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2015年1月31日18時38分 〜
記事 [経世済民93] 大塚家具、ワンマン会長のパワハラの嵐 病気や退職する社員続出、イメージ悪化で死活問題(Business Journal)
大塚家具、ワンマン会長のパワハラの嵐 病気や退職する社員続出、イメージ悪化で死活問題
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20150131-00010004-biz_bj-nb
Business Journal 2015/1/31 17:00


 大塚家具は1月28日、昨年7月に社長を解任されたばかりの大塚久美子取締役(46)が再び社長に返り咲き、社長を解任した当の本人で久美子氏の実父・大塚勝久会長兼社長(71)は会長に専念する人事を発表した。両者とも代表権を持ったことから、経営体制をめぐる父娘の対立が「痛み分け」になったという見方が広がっている。
 
 だが、事態がこれで収束するかといえば、どうやら違う。「二頭体制で長続きするはずはない」と語るのは元社員だ。勝久氏は町の桐ダンス販売店から身を興し、一代で大塚家具を株式公開企業にまで育てた創業者。社内では超ワンマンで知られている。一方、娘の久美子氏は一橋大学を出て銀行に総合職として務めた才媛で、理論詰めの議論では勝久氏もかなわない。
 
 勝久氏は不祥事をきっかけにいったんは社長を久美子氏に譲ったものの、久美子氏のやる事なす事すべてが気にくわず、それが昨年7月の突然の社長解任につながったというのだ。「実の娘といえども俺に逆らえばクビ」というワンマン会長ぶりを社内に見せ付けることになったわけだ。その後、久美子氏側が反撃に出て今回の社長復帰となったのだが、そんなまったく反りの合わない2人が、ともに代表取締役に就いた。元社員によれば、「二人三脚など絶対にあり得ない」というのだ。

 実は、2人の対立が激しくなるにつれて、勝久氏のワンマンぶりは激しさを増していった。自分の言うことに逆らったり、久美子派と見なした幹部社員は、毎日のように激しい言葉の暴力に晒されるようになったという。そのパワハラぶりは半端ではなく、実際に心身症になったり、追い詰められて会社を去った人もいる。

 今でも社員はまったく勝久氏には逆らえない。久美子氏が社長に復帰したといっても、勝久氏が会長にとどまる限り、社員は会長の言うことを聞く。それぐらい会長を「恐れている」というのである。勝久氏が実質的に引退して社長である久美子氏が全権を握ったことが明らかにならなければ、社員は怖くて久美子氏の言うことを聞けない。再度久美子氏が失脚すれば、久美子氏に協力的だった社員がパワハラの対象になるのは明らかだからだ。

●久美子社長の心配

 久美子氏がしきりに「コーポレートガバナンス(企業統治)」と口にするのも、勝久氏のワンマンぶりに歯止めをかけないと、パワハラ問題の表面化によって大塚家具の信用が失墜しかねないと考えているからだ。パワハラで辞めた元社員が訴訟を起こしでもしたら、会社のイメージはガタ落ちである。消費者に直接商品を販売する会社にとって、イメージ悪化は死活問題になりかねない。

「娘を社長に戻したのだから、勝久会長は少なくとも代表権を返上して、権力移譲したことを社内に示すべきでしょう」(元社員)

 3月末に予定されている株主総会でどんな経営体制ができ上がるのか。注目を集めそうだ。
(文=編集部)


http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/359.html

コメント [政治・選挙・NHK179] 新基地建設強行で市民にケガ人続出! 直視すべき日本の民主主義の実態 辺野古レポート PART1(週プレNEWS) 赤かぶ
03. 2015年1月31日 18:38:18 : KzvqvqZdMU
地方の反乱は速やかに鎮圧するべきである。
首謀者を泳がしてはいけない。
治安維持法がなくなったのは悔やまれる。
 沖縄は軍事的要衝である。中国が略取しようと狙っている。
新聞や雑誌、物書きらに手を回して、巧妙に世論を誘導するであろう。
 沖縄県知事は特例とし、民選でなく官選もしくは勅撰によるべきである。

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/109.html#c3
コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
139. けろりん 2015年1月31日 18:40:07 : xfW5FN1G6ouU2 : pUn8Qsa3JU
新ネタだ/


後藤健二さんの嫁は城後輪子で東大卒JICA職員!
JOGOの理由が判明か(前妻との離婚原因・家族まとめ・画像あり)
2ch「再婚のとき婿養子?」「今現在戸籍上は城後健二なんだろ」

不明な点が多いが、家族についてこれまで出ている情報
後藤さんの両親は離婚して 
母石堂さんは再婚したため後藤さんと苗字が違う 
「城後」は後藤さんが婿養子に入った奥さんの家の苗字
仕事上旧姓の「後藤」を名乗っている 

実父:情報なし
実母:石堂順子(78)、後藤健二が3歳の時に離婚
義父:石堂行夫(78)
義母:情報なし
兄弟:兄と姉がいるとの情報もあるが名前は不明。

妻:城後倫子
子供:長女・次女(2)・長男(0)
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c139

コメント [カルト14] 安倍の中東訪問に脅迫をぶつけたイスラム国ですが、衆院選はスルー、バグも米英イも安倍もグルという事です。 小沢内閣待望論
02. 2015年1月31日 18:40:17 : BLqL2LUvlg
策が尽き
とりが安倍では
絵空エル
http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/139.html#c2
記事 [近代史02] 神輿の黙示録(2)(多民族国家日本の成立とイジメの発生)
三世紀前に日本列島に古墳が存在しなくて、その後、短期間に古墳が出現したということは、今までの「神」と「異なる神」の出現を示唆しています。
その古墳出現も時系列でみると、北九州から畿内へよりも、東北・北関東から畿内への流れのほうが古墳数が多いようです。それも、小古墳から巨大古墳への流れも、西からではなく、東から畿内への流れが多いようです。
そして、四世紀代の古墳に、馬具が埋葬されているということは、元々日本列島には「馬」が生息していなかったわけですから、四世紀に「馬と共存する部族」の出現を示唆しています。そして、その鉄製の馬具の出現は何を意味しているのでしょうか。
金属機器の歴史的流れは、紀元前三千年の西アジアでの青銅器発明から紀元前千四百年のヒッタイトでの鉄器発明への流れです。
時系列的には、日本列島には、先に青銅器が出現してから後、鉄器が後れて出現するのが道理です。それが、北九州・出雲・近畿地域の青銅器文化と時を同じくして、日本列島広域に鉄器が出現し、そして四世紀に東北・北関東に鉄製の馬具が出現するのです。これは、一体なにを意味しているのでしょうか。
それは、四世紀の東北・北関東に、朝鮮半島からだけではなく、ロシアステップロードから直接日本海沿岸からも、オリエントの鉄器文化が、馬を持った部族により日本列島各地にもたらされたことを示唆しているようです。
歴史上謎の部族が存在します。そのひとつに、イスラエル民族がいます。日本にも謎の部族がいます。それは、「秦氏」です。日本版イスラエル民族の「秦氏」とはどのような部族なのでしょうか。日本の古代史の謎を説く鍵のひとつは、その「秦氏」にあるようです。そして、その秦氏を知ることにより、「日本人とは何者か」のヒントが得られることでしょう。
異民族が対峙した時、言葉は強力な武器のひとつとなります。更に、言葉を固定できる文字を持っていることは、最強の武器となります。それは、言葉や文字を駆使することにより、イメージ操作ができるからです。
ひとの行動は、自分の意志で全てコントロールしているわけではありません。自分でコントロールできることは、自分で思うほど多くはありません。ひとの日常の行動は、遺伝子により刷り込まれている本能以外は、生得的な刷り込みにより創られたイメージ(幻想)によりコントロールされているのです。そのイメージは、そのひとの生育に携わったひと達から与えられた言葉や文字により創造されるのです。
ですから、敵対する相手を前にして、自民族の優位性を示し、それに対して、敵民族の劣位性を言葉や文字で示せば、自民族には良いイメージ創りとなり、それに対して、敵民族には悪いイメージの刷り込みができ、その結果、敵側の行動をコントロールできるわけです。
その戦術のひとつが、蔑称です。蘇我馬子・蝦夷・入鹿などの蔑称を、敵側(藤原氏)から付けられてしまえば、その人物が実際は偉大な大王だったとしても、人物像が矮小化してしまいます。このことを理解している民族は、全力で「歴史書」を創作するのです。
文字はイメージを固定します。多くの文字の中でも、「漢字」にはイメージを固定する呪縛性があるようです。例えば、「祀る」ということを表すには、「祭」と「穢」とで表現できます。「祭」は「歌や踊ることにより祀る」わけですが、「穢」は「犠牲を捧げることにより祀る」わけです。祀ることは同じであっても、「祭」と「穢」とは同じイメージではないでしょう。そうです、漢字には「貴賎」・「善悪」のイメージが元々潜んでいるのです。
例えば、「聖」という漢字の呪縛性は、「侵すべからず。正しいものである。」というイメージを与えます。だから、「聖」の漢字を使用した「ひと」や「もの」に対して、「疑うこと」はタブーとなるようです。例えば、「聖徳太子」や「聖書」などがそれです。「聖徳太子」のウソは、前節で述べましたので、ここでは「聖書」のウソについて考えてみましょう。
「旧約聖書」の物語を一度でも読んだことがあるひとは、異民族壊滅作戦の物語については、史実であってほしくない、と願わずにはいられないでしょう。では、旧約聖書の物語は本当に史実なのでしょうか。それに、消えたイスラエル十部族とユダヤ民族は、本当に同じ民族なのでしょうか。
紀元前十四世紀、鉄器文化を起した小アジアのヒッタイト帝国から、エジプトを目指す鍛冶集団がいました。その頃、エジプトでは、アメンホテプ4世(=イクナトン紀元前1377年〜紀元前1358年)が、独善的祭祀集団からの政治介入を逃れて、新都市アケトアテン造営のため、建設に携わる有能な職人を海外から招聘していたのです。
イクナトン王は、お妃をオリエントから迎いいれました。そのお妃は、オリエントで流行りの太陽神(ミトラ神)を信仰していたのです。その頃のエジプトでは、祭祀階級が勝手に神々を創造して王族や臣民をコントロールしていたので、イクナトン王は、その太陽神を唯一の神(アトン神)として、多神教を奉ずる祭祀階級を排除する宗教改革を強行したのです。そして、イクナトン王は、有能な外国人を高級官僚として迎い入れたため、祭祀階級だけではなく、元からの部下にも評判がよくなかったのです。
ヒッタイト帝国からの鍛冶集団は、その時勢に乗り高級官僚の地位まで上り詰めました。その鍛冶集団は「ヨセフ族」と呼ばれていました。
イクナトン王の強引な多神教から一神教への宗教改革は、不満分子を増加させていき、紀元前1358年まで持ちこたえるのが限度でした。そこで、イクナトン王の高級官僚のヨセフ族は、身の危険を感じてエジプトを脱出するわけです。(モーセの「出エジプト物語」は、それから約500年後のバビロニア幽囚後に創作されたものです。モーセの葦の揺り篭が河に流される物語は、古代メソポタミアのアッカドのサルゴン王(紀元前2350〜紀元前2294年)の物語にソックリです。それに、エジプト時代のヨセフ族は、日干しレンガを造る奴隷ではありません。古代エジプトでは、建築資材は「石」で、「日干しレンガ」は使いません。日干しレンガは、古代メソポタミアでの建築資材であるわけです。それに、古代エジプトではピラミッドや都市建設には、奴隷身分の者は参加できないのです。更に、モーセはいなかったことは、パトモス島のヨハネの黙示録の「666の謎」を解読したひとには、これ以上説明する必要はないでしょう。)
エジプトを脱出した頃には、部族が増えエフライム族とマナセ族の二部族となっていました。そして、イスラエルと呼ばれる地方に移り住むようになってから、その二部族はイスラエル民族と呼ばれるわけです。イスラエル民族は、元の鍛冶技術に加え、都市建設のテクノロジー、物流、労務管理、経理、会計記録、石物の建築技術(メーソン)、運河の掘削などの土木建築全般のノウハウをエジプトで修得していたのです。
シナイ半島を漂泊する鍛冶集団イスラエル民族に加わる部族が出現するのです。それがレビ族です。レビ族はイブリと呼ばれる漂泊する部族です。そのレビ族を加えたイスラエル民族は、エジプト軍が廃墟としたカナンの地に紀元前十一世紀に辿り着くのです。しかし、そのレビ族の祭祀アロンと結託したダビデによりの統一王国も、紀元前932年のソロモン王の死と伴に、イスラエル王国とユダ王国に分裂するわけです。元々、エフライム・マナセ族(太陽神アトン=ミトラ神)とレビ族(ヤハウェ)は異なる神を祀っていたわけですから、強力な統率者の存在がなければ、一緒に居られるはずはないでしょう。
イスラエル王国は多神教で、太陽神のシンボル牡牛やバアル神等を祀ったのに対し、ユダ王国は唯一神ヤハウェであるわけです。旧約聖書では、紀元前722年イスラエル王国がアッシリア帝国に敗れたのは、異教神を祀り、ヤハウェを祀らなかったからだと述べています。
イスラエル王国を飲み込んだアッシリア帝国も、紀元前625年にはメディア帝国に滅ぼされ、そのメディア帝国も紀元前550年に、アケメネス朝ペルシャ帝国に滅ぼされてしまうわけです。
石物建設の技術を持ち、そして、太陽神を信仰し漂泊する鍛冶集団のイスラエル民族は、アッシリア帝国、メディア帝国、そしてアケメネス朝ペルシャ帝国の砂漠に、その歴史と伴に消えてしまうわけです。
それらの帝国には、共通する神の存在がありました。それは、ミトラ神です。ミトラ神の起源は定かではありませんが、紀元前19世紀にオリエントで発明されたようです。考古学的証拠では、紀元前14世紀の古代ヒッタイト帝国の首都ボガズキョイ出土(1907年発掘)の条約文によりますと、印欧語族の一部がミトラ神を自らの宗教体系に取り入れていたようです。ミトラとは、「盟約」の意味を含み、崇高な光の世界を支配する陣営にあり、全てを見通す力を持ち、不正など世界の秩序を乱すあらゆる事柄に対する復讐者でもあるわけです。ですから、契約者はミトラ神に誓って契約を交わすわけです。この契約の履行を見守るミトラ神は、国際交易商人と伴に異教の世界に広がっていくわけです。
それがやがてオリエントの土着の宗教儀式を吸収して、太陽崇拝、牡牛を屠る祭儀、救世主思想、イニシエーションの密議(牛の肉を食べ、生血を飲むこと。)、七つの位階、占星術、そして火による密議(ゾロアスター教へ導出)などの儀式をおこなうミトラ教となっていくわけです。
そのような宗教環境のペルシャ帝国内を、エジプト時代から太陽神アトンを祀るイスラエル民族は流離うわけです。
一方のレビ族の末裔のユダ王国は、紀元前586年、バビロニア王国に滅ぼされてしまうわけです。そして、ユダヤ民族は、バビロニア王国で幽囚されてしまうわけです。そのバビロニア王国も、紀元前538年、ペルシャ帝国に滅ぼされてしまうわけです。この時代を前後して、レビ族の末裔は、「モーセ五書」の創作にとりかかるわけです。
約50年後に戻った時のカナンの地は、既に異民族が住んでいました。そこで、幽囚中にカナンの地を占拠していた先住民を追い出すために、神から授かった「旧約聖書」を改竄するわけです。その目的のひとつの、カナンの地の先住民を追い出すための「ヨベルの年」等の法律を、唯一神ヤハウェがユダヤ民族に与えたことを立証するために発明されたのが、「神との契約者=モーセ」というわけです。
紀元前6世紀のペルシャ帝国に、再び、ヨセフ族の末裔とレビ族の末裔が存在したわけですが、ヨセフ族の末裔のイスラエル十部族のその後は定かではありません。しかし、レビ族の末裔は紀元前515年、エルサレム寺院を再建するわけです。それが、今に続くユダヤ民族です。
では、日本版イスラエル民族の「秦氏」は、どのようにして日本列島に辿り着いたのでしょうか。
時代は飛んで、官軍の砲撃が迫った慶応三年の江戸は浅草新町の屋敷に、薩摩藩の密使が訪れるのです。その屋敷には、長屋門(大名格の屋敷門)があり、その門には「丸に十の字」の紋がある提灯に灯りが入っていました。大玄関を入り数間を通り立派な床間を持した数十畳もある表座敷に、その屋敷の主人を前にして、筒袖のむさ苦しい髭面の大男が、「おまはんと島津家は同族ぞ。いにしえは秦氏ぞ。今こそ秦氏の恨みを晴らす倒幕ぞ。」と言うのです。
南九州で鎌倉時代から六百年も続く豪族の島津氏は、「島津」と名のる前は、惟宗氏(これむね)と名乗っていました。それは、鎌倉幕府を拓いた源頼朝により薩摩国島津荘の地頭職安堵により「島津氏」を名乗ったのが始まりです。その惟宗氏とは秦氏が平安時代に改名したものです。
その屋敷の主人の名は、弾左衛門、穢多を束ねる頭です。弾家の祖先は、鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼です。その昔、この族より秦左衛門尉武虎という武勇者が出、鎌倉の源頼朝に認められ、鎌倉長吏(警察業務をおこなう人。平安時代では、専門的な職能をもって、朝廷に使える集団構成員のうち、特に優れた者を長吏と言った。これが何故、江戸時代にアウトカーストになったのか。江戸時代に長吏は、穢多と蔑称された。)の頭領と成り、秦氏を弾氏と改めたのです。
薩摩の密使の言うことは事実でした。しかし、不思議です。江戸時代の身分制度の士農工商のカースト制度の中に入らない穢多頭の弾家が、そのカーストの最上級の士族と同族であることです。そして、その弾家は、昔は藤原氏(平安時代の貴族)を名乗っていたことです。
鎌倉幕府を拓いた源氏は、新羅系の末裔です。その新羅の先は、中央ユーラシアの「ペルシャ帝国」と、紀元前六世紀、騎馬戦車で戦った「スキタイ」の流れを汲む騎馬民族鮮卑の一部族の拓跋部の末裔「元氏」を先祖としていたようです。
その中央ユーラシアから東ユーラシアを疾走する騎馬部族の流れは、「ジンギスカン義経説」の人気を支える要因のひとつのようです。騎馬民族ジンギスカン軍も騎馬民族義経一族も、同じ「笹リンドウ」を部族のシンボルとして戦をおこなっていたからです。新羅系日本人のDNAには、モンゴルの草原が「フルサト」として刷り込まれているからでしょうか。
では、騎馬民族とはどのような民族なのでしょうか。でも、騎馬民族の歴史を知ることは困難です。それは、漂泊する民族の特性として、歴史書をもたないからです。ですから、農耕民族であるヘロドトス(紀元前484年〜紀元前425年)が書いた「ヒストリア」や農耕漢民族の司馬遷(紀元前145年〜紀元前86年)による「史記」を基に推測するか、あるいは遺跡や考古物を基に推測する以外に方法がないからです。
しかし、農耕民族が書き残した「ヒストリア」や「史記」では、騎馬民族を、凶暴・残虐・略奪の民族として蔑視する視線で書かれているため、それを差し引いて推測する必要があるようです。
農耕民族の漢民族は中華意識により、胡(トルコ系遊牧民族)等の漂泊民族に対して、東夷(夷とは弓と矢をつがえる人間の形象。)、西戎(戎とは鉞で森林を伐採する山岳狩猟民族を指す。)、南蛮(蛮とは蛇竜などを背中、身体に文身刺青をする海洋漁労民を指す。)、そして北狄(狄とは獣の皮を身につけている民族を指す。)などの蔑称をつけていたのです。
騎馬民族の必需動物の馬の出現は、牛ほど確かではありません。牛は、紀元前二千年には、信仰の対象(ミトラ神のシンボル)として崇められていたことが粘土板に記録されています。しかし、馬は、信仰の対象とならなかったからか、記録に現われるのはずっと後のようです。
馬が棲息していたのは、ステップ草原地帯です。ウクライナのデレイフカ遺跡出土の馬頭骨は、紀元前四千年と言われていますが、どうも信憑性に欠けるようです。
オリエント諸国に馬をもたらしたのは、カッシートなどの山地牧畜民のようです。そして、馬と戦車が結びついたのは、紀元前二千年のメソポタミアの北方のミタンニ王国のようです。そのミタンニ王国からヒッタイト帝国、アッシリア帝国そして紀元前六世紀にアケメネス朝ペルシャへ騎馬戦車が引き継がれていくわけです。そのペルシャ帝国に対峙するスキタイも騎馬戦車を駆使して中央ユーラシアを支配していたのです。
騎馬民族スキタイは、民族名ではなく、国家名です。ヘロドトスの「ヒストリア」によれば、スキタイ国は、農耕・通商・航海をおこなう都市居住民、商業風の農業経営民、純粋農業民、草原地帯に住む遊牧民、そして草原で天幕生活をする支配部族(鎌倉幕府の幕府とは天幕の意味。)を中心としての異部族の「かたまり」であるようです。
この騎馬民族のスキタイ国の国家運営方法は、商社主導の連合国家とも考えることができるようです。本社機能が草原の天幕にあり、農業や牧畜をおこなう生産支社が各地にあり、それらの支社を運営する支社長が現地部族長というわけです。
騎馬民族国家とは、別の見方では、生産に携わるのではなく、情報を操作して物流で稼ぐ国際商社とも考える事が出来るでしょう。支配民族に対して、軍事、警察、そして外交をおこなうことで、更に、囲郭のある都市を草原に造り、そこに技能者とくに平和時には農具などを造り、戦争時には武器が造れる鍛冶集団を、そして、異部族を統制するための、そして他民族国家の情報を収集させるための宗教者などを集めて住まわせ、そこを兵站基地として支配地域を拡大して行ったのです。
そのような商社機能を持った騎馬民族が、市場拡大のため、騎馬戦車などを武器として、他国を侵略するわけです。そこで当然、戦争も起こるわけです。しかし、戦争をおこなうのは最後の手段で、大抵は現地の部族長と婚姻関係を結んで支配地を拡大して行ったのです。そのためか、スキタイでは、騎馬戦車が幌馬車へ変身し、ひとや荷物を大量に早く運ぶものになっていくわけです。
この紀元前二千年オリエントで発明された騎馬戦車が、ユーラシアの草原を東に進み、紀元前十四世紀の殷商後期の遺跡から古代騎馬戦車が出土しているのです。
古代の世界は、現在のひと達が考えているより狭いのです。そのように考えられないのは、タクラマカン砂漠を駱駝の商隊が歩む、テレビ番組の「シルクロード」の刷り込みにあよるようです。
地球の北半球の大陸を、三層のケーキに譬えるなら、真中がオアシス国家などがある乾燥地帯で、その下が湿気の多い照葉・熱帯樹林地帯で、そして、一番上が草原・針葉樹林地帯です。その一番上のケーキがユーラシアの概念です。つまり、東は太平洋、そして西は大西洋までの地がユーラシア大陸なのです。
ヨーロッパから中国までの商業ルートは、その三層にそれぞれあるわけです。砂漠ルート、南洋海路ルート、そして草原ステップルートです。東西貿易ルートとしては、その三ルートがあるのに、何を意図してか、テレビ番組は定期的に「シルクロード」番組を制作・放映しているのです。
シルクロードは、前漢の武帝(紀元前141年〜紀元前87年)に開発されたのではなく、ドイツの地質・地理学者リヒトホーフェンが、十九世紀末に、西と東とは「絹の道」で繋がれていたらいいな、という思いで、「ザイデン・シュトラーゼ」と書いてしまったことに始まるのです。つまり、シルクロードは十九世紀末に発明された言葉なのです。(砂漠ルート「シルクロード」のオアシス国家は、元々匈奴(紀元前三世紀〜一世紀)が支配していたのを、前漢の武帝が、武力でそのオアシス国家を匈奴から略奪したにすぎません。このことを歴史書はシルクロードの始まりとしているのです。)
貿易は効率を大切にします。砂漠を何十ヶ月、或は何年もかけるよりも、海路で行けば、大量の荷物を傷つけずに短期間で運べます。草原ルートでしたら、海難事故もなく、馬車で短期間で運べます。冬にでもなれば、馬車そりを使えば、草原は高速道路に早や代わりします。
しかし、海洋民族も騎馬民族も、漂泊性のため、歴史書を持っておりませんから、そのような南海ルートや草原ルートは歴史書に記述されることもありません。
そのような、二つのルートからも、日本列島に歴史以前の時代から色々な部族や文化が流れ込んでくるわけです。
秦氏の末裔の島津氏や弾家を優遇した騎馬民族の鎌倉源氏も、元を正せば、その草原ルートからの渡来人であるわけです。その源氏に敗れた海洋民族の平氏も、南海ルートからの渡来人であるわけです。中国で言う「南船北馬」とはよくいったものです。
では、それらの異なる民族は、戦いの時、どのような識別方法を持っていたのでしょうか。その識別方法を知ることにより、その部族の出自を知るヒントが得られるでしょう。
源平時代の軍事部族は、白旗(源氏:ペルシャ→突厥→新羅)と赤旗(平氏:フェニキア→インド→百済)で敵味方を識別していました。それが、戦国時代になると、部族を表す「家紋」が突然現われるのです。その発祥地は何所かと言えば、それはオリエントからです。ですから、それらの家紋は、オリエント周辺の動植物や漂泊民族が崇拝する星月などを基にデザインされているのです。「十六花弁のキク」も、その源を正せば、オリエント(ペルシャ)原産であるわけです。戦国時代に突然現われた軍事部族のシンボルとしての「家紋」は、古代オリエントでの戦いに敗れた軍族や進駐軍の傭兵が、その部族のシンボルと伴に、砂漠ルート、南海ルート、そして草原ルートにより、歴史書以前から日本列島にもたらしていたのでしょう。
しかし、家紋はオリエント時代のままではなく、改造することもあったようです。その一例として、島津氏と弾家の家紋は、元は「丸」がなくて、ただの「十字」であったようです。この「十字」家紋は、何をシンボルとしていたのでしょうか。
秦氏は、四世紀の朝鮮半島に小さな国として誕生した新羅から、五世紀には、北九州に秦王国を築いていたようです。では、その北九州の秦王国を拓いた秦氏を先祖に持つ、島津氏と弾家、「士族と賎民」との差別は、一体どのようにして発生したのでしょうか。
その差別の謎を解くヒントは、北九州の秦王国と平安時代の大乗仏教との関係にあるようです。

「キサマ!それでも日本人か!」
「何所の馬の骨か分らぬ奴!」
「クダラヌ奴!」
平安の都で、罵声が飛び交っています。
罵声を浴びせているのは百済系日本人、浴びせられているのが新羅系日本人と秦人達です。
歴史教科書が言うように平安時代は、その漢字の意味とは異なり、実際は、藤原氏と百済系日本人以外には、「平安」ではなかったようです。この時代から「鬼」や「妖怪」が、日本国に出現するわけです。それは、822年に完成の、仏教宣伝パンフレット「日本霊異記」などで、仏教僧が妖怪物語を庶民にひろめた結果によるのです。では、鬼や妖怪の実態は何かといえば、それらは、朝廷にまつろわない漂泊民族や天を祀る道教士達であるわけです。
延暦十五年(796年)、平安遷都から二年目、桓武天皇は、風紀を乱すという名目で、「星祭」の禁令を発します。引き続き、その三年後の延暦十八年、京都近郷の百姓が、斎王(神を世話する巫女)が伊勢斎宮へ入御する日に、北辰を祀ってはならぬと厳しく通達を出しています。北辰(北極星)とは、道教の神で天武天皇が最も崇拝する星であるわけです。
その発令の裏で、桓武天皇は、延暦十六年(797年)、「斎内親王葛野川(桂川)に祓い、すなわち移りて野宮に入る」、とあるように伊勢斎王の潔斎所を死穢の地(墓地)に設けるわけです。平安時代では、大乗仏教思想により、死は穢れで、その穢れを葬る墓地は、穢れの最たる所であるわけです。
何故、桓武天皇は、伊勢神宮の聖所である潔斎所を、そのような穢れた場所にわざわざ設けなければならなかったのでしょうか。
そもそも、斎王派遣の制度を始めたのは、壬申の乱(672年)で百済系天智天皇の皇子(後の弘文天皇)を滅ぼした新羅系天武天皇からです。その天武天皇が始めた制度を否定したことは、その時点で、天武天皇系貴族の没落を意味しています。
更に、桓武天皇は、驚くべき事を、延暦四年(785年)に既に行っていたのです。それは、天神を交野(百済亡命貴族の居留地)の柏原に祀っていたからです。唐制の天神の祀りでは、遠い祖先の高祖あるいは太祖を置くのですが、桓武天皇は、日本書紀にある「天照大神」か「神武天皇」を置くべきところを、なんと父親の「百済系光仁天皇」を置いていたのです。これは、光仁天皇から「新しい王朝」が始まったことを公に主張していることになるわけです。
更に、平安時代から「天皇は男」でなければならないことになるのです。つまり、第四十八代称徳天皇(天武王朝)までは「女帝でも可」であったのが、平安時代から「天皇は男」のみとなるのです。それは、藤原氏の陰謀です。その意味は、大嘗祭(壬申の乱後、天武天皇が始めた、先帝から王権を引き継ぐ一世一代の再生儀式。天津神と国津神の聖婚。)を毎年行うことにより、天皇に聖婚させるための斎王(巫女。藤原氏の女)を捧げることができる為です。歴代の天皇の側室(場合によっては皇后となる。)に藤原氏の女が多くいるのはそのためです。
では、その百済系光仁天皇とその子供の桓武天皇は、どのようにして天皇になったのでしょうか。
桓武天皇の父白壁王(後の光仁天皇)は百済系皇族でしたが、無位の時代が長く続くのです。名もない百済系下級書記官の娘高野新笠を娶り、山部王(後の桓武天皇)が生まれた時に、白壁王は無官から、やっと従四位下に叙せられたばかりでした。この白壁王に目を付けたのが藤原式家の良継でした。藤原良継は、皇位継承権利者である天武天皇の血を引く井上皇后とその息子他戸(おさべ)皇太子を無実の罪で殺害し、白壁王を光仁天皇とするのです。
藤原氏は、藤原氏の基本戦略「夷を以って、夷を制す。」により、日本国乗っ取りの為、この百済系天皇親子(夷)を使い「ニッポン化計画」を実行に移すわけです。その戦略は、飛鳥時代の藤原不比等(天武天皇から左遷されたひと。)により計画されていたものです。それは、藤原氏が、神としての天皇を裏から直接コントロールすることにより、日本国の庶民を間接的にコントロールすることです。
それには、私権を公権にする「装置としての儀式」が必要です。そして、その公権に権威をつけるためには「歴史」(歴史書とは客観を装った主観的物語)が必要です。(藤原不比等は、そのために720年に「日本書紀」を創作していた。その呪縛は現在も健在。)
藤原氏は、儀式としての装置として、仏教(インド・バラモン僧によるヒンズー教化仏教の開発=公費留学僧・最澄の天台宗と聖徳太子の出現。私費留学僧・真言宗の空海は秦氏の末裔のため、桓武天皇から嫌われていたので、桓武天皇崩御まで京都を避けていた。)と神道(天武天皇崩御後、藤原氏と関係が深い中臣氏が開発した中臣神道で、伊勢神宮を支配。)を利用するのです。そのためには、飛鳥時代からの「道教」と「景教」は邪魔な存在です。更に、それらの神を祀る新羅系日本人と秦人も邪魔な存在です。そこで、新羅系日本人と秦人を政権中央から追い出すのです。そのための装置として、814年に「新撰姓氏録」を創作して、「皇・神・蕃(渡来人)」の序列を造り、貴族と賎民とを創り出すのです。(しかし、実際には「皇」も「神」も渡来人です。)勿論、藤原氏と百済系日本人は「皇」の貴種(貴族)となるのです。(ここから現在の皇族の歴史が始まる。)そして、道教の観は「神社」に、そして景教寺(十字寺)は「仏寺」に改造させるのです。(光仁・桓武天皇親子は、「道鏡事件」の主犯の和気清麻呂を使い、北九州の宇佐八幡を乗っ取り、その地の無数の仏閣を解体し、瀬戸内海から船で奈良・京都に運び、道観や景教寺を壊し、それらの地で秦王国の仏閣を組立てるわけです。その和気清麻呂が、桓武天皇に平安京(京都)遷都を進言するのです。)
景教とは秦氏の宗教です。景教の「景」とは、日の京を意味します。それは太陽を祀る国を目指す教えであるわけです。(早朝のお天道様を祀ること。)日本列島に無数に存在する景教の祀り所は、権力の目を誤魔化すために、「稲荷」(表向き「イナリ」と読ませる。)としてカモフラージュするわけです。その意味は、先祖を祀る「塚」つまり「ジュガ=つか」が、「稲(ジュ)荷(ガ)」、つまり「稲荷神社」となるわけです。そして、秦氏のトーテムの「狼」は「狐」に化けるわけです。
そして、秦一族は、権力からの弾圧を避けるため自ら出自を隠し、秦の氏名を、ニッポン名(中国式の一文字から、上・中・下・山・川・田などを加えて二文字にすること。)に替えるのです。それは、645年の蘇我王朝滅亡以降から始まるのです。
そして飛鳥時代の権力者、あの聖徳太子のブレーンと言われている秦氏の統領の秦河勝の墓(大阪・寝屋川に存在)も、秦氏の支配地だった京都(山城国)の地にはないのです。これは何を意味しているのでしょうか。
そして、その秦氏のニッポン名は、「ハタ・パタ」畑、端、畠、渡を基本として、羽田、波多、波蛇、八田、半田、矢田、秦野、畠山、畠田、畑川、波多野、畑中、八幡、服部、林、神保、宗、朝原、太秦、惟宗、田村、島津、長田、長蔵、辛島、小松、大蔵、三林、小宅、高尾、高橋、原、常、井出、赤染、大幡へと、時代の激変時(平安・鎌倉・戦国時代)に改名されていくのです。日本国における苗字の流れとしては、飛鳥・奈良時代:氏(うじ)=血縁・地縁名→姓(かばね)=家格名。平安時代:字名(あざな)=私有地名→名字(みょうじ)=家名と変化していくわけです。
では、その秦氏は、いつ何所から日本列島に渡来したというのでしょうか。新撰姓氏録では応神天皇十四年、融通王が百二十七県の百姓を率いて帰化、とあるようですが、その渡来時期は本当なのでしょうか。(言葉や文字は、「日本書紀」のように無限にウソをつくことができます。)
では、秦氏はいつ何所から渡来したというのでしょうか。本当のことは謎の中のようですが、教科書歴史が述べる朝鮮半島からだけの渡来とは異なり、ロシア草原ルートの北からの渡来もあったようです。秦氏は、新撰姓氏録が言うように、秦始皇帝の末裔どころか、もっと西の方から日本列島に長い時間を掛けて渡来してきたようです。
飛鳥時代以前(推古天皇以前)の歴史は、多人長(秦氏の末裔)が812年に創作した古事記の暗号が理解できなければ、藤原氏の陰謀策略(聖徳太子・中臣鎌足・大化の改新の創作による蘇我王朝の抹殺)により、殆ど分らないのが現状のようです。
いや違う、古代の歴史を知るには「日本書紀」があるではないか、と言っても、それは藤原不比等が720年にプロデュースし完成したもので、飛鳥時代の真実を語っているとは信じることはできません。
しかし、「書籍」は無限にウソをつくことが可能ですが、「自然」はウソをつくことがきません。
ひとは誰でも、仙人とは異なり、霞みを食べて生きていくことはできません。そこで、その部族が暮している自然環境に合わせて食生活を営むわけです。その異なる食生活により部族を分けるとすれば、三つです。農耕民部族、漁労採取民部族、そして牧畜民部族です。
そのような三種類の食生活により、日本列島渡来部族を時系列に眺めてみますと、縄文時代の漁労採取部族、弥生時代の農耕部族、そして古墳時代の牧畜部族が考えられるでしょう。
魚介類の渡来ルート特定は困難のようですが、野菜・穀類は可能です。それは、野菜や穀類は、野生植物とは異なり、ひとの世話なくしては育たないからです。
日本列島は、二つの文化圏に分けることが出来ます。それは、名古屋以南の照葉樹林文化圏と名古屋以北の落葉樹林文化圏です。それら二つの文化圏の植生は異なります。
オオムギは世界中で栽培されていますが、大きく分けると、二つに収束します。それは、東洋型(E型)と西洋型(W型)です。
E型の分布の流れは、チベット→ヒマラヤ高地→中国→日本列島中南部(名古屋以南)です。そして、W型の分布の流れは、ヨーロッパ→アフリカ北部→西アジア→インド平原→シベリア→満州→日本列島東北部(名古屋以北)です。
日本列島には昔から、出自の異なる二種類のオオムギが栽培されていたのです。それは、日本列島には、「南」と「北」の二つの渡来ルートがあったことを示唆しているようです。
その他の渡来穀物である、ソバ、ヒエ、アワ、イネ、野菜類のサトイモ、ヒョウタン、マクワウリは、弥生時代に華南から渡来したひと達(海洋民族)と伴に、日本列島照葉樹林文化圏に伝播したものです。
しかし、不思議なのは、中央アジア原産の野菜類が、京都の地(山城国)で栽培されているのです。それも、奈良時代以前からのようです。それらは、胡麻(ごま)、胡葱(ねぎ)、胡瓜(きゅうり)、そして人参です。(京都では金時ニンジンといわれている。漢民族はペルシャ渡来の物やひとには「胡」の漢字をつけて識別していた。)
馬の好物の人参は、肉の臭みを消すので、遊牧民族には好まれる野菜です。でも、中国大陸の農耕民の漢民族は人参を好まないため、中国では長く栽培されることはなかったようです。(現在は、西洋ニンジンを栽培している。)
その中央アジア原産の人参が京都の地で、奈良時代以前から栽培されていたことは、奈良時代以前から中央アジアから渡来して来た部族が暮らしていたことを示唆します。
そして、平安時代になると、そのキュウリ(胡瓜)は、ゲスな野菜に落されてしまうのです。(そのゲスのキュウリは、道教の水神の馴れの果て「カッパ=間の抜けた妖怪」の好物とされてしまうのです。これは手の込んだイジメである。)
そのキュウリは、祇園さんの「神紋」となっているのです。祇園さんは、牛頭天皇を祀ります。牛頭とは、氏神でもあるわけです。そして、山背国(桓武天皇は、その地が山に囲まれ要塞化していることで、「山城国」と名付けた。)を拓いた秦氏の氏寺の大秦寺(景教寺)は、魔多羅神による「牛祭り」を行っています。
平安時代初期には、山城国では氏神を祀るため、牛を犠牲にしていたことは、804年に牛の屠殺禁止令が出でいることで理解できるでしょう。
その祇園御霊会において「牛頭天皇の神輿」が、京都御所の近くに来ると、神輿違御幸(みこしたがえのみゆき)と称して、天皇や皇族達は、穢れを避けるため一時凌ぎに都から避難していました。つまり、「牛頭天皇の神輿」は、「穢れの神」「疫病神」であったわけです。これが後に、中臣神道の「清目(キヨメ)の思想」により、「お祓い」の儀式が開発されると、清目のために「水」や「塩」を「穢れた神輿」に撒くことになるわけです。
京都の先住民の氏神が、「穢れ神」であるのなら、その氏子も「穢れびと」であるわけです。その氏子達を、「何所のウマの骨」扱いをすることは、京都の貴族達(藤原氏・百済系日本人)は、先住民(秦人・新羅系日本人)の出自を、騎馬民族であることを知っていたからでしょう。
穢れ(インド・カースト思想)は、平安時代に、朝廷にまつろわない騎馬民族・漁労民族を貶める目的に、藤原氏が、庶民のためではなく鎮護国家の目的のため、「ヒンズー教化仏教=貴族仏教」と「中臣神道=貴族神道」を使い、貴族達に広めた思想です。
この穢れ思想は、平安末期になると、都の貴族が没落したため、貴族のスポンサーを失った仏教教団は武士団や庶民へ布教を広げたため、全国に広がっていくのです。つまり、日本国における民族的差別(イジメ)は、平安の京都から始まったのです。
しかし、その秦人が、西域から日本列島に渡来していなかったら、日本の文化・技術は萌芽しなかったでしょう。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/830.html

コメント [政治・選挙・NHK178] これが安倍内閣の悪行の数々である(simatyan2のブログ) 赤かぶ
19. 2015年1月31日 18:41:11 : NHaRCv2SeB
ただの犯罪者集団だな
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/839.html#c19
コメント [政治・選挙・NHK179] 2015-01-31 後藤夫人声明は安倍官邸と打ち合わせ済みだった。  山崎行太郎 赤かぶ
01. 2015年1月31日 18:41:59 : YxpFguEt7k
城後輪子氏はJICA職員だもんね…
城後氏が政府とつながっているなら、後藤氏も…という妄想が浮かびます。

そうなると後藤氏は湯川氏救出のための政府の密使だったのかな? 出で立ちも忍者っぽいしね(妄想です)。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/122.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK178] <問題発言>田母神氏を応援したデヴィ夫人「後藤健二さんには自決してほしい」「 関係諸国に大・大・大・大迷惑」 赤かぶ
51. 2015年1月31日 18:42:14 : RQpv2rjbfs
脳みそが筋肉で出来ている人たちには何を言っても無駄よ。

歴代自民党政権は悪党が揃っていたが、今ほど馬鹿が揃っていたことはない。デビやネトウヨと同じレベル、自民党も堕ちたもんだアメリカや中国、韓国に舐められるわけだ。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/892.html#c51

コメント [カルト14] 文春・横領や風俗経営と婿入り、韓国政府も解放要求、ダマスゴミは二人の背景とヒラ・マケ・ネタを報じるべきです。 小沢内閣待望論
11. 2015年1月31日 18:42:37 : 8XjgOh1p8Y
>>10. 2015年1月31日 15:30:27 : Ijcr6Qf0CI 様

最高!
http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/130.html#c11

コメント [政治・選挙・NHK178] 後藤さんの奥さんの節度を持った衝撃メッセージ!(ハイヒール女の痛快日記) 赤かぶ
13. はろー 2015年1月31日 18:43:26 : TdFHwK8PKxIPA : wzclDBy99c
リンコさんの文章は、誰にでもわかりやすい平易な表現で、必要最小限度の内容を誤解を招かないよう腐心、感情はおさえて淡々と書いています。確かに、節度を持ったメッセージだと私は思う。心中いかばかりかと思う。パイロットさんも、後藤さんも、無事に帰還してほしいです。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/918.html#c13
記事 [近代史02] 神輿の黙示録(3)(敗者の反撃:武士団と芸能民の発生)
戦国部将を三名あげなさいとの問いに、戦後教育を受けた日本人であるならば、即座に答えることができるでしょう。それらの部将とは、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康です。そして、それぞれのキャラクターも即座に答えることができるでしょう。それらは、織田信長は古い体制を壊す「革命家」、豊臣秀吉は下層階級から天下人となった「努力家」、そして、徳川家康は抜け目の無い「タヌキ親爺」となることでしょう。
教育という「刷り込み」とは恐ろしいものです。一度でも情報が刷り込まれてしまえば、その後、訂正することが非常に困難だからです。
では、それらの部将達は、戦国の昔からそのような評判を得ていたのでしょうか。それは違います。そのような部将達のキャラクターを創作したのは、実は、戦国末期からではなく、明治時代からなのです。
戦国時代末期には、織田信長と豊臣秀吉が敵対する非戦闘員の人民・婦女子に行ったことを調べれば、彼等が下層階級から憎まれていたことが理解できるでしょう。そのことを裏付ける根拠のひとつとして、織田信長と豊臣秀吉の遺骨がこの世にはないのです。
織田信長は、ユダヤ・キリスト教一派のイエズス会(右手に聖書、左手に銃を持つ教団。侵略目的地に病院設立→学校設立→交易代理人育成→軍事顧問招聘→軍隊侵攻→植民地化。インドとマカオの歴史の流れ。)のフロイス(織田信長と18回謁見した。1569年に謁見後の信長軍の軍備が充実した。特に銃。1575年三河長篠の戦いで信長軍鉄砲隊で武田勝頼を敗退さす。)の報告が事実とするならば、本能寺で「爆殺」されてしまったため遺骨が存在しないのです。織田信長の敵は、明智光秀だけではなかったのです。
豊臣秀吉は、法名「国泰祐松院殿霊山俊龍居士」があり、京都市の阿弥陀ヶ峰にある豊国廟に祀られているから遺骨があるのではないか、と思うかもしれません。しかし、そこにあるのは他人の遺骨らしいのです。始めは、秀吉の遺体は「平氏」としてミイラ状態で埋葬されたのです。その後、大阪夏の陣(1615年)で豊臣家が滅亡すると、その墓を、徳川家康が暴き、そのミイラを火葬にし、どこかに葬ってしまったのです。そして、代わりの遺骨が埋葬された山奥の人も通わぬ墓が、阿弥陀ヶ峰にあるわけです。
しかし、明治時代になると、立派な豊国神社が京都(百済系桓武王朝の都。廃墟寸前の御所は明治時代になると新装されて立派な御所となって今日に至。)に創建されるのです。
では何故、徳川家康が、そのようなことをしたのかを解くヒントは、織田信長も豊臣秀吉も、自称「平氏」を名乗っていたことです。ちなみに、徳川家康は「源氏」を名乗っていました。
と言うことは、慶長5年(1600年)の関が原の戦いとは、平氏(豊臣氏)と源氏(徳川氏)との「第二次源平合戦」とも考えることができるかもしれません。
それでは、日本国の軍事部族、「源氏」と「平氏」とは、どのようにして歴史上出現してきたのでしょうか。ではその前に、武士のおこりを歴史教科書では、どのように記述しているかをみてみましょう。

国司は新しい開墾地にも重い税をかけた。そこで、有力な農民などは国司との争いや、土地をめぐる争いに、武力を使うようになった。争いのときには、一族や下人とよばれる従者をひきいて戦った。これが武士のおこりである。やがて、武士は有力な豪族のもとに結集して、武士団をつくった。武士は、開拓がさかんで良馬の産地である東日本に、とくに多くなった。また、任期が終わった国司なども、そのまま地方に住みつき、各地の武士を家来として、勢力をのばした。武士団のなかで、とくに有力となったのが源氏と平氏であった。

教科書の記述によれば、「有力な農民など」が、武士の前身であるとのことです。では、その武士達は、どのような暮し向きをしていたのでしょうか。

武士は荘園や公領のなかの、土塀や堀をめぐらした屋敷に、武家屋敷といわれる建物を建てて住んでいた。屋敷のまわりに広い田畑をもち、ふだんは下人を使って耕作したり、近くの農民に小作させたりしていた。有力な武士は地頭や荘園の管理者として、荘園を管理し、自作する農民から年貢を取り立てて、荘園領主へ送った。
当時、武士の家は「弓馬の家」といわれた。武士は馬に乗り、弓を引いて一騎打ちの戦いをした。夫をなくした女主人は、武士団を統率もした。結婚しても生家の姓を名のり、その地位はかなり高かった。

政府公認の権威ある教科書の記述なので、武士のおこりの説明をすんなりと納得してしまいます。しかし、よく考えてみると可笑しなことが多々あるのです。
其1、国から派遣された国司に対して、農民が鍬や鋤などの農具を武器として互角に戦えるものなのでしょうか。
其2、何故、東日本が開拓がさかんで良馬の産地であったのでしょうか。
其3、何故、外から襲われることも無いのに、武士は屋敷を土塀や堀をめぐらしていたのでしょうか。
其4、農民が馬を飼育することは納得できても、乗馬しながら弓を引くことなどの高等技術は、どのようにして習得したのでしょうか。
其5、儒教思想を庶民管理に利用した大乗仏教支配の平安時代の「男尊女卑」の世界で、何故、武家の社会では「女尊」であったのでしょうか。
以上の、武士のおこりに対する疑問の答えを探すには、平安時代以前に戻らなくてはならないようです。
平安時代に出現した「武士」と「芸能民」との発祥は同じです。それは、武士のことを、「武芸者」ということからも理解できるでしょう。では、その両者の源(芸)とは何かと言えば、それは清目(キヨメ)です。では、その清目とは何のことなのでしょうか。
清目と言えば、すぐに思いつく事は、葬儀後の「塩」か「食事」のことでしょう。しかし、平安時代に発明された「清目」とは、個人的な葬儀に対してではなく、国家の鎮護(怨霊を、「犠牲」もしくは「舞踏」により祀ること。)を司る重大なことであるわけです。
では平安時代には何を清目たのでしょうか。それは、「敵神の怨霊」です。その原因は、平安時代を築く目的で、藤原氏や桓武天皇は、敵対する「道教の神」や「景教の神」を、ヒンズー教化仏教を道具として呪殺したからです。
更に、式家の藤原兄弟の良継と百川は、白壁王(後の光仁天皇)を天皇にする目的のために、その井上皇后と息子の他戸皇太子(天武天皇の血を継ぐ最後の皇太子)を謀略で殺害しています。そして、その光仁天皇の息子の桓武天皇は、実弟を無実の罪で殺害しているのです。これらのことは、旧約聖書によれば、ダビデの王権を祭祀アロンと結託して謀略により簒奪し、実兄弟を抹殺したソロモンと同じことが、時空を越えた平安時代に再現されたわけです。
古代の神は、「祟り」と「守護」を兼ね備えていたのです。飛鳥・奈良時代では、神に敵対する者は「祟られ」、神を祀る者は「守護された」わけです。
そのため、平安の都は、怨霊の祟りによる奇怪な事件が続発していたのです。藤原氏と桓武天皇は、それらの祟り(怨霊)を静めること(清目)を目的に、敗者の神の氏子(秦氏・新羅系日本人)を「令外官」として雇い入れたのです。それらが、武士と芸能者の先祖であるわけです。
平安時代、天皇を怨霊から守る清目の仕事とは、天皇直属官人として、宮廷諸行事の奉行、国家的法会、祭礼の守護、行幸路地の巡検及び普請・清掃、そして橋・河などの公界的な場の管理などです。(では何故、鎌倉末期になると、「清目」が下層階級の「汚れ仕事」になってしまったのでしょうか。)
物理的な守護は、正規軍の「武術者」が行うわけですが、怨霊など目に見えない「モノノケ」に対しての守護は、敗者神の氏子の「武芸者」でなければならなかったわけです。(この見えない彷徨う怨霊(宿神)を清めることを、歌謡と舞踏で表現した芸が、後の「能」となるわけです。ですから、嗜みのひとつとして、武士は「能」を舞えなければならなかったのです。ちなみに芸能の「祖」は、秦氏の統領の秦河勝「翁・宿神」です。)これは、王権側の「穢れ」攻撃に対する反作用です。自ら創作した怨霊を恐怖するこころが、そのような敵側の氏子により天皇を直接守護する集団を創りだしてしまったわけです。
その清目の仕事は、やがて「検非違使」という政府権力組織に発展していくわけです。平安時代の検非違使の仕事とは、鎌倉時代以降の「穢多」の仕事などではなく、天皇を護る高貴な仕事であったのです。
このことは、「長吏」にも言えます。鎌倉時代の末期には、長吏は「穢多」の仕事になってしまうのです。では、元々の長吏の仕事はどのようなものだったのでしょうか。
平安時代になると、桓武天皇は、まつろわぬ秦人や新羅系日本人を、京の都から追放するわけです。その追放先は、山や河川のジメジメした湿地帯や中州、或は、産鉄民族の鉱区跡の「別所」「散所」「湯浅」「海渡」などと呼ばれた山奥の小さな盆地です。
しかし、多くの追放者達は、鈴鹿の関を越えて北関東・東北の諏訪(トルファン)、武蔵(ムクラ、これを「ムサシ」と読ませた人は天才です。)、常磐(トコハン=東胡+フン)へ移住するのです。それらの地域は、古代にユーラシア大陸から渡来した騎馬民族の第二の故郷だったからです。(平安時代、王権は、騎馬民族文化抹殺のため居住所名をニッポン語化していた。西日本は常民「王権に従う民」の中に部落が存在していたが、東日本では部落の中に常民が存在していた。)
しかし、藤原氏にコントロールされた百済王朝が支配する近畿地方に留まった者たちは、過酷な生活環境を克服していくのです。
秦氏とは、元々は民族名ではなく、騎馬民族国家スキタイと同じに、あらゆる職能者の連合部族であるわけです。そこに騎馬民族の末裔のネットワークが加われば、生活圏は無限に広がるわけです。騎馬民族は、その組織機能からして、国際交易商人と同じだからです。
秦人たちは、古代エジプトで土木・建築技術を習得したイスラエル民族のように、灌漑・土木・堀削の技術を駆使して、河内湖を干拓し、湾近くの河川敷に「津」を造り、海外と交易を開始するわけです。その拠点は、「難波」です。やがて、難波は日本一の貿易都市となるのです。それは、難波は、古代からペルシャとシルクロードで繋がっていたからです。
紀元前六世紀、アケメネス朝ペルシャは、騎馬民族国家スキタイ(女戦士が多数存在した。草原に囲郭を造り集落を築く。幌馬車で移動。)と交戦していましたが、紀元前四世紀になると、西方のマケドニアからアレキサンダー大王がペルシャに侵攻してくるわけです。その戦いに敗れた、ペルシャ・スキタイの残党は、西に東に移動するわけです。
スキタイは、紀元前三世紀には、歴史から消え、その後に、騎馬技術と馬上弓射を習得した匈奴(漢民族による蔑称。チュルク系騎馬民族。漢民族と異なり髭が濃い。)が、シベリアの草原に現われるわけです。その匈奴は、シベリア草原から南下してタクラマカン砂漠に「楼蘭」という国際交易都市を造るわけです。
その「楼蘭」も、紀元前一世紀、匈奴が前漢の武帝に敗れると、やがて砂漠の中に消えてしまうのです。そして、前漢の時代、朝鮮半島の根本に「楽浪」の国際交易都市が建設されるわけです。
その「楽浪」は、二世紀の中頃、高句麗が興ると、高句麗の国際交易都市となるわけです。やがて、四世紀になると、日本列島に交易のため侵攻してきた高句麗、百済、そして新羅の三国の商人達が、朱砂、水銀、絹織物等を争奪するため、近畿地域で貿易覇権をかけて三つ巴の戦いを繰り広げるわけです。その、近畿への上陸地点の「津」のひとつが、「難波」であるわけです。
「楼蘭」→「楽浪」→「難波=浪速」、この流れは何を語っているのでしょうか。それは、共通読みの「ロウラン」が答えてくれるでしょう。
平安時代、都を追われた者たちの「津」の交易先は、新羅国(百済系京都王朝の敵国)となるわけです。その津は、いつしか「渡辺津」(新羅の末裔と信じる源義経は、この渡辺津から屋島の合戦へ出陣した。)と呼ばれるようになるわけです。その意味は、「鮮卑(拓跋)」→「済(渡る)」→「渡」への出自隠しの変化によるようです。
教科書歴史では、鎖国を日本国で始めたのは、江戸時代の徳川家康からであると教えています。しかし、それは違います。
811年、新羅人が対馬にやって来るのです。それは、蘇我王朝から天武王朝の奈良時代までは、新羅国とは友好的に交易を行っていたからです。しかし、この後も何度も新羅国の使者が来航するのですが、平安朝廷は、新羅の使節使が唐服を着てきたからなどと色々な難癖を付けて追い返すのです。つまり、新羅国に対して事実上鎖国政策をするわけです。
そして、平安朝廷は、奈良時代まで使用していた貨幣の流通を禁止するわけです。(鎌倉時代になってから貨幣使用が復活する。しかし、その貨幣は中国・宋銭です。)それは、朝廷にまつろわぬ秦人が、海外貿易で貨幣を溜め込み、勢力を再び増強しないようにする目的のためです。
では、新羅国は何を交易品として求めてきたかといえば、それらは、水銀、銀、そして琥珀です。
シルクロードでの絹貿易は、六世紀に繭と絹織物の技法を僧侶に盗まれてしまった結果、ヨーロッパでの需要が衰退したため、ヨーロッパでの需要逼迫の水銀、銀、琥珀を日本国から輸入したかったからです。(銀は、メキシコ銀鉱山が開発されていない十六世紀までは、日本国が世界最大の産出国だった。)
樹脂が化石化した琥珀は、古代から交易品の上位にありました。それは、呪術に関係していたからです。琥珀が歴史上に現われるのは、紀元前十二世紀です。琥珀ロードは、シルクロードより先に開発されていたのです。その琥珀ロードの開発者とは、海洋民族フェニキアです。
そして、その琥珀の産地は二箇所です。ひとつはバルト海沿岸です。そしてもうひとつは日本列島の岩手県久慈であるわけです。
紀元前十一世紀頃、赤いマントを羽織る海洋民族フェニキアは、紅海に面したエドムの港から大型外洋船タルシシ船で、その交易先のインドからクジャク、香木、紫檀、サル等を、琥珀を貨幣の換わりにしてカナンの地に輸入していたのです。
日本国における琥珀は、二万年前の北海道千歳「柏台遺跡」と縄文晩期の日高地方「新冠古墳」から出土しています。教科書歴史では、八世紀までは未開の地となっている北海道最北端の宗谷岬には、紀元前十世紀にはオンコロマナイ文化が栄えていたのです。ロシア草原ルートは、バルト海沿岸から北海道(渡り島)まで続いているのです。
それでは本土ではどうかと言えば、三世紀から出現する奈良盆地周辺に点在する古墳から琥珀製の勾玉・夷玉が出土しているのです。そして、奈良時代に仏教が栄えると、仏教七宝のひとつとして琥珀の数珠が霊力ある道具として珍重されるわけです。このことは、古代から陸奥国と近畿地方とは、交易ルートで繋がっていたことを示唆しています。
その平安時代の難波での交易も、朝廷の鎖国政策と貨幣使用禁止のため長くは続かなかったのです。そこで、秦人たちは、穢れ思想を逆手にとって新たな経済活動を行うわけです。
神社とは、道教の穢れ神(平安初期の「ケガレ」とは、汚れていると言う意味ではなく、反体制の意味。)を封じ込める装置として、国家権力(仏教側)により発明されたものです。その穢れ神を祀る所は、その氏子にとっては神聖な場所であるわけです。しかし、王権はその氏神と氏子との交流を切断する装置を発明するわけです。それが結界を示す鳥居です。そして、その鳥居に標縄(しめなわ)をめぐらし、幽界に氏神を封じ込めるわけです。(ここから「ナワバリ」意識が始まる。つまり、内「公界」と外「異界」です。)
しかし、そのように永遠に氏神を封じ込めては、氏子の不満は爆発することでしょう。そこで王権は、年に一度だけ、氏神と氏子との交流を認めるわけです。それが、神輿による祭りです。しかし、氏神の乗り物の神輿から怨霊が抜け出ないように、神輿の扉は「閉め扉」となっているわけです。
やがて、穢れ思想(王権の秩序を乱すこと。)が変化してしまう鎌倉末期になると、公界の娑婆を穢さないように、清目として、神輿に向かって「水」や「塩」を撒くことになって今日にいたるわけです。(現在では、「清目」の本来の意味が分らなくなり、「塩」や「水」を神輿に撒くことは、「景気付け」と解釈されているわけです。)
この穢れ場所は、神を祀る「社」(やしろ)で、「会」とはネットワークを意味し、その「社」に集まることは、「社会」となるわけです。でも、その社に集まる人達は、王権から疎外された人達ですから、公には集うことは、「とうりゃんせ」の歌詞にあるように、「行きはよいよい、帰りは怖い」、わけです。それは、神社の境内にある横屋の王権側の監視所から、常に参拝者の動向が見張られているからです。
ですから、その「社会」は、必然的に「秘密結社」となるわけです。そして、その秘密結社と王権とを繋ぐ顔役(仕切り人)を「長吏」というわけです。つまり、長吏の仕事とは、疎外された人達を守る(任侠=弱い立場の人たちの間を狭めること。)ために、王権との調停を行う代理人であったわけです。
平安時代、その長吏たちが経済活動を行う場所は、王権が手を出せない、標縄を張り巡らされた神社境内や橋のない中洲であったわけです。ここが経済活動の場であり、「島」(カル=銅。銅が採取できる山=カル山=香具山。神社の祭りで出店を経営するひとを香具師・ヤシと言う。)であったのです。この島が、鎌倉末期になると「穢れ場」となるのです。何故か?
長吏は、王権の穢れ戦略を逆手にとって、無税の地で経済活動を広げていくわけです。そして、財をなすことで独占的販売システムを確立していくわけです。それが「座」です。それに対して王権側の仏寺は、門前「市」でビジネスを行うわけです。
平安貴族達が、朝廷に奉ろう農耕民を奴隷化して利益を独占する装置としての「税制」と貨幣使用禁止の逆手を取って、長吏たちは神社をネットワークに「座」を全国に広げていくわけです。しかし、その特権を維持するには護衛が必要です。それらの護衛任務を行うひとを「神人」(じにん)、そしてその武装集団を「神兵」というわけです。
そのような逆特権の場を利用して、物語を聞かせたり、歌謡をする集団を組織し芸能業を興し、更に、馬を利用しての運輸業や倉庫業等を手広く経営していくわけです。
その全国にまたがる物流を行なう過程で、決済のための為替や小切手の仕組み、つまり、金融業も経営していくわけです。更に、事業の資金調達のため「株」を発行し、「座」の利益を配当する株組織も開発するわけです。その「座」を仕切る「顔役」のことを「役座」(やくざ)というわけです。
つまり、平安時代の「役座」が、物産開発(素麺座の三輪素麺等)、馬を使用した物流業、歌謡・舞などの芸能プロダクション業、為替・株等の金融業を日本で初めて創業したのです。
そして、戦国時代末期に、織田信長が出現するまでは、役座が「難波」を拠点に全国の神社ネットワークを使用して体制外経済をコントロールしていたわけです。(その平安時代の役座が、江戸時代になるとアウトローの「ヤクザ」となり、「与太者」と呼ばれるわけです。「与太」とは、奈良時代までは、道教寺の「観」で、霊を降臨さすために、フェルト状の布の「真床追衾・まとこおうすま」のハンモックのようなものを「揺する」与太職の神職であったのです。その「揺する」が「強請り」と変化して、ひとを脅すヤクザとなってしまうわけです。更に、落語では、「騎馬民族に対する蔑称」の「馬鹿」の代名詞「与太郎」に貶められてしまうのです。)
戦国末期、この日本一の商業都市の「座」の利権を得る目的で、イエズス会の銃器・弾薬で武装した自称平氏の織田信長は、全国の座組織を支配している拠点の「難波」を十一年間も攻撃しても壊滅させることができず、朝廷に和議斡旋の願いを出し、和議勧告の最中、戦闘態勢を崩した難波軍(鉄砲隊の雑賀衆徒や安芸の毛利水軍も援助していた。)を攻めて、その地を壊滅したのです。そして、織田信長はその地を乗っ取り、諸国の市・座組織を解体して「楽市楽座」をおこなったのです。
そして、1582年その難波の地に大阪城を建設する直前に、織田信長は、本能寺で誰かにより仕掛けられた爆薬で、「爆殺」されてしまったのです。しかし、翌年には、羽柴秀吉は、大阪城の建設にとりかかるのです。(この手際よさ、つまり、織田信長が爆殺されるのを予知していたかのごとく、戦闘中の毛利氏と即決和睦し、本能寺に駆けつけるのです。そして、翌年には大阪城の建設に着手するのです。)
そして、渡邊津の住人をその地から追い出し、大阪湾の湿地帯に追いやるのです。そして、1588年あの有名な「刀狩」を行なうのです。それは、大仏を造る(完成した大仏は木製の金張りでした。)という名目ですが、実際は、公家(亡命百済人と藤原氏の末裔)に唆された豊臣秀吉は、朝鮮・明国支配の妄想にかかり、その朝鮮侵略のための武器としていたのです。そして、豊臣秀吉軍は、難波で行ったことを、朝鮮半島でも行なっていたのです。(このことにより、秦氏の末裔により創作された「能」では、豊臣秀吉は善人としては描かれることは決してないのです。)
それらの同族(騎馬民族・新羅人)に対する豊臣秀吉軍の朝鮮半島での「人間にあるまじき仕打ち」に対して、自称源氏の徳川家康は許すことができず、豊臣秀吉の遺体をこの世から抹殺したのでしょう。
朝鮮蔑視をした自称平氏の豊臣秀吉(「豊臣」とは、豊国の僕と言う意味です。では豊国とは何かと言えば、それは九州・秦王国のことです。百済京都王朝は、九州・秦王国を乗っ取って豊国と名称を替えたのです。その豊国から多数の仏閣を移築した都が京都と言うことです。つまり、京都とは豊国の亜流都なのです。と言うことは、豊国の僕は、京都王朝より挌上という理屈になるわけです。)に対して、自称源氏の徳川家康は朝鮮国を敬っていた(朱子学を朝鮮の学者から学んでいた。)のです。ですから、徳川家康は、朝鮮王朝に朝鮮国における豊臣秀吉軍の蛮行の詫びを入れて、国交を復活するのです。
そして、それに対して徳川家の代替わりには、四百人以上の朝鮮通信使が日本国を訪れるわけです。朝鮮通信使たちは、徳川幕府最高の礼遇で日本国に迎い入れられたのです。そして、江戸時代に都合12回の来日があったのです。
平氏発祥の基は、亡命百済人です。そして、明治維新で藤原氏により政府中央に返り咲いた亡命百済人の末裔(夷)は、663年の出来事を忘れる事が、今でもできないようです。
明治維新勃発の謎を解くヒントは、明治維新軍の中核であった薩摩藩の島津氏の天璋院篤姫が、藤原氏の総本家の近衛家の養女となっていることです。(藤原氏の姻戚戦略)つまり、秦氏改め惟宗氏が、鎌倉時代に薩摩国島津荘の地頭職となって「島津氏」に改めたわけですが、その薩摩国島津荘のもとの荘園主が「藤原氏の総本家の近衛家」であったわけです。つまり、鎌倉時代より、島津氏(秦氏)と近衛家(藤原氏)は姻戚関係であるわけです。
ちなみに、日の丸の旗は、江戸時代、島津氏が琉球王国との密貿易に使用した船に付けて自船を識別していたものです。
明治維新で藤原氏が復活して、平安時代の王政復古(摂関政治=近衛家が天皇家を支配)を唱えたことは、「そのこと」で説明できるかもしれません。つまり、藤原氏の基本戦略は、平安時代も明治時代も、「夷(百済系天皇=平氏)を以って、夷(新羅系日本人=源氏)を制す」だからです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/831.html

記事 [テスト14] Re: テスト15を起動しました
投稿できる?
http://www.asyura2.com/08/test14/msg/734.html
コメント [原発・フッ素41] 牛久市の甲状腺検査結果 自覚症状のない者対象で89名受診のうち8名がB判定(ふくしま集団疎開裁判) 赤かぶ
01. 待たれよクルッ多摩狂 2015年1月31日 18:45:07 : 4CQd.32a2zBtc : ZzwMOgOglc
関東も当然の事だが、全国的に調査するべきだ。
これはすでに阿鼻叫喚だぞ。
http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/743.html#c1
記事 [近代史02] 神輿の黙示録(4)(日本密教の発明:「穢れ」から「ケガレ」へ)
ひとは、儀式や呪文の由来や意味が分らないのに、昔からの言伝えだからと、それらの真意を疑ったり、調べようとはしない傾向があるようです。
例えば、子供の頃の真夏の昼下がり、ゴロゴロと雷鳴を聞くなり「クワバラ、クワバラ」と、蚊帳の中で両手を合わせ拝む祖母を見た記憶のあるひとは少なからずいることでしょう。その呪文の意味を祖母に聞いても、「昔からの言伝え」だからと、明確な理由を聞くことができなかったことでしょう。
では、その「クワバラ、クワバラ」の呪文は、いつ頃発明されたのでしょうか。それは、平安時代の延喜3年(903年)以降の約千年前です。
貴種ではないけれども菅原道真は醍醐天皇にも引き立てられ、894年遣唐使として抜擢されるほどの才能がある人でした。しかし、その才能や醍醐天皇に接近したために危機感を募らせた、天皇を裏でコントロール(摂関政治)している藤原時平の陰謀により、菅原道真は、延喜1年(901年)九州の大宰府に左遷させられてしまうのです。そして、翌々年菅原道真は失意のまま、59歳でその地で没してしまうのです。
怨霊とは祟り神です。それは、やましいこころに宿ります。菅原道真を無実の罪で死に追いやった藤原氏は、菅原道真が雷神となって祟ることを恐れて、その怨霊を封じ込める目的でその地に「神社」を建立するわけです。しかし、それでも菅原道真の怨霊は静まりません。(平安時代では、自然現象でも怨霊の仕業だと信じていた。)そこで、その雷神の祟り祓えを発明する陰陽師(道教士が仏教側に寝返った呪術師)が現われ、雷避けの呪文を唱えるわけです。それが、「クワバラ、クワバラ」です。その意味は、菅原道真の生誕地が「桑原」だったからです。つまり、「クワバラ・桑原」の呪文を聞いた怨霊(雷神)は、生誕地を避ける、と言う理屈です。
宗教(呪術)は使い方によっては、ひとを幸福にしますが、間違った使い方をするとひとを不幸にしてしまいます。このことを、革命家のカール・マルクス(1818年〜1883年)は、ドイツの詩人ハインリッヒ・ハイネの「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である。」を引用して、「宗教は、逆境に悩める者のため息であり、それは民衆の阿片である。」と言ったそうです。そのように、宗教を批判したカール・マルクスの唱える「マルクス主義」も、ユダヤ教(旧約聖書とタルムードを信じる宗教。キリスト教は旧約聖書と新約聖書を信じる宗教。ヘブライ語の旧約聖書は、意外にも西暦90年頃確立した。それは丁度、新約聖書が確立した頃です。更に、大乗仏教経典群成立と時を同じにしているのは何故でしょうか。70人訳ギリシャ語聖書は、それらよりも早く紀元前280年エジプトのアレキサンドリアで成立していました。)を換骨奪胎して再構築した「宗教」だったようです。
しかし、マルクスの言ったことは真実でした。それは、阿片は宗教儀式で実際に使用されていたからです。
アヘン・ケシ(学名バパベル・ソミフェルム)の花が散った後の子房を傷つけると、ミルク状の樹液が滲んできます。その樹液が空気に触れると茶褐色の樹脂となります。これが生阿片です。原産地は地中海沿岸で、紀元前四千年頃、オリエントのシュメール人や古代エジプトの神官が、宗教儀式に使用したのが、始まりのようです。その阿片は、シルクロードの国際交易商人や僧侶たちにより、地中海沿岸→ペルシャ→インド→中国へと流れ、659年に著された唐の医学書に「阿芙蓉」と掲載されています。
ひとの意識を、ある種の物質で瞬時に変格させる研究をした宗教組織がありました。そのひとつが、バラモン教です。
紀元前十三世紀、地中海沿岸からインドへ侵入してきた民族がいました。それはアーリア人と呼ばれていました。アーリア人は、インドの先住民の牧畜・農耕民族のドラヴィダ人を支配する装置としての宗教を発明するのです。それが菜食主義のバラモン教です。アーリア人は、ドラヴィダ人を支配するために、複雑怪奇な儀式を発明するわけです。そして、ブラーフマン(梵)を主神として、祭祀(カルマ)、知識(ジュニャーナ)、神への絶対的帰依(バクティ)などの難解な思想で先住民を支配するために、絶対身分制度のカーストを発明するわけです。そして、その制度から絶対に抜け出る事が出来ない装置の、「輪廻転生」の思想も発明するわけです。(釈尊は、このバラモン教のカルマから解脱するために、「非人」となり「乞食」し、「無我」の思想を発明した。)
それらの身分とは、上から司祭階級(バラモン)→王族(クシャトリア)→庶民(ヴァイシャ)→隷民(シュードラ)、そして不可触賎民(セダラ・鎌倉末期にセダラ=穢多が歴史上に現われる。)です。(鎌倉末期、この肉食を極端に蔑視するカースト思想を、騎馬民族を貶めるため、京都王朝側が仏教徒により布教。この思想が、江戸時代に完成する身分制度の、「士農工商穢多非人」となるわけです。)
このインドの地で、秘密の宗教の「密教」が、バラモン教により発明されるわけです。「密教」を一口で言えば、「原初的な科学・化学・薬学・心理学による意識の変成の技術」と言えるかもしれません。つまり、密教とは、錬金術でもあるわけです。(錬金術の真の意味は、卑金属を貴金属に替えることではなく、こころを神の境地に達成させるための技術。)
そのために、バラモン教(四世紀頃ヒンズー教に吸収される。)は組織を上げて、末梢神経や中枢神経をコントロールする「物質」を探究するわけです。そのひとつが、固体→液体→気体→固体→液体→気体と、無限に変成する「水銀」の研究となるわけです。その水銀は、まさに「輪廻転生」の具現化であるわけです。そのため、水銀は、高価な交易品となるわけです。
水銀は、朱砂が採掘される所に埋蔵されています。その朱砂は、日本列島では、縄文時代から呪術の道具として利用されていました。それは、埋葬時に死者の身体に朱砂を塗ると、いつまでも死者は腐ることがないためです。
時代は下がり、四世紀になると、吉野山での水銀の発掘利権をめぐり、ユーラシア大陸から国際交易商人達が、近畿地方に侵攻してくるわけです。
更に時代が下がり飛鳥・奈良時代は、ユーラシア大陸を故郷とする騎馬民族王朝(蘇我・新羅王朝)が続いていましたが、平安時代になるとインド・中国南朝からの海洋民族王朝(百済王朝)になるわけです。このことにより、百済国を滅ぼした新羅国とは国交を断絶したため、[水銀」の交易ルートも変更となるわけです。遣唐使とは、純粋学問探究だけではなく、新交易ルートの開発係りの意味合いもあったのです。
平安京に遷都してから十年後、公費で百済系末裔の最澄を唐に使わしたのは、表向きは仏典の輸入となっているようです。が、しかし、私費の秦氏の末裔の空海が、最澄と時を同じくして唐に渡った意味が理解できません。何か隠された意図でもあったのでしょうか。
当時の留学費は、下級官人の息子の空海に出せる程の金額ではないでしょう。不思議なのは、空海が仏籍に入ったのは、留学の前年なのです。(京都の大学を中退した空海は、四国で鉱山探索をしていたようです。後に寺を建立した付近には銅山・銀山が開発されていたからです。)
そして、最澄が805年帰朝すると、空海も806年帰朝するのです。普通の留学期間は二十年が相場のようです。そのような一二年間で、言葉もあまり通じない異国の地で、仏教の何を学んできたと言うのでしょうか。そして、帰朝するなり、最澄は天台宗を、空海は真言宗を興すのです。
これらのことを考慮すると、二人の行動の裏には、得体の知れない大きな組織のニオイが感じられます。ふたりの唐留学は、実は学問のためではなく、交易ルートの新契約、或は、銀鉱山探索技術や鉱山開発工具購入ではなかったのでしょうか。(空海の「法具」には鉱山開発工具のニオイがします。)
空海は、806年に帰朝後から3年して、やっと九州から京都朝廷へ呼び出されるのです。それは、百済系色の強い桓武天皇が崩御し、その後平城天皇も病気で退位したため、好奇心旺盛の嵯峨天皇が即位したからです。
そして、812年に、高尾山寺神護寺で、正式に恵果阿闍梨から唐で譲り受けた密教灌頂を開くことが、京都朝廷から許されるのです。その後、京の都から遠く離れた、銀鉱脈がある吉野山に近い、山奥の「高野山」に寺を建立するわけです。
空海の密教は、すんなり京都朝廷に受け入れられたわけではないのです。それは、奈良の東大寺系修験道との繋がりを、京都朝廷は警戒していたからです。
東大寺は752年、反藤原氏の聖武天皇が、河内国の秦氏の末裔の行基(ヨーガの呪術を駆使して賎民に平等思想を布教。)の土木技術や全国行脚により資金調達の援助を基に、建立したものです。
その東大寺の廬舎那仏は大日如来(遍照鬼=無量光仏=ミトラ神=太陽神)とも言われています。その大日如来は平安時代になると、空海が発明した「密教」の、仏菩薩、天(「テン」とはサンスクリット語で「神」の意味。)、明王など、唐、インド、ペルシャなどのあらゆる神々を統一する、「仏」になってしまうのです。
この空海が発明した密教の、大日如来があらゆる神々を統率する「汎神論的理論」が、後に、平安仏教側が、神社ネットワークの座を経営する、朝廷にまつろわぬひとびとを壊滅させる戦略に利用されてしまうわけです。それが、本地垂迹理論です。
本来の本地垂迹とは、永遠不滅の絶対的理想仏としての「仏陀」を想定し、この仏陀を「本地仏」(本当の仏)とし、それに対して、歴史上実在した生身の仏陀を「垂迹仏」(仮の仏)とする考え方です。この「本地仏」と「垂迹仏」との関係を、平安仏教側は、「仏」と「神」の関係に置き換えてしまうのです。つまり、「仏」が現実世界へ「神」の姿で化現すると、理論展開してしまうわけです。これが、神仏習合の基本理論です。
そして、平安朝廷は、それまで九州宇佐八幡神(古は、新羅国から渡来した秦氏の神様。しかし、和気清麻呂により乗っ取られて百済王朝の支配下となる。)で天皇家を祀っていたものを、空海の真言密教(神仏習合・加持祈祷)で祀ることになるわけです。つまり、八幡神宮が、神仏習合の第一号となるわけです。
このことにより、体制側が手出しできなかった「異界」の神社境内の空間が、仏教側の支配下になってしまうわけです。それにより、反体制の民が経済支配できるのは、中洲(河原)か街道だけとなるわけです。ここから「アルキ」筋が発生するわけです。つまり、漂泊する芸能民の発生です。
その漂泊芸能民は「七道の者」と呼ばれるわけです。
では、その「道」とは何を意味しているのでしょうか。「武道」「華道」「茶道」等など色々な「芸」につけられる「道」です。それらは「清目」の者達の「技」についているわけです。
その「道」の意味は、敵の大将の首を刃ね、その首を手に掲げ、包囲する敵陣へ向かって少しずつ歩むことにより、敵陣側に自ずから拓く間隙を進むことです。つまり、生死を賭けて敵陣へ進んで行くことが「道」であるわけです。
その七道の者とは、猿楽、アルキ白拍子、アルキ巫子、かねタタキ、鉢タタキ、アルキ横行、猿飼です。つまり、それらの芸能民とは、清目の者達なのです。
清目の技の「芸」とは、弱い立場のひとたちに対して、歌や舞や色々な技で、こころの怨霊を取り除く「神芸」であるわけです。元々は、氏神を祭る(歳る)ための技が基であるわけです。それが、王権側に祀り場が奪われてしまったため、中州や街道で清目を行なうことになってしまったわけです。芸能民の清目達は、ひとびとを清めた(こころの怨霊を祓う)返礼として、銭や品物の喜捨を受けるわけです。
そして、このアルキ筋は、平安時代では藤原氏の氏寺の「興福寺」の支配下にあったものが、鎌倉時代になると、穢多頭の弾佐衛門の支配下となってしまうのです。何故か?
701年、藤原不比等が日本国を支配する装置としての「大宝律令」による私有地保持禁止も、ひとの物欲を統制することができずに、「三世一身法」や「墾田永世私財法」等と法律を作り替えても、ひとびとの物欲を押さえることができませんでした。その行き着く先が、荘園の経営となるわけです。
私財に余裕のある貴族や寺社は、農奴を銭で掻き集め、未開拓地を開墾するわけです。それにより、税の負担を軽減させるわけです。この荘園経営が広まることにより、税収減になり朝廷の財政が苦しくなってしまうわけです。
藤原氏は、天皇家を支配するために、藤原の女を側室として提供したことにより、天皇家では子沢山となり、それらの子供たち全てを養うことができなくなってしまったのです。(嵯峨天皇は56歳の生涯で、后妃夫人30人以上。皇子皇女50人。)
そこで考え出されたことが、臣籍降下です。つまり、准皇族を作り出すことにより、側室や皇子皇女の養育費を削減するわけです。それが、臣籍降下の「源氏」姓の誕生です。
814年には嵯峨源氏の賜姓となり、825年には公家桓武平氏の賜姓となるわけです。つまり、源氏も平家も天皇家の臣籍であるわけです。(同じ天皇家から源氏と平氏のニ姓を創作したのは、藤原氏の「分断して、統治せよ」の戦略のようです。それは、天皇家の臣下にある源氏と平氏が、やがて争うことになるからです。)
荘園経営の規模を拡大する寺社は、荘園のナワバリを確保するために、武装集団を組織するわけです。それが僧兵です。百済系比叡山の僧兵と、藤原氏系の興福寺の僧兵が、我が物顔で京の都をのし歩くのです。神輿を担いで強訴することも度々です。(仏敵の氏神の乗り物である「神輿」を、仏教僧達が手荒く担ぐとは、一体何を意味しているのでしょうか。それは、「イヤガラセ」の何ものでもありません。)
それに対して、氏神を祀る役座側も神兵で武装組織して、神社や中洲の神域権益のナワバリを確保するわけです。
それに対して、天皇や貴族を護る嵯峨源氏も騎馬民族の「武士」で武士団を組織するのです。桓武平氏は海洋民族の武士団を組織するのです。しかし、平安初期の武士の仕事は、怨霊から天皇を護る「清目」です。
源平の軍事力としての武士団の実力が認められるのは、1156年の保元の乱、1159年の平治の乱まで待たなければなりませんでした。このふたつの乱により、武士が貴族の支配から解放されることになるわけです。
では、814年の「源氏」発生まで、軍隊は存在しなかったのかと言えば、そうではありません。
宝亀五年(774年)、百済系光仁天皇は、藤原氏のコントロールにより、蝦夷の国(東北)を侵略するわけです。その目的は、本国百済を滅ぼした敵の子孫の新羅系日本人追討と陸奥国の「金」と「琥珀」の簒奪です。
その侵略戦争は、光仁天皇、桓武天皇、そして嵯峨天皇までの38年間にも及ぶわけです。そして、その戦いに動員された兵の延べ人数は、六回の出陣で約20万人です。当時の推定人口は600万人と言われているのに比べれば、20万人の軍人の多さが国家挙げての大事業であったことが分るでしょう。それでも、軍事武力により、戦馴れしている騎馬民族の蝦夷を降服さすことができませんでした。
では、その20万人の軍隊は、どのような属性の人達かと言えば、それは定かではないのです。陸奥の敵将アテルイを騙した二代目征夷大将軍の坂上田村麻呂の容姿は、日本後紀によれば、「赤面黄鬚」とあるようです。この表現を物の本によれば、赤ら顔で「金糸の付け顎髭」をしていた、と説明しています。しかし、それは可笑しい。戦いに望む部将が、何ゆえ「金糸のあごひげ」をつけなければならないのか、説得力に欠けます。極論を言えば、坂上田村麻呂は、「金髪の白人種」であったのでしょう。つまり、亡命王朝の京都百済王朝は、外国の傭兵軍により軍事行動や治安維持をしていたのでしょう。歴史上実際に、北魏国には、ペルシャの傭兵軍が存在していました。
このことは、後の源平合戦の時、源氏勢力に叩かれ兵力が削がれても、暫くすると、再び平氏の軍勢が増すことは、その都度、海外(インド・宋国)の傭兵軍を雇い入れていたからでしょう。それは、平家王朝は、福原の津で、インドと交易をしていた宋国と貿易を行なっていたからです。
平安時代初期までは、日本列島は国際人で溢れていたのでしょう。しかし、その渡来部族の実体を知ることは、藤原氏による焚書のため、できません。それは、藤原氏の出自隠しのためです。日本版レビ族「藤原氏」の出自も、645年に突然歴史上出現する「中臣鎌足」が先祖であることなど、とても信じることはできません。
日本人は本来、複合民族により構成されているのです。それを無理やり単一民族などと刷り込みをおこなうから、色々な弊害、例えば「イジメ」などが発生してしまうわけです。
複合民族を統制するために、平安の王権側は、朝廷にまつろわないひとたちを「鬼」「妖怪」などと創作して、色々な物語を考え出すわけです。そして、更に、反王権のひとたちを精神的トラウマに陥らす目的に、「地獄」世界を平安時代に、ヒンズー教思想を真似て、発明するのです。現在の、閻魔様(ヒンズー教の神様)が、地獄に落ちたひとの「舌」を抜くイメージは、この平安時代に創作されたものです。
10世紀末、平安仏教は、「六道」の世界観を布教するのです。その根底はヒンズー教です。空海の発明した「日本密教」が平安仏教界に取り入れられると、仏寺のあちこちから「おん・ばさら・あらたんのう・うん・なも・あきゃしゃば・らば・おん・あみりきゃ・ありぼ・そわか」の梵語による真言呪文が聞こえてくるわけです。平安の都は、正にヒンズー教世界の様相を示していたようです。そして、寺にはヒンズー教の神々が仏像に成りすまして鎮座して、その神々に対して、ゾロアスター教の拝火を真似て、護摩を炊いて、祈祷するわけです。

江戸末期、大阪の商人学者の富永仲基は、大乗仏教非仏教説を唱えていました。つまり、大乗仏教は、釈尊の唱えた仏の道ではない、ということです。
僧侶が護摩を炊くとき、十字を切るのは何故でしょう。忍者も術をする前に、十字を切ります。忍者の服部家は、もとは秦氏です。秦氏の氏寺は「十字寺」とも言われていました。その十字寺は、景教寺とも言われていました。景教徒の墓には、マルタクロス(十字架)があります。景教の儀式は、ミトラ教(太陽神)を基にしています。そのミトラ教を模倣したキリスト教も、十字架をシンボルとして利用しています。そして、秦氏の末裔の士族の島津家と穢多頭の弾家の家紋は同じで、それは十字です。何故、秦氏の末裔の空海が、大日如来(ミトラ神)を崇拝し、護摩(ゾロアスター教の拝火は、ミトラ儀式を模倣)を炊き、十字(太陽のシンボルのマルタクロス)を切ることは、もしかすると空海にはオリエントの血が流れていた為でしょうか。

そして、984年、源信は「往生要集」を著し、地獄世界を貴族達に布教するのです。(トップダウンによるコミニュケーション戦術。)
六道の世界観とは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、そして天です。その「地獄」については、更に詳しく記述するのです。その地獄世界は八つに分けられているのです。それらは、等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、そして無間地獄です。(極楽のイメージを布教しないで、地獄ばかり布教するのは何故でしょうか。)
そして、これらの地獄世界を布教することにより、騎馬民族・漁労民族を貶めるのです。それは、等活地獄へは、動物を殺すこと(血の禁忌)により、落ちることになっているからです。つまり、「殺生禁止」のために、この等活地獄を布教するのです。この思想により、騎馬民族・漁労民族の生活基盤が揺らいでしまうわけです。更に、農耕民族による、騎馬民族・漁労民族への蔑視や「イジメ」の根拠になってしまうのです。つまり、藤原氏の戦略、「分断して、統治せよ。」となるわけです。(この思想を発明した菜食主義のバラモンには、植物にも、動物と同様に生命があることが理解できていなかったようです。)
そして、プロパガンダ(布教)の常套手段のビジュアルとコピーで、それらの地獄世界を、庶民に訴求するのです。ビジュアルとしては、六道絵、地獄絵、そして「北野天神縁起絵巻」などです。コピーとしては、地獄草紙、餓鬼草紙などです。この平安時代の地獄世界の刷り込みが、千年後の現在の日本人を呪縛しているのです。
それらの平安仏教の思想布教に伴って、穢れ祓いの「清目」=王権に逆らう者達(怨霊)から護ることの仕事が、汚い物の清掃業務に変えられてしまうのです。つまり、「穢れ」から「ケガレ」となってしまうのです。それには、王権側のもうひとつのトリックがあったのです。
それは、ライ病者(皮膚病者)の扱いです。平安仏教は、仏敵に対して、仏罰の結果がライ病者であると、「法華経」により布教して、そのライ病者の世話を「清目」達の部落に押し付けたからです。これより、反体制の民の顔役の長吏の仕事が、ケガレの仕事になってしまうわけです。
釈尊の説いた仏の道は、弱い立場のひとたちの為にあったのではないのでしょうか。それから考えると、平安仏教(貴族仏教)は、何を目的に、仏の道を説いていたのでしょうか。
「賭博」と「高利貸し」は、役座が創業したビジネスのように思われているようですが、それは違います。日本国で最初にはじめたのは、大乗仏教徒のようです。歴史上では、大乗仏教徒が、唐国よりもたらしたサイコロを使った「双六賭博」が始めのようです。天武天皇が貴族達と双六賭博をおこなったことが「日本書紀」に記述されています。そして、高利貸しの方も、奈良時代の仏寺が始めたことが、「続日本紀」に記述されています。(戦国時代、武士の大将が、必勝祈願に仏寺にお参りしたのは、実際は、武器弾薬を購入するための金策だったようです。昔も今も、宗教組織の教団維持には、金貸し業は、重要な収入源のようです。)
賭博用語で、「テラ銭」とはチップのことですが、それは、賭博を「寺」でおこなっていたから、「寺銭」と言うわけです。寺で賭博をおこない、負けると寺から金を借りる。これは、正に、現代のパチンコとサラ金の関係と同じです。
貸した金を返してもらうことは、昔も今も同じように困難な仕事です。高利貸しは、金を貸すときは「菩薩」と言われ、返済を迫ると「鬼」と言われるようです。
そこで、高利貸しの寺は、貸した金をスムーズに返済させるための仕掛けを考えるわけです。それが、「ウソ」をつくと、地獄に落ち、閻魔様に舌を抜かれる、という刷り込みです。仏教の宣伝パンフレットの「日本霊異記」には、借りたものを返さないことにより、地獄に落ちる物語が多く掲載されているのは、そのためなのでしょう。
平安時代、仏徒が、神徒(道教の神、景教の神、八幡の神を祀る反体制のひと。道教を崇める天武天皇が創建した伊勢神宮を乗っ取り、ケガレ祓いを発明した「中臣神道」は、天武天皇が崩御後、藤原氏系中臣氏により創作された「体制側の神」。ヒンズー教思想が導入される前の日本国には、「浄・不浄思想=穢れ思想」は存在していなかった。ちなみに役座は道教の薬草学の神農様を祀る。)を目の敵としたのは、神徒が、仏徒ビジネスの真似をして、「異界」の神社ネットワークを利用して賭博と高利貸しのビジネスを興したからかもしれません。
しかし、大乗仏教側が発明した日本版本字垂迹説を基に、神仏習合により、怨霊封じ込め施設である「異界」の神社は、ついに、仏教側の支配下になってしまうわけです。そこで、仏教徒による寺の「賭博」「高利貸し」と、アウトローによる闇の「賭博」「高利貸し」が発生するわけです。
「ケガレ」思想を、平安仏教徒が布教した原因のひとつは、もしかしたら神徒側の「賭博」や「高利貸し」のビジネスから庶民を隔離して、仏徒側のビジネスのナワバリ確保のためだったのかもしれません。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/832.html

記事 [経世済民93] 韓国の消費者心理は世界60か国中59位・・米社の調査結果に韓国ネット「外面だけ先進国を真似る国」 :アジア板リンク
韓国の消費者心理は世界60か国中59位・・米社の調査結果に韓国ネット「外面だけ先進国を真似る国」「日本、中国は着実に国力

http://www.asyura2.com/14/asia16/msg/778.html



http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/360.html

コメント [政治・選挙・NHK178] 朝鮮総連再び建物使用か 落札会社が転売へ:政府が北朝鮮に提示した“お約束”の履行 あっしら
10. 2015年1月31日 18:47:29 : Fl00PDjaLI

朝鮮総連中央本部を40億円で買取り総連に貸出す山形の会社、資本金300万、年商2000万で金の出処が不明

1 : ミドルキック(庭)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:22:28.11 ID:+mKDcePh0.net BE:586999347-PLT(15001) ポイント特典

 うさんくさいにおいがプンプンする。東京・千代田区の「朝鮮総連」(在日本朝鮮人総連合会)中央本部の売却問題。高松市の不動産会社「マルナカホールディングス」が競売で22億円で落札した本部の土地・建物を、山形・酒田市の倉庫会社「グリーンフォーリスト」に転売することが分かったのだ。

 グ社は朝鮮総連と賃貸契約を結び、朝鮮総連は、立ち退きを回避できる見込みになった。購入した不動産の転売、賃貸は珍しくないが、転売額は40億円以上とみられている。ところが、登記簿によると、グ社の資本金は300万円。従業員は3人で、年商は約2000万円だ。どうやって40億円もの巨額の資金を用意できたのかナゾだ。

 グ社の本社は、日本海に面した倉庫街の一角にあるが、電話はつながらない。一部報道によると、マルナカとグ社の橋渡し役を務めたのは、香川で不動産業を営む山内俊夫・元参院議員というが、資金の出どころについては口を閉ざしたままだ。

 総連絡みの不可解な不動産売却はまだある。総連系の企業が所有し、一時、総連ビルから立ち退き後の中央本部の移転先として取り沙汰された東京・文京区の「朝鮮出版会館ビル」(地上13階・地下1階)が今月、大阪市南船場の不動産業「ラシュール」に売却されていたことだ。

 本部移転ナシとみた総連が何らかの理由で売ったとみられているが、この会社もまた、登記簿をみると、資本金は300万円だ。信用調査会社によると、13年7月期の売上高は3000万円。会館ビルは土地代だけで10億円は下らない。建物を合わせれば20億円近いだろう。これまた資金の出どころがナゾだ。

 ラ社に購入目的や資金について聞くと、「取得は開発するため。(資金の)詳しいことは分からない」と答えた。

「総連絡みの不動産売買に銀行が融資するのはまず考えられない。総連の関連企業などがカネを捻出していると考えるのが自然だろう」(警察ジャーナリスト)

 北朝鮮の動向に敏感な安倍官邸が静観しているのも不思議だ。イスラム国テロなどでそれどころじゃないのだろうが、この問題のウラは深そうだ。
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/9735282/


2 : ミドルキック(やわらか銀行)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:23:31.85 ID:ZWrJreCg0.net
出処は朝鮮総連じゃないの?


13 : バズソーキック(内モンゴル自治区)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:31:37.50 ID:p7Z/MmPyO.net
>>2 金が無いから追い出されるんだから、こりゃあ遊戯業協同組あ…セガサの会長宅が銃撃されたね。

3 : ダイビングフットスタンプ(空)@\(^o^)/[sage] :2015/01/31(土) 17:23:33.80 ID:jgPiMohX0.net
悪の組織なの?


4 : リバースパワースラム(山陽地方)@\(^o^)/[sage] :2015/01/31(土) 17:24:47.70 ID:g8gZOWzsO.net
ゲンダイってどこ系なの?


15 : アルゼンチンバックブリーカー(福岡県)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:32:33.62 ID:vnT4Ofjr0.net
>>4
小沢以外全方向dis

5 : フライングニールキック(dion軍)@\(^o^)/[sage] :2015/01/31(土) 17:25:02.67 ID:IzYJ+x/l0.net
国税庁出番だ


6 : ドラゴンスリーパー(チベット自治区)@\(^o^)/[sage] :2015/01/31(土) 17:27:10.08 ID:Au9+EsNZ0.net
こりあひどい


7 : 閃光妖術(新潟県)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:28:39.78 ID:JS4XZNgG0.net
回り回って結局総連があのビルに居座るの


8 : 魔神風車固め(新疆ウイグル自治区)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:28:59.56 ID:zfk2E0Gd0.net
ダメだこりあ


9 : 膝十字固め(広島県)@\(^o^)/[sage] :2015/01/31(土) 17:29:53.74 ID:q4uSMdJc0.net
もう爆弾でも仕掛けたらいいんじゃないかな


10 : ハーフネルソンスープレックス(埼玉県)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:30:34.83 ID:RsHuloXA0.net
なんだこりあ


12 : ムーンサルトプレス(佐賀県)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:31:25.51 ID:NNer617m0.net
買う金があるなら何で税金払わないの?


14 : フライングニールキック(茸)@\(^o^)/[sage] :2015/01/31(土) 17:32:33.40 ID:PiAR71Nr0.net
叩くならマルナカを叩けよ


16 : 足4の字固め(茸)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:33:00.41 ID:R/vz5UY90.net
マルナカも初めからグルだな


17 : キン肉バスター(香川県)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:34:01.36 ID:3jequL+p0.net
マルナカ信用できんな
もう買わんわ


18 : TEKKAMAKI(神奈川県)@\(^o^)/[sage] :2015/01/31(土) 17:34:23.35 ID:YICOsgnd0.net
資本金300万で総連買えちゃう
怪しいというより朝鮮系企業だろうな
ぶっちゃけISISより朝鮮系のが嫌だ


19 : サソリ固め(dion軍)@\(^o^)/[sage] :2015/01/31(土) 17:34:49.45 ID:I+GkIl980.net
純粋にムカつく事案だこれ


20 : クロイツラス(東京都)@\(^o^)/[sage] :2015/01/31(土) 17:35:00.20 ID:V8uE5E0D0.net
前もあったよな、こんなこと
金払う能力ないのに買いますって言い出した会社


21 : 魔神風車固め(新疆ウイグル自治区)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:35:31.42 ID:zfk2E0Gd0.net
結果論だけど、これだったら最初から怪しい所に売ったほうが高く落札された分マシだったな


22 : ときめきメモリアル(芋)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:36:39.79 ID:RP0mEUiu0.net
>>1
ニュー速プラスでちゅら猫がこのスレ立てたら5レスで速攻削除されたぞ。


23 : ジャンピングエルボーアタック(やわらか銀行)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:37:39.21 ID:Le2AKWFB0.net
横流しで10数億儲けたらマルナカももうどうでもいいだろな


24 : キン肉バスター(香川県)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:38:18.21 ID:3jequL+p0.net
平井帰ってきてるんやからなんか教えろや
どうせなんか知っとるやろ


25 : シャイニングウィザード(チベット自治区)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:38:55.83 ID:WIYTRVtQ0.net
何このできレース。
イオン不買だな。


26 : ファイヤーボールスプラッシュ(やわらか銀行)@\(^o^)/[sage] :2015/01/31(土) 17:39:30.39 ID:k5bMdjyZ0.net
前回はモンゴルのペーパーカンパニーを入札に参加させてバレたからなw

今回は実体のある会社を仲介させてほとぼりが冷めたころにペーパー会社を潰して
現住者としての総連が安値で買い戻すというストーリーが目に見えてくる。


27 : キン肉バスター(兵庫県)@\(^o^)/[sage] :2015/01/31(土) 17:39:52.84 ID:UN3z28Dq0.net
こういうと認めないように法律整備しとけよ
わかってたことだろ国民なめてんのか


28 : ボマイェ(富山県)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:41:36.69 ID:bDgNi0OZ0.net
四国民は不買運動しろよ


30 : キチンシンク(福岡県)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:43:41.85 ID:uLbf9DAA0.net
いっそ外国籍が所有する土地、建物は購入しても、あくまで貸してる形で
その必要があればいつでも日本国が取り上げられるって風にしとけよ


31 : アンクルホールド(千葉県)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:45:22.19 ID:w9fjYdIm0.net
総連のダミー会社なのかな
22億円で売って40億で買い戻したって感じ?
最初の落札額が異様に低かったのもおかしいしマルナカもグルなんだろうね


33 : ハーフネルソンスープレックス(SB-iPhone)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:47:18.17 ID:AncUZr7T0.net
経済制裁解除してたよな阿部は?北からの資本注入?w


35 : イス攻撃(庭)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:49:55.74 ID:/F8nZ6ty0.net
特権なんてレベルじゃねーな


36 : 逆落とし(庭)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:51:01.88 ID:xyEK3LSy0.net
壁に塗り込まれた白骨が暴かれずに済んだな


37 : 32文ロケット砲(中国地方)@\(^o^)/[sage] :2015/01/31(土) 17:51:42.35 ID:IvppxWbb0.net
不法占拠

ちゃんとした賃貸借契約

総連万々歳だな


38 : ハーフネルソンスープレックス(内モンゴル自治区)@\(^o^)/[sage] :2015/01/31(土) 17:52:38.47 ID:2qwKs5yzO.net
パチンコ屋だろ


39 : マスク剥ぎ(空)@\(^o^)/ :2015/01/31(土) 17:53:42.46 ID:CWgAoAI30.net
北朝鮮関連の闇は深すぎる。
どんだけ政官財に食い込んでいるんだ?

転載元スレッド:http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1422692548/



http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/484.html#c10

記事 [近代史02] 神輿の黙示録(5)(鎌倉源氏の謎:何故新羅の神を祀るのか)
奈良時代から平安時代への流れは、物理的に、単に都が奈良から京都へ移っただけではないようです。それは、内外への政策が前政権(天武王朝)とガラリと激変しているからです。それらは、対外的には、新羅国との鎖国です。そして、国内的には、陸奥国(東北)への軍事侵略です。
新羅国に対しては沿岸警備兵の防人で北九州沿岸へ防衛線を築き、そして、陸奥国へは征夷大将軍(征夷とは、弓矢を使うエビスを征伐するという意味。)により延べ20万の軍勢で侵略をおこなったからです。
天武王朝の時代では、719年新羅国は騾馬を元正天皇に献上するほどでしたが、天武天皇から左遷させられていた藤原不比等が政界中央に復帰後から、次第に新羅国からの使節を粗野に扱うようになるのです。
そして、飛鳥時代、陸奥国の蝦夷達は、ペルシャ式庭園を築いた斉明天皇により飛鳥の都に招かれ饗応されていたのものが、百済系桓武天皇の父親の光仁天皇の時代になると、宝亀5年(775年)大友駿河麻呂を始めとして、二代目征夷大将軍の坂上田村麻呂(初代は大伴弟麻呂)指揮下の外国傭兵軍により、38年もかけて陸奥国への軍事侵略をおこなうわけです。
そこで不思議なことに気付くのです。
それは、陸奥国の騎馬民族の蝦夷軍と戦った、金髪の坂上田村麻呂率いる軍団の、進撃ルートは知られているのに、蝦夷軍との戦いに使用した武器や装備が史料として遺されていないのです。野史によれば、田村麻呂軍は、腰弓や幅広の剣など中国大陸型の武器で武装していたようです。それに対する蝦夷軍は、チュルク(突厥:トルコ系騎馬民族)の戦術(短い弓矢で、敗走しながら後ろ向きで騎射。)で、応戦するわけです。蝦夷軍の剣は、ペルシャの剣に似た蕨刀です。
外国傭兵の京都朝廷軍は、歩兵が主で、陸奥国の国情や地形を知らないため、当然苦戦するわけです。そこで、坂上田村麻呂は、敵将のアテルイを騙して、京の都に連れて行き、そこで、アテルイを惨殺するわけです。大将を失った蝦夷軍は、弘仁2年(811年)2万の文室綿麻呂軍により壊滅されてしまうのです。
坂上田村麻呂は、弘仁2年(811年)54歳で没しました。それから3年後、嵯峨源氏が誕生するのです。桓武平氏は、それから14年後に誕生するわけです。
そこで、また不思議なことに気付くのです。
それは、征夷大将軍の坂上田村麻呂が没して、間もなく、軍事部族としての源氏と平家が誕生するわけですが、その軍備や武器などの前時代からの継続性が、史料などで確認できないのです。源氏も平家も、中国大陸型の武器ではなく、突然、片刃の日本刀(古墳から出土するのは両刃の剣ばかりです。)と豪華絢爛な鎧兜(装飾過剰で実戦には不向きな武具です。)で武装しているのです。これらの武器の、ほんの少し前の征夷軍の武器や装備からの飛躍は、どのように説明することができるのでしょうか。
645年の政変(「大化の改新」はフィクションです。)の時、蘇我王朝の皇紀と国記は、藤原氏により焚書されてしまいました。(教科書歴史では、蘇我蝦夷が焚書したことになっています。)そして、奈良時代の史料は、藤原氏にコントロールされている桓武天皇により焚書されてしまったのです。正倉院(北方スキタイの建築様式。歴史教科書では、湿気を防ぐ南方系建築様式と説明している。)にあった天武系聖武天皇の遺品も、百済系桓武天皇に都合の悪い物品は、桓武天皇により処分されてしまったのです。
ですから、その時代を知るには、焚書されることのない公家(百済系日本人と藤原氏)の日記などに頼ることになるわけです。しかし、その日記には公家に都合の悪いことは記述されていません。ですから、歴史の真実(あるとしての前提ですが。)を知るには、智恵が必要になるのです。それは、公家の日記にさりげなく悪く書かれている事柄に真実の種が隠されていることもあるからです。
平安時代から日記を書くひとが多くなるのは、大乗仏教の「地獄思想」布教のおかげです。それは、地獄に落ちないように、死の裁判の時、閻魔様に生前の善行の証拠を示すためが、日記を書くことの主な動機のひとつになったようです。
戦国時代、公家の中院通秀の日記「十輪院内府記」に、「およそ源氏の氏神は、平野社を以って正と為すなり、八幡宮に於いては、清和源氏義家以来の事なり。」とあるのです。源義家とは、後の「八幡」太郎義家のことです。弟には、「新羅」三郎(源義光)がいます。源氏の名字に「八幡」や「新羅」をつける意味は何なのでしょうか。
「平野社を以って正と為す。」とは、源氏の氏神の本社は平野社ということです。それは、平野社は、百済系桓武天皇の祖先神を祀る高貴な所だからです。源氏が百済系桓武天皇の先祖神を祀るのは、何故か。それは、源氏も平氏も、基は百済系貴族だからです。その源氏と平氏の貴族達が、下人(武士)として雇った部族が、源氏が新羅の末裔であり、平氏が出自不明(フェニキア・インド軍事部族の末裔)の海洋民族であるわけです。
嵯峨源氏は貴族出であるのに対して、清和源氏は昇殿できる四位のものはほとんどいない、下級の武家源氏であるわけです。つまり、源氏といっても、平安時代では二種類あるわけです。それは、昇殿できる公家源氏と、昇殿できない武家源氏(鎌倉源氏)です。
その昇殿できない武家源氏の清和源氏の氏神が「八幡宮」である、と言う意味はなんなのでしようか。
戦いで勝ち残るための条件のひとつは、兵力と武器です。武器は、最新のハイテク技術で開発されていくわけです。ですから、戦いは、常にテクノロジーの戦いでもあるわけです。石器武器は、青銅器武器に敗れ、その青銅器武器も鉄器武器に敗れました。槍で武装した軍団は、弓矢で武装した軍団に敗れ、弓矢の武装集団も鉄砲軍団に敗れました。そのように、武器は戦いの勝敗を左右するための重要な要素なのです。ですから、最新式武器は、敵対民族に瞬く間に伝播していくわけです。
武器の伝播は、ひとを介しておこなわれます。ですから、武器の伝播経路を辿れば、軍団の侵攻経路の推測も可能であるわけです。
では、源平の武士集団が発生した時代、世界はどのようなうねりに翻弄されていたのでしょうか。
西暦571年、西アジアでひとりの偉大な男が誕生しました。その名はマホメットです。マホメットは神の啓示を受け、宗教を興すのです。それがイスラム教です。イスラム教は旧約聖書とコーランを信じる宗教です。そのイスラム教は、貴賎に関係なく誰にでも「平等」を説くことにより、戦争による貧困に喘ぐ下層階級の民に瞬く間に広がるわけです。それがサラセン帝国を興すエネルギーとなるわけです。
サラセン帝国は、やがてイスラム帝国となり、ササン朝ペルシャやインドのグプタ朝を飲み込んでしまうわけです。イスラム軍団に敗れたペルシャ軍団やインド軍団は、周辺諸国に敗走するわけです。そして、紀元八世紀には、イスラム帝国は、西は北アフリカから東はインドまでの大帝国に発展するわけです。
紀元八世紀後半、イスラム帝国の膨張に伴い、カスピ海(カザールの海の意味。)周辺で、草原ロード、南海ロードそしてシルクロードにより西(ヨーロッパ)と東(ウィグル・唐・新羅)との国際交易をおこなっていたカザール王国は、東ローマ帝国(キリスト教=旧約聖書+新約聖書)とイスラム帝国(イスラム教=旧約聖書+コーラン)に挟まれてしまうわけです。そこで、カザール王国の民は、生き残るための選択をおこなうわけです。その選択のひとつが、キリスト教でもなくイスラム教でもない、弱小宗教のユダヤ教(旧約聖書+タルムード)に改宗することにより生き残るわけです。しかし、改宗しない者達は、国際交易で得た莫大な財宝と伴に国際交易ロードの彼方に消えてしまうわけです。
紀元十世紀の東アジアに転じると、907年に唐が滅び、そして935年に新羅国が滅んでしまうのです。国が滅ぶ原因は、二つあります。それは、外国からの攻撃と、内側からの崩壊です。その二つの原因の根本は、経済です。国の経済がしっかりしていれば、国内統制も充分におこなうことができるし、武器や軍隊を調える事により外敵を防ぐことも出来ます。
西と東の交易をおこなっていたカザール王国の崩壊は、周辺諸国だけではなく、遠く極東の国々にも大きな影響を与えていたのです。
そのような激動する国際情勢の中に、百済系平安王朝は誕生したのです。
国が崩壊する少し前に、最初に脱出するのは、昔も今も同じです。それらは、権力者、高級軍人、祭祀者、金持ち、そして権力と何らかの関係があるひとたち等です。
奈良時代後半から平安時代初期にかけて、唐からインド高級僧侶達が多数渡来したのは、西アジアの国際情勢を、国際交易商人や諸外国を遊行する僧侶達からの情報で知って、イスラム教軍団がインド侵攻前に、唐に亡命していたからです。(イスラム教がインドで布教開始すると、やがて仏教は消滅し、「ブッダ」はヒンズー教の「ビシュヌ神の化身」になった。インド亡命僧が、日本国にカースト思想を持ち込んだ。インドの神々は七福神に変身して渡来した。)
そして、平安時代になると、新羅国も盛んに使節を送ってきたのは、実際は、朝貢ではなく、新羅国中枢の亡命打診であったのかもしれません。
では、平安貴族の「嵯峨源氏」に雇われた武士達は、何所から来たのでしょうか。
映画の「ラストサムライ」ではありませんが、日本国最後の武士として敗れたのは、明治10年(1877年)の旧薩摩藩でした。薩摩藩は、武士育成のための教育手段として、名門の美少年を「稚児様」として奉り、青少年に武士道の教育や戦の訓練をおこなっていました。
この「稚児様」を中心にした青少年への武士育成のための教育方法は、何所から導入されたのかと言えば、それは新羅です。五世紀の新羅では、「花郎」(ファンラン=弥勒の男=ミトラ神=戦の神)と呼ばれる貴族の美少年を奉じて、騎士道精神を教育し、青年武士団を形成していたのです。
薩摩藩の島津氏(鎌倉時代に改名)は、平安時代では惟宗氏を名乗り、五世紀に、新羅から渡来した秦氏を先祖としていたのです。ですから、新羅の文化は、秦氏をとおして、日本列島(「日本国」の表号は、七世紀から始まる。それ以前は、魏国から倭国と言われていた。)にもたらされていたのです。
日本国の中枢は、平安時代に、藤原氏の陰謀により、百済の亡命政権に乗っ取られてしまったため、敵国新羅の末裔による日本国における事績(新羅・秦氏の末裔の居住地名をニッポン語化してしまった。例えば、「トルファン」は諏訪。「ムクラ」は武蔵。「ジュジ」は住吉など。それらの旧地名は、騎馬民族の故郷の北東ユーラシアでの地名です。)を抹殺してしまったため、日本の武士道のルーツも全く分らなくなっていたのです。
百済(ペクチェ)は、西暦346年、北方ツングースから渡来した夫余や高句麗の末裔と、南海ルートからの渡来民族により建国されたようです。
それに対して、新羅(シルラ・シンラ)は、西暦356年、二つの異民族により建国されたようです。それは、天孫(征服族)三姓の朴(パク)、昔(ソク)、金(キム)と、六土姓(先住民)の李(イー)、崔(チュー)、孫(ソン)、鄭(チョン)、裴(ぺ)、薛(ソル)です。つまり、新羅は、日本国と同じに、天孫族による、先住民に対する征服王朝だったのです。
では、新羅国の、日本の武士道のルーツとなった騎士道精神は、どこからもたらされたのでしょうか。
新羅の王都慶州(キョンジュ)の155号古墳から、天馬の絵が発見されました。その天馬は、騎馬民族スキタイでは、ペガサスと呼ばれ、騎馬民族の族長クラスの馬につけられた名称です。つまり、新羅国の天孫族は、高句麗や夫余のツングース(東胡=トコ=常=常陸=ツングース族の渡来地。)とは異なり、スキタイ・シベリア系の騎馬民族であったのです。
紀元前六世紀、スキタイ(騎馬部族連合国)はペルシャ(騎馬部族複合国)と何度も戦をおこなっていたので、ペルシャの騎士道精神が、スキタイに受け継がれていたのでしょう。
日本の武士による、戦いにおける「名乗り」と「一騎打ち」は、ペルシャ騎士道の真似です。ペルシャの軍隊は、傭兵で構成されていたので、戦いに敗れると、国王は莫大な借金を背負い込むことになるのです。そこで考え出されたのが、全軍激突ではなく、一騎同士による戦いです。これならば、万が一敗れたとしても、負債は最小限にとどまります。
日本の武士道の発生ルート(ペルシャ→スキタイ→突厥→新羅)は分りましたが、では、嵯峨源氏の武士達はどのようにして渡来したのでしょうか。
子沢山の嵯峨天皇は、源氏姓の基です。つまり、嵯峨源氏が、全ての源氏姓の基締めであるわけです。天長八年(831年)、嵯峨源氏が初めて公卿になっても、天暦五年(951年)源等の死により、嵯峨源氏は政界の表舞台から姿が消えてしまうのです。
藤原氏の傀儡政権の百済系光仁天皇、桓武天皇、平城天皇までは、藤原氏のコントロールもよく効いていたようです。しかし、四代目の嵯峨天皇になると、人情も三代過ぎれば何とやら、の譬えのように、反体制側の秦氏の末裔の「空海」を都に呼び親しく交わるなど、桓武天皇時代ではありえないこともおこなわれたのです。ちなみに、桓武天皇は、百済の末裔の「最澄」(架空人物・「聖徳太子」の宣伝隊長。)を寵愛し、比叡山延暦寺を建立するわけです。
嵯峨天皇の、藤原氏を無視する行動に対して、藤原氏は、奈良の興福寺(710年藤原不比等が名付け親。)を拠点として、反撃に転じるわけです。それに対して、百済系比叡山延暦寺も対峙するわけです。
都では、延暦寺の僧兵と、興福寺の僧兵との諍いもよくあったようです。更に、延暦寺側(清水坂)と興福寺側(奈良坂)との、清目(穢れである怨霊を清める重役。しかし、鎌倉時代になると現物の汚れ物の清掃業務となる。古来、「モノ」とは、祟りと守護を兼ね備えた精霊であった。その思想も、仏教伝来により消滅。)のナワバリを廻っての争いも、頻繁にあったようです。
藤原氏の反撃は巧妙です。それは、藤原氏は、陰に隠れ決して攻撃の前面には出てこないからです。(イジメの原点)しかし、藤原氏の異民族支配のための基本戦略を知ってしまえば、その行動を予測する事が可能です。その基本戦略は三つです。それらは、「夷を以って、夷を制す。」「分断して、統治せよ。」「敵の敵は、味方。」です。
藤原氏は、天皇の反乱には、藤原の女を使い、摂政関白のシステムでコントロールすることができても、竹取物語(藤原不比等をコケにした物語)のセリフではありませんが、きたなき都の京で起こる多くの不吉な事件は別です。平安時代では、怨霊の祟りは、清目の武芸者により護ることしかできなかったのです。
そこで、朝廷や貴族達は、近辺護衛のため「清目の武芸者」を募るのです。それが、桓武平氏のライバル、嵯峨源氏の末裔の源綱です。(夷を以って、夷を制す。)源綱は、やがて渡邊綱と名乗り、清目として渡邊党を興すのです。渡辺綱は、清目の大将らしく、怨霊が具現した羅生門の「鬼」退治の伝説に登場するのです。でも、その鬼は、首を斬られるのではなく、腕を斬られ、後ほど、鬼が取り返すストーリーは、同族(清目)が同族(鬼)を退治するからでしょう。本当に、鬼を抹殺したいのならば、腕ではなく、首を落していたでしょう。(ペルシャの腰刀や日本刀の小刀は、敵の首を落すための武器です。ペルシャの騎士も日本の武士も首切りの伝統があったのです。21世紀のイラクでは、現在でもおこなわれているようです。)
名前は、「氏=血族」→「姓=階級」→「字名=地名」→「名字=個人名」と、時代と伴に変化したようです。
そこで、源綱が渡辺綱になったということは、「綱」が「渡辺」という地域に居住したということになるわけです。では、その渡辺の意味は何なのでしょうか。そのヒントは、渡辺党の組織は、松浦党の組織により構成されていたということです。
では、その松浦党とは、何なのでしょうか。その源は、北九州です。魏志倭人伝に出てくる末慮国が、松浦の元です。
松浦党は、海洋軍事部族(河川での船の運航には馬を使役。騎馬部族も構成員として存在。)です。松浦党の基本的考えは、「はじめてのものは後来者をこばまず、後来者は先住者をおしのけず。」との、渡来異部族との共存共栄関係樹立です。その考えにより、連判状の記銘順序も、部族の優劣に関係なく、くじ引きで決めるほどです。
松浦源氏においては、ギリシャ民主制のように、権力者(棟梁)への忠誠規定のない合議制の掟が支配していたようです。これは、藤原氏の支配体制とは全く異なる政治形態です。明治初期まで十三代続く、秦氏末裔の穢多頭の弾左衛門家も、世襲ではなく、頭は、各国組織の推挙による合議制で決められていたのです。
でも、松浦党は色々な渡来部族の連合体であるため、党内の争いを避けるため、「松浦党掟」を定めていました。それが、やがて武士道の心得の基に成っていったようです。
漢字は、それ自体イメージを内蔵しているため、その扱いにより、色々なトリックを考え出せるのです。ですから、王権側が、或は、自らが出自を隠すため、出身地名をある意味を持った「字」に置き換える場合もあるわけです。例えば、鮮卑(魏)=筑紫(ジュジ)=住吉(ジュジ)。匈奴=胸(ムネ)=宗像など。名前では、新羅国の貴族が日本国に渡来すると、朴=パク=ハク=シロ(日本名:白○、志○)、昔=ソク=セキ(日本名:関○)、金=キム=カネ(日本名:金○)に変身するわけです。
松浦は、「マズラ」、或はマがメに変化して、「メズラ」とも読めるわけです。そのメズラ地域を拠点に、日本地図をズームアウトすると、朝鮮南端の島、珍島が視野に入るでしょう。珍島は、チントウではなく、「メズラ」島であるわけです。玄海灘の対馬を挟んで、「メズラ」が対峙しているのです。何故でしょうか。
紀元32年、高句麗(コクリョ)が漢に入貢し、王と称し、そして、紀元ニ世紀に、朝鮮半島を南下するまでは、朝鮮半島南端と北九州とは、同じ文化圏であったのです。
それは、紀元前四世紀、海洋民族「越」に敗れた海洋民族「呉」の末裔が、黒潮に乗り北上し、対馬で西と東に分かれて上陸した所が、朝鮮半島南端と北九州であったからです。呉の末裔はそれぞれの地域に土着し、漢民族により、倭族(イゾク)と呼ばれていたのです。潮目が読める海洋民族には、玄界灘は庭先のようなものです。朝鮮半島南端と北九州では、倭族が頻繁に行き来していたことでしょう。
やがて、紀元四世紀、高句麗、百済、新羅の三国により、朝鮮半島での三つ巴の戦いにより、朝鮮半島南端の倭族は、同朋のいる北九州に押し出されてしまうわけです。追い出された倭族は、航海技術を利用して、半島と交易を始めるわけです。
北九州は、中国大陸から見れば、日本列島の玄関です。つまり、中国大陸の色々な民族、文化が訪れる最初の地であるわけです。と言うことは、京都より、北九州の方が、文化がより進んでいることになるわけです。
その北九州の地に、紀元五世紀、秦一族が新羅国より渡来するわけです。そこで興したのが「秦王国」です。
秦一族の渡来は、446年の北魏の廃仏令(主な原因は、戒律の乱れと現世利益の道教の隆盛。)による、200万人とも言われる仏教僧の追放が原因のひとつかもしれません。
秦氏の神は、仏ではありません。しかし、秦王国には、寺がびっしりと建立していたのです。それは、秦氏は、北魏で、鍛冶技術を駆使して、仏像の制作販売をしていたのかもしれません。秦氏は、仏像販売のための新市場開拓のために、仏教僧と伴に渡来したのかもしれません。
仏寺建造物は、クギを極力使用しない、組み立て式が多いようです。それは、移動に都合がいいからです。北魏で解体された仏寺や仏像は、倭族の船で玄海灘を渡り、秦王国に移築・移動されたことでしょう。
では、秦氏は、どのような神を祀っていたのでしょうか。それは、八幡の神です。では、その八幡神はどのような性格の神かと言えば、それは、鍛冶神です。
秦氏の神山は、香春岳です。その香春岳には、古い採銅所があります。香春とは、カル、つまり銅のことです。機織りで知られる秦氏には、鍛冶技術もあったのです。渡来する前は、加羅で鉱山の開発をおこなっていたのです。
鍛冶には、燃料としての大量の樹木が必要です。ですから、鍛治民族は、燃料を求めて常に大移動する運命にあるわけです。鍛治民族ヒッタイトの滅亡の原因のひとつは、燃料の多量消費のため、緑の山が禿山になって、鍛治に必要な薪が枯渇したからだと言われています。日本では鍛冶は、別名「タタラ」とも言われ、それは、中央アジアの「タタール」が語源とも言われています。
鍛冶は、火と風と水と金属をコントロールする秘術であり、神のチカラを必要とするため、神と交流するシャーマンの業でもあるわけです。そして、火をコントロールするのは鳥(火の鳥)であると考えられていたので、秦氏は、その鳥のシンボルを「鷹」としたのです。「鷹」は、「高」の字に置き換えられ、鉱脈が探索できるように「高」のつく山に、秦氏の神を祀ったわけです。例えば、高尾山、高巣山、高取山などです。
秦氏の神は、魔多羅神と言われています。新羅の花郎は、弥勒の男と言われています。弥勒の神は、山中の洞窟に潜んでいると信じられていました。そこで、弥勒の神に出会うため、花郎は、山岳修行するわけです。修行のため、山に篭るとは、弥勒の神との出会いを求めることです。
魔多羅神は、鍛治神でもあるわけですから、鉱脈探しのために、山の穴に祀られることもあるわけです。やがて、鉱脈探索の穴は、弥勒の神の住む穴にもなるわけです。ここに、魔多羅神と弥勒の神が出会うわけです。でも、その二神は、元々は同じ神であったのです。それは、ミトラ神です。
ミトラ神は、東の山から再生すると信じられていたのです。そのミトラ神とは、太陽神だったからです。西の山に死んだ(沈んだ)太陽は、次の日、再び東の山から再生するわけです。死と再生を繰り返す、太陽神(ミトラ神)は、死を賭して戦う、武士には、心の支えとしてなくてはならない神であったのです。その神を祀るのが、新羅から渡来した八幡の社であるわけです。
源義家が八幡太郎義家、そして、源義光が新羅三郎と自ら名乗るのは、八幡の神は新羅から渡来し、そして、源氏の武芸者も新羅から渡来したからです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/833.html
コメント [国際9] 安倍首相:「がくぜんとした」−米マグロウヒル教科書の慰安婦記述に  eco
12. 2015年1月31日 18:49:40 : RQpv2rjbfs
もう時効じゃん。ムキになって否定するのはアホだ、ヒトラーを弁護するようなものだ、弁護してどうする。

痒いとことろは掻けば掻くほど痒くなる、ほっとけと言っても認知症には理解できない、時間だけがこれを解決する。
http://www.asyura2.com/14/kokusai9/msg/861.html#c12

コメント [カルト14] 朝日・フジの取材協力者事故死、恐らく、ヒラ・マケ・ネタの誘拐詐欺に付き合うダマスゴミに呆れたのだと思います。 小沢内閣待望論
26. 一主婦 2015年1月31日 18:50:05 : rfKiZAFzfsBYA : xHs3coK7EM
>>25. eGvx4j6yq2さん

「スノーデンはCIAなのに」←あなたの、これ間違い。
正確には「元」CIAですね。アメリカのヤラセや不正を暴露している人です。
NSAの文書で暴露されました。

あなた、ウソを書き散らしてますね。スイスはISISに関係なし。

ISISは、米・英・イが作ったテロ組織集団です。
つまり「テロとの戦い」は、戦争利権集団のヤラセなのです。
今回の人質事件も、日本の自衛隊を使う為の、戦争に引き込むためのヤラセです。

「テロとの戦い」に騙されて戦争に巻き込まれてはいけませんね。
テロとの戦いに参加してはいけません。
日本は不戦の戦いを憲法で謳う「平和憲法」の国です。



http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/133.html#c26

記事 [近代史02] 神輿の黙示録(6)(鎌倉源氏の没落:何故三代で滅亡したのか)
日本刀は、「武士の魂」と言われているようです。しかし、「日本刀」は、明治時代に発明された言葉なのです。明治以前までは、直刀は「剣」(つるぎ)で、反りのある片刀は「太刀」(たち)と呼ばれていたようです。
源平時代の実戦主武器は、弓、薙刀、槍です。時代が下がって、戦国時代の実戦主武器は、鉄砲です。歴史上実戦闘では、首切り用以外は、太刀はあまり武器として使用されていなかったようです。それは、すぐ刃こぼれしたり、曲がったり、折れたりしたからのようです。
永禄8年(1565年)、十三代足利義輝が、松永久秀の謀反にあい、刀が折れたり曲がったりするから、名刀を何振りもとりだして応戦したことは有名な話です。いや違う、刀は実戦に使われていた証拠として、剣豪宮本武蔵は、多数の敵に対して、二刀流で応戦したではないか、と言っても、宮本武蔵は、江戸中期に浄瑠璃「花筏巌流島」で、架空の人物佐々木小次郎との対戦相手として登場したキャラクターであったのです。宮本武蔵とは、実在の放浪画家「宮本ニ天」と実在の肥後細川家の剣聖「新免武蔵」との合成人物であったのです。
では、実戦で主武器として使用されない反り刃の太刀が、何故に「武士の魂」なのでしょうか。
奈良時代から平安中期頃までに、刀は直刀から湾刀へ変化したようです。つまり、清目の武士達が登場した時期と同じ頃です。この時代の刀匠として、現在のところ、在銘最古は、伯耆国(島根県)の安綱です。安綱の作品としては、清目の大将渡辺綱が羅生門で鬼の腕を切ったと言われている、「鬼切丸」があります。
刀の学術書によれば、反りの発明は、徒歩戦から、馬上戦へと戦い方が変化したからだと説明されているようです。だとしたら、騎馬民族の蝦夷との戦いで、坂上田村麻呂は、何故に反り刀を使用しなかったのでしょうか。ちなみに、坂上田村麻呂は、自称、漢帝国の末裔と称していました。
どうも、反り刀(日本刀)は、実戦の武器として発明されたものではないようです。では何かと言えば、それは、怨霊との戦い(清目)で、武士の「魂を護る」ための武器であったようです。
平安時代は、源氏物語などによる平安文学の華麗な世界とは異なり、実際は、亡命インド僧達がもたらした魑魅魍魎のバラモン的世界観により、穢れや地獄などのオカルト世界に貴族達は埋没し、藤原氏の陰謀により呪殺されたひとたちの怨霊が渦巻く、おどろおどろしい時代であったようです。平安の都で、穢れや怨霊退散の祈祷が流行るということは、その需要があるということです。そこで登場したのが清目の武士です。武士による清目とは、「武芸」による「祈祷」でもあるわけです。その祈祷のパフォーマンスに使用されたのが、反り刀(日本刀)であったのです。そして、その清目の儀式の衣装として発明されたのが、豪華絢爛な鎧兜であったのです。その根拠として、この時代に、鎧は、錆びやすく重い鉄製(40kg〜70Kg)から、軽い漆塗りの総皮製に変化しているからです。(鉄砲が渡来してから、鎧は再び鉄製に戻った。)
その武芸者の嵯峨源氏が、天暦五年(951年)に源等の死と伴に、政界の表舞台から消えてしまい、それに替わり、武家の清和源氏が登場するのは何故でしょうか。
嵯峨源氏と清和源氏とは、同じ源氏でも、名前が一字と二字の違いからも分るように、身分が異なります。国風化までは、漢風の一字名の方が、二字名よりも挌上だったのです。
清和源氏の政界登場は、安和ニ年(969年)の安和の変からです。
安和の変とは、藤原師尹(もろただ)による陰謀です。藤原師尹は、村上天皇の次の皇位をめぐって、醍醐天皇の皇子左大臣源高明を貶めるために、源満仲(清和源氏)に「源高明が皇太子守平親王の廃位を図っている。」と密告させるのです。(藤原氏の第三者を使う手立ては道鏡事件とそっくりです。)それにより、藤原氏の有力敵は全て抹殺され、他氏族との権力闘争が終わりを告げ、これより後、摂政・関白を藤原氏が独占するわけです。そして、この手柄により、清和源氏の政界での基礎固めが確立するわけです。
清和源氏は、藤原氏と結び、武士として東国での地位を不動のものにするわけです。しかし、実際には、清和源氏は、清目としてではなく、藤原氏の手先としての軍事部族として利用されていくわけです。
そして、鎌倉源氏(清和源氏)の滅亡から、清目の内容が変化していく訳は何故でしょうか。
鎌倉時代以降、武家の基は清和源氏となっているようです。しかし、清和源氏の出自には謎があるようです。それは、清和源氏の系図に疑問があるからです。
系図とは、系図屋とは「嘘つき」の代名詞でもあるように、信用できるものは、ほとんど存在していないようです。万世一系の天皇家の系図も、四歳年下の第三十八代天智天皇が第四十代天武天皇の兄となっていることからも分るように、不確かなものなのです。
清和源氏の系図は、第五十六代清和天皇→貞純親王→源経基→源満仲→源頼信〜八幡太郎(源義家)・新羅三郎(源義光)、となっていくわけですが、安和の変で活躍した、藤原氏の配下となった源満仲(912年生)は、父親の源経基(917年生)よりも、五歳年上なのです。
更に、源満仲の年下の父源経基は、第五十六代清和天皇→第五十七代陽成天皇→元平親王の系列に属するとの説もあるわけです。つまり、清和源氏は歴史上存在せず、正しくは、「陽成源氏」である、との説です。
では、清和源氏の立役者・源満仲の出自はどうなのかと言えば、それが分らないのです。源満仲が、歴史上に現われるのは、平徳五年(961年)に京都の治安部隊の検非違使に加わるところからです。それも、49歳と決して若くない年代なのです。
その頃、京の都は、平将門の乱(承平5年・935年)と藤原純友の乱(天慶2年・939年)の後遺症により、平将門の手下が京に侵攻してくるとの噂で、大混乱していた時代なのです。
目を外国に転じると、935年平将門の乱が起こった時、935年新羅国は高麗により滅ぼされていたのです。日本国の争乱は、朝鮮半島の争乱と連動していたようです。
そのような都の争乱に、藤原氏の一族は何をしていたのかと言えば、文芸に励んでいたのです。藤原氏の一族は、佐藤(左兵衛府の藤原氏)、首藤(主馬寮の首の藤原氏)、近藤(近江の藤原氏)、尾藤(尾張の藤原氏)などが存在していたのですが、貴種は武人になりえず、の格言どうり、朝廷サロンで美女を相手に歌などを詠んでいたわけです。
優れた軍人になるには、幼年の頃から軍事訓練を行なわなければ、騎馬弓射などの高等軍事技術を習得できないわけです。ですから、京の都では、氏素性など問題にせず、軍事技術のある武士は、就職の口はいくらでもあったわけです。
戦国時代、何故、尾張国の部将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人が、数多ある戦国部将の中から頭角を現わしたのでしょうか。知力があったから、或は運が良かったからでしょうか。それは、海外との貿易港として、尾張国には桑名港があったからです。
戦闘は、兵力と武器との差により、勝敗が決まると言っても過言ではありません。つまり、武器弾薬、兵力の補充がより充実している軍団が、戦いの勝利者となるわけです。
織田信長は、イエズス会と組んで、鉄砲や弾薬の調達を行なっていました。更に、軍事顧問として、ジョバンニ・ロルテス(イタリア人。日本名山科羅久左衛門勝成。イエズス会宣教師オルガンティーノと伴に来日。聖ヨハネ騎士団に所属。キリシタン大名蒲生氏郷に砲術師として召抱えられる。蒲生氏郷没後日本国を去る。)を配下に置いていたのです。徳川家康は、ヤン・ヨーステン(1600年渡来。オランダ人。国際航海家。東京駅八重洲の名の基)を顧問として雇っていたのです。日本列島における戦は、飛鳥時代の古より、外国の軍事力の影響下にあったのです。実は、明治維新も水面下では、イギリス東インド会社(薩長官軍)とフランス東インド会社(幕府軍)との戦いだったのです。
そして、その戦国部将の出自は、三人とも不詳です。特に、自称平氏の豊臣秀吉は、いつ何所で生まれたのかも、分りません。自称平氏の織田信長は、先祖が神官だそうですが、四代先が分りません。ですから、武功を立てても、自称源氏の徳川家康(慶長八年・1603年)以外は、征夷大将軍にはなれなかったのです。
では、平安時代の「桑名港」はどこかといえば、それは、摂津国の浪速(難波)です。浪速(難波)は、飛鳥時代、西域から鍛治技術、灌漑技術、都市建設技術、土木技術などをもたらした秦氏により開拓された土地です。浪速は古くから、楼蘭(ロウラン)→楽浪(ロウラン)→筑紫(ジュジ)→浪速(ロウラン)→住吉(ジュジ)の国際交易ルートとして栄えていたのです。その、浪速(難波)の国際港がある摂津国の鍛治・産鉄部族が多く暮す多田荘(多田党はタタール族の末裔か?)から、49歳の源満仲が現われたのです。
平安時代の東アジアは、日本国の戦国時代のように、正に異民族が入り乱れた動乱の真っ只中であったようです。
907年の唐帝国の崩壊→916年の遼(契丹)の建国→960年宋の建国。935年新羅の滅亡→936年高麗の建国。目まぐるしく変わる王権。それに伴う臣民の離散と集合。そのような動乱期に、真っ先に国外逃亡するのが王族、貴族、金持ち、高級軍人など、国を支えていた支配層達です。そして、いつの時代でも、下層階級は、抹殺されるか、奴隷になるかの選択肢しか残されていないようです。
そのような時代に、五代十国の呉越国の天台山(中国本社)に、比叡山延暦寺(日本支社)の僧日延は、呉越国の国際交易商人蒋承勲(しょうしょうくん)の国際貿易船に乗って、呉越国と難波を往き来していたのです。
ちなみに、比叡山延暦寺は、百済系桓武天皇が最澄(日本国天台宗の祖・支社長)のために建立した寺です。
その流れから、比叡山延暦寺僧侶の法薬禅師が現われるのです。法薬禅師は、宋国の国際交易商人から大宰府役人への賄賂の融資を受けて、大山寺を北九州の借上活動(金融営業)の拠点としたのです。そして、宋の国際交易商人は神人(寺の奉仕人。本来は、神社の氏子。神仏混交により寺の使用人となる。)として活躍したのです。
平安時代から鎌倉時代に、比叡山延暦寺が日本国最大の金融業者となったのは、宋国との貿易活動と国際交易港がある北九州での金融業による荒稼ぎによるわけです。
主な輸出品は「真珠、水銀、硫黄、鷲の羽」です。輸入品は唐物の装飾雑貨類や羊やクジャクなどの珍しい動物です。その貿易の決済に使われたのが、陸奥国の金です。そのために、桓武天皇から始まる東北経営とは、蝦夷討伐を名目に、漢帝国の末裔の坂上田村麻呂などの傭兵軍を使役して、陸奥国の金の簒奪のことだったのです。その豊富な財産を保持した百済系延暦寺は、僧兵を組織して、興福寺と春日社を経営する藤原王朝と対峙するわけです。
藤原氏は、武家源氏の軍事武力を背景に、摂政関白システムを駆使して、京の都でやりたい放題を行なっていたのです。それは、藤原道長の、「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしとおもへば」、の歌が示しています。でも、藤原氏の栄華は道長が頂点でした。
それに対して、百済系後三条天皇が、藤原氏の摂政関白システムを排斥する、「院政」で対抗するわけです。その院政のシステムとは、天皇を社長と譬えれば、天皇が引退して、代表権のある名誉会長に就任し、皇太子を代表権のない社長にすることです。これにより、名誉会長は、社長をコントロールする藤原氏の呪縛から解放されるわけです。そして、その後三条天皇の院政システムは、白河天皇により完成するわけです。
しかし、白河天皇が、父後三条天皇から冷遇されたことが、後に、清和源氏に不幸を呼ぶのです。
後三条天皇の即位は、冷泉系王族に対して奉仕を忘れなかった武家の清和源氏に、好期をもたらすのです。それは、清和源氏の氏神である岩清水八幡宮の放生会に、後三条天皇が勅使を派遣したことにより、その氏寺が国家的地位を獲得したからです。そのことにより、源頼義、義家(八幡太郎)親子は、王権に奉仕する最大の軍事貴族としての地位を獲得したのです。
前九年の役(1051年)での勝利に対して、源頼義は、後三条天皇から褒賞を賜ったものが、後三年の役(1083年)では反後三条天皇の白河天皇により「私戦」と断定され、何の恩賞も受けることができなかったのです。しかし、その戦いで活躍した源義家の声望は全国に高まって行ったのです。
父後三条天皇に冷遇された白河天皇は、清和源氏に対抗する軍事部族を招聘するのです。それが、伊勢に根拠をもつ平正盛です。
伊勢の地は、古より、壬生水銀の国際交易港として栄えた所です。壬申の乱(672年)では、赤旗を掲げた海洋民族の外物部(高句麗・ツングース族と倭族の末裔)の軍事部族が、天武天皇軍として、百済系近江王朝に向けて出陣した所です。
出自不明の平正盛は、水銀の国際交易で稼いだ私財を武器に、白河天皇の愛娘の菩提を弔う六条院御堂に伊賀国の土地を寄進して、白河天皇に取り入って、平家栄華の道を拓いたのです。
更に、平正盛と忠盛親子は、白河天皇の「不義」の世界を主催する愛妾祇園女御にも取り入り、その院近臣としての地位を確立したのです。そして、平忠盛は、白河天皇の胤を宿した祇園女御を娶り、その妻が平清盛を産むわけです。このことにより、栄華を誇った源義家は、武家の棟梁の座から滑り落ちるわけです。
やがて、天皇家の内紛により、貴族の世界から、武家の世界になっていくわけです。それが保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)です。
保元の乱とは、後白河天皇方が平清盛・源義朝×鳥羽院方が源為義・源為朝・平忠正の戦いで、院方が敗れるわけです。
平治の乱とは、藤原信頼・源義朝×平清盛の戦いで、平清盛が勝利するわけです。これにより、武家平家の天下が約束されたわけです。この戦いにより、源義朝は殺害され、その子息の源頼朝は、伊豆に配流されるわけです。ここから鎌倉源氏が誕生するのです。
武家源氏は、新羅の末裔で構成されていたようです。では、武家平家とは何者なのでしょうか。武家平家の異質性は、宗教に対する態度に表れています。
白河天皇が、どうにもならないものとして、「加茂川の水(洪水)、サイコロ(賭博)、神輿・神木を担いだ僧兵の強訴」を挙げていたのに、1147年(久安3年)祇園会において、祇園社所司と平忠盛との争いに介入した、父平清盛は、所司を傷つけ、氏神様の乗り物である神輿に矢をつきたてたのです。更に、1172年(承安2年)平重盛が、伊賀国住人(平家の土地)と春日社の神人とが争った時、興福寺の僧徒が春日の神木を奉じて、伊賀国の住人の処罰を要求した時、これを武力で阻止したのです。更に、1183年(寿永2年)平重衡が、武家源氏の氏神を祀る八幡神社と関係が深い東大寺に放火して延焼させてしまうのです。
これらの神仏に対する態度から推測すると、武家平家には日本人のこころが宿っていないようです。これらのことが、武家平家は、インド傭兵軍の末裔といわれる所以です。それは、京の都の寺に鎮座している仏像の多くは、インドではバラモンの外道の神々であるからです。だから、それらの仏像や寺を蔑視し、崇拝の対象とはみなしてはいなかったのでしょう。
武家平家の国際性は、1173年の摂津兵庫島の築湾に現われています。平清盛は、平安時代の鎖国政策を無視して、宋国と貿易を行い、財貨を溜め込んでいたのです。その福原の港には、定期的に宋国の貿易船が入港していたのです。宋船が福原に入港の時、平清盛は後白河天皇を福原山荘に招いて、宋国の貿易商人を引き合わせていました。この掟破りは「天魔の所行」と言われていました。
平安京の神仏を崇拝しない平清盛も、瀬戸内海海賊が崇拝する海の神を祀る祠を大改造して、1168年安芸厳島神社を造営しています。それは、朱色のベンガラ染め(インドのベンガル地方から産出される赤色の染料。)にされた厳島神社は、従来の神社のコンセプトから全く外れた発想の建築物のようです。
やがて、1180年(治承4年)源頼朝が挙兵し、それが源平合戦の始まりと言われているのですが、腑に落ちないことがあります。それは、源氏軍に多くの平氏が参加しているからです。
そして、1192年源頼朝が鎌倉に幕府を開くのですが、1219年には源実朝が公曉に暗殺され、三代で鎌倉源氏は、身内の平氏の北条氏により滅ぼされてしまうのです。
更に腑に落ちない事は、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、秦氏の末裔、惟宗氏を藤原氏が経営していた薩摩国島津荘の地頭職安堵とし、「島津氏」を名乗らせ、そして穢多頭の弾左衛門頼兼には、石橋山の合戦で破れた源頼朝を救ったお礼として、「長吏」としての御墨付きを与えたことになっているのです。惟宗氏も弾左衛門頼兼も、摂津国出身です。そして、清和源氏の祖の源満仲も摂津国の出身です。
この鎌倉初期(鎌倉源氏滅亡後)が、日本国における民族的差別の発生の原点のようです。つまり、百済系日本人と新羅系日本人とのいがみ合いの発生です。その発生地は近畿の摂津国です。
663年に百済国が滅ぶと、亡命貴族が多数日本列島に渡来したのと同じように、935年新羅国が滅ぶと、多数の亡命貴族が同族である秦氏の末裔が暮している摂津国に渡来するわけです。
藤原氏は、源頼朝に平泉藤原氏を滅ぼされ、九州の藤原氏が経営する荘園を惟宗氏に与えたことにより、没落の一途に陥るわけです。しかし、本家の藤原氏は、島津氏と藤原氏得意の「乗っ取り戦術」である婚姻関係を作ることにより、百済系天皇を裏でコントロールしていたのと同じに、島津氏を裏でコントロールして生き残るわけです。それは、やがて明治維新へと繋がっていくわけです。
藤原氏は、新羅系天武天皇から、先祖藤原不比等が左遷させられた恨みから、新羅系日本人に対して良い感情を持っていなかったのでしょう。
藤原氏は、新羅系最後の第四十八代女帝称徳天皇が崩御すると、亡命百済貴族の光仁天皇を謀略で擁立したのです。そして、天皇家をコントロールするシステムとして、藤原氏と亡命百済貴族とで「公家組織」をつくるわけです。
更に、奈良の興福寺と春日社を経営することにより、宗教界も謀略の手先としてコントロールするわけです。
鎌倉時代初期、そのような謀略家の藤原氏により、百済系天皇を手先として、バラモン教思想の「穢れ」思想を武器として、新羅系日本人は賎民に落されていくわけです。
時代を少し遡って、摂津国の亡命新羅人を武家源氏として藤原氏が雇ったのは、百済系天皇が独自の武装集団を組織したからでしょう。そのひとつが、出自不明の平正盛の海洋軍事組織であるわけです。
嵯峨源氏と桓武平氏は、れっきとした天皇家の臣籍です。しかし、武家源氏と武家平氏は、唯の軍事傭兵団にすぎないわけです。つまり、天皇家の臣籍ではありません。
その天皇も凌ぐ軍事勢力となった武家平家を滅ぼす手段として、新羅亡命貴族による武家源氏であったのでしょう。つまり、藤原氏の基本戦略、「夷を以って、夷を制す。」です。ですから、1185年に壇ノ浦で平氏が滅ぶと、藤原氏にとって、鎌倉源氏は最早用はない存在であったのです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/834.html
記事 [近代史02] 神輿の黙示録(7)(貴族仏教の退廃と芸能民の黎明)
大乗仏教は、平安時代、敵対する道教徒や景教徒などの非仏教徒達を貶めるために、数々の妖怪を創作しました。そして、それらの信徒を仏教徒がコントロールするために、インドのバラモン教思想の「地獄世界」を布教しました。地獄とは、サンスクリット語やパーリ語の「ナラカ=奈落」を漢訳した言葉です。それは、地下の牢獄を意味し、仏教の教えに逆らう悪人が死後に落ちて苦しみを受けるところです。仏教渡来前には、地獄思想など、日本列島土着宗教にはなかったものなのです。
平安王朝は、そのように外来の仏教思想を道具として、敵対する道教や景教などの宗教組織を次々に壊滅して行ったのです。更に、まつろわぬ部族に対しては、侮蔑の物語を創作したり、蔑称をつけたりして、それらのことを仏教徒に布教させることにより、常民(主に農耕部族)から隔離させていったのです。
カッパは元々は、道教の水の神様でした。しかし、王権により、相撲好きの間抜けな妖怪に貶められてしまったのです。では、氏神の祭りに登場する助平で間抜けな「ヒョットコ」とブスの代名詞の「オカメ」の正体は何でしょうか。
産鉄・鍛治部族は、王権が最も警戒する部族です。それは、戦いの道具である武器を造ることができるからです。ですから、それらのまつろわぬ部族は、王権から真っ先に壊滅される運命にあるわけです。
祭りで神輿を担ぐ氏子達を調子者と言うそうです。延暦寺や興福寺の僧兵が、無理難題を朝廷に強訴する時、怨霊(体制側に対しての怨霊=被征服民族の氏神様)を封じ込めた神輿を手荒く担ぎそこらあたりを破壊活動する様に、氏子が年に一度の祭りだからと、日頃の鬱憤を祓うために調子に乗って(神輿を担いで)、破目をはずすと、その祭りの後に、その氏子達に王権から「調子に乗りやがって」、とキツイしっぺ返しが待っているのです。
神輿同士の喧嘩は、王権の望むところです。「夷を以って、夷を制す。」ことができるからです。祭りの喧嘩は、王権にとって年に一度の「ガス抜き」でもあるわけです。祭りの後の氏子は、元の被征服民族の立場に戻らなくてはならないのです。祭りの後の侘しさは、そのような歴史があるからでしょう。
「ヒョットコ」とは、「火男」のことで、産鉄部族の男の意味です。「オカメ」とは、産鉄部族の神様の「宇賀神」に奉仕する巫女(ウカメ)のことです。これが、氏神を祀る被征服民族の年に一度の神社のお祭りに登場する、オカメのホトを狙う助平なヒョットコ踊りの舞台裏です。
更に、王権は、産鉄部族を貶めるために、安来節の間抜け男(出雲国の八幡神を祀る産鉄・鍛治部族の末裔。日本書紀で「八俣オロチ」として貶められる。王権に追われ、北関東に逃れ氷川神社を祀る。)を創作するのです。安来節とは、「ドジョウすくい」とも言われています。一般人に認識されているのは、川魚のどじょうを捕る動作の間抜け踊りとされているようです。しかし、本当は、「ドジョウすくい」の「ドジョウ」とは、土壌の意味で、「ドジョウすくい」とは、「タタラ」のために川砂鉄を採取することなのです。
古来から伝聞されている物語や言伝えも、よく考えてみると、可笑しなことが多々在ることがわかります。そのひとつに、平家落ち武者部落伝説があります。一般的常識では、源平合戦の壇ノ浦で敗れた平家は、源氏の追討を逃れて山深く分け入り、そこに部落を造った、ということです。
しかし、よく考えてみれば分ることですが、海洋民族が、どうして山深く逃げ込まなければならないのでしょうか。普通、海洋民族の逃亡ルートは、山ではなく、海上です。たとえ、山奥に逃亡できたとしても、日々の糧はどのようにして得るのでしょうか。食性は、短期間に替えることはできないし、魚を捕るように、野山の動物を獲ることは簡単にはできません。
では、源平合戦後、山奥に逃れた武士達は、平家でないのならば、一体誰なのでしょうか。そのヒントは、氏神を祀る社にあります。桓武平氏であるならば、それは平野社(百済系桓武天皇の祖先神を祀る社。公家源氏も桓武平氏も同じ百済系臣籍。)でしょう。武家平氏であるならば、厳島神社系列の「海の神」を祀る社となるでしょう。
では、日本全国に存在する平家落ち武者部落には、それらの「海の神」を祀る社があるのでしょうか。それらの山里でよく見かける社は、八幡様か稲荷様が圧倒的でしょう。しかし、平家部落にそれらの神様を祀る根拠は、可能性としては無いでしょう。何故ならば、それらの神様は、元々は新羅国から秦氏により、日本列島に持ち込まれた神様だからです。つまり、それらの神様は、武家源氏の神様であるわけです。
八幡は、「ハチマン」ではなく、「ヤハタ=秦氏が栄える」です。そして、稲荷は、稲の神様ではなく、秦氏の祖先を祀る「塚→ツカ→ジュガ=稲荷」が、王権にとって、その神様は「夷なり=蛮族の神=イナリ」となるわけです。
では、何故に、鎌倉幕府を拓いた武家源氏(鎌倉源氏)の末裔が、山に追われなければならなかったのでしょうか。
それは、文覚=北面の武士(摂関システムにより天皇をコントロールする藤原氏の影響力排除のため、白河上皇により院中に創設された親衛隊。上皇の身辺警備、及び都の治安維持が任務。)であった遠藤盛遠という真言宗の修験僧の謀略によるのです。文覚は、後白河天皇の逆鱗に触れ、伊豆(イズ=夷が棲む処)に配流されていたのです。それは、後白河天皇は、平清盛の武力を背景に、朝廷を牛耳る藤原氏の勢力を都から排除しようと企てていたからです。その結果、我が世の春を詠った藤原氏も、都から追われ、一方は陸奥国の俘囚清原氏を取り込み、奥州藤原氏となり、もう一方は、南九州の薩摩国に隠棲するわけです。そしてこの藤原氏が、約六百年後、薩摩の島津氏を手先として明治維新を企画し、王政復興の号令の元、明治天皇をコントロールする近衛家として復活するわけです。
伊豆の文覚は、蛭ヶ小島という狩野川の中州(賎民の棲む処)に、前右兵衛佐・源頼朝の存在を知るのです。そこで、文覚は、後白河天皇を追い落とす前提として、武家平氏壊滅のため、平治の乱で北関東に敗走した武家源氏の蜂起を促すアジテーションをおこなうのです。そのために、源氏の頭として、源頼朝を担ぎ出したのです。
しかし、源頼朝は、軍事には疎い男でした。でも、その男を担ぎ出さなければ、関東一帯に先住していた物部氏の末裔の平氏の北条氏や平氏の千葉氏などの海洋民族の末裔では、武力に勝るインド傭兵団の武家平氏には対抗できないのです。都の武家平氏を打倒するには、武家源氏の騎馬軍団がどうしても必要だったのです。
源頼朝は、初めから軍事的に当てにされない存在だったようです。鎌倉源氏の初陣は、伊豆の代官山木兼隆を討ったことです。しかし、実際は、源頼朝は参戦せず、妻の父北条時政親子など身内数十名の殴りこみであったのです。つまり、源氏挙兵とは、文覚の脚本を基に、北条時政が演じたものであったのです。次の戦いの石橋山では、にわか軍団の北条軍団は、伊東祐親と大庭景親の軍勢に大敗を帰してしまうのです。しかし、源頼朝は、鎌倉党の一族の梶原景時の目こぼしにより(この時、弾左衛門=秦武虎が権五郎景政の片腕として、源頼朝の逃亡を援助した。)、安房に脱出するわけです。そして、その地の豪族千葉介常胤により、相模国鎌倉郷への進撃を勧められるのです。
そして、安房の地を出た時は、数十騎であったものが、穢土(江戸)湾沿いに安房国分寺→上総国分寺→下総国分寺と廻り、鎌倉の地に辿り着くと数万騎となっていたようです。その国分寺とは、反藤原氏の天武系(=新羅系)聖武天皇が741年から各国に建立したものです。
平安時代、武家平氏も武家源氏も、先住民からは歓迎されない部族であったようです。それは、居住地を調べれば分ることです。
平家一門が館を構えたところが、六波羅です。その六波羅とは、平安京の町中ではなく、鴨川をへだてた郊外の洛東の地であるのです。その地は、髑髏原と通称されるように、平安京の葬送地鳥辺野の一画であるのです。そして、その平家一門の館の近くには、弓矢町があり、「犬神人・つるめそ」と呼ばれる祇園社(インド祇園精舎からの借名。穢れ神の道教思想の影響による牛頭天皇=インド・武塔天神を祀る。明治維新での廃仏毀釈により八坂神社と改名。)の神人が棲んでいたのです。
更に、そこから清水寺に通じる坂は、清水坂と呼ばれ、清目の神人や白拍子と呼ばれる男装の遊女が棲んでいた処なのです。
では、武家源氏が、幕府を拓いた鎌倉はどうかと言えば、その地も、地獄谷の地名があるのからも分るように、葬送地であったのです。ですから、現在でも、鎌倉の地を掘ると人骨が多く見られるようです。
その鎌倉幕府が拓かれる前の領主は、鎌倉党の権五郎景政であったのです。権五郎景政は、産鉄民族、ワダツミの末裔です。鎌倉源氏が進出して来るまでは、伊豆、鎌倉、千葉などは、物部氏(高句麗の末裔。遊牧部族のツングース族と海洋部族の倭族との混成部族→北条氏・千葉氏)の末裔の古平氏の土地であったのです。(都の清盛平氏はインド系末裔)
その鎌倉の地に幕府を拓いた源頼朝も、頼家、実朝の三代で、古平氏の北条氏の陰謀により滅亡し、更に、北条執権に入ると同時に、鎌倉源氏の中枢であった、梶原氏、畠山氏、和田氏の一族は、ことごとく北条氏により抹殺されてしまったのです。
鎌倉時代は、武家源氏の活躍した時代と思っているひとがいるようですが、実体は、古平氏(物部氏の末裔)が統治した時代であったのです。
北条氏に追われたのは、鎌倉源氏の一族郎党だけではありません。源頼朝の庇護を受けていた鎌倉党の権五郎景政の片腕の弾左衛門も、警察長官の立場である長吏身分から、非人仕事の掃除人としての賎民へと落とされてしまうのです。つまり、ここから、長吏=賎民と身分が変化するのです。
そのような状況へ、更なる追い討ちが、それらの都を追われたひとたちに襲い掛かるのです。それが鎌倉仏教思想です。
平安時代末期から、荘園体制が、「御恩と奉公」の鎌倉武家の土地支配体制の守護地頭により崩壊したため、その経済基盤により、なんの労働もしないでぬくぬくと暮らしていた貴族、公家、都の大乗仏教僧侶達は、没落の一途を辿るわけです。
経済が崩壊すると、人心も崩壊するようで、貴族や公家への加持祈祷や寄付などを主な収入源としていた貴族仏教組織も戒律が乱れていくのです。悲劇の主人公源頼朝を担ぎ出した張本人の文覚(騎馬軍団の武家源氏により都から武家平氏を追い出した後、文覚上人となる。)は、高雄山神護寺再建の起請文のなかで、その貴族仏教の状態を次のように記述しています。

当寺の威を借りて、他人の田園や資財を押し取ってはならず、寺の大事にあらざるときに、私心にまかせて刀杖や甲冑を帯びてはならない。寺中においての酒宴、歌舞音曲等の遊興、囲碁双六将棋蹴鞠等の博奕を禁ずる。寺内に女人を泊めたり、魚鳥や五辛を持ちこんだり、猿楽や田楽の法師を入れたりしてはならない。

そのような「飲む、打つ、買う」の三悪禁制を掲げるということは、そのような僧籍者にあるまじきことを、京の都の仏寺で実際におこなっていたことの証明です。
そして、そのように堕落した京の都の貴族仏教に反発する若き仏教徒が、百済系比叡山延暦寺(日本国最大の金融業組織の頂点。織田信長の比叡山焼き討ちにより、市・座が延暦寺支配から開放され「楽市楽座」となる。)から鎌倉の地に現われるのです。しかし、それらの若き仏教徒達は、平安仏教思想の根本(バラモン教・ヒンズー教の差別思想を取り入れた平安大乗仏教思想)を良く理解していなかったため、結果として、本来は護るべきひとたちを、更に奈落の底に落とし込めてしまうのです。それが、インドのカースト制度思想です。そして、民族的差別用語の穢多は、この鎌倉仏教の布教と伴に日本全国に広められていくのです。
宗教に全く関心の無い多くの人達は、日本国は仏教国だと信じているようです。そのように信じ込んでいるのは、歴史教育の刷り込みが原因のようです。
その日本国仏教導入の歴史とは、538年百済の聖王が仏像と経論を日本国(歴史上、日本国は7世紀に誕生。それ以前は倭国。)に持ち込み、587年崇仏派の蘇我氏が、廃仏派の物部氏を滅ぼし、仏教を正式に導入し、聖徳太子が、603年秦河勝に仏像安置のための広隆寺(蜂丘寺)を建てさせ、仏教を日本国に広めた、と言うことです。しかし、このストーリは可笑しい。それは、聖徳太子は、以前に延べましたように歴史上実在しない人物だからです。では、大乗仏教は、歴史事実として、どのようにして日本列島に侵攻したのでしょうか。日本書紀一辺倒の教科書歴史では、そのことを解明することはできないでしょう。
仏教日本国導入物語のトリックを知るには、聖徳太子との関係が深い法隆寺の歴史を調べることです。現在世界最古の木造建築と言われている法隆寺は再建で、実は北九州の秦王国から移築された建物なのです。前法隆寺は一体どのような建物であったのでしょうか。仏寺であったとの証拠はありません。もしかしたら、それはミトラ神殿跡のキリスト教会の戦術であったのかもしれません。つまり、仏教伝来538年とは、近畿の飛鳥王朝ではなく、北九州秦王国への渡来であったのでしょう。
この聖徳太子の創作が、日本国乗っ取り戦略の陰謀において、現在でもこのトリックが多くの人に見破れないように、藤原不比等の冴がみてとれるのです。それは、ローマ帝国でのミトラ教を乗っ取り、そして、歴史上抹殺させ、キリスト教をローマ帝国に布教した戦略に通じるものがあるようです。
キリスト教は、392年にローマ帝国の国教になると、ミトラ教の教義や祝日(ミトラ神の誕生日=クリスマスの祭日)を取り入れ、そして、ローマ帝国全土のミトラ神殿を破壊尽くして、それぞれのミトラ神殿の上にキリスト教会を建てるのです。それらのことにより、百年もすると、ミトラ教は、ひとびとの心から消え去ってしまったのです。ですから、よほど宗教歴史に興味があるひと以外は、キリスト教以前に、ミトラ教がローマ帝国で栄えていたなどは知らないわけです。
秦氏は、五世紀に新羅国から渡来した、機織りだけではなく、産鉄・鍛治・灌漑・建築土木技術を持った複合部族です。そして、魔多羅神(ミトラ神)を祀る「景教=太陽神を崇拝」を信じる部族です。
秦氏が仏教徒ではない証拠として、明治元年(1868年)神仏分離令が明治新政府から発令され、廃仏毀釈運動が全国で起こると、真っ先に、秦氏の末裔が多く棲む、薩摩国(秦氏は時代がわりごとに氏名を変えるのは何故か。飛鳥時代は秦氏→平安時代は惟宗氏→鎌倉時代は島津氏。)では、仏寺がことごとく破壊されたのです。(現在の鹿児島県は、全国でも仏寺が最も少ない県です。禅寺は別。)
秦氏が仏教徒でないことは、広隆寺となる前は、十字寺(景教寺)と言われていたからでも分るでしょう。それは正に、ミトラ神殿の跡地にキリスト教会を建てた戦術と同じです。
更に、聖徳太子の登場は、蘇我王朝の抹殺のトリックとしては最高です。つまり、蘇我氏は、日本国に仏教を広めた聖人「聖徳太子」の一族を滅亡させた「大悪人」のストーリが完成するからです。
そして、仏教を日本に広めたと言われる聖徳太子は、平安時代、比叡山延暦寺の最澄により、大乗仏教のプロパガンダのキャラクターとして華々しく歴史上に登場するわけです。その訳は、延暦寺は、反新羅(秦氏)の百済系桓武天皇の支配下にあったからです。
そのような、反新羅(秦氏)の宗教施設で勉学した鎌倉仏教開祖の僧侶達(浄土宗=法然、浄土真宗=親鸞、日蓮宗=日蓮。時宗の一遍は、他の教祖とは異なる思想を持っていたようです。臨済宗や曹洞宗は、宋国直輸入の禅宗で、指導僧は日本語があまり理解出来なかったため、修行僧の質問に意味不明な答えをしたところ、それが「禅問答」として哲学的思考となり現在に至る。禅宗は、語学力不足のため菜食主義の差別思想を布教できなかったため、騎馬民族の末裔の武士達に受け入れられた。曹洞宗の教えは、「只管打坐=黙って坐るだけ」。)は、聖徳太子の実在性を信じ込み、更に、差別思想を含む「法華経」やバラモン思想の「輪廻転生」、「因果応報」、「地獄世界」を、仏教思想に無知な庶民達に吹き込むのです。
この時代に、富永仲基(1715年〜1746年)のようなひとがいたならば、鎌倉仏教も、結果として、賎民を苦しめることもなかったかもしれません。富永仲基は、江戸時代、大乗仏教の約六千巻の仏典すべては、文殊の徒により創作されたものであり、釈迦により説かれたものではない、と「出定後語」で論証したのです。
「輪廻転生」、「因果応報」、「地獄思想」、この三つの思想は、支配者による、被征服民族を永遠に統治する、強力な武器なのです。これらの思想は、紀元前十三世紀、アーリア人が、カスピ海周辺からインドに侵入し、先住民の牧畜部族のトラヴィダ人を永久に支配するために創作されたものです。それも、祭祀バラモンが、神(ブラーフマン・梵)から受け継いだ思想だと、先住民に刷り込むわけです。
更に、アーリア人支配を永遠にするために、血の階級=カースト制度を発明するわけです。それは、バラモン(司祭階級)、クシャトリア(王族・士族)、ヴァイシャ(庶民)、シュードラ(隷民)、そして、人間ではないセダラ(不可触選民)です。
釈迦は、賎民を苦しめるバラモン思想から賎民達を解放するために、輪廻転生を断ち切る手段として、出家し、乞食し、非人となるのです。その結果「無我」の境地に至り、他力本願の仏教思想(八正道)を発明したのです。しかし、残念な事に、釈迦の四姓平等思想には、最も仏の救済が必要なセダラは入っていなかったのです。
このセダラ思想が、鎌倉時代、インド仏教僧(バラモン・ヒンズー教僧)により、日本国に持ち込まれるわけです。「塵袋」に、「穢多とは、セダラのような悪人である。」が歴史上最初に記述されたもののようです。バラモン教にとって、セダラが何んで悪人になるのか、との根拠を言えば、屠殺をおこなうからなのです。
バラモン教徒は、菜食主義だから、そのように狩猟漁労民族とは異なる食性で暮すことができますが、農耕部族でない部族は、それではどのようにして暮らしを立てれば良いと言うのでしょうか。
結果として、平氏北条執権の秘密警察・六波羅探題による源氏一族抹殺を背景に、鎌倉仏教は、この菜食主義のバラモン教思想を武器として、武家源氏の騎馬民族(ペルシャ→スキタイ→突厥→新羅の末裔)を貶めることになってしまうわけです。
念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説、と他宗教を攻撃する日蓮宗の日蓮は、自らセダラの子と吹聴するわけですが、「仏敵はライ病者になる。」と宣伝する差別思想を含む「法華経」を、仏の救いが最も必要な賎民に布教してしまうわけです。
平安時代、天武天皇から奈良時代まで続いた新羅王朝を藤原氏の陰謀で乗っ取った、京の百済王朝は、新羅系日本人の神徒を貶めるために、ライ病者を清目部落に世話をさせていたのです。平安時代は、仏教は護国安堵の加持祈祷のビジネスのため貴族に擦り寄っていたので、セダラ・穢多思想が一般庶民に布教されてはいなかったのです。
鎌倉時代になると、海洋民族の末裔北条氏は、鎌倉源氏三代を抹殺すると、実権を握った源頼朝の妻政子は、尼将軍となり、武家源氏の氏神「八幡神」ではなく、武家平氏の氏神を祀る厳島神社の神を祀るのです。
清目部落は、奈良末期に百済・藤原氏に敗れた新羅・秦氏の末裔が棲む処です。その新羅・秦氏の氏神を祀る源氏の「八幡神」を、源頼朝の妻の尼将軍が支配する北条政権は、切り捨てたのです。
承久の乱(1221年)で、天皇支配から解放された鎌倉北条政権は、藤原氏と同じに、一門の勢力をふるうのです。その結果、都を追われた源氏・秦氏の末裔は、漂泊の芸能民として生きていくわけです。
その芸能民に対して、チャンスが訪れるのです。それは、1236年に、藤原氏が支配する奈良の興福寺の僧兵が、北条政権に盾を突いたからです。それは直ぐに鎮圧され、興福寺は、藤原氏から北条政権の支配下となり、その興福寺に支配されていた奈良坂の清目・芸能民は、藤原氏の支配から解放されたからです。
しかし、その芸能民の多くは、新羅・秦氏の末裔なのです。鎌倉執権は、源氏抹殺を狙う平氏の末裔北条氏です。そのような状況で、立場の弱い芸能民を護る組織ができあがるのです。その組織の頭が、源頼朝執権時代に警察業務の頭(長吏)であった弾左衛門となるのです。
奈良時代、藤原氏と桓武天皇により、本字垂迹説の武器に敗れ、仏門に下った氏神を祀る神人やその軍事組織である神兵の信徒達は、寺に隷属されてしまいましたが、平安時代になっても信徒達は秘密結社を構成し、神社ネットワークを維持していたのです。(童謡「とうりゃんせ」の歌詞の裏の意味は、裏社会に集う神人達の結社員の心情を謳っていたのです。)
藤原氏は奈良の興福寺により奈良坂の清目部落を支配し、百済系天皇は比叡山延暦寺により京の清水坂の清目部落を支配していたのです。
そのような京都と奈良との清目部落支配のバランスを壊す天皇が現われるのです。それが、後白河天皇です。後白河天皇は、上皇になると、藤原氏の天皇支配システムを壊滅するために、歴代の天皇のように藤原の女ではなく、側室に遊女(後の従二位丹波局。没するまで寵す。)を迎えるのです。そして、遊女に皇子を生ませると、その皇子を六十三代天台座主・承仁法親王にしてしまうのです。更に、藤原氏の息の根を止めるように、平清盛を使い、その子の平重衡に奈良の東大寺と藤原氏経営の興福寺を破壊させるのです。
この時、藤原氏に隷属していた秦武虎(はたぶこう=弾左衛門)は、産鉄・鍛治部族の同族である鎌倉党の権五郎景政を頼って鎌倉に逃亡することになるわけです。そして後、前述したように、石橋山の合戦で敗れた源頼朝に遭遇することになるわけです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/835.html

コメント [原発・フッ素41] <食べて応援>キリンビールが福島の桃を使った「氷結」を発売へ!「福島の農業を応援し、福島の豊かな恵み、おいしさを伝える」 赤かぶ
14. 2015年1月31日 18:55:35 : 1ioo7h1uY6
■このたびキリンビールkkは

 低所得者向け商品として

 放射能添加モモ・チューハイ

 「氷結」を発売致しました

 高額所得者の方々には

 チュウハイや発泡酒とか第3のビール

 などの『安かろう悪かろう商品』じゃ〜なく

 今後とも引き続きビールのご愛飲をお願い致します
 
 尚 ビールの製造に当っては

 放射能の混入を出来るだけ避けるよう

 注意を払っった製造を心掛けております

         ―キリンビール 社長―



http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/734.html#c14

コメント [政治・選挙・NHK179] 「日本人記者を誘拐せよ」 「イスラム国」支持者らネットに書き込み 横行する人質ビジネス(ZAKZAK) かさっこ地蔵
02. 安倍ヤラナイカ 2015年1月31日 18:56:09 : EuG0FRbnMbsR6 : ZzwMOgOglc
どうぞどうぞ、NHK ・読売・サンケイ等々よりどりみどり、
て言うかまとめて持ってって下さい邪魔かとお思いますが。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/127.html#c2
記事 [近代史02] 神輿の黙示録(8)(芸能民とは何か:平安時代の遊女は、何故読み書きできたのか)
イジメを回避する最上の戦略は、イジメられる側から、イジメ側に寝返ることです。
日本国のイジメの陰湿性は、首謀者は表に出ず、イジメを実行する者が、元イジメられ側の者であることです。そのイジメのルーツは、平安時代に流行したゲームに現われています。そのゲームとは、将棋です。
将棋は、紀元前三世紀、古代インドの四人制のチャトランガと言われるサイコロ将棋が基本となっているようです。そのチャトランガが西に向かいチェスとなり、そして、インド→東南アジア→中国へと東進して、奈良時代、遣唐使の吉備真備が日本国に持ち帰ったと言われています。
その将棋が、平安時代に、仏寺での賭博として貴族間に流行ると、他国の将棋ルールと異なってしまうのです。それは、敵側の兵隊は、抹殺することなく、味方の兵として再生して、元味方側を再攻撃する兵となるのです。つまり、この平安時代に発明された新ルールの日本将棋は、藤原氏の異民族征服戦略の「夷を以って、夷を制す。」をゲーム化したもののようです。
そして、この日本版将棋ゲームには、負けた王様を貶める仕掛けもあるのです。それは、敵側に、味方の兵を奪われ、その元味方の兵士が追い立てて、王様を隅に追い詰める戦術を「雪隠攻め」と言うのです。雪隠とは、鎌倉時代に宋国の禅宗が日本国にもたらした「便所」のことです。平安時代までは、家に便所なるものは存在しませんでした。貴族達は桶で用をたしていたのです。ですから、平安時代の家は、臭気がきついのでインドの香木は、貴族社会では生活の必需品であったわけです。庶民は、川に小屋(川屋・かわや→厠)を作り、用をたしていたのです。
大乗仏教の浄不浄思想では、便所は「不浄」であるわけです。ですから、仏教徒は、便所のことを、「ご不浄」というわけです。(浄不浄の思想を持たない日本土着の神は、便所にも鎮座していた。)その不浄場所である「雪隠」で、敵の王様は最後を遂げることになるわけです。つまり、敗れた王様は、不浄の穢れ者に貶められてしまうわけです。そして、最後まで敗れた王様に忠誠を誓った臣民も、穢れ人に貶められてしまうのです。
しかし、そのように最後まで敗れた王様に忠誠を誓う臣民は、希のようです。味方の旗色がわるくなると、寝返るのが日本の武士の平均的生き方のようでした。つまり、「勝ち馬に乗る」ことが、武士の処世術であったようです。
源平合戦でも、古平氏の北条・千葉氏は、平氏のシンボルカラー赤旗ではなく、源氏のシンボルカラー白旗を掲げて、武家平氏に戦いを挑んでいたのです。平家滅亡への、屋島の合戦、そして壇ノ浦の合戦敗北の原因のひとつは、瀬戸内海の海賊達の、平家から源氏への寝返りだったのです。
「神仏の戦い」と言うと、一般的に、六世紀の廃仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子との戦いを思い浮かべることでしょう。しかし、その戦いは「ウソ」です。何故ならば、その戦いに、敵将巨人ゴリアテを投石で倒す少年ダビデのような、十四歳の「聖徳太子」が登場することで証明できるでしょう。
では、「神仏の戦い」とは何でしょうか。それは、新羅系天武天皇が崇拝した「道教の神」と藤原氏が導入した「大乗仏教の仏」との戦いであるわけです。(日本書紀には道教渡来の記述は皆無です。446年、北魏では、戒律の乱れた大乗仏教は、廃仏令により現世利益の道教に駆逐されたのです。中国大陸では、大乗仏教と道教は敵対関係にあったのです。しかし、中国大陸の民衆は、その宗派の区別がつかなかったようです。)
天皇家の神の祀り所が、神話時代から伊勢神宮と思っているひとは多いようです。しかし、それは違います。それは、天武天皇が、672年壬申の乱で活躍した赤旗を掲げる海洋民族の外物部氏(都を追われた物部氏)の神を祀るために建立したのが、伊勢神宮であるのです。つまり、685年が伊勢神宮式年遷宮の始めとなるのです。それまでは、都を追われた外物部氏の神は、畿内を彷徨っていたのです。
しかし、686年に天武天皇が崩御すると、天武天皇に左遷された藤原不比等が、天武天皇のお妃の、百済系天智天皇の娘の持統天皇(日本初の火葬された天皇。)を懐柔して、藤原氏が支配する中臣氏により、伊勢神宮を乗っ取ってしまうのです。そして、中臣氏は、ユダヤ教の儀式に似た、中臣祓えの中臣神道を発明するわけです。神話時代から神道が存在している、と錯覚しているひとは多くいるようです。日本神道は、仏教・道教思想を取り入れて開発されたようです。それは、「穢れ思想」はヒンズー教化仏教により日本国にもたらされたからです。その穢れ祓え(禊)の儀式をおこなう中臣神道(中臣祓えは、ユダヤ教のヨムキプルに酷似。)は、日本土着の宗教とは異質です。日本古来のあらゆるモノに存在する精霊の「カミ」「モノ」思想には、「穢れ=不浄」など存在しないからです。塩や水による禊は、ユダヤ教の儀式。日本の宗教関係が歴史的に理解できないのは、日本版レビ族の藤原氏の陰謀により、大乗仏教と中臣神道により、日本古来の「カミ・モノ」の精霊、そして、道教、景教を、ミトラ教の儀式を取り込んでキリスト教に摩り替えたように、隠蔽してしまったからです。
もしも、天武天皇崩御後も、伊勢神宮が天皇家の祀り所であるのならば、769年の道鏡事件の時、和気清麻呂は、九州の宇佐八幡宮ではなく、伊勢神宮に託宣に行かなければならなかったでしょう。
更に、百済系桓武天皇から明治天皇になるまでの約千年間、歴代の天皇が伊勢神宮にお参りに行かなかったのは何故でしょう。それは、天武天皇が建立した伊勢神宮は、天皇である北極星の「太一」を祀る道教の「観」であったからです。だから、現在の天皇家は、天武天皇系の天皇を祀ってはいないようです。
女帝称徳天皇まで続いた天武王朝の臣民は、770年、藤原氏による「夷」の百済亡命貴族達により乗っ取られ、平安時代の光仁・桓武王朝となり、貶められていくのです。
日本将棋のルールによれば、敗れた王様は、「雪隠詰」となり、穢れてしまうのです。そして、勝者の王様にまつろわない、敗者の王様の臣民達も穢れてしまうのです。
鎌倉時代に発明された賎民への蔑称「穢多」の頭・弾左衛門は、その賎民達を統率していました。その統率していた賎民達のプロフィールは、治承四年(1180年)源頼朝が秦武虎(弾左衛門)に与えたと言われている「頼朝公の御朱印」に記述されています。それは、六代目弾左衛門により、賎民支配の正当性を訴えるため江戸町奉行に提出されたものです。

