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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100362
http://www.asyura2.com/acpn/k/ko/koa/koaQ7Jey/100362.html
[近代史3] ユダヤ陰謀論とグローバリズムを考える _ ヨーロッパ化されたキリスト教がユダヤ思想の正体で、ユダヤ教やユダヤ人とは何の関係… 中川隆
17. 中川隆[-15259] koaQ7Jey 2019年11月28日 19:39:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2337]
パソコン上には、脱法ポルノが溢れているが、これを喜んで見ていると、キャッシュに記録されたデータだけで性犯罪として検挙される可能性がある。

 とりわけ、欧米では、福音派というキリスト教でありながら、ユダヤ教の戒律派(パリサイ派)のような価値観で、ポルノを監視検挙する集団がいる。

 彼らは、日本で普通に販売されている児童漫画をダウンロードしてパソコンに保管しただけで児童性犯罪者として検挙され、危うく数年の長期刑に服さねばならないところだった。

 https://news.livedoor.com/article/detail/5674893/

 https://www.excite.co.jp/news/article/Slashdot_09_11_11_0645229/

 https://ironna.jp/article/3358

 これまでは、この種の児童ポルノ問題は、主にユダヤ教(福音派を含む)の影響下にある欧米の問題だったが、今では、日本国内でも、似たようなユダヤ教性倫理の戒律が持ち込まれ、児童の定義が12歳だったのが18歳になってしまっている。
 これは世界ユダヤ教グループのグローバルスタンダード工作によるものだろう。

 上に紹介してきた、ネガティブな戒律で人々を拘束する思想は、ほぼユダヤ教徒、それも戒律派=パリサイ派と呼ばれるカルト集団が世界に拡大してきた論理といってもいい。

 ちなみに、イエスの天敵として君臨したパリサイ人の子孫こそロスチャイルドである。世界屈指の金融詐欺集団であるゴールドマンサックス・ソロモンブラザーズも、この傘下にある。

 アメリカでは、これがクリスチャンシオニスト=福音派が代替している。
 人類社会をネガティブな戒律の鎖で雁字搦めに拘束するというのが、ユダヤ教徒の根源=旧約聖書の思想である。

 これが究極のエッセンスとして述べられているのが、旧約聖書のレビ記である。この戒律の凄まじさをご覧いただきたい。
 https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%93%E8%A8%98(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)

 人々から自由を奪い、処刑の恐怖と戒律で拘束し、「自分は犯罪者だ」とネガティブな自己否定に陥らせ、その代償として、宗教的理念への依存精神を与えるというのが、このカルトの常套手段である。

 ちなみに、旧約聖書を絶対聖典としているのが、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の福音派・モルモン教・エホバ派、それにカトリック、そして韓国統一教会で、これらに共通するのが苛酷な戒律主義である。まあ、日本会議も同じ延長上にあると考えた方がいい。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-948.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/504.html#c17

[近代史3] 中国は何時から日本でマスコミ工作・ネット工作をしているのか? _ 赤かぶ氏は中国の工作員グループ 中川隆
10. 中川隆[-15258] koaQ7Jey 2019年11月29日 09:35:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2336]
2019年11月28日
日本マスコミが韓国政府の指示で桜を見る会を追及した疑惑
http://www.thutmosev.com/archives/81591331.html

韓国が困ると野党・マスコミが安倍叩きを始める

例えば現在文在演政権はGSOMIA破棄や反日反米外交が破綻し退陣危機が囁かれています。

日本が韓国への半導体3品目優遇を外しホワイト国からも外したのは7月から8月にかけてでした。

8月23日に韓国はGSOMIA破棄を宣言し、11月23日に失効期限が近づいてきました。

GSOMIAはアメリカが作った安全保障制度で、GSOMIA破棄は「米国との同盟を破棄する」のと同じ意味になります。

期限切れが迫って文在演が追いつめられると、日本の野党とマスコミは降って湧いたように「桜を見る会」が不正だと騒ぎ始めた。

桜を見る会は安倍首相以前からずっとやっていて、鳩山や管もやっていたが、それは無視する堂々の自爆劇でした。

これが無理なのは野党も知っていた筈なのに、まるで文在演が指示したかのように安倍政権を追求した。


こういう事は初めてではなく、朴槿恵がセウォル号事件や洗脳疑惑でピンチになっていた頃、日本では野党とマスコミが森友問題を追及していた。

「天皇は土下座して謝罪しろ」の李明博は2013年2月24日まで大統領だったが、マスコミはそれまで持ち上げていた民主党政権を叩いた。

日本のマスコミは民主党政権が韓国と仲良くするとチヤホヤし、韓国と対立し始めると民主党を叩くようになりました。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/122.html#c10

[近代史3] 日本人のルサンチマンは公務員に向かう 中川隆
3. 中川隆[-15257] koaQ7Jey 2019年11月29日 09:43:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2335]

続 緊縮の王国 2019-11-29 三橋貴明
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12549955803.html


 昨日の続きですが、
「消費税は社会保障の安定化のために使われます!」
 といった綺麗ごとで「消費に対する罰金」が強化され、国民が貧困化し、その上で、社会保障の負担を増やされるのが我が国です。

『75歳以上 医療費2割検討 政府、22年から負担増へ

 医療制度改革で焦点となっている七十五歳以上の後期高齢者の窓口負担を巡り、政府は二十七日、現在の原則一割から二割に引き上げる方向で本格的な検討に入った。七十五歳以上の医療費は伸び続ける一方、費用の四割を現役世代が払う保険料で賄っており、世代間の公平性を確保するのが狙い。負担増には高齢者の反発が予想され、与党との調整は難航する可能性がある。

 政府関係者は二割への引き上げについて「その方向で進んでいる」と語った。安倍晋三首相は二十七日、官邸で加藤勝信厚生労働相と会い、医療を含めた社会保障制度改革について協議した。

 高齢者の自己負担は現在、現役並みに所得の高い一部の人を除いて七十〜七十四歳は原則二割、七十五歳以上は原則一割となっている。七十五歳以上の医療費は約十六兆円に上り、このうちの四割は現役世代が支払う健康保険料からの支援金が占める。団塊世代が二〇二二年から七十五歳以上になり始め医療費の一層の膨張が見込まれるため、政府は七十五歳以上の人の負担を二二年から原則二割に引き上げたい考えだ。(後略)』

 ちなみに、「全世代型社会保障」とは、
「全世代の国民の社会保障を充実させよう」
 とではなく、
「社会保障を建前に、前世代から容赦なく所得や資産を奪おう」
 という意味になりますので、ご注意ください。


 また、例えば高齢者の医療費を引き上げる際に、推進派は、
「高齢者はたくさん医療サービスを受けるにも関わらず、ろくに負担をしていない。現役世代の皆さん、これが許せますか!」
 というルサンチマン・プロパガンダを展開してくる可能性があるので、注意してください。


 公務員を非正規雇用、派遣職員化し、パソナが儲けたいときは、国民の公務員に対するルサンチマンを煽る。

 正規雇用の処遇を引き下げ、非正規雇用と「同一労働同一賃金」にするためには、非正規雇用の正規雇用に対するルサンチマンを煽る。

 農協を解体し、新規ビジネス(というか、既存ビジネスの奪取)にしたいときには、国民の農家、農協に対するルサンチマンを煽る。

 公務員の転職をパソナが「ビジネス」にしたいならば、官僚の「再就職」を批判し、やはり国民の天下りに対するルサンチマンを煽る。

 公共事業を削減したいならば、土木・建設業に対する国民のルサンチマンを煽る。

 診療報酬を引き下げたいならば、国民の医師会や医療関係者に対するルサンチマンを煽る。


 緊縮財政と構造改革のために、国民を分断し、互いに争わせる。


 そして、愚かな国民は、この手のルサンチマン・プロパガンダに軽く引っ掛かり、互いにいがみ合い、ののしりあい、パソナを代表株とするレントとシーカー(政商)のビジネス拡大や、財務省の緊縮財政という省是が粛々と行われる。


 緊縮財政や、構造改革は、デフレ化政策であるため、国民を貧困化させ、困窮させます。デフレという所得の(実質的)縮小に苦しむ国民は、ますますルサンチマンをため込み、プロパガンダに引っ掛かる。


 という、構造がすでにわが国では作られてしまっています。

 高齢者の医療費引き上げでいえば、例えば、
「現役世代が所得減で苦しんでいるにも関わらず、金融資産を貯めこんでいる高齢者たちが医療費を優遇されているんですよ。許せますか?」
 といったプロパガンダになりますね。


 ちなみに、高齢者の「金融資産」が、その他の世代と比べて多いのは確かですが、これは、
「金融資産が多い人の割合が、相対的に高い」
 だけにすぎません。多くの高齢者は、現役世代と比べて裕福に暮らしているわけではありません。


 平成29年版高齢社会白書によると、高齢者世帯の平均等価可処分所得は211.6万円、その他の世帯は307.7万円でした。


 もちろん、高齢者の中には金融資産が十分で、年金もほとんど使わず、優雅に暮らしている人もいるでしょう。とはいえ、それは「その他の世代」も同じですから。


 かつて、消費税議論の黎明期、
「ヤクザから所得税は取れないが、ヤクザもベンツを買うときに消費税を払わざるを得ない。だから、消費税は公正だ」
 といった、よくわからない「直間比率の是正」のレトリックが流行りました。それはまあ、ヤクザもベンツを買うのかも知れませんが、「全体」から見てどれだけの割合を占めるというのでしょう。


 要は、この手の「ミクロな事例」を取り上げ、マクロを変えようとするプロパガンダも使われるという話です。名付けて「木を見せ、森を焼くプロパガンダ」でございます。


 同時に、
「高齢者の医療費負担を増やさなければ、財政破綻で破滅する!」
 といった、恐怖プロパガンダも使われるでしょう。


 さらには、どこかから「〇〇大学教授」を連れてきて、
「日本の高齢者は優遇されている。世界的に見れば、高齢者の負担はどうのこうの」
 と、権威プロパガンダも展開。


 ルサンチマン・プロパガンダ、木を見せ森を見せないプロパガンダ、恐怖プロパガンダ、権威プロパガンダ。


 実は、この手のプロパガンダ手法は、ナチスが共産主義者、社会主義者、ユダヤ人などを迫害するときに使ったものと、まったく同じなのでございます。


 というわけで、特に「国民を分断する」プロパガンダに騙されないようにしてください。

 日本を「緊縮の王国」から脱却させるためには、「違うこと」ではなく「同じこと」を尊び、国民が連携して立ち向かう必要があるのです。とりあえず、同じ日本語でしか生活できない国民同士で、いがみ合うのは絶対にやめましょう。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12549955803.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/713.html#c3

[近代史3] 欧米人が植民地経営の方法として洗練させていった分割統治政策とは 中川隆
25. 中川隆[-15256] koaQ7Jey 2019年11月29日 09:44:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2334]

続 緊縮の王国 2019-11-29 三橋貴明
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12549955803.html


 昨日の続きですが、
「消費税は社会保障の安定化のために使われます!」
 といった綺麗ごとで「消費に対する罰金」が強化され、国民が貧困化し、その上で、社会保障の負担を増やされるのが我が国です。

『75歳以上 医療費2割検討 政府、22年から負担増へ

 医療制度改革で焦点となっている七十五歳以上の後期高齢者の窓口負担を巡り、政府は二十七日、現在の原則一割から二割に引き上げる方向で本格的な検討に入った。七十五歳以上の医療費は伸び続ける一方、費用の四割を現役世代が払う保険料で賄っており、世代間の公平性を確保するのが狙い。負担増には高齢者の反発が予想され、与党との調整は難航する可能性がある。

 政府関係者は二割への引き上げについて「その方向で進んでいる」と語った。安倍晋三首相は二十七日、官邸で加藤勝信厚生労働相と会い、医療を含めた社会保障制度改革について協議した。

 高齢者の自己負担は現在、現役並みに所得の高い一部の人を除いて七十〜七十四歳は原則二割、七十五歳以上は原則一割となっている。七十五歳以上の医療費は約十六兆円に上り、このうちの四割は現役世代が支払う健康保険料からの支援金が占める。団塊世代が二〇二二年から七十五歳以上になり始め医療費の一層の膨張が見込まれるため、政府は七十五歳以上の人の負担を二二年から原則二割に引き上げたい考えだ。(後略)』

 ちなみに、「全世代型社会保障」とは、
「全世代の国民の社会保障を充実させよう」
 とではなく、
「社会保障を建前に、前世代から容赦なく所得や資産を奪おう」
 という意味になりますので、ご注意ください。


 また、例えば高齢者の医療費を引き上げる際に、推進派は、
「高齢者はたくさん医療サービスを受けるにも関わらず、ろくに負担をしていない。現役世代の皆さん、これが許せますか!」
 というルサンチマン・プロパガンダを展開してくる可能性があるので、注意してください。


 公務員を非正規雇用、派遣職員化し、パソナが儲けたいときは、国民の公務員に対するルサンチマンを煽る。

 正規雇用の処遇を引き下げ、非正規雇用と「同一労働同一賃金」にするためには、非正規雇用の正規雇用に対するルサンチマンを煽る。

 農協を解体し、新規ビジネス(というか、既存ビジネスの奪取)にしたいときには、国民の農家、農協に対するルサンチマンを煽る。

 公務員の転職をパソナが「ビジネス」にしたいならば、官僚の「再就職」を批判し、やはり国民の天下りに対するルサンチマンを煽る。

 公共事業を削減したいならば、土木・建設業に対する国民のルサンチマンを煽る。

 診療報酬を引き下げたいならば、国民の医師会や医療関係者に対するルサンチマンを煽る。


 緊縮財政と構造改革のために、国民を分断し、互いに争わせる。


 そして、愚かな国民は、この手のルサンチマン・プロパガンダに軽く引っ掛かり、互いにいがみ合い、ののしりあい、パソナを代表株とするレントとシーカー(政商)のビジネス拡大や、財務省の緊縮財政という省是が粛々と行われる。


 緊縮財政や、構造改革は、デフレ化政策であるため、国民を貧困化させ、困窮させます。デフレという所得の(実質的)縮小に苦しむ国民は、ますますルサンチマンをため込み、プロパガンダに引っ掛かる。


 という、構造がすでにわが国では作られてしまっています。

 高齢者の医療費引き上げでいえば、例えば、
「現役世代が所得減で苦しんでいるにも関わらず、金融資産を貯めこんでいる高齢者たちが医療費を優遇されているんですよ。許せますか?」
 といったプロパガンダになりますね。


 ちなみに、高齢者の「金融資産」が、その他の世代と比べて多いのは確かですが、これは、
「金融資産が多い人の割合が、相対的に高い」
 だけにすぎません。多くの高齢者は、現役世代と比べて裕福に暮らしているわけではありません。


 平成29年版高齢社会白書によると、高齢者世帯の平均等価可処分所得は211.6万円、その他の世帯は307.7万円でした。


 もちろん、高齢者の中には金融資産が十分で、年金もほとんど使わず、優雅に暮らしている人もいるでしょう。とはいえ、それは「その他の世代」も同じですから。


 かつて、消費税議論の黎明期、
「ヤクザから所得税は取れないが、ヤクザもベンツを買うときに消費税を払わざるを得ない。だから、消費税は公正だ」
 といった、よくわからない「直間比率の是正」のレトリックが流行りました。それはまあ、ヤクザもベンツを買うのかも知れませんが、「全体」から見てどれだけの割合を占めるというのでしょう。


 要は、この手の「ミクロな事例」を取り上げ、マクロを変えようとするプロパガンダも使われるという話です。名付けて「木を見せ、森を焼くプロパガンダ」でございます。


 同時に、
「高齢者の医療費負担を増やさなければ、財政破綻で破滅する!」
 といった、恐怖プロパガンダも使われるでしょう。


 さらには、どこかから「〇〇大学教授」を連れてきて、
「日本の高齢者は優遇されている。世界的に見れば、高齢者の負担はどうのこうの」
 と、権威プロパガンダも展開。


 ルサンチマン・プロパガンダ、木を見せ森を見せないプロパガンダ、恐怖プロパガンダ、権威プロパガンダ。


 実は、この手のプロパガンダ手法は、ナチスが共産主義者、社会主義者、ユダヤ人などを迫害するときに使ったものと、まったく同じなのでございます。


 というわけで、特に「国民を分断する」プロパガンダに騙されないようにしてください。

 日本を「緊縮の王国」から脱却させるためには、「違うこと」ではなく「同じこと」を尊び、国民が連携して立ち向かう必要があるのです。とりあえず、同じ日本語でしか生活できない国民同士で、いがみ合うのは絶対にやめましょう。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12549955803.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/297.html#c25

[昼休み52] 意図的な世論誘導報道で悪魔呼ばわりされているシリア アサド大統領 富山誠
106. 中川隆[-15255] koaQ7Jey 2019年11月29日 12:28:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2333]
2019.11.29
米軍が占領しているシリアの油田で盗掘された石油の輸送車をシリア軍が破壊


 アメリカのドナルド・トランプ大統領はシリア北東部の石油を盗み続けるために自国軍によるシリア占領を続けると公言している。アメリカ軍を撤退させるという宣言は事実上、撤回されたと言える。占領を継続する理由として、アメリカの国防総省はダーイッシュ(イスラム国、IS、ISIS、ISILとも表記)から油田を守るためだと11月7日の記者会見で主張した。

 それに対し、記者の中から装甲車も航空機も保有しないダーイッシュから油田を守るためにアメリカ軍がいる必要はないという指摘が出た。さらに記者はシリア軍が油田に近づいたら攻撃する許可を得ているのかと質問、それに対して国防総省の広報官は敵対行為に対する「自衛権」は持っていると答えた。

 言うまでもなく、シリア政府の承認を得ずにアメリカ軍はシリア領内を攻撃し、地上部隊を侵攻させた。つまり侵略軍にほかならない。自分たちには侵略を続ける権利があると言っているわけである。

 油田地帯をアメリカ軍は占領しつづけられるだろうが、盗掘した石油の輸送は誰かに頼まざるをえないだろう。シリアのメディアSANAによると、盗掘された石油をクルドがタンク車を使い、イラク北部を経由してトルコ領へ運び出している。そのタンク車と仮設の石油精製施設をシリア政府軍が11月26日に空爆で破壊した。

 ダーイッシュがイラクからシリアにかけての地域を支配するようになったのは2014年に入った頃だが、そうしたことが引き起こされると​2012年8月の段階でアメリカ軍の情報機関DIAは警告​していた。その時のDIA局長がトランプ政権の最初の国家安全保障補佐官であるマイケル・フリン中将だ。

 その報告書はシリアで政府軍と戦っている武装勢力の中心がサラフィ主義者やムスリム同胞団だと指摘、アル・カイダ系とされるアル・ヌスラ(AQIと実態は同じだと指摘されていた)の存在も記述している。ちなみに、アル・ヌスラの主力はサラフィ主義者やムスリム同胞団だ。

 これも繰り返し書いてきたが、ダーイッシュとアメリカとの関係は深く、その事実はさまざまな人に指摘されてきた。例えばアメリカ空軍の​トーマス・マッキナニー中将​は2014年9月、アメリカがダーイッシュを作る手助けしたとテレビで語っている。

 また​マーティン・デンプシー​統合参謀本部議長(当時)はアラブの主要同盟国がダーイッシュに資金を提供していると議会で発言、10月には​ジョー・バイデン​米副大統領がハーバーバード大学で中東におけるアメリカの主要な同盟国がダーイッシュの背後にいると語っている。2015年には​ウェズリー・クラーク​元欧州連合軍最高司令官もアメリカの友好国と同盟国がダーイッシュを作り上げたと述べた。

 そして2015年8月、アル・ジャジーラの番組でダーイッシュの勢力を拡大させた責任を問われた​マイケル・フリン​元DIA局長は自分たちの任務について、情報の正確さをできるだけ高めることにあると反論。その情報に基づいて政策を決定するのはバラク・オバマ大統領の役目だと指摘している。

 アメリカは自分たちが作り出した怪物を口実にしてシリア占領を続けようとしている。「マッチポンプ」だ。​2005年に故ロビン・クック元英外相は「アル・カイダ」について、CIAが訓練したムジャヒディンの登録リストだと書いている​。

 アラビア語で「アル・カイダ」とはベースを意味し、データベースの訳としても使われる。その中からピックアップされた戦闘員を中心として編成されたのがアル・カイダ系の武装勢力で、その主力はサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団。ジハード傭兵と言うこともできるだろう。ダーイッシュも基本的に同じだ。

 少なくともシリアの場合、ジハード傭兵の雇い主はアメリカだけでなく、イギリス系、フランス系、トルコ系など複数存在している。その雇い主が2016年に分裂し、必然的に傭兵集団も分裂した。分裂した最大の理由は2015年9月末にロシアがシリア政府の要請で軍事介入したことにある。ロシア軍はジハード傭兵を敗走させ、その支配地域を縮小させた。そこでアメリカが新たな手先としたのがクルドだ。

 壊滅状態になったダーイッシュは油田地帯をクルドへ明け渡した。油田地帯の中でもデリゾールを含むユーフラテス川沿いをアメリカは重要視、バラク・オバマが大統領だった2016年9月には近くに迫ったシリア政府軍を空爆して80名以上の兵士を殺害している。勿論、負傷者も多数出た。

 その1年後、デリゾールの近くで作戦を指揮していたロシア軍のバレリー・アサポフ中将が砲撃で殺されている、アメリカ側からアサポフ中将の位置に関する正確な情報が戦闘集団側へ伝えられていた可能性が高い。

 ところで、トルコ政府が雇っているジハード傭兵の主力はムスリム同胞団だと言われている。オバマ政権は傭兵を使った侵略計画PSD-11を作成したのは2010年8月だが、その主力はムスリム同胞団だった。そこで、それを快く思わないサラフィ主義者がムスリム同胞団を攻撃するという事態も生じている。

 トルコは2016年の前半にアメリカ主導の侵略軍から離れてロシアへ接近、7月13日には外相がシリアとの関係正常化を望むと示唆、その2日後にアメリカはクーデターでレジェップ・タイイップ・エルドアンを倒そうとした。

 この軍事放棄が失敗したのは事前にトルコ政府へロシアから警告があったからだ言われている。トルコ政府はクーデターはフェトフッラー・ギュレンの一派が実行したと主張、アメリカでCIAに保護されている同派の指導者、ギュレンを引き渡すようにアメリカ政府へ求めているが、拒否されている。トルコ政府はクーデター計画の背後にアメリカ中央軍のジョセフ・ボーテル司令官やジョン・キャンベルISAF司令官がいたとも主張している。


 このクーデター失敗でトルコ政府とアメリカ政府との関係は決定的に悪くなったが、ムスリム同胞団が両国の関係修復で動く可能性もある。トランプ政権としても、エルドアン政権を再び自分たちの陣営へ引き戻したいだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201911280000/
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/816.html#c106

[近代史3] 篠原常一郎 ノモンハンの『真実』 中川隆
9. 中川隆[-15254] koaQ7Jey 2019年11月29日 13:14:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2332]
日本人を捨てて逃げた皇軍

満州からの帰国者は被害者なのに加害者扱いされた


引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg

日本人を捨てて逃げた皇軍

最近第二次大戦終了後の満州などで行われた「接待」が問題視されています。

この問題が特異なのは事件が1945年8月15日つまり終戦後に発生し、被害者の日本人は「加害者」に仕立て上げられた点です。

順に説明すると1945年8月、敗戦を確信した関東軍(日本陸軍の満州駐留軍)は大本営の指示を受け密かに全軍を南朝鮮に移動させた。


8月9日にソ連軍は満州に侵攻したが、本格戦闘には至らず「日本軍が下がった分だけソ連軍が前進」する戦略を取った。

極東のソ連軍は弱く、満州の日本軍が本気を出せばまだまだ強敵なので、日本軍が下がるのを待ったのでした。

8月9日に関東軍は満州脱出を開始したが、「我々はソ連軍と最後の決戦に向かう」と日本人をだまして夜逃げしました。


満州国の首都新京では数十万人の日本人居留民が日の丸の旗を振って送り出したが、実は朝鮮半島まで我先に脱走したのでした。

騙された日本人居留民100万人は押し寄せる中国人やソ連兵におそわれ、30万人から50万人が現地でなくなりました。

この時残された日本人居留民は中国人やソ連兵に命乞いするために、自分の娘を差し出して「接待」をさせました。


ソ連兵に日本人の女を差し出した

ソ連兵の規律は悪く、居留民の全てを奪ったので、カメラを没収され終戦後の満州の写真も残されていません。

それでも大勢が集まっていた新京では居留民が協力して大きな被害はなかったが、農村や朝鮮半島北部は深刻でした。

関東軍は黙って逃げ去ったので日本人はどうしたら良いか分からず、38度線まで逃げれば良いのに途中でとどまった人が多かった。


38度線の南側はまだ日本軍が駐留し規律が守られていたが、北側は無政府状態になった。

やはりソ連兵に命乞いをするため、避難民の中の年頃の娘を差し出しました。

また朝鮮人もソ連兵の気に入られようと、日本人をおそって金品を奪って差し出したり、娘をさらってソ連兵に差し出したりした。


そうしてソ連のお気に入りになった人間が後に北朝鮮で要職を占めることになった。

命からがら日本まで逃げ帰った人々は、戦後GHQの方針で「侵略者」と定義され加害者扱いされることになった。


このように接待をやらされた人や日本人居留民たちは、被害者であるにもかかわらず加害者のレッテルを貼られることになった
http://www.thutmosev.com/archives/78224941.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/724.html#c9

[近代史3] 篠原常一郎 ノモンハンの『真実』 中川隆
10. 中川隆[-15253] koaQ7Jey 2019年11月29日 13:18:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2331]
日本に見殺しにされた開拓団の悲劇 2017年1月 志村英盛
http://www7b.biglobe.ne.jp/~eigonou/0809KaitakudanNoHigekii.html

2005年8月3日、NHK総合テレビから放送された
『ソ連参戦の衝撃−満州開拓民はなぜ取り残されたか』は、
「当時、中国東北部(満州)に住んでいた満州開拓移民は、
【根こそぎ動員】で夫を日本軍に現地招集され、
多くの家庭が母子老人家庭となっていた。
戦闘最前線に取り残された哀れな日本人母子老人家庭
避難民は、戦闘に巻き込まれて約3万人が死亡した。
その後、病気と飢えで約21万人が死亡した」と放送した。

この番組では放送されなかったが、
合田一道著『検証・満州1945年夏 −満蒙開拓団の終焉』(扶桑社 2000年8月発行)は、
満州各地の開拓団の日本人母子老人家庭避難民が、
ソ連軍と武装した中国人暴徒集団の両者に襲われて、
【殺害】されたり、【集団自殺】に追い込まれた悲惨な状況を詳しく述べている。

財団法人満蒙同胞援護会(会長:平島敏夫 参議院議員・満鉄元副総裁)編
『満蒙終戦史 全928頁』(河出書房新社 昭和37年(1962年)7月発行)の
第812頁〜第813頁は次のように述べている。

受難は終戦時の満州在住の日本人約195万人(関東州内25万人を含む)
すべての運命であった。

もちろん程度の差はある。しかしながら、
ソ連軍の満州進撃の日から、帰国の日まで、
不断の危機と苦難にさらされなかった日本人は、ほとんど皆無であったろう。

なかんずく、開拓農民の受難は数多くのの実例にも見られるように
悲惨深刻を極めた。

この成行きは、しかし、当然ともいうべきであろう。

敗戦とともに、旧満州国の権威は一挙に崩壊した。

ソ連軍の侵入、前満州国軍・蒙古軍の反乱、通信・交通の杜絶、
原住民の蜂起などが相次いで、
いわゆる王道楽土は恐怖と混乱の世界に急転したのであった。

特に、ソ満国境の開拓団のなかには、ラジオさえ持たず、
したがって日ソの開戦も終戦も知らず、
事実を知ったときには、
関東軍と日本人役人がいち早く退避した後で、
ひとり曠野に取り残された形となったものが少なくなかった。

しかも、それまでに、
開拓団の青年・壮年男子はことごとく徴兵され、
開拓団部落の大部分は
無力な老人・婦女子・子供のみであったことが
混乱と悲劇を一層増大したのであった。

ごく少数の男子残留者が開拓団全員を護衛して
集団南下を企図したのであったが、
この退避行の道程こそ、
ほとんどが、見るも無惨な、地獄絵図となったのである。

ソ連軍または中国人暴徒の襲撃に遭って殺害され、自殺して、
全滅した開拓団、及び
1,000名以上の自殺者を出した開拓団は、
100以上を算える。開拓団の死亡者は十数万人!

2016年8月14日午後9時から、NHKスペシャル
『村人はなぜ満州へ送られたか』が放送された。
日本敗戦の翌年に自殺した当時の長野県の或る農村村長の
膨大な日記資料を中心にした事実に基づいた放送内容に
深い感銘を受けた。

@現地・満州の事情、日米戦争での敗北状況を
 まったく無視して、一旦決めたことは変更しないという、
 今も変わらぬ日本政府の高級官僚たちの無知・無能・
 無責任を、改めて、嘆くばかりである。

A当時の関係政府機関の高級官僚たちは、現在の
 日本外務省の高級官僚の北方領土問題についての
 姿勢と同じく、ひたすら国民を騙すことに徹していた。
 それに対して、現在に至るも、なんら反省していない。


参考情報:羽田澄子監督の「嗚呼 満州開拓団」2009年8月

日本の関東軍は、開拓団の老人、婦女子、
小学生、幼乳児を、見棄て、見殺しにした

日本敗戦と同時に、これら【匪賊】(土地を奪われた中国農民)たちは、
日本人への報復のため、一斉に、開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児を襲撃した。

開拓団の成年男子(18歳〜45歳)は、敗戦直前の7月10日に
日本の関東軍の【根こそぎ動員】で徴兵されていた。
(彼らは、その後、極悪非道なスターリンの極秘指令で、シベリアに拉致移送され、
奴隷として重労働を強制された。)当時、開拓団には成年男子はいなかった。

徒歩と貨車の拉致移送途上でおびただしい数の死亡者が出た。
苛酷な奴隷労働でもおびただしい数の死亡者が出た。

敗戦直前、関東軍は、高級職業軍人の家族だけはいち早く避難させた。

【根こそぎ動員】で、夫や息子を徴兵されて、頼りになる成年男子を失った
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児について、関東軍は
何らの保護を行うことなく、見棄て、見殺しにした。

ソ連軍侵攻予告はおろか、戦闘が始まっても
開戦・敗戦の事実すら知らせなかった。

関東軍に見棄てられ、見殺しにされたおびただしい数の開拓団の
老人、婦女子、小学生、幼乳児は、ソ連軍戦車の銃撃と
中国人の、鍬、棍棒などによる襲撃で殺害された。
逃げ場を失った日本人たちは集団自殺した。

日本の関東軍、中国農民の土地を強奪

日本の満州移民政策により、旧大日本帝国陸軍の関東軍は、
中国農民から、200万ヘクタール以上の農地を強奪した。
自作農地を奪われた中国農民は雇用労働者として低賃金で酷使された。

旧大日本帝国陸軍の関東軍が、
開拓用地として強奪した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。

土地を奪われた中国農民が匪賊となって関東軍に執拗に反抗した。

農地を関東軍に強奪され、匪賊化したり、賃金労働者として、鉱山、建設、
農作業等で、日本人企業、日本人の満州開拓団等で、奴隷的な強制労働に
服さざるを得なかった中国人農民たちの、

日本人に対する強い憎しみが、

日本敗戦後、鍬や棍棒により、開拓団の、老人、婦女子、小学生、幼乳児を
ぶっ殺すという、あまりにもの残虐な行動に駆り立てたのである。

旧大日本帝国陸軍に、
騙され、見捨てられて、
虐殺されたり、残酷死した
満蒙開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児

出典:朝日新聞(朝刊)2015年11月24日12面『戦後70年』

逃避行から生き残って奉天(瀋陽)の窓や床板をはがされた
荒れ果てた学校、寺院、病院等の収容施設にたどりついた者も、

【着の身、着のまま】、中には麻袋だけで身を包み、所持金もなく、
飢え(餓死)、栄養失調(衰弱死)、伝染病(病死)、極寒(凍死)、
絶望(自殺)等でほとんどが残酷死した。

生き残った小学生・乳幼児は遺棄孤児(残留孤児)として
二重三重の苦難の人生に耐えねばならなかった。

この旧大日本帝国陸軍と関東軍の、最高指導者たちと高級参謀たちの
【人道に反する開拓団員見棄て見殺しの罪】を見逃すことはできない。

哀れな開拓団女性たちを保護することなく、ほしいままに
強姦、殺戮、暴行、略奪を行ったソ連軍兵士たちの
【人道の反する罪】を見逃すことはできない。

廣田内閣の満州移民推進政策は
筆舌に尽くせぬ悲惨な結末に終わった。


日本の政治は軍部に乗っ取られていた

満州国建国の前々年、1931年に起きた満州事変は、昭和天皇、日本政府、
陸軍大臣、陸軍参謀総長、さらには、関東軍司令官の事前承認なしに、
関東軍の高級参謀、石原莞爾、及び、板垣征四郎が指揮して行われた
不法な軍事行動であった。

この不法な軍事行動を補完するため満州国が建国された。

国際社会は、国際連盟の場において、こぞって日本の不法な軍事行動と
満州国建国を非難した。

1933年2月24日の国際連盟総会で、リットン報告書に基づいて
日本による満州国建国の是非が討議された。

日本を非とする国42か国に対して、日本支持国はゼロであった。
日本(実質的には旧大日本帝国陸軍)はこれを不服として国際連盟を脱退して、
自ら世界の孤児となる道を選んだ。

不法な軍事行動であった満州事変を指揮した石原莞爾、及び、板垣征四郎は、
陸軍刑法のせんけん(擅権)の罪で、当然、死刑に処せられるべきであった。

しかし、日本政府、陸軍大臣、陸軍参謀総長は、石原莞爾と板垣征四郎を
陸軍刑法違反で軍法会議にかけることすらできなかった。

満州事変以後、日本は、なし崩し的に、【立憲君主制・法治国家】から、
【非法治・軍部専制軍事国家】へ移行した。

明治維新によって築かれた【立憲君主制・法治国家】が崩壊した。

つまり、昭和天皇の統治権・統帥権を含む国家権力が
旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちに簒奪された
ということである。

以後、満州事変によって、日本国を乗っ取った旧大日本帝国陸軍は、
戦争への道をためらうことなく突き進み、
筆舌に尽くせぬ惨禍を海外・国内に引き起こして破滅した。

【言論の自由】が無くなり、大手新聞は、連日、
中国侵略戦争における【皇軍の赫々たる戦果(戦禍?)】を
報道する旧大日本帝国陸軍の御用機関に成り果てた。

渡部昇一上智大学名誉教授は、
著書『昭和史 松本清張と私 大正末期〜二・二六事件』(ビジネス社 2005年12月発行)の
第454頁で、
「大正2年(1913年)廃止された軍部大臣現役武官制が
昭和11年(1936年)、廣田内閣によって復活し、
これによって日本の政治は軍部に乗っ取られることになったのです」
と述べている。

渡部名誉教授は第459頁〜第460頁で「廣田内閣が残したものは、
@【軍部大臣現役武官制】の復活(昭和11年=1936年)
A【日独防共協定】調印(昭和11年=1936年)
B軍拡方針を決めた国策の基準設定
いずれも日本の命取りになるようなことばかりでした」「この廣田内閣の
ときに日本の議会制民主主義の可能性はすべてつぶされたのです」

「廣田内閣が日本の立憲政治を葬り、
日本を軍国主義の方向に押しやったという事実は
あまりにも重いといわざるをえません」と述べている。

満州移民推進を決定

1937年、廣田内閣は旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちに脅かされて、
7大国策(政策)の一つとして満州移民推進を決定した。

2.26事件で陸軍将校たちのテロで殺害された岡田内閣の
高橋是清蔵相(元首相)は満州移民に反対していた。

しかし、満州事変後、旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちは、
満州移民を満州における治安政策の基礎にしようと、
廣田内閣の政策決定を受けて満州移民を強力に推進した。

100万戸、500万人移民計画が策定された。
敗戦時の45年7月には、開拓団の団数は800を超え、
移住した開拓団員の数は約27万人といわれる。

日本軍、中国農民の土地を強奪

日本の満州移民政策により、旧大日本帝国陸軍の関東軍は、
中国農民から、200万ヘクタール以上の農地を強奪した。
自作農地を奪われた中国農民は雇用労働者として低賃金で酷使された。

旧大日本帝国陸軍の関東軍が、
開拓用地として強奪した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。

土地を奪われた中国農民が匪賊となって関東軍に執拗に反抗した。

農地を関東軍に強奪され、匪賊化したり、賃金労働者として、鉱山、建設、
農作業等で、日本人企業、日本人の満州開拓団等で、奴隷的な強制労働に
服さざるを得なかった中国人農民たちの、

日本人に対する強い憎しみが、

日本敗戦後、鍬や棍棒により、開拓団の、老人、婦女子、小学生、幼乳児を
ぶっ殺すという、あまりにもの残虐な行動に駆り立てたのである。


軍部暴走の危険性
現在の日本は、戦争の惨禍体験者が減り
「軍隊からの安全(軍部暴走の怖ろしさ)」を
意識しない国になっている!

公開中の映画「日本のいちばん長い日」は、昭和戦争の最終期、軍部支配下の
日本統治機構の中枢部で繰り広げられた「運命の24時間」を描いた作品だ。

原作者は作家の半藤一利さん(85)。敗戦間近の東京大空襲では、自らも
命を失いかけ、敗戦後に、日本国憲法の産声を聞いた。戦後70年の今、
半藤一利さんの目に映っている「この国の現実の姿」。

問いかけ:
半藤さんのノンフィクション作品「日本のいちばん長い日」は衝撃的でした。
たとえば、連合国に降伏するという政府の方針に反対して徹底抗戦を叫んだ
軍人の存在です。一時は武力で皇居を封鎖していたのですね?

答え:
ええ、あれは、一種のクーデターでした。「ポツダム宣言を受諾して戦争を
終結させる」という、昭和天皇と日本政府の決断は間違っている。だから、
自分たちの、軍人の、思うような政府に変えて、この政策をひっくり返さないと
いけない。」そう考えた一部の軍人たちが、暴力で国家をひっくり返そうとしたの
です。軍隊は武装した組織です。どこの国でもクーデターを起こすのは、
その軍隊を支配している軍人ですよね。いま、安倍自民党は、安全保障を
考えるとき、「軍隊による安全」という視点ばかりが正面に出てきます。
軍隊の存在が抑止力になる、といった議論ですね。でも、本来は「軍隊からの
安全(軍隊暴走の怖ろしさ)」という視点も必要なはずです。日本人が、
憲法第9条を受け入れてきた背景には、もう、戦争という名の殺し合いを
したくないという思いだけではなく、軍隊からの安全(無知・無能・
無策・無責任であった昭和の軍部の危険性の除去)を求める思いも
あったのだと思います。

問いかけ:
13年前にインタビューさせていただいたときには、半藤さんご自身が、
1945年3月に体験された東京大空襲のお話が印象的でしたが?

答え:
15歳のとき、米軍機による、無差別焼夷弾攻撃に遭いました。自宅や
近所の火を消そうとしていたために逃げ遅れ、命を落としかけました。

問いかけ:
しかし、半藤さんは最近、戦争体験を語り継ぐ行為に懸念を感じ始めた、とも
お聞きしますが?

答え:
ええ。私が死にそうだったという話をすれば、「悲惨だったんだな」と
思ってくれる人々がいました。でも最近では、勇気ある少年の「物語」として
受け止められているので、この体験談は、かえって危険を招くんじゃないか
という気もしてきました。

問いかけ:
特攻隊の歴史を題材にした「永遠の0」がヒットしましたね?

答え:
特攻を作戦化し命じた立場にありながら、敗戦後も、のうのうと生きのびた
指揮官たちを、私は実際に知っています。でもそういう本質的な構造の問題より、
若い特攻隊隊員の純真さとか勇気の方に焦点を当てて特攻が語られてしまう。
歴史が物語になっていると感じました。

問いかけ:
そういう傾向は、なぜ表れているのでしょう?

答え:
時間がたち、社会の中で、戦争の悲惨さの体験者が減ったことがあるでしょう。
50年を超えてしまうと、悲惨な戦争も、聞きやすい美談に回収されやすくなる。
昭和が悪い時代のように言われ過ぎてきたので、訂正したいという民族としての
誇りが表れてきた影響もあると思います。

問いかけ:
物語に回収されてしまわないような「戦争の歴史の語り方」はないのでしょうか?

答え:
当時の日本政府が、国民に「焼夷弾はそれほど恐れるものではない」という
メッセージを出していたのはなぜか。米国は、なぜ、非人道的な、無差別
焼夷弾空襲という手段を採ったのか。空襲を指揮した、カーチス・ルメイに、
佐藤栄作内閣の日本政府は、戦後、なぜ、勲一等旭日大綬章叙勲をしたのか。
(注:昭和天皇は、この叙勲に、いたく憤激され、親授を断固、拒否された)
事件や関係した人々について、多角的・総合的に考えることで、
学習していくことはできると思っています。

問いかけ:
戦後70年の今年、岸信介の孫の安倍晋三の政権は新しい安保法制の整備に
踏み出しました。使えないとされてきた集団的自衛権を使えるようにしました。
武力行使の制約が変わりますが?

答え:
今回、安倍晋三内閣が、無理矢理成立させた安保法は、日本を危険な国に
作り替えるものだと思います。ただ、正直に言うと、国民が法案に相当に
反対をしても、安倍晋三首相からは関係ないものとして扱われるだろう、
とも予測していました。2015年4月、安倍晋三政権が、米国政府との
間で約束を交わしてしまった時からです。

問いかけ:
安倍晋三首相が、米国の議会で演説したり、日米の外務と防衛の担当閣僚が
「日米防衛協力のためのガイドライン」を改定したりしたときですね?

答え:
自衛隊は、今後は、集団的自衛権も行使しながら、極東以外の地域でも
米軍に協力します。そう約束する内容でした。憲法が骨抜きにされるだけでなく、
極東を対象にする日米安保条約も骨抜きにされたと感じました。

安保関連法案の審議が国会で始まる前に起きたことですよ。

恐るべきは、こうした日本政府のやり口です。
米国から軍事協力を求められたときに、日本政府には、断れる主体性があると
到底、思えません。

問いかけ:
日本が、米国の戦争に、どう向き合ってきたかという歴史の問題と、
いま安倍晋三首相が見せている、徹底的に米国に追従という姿勢の間には、
つながりがあると思っていますが? 先ほどの、軍隊からの安全
(軍部暴走の怖ろしさ)という視点からは、どんな問題点が挙げられるでしょうか?

答え:
懸念しているのは、共産党が明るみに出した防衛省の内部資料の問題です。
自衛隊制服組トップの統合幕僚長が、米軍幹部との間で、今後の日米両軍の
共同作戦のあり方を決めたり、統合幕僚監部が、法案成立後の、自衛隊の
運用のあり方を決めたりしていた。文官ではなく、武官が前面に出てきている
傾向が見えます。しかも、国民が知らされないところで
武官が前面に出てきている。外交防衛政策が、武官によって策定されることが
いかに国を危うくするかは、昭和戦争の悲惨さが教えるところです。

問いかけ:
今の日本は、「軍隊からの安全(軍部暴走の怖ろしさ)」に関する意識が薄いと?

答え:
「薄いのではなく、恐怖感意識はまったく無いのだと思います。
敗戦後70年たって、世代がすっかり変わっているから仕方ない面もありますが。

問いかけ:
半藤さんは保守的とされる「文芸春秋」のご出身ですが、憲法第9条については
護憲の立場であり、脱原発に賛同されています。ご自身を保守派とお考えですか?

答え:
「いいえ。私は現実主義者ですね。保守派の中でも、国家主義的な人とか、
革新派の中の党派的な人に対しては、強い違和感があります。

問いかけ:
安保法制への批判も、イデオロギーからではなく、現実主義の視点からと?

答え:
中東へ自衛隊の精鋭部隊を送ったら、日本列島の守りは薄くなります。
それをガバーするための軍事費の膨張は、経済や財政の現状に照らして
可能なのか。そういう議論をすべきだと思います。

問いかけ:
2011年に起きた「3・11東日本大震災」のあと、原発に批判的な
発言をされています。いつから、原発に対して懐疑的になったのですか?

答え:
原発が建設された当初から反対しています。1950年代に、
核の「平和利用」が言われ始めた時期から、原子力という技術は、
人間の理性で制御できるものではないと思っていました。

問いかけ:
海岸線に40基以上も原発がある。それを攻撃されたらお手上げですが?

答え:
地政学的に見ると、海岸線が長い日本は、もともと敵からの攻撃を
防ぎにくいという根本的な弱点があります。だから、近代に入って、
日本は国土の「外」で国を守る戦略を採り、朝鮮半島や中国大陸に
軍隊を送ったけれども、結果は悲惨な敗戦でした。原発が多数存在する
現在は、もっと守りにくい状況です。武力だけで守ろうとしても、
守りきれない。貿易と外交力を軸にしたほうがいい。理想主義だと
批判されますが、貿易と外交力を軸にした日本防衛策のほうが、
現実的です。貿易と外交力を軸にした日本防衛策を本気で検討すべきだ
と思います。

問いかけ:
中国が台頭してきたことで、「日本はアジアで一番の国」という近代日本の
自己イメージは揺らいでいるように見えますが? 戦時中、半藤さんも
「日本はアジアで一番の国」というイメージがありましたか?

答え:
ありましたね。近所には、台湾や朝鮮半島出身の子供がいました。
彼らを、「日本民族の方が上だ」と見下していました。戦争自体も、
「アジアのための戦争だ」と思っていました。

問いかけ:
この先、日本は、どんな「アジア一番」を目指すべきでしょうか?

答え:
「アジア一番」を目指せることは何もありません。単純に
これは、不可能でしょう。ほとんどすべての分野で、自給自足が
できない国、借金が1千兆円もある国が、「大国」になれるわけがない。
それが日本の現実です。

問いかけ:
憲法第9条を守ろう運動に取り組まれていますね?

答え:
はい。ノンフィクション作家の保阪正康君と二人で、憲法を100年
守ろうと言い合っています。100年もてば、それが、国の意思になるし、
海外の人々の戦争観にも影響を与える。今まで70年ですから、
あと30年、頑張ればいい。

問いかけ:
いつから、憲法第9条を支持するようになったのですか?

答え:
新憲法が誕生したときからですよ。こんなに良いものができたのかと、
非常に喜びました。そしたら、おやじからは「お前はバカじゃないか」と
批判されました。おやじは、「人類が始まって以来、戦争がなかった
ためしがあるか。日本も、日清戦争とか、日露戦争とか、頻繁に戦争を
やってきたじゃないか」と。おやじは、1950年に亡くなっています。
もし、会えるのなら、「あのときおやじが言ったこと、間違ってたじゃないか」
と言ってやりたいですね。

資料出所:朝日新聞(朝刊)2015年9月19日17面


  ソ連軍占領時の大連の日本人の
 悲惨な状態に大きなショック

2015年8月22日の読売新聞(朝刊)で、大きく報道された、
大連における、ソ連軍占領時の日本人の悲惨な状態に大きなショックを受けた。

筆者、満州と朝鮮の国境の町・丹東市(旧称・安東市)生まれで、敗戦の翌年の
1946年10月まで、同地で生活していた。

安東市の日本人たちは、ほとんど皆、敗戦後の悲惨な混乱期、極悪非道なソ連軍と、
規律厳正な中国共産党の八路軍(パーロー)の軍政下におかれた安東市と、
明治時代から日本人が居住してた大連市の2都市だけが、満州諸都市のなかで、
比較的、安泰であったと思っていた。

特に安東市は、ソ連軍が早々と撤退して、早い時期から、中国共産党の八路軍の
軍政下におかれた。中国共産党の八路軍は、日本軍憲兵隊の憲兵と、満州国警察の
日本人警察官と、満州国政府の日本人役人と、日本軍(関東軍)に関係する企業の
役員・幹部は、それこそ、容赦なく探しだして、容赦なくぶっ殺した。人民裁判と称する、
引き回し人殺しショ−のあと、容赦なく、すぐ、ぶっ殺して、穴のなかに抛り込んだ。

しかしながら、規律厳正な中国共産党の八路軍(パーロー)は、
極悪非道なソ連軍とは大きく異なって、
一般の日本人民間人には、一切、危害を加えなかった。

1945年8月22日、ソ連軍が大連を占領した。
日本人を恐怖に陥れたのは、見境のない、凶悪・獰猛なソ連軍兵士たちの、
強姦、略奪、暴行だった。

西岡さんの家にも、凶悪・獰猛なソ連軍兵士がやって来た。
「何かないか」と金目の品を要求された。
父親が、片言のロシア語で、腕時計や指輪などを差し出した。

西岡さんは、母親と、蚊帳の中で息を潜めていた。
「あれは誰だ」と、凶悪・獰猛なソ連軍兵士に問われ、
父親は、脅えながら、「マリチキ(幼い男の子)だ」と言った。

凶悪・獰猛なソ連軍兵士たちの略奪は、その後も、毎日続いた。
安全な場所へ引っ越すため車に詰め込んだ荷物を、車ごと、
凶悪・獰猛なソ連軍兵士たちに奪われた日本人もいた。

西岡さんは、「男装にしなさい」と父親から言われ、泣く泣く、丸坊主になった。
今回、見つかった写真の西岡さんは、頭をスカーフで巻いていた。

「でも、大連にいた私たちより、満州から避難してきた人たちの方が大変でした」と
西岡さんは語る。

家も食べ物もなく、伝染病で亡くなる人が相次いだ。
西岡さんたちの仕事は、日本人避難民の救済だった。
日本人の資産家に資金の拠出を依頼。食糧を配ったという。

日本人の悲劇には、軍人や民間人の区別はなかった。
「大連・空白の六百日」(新評論)の著者・富永孝子さん(83)は、
大連の送還収容所や引揚船の船上で多くの死にふれた。

「誰も例外なく、栄養失調や伝染病にかかっていた。
幼い子どもの遺体が、船から水葬されていた」という。

「ある日突然、父がソ連軍に連行され、そのまま戻らなかった。」
「幼い弟は小枝のように、やせ衰えて衰弱死した。火葬しようにも
燃やす物がなかった。」

公開された写真をきっかけに、初めて口を開いた大連からの
抑留被害者からも、シベリア同様の悲惨な体験が明らかになっている。

写真公表の意義

読売新聞が、2015年4月、北朝鮮や、南樺太や、大連で死亡した
ソ連軍に抑留された日本人の名簿の存在を明らかにすると、
日本政府は、調査方針を転換し、シベリア以外の死亡者名簿の公表に
踏み切った。しかし、永年にわたる日本政府の、事実の徹底隠蔽によって、
実態解明の手がかりは極めて少ない。

今回の写真公表の意義は大きい。抑留や引き揚げに関する資料を
調査・研究しているある専門家は、「今回公表された大連関係の写真は、
抑留・引き揚げの流れが体系的に分かる写真だ。専門家が多角的に
分析すれば、極悪非道なソ連軍の、満州各地と北朝鮮における、
残虐行為の一端を解明できる」と語っている。

4人家族の西岡さん一家で日本への引き揚げが認められたのは、
西岡さんと、母親と、妹の3人だけだった。ソ連軍が、満鉄工場の設備を、
「戦利品」としてソ連本国に送るため、満鉄関連会社の技術者だった父親は、
ソ連軍から、機械類の取り外しなどを命ぜられ、引き揚げが認められず、
大連に残された。

引き揚げてきた広島にある、両親の実家は、原爆投下で家が焼失していた。
父親が日本に帰還できたのは2年後だった。

お上に盲従 最大の後悔
出典:読売新聞(朝刊)2015年8月1日13面

戦前も戦争も、1日にして成らず、それが昭和ヒトケタ派の実感です。

いつの時代も情報は隠されるものです。
だからこそ、自分たちで、隠されたものを
探り当てる執念がないと、生きていけない。
戦争の教訓はそれにつきます。


出典:読売新聞(朝刊)2015年8月1日1面


戦争体験の継承というけれど、本当に痛みを体験した人は
「放っておいてくれ」と思うものです。

僕自身、8月下旬だったか、ソ連兵が家に来て、銃を突きつけ、
家財を略奪していった日のことはほとんど書いていないんですよ。

エッセーでちょっとふれたぐらいで。

翌日には、家を接収され(追い出され)、
ひと月ほど前から体調を崩して寝ていた母親をリヤカーに乗せ、
幼い妹を背負い、弟の手を引いて、雨露しのげるところを探しました。

母親は混乱の中、9月に亡くなりました。

皇道哲学者でもあった父は、愛妻を亡くし、精神的拠り所も、
教育界での立身出世の道も全部失い、 茫然自失の状態でした。

長男だった僕は、ソ連軍の宿舎に行き、片言のロシア語で、
「ラボタ。ダヴァイ(仕事ください)」と叫んだ。

まき割りや靴磨きなど雑用をこなし、パンや肉のかけらなどを
もらって生き延びました。

シラミが媒介する、発疹チフスがはやり、バタバタ人が死んでいった。
冬は零下何十度の極寒。

子供だけでも助けたいと、現地の朝鮮人に、子供を預け、
あるいは、子供を売り渡す人もいました。

日本人収容施設に、ソ連兵が来て、
「女を出せ」ということも多く、
結局、水商売風の人が押し出されるようにして連れていかれました。

一番こたえたのは、女性がポロ雑巾のようになって帰って来た時、
近くにいたある母親が、子供に、「あの人には近づくんじゃないよ。
病気を持っているかもしれない」と叱っていたのを目にしたことです。

本来ならば、土下座して感謝すべきなのでしょうが、
あの時は非常事態でしたから、みんな何を見ても無感動で、
おかしくなっていたんです。

極限状況でも人間性を失わずにいた人の手記を読むと感動するけれど、
そうではない現実もあった。

敗戦後2回目の冬は越せないと覚悟を決め、終戦翌年の秋頃だったか、
平壌を脱出し、川を渡り、38度線を越え、米軍の難民収容キャンプに
たどり着きました。

「お先にどうぞ」と言っている人は帰ってこられなかった。
トラックに最初に乗り込んだ人たちが、後から乗ろうとする人を蹴落とす
ような日常でした。

「飢えた子どもの顔は見たくない」と言いますが、
日本人難民収容所で、ジャガイモをもらい、妹と分けようと思ったら、
大人に横取りされたこともあった。「飢えた大人の顔は見たくない」。
つくづく思いましたね。

「善き者は逝く」。
だから、僕は、帰って来た自分を「悪人」だと思っている。

戦後、「さらばモスクワ愚連隊」をはじめ、エンターテインメント小説を
書くようになったのも、当時の体験が影響しているのでしょう。

自分はまともな人間ではない。

だから、古賀政男の「影を慕いて」の歌詞じゃないけれど、
せめて傷心のなぐさめに徹して、娯楽を大切に、なぐさめを大事に
してきました。

戦後70年の今、一番の反省点は、ラジオや新聞の情報、噂話を
漠然と聞きながら、上からの指示を待っていた自分の怠惰さです。

かつては、真実を知らされなかったことにムッとし、
自分たちは国に棄てられた、
という意識で、「冗談じゃない」と恨んだこともあります。

しかし、今は、真剣に、事実、真実を知ろうとする執念に
欠けていたことを反省しています。

父親は師範学校に勤めていて、官舎は空港のすぐ横にありましたから、
終戦詔書の前に、飛行場を観察すれば、高級将校らの引き揚げの動きを
察知できたはず。

当時はまだ列車が動いていましたから、体一つで脱出すれば、
あんな目に遭うこともなかった。

子供の頃から戦意高揚の歌に熱狂し、「神州不滅」を信じていたように、
戦前・戦中の教育(洗脳教育)で、お上(旧大日本帝国軍部)の言い分に
盲従する習慣にどっぷりつかっていた。

それが、「情報難民」を生みました。

終戦の満州 悪夢の始まり
無辜の民をも引きずり込んで一生を狂わせてしまう。
それが戦争なのです。


12歳で満州(現中国東北部)から引き揚げるまで、日本の地を
踏んだことがありませんでした。父は、朝鮮総督府の海軍武官
だった祖父の勧めで、鉄道技師として朝鮮総督府鉄道に入り、
私も朝鮮で生まれました。

2歳の時、父が南満州鉄道勤務になり、満州に移りました。
小2から終戦まで暮らしたのはハルビンです。軍国少年だった
私は、円谷英二さんの特撮とも知らず、映画「ハワイ・マレー沖
海戦」の飛行機の雄姿、爆発シーンに熱狂、兄2人に続き関東軍に
入って、「日本の北の防塁たらん」との使命感に燃えていたのです。

1945年8月9日夜、轟音で家族全員が跳び起きました。
ソ連の飛行機が旋回し、ハルビン駅近くに火柱が立っていました。
そして、8月15日。昭和天皇の玉音放送で敗戦を知り、五臓六腑が
えぐりとられたように、全身から力が抜けました。

日本の軍隊が武装解除した無政府状態のハルビンの街にソ連軍が
侵攻してきたのです。悪夢の始まりでした。

ソ連兵はやりたい放題でした。略奪、暴行、陵辱の限りを尽くし、
日本人は子ヤギのように脅えてていました。家に押し入られ、
こめかみに冷たい銃口を突きつけられるなんて、想像つきますか?

私は恐怖で、歯ががたがた震え、かみ合わすことができませんでした。

生きるために何でもやりました。靴磨きや、たばこ売り。
ソ連兵から黒パンの切れ端をもらうためです。
そのうち強制使役の命令が下りました。
父と中学生の三兄と私の3人が、毎日交代で、ハルビン駅のそばから
貨物列車まで石炭を運びました。

列車には、関東軍の兵隊さんたちが次々に乗せられ、北へ向かいました。

シベリア抑留のために働いたのかと思うと、辛いです。

出征した兄が乗っているかもしれないと、私はホームを歩き回りました。
その時です。ダダダダッ。見回りのソ連兵に撃たれたのです。

転げるようにして家に戻りました。右腹が熱くて仕方がありません。
血だらけでした。1日我慢したら、はれて悪化するばかり。

元軍医という人に来てもらい「緊急手術」です。
麻酔も手術道具もありません。裁ちばさみの刃を焼いて消毒し、
傷口を切り開きました。「ジョリジョリ、ザクザク」。
人の肉を切るあの音、今も耳から離れません。

出てきたのは、使用が禁止されているはずのダムダム弾。
鉛がつぶれて体内に広がる恐ろしい銃弾でした。
糸も針もないので傷口はそのままでした。

ロシアには優れた芸術家が多い。バレエも映画も音楽も素晴らしい。
でも私は観たくも聴きたくもありません。

ソ連兵が憎い、ロシアという国が憎い。すべてを否定してしまいます。

恐らく死ぬまで変わりません。記憶は焼き付き、心のアルバムに貼られ、
破ることも消すこともできない。

中国などアジアの国々には、日本に対し、私と同じ感情を抱いている人も
いるのではないでしょうか。

1946年11月、日本への引き揚げが決まりました。
最も気がかりだったのは、三兄が強制使役に行ったまま、
半年以上戻って来なかったことです。

やむなく両親と弟と私の4人で出発することになりました。
父の生家がある新潟の住所を紙に書いてホームの鉄骨に貼り、
「必ず来い」と呼びかけ文を付けました。

引き揚げ船が出るのは、南満州のコロ島。
ハルビンから列車に乗り、野を越え山を越えて、
2か月半かかりました。食べ物もなく、赤ん坊を死なせるよりはと、
途中で中国人に託す人もいました。

弟は6歳でしたが、よく頑張って付いてきたと思います。

博多港から列車を乗り継いで、新潟に着いた時はぼろぼろでした。

生活のため、母は魚の行商を始めたのですが、1947年冬のある日の午後、
母の手伝いをしていると、軍隊の外套をまとい、顔に傷のある男の人が通り、
役場の場所を聞かれました。

1時間ほどで戻って来て、何度もこっちを振り返るのです。
それが、ハルビン以来、行方不明だった三兄だっだとわかった時は
もう…抱き合って、涙、涙でした。

兄はソ連軍の兵舎で飯炊きをさせられ、やっと解放されて社宅に戻ったら
誰もいない。一人で南へ南へと歩き、密航船に乗るためお金を稼ぎ、
九州上陸後は日本海沿いに歩いてたどり着いたというのです。
15歳の少年にはあまりに過酷な体験。

自分は家族に見捨てられたという思いが消えず、しばらくして家を出ました。

私が東宝に入って、グラビアに出るようになると、
「よかったな。足しにしろ」と、300円を送ってきました。
本当は心の温かい三兄でした。63歳で亡くなったのが悲し過ぎます。
次兄は復員しましたが、長兄は戦死しました。
出典:読売新聞(朝刊)2015年8月12日

ソ連軍兵士の凄まじい婦女暴行

若槻泰雄著 『戦後引揚げの記録 新版』時事通信社 1995年10月発行

第123頁
満州に侵入したソ連軍は、8月19日には、早くも外部との一切の通信交通を
遮断した。そして世界の目から隔絶された中で、ソ連の軍隊はほとんど例外なく、
被占領国民たる日本人の上に強奪・暴行・婦女暴行をほしいままにしたのである。

程度には若干の差はあったし、侵入直後が最も激しかった地区や、逆に日を追って
悪化したというような都市もあり、数日にして一応平静に帰した所もあれば、
占領の全期間、数ヵ月にわたった例もある。

兵器をもったソ連兵は、群れをなして日本人の各家庭や会社の事務所に押し入った。
そして手当たり次第、金めのもの時計、貴重品、衣類などを強奪する。

そして撫順など極めて少数の例外はあるが、婦人とみれば、老若を問わず
婦女暴行を働いた。

抵抗するもの、あるいは、これを阻止しようとするものは容赦なく射殺する。
窓を閉じ、扉に鍵をしめ、更には入口を釘で打ちつけていても無駄である。
軍隊が本気で民家に侵入しようとするならば、そんな程度のものを
打ちこわすのはいとも簡単であろう。家屋は無残にたたきこわされるだけだ。

しかもこの行動は「夜陰に乗じて」というわけではない。ソ連兵の強奪は
「盗む」とか、「奪う」というような段階ではなく、トラックを横付けにし、
「それはまるで運送屋のように、だれはばかることなく、せっせと運んだ」
と表現している体験記や、「何年もたった後でも、夜中エンジンの音を耳に
するとぞっとすることがあったくらいだ」という記述もある。

筆者の意見:
筆者は満鮮国境・鴨緑江河口の安東市(現・丹東市)生まれで、敗戦の翌年、
1946年10月まで同市に住んでいた。安東市は満州の中で最も治安がよかった。
それでも、ソ連軍占領中は、ソ連軍兵士の略奪・暴行が絶えなかった。
若槻教授の上記記述には何らの誇張、虚偽はない。事実を正確に述べている。

日ソ戦争(ソ連の対日参戦)敗戦後65年、平和な時代の日本国民が、知りたくない、
思い出したくない、正視できないのが、1945年、満州と北朝鮮で現実に起きて
多数の日本人女性が蒙った、良心を完全に失っていた鬼畜・ソ連軍兵士たちによる
強姦(性的暴行)事件である。犠牲となった日本人女性は、無能・無策・無責任な
旧日本帝国陸軍の最高指導者たちと高級参謀たちが引き起こした満州事変と、
それに続く満蒙開拓団送り込み政策の犠牲者でもある。戦争の惨禍を引き起こさない
ために、忘れることは許されないと思う歴史事実である。

北朝鮮におけるソ連兵と北朝鮮兵の
強姦、暴行、殺戮、強奪

編集委員:細川護貞・大井篤・豊田隈雄・阿川弘之・千早正隆・鳥巣建之助 
『高松宮日記 第八巻』中央公論社1997年12月発行 第175頁〜第176頁

「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、通行中の婦女を犯す。
汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。

2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、下の娘は性病に罹る。

元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、(引き受け者の)
人数不足せるを(補うものを)くじ引きにて決めたり、日本婦人の全部は強姦せらる。

(慰安婦を)強要せられ自殺せるものも少なからず。

奉天(現在の瀋陽)における開拓団・婦女子の悲惨な状況

米国の戦史研究家、ウィリアム・ニンモ氏は著書『検証・シベリア抑留』
(加藤隆訳 時事通信社 91年3月発行)の第46頁で次のように述べている。

「1945年8月以降、満州の日本人たちは大多数が苛酷な状況下にあった。
まず厳しい寒さ、それにインフレ、交通の悪さ、病気などで生き残ることを
困難にし、1945年〜46年冬の死亡率を高めた。

日本政府は、その冬だけで11万人の日本人が死亡したと推定していた。
翌年の冬はもっと増えるだろうと予想していた。

元満州の住民はこう語った。
「それは想像を絶するほどのひどさだった。最悪なのは、たくさんの人が
飢えと酷寒のため死んだことだ。おびただしい数の避難民がソ連との国境に
近い満州北部から流れ込んできて、奉天(=瀋陽)の学校や他の施設に
収容された。

冬の間中、毎日大勢の人が死んでいくのを見た。市内にはそれを埋める
場所もなかった。近くの、人が住んでいないあたりに、縦横6メートル、
深さ4メートルの大きな穴が掘られた。死体は低温のためすでに硬く凍って
いた。それを穴の中に投げ入れ、上から薄く土をかぶせた。」」

日本経済新聞(朝刊)2006年11月27日第39面は、旧満鉄職員の話として「終戦時、
情勢が安定していた撫順に、満州全土から数万の避難民が貨物列車でたどり着いた。

服をはぎ取られた女性は米などをいれる麻袋をまとい、幼児は餓死寸前。
感染症が流行し、一日に数十人単位で亡くなった。

学校の校庭に穴を掘って入れた。寒いうちは凍っているが、夏になると
解けるから廃油で焼く」との悲惨な話を報じている。

藤原てい著 『流れる星は生きている』
中央公論社 1984年8月発行(第210頁〜第231頁より抜粋引用)
第210頁〜第231頁より抜粋引用

苦しみ連続の逃避行

大きな山を遠く迂回している山道には大きな石が多かった。
私の裸足の足は昨日から腫れ上っている。
足の裏が破れて血が出ていることは知っていたが、
ずきんずきんする痛みをこらえて一晩寝て起きると、
今日は化膿したのかもしれない、
奥の方がうずくように痛むのだった。

石ころ道をあえぎあえぎ登りつめた峠から見下ろす眼下には、
幾条かの銀色に輝く川の流れが進路を直角にさえぎっていた。
一家四人の前には広い川が行手をさえぎっていた。

先に行く人の渡るのをじっと見ていると、一番深い処が
私の胸ぐらいであった。中心近くは水の流れが激しくて、
渡ってゆく人の姿勢が高くなり急に低くなったりする。

3人の子供を1人も失うことなく、
私はついに河を乗りきった。
途中で飲んだ水が妙に渋くて胃の中にいつまでも溜まっていた。

川で濡れても陽で乾くのは早い。
乾いた頃にはまた次の川が前に横たわっていた。
幾つ川を越えたか覚えていない。
大きい河、小さい川、深い川、浅い川。

初めは人の跡を見て渡ったが、みんなから遅れると、
渡る前にまず流れの早さと深さを測らねばならなかった。
やっとしっかりした棒を探し出すと、これだけが命と頼んで川に挑戦した。

日が西に傾くと、水面からの反射のために、川の真ん中で、
くらくらっとして安定を失いかけたことが何度もあった。

最後の川にはずっと下流に橋がかかっていた。
私はこの水勢では流されると思ったから、
随分下流まで河岸を歩いて行った。
半分腐りかけた橋であった。

いっそのこと、橋が落ちて四人が一緒に死ねるなら
その方が私たちにとって幸福かもしれない。

ぐらぐら揺れる橋を渡ると、荒れはてた畑が野原のように淋しく、
人家らしいものは全然なかった。
ただ橋の付近にむかし人家のあったしるしのいしずえだけがころていた。

日本人の群に合流すると、私は土手の上につんのめってしまった。
呼吸をするのさえ困難である。頭がしびれるように痛くて、
意識がぽうっとした。私が貧血を起して倒れていても、
誰も言葉をかけてくれるものはなかった。

胸が針に刺されたように痛いので、眼を開けると、
私の破れはてたうす緑のブラウスを通して野薔薇が乳の下を傷つけていた。

手術の苦しみ

眼を覚ました。テントからは朝日が洩れていた。
人間らしい姿になろうとして立ち上ると、
釘を踏んだように足の裏が痛かった。

D・D・Tの消毒、予防注射、
これらに立ち会うため歩く痛さは針の上を歩くようであった。

このテント村にはすばらしく完備した医療施設があった。

医療施設で、医師は私の足の裏を見て、「ううん」とうなった。
「これはひどい、よく歩いたものですね」

医師は私を手術台に寝かせて、ピンセットでまず肉の中に入っている
石の摘出を始めた。小石をピンセットにはさんでは、
金属の容器に捨てるごとにカチンカチンと音がした。

だんだん奥の方にピンセットが入っていくとね
焼火箸で刺されるように痛かった。
ベッドにしがみついて我慢していたが、
ついに痛さのために脳貧血を起こしてしまった。

私の足の裏は完全に掘り返され、
血液にどす黒く光っている発掘物が、金属容器の底にかたまっていた。

両方の足首を包帯してから
「ひどい足でしたね」と医師は汗をふいていた。
「当分歩いちゃいけませんよ」

診療所と私のテントとは100メートルも離れていた。
この道を這って毎日通うのであった。

そのみじめな自分の姿を人に見せるのが恥ずかしかった。
診療所ばかりではない。便所にも、水貰いにも、おむつの洗濯にも
這って行かねばならなかった。


隠蔽を謝罪  ウソー!

拉致移送途中においても、環境変化、精神的ショック、疲労、発病で死亡したものが
少なくなかった。
徒歩による拉致移送途中、逃亡しようとしたもの、疲労と発病のため隊列から
落伍した者は「連れて行くのが面倒だ」とする残忍なソ連兵に容赦なく射殺された。

ウラジミール・ポ・ガリツキー氏(ロシア軍事アカデミー・メンバー、法学博士、教授、
海軍大佐)は、毎日新聞社が1999年2月に発行した『毎日ムック シリーズ 
20世紀の記憶 1945年 日独全体主義の崩壊 日本の空が一番青かった頃』の
第129頁で
「日本人捕虜の大多数は満州からソ連領土までを徒歩で移動した。
ソ連国内の指定地点への移動は鉄道の貨車で行われた。
その移動の途中で、32,722人が死亡した」と述べている。

筆者は、拉致移動途中に死亡した日本人捕虜は4万人以上であったと推定している。
しかしながら拉致移動途中の死亡者数については何らの資料も残されていない。

行方不明者数にふれない日本政府のシベリア虐待抑留に関する
現在の発表数字では、シベリア虐待抑留の実態は認識・理解できない。

Re:
シベリア虐待抑留 行方不明者の記録抹殺
-拉致途上、多数の落後者、殺害され
行方不明に!
哀れな日本人捕虜行方不明者数にふれた
マスメディアはまったくない

  帰還者数  + 死亡確認数 +  逆送者数 = 抑留者総数
473,000+55,000+47,000=575,000

この数字では、日本政府は、シベリアへ拉致移送された日本人捕虜の中、
ソ連領内で行方不明になった者は1人もいないと日本国民に発表していることになる。

1981年以降、日本のマスメディアも、このデタラメ極まる日本政府の発表数字を、
シベリア虐待抑留に関する報道において、何の注釈も付けずに、そのまま引用している。
行方不明者数にふれたマスメディアはまったくない。


Re:
日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害


Re:固く閉ざされたパンドラの箱
−シベリア虐待抑留の事実隠蔽(いんぺい)2012年3月

Re:
聞いて呆れるを通り越して
−シベリア抑留犠牲者非国民視で北方領土の軍事基地化進む

Re:日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害


http://www7b.biglobe.ne.jp/~eigonou/0809KaitakudanNoHigekii.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/724.html#c10

[政治・選挙・NHK267] 中曽根康弘元首相死去 101歳、「戦後政治の総決算」を掲げて国鉄民営化 行財政改革を推進  赤かぶ
24. 中川隆[-15252] koaQ7Jey 2019年11月29日 14:16:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2330]
経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/310.html
中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が(リテラ)
http://www.asyura2.com/14/senkyo170/msg/574.html

『報道特集』 がついに中曽根元首相の「土人女を集め慰安所開設」文書を報道! 息子の弘文が慰安婦否定の責任者ってなんの冗談
http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/423.html


TBS 報道特集 「インドネシアでの戦時性暴力」  慰安所設置に関わった中曽根元首相 インドネシア元慰安婦の辛い証言
http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/448.html


八代弁護士、河村たかし、松井一郎が“慰安婦問題はデマ”とネトウヨ並みフェイク! あらためて中曽根証言など日本軍関与の証拠を見ろ
https://lite-ra.com/2019/08/post-4885.html
2019.08.06 八代弁護士が「慰安婦問題は史実に基づかない」とネトウヨ並みデマ リテラ
    
    ネトウヨなみのデマ!  (『ひるおび!』より)


 安倍政権による韓国への輸出規制と「ホワイト国」除外、あいちトリエンナーレでの「平和の少女像」などの展示中止……。国交正常化以来最悪と言われる日韓関係のなか、日本中がグロテスクな嫌韓ムードと歴史修正主義に染まっている。

 それは安倍政権周りの政治家やネット、右派メディアだけではない。地上波のワイドショーでもネトウヨとなんら変わらないヘイトや歴史修正主義が堂々と語られるようになった。

 5日放送の『ひるおび!』(TBS)でも、慰安婦問題など含む作品を展示した「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた件をとりあげるなか、八代英輝弁護士がこんな発言をしていた。

「当然、この社会的風潮のなか、この慰安婦像。この慰安婦問題っていうものが史実に基づかないものであること。あるいはこの慰安婦像に対して嫌悪感、反感をもつ方っていうのは多くいるってことは、当然認識した上での展示ですから。ある程度の反感というのは想定されたんでしょうけど、それが、私は『想定を超えてしまった』って認識は甘いんでないかというふうに思うんですよね」

 八代弁護士は「表現自体をさせないという風潮は危険だなと思う」などとエクスキューズをいれつつも、「私自身はこれ(少女像)を置いて、こんなものあってはならないと議論するということはアリだと思いますけどね」と続けるなど、嫌韓煽りを剥き出しにしていた。

 さらには、落語家の立川志らくも、いつもの物知り顔でこうコメントした。

「結局、こういうことをやると、日本人の多くは不愉快に思って許さないという結果が出た。これを『平和の少女像』って言う人がいることが、私は不思議でしょうがない。平和の少女像って言うなら、日本人の誰もが見て、これは平和だなって思えるならいいんだけれども。そりゃ韓国の人はそうかもしれないけど、日本人にとっては多くの人が反日の像だと思ってるわけでしょ? 本来、芸術ならば、これを反日像だと思っている人が見ても、思わず感動して涙を流す、そういうものを私は展示してほしい」

 本サイトでも解説した(https://lite-ra.com/2019/08/post-4880.html)ように、「平和の少女像」が「反日」だというのは完全にネトウヨの論理であり、歪曲した解釈だ。それを「みんなが思ってるんだから反日に決まってる」と言い張り、表現の自由を踏みにじる卑劣なテロ予告者ではなく、議論を換気しようとした展示や作品のほうを問題視する。その倒錯ぶりと付和雷同には、呆れ果てるしかない。

 とくに聞き逃せないのは、八代弁護士が発した「慰安婦問題っていうものが史実に基づかないものである」とのセリフだろう。八代弁護士は、つい先日も朝日新聞を韓国の中央日報、ハンギョレ新聞と並べて「反日三羽ガラス」と揶揄するなど、テレビの全国放送ネトウヨぶりを全開していたが、今度は慰安婦それ自体がなかったかのような発言をしたのだ。

はっきり言っておくが、慰安婦の存在は捏造でもなんでもなく。歴史的な事実だ。弁護士の資格を持つ人間が、地上波の昼間の番組で、保守派の学者でさえ言わないような歴史修正主義丸出しのデマを口にしていいのか。

 いや、八代弁護士だけではない。「平和の少女像」展示に圧力をかけ、「表現の不自由展」への攻撃を煽った河村たかし名古屋市長も、今日の会見で「やっぱり慰安婦ってあったのかと、そういうふうに見られる」などと発言していた。つまり、河村市長も慰安婦は存在しないと信じ込んでいるのだ。

 さらに、日本維新の会代表の松井一郎・大阪市長からはもっととんでもないデマ暴言が飛び出した。松井市長は5日会見で「事実ではない慰安婦の像」「日本人を蔑み貶める、誹謗中傷」「慰安婦問題というのは完全なデマ」「朝日新聞自体が誤報だと謝罪しているわけですから」「事実ではないデマの象徴の慰安婦像は行政が主催する展示会で展示するべきものではない」などと語り、慰安婦は完全なデマと言い放ったのである。

■中曽根康弘元首相が海軍主計長時代に「土人女を集め慰安所を開設」の記録

 こうした連中の妄言の根拠は、2014年、朝日新聞が慰安婦関連記事の虚偽を認め、訂正・謝罪したことだ。朝日が訂正したのは、とっくのとうに虚偽であることが分かっていた吉田清治証言に関するものだけだったが、当時、ネトウヨや極右メディアがこの謝罪を意図的に拡大解釈し、あたかも戦中に「慰安婦」自体の存在がなかったのようなデマを喧伝しまくった。意図的かどうかは知らないが、八代弁護士や河村市長らはこのネトウヨ歴史修正の詐術に丸乗っかりしているということだろう。

 だとしたら、本サイトとしては何度でも、その欺瞞と詐術を明らかにしておく必要がある。戦中の日本軍が各地に慰安所をつくり、現地の女性たちや朝鮮半島の女性たちを慰安婦にして、兵士の性暴力の相手にさせられたのは客観的事実だからだ。

 日本軍が侵略したアジアの各地に慰安所をつくったことは残された軍の記録や通達からも明らかであり、歴史学的にも議論の余地はない。軍が斡旋業者を使って騙して女性を連れ出した証拠や、現地の支配者や村長に命じて女性を差し出させた証拠もいくらでもある。そして、慰安所で現地の女性や朝鮮半島から連行した女性を軍が性的搾取したことは、多くの被害女性だけでなく、当時の現地関係者や元日本兵、元将校なども証言していることだ。

 たとえば、海軍出身の中曽根康弘元首相は、回想記『終りなき海軍』のなかで、当時、設営部隊の主計長として赴任したインドネシアで〈原住民の女を襲う〉部下のために〈苦心して、慰安所をつくってやった〉ことを自慢話として書いている。この中曽根証言は、防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センターが所蔵している当時の文書「海軍航空基地第2設営班資料」において、〈気荒くなり日本人同志けんか等起る〉ようになったところで〈主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設 気持の緩和に非常に効果ありたり〉と記されているように、歴史事実として裏付けされたものだ。

■産経の総帥も自著で軍時代の慰安所設立を自慢「女の耐久度とか消耗度も決めていた」

 また、陸軍出身の鹿内信隆・元産経新聞社長は、桜田武・元日経連会長との対談集『いま明かす戦後秘史』(サンケイ出版)のなかで、慰安所と慰安婦が軍主導であった事実をあけすけに語っていた。

「(前略)軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地に行きますとピー屋(引用者註:慰安所のこと)が……」
「調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった」
 
 実際、靖国偕行文庫所蔵の『初級作戦給養百題』(1941年)という陸軍主計団記事発行部が発行した、いわば経理将校のための教科書の記述にも〈慰安所ノ設置〉が業務のひとつとされており、この鹿内証言も軍の資料と完全に一致する。

 朝鮮半島の女性たちを慰安婦にした証拠も枚挙にいとまがない。

 日本はアジア・太平洋戦争で東南アジア各国を侵略、傀儡政権を樹立したり、軍の統治下に置くなどの支配を進めていったが、たとえばシンガポールでは現地の華僑を粛清した後に、日本軍の宣伝班の下で刊行された新聞に“慰安婦募集の広告”が出ている。そうした慰安所に大勢の朝鮮人女性も動員されたことは「16歳の時にシンガポールの慰安所に連れて行かれた」という朝鮮人元慰安婦の証言だけでなく、近年発見されたビルマ(現・ミャンマー)とシンガポールの慰安所で帳場の仕事をしていた朝鮮人男性の日記からも明らかになっている。また、独立自動車第四二大隊にいた元日本軍兵士も「トタン塀」と呼んでいた慰安所には「娼妓は朝鮮人が多かったが、マライ人もいた」と証言している。

■米朝会談の舞台となったセントーサ島では朝鮮人女性が騙されて慰安婦に

 昨年、米朝会談の舞台となったシンガポール南端のセントーサ島(旧称・ブラカンマティ島)でもまた、朝鮮人女性たちが慰安婦として働かされていた。しかも、彼女たちは別の仕事だと騙されて連れてこられたのだ。

 当時、東南アジアで通訳として従軍していた永瀬隆氏が証言している。永瀬氏は、日本が戦中につくらせたタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道で陸軍の通訳をしていたことで知られる日本人男性だ。日本軍による泰緬鉄道建設にあたっては、数万人のアジア人労働者や連合国軍の捕虜が非人道的な扱いを受け犠牲となっている。永瀬氏は戦後、反戦平和の立場から個人でその慰霊と償いの社会活動を続け、2011年に亡くなった。

 その永瀬氏が生前、月刊誌「MOKU」(黙出版)1998年12月号での高嶋伸欣・琉球大学教授(現・名誉教授)との対談のなかで、セントーサ島での体験を語っていた。シンガポールでも数か月の間、陸軍の通訳として勤務しており、その時、慰安所の女性たちや軍の部隊長と話をしたことをこのように振り返っている。

「(セントーサ島には1942年の)十二月中旬までいました。十一月になって隊長が僕を呼んで、『実は朝鮮の慰安婦がこの部隊に配属になってくるんだが、彼女たちは日本語がたどたどしいから、日本語教育をしてくれ』というんです。僕は『嫌なことをいうな。通訳はそこまでしなきゃいけんのか』と思ったけど、その隊長はもう島の王様気取りでおるんです。仕方がないから、慰安婦の人たちに日本語を三、四回教えました」

 永瀬氏は「そのうちに、僕は兵隊じゃないから、慰安婦の人も話がしやすいんだな」と思ったという。そして、朝鮮人女性たちに慰安所にきた理由を聞くと、騙されて連れて来られたというのだ。

「それで僕も『あんたたちはどうしてここへ来たんだ』と聞いたら、『実は私たちは、昭南島(シンガポール)の陸軍の食堂でウエイトレスとして働く約束で、支度金を百円もらって軍用船でここへ来たんだけど、着いた途端に、お前たちは慰安婦だといわれた』というんです」
「それを聞いて、ひどいことをするなと思った。いま考えてみても、強制的に連行して慰安婦にするよりも、そうやって騙して連れてきて慰安婦にするほうが、僕は罪は深いと思います。
 とにかく、それから島の中に慰安所ができたんですが、隊長が慰安所の兵隊にくだしおかれる前に、慰安婦を毎晩代わりばんこに次から次へ味見しているという話を聞きました」

■「慰安婦は存在しなかった」の嘘が堂々とまかり通る恐ろしさ

 つまり、日本軍は、彼女たち朝鮮人女性に性的労働をさせることを告げず、まして嘘の説明で騙して慰安所に連れて行ったケースが明らかに存在した。そして、前述した中曽根元首相らの証言や当時の軍資料のように、日本軍が従軍慰安婦に積極的に関与していたことも歴史的な事実なのである。

 八代弁護士が言うような「慰安婦問題は史実に基づかない」というのが、いかにフェイクであるかが分かるだろう。歴史修正主義者たちは、こうして慰安婦問題を矮小化しているのだ。

 恐ろしいのは、こうした歴史的な事実を否認する発言が、当たり前のようにワイドショーで飛び出し、他のマスコミが検証を放棄した結果、少なからぬ視聴者が何ら疑念をもたないでいることだ。実際、八代弁護士の発言の嘘を検証したり、批判的に取り上げるマスコミは、いまのところ皆無。それどころか、Twitterでは「よくぞ言ってくれた!」というような賞賛まで受けている。

 繰り返すが、安倍政権が煽動する“嫌韓”を、応援団やマスコミが増幅し、それがごく当たり前のように社会に蔓延しているのが、いまの日本社会だ。その結果起きたのが、平和の少女像などの展示に対する異常なバッシングであり、放火テロまでほのめかす脅迫だった。歴史的事実や、それに向き合うための表現まで「反日」と糾弾され、封殺されてしまう状況は、もはや“嫌韓ファシズム”と呼ぶべきかもしれない。

 しかも、こうしたメディアの扇動によって、国民の世論じたいもどんどん冷静さを失っている。

 政府が先月実施した「ホワイト国除外」に関するパブリックコメントには、寄せられた4万666件の意見のうち、「除外」に賛成が実に約95%で、反対はわずか約1%だったという。これは、安倍応援団やネトウヨの組織票の可能性が濃厚だが、他方、FNNと産経新聞が3、4日に実施した世論調査でも、「ホワイト国除外」を「支持する」が67.6%に登り、「支持しない」は19.4%にすぎなった。

 ワイドショーをはじめとするマスコミには、自分たちが取り返しのつかない状況を作り出しているという自覚はないのだろうか。

http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/687.html#c24

[政治・選挙・NHK267] 中曽根康弘元首相死去 101歳、「戦後政治の総決算」を掲げて国鉄民営化 行財政改革を推進  赤かぶ
25. 中川隆[-15251] koaQ7Jey 2019年11月29日 14:17:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2329]
終戦記記念日にあらためて言いたい!「慰安婦はデマ」こそデマだ! 日本軍関与、強制連行…歴史修正主義者たちはこの証拠を見よ
https://lite-ra.com/2019/08/post-4903.html
2019.08.15 終戦記記念日にあらためて言いたい!「慰安婦はデマ」こそデマだ! リテラ
   
   

 74年目の終戦記念日を迎えた今日、やはり、取り上げておくべきは日本軍「慰安婦」問題だろう。第二次安倍政権の誕生とともに、右派政治家やネット右翼による歴史修正主義は一気に勢いづき、「反日バッシング」の大号令のもとで大日本帝国賛美への傾きを増している。その象徴が、戦中の日本軍による「慰安婦」問題だからだ。

「平和の少女像」が展示された「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」は、脅迫や政治家の圧力によって中止に追い込まれたが、ネトウヨだけでなく、いまや政治家たちもが剥き出しの歴史修正発言を平然と繰り出しており、かたや、それを批判・検証する動きは鈍い。

「慰安婦問題は完全なデマなんだから。軍が関与した強制連行はなかったわけだから。それは一報を報じた朝日新聞自体が誤報と謝罪しているわけだから」「事実ではないデマの象徴の慰安婦像は行政が主催する展示会で展示するべきものではない」(松井一郎・大阪市長)

「名古屋市と愛知県は認めたのかと、国の補助金も入っているような(芸術祭で)国も韓国の主張を認めたのかと。やっぱり従軍慰安婦ってあったのかと、そういうふうに見られるじゃないかと」(河村たかし・名古屋市長)

 言っておくが、「慰安婦はデマ」「慰安婦はなかった」という発言こそ、はっきりとしたデマだ。そもそも、2014年に朝日新聞が訂正・謝罪したのは「慰安婦狩り」を創作した吉田清治証言にかんするもののみ。戦中の日本軍がアジア各地に慰安所をつくり、女性たちを「慰安婦」にして、兵士の性暴力の相手にしたのは事実である。

 まず、軍が慰安所づくりに主体的に携わったことを示す公的文書や元日本軍人の証言はいくらでもある。先日の記事(https://lite-ra.com/2019/08/post-4885.html)でも触れたが、たとえば、海軍出身の中曽根康弘・元首相は回想のなかで、インドネシアで「苦心して、慰安所をつくってやった」ことを自慢話として書いている。陸軍出身の鹿内信隆・元産経新聞社長はある対談で、「調弁する女の耐久度とか消耗度」などを含む慰安所の設置方法を経理学校で教わったと語っている。これらの証言は防衛省などが保持する当時の軍の史料でも裏付けされており、つまり、慰安所と「慰安婦」が軍主導であった事実を示している。

 アジアへの侵略戦争のなか、日本軍は戦地または占領地に軍直営や軍専用の慰安所をつくり、あるいは民間の売春宿を指定するかたちで慰安所にした。たとえば、防衛省の防衛研究所が所蔵する史料「常州駐屯間内務規定」(1938年3月16日、独立攻城重砲兵第二大隊が作成)では、中国現地の〈慰安所使用規定〉として部隊ごとに使用する曜日が決められていたほか、〈使用時間ハ一人一時間ヲ限度トス〉とあり〈支那人 一円○○銭〉〈半島人 一円五十銭〉〈内地人 二円○○銭〉とされている。軍が慰安所をつくり、朝鮮や現地の女性を「慰安婦」にしていたのは客観的にも議論の余地がないのだ。

 そこで、歴史修正主義者たちは「軍が関与した強制連行を示す証拠はない」などと言って「慰安婦問題はデマだ」と嘯くわけだが、しかし、これも問題を矮小化する典型的手口としか言いようがない。

 だいたい、歴史修正主義者たちは「軍がトラックで村に乗り込んできて、娘たちを連れ去って慰安婦にした」というようなケースだけを「強制連行」とするが、「強制」とはそもそも「本人の意思に反して無理矢理行わせること」だ。

 朝鮮人元慰安婦の証言で多いのは、「工場で働かせる」「稼げる仕事がある」などと甘言を弄して「慰安婦」にすることを隠し、騙して慰安所へ連行するケースだ。軍が直接的に連行せず業者を使っていても、元締めの業者は軍が選定し、慰安所では軍人の相手を強制されたのだから、当然、軍の責任は免れない。

■「いい仕事がある」と騙され貨車に詰め込まれ日本憲兵から「逃げようとしたら殺すぞ」と

 たとえば、朝鮮人元「慰安婦」の朴永心さんは1939年、17歳のとき、騙されて南京の慰安所へ連れていかれた。当時務めていた洋品店に、腰にサーベルをつけた日本人の巡査がやってきて、「お金が稼げるいい仕事がある」と誘われ、どういった仕事かはわからなかったが親孝行になると思い、ついていったという。

〈巡査は、私たちを憲兵に引き渡すとそそくさと姿を消してしまいました。私たちは屋根のついた貨車(有蓋貨車)に詰め込まれました。真夏だというのに貨車には窓がなく、風が通らないので中は蒸し風呂のような暑さでした。ブラウスが汗で肌にべったり張りついていたのを覚えています。
 一緒に乗り込んできた憲兵は「逃げようとしたら殺すぞ」と私たちを脅し、娘たちが互いに話すことも禁じました。トイレに行きたくても外に出してもらえず、我慢ができなくなると恥ずかしいなんて言ってられない。貨車の中で用を足さねばなりませんでした。本当につらかった。
 私たちは黙ったまま、暗い貨車の中で身を寄せ合って座っていました。「帰りたい」と泣き叫んでも殴られるだけで、どうすることもできなかったのです。「だまされた」と気がついたときにはすでに手遅れでした。〉【脚注1】

 明らかにそこには日本の官憲の「関与」があり、女性たちは「慰安婦」になることを「強制」されていたわけだが、さらに、東南アジアでは直接的に日本軍によって連行されたという証言も多い。

〈1943年のある夜、日本兵がやってきて、家々から若い女性を引きずり出しました。私は腕から乳飲み子をもぎとられ、むりやりトラックに押し込まれ、トンロックホテルで降ろされました。そこは陸軍専用の慰安所でした。〉(ロザリン・ソウさん/マレーシア・ペナン島生まれ)【脚注2】

〈日本軍の占領下、オランダ人は抑留所に入れられました。1944年2月、抑留所に日本軍の将校がきて、若い女性を広場に整列させ、「慰安婦」にする女性を選びました。私をふくむ16人の娘が「七海亭」に連行されました。私たちは恐怖で身を寄せあって祈りましたが、ひとり、またひとりと寝室に連れていかれました。私は日本刀をつきつけられて強かんされました。私はこの最初の夜を決して忘れません。翌日からは日本兵が列をつくってやってきました。2カ月後、慰安所は突然閉鎖され、私たちはボゴールの抑留所に移されました。日本兵は「慰安所のことを話したら、家族ともども殺す」と脅しました。私は沈黙するしかなく、周囲から「日本の売春婦」とよばれて、つらい思いをしました。〉(ジャン・ラフ=オハーンさん/オランダ領ジャワ島生まれ)【脚注2】

 安倍首相は第一次政権時に「言わば、官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れていくという、そういう強制性はなかった」(2007年3月5日参院予算委員会)と答弁したが、これは真っ赤な嘘なのである。

■日本軍によって両親を虐殺され、慰安婦にされたフィリピン女性

 目の前で日本軍によって肉親を虐殺され、「慰安婦」にさせられたケースさえある。フィリピン人元「慰安婦」のルフィーナ・フェルナンデスさんの証言だ。1942年に日本軍がフィリピンを占領したとき、フェルナンデスさんは14歳だった。場所を移しながら避難生活を送るなか、マニラ郊外の家に日本軍が入ってきた。

〈この家に戻るとすぐ私たちの家に日本軍が入り込んできました。彼らは私の父を当時強かった反日ゲリラの容疑者ということで、逮捕しようとしていました。父は前から山に行ったり、マニラに行ったりしていて、反日運動など何ひとつ行っていません。そのことを日本軍の兵士に言いました。しかし、兵士はいっこうに耳をかそうとせず、父を殴りつけました。そして、私は避難生活の間に一五才になっていましたけれど、私を見つけて日本軍の兵士が連れて行こうとしました。それをみた父が逆上して、私を連れ戻そうと日本軍の兵士に抵抗した時に、父は私の見ている前で日本軍の兵士になぐり殺されました。そして次は母の番でした。母も私をかばおうと日本兵の前に立ちはだかると、兵士が何度も何度も母のおなかを殴りつけ、母はそのまま死んでしまいました。兄弟は私の目の前で殴られ続けました。私は止めようとしましたが、私も頭をひどく殴られ意識を失った状態で車の中に連れて行かれました。遠ざかる意識の中で泣き叫ぶ兄弟の声が聞こえなくなりました。おそらく彼らも殺されたのだとその時思いました。
 私の家族はこうしてすべて殺されました。これは私にとって、とてもつらい信じられない出来事でした。そのことだけでも私は五〇年間日本人と日本軍に対する怒りで苦しみ続けてきました。〉【脚注3】

 そして、慰安所での女性たちの境遇は「凄惨」や「壮絶」という言葉ではとても言い表せないほどのものだった。数々の証言からは、虐待や暴行は日常茶飯事であり、まさに兵士たちが女性を「モノ」扱いしていたことが伺える。

■日本兵から「皇軍のため」「一〇〇人でも二〇〇人でも入ってくるだけ奉仕をしろ」と

 たとえば、朝鮮人元「慰安婦」の李桂月さんはこう証言している。15歳になった年に、村の区長に「仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言われ向かった先で日本の軍人に引き渡され、ハルピン近くの慰安所に連れて行かれた。

〈日本軍は「慰安婦」たちが言うことを聞かないとひどく殴りました。ある日、私は部屋に入ってきた将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、将校は「皇軍の言うことが聞けないのか」とどなり、連続びんたを食らわせました。あまりの痛さに目がくらみ、あごががくがくしました。将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は完全に気を失ってしまいました。〉
〈また、ある日、「タナカ」が部屋に入って来たときに私が横になったまま起き上がらないので靴で触り、「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。たばこを押し付けられてやけどをしたところは水ぶくれになり、化膿してしまいました。〉
〈日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「一〇〇人でも二〇〇人でも入ってくるだけ奉仕をしろ」と命令しました。それで、日曜日にはご飯を食べる時間も、便所に行く時間もなく「奉仕」させられました。一日中数十人もの日本兵に犯されると、指を動かす力もなくなり、失神するほどでした。一緒に連行されて来たヨンジャとイ・プニは、日本兵の暴行で殺されました。ヨンジャは病気になって腹が膨れ上がりましたが、日本兵はにんしんしている女は不必要だと言って軍刀で彼女のお腹を切り裂きました。しかし、胎児はおらず、水みたいなものがあふれ出ただけでした。ヨンジャは腹水の病気だったと思います。〉【脚注1】

 彼女たちは騙されたり、暴力によって無理矢理に「慰安婦」にさせられただけではない。慰安所では、兵士の性暴力の相手を拒めず、居住も強制され、監視によって外出や逃亡もできなかったという証言がほとんどだ。また当時の日本は、女性や児童の売買を禁じる国際条約や、満21歳未満の女性を国外へ連れて行くことを禁じる国際条約に加入しており、これらにも違反していた。なにより、戦争遂行のために女性の自由を奪い、強制的に男性の性暴力に晒すのは、深刻な人権侵害にほかならない。

 冒頭に述べたように、敗戦から74年を迎えるこの国では、「慰安婦」の存在を否定するデマが勢いづいている。女性の人権を擁護し、被害と惨禍を繰り返すまいと決意することが「反日」などと呼ばれ、バッシングや脅迫の対象となってしまう社会。そうした歪んだ状況を正さない以上、同じことが繰り返されないという保証はない。そのことを決して忘れないでほしい。

(編集部)

■引用元と主な参考文献
【1】アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編/西野瑠美子、金富子責任編集『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集1』明石書店
【2】アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『フィールドワーク 日本軍「慰安婦」』平和文化
【3】アジア・フォーラム編『元『慰安婦』の証言──五〇年の沈黙をやぶって』皓星社
【他参考】日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会編/吉見義明、西野瑠美子、林博史、金富子責任編集『Q&A「慰安婦」・強制・性奴隷』御茶の水書房

http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/687.html#c25

[政治・選挙・NHK267] 中曽根康弘元首相死去 101歳、「戦後政治の総決算」を掲げて国鉄民営化 行財政改革を推進  赤かぶ
26. 中川隆[-15250] koaQ7Jey 2019年11月29日 14:18:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2328]
秦郁彦 VS 吉見義明
https://www.nicovideo.jp/watch/sm24444064
2013-07-03
慰安婦問題の討論・秦郁彦vs吉見義明、秦郁彦は歴史家の名を利用するのやめたらどうだろう
https://dj19.hatenadiary.org/entry/20130703/p1


6/13、TBSラジオ番組で秦郁彦氏と吉見義明氏による「従軍慰安婦」問題についての15、6年ぶりの討論があった。取り上げるのが遅くなったが秦郁彦氏の誤魔化しや詭弁があまりに酷いので批判しておこうと思う。


●2013年06月13日(木)「秦郁彦さん、吉見義明さん、第一人者と考える『慰安婦問題』の論点」(対局モード)- 荻上チキ・Session-22
http://www.tbsradio.jp/ss954/2013/06/20130613-1.html



■ポッドキャスティングで聴く
http://podcast.tbsradio.jp/ss954/files/20130613main.mp3

■Youtubeで聴く
https://www.youtube.com/watch?v=3ANBEo8Ju14


まず視聴した感想を書くと、「慰安婦」として動員された女性たちは貧しいのが通例であり、経済的にも社会的にも弱い立場にあったわけだが、こうした女性たちに対する秦郁彦氏の蔑視と冷淡さは相変わらずひどいものだった。
彼女たちが被った慰安所での性暴力、強制売春といった犯罪被害は少しも顧みられることはないし、史料の都合のいいつまみ食いと、それを全体の問題にすり替えた粗雑な否定論も目立つ。

公娼については「家族のため」にやったこと、慰安婦については「売った親が悪い」と、家父長制や昔の家制度の論理で個人の自発性や自己責任に落とし込み消化されるだけなのだ。

まぁそんな秦郁彦氏でも、吉見義明氏に従軍慰安婦の被害の実態をツッコまれると、言葉の言い換えや詭弁で誤魔化そうとしてだいぶボロが出ていた。

以下は、ラジオ番組から人身売買や性的奴隷に関する発言の一部を文字起こしたもの(時間はYoutubeによる)。


19:05 〜
秦郁彦
内地の公娼制をね、これ、奴隷だということになってくると、そうすると、現在のオランダの飾り窓だとか、ドイツも公認してますしね、それからアメリカでも連邦はだめだけれどネバダ州は公認してるんですよ。これは皆、性奴隷ということになりますね。

吉見義明
それは、人身売買によって女性たちがそこに入れられているわけですか?

秦郁彦
人身売買がなければ奴隷じゃないわけですか?志願した人もいるわけでしょ。高い給料にひかれてね。

吉見義明
セックスワークをどういうふうに認めるかということについてはいろいろ議論があって難しいわけですけれど、少なくとも人身売買を基にしてですね、そういうシステムが成り立っている場合は、それは性奴隷制というほかはないじゃないですか。

秦郁彦
自由志願制の場合はどうなんですか?

吉見義明
それは性奴隷制とは必ずしも言えないんじゃないでしょうか。
秦郁彦
公娼であっても?

吉見義明
それは本人が自由意志でですね、仮に性労働をしているのであればそれは強制とは言えないし、性奴隷制とも言えないでしょうね。

20:15 〜
秦郁彦

日本の身売りというのがありましたね。それで身売りというのは人身売買だから、これはいかんということになってるんですね、日本の法律でね。

吉見義明

いつ、いかんていうことになってるんですか?

秦郁彦

人身売買、自体はマリア・ルス(マリアルーズ)号事件の頃からあるでしょ、だから。

吉見義明

それはあの〜確かにあるけれど、それは建前なわけですよね。

秦郁彦

建前にしろですね、人身売買ってのは、だいたい親が娘を売るわけですけれどね。売ったという形にしないわけですよね。要するに金を借り入れたと、それを返済するまでね、娘が、これを年季奉公とか言ったりするんですけどね、その間、その〜、性サービスをやらされるっていうことなんでね。
それで、娘には必ずしも実情が伝えられてないわけですね。だからね、しかし、いわゆる身売りなんですね。

荻上チキ
(着いてみたら)こんなはずじゃなかった、という手記が残っているわけですね。

秦郁彦

う〜ん騙(だま)しと思う場合もあるでしょう。ね。
(中略)
だからね。これは、う〜ん、なんていうかな、自由意志か、自由意志でないかは非常に難しいんですね。家族のためにということで誰が判定するんですか。

吉見義明

いや、そこに明らかに金を払ってですね、女性の人身を拘束しているわけですから、それは人身売買というほかないじゃないですか。

荻上チキ
ちょっと時期は違いますけれどもね、『吉原花魁日記』とか『春駒日記』とかっていう、昔の大正期などの史料などでは、親に「働いてこい」と言われたけど、実際に働いてみるまでそのことだとは思わなかったケースもあったりすると。

秦郁彦
うん、そうそう。

荻上チキ
それは、親も敢えて黙っていたかもしれないし、周りの人も「いいね、お金が稼げて」と誉のように言んだけども、内実を周りは知らなかったっていうような話は色いろあったみたいですね。
吉見義明
実際にはあれでしょ、売春によって借金を返すというシステムになってるわけでしょ?

秦郁彦
今だってそれはあるわけでしょ。

吉見義明
それは、それこそ人身売買であって、それは問題になるんじゃないですか?

秦郁彦
じゃぁ、ネバダ州に行って、あなた、大きな声でそれは弾劾するだけの勇気がありますか?

吉見義明
もしそれが人身売買であれば、それは弾劾されるべき。

秦郁彦
志願してる場合ですよ、自発的に。自発かね、その〜どこで区別するんですか?

吉見義明
何を言ってるんですか、あなたは?

秦郁彦
え?


これは当時の公娼制度に関連したやり取りだが、秦氏が当時の日本での人身売買を基礎にした公娼制度と、現在の様々な法令によって女性の人権がある程度、保護されたうえで公認されている売春を同列に語っていることにまず驚く。このやり取りを聴いただけでも、秦郁彦氏が「自由売春」と、犯罪である「強制売春」の区別がついていないことは明らかだろう。いや、わかっていてわざとそこに触れないよう回避していると見るべきか。

そもそも秦氏は1999年の著書『慰安婦と戦場の性』のなかで、公娼制度とは「まさに「前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない二〇世紀最大の人道問題」(廓清会の内相あて陳情書)にちがいなかった(同書p.36)」と公娼制度が奴隷制度であることを認めていた。
さらに同書では、「「慰安婦」または「従軍慰安婦」のシステムは、戦前期の日本に定着していた公娼制の戦地版として位置づけるのが適切かと思われる。(前書p.27)」と述べていた。

この論理なら、「公娼制度の戦地版」である慰安婦制度も同様に奴隷制度という認識になるはずである*1。ところが今回の吉見義明氏との討論では、最後まで公娼制度や慰安婦制度が奴隷制度であることを認めることはなかった。

とはいっても秦氏はこの後(後段の文字起こし部分)で、朝鮮半島から慰安婦として動員された女性たちの「大部分」が「誘拐や人身売買」の被害者であることまで認めた。そして、身売り=人身売買の被害者は「借金を返す」までの期間、身体を拘束され性行為を継続的に強要される状況にあったことも認めている。これは暗に奴隷状態であったことを認めているに等しい。

国際的な定義では、こうした他者の支配下に置かれ、自分のことを自由に決定する権利が奪われ所有物として扱われる地位や状態は奴隷状態であり、こうした状況で継続的に性行為を強要される状態を性的奴隷状態と定義しているのだから。(こちらを参照:性奴隷の定義を無視し「慰安婦は性奴隷ではない」と叫んでも反論になってない - Transnational History 性奴隷の定義を無視し「慰安婦は性奴隷ではない」と叫んでも反論になってない - Transnational History)



36:26 〜
荻上チキ
前提としてそういったふうに(連れて行かれた女性が慰安所での性行為を拒否し)イヤだイヤだといった場合は、帰る自由といったものはあったんですか?
秦郁彦
借金を返せばね。借金を返せば何も問題ないわけですよ。

吉見義明
え〜つまり、借金を返すまで何年間かそこ(慰安所)に拘束されるわけです。
それが性奴隷制度だっていうこと。

秦郁彦
そうすると親がね、返さなきゃいけんのですよ。親が売ったのが悪いでしょ。
吉見義明
秦さんがわかってないのそこですよ。
秦郁彦
どうして?
吉見義明
借金を返せば解放されるというのであれば、それは人身売買を認めてることになるじゃないですか。


53:35

吉見義明
先ほど言いましたように略取とか誘拐とか人身売買で連れて行くのがほとんどだったわけですよね。
そうして朝鮮半島で誘拐や人身売買があったということは、え〜、秦さんも認めておられるわけですね。

秦郁彦
当然ですよ。それが大部分ですよ。

吉見義明
それでたとえ業者がそういうことをやったとしても、その業者は軍に選定された業者である。で実際に被害が生じるのは慰安所ですけど、その慰安所というのは軍の施設である。軍がつくった軍の施設であるわけですね。そこで女性たちが誘拐とか人身売買で拘束をされているわけですね。
当然、軍に責任があるということになると思う。


このやり取りでは吉見氏が、人身売買により身体を拘束された女性たちが借金を返すまでは解放されず性行為を強制されるシステムは性的奴隷制度であると指摘するが、秦氏は「親が売ったのが悪い」と親の責任にして話を逸らしている。
しかしこの後で秦氏は朝鮮半島では「誘拐や人身売買」のケースが「大部分」だったことを認めており、そうであるなら貧困により生活が困窮し娘を売った親も、その多くは偽りの説明を告げられ騙されていたと推測するのは難しいことではないだろう。

ビルマでの尋問調書『日本人捕虜尋問報告 第49号』には次のように記述されている。


1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南 アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵 を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明 を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。

日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日
http://a777.ath.cx/ComfortWomen/proof_jp.html


長くなるので文字起こしの引用は省略するがYouTubeの40分(http://youtu.be/3ANBEo8Ju14?t=40m)ごろから、秦氏は呆れたことに上のビルマでの捕虜尋問調書を持ち出し、慰安婦がどれだけ楽だったかを力説している! しかし吉見氏にその解釈の間違いをことごとく反論され、みごと撃沈しているが(その討論の文字起こしはこちら)。


最後に秦氏の詭弁を批判しておこう。

今回の討論では秦氏は慰安婦の問題に直接絡めて言及したわけではないが、このエントリの冒頭部分の文字起こしにあるように「秦:人身売買がなければ奴隷じゃないわけですか?志願した人もいるわけでしょ。高い給料にひかれてね。」だとか、吉見氏の発言「人身売買であれば、それは弾劾されるべき。」に対し「秦:志願してる場合ですよ、自発的に。自発かね、その〜どこで区別するんですか?」などと、「志願」や「自発的」な側面があれば人身売買や奴隷に当たらないとの認識を披露している。そしてつい最近も産経新聞への寄稿で慰安婦募集の広告に「応募者は少なくなかったろう」などと述べているぐらいだから*2、「自発」や「志願」なら人身売買や奴隷とは呼べず軍の責任も免責されると考えているのだろう。
しかしこの「自発的」なのか「志願」なのか、といった問題設定自体が、初めから問題を否認するための偽りの問題設定、あるいはすり替えと言わざるを得ない。


日本政府も署名している国連の「人身取引(人身売買)補足議定書」の定義は次のようになっている。


人身取引(人身売買)の定義
Protocol to prevent, suppress and punish trafficking in persons, especially women and children, supplementing the United Nations Convention against Transnational Organized Crime
和訳:国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、特に女性及び児童の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書
英語原文:http://www.unodc.org/documents/treaties/UNTOC/Publications/TOC%20Convention/TOCebook-e.pdf
外務省 和文テキスト:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/treaty162_1.html
(日本政府はtraffickingを人身売買ではなく人身取引と和訳している。)


Article 3. Use of terms
第3条
(a) “Trafficking in persons” shall mean the recruitment, transportation,transfer, harbouring or receipt of persons, by means of the threat or use of forceor other forms of coercion, of abduction, of fraud, of deception, of the abuse of power or of a position of vulnerability or of the giving or receiving of payments or benefits to achieve the consent of a person having control over another person, for the purpose of exploitation. Exploitation shall include, at a minimum, the exploitation of the prostitution of others or other forms of sexual exploitation, forced labour or services, slavery or practices similar to slavery, servitude or the removal of organs;
(a) 「人身取引」とは、搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得(募集)し、輸送し、引き渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務(サービス)の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。
(b) The consent of a victim of trafficking in persons to the intended exploitation set forth in subparagraph (a) of this article shall be irrelevant where any of the means set forth in subparagraph (a) have been used;
(b) (a)に規定する手段が用いられた場合には、人身取引の被害者が(a)に規定する搾取について同意しているか否かを問わない。
(c) The recruitment, transportation, transfer, harbouring or receipt of a child for the purpose of exploitation shall be considered “trafficking in persons” even if this does not involve any of the means set forth in subparagraph (a) of this article;
(c) 搾取の目的で児童を獲得し、輸送し、引き渡し、蔵匿し、又は収受することは、(a)に規定するいずれの手段が用いられない場合であっても、人身取引とみなされる。
(d) “Child” shall mean any person under eighteen years of age.
(d) 「児童」とは、18 歳未満のすべての者をいう。

(強調は引用者による)


一読してわかるように、搾取の目的で、暴力、誘拐や詐欺、同意を得る目的で行われる金銭の授受、弱い立場に乗ずるなどの手段が用いられている場合、自発的どころか、たとえ本人が同意している場合であっても人身売買に該当 (b項)することに変わりはないのである。

また、「自発的」や「志願」といった事実が一部にあったとしても、それによって女性たちが「慰安婦」になることを「同意」していたと見なすことはできない。なぜなら朝鮮半島からの動員では職種を偽ったり明かさずに甘言で騙して国外へ連れて行く誘拐や就業詐欺(人身売買を含む)といったケースが数多く報告されており*3、秦氏も朝鮮半島では「誘拐や人身売買」のケースが「大部分」だったことを認めているのだから。

まぁ日本軍の場合、上記の人身売買の定義にある、獲得(募集)、輸送、収受といった3つの過程すべてにおいて組織的に関与・介入しており、国家責任が問われないよう見せかけるには秦さんもこうした詭弁を弄するしか選択肢がないのだろう、とは思うが。


*1:秦郁彦氏は慰安婦制度を公娼制度へと一般化させようと差異を無視している。一例をあげるなら、公娼制度では建前上とはいえ法規定(娼妓取締規則)により「廃業の自由」が保障されていた(もちろん実態は違っていたのだが)、しかし慰安婦制度にはそうした廃業の自由を保障する法規定すら存在しなかった。

*2:こちらを参照:秦郁彦氏は従軍慰安婦の話題になるとバカになる - 誰かの妄想・はてな版 秦郁彦氏は従軍慰安婦の話題になるとバカになる - 誰かの妄想・はてな版

*3:誘拐、詐欺、人身売買の数多くの事例はこちらを参照:日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態 - Transnational History 日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態 - Transnational History。他にも、元朝鮮人慰安婦19人による証言集でも、甘言に騙され連れて行かれたケース(人身売買を含む)が最も多くを占める。参照『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』明石書店 ,1993年


https://dj19.hatenadiary.org/entry/20130703/p1


http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/687.html#c26

[リバイバル3] 「住宅は資産」という幻想で誰があなたをカモにするのか? 中川隆
266. 中川隆[-15252] koaQ7Jey 2019年11月29日 14:23:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2329]

欠陥マンション 3800万円だった最上階の資産価値が50万円に 2019/11/29


販売元と施工会社は現在も係争中(大津京ステーションプレイス)© マネーポストWEB 提供販売元と施工会社は現在も係争中(大津京ステーションプレイス)

 マンション購入は人生の一大選択だが、買い手が予想もしなかったトラブルに見舞われるケースがある。2009年に完成した滋賀県大津市の「大津京ステーションプレイス」(14階建て、全108戸)もその一つだ。新築当初からこのマンションの高層階に住んでいる男性が語る。

「とにかく雨が降ると大変な騒ぎです。火災報知器が誤作動して深夜早朝かまわずサイレンが鳴り響き、おちおち寝てもいられない。漏電の恐れがあるからと、エレベーターも停止してしまうため、階段の昇り降りが大変で……。敷地内の立体駐車場も浸水したため使えず、近所の平置き駐車場を借りています」

 京都駅から最寄り駅までJR新快速で約10分、琵琶湖にほど近い同マンションの付近には、大規模商業施設や大きな公園もあり、通勤・通学だけでなく子育てにも適した人気マンションとなるはずだった。

 だが、新築マンションでの生活に胸を膨らませて入居した早々、通常では考えられない“欠陥”が次々と明らかになっていった。同マンションの施主で売主の不動産会社「大覚」の山下覚史社長が訴える。

「このマンションは当社が事業主となり、南海電鉄グループの南海辰村建設に施工を依頼して分譲しました。しかし、完成してみると設計とは全く違う、問題だらけの工事になっていた。屋上の防水処理が不完全なため、最上階の部屋は雨漏りを起こし、湿気のせいで室内はカビやキノコまで生える始末。とても人が住める状況ではありませんでした」

 マンションの構造そのものにも問題は及んでいた。

「専門家に調査を依頼したところ、基礎部分のコンクリートが一体化していないことが判明。地震に耐えるための杭も地盤の支持層まで届いていないものがあった。大変不安定な状態で、大地震が来たら倒壊の危険もあるというのです」(山下社長)

 大覚側は、調査で発覚した1000か所以上に及ぶ瑕疵の是正を求めたが、施工した南海辰村建設は「瑕疵はない」と主張し、両者の争いは2010年に法廷へ持ち込まれた。別の住民はこう話す。

「売主は希望者に契約解除の提案をしましたが、私たちはマンションに残ることを決めました。売買代金が戻っても、登記費用や不動産取得税など数百万の諸経費が無駄になるからです」

 その上でこう続ける。

「問題発覚後、命にかかわるようなトラブルもありました。14階に設置された重さ50kgの防風壁4枚が落下したこともあります。裁判が長引いて先行きが見えない中、あるご夫妻は転居を巡って対立し、離婚に追い込まれました」

 新築分譲時、3800万円だった最上階の部屋の資産価値は、いまや50万円にまで暴落したという。前出の男性住民が語る。

「裁判が続いている以上、買い替えにも踏み切れない。これだけ資産価値が落ちた家に、この先まだ20年以上もローンを返し続けねばならない。“いったい、どうしてくれるんや”という怒りと不安しかありません」

 2013年の一審では大覚側が敗訴したものの、今年4月の二審では逆転判決となり、南海辰村建設に解体費用など約15億円の損害賠償が命じられた(南海辰村建設は上告)。仮に建て替えるにしても、多くの問題が立ちはだかる。

「資材や人件費の高騰もあり、実際に解体再築するとなれば最低でも30億円はかかる」(前出・山下社長)

 また、南海辰村建設は「弊社は当該マンションに瑕疵はないと考えている。最高裁上告中であり、司法の判断に委ねる」(総務部)と回答。どのような決着となるかはまだわからない。同マンションを実地検査した日本建築検査研究所の岩山健一氏が指摘する。

「程度の差はあれど、こうした物件は全国にゴマンとある。建築業界には元請けがあり、下請けが何次も入り、職人を使うといういくつも重ねられた上下関係があるからです」

※週刊ポスト2019年12月6日号
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e6%ac%a0%e9%99%a5%e3%83%9e%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3-3800%e4%b8%87%e5%86%86%e3%81%a0%e3%81%a3%e3%81%9f%e6%9c%80%e4%b8%8a%e9%9a%8e%e3%81%ae%e8%b3%87%e7%94%a3%e4%be%a1%e5%80%a4%e3%81%8c50%e4%b8%87%e5%86%86%e3%81%ab/ar-BBXukGz?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/615.html#c266

[リバイバル3] 与沢翼の成功、破産、そして復活 秒速1億円男

2019年11月29日
与沢翼の成功、破産、そして復活 秒速1億円男

http://yozawa-matome.com/wp-content/uploads/f8ffa60452c588a699bfb9fde72f851e.png


秒速1億円を稼ぐ男と呼ばれた与沢翼は破産したという話が流れてから噂を聞かなくなり、自然に忘れられていった。

しかし2015年になってシンガポールで突然復活し、現在は『資産70億円男』として活躍している


この数年間に何があったのだろうか?


