961年5月の軍事クーデターを指揮した朴正熙である。

 第2次世界大戦後、韓国も日本と同じようにアメリカ支配層の影響下にあったが、イギリスの戦略を引き継いだアメリカの目は中国、そしてソ連/ロシアに向けられている。イギリスの基本戦略とも言うべきハルフォード・マッキンダーの論文が発表されたのは1904年だが、侵略して略奪するという基本方針はその遙か前から行われてきた。

 イギリスが侵略の手を東アジアまで伸ばしてきたのは19世紀。1840年から42年にかけてのアヘン戦争、56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)は象徴的な出来事だった。

 こうした戦争でイギリスは中国(清)に勝利したが、内陸部を制圧する力はなかった。当時の主な輸送集団は船であり、主要な港を押さえられたことは清にとって大きな痛手だったが、占領されたわけではない。

 占領のための地上軍として機能したのは日本軍だ。現在の中東でアル・カイダ系武装集団、ダーイッシュ(イスラム国、IS、ISIS、ISILとも表記)が果たしている役割と似ている。だからこそ、米英の支配層は戦費を融資、技術的な支援をした。外交的にも助けている。あの強欲な米英支配層がこうしたことを行ったのは、その先に自分たちの利権があったからにほかならない。

 日本は東アジアを侵略した際、組織的に財宝を略奪している。その財宝の多くはフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれるが、戦況が悪化してフィリピンから日本へ運べなくなると、フィリピンに隠す工作を始めた。その隠された財宝は後に山下兵団の財宝と呼ばれるようになる。

 もっとも、山下奉文が日本軍第14方面軍の司令官に就任したのは1944年9月のことで、財宝の集積作業は終盤にさしかかっていた。作業を指揮していたのは本間雅晴、田中静壱、は黒田重徳のころだ。ちなみに、田中静壱は関東軍憲兵隊の司令官だったことがあるが、そのときに細菌戦用兵器を開発するための生体実験にかかわっている。

 1945年8月当時、田中の副官だった塚本清(素山)は略奪したダイヤモンドを日本へ運んだひとりと言われ、敗戦後はアメリカ軍と緊密な関係を持っていた。1961年には創価学会の顧問に就任している。

 日本が降伏した後、その隠された財宝のありかを調べる責任者がエドワード・ランズデール。表面的には軍人だが、実際はOSS、戦後はCIAの幹部だ。朝鮮戦争が休戦になった直後にジョン・フォスター・ダレス国務長官はNSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、それを受けてCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成、その団長をランズデールが務めている。その後、キューバに対する破壊活動などを指揮した。

 ランズデールの下で日本人に対する取り調べを行っていたのが情報将校だったサンタ・ロマーナ。このロマーナが親しくしていた女性がイメルダ。ロマーナはイメルダをフェルディナンド・マルコスに紹介、ふたりは結婚する。マルコスは財宝の一部を掘り出して大金持ちになり、大統領になったといわれている。

 そのマルコスのライバルだったベニグノ・アキノ元上院議員が1983年8月にマニラ国際空港で射殺され、社会が不安定化する。アキノへはNEDを通じてCIAのカネが流れ込んでいた。

 アメリカ軍は1986年2月にマルコスを拉致して国外へ連れ出した。その背後ではCIAが蠢いていたのだが、その工作で中心的な役割を果たしたと言われているのがアドナン・カショーギ、リチャード・アーミテージ、ポール・ウォルフォウィッツなど。アドナン・カショーギはジャマル・カショーギの伯父にあたる。

 フィリピン国外へマルコスが連れ出されると、財宝の分け前をよこせという裁判が起こされる。弁護士がでっち上げ事件で攻撃されたりしたが、それでも裁判の過程で財宝に関する情報が明るみに出てきた。

 日本軍が盗んだ財宝は金の百合と呼ばれているが、これとドイツがヨーロッパで盗んだ金塊、いわゆるナチ・ゴールドをアメリカ支配層は一体化させた。いわゆるブラック・イーグルだ。その一部は1960年頃から日本の支配層が運用しているとも言われている。

 この秘密資金は日本やドイツが盗み、アメリカが横取りしたものである。個人の請求権は存在するということになると、この秘密資金を返せという個人の要求が出てきても不思議ではない。




9. 中川隆[-9848] koaQ7Jey 2019年6月02日 08:51:40: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2510] 報告
▲△▽▼

日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」
太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。
http://mayo.blogzine.jp/blog/2008/07/post_3bbd.html



10. 中川隆[-9847] koaQ7Jey 2019年6月02日 08:55:14: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2511] 報告
▲△▽▼

東京裁判では絞首刑になったのは陸軍の軍人ばかりで、海軍で有罪になったのは3人だけだ。さらには米内光政は起訴さえされず不可解だ。単に米英派だったというだけで起訴を免れることが出来るのだろうか? 永野修身も米軍病院で謎の死を遂げているがルーズベルトとの密約をばらされない為の謀殺ではないかという疑いもある。
日本海軍をこのようにみれば大戦中の不可解な作戦もわざと負けるための意図があったと見れば納得がいく。ミッドウェイ海戦も戦力から言えば互角以上の戦力であり負けるはずのない戦闘で負けた。日本側の秘密情報が筒抜けであり、ミッドウェイ作戦も全く意味のない作戦であり、ミッドウェイを占領しても補給がつかない。

ソ連型の敗戦革命は、北進論の放棄と支那戦線の拡大が両輪だった。対ソ戦のみちを封じたうえで、日支を消耗戦にひきこみ、共倒れになったところで、「敗戦から内乱」のセオリーにしたがって、陸軍の一部と革新官僚が、革命軍・ソ連を迎え入れるという筋書きである。

これを、海軍にあてはめると、西方戦略の放棄が、北進論の放棄にあたり、支那戦線の消耗戦が、真珠湾攻撃から南太平洋海戦にいたる海軍の不可解なたたかいに該当する。ちがうのは、敗れた日本を支配するのが、ソ連ではなく、アメリカということだけである。


日米開戦の直前まで、日本の対米戦略は「漸減邀撃作戦」だった。

これは、マリアナ諸島やパラオなど、日本の委任統治領だった赤道以北の島々をまもり、遠路はるばるやってくる米艦隊を、漸次、痛めつけておいて、日本近海で全滅させようというもので、戦略目的は、本土と海路の防衛である。

世界一の戦艦大和と武蔵、質量とも、アメリカ艦隊を上回る空母艦隊と艦上機は、そのためのもので、背後に航空基地をもつ島喚防衛戦で、日本海軍が、遠方からはるばる航海してくるアメリカ海軍に負けるわけはなかった。

真珠湾攻撃も南太平洋の艦隊決戦も、日本が、わざわざ、負けにいったたたかいだった。海軍が、そんな戦略をとったのは、陸軍の親ソ派(統制派)が、支那戦線を拡大させてソ連を救ったようなもので、イギリス仕込みの海軍内部に、チャーチルにつうじるルートがあったとしか考えられない。奇想天外だが、想像をこえているからこそ、敗戦革命は、だれにも気づかれることなく潜行して、あとからふり返っても、歴史的必然としか見えないのである。

日米戦争を指導した海軍の上層部は、すべて英米派であった.