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏

                  弾左衛門頼兼へ
頼朝御判

この御朱印書の信憑性は、風呂屋は鎌倉時代にはなく、江戸時代に開発されたものであることから、疑われています。しかし、賎民の史料は、王権から焚書されない公家史料と異なり、多くは存在していないので、御朱印書は鎌倉時代の賎民の職業を推測するには充分な史料と思われます。
それらの職業から推察されるのは、その賎民一団は、「国を護る軍事組織」であったようです。それは、「皮」は中世では重要な軍事物資であったからです。皮は、武器や鎧兜の防具や馬具を作るには必需品であるわけです。鋳物師は、槍や太刀などの戦闘用武器を製造できます。弦差は、武士の重要な武器である弓の弦を作る人です。王権に貶められて犬神人・つるめそとなる。石切(石工・メーソンの技術は古代エジプトに遡る。)や壁塗は城作りに必要です。渡守や山守や関守は、国を護る情報の管理者としては無くてはならない存在です。異部族の臣民を統率するには、「祀り」が必要です。その祀りには、陰陽師(占い、加持祈祷をする者)や舞舞(謳い踊る者)、猿楽(能の祖)、鉢たたき(念仏踊り)、獅子舞、傀儡子(人形回し、今様を唄う女)、傾城(ケイセイ・遊女その元は巫女)などの神様を楽します「芸」が必要です。更に、臣民の日常生活に必要な物を作る、土鍋師、笠縫、土器師、鋳物師、箕作、青屋(藍染め師)などの職業はなくてはならないものでしょう。
そのように、弾左衛門が統率する賎民一団は、社会の落ちこぼれなどではなく、戦いに敗れたが、プライドを捨てて寝返ることなく、更に、王権にもまつろわないで、生きる道を自らの力で開拓する技術を持ったひと達であったのです。
戦いに敗れた者達に待っていることは、その社会からの追放です。「漂泊・放浪」は追放から始まるのです。日本国で始めて追放されたことを記述されたひとは、スサノウです。スサノウの追放状況を日本書紀では、次のように記述しています。

時に霖(ながあめ)ふる。スサノウの尊、青草を結束ひて笠蓑として、宿を衆神に乞ふ。衆神の曰、「汝はこれ躬の行濁悪しくして遂ひ謫めらるる者なり、如何にぞ宿を我に乞ふ」といひて遂に同に距ぐ。是を以て、風雨甚だふきふるといえども、溜り休むことえずして、辛苦(たしな)みつつ降りき。

日本版聖書である日本書紀の神話(ギリシャ神話に酷似)での悪役のスサノウとは、百済国の敵国新羅の皇子なのです。そのスサノウは、神々の国(藤原氏の支配圏)から、豪雨のなかを笠と蓑ひとつで、鬚を切られ爪を剥がされ(武装解除され)追放されるのです。
このスサノウの姿とオーバーラップするのが、昭和の団塊生まれの人なら、TV時代劇渡世人ドラマ「木枯らし紋次郎」(竹細工の技術を持つのは、ササラ部族の末裔か。長楊枝が武器。)の編み笠とカッパをひるがえして、雨の中当て所も無く荒野を目指す後ろ姿でしょう。つまり、スサノウは、渡世人の標準スタイルの編み笠にカッパ姿で追放されたのです。ちなみに、役座が祀る「神農様」も、蓑笠姿です。そして、「蓑と笠」は、百姓などが勝手に作ることができない、弾左衛門の一族しか制作できない、神事に関係する神聖なものなのです。
では、弾左衛門の一族は、どのようにして王権から追放されたのでしょうか。それは、秦氏の氏名の時代ごとの秦氏(飛鳥・奈良時代)→惟宗氏(平安時代)→島津氏・弾家(鎌倉時代)の変換にヒントがあるようです。つまり、追放された者による出自隠しです。
飛鳥時代の秦氏は、蘇我氏の下で、土木・石工技術を駆使して、ペルシャ式庭園や石を敷き詰めた軍事道路や石垣で囲んだ城柵(「城」とは、建物ではなく、土を盛り立てた塀のこと)構築などに従事していたのでしょう。
飛鳥時代の秦河勝などは、山背国に、チュルク系騎馬民族の末裔の蘇我馬子(聖徳太子)に、ローマ軍の軍神ミトラ神(弥勒菩薩)の安置場所を依頼され、景教寺(広隆寺)を建立するほどの権勢を誇っていたのです。しかし、山背国の太秦の「スグリ」であった秦河勝の墓は、その山背国にはなく、大阪の寝屋川にあるのです。これは可笑しい。
その意味は、645年の藤原氏と百済系亡命貴族による叛乱で、飛鳥の蘇我王朝が壊滅したため、蘇我氏の臣下である秦氏一族(エフライム族→イスラエル民族)が、藤原氏(レビ族→ユダヤ民族)により飛鳥の都(エルサレム)から追放されたからです。
秦氏については色々な謎があります。そのひとつとして、五世紀に朝鮮半島から色々な先進技術を持込んだ集団なのに、何故王権の中枢ではなく、下位の位置に居たのか。そして、鎌倉時代に穢多と差別され、江戸時代、国学者から、弾左衛門一族は、異形の異民族と言われたのか。その謎を解くヒントは、秦氏が渡来した時期(五世紀)の新羅にあるようです。
新羅については、ツングース系の高句麗、百済と同じ民族であり、そして、シルクロードから渡来した仏教の国である、と思っているひとが多くいるようです。しかし、それは違います。中国大陸での南北朝時代の南朝の梁(502年〜557年)の国書「梁書」の緒夷傳によれば、新羅は、高句麗と百済とは全く異なる文化であったようです。

服牛乗馬。男女有別。某官名、有子賁旱支、齋旱支、謁旱支、壹告支、奇貝旱支。其冠曰遺子禮、襦曰尉解、袴曰柯半、靴曰洗。其拜及行與與高驪相類。無文字、刻木爲信。語言持百濟而後猛焉。

新羅には、「文字が無い。」と言うことは、何を意味しているのでしょうか。それは、「漢字」の文字が無かったと言うことです。では、新羅では、何語が使用されていたのでしょうか。
朝鮮民族の形成は、日本民族の形成と同じに、謎が多く存在します。その謎を解くヒントは、三世紀から六世紀の渡来民族の移動にあるようです。朝鮮半島の民族は、大きく分けると二つです。それは、北の朝鮮民族と南の韓民族です。
朝鮮民族の始まりは、紀元前五世紀の春秋時代から紀元前三世紀の戦国時代の燕に隣接する箕氏朝鮮が始まりのようです。しかし、箕氏朝鮮は、中国人の国です。その箕氏朝鮮も、紀元前194年衛氏朝鮮に滅ぼされてしまうのです。そして、その衛氏朝鮮も、紀元前108年に漢の武帝に滅ぼされてしまい、その地は中国人の直轄地としての楽浪郡などの四郡を設置されてしまうのです。つまり、北朝鮮は、長らく「中国人」の国で中国文化が営まれていたのです。その地に、紀元前一世紀の北からツングース族が渡来し、高句麗を興すのです。
では、南朝鮮半島の韓民族はどのようにして渡来したのでしょうか。紀元前473年、華南の海洋民族国家の呉は、海洋民族国家の越に滅ぼされてしまいました。その呉の難民の多くは、大型外洋船で黒潮に乗り、遼東半島、朝鮮半島南、そして北九州に上陸するわけです。それらの渡来民族は、中国権力から、倭族(いぞく)と呼ばれるわけです。
その後、紀元前334年、越も楚に滅ぼされ、その難民の多くは、大型外洋船で黒潮に乗り、呉の難民と同じコースを辿るわけです。しかし、呉の植民地に上陸できない難民達は、更に北を目指し、日本列島に越の国々を興すのです。
中国大陸の遼東半島に居住していた倭族は、内乱を逃れるために、朝鮮半島南端に移住すると、その民族は、韓族と呼ばれるわけです。つまり、倭族と韓族は、呉か越の末裔の同族であるわけです。
そのように、北の中国人とツングース族による朝鮮民族と、南方系海洋民族の末裔の韓民族とは、四世紀半ばまでは、高句麗と韓(馬韓・弁韓・辰韓)の国々とで分かれていたわけです。しかし、346年、モンゴル系(モンゴル語は、古代シリアの国際語であるアラム語の流れにある。オリエントと中央アジアは、国際交易商人達により交流があった。)の夫餘族が、馬韓を乗っ取り、百済を興すわけです。つまり、百済とは、倭族と韓族の先住民を征服した、渡来王朝なのです。
では、356年に建国の新羅は、どのような民族なのでしょうか。
382年、新羅の初代の奈勿王は、前秦(351年〜384年)に遣使を送るのです。その前秦の国書「秦書」に、新羅の使者にたいして、「今の新羅は古とは同じではないのは何故か。」、と前秦王の符堅(=大秦天王・テンノウ。天王とは騎馬民族の王様→騎馬民族が日本に渡来し、大海皇子が七世紀に日本歴史上初の天皇となる。)が問いただしている文書が残されています。それは、前の辰韓の文化と、356年建国の新羅の文化の違いを、符堅は聞いていたのです。
その謎は、「奈勿王」に隠されています。奈勿王は、前秦には、新羅王楼寒(ローカン)としているのです。サンスクリット語(古代ペルシヤ語と文法と発音が酷似。しかし、文字は異なる。紀元一世紀、忽然と現われた法華経の仏陀説話と新約聖書のキリストの説話とが酷似しているのは、古代ペルシャ語とサンスクリット語とが酷似していることと関係がありそうです。)で、「世界」と言う意味です。
しかし、新羅王楼寒は、新羅国内では、奈勿王としているのです。それは、朝鮮語では、ローカンの「L」音は語頭に立たないからです。では、奈勿は、朝鮮語でどのように読むのでしょうか。それは、「nam−oel」です。「nam」とは、異邦人の意味です。新羅の王は、倭族や韓族ではない異民族であったのです。
つまり、四世紀から六世紀までの新羅も、夫餘族の征服王朝の百済と同じに、倭族や韓族の先住民に対する征服王朝だったのです。では、新羅の奈勿王(楼寒)とその渡来一族は、何族で何所から来たのでしょうか。
中国大陸での輸送は、「南船北馬」と言われているように、南中国では「船」が主な輸送手段で、北中国では「馬」が主な輸送手段であるわけです。
では、朝鮮半島での輸送手段は、何だったのでしょうか。南朝の梁の「梁書」によれば、新羅では「服牛乗馬」とあるのです。つまり、牛を使役し、臣民は、馬に乗っていたわけです。これは、高句麗と百済との生活様式が異なっていたので、梁書に記述したのでしょう。
更に、新羅が、朝鮮半島の高句麗と百済との文化が異なるのは、528年まで仏教が公認されていなかったのです。では、356年から528年までの新羅は、どのような文化を保持していたのでしょうか。中国古代史の基礎知識のあるひとには信じられない事ですが、四世紀から六世紀中頃の新羅は、どうもギリシャ・ローマ文化国家であったようです。
このことは、由水常雄氏著書の「ローマ文化国家−新羅」に、慶州古墳発掘物を基に、新羅がギリシャ・ローマ文化を保持していたことが、理論整然と述べられています。
新羅の古墳は、石室を持つ高句麗や百済と異なり、大きな穴を掘り棺の回りに川石を積み上げ、土を被せ小山にするわけです。この古墳は、「積石木槨墳」と呼ばれているものです。この古墳様式は、スキタイの流れをくむ騎馬民族特有のものです。
そして、新羅の埋葬物は、高句麗や百済の古墳埋葬物にはない、多くのギリシャ系王冠、ネックレス、耳飾、ブレスレットなどの金製品やローマン・グラス(紀元前27年ローマ帝国誕生から476年西ローマ帝国滅亡までのガラス器の総称。新羅へのローマン・グラスの渡来ルートは、古代シリアで四〜五世紀生産→クリミア半島ケルソネソス地方→ロシヤ・草原ロード→高句麗→慶州)があることです。
では、高句麗や百済の古墳から出土しない金製品は、どのような民族により新羅慶州に渡来したのでしょうか。
騎馬民族は、ヘロドトスの「ヒストリア」や司馬遷の「史記」に述べられているような、狩猟や略奪を行なうだけの野蛮な民族ではありません。交易や貿易も主な経済活動であるわけです。つまり、国際交易商人の顔も、騎馬民族にはあるのです。
騎馬民族スキタイ(紀元前7世紀〜紀元前3世紀)は、中央アジアの黒海・南ロシアの草原地帯に、部族同盟国家を興すのです。そこで、黒海北部に勢力を張るギリシャ植民都市と交易を始めるわけです。スキタイは、ギリシャから金銀製品・青銅器・オリーブ油などを「金」との交換で交易を行なうわけです。
スキタイの交易品の「金」は、南ロシヤのアルタイ山脈から多く産出していたのです。モンゴル語(シリアの国際語アラム語の流れにある。)で、「金」は「アルタン」と言います。アルタイ山脈とは、「金」が産出するところから名付けられたわけです。
そのスキタイの墳墓から、ギリシャ製の金の装飾品や飲食器の莫大な量が出土されていることは、スキタイとギリシャとの交易が頻繁に行なわれたことを示唆します。その金製品製造所があるギリシャのマケドニアは、紀元前146年にローマ共和国の属州となってしまうのです。
紀元前一世紀、ローマ共和国はアウグスツスによりローマ帝国(大秦)となり、オリエントの二世紀のパルチア王国、四世紀のササン朝ペルシャ王国と対峙するわけです。そのオリエント諸国との戦闘で、オリエントの神々をローマ帝国に勧請するわけです。それは、ローマ軍には取り立てて強力な宗教がなかったからです。
ローマ帝国に取り入れられた宗教は、大地母神イシス(キリスト教で聖母マリアとなる。)、デア・シリア女神、マルス神、アシュート大女神、キュベレ神、グノーシス各派、ユダヤ教、キリスト教、そしてミトラ教(ラテン語でミトラス教)などです。
では、新羅慶州の古墳からの武器出土には、どのようなものがあったのでしょうか。多くの武器の中で特徴的なものは、中国武器には少ない騎馬戦用の鉄製の闘斧です。それに騎馬戦用の短い弓です。そして、中国系高句麗軍や百済軍にはない馬面甲や馬全身を被う馬甲と、異なる甲冑や脛甲などです。それらの新羅の埋葬武器から推測されるのは、ローマ軍や匈奴軍(スキタイより騎馬戦闘を習得。)などの北方騎馬民族の新羅への渡来です。 356年に建国の新羅の文化が、辰韓の文化と異なるのは、ギリシャ・ローマ文化を持った民族の渡来を示唆しています。
では、新羅が528年まで仏教公認していなかった訳は、どのように推測できるのでしょうか。
新羅の青年戦士団は、「花郎」と呼ばれる美少年の下に結束し、戦闘に赴いていました。その「花郎」とは、「ミロクの男」と言う意味です。ミロクとは、漢語訳で「弥勒」で、その元は、「ミトラ」です。ミトラ神は、ローマ帝国軍の軍神です。
国家の宗教が、異なる宗教と取り替えられるということは、支配者の交替を示唆しています。528年に新羅の宗教が「仏教」に替わったということは、支配者が替わったということです。
では、ギリシャ・ローマ文化を保持していた新羅の敗者の民族は、どこへ行ったのでしょうか。
騎馬民族の歴史を知るには困難が予想されます。それは、騎馬民族は基本的には歴史書を持たないからです。それに、短期間に、大勢の一族が点から点へ大移動し、そして、居留地に固定した地上建築物を建設しないからです。更に、自然を大切にするために、墓は地下に建設するため、考古学者の発掘にあう確率が、農耕民族の遺跡に比べて低いからです。
騎馬民族の移動を知るには、歴史書を持たないため、やはり古墳が有力な史料となります。それは、騎馬民族は、馬を大切にするため、墓に埋葬者と伴に馬具を埋葬する習慣があるからです。農耕民族や海洋民族は、墓に馬具を埋葬することはありえません。ですから、埋葬物に馬具がある古墳を、時系列的に調べれば、騎馬民族の渡来ルートが推測できるわけです。
日本列島に古墳が出現するのは、三世紀頃からです。そして、馬具の埋葬物が古墳に現われるのが四世紀頃からです。と言うことは、四世紀より、騎馬民族が、日本列島に渡来していたことが示唆されます。
中国南朝の「梁書」に、扶桑国僧慧深の報告として、「以角載物、至勝二十斛、車有馬車、牛車、鹿車。」と記述してあります。扶桑国とは、四世紀頃、北海道南端から下北半島一帯に存在していた国です。その国では、馬や鹿が使役されていたのです
北海道、東北地方は、地上建築物の歴史的遺物の発掘が認められないため、坂上田村麻呂の侵略まで、文化的歴史がないように思われますが、岩手県久慈は、紀元前の古代より、バルト海沿岸に匹敵する世界的な「琥珀の産地」であったのです。つまり、古代より、バルト海沿岸から岩手県久慈には、「琥珀ロード」があったのです。古代では、琥珀は、呪術の道具として、或は、貨幣の代用物として需要があったのです。そのように、馬を使役する民族や国際交易商人は、古来から日本列島に渡来していたのです。
五世紀から六世紀にかけて造られた、奈良県の新沢千塚から発掘された埋葬物は、新羅からの騎馬民族の渡来を示唆しているようです。馬具のほかに、冠を飾る金具、ガラス椀、ガラス皿、そして耳飾、帯飾りなどの金製品が出土しているからです。
東アジアでは新羅からしか出土していない馬冑が埋葬物にあれば、騎馬民族の新羅から日本列島への渡来が証明されるのですが、新沢千塚からは出土しなかったようです。しかし、日本列島に馬冑が出土していたのです。それは、和歌山県の大谷古墳からです。築造時期は、五世紀から六世紀半ばです。この馬冑は、東アジアでは、新羅と日本でしか、今のところ発掘されていません。これは、騎馬民族の日本列島渡来を有力に示唆しています。
528年、新羅が仏教国に変身した頃、日本列島にはどのような変化があったのでしょうか。
日本書紀に、気になる文があるのです。それは、宣化元年(536年)の条に、「又蘇我稲目宿爾を以って大臣とす」とあるのです。この蘇我稲目は、仏教伝来物語では、重要な人物です。しかし、その出自は不明なのです。歴史書では、その出自を、「竹内宿爾→韓子→高麗→蘇我稲目」、としていますが、竹内宿爾、韓子、高麗などは歴史上証明できない人物なのです。
このように出自の不明な蘇我稲目が、突然536年大臣となり、更に、異教の仏教を、「西方の諸国で信奉しているのに、我が国だけがどうして背けましょうか。」、と従来の神に替えて祀るように天皇(この頃に天皇は存在していない。天皇は七世紀の天武天皇が始め。)に進言したと、教科書歴史は言うのでしょうか。どうも、この仏教伝来物語には、「うそ」があるようです。
では、蘇我稲目の出現は、どのように推測できるのでしょうか。
日本の古代史を、教科書的に学習すると、三世紀から四世紀の畿内に突然箸墓古墳や纏向古墳などの巨大古墳群が出現するわけです。その理由として、教科書歴史では、四世紀に大和朝廷が樹立されていたとしています。そこで、畿内で大和朝廷は、天皇中心の政治をおこなっていたという設定です。特に、593年から628年大和朝廷を統治した推古天皇の時代に、日本国の基礎となるような改革を、聖徳太子とおこなったとの説明です。そして、その黎明期の日本国を乱し、天皇を暗殺した大悪人が蘇我馬子で、聖徳太子の遺児を殺害したのが蘇我蝦夷と蘇我入鹿親子だとの設定です。でも、これらのことは、史実なのでしょうか。
そこで、古代史を調べることになるわけですが、日本書記の呪縛により、史実は闇の中で蠢くわけです。その藤原不比等の呪縛を解くために、「ヨハネの黙示録」で「666の謎」により聖書のモーセの存在を否定したように、日本版パモス島のヨハネである多人長(秦氏の末裔)は、推古天皇ならびに聖徳太子の存在を否定するため、平安時代の弘仁三年(812年)に「古事記」を世にだすわけです。
では何故、古事記は和銅五年(712年)を奥付に記述したのでしょうか。それは、和銅六年(713年)に好字令が発令されていたからです。
686年天武天皇が崩御すると、藤原不比等は持統天皇を懐柔して、蘇我王朝の流れにある天武王朝体制の壊滅を目指すのです。そのひとつが、日本書記の作成(720年完成)です。そして、各地区の歴史を改竄するため、各地の豪族の史料提出の基に風土記(713年に撰上の詔)を作成し、天武王朝の各地区における事績を隠蔽するわけです。
地区名は、その地域を支配した豪族の名となります。ですから、その地の呼び名を知ることにより、誰がその地を支配していたかを知ることができるからです。
好字令とは、今までの中国王権が名付けた一字文字の漢風名を、日本語化の二字にすることです。そのことにより、中国王権の支配からの解放を示したのです。そして、オリエントから国際交易商人、軍人、そして宗教家達により日本列島にもたらされた異国文字(ペルシャ語:大きな鳥の意味の「アスカ」→飛鳥。アラム語:尊称の閣下の意味の「マロ」→麻呂。勇敢な者の意味の「スクネ」→宿爾。アラム文字は、奈良時代にパフラヴィ語的文字利用法をヒントにカタカナ文字に変身した。)と同時に渡来文化(ギリシャ、ローマ、ペルシャ、スキタイ文化)の遺跡も、王権を握った藤原氏は、392年以降キリスト教の教徒がローマ帝国内のミトラ教神殿を破壊し、その跡にキリスト教の教会を建設してミトラ神を隠蔽したように(目に見える物は改竄したり破壊できるが、ひとの記憶までは改竄や破壊ができないため、ミトラ神が復活する冬至の12月25日の誕生日は、ミトラ教を乗っ取ったキリスト教はキリストの誕生日のクリスマスの日に改竄した。)、仏寺と神社により道教の観と景教の寺を隠蔽したのです。
では、日本書記の闇のベールを剥がすには、残された敗者の歴史資料も存在していない状態で、どのようにしたらよいのでしょうか。
歴史を勝者の都合の良いようにコントロールするには、歴史書を改竄することです。もしも改竄できない時は、焚書をすればよいのです。遺跡も同様です。しかし、日常生活で使用している「ことば」は、勝者の都合により、敗者の使用している「ことば」を改竄したり、抹殺したりすることはできません。禁止用語を設定したところで、表面上は使用禁止をすることができても、裏の世界での使用禁止の実行はできないでしょう。(本音と建前)それは、「ことば」は、「精神世界のDNA」だからです。つまり、「ことば」は、先祖から連綿と受け継がれてくるわけです。
そこで、敗者の歴史を推測する「ことば」を捜してみると、三つの「ことば」をピックアップできるでしょう。それらは、「ウダウダ言うな!」、「すみません。」そして「葛藤」です。これらの日常語の歴史的背景を探ってみると、勝者と敗者との因果関係を推測できるのです。それらの「ことば」が発明されたのは、およそ近畿地方に巨大古墳が出現した頃です。
では、それらの三つの「ことば」の背景を探ることにより、日本書記の闇のベールを剥がすことにしましょう。
「ウダウダ言うな」の意味は、弱者(敗者)が正当な理由を述べて抗議していることに対して、強者(勝者)が一喝して黙らせる時に使う「ことば」です。その恫喝に対して、弱者は「すみません。」と言うわけです。そして、それらの弱者と強者とのイザコザのことを、「葛藤」と言うのです。
それらの三つの「ことば」の真の意味は、辞書を引いても分らないでしょう。それは、辞書は、勝者の立場で編纂されているからです。
では「建前」ではなく「本音」での、「ウダウダ」のウダとは何でしょうか。それは地名です。奈良県宇陀郡宇陀町の「ウダ」です。そして、「すみません。」とは、「住みません。」が原語です。更に、「葛藤」とは、「葛(くず→国栖→土蜘蛛)」対「藤原氏」との戦いのことです。
奈良の盆地の三輪山付近には、古く縄文時代から「市」がありました。それは、遠い国から日本海を渡り、「赤い土」を求めるひとたちがいたからです。
縄文人は、赤い土を傷を治すために採取していたのです。そして、埋葬の時には、死者を悪霊から護る(防腐剤)ために、死者に赤い土を塗布していたのです。
紀元前七世紀になると、中央アジアの黒海近くの騎馬民族国家スキタイでは、アマルガム法の金メッキの技術で、銅にメッキをして「金銅」を制作していたのです。そのアマルガム法の金メッキには、「水銀」が必要です。自然界で「水銀」を採取するのは困難ですが、「赤い土」は容易です。あるひとが、「赤い土」を焼いて、その煙を蒸留すると「水銀」を得ることができることを発見したのです。そのことにより、赤い土の需要がおこるのです。そこで、騎馬民族スキタイの赤い土探索が始まるのです。
中国大陸では、赤い土は辰砂と呼ばれていました。それは、中国湖南省辰州で産出したからです。日本名は、朱砂。
紀元前に朱砂を求めたのは騎馬民族スキタイだけではありません。バラモン教徒や道教士も、金メッキの素材としてではなく、中枢神経を刺激する長生術や回春術の素材として、朱砂・水銀を求めていたのです。道教士は、その水銀薬を「丹」と呼んでいました。
朱砂・水銀を求めたひとたちは、アリが砂糖に群がるように、遠くオリエントやインドから海を渡り、日本列島を目指したのです。では、日本列島の何所をめざしたのでしょうか。
日本の歴史地図で古墳の分布図を見てください。古墳が群集している所が特定できるでしょう。それらは、常陸から北関東、名古屋、伊勢、大和、和泉、香川、大分、そして熊本です。その古墳群の分布に線を引くと、それは、中央構造線と重なります。つまり、古墳時代のひとたちは、中央構造線に沿って暮らしていたわけです。
中央構造線は、日本列島が形成された時につくられたものです。その両側は、異なる地質であるわけです。日本海側の内帯は領家変成帯と呼ばれ、太平洋側の外帯は三波川変成帯と呼ばれています。それらの異なる地質は、マグマの移動圧力で、段差を形成しているのです。つまり、中央構造線は、段差により地下の鉱物が地表に現われている所なのです。その中央構造線に沿って、縄文人は「赤い土」を採取していたのです。その最もよく「赤い土」が採取できたのが、奈良の大和の地を流れる飛鳥川の源流にある宇陀地方だったのです。
この宇陀地方は、日本書記によれば、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと:762年〜764年、淡海三船により選定され追贈された漢風諡号により「神武天皇」と変身。)により、宇陀の統治頭のエウカシを、オトウカシの裏切りの密告により、滅ぼしたことになっているのです。つまり、日本書紀では神武軍が、「夷を以って、夷を制す」ことにより、宇陀の地を略奪したことになっているのです。
しかし、このことは史実ではないようです。それは、史跡の埋葬物が証明しています。
日本の初代天皇である「神武天皇」の在位は、紀元前660年から紀元前585年となっているようです。しかし、その宇陀地方の埋葬物は、縄文文化が紀元300年まで続いていたのです。つまり、宇陀地方は、縄文人の支配が、弥生前期(紀元前200年〜紀元前100年)・中期(紀元前100年〜紀元100年)を飛ばし、弥生後期(紀元100年〜紀元300年)まで続いていたのです。
日本書紀の記述が史実だとすると、神武天皇は縄文晩期(紀元前1.000年〜紀元前350年)に活躍したひとです。神武天皇は、縄文人ではなく、九州の日向国から進軍した天孫族の渡来人であるのに、何故、宇陀の支配地が、紀元300年まで縄文文化を保持していた理由が説明できません。
宇陀地方の史跡の埋葬物が、紀元300年に、縄文文化からいきなり弥生文化に変化したことは、弥生人による縄文人の支配を示唆しているようです。では、紀元300年に、宇陀地方はどのようにして、弥生人に侵略されたのでしょうか。
宇陀地方は、16世紀にも、渡来人により支配されていました。それは、イエズス会です。イエズス会は、長崎に外科医のアルメイダを派遣し、洋式医療で現地民衆に取り入ると、日本人修道士のロレンソと供に、キリシタン大名である高山右近ジュストが支配する山奥の宇陀地方に教会を建てるのです。その目的は、キリスト教布教のためだけではないようです。
イエズス会の異教国侵略順序は、医師派遣→病院設立→学校設立→国際商人進出→軍事顧問派遣→軍隊進行→植民地化、となるわけです。
イエズス会の日本国軍事侵略では、尾張の反仏教の自称平氏の弱小武将である織田信長に、銃と弾薬と傭兵軍を与えるのです。そして、キリシタン大名の蒲生氏郷の部下である山科羅久呂左衛門(イタリア人:本名ジョバンニ・ロルテス:マルタ騎士団戦士)を軍事顧問として、織田信長軍の軍事指導をするわけです。(織田信長による比叡山の僧侶皆殺しは、正に「キリスト教傀儡軍=織田信長軍」と「大乗仏教軍」との宗教戦争の結果であったのです。)
では、何故、イエズス会は、軍事的には価値のない山奥の宇陀地方に教会を建設したのでしょうか。それは、紀元3世紀の弥生人と同じ目的、「水銀」の採取です。(十六世紀、メキシコ銀山が開発されるまでは、日本列島は錬金術・鉱山師「空海」の銀山開発により世界有数の銀産出国であったのです。空海は「朱砂・水銀・銀」を求めて山野で修行をしていたのです。空海が四国で中央構造線に沿って建立した寺の近くには、「銀山・銅山」が多く存在しています。空海の宗教的拠点の高野山は、正に銀鉱脈がある山なのです。)
では、弥生人はどのようにして、宇陀地方を侵略したのでしょうか。それは、イエズス会と同じ方法です。「医療と宗教儀式」、これが昔も今も、異教国侵略の有効な手段なのです。そして、その侵略装置が、前方後円墳の巨大古墳なのです。
畿内の前方後円墳は、教科書歴史では天皇陵と言うことになっているようです。それは、畿内の前方後円墳が、他の地域の前方後円墳より巨大(最大約500メートル級、他の地域は200〜50メートル級)だからと言うわけです。そのような他の地域(九州・吉備・北関東)より巨大な前方後円墳を造営できたのは、三世紀に大和の地に巨大な権力を保持していた「天孫族」が存在していたからとの説明です。しかし、その説明は可笑しい。
現代でも、巨大な建築物を構築できる地域は、建設敷地として余裕のある地(僻地)が選ばれるわけです。ひとびとが密集して生活している都市部には、巨大建築物を造るには、色々な困難が予想されるからです。
三世紀の大和の地は、九州や吉備に比べて未開発の僻地(縄文人の勢力範囲)であったのです。更に、大和の地は、河川が入り組んでいて、沼や湖がある湿地帯でもあったのです。
畿内の前方後円墳には多くの謎があります。それらは、何故に円墳や方墳のように竪穴式ではなく、高句麗式の横穴式の石室であるのか、そして、円墳や方墳のように「木棺」ではなく「石棺」が多くみられるのか、更に、その石棺の石は、何故遥か遠くの九州の阿蘇溶結疑灰岩が多くみられるのか、と言うことです。
そして、畿内の巨大前方後円墳が大和の地を支配していた偉大な「天皇の墓」だとすると、その埋葬物が、何故規模が数十倍も小さい円墳や方墳に比べて、「貧弱」なのかを説明するには困難が生じます。
そこで考えられるのは、畿内の巨大前方後円墳は、第一の目的が「墓」ではない、ということです。それは、三世紀の大和の地は、エウカシ、ナガスネヒコ、そしてオオクニヌシなどの勇猛な先住民の土蜘蛛達が支配していたので、渡来侵入者の天皇が崩御してから、延べ60万人の労働者で10年〜20年もかけて「墓」を造れるような社会情勢ではなかったからです。
それから二世紀後の仏教隆盛といわれる飛鳥時代でも、桜井の地などの「くんなか」には、渡来新興宗教の仏寺を建立できないほど、大和地方は先住民の力が強かったのです。
では、三世紀に全国規模(北は岩手県、南は九州まで)で造営された世界でも希な巨大前方後円墳(前方後円墳の地上構造物は古代オリエントの日干しレンガ造りの技術を駆使し、石室及び石棺の造営は古代エジプトのピラミッド構築技術を駆使しているようです。特に、飛鳥の古墳の石室は、古代エジプトの高度な石切技術を駆使しているようです。)は、「誰」により「何を目的に」発明されたのでしょうか。
それには、弥生人の解明が必要です。紀元前三世紀頃に渡来した弥生人とは「誰」でしょうか。それを知るために、紀元前三世紀の中国大陸での社会情勢を調べることにしましょう。
古代の国家を調べる時、注意が必要です。それは、古代の国家は、「国民国家」ではないということです。古代の国家と国民国家との大きな違いは、古代の国家には固定した国境がないということです。
国民国家の歴史的誕生は、1776年のアメリカ合衆国が初めです。イギリス王国が支配する北アメリカの私有地を、その被支配者達の武力で奪い取ったのが、国民国家の始まりです。
北アメリカの被支配者達は、各自武装して支配地を確定し固定化し、その地を侵略する者達に対して、軍事力を行使したのです。これが、現在の国境の始まりです。それに対して、古代の国境は、その国の力の及ぶ範囲であったのです。つまり、力の強い王国は常に国境が膨張し、それに対して、軍事力の弱わまった国は消滅してしまうわけです。つまり、1776年以前までは、固定化した国境などはなかったのです。ですから、古代の国家は、常に軍事力が強い傭兵を、地域や部族に関係なく求めていたのです。
そして、古代の国家と国民国家との軍隊構成の違いは、古代の国家は傭兵により軍隊を組織していたのです。古代の国家は、国民国家ではないので、臣民(奴隷)に武器を渡し、軍事訓練などで優秀な軍人に仕立て上げれば、何時反旗を翻すかわからないから、因果関係のない他部族の軍隊を雇い入れていたのです。そのように、古代の国家の軍隊は、その国の臣民で構成されていたわけではないのです。
紀元前221年、紀元前403年から始まる戦国時代を制して、中国大陸を統一した国が誕生しました。その国は、「秦国」です。その秦国が、列強の燕や楚などを武力で圧倒できたのは、秦国の軍隊の戦い方でした。長い槍を持ち、太鼓の合図で攻撃を仕掛ける歩兵軍団や騎馬戦車そして鎧馬に乗る長い槍を持った騎馬戦士は、漢族の農耕軍団や匈奴などの騎馬軍団とは異なり、強力な軍事力を発揮していたのです。
それらの秦国の軍隊は、色々な国からの寄せ集めでした。長い槍を持ち、集団行動の歩兵軍団はローマ軍の特徴です。鎧馬の騎馬戦士はペルシャ軍です。騎馬戦車はスキタイ軍です。
秦国の王、始皇帝は、軍人であろうと民間人であろうと、有能であれば外国人であろうと、どんどん重用したのでした。財務関係などは、その多くが国際商人のペルシャ人(飛鳥時代に、漢語で波斯人:はしじん。大和言葉で間人:はしひと、と呼ばれていた。)でした。
その始皇帝の祖先は、元々中原にいたわけではなく、漂泊する遊牧民族であったわけです。始皇帝の顔立ちは、漢族のようにノッペリしたのではなく、鼻が高く目がくぼんでいたようです。目の色は、「黒」ではないようです。すだれのある冠を被って、目の色を悟られないようにしていたようです。
秦軍の戦は、敵の首を取ることです。それは、敵の首を取った数が、恩賞の対照となるからです。この戦の評価の仕方は、日本の武士の戦の評価と同じです。そして、秦軍は、窮地に立って、進退に窮すると、自害したのです。これも、日本の武士と同じです。秦軍は、誇りの高い軍隊です。日本の武士も、「武士は食わねど高楊枝」と言われるごとく、誇りを大事にします。何故、秦の軍人と日本の武士との特徴が似ているのでしょうか。(秦国の軍団は、異民族の寄せ集め軍団ですから、規律を破る者に対して、見せしめのため刑罰は残酷を極めたのです。その刑罰の、軽罪は刺青から重罪は獄門さらし首まで、江戸時代の刑罰と類似しているのは何故か。そして、その刑罰を実行する者が、自称源氏の徳川家康から警察補助を委託された、秦氏の末裔の弾左衛門の配下であるのは何故か。更に、日本人は農耕民族であると言われているのに、遊牧民族の割礼の風習が、明治の初めまで高知県、兵庫県、山形県等の一部にあったのは何故か。)
紀元前三世紀、その始皇帝は、徐福という方士(長生術をおこなう呪術師)を蓬莱国(日本列島か)に仙薬を採取するために派遣するのです。

「後漢書」倭伝
秦始皇、法士徐福を遣わし、童男女数千人を将(ひき)いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅を畏れて敢えて還らず。遂にこの洲に止まる。

徐福は、斉の沿岸で盛んになった神仙術士のなかでも、医・薬・化学に長けた方士であったのです。仙薬の主成分は、朱砂(辰砂)です。その朱砂(辰砂)は、中国湖南省と日本列島が産地であったのです。
始皇帝は、大変に神仙術に興味を持っていたので、徐福に仙薬を求めさせるために、技術者、軍隊(ローマ軍・スキタイ軍・ペルシャ軍の末裔)と少年少女三千名を、神仙の聖地である山東半島の煙台より百艘の船に乗せて、蓬莱国へ派遣したのです。
徐福が率いる百艘の船は、中国の山東半島から蓬莱国を目指したのですが、ある集団は九州(博多←伯太←はた←秦←徐福の姓)、更に黒潮を北上して朝鮮半島(辰韓=秦韓。四世紀にギリシャ・ローマ文化を保持した新羅となる。)に、またある集団は和歌山県熊野に辿り着いたようです。(後に、秦氏による中国山東省・朝鮮半島新羅・日本国熊野の国際交易トライアングルを形成。)
その徐福一行が、日本列島に辿り着いた頃が、縄文時代から弥生時代の移行期であったのです。では、弥生時代の黎明期には、徐福一行だけの渡来だったのでしょうか。
縄文人・弥生人などの名称があると、そのような人種が歴史上存在していたように錯覚してしまいますが、そのような人種は存在しません。弥生時代に埋葬された人骨の分析によりますと、縄文人とは異り長身で、面長でノッペリした特徴がある弥生人にも、大男から小男まで色々な民族出身者がいたようです。その中でも華南人の特徴に類似した弥生人の骨が、弥生時代の墓から多く出土するようです。
華南人といえば、紀元前14世紀の地中海で活躍した海洋民族フェニキア(フェニキア語はアルファベットの素。アラム語・ヘブライ語もここから派生した。)の末裔、海洋民族呉・越が思い浮かびます。呉は紀元前473年に滅び、越も紀元前334年に滅び、その多くの亡命者達は、大型外洋船で、黒潮に乗り、朝鮮半島や日本列島各地にたどり着き、時の中国王権により倭(「い」と読む。藤原不比等は、日本書紀で、倭を「わ」と読ませ、「倭→和」に変換し、大の字を加え「大和」を「ヤマト」に変身させ、自らの渡来歴史の抹殺を企画した。ちなみに、倭とは「小さくて醜い」の意味。)と呼ばれる渡来民族(後に、その倭の軍事部族が、北方のツングース族の渡来により合体して物部氏となる。)となるわけです。その倭が、縄文晩期の日本列島に、稲作と戦争と人工神をもたらすのです。
農業は、一般的に「自然」の技のように思われていますが、それは違います。農業は、不自然で、人工的な作業なのです。つまり、自然の摂理に逆らう技術なのです。
人力により、自然の山を切り開き、川の流れを変え、自然に自生している草木(農業者は雑木・雑草と言う。)を切り倒し、農地とし、植物の自然の摂理に逆らい一定の地に同じ植生の植物を多量に植え、ひとの手により管理育成するからです。
人工(農業)は「自然」には勝てません。そこで知恵者(司祭者)が、自然をコントロールできるとする「人工神」を発明するわけです。つまり、人工神は、自然を克服できるとする農業技術の発達の過程で、発明されたものなのです。
しかし、ひとが考え出した物や思考は、時が来れば必ず「ほころび」がくるわけです。ですから、人工神は自然に絶対に勝てませんから、賞味期限が過ぎた神に替わり、その時々に都合のよい神々が発明されるわけです。(農耕民族の無数に存在する神々は、自然に従い畏怖する海洋民族や遊牧民族とは異なり、「自然をコントロールできる」とするところが特徴。)
農業をおこなうには農地が必要です。そこで、自然の地(農業者は荒地と言う。)を開拓(自然を破壊)するわけです。これらの作業をおこなう者は、自然の下に暮らす鹿や猪にとっては、生活圏を破壊する侵略者です。そして、それらの鹿や猪の肉を生活の糧にする狩猟採取の縄文人にとっても、生活圏を破壊する侵略者なのです。そのように、自然に対する考え方が、まったく異なる縄文人と弥生人とが、平和に共存できるはずはありません。つまり、弥生時代とは、平和でのどかな時代ではなく、戦争が日常茶飯事の時代だったのです。
縄文前期と晩期とでは、縄文人の集落形態が大きく異なっていきます。縄文晩期では、集落の周りに深い溝を何重にも掘り、弥生人の外敵に対しての防衛体制(環濠集落)をひくわけです。そして、その集落は平地から山中(さんちゅう)へ移動するわけです。奈良の宇陀の地が、弥生人の侵略に対して弥生晩期まで持ちこたえたのは、活断層があり険しい山奥であったので防衛しやすかったからでしょう。
弥生人が、農業技術と供に戦闘技術を日本列島にもたらした証拠として、縄文時代の墓には見当たらない、首のない人骨や戦闘武器の破片が残る人骨が多く出土することがあげられます。(敵の首を取るのは、秦軍の特徴。漢民族は首狩を行わない。)
農業技術を持った弥生人は、日本列島に上陸した海岸地点付近に集落を造り、しばらくすると、武力を背景に農地確保のために内陸に向け進行していくわけです。
農耕民族にとって農地は、生命維持の源です。ですから、その地を広げ、そして死守するために、軍事武力を行使するわけです。これは、18世紀に誕生した「国民国家」の考え方と同じです。違うのは、弥生時代の国々は、「国民皆兵」ではなく、戦闘専門の傭兵軍により、軍事行動を行っていたことです。
攻める弥生人も必死なら、守る縄文人も必死です。弥生時代の紀元前350年から紀元300年までの650年間は、その侵略速度が遅かったのが、紀元300年から始まる古墳時代になると、その速度が増すのは何故でしょうか。
その前方後円墳の日本列島出現は、何を意味するのでしょうか。短期間に日本列島に普及した、約500メートル級から50メートル級までの大小様々の相似形の古墳は、最新のテクノロジーを集成したもののようです。そのような相似形巨大古墳を、短期間に日本列島各地の活断層近くに造るには、幾何学の知識が絶対に必要です。更に、石室や石棺を造るには、石を削る鋼鉄工具を造る技術が絶対に必要です。そして、巨大な建造物を、10年から20年もかけて建設するには、人事管理と物流管理の技術が必要なのです。しかし、それらの最新技術はその当時の日本列島にはありません。では、これらの最新技術は、何処から誰によりもたらされたのでしょうか。
古墳については謎が多く存在しますが、その中でも不思議なのは、日本国の成り立ちから日本国最初に火葬された女帝持統天皇まで記述してある日本書紀を調べてみても、前方後円墳築造についての記述がみあたらないのです。
日本書紀では、仏教の渡来については詳しく述べているのに、仏教伝来以前に渡来していた道教・景教については何も述べていないように、世界に誇れる前方後円墳の日本列島出現には、藤原氏ならびに天孫族には不都合な何かがあったからなのでしょうか。
古墳が出現するのが紀元3世紀、そして巨大古墳が消滅するのが、騎馬民族末裔の蘇我王朝滅亡時期と同じ紀元7世紀後半です。(飛鳥・奈良時代まで貴族の乗り物として利用された「馬」が、百済亡命貴族統治の平安時代になると「馬」から「牛」になるのは何故か。)それと同時に、大乗仏教寺院が、藤原氏が君臨する奈良の都に乱立するのです。(そのほとんどは九州からの移築ですが。)
それでは、日本国の基礎がどのような複合民族により成り立ち、そして、どのようにして成立していくのかを古墳時代に戻り、日本書紀の闇のベールを剥がしてみることにより解明してみましょう。
死者の埋葬方法は「宗教的」です。部族が存続する限り埋葬方法が替わることはありえません。しかし、葬儀方法は「政治的」です。時代の流れにより葬儀内容は変化します。例えば、仏式の戒名は、キリスト教のホーリーネームからの借用ですが、その戒名制度はトラブルなしに非仏教徒にも受け入れられますが、埋葬方法の土葬から火葬はそうではありません。つまり、埋葬方法は、その渡来部族の宗教歴史を現しているからです。
死者の埋葬方法は、その部族の宗教観念を表したものです。死者がその後、何処へ行くのかは、その部族の「宗教的観念」によるのです。鳥が神の使いと信ずる部族では、死者の肉を鳥についばんでもらい、神の居る地へ死者の霊を運んでもらう「鳥葬」をおこなうわけです。それに対して、ひとは土から生まれたと信ずる部族は、再生のため死者を、深い穴を掘り直接死者を葬り、土に帰すわけです。
そこで疑問が起こるのです。死者を収める石棺は、どのような宗教観念を持った部族により発明されたのか、ということです。この埋葬方法は、死者を土に帰し再生を願う部族とは異なる宗教観念を持った部族のものだからです。と言うことは、巨大古墳を築造した部族は、先住民である縄文人のアミニズム宗教とは全く異なる宗教観を持った部族の渡来を示唆します。
石棺に死者を収める民族を歴史上に求めると、それはエジプトに行き着きます。古代エジプトでは、死者とは魂が抜けている状態であるので、魂が戻るまでその肉体は生前の状態を保たなければならなかったのです。その肉体保存技術が、「ミイラ」です。石棺に死者を収める部族は、その部族が消滅するまで、そのような埋葬方法をおこなうわけです。
その石棺を収める巨大前方後円墳の出現は、教科書歴史では、弥生人のもたらした農業で富を蓄えた地方豪族の墓であると説明しています。(畿内にある巨大古墳は天皇陵であるとの説明です。)では、その地方豪族とは誰なのでしょうか。倭人は、甕棺に死者を埋葬する習慣ですので、石棺の死者は倭人の豪族ではないでしょう。縄文人は土葬であるので、論外です。
日本列島に分かっているだけでも約5200基あるといわれている古墳を発掘調査をすれば、どのような渡来部族・民族が巨大古墳を築造したか簡単に答えが出せるのに、当局のお達しでそれも叶いません。ですから、乏しい資料を駆使して、推測していくことしかできません。
そこで、巨大前方後円墳築造の第一の目的は「墓ではない」との発想の転換を図ることで、何ゆえに日本列島各地に短期間に巨大古墳が出現したかを考えてみることにしましょう。
戦国時代も終わる天正18年(1590年)、織田信長の跡目を藤原氏の謀略により略奪した自称平氏の豊臣秀吉(豊臣氏とは何か。秀吉は日本一の武将を目指し、日本古来のリーダー氏の「源平藤橘」を越える氏を発明した。それが豊臣氏です。その意味は、豊国の臣という意味で、豊国とは北九州の秦王国のことです。ヤマトの地は、元々北九州から侵攻した秦王国だったのです。その秦王国を乗っ取ったのが、日本国の「源平藤橘」だったのです。)は、比叡山や一向宗の仏教軍団壊滅のために散々利用したキリシタン大名達を権力中枢から追い落とし没落させ、高山右近ジュストなどは海の果てのマニラへ追放すると、最大のライバル自称源氏の徳川家康も、辺境の地「穢土=えど=江戸」へ追放するのです。
その当時の江戸の地は、室町時代に活躍した太田道灌が、平氏の末裔千葉氏との戦いの砦としていた、ひとが住めぬ湿地帯であったのです。今では想像ができませんが、江戸の地は、多摩川、荒川、利根川の支流が流れ込み、葦が生い茂る不毛の地であったのです。
しかし、徳川家康は、この豊臣秀吉の家康壊滅の陰謀を素直に受け入れたのです。それは、徳川家康には、秦氏の末裔弾左衛門とのコネクションがあったからです。秦氏は、遠い昔に鍛冶・土木技術を日本列島に持ち込んだ民族だったからです。
徳川家康は、江戸城を造るのに、江戸湾にそそぐ神田堀の大運河を造るために掘り出した厖大な土を盛り上げ、人工山を築いたのです。ですから、太田道灌の砦は、皇居の下10メートルにあるのです。勿論、靖国神社の地も人工山です。更に、徳川家康は、多摩川、荒川、利根川の流れを変え、関東平野を広大な農地にしたのです。その土木事業を支えたのが、弾左衛門一族だったのです。
ですから、関八州の地に、弾左衛門は、灯心草の栽培権を家康から認められていたのです。徳川家康に庇護されていた弾左衛門は、二刀差しの羽織袴で籠により江戸城に登城していたのが、徳川三代目の百済系の血をひく家光(1623年〜1651年)の代になると、新羅系の血をひく弾左衛門一族は、再び賎民へ落とされてしまうのです。更に、徳川五代目綱吉(1680年〜1709年)による「生類憐みの令」発布により、鎌倉時代に発明された「穢多」の汚名を再びきせられてしまうのです。
徳川家康は、江戸城の築城過程において、ひとも住めぬ湿地帯に、大運河を堀りその残土で巨大な人工山を造ることにより、そして、川の流れをかえることにより、ひとも住めぬ湿地帯を広大な農地に変えてしまったのです。更に、それらの工事に従事するひとびとを多く集めたため、江戸の地には、それらの作業人相手の商人達も多数流入してきたのです。
この物語を、前方後円墳築造に当てはめてみると、その出現の謎解明のヒントがあるようです。つまり、「前方後円墳」とは、古墳時代の二重堀の中の巨大人工山にある「江戸城」なのです。
三輪山麓の市(バザール)での交易品である「朱砂」を、喉から手が出るほど求める国際交易商人達は、その朱砂の産地である宇陀の攻略方法を考えるのです。
朱砂は、秦の始皇帝が、徐福に技術者、軍隊、そして童男女三千名を組織させて、見知らぬ蓬莱国に百隻もの船で派遣し求めたように、紀元前三世紀においても大変高価な交易品であったのです。それから六百年後の奈良盆地には、朱砂を求める国際交易商人達で溢れていたことでしょう。
一度目の渡航で徐福一行がたどり着いた紀元前三世紀の畿内は、徳川家康が江戸の地を初めて見たように、淀川や大和川に挟まれた地は、湖あり沼ありの大湿地帯であったのでしょう。湿地帯は自然の城です。(城とは建物の意味ではなく、土を盛り上げた壁の意味。室町時代に平地に建てた砦を城というようになってから「城」は建物のことになった。)
そして、河内地方などは、陸地ではなく、湾であったのです。湿地帯は、攻め難いが、守り易い戦略的な地帯です。徐福が、一度目の航海(紀元前219年)に失敗したのは、稚拙な弓矢と石棒で武装した先住民を見下し攻略を試みたが、湿地帯による防御に手こずったからかもしれません。鯨により渡海が失敗したと始皇帝に言い訳をし、技術者、軍人、そして童男女三千名を組織した二度目の航海(紀元前210年)は、浪速を避けて和歌山県熊野を選んだのは、何かの計画があったからでしょうか。
異教国への侵略への手順にはパターンがあるようです。医者(呪術者・宗教家)→病院設立→学校設立→交易商人→軍事顧問→軍隊進行→植民地、この流れは古今を問わないようです。
徐福は、方士(長生術の呪術者)の中でも、元々医学・薬学・化学についての知識が豊富であったのです。第二回目の渡海において、中国の神仙の聖地である山東半島で、童男女三千名を集めて、渡海訓練をしたとの記述があるのは、医学・薬学・化学の情報習得をさせていたのかもしれません。
日本列島における、徐福渡来伝説の地を探すのは、それほど困難ではありません。それ程、徐福一行の行動範囲は広かったのでしょう。そのように行動範囲を広げられたのは、徐福一行が、先住民から侵略者としてではなく、医療従事者として認めてもらえていたのかもしれません。
そのようにして、日本列島各地で朱砂の産地を探索し特定すると、そこに秘密の印をつけるのです。その印とは、水銀薬を表す「丹」です。「丹」を木枝で作れば、それは、鳥居の原型となります。やがて、朱砂の埋蔵地の印である「丹」は、その意味が時代と供に失われ、新しい権力者(藤原氏)により、前権力者(蘇我氏)を貶めて封じ込める、あの世とこの世との、「結界の印」の「鳥居」へと変化していくわけです。
日本列島の朱砂や水銀鉱脈の近くに、丹生神社があるのは、このためです。しかし、今日に繋がる神社は、前権力者(敗者)の怨霊の祟りを封じ込める施設で、大乗仏教が伝来した後に発明されたことは以前に述べたとおりです。では、徐福の末裔達は、どのような社(やしろ)で、どのような神を祀ったのでしょうか。
三世紀から蘇我稲目が現れるまでの歴史、つまり、古墳が日本列島に現れ全国に普及する歴史を知ることは、645年の藤原氏の陰謀により、蘇我王朝を倒し、その館の蔵書すべてを焚書してしまったためにできません。ましてや、藤原不比等のプロディュースによる日本書紀では全く無理です。それは、そこで書かれた推古天皇までの歴史の多くは、オリエントや朝鮮半島での出来事を素材に創作された物語で、日本列島で起こった事柄ではないからです。
蘇我氏の蔵書が一冊でも存在すれば、日本の古代史も今とは全く異なっていたことでしょう。一体、古墳時代の国際都市の飛鳥では、何語が話されていたのでしょうか。
今の時点では、すべては、外国の史料か日本書紀を裏読みするか、或いは微かに残る史料の断片により類推するしか方法はないようです。
608年、遣隋使小野妹子の倭国についての情報を確かめるために来朝した隋使裴世清の皇帝への報告書によると、北九州には中国本土と同じ暮らしをしている秦王国があり、そこでは多くの文字があったということです。(裴世清は、倭国で男王に謁見しているのですが、日本書紀によりますと、その時の天皇は女帝推古天皇となっているのです。日本書紀よりも後に書かれた古事記が、何故に推古天皇の代で終わっているかの謎はそこにあります。つまり、「同じ記号は消去せよ。」のサイファー式暗号解読法により、古事記の推古天皇までの記述で、日本書紀の推古天皇以前の記述の全てを「否定」しているのです。)
806年、ある事情で奈良の都を放棄したため、古墳時代に秦氏が築いた、中国・朝鮮半島・熊野の国際交易トライアングルの再構築を図るために渡唐し、唐から帰朝した空海は、中国山東半島の寺院で習得した真言密教の呪文、「阿梨・那梨・莵那梨・阿那盧・那覆・拘那覆」を唱えるのです。
この呪文は、イエス・キリストがアラム語で語ったと言われている、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」を漢訳したものです。その意味は、「神よ、どうしてわたくしを見捨てるのですか。」です。中国山東半島にアラム語の呪文が存在するのならば、その交易先の日本の熊野にもアラム語の呪文が伝わっていたはずと思われます。
文化や技術は、ひとを介さないと伝播はしません。その伝達手段は、言葉と動作と文字によります。ですから、その時代に使われていた言葉や文字を知れば、古墳時代最後に活躍した蘇我王朝を構成していた渡来民族を確定でき、前方後円墳築造の謎が解明できるのに、蘇我王朝の蔵書のすべては、藤原氏により焚書されてしまったのです。そうしておいて、藤原不比等は日本書紀を創作したのです。古事記は、何度でも言うように、712年ではなく、平安時代の812年に、日本書紀の記述を否定するために創作された、「黙示録」なのです。そのように古事記が読まれては困るひとたちは、史料は真実が書かれていると信じている歴史ファン達に、古事記は国内向け歴史書で、日本書紀は国外向けに書かれた歴史書である、と説明しているようです。
では、飛鳥時代の文字に代わるものはないかと探すと、その民族の精神的シンボルをデザインした「文・もん」にたどりつくのです。そのひとつが、「唐草文」です。
唐草文とは何かと説明するには、団塊世代のひとには、漫才師の東京ポンタが背負っていた風呂敷の模様と言えば理解できるかもしれません。あるいは、時代劇のドロボウが盗品を包む風呂敷の模様と言えば理解できるかもしれません。そのように見下されてしまった唐草文は、飛鳥時代では、高貴な人が使用するデザインであったのです。
唐草文は、英語でパルメットと言い、椰子のパームを語源としているのです。発祥は古代エジプトで、国際交易商人により、ギリシャ・インドへ伝播する過程で、椰子だけではなく、蓮の花もパルメットの仲間入りをするのです。古代エジブトでは、蓮の花は「太陽神」の化身と信じられていたのです。この思想がインドへ伝播すると、蓮の花は、お釈迦様の台座に借用されるのです。漢の時代にインドからパルメットが伝播すると、中国では龍や雲気文がそのパルメットに混じりこむわけです。そして、飛鳥時代、中国からパルメットが伝播すると、すいかずら(忍冬)の模様が取り入れられて、「忍冬唐草模様」が完成するわけです。そのように、飛鳥の都は、古代エジプト文化と繋がっていたのです。そして、それらのオリエントの国々の文化を伝播する国際交易商人が使用する言葉は、主にアラム語だったのです。
文化だけではなく、技術も遠い国から伝播しているようです。鉄製品を作る方法は、二つあります。ひとつは、鉄の塊を熱してたたいて作る鍛鉄法と、もうひとつは、鋳型を作りその型に1525度の高温で熱した鉄を流し込み作る鋳鉄法です。
日本刀の製作は、たたいて鍛える鍛鉄法です。全ての技術が中国からの渡来であるというのならば、日本刀は鋳鉄法で製作されたはずです。中国では金属製品は、その鋳鉄法で生産されていたからです。では、日本の鍛冶屋(江戸時代、何故、鍛冶屋は村はずれに住居したのでしょうか。)が鉄製品を製作する鍛鉄法は何処からもたらされたのでしょうか。そもそも、鍛鉄法の発祥地は何処なのでしょうか。それは、紀元前二千年に、オリエントに興ったヒッタイト帝国です。何故、ヒッタイト帝国で発明された鍛鉄法が、中国の鋳鉄法を乗り越えて、古代の日本列島に伝播したのでしょうか。
巨大前方後円墳を築造する技術のひとつである、鉄器工具製作の技術がヒッタイト(何故かヒッタイト語の文法は、日本語の文法SVOと同じである。)、そして、死者を収める石棺(藤ノ木古墳石棺の各寸法は、古代エジプトの寸法単位の神聖キュビト46cmで割り切れる数値となっている。ちなみに、キュビトとは、ラテン語訳で腕の長さの意味。)への埋葬思想は古代エジプトです。何故、近隣の中国ではなく、それらの技術・思想は遥か遠くのオリエントなのでしょうか。
技術や文化は、言葉や文字により伝播していきます。そこで、日本国の古(いにしえ)を知ろうと日本語の原語探しが江戸時代から始まるのです。その研究に最も影響を与えた学者のひとりとして、仏教嫌いの国学者本居宣長がいます。しかし、本居宣長は、藤原不比等の日本書紀の飛鳥以前の歴史改竄のトリックを見抜けなかったために、後世のひとたちに、日本列島の古代史を理解不能にしてしまったのです。(このことが、藤原不比等の企画したことです。)
本居宣長は、実際は812年に完成した古事記を、日本書紀(720年)よりも八年も早く完成していたので、日本古来のことを「やまとことば」で記述していると錯覚してしまったのです。古事記は奈良時代ではなく平安時代に、秦氏の末裔で万葉語学者・日本書紀解説者である多人長が記述した、藤原不比等の日本書紀のトリックを見抜くための解説書の「黙示録」であるのに、中国文化・仏教憎しの本居宣長は、「やまとことば」で記述している古事記(古事記も漢語で記述。)こそ日本の「まこと」が記述されたものであり、漢語で記述された中国文化・日本書紀を否定するものだ、と確信してしまったのです。
古事記が、日本書紀の記述を否定する事例のひとつとして、日本列島国に最初に出現する「尊・神」があります。日本書紀では、国常立尊(くにとこたちのみこと)で、古事記では、天之御中主神(あめのみなかぬし)です。国常立尊とは、「この国を建てたのは常(トコ→トーコ→東湖→ツングース族の一派)の王である。」、と言う意味です。それを否定する多人長は古事記で、天之御中主神が日本列島国の最初の神である、と主張するのです。つまり、天之御中主神とは、天の真ん中に座す北極星(天皇)で、それは、今の平安の都に君臨する百済系天皇ではなく、騎馬民族・新羅系蘇我氏の流れにある天武天皇である、と主張するのです。
本居宣長は、漢語で記述してある三巻の古事記を「やまとことば」で再録して、四十四巻の「古事記伝」として寛政10年(1798年)に完成させるのです。この古事記伝の神話を素に、後日、日本国の神々のイメージが構築されてしまうのです。そして、天武天皇が建立した、倭とツングース族の末裔外物部氏の神を祀る「道教の観」である伊勢神宮は、藤原氏によりユダヤ教に類似した中臣神道に乗っ取られてしまっているのに、日本古来の皇祖神の社であると本居宣長は勘違いしてしまうのです。このことにより、実際は、仏寺の後に開発された神社は、仏寺より古くから存在していたと、後世の人は信じ込んでしまうのです。(この本居宣長の日本国の皇祖神を祀る伊勢神宮との誤った思想は、秦氏の末裔十字家紋の島津氏が支配する薩摩国に隠棲する藤原氏の本流近衛家により、明治維新の道具として、再び利用されてしまうのです。)
日本語の原語は、今現在も分かっていません。ある言語学者は、その基は、ウラル・アルタイ語であると言い、またある学者はトラヴィダ語(タミル語)と言い、またある学者は、万葉集は古代朝鮮語で解読できると言います。しかし、どれもこれも核心を突いていないようです。
工藤進氏著書の「日本語はどこから生まれたか」−「日本語」・「インド=ヨーロッパ語」同一起源説−によりますと、「日本列島の縄文時代前期の言語と、中央アジアまで来ていた印欧祖語(ギリシャ・ラテン語、インド・イラン語、バルト・スラブ語、ケルト・ゲルマン語の原語)とは通底していた。」と、氏は確信しているようです。(縄文時代、バルト海沿岸と岩手県久慈は琥珀ロードで繋がっていた。)
そのようなグローバルな視点で「やまとことば」の語源を調べることにより、古代「ヤマト」の地にどのような部族・民族が生活していたかを知る手掛かりが得られそうです。
蝶は、「やまとことば」では、「てふてふ」と言うそうです。では、その「てふてふ」とは、どのような語源からきているのかの納得できる説明を探すのは困難なようです。しかし、語源を朝鮮・中国語の視点から印欧祖語まで広げると、その解説が納得できそうです。「てふてふ」の「てふ」とは、古代エジプト語では、ひも結びのことです。つまり、蝶結びのことを「てふ」と言うのです。(日本語の漢字読みには、音読みと訓読みとがあります。音読みは中国語読みで、訓読みは日本語に置き換えた読み方と言われています。しかし、意味が分からない時、音読みをアラム語「爾宿=すくね=勇者、間人=はしひと=ペルシャ人」、訓読みを古代エジプト語で読むと、その言葉の本来の意味が分かるかもしれません。)
そのように、「やまとことば」の語源を古代エジプトに求めると、色々な「やまとことば」の意味が解明できるようです。例えば、「やまとことば」の「水」に関する言葉は、N音、M音、W音に収束できるようです。一例として、「ワダツミ」とは、ワタ(波)タツ(起こる)ミ(神)=「海神」、と言うことです。
W音は、水に関する「ことば」を意味します。「ワタ」とは、「波」のことです。これが、朝鮮に伝播すると「パタ・海」となるわけです。ですから、渡辺氏の「わたなべ」とは、「波の訪れる所=湊・津」の意味です。浪速(ローラン:紀元二世紀に高句麗の楽浪/ローランから渡来した部族の湊・後の難波。)近くにできた飛鳥・奈良時代の「湊=津」が、「渡辺津」(ギリシャ・ローマ文化保持国新羅から渡来した部族の湊。吉野・熊野への交易ルート基地。その交易道は後に、熊野詣の参道となる。源平合戦では、源義経が屋島への出陣地となる。ローマ軍の末裔の新羅花郎軍団が源氏軍の基。)と呼ばれるのは、正に「波の訪れる所」であるわけです。
異民族が、交易等で最初に使う言葉は、数に関する言葉です。では、ヤマトでは、どのような数に関する言葉が使われていたのでしょうか。日本語では、数に関する言葉は、大きく分けると二系統です。ひとつは、「ひぃ、ふ、み、よ、いつ、む、」で、もうひとつは「いち、にぃ、さん、しぃ、ごぅ、ろく」です。何故、数をかぞえるのに二系統の言葉が存在するのでしょうか。それは、その言葉を使う民族が異なっていたからです。
「ひぃ、ふ、み、よ」は、今でも商人が商品をかぞえる時に使う言葉です。これは元々砂漠国楼蘭/ローランからの渡来の国際交易商人部族が古代で使っていた言葉だからです。それに対して、「いち、にぃ、さん、しぃ」は、数をかぞえるよりは、多人数の力をあわせて行動を調整する時に使う軍事部族の言葉です。今でも、軍事歩行の掛け声は、「いち、にぃ、さん、しぃ」です。
その「いち、にぃ、さん、しぃ」の言葉は、どこから日本列島に来たのでしょうか。中国には、秦始皇帝の末裔と信じる「客家・はっか」という民族がいます。客家は、円楼と呼ばれる城郭に集団で生活しています。かれらの生活信条は、「克苦耐労」、「剛健弘毅」、「創業勤勉」、「団結奮闘」です。そして、客家は、軍人か警官になることを好むようです。その客家が使う数字読みが、「いっ、にー、さーむ、しー」です。
秦始皇帝の末裔とは、紀元前三世紀の徐福一族も名乗っていました。そして、徐福の姓のひとつは、「秦氏」です。客家が秦始皇帝の末裔であるならば、徐福の末裔秦氏も日本列島で、「いっ、にー、さーむ、しー」と言いながら朱砂を集団で力をあわせ採取していたことでしょう。
弥生時代には、人口増加があまり認められないのに、三世紀の古墳時代にはいると人口は全国的に急激に増加するのです。これは、弥生人のもたらした農業技術の発展による自然増などではなく、中国国内の漢民族と騎馬遊牧民族との覇権争いを逃れるための軍事部族と、日本列島の天然資源開発を目論む国際交易商人達による、開発技術者達の集団渡来によるのです。
その日本列島侵略渡来民族を阻止する武装縄文人を懐柔して、異民族の集団渡来を可能にしたひとつが、前方後円墳築造です。前方後円墳築造は、異民族国に侵入するための有効な手段となります。それは、学校設立と同じ目的を達成できるからです。
侵入者は、侵略の前に、異民族の中から同調者を育成する必要があります。それは、その同調者から侵略する国の軍事情報を得るためです。いつの時代でも、宗教組織の学校経営として、仏寺や教会で、原住民の師弟を教育する目的のひとつは、侵略国(布教国)同調者育成なのです。
湿地帯の葦の生い茂るヤマトの盆地では、弥生後期でも、山中に隠れ稚拙な武器で攻撃をしているエウカシのような勇敢な縄文人が活躍していたのです。湿地帯は、頑強な防御施設となります。特に、騎馬民族の軍事行動阻止には有効です。ですから、侵略軍は軍馬を有効に使うには、湿地帯を平地にする必要があるのです。
いつの時代でも、何処においても、異文化に強く興味を持つのは、壮年ではなく、若者です。その異民族の若者達に、前方後円墳築造のために、運河を掘らせたり、山を切り崩させたりの仕事をわずかな報酬で依頼し、「いっ、にー、さーむ、しー」の掛け声にあわせて集団行動の訓練をし、その前方後円墳築造過程で徐々に異文化の「思想」や「ことば」を刷り込み、そして、同調者へ変身した若者達に、土木道具の鍬や鋤の代わりに、槍や弓などの武器を渡せば、それにより現地軍の組織が完成するわけです。
宇陀の山中の強固な砦に陣取るエウカシは、侵略軍により組織された現地軍のオトウトカシに破れたのは、「夷を以って、夷を制す。」戦略に敗れたのです。
前方後円墳が完成した地域は、湿地帯から平地となり、堀は湊に続く運河となります。ヤマトの地にある運河や道幅12mもある軍事道路は、大阪湾にある浪速や渡辺津に続くわけです。その先は、中国山東半島、高句麗、百済、そして新羅に繋がり、その先は、南海ロード、シルクロード、そして草原ロードによりエジプト、オリエント、ローマへと繋がるわけです。前方後円墳築造により、湿地帯から平地になったヤマトの地には、朱砂、水銀、銀などを求めるアラム語やエジプト語などを話す各国の国際交易商人達で賑やかだったことでしょう。そのように異民族が集まれば、当然利権争いが起こります。そこで、軍事部族の登場となるわけです。
古墳時代に日本列島に渡来した軍事部族を知るには困難が生じます。それは、古墳時代最後の蘇我王朝が645年その歴史と供に抹殺され、713年には、風土記作成と好字令の発令により、日本列島各地にあったグローバルな歴史は箱庭物語のように矮小化され、そして、土地名や豪族名は日本名の二字として改竄されてしまったからです。更に、風土記(713年撰上の詔)、日本書紀(720年完成)、そして万葉集(759年完成)などの創作物語や「やまとことば」による歌で、過去のグローバルな歴史が隠蔽されてしまえば、古代日本国建国の真実は闇の中です。
日本列島の古墳時代(三世紀〜七世紀)は、朝鮮半島の三国軍事紛争時代と重なります。漢族とツングース族との紀元前一世紀建国の高句麗。倭族、韓族と扶余族との346年建国の百済。倭族、韓族とギリシャ・ローマ文化を保持する民族との356年建国の新羅。その高句麗、百済、そして新羅の三国が、朝鮮半島で資源獲得のために覇権をとなえるのと同じように、紀元四世紀に資源奪取のため未開拓の日本列島に侵攻し、三国の軍事部族が経済支配を目指し争いをおこなうわけです。
高句麗は373年、百済は385年に中国王権の圧力により、シャーマン宗教国から仏教国になるのです。それは、大乗仏教は、困窮する民を救うためではなく、殺生禁止のお題目により、異民族、特に勇猛な騎馬遊牧民族を統治するには有効だからです。(大乗仏教の基であるバラモン教は、その「殺生禁止」の教義により遊牧民族の生活基盤を破壊し、遊牧民族トラヴィダ部族を賎民としてしまった。)
しかし、ギリシャ・ローマ文化国新羅が仏教国になるのは528年です。この宗教の違いが、ヤマトの地での支配地を分けたようです。
国際バザールが開催される三輪山麓の海石榴市(つばきち)は、先住民の力が依然強いため、前方後円墳築造がかないません。せいぜい国中(くんなか)の桜井の地の南までが、侵略軍の支配地です。ですから、三輪山を挟んで、新羅支配地(後の磯城)と高句麗・百済支配地(後の葛城)とに分かれるのです。
その新羅と高句麗・百済の進駐軍事部族がにらみ合うヤマトの地に、536年(宣化元年)突如、馬冑・鎧馬に乗る鎧武者が現れるのです。それが、蘇我稲目です。
五世紀末頃、何処からともなく橿原市曽我町あたりに、蘇我氏の先祖が現れるのです。六世紀初期には、蘇我氏の先祖は、曽我川に沿って南に勢力を広げ、畝傍山の南をまわり桧隈・身狭そして飛鳥へ侵攻するのです。それらの地は、後の巨勢氏、紀氏、平群氏、葛城氏に変身する渡来人の居住地であるわけです。
そして、飛鳥の地に侵攻した蘇我稲目は、飛鳥川に沿う湿地帯にある丘の上に頑強な砦を築くのです。それは、その地が、朱砂の埋蔵地の宇陀から三輪山麓で開催されるバザールへの交易道の主要地であったのと、三輪山の地の背後地で、先住民を征服した倭族とツングース族の混成軍事部族の物部氏や大伴氏の襲撃から守りやすかったからです。
蘇我氏が元々ヤマトの住人(強いて言えば、ヤマトの先住人は縄文人。歴史上日本人が生まれるのは七世紀。)ではなく、遥か海の彼方からの渡来人である証拠に、この飛鳥の地には、不思議な石造物やオリエント系噴水のある庭園やガラス器製造工場遺跡等が多く発掘されるのです。
蘇我氏も、秦氏と同じに、多くの謎があるようです。蘇我氏は、「上宮聖徳法王帝説」には「巷奇・こうき」とあり、「元興寺縁起」には「巷宜・こうぎ」とあります。それらの意味は、「甲賀」(甲賀忍者の対抗忍者服部氏は秦氏の末裔。)の語源の「コーカサス」と言うことです。
蘇我稲目の息子蘇我馬子の娘は、「刀自子の郎女・いらつめ」と言われています。刀自子とは、トルコ(turk/チュルク・突厥は、チュルクの音写による漢語。遊牧民族の突厥は、漢族式鋳鉄ではなく、ヒッタイト系鍛鉄技術で鉄製武器を造っていた。)の漢語訳「土耳古」の「とじこ」です。つまり、蘇我馬子の娘は、「トルコの娘」と言われていたわけです。(昭和の終わり頃まで、藤原氏の末裔は、蘇我氏の末裔を貶める目的で、特殊浴場を「トルコ風呂」と言っていた。)
トルコ民族の先祖は遊牧民族のため、ユーラシア大陸で広範囲な移動をしていました。そのトルコ民族がオリエント諸国と遭遇するのは、紀元前のペルシャ帝国からです。
紀元前722年、イスラエル王国は、アッシリア帝国に滅ぼされ、そのアッシリア帝国も紀元前612年メディア王国に滅ぼされ、そのメディア王国も紀元前550年にペルシャ帝国に滅ぼされるのです。
ペルシャ帝国は交易立国であったので、国際交易商人の顔を持ち、ユーラシア大陸の隅々まで騎馬で移動する遊牧民族のトルコ(突厥)とは友好関係を構築できたのです。しかし、そのペルシャ帝国も紀元前四世紀には、ギリシャ系のアレクサンダー大王に支配されてしまうのです。
イスラエル王国を滅ぼし、イスラエル十部族(エジプトの神官が勝手に神々を発明し王族を支配している状況を打破するため、紀元前十四世紀に、アメンホテプ四世・イクナトンは、オリエントの太陽神ミトラを基に唯一神アトンを発明し、新都アケトアテン建設を実行するのです。そこへ、鉄器を発明したヒッタイト帝国からエジプトへ移住した鍛冶集団がいるのです。それがヨセフ族です。ヨセフ族は、エジプトの地で石切、運河の掘削、都市建設、人事・物流管理の技術を習得するのです。やがてヨセフ族は、太陽神アトンを信仰し、その化身の牡牛を祀るのです。紀元前1358年イクナトンが崩御すると、多神教の神を祀る神官達の巻き返しが興り、ヨセフ族の末裔はエジプトを去るのです。それがイスラエル民族の始まりです。太陽神を祀るイスラエル民族は、イスラエルを乗っ取るため、ヤコブ物語を捏造し、ヤコブをヨセフの父とした、唯一神ヤーヴェを祀る漂泊民族のレビ族の末裔のユダヤ民族が、紀元前六世紀のバビロン捕囚時に創作した、モーセ物語を知らない。太陽神アトンとその化身の牡牛を祀るイスラエル民族と、偶像崇拝を否定し唯一神ヤーヴェを祀るユダヤ民族とは同じ民族ではない。)を飲み込んだアッシリア帝国も、交易立国です。広く外国と交易をおこなっていたのです。そして、それらの商人達が使う言葉は、海洋民族フェニキア人が国際交易の場で使用していた「アラム語」だったのです。そのアッシリア帝国を滅ぼしたペルシャ帝国もアラム語で交易をしていたのです。
ペルシャ帝国の版図を飲み込んだアレクサンドル王領は、マウリャ朝インド文化と接触すると、そのことによりギリシャ文化とインド文化が融合するヘレニズム文化が興るのです。つまり、西洋文化と東洋文化との融合です。この文化の融合が、紀元前二世紀から、大月氏国(バクトリアの後継国)により、西洋と東洋との交易の架け橋の基となるわけです。そして、このヘレニズム文化が花咲くアラム語が話される大月氏国の地(後のガンダーラ)で、キリスト教(ギリシャ語聖書が書かれたのは大月氏国か。)と大乗仏教(ギリシャ系仏像の制作地は大月氏国か。)の「奇跡物語の基」が、国際交易商人により創作されるのです。(日本仏教に多大の影響を与えた日本密教を発明した錬金術師空海が、アラム語の呪文を唱えた原因のひとつと言われるのが、キリスト教大乗仏教一卵性双生児説です。)
国際交易国家大月氏国(月で表現される国は、トルコ系国。月・星はトルコの神聖なシンボル。)は、太陽神ミトラから発生した拝火のゾロアスター教(紀元前六世紀成立)の伝道国でもあったのです。何故か、そのゾロアスター教が、遥か極東の蘇我氏が支配する飛鳥の地にも渡来していたのです。
西域文化溢れる飛鳥時代には、どのような歴史があったのでしょうか。その歴史を知る糸口のひとつは、随書倭国伝にある、608年に渡来した隋使裴世清の報告でしょう。難波から上陸した裴世清は、桜井の地近くの「イワレ」で「男王」に謁見し、中国人と同じハイレベルな文化を持った人々を確認していたのです。では、隋使裴世清が遭遇した中国人と同じハイレベルな人々とは誰なのでしょうか。
しかし、その時期は、日本書紀によれば、日本人の先祖であるヤマト人が崇める女帝推古天皇の時代なのです。そして、聖徳太子が活躍し、更に、聖徳太子の行動をバックアップする秦河勝も活躍していたのです。藤原不比等は、日本書紀で飛鳥時代の何を隠そうとしたのでしょうか。
謎の時代・飛鳥の時代前後に起こった内外の出来事を列記してみましょう。そのことにより、日本書紀が何を隠そうとしたかを知ることができるかもしれません。

446年、鮮卑一派の拓跋部支配の北魏、仏教弾圧。道教の隆盛。200万の仏教僧侶国外脱出。
504年、梁、仏教を国教とする。
523年〜28年、北魏、人民の反乱。
527年、筑紫国造磐井の反乱。
528年、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅が仏教国となる。
536年、蘇我稲目、飛鳥に現る。
538年、百済より仏教伝来。(?)
544年、肅愼人(みしはせ)、佐渡に漂着。
552年、突厥帝国成立。
568年、東ローマ帝国の返使ゼマルクス突厥庭に入る。(庭とは神の宿る場所。神聖な朝廷のこと。)
581年、隋成立。
582年、突厥、隋に侵攻。
583年、突厥、東西に分裂。
584年、隋、突厥に侵攻して勝つ。
585年、物部守屋等仏寺・仏像を焼き棄つ。
587年、蘇我氏、物部氏を滅ぼす。
589年、隋、中国統一。
600年、大和朝廷(実は秦王国)隋に遣使。
602年、百済、新羅を侵して敗れる。
607年、蘇我氏、ヤマト防衛のため国ごとに屯倉を置く。
608年、隋使、小野妹子を伴い来朝。小野妹子再び入隋。
609年、小野妹子帰朝。
618年、隋滅び、唐興る。
627年、百済、新羅を攻める。新羅、唐に救いを求める。
630年、唐の攻撃により、東突厥散ず。
645年、蘇我王朝滅亡。

飛鳥時代の東アジアでは、鮮卑系の騎馬民族が支配する北魏→隋→唐と、チュルク系騎馬民族が支配する突厥とが、中国大陸の南と北の領地をめぐり闘争を繰り広げていた時代であったのです。
地政学的には、北魏・隋・唐は、朝鮮半島を突厥側に支配されてしまえば、遼東・山東の側面を海側から攻撃されてしまうわけです。
しかし、朝鮮半島は、仏教国の高句麗・百済と、ギリシャ・ローマ文化国の新羅とで覇権を競っていたのです。では、突厥が、その朝鮮半島を支配するにはどのようにしたらよいのでしょうか。
東アジアの地図を百八十度回転させ、南側を上にすれば、日本海は内海となり、日本列島はシベリアの地から朝鮮半島に続く地となるわけです。つまり、日本列島の中心地ヤマトを押さえれば、日本列島全土を、朝鮮半島を攻撃する基地にすることが可能となるわけです。
しかし、紀元五世紀における突厥の本隊は中央ユーラシアでの小国として、近隣諸国と対峙していたわけです。その時期の日本列島のヤマトでは既に、エジプトで開発され高句麗経由の横穴式石室を持つ巨大前方後円墳の築造により、先住民のオオクニヌシやナガスネヒコ等は、高句麗・百済の進駐軍事部族(後の物部氏・大伴氏)により畿内の山奥か、畿外の地に追い払われていたわけです。
五世紀の三輪山麓のヤマトは、高句麗・百済支配地と新羅支配地を交易地として、国際交易商人が宇陀地方から産出される朱砂を奪取していたのです。その地を武力で制圧していたのが、高句麗・百済をバックとした倭族とツングース族の混合軍事部族の物部氏であるわけです。と言うことは、物部氏を倒せば、ヤマトを武力で支配できるわけです。と同時に、高句麗・百済勢力もヤマトの地から駆逐できるわけです。
国際交易港の大阪湾の浪速(後の難波)は、「ローラン」と言われるように、高句麗の楽浪(ローラン)と海路で繋がっているわけです。そこで、蘇我氏の先祖は、高句麗支配の浪速を避け、和歌山県に流れる紀ノ川河口に勢力を張る軍事部族(後の紀氏)に接近するわけです。この紀ノ川支流は、ギリシャ・ローマ系の金装飾品やガラス器の埋蔵物が多く発掘される古墳群があるように、非仏教国新羅からの渡来部族の基地だったのです。
六世紀、突厥は突如中央ユーラシアから西東に膨張し、西はササン朝ペルシャ、東は北魏と対峙する大帝国に発展するわけです。そして、552年突厥帝国が興るわけです。その流れで、突厥帝国に駆逐された他民族は周辺国へ逃避するわけです。
朝鮮半島も、突厥に侵攻された柔然(蠕蠕・ぜぜ/日本列島に渡来し近江の「膳所」となる。)が東進することにより、高句麗が南下し、百済や新羅を圧迫するわけです。
高句麗は、372年前秦の圧力により仏教国となり、百済は、384年東晉の圧力により仏教国となっていたのです。しかし、新羅は528年までは、仏教国ではなかったのです。高句麗と百済は、仏教により繋がりがあったのですが、新羅とは思想上繋がりは527年までありません。528年仏教国となった新羅から駆逐された非仏教部族は、何処へ逃避したのでしょうか。
朝鮮半島最南端は、百済にも新羅にも属さない倭族が支配する無法地帯です。半島倭族は北九州の倭族と海路を利用して、朝鮮半島と日本列島との海上交易経営をしていたのです。半島倭族と北九州倭族は、元々海洋民族「呉・越」の末裔の同族ですので、玄界灘は庭先のようなものです。その半島倭族と新羅から駆逐された非仏教部族とが、高句麗軍により半島から駆逐され、北九州に渡来すると、北九州先住民族との戦争が起こるわけです。それが527年の「筑紫国造磐井の反乱」の実態でしょう。その後に、隋使裴世清が目撃した、中国人そっくりの高度文化を保持した「秦王国」が興るわけです。
徐福の末裔の秦氏は、紀伊半島熊野、新羅、中国山東半島とのトライアングルにより、朱砂の交易を弥生時代からおこなっていたのです。その新羅と中国山東半島との交易港は、北九州博多(はかた・伯太・はた・秦)であるわけです。秦氏は、石切、運河掘削、都市建設、鍛造製鉄器具製作、人事・物流管理の技術集団であるわけです。秦氏の技術は、前方後円墳築造に貢献したことでしょう。と言うことは、当然ヤマトの地にも拠点があったわけです。
蘇我稲目が、騎馬による圧倒的軍事力でヤマトを制圧すると、飛鳥の地に、水銀製造工場、金属工場、ガラス工場施設が建設されるのです。この工場施設建設にも秦氏の技術が利用されるわけです。
騎馬民族は、スキタイ帝国の金メッキ技術開発の例にもあるように、研究・開発型交易民族でもあるわけです。そして、馬による物流だけではなく、工業製品や装飾製品を開発・製造するノウハウを駆使して、広範囲に交易地を広げる民族でもあるわけです。スキタイ、突厥、モンゴル帝国も、その版図が世界的スケールで広がるのは、騎馬民族には国際交易商人の思想が元々あったからです。
608年、隋使裴世清が突如来朝したのは、蘇我王朝のテングリ(天子)・蘇我馬子が、隋のテングリ(天子)・陽帝に交易依願に対しての、交易品製造工場視察であったのでしょう。小野妹子が持ち込んだギリシャ・ローマ製品に劣らぬ交易品サンプル「貴金属製品・ガラス器」の精巧さは、陽帝を驚かせたことでしょう。それでも、隋の陽帝は、東海の小島国で「テングリ」を名乗る蘇我王国を信用できず、工場視察を裴世清に命じたのでしょう。その視察でヤマトで見たものは、中国と同じ高度文化を誇る飛鳥工場施設群であったのでしょう。この交易交渉が即決となったのは、すぐさま小野妹子は隋に旅立ったことからでも推察できます。それにしても、一年のうちに隋とヤマトを往復できるほど、飛鳥時代の航海術は優れていたのです。しかし、平安時代になると遣唐使船の遭難は日常茶飯事でした。これは何を意味しているのでしょうか。
そこで疑問が起こるのです。そのようなチュルク系騎馬民族の蘇我氏により輸出製品製作工場を建設し、広く海外と国際交易が行われた飛鳥時代に、日本書紀は、何故「女帝推古天皇」(当時天皇は存在していなかった。天皇の初めは、天武天皇。天皇の表号は、騎馬民族の「テングリ」が基。)や「聖徳太子」を登場させたのでしょうか。
その時代に「女帝」など存在しなかったことは、隋使裴世清が「男王」に謁見したことで証明できるでしょう。更に、その時代に摂政聖徳太子(厩戸皇子・キリスト?)が存在していなかったことは、「摂政」とは、858年に藤原良房が始めの「官職」であったことで証明できるでしょう。
そのように日本書紀が架空の人物を創造する根拠は、蘇我氏と秦氏の「実体」を隠す必要があったからでしょう。だとすると、秦河勝が広隆寺を建造し、大乗仏教を蘇我馬子と聖徳太子が広めたという「物語」は、何を意味しているのでしょうか。
大乗仏教には多くの謎があるようです。その渡来の謎もさることながら、仏教隆盛の地である奈良にある南都六宗の東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の末寺が、平安京にはひとつもないのです。宗教活動の基本は布教です。京の都に奈良の末寺がないのは、何を意味しているのでしょうか。そして、平安京遷都初期には仏寺がなかったのです。今現在の京都の仏寺の多くは、鎌倉時代以降の創建なのです。
平安時代、都の仏教は、唐留学一年の最澄の天台宗と二年の空海(空海は、渡唐一年前に仏籍に入る。)の真言宗の「新興仏教」が取り仕切るのです。この仏教の奈良と京の関係の謎を解くヒントは、飛鳥時代にあるようです。
仏教の教祖は、「ほとけ」と言われています。しかし、日本列島における隠語では、「ほとけ」は「死人」を意味しているのです。この落差は、何を意味しているのでしょうか。
「ほとけ」とは、朝鮮語で「ブッダ」のことです。ブッダのサンスクリット語を漢訳すると、「浮屠」(ふと)となります。この「ふと」に朝鮮語での尊敬語尾の「け」を加えて、「ふとけ」が、日本列島に渡来すると「ほとけ」に変化するわけです。
大乗仏教は、本当に538年に、蘇我稲目によりアスカの都に受け入れられたのでしょうか。どうも大乗仏教は、「日本書紀」が記述しているように、飛鳥時代には受け入れられていなかったようです。
大乗仏教の渡来時期は、「日本書紀」によれば欽明天皇十三年(552年)、「元興寺縁起」、「上宮聖徳法王帝説」では欽明天皇七年(538年)となっているようです。しかし、この渡来時期には多いなる疑問が生じます。それは、703年に漢訳された「最勝王経」の如来寿量品の文章ソックリが、538年(552年?)に百済王聖明が伝えたという表文に用いられているからです。
703年に漢訳された文章では、

是の金光明最勝王経は諸の法の中に、最も殊勝れています。解り難く入り難し。声聞・縁覚も、尚し知りたまふこと能はず此の法は能く量も無く辺も無き、福徳果報を生し、乃至ち無上れたる菩薩を成弁す

552年百済王聖明の「日本書紀」の文章では、

是の法は諸の法の中に、最も殊勝れています。解り難く入り難し。周公・孔子も、尚し知りたまふこと能はず此の法は能く量も無く辺も無き、福徳果報を生し、乃至ち無上れたる菩薩を成弁す

更に、仏教伝来に関する謎は、蘇我稲目と物部尾興との、「蕃神・仏」を祀るかどうかの崇仏・廃仏論争です。これも、ソックリ物語が、「高僧伝」巻九の仏図澄伝にあるのです。その物語の舞台は中国です。後趙王の石虎が仏教導入の是非について諮問したところ、中書の王度が「蕃神・仏」を祀ることを反対するのです。しかし、石虎はそれに対して「仏」(戎神・異民族の神)を祀るのです。
そのように仏教伝来物語には多くの謎があるのですが、更に、日本書記には多くのトリックが隠されているようです。それは、「神」と「神社」についてです。
女帝推古天皇が支配する飛鳥時代に、在来の「神」と戦い、勝利したのが「仏」であった、と言うのが「日本書紀」における、仏教伝来物語です。では、在来の「神」とは何でしょうか。
一般的常識では、「神社」とは神代の昔から存在した日本国最古の建物である、ということです。しかし、神社とは、仏教渡来以降の寺院の影響下で開発された「祟り封じ」の建築物であるわけです。
日本列島の在来の神(かむい・カムイと言えば、団塊世代のひとは白土三平氏劇画「カムイ伝」を思い浮かべることでしょう。それは、江戸時代前期、反体制の非人部落の日常を描いた物語です。しかし、そこに描かれている物語は、実際は「穢多部落」です。穢多は、鎌倉時代に、藤原氏、百済系日本人、海洋民族末裔物部氏の流れにある北条氏により、インドからもたらされた「セダラ」民族差別思想を基に、騎馬民族末裔蘇我氏・秦氏・新羅系日本人を貶めるために発明された「蔑称」です。鎌倉時代、騎馬民族新羅の末裔源頼朝一族を抹殺した、海洋民族の末裔北条氏による騎馬民族「源氏」壊滅戦略により、その思想を庶民に布教したのが、平安時代に空海・最澄が発明したヒンズー教化仏教に染まった鎌倉仏教僧侶達です。飛鳥時代は、自然神を祀る騎馬民族が統治した時代で、農業神の人工神の仏教の時代などではなかったのです。)は、仏教神の人工神とは異なり、自然神であるので姿形がありません。姿形がないので、「かむい」を祀る建物(神社)など日本列島にはどこにも存在していなかったのです。ですから、オオクニヌシ・ナガスネヒコが外敵から死守したヤマトの三輪山には「神社」など存在しないわけです。(「出雲風土記」のトリックは、オオクニヌシを、畿内ではなく、島根県出雲の住人としていることです。オオクニヌシは、弥生時代に畿内三輪山を統治していた先住民の部族長だったのです。)
そこで疑問が起こるのです。それは、仏教と戦ったのは「何神」かということです。神道でないことは確かです。神道は、天武天皇崩御後、藤原氏が支配する中臣氏により発明されたものだからです。
蘇我稲目が崇仏で、物部尾興が廃仏であると、「日本書紀」は記述していますが、では物部氏はどのような「神」を祀っていたのでしょうか。
物部氏は、倭族とツングース族との混合軍事部族の末裔です。そして、日本列島には、高句麗の軍事部族として渡来したわけです。高句麗は、372年に仏教国となっています。と言うことは、物部氏は仏教の影響を受けていたことでしょう。
蘇我氏は、騎馬民族チュルク系の末裔です。チュルク族は、自然神の月・星を祀る民族です。自然神を祀る民族が、蕃神の人工神の仏を外国から導入する根拠が希薄です。
しかし、日本書紀では、蘇我氏が崇仏で、物部氏が廃仏となっています。これはどういうことなのでしょうか。
日本書紀に、蘇我氏と物部氏の宗教戦争が二度も記述してあるのは何故でしょう。そして、二度目の戦争で、崇仏派の蘇我馬子により廃仏派の物部氏は壊滅され、仏教が世に広まったと記述しているのです。
では、仏教と戦った「神」とは、どのような神が考えられるのでしょうか。それは、「道教」と「景教」(太陽神ミトラを祀る教え。一般的に、景教をネストリウス系キリスト教であると認識されているようですが、キリスト教は、ミトラ教の教義・儀式・誕生日等多く取り込んでいる。)です。
飛鳥時代に活躍した部族として、軍事部族の蘇我氏と技術部族の秦氏があげられます。蘇我氏はチュルクの末裔なので、月・星を祀っていました。では、秦氏は何を祀っていたかといえば、太陽神とその化身の牡牛です。
しかし、歴史上、藤原不比等の日本書紀によれば、大乗仏教と中臣神道は存在するが、日本列島には、蘇我氏と秦氏の神は存在していなかったことになっているのです。これは、392年ローマ帝国の国教にキリスト教がなった時、それ以前まで存在していた「ミトラ教」の存在を歴史的抹殺により、消してしまったことと共通しているようです。
道教と景教との共通点は、天にあるものを祀っていることです。道教は北極星(太一)を祀り、景教は太陽(ミトラ)を祀っていたのです。
645年蘇我王朝の崩壊と供に、蘇我氏と秦氏の神々は、王権の支配地から追放され、抹殺されていくわけです。飛鳥の地では、蘇我氏の神を祀る「パオ」に似せた八角形の社は、破壊されその上に飛鳥寺が新築されるわけです。山背の地では、秦氏の神を祀る景教寺は破壊され、その上に広隆寺が新築されるわけです。このことは、四世紀のローマ帝国でおこなわれた、ミトラ神殿を破壊して、その上にキリスト教教会を新築して、ミトラ教を歴史上から抹殺した戦術と同じです。やがて時代と供に、戦いに敗れた神々はひとびとから忘れられ、悪神・穢れ神として王権から貶められていくわけです。
藤原氏と百済系亡命貴族により、奈良の都から平安京に都が移され、新しい宗教が最澄と空海により発明されるわけです。しかし、その都に不思議な神様が賎民達により祀られていたのです。それらは、穢れ神「牛頭天皇」と「魔多羅神」です。
魔多羅神は、秦氏の元支配地の比叡山の神様でした。平安時代、百済系桓武天皇により、秦氏が比叡山から追放されると、最澄が天台宗を興し、比叡山に延暦寺を建立し、中国山東半島と交易をするわけです。
比叡山には、もうひとりの神様がいました。王権に反抗しない蕃神は幸福です。その神は、中国天台山の土俗信仰神「山王・シャンワン」です。この中国の山王神は、日本の神として変身するわけです。山王は、スサノウの孫の「大山咋の神」となり、日枝(イルギ→日吉・ひよし。出自不詳の自称平氏の豊臣秀吉が幼少のころ「日吉丸」と言われていたのは、その出生地が中国だったからか?)の神様へ変身するわけです。
農業神の神は、農産物の豊作を約束します。では、騎馬民族の神は、何を約束するのでしょうか。それは、部族の安全の他に、他民族との交易の安全を約束するわけです。
オリエントで発掘された紀元前十四世紀の交易文章によれば、オリエントの商人達はミトラ神の下に契約を交わしていたようです。他民族との交易は、等価交換ではなく、不等価交換が前提です。特に、自然物と人工物(装飾品、ガラス器)との交換は、注意が必要です。ひとが作る物は必ず「ほころび」が生じます。ですから、交易後、その「ほころび」を発見し、交易の無効を訴えることが多く発生したことでしょう。そのように、後からクレームをつけられては商売になりません。ですから商人は、異民族との交易において絶対服従の「神」が必要だったのです。交易の場を「神聖地」とし、そこで「神」に誓って交易書にサインしたら、後のクレームは受け付けないということです。
古墳時代、ヤマトの国際バザールが開かれた三輪山麓の海石榴市(つばきち)は、まさにそのような「聖地」であったのでしょう。飛鳥時代では、「屯倉」が、軍事施設と供に、そのような交易の聖地の役目も果たしていたのでしょう。やがて、交易地は先祖を祀る場所(古墳・塚)が利用されるようになり、定期的にひとが集まることにより、「まつり・バザール」が形成されていくわけです。やがて鎌倉時代を経て室町時代になると、仏教教団が支配する商業地の「市」に対して、王権から賎民として落とされたひとたちにより、蕃神を祀る化界の地である神社境内で商いをする同類者が集まり「座」が形成され、その世話をするひとが選ばれるわけです。その座を世話する顔役は、後に「役座・ヤクザ」と言われるわけです。
異民族が混在する都市で、交易を安全におこなうには、異民族も認める契約の神の神格化が必要です。そのためには、神を神格化させる装置としての儀式の開発が必要です。カリスマとは、私的な権威をある種の儀式により公的な権威に摩り替えることに成功したひとのことです。
騎馬民族に共通する神を祀る儀式としては、「犠牲」があります。羊・牛などが「犠牲」となり神に捧げられるわけです。
しかし、この犠牲の儀式は、騎馬民族や遊牧民族には有効でも、農耕民族には強烈すぎます。そこで、犠牲に代わる儀式が開発されるのです。それが、歌と踊りです。そこで、宗教儀式専門の部族が発生するわけです。
645年以前のヤマトでは、古墳や塚の周りで定期的におこなわれる市・バザールでは、バザールを仕切るひと達等により「神を祀る」歌や踊りが披露されていたことでしょう。しかし、645年以降は、蘇我王朝を倒した勢力により、古墳や塚の地には仏寺が建てられていくのです。土壁の頑強な塀に囲まれた耐火用瓦の家屋、そして警報装置の鐘を装備した仏寺は、仏像を祀る施設と同時に、当時は先住民に対する軍事施設の「砦」でもあったのです。(戦国時代でも、織田信長が宿営地に「本能寺」を選んだのは、仏寺に「砦」の機能が存続していたからです。)
飛鳥時代のヤマトは国際交易都市なので、渡来異国民がそれぞれの言葉を使用していたのです。南方系ポリネシヤ語、トラヴィダ語、タミル語。大陸系ウラル・アルタイ語、突厥語、朝鮮語。西域系アラム語、ペルシャ語、エジプト語、ギリシャ語。飛鳥時代のヤマトの地での国際交易を通じて、それらのグローバルな各国言語が融合して、やがて「やまとことば」を形成していったのです。
明治時代初期、明治新政府を発足させるため、薩摩藩を中心に各藩の有力者が江戸に集り会議をしました。しかし、その当時、日本語が発明されていなかったので、その会議では「各藩のことば」によりコミニュケーションをとれなくて、「筆談」でことを済ませたようです。
江戸時代までは、各藩の「ことば」は、その臣民の先祖の渡来先により異なっていたからです。遥か南海国と交易をしていた尾張の国などでは、「あいうえお」の五母音ではなく、「八母音」の言葉を使用していたのです。(現在も使用している。)そこで明治新政府は、日本国統一言語を、「廓言葉・くるわことば」を基にして発明したわけです。それが今の「東京弁」の標準語というわけです。
日本語の原語が特定できないのは、飛鳥時代のヤマトが国際都市であったと認識していないからです。国際都市であれば当然、各国の言葉が使用され、それらはやがて融合して「やまとことば」となるわけです。
その「やまとことば」を使用して「神」を祀っていたひと達は、645年には蘇我王朝と伴に、ヤマトの地から追放されるわけです。そして、都が奈良へ遷都される奈良時代に、徐々に賎民へ落とされていくわけです。奈良時代が、太陽と月と星を祀る民族と、新興仏教の仏を祀る民族との闘争の時代だったのです。
しかし、平安時代から、日本列島文化の価値観が百八十度変換してしまったのです。
初めて「鬼」が現われるのがこの時代からです。そして、飛鳥時代は、蘇我王朝と天武王朝と友好関係にあった「蝦夷」が、蛮族に貶められてしまうのです。そして、桓武天皇より、奈良仏教は「穢れ仏」を祀る穢れ宗教と貶められて、奈良仏教僧が平安京へ入ることを厳しく禁止されてしまうのです。更に、天武天皇系貴族の伊勢神宮の神に奉仕していた斎王としての「郎女・いらつめ」が「遊女」と貶められ、伊勢神宮の神を祀っていた歌や踊りは、平安貴族への余興へと変化してしまうのです。そして、「星祭」を禁止された太陽・月・星を祀る祭祀集団は、都から河原へ追放されてしまうわけです。
平安時代、百済系桓武天皇により貶められた、騎馬民族の末裔である遊女や河原者は、やがて有力な指導者に統率され、闇の世界の支配者となっていくわけです。その闇の世界のひと達が開発・発展させた技術・芸能なくしては、今日の日本文化は語れないのです。

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏


                  弾左衛門頼兼へ
頼朝御判


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/836.html

コメント [政治・選挙・NHK178] 人質、湯川さんの死、真実を報道しないマスコミ ( 大槻義彦の叫び ) かかぁぐつぐっ
36. 2015年1月31日 19:02:18 : 59z6kPSvmg
http://ameblo.jp/yoshiko-kawashima/entry-11676420988.html

前ブログの中で、中央情報局(CIA)のスパイの話をしたが、米紙
ニューヨーク・タイムズは11月4日に、問題となっている米国家
安全保障局(NSA)について、スパイ行為は日本も含まれていると
報じた。中央情報局(CIA)元職員スノーデン容疑者から入手した
文書の内容として伝えたとある。
今さらではあるが、10年以上前からそのような方との付き合いが
有ったので驚く事はない。アメリカの自宅に行く際は、よくNBAの
試合に連れていってもらった事もある。

http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/689.html#c36

記事 [近代史02] 神輿の黙示録(9)(大乗仏教とは何か:鎌倉時代の賎民は何を拝んだのか)
「イジメはいけない、差別はいけない。」、と世間は言います。それは当然です。しかし、この国では、平安時代に「鬼」なる概念を創作して、王権自身が「鬼」をイジメ、差別してきたのです。
カリスマとは、「私的権威」をある種の儀式により「公的権威」に変身させることに成功したひとのことです。それと逆のことが「鬼」に言えます。「鬼」とは、ある部族が持つ「私的怨念」をある種の儀式により「公的怨念」に摩り替えられたことにより創作された負の概念です。では、王権に追放された部族を「鬼」にしたのはどのような儀式だったのでしょうか。この節では、そのことについて考えてみたいと思います。
ひとが「ことば」を知るようになった歴史は分かりません。でも、文字は、エジプトの遺跡から、神聖文字(ヒエログリフ)が、紀元前2781年には存在していたことが証明できます。
ひとは、「ことば」や「文字」を知ることにより、「思考する悩み」を持ってしまったのです。思考とは、あることを思い、そして考えることです。その行き着く先が、「何故」、「どうして」の疑問です。その疑問に対する答えが、「思考」することにより解決できれば問題はないのですが、ひとの脳には、全てを解決する能力は未だ備わってはいないのです。
その需要に答えるのが宗教です。宗教とは、ひとが持つ「生老病死」に対するあらゆる疑問に答えることができるとする幻想です。ひとが考えることには必ず「ほころび」が生じます。その「ほころび」を繕うために、更なる「答え」が創作されます。そのようにして無数に紡がれた「思考」はやがてひとつの系となります。それが経典の基となるのです。つまり、宗教(幻想)の発生です。
紀元前二千年、カスピ海・黒海周辺からアーリア人が南下するのです。その一部がインドに到達すると、先住民族トラヴィダを倒し、その地を支配するわけです。
紀元前八世紀、アーリア人は、先住民族である遊牧民族トラヴィダ族を支配する目的に、「菜食主義」のバラモン教を発明するわけです。ここから宗教による差別思想(菜食=善、肉食=悪)である「カースト制度」(祭司者バラモン、王族・武士クシャトリア、平民ヴァイシャ、奴隷スードラ、そして不可触賎民アチュート/屠殺者センダラの階級制度。このカースト思想が、平安時代に大乗仏教僧により日本列島に持ち込まれ、弘仁六年・815年編纂の「新撰姓氏録」で「皇・神・蕃」の序列となり、鎌倉時代には、大乗仏教僧により「セダラ」から「穢多」が発明され、江戸時代には、「士農工商・穢多・非人」の日本版カースト制度が完成する。)が、歴史上発生するわけです。
紀元前五世紀、その「カースト制度」に疑問を唱えるひとが現れるのです。それが、ゴウタマ・シッタルタ(釈尊・シャカ)です。
バラモン教は、聖職者であるバラモンが、四姓の最上に永遠に君臨するトリック「輪廻転生」を唱えていたのです。釈尊は、その輪廻転生に対して疑問を持ち、それに対抗する「思想」を考え出したのです。それは、現世のわだかまりの系を断つために「出家」し、物欲の基であるあらゆる生産手段の系を断つために「乞食・こつじき」し、そして輪廻の系を断つために「非人」となることです。釈尊の教えである「仏教修行」の基本は、その「出家」、「乞食」、「非人」にあるのです。
紀元一世紀、中央アジアの地、大月氏(騎馬民族チュルクが支配)を駆逐したクシャナ朝のガンダーラで、ギリシャ系仏像(釈尊は仏像を否定していた。)とサンスクリット語(釈尊は、バラモンが話すサンスクリット語の使用を禁止し、パーリ語を使用していた。)の法華経など多数の経典を持つ不思議な宗教が突然発生するのです。それが大乗仏教です。
大乗仏教は、釈尊が否定した、バラモン教が発明した「輪廻転生」を、その思想に取り入れているのです。更に、釈尊は、「非人」となり転生を否定しているのに、大乗仏教は、死後の「西方浄土」を約束するのです。
この釈尊の思想と全く異なる、バラモン教に類似した大乗仏教が、平安時代の日本国に「鬼」を普及させたのです。そのプロパガンダの手段が、サル・イヌ・キジを伴い鬼退治をする「桃太郎」のお話です。桃太郎物語の種本は、大乗仏教物語のひとつである、ラーマヤナ物語にあるのです。その物語の大筋は、悪魔が王の后をさらって鬼が島に立てこもるのです。それに対して、ラーマ王が、サル・クマ・タカをお供に、鬼が島に乗り込み鬼を退治するというものです。
では、平安時代の日本国で、敗者がどのようにして「鬼」となっていったのかを調べて見ることにしましょう。
平安時代、百済系桓武天皇は、何故に奈良仏教を忌み嫌い「穢れ仏教」として避けたのでしょうか。その謎を解くヒントは、平安時代に作られた金銅の仏像にあります。奈良時代のキンピカ仏像は、アマルガム法金メッキにより造られていたのが、平安時代のキンピカ仏像は、金箔の漆接着で造られていたのです。何故、キンピカ仏像の金塗装法が、アマルガム法から金箔漆接着に変化したのでしょうか。
その原因は、奈良の大仏鋳造(747年〜749年)にあります。反藤原氏の聖武天皇(724年〜749年)は、全国に国分寺(741年発令。平安時代になると各国の国分寺にある仏像は、穢れ仏像と貶められ行方不明となる。源頼朝は、挙兵のため、関東にある廃墟となった国分寺で関東源氏の部将を召集した。)を建立し、奈良には、藤原氏の寺である興福寺(710年山階寺を奈良に移築)を見下ろす丘の上に、その総本尊として大仏を鋳造したのです。その製作過程で、大量の銅とアマルガム法金メッキのために大量の水銀を使用したのです。
医療が発達していなかった古代、中世、近代まで、病気とは目で確認できる症状である皮膚病関連がその範疇だったのです。目で確認できない神経症状を呈する病気は、悪霊の祟りの仕業と信じていたのです。(奈良時代、中臣神道が皮膚病も悪霊の祟りと宣伝し、平安時代には、大乗仏教も法華経で仏罰者がハンセン氏病者だと宣伝したため、鎌倉時代には、目に見える皮膚病も悪霊の祟りと信じられていく。)
奈良の大仏鋳造作業での、多量の銅の精錬カスや金メッキのための水銀のカスは、河に流れ込み奈良の都へ運ばれるわけです。それは今で言う鉱毒による環境汚染です。鉱毒は、身体の神経系を徐々に侵し、やがて手足が萎えてしまうのです。これは当時では、病気ではなく、悪霊の祟りの仕業であったのです。
祟りには、祟られる原因がなくてはなりません。奈良の都を影で支配していた藤原氏の前政権の蘇我氏に対する仕打ちやその同族を数々の陰謀により抹殺した仕打ちは、祟られるのに十分過ぎるほどでした。その藤原氏を祟った本家は、興福寺を見下ろす大仏だったのです。では、祟られる藤原氏とは何者なのでしょうか。
藤原氏は、七世紀半ばに突然権力の中枢に現れたのです。藤原氏の前姓の中臣氏は千葉の鹿島出身と言われていますが、信憑性に欠けます。藤原氏も、蘇我氏と同じに、出自不明の氏族なのです。
藤原氏の歴史上の出現は、蘇我王朝の崩壊の時期と一致します。645年、蘇我王朝が倒れると、すぐに仏教興隆の詔が発せられるのです。(このことは、それ以前は仏教が一般大衆に広く布教されていなかったことを意味します。飛鳥時代は、歴史教科書の言う、聖徳太子と蘇我馬子による仏教興隆の時代などではなかったのです。)それと同時に、古墳や塚の近くに仏寺が建てられるのです。仏寺は、表向きは仏像の安置場所ですが、実際は、先住民や蘇我氏残党に対する「軍事的砦」だったのです。
蘇我王朝時代では、騎馬民族特有の広角外交により多くの国と国際交易を盛んにしたわけです。ですから、交易ルートも、南中国交易ルートの基地としての百済国へは、葛城→紀伊→難波→吉備→筑紫と、北中国交易ルートの基地としての新羅国へは、磯城→山城→近江→若狭→出雲の二系統となるわけです。藤原氏の、蘇我王朝打倒の目的のひとつが、この国際交易ルートの略奪だったのです。
藤原氏の凄さは、その謀略の緻密さです。蘇我王朝を倒すと、その事跡を抹殺する謀略をおこなうわけです。
一般的常識では、一部族には一宗教です。しかし、藤原氏は、仏教系の興福寺を持ちながら、神系の春日神社若宮を新設するのです。藤原氏にとっては、宗教とは先祖を祀ることではなく、臣民を支配する政治的道具であったようです。
春日神社の「若宮」とは、先住民(太陽・月・星を祀る騎馬遊牧民)が祭祀してきた本家筋の祭神の勢いを弱め、本家筋への自然神への信仰を折り曲げ、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神などの人工神の官幣氏族神への信仰にふりむけさせるための装置です。
前政権の氏族(騎馬系蘇我氏、秦氏、新羅系日本人)の抹殺は、前王朝時代の神々の抹殺から始まるのです。その仕掛けとしての装置が、春日社と興福寺です。藤原氏は、神系の春日社で太陽神を祀る神々を消し(秦氏の神は、八幡神、稲荷神に変身することで今に生き残る。)、仏教系の興福寺で月・星を祀る神々を消してしまったのです。(道教は、山岳仏教の修験道として生き残る。室町時代、道教の末裔の賎民と蔑称された堂の者達は、自然と対話して「道」を極める表現として、華道、茶道、剣道、弓道などを発明した。)
そして、敗者を賎民(鬼)に貶める仕掛けとして、中臣神道により、中臣祓を発明し、シロト(白癜)とコクミ(象皮病)の皮膚病を「国つ罪」としてしまうわけです。何故、皮膚病が国つ罪なのでしょう。何故、ハンセン氏病が仏罰なのでしょう。この仕掛けが、敗者を賎民に貶める装置として、平安時代から鎌倉時代にかけて効力を発揮するのです。
藤原氏が支配する中臣氏が発明した中臣祓は、ユダヤ教のヨムキプルに似ていると言われています。では、中臣祓では、どのような罪を祓っていたのでしょうか。
祝詞は十世紀初めに編纂されて今日に伝えられているようですが、その初めは、藤原不比等嫌いの新羅系天武天皇の崩御直後であったようです。その趣旨は、国内に起こった災難や不幸や疫病などは、人民どもが犯した罪悪の所業が原因であるので、それらを拭い取れば平穏安息が得られる、としているのです。
その祓うべき罪は、「天つ罪」と「国つ罪」との二つに分けられるのです。天つ罪は八つあり、畔放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、生剥、逆剥、屎戸です。国つ罪は十三あり、生膚断、死膚断、白人(シロト)、胡久美(コクミ)、おのが母犯す罪、おのが子を犯す罪、母と子を犯す罪、子と母を犯す罪、畜犯せる罪、昆ふ虫の災、高つ神の罪、畜仆し、蠱物する罪です。
この中臣祓の内容を精査すると、藤原氏による、騎馬遊牧民族壊滅戦略が浮かんでくるのです。それは、皮膚病者を罪者として世間から排除するための戦略と、騎馬遊牧民族の生活基盤を破壊するための戦略とです。
菜食民族とは異なり、騎馬遊牧民族は家畜や獣を屠殺しその肉を食料とし、そしてその皮を剥ぎ、加工して生活資材とするわけです。しかし、中臣祓では、騎馬遊牧民族としては生活するための当然の行為を、罪悪の所業と規定しているのです。(この戦略は、インドにおける、アーリア人がバラモン教を発明し、先住遊牧民族トラヴィダを賎民に落としたことと同じです。)
藤原氏と進駐百済貴族は、645年の政変に勝利すると、飛鳥の都を破壊し、難波(浪速・ローラン/高句麗・百済交易の湊)の長柄豊碕宮に遷都するわけです。では何故、飛鳥の都は、簡単に破壊されてしまったのでしょうか。それは、百年後の奈良の都が疎まれたのと同じ理由からです。
飛鳥の都は、輸出製品製造工場都市でもあったわけです。そこには、アマルガム法金メッキを施した装飾品やガラス器を製造する工場群があったわけです。川上の工場から鉛の精錬カスや金メッキの廃液を飛鳥川に流せば、下流の農耕民族にはその鉱毒が作物や身体に悪影響を与えます。つまり、農耕民族にとって、川上の飛鳥の都には祟り神が生息していたのです。
更に、農耕民族と騎馬遊牧民族とは、自然に対する考え方が全く異なることも、飛鳥の都を短期間に消滅させた大きな原因のひとつです。農耕民族の繁栄は、騎馬遊牧民族の衰退を意味します。
ヤマトの地は、前方後円墳築造の結果、湿地帯から広々とした農地に変身したわけです。農耕民族は、やがて開墾という名の自然地の破壊を山の麓までおこなうわけです。すると、騎馬遊牧民族の生活の糧である家畜の生活範囲が破壊されてしまうわけです。ですから、農耕民族が自然を破壊して耕作した畔や用水のための溝を、騎馬民族は自らの生活圏を守るため破壊するわけです。すると、その騎馬遊牧民族が行なった当然の行為は、藤原氏の支配する中臣神道により、「畔放、溝埋」の天つ罪とされてしまうわけです。
645年、飛鳥の地を追われた蘇我氏・秦氏・進駐新羅貴族達は、吉野の山奥や鈴鹿の関を越えて化界の地へ逃れていくわけです。やがて、672年進駐新羅貴族を中心に、反百済勢力が伊勢に集結し赤旗をなびかせて、百済コロニーのある近江宮へ進軍するわけです。それが歴史書の言う、壬申の乱です。
壬申の乱に勝利した新羅系大海人皇子が、672年、日本国初の天皇・天武天皇となり、ここに「日本国」が誕生するわけです。(四世紀のヤマトに大和朝廷が存在し、そこで日本人が活躍していたと誤解しているひと達がいるようですが、672年以前には「日本人」は存在していません。)
そして、蘇我王朝のあった飛鳥の浄御原宮に遷都するわけです。更に、壬申の乱で赤旗を掲げて活躍した、都を追われていた海洋民族の末裔の外物部氏の神を祀るため、685年伊勢に遷宮するわけです。(伊勢神宮は、新羅系天武天皇が建立したため、平安時代から明治時代まで、百済系桓武天皇の子孫達はお参りにいっていなかった。)
686年、天武天皇が崩御すると、天武天皇のお妃が女帝持統天皇(百済系中大兄皇子の娘)となるわけです。その女帝持統天皇を裏で操るのが、天武天皇に左遷されていた藤原不比等であるわけです。
この藤原不比等が企画した日本書紀により、ギリシャ神話を真似た神代の物語や、架空の天皇が発明されたため、日本国建国の歴史が全く分らなくなってしまったのです。そして、更に日本の宗教史を分らなくし、そして、日本列島に差別思想を持ち込んだのが、藤原氏による異民族支配の武器のひとつである、大乗仏教なのです。そもそも大乗仏教とは、釈尊でないのであれば、何を目的に、誰により発明された宗教なのでしょうか。
大乗仏教が発明された時代前後を調べてみましょう。そこに、大乗仏教が、何の目的のために、誰により発明されたかのヒントが見つかるかもしれません。
紀元前一世紀、ユーラシア大陸は、騎馬民族匈奴の支配下におかれていたのです。匈奴の強さは、砂漠地帯にあるオアシス国家を支配していたからです。ローマのガラス器(ローマングラス)と洛陽(後の長安)の絹との交易は、匈奴支配の草原ルートか、砂漠地帯のオアシスルートを通ることなくしてできないわけです。
匈奴は、国際交易商人のもたらす消費財や通行税により、国力を維持していたわけです。匈奴が騎馬民族であるならば、そのオアシス国家も騎馬民族により支配されていたわけです。大乗仏教が発明されたガンダーラも、匈奴がユーラシアを支配していた時代は、騎馬民族チュルクが大月氏国を支配していたわけです。
紀元25年、漢民族の後漢の光武帝が、匈奴壊滅作戦を開始するわけです。その戦術は、匈奴の経済を支え、食料・武器の調達先であるオアシス国家を攻撃して、匈奴軍を追い出し、そのオアシス国家を後漢の支配下におくわけです。
経済的基盤を失った匈奴は、紀元48年、北と南とに分裂し、国力が衰退していくのです。当然、オアシス国家を支配していた騎馬民族も、後漢軍により駆逐されてしまうわけです。ガンダーラの地を支配していた騎馬民族国家大月氏国のチュルク民族も駆逐され、紀元45年には、農耕民族トカラ人によりクシャナ朝が興るわけです。
そのように、騎馬民族に支配されていたオアシス国家の絹とガラス器交易の地は、紀元一世紀になると、農耕民族により支配者が交代したわけです。その時代の東西の真中の交易地のガンダーラで、突然無数の経典と仏像による布教を行なう大乗仏教が興るのです。
ローマと後漢との東西交易の中継地点のガンダーラで、新興宗教の大乗仏教が突然出現するのと前後して、ローマ帝国が、紀元六年、ユダヤ王国を壊滅した地に、新興宗教が興るのです。その新興宗教は、イエス(イエスとは、ヨシュア「ヤハウェは救いの意味」をギリシャ語に翻訳した語。)と言う大工により発明されたと言われています。しかし、この宗教は不思議な成り立ちにより創生されているのです。
「油を注がれた者=ユダヤ王」の意味である「メシア=救い主」をギリシャ語に翻訳すると、「クリストス」となります。この「クリストス」が、日本語訳になると、「キリスト」となるわけです。つまり、「キリスト教のイエス」とは、「ユダヤ教の王であるヨシュア」と言う事になります。と言うことは、キリスト教徒とは、ユダヤ教徒でもあり、ナザレのイエスこそがメシアであるということは、ユダヤ教のイエス派が、キリスト教ということです。
このキリスト教徒達は、ユダヤ王国を壊滅した侵略者ローマ帝国軍打倒のために活動するわけです。しかし、どのような訳か、392年には、打倒ローマ帝国のキリスト教が、ローマ帝国の国教となり、ローマ軍の軍神であるミトラ神(ラテン語でミトラス神)の神殿を徹底的に破壊し、その上にキリスト教の教会を建設するのです。
更に、ミトラ誕生日(再生日)である12月25日は、キリストの誕生日クリスマスに改竄され、ぶどう酒(実際は、ミトラ神の化身の牡牛を屠った時の血。)とパン(実際は、牡牛の生肉)のミトラ教密儀も、キリスト教に模倣されてしまうのです。「七」は、ミトラ教の「聖数」です。この「七」は、新約聖書の文中で多く目に付くことでしょう。そのように、キリスト教の儀式の多くは、ミトラ教からのものなのです。(キリスト教の存在を知らないミトラ教徒は、キリスト教の教義や儀式を見せられたとしたら、その全てを瞬時に理解できるでしょう。日本の戦国時代、金箔塗布技術者の高山右近が、イエズス会に入信したり、山奥に暮すひとびと(隠住・おに→鬼)が、イエズス会の教義を理解できたのも、遠い昔ミトラ教(太陽神・お天道様)を信じていたひと達が、日本列島に渡来していたからでしょう。明治時代、秦氏の末裔の穢多頭弾佐衛門が、耶蘇会・キリスト教に一時入信したのも、秦氏は元々太陽神を祀る景教徒(ミトラ教)であったからでしょう。しかし、弾佐衛門が飲んだ聖杯を飲むのを拒んだキリスト教信者が、弾佐衛門を差別したため、四民平等を標榜しながら実際は差別しているキリスト教に失望した弾佐衛門は耶蘇会を脱会した。)
その新興宗教のキリスト教伝導のための「福音書」には、大乗仏教の経典にある、ブッダの物語とソックリな物語が多くあるのです。「銅貨二枚(福音書では二レプタ)をお布施するやもめの賽銭の話」、「水上を歩くブッダとキリスト」、「少ないパンで多くの弟子のお腹を満たし、更にパンが残る話」、「賎民の娘から水を飲ませてもらう話」、これらのキリスト教と大乗仏教とに共通するソックリ物語は、一体どういうことなのでしょうか。
考えられることは三つ。ひとつは、偶然であった。二つは、どちらかが物語を模倣した。三つは、ある目的を持ったひとが、ふたつの宗教の物語の基を創作した。
一番目の「偶然」は、これほどの共通点が存在していれば、説得力はありません。
二番目の「模倣」はどうでしょう。模倣するには、時差が必要です。ブッダは紀元前五世紀のひとで、イエス(ヨシュア)は紀元一世紀のひとと言われています。そこで、ブッタの物語をキリスト教物語作家が模倣したとも考えられますが、紀元一世紀のギリシャ系仏像をビジュアルとして大乗仏教の輪廻転生、西方浄土を説教する「ブッダ」と、紀元前五世紀の偶像を否定し、輪廻転生の系を断ち切るため非人姿で修行する「釈尊」とは同じ人物ではないので、完全な説得力とはなりません。つまり、キリスト教のイエスも大乗仏教のブッダも、紀元一世紀に突然出現した人物だからです。
では、三番目の考えはどうでしょう。
大乗仏教のブッダの説話で最も感銘を与える話のひとつとして、次のようなものがあります。

多くを持つ者のあいだで何も持たずに、わたしは幸せに生きるであろう。持てる者のあいだで、持たずに生きる。
絆を持たずに、わたしは幸せに生きるであろう。
天の使いのように喜びの声をあげるであろう。
戦う者たちのあいだで思い煩いながら戦うことなく、わたしは幸せに生きるであろう。戦う者たちのあいだで、闘うことなく生きる。

このブッダの説話をよく味わいながら、次の説話(山の上の垂訓)を読んでみてください。

マタイによる福音書、第五章
イエスはこの群集を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えてかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみをうけるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。

以上のブッダとイエスの説話の一部を読み比べてみると、そこで言われていることの核心は、表現こそ異なりますが、同じだということです。このことは、どのように解釈できるのでしょうか。それは、ブッダとイエスとが同じ思想を持ち、同じ奇跡を行い、そして、同じ説話を持つのであれば、それは同じ作家により二つの宗教物語が創作されたと考えるのが自然です。
二つの宗教が発明された時代の背景としては、西ではローマ帝国が東進してパルチア王国(226年、アルタクセルクセスにより倒され、ササン朝ペルシャとなる。)を攻め、東では農耕民族・後漢が騎馬民族・匈奴の領土へ侵攻していたのです。その結果、騎馬民族チュルク支配の大月氏国からのオアシスルートは、農耕漢民族の後漢の支配下におかれるわけです。
その西東のローマ帝国と後漢の両国が領土拡大している時、紀元前四世紀にアレクサンドル大王の東進によりインドのマウリャ朝との異文化接触により起こったギリシャとインドとのヘレニズム文化を保持した、東西貿易の拠点のひとつである騎馬民族大月氏国(支配者の騎馬チュルク民族は、紀元45年トカラ人により駆逐され、四世紀に朝鮮半島辰韓に渡来しギリシャ・ローマ文化保持国新羅を興す。)は、農耕民族のクシャナ朝に飲み込まれてしまったのです。そのクシャナ朝の東西貿易の中心地がガンダーラであるわけです。
ガンダーラに居住する国際交易商人達は、ローマ帝国のローマングラスと後漢の絹との交易を、騎馬民族から農耕民族へ支配者が交代したオアシスルートで、今までどおりに交易する戦術を考え出さねばなりません。
戦乱の異民族国に交易のために進行するには、その国の情報が必要です。更に、交易の手助けをする現地代理人が必要です。その異国で諜報を行い、異国での代理人を育てるには、権力者からの警戒感が少ない世俗から掛け離れたひとが有利です。それが宗教者です。
異民族が闘う戦国時代に、国際交易を成功させるには、今までの宗教色のない、騎馬民族向けでもない、農耕民族向けでもない新しい宗教が有利です。新興宗教は、騎馬民族国にも、農耕民族国にも、まだ軋轢がないため、布教の名目で異国に進入できるからです。
異国への進入順序としては、医療従事者(宗教者)→病院設立→学校設立→代理人育成→商人進出→軍事顧問進出→軍隊進行→植民地化となるわけです。
宗教家が時の権力者に取り入った例は、紀元前三世紀の秦の始皇帝に取り入った「徐福」がいます。徐福は、法士と名乗り、長生術のパフォーマンスにより始皇帝に近づいたのです。いつの時代でも、権力者は、長生術と回春術に強い興味を示すようです。
イエスもブッダも異郷の地での最初のパフォーマンスは、弱者の病を癒す術を披瀝する治療行為です。大乗仏教には、修行僧への治療指導書としての経典、「徐一切疾病陀羅尼経」、「能徐一切眼疾病陀羅尼経」、「仏説療痔病経」、「仏説呪歯経」などが多くあるのはそのためです。
そのようにして、僧侶が治療者として異郷の地で認めてもらえると、次におこなうのは、聖地の確保です。そのひとつとして、治療所としての病院が設立されるのです。
唯の地を聖地にするには、ある儀式をおこなう必要があります。その装置のひとつとして、聖なるシンボルの「像」が必要なのです。唯の地を聖地にする「像」の機能としては、二つあります。移動可能な「像」と、固定式「像」とです。
大乗仏教では、移動可能な像が「仏像」です。固定式の像が、岩山を彫りぬいて築造される「魔崖仏」です。その大乗仏教の移動可能の仏像の姿の遍歴には、不思議なことがあるのです。
紀元一世紀に突然出現のガンダーラで創作された仏像は、苦行するガリガリに痩せ細ったギリシャ系の顔をしたものです。しかし、148年、後漢の首都洛陽にパルチアの僧安世高が渡来するころには、仏像の顔が西洋人から東洋人に作り変えられ、更に、ガリガリの体が、ふくよかなみずみずしい女性肌に変身しているのです。
その訳は、後漢の地には、土着宗教から発展した「道教」が活躍していたからです。道教の武器のひとつは、長生術だったのです。大乗仏教は、道教の長生術に対抗する手段として、ギリシャ系の写実的ガリガリ像から、みずみずしい女性肌に仏像を改良したのです。大乗仏教を信じれば、何百年経っても若々しい姿が保てると、ビジュアルとしての仏像で、大乗仏教を宣伝するわけです。現代の広告宣伝手段のキャラクターの元祖が仏像であるわけです。
そのようにして、異国民に仏像が受け入れられると、仏像安置の建物を造ることになります。表向きは、仏像安置ですが、実際は「砦」です。何故、平和の使者である仏像安置の建物の周りに、堀や強固な塀が必要なのでしょう。何故、耐火用の瓦が必要なのでしょう。何故、何キロ先にも聞こえるような大きな鐘が必要なのでしょう。何故、遠くを見晴らす展望台のような高い塔が必要なのでしょう。仏像が、本当に平和のためのものであるのならば、野原に安置するのが自然です。しかし、実際は、堀や壁を廻らせた堅牢な建物の中に安置されているわけです。
その仏像が安置された寺は、どういうわけか神聖な場所となり、治外法権のアジールとなるわけです。そこに、どこからともなく国際交易商人達が集まるのです。しかし、仏寺では、聖地の範囲が寺内だけです。そこで、知恵者が考え出したのが、「魔崖仏」です。(鎌倉時代、魔崖仏の戦略が持ち込まれ、宇陀の山奥の交易要地や水銀鉱脈を埋蔵している山肌に、魔崖仏を彫り、そこを仏教の聖地とすることにより、先住民を追い払った。)
ローマ帝国と後漢との交易ルートとしては、ローマ帝国→パルチア王国→クシャナ朝→西域諸国→後漢となるわけです。このルートで問題なのは、政情不安定な西域諸国です。一応、騎馬民族を駆逐した後漢軍の支配下となっているのですが、騎馬民族を全て抹殺したわけではないのです。そこで、国際交易商人が考え出したのが、「魔崖仏」です。魔崖仏が造られた岩山一体が、唯の山から「聖地」となるからです。その聖地を創り出す魔崖仏は、交易ルートに沿って、サマルカンド→カシュガル→ローラン→敦煌の巌谷に沿って造られていくわけです。
交易道路沿いの岩山に魔崖仏を彫るには、先住民を追い出さなければなりません。それには、先住民に魔崖仏の効力を示さなければ、立ち退きは成功しません。では、大乗仏教はどのような手段で、先住民を立ち退かせたのでしょうか。
大乗仏教布教の武器のひとつとして、経典があります。しかし、紀元一世紀に突然ガンダーラに出現した仏典の数々は、バラモン僧が使用のサンスクリット語で書かれていたわけです。西域諸国や後漢では、サンスクリット語は通用しません。そこで漢語バイリンガルの龍樹(ナーガルジュナ・180年〜240年)などが漢訳するわけですが、そこで不思議なことが起こるのです。それは、漢訳されると原本のサンスクリット経典は全て焚書されてしまったのです。ですから、今日のサンスクリット仏典は後世のものなのです。
その理由は、中国領土を支配した王族が原因です。秦の始皇帝が紀元前三世紀に中国を統一するまでは、農耕民族や遊牧民族の国々が点在していたのです。
紀元前221年、秦国の建国により漢民族が台頭してきたのですが、紀元前205年、秦国が倒れ、北方から騎馬民族匈奴の冒頓単于(ボクトツゼンウ)が来襲してくると、農耕民族の漢族では対抗できません。後漢の光武帝が一世紀に匈奴軍を打ち破るまで、騎馬民族匈奴が、北東ユーラシアを支配していたのです。
五世紀、大乗仏教が西域諸国での布教に成功し、仏教僧が大挙して渡来した北魏(423年、鮮卑拓跋部の太武帝。騎馬民族拓跋部は、奈良時代晩期、日本列島の渡邊津に渡来し、源氏の基となる。)では、支配層は漢化に染まった騎馬民族鮮卑の末裔で、被支配の事務職が漢民族であったわけです。中華思想は、騎馬民族には武力では劣るが、頭脳明晰の農耕民族の漢族の屈折した心境により創作されたものです。
北魏の太武帝(423年〜452年)は、鮮卑末裔の騎馬民族であるので、騎馬民族蔑視観を内在する仏教を弾圧して、僧侶200万人を国外追放したのです。(この一部が朝鮮半島経由で北九州秦王国に渡来した。)このことは、仏教史で、三武一宗の法難(仏教弾圧皇帝は、北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗、後周の世宗。)とよばれているものです。元々大乗仏教は、騎馬民族蔑視のバラモン教に類似の教義を持つために、騎馬系皇帝には良く思われていなかったのです。そして、騎馬系皇帝の支配構造は、隋(589年〜618年)→唐(618年〜907年)→宋国(960年〜1129年)まで続くわけです。
そのように、中国大陸での支配者は、農耕民族と騎馬民族の覇権争いの結果により、そのたびに代わっていたのです。サンスクリット仏典の漢訳は、その時の支配者である皇帝の許可がなければできません。つまり、漢訳仏典は、騎馬系か農耕系皇帝か、その時々の皇帝の勢力都合により内容を改竄されていたわけです。
そのような時の権力により内容が変化する仏教経典だけでは、大乗仏教思想は異民族には受け入れられません。そこで、大乗仏教は、キリスト教がミトラ教の儀式を取り入れたように、他宗教の魅力ある教義や儀式を取り入れたのです。
異民族に受け入れられる技術は、基本として、医療技術と長生術と回春術です。医療技術は、紀元前六世紀にはアユルベーダ医術が開発されていました。長生術としてのヨーガも紀元前五世紀には、釈尊も実践したように、開発されていました。しかし、それらの有能な技術は、一般の人には受け入れられない高度な知識と技術が必要です。
ヨーガの達人になるには、長い年月の苦行が必要なのです。ヨーガ実践の八段階として、自制(ヤマ)、規律(ニヤマ)、座法(アーサナ)、調息(プラーナーヤーマ)、制感(プラティヤーハーラ)、留意(ダーラナー)、黙想(ディヤーナ)、専心(サマーディ)の苦行が必要なのです。釈尊は、ヨーガの辛い修行の途中で挫折し、うつ病となり、木の下で黙想することにより病回復後に、苦行を避け「中庸」の思想を発明するわけです。
ですから、一般のひとたちには、アユルベーダ医学やヨーガより簡単で、魅力ある「術」が要求されるわけです。そのひとつが、「タントラ」です。
「タントラ」とは、バラモン教を取り込んだヒンズー教と大乗仏教の境界に位置するものです。そのタントラの特徴は、呪力ある言葉(マントラ・ダーラニー)、護符(ヤントラ)、お守り(カヴァチャ)、手印(ムドラー)などのまじないを含む「魔術的技術」です。その「タントラ」とは、日本語では「密教」と呼ばれているものです。
魔術と科学とは、古代では区別がありません。両方とも、手でおこなう操作を必要とし、その手の操作により、不可思議な現象を起こすことを意図するものです。つまり、密教とは、原初的な科学により意識変格を目指す、技術であるわけです。(平安時代初期、錬金術師空海は、密教を中国から輸入し、アラム語の呪文と手印で信者を惑わせていた。江戸時代、藤原氏にとっての奈良の穢れ大仏(遍照鬼=ミトラ神?反バラモンの神)は観光資源として、悪霊を放つ手印を封じる目的で、顔だけ観覧できる「窓」を造ることにより、飛躍的に観覧者が増えたのはそのためです。)
密教開発者達は、ひとの意識の変格を興すために、薬物の開発(水銀薬・アルコール類・大麻・芥子の樹液)と視覚幻覚装置としての像・図画(マンダラ)を開発するわけです。
医療技術と長生術は、「表の技術」として発展していくわけですが、回春術は「裏の技術」として発展していくわけです。平安時代初期、空海が中国唐から輸入した真言密教の流れを汲む「立川流」は、そのひとつです。
何故、聖地の近くに遊郭が存在するのでしょうか。それは、世界共通のことのようです。何故でしょうか。
宗教が発明される前は、魔術や呪術が隆盛でした。その魔術・呪術の基本は、類似魔術と感染魔術です。
類似魔術とは、似ているものは影響し合うという錯覚を起こさせる技術です。顔をメイクで似せることにより、同じ性格をしていると錯覚させるようなことです。例えば、影武者などです。この錯覚技術を発展させると、太陽神のシンボルが牡牛となるわけです。
感染魔術とは、触れたものは、その影響力が感染すると錯覚させる技術です。強いもの、聖なるものに触れるのはこのためです。その反対が「えんがちょ」です。
農業技術が発展し、自然との対決が過酷になっていくに従い、自然をコントロールできるとする人工神の需要が強くなるのです。農耕民の人工神に対する要求は、豊穣です。そのために、祭祀者は、豊穣を約束するための儀式を新たに発明するわけです。そのために使われる魔術・呪術が「類似魔術」です。
農耕民が豊穣を期待して大地に種を蒔く様子を、ひとに置き換える儀式のために発明されたのが「大地母神」です。その神に、ひとの種を蒔く儀式により、農耕民に豊穣を約束するわけです。
大地母神は、豊穣を約束する神ですが、ひとの意識や理性が発達してくると、羞恥心のためにその儀式に拒否反応を示すひとが現れてくるわけです。その拒否反応に対して、祭祀者は、ひとの種を蒔かれる大地母神を、聖母、観音、弁天、比丘尼、巫女などに変身させ、種を蒔く儀式を止め、「お祈り」と「踊り」(舞)の儀式に改変するわけです。
ヒンズー教に吸収される前のバラモン教は、生活手段と資金稼ぎのために、献馬祭(アシュヴァメーダ)の儀式を発明していたのです。その儀式とは、女王に馬の種を蒔く儀式です。この儀式には、金儲けの意味と、もうひとつの意図があります。それは、女王を貶めることです。
騎馬民族のスキタイやギリシャ・ローマ文化保持国新羅の女王の墓の遺跡から金の王冠が発掘されるように(因みに、男王の墓からは銀・金銅の王冠が発掘される。)、騎馬民族は、時には女王が支配する「女尊男卑」の国なのです。それに対して、大乗仏教は、男尊女卑を目指すわけです。
そのようにして豊穣を約束する卑猥な儀式は、意識が覚醒したひとには受け入れられないものです。そこで、やがて、聖所と「種蒔き儀式場=遊郭」とが程よい距離に分離され、今日に至るわけです。(江戸時代、粋な遊び人は、遊郭に行くことを、「観音様を拝みにいく。」、「弁天様を拝みにいく。」、「宮参りする。」、「お篭りする。」などと言っていたわけは、それらの遊女のいる「遊郭」は、大昔は大地母神により豊穣の神事をおこなう「聖所」だったことを知っていたからです。)
北東ユーラシアの市場開拓を目指す、ガンダーラに居住する大乗仏教のバックスポンサーである国際交易商人は、その地に土着するシャーマンや道教士による実生活に密着する魅力ある儀式に対抗するために、大乗仏教に他宗教の魅力ある儀式を導入するわけです。
そのひとつとして、バラモン教の護摩の儀式があります。バラモン教は、護摩を焚き、その中に乾燥大麻を投入することにより、信者を至福の世界に誘うわけです。
更に、大乗仏教布教のキャラクターとして、バラモン教やヒンズー教の神々を導入するわけです。元々、修行中心の釈尊の仏教には、念仏頼みの仏像など存在していません。
紀元一世紀に突然、国際交易商人の居住するローマ帝国(ローマングラス)と後漢(絹織物)との交易地であるギリシャ文化保持国の大月氏国のガンダーラで、国際交易商人の支援のもとに、キリスト教(ギリシャ語訳のヨシュア教)の福音書物語ソックリの仏教物語とギリシャ系仏像のセットによる大乗仏教が誕生したわけです。
その大乗仏教に導入されたバラモン教とヒンズー教の仏像群は、基本的には四つの群に分けられるようです。それらは、「如来群」、「菩薩群」、「明王群」、「天群」です。
「如来」とは、悟りを開いた者の意味です。
「菩薩」とは、悟りを求めて修行している者の意味です。
「明王」とは、ヒンズー教の神で、仏を護衛する神の意味です。
「天」とは、ヒンズー教の天に住む神で、仏を守護する神の意味です。
その四群の大乗仏教に導入された仏像は、時の支配者の需要に答えて、○○如来、○○菩薩、○○明王、○○天など色々な仏像として開発されていくわけです。
そのようなバラモン教やヒンズー教の神々や儀式やカースト差別思想を取り込んだ大乗仏教は、国際交易商人と供にガンダーラから東進して北東ユーラシア、そして朝鮮半島を経て、日本列島に渡来していくわけです。
372年には、前秦は、僧順道により経典を高句麗に送り(実際は、仏僧による諜報活動のため)、384年には、東晉は、西域人(青い目の仏教僧は沢山存在していた。)の僧摩羅難陀を百済に派遣するわけです。
朝鮮半島三韓の新羅が、528年まで仏教導入拒絶のわけは、356年新羅建国の奈勿王は、ギリシャ文化保持国大月氏から渡来の反仏教の騎馬民族チュルクの末裔だったからです。国際交易商人は、騎馬民族の経済活動と競合します。その国際交易商人のバックスポンサーが支援する大乗仏教は、新羅にとっては受け入れられない存在だったのです。
医療従事者としての大乗仏教僧が送り込まれた後には、現地支配者に仏像が贈呈され、そのために、仏像を安置する仏寺(表向きは病院・学校。しかし、実態は砦。)が建立され、そして、その僧達の諜報活動による情報を基に、どこからともなく国際交易商人が仏寺に現れるわけです。その後は、軍隊の侵攻、そして大乗仏教が定着した地は、国際交易商人達に植民地化されてしまうわけです。そして、国際交易商人達により意図された、傀儡支配者が、大乗仏教を武器に、カースト思想の基にまつろわぬ原住民や先住民を賎民(寺奴)として支配していくわけです。では、日本列島は、どのようにして仏教化(ヒンズー教化→カースト化=差別化)されていったのでしょうか。
四世紀、大乗仏教を武器に、国際交易商人が日本列島を侵略することを意図に、北九州を窺がっても、そこには先住民族がいるわけです。海洋民族呉・越末裔の倭族や北方遊牧民族のツングース族、そしてオリエントから渡来の秦氏(紀元前三世紀渡来の徐福の末裔。)などです。それらの民族は、ヤマトの宇陀の朱砂を求めて日本列島に渡来していたのです。呪術全盛のその当時、殺菌力がある朱砂は、貴重な国際交易品であったわけです。(皮膚の化膿を治癒させることは呪術者として認められる条件のひとつ。それが転じて、朱砂は魔除けの素材となる。)
高句麗に居住する国際交易商人は、倭族とツングース族との混成軍団(後の物部氏)により日本列島に侵攻しても、ヤマトの地を死守する先住民族縄文人を攻略できずにいるわけです。難攻不落のヤマトの地は、河川が入り乱れる湿地帯であったからです。しかし、オリエントの土木建設技術を駆使した前方後円墳築造戦略により湿地帯を平地とし、更に前方後円墳築造過程の作業訓練により、現地人を、鍬から武器にかえ号令一番で行動する傭兵軍に仕立て上げることにより、ヤマトの地を死守するエウカシやオオクニヌシやナガスネヒコを壊滅するわけです。つまり、軍事部族の物部氏は、「夷を以って、夷を制す」ることに成功したわけです。
前方後円墳築造中の四世紀のヤマトの地には、遠く遥かオリエントから渡来の国際交易商人達や土木建設技術者達(前方後円墳の石室の内側の寸法は、古代エジプトの石室と同じ長さの単位キュビトで割り切れるのです。)で溢れかえっていたのです。当然、高句麗、百済、新羅の軍隊も、朱砂の交易のために、ヤマト三輪山麓のツバキ市に侵攻してくるわけです。
では、その四世紀に、ヤマトの地に「ニッポン人」がいて、天皇や豪族が統治する「大和朝廷」が存在していたのでしょうか。
歴史書は、基本的には書く側の利益のために創作されるわけです。その創作過程で、自己に不利な事柄は改竄、あるいは削除するわけです。ですから、世にある歴史書とは、勝者の物語であるわけです。そこで、敗者側の知恵者が、子孫のために敗者としての自己の正当性や、勝者の実態を暴くべく、勝者側の物語を装って、勝者側に覚られないように暗号で記述するわけです。
聖書物語におけるユダヤ民族とイスラエル民族との関係(異教神を祀る異民族)は、「ヨハネの黙示録」にある「666の謎」を解くことりより知ることができるでしょう。
聖書物語をベースに創作されたと言われている「日本書紀」物語により、謎の多い氏族である藤原氏と秦氏の関係(両民族ともオリエントからの渡来民)は、多人長による「古事記の謎」を読み解くことで知ることができるかもしれません。
多人長が「古事記」から発する暗号のひとつは、推古天皇から以前の歴史を抹殺せよ、ということです。では、推古天皇期では何があったかというと、聖徳太子と蘇我馬子による仏教の受容です。
日本書紀では、天武天皇が崇拝した道教や秦氏が祀る景教の渡来は無視して、仏教渡来の経緯を詳しく記述しているのです。しかし、日本書紀の552年仏教渡来の記述に疑問が生ずるのは、「元興寺縁起」や「上宮聖徳法王帝説」には仏教渡来538年とあるからです。では、これは、どのように説明できるのでしょうか。
その説明として考えられるのは、国際交易商人により医療従事者として仏教僧は、それ以前から日本列島に、諜報活動のため送り込まれていたのではないかということです。
そして日本書紀仏教伝来物語で疑問が起こるのは、蘇我稲目が祀った仏像が疫病を流行らせたからといって、何故、「飛鳥の堀」ではなく、「難波の堀」へ投棄したのでしょうか。それは、難波(楼蘭→楽浪→浪速/ローラン)の津は、高句麗と百済が支配するオリエントからの国際交易港の地であったからでしょう。つまり、ヤマト侵略の手段としての高句麗・百済の国際交易商人からの仏像贈呈に対して、先住民(騎馬民族チュルク)が拒否した経緯を物語したのが、物部尾興(ツングース族)と蘇我稲目(チュルク族)との廃仏・崇仏論争物語の実態でしょう。
その論拠は、物部氏は、高句麗の影響下にある軍事部族だからです。高句麗が372年、前秦の圧力で仏教を受容しているので、その影響下にある物部氏も仏教を当然受容していたはずです。
それに対して、蘇我氏は、その娘が刀自子(トジコ=トルコ=チュルク)の郎女と言われていたように、騎馬民族チュルクの末裔です。だから、蘇・醍醐(ヨーグルト・バター・チーズ)を食する騎馬遊牧民族の蘇我氏が、「肉食する者は悪人だ。」、「獣の皮を剥ぐのはセダラだ。(アウトカーストの不可触賎民)」などの騎馬遊牧民族の生活を破壊するような「呪文」を唱える大乗仏教など、受容するはずはないのです。
しかし、日本書紀では、事実とは逆に「物部氏が廃仏」で、「蘇我氏が崇仏」となっているのです。これは可笑しい。
このような、一寸考えれば不自然な仏教伝来物語が、頭脳明晰な藤原不比等により日本書紀に記述させている意味は、大乗仏教が、藤原王朝を支える重要な武器だったからです。
「日本書紀」の仏教伝来物語のトリックは、「古事記」が発する暗号を解くことにより、つまり、その歴史物語から推古天皇を消去すれば、簡単に解けます。推古天皇が実在しなければ、聖徳太子も歴史上存在できません。その聖徳太子が実在しなければ、聖徳太子が607年創建した法隆寺などの太子建立七仏寺も存在しないことになります。(法隆寺の謎のひとつは、塔の大地に着かない寸足らず心柱と他の建築木材の伐採時期が75年ほどのズレがあることです。その謎解きのひとつが、北九州秦王国からの法隆寺移築説です。北九州秦王国に仏寺が多くあった理由は、六世紀中頃までには、446年中国・北魏の廃仏令により仏教僧200万人が国外追放となり、その一部が、仏教国高句麗・百済を経由して、北九州秦王国に渡来し、無数の仏教寺院を建設していたからです。仏寺建築は、騎馬遊牧民族スキタイの越冬用建築様式を踏襲していたので、釘を使わない組み立て方式なので、解体そして移築は簡単にできるのです。つまり、飛鳥時代に存在していたと言われる法興寺(558年着工)、難波四天王寺(593年創建)、広隆寺(=蜂丘寺は景教寺・603年創建)、法起寺(638年創建)、浄土寺(山田寺・641年起工)、百済大寺(大安寺・642年造営)等の仏寺の全ては、キリスト教徒達がローマ帝国のミトラ神殿を破壊した跡にキリスト教教会を新築したように、645年以降、藤原氏により、ヤマトの地に建立していた多くの「道教の観」や「景教寺」の全てが徹底的に破壊され、その跡に仏寺が、北九州秦王国からゴッソリと移築されたとの仮説です。この仮説に説得力があるのは、北九州には廃仏寺跡が極めて多くあることです。更に、大型荷物を九州から近畿地方に瀬戸内海の海運を利用して運ぶ技術は、前方後円墳の石室の石材が九州阿蘇産であったことも、この仏寺移築説を裏付けします。この北九州秦王国からの仏寺が移築されたヤマト国のことを、759年編纂の万葉集の枕詞の暗号では「空虚大和・そらみつヤマト=ウソッパチのヤマト国」と言うわけです。)
つまり、推古天皇が日本の歴史上存在しなければ、552年の日本書紀の仏教伝来物語の論拠は崩れ、飛鳥時代(蘇我王朝期)には、仏教は公伝などしていなかったことが証明できるのです。
では何故、藤原氏は、日本書紀で仏教伝来552年にこだわったのでしょうか。それは、蘇我王朝存在の抹殺のためです。その蘇我王権簒奪の事実を隠蔽する装置のひとつが、「架空の推古天皇」と「架空の聖徳太子」と「実在の蘇我馬子大王」を物語した仏教伝来物語だったのです。更に、藤原氏による簒奪の正当性を証明する装置のもうひとつが、蘇我馬子が592年崇峻天皇を謀殺し、蘇我入鹿が仏教擁護の聖徳太子の子孫を抹殺し、天皇家を出し抜いて丘の上に大宮を建て、天皇の舞を勝手に開催したと言う「極悪人蘇我一族」物語なのです。
もし、蘇我氏が本当に崇仏であるのならば、その蘇我王朝(587年〜645年)の跡目を継いだ天武王朝(672年〜686年)も崇仏でなければ理論的破綻を生じます。それは、宗教は王権の虚構権威を支える重要な要素だからです。しかし、天武天皇は、天文台を建設し、道教の占星術を駆使して「祀りごと」をおこなっていたのです。更に、伊勢神宮を685年遷宮し、太一(北極星=天御中主神。古事記に最初に出てくる神。日本書紀では国常立尊。)を祀っていたのです。(騎馬民族は、自然神の月・星を祀る。農耕民族は人工神を祀る。)その自然神の星祭は、百済系桓武天皇が統治する平安時代には、人工神の仏の敵の祭り、と言われ禁止されるのです。
仏寺に占領されたヤマトの地は、自然神を祀る民族が、まともに住める地ではなくなったのです。
天武天皇が崩御した後、藤原不比等は藤原王朝確立のために、戦略をめぐらせるのです。その戦術のひとつが、中国・唐から輸入した律令制度です。(律:犯罪や刑罰に関する法律。令:政治制度を定める法律。律令制度は権力を天皇一極に集中させるためのトリック。その天皇を、藤原氏がコントロールすることにより日本国を乗っ取る戦略。)
藤原氏に反抗する氏族の軍事力を削ぐために、武力により各地を支配している氏族が所有する財産を取り上げるための戦術が、701年発令の大宝律令です。
女帝持統天皇を取り込んだ藤原不比等は、697年傀儡の文武天皇を擁立して、大宝律令の発令により、氏族の私有地を天皇に献上させるのです。そして、恭順を示す氏族には、天皇から領地が与えられ、その反対に歯向かう氏族は国領地から追放するわけです。
更に、歯向かう氏族追放の第二弾が、718年の養老律令です。この二つの藤原不比等が画策した律令戦略により、藤原氏に対抗できる有力な氏族が滅亡してしまうわけです。
藤原氏に反抗した氏族は、元王族の蘇我氏、技術部族の秦氏、武闘派の新羅系日本人です。これらの氏族は、自然神を祀るオリエントから渡来の騎馬民族の末裔です。そこで、藤原氏は、仏教と中臣神道で、それらの民を賎民に貶める戦術をおこなうわけです。その戦術とは、「穢れ思想」の布教です。
しかし、藤原氏一族だけでは、それら軍事力のある騎馬民族末裔を相手にはできません。そこで百済・高句麗亡命貴族と結託するわけです。
七世紀の東アジアでは、中国の覇者が北魏から隋に代わる頃、中央ユーラシアに興った小国の騎馬民族突厥が勢力を増し南下してくるのです。それにより、隋の経済を潤していたオアシスロードは、突厥の支配下に再び置かれてしまうわけです。
隋の経済的打撃はそれだけではありません。絹をつくる繭が、西域の僧により盗まれてしまったのです。それにより、絹織物は、どこでも生産可能な中国地方の特産品ではなくなってしまったのです。更に、草原ロードとオアシスロードとが、騎馬民族に再び支配されてしまったことが、南海ロード開発に拍車をかけたのです。つまり、東西世界の物流革命が起こったのです。
七世紀の物流は、草原ロード、オアシスロードから南海ロードに代わることにより、大量の交易品が運ばれることにより、内陸よりもアラビア→インド→南海→江都(南京)の港町が栄えていくわけです。
そのような時代に618年隋が倒れ、唐が興るわけです。唐は、南下を試みる突厥を撃退すべく、朝鮮半島三韓のうちの小国新羅と同盟し、高句麗・百済を攻めるわけです。その結果、663年に百済が滅び、668年には高句麗が滅ぶわけです。そのことにより、百済と高句麗の亡命貴族が、多数日本列島に渡来するわけです。
この頃にはまだ日本国は存在していません。日本国建国は、672年だからです。ですから、百済や高句麗の亡命貴族は、日本列島につくっていたコロニーが亡命先であったのです。
百済と高句麗が仏教国家であったことが、藤原氏の戦略に合致するのです。それは、飛鳥文化抹殺のために、国家運営での使用文字を漢字化することです。
飛鳥で使用されていた「やまと言葉」は、「蝶」が古代エジプト語の紐の蝶結びを「てふ・てふ」と言うのと同じように、特殊な言葉です。それは、飛鳥が、世界各国から渡来した国際交易商人が暮らしていた国際都市であったからです。そこでは、ポリネシア語、タミル語、エジプト語、アラム語、ソクド語、チュルク語、古代朝鮮語、騎馬遊牧民族の言葉などが入り乱れることにより、独特の言葉が形成されていたのです。しかし、漢字は使用されていなかったでしょう。それは、漢字は、仏教と供に渡来したからです。
645年の藤原氏による蘇我王朝の焚書は、飛鳥の国際文化を証明する物を抹殺する意図もあったのです。飛鳥時代の文字資料を焚書してしまえば、それと同時に飛鳥文化も抹殺できるわけです。そのようにして、藤原朝廷で使用する言葉を漢字としてしまえば、漢字を知らない前政権の重臣は、朝廷での出来事を把握できません。つまり、合法的な政治からの追放です。
そのようにして、漢語による国史・日本書紀を創作しても、漢字が読めない前政権の重臣は、反論もできません。何を記述しているかを把握できないからです。
そのように、亡命百済・高句麗貴族を取り込み皇族とし、前政権の臣民を中央から追い落とした藤原不比等の日本国乗っ取りの戦略も、思わぬ事態により、混乱が生じるのです。それは、藤原氏の武器のひとつである仏教の貴族化と、藤原一族からの反乱です。
二つの律令制度のため、氏族の私有地を取り上げ公有地にしたため、臣民の開墾意欲が減り、その結果、農業が衰退することにより税である祖の収入が減るのと、重い税負担のため農奴の逃亡により多くの田畑が荒れてしまうのです。そこで朝廷は、743年墾田永大私財法を発するのです。
その法律により、国際交易商人の手先であった仏教教団は、寺奴や流人を集め、荒地や未開拓地を開墾することにより、寺の私有地が大幅に広がっていくわけです。これらの私有地からの収入と、貴族相手に至福の煙が出る護摩を焚き、バラモン教のような加持祈祷の大げさな儀式による収入とにより、奈良の仏教教団は莫大な資産を築くのです。更に、有り余る金融資産を基に高利貸もおこなう仏寺もでるわけです。その結果、仏教僧の貴族化がおこり、仏寺が貴族相手に双六や将棋などの博打をおこなう娯楽施設化がおこるのです。
お金でコントロールできるのは貧民だけです。貴族化した仏教僧は、朝廷の命令を聞きません。藤原氏の言うことを聞くのは、秦氏が支配していた山背国にあった山階寺(景教寺)を仏寺に変身させ、710年に奈良に移築した興福寺と、道教の観を抹殺する装置である春日大社若宮だけです。それに追い討ちをかけるように、724年(神亀元年)、聖武天皇が即位すると、藤原氏に公然と反旗を翻すのです。藤原氏のロボットと思われた聖武天皇は、藤原氏のためではなく、藤原氏に貶められた「鬼」のために行動を起こすのです。
聖武天皇は、701年(大宝元年)藤原氏のロボットの文武天皇(19歳)と藤原不比等の娘(宮子夫人)との間に誕生。そして、716年(霊亀2年)藤原不比等の娘(母は橘三千代)の安宿媛(後の光明皇后)を夫人とされる、名実供に藤原氏のサラブレットであるわけです。それが、どのようにして反藤原氏となったのでしょうか。
その転機のひとつと考えられるのが、740年(天平12年)難波宮行幸の折、河内国大県郡智識寺(知識寺)で盧舎那仏像の拝礼です。そして、そのことが、大仏建立の動機となったと考えられています。
何故、盧舎那仏像(大仏)建立が、反藤原氏なのかと言えば、それは、盧舎那仏は、別名遍照鬼(鬼とは敵側の神)と言われ、バラモン教の神の系列から外れた敵神であるからです。藤原氏が支配する大乗仏教の教義は、バラモン教から多く取り入れているのですから、その系列に入らない神は、敵神であるわけです。
聖武天皇は、天武天皇系の旧勢力の巻き返し時期に即位したことも、反藤原氏になった理由とも考えられます。それは、藤原氏は、729年(神亀6年)、漆部(ぬりべ)造君足等の「左大臣正二位長屋王ひそかに左道(道教から派生した陰陽道)を学び国家を傾けんと欲す」とのウソの密告により、長屋王(反藤原氏の天武天皇系皇族)を謀殺したことも、聖武天皇が藤原氏を疎む原因のひとつかもしれません。聖武天皇が、藤原氏による強引な王権簒奪戦略に嫌気がさした、とも考えられるからです。
その長屋王の謀殺の反動か、737年(天平9年)藤原不比等の息子が相次いで死去するのです。4月17日次男死去。7月13日四男死去。7月25日長男死去。8月5日三男死去。このことは、歴史教科書では、天然痘がその原因と述べていますが、あまりにも不思議な事件です。
聖武天皇の行動にも不思議なことがあるのです。藤原氏の子息が相次いで死去した翌年の9月2日に、藤原広嗣が兵を起こすと、聖武天皇は10月29日に伊勢国に行幸するのです。しかし、伊勢神宮には行きません。(天武天皇が建立した伊勢神宮は、そのころ藤原氏の支配下にあったからです。)そして、伊勢より美濃国を経て山城玉井頓宮に行くのです。それらの地は、奈良の都からすれば、他界の「鬼」が住む所なのです。
そして、741年(天平13年)1月11日恭仁遷都を告げ、2月24日諸国に国分・国分尼寺建立の詔を発し、3月9日平城京の兵器を甕原宮に運ばせるのです。
そのようなきな臭い時期の743年(天平15年)盧舎那仏造顕の詔を発するのです。この頃、反藤原氏の行基(15歳で出家し仏門に入るが、18歳〜37歳まで山岳で過す。当時山岳には、藤原氏に都を追われた自然神を祀る道教士や景教僧が「鬼=天狗」となって逃げ込んでいた。その鬼が住む山岳で行基は、道教士から薬草学・治療術を、秦氏の景教僧からオリエント渡来の土木技術を習得する。723年(養老7年)の開墾奨励のための「三世一身法」により、強欲な豪族達が未開拓地開墾のため、行基の土木技術を切望することにより、反仏教の行基の勢力が増す。)が、聖武天皇に接近し、大仏建立のための勧進を始めるわけです。
大仏を建立するために、信楽(紫香楽)に寺地を開くのですが、藤原氏の陰謀による火災により信楽京を放棄して、平城京に再び移るわけです。そして、745年(天平17年)盧舎那大仏鋳造を大和国添上郡山金里(藤原氏の興福寺を見下ろす東大寺の寺地)でおこなうわけです。
その東大寺の大仏建立に、全国の鬼達が協力するのです。では、鬼となった者達とは、前身は何だったのでしょうか。
686年天武天皇が崩御すると供に、藤原不比等に都を追われたのは、道師です。684年に天武天皇が中央集権確立のために発明した階級制度「八色の姓」の内訳は、上位から真人・朝臣・宿祢・忌寸・道師・臣・連・稲置です。その道師とは、道教教団の指導者のことなのです。
道教と大乗仏教とは、歴史的因縁があったのです。それは、中国大陸での「三武一宗の法難」と言われる、四人の皇帝からの廃仏が原因です。この廃仏には、大乗仏教の戒律の乱れも原因のひとつですが、金ピカの仏像とバラモン教やヒンズー教の護摩の儀式や加持祈祷、バリトンの聖歌隊による読経の派手なパフォーマンスを導入したことにより、薬草学による長生術や天に祈る四方拝の儀式をおこなっていた道教が衰退した結果、道教が巻き返しのため、皇帝に大乗仏教の在らぬことを密告したことが原因のひとつと言われているからです。
そのことにより、大乗仏教僧200万人は、中国大陸を追われ、やっとのことで日本列島にたどり着けば、道教士は天武天皇の重臣の「道師・みちのし」として活躍していたのです。大乗仏教教団としては、これは許されるものではなかったのでしょう。そこに目をつけたのが藤原不比等です。騎馬民族の天武天皇系の氏族達を抹殺する戦術に、大乗仏教の「血の穢れ」思想は強力な武器となるからです。その思想は、肉食の禁止を意味するからです。肉食ができなければ、騎馬遊牧民族の日常生活や経済が成り立ちません。それに、獣の皮は、当時では、重要な軍事物資であったのです。武器や防具を作るは、皮革が必要なのです。
そのような大乗仏教の道教追い落としの中、大仏鋳造製作中、聖武天皇の健康が不調となるのです。それは、一説には大仏鋳造の銅毒や塗金のアマルガム法による水銀中毒ではないかということです。それらの鉱毒は、大仏建立後の奈良の都の祟りの原因となるものです。
749年(天平感宝元年・天平勝宝元年)、聖武天皇の娘が孝謙天皇として即位するのです。そして、大仏建立がまだ完成していないのに大仏開眼を強行する中、孝謙天皇と聖武太上天皇が東大寺に行幸の折、八幡大神の禰宜尼大神朝臣杜女(もりめ)が、「紫色」の輿に乗り東大寺を拝するのです。この輿が、日本の歴史上に現れた初の「神輿」と言われているのです。つまり、神輿とは、鬼の神様を祀るものだったのです。
孝謙天皇・聖武太上天皇をバックに、この鬼達の振る舞いに対して、藤原不比等なき後の光明皇后の甥の藤原仲麻呂は黙ってはいませんでした。孝謙天皇の母の光明皇后(藤原不比等の娘)が後見し、皇太后のために紫微中台を新設し、その長官に藤原仲麻呂を任命したのです。
藤原仲麻呂は、その地位を利用して、敵対する橘奈良麻呂を謀殺し、新羅末裔の天武天皇系の豪族を謀略・密告でことごとく抹殺してしまうのです。そして、758年(天平勝宝2年)孝謙天皇を無理やり退位させ、藤原仲麻呂の娘の子供の大炊王を淳仁天皇(758年〜764年)として即位させて、権力を藤原仲麻呂と光明皇后とが握ってしまうのです。そして、藤原仲麻呂は、国璽(国の印)をこともあろうことか、藤原仲麻呂の自宅に移してしまうのです。つまり、日本国の政治の中心が、藤原仲麻呂私邸になってしまったのです。
更に、百済国を滅ぼした新羅国討伐を試み、新羅の敵対国唐の制度にならって国内制度の名称を独断で変更してしまうのです。(日本の歴史上、藤原氏が権力の中枢を握ると、対朝鮮侵略行動を起こすようです。平安時代の新羅国蔑視政策、藤原氏の傀儡政権の豊臣秀吉の朝鮮出兵、藤原氏の本流近衛家による明治維新政府の征韓論。その原因は、藤原氏の先祖が高句麗・百済亡命貴族の末裔だったからです。つまり、その両国を滅ぼした新羅国の存在がゆるせないのです。21世紀の今も。しかし、日本民族が藤原氏の行動を全て支持しているわけではありません。それは、韓族と倭族とは、海洋民族呉・越の末裔の同族で、日本の武士氏族の源氏はギリシャ・ローマ文化保持国新羅の末裔です。つまり、倭族と源氏とは、韓族と新羅人と同族だからです。日本民族は、歴史教科書が言う単一民族などではないのです。)
760年(天平宝字4年)光明皇后が死去。その翌年孝謙上皇も体調を崩したが、その看病を弓削道鏡が行なうことにより回復したのです。そのことが、藤原氏のロボット淳仁天皇との対立を起こし、762年(天平6年)孝謙上皇は、蝦夷(エミシ・アイヌ民族ではなく、都を追われた主に騎馬系軍事部族達の総称=鬼)の武力を背景に、平城京に帰還し、淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げるのです。そして、藤原仲麻呂が行なった新羅討伐計画を中止し、唐制の制度を元にもどすのです。
それに対し、764年(天平宝字8年)光明皇太后の後見を無くした藤原仲麻呂は、鬼達の武力を背景に専制政治を行なう孝謙上皇に焦りを感じ、挙兵するわけです。(恵美押勝の乱)しかし、鬼達の軍事力に圧倒され敗れてしまうのです。勝利した孝謙上皇は、淳仁天皇を都から追放し、孝謙上皇が重祚し、新羅系、天武天皇系最後の女帝天皇、称徳天皇となるのです。(天武天皇系は騎馬民族系なので女帝は常識ですが、百済系桓武天皇系は騎馬民族系ではないので、原則女帝は認めていない。例外、117代後桜町天皇は女帝。)
鬼の勢力を背景に返り咲いた称徳天皇は、聖武天皇の遺言「王を奴となしても、奴を王と言っても、孝謙の好きなようにすればよい。」、を実行に移すのです。藤原氏の勢力を押さえるため、下級貴族の吉備真備を右大臣に用い、道鏡を太政大臣禅師とし、更に、769年(神護景雲3年)宇佐八幡の託宣「道鏡を皇位に就けよ」を受けるのです。これに対し、藤原氏は、和気清麻呂を再度宇佐八幡へ行かせ、神託を受け道鏡の皇位阻止を行なうのです。(伊勢神宮が天皇家の宮であると言うのなら、何故、伊勢神宮で託宣を受けなかったのでしょうか。)
770年(宝亀1年)、天武天皇系最後の女帝称徳天皇が崩御するのです。歴史教科書では、原因は天然痘と言っていますが、一説には毒殺とも言われています。称徳天皇が崩御するとすぐ、藤原永手と藤原百川とが、陰謀により、無名の百済亡命下級貴族の白壁王を天皇に仕立て上げるのです。それが、光仁天皇(770年〜781年)です。しかし、藤原氏の謀略は、ここで再び挫折するのです。それは、光仁天皇の息子の百済系桓武天皇(781年〜806年)は、藤原氏と同じに謀略の名人だったからです。
藤原氏が、平城京を支配し、騎馬系貴族を都から追い落とすために、大乗仏教の「血の穢れ」思想の布教や中臣神道の「穢れ祓い」の儀式を行うために、怨霊による「祟り」思想を布教したのですが、遍照鬼(平城京を見下ろす奈良の大仏)が本当に祟ってしまったからです。(実際は、銅毒と水銀汚染による鉱毒公害)平城京の都は、鉱毒神経症の患者で溢れてしまったのです。更に、中臣神道で単なる皮膚病のシロトやコクミを、国つ罪として宣伝し、大乗仏教は、法華経でハンセン氏病を仏罰だと宣伝し、前政権のまつろわない騎馬系貴族達を坂地に集め部落とし、そこに、それらの国つ罪者や仏罰者を収容させたのです。その戦術は、触れた物はその影響を受けると言う「感染魔術」です。これにより、まつろわぬ元貴族達は「穢れ者」に貶められてしまったのです。
藤原氏は、騎馬系元貴族の貶めが成功したと思っていましたが、しかし、一枚上手の謀略家の桓武天皇は、平城京を「穢れ都」とし、更に藤原氏の影響下にある奈良仏教を「穢れ仏教」としてしまうのです。つまり、「穢れ思想」を逆手に取り、藤原氏の武器のひとつである奈良仏教と中臣神道の抹殺です。その桓武天皇の戦略が成功するのは、奈良仏教の民衆を相手ではなく、貴族・豪族・富者による多額の布施や堂塔の建立、造仏の寄進に対して行う、まがまがしい複雑怪奇な仏教儀式をおこなっていたからです。鉱毒公害に侵された奈良の都の庶民には、僧侶のおこなう持戒・精進・禅定・複雑な教学の研鑽・難しい仏法修行などは、無用の長物でしかなかったのです。
そこで、794年(延暦13年)桓武天皇は、秦氏の元支配地を平安京とし遷都するのです。そして、桓武天皇は、奈良の三論・成実・華厳・倶舎・法相・律の南都六宗を、穢れ仏教として奈良に封印してしまうのです。ですから、平安京には、藤原氏の影響下にある宗教集団は存在しないのです。
そこで、桓武天皇は、漢族の末裔最澄を唐の山東半島(日本国からの中国への貿易先)に留学させ、805年帰朝した最澄は天台宗を創むのです。(中国語も知らない最澄が8ヶ月の留学で何を学んできたのでしょうか。最澄は、空海が唐から持ち込んだ仏典史料を借りて勉強しているのです。)そして、最澄は、秦氏の元支配地であった、ミトラ神(魔多羅神)を祀っていた比叡山の地に、延暦寺を建立するのです。ここから、藤原氏支配の奈良の興福寺と百済系桓武天皇支配の比叡山延暦寺との戦いが始まるのです。
平城京(710年遷都)から平安京(794年遷都)への複雑怪奇な理解を超えた遷都は、見方を変えて見れば、新羅系貴族と藤原氏と百済系亡命貴族との地下での三つ巴の戦いの現われでした。(四世紀から続く朝鮮半島での争いが、日本列島に持ち込まれたのです。)
この争いは、結果的には、百済系亡命貴族の勝ちのようです。それは、藤原氏の勢力を奈良の都に封じ込め、そして、新羅系貴族を賎民に落しこめることに成功したからです。その仕上げとして、百済系新仏教組織構築のために最澄を唐に派遣させ、中国天台宗の日本支部を比叡山に開設できたからです。(仏教寺院は、国際交易に深く関わっていた。)
そこで不思議に思うのですが、最澄の渡唐の遣唐使船(四隻中二隻難破)に合わせて、一年前まで仏籍になかった空海が、何故遣唐使船に乗れたのかということです。ここに、遣唐使船の謎があるようです。
遣唐使船は、630年に始められたようです。それは、蘇我王朝が崩壊する15年前のことです。では何のための遣唐使船なのでしょう。歴史教科書では、唐の文化を輸入するためと、白鳳時代の貴族子弟の留学のため、との説明です。しかし、この遣唐使船には不思議なことがあるのです。それは、度重なる難破です。
何故不思議なのかと言えば、630年に遣唐使船が始まる23年前の、遣隋使船は、607年小野妹子を隋に遣わし、608年小野妹子は隋使裴世清(日本書紀では推古天皇統治時期ですが、裴世清は唐皇帝に男王「蘇我馬子か?」に謁見し、倭国は中国と同じ高度文化を保持していると報告しているのです。)を伴い帰朝し、その年に小野妹子は再び入隋し、609年には小野妹子が帰朝しているのです。23年前の中国渡海を、二年で二往復するほど安全に行なわれていたのに、何故遣唐使船の難破が多発したのでしょう。常識的には、あらゆる技術は、時代と供に、後退ではなく、進化・進歩するものなのです。
一つの考えとして、遣唐使船は、ある目的を持って難破するように仕掛けられていたのです。それは、古代のタイタニック号(相続人のいない富豪が多く乗船していた。)だったのです。遣唐使船は、藤原氏に不都合な人物の合法的抹殺手段だったのです。その犠牲になったのは、蘇我王朝や天武王朝の将来を支える多くの優秀な若者(藤原氏にとっては脅威)だったのです。
その論拠として、894年の遣唐使の廃止令です。下級貴族出身の菅原道真は宇多天皇(887年〜897年)の重臣として反藤原行動を起こすのです。それに対して、藤原氏は、菅原道真を遣唐使に任ずるのです。菅原道真は、藤原氏の遣唐使船による陰謀を良く知っていたので、宇多天皇をして、菅原道真の遣唐使を中止するだけではなく、唐との交易や文化輸入は無意味だと遣唐使制度そのものを廃してしまうのです。(日唐交易は、藤原氏の経済を支えていた。)
それに対して、藤原氏は、901年(延喜1年)菅原道真を大宰権帥に左遷するのです。その二年後に菅原道真は大宰府にて死去してしまうのです。このあまりにも強引な藤原氏の処置に対して、菅原道真の祟りを恐れ、菅原道真を「天神」として神社に封じ込めてしまうのです。(怨霊封じ込め装置の神社が、いつから死者の魂を祀る施設になったのかは不明。日本国における神社設建の歴史は謎です。分かっているのは、仏寺の後に出現したことです。つまり、神社は、日本古来の建築物ではないことは確かです。古墳の近く、或いは古墳上に建設されていることが多い事実が、神社設立の謎解きのヒントのようです。)
では、最澄の渡唐の本当の目的は、何だったのでしょう。唐の優れた仏教を学ぶためだけではないでしょう。通訳を伴うほど、最澄は中国語が分りません。それが、八ヶ月滞在での帰国です。とても天台宗や密教をマスターしたとは思えません。その証拠に、帰国後、年下の空海の弟子と自認して、最澄は空海に密教を学んだり仏典を借りて勉強をしていたのです。
では何かと言えば、それは、山東半島に亡命していた百済貴族の日本国への導きでしょう。
藤原氏の支配を避けるため、百済系桓武天皇は、平安京を「百済の都」にしたかったのです。そのために、中国・唐に亡命していた百済貴族の日本渡来の導きを、漢族末裔の最澄に命じたのです。
では、空海の目的は何だったのでしょうか。
歴史教科書では、最澄を学究の僧、そして空海を修行の僧と説明しています。空海は、その説明のように、弟子を養成するために仏寺で学問をするのではなく、全国各地の山々に分け入り、山岳修行の名目に実際は鉱脈探索に勤しんでいたのです。
日本列島は、十六世紀にメキシコ銀山が開発されるまでは、世界有数の銀産出国であったのです。
唐経済は、菅原道真が指摘していたように、交易の重要商品である「絹織物」が、その原料である「繭」を西域人に盗まれることにより、更に、交易方法が、内陸から海路に代わったことにより交易通行税激減により、疲弊していたのです。そして、ヨーロッパでの交易商品の需要は、絹織物から「銀製品」に変化していたのです。唐の経済立て直しのためには、属国日本列島での銀山開発が急務だったのです。
奈良時代の日本列島での交易戦争に勝ち抜いたのは、蘇我王朝、天武王朝を数々の陰謀で倒した、藤原氏です。しかし、反藤原氏の聖武天皇の祟りにより、その地位が危ぶまれていたのです。その隙を突いたのが、百済国が663年滅亡し、日本列島に亡命していた百済貴族達です。
ひとは理念だけでは生きられません。食物をとらなければ身体を維持できないようになっているからです。国を身体とすれば、食物は経済です。経済は物と物との交換において成り立っています。その経済の流れをみることで、日本史の本流が分かるかもしれません。
大仏造鋳過程で、奥州から金が産出することを知った百済系光仁天皇は、奥州経営のために侵略軍を組織するのです。780年、光仁天皇は、百姓より徴兵し、武術に優れたものを選び出し軍事訓練し、792年桓武天皇は健児兵軍団として組織するのです。
しかし、騎乗弓射する騎馬民族末裔の蝦夷には、何十万の農耕民族軍隊でも太刀打ちできません。そこで騎馬民族末裔である金髪の坂上田村麻呂を鎮守府将軍として、敵将アテルイを、和平条約を結ぶためと、京に連れ出してだまし討ちすることにより、奥州侵略に成功するのです。(奥州は、歴史教科書地図での白地の未開の地などではなかったのです。縄文時代から岩手県久慈では琥珀が産出され、国際交易商人達が訪れていたのです。)
桓武天皇による奥州侵略には、金山略奪のほかに、もうひとつの目的があったのです。それは、蝦夷軍団には騎馬系新羅武士団が多くいたからです。桓武天皇は、百済国滅亡に導いた新羅国に並々ならぬ憎しみをもっていたのです。この憎しみが、百済の都「京都」での差別部落を発生させる原動力となっていくわけです。その差別に手を貸すのが最澄開祖の日本天台宗の、騎馬民族蔑視の法華経の布教です。そのプロパガンダのキャラクターとして開発されたのが「聖徳太子」だったのです。
何故、成人しているのに「聖徳皇子」ではなく「聖徳太子」なのかと言えば、新羅系日本人には、「太子信仰」が受け入れられやすいことを、中国渡来の天台宗僧が知っていたからです。
ギリシャ・ローマ文化保持国の新羅(356年〜528年・女帝が統治。新羅と同族の天武王朝も女帝が多い。しかし、民族が異なる桓武王朝では女帝は皆無。例外は1人。)では、ギリシャの地母神イシスとその子供ホルスとの「母子神」(このイシス・ホルス母子神がキリスト教に導入され「聖母マリアと幼児キリスト」となる。)が信仰されていたからです。その「母子神」は、やがて母神だけが忘れられ、子神(アル)が祀られていくわけです。それが「太子信仰」の発生となるのです。そして、最澄は、百済仏教布教のため、法華経のキャラクターの聖徳太子の宣伝隊長としてガンバルのです。(桓武焚書と日本書紀の改竄による、百済勢力による新羅追い落とし宣伝に脅威を感じた新羅系秦氏の末裔多人長が考え出した戦術が、「奥付に712年を記述した古事記」出版だったのです。552年の百済仏教伝来物語は、百済系桓武天皇の創作です。古事記の序にある天武天皇の詞「諸氏族が持っている帝記および本辞は、もはや真実と違っていて虚偽を加えている」は、桓武天皇による「日本書紀」改竄を指したものです。)
藤原氏は、桓武天皇の亡命百済人による都建設戦略を見抜くように、「夷を以って、夷を制す」戦略で、秦氏の末裔空海に目をつけるのです。そして、仏籍のない空海を短時間で仏僧に仕立て上げ、遣唐使船に乗船させたのです。
空海は、唐に約二年間滞在中に、仏教や密教の経典を掻き集めながら、錬金術・鉱山開発技術習得や鉱山開発用工具類の購入をおこなっていたのでしょう。
その論拠として、空海が建立した仏寺近くには、銀山や銅山が点在するからです。勿論、空海の本拠地高野山は、中央構造線上にあるのです。空海は、この中央構造線に沿って仏寺を建立しているのです。その中央構造線では、縄文時代から朱砂のとれる場所であったわけです。朱砂(硫黄と水銀の化合物)が採掘されれば、そこには水銀・銀が眠っている可能性があるからです。
では、空海が唐から輸入した仏教とは何だったのでしょう。元々空海は地方下級士族出身で、更に百済ではなく秦氏の末裔でしたので(クダラナイ=百済ではない=高貴ではない)、大学を卒業しても官僚となる道が閉ざされていたのです。空海が大学に入学したといっても、従五位以上の子弟でなければ入学できなかったのを、聴講生の身分で通学していたわけです。中途退学は予定の行動でしょう。それに、漢文を理解できる語学力があったので、仏典の無意味さも知っていたのでしょう。(江戸時代、白隠禅師が、「仏典に仏を求めて無駄な時間を費やしてしまった。」と述べていたように、文殊の徒が創作した六千点もの仏典には、釈尊の真理など存在していなかったようです。)
では、空海は何に興味を示したのでしょうか。それは、七世紀の中国大陸で流行っていた「タントラ」です。
バラモン教を取り込んだヒンズー教が開発した「タントラ」の特徴は、呪文、護符、お守り、手印です。それに、バラモン教の水銀薬の回春術とヒンズー教の護摩と加持祈祷を加えれば、平安時代の秘密仏教(密教)の完成です。
空海は、この「タントラ」を大乗仏教(密教)のひとつとして日本国に持ち込んだのです。しかし、反新羅・反秦氏の桓武天皇は、空海の登都を認めませんでした。空海が京に登れたのは、百済天皇四代目の嵯峨天皇(809年〜823年)の時です。子作りが好きな嵯峨天皇(子供が多すぎて公費では養育費が払えないため、812年皇族籍を抜いた嵯峨源氏を創め。公家桓武平氏は825年淳和天皇が創め。)は、空海の水銀薬を使う回春術に大変興味を持っていたようです。
空海が持ち込んだ密教は、多くの仏教関係者に歓迎されたことでしょう。それは、少数の金持ち相手の仏像販売ではなく、多くの庶民相手にビジネスができるからです。それは、護符・お守りの販売です。神社仏寺での護符・お守り販売の元祖は、高野山であったのです。
しかし、空海のもたらした密教は、良いことばかりではありませんでした。それは、バラモン教のカースト思想そのものを直接日本国に導入してしまったからです。それは、高野山で販売していた「お札」の文句が、バラモン教(=ヒンズー教)の「律法教」からの借用だったからです。
「セダラに触れたとき、彼らと言葉をかわしたとき、彼らを見たときには、穢れを受ける。そのさいには浄化儀礼をせねばならない」の宣伝文句で、バラモン僧は浄化儀式を行い金儲けをしていたのです。その文句を高野山のお札では、「栴多羅(せんだら)・屠者のたぐいの穢れたる人を見たらば、このしんごんをとなうべし」と借用していたのです。(現在は削除)
この密教の穢れ祓えは、中臣祓えより強烈に騎馬民族にダメージを与えたことでしょう。更に、空海は、騎馬民族末裔の蝦夷を「非人のともがらなり」と蔑んで呼んでいるのです。
これらの空海の言動がやがて、藤原氏と百済系天皇による、騎馬民族末裔の新羅系日本人と秦氏を単なる賎民としてではなく、化界の不可触賎民(穢多)としてしまうのです。
何故それまでして、百済系天皇と藤原氏は、新羅系日本人と秦氏を貶めるのでしょうか。それは、元天武王朝の王族の新羅系日本人の武闘力と臣下であった秦氏の武器製造・土木建築技術を恐れていたからです。それらの技術を持って庶民を味方につければ、簒奪王朝である藤原王朝や百済王朝などは簡単に崩壊されてしまうからです。(桓武王朝は、白壁王(光仁天皇)の皇后である天武天皇系の井上内親王とその子・天武王権相続者の他戸親王を毒殺し、更に実弟の早良親王も自殺させることにより創られた王朝なのです。つまり、桓武王朝は簒奪王朝であったのです。このことを隠す装置が、812年編纂の「新撰姓氏録」です。この名簿には、新羅国出身者がほとんど掲載されていないのです。「新撰姓氏録」は新羅系日本人の歴史上の抹殺です。そして、氏族を「皇・神・蕃」に分け差別するのです。秦氏は、「蕃」の渡来系です。勿論、藤原氏と百済亡命貴族は「皇」です。つまり、「皇族」とは、出自不明の藤原氏と百済亡命貴族のことなのです。)
そのような桓武天皇は、王権簒奪時での自らの行いに対しての「祟り」に怯える毎日だったのです。それは、元の都の「平城京」で「祟り」(鉱毒中毒)に冒されたひと達による本物の地獄絵を見てきたからです。それに輪をかけるように、桓武天皇が支配する延暦寺では、法華経布教の手段として、「極楽」ではなく、「地獄」をビジュアルとしての「地獄絵」(地獄絵は、まさに平城京の都での情景だったのです。)で強力に宣伝していたからです。その「地獄」宣伝の集大成が、985年天台宗の学僧源信による「往生要集」となるのです。(地獄世界描写のリアルさに驚嘆した宋国の商人周文徳は、日本天台宗の本社国清寺に寄進したところ、宋の信者に爆発的な人気となり、「往生要集」は宋国へ書籍として多く輸出されたのです。)この書物が創りだした「地獄界」の概念は、21世紀の今もひとびとの「トラウマ」となっているのです。
怨霊に祟られる京の都で、怨霊退治を行なうひとが現われるのです。それが、密教の呪文と道教の方位術・占星術・薬学術を応用した「陰陽道」です。陰陽師は、超能力者を装う呪術で「怨霊」退治を行なうビジネスを平安京で始めたのです。
怨霊を退治するのは、超能力者の「陰陽師」ですが、怨霊を静めるのは、怨霊者側のひとです。ですから、怨霊を封じ込める神社の神主は、敗者の同族がおこなうわけです。
平安京で祟るのは、無念の死を遂げた元王族達です。それらは蘇我氏・秦氏・新羅系貴族です。すると、それらの怨霊を静めることができるのは、敗者の元王族の賎民達しかできないわけです。元王族の賎民達は、新しい職業を手にするのです。それが、「キヨメ」です。
「キヨメ」は、鎌倉時代になると、北条氏(ペクチェ=百済)が、源頼朝の妻北条政子の謀略により、鎌倉源氏一族(新羅武士団の末裔)を滅ぼすと、単なる清掃業に貶められてしまうのですが、平安時代での「キヨメ」は、天皇・皇族を祟る怨霊を静める警護業であったのです。
そのキヨメ業務者は、816年(弘仁7年)には、王権組織の一員の検非違使(810年薬子の乱後に設置された「令外の官」の嵯峨天皇の親衛隊。やがて、都市警察機能を担うようになり、宮城内部と首都の治安を守る業務を行なう。この首都治安が「キヨメ」の業務と重なり、「キヨメ」も貴人の護衛や処刑を補助するようになる。つまり「キヨメ」の業務が、怨霊から天皇を警護する役目だけではなく、犯罪者の逮捕やその処刑を行なうようになる。武士・モノノフと侍・サムライの違いは、「武士」が怨霊から天皇を警護する業務であるのに対して、「侍」は天皇の側近として賊からの攻撃に対する警護と天皇と官僚組織との連絡係の秘書の業務をおこなうひとです。この武官と文官を兼ねるひとを「蔵人」というわけです。つまり、平安時代では、護衛や刑吏をおこなう「武士」と、天皇の側近にいて「武・警護」と「文・秘書」をおこなう「侍」とは、同じではなかったのです。)の補佐業務をおこなうようになるわけです。しかし、キヨメ達は、ただの賎民ではなく、騎士道精神を持ったローマ軍末裔(太陽神・ミトラ神が軍神)の新羅花郎軍団(花とはミトラの借字)の末裔だったのです。やがて、その武闘力により、武家源氏(太陽神の八幡神を祀る。八幡神は秦氏の神)として伸し上がっていくわけです。その台頭に脅威を感じた、百済五代目の淳和天皇は、825年公家桓武平氏を興すのです。これが後に、武家源氏(新羅系日本人)と公家平氏(百済系日本人)との源平合戦に発展していくわけです。
嵯峨天皇は、その「キヨメ」達を、嵯峨源氏(公家源氏)の配下(後の武家源氏)とするのです。そこで、キヨメ達は、怨霊を静める儀式を発明するのです。それが、鎧兜で武装し(実戦用のためではないので、鉄製ではなく、総皮革製。)、刀(実戦用ではないので刃が薄く軽い。)を持ち舞う「武芸」であるわけです。「武芸」の「芸」とは、神を祀るパフォーマンスであるわけです。(神を祀る「芸」が、一般人を祀る(楽しませる)「芸能」に変化していくのは、鎌倉時代以降から。)
「武芸」は、源平合戦での勝利もつかの間、北条氏の陰謀により、賎民(鎌倉源氏一族は、北条氏の源氏残党狩りを逃れるため、北条氏の同族「平氏」と偽つわり、山奥に平家落武者部落にて、源氏再興の好期を待った。1335年源氏の足利尊氏が、仇敵北条氏に反旗を翻す。)に落とされた鎌倉源氏一族の無念が、室町時代に源氏の足利時代になると、足利氏に保護された秦氏の末裔・賎民の観阿弥・世阿弥親子により「能」に生まれ変わった。鎌倉源氏一族の無念は、平家一族(北条氏の百済平氏ではなく、氏名の無い「平○○」と名乗るペルシャ平家)の無念と重なるため、「平家物語」は、源氏系武士により多く舞われた。)
百済亡命貴族の都「平安京」に遷都し、藤原氏の興福寺・春日社の宗教戦略に習って百済系宗教組織、中国天台宗の日本支社を秦氏の元支配地の比叡山に延暦寺として建立し、騎馬民族末裔の蝦夷の支配地を坂上田村麻呂侵略軍のだまし討ちにより略奪し、奥州の金山から産出された砂金をもとに、唐との交易をおこなうことで経済基盤を確立し、百済純血を保っていた桓武王朝も、六代目の仁明天皇の時代になると、藤原氏の「女」を使う戦略により、徐々に藤原氏に百済王朝は侵食されていくのです。
藤原氏は、天武天皇が発明した、太陽神の冬至再生の儀式の大嘗祭(天皇が一生涯で一度だけ行う、前王権者の死から新しく再生する王権を受け継ぐ儀式)を、収穫祭(真冬に行う収穫祭とは何か。)と改竄し毎年真冬に行うことにより、天皇に「まぐわい=神婚」の相手に「藤原の女」を提供し始めるのです。更に、大嘗祭において五節舞を開催し、藤原の幼女を着飾らして、天皇の前で舞わすのです。天皇が気に入った舞姫は、側室となることは、藤原氏の計画済みです。
そのように藤原氏の血が注入された百済王朝の経済も、907年唐が滅ぶと、疲弊していくわけです。更に、唐王朝崩壊後の935年には、統一新羅国(675年〜935年)が滅亡し、その難民の多くが、新羅系日本人・秦氏(平安時代、出自を隠すために秦氏を惟宗氏に改名。)を頼って日本列島に渡来してくるのです。それらの人たちは、富士山の噴火灰が降り注ぐ不毛の関東の地に追放されるわけです。(713年の好字令:二文字の日本語化により、新羅亡命人達は、関東海岸部は七・八世紀渡来の高句麗・百済系日本人に占領されていたため、関東内陸部に白○部落、志○部落を形成し、後に源氏の元となる。)
日唐交易は、百済王朝の管理下、延暦寺に寄宿する国際交易商人達によりおこなわれていたものが、907年唐が滅亡し、960年宋が興るまで、中国との交易は無秩序となったため、その間、日本列島に南方のアラブ国やインド国からの交易船が直接訪れるのです。それに伴い、外国人も多く渡来するのです。
16世紀イエズス会の渡来の例でも分かるように、国際交易商人は軍隊を伴うのが常識です。大阪の難波は百済系日本人(百済平氏)に、渡邊津は新羅系日本人(武家源氏)が支配していたため、インド・ベンガラ染め衣装を着るペルシャ平家の先祖となる商人と軍隊は未開の伊勢を目指すわけです。伊勢は、中央構造線上に位置するため、海外に宇陀と並んで水銀産地と知られ、後に国際交易人やアラブ・インド傭兵軍隊が渡来して、南蛮交易湊として栄えることになるのです。
戦国時代、尾張に出自不明の織田信長(自称平氏。三代先の出自不明。比叡山の僧侶全員虐殺は反百済か。仏教嫌いで海外文化に染まるのはペルシャ平家の末裔か。)、豊臣秀吉(自称平氏。出生地不明。子供の頃日吉・イルギ丸と呼ばれていたのは中国山東半島渡来の百済の末裔か。)、徳川家康(自称源氏。朝鮮半島の朱子学を尊び、穢多頭の弾佐衛門との親交は、部落出身か。)などの武将が多く輩出されるのは、海外の傭兵軍団が多く渡来したためです。
桓武王朝の百済の血が薄くなると、延暦寺の僧侶達のなかには、仏のこころを忘れ、自己の利益のために行動する者も現れてくるのは自然の流れでしょうか。
延暦寺領の末寺や荘園の預所を兼任していた法薬禅師は、宋商人から賄賂資金を受けて大宰府の役人に賄賂を贈り、大宰府近郊にある大山寺の支配権を有利に進めたのです。そして、その大山寺を拠点として、宋人を神人(神社所属の奴)として借上(高利貸し・奈良時代の仏寺が創め。)をおこなっていたのです。このような優秀な僧侶がいることにより、延暦寺は中世において日本国最大の借上集団を抱え込むようになっていくわけです。
百済王朝の京都の宗教・交易拠点である延暦寺の規律が乱れると、藤原氏の奈良の興福寺の勢いが再び興るのです。藤原氏は、キヨメの武家源氏の武力を背景に、藤原道長(995年〜1017年)が、大嘗祭・五節舞システムにより百済王朝を完全に牛耳るのです。それに対して、百済系天皇・貴族が、藤原氏のそのシステム支配から逃れる装置が、1086年の白河上皇が発明した院政です。
日本国唯一の権力者である天皇を藤原氏の女を使ってロボット化するのが、摂政関白制度です。その摂政関白システムを無力化させるために、天皇が自ら譲位し上皇となって、無力化天皇をコントロールするのが、院政です。この上皇による院政装置により、藤原氏は、天皇をコントロールして朝廷政治を支配できなくなってしまうわけです。
そこで、無力化した天皇の藤原氏側と実権を握った百済系上皇側との闘争が、武力闘争に発展していくわけです。
奥州の乱(藤原氏による金山略奪戦争)で武家源氏が、1051年の前九年の役と1083年の後三年の役で、武闘力を発揮したため、1098年源義家が、初めて昇殿を許されるのです。そこで、武家源氏の昇殿に脅威を感じた百済系白河上皇は、対抗軍事族として、伊勢での水銀南蛮交易で財を成し、天皇家に多大な寄付、ペルシャ系舞姫、南蛮渡来の珍しい品々(孔雀・羊・ベンガルトラの毛皮)などを贈賄する、ペルシャ平家を登用するのです。
この武家源氏とペルシャ平家とが、藤原氏と百済王朝との闘争に参加すると、百済亡命貴族支配の延暦寺を武家源氏が攻撃すれば、それに対して、藤原氏支配の興福寺をペルシャ平家が攻撃することになるわけです。この争いの元は結局、院司(百済系貴族)と朝臣(藤原氏)との代理戦争なのです。
この代理戦争は、やがて、1156年の保元の乱と1159年の平治の乱へと発展し、結果的には、ペルシャ平家が、武家源氏を敗退させ、平清盛の時代(1167年〜1181年)となるのです。そして、源義朝が惨殺され、その息子源頼朝が、1160年に伊豆(夷・エビスの居住地。夷住→イズ。鈴鹿の関以東には、民族差別思想が以西に比べて普及しなかったのは、ヤマト征服者の渡来元の朝鮮半島に向いて「ヤマト」に立ち、右手側が東国・アズマは、それに対して左手側は西国・サツマ、645年から夷・エビスの国であったから。)に配流となるわけです。
1167年平清盛が太政大臣となると、父の平忠盛を真似て、福原に国際交易湊を構築し、宋国との交易独占を図るのです。交易品は、砂金、銀、水銀、朱砂、硫黄、などの鉱物で、宋国からは宋銭を多量に輸入するのです。宋国の貨幣が一般に通用すると言うことは、平安時代の臣民は、中国の経済圏に暮らしていたと言うことです。
平清盛は、藤原氏の国家乗っ取り戦略を真似するのです。平清盛の娘徳子を天皇に嫁がせ、1181年には建礼門院に変身させるのです。そして、その子を安徳天皇とし、後白河法皇を幽閉し、日本国乗っ取りを図るのです。
この行状に対して、藤原氏と百済皇族達は、ペルシャ平家壊滅を図るのです。しかし、後白河法皇や藤原氏によるペルシャ平家打倒の陰謀は、ペルシャ平家の圧倒的な海軍を主とした軍事力によりことごとく粉砕されてしまうのです。その反動として、1180年には、平重衡が鬼の守護寺の東大寺を焼き討ちしてしまうのです。
この時代、海洋軍事部族のペルシャ平家を壊滅できるのは、騎馬民族末裔の武家源氏しか存在していません。そこで、桓武平氏(百済平氏)の末裔北条時政は、その娘政子の夫源頼朝を担ぎ出すのです。しかし、京の公家社会に染まった源頼朝には、モノノフ・武士の魂は存在していなかったのです。
そこで、奥州の金山を支配する奥州藤原清衡は、出自不明の源義経を源頼朝の弟として、ペルシャ平家打倒の尖兵として送り込むのです。
源義経の出自解明のヒントは、屋島の合戦での出陣地が、渡邊津であることです。渡邊津は、ギリシャ・ローマ文化保持国の新羅末裔の居住地であるのです。その同族として、北九州松浦党がいるのです。松浦党は、主に海洋民族ですが、同調する者は異民族でも同族として迎え、日本列島にはない合議制(ギリシャ・ローマ軍は合議制により軍事行動を行っていた。)により行動する軍事部族であるのです。松浦党の主な経済活動は、朝鮮半島との交易です。朝鮮半島とは、珍島(メズラ島→マズラ→松浦)を拠点に交易をおこなっていたのです。(鎌倉源氏滅亡後、百済北条王朝により、中央から追放され「倭寇」となる。)
1185年壇ノ浦の戦いで、安徳天皇が入水し、ここにペルシャ平家は滅ぶのです。そして、1192年返り咲いた後白河法皇により、源頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開くのです。しかし、鎌倉源氏は、百済平氏の末裔北条氏の陰謀により、頼朝、頼家、実朝の三代で滅亡してしまうのです。
ここから、北条氏により、645年に蘇我氏、秦氏が藤原氏により賎民に落とされたように、鎌倉源氏一族は賎民に落とされてしまうのです。つまり、鎌倉時代とは、平安時代が百済王朝とすれば、第二百済王朝だったのです。
そこで、第二百済王朝は、仏教を武器として、騎馬民族末裔の賎民を「穢多」と蔑む戦略を展開するのです。その尖兵となるのは、百済が支配する比叡山天台宗の卒業生達です。
平安時代末期の京都比叡山は、中国天台宗本社との交易や借上の事業に勤しむのですが、平安二大仏教のひとつ、空海開祖の真言系の仏寺は、どのような状態であったのでしょうか。文覚上人の、空海が得度を受けた由緒ある高尾山神護寺再興の起請文には、次のような一文があります。