成功


与沢氏はテレビ番組で言っていたのとは違い、株や先物、為替取引のような金融投資で成り上がった訳ではない。

最初の成功はインターネットで「成功する法則」のような怪しい情報商材を販売して多額の資産を作った。

今でもそうであるように情報商材とは要するに、不遇な人に夢を与える代わりに金を騙し取る商売で、大半は嘘で出来ている。


多くは自分は貧乏から成り上がった成功者だと自称し、こうやって成功したという実体験が書かれている。

情報商材の料金は数十万円から数百万円で、月に1千万以上の収入があったようだ。

「成功の法則」のようなものには共通した矛盾があり、最初の一人が実行した時には大きな成果が得られるが、後になるほど取り分が小さくなり、最後にはマイナスになる。


例えば日本人全員が「情報商材」を販売したらどうなるか?、競馬の「必勝法」で全員が同じ馬券を買ったらどうなるかという事です。

これは株や投資にも当てはまり、その「必勝法」を実行する人数が増えるほど成果は低くなり、最後にはマイナスになる。

あらゆる成功の法則は、世間に広まった時点で無効になっているのです。


「情報商材」のような商売は必ずいつか行き詰るだろうが、与沢氏は行き詰る前に投資の世界に進出した。

ここら辺は見切りが上手く、その後の投資家としても全期間を含めて、最高月収は5000万円だと振り返っているので、年収にして数億円だった事になる。

しかも収入の多くは投資ではなく、情報商材や成功指南、マスコミへの出演報酬だったと見られている。

破綻


2014年4月、自身が経営する企業の法人税未納や実質経営破たん状態にあることを突如公表した。

彼がやっていたと自称している金融投資は先物とFXが中心だったようで、破産の原因はFXでの損失だった。

先物もFXも、素人が成功するような投資ではなく、両方とも投機、ハイリスクな賭けと言えます。


ハイリスク、ハイリターンな投資では、考えれば分かると思うのだが、成功者はほとんど居らず、全員が敗北する敗者のゲームです。

業者が天引きした残りを投資家同士が奪い合うのだが、1兆円以上をポンポン投資して相場自体を変動させるような機関投資家には絶対に勝てない。

与沢氏の金融投資は負けるべくして負けた。


与沢氏の経営する投資会社の破綻なのだが、多くの人は何故か奇妙な印象を受けた。

詳細は知らないが、破綻したファンド経営者など、一家で夜逃げして数年後にXXXで発見されるのが当たり前の世界である。

ところが与沢氏は堂々とマスコミに出て事情を説明したりしていました。


破綻したファンド経営者はまず逃げたり隠れたりするもので、そうしないのはおかしいのです。

それまで「俺は世界の支配者だ」とふんぞり返っていた人が、翌日無一文になったら、もう世間に出れるものではない。

もしかしたら個人的な資産を別に逃がしておいて、会社だけを破産させたのではないかと思った。

与沢はいつもカッコいい事だけを言うが、大元の資金源は商材とブログです


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画像引用:“元ネオヒルズ族”与沢翼、今の純資産は約75億円! 結婚を決めた妻の一言とは? | AbemaTIMEShttps://times.abema.tv/posts/7016004

復活 持つべきものは良いブログと商材?


復活後はシンガポールで展開している株式トレードと合法的な賭けで、月1000万円ほどを稼ぎ出していると報告していました。

主なビジネスは株式投資で、先物やFXのようなハイリスク投資は辞めたと言っている。

復活のきっかけになったのはブログだと言っていて、投資は全て止めてブログ執筆だけに専念したという。


ここで疑問なのはブログってそんなに儲かるのかという事だが、芸能人の人気ブログの多くは年に1億円以上を稼いでいる。

何かと話題になる元モーニング娘。の主婦とか、固定ファンが多ければ毎日30万円くらいにはなり、1年では1億円を超える。

芸能人にはステマ依頼があり「この化粧品を使ってみたら良かった」とか一言書くだけで数万から数十万円になる。


因みにこのブログではその数百分の1といった所で、そういう美味しい話は無いです。

与沢氏はブログの他にもLINEスタンプとか著書とか商材とか、地味だが堅実な収入源があり、破産後も月に1000万円の現金収入があったと考えられる。

彼自身は「投資を止めてブログに専念したら、かえって儲かった」と言っている。


2014年3月に、約3億5000万円の法人税未納に会社は破産したわけだが、家や高級外車を売却したら1億円程度に減ったと言っている。

残った1億2000万円の債務は、前年の巨額赤字によって還付金が受けられて帳消しになったようです。

つまり3億5000万円の負債は資産を売り払ってチャラに出来た。


銀行から融資を受けず、自己資金だけでやっていたので他に借金はなかったと言っている。

ブログと講演、著作権で月収1000万円以上あり、年収1億円の現金収入で再起できた。

確かに与沢氏の破産は注目を集めたので、ブログ収入が数千万円あったのは事実としても、僅か1年後に豪邸に住み、1億円のフェラーリを現金で購入するなどしている。

シンガポールに移住後はまず株とFXで稼ぎ、中東や東南アジアへの不動産投資で増やした。


さらにビットコインブームに乗って仮想通貨取引で14億円を稼いだと報告している。


所有する不動産40戸の価値は45億円で、その他資産が25億円ほどで合計約70億円だと語っている。

これらが本当なら不動産と仮想通貨以外の資産は10億円ほどにしかならず、使った分を含めても20億円未満でしょう。


ブログと商材販売など現金収入で年収1億円から2億あるので、このくらいはあってもおかしくないのかも知れない。


与沢翼の強みは結局ブログと商材の現金収入で、また破産したとしてもこの2つは確実に月収1千万円を稼いでくれます。
http://www.thutmosev.com/archives/33823225.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1019.html

[近代史3] 小林正樹 人間の條件 (1961年 松竹)
小林正樹 人間の條件 (1961年 松竹)


原作 五味川純平
監督 小林正樹
脚本 松山善三 小林正樹 稲垣公一
音楽 木下忠司
撮影 宮島義勇
配給 松竹

公開
1959年1月15日(1/2部)
1959年11月20日(3/4部)
1961年1月28日(5/6部)

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E6%A2%9D%E4%BB%B6


『人間の條件』(にんげんのじょうけん)は、日本映画。原作小説の全6部を3本の映画作品としたトリロジー構成で、1959年から1961年にかけて公開された。五味川純平の同名小説の映画化作品である。


主人公の梶を通して戦争における人間性を描いた作品。当時の多くのスター俳優や女優をキャスティングした大作であり、特に主演の仲代達矢は監督・小林正樹も感服する演技を見せ、本作以降は黒澤明をはじめとするさまざまな名監督たちと組んで活動することになる。
全6部構成で上映時間9時間31分と紹介される事もあるが、全6部構成とは原作の小説の構成であって、映画はまず原作の1部2部のみを作品化して公開され、続いて3部4部で一本、さらに5部6部で一本というふうに、「映画」としては3作品で構成されている。当然ながらこれらの3本の封切りは作品の完成ごとに個別に行われた。従って厳密に見れば、この作品はそれぞれ3時間強の映画3本によるトリロジーと見なされるべきである。後述のように3作品のいわゆる一挙上映が行われた際は、この3作品をもって「総集編」という呼称が使われているが、実際には上記の3作品が休憩を挟んで上映されるだけで、特に「総集編」と呼ばれるべき一本9時間半の映画が存在するわけではない。

それでも9時間31分に及ぶ総上映時間は、製作当時の商業用映画としては最長の長さであり、ギネスブックにも掲載されていた(邦訳版では1980年版まで)。また、本作の全3作を一挙に上映したことが、日本の映画館でのオールナイト興行の走りといわれている。テレビでは、1979年1月2日に東京12チャンネル(現・テレビ東京)が開局15年記念事業として全3作を12時間ノーカット(途中ミニ番組による中断をはさむ)で一挙に放送した。これが12時間超ワイドドラマ開始(1981年)の嚆矢にもなった。

撮影
旧満州帝国を舞台としているが、当時の国際情勢と日中間の国交が無いゆえに、本来の舞台である中華人民共和国でのロケは不可能だったため、主に北海道のサロベツ原野周辺で撮影が行われている[3]。
戦闘シーンは陸上自衛隊の協力を受け、北海道内の自衛隊演習地内で撮影された。劇中に登場する九九式短小銃には、分解清掃や戦闘の場面では同自衛隊から貸し出された実銃が使用され、射撃の場面では空包を使用している。第4部の戦闘シーンでは同じく自衛隊の協力でブローニングM1919重機関銃が登場する。ソ連軍との戦闘シーンでは、草で擬装されて輪郭を隠したM4中戦車がソ連軍戦車として登場している。ソ連兵が装備するPPSh-41の小道具が登場するが、第4部では弾倉が逆に付いている。第5部の射撃シーンでは実物に近い形の物が登場するが、寸法は大きい。

スタッフ
基本情報に含まれないスタッフは以下の通り。
原作 - 五味川純平
中国語監修 - 黎波
ロシア語監修 - 小泉健司
美術 - 平高主計
録音 - 西崎英雄
照明 - 青松明
編集 - 浦岡敬一

キャスト
第一部 純愛篇/第二部 激怒篇 1959.01.15
梶:仲代達矢
美千子:新珠三千代(東宝)
金東福:淡島千景
楊春蘭:有馬稲子
影山少尉:佐田啓二
沖島:山村聡
陳:石浜朗
高:南原伸二(南原 宏治)
王亨立:宮口精二(文学座)
渡合軍曹:安部徹
K木所長:三島雅夫(俳優座)
岡崎:小沢栄太郎(俳優座)
古屋:三井弘次
河野大尉:河野秋武
本社部長:中村伸郎(文学座)
張命賛:山茶花究
饅頭屋の親爺:東野英治郎(俳優座)
牟田:永田靖(俳優座)
川島:小杉義男(東宝)
松田:芦田伸介
靖子:小林トシ子
黄:殿山泰司
劉:北竜二
谷晃(東宝)
宋:増田順二(東映)
金田:浜田寅彦(俳優座)
岡崎の妻:岸輝子(俳優座)
満州浪人:佐々木孝丸
田中上等兵:福岡正剛
小林:磯野秋雄
樋口:玉島愛造
大友純
崔:織本順吉(青俳)
小池:稲川善一
岡崎の部下:小松方正
杉山徳子(俳優座)
三戸部スエ(俳優座)
遠山文雄
高木信夫
小泉二等兵:末永功
谷崎純
秩父晴子

第三部 望郷篇/第四部 戦雲篇 1959.11.20

梶:仲代達矢
美千子:新珠三千代(東宝)
佐々二等兵:桂小金治
日野准尉:多々良純
吉田上等兵:南道郎(東宝)
新城一等兵:佐藤慶(新人会)
小原二等兵:田中邦衛(俳優座)
橋谷軍曹:内田良平
田ノ上二等兵:柳谷寛
板内上等兵:植村謙二郎
コ永看護婦:岩崎加根子(俳優座)
小原の妻:倉田マユミ(大映)
丹下一等兵:内藤武敏(民藝)
工藤大尉:城所英夫(新人会)
曽我軍曹:青木義朗(青俳)
久保二等兵:小瀬朗
衛生兵長:田村保
沢村婦長:原泉
山崎上等兵:矢野宣(俳優座)
週番士官:武内亨(俳優座)
白戸二等兵:宮部昭夫(新人会)
金森二等兵:江幡高志(新人会)

第四部
梶:仲代達矢
影山少尉:佐田啓二
寺田二等兵:川津祐介
鳴門二等兵:藤田進(東宝)
小野寺兵長:千秋実(東宝)
見習士官:安井昌二
參謀:渡辺文雄
土肥中尉:浜村純
野中少尉:小林昭二(新人会)
弘中伍長:諸角啓二郎
赤星上等兵:井上昭文(新人会)
円寺二等兵:小笠原章二郎
中井二等兵:大木正司(俳優座)
小泉二等兵:末永功
増井一等兵:井川比佐志(俳優座)
松島伍長:北見治一(文学座)
出演:俳優座、新人会、三期会、青俳、青年座、舞台芸術劇場、泉座、演出劇場、葦、現代座、えくらん社

第五部 死の脱出篇/第六部 曠野の彷徨篇 1961.01.28 
 
梶:仲代達矢
美千子:新珠三千代(東宝)
避難民の少女:中村玉緒(大映)
寺田二等兵:川津祐介
避難民の長老:笠智衆
丹下一等兵:内藤武敏(民藝)
竜子:岸田今日子(文学座)
梅子:瞳麗子
弘中伍長:諸角啓二郎
匹田一等兵:清村耕次(東映)
桐原伍長:金子信雄
永田大尉:須賀不二男
洞窟隊長:石黒達也
北郷曹長:北村和夫(文学座)
朝鮮に行く兵長:高原駿雄
吉良上等兵:山内明(民藝)
野毛少佐:二本柳寛
皆川通訳:林孝一(仲間)
老教師:御橋公
石炭屋:上田吉二郎
雑貨屋:坊屋三郎
朝鮮人:成瀬昌彦(青年座)
小椋上等兵:陶隆(東芸)
道路の避難民:菅井きん
雑貨屋の妻:中村美代子(俳優座)
老教師の妻:南美江(文学座)
石炭屋の妻:石本倫子(東芸)
避難民少年(弟):真藤孝行
部落の避難民:北原文枝
兵隊B:福原秀雄(潮)
井出一等兵:広沢忠好(泉座)
一軒家の老農夫:南大治郎
畑の中国農民:大杉莞児
福本上等兵:平田守(青年座)
輸送将校:エド・キーン
饅頭屋:ヘンリー・バン
避難民の女:高峰秀子


受賞・表彰
優秀映画鑑賞会特選
文部省選定
都教育庁特選
都民映画コンクール金賞
第21回ヴェネツィア国際映画祭 - 1部・2部に対して
サン・ジョルジョ賞(銀賞)
パシネッティ賞(映画批評家賞)
https://ja.wikipedia.org/wiki/人間の條件_(映画)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/735.html

[政治・選挙・NHK267] 中曽根康弘死去であらためて振り返る従軍慰安婦 中曽根の「慰安所つくった」証言と「土人女を集め慰安所開設」防衛省文書(リ… 赤かぶ
8. 中川隆[-15251] koaQ7Jey 2019年11月29日 22:08:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2326]
経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/310.html


中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が(リテラ)
http://www.asyura2.com/14/senkyo170/msg/574.html


『報道特集』 がついに中曽根元首相の「土人女を集め慰安所開設」文書を報道! 息子の弘文が慰安婦否定の責任者ってなんの冗談
http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/423.html


TBS 報道特集 「インドネシアでの戦時性暴力」  慰安所設置に関わった中曽根元首相 インドネシア元慰安婦の辛い証言
http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/448.html


八代弁護士、河村たかし、松井一郎が“慰安婦問題はデマ”とネトウヨ並みフェイク! あらためて中曽根証言など日本軍関与の証拠を見ろ
https://lite-ra.com/2019/08/post-4885.html
2019.08.06 八代弁護士が「慰安婦問題は史実に基づかない」とネトウヨ並みデマ リテラ
    
    ネトウヨなみのデマ!  (『ひるおび!』より)


 安倍政権による韓国への輸出規制と「ホワイト国」除外、あいちトリエンナーレでの「平和の少女像」などの展示中止……。国交正常化以来最悪と言われる日韓関係のなか、日本中がグロテスクな嫌韓ムードと歴史修正主義に染まっている。

 それは安倍政権周りの政治家やネット、右派メディアだけではない。地上波のワイドショーでもネトウヨとなんら変わらないヘイトや歴史修正主義が堂々と語られるようになった。

 5日放送の『ひるおび!』(TBS)でも、慰安婦問題など含む作品を展示した「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた件をとりあげるなか、八代英輝弁護士がこんな発言をしていた。

「当然、この社会的風潮のなか、この慰安婦像。この慰安婦問題っていうものが史実に基づかないものであること。あるいはこの慰安婦像に対して嫌悪感、反感をもつ方っていうのは多くいるってことは、当然認識した上での展示ですから。ある程度の反感というのは想定されたんでしょうけど、それが、私は『想定を超えてしまった』って認識は甘いんでないかというふうに思うんですよね」

 八代弁護士は「表現自体をさせないという風潮は危険だなと思う」などとエクスキューズをいれつつも、「私自身はこれ(少女像)を置いて、こんなものあってはならないと議論するということはアリだと思いますけどね」と続けるなど、嫌韓煽りを剥き出しにしていた。

 さらには、落語家の立川志らくも、いつもの物知り顔でこうコメントした。

「結局、こういうことをやると、日本人の多くは不愉快に思って許さないという結果が出た。これを『平和の少女像』って言う人がいることが、私は不思議でしょうがない。平和の少女像って言うなら、日本人の誰もが見て、これは平和だなって思えるならいいんだけれども。そりゃ韓国の人はそうかもしれないけど、日本人にとっては多くの人が反日の像だと思ってるわけでしょ? 本来、芸術ならば、これを反日像だと思っている人が見ても、思わず感動して涙を流す、そういうものを私は展示してほしい」

 本サイトでも解説した(https://lite-ra.com/2019/08/post-4880.html)ように、「平和の少女像」が「反日」だというのは完全にネトウヨの論理であり、歪曲した解釈だ。それを「みんなが思ってるんだから反日に決まってる」と言い張り、表現の自由を踏みにじる卑劣なテロ予告者ではなく、議論を換気しようとした展示や作品のほうを問題視する。その倒錯ぶりと付和雷同には、呆れ果てるしかない。

 とくに聞き逃せないのは、八代弁護士が発した「慰安婦問題っていうものが史実に基づかないものである」とのセリフだろう。八代弁護士は、つい先日も朝日新聞を韓国の中央日報、ハンギョレ新聞と並べて「反日三羽ガラス」と揶揄するなど、テレビの全国放送ネトウヨぶりを全開していたが、今度は慰安婦それ自体がなかったかのような発言をしたのだ。

はっきり言っておくが、慰安婦の存在は捏造でもなんでもなく。歴史的な事実だ。弁護士の資格を持つ人間が、地上波の昼間の番組で、保守派の学者でさえ言わないような歴史修正主義丸出しのデマを口にしていいのか。

 いや、八代弁護士だけではない。「平和の少女像」展示に圧力をかけ、「表現の不自由展」への攻撃を煽った河村たかし名古屋市長も、今日の会見で「やっぱり慰安婦ってあったのかと、そういうふうに見られる」などと発言していた。つまり、河村市長も慰安婦は存在しないと信じ込んでいるのだ。

 さらに、日本維新の会代表の松井一郎・大阪市長からはもっととんでもないデマ暴言が飛び出した。松井市長は5日会見で「事実ではない慰安婦の像」「日本人を蔑み貶める、誹謗中傷」「慰安婦問題というのは完全なデマ」「朝日新聞自体が誤報だと謝罪しているわけですから」「事実ではないデマの象徴の慰安婦像は行政が主催する展示会で展示するべきものではない」などと語り、慰安婦は完全なデマと言い放ったのである。

■中曽根康弘元首相が海軍主計長時代に「土人女を集め慰安所を開設」の記録

 こうした連中の妄言の根拠は、2014年、朝日新聞が慰安婦関連記事の虚偽を認め、訂正・謝罪したことだ。朝日が訂正したのは、とっくのとうに虚偽であることが分かっていた吉田清治証言に関するものだけだったが、当時、ネトウヨや極右メディアがこの謝罪を意図的に拡大解釈し、あたかも戦中に「慰安婦」自体の存在がなかったのようなデマを喧伝しまくった。意図的かどうかは知らないが、八代弁護士や河村市長らはこのネトウヨ歴史修正の詐術に丸乗っかりしているということだろう。

 だとしたら、本サイトとしては何度でも、その欺瞞と詐術を明らかにしておく必要がある。戦中の日本軍が各地に慰安所をつくり、現地の女性たちや朝鮮半島の女性たちを慰安婦にして、兵士の性暴力の相手にさせられたのは客観的事実だからだ。

 日本軍が侵略したアジアの各地に慰安所をつくったことは残された軍の記録や通達からも明らかであり、歴史学的にも議論の余地はない。軍が斡旋業者を使って騙して女性を連れ出した証拠や、現地の支配者や村長に命じて女性を差し出させた証拠もいくらでもある。そして、慰安所で現地の女性や朝鮮半島から連行した女性を軍が性的搾取したことは、多くの被害女性だけでなく、当時の現地関係者や元日本兵、元将校なども証言していることだ。

 たとえば、海軍出身の中曽根康弘元首相は、回想記『終りなき海軍』のなかで、当時、設営部隊の主計長として赴任したインドネシアで〈原住民の女を襲う〉部下のために〈苦心して、慰安所をつくってやった〉ことを自慢話として書いている。この中曽根証言は、防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センターが所蔵している当時の文書「海軍航空基地第2設営班資料」において、〈気荒くなり日本人同志けんか等起る〉ようになったところで〈主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設 気持の緩和に非常に効果ありたり〉と記されているように、歴史事実として裏付けされたものだ。

■産経の総帥も自著で軍時代の慰安所設立を自慢「女の耐久度とか消耗度も決めていた」

 また、陸軍出身の鹿内信隆・元産経新聞社長は、桜田武・元日経連会長との対談集『いま明かす戦後秘史』(サンケイ出版)のなかで、慰安所と慰安婦が軍主導であった事実をあけすけに語っていた。

「(前略)軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地に行きますとピー屋(引用者註:慰安所のこと)が……」
「調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった」
 
 実際、靖国偕行文庫所蔵の『初級作戦給養百題』(1941年)という陸軍主計団記事発行部が発行した、いわば経理将校のための教科書の記述にも〈慰安所ノ設置〉が業務のひとつとされており、この鹿内証言も軍の資料と完全に一致する。

 朝鮮半島の女性たちを慰安婦にした証拠も枚挙にいとまがない。

 日本はアジア・太平洋戦争で東南アジア各国を侵略、傀儡政権を樹立したり、軍の統治下に置くなどの支配を進めていったが、たとえばシンガポールでは現地の華僑を粛清した後に、日本軍の宣伝班の下で刊行された新聞に“慰安婦募集の広告”が出ている。そうした慰安所に大勢の朝鮮人女性も動員されたことは「16歳の時にシンガポールの慰安所に連れて行かれた」という朝鮮人元慰安婦の証言だけでなく、近年発見されたビルマ(現・ミャンマー)とシンガポールの慰安所で帳場の仕事をしていた朝鮮人男性の日記からも明らかになっている。また、独立自動車第四二大隊にいた元日本軍兵士も「トタン塀」と呼んでいた慰安所には「娼妓は朝鮮人が多かったが、マライ人もいた」と証言している。

■米朝会談の舞台となったセントーサ島では朝鮮人女性が騙されて慰安婦に

 昨年、米朝会談の舞台となったシンガポール南端のセントーサ島(旧称・ブラカンマティ島)でもまた、朝鮮人女性たちが慰安婦として働かされていた。しかも、彼女たちは別の仕事だと騙されて連れてこられたのだ。

 当時、東南アジアで通訳として従軍していた永瀬隆氏が証言している。永瀬氏は、日本が戦中につくらせたタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道で陸軍の通訳をしていたことで知られる日本人男性だ。日本軍による泰緬鉄道建設にあたっては、数万人のアジア人労働者や連合国軍の捕虜が非人道的な扱いを受け犠牲となっている。永瀬氏は戦後、反戦平和の立場から個人でその慰霊と償いの社会活動を続け、2011年に亡くなった。

 その永瀬氏が生前、月刊誌「MOKU」(黙出版)1998年12月号での高嶋伸欣・琉球大学教授(現・名誉教授)との対談のなかで、セントーサ島での体験を語っていた。シンガポールでも数か月の間、陸軍の通訳として勤務しており、その時、慰安所の女性たちや軍の部隊長と話をしたことをこのように振り返っている。

「(セントーサ島には1942年の)十二月中旬までいました。十一月になって隊長が僕を呼んで、『実は朝鮮の慰安婦がこの部隊に配属になってくるんだが、彼女たちは日本語がたどたどしいから、日本語教育をしてくれ』というんです。僕は『嫌なことをいうな。通訳はそこまでしなきゃいけんのか』と思ったけど、その隊長はもう島の王様気取りでおるんです。仕方がないから、慰安婦の人たちに日本語を三、四回教えました」

 永瀬氏は「そのうちに、僕は兵隊じゃないから、慰安婦の人も話がしやすいんだな」と思ったという。そして、朝鮮人女性たちに慰安所にきた理由を聞くと、騙されて連れて来られたというのだ。

「それで僕も『あんたたちはどうしてここへ来たんだ』と聞いたら、『実は私たちは、昭南島(シンガポール)の陸軍の食堂でウエイトレスとして働く約束で、支度金を百円もらって軍用船でここへ来たんだけど、着いた途端に、お前たちは慰安婦だといわれた』というんです」
「それを聞いて、ひどいことをするなと思った。いま考えてみても、強制的に連行して慰安婦にするよりも、そうやって騙して連れてきて慰安婦にするほうが、僕は罪は深いと思います。
 とにかく、それから島の中に慰安所ができたんですが、隊長が慰安所の兵隊にくだしおかれる前に、慰安婦を毎晩代わりばんこに次から次へ味見しているという話を聞きました」

■「慰安婦は存在しなかった」の嘘が堂々とまかり通る恐ろしさ

 つまり、日本軍は、彼女たち朝鮮人女性に性的労働をさせることを告げず、まして嘘の説明で騙して慰安所に連れて行ったケースが明らかに存在した。そして、前述した中曽根元首相らの証言や当時の軍資料のように、日本軍が従軍慰安婦に積極的に関与していたことも歴史的な事実なのである。

 八代弁護士が言うような「慰安婦問題は史実に基づかない」というのが、いかにフェイクであるかが分かるだろう。歴史修正主義者たちは、こうして慰安婦問題を矮小化しているのだ。

 恐ろしいのは、こうした歴史的な事実を否認する発言が、当たり前のようにワイドショーで飛び出し、他のマスコミが検証を放棄した結果、少なからぬ視聴者が何ら疑念をもたないでいることだ。実際、八代弁護士の発言の嘘を検証したり、批判的に取り上げるマスコミは、いまのところ皆無。それどころか、Twitterでは「よくぞ言ってくれた!」というような賞賛まで受けている。

 繰り返すが、安倍政権が煽動する“嫌韓”を、応援団やマスコミが増幅し、それがごく当たり前のように社会に蔓延しているのが、いまの日本社会だ。その結果起きたのが、平和の少女像などの展示に対する異常なバッシングであり、放火テロまでほのめかす脅迫だった。歴史的事実や、それに向き合うための表現まで「反日」と糾弾され、封殺されてしまう状況は、もはや“嫌韓ファシズム”と呼ぶべきかもしれない。

 しかも、こうしたメディアの扇動によって、国民の世論じたいもどんどん冷静さを失っている。

 政府が先月実施した「ホワイト国除外」に関するパブリックコメントには、寄せられた4万666件の意見のうち、「除外」に賛成が実に約95%で、反対はわずか約1%だったという。これは、安倍応援団やネトウヨの組織票の可能性が濃厚だが、他方、FNNと産経新聞が3、4日に実施した世論調査でも、「ホワイト国除外」を「支持する」が67.6%に登り、「支持しない」は19.4%にすぎなった。

 ワイドショーをはじめとするマスコミには、自分たちが取り返しのつかない状況を作り出しているという自覚はないのだろうか。


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25. 中川隆[-15251] koaQ7Jey 2019年11月29日 14:17:38: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2329] 報告
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終戦記記念日にあらためて言いたい!「慰安婦はデマ」こそデマだ! 日本軍関与、強制連行…歴史修正主義者たちはこの証拠を見よ
https://lite-ra.com/2019/08/post-4903.html
2019.08.15 終戦記記念日にあらためて言いたい!「慰安婦はデマ」こそデマだ! リテラ
   
   
 74年目の終戦記念日を迎えた今日、やはり、取り上げておくべきは日本軍「慰安婦」問題だろう。第二次安倍政権の誕生とともに、右派政治家やネット右翼による歴史修正主義は一気に勢いづき、「反日バッシング」の大号令のもとで大日本帝国賛美への傾きを増している。その象徴が、戦中の日本軍による「慰安婦」問題だからだ。

「平和の少女像」が展示された「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」は、脅迫や政治家の圧力によって中止に追い込まれたが、ネトウヨだけでなく、いまや政治家たちもが剥き出しの歴史修正発言を平然と繰り出しており、かたや、それを批判・検証する動きは鈍い。

「慰安婦問題は完全なデマなんだから。軍が関与した強制連行はなかったわけだから。それは一報を報じた朝日新聞自体が誤報と謝罪しているわけだから」「事実ではないデマの象徴の慰安婦像は行政が主催する展示会で展示するべきものではない」(松井一郎・大阪市長)

「名古屋市と愛知県は認めたのかと、国の補助金も入っているような(芸術祭で)国も韓国の主張を認めたのかと。やっぱり従軍慰安婦ってあったのかと、そういうふうに見られるじゃないかと」(河村たかし・名古屋市長)

 言っておくが、「慰安婦はデマ」「慰安婦はなかった」という発言こそ、はっきりとしたデマだ。そもそも、2014年に朝日新聞が訂正・謝罪したのは「慰安婦狩り」を創作した吉田清治証言にかんするもののみ。戦中の日本軍がアジア各地に慰安所をつくり、女性たちを「慰安婦」にして、兵士の性暴力の相手にしたのは事実である。

 まず、軍が慰安所づくりに主体的に携わったことを示す公的文書や元日本軍人の証言はいくらでもある。先日の記事(https://lite-ra.com/2019/08/post-4885.html)でも触れたが、たとえば、海軍出身の中曽根康弘・元首相は回想のなかで、インドネシアで「苦心して、慰安所をつくってやった」ことを自慢話として書いている。陸軍出身の鹿内信隆・元産経新聞社長はある対談で、「調弁する女の耐久度とか消耗度」などを含む慰安所の設置方法を経理学校で教わったと語っている。これらの証言は防衛省などが保持する当時の軍の史料でも裏付けされており、つまり、慰安所と「慰安婦」が軍主導であった事実を示している。

 アジアへの侵略戦争のなか、日本軍は戦地または占領地に軍直営や軍専用の慰安所をつくり、あるいは民間の売春宿を指定するかたちで慰安所にした。たとえば、防衛省の防衛研究所が所蔵する史料「常州駐屯間内務規定」(1938年3月16日、独立攻城重砲兵第二大隊が作成)では、中国現地の〈慰安所使用規定〉として部隊ごとに使用する曜日が決められていたほか、〈使用時間ハ一人一時間ヲ限度トス〉とあり〈支那人 一円○○銭〉〈半島人 一円五十銭〉〈内地人 二円○○銭〉とされている。軍が慰安所をつくり、朝鮮や現地の女性を「慰安婦」にしていたのは客観的にも議論の余地がないのだ。

 そこで、歴史修正主義者たちは「軍が関与した強制連行を示す証拠はない」などと言って「慰安婦問題はデマだ」と嘯くわけだが、しかし、これも問題を矮小化する典型的手口としか言いようがない。

 だいたい、歴史修正主義者たちは「軍がトラックで村に乗り込んできて、娘たちを連れ去って慰安婦にした」というようなケースだけを「強制連行」とするが、「強制」とはそもそも「本人の意思に反して無理矢理行わせること」だ。

 朝鮮人元慰安婦の証言で多いのは、「工場で働かせる」「稼げる仕事がある」などと甘言を弄して「慰安婦」にすることを隠し、騙して慰安所へ連行するケースだ。軍が直接的に連行せず業者を使っていても、元締めの業者は軍が選定し、慰安所では軍人の相手を強制されたのだから、当然、軍の責任は免れない。

■「いい仕事がある」と騙され貨車に詰め込まれ日本憲兵から「逃げようとしたら殺すぞ」と

 たとえば、朝鮮人元「慰安婦」の朴永心さんは1939年、17歳のとき、騙されて南京の慰安所へ連れていかれた。当時務めていた洋品店に、腰にサーベルをつけた日本人の巡査がやってきて、「お金が稼げるいい仕事がある」と誘われ、どういった仕事かはわからなかったが親孝行になると思い、ついていったという。

〈巡査は、私たちを憲兵に引き渡すとそそくさと姿を消してしまいました。私たちは屋根のついた貨車(有蓋貨車)に詰め込まれました。真夏だというのに貨車には窓がなく、風が通らないので中は蒸し風呂のような暑さでした。ブラウスが汗で肌にべったり張りついていたのを覚えています。
 一緒に乗り込んできた憲兵は「逃げようとしたら殺すぞ」と私たちを脅し、娘たちが互いに話すことも禁じました。トイレに行きたくても外に出してもらえず、我慢ができなくなると恥ずかしいなんて言ってられない。貨車の中で用を足さねばなりませんでした。本当につらかった。
 私たちは黙ったまま、暗い貨車の中で身を寄せ合って座っていました。「帰りたい」と泣き叫んでも殴られるだけで、どうすることもできなかったのです。「だまされた」と気がついたときにはすでに手遅れでした。〉【脚注1】

 明らかにそこには日本の官憲の「関与」があり、女性たちは「慰安婦」になることを「強制」されていたわけだが、さらに、東南アジアでは直接的に日本軍によって連行されたという証言も多い。

〈1943年のある夜、日本兵がやってきて、家々から若い女性を引きずり出しました。私は腕から乳飲み子をもぎとられ、むりやりトラックに押し込まれ、トンロックホテルで降ろされました。そこは陸軍専用の慰安所でした。〉(ロザリン・ソウさん/マレーシア・ペナン島生まれ)【脚注2】

〈日本軍の占領下、オランダ人は抑留所に入れられました。1944年2月、抑留所に日本軍の将校がきて、若い女性を広場に整列させ、「慰安婦」にする女性を選びました。私をふくむ16人の娘が「七海亭」に連行されました。私たちは恐怖で身を寄せあって祈りましたが、ひとり、またひとりと寝室に連れていかれました。私は日本刀をつきつけられて強かんされました。私はこの最初の夜を決して忘れません。翌日からは日本兵が列をつくってやってきました。2カ月後、慰安所は突然閉鎖され、私たちはボゴールの抑留所に移されました。日本兵は「慰安所のことを話したら、家族ともども殺す」と脅しました。私は沈黙するしかなく、周囲から「日本の売春婦」とよばれて、つらい思いをしました。〉(ジャン・ラフ=オハーンさん/オランダ領ジャワ島生まれ)【脚注2】

 安倍首相は第一次政権時に「言わば、官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れていくという、そういう強制性はなかった」(2007年3月5日参院予算委員会)と答弁したが、これは真っ赤な嘘なのである。

■日本軍によって両親を虐殺され、慰安婦にされたフィリピン女性

 目の前で日本軍によって肉親を虐殺され、「慰安婦」にさせられたケースさえある。フィリピン人元「慰安婦」のルフィーナ・フェルナンデスさんの証言だ。1942年に日本軍がフィリピンを占領したとき、フェルナンデスさんは14歳だった。場所を移しながら避難生活を送るなか、マニラ郊外の家に日本軍が入ってきた。

〈この家に戻るとすぐ私たちの家に日本軍が入り込んできました。彼らは私の父を当時強かった反日ゲリラの容疑者ということで、逮捕しようとしていました。父は前から山に行ったり、マニラに行ったりしていて、反日運動など何ひとつ行っていません。そのことを日本軍の兵士に言いました。しかし、兵士はいっこうに耳をかそうとせず、父を殴りつけました。そして、私は避難生活の間に一五才になっていましたけれど、私を見つけて日本軍の兵士が連れて行こうとしました。それをみた父が逆上して、私を連れ戻そうと日本軍の兵士に抵抗した時に、父は私の見ている前で日本軍の兵士になぐり殺されました。そして次は母の番でした。母も私をかばおうと日本兵の前に立ちはだかると、兵士が何度も何度も母のおなかを殴りつけ、母はそのまま死んでしまいました。兄弟は私の目の前で殴られ続けました。私は止めようとしましたが、私も頭をひどく殴られ意識を失った状態で車の中に連れて行かれました。遠ざかる意識の中で泣き叫ぶ兄弟の声が聞こえなくなりました。おそらく彼らも殺されたのだとその時思いました。
 私の家族はこうしてすべて殺されました。これは私にとって、とてもつらい信じられない出来事でした。そのことだけでも私は五〇年間日本人と日本軍に対する怒りで苦しみ続けてきました。〉【脚注3】

 そして、慰安所での女性たちの境遇は「凄惨」や「壮絶」という言葉ではとても言い表せないほどのものだった。数々の証言からは、虐待や暴行は日常茶飯事であり、まさに兵士たちが女性を「モノ」扱いしていたことが伺える。

■日本兵から「皇軍のため」「一〇〇人でも二〇〇人でも入ってくるだけ奉仕をしろ」と

 たとえば、朝鮮人元「慰安婦」の李桂月さんはこう証言している。15歳になった年に、村の区長に「仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言われ向かった先で日本の軍人に引き渡され、ハルピン近くの慰安所に連れて行かれた。

〈日本軍は「慰安婦」たちが言うことを聞かないとひどく殴りました。ある日、私は部屋に入ってきた将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、将校は「皇軍の言うことが聞けないのか」とどなり、連続びんたを食らわせました。あまりの痛さに目がくらみ、あごががくがくしました。将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は完全に気を失ってしまいました。〉
〈また、ある日、「タナカ」が部屋に入って来たときに私が横になったまま起き上がらないので靴で触り、「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。たばこを押し付けられてやけどをしたところは水ぶくれになり、化膿してしまいました。〉
〈日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「一〇〇人でも二〇〇人でも入ってくるだけ奉仕をしろ」と命令しました。それで、日曜日にはご飯を食べる時間も、便所に行く時間もなく「奉仕」させられました。一日中数十人もの日本兵に犯されると、指を動かす力もなくなり、失神するほどでした。一緒に連行されて来たヨンジャとイ・プニは、日本兵の暴行で殺されました。ヨンジャは病気になって腹が膨れ上がりましたが、日本兵はにんしんしている女は不必要だと言って軍刀で彼女のお腹を切り裂きました。しかし、胎児はおらず、水みたいなものがあふれ出ただけでした。ヨンジャは腹水の病気だったと思います。〉【脚注1】

 彼女たちは騙されたり、暴力によって無理矢理に「慰安婦」にさせられただけではない。慰安所では、兵士の性暴力の相手を拒めず、居住も強制され、監視によって外出や逃亡もできなかったという証言がほとんどだ。また当時の日本は、女性や児童の売買を禁じる国際条約や、満21歳未満の女性を国外へ連れて行くことを禁じる国際条約に加入しており、これらにも違反していた。なにより、戦争遂行のために女性の自由を奪い、強制的に男性の性暴力に晒すのは、深刻な人権侵害にほかならない。

 冒頭に述べたように、敗戦から74年を迎えるこの国では、「慰安婦」の存在を否定するデマが勢いづいている。女性の人権を擁護し、被害と惨禍を繰り返すまいと決意することが「反日」などと呼ばれ、バッシングや脅迫の対象となってしまう社会。そうした歪んだ状況を正さない以上、同じことが繰り返されないという保証はない。そのことを決して忘れないでほしい。

(編集部)

■引用元と主な参考文献
【1】アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編/西野瑠美子、金富子責任編集『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集1』明石書店
【2】アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『フィールドワーク 日本軍「慰安婦」』平和文化
【3】アジア・フォーラム編『元『慰安婦』の証言──五〇年の沈黙をやぶって』皓星社
【他参考】日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会編/吉見義明、西野瑠美子、林博史、金富子責任編集『Q&A「慰安婦」・強制・性奴隷』御茶の水書房


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26. 中川隆[-15250] koaQ7Jey 2019年11月29日 14:18:13: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2328] 報告
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秦郁彦 VS 吉見義明
https://www.nicovideo.jp/watch/sm24444064
2013-07-03
慰安婦問題の討論・秦郁彦vs吉見義明、秦郁彦は歴史家の名を利用するのやめたらどうだろう
https://dj19.hatenadiary.org/entry/20130703/p1

6/13、TBSラジオ番組で秦郁彦氏と吉見義明氏による「従軍慰安婦」問題についての15、6年ぶりの討論があった。取り上げるのが遅くなったが秦郁彦氏の誤魔化しや詭弁があまりに酷いので批判しておこうと思う。


●2013年06月13日(木)「秦郁彦さん、吉見義明さん、第一人者と考える『慰安婦問題』の論点」(対局モード)- 荻上チキ・Session-22
http://www.tbsradio.jp/ss954/2013/06/20130613-1.html



■ポッドキャスティングで聴く
http://podcast.tbsradio.jp/ss954/files/20130613main.mp3

■Youtubeで聴く
https://www.youtube.com/watch?v=3ANBEo8Ju14


まず視聴した感想を書くと、「慰安婦」として動員された女性たちは貧しいのが通例であり、経済的にも社会的にも弱い立場にあったわけだが、こうした女性たちに対する秦郁彦氏の蔑視と冷淡さは相変わらずひどいものだった。
彼女たちが被った慰安所での性暴力、強制売春といった犯罪被害は少しも顧みられることはないし、史料の都合のいいつまみ食いと、それを全体の問題にすり替えた粗雑な否定論も目立つ。

公娼については「家族のため」にやったこと、慰安婦については「売った親が悪い」と、家父長制や昔の家制度の論理で個人の自発性や自己責任に落とし込み消化されるだけなのだ。

まぁそんな秦郁彦氏でも、吉見義明氏に従軍慰安婦の被害の実態をツッコまれると、言葉の言い換えや詭弁で誤魔化そうとしてだいぶボロが出ていた。

以下は、ラジオ番組から人身売買や性的奴隷に関する発言の一部を文字起こしたもの(時間はYoutubeによる)。


19:05 〜
秦郁彦
内地の公娼制をね、これ、奴隷だということになってくると、そうすると、現在のオランダの飾り窓だとか、ドイツも公認してますしね、それからアメリカでも連邦はだめだけれどネバダ州は公認してるんですよ。これは皆、性奴隷ということになりますね。

吉見義明
それは、人身売買によって女性たちがそこに入れられているわけですか?

秦郁彦
人身売買がなければ奴隷じゃないわけですか?志願した人もいるわけでしょ。高い給料にひかれてね。

吉見義明
セックスワークをどういうふうに認めるかということについてはいろいろ議論があって難しいわけですけれど、少なくとも人身売買を基にしてですね、そういうシステムが成り立っている場合は、それは性奴隷制というほかはないじゃないですか。

秦郁彦
自由志願制の場合はどうなんですか?

吉見義明
それは性奴隷制とは必ずしも言えないんじゃないでしょうか。
秦郁彦
公娼であっても?

吉見義明
それは本人が自由意志でですね、仮に性労働をしているのであればそれは強制とは言えないし、性奴隷制とも言えないでしょうね。

20:15 〜
秦郁彦

日本の身売りというのがありましたね。それで身売りというのは人身売買だから、これはいかんということになってるんですね、日本の法律でね。

吉見義明

いつ、いかんていうことになってるんですか?

秦郁彦

人身売買、自体はマリア・ルス(マリアルーズ)号事件の頃からあるでしょ、だから。

吉見義明

それはあの〜確かにあるけれど、それは建前なわけですよね。

秦郁彦

建前にしろですね、人身売買ってのは、だいたい親が娘を売るわけですけれどね。売ったという形にしないわけですよね。要するに金を借り入れたと、それを返済するまでね、娘が、これを年季奉公とか言ったりするんですけどね、その間、その〜、性サービスをやらされるっていうことなんでね。
それで、娘には必ずしも実情が伝えられてないわけですね。だからね、しかし、いわゆる身売りなんですね。

荻上チキ
(着いてみたら)こんなはずじゃなかった、という手記が残っているわけですね。

秦郁彦

う〜ん騙(だま)しと思う場合もあるでしょう。ね。
(中略)
だからね。これは、う〜ん、なんていうかな、自由意志か、自由意志でないかは非常に難しいんですね。家族のためにということで誰が判定するんですか。

吉見義明

いや、そこに明らかに金を払ってですね、女性の人身を拘束しているわけですから、それは人身売買というほかないじゃないですか。

荻上チキ
ちょっと時期は違いますけれどもね、『吉原花魁日記』とか『春駒日記』とかっていう、昔の大正期などの史料などでは、親に「働いてこい」と言われたけど、実際に働いてみるまでそのことだとは思わなかったケースもあったりすると。

秦郁彦
うん、そうそう。

荻上チキ
それは、親も敢えて黙っていたかもしれないし、周りの人も「いいね、お金が稼げて」と誉のように言んだけども、内実を周りは知らなかったっていうような話は色いろあったみたいですね。
吉見義明
実際にはあれでしょ、売春によって借金を返すというシステムになってるわけでしょ?

秦郁彦
今だってそれはあるわけでしょ。

吉見義明
それは、それこそ人身売買であって、それは問題になるんじゃないですか?

秦郁彦
じゃぁ、ネバダ州に行って、あなた、大きな声でそれは弾劾するだけの勇気がありますか?

吉見義明
もしそれが人身売買であれば、それは弾劾されるべき。

秦郁彦
志願してる場合ですよ、自発的に。自発かね、その〜どこで区別するんですか?

吉見義明
何を言ってるんですか、あなたは?

秦郁彦
え?


これは当時の公娼制度に関連したやり取りだが、秦氏が当時の日本での人身売買を基礎にした公娼制度と、現在の様々な法令によって女性の人権がある程度、保護されたうえで公認されている売春を同列に語っていることにまず驚く。このやり取りを聴いただけでも、秦郁彦氏が「自由売春」と、犯罪である「強制売春」の区別がついていないことは明らかだろう。いや、わかっていてわざとそこに触れないよう回避していると見るべきか。

そもそも秦氏は1999年の著書『慰安婦と戦場の性』のなかで、公娼制度とは「まさに「前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない二〇世紀最大の人道問題」(廓清会の内相あて陳情書)にちがいなかった(同書p.36)」と公娼制度が奴隷制度であることを認めていた。
さらに同書では、「「慰安婦」または「従軍慰安婦」のシステムは、戦前期の日本に定着していた公娼制の戦地版として位置づけるのが適切かと思われる。(前書p.27)」と述べていた。

この論理なら、「公娼制度の戦地版」である慰安婦制度も同様に奴隷制度という認識になるはずである*1。ところが今回の吉見義明氏との討論では、最後まで公娼制度や慰安婦制度が奴隷制度であることを認めることはなかった。

とはいっても秦氏はこの後(後段の文字起こし部分)で、朝鮮半島から慰安婦として動員された女性たちの「大部分」が「誘拐や人身売買」の被害者であることまで認めた。そして、身売り=人身売買の被害者は「借金を返す」までの期間、身体を拘束され性行為を継続的に強要される状況にあったことも認めている。これは暗に奴隷状態であったことを認めているに等しい。

国際的な定義では、こうした他者の支配下に置かれ、自分のことを自由に決定する権利が奪われ所有物として扱われる地位や状態は奴隷状態であり、こうした状況で継続的に性行為を強要される状態を性的奴隷状態と定義しているのだから。(こちらを参照:性奴隷の定義を無視し「慰安婦は性奴隷ではない」と叫んでも反論になってない - Transnational History 性奴隷の定義を無視し「慰安婦は性奴隷ではない」と叫んでも反論になってない - Transnational History)



36:26 〜
荻上チキ
前提としてそういったふうに(連れて行かれた女性が慰安所での性行為を拒否し)イヤだイヤだといった場合は、帰る自由といったものはあったんですか?
秦郁彦
借金を返せばね。借金を返せば何も問題ないわけですよ。

吉見義明
え〜つまり、借金を返すまで何年間かそこ(慰安所)に拘束されるわけです。
それが性奴隷制度だっていうこと。

秦郁彦
そうすると親がね、返さなきゃいけんのですよ。親が売ったのが悪いでしょ。
吉見義明
秦さんがわかってないのそこですよ。
秦郁彦
どうして?
吉見義明
借金を返せば解放されるというのであれば、それは人身売買を認めてることになるじゃないですか。


53:35

吉見義明
先ほど言いましたように略取とか誘拐とか人身売買で連れて行くのがほとんどだったわけですよね。
そうして朝鮮半島で誘拐や人身売買があったということは、え〜、秦さんも認めておられるわけですね。

秦郁彦
当然ですよ。それが大部分ですよ。

吉見義明
それでたとえ業者がそういうことをやったとしても、その業者は軍に選定された業者である。で実際に被害が生じるのは慰安所ですけど、その慰安所というのは軍の施設である。軍がつくった軍の施設であるわけですね。そこで女性たちが誘拐とか人身売買で拘束をされているわけですね。
当然、軍に責任があるということになると思う。


このやり取りでは吉見氏が、人身売買により身体を拘束された女性たちが借金を返すまでは解放されず性行為を強制されるシステムは性的奴隷制度であると指摘するが、秦氏は「親が売ったのが悪い」と親の責任にして話を逸らしている。
しかしこの後で秦氏は朝鮮半島では「誘拐や人身売買」のケースが「大部分」だったことを認めており、そうであるなら貧困により生活が困窮し娘を売った親も、その多くは偽りの説明を告げられ騙されていたと推測するのは難しいことではないだろう。

ビルマでの尋問調書『日本人捕虜尋問報告 第49号』には次のように記述されている。


1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南 アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵 を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明 を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。

日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日
http://a777.ath.cx/ComfortWomen/proof_jp.html


長くなるので文字起こしの引用は省略するがYouTubeの40分(http://youtu.be/3ANBEo8Ju14?t=40m)ごろから、秦氏は呆れたことに上のビルマでの捕虜尋問調書を持ち出し、慰安婦がどれだけ楽だったかを力説している! しかし吉見氏にその解釈の間違いをことごとく反論され、みごと撃沈しているが(その討論の文字起こしはこちら)。


最後に秦氏の詭弁を批判しておこう。

今回の討論では秦氏は慰安婦の問題に直接絡めて言及したわけではないが、このエントリの冒頭部分の文字起こしにあるように「秦:人身売買がなければ奴隷じゃないわけですか?志願した人もいるわけでしょ。高い給料にひかれてね。」だとか、吉見氏の発言「人身売買であれば、それは弾劾されるべき。」に対し「秦:志願してる場合ですよ、自発的に。自発かね、その〜どこで区別するんですか?」などと、「志願」や「自発的」な側面があれば人身売買や奴隷に当たらないとの認識を披露している。そしてつい最近も産経新聞への寄稿で慰安婦募集の広告に「応募者は少なくなかったろう」などと述べているぐらいだから*2、「自発」や「志願」なら人身売買や奴隷とは呼べず軍の責任も免責されると考えているのだろう。
しかしこの「自発的」なのか「志願」なのか、といった問題設定自体が、初めから問題を否認するための偽りの問題設定、あるいはすり替えと言わざるを得ない。


日本政府も署名している国連の「人身取引(人身売買)補足議定書」の定義は次のようになっている。


人身取引(人身売買)の定義
Protocol to prevent, suppress and punish trafficking in persons, especially women and children, supplementing the United Nations Convention against Transnational Organized Crime
和訳:国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、特に女性及び児童の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書
英語原文:http://www.unodc.org/documents/treaties/UNTOC/Publications/TOC%20Convention/TOCebook-e.pdf
外務省 和文テキスト:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/treaty162_1.html
(日本政府はtraffickingを人身売買ではなく人身取引と和訳している。)


Article 3. Use of terms
第3条
(a) “Trafficking in persons” shall mean the recruitment, transportation,transfer, harbouring or receipt of persons, by means of the threat or use of forceor other forms of coercion, of abduction, of fraud, of deception, of the abuse of power or of a position of vulnerability or of the giving or receiving of payments or benefits to achieve the consent of a person having control over another person, for the purpose of exploitation. Exploitation shall include, at a minimum, the exploitation of the prostitution of others or other forms of sexual exploitation, forced labour or services, slavery or practices similar to slavery, servitude or the removal of organs;
(a) 「人身取引」とは、搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得(募集)し、輸送し、引き渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務(サービス)の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。
(b) The consent of a victim of trafficking in persons to the intended exploitation set forth in subparagraph (a) of this article shall be irrelevant where any of the means set forth in subparagraph (a) have been used;
(b) (a)に規定する手段が用いられた場合には、人身取引の被害者が(a)に規定する搾取について同意しているか否かを問わない。
(c) The recruitment, transportation, transfer, harbouring or receipt of a child for the purpose of exploitation shall be considered “trafficking in persons” even if this does not involve any of the means set forth in subparagraph (a) of this article;
(c) 搾取の目的で児童を獲得し、輸送し、引き渡し、蔵匿し、又は収受することは、(a)に規定するいずれの手段が用いられない場合であっても、人身取引とみなされる。
(d) “Child” shall mean any person under eighteen years of age.
(d) 「児童」とは、18 歳未満のすべての者をいう。

(強調は引用者による)


一読してわかるように、搾取の目的で、暴力、誘拐や詐欺、同意を得る目的で行われる金銭の授受、弱い立場に乗ずるなどの手段が用いられている場合、自発的どころか、たとえ本人が同意している場合であっても人身売買に該当 (b項)することに変わりはないのである。

また、「自発的」や「志願」といった事実が一部にあったとしても、それによって女性たちが「慰安婦」になることを「同意」していたと見なすことはできない。なぜなら朝鮮半島からの動員では職種を偽ったり明かさずに甘言で騙して国外へ連れて行く誘拐や就業詐欺(人身売買を含む)といったケースが数多く報告されており*3、秦氏も朝鮮半島では「誘拐や人身売買」のケースが「大部分」だったことを認めているのだから。

まぁ日本軍の場合、上記の人身売買の定義にある、獲得(募集)、輸送、収受といった3つの過程すべてにおいて組織的に関与・介入しており、国家責任が問われないよう見せかけるには秦さんもこうした詭弁を弄するしか選択肢がないのだろう、とは思うが。


*1:秦郁彦氏は慰安婦制度を公娼制度へと一般化させようと差異を無視している。一例をあげるなら、公娼制度では建前上とはいえ法規定(娼妓取締規則)により「廃業の自由」が保障されていた(もちろん実態は違っていたのだが)、しかし慰安婦制度にはそうした廃業の自由を保障する法規定すら存在しなかった。

*2:こちらを参照:秦郁彦氏は従軍慰安婦の話題になるとバカになる - 誰かの妄想・はてな版 秦郁彦氏は従軍慰安婦の話題になるとバカになる - 誰かの妄想・はてな版

*3:誘拐、詐欺、人身売買の数多くの事例はこちらを参照:日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態 - Transnational History 日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態 - Transnational History。他にも、元朝鮮人慰安婦19人による証言集でも、甘言に騙され連れて行かれたケース(人身売買を含む)が最も多くを占める。参照『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』明石書店 ,1993年


https://dj19.hatenadiary.org/entry/20130703/p1


http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/697.html#c8

[アジア13] 悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない 中川隆
619. 中川隆[-15250] koaQ7Jey 2019年11月29日 22:09:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2325]
中曽根康弘死去であらためて振り返る従軍慰安婦 中曽根の「慰安所つくった」証言と「土人女を集め慰安所開設」防衛省文書(リテラ)
http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/697.html
https://lite-ra.com/2019/11/post-5119.html


2019.11.29 中曽根康弘「慰安所つくった」証言と「土人女を集め慰安所開設」文書 リテラ

     
左・中曽根元首相の“手記”が収録されている『終りなき海軍』(文化放送開発センター)/右・中曽根元首相が慰安所を設置させたことを示す資料


 中曽根康弘元首相が、101歳で死去した。メディアでは、国鉄民営化や日米安保体制強化などを功績として振り返っているが、負の側面も非常に大きい政治家ある。

 たとえば、現在の日本社会にもつながる右傾化・歴史修正主義の台頭や新自由主義路線の端緒となり、日本の戦後民主主義政治を歪めた張本人だ。こうした功罪の罪の部分も検証されるべきだが、なかでも本人が一度は告白しながら途中からダンマリを貫いたこの問題はきっちり検証するべきだろう。

 そう、日本軍の従軍慰安婦問題だ。

 中曽根元首相が戦時中、海軍主計士官(将校)の地位にあったことは有名だが、その当時、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたことを、戦後に自分の“手記”の中で自ら書いているのだ。

 しかも、これは中曽根元首相の思い違いでも妄想でもない。防衛省にも中曽根元首相の“慰安所づくり”証言を裏付ける戦時資料が存在している。

 本サイトでは、2014年夏、朝日新聞の慰安婦記事バッシングが盛り上がり勢いづいた右派の、慰安婦の存在や日本軍の関与までなかったことにしようという歴史修正主義の動きに抵抗するため、この中曽根“慰安所づくり”証言とそれを裏付ける戦時資料について詳しく報じた。(ちなみに、フジ産経グループの総帥だった鹿内信隆にも中曽根元首相と同様に、慰安所づくりへの関与発言があり、やはり本サイトが記事にしている(https://lite-ra.com/2014/09/post-440.html)。

 中曽根元首相の証言は、従軍慰安婦に日本軍が組織的に関与していたことを物語る重大な証言だったが、手記出版から30年ほど経ってからこの記述がクローズアップされると、中曽根元首相は一転否定、その後ダンマリを通してきた。

 中曽根元首相には、従軍慰安婦問題とりわけ日本軍の関与について、自らの口で明らかにする歴史的責任があったはずだが、それはかなわなくなってしまった。

 中曽根“慰安所づくり”証言とそれを裏付ける戦時資料から、従軍慰安婦の存在と日本軍関与が事実であることを報じた記事を再録する。「慰安婦は存在しなかった」というデマが大手を振って罷り通るいま、あらためてご一読いただきたい。
(編集部)

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●中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が

 朝日新聞の慰安婦訂正記事で右派陣営が勢いづいている。「朝日は責任をとれ!」と気勢をあげているのはもちろん、自民党の政務調査会議は河野談話も朝日報道が前提だとして「河野談話を撤回し、新たな官房長官談話を!」とぶちあげた。また、同党の議連では朝日新聞関係者、さらに当時の河野洋平元官房長を国会に招致して聴取すべき、という意見までとび出している。
 
 だが、朝日や河野洋平氏を聴取するなら、もっと先に国会に呼ぶべき人物がいる。それは第71代日本国内閣総理大臣の中曽根康弘だ。
 
 大勲位まで受章した元首相をなぜ従軍慰安婦問題で審訊しなければならないのか。それは先の大戦で海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたからだ。

■中曽根が手記で「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と自慢

 何かというと左翼のでっちあげとわめきたてて自分たちを正当化しようとする保守派やネトウヨのみなさんには申し訳ないが、これは捏造でも推測でもない。中曽根元首相は自分の“手記”の中で自らこの事実を書いており、しかも、防衛省にそれを裏付ける戦時資料が存在していたのだ。そこには、部隊の隊員によるこんな文言が書かれていた。

「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」

 まず、“手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。

 タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。

「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」

 おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。

 ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。

■防衛省に、中曽根「慰安所づくり」証言を裏付ける客観的証拠が!

 このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。

 だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の“手記”のほうがデタラメということになってしまう。だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。

 いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。 

 国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。

 資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
 
 本サイトは今回、同センターでその「第2設営班資料」を閲覧し、コピーを入手した。

 宮地氏の自筆で書かれたと思われるその資料にはまず、「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。そして、資料を読み進めていくと、「5、設営後の状況」という項目にこんな記録が載っていたのだ。

「バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる
 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」

 さらに「第2設営班資料」のなかには、慰安所設置を指し示す証拠となる、宮地氏の残したものと思われる手書きの地図も存在していた。

■インドネシアで民家だった場所を、日本軍が接収し慰安所に作り変え!

 それはバリクパパン「上陸時」の様子(昭和17年1月24日)と、設営「完了時」の様子(17年1月24日〜同年3月24日)を表す2点の地図資料だ。バリクパパン市街から約20km地点のこの地図から、中曽根たちが設営したと思われるマンガル飛行場滑走路のそばを流れるマンガル河を中心に民家が点在し、またマンガル河から離れた場所に民家が一軒だけポツリと孤立していることがわかる。

 そして2つの地図を見比べてみると、“ある変化”があることに気づく。「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、その孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたことが記されている。さらにその場所には「上陸時」にはなかった「設営班慰安所」との記載が書き加えられている。

 つまり、上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまったと思われるのだ。 

 もはや言い逃れのしようはないだろう。「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」という記載。それを裏付ける地図。中曽根元首相が自分で手記に書いたこととぴったり符号するではないか。

 しかも、「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。

 実際、インドネシアでは多くの女性が慰安婦として働かされており、彼女たちは日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかもしらないまま日本兵の引率のもと連れ去られたことを証言している。そして、年端も行かない女性達がいきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。
 
 つまり、中曽根首相がこうした“強制連行”に関与していた可能性も十分あるのだ。

 朝日新聞の訂正で勢いづいた保守・右派勢力は銃剣を突きつけて連行したという吉田証言が虚偽だったという一事をもって、強制連行そのものを否定しようとしている。さらには従軍慰安婦への軍の関与そのものを否定するかのような虚偽を平気でふりまいている。

 しかし、もし、強制連行はない、軍の関与もないといいはるならここはやはり、「土人女を集め」たという元主計長・中曽根康弘を国会に喚問して、どう「集め」たのか、「苦心」とはなんだったのか証言させるべきではないのか。一メディアの誤報をあげつらうより、そのほうがはるかに「歴史の検証」になると思うのだが、いかがだろう。

(エンジョウトオル)


http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html#c619

[近代史3] 沖縄 首里城火災 _ 琉球人は何をやっても いい加減、無責任で「ゆすりとごまかしの名人」 中川隆
76. 中川隆[-15255] koaQ7Jey 2019年11月30日 11:37:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2330]

2019年11月30日
破綻した琉球を助けた日本 植民地支配という沖縄の嘘

琉球時代の王を再現した儀式

引用:http://konotabi.com/photoalbum/Okinawa2007/Shurijo/image19.jpg


破綻した琉球を助けた徳川幕府


沖縄の人は残念ながら、戦後沖縄に浸透した左翼の流言による嘘の知識を信じている。

沖縄の基地を巡って沖縄と政府が対立しているが、表面的な議論ばかりで、沖縄そのものの成り立ちが語られる事はない。


沖縄人自身が沖縄について間違った知識しか持っておらず、左翼知識人に吹き込まれた嘘の知識を元に「中国こそ沖縄の祖国」などと思っている。



嘘の歴史では「琉球王国は豊かな独立国だったが、突然薩摩と幕府が侵略し植民地支配した為、琉球の人々は2重課税され、どれいの様に働かされ搾取された。」としている

沖縄人は自分達をこう思っているが、これは戦後の敗戦につけこんで中国やソ連、米国が日本の左翼を利用して植えつけた知識です。

まず琉球が日本や明のような「独立国」だった事は有史以来一度もありません。


15世紀ごろ、琉球は明の冊封体制に組み込まれ明の属国になりました。

琉球王は明の属国になるのと引き換えに琉球の統治を認められたのであって、そもそも国家などではない。

薩摩藩や土佐藩は大和朝廷から任命された徳川将軍の部下であって、独立国ではないのと同じ事です。


明という国家に従属する1人の王として貿易を認められた琉球は繁栄したが、繁栄は100年ほどしか続かなかった。

明が鎖国していたから琉球は中継地として中継貿易を独占できたのだが、明が鎖国を辞めた事で存在理由がなくなった。

「琉球は明との貿易で栄えていた」というのは15世紀の時代で、今から600年以上も昔の事です。


明の鎖国政策の終わりによって切り捨てられた琉球は昔の貧困に戻りました。

16世紀には琉球は既に破綻しており、国として立ち行かなくなっていました。

そこにやってきたのが薩摩と徳川幕府で、薩摩の支配に組み込まれる事で日本との中継貿易が可能になり、再び琉球は栄えました。


「豊かだった琉球は薩摩の侵略で貧しくなった」というのは真実とは真逆の大嘘です。

日本は徳川幕府の鎖国令によって鎖国していたが、いくつかの例外が設けられており、長崎の出島、朝鮮との交易、琉球を仲介した大陸との交易を認めていました。

中継貿易の拠点として息を吹き返した琉球は、八重山地震まではバブルとも言える繁栄を謳歌しました。


薩摩藩は琉球を搾取するどころか、琉球の開発を助け農地の開拓に励みました。

一方で琉球は15世紀から続けていた冊封体制も存続し、明や清に貢物を献上していました。

琉球が栄えていた時代には明からお返しの貢物が届けられましたが、利用価値が無くなってからは、琉球からの一方的な搾取になっていました。


1771年、八重山地震による津波で八重山諸島の人口の3分の1がなくなる大被害があり、薩摩が行った農地開発は水泡に帰し、琉球は再び破綻して貧乏のどん底に落ちました。

このとき琉球を助けたのは、やはり薩摩と徳川幕府で、幕府は薩摩に、薩摩は琉球に物資や人手を送る事で援助しました。


冊封体制の清は何もしてくれませんでしたが、琉球は相変わらず朝献を続けたので、幕府から止めるように言われています。

八重山地震で破綻した琉球王は住民に人頭税など重税を課しました。

現代の琉球人である沖縄人は「薩摩と幕府が2重課税を課した」という嘘を信じ込まされているが、薩摩や幕府が琉球で徴税した事は明治維新まで一度も無い。


また薩摩や幕府が琉球に貢物や金銭を要求した事もなく、常に琉球から送られる以上の物を送って援助しました。

これを「日本人が沖縄から略奪した」とは無礼にも限度がある。


琉球征伐の実態

薩摩が琉球を支配下に置いた経緯についても嘘が信じられている。

徳川家は関が原の合戦に勝利し征夷大将軍に任命され日本の全ての大名の頂点に立った。

征夷大将軍は天皇から任命された役職で、いかなる大名や武将も将軍の部下である。


徳川幕府は琉球に対して自らに従うように何度か使いを出したが、琉球王であった中山は徳川を罵り侮蔑する態度に出た。

徳川幕府と琉球の間を仲介していたのが薩摩であり、琉球王の無礼な態度に対して薩摩に征伐の命令が下った。

つまり薩摩はある日思いつきに攻めたわけではなく、存命だった徳川家康が命令した。


直接の原因は徳川の使者に対して、対応に当たった謝名が罵詈雑言を吐いて侮辱したからだった。

使者を侮辱するのは近代以前には最も多い戦争理由で、例えば蒙古襲来や朝鮮征伐もこれで始まった。

薩摩藩は1609年に琉球に上陸したが、琉球は戦う意思を示さなかったので公式な戦闘は起きなかった。


抵抗した離島の住民ら数十人を倒し、薩摩軍も数名の犠牲が出たとされているが、鉄砲の射撃に驚いて多くの住民は降参した。

薩摩軍3千人は住民らによる小規模な抵抗を受けながら本島に上陸し、本島では戦闘は無く和睦文書が交わされた。

最初の島に上陸したのが1609年3月2日で、4月1日には首里城で講和が調印され、薩摩軍に撤退命令が出た。


これが琉球上陸あるは琉球討伐の全てである。

以降は薩摩藩の藩士数十名が駐留しただけで、明治維新まで薩摩軍が来る事は無かった。

皮肉な事に明から捨てられて貧困にあえいでいた琉球王は徳川幕府によって王の座を保証され、援助まで受ける事になった。


徳川は琉球を魅力ある場所とは思わず、自らの軍隊を派遣して直接統治しようとはしなかった。

薩摩軍が琉球に駐留するのも望ましくないと考えたので、いわば非武装の中立地帯のようになった。

幕府から見ると当時東南アジアを植民地化していた西洋が琉球を支配するのは避けたいので、琉球を援助する事で存続させ安定させようとした。


これから1771年の八重山地震までは、琉球が最も平穏で幸福な時代だった。
http://www.thutmosev.com/archives/33527142.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/703.html#c76

[近代史3] 中曽根康弘とキッシンジャー
2019.11.30
中曽根康弘とキッシンジャー

 中曽根康弘は日本へ原子力や新自由主義を導入した政治家である。「右翼」と見なされているが、アメリカの支配層と深く結びついていた。

 東京帝国大学を卒業した後、中曽根は1941年に内務省へ入省したが、それから間もなくして海軍経理学校へ入学、海軍主計少佐として敗戦を迎えている。1945年10月に内務省へ戻り、翌年9月には警視庁警視に昇進するが、その年の12月に依願退職。1947年4月には衆議院議員選挙に出馬、当選して政界入りを果たした。

 政治家となった中曽根は河野一郎の配下に入り、そこで児玉誉士夫と知り合う。中曽根は児玉の子分になったと言う人もいる。その児玉は右翼の大物として知られていたが、ロッキード事件の際にCIAの手先だったことが判明している。この事件では中曽根の名前も出たが、検察は動かなかった。

 中曽根と児玉との関係を浮き上がらせる事件が1972年にあった。中曽根と旧制静岡高校からの友人だった東郷民安が創業した殖産住宅の株式が上場を巡るスキャンダルだ。この上場を利用して中曽根は一儲けを目論み、児玉が絡んでくる。このふたりが東郷を破滅へと導くことになった。

 その頃、中曽根は政治家の中でも「大物」になっていたが、彼が権力の階段を登り始めるのはMRA(道徳再武装運動)と関係するようになってからだ。この団体はCIAとの関係が深い疑似宗教団体で、岸信介や三井高維も参加。そこで中曽根はヘンリー・キッシンジャーを含むCFR(外交問題評議会)のメンバーと知り合い、1950年6月にはスイスで開かれるMRA世界大会へ出席している。

 ちなみに、その3年後、内閣調査室の初代室長だった村井順がMRAの大会へ出席するためにスイスへ向かっている。村井はボンでアレン・ダレスCIA長官と会い、できて間もない内閣調査室に関する助言を得ることになっていたと言われている。

 しかし、ボン空港に到着すると村井はイギリスの情報機関員と思われる人物につきまとわれ、ロンドンの税関では腹巻きの中に隠していた闇ドルを発見されてニュースになった。

 ところで、中曽根は1953年にキッシンジャーが責任者だった「ハーバード国際セミナー」というサマー・スクールに参加している。このセミナーはロックフェラー財団やフォード財団をスポンサーにしていたが、CIAともつながっていた。

 その当時、キッシンジャーはハーバード大学の大学院で学んでいた。1954年に博士号を取得、その翌年にネルソン・ロックフェラーがスポンサーについたキッシンジャーはCFRの核兵器・外交政策研究グループの責任者に選ばれる。

 キッシンジャーが支配層に取り立てられる切っ掛けは1942年にアメリカ陸軍でフリッツ・グスタフ・アントン・クレーマーという人物に目をかけられたことにある。ドライバー兼ドイツ語の通訳を探していた第82歩兵師団のアレキサンダー・ボーリング司令官にクレーマーはキッシンジャーを紹介した。

 ほどなくしてキッシンジャーは情報分隊(後の対敵諜報部/CIC)に配属され、1946年までそこに所属。そこでアレン・ダレスに誘われ、創設の準備段階だった極秘の破壊工作機関OPCで働くようになる。最初の仕事はハーバード大学で新組織のために働く外国人学生をリクルートすることだった。彼が「ハーバード国際セミナー」の責任者になった理由のひとつはそこにあるのだろう。

 一方、1954年3月に中曽根は国会に原子力予算を提出し、修正を経て予算案は4月に可決された。その背景には、1953年12月にドワイト・アイゼンハワー米大統領が国連総会で行った「原子力の平和利用」という宣言がある。

 中曽根は1982年から内閣総理大臣を務めることになった。1976年に逮捕された後も政界で大きな影響力を持っていた田中角栄の懐刀、後藤田正晴が内閣官房長官になったこともあり、マスコミは「田中曽根」と揶揄していたが、その実態は「岸影内閣」だとジャーナリストの山川暁夫は看破していた。後藤田は中曽根のブレーキ役だった。実際、後藤田の追い落としを狙ったと思われるスキャンダルが浮上している。

 首相になった中曽根が目論んだのは新自由主義の導入だった。私有化の促進と規制緩和だ。その象徴が国鉄の分割と私有化。最強の労働組合を潰すことだけでなく、国の運営を国家機関から私的権力へ移そうというわけだ。その後、支配層が目論んだ通りに日本の労働環境は急速に悪化、貧富の差が拡大していくのだが、同時に日本経済の地盤も崩れていく。それは社会の崩壊でもあった。その新自由主義的な政策を引き継いだのが小泉純一郎、菅直人、野田佳彦、安倍晋三たちだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201911300000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/736.html

[近代史3] 中曽根康弘とキッシンジャー 中川隆
1. 中川隆[-15254] koaQ7Jey 2019年11月30日 12:44:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2328]
中曽根康弘死去であらためて振り返る従軍慰安婦 中曽根の「慰安所つくった」証言と「土人女を集め慰安所開設」防衛省文書(リテラ)
http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/697.html


2019.11.29 中曽根康弘「慰安所つくった」証言と「土人女を集め慰安所開設」文書 リテラ

     
左・中曽根元首相の“手記”が収録されている『終りなき海軍』(文化放送開発センター)/右・中曽根元首相が慰安所を設置させたことを示す資料


 中曽根康弘元首相が、101歳で死去した。メディアでは、国鉄民営化や日米安保体制強化などを功績として振り返っているが、負の側面も非常に大きい政治家ある。

 たとえば、現在の日本社会にもつながる右傾化・歴史修正主義の台頭や新自由主義路線の端緒となり、日本の戦後民主主義政治を歪めた張本人だ。こうした功罪の罪の部分も検証されるべきだが、なかでも本人が一度は告白しながら途中からダンマリを貫いたこの問題はきっちり検証するべきだろう。

 そう、日本軍の従軍慰安婦問題だ。

 中曽根元首相が戦時中、海軍主計士官(将校)の地位にあったことは有名だが、その当時、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたことを、戦後に自分の“手記”の中で自ら書いているのだ。

 しかも、これは中曽根元首相の思い違いでも妄想でもない。防衛省にも中曽根元首相の“慰安所づくり”証言を裏付ける戦時資料が存在している。

 本サイトでは、2014年夏、朝日新聞の慰安婦記事バッシングが盛り上がり勢いづいた右派の、慰安婦の存在や日本軍の関与までなかったことにしようという歴史修正主義の動きに抵抗するため、この中曽根“慰安所づくり”証言とそれを裏付ける戦時資料について詳しく報じた。(ちなみに、フジ産経グループの総帥だった鹿内信隆にも中曽根元首相と同様に、慰安所づくりへの関与発言があり、やはり本サイトが記事にしている(https://lite-ra.com/2014/09/post-440.html)。

 中曽根元首相の証言は、従軍慰安婦に日本軍が組織的に関与していたことを物語る重大な証言だったが、手記出版から30年ほど経ってからこの記述がクローズアップされると、中曽根元首相は一転否定、その後ダンマリを通してきた。

 中曽根元首相には、従軍慰安婦問題とりわけ日本軍の関与について、自らの口で明らかにする歴史的責任があったはずだが、それはかなわなくなってしまった。

 中曽根“慰安所づくり”証言とそれを裏付ける戦時資料から、従軍慰安婦の存在と日本軍関与が事実であることを報じた記事を再録する。「慰安婦は存在しなかった」というデマが大手を振って罷り通るいま、あらためてご一読いただきたい。
(編集部)

************

●中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が

 朝日新聞の慰安婦訂正記事で右派陣営が勢いづいている。「朝日は責任をとれ!」と気勢をあげているのはもちろん、自民党の政務調査会議は河野談話も朝日報道が前提だとして「河野談話を撤回し、新たな官房長官談話を!」とぶちあげた。また、同党の議連では朝日新聞関係者、さらに当時の河野洋平元官房長を国会に招致して聴取すべき、という意見までとび出している。
 
 だが、朝日や河野洋平氏を聴取するなら、もっと先に国会に呼ぶべき人物がいる。それは第71代日本国内閣総理大臣の中曽根康弘だ。
 
 大勲位まで受章した元首相をなぜ従軍慰安婦問題で審訊しなければならないのか。それは先の大戦で海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたからだ。

■中曽根が手記で「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と自慢

 何かというと左翼のでっちあげとわめきたてて自分たちを正当化しようとする保守派やネトウヨのみなさんには申し訳ないが、これは捏造でも推測でもない。中曽根元首相は自分の“手記”の中で自らこの事実を書いており、しかも、防衛省にそれを裏付ける戦時資料が存在していたのだ。そこには、部隊の隊員によるこんな文言が書かれていた。

「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」

 まず、“手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。

 タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。

「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」

 おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。

 ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。

■防衛省に、中曽根「慰安所づくり」証言を裏付ける客観的証拠が!

 このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。

 だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の“手記”のほうがデタラメということになってしまう。だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。

 いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。 

 国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。

 資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
 
 本サイトは今回、同センターでその「第2設営班資料」を閲覧し、コピーを入手した。

 宮地氏の自筆で書かれたと思われるその資料にはまず、「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。そして、資料を読み進めていくと、「5、設営後の状況」という項目にこんな記録が載っていたのだ。

「バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる
 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」

 さらに「第2設営班資料」のなかには、慰安所設置を指し示す証拠となる、宮地氏の残したものと思われる手書きの地図も存在していた。

■インドネシアで民家だった場所を、日本軍が接収し慰安所に作り変え!

 それはバリクパパン「上陸時」の様子(昭和17年1月24日)と、設営「完了時」の様子(17年1月24日〜同年3月24日)を表す2点の地図資料だ。バリクパパン市街から約20km地点のこの地図から、中曽根たちが設営したと思われるマンガル飛行場滑走路のそばを流れるマンガル河を中心に民家が点在し、またマンガル河から離れた場所に民家が一軒だけポツリと孤立していることがわかる。

 そして2つの地図を見比べてみると、“ある変化”があることに気づく。「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、その孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたことが記されている。さらにその場所には「上陸時」にはなかった「設営班慰安所」との記載が書き加えられている。

 つまり、上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまったと思われるのだ。 

 もはや言い逃れのしようはないだろう。「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」という記載。それを裏付ける地図。中曽根元首相が自分で手記に書いたこととぴったり符号するではないか。

 しかも、「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。

 実際、インドネシアでは多くの女性が慰安婦として働かされており、彼女たちは日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかもしらないまま日本兵の引率のもと連れ去られたことを証言している。そして、年端も行かない女性達がいきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。
 
 つまり、中曽根首相がこうした“強制連行”に関与していた可能性も十分あるのだ。

 朝日新聞の訂正で勢いづいた保守・右派勢力は銃剣を突きつけて連行したという吉田証言が虚偽だったという一事をもって、強制連行そのものを否定しようとしている。さらには従軍慰安婦への軍の関与そのものを否定するかのような虚偽を平気でふりまいている。

 しかし、もし、強制連行はない、軍の関与もないといいはるならここはやはり、「土人女を集め」たという元主計長・中曽根康弘を国会に喚問して、どう「集め」たのか、「苦心」とはなんだったのか証言させるべきではないのか。一メディアの誤報をあげつらうより、そのほうがはるかに「歴史の検証」になると思うのだが、いかがだろう。

(エンジョウトオル)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/736.html#c1

[近代史3] 中曽根康弘とキッシンジャー 中川隆
2. 中川隆[-15253] koaQ7Jey 2019年11月30日 12:45:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2327]
中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が(リテラ)
http://www.asyura2.com/14/senkyo170/msg/574.html


中曽根元首相の“手記”が収録されている『終りなき海軍』(文化放送開発センター)


中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が
http://lite-ra.com/2014/08/post-413.html
2014.08.29 リテラ


 朝日新聞の慰安婦訂正記事で右派陣営が勢いづいている。「朝日は責任をとれ!」と気勢をあげているのはもちろん、自民党の政務調査会議は河野談話も朝日報道が前提だとして「河野談話を撤回し、新たな官房長官談話を!」とぶちあげた。また、同党の議連では朝日新聞関係者、さらに当時の河野洋平元官房長を国会に招致して聴取すべき、という意見までとび出している。
 
 だが、朝日や河野洋平氏を聴取するなら、もっと先に国会に呼ぶべき人物がいる。それは第71代日本国内閣総理大臣の中曽根康弘だ。
 
 大勲位まで受章した元首相をなぜ従軍慰安婦問題で審訊しなければならないのか。それは先の大戦で海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたからだ。

 何かというと左翼のでっちあげとわめきたてて自分たちを正当化しようとする保守派やネトウヨのみなさんには申し訳ないが、これは捏造でも推測でもない。中曽根元首相は自分の“手記”の中で自らこの事実を書いており、しかも、防衛省にそれを裏付ける戦時資料が存在していたのだ。そこには、部隊の隊員によるこんな文言が書かれていた。

「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」

 まず、“手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。

 タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。

「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」
 おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。

 ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。

 このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。

 だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の“手記”のほうがデタラメということになってしまう。だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。

 いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。 

 国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。

 資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
 
 本サイトは今回、同センターでその「第2設営班資料」を閲覧し、コピーを入手した。

 宮地氏の自筆で書かれたと思われるその資料にはまず、「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。そして、資料を読み進めていくと、「5、設営後の状況」という項目にこんな記録が載っていたのだ。

「バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる
 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」

 さらに「第2設営班資料」のなかには、慰安所設置を指し示す証拠となる、宮地氏の残したものと思われる手書きの地図も存在していた。

 それはバリクパパン「上陸時」の様子(昭和17年1月24日)と、設営「完了時」の様子(17年1月24日〜同年3月24日)を表す2点の地図資料だ。バリクパパン市街から約20km地点のこの地図から、中曽根たちが設営したと思われるマンガル飛行場滑走路のそばを流れるマンガル河を中心に民家が点在し、またマンガル河から離れた場所に民家が一軒だけポツリと孤立していることがわかる。

 そして2つの地図を見比べてみると、“ある変化”があることに気づく。「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、その孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたことが記されている。さらにその場所には「上陸時」にはなかった「設営班慰安所」との記載が書き加えられている。

 つまり、上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまったと思われるのだ。 

 もはや言い逃れのしようはないだろう。「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」という記載。それを裏付ける地図。中曽根元首相が自分で手記に書いたこととぴったり符号するではないか。

 しかも、「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。

 実際、インドネシアでは多くの女性が慰安婦として働かされており、彼女たちは日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかもしらないまま日本兵の引率のもと連れ去られたことを証言している。そして、年端も行かない女性達がいきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。
 
 つまり、中曽根首相がこうした“強制連行”に関与していた可能性も十分あるのだ。

 朝日新聞の訂正で勢いづいた保守・右派勢力は銃剣を突きつけて連行したという吉田証言が虚偽だったという一事をもって、強制連行そのものを否定しようとしている。さらには従軍慰安婦への軍の関与そのものを否定するかのような虚偽を平気でふりまいている。

 しかし、もし、強制連行はない、軍の関与もないといいはるならここはやはり、「土人女を集め」たという元主計長・中曽根康弘を国会に喚問して、どう「集め」たのか、「苦心」とはなんだったのか証言させるべきではないのか。一メディアの誤報をあげつらうより、そのほうがはるかに「歴史の検証」になると思うのだが、いかがだろう。

(エンジョウトオル)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/736.html#c2

[近代史3] 中曽根康弘とキッシンジャー 中川隆
3. 中川隆[-15252] koaQ7Jey 2019年11月30日 12:46:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2326]
「女の耐久度」チェックも! 産経新聞の総帥が語っていた軍の慰安所作り(リテラ)
http://www.asyura2.com/14/senkyo171/msg/138.html

 『いま明かす戦後秘史 下』(サンケイ出版)


「女の耐久度」チェックも! 産経新聞の総帥が語っていた軍の慰安所作り
http://lite-ra.com/2014/09/post-440.html
2014.09.07 リテラ


 朝日新聞の慰安婦報道の失態で勢いづいている右派・保守陣営だが、中でも、一番大はしゃぎしているのが産経新聞だろう。産経は慰安婦が政治問題化した1990年初頭から、慰安婦の強制連行はなかったと否定し、河野談話や村山談話を批判、慰安婦を記述した教科書を糾弾するキャンペーンを展開してきた。

 さらに同紙の社説にあたる「主張」や月刊オピニオン誌「正論」では、強制連行の否定だけでなく、慰安婦は「民間業者が行っていた商行為」で、「自ら志願した娼婦」。日本軍は従軍慰安婦に「性病予防対策などで関与していた」だけ、「公衆衛生面で関与していた」にすぎないという主張を繰り広げてきた。

 そして今回、朝日が「吉田証言」の間違いを認めた事で、こうした自分たちの主張がすべて正しかったと勝ちどきをあげているのだ。

 97年に結論が出ていた「吉田証言」の虚偽を朝日が今になって認めたというだけで、どうしてそういう結論になるのかさっぱりわからないが、とにかく産経は自信満々で、日本軍に慰安婦の責任はまったくないかのような論調を繰り広げている。

 だが、彼らは自分たちの会社で中興の祖とあおがれている人物が、その「軍は公衆衛生面で関与していただけ」という主張をくつがえすような衝撃的発言をしていたことを知っているのだろうか。

 その人物とは元産経新聞社長で、フジサンケイグループ会議議長だった故・鹿内信隆。鹿内は日経連専務理事からニッポン放送、フジテレビを開局して社長を歴任した後、産経新聞の経営権を握り社長に就任。現在、フジサンケイグループの原形を築き上げた人物だ。その権力と政治力は絶大なものがあり、1990年になくなるまで、事実上のオーナーとして同グループを独裁支配。経営方針だけでなく、現在の同グループのタカ派的な姿勢もすべて鹿内がつくりあげたものだ。

「鹿内さんは産経新聞社長に就任時するや同紙を反共タカ派の拠点にする方針を掲げ、自分にさからうリベラルなスタンスの社員のクビを片っ端から切っていった。800人に及ぶそのリストラの凄まじさは当時、マスコミ界でも“産経残酷物語”といわれたほどです。こういうことがあって、産経は今のゴリゴリの右派一色に染まった訳です。この鹿内さんのDNAはもちろん、現在の経営陣、編集幹部にも引き継がれています」(産経新聞OB)

 その鹿内は戦中、陸軍経理部に招集されていたのだが、産経新聞社長就任後に桜田武・元日経連会長との対談集『いま明かす戦後秘史』(サンケイ出版/絶版)を出版。陸軍時代の思い出話をこんなふうに語っている。

「鹿内 (前略)軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地に行きますとピー屋が……。
 桜田  そう、慰安所の開設。
 鹿内  そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった」

 鹿内は召集後、1939年4月から9月にかけて陸軍経理学校で軍の後方支援のノウハウを学んでいたのだが、そのときに、慰安所の作り方も叩き込まれたというのだ。しかも、その内容は今、右派メディアがしきりに喧伝している「公衆衛生の管理だけ」というようなレベルではない。鹿内の発言に「調弁する女」という表現が出てくるが、「調弁」というのは軍隊用語で兵馬の糧食などを現地で調達するという意味。つまり、これは陸軍が慰安婦の調達に関与していたということではないのか。

 さらに衝撃的なのが「女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか(中略)といったことまで決めなければならない」という発言だ。当時の日本軍が現地の女性を完全にモノ扱いし、どんな女がいいのかを品定めする作業までをも士官に命じていたことを証明するものだ。

 断っておくが、この鹿内発言は老人の妄想でも記憶違いでもない。靖国神社の一角に靖国偕行文庫という図書館があるのだが、そこにこの鹿内発言を裏付ける一冊の本が所蔵されている。

 300ページ以上はあろうかという分厚いその本のタイトルは『初級作戦給養百題』。昭和16年に陸軍主計団記事発行部が発行した、いわば経理将校のための教科書だ。
 
 表紙はハードカバーで、「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」という文字。その9ページ目、第一章総説に、師団規模の部隊が作戦する際に経理将校が担当する15項目の「作戦給養業務」が解説されているのだが、その最後の項目「其他」の解説に以下の任務が列挙されていたのだ。

1 酒保ノ開設
2 慰安所ノ設置、慰問団ノ招致、演藝會ノ開催
3 恤兵品ノ補給及分配
4 商人ノ監視

 ようするに、陸軍の経理将校向け教科書に任務として「慰安所ノ設置」が掲載されていたのである。軍が関与したのは衛生面の管理だけという保守派の主張が、明らかな嘘だということがよくわかるだろう。

 もちろん、こうした事実を産経新聞をはじめとする右派、保守派が知らなかったわけはない。少し前に中曽根康弘元首相が「土人女を集め慰安所開設」していたという戦時記録を紹介したが、今回は自分たちが中興の祖とあおいでいる人物が自社の単行本で軍の組織的な関与を認めていたのだ。

 しかも、中曽根元首相の証言でも明らかになったように、軍は現地で娼婦でない女性たちも徴収している。これでほんとうに、従軍慰安婦のことを「自ら志願した高級娼婦」などと信じているとしたら、どこかおかしいとしか思えない。

 ようするに、保守系メディアはこうした事実を知っていながらそれをネグり、あらかじめ強制連行の定義を「軍が銃剣を慰安婦に直接突きつけて連行した」という非常に狭いものに限定し、それを否定することで、巧妙に情報を誘導してきたのである。朝日が歴史を捏造したというなら、産経をはじめとする保守メディアもまったく同罪なのだ。

 しかも、中曽根首相、今回の鹿内信隆フジサンケイグループ元議長の発言でもうひとつはっきりしたことがある。それは、彼らが従軍慰安婦に対していささかも自責の念を抱いていない事だ。それどころか、まるで笑い話のように、「慰安所をつくってやった」「女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとかまで決めなきゃならない」と語っている。

 狂気のるつぼだった戦中ならともかく、戦後20年以上たってもこんな発言を嬉々としてできるというのは、そのベースに「女性はセックスのための使い捨ての道具」という差別意識が横たわっているという事に他ならない。そして、このメンタリティは、従軍慰安婦像に紙袋をかぶせるような性差別ギャグを嬉々としてほめたたえる今の右派メディアや嫌韓本、百田尚樹などの右派言論人にもしっかりと引き継がれている。
 
 彼らの姿が今の日本人を代表するものだと思われているとしたら、それこそが「日本の恥」ではないか。

(エンジョウトオル)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/736.html#c3

[近代史3] 中曽根康弘とキッシンジャー 中川隆
4. 中川隆[-15251] koaQ7Jey 2019年11月30日 12:48:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2325]
経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/310.html

中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が(リテラ)
http://www.asyura2.com/14/senkyo170/msg/574.html


『報道特集』 がついに中曽根元首相の「土人女を集め慰安所開設」文書を報道! 息子の弘文が慰安婦否定の責任者ってなんの冗談
http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/423.html


TBS 報道特集 「インドネシアでの戦時性暴力」  慰安所設置に関わった中曽根元首相 インドネシア元慰安婦の辛い証言
http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/448.html


八代弁護士、河村たかし、松井一郎が“慰安婦問題はデマ”とネトウヨ並みフェイク! あらためて中曽根証言など日本軍関与の証拠を見ろ
https://lite-ra.com/2019/08/post-4885.html
2019.08.06 八代弁護士が「慰安婦問題は史実に基づかない」とネトウヨ並みデマ リテラ
    
    ネトウヨなみのデマ!  (『ひるおび!』より)


 安倍政権による韓国への輸出規制と「ホワイト国」除外、あいちトリエンナーレでの「平和の少女像」などの展示中止……。国交正常化以来最悪と言われる日韓関係のなか、日本中がグロテスクな嫌韓ムードと歴史修正主義に染まっている。

 それは安倍政権周りの政治家やネット、右派メディアだけではない。地上波のワイドショーでもネトウヨとなんら変わらないヘイトや歴史修正主義が堂々と語られるようになった。

 5日放送の『ひるおび!』(TBS)でも、慰安婦問題など含む作品を展示した「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた件をとりあげるなか、八代英輝弁護士がこんな発言をしていた。

「当然、この社会的風潮のなか、この慰安婦像。この慰安婦問題っていうものが史実に基づかないものであること。あるいはこの慰安婦像に対して嫌悪感、反感をもつ方っていうのは多くいるってことは、当然認識した上での展示ですから。ある程度の反感というのは想定されたんでしょうけど、それが、私は『想定を超えてしまった』って認識は甘いんでないかというふうに思うんですよね」

 八代弁護士は「表現自体をさせないという風潮は危険だなと思う」などとエクスキューズをいれつつも、「私自身はこれ(少女像)を置いて、こんなものあってはならないと議論するということはアリだと思いますけどね」と続けるなど、嫌韓煽りを剥き出しにしていた。

 さらには、落語家の立川志らくも、いつもの物知り顔でこうコメントした。

「結局、こういうことをやると、日本人の多くは不愉快に思って許さないという結果が出た。これを『平和の少女像』って言う人がいることが、私は不思議でしょうがない。平和の少女像って言うなら、日本人の誰もが見て、これは平和だなって思えるならいいんだけれども。そりゃ韓国の人はそうかもしれないけど、日本人にとっては多くの人が反日の像だと思ってるわけでしょ? 本来、芸術ならば、これを反日像だと思っている人が見ても、思わず感動して涙を流す、そういうものを私は展示してほしい」

 本サイトでも解説した(https://lite-ra.com/2019/08/post-4880.html)ように、「平和の少女像」が「反日」だというのは完全にネトウヨの論理であり、歪曲した解釈だ。それを「みんなが思ってるんだから反日に決まってる」と言い張り、表現の自由を踏みにじる卑劣なテロ予告者ではなく、議論を換気しようとした展示や作品のほうを問題視する。その倒錯ぶりと付和雷同には、呆れ果てるしかない。

 とくに聞き逃せないのは、八代弁護士が発した「慰安婦問題っていうものが史実に基づかないものである」とのセリフだろう。八代弁護士は、つい先日も朝日新聞を韓国の中央日報、ハンギョレ新聞と並べて「反日三羽ガラス」と揶揄するなど、テレビの全国放送ネトウヨぶりを全開していたが、今度は慰安婦それ自体がなかったかのような発言をしたのだ。

はっきり言っておくが、慰安婦の存在は捏造でもなんでもなく。歴史的な事実だ。弁護士の資格を持つ人間が、地上波の昼間の番組で、保守派の学者でさえ言わないような歴史修正主義丸出しのデマを口にしていいのか。

 いや、八代弁護士だけではない。「平和の少女像」展示に圧力をかけ、「表現の不自由展」への攻撃を煽った河村たかし名古屋市長も、今日の会見で「やっぱり慰安婦ってあったのかと、そういうふうに見られる」などと発言していた。つまり、河村市長も慰安婦は存在しないと信じ込んでいるのだ。

 さらに、日本維新の会代表の松井一郎・大阪市長からはもっととんでもないデマ暴言が飛び出した。松井市長は5日会見で「事実ではない慰安婦の像」「日本人を蔑み貶める、誹謗中傷」「慰安婦問題というのは完全なデマ」「朝日新聞自体が誤報だと謝罪しているわけですから」「事実ではないデマの象徴の慰安婦像は行政が主催する展示会で展示するべきものではない」などと語り、慰安婦は完全なデマと言い放ったのである。

■中曽根康弘元首相が海軍主計長時代に「土人女を集め慰安所を開設」の記録

 こうした連中の妄言の根拠は、2014年、朝日新聞が慰安婦関連記事の虚偽を認め、訂正・謝罪したことだ。朝日が訂正したのは、とっくのとうに虚偽であることが分かっていた吉田清治証言に関するものだけだったが、当時、ネトウヨや極右メディアがこの謝罪を意図的に拡大解釈し、あたかも戦中に「慰安婦」自体の存在がなかったのようなデマを喧伝しまくった。意図的かどうかは知らないが、八代弁護士や河村市長らはこのネトウヨ歴史修正の詐術に丸乗っかりしているということだろう。

 だとしたら、本サイトとしては何度でも、その欺瞞と詐術を明らかにしておく必要がある。戦中の日本軍が各地に慰安所をつくり、現地の女性たちや朝鮮半島の女性たちを慰安婦にして、兵士の性暴力の相手にさせられたのは客観的事実だからだ。

 日本軍が侵略したアジアの各地に慰安所をつくったことは残された軍の記録や通達からも明らかであり、歴史学的にも議論の余地はない。軍が斡旋業者を使って騙して女性を連れ出した証拠や、現地の支配者や村長に命じて女性を差し出させた証拠もいくらでもある。そして、慰安所で現地の女性や朝鮮半島から連行した女性を軍が性的搾取したことは、多くの被害女性だけでなく、当時の現地関係者や元日本兵、元将校なども証言していることだ。

 たとえば、海軍出身の中曽根康弘元首相は、回想記『終りなき海軍』のなかで、当時、設営部隊の主計長として赴任したインドネシアで〈原住民の女を襲う〉部下のために〈苦心して、慰安所をつくってやった〉ことを自慢話として書いている。この中曽根証言は、防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センターが所蔵している当時の文書「海軍航空基地第2設営班資料」において、〈気荒くなり日本人同志けんか等起る〉ようになったところで〈主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設 気持の緩和に非常に効果ありたり〉と記されているように、歴史事実として裏付けされたものだ。

■産経の総帥も自著で軍時代の慰安所設立を自慢「女の耐久度とか消耗度も決めていた」

 また、陸軍出身の鹿内信隆・元産経新聞社長は、桜田武・元日経連会長との対談集『いま明かす戦後秘史』(サンケイ出版)のなかで、慰安所と慰安婦が軍主導であった事実をあけすけに語っていた。

「(前略)軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地に行きますとピー屋(引用者註:慰安所のこと)が……」
「調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった」
 
 実際、靖国偕行文庫所蔵の『初級作戦給養百題』(1941年)という陸軍主計団記事発行部が発行した、いわば経理将校のための教科書の記述にも〈慰安所ノ設置〉が業務のひとつとされており、この鹿内証言も軍の資料と完全に一致する。

 朝鮮半島の女性たちを慰安婦にした証拠も枚挙にいとまがない。

 日本はアジア・太平洋戦争で東南アジア各国を侵略、傀儡政権を樹立したり、軍の統治下に置くなどの支配を進めていったが、たとえばシンガポールでは現地の華僑を粛清した後に、日本軍の宣伝班の下で刊行された新聞に“慰安婦募集の広告”が出ている。そうした慰安所に大勢の朝鮮人女性も動員されたことは「16歳の時にシンガポールの慰安所に連れて行かれた」という朝鮮人元慰安婦の証言だけでなく、近年発見されたビルマ(現・ミャンマー)とシンガポールの慰安所で帳場の仕事をしていた朝鮮人男性の日記からも明らかになっている。また、独立自動車第四二大隊にいた元日本軍兵士も「トタン塀」と呼んでいた慰安所には「娼妓は朝鮮人が多かったが、マライ人もいた」と証言している。

■米朝会談の舞台となったセントーサ島では朝鮮人女性が騙されて慰安婦に

 昨年、米朝会談の舞台となったシンガポール南端のセントーサ島(旧称・ブラカンマティ島)でもまた、朝鮮人女性たちが慰安婦として働かされていた。しかも、彼女たちは別の仕事だと騙されて連れてこられたのだ。

 当時、東南アジアで通訳として従軍していた永瀬隆氏が証言している。永瀬氏は、日本が戦中につくらせたタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道で陸軍の通訳をしていたことで知られる日本人男性だ。日本軍による泰緬鉄道建設にあたっては、数万人のアジア人労働者や連合国軍の捕虜が非人道的な扱いを受け犠牲となっている。永瀬氏は戦後、反戦平和の立場から個人でその慰霊と償いの社会活動を続け、2011年に亡くなった。

 その永瀬氏が生前、月刊誌「MOKU」(黙出版)1998年12月号での高嶋伸欣・琉球大学教授(現・名誉教授)との対談のなかで、セントーサ島での体験を語っていた。シンガポールでも数か月の間、陸軍の通訳として勤務しており、その時、慰安所の女性たちや軍の部隊長と話をしたことをこのように振り返っている。

「(セントーサ島には1942年の)十二月中旬までいました。十一月になって隊長が僕を呼んで、『実は朝鮮の慰安婦がこの部隊に配属になってくるんだが、彼女たちは日本語がたどたどしいから、日本語教育をしてくれ』というんです。僕は『嫌なことをいうな。通訳はそこまでしなきゃいけんのか』と思ったけど、その隊長はもう島の王様気取りでおるんです。仕方がないから、慰安婦の人たちに日本語を三、四回教えました」

 永瀬氏は「そのうちに、僕は兵隊じゃないから、慰安婦の人も話がしやすいんだな」と思ったという。そして、朝鮮人女性たちに慰安所にきた理由を聞くと、騙されて連れて来られたというのだ。

「それで僕も『あんたたちはどうしてここへ来たんだ』と聞いたら、『実は私たちは、昭南島(シンガポール)の陸軍の食堂でウエイトレスとして働く約束で、支度金を百円もらって軍用船でここへ来たんだけど、着いた途端に、お前たちは慰安婦だといわれた』というんです」
「それを聞いて、ひどいことをするなと思った。いま考えてみても、強制的に連行して慰安婦にするよりも、そうやって騙して連れてきて慰安婦にするほうが、僕は罪は深いと思います。
 とにかく、それから島の中に慰安所ができたんですが、隊長が慰安所の兵隊にくだしおかれる前に、慰安婦を毎晩代わりばんこに次から次へ味見しているという話を聞きました」

■「慰安婦は存在しなかった」の嘘が堂々とまかり通る恐ろしさ

 つまり、日本軍は、彼女たち朝鮮人女性に性的労働をさせることを告げず、まして嘘の説明で騙して慰安所に連れて行ったケースが明らかに存在した。そして、前述した中曽根元首相らの証言や当時の軍資料のように、日本軍が従軍慰安婦に積極的に関与していたことも歴史的な事実なのである。

 八代弁護士が言うような「慰安婦問題は史実に基づかない」というのが、いかにフェイクであるかが分かるだろう。歴史修正主義者たちは、こうして慰安婦問題を矮小化しているのだ。

 恐ろしいのは、こうした歴史的な事実を否認する発言が、当たり前のようにワイドショーで飛び出し、他のマスコミが検証を放棄した結果、少なからぬ視聴者が何ら疑念をもたないでいることだ。実際、八代弁護士の発言の嘘を検証したり、批判的に取り上げるマスコミは、いまのところ皆無。それどころか、Twitterでは「よくぞ言ってくれた!」というような賞賛まで受けている。

 繰り返すが、安倍政権が煽動する“嫌韓”を、応援団やマスコミが増幅し、それがごく当たり前のように社会に蔓延しているのが、いまの日本社会だ。その結果起きたのが、平和の少女像などの展示に対する異常なバッシングであり、放火テロまでほのめかす脅迫だった。歴史的事実や、それに向き合うための表現まで「反日」と糾弾され、封殺されてしまう状況は、もはや“嫌韓ファシズム”と呼ぶべきかもしれない。

 しかも、こうしたメディアの扇動によって、国民の世論じたいもどんどん冷静さを失っている。

 政府が先月実施した「ホワイト国除外」に関するパブリックコメントには、寄せられた4万666件の意見のうち、「除外」に賛成が実に約95%で、反対はわずか約1%だったという。これは、安倍応援団やネトウヨの組織票の可能性が濃厚だが、他方、FNNと産経新聞が3、4日に実施した世論調査でも、「ホワイト国除外」を「支持する」が67.6%に登り、「支持しない」は19.4%にすぎなった。

 ワイドショーをはじめとするマスコミには、自分たちが取り返しのつかない状況を作り出しているという自覚はないのだろうか。


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終戦記記念日にあらためて言いたい!「慰安婦はデマ」こそデマだ! 日本軍関与、強制連行…歴史修正主義者たちはこの証拠を見よ
https://lite-ra.com/2019/08/post-4903.html
2019.08.15 終戦記記念日にあらためて言いたい!「慰安婦はデマ」こそデマだ! リテラ
   
   
 74年目の終戦記念日を迎えた今日、やはり、取り上げておくべきは日本軍「慰安婦」問題だろう。第二次安倍政権の誕生とともに、右派政治家やネット右翼による歴史修正主義は一気に勢いづき、「反日バッシング」の大号令のもとで大日本帝国賛美への傾きを増している。その象徴が、戦中の日本軍による「慰安婦」問題だからだ。

「平和の少女像」が展示された「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」は、脅迫や政治家の圧力によって中止に追い込まれたが、ネトウヨだけでなく、いまや政治家たちもが剥き出しの歴史修正発言を平然と繰り出しており、かたや、それを批判・検証する動きは鈍い。

「慰安婦問題は完全なデマなんだから。軍が関与した強制連行はなかったわけだから。それは一報を報じた朝日新聞自体が誤報と謝罪しているわけだから」「事実ではないデマの象徴の慰安婦像は行政が主催する展示会で展示するべきものではない」(松井一郎・大阪市長)

「名古屋市と愛知県は認めたのかと、国の補助金も入っているような(芸術祭で)国も韓国の主張を認めたのかと。やっぱり従軍慰安婦ってあったのかと、そういうふうに見られるじゃないかと」(河村たかし・名古屋市長)

 言っておくが、「慰安婦はデマ」「慰安婦はなかった」という発言こそ、はっきりとしたデマだ。そもそも、2014年に朝日新聞が訂正・謝罪したのは「慰安婦狩り」を創作した吉田清治証言にかんするもののみ。戦中の日本軍がアジア各地に慰安所をつくり、女性たちを「慰安婦」にして、兵士の性暴力の相手にしたのは事実である。

 まず、軍が慰安所づくりに主体的に携わったことを示す公的文書や元日本軍人の証言はいくらでもある。先日の記事(https://lite-ra.com/2019/08/post-4885.html)でも触れたが、たとえば、海軍出身の中曽根康弘・元首相は回想のなかで、インドネシアで「苦心して、慰安所をつくってやった」ことを自慢話として書いている。陸軍出身の鹿内信隆・元産経新聞社長はある対談で、「調弁する女の耐久度とか消耗度」などを含む慰安所の設置方法を経理学校で教わったと語っている。これらの証言は防衛省などが保持する当時の軍の史料でも裏付けされており、つまり、慰安所と「慰安婦」が軍主導であった事実を示している。

 アジアへの侵略戦争のなか、日本軍は戦地または占領地に軍直営や軍専用の慰安所をつくり、あるいは民間の売春宿を指定するかたちで慰安所にした。たとえば、防衛省の防衛研究所が所蔵する史料「常州駐屯間内務規定」(1938年3月16日、独立攻城重砲兵第二大隊が作成)では、中国現地の〈慰安所使用規定〉として部隊ごとに使用する曜日が決められていたほか、〈使用時間ハ一人一時間ヲ限度トス〉とあり〈支那人 一円○○銭〉〈半島人 一円五十銭〉〈内地人 二円○○銭〉とされている。軍が慰安所をつくり、朝鮮や現地の女性を「慰安婦」にしていたのは客観的にも議論の余地がないのだ。

 そこで、歴史修正主義者たちは「軍が関与した強制連行を示す証拠はない」などと言って「慰安婦問題はデマだ」と嘯くわけだが、しかし、これも問題を矮小化する典型的手口としか言いようがない。

 だいたい、歴史修正主義者たちは「軍がトラックで村に乗り込んできて、娘たちを連れ去って慰安婦にした」というようなケースだけを「強制連行」とするが、「強制」とはそもそも「本人の意思に反して無理矢理行わせること」だ。

 朝鮮人元慰安婦の証言で多いのは、「工場で働かせる」「稼げる仕事がある」などと甘言を弄して「慰安婦」にすることを隠し、騙して慰安所へ連行するケースだ。軍が直接的に連行せず業者を使っていても、元締めの業者は軍が選定し、慰安所では軍人の相手を強制されたのだから、当然、軍の責任は免れない。

■「いい仕事がある」と騙され貨車に詰め込まれ日本憲兵から「逃げようとしたら殺すぞ」と

 たとえば、朝鮮人元「慰安婦」の朴永心さんは1939年、17歳のとき、騙されて南京の慰安所へ連れていかれた。当時務めていた洋品店に、腰にサーベルをつけた日本人の巡査がやってきて、「お金が稼げるいい仕事がある」と誘われ、どういった仕事かはわからなかったが親孝行になると思い、ついていったという。

〈巡査は、私たちを憲兵に引き渡すとそそくさと姿を消してしまいました。私たちは屋根のついた貨車(有蓋貨車)に詰め込まれました。真夏だというのに貨車には窓がなく、風が通らないので中は蒸し風呂のような暑さでした。ブラウスが汗で肌にべったり張りついていたのを覚えています。
 一緒に乗り込んできた憲兵は「逃げようとしたら殺すぞ」と私たちを脅し、娘たちが互いに話すことも禁じました。トイレに行きたくても外に出してもらえず、我慢ができなくなると恥ずかしいなんて言ってられない。貨車の中で用を足さねばなりませんでした。本当につらかった。
 私たちは黙ったまま、暗い貨車の中で身を寄せ合って座っていました。「帰りたい」と泣き叫んでも殴られるだけで、どうすることもできなかったのです。「だまされた」と気がついたときにはすでに手遅れでした。〉【脚注1】

 明らかにそこには日本の官憲の「関与」があり、女性たちは「慰安婦」になることを「強制」されていたわけだが、さらに、東南アジアでは直接的に日本軍によって連行されたという証言も多い。

〈1943年のある夜、日本兵がやってきて、家々から若い女性を引きずり出しました。私は腕から乳飲み子をもぎとられ、むりやりトラックに押し込まれ、トンロックホテルで降ろされました。そこは陸軍専用の慰安所でした。〉(ロザリン・ソウさん/マレーシア・ペナン島生まれ)【脚注2】

〈日本軍の占領下、オランダ人は抑留所に入れられました。1944年2月、抑留所に日本軍の将校がきて、若い女性を広場に整列させ、「慰安婦」にする女性を選びました。私をふくむ16人の娘が「七海亭」に連行されました。私たちは恐怖で身を寄せあって祈りましたが、ひとり、またひとりと寝室に連れていかれました。私は日本刀をつきつけられて強かんされました。私はこの最初の夜を決して忘れません。翌日からは日本兵が列をつくってやってきました。2カ月後、慰安所は突然閉鎖され、私たちはボゴールの抑留所に移されました。日本兵は「慰安所のことを話したら、家族ともども殺す」と脅しました。私は沈黙するしかなく、周囲から「日本の売春婦」とよばれて、つらい思いをしました。〉(ジャン・ラフ=オハーンさん/オランダ領ジャワ島生まれ)【脚注2】

 安倍首相は第一次政権時に「言わば、官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れていくという、そういう強制性はなかった」(2007年3月5日参院予算委員会)と答弁したが、これは真っ赤な嘘なのである。

■日本軍によって両親を虐殺され、慰安婦にされたフィリピン女性

 目の前で日本軍によって肉親を虐殺され、「慰安婦」にさせられたケースさえある。フィリピン人元「慰安婦」のルフィーナ・フェルナンデスさんの証言だ。1942年に日本軍がフィリピンを占領したとき、フェルナンデスさんは14歳だった。場所を移しながら避難生活を送るなか、マニラ郊外の家に日本軍が入ってきた。

〈この家に戻るとすぐ私たちの家に日本軍が入り込んできました。彼らは私の父を当時強かった反日ゲリラの容疑者ということで、逮捕しようとしていました。父は前から山に行ったり、マニラに行ったりしていて、反日運動など何ひとつ行っていません。そのことを日本軍の兵士に言いました。しかし、兵士はいっこうに耳をかそうとせず、父を殴りつけました。そして、私は避難生活の間に一五才になっていましたけれど、私を見つけて日本軍の兵士が連れて行こうとしました。それをみた父が逆上して、私を連れ戻そうと日本軍の兵士に抵抗した時に、父は私の見ている前で日本軍の兵士になぐり殺されました。そして次は母の番でした。母も私をかばおうと日本兵の前に立ちはだかると、兵士が何度も何度も母のおなかを殴りつけ、母はそのまま死んでしまいました。兄弟は私の目の前で殴られ続けました。私は止めようとしましたが、私も頭をひどく殴られ意識を失った状態で車の中に連れて行かれました。遠ざかる意識の中で泣き叫ぶ兄弟の声が聞こえなくなりました。おそらく彼らも殺されたのだとその時思いました。
 私の家族はこうしてすべて殺されました。これは私にとって、とてもつらい信じられない出来事でした。そのことだけでも私は五〇年間日本人と日本軍に対する怒りで苦しみ続けてきました。〉【脚注3】

 そして、慰安所での女性たちの境遇は「凄惨」や「壮絶」という言葉ではとても言い表せないほどのものだった。数々の証言からは、虐待や暴行は日常茶飯事であり、まさに兵士たちが女性を「モノ」扱いしていたことが伺える。

■日本兵から「皇軍のため」「一〇〇人でも二〇〇人でも入ってくるだけ奉仕をしろ」と

 たとえば、朝鮮人元「慰安婦」の李桂月さんはこう証言している。15歳になった年に、村の区長に「仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言われ向かった先で日本の軍人に引き渡され、ハルピン近くの慰安所に連れて行かれた。

〈日本軍は「慰安婦」たちが言うことを聞かないとひどく殴りました。ある日、私は部屋に入ってきた将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、将校は「皇軍の言うことが聞けないのか」とどなり、連続びんたを食らわせました。あまりの痛さに目がくらみ、あごががくがくしました。将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は完全に気を失ってしまいました。〉
〈また、ある日、「タナカ」が部屋に入って来たときに私が横になったまま起き上がらないので靴で触り、「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。たばこを押し付けられてやけどをしたところは水ぶくれになり、化膿してしまいました。〉
〈日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「一〇〇人でも二〇〇人でも入ってくるだけ奉仕をしろ」と命令しました。それで、日曜日にはご飯を食べる時間も、便所に行く時間もなく「奉仕」させられました。一日中数十人もの日本兵に犯されると、指を動かす力もなくなり、失神するほどでした。一緒に連行されて来たヨンジャとイ・プニは、日本兵の暴行で殺されました。ヨンジャは病気になって腹が膨れ上がりましたが、日本兵はにんしんしている女は不必要だと言って軍刀で彼女のお腹を切り裂きました。しかし、胎児はおらず、水みたいなものがあふれ出ただけでした。ヨンジャは腹水の病気だったと思います。〉【脚注1】

 彼女たちは騙されたり、暴力によって無理矢理に「慰安婦」にさせられただけではない。慰安所では、兵士の性暴力の相手を拒めず、居住も強制され、監視によって外出や逃亡もできなかったという証言がほとんどだ。また当時の日本は、女性や児童の売買を禁じる国際条約や、満21歳未満の女性を国外へ連れて行くことを禁じる国際条約に加入しており、これらにも違反していた。なにより、戦争遂行のために女性の自由を奪い、強制的に男性の性暴力に晒すのは、深刻な人権侵害にほかならない。

 冒頭に述べたように、敗戦から74年を迎えるこの国では、「慰安婦」の存在を否定するデマが勢いづいている。女性の人権を擁護し、被害と惨禍を繰り返すまいと決意することが「反日」などと呼ばれ、バッシングや脅迫の対象となってしまう社会。そうした歪んだ状況を正さない以上、同じことが繰り返されないという保証はない。そのことを決して忘れないでほしい。

(編集部)

■引用元と主な参考文献
【1】アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編/西野瑠美子、金富子責任編集『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集1』明石書店
【2】アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『フィールドワーク 日本軍「慰安婦」』平和文化
【3】アジア・フォーラム編『元『慰安婦』の証言──五〇年の沈黙をやぶって』皓星社
【他参考】日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会編/吉見義明、西野瑠美子、林博史、金富子責任編集『Q&A「慰安婦」・強制・性奴隷』御茶の水書房


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秦郁彦 VS 吉見義明
https://www.nicovideo.jp/watch/sm24444064

2013-07-03
慰安婦問題の討論・秦郁彦vs吉見義明、秦郁彦は歴史家の名を利用するのやめたらどうだろう
https://dj19.hatenadiary.org/entry/20130703/p1

6/13、TBSラジオ番組で秦郁彦氏と吉見義明氏による「従軍慰安婦」問題についての15、6年ぶりの討論があった。取り上げるのが遅くなったが秦郁彦氏の誤魔化しや詭弁があまりに酷いので批判しておこうと思う。


●2013年06月13日(木)「秦郁彦さん、吉見義明さん、第一人者と考える『慰安婦問題』の論点」(対局モード)- 荻上チキ・Session-22
http://www.tbsradio.jp/ss954/2013/06/20130613-1.html



■ポッドキャスティングで聴く
http://podcast.tbsradio.jp/ss954/files/20130613main.mp3

■Youtubeで聴く
https://www.youtube.com/watch?v=3ANBEo8Ju14


まず視聴した感想を書くと、「慰安婦」として動員された女性たちは貧しいのが通例であり、経済的にも社会的にも弱い立場にあったわけだが、こうした女性たちに対する秦郁彦氏の蔑視と冷淡さは相変わらずひどいものだった。
彼女たちが被った慰安所での性暴力、強制売春といった犯罪被害は少しも顧みられることはないし、史料の都合のいいつまみ食いと、それを全体の問題にすり替えた粗雑な否定論も目立つ。

公娼については「家族のため」にやったこと、慰安婦については「売った親が悪い」と、家父長制や昔の家制度の論理で個人の自発性や自己責任に落とし込み消化されるだけなのだ。

まぁそんな秦郁彦氏でも、吉見義明氏に従軍慰安婦の被害の実態をツッコまれると、言葉の言い換えや詭弁で誤魔化そうとしてだいぶボロが出ていた。

以下は、ラジオ番組から人身売買や性的奴隷に関する発言の一部を文字起こしたもの(時間はYoutubeによる)。


19:05 〜
秦郁彦
内地の公娼制をね、これ、奴隷だということになってくると、そうすると、現在のオランダの飾り窓だとか、ドイツも公認してますしね、それからアメリカでも連邦はだめだけれどネバダ州は公認してるんですよ。これは皆、性奴隷ということになりますね。

吉見義明
それは、人身売買によって女性たちがそこに入れられているわけですか?