敗戦をとおして、日本は、アメリカの属国のような国になった。戦時中、英米派として憲兵隊に捕らえられ、戦後、首相になった吉田茂は、それを勝利とよび、憲法改正や国防に、いっさい、関心をしめさなかった。

強国の庇護の下にはいることが、長期的には、日本のためになるのだという敗戦革命の思想が、ニューマ(空気)として、国際派や海軍に浸透していたのであれば、海戦前夜から真珠湾攻撃、南太平洋における壊滅的敗北までの、日本海軍の不可解なうごきに、一応の説明がつくのである。


真珠湾攻撃を計画させたのも、ルーズベルトー永野修身のラインがさせた可能性が強い。ルーズベルトと永野修身とはハーバード大学で二つ違いの同窓生だった。山本五十六もハーバードの同窓生でありこの三人が共謀すれば真珠湾攻撃は成功間違いなしだ。まさにハーバードは日本にとって疫病神であり、竹中平蔵も榊原英資もハーバード出で、まさに対日スパイ工作員の養成所なのだ。

海軍は三国同盟が結ばれるまでは開戦に反対していましたが、それが主戦論になってからは、御前会議などでも陸軍の思惑とは反対に超楽観的な見通しを述べて戦争へ突き進んだ。しかしシュミレーションでは日本海軍が連戦連勝でも二年もすれば燃料がなくなり軍艦は鉄の棺桶になってしまう。海軍が正直にアメリカと戦争しても勝てないと言ってくれれば開戦は防げた可能性が強い。

このように海軍の最高幹部が無責任極まりない発言を繰り返した背景には、永野や米内などはアメリカと共謀して「敗戦革命」を企んでいた可能性すら伺えるのだ。もちろん海軍だけではなく、外務省の吉田茂や白洲次郎や尾崎秀美など近衛のブレーンとなっているメンバーは「敗戦革命」を企んでいたのかもしれない。


確かに日本は大陸にずるずると深みに嵌って抜け出せなくなり、陸軍は陸軍で身動きが出来ない状況になり中国からの撤兵の目処が立たなくなってしまった。内閣はクルクルと総理大臣が変わり、5,15事件や2、26事件などで政府が軍部を統制することも出来なくなってしまっていた。しかし当時の軍人に当時の世界情勢が分かるわけではなく、海外からの謀略に引っ掛けられて戦争に突き進んでしまった。

このような情勢になれば「敗戦革命」を企むグループが出来てもおかしくないのであり、海軍の中にも米内、永野、山本、井上などのグループが敗戦を承知でルーズベルトと共謀した可能性がある。あるいは知らずに操られたのかもしれない。それほど真珠湾攻撃はアメリカにとっては都合が良かった作戦なのだ。

日本海軍をこのようにみれば大戦中の不可解な作戦もわざと負けるための意図があったと見れば納得がいく。ミッドウェイ海戦も戦力から言えば互角以上の戦力であり負けるはずのない戦闘で負けた。日本側の秘密情報が筒抜けであり、ミッドウェイ作戦も全く意味のない作戦であり、ミッドウェイを占領しても補給がつかない。

「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」という本に書いてある通りに、海軍の戦略や作戦には不可解な事が多く、このような疑問は最近になって指摘されるようになった。アメリカとの開戦は避けてインド洋に進む戦略をとれば、ドイツとの連携で勝てる見込みもあったと考える。開戦理由が石油の確保というのならばインドネシアはもとより中東の油田地帯の占領も考えるべきだったが、そのような作戦は全く検討されなかった。


山本五十六を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢したのが永野海軍大臣で、山本海軍次官を連合艦隊司令長官に送りこんだのは、当時、海軍大臣だった米内である。

軍人である艦隊司令長官に、日米開戦の責任をおしつけるのは、筋違いである。真珠湾攻撃は、責任者が永野で、実行者が山本、陰であやつったのが、米内だった。戦後、GHQの協力者となった米内光政を、平和主義者として立てる論調が、とくに、親米保守派や文壇の大御所周辺でつよくなったため、そのことを、だれもいわなくなっただけの話である。

支那戦線拡大論者でもあった米内が、根回しして、対米主戦論者の永野が号令をかけたからこそ、対米非戦論者だった山本が、「ーこうなったら」と、掌を返したように真珠湾攻撃へつきすすんでいったのである。

ハーバード大学留学組で、長年の駐米武官を経験して、アメリカに友人や知已が多かった永野が、なぜ、やみくもに、アメリカと戦争をしたがったのであろうか。

戦後、だれも、真珠湾攻撃のふしぜんさを口にしない。真珠湾を攻撃しなければ、日本は、日米戦争に勝てた、ということも。それが、永野の怪死によって封じられた、日米戦争最大のタブーだったからである

当時、海軍内には、対米非戦派を中心に、山本五十六を海軍大臣に立てて、日米たたかわずの姿勢をはっきりとうちだすべき、という空気がつよかった。このとき、米内が、とつぜん「陸軍や右翼に狙われているので、海上勤務にする」と、山本を連合艦隊司令長官に任命、旗艦長門に送りこみ、真珠湾攻撃のプランを練らせる。


ルーズベルトも、二つ年下の永野が留学していたハーバード大学の卒業で、二人のあいだに、同窓会パーティなどで、接触がなかったと思うほうがふしぜんだろう。

日本にとって、百害あって一利もなく、アメリカにとって、参戦の切り札になる真珠湾攻撃について、永野とルーズベルトのあいだに、密約があったとすれば、戦後、アメリカが、永野を生かしておくだろうか。

戦後、GHQから、「なぜ、自決しなかったのか」と問われて、「陸軍の真似(阿南の切腹)と思われるのが不本意だったから」とのべた永野が、戦犯で収監中、巣鴨プリズンで風邪を引き、治療のために収容された米陸軍病院で、急死した。

当時、だれも謀殺の疑いをもたず、たとえ、もったとしても、口にはだせなかったろう。東京裁判で、ルーズベルトとのあいだに密約があったと、永野が証言したら、ルーズベルトが、真珠湾攻撃をあらかじめ知っていたどころの騒ぎではない。東京裁判で、日本側の被告は全員無罪になり、アメリカの原爆投下、都市空襲の非人道性が、あらためて、問われることになったはずである。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/405.html


山本五十六を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢したのが永野海軍大臣で、山本海軍次官を連合艦隊司令長官に送りこんだのは、当時、海軍大臣だった米内である。

真珠湾攻撃は、責任者が永野で、実行者が山本、陰であやつったのが、米内だった。支那戦線拡大論者でもあった米内が、根回しして、対米主戦論者の永野が号令をかけたからこそ、対米非戦論者だった山本が、「ーこうなったら」と、掌を返したように真珠湾攻撃へつきすすんでいったのである。

ハーバード大学留学組で、長年の駐米武官を経験して、アメリカに友人や知已が多かった永野が、なぜ、やみくもに、アメリカと戦争をしたがったのであろうか。

戦後、だれも、真珠湾攻撃のふしぜんさを口にしない。真珠湾を攻撃しなければ、日本は、日米戦争に勝てた、ということも。それが、永野の怪死によって封じられた、日米戦争最大のタブーだったからである

当時、海軍内には、対米非戦派を中心に、山本五十六を海軍大臣に立てて、日米たたかわずの姿勢をはっきりとうちだすべき、という空気がつよかった。このとき、米内が、とつぜん「陸軍や右翼に狙われているので、海上勤務にする」と、山本を連合艦隊司令長官に任命、旗艦長門に送りこみ、真珠湾攻撃のプランを練らせる。


ルーズベルトも、二つ年下の永野が留学していたハーバード大学の卒業で、二人のあいだに、同窓会パーティなどで、接触がなかったと思うほうがふしぜんだろう。

日本にとって、百害あって一利もなく、アメリカにとって、参戦の切り札になる真珠湾攻撃について、永野とルーズベルトのあいだに、密約があったとすれば、戦後、アメリカが、永野を生かしておくだろうか。

戦後、GHQから、「なぜ、自決しなかったのか」と問われて、「陸軍の真似(阿南の切腹)と思われるのが不本意だったから」とのべた永野が、戦犯で収監中、巣鴨プリズンで風邪を引き、治療のために収容された米陸軍病院で、急死した。


 日本は、国家としてあろうことか、日本軍閥の中には、利敵行為を働く買国奴を戦争指導者と仰(あお)ぎ、太平洋戦争を戦わねばならなかったのです。

各々の局面は、日本軍はいつも決定的な失策を犯し、戦局が次第に暗転していきます。
 こうした失策を犯すのは、ある特定の人物ばかりであり、これを詳しく調べると、その人物の指導によって、日本軍は決まって壊滅的な打撃を受けているのです。

かつての旧陸海軍の兵隊の士気、下士官教育の優秀さ、空母や戦艦の造船技術を以てしても、あるいは航空機にしても、兵器や物量の所有数においても、日本はアメリカを凌駕(りょうが)出来るくらいの物を持っていたのです。

 そうであるにもかかわらず、このような悲惨な負け方をして、広島・長崎に人類初の原子爆弾が落とされると言う非人道的な行為を頭上に受け、最後までズルズルと負け戦を強(し)いられねばならなかったのでしょうか。

 このような負け方をする理由は唯一つ、それは戦略や作戦に携わった司令官や参謀達が無能であったという以上に、陸海軍の中枢に敵と通じ、日本が敗北する事を望んだ奸計(かんけい)を働く者が居たからです。日本は、日米開戦を戦う前から敗れていたのです。


