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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100404
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[リバイバル3] 酷い音のインチキ・レプリカを量産して伝説の評価を落とした Goodmans Axiom80 中川隆
65. 中川隆[-13450] koaQ7Jey 2020年3月24日 07:36:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1454]
オークション情報〜栄枯盛衰〜 2020年03月24日 | オークション情報
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/70420e03632f1746d78da3010bf63f7c


今や多くのオーディオ愛好家にとってなくてはならないものがネットオークションだろう。

若い頃に欲しくて欲しくてたまらなかった憧れの機器が、ごく身近な存在になり手が届く範囲にあるという喜びは何物にも代えがたいが、その一方で「落ちた偶像」のようにあまり落ちぶれた姿を見たくないという複雑な思いも先に立つ。

たとえていえば容色の衰えた女優をテレビで観るようなものかな(笑)。

つい「平家物語」の冒頭の一節が蘇る。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。」

今回は最近のオークションで気になった物件を3件ほどメモしておこう。


言わずと知れたタンノイのウェストミンスターだが、今どきどのくらいの値段で落札されるんだろうと野次馬根性でウォッチリストに入れていたところ、落札額は「50万7千円」だった。

ユニットのエッジが風化していたので要修理品だったがそれにしても安っ。今昔の感がありますなあ。

我が家で購入したのは今から30年ほど前になるが、購入することを妻に言いそびれてしまい実際に運び込む前夜になって告白、そして1週間ほど口を聞いてもらえなかった苦〜い記憶がある(笑)。

今となっては少々「持て余し気味」という皮肉な結果に終わっているが、まあ、腐れ縁というところですかね。

図体が大きいし重たいしで都会のマンション向きではないことも人気が無い原因の一つだろう。

個人的にはオーディオで一番難しいのは「低音対策」だと思っているが、それこそいろんなアプローチがあるものの、箱の力(バックロードホーン)を利用したものとしてはこれが最右翼でしょう。

小さな箱からは絶対に出ない低音を味わえるが、歳を取るにつれ「こじんまりとした音」に傾いていくのはいったいどうしたことか(笑)。

3件目は「AXIOM80」。

かなり希少なユニットなのに、常に途切れることなくオークションに出品されているのはいったいどういうわけか?。

いったん手に入れたものの、とても神経質で鳴らし方が難しいので手放す方が多いような気がする。

このユニットと付き合うには「根気との勝負」に尽きますね。このくらいオーディオを勉強させてくれるユニットはないと思う。

たとえば、ユニットの後ろ側に放出される逆相の音の処理の仕方に伴う「箱のツクリ」方、相性のいいアンプの選択、コード類から電源対策などありとあらゆる知識と行動を総動員しないとうまく鳴ってくれないし、我が家だって未だに進行形の状態で山の頂さえも見えてこない状況にある。

おそらく命尽きるまで果てしない模索が続くことだろうと覚悟を決めている。

余談はさておき、程度の良さそうなこの復刻版の「AXIOM80」はどのくらいの価格で落ちるんだろうと見守っていたところ、結果は「242,000円」なり。

高くつくかどうかはひとえに落札者の「汗と涙」にかかっているが、はたして・・(笑)。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/70420e03632f1746d78da3010bf63f7c

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/686.html#c65

[リバイバル3] 高層マンションには住んではいけない 中川隆
60. 中川隆[-13449] koaQ7Jey 2020年3月24日 07:42:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1455]

2020年03月24日
タワーマンション購入者の悲劇、すべて欠陥マンションだった?

台風で地下設備が水没したタワマン


画像引用:住みたい街・武蔵小杉”セレブタワマン”が停電・断水 住民たちは近隣ホテルへ【台風19号泥水被害】| ニュートピ! https://newstopics.jp/url/8539056

壁が薄く隣の物音が聞こえる

一時期は六本木ヒルズなど富の象徴とされていた高級タワーマンションだが最近評判がよくない。

居住者からの不満や災害への弱さ、高額な維持費や住環境の悪さなどいろいろな問題が起きている。

タワマンの評判が一気に落ちたのは2019年10月の台風19号で、武蔵小杉や二子玉川で被害が大きく報道された。



むろんタワーマンション自体は水没しなかったが、停電したうえ下水が逆流しトイレを流せなくなった。

タワーマンションの電源や駐車場は必ず地下にあるが、当然ながら河川の水位より下にある設備は水没する。

そうならないために堤防や堰や排水ポンプがあるが、この時は排水路を通じて多摩川の水が居住区域に流れた。


本来の役目は居住区域の水を川に排水する排水管だったのだが、水位が上昇したため逆流しタワマン側に多摩川の水が排出されてきた。

この結果2棟のタワマンで地下の電源設備が冠水したうえ下水も流せなくなり、テレビで大きく報道された。

エレベーターが使えないので下から毎日水をくみ上げたり、トイレのために降りてくる様子も報道された。


入居者たちは一様に「タワマンは災害に強いと思っていた」と話したが期待は裏切られた。

マンション側は住民にトイレを使わないよう要請したが、トイレを使用する住民がいて「犯人狩り」まで行われた。

タワマンはエレベーターや電気設備があるから便利なので、これらが使えないと山上の「ぽつんとした民家」と変わらない。


金持ちへのやっかみもあり「タワーマンションは大したことが無い」という風潮に変わった。

安普請と高額な維持費

最近報道されたのはタワマンの壁の薄さで、壁が薄いので有名なレオパレスと変わらないという。

隣の住人の生活音やトイレを使う音まで聞こえてきて、入居した人はイメージとの落差に愕然とする。

なぜこうなるかはタワーマンションは高さを実現するため極限まで軽く作る必要があるため、必然的に壁が薄くなる。


タワマンの壁はベニヤ板か段ボールのようなものでできているので、遮音性はまったく期待できないそうです。

タワマンの外壁や戸境壁は軽量気泡コンクリートやボードが使われていて、段ボールより高級だが普通のコンクリブロックより弱い。

鉄筋コンクリートの低層マンションは型枠を組んでミキサー車でセメントを流すが、タワマンはボードをはめ込むだけで完成する。


低層マンションは頑丈な城のような構造で、タワマンは住居よりは鉄骨倉庫の構造に似ている。

そのほうが軽量に作れて高層階にできるからで、居住性や利便性はまったく考えられていません。

タワマンは維持費が高額で12年ごとに1戸当たり240万が必要とされ、計算すると年20万円になる。

階層による階級格差がある

ところがマンションが高齢化するほど修繕積立金が高くなり、15年後には月4万円、30年後には5万円以上必要になる。

修繕積立金が増えるのは法律上の基準が厳しいからで、多くの高額設備は15年か30年ごとに交換や大修理が必要になります。

法律上定められた設備更新のための費用なのでケチることはできず、入居者が減ればゴーストマンション化が予想される。


中低層マンションでは20年目以降の修繕費用はタワマンの半額程度なので、中古タワマンを買う人はまず居ないでしょう。

3つめのタワマンの欠点は住人の質が悪いことで、上の階の「身分」が高く下の階を差別しているという。

タワマンは上の階ほど販売価格が高いので上層階ほど金持ちで社会的地位が高い。


エレベーターの何階で乗り何階で降りたかでその人の地位や収入がわかってしまうので階層による身分格差が生まれる。

上層階の住人は優越感を感じ、下層階の住人は上から圧迫されているような居心地の悪さを感じるという。

そこまでしてタワマンに住むより郊外の低層マンションの方がよさそうに思えます。

http://www.thutmosev.com/archives/82511999.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/654.html#c60

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
3. 中川隆[-13448] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:24:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1456]

Tchaikovsky Sinf n 5 Bruno Walter NBC交響楽団 1940











NBC Symph. Orch.
Bruno Walter
(live rec. 09.03.1940)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c3
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
4. 中川隆[-13447] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:26:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1457]

Tchaikovsky Romeo e Giulietta Bruno Walter 1942録音




Tchaikovsky : Romeo e Giulietta (Ouv. fantasia)
Los Angeles Philarmonic
Bruno Walter ( live rec. 21.05.1942)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c4
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
5. 中川隆[-13446] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:31:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1458]

J.S.Bach St Matthew Passion BWV 244 (first part) - Walter - NYP (1944年)




New York Philharmonic Orchestra
Bruno Walter conductor.
Live rec. April 9, 1944 (only the recording of the first part...)

William Hain (ten) Evangelist
Lorenzo Alvary (bass) Jesus
Nadine Conner (sop)
Jean Watson (alt)
Mack Harrell (bass)  
Nerbert Janseb (bass)

Ralph Kirkpatrick (harpsichord)
Edouard Nies Berger (organ)
Janos Sholz (viola da gamba)
John Corigliano and Michael Rosenker (violins)
John Wummer (flute) / Harold Gomberg (oboe)
The Westminster Choir (J.F. Williamson)


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c5
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
6. 中川隆[-13445] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:34:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1459]

Bruno Walter conducts Weber: Oberon, Ouverture (rare video) 1931年




1931 Berlin

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c6
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
7. 中川隆[-13444] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:36:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1460]

Bruno Walter, cond. NYPO Schumann: Symphony No.3 "Rhenish" 1941年





Schumann: Symphony No.3 in E flat major "Rhenish"

Bruno Walter, conductor
Philharmonic Orchestra of New York

Recorded in Feb 2, 1941

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c7
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
8. 中川隆[-13443] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:38:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1461]

Schumann sinf n 4 Bruno Walter 1940年





Robert Schumann : Sinf. n. 4
NBC Symphony Orch.
Bruno Walter
(live rec. 02.03.1940)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c8
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
9. 中川隆[-13442] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:40:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1462]

Bruno Walter: Schumann: Symphony 3 & 4 (R.1941 & 1938年)





• Symphony No. 3 in E-Flat major, Opus 97 (“Rhenish”)
New York Philharmonic
February 4, 1941; Liederkranz Hall

• Symphony No. 4 in D minor, op. 120
London Symphony Orchestra
April 26, 1938; Abbey Road Studio No. 1, London

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c9
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
10. 中川隆[-13441] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:42:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1463]

Schumann:Symphony#4-Bruno Walter & Mozart Festival Orchestra(Paris)1928年





Robert Schumann:Symphony#4 in dminor-Opus 120-

Bruno Walter Conducting The Mozart Festival Orchestra(Paris)-1928 !

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c10
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
11. 中川隆[-13440] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:45:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1464]

Bruno Walter /BPO - J. Strauss : Roses of the South - Waltz 南国のバラ (1930)




Berlin Philharmonic Orch.
recorded 2/14, 1930
transfer from Jpn Columbia 78s / J-7663(AX-5448)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c11
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
12. 中川隆[-13439] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:49:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1465]

Bruno Walter - J.Strauss : Die Fledermaus - Overture こうもり序曲 (1938) 再復刻





Orchestre de la Societe de Concerts du Concervatoire
recorded 9 May 1938
transferred from Jpn Columbia 78s / JS-37(2LA-2536)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c12
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
13. 中川隆[-13438] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:51:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1466]

Bruno Walter - Johann Strauss : Wiener Blut ウィーン気質(かたぎ)- 1929 (再復刻)




Berliner Staatskapelle Orch.
recorded in January 1929
transferred from Jpn Columbia 78s / J-7605(AX-4578)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c13
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
14. 中川隆[-13437] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:54:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1467]

Bruno Walter - Johann Strauss II - The Gypsy Baron Overture ロンドン交響楽団





London Symphony Orchestra
Technics SL-1200MK4

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c14
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
15. 中川隆[-13436] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:57:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1468]

Walter Conducts Strauss ウィーンの森の物語
Tales from the Vienna Woods, Op. 325




Columbia Symphony Orchestra
Bruno Walter


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c15
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
16. 中川隆[-13435] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:59:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1469]

美しき青きドナウ
BLUE DANUBE WALTZ,Op 314''JOHANN STRAUSS ''BRUNO WALTER'conducting the Columbia'' Vinyl,,



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c16
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
17. 中川隆[-13434] koaQ7Jey 2020年3月24日 09:01:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1470]

Bruno Walter - Mozart: Symphony No. 40 - Finale - Berlin Philharmonic 1950年



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c17
[リバイバル3] イタリア人が「世界で最も健康な国ランキング」1位!! その理由はオリーブ油? 中川隆
4. 中川隆[-13433] koaQ7Jey 2020年3月24日 09:39:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1471]
イタリアの惨状に心が痛む 2020 MAR 24 by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2020/03/24/イタリアの惨状に心が痛む/

イタリアはドイツ人にとって永遠の憧れの地である。かのゲーテもアルプスを越えるとわくわくした。僕の部下たちもお客さんも、ドイツでは渋面を作っているがあっち側へ行くと人が変わったように明るくなった。

何度イタリアへ行っただろう。まずは仕事で、チューリヒから車を飛ばせばゴッタルド・トンネルを抜けてイタリア語圏のルガノへ1時間ちょっとで着いた。そこからコモ湖を経てミラノは1時間だからぜんぜん外国という気がしない。観光、買い物、オペラ、スキー、ゴルフ、サッカーなどの「不要不急」も入れれば2〜30回ぐらいだろうか。

クルーズ船もヴェネチア、ジェノヴァから乗った。最初は35年前。東洋人は我々夫婦だけで、余生でもう一度だけ外国旅行するなら地中海クルーズがいいと思う程楽しくイタリアには特別の思いがある。子供たちが結婚記念日にクルーズのチケットをプレゼントするよと言ってくれたその矢先にコロナ禍が襲ってきてしまったが、残念より何より凄まじい勢いの感染による惨状には心が痛むばかりである。

あの国は財政が苦しいから中国の一帯一路に飛びついたのはわかるし、それがこんな厄災につながろうとは誰も想像しなかった。北部に住みついた中国人労働者が春節でウィルスを持ち帰ったのを遮断しなかった初動の問題はあるが、日本も武漢の閉鎖前の対中国の水際対策のユルさは似たもの同志だ。そのうえにこっちはD・プリンセス号の数字もあるのだから日伊の被害の差は驚くしかない。こんなに失敗してるのになぜ数字が少なくて済んでるんだろう?

統計では示せないが、日本が今のところイタリアのようになっていないのは何よりも、清潔好きという国民性の寄与が非常に大きいと思う。ドイツ人もそうなのだが、それは主婦がテーブルや食器やドアのノブをぴかぴかに磨きカーテンの裾を微塵も汚さないことにプライドをかけて執着するという感じであってちょっとちがう。公衆トイレにまでウォッシュレットがあり、バスタブで頻繁に入浴し、普段からうがい・手洗いが当たり前という身体的な潔癖さという面では日本人に勝る民族はないように思うがどうだろう。

それがイタリア、フランス、スペインのラテン系の人たちとなるとさらに我々とは遠い。例えばハグだ。日本ならカラオケで盛り上がれば社員とのコミュニケーションはOKだが彼らはそれだけではいけない。見ているとやっぱりポイントは締めのハグであり、女性なら両のほっぺにチュチュぐらいは当然というか、場面によってはしないと失礼の雰囲気すらある。酒の勢いではなく立派な文化なのであって、例えばコンチェルトが終わって女性ピアニストに指揮者がしているあれだ。濃厚接触などというも野暮であるが、そうはいっても物理的には濃厚接触以外の何物でもない。

幸か不幸か柄でない僕はハグもキスもまったく不得手でつまんない堅物と思われてたろうが、そのかわりというのもなんだが潔癖症であり、例えばプールサイドの濡れた箇所を歩くのが猫なみに生理的に嫌いである。不潔に感じて気持ちが悪く、おかげで泳ぎは今もさっぱりだ。盃や茶器の回し飲みもウィルスの交換に思えて御免である。電車の吊革はコロナ以前から触らないし、仕方なければ小指と薬指でつかむ。やたらと初対面で握手する西洋の風習に慣れるにも時間がかかった。でも、ここまでではなくともこういう日本人は結構いるのではと思う。空気感染もあるコロナがそれで大丈夫とは思わないが、真逆の性格の人よりは餌食になりにくいだろうとは思う。

いまのところ感染者も死亡者も多くないのは日本人の潔癖さと生真面目な用心深さによるところが大きいというのが私見だ。日本だけ薬があるわけでも、特別な医療があるわけでも、日本人だけ抗体があるわけでも何でもない。まして政府が他国より群を抜いて良い手を打ったわけでも資質において優秀なわけでもまったくない。
いまだウィルスに「丸腰」状態なのはイタリアと変わらず、都市封鎖までして約3248人(3月20日現在)が死亡して「地獄」と化した武漢みたいになる可能性は全然消えていない。何度も書くが、桜が咲いて気が緩み、学校閉鎖が解けてなにか事は済んだようなユルい空気が広がると危険で、不顕性キャリアが増えて一気に感染者が増えるオーバーシュートになると医療限界を超えてイタリアの二の舞になる可能性は十分にある。

潔癖さと生真面目な用心深さが緩んだら終わりだ。人の噂も七十五日とはよくいったもので、株式市場を見てると確かに日本人は2か月半で物事を忘れる傾向がある。1月半ばから始まったコロナ騒動は、3月末でそれを迎える。

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2020/03/24/イタリアの惨状に心が痛む/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/972.html#c4

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
18. 中川隆[-13432] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:07:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1472]

Beethoven:Violin Concerto in D Opus61
Joseph Szigeti-Violin Bruno Walter & BRITISCH SYMPHONY ORCHESTRA 1932年



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c18
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
19. 中川隆[-13431] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:09:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1473]

Walter Gieseking & Bruno Walter - Beethoven "Emperor" Concerto 1934年




Wiener Philarmoniker
dir. Bruno Walter

rec. 1934

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c19
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
20. 中川隆[-13430] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:11:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1474]

Horowitz/Walter: Brahms, Concerto No.1 (1936年)




Concertgebouw Orchestra, Bruno Walter

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c20
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
21. 中川隆[-13429] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:12:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1475]

Vladimir Horowitz/Bruno Walter (Better Sound) Tchaikovsky Piano Concerto # 1 April 11 1948年




Vladimir Horowitz
Bruno Walter
The New York Philharmonic
April 11 1948 NY.

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c21
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
22. 中川隆[-13428] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:15:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1476]

Dame Myra Hess and Bruno Walter: Brahms Second Piano Concerto (1951年 concert performance)





A February 11, 1951
Dame Myra Hess
the New York Philharmonic
Bruno Walter

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c22
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
23. 中川隆[-13427] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:21:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1477]

Brahms Symphony No. 4 op.98 - Bruno Walter - NYP - 1945年




New York Philharmonic - May 6, 1945, Live recording.

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c23
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
24. 中川隆[-13426] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:25:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1478]

ベルリオーズ 『幻想交響曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html  


ブルーノ・ワルターの『ベルリオーズ 幻想交響曲』





ブルーノ・ワルター指揮パリ音楽院管弦楽団
GRAMMOFONO。戦前SPの復刻。1939年5月19日録音。

上のNBCへの客演のあと、まだワルターはヨーロッパに戻ってフランスあたりに腰を落ち着けていた。しかし、これが戦前のヨーロッパでの最後の録音となった。
意外にも、ワルターはこの曲が好きだったらしく、晩年になってもこの録音を愛聴していたらしい。
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c24
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
25. 中川隆[-13425] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:29:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1479]

Bruno Walter, cond. RPO R.Strauss: Dun Juan Op.20 1926年





R.Strauss: Dun Juan -Tone Poem Op.20

Bruno Walter, conductor
Royal Philharmonic Orchestra

Recorded in 1926

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c25
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
26. 中川隆[-13424] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:33:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1480]

Walter conducts Beethoven - Haydn - Strauss - BSO 1947年 (complete concert)





Boston Symphony Orchestra, Bruno Walter conductor
(Live Rec. January 21, 1947)

Beethoven: “Prometheus” Ouverture
Haydn: Symphony No. 92
R.Strauss: Don Juan op.20

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c26
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
27. 中川隆[-13423] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:42:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1481]


Death and Transfiguration, Op. 24 · NBC Symphony Orchestra, Bruno Walter




交響詩「死と変容」 Op. 24, TrV 158

NBC交響楽団 - NBC Symphony Orchestra
ブルーノ・ワルター - Bruno Walter (指揮)
録音: 25 March 1939



Till Eulenspiegel, Op. 28 · Richard Strauss · Los Angeles Philharmonic · Bruno Walter



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c27
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
28. 中川隆[-13422] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:52:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1482]

楽劇「サロメ」より「七つのヴェールの踊り」





Bruno Walter
Berliner Philharmonic
1930/2/14

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c28
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
29. 中川隆[-13421] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:02:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1483]

Walter : Wagner Eine Faust-Ouvertüre Part 1&2 1923年





Wagner : Eine Faust-Ouvertüre Part 1&2,

Bruno Walter / Berliner Philharmoniker,

Record : POLYDOR 65955, Matrices : 1519as,71az,

recorded ca.1923

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c29
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
30. 中川隆[-13420] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:05:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1484]

Bruno Walter conduct & plays Wagner (M. Harshaw & K. Flagstad) Live 1952-‘53年





RICHARD WAGNER

• Siegfried Idyll
• TRISTAN UND ISOLDE: Prelude & Liebestod with Margaret Harshaw, sp
Los Angeles Philharmonic Orchestra
July 14, 1953 (misdated on the booklet)


• PARSIFAL: Prelude
New York Philharmonic Orchestra
March 23, 1952


• Wesendonck-Lieder
Kirsten Flagstad, sp
BRUNO WALTER, pf
New York, Carnegie Hall
March 23, 1952

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c30
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
31. 中川隆[-13419] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:07:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1485]

Walter conducts Beethoven & Wagner - NYP - 1944年 (complete concert)





Bruno Walter, conductor - New York Philarmonic.
May 14, 1944; Carnegie Hall (live broadcast)

Beethoven: Symphony No.6 op.68 "Pastoral"

Wagner:
Lohengrin Preludes Act 1 & 3,
Tristan Prelude and Liebestod.

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c31
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
32. 中川隆[-13418] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:12:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1486]

THE BEST WAGNER CONDUCTED BY BRUNO WALTER





Royal Philharmonic Orchestra
Bruno Walter



1. Parsifal, Act l: Prelude 00:00

2. Parsifal: Music Of Change Scene 11:09

3. Parsifal: Klingsors Zaubergaten 15:20

4. Der Gotterdammerung: Siegfried Rheinfahrt 28:23

5. Rienzi: Overture 34:55

6. Tannhauser: Venusberg Music 45:34

7. Der Fliegende Hollander: Overture 56:46

8. Lohengrin, Act lll: Prelude 1:06:38



1925年の「パルジファル」のクリングゾルの魔法の庭園の音楽は、ワルター・マニアには有名な録音で、まだワーグナーは細切れ録音が一般的だった時期に13分もまとまった一場面を録音しており、ワーグナー指揮者としても高名だった時期のワルターの姿を伝えるものとして貴重なものです。歌が省かれている分、ワルターの音楽作りがよく分かります。



ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
録音 : 1925年
録音 : 1927年

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c32
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
33. 中川隆[-13417] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:14:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1487]

Bruno Walter: Funeral March of Goetterdaemerung by Wagner 1931年






Bruno Walter: Funeral March of Goetterdaemerung by Wagner

with British Symphony Orchestra recorded in 1931.




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c33
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
34. 中川隆[-13416] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:16:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1488]

Walter conducts Beethoven - Haydn - Wagner - NYP 1943年 (complete concert)




November 7, 1943 Carnegie Hall (live rec.)
Bruno Walter - New York Philharmonic.

American National Anthem
Beethoven Egmont Overture op.84
Haydn Symphony no. 88
Brahms Symphony No. 1 op.68

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c34
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
35. 中川隆[-13415] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:19:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1489]

Wagner: "Rienzi" Ouvertüre [Dir. Bruno Walter] 1926年




"Rienzi"'s Overture by Wagner.
Royal Philharmonic Orchestra, conducted by Bruno Walter
Rec. 15-06-1926

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c35
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
36. 中川隆[-13414] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:21:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1490]

Bruno Walter - Wagner : Dance of the Apprentices and Entrance of the Masters(Die Meistersinger)





「徒弟たちの踊りと名歌手の入場」
British Symphony Orch.
recorded in the central Hall, Westminster, 5/22, 1932
transfer from Jpn Columbia 78s / J-8175(CAX-6398)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c36
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
37. 中川隆[-13413] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:24:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1491]

Bruno Walter conducts Wagner - Overture: The Flying Dutchman (Der fliegende Holländer) 1936年







Bruno Walter
Amsterdam's Royal Concertgebouw Orchestra
1936 recording

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c37
[近代史4] 世紀末のヨーロッパは芸術も文学も思想も爛熟し絶頂に達した時代 中川隆
32. 中川隆[-13412] koaQ7Jey 2020年3月24日 12:42:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1492]

世紀末の画家 ポール・ゴーギャン


Tahiti Dances







黄金の肉体/ゴーギャンの夢 
Paul Gauguin THE WOLF AT THE DOOR / DONALD SUTHERLAND





「後期印象派画家」ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)の絵画集




Paul Gauguin: A collection of 283 paintings (HD)





Gauguin In Tahiti: Search For Paradise 1967




▲△▽▼


ゴーギャンこそ「南国楽園」白人セックスツーリズムおよび児童買春ツーリズムのパイオニアである

ゴーギャンは美化されるばかりで、まったく批判的には語られないが、このことは、アジア・アフリカにおける、あるいは戦場における、白人の性的犯罪がほとんど指弾されることがないのとパラレルである。

ネットではほとんど見つからないが、ゴーギャンがタヒチで書いた裸婦画には児童の裸も多くある。生々しい風合いがあり、実物がモデルであるだけに実際 性的な欲望を刺激する作品もある。実在のモデルが明らかに児童で、幼い乳房、恥らうように内股に立つ姿勢が生々しい作品もあったと記憶する。
「西洋文明と西洋美術に絶望した孤高の画家」などと美化されているが、晩年のゴーギャンは、「より幼い女」をあさってタヒチの島々を転々としたのであり、画才のあるエロ狂いに過ぎない。

ゴーギャンの美術は、今に至る白人のセックスツーリズム、児童買春ツーリズムの文化と一体のものであり、ゴーギャンこそは、セックスツーリズムおよび児童性愛ツーリズムのパイオニアなのである。

ゴーギャンは、東南アジアに屯し堂々と買春ヴァカンスを楽しむ白人たちの理想型である。「ゴーギャンのような生き方」が、世界中で白人たちが展開する非白人児童の性的搾取の醜さをあいまいにする口実にもなっているのである。

芸術性と犯罪性(猥褻性や児童ポルノ性)とは無関係である。これは日本の裁判所も認める正しい立場だ。芸術性と猥褻性とが関係があるとすること、芸術性によって猥褻性が緩和されたり滅却されたりするとすること、要するに、「芸術性が高いから猥褻ではない場合がある」とすることは、法が(司法が)「芸術性」の有無や高低について判断を下すことを意味する。これほど甚だしい法の僭越はないだろう。
ゴーギャンの絵にどれほど芸術性があろうと、児童ポルノは児童ポルノである。ゴーギャンの描いた絵のいくつかは明らかに児童ポルノであり、白人男のフランス植民地における小児性愛・児童虐待の絵画的な記録である。
ゴーギャンは児童ポルノ画家である。
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/2009/10/blog-post_12.html



フランス植民地タヒチでのゴーギャンの「幼女性愛」は、一度も倫理的に非難されたことがない。

ゴーギャンの生き方は、モームの「月と六ペンス」のモチーフにされたりして、白人たちによって理解を示され、美化されてきたが、非難されたことはない。むしろ南国バカンス白人の理想型とされているといえるだろう。 この鬼畜行はそれほど昔の話ではない。日本が台湾を併合したころのことである。

ゴーギャンはフランス植民地の原住民女性を自由にもてあそんで、ひょっとしたら、カネすら払わなかったのではないか。 白人や進歩主義者の基準では、どんな事実上の力関係が背景にあろうと、形式的な合意があって「無料の」セックスであれば、「自由恋愛」として正当化される。その時点で彼らは、一切の罪悪感を感じなくなる。ただし、それも「男が白人」の場合のみである。

晩年のゴーギャンは、女を自由にできる環境を求めて、島から島へと渡り歩いたという。
  
フランスはいまなお、植民地「仏領ポリネシア」にしがみつき、核実験による放射能汚染にも罪悪感も責任もこれっぽっちも感じていない。 アフリカ植民地で奴隷狩りをやっていたころと同じ植民地主義の延長が、いまなお、フランス人の心にもアジア太平洋にも、脈々と生き残っている。 しかし、その仏領ポリネシアを、「フレンチポリネシアはすばらしい」と言ってよろこんで訪れるバカな日本人ツーリストがあとを絶たない。 そういうこともまた、フランス人の植民地支配の自信を後押しする要因になっている。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/02/25_0628.html



ゴーギャン展 東京国立近代美術館。

 展示は解り易く年代順に、師ピサロを含めた印象派の影響がいかにも強い初期の数点から始まる。1886年のブルターニュ滞在以降、次第に「ゴーギャンらしい」絵になっていき、そして91年のタヒチ行きとなる。

 続いて、連作版画「ノアノア」(1893−94)。帰国後、タヒチの絵の評判が悪かったため、まずタヒチの宣伝をしようと発表したものである。最後はタヒチ移住(1895)からマルキーズ諸島での死(1903)まで、「我々はどこからきたのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」までを含む7点。
以下に掲載した画像のうち、ゴーギャンの作品はすべてこの展覧会で展示されたもの。

『男の凶暴性はどこから来たか』(リチャード・ランガム/デイル・ピーターソン、三田出版会)では、「幻想の楽園」と題する第五章で、南洋諸島に都合のいい「楽園」を見ようとした人物としてゴーギャンを挙げている。

 それによると、ゴーギャン(1848−1903)はタヒチを、ほかの男に邪魔されないプライベート・クラブであり、純真でありながら口説けばすぐに落ちる少女や女たちで溢れた「楽園」として描いた。その楽園には男は一人しかいなかった。
その男は楽園の創設者であると同時に覗き見をする者でもあり、性的な魅力のある若い娘たちの姿に夢を追いながら、自然の中の平和という素朴な観念を満足させていたのである。

 しかし現実の止め処もなく「文明化」していく島での生活に於いては、役人や同国人と絶えずトラブルを起こし、性の相手には不自由しなかったものの、性病が原因で次第にそれもままならなくなっていく。
 
 ま、どんなものにせよ、他人の見解は鵜呑みにすべきではなく、少なくともゴーギャンの「視線」については、ランガムとピーターソンが言うほど単純ではなかっただろう、とゴーギャンの絵の実物を目の当たりにして思いましたよ。

「画家=男」の視線については、ちょうど佐藤亜紀氏が先日の講義でドラクロワ(「サルダナパールの死」)とアングル(「トルコ風呂」)のそれを比較しておられた。

 ドラクロワはサルダナパールに自己投影すると同時に、そんな自分に対する陶酔している。

 一方、アングルの視線は絵の外にある。円いフレームは覗き穴であり、女たちは見られていることに気づいていない。この視点の違いは、それぞれの性格の差にも拠るが、何よりも描いた時の年齢に拠るところが大きいだろう。ドラクロワは29歳、アングルは、なんと82歳である。



1894年「パレットをもつ自画像」。

 そういや、ゴーギャンがどんな顔をしてたのかすら知らなかったのであった。『炎の人ゴッホ』ではゴッホに扮したカーク・ダグラスが、よく似てるだけに、なんつーかコスプレみたいだったが、ゴーギャン役のアンソニー・クインも、結構実物と同じ系列の顔だったのね。

 自画像からは、強い自意識が感じ取れる。ゴーギャンの興味は無論、己の顔の造形やそれをどう描くかではなく、その内面を表現することである。



1892年「かぐわしき大地」。

 ゴーギャンの視点は画面の外にある。女はゴーギャンに、画面の外の男に視線を向けている。彼女の内面は窺えない。だが、視線の先の男に対して興味を抱いているのは明らかだ。言うまでもなく男にとっては、それだけで充分である。
.