秦郁彦
人身売買がなければ奴隷じゃないわけですか?志願した人もいるわけでしょ。高い給料にひかれてね。

吉見義明
セックスワークをどういうふうに認めるかということについてはいろいろ議論があって難しいわけですけれど、少なくとも人身売買を基にしてですね、そういうシステムが成り立っている場合は、それは性奴隷制というほかはないじゃないですか。

秦郁彦
自由志願制の場合はどうなんですか?

吉見義明
それは性奴隷制とは必ずしも言えないんじゃないでしょうか。
秦郁彦
公娼であっても?

吉見義明
それは本人が自由意志でですね、仮に性労働をしているのであればそれは強制とは言えないし、性奴隷制とも言えないでしょうね。

20:15 〜
秦郁彦

日本の身売りというのがありましたね。それで身売りというのは人身売買だから、これはいかんということになってるんですね、日本の法律でね。

吉見義明

いつ、いかんていうことになってるんですか?

秦郁彦

人身売買、自体はマリア・ルス(マリアルーズ)号事件の頃からあるでしょ、だから。

吉見義明

それはあの〜確かにあるけれど、それは建前なわけですよね。

秦郁彦

建前にしろですね、人身売買ってのは、だいたい親が娘を売るわけですけれどね。売ったという形にしないわけですよね。要するに金を借り入れたと、それを返済するまでね、娘が、これを年季奉公とか言ったりするんですけどね、その間、その〜、性サービスをやらされるっていうことなんでね。
それで、娘には必ずしも実情が伝えられてないわけですね。だからね、しかし、いわゆる身売りなんですね。

荻上チキ
(着いてみたら)こんなはずじゃなかった、という手記が残っているわけですね。

秦郁彦

う〜ん騙(だま)しと思う場合もあるでしょう。ね。
(中略)
だからね。これは、う〜ん、なんていうかな、自由意志か、自由意志でないかは非常に難しいんですね。家族のためにということで誰が判定するんですか。

吉見義明

いや、そこに明らかに金を払ってですね、女性の人身を拘束しているわけですから、それは人身売買というほかないじゃないですか。

荻上チキ
ちょっと時期は違いますけれどもね、『吉原花魁日記』とか『春駒日記』とかっていう、昔の大正期などの史料などでは、親に「働いてこい」と言われたけど、実際に働いてみるまでそのことだとは思わなかったケースもあったりすると。

秦郁彦
うん、そうそう。

荻上チキ
それは、親も敢えて黙っていたかもしれないし、周りの人も「いいね、お金が稼げて」と誉のように言んだけども、内実を周りは知らなかったっていうような話は色いろあったみたいですね。
吉見義明
実際にはあれでしょ、売春によって借金を返すというシステムになってるわけでしょ?

秦郁彦
今だってそれはあるわけでしょ。

吉見義明
それは、それこそ人身売買であって、それは問題になるんじゃないですか?

秦郁彦
じゃぁ、ネバダ州に行って、あなた、大きな声でそれは弾劾するだけの勇気がありますか?

吉見義明
もしそれが人身売買であれば、それは弾劾されるべき。

秦郁彦
志願してる場合ですよ、自発的に。自発かね、その〜どこで区別するんですか?

吉見義明
何を言ってるんですか、あなたは?

秦郁彦
え?


これは当時の公娼制度に関連したやり取りだが、秦氏が当時の日本での人身売買を基礎にした公娼制度と、現在の様々な法令によって女性の人権がある程度、保護されたうえで公認されている売春を同列に語っていることにまず驚く。このやり取りを聴いただけでも、秦郁彦氏が「自由売春」と、犯罪である「強制売春」の区別がついていないことは明らかだろう。いや、わかっていてわざとそこに触れないよう回避していると見るべきか。

そもそも秦氏は1999年の著書『慰安婦と戦場の性』のなかで、公娼制度とは「まさに「前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない二〇世紀最大の人道問題」(廓清会の内相あて陳情書)にちがいなかった(同書p.36)」と公娼制度が奴隷制度であることを認めていた。
さらに同書では、「「慰安婦」または「従軍慰安婦」のシステムは、戦前期の日本に定着していた公娼制の戦地版として位置づけるのが適切かと思われる。(前書p.27)」と述べていた。

この論理なら、「公娼制度の戦地版」である慰安婦制度も同様に奴隷制度という認識になるはずである*1。ところが今回の吉見義明氏との討論では、最後まで公娼制度や慰安婦制度が奴隷制度であることを認めることはなかった。

とはいっても秦氏はこの後(後段の文字起こし部分)で、朝鮮半島から慰安婦として動員された女性たちの「大部分」が「誘拐や人身売買」の被害者であることまで認めた。そして、身売り=人身売買の被害者は「借金を返す」までの期間、身体を拘束され性行為を継続的に強要される状況にあったことも認めている。これは暗に奴隷状態であったことを認めているに等しい。

国際的な定義では、こうした他者の支配下に置かれ、自分のことを自由に決定する権利が奪われ所有物として扱われる地位や状態は奴隷状態であり、こうした状況で継続的に性行為を強要される状態を性的奴隷状態と定義しているのだから。(こちらを参照:性奴隷の定義を無視し「慰安婦は性奴隷ではない」と叫んでも反論になってない - Transnational History 性奴隷の定義を無視し「慰安婦は性奴隷ではない」と叫んでも反論になってない - Transnational History)



36:26 〜
荻上チキ
前提としてそういったふうに(連れて行かれた女性が慰安所での性行為を拒否し)イヤだイヤだといった場合は、帰る自由といったものはあったんですか?
秦郁彦
借金を返せばね。借金を返せば何も問題ないわけですよ。

吉見義明
え〜つまり、借金を返すまで何年間かそこ(慰安所)に拘束されるわけです。
それが性奴隷制度だっていうこと。

秦郁彦
そうすると親がね、返さなきゃいけんのですよ。親が売ったのが悪いでしょ。
吉見義明
秦さんがわかってないのそこですよ。
秦郁彦
どうして?
吉見義明
借金を返せば解放されるというのであれば、それは人身売買を認めてることになるじゃないですか。


53:35

吉見義明
先ほど言いましたように略取とか誘拐とか人身売買で連れて行くのがほとんどだったわけですよね。
そうして朝鮮半島で誘拐や人身売買があったということは、え〜、秦さんも認めておられるわけですね。

秦郁彦
当然ですよ。それが大部分ですよ。

吉見義明
それでたとえ業者がそういうことをやったとしても、その業者は軍に選定された業者である。で実際に被害が生じるのは慰安所ですけど、その慰安所というのは軍の施設である。軍がつくった軍の施設であるわけですね。そこで女性たちが誘拐とか人身売買で拘束をされているわけですね。
当然、軍に責任があるということになると思う。


このやり取りでは吉見氏が、人身売買により身体を拘束された女性たちが借金を返すまでは解放されず性行為を強制されるシステムは性的奴隷制度であると指摘するが、秦氏は「親が売ったのが悪い」と親の責任にして話を逸らしている。
しかしこの後で秦氏は朝鮮半島では「誘拐や人身売買」のケースが「大部分」だったことを認めており、そうであるなら貧困により生活が困窮し娘を売った親も、その多くは偽りの説明を告げられ騙されていたと推測するのは難しいことではないだろう。

ビルマでの尋問調書『日本人捕虜尋問報告 第49号』には次のように記述されている。


1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南 アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵 を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明 を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。

日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日
http://a777.ath.cx/ComfortWomen/proof_jp.html


長くなるので文字起こしの引用は省略するがYouTubeの40分(http://youtu.be/3ANBEo8Ju14?t=40m)ごろから、秦氏は呆れたことに上のビルマでの捕虜尋問調書を持ち出し、慰安婦がどれだけ楽だったかを力説している! しかし吉見氏にその解釈の間違いをことごとく反論され、みごと撃沈しているが(その討論の文字起こしはこちら)。


最後に秦氏の詭弁を批判しておこう。

今回の討論では秦氏は慰安婦の問題に直接絡めて言及したわけではないが、このエントリの冒頭部分の文字起こしにあるように「秦:人身売買がなければ奴隷じゃないわけですか?志願した人もいるわけでしょ。高い給料にひかれてね。」だとか、吉見氏の発言「人身売買であれば、それは弾劾されるべき。」に対し「秦:志願してる場合ですよ、自発的に。自発かね、その〜どこで区別するんですか?」などと、「志願」や「自発的」な側面があれば人身売買や奴隷に当たらないとの認識を披露している。そしてつい最近も産経新聞への寄稿で慰安婦募集の広告に「応募者は少なくなかったろう」などと述べているぐらいだから*2、「自発」や「志願」なら人身売買や奴隷とは呼べず軍の責任も免責されると考えているのだろう。
しかしこの「自発的」なのか「志願」なのか、といった問題設定自体が、初めから問題を否認するための偽りの問題設定、あるいはすり替えと言わざるを得ない。


日本政府も署名している国連の「人身取引(人身売買)補足議定書」の定義は次のようになっている。


人身取引(人身売買)の定義
Protocol to prevent, suppress and punish trafficking in persons, especially women and children, supplementing the United Nations Convention against Transnational Organized Crime
和訳:国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、特に女性及び児童の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書
英語原文:http://www.unodc.org/documents/treaties/UNTOC/Publications/TOC%20Convention/TOCebook-e.pdf
外務省 和文テキスト:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/treaty162_1.html
(日本政府はtraffickingを人身売買ではなく人身取引と和訳している。)


Article 3. Use of terms
第3条
(a) “Trafficking in persons” shall mean the recruitment, transportation,transfer, harbouring or receipt of persons, by means of the threat or use of forceor other forms of coercion, of abduction, of fraud, of deception, of the abuse of power or of a position of vulnerability or of the giving or receiving of payments or benefits to achieve the consent of a person having control over another person, for the purpose of exploitation. Exploitation shall include, at a minimum, the exploitation of the prostitution of others or other forms of sexual exploitation, forced labour or services, slavery or practices similar to slavery, servitude or the removal of organs;
(a) 「人身取引」とは、搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得(募集)し、輸送し、引き渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務(サービス)の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。
(b) The consent of a victim of trafficking in persons to the intended exploitation set forth in subparagraph (a) of this article shall be irrelevant where any of the means set forth in subparagraph (a) have been used;
(b) (a)に規定する手段が用いられた場合には、人身取引の被害者が(a)に規定する搾取について同意しているか否かを問わない。
(c) The recruitment, transportation, transfer, harbouring or receipt of a child for the purpose of exploitation shall be considered “trafficking in persons” even if this does not involve any of the means set forth in subparagraph (a) of this article;
(c) 搾取の目的で児童を獲得し、輸送し、引き渡し、蔵匿し、又は収受することは、(a)に規定するいずれの手段が用いられない場合であっても、人身取引とみなされる。
(d) “Child” shall mean any person under eighteen years of age.
(d) 「児童」とは、18 歳未満のすべての者をいう。

(強調は引用者による)


一読してわかるように、搾取の目的で、暴力、誘拐や詐欺、同意を得る目的で行われる金銭の授受、弱い立場に乗ずるなどの手段が用いられている場合、自発的どころか、たとえ本人が同意している場合であっても人身売買に該当 (b項)することに変わりはないのである。

また、「自発的」や「志願」といった事実が一部にあったとしても、それによって女性たちが「慰安婦」になることを「同意」していたと見なすことはできない。なぜなら朝鮮半島からの動員では職種を偽ったり明かさずに甘言で騙して国外へ連れて行く誘拐や就業詐欺(人身売買を含む)といったケースが数多く報告されており*3、秦氏も朝鮮半島では「誘拐や人身売買」のケースが「大部分」だったことを認めているのだから。

まぁ日本軍の場合、上記の人身売買の定義にある、獲得(募集)、輸送、収受といった3つの過程すべてにおいて組織的に関与・介入しており、国家責任が問われないよう見せかけるには秦さんもこうした詭弁を弄するしか選択肢がないのだろう、とは思うが。


*1:秦郁彦氏は慰安婦制度を公娼制度へと一般化させようと差異を無視している。一例をあげるなら、公娼制度では建前上とはいえ法規定(娼妓取締規則)により「廃業の自由」が保障されていた(もちろん実態は違っていたのだが)、しかし慰安婦制度にはそうした廃業の自由を保障する法規定すら存在しなかった。

*2:こちらを参照:秦郁彦氏は従軍慰安婦の話題になるとバカになる - 誰かの妄想・はてな版 秦郁彦氏は従軍慰安婦の話題になるとバカになる - 誰かの妄想・はてな版

*3:誘拐、詐欺、人身売買の数多くの事例はこちらを参照:日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態 - Transnational History 日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態 - Transnational History。他にも、元朝鮮人慰安婦19人による証言集でも、甘言に騙され連れて行かれたケース(人身売買を含む)が最も多くを占める。参照『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』明石書店 ,1993年


https://dj19.hatenadiary.org/entry/20130703/p1


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/736.html#c4

[近代史3] 山本薩夫 戦争と人間(1973年 日活)

山本薩夫 戦争と人間(1973年 日活)

第一部 運命の序曲
第二部 愛と悲しみの山河
第三部 完結篇


監督 山本薩夫

脚本
山田信夫(第一部)
山田信夫、武田敦(第二・三部)

原作 五味川純平
音楽 佐藤勝
製作会社 日活

公開
日本の旗 1970年8月14日(第一部)
日本の旗 1971年6月12日(第二部)
日本の旗 1973年8月11日(第三部)

上映時間
197分(第一部)
179分(第二部)
187分(第三部)


動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E4%BA%BA%E9%96%93+

『戦争と人間』は、1970年(昭和45年)から1973年(昭和48年)にかけて公開された3部作の日本映画である。日活製作。監督は山本薩夫。

五味川純平の同名大河小説『戦争と人間』の映画化作品で、日本映画としては同じく五味川の小説を映画化した『人間の條件』の9時間31分に次ぐ9時間23分の長さを誇る、日活製作による戦争大河超大作である。


物語は、1928年(昭和3年)の張作霖爆殺事件前夜から1939年(昭和14年)のノモンハン事件までを背景に、様々の層の人間の生き様から死に様までを描いている。そして、その後の太平洋戦争に至る経緯について丁寧に表現されている。

第三部ではソ連国内でモスフィルムの協力の下撮影が行われた。ノモンハン事件の大規模な戦闘シーンはソ連軍の協力で撮影されており[2]、ソ連ロケ・ソ連軍全面協力の戦闘シーンという日本映画としては異例の大規模映画となっている。(稼働状態の戦車を準備する必要上、史実・考証とは異なるがT-34-85の実車が撮影に使用されている)

当初は東京裁判による伍代家の破滅まで描いた四部作を予定していたが、豪華キャスト・本格的な戦闘シーン・海外ロケと日本の映画史上でも屈指の大作であったため、当時の日活の経営悪化もあり結果的に予算が続かず、第三部で完結を強いられた[3]。第一部だけでも3億5000万円の製作費がかかったが、大ヒット作となった[4]。


キャスト

伍代由介:滝沢修
伍代喬介:芦田伸介
伍代英介:高橋悦史
伍代由紀子:浅丘ルリ子
伍代俊介:中村勘九郎(第一部)→北大路欣也(第二部・第三部)
伍代順子:佐藤萬理(第一部)→吉永小百合(第二部・第三部)
柘植進太郎:高橋英樹
灰山浩一:江原真二郎
お滝:水戸光子
武居弘通:波多野憲
鴫田駒次郎:三國連太郎(第一部・第二部)
高畠正典:高橋幸治(第一部・第二部)
標耕平:吉田次昭(第一部)→山本圭(第二部・第三部)
服部達夫:加藤剛(第一部・第二部)
大塩雷太:福崎和宏(第一部)→辻萬長(第二部)
梅谷邦:廣田治美(第一部)→和泉雅子(第二部)
梅谷庄吉:山田禅二(第一部・第二部)
鴻珊子:岸田今日子(第一部・第二部)
白永祥:山本学(第一部・第二部)
徐在林:地井武男(第一部・第二部)
陣内志郎:南原宏治(第一部・第二部)
趙瑞芳:栗原小巻(第一部・第二部)
趙大福:龍岡晋(第一部・第二部)
趙延年:岩崎信忠(第一部・第二部)
石原莞爾中佐→大佐:山内明(第一部・第二部)
板垣征四郎大佐→少将→中将:藤岡重慶
ナレーター:鈴木瑞穂

第一部

篠崎書記官:石原裕次郎
矢次憔夫:二谷英明
矢次僚子:三条泰子
不破学医師:田村高廣
高畠素子:松原智恵子
大頭目:丹波哲郎
標拓郎:伊藤孝雄
佐川少佐(参謀本部員):青木義朗
市来善兵衛:清水将夫
市来真吾:簗正昭
河本大作大佐(関東軍高級参謀):中谷一郎
村岡長太郎関東軍司令官:小山源喜
劉:大滝秀治
大塩巡査:福山象三
森島守人総領事代理:滝田裕介
田伏ふさ(旅館女将):関京子
梅谷庄吉の妻:新井麗子
真木信三郎:杉江広太郎[5]
花谷大尉(関東軍作戦参謀):佐藤京一
荒木五郎(特務機関員):井上昭文
山川(拓郎の仲間):梅野泰靖
戸越ユキ:吉永倫子
李(抗日遊撃隊):坂口芳貞
建川美次陸軍武官:大塚弘(ノンクレジット)
張作霖:落合義雄
小島巡査:長弘
若い女中(伍代家):秋とも子
陸軍学校教官:渡辺晃三
呉(張作霖幕僚):寄山弘
常(張作霖幕僚):島村謙次
関東軍参謀:垂水悟郎
関東軍将校:北九州男、高橋明、佐藤了一(ノンクレジット)
満州浪人(壮士風の男):河野弘
満州青年連盟の男:浜田晃
大頭目の手下:榎木兵衛、晴海勇三、有村道宏、賀川修嗣、黒田剛、沢美鶴、澄川透、氷室政司(ノンクレジット)、庄司三郎(ノンクレジット)
屋台の客(失業者):福原秀雄
中国の大道芸人:青木富夫
面会室の警官:伊豆見英輔
劉の配下に襲われる男:桂小かん
私服刑事:鴨田喜由、八代康二
警視庁の私服刑事:野村隆、本目雅昭
岡田猛馬:木浦佑三
軍事指導:木島一郎
中華料理店店主:衣笠真寿雄
東京のおでん屋:紀原土耕
中国人の馬車乗り:小泉郁之助
嵯峨誠也:神山勝
奉天の憲兵:白井鋭
若杉:杉本孝次
劉の配下:長浜鉄平
特務機関員:中平哲仟
徐の配下:溝口拳、氷室政司
金井章次:溝呂木但
金沢の女衒:宮原徳平
徐の仲間:大橋芳江、水川国也(ノンクレジット)、園田健夫(ノンクレジット)
中華料理店店員:隅田和世
中国人:若原初子、山之辺潤一(ノンクレジット)
旅館の女中:高山千草(ノンクレジット)
伍代家のパーティーの客:重盛輝江(重盛てる江、ノンクレジット)、横田楊子(ノンクレジット)、谷川玲子(ノンクレジット)、坂巻祥子(ノンクレジット)、伊丹慶治(ノンクレジット)、英原穣二(ノンクレジット)、平塚仁郎(ノンクレジット)
ホテルの着流しの客:山之辺潤一(ノンクレジット)、河合英二郎(ノンクレジット)
酔客:伊達満(ノンクレジット)、河合英二郎(ノンクレジット)
山川を連行する警官・隊列の先頭の男:菅原義夫(ノンクレジット)
通信兵:庄司三郎(ノンクレジット)
徐に殺される軍人:池沢竜(ノンクレジット)
伍代の知人のロシア人ロルフ・ジェッサー(ノンクレジット)
隊列の女:深町真喜子(深町真樹子、ノンクレジット)
万歳事件で殺される男:山岡正義(ノンクレジット)
中国人服の男:土田義雄(ノンクレジット)
ホテルに来る男:久遠利三(ノンクレジット)
その他:川副博敏,瀬山孝司


第二部

狩野市郎:西村晃
狩野温子:佐久間良子
全明福:木村夏江
戸越ユキ:吉永倫子
朴:井川比佐志
イワーノフ:大月ウルフ
相沢三郎中佐:玉川伊佐男
梁思生:前田昌明
島津:斉藤真
李(抗日遊撃隊):坂口芳貞
武藤章中佐(関東軍作戦課長):藤田啓而
満州航空運行部長:相原巨典
張学良国民党政府副司令:久野征四郎
防人会の男:後藤陽吉、久遠利三
伍代本社総務部長:弘松三郎
甘栗売り:石津康彦
車夫:高原駿雄
特務機関員:矢藤昌宏、池沢竜(ノンクレジット)
特高課長:高城淳一
特高刑事:草薙幸二郎、内田稔、玉村駿太郎、高橋明、田畑善彦、玉村駿太郎、熱海弘到(ノンクレジット)、中平哲仟(ノンクレジット)
看守:牧野義介
佐官将校:深江章喜
女衒:浅若芳太郎
松尾伝蔵:高野誠二郎
ハルピンの憲兵隊長:晴海勇三
白逾桓:二木草之助
楊虎城:本目雅昭
捕虜:大浜詩郎、光でんすけ
ホテルのボーイ:織田俊彦
満州開拓団員:河上喜史朗、玉井謙介
永田鉄山:鴨田喜由
工場の男:桂小かん、浜口竜哉
抗日遊撃隊の男:榎木兵衛、庄司三郎、氷室政司、溝口拳(ノンクレジット)、小見山玉樹(ノンクレジット)、橘田良江(ノンクレジット)、賀川修嗣(ノンクレジット)
憲兵:野村隆
馬車の御者:小泉郁之助
李の仲間:榎木兵衛、庄司三郎、氷室政司
日本軍守備隊上官:木島一郎
鈴木の妻:鈴村益代
胡恩:雪丘恵介
標耕平の会社の社員:宮原徳平
佐官将校の部下:柴田新三
ハルピンの憲兵:白井鋭
将校:英原穣二
憲兵の上官:千賀拓夫
芸者:五月由美(ノンクレジット)、西原泰江(ノンクレジット)
医科大学生:五月由美(片桐夕子、ノンクレジット)
奉天駅の乗客:池沢竜(ノンクレジット)、谷川玲子(ノンクレジット)
奉天駅の中国人客:上原一二三(ノンクレジット)、山之辺潤一(ノンクレジット)
中国人労働者:山岡正義(ノンクレジット)、菅原義夫(ノンクレジット)
留置所の男:北上忠行
ユキのバーの客:山岡正義(ノンクレジット)
特務機関の手先:マイク・ダニーン(ノンクレジット)
料亭の女将:谷川玲子(ノンクレジット)
ホテルの中国人客:深町真喜子(深町真樹子、ノンクレジット)
白い毛皮コートの女:大谷木洋子(ノンクレジット)
ホテルのクローク係:里実(大門実、ノンクレジット)
趙家の使用人:佐川明子(ノンクレジット)
刑事:瀬山孝司(ノンクレジット)、久松洪介(ノンクレジット)、伊豆見英輔(ノンクレジット)、露木譲(ノンクレジット)、佐藤了一(ノンクレジット)
その他:成合晃、中津川衛、中野千春、藤田陽一、沢美鶴、衣笠真寿雄

第三部

雨宮公一郎:加藤嘉
苫:夏純子
苫の父:藤原釜足
苫の母:田中筆子
田島編集長:鈴木瑞穂
佐藤賢了中佐(軍務課員):吉原正皓
辻政信中佐(関東軍参謀):山本麟一
岩畔豪雄大佐:長弘
稲田正純中佐:高橋明
東條英機中将(陸軍次官):井上正彦
植田謙吉大将:荻原実次郎
磯谷廉介中将:和沢昌治
矢野音二郎少将:岡林三郎(ノンクレジット)
寺田大佐:神部作蔵(ノンクレジット)
服部卓四郎中佐:百良雄(ノンクレジット)
片倉衷中佐:手塚実(ノンクレジット)
島貫武治少佐:石井弘三(ノンクレジット)
小松原師団長:八代康二
荻洲軍司令官:久遠利三
従軍看護婦:二條朱美
女給:絵沢萌子
女子学生:片桐夕子
伍代満州支社長秘書:山科ゆり
女工:高山千草
将校:加地健太郎
関東軍参謀:渡部猛
関東軍将校:伊藤初雄
中国軍兵士:市村博
東京の憲兵:田村貫、上田耕一
憲兵:柄沢英二
サイドカーの少佐:原田清人
古参上等兵:井上博一、清水幹生
古谷初年兵:粟津號
辻参謀関東軍の従卒:畠山麦
星野二郎:小林尚臣
伍代満州支社員:三上剛
特高刑事:下川辰平
工場の労務係:田村錦人
工員:近江大介、小杉勇次
第23師団の一人:小沢弘治、金親保雄、古川信興
サイドカーの運転手:笠井一彦
おでん屋の親父:桂小かん
第23聯隊上官:野村隆
第23聯隊兵士:北上忠行、谷文太(谷口芳昭)、氷室政司
満州支社調査室員:木俣定雄、小林亘、島村謙次
小島正一:佐藤正文
陸軍大佐:西島悌四郎
結構披露宴出席者:久松洪介
郵便配達員:水木京一
焼き討ちに合う中国人:吉田勇男(吉田朗人)
梅代:市川亜矢子
おでん屋の仲居:大谷木洋子
眼鏡の男の連れ・中国人女性:加納愛子(加納千嘉)
雨宮夫人:堺美紀子
中国人少女:茂木みゆき
美容師:坂巻祥子(ノンクレジット)、佐川明子(ノンクレジット)
民間企業代表・古谷の父:市原久(ノンクレジット)
雨宮の秘書:露木譲(ノンクレジット)
耕平の上官:中平哲仟(ノンクレジット)
おでん屋の芸者:橘田良江(ノンクレジット)
おでん屋の客:伊豆見英輔(ノンクレジット)、菅原義夫(ノンクレジット)、河合英二郎(ノンクレジット)
その他:荒川常彦、飯島正明、大庭泉、川崎博敏、木島一郎、倉田地三、小見山玉樹、佐々木雄二、佐藤了一、里見たかし、沢川正、白井鋭、千歩憲生、高山彰、田畑善彦、細井雅男、三浦威、三宅康夫、村岡章、吉田真、力石民穂
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E4%BA%BA%E9%96%93_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/737.html

[近代史3] 小林正樹 人間の條件 (1961年 松竹) 中川隆
1. 中川隆[-15250] koaQ7Jey 2019年11月30日 13:13:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2323]

日本人を捨てて逃げた皇軍

満州からの帰国者は被害者なのに加害者扱いされた

引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg

日本人を捨てて逃げた皇軍

最近第二次大戦終了後の満州などで行われた「接待」が問題視されています。
この問題が特異なのは事件が1945年8月15日つまり終戦後に発生し、被害者の日本人は「加害者」に仕立て上げられた点です。
順に説明すると1945年8月、敗戦を確信した関東軍(日本陸軍の満州駐留軍)は大本営の指示を受け密かに全軍を南朝鮮に移動させた。


8月9日にソ連軍は満州に侵攻したが、本格戦闘には至らず「日本軍が下がった分だけソ連軍が前進」する戦略を取った。
極東のソ連軍は弱く、満州の日本軍が本気を出せばまだまだ強敵なので、日本軍が下がるのを待ったのでした。
8月9日に関東軍は満州脱出を開始したが、「我々はソ連軍と最後の決戦に向かう」と日本人をだまして夜逃げしました。

満州国の首都新京では数十万人の日本人居留民が日の丸の旗を振って送り出したが、実は朝鮮半島まで我先に脱走したのでした。
騙された日本人居留民100万人は押し寄せる中国人やソ連兵におそわれ、30万人から50万人が現地でなくなりました。
この時残された日本人居留民は中国人やソ連兵に命乞いするために、自分の娘を差し出して「接待」をさせました。

ソ連兵に日本人の女を差し出した
ソ連兵の規律は悪く、居留民の全てを奪ったので、カメラを没収され終戦後の満州の写真も残されていません。
それでも大勢が集まっていた新京では居留民が協力して大きな被害はなかったが、農村や朝鮮半島北部は深刻でした。
関東軍は黙って逃げ去ったので日本人はどうしたら良いか分からず、38度線まで逃げれば良いのに途中でとどまった人が多かった。

38度線の南側はまだ日本軍が駐留し規律が守られていたが、北側は無政府状態になった。
やはりソ連兵に命乞いをするため、避難民の中の年頃の娘を差し出しました。
また朝鮮人もソ連兵の気に入られようと、日本人をおそって金品を奪って差し出したり、娘をさらってソ連兵に差し出したりした。

そうしてソ連のお気に入りになった人間が後に北朝鮮で要職を占めることになった。
命からがら日本まで逃げ帰った人々は、戦後GHQの方針で「侵略者」と定義され加害者扱いされることになった。

このように接待をやらされた人や日本人居留民たちは、被害者であるにもかかわらず加害者のレッテルを貼られることになった
http://www.thutmosev.com/archives/78224941.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/735.html#c1

[近代史3] 小林正樹 人間の條件 (1961年 松竹) 中川隆
2. 中川隆[-15249] koaQ7Jey 2019年11月30日 13:14:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2322]

日本に見殺しにされた開拓団の悲劇 2017年1月 志村英盛
http://www7b.biglobe.ne.jp/~eigonou/0809KaitakudanNoHigekii.html


2005年8月3日、NHK総合テレビから放送された
『ソ連参戦の衝撃−満州開拓民はなぜ取り残されたか』は、
「当時、中国東北部(満州)に住んでいた満州開拓移民は、
【根こそぎ動員】で夫を日本軍に現地招集され、
多くの家庭が母子老人家庭となっていた。
戦闘最前線に取り残された哀れな日本人母子老人家庭
避難民は、戦闘に巻き込まれて約3万人が死亡した。
その後、病気と飢えで約21万人が死亡した」と放送した。
この番組では放送されなかったが、
合田一道著『検証・満州1945年夏 −満蒙開拓団の終焉』(扶桑社 2000年8月発行)は、
満州各地の開拓団の日本人母子老人家庭避難民が、
ソ連軍と武装した中国人暴徒集団の両者に襲われて、
【殺害】されたり、【集団自殺】に追い込まれた悲惨な状況を詳しく述べている。
財団法人満蒙同胞援護会(会長:平島敏夫 参議院議員・満鉄元副総裁)編
『満蒙終戦史 全928頁』(河出書房新社 昭和37年(1962年)7月発行)の
第812頁〜第813頁は次のように述べている。
受難は終戦時の満州在住の日本人約195万人(関東州内25万人を含む)
すべての運命であった。
もちろん程度の差はある。しかしながら、
ソ連軍の満州進撃の日から、帰国の日まで、
不断の危機と苦難にさらされなかった日本人は、ほとんど皆無であったろう。
なかんずく、開拓農民の受難は数多くのの実例にも見られるように
悲惨深刻を極めた。
この成行きは、しかし、当然ともいうべきであろう。
敗戦とともに、旧満州国の権威は一挙に崩壊した。
ソ連軍の侵入、前満州国軍・蒙古軍の反乱、通信・交通の杜絶、
原住民の蜂起などが相次いで、
いわゆる王道楽土は恐怖と混乱の世界に急転したのであった。
特に、ソ満国境の開拓団のなかには、ラジオさえ持たず、
したがって日ソの開戦も終戦も知らず、
事実を知ったときには、
関東軍と日本人役人がいち早く退避した後で、
ひとり曠野に取り残された形となったものが少なくなかった。
しかも、それまでに、
開拓団の青年・壮年男子はことごとく徴兵され、
開拓団部落の大部分は
無力な老人・婦女子・子供のみであったことが
混乱と悲劇を一層増大したのであった。
ごく少数の男子残留者が開拓団全員を護衛して
集団南下を企図したのであったが、
この退避行の道程こそ、
ほとんどが、見るも無惨な、地獄絵図となったのである。
ソ連軍または中国人暴徒の襲撃に遭って殺害され、自殺して、
全滅した開拓団、及び
1,000名以上の自殺者を出した開拓団は、
100以上を算える。開拓団の死亡者は十数万人!

2016年8月14日午後9時から、NHKスペシャル
『村人はなぜ満州へ送られたか』が放送された。
日本敗戦の翌年に自殺した当時の長野県の或る農村村長の
膨大な日記資料を中心にした事実に基づいた放送内容に
深い感銘を受けた。
@現地・満州の事情、日米戦争での敗北状況を
 まったく無視して、一旦決めたことは変更しないという、
 今も変わらぬ日本政府の高級官僚たちの無知・無能・
 無責任を、改めて、嘆くばかりである。
A当時の関係政府機関の高級官僚たちは、現在の
 日本外務省の高級官僚の北方領土問題についての
 姿勢と同じく、ひたすら国民を騙すことに徹していた。
 それに対して、現在に至るも、なんら反省していない。

参考情報:羽田澄子監督の「嗚呼 満州開拓団」2009年8月
日本の関東軍は、開拓団の老人、婦女子、
小学生、幼乳児を、見棄て、見殺しにした
日本敗戦と同時に、これら【匪賊】(土地を奪われた中国農民)たちは、
日本人への報復のため、一斉に、開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児を襲撃した。
開拓団の成年男子(18歳〜45歳)は、敗戦直前の7月10日に
日本の関東軍の【根こそぎ動員】で徴兵されていた。
(彼らは、その後、極悪非道なスターリンの極秘指令で、シベリアに拉致移送され、
奴隷として重労働を強制された。)当時、開拓団には成年男子はいなかった。
徒歩と貨車の拉致移送途上でおびただしい数の死亡者が出た。
苛酷な奴隷労働でもおびただしい数の死亡者が出た。
敗戦直前、関東軍は、高級職業軍人の家族だけはいち早く避難させた。
【根こそぎ動員】で、夫や息子を徴兵されて、頼りになる成年男子を失った
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児について、関東軍は
何らの保護を行うことなく、見棄て、見殺しにした。
ソ連軍侵攻予告はおろか、戦闘が始まっても
開戦・敗戦の事実すら知らせなかった。
関東軍に見棄てられ、見殺しにされたおびただしい数の開拓団の
老人、婦女子、小学生、幼乳児は、ソ連軍戦車の銃撃と
中国人の、鍬、棍棒などによる襲撃で殺害された。
逃げ場を失った日本人たちは集団自殺した。
日本の関東軍、中国農民の土地を強奪
日本の満州移民政策により、旧大日本帝国陸軍の関東軍は、
中国農民から、200万ヘクタール以上の農地を強奪した。
自作農地を奪われた中国農民は雇用労働者として低賃金で酷使された。
旧大日本帝国陸軍の関東軍が、
開拓用地として強奪した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。
土地を奪われた中国農民が匪賊となって関東軍に執拗に反抗した。
農地を関東軍に強奪され、匪賊化したり、賃金労働者として、鉱山、建設、
農作業等で、日本人企業、日本人の満州開拓団等で、奴隷的な強制労働に
服さざるを得なかった中国人農民たちの、
日本人に対する強い憎しみが、
日本敗戦後、鍬や棍棒により、開拓団の、老人、婦女子、小学生、幼乳児を
ぶっ殺すという、あまりにもの残虐な行動に駆り立てたのである。
旧大日本帝国陸軍に、
騙され、見捨てられて、
虐殺されたり、残酷死した
満蒙開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児
出典:朝日新聞(朝刊)2015年11月24日12面『戦後70年』

逃避行から生き残って奉天(瀋陽)の窓や床板をはがされた
荒れ果てた学校、寺院、病院等の収容施設にたどりついた者も、
【着の身、着のまま】、中には麻袋だけで身を包み、所持金もなく、
飢え(餓死)、栄養失調(衰弱死)、伝染病(病死)、極寒(凍死)、
絶望(自殺)等でほとんどが残酷死した。
生き残った小学生・乳幼児は遺棄孤児(残留孤児)として
二重三重の苦難の人生に耐えねばならなかった。
この旧大日本帝国陸軍と関東軍の、最高指導者たちと高級参謀たちの
【人道に反する開拓団員見棄て見殺しの罪】を見逃すことはできない。
哀れな開拓団女性たちを保護することなく、ほしいままに
強姦、殺戮、暴行、略奪を行ったソ連軍兵士たちの
【人道の反する罪】を見逃すことはできない。
廣田内閣の満州移民推進政策は
筆舌に尽くせぬ悲惨な結末に終わった。

日本の政治は軍部に乗っ取られていた
満州国建国の前々年、1931年に起きた満州事変は、昭和天皇、日本政府、
陸軍大臣、陸軍参謀総長、さらには、関東軍司令官の事前承認なしに、
関東軍の高級参謀、石原莞爾、及び、板垣征四郎が指揮して行われた
不法な軍事行動であった。
この不法な軍事行動を補完するため満州国が建国された。
国際社会は、国際連盟の場において、こぞって日本の不法な軍事行動と
満州国建国を非難した。
1933年2月24日の国際連盟総会で、リットン報告書に基づいて
日本による満州国建国の是非が討議された。
日本を非とする国42か国に対して、日本支持国はゼロであった。
日本(実質的には旧大日本帝国陸軍)はこれを不服として国際連盟を脱退して、
自ら世界の孤児となる道を選んだ。
不法な軍事行動であった満州事変を指揮した石原莞爾、及び、板垣征四郎は、
陸軍刑法のせんけん(擅権)の罪で、当然、死刑に処せられるべきであった。
しかし、日本政府、陸軍大臣、陸軍参謀総長は、石原莞爾と板垣征四郎を
陸軍刑法違反で軍法会議にかけることすらできなかった。
満州事変以後、日本は、なし崩し的に、【立憲君主制・法治国家】から、
【非法治・軍部専制軍事国家】へ移行した。
明治維新によって築かれた【立憲君主制・法治国家】が崩壊した。
つまり、昭和天皇の統治権・統帥権を含む国家権力が
旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちに簒奪された
ということである。
以後、満州事変によって、日本国を乗っ取った旧大日本帝国陸軍は、
戦争への道をためらうことなく突き進み、
筆舌に尽くせぬ惨禍を海外・国内に引き起こして破滅した。
【言論の自由】が無くなり、大手新聞は、連日、
中国侵略戦争における【皇軍の赫々たる戦果(戦禍?)】を
報道する旧大日本帝国陸軍の御用機関に成り果てた。
渡部昇一上智大学名誉教授は、
著書『昭和史 松本清張と私 大正末期〜二・二六事件』(ビジネス社 2005年12月発行)の
第454頁で、
「大正2年(1913年)廃止された軍部大臣現役武官制が
昭和11年(1936年)、廣田内閣によって復活し、
これによって日本の政治は軍部に乗っ取られることになったのです」
と述べている。
渡部名誉教授は第459頁〜第460頁で「廣田内閣が残したものは、
@【軍部大臣現役武官制】の復活(昭和11年=1936年)
A【日独防共協定】調印(昭和11年=1936年)
B軍拡方針を決めた国策の基準設定
いずれも日本の命取りになるようなことばかりでした」「この廣田内閣の
ときに日本の議会制民主主義の可能性はすべてつぶされたのです」
「廣田内閣が日本の立憲政治を葬り、
日本を軍国主義の方向に押しやったという事実は
あまりにも重いといわざるをえません」と述べている。
満州移民推進を決定
1937年、廣田内閣は旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちに脅かされて、
7大国策(政策)の一つとして満州移民推進を決定した。
2.26事件で陸軍将校たちのテロで殺害された岡田内閣の
高橋是清蔵相(元首相)は満州移民に反対していた。

しかし、満州事変後、旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちは、
満州移民を満州における治安政策の基礎にしようと、
廣田内閣の政策決定を受けて満州移民を強力に推進した。
100万戸、500万人移民計画が策定された。
敗戦時の45年7月には、開拓団の団数は800を超え、
移住した開拓団員の数は約27万人といわれる。
日本軍、中国農民の土地を強奪
日本の満州移民政策により、旧大日本帝国陸軍の関東軍は、
中国農民から、200万ヘクタール以上の農地を強奪した。
自作農地を奪われた中国農民は雇用労働者として低賃金で酷使された。
旧大日本帝国陸軍の関東軍が、
開拓用地として強奪した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。
土地を奪われた中国農民が匪賊となって関東軍に執拗に反抗した。
農地を関東軍に強奪され、匪賊化したり、賃金労働者として、鉱山、建設、
農作業等で、日本人企業、日本人の満州開拓団等で、奴隷的な強制労働に
服さざるを得なかった中国人農民たちの、
日本人に対する強い憎しみが、
日本敗戦後、鍬や棍棒により、開拓団の、老人、婦女子、小学生、幼乳児を
ぶっ殺すという、あまりにもの残虐な行動に駆り立てたのである。


軍部暴走の危険性
現在の日本は、戦争の惨禍体験者が減り
「軍隊からの安全(軍部暴走の怖ろしさ)」を
意識しない国になっている!
公開中の映画「日本のいちばん長い日」は、昭和戦争の最終期、軍部支配下の
日本統治機構の中枢部で繰り広げられた「運命の24時間」を描いた作品だ。
原作者は作家の半藤一利さん(85)。敗戦間近の東京大空襲では、自らも
命を失いかけ、敗戦後に、日本国憲法の産声を聞いた。戦後70年の今、
半藤一利さんの目に映っている「この国の現実の姿」。
問いかけ:
半藤さんのノンフィクション作品「日本のいちばん長い日」は衝撃的でした。
たとえば、連合国に降伏するという政府の方針に反対して徹底抗戦を叫んだ
軍人の存在です。一時は武力で皇居を封鎖していたのですね?
答え:
ええ、あれは、一種のクーデターでした。「ポツダム宣言を受諾して戦争を
終結させる」という、昭和天皇と日本政府の決断は間違っている。だから、
自分たちの、軍人の、思うような政府に変えて、この政策をひっくり返さないと
いけない。」そう考えた一部の軍人たちが、暴力で国家をひっくり返そうとしたの
です。軍隊は武装した組織です。どこの国でもクーデターを起こすのは、
その軍隊を支配している軍人ですよね。いま、安倍自民党は、安全保障を
考えるとき、「軍隊による安全」という視点ばかりが正面に出てきます。
軍隊の存在が抑止力になる、といった議論ですね。でも、本来は「軍隊からの
安全(軍隊暴走の怖ろしさ)」という視点も必要なはずです。日本人が、
憲法第9条を受け入れてきた背景には、もう、戦争という名の殺し合いを
したくないという思いだけではなく、軍隊からの安全(無知・無能・
無策・無責任であった昭和の軍部の危険性の除去)を求める思いも
あったのだと思います。
問いかけ:
13年前にインタビューさせていただいたときには、半藤さんご自身が、
1945年3月に体験された東京大空襲のお話が印象的でしたが?
答え:
15歳のとき、米軍機による、無差別焼夷弾攻撃に遭いました。自宅や
近所の火を消そうとしていたために逃げ遅れ、命を落としかけました。
問いかけ:
しかし、半藤さんは最近、戦争体験を語り継ぐ行為に懸念を感じ始めた、とも
お聞きしますが?
答え:
ええ。私が死にそうだったという話をすれば、「悲惨だったんだな」と
思ってくれる人々がいました。でも最近では、勇気ある少年の「物語」として
受け止められているので、この体験談は、かえって危険を招くんじゃないか
という気もしてきました。
問いかけ:
特攻隊の歴史を題材にした「永遠の0」がヒットしましたね?
答え:
特攻を作戦化し命じた立場にありながら、敗戦後も、のうのうと生きのびた
指揮官たちを、私は実際に知っています。でもそういう本質的な構造の問題より、
若い特攻隊隊員の純真さとか勇気の方に焦点を当てて特攻が語られてしまう。
歴史が物語になっていると感じました。
問いかけ:
そういう傾向は、なぜ表れているのでしょう?
答え:
時間がたち、社会の中で、戦争の悲惨さの体験者が減ったことがあるでしょう。
50年を超えてしまうと、悲惨な戦争も、聞きやすい美談に回収されやすくなる。
昭和が悪い時代のように言われ過ぎてきたので、訂正したいという民族としての
誇りが表れてきた影響もあると思います。
問いかけ:
物語に回収されてしまわないような「戦争の歴史の語り方」はないのでしょうか?
答え:
当時の日本政府が、国民に「焼夷弾はそれほど恐れるものではない」という
メッセージを出していたのはなぜか。米国は、なぜ、非人道的な、無差別
焼夷弾空襲という手段を採ったのか。空襲を指揮した、カーチス・ルメイに、
佐藤栄作内閣の日本政府は、戦後、なぜ、勲一等旭日大綬章叙勲をしたのか。
(注:昭和天皇は、この叙勲に、いたく憤激され、親授を断固、拒否された)
事件や関係した人々について、多角的・総合的に考えることで、
学習していくことはできると思っています。
問いかけ:
戦後70年の今年、岸信介の孫の安倍晋三の政権は新しい安保法制の整備に
踏み出しました。使えないとされてきた集団的自衛権を使えるようにしました。
武力行使の制約が変わりますが?
答え:
今回、安倍晋三内閣が、無理矢理成立させた安保法は、日本を危険な国に
作り替えるものだと思います。ただ、正直に言うと、国民が法案に相当に
反対をしても、安倍晋三首相からは関係ないものとして扱われるだろう、
とも予測していました。2015年4月、安倍晋三政権が、米国政府との
間で約束を交わしてしまった時からです。
問いかけ:
安倍晋三首相が、米国の議会で演説したり、日米の外務と防衛の担当閣僚が
「日米防衛協力のためのガイドライン」を改定したりしたときですね?
答え:
自衛隊は、今後は、集団的自衛権も行使しながら、極東以外の地域でも
米軍に協力します。そう約束する内容でした。憲法が骨抜きにされるだけでなく、
極東を対象にする日米安保条約も骨抜きにされたと感じました。
安保関連法案の審議が国会で始まる前に起きたことですよ。
恐るべきは、こうした日本政府のやり口です。
米国から軍事協力を求められたときに、日本政府には、断れる主体性があると
到底、思えません。
問いかけ:
日本が、米国の戦争に、どう向き合ってきたかという歴史の問題と、
いま安倍晋三首相が見せている、徹底的に米国に追従という姿勢の間には、
つながりがあると思っていますが? 先ほどの、軍隊からの安全
(軍部暴走の怖ろしさ)という視点からは、どんな問題点が挙げられるでしょうか?
答え:
懸念しているのは、共産党が明るみに出した防衛省の内部資料の問題です。
自衛隊制服組トップの統合幕僚長が、米軍幹部との間で、今後の日米両軍の
共同作戦のあり方を決めたり、統合幕僚監部が、法案成立後の、自衛隊の
運用のあり方を決めたりしていた。文官ではなく、武官が前面に出てきている
傾向が見えます。しかも、国民が知らされないところで
武官が前面に出てきている。外交防衛政策が、武官によって策定されることが
いかに国を危うくするかは、昭和戦争の悲惨さが教えるところです。
問いかけ:
今の日本は、「軍隊からの安全(軍部暴走の怖ろしさ)」に関する意識が薄いと?
答え:
「薄いのではなく、恐怖感意識はまったく無いのだと思います。
敗戦後70年たって、世代がすっかり変わっているから仕方ない面もありますが。
問いかけ:
半藤さんは保守的とされる「文芸春秋」のご出身ですが、憲法第9条については
護憲の立場であり、脱原発に賛同されています。ご自身を保守派とお考えですか?
答え:
「いいえ。私は現実主義者ですね。保守派の中でも、国家主義的な人とか、
革新派の中の党派的な人に対しては、強い違和感があります。
問いかけ:
安保法制への批判も、イデオロギーからではなく、現実主義の視点からと?
答え:
中東へ自衛隊の精鋭部隊を送ったら、日本列島の守りは薄くなります。
それをガバーするための軍事費の膨張は、経済や財政の現状に照らして
可能なのか。そういう議論をすべきだと思います。
問いかけ:
2011年に起きた「3・11東日本大震災」のあと、原発に批判的な
発言をされています。いつから、原発に対して懐疑的になったのですか?
答え:
原発が建設された当初から反対しています。1950年代に、
核の「平和利用」が言われ始めた時期から、原子力という技術は、
人間の理性で制御できるものではないと思っていました。
問いかけ:
海岸線に40基以上も原発がある。それを攻撃されたらお手上げですが?
答え:
地政学的に見ると、海岸線が長い日本は、もともと敵からの攻撃を
防ぎにくいという根本的な弱点があります。だから、近代に入って、
日本は国土の「外」で国を守る戦略を採り、朝鮮半島や中国大陸に
軍隊を送ったけれども、結果は悲惨な敗戦でした。原発が多数存在する
現在は、もっと守りにくい状況です。武力だけで守ろうとしても、
守りきれない。貿易と外交力を軸にしたほうがいい。理想主義だと
批判されますが、貿易と外交力を軸にした日本防衛策のほうが、
現実的です。貿易と外交力を軸にした日本防衛策を本気で検討すべきだ
と思います。
問いかけ:
中国が台頭してきたことで、「日本はアジアで一番の国」という近代日本の
自己イメージは揺らいでいるように見えますが? 戦時中、半藤さんも
「日本はアジアで一番の国」というイメージがありましたか?
答え:
ありましたね。近所には、台湾や朝鮮半島出身の子供がいました。
彼らを、「日本民族の方が上だ」と見下していました。戦争自体も、
「アジアのための戦争だ」と思っていました。
問いかけ:
この先、日本は、どんな「アジア一番」を目指すべきでしょうか?
答え:
「アジア一番」を目指せることは何もありません。単純に
これは、不可能でしょう。ほとんどすべての分野で、自給自足が
できない国、借金が1千兆円もある国が、「大国」になれるわけがない。
それが日本の現実です。
問いかけ:
憲法第9条を守ろう運動に取り組まれていますね?
答え:
はい。ノンフィクション作家の保阪正康君と二人で、憲法を100年
守ろうと言い合っています。100年もてば、それが、国の意思になるし、
海外の人々の戦争観にも影響を与える。今まで70年ですから、
あと30年、頑張ればいい。
問いかけ:
いつから、憲法第9条を支持するようになったのですか?
答え:
新憲法が誕生したときからですよ。こんなに良いものができたのかと、
非常に喜びました。そしたら、おやじからは「お前はバカじゃないか」と
批判されました。おやじは、「人類が始まって以来、戦争がなかった
ためしがあるか。日本も、日清戦争とか、日露戦争とか、頻繁に戦争を
やってきたじゃないか」と。おやじは、1950年に亡くなっています。
もし、会えるのなら、「あのときおやじが言ったこと、間違ってたじゃないか」
と言ってやりたいですね。
資料出所:朝日新聞(朝刊)2015年9月19日17面

  ソ連軍占領時の大連の日本人の
 悲惨な状態に大きなショック
2015年8月22日の読売新聞(朝刊)で、大きく報道された、
大連における、ソ連軍占領時の日本人の悲惨な状態に大きなショックを受けた。
筆者、満州と朝鮮の国境の町・丹東市(旧称・安東市)生まれで、敗戦の翌年の
1946年10月まで、同地で生活していた。
安東市の日本人たちは、ほとんど皆、敗戦後の悲惨な混乱期、極悪非道なソ連軍と、
規律厳正な中国共産党の八路軍(パーロー)の軍政下におかれた安東市と、
明治時代から日本人が居住してた大連市の2都市だけが、満州諸都市のなかで、
比較的、安泰であったと思っていた。
特に安東市は、ソ連軍が早々と撤退して、早い時期から、中国共産党の八路軍の
軍政下におかれた。中国共産党の八路軍は、日本軍憲兵隊の憲兵と、満州国警察の
日本人警察官と、満州国政府の日本人役人と、日本軍(関東軍)に関係する企業の
役員・幹部は、それこそ、容赦なく探しだして、容赦なくぶっ殺した。人民裁判と称する、
引き回し人殺しショ−のあと、容赦なく、すぐ、ぶっ殺して、穴のなかに抛り込んだ。
しかしながら、規律厳正な中国共産党の八路軍(パーロー)は、
極悪非道なソ連軍とは大きく異なって、
一般の日本人民間人には、一切、危害を加えなかった。

1945年8月22日、ソ連軍が大連を占領した。
日本人を恐怖に陥れたのは、見境のない、凶悪・獰猛なソ連軍兵士たちの、
強姦、略奪、暴行だった。
西岡さんの家にも、凶悪・獰猛なソ連軍兵士がやって来た。
「何かないか」と金目の品を要求された。
父親が、片言のロシア語で、腕時計や指輪などを差し出した。
西岡さんは、母親と、蚊帳の中で息を潜めていた。
「あれは誰だ」と、凶悪・獰猛なソ連軍兵士に問われ、
父親は、脅えながら、「マリチキ(幼い男の子)だ」と言った。
凶悪・獰猛なソ連軍兵士たちの略奪は、その後も、毎日続いた。
安全な場所へ引っ越すため車に詰め込んだ荷物を、車ごと、
凶悪・獰猛なソ連軍兵士たちに奪われた日本人もいた。
西岡さんは、「男装にしなさい」と父親から言われ、泣く泣く、丸坊主になった。
今回、見つかった写真の西岡さんは、頭をスカーフで巻いていた。
「でも、大連にいた私たちより、満州から避難してきた人たちの方が大変でした」と
西岡さんは語る。
家も食べ物もなく、伝染病で亡くなる人が相次いだ。
西岡さんたちの仕事は、日本人避難民の救済だった。
日本人の資産家に資金の拠出を依頼。食糧を配ったという。

日本人の悲劇には、軍人や民間人の区別はなかった。
「大連・空白の六百日」(新評論)の著者・富永孝子さん(83)は、
大連の送還収容所や引揚船の船上で多くの死にふれた。
「誰も例外なく、栄養失調や伝染病にかかっていた。
幼い子どもの遺体が、船から水葬されていた」という。
「ある日突然、父がソ連軍に連行され、そのまま戻らなかった。」
「幼い弟は小枝のように、やせ衰えて衰弱死した。火葬しようにも
燃やす物がなかった。」
公開された写真をきっかけに、初めて口を開いた大連からの
抑留被害者からも、シベリア同様の悲惨な体験が明らかになっている。
写真公表の意義
読売新聞が、2015年4月、北朝鮮や、南樺太や、大連で死亡した
ソ連軍に抑留された日本人の名簿の存在を明らかにすると、
日本政府は、調査方針を転換し、シベリア以外の死亡者名簿の公表に
踏み切った。しかし、永年にわたる日本政府の、事実の徹底隠蔽によって、
実態解明の手がかりは極めて少ない。
今回の写真公表の意義は大きい。抑留や引き揚げに関する資料を
調査・研究しているある専門家は、「今回公表された大連関係の写真は、
抑留・引き揚げの流れが体系的に分かる写真だ。専門家が多角的に
分析すれば、極悪非道なソ連軍の、満州各地と北朝鮮における、
残虐行為の一端を解明できる」と語っている。
4人家族の西岡さん一家で日本への引き揚げが認められたのは、
西岡さんと、母親と、妹の3人だけだった。ソ連軍が、満鉄工場の設備を、
「戦利品」としてソ連本国に送るため、満鉄関連会社の技術者だった父親は、
ソ連軍から、機械類の取り外しなどを命ぜられ、引き揚げが認められず、
大連に残された。
引き揚げてきた広島にある、両親の実家は、原爆投下で家が焼失していた。
父親が日本に帰還できたのは2年後だった。
お上に盲従 最大の後悔
出典:読売新聞(朝刊)2015年8月1日13面
戦前も戦争も、1日にして成らず、それが昭和ヒトケタ派の実感です。
いつの時代も情報は隠されるものです。
だからこそ、自分たちで、隠されたものを
探り当てる執念がないと、生きていけない。
戦争の教訓はそれにつきます。


出典:読売新聞(朝刊)2015年8月1日1面

戦争体験の継承というけれど、本当に痛みを体験した人は
「放っておいてくれ」と思うものです。
僕自身、8月下旬だったか、ソ連兵が家に来て、銃を突きつけ、
家財を略奪していった日のことはほとんど書いていないんですよ。
エッセーでちょっとふれたぐらいで。
翌日には、家を接収され(追い出され)、
ひと月ほど前から体調を崩して寝ていた母親をリヤカーに乗せ、
幼い妹を背負い、弟の手を引いて、雨露しのげるところを探しました。
母親は混乱の中、9月に亡くなりました。
皇道哲学者でもあった父は、愛妻を亡くし、精神的拠り所も、
教育界での立身出世の道も全部失い、 茫然自失の状態でした。
長男だった僕は、ソ連軍の宿舎に行き、片言のロシア語で、
「ラボタ。ダヴァイ(仕事ください)」と叫んだ。
まき割りや靴磨きなど雑用をこなし、パンや肉のかけらなどを
もらって生き延びました。
シラミが媒介する、発疹チフスがはやり、バタバタ人が死んでいった。
冬は零下何十度の極寒。
子供だけでも助けたいと、現地の朝鮮人に、子供を預け、
あるいは、子供を売り渡す人もいました。
日本人収容施設に、ソ連兵が来て、
「女を出せ」ということも多く、
結局、水商売風の人が押し出されるようにして連れていかれました。
一番こたえたのは、女性がポロ雑巾のようになって帰って来た時、
近くにいたある母親が、子供に、「あの人には近づくんじゃないよ。
病気を持っているかもしれない」と叱っていたのを目にしたことです。
本来ならば、土下座して感謝すべきなのでしょうが、
あの時は非常事態でしたから、みんな何を見ても無感動で、
おかしくなっていたんです。
極限状況でも人間性を失わずにいた人の手記を読むと感動するけれど、
そうではない現実もあった。
敗戦後2回目の冬は越せないと覚悟を決め、終戦翌年の秋頃だったか、
平壌を脱出し、川を渡り、38度線を越え、米軍の難民収容キャンプに
たどり着きました。
「お先にどうぞ」と言っている人は帰ってこられなかった。
トラックに最初に乗り込んだ人たちが、後から乗ろうとする人を蹴落とす
ような日常でした。
「飢えた子どもの顔は見たくない」と言いますが、
日本人難民収容所で、ジャガイモをもらい、妹と分けようと思ったら、
大人に横取りされたこともあった。「飢えた大人の顔は見たくない」。
つくづく思いましたね。
「善き者は逝く」。
だから、僕は、帰って来た自分を「悪人」だと思っている。
戦後、「さらばモスクワ愚連隊」をはじめ、エンターテインメント小説を
書くようになったのも、当時の体験が影響しているのでしょう。
自分はまともな人間ではない。
だから、古賀政男の「影を慕いて」の歌詞じゃないけれど、
せめて傷心のなぐさめに徹して、娯楽を大切に、なぐさめを大事に
してきました。
戦後70年の今、一番の反省点は、ラジオや新聞の情報、噂話を
漠然と聞きながら、上からの指示を待っていた自分の怠惰さです。
かつては、真実を知らされなかったことにムッとし、
自分たちは国に棄てられた、
という意識で、「冗談じゃない」と恨んだこともあります。
しかし、今は、真剣に、事実、真実を知ろうとする執念に
欠けていたことを反省しています。
父親は師範学校に勤めていて、官舎は空港のすぐ横にありましたから、
終戦詔書の前に、飛行場を観察すれば、高級将校らの引き揚げの動きを
察知できたはず。
当時はまだ列車が動いていましたから、体一つで脱出すれば、
あんな目に遭うこともなかった。
子供の頃から戦意高揚の歌に熱狂し、「神州不滅」を信じていたように、
戦前・戦中の教育(洗脳教育)で、お上(旧大日本帝国軍部)の言い分に
盲従する習慣にどっぷりつかっていた。
それが、「情報難民」を生みました。

終戦の満州 悪夢の始まり
無辜の民をも引きずり込んで一生を狂わせてしまう。
それが戦争なのです。

12歳で満州(現中国東北部)から引き揚げるまで、日本の地を
踏んだことがありませんでした。父は、朝鮮総督府の海軍武官
だった祖父の勧めで、鉄道技師として朝鮮総督府鉄道に入り、
私も朝鮮で生まれました。
2歳の時、父が南満州鉄道勤務になり、満州に移りました。
小2から終戦まで暮らしたのはハルビンです。軍国少年だった
私は、円谷英二さんの特撮とも知らず、映画「ハワイ・マレー沖
海戦」の飛行機の雄姿、爆発シーンに熱狂、兄2人に続き関東軍に
入って、「日本の北の防塁たらん」との使命感に燃えていたのです。
1945年8月9日夜、轟音で家族全員が跳び起きました。
ソ連の飛行機が旋回し、ハルビン駅近くに火柱が立っていました。
そして、8月15日。昭和天皇の玉音放送で敗戦を知り、五臓六腑が
えぐりとられたように、全身から力が抜けました。
日本の軍隊が武装解除した無政府状態のハルビンの街にソ連軍が
侵攻してきたのです。悪夢の始まりでした。
ソ連兵はやりたい放題でした。略奪、暴行、陵辱の限りを尽くし、
日本人は子ヤギのように脅えてていました。家に押し入られ、
こめかみに冷たい銃口を突きつけられるなんて、想像つきますか?
私は恐怖で、歯ががたがた震え、かみ合わすことができませんでした。
生きるために何でもやりました。靴磨きや、たばこ売り。
ソ連兵から黒パンの切れ端をもらうためです。
そのうち強制使役の命令が下りました。
父と中学生の三兄と私の3人が、毎日交代で、ハルビン駅のそばから
貨物列車まで石炭を運びました。
列車には、関東軍の兵隊さんたちが次々に乗せられ、北へ向かいました。
シベリア抑留のために働いたのかと思うと、辛いです。
出征した兄が乗っているかもしれないと、私はホームを歩き回りました。
その時です。ダダダダッ。見回りのソ連兵に撃たれたのです。
転げるようにして家に戻りました。右腹が熱くて仕方がありません。
血だらけでした。1日我慢したら、はれて悪化するばかり。
元軍医という人に来てもらい「緊急手術」です。
麻酔も手術道具もありません。裁ちばさみの刃を焼いて消毒し、
傷口を切り開きました。「ジョリジョリ、ザクザク」。
人の肉を切るあの音、今も耳から離れません。
出てきたのは、使用が禁止されているはずのダムダム弾。
鉛がつぶれて体内に広がる恐ろしい銃弾でした。
糸も針もないので傷口はそのままでした。
ロシアには優れた芸術家が多い。バレエも映画も音楽も素晴らしい。
でも私は観たくも聴きたくもありません。
ソ連兵が憎い、ロシアという国が憎い。すべてを否定してしまいます。
恐らく死ぬまで変わりません。記憶は焼き付き、心のアルバムに貼られ、
破ることも消すこともできない。
中国などアジアの国々には、日本に対し、私と同じ感情を抱いている人も
いるのではないでしょうか。
1946年11月、日本への引き揚げが決まりました。
最も気がかりだったのは、三兄が強制使役に行ったまま、
半年以上戻って来なかったことです。
やむなく両親と弟と私の4人で出発することになりました。
父の生家がある新潟の住所を紙に書いてホームの鉄骨に貼り、
「必ず来い」と呼びかけ文を付けました。
引き揚げ船が出るのは、南満州のコロ島。
ハルビンから列車に乗り、野を越え山を越えて、
2か月半かかりました。食べ物もなく、赤ん坊を死なせるよりはと、
途中で中国人に託す人もいました。
弟は6歳でしたが、よく頑張って付いてきたと思います。
博多港から列車を乗り継いで、新潟に着いた時はぼろぼろでした。
生活のため、母は魚の行商を始めたのですが、1947年冬のある日の午後、
母の手伝いをしていると、軍隊の外套をまとい、顔に傷のある男の人が通り、
役場の場所を聞かれました。
1時間ほどで戻って来て、何度もこっちを振り返るのです。
それが、ハルビン以来、行方不明だった三兄だっだとわかった時は
もう…抱き合って、涙、涙でした。
兄はソ連軍の兵舎で飯炊きをさせられ、やっと解放されて社宅に戻ったら
誰もいない。一人で南へ南へと歩き、密航船に乗るためお金を稼ぎ、
九州上陸後は日本海沿いに歩いてたどり着いたというのです。
15歳の少年にはあまりに過酷な体験。
自分は家族に見捨てられたという思いが消えず、しばらくして家を出ました。
私が東宝に入って、グラビアに出るようになると、
「よかったな。足しにしろ」と、300円を送ってきました。
本当は心の温かい三兄でした。63歳で亡くなったのが悲し過ぎます。
次兄は復員しましたが、長兄は戦死しました。
出典:読売新聞(朝刊)2015年8月12日
ソ連軍兵士の凄まじい婦女暴行
若槻泰雄著 『戦後引揚げの記録 新版』時事通信社 1995年10月発行
第123頁
満州に侵入したソ連軍は、8月19日には、早くも外部との一切の通信交通を
遮断した。そして世界の目から隔絶された中で、ソ連の軍隊はほとんど例外なく、
被占領国民たる日本人の上に強奪・暴行・婦女暴行をほしいままにしたのである。
程度には若干の差はあったし、侵入直後が最も激しかった地区や、逆に日を追って
悪化したというような都市もあり、数日にして一応平静に帰した所もあれば、
占領の全期間、数ヵ月にわたった例もある。
兵器をもったソ連兵は、群れをなして日本人の各家庭や会社の事務所に押し入った。
そして手当たり次第、金めのもの時計、貴重品、衣類などを強奪する。
そして撫順など極めて少数の例外はあるが、婦人とみれば、老若を問わず
婦女暴行を働いた。
抵抗するもの、あるいは、これを阻止しようとするものは容赦なく射殺する。
窓を閉じ、扉に鍵をしめ、更には入口を釘で打ちつけていても無駄である。
軍隊が本気で民家に侵入しようとするならば、そんな程度のものを
打ちこわすのはいとも簡単であろう。家屋は無残にたたきこわされるだけだ。
しかもこの行動は「夜陰に乗じて」というわけではない。ソ連兵の強奪は
「盗む」とか、「奪う」というような段階ではなく、トラックを横付けにし、
「それはまるで運送屋のように、だれはばかることなく、せっせと運んだ」
と表現している体験記や、「何年もたった後でも、夜中エンジンの音を耳に
するとぞっとすることがあったくらいだ」という記述もある。
筆者の意見:
筆者は満鮮国境・鴨緑江河口の安東市(現・丹東市)生まれで、敗戦の翌年、
1946年10月まで同市に住んでいた。安東市は満州の中で最も治安がよかった。
それでも、ソ連軍占領中は、ソ連軍兵士の略奪・暴行が絶えなかった。
若槻教授の上記記述には何らの誇張、虚偽はない。事実を正確に述べている。
日ソ戦争(ソ連の対日参戦)敗戦後65年、平和な時代の日本国民が、知りたくない、
思い出したくない、正視できないのが、1945年、満州と北朝鮮で現実に起きて
多数の日本人女性が蒙った、良心を完全に失っていた鬼畜・ソ連軍兵士たちによる
強姦(性的暴行)事件である。犠牲となった日本人女性は、無能・無策・無責任な
旧日本帝国陸軍の最高指導者たちと高級参謀たちが引き起こした満州事変と、
それに続く満蒙開拓団送り込み政策の犠牲者でもある。戦争の惨禍を引き起こさない
ために、忘れることは許されないと思う歴史事実である。
北朝鮮におけるソ連兵と北朝鮮兵の
強姦、暴行、殺戮、強奪
編集委員:細川護貞・大井篤・豊田隈雄・阿川弘之・千早正隆・鳥巣建之助 
『高松宮日記 第八巻』中央公論社1997年12月発行 第175頁〜第176頁
「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、通行中の婦女を犯す。
汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。
2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、下の娘は性病に罹る。
元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、(引き受け者の)
人数不足せるを(補うものを)くじ引きにて決めたり、日本婦人の全部は強姦せらる。
(慰安婦を)強要せられ自殺せるものも少なからず。

奉天(現在の瀋陽)における開拓団・婦女子の悲惨な状況
米国の戦史研究家、ウィリアム・ニンモ氏は著書『検証・シベリア抑留』
(加藤隆訳 時事通信社 91年3月発行)の第46頁で次のように述べている。
「1945年8月以降、満州の日本人たちは大多数が苛酷な状況下にあった。
まず厳しい寒さ、それにインフレ、交通の悪さ、病気などで生き残ることを
困難にし、1945年〜46年冬の死亡率を高めた。
日本政府は、その冬だけで11万人の日本人が死亡したと推定していた。
翌年の冬はもっと増えるだろうと予想していた。
元満州の住民はこう語った。
「それは想像を絶するほどのひどさだった。最悪なのは、たくさんの人が
飢えと酷寒のため死んだことだ。おびただしい数の避難民がソ連との国境に
近い満州北部から流れ込んできて、奉天(=瀋陽)の学校や他の施設に
収容された。
冬の間中、毎日大勢の人が死んでいくのを見た。市内にはそれを埋める
場所もなかった。近くの、人が住んでいないあたりに、縦横6メートル、
深さ4メートルの大きな穴が掘られた。死体は低温のためすでに硬く凍って
いた。それを穴の中に投げ入れ、上から薄く土をかぶせた。」」
日本経済新聞(朝刊)2006年11月27日第39面は、旧満鉄職員の話として「終戦時、
情勢が安定していた撫順に、満州全土から数万の避難民が貨物列車でたどり着いた。
服をはぎ取られた女性は米などをいれる麻袋をまとい、幼児は餓死寸前。
感染症が流行し、一日に数十人単位で亡くなった。
学校の校庭に穴を掘って入れた。寒いうちは凍っているが、夏になると
解けるから廃油で焼く」との悲惨な話を報じている。

藤原てい著 『流れる星は生きている』
中央公論社 1984年8月発行(第210頁〜第231頁より抜粋引用)
第210頁〜第231頁より抜粋引用
苦しみ連続の逃避行
大きな山を遠く迂回している山道には大きな石が多かった。
私の裸足の足は昨日から腫れ上っている。
足の裏が破れて血が出ていることは知っていたが、
ずきんずきんする痛みをこらえて一晩寝て起きると、
今日は化膿したのかもしれない、
奥の方がうずくように痛むのだった。
石ころ道をあえぎあえぎ登りつめた峠から見下ろす眼下には、
幾条かの銀色に輝く川の流れが進路を直角にさえぎっていた。
一家四人の前には広い川が行手をさえぎっていた。
先に行く人の渡るのをじっと見ていると、一番深い処が
私の胸ぐらいであった。中心近くは水の流れが激しくて、
渡ってゆく人の姿勢が高くなり急に低くなったりする。
3人の子供を1人も失うことなく、
私はついに河を乗りきった。
途中で飲んだ水が妙に渋くて胃の中にいつまでも溜まっていた。
川で濡れても陽で乾くのは早い。
乾いた頃にはまた次の川が前に横たわっていた。
幾つ川を越えたか覚えていない。
大きい河、小さい川、深い川、浅い川。
初めは人の跡を見て渡ったが、みんなから遅れると、
渡る前にまず流れの早さと深さを測らねばならなかった。
やっとしっかりした棒を探し出すと、これだけが命と頼んで川に挑戦した。
日が西に傾くと、水面からの反射のために、川の真ん中で、
くらくらっとして安定を失いかけたことが何度もあった。
最後の川にはずっと下流に橋がかかっていた。
私はこの水勢では流されると思ったから、
随分下流まで河岸を歩いて行った。
半分腐りかけた橋であった。
いっそのこと、橋が落ちて四人が一緒に死ねるなら
その方が私たちにとって幸福かもしれない。
ぐらぐら揺れる橋を渡ると、荒れはてた畑が野原のように淋しく、
人家らしいものは全然なかった。
ただ橋の付近にむかし人家のあったしるしのいしずえだけがころていた。
日本人の群に合流すると、私は土手の上につんのめってしまった。
呼吸をするのさえ困難である。頭がしびれるように痛くて、
意識がぽうっとした。私が貧血を起して倒れていても、
誰も言葉をかけてくれるものはなかった。
胸が針に刺されたように痛いので、眼を開けると、
私の破れはてたうす緑のブラウスを通して野薔薇が乳の下を傷つけていた。
手術の苦しみ
眼を覚ました。テントからは朝日が洩れていた。
人間らしい姿になろうとして立ち上ると、
釘を踏んだように足の裏が痛かった。
D・D・Tの消毒、予防注射、
これらに立ち会うため歩く痛さは針の上を歩くようであった。
このテント村にはすばらしく完備した医療施設があった。
医療施設で、医師は私の足の裏を見て、「ううん」とうなった。
「これはひどい、よく歩いたものですね」
医師は私を手術台に寝かせて、ピンセットでまず肉の中に入っている
石の摘出を始めた。小石をピンセットにはさんでは、
金属の容器に捨てるごとにカチンカチンと音がした。
だんだん奥の方にピンセットが入っていくとね
焼火箸で刺されるように痛かった。
ベッドにしがみついて我慢していたが、
ついに痛さのために脳貧血を起こしてしまった。
私の足の裏は完全に掘り返され、
血液にどす黒く光っている発掘物が、金属容器の底にかたまっていた。
両方の足首を包帯してから
「ひどい足でしたね」と医師は汗をふいていた。
「当分歩いちゃいけませんよ」
診療所と私のテントとは100メートルも離れていた。
この道を這って毎日通うのであった。
そのみじめな自分の姿を人に見せるのが恥ずかしかった。
診療所ばかりではない。便所にも、水貰いにも、おむつの洗濯にも
這って行かねばならなかった。

隠蔽を謝罪  ウソー!

拉致移送途中においても、環境変化、精神的ショック、疲労、発病で死亡したものが
少なくなかった。
徒歩による拉致移送途中、逃亡しようとしたもの、疲労と発病のため隊列から
落伍した者は「連れて行くのが面倒だ」とする残忍なソ連兵に容赦なく射殺された。

ウラジミール・ポ・ガリツキー氏(ロシア軍事アカデミー・メンバー、法学博士、教授、
海軍大佐)は、毎日新聞社が1999年2月に発行した『毎日ムック シリーズ 
20世紀の記憶 1945年 日独全体主義の崩壊 日本の空が一番青かった頃』の
第129頁で
「日本人捕虜の大多数は満州からソ連領土までを徒歩で移動した。
ソ連国内の指定地点への移動は鉄道の貨車で行われた。
その移動の途中で、32,722人が死亡した」と述べている。
筆者は、拉致移動途中に死亡した日本人捕虜は4万人以上であったと推定している。
しかしながら拉致移動途中の死亡者数については何らの資料も残されていない。
行方不明者数にふれない日本政府のシベリア虐待抑留に関する
現在の発表数字では、シベリア虐待抑留の実態は認識・理解できない。

Re:
シベリア虐待抑留 行方不明者の記録抹殺
-拉致途上、多数の落後者、殺害され
行方不明に!
哀れな日本人捕虜行方不明者数にふれた
マスメディアはまったくない
  帰還者数  + 死亡確認数 +  逆送者数 = 抑留者総数
473,000+55,000+47,000=575,000
この数字では、日本政府は、シベリアへ拉致移送された日本人捕虜の中、
ソ連領内で行方不明になった者は1人もいないと日本国民に発表していることになる。
1981年以降、日本のマスメディアも、このデタラメ極まる日本政府の発表数字を、
シベリア虐待抑留に関する報道において、何の注釈も付けずに、そのまま引用している。
行方不明者数にふれたマスメディアはまったくない。

Re:
日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害

Re:固く閉ざされたパンドラの箱
−シベリア虐待抑留の事実隠蔽(いんぺい)2012年3月


Re:
聞いて呆れるを通り越して
−シベリア抑留犠牲者非国民視で北方領土の軍事基地化進む
Re:日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害

http://www7b.biglobe.ne.jp/~eigonou/0809KaitakudanNoHigekii.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/735.html#c2

[近代史3] 増村保造 兵隊やくざ (1965年 大映)

増村保造 兵隊やくざ (1965年 大映)


監督 : 増村保造
脚本 : 菊島隆三
原作 : 有馬頼義『貴三郎一代』

撮影 : 小林節雄
音楽 : 山本直純
配給 : 大映
公開 : 1965年3月13日


動画
https://www.youtube.com/watch?v=QoAl4P5pmZ4
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%85%B5%E9%9A%8A%E3%82%84%E3%81%8F%E3%81%96

『兵隊やくざ』は、1965年(昭和40年)製作・公開の日本の長篇劇映画である。増村保造監督。本作を皮切りにシリーズ化した。


1962年(昭和37年)に勝新太郎を主演に『座頭市物語』を製作、大ヒットを生んだ大映京都撮影所のプロデューサー久保寺生郎が、1965年(昭和40年)、同じく勝を主役に、古巣の大映東京撮影所で、増村保造を監督に製作したのが本作、『兵隊やくざ』である。

本作で、田村高廣が翌1966年(昭和41年)の第16回ブルーリボン賞で最優秀助演男優賞を受賞した。

本作もまたヒットを生み、『座頭市』同様に、シリーズ化された。シリーズ第9作『新兵隊やくざ 火線』は、大映が前年末に倒産したため、勝プロダクションの製作で、東宝が配給した。

第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、舞台はソビエト連邦との国境に近い満州の「孫呉の丘」。4万の兵力を誇る関東軍が駐屯していた。そこへ入隊してきたのは大宮貴三郎(勝新太郎)という浪花節語りになれずやくざの用心棒をやっていた男。大宮の指導係に任命されたのが、三年兵の有田上等兵(田村高廣)であった。彼は名家の出身でインテリであり、幹部候補試験を意図的に落第したという男であった。

大宮は新兵であるにもかかわらず我が道を行く傲慢さで古参兵たちの反感を買い、腕に自信のある砲兵隊の乙種幹部候補生・黒金伍長(北城寿太郎)は、彼を痛めつけた。しかし、入営年次が上の兵隊である有田が現れ、形勢は逆転、黒金は指の骨をすべて折られてしまう。

大宮は自分を助けてくれた有田を慕う。しばらくして、全師団合同大演習の場で軍曹に昇進していた黒金に再会した有田は暴行を受け、歩兵隊対砲兵隊の大喧嘩へと発展した。大宮はついに外出禁止の罰を食らうが、あろうことか兵舎を脱走し、将校専用の芸者屋に乗り込み、音丸(淡路恵子)と遊ぶのであった。当然事件は発覚するも、有田は自分の責任で大宮に制裁を加えることを誓って、彼を許すのだった。

やがて戦況は悪化、有田は満期除隊の可能性は消え、大宮には南方部隊への異動が命じられた。有田と離れることがつらい大宮は、規則を犯せば営倉に入れられ、この地に留まれると考え、またしても無断外出し、迎えに来た有田に敢えて暴行を加え自ら営倉に入った。

結局、本大隊全体が転進することとなった。大宮はいまこそ有田に恩返しだと、兵隊を乗せた客車を切り離す。有田と大宮を乗せた機関車だけが、満州の地をどこまでも走り抜けていくのだった。


キャスト

大宮貴三郎 - 勝新太郎
有田上等兵 - 田村高廣
みどり - 滝瑛子
音丸 - 淡路恵子
憲兵 - 成田三樹夫
黒金伍長 - 北城寿太郎
石上軍曹 - 早川雄三
阿部軍曹 - 仲村隆
白井上等兵 - 藤山浩二
衛兵司令 - 夏木章
木下一等兵 - 蛍雪太朗
野木二等兵 - 森矢雄二
八束二等兵 - 渡辺鉄弥
炊事兵 - 九段五郎
中沢准尉 - 内田朝雄
桃中軒梅竜 - 山茶花究
衛兵 - 佐藤八郎
おくま - 村田扶実子
「いろは」の用心棒 - 谷謙一
助手 - 佐山真次
中隊長 - 網中一郎

シリーズ

1.『兵隊やくざ』 : 監督増村保造、1965年
2.『続・兵隊やくざ』 : 監督田中徳三、1965年
3.『新・兵隊やくざ 』 : 監督田中徳三、1966年
4.『兵隊やくざ 脱獄』 : 監督森一生、1966年
5.『兵隊やくざ 大脱走』 : 監督田中徳三、1966年
6.『兵隊やくざ 俺にまかせろ』 : 監督田中徳三、1967年
7.『兵隊やくざ 殴り込み』 : 監督田中徳三、1967年
8.『兵隊やくざ 強奪』 : 監督田中徳三、1968年
9.『新兵隊やくざ 火線』 : 監督増村保造、1972年 - 本作のみカラー作品、大映倒産後に制作され、勝プロ製作・東宝配給


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E9%9A%8A%E3%82%84%E3%81%8F%E3%81%96

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/738.html

[近代史3] 増村保造 兵隊やくざ (1965年 大映) 中川隆
1. 中川隆[-15248] koaQ7Jey 2019年11月30日 13:43:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2320]
洗脳して人間性を失わせないと一人前の兵士にはなれない


一般兵士は軍紀などまとまって教えられず、初年兵が軍隊に入って最初に叩き込まれたのは、

「上官の命令は絶対」
「死んでも捕虜になるな」
「天皇陛下からいただいた三八歩兵銃は死んでも離すな」

の三つだったと言われます


水木しげる先生がラバウルに出発するまでがマンガで描かれています。本書の後半では新聞配達員をクビになった水木先生に突然、召集令状がきて鳥取連隊に入隊するわけですが、そこから水木マンガでおなじみの初年兵教育と称する上等兵殿のビンタとの戦いが始まるわけですね。*3

(ミッドウェー海戦)その頃ぼくは毎日なぐられていた、のみこみが悪いというのか、平気というのか、気にしなかったのがいけなかった。毎日ビンタがさくれつした。


軍隊では畳と兵隊は叩けば叩くほどよくなるという信仰があり、ビンタは終わることがなかった。


軍隊で一番軍隊らしいのが分隊です。十人の中に分隊長がおり、その下に古兵(こへい)と称する上等兵がいます。これは普通カミサマといわれ、初年兵をなぐるだけで靴下はもちろんフンドシまで洗濯させる者もいます。

ぼくは分隊に新入りがこなかったため万年初年兵でした。古兵どのの無理難題に日々苦しめられるのです。ぼくは今でも初年兵の頃の夢をみます。これほど情けなく苦しいものは世界にまずないでしょう。(水木二等兵がこぶしを握りしめ歯を食いしばっている描写)


二等兵
初年兵と称され一年中、毎日なぐられる

一等兵
いくらからくになるがウカウカしてられない

上等兵
普通にカミサマといわれもっぱらなぐる係りである

兵長
上等兵の上で早い人は分隊長となる、これもカミサマ


「はァじゃねえよ きさまだよ」

ビビビビビン


「はァとはなんだ!」

ビビビビビ の ビビビビビン


「ばっかやろぅ〜!」

ビビビビビン ビビビビビーーーン☆


ラバウル戦記にはラバウルにいたころ初年兵同士で「敵よりもこの古兵にやられてしまう」と話し合ったことや、「初年兵はすべてノイローゼ気味だった」ことが書かれています。


【追記】

みなんさん「兵隊やくざ」という1965(昭和40)年に制作された映画を知ってました?

舞台は1943(昭和18)年、満州北端の孫呉に駐屯する関東軍部隊にヤクザあがりの初年兵・大宮貴三郎(勝新太郎)が入隊してきて次々にトラブルを起こす、という内容らしいんですが、封建的な軍隊内での私的制裁(ビンタ、鉄拳、足蹴りなど)の様子がけっこうリアルに描かれいるんですよ。これがまた。

http://d.hatena.ne.jp/dj19/20080527/1211981896


陸軍の内務班生活については下記の本が詳しいです。

兵隊たちの陸軍史 (新潮文庫)
伊藤 桂一 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4101486123/

海軍が兵隊をバッターで殴るのであれば、陸軍は革製のスリッパで殴るというのは概ね事実のようです。
顔にあまり跡が残らないが、非常に苦痛を与えたようです。

また、「精神的な屈辱と肉体的な苦痛を同時に与える私的制裁」として様々なものが考案されていたのも上記の本に書かれています。水が一杯に入ったバケツを両手に持って各内務班を回って班長に「ビンタをして頂き」、少しでも水をこぼすとまた殴られる・・・と言った類のものです。

そして、新兵を私的制裁以上に苦しめたのは、同じ内務班の「古兵」 (新兵より少しでも前に入営した兵隊) に対し、奴隷のように無限の奉仕を強いられたことのようです。新兵は、寝る時間を削って古兵の洗濯物を洗い、靴や銃などの手入れをし、内務班(兵隊が生活をする場所)を磨き上げねばなりませんでした。新兵は3時間寝れれば上等だったと伝えられています。

そのような苦しい生活に耐えかねて自殺する新兵が絶えず、各連隊には必ず「新兵の幽霊が出る場所」が存在したそうです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1129979156


陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書に「俘虜殺害の教育指示」というのがあった。部下全員を集めて次の如く談話し、教育したというものである。

 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」

 「此には銃殺より刺殺が効果的である」

鬼になる洗礼−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。

「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。

上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。

男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。

内地からきたばかりの大隊長は、人を斬ったことなどなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。

 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。

 首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。

そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。
 上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。
・・・


・・・
「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。

 目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目も、そうだった。

 恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。・・・
http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/03/post_3d8f.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/738.html#c1

[不安と不健康16] “早死にする人”ランキング 短命にある共通点とは…(ZAK×SPA!)  赤かぶ
148. 中川隆[-15247] koaQ7Jey 2019年11月30日 13:53:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2319]

「ブルーライトって目にどのくらい悪い?」に、専門医が「とにかく野菜を食べて」と答える理由 2019/11/30

 放置すれば失明する――。

「黄斑変性」という病気をご存じだろうか。最初は「モノが歪んで見える」「視野の一部が見えなくなる」という症状から始まって、次第に悪化し、最後には視力がなくなってしまう。

 そんな恐ろしい病気の予防に、ある“野菜”に含まれる成分が効果を発揮することが、世界的な研究で認められている。

 いまこの記事を、パソコンで読んでいる人もスマホで読んでいる人も、決して他人事ではない黄斑変性。しかし、これを読み終える頃にはあら不思議。なぜか野菜が食べたくなって、スーパーの野菜売り場に走るか、近所のコンビニで野菜ジュースを買って、家に帰るのももどかしく、お店の前で立ち飲みしてしまうことでしょう。


©iStock.com© 文春オンライン ©iStock.com
「黄斑変性」は失明原因の第4位にランクイン

 まずは今回のテーマである「黄斑変性」という病気について説明する。

 眼球の一番奥にあって、角膜と水晶体を通して入ってきた光を受けるのが、カメラでいうフィルムの役割を担っている「網膜」。この網膜の中心にあって、視力を作り出す部位が「黄斑」だ。

 この黄斑の細胞が加齢などにより劣化(変性)すると、正しい画像が得られなくなる。歪んで見えたり、一部が欠損するなどの視力障害が起きる。これが黄斑変性だ。

 黄斑変性の原因が「加齢」の時は「加齢黄斑変性」という。なかでも日本人に多い「滲出型加齢黄斑変性」では、黄斑の付近に新しい血管がモヤモヤッと生えてきて浮腫、つまり「むくみ」を起こす。これによってモノが見えづらくなり、悪化すると失明に至ることになる。原因は加齢ばかりではなく、最近は若い人でも光を浴びることで目の酸化が進み、加齢に似た黄斑変性を起こすことがある。

 黄斑変性の原因が「加齢」の時は「加齢黄斑変性」となるが、原因は加齢ばかりではない。若い人でも紫外線などの光を浴びることで目の酸化が進むと、黄斑の付近に新しい血管がモヤモヤッと生えてきて浮腫、つまり「むくみ」を起こすのだ。これによってモノが見えづらくなり、悪化すると失明に至ることになる。現在日本での失明原因の第4位が黄斑変性。ちなみに首位は緑内障、2位は網膜色素変性、3位は糖尿病網膜症だ。

一度傷んだ黄斑は元に戻すことができない

 あらゆる光は黄斑の酸化を助長するのだが、とりわけ危険なのが、先に触れたスマホやパソコンが発する「ブルーライト」なのだ。

 劣化した黄斑変性をiPS細胞を使って再生させる研究が進んでいるが、そうでもしない限り一度傷んだ黄斑は元に戻すことができない。新生血管に特殊な薬物を投与し、そこに向けてレーザーを当てる「光線力学治療」や、新しい血管を作り出す「VEGF」という物質の活動を抑え込む薬を注射する「抗VEGF治療」もあるが、これらの治療は傷んだ黄斑を再生することはできない。スマホが手放せないのであれば、積極的に予防策に打って出るべきだろう。

黄斑へのダメージを軽減する「ルテイン」とは?

「医療」と「健康食品」は仲が悪い。医療者が健康食品を毛嫌いする理由は、健康食品そのものを嫌うというよりは、あたかも病気が治るかのような表現で売ろうとする一部の悪質な業者への嫌悪感がそうさせるようだ。

 そんな中、医師が、というより医療界が積極的に摂取を勧めるサプリメントがある。「黄斑変性」という、放置すれば失明に至る目の病気の予防に役立つというサプリメント。その主成分は「ルテイン」という天然色素成分だ。そのメカニズムを、総合病院聖隷浜松病院眼科部長の尾花明医師に訊ねた。

「黄斑はその名の通り黄色いのですが、この黄色の正体が“黄斑色素”という色素成分。目に入ってきたブルーライトなどの光に対して、この黄斑色素が作用することで黄斑の酸化が進まないようにできているのです」

 つまり、モノを見るためには光は大事だが、そのために黄斑は一定の犠牲を強いられ、そのダメージを少しでも小さくするために存在するのが黄斑色素――ということのようだ。

 黄斑色素は、生まれたばかりの赤ちゃんの目にはわずかしか存在しない。母乳や食事などで少しずつ蓄えられていく。こうして、体内に黄斑色素を作っていく上で、最も重要な成分となるのがルテインなのだ。

「ルテイン」はカロテノイドの一種で、さらに1000を超える種類があり、ニンジンなどに含まれるβカロテンや、トマトに含まれるリコペンなどが有名だ。

 そんな中でルテインは、体の中でも特に「目」に多く存在する色素。自然界では緑黄色野菜や卵黄などに含まれているが、とりわけ豊富に含んでいるのがホウレンソウとケールなのだ。黄斑色素にはルテインの他に「ゼアキサンチン」という色素もあって、これがルテインと一緒に働いて神経細胞を守っている。ゼアキサンチンはコーンやパプリカに多く含まれている。

「ホウレンソウなら1日当たり2束を食べると、必要量のルテインが摂取できます。ケールだと“青汁”が有名ですが、私が知るところでは、青汁は商品によってルテインの含有量にばらつきがある。青汁を飲んでいるから安心、とは言い切れないかもしれません」(尾花医師、以下同)

すでに黄斑変性になっている人はより効率的に

 まだ黄斑変性のない人が、予防のためにホウレンソウを積極的に摂るのはいいことだ。しかし、すでに病気の兆候がある人は、より効率的にルテインを摂取する必要がある。そこでサプリメントの利用が提唱されるようになっていったのだ。

「片方の目が加齢黄斑変性でもう片方が黄斑変性の前駆病変(前段階)の人、あるいは両方の目が黄斑変性の前駆病変の人にルテインのサプリメントが有効、というエビデンス(科学的根拠)があります。ただし、すでに黄斑変性になっている人に対する治療効果という点でのエビデンスはない。だから医薬品ではなくサプリメントなのです。一応の販売基準があって、眼科クリニックでは窓口で、病院では院内の売店でのみ販売が許されている。似たような商品がドラッグストアでも売られていますが……」

 繰り返すが、このサプリには治療効果は認められていない。あくまで予防が目的の商品なのだが、「すでに黄斑変性になっている人にも、理論的に考えると何らかの効果があるはず。飲んでおいて損になることはない」と尾花医師はいう。

「それより……」

 と尾花医師は続ける。

「スマホで『文春オンライン』を読んでいる人が、将来の黄斑変性を予防するのであれば、サプリよりも普段の食事で野菜を摂取するほうが望ましい」

日本人の深刻な「野菜不足」をデータ化できる

 日本人は「ルテインがいい」と聞くと、それだけを集中して取ろうとする。ホウレンソウばかりを毎日食べていればいずれ飽きて続かなくなる。それよりは、ホウレンソウに限定することなく、色々な野菜を積極的に食べるほうがよほど効果的。「要はバランスが大事なんです」と尾花医師は言う。

「ルテインはホウレンソウ以外にも小松菜やブロッコリーなど様々な野菜にも含まれています。日頃から野菜を食べる人は、それなりの量のルテインも摂取できているもの。でも、実際問題として、日本人の野菜不足は深刻です」

 そこで尾花医師は、アメリカのベンチャー企業と共同研究を進め、ある測定器を開発した。その名も「ベジメータ」というこの機械。野菜摂取量の過不足をカロテノイドの量から簡単に測ることができるのだ。

 左の中指を機械に挿入して10秒待つと、指先の皮膚カロテノイドの量が測定され、そこから全身のカロテノイドの量が数値化して表示される仕組みだ。

「986人のデータを元に設定された5段階評価の中のどこに入るかが判定される。今後はさらにデータを集めて、より詳細な判定基準を作っていく予定です」

野菜不足は、黄斑変性だけの問題ではない

 このベジメータ、現在は一部の医療機関の他、スーパーの野菜売り場や健康食品店の店頭などに置かれている。尾花医師のいる聖隷浜松病院では、健診や人間ドックにもこれを取り入れ、データを元に野菜不足解消を呼び掛ける活動に力を入れている。

「野菜不足解消は、黄斑変性だけの問題ではありません。ルテインが目と脳に多く存在することは以前から分かっていましたが、最近の研究では、認知症予防など脳の機能との関係性を示す研究結果が出始めています。特に子どものルテイン摂取量を増やすと計算能力が高まる、という興味深い報告も出てきており、世界的に注目を集めています」

 それを聞いた記者は、あわててベジメータを試してみた。しかし結果は予想通り、最低ランクの「E判定」。

受験生時代の模擬試験の結果を思い出して切なくなった。

 この日を境に、狂ったように野菜ばかり食べています。

(長田 昭二)
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%80%8c%e3%83%96%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%88%e3%81%a3%e3%81%a6%e7%9b%ae%e3%81%ab%e3%81%a9%e3%81%ae%e3%81%8f%e3%82%89%e3%81%84%e6%82%aa%e3%81%84%ef%bc%9f%e3%80%8d%e3%81%ab%e3%80%81%e5%b0%82%e9%96%80%e5%8c%bb%e3%81%8c%e3%80%8c%e3%81%a8%e3%81%ab%e3%81%8b%e3%81%8f%e9%87%8e%e8%8f%9c%e3%82%92%e9%a3%9f%e3%81%b9%e3%81%a6%e3%80%8d%e3%81%a8%e7%ad%94%e3%81%88%e3%82%8b%e7%90%86%e7%94%b1/ar-BBXxnsw?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/13/health16/msg/134.html#c148

[近代史3] スマホやノートパソコンを使っていると失明する 中川隆
5. 中川隆[-15246] koaQ7Jey 2019年11月30日 13:54:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2318]

「ブルーライトって目にどのくらい悪い?」に、専門医が「とにかく野菜を食べて」と答える理由 2019/11/30

 放置すれば失明する――。

「黄斑変性」という病気をご存じだろうか。最初は「モノが歪んで見える」「視野の一部が見えなくなる」という症状から始まって、次第に悪化し、最後には視力がなくなってしまう。

 そんな恐ろしい病気の予防に、ある“野菜”に含まれる成分が効果を発揮することが、世界的な研究で認められている。

 いまこの記事を、パソコンで読んでいる人もスマホで読んでいる人も、決して他人事ではない黄斑変性。しかし、これを読み終える頃にはあら不思議。なぜか野菜が食べたくなって、スーパーの野菜売り場に走るか、近所のコンビニで野菜ジュースを買って、家に帰るのももどかしく、お店の前で立ち飲みしてしまうことでしょう。


©iStock.com© 文春オンライン ©iStock.com
「黄斑変性」は失明原因の第4位にランクイン

 まずは今回のテーマである「黄斑変性」という病気について説明する。

 眼球の一番奥にあって、角膜と水晶体を通して入ってきた光を受けるのが、カメラでいうフィルムの役割を担っている「網膜」。この網膜の中心にあって、視力を作り出す部位が「黄斑」だ。

 この黄斑の細胞が加齢などにより劣化(変性)すると、正しい画像が得られなくなる。歪んで見えたり、一部が欠損するなどの視力障害が起きる。これが黄斑変性だ。

 黄斑変性の原因が「加齢」の時は「加齢黄斑変性」という。なかでも日本人に多い「滲出型加齢黄斑変性」では、黄斑の付近に新しい血管がモヤモヤッと生えてきて浮腫、つまり「むくみ」を起こす。これによってモノが見えづらくなり、悪化すると失明に至ることになる。原因は加齢ばかりではなく、最近は若い人でも光を浴びることで目の酸化が進み、加齢に似た黄斑変性を起こすことがある。

 黄斑変性の原因が「加齢」の時は「加齢黄斑変性」となるが、原因は加齢ばかりではない。若い人でも紫外線などの光を浴びることで目の酸化が進むと、黄斑の付近に新しい血管がモヤモヤッと生えてきて浮腫、つまり「むくみ」を起こすのだ。これによってモノが見えづらくなり、悪化すると失明に至ることになる。現在日本での失明原因の第4位が黄斑変性。ちなみに首位は緑内障、2位は網膜色素変性、3位は糖尿病網膜症だ。

一度傷んだ黄斑は元に戻すことができない

 あらゆる光は黄斑の酸化を助長するのだが、とりわけ危険なのが、先に触れたスマホやパソコンが発する「ブルーライト」なのだ。

 劣化した黄斑変性をiPS細胞を使って再生させる研究が進んでいるが、そうでもしない限り一度傷んだ黄斑は元に戻すことができない。新生血管に特殊な薬物を投与し、そこに向けてレーザーを当てる「光線力学治療」や、新しい血管を作り出す「VEGF」という物質の活動を抑え込む薬を注射する「抗VEGF治療」もあるが、これらの治療は傷んだ黄斑を再生することはできない。スマホが手放せないのであれば、積極的に予防策に打って出るべきだろう。

黄斑へのダメージを軽減する「ルテイン」とは?