▲米内光政。早々と日本を敗戦に導いた大戦末期の海軍大臣。日本軍敗北には必ず絡んでいた。

▲連合艦隊司令長官・山本五十六。ミッドウェー海戦で、白村江の鬪い以降の大負けをし、日本海軍を大敗北に導いた。

▲服部卓四郎。陸軍のあらゆる重大な作戦に関与し、利敵行為を働いて、敵軍に塩を送り、日本軍を敗北に導いた。

▲陸大出身のエリート・辻政信も、大いに利敵行為を働いたが、連合軍のBC戦犯容疑で指名されなかったのは米軍に恩を売った為か。

▲第一機動部隊参謀長・草鹿龍之介海軍中将。南雲・草鹿コンビで、負け戦を展開した。

▲第二艦隊司令長官・栗田健男海軍中将。レイテ湾突撃を目前にして、戦艦「榛名」麾下艦隊を、謎の北への反転を命令した。

http://www.daitouryu.com/iyashi/shinizama/shinizama29.html


山本五十六は日本海軍を壊滅させた大功労者

山本五十六は軍国主義化した日本を是正し、民主主義国家にすべく、アメリカと手を握った。 なぜハーバード大学まで出た彼があのような痴呆のような作戦を立て続けたのか? 帝国海軍か゛まけるよう負けるよう仕組んだとしか考えられない

そして、連合艦隊司令長官として「わざと負けるように」作戦指導をした。
真珠湾で空母を逃したのも、強引にミッドウェー作戦を進めたのも、
日本を劣勢にするためである。

その後、山本の思惑通りに海軍は壊滅。日本は敗戦を迎える。

宇垣も山本五十六の有力な協力者で、彼の「作戦」が成功するよう参謀長として尽力しており、まさしくその「作戦」は大成功を収めたのである。

スパイといっていいすぎなら間違いなく国賊だ。 あのでたらめな作戦を見ろ ミッドゥェ−の時だって空母にほとんど護衛をつけてないじゃないか
沈めてくれと言っているようなものだ

又自分でガダルカナルまで戦線を拡大しながら自分は一度も救援にいってない。 トラック島という安全地帯で毎晩クーラーのきいた超ゴージャスな戦艦大和の最上階で部下の死闘もなんのその毎晩英国料理をたらふく食って太ってしまったというてはないか


真珠湾攻撃の計画はもともと「世界支配層」およびアメリカ、それに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画であった。

  山本五十六は、連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官の頃からアメリカ側と連絡をとり、もし日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、アメリカの対独戦を合理化させると同時に、日本へのアメリカ国民の参戦気分を一気に高揚させるという計画を練り上げたに違いない。

 アメリカ側でこの計画を推進したのはもちろんフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そしてこの計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。

 日本側でこの計画を知っていたのは、山本五十六以外にはほんのひと握りの人間であろう。それはもと首相や海軍大臣、そして外務省の高官たちなど最高度の機密を保てる者に限られていた。

  山本長官はこの計画を実現させるためにいろいろな手を打った。開戦の年昭和16年(1941年)夏の時点では、真珠湾攻撃で使用する予定の軽魚雷はまだ開発中であったし、9月初旬においても攻撃用の直接部隊は不足していた。山本長官は画策の末、こうした戦術面での問題を11月の末にはすべて解決した。


ところが肝心の永野修身軍令部総長ら海軍首脳部はこぞって反対であった。海軍上層部はまだ日米開戦に躊躇し、真珠湾攻撃が実際にどれだけ効果をあげられるか疑問を持っていたのである。日本がアメリカを仮想敵国としたのは明治40年(1907年)4月に「帝国国防方針」が制定されてからであるが、日本の陸海軍が立案した正式な作戦計画の中にはハワイ攻略は含まれていない。攻略の対象はせいぜいグアム島どまりだったのである。

  昭和15年(1940年)ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、それまで西海岸カリフォルニア州のサンディエゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第2次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである。

 日本を敗戦に導いた山本の謀略とは            [TOP]

  山本五十六連合艦隊司令長官が3年8カ月に及ぶ太平洋戦争の中で、実際に艦隊を指揮したのは真珠湾攻撃の始まった昭和16年12月8日からブーゲンビル島上空で「戦死」する昭和18年4月18日までの1年4カ月である。

  この間に山本長官は偉大なる貢献を「世界支配層」陣営に行なった。その貢献とは何であったかである。山本長官は太平洋戦争が日本の敗北で終わることを望んでいた。日本を敗北させることが山本五十六の役目だったのである。

  そのためには日本が圧倒的優位を誇る連合艦隊を速やかに壊滅させる必要があった。そしてもう1つは、アメリカの太平洋艦隊に対し常に手ごころを加え、その戦力を温存させることであった。このため山本長官が取った手段は次の通りであった。


● 海軍軍令部の強い反対を押しきって真珠湾攻撃を強行。
  ただしその攻撃は不徹底なものとする。
    忠実なる配下の指揮官  南雲忠一中将(第一航空艦隊司令長官)
                   草鹿龍之前少将(第一航空艦隊参謀長)
                   源田実中佐(第一航空艦隊参謀)

● 珊瑚海海戦で米海軍に手ごころを加える。米空母「ヨークタウン」撃沈せず。
    忠実なる配下の指揮官  井上成美中将(第四艦隊司令長官)
                   原忠一少将(第四艦隊空母指揮官)

● ミッドウェー海戦で連合艦隊大敗北を画策。
   忠実なる配下の指揮官   南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
                   草鹿龍之肋少将(機動部隊参謀長)

● ソロモン海戦でガダルカナル大敗北の原因を作る。
   忠実なる配下の指揮言   三川軍一中将(第八艦隊司令長官)
                   南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
                   草鹿龍之助少将(機動部隊参謀長)
                   原忠一少将(軽空母「龍驤」指揮官)

● 「い」号作戦で日本の南東方面航空兵力を潰滅させた。


いずれの海戦においても忠実なる配下の凡将、愚将、怯将である南雲中将、草鹿少将、源田参謀、井上中将、原中将、三川中将などを長期にわたって使い続け、「攻撃の不徹底」ないしは「手ごころ」を加えさせている。

  さらに大事なポイントは、海軍が使用していた暗号電報をアメリカ側に筒抜けにさせていたことであろう。山本長官はアメリカが日本海軍の暗号電報をすでに解読し、連合艦隊のあらゆる作戦行動を見抜いていたこともあらかじめ承知の上で、作戦を強行したふしがある。

真珠湾攻撃のときもそうであるし、モレスビー攻略作戦(MO作戦)における珊瑚海海戦は不充分な戦果に終わった。ミッドウェー海戦(MI作戦)の時も、アメリカ側に充分な情報と対応のための準備期間を与えていたと考えられる。

  長期間に及んだソロモン海戦のときも日本の艦隊や輸送船、飛行隊の動きはすべてアメリカによって把握されていた。結局日本海軍は山本五十六の意図によってその初期戦力を激滅させていたのである。

  この偉大なる「功績」により山本長官の役目は一通り終った。そして姿を消す時期がやってきたのである。ブーゲンビル島上空における「戦死」がそれである。アメリカが暗号解読をしていることを承知の山本五十六は、前線視察と称して連合艦隊司令部から一式陸攻に搭乗してブーゲンビル島のブイン飛行場に向かったのである。

  山本五十六連合艦隊司令長官はこうして戦線から姿を消すのであるが、山本長官とともに1年4カ月の海戦を戦った将官たちは、その極度な無能ぶりにもかかわらず戦後さまざまな戦記作家によっていずれも名将、名参謀としてたたえられている。


  日本が開戦したときのアメリカとの国力は1対10の比率であったと言われる。  このために日本が戦争したのは無謀であったとか、やがては負ける運命であったなどという意見があることも事実だ。だが、日本があらゆる海戦で勝利をおさめていれば(それは可能であった)アメリカの戦意が喪失し、休戦、和平交渉の道も可能だったのである。

http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/105.html


●真珠湾奇襲攻撃でルーズヴェルトに協力

連合軍隊司令長官に就任した山本五十六は日米開戦は最早避けられない物として何時の間にか「真珠湾攻撃」を口にする様になる。

 欧州では既に昭和14(1939)年9月3日、第二次世界大戦が勃発して独国が破竹の進撃を続けていた。欧州で苦戦を続ける英仏を救済し米国を参戦させる事は米国大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトの基本戦略であった。ルーズヴェルトは英首相チャーチルと共謀して日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせて米国の世論を激Vさせ、其の怒りで対独伊戦、対日戦を正統化しようと目論んだ。