1890−91年「純潔の喪失」。

 モデルは、お針子でゴーギャンの愛人、ジュリエットだという。妊娠させた彼女を捨てて、ゴーギャンはタヒチへと発つ。 このジュリエットの死体のように蒼褪めた肉体に比べれば、「かぐわしき大地」の女のそれは、まさに黄金のごとく輝く。完璧な肉体の表現に、「内面」は伴っていない。必要ないのだ。


1897−98年、“D'où venons-nous? Que Sommes-nous? Où allons-nous?”

 二分割された画面の右側、背を向けた二人の女は、アングルが好んで描くポーズを思わせる。寄り添って座り、画面の外の男を窺い見る二人の女のうち手前のポーズは、マネの「草上の昼食」と同じである。偶然ではあるまい。

そして、画面の外を窺い見る「異国の女たち」という主題は、ドラクロワの「アルジェの女たち」と共通である。こちらは参考にしたというより、同じ主題を扱えば自ずと似てくるのであろう。

 魂のない、顔と身体だけの存在。無論、「見られる女」の内面が問題とされないのは、むしろ当然である。女が何を考えていようと、「見る男」にはどうでもいい。せいぜい、彼に対して興味を抱いているか否か、くらいなものだ。共有するものが少ない「異国の女」であるなら、なおさらである。

 という、わかりやすい解釈に収まりきらないのが、黒い犬の存在だ。


1892年「エ・ハレ・オエ・イ・ヒア(どこへ行くの?)」

 女たちばかりのタヒチの風景の多くに、この黒い犬は入り込んでいる。ゴーギャンの分身であるのは間違いない。 画面の外から女たちを眺めると同時に、画面の中にもいる。ハレムの王などではなく、女たちと性交できないばかりか、多くの場合、顧みられさえしない存在としてである。

 悪夢さながらの現実の中、描き続けたのは楽園の夢だった。夢そのものは、都合のいい、しょうもない妄想だと断じてしまうことができるだろう。それでもその作品は、紛れもなく力強い。
http://niqui.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/index.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/632.html#c32
[近代史4] 世紀末のヨーロッパは芸術も文学も思想も爛熟し絶頂に達した時代 中川隆
33. 中川隆[-13411] koaQ7Jey 2020年3月24日 12:48:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1493]
ゴーギャンは何故ヨーロッパを捨ててタヒチを選んだのか?

『楽園への道』

  「ここは楽園ですか」「いいえ次の角ですよ」。子供たちが集まっての鬼ごっこ。主人公がフランスとペルーとポリネシアで見かけた子供たちの遊び―そこには「楽園に辿りつきたい」という世界共通の願いが込められています。ペルー生まれの作家バルガス・リョサ著『楽園への道』 (河出書房新社 08.1刊、池澤夏樹編世界文学全集第2巻)は、多くの人たちがユートピアを追い求めた19世紀に生きた、時代の反逆者にして先駆者であった二人の生涯を追った歴史小説です。

「スカートをはいた扇動者」といわれたフローラ・トリスタン(1803-1844)と「芸術の殉教者」ポール・ゴーギャン(1848‐1903)。二人の飽くことのない凄まじいばかりの「楽園」追求に圧倒されます。二人は、祖母と孫の間柄でした。

41歳で亡くなったフローラの短い人生を象徴するのは、彼女を絶えず襲う膀胱と子宮の痛み、そして心臓の近くに食い込んだ銃弾でした。原因は、夫であった版画家のアンドレ・シャザル。ペルー人の父親の死後、貧困な生活の中で母親から無理強いされた結婚。「夫と暮らしたあのぞっとする4年間に、一度として愛の営みをしたことがなかった。毎晩、交尾した。いや、交尾させられたのだ」。この下腹部の痛みは、結婚以来続いています。胸の銃弾は、フローラが裕福な叔父のいるペルー(夫からの逃亡先)からフランスに戻り、自らの半生を書いた自伝で成功を収めたときシャザルに撃たれ、手術後心臓近くに残ったものです。

 アリーヌは、シャザルとの間のフローラの3番目の子供。アリーヌは、シャザルに3度誘拐され、強姦されます。フローラはシャザルを告訴し、その争いの中で、シャザルに撃たれたのです。不幸な娘アリーヌは、ジャーナリストのクロヴィス・ゴーギャンと結婚し、ポールを生みます。1848年の革命後、クロヴィスは家族を伴って、新天地を求めてペルーに向かいます。しかし旅の途中で病死し、アリーヌは二人の子供とともにペルーへ。ペルーでは、裕福な祖父の弟に歓迎され、アリーヌも子供たちも、生まれて初めて幸福な日々を送ります。ポール・ゴーギャンが、南の地に「楽園」をイメージするのは、このときの体験によるものです。

 ポール・ゴーギャンは1891年6月、タヒチに到着します。43歳のときです。93年に一度フランスへ帰りますが、95年再びタヒチへと戻ります。1901年9月にタヒチから更に「未開」の地マルキーズ諸島に移り、03年に55歳で亡くなるまでその地に住み続けました。

 タヒチでの最初の妻テハッアマナをモデルに描いたのが『マナオ・トゥパパウ(死霊がみている)』。裸でうつ伏せになったハッアマナがトゥパパウ(死霊)に怯えている。ヨーロッパがなくしてしまった幻想的な経験に、ゴーギャンは興奮に震えます。

 『パペ・モエ(神秘の水)』。樵の少年と彫刻の素材を探しに、山に入っていきます。冷たい水の中に入り、少年が身体を寄せてきます。「青碧色の空間、鳥のさえずりもなく、聞こえるのは岩に当たるせせらぎの音だけで、静寂と安らかさ、解放感が、ここはまさしく地上の楽園にちがいないとポールに思わせた。またもやペニスが硬くなって、かつてないほどの欲望に気が遠くなりそうだった」。ゴーギャンは、マフー(両性具有者)に、偉大な異教文明ならではの自然さを感じます。著者バルガス・リョサのホモ・セクシャルなシーンは、ここでも美しい。

ゴーギャンは主張します。「美術は、肌の白い均整の取れた男女というギリシャ人によって作り出された西洋の美の原型から、不均衡で非対称、原始民族の大胆な美意識の価値観に取って代わられるべきで、ヨーロッパに比べると原始民族たちの美の原型は、より独創的で多様性に富んでいて猥雑である。・・・

原始芸術では、美術は宗教とは切り離すことはできず、食べることや飾ること、歌うこと、セックスをすることと同様に、日常生活の一部を形成している」と。


 盲目の老婆のエピソードは、ゴーギャンの立ち居場所を示唆して、興味深い。ゴーギャン自身も、極度に視力を衰えさせています。ボロを身にまとった老婆が、どこからともなく現われます。杖で左右をせわしく叩きながら、ゴーギャンのもとにきました。

「ポールが口を開く前に老婆は彼の気配を感じて手を上げ、ポールの裸の胸にさわった。老婆はゆっくりと両腕、両肩、臍へと手でさぐっていった。それからポールのパレオを開いて、腹をなで、睾丸とペニスをつかんだ。検査をしているかのように、彼女はつかんだまま考えていた。

それから表情を曇らせると、彼女は胸糞が悪そうに叫んだ。「ポパアか」・・・
マオリの人々はヨーロッパ人の男をそう呼ぶのだった。」

ポリネシアに「楽園」を夢見てきたゴーギャンの、挫折の場面です。セックスによって原始にアプローチし、そしてセックスによって原始から挫折するゴーギャン。1903年、ひどい悪臭を漂わせながら、死んでいきました。

そして、最も忌み嫌い反抗し続けたカトリック司教の決めた場所に埋葬されました。 墓碑銘としての司教の手紙には、次のように書かれていました。

「この島において最近、記すに足ることはひとつ、ポール・ゴーギャンという男の突然の死だが、彼は評判高い芸術家であったが神の敵であり、そしてこの地における品位あるものことごとくの敵であった」
http://minoma.moe-nifty.com/hope/2008/01/post_937b.html


わが国でもっとも広く読まれているゴーギャンの著作は、タヒチ紀行「ノア・ノア」であろう。しかし、これまでの流布本は、友人の象徴派詩人シャルル・モーリスが大幅に手を加えたものを底本にしており、オリジナルにくらべると〈はるかに真実味の薄い、誇張された〉ものであった。

ゴーギャン自筆の原稿をはじめて翻訳した本書は従来看過されていた真の意図を明らかにし、彼の素顔を示してくれるであろう。また、レンブラント、ドガ、セザンヌ、ゴッホ、ルドン、マラルメ、ランボー等に関する思い出やエッセイはこの創造的な芸術家・思想家の内面を語ると同時に、魅力的な作家論ともなっている。

〈私は単純な、ごく単純な芸術しか作りたくないんです。そのためには、汚れない自然の中で自分をきたえなおし野蛮人にしか会わず、彼等と同じように生き、子供がするように原始芸術の諸手段をかりて、頭の中にある観念を表現することだけにつとめなければなりません。こうした手段だけが、すぐれたものであり、真実のものなのです〉(タヒチに発つ前、1891)

〈私は野蛮人だし、今後も野蛮人のままでいるつもりだ〉(死の直前)
http://www.msz.co.jp/book/detail/01521.html

『ゴーギャン オヴィリ』
一野蛮人の記録 ダニエル・ゲラン編/岡谷公二訳 [復刊]

オヴィリとは、タヒチ語で「野蛮人」を意味する。ポール・ゴーギャンが1895年のサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナショナル・デ・ボーザール(国民美術協会展)に出品して拒否された、異様な、両性具有の陶製彫刻の題名である。本書のカバーに用いられているのは「オヴィリ」と題された水彩画で、このほか本書の表紙には「オヴィリ」の木版画の複製、扉には「オヴィリ」のブロンズ像の写真が刷り込まれている。

男神にして女神でもあるこの野蛮な神オヴィリに、ゴーギャンは自分をなぞらえていた。ゴーギャンの著作には、野蛮人になりたいというライト・モティーフが、たえず立ち戻ってくる。

ゴーギャンは「粗野な水夫」として人生を始めたと自分で言っているように、もと商船の船員であり海軍の軍艦の乗組員で、株式仲買人の職を捨てて絵画に没頭した。しかし早熟で、しっかりした中等教育を受けた画家=文筆家ゴーギャンには、独学者風なところは少しもなかった。

もっとも洗練された文明の美しさを認める、優れて文明化された野蛮人という本質的二重性。そして一方、オセアニアへの自己追放の中にある、単に文化からの脱走ではない、未開拓な絵画の主題を求めて最後には文化を豊かにするという芸術家としての計算。新しい着想を求めて地球の反対側へと赴いたことは、彼を劇的な矛盾の中にとじこめたが、このような距離をとったことが、遙か彼方の過去・現在の文明を明晰に深く判断することのできる立場を彼に与えた。

ゴーギャンの残した厖大な文章の集成が、このおどろくべき先駆者の、生と芸術を照らし出す。

私は十二月に死ぬつもりだった。で、死ぬ前に、たえず念頭にあった大作を描こうと思った。まるひと月の間、昼も夜も、私はこれまでにない情熱をこめて仕事をした。そうとも、これは、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌのように、実物写生をし、それから下絵を作り、という風にして描いた絵じゃない。一切モデルなしで、結び目だらけのざらざらした小麦袋のキャンバスを使って、一気に描いた。だから、見かけはとても粗っぽい。(……)

これは、高さ一メートル七十、横四メートル五十の絵だ。上部の両隅をクローム・イエローで塗り、金色の時に描いて隅を凹ませたフレスコ画のように、左手に題名、右手に署名を入れてある。右手の下に、眠っている幼児と、うずくまっている三人の女。緋色の着物をきた二人の人間が、それぞれの思索を語り合っている。この、自分たちの運命に思いをいたしている二人を、かたわらにうずくまった人物――遠近法を無視して、わざと大きく描いてある――が、腕をあげ、驚いた様子で眺めている。

中央の人物は、果物をつんでおり、一人の子供のかたわらに二匹の猫がいる。それに白い牡山羊。偶像は、神秘的に、律動的に腕をあげ、彼岸をさし示しているように見える。うずくまった人物は、偶像の言葉に耳を貸しているらしい。最後に、死に近い一人の老婆が、運命を受け入れ、諦めているようにみえる。……彼女の足もとに、あしでとかげをつかんだ一羽の白い異様な鳥がいるが、これは、言葉の空しさをあらわしている。(……)

ローマ賞の試験を受ける美術学校の学生に、「われらはどこから来たのか? われらは何者なのか? われらはどこへゆくのか?」という題で絵を描けと言ったら、奴らはどうするだろう? 福音書に比すべきこのテーマをもって、私は哲学的作品を描いた。いいものだ、と思っている。(……)
(友人の画家・船乗りモンフレエ宛、1898年2月、タヒチ、本書200-201ページ)

ここに書かれている「大作」とはむろん、この春から日本初公開の始まった《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(ボストン美術館蔵)のことだ。ゴーギャンの死後にまでわたってもっとも忠実な友人だったダニエル・ド・モンフレエへ宛てて書かれた手紙の一節である。
http://www.msz.co.jp/news/topics/01521.html


ピトケアン島の出来事

 西暦1789年、フランス革命が勃発したのと同じ年、南太平洋上において水兵の反乱が起こった。舞台となったのは、イギリス海軍の軍艦、バウンティ号である。

 副航海長フレッチャー・クリスチャンに指揮された反乱水夫たちは艦長のブライを拘束、ブライは艦長派と目された乗組員とともに小型のボートに乗せられて茫洋たる太平洋に放り出された。反乱者たちは、ブライたちは死んだだろうと思っただろうが、艦長たちは奇跡的に小型ボートではるか3700マイル離れたオランダ領のインドネシアまで航海することに成功した。遠く離れた南太平洋上のこととはいえ、イギリス海軍が反乱者たちをそのままにしておくわけがない。追手が差し向けられ、クリスチャン一味の捜索が行われた。追跡部隊はバウンティ号の航海の目的地であったタヒチ島に残っていた乗組員たちを拘束することには成功したが(うち、3名が絞首刑となった)、バウンティ号とともに太平洋に消えた残りの者たちの行方は杳として知れなかった。

 バウンティ号と反乱者の一党の行方がわかったのは、それから約20年後の事である。アメリカの捕鯨船が、名前は付いているが上陸されたことのない島、ピトケアン島に立ち寄ったところ、バウンティ号の乗組員とその子孫たちを発見したのである。クリスチャンたちは、タヒチの女性と男性を連れて発見されにくいピトケアン島に逃げ込んでいた。

 しかし、反乱者たちは、女性と酒が原因で同士討ちを演じ、アメリカの捕鯨船に発見された時に反乱のメンバーで生き残っていたのは水兵のジョン・アダムス一人だけであった。ジョン・アダムスは敬虔なキリスト教徒となっており、ピトケアン島は白人とタヒチ女性の混血からなる一種のキリスト教の桃源郷となっていた。

 この軍艦バウンティ号の反乱は日本ではそれほど知られていないが、西洋ではかなりメジャーな事件で、海洋の事件としてはタイタニック号の遭難に匹敵するほどの知名度を誇るといい、欧米では多数の研究や小説があり、戦前から何度か映画化もされている。また、バウンティ号の復元船も作られているという。

 さて、このバウンティ号の子孫たちは今でもピトケアン島に住んでいるのだが、近年、再び注目を集めた。あまり名誉なことではない。ピトケアン島の男性たちが、12歳から15歳までの少女たちとの性交渉を日常的に行っていたことが暴露されたのである。これは牧歌的で、敬虔なキリスト教徒たちの住む島である、というピトケアン島のイメージを著しく損なうものであり、刑事事件にも発展した。その経緯は、インターネットのフリー百科事典の「ウィキペディア」にも詳しく記述されている。

「ウィキペディア・ピトケアン島の事件」(英語)
「ウィキペディア・ピトケアン島の事件」(日本語)

 ピトケアン島の男性たちの擁護として、ピトケアン島に移り住んだ反乱者たちはタヒチの女性を妻としており、反乱当時のタヒチの習慣はかなり性的に自由なものであったから、それを現代の基準で裁くのは酷ではないか、というものがある。
 たしかに、タヒチがヨーロッパ人に発見された当時の記録によると、かなり性的に寛容だったことが見て取れる。

 まずフランス人の記録によると、
 
 「カヌーは女たちで一杯であったが、顔かたちの魅力では、ヨーロッパ女性の大多数にひけを取らず、身体の美しさでは、彼女らすべてに張り合って勝つことができるであろうと思われた。これらの水の精の大部分は裸だった。というのは、彼女らに同伴している男や老女たちが、彼女らがいつもは身にまとっている腰布を脱がせてしまっていたからである。

彼女らは、はじめ、カヌーの中から我々に媚態を示したが、そこには、彼女らの素朴さにもかかわらず、いささかの恥じらいが見て取れた。あるいは、自然が、どこでも、この性を生まれながらの臆病さでより美しくしているのであろうか。あるいはまた、なお黄金時代の純朴さが支配している地方においても、女性はもっとも望んでいることを望まぬように見えるものだろうか。

男たちは、もっと単純、あるいはより大胆で、やがて、はっきりと口に出した。彼らは、我々に、一人の女性を選び、彼女について陸に行くように迫った。そして、彼らの誤解の余地のない身ぶりは、彼女らとどのように付き合えばいいのかはっきり示していた。(山本・中川訳『ブーカンヴィル 世界周遊記』(岩波書店 1990年)192−3頁)」
 
 また、有名なイギリス人のキャプテン・クックは、タヒチの若い娘たちが卑猥なダンスを踊り(クックは明言していないが、露骨にセックスを現すものだったらしい)、男女が宗教集団のようなものを形成して、乱交を繰り返した挙句、子供が生まれると殺す習慣のあることをあきれた風に記録している(当時のイギリスだって捨て子の習慣は横行していたのだから、あまり大きなことは言えないように思うが)。

 このようなヨーロッパ人の記録した当時のタヒチの性習慣について、現代の調査からタヒチのホスピタリティの習慣を誤解したものではないかとする研究者もあるが、タヒチはその後ヨーロッパに支配され、キリスト教の感化を受け、ヨーロッパの習慣の影響下におかれるのだから、現代から類推するのは妥当ではない。

 さて、当時のタヒチが性的に放縦な面があったとして、それが何歳ぐらいの女性から対象になったのだろうか。

 クックによると、タヒチには子供が衣服をほとんど身に付けない習慣があるが、女子の場合は3、4歳までだということである。これによると、女の子はかなり早い段階で「子供」でなくなるようである。さらに、支配者の例であるが、9歳で結婚したということもある。画家のゴーギャンがタヒチにやってきて、現地で何人もの愛人をつくり、子供まで作ったことは有名であるが、相手となったタヒチ人の女性はみんな13歳から14歳である。だから、当時のタヒチでは、かなり若い年齢で女性は大人とみなされていたことがわかる。

 と、ここまでは割合に知られたタヒチの性習慣である。では、もう一方の当事者、18世紀末のイギリスはどうだったのだろう。

 18世紀のイギリスは、当時としては珍しく、晩婚の世界であったことが知られている。男子の場合は二十代後半、女子の場合でも二十五歳以上で結婚、というのが普通であったらしい。ほとんど現代と変わらないくらいの結婚年齢である。ただ、晩婚である事情は現代とはずいぶん違う。長期の奉公人制度や、結婚生活を維持するための経済力をつけることが難しいために、やむを得ず結婚が遅れていたというのが実情らしい。貴族やジェントルマンに生まれても、長男でないと同じような境遇であった。

 結果、血気盛んな若者たちが思春期から10年以上独身生活を余儀なくさせられることになる。近代のイギリスの勢力の拡大は、これらリビドーを持て余した青年たちのエネルギーによってもたらされたとする見解があるほどだ。

 平均的な結婚年齢はともかくとして、実際にはどのくらいの年齢の女性ならば当時のイギリス人男性は性の対象としてみていたのであろうか。

 これはかなり低かった、と推定することができる。まず、数は多くないが、十代前半の女性と結婚している例がしばしばある。次に、多くの男性がなかなか結婚できなかったのだから、性欲のはけ口として売春婦の商売が繁盛することになるのだが、売春婦たちはかなり若い年齢から客を取っていたことがわかっている。

 「先にも述べたとおり、売春婦の中には年端もいかぬ若い子がいることがしばしばあり、十歳にも満たない子がいることさえあった。ペナントは、ブライトヴェル監獄で見かけたというそういう売春婦の一団について次のように述べている。

  「(中略)二十人ほどの若い娘たちが、最年長でも十六歳を超えず、多くは天使のような美しい顔をもちながら、天使のような表情はすべて失い、厚かましく、強情そうな放蕩の顔つきをしていたのだ。(後略)」(リチャード・R・シュウォーツ著 玉井・江藤訳『十八世紀 ロンドンの日常生活』(研究社出版 1990年)112−3頁)」

 つまり、タヒチだけでなくイギリスでも、女性はかなり幼い頃から恋人や結婚相手になりえたわけである。

 当時の水兵というのは社会的な身分が低く、監獄に行くよりは船に乗る、という手合いまでいたという。彼らは、たとえイギリスに戻ったとしても結婚をすることは容易ではなく、仮にできたとしても極貧のなかで生活しなくてはならないことは目に見えていた。

 それが、タヒチに来て見ると、本来は結婚相手にしたい十代の女性がいて、生活も安楽である。このままここに残りたい、と思っても不思議はない。実際、タヒチへの航海では、水兵の脱走というのはよくあった。これで水兵たちに同情的な幹部がいたら、反乱になるのはある意味では必然であった。

 艦長のブライは反乱の原因について、

「わたしはただ、反乱者どもがタヒチ人のところでイギリスよりもいい暮らしができるだろうと確信し、それが女性たちとの関係にむすびついて、全体の行動の基本的な動機となったにちがいないと推測するのみである。

(I can only conjecture that the mutineers had assured themselves of a more happy life among the Otaheiteans , than they could possibly have in England; which, joined to some female connections, have most probably been the principle cause of the whole transaction.)(William Bligh & Edward Christian The Bounty Mutiny(2001)11.)」と書いている。

 ピトケアン島には、18世紀のタヒチだけでなく、同時代のイギリスのメンタリティーも保存されていたのではないだろうか。そうだとすれば、今回の事件はタイムマシンで過去へ行って、先祖を裁いたようなものである。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/handa-m/tosho/arekore/50.htm

タヒチがヨーロッパ人に発見された当時の記録によると、かなり性的に寛容だったことが見て取れる。

 まずフランス人の記録によると、
 
 「カヌーは女たちで一杯であったが、顔かたちの魅力では、ヨーロッパ女性の大多数にひけを取らず、身体の美しさでは、彼女らすべてに張り合って勝つことができるであろうと思われた。これらの水の精の大部分は裸だった。というのは、彼女らに同伴している男や老女たちが、彼女らがいつもは身にまとっている腰布を脱がせてしまっていたからである。

彼女らは、はじめ、カヌーの中から我々に媚態を示したが、そこには、彼女らの素朴さにもかかわらず、いささかの恥じらいが見て取れた。あるいは、自然が、どこでも、この性を生まれながらの臆病さでより美しくしているのであろうか。あるいはまた、なお黄金時代の純朴さが支配している地方においても、女性はもっとも望んでいることを望まぬように見えるものだろうか。男たちは、もっと単純、あるいはより大胆で、やがて、はっきりと口に出した。彼らは、我々に、一人の女性を選び、彼女について陸に行くように迫った。そして、彼らの誤解の余地のない身ぶりは、彼女らとどのように付き合えばいいのかはっきり示していた。
(山本・中川訳『ブーカンヴィル 世界周遊記』(岩波書店 1990年)192−3頁)」


 
 キャプテン・クックは、タヒチの若い娘たちが卑猥なダンスを踊り(クックは明言していないが、露骨にセックスを現すものだったらしい)、男女が宗教集団のようなものを形成して、乱交を繰り返した挙句、子供が生まれると殺す習慣のあることをあきれた風に記録している(当時のイギリスだって捨て子の習慣は横行していたのだから、あまり大きなことは言えないように思うが)。

 このようなヨーロッパ人の記録した当時のタヒチの性習慣について、現代の調査からタヒチのホスピタリティの習慣を誤解したものではないかとする研究者もあるが、タヒチはその後ヨーロッパに支配され、キリスト教の感化を受け、ヨーロッパの習慣の影響下におかれるのだから、現代から類推するのは妥当ではない。

 さて、当時のタヒチが性的に放縦な面があったとして、それが何歳ぐらいの女性から対象になったのだろうか。

 クックによると、タヒチには子供が衣服をほとんど身に付けない習慣があるが、女子の場合は3、4歳までだということである。これによると、女の子はかなり早い段階で「子供」でなくなるようである。さらに、支配者の例であるが、9歳で結婚したということもある。画家のゴーギャンがタヒチにやってきて、現地で何人もの愛人をつくり、子供まで作ったことは有名であるが、相手となったタヒチ人の女性はみんな13歳から14歳である。だから、当時のタヒチでは、かなり若い年齢で女性は大人とみなされていたことがわかる。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/handa-m/tosho/arekore/50.htm


究極のSEX ポリネシアン セックス

ポリネシアン セックスとは南太平洋諸島に暮らすポリネシアの人々の間に伝わるセックスの奥義を指す。

ポリネシア/ギリシャ語「多くの島々」と言う意味のポリネシアはハワイ諸島、ニュージーランド、イースター島を結ぶ1辺が約8000キロの三角の内側の島々、イースター島をさす。ミクロネシアは太平洋中西部の諸島群で、カロリン諸島、マーシャル諸島などがある


「エロスと精気」

これは男性上位の力を誇示するようなアクロバットな性技ではなく、ゆっくりとした時間の中でお互いの命の声を聞きながら行う静かな愛の形です。

実際に結合するセックスは普通、5日に1度、中4日はしっかりと抱き合って、肌を密着させて眠り、性器の接触はしない。セックスをする時は、前戯や抱擁や愛撫に最低1時間をかける。互いの心と体がなじんだ時に女性の中に挿入した後は、最低30分は動かずにじっと抱き合っている。性交するときは、前戯と愛撫を少なくとも1時間行い、接吻し抱擁し愛咬する。挿入したのちは、男女は最低30分は身動きせず抱き合って、それから前後運動を始める。

オルガスムがあったのちも、長時間性器を結合させたまま抱き合っている。35分ほどこの抱擁を続けていると、全身においてオルガスムの快感の波が次々と押し寄てくるのを感じ初めることだろう。あなたが男性であれば、射精をしないまま相手と一体になって全身が突然さざ波のように震えるだろう。そうなれば、体を離さずに震え没入し、震えそのものになるべきだ。その時、2人の体のエネルギーが完全に融合している実感をもつであろう。

男性に勃起力がなくなるような感じになった時、女性に性感がなくなるとき、そのときだけ動きが必要になる。その場合でも、興奮の波は非常に高い所にだけ置いておき、ただし、頂点まで昇らせてオルガスムとして爆発させるのではなく、心をおだやかにしてエネルギーのなかに身をまかせるのである。つまり、挿入後に萎えてしまいそうになった時、それを防ぐ為のみ、うごかしてもいいということだ。しかし、そのまま動きに没頭するのではなく、射精に達する前に再び動きを止めて、抱擁を続る。

男女はベットにそれぞれ楽な感じに寝る。2人の上半身は離しておき、骨盤の部分はくっつけ合う。女性は仰向けになり、男性は体の右側をベットにつけて身を起こす。足はお互の体にからませる。男性は左足は女性の足の間に割って入り、女性の左足は男性の腰の左に乗せる。互いに相手の負担をかけることなく、くつろげる姿勢であるとこが重要だと言う。そうして、身動きせずに30分間横になっていると、2人の間にエネルギーが流れるのを感じるようになると言う。
http://rena-i.jp/porisex.htm

「ゴーギャン」
南太平洋、フランス領ポリネシア。 タヒチ。

とあるホテルの5つの簡単な決まり事。

1つ、ゆっくり動きなさい。
2つ、気持ちをリラックスさせなさい。
3つ、家に置いてきたペットのことは忘れなさい。
4つ、お堅い話も忘れなさい。
5つ、バターの値段を考えるなんてもってのほか。

この島では、日が昇ったら起き、
お腹がすいたら食べ、
眠くなったら眠るのです。

何もしないで、ただボーッと海を眺めて過ごす。
それが、一番の贅沢。

今日の一枚は、そんなタヒチで描かれました。
といっても、今あるのはアメリカですが・・・。

場所は雪のニューヨーク州、
オルブライド・ノックス・アートギャラリー。

二人の慈善家によって集められた名画の数々・・・。
でも、お目当てはこの先。急いではいけません、ゆっくりと。
そう、この絵が「今日の一枚」です。

「マナオ・トゥパパウ」

ポール・ゴーギャンの作品。

そのポール・ゴーギャンは、
タヒチといえば名前があがる後期印象派の巨匠。

セザンヌを学び、ジャポニズムに走った元日曜画家。

ゴッホとの共同生活でも、自我の強さから喧嘩別れ。
傲慢とわがままを芸術の糧としたポール・ゴーギャン。
パリに失望し、やってきたのがタヒチ。
求めたものは汚れのない原始。

そして、タヒチの女性をモチーフとする
数多くの絵を生んだのです。
強烈な色彩と大胆な構図。
ゴーギャンのタヒチ。

そんな作品のなかで、異彩を放っているのが、
この「マナオ・トゥパパウ」です。

大きく見開かれた少女の目。
凍り付いた視線。
背後にうずくまる不気味な影は?