「医療」と「健康食品」は仲が悪い。医療者が健康食品を毛嫌いする理由は、健康食品そのものを嫌うというよりは、あたかも病気が治るかのような表現で売ろうとする一部の悪質な業者への嫌悪感がそうさせるようだ。

 そんな中、医師が、というより医療界が積極的に摂取を勧めるサプリメントがある。「黄斑変性」という、放置すれば失明に至る目の病気の予防に役立つというサプリメント。その主成分は「ルテイン」という天然色素成分だ。そのメカニズムを、総合病院聖隷浜松病院眼科部長の尾花明医師に訊ねた。

「黄斑はその名の通り黄色いのですが、この黄色の正体が“黄斑色素”という色素成分。目に入ってきたブルーライトなどの光に対して、この黄斑色素が作用することで黄斑の酸化が進まないようにできているのです」

 つまり、モノを見るためには光は大事だが、そのために黄斑は一定の犠牲を強いられ、そのダメージを少しでも小さくするために存在するのが黄斑色素――ということのようだ。

 黄斑色素は、生まれたばかりの赤ちゃんの目にはわずかしか存在しない。母乳や食事などで少しずつ蓄えられていく。こうして、体内に黄斑色素を作っていく上で、最も重要な成分となるのがルテインなのだ。

「ルテイン」はカロテノイドの一種で、さらに1000を超える種類があり、ニンジンなどに含まれるβカロテンや、トマトに含まれるリコペンなどが有名だ。

 そんな中でルテインは、体の中でも特に「目」に多く存在する色素。自然界では緑黄色野菜や卵黄などに含まれているが、とりわけ豊富に含んでいるのがホウレンソウとケールなのだ。黄斑色素にはルテインの他に「ゼアキサンチン」という色素もあって、これがルテインと一緒に働いて神経細胞を守っている。ゼアキサンチンはコーンやパプリカに多く含まれている。

「ホウレンソウなら1日当たり2束を食べると、必要量のルテインが摂取できます。ケールだと“青汁”が有名ですが、私が知るところでは、青汁は商品によってルテインの含有量にばらつきがある。青汁を飲んでいるから安心、とは言い切れないかもしれません」(尾花医師、以下同)

すでに黄斑変性になっている人はより効率的に

 まだ黄斑変性のない人が、予防のためにホウレンソウを積極的に摂るのはいいことだ。しかし、すでに病気の兆候がある人は、より効率的にルテインを摂取する必要がある。そこでサプリメントの利用が提唱されるようになっていったのだ。

「片方の目が加齢黄斑変性でもう片方が黄斑変性の前駆病変(前段階)の人、あるいは両方の目が黄斑変性の前駆病変の人にルテインのサプリメントが有効、というエビデンス(科学的根拠)があります。ただし、すでに黄斑変性になっている人に対する治療効果という点でのエビデンスはない。だから医薬品ではなくサプリメントなのです。一応の販売基準があって、眼科クリニックでは窓口で、病院では院内の売店でのみ販売が許されている。似たような商品がドラッグストアでも売られていますが……」

 繰り返すが、このサプリには治療効果は認められていない。あくまで予防が目的の商品なのだが、「すでに黄斑変性になっている人にも、理論的に考えると何らかの効果があるはず。飲んでおいて損になることはない」と尾花医師はいう。

「それより……」

 と尾花医師は続ける。

「スマホで『文春オンライン』を読んでいる人が、将来の黄斑変性を予防するのであれば、サプリよりも普段の食事で野菜を摂取するほうが望ましい」

日本人の深刻な「野菜不足」をデータ化できる

 日本人は「ルテインがいい」と聞くと、それだけを集中して取ろうとする。ホウレンソウばかりを毎日食べていればいずれ飽きて続かなくなる。それよりは、ホウレンソウに限定することなく、色々な野菜を積極的に食べるほうがよほど効果的。「要はバランスが大事なんです」と尾花医師は言う。

「ルテインはホウレンソウ以外にも小松菜やブロッコリーなど様々な野菜にも含まれています。日頃から野菜を食べる人は、それなりの量のルテインも摂取できているもの。でも、実際問題として、日本人の野菜不足は深刻です」

 そこで尾花医師は、アメリカのベンチャー企業と共同研究を進め、ある測定器を開発した。その名も「ベジメータ」というこの機械。野菜摂取量の過不足をカロテノイドの量から簡単に測ることができるのだ。

 左の中指を機械に挿入して10秒待つと、指先の皮膚カロテノイドの量が測定され、そこから全身のカロテノイドの量が数値化して表示される仕組みだ。

「986人のデータを元に設定された5段階評価の中のどこに入るかが判定される。今後はさらにデータを集めて、より詳細な判定基準を作っていく予定です」

野菜不足は、黄斑変性だけの問題ではない

 このベジメータ、現在は一部の医療機関の他、スーパーの野菜売り場や健康食品店の店頭などに置かれている。尾花医師のいる聖隷浜松病院では、健診や人間ドックにもこれを取り入れ、データを元に野菜不足解消を呼び掛ける活動に力を入れている。

「野菜不足解消は、黄斑変性だけの問題ではありません。ルテインが目と脳に多く存在することは以前から分かっていましたが、最近の研究では、認知症予防など脳の機能との関係性を示す研究結果が出始めています。特に子どものルテイン摂取量を増やすと計算能力が高まる、という興味深い報告も出てきており、世界的に注目を集めています」

 それを聞いた記者は、あわててベジメータを試してみた。しかし結果は予想通り、最低ランクの「E判定」。

受験生時代の模擬試験の結果を思い出して切なくなった。

 この日を境に、狂ったように野菜ばかり食べています。

(長田 昭二)
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%80%8c%e3%83%96%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%88%e3%81%a3%e3%81%a6%e7%9b%ae%e3%81%ab%e3%81%a9%e3%81%ae%e3%81%8f%e3%82%89%e3%81%84%e6%82%aa%e3%81%84%ef%bc%9f%e3%80%8d%e3%81%ab%e3%80%81%e5%b0%82%e9%96%80%e5%8c%bb%e3%81%8c%e3%80%8c%e3%81%a8%e3%81%ab%e3%81%8b%e3%81%8f%e9%87%8e%e8%8f%9c%e3%82%92%e9%a3%9f%e3%81%b9%e3%81%a6%e3%80%8d%e3%81%a8%e7%ad%94%e3%81%88%e3%82%8b%e7%90%86%e7%94%b1/ar-BBXxnsw?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/342.html#c5

[リバイバル3] スマホやノートパソコンを長期間使っていると失明する 中川隆
8. 中川隆[-15245] koaQ7Jey 2019年11月30日 13:54:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2317]

「ブルーライトって目にどのくらい悪い?」に、専門医が「とにかく野菜を食べて」と答える理由 2019/11/30

 放置すれば失明する――。

「黄斑変性」という病気をご存じだろうか。最初は「モノが歪んで見える」「視野の一部が見えなくなる」という症状から始まって、次第に悪化し、最後には視力がなくなってしまう。

 そんな恐ろしい病気の予防に、ある“野菜”に含まれる成分が効果を発揮することが、世界的な研究で認められている。

 いまこの記事を、パソコンで読んでいる人もスマホで読んでいる人も、決して他人事ではない黄斑変性。しかし、これを読み終える頃にはあら不思議。なぜか野菜が食べたくなって、スーパーの野菜売り場に走るか、近所のコンビニで野菜ジュースを買って、家に帰るのももどかしく、お店の前で立ち飲みしてしまうことでしょう。


©iStock.com© 文春オンライン ©iStock.com
「黄斑変性」は失明原因の第4位にランクイン

 まずは今回のテーマである「黄斑変性」という病気について説明する。

 眼球の一番奥にあって、角膜と水晶体を通して入ってきた光を受けるのが、カメラでいうフィルムの役割を担っている「網膜」。この網膜の中心にあって、視力を作り出す部位が「黄斑」だ。

 この黄斑の細胞が加齢などにより劣化(変性)すると、正しい画像が得られなくなる。歪んで見えたり、一部が欠損するなどの視力障害が起きる。これが黄斑変性だ。

 黄斑変性の原因が「加齢」の時は「加齢黄斑変性」という。なかでも日本人に多い「滲出型加齢黄斑変性」では、黄斑の付近に新しい血管がモヤモヤッと生えてきて浮腫、つまり「むくみ」を起こす。これによってモノが見えづらくなり、悪化すると失明に至ることになる。原因は加齢ばかりではなく、最近は若い人でも光を浴びることで目の酸化が進み、加齢に似た黄斑変性を起こすことがある。

 黄斑変性の原因が「加齢」の時は「加齢黄斑変性」となるが、原因は加齢ばかりではない。若い人でも紫外線などの光を浴びることで目の酸化が進むと、黄斑の付近に新しい血管がモヤモヤッと生えてきて浮腫、つまり「むくみ」を起こすのだ。これによってモノが見えづらくなり、悪化すると失明に至ることになる。現在日本での失明原因の第4位が黄斑変性。ちなみに首位は緑内障、2位は網膜色素変性、3位は糖尿病網膜症だ。

一度傷んだ黄斑は元に戻すことができない

 あらゆる光は黄斑の酸化を助長するのだが、とりわけ危険なのが、先に触れたスマホやパソコンが発する「ブルーライト」なのだ。

 劣化した黄斑変性をiPS細胞を使って再生させる研究が進んでいるが、そうでもしない限り一度傷んだ黄斑は元に戻すことができない。新生血管に特殊な薬物を投与し、そこに向けてレーザーを当てる「光線力学治療」や、新しい血管を作り出す「VEGF」という物質の活動を抑え込む薬を注射する「抗VEGF治療」もあるが、これらの治療は傷んだ黄斑を再生することはできない。スマホが手放せないのであれば、積極的に予防策に打って出るべきだろう。

黄斑へのダメージを軽減する「ルテイン」とは?

「医療」と「健康食品」は仲が悪い。医療者が健康食品を毛嫌いする理由は、健康食品そのものを嫌うというよりは、あたかも病気が治るかのような表現で売ろうとする一部の悪質な業者への嫌悪感がそうさせるようだ。

 そんな中、医師が、というより医療界が積極的に摂取を勧めるサプリメントがある。「黄斑変性」という、放置すれば失明に至る目の病気の予防に役立つというサプリメント。その主成分は「ルテイン」という天然色素成分だ。そのメカニズムを、総合病院聖隷浜松病院眼科部長の尾花明医師に訊ねた。

「黄斑はその名の通り黄色いのですが、この黄色の正体が“黄斑色素”という色素成分。目に入ってきたブルーライトなどの光に対して、この黄斑色素が作用することで黄斑の酸化が進まないようにできているのです」

 つまり、モノを見るためには光は大事だが、そのために黄斑は一定の犠牲を強いられ、そのダメージを少しでも小さくするために存在するのが黄斑色素――ということのようだ。

 黄斑色素は、生まれたばかりの赤ちゃんの目にはわずかしか存在しない。母乳や食事などで少しずつ蓄えられていく。こうして、体内に黄斑色素を作っていく上で、最も重要な成分となるのがルテインなのだ。

「ルテイン」はカロテノイドの一種で、さらに1000を超える種類があり、ニンジンなどに含まれるβカロテンや、トマトに含まれるリコペンなどが有名だ。

 そんな中でルテインは、体の中でも特に「目」に多く存在する色素。自然界では緑黄色野菜や卵黄などに含まれているが、とりわけ豊富に含んでいるのがホウレンソウとケールなのだ。黄斑色素にはルテインの他に「ゼアキサンチン」という色素もあって、これがルテインと一緒に働いて神経細胞を守っている。ゼアキサンチンはコーンやパプリカに多く含まれている。

「ホウレンソウなら1日当たり2束を食べると、必要量のルテインが摂取できます。ケールだと“青汁”が有名ですが、私が知るところでは、青汁は商品によってルテインの含有量にばらつきがある。青汁を飲んでいるから安心、とは言い切れないかもしれません」(尾花医師、以下同)

すでに黄斑変性になっている人はより効率的に

 まだ黄斑変性のない人が、予防のためにホウレンソウを積極的に摂るのはいいことだ。しかし、すでに病気の兆候がある人は、より効率的にルテインを摂取する必要がある。そこでサプリメントの利用が提唱されるようになっていったのだ。

「片方の目が加齢黄斑変性でもう片方が黄斑変性の前駆病変(前段階)の人、あるいは両方の目が黄斑変性の前駆病変の人にルテインのサプリメントが有効、というエビデンス(科学的根拠)があります。ただし、すでに黄斑変性になっている人に対する治療効果という点でのエビデンスはない。だから医薬品ではなくサプリメントなのです。一応の販売基準があって、眼科クリニックでは窓口で、病院では院内の売店でのみ販売が許されている。似たような商品がドラッグストアでも売られていますが……」

 繰り返すが、このサプリには治療効果は認められていない。あくまで予防が目的の商品なのだが、「すでに黄斑変性になっている人にも、理論的に考えると何らかの効果があるはず。飲んでおいて損になることはない」と尾花医師はいう。

「それより……」

 と尾花医師は続ける。

「スマホで『文春オンライン』を読んでいる人が、将来の黄斑変性を予防するのであれば、サプリよりも普段の食事で野菜を摂取するほうが望ましい」

日本人の深刻な「野菜不足」をデータ化できる

 日本人は「ルテインがいい」と聞くと、それだけを集中して取ろうとする。ホウレンソウばかりを毎日食べていればいずれ飽きて続かなくなる。それよりは、ホウレンソウに限定することなく、色々な野菜を積極的に食べるほうがよほど効果的。「要はバランスが大事なんです」と尾花医師は言う。

「ルテインはホウレンソウ以外にも小松菜やブロッコリーなど様々な野菜にも含まれています。日頃から野菜を食べる人は、それなりの量のルテインも摂取できているもの。でも、実際問題として、日本人の野菜不足は深刻です」

 そこで尾花医師は、アメリカのベンチャー企業と共同研究を進め、ある測定器を開発した。その名も「ベジメータ」というこの機械。野菜摂取量の過不足をカロテノイドの量から簡単に測ることができるのだ。

 左の中指を機械に挿入して10秒待つと、指先の皮膚カロテノイドの量が測定され、そこから全身のカロテノイドの量が数値化して表示される仕組みだ。

「986人のデータを元に設定された5段階評価の中のどこに入るかが判定される。今後はさらにデータを集めて、より詳細な判定基準を作っていく予定です」

野菜不足は、黄斑変性だけの問題ではない

 このベジメータ、現在は一部の医療機関の他、スーパーの野菜売り場や健康食品店の店頭などに置かれている。尾花医師のいる聖隷浜松病院では、健診や人間ドックにもこれを取り入れ、データを元に野菜不足解消を呼び掛ける活動に力を入れている。

「野菜不足解消は、黄斑変性だけの問題ではありません。ルテインが目と脳に多く存在することは以前から分かっていましたが、最近の研究では、認知症予防など脳の機能との関係性を示す研究結果が出始めています。特に子どものルテイン摂取量を増やすと計算能力が高まる、という興味深い報告も出てきており、世界的に注目を集めています」

 それを聞いた記者は、あわててベジメータを試してみた。しかし結果は予想通り、最低ランクの「E判定」。

受験生時代の模擬試験の結果を思い出して切なくなった。

 この日を境に、狂ったように野菜ばかり食べています。

(長田 昭二)
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%80%8c%e3%83%96%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%88%e3%81%a3%e3%81%a6%e7%9b%ae%e3%81%ab%e3%81%a9%e3%81%ae%e3%81%8f%e3%82%89%e3%81%84%e6%82%aa%e3%81%84%ef%bc%9f%e3%80%8d%e3%81%ab%e3%80%81%e5%b0%82%e9%96%80%e5%8c%bb%e3%81%8c%e3%80%8c%e3%81%a8%e3%81%ab%e3%81%8b%e3%81%8f%e9%87%8e%e8%8f%9c%e3%82%92%e9%a3%9f%e3%81%b9%e3%81%a6%e3%80%8d%e3%81%a8%e7%ad%94%e3%81%88%e3%82%8b%e7%90%86%e7%94%b1/ar-BBXxnsw?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/903.html#c8

[近代史3] 中国が東トルキスタン共和国(現ウイグル自治区)を乗っ取った手口 中川隆
26. 中川隆[-15247] koaQ7Jey 2019年11月30日 16:52:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2319]
中国にクーデターの前兆か。政権内の反習近平派が流した内部文書
2019.11.25 2847 by 北野幸伯『ロシア政治経済ジャーナル』


11月16日、中国当局による人権弾圧を裏付ける内部文書が米国メディアに流出。中国当局も即反論はしたものの文書の存在は否定しなかったため、信憑性は高いとされているようです。これを受け、国際関係ジャーナリストの北野幸伯さんは自身の無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』で、その衝撃的な文書の内容を解説すると共に、今回の流出騒動で注意を要する3つの「事実」を記しています。

暴露された習近平の残虐さ

先日、ウイグル問題について書きました。

● 中国にまた利用される。習近平の国賓待遇来日が日本を沈ませる訳
https://www.mag2.com/p/news/425034

すると、シリコンバレー在住の読者さんから、以下のメールをいただきました。


北野様、シリコンバレーのAと申します。いつも勉強になる論考をありがとうございます。

タイミングよく(悪く?)当地時間昨16日、New YorkTimesが下記のかなり大規模な調査報道を公開しました。

● Absolutelu No Mercy’ : Leaked Files Expose Hpw China

日本語でもロシア語でもなく恐縮なのですが、ぜひご一読いただければと思います。

この記事。開くと、突然中国語が出てきたので仰天しました。しかし、ずっと下がると英語になりました。11月19日のCNNは、この内部文書について、以下のように報じています。


ウイグル族拘束をめぐる内部文書、米紙に流出 中国が反発

CNN.co.jp 11/19(火)19:17配信

香港(CNN) 中国当局が新疆ウイグル自治区で多数のウイグル族住民を拘束している問題などをめぐり、中国共産党内部から400ページ以上の文書が流出したと、米紙ニューヨーク・タイムズが報じた。中国は文書が曲解されたと主張し、強い反発を示している。

こういう話、「そもそも文書は本物なのか?」という疑問がでますね。しかし中国は、「文書が曲解された」と主張している。つまり、文書は本物だが、「曲解(ねじ曲げて解釈)された」と。というわけで、どうやら本物みたいです。


16日付の同紙が伝えた党の内部文書には、ウイグル族の大量拘束に関する党上層部の指示などが書かれている。ある幹部は部下らに「1人残らずつかまえろ」と命じていた。
(同上)

「1人残らずつかまえろ!」だそうです。恐ろしいことです。


習近平(シーチンピン)国家主席が2014年、現地の職員らに対して、テロリストや分離主義者を「容赦なく」取り締まれと指示した未公開の演説原稿も含まれていた。
(同上)

テロリストを容赦なく取り締まるのはわかります。分離主義者はどうでしょうか?たとえば、スコットランドにはイギリスにとっての分離主義者がたくさんいます。ですが、彼らが「強制収容所にぶち込まれている」という話は聞きません。


拘束作戦に反対したり、拘束された人々の解放を試みたりした党員数人が粛清されたとの記述もある。
(同上)

残虐行為に反対する人は、たとえ党員でもあっても容赦しない。ナチスドイツやスターリン時代のソ連とかわりません。


同紙によると、文書を持ち出したのは中国政界で一定の地位にいるメンバー。ウイグル族への政策をめぐり、習氏をはじめとする党幹部の責任を問うのが目的だったとされる。
(同上)

ここ、とても重要です。政権幹部の中に、習近平の残酷な政策に反対している人がいる。このことは、習近平に幹部への疑心暗鬼を呼び起こし、政権内で粛清が起きるきっかけになるかもしれません。クーデターの可能性も、ゼロとはいえなくなってきました。

今回の話でわかること

1つは、そのまま、「中国政府がひどい人権侵害をしている」ということ。2つ目は、これを報じたのがニューヨークタイムズで、私が引用したのが「CNN」であることの意味。両方とも、「反トランプ」ですね。ということは、アメリカは、トランプ政権も、反トランプ陣営も、「反中国」では一体化している。つまり、アメリカは、「挙国一致体制」で「中国打倒」を目指している。

3つ目、ウイグル人を100万人強制収容している国のトップを【国賓訪日】させないでください。心から、安倍総理にお願いします。

総理は先日、在任日数で「歴代最長」になったそうです。長いことは重要ですが、「何をしたか」はもっと重要です。「人権侵害超大国のトップと天皇陛下を会談させ日本の評判を失墜させた首相」にならないことは、「歴代最長」であることより重要です。
https://www.mag2.com/p/news/425670
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/205.html#c26

[近代史3] 中国が東トルキスタン共和国(現ウイグル自治区)を乗っ取った手口 中川隆
27. 中川隆[-15246] koaQ7Jey 2019年11月30日 16:54:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2318]
中国にまた利用される。習近平の国賓待遇来日が日本を沈ませる訳
国際2019.11.20 1166 by 北野幸伯『ロシア政治経済ジャーナル』
https://www.mag2.com/p/news/425034

数年前までほとんど顧みられることがなかった、中国当局による少数民族・ウイグル人への弾圧が、ここに来て米英などからの非難の声が高まっています。その理由はどこにあるのでしょうか。今回の無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』では、著者で国際関係ジャーナリストの北野幸伯さんがその理由を解説するとともに、習近平国家主席の国賓待遇訪日について改めて異を唱えています。

100万人のウイグル人が強制収容所に…

米中関係が良好であった時、中国の人権問題は、ほとんど問題視されませんでした。アメリカ政府が、チベット問題、ウイグル問題などで中国を批判することは、ほとんどなかった。これは、欧州も同じこと。欧州は、「世界一人権にうるさい」ことになっていますが、中国の人権に関しては、ほとんど沈黙していました。なぜ?「チャイナ・マネーが欲しいから」でしょう。

国の指導者だけではありません。90年代、2000年代、日欧米企業は、大挙して「人権侵害国家」中国に投資していました。理由は、「賃金が安いから」「市場が巨大だから」。

2018年7月、「米中覇権戦争」がはじまりました。すると、「中国は人権侵害国家だ!」という批判が、突然起こり始めた。この批判は事実であると同時に、「情報戦」の一環なのです。

たとえば、国連は、「中国政府が、ウイグル人100万人を強制収容している!」と非難しています。BBC2018年9月11日を見てみましょう。


国連、中国政府がウイグル人100万人拘束と批判

BBC NEWS JAPAN 2018年09月11日

中国政府が新疆ウイグル自治区でウイグル人を約100万人、テロ取り締まりを「口実」に拘束していると、国連は懸念を強めている。国連人種差別撤廃委員会は8月末、最大100万人のウイグル人住民が刑事手続きのないまま、「再教育」を目的とした強制収容所に入れられているという指摘を報告した。8月半ばにスイス・ジュネーブで開かれた同委員会の会合では、信頼できる報告をもとに中国政府が「ウイグル自治区を、大規模な収容キャンプのようにしてしまった」と委員たちが批判。

どうですか、これ?21世紀の今、世界第2の経済大国で、ヒトラー時代のドイツや、スターリン時代のソ連と同じことが起きている。本当に驚くべきことです。

なぜ中国政府は、こんな残酷なことをするのでしょうか?ウイグル族は、イスラム教徒なのです。中国は、共産主義をベースに建国された国。そして、共産主義は無神論なのです。その為、中国人の約90%は、「無宗教」「無神論」です。

ところが、新疆ウイグル自治区の約6割はイスラム教徒(残り4割は、ほとんど漢人で無神論)。中国政府にとっては、「イスラム教徒」というだけで弾圧の理由になる。ちなみにチベットは、「チベット仏教」を信じているので、これも弾圧の対象です。

さらに、ウイグルには「独立論者」もいる。ウイグルの人たちは、長年ひどい境遇に置かれています。たとえば、ウイグル自治区では、1964年以降46回もの核兵器実験が行われてきた。

こんなウイグル族に「追い風」が吹いてきました。米中覇権戦争がはじまったので、アメリカやイギリスが、「情報戦争」にウイグルを使い始めた。そして、アメリカやイギリスが動いたので、国連も他の国も動き始めました。


中国は「ウイグル族の拘束やめよ」 22カ国が共同書簡で非難

BBC NEWS JAPAN 2019 7/11(木)13:06配信

イギリスや日本など国連人権委員会加盟の22カ国は、中国・新疆(ウイグル自治区)におけるウイグル族の処遇について、中国政府を批判する共同書簡に署名した。共同書簡はミチェル・バチェレ国連人権高等弁務官あてのもので、10日に公開された。「新疆のウイグル族などの少数派を特別に対象とした、大規模な収容所や監視、制限の拡大」に関する報告書を引用し、新疆の現状を非難している。その上で中国政府に対し、国連や独立した国際組織の査察団へ、「新疆への実質的なアクセスを認める」よう強く促している。国際人権組織ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、署名した国は、イギリスと日本のほか、オーストラリア、オーストリア、ベルギー、カナダ、デンマーク、エストニア、フィンランド、フランス、ドイツ、アイスランド、アイルランド、ラトヴィア、リトアニア、ルクセンブルク、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、スペイン、スウェーデン、スイスの各国。

2019年7月18日、ペンス副大統領は、「信教の自由に関する閣僚級会合」で演説しました。曰く、


ペンス副大統領は、新疆ウイグル自治区での状況について「共産党は100万人以上のウイグル人を含むイスラム教徒を強制収容所に収容し、彼らは24時間絶え間ない洗脳に耐えている。生存者によれば、中国政府による意図的なウイグル文化とイスラムの信仰の根絶だ」と述べた。
(ウェッジ 2019年8月8日)

さらに、ポンペオ国務長官は、


ポンペオ国務長官は、「中国共産党は中国国民の生活と魂を支配しようとしている。中国政府はこの会合への他国の参加を妨害しようとして。それは中国の憲法に明記された信仰の自由の保障と整合するのか」、「中国では、現代における最悪の人権危機の一つが起きている。これはまさしく今世紀の汚点である」と述べた。

ウイグルの人々が解放される日が来ることを、心から望みます。

この件で、日本政府は何を考えるべきでしょうか?「100万人のウイグル人を強制収容所にとじこめている国」のトップを【国賓】として招くのはダメでしょう。習近平が天皇陛下、皇后陛下と談笑する映像が世界に拡散され、「日本の天皇、皇后は、ウイグル人100万人を強制収容している国のトップを歓待しているな」と思われるのは、極めてまずいことです。

そして、習近平はかなりの確率で、「近い将来ご訪中ください」というでしょう。天皇陛下、皇后陛下は、立場上拒否できません。両陛下が訪中される時、ウイグル問題で中国批判はさらに強まっているはずです。香港では現在2人犠牲者がでている。近い将来、犠牲者はさらに増え、この件でも中国は大いに批判されているはずです。

そんな中で天皇陛下は訪中される。「日本は相変わらず人権無視だな」と非難されることでしょう。


中国が日本を利用して、捨てた過去

1989年、天安門事件が起こりました。中国政府による、民間人大虐殺事件です。これで中国は、国際的に孤立しました。同国は、どうやってこの苦境から脱出したのでしょうか?

そう、天皇陛下、皇后陛下を招待した。1992年、天皇陛下、皇后陛下(現上皇陛下、上皇后陛下)が訪中されました。欧米は、「日本は、中国市場を独占するつもりだ!」と警戒した。そして、1993年になると、欧米も中国との関係を改善させはじめた。

問題はその後です。中国は、「役割を果たした」日本を切りました。具体的には1994年、「愛国主義教育実施要綱」を制定し、「反日教育」を大々的に行うようになった。中国は、クリントン政権取り込みに成功。それでクリントンは、親中反日で、「日本バッシング」に熱心だった。

何がいいたいか。中国は、天皇、皇后両陛下を「天安門事件の孤立から抜け出すための道具」として利用した。その後は、国内、外国で「反日プロパガンダ」を強化し、日米関係悪化政策を進めていった。

今、中国は、同じ作戦できている。当時の日本政府は、ナイーブだった。今の安倍政権もナイーブで、また同じ過ちを繰りかえそうとしています。

幸い、佐藤正久先生、青山繁晴先生が代表をつとめる「日本の尊厳と国益を護(まも)る会」の議員40人は、習近平の「国賓招待」に反対しています。私は、普段穏健派ですが、この件では佐藤先生、青山先生を支持します。

過ちを繰り返すのは、愚かなこと。しかし、同じ過ちを繰り返すのは、もっとも愚かなことです。安倍総理は、
•1989年、天安門事件で中国、国際的に孤立
•1992年、天皇、皇后陛下訪中
•1993年、欧米、中国との関係を改善される
•1994年、中国、国内、外国で「反日プロパガンダ」開始

という流れを思い出していただき、だまされないでいただきたいと思います。

安倍総理は、「日本を敗戦国から戦勝国に転換させた偉大な首相」になるか、それとも、「過去の過ちを繰り返して日本をまた敗戦国にした残念な首相」になるかの岐路に立たされています。そして、安倍総理の決断が、日本国の未来にもかかってくるので、「日本も歴史的岐路に立っている」といえるのです。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/205.html#c27

[近代史3] 中国が東トルキスタン共和国(現ウイグル自治区)を乗っ取った手口 中川隆
28. 中川隆[-15245] koaQ7Jey 2019年11月30日 16:55:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2317]
「中国に戻れば死刑」豪へ逃げた中国人スパイが暴露する衝撃事実
https://www.mag2.com/p/news/426241
2019.11.27 北野幸伯『ロシア政治経済ジャーナル』 まぐまぐニュース


11月23日、香港、台湾、豪州で中国のスパイとして活動したという人物が豪州当局に政治亡命を申請すると共に、そのスパイ活動の内容や資金源など微細な情報を提供したことが報じられました。これを受け、国際関係ジャーナリストの北野幸伯さんは自身の無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』で、件の人物が命と引き換えに中国当局の内部情報を暴露した意図等を考察するとともに、深い闇を抱えた国家の元首の「国賓来日」については「絶対にやめるべき」としています。

暴露される中国スパイ活動の中身

先日、「ウイグル族弾圧に関する、中国政府の内部文書が流出した」という話をしました。まだ読んでない方はこちら。

● 中国にクーデターの前兆か。政権内の反習近平派が流した内部文書

今度は、中国人スパイがオーストラリアに亡命を申請し、自分がしてきた「スパイ活動」について暴露しています。

中国から亡命希望の元スパイ、豪に膨大な情報を提供報道
11/23(土)12:50配信

【AFP=時事】香港と台湾、オーストラリアで中国のスパイ活動に関わっていた男性がオーストラリアへの亡命を希望し、中国の政治干渉活動に関する膨大な情報を豪当局に提供していたことが分かった。豪メディアが23日、伝えた。

「中国の政治活動に関する膨大な情報を提供」だそうです。ドキドキですね。いったいその人物は、何者なのでしょうか?どんな情報を提供したのでしょうか?

豪メディア大手ナイン(Nine)系列の複数の新聞によると、亡命を希望しているのは、「威廉王(William)」こと王力強(Wang Liqiang)氏。王氏はオーストラリアの防諜(ぼうちょう)機関に対し、香港で活動する中国軍の情報将校の身元と、香港と台湾、オーストラリアで行われている活動の内容と資金源に関する詳細な情報を提供した。
(同上)

・香港で活動する中国軍の情報将校の身元
=香港で活動するスパイの名前
・香港、台湾、オーストラリアで行われている活動の内容と資金源
=中国のスパイは、香港、台湾、オーストラリアで何をしているの?どこから金が出ているの?

とても貴重な情報です。彼は、オーストラリア人で中国の諜報機関に協力している人の名前もばらしたかもしれません。

ナインによると、王氏は有力紙のエイジ(The Age)とシドニー・モーニング・ヘラルド(Sydney Morning Herald)、報道番組「60ミニッツ(60 Minutes)」とのインタビューの中で、中国政府が複数の上場企業をひそかに支配し、反体制派の監視と調査分析、報道機関の取り込みを含む諜報(ちょうほう)活動の資金を出させていることについて、「微細にわたって」説明した。
(同上)

中国政府が上場企業を支配し、反体制派の監視と調査分析を、報道機関の取り込みを含む諜報活動の資金を出させている。

中国では、上場企業が、諜報に資金を出しているのですね。昔からいわれていることですが、中国のスパイ本人がいうと真実味が違います。

ところで、スパイの王さんは、どういう名目でオーストラリアに来たのでしょうか?

王氏は現在、妻と幼い息子と共に観光ビザでシドニーに滞在し、政治亡命を申請している。
(同上)

観光ビザで来て、政治亡命していると。妻子が一緒ということでよかったです。貴重な情報をお持ちということで、きっと政治亡命、許可されることでしょう。でも、亡命希望が却下されたら…。

ナインのウェブサイトに23日に掲載された24日放送予定の「60ミニッツ」の映像の中で、王氏は「帰国すれば命はない」と通訳を介して述べ、中国に戻れば死刑に処されると訴えた。
(同上)

「中国に戻れば死刑」

そうなのでしょう。彼の出現が、オーストラリアに与える影響は?

王氏に関する今回の報道は、オーストラリアで高まっている中国の諜報活動や内政干渉への警戒感をさらにあおるとみられる。
(同上)

「中国の諜報活動や内政干渉への警戒感をさらにあおる」そうです。

世界はずっと、「チャイナマネー」欲しさに、この国の人権侵害、諜報活動、政治工作などを無視してきました。しかし、2018年にアメリカが「覇権戦争」を決意したので、中国のダークサイドが続々と暴露されてきています。

今後、ますます「中国悪魔化工作」の流れは加速します。だから、習近平の【国賓訪日】は絶対やめるべきなのです。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/205.html#c28

[近代史3] 欧米諸国はイルカの人道などには厳しいが、チベットやウイグルの人道には関心を持たない 中川隆
2. 中川隆[-15244] koaQ7Jey 2019年11月30日 17:00:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2316]
中国にまた利用される。習近平の国賓待遇来日が日本を沈ませる訳
国際2019.11.20 1166 by 北野幸伯『ロシア政治経済ジャーナル』
https://www.mag2.com/p/news/425034


数年前までほとんど顧みられることがなかった、中国当局による少数民族・ウイグル人への弾圧が、ここに来て米英などからの非難の声が高まっています。その理由はどこにあるのでしょうか。今回の無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』では、著者で国際関係ジャーナリストの北野幸伯さんがその理由を解説するとともに、習近平国家主席の国賓待遇訪日について改めて異を唱えています。

100万人のウイグル人が強制収容所に…

米中関係が良好であった時、中国の人権問題は、ほとんど問題視されませんでした。アメリカ政府が、チベット問題、ウイグル問題などで中国を批判することは、ほとんどなかった。これは、欧州も同じこと。欧州は、「世界一人権にうるさい」ことになっていますが、中国の人権に関しては、ほとんど沈黙していました。なぜ?「チャイナ・マネーが欲しいから」でしょう。

国の指導者だけではありません。90年代、2000年代、日欧米企業は、大挙して「人権侵害国家」中国に投資していました。理由は、「賃金が安いから」「市場が巨大だから」。

2018年7月、「米中覇権戦争」がはじまりました。すると、「中国は人権侵害国家だ!」という批判が、突然起こり始めた。この批判は事実であると同時に、「情報戦」の一環なのです。

たとえば、国連は、「中国政府が、ウイグル人100万人を強制収容している!」と非難しています。BBC2018年9月11日を見てみましょう。


国連、中国政府がウイグル人100万人拘束と批判

BBC NEWS JAPAN 2018年09月11日

中国政府が新疆ウイグル自治区でウイグル人を約100万人、テロ取り締まりを「口実」に拘束していると、国連は懸念を強めている。国連人種差別撤廃委員会は8月末、最大100万人のウイグル人住民が刑事手続きのないまま、「再教育」を目的とした強制収容所に入れられているという指摘を報告した。8月半ばにスイス・ジュネーブで開かれた同委員会の会合では、信頼できる報告をもとに中国政府が「ウイグル自治区を、大規模な収容キャンプのようにしてしまった」と委員たちが批判。

どうですか、これ?21世紀の今、世界第2の経済大国で、ヒトラー時代のドイツや、スターリン時代のソ連と同じことが起きている。本当に驚くべきことです。

なぜ中国政府は、こんな残酷なことをするのでしょうか?ウイグル族は、イスラム教徒なのです。中国は、共産主義をベースに建国された国。そして、共産主義は無神論なのです。その為、中国人の約90%は、「無宗教」「無神論」です。

ところが、新疆ウイグル自治区の約6割はイスラム教徒(残り4割は、ほとんど漢人で無神論)。中国政府にとっては、「イスラム教徒」というだけで弾圧の理由になる。ちなみにチベットは、「チベット仏教」を信じているので、これも弾圧の対象です。

さらに、ウイグルには「独立論者」もいる。ウイグルの人たちは、長年ひどい境遇に置かれています。たとえば、ウイグル自治区では、1964年以降46回もの核兵器実験が行われてきた。

こんなウイグル族に「追い風」が吹いてきました。米中覇権戦争がはじまったので、アメリカやイギリスが、「情報戦争」にウイグルを使い始めた。そして、アメリカやイギリスが動いたので、国連も他の国も動き始めました。


中国は「ウイグル族の拘束やめよ」 22カ国が共同書簡で非難

BBC NEWS JAPAN 2019 7/11(木)13:06配信

イギリスや日本など国連人権委員会加盟の22カ国は、中国・新疆(ウイグル自治区)におけるウイグル族の処遇について、中国政府を批判する共同書簡に署名した。共同書簡はミチェル・バチェレ国連人権高等弁務官あてのもので、10日に公開された。「新疆のウイグル族などの少数派を特別に対象とした、大規模な収容所や監視、制限の拡大」に関する報告書を引用し、新疆の現状を非難している。その上で中国政府に対し、国連や独立した国際組織の査察団へ、「新疆への実質的なアクセスを認める」よう強く促している。国際人権組織ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、署名した国は、イギリスと日本のほか、オーストラリア、オーストリア、ベルギー、カナダ、デンマーク、エストニア、フィンランド、フランス、ドイツ、アイスランド、アイルランド、ラトヴィア、リトアニア、ルクセンブルク、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、スペイン、スウェーデン、スイスの各国。

2019年7月18日、ペンス副大統領は、「信教の自由に関する閣僚級会合」で演説しました。曰く、


ペンス副大統領は、新疆ウイグル自治区での状況について「共産党は100万人以上のウイグル人を含むイスラム教徒を強制収容所に収容し、彼らは24時間絶え間ない洗脳に耐えている。生存者によれば、中国政府による意図的なウイグル文化とイスラムの信仰の根絶だ」と述べた。
(ウェッジ 2019年8月8日)

さらに、ポンペオ国務長官は、


ポンペオ国務長官は、「中国共産党は中国国民の生活と魂を支配しようとしている。中国政府はこの会合への他国の参加を妨害しようとして。それは中国の憲法に明記された信仰の自由の保障と整合するのか」、「中国では、現代における最悪の人権危機の一つが起きている。これはまさしく今世紀の汚点である」と述べた。

ウイグルの人々が解放される日が来ることを、心から望みます。

この件で、日本政府は何を考えるべきでしょうか?「100万人のウイグル人を強制収容所にとじこめている国」のトップを【国賓】として招くのはダメでしょう。習近平が天皇陛下、皇后陛下と談笑する映像が世界に拡散され、「日本の天皇、皇后は、ウイグル人100万人を強制収容している国のトップを歓待しているな」と思われるのは、極めてまずいことです。

そして、習近平はかなりの確率で、「近い将来ご訪中ください」というでしょう。天皇陛下、皇后陛下は、立場上拒否できません。両陛下が訪中される時、ウイグル問題で中国批判はさらに強まっているはずです。香港では現在2人犠牲者がでている。近い将来、犠牲者はさらに増え、この件でも中国は大いに批判されているはずです。

そんな中で天皇陛下は訪中される。「日本は相変わらず人権無視だな」と非難されることでしょう。


中国が日本を利用して、捨てた過去

1989年、天安門事件が起こりました。中国政府による、民間人大虐殺事件です。これで中国は、国際的に孤立しました。同国は、どうやってこの苦境から脱出したのでしょうか?

そう、天皇陛下、皇后陛下を招待した。1992年、天皇陛下、皇后陛下(現上皇陛下、上皇后陛下)が訪中されました。欧米は、「日本は、中国市場を独占するつもりだ!」と警戒した。そして、1993年になると、欧米も中国との関係を改善させはじめた。

問題はその後です。中国は、「役割を果たした」日本を切りました。具体的には1994年、「愛国主義教育実施要綱」を制定し、「反日教育」を大々的に行うようになった。中国は、クリントン政権取り込みに成功。それでクリントンは、親中反日で、「日本バッシング」に熱心だった。

何がいいたいか。中国は、天皇、皇后両陛下を「天安門事件の孤立から抜け出すための道具」として利用した。その後は、国内、外国で「反日プロパガンダ」を強化し、日米関係悪化政策を進めていった。

今、中国は、同じ作戦できている。当時の日本政府は、ナイーブだった。今の安倍政権もナイーブで、また同じ過ちを繰りかえそうとしています。

幸い、佐藤正久先生、青山繁晴先生が代表をつとめる「日本の尊厳と国益を護(まも)る会」の議員40人は、習近平の「国賓招待」に反対しています。私は、普段穏健派ですが、この件では佐藤先生、青山先生を支持します。

過ちを繰り返すのは、愚かなこと。しかし、同じ過ちを繰り返すのは、もっとも愚かなことです。安倍総理は、
•1989年、天安門事件で中国、国際的に孤立
•1992年、天皇、皇后陛下訪中
•1993年、欧米、中国との関係を改善される
•1994年、中国、国内、外国で「反日プロパガンダ」開始

という流れを思い出していただき、だまされないでいただきたいと思います。

安倍総理は、「日本を敗戦国から戦勝国に転換させた偉大な首相」になるか、それとも、「過去の過ちを繰り返して日本をまた敗戦国にした残念な首相」になるかの岐路に立たされています。そして、安倍総理の決断が、日本国の未来にもかかってくるので、「日本も歴史的岐路に立っている」といえるのです。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/608.html#c2

[近代史3] 日本を二等国にした反日売国奴の平成天皇 中川隆
28. 中川隆[-15243] koaQ7Jey 2019年11月30日 17:20:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2315]

中国にまた利用される。習近平の国賓待遇来日が日本を沈ませる訳
2019.11.20 1166 by 北野幸伯『ロシア政治経済ジャーナル』
https://www.mag2.com/p/news/425034


米中関係が良好であった時、中国の人権問題は、ほとんど問題視されませんでした。アメリカ政府が、チベット問題、ウイグル問題などで中国を批判することは、ほとんどなかった。これは、欧州も同じこと。欧州は、「世界一人権にうるさい」ことになっていますが、中国の人権に関しては、ほとんど沈黙していました。なぜ?「チャイナ・マネーが欲しいから」でしょう。

国の指導者だけではありません。90年代、2000年代、日欧米企業は、大挙して「人権侵害国家」中国に投資していました。理由は、「賃金が安いから」「市場が巨大だから」。

中国が日本を利用して、捨てた過去

1989年、天安門事件が起こりました。中国政府による、民間人大虐殺事件です。これで中国は、国際的に孤立しました。同国は、どうやってこの苦境から脱出したのでしょうか?


そう、天皇陛下、皇后陛下を招待した。1992年、天皇陛下、皇后陛下(現上皇陛下、上皇后陛下)が訪中されました。欧米は、「日本は、中国市場を独占するつもりだ!」と警戒した。そして、1993年になると、欧米も中国との関係を改善させはじめた。

問題はその後です。中国は、「役割を果たした」日本を切りました。具体的には1994年、「愛国主義教育実施要綱」を制定し、「反日教育」を大々的に行うようになった。中国は、クリントン政権取り込みに成功。それでクリントンは、親中反日で、「日本バッシング」に熱心だった。

何がいいたいか。中国は、天皇、皇后両陛下を「天安門事件の孤立から抜け出すための道具」として利用した。その後は、国内、外国で「反日プロパガンダ」を強化し、日米関係悪化政策を進めていった。


今、中国は、同じ作戦できている。当時の日本政府は、ナイーブだった。今の安倍政権もナイーブで、また同じ過ちを繰りかえそうとしています。

幸い、佐藤正久先生、青山繁晴先生が代表をつとめる「日本の尊厳と国益を護(まも)る会」の議員40人は、習近平の「国賓招待」に反対しています。私は、普段穏健派ですが、この件では佐藤先生、青山先生を支持します。

過ちを繰り返すのは、愚かなこと。しかし、同じ過ちを繰り返すのは、もっとも愚かなことです。安倍総理は、

•1989年、天安門事件で中国、国際的に孤立
•1992年、天皇、皇后陛下訪中
•1993年、欧米、中国との関係を改善される
•1994年、中国、国内、外国で「反日プロパガンダ」開始

という流れを思い出していただき、だまされないでいただきたいと思います。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/580.html#c28

[近代史3] 馬渕睦夫のユダヤ陰謀論はどこまで本当なのか? 中川隆
38. 中川隆[-15242] koaQ7Jey 2019年11月30日 17:31:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2314]
■ユダヤ(国際金融資本)陰謀論はデマ

米国の外交に影響を与える4つの勢力(これを知ればユダヤが米国を牛耳ることなど不可能なことが理解できます)

@「米国の国益を最大化」する観点から外交戦略を立案するエリート層(=外交エスタブリッシュメント)
・大統領、議員の考え方に影響与える。
・共和党、民主党、それぞれにこのエリート層が存在するが、両方が合同で外交戦略を立案することもある。
・国務省やペンタゴン、CIA等の官僚、学者 etc。

A大統領(権限の大きな裁量権)

Bアメリカ国民(投票権)

Cウォール街の金融業者(莫大な政治資金を出せる)

よくユダヤ陰謀論を信じている方が主張する「ユダヤによる世界統一」ですが、これは米国が正式に採用した「米国一国による世界支配(一極支配)」という外交戦略と同じことです(公式文書、政治家の発言も多々あり)
これは、ディフェンスプランニングガイダンスと呼ばれ、1992年に秘密裡に作られた国家戦略です(民主党と共和党の外交エスタブリッシュメントが共同で立案した)。

つまり、ユダヤを悪者にすることは、米国による支配を人々に気が付かせないようにする効果があるのです。

「どのようなユダヤ人集団(もしくは国際金融資本)」が、「いつ」「どこで」「どのようにして」「世界の全てを決めているのか?」

それらを証明する機密文書や、要人の発言はあるのでしょうか?

ユダヤ陰謀論(国際金融資本陰謀論)が致命的なのは、このようなことを証明する証拠(機密文書や政治家などの証言)がないことです。
証拠がないものをあたかも真実であるように主張する。
これはデマとか、妄想と呼ばれます。
ちなみに、この一極支配戦略ですが、中東ではイラクから撤退し、東欧でも、クルミアをロシアに奪われる等で、失敗しつつあります(実質的に失敗に終わった)。

これは、世界統一すること自体が不可能であるということも意味しています。

仮に、世界統一を図ろうというユダヤ組織のようなものが存在したとしても、それは実現不可能だということです。


■ディープステート悪玉論の嘘

上記の@〜Cは、日本の独立(=核武装)に反対しています(※トランプも当選後は一切口にしていない)。
米国民も日本の核武装に反対する人のほうが賛成よりも多いです(世論調査の結果)。

日本の対米自立(核武装)は、米国が日本での権益を失うことを意味します。

つまり、

「日米同盟によって、日本から軍事力を奪うことによって(核武装させない)、米国に有利な政策を押し付けて、日本から搾取する」

という戦後一貫した米国の国家戦略を今後も維持するというのがアメリカ全体の意志なのです。

要するに、アメリカは反日国家なのです。

ディープステート悪者論(ディープステート以外のアメリカは日本の味方)は、真実ではありません。

アメリカには日本の味方はいないというのが現実です。
(日本の核武装を支持している親日のインドと較べると対照的です)

だから、「ディープステート=アメリカの反日勢力」と定義するなら、
「ディープステート=アメリカ全体=反日勢力」と言い換えることも可能です。

ディープステート悪玉論を信じてしまうと、アメリカには日本の味方もいるという錯覚を起こします。

それは、日米同盟の堅持へと誘導する効果があるので、これを支持する論客は、親米保守(アメリカの利益のために働く人たち)の亜流だと考えるべきでしょう。

ユダヤ陰謀論も、ディープステート悪玉論も、「アメリカは悪くない」と思わせるので、日米同盟を維持させる効果があるという点で、共通項があります。

これは偶然の一致なのでしょうか?

例えば、この動画の頃(2013年)はユダヤ陰謀論を主張されていた馬渕氏は、現在、ディープステート悪玉論を主張されています。

ちなみに、民主党のクリントン夫妻も、親米保守が親日と信じる共和党のブッシュ親子も、普段の会話では、日本人のことを「ジャップ」と呼んでいました。


■日本人の反米感情を抑えるために行われている報道規制

米国が一番恐れているのは反米感情が高まることです(独立運動が高まれば日本での権益を失うから)。

米国政府にとってユダヤ陰謀論は反米感情をそらす効果があるので望ましいのです(アメリカが悪い訳ではないと思わせる)。

だからマスコミでも反米が報道されないように監視しています。
米国が日本に行っている内政干渉(構造改革等による日本からの搾取)や米債のリスク(近い将来紙くずになる)を日本国民が知ることとなれば暴動が起こるかもしれません。

だから、ユダヤ陰謀論を主張する人の中には工作員(米中露)が混じっていることでしょう。
(親米は日本の軍事力を抑え込む効果があるので中露にとっても利益)。

※年次改革要望書がらみの報道規制(wikipediaより) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%...

報道での扱い
関岡英之、城内実などからは、以下の点から、年次改革要望書(米国による日本への内政干渉)に関する報道が広く国民に充分になされていないのが事実だという意見がある。

建築基準法の改正提言には、アメリカ政府の介在がひとことも書かれておらず、法改正の新聞報道でもいっさい触れられていない[2]。
年次改革要望書の全文が日本のマスメディアで公表されたことはない[2] 。
郵政民営化をはじめとする構造改革の真相を国民が知ることとなったら暴動が起きかねないので、マスコミ対策は用意周到になされていた。郵政民営化に反対する政治評論家森田実が、ある時点からテレビ局に出演できなくなった[12]。
一部夕刊紙以外の主要マスコミでは『年次改革要望書』が発表された事実そのものの報道もなされない。
国会議員が国会で問題にしても、なぜか全国紙やテレビ局の政治部記者からは一件の取材もない[13]。


■国際金融資本(ユダヤ)陰謀論では現実の世界を説明できない

例えば、馬渕氏は「北朝鮮や中国(2025年までに)はバックで支えている国際金融資本が見放したから、潰れる」と主張していますが、現実には、北は核開発を止めるどころか、SLBMの発射実験をし、中国は米国との貿易戦争で潰れる気配もありません。

国際金融資本のさじ加減でどうにでもなるというのなら、どうして、北朝鮮も、中国も潰してしまわないのでしょうか?
SLBMの開発のようなこと(国際金融資本側にもダメージになる)を止めさせずに放置しているのでしょうか?

北を潰してしまえば、北の地下資源を奪えるし、共産党を潰すことで中国からもグローバル企業が搾取できるのに、どうしてそうしないのでしょうか?

それができないのは国際社会は、ある一部の集団(ユダヤや国際金融資本)が決めているのではなく、国と国とか自国の国益を巡って、せめぎ合っているからです。

貧国の北朝鮮でも核武装すれば、誰も手出しできなくなるのです。
いくらお金を持っていても、国を思い通りに動かすことはできないということです。

「国際金融資本が政治的な影響力を持つ」ということと、
「国際金融資本が全てを決めている」ということは、
全く違うことです。

例えば、前者について言えば、
米国は政権が変わるごとに「製造業の復活」を謳いますが、一度衰退した製造業の復活は容易にはできず、深刻な米国の赤字財政を支えるために、結局、手っ取り早く、お金儲けができる金融業を重視する政策を採っています。
金融業者がお金儲けしてくれれば、税収が増えるので、米国の財政はデフォルトを回避できます。

つまり、米国は国家戦略として、国益のために、金融業者をバックアップしているのです。
そして、金融業者側は、それに乗っかってお金儲けしているという構造です。

決して、金融業者が米国政府を乗っ取って思い通りにしているということではありません。
跋扈していたグローバリストを駆逐したプーチンを見れば分かりますが、国家権力側が本気で国際金融資本をコントロールしようと決意すれば、できます。
過去の歴史を見ても、ニューディール政策(富裕層から富を強制的に移転させる)も、保護主義(反グローバリズム)、資本の国際間の移動規制等で、国家が国際金融資本をコントロールしてきました。

またマルクスが指摘したように、そもそも資本主義自体が、大企業と政治とが癒着しやすい構造を持ったシステムなのです。
現在の世界の状況は、陰謀ではなく、資本主義というシステムが必然的に引き起こす過去の歴史の繰り返しです。


■馬渕氏の予測を信じることは日本を滅亡に導く

「国際金融資本が全てを決めているのだから、国際政治を学ぶことなど馬鹿らしい」と発言している馬渕氏の「2025年までに中国は潰れる(国際金融資本が中国を潰すと決めたのだから潰れる)」という予測を信じたら、自主防衛(核武装)の必要性もなくなるので、その結果、2020年代に米軍が東アジアを撤退する時、丸腰で取り残される日本は核武装国の中国に属国化され滅亡することになります。

馬渕氏のような思想は、
撤退するまで日本を丸腰の状態に置いて、搾取を続けたい米国と、撤退後に丸腰の日本を植民地化したい中国双方の利益になります。

キッシンジャーと周恩来の間で、「在日米軍を日本に駐屯させ続けることで、日本を軍事的に無力化した状態に置き続ける」という密約が結ばれました。
不平等条約の地位協定も、日本の核武装も、何ら動きがないまま放置されているのをみれば、現在もこの密約が有効であることが分かります。
米中は喧嘩をしながらも、裏では協力しているということです。

また、他国の状況(中国崩壊、アメリカ頼み)に自国の命運を委ねるという思考そのものが、日本国にとって滅亡のリスクを高めるものであり、同時に、親米保守(アメリカに軍事を依存することを前提としてしまい、自国を自分たちで防衛しようという国家としての基本原則を欠く)の思想が色濃く表れていると言えます。

https://www.youtube.com/watch?v=MNNeUirop3Y
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/212.html#c38

[近代史3] 中曽根康弘とキッシンジャー 中川隆
5. 中川隆[-15241] koaQ7Jey 2019年12月01日 10:06:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2313]

2019.12.01
中曽根康弘が首相に就任した頃、米国とソ連は全面核戦争の寸前だった

 中曽根康弘が内閣総理大臣に就任してから1年後の1983年11月、ロナルド・レーガン政権は戦術弾道ミサイルのパーシングIIを西ドイツに配備した。NATOがこのミサイルを西ヨーロッパに配備すると決めたのは1979年12月であり、ソ連は警戒を強めていた。

 ソ連は西側が先制核攻撃を準備していると疑い、1981年5月にソ連はKGB(国家保安委員会)とGRU(参謀本部情報総局)は合同してRYAN(核ミサイル攻撃)作戦を始動させる。

 そうした中、内閣総理大臣となった中曽根は1983年1月にアメリカを訪問、ワシントン・ポスト紙のインタビューで日本を「巨大空母」と表現して問題になる。

 同紙によると、中曽根首相は「日本列島をソ連の爆撃機の侵入を防ぐ巨大な防衛のとりでを備えた不沈空母とすべきだ」と発言、さらに「日本列島にある4つの海峡を全面的かつ完全に支配する」とし、「これによってソ連の潜水艦および海軍艦艇に海峡を通過させない」と語ったのである。

 この「不沈空母」という表現を誤訳だと騒いだ人もいるが、本質的な差はない。中曽根は日本をアメリカの空母、つまりソ連を攻撃する拠点にするという宣言したのだ。その時にソ連はアメリカからの攻撃に神経をとがらせていた。そうした情勢を知らなかったとするならば、日本政府に情報を収集する能力がないことを意味し、もし知っていたそうした発言をしたなら戦争を始めるつもりだったということになる。

 中曽根の挑発的な発言から3カ月後の1983年の4月から5月にかけて、アメリカ海軍は千島列島エトロフ島の沖で大艦隊演習「フリーテックス83」を実施する。この演習には3空母、つまりエンタープライズ、ミッドウェー、コーラル・シーを中心とする機動部隊群が参加した。3空母の終結は尋常でない。

 演習では空母を飛び立った艦載機がエトロフ島に仮想攻撃をしかけ、志発島の上空に侵入して対地攻撃訓練を繰り返したともされている。

 米ソ両軍は一触即発の状態になったのだが、この演習を日本のマスコミは無視した。後に筆者は著名な「軍事評論家」にこの演習について質問したのだが、その演習について質問することは「政治的だ」として回答を拒否された経験がある。

 この艦隊演習の4カ月後、8月31日から9月1日にかけて大韓航空007便がソ連の領空を侵犯している。NORAD(北米航空宇宙防衛司令部)が設定したアラスカの「緩衝空域」と「飛行禁止空域」を横切っているが、NORADは反応していない。

 その後、航空機はカムチャツカを横切るのだが、その直前にアメリカ空軍の偵察機RC-135とランデブー飛行したと言われている。カムチャツカではソ連側の重要な軍事基地の上を飛行したが、ソ連側の交信記録によると、カムチャツカを横断する際に機影が一時レーダーから消えている。

 さらに領空侵犯機はソ連側の警告を無視して飛び続けした末にサハリン沖で撃墜されたとされている。通信の傍受記録を読むと、ターゲットになった航空機はモネロン島の上空で右へ旋回しながら降下したと戦闘機のパイロットから報告されているのだが、レーダーの記録を見ると左へ旋回している。この撃墜を利用してレーガン政権は大々的な反ソ連キャンペーンを展開した。

 軍事的な緊張はその後、さらに高まる。その年の11月にNATO軍は軍事演習「エイブル・アーチャー83」を計画、核攻撃のシミュレーションも行われることになっていたのだが、これをKGBは「偽装演習」だと疑い、ソ連へ全面核戦争を仕掛けてくるのではないかと警戒したのだ。ソ連側は応戦の準備を始めた。

 この時期、アメリカはソ連に対する攻勢を強めていたが、その始まりは1979年7月にエルサレムで開かれた会議だと考える人もいる。出席したのはアメリカとイスラエルの情報機関に関係した人びとだ。

 会議の主催者はイスラエルのシンクタンクで情報機関との関係が深いとされているジョナサン研究所だが、その名称は1976年7月、ウガンダのエンテベ空港襲撃の際に死亡したイスラエルの特殊部隊員、ヨナタン・ネタニアフに由来している。

 ちなみに、ヨナタンの弟は現在の首相、ベンヤミン・ネタニヤフ。ふたりの父親であるベンシオンはウラジミール・ジャボチンスキーの秘書だった人物である。

 その会議が開かれた頃、ジミー・カーター大統領の国家安全保障補佐官だったズビグネフ・ブレジンスキーはアフガニスタンで秘密工作を始めていた。アフガニスタンを不安定化させ、ソ連軍を誘い込み、そのソ連軍をサウジアラビアやパキスタンの協力で編成したジハード傭兵と戦わせようとしたのだ。その目論見通り、1979年12月にソ連軍の機甲部隊がアフガニスタンへ軍事侵攻した。

 こうしたアメリカの戦争に中曽根は日本を引きずり込もうとしたのだ。核戦争が始まらなかったのは運が良かったからにすぎない。

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最終更新日 2019.12.01 00:34:28










2019.11.30

中曽根康弘とキッシンジャー


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 中曽根康弘は日本へ原子力や新自由主義を導入した政治家である。「右翼」と見なされているが、アメリカの支配層と深く結びついていた。

 東京帝国大学を卒業した後、中曽根は1941年に内務省へ入省したが、それから間もなくして海軍経理学校へ入学、海軍主計少佐として敗戦を迎えている。1945年10月に内務省へ戻り、翌年9月には警視庁警視に昇進するが、その年の12月に依願退職。1947年4月には衆議院議員選挙に出馬、当選して政界入りを果たした。

 政治家となった中曽根は河野一郎の配下に入り、そこで児玉誉士夫と知り合う。中曽根は児玉の子分になったと言う人もいる。その児玉は右翼の大物として知られていたが、ロッキード事件の際にCIAの手先だったことが判明している。この事件では中曽根の名前も出たが、検察は動かなかった。

 中曽根と児玉との関係を浮き上がらせる事件が1972年にあった。中曽根と旧制静岡高校からの友人だった東郷民安が創業した殖産住宅の株式が上場を巡るスキャンダルだ。この上場を利用して中曽根は一儲けを目論み、児玉が絡んでくる。このふたりが東郷を破滅へと導くことになった。

 その頃、中曽根は政治家の中でも「大物」になっていたが、彼が権力の階段を登り始めるのはMRA(道徳再武装運動)と関係するようになってからだ。この団体はCIAとの関係が深い疑似宗教団体で、岸信介や三井高維も参加。そこで中曽根はヘンリー・キッシンジャーを含むCFR(外交問題評議会)のメンバーと知り合い、1950年6月にはスイスで開かれるMRA世界大会へ出席している。

 ちなみに、その3年後、内閣調査室の初代室長だった村井順がMRAの大会へ出席するためにスイスへ向かっている。村井はボンでアレン・ダレスCIA長官と会い、できて間もない内閣調査室に関する助言を得ることになっていたと言われている。

 しかし、ボン空港に到着すると村井はイギリスの情報機関員と思われる人物につきまとわれ、ロンドンの税関では腹巻きの中に隠していた闇ドルを発見されてニュースになった。

 ところで、中曽根は1953年にキッシンジャーが責任者だった「ハーバード国際セミナー」というサマー・スクールに参加している。このセミナーはロックフェラー財団やフォード財団をスポンサーにしていたが、CIAともつながっていた。

 その当時、キッシンジャーはハーバード大学の大学院で学んでいた。1954年に博士号を取得、その翌年にネルソン・ロックフェラーがスポンサーについたキッシンジャーはCFRの核兵器・外交政策研究グループの責任者に選ばれる。

 キッシンジャーが支配層に取り立てられる切っ掛けは1942年にアメリカ陸軍でフリッツ・グスタフ・アントン・クレーマーという人物に目をかけられたことにある。ドライバー兼ドイツ語の通訳を探していた第82歩兵師団のアレキサンダー・ボーリング司令官にクレーマーはキッシンジャーを紹介した。

 ほどなくしてキッシンジャーは情報分隊(後の対敵諜報部/CIC)に配属され、1946年までそこに所属。そこでアレン・ダレスに誘われ、創設の準備段階だった極秘の破壊工作機関OPCで働くようになる。最初の仕事はハーバード大学で新組織のために働く外国人学生をリクルートすることだった。彼が「ハーバード国際セミナー」の責任者になった理由のひとつはそこにあるのだろう。

 一方、1954年3月に中曽根は国会に原子力予算を提出し、修正を経て予算案は4月に可決された。その背景には、1953年12月にドワイト・アイゼンハワー米大統領が国連総会で行った「原子力の平和利用」という宣言がある。

 中曽根は1982年から内閣総理大臣を務めることになった。1976年に逮捕された後も政界で大きな影響力を持っていた田中角栄の懐刀、後藤田正晴が内閣官房長官になったこともあり、マスコミは「田中曽根」と揶揄していたが、その実態は「岸影内閣」だとジャーナリストの山川暁夫は看破していた。後藤田は中曽根のブレーキ役だった。実際、後藤田の追い落としを狙ったと思われるスキャンダルが浮上している。

 首相になった中曽根が目論んだのは新自由主義の導入だった。私有化の促進と規制緩和だ。その象徴が国鉄の分割と私有化。最強の労働組合を潰すことだけでなく、国の運営を国家機関から私的権力へ移そうというわけだ。その後、支配層が目論んだ通りに日本の労働環境は急速に悪化、貧富の差が拡大していくのだが、同時に日本経済の地盤も崩れていく。それは社会の崩壊でもあった。その新自由主義的な政策を引き継いだのが小泉純一郎、菅直人、野田佳彦、安倍晋三たちだ。

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最終更新日 2019.11.30 05:28:12


2019.11.29

米軍が占領しているシリアの油田で盗掘された石油の輸送車をシリア軍が破壊


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 アメリカのドナルド・トランプ大統領はシリア北東部の石油を盗み続けるために自国軍によるシリア占領を続けると公言している。アメリカ軍を撤退させるという宣言は事実上、撤回されたと言える。占領を継続する理由として、アメリカの国防総省はダーイッシュ(イスラム国、IS、ISIS、ISILとも表記)から油田を守るためだと11月7日の記者会見で主張した。

 それに対し、記者の中から装甲車も航空機も保有しないダーイッシュから油田を守るためにアメリカ軍がいる必要はないという指摘が出た。さらに記者はシリア軍が油田に近づいたら攻撃する許可を得ているのかと質問、それに対して国防総省の広報官は敵対行為に対する「自衛権」は持っていると答えた。

 言うまでもなく、シリア政府の承認を得ずにアメリカ軍はシリア領内を攻撃し、地上部隊を侵攻させた。つまり侵略軍にほかならない。自分たちには侵略を続ける権利があると言っているわけである。

 油田地帯をアメリカ軍は占領しつづけられるだろうが、盗掘した石油の輸送は誰かに頼まざるをえないだろう。シリアのメディアSANAによると、盗掘された石油をクルドがタンク車を使い、イラク北部を経由してトルコ領へ運び出している。そのタンク車と仮設の石油精製施設をシリア政府軍が11月26日に空爆で破壊した。

 ダーイッシュがイラクからシリアにかけての地域を支配するようになったのは2014年に入った頃だが、そうしたことが引き起こされると​2012年8月の段階でアメリカ軍の情報機関DIAは警告​していた。その時のDIA局長がトランプ政権の最初の国家安全保障補佐官であるマイケル・フリン中将だ。

 その報告書はシリアで政府軍と戦っている武装勢力の中心がサラフィ主義者やムスリム同胞団だと指摘、アル・カイダ系とされるアル・ヌスラ(AQIと実態は同じだと指摘されていた)の存在も記述している。ちなみに、アル・ヌスラの主力はサラフィ主義者やムスリム同胞団だ。

 これも繰り返し書いてきたが、ダーイッシュとアメリカとの関係は深く、その事実はさまざまな人に指摘されてきた。例えばアメリカ空軍の​トーマス・マッキナニー中将​は2014年9月、アメリカがダーイッシュを作る手助けしたとテレビで語っている。

 また​マーティン・デンプシー​統合参謀本部議長(当時)はアラブの主要同盟国がダーイッシュに資金を提供していると議会で発言、10月には​ジョー・バイデン​米副大統領がハーバーバード大学で中東におけるアメリカの主要な同盟国がダーイッシュの背後にいると語っている。2015年には​ウェズリー・クラーク​元欧州連合軍最高司令官もアメリカの友好国と同盟国がダーイッシュを作り上げたと述べた。

 そして2015年8月、アル・ジャジーラの番組でダーイッシュの勢力を拡大させた責任を問われた​マイケル・フリン​元DIA局長は自分たちの任務について、情報の正確さをできるだけ高めることにあると反論。その情報に基づいて政策を決定するのはバラク・オバマ大統領の役目だと指摘している。

 アメリカは自分たちが作り出した怪物を口実にしてシリア占領を続けようとしている。「マッチポンプ」だ。​2005年に故ロビン・クック元英外相は「アル・カイダ」について、CIAが訓練したムジャヒディンの登録リストだと書いている​。

 アラビア語で「アル・カイダ」とはベースを意味し、データベースの訳としても使われる。その中からピックアップされた戦闘員を中心として編成されたのがアル・カイダ系の武装勢力で、その主力はサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団。ジハード傭兵と言うこともできるだろう。ダーイッシュも基本的に同じだ。

 少なくともシリアの場合、ジハード傭兵の雇い主はアメリカだけでなく、イギリス系、フランス系、トルコ系など複数存在している。その雇い主が2016年に分裂し、必然的に傭兵集団も分裂した。分裂した最大の理由は2015年9月末にロシアがシリア政府の要請で軍事介入したことにある。ロシア軍はジハード傭兵を敗走させ、その支配地域を縮小させた。そこでアメリカが新たな手先としたのがクルドだ。

 壊滅状態になったダーイッシュは油田地帯をクルドへ明け渡した。油田地帯の中でもデリゾールを含むユーフラテス川沿いをアメリカは重要視、バラク・オバマが大統領だった2016年9月には近くに迫ったシリア政府軍を空爆して80名以上の兵士を殺害している。勿論、負傷者も多数出た。

 その1年後、デリゾールの近くで作戦を指揮していたロシア軍のバレリー・アサポフ中将が砲撃で殺されている、アメリカ側からアサポフ中将の位置に関する正確な情報が戦闘集団側へ伝えられていた可能性が高い。

 ところで、トルコ政府が雇っているジハード傭兵の主力はムスリム同胞団だと言われている。オバマ政権は傭兵を使った侵略計画PSD-11を作成したのは2010年8月だが、その主力はムスリム同胞団だった。そこで、それを快く思わないサラフィ主義者がムスリム同胞団を攻撃するという事態も生じている。

 トルコは2016年の前半にアメリカ主導の侵略軍から離れてロシアへ接近、7月13日には外相がシリアとの関係正常化を望むと示唆、その2日後にアメリカはクーデターでレジェップ・タイイップ・エルドアンを倒そうとした。

 この軍事放棄が失敗したのは事前にトルコ政府へロシアから警告があったからだ言われている。トルコ政府はクーデターはフェトフッラー・ギュレンの一派が実行したと主張、アメリカでCIAに保護されている同派の指導者、ギュレンを引き渡すようにアメリカ政府へ求めているが、拒否されている。トルコ政府はクーデター計画の背後にアメリカ中央軍のジョセフ・ボーテル司令官やジョン・キャンベルISAF司令官がいたとも主張している。


 このクーデター失敗でトルコ政府とアメリカ政府との関係は決定的に悪くなったが、ムスリム同胞団が両国の関係修復で動く可能性もある。トランプ政権としても、エルドアン政権を再び自分たちの陣営へ引き戻したいだろう。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912010000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/736.html#c5

[近代史3] 香港デモが終わらない理由 & 香港デモの正体を見極めよ 中川隆
18. 中川隆[-15240] koaQ7Jey 2019年12月01日 10:43:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2312]

2019年11月30日
香港区議選を中国が妨害しなかった理由、「親中派圧勝」を予想していた


香港政府は親中派圧勝の予想を中国に伝えていたため、中国は民主派勝利まで黙って見ていた

親中派は自分のウソに自分が騙されてしまった


画像引用:香港区議選 民主派が過半数、中国返還後初(日本テレビ系(NNN)) - Yahoo!ニュースhttps://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20191125-00000093-nnn-int

香港区議選に中国はなぜ干渉しなかったか?

2019年11月24日の香港区議選では改選452議席中、民主派は85%に達する388議席を獲得しました。

香港民主派は勢いづき香港政府への要求を強めているほか、一度は沈静化したデモや暴動も再び活発化している。

区議選の結果は海外にも影響し、米議会で可決していた「香港人権・民主法案」に27日、トランプ大統領が署名した。




香港人権法案は11月19日に上院、11月20日に下院で成立していたので、香港区議選よりも前の動きだった。

トランプは米中関係が悪化するとして署名を拒否したが、区議選で民主派圧勝は明らかにトランプ署名に影響を与えた。

アメリカは香港区議選を境に香港干渉へと舵を切る可能性があり、そうなると日本や周辺国もどちらに付くか選択を迫られる。


中国は香港人権法に猛反発しアメリカへの報復を宣言しているが、何をやってもアメリカのさらなる干渉を招くでしょう。

香港区議選であまり語られていない疑問は、中国はなぜこの選挙を放任したのだろうという事でした。

中国のやり方ではデモや暴動を理由に中止させることもできた筈で、やるにしても様々な妨害方法がある。


中国の仲間のロシアでは一応民主選挙が行われているが、監視付きでプーチン派以外の候補は立候補前に逮捕している。

選挙ではいつもプーチン派が圧勝するのだが、だからといってロシア人が支持しているのではなく、死ぬのが怖いだけです。

中国でもこうしたやり方で親中派を圧勝させるのも可能だったが、そうしなかったという見方ができます。

間違った世論調査が報告された

香港立法会選挙はあらかじめ香港政府の許可を得ないと立候補できないが、許可を出すのは中国共産党なので親中派しか立候補できない。

立法会の定数は70人だが選挙で選ばれるのは35人だけで、半数の35人は職能団体の推薦で選ばれ、投票できるのは親中派に投票すると分かっている人だけです

どう転んでも親中派しか当選しない仕組みになっていて、区議会選挙もこのような仕組みに改革できた筈でした。


にも拘わらず中国政府が民主派圧勝を放置したのは、区議会選で親中派が勝つと思っていたからだと言われている。

ニューズウィーク誌の記事によると中国共産党は親中派の勝利を確信しており、デモ隊を支持するのは少数だと考えていた。

先ほどの香港立法会選挙では100%親中派が勝利するように仕組まれていて、民主派は1議席も取れません。


民主派が多数になるようなアンケートや世論調査も行われておらず、大手メディアは「香港人は中国になりたがっている」と報道していた。

プーチンを恐れてプーチン派に投票するロシア人と同じく、香港人は中国支持を表明するしかない。

香港人の本心を知る調査結果がなかったので、共産党は本当に香港人が中国を支持していると思い込んでいた。


中国自身が創作したフェイクニュースに中国が騙され、香港人に支持されていると思い込んでいたのでした。

新華社通信など中国メディアは親中派が圧勝する原稿が用意されていたが、民主派勝利の可能性は考えられていなかった。

だから中国は区議選を妨害せず、選挙結果が出るまで黙って見ていました。


実際には区議選前の世論調査で民主派が支持を得ているという結果も出ていたが、香港政府と中国の役人、メディアが握りつぶした。

毛沢東時代からあった事だが、中国の役人は自分の業績を高めるために、実際より良い報告をする。

世論調査で親中派2割、民主派8割では自分の落ち度になるので、逆に捜査して報告してしまう。


こうして習近平や共産党幹部には「親中派圧勝」という間違った予想だけが報告されていた。
http://www.thutmosev.com/archives/81607230.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/576.html#c18

[リバイバル3] 中川隆 _ 食べ物、農業関係投稿リンク 中川隆
44. 中川隆[-15239] koaQ7Jey 2019年12月01日 10:53:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2311]
日米FTA巡る重大局面 国会で鈴木宣弘教授や内田聖子氏らが参考人として問題を指摘
2019年11月30日

 安倍政府はトランプが要求する1月1日の発効をめざして日米貿易協定承認案の国会審議を猛スピードでおこなっている。審議らしい審議もなく19日には衆院本会議で可決し、参議院に送られた。参議院外交委員会では28日、参考人質疑がおこなわれ、鈴木宣弘(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)、内田聖子(NPO法人アジア太平洋資料センター〈PARC〉共同代表)の両氏が日米貿易協定が日本国民にとってどのような問題点をはらんだものかについて鋭くつっこんだ指摘をおこなった。その要旨を紹介する。こういう重大局面を迎えているにもかかわらず、メディアは「桜を見る会」ばかり騒いで何も報道しない。そして、野党4党は「桜を見る会」を理由に29日からの衆参両院での審議拒否を決め、与党は野党欠席のもとで日米貿易協定承認案を強行採決する構えを見せている。一連の茶番劇のもとで、日本社会にとっての重大案件が国会承認される事態を迎えている。

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◇ 鈴木宣弘 (東京大学大学院教授)

 本協定をめぐる議論には私が思うに事実と異なる点があると思うので、そのような点から所見をのべたい。

 まず一つ大きな点は、アメリカが自動車関税及び部品の関税撤廃を約束したという点だ。日本政府はそのように話し署名した。しかしその後に開示されたアメリカ側の合意内容、英文だけが出ているが、それには今後交渉を続けるとしか書いていない。この英文が関税撤廃を約束したと読めるというのであれば、まったく理解に苦しむ。アメリカ側も自動車の関税撤廃は約束していないと交渉トップがコメントしているし、影響試算についても日本が自動車の関税撤廃を見込んで試算しているのは理解できないとアメリカ側は指摘している。

 では、なぜない約束をあることにしなくてはいけないのか。それは約束があることにしないと、アメリカの貿易額の92%を含む協定であるといっているのが、自動車の部分が4割ぐらい抜ければ5割少しに落ち込んでしまう。これは過去に例のない前代未聞の国際法違反協定となる。この点だけでも国会批准はむつかしくなる。

 われわれは差別的なつまみ食い協定の横行が第二次世界大戦までいってしまったという反省から戦後ガットのルールで二国間の自由貿易協定をやるときは、90%以上を含まなければいけないというルールをみんなで一生懸命守ってきた。その結果200ぐらいある自由貿易協定のなかで85%のカバー率を下回る協定はほとんどない状態になっている。そういうなかで日米二国の大きな経済圏が50数%の協定を発効するとなったら、世界の貿易秩序に対する大きな挑戦だ。前代未聞の犯罪行為ともいえる、戦後の世界の努力を無に帰すような事態が生じるわけで、その点をどう考えるのか非常に大きな問題だ。

 それから個別の品目でいうと、アメリカからの日本の牛肉輸入についてはTPP合意にとどめられたという議論があるが、日本は牛肉についての低関税での輸入枠、セーフガードというのをアメリカの分も含めてTPP11で、11カ国に差し出した。61万d。そのなかにアメリカの分が入っていた。それにアメリカと二国でまた24万dを加えてしまったわけだ。だからこれはすでにTPPごえだ。しかもアメリカの24万dについては、それをこえてアメリカが日本に牛肉を持ってきたら、10日間以内に協議を開始してアメリカの枠を増やしていくということをサイドレターで決めていることが後で明らかになった。これは結果的にはアメリカの枠をどんどん増やして、関税9%でアメリカはいくらでも日本に持ってこれることをやっていくということであって、セーフガードのガードにはまったくならないという、大変な事態を招くことになる。

 それから日本からのアメリカへの牛肉輸出は、アメリカが何十万dなのに日本からはわずか200dしか低関税枠がない。それが最大6万dというが、それはほかの国の枠も含めてのことで200d少しこえても低関税でいいよというぐらいの約束にしか見えない。ところがTPP全体のときにはアメリカはその200dの枠も拡大し、いずれはなくして15年後には関税も撤廃すると日本に約束していた。それを完全に反故にされて200dが少し増えるだけになったことが日本の成果だというのは私には理解できない。

 それからコメや乳製品は勝ちとったというが、コメはカリフォルニアの主産物で、トランプ大統領にとってはどう頑張っても負けるカリフォルニアはむしろいじめた方がいいぐらいの形で対応したといわれている。では乳製品の枠はどうかというと、乳製品やその他33品目、TPPワイド枠といってアメリカの分も含めてTPP11の国にすでに譲ってしまっている。TPP水準がそこで日本にとっては実現されてしまっているわけで、アメリカの分がそこに加わればすぐにTPPごえになる。それが回避されたからといって、それはアメリカから見ればTPPマイナスという評価もありうるとは思うが、日本から見ればすでにアメリカの分も含めてTPP11で実現してしまっているので、その点をよく考えないといけないのではないかと思う。

 それから奇妙なことに、今回の協定の日本側の約束内容のなかにアメリカが将来にわたって特恵的な待遇を強く要求すると書かれている。これはアメリカの単なる希望的観測ではなく、日本側の合意内容に書かれているということは大変重要な意味を持つと考える。そもそもアメリカが一度日本から得た合意内容をもういらないというわけがない。すでにコメの団体も酪農の団体も何とかしろといっている。だから、こういうことがこれからすぐに起こる。

 そして自動車のために農業を差し出したわけではないといっているが、交渉官がすでに記者会見で、これから自動車の交渉をするにあたっては、まだ日本の農産物は大分余裕があるので、それをカードに使うといっている。このことは非常に正直だったなと思う。

 それから25%の自動車関税は発動されないというが、本当に約束されたのか。どこにも書いていない。むしろ協定本文には安全保障上の理由で本協定の規定にかかわらずやれるのだと書いている。この意味は大きいと思う。逆にいえばこのような安全保障上の規定が入っているのであれば、日本の方こそ安全保障上の理由で食料の関税障壁はもっと高めるというくらいいい返せばいいではないか。そういうことが問題だ。

 要はEUは25%の自動車関税で脅されても、それは犯罪行為だから許さないといって対抗した。日本はその犯罪行為に対して、いやいやそれは困るからいろいろ出すからうちだけは許してくれという話になったので、どんどんいろいろなものを出されて、中国との関係で余ったトウモロコシまで600億円分尻ぬぐいしなさいといわれてそれまで約束してしまった。どんどん犯罪者にお金を払って許しを請うような形の交渉をやって、そのあげくが日米二国でさらなる前代未聞の犯罪行為、WTO違反協定を今本当にこのままやるのかということになっている。

 ウィンウィンだというが、どこがウィンウィンなのか。農産物だけとってみても、日本側の農産物の関税撤廃率は72%になっている。アメリカ側は明治大学の作山先生が書かれているが、アメリカ側の農産物の関税撤廃率はなんと1%だ。トランプ大統領にとっては、自動車も勝ちとった、日本には撤廃しないということを貫いた、農産物もほしいものはもらった。まさにトランプ大統領の選挙対策としてウィンウィンだ。それに日本が一生懸命協力しているというのが 今の状況ではないだろうか。

 試算についてだが、われわれが政府と同じモデルで再計算した。自動車の関税撤廃がおこなわれなかった場合には日本のGDPの増加率はほぼゼロだ。そして日本の自動車の生産額は800億円くらい減る。そして農産物は最大9500億円ほどのマイナスが出る。数字は正直だ。自動車も農産物もすべて失っている。だからこのような完敗の、完全に日本側が負けているということが明らかな協定を、前代未聞の国際法違反まで犯して批准するという深刻さ。誰のために何のためにこれをやらなければならないのか。そのことをよく考えていただきたい。

 そしてこういうことをやっていると日本の農業は大変なことになる。すでに地域農業は生産構造脆弱化で、もう5年、10年で集落がなくなるところがどんどん増えている。それにこのようなたたみかける自由化をやればなにが起こるか。ここに一つの試算があるが、2035年ぐらいに牛肉や豚肉では自給率が1割台になるかもしれない。こういう状況が目の前に来ている。だからこのように農産物の自由化を進めることは、農家の問題ではあるが、消費者はメリットだ、「安い、安い」といっていると大変なことになる。アメリカの牛肉にエストロゲンは600倍も入っており、成長促進剤のラクトパミンも含め、すべて乳がん、前立腺がんとの関係が強いといわれている。それからBSEにかかっている牛はアメリカでは十分検査がされていないが、日本は5月17日にアメリカ産牛肉を全面解禁した。これが日米協定の最初の成果でもある。遺伝子組み換え食品についてはアメリカからの要請を受けて「遺伝子組み換えではない」という表示を2023年に実質禁止することが決まった。ゲノム編集については10月1日からアメリカの要請を受けて完全に野放しにしている。

 アメリカのトウモロコシ、大豆、小麦に直接かけられている除草剤は、アメリカがもっと振りかけなければいけないといい、日本人の安全基準値をもっと緩めろというのでこれも緩めてしまった。日本では禁止しているイマザリルとかOPPの収穫後農薬も、アメリカから運んでくるときにかけなければならない。これまで食品添加物だということでむりやりそれを認めてきたが、アメリカはその表示義務はアメリカに対する不当な差別だからこれをやめろとTPP交渉のときからいっており、今の日米協定のなかでこの表示を廃止する議論がおこなわれている。

 これだけ見てもリスク満載だ。これを食べ続けることでわれわれは「安い」といっていると、病気になって早く死ぬ。どこが「安い」のか。牛丼、豚丼、チーズが安いといっているうちにどんどん病気が増えて、「いけない」となって、国産の安全な食物を支えなければいけないとなったときに、自給率が1割になっていたらもう手遅れだ。その瀬戸際まできているということを私たちは考えなければいけないのではないか。

 国民の命を守り国土を守るには、どんなときにも安全安心な食料を安定的に国民に供給すること、それを支える農林水産業の持続が不可欠だ。農は国の本なり。そのためには自給率をしっかりと維持していく。これが世界の常識だ。それがどんどん下がって37%まで下がっても、まだ下がってもかまわないと、自給率が死語になろうとしているのが我が国の現状だ。

 アメリカから何兆円も武器を買うだけが安全保障ではない。食を握られることは国民の命を握られ、国の独立を失うことだと肝に銘じて、まさに真の安全保障の一角を担う農林水産業を支える政策を再構築する。このようなとめどない自由化が本当にいいのかということを考えなければいけない。食料がなくなってから、かわりにオスプレイをかじることはできない。

 もう一ついいたいのは、今までの経緯を見ていると、先生方が、あるいは霞ヶ関のみなさんが国会などで発言されたことが現実には後になって違ってくる。そのときに誰も責任をとらなくてもいいというシステムそのものに問題があるのではないかと思っている。「TPPには参加しない」といって参加して、「重要5品目は守る」といって守らなくて、「日米FTAを避けるためにTPP11」だといって今度は日米FTAになった。今回もいろんなことがそうではないといわれているが、本当になったときにはどうやって責任をとるのか。このことについてきちんと責任をとるシステムをつくらないと、その場しのぎの虚偽で次次と悪い段階に物事が進んでいくことを止めることができない。今回のような協定をこのまま承認すれば、アメリカは議会承認が必要ない。日本だけが承認をやって世界から非難されれば、その責任をとるのは国会議員の方方だ。

◇ 内田聖子 (アジア太平洋資料センター共同代表)

 日米貿易協定で一点強調したいのは、TPPからアメリカが脱退したときに日本政府は「米国抜きのTPPは意味がない」といっていた。TPP11の審議の際には「日本は米国をTPPに復帰させる努力をする」といっていた。そして「日米FTAには応じない」という方針を立てていた。これは日本政府のルールベースの包括的なFTAを目指していくという主張にそったものであり、私はこれに賛同するわけではないが、少なくとも当時の政府の主張に論理の一貫性はあった。ところが日米FTAを求めてきてそこに応じてしまった。日本にとって非常に大きな方針の転換になった。このことが国会審議でも深められていないのではないかと思っている。

 つまり日本が「ルールに基づく自由貿易」や「TPPにアメリカに復帰してもらう」などの筋を通すという大義を下ろしたということになる。日米同盟に縛られた関係のなかで日米貿易の交渉が始まっていった。これはそもそも日本が望んでいなかった協定だし、理にもかなっていない。スタートの時点から矛盾の上に立つ協定だと思っている。その矛盾の上に立って交渉した結果、日本の利益はこうだということを後付けのような形で説明されるため、どうしても無理がある。協定の評価そのものもバラバラだと思っている。

 この間、国会審議をインターネット等で見てきたが、事実関係が明らかになっていない。資料や根拠も共有されていない。そしてそちらに時間がとられ過ぎている。今一番考えるべきは、大きな転換をしてしまったのなら、今後日本は激動の時代で、どのような通商政策をとっていくのか、中国との関係も含めてどういう多国間の枠組みをつくるのか、という非常に長期的で本質的な議論だ。それがなされていないのではないかということに懸念を持っている。

 日米貿易協定は最初、TAGといって始まったが、今では誰も使っていない。途中から「物品だけではなくサービスや投資をやる」と漠然とした形で明示された。これは段階方式というが、まず物品をやり、次にその他をやるというのは貿易協定では非常に珍しい異例のやり方だ。どの国にとっても、どの範囲を交渉するのかは非常に重要な基本中の基本だ。例えばWTOでも何を交渉するのかで延延と議論して決まらないという状況があるし、TPPや日本とEUの協定でも、必ず予備交渉をしてなにを交渉範囲にするか定義して交渉に入る。

 ところが物品を批准した後にやるといわれている二段階目の交渉分野はサービスが入るのか、投資や知財が入るのか、さっぱり分からない。非常に不明瞭な状況になっている。これは日本にとって非常に不利な立ち位置にならざるを得ない。二段階の交渉というのは、先にたくさんカードを切ってしまった側が不利になるし、あるいは力関係のなかでねじ込まれ、応じていかざるをえないということがある。日米貿易協定は非常に異例であるし、片務的であり非対称ということがいえる。

 「アメリカの交渉目的」という昨年12月に出た文書をこのたび資料で提示したが、もともとアメリカは包括的なFTAを目指している。トランプ大統領の選挙対策でまずは物品に手をつけているが、そもそもの交渉目的を読むと、TPPをベースにして、さらに「為替操作禁止条項を入れて欲しい」とか、「非市場国排除条項(これは中国をさしている)」などが入っている。TPPをよりアップグレードするものをこの協定で最終的には求めている。

 アメリカが包括的なFTAを目指すのは90年代以降ずっとそうだが、物品だけでは足りず、ルールの部分、非関税部分を求めることによって利益が最大化するからだ。それでアメリカは昨年の交渉前からどの分野をやりたい、どういうふうにやりたいということを明示してきたわけだ。ところが日本はどうかというと、そもそも望んだ協定ではないので、交渉に入る前になにが目的か、なにを獲得するのかということが明文化されていない。

 今回の日米貿易交渉の問題で大きな所は、通商拡大法に基づく高関税措置をアメリカにとらせないことがマックスの目的になったという設定だ。ここでもアメリカとまったく立場が違っている。だから国会ではTPPにアメリカを復帰させるという大義はどこにいったのか、あるいは日本が求めるべき目的は高関税措置を回避するということで良かったのか、ということを基本中の基本として検証いただきたいと強く思っている。

 それからこの交渉はアメリカペースで進み、1月1日に発効を目指すと新聞で書かれているが、この理由がよくわからない。日本でこの協定が1月1日に発効しなければいけない合理的な根拠はない。トランプ大統領の選挙のためではないかと思うが、そのおかげで非常に拙速な審議が国会でもおこなわれている。

 TPPや日EUの頃は、少なくとも合意があってその後影響試算等も出て、議員の皆さんが協定文を一定程度吟味する時間があって、国会審議という流れだった。国民への説明も不十分だが一定程度なされてきた。

 ところが今回は圧倒的に日数も足りず、農業の政策大綱も衆議院の可決が終わった後に出されてしまう。これでは議会の権限や透明性、説明責任、そしてなによりも打撃を受ける農家の方方に対して非常に不誠実ではないかと思っている。国会軽視ということを改めて指摘したい。

 そして協定の中身の問題で気になるのは、自動車の関税引き下げを本当にアメリカが約束したのかということだ。これはWTOの抵触問題だ。国会でも指摘がなされている。WTO違反の問題は九月の合意前後から、アメリカの側でも貿易の専門家や研究者、シンクタンク等ではずっと指摘されている。日米だけでなくEUやその他の国の専門家も同じような指摘をしている。

 もう一つは高関税措置が本当に回避できたのかということに関しても、非常に解釈の余地を残すような文言が共同声明にあり理解もさまざまだ。日本でも政府の見解と違う見解があるし、アメリカでもある。だが概ね「必ずしもトランプ大統領は高関税を課さないと約束したわけではない」という理解で共通していると思っている。

 アメリカの議会や業界団体の受け止めがどうなっているかを紹介したい。同じ事実、確定した事実をもとにそれぞれの国で議論することはやればいいが、どうも事実のところがぼやけてはっきりしない。あるいは日米政府の説明がどうやら食い違っているようだということなので、アメリカではどういう受け止めがあり、どういう議論がされているのかということはわれわれがしっかり知る必要があるという意味で紹介する。

 先週の20日にアメリカの下院歳入委員会の貿易小委員会で公聴会があった。4人の専門家が証言をしたわけだが、その場でもアメリカが自動車や部品の関税撤廃をしていないという証言があった。例えば全米自動車労組の方が明言されている。CSIS(戦略国際問題研究所)の方も「ワシントンはTPPのもとで段階的に削減されるはずだった日本製の自動車への2・5%の関税及び自動車部品の関税を削減することに同意しませんでした」といっている。これは日本政府の説明と真っ向から矛盾している。一体、事実がどこにあるのか、ということを深く検証しなければならないと思っている。アメリカ政府もこの件に関してははっきりした態度を示していない。だから非常に奇妙な構図が生まれていて、日本と米国のそれぞれの専門家や議員、業界団体の方はWTOに違反しているのではないかといって、いろいろな対策も考えている。ところが両国の政府がはっきりとした共通の理解として示していない。

 もしWTO違反であれば、どうしないといけないかというと、そういう協定は結ばない、あるいは中間協定として位置づけるという方法がある。アメリカの側では後付けで中間協定にしてWTO違反を回避する(これは二段階目の交渉を期限も内容も明確化しなければならない)という議論もある。二段階目の交渉については「コメや乳製品をもっと交渉しなければいけない」「自動車の方は関税削減などとんでもない。むしろ日本の非関税障壁を撤廃させて、アメリカの車をもっと日本に売るようにしなさい」などの意見もある。

 熟議が足りていないということを改めて指摘しておきたい。
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/14451
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/812.html#c44

[外国人参政権・外国人住民基本法01] トヨタの為に毒塗オレンジを食べさせられている日本人 _ 日本を農業の無い国にして良いのか? 中川隆
120. 中川隆[-15238] koaQ7Jey 2019年12月01日 10:54:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2310]
日米FTA巡る重大局面 国会で鈴木宣弘教授や内田聖子氏らが参考人として問題を指摘
2019年11月30日

 安倍政府はトランプが要求する1月1日の発効をめざして日米貿易協定承認案の国会審議を猛スピードでおこなっている。審議らしい審議もなく19日には衆院本会議で可決し、参議院に送られた。参議院外交委員会では28日、参考人質疑がおこなわれ、鈴木宣弘(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)、内田聖子(NPO法人アジア太平洋資料センター〈PARC〉共同代表)の両氏が日米貿易協定が日本国民にとってどのような問題点をはらんだものかについて鋭くつっこんだ指摘をおこなった。その要旨を紹介する。こういう重大局面を迎えているにもかかわらず、メディアは「桜を見る会」ばかり騒いで何も報道しない。そして、野党4党は「桜を見る会」を理由に29日からの衆参両院での審議拒否を決め、与党は野党欠席のもとで日米貿易協定承認案を強行採決する構えを見せている。一連の茶番劇のもとで、日本社会にとっての重大案件が国会承認される事態を迎えている。

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◇ 鈴木宣弘 (東京大学大学院教授)

 本協定をめぐる議論には私が思うに事実と異なる点があると思うので、そのような点から所見をのべたい。

 まず一つ大きな点は、アメリカが自動車関税及び部品の関税撤廃を約束したという点だ。日本政府はそのように話し署名した。しかしその後に開示されたアメリカ側の合意内容、英文だけが出ているが、それには今後交渉を続けるとしか書いていない。この英文が関税撤廃を約束したと読めるというのであれば、まったく理解に苦しむ。アメリカ側も自動車の関税撤廃は約束していないと交渉トップがコメントしているし、影響試算についても日本が自動車の関税撤廃を見込んで試算しているのは理解できないとアメリカ側は指摘している。

 では、なぜない約束をあることにしなくてはいけないのか。それは約束があることにしないと、アメリカの貿易額の92%を含む協定であるといっているのが、自動車の部分が4割ぐらい抜ければ5割少しに落ち込んでしまう。これは過去に例のない前代未聞の国際法違反協定となる。この点だけでも国会批准はむつかしくなる。

 われわれは差別的なつまみ食い協定の横行が第二次世界大戦までいってしまったという反省から戦後ガットのルールで二国間の自由貿易協定をやるときは、90%以上を含まなければいけないというルールをみんなで一生懸命守ってきた。その結果200ぐらいある自由貿易協定のなかで85%のカバー率を下回る協定はほとんどない状態になっている。そういうなかで日米二国の大きな経済圏が50数%の協定を発効するとなったら、世界の貿易秩序に対する大きな挑戦だ。前代未聞の犯罪行為ともいえる、戦後の世界の努力を無に帰すような事態が生じるわけで、その点をどう考えるのか非常に大きな問題だ。

 それから個別の品目でいうと、アメリカからの日本の牛肉輸入についてはTPP合意にとどめられたという議論があるが、日本は牛肉についての低関税での輸入枠、セーフガードというのをアメリカの分も含めてTPP11で、11カ国に差し出した。61万d。そのなかにアメリカの分が入っていた。それにアメリカと二国でまた24万dを加えてしまったわけだ。だからこれはすでにTPPごえだ。しかもアメリカの24万dについては、それをこえてアメリカが日本に牛肉を持ってきたら、10日間以内に協議を開始してアメリカの枠を増やしていくということをサイドレターで決めていることが後で明らかになった。これは結果的にはアメリカの枠をどんどん増やして、関税9%でアメリカはいくらでも日本に持ってこれることをやっていくということであって、セーフガードのガードにはまったくならないという、大変な事態を招くことになる。

 それから日本からのアメリカへの牛肉輸出は、アメリカが何十万dなのに日本からはわずか200dしか低関税枠がない。それが最大6万dというが、それはほかの国の枠も含めてのことで200d少しこえても低関税でいいよというぐらいの約束にしか見えない。ところがTPP全体のときにはアメリカはその200dの枠も拡大し、いずれはなくして15年後には関税も撤廃すると日本に約束していた。それを完全に反故にされて200dが少し増えるだけになったことが日本の成果だというのは私には理解できない。

 それからコメや乳製品は勝ちとったというが、コメはカリフォルニアの主産物で、トランプ大統領にとってはどう頑張っても負けるカリフォルニアはむしろいじめた方がいいぐらいの形で対応したといわれている。では乳製品の枠はどうかというと、乳製品やその他33品目、TPPワイド枠といってアメリカの分も含めてTPP11の国にすでに譲ってしまっている。TPP水準がそこで日本にとっては実現されてしまっているわけで、アメリカの分がそこに加わればすぐにTPPごえになる。それが回避されたからといって、それはアメリカから見ればTPPマイナスという評価もありうるとは思うが、日本から見ればすでにアメリカの分も含めてTPP11で実現してしまっているので、その点をよく考えないといけないのではないかと思う。

 それから奇妙なことに、今回の協定の日本側の約束内容のなかにアメリカが将来にわたって特恵的な待遇を強く要求すると書かれている。これはアメリカの単なる希望的観測ではなく、日本側の合意内容に書かれているということは大変重要な意味を持つと考える。そもそもアメリカが一度日本から得た合意内容をもういらないというわけがない。すでにコメの団体も酪農の団体も何とかしろといっている。だから、こういうことがこれからすぐに起こる。

 そして自動車のために農業を差し出したわけではないといっているが、交渉官がすでに記者会見で、これから自動車の交渉をするにあたっては、まだ日本の農産物は大分余裕があるので、それをカードに使うといっている。このことは非常に正直だったなと思う。

 それから25%の自動車関税は発動されないというが、本当に約束されたのか。どこにも書いていない。むしろ協定本文には安全保障上の理由で本協定の規定にかかわらずやれるのだと書いている。この意味は大きいと思う。逆にいえばこのような安全保障上の規定が入っているのであれば、日本の方こそ安全保障上の理由で食料の関税障壁はもっと高めるというくらいいい返せばいいではないか。そういうことが問題だ。

 要はEUは25%の自動車関税で脅されても、それは犯罪行為だから許さないといって対抗した。日本はその犯罪行為に対して、いやいやそれは困るからいろいろ出すからうちだけは許してくれという話になったので、どんどんいろいろなものを出されて、中国との関係で余ったトウモロコシまで600億円分尻ぬぐいしなさいといわれてそれまで約束してしまった。どんどん犯罪者にお金を払って許しを請うような形の交渉をやって、そのあげくが日米二国でさらなる前代未聞の犯罪行為、WTO違反協定を今本当にこのままやるのかということになっている。

 ウィンウィンだというが、どこがウィンウィンなのか。農産物だけとってみても、日本側の農産物の関税撤廃率は72%になっている。アメリカ側は明治大学の作山先生が書かれているが、アメリカ側の農産物の関税撤廃率はなんと1%だ。トランプ大統領にとっては、自動車も勝ちとった、日本には撤廃しないということを貫いた、農産物もほしいものはもらった。まさにトランプ大統領の選挙対策としてウィンウィンだ。それに日本が一生懸命協力しているというのが 今の状況ではないだろうか。

 試算についてだが、われわれが政府と同じモデルで再計算した。自動車の関税撤廃がおこなわれなかった場合には日本のGDPの増加率はほぼゼロだ。そして日本の自動車の生産額は800億円くらい減る。そして農産物は最大9500億円ほどのマイナスが出る。数字は正直だ。自動車も農産物もすべて失っている。だからこのような完敗の、完全に日本側が負けているということが明らかな協定を、前代未聞の国際法違反まで犯して批准するという深刻さ。誰のために何のためにこれをやらなければならないのか。そのことをよく考えていただきたい。

 そしてこういうことをやっていると日本の農業は大変なことになる。すでに地域農業は生産構造脆弱化で、もう5年、10年で集落がなくなるところがどんどん増えている。それにこのようなたたみかける自由化をやればなにが起こるか。ここに一つの試算があるが、2035年ぐらいに牛肉や豚肉では自給率が1割台になるかもしれない。こういう状況が目の前に来ている。だからこのように農産物の自由化を進めることは、農家の問題ではあるが、消費者はメリットだ、「安い、安い」といっていると大変なことになる。アメリカの牛肉にエストロゲンは600倍も入っており、成長促進剤のラクトパミンも含め、すべて乳がん、前立腺がんとの関係が強いといわれている。それからBSEにかかっている牛はアメリカでは十分検査がされていないが、日本は5月17日にアメリカ産牛肉を全面解禁した。これが日米協定の最初の成果でもある。遺伝子組み換え食品についてはアメリカからの要請を受けて「遺伝子組み換えではない」という表示を2023年に実質禁止することが決まった。ゲノム編集については10月1日からアメリカの要請を受けて完全に野放しにしている。

 アメリカのトウモロコシ、大豆、小麦に直接かけられている除草剤は、アメリカがもっと振りかけなければいけないといい、日本人の安全基準値をもっと緩めろというのでこれも緩めてしまった。日本では禁止しているイマザリルとかOPPの収穫後農薬も、アメリカから運んでくるときにかけなければならない。これまで食品添加物だということでむりやりそれを認めてきたが、アメリカはその表示義務はアメリカに対する不当な差別だからこれをやめろとTPP交渉のときからいっており、今の日米協定のなかでこの表示を廃止する議論がおこなわれている。

 これだけ見てもリスク満載だ。これを食べ続けることでわれわれは「安い」といっていると、病気になって早く死ぬ。どこが「安い」のか。牛丼、豚丼、チーズが安いといっているうちにどんどん病気が増えて、「いけない」となって、国産の安全な食物を支えなければいけないとなったときに、自給率が1割になっていたらもう手遅れだ。その瀬戸際まできているということを私たちは考えなければいけないのではないか。

 国民の命を守り国土を守るには、どんなときにも安全安心な食料を安定的に国民に供給すること、それを支える農林水産業の持続が不可欠だ。農は国の本なり。そのためには自給率をしっかりと維持していく。これが世界の常識だ。それがどんどん下がって37%まで下がっても、まだ下がってもかまわないと、自給率が死語になろうとしているのが我が国の現状だ。

 アメリカから何兆円も武器を買うだけが安全保障ではない。食を握られることは国民の命を握られ、国の独立を失うことだと肝に銘じて、まさに真の安全保障の一角を担う農林水産業を支える政策を再構築する。このようなとめどない自由化が本当にいいのかということを考えなければいけない。食料がなくなってから、かわりにオスプレイをかじることはできない。

 もう一ついいたいのは、今までの経緯を見ていると、先生方が、あるいは霞ヶ関のみなさんが国会などで発言されたことが現実には後になって違ってくる。そのときに誰も責任をとらなくてもいいというシステムそのものに問題があるのではないかと思っている。「TPPには参加しない」といって参加して、「重要5品目は守る」といって守らなくて、「日米FTAを避けるためにTPP11」だといって今度は日米FTAになった。今回もいろんなことがそうではないといわれているが、本当になったときにはどうやって責任をとるのか。このことについてきちんと責任をとるシステムをつくらないと、その場しのぎの虚偽で次次と悪い段階に物事が進んでいくことを止めることができない。今回のような協定をこのまま承認すれば、アメリカは議会承認が必要ない。日本だけが承認をやって世界から非難されれば、その責任をとるのは国会議員の方方だ。

◇ 内田聖子 (アジア太平洋資料センター共同代表)

 日米貿易協定で一点強調したいのは、TPPからアメリカが脱退したときに日本政府は「米国抜きのTPPは意味がない」といっていた。TPP11の審議の際には「日本は米国をTPPに復帰させる努力をする」といっていた。そして「日米FTAには応じない」という方針を立てていた。これは日本政府のルールベースの包括的なFTAを目指していくという主張にそったものであり、私はこれに賛同するわけではないが、少なくとも当時の政府の主張に論理の一貫性はあった。ところが日米FTAを求めてきてそこに応じてしまった。日本にとって非常に大きな方針の転換になった。このことが国会審議でも深められていないのではないかと思っている。

 つまり日本が「ルールに基づく自由貿易」や「TPPにアメリカに復帰してもらう」などの筋を通すという大義を下ろしたということになる。日米同盟に縛られた関係のなかで日米貿易の交渉が始まっていった。これはそもそも日本が望んでいなかった協定だし、理にもかなっていない。スタートの時点から矛盾の上に立つ協定だと思っている。その矛盾の上に立って交渉した結果、日本の利益はこうだということを後付けのような形で説明されるため、どうしても無理がある。協定の評価そのものもバラバラだと思っている。

 この間、国会審議をインターネット等で見てきたが、事実関係が明らかになっていない。資料や根拠も共有されていない。そしてそちらに時間がとられ過ぎている。今一番考えるべきは、大きな転換をしてしまったのなら、今後日本は激動の時代で、どのような通商政策をとっていくのか、中国との関係も含めてどういう多国間の枠組みをつくるのか、という非常に長期的で本質的な議論だ。それがなされていないのではないかということに懸念を持っている。

 日米貿易協定は最初、TAGといって始まったが、今では誰も使っていない。途中から「物品だけではなくサービスや投資をやる」と漠然とした形で明示された。これは段階方式というが、まず物品をやり、次にその他をやるというのは貿易協定では非常に珍しい異例のやり方だ。どの国にとっても、どの範囲を交渉するのかは非常に重要な基本中の基本だ。例えばWTOでも何を交渉するのかで延延と議論して決まらないという状況があるし、TPPや日本とEUの協定でも、必ず予備交渉をしてなにを交渉範囲にするか定義して交渉に入る。

 ところが物品を批准した後にやるといわれている二段階目の交渉分野はサービスが入るのか、投資や知財が入るのか、さっぱり分からない。非常に不明瞭な状況になっている。これは日本にとって非常に不利な立ち位置にならざるを得ない。二段階の交渉というのは、先にたくさんカードを切ってしまった側が不利になるし、あるいは力関係のなかでねじ込まれ、応じていかざるをえないということがある。日米貿易協定は非常に異例であるし、片務的であり非対称ということがいえる。

 「アメリカの交渉目的」という昨年12月に出た文書をこのたび資料で提示したが、もともとアメリカは包括的なFTAを目指している。トランプ大統領の選挙対策でまずは物品に手をつけているが、そもそもの交渉目的を読むと、TPPをベースにして、さらに「為替操作禁止条項を入れて欲しい」とか、「非市場国排除条項(これは中国をさしている)」などが入っている。TPPをよりアップグレードするものをこの協定で最終的には求めている。

 アメリカが包括的なFTAを目指すのは90年代以降ずっとそうだが、物品だけでは足りず、ルールの部分、非関税部分を求めることによって利益が最大化するからだ。それでアメリカは昨年の交渉前からどの分野をやりたい、どういうふうにやりたいということを明示してきたわけだ。ところが日本はどうかというと、そもそも望んだ協定ではないので、交渉に入る前になにが目的か、なにを獲得するのかということが明文化されていない。

 今回の日米貿易交渉の問題で大きな所は、通商拡大法に基づく高関税措置をアメリカにとらせないことがマックスの目的になったという設定だ。ここでもアメリカとまったく立場が違っている。だから国会ではTPPにアメリカを復帰させるという大義はどこにいったのか、あるいは日本が求めるべき目的は高関税措置を回避するということで良かったのか、ということを基本中の基本として検証いただきたいと強く思っている。

 それからこの交渉はアメリカペースで進み、1月1日に発効を目指すと新聞で書かれているが、この理由がよくわからない。日本でこの協定が1月1日に発効しなければいけない合理的な根拠はない。トランプ大統領の選挙のためではないかと思うが、そのおかげで非常に拙速な審議が国会でもおこなわれている。

 TPPや日EUの頃は、少なくとも合意があってその後影響試算等も出て、議員の皆さんが協定文を一定程度吟味する時間があって、国会審議という流れだった。国民への説明も不十分だが一定程度なされてきた。

 ところが今回は圧倒的に日数も足りず、農業の政策大綱も衆議院の可決が終わった後に出されてしまう。これでは議会の権限や透明性、説明責任、そしてなによりも打撃を受ける農家の方方に対して非常に不誠実ではないかと思っている。国会軽視ということを改めて指摘したい。

 そして協定の中身の問題で気になるのは、自動車の関税引き下げを本当にアメリカが約束したのかということだ。これはWTOの抵触問題だ。国会でも指摘がなされている。WTO違反の問題は九月の合意前後から、アメリカの側でも貿易の専門家や研究者、シンクタンク等ではずっと指摘されている。日米だけでなくEUやその他の国の専門家も同じような指摘をしている。

 もう一つは高関税措置が本当に回避できたのかということに関しても、非常に解釈の余地を残すような文言が共同声明にあり理解もさまざまだ。日本でも政府の見解と違う見解があるし、アメリカでもある。だが概ね「必ずしもトランプ大統領は高関税を課さないと約束したわけではない」という理解で共通していると思っている。

 アメリカの議会や業界団体の受け止めがどうなっているかを紹介したい。同じ事実、確定した事実をもとにそれぞれの国で議論することはやればいいが、どうも事実のところがぼやけてはっきりしない。あるいは日米政府の説明がどうやら食い違っているようだということなので、アメリカではどういう受け止めがあり、どういう議論がされているのかということはわれわれがしっかり知る必要があるという意味で紹介する。

 先週の20日にアメリカの下院歳入委員会の貿易小委員会で公聴会があった。4人の専門家が証言をしたわけだが、その場でもアメリカが自動車や部品の関税撤廃をしていないという証言があった。例えば全米自動車労組の方が明言されている。CSIS(戦略国際問題研究所)の方も「ワシントンはTPPのもとで段階的に削減されるはずだった日本製の自動車への2・5%の関税及び自動車部品の関税を削減することに同意しませんでした」といっている。これは日本政府の説明と真っ向から矛盾している。一体、事実がどこにあるのか、ということを深く検証しなければならないと思っている。アメリカ政府もこの件に関してははっきりした態度を示していない。だから非常に奇妙な構図が生まれていて、日本と米国のそれぞれの専門家や議員、業界団体の方はWTOに違反しているのではないかといって、いろいろな対策も考えている。ところが両国の政府がはっきりとした共通の理解として示していない。

 もしWTO違反であれば、どうしないといけないかというと、そういう協定は結ばない、あるいは中間協定として位置づけるという方法がある。アメリカの側では後付けで中間協定にしてWTO違反を回避する(これは二段階目の交渉を期限も内容も明確化しなければならない)という議論もある。二段階目の交渉については「コメや乳製品をもっと交渉しなければいけない」「自動車の方は関税削減などとんでもない。むしろ日本の非関税障壁を撤廃させて、アメリカの車をもっと日本に売るようにしなさい」などの意見もある。

 熟議が足りていないということを改めて指摘しておきたい。
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/14451

http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/518.html#c120

[近代史3] アジア東部集団の形成過程

2019年12月01日
アジア東部集団の形成過程
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_2.html


 アジア東部も含めてユーラシア東部集団の形成過程の解明は、ユーラシア西部集団と比較して大きく遅れています。これは、ユーラシアにおいては東部よりも西部、とくにヨーロッパの古代DNA研究がはるかに進展しているためです。これは、近代以降にヨーロッパおよびその派生的文化圏である北アメリカから構成される西洋が覇権を掌握していたことに起因します。近代以降、学術も西洋が主導し、20世紀後半になってアジア(東洋)系の台頭が著しいとはいえ、西洋が確立してきた知の構造は依然として堅牢です。そのため、現代人集団の形成過程についても、まず自分たちの起源であるヨーロッパ、さらに範囲を拡大してユーラシア西部に関心が集中するのは仕方のないところでしょう。さらに、近代化で先行した西洋社会では、開発が進んでおり、それに伴う遺跡発掘の機会が多かったことも挙げられます。また、近代化で先行した西洋社会の方が、治安や政治および社会的安定と統合の点でも東洋社会より恵まれていた、という社会・政治環境も一因となったでしょう。

 こうした人為的要因とともに、自然環境の問題もあります。DNAがどれだけ残存しているかは、年代もさることながら(当然、一般的には新しい年代の方がより多く残る傾向にあります)、環境も重要となり、寒冷で乾燥した気候の方がより多く残りやすくなります。逆に、高温多湿環境ではDNAの分解が進みやすくなります。アジア東部では、たとえば北京は北に位置しており、じっさい冬はかなり寒いのですが、これはシベリア寒気団の影響によるもので、北京の緯度はローマよりも低く、夏の気温はローマより北京の方が高くなっています。当然、たとえばパリはローマよりもさらに気温が低くなります。ヨーロッパ、とくに西部はおおむね、北大西洋海流のため冬は北京よりも暖かいのですが、夏は北京よりも涼しく、この点で北京というかもっと広範囲の華北よりも古代DNA研究に適しています。当然、たとえば上海や広州は北京よりもずっと暑いわけで、この点でもアジア東部はヨーロッパよりも古代DNA研究で不利と言えるでしょう。日本列島も例外ではなく、たとえば札幌でさえ、ローマよりも緯度は高いものの、パリよりは低く、さらに日本列島はおおむね酸性土壌なので、そもそも人類遺骸の長期の残存に適していません。日本列島は非西洋社会としてはかなり早い時期に近代化が進展し、開発とそれに伴う遺跡の発掘が進んだ地域ですが、土壌と気候の点から古代DNA研究に適しているとは言い難いでしょう。

 このように、ユーラシア東部、とくにアジア東部は人為的および自然環境的問題のため、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して古代DNA研究が大きく遅れているのですが、それでも着実に進展しつつあり、とくに中国においては、経済発展とともに今後飛躍的な発展が期待されます。じっさい、アジア東部よりもさらに古代DNA研究に適していない自然環境のアジア南東部でも、4100〜1700年前頃(関連記事)や8000〜200年前頃(関連記事)の古代DNAが解析されています。また、アジア東部の古代DNA研究はまだ遅れているとしても、アジア東部系と遺伝的に近縁なアメリカ大陸先住民集団の古代DNA研究はかなり進展しているので、アジア南東部やアメリカ大陸、さらにはユーラシア西部の古代DNA研究を参照していけば、アジア東部集団の形成過程についても、ある程度は見通しが立てられるのではないか、と思います。以下、アジア東部集団の形成過程について、現時点での情報を整理します。

 出アフリカ系現代人の主要な祖先となった現生人類(Homo sapiens)集団は、出アフリカ後に各系統に分岐していきます。まず大きくはユーラシア西部系とユーラシア東部系に分岐し、後者はパプア人などオセアニア系とアジア東部・南東部・南部系に分岐していきます。現代東南アジア人の形成過程を検証した(関連記事)、以下に引用する研究(McColl et al., 2018)の図で示されているコステンキ(Kostenki)個体(関連記事)がユーラシア西部系を表します(図1)。

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https://science.sciencemag.org/content/sci/361/6397/88/F3.large.jpg


 ヨーロッパ人の形成過程については、中期更新世〜青銅器時代までを概観した(関連記事)以下に引用する研究(Lazaridis., 2018)の図にまとめられています(図2)。

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https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0959437X18300583-gr1_lrg.jpg


 アメリカ大陸先住民集団の形成過程とも関連してくる、シベリア北東部における後期更新世〜完新世にかけての現生人類集団の変容を検証した(関連記事)、以下に引用する研究(Sikora et al., 2019)の図も参考になります(図3)。

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https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-019-1279-z/MediaObjects/41586_2019_1279_Fig2_HTML.png


 分岐していった出アフリカ現生人類系統で注目されるのが、古代シベリア北部集団です。図3で示されているように、古代シベリア北部集団はユーラシア東部系統よりも西部系統の方と近縁ですが、アジア東部集団からも一定の遺伝的影響を受けている、と推定されています。古代シベリア北部集団は、シベリア東部北端に位置する31600年前頃となるヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)の31600年前頃の個体に代表されます。古代シベリア北部集団は、ユーラシア東部高緯度地帯に広範に分布していた、と考えられます。

 シベリア東部において30000年前頃以後、アジア東部集団が拡散してきて、古代シベリア北部集団と融合して新たな集団が形成され、24000年前頃には古代旧シベリア集団とベーリンジア(ベーリング陸橋)集団に分岐します。ベーリンジア集団からアメリカ大陸先住民集団が派生します。古代旧シベリア集団もベーリンジア集団も、アジア東部系統の遺伝的影響力の方がずっと強くなっています(63〜75%)。アメリカ大陸先住民集団は、後に漢人など現代アジア東部集団を形成する系統と30000年前頃に分岐したアジア東部系統を基盤に、古代シベリア北部集団の遺伝的影響も一定以上受けて成立したわけです。

 図2で示されているように、古代シベリア北部集団はヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)経由で現代ヨーロッパ人の形成にも一定以上の影響を残しています。つまり、アメリカ大陸先住民集団は、アジア東部集団と遺伝的に強い関連を有しつつも、現代ヨーロッパ集団とも3万年前頃以降となる共通の遺伝的起源を有しているわけです。ユーラシア西部で見られるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)Xが、現代アジア東部集団では基本的に存在せず、アメリカ大陸先住民集団で一定以上確認されていることから、かつては更新世におけるヨーロッパからアメリカ大陸への人類集団の渡来も想定されました。しかし、ヨーロッパ集団にもアメリカ大陸先住民集団にも遺伝的影響を残した古代シベリア北部集団の存在が明らかになり、アメリカ大陸先住民集団のmtHg-Xは古代シベリア北部集団由来と考えると、人類集団の移動を整合的に解釈できると思います。

 アジア東部集団の形成過程に関する議論において問題となるのは、アジア東部集団においては、mtHg-Xが基本的には見られないように、古代シベリア北部集団の遺伝的影響がほとんど見られない、ということです。もちろん、たとえば中国のフェイ人(Hui)が父系(Y染色体DNA)でユーラシア西部系の遺伝的影響を受けていることからも(関連記事)、現代アジア東部集団にも古代シベリア北部集団の遺伝的影響は存在するでしょう。しかし、フェイ人(回族)におけるユーラシア西部系統の遺伝的影響は父系でも30%程度で、母系(mtDNA)でも常染色体でも、フェイ人は基本的にアジア東部集団に位置づけられます。アジア東部集団は近縁なアメリカ大陸先住民集団よりもずっと、古代シベリア北部集団の遺伝的影響が低い、と言えるでしょう。

 では、31600年前頃にはユーラシア東部高緯度地帯に広範に分布していたと考えられる古代シベリア北部集団にたいして、アジア東部集団はどのような経路でいつアジア東部に拡散してきたのかが問題となります。図1で示した研究(関連記事)を参考にすると、アフリカから東進してきた現生人類集団のうち、アジア南部まで拡散してきた集団が、アジア東部集団の起源だった、と考えられます。ここから、アジア南部もしくはさらに東進して南東部から北上した集団(北方系統)と、南方に留まった集団(南方系統)に分岐します。南方系統は、アジア南東部集団の主要な祖先集団の一部です。現時点で北方系統を表していると考えられるのは、北京の南西56kmにある田园洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性です(関連記事)。ただ、田园男性の集団は現代人にほとんど遺伝的影響を残していない、と推測されています。田园集団と近縁な北方系統の集団は、北上してきた一部の南方系統集団と融合して、アジア東部集団の主要な祖先集団(祖型アジア東部集団)を形成した、と推測されます。そのさいに南方系統の方が北方系統よりも大きな遺伝的影響力を有したようです(およそ4:1の比率)。

 ここで問題となるのは、アジア東部には、大きな分類ではユーラシア東部系ではあるものの、祖型アジア東部集団とは遺伝的にかなり異なる集団がかつて存在し、現代の各地域集団の遺伝的相違にも影響を及ぼしている、ということです。まず、4万年前頃の田园男性がその代表格で、上述のようにその近縁集団が祖型アジア東部集団の形成に関わったと推測されますが、図1で示されているように、系統樹ではアジア東部の他集団と大きく異なる位置づけとされています。類似した位置づけなのが「縄文人」で、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の「縄文人」の高品質なゲノム配列を報告した(関連記事)、以下に引用する研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)の図では、船泊遺跡縄文人(F23)は田园男性ほどではないにしても、他のアジア東部集団とは遺伝的にやや遠い関係にあります(図4)。

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https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase/127/2/127_190415/_html/-char/Graphics/127_190415_9.jpg


 船泊縄文人と遺伝的に比較的近縁な現代人集団は、日本人をはじめとしてウリチ人(Ulchi)や朝鮮人などアジア東部沿岸圏に分布しています。これは、愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」でも同様なので(関連記事)、少なくとも東日本の「縄文人」の遺伝的特徴だったと考えられます。これと関連して注目されるのは、頭蓋形態の研究から、ユーラシア東部には南方系の「第1層」と北方系の「第2層」が存在し、更新世のアジア東部および南東部には日本列島の「縄文人」も含めて「第1層」が広範に分布していたのに対して、農耕開始以降、「第2層」が拡大していった、とする見解です(関連記事)。

 遺伝学と形態学を安易に結びつけてはなりませんが、アジア東部にまず拡散してきた現代人の主要な祖先集団は、アフリカからアジア南東部までユーラシア南岸沿いに拡散し、そこから北上していった、と考えられます。これが「第1層」とおおむね対応しているのでしょう。「縄文人」もその1系統で、おそらくはこの最初期アジア東部集団のうち複数系統の融合により形成されたのではないか、と思います。アジア東部ではおもに日本列島とチベットでしか見られないY染色体ハプログループ(YHg)Dは、この最初期アジア東部集団に由来するのでしょう。ただ、日本のYHg-Dのうちかなりの割合は、「縄文人」に由来しない可能性もあると思います(関連記事)。農耕拡大に伴い、アジア東部ではおおむね「第2層」と対応する祖型アジア東部集団が拡大して遺伝的影響を高めていき、日本列島でも、本州・四国・九州を中心とする「本土」集団では、遺伝的に「縄文人」の影響が弱くなり、祖型アジア東部集団の影響がずっと強くなっていった、と考えられます。

 では、祖型アジア東部集団の農耕開始前の分布範囲はどこだったのか、という問題が生じるわけですが、これはまだ不明です。おそらく、アジア東部でも北方の内陸部に存在していたのではないか、と思います。祖型アジア東部集団に近い古代集団として、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の「悪魔の門(Devil’s Gate)」遺跡の2人が挙げられます(関連記事)。しかし、7700年前頃と推定されている悪魔の門遺跡の2人は現代人ではウリチ人に最も近く、漢人よりも朝鮮人および日本人の方と近縁です。おそら悪魔の門遺跡集団も、最初期アジア東部集団を基盤として、後に拡散してきた祖型アジア東部集団との融合により形成されたのでしょう。祖型アジア東部集団の形成過程と分布範囲については、今後明らかになっていく、と期待されます。


 まとめると、現代アジア東部人の主要な遺伝子源となった集団のうち、アジア東部へ最初に拡散してきたのは、アフリカからアジア南東部へと東進し、そこから4万年前頃以前に北上した最初期アジア東部集団でした。最初期アジア東部集団はアジア東部に広範に存在したと考えられます。「縄文人」は、最初期アジア東部集団のうち複数系統の融合により形成された、と推測されます。一方、最初期アジア東部集団とは別に、アジア南東部もしくは南部から北上してアジア東部内陸部北方に拡散してきた集団(北方系統)が存在し、その集団と、後にアジア南東部から北上してきた集団(南方系統)の融合により、祖型アジア東部集団が形成されました。そのさいに南方系統の方が北方系統よりも大きな遺伝的影響力を有したようです(およそ4:1の比率)。

 祖型アジア東部集団の分布範囲は、アジア東部でも内陸部の比較的北方だったものの北部集団の遺伝的影響をほとんど受けていないと考えられることから、その北限はシベリアよりも南だった可能性が高そうです。祖型アジア東部集団はアジア東部において農耕の拡大にともなって拡散し、遺伝的影響を強めていきました。日本列島もその例外ではなく、弥生時代以降に到来した祖型アジア東部集団系統の遺伝的影響が在来の「縄文人」を上回っていきます。アジア南東部においても、祖型アジア東部集団系統が完新世に2回にわたって南下してきて、一定以上の遺伝的影響を残しました(関連記事)。最初期アジア東部集団の中には、4万年前頃の田园集団のように、現代人にはほとんど遺伝的影響を残していない集団も少なからずあった、と予想されます。

 私はアジア東部集団の形成過程を現時点ではこのように把握しているのですが、上述のように、アジア東部における古代DNA研究がヨーロッパとの比較で大きく遅れていることは否定できません。アジア東部においては、歴史時代においても、魏晋南北朝時代や五代十国時代〜ダイチン・グルン(大清帝国)拡大期などにおいて、ある程度以上の遺伝的構成の変容があった、と考えられます。現時点では、在来集団も拡大集団もともにアジア東部系としてまとめられるかもしれませんが、将来は、アジア東部系もさらに細分化されていくだろう、と予想しています。現時点でのヨーロッパ人の形成に関する研究のように、アジア東部A系統とアジア東部B系統がどのような割合で混合したのか、というような詳しいモデル化も可能になるのではないか、というわけです。ヨーロッパと比較して古代DNA研究の遅れているアジア東部集団の形成過程について、確実な見解を提示できる段階ではまだありませんが、自分が現時点での見解を整理したかったので、まとめてみた次第です。勉強不足のため、今回は考古学の研究成果と組み合わせてまとめることができなかったので、今後はそれも課題となります。
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_2.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/739.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 古代史、人類学、ハプロタイプ、民族学関係投稿リンク 中川隆
51. 中川隆[-15240] koaQ7Jey 2019年12月01日 11:31:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2312]
アジア東部集団の形成過程
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/739.html

 



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/811.html#c51

[昼休み54] 靖国神社に墨汁をまいた中国人男の初公判 弁護側は無罪主張「憲法が保障する表現行為だ」 ネット「パヨク弁護士。アホ理論全… 木卯正一
1. 中川隆[-15239] koaQ7Jey 2019年12月01日 12:45:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2311]
靖国神道は軍人を殺人の前に奮い立たせる為のものであって、信仰ですらないインチキ神道


戦没者は恐ろしいものではないから神にはなれない.従って祭る必要もない.