 山本五十六はルーズベルトとチャーチルに協力してハワイ奇襲の構想を練ったのである。  山本五十六が連合艦隊司令長官に就任して半年余り経った昭和15年3月、真珠湾攻撃を想定した実戦さながらの電撃訓練が行われた。

 五十六の乗る連合艦隊旗艦「長門」そして「陸奥」及び空母「蒼龍」を目標に艦上攻撃機、双発陸上攻撃機、急降下爆撃を行う艦上爆撃機等81機が上空低空から襲いかかり模擬魚雷等を撃ち込んで三隻とも撃沈間違い無しの戦果を上げたのである。山本長官は此の時「飛行機でハワイを叩けないものか」と呟いたと云う。山本五十六は昭和16年1月、及川古志郎海軍大臣に宛てた私信の中で次の如く述べている。

 「日米戦争に於て我の第一に遂行せざるべからざる要項は、開戦劈頭
 敵主力艦隊を猛撃撃破して、米国海軍及米国民をして救ふ可かざる程
 度に、其の士気を阻喪せしむ事是なり。此の如くにして、初めて東亜
 の要衝に占居して不敗の地歩を確保し、依て以て東亜共栄圏も建設維
 持し得べし」

 五十六の計画の中には、既に機動部隊に依る真珠湾攻撃の具体的構想があったのである。
 1月下旬、連合艦隊司令部は真珠湾攻撃の研究を開始、第11航空艦隊参謀長の大西瀧治郎少将に極秘で此の研究を依頼した。大西は五十六と同じ思想を持つ航空主兵、艦隊無用論者であった。

 ハワイ奇襲攻撃の猛訓練は鹿児島県志布志湾を中心に行われた。

斯うして訓練に訓練に重ねた第一航空艦隊(空母6隻を中心とした機動部隊。司令長官は南雲忠一中将)は択捉島単冠湾に集結、昭和16(1941)年11月26日秘かにハワイに向けて出航した。日本時間12月8日午前3時25分、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴の6隻の日本空母から発進した第一次攻撃隊183機はハワイ・オアツ島パール・ハーバーにある米国太平洋艦隊の基地を奇襲した。

 ハワイ真珠湾攻撃を米国大統領ルーズヴェルトは事前に知っていた。日本の外務省が使用していた『紫暗号(パープル)』は盡く米国に筒抜けであったが、此のあには日本に暗号解読の協力者がいたと見なければならぬ。

 真珠湾に集結していた米太平洋艦隊は主な物で戦艦アリゾナ、オクラホマ、ウェスト・ヴァージニア、カリフォルニア、ネバダ、テネシー、メリーランド、ペンシルヴェニアの8隻、重巡ニューオルリンズ、軽巡ローリ、ホノルル、ヘレナの3隻そして駆逐艦ショー、カシン、ダウンズ、オグララ、ドックの5隻総計17隻である。

 ところが不思議な事に空母レキシントンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはウェーキに矢張り飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガは米国本土西海岸にいた為に無事であった。

 被害を受けた戦艦は何れも1910〜20年代に就任した旧式艦であり、しかも真珠湾に沿って態々攻撃し易い様に一列に並べて停泊してあった。戦艦アリゾナは撃沈、他の艦は転覆、海底沈座、大破、中破、小破等の被害を受けたが、真珠湾は海底が浅く、海底に沈座した戦艦等は何れも引き上げが容易で短期間の内に修理、再就役し太平洋戦争中期からは攻撃力を発揮したのである。

 斯うして見ると真珠湾攻撃と云うのは一種の茶番劇であった事が分かる。山本五十六は真珠湾攻撃の「大成功」に依り英雄視されているが、其の結果残った物は「日本の卑怯な欺し討ち」と云う非難と米国の対日積極参戦の意識高揚そして今も観光地ハワイの真珠湾海底に沈む戦艦アリゾナの残骸だけである。此の時死んだ米国兵2403名は今でも米国人にとって対日憎悪の対象と為っている。


●最終通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世

真珠湾攻撃には幾つかの不可解な事が起こっている。一つは宣戦布告の通知が遅れた事、そしてもう一つは攻撃の不徹底さである。通知が遅れた件に関しては此れは最初からそう仕組まれたものであったと云う他は無い。

 日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合う物であった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をワシントン時間、12月7日、午後1時に行うものであっス。ところが野村、栗栖大使が実際に其れをハル国務長官に手交したのは午後2時であり、其の時真珠湾は既に猛火と黒煙に包まれていた。最後通牒の手交が何故遅れたかに就いては尤もらしい説明が付けられている。

 対米最後通牒の電報は14通から成り、其の内の13通は米国の12月6日中に日本大使館に到着し、既に電信課に依って暗号解読され、其の日の内に書記官に提出されていた。残り、即ち最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。

 其の時の大使館員の様子は次の如くであったとされる

◆14通の電報は2種類の暗号を重ねた2重暗号であり、最初の13通は
 12月6日午後1時から入電を開始、粗同時に専門の電信官に依って暗
 号解読が始まった。午後8時半あ事務総括の井口貞夫参事官が解読作業
 中の若手外交官達を誘って行き付けの中華料理店”チャイニーズ・ラン
 ターン”の一室で夕食会を開く。此れは寺崎英成1等書記官の中南米転
 任送別会を兼ねていた。

◆7日、早朝13通分の電文タイプを開始、寺崎一等書記官は妻グエンと娘のマリコ、及び妻の母と共に郊外に車旅行、連絡も付かない状況であった。


◆7日の朝、大使館の電信課宿泊員で若い熱心な基督教徒である藤山楢一
 は14通目の電報ともう一通の「最後通牒」の手交時間訓令の電報を入
 手したが、其の日は日曜日であった為、教会の礼拝に出掛け、電信課の
 責任者であり前夜宿直していた奥村勝蔵首席一等書記官及び松平康東一
 等書記官に対し連絡を怠った。

 14通目の電報が7日の何時から暗号解読され始めたかの公式記録は無い。だが前日に受信した13通の電報が既に解読されており、事の重大性に大使館全員が気付かぬ筈は無い。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、其れ以前の13通分に就いても事前にタイプを済ませて何時でもハル国務長官に提出出来る様にして置くのが当然であったろう。だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半あからであり、14通目の暗号解読が終ったと推定される午前10時あ迄は奥村一等書記官に依るのんびりした調子(ペース)であった。

 ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時間が午後1時である事が解り、大使館は騒然と成った。だが日本の外務省から秘密保持の為タイピストを使わぬ様指示されていた日本大使館では慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、栗栖大使が手交しスのは1時55分であった。

 此の外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむのである。
 先ず外務省であるが、僅か残り数行に過ぎない14通目と最後通牒文である第901号電を何故態々其れ迄の13通より遥かに遅れて発信したのか。更に此の重要な時期に何故寺崎一等書記官を転任させる処置を取ったのか。又何故秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか等である。

 大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が丸で事の重大性を弁えぬ無神経、且つ怠慢な動きを取っている事である。此れは一体何を物語るものであろうか。答は二つ、外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、差もなくば確信犯であったと云う事である。真相は恐らく後者であろう。


戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が帰国するなり吉田茂外相に此の最後通牒手交遅延の責任を明らかにする様進言したが、吉田は結局此の件をうやむやに葬り去ってしまった。吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶の一人フリーメーソンであった。当時の日本大使館員達は戦後何れも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。

 日米開戦の最後通牒が遅れ真珠湾攻撃が”卑怯な欺し討ち”になった事で米国人の世論は開戦派が以前の3%から90%に跳ね上がっている。日本の外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。


●不徹底な攻撃で米国を助ける
 ところで「攻撃の不徹底」であるが其れには二つの意味がある。
 一つは真珠湾上の米国海軍艦船に対するものであり、もう一つはハワイ太平洋艦隊海軍基地の陸上軍事施設に対するものである。