ゴーギャンが南海の楽園で見つけた原始とは、いったい何だったのか。

南緯17度、西経149度。
1年間の平均気温は25度前後。
タヒチは今でもよく、南海の楽園と呼ばれています。

パペーテはタヒチを訪れた人が必ず立ち寄るフランス領ポリネシア唯一の都会。

ゴーギャンが植民地のタヒチを訪れたのは1891年、43才のとき。
フランスの港を出てから実に2ヶ月の船旅でした。
当時、パペーテの人口はおよそ3000人。
その一割にも満たないフランス人が、タヒチの政治、経済を仕切っていました。
その頂点に君臨するのが、フランス本国から任命された総督です。
当時はカリブ海出身のラカスカードという男。

総督

「タヒチについたゴーギャンが私に会いに来た。
私は快く彼を迎えた。

ようこそゴーギャン君、総督のラカスカードだ。座りたまえ。
このパペーテには教会から病院、カフェーまで揃っておる。
私の自慢の町だ。
パリから来た君でも困ることはないよ。
そうそう、芸術特使の君にぜひ、肖像画を描いてもらいたいというものがおるそうだ。
まずはいい絵を描いてくれたまえ。

おや、何か不満でもあるのかね?」

ゴーギャンは、話の途中で席を立ってしまった。 いったい、何が気にくわないというのだ。

パペーテの街角で、ゴーギャンが見たもの。
それはパリと同じ喧騒、そして香水の匂い。
自分が求めた原始の楽園は、そこにはなかったのです。
失望、そしてこみ上げる怒りに似た感情。

そもそもの発端は2年前。
パリではエッフェル塔が完成。
万国博覧会が開かれました。 鉄が支配する新しい文明の幕開け。
しかし、ゴーギャンが惹かれたのは、同時に開設されていた植民地パビリオンでした。
東洋の神秘、ポリネシアの原始的な荒々しい文化。
パリの文明社会で暮らすゴーギャン。
彼の目に、それは地上の楽園に見えました。

そこでゴーギャンは考えました。
「なんとしてもタヒチへ行こう」と。
あらゆるコネを利用し、海をわたろうとします。
金がかからず、絵が自由に描ける地位・・・
それが芸術特使というフランス本国からもらった肩書き。


ゴーギャンがパリで思い描いた地上の楽園、タヒチ。

そこでは昔からの人々は原始の神々を崇め、ともに暮らしていました。
すべての物、すべての現象に神が宿る、そう考えられていたのです。
神話と伝説の国、ポリネシア・・・。
しかし、ゴーギャンが訪れた時はもはや過去の話。
文明によって古い信仰は捨てられ、神を祀る祭壇もすでに廃墟と化していたのです。

ポリネシア・ダンス。
体で表現する原始の言葉。
かろうじて人々の心に受け継がれてきたタヒチの神秘。

これは、豊かな実りを願い、神に祈るダンス。
戦いの前に踊り、神への誓いをたてるダンス。
分明に支配されたタヒチ、そこに残された原始の息吹。

総督
「きのう、ゴーギャンが挨拶にきたよ。 ひどく打ちのめされているようだったが、パペーテを出るというんだ。 ヨーロッパから遠ざかりたいとか、原始的で汚れのない原住民と一緒に暮らすんだとかいってた。 ほんとうに、パペーテを出て芸術活動ができると考えているのか? まあいい。じきに帰ってくるさ。」
http://www.geocities.jp/mooncalfss/manao/manao1.htm

<原始のイヴ>

パペーテを逃れ、ゴーギャンが落ち着いた先はマタイエア。
島の反対側、南へ40キロほど行った海辺の村。

そこで彼が見たものは・・・

素朴で原始的な暮らし。
骨太で力強い人々。
奔放に生きる女たち。

ヨーロッパ的美の基準には当てはまらないものたち。
しかし、ゴーギャンはそこに原始の美を発見したのです。
パペーテでは決して見られなかった、手つかずの美しさ。

イア・オラナ・マリア。

タヒチの聖母子像。

着ているものは民族衣装のパレオ。
がっしりしたタヒチの聖母マリア。
そして褐色のイエス・キリスト。

聖母子像の横に描かれたのは仏教徒のポーズをしたタヒチの女と、 青と黄色の翼を持った天使。

イア・オラナ・・・それはタヒチの出会いの挨拶。

副館長
「ゴーギャンの色使いはとても鮮やかで、ほとんど原色をつかった美しい色彩 で描かれています。
そして、タヒチの光をふんだんに取り入れました。
その光はポリネシアの人々に対する愛情と、尊敬の気持ちから描かれたんです。」

原始の楽園、マタイエア。

人々は神を畏れ、自然とともに生きる。
何もしなくていい、何も考えなくていい、ゴーギャン、至福のひと時。

マタイエアの人々にふれ、ゴーギャンが感じたのは、自分が求めつづけてきた原始のタヒチ。

創作意欲をかき立てられるゴーギャン、目指したのはシンプルな芸術。

細かい技法を捨て、自分が感じたことだけをおおらかに描く。

そのためには、原住民とだけ付き合い、原始の心で見ること。
それが真の芸術へたどり着く道、そう考えてきました。

しかし、その絵はほとんど売れません。


総督
「赤い水やら黄色い砂。ひどい色使いだ あれじゃ売れなくて当然だ。 しかし、この絵はどこか違うな・・・。」

原始の村マタイエアでも、文明から逃れることはできませんでした。
好みの食料品や絵の具があるのはパペーテだけ。
金・・・文明人のゴーギャンに必要なのは経済的な裏づけだったのです。
絵を買ってくれる人もいないタヒチ・・・
待っていたのは貧困。

そこで、ゴーギャンは総督のもとへ。
もっと小さな島の役人にしてもらおう。
そうすれば、金と新しい絵のモチーフ、両方が手に入ると考えたのです。

総督
「そんなわがままを話、通用するわけがない。

フン、金が欲しい? 島の役人に採用しろだと?
冗談じゃない、矛盾だらけじゃないか
ゴーギャンの求めているのは、原始の生活ではなかったのか!
なんて傲慢で、身勝手なやつだ!」

総督に冷たくされたゴーギャンは、自分の身勝手を棚に上げ、子供じみた反抗にでます。

やったことは、風刺画。
総督を猿に見立て、痛烈にからかったのです。

それは原始に翻弄される文明人の哀れでもありました。

貧困のため、絵を描く意欲も失せたゴーギャンは、気分転換をかねて、探検旅行に出かけます。

行く先は島の東側、文明から最も遠い土地。
やがてゴーギャンの行く先に現れたのは、山あいの小さな村でした。
その一軒で声をかけられます。

白人は神の使い、そう信じる村人は自分の娘を妻にと勧めるのです。
そして、運命の出会い。

「マナオ・トゥパパウ」に描かれた少女。

少女の名はテハアマナ。愛称テフラ、13歳。
タヒチでであった原始のイヴ。

テフラに一目で惚れたゴーギャン。


彼はその場でテフラと結婚し、一緒に暮らし始めます。
日の光を浴びて、黄金色に輝くテフラの肌。
ついに出会った原始のイヴ、テフラとの生活がゴーギャンの見方を変えました。

文明に毒されたタヒチは今、探し求めた原始の楽園に生まれ変わったのです。

ゴーギャンによって残された原始のイヴの肖像・・・

ゴーギャンの夢、

画家が愛してやまなかった少女・・・。


総督
「原始のイヴだって?なにを大げさな。
ただの島の娘じゃないか。
それにしても、あの絵の娘は何かに怯えているのかね?
しかも、後ろにうずくまっているあの不気味なものは何だ。
アッ、これは!」

青い海と珊瑚礁。
そして険しくそびえる山々。
さまざまな顔をもつタヒチ。

一歩奥へ入ると、そこはすでに伝説と神話の世界です。

http://www.geocities.jp/mooncalfss/manao/manao2.htm

<タブー>
タヒチにはタブーがある。
死者を葬った場所は避けるように。
うつろな木の陰に横たわらないように。
もしタブーを破ることがあれば、やつが現れるだろう。

やつは寝ているものに飛びついて、首を絞め、時には髪を引き抜き、死に至らしめることがある。その名を決して口にしてはならない。

いまもタヒチに伝わるという、タブーの正体とは何か。


女1
「そうだねえ、この土地のタブーといったら幽霊のことだよ。」

女2
「子供のころに見たことがあるわ。
しろ〜くて、お化けみたいな姿をしているのよ。
本当に恐かったわ。」


「トゥパパウって幽霊さ、こんな感じのやつ・・・
ひとに取り付くと目が大きくなって、下がこんなに長くなるんだ。」

マナオとは「思う」「考える」という意味のタヒチ語。
マナオ・トゥパパウというタイトルには、トゥパパウ、つまり死霊が見ている、という意味がこめられていたのです。


総督
「トゥパパウについては、私も調査員を派遣した。
報告によると、トゥパパウの都は森の闇に包まれた山奥の奥にあるそうなんだ。
そこでトゥパパウは数を増やし、死んだ人間の魂を食らうという。

フン、もうすぐ20世紀だというのに、タヒチにはまだ下らん迷信が残っているのか。」


学芸員
「確かにトゥパパウの伝説は残っているようです。
トゥパパウとは死んだ人の霊のことで、夜の闇をさまよい歩くと考えられていました。
そのため、タヒチの人たちは闇を怖がって、寝ているときも明かりを絶やしません。
もし部屋の明かりを消してしまうと、トゥパパウが家の中に入ってきて、
寝ている間に悪さをすると信じられていたからです。」


ある日、ゴーギャンは帰り道を急いでいました。
切れかかった灯油を町へ買出しに行った帰りです。
夜中の1時、あたりは完全な闇。

夜空の月も雲に隠れていきます。

テフラの待つ小屋は闇に包まれていました。
いやな予感がしたゴーギャンは急いで部屋の中へ。
すると・・・そこは原始の闇。

思わずマッチをすったゴーギャン。
そして彼の目に映ったものは・・・
ベッドに横たわり凍り付いたようなテフラ。
うつろに見開かれたテフラの目。

タヒチの人にとって、闇はトゥパパウのすみか。
テフラには夜の闇は恐怖そのものでした。
そして、恐怖に射抜かれたように身を固くするテフラの背後に、ゴーギャンははっきり見たのです。

『私が見るものは、ただ恐怖だけでした。
それは絶え間ない恐怖である。
私のトゥパパウを発見して、私は完全に心ひかれ、 それを絵のモチーフにした』

ゴーギャンはテフラを通して、はじめて本当の原始を理解したのです。

テフラ、原始に住むイヴ。

タヒチにきて三度目の夏・・・。


総督
「ああ。おめでとう、ゴーギャン君。
君にも私にもいい知らせだ。
本国から君を送り返すように言ってきたんだ。

ここを見たまえ、資産状態が配慮に値する困窮の画家を送還すること。フランスの船で。
ただし、一番安い船に、乗せるようにと書いてある。
ともあれ、これで我らが芸術特使さまの任務も完了というわけだ。
ごきげんよう、ゴーギャン君。」

1893年7月。
ゴーギャンは本国フランスへの帰路につきます。
テフラと出会った後も、ゴーギャンの生活は決して理想のものではありませんでした。
極度の貧困、そして重なる疲労。
逃れられない文明の影。
結局、彼は逃げ出すようにタヒチを後にするしかなかったのです。

パリに帰ったゴーギャンは、このマナオ・トゥパパウに他の絵の倍以上の値段をつけたといいます。

タヒチにきたらゆっくりと動くこと。
日々の暮らしは忘れ、リラックスしましょう。

でも、夜は明かりを絶やさないように。
もし暗くしたら、闇の中からあなたをみつめる死霊と出会うことになるかもしれませんから・・・

http://www.geocities.jp/mooncalfss/manao/manao4.htm


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      l i l   l |/;:=ニ|i  l |   /rj:ヽ\ i  l i l
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Teha'amana (マナを与える者の意)


ゴーギャンがタヒチで見出したものは何であったのか?

『ノアノア』連作版画


タヒチからフランスへ帰郷したゴーギャンは、母国のタヒチへの理解の乏しさに、絶望します。そんな母国フランスへ、タヒチの生活のすばらしさを伝えるために制作したファンタジー小説、『ノアノア』の挿し絵に使用されていた作品のいくつかを、紹介したいと思います。

ナヴェ・ナヴェ・フェヌア(かぐわしき大地)

教科書などでも有名な作品、『かぐわしき大地』を左右反転させた作品です。版画になり、白黒はっきりさせたものになったことで、主人公であるエヴァの表情の濃淡が、よりくっきりとしていることが印象的です。。

また、エヴァをそそのかすトカゲが、顔よりも大きく、この版画の中心に描かれていることも、気になりますね。


テ・アトゥア(神々)
マオリ族(ニュージーランドのポリネシア系先住民)の古代神話より。


中央に鎮座するのは、主神タアアロア。右側には再生の力を持つ月の女神ヒナ。左側には、大地の男神であり死の象徴であるテファトゥとヒナの対話の場面が描かれています。

これらの神々は、ゴーギャンの作品の中ではたくさん登場する、重要な役割を果たしているものです。

再生の神と、死の神が、ふたり同時に何を話しているのか、(しかも、僕が見る限りふたりは、とても官能的に話をしているように感じます。。)気になるところですね。。

マナオ・トゥパパウ(死霊が見ている)

テ・ポ(夜)


このふたつの作品のは、「死霊に怯える女性」という同一の主題を描き出しています。


『マナオ・トゥパパウ』の女性の姿勢は、ペルーのミイラの体勢を源泉に持っています。つまり、人間の死んだ後の存在であるミイラと、同じ体勢を取っている、ということです。

しかし、死の象徴とも思えるこの作品は、見ようによっては胎児のようにも見えます。

相反するふたつのもの、つまり、生と死を一体化したふたつの境界線が揺らぐ、タヒチの夜の神秘を描き出しているようです。ふたつの相反するものを、ひとつのものの中に融合させる、ということは、人類の大きなテーマであると感じました。

また、『テ・ポ』の方は、ゴーギャンがタヒチでできた愛人、テハアマナが、夜、明かりの消えた部屋で、死霊に怯えている姿を描いた作品です。

タヒチの人々にとって夜は、霊魂が活動する、死と隣り合わせの世界にほかなりませんでした。真ん中に横たわる女性の後ろには、様々な死霊たちがこちらに目を向けています。。

このことから考えると、ゴーギャンの描く夕方の世界は、現代の我々が考えるような、単なる美しい夕焼けではなく、これから迎える夜=死霊の世界を思わせるような、ある種、最も境界線の薄れた世界を題材にしている作品であることが分かります。。

http://nuartmasuken.jugem.jp/?eid=83


『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』後、自殺未遂を経てゴーギャンが描いた作品のうち、気になった作品をいくつか。。

テ・ハペ・ナヴェ・ナヴェ(おいしい水)
1898年 油彩・キャンパス ワシントン、ナショナル・ギャラリー
http://www.abcgallery.com/G/gauguin/gauguin128.html


『我々は〜』の関連作品です。
 

時刻は夕方、死霊が闊歩する夜が、すぐそばまで迫ってきています。

手前の4人の女性の表情は、逆光ではっきりとわかりません。微笑を浮かべているようにも感じるし、背後から迫りくる夜に、怯えているようにも感じます。。

川を挟んだ奥には、子供と手をつないだ(? 暗いので、はっきりそうとは言い切れませんが・・・)頭巾を被り、服を着た女性と、再生の女神ヒナが描かれています。その足もとには、ゴーギャンノ化身である黒い犬らしき影が、闇に紛れるようにひっそりといます。

川を境に、生と死が対照的に描かれているようです。一度死を決意し、なお生き長らえた画家の心境は、どういったものだったのでしょうか・・・?

ゴーギャンの作品にはめずらしく、奥行きがあり、見ているとからだが、絵画の中に引きずり込まれそうになる作品です。
http://nuartmasuken.jugem.jp/?eid=89


我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか
(D'ou venons-nous? Que Sommes-nous? Ou allons-nous?)
1897年 | 139×374.5cm | 油彩・麻 | ボストン美術館
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_nous.html

複製画
http://www.meiga-koubou.com/item/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%80%8E%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E4%BD%95%E8%80%85/


「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」との哲学的思惟を迫る、しかも139×375cmという壁画のような大作を目の前にしますと、しばらくめまいのような感覚に襲われます。全裸と腰布だけの女たちが、地面の上に坐って、こちらを見ています。
画面右側には、岩の上に赤ん坊が寝ており、逆の左端には、煤のように黒ずんだ老婆が、やはりこちらを凝視しています。画面中央では男が果物をもいでおり、その足下で、少女が果物を食べています。人びとの近くには、犬と猫と山羊と鳥とが、人間たちと同様に、無表情に地面に伏せています。画面後方には、まず両手を広げた女神像があり、そして体全体を覆うような長衣を着た女たちが、右側に向かって歩いています。背景では、幻想的な樹木が、奇怪な枝を広げています。

 この絵から、アダムとイヴの禁断の実と楽園追放の旧約聖書の物語を連想することは、さほど難しいことではありません。しかし、あの禁断の果実を採ったのは、イヴではなかったか。ゴーギャンのイヴは、どうみても女ではない。マリオ・バルガス・リョサは、『楽園の道』で、果物を採る人物の腰布のふくらみを「立派な睾丸と固くなったペニス」のようだとすら表現しています。楽園追放を暗示する赤い長衣を着たふたりは、アダムとイヴのように男・女ではなく女・女であり、またキリスト教絵画にある悲嘆にくれるふたりではなく、何やら真剣に語り合っています。キリスト教の世界から題材を借りながらも、内容は別の世界を表現しています。

 左端の老婆は、観者を凝視しながら、何を訴えているのでしょうか。ゴーギャンは、フランスの博物館で見たペルーのミイラから、この人物像を創作したということです。ペルーは、ゴーギャンが幼少期を過ごしたところ。死にいく老婆は最早、生きることをあきらめ、大地に返っていくことを、我々に告げているのかもしれません。

 美術館滞在中の大半を、この大作の前にたたずんで過ごしたのですが、時間が経つにつれてこの死にいく老婆の視線が、気になって仕方がありませんでした。「我々はどこへ行くのか?」。老婆の沈黙は、この答えのない問い掛けなのかもしれません。
http://minoma.moe-nifty.com/hope/2009/07/post.html


“我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか” はイエスが語った言葉


ヨハネ傳福音書 第8章


8:1イエス、オリブ山にゆき給ふ。

8:2夜明ごろ、また宮に入りしに、民みな御許に來りたれば、坐して教へ給ふ。

8:3ここに學者・パリサイ人ら、姦淫のとき捕へられたる女を連れきたり、眞中に立ててイエスに言ふ、

8:4『師よ、この女は姦淫のをり、そのまま捕へられたるなり。

8:5モーセは律法に、斯かる者を石にて撃つべき事を我らに命じたるが、汝は如何に言ふか』

8:6かく云へるは、イエスを試みて、訴ふる種を得んとてなり。イエス身を屈め、指にて地に物書き給ふ。

8:7かれら問ひて止まざれば、イエス身を起して『なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て』と言ひ、

8:8また身を屈めて地に物書きたまふ。

8:9彼等これを聞きて良心に責められ、老人をはじめ若き者まで一人一人いでゆき、唯イエスと中に立てる女とのみ遺れり。

8:10イエス身を起して、女のほかに誰も居らぬを見て言ひ給ふ『をんなよ、汝を訴へたる者どもは何處にをるぞ、汝を罪する者なきか』

8:11女いふ『主よ、誰もなし』イエス言ひ給ふ『われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな』]

8:12かくてイエスまた人々に語りて言ひ給ふ『われは世の光なり、我に從ふ者は暗き中を歩まず、生命の光を得べし』

8:13パリサイ人ら言ふ『なんぢは己につきて證す、なんぢの證は眞ならず』

8:14イエス答へて言ひ給ふ『われ自ら己につきて證すとも、我が證は眞なり、


我は何處より來り何處に往くを知る故なり。

汝らは我が何處より來り、何處に往くを知らず、


8:15なんぢらは肉によりて審く、我は誰をも審かず。
http://bible.salterrae.net/taisho/xml/john.xml

ゴーギャンが取り上げた “我は何處より來り何處に往くを知る故なり。汝らは我が何處より來り、何處に往くを知らず”というのは罪の女の話の総括としてイエスが語った言葉なのです。即ち、

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教等の砂漠の遊牧・牧畜民の文化では女性や恋愛・性行動を敵視し、

女児がオナニーした → オナニーできない様に女児の陰核を切除する

少女が強姦された → 男を無意識に誘惑しない様に少女を石打の刑にする

妻が夫に売春を強制された → 夫に同じ過ちを繰り返させない様に妻を石打の刑にする

女性が恋愛・不倫した → 男を惑わせない様に女性を石打の刑や火炙りにする


によって対処する伝統だったのです。 イエスが否定しようとしたのはこういうユダヤ教の伝統だったのですが、キリスト教ではイエスの教えを完全に無視し、ユダヤ教の悪しき伝統をそっくりそのまま教義として残したのですね。

まあ、パレスチナの様な砂漠地帯では人口が増えると みんな食べていけなくなるので仕方無いのですが。

_____________

ゴーギャンは11歳から16歳までオルレアン郊外のラ・シャペル=サン=メスマン神学校の学生で、この学校にはオルレアン主教フェリックス・デュパンルーを教師とするカソリックの典礼の授業もあった。

デュパンルーは神学校の生徒たちの心にキリスト教の教理問答を植え付け、その後の人生に正しいキリスト教義の霊的な影響を与えようと試みた。

この教理における3つの基本的な問答は


「人間はどこから来たのか (Where does humanity come from?)、

「どこへ行こうとするのか (Where is it going to?)」、

「人間はどうやって進歩していくのか (How does humanity proceed?)」であった。


ゴーギャンは後半生にキリスト教権に対して猛反発するようになるが、デュパンルーが教え込んだこれらのキリスト教教理問答はゴーギャンから離れることはなかった。

http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/L1/210819.htm

ダニエル・ド・モンフレエ宛て(1898年2月,タヒチ)

「…あなたに言っておかなければならないが,私は12月に死ぬつもりだった。それで,死ぬ前に,常に頭にあった大作を描こうと思った。1か月の間ずっと昼夜通して途方もない情熱で描き続けた。…これは,高さ1.7メートル,横4.5メートルの絵だ。…

右下に,眠っている赤ん坊と,うずくまる3人の女性。紫色の服を着た2人の人間がお互いの考えを打ち明けている。

わざと大きくして遠近法を無視して描いた人物は,うずくまり,腕を上にあげ,自分たちの運命を考えている2人を眺めて驚いている。

中央の人物は,果物を摘んでいる。一人の子どもの傍には,2匹の猫がいる。そして白い牡ヤギ。

偶像は,神秘的に律動的に両腕をあげ,彼岸を指し示すかのようだ。うずくまった人物は,偶像に耳を傾けているように見える。
最後に,死に近い老婆は,自らの運命を甘受しあきらめているかのようだ。…その足元に,足でとかげをつかむ1羽の白い未知の鳥がいるが,空疎な言葉の無用さを物語っている。…」

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/444pdf/02-06.pdf

ゴーギャン自身が友人モンフレエ宛ての手紙43)の中で記しているように,面右端と左端には人間の生と死を表すかのように赤ん坊と老婆が描かれている。画面中央には,果実をもぎ取ろうとする青年の姿があり,傍らには地面に座り込んで果実を食べる子供がいる。その他タヒチ女性が配置され,ヤギや犬,鳥といった動物,そして古代の神とされる偶像が描かれている。ゴーギャン当人は,大作であり日頃から温めてきた題材としながらも,作品の意図や描かれた個々の対象の意味について十分な説明をしていない。

先行研究では,まず作品タイトル《我々は…》の出典元の確認が試みられている。

ルークメーカーは,ゴーギャンのブルターニュ時代の肖像画に見出されるトマス・カーライル著の『衣装哲学』に,
O Whence─ OhHeaven, Whither?(仏語訳ではMaisd’oùvenouns nous? O Dieu,oùallonsnous?)という題名と対応する一文が見られると指摘している。また,フィールドもカトリックの秘儀を研究した書物に,作品タイトルと一致する文面があるとしている。作品内におけるモティーフと典拠元の関係においては,タヒチ時代の自身の作品からの転用だけでなく,ブルターニュ時代の作品にその始まりを見出せるものがある。

左の右手をついて横座りする女性のポーズは,1889年の《海藻を集める者たち》の女性のポーズを反転させたものである。また,左端の顔を手で押さえてうずくまる老婆の姿も,ブルターニュ時代からゴーギャンが作品に使用していたポーズであり,ペルーのミイラ像にその根拠を見出せる。タヒチ時代の作品から引用された女性像においても,ジャワ島のボロブドゥール寺院のレリーフやエジプトの壁画にその原型がある。

以上から考えられることは,タイトルから想起されるキリスト教的視点と,実際のモティーフから現れる西洋,非西洋を越えた広い視点との間に距離が生じるということである。ここで作品を改めて考察すると,《我々は…》には,我々が希求し模索しながらも到達し得ない人間存在が描かれていると言えないだろうか。ブルターニュ,タヒチ,あるいはジャワ島やエジプトといった特定の場所や人々ではなく,人間そのものへの強い憧憬がここには存在する。それぞれのモティーフは,断片的表象にも関わらず作品全体において調和をなしている。そして,そうしたモティーフの背景に存在するキリスト教やタヒチにおける信仰などの民俗信仰は,人間の祈りというレベルにおいて等価のものとみなされる。

作品タイトル《我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?》は,人間にとっての至上命題である。つ
まりこの絵画には,ゴーギャンがブルターニュにおいて感じたnostalgia故の人間存在そのものへの希求が見られるのである。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/444pdf/02-06.pdf


後期印象派の代表する巨匠にして総合主義の創始者ポール・ゴーギャンの画業における集大成的な傑作『我々はどこから来たのか、我々は何か、我々はどこへ行くのか』。

1895年9月から1903年5月まで滞在した、所謂、第2次タヒチ滞在期に制作された作品の中で最高傑作のひとつとして広く認められる本作に描かれるのは、ゴーギャンが人類最後の楽園と信じていたタヒチに住む現地民の生活やその姿で、本作にはゴーギャンがそれまでの画業で培ってきた絵画表現はもとより、画家自身が抱いていた人生観や死生観、独自の世界観などが顕著に示されている。完成後、1898年7月にパリへと送られ、金銭的な成功(高値で売却)には至らなかったものの、当時の象徴主義者や批評家らから高い評価を受けた本作の解釈については諸説唱えられているが、

画面右部分には大地に生まれ出でた赤子が、中央には果実を取る若い人物(旧約聖書に記される最初の女性エヴァが禁断の果実を取る姿を模したとも考えられている)が、そして左部分には老いた老婆が描かれていることから、一般的には(人間の生から死)の経過を表現したとする説が採用されている。

また老婆の先に描かれる白い鳥の解釈についても、言葉では理解されない(又は言葉を超えた、言葉の虚しさ)を意味する(神秘の象徴)とする説など批評家や研究者たちから様々な説が唱えられている。

画面左部分に配される神像。この神像は祭壇マラエに祭られる創造神タアロア(タヒチ神話における至高存在)と解釈され、自分自身の姿に似せて人間を造ったが、その影はクジラあるいはホオジロザメであると云われている。また月の女神ヒナと解釈する説も唱えられている。

さらに本作を手がける直前に最愛の娘アリーヌの死の知らせを受けたこともあり、完成後、ゴーギャンはヒ素(砒素)を服飲し自殺を図ったことが知られ、それ故、本作は画家の遺書とも解釈されている。本作に示される、強烈な原色的色彩と単純化・平面化した人体表現、光と闇が交錯する独特の世界観はゴーギャンの絵画世界そのものであり、その哲学的な様相と共に、画家の抱く思想や心理的精神性を観る者へ強く訴え、問いかけるようである。
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_nous.html


「熱帯のイブ」として何枚もの作品に登場する女性のポーズは、ジャワ島のボロブドール遺跡のレリーフをモデルにしたもので、タヒチとは無関係である。ちなみにイブを誘惑する蛇は、ゴーギャンの絵ではトカゲとして表現されている。

死を待つ女性が頭を両手で抱え込むポーズは、ペルーのミイラから思いついたもので、これもタヒチとは無縁である。

《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》の中心にある偶像は仏像ではなく、タヒチの土着の神様、再生を司どる月の女神である。
一番驚いたのは、絵の中に描かれる犬は、たいていの場合ゴーギャンを表すということである。
http://nodahiroo.air-nifty.com/sizukanahi/2009/07/post-8a2a.html


この絵でゴーギャンは人の一生を一画面に表現しようとしています。「生まれて、生きて、死ぬ」生き物なら当たり前なことを描いているのです。 そしてこの絵には海が上の方に少し描かれています。

右上には朝の海が描かれ、地球の誕生を意味し、左の海には夜の海が描かれ、地球の終わりを意味しているのでしょうか。

この絵に描かれている人物はほとんどが女性です。犬や猫、鳥なども描かれています。それぞれに意味づけをしていますがどうなんでしょうか?