神道の教義では,神になれるのは日本軍に残虐な殺され方をして,恨みを呑んで死んでいった中国やアジアの人々だけだろうね.


神道というのは原始信仰のアニミズムやトーテミズムをそのまま残した化石的な宗教だ.

アニミズムやトーテミズムでは人格神ではなく,人間に危害を及ぼす様なものはすべて神になる. 神仏習合というのは仏教の仏を神道の沢山いる神の一つにしただけだ.

日本の仏教というのは本当の仏教ではなく,中身は完全に神道で外形だけを仏教から借りただけの代物だ.だから仏教は日本に根付いたが,キリスト教は完全に放逐された.キリスト教は一神教で神道の精神と相容れないからだ.

しかし,靖国は神道の基本精神と合い入れないから,神道とは共存できない.

靖国は軍人を殺人の前に奮い立たせるためのものであって,信仰ですらないからだ.

靖国参拝は殺しの前の儀式行動としてやるものであって,宗教的な行動ではない.

 
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靖国は日本の伝統的な神道から逸脱している。古事記の神道を伝統とすれば、古事記は天皇の祖先神である天照大神を祀る伊勢神宮と、天照大神の子孫が滅ぼした(殺した)大国主命を祀る出雲大社。この二つの神社からなる。天皇は自分たちの先祖よりも、むしろ滅ぼした出雲の方に大きな神社を建てた。


*自分たちが権力を取るために滅ぼした人たちを鎮魂する神社を、自分たちの祖先の神社より大きくつくるのが日本の清清しい伝統であります* 。元寇との戦いでも、鎌倉に戦死した元の人たちを祀る寺をつくっているし、あの虐殺鬼「秀吉」でさえ、朝鮮で殺した人々の耳塚までつくっている。

そういうことを、先の大戦でも行うべきであった。中国や朝鮮、東アジアの人々の犠牲は、日本の犠牲の5倍も多い。1千万人の方々が日本の犠牲となった。伝統的な神道であれば、その人たちの霊を厚く祀るべきなのだ。その人たちの霊を慰めることをしないで、自国の死んだ人たちだけを祀るのはおかしいこと。

靖国は明治の初めの廃仏毀釈とつながっている。廃仏毀釈は仏を廃し神を残したといわれるが、実は神も排斥した。というのは、それと同時に修験道が同時に廃止されているからだ。


修験道は神と仏を結びつけたもの。神仏習合は東大寺を宇佐からやってきた八幡神が祝福したことに始まる。ここで公式に神と仏は習合した。それを助けたのが行基。それが空海によって完成される。そこから修験道が始まる。神と仏が仲良くするのが修験道なのだ。

ところが、その修験道を禁じ、仏を殺し、神を殺して、そのかわり国家を神とする神道が、新しい近代神道として起こった。神道のなかではごく最近のものである。近代日本の国家主義の産物で、他の神仏を殺してしまった。つぶして再度、国家神道の下に神道を統合した。だから、それはほんとうの神様ではない。一木一草のなかに神をみる。これが日本の伝統。そういう神様を全部殺して、天皇と国家を神としたのが国家神道。そういう伝統にあらざる神道を首相が公式参拝して保護するのはどうなのか?

*日本の伝統は犠牲になったものを祀らないと怨霊となって祟りをなす。だからその祟りを鎮めようというもの。アジアの人たちに酷いことをして殺したことが祟りになって日本の前途を危うくする、だからそういう魂を祀るという精神が靖国には皆無だ。これは日本の伝統的神道に欺くことである* 。

靖国は密かに祀る。心の中で祀る。そういう精神にしたらよい。近所に迷惑をかけた以上は近所に対し黙って祀る。目立たないように祀るのが国と国との礼儀だ。日本人とは慎ましやかな民族であるはずなのである。コイズミのように声高に祀るのは、「恥」と云わざるをえない。
http://ch05028.kitaguni.tv/e71190.html


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非業の死を遂げた人 = 自分たちが権力を取るために滅ぼした人

今度の戦争の事でいえば

非業の死を遂げた人 = 日本兵に殺された中国や朝鮮、東アジアの人々


非業の死を遂げた人を祭るのなら日本兵に殺された中国や朝鮮、東アジアの人々を祭るしかない。


靖国神道が古来の神道とは別物のインチキカルト

社の格好をしているから神道の神社だと思ってしまうが、その思想とか教義から見れば道教の土俗型に近いと思います。 祭られている「神」も、道教の「魔」とみれば、神社の解説もすっきり読めますね。 「宮司」も、道教の「陰陽師」と解せば、日ごろの行動まですっきり読めます。

 日本古来の神道の衣を被った道教の廟ということでしょう。
http://www.asyura.com/0601/dispute24/msg/192.html


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宗教史や民俗史を学んできた者にとっては、靖国神社という存在が、幕末から明治期にかけての国学者たちによってデッチ上げられた、本来の意味での神道的信仰とはかけはなれた存在であるということは常識です。

日本古来の伝統文化とは縁もゆかりもない「奇形」と言ってもいい存在です。そもそも、日本古来の伝統文化の最大の「破壊者」が、明治政府であるということもあまり知られていません。(明治期の政府による廃仏毀釈運動によって、75%以上の寺院が破壊された)

つまり、靖国神社とは、我々、宗教史家たちがこよなく愛する日本の伝統文化(純粋な意味での神道、仏教、儒教、その他の民間信仰)を、非道にも破壊しつくした果てに誕生した、国家イデオロギー装置でしかありえないのです。

つまり、靖国を伝統文化論の立場から擁護するのは完全なる誤りであるといえます。
http://pacolog.cocolog-nifty.com/pacolog/2005/08/post_aca5.html


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靖国神社は教義もかたまっていない新興宗教ですから、道教といふのもおかしいインチキカルトでしょう. 靖国神社が おかしいのに全く気付かないのはクリスマスを祝い,仏教の僧に葬式をやってもらう日本人ならではですね. 本当の仏教は葬式をやらない宗教なのです. 京都や奈良の本物の仏教寺院で葬式をやってますか?

靖国参拝は仏教徒がクリスマスを祝うのと同じ類ですね.

招魂教(靖国神社)はテロリストのための新興宗教である。

招魂教の起源は1862年の「殉難の志士の霊祭」、1863年に福羽美静が八坂神社に建てた小祠に由来する。

招魂祭は死者の魂を呼び寄せて生者の魂を奮い立たせる儀式。

招魂と慰霊とは全く異なる
慰霊は魂を慰め鎮めること。(魂鎮、たましずめ)。
招魂は死者の魂を呼び寄せて生者の魂を奮い立たせること。(魂振、たまふり)。

>魂鎮(たましずめ)、
>魂振(たまふり)
>「たましずめ」は、魂を身体の中府に鎮めること。「たまふり」は衰弱した魂を呪物や体の震動によって励起すること。


下記の記事の中で「陣中の一時的な招魂祭」とあることに注目。招魂祭は、戦闘に赴く兵士に、戦死者の荒ぶる魂を招き入れて、兵士の戦闘意識を高める宗教儀式だったことがわかる。

招魂教の精神は特攻隊という自爆テロの元祖を生んだ。

靖国は神道とは全く別物の新興宗教である

本当の神道は魂鎮(たましずめ)の宗教であり、戦争においては敗者となった敵の魂を鎮めることのほうに力点が置かれていた。

靖国には神道的な背景(魂振)もある。しかし、戦闘中に死んだ死人の魂を招き入れることによって、生者の魂振を行うというような発想は神道の伝統にはなかった。


>各地の招魂社(護国神社)で行われていた忠死霊の招祷祭も「招魂祭」と呼ばれますが、招魂社成立以前の神道の儀式としての「招魂祭」というのは思い当たりません。なお、陰陽道では、災厄の源となる怨霊などを鎮めて息災を祈る祭儀を招魂祭と称しており、これについては古来の記録も多数残っています。

当事者も神道だとは思っていなかったようだ。

>なぜ「神社」となったのか。国学院大学の阪本是丸教授(近代神道史)によると、最大の要因は「神官設置問題」であった。陸軍省によって「社格」などは念頭外で、ただ「神官を置いて神社らしくしたい」と願っただけだという(阪本『国家神道形成過程の研究』)。それ以前は正式な神社ではなかったから、神官も置かれず、財政困難を強いられていたらしい。

靖国神社を所轄していた陸軍省にとっては神道の魂鎮(たましずめ)の伝統を持ちこまれては、迷惑千万といったところだろう。

招魂教はテロリストや軍隊のための宗教であり、日本列島の人々が信仰してきた神道とは別物である。戦前の行政上の管轄の扱いでもそうなっていた。
http://www.asyura.com/0304/bd25/msg/514.html


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靖国参拝の件について、ASREADのサイトで、川端祐一郎氏が素晴らしい論考を書いていますので、是非、お読みください。

http://asread.info/archives/332

前回、安倍総理の靖国参拝が悪い結果をもたらす場合を四つ、例示しましたが、
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/01/01/korekiyo-77/


川端氏の論考を読んで、うかつにも、もう一つ、ありそうな重大な結果を見落としたことに気付きました。

それは

5)靖国参拝の意味が変わってしまう場合

です。

前回、申し上げましたが、靖国神社は「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝える」ための場所であり、英霊を慰めるとは「日本を守るために、よくぞ敵と戦ってくださいました。私も、日本を守るために戦う覚悟です」と誓うことです。

だから、我が国の領土である尖閣を狙っている「敵」である中国が、総理の靖国参拝に猛反発するのは、当たり前。

ところが、川端氏によれば、参拝に賛成する論者の間ですら、靖国参拝の意義を単なる「慰霊」「哀悼」「鎮魂」で済ましている傾向があるというのです。

確かに靖国神社を、単なる追悼施設と位置付けたり、あるいは「冥福を祈る」とか「世界平和を願う」場所にしたりしてしまえば、政治的な摩擦も少なくなるので、参拝しやすくなるだろうし、それに中韓米が反発する方がおかしいと反論しやすくもなるでしょう。

ですが、靖国は、そういう場所ではありません。

靖国参拝の意味を歪めてまで参拝して、それで英霊を慰められるわけがありません。参拝すりゃいいってもんじゃないでしょう。それでは、反発している中国の方が、靖国参拝の本当の意味を理解しているってことにすらなりかねない。これこそ、最悪のケースです。

もっとも、政治家が海外に対して説明する場合には、言い方に気をつかって、言葉を多少丸めざるを得ないという事情は勘案してもいいとは思いますが、でも、我々一般の日本国民は、あくまでも「靖国神社は単なる追悼施設ではなく、外国の反発を覚悟してでも参拝しなければならない特別な場所なんだ」としっかり認識しておくべきだと思います。

その意味で、総理談話の

「本日、靖国神社に参拝し、国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました」

という箇所は、「ご冥福を」さえなければ、異論はありません。ポイントは「国のために戦い」と「尊崇の念を表し」です。

他方で、私は原理主義者じゃあないんで、前回申した政治家の「責任倫理」の観点から、総理の靖国参拝が国益を大きく損なう結果が起きる可能性が高いのなら、やむなく参拝しないという現実主義的な選択肢も十分ありだったと思います。現在、東アジア情勢が、冷戦終結以降最悪といっていいレベルにまで不安定化しているからです。

したがって、もし私が官房長官だったとして、12月26日の朝に総理から参拝を告げられたら、こう言って、止めてましたね。

「総理、お気持ちは十分に分かりますが、しかしながら、このタイミングでは、中国に軍拡の口実を与え、米国の不信を招くリスクがあるので、お控えくださいませんか。特に今日は、調べたところ、毛沢東生誕120周年の日だとかで、中国を刺激しすぎます。いずれ誰にも遠慮することなく靖国参拝できる国にすべく、今は、臥薪嘗胆、富国強兵に努める時と存じますので、なにとぞご辛抱ください。それから話は変わりますが、竹中平蔵はクビにすべきかと。」

でも、もし総理にこう返されたら、総理の判断に従ったと思います。

「確かに今日はまずいが、だが日を改めて参拝させてくれ。
君の言うリスクも分からないではないが、しかし、中国は、参拝の有無とは無関係に、機が熟したら、必ず尖閣を獲りに来るだろう。

そして米国には、参拝と関係なく、どうせ日本を守る気も力もないのだ。
ならば、いずれ自衛隊の諸君は、尖閣を守るべく、戦いに赴くことになる。
その際、一国の指導者が英霊を祀ることもできないようでは、自衛隊の士気にかかわるのではないか。

むしろ情勢が不穏な今だからこそ、私が参拝を決行してみせ、日本人の独立自尊の精神を取り戻すことが大事なのだ。
それと、話は変わるが、竹中はクビだ。」

他方、もし総理にこう言われたら、即刻、辞表を提出します。

「はあ?そんなリスク、ないない。TPPに参加するんだから、米国が中国から尖閣を守ってくれるに決まってるじゃん。もはや、国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました。バイ、マイ、ヘイゾーノミクス!」
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/01/08/korekiyo-78/


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2016.08.15
終戦勅語が放送された8月15日に行う政府のセレモニーで追悼されるのは侵略の手先になった人びと

第2次世界大戦で日本が降伏したのは1945年9月2日のこと。

この日、政府全権の重光葵と軍全権の梅津美治郎が東京湾内に停泊していたアメリカの戦艦、ミズーリ号で降伏文書に調印したのである。8月15日は「玉音放送」、あるいは「終戦勅語」と呼ばれている昭和天皇の朗読がラジオで流された日にすぎない。

その放送を記念し、毎年、8月15日に日本政府は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」なるセレモニーを行っている。大戦で戦死した旧日本軍の軍人と軍属約230万人と空襲などで死亡した市民約80万人が追悼の対象で、日本が侵略した国々の犠牲者は無視されているようだ。

 8月15日には「靖国神社参拝」というセレモニーを行う議員もいる。単独で行動できないのか、尾辻秀久を会長とする「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」という集まりも存在、そこには安倍晋三、甘利明、石破茂、稲田朋美、衛藤晟一、平沼赳夫、原口一博、小沢一郎らも含まれている。

 この靖国神社は1869年の創建。当初の名称は「招魂社」だったが、1879年には現在の名称に変更され、第2次世界大戦に日本が敗れるまでの所轄は陸海軍省だった。日本軍と一心同体の関係にあったわけだ。最初に祀られているのは、戊辰戦争や西南戦争において薩摩藩や長州藩など(新体制)の側で戦死した人びとから始まり、第2次世界大戦で戦死した人びとまで。

 こうした歴史があるため、日本が降伏して連合国に占領されていた時期、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の内部では、将校の多数派が靖国神社の焼却を主張したという。これを阻止したのがイエズス会のブルーノ・ビッテル(ビッター)とメリノール会パトリック・J・バーン、ふたりのカトリック司祭だったとされている。

 前にも書いたように、ビッテルは1898年にドイツで生まれ、1920年にイエズス会へ入り、アメリカで過ごしてから1934年に来日している。ニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だとされているが、この枢機卿はCIAと教皇庁を結ぶ重要人物。CIAはアメリカの巨大金融資本と密接な関係にある機関であり、関東大震災からアメリカでフランクリン・ルーズベルトが大統領になる直前までの機関、日本がウォール街に君臨していたJPモルガンの強い影響下にあったことを考えれば、当然のことだろう。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608150000/

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2019.02.09
【靖国神社】日本のおかげで植民地が独立したという構図
【韓国・北朝鮮は「独立」していないトンデモ説を披見】
https://rondan.net/7720
Contents
1 日本のおかげでアジアは白人支配から独立した!
2 第二次世界大戦後の各国独立
3 韓国と北朝鮮は独立していないという妙技


日本のおかげでアジアは白人支配から独立した!

大東亜戦争(アジア太平洋戦争)は、建前上は白人列強の植民地支配からアジアを解放し、大東亜共栄圏を建設する聖戦である、と今も昔も吹聴され続けています。

歴史を振り返ると、日本は戦争に敗れ大東亜共栄圏建設の夢は破れたわけですが、その敗北を受け入れられないのか「確かに太平洋戦争に負けても、その後、植民地は解放されたから大東亜戦争には勝った」的な逆ギレ理論が度々確認されます。

例えば、ヘンリー・S・ストークス氏の『大東亜戦争は日本が勝った』(ハート出版, 2017)は、タイトルからしてこれを示しているでしょう。


ところで、靖国神社に併設される博物館「遊就館」においてもこれと同じ逆ギレ理論が確認されます。


第二次世界大戦後の各国独立

遊就館の戦後コーナーにも次のようなパネルがあり、大東亜戦争におかげでアジア民族が独立したと言わんばかりの主張がなされています。


日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。

アジア民族に独立が現実になったのは、太平洋戦争緒戦の日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることは無く、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。
『靖國神社 遊就館 目録』靖国神社, 2008, p. 107.



そして、第二次世界大戦後に独立した各国を、その時期に応じて色分けして次のような地図を提示します。

https://rondan.net/7720
『國神社 遊就館 目録』靖国神社, 2008, p. 107.


アフリカの独立は全く無関係だろとツッコまずにはいられませんが、それよりも韓国と北朝鮮に色がついていないところがツボですね。


韓国と北朝鮮は独立していないという妙技

などと思いながら目を近づけて目録をよく見た所、すごい事実が判明しました。
拡大して比較したものを下にあげましたので、よく見比べてみてください。


https://rondan.net/7720
『靖國神社 遊就館 目録』靖国神社, 2008, p. 107.


そうです。東南アジアとアフリカの諸国は「独立」なのですが、韓国と北朝鮮だけは「成立」なのですね。何なのでしょかこの差は…。

「大韓帝国」を独立国と見做していて、日本は植民地支配などしておらず、したがって独立などしていないと言いたいのでしょう。それとも、いまでも朝鮮半島は日本の植民領土で、独立などしていないと主張したいのかもしれません。

そんな恐ろしい靖国史観の一端でした…。

https://rondan.net/7720

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2019.02.09
【トンデモ】靖国英霊と我々はテレパシーで繋がっている
(武田邦彦|別冊正論33『國神社創立150年:英霊と天皇御親拝』「國に英霊はおられるか―の科学的結論」2018)
https://rondan.net/8989


Contents

1 宗教と科学
2 Y遺伝子論の曲解
3 テレパシーによって繋がっている
4 ルイセンコ主義?
5 日本スゴイ論
6 おまけ


宗教と科学

「科学的に証明された」などと言われると、客観的かつ普遍的にその正しさが証明されたような気がします。

中世において、自然科学の仮説が得られると、聖書と照らし合わせてその真正性が審議されました。たとえば地動説は、聖書の記述(天動説)に合致しないとして迫害されました。

近代になり啓蒙主義が起こると、宗教が権威を失うとともに、自然科学が権威を増しました。このため、現代では、自然科学を用いて宗教の真正性を証明しようとする動きもあります。

しかし宗教と自然科学はもともと異なる学問体系に属するため、この両者の親和性は極めて悪く、得てしてトンデモ説(いわゆる疑似科学)になりがちです。

今回はそのようなトンデモの一つ、靖国神社に祀られた英霊と、現代の我々がテレパシーによって繋がっているという説を紹介したいと思います。具体的には、武田邦彦 「靖國に英霊はおられるか―の科学的結論」『國神社創立150年:英霊と天皇御親拝』(別冊正論33, 産経新聞社, 2018)を取り上げます。

Y遺伝子論の曲解

保守にとって靖国神社はナショナリズムの牙城であり、その存在意義を確立することは重要な使命の一つです。

ところで虎ノ門ニュースなどで大活躍中の武田邦彦氏は、本職が科学者であるらしく、「科学」という観点から、天皇のありがたさ、靖国英霊の重要性を主張します。

まず天皇が万世一系の男系でなければならない根拠は、Y染色体論(男系に継承される遺伝情報)が採用されます。つまり、神武天皇から今上天皇に至るまで、同一のY染色体が受け継がれているというのです。

しかしこの説明がともかくオカシイ。


現在の象徴天皇の男性としてのY遺伝子は、神武天皇と全く同一である。つまり、今上陛下の男性としてのご性質・人格は神武天皇と全く同じである。

「男性としてのご性質・人格」という言葉をどの様な意味で用いているのか解りませんが、暴論であることは間違いないでしょう。というか、この理論を適用するならば、ヘイトスピーチのかどでYoutubeをBANされた竹田恒泰氏も、今上陛下も同じ性質・人格を持っていることになりますが、私には両者の性質・人格が同一であるとは到底思えません。

さらにトンデモは加速。



天皇と国民の身分の差、遺伝子の差はあまりにも広いために、天皇家と国民という二階級しか形成されず、支配的地位に就いた国民もその時々の臨時なものであり、いつでも交代するという下克上もあり得る社会を作り出した。


遺伝子の差を要因に階級を論じるという、人種差別そのものの発言。武田氏の理解によれば、先天的な要因によってその人の身分が決められるとお考えのようです。

テレパシーによって繋がっている

疑似科学で天皇のありがたさを垂れ流した後、武田氏は靖国神社に祀られている英霊と、現代の我々とに繋がりがあると説きだします。



私たちの肉体と精神は、今も國神社に祀られている人たちからの遺伝子、テレパシーで存在し、それで生を享け、人生を送っているのだ。


テレパシーによって英霊と我々が繋がっているそうです…。

このテレパシーのたとえも酷い。スマホによる切符予約を持ち出して次のよう説明します。


スマホを使って鉄道の改札機前で切符を予約し、数秒後に改札を通ると予約した切符が出てきて改札ゲートが聞く。これを「常識」で説明できる人はいないだろう。
「テレパシー」も同じで、遠くに離れて暮らすわが子の苦悩を感じられる母親がいる。「そんなことウソだ」と言っても、現在では光より早い通信手段が実験的にも見出されている。六十兆個の細胞同士の通信も存在するのだから、人間同士のテレパシーを否定する方が非科学的である


いくらでも「常識」で説明できる人はいると思うのですが、この人、本当に科学者なのかと疑うくらいの無知さです。きっと携帯電話で通話できることも、この人にとっては常識外の現象なのでしょう。

「光より早い通信手段」というのも、一体何を指しているのか解りませんが、疑似科学そのものでしょう。

ルイセンコ主義?

武田氏によるこのテレパシー論は、「ミーム」「ミラーニューロン」「アフォーダンス 」といった聴き慣れない言葉を駆使して説明されています。

どうやら、武田氏はルイセンコ主義(獲得形質遺伝)とよく似た思想をお持ちのようです。

このルイセンコ主義とは、キリンの首が長いの理由は、自然淘汰の結果ではなく、先祖代々高いところにある餌を食べているうちに「長い首」という遺伝情報を獲得したからであると解釈する疑似科学の一つです。

武田氏も過去の祖先の行いが、様々な形で現代の我々に影響を与えていると言います。



私の体もDNAも、命を捧げてくれた先人からいただいたものであり、先人とは今でもテレパシーでつながり、それがミーム、ミラーニューロン、そしてアフォーダンスとなって私自身を形成している。

生物は遺伝子以外にも様々な「非遺伝的形質、性質の獲得」や周囲環境からの「身体や性質に及ぶ直接的影響」を受ける。たとえば、ミーム(文化的遺伝子)による約三百年前からの共通情報の保有、ミラーニューロン(大脳の脳神経細胞構造)の類似性、アフォーダンス(環境からの人体や性質への直接的な働きかけ)などによって「非遺伝的共通性」を有する

さらに、現世の人間同士だけでなく、現世の人間と過去の人間、人間と自然の聞にも未解明の通信手段がある。それが、先述したミーム、ミラーニューロン、アフォーダンスと呼ばれる連絡である。


ここまでくると、なんだかサイエントロジーのパンフレットを読んでいるみたいですね…。

日本スゴイ論

この様に武田氏は、過去の日本人の行動が、テレパシーによって現代の私たちの存在そのものを規定していると考えています。

この理論に従うと、過去の日本人がスゴくないと、現代の日本人もスゴくなくなってしまいます。そこで武田氏は過去の日本を持ち上げまくり、これを靖国と結びつけます。



人類史上、初めて達成した諸国民の独立と平等!
この輝かしい偉業を自らの生命をかけて成し遂げた人たちが、今、國に祀られている。
私たち日本人は、人類の平等のために命を捧げた人たちを祀る場所を持っていることに誇りを持ち、外国の方が日本を訪れた時には、この三千年に及ぶ歴史と英霊の偉業を説明し、まずは國神社にお参りすることを勧めるのがもっとも大切なことだ。


大東亜戦争はアジア民族独立の聖戦だったから、当時の英霊はスゴイ、それとテレパシーで繋がっている日本人もスゴイ()

しかし日本の歴史が三千年に及ぶって、もしや天照大神から数えているのでしょうか? また外国の方に、英霊の偉業を説明することが大切だと言っていますが、結局、武田氏の英霊の偉業って特攻なんですよね。次の通り。



戦争中、もっとも高貴に命を捧げたのが特別攻撃隊(特攻隊)だった。特攻こそが軍隊の魂であり、もっとも正しい戦い方である。


特攻が「もっとも正しい戦い方である」って、終戦間際のヤケクソ記事みたいなことを現代になっても言ってしまうとは…。きっと武田氏の価値観は、今でも大戦下なんでしょう。

この人が為政者になって戦争になったら平然と特攻させるんだろうなぁと思うと恐ろしいことです。

こんな靖国擁護論は、逆に保守のトンデモさを際立たせているだけだと気が付かないのでしょうか?

というか、「百万歩譲って仮に武田の言う通り、英霊と俺らテレパシーで繋がってんのなら靖国参拝しなくていいじゃん」(by GEISTE)ってことになるのですが、そういう疑問は浮かばないのでしょうか?

おまけ

保守論壇の宿命か、武田氏はちゃんとインテリ層批判も忘れてはいません。



日本社会党に由来する政党や日本共産党、日教組、東大法学部教授、朝日新聞などがその典型だが、不完全な大脳と狭い了見しか持たず、日本人が世界的な偉業を達成したのが理解できない。

しかし「不完全な大脳」しか持っていないって、差別感情剥き出しですね…。


コメント

pipisan より: 2018年12月21日 11:03 PM

武田邦彦に箔を付けた名古屋大学の責任は重い。
旭化成を引退して芝浦工大の教授で終わっていればこんなことにならなかった。

こいつの招聘を決めた名古屋大の工学部長はアホである。
結局、何も実績を残さずに同じ愛知県内の中部大学に行って、地元民放を中心に言いたい放題コメンテーターになって、その揚げ句が今の状態だ。

武田の名古屋大学以降の研究実績は、ゼロと言っていい。
いまだに地上波(中部日本放送)でも出演している。
そして大学のブランディング(というか生徒募集の生き残りで必死の事業)にいそしむEだかFだかランクの中部大は、あろうことか武田を特任教授にしてしまった。他にもノーベル賞候補リストに載っている研究者もいるのに。たぶん、その2氏は武田のせいもあって絶対にプライズを取れないだろう。武田は死ぬまで中部大の特任教授で、元名古屋大学大学院工学部教授になってしまったわけだ。

山本弘が徹底批判した「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」は、百田同様に出典を明示しないパクリ、誤用、捏造、妄想が満ちあふれている。にもかかわらず、武田を講演会に呼んで、放射線対策を考えたいという右や左の市民団体(というかアタマの程度が下)がまだいっぱいいる(右派左派双方から問い合わせを受けた。下の方の人の相手は面倒なので「知らない」と答えた)。

百田と武田は同じインチキでのしあがってきた、売れるためには何をやってもいいと思っている屑だ。
そして日本国民の一定数は、そんなもんに騙される阿呆だと思っている。

https://rondan.net/8989



2. 中川隆[-11284] koaQ7Jey 2019年3月22日 14:07:57: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[722] 報告
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僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。
 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。


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比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html


2019年度の寺子屋ゼミは「比較敗戦論」を通年テーマにすることにした。

どうしてこのようなテーマを選ぶことになったのか。それについて姜尚中さんとのトークセッションで語ったことがある。
そのときの講演録を再録しておく。講演があったのは2016年

敗戦国は日独だけではない

 今回の「比較敗戦論」というタイトルは、問題提起という意味でつけました。特に僕の方で用意した結論があるわけではありません。ただ、歴史を見るときに、こういう切り取り方もあるのだというアイディアをお示ししたいと思います。

「比較敗戦論」という言葉は『永続敗戦論』(太田出版 二〇一三年)の白井聡さんと対談をしまたときにふと思いついたのです(この対談はその後、『日本戦後史論』(徳間書店、二〇一五年)という本にまとまりました)。

『永続敗戦論』での白井さんの重要な主張は「日本人は敗戦を否認しており、それが戦後日本のシステムの不調の原因である」というものでした。「敗戦の否認」というキーワードを使って、戦後七〇年の日本政治をきわめて明晰に分析した労作です。

ただ、僕が思ったのは、白井さんと話をしていて、日本人が戦後七〇年間にわたって敗戦経験を否認してきたということは全くご指摘の通りなんだけれども、日本以外の敗戦国ではどうなのか、ということが気になりました。日本以外の他の敗戦国はそれぞれ適切なやり方で敗戦の「総括」を行ったのか。その中で日本だけが例外的に敗戦を否認したのだとすれば、それはなぜなのか。そういった一連の問いがありうるのではないかと思いました。

白井さんの言う通り「敗戦の否認」ゆえに戦後日本はさまざまな制度上のゆがみを抱え込み、日本人のものの考え方にも無意識的なバイアスがかかっていて、ある種の思考不能状態に陥っていること、これは紛れもない事実です。でも、それは日本人だけに起きていることなのか。他の敗戦国はどうなっているのか。多の敗戦国では、敗戦を適切に受け容れて、それによって制度上のゆがみや無意識的な思考停止を病むというようなことは起きていないのか。よく「ドイツは敗戦経験に適切に向き合ったけれど、日本はそれに失敗した」という言い方がされます。けれども、それはほんとうに歴史的事実を踏まえての発言なのか。

まず僕たちが誤解しやすいことですけれど、第二次世界大戦の敗戦国は日独伊だけではありません。フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイ、これらは連合国が敵国として認定した国です。それ以外にも、連合国がそもそも国として認定していない交戦団体として、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア自由国、満州国、中華民国南京政府があります。これだけの「国」が敗戦を経験した。でも、僕たちはこれらの敗戦国で、人々が敗戦経験をどう受け容れたのか、どうやって敗戦後の七〇年間を過ごしてきたのかについて、ほとんど何も知りません。例えば、「フィンランド国民は敗戦をどう総括したか」というような研究は、フィンランド国内にはしている人がいるのでしょうけれど、僕はそれについての日本語文献のあることを知らない。でも、「敗戦の否認」という心理的な痼疾を手がかりにして現代日本社会を分析するためには、やはり他の敗戦国民は自国の敗戦をどう受け止めたのか、否認したのか、受容したのかが知りたい。敗戦の総括をうまく実行できた国はあるのか。あるとしたら、なぜ成功したのか。敗戦を否認した国は日本の他にもあるのか。あるとしたら、その国における敗戦の否認は、今その国でどのような現実を帰結したのか、それを知りたい。「敗戦の否認」が一種の病であるとするなら、治療のためには、まず症例研究をする必要がある。僕はそんなふうに考えました。


フランスは果たして戦勝国なのか

 このアイデアには実はいささか前段があります。枢軸国の敗戦国というと、ふつうは日独伊と言われます。けれども、フランスだって実は敗戦国ではないのか。僕は以前からその疑いを払拭することができずにいました。

ご承知の方もいると思いますが、僕の専門はフランス現代思想です。特にエマニュエル・レヴィナスというユダヤ人哲学者を研究してきました。その関連で、近代フランスにおけるユダヤ人社会と彼らが苦しんだ反ユダヤ主義のことをかなり長期にわたって集中的に研究してきました。そして、そのつながりで、19世紀から20世紀はじめにかけてのフランスの極右思想の文献もずいぶん読み漁りました。

 僕がフランスにおける反ユダヤ主義の研究を始めたのは1980年代のはじめ頃ですが、その頃フランスの対独協力政権、ペタン元帥の率いたヴィシー政府についての研究が続々と刊行され始めました。ですから、その頃出たヴィシーについての研究書も手に入る限り買い入れて読みました。そして、その中でも出色のものであったベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』(国文社、一九八九年)という本を翻訳することになりました。これはフランスが実はファシズムと反ユダヤ主義というふたつの思想の「母国」であったという非常に挑発的な内容で、発売当時はフランスでは大変な物議を醸したものでした。

 歴史的事実をおさらいすると、一九三九年九月にドイツのポーランド侵攻に対して、英仏両国はドイツに宣戦布告します。フランスはマジノ線を破られて半年後の六月にフランスは独仏休戦協定が結ばれます。フランスの北半分はドイツの直接統治領に、南半分がペタンを首班とするヴィシー政府の統治下に入ります。第三共和政の最後の国民議会が、ペタン元帥に憲法制定権を委任することを圧倒的多数で可決し、フランスは独裁制の国になりました。そして、フランス革命以来の「自由、平等、友愛」というスローガンが廃されて、「労働、家族、祖国」という新しいファシズム的スローガンが掲げた対独協力政府ができます。

フランスは連合国に対して宣戦布告こそしていませんけれども、大量の労働者をドイツ国内に送ってドイツの生産活動を支援し、兵站を担い、国内ではユダヤ人やレジスタンスを行いました。フランス国内で捕らえられたユダヤ人たちはフランス国内から鉄道でアウシュヴィッツへ送られました。

 対独レジスタンスが始まるのは1942年くらいからです。地下活動という性質上、レジスタンスの内実について詳細は知られていませんが、初期の活動家は全土で数千人規模だったと言われています。連合国軍がノルマンディーに上陸して、戦局がドイツ軍劣勢となってから、堰を切ったように、多くのフランス人がドイツ軍追撃に参加して、レジスタンスは数十万規模にまで膨れあがった。この時、ヴィシー政府の周辺にいた旧王党派の準軍事団体などもレジスタンスに流れ込んでいます。昨日まで対独協力政権の中枢近くに人たちが、一夜明けるとレジスタンスになっているというようなこともあった。そして、このドイツ潰走の時に、対独協力者の大量粛清が行われています。ヴィシー政権に協力したという名目で、裁判なしで殺された犠牲者は数千人と言われていますが、これについても信頼できる史料はありません。調書もないし、裁判記録もない。どういう容疑で、何をした人なのか判然としないまま、「対独協力者だ」と名指されて殺された。真実はわからない。

アルベール・カミュは最初期からのほんもののレジスタンス闘士でしたけれど、戦後その時代を回想して、「ほんとうに戦ったレジスタンスの活動家はみな死んだ」と書いて、今生き残って「レジスタンス顔」をしている人間に対する不信を隠そうとしませんでした。このあたりの消息は外国人にはなかなかわかりません。

シャルル・ド・ゴールもその回想録の中で、ヴィシー政府壊滅後のフランス各地の混乱に言及して、「無数の場所で民衆の怒りは暴力的な反動として溢れ出した。もちろん、政治的な目論見や、職業上の競争や、個人的な復讐がこの機会を見逃すはずもなかった」と証言しています。(Charles De Gaulle, Mémoire de guerre, Plon, 1959, p.18)

 国防次官だったシャルル・ド・ゴールはペタン元帥が休戦協定を結んだときにロンドンに亡命して亡命政府を名乗りますけれど、もちろん彼の「自由フランス」には国としての実体などありません。国際法上はあくまでヴィシー政府がフランスの正統な政府であって、自由フランスは任意団体に過ぎません。そもそもド・ゴール自身、フランスの法廷で欠席裁判のまま死刑宣告されているのです。

ド・ゴール以外にも、フランソワ・ダルラン将軍、アンリ・ジロー将軍といった軍の実力者がいて、フランスの正統な代表者の地位を争っていました。最終的にド・ゴールが競争相手を排除して、自由フランス軍のトップに立ちますけれど、それでも一交戦団体に過ぎません。44年にド・ゴールが「フランス共和国臨時政府」を名乗ったときも、アメリカもイギリスもこれを承認するのを渋りました。ド・ゴールが一交戦団体に過ぎなかった自由フランスを「戦勝国」にカテゴリー変更させたのは、彼の発揮した軍事的・外交的実力によってです。44年、ノルマンディー上陸後西部戦線でのドイツ軍との戦闘が膠着状態にあったとき、ド・ゴールはこの機会にフランスを連合国に「高く売る」ことに腐心しています。回想録にはそのことが率直に書いてあります。

「戦争がまだ長引くということは、われわれフランス人が耐え忍ばなければならない損失、被害、出費を考えれば、たしかに痛ましいことである。しかし、フランスの最優先の利害を勘案するならば、フランス人の当面の利益を犠牲にしても、戦争の継続は悪い話ではなかった。なぜなら、戦争がさらに長びくならば、アフリカやイタリアでそうだったように、われわれの協力がライン河・ドナウ河での戦闘にも不可欠のものとなるからである。われわれの世界内における地位、さらにはフランス人がこれから何世代にもわたって自分自身に対して抱く評価がそこにかかっている。」(Ibid., p.44、強調は内田)

 ド・ゴールは、パリ解放からドイツ降伏までのわずかの時間内に、フランス軍の軍事的有用を米英に誇示できるかどうかに戦後フランスの、国際社会における立場がかかっているということを理解していました。ほんとうにこのときのフランスは綱渡りだったのです。ノルマンディー上陸作戦の時点ではド・ゴールの自由フランスの支持基盤は国内のレジスタンスだけでした。それが戦局の推移に伴ってそれ以外のフランス人たちも自由フランスを自分たちの代表として承認する気分になり、最後に米英はじめ世界の政府がド・ゴールの権威を承認せざるを得なくなった。ですから、ド・ゴールが「国を救った」というのはほんとうなのです。対独協力国、事実上の枢軸国がいつのまにか連合国の一員になり、さらに国際社会の重鎮になりおおせていたわけですから、これはド・ゴールの力業という他ありません。

でも、このド・ゴールが力業でフランスの体面を救ったことによって、フランス人は戦争経験の適切な総括を行う機会を奪われてしまった。ほんとうを言えば、ドイツの犯したさまざまな戦争犯罪に加担してきたフランス人たちはもっと「疚しさ」を感じてよかったのです。でも、フランス人は戦勝国民として終戦を迎えてしまった。フランス人は「敗戦を総括する義務」を免除された代わりにもっと始末におえないトラウマを抱え込むことになりました。

イタリアは戦勝国ではないのか

 僕たち日本人はイタリアがどんなふうに終戦を迎えたかについてはほとんど知るところがありません。世界史の授業でもイタリアの敗戦については詳しく教えてもらった記憶がない。教科書で教えてもらえないことは、映画や小説を通じて学ぶわけですけれども、イタリアの終戦時の混乱については、それを主題にした映画や文学も日本ではあまり知られておりません。『無防備都市』(ロベルト・ロッセリーニ監督、一九四五年)にはイタリアのレジスタンスの様子がリアルに描かれていますが、僕が知っているのはそれくらいです。ですから、ナチスと命がけで戦ったイタリア人がいたことや、イタリア人同士で激しい内戦が行われていたという歴史的事実も日本人はあまり知らない。

一九四三年七月に、反ファシスト勢力が結集して、国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が主導して、ムッソリーニを20年にわたる独裁者の地位から引きずり下ろしました。そして、首相に指名されたピエトロ・バドリオ将軍は水面下で連合国と休戦交渉を進めます。その後、監禁されていたムッソリーニをドイツの武装親衛隊が救い出して、北イタリアに傀儡政権「イタリア社会共和国」を建て、内戦状態になります。最終的にドイツ軍はイタリア領土内から追い出され、ムッソリーニはパルチザンに捕らえられて、裁判抜きで処刑され、その死体はミラノの広場に逆さ吊りにされました。イタリア王国軍とパルチザンがムッソリーニのファシスト政権に引導を渡し、ドイツ軍を敗走させた。ですから、イタリアは法理的には戦勝国なんです。でも、たぶん「イタリアは戦勝国だ」と思っている日本人はほとんどいない。自分たちと同じ敗戦国だと思っている。

たしかに、戦後イタリアを描いた『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1948年)のような映画を観ると、街は爆撃でひどいことになっているし、人々は食べるものも仕事もなくて、痩せこけている。「ああ、イタリアも日本と同じだ」と思っても不思議はない。でも、違います。イタリアは戦勝国なんです。だいたい、イタリアは一九四五年七月には日本に宣戦布告しているんです。

 フランスとイタリアを比べれば、フランスよりイタリアの方がずっと戦勝国条件が整っている。フランスは先ほど述べたように紙一重で戦勝国陣営に潜り込み、国連の常任理事国になり、核保有国になり、今も世界の大国としてふるまっています。それは一にシャルル・ド・ゴールという卓越した政治的能力を持つ人物が国家存亡のときに登場したからです。ド・ゴールがいて、ルーズベルトやチャーチルと一歩も引かずに交渉したから、フランスは戦勝国「のようなもの」として戦後世界に滑り込むことができた。でも、イタリアにはそんなカリスマ的な人物がいませんでした。戦争指導者であったヴィットリオ・エマヌエーレ三世とバドリオ将軍は、ドイツ軍がローマに侵攻してきたとき、市民を「無防備都市」に残したまま自分たちだけ逃亡してしまった。そのせいでイタリア軍の指揮系統は壊滅しました。戦後の国民投票で国民たちの判断で王政が廃止されたのは、このときの戦争指導部の国民に対する裏切りを国民が許さなかったからです。

フランスとイタリアのどちらも「勝ったんだか負けたんだかよくわからない仕方で戦争が終わった」わけですけれど、フランスにはド・ゴールがいて、イタリアにはいなかった。それが戦後の両国の立ち位置を決めてしまった。

でも、僕はこれを必ずしもフランスにとって幸運なことだったとも、イタリアにとって不幸なことだったとも思わないのです。イタリアは「敗戦国みたいにぼろぼろになった戦勝国」として終戦を迎えました。戦争の現実をありのままに、剥き出しに経験した。戦勝を誇ることもできなかったし、敗戦を否認する必要もなかった。だから、彼らの戦争経験の総括には変なバイアスがかかっていない。

先日、イタリアの合気道家が僕の道場に出稽古に来たことがありました。稽古のあとの歓談のとき、「そういえば君たち、昔、日本に宣戦布告したことがあるでしょう」と訊いてみました。たぶん、そんなこと知らないと思ったんです。意外なことに、彼はすぐに苦笑して、「どうもすみませんでした」と謝るんです。「イタリアって、どさくさまぎれにああいうことをやるんです。フランスが降伏したときにも仏伊国境の土地を併合したし。そういう国なんです。申し訳ない」と。僕は彼のこの対応にびっくりしました。自国の近代史のどちらかというと「汚点」を若いイタリア人が常識として知っているということにまず驚き、それについて下手な言い訳をしないで、さらっと「ごめんね」と謝るところにさらに驚きました。事実は事実としてまっすぐみつめる。非は非として受け容れ、歴史修正主義的な無駄な自己弁護をしない。そのとき僕は「敗戦の否認をしなかった国民」というものがあるとしたら、「こういうふう」になるのかなと思いました。

イタリアは「ほとんど敗戦」という他ないほどの被害を蒙った。内戦と爆撃で都市は傷ついた。行政も軍もがたがたになった。戦死者は30万人に及んだ。でも、その経験を美化もしなかったし、否認もしなかった。「まったくひどい目に遭った。でも、自業自得だ」と受け止めた。だから、戦争経験について否認も抑圧もない。

フランスの場合は、ヴィシーについてはひさしく歴史的研究そのものが抑圧されていました。先ほど名前が出ましたベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』はヴィシーに流れ込む十九世紀二○世紀の極右思想史研究ですが、この本が出るまで戦後四四年の歳月が必要でした。刊行されたときも、保守系メディアはこれに集中攻撃を加えました。「なぜせっかくふさがった『かさぶた』を剥がして、塩を塗り込むようなことをするのか」というのです。それからさらに30年近くが経ちますが、ヴィシー政府の時代にフランスが何をしたのかについての歴史的な研究は進んでいません。

ナチスが占領していた時代のフランス人は何を考え、何を求めて、どうふるまったのか。いろいろな人がおり、いろいろな生き方があったと思います。それについての平明な事実を知ることが現代のフランス人には必要だと僕は思います。ド・ゴールが言うように「自分自身に対して抱く評価」を基礎づけるために。でも、それが十分に出来ているように僕には思えません。フランスの場合は「敗戦の否認」ではなく、対独協力国だったという歴史的事実そのものが否認されている。その意味では、あるいは日本より病が深いかもしれない。


 現在の政治状況と敗戦の総括との関係

 本来なら、ヴィシー政府の政治家や官僚やイデオローグたちの事績を吟味して、「一体、ヴィシーとは何だったのか、なぜフランス人は民主的な手続きを経てこのような独裁制を選択したのか」という問いを徹底的に究明すべきだったと思います。でも、フランス人はこの仕事をネグレクトしました。ヴィシー政府の要人たちに対する裁判もごく短期間のうちに終えてしまった。東京裁判やニュルンベルク裁判のように、戦争犯罪の全貌を明らかにするということを抑制した。ペタン元帥や首相だったピエール・ラヴァルの裁判はわずか一ヶ月で結審して、死刑が宣告されました。裁判は陪審員席からも被告に罵声が飛ぶというヒステリックなもので、真相の解明というにはほど遠かった。この二人に全責任を押しつけることで、それ以外の政治家や官僚たちは事実上免責されました。そして、この「エリートたち」はほぼそのまま第四共和政の官僚層に移行する。

 レヴィによれば、フランスにおいて、ヴィシーについての歴史学的な検証が進まなかった最大の理由は、ヴィシー政府の官僚層が戦後の第四共和政の官僚層を形成しており、彼らの非を細かく咎めてゆくと、第四共和政の行政組織そのものが空洞化するリスクがあったからだということでした。事情を勘案すれば、フランス政府が、国家的選択として対独協力していたわけですから、それをサボタージュした官僚はうっかりするとゲシュタポに捕まって、収容所に送られるリスクがあったわけです。組織ぐるみの対独協力をせざるを得なかった。だから、一罰百戒的に、トップだけに象徴的に死刑宣告を下して、あとは免罪して、戦後の政府機構に取り込むことにした。それは当座の統治システムの維持のためには、しかたなかったのかも知れません。

ですから、ヴィシーについての歴史学的な実証研究が始まるのは、この官僚たちが現役を引退した後になります。一九八〇年代に入って、戦後四〇年が経って、ヴィシー政府の高級官僚たちが退職したり、死んだりして、社会的な影響がなくなった時点ではじめて、最初は海外の研究者たちが海外に流出していたヴィシー政府の行政文書を持ち出して、ヴィシー研究に手を着け始めた。フランス人自身によるヴィシー研究は『フランス・イデオロギー』が最初のものです。戦争が終わって四五年後です。「ヴィシーの否認」は政治的に、意識的に、主体的に遂行された。でも、そのトラウマは別の病態をとって繰り返し回帰してきます。僕はフランスにおける「イスラモフォビア」(イスラーム嫌悪症)はそのような病態の一つではないかと考えています。

 フランスは全人口の一〇%がムスリムです。先日のテロで露呈したように、フランス社会には排外主義的な傾向が歴然と存在します。大戦後も、フランスは一九五〇年代にアルジェリアとベトナムで旧植民地の民族解放運動に直面した時、暴力的な弾圧を以って応じました。結果的には植民地の独立を容認せざるを得なかったのですが、独立運動への弾圧の激しさは、「自由・平等・友愛」という人権と民主主義の「祖国」のふるまいとは思えぬものでした。そんなことを指摘する人はいませんが、これは「ヴィシーの否認」が引き起こしたものではないかと僕は考えています。「対独協力政治を選んだフランス」、「ゲシュタポと協働したフランス」についての十分な総括をしなかったことの帰結ではないか。

もしフランスで終戦時点で自国の近過去の「逸脱」についての痛切な反省がなされていたら、五〇年代におけるフランスのアルジェリアとベトナムでの暴力的な対応はある程度抑止されたのではないかと僕は想像します。フランスはナチス・ドイツの暴力に積極的に加担した国なのだ、少なくともそれに加担しながら反省もせず、処罰も免れた多数の国民を今も抱え込んでいる国なのだということを公式に認めていたら、アルジェリアやベトナムでの事態はもう少し違うかたちのものになっていたのではないか。あれほど多くの人が殺されたり、傷ついたりしないで済んだのではないか。僕はそう考えてしまいます。

 自分の手は「汚れている」という自覚があれば、暴力的な政策を選択するときに、幾分かの「ためらい」があるでしょう。けれども、自分の手は「白い」、自分たちがこれまでふるってきた暴力は全て「正義の暴力」であり、それについて反省や悔悟を全く感じる必要はない、ということが公式の歴史になった国の国民には、そのような「ためらい」が生まれない。フランスにおけるムスリム市民への迫害も、そのような「おのれの暴力性についての無自覚」のせいで抑制が効きにくくなっているのではないでしょうか。

 他の敗戦国はどうでしょう。ハンガリーは最近、急激に右傾化して、排外主義的な傾向が出てきています。タイも久しく穏やかな君主制でいましたけれども、近年はタクシン派と反タクシン派が戦い続けて、国内はしばしば内戦に近い状態を呈しています。スロバキアとかクロアチアとかにもやはり政治的にある種の不安定さを常に感じます。

戦争後は、どの国も「この話はなかったことに」という国民的合意に基づいて「臭いものに蓋」をした。当座はそれでよかったかも知れません。でも、蓋の下では、抑圧された国民的な「恥辱」や「怨嗟」がいつまでも血を流し、腐臭を発している。だから、ハンガリーの現在の政治状況や、タイの現在の政治状況が、それぞれの国の敗戦経験の総括と全く無関係かどうかということは、かなり精密な検証をしてみないとわからない。そこには何らかの「関連がある」という仮説を立てて検証をしてみてよいのではないか。してみるだけの甲斐はあると僕は思います。


 ドイツ統合は敗戦の否認か

 戦争の記憶を改竄することによって、敗戦国民は当座の心の安らぎは手に入れることができるかも知れません。でも、そこで手に入れた「不当利得」はどこかで返済しなければならない。いずれ必ず後でしっぺ返しが来る。世界の敗戦国を一瞥すると、どこも七〇年かけて、ゆっくりと、でも確実に「記憶の改竄」のツケを支払わされている。『永続敗戦論』が明らかにしたように、日本も敗戦の否認のツケを払わされている。そして、この返済はエンドレスなんです。「負債がある」という事実を認めない限り、その負債を割賦でいいから返して行かない限り、この「負債」は全く別の様態をとって、日本人を責め続ける。

 「ドイツは敗戦経験の総括に成功した」と多くの人が言います。でも、本当にそうなんでしょうか。僕は簡単には諾うことができません。東ドイツのことを勘定に入れ忘れているような気がするからです。

東ドイツは「戦勝国」なんです。東ドイツはナチスと戦い続けたコミュニストが戦争に勝利して建国した国だという話になっている。だから、東ドイツ国民はナチスの戦争犯罪に何の責任も感じていない。感じることを国策的に禁止されていた。責任なんか感じてるはずがない。自分たちこそナチスの被害者であり、敵対者だということになっているんですから。悪虐非道なるナチスと戦って、それを破り、ドイツ国民をナチスの軛から解放した人々が、何が悲しくて、ナチスの戦争犯罪について他国民に謝罪しなければならないのか。

 一九九〇年に合併した当時、西ドイツと東ドイツとは人口比でいうと四対一でした。ということは、その時点では、全ドイツ人口の二〇%、一六○○万人は「自分たちはナチスドイツの戦争犯罪に何の責任もない」と子供のころからずっと教えられてきた人たちだったということです。それが合併後のドイツの国民的自意識にどういう影響を与えたのか。僕は寡聞にして知りません。

 日本国内に「日本軍国主義者の戦争犯罪について、われわれには何の責任もない。われわれは彼らと戦って、日本を解放したのである」と教えられて来た人が二四○○万人いる状況を想定してください。そう信じている「同胞」を受け容れ、戦争経験について国民的規模での総括を行い、合意を形成するという作業がどれほど困難であるか、想像がつくと思います。さて、果たして、ドイツでは東西ドイツが合併した時に、戦争経験の総括について、国民的合意を形成し得たのか。僕は「ドイツはこんな風に合意形成を成し遂げました」と納得のゆく説明をしたものをこれまで読んだことがありません。いや、それは僕がただ知らないでだけで、そういう「全く相容れない戦争経験総括を一つにまとめあげたドイツの素晴らしい政治的達成」については既に色々な報告や研究が出ているのかも知れません。でも、そうだとしたら、それこそ「国民的和解」の最良のモデルケースであるわけですから、国内的な対立を抱える様々な国について、何かあるごとに、「ここでも『和解のためのドイツ・モデル』を適用すべきではないか」ということが言及されてよいはずです。でも、僕はそのような「和解モデル」について聞いたことがない。

 ドイツの戦争総括の適切さを語るときに、よくヴァイツゼッカー元大統領の演説が引かれます。この人はヨーロッパの諸国を訪れては、そのつどきちんとナチス・ドイツ時代の戦争犯罪について謝罪しています。その倫理性的な潔さは疑うべくもありません。けれども、やはり日本とは話の運びが微妙に違う。ヴァイツゼッカーは五月四日、ドイツが連合国に無条件降伏した日を「ドイツ国民解放の日」と言っているからです。われわれはナチスの暴虐からその日に解放されたのである、それをことほぐという立場を取る。悪いのはあくまでナチスとその軍事組織や官僚組織や秘密警察組織であって、ドイツ国民はその犠牲者であったという立場は譲らない。ドイツ国民の罪はナチスのような政党を支持し、全権を委ねてしまったことにある。そのような過ちを犯したことは認めるけれども、基本的にはドイツ国民もまたナチスの被害者であり、敗戦によってナチスの軛から解放されたという物語になっている。

 日本人にも敗戦が一種の解放感をもたらしたということは事実だったでしょう。けれども、八月一五日を「解放の日」だと言う人はほとんどいません。表だってそう発言するのは、かなり勇気が要る。けれども、実感としては、それに近いことを思っていた日本人は少なくなかったと思います。

 小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』(松竹、一九六二年)の中で、笠智衆の演じる今はサラリーマンをしている駆逐艦の元艦長平山と、加東大介の演じるかつての駆逐艦の乗組員坂本が、町なかでばったり出会うという場面があります。坂本が平山を誘って、トリスバーのカウンターに座ってウィスキーを飲む。この時に坂本が「ねえ、艦長、もしあの戦争に勝っていたらどうなったんでしょうね」と問う。平山は静かに笑いながら、「負けてよかったじゃないか」と答える。そうすると、坂本は「え?」と一瞬怪訝な顔をするのですが、ふと得心したらしく、「そうかもしれねえな。ばかなやつが威張らなくなっただけでもね」と呟く。これは敗戦がもたらした解放感についての、あの世代の偽らざる実感だったんじゃないかなと思います。

 僕は一九五〇年生まれで、父はもちろん戦中派なのですが、僕が小さい頃に、父が会社の同僚を家に連れてきて飲んでいるときに誰かが「負けてよかったじゃないか」と呟くのを僕は二三度聞いたことがあります。特に力んで主張するというのではなく、何かの弾みにぽろりと口にされる。そして、その言葉が口にされると、男たちは皆黙り込む。それで怒り出す人もいないし、泣き出す人もいない。それは思想とは言えないものでした。敗戦の総括としてはあまりに言葉が足りない。けれども、おそらくこれが戦中派の実感だったと思います。それが世代的な実感として、言挙げしないでも共有されている限り、そのような敗戦の総括もそれなりのリアリティーを持ち得た。けれども、そういう片言隻句だけでは、彼らの思いが輪郭のしっかりした思想として次の世代に継承されることはありません。


 恥ずべき過去も含んだタフな物語

 白井さんの本を読んでいると、日本は異常な仕方で敗戦を否認してきたことがわかる。これは全くその通りなんですけれども、それだけでなく、多くの敗戦国はそれぞれ固有の仕方で自国の敗戦を否認している。僕にはそう思われます。

それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


 歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

 カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

ノモンハンを書こうとした作家がもう一人います。村上春樹です。『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社 一九九四〜九五年)で村上春樹はノモンハンについて書いています。でも、なぜノモンハンなのか。その問いに村上は答えていない。何だか分からないけれども、急に書きたくなったという感じです。でも、ノモンハンのことを書かないと日本人の作家の仕事は終わらないと直感したというところに、この人が世界作家になる理由があると僕は思います。日本人にとっての「タフな物語」の必要性を村上春樹も感じている。それが今の日本に緊急に必要なものであるということをよくわかっている。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。日本の左翼知識人には、あまりアメリカに学ぶ人はいません。親米派の学者たちも、よく見ると、まったくアメリカに学ぶ気はない。アメリカに存在する実定的な制度を模倣することには熱心ですけれど、なぜアメリカは強国たりえたのかについて根源的に考えるということには全く興味を示さない。アメリカの諸制度の導入にあれほど熱心な政治家も官僚も、アメリカにあって日本に欠けているものとしてまずカウンターカルチャーを挙げる人はいません。連邦制を挙げる人もいない。でも、アメリカの歴史的成功の理由はまさに「一枚岩になれないように制度を作り込んだ」という点にあるのです。でも、日本のアメリカ模倣者たちは、それだけは決して真似しようとしない。

 ほかにもいろいろ言いたいことはありますけれど、すでに時間を大分超えてしまったので、この辺で終わります。ご静聴ありがとうございました。

【Q&A】


ナラティブの力

姜 今日のお話を聞いていて、どういう「物語」をつくるかということが最大のポリティクスになっている気がします。内田さんの比較敗戦論は、我々のパースペクティブを広げてくれました。韓国や中国では日本例外論、単純にドイツと日本を比較して日本はだめなんだ、だから我々は日本を半永久に批判していい、そういう理屈立てになりがちです。そのときに内田さんの比較敗戦論をもちいてみると、我々のブラインドスポットになっている部分がよく見えてくる。解放の物語の自己欺瞞みたいなところも見えてくる。ところが、安倍さんのような人が出てくると、逆に、かつて自分たちが植民地であった、侵略をされた国は、ますます解放の物語を検証することをやらなくて済んでしまいますね。

内田 イージーな物語に対してイージーな物語で対抗すれば、どちらもどんどんシンプルでイージーな話に落ち込んでしまう。実際の歴史的な事件は「善玉と悪玉が戦っている」というようなシンプルな話ではないんです。さまざまな人たちが複雑な利害関係の中でわかりにく行動を取っている。うっかりすると、本人たち自身、自分たちがどういう動機で行動しているのか、いかなる歴史的な役割を果しているのか、わかっていないということだってある。それが歴史の実相だろうと思います。ですから、それをありのままに淡々と記述していく。軽々には評価を下さない。わかりやすいストーリーラインに落とし込むという誘惑にできる限り抵抗する。そういう歴史に対する自制心が非常に大事になると思います。

 こういう仕事においては、歴史を叙述するときの語り口、ナラティブの力というのが大きいと思うんです。最近、読んだ本の中でフィリップ・ロスの小説『プロット・アゲンスト・アメリカ──もしもアメリカが...』(柴田元幸・訳、集英社、二〇一四年)がとても面白かった。これは一九四〇年の米大統領選挙でルーズベルトではなく、共和党から出馬した大西洋単独飛行の英雄チャールズ・リンドバーグ大佐がヨーロッパでの戦争への不干渉を掲げて勝利してしまうという近過去SFなんです。現実でも、リンドバーグは親独的立場で知られていて、ゲーリングから勲章を授与されてもいます。ロスの小説では、アメリカに親独派政権が誕生して、ドイツと米独不可侵条約を、日本とは日米不可侵条約を結ぶ。そして、アメリカ国内では激しいユダヤ人弾圧が起きる・・・という話です。

 僕はナラティブというのは、こういうSF的想像力の使い方も含むと思います。もし、あのときにこうなっていたらというのは、ほんとうに大事な想像力の使い方だと思う。

フィリップ・K・ディックの『高い城の男』(浅倉久志・新訳 早川書房、原著一九六二年)というSFがあります。これは枢軸国が連合国に勝った世界の話です。日独がアメリカを占領している。東海岸がドイツ占領地で、ロッキー山脈から西側が日本の占領地。そういう場合に、日本人はアメリカをどういうふうに植民地的に統治するのか、それを考えるのは実は非常に大事な思考訓練なんです。実際に日本がアメリカ西部を安定的に統治しようとしたら、日本の価値観とか美意識とか規範意識を「よいものだ」と思って、自発的に「対日協力」をしようと思うアメリカ人を集団的に創り出すしかない。ドイツがフランスでやったのはそういうことでした。でも、日本の戦争指導部にそのようなアイディアがあったと僕は思いません。

アメリカの方は、日本に勝った後にどうやって占領するかの計画を早々と立案していた。日本人のものの考え方とか組織の作り方とかを戦時中に民族学者に委託して研究しています。卓越した日本人論として今も読み継がれている『菊と刀』はルーズベルトが設置した戦争情報局の日本班のチーフだったルース・ベネディクトが出した調査報告書です。日本社会を科学的に研究して、どういう占領政策が適切かを戦争が終わる前にもう策定していた。

果たして日本の大本営にアメリカに勝った後、どうやってアメリカを統治するか、何らかのプランがあったでしょうか。どうやって対日協力者のネットワークを政治家や学者やジャーナリストやビジネスマンの中に組織するかというようなことをまじめに研究していた部門なんか日本の軍部のどこにも存在しなかったと思います。戦争に勝ったらどうするのかについて何の計画もないままに戦争を始めたんです。そんな戦争に勝てるはずがない。

 僕のSF的妄想は、一九四二年のミッドウェー海戦の敗北で、これはもう勝てないなと思い切って、停戦交渉を始めたらどうなったかというものです。史実でも、実際に、当時の木戸幸一内大臣と吉田茂たちは、すでに講和のための活動を始めています。近衛文麿をヨーロッパの中立国に送って、連合国との講和条件を話し合わせようという計画があった。もし、この工作が奏功して、四二年か四三年の段階で日本が連合国との休戦交渉に入っていれば、それからあとの日本の国のかたちはずいぶん違ったものになっただろうと思います。

ミッドウェー海戦で、帝国海軍は主力を失って、あとはもう組織的抵抗ができない状態でした。戦い続ければ、ただ死傷者を増やすだけしか選択肢がなかったのに、「攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち」というような、まったく非科学的な軍事思想に駆動されていたせいで、停戦交渉という発想そのものが抑圧された。

この時点で戦争を止めていれば、本土空襲もなかったし、沖縄戦もなかったし、原爆投下もなかった。300万人の死者のうち、95%は死なずに済んだ。民間人の死傷者はほぼゼロで済んだはずです。ミッドウェーは日本軍の歴史的敗北でしたけれど、死者は3000人に過ぎません。ほとんどの戦死者(実際には戦病死者と餓死者でしたが)はその後の絶望的、自滅的な戦闘の中で死んだのです。

空襲が始まる前に停戦していれば、日本の古い街並みは、江戸時代からのものも、そのまま手つかずで今も残っていたでしょう。満州と朝鮮半島と台湾と南方諸島の植民地は失ったでしょうけれど、沖縄も北方四島も日本領土に残され、外国軍に占領されることもなかった。四二年時点で、日本国内に停戦を主導できる勢力が育っていれば、戦争には負けたでしょうけれど、日本人は自分の手で敗戦経験の総括を行うことができた。なぜこのような勝ち目のない戦争に突っ込んで行ったのか、どこに組織的瑕疵があったのか、どのような情報を入力し忘れていたのか、どのような状況判断ミスがあったのか、それを自力で検証することができた。戦争責任の徹底追及を占領軍によってではなく、日本人自身の手で行えた可能性はあった。日本人が自分たちの手で戦争責任を追及し、戦争責任の追及を行い、憲法を改定して、戦後の日本の統治システムを日本人が知恵を絞って作り上げることは可能だった。

「もしミッドウェーのあとに戦争が終わっていたら、その後の戦後日本はどんな国になったのか」というようなSF的想像はとてもたいせつなものだと僕は思います。これはフィクションの仕事です。小説や映画やマンガが担う仕事です。政治学者や歴史学者はそういう想像はしません。でも、「そうなったかもしれない日本」を想像することは、自分たちがどんな失敗を犯したのかを知るためには実はきわめて有用な手立てではないかと僕は思っています。「アメリカの属国になっていなかった日本」、それが僕たちがこれからあるべき日本の社会システムを構想するときに参照すべき最も有用なモデルだと思います。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html



3. 中川隆[-11018] koaQ7Jey 2019年4月02日 08:23:51: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1005] 報告
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天皇制官僚国家の象徴としての「元号」
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904020000/

 安倍晋三政権は4月1日、新しい「元号」を「令和」にすると発表した。元号の法的な根拠は1979年に成立した「元号法」だが、その前提として天皇制がある。その天皇制については日本国憲法の第1条から第8条で定められ、いわゆる「戦争の放棄」を定めた第9条はその後だ。この順番から考えて、日本国憲法の主眼は天皇制の維持にあると言えるだろう。


 この憲法は「日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこ」んだ天皇が「枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し」て、1946年11月3日に公布したものである。


 第2次世界大戦でアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は反ファシストの立場から戦っていたが、1933年から34年にかけての時期にルーズベルトを中心とするニューディール派を排除し、ファシズム体制を樹立させようとした勢力がアメリカ支配層には存在した。その中心だったのは巨大金融資本だ。


 本ブログでは何度も書いてきたが、1923年9月に起こった関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼って以来、日本はアメリカの巨大金融資本の強い影響下に入った。


 ウォール街の住人たちは反ルーズベルト政権のクーデター計画でも金本位制への復帰を強く求めていたが、日本政府に対しても同じことを要求、受け入れられた。JPモルガンに言われるまま、浜口雄幸政権は緊縮財政も推進する。その時に大蔵大臣を務めていたのが井上準之助だ。


 この結果、不況はますます深刻化し、東北地方では娘の身売りが増えて大きな社会問題になっている。こうした経済政策を推進した浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には井上が本郷追分の駒本小学校で射殺されている。


 1932年に駐日大使として日本へやってきたジョセフ・グルーがJPモルガンと極めて緊密な関係にあることも本ブログで繰り返し書いてきた。グルーの従兄弟がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかも、グルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。敗戦後に「転向」したわけではない。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあった。ところが1933年から45年4月にルーズベルト大統領が急死するまでそのウォール街はホワイトハウスで主導権をニューディール派に奪われていた。ルーズベルトの死で日米主従関係は本来の姿に戻ったと言える。ウォール街が天皇制を存続させようとしたのは当然だ。その体制によって彼らは日本を支配していたからだ。それを攪乱させたのが血盟団や二・二六事件の将校たちだった。


 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる。


 日本の侵略を受けていた国々の人びとは、そうした軍人以上に厳しい目を向けていた。日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという。(堀田善衛著『上海にて』)


 天皇制官僚システムを維持するためには、アメリカが日本で主導権を握っているうちに天皇制の存続を定めた憲法を制定し、天皇を被告席に立たせずに戦争責任を問う裁判を終わらせてしまう必要があった。それをアメリカは実行した。


 第2次世界大戦の帰趨が決したのは1944年6月にアメリカ軍を中心として実行されたノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)だと考えてる人が高名な学者の中にもいるが、実際はドイツ軍の主力がスターリングラードの戦いで壊滅、1943年1月に降伏した時に勝負はついていた。ノルマンディー上陸作戦で決着がついたという話はハリウッドが作り上げた幻影だ。


 アドルフ・ヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスが飛行機でスコットランドへ渡ったのが1941年5月。そこでイギリス政府の要人と何かを話し合ったはずだが、その内容は未だに秘密。そして6月に310万人のドイツ軍が西側に90万人を残してソ連へ向かって進撃を開始する。バルバロッサ作戦だ。


 当然のことながら、このときにドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、アドルフ・ヒトラーがそれを退けたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)ヒトラーは西側から攻めてこないことを「予知」していたのだろう。


 ドイツ軍の主力が壊滅したことに驚いたアメリカとイギリスは急遽会談し、1943年7月に米英軍はシチリア島へ上陸、そしてノルマンディー上陸作戦だ。それと同時に西部戦線で戦っていたレジスタンスに対抗するため、OSSはゲリラ戦部隊ジェドバラを組織、それが大戦後、CIAの秘密工作部門になる。


 それまで傍観していた米英軍が慌てて動き始めたのだが、それと並行してドイツ側はOSS(CIAの前身)と盛んに接触するようになる。こうした接触はルーズベルト大統領には秘密にされていた。


 OSSのアレン・ダレスたちが接触した相手にはSA(突撃隊)を組織したヘルマン・ゲーリングも含まれ、ダレスたちは彼を戦犯リストから外そうとしたのだが、失敗した。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)


 しかし、ナチスの大物たちをアメリカ支配層は保護、逃亡させ、後に雇っている。その逃走にローマ教皇庁の一部勢力が参加していたことも広く知られている。


 日本では天皇制が存続、内務官僚、思想検察、特別高等警察といった治安体制の中枢は戦後も要職に就いた。「国体」は護持されたのだ。護持したのはウォール街である。


 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。

(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B6%99%E2%80%95%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%AB%E7%A5%9E%E7%88%B6%E3%81%AB%E3%81%8D%E3%81%8F-1973%E5%B9%B4-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E3%82%BD%E3%83%8E%E3%83%A9%E3%83%9E%E7%B7%A8%E9%9B%86%E9%83%A8/dp/B000J9DIP6


https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904020000/



4. 中川隆[-9091] koaQ7Jey 2019年7月14日 08:07:37: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3599] 報告
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日本の神道は明治天皇が滅ぼした

廃仏毀釈について - 内田樹の研究室 2019-05-29
http://blog.tatsuru.com/2019/05/29_0925.html


 昨日の寺子屋ゼミで「廃仏毀釈」についての発表があった。いくつかコメントをしたので、備忘のためにここに書き留めておく。

 神仏分離・廃仏毀釈というのは不可解な歴史的事件である。すごく変な話なのである。歴史の教科書では「合理的な説明」がよくなされているが(水戸学が流行していた。明治政府が欧米列強に伍するためにキリスト教に対抗して国家神道を体系化するために行った。江戸時代の寺檀制度に増長した僧侶の堕落のせいで民心の仏教から離反していた・・・などなど)、どうも腑に落ちない。

 神仏習合というのはそれ以前にすでに1300年の伝統のあるほとんど土着した日本の宗教的伝統である。それを明治政府の発令した一篇の政令によって人々が軽々と捨てられたということがまず「変」である。この人たちにとって、千年を超える宗教的伝統というのはそんなに軽いものだったのか?

 神仏分離令の発令は慶應四年(1868年)である。「五畿七道諸国に布告」して、「往古ニ立帰リ」「普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候」という祭政一致の方針が示される。

 次に神社に対して「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候」という命令が発された。社僧とは神社に勤める僧侶であり、別当は寺院と神社が一体化した神宮寺の責任者である僧のことである。この人たちに「復飾」(還俗)して、神職に奉仕するように命じたのである。

 驚くべきは、この命令に対して全国の社僧・別当たちが特段の抵抗もなく従ったということである。「長いものには巻かれろ」という処世術が宗教界に徹底していたのか、それとも「神と仏といい ただ水波の隔てにて」という血肉化した神仏習合マインドのせいで寺で読経しようと神社で祝詞を上げようと、同じことだということだったのか、私にはわからない。

 そのあと仏像をご神体としていた神社に対しては仏像仏具仏典の類を「早々ニ取除」くことを命じた神仏判別令が出された。

 それまで神宮寺の多くでは仏像をご神体に祀っていたのである。

 この「特段の抵抗もなく」というのが不思議なのである。

 ありうる説明としては、神仏分離の当初の意図が「宗教の近代化」であり、すべての制度が「近代化されねばならぬ」ということについて明治初年の民衆たちも「まあ、公方さんもいなくなっちゃったし、なんかそういう潮目みたい」というふうに感じ取っていたからだ、ということがありうるかも知れない。歴史の滔々たる流れに逆らっても仕方がないんじゃないの、と。それくらいの歴史感覚は一般民衆にもあったのかも知れない(わからないけど)。

 ターゲットになったのは寺院だけではない。最初に発令されたのは六部、虚無僧、山伏、梓巫女、憑祈祷、狐下しなどの「前近代」的な遊行の宗教者の禁止だった。加持祈祷、オカルト、ノマド的宗教者が「まず」禁止された。そういう「前近代的な宗教のかたち」の徹底排除が近代国家の心理的基礎づけに必要だったと明治政府が判断したのである。

 だから、そのあと明治40年代になると、今度は神社合祀令が出て、「前近代的な神道」が排除されることになる。これについては南方熊楠がはげしい反対運動を展開したので、記憶されている人もいると思うけれど、全国20万社のうち7万社が廃されるというすさまじい「神社整理」であった。

 神道の国家統制を実施するためには、神社を公費で運営する必要がある。しかし、神社の数が多すぎて管理コストがカバーできない。だから小さい神社は(氏子たちがどれほど信仰していようと、どのような貴重な祭祀や芸能が伝えられていようと)、コスト削減のために統廃合するという政府の態度のうちに「神道に対する敬意」を見ることはむずかしいだろう。

 だから、国家神道というのは別にある種の宗教性の価値が高騰したということではなく、端的に「宗教的なものを政治的利用価値だけをものさしにして格付けした」ということに過ぎないのだと思う。
 
 もう一つあまり指摘されないことに天皇家はもともと仏教徒だという事実がある。

 京都東山の真言宗泉涌寺は13世紀に四条天皇の葬儀が行われて以来、天皇家の菩提寺に近い機能を果たしていた。江戸時代の歴代天皇皇后は後水尾天皇から孝明天皇まで全員が泉涌寺に葬られている。当然歴代天皇の位牌もここにあり、僧たちが読経してその菩提を弔っている。明治天皇の父である孝明天皇の葬儀は仏式で行われている。今でも歴代天皇の祥月命日には、皇室を代理して宮内庁京都事務所が参拝している。

 だから、天皇制=国家神道という図式が成立するのは、慶應四年の神仏分離令からさきの敗戦までの77年に過ぎないということになる。日本の天皇制の全歴史のうちの77年だけである。それを126代の歴代天皇がすべて神道の祭主であったと信じている人あるいは信じているふりをしている人が天皇制の支持者・反対者のいずれにも多い。これは天皇制という制度の複雑さを捨象して、問題をシンプルで、ハンドルしやすいものにしようとする態度の現れだと私は思う。

 つねづね申し上げている通り、複雑なものは複雑なまま扱うのが知的に誠実な態度だと私は思っている。複雑な仕組みをわかりやすい図式に縮減して、敵味方に分かれて罵り合うのは知的には不毛なことである。それよりは、素直に「なんだか一筋縄ではゆかぬものだ」と認めて、いったん理非正邪の判定を「かっこに入れて」、ほんとうのところは歴史的事件として何が起きたのか、ほんとうのところその歴史的事件の意味は何であるのかについて冷静に問うということが必要ではないのか。

 廃仏毀釈について腑に落ちないもう一つのことは、熱狂的な廃仏運動はかなり短期間で終息し、やがて寺院が再興され、人々が寺院に参詣するようになったということである。廃仏毀釈運動は慶應四年に始まり、明治三年にピークを迎え、明治九年にはほぼ収まった。なんで、そんなにあっさり終わってしまったのか。

 1300年続いた神仏習合という宗教的伝統をほとんど一夜にして弊履の如くに捨て去った熱狂が10年も続かなかった。この非対称性がよくわからない。それほどまでに仏教の檀家制度が憎く、僧侶の腐敗が許し難いものであったら、あるいは明治政府の宗教統制が厳格なものだったら、10年で廃仏運動が「収まる」わけがない。でも、あっさり終わってしまって、誰もその話をしなくなった。

 だから、今の日本人は「神仏習合」についても「神仏分離」についても、よく知らない。

 習合という宗教現象は他の宗教でもあることだから、理解はできる。けれども、それを一度暴力的に分離してみたら、さしたる抵抗もなく実現され、にもかかわらず数年でなんとなくそれも尻すぼみになり、それから100年経ってまたじりじりと神仏習合に戻っているという現象はうまく説明ができない。

 私が毎年参拝している羽黒山はもともと神仏習合で、本尊は聖観音菩薩だったが、神仏分離で山上の仏像仏具は捨てられ、ご本尊はご神体に入れ替えられた。そのときに酒田の篤志家が棄てられたり、焼かれたりした仏像を拾い集めて、自宅の蔵に保存していた。それを最近になって「もともと羽黒山のものだから」というのでその子孫が返却を申し出てきた。羽黒山はそれを嘉納して、二年ほど前に「千仏堂」という建物を本堂の横に立てて、数百体の仏像を安置している。神社の中に寺院があるという神仏習合の「ふつうのかたち」に戻ってきたのである。

 この神仏習合の「復古」趨勢に対してはいずれファナティックな神道系の政治組織から「やめろ」という攻撃が始まる可能性があると私は予想している。そのときにわれわれは明治初年に神仏分離をドライブしたイデオロギーと心性の現代における「アヴァター」を見ることができるかも知れない。

 「廃仏毀釈」に付随したさまざまな事件のうち、記憶しておいてよいトリビアがあるので、それを最後に列挙して話を終えたいい。

(1)廃仏毀釈にもっともはげしく抵抗したのは浄土真宗であった。県内のほぼすべての寺院が廃寺となった鹿児島でも、浄土真宗だけは廃仏の運動が下火になるやたちまち全県に布教を行い、廃寺の再建に取り組んだ。江戸時代に真宗門徒が弾圧されたときに「隠れ念仏」活動をしていた「抵抗の伝統」が生き残っていたのであろう。

(2)最も苛烈な廃仏運動を指揮した一人は、松本の知藩事であった戸田光則。戸田は将軍家の血筋を引き、松平姓と葵の家紋を許された親藩だったが、戊辰戦争が始まってから、勤王か佐幕か最後まで迷った末、新政府軍が中山道を通過する時点でようやく腹をくくって新政府についた。この日和見主義に対する新政府からの不信を解消するために戸田は廃仏毀釈に異常な熱意を示したのである。彼はまず戸田家の菩提寺を破壊するところから始めたのである。

(3)もう一人は京都府知事だった槇村正直。長州藩士で木戸孝允に重用された人物である。京都の文化的伝統にまったく関心がなかった槇村はきわめて熱心に廃仏運動に取り組んだ。まず神仏習合の祇園社感神院を八坂神社に改組し、本地仏の薬師如来を撤去。北野天満宮は北野神社に改名され、境内の寺院はすべて撤去解体された。彼は五山の送り火も地蔵盆も盆踊りも禁止したのである。それがどういう経緯で、どういう言い訳で復活したのか、誰か知っていたら教えて欲しい。

(4)興福寺は廃仏運動の被害がもっとも大きかった寺である。興福寺は春日大社と一体化していたが、分離され仏像仏具教典が棄てられた。五重塔も民間に売却され、金属だけを取り出すために買い主が火をかけようとしたが、延焼をおそれた近所の住人に制止されたおかげで焼けずに残った。いまは国宝である阿修羅像も運慶作とされる無著・世親像も金堂の床にうち捨てられていた。その惨状については、前に釈先生と興福寺に聖地巡礼に参ったときに詳しく伺った。

(5)伊勢には御師(おし・おんし)と呼ばれる「宗教者兼観光案内人」のような人がいた。自分の家を宿坊として参拝者を宿泊させ、聖地を案内し、伊勢暦や神札を売り、加持祈祷も行った。御師の職業的な特徴はそれぞれが自分の「檀那」を有していたことである。江戸時代には伊勢に御師2000人がいて、宿坊600軒があった。当時の伊勢詣では年間300万人、檀那総数は400万軒。

 という話を読んで、羽黒山伏のことを思い出した。羽黒山もかつては山伏が営む宿坊が300軒あり、それぞれの宿坊には「檀那」となる人々がいた。農閑期になるとその町村の人たちが「講」をつくって、連れ立って羽黒を訪れ、山伏の先達で三山で修験場を訪れ行をおこない、遊びながら故郷に帰った。羽黒に雪が降り山に登れなくなると、山伏たちは里に下りてその「檀家」を巡歴して、加持祈祷を行い、お札を売った。伊勢御師と同じである。

 あるときは定住する信者のもとを移動する宗教者が訪れ、あるときは定住する宗教者のもとを移動する信者が(聖地巡礼と観光旅行を兼ねて)訪れる。このような宗教と観光、行と娯楽の癒合したかたちは、前近代の日本に広く見られたようで、出雲大社、富士山、熊野などにも御師がいて、各地の檀那たちと密接な「師檀関係」を結んでいた。

 慶應四年の神仏分離令では山伏と御師がまっさきに弾圧の対象となった。羽黒山伏は宿坊が10分の1になったけれど、いまも残っているが、伊勢御師は明治初年に途絶えた。いったい、神仏分離令は何を圧殺しようとしたのかがここからよく知られる。

*神仏分離についての上の記述は

『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(鵜飼秀徳、文春新書)、『神々の明治維新』(安丸良夫、岩波新書)、
『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち 廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち 』佐伯恵達、みやざき文庫)

に多くのご教示を得たものであることを謝意とともに記しておく。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/29_0925.html



5. 中川隆[-11331] koaQ7Jey 2019年9月21日 02:19:36: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1466] 報告
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英軍ラグビーチームの靖国神社訪問にネトウヨ大喜びもイギリスで大問題に! タイムズ紙「靖国は攻撃的ナショナリズムの培養器」
https://lite-ra.com/2019/09/post-4984.html
2019.09.20 英軍ラグビーチームの靖国訪問にイギリスで批判殺到、大問題に! リテラ

    
    タイムズ紙が批判した英国軍チームの靖国神社訪問


 今夜、日本で開幕を迎えたラグビーW杯。だが、そのラグビーを巡って、別の“イギリス・ラグビーチーム”が靖国神社を訪問したことが国際的な波紋を広げている。

 靖国を参拝したのは、日本の防衛省が主催する「国際防衛ラグビー競技会」に参加している英国軍チーム。この大会は、今月9日から23日までの日程で、陸上自衛隊朝霞駐屯地などでおこなわれるもので、公式サイトで〈世界各国軍のNo.1ラグビーチームが決まる!!〉と謳われているように、日本の自衛隊や韓国軍、ニュージーランド軍など計10チームが各国軍隊代表として競い合う。つまり、W杯の代表チームではないが、現役の英国軍人で構成されるイギリス軍代表チームが、あの靖国神社を訪問したわけだ。

 この事実は、少なくとも13日までに、英国軍チームの公式Twitterアカウントが靖国神社で選手が整列して撮った写真や、神職とのツーショット写真をアップしたために発覚したのだが、これに大喜びしたのが日本のネトウヨだ。〈もしやラグビーワールドカップの代表チーム? ラグビーのことは良く解っておりませんが、ご参拝ありがとうございます!まさにノーサイドの精神!さすが紳士の国!〉などと言って、写真を大拡散した。

 さらには極右政治家も反応。安倍首相の“お気に入り極右議員”のひとりでもある自民党の山田宏衆院議員は〈英国軍ラグビーチームありがとう。できれば全参加国軍のラグビーチームにも参拝していただきたいので、靖國神社のことをきちっと紹介をして働きかけてみたいと思います〉(17日)とツイート。これを高須クリニックの高須克弥院長が〈アメリカのチームにもお願いいたします〉とつけてリツイートするなど、政治の力で各国軍代表チームに靖国参拝をさせようと鼻息を荒くしていた。

 だが、当たり前ながら、この英国軍チームによる靖国参拝は、国際的に大きな問題になった。

 英有力紙「タイムズ」が18日電子版で「英国軍ラグビーチームが戦争犯罪者を祀る日本の神社を訪問」(UK military rugby team visit shrine for war criminals in Japan)と題して、強く批判する論調で報じたのだ。

 タイムズによれば、靖国を参拝した英国軍チームの軍人選手たちは「靖国ガイドツアー」をおこない、歴史修正主義の展示で知られる靖国境内の戦争博物館「遊就館」も訪れたという。記事は、靖国神社広報の話として、チームの参拝については事前に手配されたものではないが、同神社の神職が遊就館を案内したと伝えている。

 チームの靖国参拝をオーガナイズしたという英国軍の指揮官・アーティ・ショウ氏は、「認識不足でとても考えが甘かったと思う」などと話している。訪問の後、チームは在日英国大使から叱責を受け、「今後、いかなる神社をも参拝することがないように」と言われたという。現在、英国軍代表のツイッターアカウントは投稿した写真を削除している。

 記事では、「靖国神社は、日本の過去の植民地支配と侵略戦争を賛美する場所であり、とりわけ戦争犯罪者たちが祀られており、併設の博物館である「遊就館」は帝国主義的軍国主義をロマンチックに美化している」という在英韓国大使館広報の話を紹介。英国・国防省は「靖国神社への参拝は政府公式のものではなく、ホスト国の日本がオーガナイズしたものでもない。イギリス政府は靖国訪問がいかに繊細な問題であるかを完全に理解している」と同紙にコメントしている。

 とりわけ注目すべきは、タイムズが英国軍チームの靖国参拝がいかに不適切であったかを、靖国の歴史や日本の戦争犯罪を踏まえ、細かく解説していることだ。

■イギリス・タイムズ紙「靖国神社は攻撃的ナショナリズムの培養器」

 たとえば、靖国神社が日本の右翼以外からはどう考えられているかを端的に説明し、戦争犯罪者が合祀されているという点を率直に問題視する。

〈日本の右派にとって、東京の靖国神社は愛国的に欠かせない場所だ。〔一方で、〕他の多くの日本人やアジアの人々にとっては、ジンゴイズム〔jingoism:盲信的、高圧的かつ好戦的な自民族優越主義的ナショナリズムの極北〕と嘘まやかしの神社であり、日本の植民地となった韓国や中国の人々を依然として身震いさせる攻撃的なナショナリズムの培養器である。〉
〈靖国は民間機関であり、政府の神社ではない。問題は、東京裁判で有罪判決を受け、絞首刑に処された東條英機を含む、14人のA級戦犯だ。彼らは1978年に密かに祀られた。〉(翻訳は編集部による。以下同)

 靖国神社の神職がラグビー英国軍代表を案内した遊就館が、いかに日本の戦争を美化し、史実を捻じ曲げた展示をおこなっているかについても、きちんと報じている。

〈遊就館は、特攻兵器・人間魚雷回天の潜水員などの遺物を崇敬するように展示している。パネルでは、戦争を始めた日本の責任を認めず、石油や原材料などのアメリカの制裁によって真珠湾攻撃は「追い込まれた」と主張する。
 その最も異常な主張は、南京事件と呼ばれるものについてだ。日本以外ではthe Rape of Nankingとしてよく知られている。
 遊就館のパネルには「中国軍は完全な大敗を喫して、多数の犠牲者を苦しめた」「南京市内では一般市民の生活に平和がよみがえった」というように書かれている。他方、ほとんどの外国の研究者や多くの日本の歴史家は、南京市街陥落において何万人あるいは何十万人の中国兵と女性や子どもを含む民間人が殺害されたと考えている。〉

■慰安婦も731部隊の人体実験もなかったことにする靖国の歴史修正を指摘

 さらに、遊就館が日本の戦争犯罪を完全にネグっているという事実も強調している。

〈大日本帝国軍の「慰安婦」あるいは性奴隷、生きている戦争捕虜を使って生体兵器の人体実験をおこなっていた731部隊についての言及は、ここにはない。保存状態のよい泰緬鉄道の機関車が目立つように展示されているが、この鉄道を敷設させられたおびただしい数の連合軍捕虜が耐えた苦痛、そして彼らが泰緬鉄道を「死の鉄道」と呼んでいたことには一切触れていない〉

 靖国神社の本質や遊就館の歴史修正主義的展示をめぐっては、これまでも米紙ニューヨーク・タイムズや仏紙ル・モンドなどが驚きをもって伝えてきたが、それが今回、ラグビー英国軍代表の靖国参拝によって、欧米であらためてスポットが当たったかたちだ。

 いずれにしても、日本のネトウヨや極右文化人たちは、「靖国を問題視するのは中国と韓国だけだ」「戦争で亡くなった人たちを慰霊するのはどの国でも当たり前」だのと吠えているが、イギリスのタイムズも指摘しているように、靖国は単なる追悼施設では決してない。国家神道の中心として侵略戦争を正当化した装置であり、戦後も、帝国主義や軍国主義を賛美する歴史修正主義の根源のひとつなのである。

 それが国際的認識のスタンダードだ。英・国防省が「公式訪問ではない」「英国政府は靖国訪問がいかに繊細な問題であるかを完全に理解している」とタイムズにコメントしていることからも、それは明らかだろう。

 それにしても、極右歴史修正主義をばら撒き、外国人の靖国参拝に狂喜の雄叫びをあげるネトウヨや安倍政権の政治家を見ていると、本当に心配になってくる。ラグビーW杯や東京オリンピック・パラリンピックで、これからも世界から大勢の外国人が訪日するからだ。オリンピック・パラリンピック会場への旭日旗持ち込み問題にもいえることだが、こんな国際感覚が欠如したままの状態でいいはずがない。


http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/653.html#c1

[近代史3] Terror Tuesday _ オバマ大統領は火曜日夕方に必ず CIA のブレナンに暗殺指令を出した 中川隆
9. 中川隆[-15238] koaQ7Jey 2019年12月01日 13:48:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2310]

2019年12月01日
誘惑のマルキスト / 国家破壊は地元から(前編)
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68790016.html

Obama 12Hilary Clinton 01
(左 :赤い 劣等学生だった頃のバラク・オバマ / 右 : ユダヤ人マルキストに憧れた若き日のヒラリー・ロダム、「後のクリントン夫人」)

  日本の政界は左翼勢力と反日マスコミで溢れかえり、鬱血状態というか、慢性的な宿便で“どんより”とした日々となっている。立憲民主党を主力とする野党は、税金の無駄遣いが目的なのか、相も変わらず“どうでもいい”与党のアラ探しで忙しい。「森友・加計問題」が消え失せたと思ったら、今度は「桜を見る会」の金銭問題で安倍総理を叩いているんだから、「テメェーら、国家の優先事項を分かっているのか!」と怒鳴りたくなる。口を開けば、「人権 ! 平和! 市民の生活!」と九官鳥みたいに騒ぐけど、肝心要な日本の防衛や拉致被害者の奪還は頭の片隅にも無い。彼らの「人権擁護」発言は、在日朝鮮人や帰化支那人を支援する時だけに発動される“雄叫(おたけ)び”だ。日系日本人の女子供は、救うほどの価値は無い。保守派が武力を以て「同胞を取り戻せ !」と叫んでも、左翼議員は涼しい顔で、「私も頑張ってまぁぁ〜す」と嘘をつく。本当に忌々しいけど、こんな連中が毎回当選しているんだから、民衆政治のどこが素晴らしいのか? 「拉致被害者なんか、どうでもいいじゃん。どうせ、死んでいるか、日本人村で気楽に過ごしているんだろう」というのが、言葉にしない彼らの本音だ。

  そこで、「野党がダメなら、自民党は・・・」と言いたいところだが、自民党も左翼の巣窟になっているから、「野党と何が違うんだ?」と白けてしまうし、抗議を行っても糠(ぬか)に釘。立憲民主党や国民民主党の支持率が低迷していても、与党に同類の議員が増えているだけだから、正常な日本国民は天を仰ぎたくなる。保守派国民の一部は、「もう数年で社民党や共産党は消滅だなぁ」と笑っているが、それは国会議員の数が減っただけで、深紅や桃色の党員は地方議会で生き延び、地道ながらも着実な国家破壊に勤しんでいる。「中央からの革命が無理なら、シロアリのように地方の支柱を食い尽くし、土台からジワジワと崩してやる !」というのが彼らの戦略だ。なるほど、これは一見、地味なやり方だけど、「日本の國體を破壊する」には有効だ。手段は違えど、目的地は同じだから、単に到達経路が異なっているだけである。

Saul Alinsky 2Hilary Clinton 3(左 : サウル・アリンスキー / 右 : 学生時代のヒラリー・ロダム・クリントン)
  左翼陣営というのは、小党に別れて失敗や成功を積み重ねているが、破壊活動の裏側には、戦術や戦略を授ける“智恵袋”が存在している。戦国時代の武将を引き合いに出せば分かるけど、戦争や外交での秘策を提案する側近は実に頼もしい。今川義元には雪齋(せっさい)が居たし、豊臣秀吉には竹中半兵衛と黒田官兵衛、上杉景勝には直江兼続が軍師や参謀として控えていた。歐米諸国の左翼陣営にも様々な戦略家が居て、現場で奔走する実行部隊に様々な悪智慧を与えている。左翼分子を裏から操る理論家と言えば、真っ先にユダヤ人マルキストが思い浮かぶ。例えば、バラク・オバマやヒラリー・クリントンの師匠となったサウル・アリンスキー(Saul Alinsky)は有名だ。学生時代のヒラリーは、このアリンスキーに憧れ、「アシスタントにならないか」との誘いを受けたというが、色々迷った挙げ句、丁寧に断ったらしい。ただし、彼女は卒業論文で彼の理論を用いていた。(過去の記事を参照。)

  狡猾さを絵に描いたようなアリンスキーは、オバマのような出来損ないの黒人でも立派なマルキストになれるよう、マニュアル本のような『過激派への招集警笛(Reveille for Radicals)』を書いた。この中には、具体的な方法が幾つか示されており、アリンスキーに痺れる日本人左翼も結構多い。ここでは、その内の一つを紹介する。

  アリンスキーは左翼団体「民衆組織(People's Organization)」の勧誘員である「デイヴ(David)」の例を挙げる。デイヴは東部にある見知らぬ土地で新たな「布教」を始め、ジョージ・シェリー(George Sherry)なる大物と出逢う。ジョージは地元の労働組合で幅を利かす有力幹部であった。しかし、他の一般組員とは違い、労働者の助けとなる「民衆組織」に全く興味が無い。それでも、親分肌のジョージはデイブを温かく迎え、この新参者を夕食に招いたり、ナイト・クラブに連れて行き、打ち解けた感じで会話を楽しんだ。ただし、デイブが「民衆組織」に言及するとソッポを向く。こうしたジョージとの会合を何度か重ねたあと、デイブはある晩飯の時、再び“例”の話題を持ち出し、「一度だけでもいいから、民衆組織に行ってみないか」と誘いを掛けた。すると、ジョージは気分を害し、堪っていた不満を吐き出すように癇癪を起こした。彼の怒りを要約するとこうである。

  毎回毎回、なんでアンタはその『民衆組織』とやらについてゴチャゴチャと話し出すんだ? 俺はアンタを気に入っているが、その話になるとイライラしちまうんだよ。いいか ! 俺はそんなモンに興味は無いんだ。もう二度と触れないでくれ ! もし、今度口にしたら即絶交だぞ ! 俺は本気で言っているんだ !

  カンカンになったジョージを目の当たりにして、デイヴは何も言えず困り果てた。彼は仕方なくホテルに帰り、何とかジョージの御機嫌を直して、勧誘できまいかと色々考えたそうだ。そこで、ベテラン左翼のデイヴにはあるアイデアが閃いた。早速、彼はジョージの友人で、既に「民衆組織」のメンバーとなっている二人の男に電話を掛けてみた。デイブは彼らに事情を伝え、指示通りの会話をするよう頼んだらしい。デイブの作戦はこうだ。ジョージと一緒に野球観戦に出掛けるが、肝心な時を見計らって密談を交わすというのだ。例えば、打者がツー・ストライクに追い込まれた時とか、誰かが盗塁を成功した時など、試合が盛り上がったところで、二人がデイヴとヒソヒソ話をする。また、ストリップ劇場に入って、ジョージと一緒に淫乱ショーを楽しむが、踊り子が服を脱ぎ始めたら、再びソヒソヒ話を始めるという段取りだった。レストランで食事を取る場合は、もっと巧妙で、約10分おきに店の隅に行って三人が密談をする、という手筈になっていた。

  こうした打ち合わせを知らないジョージは、三人の行動を見る度にイライラし、腹立たしい気持ちになったそうだ。野球場で二人の友人が密談するのを目撃すると、ジョージは不思議な顔で尋ねる。「おい ! どうしてヒソヒソ話なんかしているんだ? 今、一番いいところじゃないか。さっきのプレーを見てみろよ ! せっかくのナイス・キャッチを見逃しておいて、何がそんなに重要なんだ? 俺達は試合を見に来ているんだぜ !」、と。レストランでもジョージは不満を述べる。「なぁ、お前ら、10分おきに何をヒソヒソ話しているんだ?」 ストリップ劇場でも同様な事が続くと、ジョージは「いったい、何を話しているんだ?」とブチ切れる。すると、気になってしょうがないジョージは、ついにデイヴの罠に嵌まってしまうのだ。蚊帳の外に置かれっぱなしのジョージは、デイヴの策に引き込まれ、無意識のうちに屈服する。彼は敗北者のように跪く。「おい、何の問題だが知らねぇが、俺に出来ることがあるんなら言ってくれ ! 何か手助けが出来るかも知れねぇしな !」と。

  これこひ、デイヴが勝利した瞬間である。ジョージはデイヴが仕掛けた“撒き餌”に食いついたのだ。人間は“疎外”されることを嫌うので、仲間に同調したいという願望がある。野球場や食堂、劇場で、ジョージは三人から仲間外れにされ、イライラする程の孤独感を味わった。彼は地元や労働組合で指導的な立場にあり、常にみんなから“一目”置かれる存在なのに、デイヴの「小さなコミュニティー」からは排斥され、無視されていたのだ。いつも尊敬されるリーダーであるジョージにしてみれば、こんな仕打ちには耐えられない。だから、彼は三人の輪に入ろうとした。しかし、それは「民衆組織」に入会することを意味する。かくして、ジョージは「民衆組織」への参加を正式に表明したという。(Saul D. Alinsky, Reveille for Radicals, Vintage Books, New York, 1989, PP.107-110.)

ゴロツキ黒人が大統領に

  どうだろうか。アリンスキーは中々の策士である。このユダヤ人マルキストは、一般民衆を称讃するという手法で、単細胞の学生を籠絡し、世間知らずの若者を赤いデモクラシーに引きずり込んだ。共産主義革命を目論むインテリどもは、民衆の自尊心をくすぐったり、嫉妬心を煽ったりして仲間にしようとする。キャンパスで屁理屈を捏ねる学生には、「国家の将来は君達の肩に懸かっている!」と煽(おだ)てるし、学歴や身分で劣等感に悩む一般人に対しては、エリート批判で慰めようとする。アリンスキーは烏合の衆を味方に付けようと考えたから、名も無き大衆を持ち上げるべく、見え透いた嘘を平気でついた。このユダヤ人はぬけぬけと言う。

  自然に出来た集団において、真の指導者は自然に生まれる無名のリーダーであり、それは平凡な人間の中にこそ見出されるのだ! (上掲書 pp.73-74.)