 真珠湾攻撃で受けた米国太平洋艦隊の実際の被害状況は当初発表された膨大きなものはではなかった。戦艦八隻の内アリゾナとオクラホマを除き残りの6隻は其の後全て水深15mと云う浅い海底から引き上げられ修理、復旧した後何れも戦線へ復帰して大活躍しているのである。

 又陸上施設に就いては南雲第一航空艦隊司令長官による第一次、第二次攻撃隊は全く手を触れておらず、第三次攻撃隊を出す事も中止している。第三次攻撃に関しては殆どの艦隊幕僚が実行の提案をし、現に第二航空艦隊司令長官の山口多聞少将は第三波攻撃準備を完了していたが、南雲中将や草鹿第一航空艦隊参謀長や源田参謀は愚か、遥か後方の戦艦「長門」で高見の見物をしていた山本五十六連合艦隊司令長官迄が其の必要性を認めていないのである。


若し、此の時第三次攻撃を敢行し、艦隊に対するもっと徹底した攻撃と、陸上のハワイ空軍基地の格納庫、補給庫、給油施設、武器弾薬貯あ庫、更には米国海軍基地の補給、修理施設、工場郡、燃料タンク郡を破壊しておれば太平洋の戦局は大いに変ったものとなったであろう。

 ハワイが米国の太平洋艦隊の最も重要な海軍基地であった事を考えるならば、此の攻撃不徹底はいかにも奇異な物であると言わなければならない。ハワイの燃料タンクに貯あされていた重油450万バレルを爆撃しておれば米国本土からの補給は数カ月間に亙って不可能となり、米国の太平洋艦隊は身動きが取れなかったのである。

 更にもう一つ付け加えるばらば、ハワイ攻撃の日が何故12月8日であったかと云う事だ。勿論日米交渉の行き詰まり、最後通牒の日程上此の日になったと云うのは一つの説明であるが、山本長官が此の日は真珠湾に米国空母がいない事を予め知っていたからであろう。

 山本五十六はハワイを徹底攻撃する気は最初から無かった。日本が米国を奇襲攻撃し、「卑怯な日本」と云う既成事実を作れば其れで良かったのである。


4、日本兵を大量に無駄死にさせた山本の作戦

●日本の連合艦隊の撃滅が山本の目的

 昭和17年5月、帝国陸海軍はニューギニア進攻作戦を実行する。此の作戦の主目的はニューギニアのポートモレスビーを攻略して此処に強固な前進基地を構築し、米国とオーストラリアの分断を計り、オーストラリアを孤立させる事だった。

 此のあ、大本営では陸海軍の戦略思想の対立が再び深刻化、陸・海軍省及び参謀本部・軍令部で戦争指導計画の再検討が行われ、「今後採ルベキ指導ノ大綱」が妥協に依って3月7日に成立した。そして「戦況の許す限り、出来るだけ早く占領或いは撃滅する必要のある地域」として次の3部に分けられた。

(1)ソロモン諸島のツラギ、及びニューギニア南岸のポートモレスビー
   の基地を占領し、珊瑚礁とオーストラリア北部の支配あを確立する

(2)ハワイ北西の太平洋上に広がるミッドウェー環礁を一挙に水陸両面
   作戦により撃破する

(3)フィジー、サモア、ニューカレドニアを結ぶ線を確保し、米国合衆
   国とオーストラリアとの直接連絡を断つ

 此の内(1)と(2)は山本長官の発案だった。計画(1)の暗号名は「MO」計画(2)は「MI」とされ、此の二作戦が失敗した場合、計画(3)は中止すると云う物だった。斯うして先ず「MO作戦」が山本長官の強い意志で実行されたのであるが、其の真の意図は此の作戦により米国太平洋艦隊を此の海域におびき出して決戦を挑み、日本の連合艦隊を撃滅させる事だった。

@驚くなかれ、山本長官の狙いは米国の太平洋艦隊を撃破する事では無く、其の逆だったのである。ニューギニア進攻作戦そのものは米豪連合軍の激しい反撃に遭って挫折、ポートモレスビーの陸路進攻も失敗するが、進路から此の地を攻略する為井上成美中将の指揮する第4艦隊は珊瑚礁に於て5月7日、8日の両日、米国太平洋艦隊(司令長官チャスター・W・ニミッツ大将)と激突するのである。


此の海戦で日本粗互角の叩き合いとなり、7日の戦闘で日本側は空母「祥鳳」一隻を失い、米側は駆逐艦と油槽艦各一隻、続いて8日は日本側は空母「翔鶴」が被弾、米側は空席「レキシントン」が沈没、「ヨークタウン」は大破した。

 だが此の時井上中将は何故か「ヨークタウン」に止めを指す事をせず、攻撃を中止して北上するのである。此の「ヨークタウン」がハワイの海軍基地に帰り僅か2日間で修理されて2カ月後に起こったミッドウェー海戦に参加、彼の連合艦隊撃滅の立役者となるのである。

 此の珊瑚海海戦で井上成美第4艦隊司令長官の果たした役割は一体何であろうか。其れは「手緩い攻撃」に依って引き起こされた戦術的勝利戦略的大敗北に他ならない。

 しかも真珠湾攻撃同様、暗号は盡く米軍に依って解読されていた。ニミッツに依る空母2隻の急派も日本海軍のMO作戦を全て事前に知っていたからであった。結果として日本軍はポートモレスビーの攻略に失敗、南太平洋の戦局は厳しい物となり、日本軍の限界を示すものとなった。

 昭和17年4月P8日、空母「ホーネット」を発進したドーリットル中佐率いる双発爆撃機B25十六機が日本に向かい、東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、神戸の各都市を爆撃した。此れに依って日本側は死者45名、重傷者153名、家屋全焼160戸、全壊21戸の被害を出した。

 此の「ドーリットル空襲」に大きな衝撃を受けた陸軍部は太平洋に於ける制海あの確保、防空作戦上の見地から太平洋海域に於ける重要拠点の確保詰まり島嶼の領有を検討し始める。

 海軍が主導するミッドウェー(MI)、アリューシャン(AL)両作戦に当初反対であった陸軍は、4月20日此の太平洋方面作戦で海軍と同一歩調を取る事を決定したのである。
 元々太平洋戦争開始に際し、海軍が取って来た戦争指導は早期撃破、戦果拡大であるのに対し、陸軍は長期持久であり、守勢思想の重視であった。「ドーリットル空襲」は結果的に往来の陸軍の作戦指導を変更させる事になった。


●真珠湾もミッドウェーも山本が強引に決行

 真珠湾攻撃の時もそうであったが、ミッドウェー攻略作戦も又山本長官の強引な主張に依って計画されたものであった。山本長官の主張とは昭和17(1942)年中に米太平洋艦隊を誘き出して此れを撃滅する。其の為の餌としてはミッドウェーが最適であり、此処を占領してハワイに脅威を与えれば米国の戦意は著しく衰え、其れに依って和平交渉への道が開かれると云う物であった。

 だが此の計画に対して東京の海軍軍令部は強い反対論を唱えた。其の第一の理由は占領後のミッドウェーの戦略的価値が疑わしいと云う物である。ミッドウェーはハワイから僅か千八百キロしか離れていない上にハワイの陸上基地から攻撃機が殺到し、直ぐに奪還されるに違いないし、ミッドウェーを占領しても奇襲以来基地を強化し続けていた米軍への脅威にはならず、米国民の志気に影響を与える事は無く、従って米国が和平交渉を提案する事は有り得ないと云うのである。

 又日本の偵察機の行動半径は1120キロ(ハワイに届かない!忍)に過ぎないので広大な太平洋の真ん中で有効なる偵察任務は果たせないと反論した。
 其れよりもニューカレドニア、フィージー、サモア諸島に対する攻撃を強め、オーストラリアとの分断を謀る方が戦略的価値は高く、米国艦隊も本国基地から強く離れているので、補給困難に陥るだろうとし、米艦隊を誘き出す目的であれば、オーストラリアが自国の海岸線を脅かされる為米国に救援を頼むのは確実である、と強く反駁したのである。

 ところが山本長官は敵の空母勢力を撃破すれば自ら米豪間は分断されるので、先ずミッドウェーで敵の空母を誘き出し此れを必ず撃破して見せると豪語したのである。山本長官の主張は頑なにミッドウェー攻撃一点張りであった。