右の子どもは誕生でしょうし、中央のリンゴを取ろうとしている女性はイブ(エバ)を意味し快楽と苦痛を表現し、左の頭を抱えている女性は死を意味しています。

画面全体は暗いのですが、右側の女性には光が当たっていて、左側は暗い。

背景は右も左も暗く描かれ、ゴーギャンにとっては「この世は真っ暗闇だ」まではいかず、「暗闇」だくらいなのでしょうか。

http://blogs.yahoo.co.jp/haru21012000/60035012.html

19世紀以降、ポリネシア人はキリスト教に改宗していますが、ブルターニュ地方のキリスト教の場合と全く同じで、外観はキリスト教の衣装を纏っていても、その中身は古来のアニミズムそのものだったのですね。

ゴーギャンが描くアダムとイブやマリアも聖書から題材を選んでいますが、その意味する事はキリスト教の教えとは全く異なる物なのです。

“我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか”で知恵の木の実を採るのは男ですし、

エデンの園からの追放というのは失楽園ではなく、牢獄からの解放という意味を持つのです。:


シュメール神話によれば、神様もまた、粘土をこねて人間を創った。

「なぜ、神様は人間を創造したの?」

というのが、キリスト教徒やイスラム教徒の親が、子供に質問されて返答に窮する素朴な疑問。

それに対して、世界最古の宗教・シュメール神話は、明快な回答を与えている。

「神々が働かなくてもよいように、労働者として人間は創造された」

と、シュメール神話の粘土板には明記されているのだ。

いわく、つらい農作業や、治水事業に従事していた神々からは、不平不満が絶えなかった。

「こんなに俺たちを働かせやがって、どういうつもりだ、コンチクショー」

と怒っていた。

原初の母なる女神・ナンムは、この事態を深く憂慮していたが、「神々の中でも、頭ひとつ抜けた知恵者」と評判のエンキ神は、そうともしらずに眠りこけていた。
あるとき、ナンム女神は、エンキ神をたたき起こして言った。

「息子よ、起きなさい。あなたの知恵を使って、神々がつらい仕事から解放されるように、身代わりをつくりなさい」。
             
母の言葉にあわてたエンキ神は、粘土をこねて人間を創った。
おかげで、神々に代わって人間が働くようになり、神々はめでたく労働から解放された。シュメール神話の最高神である天空の神アン(エンキの父)や、大気の神エンリル(エンキの兄)も、これには大喜び。神々は祝宴を開き、したたかにビールを痛飲して人類創造を祝った(シュメールは、ビールの発祥地でもある)。

このとき、ビールを飲んで酔っぱらった人類の始祖エンキは、地母神・ニンフルサグ(エンリルやエンキの異母妹)とともに、人間づくりの競争をした。


「広げた手を曲げることができない人間」や、

「排尿をガマンできない人間」、

「性器を持たない人間」、

「よろよろして立ち上がることができない人間」


など、いろんな人間が創られたという
(人権擁護団体が聞いたら、激怒しそうなエピソードですな・・・)。
http://blog.goo.ne.jp/konsaruseijin/e/20278c1470953be34e1163edce926967

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/632.html#c33

[番外地7] アメリカはどうなっているか 中川隆
2. 中川隆[-13410] koaQ7Jey 2020年3月24日 13:24:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1494]
ニューヨーク州は全米でもっとも感染者が多い1万5000人超で急増が続いている。

薬局・食料品店以外の非必須事業場の閉鎖し10人以上の集会を禁止、違反した場合は州軍と市警が制圧する。

専門家は住民の半数が感染する可能性があると述べ、NY市長は医療資材が10日分しか持たないと訴えている。


トランプ大統領は3月22日、ニューヨーク・ワシントン・カリフォルニアの3州に州防衛軍を投じると発表した。

ワシントンDCは毎年桜の花見に群衆が集まるが、花見を防ぐため州軍を近くで待機させた。

バウザー市長は「州防衛軍と警察が桜祭りの地域に住民が進入するのを遮断する」と話した。


トランプ大統領は「ニューヨークに1000病床の臨時連邦医療施設4カ所、カリフォルニアには2000病床の施設8カ所、ワシントン州にも1000病床1000病床の大型施設3カ所などを支援する」と説明した。

アメリカは可能な限りウイルス検査を増やしたが、それが医療崩壊や2次感染を引き起こしたとも指摘されている。

アメリカは医療費が高額なためもともと病院の受け入れ可能人数が少なく、検査によって負担が増してしまった。


その結果コロナウイルス以外の患者を受け入れることができなくなり、いわゆる医療崩壊に至っている。

イタリアも同様の事態になり現在は症状がある人だけを入院させ、自覚症状がない人は検査しないように変更している。

アメリカではコロナ検査や医療費が有料で、検査を受けて30万円請求されたり、治療費で200万円請求された例が報告されている。


これでは人々は病院に行かないわけで、コロナ検査と治療費を無料にする必要があるでしょう。

世界経済の中心は依然としてアメリカであり、アメリカ経済がマヒすれば必ず世界規模で国家破産や企業破産が続出する。

その影響を過少に考えていたら痛い目に遭うでしょう。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/547.html#c2

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
38. 中川隆[-13409] koaQ7Jey 2020年3月24日 14:49:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1495]

Götterdämmerung: Gotterdammerung (Twilight of the Gods) , Prologue: Siegfried's Rhine Journey 1927年





Conductor: Bruno Walter
Orchestra: Royal Philharmonic Orchestra

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c38
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
39. 中川隆[-13408] koaQ7Jey 2020年3月24日 14:53:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1496]
ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー ジークフリート牧歌





Vienna Philharmonic Orch.
recorded 6/19, 1935
Transfer from Jpn Columbia 78s / J-8567/8(2VH-90/93)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c39
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
40. 中川隆[-13407] koaQ7Jey 2020年3月24日 14:57:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1497]

ブルーノ・ワルター

Lotte Lehmann - Lauritz Melchior - Emanuel List
Die Walküre acte 1 Walter 1935年







Lotte Lehmann
Lauritz Melchior
Emmanuel List

Orchestre Philharmonique de Vienne
Bruno Walter.

Enregistré à Vienne du 20 au 22 juin 1935


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c40
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
41. 中川隆[-13406] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:04:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1498]
ブルーノ・ワルターは キャサリーン・フェリアーが大好きだったんですね:

Kathleen Ferrier & Bruno Walter; "Romance"; Rosamunde; D 797/3b; Franz Schubert




Kathleen Ferrier--Contralto
Bruno Walter--Piano
1949

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Kathleen Ferrier & Bruno Walter "Du bist di Ruh"; Franz Schubert




Kathleen Ferrier--Contralto
Bruno Walter--Piano
1949

__________


Schubert, Schumann, Brahms : Lieder by Kathleen Ferrier & Bruno Walter




Franz Schubert (1797-1828) - Lieder
Romance from ‘’Rosamunde’’, D797 no.3b (00:00)
Du bist die Ruh, D776 (03:51)
Die junge Nonne, D828 (08:34)
Der Tod und das Mädchen, D531 (13:01)
Suleika I, D720 (15:39)
Du liebst mich nicht ! D756 (20:27)

Contralto : Kathleen Ferrier
Piano : Bruno Walter
Live recording in 1949, Edinburgh Festival


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Bruno Walter - Schubert : Rosamunde - Ballet Music No.1




London Symphony Orch.
78rpm / Columbia, W-281(2EA-6770)

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Bruno Walter - Schubert : Rosamunde - Ballet Music No.2





London Symphony Orch.
78rpm / Columbia, W-281(2EA-6771)

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Rosamunde: Intermezzo No. 3




Columbia Symphony Orchestra
Bruno Walter

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c41
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
42. 中川隆[-13405] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:06:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1499]

Fidelio 22/2/1941 MetOpera (Flagstad, Maison, Kipnis, Farell, Huehn, Janssen - Walter)





Fidelio - Beethoven

Metropolitan Opera
Matinée Broadcast
22nd February, 1941年

Leonore.................Kirsten Flagstad
Florestan...............René Maison
Don Pizarro...........Julius Huehn
Rocco....................Alexander Kipnis
Marzelline.............Marita Farell
Jaquino.................Karl Laufkötter
Don Fernando.......Herbert Janssen
First Prisoner........Emery Darcy
Second Prisoner...John Gurney

Conductor.............Bruno Walter

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c42
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
43. 中川隆[-13404] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:09:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1500]

Fidelio 10/Mar/1951 MetOpera (Flagstad, Svanholm, Schöffler, Conner, Hines - Walter)






Fidelio - Beethoven

Metropolitan Opera
Matinée Broadcast: 10th March 1951年

Leonore........................Kirsten Flagstad
Florestan......................Set Svanholm
Don Pizarro..................Paul Schöffler
Rocco...........................Dezsö Ernster
Marzelline....................Nadine Conner
Jaquino........................Peter Klein
Don Fernando.............Jerome Hines
First Prisoner...............Brian Sullivan
Second Prisoner.........George Cehanovsky

Conductor...................Bruno Walter

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c43
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
44. 中川隆[-13403] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:15:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1501]

ブルーノ・ワルター

Bruno Walter Live: Beethoven: Missa Solemnis (Carnegy Hall 18-04-1948)




Eleanor Steber: Soprano
Nan Merriman: Alto
Walter Hain: Tenor
Lorenzo Alvary: Bass
New York Philharmonic Orchestra: Bruno Walter

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c44
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
45. 中川隆[-13402] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:18:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1502]

Beethoven "Symphony No 9" Bruno Walter 1947年

Isobel Baillie, soprano
Kathleen Ferrier, contralto
Heddle Nash, tenor
William Parsons, baritone
London Philharmonic Choir
Chorus master: Frederic Jackson

London Philharmonic Orchestra
Bruno Walter, conductor
Royal Albert Hall, 13.XI.1947


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c45

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
46. 中川隆[-13401] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:19:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1503]

Beethoven "Symphony No 9" Bruno Walter 1947年



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c46
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
47. 中川隆[-13400] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:22:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1504]

Kathleen Ferrier - Bruno Walter - The Legendary Edinburgh Festival (Live R.1949年)




Kathleen Ferrier (1912-1953): Contralto
Bruno Walter (1876-1962): Piano

• Schubert: Die junge Nonne D828
• Schubert: Romance D797
• Schubert: Du Liebst mich nicht D756
• Schubert: Der tod und das mädchen D531
• Schubert: Suleika I D720
• Schubert: Du bist die Ruh D776
• Brahms: Immer leiser wird mein Schlummer op.105 no.2
• Brahms: Der tod, das ist die kühle nacht op.96 no.1
• Brahms: Botschaft op.47 no.1
• Brahms: Von ewiger liebe op.43 no.1
• Schumann: Frauenliebe und –leben op.42
R. 07-09-1949 Usher Hall Edinburgh

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c47
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
48. 中川隆[-13399] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:30:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1505]

Kathleen Ferrier & Bruno Walter; "Kindertotenlieder"; Gustav Mahler




Kathleen Ferrier--Contralto
Bruno Walter--Conductor
Wiener Philharmoniker
1949年

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c48
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
49. 中川隆[-13398] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:35:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1506]

Kathleen Ferrier - "Ich bin der Welt abhanden gekommen" (Mahler: Rückert-Lieder) - with lyrics 1952年




Kathleen Ferrier.UM MITTERNACHT.VIENNA.Bruno Walter.1952.Gustav Mahler. Ruckert lieder




In the spring of 1952 in Vienna,the contralto Kathleen Ferrier recorded her famous Mahler's Das Lied Von Der Erde.

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c49
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
50. 中川隆[-13397] koaQ7Jey 2020年3月24日 16:07:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1507]

ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日-1962年2月17日)は、ドイツ出身の指揮者・ピアニスト・作曲家。

より正確なドイツ語読みはヴァルターであり、そのように表記される場合もある。また、本来の姓はシュレジンガーであり、これは彼がブレスラウの歌劇場の指揮者になったとき、現地ユダヤ人にシュレジンガー姓が多いので、ヴァルターに改めたという。そのため、ヴァルター・シュレジンガーと表記されることも稀にある。

20世紀を代表する偉大な指揮者の1人で、モーツァルトやマーラーを得意とした
戦前や戦後間もなくの日本では、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、アルトゥーロ・トスカニーニとブルーノ・ワルターを「三大巨匠」と呼ぶことが多かった。

作曲家として2曲の交響曲、室内楽曲、歌曲などを残している。

ドイツ系ユダヤ人の父親と、東ヨーロッパから移住したユダヤ系の母親の間の子として、ベルリンに生まれる。母親はキリスト教に改宗しており、ブルーノ本人もキリスト教徒であった。本名は、ブルーノ・シュレジンガー(Bruno Schlesinger)。

父親は絹糸商会の簿記係、母親はワルター本人の言い方によれば「なかなかうまい」ピアニストだった。

幼少期からピアノに親しみ、13才の時にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のポピュラーコンサートにピアニストとして出演し、イグナーツ・モシェレスのピアノ協奏曲を演奏している。

ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後、ピアニストとしてデビューしたが、ハンス・フォン・ビューローの実演を目の当たりにして指揮者になることを決意し、1894年にケルン市立歌劇場でデビューした。


マーラーとの出会い

1896年にはハンブルク歌劇場へ移った。そこで当時音楽監督(1891年 - 1897年)、すなわち上司であったグスタフ・マーラーに認められ、マーラーの部下、そして親友として交流を深めていった。(ただし、ワルターはマーラーに指揮を師事したわけではないので、「マーラーの弟子」という表現は適切ではない。)その後マーラーとともにウィーンへ転任し、ウィーン音楽院(現ウィーン国立音楽大学)で教鞭をとる。また、名前からユダヤ系を示す「シュレジンガー」という姓を除き「ブルーノ・ワルター(ヴァルター)」と名乗ったのもこの頃からである[注釈 1]。

人気指揮者へ

1901年にマーラーの招聘によってウィーン宮廷歌劇場の副指揮者となる。以後ウィーン宮廷歌劇場(ウィーン国立歌劇場)楽長、ミュンヘン宮廷歌劇場(バイエルン国立歌劇場)音楽監督、ベルリン市立歌劇場(ベルリン・ドイツ・オペラ)音楽監督、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団楽長などを歴任。ヨーロッパの一流オーケストラやザルツブルク音楽祭さらにはアメリカのオーケストラにも度々招かれる人気指揮者として活躍した。ベルリン・フィルでは「ブルーノ・ワルターコンサート」という演奏会を持っていた。

ナチスの台頭とアメリカ移住

しかし、1933年に、ナチス政権が成立すると、ユダヤ系であるワルターは迫害を受けるようになる。政権発足直後に演奏旅行から帰国してきたワルターは、ナチ宣伝大臣ゲッベルスらによる嫌がらせや殺人予告を受けるようになり、最終的には楽屋に銃弾を撃ち込まれる事態にまで発展した。このため、ワルターが指揮をする演奏会は中止に追い込まれ、彼はドイツを追われてオーストリアのウィーンへ移住せざるを得なくなった。

移住先のウィーンでは歓迎されてウィーン国立歌劇場やウィーン・フィルで、フルトヴェングラーなどと人気を争うほどの活躍をしたが、1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されてしまうと、命に危険を感じウィーンを出てスイスのルガーノへ逃れた。この年創設されたルツェルン音楽祭にトスカニーニらと共に招かれたりしているが、パスポートもない状態でモナコなどに市民権の取得を打診し不調におわる。やがてフランスから手をさしのべられフランス国籍を取得、フランスなどドイツとオーストリアの影響の及ばない地域を中心に演奏活動を続けた。

翌年もルツェルン音楽祭に招かれるが、チューリッヒで離婚調停中だった次女のグレーテルが夫に射殺され、その夫も自殺するという悲劇(著名なバス歌手エツィオ・ピンツァとグレーテルとの不倫関係が原因という)がワルターを襲う(音楽祭はトスカニーニが自らのスケジュールをキャンセルして代役を務める)。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発して欧州での戦火が激しくなると、ついにルガーノの家を出てアメリカへと逃れた。アメリカでは、カリフォルニア州ビバリーヒルズに居を構え、常任のポストには就かずにニューヨーク・フィルハーモニックやメトロポリタン歌劇場などを指揮した。


戦後

戦後はヨーロッパの楽壇にも復帰し、1947年から1949年の間にニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めるなど、欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。その後もニューヨーク・フィルやウィーン・フィルを指揮して数回演奏会を行なっている。1960年にマーラーの生誕100周年記念祭のために最後のウィーン訪問を行いウィーン・フィルを指揮する(曲目はマーラーの交響曲第4番、シューベルトの「未完成」など)。同年暮れにロスアンジェルス・フィルの演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し(曲目はブラームスのピアノ協奏曲第1番、交響曲第1番)、演奏会から引退した。その数年前、ステレオ録音技術が発達してきたため、CBSレコード(現在はソニー・クラシカル)が、ワルターの演奏をステレオで収録するために、ロスアンジェルス付近の音楽家によりコロンビア交響楽団を特別に結成し、この組み合わせで多くの録音が残された。

1962年2月17日、心不全のためカリフォルニア州ビバリーヒルズの自宅で死去。その波乱に満ちた生涯を閉じた。現在、遺体はスイスのルガーノに埋葬されている。

最晩年に、ルドルフ・シュタイナーが設立した人智学関連団体である『普遍アントロポゾフィー協会』に入会した。


ワルターの名演奏(録音)

レパートリーと演奏スタイル

ワルターは、19世紀生まれの指揮者の中では珍しく録音を多く残しており、録音期間も1920年代のSPレコードから1960年代のステレオ録音に至るまでの長期間にわたっている。そのレパートリーも得意としていたマーラーやモーツァルトの他、ハイドン、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナーなどのドイツ・オーストリア系音楽やベルリオーズ、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、バーバーなど幅広い。録音には残されていないが、同時代の作曲家の作品も積極的に取り上げていた。

よくワルターの演奏は微笑に例えられ、夢のような幸福感に満ちた美しい演奏、感情を荒々しく出すことのない中庸な演奏をする指揮者として知られている。モーツァルトの交響曲や晩年のステレオ・スタジオ録音によるベートーヴェンの交響曲第6番『田園』などの録音にその点が見られる。しかしその一方で、壮年期であるモノラル録音時代のライヴ録音などにはニューヨーク・フィルとのベートーヴェン交響曲第7番や、1937年にカール・ライネッケのカデンツァを弾き振りしたウィーン・フィルとのモーツァルトピアノ協奏曲第20番K466、ナチス・ドイツの脅威が迫り来る中で演奏された1938年のマーラー交響曲第9番のように何かに憑かれたような熾烈な演奏をしている事例も多い。ワルター自身、自伝で自分の中にはアポロ的な部分とディオニュソス的な部分が両立している、と述べている。

ワルターの指揮は、基本的にタクトを持った右手のみを使い、必要以上に体を動かすことも、左手を使うこともあまりしていない。拍をぼかさずにきちんと刻んで振っていることが多く、「草書的」と言われたマーラーら旧世代の指揮とは違うものである。また、文学的な解説や長い演説は余りせず、タクトを振りながら「歌って!」「ディミヌエンド!」「エスプレッシーヴォ!」といった指示を出すのみならず、楽器名を出して細かいアーティキュレーションを盛り込んでいる[2]。

彼は自伝に「自分は教育的指揮者だ」と残している。このことは、ワルターがトスカニーニのようにオーケストラに対して専制君主として振舞う指揮者ではないことを示しており、ワルターの人柄を良く表している。例えば、ウィーン・フィルでのリハーサルでは悲しい顔をし「なぜあなた達は美しい音を出さないのですか?もっと歌ってください」と言い、団員達は「あんな悲しげな顔でリハーサルされたら音を出さざるを得ないよ。トスカニーニなどの怒りんぼう指揮者以上に困った指揮者だね」と、言ったという。


代表的な録音は下記の通り。

マーラーとモーツァルト

ワルターはグスタフ・マーラーの良き理解者であり、マーラーの死後に交響曲第9番、『大地の歌』の初演を行うなど、その権威として知られていた。ワルターの死後レナード・バーンスタインやクラウス・テンシュテットなどによる名演奏が生まれ、ワルターのマーラー演奏の地位は相対的に低下したが、それでも前述の1938年録音の交響曲第9番(ウィーン・フィルとのライヴ録音)や1952年録音の『大地の歌』(ウィーン・フィルとのスタジオ録音とライブ録音)、ステレオ録音の交響曲第1番(コロンビア交響楽団)、第2番(ニューヨーク・フィル)などは今でも名演奏として知られている。交響曲第1番の録音では、当時バーンスタインもこの曲の録音が予定されており、場合によっては同じ曲のレコードが同じCBSから同じ時期に発売される可能性もあった。しかし、「とりあえずバーンスタインにワルター盤を聴かせ、その感想で録音するかどうか決めよう」ということになり、バーンスタインにワルター盤を聴かせたところ大絶賛したため、バーンスタインによる録音はお預けとなった。

また、ワルターはモーツァルトを得意としており、楽屋でモーツァルトの霊と交信していたという噂さえ伝説として残っているほど。生涯最後の録音も、モーツァルトのオペラ序曲集であった。晩年のコロンビア交響楽団とのステレオ録音では交響曲第36番、第40番、またニューヨーク・フィルとのモノラル録音では第35番、第38番、第39番、第40番、第41番などが名演奏として知られている。また、戦前のウィーン・フィルとの録音(『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』など)や、1952年のウィーン・フィルとの交響曲第40番のライヴ録音、ザルツブルク音楽祭での交響曲第25番、『レクイエム』のライヴ録音などは今でも名演奏と称えられている。オペラでは、メトロポリタン歌劇場での『ドン・ジョヴァンニ』、『魔笛』等が知られている。

20世紀後半にモーツァルトの権威とされたカール・ベームも、「バイエルン歌劇場音楽監督であったワルターが私を第4指揮者として招聘し、彼がモーツァルトのすばらしさを教えてくれたからこそ、モーツァルトに開眼できた」と告白している[3]。


その他

マーラー・モーツァルト以外では下記の録音などが今も高い評価を得ている。

モノラル録音
ブラームス 交響曲第2番、交響曲第3番(ニューヨーク・フィル)
ベートーヴェン 交響曲第3番『英雄』(シンフォニー・オブ・ジ・エアとのライヴ録音[4])
ベートーヴェン 交響曲第6番『田園』(ウィーン・フィルとのSP録音)
ハイドン 交響曲第100番『軍隊』(ウィーン・フィルとのSP録音)
シューベルト 交響曲第7(8)番『未完成』(ウィーン・フィルとのSP録音)


ステレオ録音
ベートーヴェン 交響曲第2番、交響曲第6番『田園』(コロンビア交響楽団)
ブラームス 交響曲第4番(コロンビア交響楽団)
シューベルト 交響曲第5番、交響曲第8(9)番『ザ・グレート』(コロンビア交響楽団)
シューベルト 交響曲第7(8)番『未完成』(ニューヨーク・フィル)
ハイドン 交響曲第100番『軍隊』(コロンビア交響楽団)


他の指揮者との関係


トスカニーニ

ワルターとトスカニーニは演奏スタイルには違いがあったが、親交を持っていた。トスカニーニはワルターの演奏を、感傷的に過ぎるように感じていたようだが、ワルターが指揮したモーツァルトの交響曲のレコードに関して自分よりも良いと述べている。いっぽうワルターはトスカニーニから音楽的に多大な影響を受け、自伝でもトスカニーニを賞賛している。ワルターが娘グレーテル殺害の報を受けたのはルツェルン音楽祭の楽屋であったが、ショックで指揮が出来なくなってしまったワルターに代わって指揮台に上がったのはトスカニーニだった。トスカニーニが90歳で没した際の追悼演奏会ではワルターが指揮台に上がり、ベートーヴェンの交響曲第3番の名演奏を残している。


フルトヴェングラー

ワルターとフルトヴェングラーは共にドイツを代表する大指揮者であったが、片やワルターはユダヤ人としてナチスに祖国を追われ、片やフルトヴェングラーはナチス政権下でドイツに留まり、ナチスから官職を得て演奏活動を続けたことが二人の関係をぎくしゃくしたものにしてしまった。歌手ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは自伝で「フルトヴェングラーはワルターが指揮するブラームスの『ドイツ・レクイエム』を戦後の演奏会で聞いた際に、テンポなどに否定的な見解を述べていた」と書いている。また、フルトヴェングラーがシカゴ交響楽団の指揮者就任を在米ユダヤ人に反対された際にはワルターはそれに加わらなかったが、その際に互いに交換された書簡ではワルターはフルトヴェングラーの戦時中の対応に対して、厳しい意見を述べている。


クレンペラー

クレンペラーとワルターは共にユダヤ系ドイツ人で、マーラーの薫陶を受けた人物だがその演奏スタイルは大きく違った。あるインタビュー[5][6]では、クレンペラーが「ワルターはモラリストだが、私は違う、断じて!」[注釈 2]と述べた後に、「モラリスト」では芸術作品の深さを伝えるような演奏は出来ないのだ、というニュアンスの発言をしてワルターを皮肉っている。ただし、ワルターの書簡集を見るとクレンペラーやその家族との間とも手紙が交わされていることが伺える。

ベーム

前述のようにバイエルン国立歌劇場時代にワルターが招聘し、その後も交友を続けていた。ワルターが戦後初めてウィーンに降り立ったときの言葉は、「私の友人ベーム君は、今どうしているか」だったと伝えられている。ベームは、ワルターのことを「繊細敏感なユダヤ人で、どこかマーラーを偲ばせるところがあった」と語っている。ベームはワルターを慕っており、ことあるごとにワルターに指揮を依頼している。ウィーン国立歌劇場再開記念公演シリーズに際してもワルターにドン・ジョバンニの指揮を依頼している(これは、実際にはワルターが高齢を理由に断ったためベーム自身が指揮し、ワルターはベートヴェンの第9を指揮している)。さらにモーツァルトのみならず、シューベルトの演奏もワルターに教えてもらったと言っている。また、ワルターはベーム夫人をミミ役に起用した。

作曲した作品

ワルターは、歌曲、室内楽、合唱曲などを作曲していたが、生前作曲家として知られることはなかった。 現在までに、録音が発売された作品は下記のとおりである。

ヴァイオリン・ソナタ
交響曲ニ短調
歌曲『兵士、若い夫』

なお、生前にワルター自作自演によるピアノ曲を聴いたマーラーは、妻アルマ宛の書簡でこう述べている。「今日はブルーノ・ワルターの曲を聴いた。彼には悪いが、あくびを堪えるのにとても苦労した。彼は指揮者としての活動に集中すべきであり、これには君も同意してくれると思う」


著書

自伝『主題と変奏-1946年-』(白水社) 原著:Thema und Variationen/ドイツ語

著作『音楽と演奏-1957年-』(白水社) 原著:Von der Musik und vom Musizieren/ドイツ語

書簡集『ブルーノ・ワルターの手紙-1969年-』(白水社)ロッテ・ワルター・リント編

マーラー人と芸術(音楽之友社) (訳:村田武雄)原著:Gustav Mahler, Austria/ドイツ語


映像作品

DVD『THE ART OF CONDUCTING:GREAT CONDUCTORS OF THE PAST / アート・オブ・コンダクティング −今世紀の偉大な名指揮者たち−』(ワーナー・ミュージック)
DVD『ザ・マエストロ』(ジェネオン・エンタテインメント) - 1958年のカナダ・ヴァンクーバー祝祭管弦楽団とのブラームス『交響曲第2番』のリハーサル風景とインタビュー

映画『カーネギー・ホール』 - 1952年。ニューヨーク・フィルが『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕前奏曲を演奏する場面で指揮を振っている。

映画『フルトヴンェグラーと巨匠たち』(原題は「音楽の大使」) - 1954年。


注釈

1.^ 仲間のフランツ・シャルクはこのことをワーグナーのタンホイザーにも出てくる詩人ワルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデとかけて、「シュレジンガー・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ氏」と呼んだという

2.^ ワルターは、しばしば「温和なヒューマニスト」「道徳者」というイメージで伝えられているが、実際はそうではない一面もあったという説があり、これをもってワルターを偽善者とする見方もある。これについては、前述のようにワルター自身が自分の中に「アポロとデュオニソスが両立している」と残していることにも留意する必要がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c50

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
51. 中川隆[-13396] koaQ7Jey 2020年3月24日 16:12:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1508]

ブルーノ・ワルターの名盤紹介


ブルーノ・ワルター HOME PAGE
http://www1.s2.starcat.ne.jp/danno/walter2.htm

ブルーノ・ワルター 作曲家別ディスコグラフィ
http://www1.s2.starcat.ne.jp/danno/discography.htm

ブルーノ・ワルター 掲示板
https://6233.teacup.com/walter/bbs
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c51

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
52. 中川隆[-13395] koaQ7Jey 2020年3月24日 16:43:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1509]

巨匠神話 – 1998/12/10
ノーマン レブレヒト (著), Norman Lebrecht (原著), & 2 その他
https://www.amazon.co.jp/巨匠神話-ノーマン-レブレヒト/dp/4163519009


内容紹介
何も演奏せず、何も歌わないのに、賞賛の拍手を独占する男──それがW偉大なる指揮者Wである。二十世紀の巨匠神話を解剖する問題作

内容(「BOOK」データベースより)
フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン…彼らがめざした権力と栄光の歴史から、その夢と挫折をめぐる神話を分析する。“偉大なる指揮者”たちへの大いなるレクイエム。

内容(「MARC」データベースより)
フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン。彼らが目指した権力と栄光の歴史から、その夢と挫折の神話を分析する。誰もが一度は夢見る職業・指揮者を巡る、おかしくて悲しくて不思議な物語。


▲△▽▼

●● ブルーノ・ワルター 4 ●●
https://music.5ch.net/test/read.cgi/classical/1023453274/


42 :名無しの笛の踊り:02/06/13 23:20 ID:vb3zNeqM

レブレヒトの巨匠神話の邦訳版、今ごろになって手に入れたよ。前のワルター・スレ
で紹介された内容が、すべて間違いなく載っていたよ。「貪欲な豚」の逸話も、シェ
ーンベルクの最近まで未公開だった手紙に書かれているそうだ。でも前スレでも指摘
されていたが、邦訳版はこれらの逸話の出典をすべて省略しているね。それに、ここ
でのワルター関連の話題から判断する限り、レブレヒトの紹介するそれぞれの逸話は
そのソースの存在自体に疑わしい点はないにせよ、個々の発言のシチュエーションが
全く説明されていなかったり、発言に微妙な尾ひれがついているのではと考えられる
場合が多いね。著名な指揮者のダークサイドを、ことさら強調するための修辞法なの
だろうけど、あまりフェアな書き方ではないね。

46 :名無しの笛の踊り:02/06/16 00:49 ID:mumm8P4M

戦後の(妻の死後の)ワルターを巡る3人の女性。
エリカ・マン、デリア・ラインハルト、スージー・ダンツィガー。


47 :名無しの笛の踊り:02/06/16 15:06 ID:YoXO10XM

どんな関係だったの?