当寺の威を借りて、他人の田園や資財を押し取ってはならず、寺の大事にあらざるときに、私心にまかせて刀杖や甲冑を帯びてはならない。寺中においての酒宴、歌舞音曲等の遊興、囲碁双六将棋蹴鞠等の博奕を禁ずる。寺内に女人を泊めたり、魚鳥や五辛を持ちこんだり、猿楽や田楽の法師をいれたりしてはならない。

平安時代末期は、その起請文の禁止事項が仏僧により実際におこなわれていた、大乗仏教が述べる、正に末法の世であったわけです。
末法の世は、日本列島だけではなかったのです。東アジアでは、唐が滅び、宋が興る頃、北方に騎馬民族の女真が勢力を伸ばし、南下を試みるのです。その南下は、日本海をまたぎ、1019年北九州に来襲するのです。この賊を、日本史では「刀伊の入寇」と述べています。
この騎馬民族女真は、やがて勢力を伸ばし、契丹(遼)、高麗を滅ぼし、1115年に金帝国を興すのです。この金帝国は、宋を脅かし、その結果、1127年宋は南退して、南宋(南朝)となり、北半分を金帝国(北朝)に侵略されてしまうのです。
そのような政治的に不安定な中国大陸で、布教活動をしていた禅宗の臨済宗と曹洞宗は、組織の海外脱出先を模索していたのです。
禅宗とは、インドのヨーガに中国土着の思想を加えたものです。「禅」は、サンスクリット語のディヤーナ、パーリ語のジャーナの音写です。意味は、静慮、思惟修習、つまり、「瞑想すること」、或いは、「思うこと」、です。このインドのヨーガ(禅)が、中国に伝来したのは、後漢の頃と言われています。その後、北魏時代に達磨によりヨーガが布教され、中国土着思想(神仙術・儒教・道教)と融合することにより「禅宗」として完成したようです。
鎌倉源氏一族を抹殺した北条政権は、北条王朝の基盤を固めるための装置を開発するのです。それが、1232年御成敗式目の制定です。そして、京都朝廷の手先である延暦寺の支配を鎌倉から排除する装置が、中国からの「禅宗」の導入です。(この戦術は、桓武天皇が、藤原氏の支配を封じるために南都仏教を奈良に封印し、平安京に中国から天台宗を導入したことと同じです。)
北条氏は、百済系ですが、京都を支配する桓武王朝の流れから外れている、百済皇族ではない、武家平氏です。だから、伊豆(夷住)に配置となっていたのです。武家源氏の騎馬による武闘力を利用して、ペルシャ平家を打倒して、やっと手に入れた関東の支配地を、再び桓武王朝に渡すわけにはいかないのです。
京都の桓武王朝は、鎌倉支配の尖兵として比叡山の延暦寺で洗脳した百済仏教修行僧を、北条氏の支配する鎌倉に送り込むのです。それに対して、北条氏は、中国から導入した「禅宗」で対抗するのです。(現在の鎌倉には寺が多くあるのですが、禅宗以外の寺が少ないのは、そのためです。)
歴史教科書や仏教史で、奈良・平安時代は貴族仏教で、鎌倉時代にやっと庶民のための仏教が興った、と述べていますが、実態は、鎌倉大乗仏教が庶民のために布教を創めたのではなく、北条氏により京都百済仏教が鎌倉の地から排除され、それに代わり「禅宗」が鎌倉武家社会に受け入れられたため、大乗仏教は東国で布教する武家相手がいないため、しかたなく庶民を布教対象にしただけです。
更に、布教活動が一歩遅れた者は、鎌倉の都に入れず、自ら「セダラの息子」と名乗り、辺境の賎民居住地や地獄谷近くで賎民相手に布教していたのです。これらの仏教僧が、仏典に記述してある騎馬民族差別思想(カースト制度下の不可触賎民=仏罰者)の本質を知ることもなく法華経を一般庶民に布教することにより、仏罰者といわれる「セダラ」が「穢多」となり、新しい賎民階級が鎌倉時代に生まれるわけです。
そもそも、騎馬民族を蔑視する「法華経」を布教する天台宗の流れを汲む鎌倉大乗仏教は、小難しい宗教教義や宗教儀式などすることもなく唯黙って座るだけの禅宗とは異なり、騎馬民族末裔の「モノノフ・武士」には受け入れられない宗教だったのです。(何故、仏前で、胡坐ではなく、正座をするのでしょう。この正座とは、他国では罪人が座る様式です。胡坐・アグラは、「胡=ペルシャ」で、つまり騎馬遊牧民族のペルシャ式座り方なのです。座禅での座り方は、騎馬遊牧民族には自然な座り方だったのです。もし、座禅が、大乗仏教のように正座だったとしたら、騎馬民族の末裔の武士には受け入れられなかったでしょう。何故、仏前での罪人座りが「正座」なのでしょうか。そこに、大乗仏教の本質があるようです。)
更に、禅宗のシンプルな建築様式は、武家社会に受け入れられ、床の間に中国の神仙を描く墨絵の掛け軸が流行るのです。(その中国禅宗の建築様式は、室町時代になると書院造となるのです。室町時代、中国から神仙の掛け軸が多く輸入されるのはそのためです。)そして、禅宗のシンプルな葬儀様式は、後に、何でも模倣する大乗仏教に取り入れられ、今日に至っているのです。
一般的に、鎌倉時代は、武家源氏の武士が支配していた、と思われていますが、実際に支配していたのは、1192年から1219年までの、わずか27年間に過ぎないのです。後は、百済平氏の末裔北条氏が1335年までの116年間も支配していたのです。この116年間、武家源氏末裔とその一族は、賎民として、源氏再興の時まで待つのです。
百済末裔の北条氏は、藤原氏による倒幕陰謀や源氏再興の芽を摘み壊滅するために、1221年京都に六波羅探題を置き、全国に反北条の情報収集のために密使を放つのです。
更に、落武者源氏一族と庶民との接触による蜂起を恐れ、それに対する装置を開発するのです。それが、まつろわぬ武家源氏末裔を、賎民以下の不可触賎民「穢多」に貶めることです。そこで鎌倉大乗仏教は、平安時代に空海が中国からもたらしたバラモン教祈祷ビジネスの宣伝文句「セダラに触れたとき、彼らと言葉をかわしたとき、彼らを見たときには、穢れを受ける。そのさいには浄化儀礼をせねばならない」を布教するのです。更に、真言宗系の寺では、「栴多羅(せんだら)・屠者のたぐいの穢れたる人を見たらば、このしんごんをとなうべし」の御札を信者に販売するのです。(平安時代では、セダラ=穢多ではなかった。)
「穢多」が歴史上に現れるのは、13世紀後半に編纂された「塵袋」に「イキ物ヲ殺テウルエタ躰ノ悪人也」が初めとされています。更に、武家に取り入れられた禅宗の、庶民への布教拡大に脅威を感じた比叡山の大乗仏教側は、「天狗草紙」の宣伝物で、禅宗を広めていた「放下集団」を天狗(奈良時代に都から追放され山に住む道教士・景教僧)が操る「畜生道」「魔業」として激しく非難しているのです。しかし、「天狗草紙」では、仏敵の天狗は、穢多童(童とは、一人前ではない意味の蔑称)に退治されてしまうのです。(この物語は夷を以って夷を制す戦略を述べたもの。)この天狗草紙出版頃は、「穢多」は、「不可触の穢れた存在」よりも、武士のイメージが残る「武闘力」を認められた存在であったのでしょう。
やがてその第二百済王朝による、新羅末裔の源氏武士壊滅のための、仏教による賎民思想布教も激しくなるのですが、関西と関東とでは、その勢いに差が出るのです。関西の穢多布教は、百済支配の比叡山の法華経の天台宗が直接おこなうわけですが、関東の都の鎌倉は、白隠禅師が江戸時代に述べたように、禅宗は法華経などの仏典に興味はなかったので、仏罰者の「セダラ思想」や「穢多思想」などを禅宗は布教しなかったからです。
関東での賎民思想布教は、結果的には、カースト制度の意味を知らない比叡山延暦寺で法華経を洗脳された、百済平氏末裔の地・千葉出身の「セダラの息子」や鎌倉の地で仏教布教ができなかった者達だけだったのです。(この鎌倉新興仏教に洗脳された賎民は、やがて仏教貴族組織拡大の手先として利用されていくのです。)それに、アズマは、奈良時代からエビス(賎民)の住む地であったのです。ですから、関東では、賎民思想は、関西より流行らなかったのです。
そのような比叡山僧による騎馬民族に対する思想攻撃に対して、鎌倉源氏残党は、自ら「平家落武者」と名乗り、源氏再興まで山奥の「平家部落」でひっそりと暮らすのです。
しかし、武家源氏の臣下にあった技術集団・秦氏の末裔は、百済北条氏の支配する鎌倉時代を逞しく生き抜くのです。新羅系秦氏は、蘇我王朝、天武王朝期では、王族直属の技術集団だったのです。穢多は、唯の賎民ではなかったのです。
穢多頭の初代弾佐衛門(秦武虎)は、1180年源頼朝の挙兵での功労で、源頼朝より御朱印状を賜っていたのです。更に、鎌倉幕府設立に貢献した秦氏一門は、源頼朝より南九州薩摩の島津荘の領主に任命され、惟宗氏改め島津氏を名乗るのです。明治前夜、江戸の弾家を尋ねた島津氏の密使が、「弾家と島津は同族ぞ」と言った根拠が鎌倉時代にあったのです。

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏

                  弾左衛門頼兼へ
頼朝御判


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/837.html

コメント [政治・選挙・NHK178] 創価学会・池田大作名誉会長、朝日新聞で新連載開始か 信者伸び悩み&読者減で助け合いか ドンゲン
16. 2015年1月31日 19:03:03 : ek95tVIB0s
死んでる
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/919.html#c16
コメント [戦争b14] ヨルダン軍パイロット救出へ 米軍「特殊部隊」投入急浮上(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
01. 2015年1月31日 19:07:26 : qJYirrARpk
軍事雑誌「PANZER」wwww
補助金欲しさにアヘ様ヨイショに転んだクソミリオタ誌
民主党政権時と自衛隊装備に対しての論調が180度違うじゃねえかコラ
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/840.html#c1
記事 [近代史02] 神輿の黙示録(10)(戦国時代は第二次源平合戦か:家紋はどこから来たのか)
秦氏の末裔、穢多頭の「弾家」と明治維新での中核士族の「島津氏」とが同族であるとの根拠のひとつとして、「家紋」があります。両家の家紋は「丸に十字」です。しかし、元の家紋には丸がなくて、唯の「十字」だったのです。
十字と言えば、キリスト教(ヨシュア教)を思い出すひともいるかとおもいますが、キリスト教の十字架は、オリジナルではなく、太陽神ミトラ教の太陽のシンボル、マルタクロス(十字)を導入したものなのです。
そして、マルタクロスのシンボルを用いる景教は、キリスト教から分派したネストリウス派だといわれていますが、それは逆です。
ローマ軍神としてミトラ神(ラテン語ではミトラス神)が信仰されていたのに、392年ユダヤ教の一派である反ローマ帝国のヨシュア教(ギリシャ語でキリスト教)が、突然ローマ帝国の国教となり、そのローマ帝国は、395年東西に分裂するのです。428年東ローマ帝国において、ネストリウス派は、キリスト(ヨシュア)の神聖を認めない「人間キリスト」の宗論を展開するのです。それに対して、東ローマ帝国を影で支配する国際交易商人は、キリストを神格化して、キリスト教布教の名目で異教国への侵入手段として、異教国支配を計画していたのです。431年エフェソスの公開議で、人間キリストを主張するネストリウス派は異端と決め付けられ、435年東ローマ帝国から追放されるのです。その追放されたネストリウス派キリスト教徒達は、東ローマ帝国と対立する隣国ササン朝ペルシャ帝国(293年〜642年)に受け入れられるのです。そして、ネストリウス派キリスト教徒は、ペルシャ交易商人と供に、シルクロードを東進し、北魏(農耕民族の漢民族でなく、騎馬民族の拓跋部が支配。拓跋部は源氏の元。423年〜534年)の都洛陽に渡来するのです。そのころ、北魏では、道教が盛んになり、仏教は弾圧されていたのです。
その東ローマ帝国の教皇に破門されたキリスト教ネストリウス派とは、太陽神(ミトラ神)が先祖がえりしたものです。太陽を崇拝する景教は、元々は太陽神ミトラ教の教義を取り込んだ宗教組織で、中国大陸での布教が成功すると、中国王権から太陽を祀る宗教ということで、景=日(太陽)の京(都)の宗教と言われたわけです。
騎馬民族支配の北魏→隋→唐(日本列島では、騎馬民族支配の飛鳥時代から奈良時代)では、絹織物を求めるペルシャ交易商人が商業の拠点として寺を建立するのですが、それは、ペルシャ寺=ネストリウス派教会=景教寺というわけです。(603年創建と言われる、蜂丘寺「後の広隆寺」は景教寺です。)古代では、異教民との商取引は、神聖な神の下(寺・教会・庭=神が宿る場所)でおこなっていたのです。そして、ミトラ神は軍神だけではなく、オリエントでは異教民との商取引を見守る「契約神」でもあったのです。
では何故、秦氏の末裔、弾家と島津氏の家紋が、景教のマルタクロスなのでしょうか。
日本の家紋は、十六世紀半ば突然に戦国時代の武将率いる軍団の、現代の宣伝旗のように露出度を上げるように、更に遠方から確認できるように、軍団ごとの特徴を簡潔なデザインマークとし、その軍事部族のシンボルマークを施した旗物に現れるのです。
家紋が武士の合戦時に敵味方を確認するマークとして必要なものであるのならば、何故十三世紀の源平合戦で、白旗と赤旗ではなく、家紋が登場しなかったのでしょうか。
鎌倉時代末期、元寇による戦後の論功行賞で、戦費持ち出しの武士団に報いられない百済北条政権は、崩壊寸前だったのです。(元は、百済北条氏が支配する鎌倉の都で禅宗が保護されていることを知っていたので、禅宗僧を元軍の使者として、北条政権に交易を求めてきたのです。それも二度です。しかし、北条政権は、元軍の手先の禅宗僧の密使を二度とも惨殺してしまうのです。それに対して、元軍は、日本列島に1274年と1281年に二度来襲するのですが、元軍船は二度とも暴風雨により壊滅してしまうのです。元軍の来襲は、難破船の荷物の中から種籾や農具多数が発見されたため、日本列島征服を本気で考えていたようです。それは、元軍は、日本列島で金・銀が多く産出されることを知っていたからです。この情報が、マルコポーロにより黄金の国「ジパング」と紹介されることにより、ヨーロッパ諸国の東アジア植民地化政策を助長したのです。)
そこに、後醍醐天皇(1288年〜1339年)が、即位後、院政をやめるのです。そして、第二百済王朝の北条鎌倉政権から都を追われていた藤原氏の暗躍により天皇親政を行い、そして、北条氏により山奥の僻地に追われていた源氏一族の楠正成、足利尊氏、新田義貞などの百済北条政権に不満を持つ地方豪族の武力協力により、1333年北条鎌倉幕府を倒すのです。
では、鎌倉北条政権に反旗を翻した後醍醐天皇とは、どのような出自の天皇なのでしょうか。系図では、後宇多天皇の第二皇子ということですが、「醍醐」の天皇名が気になります。
「醍醐」と言えば、藤原氏全盛時代の平安時代に、反藤原氏の菅原道真を大宰府に左遷し藤原氏全盛の基礎を築いた醍醐天皇(885年〜930年)が在位していました。父は宇多天皇で、母は内大臣藤原高藤の娘、藤原胤子となっていますが、疑問符があります。それは、「醍醐」の文字です。
「醍醐」とは、牛乳製品を発酵する段階で生ずる物質である、乳(にゅう)→酪(らく)→生蘇・酥(しょうそ)→熟蘇・酥(じゅくそ)→醍醐の、五味(ごみ)のことを言うのです。この「醍醐」は、馬が生息していなかった日本列島に馬具が古墳から現れる四世紀以降、オリエントから渡来した騎馬遊牧民族により、日本列島に持ち込まれたものです。つまり、チーズ(醍醐)は、騎馬遊牧民族のご馳走であるわけです。しかし、醍醐(チーズ)は、蘇我王朝、天武王朝が壊滅すると、製品としては存在しなくなり、騎馬遊牧民族の末裔ではない百済王朝・藤原王朝の平安時代では、「醍醐味」として、「最高の美味」の意味の言葉としてのみ存在するのです。
食生活でも、飛鳥・奈良時代の貴族と平安時代の貴族との異民族性が証明できるでしょう。それは、飛鳥・奈良時代では貴族は肉食し騎馬により行動していたのです。それに対して、平安時代の貴族は肉食せず、騎馬をせず、牛車を交通手段としていたのです。
そのチーズ(醍醐)と命名された醍醐天皇の血には、騎馬遊牧民族の血が流れていたのです。醍醐天皇は、父宇多天皇が皇子の時、山里で契った騎馬民族の娘の子であったのです。その「醍醐」の名を引き継ぐ後醍醐天皇により、天皇家は南北に分裂し、南北朝が始まるのです。
1334年の建武の中興での恩賞の不公平による足利尊氏の後醍醐天皇からの離反により、1336年後醍醐天皇は、吉野へ逃れ、ここに北朝(京都朝廷=光明天皇)と南朝(吉野朝廷=後醍醐天皇)に分裂するのです。南朝は、北朝の攻勢により九州(秦氏の末裔島津氏の支配地に藤原氏の本流近衛家は隠棲していた。)に逃れ、一時巻き返すのですが、1339年後醍醐天皇が死去し、南朝を支えていた武将もこの世から次々と去ることにより、1392年足利義満の斡旋により南北朝は合体するのです。しかし、それは表面上です。藤原氏、百済皇族、新羅系源氏武士との三つ巴の戦いは更に続くのです。
九州では、南北朝の戦いが明治維新まで続くのです。そして、江戸末期、藤原氏の流れにある菊池氏の末裔西郷隆盛は、北朝の考明天皇を抹殺して、南朝の皇族大室寅之助(薩長藩により睦仁親王を抹殺し、明治天皇に成代わる。)を、「玉」として明治維新に可担ぎ出すのです。これは正に、645年に蘇我王朝を藤原王朝が簒奪した再現劇です。だから、藤原氏復古の王権簒奪王朝の明治新政府は、史実を隠蔽するため王政復古を唱え、645年大化の改新(虚構の改革)を教科書歴史に取り込み、学校で生徒に刷り込んだのです。
1394年足利義満は、太政大臣となり、ここに室町幕府が確立するのです。
足利氏は源氏一族ですので、鎌倉時代に賎民の穢多に貶められた軍事技術集団の秦氏の末裔は表社会に現れ、それらの技術を庶民生活に反映するのです。室町時代は、職能民・芸能民世界の黎明期です。鎌倉時代、百済王朝や大乗仏教から賎民と貶められた職能民・芸能民達を足利政権は、保護育成するのです。そのひとつが、能楽です。世阿弥は、1402年風姿花伝を著すのです。そして、中国禅宗の文化は、源氏武家社会に取り入れられ書院造が完成し、中国神仙画が日本版山水画として完成するわけです。現在の日本文化の多くの基は、源氏支配の室町時代から興るわけです。
騎馬民族は、商業民族と同じです。それは、騎馬により物流管理を行い、遠方へも広く交易をおこなうからです。騎馬民族末裔の新羅系日本人は、百済鎌倉時代の圧政下で、騎馬により日本全国に独自の商業ネットワークを構築していたのです。
「社会」とは、社(やしろ)で会うことにより、ネットワークを広げることです。鎌倉時代、百済北条政権に賎民に貶められた鎌倉源氏一族の集う社(やしろ)とは、藤原氏により怨霊封じ込めの施設として開発された、「鬼」封じ込めの異界である神社境内であるわけです。
神社とは、鳥居にしめ縄を張った、怨霊封じ込めの「結界」であるわけです。そこには、被征服民族の王が「鬼=敵神」として封じ込められて、祟りをしないように鎮魂させている所なのです。
童謡「とうりゃんせ」の歌詞を思い出してください。「とうりゃんせ、とうりゃんせ、ここはどこの細道じゃ、天神様(菅原道真の怨霊を封じ込めるため、天神として封じ込めた。)の細道じゃ、ちょっととうしてくだしゃんせ、この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります、行きはよいよい、帰りは怖い、怖いながらもとおりゃんせ、とおりゃんせ」何故、お参りの帰りが怖いのでしょうか。それは、「神社」が被征服民(反権力者=アウトロー)のネットワーク網の拠点であったからです。そこに集う被征服民の動向を、王権側が探索していたからです。
その結界である神社を商業ネットワークとして、賎民達は同業組合である「座」を組織するのです。その組織を仕切る顔役を、「役座・ヤクザ」と言うわけです。それに対して、比叡山の天台宗は、寺の門前市の所場(しょば)での商業を仕切るのです。この役座が仕切る「座」と仏教組織が仕切る「市」の商業既得権を、戦国時代に織田信長は「楽市楽座」の政策で破壊するのです。
室町時代に庶民の商業活動が活発になったのは、源平時代に平清盛が日宋貿易で、宋銭を多量に輸入していたからです。この流れは、鎌倉時代、室町時代と続くわけです。では、宋銭や明銭は何故日本国に多量に流れ込んできたのでしょうか。それは、日本列島から産出される金、銀、水銀、硫黄などが、宋商人、明商人に多量に持ち出され、その対価としての宋銭であり、明銭であったのです。
この日本列島から産出される鉱物資源に目をつけたヨーロッパ人が、「ジパング」の室町時代末期に訪れるのです。その訪れ方は、宗教者(医者)→病院設立→学校設立→商人の渡来→軍事顧問渡来→軍隊渡来→植民地化の異国侵略方程式そのままです。
鎌倉時代初期から百済王朝や鎌倉北条政権に寄生する皇室・公家・延暦寺配下の寺は国衙領や荘園を経営することによりわが世の春を歌っていたものが、室町時代末期になると、経済的基盤のなかった武士階級は、武家の統治機構である守護・地頭に属する武士達が、地頭請や下地中分として、その国衙領や荘園を侵食し始めるのです。そして、始めは国衙領や荘園の管理者であった武士が、やがてその土地の支配者となり、ついに守護大名と呼ばれるようになるわけです。しかし、仏教組織は、皇室や公家と異なり、武士による荘園侵略を黙ってみてはいませんでした。それは、借上などの高利貸しによる財力にものを言わせ、仏教組織の武装化が更に強化されていくわけです。その武装化仏教の頂点が比叡山の延暦寺です。
この守護大名が、日本列島に多く現れると、必然的に土地争いに発展していくわけです。そして、軍事力のある名も知れぬ小守護大名が、軍事力のない大守護大名の土地を略奪していくわけです。これが、下克上の世であるわけです。
守護大名が自国領の土地を守るには、武力が必要です。そこで、全国の守護大名は、軍事力に力を入れていくわけです。日本全国での土地争いが頻発に起こると、軍人や武器の需要が増していくのです。そこに目をつけた明国の商人が、1542年種子島に「銃」と「傭兵軍」を売り込みに来るわけです。一説では、1543年ポルトガル船が種子島に漂着とあります。
ポルトガルは、1385年アルジュバロダの戦いでカスチラ軍を破り完全独立を果たしたのです。ポルトガル王国は内陸をカスチラ(1479年イスパニア王国となる。)に抑えられているため、経済活動を海外に求めなければならなかったのです。1498年ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開発するも、イスパニア王国では、1492年にはコロンブスによりアメリカ大陸に到達していたのです。そして、その航海術を駆使して西インドに進出し、そこを支配していたのです。そこで、ポルトガル船は、仕方なく黒潮で北上し種子島に漂着したことに、歴史上はなっているようです。
しかし、種子島は、ポルトガル船により偶然歴史上に現れたわけではないのです。この種子島には、出自不明の藤原氏の謎を解くヒントがあるようです。
藤原薬子の乱により蔵人所を置いた前年、809年百済四代目嵯峨天皇が在位した時、種子島に、藤原氏の氏寺である興福寺の末社として、慈遠寺が建立されるのです。それは、藤原氏が、百済桓武天皇の平安京遷都により、奈良の都に封印されてしまってから15年目です。この種子島の慈遠寺建立は、806年空海が唐から帰朝し、真言宗を興したこととの関係を示唆します。それは、宇陀の水銀・銀の交易ルートが、高野山・金剛峰寺→紀州・根来寺→種子島・慈遠寺→中国山東半島と繋がるからです。
何故藤原氏は、孤島の種子島に慈遠寺を建立したかと言えば、「寺」の表の機能が仏像安置場所とすれば、裏の機能は「砦=城=武器庫」だからです。
種子島は、アラビア海→インド洋を抜けてスマトラ海峡を北上すれば、東シナ海の黒潮ベルトコンベアー上に位置するのです。ですから、平安時代末期、ペルシャ平家の平清盛は、南蛮貿易独占のために種子島を占拠し、曾孫の平信基を島主としたのです。
平安時代、藤原氏は、京の都と国際港難波を百済桓武王朝に支配されたため、中国大陸との交易ルートを、種子島→紀州に変更したのです。そして、紀州には興福寺の末寺の根来寺を建立するのです。つまり、藤原氏の国際交易ルートは、中国大陸→種子島(慈遠寺)→紀州(根来寺)となるわけです。
しかし、鎌倉時代初期、ペルシャ平家を滅ぼした武家源氏の棟梁源頼朝により、藤原氏の島津荘園は、秦氏の末裔惟宗忠久が荘園当主となり、惟宗忠久改め島津忠久となり、島津氏の祖となるのです。そして、藤原氏は、近衛家と変身するわけです。しかし、藤原氏の末裔近衛家は、藤原氏得意の「藤原の女」を使う戦略で、島津氏と縁戚関係を結ぶのです。そして、ここから明治維新まで、近衛家のコントロールにより、島津氏(薩摩藩)は行動するのです。(これは正に、イスラエルのエフライム族の巣を乗っ取る、カッコウ・ユダヤのレビ族の行動ソックリです。)
鎌倉時代の新興宗教日蓮宗は、鎌倉では百済北条氏による禅宗保護のため布教ができないため、京で布教を始めるのです。日蓮宗は、騎馬民族蔑視の法華経を解いたため賎民には受け入れられなかったが、現世利益を解いたため欲深い京の町民たちにより支持をうけたのです。この現世利益の日蓮宗は、種子島11代当主時氏により受け入れられ、慈遠寺は、二系統のネットワークルートを得るのです。それは、従来の慈遠寺→興福寺と、慈遠寺→本能寺(日蓮宗)です。本能寺は、日蓮宗の寺であったのです。この本能寺は、島津氏(藤原氏)により、中国から種子島において南蛮密貿易で仕入れた「硝石=火薬の原料」の秘密貯蔵庫だったのです。(イエズス会宣教師ルイス・フロイスの日本史によれば、織田信長の本能寺での死は、「だが火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだか判っていない。我らが知り得た事は、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄した人が、毛髪といわず骨といわず灰燼した事である。」と爆死を暗示しています。)そして、1549年イエズス会のフランシスコ・ザビエルが、突然鹿児島に現れるのです。
イエズス会が日本列島に現れたのは、丁度戦国時代の真っ只中です。日本列島は、九州の島津貴久、中国の毛利輝元、四国の長宗我部元親、尾張の織田信長、長野の武田晴信、伊豆の北条氏政、信濃の上杉輝虎達の群雄割拠であったわけです。
これらの武将が表の軍団だとすると、裏の軍団が仏教軍団です。仏教教団は、布施などの集金システムで集めた金を、借上の高利貸しで蓄財し、その財力で僧兵軍団を組織していたのです。戦国時代の主な仏教軍団は三つです。それらは、最大組織の百済京都王朝が支配する比叡山の天台宗の延暦寺と、京の町民が支持する本能寺を砦とする日蓮宗(法華宗)と、そして、賎民を引き入れて軍団を組織した浄土真宗です。それらの三つの仏教軍団が京の都の支配権を争っていたのが、戦国時代であったのです。これらの宗教戦争は、藤原氏、百済皇族、新羅武家源氏の鎌倉時代からの火種が基です。
その宗教戦争に巻き込まれてしまったのが、鎌倉北条政権により、穢多に貶められてしまった、鎌倉武家源氏の残党と秦氏の末裔です。室町時代の武家源氏の世になったのもつかの間、藤原氏は、その流れにある日野家の女を使って、源氏足利氏に食い込むのです。三代将軍足利義満の側室日野業子、四代将軍足利義持の側室日野栄子、六代将軍足利義教の側室日野重子、八代将軍足利義政の側室日野富子など、平安時代での百済京都王朝に藤原の女を側室とする戦術そのままを使うことにより、室町時代の源氏足利氏を、貴族化(藤原氏化)とするのです。
その藤原氏の一族日野有範の子息が、1173年(承安3年)に生まれた親鸞です。親鸞は、法華経布教の元祖比叡山の延暦寺で修学に励むのです。しかし、聖徳太子の夢のお告げを聞き、浄土宗の法然の弟子となったと言うことです。しかし、親鸞の言動は、どうも、ユダヤ教のモーセを思わせます。その浄土真宗の教えは、信心に徹底し、信がさだまったときに必ず仏となる者の仲間に入れる。つまり、浄土教を信ずれば、浄土往生以前にこの世で救いが成就する、と説いたのです。そして、絶対他力の教学を説いたのです。
そして、藤原氏の末裔親鸞が百済京都が支配する比叡山により、過酷な攻撃を受けることにより(敵の敵は味方)、反百済の賎民は、「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」のキャッチフレーズにより、浄土真宗は賎民の味方だと惑わされてしまうのです。
江戸時代、この親鸞の一神教のような、百済大乗仏教への排他的思想により、穢多は更なる差別を受けることになるのです。親鸞は、百済仏教に攻撃を仕掛ける武力を得るために、肉食を大悪とする教義で大乗仏教にイジメられている、穢多に甘言を述べるのです。

それは、「唯信鈔文意」で述べるには、
屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり、りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいをふたごころなく信楽すれば摂取のひかりのなかにおさめとらせまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまう

この「敵の敵は味方」戦術を、戦国時代の賎民や源氏落武者の末裔は、「救い」と勘違いしてしまうわけです。この親鸞の穢多に布教する戦略を、江戸時代の与力・坂本鉉之助が「咬菜秘記」で明快に述べています。

この処に候。穢多ども人間交わりの出来ぬという所が、彼らの第一残念に存する処にて、親鸞という智慧坊主、その処をよく呑み込んで、この方の宗門にては穢多にても少しも障りなし、信仰の者は今世こそ穢多なれど、後の世には極楽浄土の仏にしてやろうと言うを、ことのほか有り難く思い、本願寺へ金子を上げること穢多ほど多き者はなし。死亡後の有るとも無しともしかと知らぬことさえ、人間並みの仏にすると言うを、かくかたじけなく存ずるからは、ただ今直に人間に致してつかわすと申さば、この上なく有り難がり、火にも水にも命を捨て働くべし。

親鸞が唱えた浄土世界を信じた穢多や源氏落武者の末裔は、心をひとつとなし「一向」として、百済貴族や守護大名の領地を攻撃するのです。穢多の多くは、元々鎌倉源氏時代までは武士集団だったので、実践力のない百済兵士や農民兵士の相手ではなかったのです。そして、一向一揆は賎民の自治権を得るため、戦国大名の領地を奪取する目的で、全国に広がっていくのです。
その一向一揆を煽る浄土真宗本願寺の本陣は、源義経が屋島の合戦の時に出陣した渡辺津近くであるわけです。渡辺津は、百済亡命貴族が憎む(663年新羅花郎軍団により本国百済が滅ぼされた。)武家源氏(新羅花郎軍団の末裔)の居住地であったのです。現在の近畿地方での民族差別の元は、約1500年前の朝鮮半島での百済と新羅との闘争であったのです。
この渡辺津周辺は、戦国時代には日本列島の国際交易の中心地となっていたのです。その津の近くにある上町台地は、大和川と淀川による水運も良く、国際交流の歴史も古いため、戦国時代には、ここを手に入れることは日本列島はもちろん世界への交易権を手に入れることと同じ意味と考えられていたのです。織田信長は、この見晴らしの良い上町台地に着目し「そもそも大阪はおよそ日本一の境地なり。」と唱えたほどです。この小坂(おさか→おおさか・大阪)の台地の占領を企てる集団が、海の向こうから現れるのです。それは、イエズス会と行動を伴にする国際交易商人です。
1549年鹿児島に渡来したイエズス会は、他のキリスト布教教団とは異なっていたのです。それは、右手に「聖書」、左手に「銃」を持つ戦闘的キリスト教団だったのです。更に、国際交易商人も同行していたので、キリスト教布教が目的か、商業支配が目的かはっきりしませんでした。(何故、宇陀の山奥に、高山右近ジュストにキリスト教会を建てさせたのかは、キリスト教布教のためだけではないでしょう。そこに、イエズス会の日本列島渡来の裏の目的が現れています。)
日本列島に渡来するまでのイエズス会は、1509年ディウの海戦でインド洋を制覇し、1510年ゴア・コロンボを占領するのです。そして、1511年インドネシア諸島のマラッカを占拠し、銃の武力を背景にキリスト教を布教していたのです。そして、現地人を取り込むシステムとしての、病院設立→学校設立の異民族征服プロセスを飛ばし、いきなり軍隊侵攻で現地宗教組織を破壊して、現地人による傀儡支配層を構築し、キリスト教教会を設立していたのです。そして、1542年インドにザビエルが現れるのです。
しかし、1548年南方に漂流しイエズス会に入信したヤジロー等からの情報により、日本国はインドやインドネシャ諸島の住民と異なり、文化も軍事力も格段と勝っていることを知り、正規の異教国侵略プロセスを辿ることにより、日本列島キリスト教化を目論むのです。
そのためにイエズス会が最初に訪れたのが鹿児島の島津氏です。島津氏は、元は秦氏の末裔です。秦氏は、太陽神を祀る景教(ミトラ教)を信仰していたのです。キリスト教は、その教義の基本はミトラ教からの借用です。12月25日のクリスマスはミトラ神の再生誕生日です。十字架は太陽のシンボル・マルタクロスで秦氏の家紋です。ぶどう酒とパンの儀式は、ミトラ神の牡牛を屠る儀式からの借用です。
それらのキリスト教と景教との共通点を知ることにより、秦氏の末裔で賎民身分から、下克上により戦国大名に成り上がった武将達は、次々にキリスト教に入信、キリシタン大名となっていくわけです。
イエズス会の目的は、日本列島をキリスト教化することです。しかし、イエズス会を経済的に支援する国際交易商人は、日本最大の交易地の小坂(おさか)を支配することです。その目的を果たすには、どの武将を軍事的に支援するかを考えるわけです。
小坂は、渡辺津からの地続きで、そこは新羅花郎軍団の末裔武家源氏の地です。源氏に対抗する軍事部族は、当然平家です。
平安末期の源平合戦で活躍した、ペルシャ平家の発祥地は、伊勢です。伊勢は、古より水銀を求める国際交易商人達の交易地であったのです。その南蛮との水銀交易で莫大な財産を築いて、後白川法皇に取り入ったのが、ペルシャ平家だったのです。しかし、源平合戦で、ペルシャ平家は、武家源氏に敗れて、日本列島から抹殺されたことに歴史上なっているのです。しかし、ペルシャ平家の平維盛の末裔は、ペルシャ平家発祥の地、伊勢に落ち延び関氏となっていたのです。
そのペルシャ平家末裔の伊勢亀山城主の関一政に、イエズス会宣教師オルガンティーノが聖ヨハネ騎士団ジョバンニ・ロルティスを伴って来るのです。そして、ジョバンニ・ロルティスは、軍事顧問として関一政に仕えるのです。そして、ジョバンニ・ロルティスは、関一政夫人の兄、キリスト教に帰依した蒲生氏郷(1556年〜1595年。洗礼名レオ又はレオン)に、軍事顧問として召抱えられるのです。この蒲生氏郷は、織田信長の娘を妻とする、織田信長の家人だったのです。そして、織田信長に謁見するため、ジョバンニ・ロルティスは、蒲生氏郷により、山科羅久呂左衛門勝成と命名されるのです。ここから、尾張の弱小武将であった織田信長の快進撃が始まるのです。
織田信長は、自称平氏と述べていますが、その織田氏の出自がはっきりしないのです。織田氏は、系図では、初代織田久長→梅定→信定→信秀→信長、となっていますが、梅定以前が不詳です。つまり、三代先が分からないのです。
戦国武将で出自が分からないのは織田信長だけではありません。豊臣秀吉、徳川家康も、その出自が分からないのです。
自称平氏の豊臣秀吉の系図は、木下氏初代弥右衛門の子となっていますが、その弥右衛門も不詳なら、母方はまったくの不詳です。つまり、出生地も誕生日もまったく不詳なのです。だから、織田信長も豊臣秀吉も、源氏ではなく出自不詳のため、侍の最高地位の征夷大将軍にはなれなかったのです。
それに対して、自称源氏の徳川家康の系図は、松平広忠と伝通院夫人の子となっていますが、徳川家康の行動(戦闘時、秦氏の末裔服部忍者のバックアップを受ける。穢多頭弾佐衛門を江戸に招き、籠にて帯刀し登城を許す。豊臣秀吉により、一向一揆において武闘力で活躍したため小坂の領地を没収され賎民穢多村に落とされた渡邊村を役人村に格上げした。朝鮮学者を尊敬し朱子学を学ぶ。豊臣秀吉の朝鮮半島での人間にあるまじき蛮行に対して朝鮮王朝に詫びる。藤原氏傀儡の豊臣秀吉の墓を暴き破壊する。)には賎民擁護の姿勢が強く出ているため、その出自が賎民部落出身で、松平氏ではないと疑われています。(江戸時代、家康存命中までは、賎民達が暮らし易かったが、百済の血が流れている三代将軍家光から第三次百済王朝で、弾佐衛門は再び穢多としてイジメられる。そして、1687年(貞享4年)百済系徳川五代将軍綱吉による、生類憐みの令発布により、日本版カースト制度、「士農工商・穢多・非人」が完成する。)
この戦国武将達の出自も不詳なら、その戦国時代に活躍した武士団にも不思議なことがあるのです。それは、家紋の出現です。
家紋の歴史上の出現は、それほど古くはないようです。天皇家の十六弁八重表菊紋は、1198年後鳥羽上皇が、菊を好み、自らの印として愛用としたのが始まりとされています。公式に菊紋が皇室の紋とされたのは、1869年(明治二年)の太政官布告によるのです。
この家紋の不思議は、その図案の元となる動植物などが、日本列島古来のものではなく、オリエント渡来のものが多いということです。天皇家の菊も、日本列島古来の花ではなく、オリエントから渡来したものなのです。
では、このオリエント渡来の動植物等を元にデザインした家紋を掲げる戦国武士団の出自を、どのようにして説明したらよいのでしょうか。
日本列島における軍人の呼び名は、飛鳥時代の兵(つわもの)、平安時代の武士(もののふ)・侍(さむらい)、鎌倉時代の武士(ぶし)、江戸時代の武士(ぶし)・武芸者(ぶげいしゃ)などと呼ばれているようですが、それらの日本列島での軍人はどのようにして発生したのでしょうか。
飛鳥時代の代表的軍事部族の物部氏は、倭族とツングース族との混成軍事部族です。平安時代の武士は、怨霊封じのキヨメを行う新羅花郎軍団の末裔です。そして、侍は、天皇の警護と秘書業務を兼ねる、百済亡命貴族の末裔です。鎌倉時代の武士は、源氏は新羅花郎軍団の末裔で、ペルシャ平家は伊勢に渡来した南蛮軍事部族の末裔で、平氏は、百済亡命軍団の末裔です。家紋の用途が、戦闘状況下での敵味方の識別マークだとするならば、何故、戦国時代まで家紋が出現しなかったのでしょうか。
そこで考えられるのが、戦国時代までに中国大陸から日本列島への、オリエント由来の軍事部族の渡来です。
642年ササン朝ペルシャは、571年生まれのムハンマドによるイスラーム教軍団により、ニハーヴァンドの戦いで破れ、ササン朝ペルシャ帝国は崩壊するのです。ローマン・グラスと絹織物との交易中継国であるササン朝ペルシャ帝国のヤズデギルド三世は、シルクロード交易先の唐国をたより、東方へ敗走するのですが、651年に暗殺され、ここにササン朝ペルシャは滅亡するのです。
しかし、そのササン朝ペルシャ帝国残存の貴族、軍団、商人の多くは、唐国(618年〜907年)に辿り着くのです。それに対して、北からの騎馬民族突厥(チュルク族)の圧倒的軍事力に悩む唐国は、そのササン朝ペルシャ帝国亡命者を庇護するわけです。そして唐国は、その残存ササン朝ペルシャ軍団を唐軍に組み込むことにより、唐軍団は、パミールの西まで勢力を伸ばすことが出来たのです。
唐国は、ササン朝ペルシャ軍団のほかに、もうひとつの宝を手に入れたのです。それは、ペルシャ商人のソグドです。
ソグド人は、オリエントで紀元前一千年ごろから活躍したアラム人を祖先としているようです。そのアラム人は遊牧民出身の国際商業民であったのです。しかし、紀元前八世紀にアッシリア帝国(紀元前933年〜紀元前612年)に、アラム人の政治組織(イスラエル王国を含む)は滅ぼされましたが、そのアラム語は、オリエントでの通商語となり、更に中東全域の共通語へと発展していくわけです。そのアラム語がソグド語、アラビア語、モンゴル語の基となるわけです。
唐国のイメージとしては、東洋人の漢民族の国のように思われますが、実態は、東洋色よりも、オリエント色が強いのです。このソグド商人は、国際商人に相応しく、多言語を話すことができたので、各国の情報も豊富だったのです。(804年唐に留学した空海が、帰国後アラム語の呪文を唱えたのは、藤原氏の依頼により水銀交易のためソグド商人と接触したからでしょう。)
642年ササン朝ペルシャが倒れソグド商人が、唐国に現れた時期が、丁度日本列島で蘇我王朝(突厥系王朝)が、出自不明の藤原氏により倒された時期(645年)と符合するのです。
亡命ペルシャ軍を引き入れた唐軍は、657年西突厥を制圧し、663年唐・新羅連合軍により百済を滅ぼし、668年唐・新羅連合軍により高句麗ほ滅ぼすのです。新羅は、元々ミトラ軍神を祀るギリシャ・ローマ軍により建国された国です。ですから、新羅花郎軍団とミトラ神を祀るオリエントから渡来の唐ペルシャ軍団との軍事連携は、可能だったのです。そして、674年ササン朝ペルシャ亡命王子ペーローズが唐国に渡来するのです。
そのような唐国も、イスラーム軍団がオリエントを支配したことと、北方からの騎馬軍団の来襲により滅亡し、五代十国の分裂時代を経て、960年宋国建国へとなるわけです。
その宋国(960年〜1126年。南朝・南宋国1127年〜1279年)も、北方から来襲した騎馬民族女真が結集して金帝国(1115年〜1234年。)となり、その軍事的圧迫をうけるのです。
南宋国(南朝)は、金帝国(北朝)と平和条約を結ぶのですが、その見返りが、金帝国への絹織物と銀の貢物です。南宋国が、日本国から、宋銭を見返りに、銀・水銀を簒奪したのはそのためです。この南宋貿易で、平忠盛は伊勢の水銀・銀の密輸で財を築き、1132年鳥羽上皇への賄賂で、内昇殿を許されるのです。
やがて12世紀(一説1162年)に、金帝国の北方、ブルカン山ちかくの、モンゴルという部族集団にテムジンが生まれるのです。テムジンは、モンゴル部のなかの更に小連合のボルジギン氏の家柄だったのです。
テムジン(チンギス汗と称す。1206年〜1227年)は、モンゴル集団のリーダーへと浮上したころ、金帝国のタタル部征討作戦を行って「王」の称号を受けたケレイト部のワン・カンの権力を簒奪し、高原の東部と中部の覇者としてのし上がっていくのです。チンギス汗(テムジン)率いるモンゴルは、牧民集団を連合体として肥大化していくわけです。しかし、1227年チンギス汗は、西夏を滅ぼし、帰還の途の六盤山にて死去するのです。
後任のオゴダイ(太宗1229年〜1241年)の下に肥大化し、軍事力を増したモンゴルは、金帝国に挑むのです。そして、六年間にわたる戦闘により、1234年金帝国を倒したモンゴルは、「大モンゴル国」として世界帝国に向けて国力を広げていくのです。
では、何故弱小国のモンゴルが、モンゴル大帝国になれたのでしょうか。それは、金帝国に敗れた騎馬民族国家キタイ遼帝国(907年〜1125年)の軍事力を吸収したことと、国際商人のウイグル人の情報収集力によるのです。
唐帝国も元帝国も、漢民族が国家の運営をしたのではないのです。唐帝国は、軍事の中心は亡命ササン朝ペルシャ軍団で、情報管理はオリエントのソグド商人です。そして、元帝国は、軍事の中心は亡命キタイ軍団で、情報管理は、国際商人のウイグル人であったのです。つまり、唐・元時代の中国大陸には、オリエントから渡来した軍族や商人達で溢れていたのです。
そのような東アジアでのモンゴルが、勢力を増している頃、1219年源実朝は、百済北条氏の陰謀により、公暁により暗殺され、ここに鎌倉武家源氏三代の時代が終わるのです。しかし、その源実朝は、暗殺される三年前、1216年に南宋国(1279年元に滅ぼされる。)の仏工陳和卿を引見して、渡宋を企て、大船の製作を依頼しているのです。このことは、歴史上どのように解釈したらよいのでしょうか。
更に不思議なことがあるのです。それは、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の元軍の来襲です。この二度の元軍の大軍団は、二度とも「神風」により壊滅したことに、歴史上はなっているようです。その説明として、元軍は、海洋民族ではなく、騎馬民族のため、操船に不慣れなため、一寸した一夜の暴風雨でも全滅した、と言うことです。
しかし、この説明は、説明になっていません。それは、フビライ(世祖1260年〜1294年)が経営するモンゴル帝国(1271年元・蒙古帝国)の実情を知らないための説明です。
モンゴル帝国は、1260年をさかいに、前後ふたつのモンゴルに分けることが出来るのです。前期モンゴルは、陸上における領地拡大の時代だったのです。しかし、後期モンゴル(1271年に元国と命名)は、南宋国(源実朝が亡命を企てた国)を接収して、南宋国の海洋渡航技術により、ユーラシアはもとより、北アフリカまでを交易圏にする大構想を持って、海洋貿易立国を推進していたのです。
そのために、中国全土を経済圏とする目的で、南北を連ねる大運河の建設に着手したのです。そのため、元国の貿易船は、内陸運河網により、首都・大都(北京)→通州→直沽(天津)→(渤海湾を経由)→属国・高麗→日本へと大型海船が航行していたのです。
そうでなくとも、中国大陸と外洋船によるアラブやイランとの国際交易は、八世紀からおこなわれていたのです。それらのアラブ人の船員が、中国東海岸地区での港湾都市での出来事を物語したのが、シンドバッド(インドの風を利用して船を帆走させる海洋商人の総称)の冒険物語であるわけです。
そのように、八世紀以降の航海術は、外洋の荒波を乗り越える技術を持っていたのです。では、元寇の二度の「神風」による日本史が解説する壊滅の実体は、史実だったのでしょうか。(「神風」とは、明治の歴史学者が創作した概念。)
元寇の記述がある主な資料は、二つあります。日本側が「八幡愚童記」で、高麗側が「東国通鑑」です。八幡愚童記では、文永の役は、「朝になったら敵艦も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた。」とあり、弘安の役は、「大風あり、沈潜多く、多数溺死あり」とあるのです。しかし、高麗側の史料では、文永の役は、「夜半に大風雨があった。多くの船が沈んだ。」とあり、弘安の役は、日本側史料と同じ内容です。
文永の役に対する、日本側と高麗側の記述の違いは、どのように解釈したらよいのでしょうか。
更に、不思議なことがあるのです。それは、文永の役の翌年1275年、元国は、交易を求めて杜世忠を正使として送り込んでくるのです。それに対して。鎌倉幕府は、元使杜世忠を大宰府から鎌倉の刑場瀧ノ口へ連行して処刑してしまうのです。更に、1279年元使周福が、交易を求めて博多を訪れるのですが、周福は博多で処刑されてしまうのです。(戦争状態の時期に、無防備の使節を二度も送ってくることがあるのでしょうか。それも二度の使節は、無抵抗で斬首されているのです。更に、杜世忠は晒し首です。)
この不思議な元国と鎌倉幕府との交易外交交渉の謎解きは、両国の情報を操作する「禅僧」にあるよるようです。鎌倉幕府は、元国の情報を「禅僧」から得ていたのです。それは、禅は、元々中国大陸で発明された宗教組織だったからです。
そして、この鎌倉時代に日本列島に土着した禅宗は、日本と中国との国際交易に深く携わっていたのです。鎌倉幕府は、南宋国との交易を行うために、鎌倉に国際湊を築いていたのです。そして、鎌倉禅宗組織は、元国と鎌倉幕府との直接交易を望んではいなかったのです。
そこで、ひとつの推論が成立つのです。それは、文永の役では、「神風」は吹かなかったと言うことです。では、三万人を乗せた九百隻の元軍の船は、どうしたのでしょうか。そもそも、その九百隻は、本当に正規の元軍だったのでしょうか。
1274年、元帝国となったフビライ政府は、南宋国境線の諸方から全面進軍するのです。呂文煥軍が、長江中流の要地を戦わずに開城させ、南宋国の北の守り、長江の天険が元軍に突破されると、南宋国の諸都市は次々と投降したのです。
このことは、紀元前334年の、楚による越の攻撃の記憶をよみがえらせます。敗れた越の王族残党は、大型外洋船で東シナ海に脱出して、黒潮ベルトコンベーアにて北九州・日本列島の東北に渡来するわけです。
1274年の文永の役の元海軍といわれているものが、南宋国の王族亡命旅団だとすると、北九州に上陸することを拒まれた翌日、突然九州沿岸から一夜にして「見えなくなった」理由が理解できます。南宋国王族亡命旅団が上陸交渉で多少のイザコザがあったかもしれませんが、それは侵略戦闘などではなかったでしょう。(両軍の死者の信頼できる史料が両国に存在しない。)
では、歴史教科書の1281年の弘安の役の東路軍4万と江南軍10万の元寇は、どのように推測できるのでしょうか。
1276年杭州の南宋政府は、元帝国軍のバヤン軍に全面降伏するのです。しかし、杭州開城に反対した南宋軍の王族残党が、幼帝の兄弟をかついで、東南沿海岸を大型外洋船で流亡するのです。しかし、広州湾頭の克Rで、1279年滅亡するのです。
では、それらのことにより、1281年の弘安の役はどのように推測できるのでしょうか。東路軍の4万の元海軍は、紀元前三世紀の徐福の蓬莱国への渡航を思わせます。元寇の東路軍の大半は、元国の属国となってしまった誇り高い高麗軍だったのです。
徐福は、秦始皇帝に不老不死の仙薬を取りにいくと、童男女三千名と技術者と軍隊と種籾と農機具を積んだ船百隻で、日本列島に向かったのです。これが秦氏渡来の先遣隊だったのです。
では、東路軍渡来より遅れて来た江南軍はどのように推測できるのでしょうか。それは、旧南宋軍により構成されているといわれていますが、その多くは南宋国王族の亡命旅団だったのでしょう。
そもそも、元寇に対しての史料が乏しすぎます。文献にしても、八幡愚童記にしても、日蓮宗の資料にしても、仏教・禅宗関係の資料が多いのはどうしてでしょうか。教科書でおなじみの「竹崎季長絵詞」(たけざきすえながえことば)にしても、元渡航全軍が布陣した敵陣に突入した、と言うよりも、南宋国や高麗の亡命者上陸の交渉中に、状況判断を間違えた武将が一騎で無謀にも突入したことを、後で空想上で創作した絵であるかもしれないのです。元軍の弓は、ボーガンのように百発百中です。本当に、元軍であったなら、一騎で突入した日本の武将は絶命していたことでしょう。しかし、竹崎季長武将は、論功行賞の交渉のためにわざわざ鎌倉まで出向いているのです。
そこで、国際交易の旨味を知る宗教組織による「元寇フィクション説」が理解できるのです。
禅宗組織が流すガセ情報を基に、1263年(弘長3年)日蓮が著し、北条鎌倉幕府に提出した「立正安国論」の理論展開の結果である「蒙古来襲の予言」も、「虚構の元寇」を史実とする重要史料のひとつとなっているのです。
フビライの元帝国は、1260年から海洋貿易立国を標榜し、アラビア、インド、そして日本国と国際交易をするために使者を派遣していたのです。しかし、元帝国と北条鎌倉政権と直接国際交易が行われることは、南宋国と密貿易をしていた鎌倉禅宗組織には脅威だったのです。そして、世界情勢を何も知らない18歳の北条時宗は、禅僧蘭渓道隆の言われるままに、北九州に流れ着いた南宋国・高麗亡命軍団を、元帝国海軍と信じてしまったのです。
1281年に北九州に現れた、南宋国亡命軍旅団は、暴風雨に襲われいずこともなく去っていくわけです。しかし、不幸にも遭難してしまった船もあったのでしょう。その難破船の残存物が、元寇の正体を証明します。元寇と言われている元軍の難破船の残留物の多くが、武器ではなく、甕に詰められた「種籾」と「農機具」であったのです。
朝鮮半島最南端に近い新安郡の沖合いの海底から引き上げられた沈船は、1323年と確定されました。それは、二度目の元寇来襲といわれてから、わずか四十年ほどです。その船には、二万点に及ぶ陶磁器や金属器、そして、約三十トン近くの銅銭がつみこまれていたのです。この交易船は、朝鮮半島からどこに向かって行ったのでしょうか。
では、元寇といわれた南宋国・高麗の亡命軍団船は、対馬海流に乗ってどこに消えたのでしょうか。
武器は、その部族の歴史を語ります。日本列島における武器の流れとして、縄文・弥生時代のサヌカイトの石刀、石棒、弓矢などがあります。奈良時代後期になると、騎馬民族の騎士に対する歩兵の武器として、刀を長棒にくくりつけた薙刀が発明されます。これは、藤原氏の興福寺、百済京都の延暦寺の僧兵の武器となります。では、戦国武将が使用した槍は、どの時代に日本列島に現れたのでしょうか。それは、丁度元寇の後、朝鮮半島沖で元帝国と日本列島との国際交易船が沈没した頃、後醍醐天皇が在位した南北朝の頃です。そして、歴史上実践で槍が使用されたのは、南北朝以降のようです。
では、何故突然日本列島に槍が出現したのでしょうか。そして、戦国時代になると、なんと十メートルもの槍も出現するのです。
西洋の歴史上での槍の出現は、ローマ時代のようです。有名なロンギヌスの槍は、十字架のヨシュア(キリスト)を刺したものです。ロンギヌスとは、ラテン語でローマ男性の呼称です。ローマ帝国軍の主な武器は、十メートルの長槍だったのです。その十メートルの長槍と似たものが、織田信長の傭兵軍で使われていたのです。
その織田信長軍の長槍は、斉藤道三が考案したものと言われています。斉藤道三は、多くの戦国武将と同じに出自不詳です。その名の道三とは別称で、本名は利政です。それは、油商人→僧侶→武士への職業遍歴により、斉藤道三と呼ばれていたわけです。
油商人とは、神社ネットワークにより同業者組合の油座を構築する、全国的反体制の商業集団の一員なのです。そして、その油座は、645年まで秦氏が支配していた山城国(山背国)の山崎が本拠だったのです。
奈良時代、藤原氏により、秦氏の神(八幡・やはた)は、神社に封じ込められ「八幡・はちまん」とされ、その氏子は賎民に貶められてしまうわけですが、秦氏は元々オリエントから渡来の技術者集団だったので、その技術を駆使することにより色々な商業製品を生産し、異界である神社をネットワークとして、同業者集団組織の「座」を構成することにより、全国に商業製品の販売網を構築していたのです。
1017年、平安時代のわが世の春を謳歌する藤原氏一族は、その神社ネットワークの商業網を支配するために、本地垂迹説(仏が本家で、神は分家)を発明し、神社を仏寺の支配下に置くわけです。
油商人の商品原料のゴマには二種類あります。それは、荏胡麻(えごま)と胡麻です。荏胡麻は、シソ科で、原産地は中国南部です。日本列島への渡来は、縄文時代です。それに対して、胡麻はゴマ科で、原産地は、アフリカです。
胡麻が歴史上に現れるのは、紀元前1377年、イスラエル民族のエフライム族の祖先ヨセフ族が活躍した、エジプトのイクナトンの時代のようです。胡麻の用途としては、ミイラの保存剤、灯明の油、そして医薬品です。イクナトンは、胡麻とオリーブを支配地で栽培させることにより、経済基盤を築いていたのです。しかし、オリーブはエジプトの気候に合わず、ギリシャやオリエントで盛んに栽培され、今日に至るのです。古代エジプトでは、胡麻油やオリーブ油は、聖なる油(アラブの物語での呪文「オープン・ザセサミ/開けゴマ」に使われるほど、胡麻は魔力を持つ食べ物として用いられた。)として貴重品であったのです。ユダヤ教では、オリーブ油を頭に注がれたものは王になれた程です。
そして、胡麻は、紀元前六世紀頃、エジプトからインドへ渡来して、アュルベーダ医学では、温めた胡麻油を頭部に垂れ流す治療術が開発されるのです。その胡麻は、オリエントの国際商人と供に中国に渡来し、朝鮮半島を経由して、日本列島には200年頃渡来したようです。645年の藤原氏による蘇我王朝史料の焚書により、飛鳥時代の胡麻の歴史は闇の中ですが、日本歴史上に現れるのは、騎馬民族王朝の天武天皇(672年〜686年)により、胡麻が栽培され、食用油として使用されたようです。
平安初期に、鉱物汚染の奈良から荏胡麻搾り技術者が、山城国(山背国)の長岡遷都に伴い移住し(元々山背国は、645年までは秦氏の支配地であった。)、そして、宇佐八幡を長岡に遷座した頃、大山崎宮の灯明用に荏胡麻油を奉献したようです。その八幡(やはた)とは、秦氏の神様です。その神社の神人(神社の奴隷)らが、山崎油座を組織し、平安時代末期から室町時代まで、油販売の独占をしていたのです。
と言うことは、油売りの斉藤道三は、反体制側のひとでもあるわけです。その長槍を考案した斉藤道三は、娘の濃姫を織田信長に嫁がせるのです。では、賎民の娘を娶る織田信長とは、その出自は、何者なのでしょうか。
織田信長から三代先、つまり祖父織田信定は、弾正忠信定と呼称されていたのです。弾正忠信定は、南朝の残党・新田四家と津島七党が支配する尾張国随一の港町の津島の勝幡を略奪し、そこを拠点として南蛮と水銀の密貿易を行うのです。そして、1543年(天文12年)弾正忠は、密貿易で稼いだ永楽銭四千貫を内裏の修理費として朝廷に献上するのです。これは正に、1132年(長承1年)ペルシャ平家の平忠盛が、南蛮密貿易で稼いだ金を、鳥羽法皇に献上して、内昇殿を許されたことと同じ行動です。
では、織田信長の祖父は、ペルシャ平家の末裔かというと、その出自はまったくわからないのです。ただ、分かっていることは、弾正忠信定の墓は、処刑場近くの勝幡の御所垣内(ごしょかいと)にあるのです。
垣内(かいと)とは、奈良時代末期、百済王朝に敗れ、百済王朝にまつろわぬ秦氏や新羅系日本人が押し込められた、捕虜収容所です。後に、差別部落となるわけです。その部落に、平安時代に聖徳太子を発明した比叡山の延暦寺が、法華経で宣伝する、仏罰者と決めつけるハンセン氏病者を押し込めることにより、その部落を穢れ部落としたのです。織田信長による、比叡山延暦寺の仏僧を、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と、全員打ち首とした原因のひとつは、ここ(前王朝である蘇我・天武天皇の肉食する騎馬民族末裔を、菜食の仏教教義の名の下に穢多に貶めたこと)にあるのかもしれません。
イエズス会は、キリスト教を日本国の中心である京の都で布教するために、その許可を比叡山延暦寺に願い出るのです。しかし、京の商業利権を持つ延暦寺は、なかなか許可しません。それは、日明貿易において、延暦寺側は、イエズス会のインド・東南アジアにおける情報を知っていたからです。医師・宣教師渡来→貧民救済→病院設立→多数の宣教師渡来→学校設立→国際交易商人渡来→軍事顧問渡来→軍隊侵攻→植民地化の流れは、イエズス会の布教歴史そのものです。
イエズス会は、国際交易港となった渡邊津は、本願寺率いる一向宗である浄土真宗門徒の軍団により、要塞化された仏寺で軍事的に支配されているので、イエズス会が率いる渡来軍団では壊滅できないことを知っていたから、最初の異教軍団の壊滅目標として比叡山延暦寺を選ぶのです。
そのためには、イエズス会の傀儡軍を日本全国に組織する必要があるわけです。そこで目を付けたのが、仏教教団にイジメられている賎民出身の仏教嫌いの織田信長です。織田信長の仏教嫌いは、実父の仏葬儀で、祭壇の位牌に線香灰を投げつけ、葬儀にも参加しないほどです。僧侶に悪態をつくのは日常茶飯事ですから、仏教界の敵であるイエズス会には、親近感を持つのは当然でしょう。つまり、敵の敵は味方と言うことです。
それに、仏教と武士とは相容れない存在なのです。それは、殺生禁止で「血」を禁忌とする仏教教義は、敵の首を取ることが手柄となる武士の思想とは相容れないからです。つまり、仏教を信仰する武士は、自己矛盾の存在であるわけです。ですから、武士が支配した鎌倉時代に、肉食する騎馬民族を蔑視する法華経を布教しない「禅宗」が中国から導入され、瞬く間に禅が武家社会に普及するわけです。
しかし、武士と言っても、鎌倉武士と戦国武士とは同じ出自ではありません。鎌倉源氏三代滅亡後は、鎌倉武士は百済亡命軍の末裔で、百済北条政権の陰謀により、新羅系武士の源氏は都から追放され落ち武者として生き延びるわけです。それが、南北朝→室町時代の応仁の乱を経て、戦国時代の下克上の世になると、山奥で生息していた源氏落ち武者の末裔は、その軍事力により戦国大名となるわけです。
その戦国大名に対して、イエズス会の宣教師は、キリスト教を布教するのです。その布教を手助けしたのが、元琵琶法師であったロレンソ了斎です。身体不自由の琵琶法師の了斎は、イエズス会の手厚い医療行為を受けるうち、仏教僧からキリスト者へ宗旨替えしたのです。元琵琶法師をイエズス会に入信させたことにより、イエズス会の傀儡軍団が急速に組織されていくわけです。それは、琵琶法師は同業組合である「座」のネットワークにより全国を行脚することにより、戦国大名の出自や動向を良く知っていたからです。
戦国大名からキリシタン大名になった者の中には、イエズス会が支給する「銃」と「火薬」を入手することを目的とした者が少なからずいたかもしれませんが、イエズス会が説く、「人民平等思想」に共鳴した者も少なくありません。それは、平安時代の空海が中国唐からもたらした「肉食賎民カースト思想」、鎌倉時代からバラモン教の差別思想を取り込んだ仏教組織により発明された、一方的に肉食者は悪である「穢多」と蔑称された者でしか理解できないでものです。そして、キリスト者が、騎馬遊牧民族と同じに肉食することも、肉食する賎民から成り上がった戦国大名には共感できたのです。
キリシタンに入信した大名や武将は、打倒仏教軍団(イエズス会は、男色する仏僧が住む比叡山延暦寺を悪魔の館とし、それを破壊することが正義としていた。延暦寺焼き討ちで、多数の若い女性と童子が斬首されています。女人禁制の仏の聖地に何故多数の女性がいたのでしょうか。)で結束していくのです。その主な武将は、

明石全登(ジュスト・宇喜田家臣)、有馬義直(アンドレ・肥前島原領主)、有馬晴信(プロタジオ・有馬義直の子)、有馬直純(サンセズ・有馬晴信の子)、一条兼定(ドン・パウロ・土佐中村一条家当主)、伊藤義兼(バルトロメオ)、宇久純尭(ドンルイス・五島島主)、木村純忠(バルトロメオ・日本初のキリシタン大名)、木村喜前(フランシスコ・豊後領主)、織田有楽斎(ジョアン・織田信長の弟)、織田秀信(織田信長の孫)、織田秀則(パウロ・織田信長の孫)、加賀山興良(ディエゴ・細川家の家人)、蒲生氏郷(レオ又はレオン・織田信長の家臣。ローマ十字軍の聖ヨハネ騎士団ジョバンニ・ロルティス=山科羅久呂左衛門勝成を軍事顧問として召抱える)、木下勝俊(ペテロ・若狭小浜城主)、京極高知(豊臣秀吉、徳川家康に仕える)、熊谷元直(メルキオール・安芸異熊谷氏)、黒田長政(ダミアン)、黒田孝高(シメオン)、小早川秀包(シマオ・筑後国久留米城主)、小西行長(アウグスティノ)、小西隆佐(ジョウチン・小西行長の父)、志賀親次(ドンパウロ・大友義統家臣)、高山友照(ダリオ・飛騨守で右近の父)、高山右近(ジュスト・キリシタン大名でマニラにて死す)、内藤如安(ジョアン・マニラで死す)、蜂須賀家政、畠山高政、松浦隆信(源氏松浦28代当主)、毛利高政(豊後佐伯領主)、毛利秀包(筑後久留米城主)、結城忠正(アンリケ)などです。

戦国時代での多くの戦いは、天下統一が目的ではなく、自国の領土保全が主目的だったのです。キリシタン傭兵軍団で組織した織田信長の軍団が現れるまでは、戦国大名の軍事行動は、敵の領土侵略に対しての防御が主目的だったのです。それは、戦国大名が治める多くの国は、所得を数十倍にもすることが可能な商業経済ではなく、天候に左右され所得倍増が難しい農業主体経済で、日本全国を統一できる戦闘専門軍隊を抱えることができるほど国が豊かではなかったからです。
ですから、多くの国では、少数の専門軍団と大多数の農業兼務の武士団により構成されていたのが戦国時代の軍隊組織だったのです。ですから、出陣の多くは、攻めるも守るも農閑期におこなわれていたわけです。春から秋までの農繁期には、大きな戦いがなかったのはそのためです。
しかし、織田信長は、他の戦国大名とは異なる軍隊を組織していたのです。それが傭兵による軍事組織です。この軍事組織は誰のアイディアなのでしょうか。そして、この戦国時代での傭兵軍の出現と同時に、武家家紋が出現したのです。
傭兵軍の始めはローマ軍と言われています。金持ちは軍隊に入るのを拒み、金の力により「雇い兵」を雇うのです。すると生活手段としての農地を持たない部族が、軍事技術を売り物にするわけです。それが傭兵軍団の始まりです。傭兵軍団は、戦場(仕事場)で働きを潜在顧客にアピールするために、軍事部族のシンボルマークを発明して、旗や盾につけるのです。つまり、軍団紋は軍事部族を潜在顧客に宣伝するためのマークだったのです。
その軍団紋を戦士の標識として採用したのが、1095年に組織された十字紋を戦旗に掲げる「十字軍」です。十字軍は、キリスト教(ヨシュア教)の聖地パレスチナ回復のためにトルコ遠征を目指すのです。
四世紀のパレスチナのエルサレムは、ローマ帝国によりキリスト教の聖地とされるのですが、七世紀にイスラーム軍団によりエルサレムはイスラーム教の聖地(668年岩窟寺院建設)とされるのです。しかし、異教に寛容なイスラーム教は、キリスト教を排除せず、エルサレムはキリスト教とイスラーム教が並存する聖地となっていたのです。
しかし、そのパレスチナは、セルジュク・トルコ(1037年〜1157年)に占領されてしまうわけです。それに対して、1095年教皇ウルバヌス二世がクレルモン公会議でトルコ支配のエルサレム遠征を宣言するのです。1099年十字軍はエルサレムを占領し、エルサレム王国(1099年〜1187年)を建設し、イタリアの商人がエルサレム巡礼者を相手にする宿泊所兼療養所を兼ねる修道院組織を「聖ヨハネ騎士団」として、法王パスクワーレ二世により正式に認められるのです。
そして、修道院組織である聖ヨハネ騎士団は、その度重なるトルコとの戦争で、大軍団の攻撃に対する防御技術(城の建設技術)を確立していくのです。そして、その聖ヨハネ騎士団の末裔が、戦国時代の日本国に現れるのです。
織田信長が支配する尾張の伊勢亀山の関一政に、京都でキリスト教を布教していたイエズス会のグッキ・ソリディ・オルガンティーノが聖ヨハネ騎士団ジョバンニ・ロルティスを伴ってくるのです。
聖ヨハネ騎士団は、一時エルサレムで活躍していたが、1291年のアッコン陥落によりエルサレム王国が滅亡し、キプロス島に逃れ、体制を立て直して1308年ロードス島を征服し、そこを基地としてオスマン・トルコ(1299年建国、1405年トルコ帝国再興)と対峙するのです。
しかし、1522年トルコ帝国軍は、二十万の大軍をロードス島に差し向けるのです。それに対する聖ヨハネ騎士団は六千。五ヵ月に及ぶ戦いで、聖ヨハネ騎士団は、敗退し、ロードス島を撤退するのです。戦国時代の日本国に渡来したジョバンニ・ロルティスは、この戦いでの残党と推測されます。そこで、聖ヨハネ騎士団残党は、イエズス会と出会い合流し、日本国への渡来となるわけです。(イエズス会の書簡史料によれば、対オスマン・トルコ軍との再戦のために、日本国に傭兵軍を求めて渡来したのが、聖ヨハネ騎士団の主目的だったようです。)
1560年(永禄3年)桶狭間の戦いでは、駿府の今川義元軍三万に対して、清洲城に立てこもる織田信長軍は三千です。戦国時代の国が軍隊を維持できる数は、その国の農地面積に比例します。ですから、農地面積が狭い織田信長軍の兵は、当然今川軍よりも少ないわけです。ですから、軍人の少ない弱小織田信長軍の戦法は、白兵戦ではなく、ゲリラ戦・奇襲戦に限られるわけです。
それが、1575年(天正3年)の長篠の戦では、武田勝頼軍一万に対して、織田信長・徳川家康連合軍は二万です。更に、織田信長軍には、一千とも三千とも言われる鉄砲隊も加わるのです。そして、この長篠の戦での設楽ヶ原の攻防戦では、日本国の戦闘では珍しい馬防柵を構築しているのです。(1568年織田信長が入京。本能寺近くに南蛮寺建立。1569年織田信長が、イエズス会宣教師ルイス・フロイスに謁見した後、信長軍の軍団規模、軍備、戦術が激変しているようです。)
鉄砲を模倣するのは簡単です。しかし、その銃で玉を発射させるための「火薬」はどのようにして調達したのでしょうか。火薬の原料のひとつである「硝石」は、日本国では殆んど産出されていないのです。戦国時代の硝石は、スペインが侵略した南米のチリが、主な産出国であったのです。(戦国時代の硝石供給ルートは二つ。ひとつは、マカオ→伊勢→京都・南蛮寺のイエズス会ルート。ふたつめは、上海→種子島→紀州(雑賀鉄砲衆の拠点)→京都・本能寺の島津氏・藤原氏ルート。本能寺は「寺」と言うよりも、堀を廻らせた「出城」。織田信長は、本能寺を占拠し、そこを京での宿泊所とした。本能寺の変は、興るべくして起こった。織田信長は、火薬庫の上で宿泊していたのだから。)
火薬を調製し、鉛球と火薬を装填し、そして火縄に火をつけ、弾丸を的にめがけて発射する技術習得は、長期間の軍事訓練が必要です。織田信長軍は、周辺の国々に対して休みなく攻撃をしていたのです。では、織田信長軍の三千とも言われる鉄砲隊の射撃訓練は、何処で誰が指揮したのでしょうか。その記録がないのは、射撃技術を持った傭兵軍団の渡来が考えられます。
桶狭間の戦いから、この十五年間における織田信長軍団の激増と西洋軍式戦術の変貌振りは、どのように説明できるのでしょうか。
この1560年から1575年の15年間には、戦国大名との戦闘の他に、宗教軍団との戦いがあったのです。
戦国大名との戦いは、桶狭間の戦いの決着は、奇襲攻撃が功を奏して、短時間で着き、そして、長篠の戦の天王山、設楽ヶ原の戦いは四時間ほどで決着がついたのです。それに比べて、三河・長島一向一揆、石山合戦といわれる宗教軍団との戦争は数年から十年もかかっているのです。これは歴史上どのように説明できるのでしょうか。
歴史教科書の説明には宗教組織と織田信長軍との戦争は、ムシロ旗を掲げ鍬や竹やりを武器とする農民軍団とのイザコザ程度のような記述ですが、織田信長軍は設楽ヶ原の戦いでは、武田勝頼軍一万を四時間ほどで壊滅させるほどの破壊力を持っていたのです。更に、飛び道具の「鉄砲隊」もあったのです。そのような強力軍団との長期戦争は、唯の農民軍団では無理でしょう。では、一揆軍は、どのような組織により構成されていたのでしょうか。
1570年(元亀元年)大阪からの立ち退きと矢銭を要求されていた本願寺との石山十年戦争の緒戦・三好三人衆との戦い。1571年(元亀1年)京都の「座・市」経済を支配する比叡山焼き討ちと僧侶皆殺し。1573年(天正2年)「座」のネットワークを支配する賎民による伊勢長島一向一揆鎮圧などの戦争があるのです。(これらの宗教戦争は、その底辺には、借上の高利貸しをおこない、「座」と「市」を経済支配し、関所を設けて通行税を徴収する比叡山延暦寺を頂点とする仏教組織を壊滅し、織田信長が日本の経済を支配することが目的であったのです。それは、イエズス会の国際交易商人と同じです。日本一の商業都市・大阪の奪取は、織田信長とイエズス会の国際交易商人の悲願だったのです。)
そして、1570年に始まる、毛利氏の物資援助や雑賀衆鉄砲隊が援軍する石山本願寺との戦闘が、1580年(天正8年)まで続くのです。このキリスト傀儡軍と仏教軍団との十年宗教戦争は、戦闘だけでは決着できずに、織田信長が朝廷に講和の斡旋を願い出て、本願寺に物資援助をしている毛利輝元と和議の交渉を段取りする段階で、織田信長の突然の和議斡旋の辞退により、本願寺側は武器や食料の援助が毛利氏より得られないため、戦況は織田信長軍に有利にすすめられ、1579年12月(天正7年)本願寺と織田信長は講和を成立させるのです。
そして、織田信長により大阪の本願寺は焼き払われ、大阪はまさに織田信長の支配一歩手前となるのです。そして、織田信長が、最後の仕上げである雑賀衆残党が支援する本願寺顕如の長男教如を壊滅するために、「本能寺」で逗留している時、1582年本能寺が織田信長と伴に爆発するのです。そして、本能寺近くの南蛮寺にて、それを見聞していたのが、イエズス会の国際交易商人フロイスです。
では、織田信長は、誰により爆殺されたのでしょうか。
歴史教科書によれば、1582年本能寺の変は、明智光秀の謀反ということになっているようです。しかし、一寸調べれば、明智光秀よりも疑わしい者がいるようです。そのヒントは、「敵は本能寺」です。
1582年(天正十年)織田信長が、本能寺で明智光秀の一万三千の軍団に取り囲まれ、寝込みを襲われ闘い敗れるのを察知して、自ら火を放ち自害した物語の基は、側近の太田牛一の「信長公記」による刷り込みが原因です。しかし、この「信長公記」は、本当に史実を語っているのでしょうか。
「信長公記」は、織田信長の側近太田牛一(おおたぎゅういち)が日々したためた日記を基に、豊臣秀吉の校閲のもとに現れた書物のようです。ですから、古来よりその記述内容に対して疑問を投げかける人も少なくありません。しかし、本能寺の変後の豊臣秀吉による緘口令や焚書などにより、「本能寺の暗殺」を知るための信頼される史料は、「信長公記」以外には存在していないのが現状のようです。
歴史を物語る場合、その史料となるものが、遺跡や古文書です。遺跡や遺品には言葉がありません。しかし、古文書はそれ自身が物語りであるのです。それらの古文書の多くのものは、社寺に保存され、そして、公家にも日記として保存されているのです。その理由として、社寺は、借上などの高利貸しの記録から借用書類の史料を保存するわけです。
では、何故、多くの公家は日記を付けたのでしょうか。それは、平安時代の比叡山延暦寺が、寺内で行う双六などの賭博により借上の借金を公家に踏み倒されないように、「往生要集」などで地獄思想を布教し、借金を返さない者やウソをつく者を脅すために発明した、ウソつきの舌を抜く「閻魔様」によるのです。その思想によると、キリスト教を真似た「閻魔様による最後の審判」の時、そのひとの生前の行いにより、地獄か極楽かに振り分けられるのです。
ですから、地獄思想を仏僧により刷り込まれた公家達は死後、地獄ではなく、極楽行きを望むため、日々の「良い行いだけ」を記録し、最後の審判の日に備えるわけです。それが、平安時代からの公家日記の始まりです。ですから、日記にある事柄が全て真実とは限りません。それは、ひとは「ウソ」がつける動物だからです。
本能寺の変が、歴史教科書の記述のようではないと疑われる主な原因としては、三つあります。
一つ目は、討ち入りの主目的は敵将の首を取ることです。焼死遺骨でも首は首です。しかし、信長の焼死体が存在しないのです。(通常火災により骨が全て灰になることは疑問。骨が一瞬にして消滅するのは、何らかの化学的燃焼が示唆されます。)
二つ目は、何故明智光秀は、一万三千の軍団を、分散して妙覚寺には向けずに、それほど大きな建物ではない本能寺だけに集結させたのか。(もし天下を本気で取るのであれば、織田信長の息子のいる妙覚寺も同時に襲うことは常識。妙覚寺の約二時間後の襲撃は何故か。)
三つ目は、何故豊臣秀吉軍は、毛利軍と一日で休戦交渉を成立させ、摂津に四日後に戻れたのか。(戦闘状態の毛利軍と一日での休戦は不可能。何故摂津帰還時で、二万の大軍団の食料調達が事前に行われていたのか。)
「本能寺の変」に関しての状況証拠に疑問がある上に、更に織田信長軍の最高武将達にも疑問があるのです。その最高武将達とは、柴田勝家、滝沢一益、明智光秀、羽柴秀吉です。これらの武将に共通することは、多くの戦国大名と同じに、全員出自不詳であるのです。(豊臣秀吉を除いて、他は中年期に歴史上に出現。)
戦国時代とはいえ、織田信長軍団の最高責任者四人とも子飼いの武将ではなく、中途採用でしかも出自不詳であるのです。「誰」が、出自不明の人物を軍人として織田信長に斡旋したのでしょうか。
斡旋者として考えられるのは、イエズス会の京都担当巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノです。(イエズス会宣教師オルガンティーノが、伊勢亀山城主関一政に十字軍の末裔聖ヨハネ騎士団のジョバンニ・ロルティス「日本名:山科勝成」を軍事顧問として斡旋した先例がある。)つまり、織田信長の最高武将の四人は、明国からイエズス会の傭兵としての渡来も考えられます。それは、本能寺の変の一年前、1581年(天正9年)織田信長は、天下統一を誇示するために、京の都で、日本国始めての軍事パレード(五百頭の馬揃え)を、織田信長軍の影のスポンサーであるイエズス会のヴァリニャーノを主賓として行っていたからです。
明智光秀は、十三代室町将軍足利義輝の次弟覚慶(義昭)が三好三人衆により京都から追放され元足利家臣を頼り、各地を流浪している時、覚慶(後の足利義昭)の臣下となったのです。それ以前の経歴は不詳です。そして、明智光秀が、足利義昭を上洛させるため、織田信長に後見人の依頼を願い出た時、織田信長軍にも採用されたのです。つまり、明智光秀は、二人の主に仕えていたのです。
明智光秀の本当の主は、織田信長ではなく、足利義昭(1568年〜1573年室町幕府滅び、京から追放される。毛利氏をバックに上洛を謀る。)だったのです。織田信長に仕えたのは、足利義昭を織田信長の軍事力を利用して上洛させるためだったのです。このことにより、明智光秀が「天下人」を望んでいた、とする根拠は薄れます。それでは、誰が織田信長暗殺の真犯人なのでしょうか。
真実を知る者が、後世の人に知らせる手段として、公の書物の中に暗号として残すことが、古来から行われています。例えば、新約聖書にあるパモス島のヨハネによる、レビ族の聖書改竄を知らせる「ヨハネの黙示録」の「666の謎」、そして、平安時代の多人長による、藤原氏が旧約聖書を基に創作した「日本書紀」(720年)を、平安時代に更に桓武天皇により、蘇我・新羅系王朝を抹殺し、百済王朝有利に日本書紀が改竄されたことを知らせるための「古事記」(812年)などです。
では、豊臣秀吉による「本能寺の変」の史実隠蔽の時期に、誰が、その首謀者をどのようにして後世の人に知らせようとしたのでしょうか。
豊臣秀吉は、太田牛一に命じて「信長公記」を創作させる他に、「本能寺の変」の四ヵ月後に、五山系の儒僧大村由己(おおむらゆうこ)に、「惟任退治記」(これとうたいじき)の記録書を書かせているのです。惟任とは、織田信長が与えた名で、明智光秀は、惟任日向守とも言われていたのです。
豊臣秀吉が、「明智退治記」とせずに、「惟任退治記」とした意味は、明智光秀が織田信長の忠臣であったことを「強調」する意図がミエミエです。つまり、忠臣を装う極悪人「明智光秀」のイメージ創りです。そして、明智光秀の天下取りの意志がある根拠として、本能寺の変の前日に行われたと言われている連歌の会での明智光秀の歌、「時は今天が知る五月かな」を、その証拠としているのです。時(とき)は、明智氏の本姓土岐(とき)氏に「かけた」ものと言われています。
その「信長公記」と「惟任退治記」とにより、後世の人の歴史的常識として「織田信長殺しは、明智光秀」である、と信じられているのです。しかし、織田信長の家臣太田牛一の「信長公記」の一節、明智光秀軍一万三千が老ノ坂から沓掛に差しかかった時、明智光秀が発した「我が敵は本能寺にあり」、が意味をもってくるのです。従来の解釈では、明智光秀軍の敵は、「本能寺に逗留している織田信長」である、と言うことです。
しかし、「敵は本能寺」を「織田信長の逗留している本能寺」とするのではなく、「本能寺」を所有していた者が本当の「敵」であるとすると、従来の意味とはまったく違ってくるのです。
日蓮宗により建立された砦である本能寺は、1536年「天文法華の乱」の京都仏教戦争により比叡山延暦寺の僧兵により破壊され、その後、藤原氏の興福寺系の種子島の慈遠寺とネットワークを結ぶのです。種子島からの硝石は、紀州根来寺を経由して、京都本能寺へ運ばれて、戦国大名に売りさばかれていたのです。つまり、本能寺は、島津氏(藤原氏)の系列寺であったわけです。その本能寺を、1568年(永禄11年)足利義昭を奉じて入京した織田信長が摂取したのです。そして、イエズス会に京での布教を許し、その近くに三階建ての南蛮寺の建立を許すのです。そして、織田信長は、1570年近江姉川の戦いで浅井長政に勝利するのです。
その後、織田信長軍の軍拡が進み、西洋式戦術の快進撃により、近畿周辺国は織田信長の軍門に下ったのです。天下を狙える武将で残るは、織田信長と離反した足利義昭をいただく毛利氏だけです。
その毛利攻めを羽柴秀吉に行わせ、正に天下統一前の時、「本能寺の変」の前日、四十人あまりの公家達を集めて大茶会を、織田信長は本能寺で行ったのです。それらの公家は、近衛公、九条公、一条公、二条公、聖護院の宮、鷹司公、摂家、清華家、などなどです。
近衛公とは、藤原氏の末裔です。鎌倉時代、百済北条政権により、都から追い落とされた藤原氏は、近衛家、日野家、菊池家などに変身していたのです。
この近衛家は、本能寺の変で、不思議な行動を起こしていたのです。「本能寺の変」といわれる「暗殺」が行われてしまった後に、本能寺に集結した明智光秀軍一万三千人は、後続が集結するまで、本能寺から程近くの所で待機していたのです。一万三千人の後続が目的地に到着するには、少なくとも二時間以上は必要だからです。
それは、明智光秀は、織田信長により、征夷大将軍の位を婉曲に拒否する朝廷を脅すため、未明に本能寺に軍団が集結するように密命されていたのです。しかし、本能寺での異変(建物は一瞬の猛烈火のために原型を留めず。)に気づいた明智光秀軍は、父織田信長と確執がある息子信忠が逗留する妙覚寺に向かうのです。
やっと本能寺での異変を知った織田信忠は、妙覚寺より堅牢な建物である隣の二条御所に避難するのです。二条御所に立て篭もれば、援軍が駆けつけるまで持ちこたえることが可能だからです。しかし、二条御所は呆気なく明智光秀軍により陥落してしまうのです。それは、二条御所に隣接する近衛前久邸の屋根から、明智光秀軍の鉄砲隊が一斉射撃をおこなったからです。
何故、近衛前久は、逆賊の明智光秀軍を阻止しなかったのでしょうか。そして、近衛前久は、その後、京から逃亡し、三河の徳川家康に保護を求めていたのです。
その近衛前久の不可思議な行動に勝る不思議が、羽柴秀吉の不思議な昇進です。
毛利軍との戦いを急遽休止して駆けつけたばかりの軍団による、1582年山崎の合戦で、明智光秀軍を壊滅した羽柴秀吉は、1584年最大のライバル徳川家康と小牧・長久手の戦いで敗れますが、1584年(天正12年)従五位に叙爵、その月の内に従四位下参議の口宣案をとりそろえ、翌年の1585年3月正二位内大臣となり、そして、元関白の「近衛前久」の猶子(名義上の子。何故、名義上といえども、出自不詳・賎民の羽柴秀吉が日本古来の貴種である藤原氏の一員となれたのでしょうか。ここに戦国時代の大きな謎が隠れています。)となり、7月には正一位に昇叙し、ここに出自不明・賎民出身初の関白となるのです。
しかし、自称平氏では、源氏武士の最高位の征夷大将軍とはなれないため、更に出自不明では藤原氏を名乗ることができないため、1586年(天正14年)に太政大臣となり、大和王朝の前身王朝「秦王国」の別名「豊国」から、「豊臣」の氏名を発明するわけです。豊国は、藤原王朝より格上であるから、豊国の臣である「豊臣」は、藤原氏より格上であるとの理屈です。
豊臣秀吉(自称平氏)が天下を取ると、反豊臣の武将の末裔(源氏系武士)や改宗しないキリシタン大名(秦氏系武士)は賎民と蔑まれ、穢多部落に押し込められるのです。これは、正に、武家源氏の末裔を穢多として社会的に抹殺した北条鎌倉政権の再現です。そして、1590年、豊臣秀吉の最大のライバル、部落出身の徳川家康(自称源氏)は、関東のひとも住めぬ河口、葦の生える湿地帯「穢土」(えど→江戸)に移封されるのです。そして、そこに現れるのが穢多頭の弾左衛門の一族です。
では、この藤原氏の末裔の近衛前久と豊臣秀吉の不思議な行動と昇進は、誰により、何故おこなわれたのでしょうか。この二人を「駒」として、「本能寺の変」はどのように計画され、そして実行されたのかを推理してみましょう。ヒントは、織田信長軍と行動を伴にしたキリシタン大名は、織田信長暗殺後も引き続き豊臣秀吉と軍事行動を伴に行ったのは何故か、と言うことです。
日本列島の古代が、オリエント諸国での動乱・紛争の結果である、騎馬民族や遊牧部族の東進の影響を大いに受けたように(紀元前三世紀秦氏の先祖徐福の渡来、「ヤマト」のチュルク族渡来の蘇我王朝、そして、645年その王朝を乗っ取ったユダヤ色が漂う藤原氏の渡来などなど。)、中世・戦国時代の日本列島は、ヨーロッパ諸国(ポルトガル・イスパニア)の影響(戦国時代に家紋・エジプト発祥の楕円の印章が出現した。)を大いに受けていたのです。
1347年から1351年間の全ヨーロッパでは、黒死病(ペスト)の大流行により、人口が大幅に減少し、なかには全滅する都市もあったほどです。更に、1353年には、東からトルコ軍のヨーロッパ侵攻も始まるのです。
四世紀ローマ帝国の国教として布教されたヨシュア教(キリスト教)も、中世ヨーロッパでは、国際交易商人が国際交易により富を増大するのに合わせるように、その宗教的権力を増大していくのです。
そのヨーロッパの富の基は、ペスト病を防止すると信じられた「香辛料」です。肉食のヨーロッパでは、肉の腐敗を防止する「香辛料」は、「金」と同等の価値があったのです。しかし、その香辛料の原産地のインド・東アジアは、イスラームの商人達により支配されていたのです。
中世において、キリスト教の布教力を利用して交易地を海外に広げていく国際交易商人は、その香辛料を直接入手(略奪)するために、ユーラシア大陸はトルコとイスラーム勢力に経済的に支配されているため、大西洋の彼方にある未開拓地を目指すのです。その結果が、1492年コロンブス(イスパニア王国)のアメリカ大陸への到達と、1498年ヴァスコ・ダ・ガマ(ポルトガル)のインド航路の発見です。この二人の冒険家(?)により、「香辛料」の原産地のインド・東アジアは、植民地への時代に突入していくわけです。それに手を貸すのが、カソリックの教会組織です。
国際交易商人と結託するカソリック教会組織は、その権力を利用して、1500年キリスト(ヨシュア)降誕祭を利用して、教皇庁は「免罪符」を発売したのです。その「免罪符」を購入すれば、誰でも全ての罪から開放されるというのです。それに対して、1518年マルチン・ルターは95ヶ条の質問を教皇庁に突きつけるのです。これが火種となって、宗教改革に発展していくわけです。この流れから、カソリック教会を脱退して「プロテスタント」組織が生まれるわけです。(広告用語の「プロパガンダ」は、ここから発生した。つまり、カソリック教会側が、プロテスタント布教活動を揶揄して、「ウソッパチの布教・宣伝」として発明された言葉が「プロパガンダ」なのです。)
このプロテスタントの勢力増大に脅威を感じたローマ・カソリック教会は、その巻き返しと、新たな布教地を求める活動を模索するのです。そのようなカソリック教会自身の改革と刷新が推し進められている時、1534年イグナティス・デ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブル、ティエゴ・ライネス、アロンソ・サルメロン、シモン・ロドリゲス、ニコラス・ボバディーリャの七名が、「イエズス会」を誕生させるのです。
この「イエズス会」とは、「イエスの同士」の意味の他に、「イエスの軍団」、「イエスの戦闘部隊」という意味も内包していたのです。この「イエズス会」のキリスト布教教団の特異性は、そのバックに、ローマ教皇とポルトガル国王の庇護と経済的援助、更に国際交易商人組織も支援していたのです。
「イエズス会」の目指すところは、「すべてはより大いなる神の栄光のために」を標榜し、「すべての布教手段は神の基に許され」、「地上の王」カソリックの神の教えを異教徒に広めることです。しかし、ポルトガル国王と国際交易商人の考えている事とは、少しズレがあったようです。
他のヨーロッパ諸国より先に、羅針盤による外洋航海術と造船技術と地理学を習得したポルトガルとスペインとは、それぞれの征服先が、東回りのポルトガルと西回りのスペインとに異なっていたのが、地球が丸いため最終的に一点に集約するため、征服地の帰属問題が生じたのです。その解決のために、ローマ教皇の下、ポルトガルとスペインとが異教世界を二分割に征服する事業「デマルカシオン」を発明するわけです。
ローマ教皇はポルドガルに、ポルトガルの海外侵略と抱き合わせに、キリスト教布教を目論んで、新発見地での原住民を奴隷化する権利と貿易の独占権を与えるわけです。スペインは、それに対して異議を申し立て、1494年トルデシーリャス条約を結び、ベルデ岬諸島の370レグアを通る経線を基準に、東側全域をポルトガル領、そして、西側全域をスペイン領とするのです。
つまり、十五世紀半ばの非キリスト教世界は、ローマ教皇の許可の下に、ポルトガルとスペインの「征服予定地」となってしまったのです。勿論、戦国時代に突入する下克上の群雄割拠の日本国も、ポルトガルの侵略支配地として、ローマ教皇により認められていたのです。
イエスの神の守護の下、イエズス会(ポルトガル)は、1530年ポンペイ占拠、1536年インドのディウを占拠をし、そこをイエズス会の拠点とし、1542年ザビエルがインドに現れるのです。その年1542年ポルトガル人(イエズス会宣教師)を乗せた明国マカオ船が、日本国種子島に来航するのです。その孤島の種子島は、鹿児島の島津氏(島津氏は藤原氏の末裔近衛家と親戚関係)の南蛮密貿易地であったのです。(歴史教科書ではポルトガル船種子島に漂着1543年としている。)これは、1549年ザビエルの鹿児島来航への下調べであったのです。
そして、インドを占拠したイエズス会は、1557年中国・明を支配する拠点としてを占拠するのです。しかし、大国の明国はイエズス会渡来軍団だけでは太刀打ちできません。そこで、このマカオを拠点として、東アジア世界征服戦略を練るのです。そのために、まず手始めとして日本国をキリスト教化にして、その後、日本キリスト教軍団を組織して明国を征服する、と言う計画であったのです。
では、そのような視点により、イエズス会は、どのようなプロセスにより日本国をキリスト教化していったのかを考察してみることにしましょう。そして、そこに織田信長の暗殺者が浮かび上がってくることでしょう。
布教とは、幻想(ウソ)をセールスすることです。ひとは、自我という意識を獲得した時点から、不安と恐怖の感情を保持してしまったのです。その不安と恐怖の感情を、自我の意識でコントロールできれば問題はありません。しかし、未だ意識により、不安と恐怖は克服されてはいません。その穴を埋める技術のひとつが、「宗教」という幻想(ウソ)です。つまり、ひとは幻想(ウソ)無しには生きられない動物なのです。
布教がセールスと同じであることは、現代の広告理論は全て宗教の布教手法を真似ていることからも理解できるでしょう。広告・宣伝を揶揄して、「プロパガンダ」と言っていることからも納得できるでしょう。
物やサービスを売ることの手始めとして、マーケティングをおこないます。マーケティングとは、物やサービスを売るための「仕掛創り」のことです。その仕掛創りを行うための材料集めが、市場調査ということです。
イエズス会の宣教師が、1542年明国船で種子島に渡来したのは、日本国の市場調査のためだったのです。その情報を基に、1549年マカオからザビエルが鹿児島に渡来するわけです。
マーケティング理論が良くても、提供する物やサービスが、潜在顧客が望まないものは売ることはできません。
鹿児島を影で支配する藤原氏(鎌倉時代、藤原氏改め近衛家)は、奈良時代から戦国時代の今まで密貿易をおこなっていたため、イエズス会のザビエルが提供するインドや明国の物(銃と硝石)やサービス(キリスト教)に触手を伸ばさなかったのです。元々藤原氏は、蘇我王朝を倒した645年から「イエズス会のような組織」でしたので、イエズス会の布教戦略には乗らなかったのです。その証拠に、イエズス会傀儡軍である豊臣秀吉軍が、1587年(天正15年)九州で最後に闘ったのが島津軍だったのです。
物や宗教サービスを求めるひとは、貧乏人か病弱者のようです。
イエズス会は、占領地を統治する手法として、医師を派遣し、弱者救済を行い、シンパを育て、そして病院を設立し、そこを布教拠点として、国際商人を招きいれ、学校を設立して現地裕福者の子弟を洗脳し、その中から優秀な者を選び出し、布教の後継者として育成していくわけです。
イエズス会がインドでの布教が短期間でおこなわれた原因のひとつは、インドのカースト制度のおかげです。カーストの最上級階層を取り込んでしまえば、その下のカーストは、上カーストに無抵抗になびくからです。
イエズス会は、インド侵略のために、カースト思想を調べつくしていたのです。そのカースト思想が、日本国にも存在しているのを市場調査で知るのです。そして、そのカースト思想が大乗仏教に取り込まれていることも知るのです。
イエズス会宣教師(商人)のフロイスは、パライヤ(タミル語でカースト思想の不可触賎民のこと)を日本国では「エタ」と認識し、「エタ」は「河原者」とも呼ばれ、猿楽、舞々、ささら(竹細工職人、千利休の茶道と関連)、鉢叩、琵琶法師(フロイスの助手ロレンソ了斎の前職業)などの職業に従事して、体制から差別をうけていることを知るのです。そして、その体制から差別を受けている者を探し出すのです。それが、九州長崎の大村純忠(バルトロメオ)と九州大分の大友宗麟(フランシスコ)です。この両名も、数代先の出自が不明なのです。(豊後には1541年ポルトガル船来航)
イエズス会は、その両国(長崎・豊後)が経済的に疲弊していることを調べ上げ、マカオから持ち込んだ品々を気前良く振舞うのです。それは、日本国の市場調査により、日本人は物品を贈られて始めて行動を起こす、ということを知ったからです。つまり、日本国では、何がしかの物品を与えないと、何事もなしえない、ということです。
イエズス会の贈り物に対して、両国はポルトガル船の湊を構築するわけです。このことにより、ポルトガル船の交易ルートが、ポルトガル→インド・ゴア→中国・マカオ→日本国・長崎・豊後と繋がるわけです。しかし、そこから先の日本国の経済中心地の大阪は浄土真宗軍により支配され、そして、政治の中心地の京都は比叡山延暦寺軍により支配されているわけです。
仏教軍団が支配する都へ侵攻するために、次なる基地を求めることになるのです。その候補が、堺と伊勢です。
インドに拠点を確保したイエズス会は、インド管区長であったヴァリアーノが、巡察師となって日本国を統括するに当たって、市場調査を基に布教戦略(ポルトガル王国にとっては植民地化戦略)を練るのです。日本侵略のマーケティングとして、日本国の重要拠点を三地区とするのです。
第一地区の下地区の長崎を、マカオ貿易の補給基地とイエズス会修道士の日本語養成基地とするために、敵対宗教組織の仏教軍団から防衛するために軍事要塞化とする。
第二地区の豊後地区は、イエズス会修道士のための教育地区として、コレジオ(予備教育機関のセミナリオで修学後、高等教育を受けるための施設)と修練院(修道士としての適正を見極める施設)を建設し、マカオから都への中継基地とする。
第三の都地区は、日本国を精神的に統治している天皇と軍事的に統治している将軍をキリスト教に改宗するために、華麗なる教会を都に建設し、キリスト教の華麗なる教典儀式を都で披露する。それにより、天皇と将軍がキリスト者となれば、日本国はキリスト教王国となる。
そのような綿密な布教戦略に基づいてイエズス会は、日本国にキリスト教を布教(侵略)するために訪れていたのです。しかし、歴史教科書では、ポルトガル船の「漂着」とか、イエズス会が「ふらり」と日本列島に現れたと記述しているのは何故でしょうか。
第一地区、第二地区の基地を確保したイエズス会は、第三地区の「都」に侵攻するために、その上陸地候補の「堺」を市場調査するわけです。
「堺」の名の由来は、摂津国と和泉国との境界にあるところからです。奈良時代から、宇陀の水銀交易(イエズス会に同行する国際交易商人も宇陀の水銀・銀の奪取が目的)のため、摂津の難波と紀州の国際交易港があったために日の目をみなかった「堺」にも、室町時代末期の「応仁の乱」と、京での一向宗軍と法華宗軍との戦闘、そして、法華宗と比叡山との宗論抗争の果ての「宗教戦争」に嫌気を刺した都の知識人や豪商などが、ぞくぞく集まってきたのです。それは、「堺」は、外敵を防ぐ堀を廻らせた要塞都市であったからです。そして、それらの都の乱により、難波や紀州の湊を避け、明国船が「堺」を交易港としたからです。更に、三好三人衆による軍事的保護も、自由都市「堺」を、経済の避難所としていたのです。
戦国時代に、そのような社会情勢により、「堺」は一躍国際交易都市となったのです。経済的に余裕がある処には文化の華が咲きます。賭博の一種であった「茶のみ・闘茶」も、ここ堺で、千利休により「茶道」になったのは、明国からもたらされた豪華な茶器や装飾品によるのです。この「茶器」が、織田信長の命を落とす「道具」であったことは、1582年まで待たなければなりません。(戦国時代の茶器は、鎌倉時代、御恩と奉公のために与える土地が鎌倉末期の幕府にはなくなったため、智慧者が「茶器」は、土地よりも高価なものであると刷り込んだことにより、土地よりも価値あるものとなっていた。)
千利休が開発した「茶道」は、キリスト教の赤ブドウ酒の聖杯を回飲みする儀式を真似たものと言われています。茶に添えるお菓子がパンの役割です。しかし、そのキリスト教の聖杯儀式も、ミトラ教の太陽のシンボル牡牛を、太陽の再生を願って屠った時の血(赤ぶどう酒)と肉(パン)を摂ることにより、自身の再生も願う儀式を真似たものなのです。
千利休が、キリスト教の儀式を真似たのか、ミトラ教の儀式を真似たのかは分かりませんが、千利休の周辺には、太陽神ミトラ教が中国大陸で変身した、「景教」を信じる秦氏末裔の賎民技術集団「穢多」の存在が示唆されます。その一例として、千利休が開発したと言われる、外穂の先端を内に曲げる形状の「茶筅」があります。茶筅は、誰でも作れるものではなく、穢多頭の弾左衛門が支配する「ささら」の限定職人でなければ、同業組合を仕切る「役座」にお仕置きをされてしまいます。
更に、「堺」では、仏教にイジメられていた景教を信じた秦氏末裔の多くが、キリシタンに改宗しているのです。飛騨の山奥に暮す金箔貼り技術者の高山右近もキリシタンとなり、その高山右近ジュストは、千利休の「茶道の弟子」となっているのです。室町幕府十三代将軍足利義輝を、三好三人衆と伴に襲った松永久秀も、千利休の茶同朋衆であったのです。「わび・さび」とは異なり、「きな臭い」本名田中、通称与四郎の千利休とは、「せん」(賎民=秦氏末裔)の利休と言うことなのです。
千利休が賎民と深く関係している根拠として、千利休の開発した茶道に強い影響を与えた茶の師匠である「武野紹鴎・たけのじょうおう」は、「堺」の街で商いをする「皮革商」の子息なのです。閑雅な草庵の茶室、侘びの茶道具を創案し、それを千利休に伝えたのは、限定職の皮製品を扱う賎民の子息武野紹鴎だったのです。鎌倉時代、百済北条鎌倉政権に、「かわた」とイジメられた騎馬民族末裔の秦氏・新羅系源氏武士末裔も、戦国時代になると、軍事物資である「皮革」は、戦国武将の需要に生産が追いつかないほどであったので、その財力は並みの戦国大名以上であったのです。その軍事物資である「皮革」が、新興都市「堺」で扱われていたことは、そこ「堺」には、賎民といわれる技術者集団が多く暮らしていたことを示唆します。「堺」が自由都市と言われるのは、「座・市」を支配する仏教組織から自由であるということです。
因みに、戦国時代に現れた科・化学技術を駆使する忍者集団は、秦氏末裔の軍事集団です。部落出身の徳川家康を護る忍者部族の服部氏は、秦氏の末裔だったのです。
戦国時代の「堺」の町は、豪商と知識人と文化人で溢れていたのです。そのような経済的に余裕のある人には、宗教は必需品ではありません。せいぜい教養のひとつです。しかし、イエズス会は、「堺」で茶同朋衆(反仏教者)とコンタクトを取れたことにより、後の仏教軍団壊滅と「本能寺の暗殺」に結びついていくわけです。
イエズス会の都支配の目的(布教)と、ポルトガル王国と国際交易商人の都支配の目的(黄金の国ジパングで金・銀の奪取が目的)は同じではありません。後者の目的は、日本国の地理的支配と経済的支配です。そのためには、六十余国に分かれている日本国を一つにまとめる必要があるのです。その政治的中心は京都です。そして、経済的中心は大阪です。この二つを支配することで、日本国を完全に支配できるのです。そのためには、各国を支配する戦国大名達を滅ぼして、統一国を造ることと、そして、「座・市」、「借上の高利貸し」、「関所の通行税」などで経済支配をしている仏教組織を壊滅することです。
そこで、イエズス会は、戦国時代の日本国を軍事統一し、そして、仏教軍団を壊滅できる武将を探すのです。
戦国時代の武将の人物像は、江戸時代まで生き残った戦国武将の末裔が、先祖の権威を付けるため系図屋に創作させたり、講釈師により創作されたものが大部分なのです。なかには、客観的史料を装い寺社史料や公家日記などを引用して創作したものもあるかもしれませんが、不都合な書類は焚書・改竄されるのが史料の運命ですから、戦国武将の複数の史料を比較検討すると、史実のわけが分からなくなるのが実状です。つまり、戦国武将の出自を証明する「源平藤橘」に行き着く系図は、江戸時代に注文者の都合にあわせ創作されたものだからです。系図を創る「系図屋」とは、隠語で「いかさま師」の意味なのです。(恐らく、応仁の乱から出現した武将の多くは、鎌倉時代、元寇といわれた南宋国か高麗の亡命武士団の末裔でしょう。)
織田信長の人物像もそのひとつです。織田信長についての史料は、それほど多くはないようです。それは、意図的に誰かにより焚書されているようです。特に、イエズス会との関係資料は、フロイスの日本史がなければ、「日本生まれの革命家」のイメージが思い浮かびます。(第一百済王朝・平安時代。第二百済王朝・北条鎌倉時代。第三百済王朝の徳川家光以来の江戸では、百済の守護寺の比叡山延暦寺を壊滅した織田信長の評判は、最悪だったようです。織田信長が、歴史上脚光を浴びたのは、太平洋戦争敗戦後の昭和三十年頃のようです。旧秩序を破壊した織田信長の業績が、時の政府により「革命家織田信長」として利用されたのです。)
しかし、織田信長の行動は、日本人の基準を遥かに超えています。それらは、ヨーロッパ式軍事行動はもとより、従来の武将とは異なり比叡山全僧打首と仏教信者部落老若男女乳幼児まで殲滅、中世ヨーロッパのキリスト教が魔女を火あぶりしたように正親町天皇から国師号を贈られた快川和尚の高僧を焼き殺したこと、キリストの十字架磔を真似ねてロンギヌスの槍を真似た長竹槍での刑罰、楽市楽座の自由経済思想などがありますが、建築技術、特に築城については、ヨーロッパの築城思想が強く出ているのです。それらの、従来の武将と異なる日本的ではない思想行動・技術知識は、誰により織田信長にもたらされたものなのでしょうか。
日本国が中世から近代に変革したのは、1568年織田信長が足利義昭を奉じて京都に入った時(翌年イエズス会宣教師フロイスと謁見)からと言われています。それは、城を中心とした城下町のはしりとしての安土城の築城があるからです。
現在知られている天守閣のある「城」の築城は、それほど古くはありません。元々「城」とは、「土」を固めて「成」った、土塀で囲った陣地であったわけです。
四世紀朝鮮半島から渡来した軍団が、戦闘時の避難場所として山頂を土や石を積んで囲んだ陣地を「朝鮮式山城」というわけです。奈良時代になると、海外交易で財を成した藤原氏は興福寺の「寺」を軍事砦とするわけです。鎌倉時代になると、堅牢で耐火瓦の寺建物は、空堀を廻らし土や石の壁で囲まれた山の山頂に立てられるわけです。これが、山城です。やがて室町時代になると、平地にも堀に囲まれた土や石の塀で囲まれた寺を真似た堅牢な建物が現れるのです。これが平城です。戦国時代になると、城郭は、再び山頂や山麓に建設され、独立した曲輪(くるわ)を要所要所に配置するのです。
そして、戦国末期に織田信長は、石垣の上に「天主閣=織田信長の住居。仏像安置の建物を真似た建物」(この頃、織田信長は、自らをイエズス会の神を超えた存在と信じ、織田信長を「神」として拝ませた。だから、織田信長の安土城は「天守閣」ではなく、「天主閣」なのです。この結果、イエズス会の史料では、「デウスが織田信長の歓喜が十九日以上継続することを許し給うことがなかった」と記述するのです。そして、日本国巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノは、本能寺での織田信長の死に遭遇するのです。)を頂く安土城を建設するのです。これが今に見る「城」の概念です。この堀を廻らし、強固な土壁の塀に囲まれた石垣の上に建設された「安土城」は、インド管区長・日本国巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノが、ヨーロッパのどの城にも及びも着かない立派な城と賞賛したほどです。
では、ヨーロッパ式城を築城し、ヨーロッパ式軍隊組織を持つ織田信長は、どのようにしてイエズス会と接触したのかを考えて見ましょう。
イエズス会は、ポルトガル→インド→マカオ→長崎→豊後と侵攻し、更に「堺」にも拠点を設けたわけです。その手法は、貿易という甘い蜜です。この貿易は、相手側に多大な利益が得られるため、危険を冒してまでその組織の一員になるとこを望むひとが多くいるわけです。しかし、イエズス会と接触を求めるひとは、交易利益のためだけではないひともいたのです。それは、体制にイジメられている賎民です。つまり、足利義輝体制転覆を画策する、三好氏と内通する堺の茶同朋衆などの賎民組織が、堺のイエズス会結社に集まってくるのです。
日本国の海外との正式交易ルートは古から、中国大陸(楼蘭・ローラン)→朝鮮半島(楽浪・ローラン)→博多(伯太・はた・秦)→難波(浪速・ローラン)→奈良・京都と決まっていました。しかし、イエズス会は、この正式ルートを外れて、マカオ→長崎→豊後→堺としたのです。それは、そのルートに、都を追われた反体制の末裔がいるからです。
新興国際都市堺の交易先は、豊後です。そこは、大友宗麟が支配する国であるのです。豊後にはポルトガル船が、種子島にポルトガル船が来航するより二年も先、1541年には来航していたのです。それは、豊後が、古来から、堺と密貿易をしていたからです。
明国と正式交易をしていない「倭寇」は、その本隊の実態は明国の住民が主で、その本拠地が五島列島であるわけです。つまり、倭寇の交易ルートは、明国→五島列島→豊後→堺となるわけです。その先は、日本の経済の中心地難波港から大阪の地は、浄土真宗軍に支配されているので、堺→雑賀→那智→伊勢となるわけです。このルートが、倭寇と言われる「海賊」の交易ルートだったのです。この海賊ルートを、イエズス会が、日本国侵略に利用するわけです。イエズス会の次の拠点造りは、伊勢です。
伊勢は、縄文時代から海外からの交易人が渡来していたのです。それは、伊勢には、宇陀と同じに「朱砂」が産出していたからです。それは当然で、宇陀と伊勢は、中央構造線上に位置しているからです。更に、伊勢湾には、今でも伊良子岬に椰子の実が流れ着くように、南方から黒潮が流れ着くところなのです。ですから、伊勢には、古来からアラブ、インドの南方から渡来する部族が多くいたのです。
七世紀の壬申の乱での、新羅系天武天皇軍の出発点は、伊勢だったのです。伊勢には、朱砂を求める中国大陸からの国際交易人や南方の海人族が多く住んでいたのです。その海人族のシンボルの赤旗を立てて、百済亡命貴族が支配する近江を、天武天皇軍が攻めるわけです。そして、その戦いの勝利を感謝して海人族の神を祀ったのが「伊勢神宮」です。伊勢神宮は、新羅系天武天皇により建立されたものなのです。しかし、平安時代になると、新羅の敵国百済亡命貴族の末裔桓武天皇が政権を支配すると、比叡山延暦寺が布教する騎馬民族を蔑視する(殺生禁止・血の禁忌)、仏教キャラクターの聖徳太子を創作しての「法華経」布教により、肉食・魚食の仏罰者の住む伊勢は「穢れた地」に貶められてしまうわけです。ですから、百済系天皇は代々、伊勢神宮ではなく、宇佐八幡宮を祀るわけです。百済系天皇で、伊勢神宮を祀ったのは、約千年後の明治天皇が始めです。
十二世紀に平安朝廷を支配したペルシャ平家も、その伊勢からの出現です。
この伊勢に渡来した部族には、反体制的心情があるようです。南方から渡来したベンガラ染め(ベンガラ染めとは、インドのベンガル地方から産出する鉄錆の赤染め)のペルシャ平家の平清盛・重衡親子にも、織田信長と同じに、日本の神社仏閣には敵愾心を持っていたようです。怨霊神を封じる神輿に矢を射掛けたり、1180年には平重衡は奈良東大寺の大仏に火を放ち延焼させているのです。
何故、ペルシャ平家は、そのように日本の神仏を嫌ったのでしょうか。それは、ペルシャ平家の京での拠点、祇園にヒントがあるようです。祇園怨霊会が行われると、京の公家達は、穢れ神が来ると、都から避難したのです。つまり、ペルシャ平家の土地神は、平安京の公家達には、穢れ神であったのです。それは、祇園の神は、インドの底カーストの土着神であったからです。
平安時代に、藤原氏の計らいで渡唐の空海により、唐に渡来のインド僧の教えにより、民族差別のカースト思想が、日本国に持ち込まれていたのです。その祇園祭の牛頭天皇とは、インドでの穢れ神であったのです。
しかし、ペルシャ平家も、仏教を笠に着る百済皇室・百済公家には負けてはいません。空海により発明された「日本密教」の神々の全ては、インドのバラモン教・ヒンズー教の神々であることを、ペルシャ平家が知っていたからです。更に、大乗仏教の儀式である、加持祈祷、護符、お守り、呪文などは、空海により密教儀式として発明されたわけですが、それらの儀式は、元々バラモン教・ヒンズー教からの借り物であることも、ペルシャ平家は知っていたのです。
「奈良の大仏」は、空海により「大日如来」に変身したわけですが、その元の名は「遍照鬼」で、インドではバラモン教の系列外の神であったのです。ですから、ペルシャ平家の平重衡は、百済平安政権を守護するその大日如来の遍照鬼(奈良の大仏)に火をつけて燃やしてしまったわけです。
ペルシャ平家は、仏像や仏閣を燃やしてしまいましたが、織田信長は、百済系正親町天皇の高僧を生身のまま燃やしてしまったのです。その異常な仏教嫌悪は、どのようにして生まれたのでしょうか。それは、織田信長の祖父の墓が、刑場近くの垣内(かいと)にあったことが原因のひとつのようです。祖父の実生活は、孫が実際に観察できます。恐らく、織田信長は幼少の頃、伊勢の穢れ地に住む祖父が、仏教者にイジメられていたのを経験していたのかもしれません。「三つ子の魂百までも」、です。
織田信長は、反抗する仏教僧や信者には情容赦をすることはないのに、貧民の身障者には慈悲の心があったようです。それは、織田信長の逸話として、戦のたびに見かける山奥の部落近くにいる皮膚病を患っている身障者を哀れに思い、お忍びでその部落に行き、その部落民を集め、その身障者を生涯面倒を見るように部落民達に強く言い渡し、高価な反物を多く与えた、というものがあるからです。
皮膚病者は、奈良時代では藤原氏が支配する中臣神道により、中臣祓の「国つ罪」の穢れ者とされ、奈良坂の部落に押し込められ、そして、平安時代では、百済系桓武天皇が支配する比叡山延暦寺による法華経により、「仏罰者」として、清水坂の部落に押し込められていたのです。
古代では、病気とは目に見えるもので、その代表が、皮膚病であったわけです。その他の病気は、怨霊により引き起こされていると信じられていたのです。ですから、古代では、御祓いや祈祷は、医療行為だったのです。(現在でも、怨霊退治をビジネスにしているひともいます。)
戦国時代も、法華経により仏罰者と宣伝された皮膚病者は家族から追放され、社会からも追放されていたのです。その皮膚病者を、王権に反抗した秦氏や新羅系源氏武士の末裔の部落に押し込めることにより、穢れ部落を創り出していたのが、藤原・百済王朝だったのです。その社会から追放された皮膚病者を救う組織が、戦国時代の日本国に現れたのです。それが、イエズス会です。
イエズス会の布教基本戦略は、病弱者・貧者を救う活動から始まるのです。1557年九州の大分(大村宗麟・フランシスコの支配地)には、宣教師アルメイダが内科・外科病院を設立して、その一角に、仏罰者と言われる皮膚病者の収容施設を建設しています。1583年には長崎(大村純忠・バルトロメオの支配地)にハンセン氏病者のための病院が設立されていたのです。
そのように、中臣神道や大乗仏教にイジメられていた皮膚病者は、イエズス会の神(デウス)を拝むのは当然でしょう。更に、藤原・百済王権にまつろわなかったために、中臣神道や大乗仏教により、「穢多」として社会的に追放されていた、元貴族や元武士階級やそれに順ずる者も、イエズス会の布教活動に共感を示していくわけです。それらのイエズス会共鳴者達は、神社ネットワークの「座」を拠点に、「役座」の仕切りにより、流浪する遊芸者や各種職人として、鎌倉時代から戦国時代までを、仏教の思想迫害を受けながら生き延びていたのです。
全国を、本地垂迹説により仏教組織が仏寺・神社を支配していた「座・市」を拠点として、流浪する遊芸者や各種職人は、戦国の国々の情報を収集することも、仕事の一部だったのです。そこで、イエズス会も、戦国の国々の情報を得るために、流浪遊芸者と接触するわけです。それが、身障者の流浪琵琶法師である了斎です。了斎は、キリシタンに共鳴してロレンソ了斎となり、イエズス会のための、反政権結社との情報連絡係りとなるわけです。しかし、イエズス会と接触したのは、賎民といわれる流浪遊芸者だけではありません。現政権に不満を持つ公家達もいたのです。
イエズス会は、世界布教(征服)を遂行するために、中国大陸の明国布教(征服)の前哨戦として、明国征服のためのイエズス会日本軍を組織するため、戦国時代の日本国を統一できる人物を物色するわけです。そのための情報協力者としては、公家不満分子、海賊、山賊、流浪遊芸者、密貿易者などの反体制分子です。そして、密貿易地の中継地豊後の大友宗麟からイエズス会に、尾張の国に織田信長という反仏教武将がいることが知らされるのです。
イエズス会は、弱小国ながら少数の軍力で隣国の大軍団とゲリラ戦を行っている織田信長の力量を見極めると、イエズス会日本軍の大将候補として、キリシタンへの取り込みにかかるのです。その戦術が、天皇を頂点として武力で日本統一をスローガンとする「天下布武」の織田信長への刷り込みと、隠れキリシタン公家と藤原氏末裔の陰謀による正親町天皇からの、朝敵征伐の「決勝綸旨」の書状です。
戦国武将達には、全国統一などの概念は、殆んどなかったのです。国の民を養う田畑を他国からの侵略の護りと、他国との境界線の拡張が、戦国武将の戦いの主な目的だったのです。個人経営である荘園経営による農業主体の経済では、日本統一するための兵力は養えなかったのです。つまり、戦国時代の戦いは、農繁期ではなく、刈り入れの終わった農閑期に主におこなわれていたのです。
ただ、農業主体ではなく、伊勢での南蛮密貿易で稼ぐ、尾張の織田信長軍は例外でした。織田信長は、「銭」で、軍人を集めていたのです。「銭」で軍人を集めるための宣伝として、「織田軍には銭があるぞ!」を図案化して、明銭を旗印にしたのが、織田信長軍の銭の旗印だったのです。ですから、織田信長軍は、他の戦国武将と異なり、一年を通して闘うことができたのです。
日本国は、元々各種民族が長い年月を経てオリエント・中国大陸などから渡来し、それぞれの部族国を日本列島内に建設していたのです。それぞれの渡来部族は、それぞれの言語でそれぞれの文化を享受していたのです。その根拠として、戦国時代から約三百年後の明治維新の最初の会議では、各藩出身者の話す言葉がお互いに聞き取れず、理解できないため、筆談で会議をしたほどなのです。(現在でも、地方を旅して、現地のお年寄り同士の会話を聞き取れないことは、誰しも一度は経験しているでしょう。)
国家の統一は、言語の統一から始まるのです。ですから、明治新政府は、日本国統一のため、廓言葉を基本として「標準語」を発明するわけです。
戦国時代に全国統一するためには、コミニュケーションを互いに摂るために、言語の統一が必要だったのです。しかし、日本国では、明治になるまで、各藩はそれぞれの方言で生活していたのです。
織田信長が、もし全国統一を本当に計画していたならば、秦の始皇帝のように、言葉や生活単位の全国統一計画を実行していたはずです。(日本国統一のための行動は、織田信長暗殺後、1582年からの田畑の検地方法や計量基準「6尺3寸・191cmを一間、一間四方を1歩、三十歩を一畝、十畝を一反、十反を一町/米の量りは、京枡に統一した。」を全国一定にした太閤検地からです。この検地により、鎌倉時代からの荘園制度が崩壊して、イエズス会の望む近代日本国中央政権が確立したのです。)
でも、織田信長が、行おうとしていたのは、統一言語の開発や日本全国の検地ではなく、暦の変更で、それも太陰太陽暦を、なんとヨーロッパのグレゴリオ暦(ヨーロッパで紀元前46年から使用されていたユリウス暦からグレゴリオ暦への変更発令は、1582年2月24日だったのです。と言うことは、四ヶ月ほどで、ヨーロッパの最新情報は、イエズス会の情報ルートで日本国に届いていたのです。因みに、日本国では、1873年(明治6年)に、太陰暦から太陽暦「グレゴリオ暦」に改められた。)に換えようと、正親町天皇に強訴していたのです。織田信長は、イエズス会の日本人エージェントから、日本統一思想だけではなく、ヨーロッパの色々な最新知識も刷り込まれていたようです。
イエズス会は、ローマ教皇、ポルトガル王国、そして国際交易商人達の経済援助の下に、日本国統一を目指すために、尾張の弱小武将の織田信長に、ヨーロッパ式軍事戦略、軍資金、武器(ロンギヌスの槍)、銃、火薬、そして秦氏・源氏末裔のキリシタン大名や銃の使用に慣れた傭兵軍団(一時的に、紀州雑賀鉄砲衆傭兵軍も参加していた。後の浄土真宗本願寺派との十年も続く石山合戦では、雑賀鉄砲衆は反織田信長軍の敵対者として活躍した。)を提供してきたのです。それは、日本を統一し、そしてイエズス会日本国軍団を組織して、その武力により、ローマ教皇・ポルトガル王国の最終布教国の中国大陸の明国を、占領するためだったのです。
1580年日本イエズス会は、ポルトガル王エンリケの死を知るのです。イエズス会は、異教国侵略のために、その組織運営資金の多くを、ポルトガル王国から援助されていたのです。
更に、ポルトガル王エンリケの死は、イエズス会に激震をもたらしたのです。それは、イスパニアのフェリペ2世が、ポルトガル王位を兼任し、イスパニア・ポルトガル同君国(1580年〜1640年)としたからです。
イスパニアは世界征服の手先として、ポルトガルのイエズス会に対抗して、托鉢修道会を組織していたのです。そのイスパニアは、1565年フィリッピンを征服し、1571年にはマニラにイスパニアの東洋貿易基地を構築していたのです。十六世紀のマカオのイエズス会(ポルトガル)とマニラの托鉢修道会(イスパニア)は、共に中国大陸への布教を目指して闘っていたのです。
イエズス会にはもう時間がありません。イエズス会が織田信長に軍事援助を始めた桶狭間の戦い(1560年)から本能寺の変(1582年)までの二十二年間に、畿内を中心に、戦国武将軍団、比叡山延暦寺軍、そして浄土真宗軍を壊滅し、政治の中心京都・商業の中心大阪の地を、イエズス会傀儡軍の織田信長が占領したのですが、まだ全国の三分の一を支配したにずきながったのです。
しかし、天下統一直前の織田信長は、残る戦国大名の壊滅に専念するのではなく、天皇をコントロールできる関白の地位を要求して、京での軍事パレードを行ったり、暦の変更を求めたりして、天皇家や公家達と心理戦をおこなっていたのです。それらの織田信長の行動は、早急に、明国侵略手段としての、天皇を傀儡としてイエズス会日本国軍の組織編成を企む、イエズス会の戦略から大きく外れていくのです。そこで、イエズス会は織田信長に見切りを付けて、織田信長に代わるイエズス会日本軍大将候補を選ぶわけです。それらが、源氏末裔の明智光秀と自称平氏の羽柴秀吉です。
そして、正親町天皇と誠仁親王も、無理難題を要求する織田信長を疎ましく思っていたのです。それは、関白の地位を要求され、更に、天皇の祭祀権の根本とも言える古来からの暦を、ヨーロッパで発令されたばかりのグレゴリオ暦への改変を強訴されていたからです。
ここに、イエズス会側と天皇側との暗黙の計画が実行されるのです。それが、1582年6月2日の本能寺の変です。その仕掛けは、本能寺での前日の茶会です。
1587年豊臣秀吉は、薩摩の島津氏を屈服させると、今まで豊臣軍をバックアップしていたキリシタン大名を冷遇し、改宗を迫り、キリスト教の禁止令を発令するのです。それは、イエズス会を経済的に援助していたイスパニアが、イングランドの海外進出のため、海外交易権を奪われ、1588年にはイスパニア無敵艦隊は、イングランド海軍に壊滅されてしまうのです。イエズス会の軍事力は徐々に、イングランドに侵食されていくわけです。
本能寺の変後、明智光秀から直々に援助の要請を受けたが、その申し出を即座に断った高山右近ジュストも、キリシタン迫害の対象者だったのです。その高山右近ジュストの茶道の師匠が、千利休だったのです。
このキリシタン弾圧の豊臣秀吉の変心は、どうして起こったのでしょうか。その原因のひとつとして、1585年に羽柴秀吉が、元関白の「近衛前久の楢子」となったことが考えられます。つまり、羽柴秀吉は、無用者織田信長を謀略により無残に葬る(爆殺)イエズス会の本心を知り、古から天皇を裏でコントロールしている藤原氏側に寝返っていたのです。
何故、出自不明の羽柴秀吉が、名門中の名門藤原氏の流れに入れたのかは、イエズス会と近衛前久や天皇家が関与した織田信長暗殺の弱みを握っていたからでしょう。織田信長に仕えた千利休は、豊臣秀吉にも、茶頭(情報参謀)として仕えていたのです。
1591年2月28日、茶道を開発したと言われる茶人が、豊臣秀吉直々に切腹を命じらるのです。その茶人とは、堺の千利休です。巷では、大徳寺山門の楼上に自身の木造を置いたとか、茶器の売買で暴利を貪ったとか言われていますが、果たして、その史実はどうだったのでしょうか。
1568年上洛した織田信長が、密貿易都市堺に矢銭(軍資金)を課すと、堺の街は二つに分かれるのです。ひとつが抗戦派で、もうひとつが和平派です。その時暗躍したのが、和平派の堺の武器商人の津田宗及と今井宗久です。しかし、その二人は、キリシタンとも内通していたのです。そして、その二人は、茶同朋衆でもあったわけです。その伝で、茶道界を仕切る千利休は、織田信長と知り合うのです。その頃の織田信長は、名器収集に没頭していたのです。そこで、堺の茶道の指導者千利休は、織田信長の茶頭として仕えることになるのです。
織田信長は、三十八の名物茶器を収集していたが、絶品中の絶品と言われる「楢柴」だけが入手していなかったのです。その名器は、博多の武器商人鳥居宗室が所有していたのです。
ここに織田信長暗殺のための仕掛けが完成するのです。茶器は、両手に納まるほどの大きさですが、一国よりも高価であると信じられていた名器は、輸送のため厳重に梱包されたため、大人ひとりが入れる程の梱包物となってしまうのです。
1582年6月に京都に来ていた鳥居宗室は、6月2日には京都を発つ予定だったのです。このことを、千利休は織田信長に伝えたのです。
そこで、織田信長は、6月1日に本能寺で、鳥居宗室に名器「楢柴」の譲渡を要求するため、公家も交えて堺の武器商人達(火薬の原料硝石は、イエズス会との密貿易では最大の交易品)との四十人ほどの茶会開催を企画するわけです。その茶会の前日には、多くの茶道具荷物が本能寺に搬入されていたわけです。
織田信長が、どのような死を迎えたかは知る術はありません。それは、豊臣秀吉の史料焚書と厳しい緘口令、そして公家の日記改竄により、史実が隠されてしまったからです。
分かっていることは、1582年6月2日未明、本能寺は一瞬にして大きな炎に包まれ、、一瞬のうちに全焼してしまったのです。そして、その焼け跡には、織田信長の遺骨の欠片も見つからなかったのです。
逆賊軍と宣伝される、一万三千の明智光秀軍が、本能寺に到着した夜明け前頃には、既に本能寺は焼け落ちていたのです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/838.html

コメント [カルト14] 安倍の中東訪問に脅迫をぶつけたイスラム国ですが、衆院選はスルー、バグも米英イも安倍もグルという事です。 小沢内閣待望論
03. Psyche 2015年1月31日 19:10:15 : /UBEM0aVjzaZ6 : EEqupT609o
戦争は
ダメよ、ダメダメ
年上の女
http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/139.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK178] <問題発言>田母神氏を応援したデヴィ夫人「後藤健二さんには自決してほしい」「 関係諸国に大・大・大・大迷惑」 赤かぶ
52. 2015年1月31日 19:10:39 : rp5EFLpYow
自決をしてどういう英雄になるって言うんだろ・・・?
この場合、母親が自決を勧める理由はないよね。
母親ならどんなことをしてでも生きて戻ってきてほしいと祈り続けるでしょう。

英雄にするために自決を勧める母親ってどういう親?


http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/892.html#c52

コメント [政治・選挙・NHK178] 創価学会・池田大作名誉会長、朝日新聞で新連載開始か 信者伸び悩み&読者減で助け合いか ドンゲン
17. 2015年1月31日 19:10:53 : sWE3y3Awko
16>> 池田大先生くらいになると、霊界からメッセ−ジ送れるのかもしれないね。