Obama 3(左 / 若い頃のバラク・フセイン・オバマ)
  インテリ左翼のアリンスキーは、人望は無いけど、口だけは達者だ。憎らしいけど、“潰しの利かない半端者”や“碌でなしの黒人”を操るのが実に上手い。大統領になったバラク・フセイン・オバマはその忠実な弟子である。ハーヴァード大学のロー・スクールで法律を勉強していたというオバマは、何の業績(学術論文)も無かったけど、権威と伝統を誇る法学雑誌の『ハーヴァード・ロー・レヴュー』で編集長になれた。何も知らない日本人からずば、奇蹟に思えてしまうだろう。でも、PC(政治的に正しい言動)に馴れたアメリカ人からすれば、「奇蹟」でもないし、「不思議」なことでもない。なぜなら、オバマは黒人だから・・・。もし、彼が白人なら絶対に編集長にはなれない。それどころか、雑誌の編集にさえ関与できないだろう。

まぁ、「ケニアからの留学生」という嘘でコロンビア大学に編入したオバマだ。「人種カード」をちらつかせて、エリート大学の白人を籠絡するなんて朝飯前である。黒人は「弱者」だから、厳しい批判をしては駄目。2008年のコロ、日本のワイドショーときたら、オバマの黒い過去には一切触れず、オバマの当選を願うを小浜(おばま)市の住民にインタヴューするくらい、といった体たらくであった。あとは娯楽に徹し、「イエス・ウィ・キャン(Yes, we can !)」を真似る芸人(ノッチ)を起用するだけ。テレビ画面に向かって石を投げつけたくなるが、日本のテレビ局は地上波の無駄遣いが本業なんだろう。

  ハーヴァード大学を去って弁護士活動を始めたオバマだが、地元のシカゴで張り切ったのは、白人社会に不満を抱く黒人の組織化であった。「コミュニティー・オーガナイザー」なんて、ゴロツキ黒人が選ぶ役職で、とても“カタギ”の人間が就く正業ではない。これは文化人類学とかマイノリティー研究を専攻したクズ学生が集まる業種だが、アメリカではリベラル派の大富豪が資金を提供したりするので、ヒスパニックや黒人の左翼が近寄ってくる。左翼団体とはいえ、一旦就職できれば何とか生活できるから、碌でなしの有色人種にとっては有り難い。ロックフェラー財団やフォード財団はもちろんのこと、ジョージ・ソロスの「オープン・ソサエティー財団」やビル・ゲイツの「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」などは、極左団体に莫大な資金を流し、アメリカ社会の破壊に貢献している。

  脱線したので話を戻す。オバマが上院議員になれたのは、リベラル派の慈善活動家やアラブ人の大富豪をバックに持っていたからだが、シカゴの黒人やヒスパニックなどの有色人票を獲得できたことも大きい。黒人は黒人の候補者に投票するものだ。その公約とか理念などは関係ない。同じ種族だから投票するのが一番の動機である。大統領選でも、黒人の90%以上がオバマに投票した、というから度肝を抜く。(2008年の大統領選挙では、黒人の95%、ヒスパニックの66%がオバマに投票したそうだ。しかし、白人の有権者でオバマに投票したのは43%、55%はマッケインに投票したという。これは単なる憶測だけど、民衆党の白人有権者の中には、こっそりと共和党に入れた者もいるんじゃないか。やはり、生理的に黒人大統領は嫌だからねぇ。秘密投票万歳だ ! )

Obama 1Obama 6

(写真 / 地元シカゴで有権者と交流するオバマ上院議員 )

  日本の主要メディアは、チンピラのオバマを「知的で紳士的なアメリカ人」といった風に紹介していたが、その正体は過激な黒人学生だった。インターネット・ニュースサイトの「ブレイトバート」を創立したアンドリュー・ブレイトバート(Andrew J. Breitbart)は、亡くなるちょっと前、保守派団体(CPAC)の集会で「俺は昔のオバマを収めた映像を手に入れたんだぞ ! これで奴が過激派の学生だった事を証明してやる ! みんな、楽しみに待っててくれ!」と意気込んでいた。しかし、彼の運命は急展開を見せる。2012年3月1日の夜、自宅の近くにあるレストラン兼バーの「ザ・ブレントウッド(The Brentwood)」に出掛けたアンドリューは、そこで軽く酒を嗜んだ後、自宅に戻る途中で道端に倒れたという。すぐさま病院に運ばれたが、彼は既に息を引き取っていた。死因は肥大型心筋症による発作らしく、酒か薬物の影響もあったらしい。でも、彼の友人によれば、アンドリューは至って健康で、とても心臓発作で死ぬようには思えなかったという。享年43というから、若すぎる死であった。

Andrew Breitbart 1Michael Cormier 1


(左 : アンドリュー・ブレイトバート / 右 : マイケル・コーミエ)

  しかし、アンドリュー・ブレイトバートの死去はオバマにとって吉報だった。彼が「あの世」へ行ってくれたお陰で、知られたくない過去が歴史の闇に葬られたのだ。アンドリューが暴露しようとした「爆弾映像」は何処かに隠されており、遺族でもその保管場所を判らないという。たぶん、アンドリューが厳重に保管したはずだから、家族が知らなくてもおかしくはない。アンドリューの死は、あまりにも唐突すぎたので、様々な憶測が乱れ飛んだ。もしかしたら、誰かに毒で暗殺されたのでは、という陰謀論まで出てきた。さらに、彼の遺体を検査したマイケル・コーミエ(Michael Cormier)が亡くなったので、さらに疑惑が深まったのである。何と、3月に遺体を調べた検視官が、翌月の4月20日に亡くなってしまったのだ。死因は砒素中毒であるらしい。一部のアメリカ人は二人の謀殺を仄めかしていたけど、具体的な証拠が挙がらないので、今のところ偶然の死亡と考えるしかない。とにかく、オバマは強運の持ち主だった。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68790016.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/696.html#c9

[近代史3] 世界を反米にした殺人鬼ヒラリー・クリントン 中川隆
6. 中川隆[-15237] koaQ7Jey 2019年12月01日 13:49:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2309]

2019年12月01日
誘惑のマルキスト / 国家破壊は地元から(前編)
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68790016.html

Obama 12Hilary Clinton 01
(左 :赤い 劣等学生だった頃のバラク・オバマ / 右 : ユダヤ人マルキストに憧れた若き日のヒラリー・ロダム、「後のクリントン夫人」)

  日本の政界は左翼勢力と反日マスコミで溢れかえり、鬱血状態というか、慢性的な宿便で“どんより”とした日々となっている。立憲民主党を主力とする野党は、税金の無駄遣いが目的なのか、相も変わらず“どうでもいい”与党のアラ探しで忙しい。「森友・加計問題」が消え失せたと思ったら、今度は「桜を見る会」の金銭問題で安倍総理を叩いているんだから、「テメェーら、国家の優先事項を分かっているのか!」と怒鳴りたくなる。口を開けば、「人権 ! 平和! 市民の生活!」と九官鳥みたいに騒ぐけど、肝心要な日本の防衛や拉致被害者の奪還は頭の片隅にも無い。彼らの「人権擁護」発言は、在日朝鮮人や帰化支那人を支援する時だけに発動される“雄叫(おたけ)び”だ。日系日本人の女子供は、救うほどの価値は無い。保守派が武力を以て「同胞を取り戻せ !」と叫んでも、左翼議員は涼しい顔で、「私も頑張ってまぁぁ〜す」と嘘をつく。本当に忌々しいけど、こんな連中が毎回当選しているんだから、民衆政治のどこが素晴らしいのか? 「拉致被害者なんか、どうでもいいじゃん。どうせ、死んでいるか、日本人村で気楽に過ごしているんだろう」というのが、言葉にしない彼らの本音だ。

  そこで、「野党がダメなら、自民党は・・・」と言いたいところだが、自民党も左翼の巣窟になっているから、「野党と何が違うんだ?」と白けてしまうし、抗議を行っても糠(ぬか)に釘。立憲民主党や国民民主党の支持率が低迷していても、与党に同類の議員が増えているだけだから、正常な日本国民は天を仰ぎたくなる。保守派国民の一部は、「もう数年で社民党や共産党は消滅だなぁ」と笑っているが、それは国会議員の数が減っただけで、深紅や桃色の党員は地方議会で生き延び、地道ながらも着実な国家破壊に勤しんでいる。「中央からの革命が無理なら、シロアリのように地方の支柱を食い尽くし、土台からジワジワと崩してやる !」というのが彼らの戦略だ。なるほど、これは一見、地味なやり方だけど、「日本の國體を破壊する」には有効だ。手段は違えど、目的地は同じだから、単に到達経路が異なっているだけである。

Saul Alinsky 2Hilary Clinton 3(左 : サウル・アリンスキー / 右 : 学生時代のヒラリー・ロダム・クリントン)
  左翼陣営というのは、小党に別れて失敗や成功を積み重ねているが、破壊活動の裏側には、戦術や戦略を授ける“智恵袋”が存在している。戦国時代の武将を引き合いに出せば分かるけど、戦争や外交での秘策を提案する側近は実に頼もしい。今川義元には雪齋(せっさい)が居たし、豊臣秀吉には竹中半兵衛と黒田官兵衛、上杉景勝には直江兼続が軍師や参謀として控えていた。歐米諸国の左翼陣営にも様々な戦略家が居て、現場で奔走する実行部隊に様々な悪智慧を与えている。左翼分子を裏から操る理論家と言えば、真っ先にユダヤ人マルキストが思い浮かぶ。例えば、バラク・オバマやヒラリー・クリントンの師匠となったサウル・アリンスキー(Saul Alinsky)は有名だ。学生時代のヒラリーは、このアリンスキーに憧れ、「アシスタントにならないか」との誘いを受けたというが、色々迷った挙げ句、丁寧に断ったらしい。ただし、彼女は卒業論文で彼の理論を用いていた。(過去の記事を参照。)

  狡猾さを絵に描いたようなアリンスキーは、オバマのような出来損ないの黒人でも立派なマルキストになれるよう、マニュアル本のような『過激派への招集警笛(Reveille for Radicals)』を書いた。この中には、具体的な方法が幾つか示されており、アリンスキーに痺れる日本人左翼も結構多い。ここでは、その内の一つを紹介する。

  アリンスキーは左翼団体「民衆組織(People's Organization)」の勧誘員である「デイヴ(David)」の例を挙げる。デイヴは東部にある見知らぬ土地で新たな「布教」を始め、ジョージ・シェリー(George Sherry)なる大物と出逢う。ジョージは地元の労働組合で幅を利かす有力幹部であった。しかし、他の一般組員とは違い、労働者の助けとなる「民衆組織」に全く興味が無い。それでも、親分肌のジョージはデイブを温かく迎え、この新参者を夕食に招いたり、ナイト・クラブに連れて行き、打ち解けた感じで会話を楽しんだ。ただし、デイブが「民衆組織」に言及するとソッポを向く。こうしたジョージとの会合を何度か重ねたあと、デイブはある晩飯の時、再び“例”の話題を持ち出し、「一度だけでもいいから、民衆組織に行ってみないか」と誘いを掛けた。すると、ジョージは気分を害し、堪っていた不満を吐き出すように癇癪を起こした。彼の怒りを要約するとこうである。

  毎回毎回、なんでアンタはその『民衆組織』とやらについてゴチャゴチャと話し出すんだ? 俺はアンタを気に入っているが、その話になるとイライラしちまうんだよ。いいか ! 俺はそんなモンに興味は無いんだ。もう二度と触れないでくれ ! もし、今度口にしたら即絶交だぞ ! 俺は本気で言っているんだ !

  カンカンになったジョージを目の当たりにして、デイヴは何も言えず困り果てた。彼は仕方なくホテルに帰り、何とかジョージの御機嫌を直して、勧誘できまいかと色々考えたそうだ。そこで、ベテラン左翼のデイヴにはあるアイデアが閃いた。早速、彼はジョージの友人で、既に「民衆組織」のメンバーとなっている二人の男に電話を掛けてみた。デイブは彼らに事情を伝え、指示通りの会話をするよう頼んだらしい。デイブの作戦はこうだ。ジョージと一緒に野球観戦に出掛けるが、肝心な時を見計らって密談を交わすというのだ。例えば、打者がツー・ストライクに追い込まれた時とか、誰かが盗塁を成功した時など、試合が盛り上がったところで、二人がデイヴとヒソヒソ話をする。また、ストリップ劇場に入って、ジョージと一緒に淫乱ショーを楽しむが、踊り子が服を脱ぎ始めたら、再びソヒソヒ話を始めるという段取りだった。レストランで食事を取る場合は、もっと巧妙で、約10分おきに店の隅に行って三人が密談をする、という手筈になっていた。

  こうした打ち合わせを知らないジョージは、三人の行動を見る度にイライラし、腹立たしい気持ちになったそうだ。野球場で二人の友人が密談するのを目撃すると、ジョージは不思議な顔で尋ねる。「おい ! どうしてヒソヒソ話なんかしているんだ? 今、一番いいところじゃないか。さっきのプレーを見てみろよ ! せっかくのナイス・キャッチを見逃しておいて、何がそんなに重要なんだ? 俺達は試合を見に来ているんだぜ !」、と。レストランでもジョージは不満を述べる。「なぁ、お前ら、10分おきに何をヒソヒソ話しているんだ?」 ストリップ劇場でも同様な事が続くと、ジョージは「いったい、何を話しているんだ?」とブチ切れる。すると、気になってしょうがないジョージは、ついにデイヴの罠に嵌まってしまうのだ。蚊帳の外に置かれっぱなしのジョージは、デイヴの策に引き込まれ、無意識のうちに屈服する。彼は敗北者のように跪く。「おい、何の問題だが知らねぇが、俺に出来ることがあるんなら言ってくれ ! 何か手助けが出来るかも知れねぇしな !」と。

  これこひ、デイヴが勝利した瞬間である。ジョージはデイヴが仕掛けた“撒き餌”に食いついたのだ。人間は“疎外”されることを嫌うので、仲間に同調したいという願望がある。野球場や食堂、劇場で、ジョージは三人から仲間外れにされ、イライラする程の孤独感を味わった。彼は地元や労働組合で指導的な立場にあり、常にみんなから“一目”置かれる存在なのに、デイヴの「小さなコミュニティー」からは排斥され、無視されていたのだ。いつも尊敬されるリーダーであるジョージにしてみれば、こんな仕打ちには耐えられない。だから、彼は三人の輪に入ろうとした。しかし、それは「民衆組織」に入会することを意味する。かくして、ジョージは「民衆組織」への参加を正式に表明したという。(Saul D. Alinsky, Reveille for Radicals, Vintage Books, New York, 1989, PP.107-110.)

ゴロツキ黒人が大統領に

  どうだろうか。アリンスキーは中々の策士である。このユダヤ人マルキストは、一般民衆を称讃するという手法で、単細胞の学生を籠絡し、世間知らずの若者を赤いデモクラシーに引きずり込んだ。共産主義革命を目論むインテリどもは、民衆の自尊心をくすぐったり、嫉妬心を煽ったりして仲間にしようとする。キャンパスで屁理屈を捏ねる学生には、「国家の将来は君達の肩に懸かっている!」と煽(おだ)てるし、学歴や身分で劣等感に悩む一般人に対しては、エリート批判で慰めようとする。アリンスキーは烏合の衆を味方に付けようと考えたから、名も無き大衆を持ち上げるべく、見え透いた嘘を平気でついた。このユダヤ人はぬけぬけと言う。

  自然に出来た集団において、真の指導者は自然に生まれる無名のリーダーであり、それは平凡な人間の中にこそ見出されるのだ! (上掲書 pp.73-74.)

Obama 3(左 / 若い頃のバラク・フセイン・オバマ)
  インテリ左翼のアリンスキーは、人望は無いけど、口だけは達者だ。憎らしいけど、“潰しの利かない半端者”や“碌でなしの黒人”を操るのが実に上手い。大統領になったバラク・フセイン・オバマはその忠実な弟子である。ハーヴァード大学のロー・スクールで法律を勉強していたというオバマは、何の業績(学術論文)も無かったけど、権威と伝統を誇る法学雑誌の『ハーヴァード・ロー・レヴュー』で編集長になれた。何も知らない日本人からずば、奇蹟に思えてしまうだろう。でも、PC(政治的に正しい言動)に馴れたアメリカ人からすれば、「奇蹟」でもないし、「不思議」なことでもない。なぜなら、オバマは黒人だから・・・。もし、彼が白人なら絶対に編集長にはなれない。それどころか、雑誌の編集にさえ関与できないだろう。

まぁ、「ケニアからの留学生」という嘘でコロンビア大学に編入したオバマだ。「人種カード」をちらつかせて、エリート大学の白人を籠絡するなんて朝飯前である。黒人は「弱者」だから、厳しい批判をしては駄目。2008年のコロ、日本のワイドショーときたら、オバマの黒い過去には一切触れず、オバマの当選を願うを小浜(おばま)市の住民にインタヴューするくらい、といった体たらくであった。あとは娯楽に徹し、「イエス・ウィ・キャン(Yes, we can !)」を真似る芸人(ノッチ)を起用するだけ。テレビ画面に向かって石を投げつけたくなるが、日本のテレビ局は地上波の無駄遣いが本業なんだろう。

  ハーヴァード大学を去って弁護士活動を始めたオバマだが、地元のシカゴで張り切ったのは、白人社会に不満を抱く黒人の組織化であった。「コミュニティー・オーガナイザー」なんて、ゴロツキ黒人が選ぶ役職で、とても“カタギ”の人間が就く正業ではない。これは文化人類学とかマイノリティー研究を専攻したクズ学生が集まる業種だが、アメリカではリベラル派の大富豪が資金を提供したりするので、ヒスパニックや黒人の左翼が近寄ってくる。左翼団体とはいえ、一旦就職できれば何とか生活できるから、碌でなしの有色人種にとっては有り難い。ロックフェラー財団やフォード財団はもちろんのこと、ジョージ・ソロスの「オープン・ソサエティー財団」やビル・ゲイツの「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」などは、極左団体に莫大な資金を流し、アメリカ社会の破壊に貢献している。

  脱線したので話を戻す。オバマが上院議員になれたのは、リベラル派の慈善活動家やアラブ人の大富豪をバックに持っていたからだが、シカゴの黒人やヒスパニックなどの有色人票を獲得できたことも大きい。黒人は黒人の候補者に投票するものだ。その公約とか理念などは関係ない。同じ種族だから投票するのが一番の動機である。大統領選でも、黒人の90%以上がオバマに投票した、というから度肝を抜く。(2008年の大統領選挙では、黒人の95%、ヒスパニックの66%がオバマに投票したそうだ。しかし、白人の有権者でオバマに投票したのは43%、55%はマッケインに投票したという。これは単なる憶測だけど、民衆党の白人有権者の中には、こっそりと共和党に入れた者もいるんじゃないか。やはり、生理的に黒人大統領は嫌だからねぇ。秘密投票万歳だ ! )

Obama 1Obama 6

(写真 / 地元シカゴで有権者と交流するオバマ上院議員 )

  日本の主要メディアは、チンピラのオバマを「知的で紳士的なアメリカ人」といった風に紹介していたが、その正体は過激な黒人学生だった。インターネット・ニュースサイトの「ブレイトバート」を創立したアンドリュー・ブレイトバート(Andrew J. Breitbart)は、亡くなるちょっと前、保守派団体(CPAC)の集会で「俺は昔のオバマを収めた映像を手に入れたんだぞ ! これで奴が過激派の学生だった事を証明してやる ! みんな、楽しみに待っててくれ!」と意気込んでいた。しかし、彼の運命は急展開を見せる。2012年3月1日の夜、自宅の近くにあるレストラン兼バーの「ザ・ブレントウッド(The Brentwood)」に出掛けたアンドリューは、そこで軽く酒を嗜んだ後、自宅に戻る途中で道端に倒れたという。すぐさま病院に運ばれたが、彼は既に息を引き取っていた。死因は肥大型心筋症による発作らしく、酒か薬物の影響もあったらしい。でも、彼の友人によれば、アンドリューは至って健康で、とても心臓発作で死ぬようには思えなかったという。享年43というから、若すぎる死であった。

Andrew Breitbart 1Michael Cormier 1


(左 : アンドリュー・ブレイトバート / 右 : マイケル・コーミエ)

  しかし、アンドリュー・ブレイトバートの死去はオバマにとって吉報だった。彼が「あの世」へ行ってくれたお陰で、知られたくない過去が歴史の闇に葬られたのだ。アンドリューが暴露しようとした「爆弾映像」は何処かに隠されており、遺族でもその保管場所を判らないという。たぶん、アンドリューが厳重に保管したはずだから、家族が知らなくてもおかしくはない。アンドリューの死は、あまりにも唐突すぎたので、様々な憶測が乱れ飛んだ。もしかしたら、誰かに毒で暗殺されたのでは、という陰謀論まで出てきた。さらに、彼の遺体を検査したマイケル・コーミエ(Michael Cormier)が亡くなったので、さらに疑惑が深まったのである。何と、3月に遺体を調べた検視官が、翌月の4月20日に亡くなってしまったのだ。死因は砒素中毒であるらしい。一部のアメリカ人は二人の謀殺を仄めかしていたけど、具体的な証拠が挙がらないので、今のところ偶然の死亡と考えるしかない。とにかく、オバマは強運の持ち主だった。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68790016.html
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[近代史3] 中曽根康弘とキッシンジャー 中川隆
6. 中川隆[-15236] koaQ7Jey 2019年12月01日 15:16:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2308]

2019-12-01
中曽根康弘が(ようやく)死んだ


10月29日、中曽根康弘が死んだ。101歳だったという。

■ 中曽根の葬儀こそ「民営化」すべき
この中曽根もそうだし、岸信介(1987年、90歳没)や奥野誠亮(2016年、103歳没)もそうだが、社会に悪をなすロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きして天寿を全うするパターンが多くて嫌になる。

政府は国葬や国民葬を検討しているそうだが、「日本のサッチャー」中曽根の葬儀は「民営化」して徹底的にコストカットすべきだろう。それこそがこの男にはふさわしい。

■ 中曽根、インドネシアに「慰安所」を開設
中曽根の悪行は数え上げたらきりがないが、この男が政治家としてやらかしたことはとりあえず脇に置いて、ここでは海軍時代の中曽根が慰安所(レイプセンター)の設営に直接関与していたことを取り上げる。
なぜそれが分かったかというと、出世した旧海軍出身者の自慢話を集めた本(松浦敬紀編著『終りなき海軍』)の中で、まるでいいことでもしてやったかのように自分で書いていたからだ。[1]


 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年。この当時は、まさか日本軍性奴隷制度が重大な戦時性暴力事件として世界から非難されることになるとは思いもしなかったのだろう。また、中曽根がバリクパパン(インドネシア)に作った慰安所は海軍直営であり、これは「業者が勝手にやった」式のウソを吹き飛ばす貴重な証言でもある。
■ 問題が大きくなると慰安所での性行為強制を否定
ところが、日本軍性奴隷制度が国際問題化し、バリクパパンの事例についても注目が集まるようになると、中曽根は、自分の作った「慰安所」は他とは違って強制売春施設ではなかったと言い出した。2007年に日本外国特派員協会で行った記者会見では、「彼ら(注:設営隊作業員ら)が集まったりあるいは碁・将棋をやったり、そういう彼らが娯楽をやる場所が欲しいと。そういう彼らの話もあって、そういうことをやったわけであります」などと述べている。
しかし、これがウソであることは、2011年に防衛省資料の中から中曽根が主計長を務めていた設営部隊の資料が見つかったことで明らかになった。[2]
 今回見つけたのは「海軍航空基地第2設営班資料」。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに1962年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26ページ)。第2設営班の主計長が中曽根氏です。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。


画像出典:女たちの戦争と平和資料館Wam
中曽根の「慰安所」が碁や将棋を打つためのただの集会所だったなら、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
さらに、この中曽根の慰安所で性行為を強制された被害者の証言もある。この女性は被害当時まだ15歳で、処女だった。これだけでも明白な戦争犯罪である。
吉川春子『アジアの花たちへ』(かもがわ出版 2008年)P.53-54:
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。
 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
TBS報道特集『インドネシアでの戦時性暴力』(2015/7/25放映):
ナレーション:スハルティさん。15歳のとき、学校に入れると誘われて、ジャワ島からこの街に連れてこられたという。
スハルティ:昔の日本人はすべて悪かったです。良い人はいませんでした。 よく殴って殺していました。殴って、水に入れて。
 無理やり慰安所に連れてこられて、私には何もできないですよ。ジャワから連れてこられて、逃げるにしても、どこに行けばいの?
 涙があふれるばかりでした。死にたくなるほど後悔しました。学校に入れると言ったのに、あんなことになって。
 私の処女を奪ったのは、オノという人でした。
金平:もしよかったら、その時に慰安所で起きたことを話してください。
(略)
金平:医師はどのようにチェックをしましたか?
スハルティ:女性は7人で、みんな新品だと言われました。検査したのはインドネシア人の役人と、日本人の医者です。
 みんな新品だ、と役人が言いました。全員処女だったということです。
ナレーション:日本軍は、性病と縁のない、インドネシアの少女たちに目をつけたのだ。
TBS「報道特集」は、取材結果に基づいて中曽根に質問状を送り、自身の開設した慰安所の性質や、インドネシアの少女たちを集めた目的などを聞いている。しかし、中曽根事務所が電話で回答してきた内容は、「以前、外国特派員協会で申し上げたとおりで、それ以上でもそれ以下でもない」というものだったという。
結局、中曽根はその後も自分の作った「慰安所」について何も語らず、説明責任さえ果たすことなく死んだ。

[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011/10/28
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/736.html#c6

[近代史3] 中曽根康弘とキッシンジャー 中川隆
7. 中川隆[-15235] koaQ7Jey 2019年12月01日 15:18:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2307]

2017-05-21
「大勲位」元首相に中曽根康弘主計中尉の慰安所設営を思い出させてあげよう
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237


「大勲位」中曽根康弘が今月27日に99歳になるとかで、これを祝う会が開かれたそうだ。

27日に99歳を迎える中曽根康弘の白寿を祝う会が開かれ、安倍晋三ら約230人が集まった。 
読売新聞の渡辺恒雄・グループ本社主筆は、改憲をめぐり「いよいよ安倍内閣で実現の運びとなれば、中曽根さんにとって非常にハッピー」と述べた。https://t.co/Dxuap7P3i1
— BARA (@BARANEKO) 2017年5月15日


■ 慰安所設営を自慢していた中曽根康弘
岸信介や奥野誠亮もそうだったが、ロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きするのにはうんざりだ。
それはともかく、中曽根といえば軍隊時代にインドネシアで慰安所設営に関与し、しかも自分でそれを自慢げに書いている[1]。
二十三歳で三千人の総指揮官
(略)
 まず私は、海兵団に兵隊をもらいにいき、部隊を編成した。また、呉の海軍建設部に集結しつつあった三千人の徴用工を組織する任務もあった。そして、必要な糧食、資材、弾薬、それに零戦や一式攻撃機を飛ばす莫大なガソリン、爆弾を調達して、これをわずか七日間に、四隻の輸送船に満載したのである。これはまさに大事業であった。
(略)
 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年だから、やがて日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)制度が大問題になるなどとは思ってもみなかったのだろう。だから気軽に書いたわけだ。
■ 言い訳を否定する「第2設営班資料」
問題が大きくなり、この文章についても指摘されるようになると、自分の作った「慰安所」は強制売春施設ではない、と言い訳を始めた。2007年、外国特派員協会での記者会見では、「海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」と述べている[2]。
だが、2011年、民間団体「平和資料館・草の家」が、防衛省所蔵の資料から中曽根と同じ「第2設営班」の工営長だった海軍技師宮地米三氏のメモを発見したことで、この言い訳も成り立たなくなった[3]。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
 中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。
碁を打って休息するような施設を作るのに、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
最近では「もう記憶にない」とか言っているようだが、以下の資料[4]を見れば自分が何を作ったのか思い出せるのではないだろうか。
《第2設営班編成表》 主計長中曽根康弘の名がある

《設営後の状況》 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設

《1942年3月11日》 慰安所(設営班)開設

《322基地(バリクパパン)地図》 設営班慰安所

[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 廣川高史 『中曽根元首相:旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない−慰安婦問題』 Bloomberg 2007.3.23
[3] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011.10.28
[4] 日本政府未認定の日本軍「慰安婦」関連公文書リスト#70 『海軍航空基地 第2設営班資料』 女たちの戦争と平和資料館Wam

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/736.html#c7

[近代史3] 中曽根康弘とキッシンジャー 中川隆
8. 中川隆[-15234] koaQ7Jey 2019年12月01日 15:19:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2306]
中曽根が設営した慰安所で性暴力を受けた被害者の証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932


中曽根「大勲位」元首相の慰安所関与を取り上げた前回記事に、こんなコメントがついた。
慰安所というのは売春のための施設でしょうか?そういうもと決めつけて資料を読んでいませんか?

慰安というのは日本語で何を意味していますか?例えば女性にお酌をしてもらってお酒を飲める場所は、慰安施設言い換えれば慰安所と言えますよね?
慰安は売春だけを指すものですか?
なら、そうであったという証拠をだすべきでしょう、できなければ下世話な想像しかできない阿呆のたわごとにすぎません
ひとつ下の「99」さんのコメントの画像を見ろ、としか言いようがないのだが、何の根拠もなく自らの願望を書き散らしていればいいのだからネトウヨは気楽なものである。
この画像の番組(TBS報道特集「インドネシアでの戦時性暴力」2015年7月25日放映)でも証言しているスハルティさんは、元参議院議員の吉川春子氏に、次のように具体的に中曽根の作った慰安所での経験を語っている[1]。
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
ついでに、上記の報道特集から、当時インドネシアで「慰安所」を体験した元日本兵の証言も紹介しておこう。
金平:軍の慰安所とかにね、何回かやっぱり行かれたんですよね? そのときの気持ちって、どういう気持ちだったんですか?
元日本兵:要するに突撃一番ですよ。なにしろ、男としての遊びだけですよ。公衆便所と似たような感じ。ただ公衆便所は、ついた朝顔のとこにふっかけるんだけど、見たこともない女性の服をこうしてやるわけだから(笑いながら)要するに、コンドームは必ずつけてですね。
金平:突撃一番っていうのは、軍から支給された?
元日本兵:支給してたんですよ。コンドームを。
このインドネシアのようなケースの場合、「慰安所」で行われていたのは売春などではなく、日本軍による未成年の少女たちの組織的監禁・強姦だろう。性病の心配のない処女を狙って集めたのだ。阿呆のたわごとはいい加減にしてほしい。

[1] 吉川春子 『アジアの花たちへ』 かもがわ出版 2008年 P.53-54

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/736.html#c8

[政治・選挙・NHK267] 死者に鞭打つつもりはないが、(日々雑感) 笑坊
3. 中川隆[-15233] koaQ7Jey 2019年12月01日 15:23:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2305]
2017-05-21
「大勲位」元首相に中曽根康弘主計中尉の慰安所設営を思い出させてあげよう
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237

「大勲位」中曽根康弘が今月27日に99歳になるとかで、これを祝う会が開かれたそうだ。

27日に99歳を迎える中曽根康弘の白寿を祝う会が開かれ、安倍晋三ら約230人が集まった。 
読売新聞の渡辺恒雄・グループ本社主筆は、改憲をめぐり「いよいよ安倍内閣で実現の運びとなれば、中曽根さんにとって非常にハッピー」と述べた。https://t.co/Dxuap7P3i1
— BARA (@BARANEKO) 2017年5月15日


■ 慰安所設営を自慢していた中曽根康弘
岸信介や奥野誠亮もそうだったが、ロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きするのにはうんざりだ。
それはともかく、中曽根といえば軍隊時代にインドネシアで慰安所設営に関与し、しかも自分でそれを自慢げに書いている[1]。
二十三歳で三千人の総指揮官
(略)
 まず私は、海兵団に兵隊をもらいにいき、部隊を編成した。また、呉の海軍建設部に集結しつつあった三千人の徴用工を組織する任務もあった。そして、必要な糧食、資材、弾薬、それに零戦や一式攻撃機を飛ばす莫大なガソリン、爆弾を調達して、これをわずか七日間に、四隻の輸送船に満載したのである。これはまさに大事業であった。
(略)
 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年だから、やがて日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)制度が大問題になるなどとは思ってもみなかったのだろう。だから気軽に書いたわけだ。
■ 言い訳を否定する「第2設営班資料」
問題が大きくなり、この文章についても指摘されるようになると、自分の作った「慰安所」は強制売春施設ではない、と言い訳を始めた。2007年、外国特派員協会での記者会見では、「海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」と述べている[2]。
だが、2011年、民間団体「平和資料館・草の家」が、防衛省所蔵の資料から中曽根と同じ「第2設営班」の工営長だった海軍技師宮地米三氏のメモを発見したことで、この言い訳も成り立たなくなった[3]。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
 中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。
碁を打って休息するような施設を作るのに、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
最近では「もう記憶にない」とか言っているようだが、以下の資料[4]を見れば自分が何を作ったのか思い出せるのではないだろうか。
《第2設営班編成表》 主計長中曽根康弘の名がある

《設営後の状況》 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設

《1942年3月11日》 慰安所(設営班)開設

《322基地(バリクパパン)地図》 設営班慰安所


[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 廣川高史 『中曽根元首相:旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない−慰安婦問題』 Bloomberg 2007.3.23
[3] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011.10.28
[4] 日本政府未認定の日本軍「慰安婦」関連公文書リスト#70 『海軍航空基地 第2設営班資料』 女たちの戦争と平和資料館Wam

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237



▲△▽▼

中曽根が設営した慰安所で性暴力を受けた被害者の証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932

中曽根「大勲位」元首相の慰安所関与を取り上げた前回記事に、こんなコメントがついた。
慰安所というのは売春のための施設でしょうか?そういうもと決めつけて資料を読んでいませんか?

慰安というのは日本語で何を意味していますか?例えば女性にお酌をしてもらってお酒を飲める場所は、慰安施設言い換えれば慰安所と言えますよね?
慰安は売春だけを指すものですか?
なら、そうであったという証拠をだすべきでしょう、できなければ下世話な想像しかできない阿呆のたわごとにすぎません
ひとつ下の「99」さんのコメントの画像を見ろ、としか言いようがないのだが、何の根拠もなく自らの願望を書き散らしていればいいのだからネトウヨは気楽なものである。
この画像の番組(TBS報道特集「インドネシアでの戦時性暴力」2015年7月25日放映)でも証言しているスハルティさんは、元参議院議員の吉川春子氏に、次のように具体的に中曽根の作った慰安所での経験を語っている[1]。
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
ついでに、上記の報道特集から、当時インドネシアで「慰安所」を体験した元日本兵の証言も紹介しておこう。
金平:軍の慰安所とかにね、何回かやっぱり行かれたんですよね? そのときの気持ちって、どういう気持ちだったんですか?
元日本兵:要するに突撃一番ですよ。なにしろ、男としての遊びだけですよ。公衆便所と似たような感じ。ただ公衆便所は、ついた朝顔のとこにふっかけるんだけど、見たこともない女性の服をこうしてやるわけだから(笑いながら)要するに、コンドームは必ずつけてですね。
金平:突撃一番っていうのは、軍から支給された?
元日本兵:支給してたんですよ。コンドームを。
このインドネシアのようなケースの場合、「慰安所」で行われていたのは売春などではなく、日本軍による未成年の少女たちの組織的監禁・強姦だろう。性病の心配のない処女を狙って集めたのだ。阿呆のたわごとはいい加減にしてほしい。

[1] 吉川春子 『アジアの花たちへ』 かもがわ出版 2008年 P.53-54

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932


http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/740.html#c3

[政治・選挙・NHK267] JAL123便の墜落事故を背後で操つた中曽根の疑惑と死んでも喋らずに「あの世に持って行った秘密」 フランクリン
2. 中川隆[-15232] koaQ7Jey 2019年12月01日 15:24:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2304]
2017-05-21
「大勲位」元首相に中曽根康弘主計中尉の慰安所設営を思い出させてあげよう
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237
「大勲位」中曽根康弘が今月27日に99歳になるとかで、これを祝う会が開かれたそうだ。

27日に99歳を迎える中曽根康弘の白寿を祝う会が開かれ、安倍晋三ら約230人が集まった。 
読売新聞の渡辺恒雄・グループ本社主筆は、改憲をめぐり「いよいよ安倍内閣で実現の運びとなれば、中曽根さんにとって非常にハッピー」と述べた。https://t.co/Dxuap7P3i1
— BARA (@BARANEKO) 2017年5月15日


■ 慰安所設営を自慢していた中曽根康弘
岸信介や奥野誠亮もそうだったが、ロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きするのにはうんざりだ。
それはともかく、中曽根といえば軍隊時代にインドネシアで慰安所設営に関与し、しかも自分でそれを自慢げに書いている[1]。
二十三歳で三千人の総指揮官
(略)
 まず私は、海兵団に兵隊をもらいにいき、部隊を編成した。また、呉の海軍建設部に集結しつつあった三千人の徴用工を組織する任務もあった。そして、必要な糧食、資材、弾薬、それに零戦や一式攻撃機を飛ばす莫大なガソリン、爆弾を調達して、これをわずか七日間に、四隻の輸送船に満載したのである。これはまさに大事業であった。
(略)
 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年だから、やがて日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)制度が大問題になるなどとは思ってもみなかったのだろう。だから気軽に書いたわけだ。
■ 言い訳を否定する「第2設営班資料」
問題が大きくなり、この文章についても指摘されるようになると、自分の作った「慰安所」は強制売春施設ではない、と言い訳を始めた。2007年、外国特派員協会での記者会見では、「海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」と述べている[2]。
だが、2011年、民間団体「平和資料館・草の家」が、防衛省所蔵の資料から中曽根と同じ「第2設営班」の工営長だった海軍技師宮地米三氏のメモを発見したことで、この言い訳も成り立たなくなった[3]。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
 中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。
碁を打って休息するような施設を作るのに、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
最近では「もう記憶にない」とか言っているようだが、以下の資料[4]を見れば自分が何を作ったのか思い出せるのではないだろうか。
《第2設営班編成表》 主計長中曽根康弘の名がある

《設営後の状況》 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設

《1942年3月11日》 慰安所(設営班)開設

《322基地(バリクパパン)地図》 設営班慰安所


[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 廣川高史 『中曽根元首相:旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない−慰安婦問題』 Bloomberg 2007.3.23
[3] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011.10.28
[4] 日本政府未認定の日本軍「慰安婦」関連公文書リスト#70 『海軍航空基地 第2設営班資料』 女たちの戦争と平和資料館Wam

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237

▲△▽▼

中曽根が設営した慰安所で性暴力を受けた被害者の証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932

中曽根「大勲位」元首相の慰安所関与を取り上げた前回記事に、こんなコメントがついた。
慰安所というのは売春のための施設でしょうか?そういうもと決めつけて資料を読んでいませんか?

慰安というのは日本語で何を意味していますか?例えば女性にお酌をしてもらってお酒を飲める場所は、慰安施設言い換えれば慰安所と言えますよね?
慰安は売春だけを指すものですか?
なら、そうであったという証拠をだすべきでしょう、できなければ下世話な想像しかできない阿呆のたわごとにすぎません
ひとつ下の「99」さんのコメントの画像を見ろ、としか言いようがないのだが、何の根拠もなく自らの願望を書き散らしていればいいのだからネトウヨは気楽なものである。
この画像の番組(TBS報道特集「インドネシアでの戦時性暴力」2015年7月25日放映)でも証言しているスハルティさんは、元参議院議員の吉川春子氏に、次のように具体的に中曽根の作った慰安所での経験を語っている[1]。
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
ついでに、上記の報道特集から、当時インドネシアで「慰安所」を体験した元日本兵の証言も紹介しておこう。
金平:軍の慰安所とかにね、何回かやっぱり行かれたんですよね? そのときの気持ちって、どういう気持ちだったんですか?
元日本兵:要するに突撃一番ですよ。なにしろ、男としての遊びだけですよ。公衆便所と似たような感じ。ただ公衆便所は、ついた朝顔のとこにふっかけるんだけど、見たこともない女性の服をこうしてやるわけだから(笑いながら)要するに、コンドームは必ずつけてですね。
金平:突撃一番っていうのは、軍から支給された?
元日本兵:支給してたんですよ。コンドームを。
このインドネシアのようなケースの場合、「慰安所」で行われていたのは売春などではなく、日本軍による未成年の少女たちの組織的監禁・強姦だろう。性病の心配のない処女を狙って集めたのだ。阿呆のたわごとはいい加減にしてほしい。

[1] 吉川春子 『アジアの花たちへ』 かもがわ出版 2008年 P.53-54

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932


http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/739.html#c2

[政治・選挙・NHK267] 中曽根康弘が墓場に持って行った秘密を告げる「LA INTERNATIONAL」誌の座談会と大勲位の死因の謎 バロック
4. 中川隆[-15231] koaQ7Jey 2019年12月01日 15:25:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2303]
2017-05-21
「大勲位」元首相に中曽根康弘主計中尉の慰安所設営を思い出させてあげよう
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237
「大勲位」中曽根康弘が今月27日に99歳になるとかで、これを祝う会が開かれたそうだ。

27日に99歳を迎える中曽根康弘の白寿を祝う会が開かれ、安倍晋三ら約230人が集まった。 
読売新聞の渡辺恒雄・グループ本社主筆は、改憲をめぐり「いよいよ安倍内閣で実現の運びとなれば、中曽根さんにとって非常にハッピー」と述べた。https://t.co/Dxuap7P3i1
— BARA (@BARANEKO) 2017年5月15日


■ 慰安所設営を自慢していた中曽根康弘
岸信介や奥野誠亮もそうだったが、ロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きするのにはうんざりだ。
それはともかく、中曽根といえば軍隊時代にインドネシアで慰安所設営に関与し、しかも自分でそれを自慢げに書いている[1]。
二十三歳で三千人の総指揮官
(略)
 まず私は、海兵団に兵隊をもらいにいき、部隊を編成した。また、呉の海軍建設部に集結しつつあった三千人の徴用工を組織する任務もあった。そして、必要な糧食、資材、弾薬、それに零戦や一式攻撃機を飛ばす莫大なガソリン、爆弾を調達して、これをわずか七日間に、四隻の輸送船に満載したのである。これはまさに大事業であった。
(略)
 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年だから、やがて日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)制度が大問題になるなどとは思ってもみなかったのだろう。だから気軽に書いたわけだ。
■ 言い訳を否定する「第2設営班資料」
問題が大きくなり、この文章についても指摘されるようになると、自分の作った「慰安所」は強制売春施設ではない、と言い訳を始めた。2007年、外国特派員協会での記者会見では、「海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」と述べている[2]。
だが、2011年、民間団体「平和資料館・草の家」が、防衛省所蔵の資料から中曽根と同じ「第2設営班」の工営長だった海軍技師宮地米三氏のメモを発見したことで、この言い訳も成り立たなくなった[3]。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
 中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。
碁を打って休息するような施設を作るのに、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
最近では「もう記憶にない」とか言っているようだが、以下の資料[4]を見れば自分が何を作ったのか思い出せるのではないだろうか。
《第2設営班編成表》 主計長中曽根康弘の名がある

《設営後の状況》 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設

《1942年3月11日》 慰安所(設営班)開設

《322基地(バリクパパン)地図》 設営班慰安所


[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 廣川高史 『中曽根元首相:旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない−慰安婦問題』 Bloomberg 2007.3.23
[3] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011.10.28
[4] 日本政府未認定の日本軍「慰安婦」関連公文書リスト#70 『海軍航空基地 第2設営班資料』 女たちの戦争と平和資料館Wam

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237

▲△▽▼

中曽根が設営した慰安所で性暴力を受けた被害者の証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932

中曽根「大勲位」元首相の慰安所関与を取り上げた前回記事に、こんなコメントがついた。
慰安所というのは売春のための施設でしょうか?そういうもと決めつけて資料を読んでいませんか?

慰安というのは日本語で何を意味していますか?例えば女性にお酌をしてもらってお酒を飲める場所は、慰安施設言い換えれば慰安所と言えますよね?
慰安は売春だけを指すものですか?
なら、そうであったという証拠をだすべきでしょう、できなければ下世話な想像しかできない阿呆のたわごとにすぎません
ひとつ下の「99」さんのコメントの画像を見ろ、としか言いようがないのだが、何の根拠もなく自らの願望を書き散らしていればいいのだからネトウヨは気楽なものである。
この画像の番組(TBS報道特集「インドネシアでの戦時性暴力」2015年7月25日放映)でも証言しているスハルティさんは、元参議院議員の吉川春子氏に、次のように具体的に中曽根の作った慰安所での経験を語っている[1]。
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
ついでに、上記の報道特集から、当時インドネシアで「慰安所」を体験した元日本兵の証言も紹介しておこう。
金平:軍の慰安所とかにね、何回かやっぱり行かれたんですよね? そのときの気持ちって、どういう気持ちだったんですか?
元日本兵:要するに突撃一番ですよ。なにしろ、男としての遊びだけですよ。公衆便所と似たような感じ。ただ公衆便所は、ついた朝顔のとこにふっかけるんだけど、見たこともない女性の服をこうしてやるわけだから(笑いながら)要するに、コンドームは必ずつけてですね。
金平:突撃一番っていうのは、軍から支給された?
元日本兵:支給してたんですよ。コンドームを。
このインドネシアのようなケースの場合、「慰安所」で行われていたのは売春などではなく、日本軍による未成年の少女たちの組織的監禁・強姦だろう。性病の心配のない処女を狙って集めたのだ。阿呆のたわごとはいい加減にしてほしい。

[1] 吉川春子 『アジアの花たちへ』 かもがわ出版 2008年 P.53-54

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932


http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/732.html#c4

[政治・選挙・NHK267] 中曽根康弘とキッシンジャー(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
5. 中川隆[-15230] koaQ7Jey 2019年12月01日 15:25:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2302]
2017-05-21
「大勲位」元首相に中曽根康弘主計中尉の慰安所設営を思い出させてあげよう
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237
「大勲位」中曽根康弘が今月27日に99歳になるとかで、これを祝う会が開かれたそうだ。

27日に99歳を迎える中曽根康弘の白寿を祝う会が開かれ、安倍晋三ら約230人が集まった。 
読売新聞の渡辺恒雄・グループ本社主筆は、改憲をめぐり「いよいよ安倍内閣で実現の運びとなれば、中曽根さんにとって非常にハッピー」と述べた。https://t.co/Dxuap7P3i1
— BARA (@BARANEKO) 2017年5月15日


■ 慰安所設営を自慢していた中曽根康弘
岸信介や奥野誠亮もそうだったが、ロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きするのにはうんざりだ。
それはともかく、中曽根といえば軍隊時代にインドネシアで慰安所設営に関与し、しかも自分でそれを自慢げに書いている[1]。
二十三歳で三千人の総指揮官
(略)
 まず私は、海兵団に兵隊をもらいにいき、部隊を編成した。また、呉の海軍建設部に集結しつつあった三千人の徴用工を組織する任務もあった。そして、必要な糧食、資材、弾薬、それに零戦や一式攻撃機を飛ばす莫大なガソリン、爆弾を調達して、これをわずか七日間に、四隻の輸送船に満載したのである。これはまさに大事業であった。
(略)
 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年だから、やがて日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)制度が大問題になるなどとは思ってもみなかったのだろう。だから気軽に書いたわけだ。
■ 言い訳を否定する「第2設営班資料」
問題が大きくなり、この文章についても指摘されるようになると、自分の作った「慰安所」は強制売春施設ではない、と言い訳を始めた。2007年、外国特派員協会での記者会見では、「海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」と述べている[2]。
だが、2011年、民間団体「平和資料館・草の家」が、防衛省所蔵の資料から中曽根と同じ「第2設営班」の工営長だった海軍技師宮地米三氏のメモを発見したことで、この言い訳も成り立たなくなった[3]。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
 中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。
碁を打って休息するような施設を作るのに、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
最近では「もう記憶にない」とか言っているようだが、以下の資料[4]を見れば自分が何を作ったのか思い出せるのではないだろうか。
《第2設営班編成表》 主計長中曽根康弘の名がある

《設営後の状況》 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設

《1942年3月11日》 慰安所(設営班)開設

《322基地(バリクパパン)地図》 設営班慰安所


[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 廣川高史 『中曽根元首相:旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない−慰安婦問題』 Bloomberg 2007.3.23
[3] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011.10.28
[4] 日本政府未認定の日本軍「慰安婦」関連公文書リスト#70 『海軍航空基地 第2設営班資料』 女たちの戦争と平和資料館Wam

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237

▲△▽▼

中曽根が設営した慰安所で性暴力を受けた被害者の証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932

中曽根「大勲位」元首相の慰安所関与を取り上げた前回記事に、こんなコメントがついた。
慰安所というのは売春のための施設でしょうか?そういうもと決めつけて資料を読んでいませんか?

慰安というのは日本語で何を意味していますか?例えば女性にお酌をしてもらってお酒を飲める場所は、慰安施設言い換えれば慰安所と言えますよね?
慰安は売春だけを指すものですか?
なら、そうであったという証拠をだすべきでしょう、できなければ下世話な想像しかできない阿呆のたわごとにすぎません
ひとつ下の「99」さんのコメントの画像を見ろ、としか言いようがないのだが、何の根拠もなく自らの願望を書き散らしていればいいのだからネトウヨは気楽なものである。
この画像の番組(TBS報道特集「インドネシアでの戦時性暴力」2015年7月25日放映)でも証言しているスハルティさんは、元参議院議員の吉川春子氏に、次のように具体的に中曽根の作った慰安所での経験を語っている[1]。
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
ついでに、上記の報道特集から、当時インドネシアで「慰安所」を体験した元日本兵の証言も紹介しておこう。
金平:軍の慰安所とかにね、何回かやっぱり行かれたんですよね? そのときの気持ちって、どういう気持ちだったんですか?
元日本兵:要するに突撃一番ですよ。なにしろ、男としての遊びだけですよ。公衆便所と似たような感じ。ただ公衆便所は、ついた朝顔のとこにふっかけるんだけど、見たこともない女性の服をこうしてやるわけだから(笑いながら)要するに、コンドームは必ずつけてですね。
金平:突撃一番っていうのは、軍から支給された?
元日本兵:支給してたんですよ。コンドームを。
このインドネシアのようなケースの場合、「慰安所」で行われていたのは売春などではなく、日本軍による未成年の少女たちの組織的監禁・強姦だろう。性病の心配のない処女を狙って集めたのだ。阿呆のたわごとはいい加減にしてほしい。

[1] 吉川春子 『アジアの花たちへ』 かもがわ出版 2008年 P.53-54

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932


http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/731.html#c5

[アジア13] 悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない 中川隆
620. 中川隆[-15229] koaQ7Jey 2019年12月01日 15:26:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2301]
2017-05-21
「大勲位」元首相に中曽根康弘主計中尉の慰安所設営を思い出させてあげよう
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237
「大勲位」中曽根康弘が今月27日に99歳になるとかで、これを祝う会が開かれたそうだ。

27日に99歳を迎える中曽根康弘の白寿を祝う会が開かれ、安倍晋三ら約230人が集まった。 
読売新聞の渡辺恒雄・グループ本社主筆は、改憲をめぐり「いよいよ安倍内閣で実現の運びとなれば、中曽根さんにとって非常にハッピー」と述べた。https://t.co/Dxuap7P3i1
— BARA (@BARANEKO) 2017年5月15日


■ 慰安所設営を自慢していた中曽根康弘
岸信介や奥野誠亮もそうだったが、ロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きするのにはうんざりだ。
それはともかく、中曽根といえば軍隊時代にインドネシアで慰安所設営に関与し、しかも自分でそれを自慢げに書いている[1]。
二十三歳で三千人の総指揮官
(略)
 まず私は、海兵団に兵隊をもらいにいき、部隊を編成した。また、呉の海軍建設部に集結しつつあった三千人の徴用工を組織する任務もあった。そして、必要な糧食、資材、弾薬、それに零戦や一式攻撃機を飛ばす莫大なガソリン、爆弾を調達して、これをわずか七日間に、四隻の輸送船に満載したのである。これはまさに大事業であった。
(略)
 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年だから、やがて日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)制度が大問題になるなどとは思ってもみなかったのだろう。だから気軽に書いたわけだ。
■ 言い訳を否定する「第2設営班資料」
問題が大きくなり、この文章についても指摘されるようになると、自分の作った「慰安所」は強制売春施設ではない、と言い訳を始めた。2007年、外国特派員協会での記者会見では、「海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」と述べている[2]。
だが、2011年、民間団体「平和資料館・草の家」が、防衛省所蔵の資料から中曽根と同じ「第2設営班」の工営長だった海軍技師宮地米三氏のメモを発見したことで、この言い訳も成り立たなくなった[3]。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
 中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。
碁を打って休息するような施設を作るのに、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
最近では「もう記憶にない」とか言っているようだが、以下の資料[4]を見れば自分が何を作ったのか思い出せるのではないだろうか。
《第2設営班編成表》 主計長中曽根康弘の名がある

《設営後の状況》 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設

《1942年3月11日》 慰安所(設営班)開設

《322基地(バリクパパン)地図》 設営班慰安所


[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 廣川高史 『中曽根元首相:旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない−慰安婦問題』 Bloomberg 2007.3.23
[3] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011.10.28
[4] 日本政府未認定の日本軍「慰安婦」関連公文書リスト#70 『海軍航空基地 第2設営班資料』 女たちの戦争と平和資料館Wam

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237

▲△▽▼

中曽根が設営した慰安所で性暴力を受けた被害者の証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932

中曽根「大勲位」元首相の慰安所関与を取り上げた前回記事に、こんなコメントがついた。
慰安所というのは売春のための施設でしょうか?そういうもと決めつけて資料を読んでいませんか?

慰安というのは日本語で何を意味していますか?例えば女性にお酌をしてもらってお酒を飲める場所は、慰安施設言い換えれば慰安所と言えますよね?
慰安は売春だけを指すものですか?
なら、そうであったという証拠をだすべきでしょう、できなければ下世話な想像しかできない阿呆のたわごとにすぎません
ひとつ下の「99」さんのコメントの画像を見ろ、としか言いようがないのだが、何の根拠もなく自らの願望を書き散らしていればいいのだからネトウヨは気楽なものである。
この画像の番組(TBS報道特集「インドネシアでの戦時性暴力」2015年7月25日放映)でも証言しているスハルティさんは、元参議院議員の吉川春子氏に、次のように具体的に中曽根の作った慰安所での経験を語っている[1]。
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
ついでに、上記の報道特集から、当時インドネシアで「慰安所」を体験した元日本兵の証言も紹介しておこう。
金平:軍の慰安所とかにね、何回かやっぱり行かれたんですよね? そのときの気持ちって、どういう気持ちだったんですか?
元日本兵:要するに突撃一番ですよ。なにしろ、男としての遊びだけですよ。公衆便所と似たような感じ。ただ公衆便所は、ついた朝顔のとこにふっかけるんだけど、見たこともない女性の服をこうしてやるわけだから(笑いながら)要するに、コンドームは必ずつけてですね。
金平:突撃一番っていうのは、軍から支給された?
元日本兵:支給してたんですよ。コンドームを。
このインドネシアのようなケースの場合、「慰安所」で行われていたのは売春などではなく、日本軍による未成年の少女たちの組織的監禁・強姦だろう。性病の心配のない処女を狙って集めたのだ。阿呆のたわごとはいい加減にしてほしい。

[1] 吉川春子 『アジアの花たちへ』 かもがわ出版 2008年 P.53-54

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932


http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html#c620

[近代史3] 吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった 中川隆
7. 中川隆[-15228] koaQ7Jey 2019年12月01日 15:27:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2300]
2017-05-21
「大勲位」元首相に中曽根康弘主計中尉の慰安所設営を思い出させてあげよう
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237
「大勲位」中曽根康弘が今月27日に99歳になるとかで、これを祝う会が開かれたそうだ。

27日に99歳を迎える中曽根康弘の白寿を祝う会が開かれ、安倍晋三ら約230人が集まった。 
読売新聞の渡辺恒雄・グループ本社主筆は、改憲をめぐり「いよいよ安倍内閣で実現の運びとなれば、中曽根さんにとって非常にハッピー」と述べた。https://t.co/Dxuap7P3i1
— BARA (@BARANEKO) 2017年5月15日


■ 慰安所設営を自慢していた中曽根康弘
岸信介や奥野誠亮もそうだったが、ロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きするのにはうんざりだ。
それはともかく、中曽根といえば軍隊時代にインドネシアで慰安所設営に関与し、しかも自分でそれを自慢げに書いている[1]。
二十三歳で三千人の総指揮官
(略)
 まず私は、海兵団に兵隊をもらいにいき、部隊を編成した。また、呉の海軍建設部に集結しつつあった三千人の徴用工を組織する任務もあった。そして、必要な糧食、資材、弾薬、それに零戦や一式攻撃機を飛ばす莫大なガソリン、爆弾を調達して、これをわずか七日間に、四隻の輸送船に満載したのである。これはまさに大事業であった。
(略)
 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年だから、やがて日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)制度が大問題になるなどとは思ってもみなかったのだろう。だから気軽に書いたわけだ。
■ 言い訳を否定する「第2設営班資料」
問題が大きくなり、この文章についても指摘されるようになると、自分の作った「慰安所」は強制売春施設ではない、と言い訳を始めた。2007年、外国特派員協会での記者会見では、「海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」と述べている[2]。
だが、2011年、民間団体「平和資料館・草の家」が、防衛省所蔵の資料から中曽根と同じ「第2設営班」の工営長だった海軍技師宮地米三氏のメモを発見したことで、この言い訳も成り立たなくなった[3]。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
 中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。
碁を打って休息するような施設を作るのに、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
最近では「もう記憶にない」とか言っているようだが、以下の資料[4]を見れば自分が何を作ったのか思い出せるのではないだろうか。
《第2設営班編成表》 主計長中曽根康弘の名がある

《設営後の状況》 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設

《1942年3月11日》 慰安所(設営班)開設

《322基地(バリクパパン)地図》 設営班慰安所


[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 廣川高史 『中曽根元首相:旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない−慰安婦問題』 Bloomberg 2007.3.23
[3] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011.10.28
[4] 日本政府未認定の日本軍「慰安婦」関連公文書リスト#70 『海軍航空基地 第2設営班資料』 女たちの戦争と平和資料館Wam

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237

▲△▽▼

中曽根が設営した慰安所で性暴力を受けた被害者の証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932

中曽根「大勲位」元首相の慰安所関与を取り上げた前回記事に、こんなコメントがついた。
慰安所というのは売春のための施設でしょうか?そういうもと決めつけて資料を読んでいませんか?

慰安というのは日本語で何を意味していますか?例えば女性にお酌をしてもらってお酒を飲める場所は、慰安施設言い換えれば慰安所と言えますよね?
慰安は売春だけを指すものですか?
なら、そうであったという証拠をだすべきでしょう、できなければ下世話な想像しかできない阿呆のたわごとにすぎません
ひとつ下の「99」さんのコメントの画像を見ろ、としか言いようがないのだが、何の根拠もなく自らの願望を書き散らしていればいいのだからネトウヨは気楽なものである。
この画像の番組(TBS報道特集「インドネシアでの戦時性暴力」2015年7月25日放映)でも証言しているスハルティさんは、元参議院議員の吉川春子氏に、次のように具体的に中曽根の作った慰安所での経験を語っている[1]。
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
ついでに、上記の報道特集から、当時インドネシアで「慰安所」を体験した元日本兵の証言も紹介しておこう。
金平:軍の慰安所とかにね、何回かやっぱり行かれたんですよね? そのときの気持ちって、どういう気持ちだったんですか?
元日本兵:要するに突撃一番ですよ。なにしろ、男としての遊びだけですよ。公衆便所と似たような感じ。ただ公衆便所は、ついた朝顔のとこにふっかけるんだけど、見たこともない女性の服をこうしてやるわけだから(笑いながら)要するに、コンドームは必ずつけてですね。
金平:突撃一番っていうのは、軍から支給された?
元日本兵:支給してたんですよ。コンドームを。
このインドネシアのようなケースの場合、「慰安所」で行われていたのは売春などではなく、日本軍による未成年の少女たちの組織的監禁・強姦だろう。性病の心配のない処女を狙って集めたのだ。阿呆のたわごとはいい加減にしてほしい。

[1] 吉川春子 『アジアの花たちへ』 かもがわ出版 2008年 P.53-54

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html#c7

[アジア13] 悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない 中川隆
621. 中川隆[-15242] koaQ7Jey 2019年12月01日 15:38:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2314]

2019-12-01
中曽根康弘が(ようやく)死んだ
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525


10月29日、中曽根康弘が死んだ。101歳だったという。

■ 中曽根の葬儀こそ「民営化」すべき
この中曽根もそうだし、岸信介(1987年、90歳没)や奥野誠亮(2016年、103歳没)もそうだが、社会に悪をなすロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きして天寿を全うするパターンが多くて嫌になる。

政府は国葬や国民葬を検討しているそうだが、「日本のサッチャー」中曽根の葬儀は「民営化」して徹底的にコストカットすべきだろう。それこそがこの男にはふさわしい。

■ 中曽根、インドネシアに「慰安所」を開設
中曽根の悪行は数え上げたらきりがないが、この男が政治家としてやらかしたことはとりあえず脇に置いて、ここでは海軍時代の中曽根が慰安所(レイプセンター)の設営に直接関与していたことを取り上げる。
なぜそれが分かったかというと、出世した旧海軍出身者の自慢話を集めた本(松浦敬紀編著『終りなき海軍』)の中で、まるでいいことでもしてやったかのように自分で書いていたからだ。[1]


 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年。この当時は、まさか日本軍性奴隷制度が重大な戦時性暴力事件として世界から非難されることになるとは思いもしなかったのだろう。また、中曽根がバリクパパン(インドネシア)に作った慰安所は海軍直営であり、これは「業者が勝手にやった」式のウソを吹き飛ばす貴重な証言でもある。
■ 問題が大きくなると慰安所での性行為強制を否定
ところが、日本軍性奴隷制度が国際問題化し、バリクパパンの事例についても注目が集まるようになると、中曽根は、自分の作った「慰安所」は他とは違って強制売春施設ではなかったと言い出した。2007年に日本外国特派員協会で行った記者会見では、「彼ら(注:設営隊作業員ら)が集まったりあるいは碁・将棋をやったり、そういう彼らが娯楽をやる場所が欲しいと。そういう彼らの話もあって、そういうことをやったわけであります」などと述べている。
しかし、これがウソであることは、2011年に防衛省資料の中から中曽根が主計長を務めていた設営部隊の資料が見つかったことで明らかになった。[2]
 今回見つけたのは「海軍航空基地第2設営班資料」。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに1962年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26ページ)。第2設営班の主計長が中曽根氏です。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。


画像出典:女たちの戦争と平和資料館Wam
中曽根の「慰安所」が碁や将棋を打つためのただの集会所だったなら、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
さらに、この中曽根の慰安所で性行為を強制された被害者の証言もある。この女性は被害当時まだ15歳で、処女だった。これだけでも明白な戦争犯罪である。
吉川春子『アジアの花たちへ』(かもがわ出版 2008年)P.53-54:
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。
 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
TBS報道特集『インドネシアでの戦時性暴力』(2015/7/25放映):
ナレーション:スハルティさん。15歳のとき、学校に入れると誘われて、ジャワ島からこの街に連れてこられたという。
スハルティ:昔の日本人はすべて悪かったです。良い人はいませんでした。 よく殴って殺していました。殴って、水に入れて。
 無理やり慰安所に連れてこられて、私には何もできないですよ。ジャワから連れてこられて、逃げるにしても、どこに行けばいの?
 涙があふれるばかりでした。死にたくなるほど後悔しました。学校に入れると言ったのに、あんなことになって。
 私の処女を奪ったのは、オノという人でした。
金平:もしよかったら、その時に慰安所で起きたことを話してください。
(略)
金平:医師はどのようにチェックをしましたか?
スハルティ:女性は7人で、みんな新品だと言われました。検査したのはインドネシア人の役人と、日本人の医者です。
 みんな新品だ、と役人が言いました。全員処女だったということです。
ナレーション:日本軍は、性病と縁のない、インドネシアの少女たちに目をつけたのだ。
TBS「報道特集」は、取材結果に基づいて中曽根に質問状を送り、自身の開設した慰安所の性質や、インドネシアの少女たちを集めた目的などを聞いている。しかし、中曽根事務所が電話で回答してきた内容は、「以前、外国特派員協会で申し上げたとおりで、それ以上でもそれ以下でもない」というものだったという。
結局、中曽根はその後も自分の作った「慰安所」について何も語らず、説明責任さえ果たすことなく死んだ。

[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011/10/28

https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525
http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html#c621

[近代史3] 吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった 中川隆
8. 中川隆[-15241] koaQ7Jey 2019年12月01日 15:39:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2313]

2019-12-01
中曽根康弘が(ようやく)死んだ
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525


10月29日、中曽根康弘が死んだ。101歳だったという。

■ 中曽根の葬儀こそ「民営化」すべき
この中曽根もそうだし、岸信介(1987年、90歳没)や奥野誠亮(2016年、103歳没)もそうだが、社会に悪をなすロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きして天寿を全うするパターンが多くて嫌になる。

政府は国葬や国民葬を検討しているそうだが、「日本のサッチャー」中曽根の葬儀は「民営化」して徹底的にコストカットすべきだろう。それこそがこの男にはふさわしい。

■ 中曽根、インドネシアに「慰安所」を開設
中曽根の悪行は数え上げたらきりがないが、この男が政治家としてやらかしたことはとりあえず脇に置いて、ここでは海軍時代の中曽根が慰安所(レイプセンター)の設営に直接関与していたことを取り上げる。
なぜそれが分かったかというと、出世した旧海軍出身者の自慢話を集めた本(松浦敬紀編著『終りなき海軍』)の中で、まるでいいことでもしてやったかのように自分で書いていたからだ。[1]


 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年。この当時は、まさか日本軍性奴隷制度が重大な戦時性暴力事件として世界から非難されることになるとは思いもしなかったのだろう。また、中曽根がバリクパパン(インドネシア)に作った慰安所は海軍直営であり、これは「業者が勝手にやった」式のウソを吹き飛ばす貴重な証言でもある。
■ 問題が大きくなると慰安所での性行為強制を否定
ところが、日本軍性奴隷制度が国際問題化し、バリクパパンの事例についても注目が集まるようになると、中曽根は、自分の作った「慰安所」は他とは違って強制売春施設ではなかったと言い出した。2007年に日本外国特派員協会で行った記者会見では、「彼ら(注:設営隊作業員ら)が集まったりあるいは碁・将棋をやったり、そういう彼らが娯楽をやる場所が欲しいと。そういう彼らの話もあって、そういうことをやったわけであります」などと述べている。
しかし、これがウソであることは、2011年に防衛省資料の中から中曽根が主計長を務めていた設営部隊の資料が見つかったことで明らかになった。[2]
 今回見つけたのは「海軍航空基地第2設営班資料」。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに1962年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26ページ)。第2設営班の主計長が中曽根氏です。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。


画像出典:女たちの戦争と平和資料館Wam
中曽根の「慰安所」が碁や将棋を打つためのただの集会所だったなら、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
さらに、この中曽根の慰安所で性行為を強制された被害者の証言もある。この女性は被害当時まだ15歳で、処女だった。これだけでも明白な戦争犯罪である。
吉川春子『アジアの花たちへ』(かもがわ出版 2008年)P.53-54:
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。
 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
TBS報道特集『インドネシアでの戦時性暴力』(2015/7/25放映):
ナレーション:スハルティさん。15歳のとき、学校に入れると誘われて、ジャワ島からこの街に連れてこられたという。
スハルティ:昔の日本人はすべて悪かったです。良い人はいませんでした。 よく殴って殺していました。殴って、水に入れて。
 無理やり慰安所に連れてこられて、私には何もできないですよ。ジャワから連れてこられて、逃げるにしても、どこに行けばいの?
 涙があふれるばかりでした。死にたくなるほど後悔しました。学校に入れると言ったのに、あんなことになって。
 私の処女を奪ったのは、オノという人でした。
金平:もしよかったら、その時に慰安所で起きたことを話してください。
(略)
金平:医師はどのようにチェックをしましたか?
スハルティ:女性は7人で、みんな新品だと言われました。検査したのはインドネシア人の役人と、日本人の医者です。
 みんな新品だ、と役人が言いました。全員処女だったということです。
ナレーション:日本軍は、性病と縁のない、インドネシアの少女たちに目をつけたのだ。
TBS「報道特集」は、取材結果に基づいて中曽根に質問状を送り、自身の開設した慰安所の性質や、インドネシアの少女たちを集めた目的などを聞いている。しかし、中曽根事務所が電話で回答してきた内容は、「以前、外国特派員協会で申し上げたとおりで、それ以上でもそれ以下でもない」というものだったという。
結局、中曽根はその後も自分の作った「慰安所」について何も語らず、説明責任さえ果たすことなく死んだ。

[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011/10/28

https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html#c8

[近代史3] 伊藤貫氏に聞く _ 日本人は何故アメリカの犬になりたがるのか 中川隆
19. 中川隆[-15243] koaQ7Jey 2019年12月01日 15:56:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2315]
『三島由紀夫が割腹自殺した本当の理由(伊藤貫×西部邁 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MNNeUirop3Y
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/125.html#c19
[近代史3] 伊藤貫氏に聞く _ 日本人は何故アメリカの犬になりたがるのか 中川隆
20. 中川隆[-15242] koaQ7Jey 2019年12月01日 16:17:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2314]
世界中で嫌われているアメリカを日本人が大好きな理由(情報統制され洗脳されるかわいそうな日本の人たち) 伊藤貫✖西部邁 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=nJs8iNwgWP8
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/125.html#c20
[近代史3] 社会主義マジック _ 中共が GDP 世界第二位の超大国になれた理由 中川隆
29. 中川隆[-15241] koaQ7Jey 2019年12月01日 17:05:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2312]

2019年12月01日
無敗の中国経済の秘密 成長分の数倍の借金で公共事業

日本の公共事業は1円たりとも許さないマスコミは、中国の公共事業を「さすが発展著しい中国ですね」なとと言う。

引用:http://www.zenshin-s.org/zenshin-s/sokuhou/2011/photo/s20111002b.jpg


無敗の中国経済の秘密


中国経済は過去20年で20回以上は経済危機が叫ばれてきたが、全て乗り切って成長してきた。

今回の危機もまた乗り越えるだろうと思えるが、にも関わらず中国経済の将来には悲観論しか出てこない。


今回の経済危機を語る前に過去20年ほど中国で起きた経済危機を振り返ってみる。


中国は共産主義国だが資本主義国と同じように好景気と不況がある。

だが旧ソ連と同じで国の教義として「不況は無い」事になっている。

ややこしいが共産主義が20世紀に始まったときの理由が、共産主義になれば不況が無くなるというものだった。


ソ連は不況になったのに認めず対処出来ずに滅んだが、中国では効果的な対処法を編み出し成功した。

それは巨額の公共事業で不況をなくし、同時に高度経済成長するというもので、元は日本の高度成長からヒントを得たようです。

中国の投資依存度は現在は50%程度のようだが、以前は80%以上ありGDPの殆どを公共事業が占めていた。


ここでいう投資とはその国の政府投資と民間投資を合計したもので、中国の場合は政府投資が多く民間投資は少なかった。

「国は道路建設に投資した」「建設業者はダンプカーなどに投資した」のように政府投資に比例して民間投資も増えるわけです。


中国の公共事業の規模は人類最大かつ空前絶後で、現在は年間300兆円から400兆円に達しているとみられる。

「みられる」というのは中国の国家予算は非公開だからで、間接的な数字から推測したからです。

例えば中国の鉄道路線の新規建設費は50兆円を超え、しかも北京オリンピック以降毎年こうなっている。


2010年代以降は日本の全ての地下鉄を合計したより長い地下鉄が中国で開通し、日本の鉄道総距離より長い距離が毎年開通しました。

道路や橋、発電所、軍事施設、港湾建設などあらゆる分野でこの調子で公共事業を行っています。

「年間300兆円以上の公共事業」は誇張では無く、実際に行われています。

中国の借金のゆくえ


中国は年7%近い経済成長をして年間60兆円以上、経済が拡大したと主張していました。

中国のGDPと成長率は中国が「主張している」だけで何の根拠も無く、実際は発表の1/2や1/3かも知れないのですが、本題ではないので今回は触れません。

300兆円以上の公共事業をして経済成長はたったの60兆円なので、どう計算しても公共事業で使ったお金は借金になります。


北京オリンピック以降の中国は、経済成長した金額の数倍の借金をする事で成長を持続しました。

中国の公的債務は公式発表ではGDPの20%以下、つまり200兆円以下でしか在りません。

欧米の経済誌ブルームバーク、フィナンシャルタイムズ、ウォールストリートジャーナルなどに何度も報道された数字では、既にGDPの200%を上回り3000兆円以上に達している。


因みに日本の借金はGDPの200%の1000兆円とされています。

この20年間の中国経済は借金で公共事業を行い、借金は隠しておいて経済成長だけを(誇大に)発表し外国から投資を集めた。

今後の中国の経済危機も、また数百兆円の借金をして借金は隠し、経済成長だけを発表する筈です。


中国は現在不況ですが2019年は6%の経済成長をしています。

不況なのに何故6%も高度成長するのか?答えは政府が数百兆円を投資して数十兆円の成長を得ているからです。

この中国の借金は、これ以上借金を増やせなくなったらどうなるのでしょうか?


中国は公式に認めた外国からの借金の他にも多額の対外債務があると指摘されています。

実質的には既に対外資産を対外債務が上回る、「純債務国」に転落した可能性が高い。

日本の借金は自国の中だけで止まっているので「日銀が買い取る」などで実質ゼロ円にできるが、中国の借金は対外債務が超過しているので、ある日支払いが滞ったら国が破綻します。


旧ソ連は大した借金ではなかったが、外国への債務支払いが滞ったのがきっかけで崩壊した。

ローマ帝国やソ連を上回る膨大な負債なので予測困難ですが、尋常な終わり方ではないのは確かでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/33391000.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/203.html#c29

[近代史3] 増村保造 兵隊やくざ (1965年 大映) 中川隆
2. 中川隆[-15240] koaQ7Jey 2019年12月01日 19:41:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2311]

大映「兵隊やくざ 大脱走」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=zu27uvFPR2M

1966年(S41)/大映京都


監督:田中徳三
原作:有馬頼義
脚本:舟橋和郎
撮影:武田千吉郎
美術:内藤昭
音楽:鏑木創


■出演:勝新太郎、田村高廣、安田道代、成田三樹夫、南都雄二、芦屋雁之助、芦屋小雁、五味龍太郎、北城寿太郎、内田朝雄


終戦間近。ソ連軍の南下を迎えて玉砕覚悟の空気が漂うなか、おなじみの凸凹コンビがまたしても型破りな活躍を披露! 夜伽を強要される慰問団の少女の危機を救う一方、二人は将校に化けて敗走部隊にもぐりこみ、そこで意外な旧敵と再会する──。共演は安田道代、成田三樹夫ら。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/738.html#c2

[近代史3] 篠原常一郎 ノモンハンの『真実』 中川隆
11. 中川隆[-15239] koaQ7Jey 2019年12月01日 19:45:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2310]

大映 兵隊やくざ 大脱走




1966年(S41)/大映京都

監督:田中徳三
原作:有馬頼義
脚本:舟橋和郎
撮影:武田千吉郎
美術:内藤昭
音楽:鏑木創


■出演:勝新太郎、田村高廣、安田道代、成田三樹夫、南都雄二、芦屋雁之助、芦屋小雁、五味龍太郎、北城寿太郎、内田朝雄


終戦間近。ソ連軍の南下を迎えて玉砕覚悟の空気が漂うなか、おなじみの凸凹コンビがまたしても型破りな活躍を披露! 夜伽を強要される慰問団の少女の危機を救う一方、二人は将校に化けて敗走部隊にもぐりこみ、そこで意外な旧敵と再会する──。共演は安田道代、成田三樹夫ら。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/724.html#c11
[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
240. 中川隆[-15238] koaQ7Jey 2019年12月01日 20:27:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2309]


世界最大のヘッジファンド: 買いたい銘柄を買うな、買いたくない銘柄を買え2019年12月1日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8539


相場も天井圏らしい動きになってきたが、こうした場面にふさわしい助言を取り上げたい。世界最大のヘッジファンドBridgewaterを運用するレイ・ダリオ氏による投資のアドバイスである。

ダリオ氏はYahoo! Financeによるインタビューで個人投資家に対する助言を行っている。彼はいつものように様々な国の様々な資産に分散投資をすることを進めた上で、資産を買う時には次のようにするように助言した。


直感と逆のことを行え。投資というゲームでは直感や大衆の言うことと逆のことを行わなければならない。何故ならば、市場は大衆の考えを反映しているからだ。だから、誰も買いたいと思わないものを買わなければならないし、誰も売りたいと思わないものを売らなければならない。それは感情的に難しいことだ。

今の市場にふさわしい助言ではないか。米中通商合意を控え、誰もが株式市場に楽観的になっている。しかし市場を注意深く観察すれば楽観的になれる状況ではないことが分かる。

•2019年の株高が本物のリスクオンではない理由

それでも市場は天井圏では常に楽観し、底値圏では常に悲観的になる。買う人が一番多い状況を天井と呼び、売る人が一番多い状況を底と呼ぶからである。2007年に市場に対して悲観的だったのはジョージ・ソロス氏などを含む極一部のファンドマネージャーだけである。そして2008年の終わりには誰もが悲観的だったが、そこが株価の底値だった。

だから個人的には市場が楽観的であればあるほど、それが天井であることを確信する。2018年の株安前の状況がそうだった。

•世界同時株安を予想できた理由と株価下落の原因

現在は十分に楽観的だろうか? 米中合意に対する不安がまだ残っている。つまり、天井はもう少し先だろう。十分に楽観的ではないからである。

ダリオ氏はそもそも株価のタイミングを狙うこと自体が個人投資家には向かないと主張している。


マーケットタイミングというゲームに関して言えば、個人投資家が上手くプレイするのは難しいだろう。大量のリソースが必要になるからだ。われわれは何億ドルもの資金を毎年このゲームのためにつぎ込んでいる。われわれにとっても難しいゲームだ。

だからマーケットタイミングを上手くやろうとすること自体に警戒しなければならないが、それでもやらなければならない時は感情的に不快な選択肢が正解だ。何故ならば、それは直感に反しているからだ。

莫大な資金を投じているヘッジファンドにとっても簡単なゲームではないからである。しかし長期投資をするにしても買うタイミングは選ばなければならない。

そうした時には市場がどれだけ楽観的かを見れば良い。今は株を買うべきタイミングだろうか? それは明らかであるように思える。

多くの個人投資家が買いたいと思うチャートだろう。しかし実際にはどうなるだろうか。

ダリオ氏の個人投資家への助言については過去にもより詳しいものを取り上げている。そちらも参考にしてもらいたい。

•世界最大のヘッジファンドが個人投資家に助言する

https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8539
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c240

[近代史3] 新しいチンパンジー学 わたしたちはいま「隣人」をどこまで知っているのか? 中川隆
1. 中川隆[-15237] koaQ7Jey 2019年12月02日 07:09:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2308]

2019年12月02日
母系制で平和的なボノボ社会
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_3.html


 検索していたら、表題の発言を見つけました。リンク箇所を除いて全文を引用すると、
母系制で平和的なボノボ社会と、男性優位で争いの絶えないチンパンジー社会。生まれ変わるならどっちがいい?

となります。さらに検索してみると、ボノボ(Pan paniscus)が母系社会だという認識はそれなりに浸透しているようです。たとえば、

ボノボの喩え、私も良く使います。
チンパンジーとの比較で。
生存戦略として、チンパンジーは強い雄を中心に、戦って群を作る。
ボノボは母系の集団を作り(数年前まではセックスを手段とする、などと身も蓋もない言い方されてましたが)平和的に争いを避ける。
でも人間はそれ以下だと。

との発言や、

ボノボは母系社会で雌は誰とどのようにしてもOKだし、雄も雄同士でまぁ色々したり、雌も雌同士としたり、ほぼバイセクシャルばっかりで、生まれた子供は群れの中で育てるので特に区別しないっていう、なんかもうおおらかをそのまま生き様にしたような生き方してて水龍敬ランドはボノボなのかって思った

との発言や、

哺乳類であれば同じ行為をする事によって、子が産まれ命が続いていくって事に気付いた後に、年がら年中発情期ってのは人間だけかいな?ってな疑問も浮かんでのも小学生の最後の頃だった。ボノボってのが、母系社会で若手の性処理をおばさん系が行い群の平安を保ってたりするっての知ったのはかなり後。

との発言や、

チンパンジーはオスが優位な社会で、他集団との争いも多く、子殺しやレイプなども行ないます。一方のボノボは母系社会ですが、オスとメスはほぼ対等で、力ではなく「性」でコミュニケーションを図って相手との緊張を取り除き、喧嘩が起きないようにしています。

との発言です。最後の発言はnoteの記事なのですが、Twitter上で、

ボノボは母系社会というのはガセで、他のヒト科の動物同様、メスが育った集団を出て嫁に行く父系社会である。

と批判されているように、ボノボは最近縁の現生種であるチンパンジー(Pan troglodytes)と同様に父系社会を形成しています。ボノボ社会が母系だと誤解されるのは、おそらくチンパンジーと比較して雌の社会的地位が高いからなのでしょう(関連記事)。それを反映して、ボノボの雌はしばしば、息子を発情期の雌に接近できるような場所へと連れて行き、他の雄による干渉から息子の交配を保護し、息子が高い支配的地位を獲得して維持するのを助ける、と報告されています(関連記事)。一方、ボノボ社会でも稀に雌が出生集団に留まりますが、その母親は娘を息子ほどには熱心に支援しないようです。これは、ボノボ社会が父系であることをよく反映している、と言えるでしょう。

 現代人(Homo sapiens)も含む現生霊長類では母系社会の方が優勢ですが、現代人も含まれるその下位区分の現生類人猿(ヒト上科)では、現代人の一部を除いて非母系社会を形成します。これは、人類社会が、少なくとも現生類人猿との最終共通祖先の段階では、非母系社会を形成していた、と強く示唆します。さらに、現代人と最近縁の現生系統であるチンパンジー属(チンパンジーおよびボノボ)は父系社会を形成し、次に近縁な現生系統であるゴリラ属は、非単系もしくは無系と区分すべきかもしれませんが、一部の社会においては父親と息子が共存して配偶者を分け合い、互いに独占的な配偶関係を保ちながら集団を維持するという、父系的社会を形成しています(関連記事)。

 おそらく、現代人・チンパンジー属・ゴリラ属の最終共通祖先の時点で、父系にやや傾いた無系社会が形成されており、チンパンジー属系統ではその後に明確な父系社会が形成されたのだと思います。人類系統においても、現生人類ではない絶滅人類で父系社会を示唆する証拠が得られています(関連記事)。人類系統においては、父系に傾きつつも、所属集団を変えても出生集団への帰属意識を持ち続けるような双系的社会がじょじょに形成され、さらに配偶行動が柔軟になっていき、母系社会も出現したのだと思います。おそらく人類史において、母系社会の形成は父系社会よりもずっと新しいと思います。ただ、そうした変化が現生人類の形成過程と関連しているのか、それともさらにさかのぼるのか、現時点では不明ですし、将来も確証を得るのはきわめて困難でしょう。
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_3.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/635.html#c1

[政治・選挙・NHK267] 中曽根康弘と田中角栄―その裏面史  田中良紹・ジャーナリスト  赤かぶ
7. 中川隆[-15236] koaQ7Jey 2019年12月02日 07:15:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2307]

中曽根、インドネシアに「慰安所」を開設
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525


中曽根の悪行は数え上げたらきりがないが、この男が政治家としてやらかしたことはとりあえず脇に置いて、ここでは海軍時代の中曽根が慰安所(レイプセンター)の設営に直接関与していたことを取り上げる。
なぜそれが分かったかというと、出世した旧海軍出身者の自慢話を集めた本(松浦敬紀編著『終りなき海軍』)の中で、まるでいいことでもしてやったかのように自分で書いていたからだ。[1]


 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年。この当時は、まさか日本軍性奴隷制度が重大な戦時性暴力事件として世界から非難されることになるとは思いもしなかったのだろう。また、中曽根がバリクパパン(インドネシア)に作った慰安所は海軍直営であり、これは「業者が勝手にやった」式のウソを吹き飛ばす貴重な証言でもある。
■ 問題が大きくなると慰安所での性行為強制を否定
ところが、日本軍性奴隷制度が国際問題化し、バリクパパンの事例についても注目が集まるようになると、中曽根は、自分の作った「慰安所」は他とは違って強制売春施設ではなかったと言い出した。2007年に日本外国特派員協会で行った記者会見では、「彼ら(注:設営隊作業員ら)が集まったりあるいは碁・将棋をやったり、そういう彼らが娯楽をやる場所が欲しいと。そういう彼らの話もあって、そういうことをやったわけであります」などと述べている。
しかし、これがウソであることは、2011年に防衛省資料の中から中曽根が主計長を務めていた設営部隊の資料が見つかったことで明らかになった。[2]
 今回見つけたのは「海軍航空基地第2設営班資料」。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに1962年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26ページ)。第2設営班の主計長が中曽根氏です。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。


画像出典:女たちの戦争と平和資料館Wam
中曽根の「慰安所」が碁や将棋を打つためのただの集会所だったなら、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
さらに、この中曽根の慰安所で性行為を強制された被害者の証言もある。この女性は被害当時まだ15歳で、処女だった。これだけでも明白な戦争犯罪である。
吉川春子『アジアの花たちへ』(かもがわ出版 2008年)P.53-54:
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。
 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
TBS報道特集『インドネシアでの戦時性暴力』(2015/7/25放映):
ナレーション:スハルティさん。15歳のとき、学校に入れると誘われて、ジャワ島からこの街に連れてこられたという。
スハルティ:昔の日本人はすべて悪かったです。良い人はいませんでした。 よく殴って殺していました。殴って、水に入れて。
 無理やり慰安所に連れてこられて、私には何もできないですよ。ジャワから連れてこられて、逃げるにしても、どこに行けばいの?
 涙があふれるばかりでした。死にたくなるほど後悔しました。学校に入れると言ったのに、あんなことになって。
 私の処女を奪ったのは、オノという人でした。
金平:もしよかったら、その時に慰安所で起きたことを話してください。
(略)
金平:医師はどのようにチェックをしましたか?
スハルティ:女性は7人で、みんな新品だと言われました。検査したのはインドネシア人の役人と、日本人の医者です。
 みんな新品だ、と役人が言いました。全員処女だったということです。
ナレーション:日本軍は、性病と縁のない、インドネシアの少女たちに目をつけたのだ。
TBS「報道特集」は、取材結果に基づいて中曽根に質問状を送り、自身の開設した慰安所の性質や、インドネシアの少女たちを集めた目的などを聞いている。しかし、中曽根事務所が電話で回答してきた内容は、「以前、外国特派員協会で申し上げたとおりで、それ以上でもそれ以下でもない」というものだったという。
結局、中曽根はその後も自分の作った「慰安所」について何も語らず、説明責任さえ果たすことなく死んだ。

[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011/10/28
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525


2017-05-21
「大勲位」元首相に中曽根康弘主計中尉の慰安所設営を思い出させてあげよう
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237
「大勲位」中曽根康弘が今月27日に99歳になるとかで、これを祝う会が開かれたそうだ。

27日に99歳を迎える中曽根康弘の白寿を祝う会が開かれ、安倍晋三ら約230人が集まった。 
読売新聞の渡辺恒雄・グループ本社主筆は、改憲をめぐり「いよいよ安倍内閣で実現の運びとなれば、中曽根さんにとって非常にハッピー」と述べた。https://t.co/Dxuap7P3i1
— BARA (@BARANEKO) 2017年5月15日


■ 慰安所設営を自慢していた中曽根康弘
岸信介や奥野誠亮もそうだったが、ロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きするのにはうんざりだ。
それはともかく、中曽根といえば軍隊時代にインドネシアで慰安所設営に関与し、しかも自分でそれを自慢げに書いている[1]。
二十三歳で三千人の総指揮官
(略)
 まず私は、海兵団に兵隊をもらいにいき、部隊を編成した。また、呉の海軍建設部に集結しつつあった三千人の徴用工を組織する任務もあった。そして、必要な糧食、資材、弾薬、それに零戦や一式攻撃機を飛ばす莫大なガソリン、爆弾を調達して、これをわずか七日間に、四隻の輸送船に満載したのである。これはまさに大事業であった。
(略)
 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年だから、やがて日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)制度が大問題になるなどとは思ってもみなかったのだろう。だから気軽に書いたわけだ。
■ 言い訳を否定する「第2設営班資料」
問題が大きくなり、この文章についても指摘されるようになると、自分の作った「慰安所」は強制売春施設ではない、と言い訳を始めた。2007年、外国特派員協会での記者会見では、「海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」と述べている[2]。
だが、2011年、民間団体「平和資料館・草の家」が、防衛省所蔵の資料から中曽根と同じ「第2設営班」の工営長だった海軍技師宮地米三氏のメモを発見したことで、この言い訳も成り立たなくなった[3]。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
 中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。
碁を打って休息するような施設を作るのに、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
最近では「もう記憶にない」とか言っているようだが、以下の資料[4]を見れば自分が何を作ったのか思い出せるのではないだろうか。
《第2設営班編成表》 主計長中曽根康弘の名がある

《設営後の状況》 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設

《1942年3月11日》 慰安所(設営班)開設

《322基地(バリクパパン)地図》 設営班慰安所


[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 廣川高史 『中曽根元首相:旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない−慰安婦問題』 Bloomberg 2007.3.23
[3] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011.10.28
[4] 日本政府未認定の日本軍「慰安婦」関連公文書リスト#70 『海軍航空基地 第2設営班資料』 女たちの戦争と平和資料館Wam

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237

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中曽根が設営した慰安所で性暴力を受けた被害者の証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932

中曽根「大勲位」元首相の慰安所関与を取り上げた前回記事に、こんなコメントがついた。
慰安所というのは売春のための施設でしょうか?そういうもと決めつけて資料を読んでいませんか?

慰安というのは日本語で何を意味していますか?例えば女性にお酌をしてもらってお酒を飲める場所は、慰安施設言い換えれば慰安所と言えますよね?
慰安は売春だけを指すものですか?
なら、そうであったという証拠をだすべきでしょう、できなければ下世話な想像しかできない阿呆のたわごとにすぎません
ひとつ下の「99」さんのコメントの画像を見ろ、としか言いようがないのだが、何の根拠もなく自らの願望を書き散らしていればいいのだからネトウヨは気楽なものである。
この画像の番組(TBS報道特集「インドネシアでの戦時性暴力」2015年7月25日放映)でも証言しているスハルティさんは、元参議院議員の吉川春子氏に、次のように具体的に中曽根の作った慰安所での経験を語っている[1]。
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
ついでに、上記の報道特集から、当時インドネシアで「慰安所」を体験した元日本兵の証言も紹介しておこう。
金平:軍の慰安所とかにね、何回かやっぱり行かれたんですよね? そのときの気持ちって、どういう気持ちだったんですか?
元日本兵:要するに突撃一番ですよ。なにしろ、男としての遊びだけですよ。公衆便所と似たような感じ。ただ公衆便所は、ついた朝顔のとこにふっかけるんだけど、見たこともない女性の服をこうしてやるわけだから(笑いながら)要するに、コンドームは必ずつけてですね。
金平:突撃一番っていうのは、軍から支給された?
元日本兵:支給してたんですよ。コンドームを。
このインドネシアのようなケースの場合、「慰安所」で行われていたのは売春などではなく、日本軍による未成年の少女たちの組織的監禁・強姦だろう。性病の心配のない処女を狙って集めたのだ。阿呆のたわごとはいい加減にしてほしい。

[1] 吉川春子 『アジアの花たちへ』 かもがわ出版 2008年 P.53-54

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932


http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/749.html#c7

[政治・選挙・NHK267] 中曽根元首相の訃報に思い出すこと(八木啓代のひとりごと) 赤かぶ
23. 中川隆[-15238] koaQ7Jey 2019年12月02日 07:17:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2309]




6. 赤かぶ[43635] kNSCqYLU 2019年12月02日 01:39:25: 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[33708] 報告
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7. 中川隆[-15236] koaQ7Jey 2019年12月02日 07:15:33: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2307] 報告
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中曽根、インドネシアに「慰安所」を開設
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525

中曽根の悪行は数え上げたらきりがないが、この男が政治家としてやらかしたことはとりあえず脇に置いて、ここでは海軍時代の中曽根が慰安所(レイプセンター)の設営に直接関与していたことを取り上げる。
なぜそれが分かったかというと、出世した旧海軍出身者の自慢話を集めた本(松浦敬紀編著『終りなき海軍』)の中で、まるでいいことでもしてやったかのように自分で書いていたからだ。[1]


 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年。この当時は、まさか日本軍性奴隷制度が重大な戦時性暴力事件として世界から非難されることになるとは思いもしなかったのだろう。また、中曽根がバリクパパン(インドネシア)に作った慰安所は海軍直営であり、これは「業者が勝手にやった」式のウソを吹き飛ばす貴重な証言でもある。
■ 問題が大きくなると慰安所での性行為強制を否定
ところが、日本軍性奴隷制度が国際問題化し、バリクパパンの事例についても注目が集まるようになると、中曽根は、自分の作った「慰安所」は他とは違って強制売春施設ではなかったと言い出した。2007年に日本外国特派員協会で行った記者会見では、「彼ら(注:設営隊作業員ら)が集まったりあるいは碁・将棋をやったり、そういう彼らが娯楽をやる場所が欲しいと。そういう彼らの話もあって、そういうことをやったわけであります」などと述べている。
しかし、これがウソであることは、2011年に防衛省資料の中から中曽根が主計長を務めていた設営部隊の資料が見つかったことで明らかになった。[2]
 今回見つけたのは「海軍航空基地第2設営班資料」。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに1962年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26ページ)。第2設営班の主計長が中曽根氏です。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。


画像出典:女たちの戦争と平和資料館Wam
中曽根の「慰安所」が碁や将棋を打つためのただの集会所だったなら、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
さらに、この中曽根の慰安所で性行為を強制された被害者の証言もある。この女性は被害当時まだ15歳で、処女だった。これだけでも明白な戦争犯罪である。
吉川春子『アジアの花たちへ』(かもがわ出版 2008年)P.53-54:
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。
 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
TBS報道特集『インドネシアでの戦時性暴力』(2015/7/25放映):
ナレーション:スハルティさん。15歳のとき、学校に入れると誘われて、ジャワ島からこの街に連れてこられたという。
スハルティ:昔の日本人はすべて悪かったです。良い人はいませんでした。 よく殴って殺していました。殴って、水に入れて。
 無理やり慰安所に連れてこられて、私には何もできないですよ。ジャワから連れてこられて、逃げるにしても、どこに行けばいの?
 涙があふれるばかりでした。死にたくなるほど後悔しました。学校に入れると言ったのに、あんなことになって。
 私の処女を奪ったのは、オノという人でした。
金平:もしよかったら、その時に慰安所で起きたことを話してください。
(略)
金平:医師はどのようにチェックをしましたか?
スハルティ:女性は7人で、みんな新品だと言われました。検査したのはインドネシア人の役人と、日本人の医者です。
 みんな新品だ、と役人が言いました。全員処女だったということです。
ナレーション:日本軍は、性病と縁のない、インドネシアの少女たちに目をつけたのだ。
TBS「報道特集」は、取材結果に基づいて中曽根に質問状を送り、自身の開設した慰安所の性質や、インドネシアの少女たちを集めた目的などを聞いている。しかし、中曽根事務所が電話で回答してきた内容は、「以前、外国特派員協会で申し上げたとおりで、それ以上でもそれ以下でもない」というものだったという。
結局、中曽根はその後も自分の作った「慰安所」について何も語らず、説明責任さえ果たすことなく死んだ。

[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011/10/28
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525


2017-05-21
「大勲位」元首相に中曽根康弘主計中尉の慰安所設営を思い出させてあげよう
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237
「大勲位」中曽根康弘が今月27日に99歳になるとかで、これを祝う会が開かれたそうだ。

27日に99歳を迎える中曽根康弘の白寿を祝う会が開かれ、安倍晋三ら約230人が集まった。 
読売新聞の渡辺恒雄・グループ本社主筆は、改憲をめぐり「いよいよ安倍内閣で実現の運びとなれば、中曽根さんにとって非常にハッピー」と述べた。https://t.co/Dxuap7P3i1
— BARA (@BARANEKO) 2017年5月15日


■ 慰安所設営を自慢していた中曽根康弘
岸信介や奥野誠亮もそうだったが、ロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きするのにはうんざりだ。
それはともかく、中曽根といえば軍隊時代にインドネシアで慰安所設営に関与し、しかも自分でそれを自慢げに書いている[1]。
二十三歳で三千人の総指揮官
(略)
 まず私は、海兵団に兵隊をもらいにいき、部隊を編成した。また、呉の海軍建設部に集結しつつあった三千人の徴用工を組織する任務もあった。そして、必要な糧食、資材、弾薬、それに零戦や一式攻撃機を飛ばす莫大なガソリン、爆弾を調達して、これをわずか七日間に、四隻の輸送船に満載したのである。これはまさに大事業であった。
(略)
 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年だから、やがて日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)制度が大問題になるなどとは思ってもみなかったのだろう。だから気軽に書いたわけだ。
■ 言い訳を否定する「第2設営班資料」
問題が大きくなり、この文章についても指摘されるようになると、自分の作った「慰安所」は強制売春施設ではない、と言い訳を始めた。2007年、外国特派員協会での記者会見では、「海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」と述べている[2]。
だが、2011年、民間団体「平和資料館・草の家」が、防衛省所蔵の資料から中曽根と同じ「第2設営班」の工営長だった海軍技師宮地米三氏のメモを発見したことで、この言い訳も成り立たなくなった[3]。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
 中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。
碁を打って休息するような施設を作るのに、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
最近では「もう記憶にない」とか言っているようだが、以下の資料[4]を見れば自分が何を作ったのか思い出せるのではないだろうか。
《第2設営班編成表》 主計長中曽根康弘の名がある

《設営後の状況》 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設

《1942年3月11日》 慰安所(設営班)開設

《322基地(バリクパパン)地図》 設営班慰安所


[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 廣川高史 『中曽根元首相:旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない−慰安婦問題』 Bloomberg 2007.3.23
[3] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011.10.28
[4] 日本政府未認定の日本軍「慰安婦」関連公文書リスト#70 『海軍航空基地 第2設営班資料』 女たちの戦争と平和資料館Wam

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237


▲△▽▼

中曽根が設営した慰安所で性暴力を受けた被害者の証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932

中曽根「大勲位」元首相の慰安所関与を取り上げた前回記事に、こんなコメントがついた。
慰安所というのは売春のための施設でしょうか?そういうもと決めつけて資料を読んでいませんか?

慰安というのは日本語で何を意味していますか?例えば女性にお酌をしてもらってお酒を飲める場所は、慰安施設言い換えれば慰安所と言えますよね?
慰安は売春だけを指すものですか?
なら、そうであったという証拠をだすべきでしょう、できなければ下世話な想像しかできない阿呆のたわごとにすぎません
ひとつ下の「99」さんのコメントの画像を見ろ、としか言いようがないのだが、何の根拠もなく自らの願望を書き散らしていればいいのだからネトウヨは気楽なものである。
この画像の番組(TBS報道特集「インドネシアでの戦時性暴力」2015年7月25日放映)でも証言しているスハルティさんは、元参議院議員の吉川春子氏に、次のように具体的に中曽根の作った慰安所での経験を語っている[1]。
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
ついでに、上記の報道特集から、当時インドネシアで「慰安所」を体験した元日本兵の証言も紹介しておこう。
金平:軍の慰安所とかにね、何回かやっぱり行かれたんですよね? そのときの気持ちって、どういう気持ちだったんですか?
元日本兵:要するに突撃一番ですよ。なにしろ、男としての遊びだけですよ。公衆便所と似たような感じ。ただ公衆便所は、ついた朝顔のとこにふっかけるんだけど、見たこともない女性の服をこうしてやるわけだから(笑いながら)要するに、コンドームは必ずつけてですね。
金平:突撃一番っていうのは、軍から支給された?
元日本兵:支給してたんですよ。コンドームを。
このインドネシアのようなケースの場合、「慰安所」で行われていたのは売春などではなく、日本軍による未成年の少女たちの組織的監禁・強姦だろう。性病の心配のない処女を狙って集めたのだ。阿呆のたわごとはいい加減にしてほしい。

[1] 吉川春子 『アジアの花たちへ』 かもがわ出版 2008年 P.53-54

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932




http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/748.html#c23

[政治・選挙・NHK267] 中曽根康弘が墓場に持って行った秘密を告げる「LA INTERNATIONAL」誌の座談会と大勲位の死因の謎 バロック
8. 中川隆[-15237] koaQ7Jey 2019年12月02日 07:18:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2308]


中曽根、インドネシアに「慰安所」を開設
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525

中曽根の悪行は数え上げたらきりがないが、この男が政治家としてやらかしたことはとりあえず脇に置いて、ここでは海軍時代の中曽根が慰安所(レイプセンター)の設営に直接関与していたことを取り上げる。
なぜそれが分かったかというと、出世した旧海軍出身者の自慢話を集めた本(松浦敬紀編著『終りなき海軍』)の中で、まるでいいことでもしてやったかのように自分で書いていたからだ。[1]


 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年。この当時は、まさか日本軍性奴隷制度が重大な戦時性暴力事件として世界から非難されることになるとは思いもしなかったのだろう。また、中曽根がバリクパパン(インドネシア)に作った慰安所は海軍直営であり、これは「業者が勝手にやった」式のウソを吹き飛ばす貴重な証言でもある。
■ 問題が大きくなると慰安所での性行為強制を否定
ところが、日本軍性奴隷制度が国際問題化し、バリクパパンの事例についても注目が集まるようになると、中曽根は、自分の作った「慰安所」は他とは違って強制売春施設ではなかったと言い出した。2007年に日本外国特派員協会で行った記者会見では、「彼ら(注:設営隊作業員ら)が集まったりあるいは碁・将棋をやったり、そういう彼らが娯楽をやる場所が欲しいと。そういう彼らの話もあって、そういうことをやったわけであります」などと述べている。
しかし、これがウソであることは、2011年に防衛省資料の中から中曽根が主計長を務めていた設営部隊の資料が見つかったことで明らかになった。[2]
 今回見つけたのは「海軍航空基地第2設営班資料」。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに1962年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26ページ)。第2設営班の主計長が中曽根氏です。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。


画像出典:女たちの戦争と平和資料館Wam
中曽根の「慰安所」が碁や将棋を打つためのただの集会所だったなら、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
さらに、この中曽根の慰安所で性行為を強制された被害者の証言もある。この女性は被害当時まだ15歳で、処女だった。これだけでも明白な戦争犯罪である。
吉川春子『アジアの花たちへ』(かもがわ出版 2008年)P.53-54:
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。
 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
TBS報道特集『インドネシアでの戦時性暴力』(2015/7/25放映):
ナレーション:スハルティさん。15歳のとき、学校に入れると誘われて、ジャワ島からこの街に連れてこられたという。
スハルティ:昔の日本人はすべて悪かったです。良い人はいませんでした。 よく殴って殺していました。殴って、水に入れて。
 無理やり慰安所に連れてこられて、私には何もできないですよ。ジャワから連れてこられて、逃げるにしても、どこに行けばいの?
 涙があふれるばかりでした。死にたくなるほど後悔しました。学校に入れると言ったのに、あんなことになって。
 私の処女を奪ったのは、オノという人でした。
金平:もしよかったら、その時に慰安所で起きたことを話してください。
(略)
金平:医師はどのようにチェックをしましたか?
スハルティ:女性は7人で、みんな新品だと言われました。検査したのはインドネシア人の役人と、日本人の医者です。
 みんな新品だ、と役人が言いました。全員処女だったということです。
ナレーション:日本軍は、性病と縁のない、インドネシアの少女たちに目をつけたのだ。
TBS「報道特集」は、取材結果に基づいて中曽根に質問状を送り、自身の開設した慰安所の性質や、インドネシアの少女たちを集めた目的などを聞いている。しかし、中曽根事務所が電話で回答してきた内容は、「以前、外国特派員協会で申し上げたとおりで、それ以上でもそれ以下でもない」というものだったという。
結局、中曽根はその後も自分の作った「慰安所」について何も語らず、説明責任さえ果たすことなく死んだ。

[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011/10/28
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525


http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/732.html#c8

[国際27] 中曽根康弘が首相に就任した頃、米国とソ連は全面核戦争の寸前だった(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
3. 中川隆[-15236] koaQ7Jey 2019年12月02日 07:19:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2307]

中曽根、インドネシアに「慰安所」を開設
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525

中曽根の悪行は数え上げたらきりがないが、この男が政治家としてやらかしたことはとりあえず脇に置いて、ここでは海軍時代の中曽根が慰安所(レイプセンター)の設営に直接関与していたことを取り上げる。
なぜそれが分かったかというと、出世した旧海軍出身者の自慢話を集めた本(松浦敬紀編著『終りなき海軍』)の中で、まるでいいことでもしてやったかのように自分で書いていたからだ。[1]


 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年。この当時は、まさか日本軍性奴隷制度が重大な戦時性暴力事件として世界から非難されることになるとは思いもしなかったのだろう。また、中曽根がバリクパパン(インドネシア)に作った慰安所は海軍直営であり、これは「業者が勝手にやった」式のウソを吹き飛ばす貴重な証言でもある。
■ 問題が大きくなると慰安所での性行為強制を否定
ところが、日本軍性奴隷制度が国際問題化し、バリクパパンの事例についても注目が集まるようになると、中曽根は、自分の作った「慰安所」は他とは違って強制売春施設ではなかったと言い出した。2007年に日本外国特派員協会で行った記者会見では、「彼ら(注:設営隊作業員ら)が集まったりあるいは碁・将棋をやったり、そういう彼らが娯楽をやる場所が欲しいと。そういう彼らの話もあって、そういうことをやったわけであります」などと述べている。
しかし、これがウソであることは、2011年に防衛省資料の中から中曽根が主計長を務めていた設営部隊の資料が見つかったことで明らかになった。[2]
 今回見つけたのは「海軍航空基地第2設営班資料」。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに1962年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26ページ)。第2設営班の主計長が中曽根氏です。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。


画像出典:女たちの戦争と平和資料館Wam
中曽根の「慰安所」が碁や将棋を打つためのただの集会所だったなら、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
さらに、この中曽根の慰安所で性行為を強制された被害者の証言もある。この女性は被害当時まだ15歳で、処女だった。これだけでも明白な戦争犯罪である。
吉川春子『アジアの花たちへ』(かもがわ出版 2008年)P.53-54:
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。
 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
TBS報道特集『インドネシアでの戦時性暴力』(2015/7/25放映):
ナレーション:スハルティさん。15歳のとき、学校に入れると誘われて、ジャワ島からこの街に連れてこられたという。
スハルティ:昔の日本人はすべて悪かったです。良い人はいませんでした。 よく殴って殺していました。殴って、水に入れて。
 無理やり慰安所に連れてこられて、私には何もできないですよ。ジャワから連れてこられて、逃げるにしても、どこに行けばいの?
 涙があふれるばかりでした。死にたくなるほど後悔しました。学校に入れると言ったのに、あんなことになって。
 私の処女を奪ったのは、オノという人でした。
金平:もしよかったら、その時に慰安所で起きたことを話してください。
(略)
金平:医師はどのようにチェックをしましたか?
スハルティ:女性は7人で、みんな新品だと言われました。検査したのはインドネシア人の役人と、日本人の医者です。
 みんな新品だ、と役人が言いました。全員処女だったということです。
ナレーション:日本軍は、性病と縁のない、インドネシアの少女たちに目をつけたのだ。
TBS「報道特集」は、取材結果に基づいて中曽根に質問状を送り、自身の開設した慰安所の性質や、インドネシアの少女たちを集めた目的などを聞いている。しかし、中曽根事務所が電話で回答してきた内容は、「以前、外国特派員協会で申し上げたとおりで、それ以上でもそれ以下でもない」というものだったという。
結局、中曽根はその後も自分の作った「慰安所」について何も語らず、説明責任さえ果たすことなく死んだ。

[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011/10/28
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525


2017-05-21
「大勲位」元首相に中曽根康弘主計中尉の慰安所設営を思い出させてあげよう
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237
「大勲位」中曽根康弘が今月27日に99歳になるとかで、これを祝う会が開かれたそうだ。

27日に99歳を迎える中曽根康弘の白寿を祝う会が開かれ、安倍晋三ら約230人が集まった。 
読売新聞の渡辺恒雄・グループ本社主筆は、改憲をめぐり「いよいよ安倍内閣で実現の運びとなれば、中曽根さんにとって非常にハッピー」と述べた。https://t.co/Dxuap7P3i1
— BARA (@BARANEKO) 2017年5月15日


■ 慰安所設営を自慢していた中曽根康弘
岸信介や奥野誠亮もそうだったが、ロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きするのにはうんざりだ。
それはともかく、中曽根といえば軍隊時代にインドネシアで慰安所設営に関与し、しかも自分でそれを自慢げに書いている[1]。
二十三歳で三千人の総指揮官
(略)
 まず私は、海兵団に兵隊をもらいにいき、部隊を編成した。また、呉の海軍建設部に集結しつつあった三千人の徴用工を組織する任務もあった。そして、必要な糧食、資材、弾薬、それに零戦や一式攻撃機を飛ばす莫大なガソリン、爆弾を調達して、これをわずか七日間に、四隻の輸送船に満載したのである。これはまさに大事業であった。
(略)
 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年だから、やがて日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)制度が大問題になるなどとは思ってもみなかったのだろう。だから気軽に書いたわけだ。
■ 言い訳を否定する「第2設営班資料」
問題が大きくなり、この文章についても指摘されるようになると、自分の作った「慰安所」は強制売春施設ではない、と言い訳を始めた。2007年、外国特派員協会での記者会見では、「海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」と述べている[2]。
だが、2011年、民間団体「平和資料館・草の家」が、防衛省所蔵の資料から中曽根と同じ「第2設営班」の工営長だった海軍技師宮地米三氏のメモを発見したことで、この言い訳も成り立たなくなった[3]。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
 中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。
碁を打って休息するような施設を作るのに、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
最近では「もう記憶にない」とか言っているようだが、以下の資料[4]を見れば自分が何を作ったのか思い出せるのではないだろうか。
《第2設営班編成表》 主計長中曽根康弘の名がある

《設営後の状況》 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設

《1942年3月11日》 慰安所(設営班)開設

《322基地(バリクパパン)地図》 設営班慰安所


[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 廣川高史 『中曽根元首相:旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない−慰安婦問題』 Bloomberg 2007.3.23
[3] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011.10.28
[4] 日本政府未認定の日本軍「慰安婦」関連公文書リスト#70 『海軍航空基地 第2設営班資料』 女たちの戦争と平和資料館Wam

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237


▲△▽▼

中曽根が設営した慰安所で性暴力を受けた被害者の証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932

中曽根「大勲位」元首相の慰安所関与を取り上げた前回記事に、こんなコメントがついた。
慰安所というのは売春のための施設でしょうか?そういうもと決めつけて資料を読んでいませんか?