48 :名無しの笛の踊り:02/06/16 15:37 ID:???
>>42
なんでワルターが「悪いひと」なのをそんなに否定したがるのか?
別に悪いひとでもいいじゃないの
なんでいいひとである必要があるのか理解できない


49 :名無しの笛の踊り:02/06/16 19:24 ID:YoXO10XM

いい人であることを望んでいる人はそんなにいないんじゃない?
人間的に一癖ある方が魅力的だし。でも,「貪欲な豚」がワルターの
性格そのものであるかのように誤解されるのはちょっと違うんじゃない?
とは思うよ。まあ 俺にとってはどうでもいいけど。演奏さえ良けりゃ。


50 :名無しの笛の踊り:02/06/16 20:26 ID:???
>>48 >>49

悪口の言い方はいろいろあると思うけれど、「豚」という表現をするところ
までの悪口ならば、そう言われる理由を探るのも意味のないことではないと
思う。「豚」という語がユダヤ人(or ユダヤ教徒)にとってどういうことを
意味するか考えると、これは最悪の罵倒の文句だ。 ただ、ワルターはユダヤ
教徒ではなかったがね。ユダヤ教に改宗したシェーンベルクが、非ユダヤ教徒
のワルターに対して「豚」と表現したのが事実なら、他人と衝突することの
比較的少なく、うまく世を渡っていたワルターに対する強い嫉妬の感情がシェ
ーンベルクにあった、ということだと思う。


51 :名無しの笛の踊り:02/06/16 20:45 ID:???

つまりシェーンベルクがDQNなの?


52 :名無しの笛の踊り:02/06/16 20:51 ID:???

「クレンペラーとの対話」ではシェーンベルクはドキュソだと書かれてるな


53 :名無しの笛の踊り:02/06/16 20:55 ID:???

くれんぷにかかると、
大概の人間がDQNになるからなあ。


54 :名無しの笛の踊り:02/06/16 20:56 ID:???
>>51
そうかもしれない。
芸術家(音楽家も含む)というのは、とかく他人に嫉妬しやすい
人種だからね。


55 :名無しの笛の踊り:02/06/16 20:59 ID:???

キミたち、適当なことを言いなさんなよ。
シェーンベルクがドキュソなら、20世紀の演奏家全員がドキュソだ。
シェーンベルクの作曲上の業績は、ヴァルターの演奏上の業績をはるかに凌ぐ。


57 :名無しの笛の踊り:02/06/16 21:17 ID:YoXO10XM

ワルターが十二音技法などの現代曲に否定的な考えを持っていたから
シェーンベルクは敵意を持っていたのかな?


58 :55:02/06/16 21:22 ID:???

やはり、レブレヒトの例の本はいくぶん眉唾だということではないかな。
私は英語版で読んだが、問題の書簡の出典は‘AI’としか書いてなかった。
この略号の意味は本をひっくり返しても書いてないが、おそらくは
‘Author's Interview’ということかと思われ。>>42も書いているとおり、
事実関係に誤りはないのかもしれないが、面白く書こうとしすぎているのかも。

59 :名無しの笛の踊り:02/06/16 21:29 ID:???

シェーンベルクがいなかったら、今日の音楽の状況は随分異なった
ものになっていたであろうが、ワルターがいなかっても何も変らな
かったであろう。


68 :名無しの笛の踊り:02/06/18 01:49 ID:8b8aTuW6
from >>42 to >>48

何もワルターが「悪いひと」でないと思いたがってはいないよ。ただ問題なの
は、レブレヒトのスキャンダリズムというのか、他人の過激な発言の言葉尻を
捉えて、一般に考えられているような温厚とか善良とかいったイメージと異な
る、ワルターのネガティブ・イメージを殊更のように作り上げようとする姿勢
なのだよ。シェーンベルクの手紙の件ではないけれど、1つ例をあげてみよう。

「彼の芸術を賛美する同僚たちも、彼の性格は軽蔑していた。ワルターが友
 人だと言っていたトスカニーニさえ、彼を『感傷的な馬鹿』と呼んだ」

 ⇒⇒

 感傷的な馬鹿の出典は恐らくメニューインの自伝中の記述なのだが、メニュ
 ーイン自身は他所(最近のワルターの伝記)で次のように述べている。「トス
 カニーニは、ごく親しい友人達を自宅のサロンに集めて、彼の同業者をこっ
 ぴどく貶して楽しむ習慣がありました。あるとき、私が控えめにワルターの
 名前を上げてみると、たちどころに『感傷的な馬鹿』という返事が返ってき
 ました。」 

このように、メニューインの文章を前後省略せずに引用するの
 と、レブレヒトのように刺激的な部分だけを自分の主張に組み入れて引用す
 るのとでは、同じエピソードでも読み手の印象がかなり異なってくるね。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c52

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
53. 中川隆[-13394] koaQ7Jey 2020年3月24日 16:54:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1510]
4月20日:巨匠神話

先週金曜日のクレンペラーのページで、レブレヒトの「巨匠神話」(文藝春秋)を引用しました。この本は一時書店でも結構見かけたので読まれた方も多いかもしれません。この本では有名な指揮者たちの面白いエピソードが語られていて興味が尽きません。面白い話はたくさんありますが、私にとってはブルーノ・ワルターに関する話が面白くもあり、また非常にショッキングでありました。

「巨匠神話」によれば、ブルーノ・ワルターは大変な偽善者で、性格の悪さは天下一品だったらしいです。本から抜き書きいたしますと、驚くべきことに次のような言葉がでてきます。

「ワルターは、卑劣で意地悪な利己主義だった」(アンナ・マーラー)

「昔から貪欲な豚で、考えるだけで気分が悪くなる」(シェーンベルク)

「感傷的なばか」(トスカニーニ)

「ワルターは偽善者だった」(レブレヒト)


驚きましたね。しかし、そんなことは私はこの本を読むまでは全く知りませんでした。ワルターといえば、コンサートの前にはモーツァルトの霊と交信するとまでいわれ、その暖かみのある風貌とあいまって、聖者のような人だと私は思い込んでいました。ナチスに迫害を受けた際には自分だけが標的になっただけでなく、家族までが無残な死に方をしています。そういう知識があると、よけいワルターを美化したくなるのですが、レブレヒトは従来のイメージを木っ端微塵に打ち砕いてしまいました。

ただし、困ったことに、「巨匠神話」日本語版では出典が全部削除されています。
出典なしでもかなり厚い本になっていますから、さらに詳細な出典を付けると、本が厚くなり、2分冊になってしまいます。そうすれば値段も跳ね上がり、売れ行きも落ちるだろうと編集者は考えたのでしょう。

しかし、そう考えた編集者は本作りの基本を全くなおざりにしていると思います。本来書物というものは一回読んだら終わりという性格のものではなく、何度も読み返し、調べものをする際にも使われます。出典がないということは、とりもなおさず、内容の裏を取っているかどうか分からないということです。著者レブレヒトにすればものすごい労力をかけて集めた情報であるのに、それが編集者の浅知恵のためにうやむやにされるわけで、本の価値がそれだけで半減しています。きっとレブレヒトはこの事実を知らないのではないでしょうか。全く残念なことです。

ところで、ブルーノ・ワルターに戻りますと、レブレヒトはこうも書いています。

「ブルーノ・ワルターは、すばらしい指揮者がすばらしい人間でなくてもいいという、生きた証拠であった。」

私もそう思います。レブレヒトの本を読んだ後でもやはりワルターの音楽はすばらしく聞こえます。プライベートはあくまでもプライベート。音楽は虚心坦懐に聴くのが一番でしょう。下手に知識は詰め込まないほうがいいかもしれません。
http://www.andiemusik.jp/classic/archive/archive9904_b.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c53

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
54. 中川隆[-13393] koaQ7Jey 2020年3月24日 17:01:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1511]
音楽録音の音づくりを考える ブルーノ・ワルターのCD


 多くの人は、自分の音楽的感性を、最初に聴き込んだ人の演奏によって形成するのではないか。またクラシック音楽では、同じ曲でも多数の演奏があるが、好きな演奏は、多くがやはり最初に繰り返し聴いた演奏である。私の場合は、ブルーノ・ワルターだった。

ブルーノ・ワルターといっても、知らない人が多いと思うが、1960年に亡くなった指揮者で、ユダヤ人であったために、ヨーロッパからアメリカに亡命して、戦後なんどか演奏旅行にヨーロッパに出かけたが、ずっとアメリカに住んで活動した。

アルトゥール・ニキシュが亡くなったとき、ベルリン・フィルの地位を継ぐのはワルターだと言われたのに、フルトヴェングラーに決まったのだが、これは、フルトヴェングラーがかなり裏で工作をした結果だと言われている。

ミュンヘンのオペラの音楽監督も、ナチの信奉者であったクナッパーツブッシュによって追われたと言われているので、政治的感覚はほとんどなかった、純粋芸術家だったのだろう。

戦前最も優れたワーグナー指揮者であったが、バイロイトには一度も登場していない。

ユダヤ人であったことがもちろんその理由だが、さすがにバイロイト側も、ワルターを無視することはできず、リストの娘であり、ワーグナーの妻だったコジマが、ワルターを招いて面接のようなものをしたときがある。そのときコジマが、ヴェルディのオペラをどう思うか、と質問し、当然のように、ヴェルディは素晴らしい作曲家だとワルターは答えたが、ヴェルディを好きな指揮者など、バイロイトには不要だ、とそのまま呼ばれることなく、ワルターはアメリカに去った。

もちろん、ヴェルディを高く評価しているから呼ばれなかったわけではない。その証拠に、ヴェルディを神のように尊敬していたトスカニーニは、何度かバイロイトで指揮をしている。このトスカニーニ、フルトヴェングラー、ワルターを20世紀前半期の三大指揮者と、通常呼んでいる。

 私は、小さいころから、ワルターのレコードで音楽を聴くようになって、現在でもワルターファンである。演奏の特徴等は別の機会にして、今日、ワルターの旧コロンビアに録音したすべてを集めたコンプリートが届いたので、レコードとCDについて考えてみた。

 さて、今の若い人は、ほとんど知らないはずであるが、CDの前はレコードと呼ばれた33センチある盤に刻まれた、音を波化した溝を針でトレースして音を出すメディアが使われていた。もちろん、アナログである。それがデジタルで記録されるCDに切り替わったのだが、特に、切り替わった時期から、相当経った時点でも、CDは音が悪いという評価が定着していた。CDはソニーとフィリップスが共同開発したまったく新しい音声記録方式であるが、音の波を数値に置き換え、音を数値化し記録する、そして、数値を読み取って再び音に変換するという原理だった。しかし、その際、人間に聞こえない周波数の音は、高い方も低い方も切り捨てることになった。だから、アナログレコードは、実際に聞こえなくても鳴っているが、デジタルのCDは、そもそも音として鳴っていないことにしてしまうわけだから、そのことによって、音質が低下するのだという「見解」が多数の人によって主張された。そして、その「被害」を最もうけた演奏家が、ワルターだったといえる。

 デジタル録音がアナログから転換して、非常に早くアナログ録音は消えてしまった。デジタル録音して、CDとして発売される場合には、もともとその音で登場するが、ワルターの場合には、アナログレコードがたくさん売れていて、その音が多くのファンに染み込んでいた。CDが登場すると、当然、アナログ録音は、テープからデジタル化されて、CDとして再発売されることになる。すると、レコードの音になじんでいたファンから、CDの音に対する不満が爆発したのである。特にそれが顕著に表れたのがワルターの録音だった。これは、ワルターという指揮者が置かれた立場が影響していると考えられる。

 20世紀前半の三大指揮者は、いずれも録音に熱心であり、多くの録音を残したが、ステレオが登場するまで活動を続け、多くの優れたステレオ録音を残したのは、ワルターのみだった。あとの二人は、モノラル録音の時代に死去し、しかも、現代の水準からすれば、非常に悪い録音でしかなかった。元々が悪い音でしか記録されていないのだから、CDになった音が悪くても、それほど気にならなかった。しかし、ワルターはステレオで録音したから、鮮明な録音が残されていた。しかし、カラヤンのような20世紀後半の指揮者と違うのは、デジタル録音が登場したときには、既にいなかったという点である。

 ここで、録音の音とレコードやCDとして市販され、スピーカーから流れる音とは、まったく違うことを確認しておく必要がある。演奏会に足繁く通っている人であれば、充分にわかることだが、クラシック音楽の演奏会では、聴く席によって、音がかなり違う。ポピュラー系では、スピーカーを通して音を聴くので、席による違いはほとんどない。しかし、クラシックの場合は、マイクもスピーカーも使わないから、音源の位置と、会場の位置によって、音が変わる。オーケストラの場合、舞台上であっても、楽器によって、聴いている音はまったく違うのだ。そして、舞台上で演奏者が聴いている音と、客席で聴いている音もまた、相当違う。簡単にいえば、舞台上の音は、生の音であり、客席では、さまざまなところに反響して、混ざり合った音になる。そして、舞台上では、特に指揮者からは、音は分離して聞こえる。

 では、録音された音はどうなのか。これは、マイクのセッティングによって、全く違ってくる。技術者が一番好むのは、各楽器の前にマイクをたてて、個別の音をとり、あとで、音量や反響効果を調整して、全体としての音を作り上げる方式である。逆に、全体がまとまった音として聞こえる空間的位置を探り出して、そこにマイクをおき、ひとつのマイクで録音する方式もある。しかし、その方式は、マイクが格段に高い性能になってからのもので、ワルターが生きていたころは、マルチマイクで録音していた。

 マルチマイクでの録音は、ではどのような音なのか。それは、客席で聴く音ではなく、反響する前の生の音となる。楽器の前にマイクをおくのだから当然であろう。それは何を意味するのか。つまり、録音された音は、客席で聴く音ではないということだ。レコードにする際に、その生の音を加工して、客席で聴くような音に作り替えるのである。しかし、どのような音として聞こえるのがよいのかは、エンジニアによって異なる。だから、同じオーケストラの同じ曲でも、レコード会社によって、音がかなり違ったりする。各レコード会社には、そうした音のポリシーがあって、生の音を調整して製品化していたのである。

 しかし、CDになったときには、全く違うエンジニアが製品を作ることになるから、アナログレコードを作る際のポリシーや技術は、引き継がれなかったに違いないのである。もちろん、現役の演奏家に関しては、製品化されるまでに、音のチェックをするから、調整された音に対して意見をいうことができる。だから、もともとデジタル録音して、CDが制作された場合には、齟齬はおきない。だが、ワルターの場合には、優れた「生」の音で録音されたものがあり、CD化するときには、デジタルのエンジニア、つまり、それまでの音の加工についてはまったく無縁だった人がCDの音を作ったのである。だから、それまでのレコードとはまったく違う印象をあたえた。生の音は、すっぴんであり、製品化されたレコードは化粧していたのである。それが、ワルターのCDをきいた人は、これまで美しい化粧をしていた人が、突然すっぴんで現われた姿をみてしまったような状況になる。CDは音が悪いという非難を、最もうけたのが、ワルターのものだったというのは、いろいろな事情が重なったためである。

 さて、死後60年近くたって、やっと、ソニーから、旧コロンビアで録音したすべてのものが集められたコンプリート集がやっと発売された。そして、発売前には、少なくともステレオ録音されたものについては、マスターテープから、リマスターしたと宣伝されている。その製品が今日やっと届いたのである。早速部分的に聴き比べをしたわけだ。

 評判が悪かった初期のCD、比較的評判のよかった韓国ソニーの製品のワルター選集、そして、今回のリマスターしたコンプリートを、ベートーヴェン「田園」の一楽章の提示部、モーツァルトの「ジュピター」の一楽章の提示部、ブラームスの2番のはじめの部分で比較してみた。

 以前のワルターのCDへの批判は、音が生であること、特に高音が目立って、低音を重視するドイツ系指揮者であるワルターの音とは違うのではないかということだった。そして、事前の宣伝では、リマスターは低音をこれまでより強調し、ワルターが本来求めていた響きに近くなるように努力したということだった。

 結果は、確かに雰囲気的には変わって聞こえる。低音が多少明瞭になったことによって、更に中音域が充実しているように響いている。そして、そのことによって、高音のきつさが消えて、全体に溶け込むような感じになっている。同じテープを使っているのだから、全然違う音に聞こえるわけではなく、印象としては、柔らかい響きになった感じはする。もっとも、今回リマスター作業をしたエンジニアが、ワルターの演奏を実際にきいたことがあるわけではないだろうから、これが、本当の響きであるかは不明である。また、実際の常設のオーケストラではなく、録音用に編成されたオケなので、弦楽器の人数が、適正であったかどうかは、ずっと議論がある。

 もう少し聴き込んで、実際の音と録音された音との相違など、更に考えてみたい。

http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1111
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c54

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム
隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム
Tomoyuki Sawado (Sonetto Classics)
http://www.fugue.us/Bohm_Nazi.html


ベーム死後の評価の変遷

今年(2011年)の8月14日は指揮者カール・ベームの没後30年にあたる。この20世紀後半を代表する名匠については、かつて、日本では熱狂的な支持があった事が知られている。しかしその反動からか、今では人気や評価の凋落が激しいとも言われている。

これには以下のような理由が考えられる。一つは、ピリオド楽器によるモーツアルト演奏の流行で、ベームの大オーケストラによる演奏スタイルが時代遅れとさ れるようになったこと。二つ目は、80年代頃から、日本でブルックナーやマーラーの交響作品のブームが起こり、複雑なスコアを持つベルクやシュトラウスな どのオペラ録音に傑作が多いベームの真価を解する能力を持つリスナーが相対的に減ってしまったこと。さらに、ベームの晩年になされた一連のスタジオ録音が、いず れも巨匠風の中庸をとるスタイルのものであったため、端正さよりも覇気、熱狂、情熱、雄大さ、と言った、誰にでもわかりやすい解釈を求めたがる、昨今の日本の風潮と合 わなくなってしまったこと。最後の二つに関しては、実のところ日本のクラシック市場の特殊性もある---80年代後半から初心者を中心にカルト的人気をも つようになった、とある批評家の偏った趣味による影響は決して無視できない。

一方、欧米でのベームへの人気の浮沈は、日本とはかなり様相が異なるものであった。クリスタ・ルードヴィッヒが生前のベームに関して、「有名な同僚達に比 べると、メディアにカバーされる度合いもずっと少なかった。彼は芸術の奉仕者だった(ref 15, p63)」と書いているように、彼は敬愛されてはいたが、どちらかと言うと地味な扱いを受けていた指揮者だった。「玄人好み」というのが生前の妥当な評価 だろうし、現在では「過小評価されている巨匠」という枕詞がつくことが多い。

ドイツ・グラモフォンの担当者が「ベームは死の翌日に(セールス上)死んだ」と英グラモフォン誌の批評家に語った (ref 1, p51)そうだから、ベームの録音が生前に比して売れなくなった、ということは確かにあるようだ。ただ、デジタル/CD期以前に物故したステレオ期の指揮 者の中で、欧米のマーケットでその存在感を失っていないものを探す方が難しい、というのもまた事実なのである。例えばシャルル・ミュンシュ、ジョージ・セ ル、フリッツ・ライナー、カール・リヒター、エウゲニー・ムラヴィンスキーなどは多くの録音を残したものの、それらは今のヨーロッパでよく聴かれ ているとは言えない (注)。ブルーノ・ワルター、ハンス・クナッパーツブッシュらモノラルーステレオ初期の指揮者に至っては、フルトヴェングラーとトスカニーニを例外とし て、今や完全に忘却の彼方にあって、批評家でさえ取り上げることが少ない。彼らに比べれば、ベームはスタンダードとして聴かれていると言えるだろう。一例を挙げると、米 AmazonでベームのCDを調べるとカラヤンの半数、現役の小澤征爾やムーティを越える900もの録音がヒットしてくる。

いずれにしても、欧米の批評家の間では、ベームの録音に対する評価は下落してはいない。最近になってマーケットに出た一連の映像作品も第一級の評価を受け ている。日本で上記の傾向から「ライヴに劣る」とされやすい晩年のスタジオ録音の多くも、その音楽性が高く評価され、推薦盤にあがっている。実際、残したオペラ 録音の質の高さ、失敗作の少なさで言えば、ベームは星の数程もいる指揮者の中で、筆頭の業績をあげていると言っても決して過言ではあるまい。


ナチというレッテル

その一方で、ここ10数年に起きた一つの欧米における変化として、ベームのことをナチ、あるいはナチの賛同者として紹介するメディアの記述が多くなってき ている。例えば、「ナチ賛同者でベートーヴェンの権威」というような調子だ。このような傾向が出てきたのは、ベーム死後数年たってからのことだと思うが、 特にそれが顕著になったのは英国の音楽ジャーナリスト、ノーマン・レブレヒトによる「巨匠神話」という本が出版されてからかもしれない(ref 2)。カラヤンを始めとする巨匠指揮者をゴシップ記事風のアプローチで批判した内容は話題を呼び、クラシック関連の本としては異例の売り上げを伸ばした。

レブレヒトの本の中では、ベームについては以下の事例が紹介されている。とある会話でヒットラーとの交遊をほのめかしたこと、リハーサルを中止してヒット ラーのミュンヘン一揆を見に行ったこと、ウィーンの演奏会で禁を破ってナチ式の敬礼をしたこと(注1)、オーストリー併合の際に、「総統の行為に100% イエスを言わぬ人間は名誉あるドイツ人の名に値しない」と話した、とされることなどである(ref 2, p109-110, 注1)。


体制の中で

ベームの戦前、戦中の活動に関する客観的な事実は以下のようになる。彼は1894年にオーストリアのグラーツに生まれた。小さい頃からピアノを学んでいた ものの、大学では親の意向で法学科に進む。フランツ・シャルクの口添えで、ブラームスの友人であったマンディチェフスキーに作曲法、対位法、和声法を学 び、グローアーの元でピアノの研鑽を積んだ(当初、ベームはピアニストを志し、グラーツでは度々コンサート活動も行って好意的な評価を得ていたという) (ref 3, p30)。グラーツ市立歌劇場の楽長を務めた後、カール・ムック、ブルーノ・ワルターの薫陶を受け、バイエルン国立歌劇場の指揮者を経て、ダルムシュタッ ト国立歌劇場、ハンブルグ国立歌劇場の監督を歴任した。1934年にドレスデン国立歌劇場の総監督に就任。彼自身の言葉によれば、「人生でもっとも音楽的 に充実した時」を迎えた(ref 3, p85)。リヒャルト・シュトラウスとの緊密な関係が始まったのもこの時代である。ダルムシュタット時代からさかんに前衛的な作品をとりあげ、30年代に は数多くのオペラ作品の世界初演、ドイツ初演を行っている。1943年にウィーン国立歌劇場の総監督に就任。「オーストリア音楽総監督」の称号を与えられ る。戦後、戦時中のナチへの協力姿勢を問われて2年間の音楽活動禁止処分を受けた。

生前のベームは、第三帝国における音楽活動について批判されることが無いまま、ドイツ=オーストリアの伝統的解釈を今に伝える最後の巨匠として世界中で敬 愛され、幸福な晩年を迎えた。彼自身、戦時中の自身とナチの関わりを正直に話してきたとは言えない。自伝においても、ベームは連合軍による活動禁止処分に ついて「自由を失われておりの中を往ったり来たりしている獣のように自分が思えた」と述べ、自らは戦争の被害者であったことを強調している(ref 3, p164)。また、戦時中の国内の状況についても、「不愉快極まる政治状況」と述べ(同、p85)、自身と当局との距離を強調している。

ところが、近年明らかになってきた戦時中のベームの言動は、はっきりと体制に順応的なものであった。Katarの「Twisted Muse」によれば、1935年、ドイツとオーストリアの関係が緊張する中、ベームはナチの幹部に対し、「自分にはウィーンのナチ党の間に多くの支持者が いるから、ウィーンでコンサートを行うことでナチの利益に適う宣伝ができる」と語り、ヒットラーの「芸術的諸問題に関する深い叡智」を賞賛している (ref 4, p65)。翌1936年には、「ナチズムは音楽家達に目標を与え、才能と長所を発揮するに値する義務を提供した」とヒットラーを文章で賞讃している (ref 4 , p65)。1941年には、ある人物の本の取材でヒトラーのミュンヘン一揆に触れて、「通りには血がながれ、それがドイツの歴史の一里塚となった。我々は 思想のために血が流れるのを見た。そして、それが勝利の礎となったのである。」と述べたとされる(ref 12、注2)。

ベームがドレスデン国立歌劇場総監督に就任するにあたっては、ヒットラーがハンブルグの契約からベームを解放するために特別の便宜をはからったという話 もある(ref 4, p65)。ウィーン国立歌劇場総監督就任に関しては、ベームは自伝で彼の就任がヒットラーによって阻まれつづけていたことを示唆しているが(ref 3, p98)、実際のところ、ヒットラーはベームをウィーンに欲しており、就任時にはベームはヒットラーから勲章を授与されている(ref 4, p65)。ベームはドレスデン、ウィーン時代を通じて「ナチのハ長調」と呼ばれた、ワーグナーの「マイスタージンガー」を頻繁に取り上げ(ref 5、巻末)、1944年にはヒットラーの誕生日にも「マイスタージンガー」前奏曲を演奏している(注3)(ref 4, p65)。


アルフレッド・ローゼンベルグ。ニュルンベルグ裁判で絞首刑に処せられた。


近年明らかになったところでは、ベームはナチ高官アルフレッド・ローゼンベルグがリーダーシップをとったKampfbund fuer deutsche Kultur (Kfdk)に属していたらしい(ref 6)。 Kfdk はワイマールからナチ政権初期に組織された非公式のロビー団体で、国会社会主義の観点から無調音楽などを含む頽廃文化からドイツ音楽の保護を目的とするも のであった(ref 4, p14)。Kfdkの活動は多岐に渡り、無職の音楽家のためにコンサートを企画したり、ドイツの劇場から積極的にユダヤ的なものを排除することであったと いう。ただ、Kfdkの組織としての力は弱く、政権の認可も受けていなかったため、大した影響力は発揮できなかった。この団体は1928年に発足 し、1933年までにはその活動は終息している。