大川りゅうほうの担当領域だな、池田霊界からの中継は大川りゅう法が担当するのか


http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/919.html#c17

コメント [政治・選挙・NHK178] 創価学会・池田大作名誉会長、朝日新聞で新連載開始か 信者伸び悩み&読者減で助け合いか ドンゲン
18. 2015年1月31日 19:11:28 : GTN7hpe8p6
朝日新聞と創価学会という代表的反日組織が手を組んで目標達成のために動き出したと言うことなんでしょうか。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/919.html#c18
記事 [近代史02] 神輿の黙示録(11)(日本国統一と新賎民の発生:デウスとブッダは一卵性双生児か)
日本国の歴史教育で疑問があるのです。それは、何ゆえに歴史を、「日本史」と「世界史」とに分けて教育しているのか、と言うことです。その日本史にしても、ヤマトに古から天皇が統治するヤマト民族が居住していた、というイメージで歴史物語を綴っているのです。
世界史の視点から日本史を眺めてみれば、歴史教科書のように、紀元前七世紀から万世一系で純粋培養された天皇に統治されたヤマト単一民族が、今日まで存続していたことは不可能であることが理解できるのです。だから、明治時代に藤原氏末裔の智慧者が、渡来異民族達(秦氏・藤原氏・新羅系渡来部族・百済系渡来部族)が闘い続けてきた本当の日本列島史を庶民に知られては困るため、そして、奴隷状態の物言わぬ庶民のままにとどめる手段として、教科書歴史を世界史と日本史とに分けたのです。
日本列島は、古よりオリエント・中国大陸からの多くの渡来民族・部族が暮らしていたのです。その歴史の結果が、現在の「イジメ」に繋がっているわけです。「イジメ」は、そう簡単には撲滅できないでしょう。しかし、その「イジメ」の本当の歴史的意味を知ることにより、「イジメ」を回避、あるいは防止できるかもしれません。
「イジメ」の歴史的意味を、辞書で調べてみても、知ることはできないでしょう。それは、権威有る辞書は、体制側に都合よく解釈されるか、知られては困ることはウヤムヤに表現する傾向があるからです。ですから、「イジメ」の歴史的意味を調べるには、野史のトンデモ歴史本とか、言い伝えから推測する以外はないのです。その「説」の文献先はなんですか、との問いに答えることができないけれども、納得できる「言い伝え」は多くあるものです。
「イジメ」の歴史的意味は、「夷を絞める」ことで、つまり、夷(イ=エビス・異民族)を絞める(抹殺する)ことです。ですから、「イジメ」とは、ある地域から異民族を排除する手段として、「異民族を殺す」ことですから、小学校生徒でも「イジメ」られた子は、自殺して(排除されて)しまうのです。本来の「イジメ」の歴史的意味は、それほど深刻なものなのです。
小学校の教室で「イジメ」が起こっても、イジメを止めるはずの教師が、イジメ側になっていることも珍しくはありません。それは、日本国に六世紀に渡来した、体制側にイジメられている賎民を救済するはずの大乗仏教も、体制側の手先となって、異民族の賎民を「イジメ」てきた歴史があるからです。
1568年織田信長は、足利義昭を伴って上洛すると、被差別部族「余部」に対して「禁制」の文書を下します。これは、余部が織田信長の支配下に入ったので、これからは余部を「イジメ」てはならないという意味です。織田信長の仏教嫌いは、この余部に対しての処置でも理解できるでしょう。
織田信長の仏教組織に対する常識外れの行動を調べると、賎民は仏教を憎んでいたことが理解できるでしょう。織田信長は、応仁の乱により荒廃してしまった京都二条御所の修築を行うのです。その修築のための石材の多くは、石仏を破壊したものを、わざわざ使用しているのです。石仏は、仏教聖地を創り出す装置です。その石仏を破壊し、更に京都二条御所の修築材とすることは、仏教に対して二重の否定をしているわけです。
何故織田信長は、そのようなことをしたかの理由を推察すれば、それは、京都が日本列島における民族差別発祥の地であったからです。その民族差別の中心が京都二条御所だったのです。
794年百済の血を引く桓武天皇は、長岡京から平安京に遷都するのです。その地は、従来秦氏の支配地であったのです。そして、804年最澄を唐に送り、中国山東半島に亡命していた百済人を平安京に呼び入れるのです。そして、その亡命百済人を政治の中心に置き「公家」とし、穢れ都の奈良(実際は大仏鋳造による鉱毒汚染地)に封じ込めた藤原氏や新羅系貴族を排除するのです。そして、南都仏教も、穢れ仏教として奈良に封じ込めるのです。
平安京は、亡命百済人の都だったのです。そして、山城の機能がある延暦寺を、秦氏の支配地であった比叡山に建立するのです。805年最澄は、中国天台宗のお墨付きを戴き、天台宗日本支社を立ち上げるのですが、八ヶ月での唐留学では、仏教儀式を全て習得することができなかったので、806年帰朝の空海に、仏教儀式のノウハウを教えてもらうのです。
しかし、空海の仏教は、民族差別のカースト思想のヒンズー教・バラモン教の儀式を多く取り入れた密教(加持祈祷・護符・お守り・アラム語の呪文)だったので、日本仏教の基礎となった最澄の仏教は、「釈尊の説いた仏教=輪廻転生を否定。だから極楽浄土は存在しない。そのため前世も後世もない非人となり乞食をする。」とは全く異なった、民族差別仏教(血の穢れ・地獄思想を布教)となってしまったのです。
京や比叡山の地に、ミトラ神(魔多羅神)を祀り百済京都王権にまつろわない秦氏は、桓武天皇により、その支配地を追われ、山の民となるのです。その百済亡命人の山城である比叡山には、天台宗の仏と中国山東半島からの渡来人により持ち込まれた中国土着神・山王(シャンワン)が、日本神・日枝(イルギ→日吉)となり、藤原氏の南都仏教(教典仏教)と春日神(ユダヤ教に酷似した儀式)に対抗するわけです。
秦氏と行動を共にする騎馬・遊牧民族系の新羅系日本人は、その渡来元の新羅は528年までは仏教国ではなくギリシャ・ローマ文化を保持していたので(百済と高句麗人は中国王権と通訳無しに交渉できたが、漢語を知らない新羅人は通訳がなければ交渉できなかった。)、漢字を知らないため仏教にはなじめず秦氏の神(ミトラ神)を祀っていたのです。ですから、新羅花郎(ミトラ)軍団の末裔、源氏武士は、秦氏の神・八幡(やはた)を祀っていたのです。
奈良時代は、チュルク系蘇我王朝の血を引く部族(藤原氏により蝦夷と命名される。蝦夷とは、無ヒゲの漢民族ではなく、チュルク族のヒゲのあるエビスの意味。チュルク=トルコ。トルコ人は今でもヒゲを生やしている。)が、新羅系天武天皇をバックアップしていたので、貴族達は肉食し騎馬で移動していたのです。しかし、645年突然日本列島に現れた藤原氏の陰謀により、770年騎馬民族・天武天皇の血を引く女帝称徳天皇を最後として、百済亡命下級貴族の光仁天皇(桓武天皇の父)が擁立されるのです。
新羅系天武王朝では、女帝を多く輩出していたが、百済系桓武王朝では女帝は二人(109代明正天皇と117代後桜町天皇)を除いて、存在していないのです。騎馬系は女尊男卑ですが、農耕系は男尊女卑です。民族思想が、天皇継承にも現れているのです。だから、現在の百済系天皇家では、女帝が認められていないのです。
ここに貴族の食文化が激変するのです。それは、肉食から菜食です。この菜食する百済亡命貴族は、ヒンズー教化仏教(真言宗・天台宗では、ヒンズー教・バラモン教の神々を日本名に改竄して祀っている。)の「血の禁忌」思想を、肉食・騎馬民族と魚食・海洋民族(織田信長の先祖)「夷絞め・イジメ(抹殺)」に利用するのです。
では、平安時代からの仏教組織による騎馬・遊牧・海洋賎民イジメに対する反撃のための、戦国時代のキリシタン大名からの仏教イジメは、近畿地方だけだったのでしょうか。
戦国時代の仏教イジメは、歴史上には、長崎と大分にもあったのです。その二地区は、日本イエズス会管区内の、マカオ交易の要塞湊の下地区の長崎と交易中継地と教育施設がある豊後地区であったのです。織田信長が支配する都地区と連動するように、イエズス会が支配する二地区でも仏教イジメがおこなわれたことは、イエズス会の布教活動と仏教イジメが連動していたことが示唆されます。
キリシタン大名は、仏寺を破壊すると、その跡に南蛮寺を建立するのです。このことは、六世紀から七世紀にかけての飛鳥時代の出来事を連想させます。それは、日本列島のヤマトに侵攻して来た藤原氏により、「景教寺」は破壊され「仏寺」に、「道教の観」は破壊され「神社」に改ざんされたのです。(この藤原氏のトリックにより、日本列島の最古の宗教が神道であると刷り込まれてしまっているのです。神道は、景教、道教、仏教、ユダヤ教を基に発明されていたのです。神社の日本列島出現は、仏寺出現の後なのです。ですから、物部氏と蘇我氏の二度の崇仏戦争は作り話が濃厚です。史実は、仏教対景教・道教の闘争でしょう。)キリスト教も、四世紀のローマ帝国で、ミトラ神殿を破壊してキリスト教会をその上に建設しているのです。侵略宗教組織による前宗教組織の歴史隠蔽は繰り返されるのです。
そして、イエズス会は、仏教のブッダを「悪魔」と罵るのです。何故ブッダは、イエズス会にとって「悪魔」なのでしょうか。
悪魔とは、元は神の仲間であったのです。それが、神を裏切ったことにより、敵側の神(悪魔)となったのです。ですから、神と悪魔とは、同じ霊力を保持しているのです。
フロイスの日本史で、戦国時代の風俗習慣は「外人の目」で鋭く描写されています。しかし、「仏教を悪魔の教え」と記述しているのに、その根拠を明示してはいません。
イエズス会の教育では、宗教学は勿論、音楽、科学、哲学など現代に通じる知識を幅広く習得させていたのです。免罪符を販売したカソリックの堕落からの巻き返しを行うイエズス会は、他宗教の理論的弱点を突く教育にも力を入れていたのです。それが宗論闘争教育です。敵宗教を理論的に、徹底的に叩きのめすことにより、デウスの優位性を示して、キリスト教布教地区を拡大していくわけです。
そこで、フロイスは、織田信長に再三懇願した結果、延暦寺の高僧との宗論をおこなっていたのです。もし、その宗教論争でキリスト教の神・デウスが、仏教の仏・ブッダより勝っていたのなら、そのことを誇らしげに日本史に記述するはずです。それは、デウスの神が崇高であるということを、フロイス日本史で随所に記述しているからです。
しかし、延暦寺高僧との宗論結果は記述されていないのです。ただ、「仏教は悪魔の教え」であると、記述するのみです。延暦寺側も、同様に、その宗論結果を公表していません。延暦寺側が公表できなかったのは、1571年織田信長により、イエズス会が決め付ける欺瞞者の悪魔の館「延暦寺」は、全焼され、そして、全僧侶は斬首となっているのです。この事件は、「デウスとブッダ」の宗論と関係があるのでしょうか。
悪魔の霊力は、「聖なる炎」により抹殺されるのです。ですから、ヨーロッパでのキリスト教による魔女狩りの犠牲者は火炙りとなり、日本国でも正親町天皇より国師の位を受けた高僧も織田信長により火炙りにより抹殺されたのです。この織田信長の、日本歴史上稀な敵対する宗教者の火炙りも、イエズス会からの教えであったのでしょうか。
何故「デウス対ブッダ」の宗教論争の結果をフロイスが記述しないのかは、次のように推測されます。それは、デウスとブッダとは、あまりにも共通点があったから、ということです。共通点どころか、同じであったので、フロイスは、ブッダを敵側の神=悪魔と言ったと推測されます。
宗教の発生は、ひとの苦難を緩和する装置のひとつとして発明されたわけです。その宗教の中核を成す「神」には、二種類あるのです。ひとつが「自然神」で、もうひとつが「人工神」です。
自然神の神とは、太陽、月、星など自然に存在し、ひとびとの生活に大いに影響する存在であるわけです。自然神は、自然の下に暮す、遊牧狩猟民族、海洋漁労民族が、自然神に加護を求め、或いは怒りを静めるために「犠牲」を捧げて祀ります。
それに対して、人工神とは、ひとの智慧により発明された神で、主に人間を神格化して創られた神です。その目的は、ひとがコントロールできない自然の驚異に対して防御或いは回避するために発明されたもので、それらの脅威の「ケガレ・気が枯れる」を回避又は除去する儀式として、「御祓い」をおこないます。つまり、人工神は、自然の脅威を敵視するわけで、自然と戦い、克服して暮す農耕民族が芸能(生殖に関連する行為)を奉じて祀ります。
デウスもブッダも供に人工神です。人工神は、ひとが神格化されて「神」に成るわけです。そこで、ただの人間を神格化させるために、奇跡の物語が創作されるわけです。
キリスト教と仏教との教えの同一性を論証するには、更なる時間が必要ですが、その奇跡の物語の共通性を述べることは簡単です。そこで、デウスとブッダの共通事項を羅列してみましょう。
デウスもブッダもその家系は王族につながります。デウスの母マリアは、夢の中で白い鳩が体内に入り込むのを見て、デウスを懐妊するのです。それに対して、ブッダの母マーヤー妃は、白い象が天から降りてきて腹に入り、ブッダを懐妊するのです。ふたりの母は伴に、処女懐妊だったのです。
その話を聞いたマリアの婚約者ヨセフも、マーヤー妃の夫シュッドーダナ王も、その不思議な出来事を躊躇なく信じるのです。
やがて、マリアとヨセフは税を払うためよその町に旅をしている時、マリアは厩でデウスを生むのです。それに対して、夫シュッドーダナ王が税を払うため旅をしている時、マーヤー妃は羊飼いの家のかいば桶のなかでブッダを生むのです。
その誕生の時、マリアの産所が眩むばかりの光に包まれ、その星を見た東方の博士が祝福におとずれるのです。それに対して、ブッダの誕生の時、大いなる光があまねく世界を照らしたのです。
そして、幼児デウスは、空中浮遊ができたのです。それに対して、ブッダは、生まれてすぐに七歩あるいたのです。そして、宙に浮くこともできたのです。
神殿での話しで、信心深いシメオン老人は、幼児デウスを抱き、救い主に会ったので安らかに死ねると言うのです。それに対して、信心深い老人アタシは幻の中で、須弥山の神々が大喜びしているのを見るのです。何故神々が喜んでいるのかと、アタシが尋ねると、ブッタとなるものがこの世を幸福にするために生まれたからだと言うのです。
十二歳になったデウスは、神殿で迷子になってしまったと思った両親が見た光景は、そこで学者と議論をしていたのです。それに対して、姿が見えないブッダを探していた父親は、木の下に座り宗教的瞑想にふけるブッダを見つけるのです。その木陰は、夕暮れだと言うのに、真昼のように輝いていたのです。
そのようにデウスとブッダは、共通した奇跡の成長過程を経て聖者となるのです。そして、迷える民に教えを説くのです。デウスの教えでは、「殺すな、姦淫するな、誓いを立てるな、復讐するな」です。それに対して、ブッダの教えでは、「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄言、不飲酒」です。
そして、人間から神に変身するための奇跡をおこすのです。デウスは、腹を空かせる弟子達に、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させ、十二籠のパンの屑を余させるのです。それに対して、ブッダは、物乞いの鉢の中のパンをもって、弟子五百人と僧院のすべての者の飢えを満たし、更にパンを余らせたのです。
更に奇跡は続くのです。マルコの福音書によれば、デウスは弟子達を船に乗せ、自分はひとりで祈りに行くのです。そして、強風のため漕ぎ悩んでいる弟子達の前に、デウスは水の上を歩いて現れたのです。それに対して、ブッダは、雨が降りしきる中、逍遥しながら瞑想しているのです。それを心配した弟子達は、豪雨になったので、ブッダが濁流に流されてしまうのではないかと心配し、小船で探していると、ブッダが水の上にまったく濡れずに歩いているのを発見するのです。
デウスとブッダの愛弟子アーナンダの話にも共通点があるのです。不可触賎民サマリアの女に、デウスは水を所望するのです。しかし、サマリアの女は、自身の身分の低さゆえ辞退するのです。それに対してブッダの弟子は、不可触賎民チャンダーラに水を所望するのです。チャンダーラは自身の身分の低さゆえ辞退するのです。アーナンダは言うのです。「妹よ、わたしはあなたのカーストや家柄について尋ねているのではありません。あなたがわたしに飲み水をわけてくださるかどうかを尋ねているのです。」
そして、貧しい寡婦の献金の話にも共通点があるのです。ひとりの貧しい寡婦が神殿の賽銭箱に二レプタを入れるのです。その行為に対してデウスは言うのです。「貧者のわずかな献金は、金持ちのもっと多くの献金よりも価値が高い。」、それに対して、貧しい寡婦が、ゴミ捨て場で拾った銅貨二枚を布施するのです。それを目撃した阿羅漢は、金持ちの布施には注意を払わなかったが、その貧しい寡婦の敬虔さを讃える歌を歌ったのです。
詳細に調べれば、デウスとブッダとの共通点は、更に見つけることができるでしょう。では、何ゆえに、そのようにデウスとブッダとに、偶然では済まされない共通点が多くあるのでしょうか。推論できることは、それは、ふたりの「神」が、共通の物語から創作されたからです。(キリスト教と大乗仏教との共通性は、教祖の奇跡物語のほかに、色々あります。キリスト教のマルタクロスの十字架は、大乗仏教ではマンジ・卍です。ともに太陽をシンボルとしてデザインしたものです。キリスト教のロザリオは、大乗仏教では数珠です。ともに呪文の唱えた数を確認するものです。キリスト教のホーリーネームは、大乗仏教の戒名です。ともに神・仏の僕となった者の名前です。)
比叡山延暦寺での、フロイスと高僧との宗論が目に見えるようです。お互いに「悪魔と罵りあい」激論を戦わした二人は、やがて長い沈黙に浸るのです。
1570年織田信長は、大阪の地を支配する浄土真宗本願寺に対して、矢銭と立ち退きを要求するのです。大阪の地は、戦国時代の日本国最大の国際港がある処です。イエズス会を支援する国際交易商人は、その大阪の地を奪取することを熱望していたのです。
当然浄土真宗本願寺は、その織田信長の要求を拒否するのです。それは、堺を支配する三好三人衆の存在があったからです。ここに、織田信長と三好三人衆との石山合戦の初戦の火蓋が切られるのです。しかし、この戦いは、この後十年も続くのです。
織田信長の仏教組織壊滅作戦は、1569年イエズス会宣教師フロイスと京で謁見後に行われたのは、イエズス会の指示があったからでしょう。
1570年石山合戦始る。
1571年比叡山延暦寺焼き討ち。
1573年伊勢長島の一向一揆を壊滅。
1577年紀伊雑賀一揆討つ。しかし、雑賀鉄砲隊に反撃される。
1580年石山合戦終わる。加賀一揆鎮圧。
織田信長は、それらの仏教軍団との戦いでは、何万と言う非戦闘員も乳幼児も焼き殺しているのです。その行為は、悪魔の手先を「聖なる炎」で浄化するためなのでしょうか。
イエズス会が軍事援助をするキリシタン大名と連携し、矢継ぎ早に仏教軍団やそれらを支援している傭兵軍団を壊滅し、1580年大阪の地は、織田信長の軍門に下ったのです。ここに、平安時代から寺社領を自営し、僧兵の軍事力により治外法権を確立し、時には天皇に逆らい、政治をほしいままにした仏教組織を支えてきた、日本の仏教軍団は全て壊滅したのです。そして、壮大な寺社領を失った大乗仏教組織は、この後、禅宗の葬儀儀式を導入することにより、葬式仏教となって、江戸幕府の三代徳川家光からの賎民支配の手先になっていくのです。
1582年東国の覇者武田勝頼が自害すると、イエズス会の都地区支配が完成するわけです。そこで、イエズス会の次の戦略(明国征服)を実行するにも、織田信長の存在が問題になってくるのです。1576年安土城を完成させると、織田信長は、デウスの神を祀るどころか、自分を神として祀るように周囲のものに要求していたのです。
京での馬揃え(軍事パレード)を見学した主賓イエズス会日本国巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノは、日本国を商業(座・市・関所税)・金融(高利貸しの借上)・軍事力(僧兵)で支配する仏教軍団を壊滅したため、もはや織田信長の使命は終わったことを、イエズス会地下組織に知らせるのです。そして、1582年6月2日に本能寺での暗殺が成功したことを、安土城で知ったアレシャンドロ・ヴァリニャーノは、高山右近ジュスト(織田信長の暗殺に関わった千利休は、高山右近ジュストの茶道の師匠です。織田信長の茶頭だった千利休は、暗殺後、羽柴秀吉の茶頭に抜擢されるのです。)に、ポルトガル語で密命を出すのです。その内容は、「明智光秀に味方するな、羽柴秀吉に味方せよ。」と言うことです。(このキリシタン大名高山右近ジュストの明智光秀に対する裏切りが原因となり、江戸時代に明智光秀の末裔春日局による、百済の血が流れる三代将軍徳川家光をして、キリシタンの秦氏・源氏末裔が賎民・穢多としてイジメられていくわけです。)
1582年織田信長の暗殺後、数日して、明智光秀軍と羽柴秀吉・高山右近ジュスト軍との戦いが山崎にておこなわれるのです。この山崎の弔い合戦は、正親町天皇から「刀」を享け賜っている明智光秀軍の官軍対賊軍羽柴秀吉(織田信長はこの時点で賊軍であった。)であったのが、旗色の悪い明智光秀軍を正親町天皇は見限って、羽柴秀吉に「刀」を授けることにより(官軍に変身)、その立場が逆になってしまったのです。つまり、初戦は官軍明智光秀対賊軍羽柴秀吉であったのが、途中で明智光秀軍は、主君織田信長を暗殺した極悪賊軍に貶められてしまったのです。
1582年山崎合戦の羽柴秀吉の勝利を確認したイエズス会日本国巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノは、日本国征服完了の報告をローマ教会のグレゴリウス十三世にするために、日本国を旅立つのです。
しかし、インド管区を任されたアレシャンドロ・ヴァリニャーノは、1581年(天正9年12月)豊後管区支配の大友宗麟(フランシスコ)、下区管区支配の大村純忠(バルトロメオ)に命じて派遣した、十三歳の伊藤マンショ他三名の少年使節団と伴にローマ教会には行けなかったのです。1585年日本国キリシタン使節四名は、アレシャンドロ・ヴァリニャーノをインドに残し、ローマ教会グレゴリウス十三世に謁見するのです。(アレシャンドロ・ヴァリニャーノの、デウスの誕生を祝う東方の三博士にちなむ、演出により東方よりの日本人キリシタン三名が謁見した。)1590年インドで待機していたアレシャンドロ・ヴァリニャーノは、ローマ少年使節団を伴って再度来朝するのですが、その留守中の八年間で日本国の政治が激変していたのです。それは、1587年九州の拠点イエズス会二管区を支配していた大友宗麟と大村純忠とは共に死去していたからです。
その激変の原因は、1585年羽柴秀吉が、藤原氏の末裔近衛前久の猶子となり、名義上藤原氏となったからです。そして、出自不明の賎民であった日吉(イルギ)丸が、織田信長が熱望しても手に入れることができなかった「関白」になったからです。この羽柴秀吉の大昇進の謎は、天皇家・藤原氏と織田信長暗殺、明智光秀謀殺とが大いに関係があると言われています。
1587年豊臣秀吉は、九州を平定すると、今まで一緒に戦ってきたキリシタン大名を弾圧し、キリスト教宣教師を追放するのです。この豊臣秀吉のキリシタンから大乗仏教組織への乗り換えは、織田信長暗殺直後からおこなわれていたようです。それは、織田信長が、仏教勢力が支配する「座」を解体し、1577年に安土城下を「楽座」としたのに、織田信長暗殺直後には、大山崎の油座を復興させていたからです。
藤原氏に取り込まれた豊臣秀吉は、1590年最後の抵抗勢力小田原の北条氏を成敗し、全国統一を果たすと、同盟者であった徳川家康を関東に移封するのです。それは、徳川家康を軍事的に支持する秦氏末裔の忍者服部氏や源氏武士末裔の勢力を、藤原氏末裔が恐れたからです。潜在的脅威の徳川家康が移封されたそのころの関東は、荒川・利根川の支流が奔放に流れ葦が茂り、ひとも住ぬ大湿地帯であったのです。
豊臣秀吉は、そのようにイエズス会に軍事援助された織田信長軍を構成していた軍団組織を、謀略で次々と壊滅させ、それに反して、旧勢力である仏教組織復活に対しては多大な援助をするのです。大阪の地にあって織田信長に破壊された、藤原氏の流れにある日野家の親鸞が興した浄土真宗の石山本願寺を、1591年京都六条堀河に移建するのです。そして、織田信長により破壊された比叡山延暦寺再興にも手を貸すのです。
その豊臣秀吉の仏教勢力援助の企みは、織田信長の仏教イジメの怨念を利用して、仏教組織による日本イエズス会キリスト者を壊滅するための手段だったのです。つまり、藤原氏得意の戦術、「夷を以って、夷を制す」です。
1588年豊臣秀吉は、大仏建立の名目で武器の拠出令を発するのです。これが刀狩令と言われているものです。(実際は、金銅製ではなく、木造に漆金箔塗装仏像を制作。狩り集めた刀や武器は、明国侵略のために使用するため。)
そして、1591年豊臣秀吉は、701年藤原不比等による氏族の私有地を没収して中央集権を目指す大宝律令を模倣したような、全国戸口調査をおこなうのです。この流れは、中央集権確立を目指す豊臣政権の抵抗勢力壊滅のための戦術です。そして、反体制武力勢力を排除するために、士農工商の身分法を定めるのです。そして、豊臣秀吉による、怨念募る仏教組織を手先にして、織田信長軍残党、そしてキリシタン武士の残党狩りが行われていくのです。
織田信長がヨーロッパの築城思想を真似て造った天主閣のある安土城の築城から始まる城下町の開発が他国にも普及したことにより、従来の武家屋敷も町民家も無秩序に建てられていた街づくりが変化していくわけです。豊臣政権の街づくりにおいて、反体制武闘勢力壊滅のための戦術として、穢多村を発明するわけです。その市街地から隔離された穢多村に、刀狩で武装解除された反体制派勢力を押し込めて、庶民との分離をおこなうことにより、再び武装蜂起を行えないようにするわけです。
何故、村の鍛冶屋は、村外れに在るのでしょうか。それに、何故に「馬」に関する蔑称もしくは「負のことわざ」が多くあるのでしょうか。それは、戦国時代に反王権で活躍した部族が、産鉄民族末裔と騎馬民族末裔であったからです。その戦闘力に脅威を感じた藤原氏傀儡の豊臣秀吉は、その対策として、平安時代と鎌倉時代の騎馬民族抹殺の戦術を再びおこなうのです。
鉄の加工品を作るには二通りの方法があります。ひとつが鋳型で作る鋳造法で、もうひとつが鉄を叩いて加工する鍛造法です。鉄の鍛造法は、紀元前14世紀ヒッタイト(紀元前1900年〜紀元前1190年)→古代エジプト(紀元前2890年〜紀元前525年)→ギリシャ都市国家(紀元前3000年〜紀元前146年)→騎馬民族国スキタイ(紀元前900年?〜紀元前400年?)→チュルク系騎馬民族国匈奴(紀元前300年?〜紀元100年?)→金冠の女帝王国新羅(紀元356年〜紀元528年までギリシャ・ローマ文化保持国〜紀元935年まで仏教国)→四世紀の日本列島に、騎馬・遊牧民族と伴に渡来した技術です。(現在、東アジアで馬冑が出土しているのは新羅と紀伊の古墳だけ。)この鉄工具により、四世紀に出現した古墳の石棺が、エジプトの石棺と同じ寸法単位のキュビトで、造られたわけです。そして、エジプトの石切技術だけではなく、重い石を運ぶための運河掘削技術、重い石を組み上げる技術などが渡来していたのです。チュルク系騎馬民族末裔蘇我氏が支配する飛鳥時代の不思議な石物遺跡は、それらの技術で制作された装飾品と産業物資(鉄・水銀・朱砂・油)を生産するための石製道具です。
これらのハイテク技術を継承して豊臣政権にまつろわない秦氏末裔は、王権にとっては最大の潜在脅威です。現に、戦国時代の徳川家康を擁護する忍者部族服部氏は、秦氏末裔なのですから。
戦国時代の一揆の広がりは、騎馬民族末裔の「座ネットワーク」と「馬」による情報伝達によることが大きかったのです。ですから、豊臣政権にまつろわない騎馬民族末裔は、王権にとって、秦氏末裔と同じに潜在脅威だったのです。そこで、まつろわない秦氏末裔と騎馬民族末裔を、押し込めるために開発されたのが、水堀で囲んだ地の穢多村だったのです。
穢多とは、百済鎌倉時代に比叡山の大乗仏教により、インドの民族差別思想のカースト制度外の不可触賎民セダラを基に発明され、王権にまつろわない騎馬民族を貶めるために布教された言葉です。(賎民の先祖を持つ織田信長が、焼き討ちにより比叡山の全僧を「欺瞞者ども」と言って斬首したのは、延暦寺僧が穢多思想を発明し、法華経により仏罰者・民族差別思想を布教したからかもしれません。)
この戦国時代に発明された穢多村は、平安時代の京都百済王権に逆らう秦氏末裔や天武王朝末裔の捕虜収容所の、別所、湯浅、垣内などと同じに、血の禁忌の穢れ思想を布教する、京都百済王権を守護する大乗仏教により再び民族差別を受けるのです。
仏教者が、騎馬民族の生業の皮革作りを賎業の「皮剥ぎ」と蔑んでいますが、皮革作りは誰でもできるものではなく、大量の塩・油・水を必要とするハイテク技術を必要とするのです。
大量の塩・油を入手するには、塩を生産する海洋民族や油を生産する山岳農耕民族との交渉や交易が必要なのです。それに、古代・中世・近代まで「皮」は、武具や防具を作る材料として重要な軍需物資でもあったのです。鎌倉時代、山崎の油座組織は、灯油用としてだけではなく、武具生産のため製皮用油の大量需要を満たすため、全国から油を集め、そして製皮業者への油供給源としてでもあったのです。
豊臣政権は、穢多村を貶める演出のために、平安時代と同じように、法華経で宣伝する仏罰者ハンセン氏病者を穢多村に押し込めるのです。その一般の者が近づかない仏罰者のいる穢多村に、豊臣政権の過酷な残党狩りから逃れるキリスト者が助けを求めて多く集まるのです。
1587年の豊臣秀吉によるキリスト教宣教師の追放の知らせをインドで聞いた、ローマ少年使節を随行したアレシャンドロ・ヴァリニャーノは、イエズス会巡察師としては日本国に入国できないので、インド副使の名目で、1590年再度渡来するのです。しかし、アレシャンドロ・ヴァリニャーノが出国した1582年当時の羽柴秀吉は、今では藤原氏に取り込まれ関白豊臣秀吉となって、キリシタンを迫害していたのです。
イエズス会の衰退は、母国ポルトガルとイスパニアが、新興海賊国家イングランド王国に海上制圧権を握られてしまったからです。1588年にはイスパニア無敵艦隊が、イングランド艦隊に負滅されてしまったのです。その原因は、航海術と砲術の差です。
戦国時代の石山合戦の雑賀海賊と毛利海軍連合軍とが、織田信長海軍に大敗をしたのも、1576年織田信長海軍が、ポルトガルから援助された大砲を船に装備したからです。雑賀・毛利の手投げ式火炎弾と艦船大砲とでは、海戦にもなりません。(歴史小説では、織田信長が鉄鋼船を建造したことになっているようですが、その史料がありません。史実は、戦艦砲を装備した軍艦でしょう。)
豊臣秀吉のキリシタン追放に武力で逆らうにも、イエズス会が今までのように軍事援助をできないため、武器弾薬が枯渇したキリシタン大名以下は、改宗するか逃亡するかの二者択一だったのです。
1582年山崎合戦で、羽柴秀吉の賊軍を援助したキリシタン大名高山右近ジュストも、関白豊臣秀吉に、改宗を迫られていたのです。しかし、高山右近ジュストは、大名の地位を捨て、キリスト者として生きていくのです。他のキリスト者が過酷な責めにより命を落としていくのに、高山右近ジュストは、山の民を相手に布教活動を続けるのです。
山の民の多くは、古に異教の王権により都から追放された、太陽・月・星を祀る秦氏や源氏か蘇我・天武王朝の元王族・貴族の末裔なのです。反王権の山の民に護られた高山右近ジュストには、関白豊臣秀吉でも手が出せなかったのです。(比叡山延暦寺を保護する百済系桓武天皇は、星祭を禁止するのです。新羅系天武天皇は北極星(太一)を祀っていた。それは、星を祀るのは、仏教徒ではないからです。現在でも警察隠語で「星」は犯人の意味です。)
豊臣秀吉が、1598年死去し、1600年徳川家康が天下を執っても、高山右近ジュストの山の民への布教活動は続くのです。
しかし、徳川家康が、実権を二代徳川秀忠に譲り、明智光秀配下の娘春日局(百済の血が流れる三代徳川家光の乳母。一説には徳川家光は、二代徳川秀忠の子ではなく、徳川家康が側室に生ませた子と言われている。)が、老齢の徳川家康に近づくと、1614年高山右近ジュストは、マニラに追放されてしまうのです。これは、山崎合戦で、高山右近ジュストがアレシャンドロ・ヴァリニャーノの密命で、明智光秀を裏切って、羽柴秀吉を援助した因果であったようです。
1582年京の都で織田信長による軍事パレードで歓迎されたイエズス会日本巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノは、デウスの神を敬わない織田信長を暗殺させ、そのイエズス会日本国軍大将に、明智光秀ではなく、羽柴秀吉を抜擢して、日本国征服完了報告をローマ教皇に報告して、イエズス会日本国軍を組織して明国征服を企てていたのが、羽柴秀吉の藤原氏への寝返りのため、失意のどん底状態で1590年にインド副使として再渡来し、関白豊臣秀吉に謁見したのです。
もはや、イングランド海軍に破れたイスパニアに軍事援助されていたイエズス会には、東洋世界支配の計画を遂行する軍事力も経済力もなかったのです。しかし、関白豊臣秀吉は、イエズス会の最終征服国の明国を侵略する東洋世界征服計画を続行するのです。
1589年豊臣秀吉は、明国征服のため、日本軍が朝鮮半島を通過するための布石として、朝鮮国(1392年〜1910年)に朝貢を促すのです。そして、1591年に豊臣秀吉は、フィリッピンに原田孫七郎を派遣して入貢を促すのです。
太閤検地、刀狩、士農工商の身分制度などにより、反体制派武装勢力を壊滅し、1590年最大のライバル徳川家康を関東の僻地へ移封し、中央政権を確立した豊臣秀吉は、1592年(文禄の役〜1596年)朝鮮半島に侵攻するのです。それは、明国征服のためです。
朝鮮国は、日本国と同じに、征服民族と被征服民族との二重国家です。豊臣秀吉軍の進撃を朝鮮被征服民族は、解放軍として向かい入れたため、初戦は破竹の勢いで朝鮮半島奥深くまで攻め込むのです。しかし、朝鮮海軍の奮闘により日本国からの補給路を断たれて、1596年和平を結び、豊臣秀吉軍は朝鮮半島を撤退するのです。この和平は実はウソで、明援軍の将校と豊臣秀吉軍の将校とが、互いに勝利したと国に報告したことにより締結されたのです。
このことは、豊臣秀吉に明国正使が謁見した時に発覚してしまったのです。それは、朝貢に来たのかと思った明国の正使が、実は明国への朝貢を促しに来たからです。このことに激怒した豊臣秀吉は、1597年(慶長の役〜1598年)再び朝鮮半島に侵攻するのです。この侵略戦争は、翌年1598年豊臣秀吉の死去で終わるのです。
豊臣秀吉が死去すると、磐石と思われた豊臣政権も揺らいでくるのです。それは、文禄の役と慶長の役により軍事力と経済力とが削がれてしまったからです。そこで、反体制勢力が再び台頭してくるのです。その頭が、関東の徳川家康です。
徳川家康は、歴史教科書で述べているような人物ではないようです。徳川家康には、戦国武将とは異なる逸話が多くあります。それらは、薬草・薬学・医療に詳しい。(薬草は神濃様の管理下にあるといわれ、その神濃様は反体制の役座の神様です。チュルク系騎馬民族蘇我氏は、六世紀の「ヤマト」で薬草を採取していた。遊牧民は、家畜の出産やケガの治療のため外科手術ができた。ヒンズー教化仏教の血の穢れ思想が支配する中世から近世までは、正当医療は加持祈祷です。外科医の仕事は賎業だった。)弓馬ができる。(農耕民族は、乗馬が苦手。ましてや、弓馬は子供の頃から訓練しないと出来ません。)鉄砲術が優れている。(戦国時代の武士階級は、砲術を軽蔑していた。)賎民と言われる忍者と直接話しをする。一向一揆に参加した武将を何の咎めもなしに再雇用している。戦国武将は、それらのことはしません。何故、徳川家康がそれらの逸話を持っているのかは、それは徳川家康が賎民出身であれば納得できます。
徳川家康が、賎民に対して寛大であるのは、都落ちして関東に入る時、穢多頭の弾佐衛門が鳥越まで出迎えにきていたのです。そして、徳川家康が天下を取ると、源氏発祥の地・大阪の地を追われ、藤原氏傀儡の豊臣秀吉により穢多村に貶められた渡辺村を、役人村に引き上げているのです。(藤原氏は、古来より武闘派源氏系と謀略派百済系「日本書紀を新羅系を不利に、そして百済系有利に改竄。ヒンズー教化仏教・天台宗で血の禁忌・地獄思想を布教。法華経布教のため、仏教キャラクター聖徳太子を発明。中国土着神山王を日枝・日吉神に変身させる。」を交互に利用して、権力維持をしてきたのです。)
関東の僻地は、秦氏末裔の運河掘削技術、そして土木技術により、利根川・荒川の流れを変えることにより、関東平野は広大な農地として生まれ変わったのです。そして、江戸城は、神田堀の残土により十メートルの人工山の上に建造され、その堀の下には抜け道まで造られていたのです。(東京八重洲口のヤエスの語源の徳川家康の顧問ヤン・ヨーステンは、屋敷から地下道を通って江戸城に登城していたのです。)
そのように、賎民といわれる秦氏末裔や源氏末裔の援助の下に、徳川家康は、豊臣秀吉により関東に移封されてから十年間で軍事力を蓄えていくのです。そして、1600年自称平氏を名乗る豊臣軍団と自称源氏を名乗る徳川家康軍団とが、関が原で合戦を行うのです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/839.html
コメント [カルト14] 安倍の中東訪問に脅迫をぶつけたイスラム国ですが、衆院選はスルー、バグも米英イも安倍もグルという事です。 小沢内閣待望論
04. 2015年1月31日 19:14:35 : Ma5RZiiuic
「人命は地球より重い」云々と福田首相が言った70年代に極左が暴れまくったが、80年代に何故か沈静化
そして90年代はオウム、2000年代はイスラム過激派がブーム
恐らく極左→オウム→イスラム過激派というのは別物に見えるが、日本社会を警察国家にする為の装置である事は一貫していると思う
騒ぎを起こさなくなってからの赤軍派が一体何をやってきたのかは気になる
今の政治状況というのは決して安倍や麻生、石破ら自民幹部数人の昨日今日の思いつきで出来たものではなく、戦後70年かけて朝鮮や中東も利用しつつ緻密に作ってきたものだと思う
http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/139.html#c4
コメント [経世済民93] 大幅に利益を減らした三越(NEVADAブログ) 赤かぶ
04. 2015年1月31日 19:15:00 : ZzwMOgOglc
景気低迷をもろに受けるのは、法人外商だろな。
後、三越はなんかジジババの行く店って感じなんだよね。
デパートの巣鴨だな、名前もジジババに受けそうな越後屋
に戻せばもっとジジババが集まるかも。
http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/342.html#c4
コメント [カルト14] 安倍の中東訪問に脅迫をぶつけたイスラム国ですが、衆院選はスルー、バグも米英イも安倍もグルという事です。 小沢内閣待望論
05. 2015年1月31日 19:15:01 : EpB26rYQ0Q
たいぼうさんの解説は いちいち 理にかなっており敬服させていただきだいてます

ヨルダンも、パイロットの生存を確認させないと
死刑囚を死刑にするぞ!
と、脅しに転じてるとのダマスゴミ報道があり

内心 やるじゃないか と 思っています
http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/139.html#c5

コメント [政治・選挙・NHK178] 「これまで日本人が中東に築いてきた大切な財産を、死の商人安倍が、ひとりで破壊している。:兵頭正俊氏」 赤かぶ
20. 2015年1月31日 19:15:02 : l99WPjCSTc
大日本帝国ってこんなんだった。

歌は

”見よ東海の空開けて、旭日高く輝けば、天地の世紀溌剌と、希望は踊るオオヤシマ”

まあ、カラ元気だったな。神風を信じていたから、戦争には負けないと教えられていた。

まじでね。キチガイだね。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/847.html#c20

コメント [政治・選挙・NHK179] 日本の恥! またネトウヨがデマ拡散(simatyan2のブログ) 赤かぶ
07. 2015年1月31日 19:15:06 : BLqL2LUvlg
在日朝鮮である可能性は一旦疑ったほうがいいことは確かだと思う。
腐った政府官僚に多い血筋であり犯罪率が高いのは間違いの無いことだから。
イスラム国は身代金口座が封鎖され計画変更をしたとの説もありグダグダ。
もはや別の力が米英イを操っているようにも見える。


http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/121.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK178] 歴史の岐路で国民を見捨てるのか、日本共産党(街の弁護士日記) 赤かぶ
10. 2015年1月31日 19:15:44 : oLedMC3kHo
私は昨年末の選挙、小沢さんの民主党との連携を反対するのに社民・共産と何回もコメントしてしまいました。結果的に共産党の応援になってしまいました。

選挙後共産との連携は反対しようとコメント入れましたが、とにかく共産党がしつこく追いかけてきます。とても不気味に怖く思っています。
   
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/910.html#c10

記事 [近代史02] 神輿の黙示録(12)(日光東照宮の謎:江戸時代とは第三百済王朝か)
「歴史とは何か?」と、問われれば、それは、「個人の経験の枠を超えた事象を集めて、物語を綴ったもの。」と言うことが出来るかもしれません。つまり、歴史は、誰が実験しても同じ結果が出る「化学・科学」とは異なり、個人の解釈により色々な結果を導く「文学」の範疇にあるのです。
そこで、歴史物語を綴るため、史料集めをおこなうわけです。しかし、そこで問題が起こるのです。それは、大多数の「公の史料」は、敗者側ではなく、勝者側のものであるからです。それは、「歴史は強力な武器」となるからです。政権を転覆させた王権が最初に行うことが、前政権の歴史を消すための「焚書」と「歴史改竄」です。ですから、歴史を敗者側から眺めようとしても、それが思うようにできないのです。
例えば、「ヤクザ」の歴史を調べようとしても、まともな史料が存在しないため、できないのです。それは、「ヤクザ」は、敗者側のひとであるからです。権威ある辞書でも、ヤクザの家業のサイコロ賭博からきたもので、「893」がその語源である、と掲載しているものもあるほどです。
ヤクザの家業の「賭博、高利貸し、売春」は、埋もれた歴史を丹念に調べれば、平安時代の仏教組織が貴族相手に盛んにしていたことであることがわかるのです。平安時代の賭博は、双六賭博、碁・将棋です。高利貸しは、「借上」と言われていました。売春は、比丘尼と言われる剃髪の女性が「聖婚」としておこなわれていました。これらのことは、治外法権の寺内でおこなわれていたのです。ですから、バクチでのチップ(手数料)は、「寺銭・テラセン」と今でも言われているのです。
ヤクザの発生は、源氏三代滅亡後の鎌倉時代に、北条政権により都を追われた賎民が生き残るために、怨霊封じ込め施設である神社内に集まり商売をしたことから始るようです。その同業者組織を、「座」というわけです。賎民商売のため、神社境内でおこなわれるバザール(屋台)で、勝者がイジメ(夷絞め)をするわけです。そこで、座を仕切る(商売を邪魔する者から護る)者が現れるのです。その役の者を、「役座」と言ったわけです。役座は、弱い立場の者を勝者側から護るひとであるわけですから、弱い立場のひとのこころとの距離を縮める役でもあるため、「任侠」とも言われたわけです。
鎌倉時代、王権に迎合する仏教組織は、まつろわぬ秦氏末裔と源氏末裔を賎民に貶め、更に仏教の血の禁忌思想により、インドの不可触賎民セダラを真似して、「穢れ多し」の「穢多」の蔑称を発明するわけです。その賎民穢多の頭が弾佐衛門と呼ばれるわけです。つまり、弾左衛門は、賎民の商売を仕切る「役座」の親分格であるわけです。
1590年藤原氏に取り込まれた関白豊臣秀吉が、宿敵徳川家康を、人も住めぬ関東に移封するのです。その関東への移封の時、弾左衛門は、徳川家康を鳥越で出迎えるのです。
この弾左衛門と徳川家康との関係は、どのように説明できるのでしょうか。
賎民頭である弾左衛門支配地は、関八州を中心に西は中部、東は奥羽まであったのです。そして、江戸幕府関東直轄地と弾左衛門支配地とが重なるのはどうしてでしょうか。更に、徳川家康存命中は、弾左衛門は羽織袴帯刀で籠により江戸城に登城していたのです。そして、弾左衛門は、江戸幕府と異なる税徴収、裁判・刑罰、政治機構で関八州の支配地を経営していたのです。これは正に日本国の中に賎民独立国が、関東には存在していたのです。
そこで、徳川家康を調べれば、賎民独立国の成立過程と、そしてその独立国が崩壊し、どのようにして日本版カースト制度が江戸時代に完成したのかを知ることができるかもしれません。
徳川家康の賎民性を示すひとつの事例として、三代徳川家光の乳母春日局の「東照大権現祝詞」によれば、三歳の家光の病を徳川家康自身による薬草の調薬により回復させた、とあることです。薬草や外科手術などによる治療行為は、宗教者による加持祈祷全盛の時代では高貴なひとはおこなわなく、賎民でしか行わないことです。つまり、薬草に詳しいことは、高貴な生まれなどではなく、そのような環境に育ったことの証明となります。
では、徳川家康は、どこで育ったのでしょうか。教科書歴史では、三河と言うことになっているようです。しかし、それには疑問符がつくのです。
一般的には、ひとはあの世に旅立つと、その墓は生地に埋葬されるのが普通です。しかし、1616年徳川家康が、75歳で死去すると、最初の埋葬地が久能山であるのです。三河と久能山が近いからこれは理解できます。しかし、翌年栃木県の日光に改葬されているのです。これは理解できません。三河と日光との関連性がないからです。
このことは、ものの本の説明によれば、江戸の鬼門が日光だから、江戸を護るために、徳川家康の墓は、久能山から日光に改葬された、というのです。しかし、これも納得できません。だったら最初から日光に埋葬しなかったのは何故でしょうか。
この日光改葬には、何かの謎があるようです。
日光の地名は「二荒・にっこう」の音読みと言われています。日光輪王寺の前身は、782年勝道上人が四本竜寺を建立したのが始りのようです。寺の表の機能は、仏像を安置することです。しかし、裏の機能は、山城で砦の機能を持っているのです。修験道者の表の行動は仏教修行の山登りですが、裏の活動は鉱脈の開発です。山岳修験者が携帯する金剛杖は、固い岩を砕き鉱脈を探索する道具なのです。
では、日光の山々には何があったのかと言えば、男体山の山中には、大砂鉄層があったのです。その証拠に、古代から中禅寺湖の中宮祠付近では産鉄が行われていたのです。山岳修験者が、その先住産鉄民族末裔の地を略奪して、砦を建てたのが日光輪王寺の前身四本竜寺だったのです。
その日光近くの世良田部落は、産鉄民族末裔が住んでいたようです。一説には、徳川家康は、その世良田部落から、ひとさらいにより拉致されて、松平氏からの今川氏への人質として三河に銭五貫で売られてきた、と言われています。
日光輪王寺に奉納されている「家光公の御守袋」には、家光直筆の「二せこんけん、二せ将くん・二世権現、二世将軍」があるのです。これはいったい何を意味しているのでしょうか。家光は、二代ではなく、徳川三代将軍なのです。二代将軍は徳川秀忠です。そして、更に納得できないのは、徳川家康の東照宮の横には、二代将軍の秀忠ではなく、三代将軍家光の「大猷院・たいゆういん」があるのです。秀忠の墓は、江戸芝の増上寺(増上寺は浄土宗・日光東照宮は天台宗。徳川家の宗教組織が二派にわかれている。これはどのように説明されるのでしょうか。)に葬られているのです。
徳川三代の宗教の違い(浄土宗と天台宗)も不可思議ですが、この徳川三代の政治も不可思議です。
初代徳川家康は、関が原合戦の二年半後の1603年征夷大将軍に任ぜられたのですが、その二年後1605年二代徳川秀忠に征夷大将軍を譲ってしまうのです。しかし、その後も「大御所」として実権を握り続け、1615年大阪夏の陣と冬の陣で、豊臣家を滅亡させるわけです。
そして、1616年てんぷらの食べ過ぎで、75歳で没するのです。(一説には毒殺。)それに対して、1605年二代将軍の座に着いた徳川秀忠も、1623年には十九才の徳川家光に征夷大将軍を譲ってしまい、徳川家康に倣い「大御所」として駿府城に居を構えるのです。
しかし、二代目の「大御所」は、徳川家康と異なり、独自の政治ができなかったのです。それは、三代将軍徳川家光も、春日局をバックにして、秀忠の大御所政治に介入したからです。つまり、「大御所」(西の丸年寄)対徳川家光(本丸年寄)の確執です。(何故春日局は、「大御所」と対等の権力があったのでしょうか。)
そして、1632年二代将軍徳川秀忠が、五十四歳で死去すると、その秀忠の家臣団は、三代将軍徳川家光により排斥されるのです。つまり、徳川家康の従来からの家臣が、政治的に抹殺されるのです。これは正に、鎌倉源氏三代滅亡後に、百済系平氏末裔・北条氏による源氏軍団抹殺と同じです。
1632年三代将軍徳川家光は、公方として親政を始めるのです。そして、徳川家康から疎まれた外様系大名を招集し、老中・若年寄・奉行・大目付の制度を定め、諸士法度を制定し、1635年には、徳川家康による武家諸法度を改定し、大名に参勤交代を義務付けるのです。そして、1637年島原の乱を経て、1641年鎖国を完成させるのです。
この三代将軍徳川家光には、賎民を保護した徳川家康の血が流れていないようです。それは、徳川家光の三男五代将軍徳川綱吉は、天台宗の血の禁忌思想の流れにある「生類憐みの令」を発令して、騎馬系賎民の生活を破壊したからです。
何故三代将軍徳川家光が、徳川家の浄土宗ではなく、百済系桓武天皇が保護した天台宗であるのかは、家光の妹和子(東福門院)が後水尾天皇の中宮として入内して、皇女興子内親王(後の女帝明正天皇)を生んでいたからです。つまり、三代将軍徳川家光は、百済系女帝明正天皇の伯父であったのです。
初代日本国天皇・新羅系天武天皇は、北極星(太一)を祀る道教信仰であったものが、平安時代の百済系桓武天皇は、星祭を禁止して、最澄をして、中国から天台宗を導入していたのです。つまり、桓武天皇系は、天武天皇系の北極星(太一)ではなく、天台宗の仏を祀っていたのです。だから、三代将軍徳川家光は、百済系後水尾天皇の姻戚でもあるわけですから、騎馬系民族にも布教する浄土宗ではなく、反騎馬系の天台宗の仏を祀っていたのです。
では何故、浄土宗の徳川家康が、天台宗の日光輪王寺に祀られたのでしょうか。これには何かの謎があるようです。
1603年から1623年までの初代徳川家康から二代目徳川秀忠との政治と、1632年以降の三代目徳川家光との政治において、賎民に対する態度が全く異なっているのです。
1615年大阪夏の陣・冬の陣により、徳川家康は、藤原氏傀儡政権の豊臣家を滅ぼすと、武家諸法度と禁中並公家諸法度を制定し、抵抗武装勢力、朝廷と宗教集団を統制し始めるのです。それは、朝廷勢力は、奈良時代より宗教集団(奈良時代の藤原氏の興福寺・春日社。平安時代の百済系延暦寺・日枝・日吉神社)を利用して、仏教武装集団を背景に政治に介入してきたからです。
戦国時代に、織田信長により仏教軍団が壊滅される以前は、仏教組織はその軍事力と経済力と呪術力により、「さいころの目・加茂川の流れ・僧兵」には手が付けられないと言われるごとく、天皇家を上回る権勢を保持していたのです。
その織田信長に壊滅された仏教組織は、関白豊臣秀吉の援助により、再び勢力を増していたのです。特に、百済系天皇家と深い結びつきのある延暦寺復活には、自称源氏の徳川家康は警戒していたのです。そこで徳川家康が、1615年禁中公家諸法度を発令し、みだりに僧侶に対して朝廷が、紫衣と上人号を与えない方策を考え出したのです。
その方策に対して、朝廷と宗教組織が猛反対したのです。何故、その方策に朝廷と宗教組織が猛反対したかは、紫衣(紫衣は、道教思想の北極星・天皇の側近が着たものです。何故仏僧が、道教の衣を着るのでしょうか。儒教では、紫衣は下賎と決め付けている。)の朝廷からの授受は、宗教組織の権威付けを増すからです。その授受の見返りに対して、朝廷は莫大な献金を受けるわけです。つまり、紫衣の朝廷から僧侶への授受により、朝廷と宗教組織との利害関係が強く増していたのです。
紫衣の朝廷からの授受禁止の戦略は、朝廷と宗教組織との関係分断と、朝廷経済の圧迫を狙った、自称源氏棟梁の徳川家康の戦略だったのです。
大御所の徳川家康が存命中は、朝廷勢力は、この「勅許紫衣法度」に素直に従っていたのが、徳川家康が1616年没するとしばらくは情勢を窺がっていたのが、二代目秀忠大御所の時、後水尾天皇は財源確保のため、従来の慣例どおり、幕府に諮らずに十数人の僧侶に、宗派を問わず紫衣着用の勅許を与えてしまったのです。
1627年幕府(幕府内は、大御所・秀忠(西の丸年寄)対徳川三代家光(本丸年寄)と対立していた。)は、朝廷が幕府に事前に相談がなかったことを理由に、勅許紫衣法度違反とみなし、勅許状無効の宣言をするのです。この処置に対して朝廷は、徳川家康の時代とは異なり、強く抗議したのです。これが1629年の紫衣事件と言われるものです。この紫衣事件の決着の過程で、不思議な現象がおこるのです。
それは、後水尾天皇の怒りを静めるために、幕府より無位無官の中年女性「お福」が使わされるのです。お福とは、三代徳川家光の乳母のことです。この当時、無位無官では、どのような者でも天皇に拝謁できないのに、何故お福にはできたのでしょうか。そして、不思議なのは、お福は、後水尾天皇より、「春日局」の名称を受けるのです。この事件の背後には藤原氏が居たことが想像されます。それは、この「春日局」から、藤原氏の氏神を祀る「春日社」が連想されるからです。(山崎合戦で、イエズス会日本巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノの密命で、高山右近ジュストと徳川家康が、官軍明智光秀を裏切って、賊軍羽柴秀吉に加勢したことに対する復讐に燃える明智一族末裔「お福」は、天皇を裏でコントロールする藤原氏末裔近衛家により、徳川家に送り込まれた「駒」であった可能性があります。春日局が、「おんな」を使い将軍をコントロールする戦術は、正に藤原氏の戦術そのものだからです。)
結局、幕府(大御所側の西の丸年寄)は、その朝廷からの紫衣授受を無効として、1629年命令に従わなかった大徳寺の住職沢庵・前住職宗珀、妙心寺の単伝・東原を流罪としたのです。この処置に抗議したのか、後水尾天皇は、突然退位してしまうのです。そして、即位したのが、三代徳川家光の妹和子(東福門院)が生んだ皇女興子内親王が、1629年に第109代女帝明正天皇として即位するのです。
しかし、この事件処置の沢庵の流罪も、1632年二代将軍徳川秀忠の「大御所」が没すると、三代将軍徳川家光により許されるのです。そして、徳川家康の三河譜代から苦労してきた忠臣団(家康家臣団には、浄土宗のみならず、元一向宗・浄土真宗信者が多くいた。)は、三代将軍徳川家光により、遠方移封かお家断絶の憂き目に会ってしまうのです。(江戸時代半ばには、「三河譜代と犬のクソ」と蔑まされたのは何故か。)
そのような反家康(源氏)親百済(平氏)とも疑える三代将軍徳川家光により、日光東照宮が建立されるのです。(1617年二代徳川秀忠により改葬のために、日光輪王寺境内に建立された質素な寺は、後に三代徳川家光により、世良田村に移築されてしまうのです。)そして、江戸城は、1603年徳川家康により人工山に建設されていくわけです。そして、1636年徳川家光の時代に江戸城が完成するのですが、その城下町は、百済系桓武天皇による平安京に倣って、陰陽学の四神相応の原理(東に青龍の利根川、南に朱雀の江戸湾、西に白虎の東海道、北に玄武の日光連山)に基づき、天海の天台密教の加持祈祷による幕府護持の法力により造られたと言われているのです。
徳川家康の家臣団からも分かるように、徳川家康の出自は騎馬系色(源氏)が強く、その浄土信仰からも分かるように、反天台宗(反百済平氏)であるわけです。その徳川家康が、百済系天台宗の日光輪王寺に祀られることが、常識的にあるものなのでしょうか。その謎を解くヒントは、1624年に建立された日光東照宮陽明門にあるようです。それは、陽明門の真上に北極星(太一)があるからです。
北極星は、新羅系天武天皇が祀った神聖な星(天の皇)です。それが何故、反新羅の百済系天台宗の陽明門の真上にあるのでしょうか。
星(自然神)を祀る民族は、反仏教(仏教は人工神)です。ですから、奈良時代、藤原氏は反仏教民族を取り込むために、仏教の興福寺の他に、春日若宮なる神を発明したわけです。では、平安時代の百済系桓武天皇にとっては、反仏教に対抗する民族を取り込むための神は何かと言えば、それは日枝(イルギ→日吉・ヒヨシ)の神であるわけです。その神は、元々は中国山東半島から渡来した中国土着の神・山王(シャンワン)です。
この山王は、比叡山延暦寺により、山王一実神道の神に変身し、天台宗の教理「三諦即一」(空・仮・中の三諦は本来は一つと言う意味。ミトラ教の「三神一体」と同じか。キリスト教は、そのミトラ教の教義を導入し「三位一体」と言った。)を、「山」は縦棒三本横棒一本、「王」は、縦棒一本横棒三本で書かれていることから、「山王」の字で「三諦即一」を表わしたと方便(ウソ)を言うわけです。その山王→日枝→日吉を、比叡山延暦寺では、仏の垂迹神とするわけです。
北極星は、道教の最高神であるわけです。その道教の神を祀った天武系天皇達は、藤原氏と百済亡命貴族により謀殺されていたのです。謀殺された者は、その恨みを怨霊神となり祟ると信じられていたのが、奈良時代からの常識です。
平安時代に、仏教に敗れた道教から、陰陽道が発明されるわけですが、その陰陽師の仕事は、怨霊を鎮めることです。その怨霊の多くは天武天皇系の末裔だったのです。
チュルク系蘇我王朝の流れを引く新羅系天武天皇が、日本国初の天皇であるのを隠蔽するために、藤原不比等は、720年「日本書紀」を著すのです。しかし、平安時代になると、桓武天皇が、敵国新羅を貶め、母国百済を有利にするために、更に「日本書紀」を改竄したのです。
その改竄は、538年仏教が、百済からヤマトに渡来したとするために、生誕時のキリストと少年期のモーセをモデルにしたような「聖徳太子」を発明し、比叡山の僧侶達が、法華経のキャラクターとして「聖徳太子」を宣伝するわけです。そして、架空の人物「聖徳太子」を実在したようにするためのトリックとして、山背国を支配していた「景教徒」の秦河勝に、仏像安置のために広隆寺(実際は、蜂丘寺=景教寺)を建立させた、とする物語を創作するのです。
そのような新羅潰しの桓武天皇の「日本書紀」の改竄に対して、秦氏末裔の多人長が、奥付に712年を記した「古事記」を、812年に著すのです。
多人長は、日本国初の天皇は、神武天皇ではなく、天武天皇であることを後人に知らしめすために、「日本書紀」の神武紀にある神武天皇の橿原宮での即位前年の勅令「六合を兼ねて以って都を開き、八紘をひらいて宇と為す云々」を否定するために、「古事記」の序で太安万侶に、「天武天皇、乾符を握りて六合をすべ、天統を得て八荒を包みたまう」と述べさせているのです。(サイファー式の暗号術で、同じ言葉、同じ文章がある場合、それを否定せよ、と多人長が「古事記」で知らせたわけです。)
「六合」とは、全宇宙を表わす道教で使われる言葉です。「八紘」と「八荒」とは同義で、宇宙或いは世界全体を八角形として把握認識する道教的思想です。「八紘一宇」、「八紘為宇」とは、道教の最高神である天皇が、全世界を神聖な政治理念で治めることを意味しているのです。(八角は道教の聖数。天武天皇の墓は、八角五段で造られていた。)
その道教を抹殺し、歴史的隠蔽をした仏教は、藤原氏の興福寺、桓武天皇の延暦寺の支配下にあり、反仏教者(道教士・景教僧→山に逃れ修験者となる。)を、謀略により抹殺していたのが、奈良時代であり、平安時代であったのです。その抹殺された者達が、怨霊となって平安時代に漂っていたのです。
その怨霊神で有名なのが、903年藤原氏の謀略で抹殺された菅原道真です。その原因のひとつとして、藤原氏による中国大陸との交易のための遣唐使船を、菅原道真が廃止したからだと言われています。
平安時代の藤原氏は、無名の空海を一年で僧籍に入れて、空海を僧侶として遣唐使船に乗船させることができるほどの権勢があったのです。(百済系二代目桓武天皇は、空海が藤原氏により唐に送り込まれた者であることを知っていたので、存命中は空海を平安京に近づけなかったのです。空海が平安京へ登れたのは、百済四代目嵯峨天皇の時代です。)
遣唐使廃止を断行したため、藤原氏により太宰府に左遷され、失意のうちに亡くなった菅原道真は、雷神に化身し、平安京の貴族達に祟ったのです。(カミナリが轟くと、「クワバラ、クワバラ」と呪文を唱えたのは、菅原道真の生誕地が「桑原」だったからです。呪文は、神秘的な響きがありますが、その意味は意外と単純です。空海の密教呪文もアラム語でキリスト教関係の言葉が多く使われているようです。)その祟りを鎮めるための施設が天神神社なのです。古の神社は、神を祀る処ではなく、怨霊を封じ込める施設だったのです。
では、徳川家康は、日光輪王寺で、神として祀られているのか、怨霊として封じ込められているのか、どちらなのでしょうか。
徳川家康の墓が日光に改葬されたことの謎は、次のようなことです。二代目秀忠は、徳川家康の霊を祀るために、質素な寺を建立するのです。それに対して、三代目家光は、その秀忠建立の寺を「世良田」(何故世良田か?)に移築し、その跡にピカピカの「宮」を建立したのです。
そのピカピカの「宮」には、不可思議なものが多くあるのです。
そのひとつとして、何故回廊の梁に「眠り猫」の彫刻があるのでしょうか。それも、徳川家康の墓への入り口にあるのです。その家康の墓は、217段もの階段の先にあるのは、お参りするには困難を生じます。
「宮」は神の宿る処で、陰陽道思想により運営されています。祈祷や占いをおこなう陰陽道は、その基本思想は道教ですから、占いに使う干支は、子、丑、寅、卯、辰、巳、馬、未、申、酉、戌、亥の十二の動物です。その中には、「猫」はいません。何故、道教、陰陽道に、「猫」がいないのでしょうか。
猫が歴史上に現れるのは、古代エジプトからです。古代エジプトでは、聖獣ライオンの代わりとして、或いは穀物をネズミから護るために、猫は大切にされていたのです。猫には、他の動物と異なる習性があります。そのひとつに、湿度に敏感であることです。この習性に目を付けた海洋交易民族フェニキアは、猫を乗船させて低気圧の予測のために利用するのです。このフェニキアの国際交易商人船により、猫は世界に運ばれていくわけです。(港町に猫が多くいるのはこのためです。)
紀元一世紀に突然ガンダーラで、多数の仏典を持った宗教が発明されるわけです。その教祖は、キリスト(=ヨシュア・デウス)とソックリな出自と奇跡物語をもったブッダと呼ばれる「仏」です。それが、大乗仏教です。大乗仏教のウリは、多数の仏典です。その商品の仏典を、ネズミから護るために猫が利用されるのです。猫は、大乗仏教と伴に、道教・儒教の中国大陸に渡来してきたのです。つまり、猫は、道教・儒教の敵宗教の大乗仏教側の動物であったのです。ですから、道教・儒教を信じる中国大陸の民は、猫を好ましく思わなかっただけではなく、妖怪猫として認識していくわけです。
その猫は、奈良時代に日本国に、仏典と伴に渡来するわけです。つまり、日本国では、猫は仏典を外敵から護る、道教・陰陽道の敵であり、仏教側の動物だったのです。その猫が、何故道教思想を基に創られた「宮」に彫刻されているのでしょうか。考えられることは二つです。ひとつは、徳川家康の墓をネズミから護るためです。もうひとつは、徳川家康の霊が祟った時、それを猫(仏教思想)で封じ込めるためです。
更に「宮」には不可思議な建物があるのです。それは神厩と呼ばれている「馬小屋」です。何故に「宮」に馬小屋があるのでしょうか。(東照宮以前に建立された神社には、「馬小屋」は存在していません。)そして、不思議なのが、他の建物と異なり、ピカピカではありません。そして、その壁を彩る彫刻の動物が「さる」なのです。多く彫刻された「さる」に、謎掛けするような「三さる」があるのです。そのさる達は、「見るな、聞くな、言うな。」、と表現しているように感じられます。
猿は、古より侵略王権より、山神の使者としてはばかられ、えびす、きむら、やまびと、の「忌み言葉」で呼ばれていたのです。しかし、その猿は、馬を守護する「神」として、騎馬民族末裔には崇められていたのです。
馬は、「魏志倭人伝」に「其の地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲無し」とあるように、三世紀の日本列島には、馬は生息していなかったのです。それが、四世紀に古墳が全国いっせいに出現し、その出土品には多くの馬具があったのです。これは、馬を伴った民族の渡来を示唆します。五世紀頃の紀州の古墳からは、新羅古墳から出土したような、馬の冑が発掘されています。これはギリシャ・ローマ文化保持国の新羅から、鎧騎馬武者の渡来が示唆されます。その「外来動物の馬」と「在来動物の猿」とが、侵略王権と異なり、何故に共存共栄だったのでしょうか。
猿が馬の守護神であることの歴史上の出現は、鎌倉時代のようです。それは、百済系天皇支配の平安時代を破壊した、騎馬民族末裔・新羅花郎軍団末裔の武家源氏の天下の時代です。(源氏三代が滅亡すると、百済系北条氏により、源氏軍団は壊滅し、まつろわぬ源氏武士は賎民に貶められた。)
古代の出来事が分からないのは、645年に蘇我王朝を滅ぼした藤原氏により、チュルク系騎馬民蘇我王朝の歴史資料が焚書・改竄されてしまったからです。しかし、書籍は焚書・改竄されても、言葉や風習は、焚書も改竄もできません。
猿が馬の守護神であることは、徳川家康が、藤原氏傀儡の豊臣秀吉により、ひとも住めぬ湿地帯の穢れ地(穢土→えど→江戸)に移封(態の良い追放又は左遷)された時、徳川家康の馬が病気となり、その馬を弾左衛門が伴ってきた「猿」で癒したことが、逸話としてあります。
弾左衛門と「猿」との関係は、猿廻し、猿曳き、猿飼、猿遣い、と呼ばれる「猿まわし」は、誰でもおこなうことができるものではなく、弾左衛門の配下の者ではなくてはならない限定職であったのです。弾左衛門の書上によれば、寛政十二年(1800年)でも、猿飼は、新町に十五軒、関八州他十二カ国の支配下では四十六軒あったのです。
徳川家康と猿飼との関係は、天保十四年(1843年)阿部正信の「駿国雑志」に、「天正十一年(1583年)ごろ、家康の召馬三頭が病に罹った。猿飼を呼び寄せ、祈祷をおこなったところ、馬三頭が平癒したので、その猿飼に駿府に土地を与えて住まわせた。」とあるのです。
猿飼は、穢多頭の弾左衛門の支配下の者です。その穢多の猿飼に、「土地を与え住まわせた。」、と言うことは、徳川家康と弾左衛門との関係が、「馬と猿」つまり、「騎馬民族末裔と先住民(秦氏)末裔」の関係を示唆します。つまり、猿は、馬を守護するとは、侵略王権との戦いで、秦氏が騎馬民族を軍事的に援助した、ということです。
弾左衛門とは個人の名前ではなく、族長の世襲名です。その族長の弾左衛門は、「弾左衛門由諸書」によれば、摂津国川辺郡火打村から東国にやってきた、ということです。弾左衛門が、歴史上に現れたのが、源頼朝が石橋山の合戦で敗れたとき、その危機を救ったのが縁で、源頼朝より「長吏」のお墨付きを貰ったことからのようです。
長吏とは、江戸時代末期には、穢多と同義語となってしまいましたが、飛鳥・奈良時代では、下級仕官ではあるが六百石以上の比較的俸禄・官位の高い役人の呼称だったのです。
その弾左衛門が祀る神は、白山神です。この白山信仰は、産鉄刀工集団の精神的支えでもあるのです。刀工の鍛造鉄器製造技術は、秦氏が日本列島に持ち込んだものです。秦氏は、弾左衛門の先祖です。つまり、弾左衛門の配下には、皮で武具を作る穢多と仏教組織に蔑まれた者の他に、産鉄刀工集団もいたのです。
六世紀から七世紀にかけて大乗仏教が、戦国時代のイエズス会のように国際交易商人と伴に中国大陸から日本列島に侵攻して、チュルク系騎馬民族の蘇我王朝を倒し、先住民が信仰していた「道教」や「景教」を歴史的に抹殺して、先住民を奴隷化し「猿」と蔑視してきたのです。
仏教組織は、「さる」の漢字「禺」を使い、偶(ひとかた)、寓(かりずまい)、愚(おろか)などの語により、「禺=猿=先住民」を人間より劣る者とするのです。(馬や猿の負の熟語や諺が多いのは、このためです。)
しかし、先住民に根付いた宗教行事は、新来仏教では短期間には抹殺できません。それは、宗教や信仰は、ひとの感性に直接働きかけるから、方便(ウソ)の仏教説話では簡単に払拭できないからです。そこで、仏教は、先住民の宗教を抹殺するのではなく、長い時間をかけて歴史的に改竄していくわけです。
例えば、お盆です。お盆は、今の日本国では、仏教専属の行事となっているようです。そして、仏教では、お盆のことを盂蘭盆(うらぼん)と正式には言っているようです。しかし、盂蘭盆がお盆だとすると、矛盾が生じてしまいます。それは、お盆が「極楽から先祖の霊を迎える日」であるならば、「盂蘭盆」は「お盆」にはならないからです。それは、盂蘭盆とは、語源がサンスクリットの「ウランバーナ」で、その意味は、「逆さにつるされた激しい苦しみ」だからです。盂蘭盆がお盆の正式な言葉ならば、極楽での苦しみを取り除く儀式が、お盆ということになってしまうのです。つまり、死者が向かう極楽浄土は、死者が逆さに吊るされる場所になってしまうからです。(仏教徒に逆さに吊るされたのは、実際は仏教にまつろわぬ異教の先住民達です。)
お盆のルーツは、日本列島の先住民が祀る「道教の祭事」からきているのです。申(さる)月十五日(7月15日)は、道教の祖霊を祀る日なのです。陰陽五行思想では、水の三合の生(せい・うまれた)、旺(おう・いきた)、墓(ぼ・しんだ)は、申(さる)、子(ね)、辰(たつ)の動物で表わされるのです。申は、陰陽五行思想では「うまれた」ですから、申の月は、道教の祖霊祭の日であったのです。仏教が、「道教の祖霊祭」を「お盆」に摩り替えたことは、正に、キリスト教が、太陽神・ミトラ神再生の誕生日12月25日を、イエス(ヨシュア)の誕生日クリスマスに摩り替えたことと同じことです。
「猿」の漢字が、「先住民」の隠語であるのならば、猿楽とは、先住民の芸能ということが言えます。猿楽は、百済系鎌倉政権を打倒した、源氏系足利氏の室町時代に、秦氏末裔賎民の世阿弥により、「能」として表の世界に現れるわけです。その世阿弥の能の奥義書「風姿花伝」には、能の歴史を次のように語っています。「申楽と号せしより以来、代々の人、風月の景を仮つて、この遊びのなかだちとせり。その後、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。」その申楽の効能を、「第四、神儀伝」で語ります。仏教僧が御説教をしているのに、外道は踊り叫びして聞きません。しかし、「外道、笛・鼓の音を聞きて、後戸に集まり、これを見てしづまりぬ。」
外道とは何か、と言えば、それは、国家権力により反逆の罪を負わされて、無念の思いで死んでいった者たちの怨霊です。この場合の外道とは、国家権力により抹殺された秦氏と蘇我氏末裔の怨霊です。
その怨霊を鎮めるのが、申楽です。怨霊は、同族の者でなければ鎮められない、と信じられたのが奈良時代からの常識です。世阿弥は、その申楽の祖が、秦河勝というのです。その秦河勝の先祖が、どこの地を略奪され、誰に抹殺されたかを、風姿花伝の序にさりげなくヒントを述べているのです。それは、「かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり」、の文章です。河勝は景教徒です。ですから、景教徒は、敵神の春日・日吉の神職にはなりません。その文章の裏の意味は、「春日」とは、奈良時代に藤原氏により、「日吉」とは、平安時代に百済系亡命貴族末裔により、「秦氏が猿にされた」ことを述べているのです。(敗者の真実の歴史は、勝者の焚書の対象です。ですから、敗者は、勝者に気づかれないようにして、「敗者の真実の歴史を勝者の歴史書の中にさりげなく」残すのです。これは、パモス島のヨハネによる聖書の「ヨハネの黙示録・666」と、秦氏末裔多人長の「古事記の序」で使われたものと同じ手法です。)
「宮」には、更に不可思議なものがあるのです。それは、唐門です。何故、宮に唐門なのでしょうか。この唐門に、徳川家康と弾左衛門との関係の謎を解く、ヒントがあるようです。
唐門の「唐」とは、中国の唐国の意味でしょうか。唐には他の意味があるようです。戦国時代、徳川家康が戦闘時に着用していた鎧は、「唐鎧」と言われていたようです。では、家康の唐鎧は、唐国の中国製かと言うと、そうではなく、イエズス会から贈られたヨーロッパ製の鎧のようです。戦国時代では、唐とは、中国のことではなく、広く「外国」の意味があったようです。
そのように、唐門を外国の門という視点で眺めてみると、不思議なことが気がつきます。それは、唐門の壁を飾る子供達の無数の彫刻像です。
徳川家康の霊が、鬼門において「宮」に安置され、江戸の街を守護するというのならば、何故に、その門の壁を飾る無数の子供達が、日本人の子供ではなく、外国人(中国服を着ているように思える。)の子供達なのでしょうか。
そして、その唐門をくぐり(外国界へワープか。)、本殿のなかを観察すると、そこには夥しい仏像群が安置されているのです。それらの仏像群は、「如来」、「菩薩」、「明王」、「天」に分けられます。
「如来」とは、悟りを開いた者の意味です。
「菩薩」とは、悟りを求めて修行している者の意味です。
「明王」とは、ヒンズー教の神で、仏を護衛する神の意味です。
「天」とは、ヒンズー教の天に住む神で、仏を守護する神の意味です。
その四群の仏像は、空海が密教の神として中国から持ち込んだもので、殆んどはバラモン教・ヒンズー教の神々であったのです。それらを、平安時代から、時の権力者の需要に答えて、○○如来、○○菩薩、○○明王、○○天など色々な日本名仏像として開発されてきたわけです。(これらは、インドの遊牧民族トラヴィダを不可触賎民に貶めた神々です。)
平安時代に発明された思想、本地垂迹説により、先住民の宗教である道教・景教の神々は、仏教との熾烈な戦いに敗れ、仏の化身と成り果て、仏寺に祀られてしまうわけですが、更に、空海により日本国に持ち込まれたバラモン教やヒンズー教の神々をブレンドされ、先住民の神々のルーツが完全に隠蔽されてしまうわけです。
更に、藤原不比等が仕掛けた「日本書紀」のトリックにより、日本人の多くは、日本国最初の神が「国常立尊」と刷り込まれてしまうわけです。それに対して秦氏末裔多人長は、「古事記」の創作神話で、日本国最初の神は、「天御中主神」(北極星=天武天皇)であると記述し、「日本書紀」の神話物語を否定するわけです。(神社の本殿に祀られている神々は、日本列島古来の神「カムイ」ではなく、七世紀以降に王権簒奪者により発明されたものです。日本列島本来の神「カムイ」、道教の神、景教の神は、神社の裏のジメジメした所にある朽ち果てた「小さな祠」に封印されているのです。)
この「仏」と「神」を同時に祀る、日光東照宮の謎解きは、一度や二度の考察の旅で解決できるようなものではないようです。その謎解きをしながら、陽明門を出て、振り仰ぐと、陽明門の天頂に「北極星」が輝いているのです。徳川家康の霊は、東照宮に祀られているのか、封じ込められているのか、その謎は未だに解けません。
しかし、徳川家康と世良田には、何かの関係があることだけは、二代目秀忠が日光輪王寺に、久能山から改葬のために建立した質素な寺が、三代目家光により、世良田に移築されたことにより明確です。
徳川家康とは、何者だったのでしようか。そして、徳川家康は、ひとも住めぬ湿地帯の関東を、弾左衛門の多大な援助の下に開拓し、関東でどのような国を作ろうとしていたのでしょうか。
歴史教科書では、戦国武将の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の活躍を記述しますが、徳川家康については、誤解されるような刷り込みをしているようです。それは、徳川家康が、キリシタンを弾圧し、島原の乱で女子供を虐殺し、そして三百年の鎖国を始めた、と誤解させていることです。しかし、それらのことは、徳川家康ではなく、徳川三代目家光がおこなったことです。
徳川家康は、他の戦国武将達と異なり、外国の学問や情報収集に熱心だったようです。朝鮮国の学者に朱子学を学び、そして、オランダ船リーフデ号で遭難したヤン・ヨーステン(日本名耶揚子・東京駅「八重洲」の語源)を顧問として迎え、江戸城近くに住まわせ、外国の情報を入手していたのです。
しかし、未だにその徳川家康の出自は謎です。林羅山(1583年〜1657年・儒学者)の「駿府政治録」の慶長17年(1612年)の記述に、「御雑談の内、借年御幼少のとき、又右衛門某と云う者あり。銭五貫にて御所を売り奉るの時、九歳より十八、九歳に至るまで、駿府に御座の由、談られ給う。諸人伺候、衆皆これを聞く」、とあるのです。
この林羅山の、銭五貫で三河に売られてきたと言う、徳川家康の問わず語りについての、記述が正しければ、戦国時代の徳川家康(馬)と賎民達(猿)との関係が解明できるかもしれません。
教科書歴史は、徳川家康の出自から江戸時代初期までの事跡を正しく伝えていないようです。では、時の権力者は、江戸時代の歴史に一体何を隠しているのでしょうか。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/840.html
コメント [政治・選挙・NHK178] 創価学会・池田大作名誉会長、朝日新聞で新連載開始か 信者伸び悩み&読者減で助け合いか ドンゲン
19. 2015年1月31日 19:19:46 : Fl00PDjaLI

465 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2015/01/28(水) 19:41:57.62 ID:yK/PG40G0.net
203 以下、転載禁止でVIPがお送りします 2015/01/28(水) 03:32:25.32 ID:TvAvxKJEK
こわw

秦郁彦氏が「韓国は放っとくべき、放っといたからといって日本は何にも困らない。」と発言した直後に、
青木理が秦氏をメガネを外して睨みつけていた。
https://pbs.twimg.com/media/ByqY7rOCMAEqwOI.jpg

484 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2015/01/28(水) 21:42:21.92 ID:YV1dWzqS0.net
>>465
ヒイイィィ

http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1422157756/

http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/919.html#c19

コメント [政治・選挙・NHK178] 安倍首相とNHKは最初から仕組んでた?安倍は戦争への道が開かれ「俺はツイてる」とほくそ笑んだ!(wantonのブログ) 赤かぶ
11. 2015年1月31日 19:19:50 : FfzzRIbxkp
携帯電話、タブレット、パソコンの盗聴機能には驚きました。

私は他の誰かの盗聴をしたいと思わないけれど、
特定秘密保護法も筒抜けということでしょうか。


http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/917.html#c11

コメント [政治・選挙・NHK179] 「日本国民は羊」と、銃を構えた「イスラム国」の戦闘員(生き生き箕面通信) 笑坊
04. 2015年1月31日 19:20:23 : JbZ61jln5w
>02
なんか、まったく的を外した対応だな

>外国からも馬鹿にされる『羊』から脱するためには、憲法を改正するしか無い、と言うことか。
もとの文脈をみれば、『憲法改正に対しても、なんら自らの要求をしめすこともなくただおとなしく改正されるがまま。日本の国民は、まるで『羊』みたいだ』って話だろ。

このような基本的な理解能力の欠落した、小賢しいだけの5nRoCX1JP2だのb5JdkWvGxsだのといったヒトモドキの上に生ゴミの王安倍晋三様が君臨するのはきわめて道理にかなった話ではある。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/116.html#c4

コメント [政治・選挙・NHK179] イスラム国混乱のどさくさの中で、TPPが成立するのか(ひょう吉の疑問) 赤かぶ
01. 2015年1月31日 19:20:49 : 2uQySNJHQQ
TPP交渉:乳製品輸入に特別枠…日本、国別に低関税検討
毎日新聞 2015年01月31日 07時30分

 環太平洋パートナーシップ協定(TPP)交渉で、日本が輸入する乳製品について、一定量は関税をかけなかったり、低い税率にしたりする特別枠を相手国ごとに設定する方向で検討が進んでいることが分かった。

 日本政府は、高関税を課している乳製品や牛肉、コメなどを「重要5項目」と位置付け、その扱いが焦点となっている。TPP交渉は日米協議が合意に至る公算が大きくなっているが、日本は乳製品の輸入拡大を迫るニュージーランドなどとの調整も進め、今春の全体合意につなげたい考えだ。

 日本は、輸入乳製品のうち、チーズは種類に応じて既に相手国を問わない一定量の無税・低関税枠を設けている。輸入量が多いナチュラルチーズの場合、関税率は29.8%だが、年6万トン程度を無関税で輸入している。

 今月15日に発効した日本とオーストラリアとの経済連携協定(EPA)では、オーストラリアに対し、特別に2万トンのナチュラルチーズ無関税輸入枠を追加する。TPP交渉でもニュージーランドや米国などが関税引き下げを求めており、オーストラリアとのEPAと同様にチーズの種類に応じて、無税または低関税で輸入する特別な枠を新たに設定する方向で検討している。

 バターや脱脂粉乳は、チーズと異なって、国が貿易を管理し、全体の輸入枠も決めている。枠内のバターの関税率は35%だが、ニュージーランドやオーストラリアが引き下げを求めていて、国ごとに特別枠を設定し、現在の輸入枠に上乗せする案が検討されている。

 日本としては、特別枠設定で輸入が際限なく増えることを抑えられる。国内ではバター不足に陥っており、政府は輸入拡大で安定供給にもつながるとみている。【松倉佑輔、田口雅士】

http://mainichi.jp/select/news/20150131k0000m020134000c.html
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/134.html#c1

記事 [近代史02] 神輿の黙示録(13)(江戸文化の謎:江戸時代は平和だったのか)
一般的に、江戸時代のイメージは、三代将軍徳川家光が鎖国(1633年渡航・来航の禁止令。1641年鎖国の完成。)をおこなった為、黒船来航(1853年米使ペリー浦賀来航)までの二百二十年間は、国内は平穏無事であったように思われているようです。しかし、この江戸時代に、騎馬遊牧民族差別の日本版カースト制度の「士農工商・穢多・非人」が完成しているのです。
日本列島は、縄文時代以前より、フォッサマグナの中央活断層により名古屋以北と以南とでは文化が異なっていたようです。樹木も、以北の落葉樹地帯と以南の照葉樹地帯とに分離できます。そのため先住民の生活様式も、東と西とでは異なっていたようです。この東国(あ・づま)と西国(さ・つま)とでは、民族差別の激しさも異なっているようです。
民族差別とは、自然現象ではなく、人工現象です。その人工現象の要因を調べると、不可思議なことが浮かんでくるのです。それは、「民族差別の要因」と「マスコミのタブー」とが一致するからです。
マスコミのタブーとは、天皇・宗教(大乗仏教)・役座の歴史を解明してはいけない、ということです。それは、このマスコミのタブーは、騎馬遊牧民族差別の発生と大いに関係しているからです。
東国では、西国ほど民族差別が激しくない理由は、天皇・宗教・役座の歴史的発生は、西国からのものだからです。つまり、騎馬遊牧民族差別は、西国から発生したのです。その三つの歴史を持たない、沖縄と北海道(北海道には北方民族差別思想は存在する。)には、日本版カースト思想(士農工商・穢多・非人)がないのは、その推測を裏づけます。天皇・宗教・役座との関係は、どのようにして民族差別と関係しているのでしょうか。
騎馬遊牧民族差別は、天皇・宗教・役座の歴史が解明できれば、自ずから解明できます。しかし、この解明は、江戸時代の国学者・本居宣長とその弟子平田篤胤の思想により、更に複雑になってしまったのです。それは、藤原不比等の「日本書紀」のトリックに、その国学者が引っかかってしまったからです。
本居宣長は、多人長の「古事記」の暗号を解くことができなかったため、「古事記」の神話を、日本列島古来の物語と勘違いしてしまい、四十四巻の「古事記伝」(1778年上巻完成・1792中巻完成・1798年古事記伝全巻完成)を著してしまったのです。そして、この「古事記伝」は、日本人への日本神話の「刷り込みの素材」となってしまったのです。
更に、仏教嫌いの平田篤胤は、「日本書紀」のトリックのひとつ、紀元二世紀の中国で発明された「神道」を、日本古来の宗教と間違って認識してしまったのです。このことにより、神社は仏寺より古くから存在していたと、日本人は誤認してしまったのです。(史実は逆で、仏寺の後に神社が発明された。)
日本の歴史上、「神道」が現れたのは、「日本書紀」からです。反藤原・百済の秦氏末裔多人長は、藤原不比等が発明したこの「日本神道=中臣神道」の「日本書紀」の記述を否定するため、「古事記」には「神道」の文字の記述はおこなってはいないのです。(魏志倭人伝によれば、三世紀の倭国では、卑弥呼が、「神道」ではなく「鬼道」で民を統治していたと記述しています。神道が日本古来の宗教であると主張するのならば、神道の元は鬼道になってしまいます。)
中国語の「神道」が、仏教伝来の後に日本神道として日本国に導入された証拠のひとつとして、「日本書紀」の考徳紀に「神ながらとは神道に随うなり」、用明紀に「天皇は仏法を信じ、神道をも尊ぶ」などがあるからです。これらの「神道」の用例では、「仏法」と対置していることからも、仏教伝来以前の、アニミズム・道教・景教などの呪術宗教的信仰、あるいは思想を総称する言葉としているからです。
仏教と神道により抹殺された、先住民の神々の子孫は、百済系三代将軍徳川家光の政治の下で、どのようにして暮らしていたのでしょうか。その解明のヒントは、賎民と言われる芸能民の歴史を調べることです。
名も知らぬ芸人の歌や踊りに、魂を揺さぶられた経験を持っているひとは多くいることでしょう。それは、「芸」の本来の意味は、ひとびとではなく、「神・かみ」を祀る(霊を楽しませる)ための技術だったからです。
七世紀、その神を祀っていたひと達の先祖は、ポルトガル国際交易商人の軍事力をバックに日本国の戦国時代に侵攻して来たイエズス会のように、大乗仏教を尖兵として日本列島に侵攻して来た部族に敗れ、そして、敗れた神と伴に奴隷とされてしまったことにより、神を祀る社からひとも住めぬ河原に追いやられ、そこで生活をしていたのです。ですから、七世紀から現在まで、芸能民は河原者と呼ばれているわけです。
河原者と蔑まされた芸能民は、元々は神を祀る技術者だったのです。侵略王権に、社を追われ、氏神を怨霊として神社に隠蔽されてしまったため、祭祀者として生活ができなくなってしまったのです。そのため、生活の糧を世間に求めたるめに、神の代わりとしてひとびとの魂を祀る(楽しませる)ことになったのです。しかし、芸能民の本来の活動は、お金を貰うために「芸」をするのではなく、その逆で、ひとびとの霊を楽しませる(祀る)返礼として、お金を喜捨されるわけです。
その芸能民の神とは、景教の太陽神(ミトラ・魔多羅)であり、道教の北極星(太一)であるわけです。これらの神々は、侵略宗教の仏教に敗れ、簒奪王朝により、歴史的に隠蔽されてしまったのです。
この前政権の神々の隠蔽をおこなったのが、藤原不比等であり、そのために創作されたのが「日本書紀」であるわけです。では、藤原不比等は、「日本書紀」で何を隠蔽しようとしたのでしょうか。
それは、チュルク系騎馬民族末裔の蘇我王朝とギリシャ・ローマ文化保持国の新羅系天武王朝の存在です。蘇我王朝を支える秦氏は、景教を信仰し、天武王朝は、道教を信仰していたのです。この二つの神を隠蔽するための宗教が、仏教であり、中臣神道であるわけです。
藤原不比等の戦術の巧妙さは、「日本書紀」創作の言いだしっぺを、抹殺対象の天武天皇としたことです。誰でも、主催者の著書に、主催者を否定する文章があるとは思わないからです。それどころか、天武天皇を良く表現した文章を疑う傾向があるからです。つまり、我田引水の逆心理を、藤原不比等は「日本書紀」創作に応用したわけです。
この藤原不比等の根本戦略と平安時代の桓武天皇による新羅抹殺、百済擁護の「日本書紀」改竄に対して、反藤原・百済の秦氏末裔多人長は、812年刊行の「古事記」の712年を奥付に記述した序文で、天武天皇の言葉として、「私が聞くところによると、諸家で承け伝え持っている帝紀(王の歴史)と旧辞(王室に関する物語)は、すでに真実と違い、偽りを多く加えているとのことである。だから、これらを正して後世に伝えよう」と述べたと、記述するわけです。
この秦氏末裔多人長の暗号が解けなければ、藤原不比等のトリックを見抜けないだけではなく、国学者本居宣長や平田篤胤のように、藤原不比等の呪縛に陥ってしまうわけです。その結果、江戸時代の仏教嫌いの国学者は、芸能民は異民族だと主張してしまうわけです。(日本民族は、ヤマト単一民族などではなく、多国籍の異民族の集まりです。芸能民は、オリエント系の秦氏、チュルク系の蘇我氏、そして、ギリシャ・ローマ文化保持国の新羅渡来系の末裔ですから、キツネ顔の中国・朝鮮からの眉毛の薄いツングース系の公家と異なり、眉毛が濃く、目・鼻・唇が大きいタヌキ顔です。)
日本列島で、日本人が誕生したのは、四世紀のヤマト朝廷時代(四世紀にヤマト朝廷は歴史的に存在しない。)ではなく、天武王朝の七世紀後半です。それまでは、日本民族はもとよりヤマト民族も存在していません。では、日本国の前に、倭国が存在していたと主張しても、倭国(「わこく」、ではなく「いこく」)の支配領域は、近畿のヤマト地域ではなく、北九州、山陰と朝鮮半島南端であったわけです。(倭族は、海洋交易民族の呉・越の末裔。)
四世紀、仏教を尖兵とした古墳の築造技術を持つ部族は、その朝鮮半島南端と北九州を侵略した後、近畿のヤマトに侵攻して来たのです。(608年隋使裴世清が、北九州の秦王国で見た中国とソックリの生活様式を持った部族とは、それらの末裔でしょう。やがて、秦王国の多くの仏寺は、645年蘇我王朝を簒奪した藤原氏により、「景教の寺」や「道教の観」を破壊した跡の飛鳥ヤマトの地にゴッソリと移築されるわけです。それらが仏教史で云うところの「聖徳太子建立七寺」の実態です。)
ガンダーラの国際交易商人の尖兵として開発された大乗仏教(教祖の奇跡物語が、東に向かったのがブッダ物語となり、西に向かったのがヨシュア物語=キリスト物語です。ですから、ブッダとキリストの奇跡物語は同じなのです。)は、異教国に侵入しやすい「殺生禁止の教義」を持っているため、仏教僧は異教国の情報収集(スパイ)のために利用されるわけです。ですから、「日本書紀」で述べているように、日本列島への仏教伝来は552年(一説538年)などではなく、もっと時代を遡ることになるのです。では、教科書歴史で、何故に仏教伝来538年と教えているのかと言えば、それは、百済系桓武天皇が「日本書紀」改竄で百済聖明王の仏教伝来記事を挿入したことが、後の歴史学者が分からなかったからです。
日本書紀の552年百済聖明王の仏教伝来物語のウソは、日本書紀の聖明王の表文に「金光明最勝王経」の「是の法は諸の法の中に、最も殊勝れています。解り難く入り難し。周公・孔子も、尚し知りたまふこと能はず。此の法は能く量も無く辺も無き、福徳果報を生し、乃至ち無上れたる菩薩を成弁す」の一節があることです。その一節は、「金光明最勝王経」の如来寿量品の一節にソックリなのです。その「金光明最勝王経」は、703年に漢訳されたものです。
つまり、平安時代の誰かが、仏教伝来を552年(一説538年)にするために、意図的に703年以降に創作した物語が、歴史学者の誤認のため、552年百済より日本列島への仏教伝来の史実となってしまっているのです。
教科書歴史は、四世紀の近畿にヤマト朝廷が存在していた証拠として、巨大前方後円墳の存在を指摘します。しかし、見方を換えて考えれば、巨大建造物を造作したその近畿地方は、未開の地であったことが理解できるでしょう。過密都市空間には、巨大建造物を造作するための土地の確保が難しいからです。
何故、渡来人は近畿のヤマトを目指したのかは、その地で「朱砂」の国際交易地ツバキ市が縄文時代から三輪山の麓にあったからです。戦国時代のイエズス会を尖兵としたポルトガル国際交易商人は、毛利氏が支配する石見銀山奪取がその目的のひとつだったように、四世紀のヤマトには、高句麗、百済そして新羅の国際交易商人達が、それぞれのコロニーをヤマトに造り、朱砂の産地宇陀の支配を目指していたのです。
713年の藤原不比等の好字令の発令により、国際的な地域名は、二語の日本語化により、地域の国際的地名を隠蔽してしまいましたが、三輪山を挟んで、新羅のコロニー「磯城」と高句麗・百済のコロニー「葛城」とで対峙していたのが、四世紀のヤマトの現状です。そして、三輪山を支配していたのが、先住民ナガスネヒコやウカシなどの「オオクニヌシ・大国主」だったのです。
「日本書紀」のトリックは、四世紀のこのヤマトの先住民族と渡来部族との「朱砂」の産地宇陀の争奪戦を、神話の世界に置き換え、「出雲神話」として掲載していることです。この歴史改竄のトリック技術の元祖は、「旧約聖書」です。
イスラエル民族とユダヤ民族とは、別々の民族です。それは、祀る神が異なるからです。イスラエル民族は、太陽の化身牡牛偶像崇拝で多神教で太陽神アトンを祀ります。それに対して、ユダヤ民族は、一神教のヤーヴェを祀ります。このことは、聖書の「ヨハネの黙示録」の「666の謎」を解明することにより理解できるでしょう。古代エジプトで太陽神アトン(オリエントから迎えた王妃が太陽神ミトラを古代エジプトにもたらし、その太陽神ミトラが古代エジプトで太陽神アトンに変身した。)を祀る、イスラエル民族の祖ヨセフを、イスラエル王権を簒奪したレビ族(後のユダヤ民族の祖)は、その歴史を乗っ取るために開発したのが、「ヤコブの物語」なのです。そして、ヤコブの息子が、エジプトに売られたヨセフである物語を創作して、「旧約聖書」に挿入するわけです。この歴史改竄の挿入技術が、「日本書紀」にも応用されているのです。
四世紀のヤマトを支配していた「オオクニヌシ」の国譲りの物語を、神話の世界に挿入して、「ヤマトの歴史」を「出雲の歴史」に改竄してしまうのです。このことを、多人長は、「古事記」の神話でさりげなく指摘しているのです。それは出雲のスサノウの物語で、「スサノウは新羅経由で出雲に来た。」と記述していることです。ギリシャ・ローマ文化保持国新羅の建国は、356年なのです。それ以前には、新羅は存在していません。多人長は、新羅の前身「辰韓」と書くべきところ出雲スサノウの物語で「新羅」を登場させることにより、「日本書紀」の国譲り物語を否定し、新羅のコロニー「磯城」が存在したヤマトの歴史を示しているのです。
四世紀のヤマトの勢力圏は、交易の利害関係や中国大陸や朝鮮半島の政治情勢の影響で、西の「葛城」と東の「磯城」との対立に発展し、その流れが、葛城→紀伊→難波→吉備→筑紫→百済(海洋系)の系列となり、それに対抗して、磯城→山城→近江→越・若狭→出雲→新羅(騎馬系)の系列となっていたわけです。
四世紀のヤマトは、渡来異民族の覇権争いの時代だったのです。その敗れた先住民は、渡来民族により、山奥に追われ、或いは、自ら北の地を目指していくわけです。
四世紀までのヤマトは、湖や沼が多く存在する湿地帯だったことにより、渡来民族の侵攻を阻止していたのです。その地に、河の流れを変える掘削技術を持つオリエントからの秦氏が渡来して、湿地帯に運河を造り、その残土でエジプトのピラミッド築造技術を駆使して大きな人工山(前方後円墳)を造ることにより、天然の要塞が破壊され、先住民は、渡来民族にヤマトの地を明渡すわけです。これが、出雲の国譲り物語の実態です。
しかし、先住民の「カムイ→カミ」が宿る三輪山は征服できなかったようです。それは、人工神のための「寺」や「神社」を、三輪山に建立できなかったことで証明できるでしょう。
そして、渡来民族は、三輪山のツバキ市を目指して、交易・軍事道路を造るのです。その交易・軍事道路は、道幅十m超で、小石を敷き詰めていたのです。その道路は二系統で、ひとつは難波の湊から、もうひとつは近江の湊から三輪山の「朱砂」の交易地ツバキ市を目指していたのです。
占領拠点を目指し、石を敷き詰めた大幅な交易・軍事道路を構築する侵略技術は、ローマ帝国軍そのものです。軍神ミトラを崇拝するローマ軍の侵略技術を持った部族のヤマトへの渡来は、新羅の四世紀から六世紀の古墳からの出土品により証明できるでしょう。それらの出土品には、ギリシャ系の金の冠・ブレスレット・指輪、そしてローマン・グラスが多くあるからです。そのローマン・グラスは、天武王朝を継ぐ、藤原氏の支配から寝返った、聖武天皇の遺品として正倉院にも保存されているのです。
この湿地帯に運河を掘り、その残土で巨大人工山を造る技術が、千数百年後の戦国末期に徳川家康と秦氏末裔弾左衛門達により、関東穢地のエドで使われるのです。
エドの湿地帯は、太田道灌が敵軍千葉氏からの侵攻を防ぐ為に、湿地帯に点在する小山に砦を造っていたのです。太田道灌は、言わば室町時代のオオクニヌシであったのです。渡来民族の千葉氏が武蔵の国を侵略できなかったのは、そのエドの湿地帯の砦の存在だったのです。
では、徳川家康と弾左衛門達により、湿地帯に運河を張り巡らし、その残土で海抜十mの人工山を造り、その上に、江戸湾から船で人工運河の神田川により荷を運び入れることができる江戸城を建設し、湿地帯を住宅地に改造した江戸の街は、どのようにして発展していったのでしょうか。
この江戸初期の文化の史料集めは、困難を生じます。それは、江戸初期を記す公の史料はそれほど多くはないからです。三世紀の卑弥呼の史料や歴史本が多くあるのに、たかが三百年前の江戸初期の史料が無い、ということは不思議なことです。
江戸文化、などと言うと、徳川家康が開幕した初期(1603年)から存在していたと思うひとが多くいることでしょう。しかし、江戸の料理屋が登場するのは、なんと明和年間(1764年〜1772年)なのです。江戸庶民の好む蕎麦屋や鰻屋などの登場は、更に遅く文化・文政(1804年〜1830年)の頃なのです。この空白の江戸時代には何があったのでしょうか。
日本の教科書歴史に、四世紀のヤマトの歴史と徳川家康の江戸街造りの歴史とが抜け落ちているのは何故でしょう。
その二つの歴史が、日本史物語から抜け落ちている共通点は、騎馬遊牧民族の文化なのです。
四世紀の湿地帯の飛鳥ヤマトを、運河造りにより土壌改良し平地とし、難波や近江の湊への十m超の幹線道路が、石敷きで覆われているのは、ツバキ市から中国大陸への「朱砂」の重量物である交易品を効率的に運ぶための「馬車・牛車」による物流のためと、軍事異変に対しての軍隊の迅速な移動のためです。
その四世紀からのヤマトの国際交易で、高句麗・百済連合と新羅からの国際交易商人達の経済戦争を平定したのが、六世紀に突然飛鳥ヤマトに出現した騎馬民族チュルク系の蘇我氏であったのです。
その経済戦争が、「日本書紀」での物部氏と蘇我氏との崇仏戦争物語として、記述されている実態です。(何故二度の物部氏と蘇我氏との崇仏戦争物語において、二度とも仏像が難波の堀に投棄されたのかは、それは、難波の湊は、当時高句麗・百済からの国際交易湊だったからです。ちなみに、新羅からの交易湊は出雲・敦賀です。)
軍事部族の物部氏は、713年の好字令により二語の日本語化されてしまいましたが、その実態は、ツングース族と倭族との連合軍事部族です。その連合軍事部族は、四世紀に高句麗・百済からの国際交易商人と伴に飛鳥ヤマトに侵攻してきたのです。
ツングース族(中国東北からシベリア・サハリンまでを居住地とする半農半猟の部族。後に西方からの遊牧民の影響で騎馬の技術を習得。漢語では「東胡」「通古斯」で表記。ロシア語では、「エベンキ」と呼ばれた。ツングース語諸族として、粛慎・ミシハセ、穢、東胡、扶余、沃沮、高句麗、百済、悒婁・ユウロウ、勿吉・モッキツ、靺鞨・マツカツ、女真族など。)を主体とした高句麗の建国は紀元前一世紀と言われています。小国の高句麗は、東アジアの軍事情勢を巧みに利用して領土を中国東沿岸から朝鮮半島に拡大していくわけです。しかし、高句麗は、騎馬民族国スキタイの末裔匈奴が支配していたシルクロード諸国を支配下に置いた、隣国の後漢(25年〜220年)の軍事力の影響を強く受けていたのです。
紀元67年(一説には二世紀)、ガンダーラの国際交易商人と伴にシルクロードにより、後漢に大乗仏教が渡来するのです。後漢のシルクロード交易支配強化のため、ローマ帝国(=大秦)へ、97年甘英を派遣するのです。166年には、ローマ皇帝マルクス=アウレリウスの使者が後漢を訪れるのです。後漢の時代は東西の国際交易は盛んであったのです。しかし、220年後漢は滅び、群雄割拠の戦国時代になると、大乗仏教思想を異教国侵略のための武器として利用する者が現れるのです。三国時代の後、前秦(351年〜384年)は高句麗に仏教導入を強要することにより、372年高句麗は仏教国になるのです。
その高句麗の南下に隣接した、346年に馬韓を乗っ取り建国した扶余族の末裔百済も、東晋(317年〜420年)の強要により、384年仏教国になるのです。しかし、356年辰韓を乗っ取り建国したギリシャ・ローマ文化保持国の新羅は、528年まで仏教崇拝を拒否していたのです。
そのように、仏教国の高句麗・百済からのツングース軍事部族の末裔である物部氏が、「日本書紀」の仏教伝来物語で、何ゆえに「廃仏」で、それに対して、月や星の自然神を祀る騎馬民族チュルク系(漢語の音訳では、丁零、鉄勒、突厥と表記で「トルコ」の意味。)の騎馬民族末裔である蘇我氏が、何ゆえに人工神の「崇仏」なのでしょうか。ここからも「日本書紀」の仏教伝来物語のウソが証明されます。
そのように、日本国正史を伝えていると信じられている教科書歴史では、真実が解明できない歴史が、江戸時代の関東にもあるのです。
それは、弾左衛門が、灯心草の養育を関東一円の農家に、江戸末期まで無償でさせていたことです。何故、仏教徒に穢多と蔑まされていた弾左衛門に、徳川家康は灯心草の無償養育権を与えたのでしょうか。その謎解きのヒントは、運河にあるようです。
弾左衛門は、さいたま県越谷に領地を持っていたのです。そして、水戸では灯心草の無償養育権を徳川家康から受けていたのです。その共通点は、それらの地には、江戸までの運河が造られていたことです。越谷からの農作物や千葉からの味噌・醤油・塩は運河により江戸まで運ばれていたのです。
湿地帯を、運河や堰を造ることにより、農地や住宅地に改良することは、飛鳥時代や江戸時代だけではありません。平安時代の都がある京都の地は、元々は桂川と加茂川に挟まれた、人も住めぬ湿地帯であったのです。その湿地帯を、それらの川に堰を造ることにより川の流れを変えて、農地や住宅地としたのは、秦氏であったのです。その秦氏が祀る景教寺の蜂岡寺を、藤原氏や百済系桓武天皇が破壊して、その跡地から少し離れたところに建立したのが「広隆寺」なのです。
この秦氏支配地の山背国(山城国)の簒奪物語は、「日本書紀」では、聖徳太子と秦河勝の、仏像安置のための広隆寺の創建物語として創作されるわけです。
聖徳太子が、実在の人物ではなく、平安時代に比叡山の渡来僧侶により法華経布教のキャラクターとして創作された合成人物(厩生まれの「ヨシュア=キリスト」+敵将と戦う少年「ダビデ」+多くの他国語を理解し、諸外国との交易を広げる「蘇我馬子」)であることは、教科書歴史の「聖徳太子は推古天皇の摂政である。」、との記述により証明できます。
それは、天皇の業務を代行補佐する「摂政」の官職は、飛鳥時代には無く、平安時代に作られたものであるからです。(歴史上での摂政職は、858年藤原良房が最初。)
593年聖徳太子が推古天皇の摂政になったはずはないことを示すために、多人長が「古事記」の最後を推古天皇の記述で終わらせているのです。更に、「古事記」には聖徳太子関連の記述はないことからでも、聖徳太子は飛鳥時代の実在の人物ではなかったことが理解できるでしょう。
つまり、812年に刊行した「古事記」ですから、序文にある天武天皇の歴史を記述することは可能であるのに、何故下巻を推古天皇で終わったかの理由は、神武天皇から推古天皇までの「日本書紀」の歴史を否定せよ、という暗号だったのです。
では、蘇我王朝の飛鳥時代とは、どのような時代だったのでしょうか。その謎解きのヒントは、戦国時代末期の街道造りにあるようです。
騎馬民族色の強い徳川家康は、1590年藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、ひとも住めぬ関東の湿地帯に左遷されると、配下の土木技術部族に命じて、エドから小田原までの騎馬軍団移動のための幹線道路を造らせるのです。そして、1600年(慶長5年)関が原の戦いで、藤原氏傀儡軍団を壊滅させると、1601年には、エドから京都への東海道に、二里(約8km)ごとに宿を設け、伝馬36疋を常備させるのです。これは表向きは京への物流のためですが、実際は関東の騎馬軍団が、迅速に京へ移動するための軍事道路です。
一般的には、エドの日本橋を起点とする東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の五街道は、徳川家康の時代に開発されたと思われているようですが、実際は百済系四代将軍徳川家綱の時代に造られたのです。その開発時、日本橋近くにあった吉原は、浅草裏へ移転させられ、それに伴い、弾左衛門の広大な屋敷も、遊郭吉原近くの湿地帯へ移転されられてしまうわけです。
多くの戦国大名と異なり、徳川家康は弓馬が得意だったのです。騎馬軍団が迅速に移動するためには、幅広の石を敷き詰めた軍事道路の敷設は絶対に必要なのです。徳川家康軍団の強さは、この軍事道路建設技術にあったのです。
昭和の高度経済時代に突入すると、政府は物流のための幹線道路として高速道路建設にかかるのです。それらは、在来の江戸時代に開発された五街道を避けて山側に建設されていくわけです。その在来道路から離れた山奥の高速道路建設中に、偶然古代の高速道路を発掘するのです。何故、山肌を直線的に、それも十m超、中には三十m幅もある古道が発掘されたのでしょうか。そして不思議なのは、その幅広の古代直線道路は、現在の高速道路と重なり合うのです。更に、インターチェンジ建設予定地の多くには、古代の駅舎跡が発掘されたのです。正に高速道路建設は、「日本書紀」の黙示録(隠していた覆いを取り除くの意味。)であったのです。
古代の道のイメージとして、けもの道からの派生で、狭く曲がりくねった道を思い浮かべることでしょう。「日本書紀」にも、神武東征軍が河内からヤマトへ侵略する物語として、「皇師兵を勅へて歩より龍田に赴く。而して其の路嶮しくて、人並み行くを得ず。」とあるように、四世紀のヤマトの路は、細く曲がりくねっていたと記述しています。そして、「日本書紀」の613年(推古21年)の記述に、「難波より京(飛鳥ヤマト)に至る大道を置く。」との記述があるのです。「日本書紀」によれば、推古天皇の時代に「大道」が造られたとの記述です。646年孝徳天皇の「改新の詔」には、地方に国司と郡司を置き、「駅路」が整備されたと記述しているのです。そして、畿内を起点として、江戸時代の五街道のように、山陽道、東海道、東山道、山陰道、北陸道、西海道、南海道の「七道駅路」が建設されているのです。「日本書紀」は、それらの「路」の歴史記述で、何を隠そうとしていたのでしょうか。
高速道路建設に伴う古代の道発掘で分かったことは、古代高速道路の建設思想は、起点から目的地までは、障害物は無視して直線であれ、ということです。そのように古代高速道路は、目的地目指して、谷は埋め、峠付近は切り通しにされていたのです。この幅広の石を敷き詰めた幹線道路建設技術は、ローマ帝国のそれと共通のようです。
ローマ帝国軍は、征服地を目指し、直線の幅広の石を敷き詰めた軍事道路を建設し、土地の環境を高度土木技術で改善し、上水道を建設し都市を造り、その都市を拠点として、更に侵略を続けるわけです。
飛鳥ヤマトの地にも、不思議な土管が発掘されるのです。それも相当長く繋がれていたのです。それは後で分かったことですが、古代の上水道だったのです。
古代の高速道路の不思議は、奈良時代、つまり藤原氏の陰謀を避けながら、天武王朝が辛うじて続いていた時代の道路幅は、十m超であったのが、藤原氏の陰謀により、百済系光仁天皇の息子桓武天皇が、都を京に移す平安時代には、道幅は6mに狭められ、交通手段は馬から牛に換えられているのです。そして、貴族は牛車で移動し、馬は下賎な乗り物として貶められていくのです。ここからも、天武天皇系と桓武天皇系の民族性の違いが証明できます。
では、蘇我王朝から天武王朝までの古代高速道路を建設した部族は誰なのでしょうか。ヤマト民族が答えとならないことは、「古事記」の暗号を理解したひとには分かるでしょう。
四世紀から日本列島に、巨大墳墓建造物、運河の開発、山奥の巨石建造物、そして、少し遅れて飛鳥ヤマトの噴水のある庭園、意味不明の石造物、上水道建設などなど、縄文・弥生文化技術では解明できない高度技術を駆使する部族が渡来していたのです。
その高度技術保持部族のひとつとして考えられるのが秦氏です。しかし、814年に百済系貴族達により創作された「新撰姓氏録」により、秦氏のイメージは歪められてしまったのです。
桓武系天皇とその側近の公家達は、朝鮮半島百済からの出自を隠すためと、新羅系天皇末裔とその側近を貶めるために創作したのが、「新撰姓氏録」なのです。「新撰姓氏録」により、日本人を三種に分けるのです。それらは、皇・神・蕃の序列です。
皇族とは、663年唐・新羅軍により滅ぼされた百済からの亡命貴族のことです。
神族とは、ユダヤ色の強い中臣神道を発明した藤原氏一族のことです。
蕃族とは、794年桓武天皇の実弟早良皇子を無実の罪で謀殺したため、その怨霊から逃れるため長岡京から平安京に遷都し、792年藤原氏の影響下にある軍団を解散し、百済系桓武天皇配下の健児兵を組織するために、804年に入唐した最澄の手配により、近江・京に渡来した、百済滅亡時に中国山東半島に亡命していた元百済の民達のことです。
この中国山東半島からの元百済人の武装勢力が、825年桓武平氏となるわけです。桓武平氏と平清盛の平家とは別です。平家とは、朱砂・水銀の国際貿易のために伊勢湾に渡来したアラブ・ペルシャ系武装部族末裔です。ですから、平安末期の源平合戦では、ペルシャ平家に武力で対抗できない、馬に乗れないツングース系部族の末裔である桓武平氏末裔の北条氏は、東国のギリシャ・ローマ文化保持国新羅の花郎軍団の末裔・騎馬民族拓跋部源氏末裔の鎌倉源氏騎馬軍団の武闘力を利用するわけです。実際の源平合戦とは、「ペルシャ平家」対「新羅系騎馬源氏+百済系桓武平氏」の戦いだったのです。
不思議なことに、平安初期の日本人の出自を記録した「新撰姓氏録」には、新羅から渡来した民族についての記述はほとんどないのです。
それによると、秦氏は蕃族で、弓月君を祖とする秦の始皇帝の末裔で、五世紀に加羅から新羅の圧制を逃れて渡来した、とあるのです。そして、機織が得意なので、「ハタ」を姓としたと説明しているのです。秦氏は、機織技術者部族なので「ハタ」氏なのでしょうか。
秦氏一族の不思議は、平安時代に惟宗氏、鎌倉時代に島津氏に変身していることです。その秦氏の氏名を隠す変名行動は、室町時代の能楽者世阿弥の、「猿楽の祖は、秦河勝である。」との「風姿花伝」での記述と関連しているようです。
猿楽は、江戸時代の百済系三代将軍家光により、穢多頭弾左衛門支配から抜け出すまでは、穢多配下の賎民の芸能であったのです。その賎民とは、藤原氏が支配する興福寺の仏教に敗れた、景教や道教を祀る民族の末裔であったわけです。その能楽の祖の秦河勝が、聖徳太子の命により、仏教寺の「広隆寺」など建立するはずはありません。そのような秦氏を、「新撰姓氏録」に掲載する意図は何でしょうか。
それは、秦氏の出自を詳しく調べさせない戦術のようです。平安時代の公式書籍である「新撰姓氏録」に、秦氏の出自を掲載してしまえば、後人は、その情報を刷り込まれることにより、それ以上調べることを止める傾向があるからです。その良い例が、平安時代に発明され、比叡山延暦寺開山の最澄が法華経布教のためのキャラクターとして宣伝した「聖徳太子」です。教科書歴史で、聖徳太子の歴史を刷り込まれてしまったひとは、聖徳太子は実在の人物であると信じ込んでしまい、聖徳太子の実在性を否定する客観的な情報を提示しても、その客観的な情報の方を疑う傾向があるからです。
では、秦氏の実像はどうでしょうか。秦氏の出自は、遺跡として残された高度な土木建築技術から推測できるようです。
四世紀の巨大相似形古墳築造の技術は、エジプトやオリエントを示唆します。全国的に出現した前方後円墳は、その大小の差はありますが、相似形をしています。では、どのようにして相似形の前方後円墳を全国的に築造したのでしょうか。
その方法のひとつとして考えられるのが、古代エジプトのピラミッド築造の設計技術です。古代エジプトのピラミッド群も、日本列島の前方後円墳と同じに、大小の差はありますが相似形です。その設計方法は、等間隔に結び目をつけた大きな円を紐で作り、それを正方形に張り、結び目と結び目とを線でつなげて地面に方眼を描くことから始るのです。そして、結び目の数は同じにして、結び目の間隔を任意にとれば、地面に相似形の方眼を描くことができます。その地面の方眼を基に丸や四角を描けば、相似形の前方後円墳の設計図が地面に描けるわけです。
そして、オリエントの日干し煉瓦の製法を駆使すれば、長期間の風雨に耐える人工山が完成するわけです。横穴式石棺のための巨大石材を九州から近畿まで運ぶ技術は、北アフリカから古代エジプトへの運河建設技術や修羅とコロを利用する巨石運搬技術が応用できます。
飛鳥時代の噴水のある庭園、不思議な石造や直線の幅十m超の道路建設や上水道建設技術は、中東の砂漠国やローマ帝国からの技術者の渡来を示唆します。水の豊かな日本列島に噴水は似合いません。噴水は、水の乏しい砂漠からの賓客をもてなすための装置だったのです。そして、幅十m超の道路は、貴族が牛車で移動するためではなく、騎馬軍団や商業馬車が疾走するためです。「日本書紀」で消し去った飛鳥時代は、エジプト、ローマ、ペルシャ文化が花咲く国際都市国家だったのです。
そのような秦氏の高度な建築・土木技術は、「新撰姓氏録」で述べているような西域諸国からのものではなく、もっと西の古代エジプトやローマ帝国からのものを示唆します。
紀元一世紀、後漢による騎馬民族匈奴からのシルクロード支配により、ローマ帝国と洛陽を行き来する国際交易商人達が、ヨーロッパやオリエントの金製品やローマン・グラスや高度建築土木技術を東洋にもたらしていたのです。
では、秦氏の「秦」の漢字は何を表わしているのでしょう。後漢の時代(25年〜220年)、ローマ帝国は、後漢から「大秦」と呼ばれていました。「大秦」とは、「偉大なるローマ」という意味です。そして、その後漢の都市洛陽には、166年ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスの使者が訪れているのです。
それは、ローマ帝国と後漢とのシルクロード交易通過国のパルチア王国(紀元前250年〜紀元226年)が、162年ローマ帝国に宣戦布告したからです。このローマ帝国とパルチア王国との戦争は、第六パルチア戦争と言われ、ローマ共和国時代の、紀元前三世紀から引き続く、西と東の交易権を賭けた戦争であったのです。
ですから、ローマ皇帝の使者は、交戦隣国パルチア王国を避け、北の草原ロードから武装軍団を率いて後漢を目指したわけです。しかし、北の草原ロードは、騎馬民族匈奴・鮮卑なとが支配しているわけです。その騎馬民族鮮卑は、後漢と対峙しているのです。
国際交易商人が交戦国に入り込む手段のひとつは、世俗の権力争いとは無関係を装う宗教組織を利用することです。ガンダーラの国際交易商人は、反バラモン教である釈尊の偶像崇拝の教えを無視して、仏像を造り、それをもとに聖域を創る手段として、崖には磨崖仏を彫刻し、磨崖仏を彫刻できない環境であるならば、仏像安置のための仏寺を建立して、異民族からの聖域を造り、そこを交易拠点として異教国へ侵攻していくわけです。シルクロードの交易路に磨崖仏が多くあるのは、表向きは仏教の布教ですが、実際は国際交易商人が聖域で異民族相手に商売をするためです。
国際交易商人達により、中国大陸への侵攻手段として利用された神のひとつが、太陽神「ミトラ」です。この太陽神ミトラは、敵の宗教儀式を何でも取り入れる大乗仏教に導入され、弥勒菩薩となるわけです。(ミトラ神の変身は弥勒菩薩の他に、インドのヒンズー教ではマイトレーヤ、日本国では魔多羅神、奈良大仏の遍照鬼=ルシャナブツ、空海が発明した大日如来などなど。)
太陽神ミトラの歴史上の登場は、紀元前十四世紀のオリエントの粘土板の契約書からです。異民族との交易は、大きな危険が伴います。それは、ひとは、自分の立場を相手側より有利にするために、無意識に「ウソ」がつけるからです。と言うより、ひとは、「ウソ」無しには不安で生きられない動物なのです。
ですから、異民族同士の交易は、絶対者である、契約を見守る、そして、契約を破った者には大いなる罰を与える「神」が必要だったのです。そして、その交易場としては、神が見守る「庭」でおこなわれていたのです。
この神が見守る「庭」は、中国皇帝により、太陽が昇る早朝に天からの命令を下す処、つまり、「朝庭→朝廷」となっていくわけです。
紀元前十四世紀のオリエントでは、太陽神ミトラは、契約神でもあったわけです。その太陽神ミトラは、古代エジプトで多神教を崇拝する神官が勝手に神々を作り出し国を乱したため、アメンホテプ4世(=イクナトン。紀元前1377年〜紀元前1358年)の時代の宗教改革時に導入され、一神教の太陽神アトンとなるのです。
この宗教改革の時代、鉄器の製造技術を持つ集団が、ヒッタイトから渡来するのです。それが、ヨセフ族です。ヨセフ族は、その古代エジプトで、石切、巨石運搬、巨石積み、運河築造、下水道建設、都市建設等の高等技術を習得するのです。
しかし、アメンホテプ4世は、多神教を崇拝する神官により暗殺されたため、ヨセフ族の末裔は、紀元前1230年エジプトを去ることになるのです。その出エジプト時には、(「旧約聖書」の「出エジプト記」は、それから約七百年後の紀元前586年バビロン幽囚時代に、レビ族の末裔アロン一派により創作され、子供の意味の一般名詞モーセによる「モーセ物語」が創作されるのです。このことは、「ヨハネの黙示録」の「666の謎」を解いたひとには理解できるでしょう。)ヨセフ族は、エフライム族の時代になっていたのです。エフライム族は、先祖のヨセフ族に引き続き、太陽神アトンを崇拝していたのです。エフライム族が金の牡牛を祀るのは、太陽神アトンの化身が牡牛だからです。
太陽神ミトラの儀式は、その太陽の化身牡牛を屠ることにより、太陽の再生を願うのです。エフライム族は、太陽神アトンの他に金の牡牛を造り、それも崇拝するのです。このことは、一神教のレビ族末裔の祭祀部族アロン一派から、「エフライムの末裔は多神教の偶像崇拝部族だ。」と誹りを受けるのです。そして、両部族の末裔は、エジプト軍が廃墟としたカナンの街に住み着くわけです。
紀元前一世紀、ローマ共和国は国力を増し、東の交易権獲得のため東進するのです。そして、紀元前27年アウグツスは、ローマ帝国の初代皇帝となるのです。そして、シルクロード交易権獲得のため東国に隣接するパルチア王国と対峙するわけです。
パルチア王国は、以前のオリエント支配国は紀元前十世紀前後のアッシリア王国、紀元前六世紀のペルシャ帝国、紀元前四世紀のアレクサンドリア大王国などで、それらの国々に根付いていた古来からの神々や文化を引き継いでいたのです。勿論、太陽神ミトラ崇拝も引き継いでいたのです。
パルチア王国と闘うローマ帝国軍は、パルチア軍が戦場の最前線に降臨し自軍を守護すると信じていた、太陽神ミトラを、自軍の軍神として導入するわけです。それは、ローマ帝国には、短期間の急激な国土膨張のため、強力な宗教が育たなかったからです。ローマ帝国は、それ以前もギリシャやエジプトの神々を導入していたのです。
更に、オリエント発祥の太陽神ミトラは、自然神のため異教の国々の民に受け入れられていくわけです。
さて紀元前十三世紀にエジプトを脱出したエフライム族は、紀元前1020年レビ族の末裔に取り込まれ、イスラエル統一王国ヘブライを興すのです。しかし、一神教ヤーヴェを祀るレビ族の末裔ソロモンの独裁により紀元前932年ヘブライ国は、一神教のレビ族末裔のユダと、多神教のエフライム末裔のイスラエルに分裂するのです。そして、紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンによりイスラエル王国は滅ぼされ、エフライム族末裔は、オリエントの砂漠に消えてしまうのです。これが世に言う「失われたイスラエル十部族」です。
紀元二世紀、ローマ帝国とのシルクロード交易国の後漢には、ガンダーラの国際交易商人による大乗仏教の弥勒菩薩、ローマ帝国軍の軍神ミトラ、オリエントの国際商人の契約神ミトラ、そして、オリエントから高度土木建築技術を持った部族連合が崇拝する太陽神アトン(=ミトラ神)とその化身の牡牛等を祀る西国からの異民族がぞくぞく渡来していたのです。
それは、十四世紀の大航海時代幕開けの原因がペストの大流行により、ヨーロッパでその治療薬として胡椒などの香辛料が金の価格より高騰したため、国際交易商人が、香辛料を求めて大型外洋船でインドを目指したのと同じように、165年ローマ帝国では西アジアから持ち込まれたペストが大流行したので、ローマ帝国はその治療薬としての「朱砂」を強く後漢に求めていたからです。中国大陸では、古来から辰砂(=朱砂)は、民間医療で消毒剤として利用されていたのです。(現在でも、水銀は水虫薬として利用されている。)
西国の国際商人は、絹のほかに「朱砂」を求めて後漢の洛陽に渡来したのです。その朱砂は、日本列島では、縄文時代からの中国大陸との国際交易品であったのです。
後漢は、弥生時代の日本列島の情報を持っていたようです。後漢書では、桓帝(146年〜167年)と霊帝(167年〜186年)頃の記述として、「桓・霊間、倭国大乱、更相攻伐、歴年無主。有一女子、名曰卑弥呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立為王。侍婢千人、少有見者、唯有男子一人、給衣食、伝辞語」とあるからです。
それらの二世紀の日本列島の情報をもっていたと言うことは、日本列島から後漢へ情報を伝えた者が存在していたわけです。そして、239年には、日本列島から、後漢を引き継ぐ魏(220年〜265年)へ遣使が送られているのです。
日本列島は、「日本書紀」が、神功皇后の新羅征伐物語で、それまでは新羅国の存在を知らなかったと記述しているように、閉ざされた孤島などではなく、縄文時代から異国の渡来民族が中国大陸と頻繁に行き来していたのです。
二世紀のローマ帝国と西アジアでのペストの大流行は、治療薬の「朱砂」を求める国際交易商人の後漢への移動だけではなく、民族移動の誘引ともなるわけです。
西アジアの草原に暮す騎馬民族チュルク族の東方への大移動により、ロシア・シベリアに暮す半農半猟民族ツングース族は、北から南へ押し出されるわけです。そのツングース族の南への大移動が朝鮮族を巻き込み、紀元前一世紀に朝鮮半島根元に興った高句麗国を強大にするのです。
四世紀、更に、ツングース族一派の扶余族は中国内陸から南下し、先住の韓族や倭族連合国の馬韓を支配し、346年百済国を興すのです。そして、何処からともなく移動してきた民族・部族連合が朝鮮半島南端に渡来するのです。そして、朝鮮半島南端の韓族や倭族連合支配の辰韓を滅ぼして、356年新羅を建国するのです。
新羅を興した民族・部族の文化は、隣国の高句麗や百済のツングース族文化と異なるだけではなく、言葉・文字も異なっていたようです。高句麗や百済は、前秦(351年〜384年)や東晋(317年〜420年)への朝貢は通訳なしにおこなえたのに、新羅の朝貢使者は百済の通訳を伴っておこなっていたのです。
民族語の特徴は数詞に現れます。日本民族が複合民族であることは、数詞が大きく三系統に分かれることからも証明できます。それらは、「いち、に、さん」、「ひい、ふう、みい」、そして「ひとつ、ふたつ、みっつ」の系統です。これらの数詞系統が分かれているのは、それぞれの渡来民族が日本列島に持ち込んだものだからです。
古代百済と古代新羅との数詞も、全く異なっているのです。百済系数詞は、イル、イ、サム、サ、オ、リュク、チル、パー、クウ、シュップです。新羅系数詞は、ハン、トウ、ソェク、ノェク、タセス、エーセス、ニルグブ、ヨデルブ、アホウ、ヨエルです。百済系数詞は、「イー、アル、サン」の中国語系です。しかし、新羅系数詞は、「ワン、ツウ、ソゥリー」の欧米語系です。
ローマやオリエントから後漢に渡来した民族・部族は、220年後漢が魏により滅ぼされた後、中国大陸を移動し朝鮮半島に渡来したようです。その証明のひとつとして、四世紀から六世紀の新羅古墳からの発掘物があります。それらの遺品は、高句麗や百済のツングース系や中国系の遺品とは異なり、ギリシャ系の金の王冠、ネックレス、指輪、トンボ玉、ローマン・グラス、ローマ帝国軍と酷似の金属脛あて、馬冑、馬鎧、長鉄棒などなどがあるからです。
政治形態も、新羅と高句麗・百済とは異なります。新羅の政治形態は、ギリシャ・ローマの合議制と同じに、各部族の代表による話合いにより政治をおこなっていたのです。
合議制や談合は、騎馬民族の政治基本のようです。この合議制は、日本列島にも持ち込まれているのです。藤原氏の政治は専制君主的ですが、江戸時代の国学者から異民族と言われていた弾左衛門の支配形式の基本は合議制によっているのです。その穢多頭の十三代続く世襲名弾左衛門も、親から子への相続世襲ではなく、各地の部落から推薦された優秀な若者を、それぞれの部落代表の合議により決められていたのです。そして、弾左衛門と親密な関係にある徳川家康も、作戦は合議制により決めていたのです。それらの合議制メンバーは、家康四天王の、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、そして、四天王四名を加えた十六神将の松平康忠、内藤正成、平岩親吉、鳥居元忠、鳥居元信、大久保忠世、大久保忠佐、服部正成、高木清秀、米津常春、渡辺守綱、蜂屋貞次、本多重次、高力清長、天野康景、石川数正です。
祀る神も、新羅は、高句麗・百済と異なっていたのです。372年高句麗は仏教を受け入れ、384年百済も仏教を受け入れたのに、新羅は528年まで仏教を受け入れていなかったのです。でも、新羅では弥勒菩薩を祀っていたではないかと言っても、弥勒菩薩の元は「ミトラ」で、純粋な仏教の仏ではないのです。(ホトケとは朝鮮語です。仏は、中国では「フト」と言われ、そのフトに韓国語の接尾語ケがついて、「フトケ」が日本列島に渡来して「ホトケ」となったのです。)
ローマ帝国軍は、ミトラ神を軍神として祀っていたのです。そして、新羅の軍団は、花郎軍団と言われていたのです。花郎の「花」とは、「ミトラ」の借字で、花郎軍団とは、ミトラ軍団の意味であるわけです。(ものの本のなかには、花郎軍団を、「花」の意味を取り違え、女装した武将が統率した軍隊と説明しているのもあります。)
新羅が、高句麗や百済の文化と異なる国であることは、新羅の古墳から出土した王妃の王冠から説明できます。それは、男王の王冠が銀製なのに、王妃の王冠は金製でより豪華であるように、528年までの新羅は女帝王国だったのです。
日本列島の騎馬民族チュルク系蘇我王朝、新羅系天武王朝では、女帝は珍しくありません。「日本書紀」にも、女帝は、33代推古天皇、35代京極天皇、37代斉明天皇、41代持統天皇、43代元明天皇、44代元正天皇、46代孝謙天皇、そして、天武王朝最後の48代称徳天皇などです。なんと33代推古天皇から16代までの男女天皇の内、女帝在位は七名です。(「古事記」は、サイファー式暗号により、推古天皇の存在を否定しています。実際の天皇号使用は、天武天皇からです。それ以前には、天皇は歴史上存在しません。)
しかし、百済系桓武王朝では、125代今上天皇までには、109代明正天皇、117代後桜町天皇の、たった二人しか在位していないのです。その女帝在位の意味は、天武王朝と桓武王朝との民族性が異なるからです。
自然環境下に暮す騎馬民族は、その基本は「女尊男卑」で、戦闘に女性武将の参加もあります。(女武者では、木曽義仲配下の巴御前が有名。)騎馬民族末裔の武士団では、棟梁が戦死すると、その王妃がその軍団の指揮をとることもあるのです。(鎌倉源氏を支配した北条政子。)騎馬民族末裔の役座も、組頭が戦闘で死亡すると、跡目を「姐さん」が引き継ぐことも珍しくありません。
しかし、自然の法則に逆らう農耕民族は、その基本は「男尊女卑」です。それは、腕力により自然と闘う必要があるからです。ですから、腕力の劣る女性は、男性の隷属者として扱われるのです。つまり、農耕民族では、殆んど女性が男性を支配することはできないのです。
そのように、四世紀の朝鮮半島には、半農半猟民族ツングース末裔の高句麗・百済と、騎馬民族・高度土木建築技術部族の新羅とが存在して、それぞれの国際交易商人達が、日本列島の飛鳥ヤマトの宇陀の朱砂の奪取を目的に、戦国時代のポルトガルの軍事支援を受けたイエズス会の国際商人のように、高句麗・百済軍団と新羅軍団と伴に九州の倭国に渡来するのです。
中国大陸より日本列島への異民族軍団を伴った部族の渡来は、四世紀が始めではなく、紀元前三世紀の徐福一族の渡来があります。徐福は、蓬莱国(日本列島か?)から不老長寿の仙薬を入手するからと、童男女三千名と石弓を持つ軍隊と技術者とを百隻の船で中国山東半島から船出させて、秦(紀元前221年〜紀元前206年)の始皇帝を騙したのです。因みに、徐福の幾つもある姓のひとつは、「秦氏」です。
秦の時代、水銀薬の「丹」は不老長寿の仙薬として珍重されていたのです。その水銀薬の仙薬は、朱砂から創生されていたのです。その頃、日本列島の飛鳥ヤマトのツバキ市での朱砂は、中国大陸との交易品であったのです。更に、魔除けとしての翡翠も、日本列島の糸井川で採掘され、縄文時代より中国大陸へ送られていたのです。
では、四世紀の渡来民族はどのようにして北九州に渡来したのでしょうか。その方法のひとつとして考えられるのが、戦国時代のポルトガル国際交易商人の渡来・征服戦術です。
それは、まず遭難者を装い医療技術のある宣教師を、情報収集のために送り込むのです。そして、医療技術で現地人を治療し、名声を得た後、政権中枢者と接触し、病院・学校の開設を懇願し、医療活動・教育活動を利用してシンパを組織し、教会を建設し、学校・教会を侵略拠点にして、その拠点に交易商人を招きいれ、現地人を雇い入れ、現政権の内紛を助長し、内紛勃発の期に軍隊を侵攻させ、現地人の武装化を援助して現地軍団を組織し、現地人による革命を装い政権を倒し、傀儡政権を樹立し、その政権を裏からコントロールすることでその国を乗っ取る、と言うシナリオです。その戦国時代のイエズス会のシナリオにおいて、織田信長、徳川家康などは、イエズス会の武器弾薬と傭兵軍などの軍事援助がなければ、戦国武将の頂点に立てたかは疑問です。更に、織田信長が、ゼウスの神を崇拝し続けていたら、「本能寺の爆殺」も起こらなかったことでしょう。
さて、五世紀の北九州に、寺が多く建立されたのは、朝鮮半島からの侵略軍の前線基地確保のためだったのです。朝鮮半島の渡来軍事勢力は、四世紀後半に、まず宗教者を九州に送り込むのです。その宗教者とは、道教、景教、仏教が考えられます。現地人にとっては、その教義などには関心が無く、今の問題をすぐに解決してくれる宗教は、どのような民族・部族が崇拝するものでも関係ないからです。そして、宗教者が現地人に受け入れられると、病院や寺が建てられていくわけです。その後、軍隊が侵攻して来るのは言うまでもありません。
侵略は、渡来宗教者による現地人の治療から始るわけです。その場合、仏教・景教よりも、道教は有利です。道教は、後に仏教の儀式を導入するまでは、薬草や鉱物などの薬で民間医療をおこなう実践技術者の導士だったからです。役座が祀る、渡世人スタイルの箕笠姿の、道教の流れにある「神農様」は、薬草学の神様でもあるのです。
景教(=ミトラ教)は、太陽を祀り、祈願成就のために牡牛を屠ります。何故そのような儀式をおこなうかは、牡牛の死を以って、太陽神の再生を願うためです。景教とは、ローマ・オリエントから渡来した時、中国で名づけられたもので、太陽(=日)+都(=京)=景(日+京)の教えの意味です。
太陽は、西の空に沈んでも(死)、再び東の空から昇る(再生)、「死と再生を永遠に繰り返す、不老不死の神」なのです。そして、その太陽神は、東の山の頂から「誕生する」と信じられていたのが、山の岩の祠に替わり、やがて岩から誕生すると信じられていくのです。そして、やがて景教徒は、「石を祀る」ことになっていくわけです。
七世紀、神社が発明されて、景教の寺が破壊され、その跡に神社が建立されるのですが、景教徒が祀る「石」を、祟りを恐れ投棄できずに、放られた「石」を、今日では「力石」などといって門前に置いている神社や寺が多くあるようです。
大乗仏教の教義や儀式等は、異民族の権力者の要求に合わせて変身していくのです。紀元一世紀ガンダーラで発明されたギリシャ系ガリガリ姿の仏像は、後漢に渡来の時、ふくよかな女性肌の東洋系仏像に変身し、不老長寿のキャラクターとなるわけです。そして、文殊の徒による無数の仏典と仏像を安置する仏寺とにより、西方浄土を約束するのです。
釈尊の仏教の基本は、民族差別をするバラモン教が発明した、祭祀者バラモンが常に支配するためのトリック思想の「輪廻転生」を否定するために、そのカルマから逃れるために、前世・現世・来世の流れを否定するために、この世のひとでない「非人」となり、物欲を否定することにより一切の経済活動から離れるために「乞食」をすることにより修行することなのです。
そのバラモン教の輪廻転生思想を否定し、そして仏像崇拝を否定する釈尊の教えは、日本列島に渡来した大乗仏教では、極楽浄土を約束し、多くの仏像を拝み、豪華な法衣を着る僧侶が、賎民救済ではなく、貴族に取り入り、賎民を差別する全く異なった教えとなってしまっていたのです。
そのような思想を持つ、道教(高句麗・百済・新羅)、景教(新羅)、仏教(高句麗・百済)は、北九州に渡来すると、異民族を取り込むための前線基地としての「寺・観」を多数建立して、高句麗軍、百済軍、新羅軍を迎い入れるわけです。
この北九州侵略時代までは、先住民族軍団を壊滅するまで、その三軍は共同歩調をとるわけです。そして、次なる侵攻地の、ナガスネヒコやウカシなどのオオクニヌシが支配する飛鳥ヤマトのツバキ市を目指すわけです。その飛鳥ヤマトのオオクニヌシ軍団壊滅後、高句麗・百済軍と新羅軍とは、ヤマト三輪山を挟んで軍事対立となるのです。
その九州侵攻の時、朝鮮半島の新羅軍団と伴に渡来したのが、ローマ・オリエントから渡来の秦氏の技術部族です。そして、その土木・都市建設技術で建設された都が、北九州の「秦王国」です。それが、後の608年遣隋使小野妹子に随行してきた隋使裴世清が見聞した、中国文化そっくりの「秦王国」であったのです。
その時、隋使裴世清が謁見した飛鳥ヤマトの王は、女帝ではなく、男王だったのです。しかし、「日本書紀」によれば、593年から628年までは、女帝推古天皇が飛鳥ヤマトを統治していたことになっているのです。
五世紀の飛鳥ヤマトの広大な湖・沼そして湿地帯は、エジプト・ローマの土木・建築技術により大運河が造られ、そして人工山の前方後円墳が造られることにより平地となり、渡来軍事部族は、それぞれのコロニーを形成するわけです。それが、葛城の高句麗・百済コロニーで、磯城には新羅のコロニーが形成され、それぞれが三輪山を挟んで対峙するわけです。
日本史の古代と戦国時代・江戸初期の物語が腑に落ちないのは、その物語の視点が、645年に突然日本列島の歴史に登場した藤原氏と亡命百済貴族のものだからです。そして藤原氏は、645年以前の歴史を焚書し、前史の騎馬民族文化を抹殺して、古代オリエント史を模倣した「旧約聖書」を参考に「日本書紀」を創作したのです。
更に、藤原氏は、七世紀、中臣神道と神社を発明することにより、チュルク系騎馬民族文化やギリシャ・ローマ文化保持国新羅からの神々を隠蔽してしまったのです。ですから、古代の日本列島の歴史を調べるために「神社」を探索しても、江戸時代の国学者本居宣長や平田篤胤のように、藤原不比等のトリック迷路に嵌ってしまうのです。
それは、「神社」の日本列島での出現が、四世紀を遡ることが無いからです。その理由は、「神社」がこんもりと木々が茂る古墳の上やその近くに建立されていることからでも理解できるでしょう。日本列島において、古墳が現れるのは四世紀で、古墳時代が終わるのが七世紀だからです。その七世紀に、藤原氏と伴に「仏寺」、少し遅れて「神社」が近畿ヤマトに出現するのです。
更に、平安時代初期に、百済系桓武天皇によるギリシャ・ローマ文化保持国新羅末裔の文化を抹殺し、「日本書紀」に「百済史」を挿入したことにより、日本史物語から、六世紀の飛鳥ヤマトを統一した騎馬民族文化・蘇我王朝を排除してしまったからです。しかし、歴史書はいくらでも焚書・改竄できても、遺跡は焚書・改竄などできません。
756年新羅系聖武天皇(749年没)の多くの遺品を納める校倉造の「正倉院」が完成するのです。その中に納められていた飛鳥時代から奈良時代までの風俗を示す文章・絵・像物の全ては、百済系桓武天皇により抹殺されてしまったのです。しかし、藤原氏が「道教の観」や「景教寺」の全てを破壊して、その跡に「仏寺」、「神社」を建立して前政権の文化を完全に隠蔽したのに対して、桓武天皇は、騎馬民族色のある遺品は全て抹殺したけれども、校倉造の正倉院の建築物を破壊しなかったことにより、前政権の騎馬民族文化を完全に隠蔽できなかったのです。
校倉造とは、教科書歴史で、遺品を湿気から護る建築様式と教える南方系の建築物などではなく、掘っ立て柱に横組みの木を重ねる建築様式の歴史は、紀元前八世紀カスピ海沿岸を支配した騎馬民族国家スキタイの越冬用移動可能建築様式なのです。この騎馬民族スキタイの建築様式は、朝鮮半島の辰韓から、日本列島に渡来したようです。それは、その横木を重ねる建築様式は、農耕民族の中国大陸では珍しかったので、「魏志東夷伝」の「韓伝」の辰韓の条に、「この国では、家を作る際、横木を重ねていくので、牢獄に似ているようだ。」、との記述があるからです。因みに、辰韓とは、辰=秦で、西国からの流れ民族、と魏略の注釈にあります。
日本民族を農耕民族と決め付ける教科書歴史では、四世紀から出現する、近畿ヤマトの大運河と巨大古墳、巨石建造物、噴水がある庭園、幅十m超の日本列島に伸びる真直ぐな幹線道路、和歌山古墳からの馬冑、多くの古墳から出土する金メッキの馬具類、ローマン・グラスなどなどを説明することはできません。
四世紀後半、中央ユーラシア一帯を支配していた騎馬民族柔然(320年〜552年)は、西方からアルタイ山脈を越えて侵攻して来た突厥(チュルクの漢音語=トルコ)により、東に押し出されるのです。そして、突厥は、アルタイ山脈一帯を支配し、突厥帝国(552年〜630年)を興すのです。
この突厥帝国興亡(552年〜630年)と飛鳥ヤマトの蘇我王朝興亡(536年蘇我稲目の歴史上出現。645年蘇我王朝滅亡)には、何らかの関係があるようです。
六世紀、突厥帝国は、西はエフタルを滅ぼし、東は柔然・高句麗を駆逐し、その支配地をユーラシア東西に広げ、シルクロード交易権を獲得するのです。しかし、シルクロード西端のローマ帝国へ行くには、キリスト教から派生したイスラム教を基盤としたイスラム部族(571年ムハンマド=マホメットがイスラム帝国建国)が立ちはだかるのです。
そこで、568年に突厥の使者は東ローマ帝国都市コンスタンチノープルを訪れ、同じ年、その返礼として東ローマ帝国のゼマルクスが、突厥の「庭」に渡来するのです。ラクダではなく、騎馬によれば、シルクロードの西と東を一年以内に往復できたのです。ローマと中国大陸とは、それほど遠くではないのです。
そして、576年西突厥軍はクリミアのビザンツ諸都市を包囲し、それにより東ローマ帝国軍はカスピ海を制圧し、東西のシルクロード交易は、イスラム帝国領土を通過せずに、カスピ海側に迂回しておこなわれるわけです。カスピ海沿岸は、有数のガラス工芸品の産地でもあったのです。そして、この地域で作られたガラス器は、ローマン・グラスと呼ばれるわけです。(ローマン・グラスは新羅古墳から多く出土する。)
飛鳥ヤマトの蘇我王朝期では、国際交易が盛んであったことは、その突厥帝国がシルクロード交易権を握ったことと関係があるようです。そして、シルクロードの東西交易の西端がローマ帝国で、東端が近畿ヤマトだということは、そのことを裏付けます。そのヤマト三輪山のツバキ市の交易品を、中国洛陽・ローマへ運ぶために造られたのが、近畿ヤマトの幅十m超の幹線道路です。
騎馬民族は、海洋民族と同じに、歴史書を持たない民族です。それは、自然環境下に暮らし、一定地に留まることなく環境に合わせて漂白する民族だから、自らの出自を示すための歴史など必要ないからです。言わば、それらの国は、「風の王国」なのです。それらの民族が去った跡には、何も残らないからです。(農耕民族は先祖の記念碑「墓」を地表に残すようですが、地表に何も残さないのが騎馬民族の生き方なのです。)
歴史書は、主に農耕民族と交易民族が創作するようです。それは、農耕民族は農地、交易商人は交易地(店)が必要で、その生活基盤が土地にあるからです。
この歴史書を持たない騎馬民族は、農耕民族に比べて、不利です。それは、騎馬民族の歴史を後世に伝えることができないだけではなく、農耕民族が創作した歴史書により、マイナスイメージとして記述されてしまうからです。その例のひとつとして、騎馬民族は、野蛮で文化の無い、不潔な略奪民族のイメージ創りがあります。そして、農耕民族が、騎馬民族を貶めるための決め台詞「何処の馬の骨」があります。農耕民族は、たとえ奪った土地でも、歴史を改竄して土地の先祖からの所有権を主張できます。つまり、歴史書により、藤原氏や亡命百済貴族のように、略奪地を先祖からの土着地と勝手に改竄し、主張できるのです。
騎馬民族の歴史上の出現は、歴史学的に未だ定まっておりません。しかし、ヘロドトスの「ヒストリア」には、紀元前九世紀にカスピ海沿岸一帯には、騎馬民族国家スキタイあったとの記述があります。その「ヒストリア」によれば、スキタイには、騎馬部族に統率された農耕部族、漁労部族、商業部族、技術部族などがあり、スキタイが全て騎馬民族ではないようです。つまり、騎馬民族国家スキタイは、商社のような組織のようです。
それは、騎馬民族は、資本と情報により、それぞれの各種技術を持つ部族を武力で支配して、そこから生産される物産を遠隔の民族との交易により利潤獲得する組織だからです。つまり、騎馬民族は、農耕民族の歴史書に描かれているような略奪だけの民族ではなく、交易民族の一面もあったわけです。この騎馬民族スキタイの、資本・情報・武力により他部族を支配する仕方は、鎌倉時代に現れた穢多頭弾左衛門が、各種芸能民・技術者を支配する仕方と、共通性があります。
騎馬民族スキタイは、紀元前十世紀から植民地を広げるギリシャと、黒海沿岸で遭遇するのです。スキタイとギリシャ都市国家とは、幾度と無く交戦するのですが、やがてお互いに交易する間柄となるのです。スキタイは、毛皮、くすり、穀物などで、ギリシャは金製品を交易品とするのです。そのギリシャの金製品は、ギリシャデザインの三本角を持った金・銀・銅の王冠(新羅古墳から出土と同デザイン)や動物をデザインしたレリーフなどです。その動物のなかでも、「鹿」が多くあるのは、鹿(ヤマト奈良には多くの鹿が生息)がスキタイのトーテムだからです。
スキタイ軍が強いのは、鉄器の武器と騎馬戦車と精力剤のロクジョウがあったからです。スキタイが鹿をトーテムとするのは、小鹿の角袋からロクジョウを精製するからです。飛鳥ヤマトの蘇我氏も、シルクロードの交易品として、朱砂・薬草・毛皮だけではなく、ロクジョウも扱っていました。ロクジョウは、現代でも高級ドリンクには欠かせない精力物質であるわけです。
そのギリシャ都市国家と交易をする、西ユーラシアから中央ユーラシアを支配していた騎馬民族国家スキタイは、カスピ海沿岸から紀元前三世紀には、歴史から消えるのですが、それに替わって東ユーラシアから中央ユーラシアへ遊牧騎馬民族匈奴が侵攻してくるのです。この匈奴軍は、四世紀の飛鳥ヤマトでツングース族と倭族の軍事部族が合体して「物部氏」となったように、遊牧民族と騎馬民族が合体したもののようです。そして、匈奴軍には、ギリシャ文化を継承した騎馬民族スキタイ末裔が多くいたようです。
スキタイに継承された三本角の金王冠・ブレスレット・ネックレスなどのギリシャ文化は、新羅から日本列島に渡来したようです。藤原氏や亡命百済貴族は、飛鳥ヤマトの前王権者の騎馬民族文化を抹殺するために、「日本書紀」(720年完成。旧約聖書と百済史の物語が挿入されている。)、「風土記」(713年好字令により国際的地名を抹殺するために、二語の日本語地名の由来を創作した物語。)、「万葉集」(759年が最も新しい歌謡。多くの新羅語による古代歌謡を、901年左遷の菅原道真が万葉語で翻訳したとの説あり。)、「新撰姓氏録」(814年亡命百済貴族が、日本国公家となるために皇・神・蕃の序列を創作。)などの公式書籍を創作するわけです。これらの史料では、645年以前の日本列島史は解明できないのです。
民族文化は、その記述書籍を焚書や改竄をすることだけでは抹殺できません。それは、民族文化は、途切れることが無い日常生活の流れそのものだからです。藤原氏と亡命百済貴族により、焚書・改竄で騎馬文化を抹殺したつもりの、飛鳥ヤマトのギリシャ文化は、江戸時代に再び現れるのです。そのひとつが、雛人形です。
雛人形の歴史は、公式には、古代呪術の道具としての「人形・ひとがた」が始まりで、それが、平安時代の子供の遊びとしての「紙人形」となり、室町時代に大人の鑑賞に堪える「人形・にんぎょう」となり、江戸時代三代将軍家光の時、現在の雛人形の祖が作られ、享保年間(1716年〜1736年)に高級化した大型の雛人形が作られ、18世紀後半には、京都でも次郎左衛門雛が作られ、今日に至ったと云うことのようです。
この雛人形の歴史には、多くの謎があります。それは、江戸時代初期に作られた、女雛にある三本角の金王冠です。男雛には黒烏帽子です。金王冠と黒烏帽子では、どちらが挌上なのでしょうか。それは勿論金王冠の方です。
男雛と女雛が並んで飾られます。では、右と左では、どちらが挌上座なのでしょうか。それは左です。騎馬民族の戦闘では、軍隊は3軍に別れ、中央の軍団に司令部があり、左翼軍団は精鋭軍人を集め、右翼は左翼の後塵となるからです。この騎馬軍団が、中国大陸で漢族などの先住民を支配して建てた王朝の、北魏(423年〜534年)→隋(581年〜618年)→唐(618年〜907年)→宗(960年〜1126年。南宋1127年〜1279年)までの政治形態では、左大臣が右大臣より挌上だったのです。
この男女雛の並び方が、エド(第一百済王朝は平安時代。第二百済王朝は鎌倉北条氏時代。第三百済王朝が始る、三代将軍家光前までは、「エド」で表記。第三百済王朝以降からは「江戸」と表記。)と京都では逆なのです。エドでは、男雛は右で、女雛は左です。しかし、京都では、男雛は左で、女雛は右なのです。この文化の違いは何処から来るのでしょうか。それは、民族の違いです。
騎馬民族は、女尊男卑で、農耕民族は、男尊女卑なのです。つまり、女帝が三本角の金王冠(ギリシャ系王冠)を被り、黒烏帽子の男王より挌上の左に鎮座しているエド初期に作られた雛人形には、女尊男卑の騎馬民族文化色が現れていたのです。ちなみに、エド街の武家はエド雛で、公家・商家は京雛を飾ったのです。そして、エド雛は、京都人に夷(エビス)雛と呼ばれる意味は何でしょう。
では、誰がその女帝支配の騎馬文化色の雛人形を作ったのでしょうか。そのヒントは、江戸雛人形発祥の地、さいたま県越谷にあります。そして、その地は、穢多頭弾左衛門の支配地だったのです。
百済系徳川三代将軍家光は、騎馬民族の血が流れる徳川家康の次男秀忠が、1623年没すると、藤原氏(=近衛家)に取り込まれた春日局(明智光秀の家系。本能寺での織田信長爆殺後のイエズス会の指示により、明智光秀を裏切ったキリシタン大名高山右近ジュストと徳川家康に多大の恨みを持つ。徳川家康が権力の座から外れた1614年、高山右近ジュストはマニラに追放される。徳川家康が権力の座にあるまでは、高山右近ジュストは、デウスの教えを山の賎民に布教していた。徳川家康がキリシタンを弾圧したとの歴史はウソ。)の差配により、徳川家康の戦国時代からの忠臣達を、次々とお家断絶や国替えにより、江戸幕府権力中枢から排除するのです。
そして、百済系徳川三代家光は、騎馬民族系徳川家康がエド街興隆のために大阪摂津から移住させた技能・芸能の秦氏末裔を、五街道の基点を江戸橋にするために、その居住地近辺から、遠方の弾左衛門支配地の越谷に追放するのです。そのエド中心地から越谷の地へ移住した、鎧や武具を作る秦氏末裔の職人達が、その技術を利用して、雛人形を作るわけです。(江戸橋の近くに関西系豪商の店が多くあるのは、百済系徳川三代家光の、騎馬民族末裔をエド街中心地から追放する戦略のためです。エド橋近くには、大阪摂津の源氏海洋民族系の松浦一族末裔漁民が仕切る魚市場があったのです。)
エド初期に、徳川家康は、同族の騎馬民族末裔や秦氏末裔を、大阪摂津から呼び寄せ、エドの街造りをおこなっていたのです。これは、平安時代初期に、百済系桓武天皇が、怨霊が漂う京の街をにぎやかにするためと、792年創設の百済系軍団(健児兵・こんでんへい・桓武平氏の祖)を拡充するために、804年最澄を中国山東半島に派遣して、百済亡命民を、秦氏の元支配地の山背国や比叡山の近江に、移民させた戦術と同じです。
この時、秦氏末裔は、山背国や近江から、難波宮の先の湿地帯に追われるわけです。これは、1590年徳川家康が、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、エドの湿地帯に移封されたのと同じ戦術です。
難波津は、古は浪速(ローラン)と呼ばれ、シルクロードの楼蘭(ローラン)から高句麗(楽浪・ローラン)・百済経由の交易品が運ばれる国際港で、百済系桓武天皇に京・近江の地を追われた前支配者の秦氏末裔は、敵国百済支配地の難波津を避け、その対岸に津を築くのです。その地は、古代エジプト語の「波」の意味の「ワタ」は、中国語で「波陀・はだ」となり、新羅語で「パタ」となり、日本列島では波が打ち寄せる津は、「ワタ」と呼ばれ、その津は、712年の好字令の日本語化により渡辺津と呼ばれていたのです。
日本列島史が、分かったようで分からないのは、645年突然日本列島史に出現した藤原氏や亡命百済貴族が、色々な歴史書籍を創作して、渡来異民族(農耕民族・海洋民族・遊牧民族・騎馬民族)の対立軸を隠蔽・偽装しているからです。その歴史隠蔽・偽装の一つが、万世一系の天皇物語を綴る「日本書紀」です。その偽装物語によれば、日本列島には高天原から降臨したヤマト民族の祖先がヤマトを支配し、大陸からの軍事侵略を受けずに、大陸からの帰化人を受け入れていた、と言うことになっているようです。
しかし、四世紀から五世紀の飛鳥ヤマトには、高句麗、百済、新羅からの軍事部族が渡来して、宇陀の朱砂を廻って争っていたわけです。
五世紀から七世紀半ばには、東アジアの突厥帝国と北齊(550年〜573年)・北周(557年〜579年)、更に隋(589年〜618年)との、東ローマ帝国とのシルクロード交易の覇権争いの影響が、飛鳥ヤマトにも現れ、突厥帝国の軍事援護により、538年チュルク族の蘇我稲目が、高句麗・百済のツングース族と倭族の軍事部族(713年の好字令により「物部氏」となる。)を武力で支配し、飛鳥ヤマトを統一し、チュルク系騎馬民族文化の蘇我王朝は645年まで続くわけです。
蘇我王朝は、東ローマ帝国と交易をおこなっている突厥帝国の後ろ盾により、古代高速道路網を日本列島に張り巡らせ、薩摩から陸奥まで、交易活動を手広くおこなうわけです。そのためには、シルクロード国際交易商人を飛鳥ヤマトに招き、慰労するために噴水のある庭園を造ったり、石の造形物も造るわけです。そして、飛鳥ヤマトには、隋にガラス器を輸出するために、ガラス製造工場も建設していたのです。
この隋との交易を望んだ書が、平安時代に創作された聖徳太子の隋皇帝への「例の東の天子から西の天子への手紙」と改竄されるわけです。飛鳥ヤマトの男王からの貿易依頼を受けた煬帝(604年〜618年)は、608年裴世清を飛鳥ヤマトに派遣するのです。それは、その頃の東アジアでは、突厥帝国が、北から軍事力で隋を脅かしていたからです。隋としては、東海の島国に突厥帝国支配のチュルク王国(蘇我王朝)が存在していることを確認したかったのでしょう。
608年裴世清は小野妹子を伴い、百済→竹島→済州島→対馬→隠岐→筑紫→秦王国→十余国を経て→倭国・大阪湾→運河により飛鳥ヤマトに至ったと、「隋書」に記述しています。この頃の飛鳥ヤマトは、「日本国」ではなく、「倭国」だったのです。
そのように国際交易を精力的におこなっていた蘇我王朝も、突厥帝国が、630年唐(618年〜907年)の軍事力に敗れると、飛鳥ヤマトの蘇我王朝の経済・軍事基盤も崩壊するわけです。それは、シルクロードによる飛鳥ヤマトの交易活動は、突厥帝国を仲介としておこなわれていたからです。
唐の軍事援助を受けた藤原氏(=唐軍族)は、経済・軍事基盤を失った蘇我王朝を、645年に倒すのです。そして、唐の傀儡軍は、蘇我王朝が開拓した交易地の東北・陸奥の鉄・琥珀・金・毛皮を求めて進撃していくわけです。
陸奥は、「風の王国」なので、歴史書もなければ、地表の記念碑もありません。それを良いことに、蘇我王朝を倒した藤原氏は、陸奥の先住民を、文化の低い、ヒゲのある夷の意味の「蝦夷・エミシ」と名づけるのです。
陸奥の遺跡を発掘すると、不思議なことが分かるのです。それは、645年を境に、集落遺跡に劇的な変化が認められるのです。以前の遺跡は、交易センターの機能があった集落群が、以後の遺跡では戦闘機能を持った何重もの環濠や掘っ立て柱の防御柵の中にあるからです。そして、その遺跡には、陸奥には珍しい西国や関東の土器などが発掘されるのです。このことから、645年飛鳥ヤマトの地を、唐傀儡軍に奪われた蘇我王朝残党が、陸奥へ逃れて、唐傀儡軍の侵攻を阻止しようとして砦を築いていたのではないか、と推測されます。
630年北の脅威であった突厥帝国を敗走させた唐は、朝鮮半島での高句麗・百済・新羅の争いに軍事介入するのです。その唐の軍事介入の影響が、飛鳥ヤマトにも及ぶのです。突厥帝国の後ろ盾を失った蘇我王朝は、今まで武力で抑えていた飛鳥ヤマトの高句麗・百済・新羅の軍事パワーバランスを保つ力がなくなってしまったのです。唐傀儡軍(藤原氏)の指示のもと高句麗・百済系軍団は、一挙に蘇我王朝を倒すのですが、660年百済本国は、唐・新羅連合軍により攻撃を受け、そして、663年白村江の海戦により、朝鮮半島の百済王国は歴史上壊滅するのです。
ギリシャ・ローマ文化保持国新羅は、仏教国の高句麗・百済より、チュルク族の蘇我王朝と歩調が合ったようです。それは、蘇我王朝の本国突厥帝国は、東ローマ帝国と特使を行き来させるほど友好関係にあったからです。
672年新羅系王子の大海人皇子(後の天武天皇)が、667年に百済亡命王朝が近江に建設した大津京を、伊勢に逃れていた蘇我王朝残党と新羅軍の連合軍により攻めるのです。この戦争は「壬申の乱」と呼ばれていますが、これは「日本書紀」が述べるヤマト王朝での兄弟(天智天皇対天武天皇)による内乱などではなく、百済亡命王国(ツングース族末裔)対蘇我王朝残党(チュルク族末裔)・新羅系軍団(秦氏軍団→花郎軍団→ミトラ軍団→ローマ軍団。新羅→秦羅。528年までの女帝国新羅はオリエント系が先住民族韓族・倭族を支配した王朝。)の民族戦争であるわけです。
672年民族戦争に勝利した大海人皇子は、蘇我王朝があった飛鳥の浄御原宮に遷都するのです。そして、大海人皇子は、日本初の天皇・天武天皇に即位するのです。これが、日本国誕生の時なのです。
その頃、朝鮮半島では、668年唐・新羅軍が高句麗を滅ぼすと、その勢いを買って新羅軍は、朝鮮半島に駐留する唐軍を半島から追い落とし、676年統一新羅が建国されるのです。つまり、日本国誕生と統一新羅建国は、七世紀後半のほぼ同時におこなわれていたのです。
朝鮮半島の基盤を失った唐は、日本国の亡命百済貴族や藤原氏を援助して、日本列島の鉱物資源奪取を画策して、天武王朝を揺さぶるわけです。しかし、天武王朝には、陸奥国の蝦夷の弓馬を得意とする強豪騎馬軍団が控えていることにより、亡命百済貴族や藤原氏の陰謀もことごとく回避されてしまい、770年の女帝称徳天皇まで、かろうじて騎馬文化の天武王朝は続くわけです。
770年藤原百川の陰謀により、百済亡命下級貴族の光仁天皇(桓武天皇の父)を擁立するのです。そして、藤原氏の陰謀により、奈良の都の騎馬系天武天皇一族末裔は、騎馬民族文化と伴に次々と抹殺されていくのです。
藤原氏の狙いは陸奥の金・琥珀などの資源です。しかし、そこには親天武天皇の騎馬民族の蝦夷が「風の王国」を築いていたのです。そのために、藤原氏傀儡のアルコール中毒の高齢の光仁天皇を擁立したまではよかったのですが、その息子の桓武天皇は、藤原氏に劣らず陰謀の名人だったのです。
藤原氏の武器は、女と仏教と神道です。藤原氏が奈良の都で権勢を得ていたのは、仏寺の興福寺と神道(日本神道の祖・中臣神道は藤原氏の日本列島出現と伴に現われた。)の春日社を支配して、その仏・神の影響力で敵を翻弄していたからです。
しかし、桓武天皇は、奈良の都の大仏建立時の水銀・銅精錬により、奈良の都が鉱毒汚染されている事実を踏まえ、その都だけではなく、その奈良の仏教も神道も穢れていると宣伝し、藤原氏の仏と神を奈良の都に封印してしまうのです。この戦術により、藤原氏の武器が二つ失われたわけです。残る武器は、「おんな」だけです。
桓武天皇は、藤原氏の戦略を真似て、平安仏教を興すためと、日本国百済軍団(健児兵)を拡充するために、804年最澄を中国山東半島に派遣するわけです。何故、最澄が、必要とする仏典全てを集めることなく、たったの八ヶ月で帰朝した理由は、藤原氏が放った武器・空海の存在があったからです。
空海は、公の物語で語られているような仏教の修行僧などではなく、鉱山師・錬金術師の技術者であったのです。その空海を、たった一年で仏籍に入れたのと、一介の私僧が莫大な渡唐費用が工面できた謎は、藤原氏の存在があったからです。
古代史を読み解く場合、考えなければならないことのひとつに、国についての概念があります。1776年以前の国には、固定した国境が存在していませんでした。固定した国境が歴史上現れるのは、イギリス王国の所有地を、武器を持った敬虔なピューリタンを中心に武力により略奪した、1776年アメリカ13州独立宣言からです。
それ以前の国は、武力により国境を無限に拡大できたのです。と言うことは、武力が衰え国境を護れない国は、やがて地球上から消滅してしまうわけです。
日本列島もその例外ではなく、武力に勝った民族・部族勢力が時の政府を樹立していたのです。日本列島は四方を海に囲まれているので、大陸から孤立しているのではなく、開放されているわけです。ですから、海軍力や航海術に優れた民族・部族は、日本列島のどこからでも上陸できるわけです。
399年北魏の僧法顕は、シルクロード陸路によりインドに到達し、帰路は大型外洋船で、409年インド・タムラプティ→411年セイロン・アヌラーダプラ→413年中国山東半島・牢山を経て、洛陽に到着していたのです。
九世紀の東アジアでは、北の脅威突厥を敗走させた唐は、西の吐蕃(629年〜900年?)と北のウイグル(744年〜860年?)に囲まれ、陸路による東ローマ帝国とのシルクロード交易が困難になっていたのです。更に、追い討ちをかけるように、絹の素の繭が僧侶により盗まれ、絹織物は唐の専売品ではなくなっていたのです。その唐に、インドからの交易船が、中国山東半島に渡来するわけです。ペルシャ湾や紅海に海路を持つインド国際交易商人は、ヨーロッパで需要が増した「銀」を求めてきたのです。
古代インド・バラモン僧は、水銀薬を朱砂から精製し、精力剤・回春剤として服用していたのです。バラモン僧は錬金術師でもあったのです。そして、朱砂のある所には、水銀・銀脈があることも知っていたのです。
呪術の道具としての朱砂・水銀は、錬金術により銀になることで資産に変身するわけです。利に目ざといインド国際商人は、大挙して唐に船で押し寄せるわけです。
日本列島の藤原氏も、その国際交易の動きを知ると、唐にエージェントを送り込むわけです。しかし、桓武天皇により、難波の交易港は押さえられてしまうのです。そこで、藤原氏は、難波港を避け、吉野→根来→紀→種子島→奄美→中国・蘇州の交易ルートを開拓するわけです。この交易ルートは、後の戦国時代に、銃・火薬の密輸ルートとなるわけです。
794年平安京に遷都した桓武天皇は、藤原氏の勢力を奈良の都に封じ込めると、唐に渡来したインド国際交易商人が求める「銀」奪取のために、東海道を開き陸奥に大軍団を送り込むわけです。しかし、チュルク系蘇我王朝残党や新羅系の弓馬が巧みな騎馬民族末裔相手では、遊牧民族ツングース族や海洋民族倭族末裔の歩兵軍団が数十倍大挙しても敵いません。
そこで、797年大陸渡来軍属末裔の金髪の坂上田村麻呂を鎮守府将軍とするのです。すると、散々桓武天皇軍を戦いで翻弄した蝦夷の敵将アテルイは、坂上田村麻呂の和平の提案に簡単に騙されて、京都へ出向き、そこで斬首されてしまうことにより、801年「風の王国」は、壊滅していくわけです。そのように、アテルイが、坂上田村麻呂と闘わず、和平に応じたのは、先祖がチュルクかローマの騎馬民族の同族だったとの推測が成り立ちます。
陸奥の鉱物資源は、勝者桓武軍により京に運ばれるわけですが、その他にも国際交易品が運ばれてくるのです。それは、捕虜としての奴隷です。
唐の都長安には、国際交易商人ソグドによりオリエントの品々の中には「奴隷」も含まれていたのです。その「技術を持った奴隷」は、高価な国際交易品であったのです。奴隷の交易品としての「奴隷貿易」は、民主主義発祥のアメリカ合衆国では、建国の1776年から1808年まで続いていたのです。
京に連れてこられた陸奥・蝦夷の捕虜は、散所・湯浅・別所・垣内(かいと)などと呼ばれる所に押し込められるのです。陸奥では、蝦夷の集落は、「スク」と呼ばれていたようです。「スク」とは、漢字で「村」で、その統率者の「スグリ」は、漢字で「村主」と表記します。ちなみに、「スクネ」とは、古代ペルシャ語で「勇者」の意味です。
では、関西では、捕虜収容所の散所・湯浅・別所・垣内を何故「部落」と言うのでしょうか。陸奥では、「スク・村」と言っていたものが、関西では「部落」です。この言葉の変化は何を意味しているのでしょうか。
それは、「部落」とは、王権により騎馬民族・部族が賎民として落とされ、そして捕虜として押し込められた、敗残兵の居住地の意味として、騎馬民族末裔を貶めるために王権側が発明した言葉です。この頃までの「部落」には、まだ精神的な貶めはありません。「部落」に穢れのイメージが付け加わるのは、空海の真言仏教思想が普及する嵯峨天皇の頃からです。桓武天皇に嫌われていた藤原氏のエージェント空海は、桓武天皇存命中から平城天皇まで(809年)京に入れなかったのです。
空海は、中国に渡来していたインド・バラモンの錬金術だけではなく、肉食民族(騎馬遊牧民族)を差別するバラモン・カースト思想も、仏教思想として日本列島に持ち込んでしまったのです。
京に連行された蝦夷の捕虜は、賀茂川の東側の清水坂の「部落」に収容されるのです。このことは、百済系桓武天皇が、奈良の藤原氏の捕虜収容所としての奈良坂「部落」に対抗するためです。これ以降、京の清水坂「部落」と奈良の奈良坂「部落」とは因縁の武力闘争を繰り広げていくわけです。その戦いの裏には、京を支配する亡命百済貴族と奈良を支配する藤原氏の思惑があったのです。
飛鳥・奈良時代までの山背国・近江比叡山は、秦氏の支配地だったのです。平安時代初期、桓武天皇により、その地から秦氏末裔は追放され、それに換わって中国山東半島から、亡命百済民が最澄の導きにより大勢渡来してきたのです。平安時代の京・近江は、亡命百済民の支配地となっていたのです。
その京・鳥部野の清水坂に、蝦夷(蘇我王朝末裔・新羅系軍団)と伴に、桓武天皇軍と戦い破れ、捕虜になった秦氏末裔は、今度は支配者ではなく、賎民として「部落」に収容されてしまうわけです。
平安時代には、天武天皇が道教の神・太一(北極星)を祀った「道観」や秦氏や新羅花郎軍団末裔が太陽神ミトラを祀った「景教寺」は、藤原氏と桓武天皇により完全に破壊され、その跡に仏寺や神社を建立されることにより、その存在すらも分からなくなっていたのです。これは、392年キリスト教がローマ帝国の国教となり、ローマ帝国で繁栄していたミトラ神殿を徹底的に破壊し、その跡にキリスト教会を建てた戦術と同じです。今となっては、キリスト教の教義の多くが、ミトラ教の儀式を真似したことを知る人もいないのです。
しかし、目に見えるものは破壊してしまえば、見えなくなりますが、民族として記憶された儀式は、書物を焚書・改竄するようにはできません。
804年桓武天皇は、星祭の禁止と伴に、牛の屠殺を禁止するのです。何故、牛の屠殺をお上が法令で禁止したのでしょうか。それは、ミトラ教の聖なる儀式だったからです。
太陽神ミトラの化身は牡牛です。太陽は冬至に「死に」そして、その後「再生」するのです。太陽神ミトラに祈願するには、人工的な「死と再生」を創造するために、太陽神の化身牡牛を屠ることにより、それが成就できる、とミトラ教信者には信じられていたのです。
秦氏の祀り(祭祀)は、土の家(古墳・墓)=塚の上でおこなわれていたのです。しかし、こんもりした小山の塚の斎場には、簒奪王権により神社が建てられてしまうのです。何のための神社であるのかは、それは前政権の大石や小さな祠に眠る神を「神社」で封印してしまうためです。そして、その地が異教の神が棲む穢れ地の結界であることを示すために、鳥居をその出口に建てるのです。つまり、鳥居とは、神社で封印した前政権の神が、娑婆に出て祟らないようにするための装置なのです。
その秦氏が祀っていた「社」を封印した神社は、塚(ずか)→稲荷(じゅが→いなり。秦神→夷(えびす)神→いじん→夷なり→いなり→稲荷の一説あり。)となり、秦氏トーテムの狼がキツネに変身して祀られているわけです。
今となっては、稲荷神社には、遥か古代にオリエントから古代エジプトの土木・建築技術を伴って渡来したミトラ神を祀った秦氏の隠蔽された歴史があったことなど知るひとも多くはいないのです。
江戸時代、秦氏の神を祀った「社」が、三代将軍徳川家光から始る第三百済王朝により、「三河稲荷と犬のクソ」と貶められた理由は、平安時代の百済系桓武天皇による、母国百済を滅ぼした新羅・秦氏への怨念であったのです。
日本列島史を、「蘇我氏・秦氏・新羅系日本人」対「藤原氏・百済系日本人」の対立軸で眺めてみると、今まで見えなかった歴史が仄かに現れてくるのです。それは、騎馬民族文化を農耕民族文化で隠蔽した「史観の覆い」が取り除かれるからです。そして、そこに現れるのは、「自然に随う文化=自然神・太陽・月・星→景教(ミトラ神・魔多羅神・弥勒・遍照鬼・牛頭天皇)・道教(太一・北極星・北斗七星)」対「自然を克服する文化=人工神→仏教(藤原氏:興福寺・亡命百済貴族:延暦寺)・神道(藤原氏:春日社・亡命百済貴族:山王神社・日枝神社・日吉神社)」との果てしない闘争の歴史だったのです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/841.html
コメント [政治・選挙・NHK179] トマ・ピケティ氏が「不平等が拡大」と警鐘!日本が相続財産に依存する社会だと指摘!首相「ピケティ氏も成長は否定していない」 赤かぶ
03. 2015年1月31日 19:22:38 : Ma5RZiiuic
日本には欧米のような金持ちがいない 貧困層には確かに冷たい社会だが、資産家に優しいかというと全然違う
死んだら全部税金で家屋敷まで持っていかれるのだ
日本人はいくら働いても死ねば全部没収されて、また一からやり直さねばならない
実際の所、日本人は経営者でも自分の代の為だけに奴隷のように働くのだ
ここ日本には奴隷頭はいても、本物のボスはいないだろ 