慰安というのは日本語で何を意味していますか?例えば女性にお酌をしてもらってお酒を飲める場所は、慰安施設言い換えれば慰安所と言えますよね?
慰安は売春だけを指すものですか?
なら、そうであったという証拠をだすべきでしょう、できなければ下世話な想像しかできない阿呆のたわごとにすぎません
ひとつ下の「99」さんのコメントの画像を見ろ、としか言いようがないのだが、何の根拠もなく自らの願望を書き散らしていればいいのだからネトウヨは気楽なものである。
この画像の番組(TBS報道特集「インドネシアでの戦時性暴力」2015年7月25日放映)でも証言しているスハルティさんは、元参議院議員の吉川春子氏に、次のように具体的に中曽根の作った慰安所での経験を語っている[1]。
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
ついでに、上記の報道特集から、当時インドネシアで「慰安所」を体験した元日本兵の証言も紹介しておこう。
金平:軍の慰安所とかにね、何回かやっぱり行かれたんですよね? そのときの気持ちって、どういう気持ちだったんですか?
元日本兵:要するに突撃一番ですよ。なにしろ、男としての遊びだけですよ。公衆便所と似たような感じ。ただ公衆便所は、ついた朝顔のとこにふっかけるんだけど、見たこともない女性の服をこうしてやるわけだから(笑いながら)要するに、コンドームは必ずつけてですね。
金平:突撃一番っていうのは、軍から支給された?
元日本兵:支給してたんですよ。コンドームを。
このインドネシアのようなケースの場合、「慰安所」で行われていたのは売春などではなく、日本軍による未成年の少女たちの組織的監禁・強姦だろう。性病の心配のない処女を狙って集めたのだ。阿呆のたわごとはいい加減にしてほしい。

[1] 吉川春子 『アジアの花たちへ』 かもがわ出版 2008年 P.53-54

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932




http://www.asyura2.com/19/kokusai27/msg/825.html#c3

[近代史02] プーチン大統領は神の申し子_____小沢一郎先生はこういう人になって欲しかった 中川隆
163. 中川隆[-15244] koaQ7Jey 2019年12月02日 08:35:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2315]
2019.12.02
ウクライナでは破産を前提にした資産略奪計画が練られている


 ウクライナは2020年の終わりから21年にかけての時期に破産するだろうと言われている。それを前提とすると思われる動きも見られる。

 2014年2月のクーデターで排除されたビクトル・ヤヌコビッチ大統領は国の破綻を避けるため、ロシアに接近していたが、それに怒った西側の支配層はヤヌコビッチ排除に乗り出した。クーデターの実行部隊はネオ・ナチが主力だが、そのネオ・ナチを動かしていたのはバラク・オバマ政権のネオコンだ。

 西側の支配層がウクライナを破綻させる理由はいくつかあるが、そのひとつはカネ儲け。国の破綻は大儲けのチャンスだ。1991年12月にボリス・エリツィンによって消滅させられたロシアはその後10年にわたって略奪され続け、大多数の人びとは貧困生活を強いられた。その一方、クレムリンの腐敗勢力と手を組んだ西側の支配層は大儲け、その支配層の手先になったロシアの一部も巨万の富を築き、「オリガルヒ」と呼ばれるようになる。

 そうしたロシア国内の略奪グループの中心にはエリツィンの娘であるタチアナがいた。この人物はウラジミル・プーチンが2000年に解雇するまで大統領顧問を務めている。アル中状態で執務できなかったと噂されている父親に代わり、タチアナがクレムリンを仕切っていたとも言われている。

 ロシアを食い物にしてきたタチアナ人脈の中で最も重要な人物だとも言われているのがアナトリー・チュバイス。ソ連が消滅する直前からエリツィンの側近として経済政策を策定、その背後にはハーバード大学教授のジェフリー・サックスがいた。この教授はジョージ・ソロスの友人としても知られている。サックスの下で働いていたソロスの友人、エゴール・ガイダルはエリツィンの側近になる。

 エリツィン時代にチュバイスとガイダルに命令していた人物がラリー・サマーズ。ハーバード大学教授、世界銀行の主任エコノミスト、財務次官、財務副長官を経て1999年7月から2001年1月まで財務長官を務めている。その後ハーバード大学の学長に就任した。サマーズがロシア工作のために雇ったデイビッド・リプトンとジョナサン・ヘイはCIAのエージェントだ。

 プーチン体制になって略奪グループの力は弱まったが、この人脈が消えたわけではない。現在でも経済、金融の分野では大きな影響力を維持していると言われている。「プーチン後」を懸念している人が少なくないのはそのためだ。

 2014年2月以降のウクライナではエリツィン時代と似たようなことが引き起こされた。ウクライナ国民の資産は略奪され、国外へ持ち出されたのだが、そうした流出に使われたパイプの中にフランクリン・テンプルトン投資というアメリカの会社が含まれている。この会社を設立した人物の息子、ジョン・テンプルトン・ジュニアはバラク・オバマの選挙キャンペーンに多額の寄付をしていたことで知られている。

 略奪されたカネをフランクリン・テンプルトンなど経由で国外へ持ち出し、そのカネでウクライナの資産を安値で買い占めようというわけだ。他の国でも同じだが、この仕組みの中で重要な役割を果たしているのがIMFである。

 そうした不正行為をウクライナの議員が明らかにしはじめている。不正行為の舞台のひとつがオバマ政権で副大統領を務めたジョー・バイデンの息子、ハンター・バイデンが重役を務めていたブリスマ・ホールディングスという天然ガス会社だ。

 その不正行為の捜査を検事総長として率いていたビクトル・ショーキンを解任させたことをジョー・バイデンは2018年1月23日にCFR(外交問題評議会)で自慢した。これをドナルド・トランプ大統領はウクライナのボロディミル・ゼレンスキー大統領との電話で口にしたのである。それをアメリカの民主党や有力メディアは問題にしている。

 ウクライナ側の説明によると、検事総長を解任しろという圧力は2015年終わりから16年初めにかけての数カ月にわたったという。圧力をかけてきたのはアメリカ大使館で、その工作の黒幕はオバマやジョージ・ソロスが関係しているNABU(ウクライナ反汚職局)だという。

 西側の支配層はウクライナを乗っ取るため、土地の私的な所有を認めるように要求している。ウクライナを破産させ、「担保」という形で奪おうとしているのかもしれない。ウクライナを完全な属国にできれば、第2次世界大戦の前にポーランドを含む中央ヨーロッパの親ナチ派が目論んだインターマリウムも現実味を帯びてくる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912020000/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/297.html#c163

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
273. 中川隆[-15243] koaQ7Jey 2019年12月02日 12:04:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2314]

2019年11月25日
会津地方の支配層の男性は渡来系 喜多方・灰塚山古墳出土 歯や骨格から全身像を復元
https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201906/20190604_63010.html

復元された会津地方の支配者のイメージ(東北学院大提供)


 約1500年前に会津地方を支配した豪族とみられる全身人骨が見つかった喜多方市の大型前方後円墳「灰塚山古墳」に関する講演会が24日、会津若松市の県立博物館であった。人骨の復元に取り組んでいた東北学院大(仙台市)の辻秀人教授(考古学)が調査成果を報告。顔つきは現代人に近く、渡来系集団が大和朝廷とつながって支配していたとの見方を示した。
.


 東北学院大文学部の辻秀人教授(考古学)の研究グループは、古墳時代中期(5世紀ごろ)に会津地方を支配した男性の歯から抽出したDNAと全身の骨格から生前の全身像を復元した。男性の姿は現代人に近く、当時の支配層の変遷を知る手掛かりになりそうだ。
 人骨は2017年、辻教授が調査した喜多方市の前方後円墳「灰塚山古墳」の石棺から全身がほぼ完全な状態で見つかった。酸性土壌の国内で、1500年を経過した人骨が見つかるのは珍しいという。
 辻教授はミトコンドリアDNA解析を行う安達登・山梨大教授らに調査を依頼、全身像を復元した。
 男性は身長158センチで、きゃしゃな体形。比較的面長で、鼻の付け根が平らな渡来系の顔つきだった。脊椎に癒着があり、腰痛に悩まされていたことがうかがえた。死亡推定年齢は50代後半。歯のすり減り具合から、固い物は食べていなかった。人骨内の炭素と窒素量からコメのほか、川魚を食べたとみられる。
 辻教授によると、会津地方は、能登半島などを経由してきた渡来系の集団が、大和朝廷の政治的な後ろ盾を得ながら支配していたとみられる。辻教授は「前方後円墳の建設はその現れ。今後の詳細な調査を通じて、縄文人との支配者層の変遷を探りたい」と話した。

 復元像と調査結果は、8日から7月20日まで仙台市青葉区の東北学院大博物館で開かれる開館10周年特別展で公開される。6月8日午後1時から同大土樋キャンパスホーイ記念館で記念シンポジウムもある。連絡先は同大博物館022(264)6920。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c273

[近代史3] 増村保造 兵隊やくざ (1965年 大映) 中川隆
3. 中川隆[-15242] koaQ7Jey 2019年12月02日 13:29:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2313]

大映「兵隊やくざ 強奪」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CAc0x1eshz4


兵隊やくざ 強奪
1968年(S43)/大映京都


監督:田中徳三
原作:有馬頼義
脚本:舟橋和郎、吉田哲郎
撮影:森田富士郎
美術:内藤昭
音楽:鏑木創

出演:勝新太郎、田村高廣、佐藤友美、夏八木勲、江守徹、千波丈太郎、須賀不二男、金内吉男、伊達三郎、毛利郁子

終戦直後の混乱渦まく満州。大宮・有田の凸凹コンビはひょんなことから捨て子を拾い面倒をみるハメに。赤ん坊を背負い三人旅を続ける一行は、十万ドルの金貨をめぐって繰り広げられる大争奪戦に巻きこまれる──。「兵隊やくざ」シリーズの第八作で、大映製作としてはこれが最終作に。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/738.html#c3

[近代史3] 篠原常一郎 ノモンハンの『真実』 中川隆
12. 中川隆[-15241] koaQ7Jey 2019年12月02日 13:32:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2312]
兵隊やくざ 強奪
1968年(S43)/大映京都






監督:田中徳三
原作:有馬頼義
脚本:舟橋和郎、吉田哲郎
撮影:森田富士郎
美術:内藤昭
音楽:鏑木創

出演:勝新太郎、田村高廣、佐藤友美、夏八木勲、江守徹、千波丈太郎、須賀不二男、金内吉男、伊達三郎、毛利郁子

終戦直後の混乱渦まく満州。大宮・有田の凸凹コンビはひょんなことから捨て子を拾い面倒をみるハメに。赤ん坊を背負い三人旅を続ける一行は、十万ドルの金貨をめぐって繰り広げられる大争奪戦に巻きこまれる──。「兵隊やくざ」シリーズの第八作で、大映製作としてはこれが最終作に。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/724.html#c12
[昼休み38] 【netsbom、伝説のゲイ・中曽根康弘】(言われてみると生方コーゾーやトロイの七奉行もそんな気がしてきて気味が悪いです 小沢内閣待望論
4. 中川隆[-15240] koaQ7Jey 2019年12月02日 14:07:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2311]
中曽根、インドネシアに「慰安所」を開設
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525

中曽根の悪行は数え上げたらきりがないが、この男が政治家としてやらかしたことはとりあえず脇に置いて、ここでは海軍時代の中曽根が慰安所(レイプセンター)の設営に直接関与していたことを取り上げる。
なぜそれが分かったかというと、出世した旧海軍出身者の自慢話を集めた本(松浦敬紀編著『終りなき海軍』)の中で、まるでいいことでもしてやったかのように自分で書いていたからだ。[1]


 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年。この当時は、まさか日本軍性奴隷制度が重大な戦時性暴力事件として世界から非難されることになるとは思いもしなかったのだろう。また、中曽根がバリクパパン(インドネシア)に作った慰安所は海軍直営であり、これは「業者が勝手にやった」式のウソを吹き飛ばす貴重な証言でもある。
■ 問題が大きくなると慰安所での性行為強制を否定
ところが、日本軍性奴隷制度が国際問題化し、バリクパパンの事例についても注目が集まるようになると、中曽根は、自分の作った「慰安所」は他とは違って強制売春施設ではなかったと言い出した。2007年に日本外国特派員協会で行った記者会見では、「彼ら(注:設営隊作業員ら)が集まったりあるいは碁・将棋をやったり、そういう彼らが娯楽をやる場所が欲しいと。そういう彼らの話もあって、そういうことをやったわけであります」などと述べている。
しかし、これがウソであることは、2011年に防衛省資料の中から中曽根が主計長を務めていた設営部隊の資料が見つかったことで明らかになった。[2]
 今回見つけたのは「海軍航空基地第2設営班資料」。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに1962年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26ページ)。第2設営班の主計長が中曽根氏です。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。


画像出典:女たちの戦争と平和資料館Wam
中曽根の「慰安所」が碁や将棋を打つためのただの集会所だったなら、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
さらに、この中曽根の慰安所で性行為を強制された被害者の証言もある。この女性は被害当時まだ15歳で、処女だった。これだけでも明白な戦争犯罪である。
吉川春子『アジアの花たちへ』(かもがわ出版 2008年)P.53-54:
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。
 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
TBS報道特集『インドネシアでの戦時性暴力』(2015/7/25放映):
ナレーション:スハルティさん。15歳のとき、学校に入れると誘われて、ジャワ島からこの街に連れてこられたという。
スハルティ:昔の日本人はすべて悪かったです。良い人はいませんでした。 よく殴って殺していました。殴って、水に入れて。
 無理やり慰安所に連れてこられて、私には何もできないですよ。ジャワから連れてこられて、逃げるにしても、どこに行けばいの?
 涙があふれるばかりでした。死にたくなるほど後悔しました。学校に入れると言ったのに、あんなことになって。
 私の処女を奪ったのは、オノという人でした。
金平:もしよかったら、その時に慰安所で起きたことを話してください。
(略)
金平:医師はどのようにチェックをしましたか?
スハルティ:女性は7人で、みんな新品だと言われました。検査したのはインドネシア人の役人と、日本人の医者です。
 みんな新品だ、と役人が言いました。全員処女だったということです。
ナレーション:日本軍は、性病と縁のない、インドネシアの少女たちに目をつけたのだ。
TBS「報道特集」は、取材結果に基づいて中曽根に質問状を送り、自身の開設した慰安所の性質や、インドネシアの少女たちを集めた目的などを聞いている。しかし、中曽根事務所が電話で回答してきた内容は、「以前、外国特派員協会で申し上げたとおりで、それ以上でもそれ以下でもない」というものだったという。
結局、中曽根はその後も自分の作った「慰安所」について何も語らず、説明責任さえ果たすことなく死んだ。

[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011/10/28
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525


2017-05-21
「大勲位」元首相に中曽根康弘主計中尉の慰安所設営を思い出させてあげよう
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237
「大勲位」中曽根康弘が今月27日に99歳になるとかで、これを祝う会が開かれたそうだ。

27日に99歳を迎える中曽根康弘の白寿を祝う会が開かれ、安倍晋三ら約230人が集まった。 
読売新聞の渡辺恒雄・グループ本社主筆は、改憲をめぐり「いよいよ安倍内閣で実現の運びとなれば、中曽根さんにとって非常にハッピー」と述べた。https://t.co/Dxuap7P3i1
— BARA (@BARANEKO) 2017年5月15日


■ 慰安所設営を自慢していた中曽根康弘
岸信介や奥野誠亮もそうだったが、ロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きするのにはうんざりだ。
それはともかく、中曽根といえば軍隊時代にインドネシアで慰安所設営に関与し、しかも自分でそれを自慢げに書いている[1]。
二十三歳で三千人の総指揮官
(略)
 まず私は、海兵団に兵隊をもらいにいき、部隊を編成した。また、呉の海軍建設部に集結しつつあった三千人の徴用工を組織する任務もあった。そして、必要な糧食、資材、弾薬、それに零戦や一式攻撃機を飛ばす莫大なガソリン、爆弾を調達して、これをわずか七日間に、四隻の輸送船に満載したのである。これはまさに大事業であった。
(略)
 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年だから、やがて日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)制度が大問題になるなどとは思ってもみなかったのだろう。だから気軽に書いたわけだ。
■ 言い訳を否定する「第2設営班資料」
問題が大きくなり、この文章についても指摘されるようになると、自分の作った「慰安所」は強制売春施設ではない、と言い訳を始めた。2007年、外国特派員協会での記者会見では、「海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」と述べている[2]。
だが、2011年、民間団体「平和資料館・草の家」が、防衛省所蔵の資料から中曽根と同じ「第2設営班」の工営長だった海軍技師宮地米三氏のメモを発見したことで、この言い訳も成り立たなくなった[3]。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
 中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。
碁を打って休息するような施設を作るのに、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
最近では「もう記憶にない」とか言っているようだが、以下の資料[4]を見れば自分が何を作ったのか思い出せるのではないだろうか。
《第2設営班編成表》 主計長中曽根康弘の名がある

《設営後の状況》 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設

《1942年3月11日》 慰安所(設営班)開設

《322基地(バリクパパン)地図》 設営班慰安所


[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 廣川高史 『中曽根元首相:旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない−慰安婦問題』 Bloomberg 2007.3.23
[3] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011.10.28
[4] 日本政府未認定の日本軍「慰安婦」関連公文書リスト#70 『海軍航空基地 第2設営班資料』 女たちの戦争と平和資料館Wam

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237


▲△▽▼

中曽根が設営した慰安所で性暴力を受けた被害者の証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932

中曽根「大勲位」元首相の慰安所関与を取り上げた前回記事に、こんなコメントがついた。
慰安所というのは売春のための施設でしょうか?そういうもと決めつけて資料を読んでいませんか?

慰安というのは日本語で何を意味していますか?例えば女性にお酌をしてもらってお酒を飲める場所は、慰安施設言い換えれば慰安所と言えますよね?
慰安は売春だけを指すものですか?
なら、そうであったという証拠をだすべきでしょう、できなければ下世話な想像しかできない阿呆のたわごとにすぎません
ひとつ下の「99」さんのコメントの画像を見ろ、としか言いようがないのだが、何の根拠もなく自らの願望を書き散らしていればいいのだからネトウヨは気楽なものである。
この画像の番組(TBS報道特集「インドネシアでの戦時性暴力」2015年7月25日放映)でも証言しているスハルティさんは、元参議院議員の吉川春子氏に、次のように具体的に中曽根の作った慰安所での経験を語っている[1]。
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
ついでに、上記の報道特集から、当時インドネシアで「慰安所」を体験した元日本兵の証言も紹介しておこう。
金平:軍の慰安所とかにね、何回かやっぱり行かれたんですよね? そのときの気持ちって、どういう気持ちだったんですか?
元日本兵:要するに突撃一番ですよ。なにしろ、男としての遊びだけですよ。公衆便所と似たような感じ。ただ公衆便所は、ついた朝顔のとこにふっかけるんだけど、見たこともない女性の服をこうしてやるわけだから(笑いながら)要するに、コンドームは必ずつけてですね。
金平:突撃一番っていうのは、軍から支給された?
元日本兵:支給してたんですよ。コンドームを。
このインドネシアのようなケースの場合、「慰安所」で行われていたのは売春などではなく、日本軍による未成年の少女たちの組織的監禁・強姦だろう。性病の心配のない処女を狙って集めたのだ。阿呆のたわごとはいい加減にしてほしい。

[1] 吉川春子 『アジアの花たちへ』 かもがわ出版 2008年 P.53-54

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932

http://www.asyura2.com/10/lunchbreak38/msg/905.html#c4

[政治・選挙・NHK267] 中曽根康弘が首相に就任した頃、米国とソ連は全面核戦争の寸前だった(櫻井ジャーナル) :国際板リンク 赤かぶ
2. 中川隆[-15239] koaQ7Jey 2019年12月02日 14:08:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2310]
中曽根、インドネシアに「慰安所」を開設
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525

中曽根の悪行は数え上げたらきりがないが、この男が政治家としてやらかしたことはとりあえず脇に置いて、ここでは海軍時代の中曽根が慰安所(レイプセンター)の設営に直接関与していたことを取り上げる。
なぜそれが分かったかというと、出世した旧海軍出身者の自慢話を集めた本(松浦敬紀編著『終りなき海軍』)の中で、まるでいいことでもしてやったかのように自分で書いていたからだ。[1]


 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年。この当時は、まさか日本軍性奴隷制度が重大な戦時性暴力事件として世界から非難されることになるとは思いもしなかったのだろう。また、中曽根がバリクパパン(インドネシア)に作った慰安所は海軍直営であり、これは「業者が勝手にやった」式のウソを吹き飛ばす貴重な証言でもある。
■ 問題が大きくなると慰安所での性行為強制を否定
ところが、日本軍性奴隷制度が国際問題化し、バリクパパンの事例についても注目が集まるようになると、中曽根は、自分の作った「慰安所」は他とは違って強制売春施設ではなかったと言い出した。2007年に日本外国特派員協会で行った記者会見では、「彼ら(注:設営隊作業員ら)が集まったりあるいは碁・将棋をやったり、そういう彼らが娯楽をやる場所が欲しいと。そういう彼らの話もあって、そういうことをやったわけであります」などと述べている。
しかし、これがウソであることは、2011年に防衛省資料の中から中曽根が主計長を務めていた設営部隊の資料が見つかったことで明らかになった。[2]
 今回見つけたのは「海軍航空基地第2設営班資料」。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに1962年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26ページ)。第2設営班の主計長が中曽根氏です。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。


画像出典:女たちの戦争と平和資料館Wam
中曽根の「慰安所」が碁や将棋を打つためのただの集会所だったなら、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
さらに、この中曽根の慰安所で性行為を強制された被害者の証言もある。この女性は被害当時まだ15歳で、処女だった。これだけでも明白な戦争犯罪である。
吉川春子『アジアの花たちへ』(かもがわ出版 2008年)P.53-54:
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。
 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
TBS報道特集『インドネシアでの戦時性暴力』(2015/7/25放映):
ナレーション:スハルティさん。15歳のとき、学校に入れると誘われて、ジャワ島からこの街に連れてこられたという。
スハルティ:昔の日本人はすべて悪かったです。良い人はいませんでした。 よく殴って殺していました。殴って、水に入れて。
 無理やり慰安所に連れてこられて、私には何もできないですよ。ジャワから連れてこられて、逃げるにしても、どこに行けばいの?
 涙があふれるばかりでした。死にたくなるほど後悔しました。学校に入れると言ったのに、あんなことになって。
 私の処女を奪ったのは、オノという人でした。
金平:もしよかったら、その時に慰安所で起きたことを話してください。
(略)
金平:医師はどのようにチェックをしましたか?
スハルティ:女性は7人で、みんな新品だと言われました。検査したのはインドネシア人の役人と、日本人の医者です。
 みんな新品だ、と役人が言いました。全員処女だったということです。
ナレーション:日本軍は、性病と縁のない、インドネシアの少女たちに目をつけたのだ。
TBS「報道特集」は、取材結果に基づいて中曽根に質問状を送り、自身の開設した慰安所の性質や、インドネシアの少女たちを集めた目的などを聞いている。しかし、中曽根事務所が電話で回答してきた内容は、「以前、外国特派員協会で申し上げたとおりで、それ以上でもそれ以下でもない」というものだったという。
結局、中曽根はその後も自分の作った「慰安所」について何も語らず、説明責任さえ果たすことなく死んだ。

[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011/10/28
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525


2017-05-21
「大勲位」元首相に中曽根康弘主計中尉の慰安所設営を思い出させてあげよう
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237
「大勲位」中曽根康弘が今月27日に99歳になるとかで、これを祝う会が開かれたそうだ。

27日に99歳を迎える中曽根康弘の白寿を祝う会が開かれ、安倍晋三ら約230人が集まった。 
読売新聞の渡辺恒雄・グループ本社主筆は、改憲をめぐり「いよいよ安倍内閣で実現の運びとなれば、中曽根さんにとって非常にハッピー」と述べた。https://t.co/Dxuap7P3i1
— BARA (@BARANEKO) 2017年5月15日


■ 慰安所設営を自慢していた中曽根康弘
岸信介や奥野誠亮もそうだったが、ロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きするのにはうんざりだ。
それはともかく、中曽根といえば軍隊時代にインドネシアで慰安所設営に関与し、しかも自分でそれを自慢げに書いている[1]。
二十三歳で三千人の総指揮官
(略)
 まず私は、海兵団に兵隊をもらいにいき、部隊を編成した。また、呉の海軍建設部に集結しつつあった三千人の徴用工を組織する任務もあった。そして、必要な糧食、資材、弾薬、それに零戦や一式攻撃機を飛ばす莫大なガソリン、爆弾を調達して、これをわずか七日間に、四隻の輸送船に満載したのである。これはまさに大事業であった。
(略)
 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年だから、やがて日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)制度が大問題になるなどとは思ってもみなかったのだろう。だから気軽に書いたわけだ。
■ 言い訳を否定する「第2設営班資料」
問題が大きくなり、この文章についても指摘されるようになると、自分の作った「慰安所」は強制売春施設ではない、と言い訳を始めた。2007年、外国特派員協会での記者会見では、「海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」と述べている[2]。
だが、2011年、民間団体「平和資料館・草の家」が、防衛省所蔵の資料から中曽根と同じ「第2設営班」の工営長だった海軍技師宮地米三氏のメモを発見したことで、この言い訳も成り立たなくなった[3]。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
 中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。
碁を打って休息するような施設を作るのに、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
最近では「もう記憶にない」とか言っているようだが、以下の資料[4]を見れば自分が何を作ったのか思い出せるのではないだろうか。
《第2設営班編成表》 主計長中曽根康弘の名がある

《設営後の状況》 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設

《1942年3月11日》 慰安所(設営班)開設

《322基地(バリクパパン)地図》 設営班慰安所


[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 廣川高史 『中曽根元首相:旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない−慰安婦問題』 Bloomberg 2007.3.23
[3] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011.10.28
[4] 日本政府未認定の日本軍「慰安婦」関連公文書リスト#70 『海軍航空基地 第2設営班資料』 女たちの戦争と平和資料館Wam

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237


▲△▽▼

中曽根が設営した慰安所で性暴力を受けた被害者の証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932

中曽根「大勲位」元首相の慰安所関与を取り上げた前回記事に、こんなコメントがついた。
慰安所というのは売春のための施設でしょうか?そういうもと決めつけて資料を読んでいませんか?

慰安というのは日本語で何を意味していますか?例えば女性にお酌をしてもらってお酒を飲める場所は、慰安施設言い換えれば慰安所と言えますよね?
慰安は売春だけを指すものですか?
なら、そうであったという証拠をだすべきでしょう、できなければ下世話な想像しかできない阿呆のたわごとにすぎません
ひとつ下の「99」さんのコメントの画像を見ろ、としか言いようがないのだが、何の根拠もなく自らの願望を書き散らしていればいいのだからネトウヨは気楽なものである。
この画像の番組(TBS報道特集「インドネシアでの戦時性暴力」2015年7月25日放映)でも証言しているスハルティさんは、元参議院議員の吉川春子氏に、次のように具体的に中曽根の作った慰安所での経験を語っている[1]。
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
ついでに、上記の報道特集から、当時インドネシアで「慰安所」を体験した元日本兵の証言も紹介しておこう。
金平:軍の慰安所とかにね、何回かやっぱり行かれたんですよね? そのときの気持ちって、どういう気持ちだったんですか?
元日本兵:要するに突撃一番ですよ。なにしろ、男としての遊びだけですよ。公衆便所と似たような感じ。ただ公衆便所は、ついた朝顔のとこにふっかけるんだけど、見たこともない女性の服をこうしてやるわけだから(笑いながら)要するに、コンドームは必ずつけてですね。
金平:突撃一番っていうのは、軍から支給された?
元日本兵:支給してたんですよ。コンドームを。
このインドネシアのようなケースの場合、「慰安所」で行われていたのは売春などではなく、日本軍による未成年の少女たちの組織的監禁・強姦だろう。性病の心配のない処女を狙って集めたのだ。阿呆のたわごとはいい加減にしてほしい。

[1] 吉川春子 『アジアの花たちへ』 かもがわ出版 2008年 P.53-54

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932

http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/752.html#c2

[近代史3] 中国は何時から日本でマスコミ工作・ネット工作をしているのか? _ 赤かぶ氏は中国の工作員グループ 中川隆
11. 中川隆[-15241] koaQ7Jey 2019年12月02日 18:45:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2312]

2019年12月02日
中国から帰化したスパイが国会議員 オセアニアや北米で現実になっている


オーストラリアでは二重国籍で合計12人が議員辞職か資格無効になった

親が外国人で自動的に外国籍が付与されていた例も含まれている


豪で議員5人が資格無効に 二重国籍で - BBCニュースhttps://www.bbc.com/japanese/44050214

日本の国会は外国のスパイだらけ

レンホーの二重国籍疑惑が話題になったのは2017年頃で、国籍法のいい加減さが知れ渡りました。

レンホーは台湾人の父と日本人の母の娘として日本で生まれ、日本の国籍法では22歳までにどちらの国籍か選択する必要があった。

蓮舫は18歳で日本に帰化申請したが同時に中華民国の国籍も保持しており、約30年間も二重国籍状態だった。




国籍法では日本国籍を取得して2年間、二重国籍が解消されなければ法務大臣が国籍放棄を勧告し、従わなければ日本国籍を剥奪することになっています。

ところがこの法律ができてから国籍はく奪された人はおらず、法務大臣に勧告された人もいないザル法でした。

二重国籍が認められている場合も在り、相手国が国籍離脱を認めない場合、本人が離脱の意思表示をし相手国に宣言するだけで良い。


日本の選挙制度や国会での国籍対応はもっといい加減で、国籍の変更や二重国籍を公表する義務がない。

例えば昨日まで韓国人だった人が今日日本国籍を取得して二重国籍状態だったとしても、それを隠して衆議院選挙に立候補し当選できる。

実際帰化人である事実を隠して国会議員になった人が何人も居て、自民党幹部が「うちに何人も居るから追及するのは辞めよう」と言ったほどです。


つまりレンホーを追求すると自民党の二重国籍や帰化人議員があぶりだされるので、追及しないようにしようという意味です。

国会議員本人が外国人だった事実を公表しなくて良いのだから、親が外国人だった人はもっと多いでしょう。

こんな事では外国のスパイが国会議員になるのではないかと思うが、外国の例を見ると既になっていると考えられます。

オセアニアや北米はスパイ天国だった

ニュージーランドとオーストラリアは難民や移民受け入れに熱心で、あまり受け入れなかった日本を非難したりしていた。

そのニュージーランドでは、中国で工作員の教官だった人物が帰化して国会議員になっていたのが判明した。

中国出身のジャン・ヤン(Jian Yang)議員は中国軍情報部員の講師だったが、2011年にニュージーランドで議員に当選していた。


この影響でニュージーランドは帰化手続きや国会議員の立候補資格を見直しており、厳格化されると見られている。

オーストラリアではやはり2017年ごろに二重国籍問題が起き、副首相や大臣が議員辞職する騒動に発展した。

オーストラリアでは他国の影響下にある者は立候補できないいう微妙な法律があり、国籍よりさらに厳格です。


二重国籍議員は19名でそのうち12人が辞任したり議員資格を無効化され、親が他国籍を持っていた人も含まれている。

例えば親がアメリカ人やイギリス人移民で外国籍の場合、子供には自動的に親の国籍が付与される場合がある。

レンホーと同じケースだが、オーストラリアでは議員資格を無効化し今後も立候補できない。


アメリカは出生地主義なので中国人の親がハワイで産んだ子供でも自動的にアメリカ人になれる。

アメリカでは出生した時点で米国籍でなければ大統領になれないが、アメリカで生まれれば自動的に米国籍になる。

上院議員や下院議員は帰化人でも良く、帰化から7年または9年たった時点で立候補できる。


州議会議員は州によって違うようだが、帰化人でも問題なくなれると思います。

カナダもおよそこんな仕組みになっていて、アメリカとカナダには中国系や韓国系議員がやたら多い。

慰安婦像を建てたり対日非難決議をするのが例外なく中国系移民が多く、中国人が州議会議員などをしている地域です。


当然上院も下院もスパイだらけであり、北米とオセアニアは「スパイ天国」になっている。

日本は帰化したり二重国籍の公表義務すらないので、もっと酷いのは容易に想像できます。
http://www.thutmosev.com/archives/81620499.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/122.html#c11

[お知らせ・管理20] これが阿修羅に巣食う電通工作員 中川隆
276. 中川隆[-15240] koaQ7Jey 2019年12月02日 18:47:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2311]

2019年12月02日
中国から帰化したスパイが国会議員 オセアニアや北米で現実になっている


オーストラリアでは二重国籍で合計12人が議員辞職か資格無効になった

親が外国人で自動的に外国籍が付与されていた例も含まれている


豪で議員5人が資格無効に 二重国籍で - BBCニュースhttps://www.bbc.com/japanese/44050214

日本の国会は外国のスパイだらけ

レンホーの二重国籍疑惑が話題になったのは2017年頃で、国籍法のいい加減さが知れ渡りました。

レンホーは台湾人の父と日本人の母の娘として日本で生まれ、日本の国籍法では22歳までにどちらの国籍か選択する必要があった。

蓮舫は18歳で日本に帰化申請したが同時に中華民国の国籍も保持しており、約30年間も二重国籍状態だった。




国籍法では日本国籍を取得して2年間、二重国籍が解消されなければ法務大臣が国籍放棄を勧告し、従わなければ日本国籍を剥奪することになっています。

ところがこの法律ができてから国籍はく奪された人はおらず、法務大臣に勧告された人もいないザル法でした。

二重国籍が認められている場合も在り、相手国が国籍離脱を認めない場合、本人が離脱の意思表示をし相手国に宣言するだけで良い。


日本の選挙制度や国会での国籍対応はもっといい加減で、国籍の変更や二重国籍を公表する義務がない。

例えば昨日まで韓国人だった人が今日日本国籍を取得して二重国籍状態だったとしても、それを隠して衆議院選挙に立候補し当選できる。

実際帰化人である事実を隠して国会議員になった人が何人も居て、自民党幹部が「うちに何人も居るから追及するのは辞めよう」と言ったほどです。


つまりレンホーを追求すると自民党の二重国籍や帰化人議員があぶりだされるので、追及しないようにしようという意味です。

国会議員本人が外国人だった事実を公表しなくて良いのだから、親が外国人だった人はもっと多いでしょう。

こんな事では外国のスパイが国会議員になるのではないかと思うが、外国の例を見ると既になっていると考えられます。

オセアニアや北米はスパイ天国だった

ニュージーランドとオーストラリアは難民や移民受け入れに熱心で、あまり受け入れなかった日本を非難したりしていた。

そのニュージーランドでは、中国で工作員の教官だった人物が帰化して国会議員になっていたのが判明した。

中国出身のジャン・ヤン(Jian Yang)議員は中国軍情報部員の講師だったが、2011年にニュージーランドで議員に当選していた。


この影響でニュージーランドは帰化手続きや国会議員の立候補資格を見直しており、厳格化されると見られている。

オーストラリアではやはり2017年ごろに二重国籍問題が起き、副首相や大臣が議員辞職する騒動に発展した。

オーストラリアでは他国の影響下にある者は立候補できないいう微妙な法律があり、国籍よりさらに厳格です。


二重国籍議員は19名でそのうち12人が辞任したり議員資格を無効化され、親が他国籍を持っていた人も含まれている。

例えば親がアメリカ人やイギリス人移民で外国籍の場合、子供には自動的に親の国籍が付与される場合がある。

レンホーと同じケースだが、オーストラリアでは議員資格を無効化し今後も立候補できない。


アメリカは出生地主義なので中国人の親がハワイで産んだ子供でも自動的にアメリカ人になれる。

アメリカでは出生した時点で米国籍でなければ大統領になれないが、アメリカで生まれれば自動的に米国籍になる。

上院議員や下院議員は帰化人でも良く、帰化から7年または9年たった時点で立候補できる。


州議会議員は州によって違うようだが、帰化人でも問題なくなれると思います。

カナダもおよそこんな仕組みになっていて、アメリカとカナダには中国系や韓国系議員がやたら多い。

慰安婦像を建てたり対日非難決議をするのが例外なく中国系移民が多く、中国人が州議会議員などをしている地域です。


当然上院も下院もスパイだらけであり、北米とオセアニアは「スパイ天国」になっている。

日本は帰化したり二重国籍の公表義務すらないので、もっと酷いのは容易に想像できます。
http://www.thutmosev.com/archives/81620499.html
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c276

[お知らせ・管理21] 赤かぶさんの投稿スタイルに疑義あり AN
20. 中川隆[-15239] koaQ7Jey 2019年12月02日 18:48:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2310]

2019年12月02日
中国から帰化したスパイが国会議員 オセアニアや北米で現実になっている


オーストラリアでは二重国籍で合計12人が議員辞職か資格無効になった

親が外国人で自動的に外国籍が付与されていた例も含まれている


豪で議員5人が資格無効に 二重国籍で - BBCニュースhttps://www.bbc.com/japanese/44050214

日本の国会は外国のスパイだらけ

レンホーの二重国籍疑惑が話題になったのは2017年頃で、国籍法のいい加減さが知れ渡りました。

レンホーは台湾人の父と日本人の母の娘として日本で生まれ、日本の国籍法では22歳までにどちらの国籍か選択する必要があった。

蓮舫は18歳で日本に帰化申請したが同時に中華民国の国籍も保持しており、約30年間も二重国籍状態だった。




国籍法では日本国籍を取得して2年間、二重国籍が解消されなければ法務大臣が国籍放棄を勧告し、従わなければ日本国籍を剥奪することになっています。

ところがこの法律ができてから国籍はく奪された人はおらず、法務大臣に勧告された人もいないザル法でした。

二重国籍が認められている場合も在り、相手国が国籍離脱を認めない場合、本人が離脱の意思表示をし相手国に宣言するだけで良い。


日本の選挙制度や国会での国籍対応はもっといい加減で、国籍の変更や二重国籍を公表する義務がない。

例えば昨日まで韓国人だった人が今日日本国籍を取得して二重国籍状態だったとしても、それを隠して衆議院選挙に立候補し当選できる。

実際帰化人である事実を隠して国会議員になった人が何人も居て、自民党幹部が「うちに何人も居るから追及するのは辞めよう」と言ったほどです。


つまりレンホーを追求すると自民党の二重国籍や帰化人議員があぶりだされるので、追及しないようにしようという意味です。

国会議員本人が外国人だった事実を公表しなくて良いのだから、親が外国人だった人はもっと多いでしょう。

こんな事では外国のスパイが国会議員になるのではないかと思うが、外国の例を見ると既になっていると考えられます。

オセアニアや北米はスパイ天国だった

ニュージーランドとオーストラリアは難民や移民受け入れに熱心で、あまり受け入れなかった日本を非難したりしていた。

そのニュージーランドでは、中国で工作員の教官だった人物が帰化して国会議員になっていたのが判明した。

中国出身のジャン・ヤン(Jian Yang)議員は中国軍情報部員の講師だったが、2011年にニュージーランドで議員に当選していた。


この影響でニュージーランドは帰化手続きや国会議員の立候補資格を見直しており、厳格化されると見られている。

オーストラリアではやはり2017年ごろに二重国籍問題が起き、副首相や大臣が議員辞職する騒動に発展した。

オーストラリアでは他国の影響下にある者は立候補できないいう微妙な法律があり、国籍よりさらに厳格です。


二重国籍議員は19名でそのうち12人が辞任したり議員資格を無効化され、親が他国籍を持っていた人も含まれている。

例えば親がアメリカ人やイギリス人移民で外国籍の場合、子供には自動的に親の国籍が付与される場合がある。

レンホーと同じケースだが、オーストラリアでは議員資格を無効化し今後も立候補できない。


アメリカは出生地主義なので中国人の親がハワイで産んだ子供でも自動的にアメリカ人になれる。

アメリカでは出生した時点で米国籍でなければ大統領になれないが、アメリカで生まれれば自動的に米国籍になる。

上院議員や下院議員は帰化人でも良く、帰化から7年または9年たった時点で立候補できる。


州議会議員は州によって違うようだが、帰化人でも問題なくなれると思います。

カナダもおよそこんな仕組みになっていて、アメリカとカナダには中国系や韓国系議員がやたら多い。

慰安婦像を建てたり対日非難決議をするのが例外なく中国系移民が多く、中国人が州議会議員などをしている地域です。


当然上院も下院もスパイだらけであり、北米とオセアニアは「スパイ天国」になっている。

日本は帰化したり二重国籍の公表義務すらないので、もっと酷いのは容易に想像できます。
http://www.thutmosev.com/archives/81620499.html
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/571.html#c20

[議論31] 工作員の手引き書! AN
23. 中川隆[-15238] koaQ7Jey 2019年12月02日 18:49:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2309]

2019年12月02日
中国から帰化したスパイが国会議員 オセアニアや北米で現実になっている


オーストラリアでは二重国籍で合計12人が議員辞職か資格無効になった

親が外国人で自動的に外国籍が付与されていた例も含まれている


豪で議員5人が資格無効に 二重国籍で - BBCニュースhttps://www.bbc.com/japanese/44050214

日本の国会は外国のスパイだらけ

レンホーの二重国籍疑惑が話題になったのは2017年頃で、国籍法のいい加減さが知れ渡りました。

レンホーは台湾人の父と日本人の母の娘として日本で生まれ、日本の国籍法では22歳までにどちらの国籍か選択する必要があった。

蓮舫は18歳で日本に帰化申請したが同時に中華民国の国籍も保持しており、約30年間も二重国籍状態だった。




国籍法では日本国籍を取得して2年間、二重国籍が解消されなければ法務大臣が国籍放棄を勧告し、従わなければ日本国籍を剥奪することになっています。

ところがこの法律ができてから国籍はく奪された人はおらず、法務大臣に勧告された人もいないザル法でした。

二重国籍が認められている場合も在り、相手国が国籍離脱を認めない場合、本人が離脱の意思表示をし相手国に宣言するだけで良い。


日本の選挙制度や国会での国籍対応はもっといい加減で、国籍の変更や二重国籍を公表する義務がない。

例えば昨日まで韓国人だった人が今日日本国籍を取得して二重国籍状態だったとしても、それを隠して衆議院選挙に立候補し当選できる。

実際帰化人である事実を隠して国会議員になった人が何人も居て、自民党幹部が「うちに何人も居るから追及するのは辞めよう」と言ったほどです。


つまりレンホーを追求すると自民党の二重国籍や帰化人議員があぶりだされるので、追及しないようにしようという意味です。

国会議員本人が外国人だった事実を公表しなくて良いのだから、親が外国人だった人はもっと多いでしょう。

こんな事では外国のスパイが国会議員になるのではないかと思うが、外国の例を見ると既になっていると考えられます。

オセアニアや北米はスパイ天国だった

ニュージーランドとオーストラリアは難民や移民受け入れに熱心で、あまり受け入れなかった日本を非難したりしていた。

そのニュージーランドでは、中国で工作員の教官だった人物が帰化して国会議員になっていたのが判明した。

中国出身のジャン・ヤン(Jian Yang)議員は中国軍情報部員の講師だったが、2011年にニュージーランドで議員に当選していた。


この影響でニュージーランドは帰化手続きや国会議員の立候補資格を見直しており、厳格化されると見られている。

オーストラリアではやはり2017年ごろに二重国籍問題が起き、副首相や大臣が議員辞職する騒動に発展した。

オーストラリアでは他国の影響下にある者は立候補できないいう微妙な法律があり、国籍よりさらに厳格です。


二重国籍議員は19名でそのうち12人が辞任したり議員資格を無効化され、親が他国籍を持っていた人も含まれている。

例えば親がアメリカ人やイギリス人移民で外国籍の場合、子供には自動的に親の国籍が付与される場合がある。

レンホーと同じケースだが、オーストラリアでは議員資格を無効化し今後も立候補できない。


アメリカは出生地主義なので中国人の親がハワイで産んだ子供でも自動的にアメリカ人になれる。

アメリカでは出生した時点で米国籍でなければ大統領になれないが、アメリカで生まれれば自動的に米国籍になる。

上院議員や下院議員は帰化人でも良く、帰化から7年または9年たった時点で立候補できる。


州議会議員は州によって違うようだが、帰化人でも問題なくなれると思います。

カナダもおよそこんな仕組みになっていて、アメリカとカナダには中国系や韓国系議員がやたら多い。

慰安婦像を建てたり対日非難決議をするのが例外なく中国系移民が多く、中国人が州議会議員などをしている地域です。


当然上院も下院もスパイだらけであり、北米とオセアニアは「スパイ天国」になっている。

日本は帰化したり二重国籍の公表義務すらないので、もっと酷いのは容易に想像できます。
http://www.thutmosev.com/archives/81620499.html
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/707.html#c23

[近代史3] 増村保造 兵隊やくざ (1965年 大映) 中川隆
4. 中川隆[-15240] koaQ7Jey 2019年12月02日 19:58:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2311]
大映「兵隊やくざ 俺にまかせろ」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fBlaQfBKSkc


兵隊やくざ 俺にまかせろ
1967年(S42)/大映東京

監督:田中徳三
原作:有馬頼義
脚本:高岩肇
撮影:宗川信夫
美術:渡辺竹三郎
音楽:鏑木創

出演:勝新太郎、田村高廣、内田良平、渡辺文雄、長谷川待子、渚まゆみ、須賀不二男、上野山功一、清川玉枝、酒井修、杉田康

今回主役コンビはゲリラの拠点を通過する友軍の増援隊に参加。しかし、敵の奇襲によって離ればなれとなり、絶体絶命の大ピンチ──。捕虜となった大宮の危難と活躍をスリルとユーモアたっぷりに描く第六作。彼の命運を握る中国人娘に渚まゆみが扮するほか、悪の参謀を渡辺文雄が憎々しく好演。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/738.html#c4

[近代史3] わが子を「てめぇー」と叱る母親
わが子を「てめぇー」と叱る母親

鏡の言葉 川井 龍介 2010/01/31
第12回 縮まる性差が言葉を変える

言葉は人の心を映す鏡であり、社会を映す鏡でもある。気になる言葉、問題な言葉、悲しい言葉など、いまの世の中で人の心や社会を映すような言葉の周辺を探ってみる。

 ときどき出かける神田の小さな居酒屋で飲んでいたときのこと。カウンターだけの小さな店には、地元の商店の経営者やビジネスマンをはじめ、近くで働く女性たちもよく集っている。何度かこうした女性たちと同席することがあった。

 彼女たちは、みたところ30代前後で、話の中身から編集関係の仕事をしているようだった。なかなかいい飲みっぷりで威勢もいい。あるとき、その女性たちに呼ばれたらしく、同じ会社につとめていると思われる若い男性社員が入ってきた。

 なにしろ、結構大きな声で話しているので否応なく聞こえてしまうのだが、年嵩の女性が男性社員に向かってこう言っていた。

「おい、○○、ネクタイ昨日とおなじじゃないかよ。昨日どこか泊まってたんだろ」。

女性は彼のネクタイに手をかけるような仕草だった。男性の方は、別に萎縮してはいなかったが、反発する様子でもなく、なにか答えていた。

 男も女も平等であり、男だから女だから、とは会社やビジネスの世界では関係ないことはよくわかる。上司、部下の関係であれば、女性がえらそうであっても不思議ではない。しかし、この言葉遣いについては、「いやーずいぶん時代も変わったな」と、率直に感じたものだった。

 この場合、女性の方が上司で力関係でも上だから、こういう内容のことを言えたのだろう。が、同じ内容を言うにしても、「○○君、ネクタイ昨日とおなじみたいね。どこかに泊まったんじゃないの」というのが女性のものの言い方だろう。誤解を恐れずに言えば、この話しっぷりはまるでオヤジだ。

わが子を「てめぇー」と叱る母親

 女性の言葉遣いの話の例をもう少しあげよう。交差点で信号待ちをしていると、「まったく、ちょー、めんどくせーよ」という女性の声。見たところごく普通の20代の社会人で、友だちにこう話しかけている。

 駅で子供を叱るある若い母親は子供の頭を叩きながら「ちょうしこいてんじゃーねぇーよー」と怒鳴っていた。また、小学校の授業参観に来ていたある母親は、授業の終わったあとで落ち着きのなかったわが子に対して「てめぇーなにやってんだよ」と注意した。 

 あとの二つは男性でも同じ状況でなかなかこうは言わないと思うほどだが、かつては男性しかつかわなかったような言葉や言い回しを、いまや女性がふつうにつかっている。昔で言う“不良”といわれるような若者だけでなく、学生や社会人でも、職場はともかくプライベートな状況では、ふつうの女性がそうしている。

男らしくなってきた女子たち

 子供の世界でもすでに、そうなって久しい。相手の名を呼ぶときになんというかを小学校から高校まで、さまざまな世代の子供や子供をもつ親にとりあえず話を聞いてみた。たとえば、富山県のある小学校の3年生の女の子に聞いてみると、男子も女子も互いを呼び合うときに、ほとんど名字を呼び捨てにしているという。「でも、○○さんっていう静かでていねいな女の子は、誰に対しても○○さんって言っている」と例外をあげた。

 私の住まいは神奈川県だが、近くの小学校ではだいたい低学年では、男子は「○○さん」といい女子は「○○君」というのが一般的らしい。これが高学年になると、呼び方もさまざまになってくるという。中学くらいになるとあだ名があればそれで呼び合うが、そうでなければ男子も女子も相手の名字を呼び捨てにするようだ。

 かつては一般的に女子は男子を「○○君」といい、男子は女子を「○○さん」といっていたと思う。いつごろから女子が男子らしくなり、互いに呼び捨てになってきたかというと、私の聞いた範囲では中学生で言えば、10年前あたりからなようだ。「それは、ギャルとかコギャルが登場してきたあたりじゃないの」と、ある20代の男性はいう。

 この男性がいうには、20歳前後の女性たちと話していると、男が話すような話し方で会話をしてくるので、違和感を覚えるというのだ。

女性の社会進出と言葉の関係

 では、どうしてこういう言葉遣いになるのかと考えると、背景には、男女の性差がどんどん縮まってきたという事実があるのではないだろうか。たとえば、職種における男女の差がなくなってきた。道路工事の交通整理に若い女性が登場しはじめたのは、ここ十数年くらいではないだろうか。ダンプカーやタクシーの運転手として女性が登場したのはもっと早いだろう。いまは造園関係の現場でも女性はかなり目につくようになった。

 なんでもアメリカに似てくるが、肉体労働への現場へも女性はどんどん進出している。新聞記者や雑誌の世界ではこの30年で女性はずいぶんと増えてきた。30年前、大手の新聞社の地方支局には女性はごく少数しかいなかったが、いまではどこの社でもいるのはあたりまえだ。

 考えてみれば、男女はその数半々なのだから、たいていの職場に女性がいるのはあたりまえ。どんな職場でも確実に女性は進出しているはずである。逆に男性も女性が主の職場に進出し、仕事の名前も性差はなくなった。看護婦は看護師だし、保母は保育士、スチュワーデスは客室乗務員(キャビンアテンダント)など、言葉も男女差を無くす方向に変わってきた。

 その流れでいえば、話し言葉や振る舞いも、男女差がだんだんなくなってきてもあたりまえかと思う。親の世代がそうなれば、子供たちも自然とそうなっていくのだろう。小学校の先生に聞けば、昨今は泣き虫な男の子が多く、一方で逞しい女の子が目立ってきたという。  

性差が崩壊した社会の行く末は?


『欲しがらない若者たち』 (日経プレミアシリーズ、山岡拓著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%AC%B2%E3%81%97%E3%81%8C%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E8%8B%A5%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1-%E6%97%A5%E7%B5%8C%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E5%B1%B1%E5%B2%A1-%E6%8B%93/dp/4532260612

 さすがに身なりやファッションはまだまだ差が激しい。とはいっても、それも徐々に縮まってきた傾向があるという。昨今の若者の実像をおもに消費動向から緻密にとらえた『欲しがらない若者たち』(日経プレミアシリーズ、山岡拓著)は、性差の縮小をこの実像の象徴の一つとして挙げている。

 本書によれば、ファッションの世界で、女性が男性用の服を身につけようとする志向が目立つという。2008年3月に首都圏と近畿圏の20代〜60代男女を対象に実施した「社会的性差調査」をもとに、興味ある分析がされている。

 そのなかの一つ。「異性向けの服でも見て欲しくなることがある」という人は、とくに20代や30代の女性で多く、20代では3割、30代ではほぼ4割に達しているそうだ。仕立てがいいと、男性向けのシャツを好んだり、実用的な男性の用のバッグを購入する女性の例が紹介されている。

 食べ物の嗜好もまた男女の差を示すことがあるが、この調査によれば、「激辛のタイ料理やカレーが食べたい」と答えた人がもっとも多いのは、男女別、世代別にみて30代の女性で約4割だったという。一方若年男性は甘いものを好む傾向にあるとか。

 若者がかつてと比べて活動的ではないともよくいわれる。アウトドアやスポーツへの関心も低い。しかし、これは男性に顕著であって女性はむしろ活動的になっている。スキーやサーフィンなどに意欲が高いのは20代の女性だそうだ。

 さらに、「好ましいと思う男性のイメージ」として、「料理ができる」、「家事ができる」、「かわいい」という点を女性が挙げているそうだ。また若い女性は男性に家事能力を求める声が高まっている一方で、男性は、実はあまり手仕事が得意でなさそうだという。「かれらが今後築く家庭では、果たして誰が夕食をつくるのだろうか」と、著者が疑問を投げかけるほどだ。

 以上のように、若い世代で男女の差はかくも縮小している。「生活と消費のさまざまな面で、社会的性差(男女差)の垣根が急速に崩れはじめた」と著者は見るが、それがもとになって、言葉もまたそうなっているのではないか。

「まじ、めんどーだよ」とか「まったくうるせーよ」。そんなふうに若い女性が話すようになっている。個人的にはちょっと耐えられないものがある。しかし、「男が言えばなんでもなくて、女が言えば悪いのか」と、反論されればなんともいいようがない。

 社会的性差の垣根の崩壊に関連してさらに言えば、現在、夫婦別姓の法制化議論が進んでいる。これも善し悪しは別として、実現されたら日本社会は劇的に変わるだろうというある法律家はみる。これが言葉にどう反映されるかわからないが、さらなる性差の縮小に向かうことは想像に難くない。
http://kaze.shinshomap.info/series/kotoba/12.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/740.html

[近代史3] 性の進化論 女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?

2019年12月03日
『性の進化論 女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?』第4刷
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_4.html


 クリストファー・ライアン(Christopher Ryan)、カシルダ・ジェタ(Cacilda Jetha)著、山本規雄訳で、2017年9月に作品社より刊行されました。

https://www.amazon.co.jp/%E6%80%A7%E3%81%AE%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96%E2%80%95%E2%80%95%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%A0%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%AA%E3%81%9C%E9%9C%8A%E9%95%B7%E9%A1%9E%E3%81%AB%E3%81%A0%E3%81%91%E7%99%BA%E9%81%94%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8B-%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3/dp/4861824958


第1刷の刊行は2014年7月です。原書の刊行は2010年です。今年(2019年)1月に掲載したさいには、当時の字数制限2万文字を超えたので前編と後編に分割したのですが、その後も参照する機会があり、分割されていては不便なので、1記事の字数制限が約13万文字に増えたこともあり、一つの記事にまとめます。本書は、人類社会が長期にわたって一夫一妻的傾向にあった、と想定する通説を批判し、現代人系統は過去にチンパンジー(Pan troglodytes)やボノボ(Pan paniscus)のような「乱婚」社会を経験し、その証拠が生殖器官をはじめとして現代人の表現型に見られる、と主張します。

 本書の見解には、参考にすべきところが少なくない、と思います。たとえば、通説の根拠とされている各種調査には、調査しやすい人々を対象としたものが少なくなく、人類全体の傾向の代表として妥当なのか疑わしい、といった指摘です。これはもっともですが、たとえば「孤立」集団の調査が倫理的にも安全上もいかに困難か、最近のインド洋での事例(関連記事)からも明らかで、いかに妥当な調査をするのかは、たいへん難しい問題だと思います。また、ダーウィン(Charles Robert Darwin)をはじめとして、研究者たちの観察・考察が同時代の社会的規範や個人的体験、とくに性嫌悪により歪められることは珍しくない、といった本書の指摘もたいへん重要だと思います。本書がとくに言及しているのは、セクシュアリティにまつわる社会的規範と個人的体験が観察・考察を歪める可能性ですが、これは、時代・社会の異なる外部者ができるだけ多く参加して検証していくしかないでしょう。

 このように、本書の指摘には有益なところが少なくありませんし、著者二人は博学で、この点の面白さもあります。何よりも、通説が決定的な根拠に基づいているのではない、との指摘は重要です。ただ、著者二人も認識しているに違いありませんが、本書の主題である過去(おもに更新世)の配偶行動に関して、「確定的な」証拠を提示することは不可能です。したがって、どれだけ関連する証拠(関連度合いの強弱の判断も議論となってくるわけですが)を提示でき、各証拠を統合した整合的で説得力のある先史時代人類社会像を提示できるのかが、重要となります。しかし、セクシュアリティを中心とする本書の提示する先史時代の人類社会像は説得力に欠け、とても最有力の仮説にはなりそうにない、というのが私の率直な感想です。

 私がそのように思うのは、本書が不誠実だと考えているからでもあります。それは、本書が二分法の罠的な技巧を少なからず用いていることもありますが、何よりも、戯画化が度を越している、と考えているためです。まず本書は、「単婚すなわち一夫一妻という結婚が、われわれ人類の本質であり、ここから逸脱する者は、人類の品位を汚すといった偽りの物語が大手を振っている」と主張します(P16)。しかし、最近数十年間に、まともな研究者でそのような倫理的・道徳的観念に依拠した見解を主張している人がいるのか、はなはだ疑問です。現代世界の多くの地域の通俗的観念では、近代化(すなわち西洋化)の進展もあり、確かに一夫一妻が大前提とされていますが、一夫一妻が人類の本質とまで本気で考えている人が非専門家層に多くいるのかも、疑問です。率直に言って、本書のこの認識は多分に藁人形論法だと思います。冒頭からこんな調子なので、この時点で本書には疑問と不信感を抱いてしまったのですが、読み進めても、それらは解消されていくどころか、ますます深まっていきました。

 配偶子へのコストに基づく雌雄の繁殖戦略の違いと競合を指摘する進化心理学的知見は、文化的偏見に起因する性嫌悪に基づいている、と本書は主張しますが(P39〜41)、これも藁人形論法だと思います。有性生殖の生物において、雌雄の繁殖戦略に競合的・軍拡競争的側面が多分にあるのはとても否定できないでしょう。何よりも問題なのは、社会生物学論争に関する認識です。社会生物学論争の結果、人間の行動は遺伝子により決定されるとする立場と、社会により決定されるとする立場に落ち着いた、と本書は評価しています。この認識は、いかに読者を説得するための技巧だとしても、もはや誇張どころではなく、捏造と言うべきでしょう。学界にそうした絵に描いたような遺伝子決定論者が存在するのか、はなはだ疑問です。本書は、真実はその両極端の立場の間にある、と指摘しています。本書こそ冷静な科学的知見を披露しているのだ、と読者に印象づけようとして、あえて読者に誤認させようとしているのではないか、と疑いたくなります。一応本書は、単純化しすぎているように見えるかもしれない、と弁明してはいますが、本書の社会生物学論争に関する認識は、本書への私の不信感を決定的なものとしました。本書に垣間見られる進化心理学への敵意も、社会生物学論争に関するこの認識に由来しているように思います。

 また、女性の性衝動は弱いとする進化心理学の通説には問題がある、と本書はたびたび指摘します。進化心理学の知見が不足している私には、本書の指摘が妥当なのか、的確な判断はできませんが、進化心理学の知見を戯画化しているのではないか、との疑念は拭えません。そもそも、女性の性欲が一般的に?言われているほど弱くはないとしても、それが人類社会乱婚説を証明するものではないと思います。以下でも述べていきますが、本書が引用している数々の知見は、人類社会乱婚説と決定的に矛盾するわけではない、というだけで、その確たる証明になっているわけではない、と思います。一夫一妻的な傾向の強い社会を想定する仮説でも、本書の引用した知見は基本的に、決定的に矛盾するわけでもないと思います。このように、本書にたいしては疑問・不信感が拭えませんが、まずは本書の大まかな見解について述べ、その後に本書の主張する具体的な根拠を見ていきます。なお本書では、「乱婚」には「行き当たりばったり」の性交という意味合いは一切なく、選好が行なわれている、と定義されています。


•本書の見解の概要

 本書は、現代人系統が、戦いに勝ち残った1頭のアルファ雄がハーレムを形成するゴリラ型の配偶システムから乱婚社会へと移行し、遅くともホモ・エレクトス(Homo erectus)の時点では乱婚社会だった、と想定しているようです。その根拠は雌雄の体格差です。霊長類社会では、これが大きいと(性的二形)、単雄複雌のハーレム型の配偶システムを形成する傾向にあるからです。本書は、アウストラロピテクス属よりも前に存在したアルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)では雌雄の体格差が小さかった、との見解(関連記事)が400万年以上にわたる一夫一妻を想定する仮説の根拠とされていることから、ラミダスでは雌雄の体格差が小さかった、との見解に慎重です。本書のこの認識はとくに問題ないと思いますし、そもそもラミダスは現代人系統ではない可能性が高い、と私は考えています。


 ラミダスの人類系統樹における位置づけはさておき、本書は、アウストラロピテクス属における雌雄の体格差は大きかった、との有力説を採用しています。アウストラロピテクス属の性的二形については異論も提示されているのですが(関連記事)、最初期の広義のエレクトスにおいても、性的二形はアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)と大差がなく、チンパンジーよりも大きかった、との見解さえ提示されています(関連記事)。おそらくアウストラロピテクス属においても、性的二形は顕著だった可能性が高いでしょう。本書は、数百万年前に現代人系統はハーレム型社会を脱した(P23)、との認識を示しているのですが、雌雄の体格差という観点からは、その時期は150万年前以降である可能性も想定されます。

 本書は、現代人とチンパンジーおよびボノボ(チンパンジー属)、とくにボノボとの類似性を強調し、現代人系統が過去にボノボと類似した乱婚社会を経験した、と主張しています。したがって、本書では明示されていないように思いますが、アウストラロピテクス属の時点では雌雄の体格差が依然として大きかったとの認識からは、現代人系統の雌雄の体格差がゴリラよりもチンパンジーおよびボノボにずっと近づいたのは、現代人系統とチンパンジー属系統とが分岐してかなり経過してから、という見解が導かれます。本書は、チンパンジー属系統の雌雄の体格差がどのように進化してきたのか、明示していませんが、現代人系統が過去にはゴリラと類似していたと認識しているわけですから、チンパンジー属系統もかつては雌雄の体格差が大きかった(性的二形)と想定している可能性が高そうです。つまり、現代人系統とチンパンジー属系統とで、雌雄の体格差の縮小および乱婚社会への移行が並行して起きた、というわけです。もちろん、収斂進化は生物史においてきょくたんに珍しいわけではありませんが、本書の論理では、現代人系統とチンパンジー属系統の社会構造・配偶システムの類似性をもたらした重要な遺伝子発現の変化には共通性がない、ということになります。したがって、チンパンジー属系統が現生種では現代人と最近縁とはいっても、そのこと自体は、チンパンジー属系統と現代人系統とが類似の社会を形成した、との仮説の状況証拠にはなりません。

 なお、本書では、現代人系統とチンパンジー属系統との分岐年代は500万年前にすぎない、とされていますが(P15)、原書刊行後の研究では約1345万〜678万年前とも推定されています(関連記事)。チャドで発見された、704±18万年前と推定されている(関連記事)サヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)が、現代人の直系祖先ではないとしても(その可能性は高いと思います)、チンパンジー属の祖先系統と分岐した後の人類系統に区分される可能性は高そうですから、現代人の祖先系統とチンパンジー属の祖先系統の分岐は700万年以上前だった可能性が高いと思います。もっとも、本書が指摘するように、この分岐の後もしばらくは、両系統間で交雑があったかもしれません(関連記事)。

 最初期の(広義の)エレクトスの頃なのか、150万年前頃以降なのかはともかく、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の祖先集団もしくはそのきわめて近縁な集団と考えられる、43万年前頃のイベリア半島北部の人類集団の性差は現代人と大きく変わらなかったので(関連記事)、遅くとも100万年前頃には、現代人系統の性差は現代人とさほど変わらなかった、と推測されます。もちろん、当時は狩猟採集社会だったわけで(地域により異なったでしょうが、狩猟への依存度は後期更新世より低かったかもしれません)、現代の狩猟採集社会の研究から、性差が縮小して以降の狩猟採集社会では厳格な平等主義が貫かれており、それは食料の分配だけではなく性に関しても同様だった、と本書は主張します。さらに本書は、この小規模の親密な血縁集団(バンド)で形成される狩猟採集社会において、ほとんどの成体が任意の一定期間、複数の性的関係を結び、それは農耕と私有財産の発生まで続いた、との見通しを提示します。

 これが大きく変わるのが農耕開始以降で、そこで乱婚社会を形成して以降初めて、父性の確認が重要課題になった、と本書は主張します。現代人系統において農耕開始まで父性の確認が重要課題ではなかったとの想定は、本書の乱婚社会説の鍵となります。通説では、父性の確認は人類にとって最大の重要性を有しており、それは進化心理学においても同様です。しかし本書は、現代人のセクシュアリティの起源に関する通説は、農耕開始以降の劇的な変化への人類の柔軟な適応行動の誤認に由来し、本質は異なる、と主張します。本書はその根拠として、世界各地の狩猟採集社会の事例や、現代人の生殖器官および性行動と近縁種との比較を挙げます。以下、多岐にわたるそれらの根拠のうちいくつかを見ていきますが、疑問は少なくありません。


•現代人とボノボとの類似性

 本書は、通説においては、男性は嘘つきのゲス野郎に、女性は嘘つきの二股をかける金目当ての男たらしに進化したと想定されている、というように要約し、通説を批判しています(P71)。しかしこれも、自説の妥当性を読者に印象づけるための技巧で、戯画化を通り越して捏造に近いのではないか、と思います。また本書は、排卵の隠蔽は人間だけの例外として重要との認識を前提として通説は組み立てられている、と説明します(P89〜92)。しかし、現代人も含めて現生類人猿系統は、排卵の隠蔽というか発情徴候が明確ではないことが一般的です。むしろこの点では、現生類人猿系統においてチンパンジー属が例外的です(関連記事)。つまり、類人猿系統においてチンパンジー属系統のみが特異的に発情徴候を明確化するような進化を経てきただろう、というわけです。ここでも、本書が通説を意図的に戯画化しているのではないか、と疑問を抱いてしまいます。

 類人猿系統の中で現代人とは遠い関係にあるテナガザルは単婚だと指摘されていますが(P97〜98)、霊長類系統、とくに類人猿系統の繁殖行動は柔軟で、その社会構造も比較的短期間に変わり得るものと考えるのが妥当でしょうから(関連記事)、人類系統が単婚ではなかったことを系統関係から証明するのは難しいと思います。何よりも、上述したように本書の論理では、類人猿系統における近縁性は、現代人系統が乱婚社会であることの証明にはなりません。また、テナガザルを人類のセクシュアリティのモデルとみなす通説的見解が否定されていますが、そうした見解が主流と言えるのか、疑問があります。現代人の特徴は、単婚を基礎とする家族が複数集合した共同体にあり、それはテナガザルとは大きく異なるからです。単婚というだけで、テナガザルが人類社会のモデルになる、との見解は果たして主流なのでしょうか。テナガザルは単雄単雌(単婚)で暮らし、大きな社会を形成しません。本書は、大きな社会集団を形成して生活する霊長類に、単婚社会の種は存在しない、とたびたび強調します。しかし、単婚の家族と共同体を両立させたところに人間社会独自の特徴と(あくまでも個体数と生息範囲の観点からの)大繁栄の要因がある、という見解の方がずっと説得的だと思います(関連記事)。

 本書は、ボノボでは雌の社会的地位が高く、母と息子の絆が強いと指摘しており(P100、107〜114)、それは妥当だと思います。また、ボノボの雄の地位は母親に由来する、とも本書では指摘されています。しかし、これはボノボが母系社会であることを意味しません。多様な社会構造を示す現代人を除いて、現生類人猿系統はいずれも父系もしくは非母系社会を示しており(関連記事)、現代人社会も多くは父系的です。本書では説明されていませんが、ボノボも雌が群れを出ていく非母系社会です。もっとも、本書はボノボが母系社会だと明確に主張しているわけではありませんが。本書はボノボと現代人との性行動の類似性を強調しますが、ボノボのように挨拶代わりといった感じで性交渉を行なうような現代人社会は存在しないと思いますし、何よりも、発情徴候の明確化という重要な違いが軽視されていることは問題です。この観点からは、チンパンジー属の乱交的な社会は、人類系統と分岐した後に生じた、と考えるのが最も節約的だと思います。チンパンジーが複数の地域集団(亜種)に分岐していることから推測すると(関連記事)、ボノボ系統の平和的な社会も、チンパンジー系統との分岐後に生じた可能性が高いでしょう。

 また本書は、チンパンジーとボノボの雌雄の体格差は現代人と「まったく同じ範囲に収まっている」とたびたび強調していますが、これは身長と体重とを都合よく合わせて評価した「体格差」だと思います。体重の雌雄差(雄の体重÷雌の体重)では、チンパンジーが1.3倍なのにたいして現代人は1.1倍で、有意な差があります(関連記事)。一般的にも、確かに現代人の性差はゴリラよりもチンパンジー属の方にずっと近いのですが、チンパンジー属よりも小さく、一夫一妻型のテナガザルと乱交型のチンパンジーとの中間である、といった見解が有力だと思います。本書は、おそらく意図的なのでしょうが、現代人とチンパンジー属との類似性を誇張しているように思われます。

 なお本書は、現代人の傑出した特徴として、社会的であることと過剰なセクシュアリティを挙げており(P124〜128)、どうも、身体能力の点で現代人には傑出したものがない、と言いたいようです。しかし、現代人の長距離走行能力はなかなかのものですし、何よりも、投擲能力は現生種においては傑出しており、これは現代人とその祖先および近縁系統の生態的地位の確立に、たいへん重要な役割を果たしたのではないか、と思います。また本書では、セクシュアリティに関して、いつでも性行動のできる現代人とチンパンジー属の特異性が強調されていますが、ゴリラの雄は常に交尾可能ですし、オランウータンの雌も、雄に求められれば大抵は交尾を許可します。チンパンジー属ではない類人猿系統と、現代人との性行動は、本書が強調するよりもずっと類似しているのではないか、と思います。


•現代人の暴力性の起源

 本書は現代人系統が更新世というか農耕開始前にはそれ以降と比較してより平和的な社会を構築していた、と強調します。本書は、人間やその近縁系統が本質的には攻撃(暴力)的か平和(協調)的か、とたびたび問いかけますが(P101〜104)、これは二分法の罠と言うべきで、環境に応じて攻撃(暴力)的でも平和(協調)的でもあるのが人間やその近縁系統の本質で、とくに人間は柔軟なのだ、と考えるのが妥当であるように思います。また本書は、多くの科学者が、人類の持つ攻撃性の根源を霊長類としての過去に位置づけようとしているのに、人類の持つ肯定的な衝動が霊長類から連続していることは認めたがらない、と通説側を批判しています(P107)。しかしこれも、通説側がかなり戯画化されているのではないか、との疑念は拭えません。また本書は、チンパンジーの「暴力性」は人為的活動の結果かもしれない、と指摘しています(P281〜284)。つまり、人間の「暴力性」の起源をチンパンジーとの最終共通祖先の段階までさかのぼらせる見解は誤りではないか、というわけです。しかし原書刊行後、チンパンジーの同士の攻撃には人間の存在の有無は関係していない、との見解が提示されています(関連記事)。


•父性の確認と多様な現代人社会

 第6章は、父親が一人ではない社会は珍しくないと強調し、父性の確認が人類進化史において重要ではなかった、と示唆します。民族誌的研究は私の大きな弱点なので、本書の見解の妥当性の判断については、今後の課題となります。ただ、狩猟採集社会とはいっても、現代と過去とでは条件が異なります。現代の狩猟採集社会は、農耕社会に、さらに後には工業社会にたいして劣勢に立った結果として存在しています。本書は、厳格な平等主義がほぼ普遍的な狩猟採集社会の環境は、現代人系統というか現生人類(Homo sapiens)が5万年前、さらには10万年前に直面していた環境に酷似している、と主張します(P148〜149)。しかし、更新世の気候は完新世よりも不安定でしたし、何よりも、農耕社会の存在は更新世と完新世の大きな違いです。またユーラシア大陸やアメリカ大陸においては、狩猟対象となった大型動物が更新世後期には現在よりも豊富に存在していました。これらの違いを無視して、現在の狩猟採集社会と更新世の狩猟採集社会の類似性を強調することは妥当ではないでしょう。

 こうした「分割父性」という考え方の採用は、集団全体で父親としての感情を共有することだ、と主張されています(P159〜162)。しかし、尾上正人氏の指摘にあるように、伝統社会において、DVや殺人の原因の大半が不貞(に対する男の嫉妬感情)に由来することをどう説明するのか、という重要な疑問が残ります。また、中国南西部のモソ族社会では、父性の確認が重要とは思われていないので、男性が自分の姉妹の子を自分の子として育てている、と本書は主張します(P186〜194)。しかしこれについては、包括適応の理解が根本的に欠落しており、父性が重要と思われていないのではなく重要だからこそ、姉妹の子のみ信用するのだ、との尾上氏の指摘が妥当でしょう。

 そもそも、『家族進化論』(関連記事)が指摘するように(P180〜185)、ゴリラはある程度、交尾と妊娠との関係を理解している可能性が低くありません。雄ゴリラにとって父性の確認は重要で、それをある一定以上の精度で判断して子殺しをするか否か決めている、というわけです。現代人系統も、農耕社会への移行にともなう価値観・世界観の変動により父性に拘るようになったというよりも、ずっと父性の確認に拘り続けた、と想定する方が節約的であるように思います。本書は、現代の狩猟採集社会では父性の確認を軽視もしくは無視するかのような認識が見られる、と強調しますが、それは、現生人類(系統だけではないかもしれませんが)の高度な象徴的思考能力と、入れ子構造を持つシナリオを心のなかで生み出す際限のない能力(関連記事)と、高い好奇心の産物と解釈するのが妥当なように思います。

 インドネシアの西スマトラ州のミナンカバウ族社会は母権制的だ、と本書は主張します(P195〜199)。だからといって、それは更新世の人類社会が父権制もしくは父系性的だったことを否定する根拠にはならないと思います。けっきょくのところ、こうした多様な現代人社会が証明するのは、現生人類はきわめて柔軟に社会を構築する、ということだと思います。さらに言えば、霊長類にもそうした柔軟性が見られますし、現代人も含まれる類人猿系統はより柔軟なのだと思います。

 また本書は、農耕開始以降に女性の社会的地位が低下したと主張しますが、そうだとしても、それが農耕開始前の母権制の存在を証明するものではない、と思います。本書は、農耕開始以降、女性の生存能力は根本的変化を被り、狩猟採集時代とは異なり、生存に不可欠な資源と保護を入手するために、自身の生殖能力を引き換えになければならなくなった、と主張します(P18〜22)。しかし、ホモ・エレクトス以降に出産がさらに困難になっていったことを考えると、ホモ属では遅くとも180万年前頃には、女性が「生殖能力と引き換え」に生存に不可欠な資源と保護(夫に限らず、夫の親族もしばしば参加したことでしょう)を入手するようになっていたのが一般的だった、と考えるのが妥当だと思います。


•先史時代の現代人系統の社会

 先史時代の人間は、孤独で、貧しく、意地が悪く、残忍で、短命だった、という誤った考え方はいまだに普遍的に受容されている、と本書は指摘します(P226)。しかし、他はともかく、「孤独」だったというような主張が主流なのか、きわめて疑わしいと思います。通説の側の先史時代の主流的認識は、家族を基礎単位としつつ、ある程度の規模の共同体(というかバンド)を形成して生活していた、というものだと思います。通説の側で「孤独」が主張されるとしたら、人口密度の低さに起因する、他集団との接触機会の少なさという意味合いだと思います。

 現代人の祖先は、農耕開始前には広範な慢性的食糧難を経験しなかった、と本書は主張します(P267〜268)。しかし、現代人系統はアフリカで進化した可能性が高く、そのように断定できるだけの遺骸がそろっているとは思えません。一方、現代人の遺伝子プールにはほとんど寄与していないでしょうが、ヨーロッパのイベリア半島のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に関しては、飢餓は日常的だった、と指摘されています(関連記事)。また、フランス南東部のネアンデルタール人に関しても、飢餓が珍しくなかった、と示唆されています(関連記事)。

 もちろん、これらはおそらく現代人系統とはほとんど無関係のネアンデルタール人系統で、場所もアフリカとヨーロッパとでは異なります。しかし、更新世の現生人類社会が本書で強調されるほど豊かだったのか、疑問は残ります。おそらく、遊動的な狩猟採集社会では授乳期間が長く、その分出産間隔が長いことと、本書でも指摘されているように、体脂肪率の低さから繁殖可能年齢が現代よりも高かったために人口密度が低いままだったので、定住的で人口増加率の高い農耕社会よりも、個体の健康度は高い傾向にあった、ということなのでしょう。

 しかし、だから平和的だったのかというと、疑問の残るところです。人口密度が低く、人類も他の類人猿系統と同様に女性が出生集団から離れていくような社会だったとすると、繁殖相手をめぐる闘争はかなり厳しかった可能性もあります。じっさい、更新世の人類社会において、女性が出生集団を離れていく傾向にあったことを示唆する証拠はありますが、母系的だったことを示唆する証拠は現時点ではないと思います(関連記事)。確かに、前近代農耕社会と比較すると、更新世の狩猟採集社会の方が個体の健康度は高かったかもしれません。しかし、本書はそれを過大評価しているのではないか、との疑念は拭えません。また本書ではたびたび、人類は絶滅しかけたと主張され、その一例として74000年前頃のトバ噴火が挙げられます。しかし、トバ大惨事仮説(トバ・カタストロフ理論)には複数の研究で疑問が呈されています(関連記事)。もっとも、原書刊行後の研究も多いので、仕方のないところもあるとは思いますが。

 本書は現代人系統の狩猟採集社会において厳格な平等主義が貫かれている、と強調します。それが、全構成員に繁殖機会を与える乱婚社会ともつながっている、というのが本書の見通しです。しかし、そもそも、なぜ狩猟採集社会で厳格な平等主義が貫かれているかというと、人類にはそれに反する生得的性質があるからでしょう。他の動物とも共通するところが多分にありますが、人類には公平さへの要求と自己利益増大への要求や優位・劣位関係の把握に囚われていること(関連記事)など、相反する生得的性質が備わっています。一方の性質により他方の性質を抑圧するのが狩猟採集社会の厳格な平等主義の本質で、それは殺害も含む懲罰を伴うものだと思います。本書が指摘する、繁殖の共有が現代人系統における過去の一定期間の「本性」だとする見解は、少なくとも半面は間違っているように思います。

 平等主義とも密接に関連しているだろう利他的傾向は、身内贔屓よりも脆弱なので、身内贔屓を抑え込むための厳格な平等主義が集団の構成員に与えた抑圧・ストレスは、小さくないと思います。狩猟採集社会から農耕社会への移行に関しても、そうした観点からの評価も必要でしょう。父性への拘りとも密接に関連するだろう身内贔屓が、農耕開始以降の世界観・価値観の大きな変化に伴い出現したと想定するよりは、他の霊長類の事例からも、身内贔屓は人類史を貫く本性の一側面だった、と考える方がはるかに説得的だと思います。

 かりに本書が主張するように、農耕開始前の現代人系統社会がそれ以降より平和的だったとしても(かなり疑わしい、と私は考えていますが)、それは集団規模の小ささのために厳格な平等主義という統制が有効だったからで、潜在的には農耕開始以降の社会と変わらない残酷さを抱えていただろう、と私は考えています。食や性において一定以上平等が保たれるような平穏な状況ならともかく、飢餓などの緊急時には厳格な平等主義が崩壊し、むき出しの暴力的状況が出現した可能性は高かったように思います。そうした緊急事態は、完新世よりも気候が不安定だった更新世には、さほど珍しくなかったのではないか、と私は推測しています。


•現代人系統の配偶システム

 人類の祖先の配偶システムとして古くから一夫一妻があり、一夫多妻から一夫一妻へと移行したという通説は、人類の祖先に複雄複雌という配偶システムが存在しなかったことを前提としている、と本書は指摘します(P327〜328)。そこから本書は、雄間競争の緩和には一夫一妻だけではなく複雄複雌も有効で、現代人の最近縁系統であるチンパンジーおよびボノボの事例が参考になる、と主張します。つまり、人類の祖先が乱交的だった、との本書の主張につながるわけですが、これも、多分に二分法の罠的な詐術であるように思います。

 「プレ・ヒューマンへの想像力は何をもたらすか」(関連記事)で指摘されているように、マウンテンゴリラでは、血縁関係(親子や兄弟)にある複数の雄が交尾相手を重複させずに共存しています。霊長類は繁殖様式も含めて社会構造を柔軟に変えていく系統であり、現生類人猿系統が基本的に父系もしくは非母系であることを考えると、人類系統は、マウンテンゴリラのように複数の雄が複数の雌と共存して交尾相手を重複させない父系的な社会から、そうした家族的要素を解体せずにより大規模な共同体を形成していった、と考える方が、ずっと説得的だと思います。

 第16章は、現代人の男性器サイズや精子の特徴から、現代人系統が乱婚的社会を経験した、と論じます。確かに、この点で現代人はゴリラよりチンパンジーおよびボノボの方に近いと言えるかもしれません。しかしこれも、現代人系統が乱婚的社会を経験したと仮定すると矛盾しないとは言えても、乱婚的社会説を証明するものではない、と思います。『家族進化論』(関連記事)が指摘するように(P143〜144)、人類が精子競争を高めるような繁殖戦略を採用したのは、チンパンジーおよびボノボほどには乱交的な社会を経験せずとも、社会・文化により、ペアの永続的な結合を強めるような方向にも、乱交を許容して精子競争を高めるような方向への変異幅を持っていたから、とも考えられます。この柔軟性こそ現代人系統の重要な特徴で、故に家族を解体せずにそれらを統合してより大規模な社会を形成できたのでしょう。また、その柔軟性が、母権制的とも言えるような社会も含めて多様な社会を生み出したのだと思います。

 第17章では男性器の形状から、現代人系統が乱婚的社会を経験した、と主張されていますが、これも、現代人系統が乱婚的社会を経験したと仮定すると矛盾しないとは言えても、乱婚的社会説を証明するものではない、と思います。現代人の大きな男性器は、乱婚的社会を経験したからではなく、単に一夫一妻的社会の配偶者選択で重要だったから、とも解釈できます。第19章で主張される、女性のオルガスムと乱婚的社会の経験とを結びつける見解や、男性はセクシュアリティに新規性を求める、と主張する第21章の見解も同様に、乱婚的社会説を証明するものではないでしょう。本書が指摘する、現代人における乱婚的社会を経験した痕跡は、基本的に一夫一妻仮説でも説明のつくことだと思います。さらに言えば、本書が主張する乱婚的社会を経験した痕跡のいくつかは、とくに選択圧を受けたわけではなく、遺伝的浮動だったか、関連する遺伝子が別の表現型にも関わっており、その表現型で選択圧を受けた結果である可能性も考えられます。

 配偶システムと関連して子育てについて通説は、人類社会において古くより、一人の女性が一人の男性に頼って子育てしてきたと想定している、と本書は主張します(P458)。しかし、人類学の教科書(関連記事)でも指摘されているように、人類の子育てには両親だけではなく親族も関わっている、との見解は一般的であるように思います。まあ、私は学説史をしっかりと把握できているわけではないので、的外れなことを言っているかもしれませんが。上述してきたように、こうした本書の戯画化は珍しくありません。進化心理学などの学問領域では、「愛」と「性欲」が交換可能な用語だと考えられている、と本書は批判します(P167〜169)。この批判もまた、戯画化されているのではないか、との疑念を拭えません。ただ、本書において、結婚という用語の多義性・曖昧さや、研究者も社会の規範に影響を受けることが強調されているのは(P167〜182)、基本的には意義があると思います。


•まとめ

 本書は冒頭において、「人類のセクシュアリティの本質」が、類人猿と共通の祖先に由来することを論証する、と目的を明かしています(P16)。現代人のセクシュアリティが祖先に由来するものであることは確かですが、率直に言って、その「本質」が乱婚社会だという論証に本書は失敗していると思います。上述したように、本書の論理構造にしたがえば、現代人系統のセクシュアリティの「本質」が乱婚社会にあるとしても、それはチンパンジー属系統とは独立して獲得されたことになるからです。ただ、現代人系統が乱婚社会を経験した、という可能性自体は、上述したように、霊長類系統、とくに類人猿系統の繁殖行動は柔軟で、その社会構造も比較的短期間に変わり得るものと考えるのが妥当でしょうから、じゅうぶん検証に値すると思います。しかし、上述したように、それを直接検証することは不可能ですから、どれだけ関連する証拠(関連度合いの強弱の判断も議論となってくるわけですが)を提示でき、各証拠を統合した整合的で説得力のある先史時代人類社会像を提示できるのかが、重要となります。

 その意味で、現代人系統が乱婚社会を経験し、それは農耕開始まで続いた現代人の「セクシュアリティの本質」なのだ、という本書の主張は、他の可能性よりもずっと説得力に欠け、とても最有力説たり得ない、と私は考えています。本書は多数の根拠を挙げていますが、上述したように、それは乱婚社会説と決定的に矛盾するものではない、というだけで、その多くは通説とも決定的に矛盾するものではない、と思います。何よりも、上述したモソ族社会の事例もそうですが、本書が自説の根拠とする事例の解釈のいくつかには疑問も残ります。専門家であれば、私よりもはるかに多く、不備を的確に指摘できるでしょう。

 じっさい、訳者あとがきでは、本書を痛烈に批判した本が刊行されている、と紹介されています。その批判本は、本書の原題『Sex at Dawn: How We Mate, Why We Stray, and What It Means for Modern Relationships』をもじった、『Sex at Dusk: Lifting the Shiny Wrapping from Sex at Dawn』と題されています。訳者あとがきでは、本書がAmazonで高い評価を受けている一方、批判本のインターネット上での評価は高くない、と指摘されています。確かにAmazonでは、批判本の評価は本書よりも低くなっています。しかし、ざっと読んだ限りですが、批判本に対する評価の高い書評は、批判本にたいしておおむね肯定的であるように思います。この批判本もいつかは読まねばならない、とは思うのですが、怠惰なので結局読まずに終わりそうです。ともかく、徹底的な批判本が刊行され、一定以上の評価であることからも、本書の見解は基本的に疑ってかかるのが妥当だろう、と思います。では、本書の見解よりも妥当な見解は何なのかとなると、私の現時点での知見・能力では的確に答えられないのですが、やはり、本書が批判する通説の方がより妥当なのではないか、と考えています。もっとも、私の見解は本書の想定する通説とはかなり異なるかもしれませんが、以下に簡略に述べていきます。

 まず大前提となるのは、現生類人猿系統において、多様な社会を構築している現代人を除いて、すべて父系もしくは非母系社会を構築している、ということです。これは、現代人も含めて現生類人猿系統の最終共通祖先も父系もしくは非母系社会だった可能性が高いことを示唆します。次に、現生類人猿系統において発情徴候が明確なのはチンパンジー属(チンパンジーおよびボノボ)だけということが前提となります。現生類人猿系統の最終共通祖先から、テナガザル→オランウータン→ゴリラ→チンパンジーおよび現代人という順に系統が分岐していったことから、現代人とチンパンジー属の最終共通祖先も、発情徴候は明確ではなかった可能性が高そうです。また、上述したように、アウストラロピテクス属のみならず、初期ホモ属でも性的二形が顕著だったかもしれないことから、現代人系統とチンパンジー属の最終共通祖先も、200万〜150万年前頃までの現代人系統も、性的二形が現生ゴリラ並だった可能性は低くありません。

 つまり、チンパンジー属のセクシュアリティの重要な構成要素たる穏やかな性差(ゴリラより小さいとはいっても、現代人よりは大きいわけですが)も、明確な発情徴候も、人類系統と分岐した後に獲得された可能性が高い、というわけです。上述したように、かりに現代人系統が過去にチンパンジー属系統と類似した乱婚社会を経験したとしても、それは共通の祖先的特徴に由来するのではなく、両系統で独自に獲得された可能性が高いでしょう。もちろん、収斂進化は進化史においてきょくたんに珍しいわけではありませんが、もっと節約的な仮説が立てられるならば、そちらを採用すべきだと思います。

 その仮説の前提となるのは、現生類人猿系統において、明確な発情徴候はチンパンジー属系統でのみ進化した可能性が高い、という推測です。現代人系統のセクシュアリティについて推測する場合、この違いは大きな意味を有すると思います。おそらく現代人系統は、マウンテンゴリラのような、親子・兄弟といった父系の血縁関係にある複数の雄が複数の雌と交尾相手を重複させずに共存する、家族に近い小規模な共同体から出発し、利他的傾向とコミュニケーション能力が強化されるような選択圧を受けた結果、一夫一妻傾向の家族を内包する大規模な共同体という、独特な社会を形成したのではないか、と思います(関連記事)。さらに現生人類系統において、象徴的思考能力など高度な認知能力を獲得したことで柔軟性が飛躍的に発展し、父系・単婚傾向に限定されない多様な社会を形成したのではないか、と推測しています。もっとも、柔軟性とも深く関わるだろうこの高度な認知能力は、現生人類系統とネアンデルタール人系統の最終共通祖先の時点で、すでに潜在的にはかなりの程度備わっていた可能性もあると思います(関連記事)。

 ただ、現代人の体格の性差がチンパンジーとテナガザルの中間であることから、人類社会には一夫一妻傾向があるとはいっても、それが徹底されているわけではない、ということも以前からよく指摘されていたように思います。現代人系統は、強制された平等主義に基づいて一夫一妻傾向が見られるものの、それと反するような生得的性質も有しており、一夫多妻や乱交的な社会への志向も見られ、それが本書の指摘する、乱交社会に適しているとも解釈できるような、現代人の生殖器官や性行動の選択圧になったのではないか、と思います。

 本書を読む契機となったのは、当ブログにおいて、本書が唯物史観的な人類社会集団婚説や母系制説を主張している、と指摘を受けたからでした(関連記事)。しかし、「乱婚」には「行き当たりばったり」の性交という意味合いは一切なく、選好が行なわれている、と定義する本書の見解は、人類の「原始社会」を親子きょうだいの区別なく乱婚状態だったと想定する、唯物史観的な「原始乱婚説」とは似て非なるものだと思います。じっさい、霊長類の広範な系統において近親婚を避ける仕組みが備わっている、と明らかになった現在の水準では、唯物史観的な原始乱婚説はとてもそのまま通用するものではありません。本書の意図は、人類社会における一夫一妻を基調とする通説には問題があり、今では捨てられてしまった唯物史観的な原始乱婚説にも改めて採るべきところがある、といったものだと思います。

 また、農耕開始前の現代人系統社会における女性の地位の高さを強調する本書からすると、唯物史観的な原始社会母系説も採るべきところがある、ということなのかもしれません。しかし本書は、母権的と解釈できそうな現代人社会(この解釈の是非については、本書の信頼性からしてとても直ちに肯定できませんが)の存在を指摘し、現代人系統社会がかつて母権的だったことを示唆しているものの、はっきりと母系制だと主張しているわけではないように思います。上述したように、本書は現代人とボノボとの類似性を強調し、ボノボにおいて母親と息子との関係がずっと密接で、母親の地位が息子に継承される、と指摘しています。しかし、本書では言及されていませんが、ボノボは母系制社会ではなく(現代人を除く現生類人猿系統はすべて同様ですが)、その地位が母系を通じてずっと継承されるわけではありません。

 何よりも、現代人の直接の祖先ではなさそうで、お互いに祖先-子孫関係ではなさそうな、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)およびパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)とネアンデルタール人について、前者は男性よりも女性の方が移動範囲は広く(関連記事)、後者は夫居制的婚姻行動の可能性が指摘されていることから(関連記事)、人類系統の社会は他の現生類人猿系統と同様にずっと父系的だった、と考えるのが節約的だと思います。現代人に見られる、父系的とは限らない多様な社会は、高度な認知能力に基づく現生人類の柔軟な行動を示している、ということだと思います。もっとも、上述したように、ネアンデルタール人系統にも、こうした柔軟性は潜在的にはかなりの程度備わっていた可能性も考えられます。

 率直に言って、本書を読んで疑問と不信感が強くなる一方だったのですが、改めて調べたり情報を整理したりする機会になりましたし、著者二人が博学であることは間違いないので、勉強になりました。ただ、最初から本書の批判本を読むだけでよかったのではないか、と後悔もしています。年末年始の貴重な時間のかなりの部分を本書に割いてしまいましたが、かなりの本数になってしまった録画番組の視聴を優先すべきだったかな、とも思います。とはいえ、録画番組を視聴するよりは、本書を読んだ方がずっと勉強になるでしょうから、深く後悔しているわけではありませんが。


参考文献:

Ryan C, and Jetha C.著(2017)、山本規雄訳『性の進化論 女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?』第4刷(作品社、第1刷の刊行は2014年、原書の刊行は2010年)

https://sicambre.at.webry.info/201912/article_4.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/741.html

[近代史3] 麻薬取引の黒幕は CIA 中川隆
5. 中川隆[-15239] koaQ7Jey 2019年12月03日 10:14:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2308]
2019.12.03
メキシコの麻薬カルテルはCIAと深くつながっている

 ​メキシコの麻薬組織が西側の巨大銀行と結びついていることは西側の有力メディアも伝えてきた​が、それ以上に深く関係しているのはCIAである。アメリカ政府が主張する「麻薬との戦争」は「テロとの戦争」と同じように、侵略する際に使うタグのバリエーションのひとつにすぎない。

 サリナス・デ・ゴルタリ家はメキシコの麻薬カルテルと関係が深いが、その一族に属すカルロス・サリナス・デ・ゴルタリは1982年から87年にかけて予算企画大臣、88年から94年にかけて大統領を務めた。その期間にNAFTAに署名してアメリカ支配層のために尽くしている。

 1980年代にCIAはニカラグアの革命政権を倒すため、アメリカ支配層の傀儡だったソモサ家の手先である国家警備隊を中心に「コントラ」なる武装集団を組織した。

 その革命集団は「サンディニスタ」と呼ばれるが、その名称は1920年代から30年代にかけてアメリカ軍と戦ったニカラグアの英雄、アウグスト・サンディーノに由来している。

 アメリカ大使のアーサー・レインは1933年にサンディーの暗殺を計画、アナスタシア・ソモサ・ガルシアというアメリカの手先として働いていた人物が実行することになった。

 1934年2月にソモサ配下の国家警備隊がサンディーノを拉致のうえ射殺し、サンディーノ支持者やその家族も殺害。1936年にソモサは実権を掌握、その翌年には大統領に就任した。そしてソモサ家の独裁体制が始まる。このソモサ家はイスラエルなる国が出現する前、シオニストを支援していたことでも知られている。

 ロナルド・レーガン政権でコントラを支援する秘密工作を指揮していたのは副大統領だったジョージ・H・W・ブッシュ。その息子、ジェブ・ブッシュはスペイン語が流暢だと言うこともあり、工作で重要な役割を果たした。つまり、麻薬取引に関係していた可能性が高い。

 そのジェブが親しくしていたひとりがカルロス・サリナス・デ・ゴルタリの兄、​ラウル・サリナス・デ・ゴルタリ​。1990年代には「麻薬の親玉」と呼ばれていた。メキシコにおける麻薬カルテルの中心的な存在だったということだ。ふたりの父親、ラウル・サリナス・ロザーノも麻薬カルテルの中心にいた。この一家とはジョージ・H・W・ブッシュも親しかった。

 本ブログでは何度か指摘したが、ジョージ・H・W・ブッシュはエール大学に在学中、CIAにリクルートされた可能性がきわめて高い。エール大学におけるCIAのリクルート担当者と親しくしていただけでなく、父親のプレスコットが仕事の関係でアレン・ダレスと親しかったのである。

 ベトナム戦争の際には東南アジアの山岳地帯で栽培したケシを原料とするヘロイン、アフガニスタンで秘密工作を始めてからはパキスタンからアフガニスタンにかけての山岳地帯へケシの主要産地は移動、やはりヘロインを主に生産している。麻薬取引の中心にはCIAが存在している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912030000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/293.html#c5

[リバイバル3] 原音とは何か? 中川隆
6. 中川隆[-15238] koaQ7Jey 2019年12月03日 10:20:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2307]

オーディオ vs 実演(ティーレマンVPO 感想)@
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1973837252


そんなの実演がいいに決まってるじゃないかというのは、昔の人である。現代思想的には、ボードリヤール以前の人ということになる。
実演のアウラが複製すると失われる、というとベンヤミンの論考になる。

高尚な議論はさておき、オーディオマニアでも、すいません本物のコピーしてますという謙虚な人もいれば、自分のオーディオにしか出せない音を出す(オリジナルより巨大等)という、突き抜けた人もいるだろう。
私自身は、「クライバーとウィーンフィルをムジークフェライン5列目中央近辺で聴いたときの感銘」を想定し、そこに近づけたいと願うので、実演の劣化コピーの劣化度を減らしたいという立場だが、それほど単純でない部分もある。

では、ティーレマン指揮のウィーンフィルの実演の音はというと、これは今回は、十分にハイクオリティな音を堪能できた。前回(2005年ムーティ)で人生終わらずによかった。
4列目中央近くで、まずボリュームが豊かである。前回の小さな音という印象はなくなった。
ヴァイオリンが6人並んでる感じなので、最大編成ぐらいだと思う。

Rシュトラウスは、なぜ評価が高いかよくわからない作曲家だったが、この日のドンファンとティルは最高だった。ティーレマンも手慣れた感じがある。ウィーンのお国モノという意味で、これ以上の演奏はちょっと考えにくい。人間臭い音楽で、マーラーのセンチメンタルな響きの代わりに描写的な色彩が豊か。
一方で、Jシュトラウスは芸風が重々しすぎて、クライバーの軽妙さが望めない。ただ、弦を粘っこく歌わせる感じはポリシーが感じられて、これはこれでよい。
ばらの騎士の組曲は、ラストの、伯爵夫人が若き恋人への別れを歌う旋律など、ウィーンのデーメルのケーキのように、濃くて極甘だが気品があり、シュトラウスのポルカのアンコールは、当地の白ワイン新酒を思わせる爽快さ。

前回と違い、ウィーンフィルの音はしているが、フェスティバルホールの響きもついているなという印象が勝った。
ムジークフェラインとウィーンフィルの音はセットというべきだと思う。
フェスティバルホールは、新型のほうがややキャラクターがあるかもしれない。反響板の凸凹の影響だろう。
ロンドン響のときは化粧の響きが多すぎるかなと思ったが、ウィーンフィルでは、ムジークフェラインよりドライだろうなと。
ウィーンフィルのときは、客を詰め込むために、ステージギリギリまで座席があったので、その違いもあるだろう。


コメント

mixiユーザー2019年12月01日 15:47

>ムジークフェラインとウィーンフィルの音はセットというべきだと思う。

まさに同感です。オーディオ装置に特有の音があるように、ホールにもあります。クラシックではそれが全てを支配してしまいます。オケの編成も、ホールに合った構成人数があるようで、外れてると良くないです。クラシックでは、生が一番だとは全然思いません。


mixiユーザー2019年12月01日 17:25

> mixiユーザー 

なるほど、フェスティバルホールは2700人入るという無茶な構成なので、ウィーンフィルもベルリンフィルも、ヴァイオリンは6名並んでました。さすが、高価なので手抜きなく来てくれたようです。
ベルリンフィルのサイトで来日前のブル8をみると、ヴァイオリンは5名の並びのようです。

ニューイヤーコンサートでシュトラウスは聴き慣れてますが、中低域が暖色というような音にふれていて、あの華やかさや高域の冴えは後退していたようです。


mixiユーザー2019年12月01日 19:21

生とオーディオの一番の違いと言えば、やはりバイオリン協奏曲でしょう。ソリストの音は、特に私のような二階席好きにとってはいつも、はてな???、と感じます。オーディオのような松脂が飛んでくるような鮮度にはなりません。当然ですが。でも暫くすると、馴染んだスッポンの鍋が味をじわじわと出してくるように、そこそこ聞こえてきます。それはそれで枯れた味わいです。まあでも、初めてバイオリン協奏曲のレコードがSPの時代に出た時は、賛否両論だったと思います。


mixiユーザー2019年12月01日 20:28

> mixiユーザー 
2階席好きとは意外です。ヴァイオリンとかの独奏は、オーディオでいけるんちゃうかと思ってしまうのですが、ある意味では再現がすごく困難とも思います。
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1973837252
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/890.html#c6

[リバイバル3] 原音とは何か? 中川隆
7. 中川隆[-15237] koaQ7Jey 2019年12月03日 10:22:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2306]

オーディオ vs 実演(ティーレマンVPO 感想)A
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1973837305


さて、オーディオと実演の違いだが、スケールはやはり完敗で、20センチとか30センチのユニットの存在意義がわかるし、20畳とか欲しいなあと。
一方で、音色はそんなに負けておらず、とくにヘッドフォンシステムなどでは、良い録音では十分リアル。真空管のQUADUも音色面が秀逸。
まあでも、弦合奏など大音量でも耳障りでなく極上というところは、ちょっと真似できない。

「ジプシー男爵」序曲は、クライバーのフィリップスLD(ソニーCDの音は不自然)で必死で再生してきたが、シンバルの衝撃や弦の刻みなど、クライバーが繊細な指示を出してるのかもしれないが、録音のミックスで理想的にいじっているかもという気もする。
打楽器の低音が床を揺らし分離があいまいになったり、そういうことも、ホールでも起こるといえば起こる。

直接曲での比較は、主にこの「ジプシー男爵」だが、「クライバーがいいなあ」と思いながら聴いていた。前回のムーティのときと同じ現象である。

最終的には脳が聴くのだから、実演にせよオーディオにせよ、ある音楽表現という信号としてインプットされる。
音圧や音像は、スピーカーに近づいて聞けば、ボリュームを上げれば実演前列並みの迫力である。後ろの席ならオーディオが勝つ。
耳の近くでいろんな情報が炸裂するというのは、オーディオのメリットかもしれない。確かにスケール感は実演が正しいのだが、シンバルの衝撃を心のうちに燃えたたせようとするなら、やたら距離が離れてるのは不利だ。
オーディオで得た満足を、実演に求めると満たされないという逆転現象も起こっているのだ。

さらには、現代の最先端の大型スピーカーを、よい部屋で、大音量で最新のよいソフトで聴けば、実演より細部が明晰で、ヘタすると艶やかな化粧を伴った耳に快い音が出るということはありうるかもと思う。

結論としては、私の環境や投入コストレベルでは、もちろん負けているが、10畳という制限の中では、健闘しているし、今後もしよりよい環境になれば、もっと近づけられるかなと。
オーディオではクライバーの凄さはわからず死んでいくとか、そういうことはないような気がした。

それに、ムジークフェラインに限らず、クライバーを5列目前後で聴くという経験そのものが、ほとんど不可能だったのだ。1992年当時に取れていた、S席の幻のチケットも、そんなに前方ではなかったはず。
また、馳せ参じられなかった「ばらの騎士」東京公演も、オペラはオケピットのサイズ上、小編成と思われ、今回の組曲形式のような万全なボリュームでは聴けなかっただろう。
体調や気分も、コンサートに合わせるのは難しい。

よく、コンサート評で大絶賛とかガッカリとかあるが、聴く位置でまったく違う印象になるから、また、その人がたまたまその曲に気分が盛り上がる日だったのかもしれず、かなり不安定な情報というべきだ。
年に数十回コンサートに行くとか、実演の関係者以外は、なかなかきちんと判断できないはず。
オーディオなら、録音の問題は大きいけれど、だいぶん判断しやすい。
コスパの観点を入れるなら、たとえばベルリンフィルの最新コンサートは、ハイレゾデータで2000円とか。43000円もいらない。

そう思ったのだが、メータとベルリンフィルのブル8実演が独特な体験(アウラ?)だったので、実演不要派ではなくなった。基準を確かめに、たまに行かねば。
とはいえオーディオも悪くない。
クライバー再生に呪縛されてきた人生で、今後もそうだろうが、少し解放された気がする。



コメント

mixiユーザー2019年12月01日 15:56

そうなのです。クラシックコンサートには、体調不良で寝てしまう、という悪魔の罠が潜んでます。というか、まわりで寝ていない人(自分も含めて)を見ないのは珍しいです。大枚払って寝に行く羽目なのが、実は真のクラシックコンサートでしょう。オーディオならば心置きなく寝れます。昔ならレコード針の内周のゴロゴロで起こされてましたが。

mixiユーザー2019年12月01日 17:13

> mixiユーザー 

仕事終わりに19時半、フワフワのシートに固定され冷暖房完備、静かでアルファ波タップリの音楽、となると、寝るなというほうが間違っていますね。クルレンツィスの悲愴2楽章はあまり覚えていません。
ロンドンでハイティンクとピリシュのときは、到着1日目で、日本時間の午前3時開演です(笑) しかもシューベルトのグレイト!

他に危険なのがトイレです。ブル8など90分なので注意です。シエラ・ボーゲスのコンサートは当時とても楽しみで、実際歌唱は素晴らしかったですが、最後の5曲ぐらい、尿意の記憶のほうが残っています。休憩時間にトイレに行ったので、安心してミネラルウォーターをけっこう飲んだのが原因のようでした。。
そもそも、シエラ・ボーゲスへの執着は、ニューヨークで聴いたはずなのに、そのときも到着2日目ぐらいで歩き回って、吐き気でコンサートの記憶がほとんどないという悔しさからでした。


mixiユーザー2019年12月01日 19:26

まあそれやこれやを多角的かつ経済的に考えるならば、コンサートは前列で、生のユジャ・ワンの指さばきとか露出に圧倒される、というのが正解かもです。それならば、きっと眠気も吹っ飛びます。コンサートは聞くのでなくて、見るのです。わーい(嬉しい顔)


mixiユーザー2019年12月02日 18:17

> mixiユーザー 

実はアイドルのコンサートがそうなってますね。バンドはなしで、基本的に口パク、ファンは生の本人とダンスと雰囲気を見に来てるということで。
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1973837305
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/890.html#c7

[リバイバル3] 原音とは何か? 中川隆
8. 中川隆[-15236] koaQ7Jey 2019年12月03日 11:04:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2305]

ウィーンフィルを求めて
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1973619350


以前にも書いたが、私は1992年という年に呪縛されている。
幾つかあるのだが、ひとつは、カルロス・クライバーのニューイヤーコンサートで、正月から生放送で雷鳴に打たれた。

3月にフェスティバルホールでウィーンフィルと2日コンサート、ブラ4や未完成、モーツァルトにシュトラウスファミリーの予定だった。
が、こいつがキャンセル。返金された分で、最初のコンポを買った。オンキョーのD202と、DENONのPMA390に32000円のCDP。

1994年にはクライバーはウィーン国立歌劇場と「ばらの騎士」で来日し、借りを返してくれてはいるのだが、私自身は、まだ学生で東京など遠い、オペラなど聴きとおしたこともない。
まあ人生は長いのだから、クライバーもまだまだ活躍し、いつか会えるだろうと思っていたのだが、そこから彼はほとんど表舞台に登場することはなかった。

11月10日に、フェスティバルホールで、ティーレマンとウィーンフィル、曲目はシュトラウスファミリーとか「ばらの騎士」組曲だという。
まあこれは、私に人生の整理をせよということかなと思って、37000円だがチケット購入。
座席は、長年の経験で舞台に近いほうが好みと分かっているので、4列目ゲット。
「ばらの騎士」は未聴だったが、カラヤンとフィルハーモニアの名盤をハイレゾ購入して聴きなれておいた。クライバーとウィーン国立歌劇場のLDも、ヘッドフォンシステムに組み込んで聴く。こいつは早くデジタルファイル化したいのだが・・・

ところで、10月末に、「ウィーンフィル公開リハーサル招待」みたいなニュースレターが届いた。
30分ほどだが、最高の座席で、200名がリハーサルを聴けるという。
これはすごいテンションが上がった。電話か往復はがきで応募し、はがきで招待状が届くという。応募者多数の場合は抽選と。
初日に電話して、「万一外れた場合は連絡しません」とのことだったので、「確率はどんなものですか?」ときくと、「初日なので何とも言えないが、すごく難しいという感じでは思っていない」というような返事だった。
雰囲気から、これは9割以上はいけるものと、はがきを楽しみにしていた。

はがきの到着可能性は、11月5日から9日まで。
ただ、たぶん6日に届くと思われる。
これが、6日に届かなかってから、7、8、9と、届かないのがとてもつらかった。

私は就職氷河期で、変な転職もしたので、届かない返事は慣れているが、逆に言えばそれを思い出した。
仕事やなんかは、自分のしてきたことの報いの面もあるのだけど、本当に好きな趣味で、働いたお金で大金でも出して好きにしているのに、こんな気持ちになるとは。

応募が殺到して倍率2倍以上だったのなら、「万一外れたら」的な期待を持たさないでほしかったし、220名中外れた20名とかだったのなら、なぜ因縁のこの私を外すかなと思う。
本当に行きたい人からお金を取ってどこかに寄付するとか、高価なチケットの人を優先するとか、500人であってもホールは2700人入るのだからオーケーにするとか、柔軟な方法はなかったのだろうか。

ほんとうに個人的な人生にまつわることではあるのだが、すっかりテンションが下がってしまった状態で当日を迎えた。

私のオーディオ人生は、カルロス・クライバーを生で聴けなかったということに対しての、カルロス・クライバーを納得いく形で再現するんだという執念が根底にある。
27年間の宿題の、答え合わせをする日でもあると思う。


コメント

mixiユーザー2019年11月11日 19:57

1992年のクライバーのフェスティバルホール、
自分もキャンセルを喰らいました。
しかし、代役のシノーポリが素晴らしい指揮で
(「交響詩ドンファン」「マーラー巨人」)
ウィーンフィルの底知れぬ力量を見せつけられました。

ただ、その後のウィーンフィルの来日公演は
小澤〜ショルティと不評続きで
いつもいい、というわけではないのだなと思いました。

それ以降は全く聴いてません。
良い指揮者もいなくなったなという感じです。

mixiユーザー2019年11月11日 23:59
> mixiユーザー 

そうなんです。脳科学者の茂木健一郎氏が、自身の音楽体験の中で最良のひとつとして、このときのシノーポリの「未完成」をあげています。私はあっさり手放しましたが、シノーポリも急死して聴けなかったことを思えば、これも聴いておくべきだったのです。とはいえ、ブルックナーの7番だったかは、当時聴いたこともなかったので、感銘を受けたかは不明です。
ティーレマンもドンファンは素晴らしかったです。
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1973619350
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/890.html#c8

[リバイバル3] 原音とは何か? 中川隆
9. 中川隆[-15235] koaQ7Jey 2019年12月03日 11:05:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2304]

ウィーンフィルを求めて 2
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1973623206


ウィーンフィル実演で、まずまず自分に理想的なステージ近くでの音と、長年聴いてきたオーディオでのウィーンフィルやクライバーの音。
どれぐらい一致しているのだろうか?