非体制派としてのベーム

ベームとフリッツ・シュー(右)。1953年

こういった記録を見る限り、ベームは体制側に属する人間だったように見える。その一 方で、ベームのナチズムへの同調がどこまで本気だったかについては、さらなる検証が必要になる。まず、公の場での阿った言動やKfdkへの参加の一方で、 ベームがナチスのメンバーになったことは一度も無かった(ref 7, 注4)。ベームの言を信ずれば、党員でなかったためにハンブルグ歌劇場監督の話が消えたこともあるという(ref 3, p78)。彼はハンス・クナッパーツブッシュのような反ユダヤ主義者ではなく、反ユダヤ主義的な発言をした、という明確な証拠も残っていない(ref 6)(ref20, p62)(注6)。実際、ベーム夫妻は、ウィーン国立歌劇場のユダヤ系メンバーやユダヤ系実業家を一年以上に渡って自宅に匿っていたとされる(ref 17, 18)。さらに、彼はナチの台頭後もユダヤ人芸術家達や、非体制的な芸術家たちとの付き合いを続けていた。例えば、彼は反体制派として当局から睨まれていた、 演出家のオスカー・フリッツ・シュー、台本作家のカスパー・ネアー、作曲家のボリス・ブラッハーらと共同作業を数多く行っている。特に、ドレスデン時代にはベー ムはブラッハーにコンサルヴァトワーレの作曲課主任教授のポストを与えるために尽力し(ref 4)、ユダヤ系だったブラッハーを当局の攻撃から保護するために、政権への自身の影響力を行使していたという(ref 14)。ベームはユダヤ人作曲家シェーンベルグらの作品をしばしば取り上げ (注5)、「頽廃芸術」としてナチより冷遇されたアルバン・ベルグの無調作品を世に紹介、生前のベルグ本人からも大きな信任を受けていた。さらに、ユダヤ 人指揮者ブルーノ・ワルターとの友情はハンブルグ時代より続くもので、ベーム夫妻のなれそめのきっかけをつくったのもワルターであった。そして、戦後、ワ ルターは困窮にあったベーム一家を援助した(ref 3, p167, 注7)。

フルトヴェングラー夫妻とベーム夫妻。ザルツブルグにて(1948)

1935年1月、ドレスデンの監督だったベームは、パウル・ヒンデミットの「画家マチス」を当地で取り上げている(ref 7)。これは当時の状況を考慮すれば、勇敢な行為だったと言えるかもしれない。というのも、この上演が起きた日付というのは、有名な「ヒンデミット事件」 が起きたわずか数週間後だったからである。これはヒンデミットの「画家マチス」を「頽廃芸術」として上演禁止にしたナチに対し、フルトヴェングラーがヒン デミット擁護の論説を新聞に載せた、という事件だった(11月25日)。宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスはフルトヴェングラーの反逆に激怒し、フルトヴェング ラーのベルリンフィル、ベルリン国立歌劇場監督、帝国音楽院総裁ポストからの解任、エーリッヒ・クライバーの国外亡命、ヒンデミットのトルコ移住、といっ たドイツ楽界を揺るがす一大粛清につながった。ゲッペルスがフルトヴェングラーに歩み寄る形で会談したのが1935年2月28日のことである。ベームによ るドレスデンの「画家マチス」公演は、まだ騒動の渦中、二人の和解の2カ月も前の事だった。

ベー ムは同年2月、ヴィクトル・ユーゴー原作の「メアリー・テューダー」を元にしたワーグナー・レゲニーのオペラ「Der Gunstling」をドレスデンで初演している。彼はこのオペラを大変気に入り、その後も度々上演を繰り返していた。作曲者のワーグナー・レゲニー自身はナチ に賞賛された作曲家だったが、このオペラ自体は反ヒットラーとも取られかねないプロットを持つものだった(ref 4, p64)。3年後、ベームは同様に、リヒャルト・モハウプトの「Die Wirtin Von Pinsk」の世界初演を行っているが、作曲者のモハウプトはユダヤ系ロシア人で、ナチが「頽廃」と見下していたジャズに親しんでいた(ref 4, p64)。この上演の1年後、モハウプトはナチ禍を逃れてアメリカに亡命している。

宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルス。「ヨーロッパのメフィストフェレス」は第三帝国の文化政策において絶大な影響力を振るった。

1943年、ウィーン国立歌劇場総監督に就任したベームは、ベルリン・ドイツ・オペラの専属歌手だった、エリーザベト・シュワルツコップと契約しようとする。この時は、優 れた歌手を失うことを恐れたベルリン・ドイツ・オペラからの抗議をうけ、当劇場を管轄していたゲッペルスは契約中止をベームに迫った。ベームは抵抗の様子 を見せたらしく、ゲッペルスは右腕のハンス・ヒンケルを通じ、「ウィーン国立歌劇場と、オーストリア音楽総監督(ベームのこと)に適切な処罰を行う」とい う脅しを伝えるに至ったという。実際、ベームはゲッペルスの主催するラジオから数ヶ月閉めだされかけた(ref 4, P64)。

1944 年には、ベームはリヒャルト・シュトラウスの80歳の誕生記念式典を統括、マックス・ローレンツやマリア・ライニングを主役とした「ナクソス島のアリアド ネ」の指揮を行っている。この当時、リヒャルト・シュトラウスは後に述べる「無口な女」の騒動や、ユダヤ人だった義理の娘と孫への迫害をめぐって当局と対 立しており、シュトラウスの自宅がゲシュタポの捜索を受けるほどであった。ゲッペルスは式典を禁じはしなかったものの、宣伝をほとんど行わず、当局とシュ トラウスとの距離を明確にしていた。

こういった記録を見る限り、ベームは芸術と当局を天秤にかけた際、多くの場合、前者を選んでいたことがわかる。ベームのナチズムへの肩入れ度合いについて も、党に加盟し、積極的に党活動に加わり、高官の愛人の地位まで手にいれて出世を目論んだエリーザベト・シュワルツコップのそれとは異なっているように見 える。


「無口な女」騒動での沈黙

そ の一方で、時折見せたベームの体制への反抗が、一度たりとも一線を踏み越えることが無かったのもまた事実なのである。ベームは自身の第三帝国内のスタンスにつ いて、「ドレスデンやウィーンの活動の経過の中で、自分がどちらの側にたっていたかは明らかにしたと思っている(ref 3, p84)」と自伝で述べているが、最も左傾化したドレスデンの一時期においてさえ、彼の政治的スタンスは曖昧であった。そして、危機にあたっては、 自らの地位を危うくするような事態に陥らぬよう、用心深く行動していた。

そのことがはっきり出ているのが、1935年5月にドレスデンで行われたリヒャルト・シュトラウスの新作オペラ「無口な女」の初演時の騒動だろう。作家の シュテファン・ツヴァイクはオーストリア系ユダヤ人で、前年にナチ禍を逃れて亡命していた当局のお尋ね者であったが、シュトラウスは1931年頃からツ ヴァイクと「無口な女」の共同作業を始めていた。ベームは初演の指揮を担当し、作曲者シュトラウスも積極的に初演に関与した。この時、ツヴァイクがユダヤ 人であったことが当局を刺激することとなる。ある時、ツヴァイクは帝国音楽院総裁だったシュトラウスの立場を慮り、シュトラウスに煮え切らない内容の手紙 を送ったらしい。何かと人種問題を持ち出すツヴァイクに対し、シュトラウスはうんざりしたように次の言葉をなげつける。

「こ れがユダヤ的しつこさだ!誰しも反ユダヤ主義に走ろうというものだ!この人種という自尊心、群れたがるという心理!あなたは私が今まで「ドイツ人」という考えの もとで行動してきたと思っているのですか?あなたはモーツアルトが「アーリア人」として作曲をしたとも思っているのですか?私にとって、この世には二つの タイプの人間しかいないのですよ。才能のある人と無い人です」(ref 8. p298)


ベームとシュトラウス。シュトラウスの80歳記念式典にて(1944)。


1935年6月17日に投函された この手紙はまもなくゲシュタポの手に落ち、当局を激昂させることとなる。さらに、「無口な女」の初演のポスターに台本作家ツヴァイクの名が無かった事に シュトラウスが激怒し、ツヴァイクの名前を強引に戻させるという事件も起きる。こういった一連の出来事は当局を刺激するに十分であった。当初、初演に出席予 定だったゲッペルスらは出席を取りやめ、初演は4公演で中止。シュトラウスは帝国音楽院総裁を辞任した。

この時、初演の指揮を担当 したベームは事なかれ主義に徹したらしい。シュトラウスの伝記作家Kennedyも、「特筆すべきは、カール・ベームがこの騒動の中、首をすくめてやり過 ごしていたことだ。彼はナチ党員で はなかったが、ナチの支持者だった。彼が最上の勇気とは分別、と決意したのは明らかだった」(ref 16, p302)と書いている。この騒動については、ベーム自身も多くを語っていない。自伝でも「無口な女」騒動に登場するのはシュトラウスの英雄的行動ばかり で、ベーム本人の言動はほとんど書かれていない。せいぜい、「無口な女」初演後のパーティでオペラを力強く擁護したとあるナチ高官を目撃したベームが、「一週間した ら強制収容所に入れられているか、亡命しているかのどちらかだろう」と人ごとのように妻に囁くシーンがあるだけである (ref 3, p130)。ただし、シュトラウスの次作オペラ「ダフネ」がベームに献呈され、後にシュトラウスから長文の音楽上の遺言を託されたように、この騒動でベームと シュトラウスの信頼関係に亀裂が生じることはなかった。


なぜ国内に留まったのか

ベームが時に首をすくめながらも第三帝国にとどまった理由はいくつかあげられる。ひとつは芸術環境の問題だ。とりわけ、ドレスデン国立歌劇場はベームに とって理想的な場所であった。リヒャルト・シュトラウスを始めとする多くの作曲家達の知遇を得、潤沢な資金の元でイヴォーギュン、チェボターリらをはじめと する当代最高のアンサンブルと素晴らしいオーケストラ、新進気鋭の演出家達を意のままに扱うことができた。当時、これほどの芸術環境を他国で得るのは不可能であったろう。そ もそも、彼はクレンペラーのようなユダヤ人では無く、エーリッヒ・クライバーのようにユダヤ系の近親者もいなかった。完璧に近い芸術環境を捨ててまで、他国に亡命 しなければならない理由は当時のベームにはなかった。

彼のような非ユダヤ系ドイツ=オーストリア人が亡命する理由が出てくるとすれば、それは政治的なものになっただろうが、彼の政治感覚は好意的に見ても近視 眼的であり、しかもイデオロギーを持たぬものにとどまっていた。そして、後から見れば不運だったことに、体制はベームの音楽的才能を欲していたのである。 1944年、ヒットラーとゲッペルスは「Gottbegenadeten List=神に祝福されたもののリスト」を作成しており、ベームはアーベントロート、カラヤン、クナッパーツブッシュ、カイルベルト、シューリヒト、イッ セルシュテットなどとともに「Gottbegnadete」の15人の指揮者の中に選ばれた(ちなみに、リヒャルト・シュトラウスとフルトヴェングラーは さらに上位のリスト「Unersetzlichen Kunstler」に入っている)。そして、1945年にはベームは「オーストリア音楽総監督」の称号を与えられている。

さらに、ベームの腰を重くした現実的な理由がもう一つあった。大家族である。当時、彼は国内に20名の家族を抱えており、家長として彼らの面倒を見なけれ ばならなかった。しかも、息子のカールハインツの言葉によると、もし他国(具体的な話があったのはオーストラリア)からのポストのオファーを受けた場合、 家族のメンバーを全て強制収容所に入れる、という警告を受けていたという(ref 8)。ベーム自身、シュテルン紙に掲載された死の3週間前になされたインタビューで、「1935年当時、ドイツ外にコネクションは無かった。そんな中でドイツ を去ったら、その後、どうやって家族を養ったらよかったのか」と話している(ref 5)。


「なんでもないことは流行に従う」

「戦時中、ナチが美辞麗句でやっていたことの裏を知っていれば、ドイツを去っていた」とは晩年のベームの言葉である(ref 10, p246)。その一方で、第三帝国時代のベームはその言葉が白々しく響くほど、ナチの高官達に近い存在であった。音楽評論家のEdward Greenfieldによれば、終戦直後、非ナチ委員会にかけられる前の事だが、ベームはロンドン交響楽団のハーピストだったRenata Scheffel-Steinの夫だったイギリス人将校の訪問をうけた。その時、将校はベームの自宅の応接間にずらりと並んだサイン入りのナチ高官の写真 を見て肝を潰した。音楽家としてのベームを尊敬していた将校は写真を即刻処分するように助言した(ref 11, Chapter 2)。将校の驚きの大部分は、自身の査問が控えているというのにも関わらず、そのような写真を敵国の将校に見せてしまうベームの政治的鈍感さに対してで あったかもしれない。

小津安二郎は、「なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」と語ったが、ベームのポリシーもこれに近いものであっ たのだろう。ベームにとっては親ナチ的言動をとることは、家族を養い、優れた芸術活動のスポンサーであったナチと共存するための方便で、それ以上の意味は なかったのかもしれない。それゆえに、戦時中の言動について、大して良心の呵責を感じることもなかったし、ナチ高官と一緒に写った写真を隠すことも考えつ かなかった。彼が示唆したように、ベームはフルトヴェングラーと同じく、ホロコーストについては本当に知らなかったのだろう。それでも、流行に従ったツ ケ、つまりナチと関係を続けたツケは、後のベームにとって高くつくことになった。


芸術家は国家の罪を背負うべきか

ここに重大かつ普遍的な問題が出てくる。市民は国家の犯罪にどこまで責任を持つべきか、というものだ。第三帝国に残った芸術家達について、ロマン・ポラン スキー監督の映画「ピアニスト」、Istvan Szabo監督の映画「Taking sides」の台本を書いたRonald Harwoodは以下のように切り捨てる(ref 13, 注8)。

「フ ルトヴェングラーもシュトラウスも、「他に選択は無かった」と言った。しかし、道徳的選択は常に可能だ。そして歴史上、この時期ほど「何をすべきか」が明 らかだった時期はなかった。(中略)(一人の芸術家が全体主義にできることは限られているのでは、という問いに対して)何も出来ない。芸術は無力で、文明 を守れない。しかし、我々はあたかもできるかのように振舞わねばならない」

つまり、彼の言によれば、芸術家は「何も知らなかった」「何も出来なかった」ではすまされず、個々は全体主義下での行動に責任を持たねばならない。彼の言 は正論ではあるが、同時に、さらなる疑問を我々に提起する。果たして、人道的罪を犯した政権のもとで活躍した芸術家や科学者は皆、政権の犯した罪にどこま で責任を負うべきなのだろうか?スターリンーブレジネフ時代に称揚され、勲章を受けたリヒテル、オイストラフ、ムラヴィンスキーは?冷戦期の東独で地位を 確立したペーター・シュライヤー、テオ・アダムは?ブッシュ政権下で指揮棒をとっていた小澤征爾やジェームズ・レヴァインは?そして、大日本帝国時代にメ ガホンを取った黒澤明は?

ディアパゾン誌のRemy Louisは、ベームが早い時期にナチを公的に支持したことについて、「私はナチの狂気の元でどのような悲劇が起きたかを知っている今日のお気楽な感覚で (これを)裁くことはできない。1932-33年頃の、悲しむべきワイマール共和国の終焉にあたって、すべての社会的、経済的、政治的問題を抱えてドイツ にすむ人々の気持ちはどのようなものだったろうか?」と問いかける(ref 7)。物事には常にディテールがあり、そのディテールを知らずして是非を問うべきではない、ということだ。映画「Taking Sides」の監督Istvan Szaboは、フルトヴェングラーが国内に留まったことについて、「すべての国民が国を去ることはできない。才能あるパン屋はどうするのだ?才能ある教師 や医者は?ーーーーフルトヴェングラーになぜ国を去らなかったかを尋ねることはできない。もし、その質問を彼に投げかけるのであれば、あなたは街角のパン 屋にもそうしなければいけないからだーーーあなたはパンをナチのエリートに売った。だからお前はナチだ-----これは同じ質問なんだ」と語っている (ref 8)。同じ「Taking Sides」に関わった台本作家と監督が全く反対の意見を持っていることからもわかるように、この問題は簡単に是非が決められる問題ではないことは確か だ。


おわりに

戦後のベームとワルター。

第三帝国時代のベームは、体制と非体制の間を揺れ動きつづけた。そのブレの大部分は、政治的信念というよりは、自身のキャリア至上主義、芸術至上主義、そ しておそらくは生存本能によってもたらされていた。彼は日和見的に権力にすりよった一方で、反ユダヤ主義を含むナチズムを全面的に支持していたわけではな かった。彼の一連のナチ寄りの発言がホロコーストが始まる前になされたこと、そしてナチからあれほど迫害され、亡命の憂き目にあったワルターが、戦後も ベームとの深い友情を維持し続けたことは留意しておくべきであろう。

以上の議論で明確になっただろうか。カール・ベームを「ナチ信奉者」あるいは「ナチ支持者」と呼ぶのは、極めて短絡的であるばかりでなく、彼の行動の本質 を捉えていない見方なのである。たまたま相手がナチであったためにベームが「ナチ支持者」に見えるだけで、もし相手がコミュニスト政権、あるいは自由 主義政権でも、ベームは自身のキャリアの発展を第一に考えて、政治上、日和見的に行動していたに違いないのだ。その事は、戦後10年がたち、彼が二度目の ウィーン国立歌劇場総監督に就任して一年もしないうちに、「自らの国際的キャリアをウィーンのために犠牲にするつもりはない」と発言し、あっさり重職を辞し てしまったことからも想像できる。

Ich habe in meinem Leben einiges angestellt; ich bin ein Sünder gewesen, ja, das kann man so sagen. Ich habe gelogen und eine menge Dinge angestellt, die mir nicht zum Ruhme gereichen. Aber in der Musik war ich immer ehrlich, immer aufrichtig.
人生で私は悪いことも沢山してきました。罪人である、そう言ってもいいでしょう。嘘もついてきたし、自分の名誉にならないことも沢山してきました。しかし、音楽においては常に正直で、誠実でした。

上はシュテルン誌のインタビューにおけるベームの死の三週間前の言葉だ(ref 5)。困難な時代を生き抜いた1人の音楽家の懺悔というだけでなく、その機会主義的かつ芸術至上主義的な生き様を集約させた言葉ではないだろうか。
(2011.8.14)

(注)興味深いことに、彼らのように死後聴かれなくなった指揮者はいずれも、生前、EMIやデッカのような英国レーベル とほとんど仕事をしてこなかった、という特徴がある。結果的に英国レーベルや英国アーティストの録音を強力にプッシュすることで知られ、かつ欧米のリス ナーに大きな影響力を持つ英グラモフォン誌に取り上げられる頻度も少なくなってしまったのではないだろうか。ベームの数少ない英国レーベル録音には、ブ ルックナー第三&第四交響曲、バックハウスとのブラームスのピアノ協奏曲、シュトラウス「影の無い女」、モーツアルト「コシ・ファン・トゥッテ」 などがあるが、これらはの多くは英グラモフォンで名盤として推薦されている。

注1)レブレヒトの本は読み物としての面白さを追求するあまり、著しく正確性に欠けるという批判が昔からある。上の記述 についても出典が書いてない。ただし、1938年3月30日、ウィーンのコンツエルトハウスで行われたウィーン交響楽団の演奏会において、ベームがナチ式 の敬礼をおこなった事は他の文献にも登場する。

オーストリア併合時のベームの発言「総統の行為に100%イエスを言わぬ人間は名誉あるドイツ人の名に値しない」("Wer dieser Tat des Fuhrers nicht mit einem hundertprozentigen JA zustimmt, verdient nicht, den Ehrennamen Deutscher zu tragen.")については出典が不明。1982年に発刊されたFred K Preibergの「Musik im NS Saat」に引用があるが、当時のどの新聞や本などに記載されたものなのかはわからない。ベームの息子で、ドイツ語圏を代表する俳優となったカールハイン ツは、発言は後世の捏造であると確信しているという(http://oesterreich.orf.at/wien/stories/70021/)。 Michael H. Katerは、一次資料をくまなく精査した「Twisted muse」(ref 4)においてこの発言を引用していない。私がKatar本人にその理由を確認したところ、自著で引用しなかったのは出典が確認できなかったためで、 Katerの考えでは発言はベーム自身によってなされたものだという。

注2) ただし、ベームは自伝で「まったく馬鹿げたことで、私はこんな事を絶対に言っていない」と強く否定している (ref 3, p169)。

注3) 映像作品「Great conductors in the Third Reich」には、ゲッペルスの演説に続いてベームがこのオペラの指揮を取る様子が収められている。

注4) ベームはナチ登場以前にドイツで確固たる地位を築いていたため、(例えばカラヤンが自身の入党の動機として主張したように)ポスト争いを有利にするために党員になる必要がなかったという見方もできる。

注5) ベームとブラッハーのコンサルヴァトワーレでの生徒の1人に、後の東独を代表する指揮者となったヘルベルト・ケーゲルがいた。ケーゲルによれば、当時、演奏禁止となっていたユダヤ系作曲家達の作品群をケーゲルに紹介したのがベームだったという。

注6) ワルターがバイエルン国立歌劇場監督から追放された裏には、反ユダヤ主義者で、かつ、当時ナチの支持層からもてはやされていたハンス・クナッパーツブッシュの画 策があった証拠があるという(ref 20, p62)。ベームはワルター追放時、バイエルン国立歌劇場のカペルマイスターであった。監督を引き継いだクナッパーツブッシュと、ワルターを慕うベームは 当初衝突したものの、次第に二人の関係は好転した(ref 3, p59)。一方、クナッパーツブッシュは一時ナチとトラブルを抱えるものの、1936年以降は政権に近しい存在となった。彼は政権から勲章を授けられ、 ヒットラーの誕生日にも占領先で指揮をとっている(ref 20, p62)。クナッパーツブッシュに関してのワルターのコメントは伝えられていない。

注7)ナチに迫害されたワルターだったが、公の場で体制寄りの発言を繰り返したベームとの絆を切ることはせず、戦後も彼の親しい友人であり続けた。亡命先から ウィーンに戻ったワルターの第一声が、「私の友人のベーム博士はどうしているかね?」だったという (ref 3)。ワルターは死の数ヶ月前にも、1960年に録音されたベームによる「エレクトラ」の録音(DG)に深い感銘を受け、ベームに以下の手紙をしたためて いる(1961年7月25日)。「君の卓越した仕事は私を大きく喜ばせたと言わせて欲しい。この録音は偉大なる傑作を見事に捉えたという点で、全くもって 圧倒的な高みに到達しており、私は君におめでとうを言いたいのだよ」(ref 19, p408)。さらにその年の2月から3月にかけては、両目に障害を抱えながら、アルバン・ベルクの「ヴォツエック」という超難曲に取り組むベームをこうか らかっている。「さてさて、君は優しくて暖かい「ヴォツエック」の日差しの中で静養しようってのかい。でも、親愛なる友よ、君のような仕事中毒の音楽家に とっては、たぶん私のような年寄りが好む静かな海の側で散歩するよりは、そちらの方法で回復する方がずっといいのかもしれないね」(ref 19, p 409)。

その一方で、ワルターはフルトヴェングラー、ナチ党に二度加入したカラヤンについて複雑な感情を持っていた。フルトヴェングラーに対しては、1938年に トスカニーニに向かって「政治的にも個人的にも芸術的にも堪え難い」と語り(p257)、1949年頃にはフルトヴェングラーにナチへの関わりを非難する 書簡を送っている。しかし、1950年頃になると、フルトヴェングラーがユダヤ人を救っていたことなどを知るに至り、彼を「偉大であることにいささかの疑 いもなく、その偉大さは音楽にも偉大さをもたらしていた。私は音楽への貢献に満ち満ちた彼の業績が、音楽史の中で重要な位置を占めるであろうことを疑わな い」と評価するようになっていた(ref 19, p306)。カラヤンについては、1949年頃、「フルトヴェングラーと違い、カラヤンは真性のナチ」とBruno Ziratoに書いたことがあるという。ただし、カラヤンに「(政治的な)困難を知りつつ」ニューヨークフィルへの客演を勧めるなど、音楽家としてのカラ ヤンを評価はしていた(ref 19, p384)。

注8)ちなみに、ポランスキーの前妻Barbara Lassは、ベームの義理の娘、つまり息子カールハインツの前妻でもある(1980年に離婚)。

(2012.2.8追記)
David Monodの"Settling scores: German music, denazification, & the Americans, 1945-1953"は、アーティストらの非ナチ化の模様をまとめた大変優れた論文であるが、このp159-161に、ベームの非ナチ化の過程が詳しく描 かれている。これによると、当時、ベームは1945年12月にザルツブルグの非ナチ化委員会に申請を出し、即座に連合国オーストリア委員会(U.S Element Allied Commission for Austria:USACA) の下部組織であるInformation Services Branch(ISB)によって認められている。しかし、ISBの上位組織にあたるKommandatura's sub-Committee for Entertainmentは全員一致でこの認可を取り消したという。ベームは1年後に再度、占領軍の英国代表者とPuthon 男爵という人物のサポートを受けて申請した。男爵はザルツブルグ音楽祭のオーガナイザーの一人で、1947年のアラベラの指揮をベームと契約しており、 ベームの非ナチ化を必要としていた。さらにベームにとって幸運だったことに、後にウィーン国立歌劇場の監督となったエゴン・ヒルベルトが非ナチ化委員会の 審査員にいた。

委員会では、第三帝国時代のベームのナチ支持の発言などが議題にあがったが、「噂」「又聞き」に過ぎないと却下されたものも多かったという。ただ、戦前の 新聞に多く紹介されたベームのナチ支持発言については、ベームは「似たような事を言ったかもしれない」と認めざるを得なかった。非ナチ委員会はそれについ て「ベーム博士は紙面においては、常に体制に反対していたとは言えない........(他の)オーストリア人達がそうであったように」との好意的な結論 を出した。結局、シュトラウスのオペラを指揮できる人材が払底していたこと、ザルツブルグの「アラベラ」の計画が決まっていことなどが考慮され、「ベーム 博士が公的活動を行うことで、オーストリアのカルチャー、およびミュージック・ライフの再建に良い影響をもたらす」として、無罪が決定となった。


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1. Gramophone (2000) March
2. The Maestro myth: Norman Lebrecht
3. カール・ベーム 回想のロンド(白水社)高辻知義訳
4. The twisted muse: Michael H. Kater
5. カール・ベームの芸術とレコード(音現ブックス)野島正俊
6. Wer war Karl Bohm? 2005.11.17, Der Zeit, Joachim Riedl
7. Discussionforum zuer rolle Karl Bohms in der Nazi-diktatur: "Discussion about Karl Bohm"
8. http://www.film-philosophy.com/index.php/f-p/article/view/683/596
9. "The Saltzburg festival" (director: Tony Palmer)
10. カール・ベーム 心より心へ (共同通信社)真鍋圭子
11. http://www.edwardgreenfield.co.uk/Chapter2.htm
12. Harry Erwin Weinschenk (Hrsg.: Kuestler plaudern. Limpert, Berlin 1941, S. 48
13. Time to face the Nazi musicNorman Lebrecht, Evening Standard, 23 Jun 2010
14. Music of conscience, Leon Botstein, American Sympony Orchestra Program Note
15. In my own voice, Christa Ludwig
16. Richard Strauss, Man, Musician, Enigma. Michael Kennedy
17. http://www.allmusic.com/artist/karl-bhm-p170266/biography, Bruce Eder
18. Symphony News Vol 31, American Symphony Orchestra League 1980
19. Bruno Walter: A World Elsewhere (Paperback) by Erik Ryding, Rebecca Pechefsky
20. Settling scores: German music, denazification, & the Americans, 1945-1953, David Monod

http://www.fugue.us/Bohm_Nazi.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
55. 中川隆[-13392] koaQ7Jey 2020年3月24日 17:20:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1512]
ノーマン・レブレヒト『巨匠神話』(文藝春秋 1997年)

 オーケストラ指揮者が形成され、マエストロ巨匠といわれる存在になって君臨していく歴史と、現状を現場調査に基づいて赤裸々に述べられます。

独裁とむすんだフルトヴェングラー、ビジネスとして市場原理に包摂されていくカラヤンが、現代の巨匠神話の現況であり、徹底的に批判されます。

私もこの書を読むまでは、マエストロに幻想を抱いていましたが、木っ端微塵に粉砕されて、寂寥感が漂います。

米国の巨大マネイジメント会社であるコロンビアがクラシック界を支配し、この会社と契約する音楽家の多くが、音楽をビジネスとして位置づけ、本来の芸術的才能を衰弱させるのは圧巻です。

日本の小澤征爾もこの会社のエージェンシーを受けるようになって、指揮が頽廃したとしています。クラシック・ファンは一読の価値があるでしょう。
(2011/11/16)
http://www008.upp.so-net.ne.jp/arakuni/book/book.htm
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c55

[近代史4] ナチス時代のフルトヴェングラーは一体何を考えていたのか? 中川隆
5. 中川隆[-13391] koaQ7Jey 2020年3月24日 17:23:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1513]

ノーマン・レブレヒト『巨匠神話』(文藝春秋 1997年)

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▲△▽▼


巨匠神話 – 1998/12/10
ノーマン レブレヒト (著), Norman Lebrecht (原著), & 2 その他
https://www.amazon.co.jp/巨匠神話-ノーマン-レブレヒト/dp/4163519009


内容紹介
何も演奏せず、何も歌わないのに、賞賛の拍手を独占する男──それがW偉大なる指揮者Wである。二十世紀の巨匠神話を解剖する問題作

内容(「BOOK」データベースより)
フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン…彼らがめざした権力と栄光の歴史から、その夢と挫折をめぐる神話を分析する。“偉大なる指揮者”たちへの大いなるレクイエム。

内容(「MARC」データベースより)
フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン。彼らが目指した権力と栄光の歴史から、その夢と挫折の神話を分析する。誰もが一度は夢見る職業・指揮者を巡る、おかしくて悲しくて不思議な物語。

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/639.html#c5

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
1. 中川隆[-13390] koaQ7Jey 2020年3月24日 17:23:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1514]


ノーマン・レブレヒト『巨匠神話』(文藝春秋 1997年)

 オーケストラ指揮者が形成され、マエストロ巨匠といわれる存在になって君臨していく歴史と、現状を現場調査に基づいて赤裸々に述べられます。

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私もこの書を読むまでは、マエストロに幻想を抱いていましたが、木っ端微塵に粉砕されて、寂寥感が漂います。