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/129.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK178] 日本政府が中田考氏を活用しない理由  天木直人 赤かぶ
08. 2015年1月31日 19:23:25 : f4EvO13rII
 地方公務員の中で、<01<02なやつらも、癇気をよく起こしている。  官僚主義の構造的病理だろ。 
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/551.html#c8
記事 [近代史02] 神輿の黙示録(14)(武士の謎:何故役座隠語と警察隠語が同じなのか)
刑事物語で、犯人を「ホシ」と呼ぶのは何故でしょう。天に瞬く綺麗な「星・ホシ」が、何故に犯罪者なのでしょう。では、星が、犯罪者(反体制者・アウトロー)の隠語となったのはいつからなのでしようか。
日本列島の歴史上、「星」を祀った天皇は、天武天皇(672年〜686年)が始めのようです。それは、天武天皇が、672年亡命百済王朝である近江王朝を武力で倒し、日本列島史で確認される最初の天皇として即位したからです。そして、天武天皇は、壬申の乱を武力でバックアップしてくれた伊勢の現地神を祀るため、685年伊勢神宮を建立し、道教の儀式で天帝を祀ったのです。
道教では、太一(北極星)が最高神の天帝であったのです。その天上の神(天御中主)を祀ることにより、地上の天皇はその影響力を強く受けることができると信じられていたからです。
藤原不比等による「日本書紀」では、秦河勝と聖徳太子との仏教伝来物語はあるのに、道教伝来関連の記述は掲載されてはいませんが、斉明二年(656年)の条に、「田身の嶺に周れる垣を冠らしめ(田身は山の名なり)また嶺の上の両つの槻の樹の辺に観を起て、号けて両槻宮とす。亦天つ宮と曰う。」とあるのです。
「日本書紀」によれば、この両槻宮は、槻の樹を辺に二本立てた「観」であるとの説明です。では、その「観」とは何かと言えば、仏寺でもなければ神社でもなく、それは道教寺院のことなのです。
この道観を建てた女帝斉明天皇(655年〜661年・実在は疑問。)は、「日本書紀」によれば、奇人扱いです。女帝斉明天皇は、重祚(ちようそ)する前は、女帝皇極天皇(641年〜645年)であったのです。「日本書紀」では、偶然にも蘇我王朝が滅んだ645年に、皇極天皇も退位したことになっているのです。
その女帝皇極天皇が変身した斉明天皇は、「天宮」の両槻宮を造り、更に、「狂心のミゾ」(石上山から香具山までの十二kmの大運河)を造り、その運河により運んだ石で、七万人余を費やして「石の山丘」を造った、との記述が「日本書紀」にあるのです。
更に、女帝斉明天皇は、「斉明三年(657年)トカラ人に饗えたまいき」、「斉明五年(659年)陸奥と越との蝦夷を饗えたまいき」、そして、「斉明六年(660年)ミシハセ四十七人に饗えたまいき」と、都での女帝斉明天皇による異民族接待の記述が三度も「日本書紀」にあるのは何故でしょう。
それらの「日本書紀」の女帝皇極天皇と女帝斉明天皇の物語は、チュルク系騎馬民族文化の蘇我王朝時代に、難波・近江の湊から大運河を造り、ガラス工場のある飛鳥ヤマトに、その原料である石英の小石を船で運び込んだ事実と、中国大陸や陸奥からのアラム語やソグド語を話す多数の国際交易人が飛鳥ヤマトに来た事実を、時代を五六十年後にずらして、中国大陸の突厥帝国が支援する飛鳥ヤマトのチュルク系騎馬民族による国際交易の史実を隠蔽するための物語であったのです。
その根拠は、突厥帝国に敵対する隋の煬帝(604年〜618年)は、608年隋使裴世清を倭国に派遣し、その裴世清は小野妹子の案内により、難波の湊から、運河で船に乗り飛鳥ヤマトへ「男王」に謁見のため訪れていたからです。その「隋書」の記述に反して、「日本書紀」によれば、その隋使渡来の時代は、摂政聖徳太子が活躍した「女帝」推古天皇(593年〜628年、実在は疑問。)の統治時代だったのです。
「日本書紀」は、720年に完成・完結したものではないようです。完成後も、時の王権の思惑により改竄され続けられたようです。国書である系図一巻が紛失したことも、改竄に関係があったのでしょう。「日本書紀」の文章を分析すると、三群の作家集団により創作されたようです。第一群は、ヤマト言葉も漢語も堪能な群です。第二群は、ヤマト言葉は堪能でも、漢語が稚拙な群です。第三群は、ヤマト言葉は稚拙だが、漢語に堪能な群です。
そのような作家群により創作された「日本書紀」にある、「皇極」や「斉明」とは、漢風のおくりなです。その名前がいつ付けられたかの定説は未だないようです。(神武天皇の漢風おくりなは、奈良時代に淡海三船により発明された、との一説あり。)その「皇極」とは、中国大陸では太極と同じ意味で、「世界の中心」ということです。そして、「斉明」とは、「神の祭りを熱心にする人」の意味です。これらの言葉の出典は、中国古典の「礼記」や「書経」です。
「日本書紀」で記載されている高貴な意味の名前「皇極・斉明=世界の中心・神を熱心に祀る女帝」と、その行動を「狂心・たわぶれごころ」と、「日本書紀」でこき下ろすその落差の意味は何なのでしょう。
飛鳥・奈良時代までは、天帝である北極星を祀っていたことは確かです。それに、飛鳥時代の最上官位である「真人」とは、天帝である北極星(太一)を世話する北斗七星に居ると信じられている高官のことなのです。
しかし、この飛鳥時代の天武天皇より始る星祀りは、平安時代の桓武天皇により禁止されてしまうのです。そして、道教は「左道」と呼ばれ、邪教扱いに貶められてしまうのです。
騎馬民族文化の飛鳥時代では、「左」は、「右」よりも優位であったのです。その「左」を「邪」とするのは、平安時代より文化基準が、飛鳥・奈良時代と異なってしまったことを意味するのです。(江戸初期、東雛(あづまびな)により「左側」優位が復活。しかし、徳川三代将軍家光が天下人となると、京雛(きょうびな)の「右側」が優位となる。)
騎馬民族が、「左」を「右」より優位にしたのは、北から南の農耕民族と対峙すると、夜明けが「左=東」となり、日没が「右=西」となるからです。ですから、騎馬民族の出陣は、右翼よりも、左翼が先陣を切ったのです。
その飛鳥時代より奈良時代まで続いた騎馬文化を否定する、道教を左道(邪教)と決め付ける平安時代の貴族は、馬で移動するのではなく、牛車で移動していたのです。
では、飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔は、どこに消えてしまったのでしょうか。
「士農工商」の身分制度は、江戸時代に確立されたと思っているひとが多くいるようですが、それは違います。「士農工商」の身分法は、関白豊臣秀吉が、小田原征伐後、全国を統一して、宿敵の騎馬民族末裔徳川家康をひとも住めぬ湿地帯の穢れ地(エド→江戸)に移封した翌年、1591年に発令したのです。
藤原氏に取り込まれた関白豊臣秀吉は、騎馬民族末裔の武士集団壊滅を意図して、その三年前の1588年には、刀狩令を発して、徳川家康を支援する土着武装勢力と農民・工人・商人との分離を画策していたのです。(関白豊臣秀吉は、宿敵徳川家康を支援する渡辺村を穢多村と貶めたが、1600年徳川家康は、関が原の戦いで、藤原氏傀儡豊臣軍団を壊滅すると、渡辺村を役人村に引き上げ、摂津の部落民をエドに移民させるのです。)
日本刀により戦をする武士のイメージは、第三百済王朝の江戸時代の書物や講談により創られたようです。1543年(一説には、1542年豊後に渡来。)鉄砲が伝来するまでの戦では、刀は主力武器ではなかったようです。それは、戦死者の傷の多くは、矢によるものと槍によるものが殆んどであったようです。では、戦での日本刀の用途は何にかと言えば、それは敵の首切り用に使われたようです。日本列島での戦の報奨金は、敵の首と引き換えによりおこなわれていたのです。この報奨金制度は、歴史上では秦の始皇帝軍(紀元前221年〜紀元前201年)が始めのようです。漢民族には首切りの風習はなかったのです。
時代劇でお馴染みの剣術・剣法が盛んになったのは、騎馬民族末裔の武士集団が滅ぼされ、大規模な戦が無くなった第三百済王朝の徳川三代将軍家光からなのです。戦の無くなった第三百済王朝の江戸時代は、サムライ物語が盛んに創作された時代だったのです。そして、二刀流の剣豪宮本武蔵などは、江戸中期に浄瑠璃「花筏巌流島」で、架空の人物佐々木小次郎との対戦相手として登場したキャラクターであったのです。宮本武蔵とは、実在の放浪画家「宮本ニ天」と実在の肥後細川家の剣聖「新免武蔵」(1637年〜1638年島原の乱に参戦)との合成人物であったのです。
では、日本刀を武器とする武士は、どのようにして日本列島に現れたのでしょうか。
日本刀の特徴を簡単に言えば、反りのある片刃で、両手で握って使うということです。そして、不思議なのは、日本刀の古い名刀ほど、実戦には適していないことです。それは、曲がる、折れる、刃こぼれするからです。この日本刀が、歴史上現れたのは、平安時代のようです。
平安時代は、中国大陸で唐が覇権を制し、北のウイグル、西の吐蕃、東の新羅・渤海に圧力をかけていたのです。その圧力は、当然日本列島にも及んでいたのです。
唐の庇護を受けていた藤原氏を出し抜いて、桓武天皇は日本列島経営に着手するのです。それは、唐が求める陸奥の鉱物資源奪取です。その前触れとして、天武王朝最後の女帝称徳天皇を倒すと、亡命百済貴族末裔の光仁天皇は、780年百姓から武力に秀でた者を選び、戦闘訓練により軍隊を組織するのです。これが、日本列島での初の兵農分離です。そして、792年その息子の桓武天皇は、奈良時代の軍団を廃して、健児兵を組織するのです。
唐の支援により、桓武天皇軍団は、陸奥の「風の王国」を謀略で壊滅すると、「風の王国」の武人・技術者を捕虜として、京の都に連行して、捕虜収容所の「部落」に押し込めるわけです。そして、この時代に、京の都には「鬼」が出没するようになるのです。やがて「鬼」は京の都を荒しにかかるのです。
桓武天皇が崩御し、その後平城天皇も上皇となり、809年即位した嵯峨天皇は、子作りが盛んで、分かっているだけでも五十人の父親であったのです。この頃、藤原氏のエージェント空海は、回春力抜群の密教秘法(真言立川流)により、子作りが得意な嵯峨天皇に接近して、その寵愛を受けるのです。その裏には、藤原氏の陰謀による、平成上皇と嵯峨天皇との確執による藤原薬子の乱があったのです。
事業は三代続かぬ格言を証明するように、嵯峨天皇の台所は火の車となるのです。そこで、皇子・皇女の手当てが支給できなくなり、814年多くの子供達の皇籍を外す手段として、源氏賜姓をおこなうのです。これが世に言う、嵯峨源氏の始まりです。
その嵯峨天皇に対抗して、淳和天皇は、825年平氏賜姓をおこなうのです。これが世に言う、公家桓武平氏の始まりです。
嵯峨天皇の時代、都の治安が「鬼」の活躍により悪化するのです。そこで、816年京の都のガードマンとして、検非違使を組織するのです。しかし、この平安貴族により組織された検非違使では、「鬼退治」はできないのです。それは、山奥に住む「鬼」とは、武術に秀でた飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔であったからです。
更に、空海と最澄による中国渡来のヒンズー教化仏教(真言宗・天台宗)布教により、「鬼」のイメージが過大に膨らんでしまっていたのです。空海・最澄は、極楽世界よりも、鬼の住む地獄世界をリアルに宣伝したため、その鬼の住む地獄世界がトラウマとなり、ひとびとのこころを蝕んでしまっていたのです。(この閻魔様の地獄のトラウマは現在も続いている。)
平安仏教徒が宣伝する地獄世界が、平安貴族をどれほど脅かしたのかといえば、それは、奈良の都で、聖武天皇が発起人となって鋳造した、奈良の大仏の製作過程(752年開眼供養)での、銅・水銀による鉱毒で、平城京(710年〜784年)の街は地獄絵そのもので、ほんの十年前の出来事であったからです。
当時の医学知識では、鉱毒中毒の認識がなく、目に見える皮膚病が病で、目に見えない神経症の病は、怨霊の祟りと信じられていたのです。そのような地獄世界の平城京から、794年平安京へ逃れてきた亡命百済貴族は、平安仏教徒がインド・バラモン教やヒンズー教の地獄世界を東洋化したビジュアルで宣伝したため、バーチャル地獄世界と奈良の鉱毒汚染世界とがオーバーラップして増幅してしまっていたわけです。
更に、空海が中国から持ち込んだ密教呪法の手印のパフォーマンスは、江戸時代まで影響を及ぼし、奈良の穢れ大仏の手から悪霊が発せられると信じられていたため、奈良の大仏を観光資源にするために寺側は、鑑賞者が手印の呪法に掛からないようにするために、大仏の顔だけ鑑賞できるように、窓を開けた門を造ることになったほどなのです。
そのような地獄世界を平安貴族に布教することにより、空海と最澄は守護神の仲介者として、密教のアラム語呪文やゾロアスター教の儀式を真似た加持祈祷のパフォーマンスにより金儲けができるわけです。
しかし、唐に軍事支援された桓武天皇軍に破れ、山に逃れた前政権貴族・軍人の末裔は、平安仏教が地獄世界を宣伝したため、おどろおどろしい「鬼」として認識されてしまうのです。(仏教徒が始めた節分で、飛鳥ヤマト支配者の末裔の鬼は、豆で「鬼は外」と追い払われる身分に貶められるのですが、しかし、鬼の末裔の騎馬系武士家では、「鬼は内」なのです。)
そこで、平安貴族は、悪霊の妖怪の手下である「鬼」退治のため、「夷を以って、夷を制す」の戦術として、部落に住む「風の王国」の捕虜を検非違使の手下(手下は、中国漢代の官位を真似て「長吏」と呼ばれていた。しかし、平安時代に警察業務をおこなった長吏は、第三百済王朝の江戸時代に、「穢多」と同義語となるのはどうしてでしょうか。)として使うのです。
嵯峨天皇の皇子で臣籍に降った源融の子孫源綱は、清和源氏(新羅花郎軍団=ローマ軍団末裔)の源満仲の婿の養子となり、摂津西成郡渡辺村に移って渡辺姓を称するのです。
その渡辺村とは、古代エジプト語の「ワタ・波」が打ち寄せる辺(ほとり)で、「津」にある村(スク・集落)の意味で、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅からの交易湊となっていたのです。つまり、渡辺村は四世紀以降から、摂津渡辺津→北九州松浦→朝鮮半島南端珍島(メズラ→マツラ→松浦)の海路によるギリシャ・ローマ文化保持国新羅のコロニーで、百済のコロニー難波と対峙していたのです。
その渡辺綱は、源頼光に仕え、坂田金時、平貞道、卜部季武と共に頼光四天王と称され、「鬼退治」をおこなうわけです。その鬼退治に使われた武器が、後の武士の武具である、日本刀と鎧の原型として伝わるわけです。(この鬼退治の話は史実ではないようです。)しかし、この平安時代の日本刀と鎧は、実戦用ではなかったようです。それは、日本刀は、曲がる、折れる、刃こぼれするからです。更に、その鎧は、実戦不向きの過度の装飾を施した総皮製であったのです。では、それらの武具で武装する平安武士とは、何のための存在なのでしょう。それは、実在の敵と戦うのではなく、平安京を跋扈する目に見えぬ悪霊との戦いをする「武芸者」(芸とは神を祀ること。武芸とは、武の舞により神を祀ること。この武舞芸が源氏騎馬民族支配の室町時代に能楽に発展する。)だったのです。
では、世界でも珍しい実戦用ではない武器の日本刀のルーツは何かと探すと、その行き着く先は、陸奥の「風の王国」戦士の武器である蕨手刀となるのです。この蕨手刀は、唐軍により支援された桓武天皇軍の謀略により壊滅された、陸奥の「風の王国」の捕虜が、京に連行され部落に押し込められ武器製造の奴隷とされた、陸奥蝦夷の武器であったのです。(突厥帝国軍の刀と蕨手刀は酷似している。)
独特な片刃で反りのある日本刀が生まれた背景は、騎馬民族が、馬上から刀を振り下ろす時に生じる激力を分散させるために、刀に反りを付けたことによるのです。騎馬戦で有利な片刃の反り刀も、地上戦では、両刃の直刀の方が、片刃の反り刀より有利なのです。片刃の反り刀は、騎馬民族の智慧から生まれた武器であったのです。
では、チュルク系騎馬民族末裔が蝦夷であった根拠を述べれば、陸奥には、801年坂上田村麻呂が蝦夷を平定する以前、645年唐に支援された藤原氏により、チュルク系騎馬民族文化の蘇我王朝が倒された時、その蕨手刀を持った敗残兵は陸奥へ逃れていたからです。
武士のルーツが、俘囚の末裔(蝦夷=チュルク系騎馬民族)といわれた理由が、武士の魂である日本刀の「反り」で証明されるわけです。
更に、武士が仏教を嫌う理由は、武士同士の書き文字が、漢字ではなく、カタカナであることで説明できるでしょう。
時代劇で、漢字ひらがなまじりの書状を読む場面があることにより、武士は漢字で書状を書いていたように思われているようですが、それは代書屋に依頼したものです。
戦国時代までの代書屋の多くは、仏寺であったのです。武将が戦の前に、戦勝祈願のために仏寺に行く本当の理由は、漢字書状の解読、返事の代書と、軍資金の調達のためだったのです。仏教嫌いの織田信長と徳川家康が、イエズス会の軍事力を背景に、仏教勢力を壊滅するまでは、仏寺は軍事部族に対して借上(高利貸し)をおこなっていたのです。
では、何故に武士が漢字を認識できなかったのかと言えば、それは、武士の世界に漢字文化(仏教文化)がなかったからです。日本刀で武装する武士の祖先は、清和源氏の源義光が、別名新羅三郎と言われたように、源氏のルーツは、仏教国高句麗・百済と対峙していた、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅であったからです。ですから、日本武士道とローマ騎士道とには、弱者を助け、君主に忠誠を尽くすことや、戦の方法として、名乗りを上げる一騎討ちやトーナメント形式の戦いなどの共通点が多くあるのはそのためなのです。
では、武士の別称と思われている「サムライ」とは、何なのでしょうか。「サムライ」は、第三百済王朝の江戸時代に、武士と同義語として使われ始めた言葉です。しかし、「サムライ」の語源は、平安時代まで遡るのです。
810年藤原薬子の乱により、身の危険を感じた嵯峨天皇は、蔵人所という令外官を設けるのです。その任務は、天皇の側に侍(はべ)り、警護と秘書の役目を担ったのです。その「侍る」ことを、「サブラヒ」と言ったことから、天皇の武装警護人を「サブラヒ・侍」と呼ばれていくわけです。「サブラヒ・侍」は、天皇の秘書も務まる、漢字文書が理解できる仏教文化に染まった亡命百済貴族子息により組織されていたのです。
平安時代には、令外官として二種類の武装集団がいたのです。それは、漢字の読めない新羅系「武芸者・武士=警察業務」と、漢字が読める百済系「サブラヒ・侍=秘書業務」とです。それらは、同じく武装はしているけれども、出自民族も別なら遂行任務も別であったのです。
空海が、密教儀式で嵯峨天皇に取り入られると、それと同時に藤原氏も、「藤原の女」を天皇の側室として送り続けることにより、文徳天皇(850年〜858年)の時代には、藤原良房が天皇を補佐する摂政の職務をおこなうわけです。そして、清和天皇(858年〜876年)の時代には、藤原良房へ摂政の詔が出るのです。この藤原良房が、摂政として天皇に代わり政治の実権を握ったことにより、第一百済王朝は崩壊して、藤原王朝へと突き進んでいくのです。(聖徳太子の実在性を否定する証拠のひとつとして、「摂政」の職務が、858年以前には存在していなかったことが上げられます。)
やがて、、中国大陸を支配していた唐も、東ローマ帝国とのシルクロード交易も、アラブ(中国ではインド以西はペルシャと呼ばれていた。)→インド→中国への海のシルクロード交易が盛んになると、そのシルクロード国際交易商人からの通行税収入がなくなったため国力が疲弊し、ついに907年唐が滅亡するのです。すると、平安時代の栄華を誇った第一百済王朝も衰退していくのです。それは、第一百済王朝は、唐の軍事的後ろ盾があったからこそ政権の中枢に居られたからです。
陸の交易から海の交易への影響は、朝鮮半島を支配していた統一新羅にも及ぶわけです。935年統一新羅が滅び、翌年高麗が朝鮮半島を統一するのです。この影響は、日本列島にも波及するわけです。それは、多くの統一新羅軍の残党が、日本列島に渡来したからです。それに同調して起こったのが、939年の天慶の乱です。瀬戸内海では藤原純友が、関東では平将門が兵を挙げて、独立国を建て自ら「王」を名乗ったのです。
この天慶の乱を鎮圧したことにより、百済系官僚の下で警察業務をおこなっていた「武士」の武闘力が、公に認められるのです。武士は、元々騎馬民族末裔で弓馬に優れていたため、歩兵軍団の敵ではなかったのです。
中国大陸では、唐の後に、北漢・後周・南唐・楚・後蜀・呉越が興った後、960年宋が起こり、979年宋が中国を統一すると、平安政権を牛耳る藤原氏は、日宋貿易により益々栄華を極めるのです。そして、宋の北には、契丹を継承した遼(916年〜1125年)が対峙するのです。
ここでひとつの疑問が涌くのです。それは、武士が始めて政権を執った鎌倉源氏の先祖がどこから来たかです。それは、鎌倉源氏の先祖は、嵯峨源氏ではなく、清和源氏であるからです。
天慶の乱後、藤原氏の桓武天皇より奈良に封印されたことからの政界返り咲きと同時に、645年突然日本列島に現れた藤原氏と同様に、清和源氏が政界に突然現れるのです。そして、昇殿を許された嵯峨源氏と許されない清和源氏が、天慶の乱後に合体したことになるのです。その説明として、嵯峨源氏末裔の源綱が、源満仲の婿の養子となったことです。更に、元皇籍末裔であった源綱は、渡辺津に移り渡辺綱となり渡辺党を興し、清和源氏の源満仲の配下となったことに歴史上なるのです。つまり、歴史上、清和源氏は、嵯峨源氏賜姓から約150年後に公家源氏を配下とし、源氏棟梁を継承したとの説明です。
ですから、天慶の乱以降、武家源氏の先祖は清和源氏となっているのです。しかし、清和源氏の出自には謎があるようです。それは、清和源氏の系図に疑問があるからです。
系図とは、系図屋とは「嘘つき」の代名詞でもあるように、信用できるものは、ほとんど存在していないようです。今に残る武将に関する系図の多くは、戦国時代も終わり、豊臣秀吉が天下を取った安土桃山時代以降からです。戦国時代の武将の系図が信用できないのは、特に、豊臣秀吉は、自らの出自を消すためにイエズス会史料や織田信長関連を焚書していたからです。幼名が日吉丸(ひよし=イルギ=百済系か。豊臣秀吉の出自は、木下とう「唐」きち「来た」ろう「男」か。)と云われ、自称百姓出身と言っても、百姓は王権に管理されていたため母の名が不詳とは、いったい関白豊臣秀吉はどこの生まれであったのでしょうか。しかし、豊臣秀吉だけが例外ではなく、戦国武将の多くは、出自不詳であったのです。戦国時代を代表する明智光秀、徳川家康なども、その出自は不詳であったのです。しかし、織田信長は、三代先までは辿れるのですが、その三代先の墓は、垣内にあったのです。
清和源氏の系図は、第五十六代清和天皇(858年〜876年)→貞純親王→源経基→源満仲(912年?〜997年)→源頼信〜八幡太郎(源義家)・新羅三郎(源義光)、となっていくわけですが、969年安和の変(藤原氏の陰謀で、武家源氏・源満仲を取り込んで、密告させることにより公家源氏・左大臣源高明を左遷させた事件。これは、藤原氏末裔近衛家が、イエズス会傭兵日吉丸→羽柴秀吉を取り込んで、関白豊臣秀吉とし、1590年騎馬民族末裔徳川家康を左遷させた戦術と同じです。)で活躍した、藤原氏の配下となった源満仲(912年生?)は、父親の源経基(917年生)よりも、五歳年上なのです。
更に、源満仲の年下の父源経基は、第五十六代清和天皇→第五十七代陽成天皇→元平親王の系列に属するとの説もあるわけです。つまり、鎌倉源氏の祖清和源氏は歴史上存在せず、正しくは、「陽成源氏」である、との説です。
では、清和源氏の立役者・源満仲の出自はどうなのかと言えば、それが分らないのです。源満仲が、歴史上に現われるのは、平徳五年(961年)に京都の治安部隊の検非違使に加わるところからです。それも、49歳と決して若くない年代なのです。
では、武士の魂である日本刀で武装する清和源氏は、どこから来たのでしょうか。
教科書歴史を読んでいると、神代に九州に降臨した天孫族が、四世紀飛鳥ヤマトを征服し、その後、海外の軍事力の影響をまったく受けずに、九州に棲む熊襲や隼人を征服し、そして、九世紀陸奥に棲む無文化の蝦夷を征服して、平安時代に日本列島本土を統一した、というストーリ展開を意図的にしているように感じられます。
しかし、東アジア地図を、百八十度回転させて眺めてみると、日本列島は、日本海(東海・とんへ)を内海とする、騎馬遊牧民族が住む北東ユーラシアから、南東中国大陸へ至る「渡り廊下」にみえるでしょう。だから、騎馬遊牧民族が、アムール川を下り、サハリン→北海道→本州へのルートの、北海道は、古来から「渡り島」と呼ばれていたのです。日本列島は、古来から孤立していたのではなく、縄文以前から岩手県久慈には琥珀が産出され、バルト海沿岸まで、国際交易商人による琥珀ロードがあったのです。
日本列島は、北東ユーラシアの騎馬遊牧民族には南東中国本土へ攻め込む前線基地であり、それに対して、南東中国諸国では、南下する騎馬遊牧民族を阻止するために、日本列島を軍事的に押えることは死活問題となるわけです。つまり、日本列島の中心の飛鳥ヤマトは、東ユーラシア大陸の国々に、そのような軍事最前線基地として位置づけられていたのです。この「北=騎馬遊牧民族」対「南=農耕民族」の軍事対決は、「北の短弓」対「南の長弓」で証明できます。
弓からでもその南北の民族性が解明できるのです。弓の弦は、北は騎馬遊牧民族なので動物の小腸を加工したものだから、弦自体に弾力性があるため弓が短くても強力な武器となるのです。しかし、南は農耕民族なので弦は植物繊維のため、弦自体に弾力性がないため、弓を長くしてその弾力により矢を射るわけです。
漢族化した唐の軍事援助により京を支配した第一百済王朝の平安時代、平安貴族が、騎馬民族末裔の弓弦を売るひとを、「つるめそ・犬神人」として貶めた理由が、古代から続く南北対立民族闘争の結果であったわけです。
十世紀の日本列島は、唐の軍事勢力後押しの第一百済王朝の平安王朝が近畿を支配していたけれども、それは平地のみで、近畿の山々や東北の山々に隠れ住む蘇我王朝・天武王朝の騎馬遊牧民族末裔の「風の王国」の軍事勢力は健在だったのです。
やがて、907年唐が滅び、そして926年渤海が滅び、更に935統一新羅が滅ぶと、東アジアは、騒乱の時代に突入するわけです。では、戦いに敗れた東アジアの元支配者階級は、どこへ亡命したのでしょうか。
1776年の国民国家誕生までは、世界には固定した国境など存在していません。ですから、敗れた王族は、より弱い王国を侵略して生き延びるわけです。
唐が陸路のシルクロード交易で栄えていた頃、イスラム帝国がユーラシアの内陸を支配したため、アラブ(ペルシャ)の国際交易商人は、中国への海路を開発するわけです。七世紀後半には、アラブ(ペルシャ)→インド→唐への海路での定期交易路が開発されていたのです。そして、統一新羅も、陸路が使えなくなったため、交易海路を開発していたのです。
奈良・平安時代の遣唐使船は、藤原氏の日唐貿易独占と天武王朝系次世代貴族抹殺の陰謀のため、すこしの嵐でも遭難するように設計されていたため、やっとのおもいで唐に渡った遣唐使(唐留学期間は二十年前後なのに、何故最澄は八ヶ月で、空海は一年数ヶ月で帰朝したのでしょうか。それは、その唐留学の本当の目的が仏教勉学ではなかったからです。)の多くは、日本への帰りは安全な新羅商船を多く使っていたのです。
統一新羅が海上交易に強かったのは、弥生時代の北九州・山陰と朝鮮半島南端は、国際海洋交易民族呉(紀元前473年滅亡)・越(紀元前334年滅亡)末裔の倭族・韓族(倭族と韓族は同族)の支配地であったからです。朝鮮半島南端の珍島(メズラ)と北九州の松浦(マツラ・魏志倭人伝のマツロ国)とは、潮目を読める海洋民族により、古代から交易のため頻繁に行き来していたのです。(後に、松浦の海洋民族は、源氏海軍松浦党となり、朝鮮半島南端の珍島の海洋民族は、五島列島に拠点を移し倭寇となるのです。)
907年唐が滅亡すると、多くの元唐支配階級が平安王朝を頼って亡命してくるわけです。新羅商船が、唐滅亡前後に日本列島に頻回に訪れたのはそのためです。920年には渤海使が入貢し、その6年後、926年渤海は滅亡するのです。929年統一新羅は、朝貢を願い出るのですが、第一百済王朝に退けられるのですが、その6年後、935年統一新羅は滅ぶのです。
そのように、日本列島史では、東アジアの元支配者階級の亡命を拒否したことになっているのですが、平安時代の京の街の治安が大いに乱れたことは、東アジアの亡命者の渡来と関係があったのでしょう。その結果が、939年の天慶の乱(瀬戸内海・藤原純友の乱と関東・平将門の乱)となるわけです。それらは、唯の乱ではない証拠に、それぞれが「王」を名乗っていたからです。つまり、それらの乱の実態は、亡命王国の樹立だったのです。
天慶の乱後、武家源氏の武闘力を見せ付けられた藤原氏は、源満仲を取り込み、公家源氏の左大臣源高明を陰謀により左遷させ、摂関政治を利用して、第一百済王朝を潰しに掛かるのです。政権を倒すには、財布の紐を締めればよいのです。第一百済王朝の経済を支えていたのは、陸奥の鉱物資源の金・琥珀・鉄などです。
そこで、1051年摂政関白藤原頼道は、取り込んだ源頼義を陸奥に送り、陸奥俘囚長安部頼時を滅ぼすのです。これが世に言う、前九年の役(1051年〜1062年)です。その後、源義家(八幡太郎・八幡(やはた)とは、秦氏の神を祀る社です。その秦氏の神は、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅から渡来したのです。)の弟源義光(新羅三郎)が俘囚清原家衡を滅ぼすのです。これが後三年の役(1086年〜1088年)です。この源氏兄弟の軍事力を使った二度の陸奥侵略戦争により、奥州藤原氏の基礎が完成するわけです。しかし、藤原氏は、源氏の肥大化する軍事力を恐れるのです。そして、その恐れは現実となるのです。
藤原氏の摂政政治により律令体制が崩れ、私領である荘園経営が発達しため、この頃では、各豪族がそれぞれの荘園領主となって小さな独立国のようになっていたのです。その小さな荘園領主が、源義光(新羅三郎)の後三年の役の軍事的活躍を知り、その保護を求めるために、自らの荘園を源氏棟梁に寄進するわけです。そこで藤原王朝(866年〜1196年)に支配されている朝廷は、1091年源義家(八幡太郎)への荘園寄進の禁止を発令すのです。更に、翌年には源義家(八幡太郎)の荘園設立を禁止するのです。しかし、朝廷は、源義家(八幡太郎)の実力を無視できなくなり、1098年源義家(八幡太郎)は、ついに昇殿を許されるのです。
藤原氏は、第一百済王朝の経済を支えた陸奥の鉱物資源を奪取すると、藤原氏の荘園である南九州坊津から中国寧波へ、陸奥からの簒奪物資を輸出するわけです。その頃の宋には既に、アラブ(ペルシャ)からの国際交易船がインド経由で多く訪れていたのです。アラブ(ペルシャ)商船は、伊勢の水銀を求めて、古くから訪れていたようです。黒潮により南方のヤシの実が訪れる伊勢湾の湊は、古来から南方からの国際交易港だったのです。
昇殿を許され、山の民を味方に付けた源氏は、藤原氏のコントロールが効かないほどの勢力となるのです。そして、源氏勢力は、比叡山を廃墟にした織田信長や徳川家康のように、騎馬民族を賎民に貶めた思想を広めた拠点である平安仏教寺を荒らしまわるのです。そこで、藤原氏は、伊勢を根城とするアラブ(ペルシャ)系武装集団の利用を考えるわけです。ここに平家の登場となるわけです。平家の棟梁平正盛の登場は、1107年出雲目代を殺害した源義親の追討からです。
では、「平家」と「平氏」とは同じ軍事部族なのでしょうか。もし同じ軍事部族だとしたら、源平合戦(1180年〜1185年)とは、実態は「平家対平氏の合戦」となってしまうのです。何故ならば、源頼朝の源氏挙兵(1180年石橋山の戦い)は、桓武平氏末裔北条氏の陰謀だったからです。つまり、源平合戦での実戦部隊は源氏軍事部族であったけれども、その政治中枢は源頼朝を傀儡とする平氏の北条氏であったからです。
平安時代の関東の海岸側に勢力を張る、千葉氏、上総氏、三浦氏、そして北条氏は、平安初期、百済系桓武天皇が、唐の要請により陸奥の鉱物資源を奪取するために組織した、中国山東半島から移住した元百済軍事部族による健児兵の流れを汲む、桓武平氏の末裔だったのです。つまり、桓武平氏の「平氏」とは「官位の姓」であり、ツングース系の半農半猟民族の末裔で「サブラヒ・侍」の末裔だったので、戦闘騎馬技術は苦手だったのです。
それに対して、「平家」とは、「平氏」とは異なり、姓(かばね)ではないのです。では、何ゆえに「平家」なのでしょうか。それは、摂政藤原氏の政治専制に不満を持つ、百済系白河法皇(天皇1072年〜1086年・上皇1086年〜1096年・法皇1096年〜1129年)が、藤原氏の戦略を真似た平正盛の「祇園女御」と金銭の贈呈を受けることにより、平正盛を白河上皇の軍事護衛側近として召抱えた時に与えた「名前」だったのです。つまり、「平家」とは、「平氏」と異なり、官位の姓ではないのです。
桓武平氏には、北条氏とか千葉氏などの氏名(うじめい)があるのに、平家には、氏名がありません。平家は、ただ「平○○」と名乗るだけです。平正盛の系図では、桓武天皇〜貞盛→維衡→正度→正衡→正盛となっているようですが、正盛以前は不詳です。そもそも、氏名がないということは、平家は日本列島に歴史をもっていなかったことを意味しています。それは、主に氏名の元は土地名だったからです。
では、平家が日本列島の生まれでないとしたら、どこから渡来したのでしょうか。考えられるのは、平家が好む、赤色の「べんがら染」です。「べんがら」とは、インド・ベンガル地方で産出される、酸化鉄の染料です。更に、白河法皇に召抱えられ、伊勢から京に拠点を移した所を、「祇園」とするのです。この祇園とは、インドの祇園と大いに関係があるのです。インドでは、牛は聖獣です。そしてこの京都祇園で始る祭りは、「牛祭り」と呼ばれのです。やがて、元山背国支配者のオリエントから渡来の秦氏が祀る、ミトラ神(魔多羅神)の化身である牡牛の屠り儀式と習合して、牛頭天皇の牛祭りとなるのです。この祇園祭は、インドとオリエントの異民族の祭りのため、半農半猟民族ツングースの夫餘族末裔である亡命百済平安貴族から忌み嫌われていたのです。この祭りが始ると、平安貴族は、神輿違えといって、京からその祭りの期間は郊外に避難したほどなのです。平家は、平安貴族より、賎民視されていたのです。
平家が、従来の軍事部族と異なるのは、日本の神も仏も恐れないということです。平家軍団は、怨霊を封じ込めた移動式神社である「神輿」に矢を射ったり、仏像に火を放ったりしたからです。(1180年源頼政が平家打倒で挙兵すると、平重衡は鬼の神・遍照鬼が安置されている東大寺に火を放つのです。)この平家の宗教施設の破壊の背景は、1017年藤原王朝絶頂期の藤原道長が摂政関白の時、神を仏の手下とする本地垂迹説の発明と関係があるようです。その結果、仏寺に神社が習合されてしまい、空海が唐から密教の神々として日本国に持ち込んだ、インドのバラモン教やヒンズー教の神々の像が仏像として安置されていたからです。
インド文化を保持する平家には、平安仏教施設や仏像は、霊験あらたかな「聖」ではなく、インド宗教の紛い物の「邪」に見えたことでしょう。
そのようなインドの神々を仏像として祀る比叡山延暦寺の薙刀で武装する僧兵は、藤原氏が支配する京に、日吉の神を祀る神輿を奉じて乱入するわけです。
京の街は、藤原氏の興福寺・春日社側と亡命百済貴族の延暦寺・日吉社・日枝社側との抗争時代に突入していたのです。その争いに乗じて、それらのヒンズー教化仏教に呪縛されていない平家は、それらの仏教勢力を武力で鎮圧することで、政界中央に登りつめていくわけです。そして、1167年平清盛は、太政大臣となるわけです。
そのように、日本的ではない思想を持つ、インド(アラブ)文化色が強い平家が、源氏に屋島の海戦で破れ、壇ノ浦を目指して逃亡したのは、先祖が来た海路を逆に辿り、インド→アラブ(ペルシャ)を目指したのかもしれません。平家の海洋民族文化色をみれば、その推測も成り立ちます。
アラブ国際商人の傭兵軍末裔を先祖に持つ、祇園女御を利用して安徳天皇の姻戚に登りつめた平清盛は、福原京を造り南宋貿易を独占したため、後白河法皇と藤原氏にとっては滅ぼさなければ成らない存在になっていたのです。
そのように平家が増長してしまったのは、後白河天皇と藤原氏が、1156年保元の乱と1159年平治の乱で、源氏軍団壊滅のため、平家を支援したための結果だったのです。
平家から統治権を取り戻すには、関東に棲息する桓武平氏末裔の海軍力ではかないません。それは、平家には、海外傭兵軍の強力な支援があるからです。
そこで、藤原氏と後白河上皇は、伊豆に幽閉されて、平氏の北条時政に居候をしている源頼朝を担ぎ出し、源頼朝を源氏棟梁とし、同族である陸奥の山奥に勢力を張るチュルク系騎馬民族末裔の軍事力を利用することを計画するわけです。
鎌倉源氏集めの過程で、奈良時代の終わりに、藤原氏と亡命百済貴族との戦いに敗れた、天武王朝末裔の騎馬民族が関東の山奥に逃亡したことを知ることができるようです。
それは、1180年平氏の北条氏軍のみで源頼朝を担いで挙兵した石橋山の戦いで、平家に敗れた源頼朝軍残党は、伊豆から船により房総に逃れると、再起のため騎馬戦を得意とする源氏武将集めに、関東にある廃墟となっている国分寺を廻るのです。その廃墟の国分寺に、関東の山々から多くの騎馬源氏武将が集まるのです。(石橋山の戦いでの敗走の時、源頼朝を助けたのが、弾左衛門と云われています。この時の弾左衛門は、まだ穢多頭ではなかったのです。穢多の蔑称が発明されたのは、1219年源氏三代鎌倉幕府を陰謀で倒した、百済系北条鎌倉幕府の第二百済王朝時代(1219年〜1334年)だったからです。)
国分寺の歴史は、反藤原氏の歴史そのものです。反藤原氏の聖武天皇が奈良の大仏(=遍照鬼・空海が一神教を真似て「大日如来」を発明したため、反藤原氏の遍照鬼が、体制側の奈良の大仏様となってしまった。)を、藤原氏が支配する平城京を見下ろす丘に建立し、奈良の大仏の霊力で藤原氏の平城京を封じ込める装置であったのです。国分寺とは、その大仏の効力を地方にも及ぼすための装置であったのです。ですから、奈良時代での地方の国分寺は、反藤原氏の拠点でもあったのです。しかし、藤原氏を出し抜き百済系桓武天皇が支配者となった平安時代では、奈良の大仏建立時の鉱毒汚染の影響の怨霊封じのためと、百済本国を滅ぼした新羅末裔の源氏壊滅のため、その拠点の国分寺も安置された仏像(遍照鬼)も穢れ仏として、ことごとく破壊してしまっていたのです。
平家との石橋山の戦いで形勢不利の平氏北条氏は、奥州藤原氏の策略で源義経の担ぎ出しが成功すると、鎌倉源氏による平家打倒計画を実行に移すのです。源義経と源頼朝が兄弟であることは疑問ですが、藤原秀衡の後押しで源義経は、小腸の弦を張る短弓で武装した蝦夷末裔の山の民と伴に騎馬で平家追討に赴くのです。(蝦夷とは、農耕民族の文士が発明した言葉で、エビのようなヒゲのある、夷=弓を持った人の意味であるわけです。つまり、蝦夷とは、ヒゲの薄いツングース系民族ではなく、ヒゲの濃いチュルク系民族を意味した言葉です。)
この源平合戦(1180年〜1185年)は、「北」対「南」、「源氏+平氏」対「平家」、「騎馬民族」対「海洋民族」、「短弓」対「長弓」、更にその背景には、東アジアの、北宋を支配した騎馬遊牧民族の金=北朝(1115年〜1234年)と平家と藤原氏の貿易国である農耕民族の南宋=南朝(1127年〜1279年)との代理戦争でもあったのです。(1271年中国大陸の南北朝を統一した騎馬遊牧民族元軍のシンボルは笹リンドウで、源義経のシンボルも笹リンドウであるのです。このことは、同じ騎馬遊牧民族だっただけの、唯の偶然なのでしょうか。この頃日本列島では、まだ戦時に家紋やシンボルが使用されていなかったのです。敵味方の識別は、源氏の白旗と、平家の赤旗であったのです。日本列島にシンボルや家紋付き旗が戦場に現れるのは、戦国時代からなのです。)
鎌倉時代は、平安時代と共に不思議な時代です。
平安時代の不思議は、飛鳥・奈良時代の騎馬文化を継承していないにもかかわらず、百済系桓武天皇家の王権が、騎馬文化の飛鳥時代から継承されていて、更に、道教や景教が盛んであった飛鳥時代に、平安時代に発明された官職「摂政」の肩書きを持つ聖徳太子により、百済仏教が布教されていた、と物語るからです。
桓武天皇は、787年(延暦6年)前政権の新羅系王朝との決別の意味で、唐の王位継承の儀式を真似て、祭天の礼をおこなっていたのです。その祝文は、唐の「大唐開元礼」引き写しであるのです。唐の祭天の礼の儀式では、「昊天上帝」と並べて先祖神を祀ることになるのです。そうであるならば、桓武天皇は、天武天皇が始めて伊勢神宮を建立した時に祀った天照大神か天御中主(又は架空の神武天皇)を祀らなければならなかったのに、桓武天皇の父高紹(たかつぐ・光仁天皇)を祀ったのです。この意味は大きいです。つまり、天武天皇の先祖神を否定して、百済亡命貴族である光仁天皇を神として祀ったからです。787年この祭天の礼により、桓武天皇は、新羅系天武王朝が、百済系桓武王朝に替わったことを内外に宣言したわけです。
それに対して、鎌倉時代も、平安時代に負けず劣らず不思議なのです。そのどこが不思議かと言うと、「平家」と「平氏」が入れ替わり(北条鎌倉幕府の正史吾妻鏡により、源平合戦が平氏と源氏の戦いに改竄。)、そして、「源氏」と「平氏」が入れ替わっている(百済系北条鎌倉幕府の、1221年承久の乱後の六波羅探題設置による源氏狩から逃れるために、源氏落武者が山奥に集結した部落が「平家落武者部落」となり今日に至る。)からです。この北条氏が創作したトリックは、平家はアラブ系(ペルシャ)海洋民族末裔で、源氏は騎馬民族末裔で、平氏が半農半猟民族末裔であることが分かれば、すぐに見破ることができるでしょう。
源平合戦では、平氏が赤旗を掲げたということはないようです。平氏は、源氏と伴に白旗を掲げて、平家と闘ったのです。桓武平氏は元々百済系軍事部族末裔であったわけです。源平合戦に遡ること約五百年前の壬申の乱では、亡命百済王朝の近江へ、新羅系大海人皇子(後の天武天皇)を支援する伊勢の海洋系土着民軍は、「白旗」ではなく、「赤旗」を掲げて進撃していたのです。赤旗は、北条鎌倉幕府以前までは、百済系平氏のシンボル色ではなかったのです。
縄文時代からの国際交易品の朱砂産地である伊勢は、元々アラブ系(ペルシャ/フェニキアの国際海洋商人は赤いマントを着ていた。)で赤色のベンガラ染を好む、海洋民族が支配していた地域なのです。伊勢の賎民出身の織田信長の西洋思考は、そのアラブ(ペルシャ)系の血の流れのためです。織田信長は、平安時代に、東大寺に火を放った平重衡と同じに、反仏教者である証拠に、二条御所の基礎石に石仏を砕いて使い、日本国の仏教の最高拠点の比叡山延暦寺の高僧全員を斬首し、伽藍に火を放ち徹底的に破壊したのです。
更に、源氏鎌倉三代(1192年〜1219年)を陰謀により滅ぼした平氏の北条氏は、源氏三代将軍源実朝存命中は八幡神を祀っていたのに、何故に、源氏鎌倉幕府滅亡後に女棟梁となった北条政子(源頼朝の妻)は、ベンガラ染の平家の厳島神社の神を勧進したのでしょうか。この祀る神の、八幡神社から厳島神社へのすり替えは何を意味しているのでしょうか。それは、「平家」を「平氏」に取り込み、アラブ(ペルシャ・インド)文化色の強い平家歴史の抹殺のためだったのです。
鎌倉文化で最も不思議なのは、1187年源頼朝が、放生会を鶴岡八幡宮で行い、その時流鏑馬(やぶさめ)を見学したとの故事から、現在に伝わる流鏑馬儀式での弓のことです。その弓は、下が短く、上が長い、騎射にはアンバランスな、農耕民族の武器であった長弓なのです。この長弓が、騎馬民族の武器ではないことは、左右にいる敵を瞬時に射ることが難しいところからでも理解できるでしょう。長弓は、小腸の弦ではなく、植物繊維の弦を使う農耕民族が地上から射る武器なのです。つまり、流鏑馬の儀式により、鎌倉北条幕府(1219年〜1333年)は、騎馬民族末裔ではなく、ツングース族末裔の百済系農耕民族末裔の時代だったことが証明できるのです。
戦国時代を調べるのに、「信長公記」を史料とすると史実が見えなくなるのと同じに、鎌倉時代を調べるのに、「吾妻鏡」を史料とすると史実が見えなくなるようです。
それは、「信長公記」は、豊臣秀吉が自らの出自を消すために創作した物語だからです。そこには、豊臣秀吉の出自と豊臣秀吉・織田信長・徳川家康・明智光秀・堺の商人千利休とイエズス会との関係物語はありません。
「吾妻鏡」は、北条鎌倉幕府が絶頂期の、1266年に鎌倉幕府の正史として完成されたものです。しかし、そこには、北条氏と後白河法皇により、源氏の軍事力を利用して平家を倒した後、藤原氏の勢力を京から排除した物語はありません。その陰謀史を隠すために、北条氏に依頼された作家が、源義経・源頼朝兄弟勃興・滅亡物語を創作したのです。
その根拠は何かと言えば、源頼朝は清和源氏(陽成源氏の一説あり)末裔で、源義経も系図では、源義朝の子で、源頼朝の弟となっているようです。しかし、「吾妻鏡」が述べるのとは異なり、実際は義経の母常盤御前の出自が不明なのです。そして、源義経の出生地が奈良の宇陀ということです。朱砂産地の宇陀は、飛鳥時代以前より、ウカシが支配する反王権の牙城だったのです。更に、源義経の賎民出身を暗示する物語が、少年義経が弁慶と対決する所が五条の橋であることです。平安時代の橋、中洲、坂は、鬼(前政権のまつろわぬ部族末裔)の棲む所だったのです。
1184年木曽義仲が粟津で敗死し、京に昇った源義経は、後白河法皇により検非違使に任命され、京の治安警察をおこなうのです。警察業務を行う検非違使は、秘書・警備業務の「サブラヒ・侍」ではなく、武士の仕事です。その武士は、810年藤原薬子の乱の影響を恐れた嵯峨天皇が、嵯峨源氏を治安維持部隊とするために設けた検非違使の手下として発生したものです。その手下の多くは、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅のコロニーであった摂津渡辺村から出ているのです。
警察の歴史は、ローマ帝国時代に遡るようです。ローマ帝国では、対外的紛争は軍隊の仕事で、軍隊は、領内の公安・治安警察業務は行っていなかったのです。では誰が行っていたかといえば、それは街や村の名士がボランティアで武装組織を作り、街や村の平和のために警察業務をおこなっていたのです。
日本国でも、警察業務をボランティアでおこなわせたひとが歴史上存在したのです。そのひとは、徳川家康です。騎馬民族賎民末裔の徳川家康は、1590年藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、ひとも住めぬ関東の湿地帯に左遷されると、ローマ帝国軍のように、配下の土木技術部族に命じて、エドから小田原までの騎馬軍団移動のための幹線道路を造らせるのです。そして、1600年(慶長5年)関が原の戦いで、藤原氏傀儡軍団を壊滅させると、1601年には、エドから京都への東海道に、二里(約8km)ごとに宿を設け、伝馬36疋を常備させるのです。そして、徳川家康は、二里ごとの宿(しゅく)での伝馬の世話とその地区の警察業務を、その地区の役座の親分に、ボランティアでおこなわせていたのです。そのボランティアの見返りとしては、業務が終わった夜の博打と飯炊き女のサービス業務を認めることだったのです。
平安時代初期に、その検非違使の手下として警察業務を行っていた渡辺氏の先祖は、嵯峨源氏の末裔源綱で、渡辺村に移住したことにより渡辺氏が発生したことに歴史上なっているのです。この渡辺村と源義経には、特別な関係があったようです。
1185年源頼朝軍だけでは、平家を追撃できないと覚った源頼朝(実際は北条時政)は、京の警察業務を行っていた源義経に、再び平家追討の命令を下すのです。そして、その平家が陣取る屋島への出撃地が、摂津渡辺村からだったのです。
では、何故源頼朝軍では、平家を滅ぼすことができなくて、源義経軍にはそれができたのでしょうか。そのひとつが、武士の武器である弓矢です。
源義経軍の構成部隊は、その中心が騎馬民族蝦夷末裔であったのです。蝦夷の正体は、オリエント巨石文化の飛鳥王朝期から奈良時代末期までの軍隊を構成していたチュルク系軍事部族であったのです。奈良時代末期、唐軍の支援により亡命百済軍と藤原氏連合軍に破れた、新羅系天武王朝の貴族・軍族は、敗残部族となり、畿内の山奥や摂津の海辺、或いは北の陸奥へ逃亡したわけです。
唐軍に支援された桓武天皇は、唐の儀式や都の設計を真似て、唐国の支店を日本国に造るために、秦氏が支配していた山背国や比叡山を占領するわけです。その地を追われた秦氏末裔(新羅=秦羅)は、大阪湾の湿地帯に移動するわけです。
山背国に平安京を造った桓武天皇は、唐の要請で、陸奥の金・鉄・琥珀を簒奪するために、中国山東半島から移住させた元百済亡命軍団末裔により、健児兵を組織して、陸奥の蝦夷(元飛鳥ヤマトのチュルク系軍事部族・ギリシャ・ローマ文化保持国新羅軍団末裔=花郎軍団末裔=ローマ軍団末裔)を攻撃するのですが、何十倍の健児兵軍団でも、軍事力では蝦夷軍を撲滅できなかったのです。その原因のひとつが、弓矢の性能の違いだったのです。
蝦夷の弓矢は、短弓ですが、その射程距離は、健児兵の長弓より長かったのです。それは、健児兵の長弓の弦が植物繊維であったのに対して、蝦夷の弓の弦には動物の小腸を使っていたので、その弦の弾性で、矢を遠くまで飛ばせることができたのです。
1185年渡辺村から出撃した源義経は、屋島の平家砦を奇襲し、その勢いに驚いた平家軍団は、船で沖に逃れると、平家の長弓の射程距離外に出たと安心し、扇を討ってみよ、と源義経軍を挑発するのです。しかし、蝦夷の弓矢は、平家の弓矢より強力であったので、扇を射ることができたということです。(この物語は史実であるかは疑問。但し、源義経軍の弓矢の強さが、平家軍を圧倒したことは確かのようです。)
源義経の出自は、摂津渡辺氏との関係から推測すると嵯峨源氏末裔だったようです。それに対して、源頼朝は清和源氏です。清和源氏の歴史上の出現は、935年統一新羅が滅んだ後に起こった、939年天慶の乱以降なのです。そして、814年嵯峨源氏は昇殿できたのに、清和源氏は1098年源義家の昇殿が始めだったのです。
814年昇殿できた嵯峨源氏の末裔源義経が、1098年まで昇殿できなかった清和源氏末裔源頼朝の実弟であったのでしょうか。(清和源氏の実態は、969年検非違使として突然現れた源満仲が歴史上の「祖」であることから、唐・統一新羅国敗残渡来軍団末裔か?)
1185年平家が、源義経軍に滅ぼされると、源頼朝は、源義経を逆賊として追討し、その結果、1189年藤原泰衡は、源義経を衣川にて殺害するのです。その後、源頼朝は自ら出陣し、奥州藤原氏最後の泰衡一族を滅ぼし、ここに奥州藤原氏は滅亡するのです。
そして、源頼朝は、もう一方の九州南端に勢力を張っていた藤原氏の島津荘を、平安時代惟宗氏と変名していた秦氏末裔に、守護として経営させるのです。これが、明治維新の裏面史で活躍する島津氏の始めとなるのです。江戸末期、島津氏の密使が、穢多頭弾左衛門に、倒幕の参加を依頼した時、「島津とおまはんとは同族ぞ。秦氏ぞ。」と言った意味は、ここにあったのです。
1192年源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開くと、北条氏のロボットであった源頼朝は源氏の棟梁としての自覚が芽生え、平氏の北条氏のコントロールが効かなくなるのです。その結果、1199年源頼朝は不慮の死を迎えるのです。(歴史上では落馬死となっている。)二代目の源頼家は、1203年北条氏により伊豆修禅寺に幽閉され、翌年暗殺されるのです。そして、三代目源実朝は、北条氏の陰謀により、公暁により、1219年暗殺されるのです。ここに源氏三代の鎌倉時代が終わるのです。
源氏部族には、源頼朝が源氏の棟梁として機能していた、1192年〜1199年が天国だったのです。御家人となった源氏の武将達は、源平合戦の働きにより、源頼朝から、平安貴族達の荘園の守護・地頭として任命されたからです。
守護とは諸国の軍事・警察と御家人を統率する任務であり、そして、地頭とは地域の警察業務を行い、所領の管理をおこなっていたのです。それらの守護・地頭の任務は、武力を背景として行っていたのです。しかし、僧兵の武装勢力で軍備を固める寺には、源氏の武力でも軍事介入できないほど、平安時代の仏教組織の軍事力は強力だったのです。それは、寺社は、唐・宗との貿易や寺社領経営、通行税、門前市の場所代、借上げの高利貸し、加持祈祷料、などなどで財を蓄えていたからです。寺社は、織田信長の仏教組織壊滅までは、中国との貿易拠点でもあったのです。
平家、源氏が滅び、更に藤原氏の勢力は京から排除され、その荘園も没収され、共同謀議者の後白河法皇も崩御し、1219年ここに第二百済王朝の北条鎌倉幕府が始るのです。
第一百済王朝の平安時代に、王権にまつろわない騎馬民族末裔は、亡命百済貴族により、「鬼」として貶められたのと同様に、第二百済王朝の北条鎌倉時代に、王権にまつろわない騎馬民族・源氏末裔は、平氏の北条氏により、「穢多」として貶められていくのです。
平安時代の「鬼」の思想は、唐から空海が持ち込んだ、バラモン・ヒンズー教の地獄世界を素材として創作されたものです。その創作された「鬼」と「地獄」が、バーチャルではなく、実世界として、貴族・庶民に認識されたのは、奈良の都の鉱毒汚染世界があったからです。
では、鎌倉時代に、王権にまつろわない騎馬民族末裔が、「穢多」と蔑まされた仕掛けは、どのようなものだったのでしょうか。その仕掛けのもとは、平安時代に「鬼」を創作した宗教思想だったのです。宗教は、使い方によってはひとを幸福にも、不幸にもするものなのです。
源氏三代が滅んだ頃の東アジアでは、騎馬民族のテムジンが、ナイマン部を滅ぼし、1206年チンギス汗と名乗り、北から南下して、1234年北朝の金を滅ぼすのです。更に、チンギス汗の跡を継いだオゴタイは、南宋を窺がうのです。
南宋は、鎌倉幕府の交易国です。南宋の宗教組織は、騎馬民族の南下に怯えて、国外脱出を計画するのです。その宗教組織とは、禅宗の臨済宗と曹洞宗です。禅宗は、仏教教義を広めるよりも、ヨーガの修行に近いものだったので、騎馬民族を蔑視する平安仏教嫌いの武士(サブラヒ・侍ではない。)に受け入れられていくのです。
1278年南宋は、騎馬遊牧民族元帝国により滅ぼされてしまうのです。その結果、南宋の僧達は、日本国に亡命してくるのです。これにより、鎌倉には禅寺が多く建立されるのです。
この頃、鎌倉では天変地変に加え、承久の乱後の、平氏北条氏による源氏狩りの六波羅探題の警察力から逃れた源氏落武者が、山に逃れ、鎌倉幕府にゲリラ攻撃を仕掛けていたのです。
大地震や暴風雨などの天変地変や暴動などで社会不安が広がると、ひとびとは宗教の虚構世界に逃げ込む傾向があるようです。その需要に答えて、鎌倉時代に、無数の新興宗教が起こるのです。
1230年〜1231年諸国大飢饉
1241年鎌倉大地震
1247年鎌倉浮浪人を追放
1251年鎌倉大火
1256年鎌倉大風洪水 赤班病大流行
1260年鎌倉大火
このような有様の鎌倉に亡命してきた禅宗は、南宋を滅ぼした騎馬民族「元軍」が海を越えて攻めてくると宣伝するわけです。その亡命禅僧の情報を素材に、1260年「南無妙法蓮華経」の呪文を唱えた日蓮が、「立正安国論」を著すのです。
この「立正安国論」と亡命禅僧の宣伝により、元帝国に敗れた南宋や高麗の貴族・軍族が、1274年と1281年の亡命南宋移民大船団と亡命高麗移民大船団として日本国に亡命して来たのが、「元寇の来襲」となってしまうのです。その二度の亡命大船団が暴風雨で一夜にして去った後の難破船を調べると、その船倉から、武器ではなく、農機具や種籾を詰めた壷が沢山見つかったのです。果たして、二度の元寇は史実だったのでしょうか。
1271年蒙古使が、国書を持って来朝しているのですが、蒙古王のフビライ(1260年〜1294年)は、ヨーロッパとの国際海洋交易立国を目指していたのです。この蒙古の申出に対して、朝廷は、勅使を伊勢に派遣して、異国降状を祈ったのです。
禅宗組織は、中国大陸と鎌倉幕府との交易権を、元帝国に奪われることを懸念していたのです。中国の山水画や骨董品を日本国に持ち込むと、サムライは禅宗が中国から持ち込んだ南宋文化に染まっていたため、北条鎌倉サムライに、高値で売れたのです。北条鎌倉サムライは、禅宗の質素な寺を真似た建物を、武家屋敷として取り入れ、中国の骨董品を居間に飾り、床の間に中国山水画を飾っていたのです。そして、禅宗組織は、日本国から日本刀や鎧などを美術品として中国大陸に輸出していたのです。鎌倉に、刀鍛冶が多く居たのは、由比ガ浜の砂鉄でタタラを行い、日本刀を美術品として南宋に輸出していたからです。
禅宗僧は、北条鎌倉幕府の貿易顧問でもあったのです。その元寇来襲の史料の多くが、禅宗関係者の著書であることは、一体何を意味しているのでしょう。
禅宗の書籍で、元寇の大軍団が日本列島侵略のために二度も侵攻したというのなら、元寇が侵攻した北九州に近い、海を隔てた高麗に元寇の史料がなくてはならないはずです。しかし、高麗の史料に、元寇の記事が見つからないのです。
この南宋から渡来した禅宗組織の鎌倉貿易独占に対して、興福寺と比叡山延暦寺は黙っているわけはありません。
興福寺は、古代から藤原氏の中国大陸との交易拠点のひとつであったのです。飛鳥・奈良時代では、奈良の宇陀から掘り出した朱砂・水銀を、ツバキ市→興福寺→難波湊→博多→隋・唐への貿易ルートで交易していたのです。(教科書歴史では、遣隋・唐使船を仏教文化や唐文化輸入だけに目を向けているようですが、その実態は、唐による日本列島からの鉱物資源簒奪でしょう。894年菅原道真が、新羅商人からの情報で、唐の仏教が堕落しているからと、遣唐使船を廃したことに、藤原氏は密貿易が公費でできなくなったことに腹を立て、901年菅原道真を大宰府に左遷し、その二年後に菅原道真は鬼「カミナリ」となるのです。)
平安時代では、百済系桓武天皇が、藤原氏を奈良に封じ込め、比叡山→難波→博多→唐の交易ルートを独占したため、藤原氏は、錬金術師空海が唐から持ち込んだ探鉱技術で水銀鉱山を開発し、吉野山の水銀を、吉野山→興福寺→根来寺→堺→種子島→坊津→琉球→唐への密貿易ルートを開発していたのです。
戦国時代に、この藤原氏の密貿易ルートの、中国大陸→琉球→種子島→雑賀→根来寺→興福寺→本能寺(元は日蓮宗の寺だった。比叡山との戦いに敗れ、藤原氏の支配下の寺となり、火薬貯蔵庫となる。その後、織田信長に乗っ取られる。1582年織田信長が火薬庫で茶会を開いたのが誤算。織田信長は、イエズス会の密使により爆殺される。)により「鉄砲・弾薬」が、戦国武将へもたらされていたのです。
平安時代の宗教組織は、寺社領や荘園を経営して財政が豊かだったので、修行僧を多く養えたのです。しかし、平家を倒した源氏武士が政治の実権を握ると、源氏武士の守護・地頭により、その権益が奪われてしまったので、平安仏教は、源氏武士に多大の恨みを持っていたようです。(源氏武士は、「ミトラ神を祀る」ローマ軍末裔と「月・星を祀る」騎馬民族チュルク末裔の自然神を祀る民族末裔であったので、人工神の仏を祀る仏教にはなじめなかったのです。王権に擦り寄る仏教組織に消されてしまった騎馬民族のオリエント渡来の太陽化身のミトラ神は、「お天道様」となって今日まで生き残っているのです。)
鎌倉時代初期、財政に窮する平安仏教組織は、荘園を源氏武士に乗っ取られてしまった平安貴族の多大な喜捨も望めなくなったため、修行僧の大量解雇をおこなうのです。この流れで、比叡山延暦寺から追い出された下級僧侶達により、賎民を布教対象とした鎌倉仏教が始るのです。平安仏教は、生活に苦しむ賎民などは布教対象外で、貴族への文化・娯楽施設のような存在であったのです。
1219年源氏鎌倉幕府が滅亡し、落武者源氏の巻き返しであった承久の乱が、北条鎌倉幕府の軍事力で鎮圧され、源氏落武者狩りの六波羅探題を設置されると、源氏落武者は追っ手を逃れて、ひとも住めぬ山奥に集落を造り武士の出番をじっと待つことになるのです。しかし、山に逃れた源氏落武者の「武士」は、この鎌倉仏教の布教により、地獄世界を味わうことになるのです。
教科書歴史によれば、空海と最澄による平安仏教は貴族仏教で、親鸞と日蓮達による鎌倉仏教は庶民仏教と言われています。では、鎌倉仏教は、全ての庶民を生活苦から救ったのでしょうか。
鎌倉仏教の思想背景は、最澄が中国山東半島から持ち込んだ天台宗により、比叡山延暦寺が架空の聖徳太子を仏教のキャラクターとして広めた法華経です。法華経の思想は、一神教のように、他宗教思想に寛容ではありません。特に、法華経を否定する「仏敵」には不寛容です。
日本国での天皇を頂点とする律令制下では、仏教は鎮護国家のための武器でした。その時代の「穢れもの」とは、国家の秩序を乱す者のことでした。しかし、平安末期に仏教が民衆に広がっていくと、その「穢れ」の思想が、「不具者・ライ病者」への差別に変化してしまうわけです。その差別の原因のひとつが、「法華経」の「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぽつほん)の一節です。「法華経」や持経者を軽んじた者がこうむる「罪報」として以下のように述べています。

かくの如き罪の報は、当に世世に眼なかるべし。(略)この経を受持する者を見て、その過悪を出さば、(略)この人は現世に白ライの病を得ん。若しこれを軽笑せば、当に世世に牙・歯は疎き欠け、醜き唇、平める鼻ありて、手脚は縺れ戻り、眼目はすがみ、身体は臭く穢く、悪しデキモノの膿血あり、水腹・短気、諸の悪しき重病あるべし。

比叡山から排出された鎌倉仏教僧による法華経の布教により、この「法華経」の「業の思想」が一般民衆に浸透すると、平安時代の律令国家では日常生活の規範として「不具者・ライ病者」が「穢れ者」ではなかったものが、時代が代わり、北条鎌倉時代になると、インドと交易をしていた南宋からの、バラモン・ヒンズー教の遊牧民族差別思想に染み付いた多数のインド仏教僧が鎌倉に亡命してくると、チャンダラー(セダラ=不可触賎民=屠者=騎馬遊牧民族)差別思想を南宋から持ち込まれ、「不具者・ライ病者」が「穢れ者」になってしまうわけです。ここにこの国における「穢多」の民族差別思想の芽生えが起こるわけです。
この騎馬民族を差別するバラモン・カースト思想は、騎馬民族末裔源義経に平安秩序を破壊された、百済系天皇家、比叡山延暦寺、興福寺、そして六波羅探題により源氏抹殺を図る北条鎌倉幕府には、魅力的思想であるわけです。
騎馬民族国家の祖・スキタイは、草原の騎馬民族を支配部族として、農耕民族、狩猟民族、海洋民族、商業交易民族、技能民族などの連合体であったのです。騎馬民族国家とは、騎馬民族単体の部族国家などではなく、異民族による部族連合体であったのです。
その後のユーラシアに出現した騎馬民族国家も、あらゆる部族を連合することにより勢力を増していったのです。日本列島での騎馬民族国家もその例外ではありません。飛鳥時代を支配していた、騎馬民族国家・突厥帝国に軍事支援された、チュルク系騎馬民族の蘇我王朝も、技能部族の秦氏と連合していたのです。
ですから、北条鎌倉幕府が、山に籠もり武力抵抗している騎馬民族末裔の源氏落武者の勢力を抹殺するには、異部族連合を阻止すればよいのです。その異部族連合を阻止する手段のひとつが、バラモン・カースト思想を素材としたセダラ・不可触賎民=「穢多」の創作であったのです。
このセダラ・不可触賎民思想を、鎌倉仏教僧により、庶民に広めることにより、騎馬民族と非騎馬民族とが分離でき、異民族の連合を阻止できるわけです。鎌倉時代に創作された仁王様に踏み潰された「天邪鬼」は、騎馬民族末裔を表わし、その手足の指を「四本」にしたのです。つまり、騎馬民族末裔は、四本指の動物と同じであると、その像で暗示しているのです。鎌倉時代の仏像も美術品も、その多くは、騎馬民族末裔を貶める、ビジュアルとして開発されたわけです。
元々騎馬民族は、太陽・月・星の自然神を祀る民族の末裔であるので、人工神の仏教とはなじめないため、「仏敵」の第一候補であるわけです。そこで、王権は、王権にまつろわない騎馬民族末裔の捕虜地とした部落に、ハンセン氏病者の世話をさせるわけです。ハンセン氏病者は、「法華経」により「仏罰者」として刷り込まれていたので、そのハンセン氏病者の世話をさられている騎馬民族末裔は、「穢れて」いる、つまり、「穢多」となるわけです。そして、ハンセン氏病者は、インドのチャンダラー(セダラ)の不可触賎民と同一視されたため、その部落は、穢多部落に貶められてしまうわけです。
では、騎馬民族末裔の武士を、バラモン・カースト思想で貶めた鎌倉仏教僧の主役であった、日蓮と親鸞のバックグランドはどうなのでしょう。
日蓮(1222年〜1282年)は、法華経思想により他宗教を激しく攻撃したため、数々の「法難」を受け、佐渡にまで流された経歴の持ち主です。日蓮が、仏敵の騎馬民族を攻撃するには、その出身地が影響していたようです。
日蓮が生まれ育ったのは、千葉の漁村です。千葉は、古名では常陸(ひたち)です。日本国の地名・人名が漢字二文字となったのは、藤原氏による前政権の騎馬民族の歴史を抹殺する手段であった、713年の好字令からです。それ以前の地名・人名は、中国・漢族系では一文字で、オリエント系では「太良未・ダラミタ」「将徳白昧淳・ショウトクハクマイジュン」「麻奈文奴・マナモンヌ」「「昔麻帝弥・シャクマタイミ」などの多文字でした。その好字令が発令される以前、645年には、藤原氏により前政権の国際交易都市飛鳥ヤマトで使われていたアラム語やソグド語による騎馬民族蘇我氏の歴史書は焚書されていたのです。(神代文字と言われているのは、オリエントから渡来した国際交易商人による、ヤマト言葉の発音文字の可能性があります。)
そして、前政権の地域名を隠蔽するために、713年に風土記撰上の詔を発して、各地の地名の由来を創作させたのです。ですから、古代史を知ろうとして、各地の風土記を調べてみても、古代史の真実を知ることができないのです。
飛鳥時代の蘇我氏も、713年以前は何と呼ばれていたのかは分かりません。しかし、好字令が発せられた時に、二文字は全くの創作ではなく、元が一字の場合は、他の創作一字を加え、或いは多文字の場合は、二文字に縮めたようです。もし、蘇我氏の元字が、「蘇・ソ」だとすれば、その当時の「ソ・斯」とは、ギリシャ・ローマ文化保持国「新羅」のことであたのです。
では、千葉の古名の「常陸・ひたち」は、713年以前は何かと言えば、それは、「常」であったのです。「常」は、「トコ」と読み、そのトコは、古代中国大陸では、東湖(トコ)で、ツングース族を示す言葉であったのです。つまり、千葉の古代住民は、東湖→とこ→常→713年に「常陸・ひたち」となり、渡来ツングース族の半農半猟民族の支配地であったわけです。
この半農半猟のツングース族は、古代中国大陸で、騎馬民族のチュルク族と死闘を続けていた部族であったのです。そのツングース族の末裔が、日蓮であったのです。
では、「南無阿弥陀仏」の呪文を唱えた親鸞(1173年〜1262年)は、どのようなバックグランドを持っていたのでしょうか。親鸞は、肉食を禁忌する仏教思想に逆らい、妻帯し、比叡山に敵対する破戒僧のイメージがあるようです。しかし、その破戒僧の裏には、藤原氏の陰謀が見え隠れするのです。
親鸞は、日蓮と異なり、高貴な血の流れにあったのです。親鸞は日野氏末裔で、その日野氏の系図は、中臣鎌子〜藤原鎌足→藤原不比等→北家・房前〜日野資業〜親鸞、となり、日本列島の古代から現在までの裏面史を飾る、藤原氏末裔だったのです。
親鸞が、法華経の牙城・比叡山と対峙したのも、戦国時代では親鸞の流れを汲む大阪の石山本願寺に居を構えた顕如が、イエズス会傀儡軍である最新式武器である鉄砲で武装する織田信長と十年戦争を遂行できたのも、藤原氏の指示・支援や、戦国時代の密貿易ルートによる鉄砲・弾薬の供給と根来・雑賀に加え、源氏武士末裔の軍事部隊がいたためです。
石山合戦を、鋤鍬で武装するムシロ旗の農民による一向一揆衆と織田信長との戦と考えると、教科書歴史の思わぬ落とし穴に嵌ってしまいます。その実態は、イエズス会と藤原氏との、日本一の国際交易港・大阪争奪をめぐる国際経済戦争であったのです。
親鸞が、騎馬民族のように肉食し、妻帯し、日本国仏教の最高権威の比叡山に逆らい、破戒僧となったのは、騎馬民族を貶める法華経を広めた比叡山延暦寺を憎む源氏落武者部落の「穢多部落」に潜入し、その軍事力を藤原氏のために利用するためだったのです。
親鸞は、百済仏教に攻撃を仕掛ける武力を得るために、肉食を大悪とする教義で大乗仏教にイジメられている、穢多に甘言を述べるのです。

それは、「唯信鈔文意」で述べるには、
屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり、りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいをふたごころなく信楽すれば摂取のひかりのなかにおさめとらせまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまう

この「敵の敵は味方」戦術を、戦国時代の賎民や源氏落武者の末裔は、「救い」と勘違いしてしまうわけです。この親鸞の穢多に布教する戦略を、江戸時代の与力・坂本鉉之助が「咬菜秘記」で明快に述べています。

この処に候。穢多ども人間交わりの出来ぬという所が、彼らの第一残念に存する処にて、親鸞という智慧坊主、その処をよく呑み込んで、この方の宗門にては穢多にても少しも障りなし、信仰の者は今世こそ穢多なれど、後の世には極楽浄土の仏にしてやろうと言うを、ことのほか有り難く思い、本願寺へ金子を上げること穢多ほど多き者はなし。死亡後の有るとも無しともしかと知らぬことさえ、人間並みの仏にすると言うを、かくかたじけなく存ずるからは、ただ今直に人間に致してつかわすと申さば、この上なく有り難がり、火にも水にも命を捨て働くべし。

親鸞が唱えた浄土世界を信じた穢多や源氏落武者の末裔は、心をひとつとなし「一向」として、百済貴族や守護大名の領地を攻撃するのです。穢多の多くは、元々鎌倉源氏時代までは武士集団だったので、実践力のない百済兵士や農民兵士の相手ではなかったのです。そして、一向一揆は賎民の自治権を得るため、戦国大名の領地を奪取する目的で、全国に広がっていくのです。
源氏武士の強さは、その弓の威力と防御具である鎧の堅牢さです。それらの素材は、動物の小腸と皮により作られていたのです。つまり、鎌倉仏教僧が、穢れ思想を広めることの裏の意義が、武器・武具製造用の原料の小腸・皮を、非騎馬民族から騎馬民族に供給させないことでもあったわけです。
北条鎌倉幕府は、穢れ思想を広めることにより、軍事物資である革の独占を図り、源氏落武者を捕虜として穢多部落に囲い、武器製造を画策していたのです。
歴史家の中には、日本列島に騎馬民族国家があったことを認めないひとも居るようです。つまり、騎馬民族征服説のことです。そのように唱える根拠として、騎馬民族が日本列島を支配したことを示す史料がないからです。しかし、騎馬民族が、海洋民族と同じに、歴史書をもたない民族であることを理解すれば、史料がないことが騎馬民族国家がなかったことの根拠として乏しいことが分かるでしょう。
ですから、日本史は、農耕民族末裔により創作された「日本書紀」の歴史書、寺社の借上の「借用書」、ヒンズー教化仏教思想の閻魔様の最後の審判用の「公家による日記」などの史料により復元されるわけです。そこには、騎馬民族の史料はありません。
しかし、武力に勝る騎馬民族は、文字としての史料は残さないが、騎馬民族が使っていた「言葉」は現在でも使われているのです。そのひとつが、「まる」です。何故、武士社会のシンボルである城の中心を本丸(ほんまる)と言うのでしょうか。
城とは、古代では建物を言うのではなく、古代ユーラシア大陸での草原戦闘で、防御のために土を固めた塀のことなのです。(城=土で成る)この城の防御機構は、渡来民族により、日本列島に持ち込まれるわけです。縄文・弥生時代の日本列島での防御機構では、ユーラシアとは反対に、大きな深い堀を陣地に廻らしていたのです。
この城の防御機構が、ユーラシアからの騎馬民族の南下により朝鮮半島に持ち込まれると、本陣となる山の麓に、石垣を築いて城とするわけです。この防御機構は、地名から朝鮮式山城というわけです。そして、その陣地である山の頂を「まる・聖地」と言ったのです。
四世紀、朝鮮半島の部族が、東アジアの動乱を逃れて、そして、日本列島の朱砂を求めて、日本列島にコロニーを造るわけです。しかし、朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅がそれぞれ覇権を唱えていたのです。その影響は、日本列島にも及び、近畿のヤマトでは、山を陣地として百済コロニーの「葛城」と新羅コロニーの「磯城」とが、先住民が支配する三輪山を挟んで対峙していたのです。この頃の城とは、まだ建物のことではありません。城とは石垣のことなのです。この頃の城は、山を石垣で取り囲んだ防御機構だったのです。
やがて、オリエントから景教・仏教が、中国大陸から道教が日本列島に渡来すると、それらの宗教組織は、国際交易商人の出先機関でもあったので、交易品を保管し、賊からの襲撃に備えて、堅牢な建築物を構築していたのです。つまり、「寺院」とは、神・仏を祀る所でもあり、賊からの防御施設の「砦」でもあったのです。
鎌倉時代には、事実、武士との戦いで仏寺は僧兵が防御する「砦」の役割を果たしていたのです。北条鎌倉幕府に追われた、源氏落武者は、四世紀にギリシャ・ローマ文化保持国新羅から渡来した民族末裔ですから、山の麓に石垣を張り巡らした城を築くのです。そして、要所要所に曲輪(くるわ)の城郭を造り、そこから敵に向かって矢を射るのです。
城と言うと、天守閣がある石垣の上にそびえる「お城」をイメージするひとが多くいるようですが、その「お城」が歴史上に現れるのは、1576年の戦国時代末期なのです。織田信長は、イエズス会宣教師により、ヨーロッパの城の情報を得て、その思想を真似て「お城」造ったのです。しかし、織田信長は、デウスの神を祀らないで、自ら主(神)と唱え臣下に祀らして、自分の住処として「神」の住む「天主閣」を創作したのです。「天主閣」が「天守閣」となったのは、織田信長の死後のことです。
室町時代に、その源氏落武者が篭る、山城の頂を「まる・聖地」と呼んだことにより、山城と仏閣とが合体して、「まる」である中心建物を土塀で囲む砦が、平地に「平城」として建てられるわけです。この平城が、戦国末期に、イエズス会の鉄砲渡来により、石垣の上に仏閣が建てられ、その仏閣に天主閣が、織田信長により増設されることにより、現在に残る「お城」が完成するわけです。つまり、そのお城の中心的建物の本丸の「まる」とは、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅からの言葉だったのです。
では、北条鎌倉幕府の源氏狩りにより、山奥の山城に篭る源氏落武者達は、どのような運命を辿ったのでしょう。
北条鎌倉時代、比叡山から排出された鎌倉仏教僧達が、農耕民達に「極楽浄土思想」と「穢れ思想」を布教したことにより、山に篭る騎馬民族末裔の「武士」の生活が困窮してくるのです。それは、里の農耕民との交流が「穢れ思想」によりできなくなり、里の農耕民からの食料供給が難くなったからです。
騎馬民族末裔は、基本的に農耕をしません。江戸初期、騎馬民族末裔の徳川家康は、秦氏末裔の弾左衛門に、隅田川沿いに広大な土地を提供したにもかかわらず、そこを畑として開墾せず、野原のままだったのです。その広大な野原は、弾左衛門による処刑場として利用されたに過ぎませんでした。
「穢れ思想」のトリックは、血の禁忌です。「血」は、穢れていると決め付けることにより、肉食、或いは動物を食料とする騎馬民族末裔の生活基盤は、その鎌倉仏教思想により穢れた存在と、農耕民達に認識されていくわけです。農耕民は、比叡山の高僧が「薬食い」と言って食肉していたのに対し、元々高価な「肉」は食べれなかったので、鎌倉仏教僧が宣伝する、「血の禁忌→肉食→穢れ=武士」の連想思想に染まりやすかったのです。
鎌倉仏教僧は、その穢れ思想を破った者は、法華経にあるように「仏罰者」として「ハンセン氏病」になり、守る者は「極楽に行ける」と、鎌倉仏教の本質を知らない農耕民達を脅すわけです。
紀元前六世紀、北インドに、先住牧畜民族トラヴィダを不可触賎民と差別する、バラモン教の教義に疑問をもったひとが現れるのです。そのひとは、バラモン教の聖職者階級が永遠にその最高地位に留まるトリックの「輪廻転生」によるカースト差別思想から解脱する方法を考え出すのです。それは、前世と後世を否定するために、あの世とこの世との中間に暮す、「非人」となり、一切の世俗的欲から開放されるために、「乞食・こつじき」の喜捨により暮すことを考え出し、出家し実行するわけです。その民族差別に疑問を持ったひとの名は、釈尊です。
しかし、紀元一世紀、北インドのガンダーラで、釈尊の名を騙る宗教組織が現れるのです。その宗教組織は、法華経を創め数多くの仏典と仏像(釈尊は、バラモン教の宣伝技術の像制作を禁止していた。ですから釈尊没から大乗仏教が発明される紀元一世紀まで仏像は存在していなかったのです。)をプロパガンダに使うのです。そして、キリスト奇跡物語ソックリのブッダ奇跡物語を、その異教国の布教先に広めるのです。
その宗教組織は、ガンダーラの国際交易商人と伴に、西に向かったのがキリスト教、東に向かったのが大乗仏教と呼ばれるわけです。ふたつの宗教の教えの基本は同じで、「ウソをつくな。」、です。この教えは、ビジネスの基本として今日でも通用します。そして、その教えを守らない、「ウソをつく者は地獄に落ち」、それに対して、「ウソをつかない正直者は天国にいける。」と言う教えです。
ガンダーラの国際交易商人が、それらのふたつの宗教組織を経済的に支援し、異教国に布教させたのは、宗教組織自体の考えは分かりませんが、自らの商売を有利にするための市場開拓のためだったのです。古代の異民族との交易は、ウソが前提のため、取引でウソをつかせないようにするために、聖なる庭(神が降臨する所)でおこなわれていたのです。
そのような大乗仏教が、ガンダーラの国際交易商人と伴に、中国大陸に到達すると、土着宗教の長生術の道教(薬草を使う仙術・神農様を祀る。)に影響され、「西方浄土」「極楽浄土」を唱え始めるのです。そして、インドと海洋交易をおこなっていた南中国に到達すると、インド・バラモン教とヒンズー教に影響されて、向精神作用のある水銀薬を使う「密教」を発明し、その「密教」は平安初期に、錬金術師空海により日本列島に持ち込まれるわけです。
唐留学で仏教の勉強をあまりしていなかった中国天台宗を輸入した最澄は、空海に「密教」の教えを請うのです。つまり、日本国仏教の最高教育機関である比叡山延暦寺は、空海の教えにより、インド・バラモン教とヒンズー教色の強い民族差別思想を持った仏教思想を取り込んでしまっていたのです。(日本列島で多くの水銀鉱山を開発した空海が発明した真言宗の、あるお寺では近年まで、「旃陀羅・屠者のたぐいの穢れたるひとを見たらば、このしんごん(真言)をとなうべし」のお札を販売していたのです。)
そして、北条鎌倉時代になると、南宋の滅亡により、日本語を理解できないため、ただ睨めっこしかできないダルマ(達磨)のようなカースト思想に染まったインド僧が大勢鎌倉におしよせてきたのです。そのインドから南宋を経由して渡来したインド僧達が、「天竺(インド)に旃陀羅(チャンダーラ)というは屠者なり。生き物を殺して売るエタ体の悪人なり」の騎馬民族を貶める思想を民衆に広めるのです。
北条鎌倉幕府での、鎌倉仏教僧達による「血の禁忌」の穢れ者(穢多)思想普及により、武士と農耕民との分離政策が成功すると、山の民と伴に暮す「武士」は、生活苦のため里に下りてくるのです。
この穢多思想が普及するのは、関東ではなく、関西です。関東は、飛鳥・奈良時代までは新羅系天武王朝と友好関係にあった騎馬遊牧民族が暮す「風の王国」であったのが、百済系天皇が支配する平安時代には、俘囚(王権に取り込まれた蝦夷)の棲む地になってしまっていたのです。つまり、平安時代では、関東全体は「部落」であったのです。ですから、北条鎌倉幕府を支配する平氏末裔北条氏も、平安時代に都から左遷された部族であったのです。鎌倉時代以前は、北条氏が支配する「伊豆・いず」とは、えびす(夷・い)が棲む地(夷住→いず→伊豆)、という処だったのです。
それに対して、関西では、古来からツングース族末裔の百済亡命民と騎馬民族末裔の新羅亡命民とが、その支配コロニーの拡張・争奪戦で争っていた地であったのです。
平安時代、唐国の軍事支援で、新羅系天武王朝を、藤原氏との謀略で簒奪した百済亡命貴族末裔の桓武天皇が近畿地方を支配すると、中国山東半島から元百済亡命民を近畿地方に移住させ、先住民のオリエントからの秦氏や新羅亡命民の土地を奪ったため、近畿地方は、百済亡命民と新羅亡命民との民族闘争が行われていた地であったのです。
そのような関西では、鎌倉仏教僧による騎馬民族を貶める「血の禁忌」「血の穢れ」「肉食は悪」などの思想は、百済亡命民末裔による、新羅亡命民末裔攻撃(イジメ=夷を絞める=異民族抹殺)の強力な武器となっていくわけです。
そのような民族紛争の時代背景により、騎馬民族を貶める「穢多」の民族差別思想は、全体が部落である関東では、関西より薄いのです。
騎馬民族国家は、農耕民族文士により、騎馬で戦闘に明け暮れる民族のように描かれているようですが、それは違います。騎馬民族国家は、異民族の連合体なのです。山奥の砦に立て篭もる武士と伴に暮す秦氏末裔は、技能部族であったのです。
北条鎌倉時代に、山から下りた、武士と技能部族末裔により、職能民、座、馬借の発生が起こるわけです。
鎌倉時代の文化を調べようとして、公の史料を調べても、どのような過程で鎌倉時代に職能民、座、馬借が発生したのかを理解できないのです。
職能民のひとつである鍛冶屋が、村中ではなく、どうして村外れにあるのか。どうして先住民の氏神の祟りを恐れて封じ込め施設である、農耕民が近づかない藪の中にある、異界の神社を中心に同業者組合ネットワークの「座」が拓かれてたのか。そして、平安時代に牛車でひとや物を運んでいたのに、何故、北条鎌倉時代に、馬でひと・物を運ぶ運送業が現れたのか。それらの疑問を分かるように説明した歴史書がないのは何故でしょう。
それは、それらの仕事に従事したのは、王権にまつろわぬ民、騎馬民族末裔や賎民だったからです。
では、なぜそれらのものが、北条鎌倉時代に現れたのでしょうか。それは、北条鎌倉幕府の経済を支えていた貿易先の南宋が、1279年に元帝国に滅ぼされてしまったことにより、北条鎌倉幕府の権力が衰えたことと、それに、荘園が武士により乗っ取られたため、平安貴族が没落することにより、平安時代からの賎民統制機構の天皇制が崩壊寸前になっていたからです。
平安時代までの文化・経済を支えていたのは、百済系天皇の庇護を受けていた比叡山延暦寺だったのです。北条鎌倉幕府に、天皇親子が隠岐や佐渡に島流しにされたことにより、その庇護を受けていた比叡山延暦寺のカリスマ性のメッキが剥げてしまったのです。そのことにより、比叡山が経営する難波の湊も衰退し、替わって、新羅亡命民コロニーだった大坂(おさか→おおさか・大阪)に元国の交易船が「硫黄」を求めて訪れるのです。
源氏発祥の地・大坂は、北条鎌倉幕府を倒し、再び源氏武士が支配した室町時代になると、元国に替わって明国との国際交易港に変身していくわけです。戦国時代に、その大坂の繁栄を見た、イエズス会国際交易商人と藤原氏の流れを汲む石山本願寺派が、その地の争奪戦を行ったのが十年戦争の石山合戦だったのです。その決着は、1582年イエズス会と藤原氏の陰謀により、デウスを祀らない織田信長が元藤原氏の寺であった本能寺で爆殺されると、イエズス会から寝返り藤原氏に取り込まれた関白豊臣秀吉により、大坂の地は藤原氏の支配地となり、元の支配者の源氏を祖とする渡辺村の住民は、1590年に関東の湿地帯に移封された徳川家康のように、湿地帯に追われ、そこを穢多村とされてしまうのです。その地に豊臣秀吉は、1583年大阪城を修築するのですが、1615年大阪夏の陣により、徳川家康が、藤原氏傀儡豊臣軍団を壊滅すると、大阪城と豊臣秀吉の墓を徹底的に破壊するのです。そして、更地にした処に大坂城を再建するのです。
1260年元帝国に即位したフビライは、ヨーロッパと海洋交易を行うため、そして、場合によっては征服するための武器の原料の「硫黄・イオウ」を海外に求めていたのです。元帝国は、爆裂弾という火薬を使う武器を開発していたのです。火薬は、硝石・硫黄・炭粉により作られるわけです。火山国である日本列島には硫黄が無尽蔵にあり、また、緑の島国の日本列島には炭を作るための樹木も無尽蔵にあるわけです。
そのような元帝国の要望のために、1271年元帝国使が、国書をもって北九州に訪れるわけですが、南宋から渡来した禅僧の悪智慧を疑わない北条鎌倉幕府は、元帝国使を追い返してしまうわけです。
歴史教科書によれば、その仕返しとして「元寇」の来襲と言うわけです。しかし、元帝国の貿易船は、その後も続々と日本列島に訪れているのです。1306年には、日本列島から貿易船が元帝国に赴いているのです。では、日本国から何を持ち出していたのかと言えば、そのひとつが「硫黄」だったのです。この硫黄輸出は、室町時代の、1434年硫黄の輸出禁止令が出されるまで続けられていたのです。この硫黄貿易を主に行っていたのは、日本列島から中国本土への密輸ルートを、平安初期から開発していた南九州の藤原氏だったのです。(鎌倉初期に、源頼朝により、藤原氏の荘園は、惟宗氏(島津氏)の荘園となる。その後、島津氏は藤原氏末裔近衛家と姻戚関係を結んで取り込まれる。)島津氏とは、秦氏末裔なのです。
この元帝国との貿易が始る頃に、歴史上馬借が現れるのです。硫黄は、海ではなく、山から産出されるものです。その山は、北条鎌倉幕府のサムライではなく、武士や山の民が支配していたのです。
そして、その硫黄の対価として、当然元帝国貿易商人から物品が得られるのです。すると、その輸入品を捌くためのルートが必要となるわけです。しかし、武士や山の民は、北条鎌倉幕府から目を付けられている存在です。そこで、誰もが立ち寄らない異界の神社が、そのルート基点として発展していくわけです。これが後に「座」となるわけです。
北条鎌倉幕府に追われた源氏武士達は、山奥に城で砦を築き、そして、生活のため里に下り、鎌倉仏教僧が布教する騎馬民族差別思想(血の禁忌、肉食は悪、武士は穢れ者)に耐えながら、村外れの鍛冶屋などの技能民として、或いは馬での輸送業者として、神社の闇のネットワークを使い情報交換をしながら、武士が活躍できる時期をじっと待っていたのです。
北条鎌倉幕府は、その権力の中枢は半農半猟のツングース系桓武平氏末裔であったので、山奥の山城に篭る騎馬系源氏武士団を壊滅できなかったのです。ですから、北条鎌倉幕府の警察業務をおこなう守護・地頭が支配できない山国が、北条鎌倉時代に多くあったのです。
それらの北条鎌倉幕府の支配が及ばない地は、西から備後、備中、伯耆、因幡、丹後、丹波、摂津、河内、能登、越中、飛騨、甲斐です。これらの騎馬民族末裔源氏支配地には、北条鎌倉時代、守護も地頭も存在が確認できなかったのです。(これらの地の支配者末裔は、徳川三代将軍家光からの第三百済王朝において、「穢多」「藤内」「鉢屋」「茶筅」「ささら」などと言われ、再び民族差別されていくわけです。)
北条鎌倉幕府は、南宋の滅亡により交易ができないだけでなく、元帝国と密交易をおこなっている禅僧により、「元寇」などと言うニセ情報操作により元帝国との交易を阻止されたことにより、北条鎌倉幕府経済は壊滅状態になっていたのです。その期を見た後醍醐天皇は、山に立て篭もる源氏落武者末裔を味方に付け、北条鎌倉幕府を攻めるのです。
1333年足利尊氏(源氏)が北条鎌倉幕府の警察機構である六波羅探題を落とし、新田義貞(源氏)が鎌倉を攻め落とすことにより、第二百済王朝の北条鎌倉幕府は、ここに滅亡するのです。
後醍醐天皇による、北条鎌倉幕府倒幕も、その軍事的中心をなした源氏の足利氏との見解の相違により、1336年吉野の後醍醐天皇の朝廷(南朝)と、足利氏の武家政権(北朝)との分裂となるのです。これが南北朝の始まりです。百済王朝再建を目指す後醍醐天皇が、1339年死去し、南朝の楠木氏も北朝に寝返ったため、1392年南北朝の合体となり、1394年三代足利義満が太政大臣となり、源氏足利氏の室町時代が確立されていくわけです。
この源氏室町幕府の時代に、現在に続く日本文化の基礎が花開くのです。その主役は、山から降りた民達です。
室町時代の文化を代表する芸能のひとつとして、「能楽」があります。1402年賎民の世阿弥は、能楽の奥義書の「風姿花伝」を著すのです。その書によれば、能楽の祖は、秦河勝というのです。そして、能楽は、猿楽から派生したというのです。では、その猿楽の「猿」とは何を物語っているのでしょうか。
猿は、古来王権よりの蔑称で、王権に服従する先住民を意味していたようです。812年多人長が著した「古事記」には、(古事記の奥付712年は、唐国の儀式により新羅系天武天皇の神・天御中主(北極星・太一)を祀るのではなく、百済系桓武天皇が父・光仁天皇を神として祀り「日本書紀」の文章を嫌新羅、親百済(552年百済仏教伝来のウソ。蘇我馬子の事跡を聖徳太子の活躍に改竄。チュルク系騎馬民族蘇我王朝を隠蔽するために、聖徳太子を発明。)に改竄したことを、多人長が、後世のひとに気付かせるために付けた年号。古事記が812年に発刊された根拠として、「古事記」は、後に(720年))に発刊された「日本書紀」の、推古天皇までの解説文(一書)全てに対応しているからです。更に、「日本書紀」が万葉語に稚拙なのに、それ以前に発刊された「古事記」の万葉語は完璧なのです。それは、オリエントから渡来の秦氏末裔多人長が、万葉語(万葉とは、世界の言葉の意味。)の学者で、そして、「日本書紀」の解説者でもあったからです。)

わたしは国つ神で、名は猿田彦神と申します。ここにいるのは、天つ神のご子孫が天降りなさると聞きましたので、道案内をいたそうと思って、お迎えに参ったのです。

とあります。猿田彦は、「神様」だったと、秦氏末裔の多人長は、「古事記」でさりげなく述べているのです。その国つ神とは、先住民の神ということなのに、何故王権から、「猿」は蔑視されていたのでしょう。それは、王権がある時点(平安時代)で、「摩り替わって」いたからです。
猿は、猿まわしの大道芸として、今日でも人気のある芸です。その猿は、古来から「馬」の守護神であったのです。何故「猿」が「馬」の守護神なのでしょうか。そこには、簒奪王権により隠された物語があるようです。
猿まわしは、古来より猿廻し、猿曳、猿牽、猿遣い、猿飼いなどと言われていましたが、「狙公・そこう」とも言われていたのです。その「狙公」と「猿まわし」との因果関係がよく分かりませんが、「狙」と「公」とに分解すると、その意味が分かります。
「そ」とは、古代新羅語で、「新羅」と言うことで、「公」とは、尊称でひとのことです。つまり、「狙公」とは、「新羅のひと」ということです。(新羅国の古語に、「けものへん」の「狙」を使うことにより、亡命百済王権よりの、新羅末裔への貶めが窺がえます。それは、教科書歴史で、新羅を、「しんら」ではなく、「しらぎ」と読ませることと同じです。「しらぎ」とは、「新羅の奴(やつ)」という蔑称だからです。)
新羅(しんら)とは、秦羅(しんら=ローマの国。漢語でローマ帝国は「大秦」と表記。)でもあり、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅であり、秦氏は、オリエントからシルクロードにより中国大陸を経て朝鮮半島に渡来し秦王国(新羅)を興し、そして、朝鮮半島の騒乱を逃れ、秦氏一族は北九州に亡命し、秦王国(後の豊国)を興し、そして、紀元四世紀には飛鳥ヤマトに渡来してきた民族なのです。
能楽の祖が、秦河勝で、能楽の祖が猿楽であるならば、猿が先住民の神(国つ神)であったことが理解できます。つまり、「猿楽」とは、「申楽」で、その申(さる)とは、645年蘇我王朝の簒奪者・藤原氏により、「神」の偏を盗られてしまい「申・さる=猿」に貶められてしまった「神楽」(神に捧げる芸)だったのです。
では、何故「猿」が「馬」の守護神なのでしょう。
それは、秦氏が渡来してきた日本列島の歴史を考えれば、そのヒントが得られます。日本列島に「馬」が存在していなかったのが、四世紀の古墳から「馬具」が突然現れるのは、ユーラシアから騎馬民族の渡来が示唆されます。
五世紀から六世紀にかけて、飛鳥ヤマトに渡来した騎馬民族チュルク(蘇我氏)は、そこに王国を建てるのです。その騎馬民族チュルク王国(蘇我王朝=ヤマト王朝)を護ったのが、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅から渡来した秦氏であったのです。
飛鳥ヤマトを中心に、十二m超幅のローマ軍式「直線道路」が、難波や近江の各湊を目指して造られていたことは、そのローマ式軍事道路建設の技術を持った部族が、飛鳥ヤマトに渡来していたからです。その技術部隊が、秦氏であるわけです。
それに、エジプトの石棺造りの技術、巨石建造物を造る技術、噴水を造る技術などは、全てオリエントからの技術なのです。なのに、教科書歴史では、秦氏とは、「はた織」の技術者だから、「はた」氏なのです、と説明しているのです。
そのヤマトの歴史が後に、猿(秦氏)が馬(騎馬民族)を護るという物語となったわけです。この「猿が馬を護る」物語は、1590年騎馬民族末裔の徳川家康が、宿敵の関白豊臣秀吉により穢れ地のエドの湿地帯に左遷された時、徳川家康の馬が疲弊したのを、鳥越から駆けつけた穢多頭弾左衛門(秦氏末裔)が「猿曳き」を伴いお迎えしたと、千年の時を超えて繋がっていたのです。
鎌倉末期から南北朝にかけて、異装・異相の武装集団が出没するのです。そして、その頃「槍」が戦で出現するのです。槍は、弥生時代から矛が武器として使われていたから、古来からあると思われていますが、そうではないのです。
鎌倉時代の前、平安時代には、槍は戦場で存在していなくて、長物武器は薙刀だったのです。平安時代の藤原氏の興福寺や亡命百済貴族の延暦寺の僧兵軍団は、薙刀(唐軍の武器か?)で武装していたのです。そして、平安時代に出現した武士は、日本刀と弓矢で武装していたのです。
では、その槍はどこからもたらされたのでしょうか。考えられるのは、1274年と1281年との「元寇」と言われる、南宋と高麗からの亡命軍の渡来です。異装・異相の武装集団が、太平洋側よりも、日本海側に多く出現したことにより、南宋や高麗から外洋船で亡命候補の北九州を目指していたのが、沖で暴風雨に遭遇し、亡命軍団船が対馬海流により日本海沿岸に打ち寄せられたことが推測されます。
長槍は、ローマ軍の主力武器だったのです。長槍と盾により集団で防御・攻撃をおこなうのがローマ軍の闘い方です。その長槍を、ロンギヌスの槍ということからもローマ軍の長槍は有名だったのです。そして、ローマ軍は、傭兵軍団により組織されていたのです。
傭兵は、お金のために闘うので、条件がよければ遠方でも、どのような異国にも赴いていたのです。秦の始皇帝の軍隊にも大勢のローマ傭兵軍兵士が加わっていたのです。
鎌倉末期から南北朝にかけて現れた、異装・異相の武装集団は、自ら「あく党」と名乗っていたのです。では、その「あく党」とは、悪い集団の意味の「悪党」なのでしょうか。自ら「悪党」を自認することは稀です。では、「あく」とは何を意味しているのでしょうか。それは、「あく」とは、古代ペルシャ語で、「勇者」を意味していたのです。異装・異相の武装集団が、自ら「あく党」と名乗ったのは、「勇者団」を意味していたのです。
日本の家紋の歴史上の出現は不明です。その武士の家紋が確認されるのは、1467年応仁の乱の流れにおける、下克上の群雄割拠する戦国時代からです。時代劇映画での合戦シーンでの家紋を付けた旗指物が現れるのが、戦国時代なのです。平安時代の源平合戦では、源氏の白旗に対して、平家は赤旗で闘っていたのです。鎌倉時代も、室町時代も、その合戦場で、家紋付き旗など見られません。
では、何故、合戦場で、家紋が戦国時代に突然現れたのでしょうか。考えられるのは、鎌倉末期に現れた異装・異相の武装集団の渡来です。
ローマ軍団は、出自の異なる各傭兵軍団により組織されていたのです。ですから、それぞれの出身の異なる傭兵軍団は、戦場での自部族軍の働きを雇い主に示すために、盾や旗にそれぞれの部族を示すシンボルマークを付けていたのです。そのシンボルマークが家紋というわけです。
日本の家紋の歴史は、不明です。「日本書紀」で、天皇家のルーツが、ひともいない神代から続いていると述べているのに、天皇家の家紋である十六弁菊紋が現れるのが、鎌倉時代というのはどうしてでしょう。
鎌倉時代とは、天皇家の経済基盤である天領と荘園とが、源氏武士により略奪され(この百済系天皇領の略奪は、源氏武士の先祖の新羅系天武天皇の支配地を取り戻した、とも考えられます。)、更に、源氏の支配権を奪った北条鎌倉幕府により、天皇とその子息は島流しにされた時代なのです。そのことから推測すると、家紋という意匠は、元々日本列島に住むひと達とは異なる思想を持ったひと達により、創り出されたもののようです。
現在に至る日本国の家紋は、そのデザインに使われる多くの動植物は、オリエント渡来のものです。鎌倉時代に出現した百済系天皇家の家紋である十六弁の菊も、そのルーツはペルシャ原産なのです。動植物を使わない部族を表わすデザインでも、ユーラシアの騎馬民族が崇拝する、「月・星」を使用しているのです。(現在のユーラシアの国々では、国旗に月・星をデザインに使用している。)
源平合戦で、闘った平家と源氏とは、それぞれのシンボルを星に求めていたのです。オリオン座の赤いα星のベテルギウスを「平家星」と呼び、白いβ星のリゲルを「源氏星」と呼んでいたのです。このことから、平家と源氏とが、農耕民族でないことが証明されます。海洋民族と騎馬遊牧民族は、定住民族の農耕民族と異なり、星の指示により民族移動をしていたからです。
その源氏系の渡辺氏の家紋、三ツ星に一文字とは、オリオン座のミンタカ・アルニラム・アルニタクの三ツ星を表わし、一文字とは槍を表わしていたのです。その槍は、源平時代には戦で使われていなかったのです。槍が戦で使われるのが、鎌倉末期から南北朝であったから、それ以前の源平の時代に、三ツ星と一文字の家紋など存在していなかったから、源氏は白旗だったのです。
日本国の家紋の歴史的出現も不思議ですが、お金(銭)の歴史も不思議なのです。日本国が中国から独立していると歴史書が述べるのなら、何故、飛鳥・奈良時代は富本銭や和同開珎を鋳造していたのに、平安・鎌倉・室町時代に、日本国独自の銭を鋳造しないで、宋銭や明国の永楽銭を輸入して、日本国内で流通していたのでしょうか。そして、現在の「円」も中国の貨幣呼称単位なのです。
何故、708年和同開珎を鋳造したことが、「日本書紀」に誇らしげに書かれているのに、後世に「お金は穢い。」と言われるのでしょうか。それは、平安時代に、中国大陸と密貿易をおこなっていた藤原氏と百済系天皇家が、反体制の民(新羅系天武天皇末裔・富本銭や和同開珎を鋳造していた民族)が勢力を復活させないようにするために、騎馬民族と農耕民族との交易を阻止するための手段のひとつとして、貨幣の流通を禁止するために、発明した「呪文」だったからです。
その銭の穢れ思想は、平安仏教徒が広めた思想であるわけです。その結果、平安時代では、銭の穢れ思想に染まった農耕民族は、銭を嫌っていたのです。そのため、商業を得意とする騎馬民族と農耕民族との交易が途絶えるわけです。それは、王権が望むところです。
しかし、宋国と密貿易をおこなっていたひと達は、宋銭を溜め込んでいたのです。そこで、1192年南宋貿易で銭を溜め込んでいた平家を倒した後、北条氏の傀儡政権の源頼朝は、伊勢の湊で南宋との密貿易で宋銭を溜め込んだ落武者平家末裔を封じ込めるために、銭貨の停止を発していたのです。
政権を維持する者は、その支配権を維持する経済的基盤を磐石にするために、色々なトリックを考え出すようです。そのひとつが、土地本位経済です。土地を支配することにより、臣民を支配できるからです。
その例のひとつが、大宝律令の土地制度のトリックです。そのトリックとは、豪族・氏族が所有する土地を、一旦天皇に献上し、改めて各氏族が、天皇より土地を賜ることにより、天皇の庇護を受けることができる、とするのです。しかし、そこにトリックがあるのです。
例えば、天皇が、ある氏族を潰そうと画策すると、その土地を天皇に返還させさえすれば、その氏族の経済基盤が消滅するため、武力を使うことなく、その氏族も消滅してしまうわけです。このようにして、奈良時代の反藤原氏の貴族・豪族は、抹殺されていったのです。
奈良時代の、藤原氏による天皇の権威付けが、興福寺の奈良仏教であり、春日社の中臣神道であったのです。そして、そのトリックの奥義書が、「日本書紀」というわけです。(平安時代に、桓武天皇により、「日本書紀」に百済史が挿入される。その「日本書紀」の改竄を後世に示すために、812年多人長は、「古事記・712年奥付」を著したのです。)
しかし、銭は、土地と異なり、それを完全に支配することは、天皇でも困難です。そこで、王権は、銭を溜め込み、革命を起こさないようにするために、銭を溜め込まない政策を画策するのです。それが、「銭は穢れている。」と言う思想を、仏教僧により布教することです。
鎌倉時代に発生した同業者組合の流通・交易の場である「座」では、騎馬民族はユーラシア大陸での交易で古来から為替を使っていたように、騎馬民族末裔の民が仕切る神社では、宋銭が交易に使われていたのです。
「座」での商業活動で「宋銭」を溜め込むことにより、源氏末裔の復活を恐れる北条鎌倉幕府は、鎌倉仏教僧達に、平安時代に発明された「銭は穢い思想」を、騎馬民族末裔を世間から疎外するために、その思想背景を知らない農耕民達に布教させるのです。
庶民や賎民に、仏教説話で「銭は穢れている。」と布教し、銭を嫌悪させることにより、仏寺は多大の献金を集めることができたのです。何故、神仏への浄財である賽銭を、賽銭箱に投げ入れる理由が、その銭の穢れ思想にあったのです。それは、穢れた銭と一緒に身の穢れも投げ捨てる、というトリックなのです。では、その穢れ銭は、何に使われるかと言うと、仏寺や神社の借上用に使うのです。神や仏は、銭が必要が無い存在なのです。銭が欲しいのは、僧侶達だったのです。
しかし、騎馬民族は、商業民族の性格を内在していたので、「座」での農耕民との交易をする術を知っていたのです。そのひとつが、バザールの開催です。ユーラシアの遊牧民族は、古来より日にちを決めて定期的にバザールを開催していたのです。そのバザールでは、物品の交易だけではなく、色々な魅力ある興行(猿楽=神楽)もおこなわれていたのです。
しかし、その穢れ地である神社でのバザール開催を快く思っていないひともいるわけです。そこで、バザール荒らしが発生すると、それを阻止するひとが現れるわけです。それが、「座」を仕切る「役」の、「役座」の発生となるわけです。
役座は、賎民の交易の聖地である神社境内(反体制の地)の平和を守るために、警察業務をおこなうわけです。役座は、王権からの威圧破壊行動に対して、弱い者(賎民)の立場を守る者であることから、「任侠」とも言われるわけです。「任侠」とは、弱い立場のひとと、ひととの気持ちを狭めることを表した言葉です。この「強きを挫き、弱きを助ける」任侠道思想は、ローマ騎士道→花郎騎士道→日本武士道の流れにあるわけです。
警察業務は、大きく二つに分けられます。ひとつは、公安警察で、もうひとつが治安警察です。
公安警察業務とは、事件を未然に防ぐためにおこなう警察業務です。その主業務とは、犯罪組織の動向を探る情報収集です。
治安警察業務とは、起きてしまった事件を速やかに解決するために、武力を伴う鎮圧業務です。
平和を守るための警察業務とは、そのノウハウと情報収集をおこなうための全国的組織と武闘力行使のための軍事組織が必要なのです。ですから、賎民の平和を守る「役座」の仕事は、誰にでもできるものではないのです。
ローマ帝国では、街の平和を守るために、裕福な街の名士の財力で、情報収集と武闘のための警察組織を作っていたのです。
では、室町時代、何故「役座」が、神社境内での「座」やバザールでの警察業務ができたのでしょうか。それは、神社成立の謎にあります。
神社は、日本古来から存在する、神様を祀る施設と思っているひとが多くいるようですが、それは違います。神社は、仏教が伝来して、道教・景教を駆逐した後に、道教・景教の神を封じるために発明されたものです。
多くの神社は、こんもり茂った小山の上にあることからも分かるように、土の家=塚=墓(古墳)の上に建てられているのです。日本列島での古墳の発生は、仏教が伝来する前の三世紀後半からです。ですから、三世紀以前には神社など存在していなかったのです。
では、神社は何のために建てられた施設なのでしょうか。それは、前政権の氏族の霊の祟りを封じ込めるために発明されたものですが、どのような神を封じたのでしょうか。
仏教が壊滅した前政権の祭祀者は、こんもり茂る小山で何をしていたのでしょうか。そのことを知るヒントが、「日本書紀」の皇極天皇元年(642年)の条に、

「雨乞いのために村々の祝部(はふりべ)の教えのままに、あるいは牛馬を殺して、もろもろの社(やしろ)の神を祭(いの)る」

、とあるのです。この記述は、何を意味しているのでしょうか。それは、ミトラ教の儀式を描写しているのです。
古代オリエントで発明されたミトラ教では、輪廻再生する不死身の太陽の化身の牡牛を屠ることにより、死から再生することができる、と信じられていたのです。その牡牛を屠る儀式が、異民族との交易契約を見守る神でもあるミトラ神が、国際交易商人と伴に、各地域に伝播することにより、「牡牛を屠ると太陽神(ミトラ神)により、願い事が叶う。」と拡大解釈されていくわけです。
四世紀に、日本列島に、牛・馬と伴に渡来した民族により、そのミトラ教(景教)の儀式も持ち込まれていたのです。この牡牛を屠る儀式は、百済系桓武天皇が統治した平安時代まで続いていたようで、804年牛の屠殺の禁止令が出ていたほどです。
その儀式は、藤原氏が持ち込んだ大乗仏教の火の儀式に敗れることにより、ミトラ教儀式の祭祀場である、森(「もり」とは、古代新羅語で「神」が宿る聖地の意味。)の小山に、藤原氏の仏教勢力により神社が建てられるわけです。しかし、ミトラ神の祟りを恐れるため、ミトラ神が宿っていると信じられていた祠(ほこら)や石物は、そのまま放置されたわけです。現在に残る神社境内の薄暗い湿気のある処にある祠や石物は、ミトラ教の名残かもしれません。
奈良時代末期から平安初期におこなわれた、藤原氏や百済系貴族が、天武天皇系の前政権の支配者を抹殺したため、奈良の大仏の建造時での銅・水銀鉱毒症が、医学の知識がない時代だったので、前政権者の怨霊の祟りと信じられていくのです。
特に、藤原百川による、天武天皇系最後の血を伝える、後に光仁天皇となった百済亡命下級貴族のお后であった井上皇后と他戸親王(おさべ)母子の謀殺により、天武王朝を乗っ取った光仁・桓武天皇親子は、その怨霊に怯えていたのです。更に、桓武天皇は、ダビデの王権を独占したソロモンと同じに、実弟を無実の罪で謀殺していたのです
怨霊の魂を鎮めるには、同族の祭祀者でなければならないと、当時では信じられていたため、怨霊封じ込め施設の神社の警察・警護は、俘囚があてられたのです。
唐進駐軍の統治下にある桓武天皇軍の陸奥国蝦夷討伐により、前政権の天武王朝軍属は、京に連行され、俘囚と呼ばれるわけです。そして、湿地帯の散所・別所・湯浅・垣内と呼ばれる捕虜収容地に囲われ、武器製造を担わされていたのです。その俘囚と呼ばれる、チュルク系騎馬民族末裔により、蕨手刀を改良して日本刀が創られるわけです。その根拠として、石上神社蔵の刀剣銘には、「陸奥国月山住俘囚臣宇久留」、とあるのです。
その俘囚が創った日本刀と、鎧により武装した、検非違使の手下となった者を、「武芸者」と呼ぶわけです。その武芸者が、後に武士と呼ばれていくわけです。
しかし、その武芸者は、平安時代を統治していた唐進駐軍から敵視されていた新羅軍属末裔もいたわけですから、その携帯する武器も、日本刀は、曲がる、折れる、刃毀れする実践用ではなかったのです。そして、鎧も総皮製の実戦用ではなかったのです。
では、それらの実践用武器・武具ではないもので武装した「武芸者」は、何をしていたのでしょうか。それは、怨霊退治のための公安警察業務(キヨメと呼ばれた。)です。
神社として前政権の神域を封印してしまっても、ひとの記憶を消すことはできません。俘囚とならずに山奥に逃れた「鬼達」は、元の聖域であった神社に自然と集まってくるのです。そして、鬼達は、自分達の土地を簒奪した平安貴族達の館を襲うわけです。
しかし、平安時代では、怨霊の存在を信じていたわけですから、実態のある事件は、治安警察業務をおこなう唐進駐軍や健児兵でおこなっても、実態が見えない事件は、怨霊の仕業と考えていたため、怨霊鎮めのために、鬼の同族である俘囚の武芸者に公安警察業務をおこなわせるのです。それは、武芸者の剣舞による、怨霊鎮めの警察業務です。ですから、武芸者の武器・武具は武舞用で、実践用ではなかったのです。
武芸者の「芸」とは、神を祀る(楽しませる・鎮める)技術であったのです。それらは、歌謡と舞を基本としていたのです。その俘囚の芸(神楽)は、後に簒奪王権により、申楽(猿楽)に貶められてしまうわけです。源氏が支配する室町時代に発明された能楽は、この剣舞の「怨霊鎮め」が素となっているのです。能楽の素は、賎民の彷徨える魂を鎮める「神楽」だったのです。
美術品のような日本刀とチュルク系騎馬民族の鎧兜に華美な装飾を施した武具で、神社境内で、怨霊鎮めのために剣舞をおこなう武芸者は、やがて貴族・民衆に崇められていくのです。やがて、怨霊封じの結界である神社が、武芸者の剣舞を鑑賞するための民衆が集まる場となり、民衆の交易、娯楽の地となっていくのです。すると、武芸者は、神社の平和維持のために、神社境内の警察業務もおこなうようになるわけです。
前政権の氏神を封じ込める神社が、俘囚の武芸者により前政権の氏神が復活することを恐れた仏教勢力は、その神社を取り込むトリック思想を考え出すわけです。それが本地垂迹説です。それは、神は仏の手下という意味です。
そのトリック思想により、神社は仏寺に習合されてしまうのです。元々仏教も神道も、四世紀以降に、藤原氏により中国大陸から日本列島に持ち込まれたものですから、その本地垂迹説により神と仏が同居する神宮寺は、平安貴族達に受け入れられていくわけです。それにより、神社で剣舞をおこない、そして警察業務もおこなっていた武芸者は、神社から排除されていくわけです。
しかし、武芸者は、神宮寺から排除されても、唐進駐軍の後ろ盾の百済系桓武天皇により、奈良の都に封じ込められた、怨霊の祟りを恐れる奈良貴族(藤原氏)により、怨霊鎮めの仕事が与えられるわけです。
武芸者が何故公安警察業務をおこなえたのかと言えば、その要因は二つあります。
ひとつは、武芸者の祖は蝦夷で、その蝦夷の祖は、騎馬民族チュルク族と新羅花郎軍団末裔であったからです。騎馬民族国家は、異民部族の連合体ですので、合議制でものごとを決めていたのです。合議制とは、談合のことです。談合するためには、部族同士の情報交換の技術が必要です。武芸者は、情報収集能力に長けていたのです。
もうひとつは、武芸者には、組織統制の技術が蓄積されていたからです。それは、ローマ騎士道→花郎騎士道→日本武士道の流れにあるからです。その武士道の掟は、組織への忠誠心と弱者へのいたわりです。この思想が無い限り、民衆の共感を得る警察業務はできないのです。民衆の支持が無い警察業務は、長続きはできません。(武士組織と役座組織には共通点が多い。)
彷徨える芸能者の仲間であった武芸者は、939年の天慶の乱により、武士に変身するのです。
907年唐滅ぶ。926年渤海滅ぶ。935年統一新羅滅ぶ。
東アジアの騒乱を逃れてそれらの国の亡命軍属が、日本列島に渡来することにより、各地で紛争が起こったのです。藤原氏は、経営する荘園を防衛するために、公安警察として雇っていた武芸者を、治安警察に使用したのです。この武芸者の活躍により、天慶の乱は速やかに鎮圧されていくわけです。
元々、武芸者とは、飛鳥ヤマトの騎馬民族末裔の武人であったから、武勇に優れ、騎射も得意だったのです。そして、その騎馬民族末裔の武士が、源氏を名乗るわけです。
ここに、闇の世界の公安警察業務をおこなっていた武芸者から、表の世界での治安警察業務をおこなう武士が誕生するわけです。そして、北条鎌倉時代末期に、その闇の世界の武芸者の末裔から、神社で交易・興行をおこなう賎民の平和を守るために役座が現れるわけです。ですから、役座隠語と警察隠語とは同じなのです。
この役座の闇の世界の治安警察業務は、江戸時代まで続くのです。しかし、明治維新により、公安・治安警察業務は、建前として、薩摩藩(秦氏末裔)の下級武士の仕事となったのです。しかし、役座が、任侠思想(武士道の流れにある思想)を理解し、実行している限りは、どのような権力でもその組織撲滅はできないでしょう。何故なら、役座組織は、鎌倉時代から続いているからです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/842.html

コメント [政治・選挙・NHK178] 創価学会・池田大作名誉会長、朝日新聞で新連載開始か 信者伸び悩み&読者減で助け合いか ドンゲン
20. 2015年1月31日 19:26:49 : Fl00PDjaLI

【ゲンダイ】青木理氏「慰安婦捏造報道での朝日叩きは安倍の差し金。国益を損ねるのがメディアの仕事。嫌韓嫌中で憂鬱」[1/25]

1 名前:雨宮◆3.yw7TdDMs 2015/01/29(木)01:10:06 ID:VEp

―― 先日、朝日新聞が「信頼回復と再生のための行動計画」をまとめました、朝日としてはこれでひとつの区切りということでしょうが、どうご覧になりましたか。
  一刀両断にはしにくいけれど、率直に言ってしまえば、くだらない話だよね。

―― くだらない?
 今回の「朝日バッシング」の原因を考えれば、確かに朝日側のミステークがあった。
吉田証言の記事を長年放っておいたミス。その記事を取り消したのに謝罪しなかったミス。
バッシングに対処する過程でも池上コラムの掲載見送りなどの致命的ミスがあった。
だから朝日に責任がないとは言わないけれど、そもそもこの騒動は朝日を叩きたい連中が仕掛け、
じわじわと強まった圧力に朝日が屈してしまった色彩が濃い。

その“総括”として朝日がいくら「行動計画」なるものを作ったって大した意味はない。
朝日の人たちにしてみれば、「何とかこれで許してください」ということなんだろうけれど。

―― 一連の朝日バッシングを「歴史的な事件」とおっしゃっています。
 なぜこの時期に朝日がこれだけ叩かれたかといえば、まずは安倍政権の存在でしょう。
現首相は朝日を露骨に敵視してきた。失敗に終わった第1次政権期、朝日に激しく批判された恨みもあるだろうし、根本的には、戦後民主主義的な価値への憎悪もある。
この本の取材で朝日の若宮啓文・元主筆も言ってたけれど、彼は政界のサラブレッドでありながら、妙なコンプレックスみたいなものがある。つまり東大とかリベラル、あるいは進歩的知識人や文化人が大嫌い。

― 安倍VS朝日の延長線上で、ここまでバッシングが拡大したということでしょうか。歴史修正主義の広がりという点ではどうでしょう。
 現政権の背後にはもちろん、歴史修正主義のうごめきが横たわってます。かつての戦争にはいろんな見方があるんだろうけれど、基本的には悪いことをしたという反省の下、迷惑をかけた隣国に申し訳ないと思い、二度と海外で武力行使しないというのが戦後70年の歩みだった。
かつての自民党だってそういう立場が主流だったのに、過去はもう忘れたいという連中が増えた。

しかも冷戦体制が崩壊し、いわゆる55年体制が過去のものとなる中で政治的なリベラル陣営はほぼ壊滅し、労働組合だって息も絶え絶え。
そういう状況下、戦後民主主義的な価値をいまも表象している代表格が朝日だとみなされ、誤報というミスに乗じて一斉に攻撃が襲いかかった。
逆にいえば僕は、そうした圧力に耐え切れなくなった朝日が慰安婦問題の一部記事取り消しに追い込まれたという方が正確だと思っているけれど、いずれにせよ、日本社会が戦後70年経って歪んだ変質を遂げつつある中で起きた歴史的事件だと考えています。

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156642/1
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156642/2
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156642/3


2 名前:雨宮◆3.yw7TdDMs 2015/01/29(木)01:10:44 ID:VEp

>>1の続き

―それにしても、「売国」とか「日本をおとしめている」など、言葉の使われ方が異常です。それもメディアがメディアに対してそうした言葉を使っている。

 メディアの報道は、権力の監視を大きな役目とする以上、常に“国益”を損ねうる。しかし、政治の不正だろうが社会の問題点だろうが、あるいは自国の恥部だろうが、メディアがそれを果敢に暴くことで問題が顕在化し、改善に向けた議論が活性化し、将来的には“国民益”とか“市民益”につながっていく。これがメディアの仕事です。

――メディア自身に病巣があるという見方もできますね。

 メディアに誤報はつきものであり、それに気づいたら速やかに訂正するのは大原則ですが、もっと悪質な誤報に頬かぶりしているケースなんて山のようにある。この仕事をしていたらみんな似たようなものなのに、素知らぬ顔で朝日の誤報をことさら叩く。異常です。当たり前だと思っていたことが当たり前じゃなくなっている。異常が常態化している。

―そんな安倍政権下で、日本社会の変質が「上部」から「下部」まで広がっているということですね。

 街角でヘイトスピーチをがなり立てている在特会やネトウヨといわれている連中など、さほど大きな力を持っていると僕は思いません。
むしろ深刻に捉えるべきは、一般の人々の間にそうした空気がうっすらと積み重なるように醸成されているらしき現状です。
嫌韓本や嫌中本があふれ、週刊誌が嫌韓や嫌中をあおる。こういう状況が続くと、隣国を嫌悪し、自国を優越視する不健全な空気が拡散します。

安倍政権なんて今後どうなるか分からないけれど、人々の間に広がる排他と不寛容の風潮は、一度蔓延すると容易に消せない深刻な病です。
戦後70年を迎えて歴史修正主義や排他、不寛容のうごめきが強まっている現状は、心底憂鬱です。

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156642/4
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156642/6


12 名前:名無しさん@おーぷん 2015/01/29(木)05:55:22 ID:xwZ

国家に損失与えることが “国民益”とか“市民益” ですか?


19 名前:名無しさん@おーぷん 2015/01/29(木)09:18:50 ID:fa2

>>国益を損ねるのがメディアの仕事

ふざけんな


28 名前:名無しさん@おーぷん 2015/01/29(木)11:56:37 ID:Cw1

メディアは、日本の敵ってことか。


41 名前:名無しさん@おーぷん 2015/01/29(木)15:13:35 ID:Kys

散々反省しろ言うくせに自分等は絶対反省しないからな
ほんとマスゴミの奴らは悪質極まりない


44 名前:名無しさん@おーぷん 2015/01/29(木)15:58:46 ID:Cmz

国益を損ねるのが仕事というのは意味がわからない
公平な報道をするのがマスゴミの仕事じゃないのか

http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1422461406/l50
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/919.html#c20

記事 [近代史02] 神輿の黙示録(15)(藤原氏と秦氏の謎:藤原氏はユダで秦氏はエフライムか?)
ひとは、小さなウソには直ぐに気がつくのに、大ウソには全く気付かない傾向があるようです。このひとの心理を悪用して、権力者は、大ウソを堂々とついているようです。
その大ウソの典型が、「聖書」と「日本書紀」の物語です。それらの書物は、時の権力者により、権力者に都合のよい大ウソ物語を挿入し、改竄され続けられていたのです。しかし、その大ウソ物語は、堂々と挿入されていたため、今でも多くのひとには気がつかなかいようです。
後世、その大ウソ物語により苦しむことがないようにと、その大ウソ物語を心あるひとに気付かせるためのひとが現れたのです。それは、「聖書」に対しては、パモス島のヨハネで、「日本書紀」に対しては、秦氏末裔の多人長です。
しかし、このパモス島のヨハネによる「ヨハネの黙示録」も、秦氏末裔多人長による「古事記」の黙示録も、20世紀末まで解かれることはなかったのです。もし、それらの黙示録が世に出た時に、その黙示録を多くのひとが理解したならば、中世のヨーロッパ社会で、民間医療従事者の女が「魔女」として、金儲けのために医療の独占を企むキリスト者により火刑にあわずに済んだことでしょう。そして、日本国でも、仏の興福寺や神の春日社の両方の宗教を同時に支配する藤原氏による、インドカースト思想の穢れ仏教思想により、鎌倉呪文仏教徒などから、オリエント渡来の秦氏末裔が「穢多」などの差別用語でイジメられることもなかったことでしょう。
しかし、それらの大ウソにより創作されたユダヤ・キリスト世界史や藤原日本史は、今でも堂々とひとびとを洗脳し続けているのです。そこで、この章では、その「黙示録=覆い隠されたものを暴く」により、藤原氏と秦氏の謎を解明してみることにしましょう。
大ウソをついていたひとは、その大ウソ物語がバレないように細心の注意を怠りません。そして、その大ウソ物語のトリックを解明することができる民族の抹殺を謀ります。その民族抹殺の手段のひとつが、抹殺対象民族を賎民に落とし、世間との交流を断絶させ孤立させ、自然消滅させることです。つまり、「イジメ」です。
「聖書」のヨハネによる福音書第四章に、

イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか。」これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。

この文章を創作した作家は、大ウソをついているのです。それは、「ヨハネの黙示録」の第十三章の、「思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、六百六十六である。」の謎解きをしたひとには理解できるでしょう。その666の謎解きによれば、ヤコブはヨセフの父ではなかったのです。ヤコブがヨセフの父であるとする「ヤコブ物語」は、紀元前932年ヘブライが、「一神教でヤハウェを祀るユダ」と「多神教で牡牛の偶像を祀るイスラエル」に分裂した時、イスラエルの民がソロモンをヤコブと言ったことを打ち消すための、大ウソ物語であったのです。ヤコブとは、「不正な手段で王権を簒奪した者。」、という意味なのです。
実際のイスラエルの祖であるヨセフは、ヒッタイト帝国(紀元前十九世紀〜紀元前1190年)から、紀元前1377年新都アケトアテンを建設しているアメンホテプ四世(イクナトン)の統治時代に、鉄器・鉄具を使用する土木建設仕事を求めて、古代エジプトに現れた部族であったのです。
そのヨセフ族を祖とするイスラエル民族の歴史を、レビ族末裔(ユダヤ民族)が乗っ取るために創作された物語が、「ヤコブ物語」だったのです。そのヤコブ物語では、ヤコブの末息子ヨセフは、意地悪な兄達により、エジプトの交易商人に売られて、エジプトに行ったことになっているのです。
そのヨハネの福音書(黙示録のヨハネとは別人)には、ユダヤとイスラエルとの関係が述べられています。それは、「ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかった。」と述べているところです。
牡牛の偶像を崇拝するイスラエルは、紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンにより亡ぼされてしまうのです。そして、その地は、サマリヤと呼ばれ、そこに住むイスラエルとアッシリアとの混血人は、サマリヤ人と呼ばれるわけです。そして、そのサマリヤ人は、ユダヤ人により、不可触賎民(オリエント版穢多)に落とされていくわけです。ここのところが理解できないと、サマリヤの女が、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか。」のニュアンスが分からないでしょう。
ユダヤにより、賎民視されたイスラエルの民は、紀元前八世紀のオリエントの砂漠に消えるのです。これが、失われたイスラエル十部族と言われるわけです。その十部族のリーダ的部族が、エフライム族です。つまり、イスラエルとユダヤは、祀る神が異なる別民族だったのです。
そのことは、「旧約聖書」の士師記第二章に、「イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、かつてエジプトの地から彼らをらを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起こした。」とあることからも理解できるでしょう。この悪をおこなうイスラエルの行状は、この後も何度もおこなったと士師記に記述してあるのです。
この聖書の「サマリヤの女物語」は、キリスト教のオリジナルではないようです。紀元一世紀キリスト教誕生と時を同じく大乗仏教が、ガンダーラで発明されるのです。その大乗仏教の教典に、「サマリヤの女物語」ソックリがあるのです。
ブッダの愛弟子アーナンダは、不可触賎民チャンダーラ(インド版穢多)に水を所望するのです。チャンダーラは自身の身分の低さゆえ辞退するのです。アーナンダは言うのです。「妹よ、わたしはあなたのカーストや家柄について尋ねているのではありません。あなたがわたしに飲み水をわけてくださるかどうかを尋ねているのです。」
キリスト教物語と大乗仏教物語との共通点は、他にも多くあるのです。キリストとブッダの奇跡物語などはまるで双子のようです。
キリストもブッダもその家系は王族につながります。キリストの母マリアは、夢の中で白い鳩が体内に入り込むのを見て、キリストを懐妊するのです。それに対して、ブッダの母マーヤー妃は、白い象が天から降りてきて腹に入り、ブッダを懐妊するのです。ふたりの母は伴に、処女懐妊だったのです。
その話を聞いたマリアの婚約者ヨセフも、マーヤー妃の夫シュッドーダナ王も、その不思議な出来事を躊躇なく信じるのです。
やがて、マリアとヨセフは税を払うためよその町に旅をしている時、マリアは厩でキリストを生むのです。それに対して、夫シュッドーダナ王が税を払うため旅をしている時、マーヤー妃は羊飼いの家のかいば桶のなかでブッダを生むのです。
その誕生の時、マリアの産所が眩むばかりの光に包まれ、その星を見た東方の博士が祝福におとずれるのです。それに対して、ブッダの誕生の時、大いなる光があまねく世界を照らしたのです。
そして、幼児キリストは、空中浮遊ができたのです。それに対して、ブッダは、生まれてすぐに七歩あるいたのです。そして、宙に浮くこともできたのです。
神殿での話しで、信心深いシメオン老人は、幼児キリストを抱き、救い主に会ったので安らかに死ねると言うのです。それに対して、信心深い老人アタシは幻の中で、須弥山の神々が大喜びしているのを見るのです。何故神々が喜んでいるのかと、アタシが尋ねると、ブッタとなるものがこの世を幸福にするために生まれたからだと言うのです。
十二歳になったキリストは、神殿で迷子になってしまったと思った両親が見た光景は、そこで学者と議論をしていたのです。それに対して、姿が見えないブッダを探していた父親は、木の下に座り宗教的瞑想にふけるブッダを見つけるのです。その木陰は、夕暮れだと言うのに、真昼のように輝いていたのです。
そのようにキリストとブッダは、共通した奇跡の成長過程を経て聖者となるのです。そして、迷える民に教えを説くのです。キリストの教えでは、「殺すな、姦淫するな、誓いを立てるな、復讐するな」です。それに対して、ブッダの教えでは、「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄言、不飲酒」です。
そして、人間から神に変身するための奇跡をおこすのです。キリストは、腹を空かせる弟子達に、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させ、十二籠のパンの屑を余させるのです。それに対して、ブッダは、物乞いの鉢の中のパンをもって、弟子五百人と僧院のすべての者の飢えを満たし、更にパンを余らせたのです。
更に奇跡は続くのです。マルコの福音書によれば、キリストは弟子達を船に乗せ、自分はひとりで祈りに行くのです。そして、強風のため漕ぎ悩んでいる弟子達の前に、キリストは水の上を歩いて現れたのです。それに対して、ブッダは、雨が降りしきる中、逍遥しながら瞑想しているのです。それを心配した弟子達は、豪雨になったので、ブッダが濁流に流されてしまうのではないかと心配し、小船で探していると、ブッダが水の上にまったく濡れずに歩いているのを発見するのです。
そのようなキリスト教にソックリの大乗仏教が、四世紀以降の日本列島に、藤原氏と伴に突然現れるのです。

1776年7月4日、トマス・ジェファーソンの起草文による、アメリカ独立宣言がおこなわれるのです。これが、歴史上最初の国民国家となるのです。そして、この国民国家は、歴史初の奴隷貿易をおこなった国民国家だったのです。その奴隷貿易に異を唱えたひとが現れるのです。それがアブラハム・リンカーンです。リンカーンは、大統領に就任すると、南部の奴隷農業をおこなう豪農の反対を押し切って、奴隷貿易反対を唱えるのです。その結果、南北戦争(1861年〜1865年)に突入するわけです。1863年1月リンカーンは、南北戦争において優勢のなか、ゲッチスバーグで黒人奴隷解放宣言をおこなうわけです。その結果が、リンカーン暗殺となるのです。
その十年前、1853年東インド会社が経営するマカオ貿易港から、外科医シーボルトにより模写された伊能忠敬の日本地図を手にした米使ペリーが、日本国浦賀へ来航するのです。何故ペリー艦隊は、アメリカ合衆国から直接日本国浦賀に来航しないで、一旦東インド会社のあるマカオに行ったのでしょう。そこに、アメリカ合衆国建国の謎があるようです。その謎解きは、米1ドルの裏にある「ANNUIT CCEPTIS」のピラミッドの眼にあるようです。そして、ペリー艦隊は、高圧的に日本国の開国を幕府に要求して去るのです。
開国か鎖国かの議論にゆれる江戸幕府が躊躇している中、1866年薩長連合の盟約が結ばれるのです。その裏事情は、アメリカ南北戦争が終わってしまったため、膨大なゲーベル銃の在庫の捌き先を探っていた東インド会社の売り込みが薩長にあったからです。
その死の商社・東インド会社のエージェントが秘密結社員のグラバーで、その手先が坂本竜馬ということです。坂本竜馬は、江戸幕府の策士勝海舟とも繋がっていたのです。秘密結社員グラバーの秘密を知りすぎた坂本竜馬は、イエズス会組織に背いたために爆殺された織田信長のように、やがて暗殺されるのです
明治維新の中心的役割をした薩摩藩の元は、島津氏(秦氏末裔)の所領で、戦国時代には中国大陸→種子島→雑賀→根来→本能寺ルートで銃・弾薬の密輸をおこなっていたのです。その密輸の裏には、古代から中国大陸との交易をおこなっていた、近衛家の祖藤原氏の存在があったのです。
東インド会社は特殊な会社(インドネシアで、オランダ東インド会社とイギリス東インド会社が覇権を争っていた。)で、その経営母体は国際金融組織ですがその実態は不明です。しかし、イギリス王国の後ろ盾があったのです。東インド会社は、日本国に進出する前に、中国・清帝国とアヘン戦争(1840年〜1842年)で巨額の賠償金を手にしていたのです。
明治維新は、イギリス東インド会社が持ち込んだアメリカ南北戦争で不要になったゲーベル銃により、長州藩の江戸幕府(第三百済王朝)を憎む、自前で銃を調達した穢多部隊と言われる「奇兵隊」により達成されたのです。
時の権力者が武勇に優れた賎民を利用することは、これは正に、平安時代末期の、奥州藤原氏の策謀による陸奥の蝦夷・源義経の源平合戦か、戦国時代の日本征服を目論むイエズス会が供給した火縄銃と火薬により、賎民の先祖を持つ織田信長・徳川家康により、近畿地域を軍事支配する仏教組織壊滅の宗教戦争と同じ戦略のようです。
その明治維新により、藤原氏が再び日本列島の中枢に現れたのです。そして、古代藤原王朝の再興を目指して、藤原日本史を創作するわけです。そのスローガンは、「王政復興」です。
明治新政府は、欧米列強に対抗するために、日本の歴史を創作することになるのです。それは、日本国の歴史は、西ヨーロッパ歴史観である民族の興亡史ではなく、誰が正統かを綴った中国史の模倣の「正統史観」により、日本史が綴られていたからです。
そこで、明治新政府は、1887年ユダヤ系ドイツ人のルードヴィヒ・リースを、帝国大学に招聘し、史学科を開設したのです。そこで、西ヨーロッパ歴史観を基に、藤原不比等が創作した「日本書紀」を基に日本国史を創作することになるのです。

藤原日本史の古代史概略(ユーラシア・東アジア・関連事項)
紀元前660年建国?(日本列島、縄文時代末期。オリエント、紀元前722年イスラエル滅亡。紀元前586年ユダ滅亡。)
紀元一世紀倭国百余国に分立(中国・前漢とローマ共和国との国際交易都市・ガンダーラで大乗仏教が発明される。キリスト教の発明。(聖書はギリシャ語で書かれていた。)キリスト物語ソックリのブッダ物語集「ジャータカ」完成。)
189年卑弥呼、邪馬台国の女王となる(97年後漢、甘英をローマ領に派遣。148年パルチア僧安世高が後漢・洛陽に渡来。166年シルクロード交易によりローマ帝国使者後漢に至る。バラモン僧ナガールジュナ(龍樹180年〜240年)が、ガンダーラ大乗仏教(ギリシャ系仏教)を中国化仏教(西方浄土思想)に改竄。サンスクリット(ギリシャ語かアラム語?)仏典の漢語訳後、原典は焚書される。七世紀にサンスクリット仏典復刻。)
四世紀ヤマトを統一し、大和王朝興る?(346年百済興る。356年ギリシャ・ローマ文化保持国・新羅興る。392年キリスト教ローマ帝国の国教となり、キリスト者によりローマ軍神のミトラ教団壊滅される。395年ローマ帝国東西に分裂。ユーラシアで騎馬民族台頭。)
527年筑紫国造磐井の反乱(508年中央ユーラシア支配の騎馬民族国柔然、高車人により滅ぼされる。528年新羅、ギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国となる。)
536年蘇我稲目大臣となる(535年北魏東西に分裂。出自不明の蘇我稲目、飛鳥ヤマトに突然の出現。同時に交易の要所に武器庫の「屯倉」が設立される。)
538年百済聖王仏像と経典を献ず?(日本書紀では、552年仏教伝来。)
562年任那日本府、新羅に滅ぼされる?(552年チュルク系突厥帝国興る。568年東ローマ使者突厥庭に入る。)
587年蘇我氏、物部守屋を滅ぼす(飛鳥に巨石建造物出現。噴水のある庭園造営。飛鳥を基点として、現在の高速道路下に、道幅十二m超のローマ軍式直線道路が造られる。蘇我氏が崇仏派かは疑問。新羅渡来の弥勒菩薩の「弥勒」とは、「ミトラ」の漢語変換。平安時代、ミトラは「魔多羅」に変換。571年イスラームのサラセン帝国興る。589年隋中国統一。)
592年蘇我馬子、崇峻天皇を謀殺?(☆この頃、天皇は存在しない。)
593年聖徳太子、摂政となる?(☆飛鳥時代に摂政の職務なし。858年藤原良房、摂政の職務を始めておこなう。推古天皇統治(593年〜628年)、しかし、隋書では、ヤマト統治は男王と記述。)
603年蜂丘寺(広隆寺=仏寺)創建(蜂丘寺は、仏寺ではなく、ミトラ教寺院=景教寺。蜂丘寺がある山背国は秦氏の支配地)
607年法隆寺創建?(聖徳太子が創建と言われる?670年炎上、再建法隆寺は、北九州秦王国=豊国から移築。)
607年小野妹子を隋に遣わす(608年隋使裴世清、飛鳥で男王に謁見。618年隋滅び、唐興る。621年ゾロアスター寺院長安に建立)
622年聖徳太子逝去?(聖徳太子の実在は疑問のため、その偉業の多くは、蘇我馬子のものか?)
626年蘇我馬子死去。蘇我蝦夷大臣となる(誰が、713年以降に、蘇我氏末裔に、馬子・蝦夷・入鹿などの「賎名」をつけたのか?630年唐軍により、東突厥散ず。)
643年蘇我入鹿、山背大兄王一族を滅ぼす?(聖徳太子の歴史を消すためのウソ物語か?)
645年蘇我氏滅ぶ。大化の改新が始る?仏教興隆の詔?天皇紀・国紀焼失?(645年藤原氏の突然の出現。東アジアでの唐国隆盛。北方騎馬民族衰退。)
660年中大兄皇子漏刻(水時計)を造る(水時計はオリエントで発明。オリエントの技術継承者渡来の示唆。)
663年白村江の戦い、百済滅ぶ
667年近江大津京に遷都(近江は古来から百済のコロニー)
672年壬申の乱、飛鳥浄御原宮に遷都(☆日本初の新羅系天武天皇誕生。)
675年占星台設置(天武天皇は道教儀式で北極星・太一を祀る。北極星→天御中主→天照大神。675年新羅、百済併合。676年統一新羅始る。668年高句麗滅ぶ。)
685年伊勢神宮式年遷宮の初め(天武天皇系の神を祀る。平安時代、百済系桓武天皇により疎まれる。伊勢遷宮前、伊勢の神(海神)は百済支配の近畿を彷徨っていた。682年東突厥復興。)
686年日本初の天武天皇崩御(天武天皇に左遷された藤原不比等、持統天皇朝廷に返り咲く。)
694年藤原京に遷都(藤原不比等策謀。698年渤海建国。)
701年大宝律令発令(藤原不比等策謀。豪族の私領を天皇に献上させ、権力を天皇に集中させる。)
710年平城京に遷都(藤原不比等策謀。)
713年風土記撰上の詔、好字令(藤原不比等策謀。好字令と風土記のセットにより、騎馬民族文化・飛鳥オリエント巨石文化が隠蔽される。)
718年養老律令発令(藤原不比等策謀。天武天皇系豪族滅亡。藤原氏のロボット天皇の権力が増大。)
720年日本書紀完成、藤原不比等死去

藤原日本史によると、紀元前660年ヤマト国は建国されたというのです。しかし、考古学上では、その頃は縄文時代末期であったのです。
藤原古代日本史とオリエント・ユーラシアとの出来事を時系列に比較すると、大陸の出来事に影響されて、日本列島にも異変が起こっていることが理解できるでしょう。その多くは、シルクロードの西の果てのローマ帝国の動向が、東アジアへの影響力を与えているようです。そして、ユーラシアの騎馬民族も、ローマ軍に押されて東征したようです。しかし、自然の下に暮らす騎馬民族は歴史書を編纂しないため、そのローマ帝国の東アジアへの影響力を証明できません。
その西方からの影響力は、軍事力だけではなく、文化の伝播も示唆されます。そのひとつが、紀元一世紀のガンダーラで発明された大乗仏教です。ガンダーラは、シルクロード東西国際交易の拠点のひとつで、そこには、ギリシャ・ローマ・西アジア・イラン・北アジアからの国際交易商人達が集まるため、その結果、ガンダーラは国際的宗教の坩堝だったのです。当時の国際交易は、騙し合いが前提ですので、取引は絶対者である「神」の下でおこなわれていたからです。そのガンダーラで発明された大乗仏教は、ギリシャやイランの国際的宗教の影響を強く受けていたようです。
ガンダーラは、隣国パルチア王国(紀元前250年〜紀元226年)と交易があったため、148年ギリシャの天文学や占星術を知るパルチア僧の安世高が、後漢の洛陽に仏典をもたらし、漢語に訳していたのです。では、その時代の大乗仏教はどのようなものだったのかといえば、バラモン僧ナガールジュナ(龍樹180年〜240年)が漢訳したものとは少し異なっていたようです。405年鳩摩羅什が後秦の国師となり、バラモン僧ナガールジュナ(龍樹180年〜240年)の漢訳仏典を広めたことにより、大乗仏教経典は、オリエント大乗仏教経典から中国仏教経典に変身したのです。ですから、それらの中国仏教経典の多くは、バラモン僧龍樹により漢訳されたものですから、騎馬遊牧民族差別をするバラモン思想用語(チャンダーラ→施陀羅)に満ち溢れていたのです。
初期のオリエント大乗仏教のキャラクターである仏像は、ギリシャ的風貌であったのです。そして、キリスト像の頭光背と同じものが仏像にも設置されていたのです。そして、キリスト教の天使キューピットと同じに、飛天や音声菩薩などがあるのです。更に、仏教が特徴とする読経・仏教声明・念仏が、グレゴリオ聖歌以前のキリスト教会音楽と非常に類似していたのです。
異国で、仏典の説教をしても人集めはできません。言葉も文字も異なるからです。そこで、大乗仏教組織は、人集めのためにパフォーマンスをしていたようです。大乗仏教のスポンサーである国際交易商人は、商品を販売することが目的ですから、寺院境内で開くバザールで多くのひとを集める必要があったのです。
では異郷で人集めのために、オリエントの西方から中国・北魏に胡僧達と伴に渡来した西域人が寺院境内のバザールで、どのようなことをしていたのかを、「洛陽伽藍記」で述べるには、パルチア王国の王統を引いたと称する幻人が、奇術や魔法を駆使して、寺院の参詣者を驚かせた、とあります。又、宋代の百科事典である「太平御覧」には、パルチアの安都盧(アントロ)は飾り竿に登り剣舞をしたり、山車に雲を吐き出したり、軽業をおこなった、とあります。或いは、走る馬の上や脇腹、馬の頭や尻尾の所で色々な曲芸をみせた、とあります。
この北魏(423年〜534年)や宋での西域人の寺院境内でのパフォーマンスは、昭和初期生まれの人は、幼少の頃、縁日の神社境内で見た大道芸人の演技を思い浮かべれば、想像がつくかもしれません。
しかし、北魏では、土着宗教を大成した道教が盛んであったのです。道教の特徴は、仙術や薬草による長生術です。この頃、大乗仏教には、長生術はなかったのです。
オリエントの国際商人により贅沢品や珍品をもたらしたり、寺院境内でのバザールで胡姫などの舞踏により若者を幻惑する大乗仏教文化は治安を乱すため、敵対宗教の道教組織の密告により、北魏の太武帝から廃仏されるのです。この後も中国大陸で度々廃仏がおこなわれたのは、大乗仏教文化には、退廃をもたらす要素が元々内在していたからです。肛門の疾患である「痔」という病気は、不自然な禁欲を強いる大乗仏教の「寺の病」であるのです。(戦国時代、織田信長が、仏僧を「欺瞞者ども」と罵り、比叡山全僧打首の理由のひとつが、このことだったのです。)
しかし、中国・北魏での道教と仏教との戦いは、やがて互いの儀式や教義を取り入れ、道教の仏教化と仏教の道教化をもたらすのです。そのことにより、民衆は仏教と道教とを見分けることが困難になってしまったのです。極端に言えば、違いは、仏像を祀るか、天帝(北極星)を祀るかです。
シルクロードの国際交易により、ローマから中国へは、物品や宗教だけではなく、各種高度技術者の渡来もあったようです。
この技術者の西アジアから東アジアへの渡来は、結果として、日本列島にも多大に影響したようです。それは、紀元三世紀末に突然現れた、巨大古墳群です。これらの全国一律相似デザインによる古墳は、日本列島在住者の技術ではなく、遠く古代エジプトやオリエントのものであったようです。それらの巨大古墳を築くには、デザイン思想もさることながら、膨大な建設物資を運ぶ巨大運河を掘ったり、幅広の直線道路建設のため硬い岩を砕く鋼鉄製の工具が必要だったのです。
では、古代の土木建設工具は、金属器が発明される前ではどのようなものだったのでしょうか。それは、土を掘る「ツルハシ」は、鹿の角を使い、土を取り出す「スコップ」は、牛の肩甲骨が使われたようです。そのような工具では、日本列島の巨石建設物や巨大古墳は造れません。
金属器の発明の歴史は、青銅器が紀元前三千年のメソポタミアで、鉄器が紀元前二千年のヒッタイトのようです。青銅器と鉄器の発明は、千年の差があったのです。
しかし、日本列島への金属器の渡来は、青銅器と鉄器とがほぼ同時だったのです。このことは、何を示唆しているのでしょうか。
飛鳥の巨石建築物・巨大運河・道幅十二mの古代高速道路などを構築するには、鋼鉄製の工具とそれらを駆使して建設する技術者が必要です。では、それらは誰により建設されたかは、645年の天皇紀・国紀の焚書により隠蔽されてしまったため、解明できません。しかし、その後、745年に起工された東大寺にヒントがあるようです。
東大寺は謎に満ちた建物です。それは、反藤原氏の聖武天皇により、遍照鬼(ルシャナブツ・鬼とは反仏教の神様)が鋳造されていたからです。その東大寺は、反体制の修験道の拠点でもあったのですが、やがて、奈良の大仏様・大日如来となってしまうのです。
その東大寺のお祭りに、「お水取り」の儀式があるのです。この儀式は、良弁の弟子実忠が始めたことになっているようですが、疑問です。
その由来は、二月十二日の夜のこと、旱の年には井が涸れて修二月法を修する閼伽水(アカミズ)が欠乏したので、衆僧が井戸のまわりに集まって遥か若狭の方に向かって水の出るように祈ったら、しばらくして閼伽井の水がみち溢れた、ということです。そこで衆僧は、若狭から閼伽井まで地下水道で通じていたと考えたのです。そして、その閼伽水を病気の者が飲むと多くが治った、ということです。
この描写は、カナートを示唆します。カナートとは、紀元前二千年バビロニアで発明されたとする開削工法による導水用トンネルのことです。この地下水道技術は、土木建設工事が好きなローマ人により、紀元百年には、ローマ帝国内に張り巡らされた水道のうち約57kmが、このカナートであったようです。そして、このカナートは、ローマ帝国軍と伴に、パルチア→西域諸国→東アジア→日本列島へと東進したようです。
しかし、ローマの建築法や思想が、実際に古代日本列島に渡来しているのに、それを証明することはできないのです。それは、それらの建築法や思想を持った部族・民族は、農耕民族ではなく、騎馬遊牧民族と伴に渡来したからです。
世界史も日本史もその基本は、農耕民族により綴られた史料を素に創作された物語です。それは、自然の下、風と伴に流離う騎馬遊牧民族と海洋民族は、歴史書をもたないからです。それに、それらの風と伴に流離う民族の神は、太陽・月・星を祀る自然神であるから、眼で確認できるため、神の来歴などの理屈が必要ないからです。
しかし、キリスト教も仏教も、ひとが創った神仏なので、その来歴を示す必要があるわけです。そして、それらの神仏の来歴が、やがて人間世界の歴史に組み入れられてしまうのです。それが現在のキリスト世界史であり、仏教日本史であるわけです。
それらの歴史書は、農耕民族世界を基盤としているわけですから、農耕民が「善」で、それに敵対する騎馬遊牧民族や海洋民族は「悪」のイメージで綴られているのです。
その例として、農耕民族である漢民族による「史記」で著される、騎馬遊牧民族や海洋民族は、匈奴、山戎、鮮卑、蠕蠕、突厥などと呼称され、まるでバケモノ扱いです。そして、漢民族は、塞外民族を東西南北に分けるのです。東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)です。
東夷の「夷」とは、弓と矢をつがえる人間の形象です。つまり、弓矢の武器を持つ民族のことです。
西戎の「戎」とは、戎=鉞(まさかり)を持つ、森林を伐採するチベット高原から四川省へかけての山岳狩猟民族のことです。
南蛮の「蛮」とは、蛇や竜類のデザインを背中、身体、腕などに文身(ほりもの)・刺青(いれずみ)をした海洋漁労民族のことです。古代の文身・刺青は、神聖なもので、それは、海中の鮫や海蛇の災いから海洋民族を守ってくれるものだったのです。
北狄の「狄」とは、獣の皮を被ったひとが、寒さを避けるために火にあたって暖をとっている北方狩猟民族のことです。
それらの騎馬遊牧民族や海洋民族を蔑視した態度は、中国の歴史書そのものです。そして、それらの遊民族をひとからげにして、「胡」と呼んでいたのです。その中国の歴史書を真似て、日本古代史は綴られていたのです。
日本古代史を調べるには、「日本書紀」に頼ることになります。それは、645年に藤原氏により、それ以前の飛鳥ヤマト騎馬民族王朝を隠蔽するために、天皇紀・国紀?(この頃天皇は存在しない。)が焚書されてしまったからです。そして、その後、日本列島の歴史を綴る「日本書紀」を720年に創作したのも、藤原氏であったのです。では、645年突然日本列島に現れた、その藤原氏とは、何者でしょうか。
その出自先を推測するヒントが、「旧約聖書」にあります。それは、「日本書紀」による歴史改竄手法が、「旧約聖書」の改竄法と酷似しているからです。藤原氏の日本歴史乗っ取り方法は、どうも「旧約聖書」を教科書にしたようです。
その手段のひとつが、「日本書紀」では、「厩戸皇子物語」(平安時代、聖徳太子に変身)の創作です。そして、その教科書と考えられるのが、「旧約聖書」の、「モーセ物語」です。それらの宗教と重大な関連のあるふたりは、後から創作され、それらの物語に挿入された、架空の人物だったのです。
モーセが、架空の人物であることを知るには、「ヨハネの黙示録」の666の謎を解く必要があります。
パモス島のヨハネは、「神と契約したモーセはいなかった。」と言うことを後世のひとに知らせるために、「ヨハネの黙示録」を書いたのです。
ユダヤ民族の祖は、モーセを「旧約聖書」に出現させることで、レビ族のアロン一派の祭祀族が、イスラエルの歴史を乗っ取ることができたのです。モーセが「主」と契約を誓うことにより、王様を創るための「頭に油を注ぐ」儀式を創作し、その儀式を独占することで、アロン一派は永遠に祭祀階級として存続していくわけです。それは、まるで日本列島史で、日本神道を創作し、天皇を裏からコントロールすることにより、古代から現在まで生き残っている、裏で歴史を操作する藤原氏と同じようです。
そのモーセの実在を否定する暗号解読方法とは、ヨハネの黙示録第十三章十八節に、
「ここに、智恵が必要である、思慮あるものは、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。」の謎を解くことです。
この666の謎を研究したひとによれば、エズラ記の第二章十三節に「アドニカムの子孫は六百六十六人」の言葉を見つけ、ギリシャ文字(聖書はギリシャ文字で書かれていた。)による数字の表現方法を「666」に当てはめるのです。その方法によると、A=1 R=100 N=50 O=70 U=400 M=40、そしてE=5とし、「ARNOUME」という単語を探り当てるのです。その単語の合計は「666」です。そして、そのARNOUMEとは、「否定する」という意味です。そこで、その解読単語を先の文章「アドニカムの子孫は六百六十六人」に当てはめると、アドニカムとはヘブライ語で「主はよみがえる」と言う意味からすると、「アドナイ(主)文章を否定せよ。」となるわけです。
モーセの五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記には、二つの異なる文章が並存します。それは、エロヒム(神)とヤハウェ(アドナイ・主)とを主語とする、ふたつの文章です。そこで、ヨハネの暗号解読によれば、「神ではなく、主が主語の文章を否定せよ。」ですから、「主」が主語の文章は「ウソ」だ、と言うことになるわけです。そこで、モーセ五書の「出エジプト記」を、「主」文章を無視して読んでみると、「神」文章では、神と契約したモーセは居ないのです。モーセが契約した文章の主語は、全て「主」なのです。つまり、「神と契約したモーセ」は「否定」されるわけです。
では何故、ユダ民族は、モーセ物語を創作したのかと言えば、それは、紀元前538年新バビロニア王国が、ペルシャ帝国により滅ぼされたためです。紀元前586年からユダ王国の王族・祭祀者・知識人がバビロンに幽囚されていたのを、ペルシャ皇帝により解かれ、故郷のカナンへの帰還での原住民とのトラブルがその原因です。
ユダの元住人が、約五十年後のバビロン幽囚から帰還すると、カナンの地には周辺住民により占領されていたのです。その占領地を取り戻す手段として、神の契約によりカナンの地は、ユダ民族のものだと証明するための書物が、神と契約した「旧約聖書」に挿入された「モーセ物語」であるのです。そして、その五十年したら元の持ち主に土地を返還しなくてはならない神との契約が、「ヨムキプル」なのです。
このモーセ物語を挿入した「旧約聖書」により、ペルシャ帝国の対ギリシャ戦略の裏づけを得ていたため、帰還ユダ民族は、高圧的に原住民をカナンから追い出せたのです。
このモーセ物語戦略が、藤原氏による、飛鳥ヤマトの先住民族を追い出す手段の、仏教導入のための「厩戸皇子物語」となるのです。645年藤原氏は、蘇我王朝を壊滅すると、天皇記・国記(?)を焚書して、その年に仏教興隆の詔を発するのです。
しかし、一寸考えると、この仏教興隆の詔は変です。それは、「日本書紀」で、蘇我氏は崇仏派であると述べているからです。何故、645年に仏教興隆の詔が必要なのでしょうか。それは、前政権の蘇我王朝では、実際は仏教が興隆でなかったからです。
では、蘇我王朝では、どのような宗教が興隆だったのでしょうか。飛鳥ヤマトは国際交易都市であったので、ギリシャ・ローマ・オリエント・インド・ユーラシア・東アジアの神々が、それぞれの部族・民族により祀られていたのです。
そこで蘇我王朝を倒した藤原氏は、大乗仏教を利用して日本列島を乗っ取るために、「旧約聖書」の「モーセ物語」戦術を教科書として、「厩戸皇子物語」を創作したわけです。
「日本書紀」での仏教伝来は、552年です。しかし、仏教史では、538年百済の聖王仏像と経典を献ず、とあります。このブレは何故おきたのでしょうか。それは、720年完成の「日本書紀」の552年の「厩戸皇子物語」が、平安時代に、百済系桓武天皇により、538年の「聖徳太子物語」に改竄され、仏教史に挿入されたことによるのです。
仏教伝来史によれば、仏教が伝来するには、二度の神仏戦争があったということです。第一次が、蘇我稲目と物部尾輿、第二次が、蘇我馬子と物部守屋です。サイファー式暗号解読法によれば、同じ言葉・文章は抹殺せよ、ということです。その二度の神仏戦争のストーリは同じなのです。ということは、実際はその戦争は無い、と考えられます。
では、何を目的に、藤原氏は、二度の神仏戦争を創作したのでしょうか。それは、日本神道を登場させるためです。
日本神道は、誰もが信じているようにではなく、日本列島古来からの宗教ではなく、藤原氏の流れにある中臣氏により、日本列島に、四世紀以降に何処からか持ち込まれた宗教思想です。
では、仏教と闘った宗教とは何でしょうか。それは、道教と景教です。お互いの宗教儀式をパクル、仏教と道教との闘争は、中国・北魏の時代からです。では、仏教と景教とはどうなのでしょうか。
景教とは、太陽神を祀る宗教です。その源は、古代オリエントのミトラ神です。このミトラ神が、古代インドへ伝来し、マイトレーヤとなるのです。このマイトレーヤが、大乗仏教に導入され、中国で弥勒菩薩と変身するわけです。
宗教組織は、生き残るため敵対宗教の利点を導入する傾向があるようです。ですから、宗教に関心のない者には、仏教も道教も景教も同じものと考えられていたようです。
では、何故、道教・景教の神を押しのけて、奈良時代に仏教が興隆したのでしょうか。その解明のヒントが、ユダ王国のエルサレムにあるようです。
藤原氏は蘇我王朝を倒すと、都を次々に建設していたのです。では、日本列島の仏の都・日本版エルサレムの仏教寺院で「何が」おこなわれていたのでしょうか。
「旧約聖書」の「エゼキエル書」第二十三章に、
「主の言葉がわたしに臨んだ、人の子よ、ここにふたりの女があった。ひとりの母の娘である。彼らはエジプトで淫行をした。彼らは若い時に淫行をした。すなわちその所で彼らの胸は押され、その処女の乳ぶさはいじられた。彼らの名は姉はアホラ、妹はアホリバである。彼らはわたしのものとなって、むすこ娘たちを産んだ。その本名はアホラはサマリヤ、アホリバはエルサレムである。」
そして、エルサレムである妹のアホリバは、
「その妹のアホリバはこれを見て、姉よりも情欲をほしいままにし、姉の淫行よりも多くの淫行をなし、アッスリヤの人々に恋いこがれた。」、とあるのです。
この「エゼキエル書」では、エジプトから渡来したイスラエルの民を貶めるために、イスラエルの悪行を細々と描写しているのです。イスラエルの祖ヨセフは、メソポタミアの砂漠を彷徨うレビ族の祖と異なり、ヒッタイト帝国からの鉄器を使う技術集団です。そのエジプト滞在中に、太陽神アトン(聖書ではバアル・太陽神アトンは、ミトラ神の導入)を崇拝していたのです。勿論、太陽神アトンの化身牡牛の金像も崇拝する、イスラエル民族は、一神教のユダヤ民族と異なり、多神教だったのです。
そのエジプトの地母神イシスの神殿での神殿淫売を、「エゼキエル書」で「主・ヤハウェ」は、「彼らはエジプトで淫行をした。」と非難しているのです。
古代エジプトの地母神イシスは、豊穣の神であり、神殿は公共的な娼家であったのです。この地母神イシスが、その幼児ホルスを抱く母子像が、やがてキリスト教に導入され、幼児キリストを抱く聖母マリアとなるわけです。古代の神殿は、聖婚の場でもあったのです。ですから、「新約聖書」のマクダラのマリアが娼婦なのも、聖母マリアの流れにあったからです。
太陽神を祀る宗教組織は、「冬至」を聖婚儀式の日としていたのです。それは、太陽神と地母神の聖婚の日であったからです。その聖婚日(冬至)の秘儀により、一旦死を迎えた太陽は、再び再生するのです。この太陽神と地母神との聖婚が、やがて巫女(聖女)と参拝者との聖婚(まぐわい)へとなっていくわけです。
古代メソポタミアでは、その聖婚秘儀をおこなう所を、「女神の密室」と言い、バビロン語で「ハレム」と言うわけです。
大乗仏教は、中国大陸で抹香臭くなってしまいましたが、キリスト物語とブッダ物語が同根物語であるように、ガンダーラで発明された頃は、オリエントの香りがしていたのです。ですから、当然古代オリエントの聖婚秘儀も内在していたのでしょう。その聖婚秘儀は、大乗仏教と伴に、藤原氏と伴に、日本列島に伝来していたのです。そして、奈良時代末期、仏寺の「ハレム」で、天武天皇系最後の女帝称徳天皇は、藤原氏が操る怪僧道鏡により篭絡され、遂には毒を盛られ最後を遂げるわけです。では、仏寺の「ハレム」とはどのようなものなのでしょうか。
「続日本紀」に、僧玄ムの死を告げる記述があるのです。それは、「天平七年大使多冶比真人広成に随って帰還し、経論五千余巻及び諸の仏像を持ち帰った。皇朝でも紫袈裟を施して着用させた。尊んで僧正となし内道場に安置させた。これから以後栄寵日に盛んにして稍沙門(ややぼうさん)の行に違犯したので、時の人はそれを悪んだ。そのため徒所(ながされところ)で死んだ。」、とあるのです。その文章を要約すると、「僧玄ムは、内道場で稍沙門の行に違犯したので、流罪所で死んだ。」ということです。では、その「内道場」とは、何でしょうか。
遣唐使船を廃止したことにより、藤原氏の逆鱗にあい、大宰府に左遷された菅原道真が、新羅商人から唐の仏教堕落について聞き出すのです。それによると、中国唯一の唐の女帝武則天(690年〜705年)の時代、仏寺での「内道場」が盛んであったそうです。その「内道場」とは、表向きは皇后、采女の仏教修行の場であるのですが、その実態は女性だけの「特別」な修行道場で、有髪の俗人女性と僧侶とが「秘密修行」する隔離部屋であったとのことです。
つまり、仏教寺院の内道場とは、その機能から推測すると、バビロン語で「ハレム」です。シュメール語で「パラダイス」、「聖書」ではアダムとイブの「エデンの園」のことであるのです。
この唐での仏教寺院の「内道場」が、「続日本紀」の記述にあるように、日本列島の仏寺に持ち込まれていたのです。
この秘密儀式を行う内道場の存在を裏付ける史料は、仏教正史には見当たりませんが、戦国時代、織田信長と徳川家康により、比叡山延暦寺を襲撃した時、原則的には、比叡山は女人禁制の聖地であるのに、仏堂伽藍から多くの若い女性が現れたということは、、その内道場の存在が推測されます。
大乗仏教組織は、織田信長との宗教戦争に敗れると、寺社領や荘園を没収されたことにより、禅宗の葬送儀式を真似て、葬式仏教となり生き延びていくわけです。そして、大乗仏教は、第三百済王朝の江戸幕府時代、オリエント渡来の秦氏末裔「穢多=日本版サマリヤ人」を支配するための人別帳を管理する組織として機能していくわけです。
キリスト教の「ミサ」も、この仏教の内道場と関係があるようです。「ミサ」とは、一般人の礼拝が終わった、と告げた後に、特殊な信者による秘密儀式のことであるわけです。その時、信者は赤い葡萄酒を飲むのです。それは、仏教の般若湯を飲むのと同じようです。
バラモン教・マニ教・ゾロアスター教と仏教が融合した密教では、ハオマ酒、ハシッシュ麻酔剤、大麻、水銀薬などの向精神薬物を使用することは公然の秘密です。だから、空海が発明した真言宗の密教から、真言立川流が生まれたのも納得できます。
仏寺の表向きは、高度文化伝道施設であるけれども、裏の機能は「娯楽施設」でもあったわけです。「聖婚」の祭祀者である藤原氏は、この仏寺の娯楽施設により、貴族・豪族を取り込んで朝廷での勢力を増していくわけです。
この仏寺の「ハレム」は後に、「本能寺の変」直後の山崎の戦いで、明智光秀をイエズス会の密令により裏切った徳川家康を憎む、明智末裔「お福・後の春日局」は、藤原氏・近衛家に取り込まれ「春日局」となり、徳川家康の死後、江戸城内に「大奥=ハレム」を開設すのです。
しかし、645年突然日本列島に現れた藤原氏は、権力中枢に登りつめるには、自らの出自の来歴を示す必要があったのです。それには、日本列島古来から、藤原氏は祭祀者であったことを示す物語の創作が必要となるのです。
その藤原神話物語創作の教科書は、「旧約聖書」です。その「旧約聖書」の創世記も、メソポタミアのギルガメッシュ物語(ノアの箱舟物語の元ネタ)やアッカドのサルゴン王(紀元前2350年〜紀元前2294年)物語(モーセ物語の元ネタ)の民間説話をもとに創作されていたのです。その創世記の創作手法を、藤原氏は真似るわけです。
日本の創世記を解明するには、困難が生じます。それは、日本の創世記は、ねじれているのです。何故ねじれてしまったのかと言えば、それは、720年「日本書紀」の創世記を、812年「古事記」の創世記で改竄しているからです。
「日本書紀」は、二重構造になっているのです。それは、「本書部」と「一書部」とにより構成されているのです。これは、「旧約聖書」が、「主文章」と「神文章」とで構成されているのと似ています。
この二重構成は、「日本書紀」巻第一・神代上の本書では

古に天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき、渾沌れたること鶏子の如くして、ほのかにして牙を含めり。
それに続いて、
一書に曰く、天地初めて判るるときに、一物虚中に在り。状貌言い難し。
では、「日本書紀」の教科書である、「旧約聖書」の創世記第一章の物語ではどうでしょうか。
「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」とあるのです。

そのように、「日本書紀」には、補足文章として、一書が付随しているのです。そこで不思議なのは、「日本書紀」よりも八年も前に上梓されたと信じられている「古事記」には、後から出来たと信じられている「日本書紀」の「一書」のエピソードがほぼ語られているのです。
そして、「日本書紀」の物語は、陰陽の二元論で語られているのに、「古事記」では、一元論で語られているのです。これでは、時の流れが逆です。このねじれは、「古事記」が、「日本書紀」よりも後に創作された、と考えれば理解できます。事実、「古事記」は、奈良時代ではなく、平安時代に、「古事文・ふることふみ」を素に創作されたものだったのです。
その時代背景は、中国・唐軍の軍事力を背景に、百済系桓武天皇が中国山東半島から移民させた元百済貴族が、先住民のオリエント渡来の秦氏末裔をその支配地の山城国から追い出し、その地に平安京を造ったのです。このことが、京都が、日本列島での百済渡来人対新羅渡来人(秦氏)の民族差別の発祥地の原因のひとつとなるのです。
そして、唐軍の支援の下、百済系桓武天皇により、新羅渡来人(秦氏)民族差別の武器のひとつである比叡山の天台宗が中国から導入され、更に、中国土着の神・山王(シャンワン→さんのう)が、日枝(イルギ→ひえ)と日吉(イルギ→ひよし)の神へと変身させ、藤原氏の春日神に対抗して、日本神道の神となるわけです。そして、オリエント渡来の新羅・秦氏の神・ミトラ神が、穢れ神の魔多羅に貶められていくわけです。
そして、百済系三代嵯峨天皇の時代に、「レビ記」のような「新撰姓氏録」を創作することにより、皇・神・蕃の序列により新羅系貴族を蕃族と貶め、更にその出自を抹殺したことに反発した秦氏末裔多人長が、新羅系天武天皇が、列島倭国を統合し、飛鳥に日本国を建国したことを知らしめすために、そして、百済系桓武天皇による「日本書紀」の改竄を知らせるために、「古事記」を平安時代に創作したのです。
その根拠として、「日本書紀」の最初に登場するのは、「国常立尊」であるのに対して、「古事記」では、「天之御中主神」であるのです。「天之御中主神」とは、北極星・太一のことです。この北極星(太一)を、天武天皇は、道観(後の伊勢神宮)で、道教の儀式で祀っていたのです。そして、紫衣とは、仏教高僧の着用する仏衣などではなく、道教思想での、北極星(天帝)の世話をする真人(まひと・北斗七星)の衣装であったのです。真人が、天武天皇朝での最高官位であったのは、天武王朝は、仏教ではなく、道教思想により政(まつりごと)をおこなっていたからです。
その伊勢の「天之御中主神」が、天武天皇崩御後、藤原氏により「天照大神」に変身してしまうのです。これは、「星神」が、「日神」に摩り替えられたことを意味しています。
藤原氏は、何故「星神」を「日神」に摩り替えたのでしょうか。その謎を解くには、「日本書紀」の神話に、ギリシャやオリエントの神話を素材としていることが、ヒントのようです。
藤原氏の先祖は、系図によれば「天児屋根命」です。この命の神話での出現は、天岩窟物語です。この天岩窟物語で、スサノウの狼藉により天照大神が、天岩窟に隠れてしまったのを、アメノウズメが裸踊りで誘い出す手助けのひとりとして、祝詞を述べる巫女の天児屋根命が出現するわけです。
この天岩窟物語は、ギリシャ神話の地母神デメテルと巫女バウボーとの物語に酷似しているのです。ギリシャ神話では、
「ある事件により塞ぎこんでいる地母神デメデルに、薬草を飲ませようとするが、拒んで飲みません。そこで、巫女バウボーは、裳をまくり女陰を露出すると、下腹部から女陰にかけて描かれた卑猥な顔が、笑いながら現れたのです。その下腹部をよじらせながら巫女バウボーが踊りだすと、地母神デメデルは笑い出し、元気をとりもどし、薬草を飲んで、生成の活力をとりもどした。」、という物語です。
場面がギリシャ神話と異なるのは、天照大神は「洞窟」に篭った、ということです。藤原氏が、天照大神を洞窟から再生させることで、二つのトリックを使うわけです。ひとつは、天武天皇前政権の「星神・北極星」を「日神・太陽」に変換させることです。そして、もうひとつが、地母神(巫女)である「日女・ひめ」の天照大神を、「太陽神・天照大神」に変換させることです。
世界神話では、太陽神は男神なのです。では、天照大神は、男神でしょうか、女神でしょうか。藤原神話では、地母神・日女=天照大神です。ここに藤原氏の、地母神(女神)を天照大神(男神)に変換したトリックが明かされます。それは、地母神(女神)は、太陽神(男神・天照大神)にはなれないからです。何故ならば、女神と男神との聖婚ができないからです。実は、藤原氏は、太陽神再生儀式も藤原神話で抹殺していたのです。
洞窟は、道教の呪術思想では「子宮」と考えられていました。「子宮」の「子」とは、道教方位学では「北」です。北(子・し)と南(牛・ご)とは、天の基準である「子午線・しごせん」を形成します。
道教の宇宙観によれば、森羅万象の根源が「子」であるわけです。ですから、天文訓の「二十四節」によれば、その基点が「子」となるわけです。そして、その「子」は、「冬至」であるのです。つまり、道教の宇宙論では、冬至の太陽が篭る処が「子宮」ということです。
しかし、道教では、死と生を繰り返す太陽ではなく、真北に鎮座する不動の「北極星」が天帝(太一)であったのです。天武天皇は、伊勢の宮(道観)で、藤原氏が発明した天照大神ではなく、北極星(太一)を祀っていたのです。
この思考と類似しているのが、古代オリエントのミトラ神の太陽です。太陽を祀るミトラ教では、太陽は洞窟から再生する、と考えられていたのです。やがて、古代の祭祀者は、洞窟で聖婚秘儀をおこなうようになるのです。冬至の日に、洞窟の穴から差し込む太陽の光を、地母神の女陰にあてることで、太陽の「再生」を願うのです。(この穴倉でのミトラの秘儀が、後に、多くの秘密結社の入団儀式に取り入れられていくのです。)
それが、12月25日(冬至)におこなわれる太陽神と地母神との聖婚です。(このミトラ教の儀式が、キリスト教に導入され、「クリスマスの日」となるわけです。)ミトラ教の神殿が地下にある理由がここにあります。そして、ミトラ教では、冬至(12月25日)まで待てない時、太陽神の化身である牡牛を屠ることにより、太陽の再生(願い事の成就)を祈願するのです。
この太陽と地母神の聖婚は、遥かバビロンのジグラッドの七層の聖塔上の神殿で、或いは、そのジグラッドを真似た、バベルの塔の神殿で、おこなわれていたのです。ジグラッドの東の窓からの「太陽の船」が入ってくるとは、「冬至の日の太陽光」のことです。ですから、ジグラットは、真東を軸に南北約三十度の冬至・夏至の日の出方位を重視して建設されていたのです。このジグラッドの思想が、中国仏教に導入され、五重塔となるわけです。
藤原神話のトリックを解明すると、星神を祀る道教思想を隠蔽した、藤原氏により発明された太陽神・天照大神を祀る神社の歴史は、遠く遡っても七世紀後半であるわけです。藤原古代史では、神代は紀元前のように物語っているようですが、神話の中で馬の皮を剥ぐ物語や新羅国が現れることを考慮すれば、それは四世紀以降の頃と推測されます。その根拠は、馬が日本列島に出現するのが四世紀以降で、新羅の建国が四世紀後半だからです。そして、伊勢神宮が伊勢に遷宮されるのが、七世紀末期であるからです。
藤原古代史物語から、天照大神、神武天皇、推古天皇、聖徳太子、神仏戦争、広隆寺、法隆寺、大化の改新などを取り除いたとしたら、どのような日本古代史物語が現れてくるのでしょうか。

藤原日本史の古代史概略(ユーラシア・東アジア・関連事項)
紀元前660年建国?(日本列島、縄文時代末期。オリエント、紀元前722年イスラエル滅亡。紀元前586年ユダ滅亡。)
紀元一世紀倭国百余国に分立(中国・前漢とローマ共和国との国際交易都市・ガンダーラで大乗仏教が発明される。キリスト教の発明。(聖書はギリシャ語で書かれていた。)キリスト物語ソックリのブッダ物語集「ジャータカ」完成。)
189年卑弥呼、邪馬台国の女王となる(97年後漢、甘英をローマ領に派遣。148年パルチア僧安世高が後漢・洛陽に渡来。166年シルクロード交易によりローマ帝国使者後漢に至る。バラモン僧ナガールジュナ(龍樹180年〜240年)が、ガンダーラ大乗仏教(ギリシャ系仏教)を中国化仏教(西方浄土思想)に改竄。サンスクリット(ギリシャ語かアラム語?)仏典の漢語訳後、原典は焚書される。七世紀にサンスクリット仏典復刻。)
四世紀ヤマトを統一し、大和王朝興る?(346年百済興る。356年ギリシャ・ローマ文化保持国・新羅興る。392年キリスト教ローマ帝国の国教となり、キリスト者によりローマ軍神のミトラ教団壊滅される。395年ローマ帝国東西に分裂。ユーラシアで騎馬民族台頭。)
527年筑紫国造磐井の反乱(508年中央ユーラシア支配の騎馬民族国柔然、高車人により滅ぼされる。528年新羅、ギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国となる。)
536年蘇我稲目大臣となる(535年北魏東西に分裂。出自不明の蘇我稲目、飛鳥ヤマトに突然の出現。同時に交易の要所に武器庫の「屯倉」が設立される。)
538年百済聖王仏像と経典を献ず?(日本書紀では、552年仏教伝来。)
562年任那日本府、新羅に滅ぼされる?(552年チュルク系突厥帝国興る。568年東ローマ使者突厥庭に入る。)
587年蘇我氏、物部守屋を滅ぼす(飛鳥に巨石建造物出現。噴水のある庭園造営。飛鳥を基点として、現在の高速道路下に、道幅十二m超のローマ軍式直線道路が造られる。蘇我氏が崇仏派かは疑問。新羅渡来の弥勒菩薩の「弥勒」とは、「ミトラ」の漢語変換。平安時代、ミトラは「魔多羅」に変換。571年イスラームのサラセン帝国興る。589年隋中国統一。)
592年蘇我馬子、崇峻天皇を謀殺?(☆この頃、天皇は存在しない。)
593年聖徳太子、摂政となる?(☆飛鳥時代に摂政の職務なし。858年藤原良房、摂政の職務を始めておこなう。推古天皇統治(593年〜628年)、しかし、隋書では、ヤマト統治は男王と記述。)
603年蜂丘寺(広隆寺=仏寺)創建(蜂丘寺は、仏寺ではなく、ミトラ教寺院=景教寺。蜂丘寺がある山背国は秦氏の支配地)
607年法隆寺創建?(聖徳太子が創建と言われる?670年炎上、再建法隆寺は、北九州秦王国=豊国から移築。)
607年小野妹子を隋に遣わす(608年隋使裴世清、飛鳥で男王に謁見。618年隋滅び、唐興る。621年ゾロアスター寺院長安に建立)
622年聖徳太子逝去?(聖徳太子の実在は疑問のため、その偉業の多くは、蘇我馬子のものか?)
626年蘇我馬子死去。蘇我蝦夷大臣となる(誰が、713年以降に、蘇我氏末裔に、馬子・蝦夷・入鹿などの「賎名」をつけたのか?630年唐軍により、東突厥散ず。)
643年蘇我入鹿、山背大兄王一族を滅ぼす?(聖徳太子の歴史を消すためのウソ物語か?)
645年蘇我氏滅ぶ。大化の改新が始る?仏教興隆の詔?天皇紀・国紀焼失?(645年藤原氏の突然の出現。東アジアでの唐国隆盛。北方騎馬民族衰退。)
660年中大兄皇子漏刻(水時計)を造る(水時計はオリエントで発明。オリエントの技術継承者渡来の示唆。)
663年白村江の戦い、百済滅ぶ
667年近江大津京に遷都(近江は古来から百済のコロニー)
672年壬申の乱、飛鳥浄御原宮に遷都(☆日本初の新羅系天武天皇誕生。)
675年占星台設置(天武天皇は道教儀式で北極星・太一を祀る。北極星→天御中主→天照大神。675年新羅、百済併合。676年統一新羅始る。668年高句麗滅ぶ。)
685年伊勢神宮式年遷宮の初め(天武天皇系の神を祀る。平安時代、百済系桓武天皇により疎まれる。伊勢遷宮前、伊勢の神(海神)は百済支配の近畿を彷徨っていた。682年東突厥復興。)
686年日本初の天武天皇崩御(天武天皇に左遷された藤原不比等、持統天皇朝廷に返り咲く。)
694年藤原京に遷都(藤原不比等策謀。698年渤海建国。)
701年大宝律令発令(藤原不比等策謀。豪族の私領を天皇に献上させ、権力を天皇に集中させる。)
710年平城京に遷都(藤原不比等策謀。)
713年風土記撰上の詔、好字令(藤原不比等策謀。好字令と風土記のセットにより、騎馬民族文化・飛鳥オリエント巨石文化が隠蔽される。)
718年養老律令発令(藤原不比等策謀。天武天皇系豪族滅亡。藤原氏のロボット天皇の権力が増大。)
720年日本書紀完成、藤原不比等死去
藤原古代史のウソを消し去ると、飛鳥ヤマトの歴史に残るのは、蘇我王朝と秦氏です。