ミッドウェーが米国最大の海軍基地ハワイの近くであり、戦略的に日本が不利な事は一目瞭然である。にも関わらず、山本長官がミッドウェーに固執し一歩も譲らなかったのはルーズベルトとの間に秘密の協定があり、日本の連合艦隊を此処で破滅させる約束をしていたからに違いない。

 そもそもハワイ真珠湾でq空機による奇襲攻撃を実施し、航空機の持つ破壊力と重要性を態々米国に教えた事のみならず、生産力では圧倒的に勝る米国が此の事を教訓に大量生産の下、航空戦力の飛躍増大を図った事は山本長官の決定的間違い(実は陰謀)ではなかろうか。以後米国はあらゆる戦局で航空戦を挑み、日本を圧倒していくのである。

 ミッドウェー作戦自体も真珠湾攻撃同様山本長官が立案したものであるが、山本長官の表向きの主張はミッドウェー島の攻略と米空母部隊を誘き出した上で、此れと決戦すると云う二つの目的であり、首尾よく米空母部隊を撃滅出来た場合は続いて10月あハワイを攻略すると云う物であったが、真の隠された狙いは日本の連合艦隊を破滅に導く事であった。

 米国は充分に航空戦の練習を積み、山本長官の差し出した獲物に向かって殺到したのである。山本長官の作戦に対し大本営海軍部は大反対であった。だが山本長官は其の反対には全く耳を貸そうとしなかった。最後は山本長官とは腐れ縁であった永野修身軍令部総長の決裁でミッドウェー作戦は認可された。
http://www.asyura2.com/2002/dispute3/msg/413.html
http://www.asyura2.com/08/wara4/msg/253.html


源田実先生も日本海軍を壊滅させた大功労者

[源田]:は真珠湾攻撃時の戦闘機隊総指揮官だった。

映画「トラトラトラ」での源田は、男らしく清清しいキャラクターとして描かれていたが、実際は *中国での海軍用軍需品調達のからみで、あの児玉誉士夫と臭い仲* であった。参議院偽員に何度も当選、贋右翼諸団体のカリスマであったらしい。


源田実は何故上層部にこれ以上空母を作らない様に進言した:

日本は第二次大戦で真珠湾攻撃で米太平洋艦隊の戦艦を、航空機攻撃によってすべて葬り去ったということがありました。

アメリカはこの敗北体験から、戦艦建造を止め、素早く空母中心に艦隊を、
再編成したのです。一方,日本はどうしたのかというと、その後も戦艦大和、武蔵などを相次いで建造し、宝物のように温存し続けたのです。

戦後、この点を不思議に思った一橋大学の野中教授が、元航空参謀で、戦後参議院議員を務めた源田実氏に、直接疑問としてぶつけたときの話が同書に紹介されています。何と!源田実元航空参謀の答えは、

「長年苦労させてきた水兵たちに対して、『もう君らの時代終わった、これからは飛行機乗りの時代だ』とは言えなかったというものであった」


源田によって零戦の防御は軽視された

ゼロ戦の開発に際し、ともに戦闘機パイロットであった、故源田実 (軽量・旋回性能重視の名人向き戦闘機推奨) と故柴田武雄 (速度・航続距離重視) の大論争があったが、スタンドプレイに勝った源田案が重視されたことが、その後のゼロ戦の悲劇の原因になった。


太平洋の島礁で航空機の戦いでした。 日本機は燃料タンクが防弾構造になっていません。 燃料はガソリンですからすぐ発火します。 熟練パイロットを次々と失う結果になります。 現地から防弾構造燃料タンクの要望があがります。 結果は源田実(海軍・戦後参議院議員)が、がたがた云うな!!。一機でも多く生産しようでチョン。  彼の馬鹿さを書くと私が悶絶発狂しそうです。

この非論理的発言で防弾燃料タンク開発を封じ込めたその当人が、昭和50年(1975)に発売された「別冊週間読売」のコラムで海軍では、論理の通っている議論が尊重され ・・・・ 云々。と述べている。 勝手で都合のよいことを書くな!!。

極めつけは、昭和19年9月、海軍は大森仙太郎海軍中将を特攻部長に任命し、同13日軍令部参謀源田実は一通の電報を発した。 「神風攻撃隊ノ発表ハ全軍ノ志気高揚竝ニ国民戦意ノ振作ニ至大ノ関係アル処、各攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊) ヲモ併セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒ度・・・・・」 すなわち、特攻部長を決め、特攻隊名まで決めて人間爆弾となる人選を行っている。 そして突入は10月25日。

この事実をどう説明するのか。  あくまで指導部は特攻隊を「志願」であったという詭弁を弄する。志願ならなぜ1名を除いて佐官の特攻隊員はいないのか。なぜ将官の特攻隊員はいないのか。なぜ、皇室関係者はいないのか。特攻を知らなかったとでも言うのだろうか。単座1名の航空機以外に、艦攻、艦爆の副座にご丁寧にもペアを乗せて特攻させた。佐官、将官が操縦できなくてもペアは組めたはずだ。志願が聞いて呆れる。愚弄するにも程がある。

 殉国の至情に基づく先に航空特攻があった。と公言して憚らない連中に聞きたい。

 彼、源田はこの特攻について戦後、片言隻語触れなかった。 馬鹿らしいのでこれで終わり。 この先は、半藤一利氏著:昭和史(上・下)を読んで知って下さい。 それでないとあなたが馬鹿にみえますよ。
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/entrance/entrance.htm


源田実「 レイテ沖海戦で武蔵(戦艦)が沈んだのは、特攻機の出し惜しみが原因だ 」
http://ch05028.kitaguni.tv/c9474_2.html


山本五十六が航空の先駆者だなんて大嘘です。 日本海軍戦闘機の進捗を阻害したのが山本五十六。その土台となる提案をしたのが源田実。結局、山本五十六につながる連中はおべっか使いのおっちょこちょいばかりそろっている。それらが日本海軍の中枢にいたわけです。あの大戦中に零戦がいかに優秀であったとしても、昭和15年に出まして、小手先のモデル・チェンジだけで、太平洋戦争の第一線の戦闘を6年間もず〜っと使った。そんな文明国があるか。これほど馬鹿なんです。

源田部隊が始まった時に、私は、その時の副長からぜひ来てくれということで、呼ばれていったんです。現場は、もう惨憺たる状況。紫電改の操縦法と紫電の空戦法を指導してくれと。

 差しつかえるから、ほんとのことはあまりいえませんけれどね。惨憺たるものでした。源田が指揮すると、ばったばったとやられていく。冗談じゃない、あんなに戦死者・犠牲者の出た部隊はないんですよ。聞いていたのとまったく違う場合が、軍に関する限り、あまりにも多すぎる
http://www.takjapan.com/newsmakerssakai.htm


源田実先生は戦後も売国を続けてるね  


ポンコツ戦闘機 F104Jを自衛隊に買わせてアメリカから勲章を貰ったんだね:

あの東京大空襲の首謀者、カーティスルメイに勲章を与える運動をしてまで、アメリカに出向き防衛庁が決定していたグラマンG98スーパータイガーをチャブ台返ししてまで大騒動になった「悪夢のような戦闘機」なのである。

その時期、機種選定にF−X選定調査団を率いた人こそ、あの源田実だった。源田実航空幕僚長(自衛隊内の呼称を旧軍でいえば「空軍大将」とでも言うところだろうか)230機、国産されているがこの受注は、御存知三菱重工である。

当時、一機4億円。総額1000億円もの高額の買い物だ。喫茶店で珈琲が20円ぐらいの時代だから今の物価ならば80億円ぐらいなのだろうか。当時防衛庁が、購買の段階でさらに価格が高騰して、青くなったという風聞だ。

笑えるのは、殺人鬼カーティスルメイに勲章をやってまで導入した源田実ご推奨なる冒頭のF104Jは、長距離攻撃大好き米戦略空軍には嫌われて、、、実は、空軍用兵思想には合致しないと、あっというまに蔑視されて早期退役させられたポンコツ戦闘機なのである。

軽制空戦闘機を、あてがわれたのはアメリカの豚が食べたがらなかった、危険なまでの不健康な飼料だったあの脱脂粉乳を、こともあろうに捨てるのが勿体無いと日本の小学生の学校給食に輸出した食糧マフィアらと発想は同じだ。