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何も演奏せず、何も歌わないのに、賞賛の拍手を独占する男──それがW偉大なる指揮者Wである。二十世紀の巨匠神話を解剖する問題作

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フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン…彼らがめざした権力と栄光の歴史から、その夢と挫折をめぐる神話を分析する。“偉大なる指揮者”たちへの大いなるレクイエム。

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フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン。彼らが目指した権力と栄光の歴史から、その夢と挫折の神話を分析する。誰もが一度は夢見る職業・指揮者を巡る、おかしくて悲しくて不思議な物語。

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c1

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
56. 中川隆[-13389] koaQ7Jey 2020年3月24日 17:27:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1515]

ブルーノ・ワルターが案外に、交響曲の第40番や第41番の演奏を聴くと、主旋律の親しげ優しげなその奥に思いのほか苦いところ荒いところがあったりして、これは出し抜いた〈音楽〉を狙っていたのに違いなかろうと思う。

 ワルターというと、ノーマン・レブレヒトが「巨匠神話」でその食わせ者ふりを嫌というくらいに暴いていたのを思い出す。

思うに、そのような人物であるからこそ却って、その曲者ぶりに出し抜かれることなくモーツァルトと渉り合えたりすることになるのかもしれない。

ちょうどクレンペラーの底意地の悪さとか、フルトヴェングラーの好色ぶりとか、その〈音楽〉とは決して無縁なわけではないように。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yutakas/mozart.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c56

[近代史4] ウィーン・フィルはナチスに迎合してきた歴史をずっと隠し続けている

ウィーン・フィルはナチスに迎合してきた歴史をずっと隠し続けている

レブレヒトのウィーン・フィル「ニューイヤーコンサート」批判(前編)
by funapee on 1月 9, 2015 • 1:15 AM
http://bokunoongaku.com/music/レブレヒトのウィーン・フィル「ニューイヤーコ/

『巨匠神話』や『だれがクラシックをだめにしたか』などの著書でお馴染みのロンドンの音楽評論家、ノーマン・レブレヒト氏が、昨年11月から今年1月頭にかけて、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートについて自身のブログで痛烈に批判している。歯に絹着せぬ発言を連発するお騒がせジャーナリストのレブレヒト氏だが、今回は今までにない程にブログのコメント欄が荒れており、しかも反対意見に対しては真っ向から対決姿勢を見せるなど、大変に清々しい態度を取っている。さすが、強固な信念を持っていらっしゃる、音楽評論家の鑑だ。


厳密には、ニューイヤーコンサート批判というよりも、もっと大きくウィーン・フィル批判なのだが、この際どちらでも良い。僕がここで彼の言説を取り上げ紹介したい理由は、彼はウィーン・フィルというオーケストラを題材にして非常に難しく且つ重要な文化問題・社会問題を扱っているからであり、また日本という国は信じられないほどウィーンの音楽を愛し、憧れ、崇敬する国であるにもかかわらず、この話題があまり取り沙汰されていないからだ。僕自身もウィーン・フィルの音楽が大好きで、ウィーン現地でも来日公演でも聴いているし、オーケストラから楽団員伝統の室内楽まで幅広く録音を愛聴している。そのどれもが美しい音色で心揺さぶる音楽であることは確かだ。ではレブレヒト氏は一体何をそんなに批判しているのかというと、「ウィーン・フィルは人種差別主義、女性差別主義、エリート主義、意地悪で卑劣なウィーン気質を、ニューイヤーコンサートという世界中のテレビを盛り上げる楽しい番組を使って隠蔽しようとしている」というのだ。

事の発端は、メータが指揮する2015年のニューイヤーコンサートのプログラム変更から。日本では毎年恒例元旦の夜にNHKで放送されるこのコンサート、今年もご覧になった方も多いと思うが、シベリウスの楽曲は演奏されていなかったはずだ。レブレヒト曰く、ウィーン・フィルは、本当はシベリウス生誕150周年のアニバーサリーイヤーの皮切りに、ニューイヤーコンサートでシベリウスの「悲しきワルツ」を演奏する予定だったらしい。しかし、ヨーロッパの著作権事情(死語70年らしい)を失念していたウィーン・フィル側が、多額の権利料を支払わなければならないことを理由に楽曲の変更を決定。これもあくまでレブレヒト氏のブログがソースだが、同じ北欧の音楽基金団体からがっぽりお金を貰って懐を温めているくせに、シベリウスの権利団体に支払うのをケチっておいて、当のオーケストラ側は「誠に残念ながら、著作権の関係でプログラムの変更を余儀無くされました」というアナウンスを出したとのこと。クラシック音楽界の情報通レブレヒト氏は、どこかから仕入れてきたこの狡いやり方を聞いて大激怒。「恥を知れ」とウィーン・フィル批判記事をアップしたのが11月17日のことだ(元記事→False triste as mean Vienna Philharmonic blanks out Sibelius)

そんなレブレヒト氏が、本腰を入れて批判に取り組んだものが、英Spectator誌に寄稿した記事、“The Nazi origins of the Vienna Phil’s New Year’s Day concert” (ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートはナチス起源)だ。この記事はなかなか興味深いので、関心のある方はぜひ元記事を読んでいただきたいのだが、要はウィーン・フィルはナチスに迎合してきた歴史を持っているが、それをずっと隠し続けている、という内容だ。以下にレブレヒト氏の意見や史実をまとめてみたので、ご一読いただきたい。


時はナチス政権下、ヒトラーがウィーンに来るとなった際、ウィーン・フィルはユダヤ系と左派の奏者を解雇したという事実がある。マーラーをはじめ多くの音楽家をウィーンから追放して、また名指揮者カール・ベームに勧められるままオーストリア併合に賛成の意を示し、ナチスの文化的粛清に大いに寄与したのだとレブレヒト氏は語る。氏はカール・ベームについて、指揮者としては素晴らしいものを持っていることを認めているが、その思想や人格においては決して立派な人物ではなかったと考えているようだ。当時のコンサートマスターでロゼー四重奏団のリーダーとしても名高いアルノルト・ロゼーも、オーストリア併合後すぐにウィーン・フィルを追放されているし、多くの才能ある音楽家がウィーンを去ることを強要されたのである。

オーストリア併合後、ウィーンは一地方都市ということになり、オーケストラの権威も喪失の危機に陥った。ナチスのウィーン大管区指導者である政治家シーラッハは、ウィーンを芸術の都として存続させようと様々な優秀な音楽家をウィーンに招聘することに努めた人物でもあるが、同時にウィーンから大勢のユダヤ人を追放した人物でもある。多くの音楽家たちがシーラッハに媚び諂い、また多くのユダヤ人音楽家がシーラッハによって収容所に送られ、殺された。そんなシーラッハが1939年12月31日に戦争資金のためのチャリティーとして開催したのがシュトラウス・ファミリーの音楽を演奏するコンサートであり、後に1月1日に行われニューイヤーコンサートとなったのだ。初回からしばらく指揮を務めたクレメンス・クラウスはナチスに反抗しなかった指揮者として有名であり(後年になって当時のナチスに対する態度を振り返って後悔したらしい)、1955年から、ナチスとは無関係のウィリー・ボスコフスキーが指揮をするようになった。

ウィーンのユダヤ人追放に関与した政治家、バルドゥール・フォン・シーラッハ
こうしたウィーン・フィルとシーラッハに関する事実などは、近年、歴史学者ハラルド・ヴァルザーが明らかにするまで、ずっと隠し通されていた。ウィーン・フィルのユダヤ系メンバーがナチスによって収容所に送られ殺されているのに、ウィーン・フィルは彼らの慰霊をすることもなく、しかも戦犯であるシーラッハにオーナーリングまで贈呈しているとヴァルザーは指摘したのだ。シーラッハ以外にも、オランダで大量のユダヤ人を収容所送りにしたオーストリアの政治家ザイス=インクヴァルトや、アウシュヴィッツまでユダヤ人を送り込んだドイツ国営鉄道のトップなども、ウィーン・フィルのオーナーリングを授与されている。彼らへのリングの授与が取り消しになったのは2013年になってからのことだ。もちろんこうした指摘に対して、ウィーン・フィル側はナチスとの関連を否定するコメントを出している。
http://bokunoongaku.com/music/レブレヒトのウィーン・フィル「ニューイヤーコ/


レブレヒトのウィーン・フィル「ニューイヤーコンサート」批判(後編)
by funapee on 1月 9, 2015 • 1:35 AM
http://bokunoongaku.com/music/レブレヒトのウィーン・フィル「ニューイヤーコ-2/


ウィーンという街は独特の雰囲気がある。伝統を守ろうとする意志、古いもの・古いスタイルを変えないようにする気持ちが強く、それに誇りを持っている。日本で言えば京都のようなものだ。僕はそうした伝統に憧れや尊敬の念を抱くし、そういった部分が鼻に付くと感じる人がいることも理解できる。「体裁よく」「見栄え良く」という言葉が似合う。それがアイデンティティだし、オリジナリティだし、だからこそ美しい街なのだろう。


19世紀後半のウィーンで流行したシュランメル音楽の代表曲、“Wien bleibt Wien”(ウィーンはいつもウィーン)というものがあるが、これは正しくウィーンという街のモットーを言い表している。歴史が流れ、暗黒の部分が洗い流されたとしても、よくよく見れば根っこは何も変わっていないとレブレヒト氏は言う。良い意味でも悪い意味でも、それがウィーンなのだ。ニューイヤーコンサートの客席にいるのは財界人の要人やセレブたち。今テレビで見ることができるこの客席の様子は、ナチス政権下だって同じだったはずだ。レブレヒト氏は、カール・ベームがよく語っていた言葉を引用している。「ナチスもそんなに悪くはない。彼らは政治から女性を排除しようとしているだけだ。」きっと今のウィーン・フィルのメンバーも同じように思っているのではないか、「男の世界」では女はすっこんでろ、という考え方が変わらずに残存しているのではないかと、氏は勘ぐっているのだ。

アジア人音楽家の冷遇や世襲主義なども挙げられるが、レブレヒト氏が最も気に入らないのは、ウィーン・フィルの女性差別問題である。ニューイヤーコンサートの放送を見ても、女性楽団員はほんの数人しかいない。130名近くの団員がいて、女性は7名。ウィーン・フィルは平等なオーディションで決めていると主張しているが、世界中のどのオーケストラと比べても少ない。ヨーロッパでも、もちろんオーストリアでも女性差別は禁止されている。にもかかわらず、だ。レブレヒト氏が1月1日に年始早々更新したブログ記事には、「今日のウィーン・フィルに女性が何人いると思う?」という内容で、ニューイヤーコンサートのステージにはたった5人しかいない、これがこのオケのDNDに書き込まれた差別主義だ、と痛烈に批判(元記事→How few women in today’s Vienna Phil?)。これに同意するアンチ・ウィーン・フィルの人たちを中心に、対立意見なども含めて、コメント欄が大いに盛り上がった。来年のニューイヤーコンサートの指揮者がマリス・ヤンソンスだと発表されたことについても、1月2日に記事を更新(元記事→Why don’t conductors do something?)。レブレヒト氏はヤンソンスにも、今までの指揮者に要求したのと同じように、少なくとも10人の女性がコンサートに出るように要求するつもりだと語っている。今までも指揮者にそういう話をしたことがあるが、皆お茶を濁すばかりだったとのことだ。音楽的に影響力を持つことのできる指揮者でさえ、ニューイヤーコンサートについては皆「伝統」の前に単なるタイムキーパーとマスコットに成り下がるのだという。

こうしたニューイヤーコンサートについての記事が思いのほか大きな話題となり、レブレヒトのブログ編集部が更新した記事が“Slipped Disc editorial: Discrimination is wrong, right?”(差別は悪か正義か)というかなり挑発的な題の記事である。そんなもの悪に決っているだろうが、「文化」というものを考えたとき、どこまでそれを断罪し、どこまでそれを是認するべきかは、意見の分かれるところだろう。いかに音楽が良くても、その音色が甘美でも、悪は悪だ、差別主義者はこのブログを読む必要なし、と強気のレブレヒト氏。ニューイヤーコンサートの甘い誘惑に惑わされていたら、ウィーン・フィルの差別体質は変わらないのだと、レブレヒト氏は手厳しい意見を世に放った。

ウィーンから追放されたマーラーは「伝統とは怠惰だ」と語った。独特の音色が受け継がれるウィーン・フィルは、一種の伝統芸能と言っていい。日本の伝統芸能、例えば歌舞伎や相撲だって、ほとんど男の世界である。僕は歌舞伎に詳しい訳ではないが、出雲の阿国は女性だし、今でも女性歌舞伎の復活をと声を上げている人たちもいるようだ。国技と言われている相撲も、スポーツとしては女子の相撲もあるようで、時々テレビで特集をしているのを見かけることがあるが、神聖な土俵に女子が上がることなど許せないという意見を言う人もいる。このあたりの線引は難しいところだろう。古い建築を残す街、「古き良きもの」を残すヨーロッパの文化の中で、古典芸能が保守寄りになるのは至極当然な気もするし、かといってあらゆる差別が許される時代ではもうとっくになくなっているのだ。レブレヒト氏のようなある意味でお騒がせな、影響力のある人物が、どちらかに偏った意見を堂々と語るのは、文化にとってもヒューマニティにとっても大きな事件である。

レブレヒト氏は、「シュトラウス・ファミリーの音楽における甘ったるく絹のようななめらかさ、そして皮肉なことにマーラーの音楽の超然たる様はウィーン・フィルの他に表すことはできない」と語っている。このオーケストラが今のスタイルを変えれば、得られるものもあるだろうが、失うものの大きさも計り知れない。

http://bokunoongaku.com/music/レブレヒトのウィーン・フィル「ニューイヤーコ-2/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/642.html

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
57. 中川隆[-13388] koaQ7Jey 2020年3月24日 18:16:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1516]
83 : 名無しの笛の踊り2017/07/04(火) 08:30:53.44 ID:Ldf6zAGS

1960年のマーラー生誕100年祭でワルターは第4交響曲を嫌々
振ったことを評伝で読んで、ワルターが気の毒になった。
『大地の歌』を強く希望したそうだが、カラヤンが降ることが
すでに決まっており、ワルターは変更を強く希望したが
コンサート運営者がカラヤンに嫌われるのを恐れて
ワルターの申し出を断ったとか。読んでいて切なくなった。


84 : 名無しの笛の踊り2017/07/05(水) 02:10:55.85 ID:rR4rX1vS

第4番は入門者用みたいな曲だからさぞ物足りなかっただろう


85 : 名無しの笛の踊り2017/07/05(水) 09:27:13.02 ID:daPQ0cRb

当日の演奏の模様を映像収録するという運営側の
意向をワルターは拒否したらしい。映像として
収録されるとマーラーではなく自分の記録になって
しまうというのがワルターの言い分だったが、これは
『大地の歌』を指揮させてもらえなかった運営側への
抵抗だったろう。

それにしても当日の録音は1960年にしては音が悪い。

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c57

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
226. 中川隆[-13387] koaQ7Jey 2020年3月24日 18:33:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1517]
2020年03月24日
1945年 日本とアメリカの内部抗争 終戦を望まなかった人たち


原爆を投下した理由は官僚が出世したかったからだが、誰もその事は言わない。

引用:http://www.teaparty.org/wp-content/uploads/2015/03/Atomic_cloud_over_Nagasaki_from_Koyagi-jima-1940x1500.jpeg


1945年の戦い

1945年の太平洋では日米で数多くの戦いが展開されていました。

戦闘機や軍艦同士が戦うのではなく、政治的な思惑が対立して戦争終結を巡って争っていた。

山本五十六を失った日本海軍は一刻も早く戦争を辞めたがっていて、外務省と天皇は同調していた。


日本陸軍は敗北を認めず、徹底抗戦によって既得権益を確保しようとした。

早期に負けを認めることで国力を温存しようとする終戦派と、本土決戦で米国を退けようとする抗戦派は互いに譲らなかった。

アメリカでは早期に戦争を終結させて、米ソ冷戦に備えようとする国務省と、戦果を誇示したい国防省が戦っていた。


国務省は日本の外務省と図って、独自の停戦交渉をまとめようとしたが、国防省の妨害などで原爆投下に間に合わなかった。

国防省はもし、国務省の交渉で終戦に至ったら、最大功労者が国務省になり、軍隊の役割りが正当に評価されないと考えていた。

軍隊のおかげで戦争に勝ったのだと証明するためには、日本を焦土にして完全に屈服させなければならないと考えていた。


1945年7月にはもはや戦争そのものは目的ではなくなり、誰が手柄を上げるか、日本では誰に責任を取らせるかの話になった。

日本海軍は沖縄が米軍に占領された6月には降伏を決めていて、外務省も同調していた。

結局責任を押し付けられたのが日本陸軍で、手柄を手にしたのは原爆使用に成功した米国防省だった。

降伏を拒否したアメリカ軍

海軍内でも徹底抗戦派は存在したが、意図的に軍艦を全滅させる特攻作戦で、反対派を封じ込めたとも言われている。

軍艦が無くなれば海軍は戦争を継続出来ないので、米国との講和条約へ向けて動き出す事ができる。

昭和天皇は東京大空襲があった3月から5月に、降伏を決めていたと言われている。


4月に大本営上層部は沖縄戦が絶望的な状況と判断し、米国との停戦交渉に向けて動き出しました。

このとき日本が期待したのは、対日参戦していないソ連が、米国との仲介役になってくれるのではないかという事だった。

同時に大本営はソ連の対日参戦を8月か9月と予想し、それまでの短期間に交渉をまとめる必要があると判断した。


だがソ連は日本と米国の仲介役を拒否し、8月8日に参戦し、日本の領土を分捕りにきました。

計画ではソ連は日本の東半分、つまり名古屋から東を占領する事になっていました。

もう一つの米国との交渉ルートは、中立国のスイスやバチカンの大使館を通すものだったが、絶縁状態だったので期待されていなかった。


大使館ルートの交渉は意外にも手応えがあったが、米国内では国務省と国防省が対立していた。

国務省は既にソ連との対決を予想し、日本との早期停戦を望んだが、国防省は徹底抗戦を主張していた。

停戦交渉にも妨害が入り8月6日と8月9日に、戦争が終わる前に駆け込みで原爆を使用した。

戦後の始まり

原爆が投下される前の7月には、ドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスを通じて降伏の意思は伝えられていた。

日本側は8月の第一週から第二週に停戦したい旨を提案し、実際には8月15日に天皇が停戦命令を出した。

アレン・ダレスは後のCIA長官になった大物で、アメリカ側が本気だったのは分かる。


米国防省はこれを察知し、日本の降伏前に、可能な限りの爆弾と原爆を投下しようと考えた。

国務省は戦争が終わっても活躍できるが、軍人は戦争が終わったら「ごくつぶし」でしか在りません。

国務省への嫌がらせのように日本全土に絨毯爆撃を実施し、あと1週間で日本が降伏するのを知りながら2発の原爆を使用した。


それだけではなく米軍は日本が降伏した後も絨毯爆撃を続け、10発の原子爆弾を使用するつもりでした。

これらの目的は戦争に勝つためではなく、国防省の官僚が出世するために行われました。

そしてダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に、解放者のような振りをして降り立ち、GHQという軍事政権を樹立しました。


その軍事政権がおしつけたのが日本国憲法で、日本人が日本という国を憎むように、NHKや朝日新聞などのメディアを通じて、日本の戦争犯罪を流布しました。

これが戦後の始まりで、国防省や米軍人の「正しさ」や「手柄」を強調するために、多くの戦争犯罪が捏造され、無実の日本軍人が処刑されました。
http://www.thutmosev.com/archives/65832220.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c226

[近代史02] アメリカ・アングロサクソンの凶暴性・アメリカインディアンが絶滅寸前に追い込まれた仮説 sagakara
70. 中川隆[-13386] koaQ7Jey 2020年3月24日 18:34:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1518]

2020年03月24日
1945年 日本とアメリカの内部抗争 終戦を望まなかった人たち


原爆を投下した理由は官僚が出世したかったからだが、誰もその事は言わない。

引用:http://www.teaparty.org/wp-content/uploads/2015/03/Atomic_cloud_over_Nagasaki_from_Koyagi-jima-1940x1500.jpeg


1945年の戦い

1945年の太平洋では日米で数多くの戦いが展開されていました。

戦闘機や軍艦同士が戦うのではなく、政治的な思惑が対立して戦争終結を巡って争っていた。

山本五十六を失った日本海軍は一刻も早く戦争を辞めたがっていて、外務省と天皇は同調していた。


日本陸軍は敗北を認めず、徹底抗戦によって既得権益を確保しようとした。

早期に負けを認めることで国力を温存しようとする終戦派と、本土決戦で米国を退けようとする抗戦派は互いに譲らなかった。

アメリカでは早期に戦争を終結させて、米ソ冷戦に備えようとする国務省と、戦果を誇示したい国防省が戦っていた。


国務省は日本の外務省と図って、独自の停戦交渉をまとめようとしたが、国防省の妨害などで原爆投下に間に合わなかった。

国防省はもし、国務省の交渉で終戦に至ったら、最大功労者が国務省になり、軍隊の役割りが正当に評価されないと考えていた。

軍隊のおかげで戦争に勝ったのだと証明するためには、日本を焦土にして完全に屈服させなければならないと考えていた。


1945年7月にはもはや戦争そのものは目的ではなくなり、誰が手柄を上げるか、日本では誰に責任を取らせるかの話になった。

日本海軍は沖縄が米軍に占領された6月には降伏を決めていて、外務省も同調していた。

結局責任を押し付けられたのが日本陸軍で、手柄を手にしたのは原爆使用に成功した米国防省だった。

降伏を拒否したアメリカ軍

海軍内でも徹底抗戦派は存在したが、意図的に軍艦を全滅させる特攻作戦で、反対派を封じ込めたとも言われている。

軍艦が無くなれば海軍は戦争を継続出来ないので、米国との講和条約へ向けて動き出す事ができる。

昭和天皇は東京大空襲があった3月から5月に、降伏を決めていたと言われている。


4月に大本営上層部は沖縄戦が絶望的な状況と判断し、米国との停戦交渉に向けて動き出しました。

このとき日本が期待したのは、対日参戦していないソ連が、米国との仲介役になってくれるのではないかという事だった。

同時に大本営はソ連の対日参戦を8月か9月と予想し、それまでの短期間に交渉をまとめる必要があると判断した。


だがソ連は日本と米国の仲介役を拒否し、8月8日に参戦し、日本の領土を分捕りにきました。

計画ではソ連は日本の東半分、つまり名古屋から東を占領する事になっていました。

もう一つの米国との交渉ルートは、中立国のスイスやバチカンの大使館を通すものだったが、絶縁状態だったので期待されていなかった。


大使館ルートの交渉は意外にも手応えがあったが、米国内では国務省と国防省が対立していた。

国務省は既にソ連との対決を予想し、日本との早期停戦を望んだが、国防省は徹底抗戦を主張していた。

停戦交渉にも妨害が入り8月6日と8月9日に、戦争が終わる前に駆け込みで原爆を使用した。

戦後の始まり

原爆が投下される前の7月には、ドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスを通じて降伏の意思は伝えられていた。

日本側は8月の第一週から第二週に停戦したい旨を提案し、実際には8月15日に天皇が停戦命令を出した。

アレン・ダレスは後のCIA長官になった大物で、アメリカ側が本気だったのは分かる。


米国防省はこれを察知し、日本の降伏前に、可能な限りの爆弾と原爆を投下しようと考えた。

国務省は戦争が終わっても活躍できるが、軍人は戦争が終わったら「ごくつぶし」でしか在りません。

国務省への嫌がらせのように日本全土に絨毯爆撃を実施し、あと1週間で日本が降伏するのを知りながら2発の原爆を使用した。


それだけではなく米軍は日本が降伏した後も絨毯爆撃を続け、10発の原子爆弾を使用するつもりでした。

これらの目的は戦争に勝つためではなく、国防省の官僚が出世するために行われました。

そしてダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に、解放者のような振りをして降り立ち、GHQという軍事政権を樹立しました。


その軍事政権がおしつけたのが日本国憲法で、日本人が日本という国を憎むように、NHKや朝日新聞などのメディアを通じて、日本の戦争犯罪を流布しました。

これが戦後の始まりで、国防省や米軍人の「正しさ」や「手柄」を強調するために、多くの戦争犯罪が捏造され、無実の日本軍人が処刑されました。
http://www.thutmosev.com/archives/65832220.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/367.html#c70

[近代史02] 原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝 中川隆
47. 中川隆[-13385] koaQ7Jey 2020年3月24日 18:35:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1519]
2020年03月24日
1945年 日本とアメリカの内部抗争 終戦を望まなかった人たち


原爆を投下した理由は官僚が出世したかったからだが、誰もその事は言わない。

引用:http://www.teaparty.org/wp-content/uploads/2015/03/Atomic_cloud_over_Nagasaki_from_Koyagi-jima-1940x1500.jpeg


1945年の戦い

1945年の太平洋では日米で数多くの戦いが展開されていました。

戦闘機や軍艦同士が戦うのではなく、政治的な思惑が対立して戦争終結を巡って争っていた。

山本五十六を失った日本海軍は一刻も早く戦争を辞めたがっていて、外務省と天皇は同調していた。


日本陸軍は敗北を認めず、徹底抗戦によって既得権益を確保しようとした。

早期に負けを認めることで国力を温存しようとする終戦派と、本土決戦で米国を退けようとする抗戦派は互いに譲らなかった。

アメリカでは早期に戦争を終結させて、米ソ冷戦に備えようとする国務省と、戦果を誇示したい国防省が戦っていた。


国務省は日本の外務省と図って、独自の停戦交渉をまとめようとしたが、国防省の妨害などで原爆投下に間に合わなかった。

国防省はもし、国務省の交渉で終戦に至ったら、最大功労者が国務省になり、軍隊の役割りが正当に評価されないと考えていた。

軍隊のおかげで戦争に勝ったのだと証明するためには、日本を焦土にして完全に屈服させなければならないと考えていた。


1945年7月にはもはや戦争そのものは目的ではなくなり、誰が手柄を上げるか、日本では誰に責任を取らせるかの話になった。

日本海軍は沖縄が米軍に占領された6月には降伏を決めていて、外務省も同調していた。

結局責任を押し付けられたのが日本陸軍で、手柄を手にしたのは原爆使用に成功した米国防省だった。

降伏を拒否したアメリカ軍

海軍内でも徹底抗戦派は存在したが、意図的に軍艦を全滅させる特攻作戦で、反対派を封じ込めたとも言われている。

軍艦が無くなれば海軍は戦争を継続出来ないので、米国との講和条約へ向けて動き出す事ができる。

昭和天皇は東京大空襲があった3月から5月に、降伏を決めていたと言われている。


4月に大本営上層部は沖縄戦が絶望的な状況と判断し、米国との停戦交渉に向けて動き出しました。

このとき日本が期待したのは、対日参戦していないソ連が、米国との仲介役になってくれるのではないかという事だった。

同時に大本営はソ連の対日参戦を8月か9月と予想し、それまでの短期間に交渉をまとめる必要があると判断した。


だがソ連は日本と米国の仲介役を拒否し、8月8日に参戦し、日本の領土を分捕りにきました。

計画ではソ連は日本の東半分、つまり名古屋から東を占領する事になっていました。

もう一つの米国との交渉ルートは、中立国のスイスやバチカンの大使館を通すものだったが、絶縁状態だったので期待されていなかった。


大使館ルートの交渉は意外にも手応えがあったが、米国内では国務省と国防省が対立していた。

国務省は既にソ連との対決を予想し、日本との早期停戦を望んだが、国防省は徹底抗戦を主張していた。

停戦交渉にも妨害が入り8月6日と8月9日に、戦争が終わる前に駆け込みで原爆を使用した。

戦後の始まり

原爆が投下される前の7月には、ドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスを通じて降伏の意思は伝えられていた。

日本側は8月の第一週から第二週に停戦したい旨を提案し、実際には8月15日に天皇が停戦命令を出した。

アレン・ダレスは後のCIA長官になった大物で、アメリカ側が本気だったのは分かる。


米国防省はこれを察知し、日本の降伏前に、可能な限りの爆弾と原爆を投下しようと考えた。

国務省は戦争が終わっても活躍できるが、軍人は戦争が終わったら「ごくつぶし」でしか在りません。

国務省への嫌がらせのように日本全土に絨毯爆撃を実施し、あと1週間で日本が降伏するのを知りながら2発の原爆を使用した。


それだけではなく米軍は日本が降伏した後も絨毯爆撃を続け、10発の原子爆弾を使用するつもりでした。

これらの目的は戦争に勝つためではなく、国防省の官僚が出世するために行われました。

そしてダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に、解放者のような振りをして降り立ち、GHQという軍事政権を樹立しました。


その軍事政権がおしつけたのが日本国憲法で、日本人が日本という国を憎むように、NHKや朝日新聞などのメディアを通じて、日本の戦争犯罪を流布しました。

これが戦後の始まりで、国防省や米軍人の「正しさ」や「手柄」を強調するために、多くの戦争犯罪が捏造され、無実の日本軍人が処刑されました。
http://www.thutmosev.com/archives/65832220.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html#c47

[近代史3] 「効率よく焼き尽くせ」 空襲成功のため、日本家屋まで再現した米軍の「用意周到」 中川隆
6. 中川隆[-13384] koaQ7Jey 2020年3月24日 18:35:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1520]
2020年03月24日
1945年 日本とアメリカの内部抗争 終戦を望まなかった人たち


原爆を投下した理由は官僚が出世したかったからだが、誰もその事は言わない。

引用:http://www.teaparty.org/wp-content/uploads/2015/03/Atomic_cloud_over_Nagasaki_from_Koyagi-jima-1940x1500.jpeg