この蘇我氏と秦氏(新羅渡来人)末裔が、藤原氏により、古代オリエントでヘブライ王国分裂後にユダヤ民族によりイスラエル民族が不可触賎民サマリヤ人と差別されたように、第一百済亡命王朝の平安時代より賎民として蔑視されていく原因が、飛鳥ヤマトの歴史にあるようです。
蘇我氏が、飛鳥ヤマトに出現する事績を時系列に羅列すると、
536年蘇我稲目が、突然日本列島歴史上に現れる。
552年中国・北魏滅亡後、中央ユーラシアに騎馬民族国家チュルク系突厥帝国興る。
568年東ローマ使者突厥帝国庭に入る。
587年蘇我氏、物部守屋を滅ぼす。
607年蘇我氏が、小野妹子を隋に遣わす。
608年隋使裴世清、飛鳥で男王に謁見。
618年隋滅び、唐興る。
626年蘇我馬子死去。蘇我蝦夷大王となる。
630年唐軍により、騎馬民族国家・東突厥帝国散ず。
645年蘇我氏滅ぶ。
645年藤原氏の突然の出現。東アジアでの唐国隆盛。北方騎馬民族衰退。
この536年から645年までの飛鳥ヤマトのオリエント巨石文化を、645年の政変によりヤマト政権を蘇我氏から簒奪した藤原氏は、「日本書紀」の物語で隠蔽したわけです。そのトリックの仕掛けのひとつが、蘇我氏対物部氏の神仏戦争と仏教導入の厩戸皇子物語です。そして、オリエント渡来の巨石土木建築技術集団の秦氏を、厩戸皇子の忠臣として、仏教伝来物語で描くわけです。
もしも、日本列島史が、「日本書紀」物語で述べるような世界であったのなら、何ゆえに、飛鳥の巨石物やローマ軍式幅広の石を敷き詰めた直線道路、軍事要塞化した蘇我氏の館、巨大古墳についての記述がないのでしょうか。それは、蘇我王朝は、中国南朝の唐文化と異なる、ギリシャ・ローマ文化やオリエント文化が花咲く国際交易都市であり、又、外敵からの侵攻を阻止する要塞都市でもあったからです。
六世紀の飛鳥ヤマトは、神武天皇末裔の天皇が支配する大和朝廷が存在できるような都ではなかったのです。そして、七世紀前半の中国大陸では、南の唐国と北の騎馬民族の突厥とが覇権を争う時代の真っ只中であったのです。中国大陸への回廊でもある日本列島を軍事的に押えることは、唐国にも突厥帝国にも死活問題だったのです。
その日本列島の飛鳥ヤマトは、縄文時代から朱砂の国際交易地であったのです。その国際交易地の飛鳥ヤマトは、四世紀には高句麗(仏教文化国)、百済(仏教文化国)、新羅(ギリシャ・ローマ文化国)が軍隊を派遣して、支配権争奪戦をおこなっていたのです。朝鮮半島での三国の争いが、日本列島の飛鳥ヤマトでもおこなわれていたのが、「日本書紀」で述べる「大和朝廷」の時代であるわけです。
四世紀後半、その日本列島に、古代エジプト巨石建築技術を持つ集団が渡来して、巨大古墳を岩手以南の列島全国に築造するわけです。その巨大古墳築造は、四世紀から七世紀頃まで続くのですが、その築造目的は「日本書紀」には述べられていません。(近畿巨大古墳は、後の御用学者により天皇の墓と決め付けられた。しかし、現在では、天皇墓説は疑問視されている。)巨大古墳は、墓であることは間違いないのですが、何故、近畿地域の古墳には、古代エジプトの計測単位のキュビトで石棺が造られ、その石棺の素材石の多くが九州阿蘇産であるのかは謎です。
そして、六世紀半ば、騎馬民族国家・チュルク系突厥帝国の軍事的支援により、高句麗、百済、新羅がそれぞれ分割支配する飛鳥ヤマトの地に、蘇我稲目が突然出現し、その地を軍事統一をするわけです。この蘇我氏による飛鳥ヤマト支配のことを、「日本書紀」では、大和朝廷と述べているのです。そして、「日本書紀」で推古天皇なる女帝を発明するわけです。
平安時代、その女帝推古天皇の存在を否定するために、そして、百済系桓武天皇により「日本書紀」の仏教伝来の552年を、百済聖王により538年伝来と改竄し、そして、厩戸皇子を「聖徳太子」に変身させたことを黙示するために、秦氏末裔多人長は、「古事記」を推古天皇物語で終わらせているのです。「同じ文章は否定せよ。」のサイファー式暗号解読法により、「日本書紀」の「推古天皇までの物語を否定せよ。」と「古事記の黙示録」で述べているわけです。
その突厥帝国の日本列島サテライトである飛鳥ヤマトの蘇我王朝が、隋の煬帝に宛てた手紙が「東の王が西の王に挨拶する。つつがなきや」であるわけです。その突厥系蘇我王朝による飛鳥ヤマト支配を、交戦国の隋国から確認しに来たのが、608年の隋使裴世清であったわけです。
六世紀から七世紀にかけての飛鳥ヤマトが、騎馬民族によるオリエント巨石文化都市であり、金メッキ工場、ガラス工場、貨幣鋳造工場があり、そして、景教寺(後の法隆寺)が国際ホテルのように、エジプト、ローマ、ペルシャからの国際交易商人で溢れていた、などと想像することは困難でしょう。それは、645年に突然日本史に現れた藤原氏の隠蔽トリックが、完璧だったからです。
藤原氏が創作した「日本書紀」で、552年に仏教が中国大陸より飛鳥ヤマトに伝来し、厩戸皇子により飛鳥ヤマトは仏教文化都市として繁栄していたとして、騎馬民族文化・オリエント文化が隠蔽されてしまったからです。その飛鳥ヤマト仏教文化の証拠として、騎馬民族文化・オリエント文化などの遺跡物を徹底的に破壊してしまい、「飛鳥には法興寺、法隆寺などの仏寺が多く存在していたのです。」、と「日本書紀」で物語るわけです。
この藤原氏による前政権文化を抹殺する戦術は、四世紀のローマ帝国でおこなわれていた戦術そのものです。それは、キリスト教による、ミトラ教文化の歴史的抹殺です。
紀元一世紀、ローマ帝国が支配するオリエントで、「ブッダ誕生物語」ソックリの物語をもつ新興宗教が興るのです。その宗教のウリは、ゾロアスター教の、「善と悪との戦いで世界が消滅する前に救世主が現れて、最後の審判が行われる。」、という物語を真似たものです。その「救世主」を、ヘブライ語で「マーシーアハ」と言います。そして、その「マーシーアハ」とは、「油を注がれた者」の意味です。その「マーシーアハ」は、日本語で「メシア」と言うわけです。
この「メシア=油を注がれた者」が、ギリシャ語で、「クリストス」となり、それは日本語で、「キリスト」となるわけです。つまり、紀元一世紀に発明された新興宗教とは、ユダヤ教のイエス派が、「キリスト教」と名乗ったものです。
この反ローマ帝国のキリスト教が、どういう訳か392年に、ローマ帝国の国教になってしまうのです。そして、三年後の395年ローマ帝国は、東西に分裂してしまうのです。
分裂以前のローマ帝国では、色々な宗教組織が存在していたのです。中でも、ローマ帝国軍では、ミトラ神を軍神として祀っていたのです。そのミトラ教は、地下聖堂で秘密儀式を行うため秘密結社的存在となり、その組織は時にはローマ帝国王権に反することもあったようです。
そこで、ローマ帝国の国教となったキリスト教徒は、地下聖堂のミトラ神殿を徹底的に破壊して、その跡に、キリスト教会を建設して、ミトラ教文化を地上から抹殺してしまったのです。更に、ミトラ教の儀式やミトラ神の聖婚日を「クリスマスの日」として導入することにより、そのミトラ文化も抹殺してしまったのです。ですから、よほど宗教に興味があるひと以外は、キリスト教はローマ帝国のオリジナル宗教と信じているひとも多くいるわけです。
ローマ帝国軍は、傭兵軍の集まりですから、当然反ローマ帝国を掲げていたユダヤ教の一派である「キリスト教」を、快く受け入れられないミトラ神を祀る傭兵軍もいたことでしょう。しかし、東西ローマ帝国では、国教のキリスト教の神を祀っていたのです。では、ユダヤ・キリスト教に改宗できない、ミトラ神を祀っていたローマ傭兵軍は何処へ消えてしまったのでしょうか。
356年建国の新羅(秦羅)の奈勿王(対外には「楼寒」と名乗った。新羅語で、「王」は「麻立干・まりつかん」。)の出自は不明です。そして、隣国の高句麗と百済とは通訳なしには話しが出来なかったのです。それは、新羅(秦羅)には、漢字がなかったからです。と言うことは、仏典はサンスクリット(?)語から漢語に変換されたものですから、新羅(秦羅)に漢字がないということは、新羅(秦羅)には仏教も伝来していなかったことになります。
では、新羅(秦羅)では、どのような神が祀られていたのでしょうか。そのヒントのひとつとして、新羅(秦羅)の軍団は、花郎軍団と呼ばれていたのです。その花郎の、「花」とは「ミトラ」の借字で、「郎」とは「男」の意味です。つまり、花郎軍団とは、ミトラ神を祀る軍団という意味となるのです。太陽神ミトラを祀る軍団は、ローマ軍団が考えられます。東西分裂前のローマ軍団は、ミトラ神を軍神として祀っていたからです。
356年建国の新羅(秦羅)の花郎軍団が、ローマ軍団末裔である証拠のひとつは、新羅(秦羅)の慶州古墳から出土する遺品です。そこには、仏教国の高句麗や百済の古墳から出土しない、ギリシャ・ローマ文化を示す、金製の三本樹の王冠、ブレスレット、ネックレス、指輪、そして、ローマン・グラス、トンボ玉、そして、ローマ軍が戦闘で着用する金銅製の脛甲、鉄棒、鉄斧、馬鎧、馬冑、多くの金メッキ馬具などがあったからです。
ローマと中国大陸との交流は、歴史上確認できるものは、以下のようです。
97年後漢、甘英をローマ領に派遣。
166年ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者、後漢に至る。
356年ギリシャ・ローマ文化保持国・新羅興る。
395年ローマ帝国が東西に分裂。
528年新羅、ギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国となる。
535年東ローマ帝国と密接であった北魏が東西に分裂。
552年ユーラシアにチュルク系突厥帝国興る。
568年東ローマ使者、突厥帝国庭に入る。
571年イスラームのサラセン帝国興る。
以上のような、ローマと中国との交流があったわけですが、では、どのようなルートにより、ギリシャ・ローマ文化が新羅(秦羅)に伝播してきたのでしょうか。そのルートが、砂漠のシルクロード経由であるとすれば、新羅(秦羅)へのシルクロード中継国である高句麗、百済にもギリシャ・ローマ文化の遺品が古墳から現れるはずです。しかし、出土しません。それは、ギリシャ・ローマ文化は、シルクロードからではなく、バルト海から太平洋を結ぶユーラシア大陸を貫く草原ロードから、新羅(秦羅)に伝播したからです。(バルト海沿岸から岩手県久慈まで、縄文時代に琥珀ロードが存在していた。)
その草原ロードとは、ローマ帝国領クリミア半島→マサラ→エカテリンブルク→イルクーツク→ウラジオストク→新羅・慶州ルートです。その草原ルートは、鹿をトーテムとする騎馬民族国家スキタイの流れを汲む騎馬民族の匈奴(紀元前209年〜紀元48年)、鮮卑(93年〜319年?)、柔然(319年?〜552年)、突厥(552年〜630年。682年復活〜744年)の支配地を通るわけですから、568年に東ローマ使者が、突厥帝国の朝廷を訪れた意図が理解できます。
392年キリスト教が、ローマ帝国の国教となり、それが原因となり、395年ローマ帝国は東西に分裂するわけです。ローマ・キリスト教軍団に弾き飛ばされた、ミトラ軍神を祀る旧ローマ傭兵軍は、戦争という仕事を探すために、ローマ帝国の極東サテライトであった新羅(秦羅の秦とは「ローマ」、羅は「国」の意味。漢語では、ローマ帝国は「大秦」と表示。)を目指すわけです。
朝鮮半島三国での弱小国の新羅(秦羅)が、五世紀前半に突然軍事力を増した理由は、日本の戦国時代の尾張の弱小武将の織田信長がイエズス会から傭兵軍と火縄銃を支給されたため突然軍事力を増したのと同じように、ミトラ神を祀る旧ローマ傭兵軍の新羅(秦羅)への渡来によるものだったのです。
そして、飛鳥ヤマトで高句麗、百済の軍事力により防戦一方の新羅(秦羅)の導きにより、536年チュルク系突厥軍団の武将蘇我稲目が、突然飛鳥ヤマトに現れたわけです。
五世紀に、ローマ軍団末裔の新羅花郎軍団が、日本列島に渡来していた証拠のひとつは、紀ノ川下流の五世紀頃の古墳から、馬冑が出土しているからです。その馬冑は、新羅(秦羅)慶州古墳と日本の紀州古墳からしか、現在まで出土していないのです。
朝鮮半島から日本列島への軍事部族の渡来としては、527年〜528年北九州「磐井の反乱」が考えられます。この反乱の背景には、新羅(秦羅)がギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国に変身したことと関係があるようです。
高句麗が、372年仏教国になったのは、隣国の前秦(351年〜384年)の軍事的圧力があったからです。そして、百済が、384年仏教国になったのは、北朝の前秦と対峙する南朝の東晉(317年〜420年)の軍事的圧力があったからです。
そこで、新羅(秦羅)が、ギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国に変身したのは、隣国の仏教国の高句麗の軍事的圧力が考えられます。その圧力により、キリスト教を国教としたローマ帝国から追われたミトラ軍神を祀る旧ローマ傭兵軍のように、その仏教受容を拒否することにより朝鮮半島を追われた新羅花郎軍団は、北九州に上陸し(これが磐井の反乱の実態。)、そして、新羅(秦羅)の飛鳥ヤマトのコロニーである磯城を目指すわけです。
536年騎馬民族の突厥帝国軍と新羅花郎軍団の支援により、チュルク系蘇我稲目(「蘇我」は、713年以降の命名。本名は不明。蘇我の蘇(そ)とは、「新羅国」と「牛」の意味がある。)が、飛鳥ヤマトを軍事支配していてたツングース系高句麗・百済の軍事部族(後に物部氏と命名)を倒すと、飛鳥川が流れる丘陵地の丘に要塞都市を築くのです。その軍事都市は、飛鳥川が流れる幅700m×長さ3.000mの狭い土地にあるわけです。何故そのような狭い、小山に挟まれた処に都市を築いたのかといえば、それは、中国大陸の隋・唐軍の飛鳥ヤマトへの侵攻を予測していたからです。
六世紀の中国大陸において、突厥帝国は、北魏の後を継ぐ北齊(550年〜574年)、隋(589年〜618年)、唐(618年〜907年)の軍団と戦闘を繰り返していたからです。そして、その戦争では、日本列島を軍事的に制圧・占領することは、両国にとっては死活問題であるわけです。それは、日本列島は、中国大陸の北と南を繋ぐ回廊であるからです。
蘇我稲目は、飛鳥ヤマトを軍事制圧すると、戦国時代末期関白豊臣秀吉によりエドに移封された徳川家康が、エドから小田原まで騎馬軍団が迅速に移動できるように直線の軍事道路を建設したように、ヤマトを中心に幅12mの石を敷き詰めたローマ軍式軍事道路を日本列島に張り巡らすのです。そして、交通の要所に「ミヤケ」の軍事施設を設けるのです。
ローマ帝国の軍団は、戦闘が無い時は、道路建設や都市建設にその労力を費やしていたのです。ローマ軍の軍事道路建設思想は、谷は埋め、山は切り通し、基点から目的地まで「直線」であれ、ということです。そのローマ式軍事道路思想は現在も生きていて、現在の高速道路は、飛鳥時代に建設した軍事道路上にあるのです。
騎馬民族は、物流を担う商業民族でもあるわけですから、当然飛鳥ヤマトには、商品製造のための工場も建設するわけです。それらは、金属加工工場、金メッキ工場、ローマン・グラス製造工場、そして経済の流通を促進する貨幣製造工場などです。
日本海沿岸や富山に暮す蘇我氏末裔が薬業商を営むのは、騎馬民族スキタイの影響があるようです。スキタイのトーテムは鹿です。それは、鹿の角が強壮剤(ロクジョウ)となることを知っていたからです。奈良の都に、今も鹿が多くいるのは、飛鳥ヤマトでの蘇我氏による薬業と関係があったのです。
そして、飛鳥ヤマトの蘇我王朝の食卓には、バターやチーズがあったのです。それらの乳製品は、「蘇・ソ」と言われ、その蘇の最高品を「醍醐」というわけです。今日でも使う言葉で、最高の味を「醍醐味」というのは、ここからきていたのです。
645年の政変で勝利した藤原氏により、五世紀のローマ帝国のミトラ教文化をキリスト者が徹底的に破壊したように、徹底的に破壊された騎馬民族文化とオリエント文化の飛鳥ヤマトには、九州から多くの古寺が移築され、飛鳥ヤマトの「道教の観」や「景教寺」が立ち並ぶオリエント都市は、仏教文化都市に改竄されてしまうわけです。
では、そのような大規模仏寺資材の九州から近畿までの海上輸送は、藤原氏には可能だったのでしょうか。
紀元前十四世紀アルファベットを発明したフェニキア(紀元前1500年?〜紀元前612年)が、オリエントの地中海に面した地に興るのです。フェニキアは、隣国ミタンニ王国(紀元前1700年〜紀元前1270年)の侵入により、その交易を陸上から海上に移すのです。フェニキアは、レバノン杉により大型構造船を造る技術を獲得すると、ギリシャ、ローマ、エジプトとの地中海交易に乗り出すのです。
その頃フェニキアの隣国ヘブライ(紀元前1230年?〜紀元前932年)では、ダビデの王権を不正な手段(ヤコブ)で簒奪したソロモンの時代となっていたのです。ソロモンは国際交易技術に長けていて、フェニキアの交易船を利用して、紅海のエイトラ→イエメンのアデン→インドのマラバル海岸への海路を利用して、インドの香木、猿、孔雀などを輸入して、それらを地中海都市へ輸出して、莫大なソロモンの財産を築いたのです。そのように紀元前では、エジプトの紅海からインド洋まで、ベンガラ染めのマントを羽織ったフェニキア人により大型外洋船が行き来していたのです。
紀元前932年ヘブライはソロモンの死去により、一神教のユダ国と多神教のイスラエル国に分裂するのです。ユダ国は、ソロモンの流れを汲む、バビロニアの砂漠を流離っていたレビ族末裔ですから、フェニキアによるアラブとインドとの国際交易を引き継ぐわけです。
しかし、ヒッタイト王国からエジプトに渡来したヨセフ族の流れを汲むイスラエル国は、インドとの交易を引き継ぐことができないため、国力が衰え、紀元前722年隣国のアッシリア帝国のサルゴンにより、滅ぼされてしまうのです。そのことにより、「古代エジプトの巨石建造物建設技術」と「鍛冶技術」を持つヨセフ末裔のエフラエム族を頭とする、太陽神アトン(ミトラ神がエジプトで変身)と牡牛を祀るイスラエル十部族は、オリエントの砂漠に消えてしまうのです。
一方、ユダ国は、紀元前586年バビロニア王国の侵攻による滅亡まで、アラブとインドとの海洋貿易を続けるわけです。ですから、紀元前六世紀のインド西岸のマラバル海岸には、ユダヤ人の国際交易商人が多く居留していたのです。
その約千年後の399年北魏(386年〜534年)の僧法顕は仏典を求めるため、洛陽からインドへ旅立ったのです。その行程は、洛陽からインドまでは陸路で行き、411年インドから洛陽への帰路は外洋船で、インド東南端の港ニンジェヴェラム→マラッカ海峡→中国・南海→中国・山東半島牢山→412年北魏・洛陽へ辿り、帰国後「佛國記」を著すわけです。
そのように、五世紀には、インドと中国・山東半島には国際交易海洋路が確立されていたのです。ですから、中国・山東半島には、アラブ→インド→中国への海路により、アラブ、オリエント、インドの国際交易商人や宗教関係者が多く居留していたのです。中国・山東半島が、秦の始皇帝(紀元前221年〜紀元前210年)も神仙の薬草を求めて訪れたように宗教の坩堝であったのは、そのように古代からアラブ→インドの国際港であったからです。
アラブ→インド→マラッカ海峡を抜けて黒潮に乗り、台湾沖を東に航路をとれば、西への中国・山東半島ではなく、アラブの外洋船は、日本列島の南九州の坊津へ接岸できるわけです。
古来から、南九州の坊津やその東にある種子島が、南蛮船が漂着する理由が、黒潮ベルトコンベアの影響であったのです。そのマラッカ海峡を北上すれば黒潮により外洋船が流れ着く坊津と種子島は、古来より藤原氏が、中国大陸との密貿易を行っていた国際交易港だったのです。
その坊津は、奈良時代は遣唐使船が渡来する湊であり、そして、種子島は平安時代末期に活躍した、インド・ベンガラ塗りの厳島神社で「海神」を祀るペルシャ平家の日本列島拠点のひとつであったのです。
更に、戦国時代の種子島は、南蛮船の密貿易港であり、ここから火縄銃や火薬が、藤原氏(近衛家)により紀州雑賀→根来寺→本能寺へと密輸されていたのです。多くの謎を秘めた出自不明の藤原氏による海上交易は、古代から明治維新を経て、日本国海軍まで続いていたのです。ですから、飛鳥時代に北九州で解体した多くの寺の建築資材を、瀬戸内海ルートを使い、飛鳥ヤマトまで海上輸送することなどは、エジプト・紅海からインド・マラバル海岸への海上交易に比べれば、簡単なことであったのです。
何故古代飛鳥ヤマトが仏教文化都市ではなかったとの論拠は、飛鳥ヤマトで発掘される寺跡にあります。大乗仏教は、一世紀の国際都市ガンダーラで発明された宗教です。その宗教の特徴は、多くのキリスト教の物語ソックリの仏典と仏像です。その仏像を安置する場所が仏寺というわけです。その仏像は、大乗仏教のキャラクターのブッダ(紀元前五世紀に没した釈尊とは別人。ブッダは覚醒した人の意味。)を表したものであるわけです。仏像は、紀元一世紀に発明されたものですから、紀元前五世紀に没した釈尊とは、全く関係がないものなのです。(釈尊は、民族差別をするバラモン教を否定するため、偶像崇拝を否定していた。)
飛鳥ヤマトにおけるその仏像を安置したとされる仏寺の遺跡が、発掘調査によれば、ある方向を基準に建てられていたのです。その方向は二つです。ひとつは、子午線を基準としたものです。そして、もうひとつは、東西線から約三十度ずれた線を基準に建てられていたのです。
もし、飛鳥ヤマトが、仏教文化一色であったとしたら、その地から発掘される仏寺跡の二つの異なる建築方位は、どのように説明するのでしょうか。
その二つの異なる建築基準を推測すれば、それは、真北の北極星を祀る民族と冬至・夏至の太陽を祀る民族とが、それぞれの宗教思想基準により、飛鳥ヤマトに「寺」を建設していたのではないかということです。
北極星を祀る民族と考えられるのは、ユーラシアの騎馬民族です。星・月は、遊牧の旅での方位を示してくれる騎馬民族の神であるからです。ですから、騎馬民族末裔の国旗のシンボルの多くは、星と月であるのです。飛鳥時代末期、その騎馬民族末裔の新羅(秦羅)系天武天皇は、道教の観で北極星(太一)を祀っていたのです。
冬至・夏至の太陽を祀る民族と考えられるのは、エジプトの太陽神・アトンを祀るヨセフ末裔のエフライム族、そしてミトラ神を祀るローマ軍末裔(新羅花郎軍団)です。太陽を祀る宗教は、中国大陸では「景教」と呼ばれていたのです。
太陽を祀る景教は、太陽神の再生日(聖婚日)である冬至を重要視します。そのため景教の寺は、冬至の太陽が昇る真東から約二十五度±五度北寄りの方位を神聖視するわけです。そこで、不思議なことが分かるのです。それは、実在性の乏しい聖徳太子と関係の深い法隆寺の遺構のことです。
法隆寺は、「日本書紀」によれば、607年厩戸皇子により創建されたとの記述はなく、606年斑鳩寺建立の記述があるのみです。後世のひとが、斑鳩寺を法隆寺であると言っているだけです。つまり、法隆寺建立時の史料はないため、法隆寺は謎の寺であるのです。しかし、「日本書紀」では、670年法隆寺は、炎上したことになっているのです。そして、708年頃に金堂やその他が再建されたというのです。
多くの宗教建築物は、その宗教思想により建立されるわけです。ですから、寺を再建する場合、前建築物の基本設計を変更することなくおこなうのが普通です。しかし、現法隆寺と、元法隆寺と言われる若草伽藍推定範囲内にある金堂と塔遺構の方位が異なっているのです。
現法隆寺が、真北から西に四度傾いて建てられているのに対して、若草伽藍の金堂と塔の遺構は、真東より北に約二十度軸方向が傾いて建てられていたのいたのです。このことは、北極星を祀る民族が現法隆寺を建立し、そして、太陽神を祀る民族が若草伽藍の金堂と塔を建立したと推測できます。
この謎の多い法隆寺が建立され、炎上し、そして再建された時期(606年〜708年)を解明することにより、「日本書紀」で物語るものではない、飛鳥ヤマトの歴史が再現される可能性があるようです。
日本国の誕生は、神話時代などではなく、謎の寺である法隆寺が建立され、炎上し、そして再建された時代であったのです。
日本人が、日本国が神代の時代に存在していたと信じているのは、日本国の誕生と騎馬文化・ペルシャ文化の飛鳥ヤマトの歴史を、藤原氏が645年の謀反により王権を簒奪し、そして国書を焚書して、大陸から渡来した仏教文化で前政権文化を隠蔽して、その後、720年「日本書紀」を編纂したためです。
藤原氏による前政権文化の隠蔽のための蘇我王朝の焚書やエジプト・ペルシャ遺跡破壊が完璧だったため、その飛鳥時代の日本列島は、中国大陸王国の「梁書」や「唐書」の史料でしか知ることはできないようです。
その「梁書」(梁・502年〜557年)によれば、日本列島には、北海道・渡島の扶桑国、大坂難波の大漢国、出雲熊野の文身国、そして、九州阿蘇の倭国があったということです。そして、「唐書」(唐・618年〜907年)によれば、672年誕生の日本国は、倭国(いこく)を取り込んだ国と記述しているのです。
日本列島の出来事は、中国大陸の出来事と連動していたようです。それは、日本列島は海に囲まれているため、外洋船によるアラブ→インド→中国への航路が開発されていた五世紀後半では、世界に開かれた処であったからです。
では、日本国が誕生する時代の、日本列島と大陸での出来事を調べてみることにしましょう。

528年新羅、ギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国となる。(新羅花郎軍団、日本列島に渡来。)
535年東ローマ帝国と密接であった北魏が東西に分裂。
536年チュルク系蘇我稲目、突然飛鳥ヤマトに現れ、軍事制圧する。(中央ユーラシアで騎馬民族隆盛。チュルク系騎馬民族・突厥軍東進する。)
552年中央ユーラシアにチュルク系突厥帝国興る。
568年東ローマ使者、突厥帝国庭に入る。
571年イスラームのサラセン帝国興る。(イスラーム台頭のため、東ローマと突厥との交易困難。)
589年隋興る。(突厥帝国との戦闘激化。)
600年飛鳥ヤマト王権、遣隋使の派遣。(飛鳥ヤマトの支配者は誰か。日本国の誕生は672年。天皇は、この頃存在していない。日本国天皇は、672年天武天皇が初め。)
603年蜂丘寺建立。弥勒菩薩像安置。(弥勒とはミトラで、太陽神信仰民族の神。ローマ軍末裔、新羅(秦羅)花郎軍団、山背国支配。族長は、秦河勝か?)
607年小野妹子隋に派遣。国際交易ホテルの斑鳩寺(法隆寺?)創建。(太陽神信仰民族、飛鳥ヤマト支配。)
607年蘇我氏、国ごとに軍事施設の屯倉を設置。(屯倉は、騎馬民族突厥軍団による、対唐日本列島侵攻軍への軍事防御拠点。)
608年隋使裴世清、飛鳥ヤマトで男王に謁見。(「唐書」により、女帝推古天皇と聖徳太子の実在性否定。)
626年蘇我馬子死去。蘇我蝦夷大臣となる。(「月・星信仰」のチュルク系騎馬民族、飛鳥ヤマト支配。「太陽信仰」の秦氏軍団と共存。)
630年突厥帝国、唐軍により散ず。(飛鳥ヤマトの母国・突厥帝国の滅亡。)
642年蘇我入鹿、執政。(唐軍、藤原氏の外洋交易船にて難波に渡来。)
645年蘇我氏滅亡。(唐軍支援の下、藤原氏の台頭。藤原氏、天皇紀(?)・国記を焚書。藤原氏による、仏教興隆の詔。藤原氏、飛鳥ヤマトの道教観、景教寺、エジプト・ローマ・ペルシャ遺跡を徹底的に破壊し、後に、仏寺の興福寺、神社の春日社建立。)
663年白村江の戦い。百済滅ぶ。(百済貴族、中国・山東半島、日本列島・近江に亡命。)
668年高句麗滅ぶ。(高句麗貴族、日本列島に亡命。武蔵国・高麗に移住。)
670年法隆寺全焼。(藤原氏による、国際交易ホテルの斑鳩寺の破壊。)
672年壬申の乱。(近江・百済亡命王朝へのチュルク系突厥・蘇我氏軍の反乱。新羅系天武天皇誕生。日本国誕生。飛鳥浄御原宮に遷都。)
674年唐軍、新羅を討つ。(唐・新羅連合軍の離反。)
676年統一新羅建国。
682年突厥帝国の復興。
686年天武天皇死去。(藤原不比等の復活。百済系女帝持統天皇により藤原京に遷都。)
708年法隆寺再建。(北九州・豊国より移築。)
713年風土記撰上の詔。(好字令の漢字二語の「日本語化」により、エジプト・オリエント文字を隠蔽。)
720年「日本書紀」完成。藤原不比等死去。

以上のような歴史の流れから分かるように、645年以降の藤原氏により、オリエント巨石文化の飛鳥ヤマトの蘇我王朝の歴史が抹殺され、そして、日本列島古代史が、藤原不比等により、ギリシャ似神話やオリエント史や百済史を素材として「日本書紀」を創作し、中国歴史物語を真似た万世一系天皇物語により、神武天皇から女帝推古天皇までを、藤原日本古代史に改竄されてしまったのです。
ですから、「日本書紀」を史料として、古代飛鳥ヤマトの歴史を解明しようと努力しても、藤原不比等のトリックに引っかかり、四世紀に天皇が支配する大和朝廷が存在し、六世紀に百済から仏教が伝来し、飛鳥ヤマトは「仏教文化都市」であった、と信じてしまうわけです。
しかし、「日本書紀」を斜めから読んでみると、思わぬ発見をすることもあるのです。それは、588年着工されたと言われる法興寺(飛鳥寺)の「日本書紀」の記述です。
「日本書紀」は、平安初期に百済系桓武天皇により改竄されてしまっているので、百済関係の記述は信用できませんが、法興寺が建造される時、百済の王から、経論と伴に、律師、寺大工、瓦職人、仏師などの建築士が飛鳥ヤマトに送られてきた、との記述があるのです。その法興寺を建立した建築士の名前(?)を「日本書紀」に記述しているのです。
それらは、寺工太良未、文賈古子、将徳白昧淳、麻奈文奴、陽貴文、昔麻帝弥、白加などです。これらの名前と思われるものは、実はペルシャ人の名前ではなかったのです。それらは、中世ペルシャ語で解読すると、太良未は寺工、文賈古子はテント型御堂、将徳白昧淳は露盤受け、麻奈文奴は屋根葺、陽貴文は丸瓦、昔麻帝弥は鬼瓦、白加は彫刻などの職業名の発音を、中世ペルシャ語から「漢語化」したものであったのです。つまり、これらのペルシャ建築士達により、588年に法興寺が建立された、と「日本書紀」は述べているのです。
古代では、ペルシャとは、インド以西の国のことです。それらの国々は、木々が生い茂る湿潤な地域などではなく、木々の育成が困難な乾燥地帯で、建物は石材や日干しレンガで建設されていたのです。そのような環境に育ったペルシャ建築士が日本列島に渡来して、飛鳥ヤマトで木造の法興寺(飛鳥寺)を建設できるものなのでしょうか。
この「日本書紀」の記述により、何故607年に建立されたと伝わる「法隆寺」(斑鳩寺は606年創建)の創建記録を、「日本書紀」で記述しないのかを推測できます。それは、元法隆寺は、ペルシャ建築士により、「石材やレンガ」を多用して建てられたものと推測されるからです。
ですから、元法隆寺の遺構が、太陽信仰民族・ペルシャ建築士(秦氏・エフライム族)により建立されたため、冬至の神聖ラインの建築基準に合うわけです。つまり、645年を境にして、飛鳥ヤマトの文化は、前のオリエント巨石文化と後の仏教文化とで異なっていたのです。
前政権のオリエント巨石文化を、そのように完全に抹殺できるものかと疑問を持っているひとは、四世紀のローマ帝国でのミトラ教文化をキリスト教が歴史上抹殺した事実を知れば、納得できるでしょう。
645年突然飛鳥ヤマトに現れた藤原氏が、エジプト〜中国への南海交易ルートの西端である紅海のエイトラからの、ソロモンの海洋貿易民族末裔であるのなら、四世紀のローマ帝国でのミトラ教文化抹殺手段を知っていた可能性があります。
古代飛鳥ヤマトには、「日本書紀」に記述されているように、ペルシャ(ギリシャ・ローマ・エジプトも含む)の建築関係技術者が多く渡来していたのです。その根拠として、飛鳥ヤマトの遺跡物の多くは、その計測はエジプトの計測単位のキュビト(約42cm)で割り切れるからです。
四世紀のローマ帝国のミトラ教の地下神殿は、キリスト教徒により徹底的に破壊され、その跡にキリスト教会を建設したため、物理的にミトラ教神殿は跡形も無く抹殺されてしまったのです。キリスト教関連の映画で、教会の床の石を何らかの方法でずらすと、地下神殿への階段が現れた、というシーンを見たことがあると思います。その地下神殿とは、ミトラ教の神殿なのです。
では、飛鳥ヤマトでのミトラ教神殿(道教の観・景教寺)を隠蔽したのは、どのような仏寺なのでしょうか。考えられるのは、聖徳太子建立七寺と言われる、法隆寺、四天王寺、中宮時、橘寺、広隆寺、池後寺、葛木寺(葛城尼寺)です。これらは、飛鳥ヤマトの神殿を隠蔽した、飛鳥ヤマトでのキリスト教会と考えられます。これらの寺の地下、或いは近隣の地下に、元法隆寺の冬至神聖ラインに基づく遺構のように、前政権の「道教の観・景教寺・オリエント寺」の遺構の存在が推測されます。
では、古代飛鳥ヤマトの巨石建築物を破壊して、木造巨大建造物を建設した建築士は、何処から渡来してきたのでしょうか。
古代飛鳥ヤマトへの異国からの渡来ルートは、三つあります。
ひとつは、ギリシャ・ローマ文化をもたらした騎馬民族渡来のユーラシア草原ロードです。
二つめは、ペルシャ文化をもたらしたアラム語を話すソグド人が渡来した、中央アジアの砂漠地帯を貫くシルクロードです。
そして、三つめは、アラブ・インド文化をアラブ→インド→中国の海路でもたらしたフェニキアの海洋交易商人の南海ロードです。
この南海ロードの中継国のインド南端は、気候が湿潤なため木造建築が盛んであったのです。そして、そのインドの輸出品のひとつである香木は、仏教儀式の必需品でもあったのです。
大乗仏教は、紀元一世紀北インドの国際交易都市ガンダーラで発明されたものですが、そのキャラクターであるブッダは、インド南方への布教過程でヒンズー教の太陽神ビシュヌ神として取り込まれていたのです。そして、インドで発明された「観音思想」は、国際海洋商人と伴に、東洋に渡来し、大乗仏教に取り込まれ「観音様」となるわけです。シルクロードから渡来した大乗仏教と、南海ルートから渡来した大乗仏教との「仏様」は、異なっていたのです。
ですから、シルクロードから前秦に渡来し、372年高句麗に伝播した大乗仏教と、南海ルートから東晉に渡来し、384年百済に伝播した大乗仏教とは、「仏様」が異なっていたのです。弥勒菩薩は、太陽神ミトラが大乗仏教に取り込まれた「仏」です。その弥勒菩薩は、シルクロードから高句麗に伝播したものです。その弥勒菩薩が、何故、飛鳥時代に、百済からもたらされ、聖徳太子が、弥勒菩薩を安置するために、秦河勝に広隆寺を創建させた、と仏教史は言うのでしょうか。飛鳥ヤマトの仏教伝来物語には、「ウソ」が多すぎます。
古代飛鳥ヤマトが、オリエント巨石文化に支配された後、インド文化が渡来したことを示唆する動物がいます。それは、牛です。
古代飛鳥ヤマトでは、牛は神への犠牲とされていたのです。太陽神ミトラを祀る民族は、その宗教儀式で牡牛を屠っていたのです。牡牛は太陽神の化身のため、牡牛を屠ることにより、願をかけるのです。旱魃での雨乞いの儀式では、太陽神に牡牛を捧げていたのです。そして飛鳥ヤマトでは、牛肉は食用となり、乳はバター・チーズ(醍醐)として加工されていたのです。これらの宗教儀式の文化をもたらしたのは、ユーラシアの草原ロードからの騎馬遊牧民族とオリエントの民です。
しかし、686年騎馬民族系天武天皇が崩御し、藤原氏の政治力が増した、741年牛馬屠殺の禁止令が出たのです。これは、牛に対する思想の変化を示唆します。
それは、インドの思想では、牛は、家畜として飼うことも、屠殺して肉食することもできない聖獣であるのです。藤原氏が、飛鳥ヤマトでの牛の扱いを、百八十度変えたということは、藤原氏が騎馬遊牧民族と異なる思想を持っていたことを示唆します。では、藤原氏は、どのような思想をもっていたのでしょうか。
藤原氏の思想を推測するヒントのひとつは、日本神道です。神道は、二世紀の中国で、道教思想から派生したものであるようです。
日本神道は、日本列島の古来の宗教思想と思われているようですが、それは違います。日本列島は、古来からアニミズムの精霊が宿る処であったのです。善も悪もなく、浄も不浄もなく、貴も賎もなく、全てのものに精霊が宿っていたのが、日本列島であったのです。
しかし、巨大古墳が築造されなくなる時代に、二元論を持つ思想が渡来するわけです。その思想では、善と悪、浄と不浄、貴と賎とを分けるのです。そして、悪、不浄、賎を祓うことにより、気が満ちるとするのです。つまり、古墳時代後半=飛鳥ヤマト時代後半に、「穢れ払いの儀式」が日本列島で始るのです。そして、神が宿る建物を建設するのです。その建築物は、古墳の上やその近隣に建立されるのです。それが、神社の始まりのようです。ですから、神社の始まりは、古墳築造後の、四世紀を遡ることはないでしょう。
神社とは、いつ、どこで、だれが発明したものかを示す史料は未だお目にかかったことがありません。何故、神社の歴史が伝わらないのかは、それは、神社の歴史解明が、藤原氏の渡来歴史の謎を解明してしまうからかもしれません。その根拠は、日本神道の始めは、藤原氏の祖である中臣氏に繋がるからです。中臣氏は、日本列島で、始めて中臣神道を発明した氏族であるからです。
飛鳥ヤマト時代は、古墳時代とオーバーラップします。その飛鳥ヤマト時代の中ほどの、645年に藤原氏は、日本列島に突然出現するわけです。そして、藤原不比等は、686年新羅系天武天皇が崩御し、百済系女帝持統天皇が政権を握ると、文武天皇、元明天皇、元正天皇を傀儡として朝廷を支配するのです。
そして、710年山階寺を奈良に移し、その寺を「興福寺」とするのです。そして、天武天皇系最後の女帝称徳天皇が、怪僧道鏡に毒を盛られて崩御する二年前の768年に、神を祀る「春日神社」を建立するのです。つまり、道教を祀る天武天皇系勢力が健全の時代には、さすがの藤原氏でも、仏寺も神社も建立できなかったのです。
では、その藤原氏の祖の中臣氏が発明した中臣神道の「穢れ祓い」では、どのような罪を祓っていたのでしょうか。
祝詞は十世紀初めに編纂されて今日に伝えられているようですが、その初めは、藤原不比等嫌いの新羅系天武天皇の崩御直後であったようです。それは、天武天皇は、道教の神・北極星(太一)を祀っていたからです。飛鳥ヤマトは、蘇我王朝、天武王朝の時代は、オリエントの景教や中国の道教文化が盛んで、仏教文化は隆盛ではなかったのです。
天武天皇崩御後、隆盛になった仏教と伴に、中臣神道が発明されるわけです。その中臣神道の穢れ祓いの趣旨は、国内に起こった災難や不幸や疫病などは、人民どもが犯した罪悪の所業が原因であるので、それらを拭い取れば平穏安息が得られる、としているのです。
その祓うべき罪は、「天つ罪」と「国つ罪」との二つに分けられるのです。天つ罪は八つあり、畔放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、生剥、逆剥、屎戸です。国つ罪は十三あり、生膚断、死膚断、白人(シロト)、胡久美(コクミ)、おのが母犯す罪、おのが子を犯す罪、母と子を犯す罪、子と母を犯す罪、畜犯せる罪、昆ふ虫の災、高つ神の罪、畜仆し、蠱物する罪です。
藤原氏の祖は、その「天つ罪」と「国つ罪」との二元論的穢れ祓いから推測すると、日本列島古来の全ての「モノ」に「カムイ」が宿るという精霊思想とは、異なる思想を持った民族であったようです。そのような二元論に基づく思想の宗教として考えられるのは、「光と闇」が闘うゾロアスター教と、「天使と悪魔」が闘うキリスト教が考えられます。
キリスト教は、ユダヤ教ヨシュア(イエス)派の別名です。キリスト教もユダヤ教も、唯一神「ヤハウェ」を祀ります。そのユダヤの神ヤハウェを祀るキリスト教は、インドのマラバル海岸では、二世紀には、国際交易商人に経済的支援をされた宣教師による布教がおこなわれていたのです。
そして、五世紀のそのマラバル海岸は、アラブと中国との国際海洋交易の中継点であったのです。この国際交易船と伴に、インドのヒンズー教の神々が七福神となって、日本列島に渡来するわけです。ヒンズー教の水神クビーラなどは、四国に渡来して「金毘羅様」に変身するわけです。つまり、インドと日本列島は、国際海洋交易により、古来より交通があったのです。
そのような国際海洋交易の環境において、藤原氏の先祖を、インドのマラバル海岸からのユダヤ・キリスト教徒末裔と仮定して眺めてみると、藤原氏による飛鳥ヤマト仏教伝来物語のトリックの仕掛けが見えてくるのです。
そのひとつが、厩戸皇子の創作です。しかし、この厩戸皇子は、平安時代に百済系桓武天皇が、「日本書紀」での仏教伝来物語を、552年から538年に改竄する時に「厩戸皇子」を、「聖徳太子」に変身させてしまい、更に「上宮聖徳法王帝説」や「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳」などの聖徳太子存在偽装作品を創作したため、後世のひとたちは、聖徳太子は実在していた、と信じてしまうわけです。
そして、「旧約聖書」で、紀元前586年のバビロン幽因後、カナンの地を占拠した異民族を追い出すために創作したモーセ物語(唯一神ヤハウェの神によりカナンはイスラエル・ユダヤ民に与えられたという物語。)のように、平安時代に唐軍の軍事支援により平安京を占拠した亡命百済貴族は、「日本書紀」に、「538年に百済聖王が、仏教を日本国に伝来させた。」、という物語を挿入してしまうわけです。
ですから、古代飛鳥ヤマトの物語から、聖徳太子の事跡を消すことにより、その史実が現れてくるわけです。では、聖徳太子建立七寺の地下に眠る遺構から、どのような歴史が飛び出してくるのでしょうか。
日本列島に仏教を隆盛させたと伝わる聖徳太子のキリスト教色は、古くから指摘されています。しかし、その聖徳太子の伝記には、馬屋で誕生したキリスト教色のみではなく、敵将ゴリアテを倒す少年ダビデ(廃仏派物部氏対崇仏派蘇我氏との戦いで活躍する少年聖徳太子)、そして、十戒の立法を創作したモーセ(十七条の憲法と官位十二階を制定した聖徳太子)のようにユダヤ教色も強くあるのです。そのユダヤ・キリスト教色の強い聖徳太子が、飛鳥ヤマトの歴史で関わった人物には、蘇我馬子と秦河勝とがいます。
聖徳太子と蘇我馬子との関係は、神仏戦争と宣伝される物部守屋との戦争で、少年聖徳太子は蘇我軍を支援するわけです。そして、推古天皇の摂政となった聖徳太子は、蘇我馬子と天皇記と国紀を編纂するのです。しかし、この天皇紀と国紀とは、日本国史では、645年に蘇我蝦夷により消失したことになっているのです。
そして、聖徳太子と秦河勝との関係は、物部氏との神仏戦争で勝利したことにより、仏教が飛鳥ヤマトに導入され、その仏像を安置するための仏寺の広隆寺を、秦河勝が建立するわけです。しかし、秦河勝が支配する山背国(後の京都)にあったと伝わる広隆寺の元は、蜂丘寺と言われ、その寺は現広隆寺の近隣に建てられていたペルシャ寺(景教寺)であったのです。
秦河勝が仏教徒ではないことは、1402年に刊行された世阿弥の「風姿花伝」により証明されます。河原者である世阿弥は、「風姿花伝」で、能楽の祖は秦河勝と述べているからです。その世阿弥は、第二百済王朝の鎌倉時代から、大乗仏教徒に「穢多=日本版サマリヤ人」とイジメられた秦氏の末裔であったのです。
怨霊を歌謡と舞とで鎮魂する能楽の源は、申楽(シン楽→秦楽)です。(簒奪平安王権により猿楽と貶められた。)その能楽の元の申楽は、飛鳥時代では、景教の祭祀でのミトラ神を祀るための歌舞であったのです。つまり、能楽の祖・秦河勝は、景教の祭祀者であったのです。そのミトラ神祭祀者の秦河勝が、敵宗教の仏寺など建立するはずはないのです。
ここで、藤原氏による飛鳥ヤマト物語での厩戸皇子(後の聖徳太子)の役割が分かるのです。それは、チュルク系蘇我氏の星・月を祀る宗教と太陽を祀る秦氏の宗教を、抹香臭い仏教色に換えることです。
では、仏教文化都市飛鳥ヤマトの歴史は、実際はどのように「想像」されるのでしょうか。
日本列島は、島国のため、外国の影響力が少ないと信じているひとが多くいるようですが、それは違います。日本列島は、四面を海流に洗われているのです。ですから、海流の知識と貿易風の知識があれば、帆船であれば遠くアラブからでも渡来は可能なのです。
六世紀の東アジアの世界情勢は、東ローマ帝国と中国・北魏とのシルクロード交易の権益を廻って、その中継国での紛争が絶えなかったのです。
五世紀後半に、中央ユーラシアに興ったチュルク系騎馬民族突厥は、ユーラシア草原ロードを支配して、東進するのです。その東進により、東ユーラシアを支配するツングース系遊牧民族国の柔然が、南下を開始するのです。やがて、南下する柔然は、突厥と北魏に破れ、552年消滅するのです。
その柔然の消滅の過程で、北魏も西魏と東魏に分裂し、更に、西魏は北周に、東魏は北齋になり、やがて、589年隋が、それらの国と南朝の宋を支配し、中国を統一するのです。
その動乱の時代の、552年突厥は、中央・東ユーラシアを支配し、突厥帝国を興すのです。そして、チュルク系突厥帝国は、シルクロードを支配するツングース系騎馬遊牧民族国家・隋と、東ローマとの交易を廻って抗争を起こすのです。
この突厥帝国と隋との国際交易戦争時代が、日本列島の飛鳥ヤマト時代なのです。飛鳥ヤマトは、「日本書紀」で物語るような女帝推古天皇と摂政聖徳太子とが統治する地ではなかったのです。
六世紀から七世紀の日本列島は、チュルク系騎馬民族突厥とツングース系遊牧民族隋との代理戦争の地であったのです。日本列島の飛鳥ヤマト時代とは、騎馬民族と遊牧民族との異民族闘争の時代だったのです。
中央ユーラシアを席巻した突厥は、534年宿敵北魏が滅亡すると、敦賀・能登・佐渡の渡海ルートを使い、日本列島の飛鳥ヤマトに騎馬軍団を派遣するわけです。それが、536年蘇我稲目が、突然飛鳥ヤマトに現れた背景です。(飛鳥時代に、ローマ軍式幅広直線道路が飛鳥から新潟まで敷設されていたのは、朝鮮半島はツングース系民族に支配されていたからです。)
飛鳥ヤマトは、縄文時代から朱砂の国際交易地であったのです。しかし、飛鳥ヤマトは、日本列島の中心に位置しているため、この地を支配することにより、日本列島全土を支配下に置くことが出来るのです。
蘇我稲目が出現する前の飛鳥ヤマトは、北方仏教国・高句麗、南方仏教国・百済、ギリシャ・ローマ文化保持国・新羅が、飛鳥の三輪山麓のツバキ市の交易権をめぐって三つ巴の戦いをしていたのです。その三国は、朝鮮半島でも、三つ巴の戦いをしていたのです。
その三輪山麓の紛争地に進駐してきた蘇我軍は、新羅派遣軍(花郎軍団・ミトラ神軍団)と共闘し、高句麗・百済派遣軍を制圧し、飛鳥ヤマトを軍事支配をするのです。チュルク系蘇我軍と花郎軍団(ローマ軍団末裔)との共闘は、568年東ローマ帝国(四世紀末までのローマ帝国軍の軍神はミトラ神だった。)の返使ゼマルクスが、突厥帝国に訪れたように、突厥帝国と東ローマ帝国とは、交流があったからです。つまり、新羅(秦羅)は、慶州の石積木郭墳の埋蔵品がギリシャ・ローマ文化を示すように、馬冑・馬鎧で武装した勇者は金のネックレス・ブレスレット・指輪で飾る、高句麗や百済と異なる、ミトラ神を祀る騎馬民族国家であったのです。
そして、飛鳥ヤマトを軍事支配した蘇我稲目は、交通の要所に防衛基地を構築するのです。それが、「日本書紀」で言う処の天皇領の「屯倉」です。蘇我稲目は、九州から侵攻する北魏残党軍を阻止するために、主に瀬戸内海沿岸から難波にかけてミヤケを構築したわけです。
これらのオリエントから渡来の民族が、飛鳥ヤマトを支配したことにより、岩手県以南全国に、海岸地帯から内陸部に向かって類似形巨大古墳が出現したことを説明できるのです。それは、それらの類似系巨大古墳を全国一律に設造するには、古代エジプトの土木建築技術と古代オリエントの日干しレンガ製造技術なくしてはできないからです。
更に、飛鳥ヤマトを基点として、幅十二mの谷は埋め峠は切り通す直線道路を敷設するには、ローマ軍の土木建築技術が必要であったのです。そして、飛鳥ヤマトの巨石建築物、アナートの地下水道、噴水のある池公園、大運河などは、古代エジプトとオリエントとの土木建築技術の融合なくしてはできないものです。
そして、チュルク民族の石人は、騎馬民族支配の関東以北の野原や街道に設置されるのです。しかし、そのチュルク石人は、第二百済王朝の鎌倉時代には道祖神となり、細工をされたものは地蔵として変身してしまうのです。
これらのオリエント渡来の遺跡が、飛鳥ヤマトから、現在も発掘されているのです。しかし、「日本書紀」では、オリエント巨石文化の遺跡を無視して、飛鳥ヤマトは仏教文化都市であるのです。誰が、「ウソ」をついているのでしょうか。
藤原氏の騎馬民族文化抹殺意図は、720年完成の「日本書紀」の遣唐使と唐皇帝との会話記述に現れています。遣唐使に同伴した蝦夷に皇帝は尋ねます。
皇帝「蝦夷の国はどこか。」
蝦夷「東北です。」
皇帝「民族は何種か。」
蝦夷「三種です。遠くが都加留(つがる)、次が荒蝦夷(あらえみし)、そして熟蝦夷(にぎえみし)です。熟蝦夷は年ごとに朝貢しています。」
皇帝「その国には五穀はあるのか。」
蝦夷「ありません。動物の肉を喰います。」
皇帝「国に家はあるのか。」
蝦夷「ありません。深山の樹の下に住みます。」
「日本書紀」に、このような会話を記述して、ダメ押しに「皇帝は蝦夷の顔かたちが異様なのに驚いている。」として、蝦夷を野蛮人扱いしているのです。
しかし、中国の「新唐書」では、「日本の使者が蝦夷人とともに入朝した。蝦夷も日本人と同じく海の彼方の島に住んでいる。蝦夷の使者の鬚の長さは四尺ほどもあった。箭を首にはさむ。人の頭の上に瓢を載せ、数十歩離れて立たせて瓢を射ったが当たらないことはなかった。」、と「遣唐使と蝦夷を同格」に扱い、更に、皇帝は蝦夷の射術に感心を示しているのです。
この蝦夷に対する、「日本書紀」と「新唐書」との記述の落差は何を意味しているのでしょうか。この「日本書紀」の蝦夷世界の記述により、後世のひとは、陸奥の蝦夷の国は、無文化の肉食の野蛮国と信じてしまうのです。
藤原不比等が、686年新羅系天武天皇崩御後、百済系女帝持統天皇朝に返り咲いた時代は、進駐唐軍により飛鳥ヤマトは支配され、飛鳥ヤマトのオリエント巨石文化は徹底的に破壊され、地中に埋められ跡形も無くなってしまったのです。
そして、694年飛鳥京から藤原京に遷都された後に、その更地の飛鳥ヤマトに北九州から多くの仏寺が移築されてくるわけです。後から移築された仏寺は、オリエントの太陽信仰民族の建設基準を知らないため、現法隆寺の地下に眠る若草伽藍の金堂と塔のように東西線二十五度±五度の冬至夏至の神聖ラインではなく、唐国建築物基準の南北線を基に建立されているのです。ここからも、オリエント文化の遺跡の上に、中国製仏教寺院が移築されたことが証明できます。そして、670年法隆寺は全焼したことに、「日本書紀」ではなっているのです。
つまり、オリエント文化の蘇我氏ゆかりの地には、聖徳太子建立七寺が鎮座することにより、地上のオリエント蘇我王朝の遺跡は、歴史上抹殺されてしまったのです。しかし、現在も飛鳥ヤマトの地からオリエント巨石文化遺跡が発掘され続けているのです。
唐進駐軍と藤原氏に敗れた、飛鳥ヤマトを支配していたチュルク系蘇我氏やオリエント渡来の秦氏末裔は、陸奥を目指し落ち延びていくわけです。近畿に留まる者は、深山に隠れ住み、進駐唐軍の動向を探り、反撃の時を待つのです。やがて彼らは、仏教の敵、「鬼」、「天狗」、「河童」として貶められていくのです。
では、百年も続いたオリエント文化の蘇我王朝は、何故に、唐・藤原氏に敗れてしまったのでしょうか。それは、東アジアの情勢の影響が、日本列島にあったからです。
六世紀半ば、中央・東ユーラシアを支配したチュルク系突厥帝国は、630年唐軍により、その地を追われ突厥帝国は瓦解してしまったのです。その15年後、突厥帝国の日本支社の蘇我王朝も、645年唐・藤原氏により滅んでしまうのです。
しかし、672年百済亡命政権の近江王朝を、騎馬民族系新羅の皇子(後の天武天皇)を頭に、蘇我氏残党軍とアラブの商人軍団(後のペルシャ平家・織田信長の祖)が共闘し倒し、チュルク系騎馬民族軍に支援された天武王朝が誕生するわけです。
そして、騎馬民族の王の尊称「テングリ・天子」から、「天皇」が発明され、672年天武は、日本国初の天皇となるのです。(平安王朝を支配した百済系桓武天皇家が、京都の泉湧寺の天皇位牌から、天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇の位牌すべてを排除していることは、天皇家が、新羅系と百済系とに分かれているからです。)
そのチュルク系蘇我氏軍団支援により、672年天武王朝が、元蘇我王朝の飛鳥ヤマトの地に誕生すると、682年東ユーラシアに東突厥帝国が復活するのです。ここから再び、南の唐と北の突厥との闘争が始るのです。
唐軍は、国際海洋貿易商人の藤原氏と組むことにより、戦国時代に大坂の地を侵略するイエズス会のように、飛鳥ヤマトの国際交易地の略奪戦略を練るわけです。
藤原氏の祖は、中臣です。中臣とは、「中」の僕(しもべ)、或いは家来という意味です。では、「中」とは何でしょうか。それは、インドでは、サンスクリット語でナーガは「ヘビ」のことです。
日本列島で、始めて日本神道を発明したのは、中臣氏です。その神を祀る神社では、「ヘビ」は神の使いとして崇拝されていたのです。(ユダヤ・キリスト教のモーセ物語では、モーセの杖はヘビに変身するのです。)
神社は、神を祀る処と信じられていますが、飛鳥・奈良時代では、神社は先住民の氏神を封じ込めるための建物だったのです。ですから、鳥居をその参道の入り口に建て、神社境内を結界と示したのです。そして、その鳥居に、しめ縄(ヘビ)を蒔きつけることにより、先住の氏神を封じ込めたのです。つまり、藤原氏(鳥居のヘビ)により、先住の氏神が、娑婆に出られないようにした装置が神社の始まりだったのです。
ヘビは、一般人には嫌われていますが、キリスト教のグノーシス主義者は、誕生と死を繰り返すウロボロス(尾をくわえるヘビ)にキリスト復活を見出し、ヘビをイエス・キリストの象徴として崇拝していたのです。
インドでの、数字のゼロが発明されたのは、この自分自身を食べて無(ゼロ・0)になるウロボロスからと言われています。そのインドのマラバル海岸のユダヤ・キリスト教のコロニーから、ヘビを崇拝する「中臣氏」は、外洋船により、南九州坊津に渡来してきたのです。
では、秦氏はどこから渡来したのでしょうか。814年完成の「新撰姓氏録」によれば、弓月国であるとしています。しかし、秦氏の持つ技術を考慮すると、もっと西にその起源があるようです。
秦氏の渡来は、何度かに分かれていたようです。歴史上では、紀元前三世紀の秦氏末裔徐福の渡来です。徐福は、秦の始皇帝を騙して、軍団、技術者、そして童男女三千名の群団で、中国山東半島から東に船出したのです。その後は、「新撰姓氏録」まで歴史上の記述はないのです。
そこで、秦氏末裔の穢多頭の弾左衛門の、江戸幕府に提出した趣意書をヒントに、秦氏の出自を推測してみることにしましょう。

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏

                  弾左衛門頼兼へ
頼朝御判

この趣意書によれば、弾左衛門の配下に、石切、鋳物師がいます。現在と異なり、古来の技術情報は、門外不出であり、その技術の奥義はごく限られた身内・縁者のみに伝承されたものです。ですから、石切や鋳物の技術伝承は、鎌倉時代以前のものと考えられます。狩猟採取の日本列島にその石切技術が渡来するのは、巨大古墳築造時代の四世紀からと推測されます。
石切を可能にするための鋼鉄工具製作技術の発祥の歴史は、紀元前十五世紀のヒッタイト帝国からです。鋼鉄工具がなければ、石切はできないのです。ですから、石切の技術と鋼鉄鋳物技術とは、共存するのです。
では、その石切の技術が発揮された時代を歴史に求めると、紀元前1377〜紀元前1358年までのエジプトを支配したアメンホテプ四世が考えられます。それは、アメンホテプ四世は、神々を勝手に発明する多神教のエジプト神官の支配を抹殺するため、唯一神の太陽神アトン(オリエンとから導入したミトラ神を変身させた神。)を祀る新都アケトアテンの造営のため、海外から優秀な都市建設技術者を求めていたからです。エジプトでの建設素材は、木造素材ではないので、外国人の建設技術者でも、石切の技術があれば優遇されたわけです。
そこに現れたのが、ヒッタイト帝国からの鋼鉄工具を持つヨセフ族です。
ヨセフ族は、「旧約聖書」によれば、ヤコブの息子で、邪悪な兄達により交易商人に売られ、エジプトに来たことになっているようです。しかし、「モーセ五書」にある、このヤコブ物語は、紀元前932年ヘブライのソロモン王が没して、ユダ国とイスラエル国に分裂した時、イスラエルの民が、ソロモン王を、不正な手段で王権を奪った者(ヤコブ)と言ったことを隠蔽するために創作された物語であったのです。(ヤコブをヨセフの父とする物語を創作することで、本来の意味を摩り替えて、不正な簒奪者=ヤコブの言葉を封印したのです。)
しかし、実際のヨセフ族は、独裁者アメンホテプ四世の寵愛を受け、エジプトの建設指導者となっていたのです。しかし、「旧約聖書」によれば、ヨセフ族は奴隷となり、日干し煉瓦を作り、そして、鞭打たれ巨石運搬の重労働に従事したことになっているのです。しかし、実際は、遺跡に残るヒエログリフの文章によれば、新都アケトアテンの建設従事者には給料と食料とが与えられていたのです。そして、その頃のエジプトでは、建築資材は、日干し煉瓦ではなく、石材を使用していたのです。日干し煉瓦は、バビロニアでの建築材だったのです。この記述からも、「モーセ五書」が、紀元前586年バビロン幽囚時代以降の創作だったことが推測されます。
「旧約聖書」の「出エジプト記」によれば、ヨセフ族の末裔エフライム族は、エジプトでの奴隷労働に疲れていたのを、紀元前1230年モーセにより、エジプトを脱出したことになっているのです。その出エジプト後に、あの有名な十戒を、唯一神ヤハウェにより授かったことになっているのです。しかし、「出エジプト記」を含む、「モーセ五書」の創作時期は、その約七百年後の紀元前586年バビロン幽囚時代以降であるのです。
ですから、紀元前722年アッシリアのサルゴン王に滅ぼされた、イスラエル民族十部族は、「ヤコブ物語」も「出エジプト記」も知らなかったのです。
では、今日読まれている「旧約聖書」はいつできたのでしょうか。
紀元一世紀、シリアが支配していたパレスチナは、ローマ帝国軍に支配されていたのです。その地に、ユダヤ教ヨシュア派(キリスト教)が勢力を伸ばし、ローマ帝国軍に挑むわけです。しかし、紀元70年エルサレムがローマ帝国軍に落ちると、革命の希望を失ったキリスト教徒が、希望を失ったユダヤ民に対して、ユダヤ経典から好き勝手に言葉をひきだして、キリスト教(ユダヤ教ヨシュア派)だけに都合のよい説明をおこなったのです。そして、42冊の合本を創るのです。これが、後にカトリックの「旧約聖書」となるのです。それまでのユダヤ教では、それぞれが独立した数多くの経典であったのです。そこで、ユダヤ教祭祀者は、勝手な説教をするキリスト教(ユダヤ教ヨシュア派)の「旧約聖書」に対抗するため、正典(カノン)を創る必要がおこったのです。つまり、紀元98年までは、ユダヤ教経典には、外典や偽書なとの差別は存在していなかったのです。
そのように、キリスト教「旧約聖書」は42冊で、ユダヤ教「旧約聖書」は24冊に収まったのですが、元は、それぞれの部派の経典からの合本(ビブリア)だったのです。このビブリア(合本)が、いつしかバイブル(聖書)と呼ばれて今日に至るわけです。
が、しかし、発生時は、反ローマ帝国のユダヤ教ヨシュア派(キリスト教)は、どういうわけか、392年ローマ帝国の国教となるのです。そして、ローマ・キリスト教は、国際交易商人と伴に、全世界に布教という侵略をおこなっていくのです。
そのような不思議な履歴を持つ「旧約聖書」に、イスラエル民族の記述はあっても、エジプトの巨大石造物建設技術、堀掘削技術、鋼鉄工具製作技術を持ち、「太陽神」と「牡牛」を祀るイスラエル民族十部族は、「旧約聖書」が完成するずっと以前、紀元前722年には、オリエントの砂漠に消えてしまっていたのです。
「ウソ」には、「良いウソ」と「悪いウソ」とがあります。「良いウソ」とは、ウソをつくひとも、つかれるひとも、ともに「良い思い」をします。しかし、「悪いウソ」は、ウソをつくひとだけが利益を得、つかれるひとは「悪い思い」をします。
「聖書」と「日本書紀」には、ウソが満ち溢れています。そのウソも、「良いウソ」よりも、「悪いウソ」のほうが多いのです。その「悪いウソ」で被害にあっているのは、「聖書」では、イスラエル民族です。そして、「日本書紀」では、新羅(秦羅)人です。
では、ウソツキは誰かと言うと、「聖書」では、レビ族のアロンの末裔です。「日本書紀」では、藤原氏です。そして、アロン末裔により、イスラエル民族は不可触民・サマリヤ人と蔑まれ、そして、藤原氏により、新羅(秦羅)人は、不可触民・穢多と蔑まれていくのです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/843.html

コメント [政治・選挙・NHK179] イスラム国混乱のどさくさの中で、TPPが成立するのか(ひょう吉の疑問) 赤かぶ
02. 安倍ヤラナイカ 2015年1月31日 19:31:12 : EuG0FRbnMbsR6 : ZzwMOgOglc
もちろん、イスラム国さんやヨルダンさんも打ち合わせの上で、内々にアメリカ様がバレない様に進めておりましたが!バレました?
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/134.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK179] イスラム国混乱のどさくさの中で、TPPが成立するのか(ひょう吉の疑問) 赤かぶ
03. 2015年1月31日 19:31:18 : juy904asF2
畜産物の関税を10%以下に設定して交渉というニュースは以前にもあった。こういうニュースを聞けば投資家は喜ぶはず。株価操縦が目的かそれとも本気なのか。過去の事例では前者だったが。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/134.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK178] 「雉も鳴かずば撃たれまい」安倍晋三首相は、イスラム国の敵であるとアピールする必要はなかった(板垣 英憲) 笑坊
11. 2015年1月31日 19:32:28 : FfzzRIbxkp
イスラエルに日本は協力の要請を断られているとのこと。
日本はイスラエルに何の協力をしようとして断られたのでしょうか。

あのイスラエルに断られたのですよ。

孤立していれば藁をもつかみたいでしょうに、藁にもなれなかった日本。
おまけにマッケインにさらなる要求もつきつけられた。人質事件もしかりか。

試験勉強ができなかった学生が、学校に脅迫電話をして試験を中止させるような事件が数年前にありました。
日本政府は、原発メルトダウンや金融メルトダウンを誤魔化すために、世界に混乱を発生させているのでは。

それとも、もっとみじめな精神で自分と意見が違うものさえ叩けばそれでいい。
そのためならば、世界を巻き込んでもいい。とか。

WBCでは日本が優勝していたのにも拘らず、スポンサーのためなどと言って選手会が出場をボイコットしました。多くの選手が騙されていたのではありませんか。
スポンサーの為ではなく、個人的な恨みを抱えた選手が、皆に野球をさせないために理屈をつけてボイコットさせていたとしたら。
統一球はどうですか? 一軍で活躍している選手からクレームは出ていましたか?
統一球に対応できずにいた一部の投手が、コミッショナーの解任騒動まで作り出したのではありませんか。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/876.html#c11

記事 [近代史02] 神輿の黙示録(16)(天皇と役座の謎:何故役座は神輿に乗るのか)
この世は、表世界と裏世界とにより構成されているようです。そこで、表世界を支配する天皇と、裏世界を支配する役座の歴史を調べてみることにしましょう。そこに、天皇と役座との意外な関係を知ることになるでしょう。
役座は、いつの頃からか「暴力団」と呼ばれるようになってしまったようです。しかし、江戸時代初期、騎馬民族末裔の徳川家康が健在だった頃、役座の家業である、賭博、売春、高利貸しは、反社会的ビジネスではなかったのです。
そもそも、その「賭博、売春、高利貸し」は、役座が、日本列島で始めたものではなく、奈良時代の大乗仏教の寺院内でおこなわれていたものなのです。ですから、賭博でのチップのことを「寺銭・てらせん」と言うし、仏教寺院での回春のための内道場は、時代と伴に寺院の外に移動するわけです。ですから、現在、寺院の近郊に由緒ある遊郭が多く存在するのは、内道場が外に移動したためなのです。仏教組織の高利貸しは、「借上」と言われ、現在でも健在です。それらの三大仏教ビジネスは、役座が発生する、騎馬民族末裔源氏将軍三代までの鎌倉時代初期までは、仏教の独占事業だったのです。
では、裏世界を支配する役座は、どのような時代背景により発生したのでしょうか。
役座の歴史を知るヒントのひとつは、役座が祀る神様にあるようです。役座映画などでは、役座は神道の神を祀っているように描写しているようですが、正統役座が祀る神様は、「神農様」です。神農様は、薬草の神様でもあるのです。その神農様は、神道の元祖である、道教の流れにある神様なのです。つまり、役座は、中国で発生した道教の神様・神農様を祀っているのです。
では、何故に、役座が、中国の神様を祀っているのかを、時代を遡って調べることにしましょう。
ハイキングなどで山里の小道を散策していると、ポッンとある老木の下に地蔵を見ることがあります。礼拝をするために一寸立ち止まって地蔵のお顔を見ると、鼻が欠けていることに気づきます。中には、セメントで修復している地蔵も多く見受けられます。誰が、このような悪戯をしたのでしょうか。地蔵は仏の化身であるわけですから、悪戯者には仏罰が当たります。
この仏罰に当たることを逆手に取る者がいたのです。それは、役座の配下の博徒です。博徒は、博打でのツキを得るために地蔵の鼻を削り取り、博打のお守りとしていたのです。
教科書歴史によりますと、日本国は仏教国となっているようです。しかし、仏の化身の地蔵を傷つける者は、アウトローの博徒だけではないのです。戦国時代、織田信長は、イエズス会の軍事力を背景に、京に登るにあたって二条御所の修復時に、近在の多くの地蔵・石仏を集めさせ、それらをわざわざ砕いて、その基礎材として使用していたのです。
役座も、ペルシャ平家末裔の織田信長と同じに、本質的には仏敵であったのです。しかし、役座の配下として、縁日で行商する者を香具師(こうぐし→やし)というのです。
香具師(こうぐし・やし)は、その字のとおり、香木と仏具を商う者であるのです。反仏教の役座の配下は、何故、仏教関連商品を商う肩書きである「香具師」と言われるのでしょうか。その謎解きのヒントは、香木にあるようです。
日本列島の歴史上、香木の伝来は、595年推古天皇の時代、淡路島に香木が漂着し、それを朝廷に献上して、重宝されたという伝説が「日本書紀」にあります。しかし、「日本書紀」は、藤原氏により、オリエント文化の飛鳥王朝の歴史を隠蔽するために創作された物語であるのです。その香木漂着物語は、何かを隠すための記述のようです。(香木には、二種類あり、自然に芳香を放つものと、加熱して芳香を放つものです。加熱して芳香を放つものは、沈水香木(沈香)と言われ、樹脂の塊のため、水より比重が重いので浮きません。漂着できるのは、白檀系の香木です。それらの原産地は、南インドです。しかし、インド洋海流と東アジアを北上する黒潮海流とは、マラッカ海峡で分断されているため、南インドの白檀系香木は、自然の力だけでは、日本列島の淡路島には、漂着できないのです。)
前政権の騎馬民族文化を隠蔽するためのトリックのひとつが、七世紀末の騎馬民族系天武天皇から始る「テングリ・天子→天皇」が、農耕時代の神代からあるように、日本列島の歴史物語を創作したことです。ですから、史実として天武天皇の前には、日本列島には天皇など存在しないわけです。ですから、勿論、香木を献上された女帝推古天皇などは、実在していないのです。
では、この香木漂着物語の記述は、実際は何を物語っていたのでしょうか。
紀元一世紀頃の朝鮮半島の物語として、「駕洛国記」に、駕洛の王のところに、インドのアヨーダ国の王女が船に乗って到来した、とあるのです。そのインドとは、紀元前十世紀ヘブライのソロモン王は、海洋交易民族フェニキア人が駆るタルシシ船により、インドの香木、孔雀、猿などを輸入して、そして、それらをギリシャ都市国家に輸出して大儲けをしていたのです。
そして、紀元一世紀には、ユダヤ民族の住むカナンの地はローマ帝国に支配されてしまったため、インドのマラバル海岸には、ユダヤ・キリスト教のコロニーが存在していたのです。
紀元一世紀の朝鮮半島南端に、インドからの船が漂着したのなら、台湾沖を東の黒潮海流に乗れば、南九州の坊津には漂着できるでしょう。そこから、島伝いに北上すれば、瀬戸内海に入り、更に東進すれば、「日本書紀」にある推古天皇の時代に「香木」は、淡路島に漂着できるわけです。つまり、六世紀に、南インドから日本列島に、香木をもたらしたのは、自然の力による漂着ではなく、藤原氏の先祖中臣氏であったのです。
役座の発生は、鎌倉時代です。飛鳥ヤマト時代を支配していたチュルク系騎馬民族末裔は、平安時代に百済系王朝により、仏敵の「鬼」と呼ばれ、山奥に隠れ住んでいたのです。しかし、新羅(秦羅)系花郎軍団末裔の源頼朝が、百済系末裔の桓武平氏の北条氏の陰謀により担ぎ出され、平安末期の朝廷を支配していたペルシャ平家を打倒し、1192年鎌倉幕府として天下を執ると、唐進駐軍に追われていた騎馬民族末裔は各国の山奥から続々と降りてきて、先祖を祀る「塚=土+家=墓」(藤原氏の神社により、新羅末裔(秦羅)の氏神が隠蔽されている墓。)に集まり、情報交換の地とするのです。
やがて、この騎馬民族・新羅(秦羅)系末裔の武士集団末裔により、各国の神社境内の地を中心に同業者組合の座が開かれるのです。やがて、その同業者組合の座を仕切る顔役が起こり、賭博・売春・借上の三大ビジネスを独占していた仏教組織の僧兵からの「座ビジネス」の妨害を、武力で防ぐわけです。それが神社境内から発展した同業者組合の「座」の顔役(指導者)である「役座」となるわけです。
役座は、社会的に弱い立場にある賎民達のこころをまとめる立場の意味から、「任侠」とも呼ばれていくわけです。つまり、鎌倉時代の役座は、仏教組織の弾圧下にある賎民のヒーローであったのです。
役座が仕切る、その古墳の上に築かれた神社境内で、後に、物品販売や興行がおこなわれるバザールが定期的に開催され、その縁日のバサールが「高市・たかまち」と言われるわけです。
ですから神社とは、日本列島の神代からの建物ではないのです。東北アジアを支配していた突厥帝国を散逸させた唐軍進駐軍と国際海洋交易商人の藤原氏により、645年チュルク系蘇我王朝が倒されると、中臣氏が藤原氏に変身し、仏教隆盛の詔を発し、新羅(秦羅)系の氏神を祀っていた古墳の上や近隣に、神社が続々と建立されるわけです。八幡神社や稲荷神社が、こんもりとした小山の上にあるのは、このためです。オリエント渡来の秦氏の氏神の八幡(やはた)神や稲荷(じゅが→づか→塚→墓)神は、その藤原氏の神社により封印されたのです。
その古墳上に神社建立の意味は、前政権の氏神の祟りを神社により封印することです。そして、古墳の存在を抹殺することにより、前政権の宗教儀式や文化を抹殺することです。更に、前政権の氏子が、神社に近づかないようにする装置が、結界を示すヘビの象徴の「しめ縄」を張った鳥居であるのです。
645年以降、中臣氏末裔藤原氏は、進駐唐軍の軍事力を背景に、仏教興隆の詔を発して、そして、中臣神道を発明することにより、前政権の突厥帝国日本支社の蘇我王朝時代に隆盛した景教寺(ペルシャ寺)や道教の観などの宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、仏寺や神社を建立するのです。(突厥とは、チュルク・トルコの漢語)
飛鳥ヤマト時代の寺や観は、宗教施設というよりも、国際交易のための国際ホテルや交易施設であったのです。異民族との交易は、ウソが前提のため、ウソをつけないように神の下にある「庭」や宗教施設内で契約を交わしたわけです。仏寺もその例外ではありません。飛鳥ヤマトのそれらの宗教施設には、エジプト、アラブ、オリエント、インドなどの国際交易商人達であふれていたのです。
では、中臣氏はどのような思想により、神社を建立したのでしょうか。その中臣神社建立思想と類似の宗教があるのです。それは、ユダヤ教です。
中臣神道とユダヤ教との宗教思想の基本的共通点は、禊の儀式、鳥居の由来、神殿の構造と桧材使用、獅子飾と獅子舞、榊としめ縄、石を立て神を祀る、神は雲の上に座す、白色を貴ぶ、塩を蒔く儀式、手洗盤と賽銭箱、神酒と初穂、拍手と低頭礼拝、祭典と神輿、神楽舞の儀式等々です。これらの中臣神道とユダヤ教との宗教思想の共通点は、単なる偶然の一致なのでしょうか。
奈良時代の藤原氏は、神を祀る「春日社」だけではなく、仏を祀る「興福寺」も経営していたのです。藤原氏の謎は、この相反すると思われる「神と仏」を同時に経営していることです。しかし、この謎は、キリスト誕生物語とブッダ誕生物語が、同根であることが分かれば、藤原氏の宗教の謎は解かれるのです。
シルクロードの国際交易都市ガンダーラで、紀元一世紀に発明された救世主物語が、国際交易商人と伴に、西に向かったのがキリスト物語となり、東に向かったのがブッダ物語となったのです。それらの救世主物語は、国際的旅の途中で、各国の土着の宗教物語を導入してしまいましたが、その基本物語は共通であるのです。救世主(神・仏)を信じる者は、天国(極楽)に行き、信じない者は地獄に落ちる、と言う因果応報の物語です。この救世主物語を、国際交易商人は、国際交易で、異民族がウソをつかないように教育するために、「ウソをつく者は地獄に落ち、正直者は天国に行ける。」、という物語として異民族交易ビジネスで利用していたのです。
その奈良仏教の宗教儀式での必需品の香木は、南インドからの交易品で、藤原氏の独占商品であったのです。それらの仏教グッズである香木や仏具を商いする者を、香具師(こうぐし)というのです。では、何故、反仏教の役座の支配下が香具師となり、「香具師・やし」と呼ばれていくのでしょうか。
日本列島初の「天武天皇」が、686年崩御すると、藤原不比等は、百済系持統天皇を傀儡として奈良朝廷を支配するために、ギリシャ神話、オリエント史、聖書、百済史を参考に「日本書紀」を創作するわけです。そして、仏教と中臣神道とにより、前政権の景教徒や道教士を歴史上抹殺し、そのペルシャ系秦氏やチュルク系騎馬民族末裔を「鬼」とするわけです。
「日本書紀」物語で、景教や道教を日本列島史から抹殺できても、鬼達は、近畿ヤマトの山奥に隠れ住むわけですが、しかし、唐進駐軍に敗れた天武天皇系軍事勢力は、北に逃れて、陸奥国に健在であったのです。
奈良時代とは、この唐進駐軍を背景とした国際海洋交易商人の藤原氏と、陸奥の天武天皇系残存軍事勢力とが拮抗していた時代です。しかし、この軍事的均衡が崩れるのです。それは、唐軍が、藤原氏に代わり、母国百済を滅ぼした新羅を憎む亡命百済貴族に肩入れしたからです。
770年天武天皇系最後の女帝称徳天皇が、怪僧道鏡により毒を盛られ崩御すると、百済系亡命下級貴族の老齢者を光仁天皇とするのです。そして、781年その息子を桓武天皇とするのです。
百済系桓武天皇は、唐の儀式に則り、藤原氏の発明した天照大神ではなく、父光仁天皇を祖神として、794年平安京に遷都するのです。ここに、新羅(秦羅)系天武天皇と異なる天皇家が誕生するわけです。(平安王朝を支配した百済系桓武天皇家が、京都の泉湧寺の天皇位牌から、天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇の位牌すべてを排除していることは、天皇家が、新羅系と百済系とに分かれているからです。)
藤原氏は、唐進駐軍と桓武天皇により、奈良の都に封印されてしまったのです。それは、藤原氏が、奈良の都で三大仏教ビジネスに熱心だった報いです。
百済系桓武天皇は、唐国の支援の下、藤原氏に対抗するために、中国山東半島に亡命していた元百済貴族・軍人を、京都・近江に移住させるのです。更に、藤原氏が支配する奈良仏教に対抗して、804年最澄を唐に留学させ、中国天台宗を輸入するのです。そして、奈良時代の軍制を廃止して、亡命百済系軍隊を組織するのです。それが後の健児兵となるのです。そして、この健児兵と唐進駐軍とにより、新羅花郎軍団末裔とチュルク騎馬民族が支配する陸奥国への侵略をおこなうのです。
奈良の都に封印された藤原氏は、黙っていたわけではありません。桓武天皇が、最澄を唐に留学させるのに合わせて、錬金術師空海を一年で仏籍に入れて、唐に留学させるのです。そして、水銀の霊薬技術を習得させると、子作り好きの百済系三代の嵯峨天皇に接近させるのです。この頃、嵯峨天皇は、政権奪還を画策する藤原氏の政治的動向に敏感になっていくのです。
藤原氏は、嵯峨天皇による政治の乱れを利用して、挙兵するのです。それが、810年の藤原薬子の乱です。しかし、藤原氏の軍団は、嵯峨天皇の軍団により壊滅されてしまうのです。この藤原氏からの危機を逃れるために、816年嵯峨天皇は、令外官として検非違使庁を置くのです。そして、この時期に、武士(武芸者)が発生するのです。
嵯峨天皇には、子供の数が分からないほどいたのです。ですから、それらの皇子・皇女を公費で養育できないため、皇籍を外し、814年源氏賜姓を発明するわけです。これが嵯峨源氏となるわけです。
しかし、平安時代初期の社会不安は、藤原氏の動向だけではなかったのです。それらは、前飛鳥ヤマト政権の新羅(秦羅)末裔の残存軍団と嵯峨天皇の父桓武天皇が、弟早良親王を無実の罪で抹殺したための怨霊とです。
奈良・平安時代では、怨霊は実在すると信じられていたのです。その恐怖を増したのが、つい数十年前の奈良の都での、藤原氏の子息の相次ぐ死です。藤原氏は、奈良の都で、天武天皇系貴族を謀略により次々と抹殺していたのです。ですから、その天武天皇の怨霊により、藤原氏の子息が次々と死んだ、と信じられていたのです。
しかし、その実態は、反藤原氏の聖武天皇による、藤原氏支配の興福寺を封じるための施設、東大寺の遍照鬼(後の大日如来)の鋳造時での、銅と水銀の鉱毒であったのです。奈良の都の飲料用の川は、遍照鬼が鎮座する高台から流れ出る銅・水銀の鉱毒により、汚染されてしまったのです。しかし、当時、鉱毒の知識がなかったため、それらは天武天皇の怨霊と信じられていたのです。
怨霊を鎮めるには、同族の祭祀者が必要です。そこで、嵯峨天皇は、陸奥国侵略戦争で捕虜にした新羅花郎軍団末裔やチュルク系騎馬民族末裔の武人を、検非違使の配下として利用するのです。
唐進駐軍に支援された桓武天皇軍は、母国突厥帝国が西から侵攻するイスラーム軍に苦慮して陸奥国を軍事的に支援できないことを見越して、大軍を陸奥国に派遣するのです。しかし、軍事力では蝦夷(エビのようなヒゲがある夷=チュルク系騎馬民族)軍団に勝利できない桓武天皇軍は、801年金髪の坂上田村麻呂の騙しにより、敵将アテルイを京で惨殺することにより、蝦夷の抵抗を滅したのです。
捕虜となった新羅花郎軍団末裔やチュルクの戦士は、近畿地方に移送され、散所、別所、垣内、湯浅などの捕虜収容所に隔離されるのです。そこで、武器製造や各種の労働に使役されるのです。更に、奈良の興福寺支配の奈良坂の部落に収容され、香木や仏具販売の香具師の手先として使役されるのです。そして、延暦寺配下の清水坂の部落に収容された捕虜は、寺奴として使役されるのです。
この陸奥国の捕虜を、嵯峨天皇は、嵯峨源氏の配下として利用するのです。しかし、いつ反撃をするか分からない者に、実戦用武器を携帯させることはなかったのです。
では、陸奥国の捕虜は、検非違使の配下でどのような仕事をしていたのでしょうか。検非違使とは、現在の警察です。警察の仕事は、二つあります。ひとつは、現在起こってしまった事件を鎮圧するための、治安警察です。もうひとつは、これからおこりそうな事件を未然に防ぐための、公安警察です。
陸奥国の捕虜は、怨霊を鎮魂するための、公安警察業務を担ったのです。それらは、捕虜とはいえ、天皇直属として、宮廷諸行事の奉行、国家的法会・祭礼の守護、行幸路地の巡検・普請・掃清・橋河の公界と結界との管理などです。それらの諸行事や場所での、怨霊が出て、祟らないように、陸奥国の捕虜は、怨霊の鎮魂をおこなったのです。
その鎮魂儀式での用具は、総革製の鎧・冑と実戦的に不向きな、曲がる、折れる、刃毀れする片刃の刀です。この刀は、陸奥国の蝦夷の蕨手刀を改良したものです。これが後の、世界に誇る美術品としての日本刀の祖となるのです。
陸奥国の捕虜は、それらの実践的ではない武具で武装して、武芸(剣舞と歌謡)により、桓武天皇の実弟早良親王の怨霊を鎮魂していたのです。この怨霊を鎮める武芸の祖は、怨霊を歌謡と舞により鎮魂する「能楽」の祖が秦河勝であることがわかれば、オリエント渡来の秦氏の古来からの芸能のひとつであることがわかるでしょう。しかし、平安時代に、オリエントの神(太陽神ミトラ)を祀る秦楽が、百済系平安王権により、秦楽→シン楽→申楽→シン=さる→猿楽と貶められていくのです。
これらの天皇直属としての鎮魂儀式は、清目と呼ばれていたのですが、桓武平氏末裔北条氏が支配する第二百済王朝の鎌倉時代には、源氏武芸者による清目はキヨメとなり、非人の仕事の路外での汚物清掃業務となってしまうわけです。
この鎮魂儀式をおこなっていた武芸者は、939年〜941年の天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱)での反乱軍鎮圧での活躍により、武芸者から武人として公に認められるのです。そして、武芸者は、実戦での武人として「武士」となるわけです。
江戸時代末期、武士とサムライとの意味が曖昧になってしまいましたが、武士とサムライの発生は異なるのです。
武士は、別名「もののふ」と言われていたように、「もの」つまり「精霊」の魂を鎮める者として、「もののふ」と言われていたのです。平安初期の「ものの怪・け」は、早良親王の怨霊です。武士(もののふ)は、その「ものの怪・怨霊」から天皇や貴族を守り、その「ものの怪」からの護衛や「ものの怪」の処刑を司っていたのです。
もう一方の「サムライ」は、「王」の近くに侍(さぶらい)て、王の身辺警護と秘書の役目を執り行っていたのです。
この武士とサムライとの違いは、その出自の違いを表しているのです。武士は、反体制の俘囚末裔です。サムライは、体制側で百済亡命貴族末裔です。
更に、日本武士のルーツを辿ると、武家源氏←蝦夷←新羅花郎軍団←ローマ帝国傭兵軍団と、武家源氏←蝦夷←チュルク系騎馬軍団←スキタイ騎馬軍団の二系統です。一方、サムライのルーツは、桓武平氏←健児兵←百済軍兵士←ツングース系物部氏です。つまり、武士とサムライとは、別種の武人であったのです。
ですから、日本武士道と花郎騎士道とローマ騎士道には、戦い前の名乗り、一騎打ち、恥の美学、太陽崇拝(ミトラ神崇拝)、忠誠心、弱者救済など多くの共通点があるのです。
この武士が、源頼朝政権下では羽振りがよかったのが、北条氏の陰謀により源氏三代で滅亡し、桓武平氏末裔北条氏が支配する第二百済王朝の鎌倉時代には、北条氏の陰謀により都から追われ、源氏狩りにあい、山奥に隠れ住むわけです。つまり、武士が、野武士となり、その野武士は、百済系桓武平氏末裔北条政権により「武」を外され「野士・やし」に貶められるのです。
この「野士・やし」は、古墳上の飛鳥ヤマト時代の氏神を封印している神社境内を聖域(高市・たかまち)として、定期的にバザールを開催することにより、武士の先祖が活躍した飛鳥ヤマト時代の再来を夢見て生き延びていくわけです。
しかし、藤原氏は、源頼朝により宋国との密貿易地・南九州島津荘(島津氏の発生順序は、飛鳥時代・秦氏→平安時代・惟宗氏→鎌倉時代・島津氏)を取上げられた恨みで、源氏末裔を新興仏教思想で痛めつけるのです。その新興仏教思想の基本は、ユダヤ・キリスト教と同じで、過酷な宗教修行をすることもなく、「神を信ずる者は天国に行ける。」を、「簡単な呪文を唱えるだけで極悪人でも極楽へ行ける。」、とするのです。
更に、騎馬民族末裔源氏武士に不幸なことには、その新興仏教思想には、インドで遊牧民族トラヴィダを、肉食することで不可触賎民とした、バラモン教が発明したカースト思想を含んでいたのです。それは、それらの新興仏教の祖は、新羅を憎む百済亡命貴族が支配する比叡山延暦寺で、仏法を学んでいたからです。その延暦寺の開祖最澄は、バラモン教・ヒンズー教・ゾロアスター教思想を取り入れて、日本密教を発明した空海に、その密教を学んでいたのです。
平安時代までは、ユダヤ教思想に類似した中臣神道による「屍穢れ不接触思想」だけであったのが、鎌倉時代には、血の禁忌の仏教思想が貴族だけではなく、新興仏教僧の布教により賎民まで浸透していくわけです。貴族仏教の比叡山延暦寺に反発する、賎民を救済すると主張する新興仏教思想でも、「菜食が善で、肉食は悪」、と言うことなのです。
そして、藤原氏の流れにある親鸞が、自ら肉食・妻帯し、騎馬民族末裔賎民の部落に乗り込み、それらの菜食主義のインド・カースト思想の騎馬民族差別を含んだ「穢れ仏教思想」を賎民に布教するのです。その結果として騎馬民族の生活基盤が崩れ、農耕民族賎民が騎馬民族賎民を差別することになるのです。
しかし、飛鳥ヤマト時代では、騎馬民族が王権を支配し、アジア・ユーラシアの国際交易商人が暮し、バター・チーズ(醍醐)を食べていたのです。勿論、飛鳥ヤマト時代は、動物の砕かれた骨の遺跡物からも分かるように、肉食もしていたのです。
この新興仏教と比叡山延暦寺とが、日本列島で末法思想を広める鎌倉時代に、仏教穢れ思想にイジメられていた騎馬民族末裔の賎民の味方として、「役座」が登場するわけです。
そして、役座は、仏教組織からの圧力を、賎民を守るために「武力で阻止」していたのです。朝廷をも凌ぐ仏教組織の軍事力が歴史上壊滅するのは、ペルシャ平家末裔、反仏教の織田信長の登場まで待たなければならなかったのです。
末法思想を振りまく仏教僧が跋扈する時代に、武士から没落した「野士・やし」が、神社境内のバザールで扱う商品に仏教グッズの香木や仏具もあるため、世間から、香具師(こうぐし)ではなく、「やし・香具師」と貶められた蔑称で呼ばれていくわけです。
では、役座の配下が、「テキヤ・的屋」と呼ばれるのはどうしてでしょうか。
江戸徳川時代は、騎馬民族末裔の徳川家康がエド(穢れた土地→穢土→えど→江戸)に、1603年幕府を開いた後も、平和な時代が続いていたと思っているひとが多くいるようです。しかし、江戸時代は、家康・秀忠親子の時代以降、三代将軍徳川家光より、騎馬民族末裔には暮し難い時代になっていったのです。
1600年(慶長5年)徳川家康は、関が原の戦いで、藤原氏傀儡豊臣軍団を壊滅させると、1601年には、エドから京都への東海道に、二里(約8km)ごとに宿を設け、伝馬36疋を常備させるのです。これは表向きは京への物流のためですが、実際は関東の騎馬軍団が、迅速に京へ移動するための軍事道路だったのです。
そして、徳川家康は、この二里ごとの馬宿を、役座に無償で経営させるのです。その見返りが、日没後の宿場での賭博、売春、高利貸しです。これらの宿場を仕切る役座が、街道筋の親分として羽振りを利かせていくのです。ですから、遊女の名を「源氏名」というのは、徳川家康より、宿場での夜の営業者は、源氏末裔に限られていたからです。
しかし、騎馬民族末裔の徳川家康と秦氏末裔の穢多頭弾左衛門とが、ひとも住めぬ湿地帯のエド地を、神田堀の残土で、海抜十mの人工山を造り、江戸城を建設し、住宅地を整地し、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉にイジメられていた大坂の部落から、多くの源氏末裔賎民を呼び寄せて、エドの町を発展させていたのが、二代目秀忠が、1623年秀忠の次男と言われる家光に将軍職を譲り、1632年死去すると、三代将軍家光は、徳川家康の戦国時代から関が原の戦までの忠臣達に難癖を付けて、左遷或いはお家断絶で抹殺するのです。
三代将軍家光に没落させられた徳川家康の主な忠臣達とは、家康四天王の、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、そして、四天王四名を加えた十六神将の松平康忠、内藤正成、平岩親吉、鳥居元忠、鳥居元信、大久保忠世、大久保忠佐、服部正成、高木清秀、米津常春、渡辺守綱、蜂屋貞次、本多重次、高力清長、天野康景、石川数正の末裔達です。
実は、徳川家光は、秀忠の実子ではなかったのです。その乳母は、戦国末期の山崎の合戦で、明智光秀をイエズス会の密命で裏切った徳川家康を憎む、お福(春日局)であったのです。そのお福を、天皇にめあわせ、お福を春日局に変身させたのは、藤原氏末裔であったのです。そして、お福は、明智光秀の家系の者であったのです。
三代将軍徳川家光から四代将軍徳川家綱に代わると、騎馬民族末裔への弾圧が激しくなっていくのです。それは、騎馬民族末裔の徳川家康の忠臣達が、春日局の陰謀により、権力中枢から追放され野に下っていたからです。1651年には由比正雪の乱が起こったように、三代将軍家光の政治に反発する源氏末裔の元武士達が多くいたのです。
そこで、四代将軍徳川家綱は、戦国時代に織田信長により仏教軍団を壊滅させられ、更に市・座の利権を楽市楽座により簒奪され、寺所有の関所での通行税が廃止され、比叡山が女人の巣窟であったことが暴かれ、そのため貴族並の生活基盤を失って、葬式仏教に成り下がった仏教組織を利用して、騎馬民族賎民達を弾圧・抹殺することを企てるのです。
それは、没落武士である浪人だけではなく、商人・賎民・流浪芸能民も全て含めて人別帳を作り、仏寺や賎民専用の穢多寺に管理させることです。その当時、武士には名前が名乗れたのですが、商人や元武士の役座には名前を名乗れる権利がなかったのです。そこで、商人や役座に屋号や商号をつけさせて人別帳に登録させたわけです。
バサールで商いをする香具師は、元々は武士であったのですが、その当時では名乗れません、そこで香具師は、先祖が武士の武器である槍・刀・弓矢・鎧・冑などの武器製造をしていたため、町人相手に商売としての矢場を経営していたので、その的屋を屋号として届けたわけです。それがお上から、香具師の商売名を「的屋・まとや」ではなく、「的屋→敵奴→てきや」と蔑称にしてしまうわけです。
騎馬民族末裔、元武士であった役座は、徳川五代将軍綱吉の、1687年騎馬民族末裔の生活基盤を破壊するための殺生禁止の「生類憐みの令」が発せられる頃には、表の世界から闇の世界に暮すことになるのです。
関八州の役座を仕切る弾左衛門(弾左衛門は世襲名。明治初期の十三代目で終わる。)は、徳川家康威光が存続していたまでは、大名と同様に、羽織袴、二本差しで、籠によりで江戸城に登城していたのが、四代将軍徳川家綱の頃には、徳川家康の威光が消えると、五街道の基点である日本橋を整備するという名目で立ち退きを命ぜられ、浅草寺裏の仏寺に囲まれた、堀を廻らされた新町に暮すわけです。しかし、弾左衛門が支配する役座の闇の警察力を必要とした江戸幕府は、大名にしか許されていない冠木門の設置を、弾左衛門の屋敷に許すのです。
徳川家康と秀忠親子が、百済の血が流れていると言われる三代将軍家光にどのように扱われたかは、日光東照宮に行けば分かるでしょう。
徳川家康の死後一年して、遺言どおり、家康の出生地の世良田部落近くの日光に、質素な堂が、騎馬民族末裔の賎民が暮すエドの町を守護するように建立されるわけです。しかし、二代将軍秀忠が死去し、三代将軍家光が支配者となると、日光にあるその質素な堂を移動させ、百済系神道の山王神の思想に則り、豪華絢爛な東照宮を建立するわけです。
しかし、不思議なことに、日光東照宮には、家光の父であるといわれる秀忠を祀る社がないのです。そして、東照宮境内の粗末な建物に猿の彫り物を廻らした、「厩」があるのです。不思議なことに、宗教施設内に厩があるのは、日光東照宮だけです。何か意味があるのでしょうか。
猿と馬は何を意味しているのかと言えば、猿→申→しん→秦で、猿は秦氏末裔弾左衛門を表わし、馬は騎馬民族末裔徳川家康を表わしているのです。猿達(秦氏末裔)に、賎民が開発したエド初期の歴史を「見るな、聞くな、言うな」と、徳川家康の騎馬民族の霊を封印している施設が、日光東照宮であるのです。
そして、北極星を頂く陽明門は、騎馬民族の神・北極星(太一)のエドの町への威光を遮る施設であるのです。そして、騎馬民族末裔徳川家康を祀る日光東照宮が、騎馬民族と新羅(秦羅)国を憎む百済系比叡山延暦寺の流れにある神道の山王(シャンワン)神により祀られている意味は何でしょうか。
そのような視点から、神を祀っていると言われる神社を調べると、飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔の怨霊が現れてくるのが分かるでしょう。古来、神社は、祟り封じの施設であったのです。その神社が、何ゆえに死霊を祭る施設になったのでしょうか。そして、神社での「祭り」が「祀り」と言われた時代では、何を祀っていたのでしょうか。
「祭り」を盛り上げるもののひとつに、神輿があります。現在では、神輿は、神の乗り物として認識されています。しかし、何ゆえに、その神の乗り物である神輿の運営に、平安初期に怨霊退治をしていた俘囚末裔の元武士(もののふ)末裔である役座が絡むのでしょうか。役座と神輿には、どのような関係があったのでしょうか。
「祭り」が、「祀り」から何時代から変性したかの歴史は定かではありません。しかし、「祭り」の軽さから比べると、「祀り」には、「生と死」の世界が存在します。そして、その祀りの中心には、怨霊の存在があるのです。では、その怨霊とは何だったのでしょうか。
ひとは、意識を獲得した時点から、「ウソ」が無ければ生きられない存在となってしまったようです。それは、過去と未来を思考して、現在の自分を認識できるからです。しかし、ひとには、未だ、未来を見通す能力が備わってはいないのです。ですから、全てのひとには、未来についての「不安」が常に存在するわけです。
未来を予知できない多くのひとは、これから起こるであろう過酷な自然現象を回避するために、自然現象をひとの行為として解釈することにより、自然神を敬い貢物をして祀っていたわけです。そこに現れたのが、天変地変の自然現象をコントロールできるとする、「人工神」を発明した祭祀者です。
祭祀者は、神ではなく、人間です。が、人工神を発明した祭祀者が、やがて神の代理人として、迷える子ひつじ達を人工神に従わせることにより君臨していくわけです。それが、宗教の始まりです。祭祀者は、神ではなく人間ですから、祭祀者を神の代理人にする奇跡物語を発明するわけです。その教祖の奇跡物語が不安を抱える子ひつじ達に刷り込まれ、やがてその教義も刷り込まれて信者となり、その信者の想像力をその教義で固定し、その結果が思考停止の状態となるわけです。
ひとが生きることにおいては、無限に思考する意識をコントロールできないため、生老病死の不安から逃れることは出来ません。しかし、ひとが思考停止状態である時は、その生老病死の不安から一時的に逃れることが可能なのです。
つまり、「信じる」とは、思考回路を停止して「疑うことを放棄した」状態です。ここに、「宗教は麻薬だ。」と言われているように、想像力を無限にし、思考力の停止を強力に促す宗教の魔力があるのです。
宗教教義を発明した祭祀者は、自らの生活の糧を得るために、迷える子ひつじからの多くの貢物を得るために、「旧約聖書」のレビ記のように、複雑な儀式や神に祈る時の貢物の細則を創るのです。
より多くの貢物を得るために祭祀者は、豊穣と災害をもたらす自然神を真似て、守護と罰の思想を発明し、「信ずる者は天国へ、そうでない者は地獄へ行く。」と脅すわけです。この地獄思想から、恨みを抱いて死去した者の「怨霊」が発明されるわけです。
日本史での怨霊は、桓武天皇を祟る早良親王と藤原氏を祟る菅原道真が有名です。ともに無実の罪をきせられて怨みを抱きながら死去したのです。その怨霊の魂を鎮め、又は封印するために、祟られる者が、役座の先祖である俘囚末裔の武芸者に警護をさせ、或いは、魂鎮めの儀式を神社でおこなわせていたのです。
そこで、祭りの神輿を観察してみると、その造りが神社のミニチュアであることが分かるでしょう。しかし、不思議なことに、神輿にある窓が封印されているか、羽目戸となって、神輿の中の者が外を見えない、或いは出れないようにしていることです。神を乗せるものが神輿であるのならば、神が神輿から下界を観察できるように窓は開けられるべきです。
では、その羽目戸の本当の意味は何かと言えば、それは、祭りでの神輿とは、前政権の氏神を封印したままの移動用施設であったからです。では、祭りでの神を封印する神輿は、いつ発明されたのでしょうか。
神輿を神、或いは神物を棒により担ぐものであるとすれば、歴史上では、ユダヤ教のアークを担ぐ神輿があります。中臣神道にも、ユダヤ教と同じに、神物を棒で担ぐ風習があります。しかし、祭りでの神輿は、神聖な神を乗せて移動したとは、とても思えません。
祭りで、神輿の進行前に塩や水を撒くのは何故でしょう。塩や水を撒くことは、ユダヤ教と中臣神道では、穢れ祓いの清めの意味があるのです。そして、神輿を激しく揺らすのはなぜでしょう。今でも疑問に思うのは、学生時代に比叡山の坂本の祭りで見たものは、大きな神輿どうしがぶつかり合い、更に担ぎ手は、神輿を放り投げていたのです。これらのことを考えると、祭りでの神輿が、神の神聖な乗り物とは思えません。
平安時代初期、唐進駐軍の後ろ盾を得た亡命百済王朝は、奈良時代を支配していた藤原氏を奈良に封印し、京に唐文化の華を咲かせていたのが、907年唐が滅びることにより、桓武天皇系王家の朝廷での勢力が衰えていくわけです。そこに、奈良に封じ込められていた藤原氏の反撃が始るのです。その手先が、奈良の興福寺の僧兵です。
藤原氏が支配する興福寺の僧兵は、神輿を担ぎ、亡命百済貴族(814年完成の「新撰姓氏録」の皇・神・蕃の差別序列により、亡命百済貴族が日本皇族の始めとなる。)が暮す京の都に、強訴するわけです。
それに対して、亡命百済貴族が支配する延暦寺の僧兵も、神輿を担ぎ、藤原氏が支配する奈良に強訴をかけるのです。何故、二方の僧兵は、強訴のために、神輿を担いだのでしょうか。その背景には、京を軍事支配していた唐進駐軍の母国が壊滅したため、京の治安が乱れたことによる間隙をぬっての、仏教ビジネスの市場争奪戦であったのです。
この奈良の興福寺と京の延暦寺との戦いは、長く続き、戦国時代に織田信長に、それらの仏教軍事組織が壊滅されるまで、高利貸し(借上)は、比叡山延暦寺が最大組織を誇っていたのです。
延暦寺の法薬禅師などは、宋商人から大宰府役人への賄賂の融資をうけて、九州の多くの仏寺を借上の活動拠点にすることを画策していたのです。その結果、延暦寺は、宋商人と借上ビジネスで結託することにより、中世における最大の国際的借上集団となっていくわけです。
では、その神輿に何が乗っていたのでしょうか。それは、興福寺の神輿には、桓武天皇を祟る早良親王の怨霊が乗り、それに対して、延暦寺の神輿には、藤原氏を祟る菅原道真の怨霊が乗っていたのです。平安時代の神輿は、そこに封印されている怨霊を放すぞ、と脅すための強訴の道具のひとつだったのです。
役座の祖である神社境内で怨霊退治をしていた武芸者(もののふ)は、907年チベット系の吐蕃の侵攻により唐国が滅びたため、都の治安が乱れ、それに伴い、939年関東の平将門と瀬戸内海の藤原純友の反乱である天慶の乱での、反乱軍を武力鎮圧したことにより、武人として公に認められ「武士」となるわけです。
唐進駐軍が壊滅したため都の治安が乱れたため、源氏武士の武闘力を利用する者があらわれるわけです。それは、朝廷の支配を企む藤原氏です。
唐進駐軍を頼りにできない平安朝廷は、近衛と検非違使とで構成する都市警察を直轄し、清涼殿には滝口の武士により王族の近辺警護にあたらせていたのです。
陸奥国における、1051年前九年の役と1083年後三年の役で、源氏武士の武闘力を知ると、第72代白河天皇は、院御所に北面の武士をおいて院の身辺警護にあたらせたのです。しかし、チュルク系騎馬民族末裔で、弓馬を得意とする蝦夷末裔の源氏武士と異なり、亡命百済貴族末裔の桓武平氏のサムライ上がりの「武士」は、王族の秘書の仕事が主な仕事であったので、実戦における武闘力では、藤原氏に雇われた源氏武士にはかなわないのです。
そこで、藤原氏の圧力に対抗するために院政をひいた白河上皇は、藤原氏の傭兵である源氏武士に対抗する軍事組織として、平正盛を、出雲目代を殺害した源義親を追討するために雇うわけです。ここに、白河上皇の私兵として、「平家」が興るのです。
平氏と平家との違いは、「桓武平氏」は、825年淳和天皇からの賜姓に対して、「平家」は官位などではなく、白河上皇による呼称にすぎないわけです。
その平正盛の本名は分かりません。しかし、十一世紀の正盛の出身地である伊勢は、アラブ(インド以西はペルシャと言われていた。)からの国際交易商人が多く暮す地であったのです。このことにより、平家がペルシャ平家と言われる由縁です。
平家の系図で、平清盛←忠盛←正盛までは遡れるのですが、戦国時代の尾張の織田信長の三代先が不明なのと同じに、正盛の先が不明です。そして、この伊勢湾は、古来から海洋民族の渡来地だったのです。
八世紀の東ローマ帝国と唐国との国際交易は、イスラーム帝国と吐蕃による陸路のシルクロードが支配されてしまったため、海路の南海ロードに移っていたのです。海には国境を引けないため、国際海洋交易商人は、帆船を駆使して、南の果てから北の果てまでを交易地としていたのです。そのなかでも、フェニキアの血を引くアラブの国際海洋交易商人は、東アジアの果てまで交易のために訪れていたのです。そのアラブ海洋商人による、東アジアでの海洋交易や海賊交易を基にして、シンドバットの冒険物語が創作されたのです。
平安時代、赤い衣を着た国際海洋交易商人フェニキアの末裔は、戦国時代に水銀・銀を求めて伊勢壬生に渡来したイエズス会のように、伊勢の朱砂・水銀を求めて、伊勢に渡来していたのです。
伊勢は、奈良の宇陀と伴に、縄文時代から朱砂の国際交易地であったのです。それは、伊勢→吉野→四国へと、中央構造線が貫かれていたからです。その中央構造線には、地下の鉱脈が地表に現われていたので、鉱脈を掘る技術がなかった縄文人には、鉱物を採取するには都合がよかったのです。
アラブの国際海洋商人は、東アジアとの中継点として、インドにも基地があったのです。ですから、平正盛は、伊勢から京に進出した地を、インドの祇園精舎を真似て「ギオン」(祇園)とするのです。その京のギオンの地は、賀茂川の東の湿地帯で、上流から死体が流れ着く処で、別名骸骨原と言われていたようです。このギオンには、白拍子といわれるオリエント系遊女が住む所でもあったのです。
平正盛を側近とした白河法皇は、有名な寵姫の祇園女御の夫を陥れて流罪にしたうえで、その祇園女御を中心にハーレムを作るのです。そして、白河法皇とそのハーレムの女御(後に平忠盛の后となる。)から生まれたのが、平清盛であったのです。
白河法皇の威光をバックにする平家は、1156年保元の乱、1159年平治の乱により、源氏一族を駆逐し、1167年平清盛は太政大臣となり、天下人として権勢を誇るのです。その平家は、アラブ系であったので、神道と仏教が発明した怨霊思想を持っていなかったようで、祟り神を封じ込んでいると言われる神輿に矢を射掛けたり、1180年には平重衡などは、遍照鬼(大日如来)を祀る東大寺に火をつけて全焼させているのです。これらの平家の狼藉により、僧兵の強訴の道具である怨霊を封じた神輿の威力が消失していくわけです。
武力で源氏軍団を壊滅させた平家の清盛は、宋国との貿易を計るのです。しかし、それは、藤原氏と百済亡命貴族が支配する延暦寺を刺激するわけです。
平清盛は、1152年ベンガラ(インドのベンガル地方産出の酸化鉄の染料)塗りの厳島神社を修復し、1170年には第77代後白河天皇にたいして、福原の宋国交易用別荘で宋国の商人を引見させるのです。この出来事は、中国・朝鮮を蔑視する百済亡命貴族の朝廷には許しがたい行為だったのです。
そのような、平清盛による、宋国との国際交易により、宋銭が多量に日本列島に持ち込まれるわけです。この宋銭の持込は、藤原氏と平安百済王朝にとっては、大打撃であったのです。それは、平安王朝が、奈良時代まで続いていた銭の流通を廃止して、土地を支配することで貴族や庶民を支配していた体制が崩れるからです。(飛鳥ヤマトでは、和同開珎より前に、富本銭を鋳造していた。)
この宋銭の流通は、藤原氏と平安百済王朝によりイジメられていた騎馬民族末裔には有利に働いたのです。それは、土地がなくても、宋銭を溜め込むことにより、資財を蓄積できるからです。土地を所有しない、漂泊する騎馬民族は、商業取引に長けていて、古代ユーラシアでは為替制度も発明していたのです。それに資本を集積する株仲間も、騎馬民族が発明していたのです。
宋国との交易の独占を図る平清盛に対して、藤原氏と平安王朝とが、1177年平家打倒で密議をおこなうのですが、その企ては平清盛に発覚され、その首謀者は島流しにされるのです。
そこで、祟り封じの神輿を利用して強訴する僧兵を蹴散らす平家軍団により、都を追われて関東にくすぶるサムライの桓武平氏末裔の北条氏が、武家源氏末裔の源頼朝を担ぎ出し、奥州を支配する、元飛鳥ヤマトを支配していたチュルク系騎馬民族末裔の軍事力を引き出すのです。そして、1185年壇ノ浦の戦いで、赤旗のペルシャ平家は白旗の源氏軍団に敗れるわけです。
南宋貿易を独占していたペルシャ平家が滅ぶと、源頼朝軍を支援していた百済系平氏末裔の北条氏は、藤原氏と源氏武士軍団を壊滅するための謀を着々と進めるのです。
1189年藤原泰衡が、チュルク系騎馬軍団棟梁の源義経を衣川にて殺害すると、北条氏のロボットである源頼朝は自ら奥州に出陣し、藤原泰衡一族を滅ぼすのです。ここに奥州藤原三代王朝が滅ぶのです。
そして、南九州の島津荘を経営する藤原氏本流(近衛家)を壊滅するために、オリエント渡来の秦氏末裔の惟宗氏に、その荘園を支配させるのです。ここに、明治維新で活躍する、「島津氏」が始るのです。
島津氏が、秦氏末裔であることは、秦氏末裔・穢多頭弾左衛門の家紋・丸に十の字があることで証明できます。その家紋の意味は、景教徒(=ミトラ教)の太陽のシンボル・マルタクロス(ミトラ教の儀式を導入したキリスト教は、このマルタクロスも十字架として導入したのです。)であるわけです。
北条氏は、百済亡命貴族末裔であるわけですから、百済平安王朝と同じ方法で、臣民・庶民を支配することを計画するのです。それが、1192年源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、銭貨の使用停止を命ずるのです。そして、次の年1193年には宋銭の通用を停止し、米を以って推挙の利を弁償させるのです。
この宋銭の通用停止は、土地を所有しない騎馬民族末裔・源氏武士の抹殺手段であるわけです。
平清盛の南宋交易により、膨大な宋銭の輸入により、土地を持たない商業取引に才能がある騎馬民族末裔は、日本の神仏を敬わない平家による神社・仏閣の破壊により、僧兵の管理が薄くなった神社境内を商業取引所として、同業者組合の「座」を構成するに至るわけです。そして、その地で、騎馬民族がユーラシア大陸でおこなっていたバザールを、定期的に開催するのです。これが後に、縁日となっていくわけです。
平家が滅び、騎馬民族末裔の蝦夷末裔の源氏武士が勢力を増すと、百済亡命平安王朝により、山奥に追いやられたチュルク系騎馬民族末裔・元飛鳥ヤマト支配者の末裔は、里に降りてきて、氏神を神社により封印された地(塚)に集まり、宋銭を通貨として全国的に商取引を始めるわけです。騎馬民族末裔による馬の機動力(馬借の発生。馬借は、戦国時代、百姓一揆の武装中心勢力となる。)により、「座」のビジネスは全国的になっていくのです。この神社境内での「座」による商業は、仏教組織には脅威であったのです。
戦国時代のイエズス会に支援された織田信長に、仏教軍団が壊滅されるまでは、仏教組織は、仏を祀るよりも仏教ビジネス(賭博・売春・高利貸し)に勤しんでいたのです。そのなかでも、借上と言われる「高利貸し」を、商業取引に長ける騎馬民族末裔により席巻されることは、中世の日本列島最大の借上集団を支配する比叡山延暦寺には耐えられなかったのです。
仏教が、権力から離れ葬式仏教(大乗仏教には、元々庶民を対象の葬儀のノウハウがなかったので、中国から渡来の禅宗の簡略な葬儀と、キリスト教のホーリーネームを戒名として導入して、今日の仏式葬儀に至る。)となるのは、江戸時代の三代徳川家光の第三百済王朝からです。本国百済を滅ぼした新羅を憎む百済亡命貴族末裔は、騎馬民族系新羅末裔の源氏武士末裔を徹底的に差別するために、織田信長軍団により落ちぶれた仏教組織は、第三百済王朝の手先とされ、戦国大名の夫役台帳を基にして、仏教徒と非仏教徒に分類した「宗門人別帳」の管理者となり、騎馬民族末裔の賎民を徹底的にイジメるわけです。騎馬民族は、人工神の仏教徒ではなく、自然神の太陽・月・星を祀っていたのです。
ちなみに、役座は、薬草の神・神農様(神農様には、二本の角があるといわれています。このことは、神農様は、牛頭天皇で、太陽の化身牡牛を屠るミトラ神でもあるわけです。このことからも、役座←武家源氏←新羅花郎軍団←ローマ帝国傭兵軍団の流れが見えます。それらの軍団は、伴に太陽神ミトラを軍神として祀っていたからです。太陽神ミトラは、中国で「弥勒」となり、日本列島では「魔多羅」と変身するわけです。)を祀っていたのです。出自を隠す鎌倉時代の源氏武士は、新羅の神・八幡様(「はちまん」、ではなく「やはた」)を祀っていたのです。
平安時代、比叡山延暦寺の僧侶により、庶民による銭の通貨を阻止するために「銭は穢れている。」とする宣伝力よりも、平家による宋銭の流通により、米による取引の煩雑さよりも、宋銭が流通することの簡便さが、庶民に受けたのです。その結果、平安末期には、宋銭は、瞬く間に日本列島を駆け巡ったのです。その宋銭は、「座」を支配する、元飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔に集まっていくわけです。そのことにより、飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔の勢力が復活していくことは、645年にチュルク系蘇我王朝の飛鳥ヤマトを乗っ取った藤原氏と、794年に百済系桓武天皇により、新羅系天武王朝を乗っ取った百済亡命貴族末裔には許せないわけです。
そこで発令されたのが、1193年の宋銭通用停止令であるわけです。そして、藤原氏と百済亡命貴族末裔は、騎馬民族末裔と庶民とを分離する謀を練るのです。それが、貴族ではなく、賎民に布教する鎌倉仏教民族差別思想であるわけです。
その民族差別思想とは、つまり、古代エジプトの唯一神である太陽神アトン(ミトラ神を導入して発明した神)を基にして創作した「ヤハヴェ」を祀る一神教のユダヤ民族(藤原氏)が、太陽神アトン(旧約聖書ではバアル)と牡牛を祀る多神教のイスラエル民族(秦氏)を貶めるために、不可触賎民サマリア人(穢多)を創作したように、勢力を再び復活させていく騎馬民族末裔を、インドの遊牧民族トラヴィダを貶めるための、バラモン僧が発明したカースト制度の不可触賎民セダラを真似て、「穢多」と民族差別するわけです。
1199年北条氏による源頼朝暗殺後(日本史では落馬死とする。)、1204年源頼家の暗殺、1219年源実朝の度重なる暗殺により鎌倉源氏三代滅亡後に、不可触賎民「穢多」が発明された裏には、仏教ビジネスに対抗する、源氏武士が支援する騎馬民族末裔による「座」の存在があったのです。
そして、源頼朝の威光を継いだ、百済末裔の尼将軍北条政子の北条鎌倉幕府(第二百済王朝)により、新羅末裔の源氏狩りの謀略で、梶原氏、比企氏、畠山氏と次々と源氏寄りの武将が抹殺され、その結果、源氏武士の後ろ盾を失った騎馬民族末裔の同業者組合の「座」を、敵対仏教軍団から守る「役座」が現れるわけです。(「役座」が、「シロウトさん」に手を出さないとは、「シロウト」とは、「白徒」で、それは白旗をシンボルとする源氏末裔の同族であるからです。)
鎌倉源氏三代の時代(1192年〜1219年)、北条氏のロボットにすぎなかった源頼朝は、1192年征夷大将軍に着任すると、源氏棟梁の立場で政をおこなうようになったのです。そのひとつが、秦氏末裔の、関東役座の元締め浅草弾左衛門の先祖の長吏に、御朱印状を与えていたのです。これは、母国百済を滅ぼした新羅を憎む百済末裔には許しがたい行状であったのです。このことが、源頼朝が、北条氏に暗殺される原因のひとつとなったのです。
江戸時代、弾左衛門が幕府に提出した御朱印状とは、

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏

                  弾左衛門頼兼へ
頼朝御判

北条鎌倉幕府の陰謀に敗れた源氏武将は、再び山奥に逃避するわけです。しかし、同族の「座」ビジネスを守るために里に留まり、反体制の「役座」として生きる者も多くいたのです。そして、源頼朝による神社でのビジネスの既得権を得た騎馬民族末裔は、仏教ビジネスを真似て、賭博、売春、高利貸しをおこなうわけです。
1221年尼将軍北条政子は、源氏の残党を結集した京の朝廷軍を破ると(承久の乱)、六波羅探題を設置し、源氏残党狩りを行い、1235年僧徒の武装化を禁じ、仏教組織の財源を枯渇させるため、1238年仏寺での双六賭博を禁止するのです。そして、騎馬民族末裔の財源を枯渇させるため、1244年神社での賭博の禁止令を発令するのです。
双六賭博は、平安時代までは貴族の娯楽で、禁制ではなかったのです。軍事力を持った治外法権の仏寺では、賭博は、戦国時代の織田信長による仏教軍団壊滅と比叡山延暦寺の壊滅まで続いていたのです。
鎌倉時代に流行った仏寺での賭博は、中国南宋の禅僧がもたらした茶を利用して、産地当てを競う闘茶です。その鎌倉時代の博打である闘茶から、戦国時代に、キリシタンの賎民・千(賎)利休が、「わびさびの茶道」を発明するわけです。
北条鎌倉幕府に破れた源氏武将の後ろ盾を失った騎馬民族末裔は、役座の保護により神社境内でビジネスをおこなうわけですが、北条鎌倉幕府の騎馬民族差別政策により、定住の地を追われ、頼朝公の御朱印状にあるように、漂泊の芸能民として生き延びていくわけです。
鎌倉時代、秦氏末裔の芸能民の職種に、舞舞、猿楽、陰陽師、鉢たたき、方下、鐘打、獅子舞など、神社での祭りを彩るものが多くあるのは、平安時代、前政権(蘇我王朝と天武王朝)の氏神の祟りを封じるためと、早良親王の怨霊を鎮めるために、それらの怨霊に怯える桓武天皇が、前政権の武人の陸奥国の蝦夷の捕虜を、武芸者として神社境内で怨霊の魂鎮めの儀式をおこなわせた流れに、鎌倉時代の芸能の祖があるからです。
漂泊芸能民による猿楽とは、簒奪王権により貶められた蔑称で、その祖は、景教の祭祀者の秦河勝で、猿楽←さる楽←申・シン楽←秦楽であったのです。オリエント渡来の秦氏の祭祀舞踏が、猿楽の本来の姿であるわけです。その猿楽の流れから、源氏支配の室町時代に、秦氏末裔の賎民の世阿弥により「能楽」に発展するわけです。
秦河勝は、教科書歴史によれば、聖徳太子の命で仏像安置のために、広隆寺を創建したそうです。仏教伝来物語では、その聖徳太子から与えられた仏像の名は、弥勒菩薩です。しかし、その弥勒菩薩とは、実際は、ミトラ神(ミトラ神は、仏教に取り入れられ弥勒菩薩と変身した。)のことなのです。
そこで、平安時代に創作された、聖徳太子主演による百済仏教伝来物語のトリックが明かされるのです。それは、広隆寺の元は、蜂丘寺と言い、それは太陽神ミトラを祀る景教寺(ペルシャ寺)であったのです。百済平安王朝は、ペルシャ寺の景教寺を仏教寺の広隆寺と変身させ、ミトラ神を魔多羅神と変身させ、前政権のオリエント渡来の秦氏の宗教を、日本列島史から抹殺するわけです。
奈良時代末期、東アジアの宿敵騎馬民族国家・突厥帝国(飛鳥ヤマト蘇我王朝の母国)を離散させた中国・唐軍の支援により、秦氏の支配地山背国を乗っ取った百済亡命貴族は、その地の簒奪を隠すためと、平安時代初期、百済系桓武天皇が、藤原氏の奈良仏教に対抗するため、中国山東半島から導入した天台宗が、飛鳥ヤマト時代から存在していたと偽造史を創作するため、自然神を祀る騎馬民族を蔑視する法華経のキャラクター、モーセ(十戒を授けられたモーセのように、憲法十七条を制定した聖徳太子)・ダビデ(敵将を倒す少年ダビデのような、物部軍の敵将を倒すため呪いで支援する少年聖徳太子)・キリスト(厩で生まれたキリストのような、聖徳太子)の合成人物である「聖徳太子」を発明して、「日本書紀」の仏教伝来物語の552年よりも前の、538年百済の聖明王による仏教伝来物語を創作し、その百済仏教伝来物語のトリックとして、太陽神ミトラを祀る秦氏支配の山背国の祭祀者である秦河勝を、聖徳太子の臣下としたわけです。
オリエント文化の蘇我王朝を倒して、645年以降に発明された神社は、死者を祀る施設ではなかったのです。それは、古墳に眠る前政権の氏神の祟りを封印するための施設であったのです。ですから、歴史のある神社は、こんもりとした小山(古墳・塚)の上に設置されているのです。その施設境内が、ペルシャ平家により神社・仏閣を破壊する平安末期、騎馬民族末裔のビジネスの地となるわけです。その理由は、その結界地には、祟りを恐れた王権は近づかなかったからです。その神社の祭りで、芸能民を仕切る「役座」は、当然芸能興行にも携わるわけです。ですから、現在の歴史のある正統役座と芸能民との繋がりの歴史は、鎌倉時代からのものなのです。
北条鎌倉時代に、現れた武装集団がいます。それらの武装集団は、自ら「悪党・アク党」と名乗っていたのです。では、その「悪党」とは何を意味していたのでしょうか。
645年前政権のオリエント文化の蘇我王朝を倒した後、藤原氏により仏教隆盛の詔が発せられ、奈良・平安時代に、王権にまつろわぬ者は、仏教思想により、仏敵の「鬼」と貶められてしまったのです。その深山に隠れ住む「鬼」とは、前政権の王族・軍属末裔であったのです。
では、北条鎌倉時代、深山を根城とする武装集団の「悪党」とは、何でしょうか。武装集団は、自ら「悪党」と名乗ったからには、「悪党」とは「悪い意味」ではないのです。その意味は、「アク」とは、古代オリエント語で、「勇者」の意味であったのです。ですから、「アク党」とは、勇者の集団の意味だったのです。それを北条鎌倉幕府は、「勇者・アク」に仏教用語の「悪」を当てはめて、オリエント渡来の騎馬民族の存在を抹殺していたのです。このことは飛鳥ヤマトでの「スクネ」も、古代オリエント語で「勇者」の意味であったのを、オリエント文化の抹殺を図る、飛鳥ヤマトの簒奪王権は、「勇者・スクネ」を「宿禰」との官位としてごまかしていたのです。
北条鎌倉幕府は、武士の源氏と異なり、文官であるサムライ上がりの武家であったので、源氏のように武力で統治するよりも、法律で臣民を統治することになるわけです。それが、1232年51ヶ条による御成敗式目となるわけです。
武力統制できない北条鎌倉幕府の弱体を見抜いた仏教勢力は、再び軍事力を増していくのです。その中心が、奈良の興福寺と京の延暦寺です。そして、「座」ビジネスで銭を溜め込んだ、深山に住む源氏の騎馬民族末裔は、再軍備をして源氏の世の再来を目指していたのです。
この源氏「悪党」の変革は、室町初期に著された「峯相記」に、

正安・乾元(1299年〜1303年)の悪党は、柿帷に六方笠を着て、柄や鞘のはげた太刀を佩き、竹長柄・サイ棒をした、「異類異形ナルアリサマ、人倫に異ナリ」とあるのが、正中・嘉歴(1324年〜1329年)には、悪党は、良い馬に乗って、五十騎百騎と打ち続き、引き馬、唐櫃・弓箭などの兵具に金銀をちりばめ、鎧・腹巻は照り輝くばかりであった、とあるのです。

源氏武士末裔が、「異類・異形」であるのは、ツングース系・南方系農耕民族と異なるからです。源氏武士の先祖には、ギリシャ・ローマ・スキタイ・チュルクなど西欧・オリエントの血が流れていたからです。それらのオリエントから渡来の民族は、日本列島への渡来時に、「秦氏」と名乗っていたのです。ですから、芸能民の祖は、秦氏ですから、江戸時代の芸能民も、目の細いのっぺりした顔のツングース系農耕民族達に、役者顔と言われる目が大きく鼻が高いため、異類・異形の異民族と言われていたのです。
北条鎌倉幕府に追われて、山奥に隠れ住んでいた源氏末裔が、「峯相記」にあるように短期間に再軍備を可能にしたのは、源氏武士は騎馬民族のため農耕を全くしないため、その財源元が「座」ビジネスによるものが多かったからです。
仏教勢力の妨害から役座の保護の下、神社境内でのバザール(高町)での商売を盛んにしたのは、1206年北東アジアを席巻した騎馬民族のテムジンが南下して、金帝国(1115年〜1234年)を滅ぼし、南宋(1127年〜1279年)を圧迫したからです。その結果、南宋の禅宗組織が、日本列島の北条鎌倉幕府に亡命して来たからです。
南宋の禅僧は、茶だけではなく、中国の書画骨董を多量に日本列島に持ち込んできたのです。そして、国際交易商人の顔を持つ禅僧は、日本から日本刀を美術品として持ち出して、中国で捌いていたのです。そのチュルク系騎馬民族の武器である蕨手刀からの改良の日本刀を製造する刀鍛冶師は、源氏武士と同根の秦氏末裔であったのです。オリエント渡来の秦氏の遠い先祖には、鍛造鉄器製造法を発明したヒッタイト人の血が流れていたのです。
そして、大乗仏教を嫌う武士は、中国渡来の禅文化に染まるのです。それは、法華経などの肉食民族を差別する思想を布教しない、と言うよりも、禅宗は、ヨーガと類似する、只座し瞑想により解脱を試みる宗教組織なので、瞬く間に禅文化は、反仏教のため漢字の苦手な武士社会に入り込むのです。その禅寺が、後に改良され武家屋敷となり、床の間には、中国の水墨画が掛けられていくのです。そのため、禅宗組織が中国から持ち込む書画骨董品は、役座が仕切る神社境内の「座」ビジネスを盛んにしたのです。
更に、役座は、仏教ビジネスの賭博・売春・高利貸しを、庶民に対しておこなうことにより、その結果として、役座と繋がる山奥の源氏武士末裔の暮らし向きは、照り輝くばかりであったのです。
ここで疑問を持つひとが現れるのです。その疑問とは、何故、仏教組織が、高利貸しは理解できても、「賭博・売春」をおこなっていたのか、と言うことです。
賭博・売春は、現在の法律では「悪」のビジネスと決め付けられていますが、古代では、賭博・売春は、宗教施設内でおこなう「神事」だったのです。
その賭博とは、宗教儀式の「占い」から派生したものなのです。将来を見極めることができないのが人間です。そこで、将来を占うことを専門としたひとが現れるのです。宗教施設内でその占い師は、ひとびとの将来だけではなく、国の将来までも占っていたのです。
しかし、未来を見通す能力がないことがバレた占い師は、「占い」から未来の出来事を当てる、「賭博・ゲーム」を考え出すのです。つまり、「宗教占い」から派生した賭博は、未来を予測する知的ゲームとなったのです。ですから、徳川家康の時代までは、未来の出来事を予知できる有能な賭博師は、ひとびとから畏怖されていたのです。(現在でも、株式バクチの名人は、株価の預言者となり、ビジネス誌で金儲けの神様扱いです。)
戦国末期から江戸初期、エドから京までの軍事道路の運営管理費を、徳川家康が一文も払わなかったのは、役座が仕切る賭博・売春・高利貸しでまかなっていたからです。(東京都の財政に苦しむ都知事が、お台場ギャンブル化構想を計画しているのは、徳川家康の財政手法そのままのようです。)
では、売春はどうでしょう。売春は、江戸時代の遊び人が、遊郭に行くことを、「宮参り」「観音様を拝みに行く」「お篭りする」と言っていたように、古代の売春は宗教施設内でおこなわれていたのです。それは、「聖婚」と言われていたのです。そして、相手をする聖婚者は、地母神、聖母マリア(古代エジプトの地母神イシスが、キリスト教に導入されて聖母マリアと変身した。キリスト聖書物語では、キリストの母。)、比丘尼、巫女などと呼ばれていたのです。
因みに、日本国で、売春が法律で禁止となったのは、1945年太平洋戦争敗戦後、1946年GHQの指導による売春禁止法からです。
古代オリエントでは、ジクラッドの聖殿、バベル塔の聖殿で、「聖婚」はおこなわれていたのです。聖殿とは、外界から隔離された所で、それは「エデンの園」であり、古代バビロニア語では、「ハレム」といわれていたのです。大乗仏教も、キリスト教と同根ですから、「エデンの園」はあったのです。その名は、「内道場」です。それらの聖殿で、生殖とは関係なく、不特定多数のひと達が、神と交わるために「聖婚」をおこなっていたのです。その聖婚の管理者とは、宗教者であることは言うまでもありません。
645年突然日本列島史に現れた藤原氏が、天皇の取り巻きとなって、現在に至っているのは、その「聖婚」儀式を管理していたからです。
672年唐軍に支援された近江・百済亡命政権を倒した新羅系大海人皇子は、日本列島初の天武天皇となり、その王権の正当性を示すため、大嘗祭をとりおこなうのです。大嘗祭とは、天皇が行う秋の収穫祭などではなく、太陽が再生する日である冬至(ミトラ神復活の日)におこなう、前政権の王権を、天神を媒介として、地神(天皇)に引き継ぐ道教の流れを汲む儀式で、その儀式は一世一代であったのです。
しかし、686年天武天皇が崩御すると、そのお后を持統天皇として、藤原不比等は、大嘗祭を変革してしまうのです。その変革とは、天皇が行う宮廷の儀式を、一代一度の大嘗祭と毎年おこなう新嘗祭に分けたことです。
そして、奈良末期になると、やがて、大嘗祭は、唐風・陰陽道(道教が変身したもの)などの儀式を取り入れて、道教色がなくなってしまうのです。更に、亡命百済政権の平安時代半ばには、その大嘗祭はおこなわれなくなり、大嘗祭が復活するのは、1868年明治天皇からなのです。
では、その大嘗祭の儀式がおこなわれなかった期間は、どのような儀式をしていたのでしょうか。それは、錬金術師空海が発明した秘印をむすび、ダキニ天(インド・ヒンズー教の鬼女が変身した神)の真言(アラム語の呪文)を唱えていたのです。
つまり、七世紀末、天武天皇が始めた宮廷儀式は「道教風」であったのが、平安時代から江戸末期まで、百済系天皇家は「神仏混交儀式」で、宮廷儀式をおこなってきたのです。ですから、百済系天皇家の菩提寺である泉涌寺では、道教儀式を貴んだ天武天皇家の位牌を全て排除しているわけです。それは、道教と仏教とは、中国大陸で死闘を演じた仲であったからです。(446年中国・北魏の太武帝による仏教弾圧は、仏教が「内道場」などにより風紀を乱した、との道教の密告が原因と言われる。この北魏の仏教弾圧により、200万人とも言われる仏教僧が北魏を追われ、その一部が、朝鮮半島を経由して、六世紀に日本列島に渡来した。)
では、毎年宮廷でおこなわれる新嘗祭では、何がおこなわれていたのでしょうか。それは、新嘗祭の儀式後、天女に似せた衣装を着た若い「藤原の女」が、天皇・貴族の前で、五節舞の踊りをおこなっていたのです。
この藤原氏による五節舞の儀式は、インドのバラモン教の儀式と似ていたのです。そのバラモン教の儀式とは、王族達の前で、裸同然の若い女達が舞いをおこなっていたのです。「踊り」とは、男捕り(おどり)と言われているように、男の情念を刺激します。その儀式が終わると、気に入った舞姫を、王族はお持ち帰るのです。その舞姫の儀式を管理することにより、バラモン僧は、インドの王族を支配していたのです。
ここで疑問が起こるのです。それは、道教の流れを汲む神農様を祀る反仏教の役座が、道教を貴ぶ天武天皇と血の繋がりのない、仏教儀式の祭祀者である百済系天皇を、何故崇拝し擁護するのか、ということです。
その謎は、1868年の「明治維新」といわれる、イギリス秘密結社が支援する革命にあったのです。イギリス秘密結社のメンバーと言われる武器貿易商人グラバーは、イギリス秘密結社と薩摩・長州との仲介者となり、幕府政策不満下級武士や賎民をあつめ、明治革命の手先とするのです。その中心国の薩摩・長州は、戦国時代、イエズス会との繋がりがあったのです。そして、薩摩と長州に武器弾薬を売り込むグラバーの手先が坂本竜馬で、後に、イギリス秘密結社による日本列島侵略の秘密を知りすぎ、幕府公安警察をつかさどる賎民出身の勝海舟の手先でもあったため、坂本竜馬は、結社員により暗殺されるのです。
因みに、明治維新という革命では、第三百済王朝の江戸幕府には、フランス秘密結社が軍事援助をしたのです。つまり、明治維新とは、見方を変えれば、戦国時代のイエズス会の日本列島侵略政策の続きで、イギリス秘密結社とフランス秘密結社との日本列島争奪戦争でもあったのです。
慶応三年(1867年)12月9日、王政復古の大号令が発せられたのです。イギリス秘密結社が提供する最新式銃や機関銃により、戊辰戦争に勝った薩摩・長州を中心にする勢力は、その革命の正当性を示すために、七世紀に藤原氏が、685年天武天皇が創建した伊勢神宮を乗っ取り、その後、発明した天照大神と、血統において繋がるとされる天皇の宗教的権威にもとめたのです。
その前例として、672年近江・亡命百済王朝を倒した新羅系天武天皇は、伊勢神宮を創建し、その革命の正当性を示すために、北極星(太一)を祀る道教儀式により、大嘗祭を発明して、前王権から王権を受け継いだとされる例が、日本列島史にあったからです。
そこで、明治新政権は、それまでの百済系天皇家の錬金術師空海が発明した仏教式・唐制風儀式を廃止することになるのです。その結果、明治新天皇がおこなう儀式は、十三となるのですが、元禄元年(1688年)に復興されて以来続けられてきた藤原氏が仕切る五節舞をおこなう新嘗祭と、藤原氏が仕切る伊勢神宮の祭祀をとりいれた神嘗祭を除いた、十一の祭祀は、古代飛鳥ヤマト時代から続くものではなく、すべて明治維新の後に、新発明された儀式であるのです。
明治維新とは、天皇だけではなく、藤原氏の政治復活でもあるわけです。ここに645年に日本列島に突然現れた藤原氏の歴史が、明治維新により復活するのです。
645年オリエント文化の飛鳥ヤマトの蘇我王朝を倒してから明治維新までの藤原氏は、794年唐進駐軍に支援された百済系桓武天皇により奈良の都に封印されて以来、平安時代の907年桓武天皇家を支援した唐滅亡後の藤原氏による摂関政治時代、戦国武将の豊臣秀吉をイエズス会から寝返らせて傀儡関白とした時代を除くと、政権の中枢から外れ、南九州島津荘で中国大陸と密貿易をしながらくすぶっていたのです。
明治維新で復活した藤原氏は、古代飛鳥ヤマト政権を乗っ取った手法を、再びおこなうのです。宿敵天武天皇が崩御した後、701年藤原不比等は、大宝律令を発して、豪族の所有地を天皇に拠出させ、そして、その土地を再び天皇から豪族に与える、というトリックを考え出すのです。これにより、全国(近畿一帯)の土地を支配する天皇を、藤原氏が「藤原の女」を使ってコントロールすることにより、各国の豪族を支配できることになるのです。
藤原氏(近衛家)が支配する薩摩・島津家が暗躍する明治新政府は、明治二年(1869年)に、各地に教論書を頒布するのです。その内容は、「天皇が天照大神の子孫である。土地と人民はみな天皇の所有となる。天皇は日本国の父母であり、人民はその赤子である。」、とあるのです。
このような、藤原氏だけに都合の良い「詔」に対しては、明治革命により突然現れた明治天皇など知らない多くの人民は黙っていたわけはありません。そこで、その詔に反発する人民を黙らすため、明治新政府は、ペルシャ平家の反逆者を黙らす手法を使うのです。その手法の手先として、役座組織が利用されたのです。
平家が、平清盛より三代先の正盛以前の出自が不詳により、そして、「牛祀り・祇園会」などのアラブ・インド色の強い文化を持っているため、百済亡命平安貴族より賎民視されていたのが、三代目平清盛が、1167年太政大臣となり、権勢をほしいままにできたのは、白河上皇のご落胤の威光だけではなかったようです。
それは、赤い直垂を着る「六波羅殿の禿・かぶら」と言われる、平清盛に忠誠を誓う童形の秘密結社メンバーの働きによるところが大きかったからです。古来、赤い衣を着るのは、フェニキアの国際海洋民族の風習であるのです。平家の出身地の伊勢には、古くからアラブから国際海洋貿易商人が渡来していたのです。672年の壬申の乱でも、新羅系大海人皇子を支援する、伊勢の軍勢は、赤旗を掲げて、百済亡命近江王朝に攻撃を仕掛けていたのです。
その「六波羅殿の禿」は、都の隅々まで探索し、平家の悪口を言っている者がいると、その者の家に集団で押し入り、家屋を破壊して、口封じをしていたのです。
では、その「六波羅殿の禿」の「六波羅」とは何を意味していたのでしょうか。六波羅の地は、賀茂川の東に位置し、そこには上流から死体が流れ着くところで、「髑髏ヶ原」と呼ばれた葬送の地であったのです。その「髑髏ヶ原」が、「どくろが原」→「ろく原」→「六波羅」と変化していくわけです。その平家の都・六波羅は、源平合戦で勝利した源氏武将を謀略で抹殺した桓武平氏・北条鎌倉幕府の、反体制の源氏残党狩りのための施設である「六波羅探題」となるわけです。そして、源頼朝を暗殺して政権を乗っ取った北条政子は、源氏の神を祀る八幡神社から、平家の神を祀る厳島神社に祀り処を代えることにより、平家の歴史も乗っ取るのです。これらのことにより、後の人は、平家を「伊勢平氏」などの「姓」を創作して、平家も平氏も同族だとしてしまうわけです。
では、平家と言わず、その後、平家を倒し隆盛した源氏も、地獄谷と言われた鎌倉盆地の葬送地を根城としたのは何故でしょうか。それは、平家も源氏も、百済系平安王朝から敵視されていたからです。
794年唐進駐軍に支援された百済亡命貴族出身の桓武天皇は、奈良王朝の儀式とは異なり、唐の儀式により天皇の詔を発したように、百済の敵国であった新羅の末裔である源氏は、中央政権から追放され、農地以外の辺境の地へ追いやられていたのです。
平安王朝を支援する唐進駐軍は、北東アジアを支配していた、そして、飛鳥ヤマト蘇我王朝を支援していた突厥帝国を、630年に散逸させると、日本列島の陸奥に残存する突厥帝国軍残党狩りをおこなうわけです。その陸奥国侵略の過程で、京から関東平野までが、平安王朝の支配下となり、それらの農耕地に適した肥沃な地には、百済系の農耕民が移住させられ、その管理に百済系桓武平氏があたっていたのです。
それらの桓武平氏末裔には、秩父氏、千葉氏、上総氏、三浦氏、そして、北条氏がいたのです。その桓武平氏の北条氏が、源平合戦で源氏の源頼朝を担ぎ、蝦夷軍の棟梁である源義経の活躍で勝利するわけです。つまり、源平合戦とは、赤旗の「平家」対白旗の「源氏+平氏」であったのです。
ですから、百済系平安王朝から敵視されていた平家も源氏も、葬送地以外の肥沃な平地には住めなかったのです。そのような穢地から成り上がった者には、上流階級から悪口を言われるのは昔も、今も同じです。そこで、前政権に反感を持つ賎民を使って、成り上がり者に対して悪口を言う者に、組織的暴力で口封じをおこなうのです。
1868年明治革命での主役である薩摩・長州藩は、譜代大名ではなく、外様大名が統治していた藩であったのです。外様大名の藩には、いつ寝返るかも知れないため、その動向を探る施設のひとつとして仏寺を多く設置していたのです。
薩摩藩の前身は、鎌倉初期に源頼朝より秦氏末裔惟宗氏が、藤原氏の島津荘を乗っ取った地であったのです。ですから、薩摩藩には、平安時代に仏教組織にイジメられていた秦氏の末裔が多く暮していたのです。
長州藩の前身は、戦国大名毛利氏の支配地です。毛利水軍は、戦国時代末期東洋一と言われる国際都市大坂を守る秦氏末裔の賎民軍団に対して、大坂の地の支配を目論むイエズス会が軍事的支援をし、最新装備をした織田信長軍団との十年にも渡る一向宗との宗教戦争では、武器弾薬・食料を供給していたのです。この大坂十年戦争は、織田信長軍が、賎民軍団との休戦条約を破ることにより勝利するわけです。「織田信長の本能寺の爆殺」後に天下を執った関白豊臣秀吉が総監修した「信長公記」では、織田信長軍の攻撃を十年も持ち堪えた秦氏末裔軍団の砦を「えったヶ城」として蔑んでいたのです。
そのように薩摩・長州藩は、百済亡命王権より賎民として落とされた秦氏末裔と深い関係のある藩であったのです。1864年蛤御門の変の後、第一次長州征討に破れた長州藩では、高杉晋作が率いる奇兵隊が、正規軍に代わり主導権を得て、鳥羽・伏見、そして、戊辰戦争で活躍するわけです。
では、長州藩の正規軍ではない、その奇兵隊とは何でしょうか。それは、幕府の政策に不満を持つ下級士族と穢多と言われる賎民との混成部隊であったのです。
穢多は、北条鎌倉時代より王権・庶民から賎民視されていましたが、江戸浅草の穢多頭弾左衛門が、穢多身分ながら大大名並の生活をしていたように、表向き土地を所有できないため、商業・技能職・芸能職で暮しを立てていたため、「銭」の蓄財知識があったのです。長州藩の賎民達も、自ら蓄財した銭で、武器商人グラバーが捌く最新式銃弾薬を買い求め、騎馬民族差別思想を粉砕するための倒幕を目的に、奇兵隊に参加していたのです。
そのような賎民軍隊に敗れた幕府の庇護の下にあった仏教組織は、危機感を募るのです。その予感は、1868年太政官布告神仏分離令により、現実のものとなるのです。
騎馬民族末裔、賎民部落出の徳川家康の威光が消え、百済の血が流れていると言われる三代将軍徳川家光より始る、騎馬民族末裔抹殺のための檀家制度・寺請制度をもとに、幕藩権力の一翼を担っていた仏教寺院は、平安時代より仏教思想により長い間苦しめられていた騎馬民族末裔の反感を、一気に受けるのです。
その賎民のエネルギーを、明治新政府は、王政復興の虚構物語キャンペーン支援に利用するのです。その王政復興のトリックとは、日本神道は仏教伝来の後に日本列島に現れたのに、そして、神社は仏寺の後に日本列島に創建されたのに、「日本列島古来の宗教は神道である。外来の仏教は破棄せよ。」、とするのです。実際は、仏教伝来の前には、オリエント文化の飛鳥ヤマトには、道教と景教とが存在していたのです。
明治維新以前の神道は、平安時代に発明された「本地垂迹説」により、神は仏の配下とされ、仏教組織に呑み込まれていたのです。その思想により、平安時代に神社は仏寺に習合されて、神宮寺となっていたのです。そして、錬金術師空海の発明した日本密教により、インド・バラモン教・ヒンズー教の神々が、○○天や○○明王などの仏像となり、仏寺に仏の化身として安置されるわけです。そしてそれらの外来の仏は、仏教組織にイジメられていた役座に牽きいれられた、そして、明治革命により開放されたと信じた賎民達により、破壊されていくわけです。
1868年の神仏分離令に合わせるかのように、比叡山延暦寺が支配する日吉山王権現社が、役座に牽きいれられた新平民達により徹底的に破壊されるのです。これは正に、1571年戦国時代の織田信長による比叡山延暦寺焼討ちの再来です。そして、その廃仏毀釈運動に刺激された、江戸時代に幕府の手下である仏教組織にイジメられていた薩摩の人民は、藩内の仏寺を破壊尽くすのです。いかに、薩摩藩の秦氏末裔が、江戸時代に仏教組織にイジメられていたかの証明のように、その破壊された数は1616寺であったのです。
何故、比叡山延暦寺は、海洋民族賎民を先祖に持つ織田信長や穢多と呼ばれる賎民達により、眼の敵にされたのでしょうか。それは、飛鳥ヤマト時代には秦氏の支配地であった比叡山を、唐進駐軍に支援され百済亡命貴族達が乗っ取り、そして、秦氏の神ミトラを魔多羅と貶め、そして前支配者も、中国大陸から導入した仏教差別思想により、賎民として貶めイジメていたからです。そのイジメ思想の発信地が比叡山延暦寺であったのです。穢多の差別語が発明された鎌倉時代の仏教僧の多くは、その比叡山延暦寺で、肉食する騎馬民族を差別する仏法を学んでいたのです。
平安初期、百済亡命貴族が、中国山東半島から土着の神「シャンワン・山王」を日本列島に持ち込み、藤原氏の春日社に対抗して発明されたのが、「イルギ社」→「日枝社・イルギ社」→「日吉社・イルギ社」であるわけです。神仏分離令により、その日吉山王権現社が、役座の組織的暴力により、日吉神社となったのに対して、藤原氏が支配していた南都七寺のひとつである興福寺は、僧侶自ら金目の物は処分して、伽藍に火を放ち、僧侶全員が春日社の神主として変身してしまうわけです。ここに明治維新と藤原氏との謎が発覚するのです。
明治新政府樹立を企む国際組織は、用意周到に計画を進めたようです。それは、1866年薩長連合の盟約が成立すると、それに合わせるかのように江戸・大坂で打壊し騒動が同時に起こり、その翌年1867年名古屋から「ええじゃないか運動」が起こり、その群集は、平安時代より百済系桓武天皇から見向きもされなかった、そして、江戸時代の参勤交代ではその地を迂回していた、平安貴族より穢れ地とされた伊勢の神宮を目指して無銭の旅を始めたのです。
そして、神武天皇稜が人工山を改装して創作されるのと時を同じくして、江戸末期まで荒れ果てていた伊勢神宮が、明治新政府により改装され、それまであった仏教色のある建物・像は徹底的に破壊・処分されて、参道にはダビデの星が刻まれた灯篭が整然と設置されたのです。そして、新羅系天武天皇が、太一(北極星)を祀るため「伊勢の宮」を685年に創建し、初めて参拝してから千数百年後に、正式に明治天皇が、天照大神を祀るため「伊勢神宮」に参拝することになるのです。
「明治天皇の禿」の仏教組織に対する暴力の嵐は、三年後の1871年ごろには収まったのですが、明治天皇も見たこともない民間人への急速な「神道の祀り」を実施したために、神道の儀式など知らない民間人に大混乱を起こしてしまったのです。そこで、明治新政府は、天皇の民間人への「神道」のプロパガンダとして、「祭り」を始めるわけです。
明治四年(1871年)明治新政府は、廃藩置県の発令に合わせるように、大嘗会告論により、村々の人民に大嘗祭にあわせて、村々の産土神を参拝するように強く命じたのです。ここから、日本全国の村の「鎮守の祭り」が始るわけです。
その大嘗会告論のトリックは、天武天皇が発明した一世一代の政権交代の儀式であった大嘗祭を、天皇による秋の収穫祭として改竄し、日本列島全人民の産土神への秋祭りとし、その祭りの主催者として天皇を位置づけるわけです。つまり、天皇が主催する秋の産土神の祭りを、日本国全人民が祝う、という図式です。
そこで登場するのが、祭りを煽る神輿です。しかし、平安時代より神輿は、前政権の怨霊を移動させるための施設であったわけです。そして、それは、僧兵の強訴の手段のひとつでもあったわけです。移動用神社である神輿は、前政権の氏神を封じ込める施設であったのです。その神輿に乗る氏神の魂を鎮めるには、氏子が必要となるのです。
役座は、元は前政権の武人であったわけですから、役座が神輿を担ぐことは、氏神の魂を鎮めることになるわけです。そこで、祭りで役座が神輿を担ぐことになるのですが、神輿に乗る氏神は、現政権には怨霊神でもあるわけです。そこで、神社から神輿が通るところへ、神主が穢れ祓いの「塩」、キヨメの「水」を撒くことになるわけです。このことが、神輿に塩や水を撒く歴史的ルーツであるわけです。
明治初期、「明治天皇の禿」である役座の活躍により、新興神道に敵対する仏教組織は壊滅し、「天皇は天照大神の子孫」「天皇家は万世一系」「日本列島古来の神社」などの明治新政府が発明したスローガンに疑問を持つ者の口封じをしたことにより、やがて明治天皇は、現人神となっていくわけです。
明治天皇が、新人芸能人の売り込みのためにキヤラバン隊を組んで派手な宣伝カーで全国行脚するように、白馬にまたがり全国行脚のパフォーマンスにより全人民に認知され、そして、神社での神事が「祀り」から「祭り」に替わった頃、「明治天皇の禿」であった役座は、明治政府王権にとっては邪魔者となっていくわけです。そして、怨霊を封じ込めていた神社が、明治新政府の御用学者のプロパガンダにより、死者を祀る施設として人民の意識変換に成功すると、今まで神社での神事を仕切ってきた役座は、明治政府王権にとって邪魔者となっていくわけです。そして、邪魔者は、やがて王権により社会的に抹殺される運命にあるわけです。そして、村の鎮守の祭りで神輿を担いでいだ役座も、やがて、王権により神輿担ぎから排除されてしまうのです。
役座が「明治天皇の禿」でなかったならば、明治天皇は現人神になれなかったかもしれません。それは、突然明治革命で現れた天皇の存在は、民衆にとって遥か遠いものであったからです。それを証明するかのように、天皇という名称も、大日本帝国憲法が発令された明治二十二年(1889年)前には、主上、天子、天子様、帝、天皇陛下、陛下、聖上、ミカドなどと呼ばれて、統一してはいなかったのです。
役座が闇の世界から天皇の登場を支援していたとすれば、御用学者は「藤原氏の日本史」を創作することにより、真昼の世界で天皇のイメージ作りに励んでいたのです。
1886年(明治19年)東京に創設された帝国大学に、その翌年ユダヤ系ドイツ人の歴史学者ルードヴッヒ・リースが招聘されたのです。これにより日本列島初の史学科が開設されたのです。
リースが教えた歴史は、ヘロドトスの流れを汲む地中海・西ヨーロッパ的歴史観であったわけです。それは、今ある大国も昔は弱小国であった、そして、昔大国であったものが、やがて小国となったと言うことを物語るのが、その歴史観です。しかし、帝国大学の史学科では、リースの教えに反して、今までどおりの司馬遷が創った中国型の「正統史観」を主幹として、地中海・西ヨーロッパ的歴史観を枝葉としてしまったのです。
正統史観とは、誰が正統に王権を継承したかを物語る歴史観です。これにより、日本列島史は大混乱をおこすのです。それは、藤原不比等が720年「日本書紀」で創作した神代の神話が、そして、その「日本書紀」の物語を否定するために秦氏末裔多人長が、812年に創作した「古事記」(712年完成はウソ。その根拠は、多人長が、「古事記」が「日本書紀」より前に著作されたものとするために、奥付に和銅五年(712年)と記載したため。)の神話が、歴史の顔を持ってしまったからです。
それにより、日本列島の神代から天皇家が継承され続けてきた、と多くのひとが信じてしまうのです。しかし、天皇の名称が日本列島史に現れたのは、672年新羅系天武天皇が初めであるのです。
この帝国大学史学科の正統史観が、日本列島史を物語るなかで、藤原氏が創作した「日本書紀」が語る歴史を金科玉条とし、日本列島には古来から神道が存在していたとし、仏教組織が抹殺した北極星を祀る道教・太陽を祀る景教など日本列島に存在していなかったとし、役座の先祖であるオリエント渡来の秦氏末裔を賎民とし、オリエント文化の飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族・チュルク系蘇我氏を、飛鳥ヤマト時代に天皇など未だ存在していないのに、天皇殺しの大悪人としてしまったのです。
そして、役座の威圧を恐れた学者やマスコミは、明治初期から現在まで、天皇の歴史を解明することをタブーとしてきたのです。しかし、天皇の謎など何もないのです。天皇が祀る宗教を調べれば、天皇家が、天照大神の子孫でもなければ、万世一系でもないことなどは明らかとなるのです。
天皇に謎があるとすれば、それは藤原氏の謎です。つまり、天皇のタブーとは、645年日本列島に突然現れた藤原氏のタブーなのです。藤原氏の祖である中臣氏は、なか→ナーガ→古代インド語でヘビの意味で、藤原氏はヘビを祀る氏族だったのです。ですから、七世紀に藤原氏が、仏寺に対抗して開発した神社では、ヘビは守護神であるわけです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/844.html

コメント [政治・選挙・NHK178] 田母神氏、ネット情報うのみ? 「人質事件」事件で不確かな情報連発(J-CASTニュース) 赤かぶ
09. 2015年1月31日 19:33:04 : lJ6muSbUzw
田母神俊雄、志方俊之、佐藤(?_?)髭の元自衛隊員の自民党参議院議員、百田ナオキ同様のいわゆる【鼻つまみモン】は昔から存在していた。
「鼻つまみモン」は平均的な日本人が「思い、願い、感じる日本語」である(命)・(平和)・(安心、安全)をわざわざ言葉で強調して安売りしていた。だから当時の日本人には相手にされなかった。
昔と今の決定的違いは【鼻つまみモン】の活躍できる土壌が広がったことだ。
その土壌が電波。いくら活字で拡散しようと試みても自ずと限界がある。
田母神が昨年の都知事選で60万票を得たのには(@_@;)したが、「イスラム国」との神経戦での日本政府、【鼻つまみモン】の脳みそだけでは絶対勝てない。
今回も「因幡の白兎」でアメリカが大國巫女の尊の役割にはならない。米にとって+にはならないから。アングロサクソンと仲良く従うだけが日本人の百年安全担保にはならない。
戦いに積極的に参加しないことが敗戦国日本の唯一の生きる道。

http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/913.html#c9
コメント [マスコミ・電通批評14] NHK「公共メディアへ」 ネット・受信料、本格検討 経営計画判明(産経新聞) 赤かぶ
12. 2015年1月31日 19:34:00 : NOw9RSY5s6
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015013102000250.html
モモタが2月末で切られる(契約更新しないだけのおだやかな方法)らしい、
1月末で斬首にしてほしいが、
そもそもこいつは犬HKで何かをやったのか?無駄に金を受け取っていただけの
チンピラだったなら給料の返金訴訟起こすべきだな、契約者として。
ていうかこういう委員選出にこそ地デジの双方向機能を使うべきじゃないのか?
投票など簡単にできるはずだぞ。
(ま、イカサマも簡単か)
http://www.asyura2.com/13/hihyo14/msg/541.html#c12
コメント [政治・選挙・NHK178] 岡田氏「自衛隊の邦人救出、議論したらいい」(産経新聞) かさっこ地蔵
05. 2015年1月31日 19:34:00 : IMQzjnLJEA
人質救出は技術的にむずかしいのよ。
交渉チャンネルすらもてない日本政府が、何処に監禁されているかも解らない人質を生きたまま救出するなど不可能だ。
議論するまでもない。
自衛隊や特殊部隊などと言葉では何とでも言えるが、魔法が使える訳じゃない。
隊員もそれなりの訓練が必要で、交渉チャンネルすら無いのに状況把握もできなければ訓練などできる訳はなく作戦も立てられない。
何を寝言言ってるんだ岡田。
もし仮に戦争の口実作りなら有効かもしれない。
人質取られました。→救出に行きました。→全滅しました→日米合同作戦実行しました。→戦争になりました。→戦線が拡大しました。→徴兵制復活させます。→税金上げます。
そう言う事じゃなくて法整備というのは、渡航勧告に反して外国で邦人が危険に晒された場合の政府対応に関する法整備でしょう。
此処までは面倒みるけど後は自己責任でねっていう線引きでしょう。
政府が無限責任を負わされたら、それのために内地の日本人の生命・生活に関しての政府のマンパワーが不足する事になる。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/909.html#c5
コメント [自然災害20] 南海トラフ地震の「先駆け」となった西日本の直下型地震 警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識(ZAKZAK) 赤かぶ
03. 2015年1月31日 19:36:29 : FIf1GOw4LQ
島村英紀氏については評価できる論が殆どなのですが、このヒト、庶民の泥臭い仕事とかしたを経験があるのか疑問。
警備とか宿直とかで仮眠業務を一度でもした人間なら、熟睡してしまうと警報などが鳴ってもわかないか、わかっても10分以上は正常の活動不能、と言う事くらいはわかる。
すると熟睡時間帯に地震や津波が起きると、十数分は対応ができない。
この点について、有識者が指摘していないのは理解できない。
http://www.asyura2.com/14/jisin20/msg/400.html#c3
記事 [近代史02] 神輿の黙示録(17)(日本列島史の謎:日本史とは藤原史のことか)
「藤」は、春の四月から五月にかけて、花を房状に垂れ下げて咲かせる、マメ科の蔓性の落葉木本です。そして、その性質は、「藤原氏」の「生き方」と酷似しているようです。
「藤」は、蔓性のため、自身では子孫を繁栄させることが出来ないのです。大木に、その蔓を樹幹に巻きつけ、天を目指し、その枝葉を広げ、美しい花を咲かせるのです。しかし、藤蔓に巻きつかれた大木は、藤蔓の枝葉に太陽光を奪われ、やがて死滅していくわけです。そして、「藤」は、その大木が死滅し、倒壊する前に、新たな大木を目指して、蔓を伸ばしていくわけです。