その片棒をかついだのがポチの頭目のひとり、源田実というのが真相だろう。
F104Jは、その後日本で迎撃専用機に仕立て上げられたが、機体が小さくその機体内部に、全天候レーダーやAAMを装備組み込みするのに大難儀したことが語りつたえられている。飛行機は、購入して飛ばせば良いというものではないのだ。低空をとられれば、操縦不能になりやすいF104は、世界中でよく墜落したものだ。つまり、日本の国防はこのような隙だらけの戦闘機に託されていたのである。
http://plaza.rakuten.co.jp/hint2003/diary/200612300002/


11. 中川隆[-9846] koaQ7Jey 2019年6月02日 08:57:41: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2512] 報告
▲△▽▼

原爆を投下される迄 日本が頑張った訳
第二次世界大戦中、昭和天皇ヒロヒトは、敵国の戦争省最高幹部であるドレイパーから兵器を大量に輸入し、日本軍に高額で売り付け、利益をスイス銀行に蓄財していた。

 天皇とドレイパーは、兵器密売の共同事業者として、兵器販売促進のため日米戦争を行っていた。

 戦後、来日したドレイパーが最初に行った事は、天皇への兵器密売の「売掛金=未払い代金の回収」であった(この点は、天皇の側近であった渡辺武の「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」東洋経済新報社を参照)。

 戦争末期、ドレイパーは、天皇が無条件降伏を申し出ると同時に、「戦争犯罪人として自分を処刑しないで欲しい」と命乞いをした事に対し、天皇の命の保証と戦後における天皇制度の維持を確約し、それと引き換えに、日本に原爆を投下し終えるまで無条件降伏を承認しない、という条件を出した。

天皇は広島・長崎への原爆投下を事前に承認し、それと引き換えに、自分の命と地位の延命を手に入れた。天皇は、自分1人が助かり、それと引き換えに、広島、長崎の市民の皆殺しを喜んで承諾した。

 これが、「同業者、兵器密売企業の共同経営者」天皇とドレイパーの密約である。
http://alternativereport1.seesaa.net/


昭和天皇に入れ知恵した(?)ジョセフ・グルーの正体

アメリカのジョセフ・グルーは1941年日米開戦までの駐日大使であったが、在任中10年間の間に牧野伸顕、吉田茂、樺山愛輔らと深く関わって、牧野らから御前会議の内容や日本政府の極秘事項をスパイさせていた。白洲次郎もその一味である。

 ジョセフ・グルーは、外交史ではよく平和主義者で、戦争末期には天皇制を認めて早期に終戦を図るべき努力したとなっているが、大ウソである。
 以下は、おおむね鬼塚英昭氏の『原爆の秘密(国外編)』(成甲書房)から教わったものだ。

 グルーはアメリカのモルガン財閥の血族の一人である。つまりモルガン財閥が対日工作のために送り込んだエージェントであった。戦争に反対した平和主義者とは、アメリカの走狗となり果てていた当時の(今も)マスゴミによって宣伝された顔なのである。鬼塚氏はグルーを、トルーマン大統領に代わってから実質的な国務長官として、原爆投下に向けてスティムソン陸軍長官と共同歩調をとったえげつない人物として描いている。
 
 鬼塚氏によれば、原爆は国際金融資本グループが第二次世界大戦後の世界で、核兵器で大儲けをする計画でなされた実験であったと述べている。それが長崎に投下されたプルトニウム爆弾であった。広島に投下されたウラン型の原子爆弾はとうに完成していたが、プルトニウムでの原爆は完成に時間がかかった。だからプルトニウム爆弾が完成するまで日本が降伏しないように指示をだしたのはグルーであり、それを日本側の吉田茂、牧野伸顕、樺山愛輔ら(おそらく海軍の米内光政も)に伝える役割を担ったのが白洲次郎であった。

 憲兵隊もそれを掴んでいて、吉田茂とその反戦グループの意味で彼らを「ヨハンセン・グループ」と呼んだ。ヨハンセン・グループは、アメリカのユダヤ国際金融勢力の意を受けたグルーの指示で日本の降伏を引き延ばしていた。
 鬼塚氏は、白洲次郎を「スティムソン陸軍長官(原爆の責任者)とヨハンセンに操られた“プリンシプルのない男”」と称している。

 白洲次郎の父・文平は綿貿易商「白洲商店」を興して巨万の富を築いた人物である。明治時代にハーヴァード大学を卒業しているから、このときすでにイルミナティあるいはユダヤ財閥と関係を持った(工作員となった)はずである。後にドイツのボンに学んだ折、白洲の妻となる正子の父・樺山愛輔と面識を得たということになっているが、次郎も正子も幼少のころから(イルミナティによって)結婚させられる手筈が整っていたと思われる。

 次郎はケンブリッジ大に留学する。学者を目指したとされるがウソだろう。神戸でチンピラやっていて、英国に行っても高級車を乗り回すしか能がない男が学問だなんて笑わせるんじゃない。イルミナティの工作員として教育されるためにケンブリッジ大学に呼ばれたと見るべきであろう。白洲次郎も本格的にイルミナティに取り込まれて、終世ドレイ的契約を交わしたのであろう。
 そのうち親元の「白洲商店」が昭和2年の金融恐慌で倒産して帰国せざるを得なくなる。一方で樺山愛輔も金融恐慌のあおりで理事をしていた十五銀行が閉鎖に追い込まれる。そのせいで米国に留学していた娘の正子も帰国させられ、そこで次郎と正子が出会ったことにされて、結婚に至るのだ。

 次郎はいきなり日本水産の取締に就任する。これも誰かの手が働いたのだろう。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く。ロンドンでは駐英大使・吉田茂と親交を深め、日本大使館の2階が定宿となる。いくら知り合いだからといっても、吉田が白洲を日本大使館に住まわせてやるとは…。ここにもイルミナティ関連の工作が効いているのだ。

 白洲次郎は日水時代に、近衞文麿の政策ブレーンも務め始める。ゾルゲ事件のあの尾崎秀実とともに、だ。いったい実業家とは名ばかりで、政治の勉強をしたわけでもなく、政治家を目指したわけでもない遊び人の男が、どうして近衛文麿首相の側近に食い込んでいけたというのか。白洲は情報を収集しては米英の工作機関に渡し、また指示を受けて近衛首相を操作したと思われる。日本を泥沼の支那事変に没入させ、勝算のない日米戦争に引き込まれたのは、直接的には白洲らの工作によるのである。

 ソ連の工作員だった朝日新聞の記者、尾崎秀実はゾルゲ事件に連座して死刑になったが、おそらく同じような工作を担当していた米英側の工作員・白洲次郎は生き延びて、さらに戦後GHQの手先まで務めたのである。アメリカ側が戦時中に白洲に手を出すなと日本の官憲に厳命した可能性はある。それは白洲も尾崎も同じイルミナティの手先であったが、戦後は冷戦構造を演出しなければならなかったから、イルミナティとしては日本をアメリカの統治下におくので、ソ連系の尾崎は邪魔になったのだろう。尾崎は日米戦を実現させた意味で、勲一等ではあったが、アメリカ系スパイの白洲と組んでいたことがわかれば、まずいからではなかったか。

 ちなみに朝日新聞は、尾崎秀実を「信念の記者」と今もって褒めている。朝日のコラムニスト早野透がそう言っている。尾崎がスパイとして日本を支那事変の泥沼に陥れる工作に加担し、やがては敗戦直前にソ連軍に侵入させて多くの満州・朝鮮にいた日本人を陵辱させた、その人でなし尾崎を朝日は絶賛する。
 
 鬼塚氏は『原爆の秘密(国外編)』で「白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう」と書いている。
 鬼塚氏はよく調べたと思うが、しょせん戦争はすべてユダヤ・イルミナティが仕組む八百長であることが十分わかっていない。八百長には演出家も俳優も必要なだけで、白洲はただの小間使いである。

 Wikipedia にはこうある。

 1950(昭和25)年、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。

 1951(昭和26)年9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ英語から毛筆による日本語に書き直し、奄美諸島、琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還を内容に入れさせた。昭和27年(1952年)11月19日から昭和29年(1954年)12月9日まで外務省顧問を務めた。

 よく言うわ。講和交渉もサンフランシスコ条約も、本来、政治家でもない白洲ごときが口をだせるものではない。全部イルミナティの指示によって白州がお目付役となって随行したにすぎまい。まるで最近の小泉劇場を演出した秘書官みたいだ。