実は、これは確か2005年にムーティとウィーンフィル来日の時に、オリジナルのフェスティバルホールでも経験している。
そのときは、確か5列目か7列目ぐらいだったが、だいぶ左端だった記憶がある。
モーツァルトの協奏交響曲と、シューベルトの3番と未完成。3番がメインディッシュという、不思議なプログラム。
シューベルトの3・8というとクライバーの数少ないレパートリーであり、ムーティとクライバーは仲良し。2004年にクライバーが亡くなっていることから、オマージュ的な意味合いがあると、いま書いていたらますます思う。
ただ、当時ヒマだったので、共感できる仲間が欲しくて、2ちゃんねるにその種のことを書き込んだら、バカ発見的なシニカルな反応があった。すると、「まあまあ、こういう話題を書くのもいちいち批判してたら、だれも書くことなくなるんじゃあ」みたいなフォローが入った。
けっこう傷ついて、そういったこと以降2ちゃんねるにはあまり書いていない。

さて、その時の感想だが、ホールが変わってもCDのウィーンフィルの音がしていたことに驚いたのと、キュッヒルが禿げ頭とメガネできちんといたことに感銘を受けた。
しかし、それ以外は、ボリュームが小さいなというのがひとつ。この日はプログラム的に小編成だったのかもしれないのと、だいぶ端という意味で、音源からやや遠かったか。ウィーンフィルは室内楽的に小さい音のオケなのかな?、とも思った。
協奏交響曲は、いまでこそウィーンフィルの至芸が味わえるなと思えるが、当時の私は聴きなれないもの。
逆に、シューベルトはクライバーへの思い入れが強すぎて、未完成は悲劇性が足りない、3番は軽やかさがぜんぜん失われた、と、不満が募った。
アンコールのフィガロの結婚序曲だけが、華やいで歌劇場オケならではの名演と思えた。

あとは、コンサート中に、舞台裏でオケのメンバーが別日の曲を練習している音がけっこう聴こえていたと思う。こんなことが許されるんだと。3万円前後のチケットである。しかもこっちは人生かけて聴きに行ってるので、落胆した。
ただ、ウィーン学友協会は、小ホールでコンサートを聴いていると、大ホールの音が少し聴こえてきた。古い設計で、遮音性が悪いのである。忙しいオケのメンバーとしては、常識だったのかもしれない。

総じてガッカリしたというのが記憶である。

実は、学生時代にウィーン国立歌劇場で2回聴いているのだが、これは当時インターネットが発達してなかったので、現地でチケット購入したことから、遠くの立見席だったので、オーディオのほうがはるかに良いという感じ。

そんなこんなで、長くクラシックコンサート自体から引きこもってしまっていて、昨年仕事が一段落して、気まぐれにラトルとロンドン響のコンサートに行って、よかったのでまた通いたくなった。
ウィーンフィルは再挑戦である。


コメント

mixiユーザー2019年11月11日 20:22

いろいろ行かれてますね。小生が行った外国の一流オケはブロムシュテットとSKDです。最前列の端に当たってしまい、何やらよくわかりませんでした。それ以来大阪の地元オケ、学生オケ、アマオケばっかりですね。


mixiユーザー2019年11月12日 00:09
> mixiユーザー 

昔のフェスティバルホールは、3列目までは中央でも安い設定だったので、朝比奈さんのブルックナー等に足しげく通いました。大阪フィルでも演奏によっては十分いいとわかっているのですが、たまにCDで聴いているような有名どころを聴くと、CPは低いが「本場」の味を感じるのでした。


mixiユーザー2019年11月13日 13:23

生のコンサート、特にクラシックは当たり外れが大きいです。演奏家の気合、オケの構成とホールの広さ、聞く位置、自分の体調などが関係するので、S席買っても生は最高なんて中々ありません。

部屋の広ささえ確保できるなら、過去の伝説の名演奏を好きな時間に聞けるオーディオの方がコスパはずっと高い、というのが私の結論です。


mixiユーザー2019年11月14日 01:37

> mixiユーザー 

そうなんですよ。次回そのあたり書きます。
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1973623206
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/890.html#c9

[リバイバル3] 原音とは何か? 中川隆
10. 中川隆[-15234] koaQ7Jey 2019年12月03日 11:14:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2303]

メータとベルリンフィル ブル8ライブ(1)


ウィーンフィルについて数か月準備してきて、実演聴いて感想もまとめていたのだが、4日後のベルリンフィル公演に、前日チケット買って参加。
これがけっこう衝撃的で、ウィーンフィルの感想がふきとんで、しばらくウィーンフィルの音の印象をもとにオーディオでクライバー再生していこうと思っていたのが、ブルックナーを続けて聴く日々。
感想も、ウィーンフィルのものより先に、ベルリンフィルを上げたいと思う。

参加した経緯。
まず、メータとベルリンフィルで、まあ興味はあるが、メータはイスラエルフィルで2〜3回聴いている。低音が分厚く、弦が強烈に濃いのが美点だが、当時の私の受容力不足か、マラ9などの黄金プログラムで、席もよかった記憶があるが、それほど感銘を受けていない。
ニューイヤーコンサート含め、しばしば聴いているが、やはり低域が分厚くサウンドは堅固で美しいが、あまり感動することもないかなと。
例外は、アシュケナージとウィーンフィルとの、ベートーヴェン協奏曲4番。メンタルが不調の時に、こればかり聴いていた時期があった。

プログラムは、ブル8の日と、エロイカとRシュトラウスの日と。
ブル8については、宇野功芳氏の、「メータのブルックナーに期待したがガッカリした」という悩み相談への、「メータのブルックナーなど、聴きに行く方が悪い」「知らなかったとは言ってほしくない」という有名な放言がある。
ベルリンフィルの英雄実演は聴いてみたいし、Rシュトラウスもあまり聴いていないので、新鮮かなと。

価格については、ほとんどS席だが、43000円。1991年にアバドとベルリンフィルを聴いたときは、確か25000円前後だった。ティーレマンとウィーンフィルでも37000円で買っている。
クルレンツィスの現代最先端の話題公演で1万円台だった。
金銭感覚からして、これはない。
ウィーンフィルとベルリンフィルを1週間以内に、似た環境で聴き較べるのは、オーケストラファンにとっては最高の贅沢だろう。
私には、ROLEXの時計みたいなもので、腰が引けてしまった。

そもそも、平日の勤務時間を空けるといろんなダメージがあるので、物理的に無理という可能性も。転職後2年目に、当時どうしても行きたかったシエラ・ボーゲスのソロコンサート(東京の大手町)が、休めず行けなかった。

トータルで、特にブル8の日は、行く可能性は1%ぐらいになっていた。

急転直下行く気になった理由は、ウィーンフィルの公開リハーサルご招待というのに、行く気満々で準備していたのが、外れたというのが大きい。

なにかすごく食い足りない気持ちが残った。
大げさにいうと、ああ俺は選ばれない人間なのか、大事に温めてきた趣味のことでさえそうなのか、というぐらいに落ち込んだ。
すごく悔しくて、人任せの部分なんかに自分の満足を置いていてはいけないのじゃないか、どんなお金を払うとしても、そこは自分でコントロールできる部分だし、そこでこの不満を埋めようという気持ちが出てきた。

価格については、高いともいえるのだが、実は、仕事場からフェスティバルホールは30分以内で、追加の交通費は発生しない。
ブログなどで、東京の人が、ベルリンフィルのチケットを取れないことが続いたので、わざわざ大阪まで宿泊できた記事があった。今回は東京でも買えた気がするが・・・
当然、ベルリンまで聴きに行くことを思えば、またそこで良席ゲットを思えば、許せるか。
今回は、この価格でなかったら前日までに売り切れてただろう。

仕事については、さすがに前日なので、段取りはわかっていた。また、今年から、有休を5日取る法律のあおりで、休日出勤の代替遅出が奨励されている。会社に都合のいい話だが、その逆手を取って代替早退を申請。
いま業績は絶好調だが、入社以来有力者とバトルしてる影響で、評価など受けない。やることはやっていて失うものもない。休みやすいといえば休みやすい(笑)

ステージ近くの席でなければ大音量派の私は終わりだが、ブル8のほうは6列目の端が残っていた。宇野氏の毒舌の影響かもしれない(笑)
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1973699409

メータとベルリンフィル ブル8ライブ(2)


当日は、会議でいつもよりやや早く、演奏中の睡魔が心配。チョン・キョンファのときもそうだったが、今回はそれよりは1時間半マシ。
同じく早退したクルレンツィスの時も、コパチンスカヤの協奏曲は目が冴えたが、悲愴の2楽章は少し寝ていた。
「スタンフォード式 最高の睡眠」を読んで以来、風呂上がりに無理なく寝る習慣をつけているのでまあまあ。

小腹が空いたので、これも予防のため、ホール近くのパン屋兼喫茶店でサンドウィッチを求めたが、コーヒーメーカーが壊れているという。
で、コンビニでBOSS微糖を買ったが、出ると、「バリスタが淹れるコーヒーを」みたいな垂れ幕があり、「睡魔防止で、せっかくだし贅沢な気分になろう」と、BOSSをカバンに入れ、その店に。

メニューをみると、〇〇豆使用的な表示もなく、よくわからないので普通にアメリカンを頼むしかなかった。
これが550円で、インスタントと違いもわからず、急いでいるので舌先やけどしかける。
他の客も1名のみで、狭くて落ち着かない。

贅沢な気分とは程遠く、貴族的にお金を落として5分で退散。
水分はこれ以上は取らず、トイレには無理してでも行く。
ほんとに実演はコンディションに気を使う。。
チケットが4万もすると、前の週から風邪も要注意。

座席は、6列目だが右端のほうで、オーケストラをギリギリお尻から見る感じ。
横は座席ナンバーが2や3から始まるので、4列目や5列目ともいえる。
ウィーンフィルのときは4列目の中央に近いが、ステージもいっぱいに使っているので。左の弦の音中心に聴こえた。
前方は好きだが、そういう問題はある。

演奏だが、メータがゆっくり登場、あまりに遅いのでみると、杖をついている。
指揮台にも椅子がある。
メータというと、大柄で、威圧するような風格が印象的だったが、上半身の動きのみに制限されている。
演奏が始まると、これも「遅い」。また、音量も抑えられた印象を受ける。ウィーンフィルは音量は十分だったが、こちらは、弦楽器奏者6人並んでいてフルスケールにもかかわらず、音量があまり感じない。
記憶の中の、朝比奈大フィルのブル8、旧フェスティバルホールでの名演より静かである。

これは端と中央の違いなのか、わからないが、この状況で違う指揮ならもっとパワフルだと思う。

あまりにも静かでゆっくりした立ち上がり、老いたメータは大きな鋭い動きを取れない。
一体これからどうなっていくのだ、まあもう、すべてを忘れて、無限の時間の中でとことんこの演奏の速度につきあおうじゃないか、と決めたのだった。
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1973700471?org_id=1973699409


メータとベルリンフィル ブル8ライブ(3)
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1973701135?org_id=1973700471


ゆっくりしたテンポで、クレッシェンドも抑えられると、弛緩した演奏になる危険がある。
実際、1楽章から2楽章は、なんともいえない雰囲気だった。
老人の危険運転につきあわされているというか、指揮者本来の意図ではなくて、たまたま身体が不自由で遅くなっているという。
先日、ボザールトリオのピアニストという人が90歳越えで開いたリサイタルの映像をみたが、すごいとは思うが、指はもつれることもあり、繰り返し聴きたいようなものでもない。

そうだ、この日のメータも、CDになったらどう思うかは、ちょっとわからない。

このスローテンポが生きるのは、やはり3楽章。ゆっくり一歩一歩踏みしめて登った山から、太陽の輝きをみるような。

宇野評論で、ブルックナーは「うまく見せようとか、人工添加物のようなものを拒絶する」みたいなことを書いていて、だからカラヤンとベルリンフィルとかは絶対だめだ(朝比奈は素朴で最高だ)、ということも同時に書いてたかもわからない。
その評論は説得力のあるものだが、結局「老い」とブルックナーが相性が良いことも意味していると思う。
老いて身体が不自由になってきて、なお外面のカッコよさにこだわる人は少ない。カラヤンですら、アンサンブルの乱れが晩年は気になったし、悲愴感を出してもいた。

メータもつい数年前なら、自由自在のサウンドが作れただろう。しかし、こうして限られた動作の中で、じっくりと演奏されることで、虚飾がはがれ、ブルックナーの本質がみえてきたこともあるのかもしれない。

聴きものだったのは、この間延びしそうな危険なテンポを、じっくりと構築していくベルリンフィルの底力だ。
力任せにハイスピードにしたって、世界最高の性能をみせるだろうこの集団が、どれだけ抑えながら魅力を出していけるのか。
これはとても、誠実な音楽だったと私は思う。最大音量の時はかなりの力を見せたが、しかし、聴きものはあの静かな持続力だ。

ウィーンフィルを聴いて思ったのは、あの楽団は自分たちの音が強烈にあるということ。自分たちの歌やリズムや音色の枠を離れることはない。基本おっさんの集団だが、メイク済みの美女という感じで、そのキャラクターは絶対的。
よい指揮者は、それを利用しながら自分の個性を加えるということになるだろう。
この日のメータの指揮を受けても、きっとウィーンフィルなら、盟友でもありブルックナー正統でもあるので、強力な補整をかけて美しい歌にしただろうな、と思った。

でも私は、そんななめらかに美しいものを聴きたくはなかった。
この「老い」を、どうしようもない速度の低下を、そのままに受け止めながら、なんとか大曲をつくりあげるというその行為を、はらはらしながら聴いていたかったのだ。

宇野評論の影響で、朝比奈が正統で、メータのブルックナーなど異端だと日本人は思っていそうだが、今回記事を見ると、ウィーン大学でノヴァークに直接師事していたとか、戦後のカラヤンのブル8を学生時代に聴いて感激したとか、実はブルックナー演奏の生き証人みたいな経歴である。
サウンドの背後にきこえたのも、ラトルやアバドではなくカラヤンである。

こんな大家でなければ、ベルリンフィル相手にあのテンポは許されなかっただろう。
とはいえ、終演後に時計をチェックすると90分ぐらいだった。ノヴァーク版第2稿は短いみたいなので、それもあるだろう。
心理的には長かった。有名な、チェリビダッケのリスボン100分ブル8を聴きたくなる。このテンポは中毒性がある。

終演後、かなりブラヴォーもとんでいて、楽団員が去った後もメータが呼び出された。樫本大進と、確かオーボエの有名人が一緒に出てきたところに、この組織の関係の良さがみえた。これは、アバド時代の遺産だろう。

帰りの道では、年配の女性が「よかった〜」と2回つぶやいていた。
指揮者の体調不良というハンデが、皆で一緒に音楽に集中するきっかけになった気がした。
ライブでしか経験できないといいたいところだが、ベルリンフィルのサイトでは、このコンビのベルリン公演ブル8がみられるようだ。生放送でもみられたのかもしれない。

しかし私は、あの日の、ホールに流れる時間が、先が見えず止まりそうになったり、ぎゅっと凝縮されたりする様子は、2月のコパチンスカヤと並んで、かげがえのないものだったと言いたい。


コメント


mixiユーザー2019年11月20日 12:54

最近私は、生の良さはアンコールに最も現れるのかなと思います。前半にバイオリン協奏曲で、後半に交響曲のような構成だと、前半の協奏曲でもソリストによってはアンコールとして小品を弾きます。こういうのはCDでは聞くことが出来なくて、一期一会です。オケも慣れている曲をアンコールで弾くので、本題よりも良かったりします。逆におざなりな時もあって、そういう場合本番の方も冴えないですね。生はアンコールにあり、です。

mixiユーザー2019年11月21日 01:58
> mixiユーザー 

コパチンスカヤは、日本の現代作曲家のを弾きましたが、こっちがやりたいんだろうなと思いました。チャイコフスキーでなくて(笑)
ティーレマンとウィーンフィルは「快速列車で」?だったか、そんな感じのポルカ1曲。これも、シャンパンのようなというか現地の白ワインのようなというか、よいものでしたね。


mixiユーザー2019年11月24日 09:01

コンサートのチケットに4万円も出すと
なかなか客観的な感想書くのも難しいんじゃないでしょうか。
どうしても思い入れが強くなるというか。
ウィーンフィルとベルリンフィルを続けて聴くというのは
贅沢な経験ですね。
ガンか何かで、余命半年の宣告を受けたら
自分もそういう贅沢をするかもしれません。


mixiユーザー2019年11月25日 18:32
> mixiユーザー 

ありがとうございます。そのとおりだと思いますね。逆に、客も演奏家も、高額の動くイベントとして、実際神がかった感じになったり。晩年のカルロス・クライバーの登場のたびに神がかった感じになったのも、演奏家の凄さというより、イベントの希少性が熱気を生んだ、かえって本人に敷居が高くなったのではと思っています。
CDのほうが評論書く分にはいいですね。メータがどういう解釈でよかった云々は、客観的に書けないので、イベントの主観的な気持ちの動きを書いただけですね。

日記に書き忘れましたが、私自身、軽微ですが耳鳴りを経験し、健康寿命に恐れをもったというか、あと、ベルリンフィルはスルーのつもりだったのが、フェスティバルホールに6年ぶりとみたので、6年後は想像つかないなあと思って決めました。
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1973701135?org_id=1973700471
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/890.html#c10

[リバイバル3] 原音とは何か? 中川隆
11. 中川隆[-15233] koaQ7Jey 2019年12月03日 11:24:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2302]
「1,600万円のオーディオ装置」 2008.3.28

先日のブログにも書いたことだが、とある友人の紹介でオーディオ輸入業を仕事とされている方のご自宅を訪問させていただき、ご自慢の装置でいくつか音盤を聴かせていただいた。

何とスピーカーや高性能アンプ、CDプレーヤーなどで正味1,600万円ほどだという。地下1階の防音の効いた30畳ほどのリスニング・ルームにどっしりと鎮座している様は誠に神々しい。

あらゆるジャンルの音楽(J-Popから民族音楽風のもの、Jazz Vocal、クラシック音楽など)を耳にしたが、どうやらこのマシーンはオーケストラを聴くために調整してあるらしく、やはりクラシックのしかも管弦楽曲が抜群の音色で鳴っていた。レヴァイン指揮するサン=サーンスの「オルガン」交響曲第 2楽章冒頭やアバド&ルツェルン祝祭のマーラー「復活」冒頭、ドビュッシーの「海」第3楽章終結などなど、まるで目の前で実際に演奏されているかのごとくめくるめく錯覚をおこすほどの見事さであった。その彼曰く、

「世間の人は生演奏で聴くのが一番いいというじゃないですか。
確かに「実演」がベストです。でも、実演が必ずしも良い演奏とは限りません。先日などは3万円も払ってベルリン・フィルを聴きに行ったところ金管の何某がとちったものだからアンサンブルがガタガタになり、最低だったんですよ。
だから、名演を聴くならしっかり調整された最高のオーディオ装置で聴く方が良い場合が多いんです」と。

なるほど、確かにそう言われればそうかもしれない。ついでに彼が言っていたのは
「それまで名演だと思っていた演奏がこの装置で聴くと、特にオーケストラの良し悪しが手にとるようにわかるようになり、がっかりさせられることも多々ある」
ということ。ゲルギエフの「ハルサイ」などはその典型らしい。
へぇ、そうなんだと感心しながらもちょっと腑に落ちないなと感じる。


僕はSP復刻盤といわれる戦前録音された録音レンジの狭いCDを時折聴く。音質が悪いとはいえ感動させられてしまうのだから音の良し悪しを超越するエネルギーがあるのだろう。メンゲルベルクのチャイコフスキー「悲愴」やフルトヴェングラーのベートーヴェンなどはその際たるもので、今の時代に聴いてもその音楽の素晴らしさは最新録音盤を超える何かが確かにある。

「音」を聴きたいのではなく「音楽」を楽しみたいのである。音がいかに完璧に再生されるかに興味があるのではなく、心が震える感動体験がしたいのである。

確かにCD ラジカセじゃ限界があろう。でも、僕は今もっているオーディオ装置で充分だなと正直思ってしまった。そこそこ優秀な装置があれば音楽は「愉悦」を運んでくれる。そして何といっても、多少の瑕があろうと実演・生演奏のもつ波動が一番だ。

こう書くうちに以前柳田邦男氏が、「人生の1枚のレコード」と題するエッセーでメンゲルベルクの指揮するバッハの「マタイ受難曲」に言及し、その感動的な演奏に対する深い想いを書いておられることを思い出した。その中で「追記」された文章があり、それがとても印象的で、僕の今回の体験と何となく同じようなニュアンスを感じたので、その部分を抜粋させていただく。

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メンゲルベルク指揮のマタイ受難曲は、心を病んでいた私の次男・洋二郎も何度となく聴いていたレコードだった。1993年夏、自ら命を絶った洋二郎の遺体を病院から引き取って家に帰った時、偶然にもマタイ受難曲のアリア「主よ憐れみたまえ」がテレビから流れた。

「憐れみたまえ、わが神よ」をテーマ曲にしたアンドレイ・タルコフスキーの映画『サクリファイス』が、まさに終わろうとしていたのだった。私は、立ちすくんだ。それ以後、マタイ受難曲は、私にとって人生全体をゆさぶられるような重い曲となっている。

なお、音楽美学やドイツ音楽史の専門家で国立音楽大学教授の礒山雅氏は、詳細な作品研究の著書『マタイ受難曲』(東京書籍)のなかで、メンゲルベルク指揮のこの演奏を、バッハの基本からはずれていて、とくにテンポの伸び縮みがあまりにも恣意的だと、きびしく批判し、

「聴いていて途方に暮れ」
「うんざりする」

とまで書いている。批判は演奏に対してだけでなく、聴き手に対しても向けられ、

「この演奏に感動して涙する若い聴き手がいると聞くのだが、そういう人はどうやって耳の抵抗を克服しているのか、知りたいものである」

と冷笑している。どうやら楽譜を読みこなす力のない私や息子は、マタイ受難曲を聴くには失格らしいのだが、音楽とは人生の状況のなかでの魂の響き合いではないかと考えている私は、「それでもメンゲルベルク指揮のあの演奏は私の魂をゆさぶる」という感覚をいまも抱いている。
「かけがえのない日々」(柳田邦男著)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/410124913X/250-8550177-4320268?ie=UTF8&tag=asyuracom-22&linkCode=xm2&camp=247&creativeASIN=410124913X
より

http://classic.opus-3.net/column/16002008328/

Willem Mengelberg [Matthäus-Passion]

Johann Sebastian Bach (1685-1750)
Matthaus-Passion BWV 244 (1727)
Willem Mengelberg & Concertgebouw Orchestra - 1939
https://www.youtube.com/results?search_query=Mengelberg++Matthew+Passion+
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9021434

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/890.html#c11

[リバイバル3] 原音とは何か? 中川隆
12. 中川隆[-15232] koaQ7Jey 2019年12月03日 11:31:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2301]
クラシックの核心 片山 杜秀 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%A0%B8%E5%BF%83-%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%81%BE%E3%81%A7-%E7%89%87%E5%B1%B1-%E6%9D%9C%E7%A7%80/dp/4309274781

「フルトヴェングラー」の章では「音は悪くてかまわない」と、小見出しがあって次のような記述があった。(137頁)

「1970年代以降、マーラーの人気を押し上げた要因の一つは音響機器の発展があずかって大きいが、フルトヴェングラーに限っては解像度の低い音、つまり『音がだんごになって』聴こえることが重要だ。

フルトヴェングラーの求めていたサウンドは、解析可能な音ではなくて分離不能な有機的な音、いわばオーケストラのすべての楽器が溶け合って、一つの音の塊りとなって聴こえる、いわばドイツの森のような鬱蒼としたサウンドだ。したがって彼にはSP時代の音質が合っている。」

オーディオ的にみて興味のある話で、そういえば明晰な音を出すのが得意の我が家のJBLシステムでフルトヴェングラーをまったく聴く気にならないのもそういうところに原因があるのかもしれない。

通常「いい音」とされているのは、端的に言えば「分解能があって奥行き感のある音」が通り相場だが、指揮者や演奏家によっては、そういう音が必ずしもベストとは限らないわけで、そういう意味ではその昔、中低音域の「ぼやけた音」が不満で遠ざけたタンノイさんだが、逆に捨てがたい味があるのかもしれないと思った。

「いい音とは」について、改めて考えさせられた。
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/9426791e31fc7636d184b63f894b6d3f

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/890.html#c12

[近代史3] 神道の事を単なる儀式であって宗教ではないと思っている天皇一族には理解できない神道の世界 中川隆
13. 中川隆[-15231] koaQ7Jey 2019年12月03日 14:02:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2300]

キリスト教205〜皇室とキリスト教 2019-05-29
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/516e59b12a4b75c5a8c758c64c789eb1


●皇室とキリスト教

 日本の皇室は、神道の祭儀を行うとともに、古代から外来の宗教すなわち道教、仏教等を取り入れている。神道を中心・根本としつつ、他の宗教と対立するのでなく、その良いところは取り入れるという姿勢である。仏教の摂取・定着・発展は、皇室なくしては考えられない。キリスト教については、江戸時代に徳川幕府が禁止したので皇室に入ることはなかった。明治維新後、キリスト教の禁教が解かれると、皇室はキリスト教に対しても、排斥排除することなく、関心と理解を示してきた。
 皇室は、明治以降、わが国は欧米からさまざまなことを学びながら近代化してきた過程で、キリスト教を西洋文明の一つの文化要素として受け入れてきた。たとえば、クリスマスにプレゼントを贈る習慣は、日露戦争のころにすでに皇室で行われていた。皇族は、外国の王族や要人と親交を持たれる立場から、こうした習慣を柔軟に取り入れたものだろう。昭和天皇は、定期的に聖書の講義を受けておられた。国際的な教養としてキリスト教に関する知識を身に着けておられたと推察される。
 敗戦後、上皇が少年だった時、4年間、クェーカー教徒のエリザベス・バヴァイニング夫人が家庭教師を務めた。彼女を明仁皇太子(当時)の家庭教師に推薦したのは、GHQのボナー・フェラーズ准将だった。
 フェラーズは、同じキリスト教徒として親交のあった恵泉女学院の河井道から日本人の天皇に対する心情を聴いて天皇の重要性を知り、マッカーサーに意見書を出し、天皇が戦犯として処刑されないように働きかけた。1971年(昭和46)年、日本政府はフェラーズに対して、勲二等瑞宝章を贈っている。叙勲の申請書には「連合国軍総司令部における唯一の親日将校として天皇陛下を戦犯より救出したる大恩人」と書かれていた。
 フェラーズが、皇太子(当時)にアメリカ人女性の家庭教師をつけるようにしたのは、それによって天皇に対する欧米の世論を和らげることが狙いだった。フェラーズとヴァイニング夫人は、ともにクェーカー教徒だった。夫人は優れた児童文学者でもあった。家庭教師に選ばれたヴァイニング夫人は来日して、皇太子と弟君の義宮らに英語教育などを施した。家庭教師の役目を終えて帰国した後、ヴァイニング夫人は1952年に『皇太子の窓』を著した。同書はアメリカでベストセラーとなり、アメリカ人の皇室に対する見方を変えることに大きな役割を果たした。
 上皇は、1959年(昭和34年)、正田美智子様と結婚された。現上皇后は民間人として初めて皇室に入られた。カトリックの名家である正田家で育ち、ミッション・スクールである聖心女学院のご出身である。ただし、入内前にカトリック教会に照会し、洗礼は受けていないとされている。民間人、しかもキリスト教徒と思われる女性が、皇室に入ることには、日本の伝統を尊重する有識者の間で懸念の声が上がった。
 ご成婚後、皇族の一人がキリスト教に興味を持ったのは皇太子妃(現上皇后)の影響と聞いた昭和天皇が、皇太子妃に「皇室においてキリスト教の話はしないように」と叱責したという噂話を、当時の雑誌が書き立てた。平成28年から刊行されている『昭和天皇実録』は、このことに触れ、昭和天皇は「事実でないし、心に思ったことさえなかった」と伝えるよう側近に命じたと記している。
 雅子皇后は、妹たちがカトリックの洗礼を受けている、また、三笠宮妃信子様は、カトリックの名家・麻生家の出で、麻生太郎元総理の妹である。
 皇嗣秋篠宮の長女・眞子様は、国際基督教大学(ICU)に進学された。次女・佳子様は学習院大学を辞めてICUに進学された。ただし、同学でキリスト教に改宗する学生はごく僅かとされる。皇室関係の職員には、キリスト教徒が多いことが注目される。昭和天皇の初代の侍従長・珍田伯爵は、元外務次官でメソディスト派の牧師だった。その後の歴代侍従長もキリスト教徒が多いと言われる。たとえば、渡邊元侍従長は聖公会だった。川島元侍従長はカトリックで、同じくカトリックで日本初の国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子といとこ同士だった。
 今上天皇と皇嗣秋篠宮の養育係だった浜尾侍従はカトリック教徒であり、彼の弟・浜尾伺郎は枢機卿という高位聖職者だった。女官長にもキリスト教徒が多いとされる。歴代の宮内庁長官では、田島、宇佐美等がカトリック教徒だった。また宮内庁の職員にはカトリックが多いと伝えられる。

 このように日本の皇室はキリスト教と浅からぬ関係を持っている。だが、歴代の天皇皇后及び皇族は、皇室の伝統である神道を奉じ、また国家的な意義のある神道の祭儀を司っておられる。歴史的に仏教が先例にあるように、神道を根本・中心としながら、外来の宗教も取り入れて調和するという日本独特の文化を、皇室は堅持しているのである。もし万が一、木で言えば幹である神道から離れて、枝であるキリスト教に帰依するような皇族が出たならば、本末転倒ということになる。

 皇室において、神道がキリスト教を包摂し、指導するものとなるか、逆にキリスト教が神道の中核部を溶解させることになるか。このことは、日本と人類の将来にとって、重要な事柄である。

https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/516e59b12a4b75c5a8c758c64c789eb1
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/124.html#c13

[近代史3] 表に出始めた明治維新の真実

表に出始めた明治維新の真実 〜総集編 2018年12月31日 えとせとら
https://www.lymphocyte-bank.co.jp/blog/etcetera/%E8%A1%A8%E3%81%AB%E5%87%BA%E5%A7%8B%E3%82%81%E3%81%9F%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%80%80%EF%BD%9E%E7%B7%8F%E9%9B%86%E7%B7%A8/

戊辰戦争150年を偲んで

表に出始めた明治維新の真実 総集編

目次

「歴史小説」と「歴史」全く異なる明治維新

「一発逆転サヨナラ満塁弾」将軍様仰天の敵前逃亡

公文書偽造による討幕令、大嘘から始まった明治維新

京の都、大阪城、江戸城を無償で敵に渡した将軍様

討幕の英雄三傑、慶喜将軍、勝海舟、榎本武揚のその後

徳川家乗っ取り作戦、討幕派のリーダーを徳川将軍に

密貿易で荒稼ぎする島津家と使用人坂本龍馬

明治維新の金の出どころ〜 福井松平家

年表 明治維新の流れ 

(黒船 +2年) 長崎海軍伝習所に討幕派集結

(黒船 +5年) 安政の大獄はじまる 

(黒船 +6年) 討幕派拠点、長崎海軍伝習所閉鎖 

(黒船 +7年) 桜田門外の変 漁村にジャーディンマセソン商会横浜支店開設翌年開業

(黒船 +8年) グラバーから購入した印刷機で福井藩札発行 絹製品ギルド結成 明治維新の資金源稼働

(黒船+10年) 真打ち英東洋艦隊登場し薩英戦争、島津家領内の意志統一 オリエンタルバンク支店開設

(黒船+11年) 漁村に神戸海軍操練所開設 福井松平家大規模投資 討幕派の一大拠点

( 同 年  ) 卒業生らが禁門の変に参加、翌年操練所閉鎖、責任者の勝海舟罷免

( 同 年  ) 高杉晋作ら奇兵隊、外国船砲撃、馬関戦争により英軍が長州領一部占領

( 同 年  ) グラバーが英国留学させた伊藤博文・井上門多を英軍が長州へ送る

(黒船+13年) 第二次長州征伐 14代将軍・攘夷派の天皇急死 翌年解兵

(黒船+15年) 第15代将軍慶喜、島津軍陣地へ攻撃命令、鳥羽伏見の戦い勃発 明治元年 福井藩士だった吉田茂養父ジャーディンマセソン商会支店長就任 福井絹輸出拡大と武器大量輸入

「歴史小説」と「歴史」全く異なる明治維新

今年は戊辰戦争150年ということで山口県に縁深き首相をいただく官邸主導で「まあ過去のことは水に流しましょう」という趣旨のイベントが企画されていました。ところが会津を中心とする旧奥羽越列藩同盟側は「水に流せるようなものではない」とするムードが強く、むしろ「歴史」としての明治維新は、「歴史小説」の中で作られた英雄物語のイメージとは全く異なるという内容の出版や講演などが相次ぎました。

中には明治維新とは長州人テロリストによるこの国の乗っ取り行為であり同国人に対する人間とは思えない非道な残虐行為に満ちるとする主張もありますが、歴史上そうした面は事実としてあります。特に戊辰戦争時の会津城下は数百の亡骸が散乱し、多くが長州兵によって凌辱された婦女子が虐殺されたものでした。死体は放置されたまま「処理」してはならないとされたと伝わっていましたが、今年、地元研究者の調査で死体処理の記録が発見され、放置され続けたのではないと従来の通説を覆す証拠が提示されました。 戦争が終わっても、それ以上の悲劇が続きます。青森でも不毛とされる地に移封された旧会津藩領民は過半が飢餓や凍死で世を去ります。明治新政府は各地で圧政を行い反乱する農民らを徹底して弾圧します。これを150年経ったから水に流しましょうというのですから歴史的事実を訴える人々が声を大きくし始めたのです。

外国の侵略から日本を守る、外国勢力を背後につけた同朋から自分たちを守る、その中心が会津です。京の都に荒れ狂った無差別テロ。狙われたのは幕府要職にある侍ばかりではありません。手当たり次第に特に抵抗できない女性は狙われ今日のISやタリバンと変わらない非道な暴力が吹き荒れていました。京の都を夜な夜な騒がせた有名な人斬り○○と名前がよく知られているのは多くが薩摩人ですが、戊辰戦争の際に会津で暴れたのは長州人が中心でした。 京都の警察業務と非常時には軍の全権を掌握する京都守護代の任を請けた会津は外国勢力から資金を得て活動するテロリストの取締りに精を出します。薩摩人とか長州人といっても、島津家や毛利家との主従関係を切り、固定収入を無くしたはずの人たちが活動し続けたのです。 背後の資金提供者が黒幕です。 「歴史小説」では会津・桑名の兵や京都守護代会津松平家の直属である新撰組や見回り組は何かものすごく反動的な歴史の流れに竿を刺す問題の塊のようにも描かれますが、歴史的には彼らは正々堂々とした警察であり、非常時治安維持の正規軍であり、彼らが戦っていた薩摩人や長州人は無差別テロを繰り返す犯罪者だったのです。 これが歴史的事実です。 NHKの大河ドラマでやっと会津松平家からみた維新が取り上げられ、随分と会津側への誤解が解けたことは大きな前進だったと考えます。 禁門の変においては長州人武装集団が口では尊王攘夷と言いながら日本史上前代未聞の皇居に砲弾を撃ち込む暴挙に及んだのに対し、宮廷を護り抜いたのが会津兵です。 これも動かしようのない歴史的事実です。 今でも蛤御門には当時の銃砲撃の跡が残っていますが、私たち日本人にとって大切な存在である天皇のいらっしゃる御所に向かって砲撃したのです。 それも尊王のスローガンを掲げながらです。 歴史の事実としては維新の志士と呼ばれる人々がどうやって収入もないはずなのに活動資金を得たのか、誰が何の目的で金を出したのか、そこが大きなポイントなのですが、この点もISやタリバンと同じです。あれだけの軍隊が兵員募集、訓練、戦闘員への給与の支払い、兵器や弾薬、燃料、食料の調達と最低でも数兆円かそれ以上ともいわれる資金をどこが何のために出したのでしょうか。狂信的なテロリスト集団が集まっただけで、あのような軍隊は動かせません。 お金のでどころを読むのは要ですが、明治維新において、心情的には皇居砲撃をどう弁解、説明できるのか、そこは問いたいところです。 そして軍事クーデターを起こしながら公文書偽造つまり偽物の討幕令をつくり自らを官軍と偽った薩長連合は目の上の瘤であった会津、そして共に立ち上がった奥羽越列藩同盟を朝敵とします。新政府は徹底してこれを弾圧、人間のやることとは思えない迫害を加えます。 いやいや軍事クーデターだったんだ、国外勢力からの資金提供も受けたんだ、武器も供給された、それが悪いのか、と開き直るならまだわかりやすいのです。なぜ堂々とあれは軍事クーデターだったんだ、と認めないのでしょうか。

歴史小説に登場する英雄、幕末の志士たちは、固定収入もない職を捨てた浪人が中心で一部農民と徒党を組み全国に情報網を巡らし、海外に留学や視察を行い、高価な外国製武器を揃え、圧倒的な軍事力を誇る徳川軍に一方的な勝利を収めたことになっています。

それはないでしょう。 無理というものです。 当然、背後に巨大なパワーが動いています。

大河ドラマ等で流布される明治維新のイメージ。吉田松陰先生の松下村塾で学問を学んだ長州の下級武士たちが外国の脅威から国を救う志を抱き、圧倒的に強大ながら古い体質から脱却しない徳川家を倒し、更に古い時代にしがみつく会津を征圧し日本を統一、あっという間に富国強兵を成し遂げ、外国勢力の植民地になることを防いだ。あるいは土佐藩を脱藩した稀代の英雄坂本龍馬が互いに意地を張りあう薩長にかけ合い、同盟を結ばせ、長州が外国製の武器を購入できるように取り計らった。 こうした話は誰もがどこかで聞いたことがあると思うのですが、個々の事実は歴史的事実を引用していても、ストーリーの展開としては「あくまでも小説」です。

「竜馬はいく」など「空想歴史小説」の中で描かれたイメージは歴史的事実をちりばめながら物語としては真逆なほどひっくり返してあります。流石に作者も本名「坂本龍馬」ではなく一文字変えて「竜馬」としており、余りにも事実とイメージが異なることには「ご容赦ください」とお詫びのコメントもしておられます。まあ、小説なのですから、どう書こうと作家の自由なのですが結果的に大きな誤解を生んでいます。

明治維新の歴史小説に登場する様々な言葉、まず明治維新という言葉にはじまり、藩とか幕府、朝廷、といったものは実在はするのですが、当時の呼び方とは異なります。ちなみに鎖国令は実在しません。坂本龍馬は土佐藩を脱藩したのではなく、最初から島津家に雇われていたのですが、そもそも当時は藩ではなく、山内家とか島津家といったファミリー集団があり、その家臣団がおり、ファミリーが領有権をもつ領地、領民がいました。これを地名に藩をつける呼び方に変え、更に都道府県に変える廃藩置県を行いましたが、江戸時代には藩はなかったのです。明治維新は御一新と呼ばれていました。こういうことを細かく配慮すると書きにくくなるのですが、それだけ歴史は曲げられているということです。実は日本語まで変えられてしまったのです。 明治維新の前と後では日本語の発音がまるで違っています。円はJ.YEN と書きますが、実際に当時までは「いぃぇん」という発音でした。

ここは適宜、流れの中で棚に上げるなり、表現を選ばせて戴きます。

列強諸国がアフリカ、アジア、北中米の諸民族、文化、国などに何をしたかは教科書にも少し載っています。民族絶滅や、歴史から国や文化の名前まで消してしまうなど、(消えたので消えたこともわかりません。たとえば古代マリ王国という偉大な文明が存在したことをどれだけの人が覚えているでしょうか) かなりえげつないわけですが、阿片戦争で清を籠絡した次の標的が日本です。無事ですむわけありません。日本が一部を除いて軍事占領されず、直接植民地にされなかったのは各国の事情があったからです。米国は南北戦争であまりに忙しく日本に侵攻する余裕はありません。また世界大戦と言う規模のクリミア戦争で数百万の将兵が動員されており、ロシア、フランスは東アジアに廻す兵力がありません。オランダはインドシナ植民地で圧政を行っており、抵抗運動を武力で排除するのに躍起です。英国だけがクリミア戦争を戦いながらも東洋艦隊を動員していましたが、植民地を広げる戦費が国費負担で、利権が東インド会社という構図に議会が紛糾、これ以上国費の浪費を続けると国家財政がもたないと、超低予算による日本侵略、つまり少人数の特殊工作員による日本乗っ取り作戦を遂行することになります。パークス公使や諜報員アーネスト・サトー、これに阿片戦争の利権で巨大資本となったジャーディンマセソン商会とその代理人トーマス・グラバー等がオランダ人フルベッキ等と共に、この国のどこをつつけば体制がひっくりかえるか徹底検証し、新たな権力を握るグループを国外からコントロールしながら間接的な植民地支配を目論みます。

明治維新は、外国勢力の動き、最大勢力である徳川家を倒す国内勢力の動き、新政府が何をしたか、に大きく分かれます。明治維新そのものの山場は軍事クーデター「鳥羽伏見の戦い」です。歴史小説では大政奉還によって幕府が幕を閉じ、天皇を中心とする体制へ平和裏に移行したとなっています。実際、徳川家から禁裏に対して確かに政権一括委任権の返上が奏上されたので、正に大政奉還が行われたのですが、直後に外交権を皮切りに部分的な政権再委任が次々に公布され、政治は徳川家が執り行う体制に戻っていきます。大政奉還の形骸化です。 明治維新は、鳥羽伏見の戦いに端を発する戊辰戦争という内戦によって、武力による政権奪取が行われたものです。 大きな謎は圧倒的な軍事力をもつ徳川軍がなぜあっさり敗れたか、です。

「一発逆転サヨナラ満塁弾」将軍様仰天の敵前逃亡

大政奉還後も政権担当を徳川家が担うことで何も変わらない状況が続きました。そこで西郷隆盛の弟を首謀者の一人とする強盗団が江戸市中で暴れます。数百人の暴徒が乱暴狼藉の限りを尽くし、大店(大きな商店)などを次々に襲い、盗み、強姦、殺人、放火などやり放題です。維新の志士といいますが、実際の「業務」の多くがこうした無差別テロだったのです。激高した江戸留守居役諸家、何せ将軍様は将軍に就任して一度も江戸城へ登城したことなくずっと京や大阪にいましたので留守の警備を命じられていた諸家の軍勢が江戸の街を警護していたのですが、彼らが島津家江戸屋敷を焼き打ちします。暴徒が島津家の指図で動くことはわかっていた上、島津家江戸屋敷に逃げ込むのでここを潰さないと取締りにならないからです。 京や大阪も江戸での事件に俄かに緊張感が高まりますが、先に手を出したのは徳川軍です。第15代将軍慶喜公が島津軍の陣営に対する攻撃を命じます。こうして天下分け目でもあり、日本の半分を戦場にする戊辰戦争の緒戦ともなる鳥羽伏見の戦いの幕が切られました。この将軍様、決して腰抜けなどではありません。政治手腕も辣腕で、列強との交渉も自分でやります。度胸もあり、自ら抜刀して長州軍と白兵戦を戦ったこともあります。戦国時代を別にすれば、なかなかいなかったタイプの行動的な将軍様をリーダーに士気旺盛な徳川軍が大阪城に集結、そこで将軍様が「一兵たりともこの城を退くでない」と檄を飛ばします。その舌の先も乾かぬ夜、列強公使と密談し、乗船許可書を発行してもらって米軍艦艇に乗り込み、さらに咸臨丸に移ってそのまま江戸城へ逃げ帰ります。この際、供回りはわずかですが、松平容保ら、会津の重鎮らも同伴させます。京都守護職であった会津松平容保は畿内有事の際の軍事権ももっており、将軍様が逃亡となれば松平容保が自動的に指揮を執ることになります。念押しで、容保の弟で京都守護職の配下になる京都所司代に任ぜられていた桑名松平定敬も同行させられます。新撰組や見廻り組といった実戦部隊は京都守護職の直属です。それまでの実績からいっても命を懸けて任務を全うするであろう松平兄弟が徳川軍の指揮を執っては全面戦争となり、寡兵の薩長軍が重囲の中で蒸発するのは目に見えています。将軍様に余について参れ、と言われて行かない訳にもいかない松平兄弟が去った大阪城には権限をもつ指揮官がいません。当時の大阪湾には兵庫港開港を要求する英東洋艦隊などがびっしり並び、砲口を大阪城に向けていました。咸臨丸の艦長榎本武揚は大阪城に居ましたが咸臨丸が将軍様の命令で逃げてしまいました。 外からの威圧下、指揮官が次席や次々席の指揮官らと突然、将兵に黙って米国艦艇で敵前逃亡という「いったい何がどうなっているわけ???」状態となり、徳川軍は総崩れとなり軍事クーデターは成功します。

公文書偽造による討幕令、大嘘から始まった明治維新

禁裏の重鎮、岩倉具視は偽の討幕令を偽造、さらに偽物の「錦の御旗」を、ま、こんなもんだろ、と適当に作らせて、「吾は官軍、幕府は朝敵なるぞ」と心理作戦も仕掛けます。明治維新は大嘘から始まったのです。

京の都、大阪城、江戸城を無償で敵に渡した将軍様

江戸へ戻った将軍様は勝海舟に江戸城明け渡しを命じます。結局、この将軍様、在位わずか1年。その間に一気に徳川家は崩壊します。京都守護職に自らが指揮する大阪城からの敵前逃亡に同行させ、今度は江戸城も空にしろ、です。軍事的にも政治的にも経済的にも重要な京、大阪、江戸を自ら放棄したのです。これではどれほど徳川軍が圧倒的な軍事力をもっていても勝てるわけありません。困ったのは勝海舟です。 圧倒的な軍事力を維持しながら全面無条件降伏ですから、いつ反乱や暗殺を招くかわかったものではありません。命懸けで江戸を抜け出し、仲間の西郷隆盛に平穏に徳川が負ける算段を詰めるため密談します。そこへ榎本武揚が檄を飛ばし、これより東海に討って出て薩長の兵站を切る、志ある者は吾と共に参れ、と徳川艦隊への集結を呼び掛けます。血気盛んな将兵は海軍陸戦隊として艦隊に乗り込み勇躍出撃、最も血気盛んな抵抗勢力が江戸を離れ、その間に江戸はあっけなく開城され、一応、艦隊の東海への出撃もあったにはあったのですが、一路北上した榎本艦隊は最後は五稜郭にて志ある者の大半が討死します。

討幕の英雄三傑、慶喜将軍、勝海舟、榎本武揚のその後

徳川軍崩壊に大きな功績のあった第15代最後の将軍慶喜公は、元幕臣が生活にも困窮する凄惨を舐める中、豪邸で悠々自適の暮らしを送り、やがて明治政府の要職にも就き、明治時代を生き残り、大正二年に没します。

勝海舟も明治政府に厚遇され、要職も歴任し、恵まれた余生を送り明治32年に没します。

榎本武揚は自分が連れ出した志ある者どもが尽く戦士を遂げる中、自身は降伏し一応、しばらく牢獄暮らしとなります。その後は大出世を遂げます。幕末の欧州留学時代には自ら軍艦の購入交渉をまとめたり、ドイツ最大の財閥クルップの総裁とも面談、バリバリのエリートだった訳ですが、明治政府でも外交交渉をはじめ、各分野で重責を担い、多くの省の大臣職を歴任、明治41年に没します。

薩長土肥側の志士と言われた人々の大半が明治維新後数年以内に非業の死を遂げたのとは対照的です。

徳川家乗っ取り作戦、討幕派のリーダーを徳川将軍に

徳川家を倒す作戦の要は討幕派のリーダーを将軍にすることでした。そもそも慶喜公は一橋家に養子入りしたとはいえ、水戸徳川の出自です。家康公の血を引き将軍継承権をもつわけですが、水戸徳川は桜田門外の変を起こしたばかりでなく、先鋭な討幕派であり、政権は武力で倒すもの政敵は殺せばいい、という過激な思想を持ちます。水戸学派の親派は全国に散り、彼らが討幕のネットワークを構築します。吉田松陰は水戸学派の言ってみれば下っ端ですが、このネットワークには大物が加担しています。禁裏にあって大きな影響力をもつ岩倉具視、討幕令を偽造した張本人です。他、島津斉彬、山内容堂、松平春嶽らです。松平春嶽は福井松平家当主ですが、薩長土肥の武装集団よりも重要な役割を果たします。新生明治政府の財務を握る重鎮です。明治維新は福井の金で実現した、と言ってもいいほどです。明治政府のお札が越前和紙でつくられたのは偶然ではありません。福井松平家が地元の名産品でお札をつくったのです。松平春嶽は京都守護代の人選の際に執拗に会津松平容保を推しました。天保の大飢饉により奥羽越の諸家は大変な危機にありました。江戸の米市場を押さえる有力な勢力であった仙台も疲弊し、明治維新に対しておそらく最後まで徹底抗戦するであろう有力諸家が困窮しているところへ莫大な出費を要する京都守護代の任を押し付けたのです。会津は財政破綻を覚悟で京の守護に乗りこんだのでした。時々、どこかでテロ事件を起こす薩長側の方が、常に大兵力を動員して各地を警備する守護代より遥かに低コストでオペレーション可能でした。松平春嶽は「松平」家ですから徳川の縁者であり、将軍継承問題にも干渉します。島津家は関ヶ原で家康本陣に突撃し、戦後の交渉でも一歩たりとも領土を譲らなかった徳川最大の敵でした。ところが島津家は徹底的に訓練した子女を公家や諸大名と縁組させ血縁ネットワークを広げます。公家から正室をもらう将軍家と島津家は只ならぬ血縁の絆で結ばれていきました。病弱な子が続く将軍家を後目に健康爛漫、ポコポコと子を産み続け教養も高い島津家血縁ネットワーク軍団は評判よろしく、ついには将軍様正室に篤姫を送り込み、大奥の権力の頂点を握ります。将軍家継承問題に干渉するという半端なレベルではありません。最高レベルの実権を握ったのです。篤姫は島津斉彬の実の娘との噂もあるそうですが、超エリート諜報員として同期の小松帯刀らと共にあらゆる訓練を受け、非常に有能だったとされています。公家に嫁入りし、宮中での術数に長ける諜報員、幾島が付人として大奥に入り、江戸市中には連絡員として諜報員西郷隆盛が赴任します。彼らを束ねる大久保利通ら、わずか数名の工作部隊だけでも徳川家中枢への強い影響力を持つに至りました。

密貿易で荒く稼ぐ島津家と使用人坂本龍馬

島津家は税金のかかる米よりサツマイモを領民に食べさせ、米で測る石高にしては強大な兵力を動員できましたが、古くから外国勢力との密貿易によって財政を支えていました。当然、非合法取引ですから実務は土佐の荒くれな海男にやらせます。その中で商才を顕したのが坂本龍馬です。彼が薩長を仲直りさせたのではなく、元々、島津家の武器密輸の実務を担当する雇われ人だったのです。毛利に売ってこい、となれば毛利に売るのが仕事です。歴史小説では長州人が先陣を切り、当初、幕府側にいるように見えた薩摩が討幕へ方針を変えていくように描かれますが、歴史上は逆です。薩摩は最初から徹頭徹尾、討幕派の中心であり、訳あって長州を巻き込む必要があったのです。日本の事実上の植民地化を狙う英国とも早くから交渉がありました。土佐山内容堂は、領内のいってみれば不良のようにも見える徒党が島津家の密貿易業務に就くのを取り締まらず、むしろ家臣として登用するようになります。また長崎出島に近い肥前鍋島家も外国商人とのパイプが太く薩土肥連合の絆は早くから結ばれていきました。長州を巻き込むには時間と手間がかかります。そこが逆に歴史小説のネタになるドラマになっていきます。

ちなみに坂本龍馬はグラバー商会の資金と船を預かり海運業を営みます。積荷は武器などです。要するに密貿易の使用人から武器商人に昇格したのです。帳簿係りが岩崎弥太郎。龍馬暗殺後、後を次いだ岩崎弥太郎は大阪に九十九商会(つくも)を設立します。同じく資金と船はグラバー商会から提供され廻船業を営みます。これが後に三菱となります。グラバーは家康指南役ヤン・ヨースティン邸宅跡、名前を縮めて八重洲ビル(場所は丸の内)から毎朝、馬車にのって三菱各社を視察していました。私が就職した時、八重洲ビルは三菱商事本店、私がいた三菱商事ビル別館は、旧三菱商事(九十九商会を継承する三菱。戦後の三菱は別法人で、新旧二つの三菱が存在していました。)の本店でした。

明治維新の金の出どころ〜 福井松平家

鎖国令というのは出たことはないのですが、貿易制限は実在しました。日米修好通商条約の発効により貿易自由化の方向へ進みだしたころ、素早く稼いだのが福井松平家です。トーマスグラバーの入れ知恵により、特産品である絹織物の量産体制を整備します。作りさえすればグラバー商会が売りさばくのですが、このやり方は今日でも続いています。宇宙船や戦闘機をつくるのにカーボンファイバーが使われますが、あれを織っているのが福井の普段、着物の生地をつくっている業者です。今日、近江商人が呉服の商いを牛耳っていますが製作は今もこの福井の組合が受託しています。福井の製造者の組合は明治維新前から物をつくるだけで流通を押さえられています。所謂、商社金融方式で、原材料仕入れも製品売掛債権の回収も全て資金繰りの面倒をみてもらう代わりに、自社営業を禁じられています。 さて、グラバーから買った印刷機を使って越前和紙で藩札をつくり、桑を育てる農家や養蚕業者、絹を扱う職人や織り機をつくる職人など、各事業を整備するのに必要な資金は文字通り紙切れに与えた信用で築きます。こうして他家に先駆け事実上の独占貿易の利を得た福井松平家は薩長など他家を圧倒する財力をもつに至り、討幕資金の提供者となったばかりでなく、新政府の貨幣もつくり財政を支えます。 特産品の絹製品の輸出により外貨であるポンドを手にしましたので、グラバー商会から英国製の武器を購入する決済に使うことができます。 一方、新政府が越前和紙でこれがお金なんですよ、と勝手に紙切れに信用を与えることで、それを信用した人々の間で貨幣として流通することで国内の財政を成立させることはできますが、新政府軍が戊辰戦争のために大量購入した元込め式新型ライフル・エンフィールド銃の代金はやはりポンドで用意しないといけません。越前和紙を印刷しただけでは売ってくれません。この外貨資金の提供者が明治維新の最大のスポンサーであり黒幕ということになります。

日本に最初に開設された銀行はセントラルバンクオブウェストインディア、通称オリエンタルバンクの横浜支店ですが明治維新の5年前にオープンしています。薩英戦争の年であり英艦隊に支払う賠償金をポンドで幕府に貸付ます。明治政府はこの銀行に600万ポンドの債務を背負い、借金返済のために富岡製糸工場の悲劇などが起こっていくわけですが、この債務は江戸幕府が薩英戦争や長州が招いた下関戦争などの賠償金を英艦隊などへ支払うために借りていたものを明治政府が引き継いだものがメインで明治政府としての新規の借入も行っています。 一方、日米修好通商条約が発効するや幕府は漁村に過ぎなかった横浜を港として開発することに決め、その翌年、つまり明治維新の9年前には早くもジャーディンマセソン商会上海支社の横浜支店が開設されさらにその翌年には「英一番館」として事業所建物も完成しています。英一番館オープンのころ、福井の藩札が発行され絹製品ギルドが量産した商品を横浜から輸出し稼いだ外貨で武器を購入というお金の流れが動き始めます。明治元年には福井松平家家臣の吉田健三が支店長に就任、絹糸の輸出と軍艦や陸戦兵器の輸入に奔走します。戊辰戦争真っ盛りのころですが外貨をもたない新政府は結局、福井の特産品絹糸の輸出で外貨を稼ぎ兵器の購入資金を確保したのでした。この吉田健三の養子の吉田茂は幼少時に当時の金額で50万円以上という莫大な遺産を相続し、大磯の巨大な別邸も手にしますが、第二次大戦敗戦後の日本の方向を決めた時代、総理大臣を務めることになります。 なおトーマスグラバーはジャーディンマセソン商会の長崎での代理人として事業を起こした人物です。

明治維新の大まかな流れ

主な登場人物がある程度そろったところで、全体の流れを押さえていきます。

鳥羽伏見の戦いが明治元年とされます。

黒船来航はその15年前です。

阿片戦争は更にその13年前に始まり2年で勝負がついています。

黒船来航を機に、水戸徳川によって海防の建白書が奏上されます。海の守りを固めましょうという当たり前の話ですが、この建白書が討幕プラン実行開始の号砲となります。

(黒船  元年) 世界大戦クリミア戦争勃発 露仏は総動員で日本どころではなし

(黒船 +2年) 長崎海軍伝習所開設 討幕派集結、卒業生が各地でテロ活動を展開

(黒船 +5年) 安政の大獄はじまる 討幕派へ大打撃

(黒船 +6年) 安政の大獄の一環として討幕派拠点、長崎海軍伝習所閉鎖

(黒船 +7年) 桜田門外の変 討幕派慶喜を将軍に推す勢力が反対派をほぼ排除

(黒船+10年) 薩英戦争、島津家領内が英軍をバックに討幕戦へと意志統一

           幕府が賠償金建替、予算を得た英東洋艦隊が日本をうろつく

(黒船+11年) 神戸海軍操練所開設 福井松平家大規模投資 討幕派の一大拠点

     卒業生らが禁門の変に参加、翌年操練所閉鎖、責任者の勝海舟罷免

     高杉晋作ら奇兵隊、外国船砲撃、馬関戦争により英軍が長州領一部占領

     グラバーが英国留学させた伊藤博文・井上門多を英軍が長州へ送る

     第一次長州征伐

(黒船+13年) 第二次長州征伐 14代将軍・攘夷派の天皇急死 翌年解兵

(黒船+15年) 第15代将軍慶喜、島津軍陣地へ攻撃命令、鳥羽伏見の戦い勃発

(黒船+2年) 長崎海軍伝習所に討幕派集結

長崎海軍伝習所には、勝海舟、榎本武揚をはじめ、全国から討幕派のエリートが集まります。長崎の地には坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、トーマス・グラバーら、明治維新の役者たちが一同に会します。討幕派が集まったという一面と、集まってから討幕派に加わったという一面もあり、この辺りは微妙です。結果的には集まった人々が討幕派になっています。伝習所といっても遠洋航海、海戦、造船から砲や火薬の製造、医学に航海術、海軍をつくるのに必要なあらゆることを実地でやるのですが、遠隔地との暗号による交信など、討幕活動にそのまま応用できるもの一切を含んでいます。教官はオランダが誇る重鎮がズラリ数十人。総力を挙げて最高レベルの人材を投入してきました。インドシナでは現地食糧を作らさずに自分たちの貿易の稼ぎになる工芸作物ばかりを作らせ飢餓輸出による餓死者が続出しても放置、反乱が起これば武力で鎮圧するという人々が日本人には親切に海軍の作り方を教えてくれる、わけはありません。 そんな甘い連中ではありません。 これは絶対をつけても。

国を乗っ取るネットワークをつくったのです。

彼らは流石に永年、日本との交易を通して諜報活動に長じただけあって、この国に脈々と流れる政権交代の震源を見抜いていました。どこを叩けば小さなエネルギーだけでも大きな地震が起こるのか。 将軍家周辺、天皇家や公家、各大名など表向き対立するかどうかにかかわらず、各々の勢力に属する特定の人々を横糸で束ねる鍵を握ったのです。南朝を正統とする水戸学派を揺り動かせば、各組織に潜む南朝派を束ねることができます。そこへ資金と武器を提供、諜報支援や艦隊による威嚇などを組み合わせれば、この国を乗っ取らせる手先となる結社を編成できる、その要員を集めて徹底した工作活動の訓練を実施します。

肥前佐賀の鍋島家も長崎海軍伝習所に人材を送り込みますが、わざわざ同様の施設を鍋島家領内にもつくり徳川海軍と拮抗する海上戦力を保持するに至ります。 この教官の中にオランダ人フルベッキがいます。女学院の名前として今も残る米国の宣教師フェーリスの弟子です。この人物こそ、討幕派を束ねた張本人とみられています。東京駅がなぜアムステルダム駅のコピーなのか。なぜ天子南面するこの国において、国家元首たる天皇が外国の要人を歓迎する際に、日出づる東の方、アムステルダム駅へ、つまり「上(かみ)」へ向かって僥倖するのか、なぜ途中にトーマスグラバーが毎日馬車で視察する丸の内の大企業群の真ん中を通るのか。 フルベッキが明治維新前に直接指導した工作員は3分の2が鍋島家の家臣ですが、明治維新成立後ほどなく佐賀の乱というおそらくでっちあげの反乱の疑いにより大半が逮捕され弁護機会なき密室即決裁判により直ちに死刑が執行されました。そのため、歴史小説としての明治維新には薩長土肥と言う割には肥前の人が登場しません。鍋島海軍の新鋭艦が活躍した時、日本では唯一の榴弾砲であった鍋島家のアームストロング砲が江戸に籠る徳川方の勢力を蹴散らしたことなど、目につくエピソードの時だけ肥前の名前が登場します。 明治維新に参加した人物の大半は、維新成立後に速やかに粛清され、生き延びたのはごく僅かです。

長崎海軍伝習所開設後1年、有能な人材の一部は欧州へ向かい、一部は全国に散り各地でテロ活動を活発化させます。最初は残虐なテロ行為で世相を騒然とさせる、ISやタリバンとやり方は同じです。

(黒船 +5年) 安政の大獄はじまる

島津斉彬は5000の兵をもって上洛、一気に状況を動かそうとしますが、急死します。斉彬の死を合図に大老井伊直弼は討幕派連合に鉄槌を加えます。水戸徳川斉昭、一橋慶喜、福井松平春嶽、土佐山内容堂、ら討幕諸家の当主に蟄居を命じ、討幕連合のまとめ役である橋本佐内を最高レベルの罪人として極刑に処します。佐内は松平春嶽の懐刀でした。100人以上が処罰を受けた安政の大獄は当時の重要人物を軒並み、処刑、投獄、蟄居とした激震でした。

この当時、長州は目立った動きをしていません。長州を無用に刺激しないため、吉田松陰への処罰は軽くなるはずでした。それほどの重要人物とは見られていませんでした。ところが、白洲の場で幕府重臣へのテロ計画をべらべらと喋ってしまい、これは捨て置けぬと極刑に処します。歴史小説では長州や水戸を中心に新しい時代を作ろうとする志士の活躍があり、これを古い体制を守ろうとする井伊直弼が弾圧したというイメージで語られますが、実際は逆です。長州では領内でさほど影響力のない一部勢力が騒いでいただけ。力をもつ討幕派は島津、福井松平、水戸徳川、土佐山内、肥前鍋島、そして禁裏の岩倉具視らです。討幕派は尊王攘夷を叫ぶ王政復古派であり、古い伝統を前面に押し出しています。尊王ですので、幕府中心の体制にとっては反動勢力となります。一方の井伊直弼は開国派です。独断で日米和親条約、そして日米修好通商条約を締結しました。当時の米国には日本侵略の余裕はなく、基幹産業であった捕鯨産業のためにクジラが回遊するルートに近い伊豆下田を捕鯨船の補給基地として真っ先に開港を迫ったものという事情を見抜いていました。

安政の大獄の最大の争点は将軍お世継ぎ問題です。討幕派の水戸から慶喜を将軍に据えようとする王政復古派と、普通に徳川家の存続を図る紀州家から徳川将軍を出そうとする開国派の井伊直弼の戦いです。

(黒船 +6年) 討幕派拠点、長崎海軍伝習所閉鎖 

徳川海軍創設のために創立した海軍伝習所が何のことはない討幕派の拠点となり、オランダの工作員が指導をしている、井伊直弼は伝習所閉鎖を命じます。当時、阿片戦争で猛威を振るい、日本にも艦隊を派遣し陸戦隊で上陸戦をかけてくる可能性があるのは英国だけです。クリミア戦争で総動員体制の露仏はそんな戦力をさけません。そこで徳川海軍および新設された騎兵銃隊を主力とする陸軍の指南役としてフランス軍人と顧問契約を締結します。

(黒船 +7年) 桜田門外の変 

水戸浪士を中心に島津家浪士を加えた一団が井伊直弼を暗殺、ここに徳川本家において討幕派の慶喜の将軍就任を拒める勢力は消滅します。島津家や福井松平家の当主の方が、家康公の血を引く誰かと血縁があり、徳川本家家臣団よりよほど影響力があるわけです。ましてや大奥のトップに篤姫を送り込んだ島津家は圧倒的な影響力を持ちます。15代将軍慶喜誕生と徳川崩壊は時間の問題となりました。後は、14代将軍、さらに将軍と気脈を通じる攘夷派の天皇がこの世から消え、次期天皇候補の血統を抱える長州を討幕派に巻き込むことです。 もう一つやるべきことは、英東洋艦隊を招き入れ、その活動資金を幕府から拠出させることです。そのため生麦事件が勃発します。

(黒船+10年) 真打ち英東洋艦隊登場し薩英戦争、島津家領内の意志統一

攘夷というから英国人を切り捨てたんだ、と。薩摩示現流の使い手により生麦事件が起こります。待ってました、と英東洋艦隊が大挙押し寄せ、島津家領内に猛烈な艦砲射撃を加えます。神風吹く台風の中、陸上砲台から砲撃する島津側も善戦はしますが、街の一部を焼かれた島津家領民は英艦隊の圧倒的な火力の威力を見せ付けられます。それまでは殿様と一部エリート諜報部員や密輸部隊が暗躍していただけの島津家は大規模な兵力を動員したわけではありません。薩英戦争によって上から下まで、英国艦隊の軍事力に対する畏怖の念から敵にするよりバックにつけるという方針が受け容れられ、総動員による討幕戦の方向へ領内の意志統一が浸透します。そして賠償金は徳川家に払わせます。これで英艦隊は俄かに日本近海での軍事行動を活発化させます。徳川家は立替えた、という建前でしたが島津家は徳川家への返済を踏み倒します。徳川家も英艦隊に払う賠償金となるとポンドで用意する必要があり、これは英国の銀行から借り入れます。既に徳川家も英国戦略の手の平の上を転がっていたのです。

(黒船+11年) 神戸海軍操練所開設 福井松平家大規模投資 討幕派の一大拠点

英東洋艦隊は兵庫港の開港を要求し、大阪湾に居座ります。当時、兵庫に大きな港はありません。英東洋艦隊の目的は徳川の大阪城と、砲弾は届きませんが陸戦隊が2〜3日で突入できる距離にある京の都にいる攘夷派の天皇への威嚇です。 そこへ勝海舟が動き、神戸海軍操練所を開設させ、徳川家からの投資以上に、福井松平家からの投資を招き入れます。グラバーとの絹の貿易で儲けた資金を次は英国が開港を要求する港を作るために投じたのです。周辺施設への莫大な投資が続き、今日の国際貿易港神戸の礎が築かれます。この港で外航船と艀の間で荷を積み下ろしする甲仲士と艀と桟橋の間で荷を積み下ろしする乙仲士が生まれ国外とのやり取りの現場業務ですので表向きでない取引にはうってつけです。この組織が多いにご発展され今日でもあまり合法的ではないお仕事をされる最大の組織としてご活動されています。ちなみに港での麻薬密貿易を取り締まる凶悪犯罪専門組織が今日の厚生労働省の中核となり今もそのままの名前の部署が実在しています。操練所には勝海舟の他、坂本龍馬も集い、やはり全国から討幕派の活動家が集結します。 長崎に続いてまたか、と徳川家は勝海舟を問い詰めますが、各地のテロ活動が一気に燃え上がり、次々に事件が起こり、操練所は翌年には閉鎖されます。

卒業生らが禁門の変に参加、翌年操練所閉鎖、責任者の勝海舟罷免

操練所ができてほどなく禁門の変(蛤御紋の変)が勃発、これに操練所練習生が参加したため大問題になります。そもそも御所に砲弾を撃ち込んだのですから、長州に対する征伐論が沸き起こります。

高杉晋作ら奇兵隊、外国船砲撃、馬韓戦争により英軍が長州領一部占領

松下村塾の塾生の多くが討死した禁門の変とは別働隊として行動した高杉晋作ら奇兵隊は、天皇も幕府も攘夷って言うんだから、と外国船を砲撃します。前年に活動資金を得た英東洋艦隊を大挙呼び寄せることになります。直ちに馬関戦争となり長州軍は惨敗、英東洋艦隊は陸戦隊を上陸させ一部領土を占領、砲台を破壊、資産の没収、更に婦女子への暴行など彼らのやり方、「恐怖を植え付け、言うことを聞かせる」基本行動を取ります。

グラバーが英国留学させた伊藤博文・井上門多を英軍が長州へ送る

長州は窮地に陥ったというより当然そうなるべくそうなったのですが。英国側は艦隊を送り込むタイミングに合わせて伊藤博文と井上門多を長州に送り込みます。元々、グラバーがロンドンへ留学させていたものでした。もちろん、留学資金はポンドでしっかりと払わせます。相手をとことん利用して国を乗っ取る手先として使うためにでも費用は相手に払わせる、これが英国紳士の流儀です。恰好のタイミングで帰国した(英国が送り込んだのですが)両名を長州では通訳として起用、彼らは英国が高杉晋作を出せと言ってると伝えます。高杉晋作はただ一方的に英艦隊側の要求を受け入れたと記録にありますが、歴史小説では長州を救った英雄として描かれています。賠償金は徳川家に払わせる、この土産を手に高杉晋作ら奇兵隊は防長二州領内での影響力を増す努力を尽くしますが、そう簡単にはいきません。最初から殿様が討幕派の当事者だった薩土肥や福井松平家と異なり、長州領内の意思統一には最も時間と手間がかかります。 第一次長州征伐では一部重臣の切腹となりますが、討幕派にとって反対派一掃までにはまだまだ戦いが続きます。ここはかなりのドラマ性がある物語となりますので、歴史小説の恰好のネタになります。歴史上は先をいく島津などが、はよこいや、と長州の準備が整うのを待っているのですが、歴史小説では長州の少数勢力だった奇兵隊らが領内の権力を掌握するプロセスを中心に描き、そこへ今ひとつ腰が重い薩摩を巻き込むようなストーリーになっています。そのため、薩長をつないだんだ、ということで武器商人坂本「龍馬」を英雄「竜馬」として美化する必要があったのです。

(黒船+13年) 第二次長州征伐 14代将軍・攘夷派の天皇急死 翌年解兵

奇兵隊による領内統一が進み、外国製の武器を坂本龍馬が業務代行するグラバー商会から購入した長州の寄せ集め軍団はかなりの戦闘力をもつレベルに成長しました。そこへ第二次長州征伐が始まりますが、ここで大活躍する長州新興勢力は完全に領内の実権を握ります。島津家は静観。徳川家が軍事力を見せつけ、長州を圧倒するはずが勝海舟率いる海軍は大島に居座り、全く動きません。対岸の高杉晋作率いる第二奇兵隊もまるで動きません。両軍が協力して田布施町に匿う南朝直系の貴種、つまり次期天皇候補を護っていたという説があります。毛利家は代々、足利将軍や三条家など、時勢によっては天下人となる血筋でありながら反主流派に貶められ、都落ちする貴種を匿う習性があります。田布施町は代々、毛利家に仕える忍者の家系である伊藤家の本拠地があり、暗殺を本職とする博文が初代総理大臣に就任しています。自身が暗殺された際のヒットマンが残した罪状告発の条、第一は「自ら天皇を暗殺した罪」とあります。田布施町出身の総理大臣は他にも二人。岸伸介と佐藤栄作です。日本を代表する3人の首相を輩出した小さな町。 この町の出身ではありませんが、岸伸介氏と佐藤栄作両氏を大叔父とするのが現職の総理大臣です。なお資金の出どころ福井松平家家臣であった吉田健三氏(ジャーディンマセソン商会横浜支店長)の養子である吉田茂氏は戦後の首相となりますがその奥さんは大久保利通の孫、親族・血縁を辿ると麻生太郎氏(明治天皇とも直系ではありませんが血縁があります)、鈴木善幸氏らとも血縁があり、少し横にすべる遠縁となりますが岸信介氏や佐藤栄作氏とも血縁があります。藤原摂家直系の細川護熙氏らも血縁でつながっています。

第二次長州征伐は討幕派の罠であり、乗ってはならない、とする反対意見を押し切り、大阪まで出陣した第14代将軍本人と将軍と気脈を通じる時の天皇は相次いで謎の変死を遂げ、ここにほぼ完全に討幕将軍慶喜誕生の期が熟します。なお、この時期の伊藤博文は天皇を暗殺できるような位置にはいません。結局、長州征伐は討幕派統一に力を貸しただけに終わり、翌年、解兵となります。

(黒船+15年) 第15代将軍慶喜、島津軍陣地へ攻撃命令、鳥羽伏見の戦い勃発

主だった敵が消え失せた状況で慶喜が将軍に就任するや1年ほどの間に徳川解体が一気に進みます。禿鷹ファンドの辣腕ファンドマネージャーの如く、徳川の主要資産を次々に新政府軍に譲渡します。

明治政府の正体

新政府誕生後、政権の中枢を握る要人の大半が岩倉具視使節団に随行し、米英に長期滞在し、みっちりと「教育」を受けます。フルベッキは数百人のエリートを自身が卒業した米国のビジネススクールに送り込み、日本の官僚の人材を揃えます。南朝復興を旗印に大同団結した討幕結社だったはずが、当の天皇は国会での「南朝が正統」発言など、本人が南朝と考えなければ辻褄が合わない言動を繰り返しますが、表向きは北朝の天皇ということになっています。真相を知るはずの長崎海軍伝習所時代からの同士はほぼ互いに暗殺合戦で倒れ、生きのこった者はわずかです。 ISやタリバンも真っ青の残虐なテロ行為を繰り返していた志士たちは新政府の要人となるや日本の伝統の破壊に躍起になります。廃仏毀釈令をまともに実行していれば法隆寺や四天王、また実際に潰される寸前だった姫路城を始め、日本の伝統的な建造物は一つも残らなかったでしょう。日本の民衆は新政府に猛反発し、多くの伝統遺産は守られました。廃仏毀釈もまた、ISやタリバンがシリアの数千年の歴史を誇るパルミラ神殿や洞窟の大仏を破壊したのと同じ行動原理に基くものです。 日本語も徹底して改造されます。 卑弥呼は「ふぃヴぃぃくぅぁぉ」というような発音だったのですが、これが「ヒミコ」に変えられます。 日本人の精神を骨抜きにするため、言葉と音、歴史の改竄が断行され、男女の自由な交わりにも恥ずかしいものとの決めつけが行われ混浴にも規制がかかります。 多民族国家日本における少数民族は無きものとされ単一民族国家ということにされ、今日アイヌ民族のみが国会でも存在を認められた少数民族ですが、それ以外、サンカ、隼人ら、数々の民族は歴史から消されたままです。 要するに文化大革命が断行されたのです。

列強は直接支配による植民地化のかわりに間接支配の手法を取りましたが、まず器用な日本人には高品質な絹製品など、世界市場で高く売って儲かる特産品の量産を要求します。過酷な労働を嫌う一般民衆から労働者のなり手がでてこず、権力階層が列強のご意向に応えるべく自分たちの娘を指し出します。富岡製紙工場の女工哀史はこうして生まれました。表面的には植民地化を逃れたようにみえても、植民地に課される過酷な重労働を強いられ、こうして生産された特産品の交易により英国商人が莫大な富を得たのです。

日本は短期間で富国強兵を実現した。それはそうですし、日本人は有能であったことは事実であり、何といっても超大国ロシアと戦い、当時の戦争の定義からすれば賠償金を取れなかったので「引き分け」なのですが、戦闘には次々に勝利を収めました。 旅順港陥落、ロシア太平洋艦隊全滅、パルチック・黒海連合艦隊全滅、奉天大会戦での大勝利等、アジア人が世界第一位の陸軍国と真っ向正面勝負の大会戦で勝ち、要塞戦でも勝ち、世界第二位の海軍と艦隊決戦で圧倒的勝利を得たことは、全アジア・アフリカの人々にとっては狂喜乱舞の大フィーバーとなったとされています。 と言っても内情は。 大国ロシアと闘う戦費22億円(国家予算は8800万円)はウォール街の大物ヤコブ・シッフに全額引き受けてもらいます。高橋是清がロンドンへ向かい、ヨーロッパの大資本家の米国での代理店であるクーンローエブ商会の代表者シッフと会い、一発で戦費を賄ってもらいました。この資金で英国製の兵器などを購入するのですが、バルチック艦隊を撃破した連合艦隊の艦艇はほぼ英国製です。何のことはない、戦争債を引き受けて払った金は、自分たちが株主であるヴィッカース社などが製造する兵器代金としてぐるぐる回っているのです。 結局、列強の資金で列強の兵器を買って、それで日本人が血を流して戦争をやったわけです。日本政府発行の戦争債を引き受けたシッフは他の投資家にも転売します。過半を買ったのがハリマン氏です。鉄道財閥であるハリマン氏は当然、満州鉄道の利権を要求しますが、日本政府が断り、大きな禍根を残し第二次大戦への伏線となります。ハリマン家の支配人、つまり雇われ経営者を代々務めたのがブッシュ家です。親子二代、米国大統領となったブッシュ家です。選挙資金はハリマン家からの寄附、選挙対策委員長もハリマン氏です。ハリマン家は石油財閥と世界初の持ち株会社サザンインプルーブメント社を設立、一夜にして鉄道・石油連合財閥が誕生し、自社石油の輸送費は半額、他社石油の輸送費は倍増とします。この突然の奇襲にライバルは倒れ、世界の石油ビジネスを独占するスタンダードオイルが誕生します。

米国の御家の事情

米国は南北戦争で忙しく、ペリーやハリスも南軍との海戦で有名を馳せた提督です。当時、米国では捕鯨事業が基幹産業となっていました。「油」の主たる供給源だったのです。クジラを片っ端から捕まえては、ぶった切りにしてぐつぐつとお湯で煮て浮いてきた油をすくいます。あとは捨ててしまいます。小笠原群島はクジラの十字路であり、捕鯨船が立ち寄っていました。そのまま放置すると米国領となっているところでした。これは徳川家が奪回します。クジラの回遊ルートに近い伊豆下田の開港を迫ったのは日本占領への序曲というより、基幹産業のために寄港地を確保するのが目的でした。ところが、折しも石油産業が勃興し、更に大豆の搾油による食用油の量産も広がり、捕鯨産業は急速に萎んでいきます。米国にとっては日本進出はとりあえず先延ばしとなります。

南北戦争は産業構造の転換によって勃発しました。南部では黒人奴隷を使って綿花を栽培し、これを英国へ輸出し、英国では機械によって綿糸を紡ぎます。勃興してきた北部の五大湖周辺の機械産業が労働力を求めるようになります。当初、劣勢だった北軍は機械力に物を言わせ、最後は南軍を圧倒します。そしてミシシッピ川を利用して南部から黒人奴隷を吸い上げ北部工業地帯へと移住させます。ちなみにエイブラハムリンカーンは、若いころ、ミシシッピ川で輸送船を操船し、荷物や奴隷を運んでいました。 北部工業地帯の興隆に伴い石油産業が大量の燃料を供給します。ところが、黒人奴隷は農業には向いていても、工場労働には余り向いていないという評価になっていきます。農場での作業は必ずしも迅速な作業効率を要求するものではなく、むしろなるべくコストをかけずに季節の変動に合わせて作物が育つのを手助けするというもので、動かしようのない時間に遅れなければいいのです。ひたすら作業効率を求める必要はありません。 むしろ可能な限り自給自足で必要経費を抑え、黒人奴隷自体も交配所で「生産」されていました。都市に住む工場労働者とは生活スタイルも仕事のやり方もかなり異なります。 俄然、精力を伸ばしてきたのがデラノ財閥です。

工場労働向きの中国人苦(クーリー)を大量に北部工業地帯へ送り込みます。デラノ財閥が大統領として送り込んだセオドア・ルーズベルトは日露戦争の調停役を買ってでますが、なぜ日本とロシアの戦争に米国大統領がでてくるのか。日本の戦争債を引き受けたのは英国投資家ですが引き受けた戦争債を主に販売した相手は米国の名だたる財閥であり満州鉄道の利権に興味をもつ勢力です。日本が戦争債を償還できなければ最大債権者として徹底して利権を要求できますので、日本がロシアから償還原資となる賠償金をとれなくする、これが米国側のご都合なわけです。 その後時間が経過し、米国北部工業地帯は世界を圧倒する巨大工業地帯となり、労働者を送り込む人身売買事業も巨大化しました。次の策は中国にコピー工場をたて、中国人をこき使って物を作らせることです。そこでデラノ財閥はフランクリン・デラノ・ルーズベルトを大統領に送りくこみます。中国での利権譲渡を日本に要求するハルノートをつきつけ、金で雇った中国人の軍隊「国民党軍」と米国軍をみかけ上退役させて給与はそのまま米国が払い続けた「民間ボランティア団体」フライングタイガー戦闘機部隊を送り込み無理やりでも日本を全面戦争にひきずりこむ手もうっていました。中国を米国のための工場にする(北部工業地帯は失業の嵐となりますが、そんなことは気にしない人たちです)これがうまくいくなら日本人は不要になるので原子爆弾を大量投入して抹殺する、そうしたプランによって太平洋戦争への仕掛けを始めます。相棒はフィリピン植民地の利権を握るマッカーサー一族の長、ダグラス・マッカーサーです。この将軍も当初は、日本人は原子爆弾数十発を落として抹殺すればいいという意見でした。彼らの先祖はインディオを徹底して研究し、何をやっても精神を失わないという結論に達し、抹殺することを決めました。実際に、おとなしいナバホ族以外はほとんどこの世から消えます。馬がいなかった北米に騎馬隊を持ち込み、圧倒的な機動力でバッファローを虐殺しました。中西部のインディオはバッファローの肉を食べ、乳をのみ、皮や骨、糞までも利用して生活の糧にしていたのでこれを全滅させればインディオも滅ぶという発想です。こういう連中ですから、他の民族は、利用できるなら利用する、できないなら抹殺です。 日本人は精神性は抜群に高いが外来文化に寛容なのでうまく骨抜きにでき、工場労働者として物を作らせればいい、という一派と、いや中国人をつかえばいいというルーズベルト派が対立したまま太平洋戦争へ突入します。日本は明治維新によって植民地化を逃れたのではありません。どういう形で利用するのか結論を先延ばしにされただけです。沖縄戦が終われば、マッカーサーは上海へ侵攻し、中国を植民地化する予定でした。ところが沖縄戦の最中にルーズベルトが急死し、対日戦略も見直され、上海侵攻も延期されます。ルーズベルトは原爆投下の正式な意思決定前に急逝し、突然、重責を担わされた副大統領だったトルーマン大統領は強引に原爆投下の承認をさせられますが、広島、小倉へ向かった爆撃機が、実際には広島、長崎に投下後、3発目以降の投下を明確に拒絶します。 日本はぎりぎりのところで最悪の事態はまぬかれたのです。2発は投下されてしまいましたが。。。
https://www.lymphocyte-bank.co.jp/blog/etcetera/%E8%A1%A8%E3%81%AB%E5%87%BA%E5%A7%8B%E3%82%81%E3%81%9F%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%80%80%EF%BD%9E%E7%B7%8F%E9%9B%86%E7%B7%A8/


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/742.html

[近代史3] イギリスが薩摩や長州を支援して徳川体制を倒した理由は日本人を使って中国内陸部を支配するためだった
イギリスが薩摩や長州を支援して徳川体制を倒した理由は日本人を使って中国内陸部を支配するためだった

大日本帝国は大英帝国を真似たもの
アジアを支配した東インド会社は世界最強の企業だった

東インド会社は世界と貿易するため、立ちふさがる者を倒し支配し奪った


画像引用:https://stat.ameba.jp/user_images/20171210/09/x109loa/d9/aa/g/o0538028914087955779.gif


アジアの資本主義は東インド会社から始まった

現在全世界の上場企業数は約4万5000社で中小企業は2億社以上あると推測されています。

世界の総人口は70億人なので人類の35人に1人は社長という計算になります。

千年以上の歴史を持つ12社のうち9社が日本にあり、創業200年以上の世界5600社の約3100社は日本にあります。

日本の千年企業は大工や華道会、旅館、鋳物、仏具、和菓子屋など流行りすたりがなさそうな業種が並んでいます。

これらは店を構えたり職人が製造することで個人でも可能であり、一芸に秀でた人が代々相続している。

そうではなく現代の企業の始まりは東インド会社で、大航海時代に大成功した半面、アジアで悪行の限りを尽くしたことで知られている。


1581年にイギリスとトルコの間で貿易を行うためトルコ会社を創設し、83年にベネチアもトルコ貿易のためベニス会社を創設した。

1592年に両者が合併してレバント会社となり栄えたが、東インド会社など強力なライバルが登場し1825年解散した。

1595年にオランダはジャワ島に4隻の船団を派遣し、貿易会社を通さないアジア貿易を始めた。


危機感を強めた貿易商人たちはレバント会社よりさらに強力な東インド会社を創設し、エリザベス1世からアジア貿易独占の許可を得た。

欧州帝国主義は全盛期に入りつつあり、七つの海を支配し事実上アジアそのものも自分の所有物のように振舞っていた。

イギリス東インド会社はオランダ東インド会社とアジア貿易の所有権で対立し、通常はイギリスの方を東インド会社と呼ぶことが多い。


26万人の軍隊を持つ最強貿易企業

東インド会社の商売はもちろん貿易なのだが、当時は欧州からアジアへの航海が危険であり、海賊や荒くれものの職業でした。

相手が貿易を望まなかったりイギリスが望む条件に応じなければ、船員は軍隊に変身しお客様に襲い掛かります。

食べ物がなくなれば他国に上陸して勝手に食べ物を奪い、娯楽のために原住民をハンティングの対象にもしていました。


ただ当時のアジアはすでに欧州から大きく遅れていて、遅れていたから侵略され支配下に置かれました。

欧州から10周遅れくらいだったアジアに資本主義や近代の概念を持ち込んだのは皮肉にも支配者の東インド会社でした。

アジアの多くの国は侵略され支配されることで近代を学び、第二次大戦後にようやく本格的な資本主義時代を迎える事になる。


イギリスは産業革命によって経済発展したが同時にコスト上昇を招いて、織物工業でインドなどに負けていました。

するとイギリスはインドの織物職人の手を切り落とすよう命じ、ダッカの人口が10分の1程度に減少したと伝えられている(この話には異論もある)

東インド会社は特にインド周辺で大成功し、自らの軍隊でインドを占領し紅茶、香辛料、織物、贅沢品などの貿易を独占した。


この「貿易」は常にイギリスが望むルールで行われ、もしインド人が従わなければこの世から消えてもらうやり方だった。

大英帝国と東インド会社はスペイン、ポルトガル、オランダのライバルを圧倒し、あらゆる富を搾取した。


1588年に英仏海峡でイギリス海軍とスペイン無敵艦隊が会戦しイギリスが勝利したが、アジアの支配権も対立の要因だった。


1857年に起きたインドの反乱


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画像引用:https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/021/490/98/N000/000/000/130500946683516405367_indo-daihanran.jpg


カレーも東インド会社の遺産

スペインを倒したイギリスは1600年頃東インド会社を創設し、最盛期には26万人の軍隊をかかえイギリス貿易の半分を担っていた。

江戸時代に日本の平戸に居たのも東インド会社で、幕末まで日本貿易を行い薩長に兵器を提供したりした。

イギリス東インド会社はアジア諸国を次々に殖民地化し、キリスト教を布教し植民地帝国を広げた。


東インド会社が大成功した理由は強力なイギリス海軍や自前の軍隊を持っていたことだが、会社がもつ柔軟性によるところが大きい。

まず宣教師や牧師や商人が原住民と親しくなり、次に貿易商人が経済を支配し、最後に軍隊が相手国を支配する。

順番が逆な事もあるし、最初から軍隊が殴り込みを掛けることもあり、最終的に相手国を支配下に置く。


1850年後になると日本の明治維新やインドの反乱、フランスなどライバルの台頭で東インド会社のビジネスは困難になった。

イギリス海軍はもう無敵ではなく、アメリカ合衆国が驚異的な成長でイギリスの国際的地位を奪いつつあった。

1858年8月2日に東インド会社は保有資産すべてをイギリス国王に返還し事実上解散した。


日本ではカレーを初めて持ち込んだのが東インド会社とされ、香辛料を粉末化して簡単に調理できるよう商品にしたのも東インド会社だった。

調理方法が非常に簡単だったので幕末から明治にかけて大流行し、当時の著名人の多くがカレーを食べている。

ただ当時の日本では牛肉や豚肉は使わず、カエルの肉などが一般的だったようです。
http://www.thutmosev.com/archives/81103583.html

▲△▽▼


インドはロシアにとってもアメリカにとっても重要な国。アメリカ太平洋軍は2018年5月に名称をインド太平洋軍へ変更、インド洋から太平洋にかけての地域を統括して扱うようになった。太平洋の拠点は日本、インド洋の拠点はインド、ふたつをつなぐ役割をインドネシアが担うという。ディエゴ・ガルシア島も重要な役割を果たすことになる。

 ソ連が存在していた当時、インドはソ連、インドのライバルであるパキスタンは中国と結びついていたが、今、ロシアと中国は戦略的な同盟関係にあり、インドとパキスタンを接近させる力として働いている。


 アメリカと同じアングロ・サクソン系の国であるイギリスは19世紀からアジア大陸の東側を支配、略奪する拠点としてインドと日本を利用した。イギリスの後継国であるアメリカも同じだ。その戦略をまとめた理論をハルフォード・マッキンダーというイギリスの学者が1904年に発表している。今でもアメリカはこの戦略に基づいて動いているように見える。


 この理論はイギリス(アメリカ)が海洋を支配しているという前提で、ユーラシア大陸の周辺部を支配して内陸部、つまり中国やロシアを締め上げていくというもの。ヨーロッパの内陸国もターゲットだったのだが、ふたつの世界大戦で米英の支配下に入っている。NATOの役割のひとつはそのヨーロッパを支配することだ。


 フランスの大統領だったシャルル・ド・ゴールは1966年に自国軍をNATOの軍事機構から離脱させ、67年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出しているが、これはそうした事情を熟知していたからだろう。


 イギリスやアメリカの中国侵略が本格的に始まったのは19世紀のアヘン戦争からだが、イギリスが薩摩や長州を支援して徳川体制を倒して新体制を樹立、その新体制を支援した理由は中国の内陸部を支配するためだったようにしか思えない。


 そのアヘン戦争でイギリスが奪い取った地域のひとつが香港である。それ以来、ここはアジア侵略、麻薬取引、マネーロンダリングなどの拠点として利用されてきた。シティを中心とするタックス・ヘイブンのネットワークにも組み込まれている。


 明治時代、朝鮮はイギリスの侵略に加担しようとせず、日本の侵略を受けた。現在、朝鮮半島は北の朝鮮と南の韓国に分かれているが、朝鮮だけでなく韓国も中国やロシアに接近している。アメリカが朝鮮半島を支配することは難しい情勢だ。


 アメリカとしては日本支配を強めようとするだろうが、ボリス・エリツィン時代のロシア人と同じように、日本人は絞め殺されることになる。ロシアでは大多数の国民が貧困化、その一方で西側巨大資本の手先になった一部は巨万の富を手にしたわけだが、それこそが日本の「エリート」が望んでいることだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201909060000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/743.html

[文化2] ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン 中川隆
215. 中川隆[-15230] koaQ7Jey 2019年12月03日 19:36:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2297]
『生きづらさについて考える』 著・内田樹
書評・テレビ評2019年12月3日

 神戸女学院大学名誉教授である著者が、この数年間、新聞や雑誌に投稿したり、大学の学生たちに語った文章をまとめたもの。そのなかで多くの紙幅が割かれている日本の教育、とくに大学教育の現状について注目して読んでみた。

 「日本の大学教育の30年の失敗」を初めて特集したのは、米誌『フォーリン・アフェアーズ』2016年10月号だった。そこでは、日本の大学の論文数の減少(減少しているのは先進国の中で日本だけ)や、GDPに占める大学教育への支出(OECD諸国内で常に最下位)、研究の国際的評価の低下などをデータにもとづいて記述したうえで、とくに著しく欠けているものとして、「批評的思考」「創造力」「グローバルマインド(価値観も行動規範も違う世界の人人と協働する意欲)」をあげた。翌年の英誌『ネイチャー』も同様の特集を組んだ。

 当初、日本の政府・文科省も大手メディアもこれを黙殺した。研究者から声が上がり、ようやく昨年の科学技術白書がこれを認めたが、遅きに失している。

 日本の大学の学術的生産力の劇的低下は、大学の株式会社化の必然の帰結だ、と著者は断言する。国立大学の独立法人化、大学への公費支出の削減、終身雇用から任期制へ、PDCAサイクルによる評価活動などは、大学を普通の株式会社と同様の組織にするためのプログラムであった。

 その原理は、@トップに全権を集中し、独断専行する(教授会自治の否定)、Aトップの下す経営判断の適否は、マーケットに選ばれるかどうかで事後に評価される(市場原理主義)、B組織のメンバーはトップに同意する者が重用され、非協力的なものは排除される(イエスマンシップと縁故主義)である。大学の教育内容は、卒業生の買い手たる産業界から要請された「グローバル人材」の提供に偏ることになり、どんな理不尽な業務命令であろうが上司の指示には逆らわないというイエスマンシップを教え、「キャリア教育」は「お辞儀の角度」「業種別化粧の仕方」といったナンセンスなものに堕している。若い研究者たちは不安定な任期制の身分に置かれているため、プロジェクトのボスのやり方に疑問を挟めば失職のリスクをともなうことから、創造的な研究など生まれないし、それが論文捏造の温床にもなる。

 要するに株式会社は目先の利益至上主義であり、投資した分を短期でいかに回収するかで動いている。これを大学教育に持ち込んだために、大学教育は破綻した。なぜなら教育は商品の売買ではないからだ。著者は「教育事業の利益は、教育を受けた若者たちがやがて人間的な成熟を遂げて、共同体の次世代を支えるという仕方で未来において償還される。教育事業の受益者は教育を受ける個人ではなく、共同体の未来であり、それは50年、100年といったスパンで展開する仕組みなのだ」と強調している。

 「子どもは国の宝」というが、そこには現代とは比べものにならないほど発展した社会をつくってほしいという大人たちの願いが込められており、そうした新時代を切り開く創造的な世代を生み出すために教育という営みがある。次の世代をこの腐敗した社会に従順な、ひからびた「手軽な商品」にするためではない。

変わる韓国教育

 本書を読んで驚くのは、以上のような立場に立つ著者の著作が教育論を中心に十数冊韓国語訳されて、教育関係者に熱心な読者も多く、毎年韓国に講演旅行に行っていること、ここ3年ほどの招聘(へい)元は韓国の教育監だということだ。教育監とは、戦後直後の日本にあった公選制の教育委員会とでもいおうか。韓国では全国が17の教育区に分割され、それぞれの区での教育の責任者である教育監は数年前から住民投票で選ばれている。多くの教育区で教員出身の教育監が生まれ、できるだけ教員を管理しないで、現場の創意工夫に委ねる方針をとって成功しているという。

 「不当な支配に服する」よう強いられる日本とは真逆の方針だが、このなかで毎年著者が各地の教育監に正式に招かれ、多くの教員たちを前に講演している。韓国の教育といえば、詰め込み教育一辺倒、猛烈な受験地獄で、受験当日にはパトカーが遅れそうになった受験生を先導する……といった印象を持つ読者も多いと思うが、すでに過去のものだという。

 著者は、反共法のもと多くの人人がまともな裁判も受けずに長期投獄された時代を覚えている日本人なら、100万人デモが整然とおこなわれ朴槿恵大統領を退陣に追い込んだことに、もっと驚愕してよいはずだとのべている。韓国社会そのものが急速に変化している。今の日本の政治や文教政策が、いかに時代の流れからとり残された遅れたものであるかだ。

 今の日本を閉ざされた金魚鉢に例え、その金魚鉢の外の世界について学ぶこと、またこの金魚鉢がどういう時代的背景のもとで形づくられたか、そして時代の変化とともに必然的に壊れていかざるをえないかを学ぶこと、そのことこそ人文科学の使命だと新入生に訴えている文章は感動的だ。(毎日新聞出版発行、B6判・302ページ)
https://www.chosyu-journal.jp/review/14520
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html#c215

[文化2] ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン 中川隆
216. 中川隆[-15229] koaQ7Jey 2019年12月03日 19:38:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2296]

内田樹の研究室
街場の教育論 韓国語版序文 2019-12-03
http://blog.tatsuru.com/2019/12/03_1405.html


 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 このたび『街場の教育論』の韓国語版が出ることになりました。
 次々と僕の本を翻訳してくださっている朴東燮先生と、出版してくださっている韓国の出版社(今回はご縁の深いEdunietyからです)の皆さんに改めて感謝申し上げます。
 日韓関係はいま戦後最悪という状態にあります。外交関係は硬直したままですし、経済関係も冷却し、日本の観光産業を支えていた韓国からのツーリストも激減しました。一刻も早い日韓関係の修復と相互理解の進展を日韓両国とも多くの国民が願っているはずです。そういう状況下で、僕の本が翻訳、出版されることが日韓関係の改善にわずかでも寄与することができることを願っています。
 
 この本は「まえがき」「あとがき」に説明がありますように、2007年度(もうずいぶん昔のことです)の神戸女学院大学の授業を録音して、それをテープ起こししたものを添削した本です。
 その頃は教務部長という役職に就いていて、毎日のように会議に出て、業務に忙殺されていたので、本を書き下ろしている余裕がありませんでした。そこで窮余の一策、講義やゼミを録音して、それを文字起こししたものに加筆して「一丁上がり」という「一石二鳥システム」を採用することにしました。
 これがなかなかうまく行きまして、『街場の中国論』『街場のアメリカ論』『街場の文体論』『私家版・ユダヤ文化論』といった著作はどれも講義録を土台にしてできた本です。
 目の前にいる学生院生たちに話を聴いて、理解してもらわないという「待ったなし」の事情がありますので、こちらにも切迫感がある。聴いている学生たちが目をキラキラさせてくれれば「お、この話は受けているな」ということがわかるし、学生たちがばたばたと眠り出すと「このトピックは学生たちには切実なものではないんだ」ということがわかる。そういう双方向的なやりとりの中で作られた本ですから、書斎にこもって、ひとりでうんうん唸りながら書いている本よりも、だいぶ読みやすいものになっていたのではないかと思います。
 さいわい、この本は日本では好意的に迎えられ、いくつか書評にも取り上げられましたし、何より、多くの学校の先生たちに読んでもらいました。「読んで、ほっと安心しました」という感想を何人もの先生から頂きました。「学校でつらいことがあって、教師の仕事に迷いが出た時には、この本を取り出して、明日の活力を補給しました」という先生もおられました。そういう感想を頂いたことは僕にとってもたいへんうれしいことでした。

 いまの日本の教員たちと韓国の教員たちが置かれている環境がどれほど違うのか、僕にはよくわかりません。でも、僕の教育に関する書物が何冊も韓国語訳されていることから推して、「困っていること」については、いくつかの共通点があることは間違いないと思います。そして、おそらく両国の学校教育の最も重要な共通点は学校教育を市場原理に基づいて語る作法だと思います。
「学校教育を市場原理に基づいて語る」というのは、「マーケット」とか「ニーズ」とか「費用対効果」とか「組織マネジメント」とか「工程管理」とかいう工学的・マーケティング的な用語が教育について語るときに繰り返し口にされるということです。
 そういうのが流行りなんです。日本でも90年代からそういうふうになりました。21世紀に入って、さらにその傾向は強化されてきております。
「社会に出てすぐ役立つ知識や技術だけを教えろ」「人文科学的教養は実用的でないから教える必要がない」「学者ではなく、実務経験者を教員に登用して、社会の現実を学生たちに教えさせるべきだ」というような手荒な要求が財界や政治家たちからは次々と出されて来ますが、教育の現場それに対してなかなか有効な反論ができずにいます。
 でも、僕はそういう風潮を肯定的には評価できません。はっきり言って、「実用」とか「有用性」とか「生産性」というようなビジネス用語で教育を語って欲しくない。でも、まことに残念ながら、僕と意見をともにしてくれる人はいまの日本では少数派です。
「市場原理に基づいて」と上に書きましたけれど、もっと限定的に言うと、「工場での工業製品製造原理に基づいて」です。工場のラインで缶詰や自動車やコンピュータを製造することが産業の主要形態であったかなり昔のモデルに基づいて、いま学校教育は制度設計されています。
 正直言って、僕はその古さと非現実性にうんざりしているのです。
だって、もうそんな時代じゃないんですから。
 工場でものを作ることが産業の主要形態である時代はとうに過ぎてしまった。なのに、どうしていまだに「自称実務家」たちは「工場で缶詰を作る」ような気分で学校教育をしたがるのか、僕には理解できません。
 勘違いして欲しくないのですけれど、僕は「もうそんな時代じゃない」から、古典的な中枢的な工程管理を止めて、「いまふう」にしろと言っているわけじゃないんです。誤解しないで下さいね。学校教育もこれからはスタンドアロンのアクターたちが自由に離合集散してアドホックにプロジェクトを遂行するリゾーム的なネットワークにしろとか、そういう目がちかちかするような話をしているわけじゃないんです。そうじゃなくて、学校教育というのはもともと惰性の強いものなんだから、時代に合わせてころころ変えるとろくなことはないと申し上げているのです。
 社会のニーズなんかいいから、基本的なことだけをきちんとやればいい、と。なにしろ、学校の本質は人類史の黎明期からたぶんほとんど変わっていないはずだからです。
 学校の人類学的機能は要言すれば一つしかありません。
 それは「共同体の次世代の成員たちが生き延びてゆけるように、その成熟を支援すること」です。それに尽くされる。
 ですから、あらゆる教育事業は「これは子どもたちの生きる力を高めるのだろうか? 子どもたちの成熟を支援する役に立つのだろうか?」という問いを通じて、その適否を吟味する。それだけで十分です。それ以外のことは学校教育にとってはすべて副次的です。
 例えば、「子どもたちの相対的な優劣を競わせ、格付けを行うこと」は教育にとってとりわけ優先的な仕事ではないと僕は思います。子どもたち同士に優劣を競わせて、格付けを行ない、高いランクの子どもを厚遇し、低いランクの子どもを処罰するということが子どもたちの市民的成熟に資すると僕は思いません。僕の知る限り、「競争と格付け」が子どもたちを成熟させる、子どもたちの生きる力を高めるということを科学的に証明したエビデンスは存在しません。
 そんなエビデンスがあるわけない。科学的に実験しようと思ったら、子どもたち二つのグループに分けて、一方は「競争」を優先する環境に置き、一方は「成熟」を優先する環境において、20年くらい経年変化を見ないとわからないからです。でも、20年やってみて「あ、こちらのグループの教育は失敗したようです。みんな不幸になりました・・・」と言って済ませるわけにはゆかない。子どもは実験台にはできません。
 にもかかわらず、現在の学校では、限りある教育資源は「確実にリターンがあるところ」に傾斜配分すべきだという「選択と集中」理論があたかも科学的真理であるかのようにのさばっている。「すぐに金儲けにつながりそうな領域に金を投じ、なさそうなところには金を使わない。先行き役に立ちそうな子どもに手をかけて、できの悪いのは放っておく」というルールが教育現場を支配している。
 ここには「未来の共同体を担う次世代の若者たちの成熟を支援する」という配慮はかけらほどもありません。ゼロです。当然ながら、子どもたちを競争させ、厳密に格付けしても、それによって彼らが「賢い、まともな大人」になるということはありません。むしろ、競争的環境は彼らの成熟を阻むと僕は考えています。
 その理屈をちょっと噛み砕いてご説明します。
 同学齢集団の中で相対的に優位に立つためには二つ方法があります。一つは、自分の力を高めること。一つは、競争相手の力を弱めることです。問題が「相対的な優劣」である限り、この二つは同じことです。そして、「競争相手の力を弱める」ことのほうが圧倒的に費用対効果が高い。自分の競争相手たちをできるだけ無能で無力な人間にすればいいわけですから。
 やり方は無数にあります。
 努力している人の足を引っ張る、成熟した大人になろうとしている人に「かっこつけるな」とか「えらそうにするな」といやがらせを言う、個性的な人を「変だ」と言って排除し、迫害する。もっとシンプルにただ「大声を出して教室を走り回る」でも、ことあるごとに教師に食ってかかって、教師の尊厳を掘り崩すとか・・・やることはいっぱいあります。すべて「同学齢の競争相手の生きる力を減殺する」という目的にはかなっている。そして、現に子どもたちはそうやって日々クラスメートたちの生きる力を殺ぐべく努力しています。
 愚かなふるまいだと思うかも知れませんけれど、「短期的な自己利益の増大」という点だけを見れば、これは合理的なふるまいなのです。これで正しいんです。
 でも、そうやって閉ざされた集団内部での相対的優劣を競っている限り、集団の力はしだいに弱まってゆく。当然です。集団成員の全員が、お互いに「自分以外のメンバーが自分より学力が低く、自分よりメンタルが弱く、自分より未成熟であること」を願っているんですから。そんな集団が「強いもの」になるはずがない。
 それこそまさにいまの日本で起きていることです。
 日本社会では「いじめ」とか「パワハラ」とかいうことが社会問題になっています。
 よく僕のところにも取材が来ます。「いったい、どうしてこんなことが起きるのでしょう?」と訊かれます。「社会制度に瑕疵があるのでしょうか? もっと管理を強化すべきでしょうか? 処罰を厳格化すればいいのでしょうか?」いろいろと訊かれます。
 僕の答えは、「どんな病的な行動にも主観的な合理性はある」というものです。
「いじめ」も「パワハラ」も、自分と同じ集団に属するメンバーたちの生きる力を減殺させることを目的としています。これは集団が存続してゆく上ではきわめて有害なふるまいですが、集団内部的な競争においては、「いじめるもの」「ハラスメントするもの」に利益をもたらすふるまいです。集団として、長期的に見ると、自殺的なふるまいですが、個人として、短期的に見ると、自己利益を増大させる合理的な行為です。だから、そういう行為を人々は「努力」して行っているのです。別に邪心に衝き動かされているわけではなく、競争で相対的な優位に立つためには、競争相手の生きる力を殺ぐのが効果的だという経験則に従って行動しているのです。
 船底のあちこちに穴が空いて、漏水して沈みかけている船がありました。この船に乗り合わせた人たちが「水を汲み出す力」を基準にして乗員たちを格付けすることにしました。そして、水汲みの力の低いものについては、ご飯の量を減らしたり、寝かせなかったり、鞭で叩いたりして差別しました。そんなふうにいじめられた人たちは弱り切って、使い物にならなくなりました。そして、気がつくと、水を汲み出す人手が足りずに、船はぼこぼこと沈んでしまいました。おしまい。
 今の日本で起きているのはこんな感じのことです。
 国民個人の格付けに熱中しているうちに、国の力そのものが衰微してしまった。
 そのことに気がついていない。それは集団的に、長期的にものごとの適否を考えるという思考習慣が失われつつあるからです。
 それは日本だけではなく、いま全世界に広がった病態なのかも知れません。きっと韓国でも似たような現象は観察されているのではないでしょうか。
 ですから、僕からのご提案はごくシンプルなものです。
 学校教育は専一的に「子どもたちの成熟を支援する。子どもたちの生きる知恵と力を高める」ように営まれること。それだけです。
 もちろん、言ったからといってすぐに実現できるような話ではありません。
 でも、とりあえずはそこから始める。まだ答えは出さなくていいんです。とりあえずは問うだけで十分だと思います。

 僕からは以上です。
 両国の成熟した市民たちの対話を通じて、日韓両国の相互理解と連携がふたたび基礎づけられることを強く願っています。僕のこの願いに共感してくださる方が韓国の読者の中にもいてくださるとうれしいです。

2019年12月
内田樹
http://blog.tatsuru.com/2019/12/03_1405.html
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html#c216

[近代史3] 増村保造 兵隊やくざ (1965年 大映) 中川隆
5. 中川隆[-15234] koaQ7Jey 2019年12月03日 20:24:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2301]

大映「兵隊やくざ 殴り込み」- 現代劇 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6C37vKdNyAs


兵隊やくざ 殴り込み
1967年(S42)/大映京都/白黒/89分

監督:田中徳三
原作:有馬頼義
脚本:笠原良三、東條正年
撮影:武田千吉郎美術:下石坂成典
音楽:鏑木創

出演:勝新太郎、田村高廣、野川由美子、岩崎加根子、細川俊之、南道郎、安部徹、小松方正、丸井太郎、稲葉義男

凸凹コンビをよく思わない上官たちは暗号教育の名目で有田に転属を命じる。そんななか大宮は、若きエリート少尉と意気投合。彼の毅然とした正義漢ぶりに好感をもち、遺言をきいて軍旗奪回のため単身敵陣へ乗りこんでいく──。シリーズ第七作。ラストで日本はいよいよ終戦の時を迎える。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/738.html#c5

[昼休み54] 発電をすべて原子力にしなければ地球温暖化で地球の気温は250℃になる 中川隆
66. 中川隆[-15233] koaQ7Jey 2019年12月03日 22:54:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2300]

2019年12月03日
10年後に温暖化が限界を超え、今世紀中に地球に人間が住めなくなる

国連会議では10年後に地球温暖化は臨界点に達すると報告されている


画像引用:IPCC「1.5℃特別報告書」の全く不都合な真実 | RealCrazyClimate https://realcrazyclimate.wordpress.com/

地球の臨界点とは

地球の環境サイクルは温暖化がある段階を超えると加速度的に進み、もはや後戻りできなくなる。

現在は人間が温暖化ガス排出を制限したり、森林や自然を保護すれば後戻りできるが、次の段階では不可能になる。

ナショナルジオグラフィックの記事(地球が「臨界点」超える危険性、気候科学者が警鐘)によるとそれはわずか10年後にやってくる。



温暖化や環境破壊が不可逆的つまり回復や後戻りが不可能になる臨界点は、従来ずっと後の時代と考えられてきた。

だが最近の研究では地球はすでに臨界点を超えつつあり、もしかしたらもう超えたのかも知れない。

国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)によると、もう1度か2度地球の平均気温が上昇すると臨界点を超える。


気候変動の30の項目のうち、わずか1度の気温上昇で9つの項目で臨界点を超えつつあると報告された。

2030年時点の地球の気温上昇を1.5度に抑えるには、co2排出量を毎年7.6%減らす必要があるが、現実は増え続けている。

これは2030年までに地球の気候が確実に臨界点を超えるのを意味し、ホットハウス・アース(温室地球)状態になる。


ホットアースになると両極の氷は完全に溶けて海面は9mも上昇し、地球の平均気温はさらに上昇する。

2040年代には2000年代より夏の最高気温が10度近く上昇する地域もでてきて、赤道直下では人が住めなくなるでしょう。

アマゾンなどの森林は失われ多くの場所は砂漠化し、大気組成そのものが変化してしまう。

10年後に地球環境の大変化が始まる

不可逆的な環境破壊による温暖化とは、例えば北極海の氷が解けて海面が露出すると海が熱を吸収してさらに温暖化してしまう。


南極でも同じで一度地表が露出すると、もしかしたら数万年は氷で覆われることがなくなる。

凍土が露出すると地中に閉じ込められていた温暖化ガスが放出され、さらに温暖化してしまう。


大陸中心部は雨が降りにくく砂漠化しやすいが、一度砂漠化するとやはり数万年は緑地にならず周囲を砂漠化させる。

大陸沿岸部の緑地は残るがそこは人間がコンクリートで固めてしまうので、僅かな緑地がさらに少なくなる。

海の温度が僅かに上昇すると、深海に低温で固体の状態で閉じ込められていた温暖化ガスが大気中に放出され、さらに温暖化が進行する。


最近ブラジルのアマゾンでは毎年北海道の半分の面積が森林火災で焼失している。

アフリカでは毎年日本列島2個分の面積が森林火災で焼失していて、すべて人間による放火が原因とみられている。

放火する事で自分の土地を増やし、農地や開発地に変えて金儲けをするのが目的で、政府も焼失した跡地を開発して加担している。


これで森林が吸収するco2が減少し酸素供給量が減るので、また温暖化が進行してしまう。

こうした加速度的な環境破壊を止めるには、人類の人口を短期間で急激に減らすくらいしか方法が無い。

地球が破壊されると人間が住めなくなり急激な人口減少が始まるので、今のうちに減らした方が良いのかも知れません。
http://www.thutmosev.com/archives/81626269.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/140.html#c66

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