日本史において、藤原氏の事跡を除いたら、その物語が綴れないほど、重要な氏族であるのです。しかし、その重要性に反比例するように、藤原氏の出自が不明なのです。
ある歴史書によれば、藤原氏は常陸の鹿島出であるとしているも、その根拠が藤原氏が支配する春日社で、「鹿」が聖獣として扱われているからとしいてるため、その信憑性が疑われます。鹿をトーテムとするのは、ユーラシア大陸の騎馬民族国家スキタイです。そのスキタイの流れを汲む突厥帝国に支援されたチュルク系蘇我氏は、645年(教科書歴史では「大化の改新」と教える。)突厥帝国壊滅を目指す唐進駐軍に支援された藤原氏により滅ぼされてしまったのですが、飛鳥ヤマトで、子鹿の角から、強壮剤のロクジョを生産していたのです。そして、蘇我氏は、飛鳥ヤマトで薬草採取もしていたのです。
薬物創製業は、騎馬民族と関連があるようです。源氏武士末裔の役座が祀る「神農様」も、中国大陸では薬草学の神様なのです。因みに、騎馬民族末裔の徳川家康も、薬草学に詳しく、自らのための薬草調合だけではなく、部下の病にも、薬草を煎じていたのです。
薬草学は、加持祈祷の仏教文化隆盛の平安王朝から江戸時代まで、賎民職業の範疇であったのです。賎民しとて平安王朝以来蔑まれていた秦氏末裔の傭兵軍団である忍者も、薬草学に優れていたのは、その祖が「神農様」系の流れにあったからです。
教科書歴史によれば、藤原氏の先は祭祀氏族の中臣で、645年大化の改新で活躍した中臣鎌足が、天智天皇より賜った氏姓「藤原朝臣」を姓とする氏族であるというのです。
しかし、その中大兄皇子から天智天皇への即位には、疑問符が付いているのです。日本初の天武天皇よりも、四歳年下の「兄・天智天皇」など存在するのでしょうか。そして、異母兄弟と言われる天智天皇(百済系)と天武天皇(新羅系)は、互いの実娘をそれぞれの側室として差し出しているのです。これは一体どういうことなのでしょうか。そして、天智天皇から中臣鎌足に「藤原姓」が下賜されたとされる「きっかけ」となった、645年の「大化の改新」の史実が、志のある学者から疑われているのです。
この天智天皇から藤原姓を賜った物語は、ヤコブが神(エロヒム)からイスラエルの名前を賜った物語と似ています。
その物語では、「旧約聖書」の創世記第三十二章の、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです。」、とあるのです。そして、不思議なことに、このヤコブがイスラエルに変名する物語が、その三章後の第三十五章に再び記述されているのです。「さてヤコブがパンダンアラムから帰ってきた時、神は再び彼に現れて彼を祝福された。神は彼に言われた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい」。こうして彼をイスラエルと名付けられた。」、とあるのです。
これは一体どういうことなのでしょうか。それは、サイファー式暗号解読法によれば、同じ文字・文章があるものは、「否定せよ。」、です。つまり、神から、ヤコブがイスラエルの名前を賜ったことは、「ウソ」ということです。その証拠に、その後に続く「ヤコブ物語」は、主人公はイスラエルとなっていなくて、ヤコブのままなのです。
では、藤原氏が、「日本書紀」で記述されているように、天智天皇から賜ったという物語が「ウソ」だとしたら、藤原氏は、何と名乗っていたのでしょうか。
そもそも、645年に「藤原」の姓があったのかは断定できません。それは、藤原不比等が権勢を得た後、713年日本列島各国の歴史を改竄・隠蔽する目的で、風土記撰上の詔を発したと同時に、それまでの中国式一文字の姓名表示を、日本語化する目的の好字令により、二文字に改めたからです。
713年以前では、二文字よりも、中国式一文字表記のほうが、カッコ良かったのです。ですから、奈良時代となっても唐進駐軍が勢力を保っていたため、藤原氏は、公式には「籐氏」と名乗り、権威付けの書籍に「籐氏家伝」としたわけです。
では、645年の飛鳥ヤマト政権の蘇我王朝を革命で倒した「藤原氏」は、誰により、どのような姓を賜ったのでしょうか。推測できるのは、唐進駐軍より、唐→トウ→籐の姓を賜ったのかもしれません。
唐進駐軍は、630年北東アジアの宿敵、飛鳥ヤマトの支援国、突厥帝国を散逸させ、その残存勢力を滅するために、645年飛鳥ヤマトに進駐してきたのです。藤原氏の祖は、南海の海洋交易商人であるわけですから、中国唐軍を、藤原氏の外洋船で渡海させた功績により、「籐姓」を賜ったのかもしれません。
その史実を確認できないのは、645年の革命で、藤原氏により、前政権の書籍が焚書されてしまったからです。そのことを隠蔽するために、「日本書紀」で、「天皇記・国記は、蘇我氏により焼失」、とするのです。
謎の多い藤原氏ですが、現在の「藤原さん」とは、ほとんど関係はありません。藤原は「姓」であり、藤原氏が権勢を誇っていた平安時代は、本姓の藤原氏を公で名乗っていたのが、百済系桓武平氏末裔の北条鎌倉幕府になると、藤原氏の荘園で、アラブ・インド・中国大陸との国際交易地である南九州の島津荘が秦氏末裔惟宗氏に乗っ取られ没落したため、その末裔は、近衛、一条、二条、九条、冷泉、鷹司などの家名を名字としていたのです。では、現在の「藤原さん」の名字はどうかと言うと、それは、1870年(明治3年)平民の苗字使用の発令により命名した「苗字」であるわけです。ですから、貴族の家系において「藤原さん」は、存在しないのです。
では、藤原氏は、何ゆえに「中臣」から「藤原」に変名したのでしょうか。藤原氏が、祭祀氏族の中臣氏を快く思っていないことは、中臣鎌足の子とする藤原不比等が、新羅系天武天皇崩御後に権力を握ると、藤原氏を太政大臣とし、中臣氏を神祇官とし、その神祇官の中臣氏に藤原姓を名乗らせなかったからです。
奈良時代では、神祇儀式といっても、明治時代に発明された日本神道祭祀儀式などではなく、中臣のナーガから推測すれば、インド風祭祀儀式をおこなっていたのでしょう。
六世紀に、南インドのユダヤ・キリスト教のコロニーがあるマラバル沿岸から、ヘビをトーテムとする祭祀氏族と伴に、大型外洋船により南九州坊津に渡来した部族は、日本列島での、朱砂・医薬物の国際交易地の飛鳥ヤマトの三輪山麓のツバキ市の支配を目指して東進するわけです。
藤原日本史では、そのツバキ市がある四世紀のヤマトには、大和王朝が存在していたと言うのです。その根拠のひとつとして、近畿ヤマトには、巨大古墳が存在していたから、と言うのです。そして、その巨大古墳が、日本国歴代の天皇の墓であると言うのです。
しかし、四世紀以降、岩手県以南の日本列島には、巨大古墳は多く存在していたのです。岩手の古の陸奥国が、百済亡命王朝末裔に完全に征服されたのは、「鎌倉時代」であるのです。四世紀の陸奥国は、飛鳥ヤマトとは異なる騎馬遊牧民族による、独立国であったのです。つまり、四世紀から日本列島全国いっせいに築造された、前方後円墳の相似形古墳は、大和王朝の天皇の墓などではないのです。その根拠として、日本国を建国したと言われる、紀元前660年に即位したと伝わる神武天皇の墓である古墳は、江戸時代末期から明治初期にかけて創建されたものであるからです。
と言うことは、四世紀に大和王朝が存在していたと言うのは、藤原氏が創作した「日本書紀の世界」だけの出来事であったようです。
四世紀のヤマトは、三輪山を拠点とする先住民と、国際交易地のツバキ市の支配を目論む渡来の高句麗・百済・新羅進駐軍との戦いの時代であったのです。その地を支配したのは、六世紀、北東アジアを支配した、東アジアを支配する唐軍壊滅を目指す突厥帝国から派遣された騎馬民族「蘇我軍」であったのです。蘇我軍は、大陸より持ち込んだ騎馬軍団の軍事力により、高句麗・百済・新羅の進駐軍を支配下に置いたのです。
「日本書紀」では、この渡来蘇我騎馬軍団によるヤマト侵攻、そして支配を隠蔽・改竄する目的で、536年(宣化天皇元年)の条で、「又蘇我稲目宿爾を以って大臣とす」、と記述しているのです。実際の蘇我稲目は、大臣どころか、飛鳥ヤマトの征服大王であったのです。
藤原日本史で理解できないことのひとつに、何ゆえに、突厥帝国が支援する騎馬民族により構成された、そして軍事要塞化都市飛鳥ヤマトにより守られていた蘇我王朝が、645年に簡単に滅びたのか、と言うことです。飛鳥ヤマトには、幅十二mの軍事道路が張り巡らされて、その軍事道路の要所要所には、蘇我稲目が設けた「ミヤケ」の軍事施設があったのです。その防衛施設は、唐軍の侵攻を想定して、瀬戸内海の要所には、「ミヤケ」を多く設置していたのです。
馬は、今でこそ、乗馬や競馬などの娯楽で利用されるだけのようですが、古代の馬は、軍事で言えば、ジエット機や戦車に匹敵する「最強軍備品」であったのです。平安時代、唐進駐軍に支援された百済系桓武天皇軍の数万から数十万の陸奥国侵略軍は、騎馬民族末裔の蝦夷軍団の数百を壊滅できなかったのです。
古代では、軍馬一騎は、歩兵数百に匹敵するほどの「ハイテク武器」であったのです。結局、陸奥国の蝦夷軍に軍事力では勝利できなかった平安王朝は、801年金髪の坂上田村麻呂による蝦夷軍棟梁のアテルイを騙し、京で惨殺すことにより、頑強に抵抗する蝦夷軍を滅したのです。
そのような騎馬軍団の最強軍事装備で固めた蘇我王朝が、唐進駐軍と藤原氏により簡単に崩壊したには、何かの仕掛けがあったのでしょう。その仕掛けとして考えられるのが、遣隋使船と遣唐使船です。
教科書歴史では、それらの遣隋・唐使船の目的は、海外情勢や中国隋・唐の先進技術や仏教経典等の収集とされているのです。しかし、この使節団を送り迎えする船の構造に疑問があるのです。
先進国から文化・先進技術・製品等の収集が目的ならば、その航海の安全性が重要視されるのが常識です。しかし、その船は、小さな嵐でも転覆するような、外洋船には竜骨を用いた構造であるのに、それを無視した、内陸の河川を航行するために建造された平底の箱型船であったのです。更に、不思議なのは、外洋船は釘を使い、浸水防止のためにタールを塗るのが常識なのに、その船には殆んど釘が使われていなくて、木組みの構造であったのです。これでは、小嵐でも転覆してしまいます。
更に不思議なことに、この遣隋・唐使船の運行方法です。その運行方法は、予め転覆を予測しているかのように、二隻ないしは四隻編成であったのです。
船の構造と運航方法から推測すると、その遣隋・唐使船は、先進国から文化・先進技術・製品等を収集するためではなく、ある目的のために運行していたように感じられます。そのある目的とは、敵対勢力の合法的な暗殺です。
この推測が可能なのは、894年藤原王朝により、菅原道真が遣唐使に任ぜられたのが、その反対に、宇多天皇に寵愛された菅原道真により、遣唐使の事業が廃されてしまった事件があったからです。その背景は、887年始めて関白となった藤原基経の政策に反対する、菅原道真を疎ましく思った藤原氏は、菅原道真を合法的に暗殺する計画を意図したのです。それが、菅原道真への遣唐使の任であるわけです。しかし、菅原道真は、新羅商人より情報を得ていたのです。それは、菅原道真が乗る遣唐使船は転覆する構造であると言うことです。遣唐使船により無事に唐にたどり着いた者は、帰りは新羅商船で帰朝していたのです。
日本列島から中国大陸への渡海が困難であると言うのは、「ウソ」です。それは、藤原氏が関わる渡海のみ当てはまることです。
607年飛鳥ヤマトの蘇我王朝は、隋に小野妹子を遣わすのです。その翌年小野妹子は、隋使裴世清と伴に帰国し、飛鳥ヤマトの都に、難波から河川を利用して底平の河船により、来朝し、そして、隋使裴世清はそこで男王(蘇我馬子)に謁見するのです。そして、その年に再び小野妹子は、隋使裴世清を隋に送り届け、609年帰朝するのです。このことからも、日本列島から中国大陸への渡海が、死を賭すほどのことではないことが理解できるでしょう。
外洋航海の技術は、地中海・インド洋西域では紀元前1500年には海洋民族フェニキアにより開発されていたのです。東アジアでも、紀元前三世紀、秦の始皇帝を騙した徐福は、童男女2000名と軍団・技術者を百隻の大型外洋船に搭乗させ、東の蓬莱国(日本列島と言われる。)に向けて、中国山東半島から船出していたのです。更に、五世紀の北魏の時代、僧法顕は、洛陽から陸路でインドへ旅し、411年南インドから海路で中国山東半島まで二年足らずで帰朝しているのです。
第十八次の遣唐使船で、唐に渡った最澄は、八ヶ月足らずで帰朝しているほどです。それから推測するには、遣隋・唐使船には、意図して転覆する船と転覆しない船とがあったように推測されます。
第一次遣唐使船は、645年蘇我王朝壊滅の15年前、630年の犬上御田鍬の派遣により始ったのです。この年は、東アジアでは、唐により、飛鳥ヤマト蘇我王朝の支援国、宿敵東突厥帝国が散逸されていたのです。唐は藤原氏と企んで、蘇我王朝壊滅の「仕掛け」を練ったのです。それが、平安時代の藤原氏の宿敵菅原道真の遣唐使としての暗殺計画と同じに、630年の第一次遣唐使による、蘇我王朝の次世代を合法的に抹殺するための陰謀です。この第一次遣唐使船には、飛鳥ヤマト蘇我王朝の明日を担う、多くの優秀な若者達が乗船していたことでしょう。
この陰謀渦巻く遣唐使船と藤原氏との関係は、天武天皇崩御後、藤原不比等が女帝持統天皇、そして文武天皇を傀儡として権勢を誇ると、702年第八次遣唐使船は、それまでの北九州からではなく、南九州の坊津から船出しているのです。その坊津とは、藤原氏が南インドから、日本列島初の渡来地であったのです。
この南九州坊津(津とは大船が接岸できる港のこと。)は、平安時代には、藤原氏の荘園である島津荘の港として栄えたのが、秦氏末裔源氏の源頼朝の鎌倉幕府により、島津荘が秦氏末裔惟宗氏に乗っ取られると、そのアラブ・インド・中国大陸との海洋国際交易の港は、坊津から種子島に移されるのです。
その種子島は、インド洋からマラッカ海峡を抜けて、黒潮に乗ると、海流コンベアーにより自然とたどり着けるため、平安末期に政権を軍事武力で奪取したペルシャ平家である平清盛により、南海交易の中継拠点として占領されてしまうのです。
そして、戦国時代では、この種子島は、藤原氏の密貿易地として、イエズス会に同伴したポルトガルの武器商人から入手した銃弾薬の中継地となるのです。その銃弾薬は、種子島→雑賀→根来寺→本能寺へと運ばれ、戦国大名達に売りさばかれていくのです。その銃弾薬の京での貯蔵所である、約200m先にあるイエズス会の南蛮寺と地下道で繋がれた本能寺で、織田信長は、イエズス会の使者により「爆殺」されるのです。
その織田信長爆殺には、爆殺前夜に茶会を本能寺で開催した、キリシタンの千利休が関わっていたようです。そして、織田信長が爆殺された直後にたどり着いた明智光秀軍団は、織田信長暗殺の主犯として、イエズス会から藤原氏に寝返った関白豊臣秀吉の総監修による「信長公記」に、「敵は本能寺!」の名セリフを記述されてしまうのです。何故、明智光秀軍団が、夜陰にまぎれて本能寺を目指したのかと言うと、前日に織田信長から、朝廷を脅す「馬揃え・軍事パレード」をおこなうための書状を受けていたからです。
更に、藤原氏による種子島密貿易は、鎖国時代の江戸時代末期まで続き、その密貿易船には島津氏(=藤原氏)の船であることを示すために、後の日本国の国旗となる「日の丸」がはためいていたのです。そして、関八州の役座・アウトローを支配する穢多頭弾左衛門と同じマルタ・クロスを家紋とする秦氏末裔島津氏の薩摩藩を中心として、イギリス秘密結社のバックアップにより、明治革命に至るのです。
その秦氏末裔島津氏の薩摩藩は、奈良時代から江戸時代末期まで、実質は、藤原氏の支配地であったのです。明治革命に成功した藤原氏末裔は、1886年(明治19年)東京に創設された帝国大学に、その翌年ユダヤ系ドイツ人の歴史学者ルードヴッヒ・リースを招聘し、日本列島初の史学科を開設し、日本史編纂をおこなうのです。
その「藤原日本史」のハイライトは、中臣(藤原氏の祖)が、オリエント文化の蘇我王朝を乗っ取った、645年の「大化の改新」です。
しかし、「大化の改新」は史実ではなく、新羅国の政変革命(比曇の乱)を借用して創作された物語であるのです。この「大化の改新」を史実とするために、藤原氏編纂による「日本書紀」が活躍するのです。
645年の革命で、蘇我王朝を倒した中臣は、四世紀ローマ帝国でおこなわれた事を、飛鳥ヤマトで実行するのです。
392年ローマ帝国の国教となった、ユダヤ教の一派であるキリスト教(「ヨシュアはメシア」をギリシャ語にすると、「イエス・キリスト」)は、ローマ帝国で広く信仰されていた、太陽神ミトラ教の地下神殿を徹底的に破壊して、その跡にキリスト教教会を建設し、ミトラ教関係の書籍を焚書し、ミトラ神再生日である冬至の「12月25日」を、キリスト誕生の「クリスマスの日」とし、ミトラ神のシンボルであるマルタ・クロス(日輪)をキリスト磔の十字架とし、それらをキリスト教に取り入れ、ローマ帝国でのミトラ教の歴史的存在を抹殺してしまうのです。そのキリスト者の、完璧なミトラ教隠ぺい工作により、後のひと達は、キリスト教以前に、ミトラ教がローマ帝国に存在していた史実を知ることができないのです。このローマ帝国での隠ぺい工作と同じことが、日本列島のオリエント文化の飛鳥ヤマトで、中臣(藤原氏)によりおこなわれたのです。
645年蘇我王朝を革命で倒した、唐進駐軍に支援された、南インドマラバル沿岸から渡来した中臣軍(藤原氏の祖)は、1868年(明治元年)太政官布告神仏分離令により、明治新政府に指示された役座を中心とする新平民達により日本列島全島の仏教施設が徹底的に破壊されたように、七世紀のオリエント文化を誇る飛鳥ヤマトの寺を破壊尽くすのです。そして、その破壊されたオリエント色の強い寺跡に、446年北魏の道教に敗れ、仏教弾圧で朝鮮半島経由で、北九州秦王国(後の豊国)に渡来した大乗仏教系寺を、移築するのです。
「寺」とは、一般的に「大乗仏教系仏像」を安置するための施設と考えられているようです。しかし、古代中国大陸での「寺」は、仏像とは関係のない建物であったのです。
「寺」は、音読みで「ジ」、訓読みで「テラ」です。その古代中国での「寺・ジ」とは、雑務をこなす役所のことで、後に、外国からの渡来者を取り調べる施設となり、紀元前一世紀ローマ帝国が強大になると、前漢(紀元前202年〜紀元8年)で生産される絹織物の需要がローマ帝国で急速に起こり、金と絹の重さが同じ価値となったため、ローマ帝国やその隣国のパルチア王国の国際交易商人達が、絹を求めて東進し、やがて前漢の「寺・ジ」は、国際商人達の居留施設のようになっていくわけです。
そして、後漢(25年〜220年)の頃になると、国際交易都市ガンダーラに突然現れた新興宗教の大乗仏教徒が、無数の経典と仏像を伴って、後漢の都・洛陽に渡来するのです。そして、その「寺」に大乗仏教僧が経典・仏像を伴って居留することにより、仏像の置き場所が、「寺」となっていくわけです。
しかし、「寺」の本来の意味とは、大乗仏教の仏像を安置する施設ではなく、そこは雑事をおこなう役所であり、交易商人を取り調べる関税所でもあり、国際交易の施設でもあったわけです。そして、やがて、その「寺」に付随して宿泊施設の「院」が建設されるのです。つまり、寺院とは、仏像が安置される「寺」と、ひとが宿泊する施設の「院」が合体した施設であるのです。
では、訓読みの「テラ」とは何かと言えば、それは「死者」が安置される「処」であるのです。つまり、日本列島に存在していなかった漢字と一緒に大乗仏教が渡来する以前の日本列島では、「テラ」は、「寺・ジ」ではなかったのです。
では、オリエント文化の飛鳥ヤマトには、どのような「寺・ジ」があったのでしょうか。
720年に完成した「日本書紀」によれば、552年に仏教伝来としているのです。そして、百済系桓武王朝の平安時代に改竄された仏教伝来物語では、538年百済の聖王が仏像と経典を大和朝廷に献じた、とあるのです。そして、仏教伝来物語で不思議なのは、大和王朝の大臣である蘇我稲目が、仏教信仰に賛成したことにより、日本列島に仏教が普及するようになった、と説明しているのです。
しかし、その説明には納得がいかないのです。それは、蘇我稲目は、538年少し前に日本列島史に突然現れた渡来人物であるからです。更に納得がいかないのは、645年蘇我王朝を倒した年に、仏教興隆の詔を発しているのは何故なのでしょうか。「仏教推進者の蘇我王朝を倒した後の、仏教興隆の詔」、藤原氏の仏教伝来物語には深い謎(ウソ)が隠れているようです。
古代史の書籍を読む時に気をつけなければならないことのひとつは、国の概念です。1776年のアメリカ合衆国の建国までは、世界史には、「国民国家」など存在していなかったのです。その国民国家とは、国民が主体で運営する国家で、国民軍により国境を守り、国民国家としての固定した国境が存在するのです。
しかし、それ以前の国家とは、軍事力に優れた部族が、他の部族の支配地を武力で奪い、その被征服民を奴隷として使役していたのです。ですから、固定した国境などないため、古代国家を運営する王族は、軍事力を増すために、軍事力にすぐれた外国の異民族の傭兵軍団を組織し、経済を盛んにするために国際交易商人の活動を保護し、そして、奴隷としての被征服民が反乱を起こさないよう、従わすために、宗教力を利用したのです。
その古代国家の代表例が秦国(紀元前221年〜紀元前206年)です。秦の始皇帝による軍隊は、エジプト系、騎馬戦車のスキタイ系、長槍歩兵のローマ軍系、弓馬のチュルク系、腰弓のツングース系などの各国の傭兵軍団の寄せ集めです。そして、国際交易を盛んにするために度量衡制、貨幣制を定めた結果、秦国の経済は隆盛し、ローマ共和国、マケドニア王国、エジプト王国、パルチア王国などの国際交易商人が、秦国に交易に訪れていたのです。そして、秦の始皇帝の不老不死の神仙思想崇拝が昂じた結果、道士の徐福に騙されて、莫大な財産を宗教儀式に散財したために、優秀な部下に疎まれることにより、紀元前206年三世皇帝子嬰の時には、秦国は滅んでしまうのです。中国を始めて統一した秦国は、15年で歴史から消えてしまうのです。
古代国家をうまく運営するには、傭兵軍の調達、国際交易商人との良好な交易、そして、異民族・被征服民を屈服させる宗教力が必須なのです。
藤原日本史によれば、四世紀の飛鳥ヤマトには、強大な大和王朝が存在していたようです。そして、その大和王朝の二十九代欽明天皇の時代に、552年仏教が伝来したことになっているようです。そして、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との親子二度にわたる神仏戦争により、崇仏派が勝利し、日本列島の飛鳥ヤマトに仏教が導入された、ということです。
では、552年以降の神仏戦争で、「仏教」に敗れた「神」とは何なのでしょうか。一般的概念では、その「神」とは、神道の「神」と思われているようです。しかし、日本神道の渡来は、645年唐進駐軍と中臣軍とによる蘇我王朝壊滅後であるのです。その日本神道の始めは、中臣氏による、ユダヤ教儀式と多くの共通点がある中臣神道なのです。
中臣神道とユダヤ教との宗教思想の基本的共通点は、禊の儀式、鳥居の由来、神殿の構造と桧材使用、獅子飾と獅子舞、榊としめ縄、石を立て神を祀る、神は雲の上に座す、白色を貴ぶ、塩を蒔く儀式、手洗盤と賽銭箱、神酒と初穂、拍手と低頭礼拝、祭典と神輿、神楽舞の儀式等々です。
そうなると、仏教渡来以前には中臣神道など存在していなかったわけですから、552年以降二度にわたる蘇我氏と物部氏との神仏戦争とは、何を物語っていたのでしょうか。
キリスト者に抹殺されたミトラ教の存在を知らしめたのは、キリスト者が徹底的に破壊したと思われた、破壊されたミトラ教の地下神殿の存在でした。歴史書には全く記述されていないミトラ教は、ローマ帝国内のキリスト教の教会の地下神殿に眠るミトラ教の痕跡を発掘されたことにより、ローマ帝国内でのミトラ教の存在が証明されたのです。
では、飛鳥ヤマトではどうでしょう。飛鳥ヤマトを中心に発掘された遺跡の数々は、中臣神道では説明できないものばかりなのです。何に使用されたか分からない巨大石物群、石を敷き詰めた噴水のある庭園、石を敷き詰めた幅十二mの直線道路、石を敷き詰めた堰、ガラス工場跡、富本銭製造工場跡、大運河跡、石造りの宗教祭祀場跡などなどです。これらの「石の文化遺跡」を飛鳥ヤマトに残した民族は、何処から渡来して、何処に消えてしまったのでしょうか。
藤原日本史では、それらの遺跡の謎を解明できないでしょう。と言うのは、「日本書紀」には、その遺跡群が造築される前の三世紀後半から、日本列島に登場した古墳群、更に四世紀の古墳から馬具が発掘されたことを知るための記述が、全くないからです。
更に、歴代の天皇の墓であると主張する畿内にある巨大古墳の築造記述も、「日本書紀」には全くないのです。ですから、藤原日本史で言うところの、日本国初の神武天皇稜などは、「日本書紀」にその記述がないため、その場所を特定することが出来ないため、自然丘を人工山で覆い、江戸時代末期から明治時代初期にかけて創造されたのです。
飛鳥ヤマトの遺跡と、藤原氏の仏教伝来物語の神仏戦争の記述を基に、その飛鳥ヤマトの「神」を特定するとすれば、巨大運河、幅広の直線道路、巨大石造物、巨大古墳を造る技術を持った民族の「神」と推測されます。そして、その民族は、鉄器を発明したヒッタイト帝国末裔が考えられます。それは、それらの造築物を造るには、鋼鉄工具を制作する技術が必要であるからです。
では、飛鳥ヤマトの「神」を祀る支配民族は、天皇家なのでしょうか。神仏戦争物語によれば、大和朝廷の大臣の崇仏派の蘇我氏が飛鳥ヤマト在住とすれば、敵対する廃仏派の物部氏の軍団は何処を拠点としていたのでしょうか。
藤原氏の仏教伝来物語では、神仏戦争で勝利した蘇我氏が「仏像」を祀ったところ、疫病が流行り、それに乗じて反撃した物部氏と中臣氏は天皇に直訴して、その仏像を「難波の堀」に捨てたと、蘇我稲目の第一次神仏戦争と蘇我馬子の第二次神仏戦争で、二度も記述しているのです。何故、疫病神の仏像投棄が二度とも「難波の堀」なのでしょうか。そもそも「難波」とは、いかなる歴史を持った処なのでしょうか。
難波は、712年の日本語化革命以前(713年藤原氏による、二文字の漢字の地名・人名表記の「好字令」と、地域の古代歴史を改竄するための物語である「風土記撰上の詔」により、アラム語、パフラヴィ語、ゾグド語などの国際交易商人言語が盛んに使われていたオリエント文化の飛鳥ヤマトや、ユーラシアのチュルク・ツングース族文化が渡来した日本列島各地の歴史を抹殺したのです。ですから、日本古代史は、713年以降に発明された二文字漢字表記の地名・人名では、解明できないのです。)は、「浪速」と言われていたのです。713年以前の浪速とは、「なにわ」ではなく、「ローラン」と読みます。その浪速(ローラン)は、朝鮮半島の高句麗の楽浪(ローラン)からの渡来港で、その高句麗は、シルクロード交易都市の楼蘭(ローラン)から、西域の国際交易商人が、絹を求めて訪れていたのです。
つまり、難波とは、中国大陸シルクロードから、日本列島への渡来港であったのです。その国際港の「難波の堀」に、二度も疫病神である仏像を投棄したとは、一体何を物語っているのでしょうか。
結論から言ってしまえば、藤原氏による仏教伝来物語は、「ウソ」なのです。そのウソは、その仏教伝来物語の主人公である「聖徳太子=厩戸皇子」が証明します。
平安時代、「聖徳太子」は、百済系桓武天皇王朝により、藤原氏の奈良仏教に対抗して、最澄により中国天台宗を比叡山に導入した時、中国天台宗の教義である「法華経」を、比叡山延暦寺の「教え」として日本列島に宣伝するために創作されたキャラクターだったのです。その性格や事跡は、何故かモーセ、ダビデ、ヨシュア(イエス)に類似しているのです。
藤原日本史では、厩戸皇子は、593年女帝推古天皇の摂政となり、603年官位十二階を制定し、604年憲法十七条を制定し、607年隋に小野妹子を遣隋使として遣わした、となっているようです。そして、それらの厩戸皇子の事跡をみれば、日本国の基盤を創ったのが、正に女帝推古天皇の時代であるようです。しかし、この藤原日本史は、「ウソ」なのです。それは、二つのことで証明できます。
ひとつは、608年飛鳥ヤマトを訪れた隋使裴世清の証言が、「隋書」に、「倭国の都で「男王」に謁見した。」、とあるからです。つまり、藤原日本史の女帝推古天皇(593年〜628年)の存在は、隋使裴世清の「隋書」での証言で否定されるのです。
ふたつめは、「古事記」が証明します。「古事記」は、一般的に、712年完成と思われているようですが、それは違います。「古事記」は、平安時代の812年秦氏末裔言語学者の多人長による、唐進駐軍の支援の下、日本列島を乗っ取った百済亡命王朝の桓武天皇系が814年「新撰姓氏録」を創作し、新羅系日本人の偉大な事跡抹殺に対しての、反撃の書であるのです。
つまり、百済亡命王朝である平安王朝は、藤原氏による「日本書紀」の仏教伝来物語の「厩戸皇子」を「聖徳太子」に摩り替え、552年を538年百済から仏教が伝来した、と改竄したのです。更に、オリエント渡来の蘇我氏の祖を百済としたり、ギリシャ・ローマ文化の新羅渡来文化を抹殺したのです。百済系桓武天皇が、藤原氏に反旗を翻した聖武天皇の遺品を納めた正倉院の数々の遺品・書物を破壊・焚書したのは、オリエント飛鳥文化、新羅文化の隠蔽・抹殺であったのです。
平安時代、秦氏末裔多人長は、その桓武王朝の「百済日本史」で、オリエント文化の飛鳥ヤマトを、仏教文化都市として偽る「百済仏教伝来ウソ物語」を、後世のひと達に知らせるために、サイファー式暗号により、「古事記」の物語を「女帝推古天皇」で終わらせているのです。つまり、「日本書紀」物語の、女帝推古天皇までの物語を、「否定せよ」、ということです。そのことにより、日本列島に仏教を広めたと信じられている「聖徳太子」は否定されるからです。
体制側書籍を管理する藤原氏と百済系桓武王朝を騙すための、多人長のトリックとして、「古事記」の序に、天武天皇を登場させ、その序で、暗に「日本書紀」(藤原日本史・百済日本史)には「ウソ」が多いから気を付けよ、と述べさせているのです。そして、「古事記」が、「日本書紀」を意識して創作した、と言う根拠のひとつとして、それぞれの書籍に現れる「尊・神」の表現があります。
「日本書紀」では、最初に現れるのは、「国常立尊」です。「国常立尊」とは、常→トコ→東胡=ツングース族が建てた国の王、と言う意味です。
それに対して、「古事記」では、天之御中主神です。「天之御中主神」とは、天の真ん中に住む王の意味で、それは北極星(太一)を示し、その太一(北極星)を、日本列島で最初に祀った王は、新羅系天武天皇であるわけです。つまり、多人長は、日本国を建国したのは、新羅系天武天皇である、とコード式暗号で述べているわけです。
そして、「日本書紀」には、「高天原」がないのに対して、「古事記」では、「高天原」に最初の神々が現れてくるのです。「古事記」は、正に「日本書記」を否定するために創作された書物です。それは、多人長が、親新羅の立場で物語っているわけは、平安時代に百済亡命貴族に虐げられた新羅(秦羅=秦氏)系末裔であるからです。
「古事記」が、「日本書紀」よりも「新しい」ことは、神話の物語でも、「日本書紀」が、古い思想である「陰陽二元論」で語っているのに対して、「古事記」では、新しい思想である「ムスヒ」の「一元論」で物語っていることにより明らかです。更に、「古事記」には、713年以降に創作された「各国の風土記物語」の引用例が多くあることだけでも、「古事記」の完成は、712年以前ではありえないことを証明します。
そして、「古事記」が、奈良時代ではなく、平安時代に創作された最強の証拠として、万葉仮名の「用字」にあります。「用字」とは、アラム語をペルシャ発音で読むと言うパフラヴィ語のように、漢字をヤマト言葉で読むための方法です。その万葉仮名の用字は、奈良時代の720年の「日本書紀」では不整序であったものが、平安時代に安定した用字法となったのです。その万葉仮名の用字法が完璧に現れているのが、「古事記」であるのです。その訳は、多人長が、万葉語の言語学者であったからです。以上の証拠により、「古事記」は、712年の作品ではありえないのです。
では、藤原日本史の仏教伝来物語で、疫病神の仏像が、「難波の堀」に二度も投棄された物語とは、どのような背景があるのかと言えば、それは、中臣と伴に渡来した、仏教の渡来地を誤魔化すためのトリックだったのです。では、日本列島初の仏教伝来の渡来地を推定するとすれば、それは、「難波」ではなく、南九州坊津が考えられます。
仏教が「日本書紀」で述べるように、552年飛鳥ヤマトに伝来したとすれば、その流れは、694年藤原京、710年平城京へと仏教が広がるわけです。しかし、その奈良時代の寺(ジ)では、経典講義の他に、奈良貴族相手に、仏教とは全く関係のない賭博、売春、借上がおこなわれていたのです。
何故、仏教寺での、賭博、売春、借上なのでしょうか。それは、仏教を武器として、異国の市場開拓を目論む、国際交易商人の存在があったからです。つまり、僧形の国際交易商人が、奈良の都に渡来していたのです。僧形の国際交易商人は、奈良の貴族を商売に取り込むために、特殊な接待を文化・娯楽施設でもある「寺」でおこなっていたのです。
その賭博の双六・碁・将棋の原型は、インドを発祥地とするのです。誰が、インド発祥の賭博を、奈良の寺(ジ)にもたらしたのでしょうか。(「日本書記」によれば、日本初の双六賭博を「寺」でおこなったのは、天武天皇です。)
飛鳥時代、インドからの渡来民族と言えば、中臣が考えられます。南インド・マラバル沿岸から、宗教儀式グッズの白檀や沈香を売り込みに渡来した中臣は、多くのインド僧を伴っていたことでしょう。
それらの交易品を商いすることにより日本列島に勢力を伸ばした中臣が、645年に、唐進駐軍の協力のもとに、飛鳥ヤマトの蘇我王朝を倒し藤原氏となり、672年壬申の乱で政権を獲得した日本初の新羅系天武天皇が、686年崩御したことにより、女帝持統天皇・文武天皇・元明天皇・元正天皇を傀儡として藤原氏が権勢を誇った奈良の都には、多くのインド僧(インド僧とは、仏教僧とは限りません。その実態は、バラモン・ヒンズー教僧、そして、ユダヤ・キリスト教宣教師であったかもしれません。)が居たのは、そのためでしょう。
紀元一世紀の南インドのマラバル沿岸には、バラモン教を取り込んだヒンズー教はもとより、国際交易商人と結託した新興宗教の大乗仏教、更に、ユダヤ・キリスト教のコロニーも存在していたのです。
では、645年以前の飛鳥ヤマトには、南インドのマラバル沿岸から渡来のインド僧により、仏教が隆盛していたのでしょうか。その飛鳥ヤマトが、インド仏教文化でなかったことは、法隆寺が証明します。
「日本書紀」によれば、607年聖徳太子が建立したと言われる「法隆寺」は、670年跡形もなく炎上したことになっているのです。ですから、現在の法隆寺は、その後再建されたものです。
その現法隆寺の境内に隣接する地下から、元法隆寺の一部が発掘されたのです。その発掘された夢殿の遺跡(一般的に「若草伽藍跡」と言われている。)と思われる建築基準が、現法隆寺と異なるのです。現法隆寺が、南北線を基準に建立されているのに対して、遺跡は南北線よりも西に約二十度傾いているのです。この建築基準の違いは何を意味するのでしょうか。それは、645年以前と以後とでは、祀る神が異なると言うことです。
では、仏教伝来前の飛鳥ヤマトには、どのような「神」が祀られていたのでしょうか。神道の「神」ではないことは、確かです。それは、神道は、仏教渡来後、日本列島に現れた「神」であるからです。
仏教以外ではライバルの道教が考えられますが、道教では、太一(北極星)を祀るため、その建築物は、真北を基準に建立されます。では、南北線から西に約二十度傾けて建立する宗教は、何が考えられるのでしょうか。それは、冬至の太陽を祀る宗教です。冬至の太陽を祀る、と言えば、ミトラ教が考えられます。
ミトラ教は、死と再生を繰り返す「太陽」を神として祀るのです。ミトラ教では、「太陽が死ぬ冬至の光を浴びることにより、死んだ太陽が再生する。」、と信じていたのです。ですから、冬至の太陽が神殿に差し込むためには、その寺(ジ)は、南北線に対して西に約二十度傾けて建立されなければならなかったのです。西に二十度の建築基準は、飛鳥ヤマトの道幅十二mの直線道路(平安時代に太子道と改名された。)にも応用されていたことは、飛鳥ヤマトの支配者は、太陽信仰民族と深い関係にあったことが示唆されます。
飛鳥ヤマトの多くの仏寺を疑問の目で眺めると、更に不可思議なことに気づくのです。それは、聖徳太子建立七寺といわれる存在です。それらの寺とは、法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺です。
特に不可思議なのは、「日本書紀」によれば、厩戸皇子(聖徳太子)が秦河勝に仏像安置のために建立させた「広隆寺」です。現広隆寺は、以前蜂岡寺と言われていましたが、その蜂岡寺は、現広隆寺とは連続性はないのです。蜂岡寺跡は、現広隆寺より離れた地域で発掘されているのです。そして、その蜂岡寺遺跡は、仏教寺なのではなく、太陽を祀る景教寺を示していたのです。
「日本書紀」は、厩戸皇子(聖徳太子)主演の「仏教伝来物語」により、飛鳥時代の「何」を隠蔽したかったのでしょうか。それは、飛鳥ヤマトへの「仏教伝来の時期・552年」の歴史です。
五世紀の古代ローマ帝国で太陽神のミトラ教の地下神殿を徹底的に破壊して、その跡にキリスト教教会を建てたように、七世紀の飛鳥ヤマトで太陽崇拝施設を徹底的に破壊して、その跡に仏教施設(聖徳太子建立七寺等)を北九州秦王国(豊国の祖)から移築した大乗仏教とは、どのような国際組織により運営されていたのでしょうか。
大乗仏教の経典に対して、日本列島で最初に疑問を持って、その持論を堂々と出版したのは、血と肉食の禁忌を広める仏教思想が民族差別の道具とされた江戸時代の富永仲基です。大阪の商家生まれで町儒者の富永仲基は、1745年「出定後語」で「大乗仏教関係の経典は、すべて後世のひとの創作であり、釈迦の説法を書きとめたものではない。」、と述べていたのです。
その八年後、1753年のヨーロッパでも、町医者のジャン・アストリックが聖書への疑問の書を出版したことにより、二十世紀には、大乗仏教とキリスト教との「経典」が研究されることにより、そのふたつの宗教の「経典」だけではなく、「キリスト」と「ブッダ」との生誕・奇跡物語の多くの共通性が指摘されるようになってきたのです。何故、大乗仏教とキリスト教とには多くの共通点があるのでしょうか。
藤原日本史と百済日本史とには、「日本書紀」により、仏教伝来の史実を隠蔽する理由があったようです。それは、「大乗仏教」は、藤原氏にとっても、百済亡命貴族にとっても、オリエント文化の飛鳥ヤマトを支配していた、肉食する騎馬民族を、賎民として貶め支配するための「強力な武器」であったからです。
奈良時代の藤原氏が支配する奈良仏教と、平安時代に百済系桓武天皇により、中国山東半島から導入された天台宗の平安仏教とには、なんらの歴史的関係もないようです。
一般的に、宗教組織は、その組織拡大のため、支社又は末社を布教先に設置します。ところが、奈良仏教の末社が、平安京にはひとつもないのです。ないどころか、藤原氏支配の奈良仏教のリーダ興福寺と、百済亡命貴族支配の平安仏教の主・比叡山延暦寺とでは、貧民に対して「仏の慈悲の心」や「極楽往生思想」を布教するのではなく、薙刀で武装した僧兵により戦闘を繰り返していたのです。
そして、比叡山延暦寺では、極楽思想よりも、「借りた物(金)を返さない者は地獄に落ちる。」、と言う内容の「日本霊異記」などを制作し、源信が著した「往生要集」で地獄思想を布教していたのです。それは、比叡山延暦寺は、京における借上(高利貸し)の営業権を、奈良の興福寺と争っていたからです。
しかし、百済日本史によれば、538年百済から聖王により仏教が伝来し、その仏教を聖徳太子が、秦河勝に命じて仏像安置の広隆寺を建てさせたことにより、仏教が飛鳥ヤマトに広まった、と言うことです。では、何故に、飛鳥仏教を引き継いだ奈良仏教の末社が、平安京にひとつもないのでしょうか。それは、聖徳太子(厩戸皇子)が、飛鳥仏教など広めていなかったからです。
大乗仏教に対する疑問を羅列すると、大乗仏教には深い謎があるようです。その謎を解明すれば、大乗仏教を道具として藤原日本史に隠蔽された、古代日本列島史が出現するかもしれません。
奈良仏教と平安仏教とに断絶され、戦闘を繰り返す大乗仏教。キリスト教経典と類似した大乗仏教経典。「旧約聖書」創世記の出だしソックリな「日本書紀」の創世記物語。モーセ、ダビデ、ヨシュア(イエス)の事跡を持つ聖徳太子。ユダヤ儀式と多くの共通点のある中臣神道。藤原氏が支配する仏寺の興福寺と神道の春日社。謎の多い藤原日本史を解明するには、渡来歴史が不可解な大乗仏教を解明する必要があるようです。
紀元一世紀、ローマ帝国(紀元前27年〜紀元395年東西ローマ帝国に分裂)と後漢(紀元25年〜紀元220年)との絹貿易のためのシルクロードが通過するパルチア王国と匈奴・後漢に挟まれた小国・大月氏国の国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教の特徴を述べれば、仏像、無数の経典、立派な伽藍、立派な法衣、極楽往生思想、護摩による加持祈祷、護符、先祖崇拝のお盆の儀式、血・肉食の禁忌、葬儀等が思い浮かびます。
しかし、釈尊(紀元前566年〜紀元前486年。一説では紀元前463年〜紀元前383年)の教えを伝えていると自負する大乗仏教を特徴づけるそれらの物・思想・儀式は、釈尊の仏教とは関係ないだけではなく、全く正反対の思想であるのです。
紀元前二千年カスピ海沿岸からアーリア人が南下し、紀元前800年頃インドの先住民・遊牧民族トラヴィダを支配するために、侵略者のアーリア人は、バラモン教を発明するのです。
そのバラモン教義によれば、バラモン僧が最高の地位で、臣民を差別的四姓に分けるのです。しかし、先住遊牧民のトラヴィダ族は、その四姓のアウトカーストの不可触賎民セダラとされてしまうのです。
そして、バラモン僧は、その四姓の差別的カースト制を永遠に維持するために、輪廻転生の思想を発明するのです。つまり、一度バラモン姓となった者は、永遠にバラモン姓であり、そして、アウトカーストの不可触賎民セダラは、永遠にセダラとして輪廻転生する、ということです。
それらのバラモン教の差別的思想に疑問に思った釈尊は、そのバラモン教の永遠のカルマを断ち切る方法を考え出したのです。それが、出家して「非人」となり、「乞食」により生きることです。釈尊は瞑想することにより、「非人と乞食とにより、バラモン教思想のカルマを断ち切ることができる。」、と考えたのです。
バラモン教の思想によれば、一度そのカーストとなった者は、来世もそのカーストのままです。では、人間でもなく、死人でもない「非人」であれば、死んでも来世がないわけですから、来世でカースト姓に属さないわけです。更に、カースト制により職業の差別があるのなら、出家して、現世での一切の生産活動にたずさわらずにいれば、カースト制下で暮すこともないわけです。つまり、出家して、ひとの施しだけにより、現世の一切のしがらみから解かれて暮すことが、釈尊の教えの基本であったのです。
しかし、その釈尊の教えと全く正反対の大乗仏教は、釈尊崩御の五百年後の紀元一世紀、何を目的に、誰により発明されたのでしょうか。その解明のヒントは、キリスト教にあるようです。
大乗仏教の数々の経典は、紀元一世紀の国際交易都市ガンダーラに突然現れたのです。それと同時に、キリスト教の経典(福音書)もオリエントに現れたのです。そして、それらの二つの宗教の開祖ブッダ(紀元前五世紀の釈尊ではない。ブツダとは覚醒した者の意味。)とイエスとは、その生誕・奇跡物語に共通事項が多くあるのです。何故でしょうか。
大乗仏教は、一般的にサンスクリット語で書かれたものが、東進し、中国で漢語に訳され、日本列島に伝来した、と思われているようです。しかし、サンスクリット語の原典は、中国で漢訳されると全て焚書されているのです。仏の教えを伝えるサンスクリット経典の原典が全て焚書されている事実には、何かの謎があるようです。
その謎は、サンスクリット経典には、知られたくないことがあったからです。伝聞によると、そのサンスクリット経典は、サンスクリット語に堪能なひとにより書かれたものではなかったようです。サンスクリット言語圏で生活していなかった誰かが、「原典」をサンスクリット語に変換したのが、サンスクリット経典であったようです。
サンスクリット語と古代ペルシャ語とは、文法も発音も殆んど同じです。異なるのは、使用する文字だけです。ササン朝ペルシャ(226年〜642年)では、アラム語から派生したパフラヴィ語が使用されていたのです。そして、古代オリエントでは、国際交易商人達は、国際商人語であるアラム語で交易をおこなっていたのです。
そのアラム語は、紀元前一千年頃、アラビア半島から出現したアラム民族の言葉です。そして、アラム語を話す民族は、メソポタミア、シリア全域に浸透し、紀元前722年イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア帝国(紀元前933年〜紀元前612年)では、アラム人はその活動範囲を一挙に拡大し、それに伴いアラム語もオリエントで国際共通語となっていくわけです。そして、アラム語は、系統的にはフェニキア語やヘブライ語などと同じ、北西セム語に属すのです。そのアラム語で、シリアのキリスト教宣教師は、聖書の物語を布教していたのです。
ここで、疑問が浮かぶのです。806年唐より帰朝した空海は、真言密教を発明するわけです。しかし、その真言密教の呪文は、仏教の原語であると思われるサンスクリット語ではなく、アラム語なのです。そして、その呪文の文句には「イエスのアラム語言葉」が多くあるのです。唐で仏教を学んだ空海が、何故に「アラム語」の呪文を唱えたのでしょうか。「アラム語」と言えば、キリスト教の経典(福音書)も、アラム語(=東方シリア語)からギリシャ語訳で出版されていたのです。
そこで、ひとつの仮説が現れたのです。それは、大乗仏教とキリスト教との経典は、元々はひとつで「アラム語」で著述され、それぞれの布教先で、それぞれの言葉で翻訳された、と言うことです。
つまり、アラム語原典→古代ペルシャ語経典→サンスクリット語経典→漢語経典の流れが大乗仏教です。そして、アラム語原典→ギリシャ語福音書→ヘブライ語福音書の流れがキリスト教です。この仮説により、大乗仏教の代表作品である「法華経」物語と、キリスト教の「ヨハネ福音書」物語の基本思想が全く同じことを、証明することができるのです。ひとつの例として、

「法華経」では、「四十年ほどしかたっていないお釈迦様が、こんな菩薩をお弟子だといわれるのは、まるで二十五歳の青年が、百歳の老人をわが子だというようなものではありませんか。そこで釈迦は、私は四十年前に悟りを開いて仏陀になったのではない。じつは、かぞえきれない年月の以前から、仏陀なのだ。」と言う思想表現は、「ヨハネ福音書」では、「しかし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ。そこでユダヤ人たちはイエスに言った、あなたは五十にもならないのに、アブラハムを見たのか。イエスは彼らに言われた。よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前からわたしは、いるのである。」

では、「法華経」と「ヨハネ福音書」とのアラム語による共通原典は、いつ誰により著されたのでしょうか。
ここにひとつのヒントがあるのです。それは、前漢(紀元前202年〜紀元8年)に、大月氏国(紀元前140年〜紀元45年)の使者イソン(漢語で伊存)が「浮屠教・フト教」という経典を伝えた、とあるのです。つまり、サンスクリット語の大乗仏教経典が出現していなかった紀元前二世紀に、「浮屠教」は、前漢に渡来していたのです。
「浮屠」とは、ブッダの漢訳で、その「浮屠」が、四世紀後半に朝鮮半島に渡来すると、その「浮屠」に尊敬語の「ケ」が付けられ、「フトケ」となり、その「フトケ」が、六世紀(?)の日本列島に渡来すると「ホトケ」となり、今日に至るわけです。
仏教史によれば、大乗仏教の興りは、大月氏国をトカラ人が征服したクシャナ朝で、紀元一世紀と言われているのです。大乗仏教が発明される二三百年前に、大月氏国から前漢に渡来した「浮屠教」とは、「何教」だったのでしょうか。
そもそも、大乗仏教が発明された地の「大月氏国」とは、何なのでしょうか。
大月氏国は騎馬民族国で、元は「月氏」と言われていて、紀元前250年中央アジアに現れたギリシャ系王国バクトリアを、紀元前140年に倒し大月氏国となったのです。しかし、その民族の渡来元が不明なのです。民族として推測されるのは、チュルク、イラン、モンゴルなどですが、中央アジアで異質なギリシャ文化を保持していたのです。その大月氏国の後裔国の弓月国は、日本列島に渡来した秦氏の渡来元であるのです。
秦氏が祀るのは、太陽神で、それは中国大陸では「景教」と言われていたのです。「浮屠教」と「景教」とには、何かの共通点があるのでしょうか。
一般的に「景教」は、431年エフェソスの公会議で異端として追放されたネストリウス派のキリスト教であると言われていますが、それは違います。キリスト教は、景教(ミトラ教)の思想・儀式を模倣した宗教であることが分かれば、説明の必要もないでしょう。
このアジアで異質ギリシャ文化の保持国は、東アジアにもあったのです。それが、356年朝鮮半島で奈勿王により建国された騎馬民族国新羅(秦羅=シン国=ローマ国)なのです。新羅文化は、漢語を知らないギリシャ・ローマ文化であったのです。(前秦や東晉に朝貢する時、高句麗や百済と異なり、新羅は漢語の通訳を必要としていたのです。)そして、東アジアでは異質な、ローマン・グラスで飲み物を、冑や鎧で武装した馬に乗る武将は金のネックレス・ブレスレット・指輪を着け、そして、ギリシャ系三本樹の金冠を被る女王国でもあったのです。しかし、528年新羅は、ギリシャ・ローマ文化から仏教文化へと大変換しているのです。その528年日本列島の北九州では、筑紫国造盤井の反乱がおこっているのです。その数年後、飛鳥ヤマトにチュルク系騎馬民族の蘇我稲目が突然現れるのです。そして、飛鳥ヤマトにはガラス器製造工場があったのです。
そのような、中央アジアで異質なギリシャ・ローマ文化を保持していた大月氏国を支配していた民族は、どのような民族であったのでしょうか。その民族を知ることで、その民族が伝えた宗教を知ることで、大乗仏教とキリスト教との経典の原著を知ることができるかもしれません。
大乗仏教とキリスト教の経典が同じであるのならば、その儀式やシンボルの共通点を辿れば、そのふたつの宗教の源泉にたどり着くことが出来るかもしれません。そこで、それらを羅列すれば、大乗仏教では、「法華経」の出だしで、釈迦の眉間から光が発せられたり、そして、弥勒菩薩が存在することにより、「太陽」と関係があると推測されます。
キリスト教では、十字架はマルタ・クロスで、太陽の光を表わしているし、キリストの誕生日と言われている「クリスマスの日」は、太陽の死である「冬至」におこなわれていた、太陽神を祀るミトラ教の儀式を導入したものです。と言うことは、ふたつの宗教に共通することは、「太陽とミトラ神」であるわけです。
大乗仏教とキリスト教の共通点が、「太陽とミトラ教」であることは、その原著が国際交易都市ガンダーラで創作されたことと関係があるのです。その国際交易都市ガンダーラの歴史を辿れば、クシャナ朝(45年〜五世紀中頃)←大月氏国(紀元前140年〜紀元45年)←バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)となるわけです。そのバクトリアとはギリシャ系文化国で、その構成部族には、ギリシャの哲学者プラトン(紀元前427年〜紀元前347年)の一族がいたのです。そして、そのバクトリアの国教は太陽神のミトラ教だったのです。ですから、国際都市ガンダーラには、ギリシャ文化が流れていたので、初期の大乗仏教の仏像はギリシャ型であったのです。そして、大乗仏教に弥勒菩薩がいるのは、弥勒(ミロク)とはミトラ神が変身したものであるからです。
中央アジアのギリシャ文化国のバクトリアは、ギリシャのアレクサンドル大王(紀元前336年〜紀元前323年)が、東進し、アケメネス朝ペルシャ帝国を呑み込んで、アレクサンドル大王領としたのが、紀元前323年アレクサンドル大王の病死後も、中央アジアに留まったギリシャ傭兵軍により建国された国なのです。
紀元一世紀に突然現れた、ミトラ神やアラム語原典を基に発明された大乗仏教の地・クシャナ朝の国際交易都市ガンダーラを、西アジアから中央アジアまでを歴史的に辿れば、クシャナ朝(紀元45年〜5世紀中頃)←大月氏国(紀元前140年〜紀元45年)←バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)←アレクサンドル大王領(紀元前336年〜紀元前301年)←ペルシャ帝国(紀元前525年〜紀元前330年)←メディア王国(紀元前625年〜紀元前550年)←アッシリア帝国(紀元前933年〜紀元前782年)となるのです。
騎馬民族の大月氏国は、製鉄部族も有していたのです。そして、その前身のバクトリアは、後に興るローマ帝国(紀元前27年〜紀元395年東西に分裂)と同じに、中国大陸では大秦国と言われていたのです。そのバクトリアからのギリシャ・ローマ・スキタイなどの西方異民族の傭兵軍団を纏めて、中国大陸を始めて統一したのが、秦の始皇帝(紀元前221年〜紀元前210年)であるわけです。
日本列島で、釈尊の教えと全く正反対の思想である、血・肉食の禁忌の大乗仏教思想布教により、インド・バラモン教が発明したチャンダラー(セダラ)を鎌倉時代に改名した、不可触賎民「穢多」の蔑称でイジメられた、製鉄・石切・運河削堀の高度技術を持つ秦氏は、自身では秦の始皇帝の末裔と言っているわけですが、その秦氏の歴史は更に西のバクトリアからオリエントへ辿ることになるのです。
紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンは、イスラエル王国を滅ぼすのです。しかし、ユダ王国は紀元前586年バビロニア王国により滅亡されるまで存続していたのです。そして、イスラエル民族は、やがてアッシリア帝国の砂漠に消えてしまうのです。
一般的常識では、ユダヤ民族とイスラエル民族とが同じ民族と考えているようですが、それは違います。祀る神が異なるからです。(現在のイスラエル国は、イスラエル民族ではなく、ユダヤ民族の国。イスラエル民族は、紀元前八世紀に歴史上消えてしまった。)
ユダヤ民族は、一神教のヤハヴェ神を祀るのです。しかし、それに対してイスラエル民族は、太陽神バアルと金の牡牛です。祀る神が異なると言うことは、同じ民族ではないということです。
そして、歴史上で異民族が異民族を侮り、勝者が敗者に蔑称を付けるることはよくあることです。日本列島でも、645年突然飛鳥ヤマトに現れた中臣(藤原氏の祖)が、オリエント文化の蘇我政権を乗っ取ると、蘇我氏(チュルク民族名は抹殺。)一族の名前を「日本書紀」で、「稲目、馬子、蝦夷、入鹿」などの蔑称(敗者名は動物・醜い昆虫名)を付けたように、ユダ王国とイスラエル王国が分裂する前のヘブライ(紀元前1230年〜紀元前932年)では、不正な手段でヘブライの王権を乗っ取ったレビ族末裔ソロモン王は、一神教のヤハヴェ神ではなく、太陽神バアルを祀るヨセフ族末裔のサウル王の子エシバアル(太陽神バアルの子の意味)をイシボセテ(恥の子)と書き換えているのです。
そして、その後、アッシリア帝国に滅ぼされたイスラエル民族には、アッシリア人と混血するひとも現れるわけです。その混血児を、ユダヤ人は、サマリヤ人として蔑視するだけではなく、鎌倉時代に藤原氏末裔が秦氏末裔を不可触賎民「穢多」と蔑称したように、不可触賎民としていたのです。(「聖書のサマリアの女」参照)
そして、このサマリア人の居住していた地域では、アラム語を使用していたのです。太陽神バアルを祀り、そして、アラム語を話すイスラエル民族は、アッシリア帝国の砂漠に消えてしまったのですが、その足跡を辿れば、その行き先を探し出すことが出来るかもしれません。
四世紀のローマ帝国で、ミトラ地下神殿を徹底的に破壊して、その跡に教会を建てたキリスト教、そして、七世紀の飛鳥ヤマトでオリエント文化の寺(ジ=雑務をおこなう建物→外国人用ホテル)を徹底的に破壊してその跡に仏寺(テラ=死者を安置する処)を建立した大乗仏教、このキリスト教と大乗仏教がおこなった、前宗教施設の徹底的破壊と隠蔽とにより前文化を歴史上抹殺した行為には、アッシリア帝国の砂漠に消えたイスラエル民族と関係があったのでしょうか。
イスラエル民族が祀る、太陽神バアルと金の牡牛とは、何なのでしょうか。太陽神と牡牛と言えば、飛鳥時代の秦氏も、太陽神(平安時代、百済亡命王権により、太陽神ミトラは「魔多羅」に変名された。)と牡牛(平安時代、百済亡命王権により、インドの鬼神と合体され「牛頭天皇」と変身してしまった。)を屠って(祀る)いたのです。
太古の太陽神ミトラは、元々は三神であったのです。その三神とは、日の出の太陽、天中の太陽、日没の太陽、です。このミトラ教の三神思想は、キリスト教では父と子と精霊となり、大乗仏教では仏像配置の三神像となるわけです。では、イスラエル民族が祀る太陽神バアルと金の牡牛の源は、何処から来たのでしょうか。
宗教と言うと、何か神秘的な響きがあり、俗人には解明できない領域のように思えます。更に、「聖書」とか「経典」などと言えば、俗人が疑問を持つことが出来ない雰囲気があります。そのような宗教を物語った宗教史などは、全く疑う余地がないほど「神聖」な物語であるように思えます。
しかし、神はひとが、日常生活で困難な場面を乗り越えるために発明した「もの・概念」であると認識すると、それらの宗教物語の舞台裏を少し覗けるようです。
宗教には、神がいます。その神には二系統があります。自然神と人工神です。太陽や星、月を神とする民族は、ひとが創造した人工神を祀ることが出来ません。そこで、人工神を祀る司祭者は、色々な物語を創作するわけです。その人工神の物語を創作する時、古の人工神物語を真似て創作する傾向があるようです。
例えば、平安初期、藤原氏の奈良仏教から離別するために、百済系桓武天皇が唐に最澄を留学させ、「ヨハネ福音書」とソックリの「法華経」を信奉する中国天台宗を導入して、比叡山延暦寺に日本天台宗を開設したわけです。
それに対抗して、藤原氏は、藤原氏の資金で錬金術師空海を一年で僧籍に入れて、804年最澄と伴に唐に留学させるのです。そして、空海は、806年帰国後に、真言密教を発明するわけです。
しかし、空海の発明した真言密教の呪文は、仏語であると思われているサンスクリット語ではなく、アラム語であったのです。そして、空海は、インド・バラモン教やヒンズー教の神々を「仏」とし、その頂点の「仏」として「大日如来」を発明するわけです。
一般的常識では、密教とは、表の教えである「顕教」に対して、裏の「秘密の教え」であると思っているようですが、それは違います。
密教の「密」とは、アラム語がササン朝ペルシャ帝国時代に変化した、中国諸国とペルシャとの国際交易で使われたソグド語の、太陽を表わす「ミル」を漢音訳したものであるのです。つまり、「密」とは、「ミル」で、「太陽」の意味なのです。と言うことは、密教とは、「太陽の教え」と言う意味なのです。ですから、「大日如来=太陽神」を発明した空海の密教呪文には、太陽神ミトラから派生したキリスト教のアラム語呪文が多くあったのです。
イスラエル民族の祖は、ヨセフ族です。そのヨセフ族は、紀元前十四世紀、鉄器を発明したヒッタイト王国(紀元前1900年〜紀元前1190年)から、エジプトのアメンホテプ四世(紀元前1377年〜紀元前1358年)の統治時代に現れたのです。そのヒッタイト王国での国際取引には、ミトラ神が契約の神として存在していたのです。
アメンホテプ四世は、エジプトの神官が勝手に神々を創作して政治の実権を掌握していることを快く思わなかったので、奈良末期に藤原氏が支配する奈良仏教の呪縛から解放されるため、百済亡命貴族の桓武天皇が、794年平安京に遷都したように、宗教改革を目的に新都アケトアテンの造営にとりかかったのです。
エジプトの建設資材は、「旧約聖書」で述べている「日干レンガ」などではなく、石材です。石材を切り出すには、鋼鉄工具が必要です。そして、巨石を遠方から運ぶには、運河を造るための削掘技術が必要です。そこで、鉄器を発明したヒッタイト王国から、鋼鉄工具を持つヨセフ族がエジプトの新都建設のために現れたわけです。
アメンホテプ四世は、エジプトの神官が勝手に創作した神々を否定するために、新しい神を創作するのです。それが、唯一神の太陽神アトン(アテン)です。この太陽神アトンも、オリジナル神ではなく、前神がいたのです。それは、太陽神ミトラです。
太陽神ミトラは、ヒッタイト王国からメソポタミアまで広く、交易を見守る神として信仰されていたのです。その太陽神ミトラは、オリエントから迎い入れられたアメンホテプ四世のお妃と伴にエジプトに渡来したのです。
エジプトの多神教の神官を排除した新都では、唯一神の太陽神アトンが祀られるわけですが、その宗教改革があまりにも急激だったので、エジプト神官だけではなく、民衆にも不満が蓄積していたのです。そのような折、紀元前1358年アメンホテプ四世が崩御し、政権を取り戻した多神教の神官に、その息子もアメン神の息子の意味のツタンカーメンと変名させられたように、アメンホテプ四世の宗教改革は短命に終わったのです。
イスラエル民族の祖であるヨセフ族は、アメンホテプ四世から、新都市の建設技術者として絶大な信頼を得て、高官の地位に就いていたので、アメンホテプ四世が崩御すると、多神教のエジプト神官から追撃されるのです。そこで、ヨセフ族はエジプトを脱出するわけです。
エジプトを脱出してアラビア半島に逃れた頃には、ヨセフ一族は大部族となっていて、エフライム族が指導権を握っていたのです。そのアラビア半島を彷徨っていたエフライム一族に、メソポタミアを流離っていた部族、レビ族が加わるわけです。そして、その連合部族は、やがてイスラエル民族を形成していくわけです。そして、エジプト軍が徹底的に破壊した、廃墟のカナンの地に、それぞれの部族が国を造るのです。それが、十二部族連合国のヘブライ国(紀元前1230年〜紀元前932年)です。
ヘブライ国でもヨセフ族の直系エフライム族は、アメンホテプ四世が発明した唯一神の太陽神アトンを信仰し、太陽の化身牡牛を金で造り、太陽神と金の牡牛を祀っていたのです。しかし、そのカナンの地は、太陽神バアルを祀るフェニキアの地でもあったのです。やがて、唯一神の太陽神アトンは、多神教の太陽神バアルと変身していくわけです。
これらのエジプト脱出物語は、「旧約聖書」の「出エジプト記」にあるのですが、その「出エジプト記」は、紀元前586年レビ族の末裔のユダ王国が、バビロニアに滅ぼされ、バビロンに幽囚された時、レビ族末裔の祭祀氏族のザドク一派が、ユダヤ民族を永遠に支配するために創作した物語であるのです。ですから、イスラエル民族がアッシリア帝国に滅ぼされた後に、レビ族末裔のザドク一派に創作されたモーセ五書と言われる書物は、イスラエル民族のものではなかったのです。その書物では、イスラエル民族が滅んだのは、異教の多神を祀ったからだ、と何度も記述されているのです。
ですから、ヨセフ族がエジプトから脱出した時には、モーセなどいなかったのです。唯一神ヤハヴェから十戒を授けられたと言われるモーセは、平安時代の百済亡命貴族が「法華経」を広めるために発明した、十七条の憲法を発明した「聖徳太子」と同じに、架空の人物であったのです。そして、モーセとは、○○の子と言う意味の一般名詞であったのです。
では、「旧約聖書」で言うところのモーセによる唯一神ヤハヴェは、何を基に発明されたのでしょうか。
ヘブライ時代は、ヨセフ族の直系エフライム族が主導権を握っていたわけですから、エルサレムの神殿では、太陽神アトン(バアル)と金の牡牛が祀られていたのです。しかし、レビ族の末裔ダビデ(紀元前1004年〜紀元前965年)が王権を、エフライム族から搾取すると、太陽神アトン(バアル)を排除しにかかるわけです。
そして、ダビデ王が崩御すると、多くの息子の一人ソロモン(紀元前965年〜紀元前932年)が不正な手段で、ダビデの王権を奪取するのです。この行為に怒ったエフライム族を中心に十部族が、「ソロモン王はヤコブ(不正な手段で王権を搾取した者の意味)だ!」と非難して、紀元前932ソロモン王が崩御すると、ヘブライ国から分離してイスラエル王国を興すのです。
ここに、ヒッタイト王国出自のヨセフ族を祖とするイスラエル民族と、メソポタミアを放浪していたレビ族を祖とするユダヤ民族とが分離するわけです。そして、ユダ王国は、太陽神バアルに代えて、唯一神を発明するわけです。しかし、その神の名は、一部の神官でしか呼べないのです。その訳は、唯一神とは、エジプトのイクナトン(アメンホテプ四世)が発明した唯一神「アトン」であったからです。
イスラエル民族の祖ヨセフ族は、鉄器を発明したヒッタイト王国出自で、古代エジプトで石切、運河削掘、都市建設の高度技術を習得していたので、それらの技術はイスラエル民族に伝承されていたのです。イスラエル民族は、ヒッタイト王国の製鉄技術、そして古代エジプトの石切・運河削掘・都市建設の高度技術者集団だったのです。
それに対して、ユダヤ民族の祖は、メソポタミアを放浪していた商業民族であったので、ソロモン王時代に、国際海洋商人のフェニキアと連合して、南インドのマラバル沿岸国から香木、孔雀の羽、猿、香辛料などを輸入して、ギリシャの都市国家に輸出して大儲けをしていたのです。
紀元前722年イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア帝国は、その後、北方から押し押せる騎馬民族スキタイに攻撃されるのです。
騎馬民族スキタイは、黒海、カスピ海沿岸に、紀元前八〜七世紀に現れた民族です。鹿をトーテムとする異部族連合国のスキタイは、獣の毛皮を商う民族でもあったのです。常に移動するスキタイは、動産としての金製品に異常な興味があり、そのことにより、金製品を製造するギリシャ植民都市と交易を始めるわけです。スキタイの王は、手柄を立てた武臣に褒賞として金のネックレス・ブレスレット・指輪を与えていたのです。ですから、ギリシャ植民都市と交易をするスキタイには、ギリシャ文化が流れていたのです。
スキタイは、ギリシャから金製品を得るために、毛皮だけではなく、原料の金を求めて南下、東進するわけです。しかし、金を採掘するには、鋼鉄工具が必要です。そこで、アッシリア帝国を攻撃し、その臣民で、製鉄技術のある者を奪取していくわけです。
金は貴金属で、大量に採掘することは困難な金属です。そこでスキタイは、青銅表面に金をメッキする技術を、開発したのです。それが、水銀アマルガム法です。
因みに、メッキは日本語です。水銀に金を溶かすと金色が消えるから滅金(メッキン)で、銅にその溶液を塗り熱で水銀を蒸発させると金が銅に渡るから鍍金です。この鍍金をメッキと読ませたのです。
金は、アラム語から派生したモンゴル語で、アルタンと言います。スキタイは、そのアルタンの産出するアルタイ山脈を占領し、そこから産出する金を、ギリシャ植民都市国家の生産する金銀製品との交易に使うのです。しかし、金の産出は多くはないのです。そこで水銀アマルガム法により、金製品の代用品の金銅製品を作るために、水銀を求めて更に東進するわけです。
当時、水銀の素材としての朱砂の産出処は、国際交易商人には、中国中部と極東の島、日本列島の奈良宇陀が知られていたのです。
日本列島の縄文時代では、朱砂は化膿傷を治す、「霊力あるモノ=カムイ」であったのです。その当時は、水銀の殺菌力が知られていなかったので、霊力が朱砂にあると思われていたのです。ですから、死者の体や木棺などに、悪魔よけとして、朱砂が塗られていたのです。その朱砂の一大生産地の奈良宇陀から産出される朱砂を求めて、広く海外から朱砂の市が立つ三輪山に、紀元前から国際交易商人が渡来していたのです。
時代が飛んで、紀元前二世紀の中央アジアのギリシャ文化国の騎馬民族を主体とする大月氏国に製鉄部族がいたことは、大月氏国には、騎馬民族スキタイがいたことで説明がつくようです。それは、アッシリア帝国で奪取された、アラム語を話すイスラエル民族末裔が、騎馬民族スキタイと伴に東進して、大月氏国にたどり着いたからです。
水銀を求めたのは、騎馬民族スキタイだけではありません。インドをまがまがしい宗教儀式で支配していたバラモン僧も、水銀を求めていたのです。水銀には、殺菌の効力の他に、神経を麻痺させる作用もあるからです。その水銀の神経麻痺作用を、バラモン僧はバラモン教の霊力として使用するために、水銀を求めていたのです。この宗教儀式に水銀が使われていたことは、インドのバラモン教やヒンズー教の神々を日本列島に持ち込み「仏」とした錬金術師空海が、山岳修行と称して、多くの弟子達に金剛杖を持たせ水銀鉱脈を日本列島で探索させていたことでも、理解できるでしょう。
大月氏国に居留していた秦氏の祖は、太陽神を祀る民族であったので、目的もなく東進したわけではないようです。太陽神ミトラは、冬至に再生する(誕生)と信じられていたので、太陽神を祀る民族は、オリエントから冬至の方位を目指して東進したのです。
大乗仏教とキリスト教の原典を求めた旅は、大月氏国で終わるのです。大月氏国で、太陽神バアルと牡牛を祀るヨセフ末裔で、アッシリア帝国の砂漠に消えたイスラエル民族のエフライム族(=秦氏)の足跡を見つけたからです。
紀元前二世紀に、大月氏国から前秦に伝播されたという「浮屠教」とは、アメンホテプ四世時代のエシプトで発明された「太陽神アトンの教え」であったようです。そして、その教えは、後に、アッシリアの砂漠に消えたイスラエル民族によりアラム語で書かれていたようです。
大乗仏教が宣伝する「阿弥陀様の教え」では、

今から二千年前(当時)エジプトの地にアミ様と呼ばれていた尊いお方が居られ、「太陽の教え」を説かれ広められました。太陽はご自分の身を燃やし、犠牲にして私達人間に熱と光をお与え下さいます。その熱と光は人間にとって無くてはならない物であります。その熱と光は誰にでも「平等に分け隔てなく」頂くことが出来ます。その熱と光は無償で頂くことが出来るのです。太陽はご自分の身を持ってして私達人間に対し慈悲と愛を教えて下さいます。その太陽の御心を知ったなら私達も無償で慈悲と愛の実践を行わなければなりません。そして実践することで私達に幸せを頂くことが出来るのです。

一般的常識では、西方浄土とは、インドに浄土(極楽処)があるように思われていますが、それは違います。それは、西方浄土思想は、北インドのガンダーラで発明されていたからです。ですから、ガンダーラから西とは、インドなどではなく、エジプトであるわけです。
この大乗仏教オリジナルの教えと信じられている文章から、次のことが推測できます。それは、エジプトのアミ様とは、エジプトの太陽神アトンである、と言うことです。
ユダヤ人は、消えたイスラエル十部族を今でも探している、と言われています。何を目的に探しているのでしょうか。昔の同朋と再会をして、又、古のヘブライ国でも建設して、仲良く暮すことを目指しているのでしょうか。
しかし、それは別の目的があるようです。それは、「聖滅」です。「聖滅」とは、神の命令により異教民を、ユダヤ民族がイスラエル民族を不可触賎民「サマリア人」としたように、藤原氏末裔が秦氏末裔を不可触賎民「穢多」としたように、物理的に、それが出来ない時は、社会的に不可触賎民として抹殺することです。
何故、四世紀のローマ帝国で、ミトラ教地下神殿が徹底的に破壊され、その跡にキリスト教教会が建てられたのでしょうか。何故、七世紀の飛鳥ヤマトで景教(ミトラ教)の寺(ジ)が破壊され、その跡に北九州の秦王国から移築された仏寺が建てられたのでしょうか。それらの行為は、「聖滅」であったからです。
それらの「聖滅」は、ユダヤ教もキリスト教も大乗仏教も、その源の神が、太陽神ミトラであったからです。ですから、それらの宗教組織は、ミトラ教の存在を許せなかったのです。つまり、ミトラ教の「平等に分け隔てない教え」が広く布教されたら、国際交易商人と結託したそれらの宗教の基盤が崩壊するからです。
ミトラ教の流れを辿れば、太陽←三神の太陽神ミトラ←唯一神の太陽神アトン←多神の太陽神バアル←二神のゾロアスター神←唯一神ヤハヴェ←キリスト・ブッダ(釈尊ではない)、となるわけです。

藤原日本史の目的のひとつは、日本列島における秦氏の歴史を抹殺することだったのです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/845.html

コメント [政治・選挙・NHK179] イスラム国混乱のどさくさの中で、TPPが成立するのか(ひょう吉の疑問) 赤かぶ
04. 2015年1月31日 19:37:28 : 2uQySNJHQQ
牛肉関税、9%へ引き下げ案 日本、TPPで米に提示
2015年1月30日04時17分

 環太平洋経済連携協定(TPP)の日米交渉で、日本が牛肉の関税(現在38・5%)を十数年かけて9%まで下げる案を米国に示していたことがわかった。日米両国は、来月2日からワシントンで行う実務者協議で調整し、同月中にも閣僚会談を開いて二国間合意を目指す方針だ。

 牛肉は日本が関税を維持したい重要農産品の一つで、日米交渉で大きな焦点となっていた。米国は日本の提案に対し、引き下げにかける年数の短縮や、輸入が急増したときに関税を引き上げる「セーフガード」の発動条件の厳格化を求める可能性があり、調整によっては関税率が変わることもある。

 日本の輸入牛肉のシェアは現在、豪州産が最も大きく、今月発効した日豪経済連携協定(EPA)では、外食産業向けが多い豪州産の冷凍牛肉は18年かけて19・5%に、店頭向けが多い冷蔵牛肉は15年かけて23・5%に関税を下げる。日本は当初、TPP交渉でもこのラインを基準にしたが、米国から「5%以下」を求められ、譲歩したとみられる。

 日米交渉は、他にも豚肉やコメをめぐり対立が続いていたが、日本に対し豚肉の関税撤廃を強く求めていた米国の全米豚肉生産者協議会(NPPC)が26日、態度を軟化させる声明を出すなど、日米が歩み寄る機運が高まっている。

 日米は二国間で合意したうえで、3月にも交渉参加12カ国の閣僚会合を開き、全体合意に持ち込むシナリオを描く。ただ、米国と他国の間では、新薬などの知的財産権をめぐる分野で意見が大きく食い違っている。現在、米ニューヨークで2月1日までの日程で開かれている首席交渉官会合で、各国の溝をどこまで埋められるかも焦点となる。

 TPPは太平洋を取り囲む12カ国が関税を引き下げたり、投資などのルールを共通化したりして、域内の経済活動を活発にする狙いがある。交渉が長引くと、来年に大統領選を控える米国が議会の協力を得にくくなるため、米通商代表部のフロマン代表は27日、「数カ月以内の妥結を目指す」と述べていた。

http://www.asahi.com/articles/ASH1Y7H1LH1YUTFK013.html
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/134.html#c4

コメント [政治・選挙・NHK179] <NHK経営委員>百田氏が退任へ(毎日新聞) 赤かぶ
14. 2015年1月31日 19:38:32 : 8q3qeXT2cg

右向け右のモミガラ君は、いつ辞めるの?

たまに画面に出てくるけど、吐き気がする。


http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/113.html#c14

記事 [原発・フッ素41] 2030年度の電源構成案 60年運転前提 原発20%に上昇も
上の世界図は、震度4以上の地震発生した分布図(1975-1997)と、原子力発電所の場所を重ね合わせたマップ。
日本だけが、地震プレートの真上に原発が多数建設されているかが一目瞭然。



経済産業省は三十日、将来的な原発や再生可能エネルギーなどの構成比率を話し合う総合資源エネルギー調査会の「長期エネルギー需給見通し小委員会」の初会合を開いた。原発は運転開始から四十年で廃炉にする決まりだが、経産省は六十年まで延ばせる特例の利用を前提にする。現在はゼロで、将来も原則通りなら最大でも15%未満にとどまるはずの原発比率を20%前後まで高めるとみられ、「原発への依存度を可能な限り引き下げる」としたエネルギー基本計画に逆行する。 (吉田通夫)


原発の寿命を特例で延ばす手法にも安全を懸念する国民の声が強まる可能性がある。政府が昨年四月にまとめた同計画では原発の目標数値は明記しておらず、小委員会は夏までに二〇三〇年度に目指す原発や再生可能エネルギーなどの構成比率をまとめる。


政府は東京電力福島第一原発の事故で、同原発1号機が四十年を超え老朽化していたことなどを重視、一二年の法律改正で運転期間を四十年に区切った。経産省は「現時点で原発の新増設は想定していない」としており、多くの原発が再稼働したとしても時間がたてば自然に原発は減る。同省試算では、火力なども含めた総発電量が一定と仮定すると、原発の占める割合は二八年度に約15%と〇九年度の半分になり、三〇年度はさらに下がる見通し。


しかし、原発は原子力規制委員会の特別点検に通れば最長六十年まで運転を延ばせる。安倍政権は原発の維持推進を目指しており、経産省は原発の割合を引き上げるため「延長特例を利用する想定を置く」(同省関係者)方針だ。


三十日の初会合でも、経産省が配った資料は「天然ガスなど化石燃料への依存度が急上昇している」など原発の必要性を示唆する内容がほとんど。一方、再生エネルギー計画で21%以上を目指すとした再生エネについては「増やすと電気料金も上がる」と後ろ向きの説明に終始した。


会合では委員の橘川武郎一橋大大学院教授が「政府は『原発は可能な限り減らす、再生エネは最大限導入』と言っているのだから、再生エネは(最低でも)30%、原子力は15%ぐらいでないとおかしい」と原発回帰の議論にくぎを刺した。同調査会基本政策分科会委員の福井県の西川一誠知事も「原子力規制委は安全の責任をとらないので、政府が規制委の認めた原発は動かすといっても国民の支持は得られない」と批判した。


<40年廃炉原則> 政府は東京電力福島第一原発の事故を受けて老朽原発の廃炉を進めるため、2012年に原子炉等規制法を改正して原発の運転期間を40年に制限した。しかし電力業界の反発を受け、原子力規制委の「特別点検」に合格すれば最長20年延長できる例外規定も設けた。


http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2015013102000124.html

http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/744.html

コメント [政治・選挙・NHK178] 創価学会・池田大作名誉会長、朝日新聞で新連載開始か 信者伸び悩み&読者減で助け合いか ドンゲン
21. 2015年1月31日 19:39:29 : IMQzjnLJEA
長島の名セリフ。
「巨人軍は永久に不滅です」思い出した。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/919.html#c21
記事 [近代史02] 神輿の黙示録(18)(消された日本列島史:何故、藤原氏は騎馬民族史を抹殺・隠蔽したのか)
日本列島史を調べようと、仏教渡来よりも古いと信じられている神社の歴史を調べても、日本列島の黎明期を知ることができないでしょう。そして、神代の昔の文字と信じられている神代文字を調べてみても、知ることはできないでしょう。
それは、神社が、古墳の上か、その近辺に建てられているからです。古墳は、日本全国で紀元三世紀から七世紀まで築造されていたのです。その古墳の上に神社を建てるには、古くても三世紀、新しくても、七世紀以降でなくては建てられないのです。
日本列島の岩手県以南の全国に古墳を築造した民族は、六世紀北九州に渡来、そして七世紀に飛鳥ヤマトに渡来した仏教国際組織に壊滅され、その居住跡に仏寺、その後に、古墳上に神社が建てられていたからです。ですから、それらの神社から発見された神代文字なども、そう古くはないのです。
それらの神代文字と云われているものは、漢語を使う民族に駆逐された、エジプト・オリエントから渡来したアラム語の設計図を使い、古墳を築造した民族の文字であったのです。
エジプトのクフ王のピラミッドよりも大きい前方後円墳は、ヒッタイトの製鉄技術、古代エジプトの石切技術、運河削掘技術、数千の建設作業員を管理する技術と、オリエントの日干レンガ製造技術がなければ、ただ土を盛っただけでは、築造できないのです。そして、古墳に埋葬する石棺は、太陽神アトンが冬至の日を浴びることにより再生する、と言う古代エジプトの再生思想からのものなのです。インドのバラモン教では、死者は穢れているので、火で浄化のための火葬です。大乗仏教でも、その基本葬儀思想はバラモン教からのものなので、火葬です。騎馬民族は、鳥葬か風葬なのです。
因みに、歴史上確認されている天皇の火葬は、藤原不比等の傀儡である百済系女帝持統天皇からです。しかし、女帝持統天皇と同葬されていた、藤原不比等を左遷していた新羅系天武天皇は火葬されていなかったようです。このことからも、仏教伝来物語の百済から538年(「日本書紀」では552年)の飛鳥ヤマト朝廷への仏教伝来時期と、飛鳥ヤマトで仏寺を七つも建立し仏教布教に貢献したと伝わる聖徳太子の実在性が疑われるのです。大乗仏教の飛鳥ヤマトへの渡来は、645年藤原氏の飛鳥ヤマト出現とおおいに関係がありそうです。それは、飛鳥時代に続く奈良時代の仏教には、平安時代の「唐色」とは異なり、「インド色」が強く出ているからです。
古代エジプトで開発された石棺は、再生のための子宮だったのです。その石棺の内側の寸法は、古代エジプトの測量単位のキュビットで割り切れるようです。
アラム語はアルファベットを発明したフェニキア語から派生した表音文字なので各国の現地語発音を記号文字として表わすことが出来るので、アラム語→ヘブライ語→ペルシャ語→パフラヴィ語→ソグド語→モンゴル語→突厥語(チュルク語)など、時代と伴に、国際交易商人により各国の言葉に変換していったのです。
日本語のルーツが、21世紀の今でも確定していないのは、日本語を構成する原語が、世界各地から渡来していたので、複数あるからです。日本語の基幹語として北方のウラル・アルタイ語が考えられていますが、南インドのタミル語もあるのはなぜでしょう。
古代タミル語は、遊牧民族トラヴィダの言語です。紀元前八世紀トラヴィダ族は、バラモン教により、不可触賎民に落とされていたのです。古代の賎民は、王権により、奴隷となるか、下級軍人(人盾)となるか、その国から逃亡するより生きる術は無かったのです。
日本語にタミル語もあるということは、古代にトラヴィダ族が、中臣族(ナーガ=ヘビをトーテムとする祭祀氏族で藤原氏の祖)の人盾(奴隷軍人→薩摩ハヤト族の祖)として、南九州坊津に渡来していたからです。
バラモン教の圧制に苦しんだトラヴィダ族は、中国に逃れると、漢字で苗(ミャオ→ビョウ)族と呼ばれるわけです。その苗(ビョウ)が、日本列島では「ボウ」となり、中臣族が管理する奴隷「ボウ」による、南インドのマラバル沿岸から、香木など積んだ貿易船が着く処(津)が、やがて南九州の「坊津」と呼ばれるようになるわけです。
では、各国の歴史を綴った「風土記」はどうでしょう。それも、古代を知る史料とはなりません。風土記は、藤原不比等が、686年新羅系天武天皇の王権を簒奪した後に、蘇我王朝、天武王朝の歴史を隠蔽・改竄するために、二字の漢字で地名・人名を表わすように定めた、713年好字令により、創作されたものだからです。
蘇我王朝は、ブッダ・キリスト誕生・奇跡物語の基を創作した国際交易都市ガンダーラがあるクシャナ朝を倒した騎馬民族エフタルの後継国である突厥帝国の日本列島飛鳥支国であったので、チュルク語を使い、そして、天武王朝は、ギリシャ・ローマ文化保持国の新羅を祖とするので、飛鳥ヤマト言葉の基である古代新羅語にはオリエントの香りがしていたのです。
飛鳥ヤマト言葉は、平安時代に百済系天皇が、菅原道真に指示をだして、古代新羅語から「万葉語」へと変換したのです。つまり、「万葉集」の多くの歌は、オリエントの香りがする古代新羅語で著されていたのです。後に、菅原道真が、藤原氏の陰謀で消された理由は、遣唐使の廃止と、「万葉集の改竄」でもあったのです。
朝鮮半島での隣同士の古代百済と古代新羅との数詞は、民族が異なっているために、全く違っていたのです。仏教文化を受け入れた百済の数詞は、イル、イ、サム、サ、オ、リュク、チル、パー、クウ、シュップです。それに対して、ギリシャ・ローマ文化国の新羅の数詞は、ハン、トウ、ソェク、ノェク、タセス、エーセス、ニルグブ、ヨデルブ、アホウ、ヨエルなのです。古代百済数詞は、「イー、アル、サン」の中国語系です。しかし、古代新羅数詞は、「ワン、ツウ、ソゥリー」の欧米語系なのです。
それでは、日本古来の神話が語られていると信じられている「古事記」の神話から、日本列島の黎明期を知ろうとしても、その目的は叶わないでしょう。それは、「古事記」は、平安初期812年秦氏末裔多人長が、720年藤原氏が創作した「日本書紀」の神話に対抗して、先祖からの伝聞を基に創作した物語であるからです。
その日本古来の神話と信じられている物語には、ギリシャ神話とソックリなところが多くあるのです。それは、多人長の祖秦氏とは、ギリシャ文化国バクトリア→騎馬民族国大月氏(亡命百済王朝の第三代嵯峨天皇が、814年創作した「新撰姓氏録」では「弓月国」と表示。)→ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)から渡来した民族であったからです。
「古事記」神話のクライマックスである、天皇家の祖神と信じられている天照大神の天岩窟物語が、ギリシャ神話ソックリなのは、秦氏祖の渡来元が、ギリシャ文化国バクトリアであったからです。
何故、バクトリアが大秦国と呼ばれたのかは、紀元前221年バクトリアが中国大陸で興した国が、「秦国」であるからです。ですから、その秦国の母国のバクトリアが、大秦国と呼ばれたわけです。
そして、紀元前146年ローマ共和国が、ギリシャのカルタゴを滅ぼし、ギリシャ植民都市国家を呑み込むと、中国の前秦は、絹貿易の相手国である紀元前27年建国のローマ帝国も「大秦国」と呼んだのです。オリエントから渡来の秦氏とは、そのようなギリシャ・ローマの歴史を持った民族なのです。
この天岩窟物語とは、スサノウの狼藉により天照大神が、天岩窟に隠れてしまったのを、アメノウズメが裸踊りで誘い出す物語です。しかし、この日本神話の天岩窟物語はオリジナルではなく、ギリシャ神話の地母神デメテルと巫女バウボーとの物語を基に創作されていたのです。ギリシャ神話では、

ある事件により塞ぎこんでいる地母神デメデルに、薬草を飲ませようとするが、拒んで飲みません。そこで、巫女バウボーは、裳をまくり女陰を露出すると、下腹部から女陰にかけて描かれた卑猥な顔が、笑いながら現れたのです。その下腹部をよじらせながら巫女バウボーが踊りだすと、地母神デメデルは笑い出し、元気をとりもどし、薬草を飲んで、生成の活力をとりもどした、という物語です。

学校で教える日本列島史は、藤原氏が創作した「日本書紀」を基に創作されているのです。そこで、この章で「日本書紀」により消されてしまった日本列島史を復元してみることにしましょう。
1549年南九州鹿児島に、イエズス会のザビエルが現れるのです。イエズス会の外洋船は、マカオ港から渡来したのです。そして、1853年浦賀にアメリカ艦隊を率いて、ペリーが渡来するのです。1828年秘密結社員のシーボルトが模写した伊能忠敬の日本列島地図を持ったペリー艦隊は、アメリカ合衆国から直接浦賀に渡来したのではなく、一旦マカオ港に立ち寄ってから、浦賀に渡来していたのです。何故、三百年の時が離れた二つの外国船が、マカオ港からの渡来なのでしょうか。
鹿児島に渡来したザビエルは、古の秦王国(後の豊国)である豊後を支配していた、藤原氏末裔大友宗麟をキリシタン大名とし、日本列島をイエズス会の支配下に置こうと戦略を練るのです。そして、イエズス会は、不思議な行動をとるのです。それは、イエズス会の日本列島渡来が、ローマ法王の教えを広めることが第一の目的なら、何故に、過疎地の山奥の、島根県の石見や、奈良県の宇陀に教会を建設したのでしょうか。その理由は、その二つの地域は、縄文の昔から、朱砂、水銀を採掘するオリエント渡来の民族の支配地であったからです。
南九州は、中臣族(藤原氏の祖)が、五世紀頃、ユダヤ・キリスト教のコロニーがある南インドのマラバル沿岸から、外洋船で日本列島に最初に渡来した地であるのです。では、藤原氏は、イエズス会と結託して、何をしょうとしていたのでしょうか。
因みに、イエズス会の「イエズス」とは、ヘブライ語でイエホシューアのことで、ヨシュアのことです。「ヨシュアはメシア」と唱える、ギリシャ語でイエス・クリストス教(日本語でイエス・キリスト教=ユダヤ教一派)は、日本列島の歴史上で何をしたのでしょうか。
「青森県三戸郡新郷村大字戸来」と言えば、古代史マニアには、キリストの墓が思い浮かぶでしょう。戸来は、ヘライ→ヘブライで、そこには古代にキリストが渡来して、その地で亡くなり、そこに墓を建てたという、伝説があるのです。
陸奥国の山中に、何故、キリストの墓があるのでしょうか。この伝説は、「日本書紀」を史実と信じる良識のある文化人には、「トンデモ話」と受け止められているようですが、その戸来村には、無視できない伝承があるのです。それは、赤ん坊の額に、「十字」を書くことです。
十字は、キリスト教オリジナルのシンボルであると信じられているようですが、それは違います。その基は、「太陽の光」であるマルタ・クロスをシンボルとした、「太陽の教え」である、キリスト教の発明時期よりも遥か昔に発明された、ミトラ教(景教)のシンボルであったのです。
キリスト教の十字架は、紀元一世紀にユダヤ・キリスト教が発明された後、ミトラ教(景教)のシンボルを模倣したものだったのです。
秦氏の宗教である、「太陽の教え」の景教は、645年蘇我王朝が、唐進駐軍と藤原氏により乗っ取られると、オリエント文化の飛鳥ヤマトの都から追放され、近畿地方の山奥や陸奥国に逃避していたのです。この頃、仏教徒により、「鬼」が発明されるわけです。その鬼とは、前政権の祭祀一族のことであったのです。
そして、唐進駐軍に敗れた秦氏の武闘部族末裔は、後に、服部氏となり、山奥に砦を築き傭兵軍団の忍者となるのです。その忍者は、秦氏末裔の景教徒だったので、忍術をおこなう前に、十字を切るのはそのためです。
更に、ミトラ教(景教)の「太陽の教え」を、「密教」(太陽→ミトラ→ミル→密)などと神秘的なネーミングに変えた空海も、アラム語の呪文を唱え、印を切るときは、十字であったのです。
更に、平安時代に秦氏から惟宗氏に氏名を変え、そして、秦氏末裔源氏の源頼朝が、1192年天下を執ると、惟宗氏から氏名を島津氏変えた、古代から藤原氏がインドとの南海交易の拠点として支配していた南九州薩摩の島津荘を乗っ取った、島津氏の家紋も十字だったのです。
そして、騎馬民族末裔の徳川家康と伴に、京都王権から関東の穢れ地と言われた「穢土→エド→江戸」のひとも住めぬ湿地帯を開拓した、飛鳥ヤマト時代から高度土木建築技術を伝承している秦氏末裔穢多頭の弾左衛門家の家紋も十字だったのです。江戸時代末期、藤原氏末裔近衛家にコントロールされた、倒幕を画策する島津氏の密使が、関八州の役座を束ねる弾左衛門家を訪れ、「十字家紋の島津家と弾家とは、秦氏の同族ぞ。」と囁くわけです。
つまり、十字イコールキリスト教ではないのです。そのように、古代エジプトから伝わる「太陽の教え」を時間をかけて、ローマ帝国でミトラ教を歴史上抹殺(聖滅)したキリスト教徒のように、日本列島の山奥に生息する「太陽の教え」を信じる民族の文化を、キリスト教の布教という名目で抹殺・隠蔽していたのが、イエズス会の山奥での活動のひとつでもあったのです。
紀元前722年アッシリア帝国の砂漠へ逃れたイスラエル十部族は、消えたのではなく、古代エジプトの多神教から一神教への宗教改革をおこなったアメンホテプ四世(イクナトン)が発明した「太陽神アトンの掟」を、「モーセ十戒」としたユダヤ教の神ヤハヴェが、ヘブライ国王ソロモンと同じに「ヤコブ」であることを知っていたため、ユダヤ・キリスト教徒により、消され(聖滅され)ていたのです。
その「消されたイスラエル十部族」の、製鉄・石切・運河削掘・石材による都市建設の技術を持ち、太陽神と牡牛を祀るエフライム一族末裔は、ギリシャ文化を持ち、製鉄・金メッキの技術を持つ騎馬民族スキタイ末裔と伴にユーラシア大陸を東進し、朝鮮半島を経由して、三世紀に日本列島に渡来していたのです。
その時期から、日本列島全土に、エジプト・オリエントの高度建設技術を駆使して築造された、古代エジプトのクフ王のピラミッドを上回る規模の前方後方墳が現れるわけです。このことにより、四世紀以降の古墳から、金メッキの馬具が出土しているこからも、騎馬民族スキタイ末裔と製鉄民族ヨセフの末裔エフライム(後の秦氏)の渡来が示唆されるのです。
古代の戸来村に、キリストが渡来していたことを、100%否定できないのです。それは、「キリスト」とは、ギリシャ語で、そして、その意味は、「救い主」(ヘブライ語でメシア)であるからです。つまり、「聖書物語」の中で頭に油を注がれた「キリスト」だけが、「キリスト」ではないのです。「救い主」は、全てギリシャ語では「キリスト」なのです。
古代陸奥国の戸来村を訪れた、高度知識を携えた「救い主」とは、誰だったのでしょうか。そして、戸来村がある古の陸奥国全土が、藤原氏と百済亡命貴族末裔に平定されたのは、鎌倉時代初期であったのです。そして、その時期に、鎌倉仏教が発明され、そして、不可触賎民「穢多」がインド思想を基に発明されていたのです。では、この鎌倉仏教と民族差別の穢多思想発明は、藤原氏と関係があったのでしょうか。
イエズス会の外洋船とペリー艦隊とが、三百年の時を隔てて、伴にマカオ港から日本列島に渡来していたことの理由は、マカオ港(南海→廣州→マカオ・香港)は古代からオリエント(アラブ)から中国大陸への国際交易中継港であり、国際交易商人のコロニーがあったからです。
歴史上では、北魏(386年〜534年)の僧法顕は、399年陸路で洛陽からインドを目指し、帰路は国際交易外洋船により、南インドから南海(後の香港・マカオ)を経て、中国山東半島の牢山から上陸して、414年洛陽に帰朝していたのです。
と言うことは、南インドのマラバル沿岸には、紀元前十世紀ヘブライ国のソロモン王の依頼により、インドの香木・孔雀・猿・香料交易のため、海流と貿易風を利用して航行する帆船を開発した国際海洋民族のフェニキア商人が渡来していたわけですから、五世紀には、オリエント(アラブ・ペルシャ)→インド→中国(漂流して南九州坊津)への国際交易海路があったことが推測されるわけです。
鎌倉幕府が成立する前後のユーラシア大陸の各民族国の動きを見ると、907年唐が滅び、五代十国の分裂時代を経て、960年宋国が中国大陸を統一するのですが、北方の騎馬・遊牧民族の契丹(遼)が金を飲み込み、宋国の北方領土を奪い、1115年金王国(北朝)とするのです。ここに、農耕系南朝の南宋(1127年〜1279年)と騎馬系北朝の金(1115年〜1234年)とが、東アジアの中国大陸を支配するのです。この南北朝の文化の違いを、「南船北馬」と言うわけです。
この十二世紀前後の、中国大陸での南北の戦いは、唐との戦闘に破れ、戦いを忘れていた中央ユーラシアの騎馬・遊牧民族を刺激するのです。
七世紀後半、唐に散逸された騎馬民族国の突厥帝国(飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝の母国)の末裔が、ユーラシア大陸でちりじりになって暮す騎馬小部族を集結していくのです。その流れの中で、1206年、騎馬民族末裔源義経の部族シンボルと同じ笹リンドウ紋を掲げるテムチンが、中央アジアを支配していたナイマン部を滅ぼし、チンギス汗と称するわけです。これが、後の元(蒙古帝国1271年〜1368年)となるわけです。
そのように、十世紀から十二世紀前後にかけて、中央ユーラシアは激動の時代であったので、ヨーロッパと中国との国際交易は、陸路のシルクロードから、海路の南海ロードへと移り行くわけです。そのオリエント→インド→中国への交易海路の中継地としての南海の港は、国際港の廣州(後のマカオ・香港)へと発展していくわけです。
その結果、ペルシャ・インド文化が国際海洋商人により、南海ロードから、陸路のシルクロード支配を北朝の金に奪われた、南朝の南宋にもたらされるのです。
そして、カースト制度の民族差別思想を持ったインドからのヨーガが、南宋で仏教思想と融合して、禅宗として興るのです。その禅宗が、インドのカースト制度の民族差別思想と伴に、鎌倉初期に、南宋から日本列島に渡来するわけです。
日本列島は、古代から江戸時代までは、日本海側が、太平洋側より、文化が進んでいたのです。それは、ユーラシア大陸のシルクロード、草原ロードから、オリエント文化と伴に渡来した民族が、内海である日本海を船舶により横断して、日本海沿岸に渡来していたからです。特に、朝鮮半島から北九州へは、駱駝商隊によるシルクロードからの渡来民族です。そして、サハリンから北海道へは、騎馬商隊による草原ロードからの渡来民族のルートとなっていたのです。
その十世紀ユーラシア大陸での、騎馬民族対農耕民族との抗争は、南海ロード交易を更に発達させたのです。しかし、その南海ロードを使って、アラブの国際海洋商人が外洋船で日本列島に渡来できても、日本海側の港はすでに、シルクロード・草原ロードからの先住民族に支配されていたので、上陸できるのは、太平洋側であったのです。
五世紀以降、南九州坊津は、中臣族(後の藤原氏)に支配されていたので、更に、黒潮に乗って北上すると、そこは、紀伊半島、更に、伊勢湾へ渡来できるのです。そこで、南インドのマラバル沿岸から渡来した民族より遅れた、アラブ(ペルシャ)から渡来した、赤い衣を着た国際海洋商人は、伊勢湾を渡来港とするのです。
672年新羅系大海人皇子が、百済亡命王朝の近江を攻めた時、大海人皇子軍を、インドのベンガラ染めの赤旗をなびかせて支援した伊勢の軍隊は、アラブ(ペルシャ)から渡来していたのです。何故、伊勢がアラブ商人により支配されたのかは、伊勢地域には朱砂の産地があったからです。伊勢→吉野→四国の宗教施設ルートは、中央構造線上にあり、そこでは、縄文時代から朱砂が産出されていたのです。
そのアラブ(ペルシャ)から伊勢に渡来した民族末裔が、平安末期王権を奪うのです。それが、「平氏」ではなく、ペルシャから渡来の「平家」なのです。
「平氏」と「平家」は、同じではないのです。「平氏」は、825年淳和天皇より賜姓された「官名・公家桓武平氏」であるのに対して、「平家」は、1108年藤原氏のガードマン源義親を追討した、アラブ(ペルシャ)商人護衛軍団末裔を、藤原氏に対抗する白河上皇が、ガードマンとして雇った私兵を、「平家」の正盛と名付けた「私名」であったのです。
学校歴史教育では、日本には資源が無く、あるのは労働力のみだと教えているのは、何故でしょう。
日本列島には、縄文の昔から、イエズス会まで、日本列島各地から産出する、金、銀、銅を求めて、異国の民族が渡来していたのです。島根県の石見などは、十六世紀にメキシコで銀鉱脈が発見されなければ、世界一の銀産出地であったのです。その日本列島での組織的鉱脈開発は、錬金術師空海から始るのです。
平安初期、最澄と空海が、唐に留学の目的は、表向きには仏教経典を持ち帰ることですが、その裏には、鉱脈開発のノウハウと探索工具の購入だったのです。最澄が、留学費は唐国負担なのに、砂金を多く持参したのは何故でしょう。それは、仏典ではなく、採掘工具を購入するためだったのです。何故、仏典ではなく採掘工具を購入したと言えるのかは、それは、最澄は、その一年数ヵ月後に帰朝した、年下の空海に頭を下げて、多くの仏典を借りているからです。
それを裏付けるように、最澄が八ヶ月で唐から帰朝すると、桓武天皇は、鉱物資源が眠る陸奥国への侵略を陸路から開始するのです。それに対して、空海のスポンサーである藤原氏は、海路から陸奥国へ侵入し、陸奥国に奥州藤原氏を興し、陸奥国の金鉱脈を独り占めするわけです。その陸奥の金は、青森県の十三湊から北朝の金へ向けて輸出されるわけです。
平安時代後期、アラブからの歌姫を、京の賀茂川東岸の葬送地である「ギオン」に集め、おんなと莫大な献金とにより、1086年院政をひいた白河上皇に接近した、伊勢湾沿岸を支配するアラブの商人は、やがて、白河上皇の私兵の平正盛となり、「平家」の祖となるわけです。その息子平忠盛は、1132年内昇殿を許されるのです。そして、平忠盛の息子(白河法皇の落胤)平清盛は、1167年太政大臣となるのです。
この平清盛が平安政権を握ると、藤原氏、百済亡命貴族末裔と比叡山延暦寺の既得権を奪い取る行動に出るのです。天下人となった平清盛は、日本列島から産出する金・銀・銅を、アラブや南宋へ売り捌き、その見返りとして南宋の宋銭を多量に日本列島に持ち込んだのです。
何故、宋銭が、藤原氏、百済亡命貴族末裔、そして比叡山延暦寺の既得権を奪い取るのかと言えば、奈良時代まで続いた貨幣経済は、誰でも蓄財することができるため、王権を脅かす勢力を育成する可能性があったからです。
貨幣経済や為替経済は、遠隔交易を騎馬により可能とした騎馬民族が発明したものなのです。奈良時代に騎馬民族末裔の天武王朝を抹殺した藤原氏は、奈良末期、騎馬民族の経済行動を封印するために、貨幣経済から、物々交換経済に移行していたのです。
770年天武天皇系最後の女帝称徳天皇を道鏡の陰謀で倒した藤原氏の王権を、唐進駐軍の支援により奪い取った、百済系桓武天皇も、794年平安京に遷都すると、貨幣経済を否定していたのです。
平安時代、西国では、「米」を、そして、東国では「絹」を貨幣の代わりに使っていたのです。仏寺では、紙に文字を書いた「幣」を物との交換に使っていたのです。
何故、東国の対価物が、「米」ではなく、「絹」であったのかは、それは、唐進駐軍が、中国・雲南の繭(ポンピックス・モリ)を日本列島に持ち込み、東国の農奴に蚕を飼育させ、絹糸を生産させていたからです。蚕の餌である桑畑の北上は、正に、唐進駐軍・桓武天皇軍の支配地北上と重なるのです。
これらの「米・絹・幣」の価値を、時の情勢を見ながら、王権や仏教組織が勝手に決めることにより、庶民から莫大な利益を享受していたのです。
平清盛は、アラブの軍事勢力を背景としているため、平安王朝の誰も手出しができなかったのです。それを良いことに、1180年平重衡は、東大寺に火を放ち全焼させているのです。平家は、アラブ思想を持っていたので、そして、インド文化も知っていたので、大乗仏教の多くの仏像がインドの鬼神であると知っていたので、怨霊を封じ込めていると信じられていた、僧兵の強訴の武器であった「神輿」に矢を射掛けたり、破壊したりしていたのです。
平安後期には、907年百済王朝を支えていた唐進駐軍の母国が滅亡していたために、平家の軍事勢力に対抗できる、平安王朝側の軍事勢力はいなかったのです。桓武平氏は、「武士」ではなく「サムライ」であったので、秘書業務はできても、戦闘の実践向きではなかったので、軍事力に勝る平家により、下界と言われた関東僻地へ追いやられていたのです。そこで、藤原氏と百済亡命貴族末裔に目を付けられたのが、陸奥に棲息する蝦夷末裔であったのです。
蝦夷とは、王権が付けた蔑称で、ヒゲのある夷の意味です。古代飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝は、突厥(チュルクを漢字化)と同族のトルコ系の騎馬民族であったのです。今でも、トルコ系民族はヒゲをたくわえているように、古のチュルク系騎馬民族も、ヒゲをたくわえていたのです。
645年唐進駐軍に支援された中臣軍(藤原氏の祖)により、蘇我王朝が倒されると、蘇我軍残党は、近畿の山奥や陸奥国に逃避していたのです。平安時代初期、その陸奥国へ、金・銀・銅の鉱物資源簒奪のために、唐進駐軍に支援された桓武天皇軍は、侵略を始めるわけです。
そして、801年金髪の坂上田村麻呂の騙しにより、陸奥国の酋長アテルイは京で斬首され、陸奥国は平定されるのです。その時に、捕虜となった蝦夷の武人が、桓武天皇により謀殺された早良親王の怨霊を鎮めるために、公家源氏支配下の「もののふ」となり、そして、その武芸により魂鎮めをおこなう「もののふ」が、天慶の乱の平定で平安王朝から戦闘武力が認められて、武家源氏の武士となるわけです。ですから、武士は、俘囚末裔と言われるのは、そのためです。しかし、武家源氏の祖は、俘囚の陸奥蝦夷などではなく、その祖は古代飛鳥ヤマトを支配していた王族の騎馬軍団末裔であったのです。
何故、古代飛鳥ヤマトを支配した蘇我王族を守った騎馬軍団末裔が俘囚なのでしょう。そして、蘇我王族の軍事都市ヤマトを、石材で建設し、奈良盆地の湿地帯を巨大古墳を築造することで耕地に変えた、高度土木・建築技術で支援した、秦氏末裔が穢多なのでしょう。
古代飛鳥ヤマトの王族末裔が、賎民に貶められたのは、藤原氏により、「日本古来から存在した神道を渡来仏教に代え、六世紀の飛鳥ヤマトは仏教文化で繁栄していた。」、という「情報操作」を「日本書紀」に綴った結果だったのです。
実際の六世紀古代飛鳥ヤマトには、仏寺などひとつもなく、608年隋使が浪速から船で飛鳥の都まで行けるほどの幅広の運河があり、道幅十二mの直線道路が造られ、都の石葺きの公園池には噴水があり、巨石モニュメントや工業用石築造物があり、そして、ガラス器製造工場や富本銭製造工場もあった、オリエント色の強い文化都市であったのです。では、そのオリエント文化を抹殺し、仏教文化で隠蔽した藤原氏の「日本書紀」による情報戦略は、どこからもたらされたのでしようか。
権力とは何でしょう。それは、情報です。その情報を管理し、操作できる地位にいる者が、権力者となれるわけです。ですから、権力者は、常に情報に敏感であるのです。そして、権力者に少しでも不利な情報は、抹殺或いは隠蔽をおこなうのです。そして、権力者は、権力者に有利な情報を、反権力者による破壊から守るために、文字により固定化する必要があったのです。それが、「歴史書」であり、「経典」となるわけです。
紀元一世紀、ローマ帝国軍に占領されたカナンの地に、ローマ帝国軍に反旗を翻す「ヨシュアはメシア」と唱えるユダヤ教の一団が出現するのです。そして、その集団は、ギリシャ語で書かれた多数の教本から、その集団に都合の良い46冊の教本で合本を作り、その合本(ビブリア→バイブル→聖書)の情報を根拠として、ヨシュアがモーセ末裔であると主張するのです。
そのヨシュア派に対して、本家のユダヤ教祭祀はヤムニア会議により、多数のヘブル語教本から、正典と外典とに分け、24書の合本で「旧約聖書」を作るのです。その時期は、およそ紀元98年頃です。つまり、今ある合本としてのユダヤ教の「旧約聖書」は、ヨシュア派による情報操作を否定するために作られたものなのです。
更に、1517年マルチン・ルターによるカトリック教会批判の95ヶ条の宣誓により始る宗教改革の結果、カトリックから分離独立したプロテスタントの「旧約聖書」は、39書を合本したものであったのです。それぞれの宗教組織は、それぞれの権力を維持するために、それぞれに都合の良い「情報操作」をして「旧約聖書」を創っていたのです。
そして、その免罪符を販売するカトリック教会の欺瞞(情報操作)を民衆に宣伝するプロテスタント(うそっぱちの宣伝をプロパガンダというのは、「プロテスタントの布教」が原語です。)を聖滅するために、1534年イエズス会が、パリで創設されたのです。
つまり、合本であるユダヤ教のヘブライ語「旧約聖書」は、ヨシュア派のギリシャ語「旧約聖書」より新しかったのです。
ヘブライ語は、そうとう古い言語と思われているようですが、ヘブライ語は西セム族の言葉で、アラム語から派生した言語です。そのヘブライ語の意味は、「ヘブルびとの言葉」ということで、そのヘブルとは、国境周辺の者とか、国境を越えて侵入してくる者、あるいは動き回る者(放浪者)であるのです。
そのヨシュア派のギリシャ語経典は、紀元前三世紀エジプトのアレクサンドリアに72人の聖書学者を集めて72日間で(アラム語?・ヘブライ語?から)翻訳させた、と言われています。しかし、それは伝説で、情報操作であるのです。
古代ギリシャのアレクサンドル大王(紀元前336年〜紀元前323年)が、ペルシャ帝国を倒すことにより、西洋文化と東洋文化とが融合してヘレニズム文化となるわけですが、紀元前323年アレクサンドル大王がバビロンで病死すると、ギリシャから北インドまであったアレクサンドル大王領は、それぞれの民族により分国にされ、その地からギリシャ文化は消えてしまうのです。
西洋の歴史学者は、そのギリシャ文化は、エジプト王国(紀元前305年〜紀元前30年)のアレクサンドリアに継承され、それが後に、ヨーロッパに引き継がれていったと主張しているのです。しかし、それは情報操作です。
実際は、アレクサンドル大王領のギリシャ文化は、中央アジアのバクトリア国(後の国際交易都市ガンダーラの地。キリスト・ブッダ誕生・奇跡物語発祥の地。)に引き継がれていたのです。そのバクトリアのギリシャ文化が、紀元571年イスラームのサラセン帝国に取り入れられ、そのイスラーム国のギリシャ文化が、1096年第一回十字軍のヨーロッパからの遠征で、キリスト教徒騎士団と遭遇するわけです。
しかし、装備があまりにもみすぼらしい十字軍騎士団は、ローマ教皇が指令した異教徒の聖滅により、十字軍の旗の下に、「旧約聖書」にあるように、イスラームの村々の男は虐殺し、婦女は陵辱され、破壊の限りを尽くすのです。それに対して、豪華絢爛装備のイスラーム戦士は、騎士道精神により、戦いに敗れた十字軍戦士を故国に送り返していたのです。そのような文化の違いを目の当たりにした第一回十字軍騎士団は、そのギリシャ文化を取り入れたイスラーム世界に埋没してしまうのです。つまり、弱者を守るヨーロッパの騎士道精神は、日本武士道が新羅(秦羅)花郎騎士道から学んだように、イスラームからのものなのです。
そして、その度重なる十字軍騎士のヨーロッパからの遠征により、イスラーム化したギリシャ文化が、帰国した十字軍騎士団によりヨーロッパに伝わるわけです。ですから、今ある、ヨーロッパ王族の戴冠儀式で使う王冠やマントは、イスラーム化したギリシャ文化からの租借なのです。
イスラーム化したギリシャ文化のヨーロッパへの影響は、弱者を守る騎士道精神だけではありません。そのイスラームのギリシャ文化は、国際交易商人によりイタリアに持ち込まれ、14世紀に始るルネッサンスの起爆剤となるのです。そして、イスラームの築城技術が、ヨーロッパに持ち込まれ、今に見る美しい城となるわけです。このヨーロッパ城の築城思想を、イエズス会の宣教師から学び、その思想を真似て、織田信長は、1576年石垣の上に天主閣のある城を、日本で始めて建設したのです。
では、何故、ユダヤ教ヨシュア派は、ギリシャ語「旧約聖書」を創ったのでしょうか。それは、ユダヤ教本には、異民族の国や文化を乗っ取る方法が記されていたからです。
カナンの地は、「旧約聖書」の教本によれば、唯一神ヤハヴェから、イスラエル民族に与えられた地だったのです。そこで、カナンの地をローマ帝国から取り戻そうとしたヨシュア派は、ユダヤ教の「旧約聖書」で、ヤハヴェからカナンの地を与えられたとする物語を利用することを考え出したのです。それには、「旧約聖書」を「新約聖書」に繋げて、ヨシュアをモーセの子孫とすれば、良いわけです。
しかし、この試みは失敗し、逆に、ユダヤ教ヨシュア派は、ローマ帝国軍に浸透していた、太陽神の下での平等を説くローマ軍の軍神ミトラ(ラテン語でミトラス神)を疎ましく思う、ローマ帝国王権に取り入れられて、392年ユダヤ教ヨシュア派は、キリスト教となり、ローマ帝国の国教となってしまうのです。
ユダヤ教ヨシュア派がローマ帝国軍との闘争を開始した紀元一世紀のシルクロード西方では、ローマ帝国とパルチア王国が領土争いをしているように、東方では、後漢と匈奴とが領土争いをしていたのです。
紀元一世紀、絹は、ローマ帝国内で、金と同等の重さで取引がおこなわれたように、利益の出る国際交易商品となっていたのです。そこで、中国大陸でのみ産出される絹製品は、国際交易商人に最も需要のある交易品となっていたのです。そこで、シルクロード国際交易商人も、当然その西方と東方との争いに巻き込まれるわけです。
その紀元一世紀に、西方と東方とのシルクロード国際交易都市ガンダーラで、ギリシャ系仏像と無数の経典とにより、大乗仏教が発明されるわけです。
そして、大乗仏教の教祖ブッダ(紀元前五世紀の釈尊とは別。ブッダ=覚醒した者)の誕生・奇跡物語ソックリの、そして、法華経物語ソックリのヨハネ福音書に語られる、ヨシュアも、紀元一世紀のローマ帝国シリア領で誕生するのです。
その国際交易都市ガンダーラの祖は、ギリシャ文化を継承したバクトリア国で、そのギリシャ文化には、哲学者ターレス・ソクラテス・プラトン・アリストテレス、数学・建築学者ピタゴラス、歴史学者ヘロドトス、彫刻家スコーパス、自然科学者デモクリトスなどの思想が継承されていたのです。ですから、中国・インド文化の抹香くさい大乗仏教経典と思われているものが、以外にも科学的なのは、多くの経典類が文殊徒に創作されたガンダーラの地が、科学・自然科学思想を継承したギリシャ文化国だったからです。
その絹交易の中継交易地ガンダーラで発明された聖物語が、国際交易商人と伴に、西に向いユダヤ教に寄生したのがユダヤ・キリスト教となり、東に向かい釈尊の教えに寄生したのが大乗仏教となるわけです。
しかし、紛争が激しい陸路のシルクロードを避けて、ガンダーラから南下する国際交易商人もいたのです。その目的地は、ヘブライ国ソロモン時代に海洋交易があった、南インドのマラバル沿岸です。
その結果、紀元二世紀には、南インドのマラバル沿岸のムジリスでは、ローマ帝国領アレクサンドリアとの国際交易で、インドから象牙、真珠、香料、宝石、木綿を輸出し、アレクサンドリアから金属、ガラス器、ぶどう酒、金貨を輸入していたのです。当然、そこには、ユダヤ・キリスト教教会が建設されていたのです。古来から仏寺とか教会の建物は、強固に建築されているのは、表向きは布教のための施設ですが、裏面では、交易のための倉庫、異教徒との戦闘時には砦として使われていたからです。
四世紀の南インドのマラバル沿岸による国際海洋交易が隆盛となるのに反して、内陸のシルクロード周辺国は、中央ユーラシアから南下する騎馬民族に脅かされていたのです。
四世紀、ジューゼン(柔然・蠕蠕・茹茹)が、匈奴が去った後の蒙古高原を支配して柔然となるのです。そして、552年騎馬民族の突厥(チュルクを漢語化)のトメン(中国語で土門)が、この柔然を破り、突厥帝国を興し、南接する北魏の継承国北周・北齊、その後の隋・唐と死闘を繰り返すのです。この騎馬民族の突厥帝国と農耕民族の中国王朝北周・北齊・隋・唐との死闘時代が、日本列島での、飛鳥・奈良時代であるのです。
ですから、日本列島の飛鳥・奈良時代も、平穏で優雅な時代などではなく、東アジアの権力闘争の影響を強く受けた、騎馬民族対農耕民族との闘争の時代だったのです。
この突厥帝国は、530年飛鳥ヤマトに突然現れた蘇我稲目(チュルク本名不詳)を支援し、その支援により蘇我稲目は、朱砂の国際交易地の三輪山の支配を廻り、高句麗・百済・新羅進駐軍が三つ巴の戦いを行っていた飛鳥ヤマトを、騎馬の軍事力により統一したのです。
そして、六世紀に、その飛鳥ヤマトを統一した騎馬民族の蘇我王朝が、720年藤原不比等が創作した「日本書紀」で記述するところの「大和朝廷」の実態であるのです。
突厥帝国は、絹製品の国際交易に熱心で、東ローマ帝国(395年東西に分裂)とは、内陸砂漠のシルクロードではなく、ユーラシアを貫く草原ロードを使用して、交易をおこなっていたのです。ですから、東ローマ帝国領のローマン・グラスは、黒海沿岸で製造され、騎馬商隊により、草原ロードから突厥帝国まで運ばれていたのです。
このローマン・グラスが、高句麗や百済の古墳から出土しないで、百済の隣国新羅の古墳から出土するのは、ギリシャ・ローマ文化国新羅が、草原ロードの騎馬民族系だからです。
そして、そのローマン・グラスは、聖武天皇の遺品を納める正倉院にあるのは、聖武天皇が、騎馬民族系、新羅系天武天皇の流れにあったからです。因みに、正倉院の校倉造りとは、南方系建築様式などではなく、騎馬民族スキタイの越冬用建築様式であったのです。
568年東ローマ帝国の返礼使ゼマルクスが、突厥帝国の庭(天子が降りる処。)に入るのです。その東ローマ帝国遠征軍の中には、キリスト教を国教としたテオドシウス1世になじまない、古来からミトラ神を崇拝する傭兵軍団も存在していたのです。
六世紀の東ローマ帝国と突厥帝国とは、ローマン・グラスと絹製品の国際交易により、西と東で結ばれていたのです。そして、交易品と伴に東ローマ帝国の文化は、朝鮮半島の新羅を経て、奈良の飛鳥ヤマトとも繋がっていたのです。飛鳥ヤマトを基点として、幅十二mのローマ軍式直線の軍事道路の遺構が発掘される理由が、その流れから納得できます。
六世紀の日本列島飛鳥ヤマトに渡来した、これらのギリシャ・ローマ文化と突厥(チュルク)文化は、当然、飛鳥ヤマト文化の礎となっていたのです。
しかし、中国大陸で突厥帝国と死闘を繰り広げていた唐軍の支援により、645年飛鳥ヤマトの蘇我王朝が、南インドから渡来していた中臣軍に破れ、その後、蘇我王朝の継承者である、日本列島初の天武天皇が686年崩御すると、藤原不比等の「旧約聖書」の物語を真似た謀略により、それらの飛鳥ヤマトのオリエント文化は、720年「日本書紀」の情報操作により、仏教文化を手段として、隠蔽されてしまったのです。
その「日本書紀」による情報操作のヒントは、「旧約聖書」の創作過程にあったのです。その先代史を消すための情報操作の基本は、前政権の文化遺産を徹底的に破壊し、その跡に文化施設を新たに建設(移築)することと、文化を綴る書籍の焚書と隠蔽と改竄です。隠蔽・改竄の手段としては、他国の物語を改竄して、元の物語に挿入することです。そして、乗っ取る民族の祖の前に、架空の人物物語を挿入することです。
例えば、「旧約聖書」の情報操作では、鉄器を発明したヒッタイト帝国から出自した鍛冶技術を持つヨセフ族が、古代エジプトで、その鉄工具を使う建設技術により建設監督にまで登りつめたのが、あまりにも性急な一神教太陽神アトンの宗教改革に反発した多神教の祭祀者に、生命を狙われ、エジプトから脱出した歴史を、それから約八百年後のバビロン幽囚時に、レビ族末裔アロン一派が、メソポタミアのアッカド王サルゴン(紀元前2350年〜紀元前2294年)の物語を租借して、「神の使いモーセ」なる人物を創作し、モーセ五書の「出エジプト記」を創作して、ヨセフ族直属であるエフライム族の太陽と牡牛を祀る祭祀権を、メソポタミアからのヘブルであるレビ族のアロン一派が簒奪してしまうのです。つまり、ヒッタイト帝国からのヨセフ族(イスラエル)の歴史が、メソポタミアからのレビ族(ユダヤ)に乗っ取られてしまったのです。そして、レビ族末裔により創作されたモーセ五書により、太陽と牡牛を祀るイスラエル民族の祭祀権は、(架空の)モーセの子孫としてのレビ族アロンの世襲となり、今日に至るわけです。
この「旧約聖書」による祭祀権簒奪の情報操作方法は、「日本書記」では、685年以降藤原氏が天照大神という神様を創作し、天照大神がスサノウの狼藉(そのひとつに、馬の皮を剥いで、機織女官に投げつけた、という場面があります。馬が、日本列島に現れるのは、およそ四世紀と言われています。この物語は、何世紀の日本列島を描写しているのでしょうか。)で洞窟に隠れてしまう天磐戸物語で、祭祀者の天児屋根命を登場させ、日本列島初の祭祀者天児屋根命を、藤原氏の祖としているのです。つまり、後から飛鳥ヤマトに来た藤原氏が、「日本書紀」でギリシャ神話似の物語を創作することにより、先に飛鳥ヤマトに来ていた秦氏、蘇我氏の歴史を乗っ取ってしまったのです。
何故、天照大神が、685年以降に創作されたのかというと、その宮である伊勢神宮が、壬申の乱後、天武天皇により建立されたのが、685年だからです。その伊勢神宮も建立時は、騎馬民族の神である太一(北極星)を祀る宮であったのです。それが後に、天照大神を祀る宮となったのは、藤原氏の情報操作によるものだったのです。
藤原氏が発明したユダヤ教に酷似した中臣神道の神を祀る春日社の創建も、古くはなく、天武天皇系武力勢力が劣えた頃の、768年であったのです。神社が、日本古来から神を祀っていたと多くのひとが信じているのは、藤原氏の情報操作の結果なのです。
更に、「旧約聖書」の情報操作では、モーセが、唯一神ヤハヴェ(古代エジプトの太陽神アトンが変身した神)から与えられた十戒は、世襲祭祀者レビ族アロンの下で、太陽と牡牛を祀るイスラエル民族が絶対守らなければならないとするのです。それに対して、祭祀者天児屋根命を祖とする藤原氏は、720年「日本書紀」で、聖人厩戸皇子を「日本書紀」で発明して、十七条の憲法を創らせ、「二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。」と述べさせているのです。
厩戸皇子(平安時代に聖徳太子に変身)が、生存したと云われている、574年から622年の飛鳥ヤマトには、仏寺もなければ、仏僧もいなかったのです。その根拠として、藤原氏の興福寺は、710年山背国にあった秦氏の寺(ジ・山階寺=景教寺)を、仏寺に改竄して奈良に移築したものなのです。
仏教伝来552年(百済系では538年)と「日本書記」で記述するのは、その時代以降の飛鳥ヤマトには、秦氏のミトラ寺(景教寺)と蘇我氏の騎馬民族の居住建物である八角堂のパオ(法隆寺の夢堂の祖)が存在していたからです。それらのオリエント・ユーラシアの施設を歴史的に抹殺するには、仏教伝来が、蘇我稲目の飛鳥ヤマト統一直後の、552年(538年)でならなければならなかったのです。
そして、藤原氏が政権を握ると、645年以前にあった飛鳥ヤマトのオリエント色の強い宗教施設や寺(ジ=雑務事務所)は、藤原氏により徹底的に破壊され、その跡に、北九州秦王国にあった仏寺を移築していたのです。その代表例が、厩戸皇子が建立したと云われる法隆寺です。現法隆寺敷地に隣接する地下から、仏教思想とは異なる、太陽神を祀る建築基準の建物跡が発掘されているのは何故でしょう。それは、飛鳥ヤマトには、仏教思想とは異なる、「北極星」と「太陽」を祀る騎馬民族とエフライム族(秦氏)の文化があったからです。
その証拠に、645年突厥帝国に支援された蘇我王朝を倒した、突厥帝国と敵対する唐進駐軍と中臣軍は、その年に仏教興隆の詔を発していたからです。そして、飛鳥ヤマトが、仏教文化ではなかったことを隠蔽するために、飛鳥ヤマトでオリエント渡来の国際交易商人が使っていたアラム語、ソグド語、パフラビィ語、突厥語で記述された書類を焚書・隠滅するために、「蘇我蝦夷が天皇紀と国紀を焚書した。」、と「日本書紀」に記述して情報操作をしていたのです。
それらの藤原氏により抹殺・隠滅された、オリエント国際交易商人が使用した言語は、表音文字であったので、やがて、日本語音を表記する「カタカナ文字」に変身していくわけです。俘囚の末裔と云われる「武士」が、「カタカナ文字」を使用していたのは、「武士」の祖は、新羅花郎軍団で、その祖は、オリエントの表音文字を使用していたローマ帝国傭兵軍だったからです。それらの「武人」に共通するところは、ミトラ神である「太陽」を祀っていたことです。
花郎軍団の「花」とは、化粧した女装のことではなく、「ミトラ」の漢音訳借字であるのです。ですから、花郎軍団とは、太陽神を祀るミトラ軍団ということなのです。392年キリスト教が、ローマ帝国の国教となる前までは、太陽神ミトラが、ローマ帝国軍の軍神であったのです。そして、弱者を守る思想を持つ日本武士道の祖は、←新羅花郎騎士道←ローマ軍騎士道の流れにあったのです。因みに、弱者を守る「任侠道」の役座とは、鎌倉時代に「武士」から枝分かれしたものであったのです。
藤原不比等は、騎馬民族が基本的に歴史書を編纂しない民族であったことをよいことに、六世紀の飛鳥ヤマトの歴史を、ユダヤ教のモーセをモデルとしたような厩戸皇子を登場させ、六世紀の飛鳥ヤマトの実態を改竄・隠蔽していたのです。
藤原不比等が創作した厩戸皇子(後の聖徳太子)の履歴と実績とは、用明天皇の皇子で、おばが推古天皇なのです。そして、厩戸皇子は、推古天皇の皇太子にして摂政なのです。実績としては、冠位十二階・憲法十七条を制定したのです。そして、遣隋使を派遣して大陸の文化を導入したのです。その大陸文化の仏教に帰依し、居住した斑鳩宮に隣接して法隆寺、そして難波に四天王寺、更に飛鳥ヤマトを中心に計七寺を建立して、仏教布教に努めたのです。著作物としては、法華・維摩・勝鬘経の注釈書である「三経義疏」を著していたと云うのです。
しかし、それらの厩戸皇子の履歴と実績は、ユダヤ教のモーセと同じで、飛鳥時代から百年後の奈良時代に、藤原氏一派により創作されたものなのです。
では、六世紀の実際の飛鳥ヤマトは、どのような世界であったのでしょうか。日本列島における六世紀から以前の史料は、藤原氏の焚書により、今現在皆無です。でも、飛鳥ヤマトには、オリエント渡来の遺跡物が多く発掘されていますが、遺跡は歴史を語れません。
そこで、目を中国大陸に転じると、騎馬民族の突厥帝国との戦闘国である隋の「随書」に、600年飛鳥ヤマトから派遣された遣隋使の記述が存在していたのです。さすがの藤原氏も、中国大陸の「随書」には、焚書も改竄もできなかったのです。遣隋使が述べたことを「隋書」で記述するには、

使者言はく、「倭王は天を以て兄と為し、日を以って弟と為す。天、未だ明けざる時に出でて政を聴き、跏趺して坐し、日出づれば便ち理務を停めて云く、我が弟に委ねん」と。高祖曰く、「此れ太だ義理無し」と。

中国の歴史書の真実性は疑われていますが、この記述から想像されるのは、600年の飛鳥ヤマトでの政(まつりごと)は、騎馬民族のものであるようです。騎馬民族は、天子(テングリ=北極星)を敬い、その天命により政を決めていたからです。
その騎馬民族のテングリ(天子)思想が、日本列島に渡来し、テングリから天皇となったのが、672年の太一(北極星)を祀る天武天皇からであったのです。
ですから、天武天皇(672年〜686年)以前には、日本列島には天皇など存在していなかったのです。その証拠に、600年の遣隋使も、隋の文帝に、飛鳥ヤマトは、女帝天皇ではなく、「王(オオキミ)が治めている。」、と述べたわけです。その八年後の608年隋使裴世清の隋帝への報告では、都で倭国の「男王」に謁見した、と報告していたのです。しかし、藤原氏の「日本書紀」によると、600年の飛鳥ヤマトでは、女帝推古天皇の時代(593年〜628年)となっているのです。では、「隋書」と「日本書紀」とのどちらが、情報操作をしていたのでしょうか。
いづれにしても、「日本書紀」、「風土記」、「懐風藻」、「万葉集」などの書籍や古文書で、日本列島史を調べても、それらの史料は、藤原氏、そして、亡命百済貴族により史実を改竄・隠蔽されて記述されたものですから、六世紀の飛鳥ヤマトを支配していた秦氏及び蘇我氏が活躍した日本列島の史実を知ることは困難でしょう。
消された日本列島史を復元するために残された手掛かりとしては、遺跡、伝聞、継承された特殊技術などだけです。しかし、それらは、古代史を語ることはできないのです。そこで、石切の特殊技術の歴史から、日本列島の古代史を推測してみることにしましょう。
1576年戦国時代末期、織田信長は、イエズス会の宣教師より、ヨーロッパ城の築城思想を学ぶと、その思想を基に、石垣の上に仏閣を乗せ、天子が降臨する天主閣を頂く、今までの日本列島にはなかった城を完成させるのです。
その築城技術は、短期間のうちに日本列島全土に普及し、天主閣(後に天守閣となる。)を持つ城が、石垣の上に築城されたのです。この織田信長の城建設技術の短期間に日本列島全土に広がる現象は、古代において、相似形の前方後円墳の全国普及と共通しているようです。
日本城の歴史は、戦国末期の石垣上に天主閣のある安土城←室町時代の平城←鎌倉時代の山城←平安・奈良時代の仏閣←飛鳥時代の朝鮮式山城、となるわけです。古来の「城」とは、土を固めて高い壁を造り、その土壁で囲んだ処を意味していたのです。その土がやがて、石に代わっていったのです。
飛鳥時代に渡来した朝鮮式山城とは、山の中腹を石壁で囲んだ防御施設であったのです。そのような築城の歴史的流れのなかで、巨石を用いて石垣を造る技術は、どのような民族により伝承されていたのでしょうか。
石垣を築造するには、石を切り出すための鋼鉄製工具が必要です。それに、巨石を運搬し、それを組み上げる技術が必要なのです。石垣を築造するには、それぞれの技術を持った部族を管理する技術も必要なのです。では、これらの技術は、どのような民族により、古代の日本列島にもたらされたのでしょうか。
石を切るには、鋼鉄工具が必要です。その鋼鉄工具を造るには、鋼鉄を作る必要があります。その鋼鉄を作るには、鉄鉱石を採掘し、精錬する技術が必要です。その鉄鉱石を精錬するには、その技術と強い炎を作るための炭が必要です。その炭を作るには、炭焼きのための炉と木と、その技術が必要なのです。
巨石を切るためには、それらの技術を持った大部族の連携が必要なのです。このような各種技術を持った部族は、いつ、どのようにして日本列島に渡来したのでしょうか。
日本列島では、鉄を精錬することを、「たたら」と言っていました。では、「たたら」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、突厥語で「ととら→たたら」とは、「強い炎」を意味していたのです。
五世紀の中央ユーラシアに興り、六〜七世紀の東から西のユーラシア全土を支配した突厥帝国は、騎馬民族国であるにもかかわらず、製鉄の技術をもっていたのです。騎馬民族は、スキタイの時代から、製鉄技術を持っていたのは、その部族には鉄器を発明したヒッタイト帝国出自のヨセフ末裔がいたからです。
日本列島に製鉄技術の「たたら」を伝承した突厥文化の遺跡を調べると、そこには石人が現れるのです。飛鳥ヤマトと北九州に多く出土するその石人とは、突厥帝国の祭祀用モニュメントのようです。その石人は、騎馬民族国スキタイの昔から、騎馬民族の子孫を見守るように野原にポッンと設像されていたのです。
短期間に移動を繰り返し定住しない、歴史を綴らない騎馬民族の「風の王国文化」は、その民族が抹殺されてしまえば、農耕民族が土地の所有権を主張するために先祖の伝承を文字で残すのとは異なり、その騎馬民族の文化伝承も途絶えてしまうのです。
飛鳥ヤマトと北九州に石人が多く出土することは、そこに騎馬民族突厥が存在したことを示唆します。その石人が、地中深く埋没していた理由としては、北九州では、527年から528年の磐井の反乱と「日本書紀」に伝わる、朝鮮半島南部と北九州との戦争に関係があるようです。
その時期の東アジアでは、北の騎馬民族突厥帝国と南の北魏(423年〜534年)とが、シルクロードの支配権を廻り戦闘を繰り返していた時代であったのです。北魏は、仏教と対立する「道教」を取り入れ、446年から452年まで仏教弾圧をおこなった太武帝(拓跋系王)が死去すると、452年文成帝より仏教国と変身していたのです。
この戦争直後の528年に、朝鮮半島の新羅国は、騎馬民族のギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国に変身しているのです。そして、530年飛鳥ヤマトに突厥(チュルク)系蘇我稲目が出現していることは、「磐井の反乱」とは、朝鮮半島新羅からの騎馬民族突厥帝国軍による、北九州への侵略戦争であった可能性を示唆します。
その根拠として、六世紀半ば、蘇我稲目は、飛鳥ヤマトを軍事支配すると、飛鳥川が流れる丘陵に挟まれた狭い地域に巨石を多用した軍事都市を建設し、そして、朝鮮半島・大陸からの侵攻を阻止するための軍事施設の「ミヤケ」を、瀬戸内海を臨む沿岸に、そして、畿内各地に設置していたからです。そして、北九州から始る、巨石壁に囲まれた防衛施設としての朝鮮式山城が出現するのは、その蘇我稲目からの飛鳥時代なのです。
藤原氏により隠滅された飛鳥ヤマトの騎馬民族のオリエント文化は、突厥帝国軍と伴に渡来した技術部族連合の秦氏が持ち込んだものだったのです。
そして、飛鳥ヤマトで石人の多くが地中深くから発掘されるのは、645年突厥帝国が支援する蘇我王朝の壊滅と関係があったようです。そして、この石人は、朝鮮半島からも出土していたのです。
その石人出土の流れから推測されるのは、歴史書を持たない騎馬民族は、カスピ海沿岸から興った騎馬民族スキタイ→ユーラシア大陸を支配した騎馬民族突厥→ギリシャ・ローマ文化の新羅→北九州→飛鳥ヤマトへの騎馬民族文化の移動の流れです。石人文化の移動は、当然その文化を持った騎馬民族の移動を伴うわけです。
この騎馬民族の飛鳥ヤマトへの石人文化を、藤原氏は、突厥石人→道祖神→仏教地蔵と改竄・隠蔽していたのです。そして、今も歴史書では、突厥石人を、飛鳥ヤマトの謎の石物としているのです。
更に、騎馬民族突厥の、飛鳥ヤマトに残る文化・伝承を調べると、そこに、「トソ・屠蘇」と「ダイゴ・醍醐」の「言葉」に出会うのです。飛鳥文化から始る、屠蘇と醍醐とは、何のことなのでしょうか。それは、「ソ・蘇」とは、米から造る酒ではなく、馬乳酒のことで、そして、醍醐とは、チーズのことなのです。もし、飛鳥ヤマトの文化が、農耕文化を基盤とした仏教文化だったとしたら、騎馬民族の嗜好品である「トソ・ダイゴ」を、どのように説明するのでしょうか。
六世紀の飛鳥ヤマトには、騎馬民族突厥(チュルク=トルコ)文化が存在していたのです。藤原氏は、720年「日本書紀」の創作で、騎馬民族文化を消し去ったつもりでいても、「日本書紀」の中で、蘇我稲目の息子蘇我馬子の娘を、「刀自古郎女」と記述しているのです。「刀自古」とは、「トルコ」のことで、それは、「突厥」のことなのです。つまり、飛鳥ヤマトでは、蘇我馬子の娘は、「突厥の娘」と言われていたのです。因みに、架空の人物厩戸皇子(後に聖徳太子に変身)の母は、孔部間人王と云うことですが、間人(はしひと)とは、飛鳥ヤマト時代では、ペルシャ人のことだったのです。
では、藤原氏は、何を目的に、飛鳥ヤマトのオリエント渡来の騎馬民族文化を、仏教文化で、抹殺・隠蔽したのでしょうか。それは、騎馬民族スキタイ末裔突厥と伴に渡来した、高度各種技術を保持する部族連合の秦氏が存在したからです。秦氏は、遥か古のヒッタイト帝国出自のヨセフ族末裔(イスラエルの祖)で、レビ族(ユダヤの祖)出自と唯一神ヤハヴェの秘密を知っていたからです。
ですから、レビ族末裔、南インドから渡来した祭祀氏族である中臣族から変身した藤原氏には、その「消されたイスラエル十部族」の最後に残る秦氏一族は、聖滅しなければならない部族だったからです。藤原氏が、レビ族アロン一派により改竄された「旧約聖書」、百済史を基に創作した日本列島史とは、秦氏の歴史的「聖滅」が、大きな目的のひとつだったのです。
秦氏の歴史的聖滅を願う藤原氏に、危惧したことが起こるのです。それは、反ユダヤ・キリスト教のパモス島のヨハネが創作した「ヨハネの黙示録」のような、反藤原氏・反亡命百済貴族の秦氏末裔多人長が創作した「古事記」が、平安時代に現れたからです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/846.html

コメント [経世済民93] マクドナルドで食べ、100円ショップで何か買う時代の終わり(Darkness) 赤かぶ
03. 2015年1月31日 19:41:12 : 7a8TXN0KMU
そんなに甘くないぞ、中国が駆逐されてもインドネシア、ベトナムから安物が流れてくるだけ。
金持ちは高い物を買って、後生大事に長く使いなさいよ、それでいいんじゃないの。
確かに、値段ほどほど、品質優秀なんてことはあり得ない。どこかで妥協する他なし。
http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/351.html#c3
コメント [アジア16] 韓国の消費者心理は世界60か国中59位・・米社の調査結果に韓国ネット「外面だけ先進国を真似る国」「日本、中国は着実に国力 赤かぶ
02. 2015年1月31日 19:44:01 : jXbiWWJBCA

韓国は日本以上に、悲観的で体制批判的な国民性だから、あまり消費者心理は実体経済を反映しないが、
外需依存のキャッチアップで急速に経済成長したため、定年が早い上に、企業間賃金格差は大きく、内需産業は非効率
そして社会保障への支出が少ないままだから、日本以上の格差社会。

そこを欧州や新興国の景気減速と、急激なウォン高不況が襲い、サムスンなど主力企業の不調、失業増や名目所得の低下が続き、家計負債も急増した。

つまり大統領を変えたところで、すぐに税制や社会保障政策、企業構造が変わるものではないから、あまり意味は無く、当面は、消費者心理は厳しいだろう。



http://www.asyura2.com/14/asia16/msg/778.html#c2

記事 [近代史02] 神輿の黙示録(19)(消された蘇我王朝末裔:何故、猿が馬を守るのか)
日本国の正史と信じられている「日本書紀」によれば、「日本は神国」であると云っているわけです。が、しかし、蘇我王朝末裔から言わせて貰えば、「日本は秦国」であったのです。
しかし、「秦氏の国」が、645年唐進駐軍と中臣軍により壊滅すると、南インドから渡来の中臣族が藤原氏に変身し、そして、その藤原氏の政権を乗っ取った亡命百済貴族は、秦氏支配地跡に平安京として遷都し、そして、「日本書紀」、「万葉集」、「懐風藻」、「新撰姓氏録」で歴史を改竄することにより、日本列島の飛鳥ヤマトに蘇我王朝を興したオリエント渡来の騎馬民族文化を、日本列島史から抹殺してしまったのです。
そして、飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族は、藤原氏の奈良仏教勢力と亡命百済貴族の平安仏教勢力とにより、賎民に落とされてしまったのです。その貶めの手段としての格言に、「馬耳東風」、「馬の耳に念仏」などがあり、そして、騎馬民族末裔を罵倒するセリフに、「どこの馬の骨か分からない奴。」、があります。もっと端的には、「馬鹿」、「アホウ」があります。
「馬鹿」の意味は、馬も鹿も分からない「能力の劣る者」、或いは、「馬」を「鹿」と言わせる命令に逆らうことのできない「奴隷状態の者」のことであるわけです。因みに、「鹿」は、騎馬民族スキタイのシンボルであり、飛鳥ヤマトでは、蘇我王朝は、小鹿の角から、現在も高級精力ドリンクに添加されている、ロクジョウを精製していたのです。
その蘇我王朝の二代目オオキミは、「馬子」で、その孫が「入鹿」なのです。「日本書紀」を創作した藤原氏は、六世紀に天皇など存在していないのに、蘇我氏を天皇殺しの大悪人とし、その祖父と孫の名前で、「馬鹿」として貶めていたのです。因みに、入鹿の父は、「蝦夷」で、その意味は、ヒゲのある夷(えびす)のことです。
では、「アホウ」とは何でしょう。それは、古代ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅数詞で「九」の意味です。その「アホウ・九」が、簒奪王権により新羅系日本人にたいしての侮蔑語となり、「ヨエル・十」に対して、ひとつ「足りない者」の意味となってしまったのです。
「アホウ」は、近畿地方の先住民である新羅(秦羅)末裔秦氏の土地を、794年に亡命百済貴族が乗っ取り「平安京」とし、そして、秦氏の神である太陽神ミトラ(簒奪王権により魔多羅となる。)を祀る比叡山に、亡命百済貴族末裔桓武天皇が中国から導入した天台宗の仏寺延暦寺を建立し、先住民の秦氏(新羅系日本人)を侮蔑するために発明されたものであったのです。
唐進駐軍の支援の下、山背国を乗っ取った亡命百済貴族は、何故、秦氏を憎むのかは、それは、663年亡命百済貴族の母国が、唐・新羅連合軍により、滅ぼされてしまったからです。
その母国を滅ぼされ、難民として暮した中国山東半島から平安京へ移民して来た亡命百済貴族にとっては、新羅末裔秦氏は、藤原氏(ユダヤ)が民族・宗教の秘密を知る秦氏(イスラエル)を聖滅したいように、抹殺すべき民族であったのです。その亡命百済貴族が支配する平安京で暮す秦氏は、そのことにより氏名を、秦氏から惟宗氏に代えていたのです。
この亡命百済貴族が支配する比叡山延暦寺は、仏を祀る只の仏寺などではなく、中国系薙刀で武装する僧兵が警備する亡命百済貴族の山城の砦でもあったのです。この比叡山は、1571年イエズス会から仏教聖滅の命を受けた織田信長軍による焼討ち時には、戦国時代最大の難攻不落の軍事要塞だったのです。
つまり、平安時代より日本列島では、簒奪王権により、前支配者であった騎馬民族を貶める「言葉」が、「馬鹿」と「アホウ」の侮蔑語だったのです。
この秦氏末裔を侮蔑する「言葉」が、現在でも、多くのひとにより意味も知らずに使われているのです。それは、藤原氏と亡命百済貴族による「日本書紀」を基盤とした歴史教育の情報操作が、完璧だったからです。
しかし、20世紀「ヨハネの黙示録」の暗号解読により、「旧約聖書」の秘密が明かされ、ユダヤ教の神が解明されたように、「古事記」の暗号解読により、「日本書紀」の謎が解読された結果、騎馬民族を貶めた、藤原氏の武器であった大乗仏教と中臣神道の秘密が解明されたのです。
それは、ユダヤ教、それに類似する中臣神道、そして大乗仏教は共に、太陽神アトン(古代エジプトでミトラ神が変身した神)を祀っていた民族から太陽神を簒奪して、創作された宗教だったのです。
ユダヤ教の唯一神ヤハヴェ←唯一神太陽神アトン←太陽神ミトラ、中臣神道の天照大神←太陽神ミトラ、大乗仏教の大日如来←遍照鬼←太陽神ミトラ、であったのです。因みに、鎌倉時代に流行した阿弥陀様は←エジプトのアミ様←太陽神アトン←太陽神ミトラ、であったのです。
「古事記」の完成は、教科書歴史に記述されているように、712年ではないのです。実際は、百年後の平安初期812年完成だったのです。その「古事記」の奥付に、秦氏末裔多人長が、712年を記載した意味は、藤原氏が前政権のオリエント渡来の騎馬民族文化を消すために、713年に人名・地名を、オリエント色から日本色に変えるために、漢字二字で表記する命令である「好字令」を発していたからです。つまり、奥付に712年「古事記」完成とすることで、「「日本書紀」に記述された漢字二字語で表記した人名・地名は疑え。」、との暗号を発するためだったのです。
そして、「古事記」の序に天武天皇の言葉を記載しているのに、女帝推古天皇の記事で終わらせた暗号は、サイファー式暗号解読法として、文章中にある同じ文字・文章は「抹殺せよ」であることから、「日本書紀」と「古事記」とにある同じ文字・文章を抹殺することにより、女帝推古天皇の存在を「否定」するためだったのです。
そもそも、騎馬民族の天子(テングリ)思想から派生した天皇の始まりは、672年騎馬民族新羅系天武天皇であるわけですから、奈良時代に怪僧淡海三船が架空天皇名を創作した弘文天皇より以前には、日本列島史には、誰ひとり天皇など存在していなかったのです。存在したのは、各国から渡来した民族長である「オオキミ」であったのです。
そして、「古事記」の暗号により、女帝推古天皇の存在が否定されれば、飛鳥ヤマトで仏教布教に貢献した「厩戸皇子」の存在も否定されるわけです。
つまり、平安時代に秦氏末裔多人長は、仏教伝来の謎解きのヒントを、パモス島のヨハネによる「ヨハネの黙示録」の「666の謎」のように、「古事記」で暗号を発していたのです。
平安時代から「馬」は、簒奪王権により侮蔑の対象となってしまいましたが、「牛」はどうでしょう。「牛」と言えば、広隆寺の牛祭りが思い浮かぶひともいるでしょう。その牛祭りの「牛」は、「牛頭天皇」と言われていたのです。後に「天皇」が「天王」に代えられてしまいましたが、何故、牛が天皇なのでしょうか。
牛に関する記述を調べると、奈良時代の741年牛馬を殺すを禁ず、とあるのです。そして、平安時代の804年牛の屠殺を禁ず、とあるのです。何故、王権は、牛の屠殺禁止の詔を発してまでして、牛の屠殺を禁止させたのでしょうか。それは、牛の屠殺は、前政権の秦氏の祭祀に関係があったからです。秦氏は、イスラエル民族と同じに、太陽と牡牛を祀る民族であったのです。
太陽と牡牛を祀る歴史を辿れば、紀元前十四世紀のヒッタイト帝国に行き着きます。ヒッタイト帝国での契約神ミトラは、やがて、古代エジプトで唯一神の太陽神アトンに変身し、そこで、太陽神の化身として牡牛が選ばれたのです。その太陽神と牡牛を祀る民族は、やがて、廃墟のカナンの地に定着すると、その土着神ミトラと融合して太陽神バアルとなるのです。
太陽は、西の空に沈むと、やがて東の空から出現することで、死と生を繰り返す不死身の神ミトラとして祀られるのです。その自然現象からやがて宗教儀式が発明されるのです。それが、太陽光線が一年中で最も弱くなる日の冬至での、復活祭です。このミトラ神の復活の日、12月25日が、やがて新興宗教キリスト教に導入され、キリストの誕生日「クリスマスの日」となり今日に至るわけです。
太陽を祀る民族には、この冬至の太陽光を浴びると、死から再生できると信じられていたのです。そして、その冬至の太陽光の下で、太陽神の化身牡牛を屠り、その牡牛の生血と肉を食べることにより太陽神と一体になり、太陽神再生の儀式が完成するのです。
この、ミトラ教の再生儀式の生血と食肉とが、新興宗教のキリスト教に導入され、赤ぶどう酒と種なしパンの儀式に変身して今日に至るわけです。
1549年イエズス会のザビエルが鹿児島に渡来し、その後、ゼウス(イエス)の教えを説くわけですが、その教えは、平地の民よりも、後にキリシタン大名となった高山右近などの山地それも山奥の民のほうが、ゼウスの教えや儀式を素早く理解できたのは、ゼウスの教えや儀式の多くの基は、元々飛鳥時代には渡来していたミトラ教(景教)のものだったからです。ネストリウス派キリスト教が中国唐で、景教となった、というのは、飛鳥時代にミトラ教が日本列島渡来していたことを隠蔽する、藤原氏による情報操作だったのです。
日本列島に渡来した、太陽と牡牛を祀る秦氏も、飛鳥・奈良時代そして、平安初期804年まで、秦氏の軍事勢力が健全な時には、牡牛を屠る儀式をおこなっていたのです。
そのミトラ教の復活祭の儀式場は、南北軸から約二十度西に傾けて建てられていたのです。そのひとつが、現法隆寺の境内に隣接する地下から発掘された「若草伽藍跡」と云われている建物跡です。そして、牛祭りがおこなわれている広隆寺は、元は秦氏の景教寺で蜂丘寺といわれていたのです。しかし、現広隆寺は、蜂丘寺ではないのです。蜂丘寺は、現広隆寺から少し離れた所の地下に眠っているのです。その蜂丘寺も、建築軸が南北軸に対して西に約二十度傾いていることでしょう。
奈良時代の741年に牛屠殺禁止令が発せられたのは、騎馬民族系天武天皇の孫長屋王が、藤原氏の陰謀により、729年謀殺されてしまったからです。長屋王は、祖父天武天皇と同じに、仏ではなく、道教の観で北極星(太一)を祀っていたからです。
その星からの啓示を受ける占星術を、仏を祀る藤原氏から「左道」と決め付けられた長屋王は、729年窮地に立たされ自害されられたのです。その後、長屋王の後ろ盾を失った秦氏は、741年の牛屠殺禁止令に従わざろうえなかったのです。そして、やがて、奈良の都から、秦氏による牡牛を屠るミトラ教の儀式が消えてしまうのです。
平安京が遷都される前の山背国は、秦河勝末裔が支配する地であたのです。太陽神ミトラは、山の頂から再生すると信じられていたため、山背国の北東に聳える比叡山には、その儀式場があったのです。
しかし、東アジアでの突厥帝国を散逸させた唐軍が、陸奥国の突厥帝国軍残留部隊(日本武士の祖)を殲滅する目的で日本列島に進駐して、亡命百済貴族末裔の桓武天皇を支援することにより、794年秦氏の支配地に、平安京が遷都され、秦氏一族は、その地を追われるわけです。
そして、比叡山も亡命百済貴族末裔に乗っ取られ、その地に祀られていたミトラ神も、魔多羅神に変身されてしまったのです。そして、804年牛屠殺禁止令が発せられ、秦氏による牡牛を屠るミトラ教(景教)の儀式も、平安の都から消えてしまうのです。
しかし、お上の命令だけで、古くからおこなわれていた儀式がすぐに消えるわけではありません。そこで、王権は、前政権の牡牛を屠るミトラ教(景教)の儀式を抹殺する手段として、広隆寺の「牛祭り」を発明するわけです。そして、その牛祭りの神として魔多羅神が登場するわけです。
そのようにして、前政権の宗教儀式を改竄して、その文化を歴史上抹殺するわけです。ですから、広隆寺の「牛祭り」は、王権の情報操作が成功し、ミトラ教の太陽神復活祭での牡牛を屠る儀式を歴史上抹殺できたため、現在では本来の祀りの意味が解らないため奇祭といわれているのです。
牡牛を屠るミトラ教儀式をおこなっていた秦氏の斎場を、仏教勢力により簒奪され、徹底的に破壊され、そして、その秦氏の宗教施設跡に、奈良の都では、710年仏教の興福寺が建てられ、768年神道の春日社が建てられたのです。そして、京の都では、821年延暦寺が建立されたのです。では、秦氏の支配地でミトラ神の太陽を祀っていた祭祀一族は、牡牛を屠る斎場を追われ、何処へ去ったのでしょうか。
日本古代史が解りづらいのは、簒奪王権により前政権の書籍が焚書・改竄され、そして、文化施設は徹底的に破壊され、その跡に新たな施設が建てられたからです。
飛鳥時代の歴史が解らないのは、奈良時代に藤原氏により、騎馬民族突厥帝国によるオリエント文化が仏教文化に改竄・隠蔽されてしまったからです。
そして、奈良時代が解らないのは、平安時代に亡命百済貴族により、天武天皇系聖武天皇の多くの遺品を保管した、正倉院のオリエント文化色のある書物・絵画・彫刻等が破壊され、亡命百済民族の貧しい暮らし振りや、天武王朝系騎馬文化と藤原氏のインド系文化が改竄・隠蔽されてしまったからです。正倉院に残された多くの書物は、前時代を描いた物は皆無だったのです。そして、正倉院とは一棟だけではなかったのです。
奈良時代と平安時代とでは、その支配民族が全く異なっていたのです。奈良時代は、騎馬民族末裔天武王朝系豪族と南インド渡来の藤原氏との闘争の時代であったのです。そして、それぞれの宗教も異なっていたのです。
天武王朝系では、道教・景教です。それに対して、藤原氏では、インド渡来の仏教とユダヤ教に類似した中臣神道です。
では、平安時代はどうでしょう。桓武天皇は、百済系で、その宗教も中国から導入した天台宗で、藤原氏の中臣神道に対抗して、中国山東半島の土着神の山王(シャンワン)神です。それが、比叡山で、山王(シャンワン→さんのう)→日枝(イルギ→ひえ)→日吉(イルギ→ひよし)の神と変身するわけです。
奈良のインド系に対して、京都では唐系なのです。このふたつの異なる宗教が闘争していたのが、平安時代なのです。では、藤原氏と亡命百済貴族に敗れた、天武天皇系宗教である、道教と景教はどうなってしまったのでしょう。それは、道教は陰陽道に変身し、景教は山の宗教である修験道へ変身し生き延びるわけです。
景教の神である牡牛を屠るミトラ神は、血の禁忌の仏教勢力に敗れると、古墳上の祀り処から、山の洞窟へと代わっていったのです。元々、突厥が日本列島にもたらした製鉄技術のタタラは、山の民の炭と浜辺の民の砂鉄とが融合した技術であったわけですから、藤原氏や亡命百済貴族に敗れ、平地を追われても、その生活圏として、山辺や海辺で暮す技術があったのです。
簒奪王権は、敵対する前政権の王族一族を抹殺するか、賎民として貶めることが、歴史の語るところです。平安時代も、その例外ではありません。
1585年イエズス会の傭兵軍武将から、藤原氏に乗り換えた羽柴秀吉は、関白となり、翌1586年太政大臣となり、豊臣の姓を賜るのです。何故、羽柴から豊臣へ姓を代えたかと言うと、それは、羽柴秀吉の傀儡主の藤原氏への対抗意識からです。生誕から青年時代の履歴が全く不明な羽柴秀吉は、藤原氏が、秦王国(飛鳥ヤマトの祖)を乗っ取った史実を知っていたのでしょう。
秦王国は、六世紀にギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)から北九州に渡来したオリエント色の強い国であったのです。しかし、その秦王国の歴史は、藤原氏が創作した「日本書紀」により抹殺・隠蔽されてしまっていたのです。微かに残る北九州秦王国の史実は、608年隋使裴世清が、隋から小野妹子に伴われて倭国ヤマトへの途中、秦王国を通過した時の記述が、「随書」に残っているだけです。その記述によれば、「男が居ない、そして中国(華)と同じ文化国である。」、と云うことです。
このオリエント色が強い北九州秦王国が、中国大陸からの侵攻軍や南九州坊津からの中臣軍に滅ぼされ、後に仏教国の豊国となるわけです。そして、645年以降、オリエント色の強い飛鳥ヤマトを乗っ取った藤原氏により、豊国にあった平瓦の仏寺の多くが移築されるわけです。その移築仏寺の代表例が、厩戸皇子が建立したと伝わる法隆寺で、670年落雷により全焼し、708年北九州豊国から移築された平瓦の現法隆寺であったのです。
645年以前の、飛鳥ヤマト移築仏寺の前の建物の多くは、丸瓦が使用されていたのです。その丸瓦とは、ユーラシア大陸での突厥(チュルク)様式建物に使われた瓦だったのです。
その秦王国を乗っ取った豊国の歴史を引き継ぐ豊臣秀吉が、1590年徳川家康を、関東の穢れ地(後の江戸)の湿地帯に移封するのです。その意味は、大坂の石山本願寺を支援していた源氏末裔武士団との関係を断絶することと、徳川家康の軍事力の抹殺です。
関東平野の地は、利根川と荒川の定期的な氾濫により、農業に適さない、葦が茂り湿地帯化していたのです。この地に徳川家康を移封してしまえば、農業がおこなえないため、徳川家康の軍事力が衰える、と豊臣秀吉は考えたわけです。しかし、豊臣秀吉は、徳川家康の出自を知らなかったため、後で手ひどいしっぺがえしを受けることになるのです。それは、徳川家康は、日光の山奥の世良田部落出身だったからです。徳川家康には、山の民の血が流れていたのです。
戦国時代のイエズス会も藤原氏も、明国との国際交易の地である、日本一の商業都市大坂を支配することを渇望していたのです。しかし、その地は、古は秦氏の地で、戦国末期には秦氏末裔源氏武士が守る石山本願寺の支配地であったのです。そこで、大坂の地を廻り、織田信長・徳川家康のイエズス会軍団対藤原氏・亡命百済貴族の仏教軍団との宗教戦争になったわけですが、羽柴秀吉による、イエズス会と藤原氏との両天秤戦略が功を奏し、1582年本能寺での織田信長の爆殺により、イエズス会から寝返った羽柴秀吉が1583年石山本願寺支配地に大坂城を建てると、大坂の地の完全支配を目指し、1588年刀狩を、そして、1591年武士と農民とを分けるための「士農工商の身分法」を発して、秦氏末裔の源氏武士残党の抹殺をおこなうわけです。そして、藤原氏傀儡の豊臣秀吉は、一向一揆(実際は宗教戦争)に敗れた秦氏末裔を穢多村に押し込めるわけです。
穢多とは、1569年織田信長に京で謁見したイエズス会宣教師ルイス・フロイスが「日本史」で述べているように、イエズス会の拠点である南インドのマラバル沿岸のボアレ(タミル語で不可触賎民の意味)と同じで、動物の皮を剥ぎ、その皮を売る賎民のことなのです。
この騎馬民族差別思想は、ユダヤ・キリスト教のコロニーがあった南インドのマラバル沿岸から、五世紀の南九州坊津に渡来した中臣族が、日本列島に持ち込んでいた民族差別思想と同じであったのです。書籍に残る騎馬民族差別思想は、藤原氏の陰の力で一年の修行で仏籍に入り、806年唐から帰朝した錬金術師空海の「我および仏弟子にあらずば、いわゆる栴陀羅悪人なり」、があります。空海は、唐からインドの民族差別のカースト思想を、日本に持ち込んできたのです。そして、空海の発明した真言宗のお札には、「栴多羅・屠者のたぐいの穢れたる人を見たらば、このしんごんをとなうべし」、とあったのです。騎馬民族差別思想は、平安仏教から始っていたのです。
そこで藤原氏の野望に邪魔になるのが、秦氏末裔源氏武士や忍者との関係が深い騎馬民族末裔徳川家康であったのです。徳川家康の武将の多くには、比叡山延暦寺軍と闘う一向一揆に味方したものが多く居たのは、騎馬民族は、反平安仏教徒であったからです。
それらの反仏教の徳川家康軍団の四天王とは、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政であり、そして、四天王四名を加えた十六神将とは、松平康忠、内藤正成、平岩親吉、鳥居元忠、鳥居元信、大久保忠世、大久保忠佐、服部正成、高木清秀、米津常春、渡辺守綱、蜂屋貞次、本多重次、高力清長、天野康景、石川数正です。
しかし、これらの徳川家康古参武将の末裔は、1623年葬式仏教組織を支配下に置いた、百済の血が流れていると伝わる三代目将軍徳川家光の時代から、賎民・穢多として中央政権から追われ、歴史上抹殺されていくわけです。
家康時代とは、二代目将軍徳川秀忠までで、三代目将軍徳川家光からは、第三百済王朝となるのです。キリシタン大名の高山右近も、徳川家康が政権を握っていた間は、山奥で賎民にデウスの教えを説いていたのです。高山右近が、国外追放されたのは、1614年であったのです。そして、イエズス会残党による島原の乱は、徳川家康の死後、1637年であったのです。徳川家康が、イエズス会信者を弾圧したと言うのは、三代将軍側勢力による情報操作であったのです。
戦国時代、騎馬民族末裔は、反藤原氏、反仏教であったのに、何故、一向一揆に加担してしまったのかは、それは、藤原氏末裔親鸞の騎馬民族取り込みの謀略が巧みだったからです。それは、親鸞の発明した浄土真宗の阿弥陀様とは、その祖は秦氏が祀っていた太陽神ミトラであったのです。
紀元一世紀、中央アジアのバクトリア国のギリシャ文化を引き継いだ国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教の阿弥陀様とは、エジプトのアミ様のことで、それは、太陽神アトンのことだったのです。太陽神アトンの祖は、秦氏(ヨセフ族→イスラエル民族)の母国ヒッタイト帝国の契約神ミトラであったのです。
その鎌倉時代に親鸞が宣伝する「阿弥陀様の教え」とは、

今から二千年前(当時)エジプトの地にアミ様と呼ばれていた尊いお方が居られ、「太陽の教え」を説かれ広められました。太陽はご自分の身を燃やし、犠牲にして私達人間に熱と光をお与え下さいます。その熱と光は人間にとって無くてはならない物であります。その熱と光は誰にでも「平等に分け隔てなく」頂くことが出来ます。その熱と光は無償で頂くことが出来るのです。太陽はご自分の身を持ってして私達人間に対し慈悲と愛を教えて下さいます。その太陽の御心を知ったなら私達も無償で慈悲と愛の実践を行わなければなりません。そして実践することで私達に幸せを頂くことが出来るのです。

親鸞が発明した呪文「ナム・アミ・ダ・ブツ」とは、「私は太陽神アトンに帰依します。」、という意味であったのです。その親鸞は、1262年「歎異抄」で「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と述べ、比叡山の大乗仏教思想により賎民・穢多に落とされた、平安時代から不可解な民族差別に苦しんでいた秦氏末裔に対して、秦氏末裔武士団の軍事力や商業活動で金銭的に余裕のある賎民・穢多を浄土真宗組織に取り込むため、民族平等思想の「アミ様(太陽神アトン=太陽神ミトラ)の教え」を利用していたのです。
ですから、六世紀に日本列島渡来後も、太陽神ミトラを祀っていたヒッタイト帝国末裔である秦氏末裔は、親鸞の説く阿弥陀様の民族平等思想を全て理解し、共鳴したわけです。しかし、親鸞のバックには藤原氏がいたのです。
その藤原氏の他民族に対する基本的思想は、親鸞を得度した慈円の「愚管抄」によく表れています。慈円の思想を簡略に述べれば、

日本国においては、皇室以外から国王を絶対に立てることはない。そして、天皇家は万世一系、永遠不滅の原則がある。それは、皇室の祖である天照大神が、その孫のニニギを地上に送るときに定めたもので、藤原氏の祖神である天児屋根命ととり交わした約束によるものである。しかし、万世一系でとりおこなわれてきた歴史のなかで、不都合が生じ、天皇の政治が衰えた時代もあった。そういう時には、化現した人物が現れて天皇の政治を助けた。その重要化現は、四人いた。ひとりは聖徳太子。仏法を積極的に取り入れ、王法と融和して国を支える道を示した。ふたりめは、藤原鎌足。皇統が常に日本の中心であるための補佐として力を尽くした。そして、さんにんめは、菅原道真。日本国は小国だから、補佐する臣は藤原氏ひとりでよいと、自ら身をひいた。最後に、慈恵大師良源。良源は、藤原氏の数々の系統の中で、九条右大臣師輔流のみを補佐の臣とした。

藤原氏がユダヤ的だと云われている理由のひとつは、「日本書紀」物語で、神から藤原氏に祭祀権が与えられた、と主張する思想形態のユダヤ教「旧約聖書」との類似性にあるようです。その類似性とは、唯一神ヤハヴェ(天照大神)→モーセ(天児屋根命)→祭祀者レビ族アロン(祭祀者中臣族藤原氏)の神の啓示の流れがあるからです。そして、五世紀には、藤原氏の祖中臣族は、南インドのユダヤ・キリスト教のコロニーがあったマラバル沿岸から、南九州坊津へ渡来していたからです。そして、八世紀の飛鳥ヤマトに現れた春日社でおこなわれた、中臣氏の神道儀式の多くは、ユダヤ教儀式と酷似していたからです。
このような、「旧約聖書」を創作したユダヤ民族の祭祀者・レビ族アロン一派の思想に類似した、藤原氏独善思想を持った慈円を師とした親鸞が、騎馬民族・秦氏末裔の穢多に対して、真の民族平等思想を持っていたのかは疑問符の付くところです。
かくして、百済系比叡山延暦寺に対抗する、藤原氏系親鸞を祖とする石山本願寺は、秦氏末裔武士の軍事力を利用して、「イエズス会軍団」対「亡命百済貴族の比叡山延暦寺軍団」対「藤原氏石山本願寺軍団」との三つ巴の宗教戦争に突入していくわけです。
しかし、イエズス会から供給された鉄砲・大砲・火薬などの圧倒的な武器と、日吉丸がいた外国傭兵軍に支援された織田信長軍団は、反仏教の騎馬民族末裔徳川家康軍団と供に、1571年比叡山延暦寺を陥落させ、1573年には伊勢長島の一向一揆を壊滅するわけです。
この後の十年戦争であった、1580年石山合戦終結により、平安時代に台頭した、藤原氏と亡命百済貴族による武装仏教軍団が歴史上壊滅するわけです。その宗教戦争に敗れたことにより、織田信長に、寺社領や市・座・関所での各種権益を奪われた仏教組織は、それまでは朝廷権力と覇権を争っていたものが、やがて、生き残るために葬式仏教となり、百済系三代目将軍徳川家光により、反権力勢力である秦氏末裔・穢多を取り締まるための、権力の手先機関となっていくわけです。
794年秦氏の支配地に、唐進駐軍の軍事支援の下、平安京に遷都した百済系桓武天皇は、戦国末期の豊臣秀吉が徳川家康を荒川河口の湿地帯に移封したのと同じ事をおこなったのです。
663年母国百済を滅ぼした新羅末裔秦氏を憎む桓武天皇は、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝を高度技術で支援していた秦氏一族を、平安京から追い払い、淀川河口の湿地帯に移封したのです。
戦国末期から江戸時代初期、関白豊臣秀吉により荒川河口の湿地帯に移封された徳川家康は、秦氏末裔穢多頭弾左衛門配下の高度土木技術を利用して、人口運河の神田堀を造り、その残土で、河口を埋めて、十mの人工山を造り、その上にエド城を造るわけです。そのエド城は、埋め立ての人工山に造られた城ですから、その堀の地下には、緊急時の脱出用トンネルも造ったほどの高度技術を駆使していたのです。
更に、秦氏末裔はその高度土木技術力により、荒川上流の流れを、利根川に流れるように変え、葦の茂る湿地帯の関東平野を農耕地に変えていたのです。
1600年オランダから渡来した、東京・八重洲の語源である、徳川家康の外交顧問、ヤン・ヨーステンは、自宅から地上を通らず、地下道から江戸城に登城していたほど、秦氏末裔のエド城築造技術は軍事的に優れていたのです。そして、エド城地下に張り巡らされていた地下道の一部は、現在では市谷の地下鉄操車場となっているようです。
秦氏は、その祖は鉄器を発明したヒッタイト帝国末裔で、古代エジプトでは、石切、石材建設、運河削掘などの高度土木・建設技術を習得していたので、湿地帯を農地や居住地に換えることはそれほど難しいことではなかったのです。
秦氏の土木・建設技術は、七世紀まで古代エジプト・メソポタミアの建設技術を用いて近畿地方に巨大古墳を築造していたほどですから、淀川の川口の湿地帯を居住地にすることは、それほど困難な工事ではなかったのです。
そして、その淀川河口に面した埋め立て地は、古代エジプト語の「わた」、つまり、「波」がおしよせる「辺り」で、統一新羅国商船が接岸できる湊でもあったので、「ワタナベ津」と呼ばれるようになっていくわけです。意外なようですが、古代エジプト語は、ヤマト言葉に多く溶け込んでいるのです。例えば、「マナ娘」の意味は、何でしょう。「マナ」とは、古代エジプト語で、「愛・愛しい」の意味なのです。ですから、「マナ娘」とは古代エジプト語とヤマト言葉の合成で、「愛しい娘」となるわけです。
そして、反新羅(秦羅)の平安王権により、京の都から追放された秦氏末裔が住む「ワタナベ津」の地から、百済亡命王朝三代目で、子供の数が多くてその皇子・皇女の実数が分からない、嵯峨天皇に嫁いだ娘の子が、814年嵯峨天皇から、源氏賜姓を受け「源綱」と名乗り、そして、源綱が、京の都から「ワタナベ津」に移住することにより、源綱が「渡辺綱」となるわけです。
平安末期、その秦氏末裔が住む渡辺津は、源平合戦での、短弓で騎射に優れた蝦夷軍を率いる、ユーラシア大陸騎馬民族のシンボルである笹リンドウ紋を旗印にした源義経が、1185年屋島の戦いに出陣した処であったのです。
しかし、戦国末期、織田信長爆殺後、イエズス会から藤原氏に寝返った関白豊臣秀吉により、その秦氏末裔源氏の支配地に大坂城築造のため、渡辺村が、再び湿地帯に移転させられ、穢多村に落とされてしまうのです。
何故、豊臣秀吉は、渡辺村を穢多村に落としたのかの理由のひとつは、その石山合戦の十年戦争に耐えた戦闘力の他に、渡辺村の住人である秦氏末裔が保持する、巨石を組上げ石垣を造り、そして、深い堀を掘削する高度土木・建設技術であったのです。
何故、イエズス会が供給する最新式武器と外国傭兵軍を投入しても、織田信長軍団が、石山本願寺を陥落できなかった理由のひとつは、阿弥陀仏を信じる賎民側武士団の信仰によるのです。
阿弥陀仏は、秦氏末裔の武士にとっては、軍神だったのです。その意味は、阿弥陀←アミ様←太陽神アトン←太陽神・軍神ミトラの流れにより説明できます。ミトラ神は、ローマ帝国軍の軍神で、敵軍と味方軍との戦闘の境に降臨し、ミトラ神を信じる軍人の死を再生することができる、と信じられていたからです。ですから、阿弥陀(ミトラ神)を信じる、秦氏末裔武士は、敵の最新式武器を恐れず、死を恐れず、十年間も闘い続けられたのです。
イエズス会傀儡の織田信長軍が、正規の鉄砲隊数千が十年もかかっても、摂津の上町台地にある石山本願寺を壊滅できなかったもうひとつの理由は、秦氏末裔の巨石を使った築城技術であったのです。
1570年織田信長が、石山本願寺が支配する国際交易都市の大坂を奪うことを目的に、矢銭の要求と立退きを石山本願寺に要求すると、それを拒否し、親鸞の説くアミ様の「民族平等」の教えを信じた秦氏末裔武士(豊臣秀吉総監修「信長公記」では、秦氏末裔武士の巨石砦を「えったが城」と蔑視しているのです。)を中心とした石山本願寺軍は、織田信長軍に対して攻撃をしかけるのです。それに対して、鉄砲の最新武器で武装した織田信長軍の度重なる攻撃を、十年間も防いだのは、石山本願寺を廻る、周囲四キロの深堀と巨石の石垣だったのです。
攻めあぐねた織田信長は、石山本願寺と太いパイプを持つ藤原氏末裔近衛前久に願って、朝廷による石山本願寺との和睦を打診するのです。この交渉中に、防御体制を解いた石山本願寺軍に対して、織田信長軍は総攻撃をかけることにより、初戦から十年後1580年石山本願寺軍は壊滅するのです。織田信長が、だまし討ちをしなければ、石山合戦はとうぶん続いたかもしれません。
その石山合戦に、羽柴秀吉として参戦していた豊臣秀吉は、その秦氏末裔が持つ、戦闘力の他に、高度土木・建設技術を恐れたのです。
1615年、宿敵藤原氏傀儡の豊臣軍団を滅ぼした、騎馬民族末裔徳川家康は、神と祀る豊臣秀吉の墓を徹底的に破壊すると、秦氏末裔穢多頭の弾左衛門配下が開発した関東のエドに、大坂の渡辺村の住人を呼び寄せたのです。しかし、1623年百済系三代目将軍徳川家光による、洛中の浪人追放令を口実に、弾左衛門の屋敷は、江戸街中央から、浅草寺裏の湿地帯に移封されてしまうのです。そして、その弾左衛門屋敷がある新町(シン町→秦町)は、多くの仏寺が囲んでいたのです。
平安初期、801年坂上田村麻呂が、蝦夷棟梁アテルイを騙し、それにより蝦夷を軍事的に平定した桓武天皇は、秦氏末裔に更なるイジメをおこなうのです。それが、804年の牛の屠殺禁止令です。それにより、太陽神ミトラを祀る秦氏の祭祀儀式は歴史上抹殺されたのです。
そして、京に連行された陸奥国の蝦夷軍の捕虜は、散所、湯浅、垣内、別所などと云われる部落に押し込められるのです。そして、部落に収容できない者達は、河の中州や農耕に適さない坂地に、奴隷として追いやるのです。これが、夙(宿)の始まりです。
唐進駐軍と桓武天皇軍と闘った、陸奥国の蝦夷軍とは、アイヌ民族ではないのです。アイヌ民族には、弓馬の戦闘技術はなかったし、蝦夷軍の刀は、騎馬民族特有の反りのある蕨手刀(日本刀の祖)で、それは、騎馬民族突厥軍の刀と類似していたのです。
蝦夷軍の実態は、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝軍残党で、それらは、新羅花郎軍団と突厥帝国軍団末裔であったのです。その後、京に捕虜として連行された蝦夷軍末裔が、939年天慶の乱を武力平定したことにより、朝廷からその武闘力を認められて、検非違使配下の怨霊封込めの武芸をおこなう「もののふ」から「武士」となるわけです。
平安初期、桓武天皇は、秦氏末裔を中州や坂の部落に封じ込め、農業生産をおこなわせないように仕向けたのです。そして、開拓農地を奪われ、農業生産をおこなうことが出来なくなった秦氏末裔は、生き延びるために次の収入手段を考えるわけです。それが、河原での芸能の始まりとなるのです。
1402年秦氏末裔の世阿弥の花伝書「風姿花伝」によれば、能の祖は猿楽で、その猿楽の祖は秦河勝と述べているのです。平安時代に発生した河原での芸能のひとつ、猿楽とは、秦氏一族の祭祀芸を、平安王朝が貶めるための蔑称です。猿楽←申楽←しん楽←秦楽の流れを辿れば、猿楽の原型が解明されるわけです。
芸能の「芸」とは、神を喜ばせるための歌と踊りのことです。元々、秦氏一族には、太陽神ミトラを祀るための祭祀一族もいたわけです。太陽神ミトラを祀るための、牡牛を屠る儀式は、血の禁忌の仏教思想により、抹殺・封印されましたが、歌や踊りは仏教思想には抵触しないため、平安王権も禁止することができなかったのです。
更に、現金収入手段として、平安京を支配していた亡命百済貴族相手の、宗教儀式としての、売春と博奕があったのです。しかし、これらの現金ビジネスは、後に、平安王朝からの銭通貨の禁止令により、困難を極めていくのです。平安時代、京では「米」、東(あずま)では「絹」が、貨幣の代わりとして使われていたのです。銭通貨禁止令も、為替を発明し貨幣経済に優れる、騎馬民族秦氏末裔を貶める手段だったのです。
古代、売春と博奕は、世界的には「神事」であったのです。宗教施設内でおこなわれる売春は、古代では「聖婚」と言われ、それは外界と隔離された宗教施設の神殿、エデンの園、仏教施設では内道場でおこなわれていた「神事」だったのです。その神の代理としての聖婚者は、地母神、聖母、比丘尼、巫女と呼ばれていたのです。
江戸時代、遊郭に遊びに行く(宮篭り・観音参りする)主人を「本社」、付き人を「末社」と言ったのは、売春を神事にかけた、江戸人の洒落だったのです。
博奕は、未来を占う神事が、ゲーム化したものであるのです。ですから、優秀な博奕打ちは、ひとびとから尊敬されていたのです。博奕打ちが、尊敬されなくなるのは、江戸時代の三代目将軍徳川家光からです。
徳川家康は、騎馬軍団が短期間に移動できるために、小田原から京までの軍事道路にもうけた駅舎を、その地を仕切る役座に無償で管理させる見返りとして、役座に日没後の博奕と売春を許していたのです。江戸時代、売春ビジネスは、誰でもおこなうことができなかったのです。それは、源氏末裔だけに許されていたのです。ですから、遊女名を「源氏名」と言うのはそのためです。
平安時代、その売春と博奕とが宗教施設内でおこなわれていたことを裏付ける史料として、真言宗の別格本山、高雄山神護寺の再興のための起請文に、次のような一文があるのです。

当寺の威を借りて、他人の田園や資財を押し取ってはならず、寺の大事にあらざるときに、私心にまかせて刀杖や甲冑を帯びてはならない。寺中においての酒宴、歌舞音曲等の遊興、囲碁双六将棋蹴鞠等の博奕を禁ずる。寺内に女人を泊めたり、魚鳥や五辛を持ちこんだり、猿楽や田楽の法師を入れたりしてはならない。

そのようなビジネスを河原でおこなっていた秦氏末裔に対して、平安王朝は、貶めの手段として、比叡山延暦寺天台宗の経典「法華経」(法華経に、「聖書」ヨハネの福音書とソックリの物語が多くあるのは何故でしょうか。)の思想を使うわけです。その思想とは、「法華経に敵対する者は、仏罰としてハンセン氏病になる。」、というのです。「法華経」の「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぽつほん)の一節です。「法華経」や持経者を軽んじた者がこうむる「罪報」として以下のように述べています。

かくの如き罪の報は、当に世世に眼なかるべし。(略)この経を受持する者を見て、その過悪を出さば、(略)この人は現世に白ライの病を得ん。若しこれを軽笑せば、当に世世に牙・歯は疎き欠け、醜き唇、平める鼻ありて、手脚は縺れ戻り、眼目はすがみ、身体は臭く穢く、悪しデキモノの膿血あり、水腹・短気、諸の悪しき重病あるべし。

そして、河原や坂にある秦氏の部落に、そのハンセン氏病患者の世話をさせるのです。
ハンセン氏病は、現在では感染症のひとつで、薬剤で治療できる病と知られているのですが、平安時代ではその知識が無かったため、太陽神ミトラ教(景教)の牡牛を屠る儀式をおこなっていた秦氏の部落は仏罰者の部落と、平安王朝は情報操作したわけです。
そして、平安仏教の血の禁忌思想にからめて、牡牛を屠り、その生血や生肉を食べ、その牛の皮を剥ぎ、なめし皮を作る、太陽神ミトラを祀る秦氏の部落を、「穢れ」とするのです。
本来の釈尊の教えには、「血の禁忌」思想などはなかったのです。釈尊は、乞食修行での与えられた食べ物は、肉と野菜を選り分けずに、全て食べていたのです。その平安時代に発明された「血・肉食の禁忌思想」の元は、中国大陸では肉食するため肉食禁忌の思想はなかったので、騎馬民族を差別するインドのバラモン教思想からのものと示唆されます。
「血の穢れ思想」が日本史上記述されたのは、亡命百済貴族支配の平安時代、908年の「延喜式」施行からです。血・肉食の穢れ思想は、日本列島古来の思想ではないのです。陸奥国の騎馬民族の蝦夷軍が健在であった、奈良時代以前には、「血・肉食の禁忌」、「血の穢れ」思想などはなかったのです。その根拠のひとつとして、奈良時代の食物のごみ遺跡から砕かれた獣骨片が多く出ているからです。
奈良時代、768年藤原氏が、日本列島初の神社である春日社を建て、そこでおこなっていた穢れ祓いも、その趣旨は、国内に起こった災難や不幸や疫病などは、人民どもが犯した罪悪の所業が原因であるので、それらを拭い取れば平穏安息が得られる、としているのです。そして、その祓うべき罪とは、「天つ罪」と「国つ罪」との二つに分けられたのです。
天つ罪は八つあり、畔放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、生剥、逆剥、屎戸です。
国つ罪は十三あり、生膚断、死膚断、白人(シロト)、胡久美(コクミ)、おのが母犯す罪、おのが子を犯す罪、母と子を犯す罪、子と母を犯す罪、畜犯せる罪、昆ふ虫の災、高つ神の罪、畜仆し、蠱物する罪です。
奈良時代の中臣神道が発明した穢れ祓いには、「血・肉食の穢れ」など、どこにもなかったのです。
平安時代、比叡山延暦寺が「法華経」を利用して発明した「血・肉食の穢れ」とは、騎馬民族秦氏末裔を差別し、貶めるための思想であったのです。
しかし、その「穢れ思想」の大宣伝も、難民として暮していた中国山東半島から、京に移民してきたばかりの、そして、ミトラ神を祀っていた秦氏の支配地跡に、仏寺として延暦寺を建て、中国の神・仏を祀っている宗教思想では、古く飛鳥ヤマト時代から宗教活動をしていた秦氏末裔には、その宗教的効力はなかったのです。
そこで、平安王朝は、「比叡山の法華経を祀る天台宗の百済仏は、538年に飛鳥ヤマトに渡来していた。そして、その百済仏は、騎馬民族の蘇我稲目が導入したものだ。」、との情報操作を考えるわけです。そして、その538年百済仏教伝来物語の情報操作の主人公として、厩戸皇子を「聖徳太子」に変身させるわけです。そして、その「百済仏教伝来物語」の宣伝隊長が、聖徳太子の玄孫と宣伝する、年下の空海に、密教の教えを請いた最澄であったのです。
この、後から創られた物語を先住民族の物語の前に挿入する、「百済仏教伝来物語」戦略は、「旧約聖書」にみられるのです。
ヘブライ王国のソロモンが死去し、ユダ国とイスラエル国に分裂後、レビ族末裔に虐げられていたイスラエル民族は、ソロモンを「簒奪者」と唱え始めるのです。それは、ダビデの祭祀権を、ソロモンが不正な手段で奪ったからです。
そして、ソロモンを「ヤコブ」(不正な手段の簒奪者)と、イスラエル民族が唱えると、それに対して、レビ族末裔は、イスラエル民族の祖ヨセフを、なんと、ヤコブの息子とする物語を創作して、ヨセフ族物語の前に挿入していたのです。それにより、イスラエル民族は、「ソロモンをヤコブ」と二度と言えなくなってしまったのです。
歴史は、百年経てば、「古代史」も同然です。実際に検証できないからです。ですから、百年前を知るには、書物の記述を基に推測するしか方法がないわけです。そこで、簒奪王権は、書物の改竄をおこなうわけです。
平安王朝は、藤原不比等が創作した「日本書紀」の552年仏教伝来を、538年に改竄して、百済仏教伝来物語を、蘇我王朝の時代に挿入するわけです。では、何故、比叡山延暦寺は、「仏教伝来538年」とし、厩戸皇子を「聖徳太子」に換えたのでしょうか。それには、何かの戦略(意味)があったのでしょうか。
538年百済国では何があったのでしょうか。その年は、扶余に遷都の年であったのです。その頃の朝鮮半島は、東アジアでの騎馬民族(北)対農耕民族(南)との激闘時代の只中であったのです。百済も、その東アジアの動乱の影響を強く受けていたのです。
527年「日本書紀」で述べるところの北九州筑紫国磐井の反乱とは、朝鮮半島から北九州への侵攻であったようです。その頃の朝鮮半島は、北から押し寄せる騎馬軍団により侵略され、そのため、朝鮮半島の先住民は渡海して、北九州へ逃れてきたのです。
古来より、朝鮮半島南端と北九州とは、同じ文化圏を形成していたのです。それは、韓族と倭族とは、元は同じ呉・越(紀元前473年呉滅亡。紀元前334年越滅亡。)の南方系海洋民族であったからです。ですから、玄界灘は、潮目を読める両民族にとっては内海であったのです。
そして、528年仏教を始めて導入した、百済の隣国新羅は、ユーラシアからの騎馬民族渡来により軍事力を増し、532年には朝鮮半島南端の伽耶の金官国を乗っ取るのです。その伽耶の先は、海を隔てた対馬列島で、その先は、隠岐、そして、北九州であるのです。
356年漢語を知らない奈勿王により始る新羅は、高句麗・百済と異なり、騎馬民族国であったのです。西域から渡来した新羅軍の主力部隊は、騎馬軍団で、その軍備はローマ軍と似通っていたのです。それを裏付けるものとして、新羅・慶州の古墳から、オリエントでローマ軍が使用していたのと同等の脛当ての防具・馬冑・馬鎧が出土しているのです。
そして、その古墳とは、騎馬民族スキタイの流れを汲む、大きな穴を掘り、小石を敷き詰め、木製の柩を納め、土を饅頭状に盛り小山を作る、石積木柩墳であるのです。そして、その古墳からは、多くの金メッキを施した馬具や、ギリシャ系金製の装飾品や三本樹の王冠やローマン・グラスが多く出土しているのです。その馬具に施した金メッキのアマルガム法は、騎馬民族スキタイが開発していたのです。
百済の「538年の遷都」は、新羅侵攻からの防衛のためのものだったのです。そして、538年百済から飛鳥ヤマトに仏典を送ったと云われる聖王(523年〜554年)は、554年新羅に敗れ絶命していたのです。
六世紀の東アジアでは、北から侵攻する騎馬民族柔然と闘っていた北魏は、534年滅び、東西に分裂していたのです。その西魏と東魏もやがて滅び、550年東魏を北齊が引き継ぎ、557年西魏を北周が引き継いでいたのです。そして、その北周と北齊を、581年統一したのが隋というわけです。
騎馬民族側にも政権交代が起こっていたのです。それは、552年西域から侵攻してきた突厥が、柔然を倒し、突厥帝国を興したのです。
突厥とは、チュルクを漢語化したもので、トルコ系民族のことです。そして、ユーラシアの東から西までを支配した、この突厥帝国は、その後、中国南方の北周・北齊、そして、隋・唐と軍事対決することになるのです。
ユーラシア大陸を支配した突厥は、当然、極東の日本列島にも侵攻していたのです。その根拠のひとつは、日本列島で三世紀後半から始る古墳が、五世紀から六世紀にかけての古墳と異なるからです。そのひとつが、五世紀以降からの古墳からは、今まで無かった実用的馬具が多く出土し、六世紀以降では、装飾を施した金メッキの非実用的馬具が多く出土するからです。これは、騎馬民族王族の渡来を示唆しています。そして、その墓は、騎馬民族特有の石積木柩墳であるのです。
歴史で記述された初の渡来突厥と考えられるのが、530年飛鳥ヤマトに突然現れた、蘇我稲目(蘇我稲目は、713年以降に簒奪王権により付けられた名で、チュルク本名不詳。)であるのです。そして、飛鳥時代は、その蘇我稲目の出現から始るのです。
東アジアで、突厥帝国と戦闘を繰り返していた隋の煬帝が、608年偵察使として裴世清を、飛鳥ヤマトに送り込んできたのです。六世紀から七世紀の日本列島の飛鳥ヤマトも、朝鮮半島と同じに、東アジアでの、北の騎馬民族突厥と南の農耕民族・隋・唐との死闘に巻き込まれていたのです。
六世紀から七世紀にかけての東アジアの民族動乱は、朝鮮半島に影響を及ぼし、その朝鮮半島の動乱は、日本列島にも強い影響を及ぼしていたのです。
騎馬・遊牧民族と農耕民族との戦いは、歴史的必然であったのです。それは、古代には、国境などなかったからです。ですから、農耕民族は、村や耕作地を異民族の侵入から守るために柵を設けるわけです。その柵は、農耕民族の人口増大に比例して、農地開拓という自然破壊をおこないながら、南から、騎馬・遊牧民族の支配地の北方草原へと侵攻していくわけです。
それに対して、騎馬・遊牧民族の民族移動は、季節により決まっていたのです。それは、暑い夏には、涼しい北方草原に移動し、寒い冬には、南方草原に移動していたのです。騎馬・遊牧民族の越冬用の掘っ立て柱の支倉造り(奈良正倉院の祖)は、移動する騎馬・遊牧民族に適した建築様式であったのです。飛鳥ヤマトの建築遺跡が、敷石形式ではなく、掘っ立て柱形式の建築物が多いのは、騎馬民族の居住を示唆します。
大草原では、移動のための目印がないため、騎馬民族は、北極星を目印に季節ごとに民族移動をしていたのです。ですから、騎馬民族にとって、北極星は、民族を導く「神=天子・テングリ」であったのです。
騎馬民族の基本的移動は、南北であったのです。しかし、南方から北方へ、ジワジワと野山の自然を破壊しながら侵攻する農耕民族の柵は、やがて、自然と暮す騎馬・遊牧民族の冬の移動地と重なるのです。そこに、野山の自然を破壊する農耕民族と墓を地下式として地表の自然を守ろうとする騎馬・遊牧民族との民族戦争が勃発するわけです。そして、南方農耕民族による長城が築かれるようになると、騎馬民族の民族移動が、南北から、東西になるわけです。その結果、中央アジアで暮していた騎馬民族は、ユーラシアの東西へ拡散していくわけです。
そのような、東アジアの動乱の中、飛鳥ヤマトでは、「538年百済聖王から仏像と経論を、欽明天皇に献じられた。」、と比叡山側は、百済仏教伝来物語で述べるのです。
何故、538年に、まだ天皇など存在していないのに(672年天武天皇以前の天皇名は、奈良時代に淡海三船が創作した。)、天皇に仏像と経論を献じられるのでしょうか。
百済末裔にとっては、538年は、忘れられない年だったのです。それは、ユーラシアからの騎馬民族軍団南下の影響で、朝鮮半島の北から南下する高句麗軍を避けるため、百済の首都を沿岸の熊津から、内陸の扶餘へ移した年であったのです。
しかし、仏教伝来物語は、ふたつあるのです。ひとつめは、奈良時代、藤原氏による「日本書紀」での「552年仏教伝来物語」です。そして、もうひとつは、平安時代、亡命百済貴族による「538年百済仏教伝来物語」です。このふたつの物語は、歴史改竄の法則にあてはまるのです。それは、古い物語は、新しく創られる、と言うことです。
奈良時代の藤原氏による仏教伝来物語のトリックは、藤原氏の祖、中臣族を祭祀氏族として登場させることです。そこで創作された物語に、まだ日本神道など存在していなかったのに、物部守屋の忠臣として、神道の祭祀者として中臣鎌子を登場させるわけです。
平安時代の亡命百済貴族による百済仏教伝来物語のトリックは、秦氏の支配地の山背国と比叡山を乗っ取り、秦氏の神・ミトラ神を抹殺・隠蔽するために、「聖徳太子」を登場させたことです。それにより、秦河勝は、「聖徳太子」の忠臣となり、仏像安置のために広隆寺を創建したことになってしまうのです。
このふたつの仏教伝来物語の最大のトリックは、物部氏対蘇我氏との二度の神仏戦争です。この神仏戦争により、仏教以前に、日本神道が古来から存在していたと、信じられてしまうのです。
実際は、飛鳥ヤマトには、645年唐進駐軍と中臣族とにより仏教勢力が侵攻して来るまでは、北極星(太一)を祀る「道教」と、太陽の化身牡牛を屠る「景教」とが存在していたのです。そして、その「道教」は、道観(後の伊勢神宮)で北極星(太一)を祀っていた天武天皇の孫長屋王による太一(北極星)の祀りを、藤原氏により「左道」として抹殺されるまで、そして、「景教」は、太陽の化身牡牛の屠り儀式を百済系桓武天皇により、804年に抹殺されるまでは、歴史上存在していたのです。
実際の日本神道は、仏教よりも後に、中臣神道として日本列島に現れたのです。その根拠としては、奈良の都では、藤原氏により、710年仏教の興福寺が建てられ、768年神道の春日社が建てられたからです。
何故、それまで、仏寺や神社が建立されなかった理由としては、それは、古墳を築造していた民族の勢力が存在していたからです。古墳は、七世紀まで築造されていたのです。その古墳での埋葬思想では、死者を不浄として火葬する仏教・神道思想とは異なり、死者は穢れなどではなく、古代エジプトの単位キュビトで設計された石棺に安置され、冬至の太陽光を浴びることにより再生する、と信じられていたのです。
このような死者再生思想を持った民族支配地に、死者を火葬し、穢れとする仏寺や神社を建立することなどできるはずはありません。埋葬儀式の変化は、その地の支配者が替わったことを意味するのです。それは、オリエント文化の飛鳥ヤマトを継承した、騎馬民族系天武天皇崩御後に、藤原不比等により、宗教改革がおこなわれた結果、仏寺の後に、前政権の神を、怨霊として封じ込めるために神社が現れたのです。
そのような視点で、仏教伝来物語を眺めてみると、今までと異なる日本列島史が現れてくることでしょう。
もし、538年百済から飛鳥ヤマトへ、使者を送り込んだことが史実だとすれば、それは、仏像や経論などではなく、飛鳥ヤマトの百済コロニー(後の葛城。新羅コロニーは磯城となる。)に、「聖王の亡命依頼の書状」であったのかもしれません。
その根拠は、百済仏教伝来物語の、蘇我稲目と物部尾興との崇仏戦争が、その後に起こったとされる、蘇我馬子と物部守屋との崇仏戦争と、経緯が全く同じであるからです。
歴史改竄において、同じ物語があるときは、「旧約聖書」で最も古い創世記物語から出エジプト記を語る「モーセ五書」が一番新しく創作されたように、古い物語のほうが、新しい物語より、新しく創作される傾向があるからです。
その二度の崇仏戦争は、蘇我氏が物部氏を敗退させ、仏像を祀ることになるのですが、疫病が流行り、その仏像が「難波の堀」に投棄されてしまうのです。
難波とは、奈良時代に改名されたもので、その前は、浪速(ローラン←楽浪・ローラン←楼蘭)と呼ばれた西域・高句麗・百済からのシルクロード交易の貿易港であったのです。その百済からの交易湊の難波に、二度とも仏像が投棄されたことの意味は、飛鳥ヤマト政権に、仏教(百済聖王の依頼)の上陸を拒否されたことを示唆しているようです。
その後、百済仏教伝来物語では、蘇我馬子と物部守屋との第二次崇仏戦争時に、十四歳の「聖徳太子」が登場し、やがて、女帝推古天皇の摂政になると、蘇我馬子と共に仏教を擁護し、その「聖徳太子」から賜った仏像の安置のための施設として、秦河勝が、支配地の山背国(後の山城国)に広隆寺を建立したことになるわけです。そして、その仏像が、弥勒菩薩というのです。
しかし、この百済仏教伝来物語には、不思議なことが沢山含まれているのです。そのひとつは、百済仏教伝来としているのに、何故、弥勒菩薩が登場するのでしょうか。
弥勒とは、その元はインドのヒンズー教のマイトレーヤのことで、その元はオリエントのミトラ神のことなのです。弥勒菩薩とは、弥勒(中国・日本)←マイトレーヤ(インド)←ミトラ(オリエント)、の流れにあるのです。
六世紀の朝鮮半島で、百済と対峙していた、隣国新羅の軍団は、花郎軍団(花=ミトラ)と言われ、その花郎軍団とは、軍神ミトラを祀るローマ帝国軍の流れにあったのです。その弥勒(ミトラ神)菩薩像が、何故、百済の仏像なのでしょうか。
そして、飛鳥時代まで山背国を支配していた、能楽の祖秦河勝が、「聖徳太子」の命を受け、広隆寺を仏像安置のために建立したというのですが、その百済渡来の仏像安置の寺を建立した秦河勝の墓が、何故、平安初期には、その地から赤穂に追放されているのでしょうか。
更に、秦河勝が建立したと云われる広隆寺は、数々の仏寺名に変更されているのですが、その元は、蜂丘(岡)寺で、蜂丘寺は、その地にはなく、少し離れた地下に遺跡として眠っているのです。そして、蜂丘寺は、弥勒(ミトラ神)を祀る景教寺で、仏寺ではなかったのです。
奈良時代まで、蜂丘寺(景教寺)でおこなわれていた、太陽神ミトラを祀るための、秦楽(→申楽→猿楽)を舞う秦氏祭祀者による牡牛の屠り儀式は、平安時代になると、「血の禁忌」の仏教思想により、広隆寺の牛祭り、と改竄され、ミトラ神は、魔多羅神に変えられてしまうのです。
平安時代初期、恐らく、このような百済仏教伝来物語に、イスラエル民族が「ソロモンはヤコブ」だと言ったように、部落賎民に落とされた秦氏末裔も、「飛鳥時代に、百済仏教を広めたと言う聖徳太子などはいない。」との反論を強く唱えたことでしょう。しかし、「日本書紀」の解説を平安貴族に講義し生計の糧とする、万葉語学者の秦氏末裔多人長が、812年「古事記」の暗号で、平安王朝による歴史改竄の解明を示しても、やがて、その声は消えてしまうのです。それは何故でしょうか。
それは、814年「新撰姓氏録」により、日本人を「皇・神・蕃」と差別し、亡命百済貴族末裔を日本列島古来からの皇族と偽装し、そして、古代新羅語で読まれた「万葉集」を菅原道真が古代万葉語に改竄して、オリエント文化の蘇我王朝の存在を、架空の歴代天皇の歌で隠蔽したこともあるのですが、最大の功績は、「聖徳太子」のネーミングなのです。
「聖徳太子」このネーミングの呪縛は、平安時代だけではなく、平成時代の現在までも続いているのです。「聖徳太子」の実在性は、大山誠一氏の著書「聖徳太子と日本人」等で否定されているにもかかわらず、今尚、その太子虚構は健在なのです。
「聖徳太子」の虚構物語構築は、ユダヤ・キリスト教「聖書」の登場人物、十戒を授けるモーセ、敵将ゴリアテを倒す少年ダビデ、馬小屋で誕生したキリストを素材としているようで、日本列島の思想からはみ出ているようです。
そして、その「聖徳太子」物語を一度疑うと、色々な疑問点が浮かぶのです。そのひとつは、飛鳥ヤマトに都があるのに、何故に、女帝推古天皇摂政の「聖徳太子」が、約二十km先の斑鳩の寺に住んでいるのか、と言うことです。
「隋書」によれば、飛鳥ヤマトのオオキミは、夜に政(まつりごと)を行ない、日の出には仕事を終える、と記述されているのです。政治を終えた摂政「聖徳太子」は、その後、二十km先の斑鳩まで、どのようにして帰ったのでしょう。その答えとして、天馬の黒駒が、直線道路の太子道を疾走した、と言うのです。
斑鳩は、飛鳥ヤマトと難波の湊との中間点で、恐らく、幅十二mのローマ軍式軍事道路は、飛鳥ヤマトを基点に、斑鳩を中継点として、難波の湊まで続いていたのでしょう。
そのように疑えば、「聖徳太子」建立七寺は、仏寺などではなく、608年隋の偵察使の報告に基づいて計画された、東アジアで突厥帝国と闘っている、隋国の飛鳥ヤマト進駐軍に備えた、蘇我王朝側の防衛軍事施設であった可能性も疑えません。
蘇我稲目の登場と同時に、北九州から飛鳥ヤマトにかけて現れた軍事施設「ミヤケ」が、その「聖徳太子」建立七寺と云われる建物の実態でしょう。つまり、645年以降、藤原氏により、ヤマトの「ミヤケ」が徹底的に破壊され、その七つの施設跡に、北九州秦王国(後の豊国)の仏寺を移築したのが、後に「聖徳太子」建立七寺となるのです。
そして、「聖徳太子」の謎として、女帝推古天皇の摂政として成人している大人が、何故、子供を表わす「太子」なのでしょう。「日本書紀」での「厩戸王」を「聖徳太子」と、子供扱いにした本当の意味は、何なのでしょうか。
平安王朝により部落民に落とされた秦氏末裔には、桓武天皇による正倉院遺物の破壊や焚書により、騎馬民族が支配していた蘇我・天武王朝の歴史を証明する書物がないため、百年も経てば、オリエントの飛鳥ヤマト文化の記憶も薄れていくわけです。後に残るのは、伝承のみです。
五世紀新羅から渡来した秦氏には、「太子」信仰文化があったのです。その新羅文化とは、それは、土着の海洋民族末裔韓族を武力制圧した、ユーラシア・オリエントから騎馬民族が持ち込んだ文化であったのです。
文化は常に、勝利者の文化に、敗者の文化が呑み込まれていくのです。その逆はありえないのです。
その朝鮮半島の新羅文化とは、ギリシャ・ローマ文化だったのです。その新羅文化を構成する宗教思想に、ローマ帝国で流行っていた、古代エジプトの子神ホルスを抱く地母神イシスの「母子信仰」があったのです。この子ホルスを抱く母イシスの母子神は、やがて、キリスト教に導入され、子イエスを抱く聖母マリア像となるわけですが、新羅では、やがて、時と共に、「子神」信仰が「母神」信仰を呑み込み、その結果、「太子」信仰となっていたのです。
このギリシャ・ローマ文化国新羅での「太子」信仰は、秦氏の渡来と共に日本列島に持ち込まれ、その秦氏末裔の薩摩藩では、その「太子」信仰が、「稚児様」信仰に変身するわけです。日本列島に渡来した秦氏末裔には、「太子」とは、誰も疑うことが許されない、神聖な「子供神」であったのです。その思想により、「聖徳太子」の虚構を疑うことは、現在でも、できないのです。劃して、比叡山延暦寺の「聖徳太子」主演の百済仏教伝来物語は、現在も、健在であるわけです。
こころあるひとが、「聖徳太子」の歴史を消し去ることが出来れば、そこには、猿(秦河勝)が馬(蘇我馬子)を守る、オリエント文化の飛鳥ヤマト騎馬民族の史実が現れることでしょう。
戦国時代末期にも、同じことが起こるのです。それは、秦氏末裔穢多頭弾左衛門(猿←申←秦)が、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、1590年関東の穢れ地に移封された騎馬民族末裔徳川家康(馬)を鳥越で待ち受けて、荒川河口のひとも住めぬ湿地帯を開拓していくのです。正に、歴史は繰り返すのです。
エド(穢れ地)は、秦氏末裔と徳川家康により開発されたのです。そして、秦氏末裔の土木・建設技術で築かれた「秦王国」のエドの歴史が、三代将軍徳川家光の支配時代から、改竄・抹殺され、そして、徳川家康が朝鮮国の朱子学者から学んだ朱子学が否定され、亡命百済貴族末裔により仏教文化が復活して、やがて「江戸文化」と言われていくわけです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/847.html

コメント [マスコミ・電通批評14] フジテレビがお通夜ムード!? 起死回生策を打ち出す人間さえいなくなった[TOCANA] ニュース侍
03. 2015年1月31日 19:45:37 : NOw9RSY5s6
ある糞右翼が書いてたが、河田町から移ったのが間違い、これだけは同意できる。
まぐれだが。
韓流嫌いが騒いだおかげでフジを追い落としたのだと勝手に信じ込んでるらしい。
全然わかってない
http://www.asyura2.com/13/hihyo14/msg/557.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK179] 「クソコラグランプリ」の衝撃(湯浅誠) ドンゲン
05. 2015年1月31日 19:45:59 : 1BVlp3dpkE

ひどいヒドイと言いながらネトウヨ工作隊のやってることを拡散するっていう高等戦術もあるそうだ

もっと他に現行ネタないのか湯浅氏は?
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/101.html#c5

コメント [政治・選挙・NHK178] トマ・ピケティ氏、「民主主義は闘争。誰もが関わらなければならない」と日本の若者にメッセージ(BLOGOS) 赤かぶ
09. 2015年1月31日 19:46:06 : Rs1kspOrww
>08 ピケティ:
「オバマ米大統領が富裕層への課税を強化し、教育などの支援策を拡充する方針を打ち出したことについては、「富裕層向けの増税で得たお金を(低所得者らも通う)地域の大学などに投資しようという考えで、全く正しい政策だ」と評価した。」
あべ:
「大衆向け消費増税で得たお金を、軍備増強、海外派兵などに投資しようという考え。」この道しかない。
ショック!
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/916.html#c9
コメント [政治・選挙・NHK178] <注意>イスラム国人質事件の悪質なデマに注意!ネトウヨ達が強引に在日認定!「後藤健二は在日だから日本政府に責任はない」 赤かぶ
09. fumifumi923 2015年1月31日 19:46:25 : SkHMOfI8xanDg : nKiV64S80Y
パスポートが濃紺と赤色の区別も分からないで投稿している人たちも大勢いますね。他の投稿も含めて。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/906.html#c9
コメント [政治・選挙・NHK179] トマ・ピケティ氏が「不平等が拡大」と警鐘!日本が相続財産に依存する社会だと指摘!首相「ピケティ氏も成長は否定していない」 赤かぶ
04. 佐助 2015年1月31日 19:47:29 : YZ1JBFFO77mpI : 439YTZK3Rc
金持ち優遇・消費税・若者などいろいろ仰るが,その前に認識し対策しないと何も収束も沈静化もしません

2007〜10年にスタートしている第二次世界金融大恐慌は、ドル一極からユーロ・円三極への移行が根因なんですが,政治・経済の指導者と経済学者は誰も認識もむしないし拒絶・黙認・黙殺するために,古今未曽有のパニックを向えます。

「第二次世界信用パニックの震源地になる日本」
1972年に為替フロート制へ移行し、世界の通貨の発行がキンから開放された結果、最も利益を受けた国が日本だからだ。石油ショックはドル下落の結果だが、日本は円高のおかげで乗切った。そして、高い円は、海外投資と海外からの安い原材料の輸入を容易にした。そして、高い円は、海外投資と海外からの安い原材料の輸入を容易にした。だから、インフレになるほど通貨を発行しても、低価格の輸入物価の圧力のおかげで、国内物価と賃金を抑制することができた。

「高関税障壁を乗り越えて輸出を延ばした米国」
1929年の第一次世界信用パニックの震源地となった米国を観察すると当時の米国は、世界の技術から流行までをリードしていた。当然米国の国家と産業・企業の指導者は認識していなかった。だから、40%もの高関税障壁に固執した。固執して、欧州からの投資と自国農業を保護した。当然、他国は高い関税で報復した。にもかかわらず、米国商品は高関税障壁を乗り越えて輸出を延ばした。この米国商品の優位性を指摘している歴史家は米国でも皆無だ。
今回の世界恐慌で消費者の購買力を縮小させたまま、円安や生産過剰を進めて金融商品と原材料の値上がりを放置しながら、消費者の所得は増やさないまま、生産工場を海外に移転すれば、どうなるか? その答えは、国内市場が縮小するため、消費者物価のインフレは発生することができない。そして中小企業と農業を壊滅させ関税ゼロすると終わる。

「銀行・証券・為替の一時閉鎖」
日本は預金一千万円までの国家保証システムをつくり、二度と銀行への巨額な補填の必要はなく、取り付けパニックの再発はなくなったと、政府は確信している。だが、預金一千万円が返済されるまでの時間に、個人や企業が破産する可能性があるかぎり、信用不安を囁かれた銀行の取り付け騒ぎは発生する。この取り付け騒ぎは、全国の銀行を閉鎖しないかぎり沈静化できない。今回の世界恐慌で証明される。

「簡単に破られる心理壁」
もともと企業は「1ドル115円以上の円高・円安にはならない」と心理的壁を築いていた。だが1ドル80円の壁も簡単に破られた,円安は1ドル115円の壁も破られ,これらの壁が、ベルリンの壁より簡単に崩壊する。そして国家と金融界の指導者が一番困るのだから、なんとかしてくれると期待した。これが「心理的壁」とよばれる信用経済現象に発生する防衛壁である。

「株暴落の前兆は予測できない」
株式市場は、ナマズと同じように、どんな振動にも反応する。 2007年の始めと真ん中で、大きな暴落が発生した。だが、その暴落が、三年後に、株を十分の一まで縮小させるマグニチュード9の地震の前兆だとは、ナマズでなくとも認識は困難である。

「嗜好の数値化」
アダムスミスからマルクスまで、そしてケインズから現代経済学まで、その共通する誤りは「人間の嗜好の変化」を無視したことだ。嗜好は、個人のレベルでは偶然なので、数値化することはできない。だが、社会的レベルでは、嗜好は数値化することができる。

「世界恐慌で世界的優位性の国家はトップ企業の交代劇が発生する」
第二次世界金融恐慌では日本商品の世界的優位性の法則は作用し、技術から流行まで、新しい革命的な商品は、長期大不況の中でも、奇跡的に成功することが認識される。そして、産業ごとのトップ企業の交代が加速されることが認識される。

「千載一遇のチャンス」
若者と革命的な思考と行動する人たちに千載一遇のチャンスがくることを予測できないことが残念である。

「ケインズの前提反転思考革命により格差や耐乏が進められた」
古典派経済学者たちは「経済学の目的は、貧しさから開放し、格差をなくし、失業をなくし、国と企業と個人を富ませるため」であるという理想を抱いていた。だが、ケインズの前提反転思考革命によって、理想や義務から解放された。そために「朝四暮三」のサギ商法や高齢者や弱者や貧乏人そして中小企業や農民は早く死ねということになる。ケインズの前提反転思考革命により格差や耐乏が進行した。


経済学は、結果を説明するだけのアト学説となり、一個の商品の価格も価値も、経済の一商品も一国の景気不景気も予測することができない。しかも経済学の常識・経験則・既成概念では、バブルは崩壊しないとバブルだと認識することができない。理由はバブルを発生させる思考と行動と、日常の経済常識による思考と行動とを、区別できないためである。

この世界恐慌から脱出するためには取りあえずキン本位制を採用し大胆に第二次産業革命の前倒しするしかありません。この流れに逆らうと次ぎ次と大企業と云え消失していきます。第二次産業革命とは,水素発電と電磁波起電力です。

第二次産業革命は、この動力エンジンを、水素発電&電磁波起電力に移行させて発生する。そのため、放射能・CO2を発生させる動力は一掃され乗用車はエンジンレスとなる。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/129.html#c4

コメント [雑談専用39] 昔の日本はエロかった。 学校やマスコミが絶対に教えてくれない『裏・日本民俗史』 エテ公
120. 2015年1月31日 19:48:17 : Fl00PDjaLI

【JS】 小学校でフ○ラ遊びが大ブームwwwww 女子「5分以内に・・・・・・したらあたしの勝ちねwアイスおごってね(ジュボボッッ」

1: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2014/09/24(水) 09:39:22.10 ID:LMmYhIfR0.net
以下ソース
370 :仕様書無しさん:2010/03/19(金) 18:24:33
このまえ娘が通ってる小学校で、
男子を女子がフ○ラしてる数人のグループがみつかって大問題なったぞ。
姉のもってるa○○nをもってきた子がいて、
放課後エ□ページを皆でみてるうちに、試しにやってみようて話になったらしい。
小学生なんて恋愛感情とか関係なく、好奇心だけで性行為するんだよ。
まだ性行為のこと全然おそわってないのに、
メディアが性行為の情報バンバン垂れ流してるから、
性行為を単なる遊びだと思ってる。ジャンケンみたいな感じで。
なんか「5分以内に射○させたら勝ちで、アイスおごる」て会話だったらしい。
まじで恐ろしいわ。
なんでこんな詳しく知ってるかというと、うちの娘も参加してたから。
お父さん泣きたいわ。


3: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2014/09/24(水) 09:40:18.10 ID:DWa9jT5+0.net
これマジ?