 鬼塚英昭氏は『原爆の秘密』で、日本の敗戦時のポツダム宣言受諾「黙殺」と原爆投下がセットになっていると述べている。これはポツダム宣言が出た直後に、ときの総理・鈴木寛太郎が「黙殺」という言葉を使い、そのため米英国民世論が激昂し、それを受けてトルーマンが原爆投下を決断したとされる一連の動きに関してである。

 鈴木首相が「黙殺」と言ったから、原爆投下の正義、口実が確保されたということになっている。これは、スティムソン陸軍長官からヨハンセン・グループに「黙殺」という言葉を使えと指示が行き、それを受けて鈴木首相が「黙殺」と言わされたのだ、という。

 その「黙殺」という言葉を当時の同盟通信社が「ignore」と訳して世界に発信した。つまりわざわざ人騒がせな刺激的な言葉を選んで、アメリカに原爆投下の口実を与えるよう工作したのである。
 
 その同盟通信社はヨハンセン・グループの樺山愛輔の父・資輔が設立したものであった。樺山愛輔が天皇の意向を受けて「ignore」と訳して返事としたと、鬼塚氏は説いている。そこに樺山の娘婿の白洲次郎が一枚かんでいるかもしれない、と。
 白洲次郎は日本に原爆を投下させる役割を担った悪魔というべきチンピラでしかない。
http://home-and-human-navi.blog.ocn.ne.jp/genki100/cat5132966/index.html


日本の軍事力が壊滅状態に追いこまれ、敗戦がすでに決定的であったときに、米軍が機雷による海上封鎖で日本全土を飢餓状態に追いこむ必要がなぜあったのか。

なぜ米軍は軍事施設や軍需工場は温存して、一般市民を焼き殺す作戦を計画的に強行したのか。

こうした疑問は、戦地に兵隊として動員され生死の境をくぐって帰還した体験者のいまわしい記憶とも響きあい、「あの戦争はいったいなんだったのか」の問題意識をともなって論議が発展している

攻撃の対象は日本の一般民であって、軍部ではなかった

 制海権、制空権を確保したアメリカは潜水艦による日本の輸送船をことごとく撃沈する方針をとると同時に、マリアナ基地からB29による日本本土への空襲を開始。45年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて94都市の家屋・家財を焼き払い、広島・長崎への原爆投下を頂点に70万人を殺傷した。さらに、機雷1万1000個を日本の主要湾岸に投下し、内航・外航の大小の船舶をことごとく撃沈、日本国民を徹底的に飢餓状態に追いこむ作戦を強行するにいたった。

 アメリカの攻撃の対象は、「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、国民全体が“この戦争は負けだ”と思わないかぎり戦いは終わらない」という米軍将校の訓辞に見るように、すでに日本の軍部ではなく、無辜(こ)の非戦斗の人民大衆であった。人民を抑えつけなければ占領支配ができないという意味であった。


 昭和天皇にとっては「国体護持」だけが狙いで,アメリカが原爆を投下してくれた事にも感謝していた

 天皇制政府は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

この時期、日本から和平打診の情報がアメリカの新聞で報道され、沖縄戦のさなかの5月には降服の打診がおこなわれたが、アメリカ政府が公式に拒否した事実も明らかにされている。

 当時、アメリカにとっては、なによりも戦後のソ連の影響力を排除し、日本を単独占領支配すること、そのために日本の人民の反米的要素、革命的な気力を喪失させることが最大の眼目となっていた。45年2月のヤルタ会談で、ドイツ敗北後の3カ月後にソ連が参戦することが約束されたことは、アメリカ支配層がそれまでに計画的に日本を制圧することを至上命令とした。そのために、原爆の開発と日本への投下計画「マンハッタン計画」をおしすすめ、広島・長崎への投下を強行したのである。


昭和天皇は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

アメリカはその理由として、「日本の軍国的国家主義の根絶」と「自由主義傾向の奨励」をあげ、これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。

 プレスコードの「禁止項目」には、「占領軍・占領政策・アメリカ批判」「占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写」「左翼宣伝」などとともに、「飢餓の誇張」などがあり、高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。

 これには新聞・雑誌・刊行物、放送、演劇脚本・映画・紙芝居・幻灯など、言論・文化のあらゆるものが対象とされ、一般市民の手紙・葉書などの郵便物、電報・電話の傍受にいたるまで徹底したものであった。しかも、「民主主義」のたてまえから「検閲が知られるようなことが絶対にないように、それを暗示することもふくめて、残してはならない」ことまで指示。違反したものには、沖縄送りなどのきびしい刑罰を設定していたことも、明らかとなっている。

 日本の商業マスコミ、「共産党」中央指導部、社会民主主義の政治勢力はおしなべて、こうした占領政策を賛美し、人民が戦争体験の真実を語ることを抑圧する支配構造が形成されてきた。この構図は今日まで生きて作用してきたといえる。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/okasinasennsoudaltuta.htm

1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告に直面し、海軍大臣米内光政大将は、1945年8月12日、次のように語った。

「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」(『海軍大将米内光政覚書』:ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)

原爆投下が、昭和天皇の終戦の聖断をもたらしたのではない。敗北続きの軍、国難・生活難に陥れた日本の指導者たちへの国民の反感という世論が、共産主義革命・国体変革という未曾有卯の危機を予感させた。日本の指導者たちは、広島・長崎への原爆投下を、終戦(降伏)する口実としたが、核兵器の恐ろしさや戦後世界の核戦略は理解できなかった。

ソ連は、国体・天皇に敵対する共産主義者の集まりであり、ドイツを打倒した強大な軍事力が日本に向けば、日本は占領され,国体も変革されるであろう。このようなソ連による国体変革の脅威を目前にして、米国への降伏、国体護持を請うたのが、終戦の聖断である。
http://suyap.exblog.jp/5842042


・ロスチャイルド財閥を中心とする国際金融同盟は、原子力に注目し、これに莫大な資金を投資し、ウラン鉱の買収を大戦中に始めていた。原爆の実験はそのために是非とも必要だった。日本がその標的にされた。スティムソン陸軍長官が(このことを)6月8日直前に天皇宛の文書でヨハンセン・グループのルートで送ったとみられる。P511

・あれだけの大惨事を見て、米内海軍大臣は“天佑”だと叫んだのである。天皇も「終戦の詔書」の中で一回触れたが、それからは一言も非難の声をあげなかった。その時だけが例外ではない。P521


・日本にとって、天皇にとって都合のよいことが原爆投下によってもたらされた。

天皇はこの直後に、アメリカから“天皇制護持”の約束を与えられていることだ。

そして、御前会議を開き、ポッダム宣言受諾を決定する。

間違いなく、原爆投下と交換条件である。

アメリカは、アメリカ国内よりも日本での非難を恐れていたと思う。…国際金融同盟の連中は、「さすが、スティムソン、よくやってくれた!」と快哉をあげたことであろう。「これで日本は、永遠に俺たちの奴隷の国になったぞ」と。P522

・天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ではどうして8月6日なのか。それは、この日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。

 この広島の原爆で、第二総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。8月6日8時ごろに、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。この日、間違いなく、第二総軍の全員は、8時ごろに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり、畑元帥のみが、この総司令部に行っていないのである。P524-528
http://www.asyura2.com/07/dispute27/msg/230.html


21、マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。

@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。

ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。

http://www.snsi-j.jp/boards/sirogane/152.html


天皇の原爆しょうがない発言

昭和天皇の原爆しょうがない発言について、当時の新聞にもしっかりと縮刷版に載っていたのだが、ここではそれを「ママオコシ」で文字おこしした内容を示す。これは、現在発売中の鬼塚英昭氏の『日本のいちばん醜い日』に引用された、松浦総三という作家の『松浦総三の仕事』という本からの引用である。この記者会見の模様はユーチューブに動画も何個か落ちている。

この会見の場で、

「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・、エ・・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」

と昭和天皇はコメントし、いきなり話題を変えて、「テレビは観ておりますが、放送会社の競争が激しく・・・」という意味不明のコメントを発して、原爆コメントを吹っ飛ばしている。
http://www.asyura2.com/07/senkyo40/msg/744.html


昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=NQhVOTS0j7A


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/575.html#c4

   前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 中川隆 koaQ7Jey > 100330  g検索 koaQ7Jey

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。