5: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2014/09/24(水) 09:40:51.40 ID:kS8rESqD0.net
もう少し遅く生まれていれば…

10: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2014/09/24(水) 09:42:49.30 ID:ablnzsb+0.net
>>5
俺らはこの時代でもできないだろ

6: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2014/09/24(水) 09:41:11.09 ID:EQBzqZWq0.net
大問題なのにテレビでもネットでも見たことないわ
こういう作り話する奴ってなにが目的?

20: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2014/09/24(水) 09:46:22.58 ID:JugjtGIFi.net
リアルガチでワロタ

23: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2014/09/24(水) 09:47:05.96 ID:ebRvws+B0.net
がちかよ
タイムスリップさせてくれ

24: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2014/09/24(水) 09:48:07.13 ID:TWscIBdr0.net
何年前のネタだよ

25: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2014/09/24(水) 09:48:36.44 ID:lO45SQgsi.net
四年前です

26: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2014/09/24(水) 09:48:45.07 ID:Y1kOdE+80.net
しゃぶったらアイスうめえwwwwからのしゃぶったら金うめええwwwwwに移行するわけか

29: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2014/09/24(水) 10:04:07.83 ID:/n7ly3S90.net
>>26
こうやって大人になっていくんだな

http://viper.2ch.sc/test/read.cgi/news4vip/1411519162/
一部修正
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/611.html#c120

コメント [政治・選挙・NHK178] 人質、湯川さんの死、真実を報道しないマスコミ ( 大槻義彦の叫び ) かかぁぐつぐっ
37. 一主婦 2015年1月31日 19:49:32 : rfKiZAFzfsBYA : xHs3coK7EM
>>34. qF4T1YwunA さん

憶測じゃないようですよ。

スノーデン氏がこう↓暴露しています。

「ISISは米・英・イの諜報機関が共同で造ったテロリスト集団だ。これらの三カ国の情報機関はスズメの巣作戦と呼ばれる作戦で、世界のすべての過激派を一箇所に集めて造ったのがISISと呼ばれるテロ組織集団だ」と、これは、NSA(アメリカ国家安全保障局・アメリカ国防省の諜報機関)の文書を基にして暴露された確かなものです。

ですから、今回の日本を巻き込んだ「人質事件」も、これらのテロ組織によって行われた自作自演のヤラセだという事です。湯川さんはその企みに利用された捨て駒だという事です。その捨て駒を補佐したのが後藤さんという事になるそうです。安倍さんの捨て駒に使われた日本人二人はお気の毒ですね。

今回の事件も、長年の中東でのゴタゴタも、自作自演の戦争利権国家の団体の「テロとの戦い」を語るヤラセ詐欺のようですよ。この人質事件を利用し、日本の自衛隊を使えるようにして日本を、戦争利権詐欺に巻き込む狙いで起こされた、ヤラセが真実のようです。

こんな事に巻き込まれない為に「平和憲法」があるのです。憲法ほど強い武器は無いそうですから、日本は・国民は、平和憲法を盾にして、日本が戦争に巻き込まれる事を阻止しなければなりませんね。お馬鹿な安倍さんの間違いと愚行を、賢い国民が「憲法」を盾にして糺しましょう。

http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/689.html#c37

コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
140. けろりん 2015年1月31日 19:49:35 : xfW5FN1G6ouU2 : pUn8Qsa3JU


プロキシ軍団も、元気だな・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・

『 外務省の民間外廓組織 = JICA 』

独立行政法人国際協力機構
( こくさいきょうりょくきこう、
英: Japan International Cooperation Agency、
略称JICA、ジャイカ )

●予算
1550億円(2009年度実績)
* 運営費交付金 1445億円
* 無償資金協力事業資金 56億円
* 開発投融資収入 25億円
●資本金
7兆6014億円
(2010年3月末時点)
●人数
常勤職員数 定員1664人
(2010年3月末時点)
●理事長
田中明彦


●沿革
•1989年 - ODA拠出額がアメリカを抜いて世界一位になる。
•1990年4月 - シニア協力専門家(シニア海外ボランティア)派遣事業開始
•2003年10月 - 独立行政法人国際協力機構(JICA)発足
•2006年11月 - 「独立行政法人国際協力機構法の一部を改正する法律」成立
•2008年10月1日 - 特殊銀行である国際協力銀行が解散し、国際協力銀行の海外経済協力業務をJICAに承継(国際金融業務は日本政策金融公庫に承継)(JJ統合)
•2009年9月24日-新宿本部と竹橋本部が千代田区二番町へ同一拠点に移転となる。

●資金調達規模
2009年度予算の資金調達の規模は、財政投融資資金財政投融資特別会計国債から3056億円、財投機関債で500億円、一般会計からの繰り入れから1273億円、過年度の財投機関債・一般会計による融資の回収金から3371億円の計8200億円である。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・
資本金は、7兆・・・通常の資本金では有り得ない。国家プロジェクト機関だな。



http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c140

コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
141. 2015年1月31日 19:50:26 : 58bOsbjZOc
アメリカを牛耳る組織が締め出された、あるいはそのせめぎあいが
今も続き深刻な内部分裂の状態にある、などの情報。
イスラエルやその仲間アメリカ内シオニストは、一昨年のシリア侵略
のための地上軍派遣、そして昨年のウクライナ政権乗っ取りと、この
中東ISIS侵略への地上軍派遣を切望していた。
オバマが示した選択肢は指揮官とトレーナー部隊の派遣のみで、柱は
空爆のみ。
ここに来てのISIS内紛と弱体化が事実ならば、当初の中東勢力地図の
塗り替えがある程度の成果を生んだのか、それとも当初の空爆の目的
つまりは勢力地図の塗り替えのための援護射撃から、本格的なISIS潰
しのための空爆へシフトしたのか。
選挙支援者の軍産複合体の武器弾薬一掃のための空爆だとしても、イ
スラエルやその仲間アメリカ内シオニストの侵略を支援する形での空
爆に利用するのが一番大儲けに繋がる。
もうISISを利用した中東勢力地図塗り替え完了で、ISISお役御免とい
う状況なのか。
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c141
コメント [政治・選挙・NHK178] 後藤さんの奥さんの節度を持った衝撃メッセージ!(ハイヒール女の痛快日記) 赤かぶ
14. 2015年1月31日 19:50:31 : IMQzjnLJEA
ご心痛お察しします。
小さなお子様が二人もいて、夫婦で育てるのも大変なのに、旦那さんがああいう状況ではキツイ。
一瞬で苦労を忘れさせてくれる子供の笑顔も、吹き飛んでしまいます。
でも、政府にも出来ない事ですから悩んでも仕方ない。
生還出来ればそれに越したことはありませんが、万一の場合お子さんの未来を想像して強く生きるしかないでしょう。
お子さんにはあなたしかいません。
旦那さんは非常に大きな命がけの賭けに出ているんですから。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/918.html#c14
コメント [政治・選挙・NHK179] 英誌論客が語る後藤健二さんの gataro
01. gataro 2015年1月31日 19:51:53 : KbIx4LOvH6Ccw : PHvzTB1P7Y
タイトルがちょん切れているので次のように訂正:

英誌論客が語る後藤健二さんの"記者魂"/英エコノミスト誌元東京支局長が緊急寄稿



http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/137.html#c1

コメント [地域13] 国民主役の地方創生 保母武彦さんに聞く:都市集中やめ裾野を広く あっしら
01. 2015年1月31日 19:53:42 : 7a8TXN0KMU
何を寝ぼけたこと言ってるの。
都市化、過疎化の流れは必然、止めるのは無理。
自給自足覚悟なら田舎に行くのもよし、ただし、買うのは止めなさいよ、安く借りなさい。売るとき、都会に戻るときのことをよく考えましょう。
http://www.asyura2.com/09/ishihara13/msg/717.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK178] <問題発言>田母神氏を応援したデヴィ夫人「後藤健二さんには自決してほしい」「 関係諸国に大・大・大・大迷惑」 赤かぶ
53. 2015年1月31日 19:55:10 : j68MtzGqc2
命を失う覚悟は出来てるだろうけど、自決なんて賛成できない。
それにこれくらいの事を大迷惑などと騒ぎ立てる国にはなって欲しくない。

そもそも自宅にきてた身代金要求を国に向けさせたのは安倍さんじゃないか。
もし、国への迷惑を理由に自決しろというのなら、安倍さんに言うべきではないか?


http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/892.html#c53

記事 [戦争b14] 「イスラム国」、7カ月で1900人を処刑 最多は市民  朝日新聞
 英国を拠点とするNGO「シリア人権監視団」は31日までに、過激派組織「イスラム国」が昨年6月からの7カ月間に1900人以上を「処刑」と称して殺害したとする集計をウェブサイトで公表した。

 「イスラム国」は昨年6月、預言者ムハンマドの後継者である「カリフ」の率いる国家を樹立したと一方的に宣言した。「処刑」されたうち、最も多かったのが一般市民で、約1190人に及んだ。姦通(かんつう)や薬物使用が理由だったとされる。

 このほか、検問や戦闘で捕虜になったアサド政権軍兵士約500人▽スパイ行為をしたり組織から離脱しようとしたりした「イスラム国」戦闘員約120人▽アルカイダ系過激派組織「ヌスラ戦線」の戦闘員約90人という。

 同監視団は、シリア出身の人権活動家が設立。各種の統計を、アラブ社会の人権団体と協力し、シリア各地にいる活動家の情報を元に集計しているという。(カイロ=翁長忠雄)


http://digital.asahi.com/articles/ASH1Z24M9H1ZUHBI00B.html?iref=comtop_6_02
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/841.html

コメント [カルト8] 17名のトロンOSの研究者を載せた日本航空123便墜落事故・livedoor(311も911も推して知るべしです) 小沢内閣待望論
60. 2015年1月31日 19:58:51 : 9Y5l8kZOsX
JAL123の核プラズマで「ペースト」と化した乗員・乗客と、
モヘンジョ・ダロ、ハラッパーの地上に散らばる「ガラス片」を、
比較・類推することは、我々の脆弱な精神では、「困難な事」であった。
これらは、バリ島のテロ現場でも見られたものである。

  電磁推進機研究者談

PS.旧真空伝道管を電磁場縮退炉に模様替え中。


http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/338.html#c60

コメント [政治・選挙・NHK179] 英誌論客が語る後藤健二さんの gataro
02. gataro 2015年1月31日 19:59:04 : KbIx4LOvH6Ccw : PHvzTB1P7Y
掲載紙名が抜けていた。訂正の補足:

英誌論客が語る後藤健二さんの"記者魂"/英エコノミスト誌元東京支局長が緊急寄稿(東洋経済ONLINE)



http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/137.html#c2

コメント [カルト14] プー・習・ハメ・ピケ・水野・植草・一太郎、非ドル時代の七人の侍が政経に完備、一方の米英イは指導者不在です。 小沢内閣待望論
16. 2015年1月31日 20:00:06 : KoaemuJhMs
>>15

梅若はお父さんの声そっくりで、あと一声!やったな

てめえらみんな叩き斬ったる!の破れ傘錦ちゃんもええよ
http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/136.html#c16

コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
142. 2015年1月31日 20:01:53 : JeBEhxfKUA
2015.1.31 13:07
【イスラム国殺害脅迫】
ヨルダン、操縦士殺害なら対抗措置で死刑執行? 後藤さん解放交渉、進展なく
http://www.sankei.com/world/news/150131/wor1501310033-n1.html

【過激組織「イスラム国」】

現地対策本部が設置されている在ヨルダン日本大使館=30日夕、アンマン(共同)
 【アンマン=岩田智雄】イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」による日本人殺害脅迫事件は、31日午前になっても人質となっている後藤健二さん(47)の解放に向けた動きに進展はない。イスラム国、解放交渉を行っているヨルダン政府の双方から新たな情報はもたらされていない。

 イスラム国は後藤さんの解放の条件として、ヨルダン政府にサジダ・リシャウィ死刑囚の釈放を要求し、実現しなければ拘束中のヨルダン軍パイロット、モアズ・カサスベ中尉(26)を殺害するとしている。

 英紙インディペンデント(電子版)がクウェート紙記者の得た情報として伝えたところでは、ヨルダン政府はカサスベ中尉が殺害されれば、リシャウィ死刑囚の控訴審を迅速に処理し、イスラム過激派らの死刑を執行するとの対抗措置を取るとイスラム国に迫っているという。ヨルダン政府は報道を確認していない。

 イラク人のリシャウィ死刑囚は2005年、夫らとアンマン市内のホテルの結婚式場で自爆テロを図ったが失敗。夫は自爆した。イスラム国の前身、「イラクの聖戦アルカーイダ組織」を率いたザルカウィ容疑者の右腕の男=米軍の掃討作戦で死亡=の妹としても知られる。別の2人の兄弟も、イラクで米軍との戦闘で死亡している。

 米紙ニューヨーク・タイムズによると、最初の夫も米軍に殺害された。特に兄弟の殺害で報復を誓い、自爆犯の夫とは、移動や宿泊をともにするのを容易にするために事件の数日前に結婚した。夫が男だけでは現場の結婚式場に入れないとの予測から、実行犯グループに加わったという。

「イスラム国」化学兵器専門家を殺害…米軍発表
2015年01月31日 18時31分
http://www.yomiuri.co.jp/world/20150131-OYT1T50086.html?from=ytop_main1

 【ワシントン=今井隆】中東地域を管轄する米中央軍は1月30日、「イスラム国」の掃討作戦を展開する米軍主導の「有志連合」がイラク北部モスル近郊で24日に空爆を行い、イスラム国の化学兵器専門家を殺害したと発表した。

 発表によると、殺害されたのはアブ・マリク容疑者。イラクの化学兵器製造工場の技師として働き、2005年に国際テロ組織「アル・カーイダ」に加入。その後、イスラム国に参加した。米中央軍は、同容疑者の殺害により、「イスラム国が化学兵器を製造し、無実の人々に使用する潜在的な可能性を減らした」と戦果を強調した。

米軍 「イスラム国」の化学兵器専門家を殺害
1月31日 10時37分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150131/k10015108621000.html

アメリカ軍は、イラクで行った空爆でイスラム過激派組織「イスラム国」の化学兵器の専門家を殺害したと発表し、将来、「イスラム国」が化学兵器を製造し、使用する能力をそいだとして成果を強調しました。

アメリカ軍は30日、イラク北部の都市モスル近郊で今月24日に行った空爆で、イスラム過激派組織「イスラム国」のアブ・マリク技術者を殺害したと発表しました。
この人物は、イラクの旧フセイン政権時代、化学兵器の製造施設で働いた経験があり、その後、「イスラム国」に加わって化学兵器を獲得するために、組織内で技術的な指導を行っていたということです。
アメリカ政府は「イスラム国」がこれまでに化学兵器を使用した例を確認していませんが、イラクの旧フセイン政権やシリアのアサド政権がかつて大量の化学兵器を保持していたことから、勢力を拡大する過程で、こうした兵器や技術を手に入れる恐れがあると懸念も上がっていました。
アメリカ軍は「専門家の殺害によって、『イスラム国』が、将来、化学兵器を製造し、使用する能力をそいだ」と成果を強調しています。
アメリカ軍は去年8月以降、イラクやシリアで連日空爆を続けており、これまでに「イスラム国」のナンバー2などの幹部を含む数千人の戦闘員を殺害したとしています。


「米地上部隊の前線配置が必要に」…米国防長官
2015年01月31日 18時31分
http://www.yomiuri.co.jp/world/20150131-OYT1T50087.html

 【ワシントン=今井隆】ヘーゲル米国防長官は30日、CNNテレビのインタビューで、「イスラム国」掃討作戦に関し、「米地上部隊を前線に配置することが必要になるかもしれない」と述べ、将来的には限定的な地上部隊投入があり得るとの見解を示した。

 近く退任するヘーゲル氏は、地上戦に否定的なオバマ大統領と対立し、事実上更迭された経緯がある。

 ヘーゲル氏は、地上部隊を投入する場合でも「戦闘任務ではない」と強調し、役割を「空爆する場所を正確に示すため」と述べた。イスラム国の支配下にあるイラク北部モスルを奪還するには激しい市街戦が想定されるため、米軍制服組トップのデンプシー統合参謀本部議長らが必要性を主張している。

「イスラム国」、油田都市に侵攻…52人死亡
2015年01月31日 11時53分
http://www.yomiuri.co.jp/world/20150131-OYT1T50062.html

30日、イラク北部キルクークで、爆弾攻撃の現場を調べるクルド人部隊の兵士ら(ロイター)
http://www.yomiuri.co.jp/photograph/news/article.html?id=20150131-OYT1I50011

 【カイロ=久保健一】イラク警察当局によると、イスラム国は30日、イラク北部の油田都市キルクークに侵攻し、クルド自治政府の治安部隊と激しい戦闘になった。

 イスラム国側は中心部のホテルなどを一時占拠したが、治安部隊の反撃に遭い、撤退した。イスラム国は資金難に陥っているとの指摘があり、キルクーク周辺の油田を資金源にしようとした可能性がある。

 キルクークがイスラム国の本格的な攻撃を受けたのは初めてとみられる。クルド自治政府当局者は簡易投稿サイト「ツイッター」で、イスラム国の戦闘員45人とクルド自治政府の兵士7人の計52人が死亡したと伝えた。

 キルクークの住民のほとんどはクルド人で、昨年6月に中央政府に代わってクルド自治政府が実効支配を開始した。キルクーク周辺には日量計30万バレル(昨年6月現在)の生産が可能な油田があり、同11月から自治政府による正式な原油生産が始まっていた。

http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c142

コメント [政治・選挙・NHK179] 衆院予算委 首相発言要旨[産経ニュース] ニュース侍
01. 2015年1月31日 20:02:19 : NOw9RSY5s6
>(沖縄県知事選などの)選挙結果は真摯に受け止めたいが、米軍普天間飛行場の固定
>化は絶対に避けなければならない。
グアムに行きたいって言ってるんだから行かせてやれ。
憲法はアメリカが押し付けたもので変えるべきだが、基地の方は押し付けてくれ、
では論理が破綻してる。公共工事とはわけが違う。

>これから丁寧に地元の了解をいただくべく努力を重ねていきたい。
いやいや、何度選挙やっても、全敗してるんだろ?
議会制民主主義って知ってる? 安部

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/125.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK178] 狂った政府・議会・新聞<本澤二郎の「日本の風景」(1889) <テロを進んで呼び込んだシンゾウ策略> 笑坊
06. 2015年1月31日 20:02:52 : Yni97kgJgQ
ノーベル賞はアメリカの世論操作の道具、
アメリカに都合のいい人物だけが選ばれる、
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/875.html#c6
コメント [政治・選挙・NHK178] 小沢離れを加速させる谷亮子 狙いは民主党復党で参院再選(週刊文春) 赤かぶ
88. 2015年1月31日 20:04:15 : 34ah3VmhSA
アンチ小沢は脳内お花畑だよなぁ〜

何をするにしても
国会議決よりも小沢にチカラがあると信じ込んで小沢ガ〜
総理の判断決定よりも小沢は偉いから小沢ガ〜
事あるごとに岩フェラーガ〜、ロス茶ガ〜

公務員改革をやろうとしたので小沢は敵、つまり小沢ガ〜
マスコミ改革(記者クラブ)改革企んだので、小沢ガ〜
放送免許などの権利料をオークション制度に変えようとしたので、小沢ガ〜
小沢は悪に違いないので何が何でも有罪にしたいから無実でも小沢ガ〜

恥ずかしい、実に恥ずかしい。
小沢より素晴らしい政治家をどんどん宣伝し当選させれば良いだけなのにね。
小沢ガ〜ってラリッっている連中にはもはや政治内容(政策)ではないんだよなぁ。
どんな政治家がどんな政策を公表しているの?>小沢ガ〜
憲法9条をどうしたいのか、国民が考えなければ!>小沢ガ〜
米軍基地は日本に必要でしょうか?>小沢ガ〜
小沢の政策がまともに感じるんだが・・・>小沢信者〜
オマエらアンチ小沢は日本の政治家で誰を支持してんの?>小沢ガ〜

話になりません。

http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/834.html#c88

コメント [政治・選挙・NHK178] <人質事件>イスラム国が新たな映像をネット上に公開!「原爆を忘れて何故アメリカに手を貸すのか」と日本を批判! 赤かぶ
17. 2015年1月31日 20:04:53 : t0YNtD8diM
米国の爆撃と同じ様に軍人以外を犠牲にするテロは批判されるべきだがこの兵士?一般人?のコメントは当たっている
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/893.html#c17
コメント [カルト14] 米英は、偽イスラエルの拡大が狙い、しかしタルムード詐欺も悪魔教詐欺もパイク詐欺もばれる中で、無理な注文です。 小沢内閣待望論
09. 2015年1月31日 20:08:29 : Ma5RZiiuic
>>08
>>飛鳥時代・・・『唐進駐軍』による「蘇我王朝」壊滅
>唐進駐軍なら唐が滅んだ後、駆逐されてもおかしくない。唐進駐軍なのに易姓革命、科挙制度、宦官、纏足、弩、ロバ飼育を導入しなかったのはなんで?

確かに藤原氏の時代の後期は国風文化の時代だった。日本が唐進駐軍支配地なら百済や高句麗の王族が亡命できないわな

>>戦国時代・・・『イエズス会』による「真宗教団」壊滅
>真宗は東と西に分裂し弱体化したとはいえ、親鸞の末裔も残り壊滅していない。イエズス会がそこまで権力を持ちながらキリスト教の禁教に抗しきれなかったのはなぜ?

しかし、仏教の勢力がかなり削がれた事は確かだろう。戦国時代の仏教破壊は小さくはない。あのままクリスチャン支配が続いたら、日本の仏教徒もチベットやバングラデシュの仏教徒の立場になっていただろう。

>>幕末期・・・『英東インド会社』による「徳川幕府」壊滅
>官軍英ロス茶・幕府軍仏ロス茶で、どちらが勝とうと儲かるシステムだったのでは?
>徳川家が豊臣家のように滅んでいないし…

そうですね。ただ、グラバーがついてなければ薩長土肥と一部のタカ派公家が結託しても徳川は容易に倒せるものではない。徳川の直轄地は全国にあり、対抗できる勢力などなかった。イギリスは一体、反徳川側にどれだけカネをブチ込んだのだろう

>>教科書の中でさえ『聖徳太子』は消え去ろうとしており、『大化の改新』も風前の灯火である。
>『大化の改新』公地公民とか社会主義的で気に喰わないとか。

そっちの公は安倍の大好きな天皇の意味ですよね。大化の改新とか天皇中心の政治を目指す安倍が好きそう
聖徳太子が消えたら業績は全部蘇我馬子の業績になり、仏教を伝来させた蘇我氏中心史観となる。タカ派は帰化人の蘇我氏嫌いで廃仏・神道主義者の物部贔屓だろう。何より藤原不比等が編纂した日本書紀を事実にしたいのが安倍ら軍国主義者だ
http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/135.html#c9

コメント [政治・選挙・NHK179] 百田尚樹氏がNHK経営委員からいなくなる!(弁護士 猪野 亨のブログ) 赤かぶ
04. 2015年1月31日 20:08:47 : OLvRFajdcI
じゃあツイッターであれやこれや垂れ流すのはやめな
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/131.html#c4
コメント [経世済民93] 円安で上方修正相次ぐ=上場企業の15年3月期―時事通信社中間集計(時事通信) 赤かぶ
01. 2015年1月31日 20:10:01 : OLvRFajdcI
上場はな 
そして儲けた分、大半の国民が割りを食っていると言う
http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/358.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK179] 後藤さん拘束が解散理由だった/米以依存症という安倍政権の病理A 街カフェTV
01. 2015年1月31日 20:13:33 : YQSajnlySY
安倍首相は、何故、こうも変貌を遂げたのか・・・
理由:「鬱」が終わって「躁」になっただけ。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/123.html#c1
コメント [経世済民93] 韓国の消費者心理は世界60か国中59位・・米社の調査結果に韓国ネット「外面だけ先進国を真似る国」 :アジア板リンク 赤かぶ
01. 2015年1月31日 20:13:40 : bXXoIpEHJM
朝鮮の鬱病はその後の爆発(火病)と組み合わさっているから、暴動が心配。
国内の大企業を狙うならともかく、恨みは国外に向かう可能性もありますから
http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/360.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK179] 盗っ人猛々しい安倍政権とテレビ局 古賀茂明「日本再生に挑む」(週刊現代) 赤かぶ
02. 2015年1月31日 20:14:20 : ALpiy010T2
安倍はベラベラ 真逆の言葉を吐きまくるのが仕事

役者をやれと演技指導されてるよ


ナチ真似の改憲クーデタをやってるわけで
もういい加減に正攻法の批判は的外れになるんじゃないか?

>表現の自由は大切と口にしながら、やっていることは正反対。
>二枚舌と批判されても仕方ない。

全く正しいが、弱い。何の打撃にもならない。カエルのツラにションベンだよ。

国民に向かって詐術やペテン、謀略を使ってる。外国人ぐるみで。そいういう悪徳背信者だと

はっきり指弾すべきときじゃないか。もう批判ごっこはアキタ。

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/106.html#c2

記事 [国際9] ギリシャから欧州新革命が始まる?〜欧州でフランス革命やロシア革命に匹敵する…画期的な事態が始まった感じ/田中宇1.30 
◆ギリシャから欧州新革命が始まる?
http://www.tanakanews.com/
 【2015年1月30日】ギリシャに新政権ができ、EUに債権放棄を迫っている。EU(ドイツ)がギリシャに対する債権を少しでも放棄すると、スペインやイタリアなど、EUから救済融資を受けている南欧諸国が同様の放棄を求め、緊縮策に反対してきた極右や極左の政党が台頭して政権転覆が起こり、EU各国の2大政党制(エリート支配)が崩れ、EU全体の権力構造が転換していく。全欧的な権力構造の転換が起きるかどうか、転換したらその後どんな政治体制になるか、新事態が始まったばかりなのでわからないが、とりあえず欧州でフランス革命やロシア革命に匹敵するかもしれない画期的な事態が始まった感じを強く受けている。
http://www.asyura2.com/14/kokusai9/msg/875.html
コメント [戦争b14] ウクライナ情勢、「第2次大戦」前夜との共通点 米予算教書は強制歳出削減盛り込まない公算、国防費7%増額へ eco
06. 2015年1月31日 20:19:20 : 9Y5l8kZOsX
現在、敵作戦意思は、極東の「妄」国相手への、

戦費調達活動中と考えられ、

空母航空勢力による、

ガザ近海への示威活動が効果的と考えられる。

  電磁推進機研究者談

PS.2015.6.28は、今年だ。


http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/837.html#c6

コメント [マスコミ・電通批評14] フジテレビがお通夜ムード!? 起死回生策を打ち出す人間さえいなくなった[TOCANA] ニュース侍
04. 2015年1月31日 20:20:24 : FzsZqzOim2
最初の数分、曲がかかって、
あ、ダメ!きも!! 見るに耐えない!!!
っと思える作品を

よくも連発できるもんだと感心するわw

中二病拗らせちゃったのかね?w

ていうか、エンタメTV興行全般に明日は無いと思いますよ

http://www.asyura2.com/13/hihyo14/msg/557.html#c4

コメント [政治・選挙・NHK178] 後藤さんの奥さんの節度を持った衝撃メッセージ!(ハイヒール女の痛快日記) 赤かぶ
15. 2015年1月31日 20:21:02 : bXXoIpEHJM
>>13
夫の声明と同じく、内容をISILに指定されている可能性があるんだけど。

なんだか東大生の論文とか会社のプレゼンみたいな文章なのは、
本人の経歴から来る限界なのかな。

無難なことを言わないとネトウヨ検閲官に叩かれるということもあってこんな文章になったと同情はできるかも。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/918.html#c15

コメント [カルト14] 安倍の中東訪問に脅迫をぶつけたイスラム国ですが、衆院選はスルー、バグも米英イも安倍もグルという事です。 小沢内閣待望論
06. 2015年1月31日 20:21:13 : FbU39Htums
すべて田〇施システムです。また八百長戦争する気だ。
http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/139.html#c6
コメント [政治・選挙・NHK179] 2015-01-31 後藤夫人声明は安倍官邸と打ち合わせ済みだった。  山崎行太郎 赤かぶ
02. 2015年1月31日 20:22:58 : AYiCRkVzD2
ケンカ売ってるかな?
中国、韓国、イスラム国に対しても、
極めて当たり前の政策を実行しているだとオレは思うけどね。

亡くなった湯川さんや、今、生死の境目にいる後藤さんには気の毒だが、
人質がいるというだけで、外交政策が左右されても、これは困るのね。

その意味で山崎某は、今回は、ちょっと抑えた発言をしてるね。

で爺


http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/122.html#c2

コメント [政治・選挙・NHK178] 人質、湯川さんの死、真実を報道しないマスコミ ( 大槻義彦の叫び ) かかぁぐつぐっ
38. 2015年1月31日 20:23:27 : nttJloYAiE
彼は米国のエージェントだったのですかねえ・・・
ただし使い捨ての

http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/689.html#c38
コメント [政治・選挙・NHK178] 約300兆円の「郵政マネー」が外資に略奪される  菊池英博 世界精神
07. 2015年1月31日 20:27:35 : RLcvjzv8rc
駄賃2兆円のチンピラ子ネズミ純一郎、駄賃1兆円のケケ中平蔵それに、駄賃云兆円のソン・テジャック池田太作一派とは、昔々聞いた話だが、またぞろ云々兆円!!が脚光を浴びるちゅうんやろうか。復活災害→復活を口実に一儲けしようってんじゃあな。

http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/503.html#c7
コメント [カルト14] 朝日・フジの取材協力者事故死、恐らく、ヒラ・マケ・ネタの誘拐詐欺に付き合うダマスゴミに呆れたのだと思います。 小沢内閣待望論
27. 2015年1月31日 20:30:18 : Q82AFi3rQM

  26さんの言うとおり。


http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/133.html#c27

コメント [カルト14] ベン・新通貨は、好戦派から切り崩した強欲派の主張するSDR方式を排除、既得権排除の通貨になるようです。 小沢内閣待望論
06. 2015年1月31日 20:32:53 : whtbMxLwrd
>05
げっ
あの貧相君からまともな返事が来るとは
心配ゴム要
チャンスは1回
素人は売ってやられ買ってやられ
穴の毛までネ
阿鼻叫喚は必至だな
累々と屍が積まれる中を生き残る
カルト板ポストさんをしっかり読んでね
http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/138.html#c6
記事 [テスト31] テスト
 
 
    金(きん)では治まらん。
    惡bの惡では治まらん。
    此處まで申してもまだ分からんか。
    金では治まらん。
    惡の總大將も其の事知つて居て、金で世を潰す計劃だぞ。
    分かつてゐる守護b殿早く改心結構ぞ。
    元の大b樣に御無禮してゐるから病bに魅入られてゐるのぢやぞ。
    洗濯すれば治るぞ。
    病bは恐ろしくて這入(はい)つて來られんのぢやぞ。
    家も國も同樣だぞ。
    b示幾らでも説けるなれど誠一つで説いて行つて下されよ。
    口で説くばかりではだうにもならん。
    魂(たま)無くなつてはならん。


                      ひふみb示 梅の卷 第二十六帖
 
 
 
 
    惡の總大將は奧にかくれて御座るのぞ。
    一の大將と二の大將とが大喧嘩すると見せかけて、
    世界をワヤにする仕組、もう九分通り出來てゐるのぢや。
    【眞の理解に入ると宗教に囚はれなくなるぞ。形式に囚はれなくなるぞ】。
    眞の理解に入らねば、眞の善も、眞の信も、眞の惡も、
    眞の僞りも判らんのぢや。
    今にイワトひらいてあきらかになつたら、宗教いらんぞ。
    政治いらんぞ。
    喜びの歌高らかにナルトの仕組、二二(フジ)にうつるぞ。
    (一月二十二日)


                      ひふみb示 黒鐵の卷 第十四帖
 
 
 
 
 
 
 
 
露西亞・中共や獨逸なんかが金保有量増やして金本位體制に移行し
弗支配體制、ブレトンウツズ體制の軛から脱却せんとしてゐるが
全く同じロジツクで仕掛けて潰しに來る。
 
長い目で見れば資源爭奪戰爭が無くなる
環境破壞が無くなる
と云ふ事なんだが
短期的に見れば現資本主義體制の崩壞・混亂
既得權益保持者の生き殘りを掛けて
死鬪が繰り廣げられる事に成るだらう。
 
 

 
 
 
 
常温核融合と元素転換の歴史。すでに日本に「錬金術」の特許がある。 :: kenchicjunreiのブログ|yaplog!(ヤプログ!)byGMO
http://yaplog.jp/kenchicjunrei/archive/95
 
常温核融合と元素転換の歴史。すでに日本に「錬金術」の特許がある。
January 17 [Fri], 2014, 22:58
 
今回は、常温核融合と元素転換の、研究の歴史といったことになります。
 
原田武夫氏は、現在、ベンチャー企業の常温核融合ないし元素転換技術によ
って、放射性物質を無害化する、というプロジェクトを、とりあげている。
 
そうしたことは今言いだしたことではなく、原田氏は2011年、『世界通貨戦争
後の支配者たち』という、こうした元素転換や錬金術などを主要なテーマとし
た本を出していた。
 
前年の2010年の著書『狙われた日華の金塊』では、
 
中華圏と日本のそれぞれの根源的統治層が、共同で管理する「日華の金塊」を
とりあげ、このとてつもない規模の日華の金塊をめぐる米欧による収奪戦こそ
が、米国債とドルの破綻という「デフォルト」騒動に隠された、本当の目的で
ある、
 
というのがテーマで、これを引き継ぐかたちで、翌年の本では、元素転換と、
金の錬金術がとりあげられた。
 
それは、あの311の前だった。
 
311が起きたあとでは、元素転換は金の錬金術ではなく核物質転換のための元
素転換が、その後の、のっぴきならないテーマとなってしまった。
 
彼は、311以前から、「あえて地震を起こそうという勢力がいる」「すでに地震を
引き起こす技術は存在する」「次世代の原発のためには既存の原発の爆発事
故をいとわない勢力がいる、という情報がある」と発言していたが、
 
311が起き、
 
元素転換も人工地震も、そうした情報は、陰謀論ではなく、この現実の世界の
背景となっている場所がもたらしたものだった。
 
さて、
 
■常温核融合と元素転換の研究の歴史、の簡単なおさらい。
 
『世界通貨戦争後の支配者たち』原田武夫 著 より、(要約します)
 
======================
 
●長岡半太郎の、元素転換による錬金術


1924年3月、東京帝国大学教授・長岡半太郎率いるチームが、水銀から金を創
り出す可能性を見いだすことに「成功」したと発表した。そして同年5月、そのた
めの技術的な詳細が明らかにされたことで学界は騒然となった。


長岡半太郎は、日本を代表する物理学者の1人で、土星型原子モデル提唱など
の学問的業績を残しており、多くの弟子を指導した。初代大阪帝国大学総長や帝
国学士院院長などの要職も歴任し、1937年には初代の文化勲章を受章している。
このような物理学界の重鎮が錬金術紛いのことを言い出し、技術的な詳細を示し
たから、騒ぎになった。
 
こうした発明・発見は、シンクロニシティで他の場所でも同時になされることがよ
くある。同じ年の7月に、ドイツ・ベルリン工科大学教授のアドルフ・ミーテのチー
ムが、同じく水銀から金を創り出すことに成功した。
 
当時、理化学研究所の所長であった大河内正敏は、長岡半太郎の錬金術につい
て述べている。
 
「…水銀を変じて金となす事その事が、長岡博士の目的の全部ではない、それ
は博士の理論のほんの一部分に過ぎないのであって、亜鉛を銅に、カドミュム
を銀にという風に、一つの原子を他の原子にかえること、或は放射原子の壊散
する速度を促進すること等にして特に原子核を打ち壊すことが博士の実験の一
つの目的であって…」
 
理化学研究所でも、長岡博士の理論を認めていた。しかも、単なる錬金術では
なく、元素転換を目指していたことが判る。
 
現代物理化学は、「元素はその元素であり続ける」ことを基本原理としている。
長岡半太郎やミーテの研究は、これを否定する。すると、この元素転換の研究
はその後どうなったか?
 
1935年に彦坂忠義東北大助手(当時)の核模型理論が、国際金融資本に近い
家系出身の物理学の世界的権威であったボーアによって否定された。原田武夫
氏は、このことを取り上げ、金本位制の中心であったロスチャイルド家などの国
際金融資本が、「金」錬金術である元素転換が世界に知られるのを許さなかっ
たのだろうと、結論している
 
その後、米欧では研究が続けられるが、表だった報道はなかった。
元素転換のことは一般社会から忘れさられる。
 
==================
(管理人挿入)
 
●軍事部門で巨額の国家予算をかけ研究開発がすすむ
 
この期間には、米国の軍事部門では、そうした報道が無くなった裏で研究開発
が秘かにすすめられ、常温核融合は中性子以外の放射線が出ない純粋水爆の
完成に貢献した、とされている。
 
そして、半世紀の沈黙期間ののちに、ようやく、軍事以外の部門で、軍事部門
からしたら「よちよち歩きレベル」のものが公開された。
 
(管理人挿入おわり)
===================
 
●電気分解による常温核融合
 
1989年3月23日、英サウサンプトン大学のマルティン・フライシュマン教授と
米ユタ大学のスタンレー・ポンズ教授が共同で記者会見し、重水(重水素と酸
素で構成される水)をパラジウム電極により電気分解した際、異常な発熱現象
が起きることを発表した。これは、重水素が融合し、熱エネルギーが放出され
る「核融合」の発生を示唆するもの。つまり「常温核融合」の可能性が示され
た。
 
●固体常温核融合
 
その後、電気分解を施さなくても、水素を吸蔵する合金に重水素又は水素を吸
蔵させ、これに電圧・熱・機械的ストレスを与えることによって同じ現象が生じる
ことが判った。
 
また重水でなくても、水素と酸素からなる「軽水」でも同じ反応が見られることも
明らかになっている。
 
大阪大学名誉教授の荒田吉明氏の、固体常温核融合成功のニュースは有名
だが、それによれば、特殊加工されたパラジウムの格子状超微細金属粒子内
に、重水素ガスを取り込ませることで凝集し、これにレーザーを照射することで、
通常の空気中の10万倍のヘリウムの発生を観測した。と同時に、熱エネルギ
ーも発生している。
 
■すでに、日本人は、いくつかの特許を取得している
 
実は我国は「元素転換」の先進国で、革新的な技術開発がなされ、特許を取得
しているものもある。
その一つが、
 
●三菱重工が進めている「Pd多層膜の重水素透過による元素転換」
 
というもの。
 
常温・常圧、いってみれば「通常の環境」において重水素ガスを、元素を添加
した(独自開発による)ナノ構造反応膜に流すだけで「元素転換」を可能にし
たのが三菱重工である。
 
…実際、実験においてはセシウム(Cs)がプラセオジム(Pr)へと「元素転換」
し、原子番号が4、質量が8増加したことが確認できたという。
 
また同社はこの「元素転換」実験の成功によって考えられる今後の影響として、
@物性物理と核物理という異分野が融合したフロンティア領域の創成、
A日本で産出しない戦略的貴重元素の生成、さらには産業に不可欠だが輸入
依存度の高い貴重元素(白金等)の創成、の主に二つを掲げている。
 
●元素転換の超先進国、ソ連ロシアのルートで研究、日本人科学者が「金」の
 錬金術の特許。
 
驚くべきことに、我国では既に、錬金術の特許が登録されている。
 
特許名は「常温核融合用電極並びにその核変換による放射性、非放射性元素
及び貴金属の製造方法」、特許公開日は「1997年7月31日」、公開番号は「特
開平9-197077」。
 
発明者は「能登谷玲子」となっている。
 
これによれば、「常温核融合用電極並びにその電極の核変換」により貴金属を
製造することが可能で、実際にこの発明によって「197Auが生成された」と記
されている。
 
「197Au」は金。
 
文字どおり錬金術の特許。
 
能登谷玲子氏は、1970-1971年にモスクワ大学化学部電気化学科、1974-19
75年にFrumkin Inst. Electrochem. AS USSRに、文部省及び学術振興会
の派遣によって研究に従事している。
 
ともに旧ソ連の偉大な化学者であったフルムキンが指導者であった研究施設で
ある。彼女とフルムキンの交流は1966年から死去までの10年間。
 
フルムキンの業績は電気化学、電極表面での物理現象がメインテーマである。
能登谷玲子氏の研究もこれに沿ったものであり、常温核融合を彼女が1989年
以降に手がけてわずか4年で特許申請に至ったのは当然とも言えるだろう。
 
(要約おわり)
===========================
 
ロシアは錬金術の特許が日本にあることを当然知っている。
 
さらにロシアは、中華と日本の王族が莫大な簿外の金塊を所有していることも
知っている。
 
「プラウダ」の2005年9月30日付に次のような記事があった。
 
 「日本は代替エネルギー開発では世界で最も先陣を切っている国の一つであ
る。日本の科学者たちが石油を購入したり、それを使ったりすることから日本
を解放することがあり得ないわけではない。・・・現段階で日本が世界最大の
金準備を持っていると自慢出来ることは知るに値することである」
 
アメリカのほうはといえば、
 
この中華と日本の王族の莫大な簿外の金塊を吐き出させるために、日本に米国
債とドルをたらふく喰わせて、次に米国債とドルを暴落させれば、それができる、
 
と考えているらしい。
 
アベノミクスと日銀のバズーカ砲金融緩和は、まさにその通りに、米国債とドル
の買いになだれこんでいる。
 
この仕組みの仕掛けは、1985年のプラザ会議で、日本の保有する金の総量は
外貨準備の1%とする、と決められていて、以来、新たな金購入はできず、自動
的に米国債とドルの買いになってしまう、ということにある。
 
ブラザ合意後、円高を進行させ、日本のバブル経済を生み出し、一気に破裂さ
せ、暴落した日本株を外資が買い漁っていった。
 
すでに、米国債とドルを使って、日本の資産と天皇家の金塊を収奪する仕組み
を、ブラザ合意で作ってしまっている、ということになる。
 
元素転換のはなしが、金融マーケットのはなしになってしまった。
 
 
 
 
下の記事讀むとSTAP細胞騒動に酷似してゐる。
然も共に理研が絡んでるとか。
  
長岡半太郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/長岡半太郎#.E6.B0.B4.E9.8A.80.E9.82.84.E9.87.91
 
水銀還金
1924年9月に発表された水銀を金に変えることを可能にする夢の研究である。水銀は原子番号80、金は原子番号79であるから、「水素元子」(陽子)1個を除去すると金が得られるとし、水銀の「核を攪乱」したところ金が見つかったとされる。長岡の目的は原子を改変して原子の理解を深めることで水銀から金を作る研究は部分的な応用例であったが、理化学研究所の広報が報道をあつめて発表し、この研究は資源の少ない日本に多大な恩恵をもたらす「錬金術」であるとセンセーショナルに報じられた。しかしその後10年研究が続けられたが成果なく、誤りであったのだが、長岡半太郎は認めることはなかった。また他の学者も物理学の重鎮に対して批判をすることはなかった。[3][4][5][6]
 
 
放射性廃棄物の無害化に道? 三菱重、実用研究へ :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDZ040JJ_X00C14A4000000/
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDZ040JJ_X00C14A4000000/?df=2
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDZ040JJ_X00C14A4000000/?df=3
 
放射性廃棄物の無害化に道? 三菱重、実用研究へ
2014/4/8 7:00
 
 三菱重工業は重水素を使い、少ないエネルギーで元素の種類を変える元素変換の基盤技術を確立した。原子炉や大がかりな加速器を使わずに、例えばセシウムは元素番号が4つ多いプラセオジウムに変わることなどを実験で確認した。将来の実証装置設置に向け、実用化研究に入る。放射性セシウムや同ストロンチウムを、無害な非放射性元素に変換する放射性廃棄物の無害化処理に道を開くもので、原発メーカーとして実用化を急ぐ。
 
■百数十時間で元素変換
 
クリーンルームで元素変換の実験に取り組んでいる
(三菱重工の先進技術研究センター)
 
 3月下旬、米ボストンのマサチューセッツ工科大学の講義室。世界から集まった100人以上の研究者を前に、三菱重工・先進技術研究センターの岩村康弘インテリジェンスグループ長は「元素変換はマイクロ(100万分の1)グラム単位で確認できた」と報告した。多数の質問を受け、同社の実験を説明する理論の提案も数多く発表されたという。
 
 三菱重工の横浜市の先進技術研究センター。700を超える幅広い製品群を擁する同社の次世代研究を一手に引き受ける秘密基地だ。研究棟の1階の約3分の1を占めるクリーンルームで研究者が白衣に身を包み、約25ミリ四方の薄膜の金属板を装置にセットする。超高温や超高圧をかけることなく、数日で内部で元素が変わり、新たな元素が生まれてくる。
 
 具体的には厚さが数十ナノ(ナノは10億分の1)と極めて薄い金属のパラジウムと酸化カルシウムの薄膜を交互に積層した多層膜に変換したい金属を付ける。この膜に重水素を透過させると百数十時間で元素番号がそれぞれ2から4、6多い元素に変わった。
 
 セシウムはプラセオジウムに、ストロンチウムはモリブデン、カルシウムはチタン、タングステンは白金に変わることを確認した。特殊な薄膜に重水素を透過させる独自技術は日本での特許に続き2013年、欧州でも特許を取得した。
 
 先進研の石出孝センター長は「ここ数年で研究が大きく加速した」という。様々な手法で重水素の濃度を高めることで、新しい元素の収量がナノグラムからマイクログラムへ3桁増えた。測定精度も上がり、1平方センチメートル当たり最大数マイクログラムの元素変換を確認したとしている。
 
 セシウムの元素変換率は、ばらつきはあるものの100%近いものもあるという。元素変換を示唆するガンマ線も微量ながら検出している。同社はセシウムの場合、パラジウム多層膜の内部で4個の重水素が1個のセシウムの原子核に十分近づき、陽子4個と中性子4個が加わりプラセオジウムになったとの仮説を立てている。ただ、詳しいメカニズムや理論は分かっていない。
 
 元素変換は「エネルギー収支が合わず、従来の物理学の常識では説明できない」などの指摘がある。新しい元素の量が少なく「外から混入した可能性も完全には排除できない」との声もある。
 
■未知の現象を解明する実験
 
三菱重工が開発した金属の薄膜
 
 もともと低いエネルギーで元素が変わるのは、1989年に提唱された常温核融合と同じ考え方。1億度などという超高温でなくても核融合が起こり、過剰熱が発生するという夢の現象を再現しようと世界中で再現実験が研究されたが、ほぼ否定された。
 
 三菱重工も当時から研究を始めた。途中からエネルギーの発生を証明するより、元素の変換を示す方が実証しやすいのではないかと考え、元素変換に的を絞った。微量の元素が生まれたことは、兵庫県にある世界最高水準の物質分析技術を持つ大型の放射光施設「SPringー8」を使っても確認している。
 
 同社の研究に協力した独立行政法人物質・材料研究機構の西村睦水素利用材料ユニット長は「現在まだ解明されていない新種の元素変換反応の可能性を示唆している」としている。トヨタグループの研究開発会社、豊田中央研究所(愛知県長久手市)も元素変換の研究を続けており、成果が出ているようだ。
 
 昨年12月の東京工業大学。元素変換や低温核融合などをテーマに研究する研究者や技術者が全国から集まった。三菱重工のほか、大学の発表も行われた。岩手大学工学部の成田晋也教授もその一人。「未知の現象の解明を進める」ための実験を続けている。
 
2009年、三菱重工の元素変換研究を視察した有馬朗人元文科相(中)
 
 岩村氏は「元素変換を確信できる量が取れた。理論的なメカニズムはわかっていないが、我々はメーカー。次のステップに進みたい」という。大学の研究者の間でも「もっと変換の量が増えれば、文句がつけられなくなる」との声がある。
 
 三菱重工は実験の規模を拡大し、収量を増やし実用化のメドを付ける方針。これまで小規模な体制で先進技術研究センターで研究していたが、他の事業本部や外部の大学や研究機関との共同実験を増やす。
 
 金属薄膜を大きくしたり、ハニカム構造にして表面積を大きくしたりする方策などを検討している。放射性元素の変換の実験はまだ始めていないが、例えば放射性のセシウム137はユーロピウムに変換する可能性があるという。
 
 放射性廃棄物の処理以外にもレアメタルなどの希少元素の生成や、新エネルギー源としての応用を想定している。ただ、レアメタルや新エネルギーは既存技術があり経済性との比較になる。
 
 岩村氏は「現在、決定的な解決策がない放射性廃棄物の無害化は価値が最も高い。当社は原発メーカーでもある。10年後には実用化したい」という。
 
《記者の目》細々と続けてきたのが実情
 
 3年前の東日本大震災。放射性物質を拡散する東京電力福島第1原子力発電所の光景を前に、ある三菱重工業関係者は「元素変換をもっと大規模に研究していれば」と叫んだ。三菱重工は約20年、元素変換を研究してきたとはいえ、予算も人員も「細々と何とか続けてきた」というのが実情だ。
 
 三菱重工は1990年代前半に元素変換の研究を始めた。一般に内容が知られたのは、関連学会の論文誌に岩村氏が論文を発表した後の2002年ころだ。ただ、常温核融合の負のイメージもあり「現代の錬金術」との見方もされ、同社は対外的なアピールに慎重だった。
 
 岩村氏は技術統括本部のインテリジェンスグループ長という肩書を持つ。「技術もマーケティングが必要」との考えから10人のチームを束ね、エネルギー・環境分野を中心に他社の技術開発動向を探る。
 
 「グループ長の仕事に専念してほしい」と遠回しに元素変換の研究からはずれるように言われたこともある。社内の研究予算はついていたが「07、08、09年ごろはけっこう危なかった」という。
 
 岩村氏は「この10年で研究の精度が飛躍的に上がり、世界で研究仲間も増えてきた。中国の大学は我々そっくりの装置で研究している」と元素変換の認知度向上とともに、競争の激しさを実感している。
 
 10年前から大がかりな研究体制をとれば、現時点で放射性廃棄物処理の具体的な実証実験ができていた可能性がある。しかし、実態は「基礎から実用研究へ移行できそうな段階」にとどまる。
 
 元素変換は重工幹部も時折、「おもしろい研究をしているんだ」と口にする。「あんな研究を続けられるのも重工くらいだよねぇ」という外部の声もある。研究を途切れさせなかったのは三菱重工の懐の深さだが、現状の体制で、10年後に大きな成果が期待できるのか。そろそろ企業として腹をくくる時だ。
 
(企業報道部 三浦義和)
 
 
 
 
中国政府の金保有は1054.1トン、世界6位に | newsclip (ニュース、ASEAN、その他のニュース)
http://www.newsclip.be/article/2013/12/15/20084.html
 
中国政府の金保有は1054.1トン、世界6位に
2013年12月15日(日) 15時41分(タイ時間)
 
【中国】金国際調査機関のワールド・ゴールド・カウンシル(WGC)は10日、各国政府の金保有量を発表し、1054.1トンを保有する中国が世界6位に入ったと報告した。各国の中央銀行や財務省が主に保有している。
 
 ただ、中国の金保有量は、外貨準備に占める割合が1.2%に過ぎないなど低位にあると言えそうだ。首位の米国は8133.5トンで外貨準備比率が71.7%。2位のドイツは3387.1トンで68.7%、3位のIMFは2814.0トン(比率なし)、4位のイタリアは2451.8トンで67.2%、5位のフランスは2435.4トンで66.1%となっている。6位の中国以下は、7位のスイスが1040.1トンで8.3%、8位のロシアが1015.1トンで8.3%、9位の日本が765.2トンで2.6%、10位のニュージーランドが612.5トンで54.0%などと続く。
 
 世界全体の公的機関(欧州中央銀行を含む)による金保有量は合計3万1913.5トンに上る。各国の預金準備に占める比率は58%。
《亜州IR株式会社》
 
 
金保有量で中国を追い抜く | ロシアNOW
http://jp.rbth.com/business/2014/08/21/49791.html
 
金保有量で中国を追い抜く
2014年8月21日 アレクセイ・ロッサン
 
ロシアは半年間で54トンの金を購入し、総保有量で中国を追い抜いた。専門家は、ロシア経済がこのようにして、金外貨準備高の大部分を占めているドルとユーロへの依存から、一部脱却しようとしていると考える。ただし、金外貨準備高に占める金の割合は約10%にすぎない。
 
金保有量で世界第6位に浮上
 
 「ワールド・ゴールド・カウンシル(WGC)」の報告によると、ロシアは金の総保有量1094.7トンで世界第6位に浮上した。中国の総保有量が前期と同水準の1054.1トンだったため、結果的に追い抜いた。
 
 「ロシア中央銀行が金保有量を増やした理由は明白。経済制裁のリスクを減らし、投資分散化をはかっている」と、「デュカスコピー・バンクSA」CIS諸国販売部のパーヴェル・シモネンコ部長は話す。ドル、ユーロ建て取り引きに経済制裁が科される危険性があるため、中央銀行は資産の多様化を続け、今年末までに金外貨準備高に占める金の割合を15%まで増やすという。「中央銀行は政治情勢が悪化した場合に備え、準備高の安全性を確保しようとしている。また、金は保護資産であり、第2次世界金融危機発生の可能性が予測される中、このような投資はより堅実に見える」
 
新決済システムは中銀オリジナル
 
 WGCのデータによると、半年間でロシアは54トンの金を購入した。保有の伸び率は世界でもっとも高かった。ちなみに同じ期間内での購入量はカザフスタンで12トン、メキシコで0.8トン、フィリピンで0.2トン。アメリカ、ドイツ、イタリア、フランス、スペインなどの上位金保有国は購入していない。ドイツは逆に、2.9トンを売却している。
 
 ロシア中央銀行の正式なデータによると、金外貨準備高に占める外貨の割合は90%から87.5%まで減少。「ロシアの金保有量の増加は、金外貨準備高の構成の変化と関係している。ロシアはアメリカ国債、ドル、ユーロへの投資を減らしている」と、ロシアの投資会社「UFS」の主任アナリスト、アレクセイ・コズロフ氏は説明する。ヨーロッパ中央銀行とアメリカ連邦準備制度が非常に緩い金融政策を実施している時、すなわちその通貨を安くし、地政学的リスクが高官レベルにある時、金外貨準備高の金の割合が増えるのは自然なことだという。
 
全体的な傾向
 
 ここ数年、世界各国の金外貨準備高に占める金の割合は、増える傾向にあるという。「これは主要な通貨発行国で圧倒的な、為替市場の高ボラティリティおよびリベラルな金融政策と関連している」とロシアの投資会社「ルス・インヴェスト」分析部のドミトリー・ベデンコフ部長は話す。輸出を中心としている新興・発展途上国では、金外貨準備高が外貨資産から構成される。例えば、金の割合が中国ではわずか1%、インドでは7%、ロシアでは10%、サウジアラビアでは2%、ブラジルでは1%以下。「金の割合が高く、支配的な国は、例えば72%のアメリカ、68%のドイツ、65%のフランス」とベデンコフ部長。そのため、金外貨準備高の構成の多様化およびその信頼性の観点から、金保有量の増加は良い傾向である。
 
 また、ロシア経済はドルから代替資産へ移行しようとしているという。「ドル離れのプロセスは徐々に加速している。政治的決定、経済主体の動きにもとづいていることは明らか」と、ロシアの大手証券会社「フィナム」のアナリスト、アントン・ソロコ氏は話す。例えば、ロシアの携帯電話会社「メガフォン」と、世界最大のニッケル生産会社「ノリリスク・ニッケル」は、すでに自社の資金の一部を香港ドルに交換した。「この動きは続いており、次なる第一歩がアメリカの長期債券からの段階的な脱却と、ヨーロッパ諸国法域外への資金配分になる可能性はある」とソロコ氏。ただし、この第一歩は、クライナ情勢の緊迫化が続き、ロシアとEU、アメリカの関係が改善されない場合の話だという。
 
 
 
 
金市場 | マーケット用語ワンポイント解説 | マーケット情報 | 三菱マテリアル GOLDPARK(ゴールドパーク)
http://gold.mmc.co.jp/market/word/jp/jp10.html
 
1919年から毎日ロスチャイルド社の「黄金の間」に固定のメンバーが集まってフィキシングと呼ばれる「値決め」を行ってきました。そして、この価格が金現物の国際的な指標価格として用いられてきました。
しかし、2004年にチェアマンであったロスチャイルド社がコモディティ・ビジネスを縮小したことによりフィキシングから撤退、現在はスコシア・モカッタ、バークレイ銀行、ドイツ銀行、HSBC、ソシエテジェネラルの5社(チェアマンは輪番制)が、毎日午前と午後に電話で売買注文を突き合わせ、折り合った価格をフィキシング・プライス(値決価格)として世界に向けて発信しています。
 
 
ロンドン金価格(ロンドン・フィキシング)は、1919年から続く5社が参加し決定する指標 | 金投資のおすすめ〜金価格や純金積立〜
ロンドン金値決めについて | Gold News
金の保有量 ランキング - NAVER まとめ
ドイツ銀行が金値決め業務から撤退へ 〜再燃する金価格操作疑惑〜(小菅努) - 個人 - Yahoo!ニュース
日本や世界や宇宙の動向 : ドイツは海外に保管していた金塊の返還を求めています。
金地金不正操作めぐるドイツの復讐 田中宇の国際ニュース解説
為替と金価格の不正操作で、米欧の大手銀行を捜査中、と金融当局者が暴露した。 :: kenchicjunreiのブログ|yaplog!(ヤプログ!)byGMO
「ロシア主導の金備蓄増加」 | みんなのコモディティコラム
 
 
まあ、確かに或る意味恐ろしい。
叩き潰す爲に仕掛けを作動させるだらうから。
 
軍事より怖い、中国が世界一の金保有国になる日 着々と進める金塊生産と金輸入、狙いは米国に代わる基軸通貨国:JBpress(日本ビジネスプレス)
 
 
 
 
日本とロシアの常温核融合研究:北大理学部元助手の能登谷玲子とモスクワ大教授のフルムキン - 国際情勢の分析と予測
ルイ・ケルヴラン 元素転換説 - Wikipedia
金で世をつぶす仕組 世界最大の金の保有者ロスチヤイルドは、資産としての最後の砦、金を暴落せしめ、全世界の人々を破滅させる
日月神示全文掲載 梅 の 巻  28帖〜1帖
ひふみ神示 第26巻 黒鉄の巻



http://www.asyura2.com/14/test31/msg/183.html

コメント [原発・フッ素41] 加圧水型原発が沸騰水型よりも安全というのはデタラメだ 魑魅魍魎男
18. 2015年1月31日 20:34:53 : BLqL2LUvlg
15様

おっしゃることは確かに。
ただ現政権下で理論武装しても謀略で潰され何かを勝ち取れるとは
思えないのも事実です。311以降は枝葉末節の技術談義が時間を
使って国民を煙に巻く目的にも思える。放射線計についても度量衡
無視の世界である。


http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/736.html#c18

コメント [政治・選挙・NHK179] 「安倍首相は国を滅ぼす方へ動いているように見えます:森田実氏」 赤かぶ
09. 2015年1月31日 20:35:26 : 8q3qeXT2cg

かの国に弱みを握られた無能な政治家が不正によって権力の座を手に入れた。そして脅迫・恫喝の効果は絶大で、ご主人様の傀儡となった。見事なまでに奴隷となったインチキ政権は、売国政策推進のみならず戦争国家への変貌を成し遂げようとしている。自身のためでもある。一日も早く退陣すべきである。

>響堂 雪乃 著 「略奪者のロジック2」 http://p.booklog.jp/book/77475/read

2013年の参院選では自民が大勝し、公明、みんな、維新など補完勢力とともに過半数議席を獲得したのだが、語るまでもなく彼らは日本経団連(多国籍企業)とCSIS(戦略国際問題研究所)に与するコンプラドール(外国人に手引きする買弁)集団である。その後は衆参一体となり、国家主権および経済市場を逐次的に譲渡するのであり、憲法の無化により戦争国家を完成しつつ、米国の本質であるネオ・コンサバティブ(軍産複合体)に恭順を示すわけだ。国家意思には常に資本意思が潜在していると捉えなくてはならない。

直言するならば、社会資本を根こそぎ外国人に引き渡することによりインセンティブ(成功報酬)を得るという目論みであり、つまり連中のうち誰一人として国民の福祉や生命を守ろうなどとは考えていない。どのように社会が荒廃しようが、あるいは戦争国家が構造化されようが、支配勢力に与する多国籍企業の役員、テレビ局や新聞社の社員、国政・地方議員や公務員だけは安定給与と福利厚生さらには資産が担保される仕組みなのであり、おおよそ支配階級と一般国民の二項対立は究極に激化しているのだと思う。

2013年の参院選挙では前年の衆院選でプログラム改竄が疑われた集計マシーンを再使用したのであり、また政権のステークホルダー(利害関係者)がその運営企業に資本参画するというデタラメであり、さらには野党第一党が検察による国策捜査とメディアバッシングにより実質の解体状態なのだから、はなから国民に選択肢など不在なのであり、この国の代表民主制度は二重、三重に殺されている。これはもはや、正常選挙のため国連軍の監視を要請する第三世界の様相だろう。


不正選挙のアホ総理!


http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/118.html#c9

コメント [政治・選挙・NHK178] 小選挙区制の問題 議員が天下国家論じず地元の利益考える点(週刊ポスト) 赤かぶ
07. 2015年1月31日 20:36:47 : ZK6l01kjXI
06
違う違う。
小沢氏は先見の明がなかった訳ではない。
利益誘導がし易い小選挙区制を導入することで
自身が落選しにくい方策を確立したんだよ。
そして、それは成功している。

誤算だったのは、ネットの普及で
まったくの新人でも当選する方法として教授してきていた
小沢氏の選挙手法であるドブ板選挙が無効化されることを予見出来なかったこと。
しかし、これは当時の常識で考えればしかたのないところだろう。

例えるなら、第第二次大戦でレシプロ機でなく
ジェット機を早期開発していれば良かったというようなもの。

http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/888.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK178] 安倍首相は自分のことを「最高責任者」だと言っていたが、実際には現場の中東から早々に立ち去って「前面」に立たず。 gataro
06. 2015年1月31日 20:38:02 : CxoRgaGktA
それにしても安倍の国会答弁にいちいち「よし!」とか「そうだ」とか反応する自民党議員。
このバカたちの群れに日本は占拠されている。
まともな批判さえかき消される国家はすでに独裁体制にあると言っていい。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/884.html#c6
コメント [政治・選挙・NHK178] 「I AM HARUNA!」見殺しにされた湯川遥菜さんの存在を無視するな!(リテラ) 赤かぶ
06. 2015年1月31日 20:39:00 : EohUGpprUk
 
油皮さん…
死んだ気がしないんだが。。

今頃顔変えてCIAの事務所で日本向けのネット工作でもしてそう……
 
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/902.html#c6

コメント [政治・選挙・NHK179] 百田尚樹氏がNHK経営委員からいなくなる!(弁護士 猪野 亨のブログ) 赤かぶ
05. 2015年1月31日 20:40:14 : nttJloYAiE
大越、百田か
忠誠をつくしてるつもりでも
ちょっとした失敗ですぐ捨てられちゃう

トカゲのしっぽというかウンコだな・・・
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/131.html#c5

コメント [政治・選挙・NHK178] 後藤さんの奥さんの節度を持った衝撃メッセージ!(ハイヒール女の痛快日記) 赤かぶ
16. はろー 2015年1月31日 20:40:41 : TdFHwK8PKxIPA : nTbsLIH69w
15さん。それこそ御本人にうかがわないとわかりませんね。無難な文章の理由は、これは私の推測ですが、メッセージが原因の新たな混乱は避けたいとの配慮だと思います。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/918.html#c16
コメント [政治・選挙・NHK178] 田原牧氏「旗の問題とあのセリフ。いったい誰が安倍さんに言わせたのか。あれは人質を殺せとばかりの演説。」 gataro
17. 2015年1月31日 20:42:28 : FlWYuv54LU

アルカーイダ: 多国的
ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線: 多国的
トルコ・ヒズボラ(クルド・ヒズボラ):(Turkish Hezbollah) トルコ
大東方イスラム砲撃戦線:(Great Eastern Islamic Raiders' Front)  トルコ
アンサール・アル・イスラム:(Ansar al-Islam) イラク
アンサール・アル・スンナ: イラク
イラク・イスラム軍: イラク
イラクの聖戦アルカーイダ組織: イラク
マフディー軍: イラク
アル・アクサ殉教者旅団:(Al-Aqsa Martyrs' Brigades) パレスチナ(ヨルダン川西岸地区)
ハマース: パレスチナ(ガザ地区)
イスラーム聖戦: パレスチナ・シリア
ファタハ・イスラム: レバノン
ヒズボラ: レバノン
アラビア半島のアルカーイダ: イエメン
エジプト・イスラム・ジハード団: エジプト
イスラム集団: エジプト
イスラーム・マグリブ地域のアル=カーイダ機構: アルジェリア
武装イスラム集団: アルジェリア
モロッコ・イスラミック・コンバタント・グループ:(Moroccan Islamic Combatant Group)モロッコ
アル・シャバブ:(Al-Shabaab)  ソマリア
ボコ・ハラム: ナイジェリア
ジャイシュ=エ=ムハンマド: パキスタン(カシミール)
ラシュカレトイバ: パキスタン(カシミール)
ハラカト=ウル=ムジャヒディーン:(Harkat-ul-Mujahideen) パキスタン
パキスタン・ターリバーン運動: パキスタン
インディアン・ムジャヒディーン: インド
インド学生イスラム運動:(Students Islamic Movement of India) インド
ジャマアト=ウル=ムジャヒディーン:(Jamaat-ul-Mujahideen) バングラデシュ
ヘズブ・エ・イスラミ・グルブッディーン: アフガニスタン
ターリバーン: アフガニスタン
ウズベキスタン・イスラム運動: ウズベキスタン 
東トルキスタンイスラム運動: 中国(新疆ウイグル自治区)
ジェマ・イスラミア: インドネシア
ラスカー・ジハード(英語版): インドネシア
アブ・サヤフ: フィリピン
モロ・イスラム解放戦線: フィリピン
パタニ連合解放組織: タイ
カフカース首長国: ロシア

   ここから枝分かれしたグループは、更に何倍もあるんだぁ・・・

   世間知らずの戦争オタク・越後屋と悪代官=A級戦犯生き残り・・・
   
〜〜〜〜

    ★ イスラエルへ武器輸出のネオコン・日本会義 ★

    世界中のイスラム過激派の最大の敵のイスラエルの陣営に付いた日本会義。
    一生の間、日本は、過激派の標的と化した。
    工作員や戦争財閥なら致し方ないけど、東京五輪などで、罪の無い小市民が狙われない無いこと
    を祈るばかりだ。

    政府系の大学などでも、銃乱射などが無けりゃいいんだけどね・・・
    向こうに渡航できなきゃ、国内でやるっきゃないでしょ・・・


   ★ 世界中で、格差拡大====>>テロで不満爆発 ★

    秋葉事件などが、国内でも急増してゆくだろう・・・
    893の銃規制で、一般人に広く販売されてきた拳銃、
    いまや、脱法ドラッグに等しく、誰でも手にしてきた

    アホノミクスで格差拡大すれば、この国も血生臭い国に一気にひた走る・・・

    毎年、20万人の外国人労働者を仕入れて、格安で差別待遇すると、
    日本もフランス並になるだろう・・・

    世間知らずのおもちゃま世襲議員など、おもちゃで使えない・・・

〜〜〜
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/773.html#c17

コメント [政治・選挙・NHK179] 2015-01-31 後藤夫人声明は安倍官邸と打ち合わせ済みだった。  山崎行太郎 赤かぶ
03. 2015年1月31日 20:45:29 : QyXszlWqXc
公儀隠密

隠密同心 心得の条
我が命我が物と思わず
武門の儀、あくまで陰にて
己の器量伏し、
ご下命いかにても果すべし
なお
死して屍拾う者なし!
死して屍拾う者なし!!
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/122.html#c3

コメント [政治・選挙・NHK178] 安倍政権は人命第一原則に沿って全力尽くすべき(植草一秀の『知られざる真実』) 笑坊
04. ひでしゃん 2015年1月31日 20:45:55 : dsqbUTCLpgzpY : 9IQbDxI5Uo
日本政府は後藤さんの奥さんに届いたメールの発信元と後藤さん救出について交渉出来る筈
日本政府は湯川さんの遺体返還についての言及を全くしていないのは?
イスラム国は人質解放の条件として当初身代金要求をしてきた
現在の後藤さんの解放に向けてヨルダン政府任せではなく日本政府として直接条件の交渉を進めるべきであると考える


http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/901.html#c4

コメント [スポーツ1] さんま、日本代表の欠点指摘 (日刊スポーツ) BRIAN ENO
30. 2015年1月31日 20:50:30 : juy904asF2
☮アジア杯2015 決勝戦試合結果(1/31)
☮会場:オーストラリア・シドニー
☮韓国1〖壱〗-2【弐】(0〖零〗-1【壱】,1〖壱〗-1【壱】)(a.e.t.)オーストラリア
http://www.soccer24.com/match/6Tq2jpuk/#match-summary
http://www.asyura2.com/09/sports01/msg/501.html#c30
コメント [昼休み53] クソコラグランプリが、イスラム国の内紛を誘発、米英を震え上がらせたカミカゼは、米英イ別動隊にも有効です。 小沢内閣待望論
02. 2015年1月31日 20:51:27 : 8q3qeXT2cg
バグがモサドでイ国のエージェントだということがばれた? 写真を見れば誰でもわかる。
ウソだらけのニセユダヤ・イスラエル。「タルムード」はネット上にあふれているぜよ。



>ISISのボスはモサドのエージェント (写真は下のほう)
http://ameblo.jp/002ameblo/entry-11913964100.html
>嘘とペテンと陰謀だらけ・英米イスラエル報道
http://members3.jcom.home.ne.jp/shishoukaku/07sk/160813guide/guide.html#050105
>恐るべきユダヤ悪魔教の教典タルムード!!
http://www.geocities.co.jp/Outdoors-River/7540/talmu.html

鬼畜米英イス!



http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/356.html#c2

コメント [政治・選挙・NHK178] <問題発言>田母神氏を応援したデヴィ夫人「後藤健二さんには自決してほしい」「 関係諸国に大・大・大・大迷惑」 赤かぶ
54. 2015年1月31日 20:52:34 : AVCzW2K2rQ
あ〜同じ「女」として、
この、昔淫売、今ただの目障りババアにはうんざりする。
ただただ、何もかもがきったないババア!



http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/892.html#c54

コメント [政治・選挙・NHK178] 「これまで日本人が中東に築いてきた大切な財産を、死の商人安倍が、ひとりで破壊している。:兵頭正俊氏」 赤かぶ
21. まじめな普通の日本人 2015年1月31日 20:52:45 : LHTP0E6/9I0Cg : djCf91MubM
安倍夫人がこの2月の某日に「希望の車いす」を訪問するとか、聞いたが危険でないかな、心配します。警備の方たち、十分に手は打って下さいよ。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/847.html#c21
コメント [政治・選挙・NHK178] 田原牧氏「旗の問題とあのセリフ。いったい誰が安倍さんに言わせたのか。あれは人質を殺せとばかりの演説。」 gataro
18. 2015年1月31日 20:53:18 : FlWYuv54LU
〜〜

  公安も、京大左翼と遊んでる場合じゃないわぁ・・・

  観光で遊んで来ても、分からんだろうに・・・
  まして、海外に出たことも無いぬ本村の人間は甘ちゃん過ぎる・・・
  世界がどうなのかを知らずに、アホみたいにゴルフでアヘアヘ・・・

  差別され、迫害され、拷問・殺害を今だに繰り返されている・・・スンニ派だから、
  独立戦争で立ち上がってるわけダァ・・

  だから言っただろう。世の中は甘くない。イスラムを舐めてるなって・・
  って言うより、国民を舐めすぎると、国内での暴動も、頻発するんだろうなぁ・・

  〜〜〜〜

   震災塗れ、放射能塗れな時代に、日本をテロ塗れにする日本会義でした・・・

   戦争しか頭に無いで、2025年に【20%は75歳以上】って・・・
   寝込んだ年寄りだらけの国で、戦争できるんかいぃ・・・

   知能が犬の、日本会義でした・・・

〜〜〜〜〜
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/773.html#c18

コメント [政治・選挙・NHK178] 田原牧氏「旗の問題とあのセリフ。いったい誰が安倍さんに言わせたのか。あれは人質を殺せとばかりの演説。」 gataro
19. 2015年1月31日 20:56:10 : FlWYuv54LU
〜〜

 向こうに渡航できなきゃ、国内でやるっきゃないでしょ・・・

  →→→言うまでも無いですが、私が考えてるわけじゃ、あ〜〜りまし〜〜ぇん

  そうゆう事態になるだろうに、どないすんねん・・・といってるわけどぇ〜〜ス

   やっべっえ、時代になっちゃったぁ・・・、されちゃったかぁ〜〜〜

〜〜〜
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/773.html#c19

コメント [政治・選挙・NHK179] トマ・ピケティ氏が「不平等が拡大」と警鐘!日本が相続財産に依存する社会だと指摘!首相「ピケティ氏も成長は否定していない」 赤かぶ
05. 2015年1月31日 20:56:43 : a2b14iUH1Y
>首相は「ピケティ氏も成長は否定していない。成長せずに分配だけを考えていけば、
じり貧になる」と真っ向から反論した。

その前に安倍率いるアメポチ自民党が存在するだけで、じり貧になるどころか、
売国奴を除く一般国民全体が不幸になることに気づけよ。

いやいや、悪性の癌が自分の罪を知らないように、脳ターリンの壺三じゃ
死んでも理解できないか。

はぁ〜〜〜 オペで摘出するしかないな。
 
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/129.html#c5

コメント [Ψ空耳の丘Ψ61] 火水(ひみつ)から火水(かみ)へ 米海軍海水燃料製造⇒ロックフェラー財團化石燃料投資撤退⇒原油安謀略⇒露西亞窮地⇒戰爭へ 不動明
01. 不動明 2015年1月31日 20:58:42 : yX4.ILg8Nhnko : 7pWg9bMOSE

近衞文麿殺したやうに言ふ事きかないと殺すのは同じ。
 
 
CNN.co.jp : 米石油王ロックフェラーのひ孫が死亡、操縦の小型機が墜落
http://www.cnn.co.jp/usa/35049413.html
 
米石油王ロックフェラーのひ孫が死亡、操縦の小型機が墜落
2014.06.15 Sun posted at 11:43 JST
 
(CNN) 米国の富豪で医師のリチャード・ロックフェラー氏(65)が13日、ニューヨーク州ウエストチェスター郡で飛行機事故により死亡した。ロックフェラー家の代表および空港職員が明らかにした。
 
ロックフェラー氏は、元銀行家で慈善家のデビッド・ロックフェラー氏の息子で、スタンダード・オイルの創業者で慈善家のジョン・D・ロックフェラー氏のひ孫にあたる。
 
13日午前8時ごろ、ロックフェラー氏が操縦する小型機がウエストチェスター郡ホワイト・プレーンズ近くの空港から離陸した直後に墜落したという。同飛行機に搭乗していたのはロックフェラー氏だけだった。
 
ロックフェラー氏は12日に父親であるデビッド氏の99歳の誕生日を祝うためにニューヨークを訪れ、翌日メーン州ポートランドの自宅に戻る途中だった。
 
ロックフェラー氏は熟練のパイロットだったが、13日朝は霧の影響で視界が400メートルほどしかなかったという。

http://www.asyura2.com/12/bd61/msg/705.html#c1
コメント [原発・フッ素41] 2030年度の電源構成案 60年運転前提 原発20%に上昇も 倍返し
01. 2015年1月31日 21:00:32 : uEEk6aHu6A
 電力会社を始め産業界にて手を取り合って、美味しく金儲をけさせて頂いた結果生じる。使用済み核燃料の最終処分や寿命を迎えた原子炉の解体など、計画の目処さえ立てられない。将来の後始末を、若い世代の方々にガッツリと背負って頂くためには、今こそ『止める』との選択が困難な政策、その様なズブズブな中長期的なエネルギー計画こそが必要と成って参ります。
 また、その為に、老朽化した原発も勘定に入れて動かす必要にも迫られて参ります。これから、長期に渡り、我が国にて経済活動に参加され、年貢を納め続けて頂ける皆様には、どうぞ、この日本国の都合を良く理解された上で、原発再稼働に賛同して頂ける様、お願い申し上げる次第です。by経産省。


http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/744.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK179] 集団脱走、戦闘員処刑 イスラム国「内部で異変」と専門家の声(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
02. 2015年1月31日 21:00:51 : FfzzRIbxkp
米国の内戦が中東で行われているそうです。

国内分断による紛争を作り出し火事場泥棒をするという戦略は
ベトナム、ウクライナ、、軍産複合体の基本戦略。
そして周辺国を巻き込んでいく。

明治の戦略がまだ使えるのかという愚かさ。

明治に憧れるのは、明治森永乳業の宣伝かもしれないけど。
森永令嬢の奥様のためとしながらも、明治森永乳業の中に帝国憲法の目的が料理されていたら、敬遠します。

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/128.html#c2

記事 [経世済民93] アルゼンチン・ブラジル・ギリシャなどのデフォルトがBIS規制強化の引き金を引く可能性
http://blogs.yahoo.co.jp/taked4700/12502807.html
アルゼンチン・ブラジル・ギリシャなどのデフォルトがBIS規制強化の引き金を引く可能性

 原油安が世界経済を基本的にプラスの方向へ動かすことは当面確実ですが、反面、化石燃料から再生可能エネルギーへの移行を遅らせてしまう可能性があると思います。

 更に問題なのは、原油安が一部の新興国やエネルギー輸入国に一時的に有利に働き、経済を刺激して過剰投資へ走らせ、その後一気にデフォルトしてしまう可能性です。現行の原油安は単にサウジアラビアが増産を維持しているためであり、サウジの判断次第で一気に原油価格は反動します。

 懸念するのは、国債のデフォルトによる公債のリスク債権化です。既に10年以上前から会計上、国債のデフォルトリスクをゼロして扱うことについては疑義が出ていて、長年公債をリスク資産として扱うべきだという議論がされてきているはずです。

 BIS規制である自己資本比率の規制が始まった切っ掛け自身がある銀行の倒産でした。1984年アメリカの大手銀行の一つコンチネンタル・イリノイ銀行が破綻したのです。そして、その結果、BIS規制が日本では1988年度から移行措置が適用され、1992年度末から本格適用が開始されたのです。

 公債のデフォルトは近年結構発生しています。
 1982年、メキシコで外債の債務不履行が発生した。
 1987年、ブラジルは対外債務(1110億ドル)のデフォルトに至った。
 1998年8月17日、ロシアは90日間の対外債務の支払停止(ロシア財政危機)。
 2001年12月、アルゼンチンは外国債に関してデフォルトを宣言した。
 2008年12月12日、エクアドルは同国政府が発行した外貨建て債務についてデフォルトを宣言した。
 2013年7月18日、アメリカのミシガン州デトロイト市は米連邦破産法第9章を裁判所に申請し財政破綻した。
 2014年3月末時点で中国の9省が地方債務のデフォルトを起こした。
 2014年7月31日 - アルゼンチンは、約12年ぶりに2度目の債務不履行に陥った。 
 (* 以上 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%B5%E5%8B%99%E4%B8%8D%E5%B1%A5%E8%A1%8C からの部分引用)

 アルゼンチンのデフォルトはアメリカのヘッジファンドによる訴訟が原因ですし、ギリシャがやがて陥る可能性のあるデフォルトも政治的に演出されたものである可能性があります。ブラジルも政策金利が11%を超えていて、国債デフォルトの可能性があります。

 国債や県債、市債などのリスク比率はゼロと扱って会計計算することで、現行の自己資本比率規制を日本の金融機関はクリアしているわけですが、もし、公債のリスク資産化が実施されれば金融機関の多くは破たんするしかないはずです。現実的には弾力のある運用がされ、リスクの掛け目が当初は低く設定されるでしょうが、それでも、日本で自己資本比率規制が始まった当時の混乱と同じような混乱が起こるのは目に見えています。銀行による貸しはがしのようなことが頻発するでしょう。

 同時に、日本で大きな震災、たとえば首都直下地震などが起これば、既に実施されているオペレーショナル規制も厳格されるはずです。その結果、大地震などの災害が起こる確率が高い日本にはより高い自己資本比率を課すとか、または、日本との貿易の際には高い掛け金の貿易保険加入が義務付けられたりする可能性があります。

 地方経済の自立が急がれると思います。

2015年1月31日20時35分 武田信弘 
http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/361.html

コメント [戦争b14] 日本人人質事件への考察(音声)(イランラジオ日本語) 無段活用
01. 2015年1月31日 21:01:43 : 5mrx5YJcvo

もしそうだとすると、日本人は右手と左手で操られているようなもんじゃね

もしかして安倍丁髷は百も承知の丁髷?

>アメリカとイギリスの情報機関がISISやアルカイダなどのテログループを作り出したことは明らかです。

>彼らは対ISIS連合の結成を主張している現在も、ISISへの支援を継続しています。

>現在、彼らはイラクやシリア軍を通じて、これらのテロリストのために兵器を移送しています。言い換えれば、


>テロリストの犯罪の強化や継続の下地を作っているものは、西側諸国の行動です。


>これにより日本人は、テロを支援することで依然として利益を得ている西側の友好国の政策の犠牲となっているのです


http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/832.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK179] 「何を田母神は怖れているのか。湯川遥菜から後藤が聞かされたに違いない情報か:兵頭正俊氏」 赤かぶ
03. 2015年1月31日 21:04:36 : 38xqq7xWok
田母神は、
記念写真くらい何百枚も撮ってるから、いちいち覚えちゃいないから、コメントすることはない。
らしい。

記憶にないどころか、会ったこともない後藤さんについてネットのテキトウな情報をかいつまんでデタラメなこと喋れるなら。
その調子で、湯川さんについてもテキトウな情報でデタラメなこと喋れるんじゃないの。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/130.html#c3

コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
143. 2015年1月31日 21:04:39 : BLqL2LUvlg
天皇派が教皇派を打ちのめした暁には安倍晋三を消すんじゃないかな。
安倍晋三というのは親族じゃダントツの出来損ないだったんだろうな。
身内に認めて欲しくて頑張っている。足りない頭は隠しようが無いが。
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c143
コメント [政治・選挙・NHK178] これが安倍内閣の悪行の数々である(simatyan2のブログ) 赤かぶ
20. 2015年1月31日 21:05:20 : ek95tVIB0s
01

底辺の人間が安倍晋三を総理大臣にした自民党を支持してるんだから仕方ないだろ、
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/839.html#c20

コメント [政治・選挙・NHK178] 「21世紀の資本」著者ピケティ氏がアベノミクスに“ダメ出し”(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
23. 2015年1月31日 21:05:30 : 5UWyHnNyf2
>22.天橋立さん

こんばんわ。
こちらこそレス頂きましてありがとうございます。

天橋立さんの着眼点は素晴らしいと思います。
確かに地域通貨という概念はまだ暗中模索の段階だと思いますし、実際に失敗例もありますよね。

確かにもう一工夫必要だと私も思います。

私は逆にマルクスやケインズという有名どころを余り良く知らないのですが、このミヒャエルエンデに関してはいくつかの有名な著作が有ります。
私のお気に入りは効率主義、資本主義の限界を寓話として示唆して見せた「モモ」という寓話。
それとお金に関する問題点を根元から問いかけてみせた「エンデの遺言」等の著作があります。とても面白いですよ。

高卒程度の学力しかない私でも良く理解出来ましたし個人的にかなり衝撃を受けたのを覚えています。

地域通貨ではアメリカニューヨーク州にあるイサカアワーという地域通貨が有名ですが、突き詰めて言えばゲゼルやエンデは地域通貨の概念を超え、お金に関するたぐい稀な考察を提示してみせたような気がします。

利息。

そこに人類全ての問題の根元があると彼らは言っています。

それを回避する為に彼らは減却する通貨という概念を打ち立てましたが、私はこの考え方が余りにも素晴らしかったので、個人的にかなり衝撃を受けました。

要は持っていればいるほど価値が下がる通貨という事ですが、その事によってお金を溜め込むという弊害を無くして市場にお金を流通させるという考え方です。

溜め込めば価値が減ってしまうのですから必然的にお金を使うしかありませんが、私はこの概念を取り入れて大企業が内部保留しめ貯めこんでいる莫大な量のお金を市場に吐き出させたいです。

金融大臣でもあったシルビオゲゼルに関しては、この概念をオーストリアで実践して実際に大成功を収めたことがあるそうです。

彼の概念は国家のあり方を変える程のものであったようですので、その全体像までは私も掴みきれていませんが、その卓越した概念は土地取引や相続にまで及んでいたようです。

しかし、このオーストリアで実際に大成功を収めたゲゼルのやり方は結局天橋立さんがいうように利息推奨の時の権力者によって残念な事ですがストップを掛けられてしまったようです。

ですので、この概念は決して机上の空論という訳でもなく、実際に応用可能という実績もあり経済を回復する方法論として実際に充分可能という事です。

お金を溜め込まなければデフレもインフレもありませんから。

その後、ミヒャエルエンデはゲゼルの方法論から更に飛躍して人類の問題の本当の解決策を模索し、やはりゲゼルと同じように減却するマネーというやり方や地域通貨の方法論、お金に関する問題を総括して亡くなる前にご自身の著作に記したのだと思います。

利息こそが人類全体の問題の根元である。
そう提示してみせその後亡くなりました。

私はこの両者の考えこそが人類の不幸、不均衡を改善する最善の方法だと思っています。

ただ、実現するには方法論以外の金融資本既得権益側の妨害など、様々な問題が立ちはだかっているようですので、そこに至る迄にはやはり権力構造の改革が必須であり、その為には前段階として政治を成熟させなければなりません。


天橋立さんの地域通貨に関するヴィジョンはとても的を得ていると私は思います。

その考察は実際にイサカアワーという地域通貨に印刷されているように思いますので、実際の紙幣の裏面に書かれてる文言を以下にコピペしてみます。

「TIME IS MONEY − 時は金なり。
この紙幣は時間の労働もしくは交渉のうえでものやサービスの対価として保証されている。どうぞ受け取って下さい。

イサカアワーは私達の地元の資源をリサイクルすることで地元の経済を刺激し、新たな仕事を創出する助けとなります。

イサカアワーは私たちの技能、体力、道具、森林、野原、そして川などの本来の資本によって支えられています。

ここイサカでは私たちはお互いに信頼し合っています。」イサカアワー

素晴らしい考え方ですよね。

それともう一つは、世界恐慌後にオーストリアのヴェルゲルという街を救ったシルビオゲゼルが実現した地域貨幣に書かれていたとされる文言です。

「諸君! 貯め込まれて循環しない貨幣は、世界を大きな危機に、そして人類を貧困に陥れた。経済において恐ろしい世界の没落が始まっている。いまこそはっきりとした認識と敢然とした行動で経済機構の凋落を避けなければならない。そうすれば戦争や経済の荒廃を免れ、人類は救済されるだろう。人間は自分が作り出した労働を交換することで生活している。緩慢にしか循環しないお金がその労働の交換の大部分を妨げ、何百万という労働しようとしている人々の経済生活の空間を失わせているのだ。労働の交換を高めて、そこから疎外された人々をもう一度呼び戻さなければならない。この目的のためにヴェルグル町の労働証明書はつくられた。困窮を癒し、労働とパンを与えよ。」


減却するマネー。
肉や魚と同じように持っていたら価値が減るという考え方。

金持ちがより金持ちになり、貧乏人はより貧乏にという悪循環としか言えない状況から人類は中々脱する事が出来ませんが、このニ極化を防止する為にはただ利息という概念を完全に辞めること。

これこそが資本主義の限界と、留まることを知らないグローバル化という波を並行して成功させる唯一の代替案だと私は思います。

問題は1%の人達が、これらの有効な方法論を認める事が出来ず己の私利私欲ばかりを考えている事。

問題はこのわずか1%の人達が旧来の既得権益を死守したいが為だけに人類全体の共存への道という大きな進化過程の弊害となっている事なのだと私は思います。


都民
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/886.html#c23

コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
144. 2015年1月31日 21:07:18 : dXgJbh7mH6
2015.1.31 00:32
【イスラム国殺害脅迫】
後藤さんの妻の闘い 「夫は善良で正直な人間です」 気丈「助けたい」一心
【過激組織「イスラム国」】
http://www.sankei.com/affairs/news/150131/afr1501310003-n1.html

 後藤健二さんの妻が29日に出した声明によると、「イスラム国」側から最初にメールで連絡を受けたのは昨年12月2日。湯川遥菜(はるな)さん(42)と後藤さんの身代金として2億ドルを要求する映像がインターネット上で公表された今月20日以降は、イスラム国側との間で、数本のメールでのやり取りがあったという。

 〈夫の命を救うために戦ってきました〉

 〈私は、これが夫にとって最後の機会になると恐れています。夫の解放とモアズ・カサスベ中尉(ヨルダン人パイロット)の命を救うために残された時間は、あと数時間しかありません〉

 後藤さんの妻は声明で、メールを通じたイスラム国との“攻防”や、それに対する不安などを、そう記している。

 「一番心配し、つらいのが家族。後藤さんの妻は後藤さんと同じか、むしろそれ以上につらいはず。そんな状況で声明まで作らされるとは…」。後藤さん夫妻と面識があり、イラクで拘束された経験を持つジャーナリストの安田純平さん(40)は後藤さんの妻の心境を、こうおもんぱかる。

 安田さんによると、イスラム国は他の外国人を拘束した際も水面下で家族を脅迫していたが、表立って家族を脅迫に利用したのは今回が初めてだという。

×   × 

〈夫は善良で正直な人間です。人々の苦境を伝えようとシリアに向かいました〉

 〈湯川遥菜さんの状況についても探ろうとしていたと思っています〉

 イスラム国の支配地域に入った理由をそう記す後藤さんの妻。声明ではイスラム国への非難を一切封印しているが、安田さんは「一番、イスラム国を非難したいのは後藤さんの妻。後藤さんを助けるために全てのみ込んでいるのだろう」とみる。

 シリアやレバノン、パレスチナなどで武装集団に拘束された経験があるフォトジャーナリストの豊田直巳さん(58)は「家族にまでメールを送りつけて脅迫するやり方は本当に卑劣だ。後藤さんの妻の恐怖や苦しみは計り知れないものがある」と語る。

 ×   × 

 〈2人の娘には、父親を知りながら成長してほしいと思っています〉

 幼い子供たちと父親との再会を望む後藤さんの妻は、一方で解放に向けた努力を続ける人々を気遣い、こう述べている。

 〈両政府のすべての努力に感謝いたします。ヨルダンと日本の人々の思いやりにも感謝いたします〉

 豊田さんは「自分を支えるのに精いっぱいという心理状態の中、小さなお子さんたちを不安にさせないように、笑顔を作って踏ん張っておられるのではないか」と話す。

一方で「イスラム国が何度も声明を出しているのは交渉を進めたいという意思の表れで、後藤さんの妻へのメールは、交渉成立に結びつけるため圧力をかけるメッセージなのかもしれない」とも推測。「そうすると後藤さんは生きていると考えられる。望みを捨てず後藤さんが無事に戻ると信じてほしい」と訴えた。

後藤さん妻の声明全文
産経新聞 1月31日(土)7時55分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150131-00000080-san-soci

 「イスラム国」に拘束されている後藤健二さんの妻が、29日に公表した声明の全文は次の通り。

 私は、シリアの組織によって拘束されているジャーナリスト、後藤健二の妻です。彼は昨年10月25日、私の元から連れ去られました。以来、私は彼の解放のために水面下で動き続けてきました。

 私は今まで声を上げませんでした。それは、夫の置かれた苦境が作り出した世界中のメディアの注目から、私たちの子供と家族を守るためでした。

 夫と私には2人の幼い娘がいます。赤ちゃんの娘は健二が出発したとき、わずか生後3週間でした。私はまだ2歳の娘が父親に再会できることを願っています。2人の娘には父親を知りながら成長してほしいと思っています。

 夫は善良で正直な人間です。人々の苦境を伝えようとシリアに向かいました。夫は湯川遥菜さんの状況についても探ろうとしていたと思っています。遥菜さんの死を本当に悲しく思い、彼のご家族に心から同情いたします。ご家族がどれだけつらい思いをされているか痛いほど分かるからです。

 夫がトラブルに巻き込まれたと気付いたのは、昨年12月2日、夫を拘束する組織から一通のメールを受け取ったときでした。

 1月20日に湯川さんと夫の命と引き換えに、2億ドルを要求するビデオを見ました。それ以来、組織と私の間で数本のメールのやりとりがあり、夫の命を救うために戦ってきました。

 過去20時間に、誘拐犯は最新で、最後とみられる要求を私に送ってきました。

 「(妻の名前)、おまえは今、このメッセージを世界のメディアに公表し、さらさなければならない! さもなければ健二が次だ! もしサジダ(・リシャウィ死刑囚)が健二との交換に備え、1月29日木曜の日没までにトルコ国境にいなければヨルダン軍パイロットは即座に処刑されるだろう」

 私は、これが夫にとって最後の機会になると恐れています。夫の解放とモアズ・カサスベ中尉(パイロット)の命を救うために残された時間は、あと数時間しかありません。私はヨルダンと日本の両政府に、この2人の命運が両政府の手中にあることを理解していただきたいと思います。

 両政府のすべての努力に感謝いたします。ヨルダンと日本の人々の思いやりにも感謝いたします。子供の頃、私の家族はヨルダンに在住しており、私は12歳までアンマンの学校に通っていたので、ヨルダンとヨルダンの人々には特別の愛着と思い出があります。

 最後に、私の家族、友人、そして夫の同僚に対し、この3カ月にわたる娘と私への支援に感謝します。

 夫とカサスベ中尉の無事を祈っています。

 (原文は英語。個人情報に関する部分を一部割愛)

2015.1.30 23:16
【イスラム国殺害脅迫】
「日本人記者を誘拐せよ」 「イスラム国」支持者らネットに書き込み 横行する人質ビジネス
【過激組織「イスラム国」】
http://www.sankei.com/world/news/150130/wor1501300062-n1.html

解放交渉が行き詰まり先の見えない展開となり、在ヨルダン日本大使館前で待機する報道陣=30日、アンマン(共同)
http://www.sankei.com/world/photos/150130/wor1501300062-p1.html

 【アクチャカレ(トルコ南部)=内藤泰朗】「日本人記者を誘拐し別の捕虜交換に利用しろ」−。イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」の支持者らが29日、後藤健二さん(47)ら人質事件を取材する日本人記者を標的にした書き込みをツイッター上でしていることが明らかになった。過激派支配地域では、人質を売買する誘拐ビジネスが横行、記者活動は厳しい状況に置かれている。

 地元トルコや日本、欧米の報道陣数十人は29日、後藤さん解放の可能性があるとみて、シリアのイスラム国支配地域の「正面玄関」で、過去に人質交換が行われたアクチャカレ検問所の前に集結した。

 しかし、ツイッター上では、イスラム国支持者とみられるユーザーらが検問所前で待機する日本の報道陣の写真を掲載。中には記者の顔がはっきりと判別できる写真もあり、ユーザーらからは「このうちの誰かを誘拐して、別の捕虜交換に利用しろ」といった書き込みが相次いだ。

 欧米メディアの記者たちによると、シリア北部では昨年以降、通訳やガイドを装って外国人に近づき、数万ドル(数百万円)でイスラム国に売り渡す誘拐ビジネスが横行。イスラム国が敵視する米英など欧米を中心とした記者たちが最大の標的になっている。

後藤さんも、仲介していた同行ガイドに裏切られ、人質取引の材料となった可能性が指摘されている。29日の日本記者への脅しは、日本人も標的の一つになったことを示した形だ。

 イスラム国は、500万ドル(約6億円)程度とされる高額の身代金のほか、欧米に屈しない姿勢を世界に誇示する政治宣伝などを目的に、人質の国籍で使い分けている。今回は、日本とヨルダンの人質2人を使って両国の対テロ連携を引き裂く狙いがあるものとみられている。

 「国境なき記者団」(本部・パリ)は先月、昨年1年間で、イスラム国の支配地域があるシリアとイラクで計47人のジャーナリストが誘拐されたことを明らかにした。これは世界で誘拐された記者の4割に当たる数だという。

 過激派に詳しいトルコ人記者は「イスラム過激派たちは、外国の記者たちはすべてイスラム国の破壊をもくろむスパイだという基本的な認識をもっている。そのスパイを逆に利用して敵(外国)に打撃を与えるのは正当なことだと考えている」と指摘した。


ヨルダンで救出デモ「2人は必ず帰ってくる」
産経新聞 1月31日(土)7時55分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150131-00000105-san-soci

 【アンマン=森本充】死刑囚との交換期限とされた「日没」から一夜明けたヨルダンでは30日、「イスラム国」に拘束されている後藤健二さんとヨルダン人パイロットの2人の身を案じる声が聞かれた。

 金曜日のこの日、ヨルダン国内は休日で、地元警察によると、礼拝後に救出を求めるデモが行われる。タクシー運転手のイブラハム・アイヤーダさん(58)は「日本人ジャーナリストに非はない。パイロットもヨルダンのために働いていた。2人が無事に解放されることを願う」と話す。

 ヨルダン政府は、パイロットの生存が確認されない限り、死刑囚の釈放に応じない姿勢を見せており、多くの市民も「生存確認は交渉開始の大前提だ」と理解を示している。

 フセイン・ムハンマド・フセインさん(48)は「イスラム国の設定する期限は単なるパフォーマンスにすぎず、2人は必ず帰ってくる。ヨルダン政府は期限を気にせず、じっくりと交渉すればよい」と語った。

http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c144

コメント [経世済民93] アルゼンチン・ブラジル・ギリシャなどのデフォルトがBIS規制強化の引き金を引く可能性 taked4700
01. taked4700 2015年1月31日 21:07:31 : 9XFNe/BiX575U : zJKfT3v4rs
BIS規制はある意味当然の規制という顔を持っているのですが、現実的にはアメリカ資本による世界経済支配の道具として機能している面が強くあると思います。そのため、少なくとも日本については、原発再稼働へ向けての圧力として働く可能性があります。

日本での原発再稼働は今後西日本が地震頻発期に入ることから非常に危険であり、それよりも日本に豊富にある地熱を使った地方への首都圏からの企業移転が首都直下地震対策にもなり、望ましいと思います。

http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/361.html#c1

コメント [カルト14] 湯川・後藤・安倍総理バッシングであふれる日本 チベットよわー
13. 2015年1月31日 21:07:59 : I1dXExxYp2
その3者には共通項がある。はなはだ迷惑な存在だというとこだ。

http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/129.html#c13
コメント [カルト14] 米英は、偽イスラエルの拡大が狙い、しかしタルムード詐欺も悪魔教詐欺もパイク詐欺もばれる中で、無理な注文です。 小沢内閣待望論
10. 2015年1月31日 21:08:44 : EO8ytS4QYC
恫喝と 自作自演に 正義面
これが奴らの 騙しの道具
http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/135.html#c10
コメント [政治・選挙・NHK178] 共産党支持というわけではないが、志位氏が新人議員のツイートに苦言を呈したのは、安倍総理を批判するなと言う意味ではない。 gataro
24. 2015年1月31日 21:08:55 : EO8ytS4QYC
ブレ目立ち 虚勢を張れぬ 共産党
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/914.html#c24
コメント [政治・選挙・NHK164] 「女性の貧困」で、なぜ「生活保護」に触れなかったのか――やはり籾井会長の影響?(生き生き箕面通信) 笑坊
32. 2015年1月31日 21:09:56 : Fl00PDjaLI
女は馬鹿だから生活保護はホストに貢ぐなど犯罪犯して終わり 笑
母子家庭に碌な奴はいないのは事実

貢いだ女性は風俗に売られ…ホスト“暗躍”の最新巧妙手口、カモにされる貧しい女の子たち

beチェック

1 :Hi everyone! ★@\(^o^)/:2015/01/31(土) 18:50:37.52 ID:???*.net
 風俗嬢として働きながら生活保護費を不正受給していた女が逮捕された。今月29日、京都府警に捕まったのは京都市伏見区の
41歳の女。14年6月から15年1月までに87万円を受け取った疑いだ。女は「ホストに貢ぐためカネが必要だった」と供述している
という。

 「女は京都市内のホストクラブにはまり、店のツケやサラ金の借金があった。携帯電話を送れば融資を受けられるという話を信じて
業者に自分の携帯を送ったものの、満足な報酬を受けられなかったため京都府警に相談。不正受給がバレてしまったのです。
女は昨年4月から広島、岡山、米子などを渡り歩いて本番OKのデリヘルに勤務。9カ月間で497万円稼いでいたのに無収入と申告
していた。ホストのためにデリヘルに転落したようです」(捜査事情通)

■カモは母子家庭の女性たち

 ホストが女性客に借金をさせ、知り合いの風俗店で働かせるのは昔からある手口。最近はさらに巧妙化している。風俗ライターの
蛯名泰造氏が言う。

 「ホストが借金のある女性にニセの妹を紹介し、“俺の妹だ。妹は風俗嬢でいろんな店を知っている”と説明。女性は本物の妹と信じ、
ホストに“俺と結婚したら、おまえの妹になる”と言われて胸キュンになり、ニセ妹に紹介された風俗店に入店するパターンです。
自分の誕生日にパーティーを開いたホストが“費用は街金に300万円借りた”と女性客にウソをつき、ニセの取り立て屋から“金返せ”
と脅される姿を見せる手もあります。女性は借金して工面したカネをホストに渡し、ホストは女性を風俗業者に紹介するのです」

 「客のA子は俺のためにヘルス嬢になった」とウソをつかれたOLがライバル意識むき出しで、もっと稼げるソープ嬢に転身する
ケースも。カモの女性客に生パンティーを売らせ、次に時給3000円のライブチャットで裸にさせるなど少しずつ大胆な行為に慣れさせ、
最終的に風俗やAV嬢に導く方法もある。

 「カモになりやすいのは地方から出てきたばかりの“無農薬女”や、親にお金の相談ができない母子家庭の子たち。貧しい女の子が
苦界に沈められているのです」(蛯名泰造氏)

 血も涙もない世界だ。

ソース(ネタりか・日刊ゲンダイ) http://netallica.yahoo.co.jp/news/20150131-00000003-a_aaac

関連スレッド
【社会】「ホストに貢ぐため」生活保護を不正受給、風俗嬢(41)逮捕 京都府警 (c)2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1422527504/


94 名前:自治スレでLR変更等議論中@\(^o^)/:2015/01/31(土) 19:27:48.72 ID:wZWs1WhH0.net

 馬鹿な女 自業自得 何が母子家庭だから被害にあうだよ いい加減にしろ ビッチ


111 名前:自治スレでLR変更等議論中@\(^o^)/:2015/01/31(土) 19:40:26.56 ID:Urk/1wYC0.net

ほんとに貧乏ならホストクラブなんて行かないはずなんだがどうなってる?


117 名前:自治スレでLR変更等議論中@\(^o^)/:2015/01/31(土) 19:43:58.06 ID:dyEdIAhu0.net

>>111
貧乏に耐えかね出会い系で縁

客は実は風俗スカウト

型にはめ込み

120 名前:自治スレでLR変更等議論中@\(^o^)/:2015/01/31(土) 19:44:43.44 ID:CSnjBSXNO.net

>>111
ホストクラブとか関係なく弱みを握り因縁つけて大金を請求つける隙だけあれば十分なんだから
おまえも油断しちゃいけないよ
外人はスマホもネットもそのために監視しているのだから
金づると傀儡を見つけるために
つうか国家機関の活動なら不正に頼らず税金でやれつうのよ
政治家も警察も犯罪の罪は問われるのに情報機関の犯罪だけ野放しはおかしい

121 名前:自治スレでLR変更等議論中@\(^o^)/:2015/01/31(土) 19:44:47.15 ID:7mPe/04iO.net

全部自業自得じゃんよ(´・ω・`)

http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1422697837
http://www.asyura2.com/14/senkyo164/msg/752.html#c32

コメント [カルト14] 文春・横領や風俗経営と婿入り、韓国政府も解放要求、ダマスゴミは二人の背景とヒラ・マケ・ネタを報じるべきです。 小沢内閣待望論
12. 2015年1月31日 21:12:37 : I1dXExxYp2
文春の記事は読んだが、叩くという感じの記事ではなく事実関係を書いているだけだった。ただし、事実を書くと自動的に叩いていることになるような怪しく残念な過去がてんこもり。

http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/130.html#c12
コメント [マスコミ・電通批評14] 新聞を読まない理由、その実態は  不破雷蔵 赤かぶ
07. 2015年1月31日 21:12:47 : RLcvjzv8rc
阿修羅掲示板は見所満載。だが今後は、「コメント欄」に益々興味をそそられるようになるんじゃろうな。そこにある出典が、視野を拡げて呉れそうじゃからな。
 そこで、欲しいのが「系統的検索」というか、関連する情報の根元/根源を示唆してくれるようなもの:関連する学問分野とか古典文献…そう言うのを、イチから自分で見直してみようという、奇特なお人も、出そう/あろうじゃあなかろうか。閑人メ/奴!と言いなきゃあ、言え! 「復活災害!」てな、発想は貴重ですな。
http://www.asyura2.com/13/hihyo14/msg/551.html#c7
コメント [政治・選挙・NHK179] 「日本国民は羊」と、銃を構えた「イスラム国」の戦闘員(生き生き箕面通信) 笑坊
05. 2015年1月31日 21:13:10 : EO8ytS4QYC
弱点を 巧みに押さえ 突いてきた
きっと誰かが 入れ知恵してる
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/116.html#c5
コメント [政治・選挙・NHK179] 日本側が実現できない要求をつきつける「『イスラーム国』による日本人人質事件」 佐藤優 現代ビジネス 五月晴郎
04. 2015年1月31日 21:13:22 : EO8ytS4QYC
対岸で 火事を実況 事情通
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/120.html#c4
コメント [政治・選挙・NHK179] 「安倍首相は国を滅ぼす方へ動いているように見えます:森田実氏」 赤かぶ
10. 2015年1月31日 21:15:38 : AOjd6ftHws
百田さんや大越さんでさえちょっとしたことで捨てられる
華やかなようで
今マスコミの中は恐怖政治の嵐が吹き荒れてるのでしょうね

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/118.html#c10
コメント [マスコミ・電通批評14] 新聞を読まない理由、その実態は  不破雷蔵 赤かぶ
08. 2015年1月31日 21:16:34 : RLcvjzv8rc
0>>7:訂正
言いなきゃあ、言え!→言いタきゃあ、言え!
http://www.asyura2.com/13/hihyo14/msg/551.html#c8
コメント [カルト14] プー・習・ハメ・ピケ・水野・植草・一太郎、非ドル時代の七人の侍が政経に完備、一方の米英イは指導者不在です。 小沢内閣待望論
17. Psyche 2015年1月31日 21:17:28 : /UBEM0aVjzaZ6 : EEqupT609o
>16
萬屋 錦之介の「破れ傘」だね、おまえさん!

あ〜あ、もうしびれるね〜ほんとに。
この人の大石内蔵助は最高だったね〜

大河ドラマ「春の坂道」はおとっつあんが大好きだった。
(でも、このマスターテープ残ってないらしい、NHKバカじゃないの)

歌舞伎出身の役者は格が違う。
クラシックバレエで言うと「吉田都」と「草刈民代」の違いだね。

http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/136.html#c17

コメント [経世済民93] スカイマーク破綻…西久保前社長のバクチ経営と残るリスク(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
01. 2015年1月31日 21:17:38 : FfzzRIbxkp
バクチ政府、バクチ日銀ですからぁ!
バクチ竹中ですからぁ。

風が変わりはじめましたね。海外は強欲で横暴なものたちに対してNOの旗があがりはじめています。

翻って国内は、金融メルトダウンに備えなくてはいけません。
備蓄を呼びかけていますが間に合わないかも。
街路樹の植え込みや空き地に、お芋や根菜類を植えちゃおうかな。


http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/355.html#c1

記事 [国際9] 米とサウジアラビア 連携強化を確認か〜アメリカが超党派でサウジアラビアとの関係を重視している姿勢が/NHK 1月28日
米とサウジアラビア 連携強化を確認か
1月28日 8時37分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150128/k10015019421000.html

 オバマ大統領は、27日、サウジアラビアを訪問し、新しく即位したサルマン国王と首脳会談を行い、イスラム過激派組織「イスラム国」の壊滅を目指し、中東地域の安定の要であるサウジアラビアとの連携を強化したい考えです。

 アメリカのオバマ大統領はインドの訪問を終えたあと、27日、サウジアラビアの首都リヤドを訪問し、先週、死去したアブドラ前国王への弔意を示すとともに、新しく即位したサルマン国王と首脳会談を行いました。
 オバマ大統領に同行しているホワイトハウスのローズ大統領副補佐官によりますと、会談では、イスラム過激派組織「イスラム国」をはじめ、政情が不安定化するイエメンへの対応、さらにはイランの核開発問題について話し合ったということで、サルマン国王との間で、連携の強化を確認したものとみられます。
 オバマ大統領のサウジアラビア訪問は、当初の外交日程を変更して実現したもので、首脳会談には、共和党の重鎮、マケイン上院議員や、共和党の国務長官の経験者2人も同席するなど、アメリカが超党派でサウジアラビアとの関係を重視している姿勢がうかがえます。アメリカは、「イスラム国」の壊滅を目指し、中東地域の安定の要であり、同盟関係にあるサウジアラビアとの連携を強化したい考えです。

http://www.asyura2.com/14/kokusai9/msg/876.html

コメント [原発・フッ素41] 2030年度の電源構成案 60年運転前提 原発20%に上昇も 倍返し
02. 2015年1月31日 21:19:00 : C3lq0gpU9A

  東電の勝俣・清水もそうだが、まして60年後に責任を取るヤツは誰もいない。 後は野となれ山となれだな。 無責任の極み。


 


 
http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/744.html#c2

記事 [Ψ空耳の丘Ψ61] UFO問題を考える 3:グレイは、どのようにイルミナティを繰り、イルミナティに偽旗作戦を指令してきたか?

UFO問題を考える 3:グレイは、どのようにイルミナティを繰り、イルミナティに偽旗作戦を指令してきたか?

1、はじめに

イルミナティの偽旗作戦が、じつはグレイのものである可能性を、1ではロズウェルUFO墜落事件、2では大英帝国を例にとって考えてみた。これらが、もしグレイの創造物ならば、どのようにしてそれが可能になったかを考え、偽旗作戦の起源から考え、われわれはグレイのアジェンダにどう対処すべきかを考える。

グレイが人間にたいしておこなっている状況は、われわれはアブダクション事例からしか知ることができない。だが、グレイがロズウェルUFO墜落事件を指揮し、大英帝国の活動を影で指揮してきたとするならば、歴史上の諸事件はもとより、イルミナティ秘密結社、ユダヤ儀式殺人なども、大きくグレイがからんでいると考えるのが自然な思考である。

人類の過去の歴史には、いっさいグレイは登場しないにもかかわらず、なにか悪魔的な霊的な支配者がいるとの推測は、主としてユダヤ秘密結社や、ロスチャイルド、ロックフェラーの国際金融資本を深く研究した人にはよく知られていた。
http://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/7036975.html

いっぽうアブダクション事例によって存在があきらかになったグレイエイリアンとは、うわさでは高度な宇宙文明をほこり、人類を監視するだけで、けっして干渉してこない存在だと言われてきた。あまつさえ、危急のときは人類を救う、空中携挙なる話さえ流れたのである。むろんこれが工作員のヨタ話であるのは、まるで根拠がないことでわかる。

イルミナティ秘密結社が繰られているというより、イルミナティ秘密結社とはグレイの創造物であるというのが、私の結論であった。そして、イルミナティを研究することが、グレイの支配とアジェンダを研究する早道になるだろうと考えてきた。さらにアブダクションの事例を研究することによって、われわれを締め付けているグレイのくびかせ、すなわちマインドコントロールから自由になる方法をあみだすことができるであろうと。

2、アブダクション事例にある要素が、イルミナティの問題と、どう結びつくか考えてみよう。

グレイが人を操作する場合、想像を越えた意識や記憶の領域まで、この操作を使っている。UFOの飛行原理もとうぜん謎であるが、この意識の科学というべき領域もとても謎めいている。われわれは、じぶんの意識について、まるでなにも知らないということさえ知らずに生活しているということが、グレイの活動でわかる。
UFOアブダクションであきらかになっていることは、たとえば、グレイにターゲットにされた場合、個人の内的意識世界は、完全に繰られ、個人の記憶や思い出のなかにさえ、グレイはなにか意識体として侵入してくるらしい。

デーヴィッド・M・ジェイコブズ著の「未知の生命体」の、p141、p142に、出てくる話は、他のグレイより、もっと黒くて大きくて、精神力があるらしいラージグレイ種の話なのだが、これが、人類が何千年間も伝えてきた悪魔の真の実体なのであろうかと思われる。
つぎの場面は、アブダクションの事例の生殖、性的な干渉に関する場面である。ラージグレイがアブダクティの十五歳の少女を完全コントロールして、年上の男との性交を強要する場面に出てくる。


私の頭の中に言葉が入ってくるの・・・・「私はほかの者よりずっとすすんでいるのだ」ってね。年長者らしいわ・・・・。とっても怖かった・・・・。この人が目の中をのぞき込んでくると、私、目が見えなくなってしまうの。何もみえないわ。だってこの人が私の目の中にいるんですもの。どうやって目の中に入ってきたのかしら。目の中にいるのよ。もう頭がおかしくなっちゃいそう。こんなこと、耐えられない。
ーーーそれは、彼があなたの目をのぞき込んでいるという意味?
「目の中に入ってるのよ。目の中いっぱいにひろがってるの。この人が私の中に完全に入り込んでいて、私自身のすべても自分の目の中にあるみたいなの。私にはどうしようもないわ・・・・。頭の中にこの人がひろがっていくわ。脳に浸透していく・・・すみずみまで、私の中に侵入してるのよ。脳の中に。どうしよう。彼が私の心の中にいる。いたるところにこの人がいるの。ほんとうに、くまなく、どこにでもいるわ。こんなこともう我慢できない。もうだめよ」
ーーーそれは、かなり長い時間続くのかな、それともほんのわずかな時間?
「ものすごく長い間のように感じるわ」
・・・・・・・・
「この人、自分の居場所を見つけるのよ。そうすると私は全部やられるって感じじゃなくなるわ。そんなにまっ暗でもなくなるし、少しだけなら見えるようになって。影のような灰色っぽいものが見えるわ。
それから、かれは私に何かをかんじさせるのよ。いろいろなことを感じさせるの。実際には感じていないことを体に感じさせるの。性的な欲求を感じさせるんだわ。いろんなことを感じさせられてる。きっと、私が自分では感じていないことなので、だから感じさせさせようとしてるんだと思う。そして彼はそこにいるのよ。いたるところにいるわ。頭の中に、体中、すみずみまでこの人が入り込んでる。もうわけがわからないわ。
体がちょっと変な感じに緊張してくるわ。彼が私の体に何かをして、他の人たちは頭にかぶせてあったものを取り外してくれるの。だれかが私の頭からはずしてくれるのよ。助かったわ。だってうっとおしいし、重かったんだもの。いやだったわ。もうだいぶよく目が見えるようになってきた。彼はまだそこにいるわ。さっきみたいに、いたるところにこの人だらけって感じじゃないけど。でも、今度は体が、なんか変な感じなの。それまでこんな感じになったこと、あんまりなかった。どうしたんだろう、脚のあいだが。どうしてこんなふうに感じるのかしら、わからないわ。で、彼がいうの。だめよ。ああ、だめ」
・・・・・・・・・・

こうして無理やり性交を強要する場面になっていく。すこし長く引用したが、グレイがどのように人の意識に入り込んで、人を支配してきたか、よくわかる。
しかし、ここまで至るまでには、何回かの誘拐によって、事前に段階的に意識に入り込むなにかわからぬ技術がつかわれていて、その結果このようにやすやすと意識に入り込めるのだろう。いわゆるインプラント技術だろう。マイクロチップ、ナノチップも、個人IDだけでなく、なにか意識を変える未知の機能があるとうわさされるのも理解できる。

イルミナティ・ロスチャイルドにグレイが侵入するときにも、こんなふうになるのだろう。だから、ほんとうはイルミナティ・(ロスチャイルド)グレイというべきなのだろうか。イルミナティのトップは、まえの少女のようにコントロールされ、ロボットのように動かされ、活動してきたのが、過去数百年のイルミナティの歴史なのであったのだろうか。
だが、その追求はできない。歴史に現れているのは、すべてにせものであり、おとりであろうからだ。かりにあったとしても、なにもわからないであろう。最高位と言われるロスチャイルド、ロックフェラーさえ奴隷同然であると、つぎのブログで書かれているが、事実だろう。もちろん確認はできないが。
http://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/7036975.html

おもてに出てきたほとんど唯一の例と私が考えているのは、シスター・マリー・エメリーの「悪魔に愛された女」である。片鱗だけ見せたのがスタンリー・キューブリックStanley Kubrickの映画「アイズワイドシャット」Eyes Wide Shutである。「アイズワイドシャット」では、カットされた場面があると言われている。それは儀式殺人と人肉食の場面であろうか。ヒドラ七頭龍が登場する場面があったのかもしれない。これはロスチャイルド邸の出来事だと言われている。凄惨な儀式は、ロッジの地下階が使われるらしいから、この映画の原版ではそこまではなかったのであろう。よく知られた動画をあげておく。Eyes Wide Shut  Stanley Kubrick
https://www.youtube.com/watch?v=s_b-zpSnoHs
https://www.youtube.com/watch?v=yZ_Hzm1DTxA

が、いままで、あらわになった儀式殺人事例がいくつかあり、イルミナティの痕跡はたどれるかもしれない。カナダで発見されたという膨大な少年たちの白骨が、ローマ法王や英国女王などに責任があるというというのもこれだろう。人肉がマクドナルドの食肉倉庫から発見された、というのもこれと関連するのだろう。

イルミナティのトップは、おそらく人を殺害し、人肉を食うことが常食となっている可能性があり、人肉食の常食などが、日常あたりまえのことになっていると私は妄想している。おおくの少年少女が行方不明になる事件の背景に、これがあるのだろう。
それは、グレイによって人体の代謝が改変され、人肉や人血以外は、摂取できなくされているからであり、そうすることでイルミナティを絶対極秘にせざるを得ないようにさせる、グレイの悪魔的なトリックがあるのだろう。

こうしてイルミナティの内部は、ふつうの常識人では想像もつかぬ世界になっているらしい。「アイズワイドシャット」や「悪魔に愛された女」のなどの世界は、あまりに凄惨でひどいので、話が流出しても、ほんとうのこととは思われない。エリザベス女王が、血をしたたらせながら人肉を食うなんて、ふつうの人からは、まともに受け取られず、人格を疑われるのがおちだ。ヒドラ七頭龍の超自然の内容についてもまるで同様であり、シェイプシフトにしてもそうだ。
だが、これがあるがゆえ、イルミナティとは、グレイの濃厚な影響があると私は考えてきた。シェイプシフトという超自然の内容も、まったく同様に、この話が存在することが、イルミナティとグレイの密接な関係が確かだと、いままで書いてきたのである。

おそらく、ゲームの達人氏やカレイドスコープ氏は、常識にとらわれてしまって、そこに潜む巨大な事実が見えなくなってしまっているのだ、と思っている。

ゲームの達人
人形達のステージショー こんな世界はもうおわりにしよう
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/30.html
超自然現象が存在することが、グレイがイルミナティにかかわる証拠であるが、ゲームの達人氏も洗脳によって、イルミナティの最奥部が空白の白紙になっているのではないか?
カレイドスコープ  レプティリアン考@
http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-83.html
ここで、カレイドスコープは、レプティリアンという語が、デーヴィッド・アイクがみなもとだと書いているが、そんなことはない。レプティリアンという語は、私は1980年代ダルシー戦争のドキュメントで知っていたし、当時マトリックスという分厚い本があり、そのなかにもあったし、その他にもコピー機のコピー紙をホッチキスで綴じただけのドキュメントもいっぱいあり、レプティリアンという語はきわめてたくさん氾濫していたと記憶している。ただ、インターネットには、もうすでに出てこなくなっているのだろう。インターネットには出ない一般的な情報は、やまのようにある。

デーヴィッド・アイクが、レプティリアンを言いだすより十年以上前から、私はレプティリアンという語を知っていたのである。この語は、1980年代UFOマニアの間には、すでにきわめてひろく知られた語であったのだ。初めて言いだしたのは、アイクでもイルミナティ離脱者でもなく、おそらくカステロだと思っている。

世に流布する常識で判断しては、わなにおちいるだけだ。わなにおちいるのは、グレイの「ロズウェルUFO墜落事件という偽旗作戦」の成果なのだ。常識で判断しているだけでは、UFO問題という史上最大の情報戦争に負けるだけにおわるのだ。

3、ドラコグレイの真のすがた

こうして、ドラコグレイ、ドラコニアンの真のすがたとは、イルミナティ最奥部にあらわれていると思われる。しかし、シスター・マリーエメリーの本にあらわれたけものヒドラが、ドラコグレイ、そのままかというと、それは違うだろう。イルミナティ幹部を畏怖させるためのお芝居が感じられる。残虐で威圧的な絶対者を演じているのだ。バード少将の話やアルバート・K・ベンダーに出てくるドラコグレイらしき存在は、怪物というより、むしろ性格が繊細な感じの王者にみえる。ホイットリー・ストリーバーの「宇宙からの啓示」にあらわれる青い目をした白い王者は、厳格であり威厳があり気難しく、統治者にふさわしい雰囲気をもっていた、とある。
また、話題になったエコノミストの表紙には、オバマの足もとに白いおばけのようなものがいて、その目は青い。ドラコグレイかもしれない。


かれらは、きわめて高度に発達した究極の戦争文明の持ち主なのである。きわめて洗練された究極の戦争を、人類は有史以来かれらからしかけられてきたが、だれも気がつかなかった。そのあまりにも高度な不可視戦略のため、だれひとり警告することすらできなかった。存在を完全に消していたからだ。いまも同じで、存在は完全に消されているといっていい。
見方をかえれば、いまグレイと共同らしいイルミナティの市民にたいする洗練された究極の不可視戦争を何十年もしかけられていても、気がつくこともできない。放射能やケムトレイルやHAARPである。これは人類すべてが死に絶える可能性があるから、種子や胎児、幼児の保存が緊急におこなわれたのだ。
火星移送プロジェクトの裏にあるのは、人類すべてが死に絶える可能性があるほどの究極の不可視戦争が、NWOとともにあるであろうことをきもに念ずる必要がある。

ここで、大英帝国の障害となり、アジアを覚醒させて植民地独立させてしまった日本にたいしては、とくに原爆を2発おみまいし(なぜグレイの聖数3発でなかったのかは謎?)、311では、フクシマ原発3号機を爆破し、放射能を雨あられと日本国土に降り積もらせたと妄想している。とことんグレイは日本人にたいしては、NWOをさまたげる者とみて敵意、戦意を抱いていることがわかるのだ。

アジア諸国は、日本によって西欧の植民地支配から独立したが、グレイは深くこれを憎んだようだ。
http://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/7036975.html

このようにして、グレイのロボットのようになったロスチャイルド・イルミナティは、悪魔の計画をNWOに向かって、見えない戦争や見えないパンデミック、見える戦争、見えるパンデミック金融崩壊などのなかで、世界を崩壊させながらのかねもうけを遂行しているのである。

4、グレイのおこなう映像を使ったマインドコントロール:ステージング、エンビジョニングに対抗するためには、どうすればいいか?

デーヴィッド・M・ジェイコブズの「未知の生命体」には、p111にエンビジョニング、ステージングというアブダクティへの処置について、エイリアンの検査の内容が書かれている

・エンビジョニング
体験者はしばしば頭の中にそうした画像を思い描かされる。・・・こうした映像は非常にリアルなので、注意深く調べていって初めて、実は頭の中に描かれていたものだと気づくことも多い。・・・友人や身内を見ることもある。体験者は確かにその友人がすぐそこに自分と一緒にいるように感じる。しかし友人というのは、実は頭の中で無理に友人の姿に変えさせられているリトル・エイリアンなのである。・・・

調査したある女性の実例が、つぎから5ページにわたって具体的に述べられているが、省略する。これは、つくりものの映像やシーンにどのようにアブダクティが反応するか、意識の奥まで入られて検査されることなのである。
でも、これはなにかおかしい、と気がつくと、それがつくりものであることがわかってくる。そうすると、そばにグレイがいて、じっと目を見ているのが見えてくる。

マインドコントロールに対抗するには、まず疑いをもつことが大切なのだ。権威の言うことをうのみにしては、マインドコントロールに対抗することはできない。

なぜ、いつもグレイは、アブダクションで破壊のイメージを見せるのか?おそらくグレイは、世界の破壊、崩壊のイメージをアブダクティに与え、その反応を見ることにより、これからの「世界のおわり」をどのように展開するのか考えているのにちがいない。

こうして、かってグレイは、われわれにイメージをあたえ、われわれにおよぼす意識、感情、記憶への影響について、グレイはとても大きな関心をもち、追求してきたようにみえる。その結果、偽旗作戦では、衝撃的映像をくりかえしわれわれに見させることで、われわれにある思い込みを生じさせる。そして、これにとらわれ、すべてが左右され、コントロールされることになるわけだ。これはショックドクトリンと言われている。

ヤラセと偽旗作戦の集積であるがらくたを、真実の歴史と思わされてきたのも、イルミナティというよりは、じつはグレイの作戦であっただろう。写真やテレビ、ビデオのいまに合わせて、映像でのマインドコントロールをかれらは追求しているわけだ。

私が、われわれの過去の歴史すべて!が、つくりもののヤラセと偽旗作戦の集積である可能性があるというのは、このグレイの人間精神探求の結果を、かれらがわれわれをわなにはめるため利用してきたのではないか、と疑っているからだ。そのわなは、マスメディアが見せてきたニュースであったのであろう。
事実といつわって報道されてきたニュースによって、歴史が偽造される。茶番であった戦争が、ニュースによってあたかも国と国が、外交で死闘し、交渉が決裂し起きた戦争だと思わされる。が、事実は、偽装された、ただの虐殺にすぎなかった。

ウクライナの戦争もガザの戦争も、シリアの戦争も、事実は、テロ国家アメリカNATO、イスラエル、サウジアラビアによる、ただの「市民の虐殺」であるように見える。欧米ニュースによってあたかも内戦という名の戦争だとされているが、ウクライナにのりこんでいるのはアメリカNATOであり、かっての不正なベトナム戦争、イラク戦争と同一パターンだ。ガザもパレスチナにのりこんで、一般市民を虐殺しているのはイスラエルだ。欧米マスメディアで戦闘だとされているが、犠牲者の多くは一般の市民だ。「市民の虐殺」が、偽装されて戦争だと偽られていることは、ツイッターで流れたガザの映像でよくわかる。いまは、だれもガザの非情に関心を持たない。

ウクライナの政変では、デモ隊にビルから銃弾を浴びせ100人を虐殺したのは政府の治安部隊だと、かって新聞などのニュースにあったと記憶している。事実は犯人はアメリカNATO軍のスナイパーであり、犯行は政変後なにも調べられていない。オデッサの虐殺もほとんどニュースにもならない。ガザの虐殺も新聞はほとんど報じた記憶がない。フランスのシャルリー・エブド銃殺事件や日本の人質事件などのあつかいとはたいへんなちがいだ。左遷、解雇されるから、記者はだれも言いださないわけだ。
ウクライナの戦争は、正当性のないただのアメリカNATOによるテロでありクーデターだったのだ。アメリカの侵略戦争だった。マレーシア機撃墜は、ウクライナ軍戦闘機であった。欧米マスメディアは平然と事実を隠し、ねじまげて報道していたことが、はっきりわかった。
マスメディアは、かっては、原発安全神話や放射能安全神話をたれ流し、こんどは戦争安心神話でも流すつもりか。・・・・戦争って株があがってもうかるんですよ、と。さらに、放射能って医薬品株があがってもうかるんですよ、原発事故っていいですよね、と言いそうだ。

中東の市民の虐殺に加わるため、武器や原発を売りに行くのが、日本の戦争首相であった。イスラエルの戦争首相と並んで得意になっている狂気の宰相だ。同様なのが、戦争で株があがりそうで、嬉々満面となっている日本の狂気の新聞テレビなどだ。戦争首相を、戦争政党である自民・公明党が支援し、影で共産党も戦争を支持している構造なのは、原発問題とまるで同じ構造だ。マスメディアは、なにもかも完全にウソばかりだ。いまは、ウソが見えているが、しかし、じつは過去もすべてウソばかりだったのだ。

ここに、安倍首相がよろこんでよだれをたらしそうな核兵器製造の利権があるのだろう。核の情報もすべてウソばかりだったことが、ブログ日本は世界の最先端
http://blog.ap.teacup.com/applet/jiritu/ にあるつぎの重要な動画でわかる。少し長いが、だれもが見るべきだと思う。

常温核融合による小型核爆弾起爆テクノロジー
https://www.youtube.com/watch?v=l5LGLcrrkeU

ずいぶん昔から、小型核爆弾を使った核攻撃がうわさされていたが、ほんとうであった。ウソのマスメディアにだまされていたわけだ。常温核融合がマスメディアに攻撃されたのは、理由があったのだろう。STAP細胞の闇もおなじで、なにか巨大な医療テクノロジーが背後にあることを感じさせる。

さて、ツイートテレビを見てみよう。http://tweettvjp.blog.fc2.com/
湯川遥菜、後藤健二を危機に追い込みほくそ笑む安倍首相、その裏側は…
https://www.youtube.com/watch?v=pDaZdcWp4hI

世界をピラミッド構造にすれば、頂点さえコントロールすれば、底辺は不正選挙でえらばれた狂った戦争首相たちが、茶番の戦争を始めて、戦争産業をうるおしてくれるし、事実については、解雇されるのを恐れて良心にふたする社員がつくる「戦争マスメディア」が覆い隠してくれるというわけだ。

これが、NWO現代世界であるのだが、じつは基本的には、 何百年も前から同じ構造だっただろう。それはいまもむかしも「戦争マスメディア」のしたてる、茶番でありショウーであった。あたかも事実であるかのように偽装コントロールしていたのだ。偽装が巧妙なので、フランスの事件も日本の事件も犠牲者が生きているのか死んでいるのかもさえ、いまだもってわからない(笑)
だが戦争の発端にさせる偽旗作戦であるのはまちがいない。あああ、とうとう日本も戦争産業が中心の戦争国家になったものだ。戦争政党が、戦争議会で茶番の答弁するだけ。

これに市民が対抗するのは、映像のにせをあばくことだ。いまニュースに出るのは偽造の映像ばかりだと、「戦争マスメディア」の正体に気づいた市民によってバレバレになっている。市民のクソコラグランプリが証明している。これって、日本ってまだまだ正気な、まともな部分があるってこと?「戦争マスメディア」によってつくられる常識とクソコラグランプリとどちらがまとも?どちらが不謹慎?

6、日本はねらわれている・・・・究極の戦争文明のグレイによって

破壊してそのあと、破壊者による秩序をつくることによって占領、支配し、略奪が容易な世界をつくることができる。戦争は茶番だが、破壊は現実であり、家族の死や住居の破壊、支配、略奪の世界は現実だ。

飯山一郎のブログを見ていたら、今日1月28日も鋭い視点の記事があった。ここまで的確に書く飯山一郎の身辺が、すこし心配になってきたほど。飯山一郎ってヒトは、ほんとに、あたまE〜な〜。聡明なヒトだな猫〜。
http://grnba.com/iiyama/
2015/01/28(水)2 武器・兵器の販売に奔走する日本の軍事会社
『戦争ごっこ』?戦争そのものだ!

グレイ=イルミナティの偽旗作戦は、社会のあらゆるすべての事象に浸透している。シャルリー・エブドもISIS人質事件もすべてやらせ、偽旗作戦だったようだ。しかし、茶番だが、これで結局、何人かの人々が銃弾で撃ち殺されることになった。

いまEUがこけそうなので、アメリカNATOが、各国に鎮圧基地をつくろうとしているようだ。もちろんターゲットは一般市民だ。政府(イルミナティ)こそテロリストだ。アメリカNATOこそがテロリストなのだ。

最悪な間違いだった…(目覚めはじめたアメリカ兵)
https://www.youtube.com/watch?v=R4Z1avRGWiU

アメリカという存在が、もともとウソでできあがった国家であり、自由世界の旗手だと幻想を信じてきたことが、すべての間違いの根本だったのだ。
それにしても人間の文化、価値観、倫理、宗教感情などのほとんど大部分、すべてが、グレイによってウソとニセモノに置き換えられることによって、新しい秩序が生まれ、グレイの権力ピラミッドが完成されてきたのだ。この権力ピラミッドは、アメリカであったり、影の政府であったり、イルミナティピラミッドであったりするわけだが、もともと持っていた人間本来のものを破壊して、グレイが考えるものを人類にあたえ、置き換えてきたピラミッドなわけだ。

人間本来のものでは、グレイがのぞむ権力や富による権力ピラミッド構造を、もともと人類はつくらなかったからなのだろう。

人類の文明とはなにか。都市国家制度があり自由と法が約束された人間本来の世界。これが、いわゆるプラトンのいうアトランティス文明なのであり、紀元前2000年以前の東部地中海、小アジアが、全世界の文明を牽引していたのであった。
中国の殷、周が属国となって従った小アジアの西王母の国、アリンナ太陽女神の国である。グレイエイリアンが、最初にターゲットにした破壊目標だったのはとうぜんである。
これらの破壊と暗黒時代のあと、ローマ帝国という権力ピラミッドができ、ヴァチカンという宗教ピラミッドができる。ここでキリスト教の布教とは福音の宗教と誤解されているが、じつは本来の目的は、旧宗教の破壊であっただろう。時がたつにつれ、宗教は、新聞教、テレビ教に変わっていったが、宗狂、新聞狂、テレビ狂となって、それだけをよりどころとする狂人ばかりの地球文明ができた。マトリックスだ。

ユダヤ人のものとされる金融、株式市場なども旧来の人間的な通貨システム交換システムを破壊してできあがったものなのだろう。これらは、とうぜんユダヤ人のものというより、悪魔的なグレイの考えにしたがったものだ。みなもとがわからないので、証拠もなしにユダヤだとかシュメール起源といわれるが、それはなんの根拠もない。この西欧での「旧来の通貨システムの破壊」とは、私の素人な仮説として中世の黒死病パンデミックの混乱時であると考えている。

ここにも「世界の終わり」があったのだ。新しい秩序の創造として、ユダヤ銀行家による国際秩序が創造され、イングランド銀行や東インド会社として現実化していく。そのはてが大英帝国であり、大英帝国がなぜ世界統一政府とならなかったかを、グレイは不審に思い、みなで議論し、大英帝国を研究していたストリーバーが招かれ尋ねられたのであった。ところが、ストリーバーは、明治維新や第2次大戦後のアジアの植民地独立など、ことごとく大英帝国の世界帝国化に立ちはだかった日本については触れなかったのだろう。かれらからは皮肉と無関心、冷笑の反応しか得られなかったことがストリーバーの言葉からうかがえる。

グレイたちは、大英帝国がなぜ世界統一政府とならなかったかという疑問をもち、原因が日本にあると考えたのであろう。日本人を原爆により殺略させ、経済蹂躙させたり、311では原発爆破をさせ、日本文明を根こそぎ葬り去ろうとしているのであろう。かってアトランティスの壊滅では、テラ噴火という史上最大の噴火をさせ、小アジアをパンデミックでめちゃくちゃにし、このすぐれた東部地中海文明を根こそぎ根絶やしにしたのであった。いまもおなじように、グレイの破壊意志は、日本民族、日本文明に向けられているのだ。グレイのアジェンダでの最重要ターゲットこそが、おそらく日本の破壊なのである。

そのため、世界のなかで日本は、もっとも深く、特別にマインドコントロールされてきた国のようにみえる。海外の情報から完全遮断し、人々を骨抜きにする努力が長年つづけられてきたのだ。

https://twitter.com/kuroda06sayuri/status/559895125363408899
https://twitter.com/kuroda06sayuri/status/560931701841330176

軍事産業の純利益の6割が、工作費に使われるわけだ。マインドコントロールの
工作費用は巨額にのぼるわけだ。

かれらの情報戦略は、いまはITを基盤としている。プロトコルや規格設定の段階で、すでに勝敗は終わっている。ウイルス対策ソフトなんてのは、たんなるかれらの金もうけであり、市民からたかるだけの装置にすぎない。セキュリティという壮大なウソである。ATMの金銭出納もSWIFTで1円にいたるまでNSAに捕捉、管理されている。おまけにTカードまでもだ。何重にも何重にもねんをいれて個人情報はクラウドに吸い取られている。

あなたの携帯は、いつも盗聴されている!?
http://ameblo.jp/64152966/entry-11733397779.html

らっきーデタラメ放送局★第76回『個人情報発信機!スマートフォン』
https://www.youtube.com/watch?v=sBF9lJNuwaw
らっきーデタラメ放送局★第77回『スマートフォンとNSA』
https://www.youtube.com/watch?v=4KRNXKZ8XOk

7、われわれ最後のチャンスになるのか?  プーチン、スノーデン

いま、UFO宇宙人については話すことをはばかられ、トンデモとか都市伝説なる言葉が生まれ、工作員の流すトンデモ話が巷にみちあふれている。にせものをあふれさせ、ほんものを埋没させるという情報操作のテクニック、マインドコントロール手法である。残念ながら、ほぼ100%の人が、このUFO宇宙人という情報戦争に完敗している。

だが、プーチン、スノーデンは、ロシアの声をつかって、このマスターキーをこじ開けてしまったのだと思う。いったん開いてしまった扉は、もう閉じることはできない。もう一度ねんのために、多くの人が見るようにリンクを書いておこう。身震い(私だけか?)せざるを得ない記事である。

スノーデン、米国を動かしているのは宇宙人だ
http://japanese.ruvr.ru/news/2014_09_14/277253873/

だから・・・ほんとうの意味で、UFO宇宙人についてのディスクロージャーをしたのは、じつにプーチン、スノーデンであったのだ。人類の数千年にわたる歴史のなかで出現した最後のチャンスが、偉大なデュオ、プーチン、スノーデンであると私は考えている。
http://www.asyura2.com/12/bd61/msg/706.html

コメント [自然災害20] <噴火>弥陀ヶ原で強い硫黄臭!噴気活動が活発化!御嶽山噴火を的中させた教授、富士山噴火2014年±5年と予測! 赤かぶ
07. アーモンドの芽生え 2015年1月31日 21:21:56 : n5biyl0bqying : FlWYuv54LU
>>東北沿岸が3年で30センチ隆起
>>嵩上げした部分が邪魔になり荷揚げに苦労する漁師
>>https://www.youtube.com/watch?v=yss7nSXQe_Y

>>アウターライズM8東北再壊滅が射程に入った

<<全くです。予定伊通りですよね。

 明治の津波は、このタイプだったので、殆ど揺れないままに大津波で2万5千人が犬死。
 いわき沖のアウターライズがいつでも起きると数回も発表済みでも、復興だと騒いでる
 犬脳の漁師達。明治規模にはならないけど、防潮堤や波消しブロック無しだと、たった
 2mの津波が直撃で、木造2階建ての家屋は木っ端微塵になるのに、田舎者って、いつま
 でも脳が犬で犬死だなぁ・・・


 ★こんなときに、また、アホノミクス・・・・再稼動・・・

 福島第二原発の廃炉は事業者判断、安倍首相、再稼働に含みを残す  (1/30 NHK)

 ★日本の火山、活動期入りか 震災後に各地で活発 (1/31 日本経済新聞)

  
 100年後も廃炉出来ないくせに、2025年には国民の20%が【75歳以上】になり、
 寝込んでる年寄りだらけ・・・で、戦争しか頭にないネオコン・日本会義

 
  こんな時代に、原発再稼動に、八ッ場ダム再建設、自衛隊がテロとの戦い後方支援で、
  日本中がイスラム過激派の餌食にされる・・・

〜〜〜〜
   以下にある数の数倍も存在する過激派を舐めてると、五輪がテロ塗れダァ・・・

 
アルカーイダ: 多国的
ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線: 多国的
トルコ・ヒズボラ(クルド・ヒズボラ):(Turkish Hezbollah) トルコ
大東方イスラム砲撃戦線:(Great Eastern Islamic Raiders' Front)  トルコ
アンサール・アル・イスラム:(Ansar al-Islam) イラク
アンサール・アル・スンナ: イラク
イラク・イスラム軍: イラク
イラクの聖戦アルカーイダ組織: イラク
マフディー軍: イラク
アル・アクサ殉教者旅団:(Al-Aqsa Martyrs' Brigades) パレスチナ(ヨルダン川西岸地区)
ハマース: パレスチナ(ガザ地区)
イスラーム聖戦: パレスチナ・シリア
ファタハ・イスラム: レバノン
ヒズボラ: レバノン
アラビア半島のアルカーイダ: イエメン
エジプト・イスラム・ジハード団: エジプト
イスラム集団: エジプト
イスラーム・マグリブ地域のアル=カーイダ機構: アルジェリア
武装イスラム集団: アルジェリア
モロッコ・イスラミック・コンバタント・グループ:(Moroccan Islamic Combatant Group)モロッコ
アル・シャバブ:(Al-Shabaab)  ソマリア
ボコ・ハラム: ナイジェリア
ジャイシュ=エ=ムハンマド: パキスタン(カシミール)
ラシュカレトイバ: パキスタン(カシミール)
ハラカト=ウル=ムジャヒディーン:(Harkat-ul-Mujahideen) パキスタン
パキスタン・ターリバーン運動: パキスタン
インディアン・ムジャヒディーン: インド
インド学生イスラム運動:(Students Islamic Movement of India) インド
ジャマアト=ウル=ムジャヒディーン:(Jamaat-ul-Mujahideen) バングラデシュ
ヘズブ・エ・イスラミ・グルブッディーン: アフガニスタン
ターリバーン: アフガニスタン
ウズベキスタン・イスラム運動: ウズベキスタン 
東トルキスタンイスラム運動: 中国(新疆ウイグル自治区)
ジェマ・イスラミア: インドネシア
ラスカー・ジハード(英語版): インドネシア
アブ・サヤフ: フィリピン
モロ・イスラム解放戦線: フィリピン
パタニ連合解放組織: タイ
カフカース首長国: ロシア


  まだまだたくさんあるんだよぉ〜〜ン

  日本には、既に、【数十のモスク】が建っていて、イスラム教徒は一杯居るでよぉ・・・

〜〜〜
http://www.asyura2.com/14/jisin20/msg/399.html#c7

コメント [カルト14] ベン・イスラム国=サウジ=イスラエル=ロス、同国の発信は全てイスラエルから、人質は役者、だそうです。 小沢内閣待望論
12. 2015年1月31日 21:22:04 : I1dXExxYp2
日本人が狙い通りの反応を見せず、反イスラムも主戦論も出てきてないから工作失敗だろう。もう少し時間をかけて煽るだろうが飽きが来ているうえ、用意したセットが40代のホモ二人組では完全に無理がある。誰が計画したのか知らないが責任を追及しる。
http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/128.html#c12
コメント [政治・選挙・NHK179] トマ・ピケティ氏、アベノミクスの化けの皮完全に剥がす!英フィナンシャル・タイムズ紙だって「アベノミクス」を批判しているよ gataro
01. 2015年1月31日 21:23:10 : C3lq0gpU9A

  そのとおり!

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/135.html#c1
コメント [カルト14] 安倍の中東訪問に脅迫をぶつけたイスラム国ですが、衆院選はスルー、バグも米英イも安倍もグルという事です。 小沢内閣待望論
07. 2015年1月31日 21:27:02 : I1dXExxYp2
ヨルダンの飛行士は偽旗ではなさそうだし、死刑囚を死刑にするという脅迫が通じない場合はイスラム国のメンバーの家族を人質に取るという中華方式を採用してはどうか。

http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/139.html#c7
コメント [戦争b14] 日本人をなめんなよ。太陽が2つもあるじゃないか?その偽画像を国は本物と断定。グルだろ? 飯岡助五郎
20. 2015年1月31日 21:27:07 : FD4oichIGw
>>19. 2015年1月31日 17:26:55 : G6tcs9dZYQ 様

同感
ついでにCIAともね

でも、

日本の警察組織のトップって、本物の日本人なのか?

そこにこのインチキ画像同様、イカサマの原点がある
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/836.html#c20

コメント [経世済民93] 「「すでに、先進国には資本主義終焉のサインが出ています」水野和夫氏インタビュー:岩上安身氏」 赤かぶ
12. 2015年1月31日 21:27:09 : ny7FqYCV1k
借金して都合が悪くなると資本主義のおわりか!

都合がいいな!



http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/344.html#c12

コメント [政治・選挙・NHK179] 民主・岡田代表 労働者派遣法改正案は廃案を(NHK) 赤かぶ
01. 2015年1月31日 21:28:56 : C3lq0gpU9A

  派遣会社 = 口入屋 = ピンハネ屋 → その元締め = 平蔵


http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/138.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK179] 日本の恥! またネトウヨがデマ拡散(simatyan2のブログ) 赤かぶ
08. 大和狼 2015年1月31日 21:29:56 : 4bXKnGQAUaNEQ : hy55y1MCkU
義理の?母の父は朝鮮の日本軍人だったと記者会見で述べていますね。
何やらとても解りにくい。

日本人だろうが、日本国籍が無かろうが二人ともそんな極どい紛争地に潜入する行為自体普通じゃありませんね。

アベ首相がエジプト、イスラエルで結果的にイスラム国のテロに対峙すると宣言したのと同じく日本国と日本国民にはいい迷惑でしょう。

アラブはおろか、日本国内でもテロとの闘いを強いられることになる平和国家の日本国民は
望まないテロと武力闘争を強いられることは決定してしまった。

従軍慰安婦も南京も日本の侵略も中国共産党、殆ど朝鮮の捏造虚構だという
歴史認識は新大和民族の主張であるべきだが、両者とも胡散臭さが払拭出来ない。

殺害された人と後藤氏も救出活動に努力している政府をとやかく言うつもりはないが、在日かという風評を直ちにネトウヨと言って済ます短絡精神こそ胡散臭い感じですがね。
もちろん後藤氏の無事開放を願っていますが。

世界から一切の殺人行為を禁止すればいいじゃないですか。
殺人者はすべて死刑とか、。


冗談ですがね。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/121.html#c8

コメント [政治・選挙・NHK179] 安倍が生んだ初の戦死者か〜湯川の民間軍事会社と新自由主義、軍事拡大(日本がアブナイ!) 笑坊
09. 2015年1月31日 21:30:28 : 38xqq7xWok
あの木本とか言う顧問。ダボのお友達。に、外国人記者クラブで会見してほしい。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/111.html#c9
コメント [政治・選挙・NHK178] 歴史の岐路で国民を見捨てるのか、日本共産党(街の弁護士日記) 赤かぶ
11. 2015年1月31日 21:34:27 : FuJgA6pYCj
小沢氏を嵌めたデタラメ検察と歩調を合わせる共産党の中に極めて優秀な弁護士たちがいたそうだ。
そいつらが裏でつながっていたんだ。

今度の中東の日本人質事件でも共産党はまたやってくれた。
権力の犬がよく分かった。

国会で自民党とのプロレスにうんざりもう止めてくれ。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/910.html#c11

コメント [政治・選挙・NHK179] 道頓堀プール計画、中止に/橋下徹市長「道頓堀プールで泳ぎたい人は?」⇒中学生1人だけ挙手 中学生の方がずっと賢い。 gataro
02. 2015年1月31日 21:35:45 : C3lq0gpU9A

  言っちゃぁなんだが、太一っちゃんボケたかな?


http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/112.html#c2

コメント [医療崩壊4] 阪大など80本超の論文に不正疑惑 共著者に「東大病院長」が(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
02. 2015年1月31日 21:35:49 : Q82AFi3rQM

「性善」の学者は抹殺されてる。

 学者のほとんどすべては「性悪者」。


 現在の医療はその結果。
 なおすことを発見した学者は組織的に迫害されて消されてる。
 私はケアマネジャーだから高齢者としょっ中病院に行き、医者と話を
 するが、薬漬け・医療依存の状態を医者自体が意識していない。

 ま、医者なんか社会性皆無の存在だから自分が何やってるかの
 意識もないことはしょうがないだろう。
 医者というのは社会教育されずに「ヒトの命を左右する」事が
 できる状況に、職業として就かされてしまう気の毒な人達だ。

  現場の医師は良い人、変なひといろいろいる。
 問題はそれらの医師を監督管理してる病院組織と医療保険を管轄
 している国だろう。
 職場において「現場」の人間はそうそう「悪巧み」はできない。
 そんなことしている時間的余裕が、そもそもない。

  阪大の院長ってそうとう「ヒマ」があったんじゃないの?
 
 だいたい、同じ人間の健康や病気に関連する「業界」でこういう
 うわさが出ること自体、阪大院長が日頃からどー思われていたか
 ってことだ、と私は思うわね。
 さもなきゃハメられた、かだ。

  医学部トップ関係者は、普通他人をハメることはあっても自分
 がハメられることは、ほとんど有り得ないと私は思います。
 (『白い巨塔』の財前教授に対立する、あのひとみたいな。)


  以上は私の個人的感想ですので、証拠もなにもありません。

  ケアマネジャーなんかやってると、厚生労働省も国も医師も病院も、
 ほとんど全部の「健康関連事業組織」について、不信となります。

 それは当たり前だ。
 この国は国民の年金福祉健康障害について、一切思いやりがあり 
 ませんからね。
 消費税上げて年金さげて介護報酬さげて介護職員が生活できない
 ような給料にさせて、さて、インドネシアから介護要員を「移民」
 させて日本人の介護職の給料をさらに下げさせようという魂胆だ。


  阪大の教授の話など、こうなると、わたしに言わせりゃ勝手に
 捏造論文でもなんでもやれ、ってことだ。実際の介護障害支援の
 場は目の前の仕事に追いまくられて論文どころの話じゃない。

  「国」組織は国税をおさめる人の集団によってできあがってい 
 る組織のはずだが税金を取ってその金を何に使っているのか、
 決算をはっきり国民に提示していない日本て国は、国とはいえな
 いと、私は思う。
 決算を示さない組織は基本的に「やくざ」だ。
 ヤクザというのは、公共的存在ではないことを自ら許容しぃている。
 日本国って、税金(みかじめ料)を取り立てていながらそれを何に
 どう使ったか報告しないんだから、こりゃヤクザよね。
 日本の政治関係者は公共的存在であることをみずから拒否してる。
 決算報告を、金取った国民に示さないんだもん。

  だまして徴収、黙ってねこばば、一億の人間の稼ぎを騙して吸
 い取る。

 これじゃ、どー考えても、「最貧国」アメリカと一緒じゃん。
 宗主国アメリカがいいように食い散らかす日本を「食い散らかして
 下さい」と安倍氏みずから言ってんだから、阪大なんかが何やった
 って、全体として痛くもかゆくもないわよね。

 医学部って「属国日本」とおんなじような世界。
 医者は馬鹿ばっかりだし。

 患者は騙されて子宮頸がんワクチンとかインフルエンザワクチンとかを
 注射されに行くんだぜ、病院に。
 表向き福祉・裏は大儲けビジネス・巨大ウソ産業の医療。

 馬鹿再生国日本。

 阪大なんか可愛いもんよ。



http://www.asyura2.com/14/iryo4/msg/387.html#c2

コメント [政治・選挙・NHK179] トマ・ピケティ氏が「不平等が拡大」と警鐘!日本が相続財産に依存する社会だと指摘!首相「ピケティ氏も成長は否定していない」 赤かぶ
06. 2015年1月31日 21:37:24 : 5nRoCX1JP2
>>04. 佐助 2015年1月31日 19:47:29 : YZ1JBFFO77mpI : 439YTZK3Rc
> もともと企業は「1ドル115円以上の円高・円安にはならない」と心理的壁を築いていた。だが1ドル80円の壁も簡単に破られた,円安は1ドル115円の壁も破られ,これらの壁が、ベルリンの壁より簡単に崩壊する。

1ドル80円の壁が簡単に破られたのは、日銀が手持ちの国債を売り払い、市中から金を吸い上げたからである。
つまり、日銀が意図的に手持ちの国債を売り払って1ドル80円の壁を超えさせた。

> 株式市場は、ナマズと同じように、どんな振動にも反応する。 2007年の始めと真ん中で、大きな暴落が発生した。だが、その暴落が、三年後に、株を十分の一まで縮小させるマグニチュード9の地震の前兆だとは、ナマズでなくとも認識は困難である。

1ドル80円の時の日経平均株価は約8000円。
黒田日銀は国債を年に80兆円の率で買い入れ始めたので市中に金が行き渡りその結果1ドル120円近くなり、日経平均株価は1万6千円の超えた。

ドル円の交換率や日経平均株価は制御できない自然現象では無く、日銀が簡単に制御できる人為的な現象である。
トマ・ピケティ氏は、ドル円の交換率や株価の変動を中央銀行が人為的に変える仕組みを知らないように見える。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/129.html#c6

コメント [政治・選挙・NHK179] 日本がこれから宗主国にやらされるであろうこと・らっきーデタラメ放送局 第136回 お天道様はお見通し
01. 2015年1月31日 21:37:47 : FD4oichIGw
いいなあラッキーちゃん

もっのすごい優秀なブレインがバックにいるんだろうなあ

面白いけれど、ちょっとクールでインテリジェンス溢れる控えめさがかっこいい

応援するよ〜
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/107.html#c1

コメント [カルト14] 米英イは、ダマスゴミがクソコラグランプリに敗れ、科警研を投入し、合成を否定、またネタにされるのがオチです。 小沢内閣待望論
17. 2015年1月31日 21:37:48 : I1dXExxYp2
科捜研がこれを合成なしで間違い無しのホンモノと太鼓判を捺すとか、花畑母が三回目の声明で前言を撤回、間違い無くムスコの声と叫ぶとか、妻のお涙頂戴声明が発表されるとか、わりと行き当たりばったりだが裏で繋がっており、相談して演出を進めているね。だが、ここまで杜撰とは思ってもみなかった。

しかしボストンテロもチャーリーテロも杜撰だったな。
もともと陰謀というのはこの程度のものなのだろうか。

http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/134.html#c17

コメント [政治・選挙・NHK178] 岡田氏「自衛隊の邦人救出、議論したらいい」(産経新聞) かさっこ地蔵
06. 2015年1月31日 21:40:11 : 7AnABT8xwE
岡田、引っ込んでろ。おまえはイオンの救済に行け。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/909.html#c6
コメント [原発・フッ素41] 安全な原発は夢か 仏アレバの新型炉建設が難航 あっしら
19. 2015年1月31日 21:40:48 : j3sfPiSTZs
なんで米国のGEやWHが格下の日本の東芝や日立の子会社なのか。
どなたか解説を。
http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/719.html#c19

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