1945年の戦い

1945年の太平洋では日米で数多くの戦いが展開されていました。

戦闘機や軍艦同士が戦うのではなく、政治的な思惑が対立して戦争終結を巡って争っていた。

山本五十六を失った日本海軍は一刻も早く戦争を辞めたがっていて、外務省と天皇は同調していた。


日本陸軍は敗北を認めず、徹底抗戦によって既得権益を確保しようとした。

早期に負けを認めることで国力を温存しようとする終戦派と、本土決戦で米国を退けようとする抗戦派は互いに譲らなかった。

アメリカでは早期に戦争を終結させて、米ソ冷戦に備えようとする国務省と、戦果を誇示したい国防省が戦っていた。


国務省は日本の外務省と図って、独自の停戦交渉をまとめようとしたが、国防省の妨害などで原爆投下に間に合わなかった。

国防省はもし、国務省の交渉で終戦に至ったら、最大功労者が国務省になり、軍隊の役割りが正当に評価されないと考えていた。

軍隊のおかげで戦争に勝ったのだと証明するためには、日本を焦土にして完全に屈服させなければならないと考えていた。


1945年7月にはもはや戦争そのものは目的ではなくなり、誰が手柄を上げるか、日本では誰に責任を取らせるかの話になった。

日本海軍は沖縄が米軍に占領された6月には降伏を決めていて、外務省も同調していた。

結局責任を押し付けられたのが日本陸軍で、手柄を手にしたのは原爆使用に成功した米国防省だった。

降伏を拒否したアメリカ軍

海軍内でも徹底抗戦派は存在したが、意図的に軍艦を全滅させる特攻作戦で、反対派を封じ込めたとも言われている。

軍艦が無くなれば海軍は戦争を継続出来ないので、米国との講和条約へ向けて動き出す事ができる。

昭和天皇は東京大空襲があった3月から5月に、降伏を決めていたと言われている。


4月に大本営上層部は沖縄戦が絶望的な状況と判断し、米国との停戦交渉に向けて動き出しました。

このとき日本が期待したのは、対日参戦していないソ連が、米国との仲介役になってくれるのではないかという事だった。

同時に大本営はソ連の対日参戦を8月か9月と予想し、それまでの短期間に交渉をまとめる必要があると判断した。


だがソ連は日本と米国の仲介役を拒否し、8月8日に参戦し、日本の領土を分捕りにきました。

計画ではソ連は日本の東半分、つまり名古屋から東を占領する事になっていました。

もう一つの米国との交渉ルートは、中立国のスイスやバチカンの大使館を通すものだったが、絶縁状態だったので期待されていなかった。


大使館ルートの交渉は意外にも手応えがあったが、米国内では国務省と国防省が対立していた。

国務省は既にソ連との対決を予想し、日本との早期停戦を望んだが、国防省は徹底抗戦を主張していた。

停戦交渉にも妨害が入り8月6日と8月9日に、戦争が終わる前に駆け込みで原爆を使用した。

戦後の始まり

原爆が投下される前の7月には、ドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスを通じて降伏の意思は伝えられていた。

日本側は8月の第一週から第二週に停戦したい旨を提案し、実際には8月15日に天皇が停戦命令を出した。

アレン・ダレスは後のCIA長官になった大物で、アメリカ側が本気だったのは分かる。


米国防省はこれを察知し、日本の降伏前に、可能な限りの爆弾と原爆を投下しようと考えた。

国務省は戦争が終わっても活躍できるが、軍人は戦争が終わったら「ごくつぶし」でしか在りません。

国務省への嫌がらせのように日本全土に絨毯爆撃を実施し、あと1週間で日本が降伏するのを知りながら2発の原爆を使用した。


それだけではなく米軍は日本が降伏した後も絨毯爆撃を続け、10発の原子爆弾を使用するつもりでした。

これらの目的は戦争に勝つためではなく、国防省の官僚が出世するために行われました。

そしてダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に、解放者のような振りをして降り立ち、GHQという軍事政権を樹立しました。


その軍事政権がおしつけたのが日本国憲法で、日本人が日本という国を憎むように、NHKや朝日新聞などのメディアを通じて、日本の戦争犯罪を流布しました。

これが戦後の始まりで、国防省や米軍人の「正しさ」や「手柄」を強調するために、多くの戦争犯罪が捏造され、無実の日本軍人が処刑されました。
http://www.thutmosev.com/archives/65832220.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/568.html#c6

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
254. 中川隆[-13383] koaQ7Jey 2020年3月24日 19:26:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1521]

新型コロナ株安動向予想: 流行減速で株式市場は上昇する2020年3月24日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9386

新型コロナウィルス肺炎が世界的流行となりアメリカとヨーロッパを席巻している。株式市場は暴落しているが、一方でヨーロッパの感染者数はピークに近づいている。

•新型コロナ、米国の感染者数急増止まらず ヨーロッパはピーク近し

新型ウィルスの流行がピークに達すれば株価の下落も止まるだろうかというのが投資家にとって最大の問題である。これは難しい問題だが、こうした問題を考える最適の方法は恐らくジョージ・ソロス氏の再帰理論だろう。今回の記事では彼の再帰理論を使って株安の今後の動向を予想してみたい。

ジョージ・ソロス氏の再帰理論

ジョージ・ソロス氏はヘッジファンドマネージャーとしてもっとも著名な人物であり、現代のヘッジファンドの形態は彼のクォンタム・ファンドを元型としている。レバレッジを使って買いと空売りの両方を行い、自分と顧客の資産を運用する形態というのは当時は彼のファンドだけだったのである。

そのソロス氏が自分の投資理論を説明した『ソロスの錬金術』という本があり、そこでは彼がバブルの発生と崩壊を予測するのに使っている再帰理論という理論が説明されている。

再帰理論とは相場におけるトレンドとトレンドが互いに強化しあうことよってバブルが発生し、またバブルの崩壊も同じようにトレンド同士の自己強化プロセスによって発生するという理論である。

この再帰理論を用いれば、止めることのできるバブル崩壊と止めることのできないバブル崩壊を見分けることができる。そして今回の新型コロナ株安は恐らく前者である。今回の記事は長くなるが、まずはこの2つの種類のバブルについて実例をもって説明してみたい。

サブプライムローン危機の場合

止められなかったバブル崩壊の最近の例は2008年のサブプライムローン危機である。

•リーマンショック時における米国株、政策金利、住宅価格の推移

当時の市場は低金利によって株式市場も不動産市場も好調だった。特にアメリカの住宅市場はローン金利が下がったことで誰もが家を持ちたがり、住宅価格は右肩上がりとなっていた。つまりはこういう状況である。

•金利低下 -> 住宅価格上昇

住宅価格が常に上昇するため、ローンを借りて住宅を買った人も買った家を高値で売れば楽々ローンを返せる状況にあった。こういう状況を受け、住宅ローンの債権を証券化したモーゲージ債は高騰、金利は低下していった。

モーゲージ債の中でも信用の低いローンを集めたものはサブプライムローンと呼ばれたが、信用の低い借り手も価格の上昇した住宅を高値で売ればローンを返せる状況にあったため、サブプライムローンの金利は低下した。低下したローン金利が更なる住宅購入を呼んだため、このトレンドは自己強化的なトレンドとなった。

•金利低下 -> 住宅価格上昇 -> 金利低下

こうした自己強化的なトレンドのことを再帰理論では再帰的と呼ぶ。このような再帰的なトレンドは止めるものがなければ際限なく互いを強化し合い、行き着くところまで行ってしまう。それがソロス氏の再帰理論である。

しかし長引く低金利により経済が過熱していったことで中央銀行は金利を上げていった。バブル状態となっていた住宅市場は金利上昇に敏感に反応した。

•金利上昇 -> 住宅価格下落

住宅価格が下がり始めると、サブプライムローンの問題が明るみに出始めた。安心安全と思われていたサブプライムローンがデフォルトし始めたため、低下していたサブプライムローンの金利は本来の適正な金利に戻り始める。

•金利上昇 -> 住宅価格下落 -> 金利上昇

すると低金利で住宅ローンが借りられなくなり、住宅の購入者が減って住宅価格はますます下落した。今度は逆方向の再帰的な自己強化トレンドである。金利が上がるほど住宅価格が下がり、住宅価格が下がるほど金利が上がってゆく。

特にサブプライムローンの下落は手の付けられないものとなり、それを元にして作られた金融派生商品を大量に保有していた世界中の銀行が破綻し始め、そこから世界的な景気後退と繋がることになる。

•住宅価格下落 -> サブプライムローン下落 -> 銀行破綻 -> 景気後退

当時、中央銀行は利下げを行ったが、この状況を止めることが出来なかった。低金利が住宅価格下落に効かなかったからである。

•金利低下 -> 住宅価格下落を止められず

それは利下げが住宅市場に作用するまでにタイムラグがあるからである。債券市場や株式市場であれば金融政策にすぐに反応するだろう。しかし利下げはまず長期金利を低下させ、低下した長期金利が住宅ローン金利を低下させる。そうして消費者が家を買うことを考えて初めて利下げの効果が表れることとなる。

実際には低金利の効果が実体経済に出始めるまでには3ヶ月ほどかかることになる。しかし暴落する住宅市場は3ヶ月もあれば値を大きく下げてしまう。

つまり、2008年の金融危機は住宅市場という実物資産の市場でバブルが進んだために即効性のある対策を打つことが出来ずに起こったということになる。下落の原因となっているトレンドが止められないものである場合、バブル崩壊も止められないということである。2008年の例では以下のトレンドを止められなかったということになる。

•住宅価格下落 -> モーゲージ債下落 -> 銀行破綻 -> 景気後退

2018年世界同時株安の場合

では次は逆にバブル崩壊を止められた例を同じように再帰理論によって見てゆきたい。2018年の世界同時株安である。

•世界同時株安を予想できた理由と株価下落の原因 (2020/10/18)

リーマンショックの続きにもなるが、2008年以降の株価の上昇は中央銀行の量的緩和と低金利政策によって支えられてきた。これは10年来の長いトレンドである。

•金利低下 -> 株価上昇

しかしアメリカ経済が好調だったことで2018年にはアメリカは金融緩和を止め、それを巻き戻す利上げと量的引き締めを行っていた。トランプ相場の好景気もあり、長期金利は上がっていった。

株式市場は当初は気にしない素振りを見せていたが、当時筆者はその危険性を警告し続けていた。

•バブルの頂点で日経平均は上昇、空売りを淡々と継続 (2018/9/20)

そして株価は2018年末に急落することになる。

つまりはこういうことである。

•金利上昇 -> 株価下落

株価が20%以上下落する中、パウエル議長は当初金融引き締めの継続にこだわったが、年末の下げでついに降伏、量的引き締めの停止と利下げを行うことになった。

周知の通り、バブル崩壊はこのパウエル議長の判断で収まっている。何故収まったかと言えば、バブル崩壊の原因となっていた金利上昇というトレンドが中央銀行によって除去可能だったからである。何故ならば中央銀行自身が原因だったので、彼らはそれを自分で取り除くことが出来たのである。

•金利低下 -> 株価回復

つまり、金利上昇が原因となったバブル崩壊はその原因を取り除くことで防ぐことができた。2008年とは違い、トレンドの原因を取り除くことができるバブル崩壊は防げるのである。

現在の状況

さて、では新型コロナ株安の今の状況はどうだろうか。問題となっているのは流行拡大によって飛行機が飛ばなくなり、ヨーロッパなどでは生活必需品を除いて店舗の閉鎖が行われている国が多いため、企業の売上が一時的に大幅に減少していることである。

•流行拡大 -> 売上減

売上が減ると利益が減るため、株価が下落する。また企業の資金繰りが悪化するため信用が悪化、金利を上げなければ借金ができなくなり社債の金利は上昇(価格は下落)している。

•流行拡大 -> 売上減 -> 株安、社債安(金利上昇)

金利が上がれば企業にとって借り入れコストが増えることとなり、また借り換えができなくなる企業も出てくる。これまでの低金利で本来ならば破綻している零細企業が借金を借り続けることで生きながらえてきたのが破綻の危機に貧しているのである。そうした企業の破綻が懸念されることで社債の金利は更に上がることになる。

•社債金利上昇 -> 企業の破綻懸念 -> 社債金利上昇

これは再帰的な自己強化のトレンドである。これが信用の低いジャンク債が暴落している理由である。

ジャンク債の暴落は新型コロナ相場の一番直接的で一番根深い問題と言える。あまりに多くのゾンビ企業が低金利で生きながらえてきたため、これが深刻化すると金融危機に繋がる可能性がある。それはドルの急激な上昇にも表れている。

•ドル円上昇が示す世界的倒産ラッシュの可能性

さて、しかし新型コロナ株安は本来下がって上がる相場である。売上の減少は一時的なものに過ぎず、来年になれば新型ウィルスのことなど皆忘れている。今となっては悲観的な人々が多いかもしれないが、そうした悲観には2月始めのレイ・ダリオ氏の言葉を贈りたい。

•中国新型ウィルス、世界最大のヘッジファンドの投資戦略


一般的にはこうした一生に一度のレベルの災害はまず最初に過小評価され、そして状況が進むにつれて過大評価される。

しかしそれはこのジャンク債暴落による倒産ラッシュが深刻化しなければの話である。よって今の相場の問題はジャンク債暴落トレンドが止まるか止まらないかの問題ということになる。つまりは社債の問題である。トレンドの流れをもう一度引用しよう。

•社債金利上昇 -> 企業の破綻懸念 -> 社債金利上昇

そして社債金利上昇のそもそもの原因はこういうことであった。

•流行拡大 -> 売上減 -> 株安、社債安(金利上昇)

よってこの問題はソロス氏の再帰理論によれば流行拡大が止まるか止まらないかという問題に帰着するのである。そして流行が止まるかと言えば、少なくともヨーロッパでは状況が反転しそうである。

•新型コロナ、米国の感染者数急増止まらず ヨーロッパはピーク近し

アメリカがそれに続くのも時間も問題だろう。よって今回の株式と債券の下落トレンドは止めることのできない再帰的トレンドではない。したがって株式市場も債券市場も流行減速で回復するという結論になる。止まらない暴落には止めることのできない原因があり、今回のトレンドはそれに当てはまらない。

まとめ

すべてのリスクについて長らく考えていたが、こういう結論になった。久々に中央銀行の動向予測以外の仕事をしたように感じる。世界中の中央銀行が弾切れになった後の世界とはつまり、中央銀行が株価を操作する前の世界に相場が戻ったということである。それは後々量的緩和バブルの本当の崩壊を引き起こすが、それについてはこの相場を上手くさばいてから書くことにしたい。

現在の状況は投資家にとって判断が難しい状況だが、このように整理して考えると突破口が見えてくる。こうした状況を綺麗に説明できる理論はなかなかないが、ソロス氏の再帰理論は今の状況にふさわしい道具であると言えるだろう。

『ソロスの錬金術』について個人的に残念なのは、世界屈指のファンドマネージャーであるジョージ・ソロス氏が自分の投資理論を本にまで書いて説明してくれているというのに、それを真面目に読む人が金融業界にもあまりに少ないということである。宝石が落ちていても誰もそこに目を向けない。市場でもそういう場面にしばしば出会う。今の原油相場も同じようなものだろう。

•原油価格暴落をめぐるロシアとサウジアラビアの戦争

あるいは下落前の新型コロナ相場も同じようなものだっただろうか。

•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか (2020/2/17)

価値ある銘柄がタダ同然で落ちていても誰も買わないし、価値ある本が簡単に入手できるとしても誰も読まないのである。しかし結局はそういうものなのではないか。

道端に落ちている1万円札が本物かという話がある。経済学ではそれが本物ならば誰かが拾っているはずだから偽物に違いないと言う。しかしわたしに言わせれば道端に落ちている価値あるものは本物である。大多数の人はそれを拾わないからである。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9386
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c254

[近代史4] バブル崩壊の歴史 中川隆
4. 中川隆[-13382] koaQ7Jey 2020年3月24日 19:27:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1522]

新型コロナ株安動向予想: 流行減速で株式市場は上昇する2020年3月24日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9386

新型コロナウィルス肺炎が世界的流行となりアメリカとヨーロッパを席巻している。株式市場は暴落しているが、一方でヨーロッパの感染者数はピークに近づいている。

•新型コロナ、米国の感染者数急増止まらず ヨーロッパはピーク近し

新型ウィルスの流行がピークに達すれば株価の下落も止まるだろうかというのが投資家にとって最大の問題である。これは難しい問題だが、こうした問題を考える最適の方法は恐らくジョージ・ソロス氏の再帰理論だろう。今回の記事では彼の再帰理論を使って株安の今後の動向を予想してみたい。

ジョージ・ソロス氏の再帰理論

ジョージ・ソロス氏はヘッジファンドマネージャーとしてもっとも著名な人物であり、現代のヘッジファンドの形態は彼のクォンタム・ファンドを元型としている。レバレッジを使って買いと空売りの両方を行い、自分と顧客の資産を運用する形態というのは当時は彼のファンドだけだったのである。

そのソロス氏が自分の投資理論を説明した『ソロスの錬金術』という本があり、そこでは彼がバブルの発生と崩壊を予測するのに使っている再帰理論という理論が説明されている。

再帰理論とは相場におけるトレンドとトレンドが互いに強化しあうことよってバブルが発生し、またバブルの崩壊も同じようにトレンド同士の自己強化プロセスによって発生するという理論である。

この再帰理論を用いれば、止めることのできるバブル崩壊と止めることのできないバブル崩壊を見分けることができる。そして今回の新型コロナ株安は恐らく前者である。今回の記事は長くなるが、まずはこの2つの種類のバブルについて実例をもって説明してみたい。

サブプライムローン危機の場合

止められなかったバブル崩壊の最近の例は2008年のサブプライムローン危機である。

•リーマンショック時における米国株、政策金利、住宅価格の推移

当時の市場は低金利によって株式市場も不動産市場も好調だった。特にアメリカの住宅市場はローン金利が下がったことで誰もが家を持ちたがり、住宅価格は右肩上がりとなっていた。つまりはこういう状況である。

•金利低下 -> 住宅価格上昇

住宅価格が常に上昇するため、ローンを借りて住宅を買った人も買った家を高値で売れば楽々ローンを返せる状況にあった。こういう状況を受け、住宅ローンの債権を証券化したモーゲージ債は高騰、金利は低下していった。

モーゲージ債の中でも信用の低いローンを集めたものはサブプライムローンと呼ばれたが、信用の低い借り手も価格の上昇した住宅を高値で売ればローンを返せる状況にあったため、サブプライムローンの金利は低下した。低下したローン金利が更なる住宅購入を呼んだため、このトレンドは自己強化的なトレンドとなった。

•金利低下 -> 住宅価格上昇 -> 金利低下

こうした自己強化的なトレンドのことを再帰理論では再帰的と呼ぶ。このような再帰的なトレンドは止めるものがなければ際限なく互いを強化し合い、行き着くところまで行ってしまう。それがソロス氏の再帰理論である。

しかし長引く低金利により経済が過熱していったことで中央銀行は金利を上げていった。バブル状態となっていた住宅市場は金利上昇に敏感に反応した。

•金利上昇 -> 住宅価格下落

住宅価格が下がり始めると、サブプライムローンの問題が明るみに出始めた。安心安全と思われていたサブプライムローンがデフォルトし始めたため、低下していたサブプライムローンの金利は本来の適正な金利に戻り始める。

•金利上昇 -> 住宅価格下落 -> 金利上昇

すると低金利で住宅ローンが借りられなくなり、住宅の購入者が減って住宅価格はますます下落した。今度は逆方向の再帰的な自己強化トレンドである。金利が上がるほど住宅価格が下がり、住宅価格が下がるほど金利が上がってゆく。

特にサブプライムローンの下落は手の付けられないものとなり、それを元にして作られた金融派生商品を大量に保有していた世界中の銀行が破綻し始め、そこから世界的な景気後退と繋がることになる。

•住宅価格下落 -> サブプライムローン下落 -> 銀行破綻 -> 景気後退

当時、中央銀行は利下げを行ったが、この状況を止めることが出来なかった。低金利が住宅価格下落に効かなかったからである。

•金利低下 -> 住宅価格下落を止められず

それは利下げが住宅市場に作用するまでにタイムラグがあるからである。債券市場や株式市場であれば金融政策にすぐに反応するだろう。しかし利下げはまず長期金利を低下させ、低下した長期金利が住宅ローン金利を低下させる。そうして消費者が家を買うことを考えて初めて利下げの効果が表れることとなる。

実際には低金利の効果が実体経済に出始めるまでには3ヶ月ほどかかることになる。しかし暴落する住宅市場は3ヶ月もあれば値を大きく下げてしまう。

つまり、2008年の金融危機は住宅市場という実物資産の市場でバブルが進んだために即効性のある対策を打つことが出来ずに起こったということになる。下落の原因となっているトレンドが止められないものである場合、バブル崩壊も止められないということである。2008年の例では以下のトレンドを止められなかったということになる。

•住宅価格下落 -> モーゲージ債下落 -> 銀行破綻 -> 景気後退

2018年世界同時株安の場合

では次は逆にバブル崩壊を止められた例を同じように再帰理論によって見てゆきたい。2018年の世界同時株安である。

•世界同時株安を予想できた理由と株価下落の原因 (2020/10/18)

リーマンショックの続きにもなるが、2008年以降の株価の上昇は中央銀行の量的緩和と低金利政策によって支えられてきた。これは10年来の長いトレンドである。

•金利低下 -> 株価上昇

しかしアメリカ経済が好調だったことで2018年にはアメリカは金融緩和を止め、それを巻き戻す利上げと量的引き締めを行っていた。トランプ相場の好景気もあり、長期金利は上がっていった。

株式市場は当初は気にしない素振りを見せていたが、当時筆者はその危険性を警告し続けていた。

•バブルの頂点で日経平均は上昇、空売りを淡々と継続 (2018/9/20)

そして株価は2018年末に急落することになる。

つまりはこういうことである。

•金利上昇 -> 株価下落

株価が20%以上下落する中、パウエル議長は当初金融引き締めの継続にこだわったが、年末の下げでついに降伏、量的引き締めの停止と利下げを行うことになった。

周知の通り、バブル崩壊はこのパウエル議長の判断で収まっている。何故収まったかと言えば、バブル崩壊の原因となっていた金利上昇というトレンドが中央銀行によって除去可能だったからである。何故ならば中央銀行自身が原因だったので、彼らはそれを自分で取り除くことが出来たのである。

•金利低下 -> 株価回復

つまり、金利上昇が原因となったバブル崩壊はその原因を取り除くことで防ぐことができた。2008年とは違い、トレンドの原因を取り除くことができるバブル崩壊は防げるのである。

現在の状況

さて、では新型コロナ株安の今の状況はどうだろうか。問題となっているのは流行拡大によって飛行機が飛ばなくなり、ヨーロッパなどでは生活必需品を除いて店舗の閉鎖が行われている国が多いため、企業の売上が一時的に大幅に減少していることである。

•流行拡大 -> 売上減

売上が減ると利益が減るため、株価が下落する。また企業の資金繰りが悪化するため信用が悪化、金利を上げなければ借金ができなくなり社債の金利は上昇(価格は下落)している。

•流行拡大 -> 売上減 -> 株安、社債安(金利上昇)

金利が上がれば企業にとって借り入れコストが増えることとなり、また借り換えができなくなる企業も出てくる。これまでの低金利で本来ならば破綻している零細企業が借金を借り続けることで生きながらえてきたのが破綻の危機に貧しているのである。そうした企業の破綻が懸念されることで社債の金利は更に上がることになる。

•社債金利上昇 -> 企業の破綻懸念 -> 社債金利上昇

これは再帰的な自己強化のトレンドである。これが信用の低いジャンク債が暴落している理由である。

ジャンク債の暴落は新型コロナ相場の一番直接的で一番根深い問題と言える。あまりに多くのゾンビ企業が低金利で生きながらえてきたため、これが深刻化すると金融危機に繋がる可能性がある。それはドルの急激な上昇にも表れている。

•ドル円上昇が示す世界的倒産ラッシュの可能性

さて、しかし新型コロナ株安は本来下がって上がる相場である。売上の減少は一時的なものに過ぎず、来年になれば新型ウィルスのことなど皆忘れている。今となっては悲観的な人々が多いかもしれないが、そうした悲観には2月始めのレイ・ダリオ氏の言葉を贈りたい。

•中国新型ウィルス、世界最大のヘッジファンドの投資戦略


一般的にはこうした一生に一度のレベルの災害はまず最初に過小評価され、そして状況が進むにつれて過大評価される。

しかしそれはこのジャンク債暴落による倒産ラッシュが深刻化しなければの話である。よって今の相場の問題はジャンク債暴落トレンドが止まるか止まらないかの問題ということになる。つまりは社債の問題である。トレンドの流れをもう一度引用しよう。

•社債金利上昇 -> 企業の破綻懸念 -> 社債金利上昇

そして社債金利上昇のそもそもの原因はこういうことであった。

•流行拡大 -> 売上減 -> 株安、社債安(金利上昇)

よってこの問題はソロス氏の再帰理論によれば流行拡大が止まるか止まらないかという問題に帰着するのである。そして流行が止まるかと言えば、少なくともヨーロッパでは状況が反転しそうである。

•新型コロナ、米国の感染者数急増止まらず ヨーロッパはピーク近し

アメリカがそれに続くのも時間も問題だろう。よって今回の株式と債券の下落トレンドは止めることのできない再帰的トレンドではない。したがって株式市場も債券市場も流行減速で回復するという結論になる。止まらない暴落には止めることのできない原因があり、今回のトレンドはそれに当てはまらない。

まとめ

すべてのリスクについて長らく考えていたが、こういう結論になった。久々に中央銀行の動向予測以外の仕事をしたように感じる。世界中の中央銀行が弾切れになった後の世界とはつまり、中央銀行が株価を操作する前の世界に相場が戻ったということである。それは後々量的緩和バブルの本当の崩壊を引き起こすが、それについてはこの相場を上手くさばいてから書くことにしたい。

現在の状況は投資家にとって判断が難しい状況だが、このように整理して考えると突破口が見えてくる。こうした状況を綺麗に説明できる理論はなかなかないが、ソロス氏の再帰理論は今の状況にふさわしい道具であると言えるだろう。

『ソロスの錬金術』について個人的に残念なのは、世界屈指のファンドマネージャーであるジョージ・ソロス氏が自分の投資理論を本にまで書いて説明してくれているというのに、それを真面目に読む人が金融業界にもあまりに少ないということである。宝石が落ちていても誰もそこに目を向けない。市場でもそういう場面にしばしば出会う。今の原油相場も同じようなものだろう。

•原油価格暴落をめぐるロシアとサウジアラビアの戦争

あるいは下落前の新型コロナ相場も同じようなものだっただろうか。

•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか (2020/2/17)

価値ある銘柄がタダ同然で落ちていても誰も買わないし、価値ある本が簡単に入手できるとしても誰も読まないのである。しかし結局はそういうものなのではないか。

道端に落ちている1万円札が本物かという話がある。経済学ではそれが本物ならば誰かが拾っているはずだから偽物に違いないと言う。しかしわたしに言わせれば道端に落ちている価値あるものは本物である。大多数の人はそれを拾わないからである。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9386
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/128.html#c4

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
58. 中川隆[-13381] koaQ7Jey 2020年3月24日 19:41:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1523]

ブルーノ・ワルターはミュンヘンのオペラの音楽監督も、ナチの信奉者であったクナッパーツブッシュによって追われたと言われているので、政治的感覚はほとんどなかった、純粋芸術家だったのだろう。
http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1111


バイエルン州立歌劇場でブルーノ・ワルターが退任
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=17

バイエルン州立歌劇場でブルーノ・ワルターが退任することが決まり、その後任にクナッパーツブッシュが指名されたからである。

モーツァルトでの評判は今ひとつだったが、ワーグナー都市を標榜するミュンヘンで、クナッパーツブッシュはワーグナーを成功させ、バイエルン州立歌劇音楽総監督の座を射止める。

ワルターのバイエルン州立歌劇離任に関しては、さまざまな理由が上げられる。
 ひとつ大きな理由は、ミュンヘンの政治的、経済的混乱である。バイエルン革命を2度に渡って経験したワルターは、その混乱振りに半ばミュンヘンに愛想を尽かせていた。ミュンヘンの街は暴力的な雰囲気が充満し始め、「私に対する反対の動きは、まだ仕事の上でこそ感じられなかったけれども、そのような事実があるということを知るのは、もちろん過度に緊張した私の力を疲弊させる原因になった」(「主題と変奏」)

 さらに、ミュンヘンでのインフレは凄まじく、契約通りの俸給ではやりくりが難しくなっていた。

 そんな折り、当時の大指揮者アルトゥール・ニキシュが亡くなった。ニキシュはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者で、ひじょうに大きな人気を博していた。フリッツ・ブッシュはニキシュの薫陶を受け、クナッパーツブッシュの憧れの指揮者もニキシュだった。

 ワルターはニキシュの後を襲って、ベルリン・フィルの首席指揮者の後釜に座ろうと画策する。すでにベルリン・フィルでは「ブルーノ・ワルター・コンサート」を1919年から開始、人気を博していた。ワルターは、ベルリン・フィルの首席指揮者になれるという可能性を自身信じていたようだ。

 1922年3月8日、ワルターは客演先のローマからガヴリロヴィチあてに手紙を出している。

「ニキシュの後任はまだ決まっていません。ぼくは4月3日にニキシュ演奏会を指揮するはず、そのときに決定されるかもしれない。まじめに考慮されるのは二人だけで、フルトヴェングラーとぼくです。フルトヴェングラーのほうは、ニキシュが死んでからベルリンに根を下ろし、天国に地獄あらゆる手段を総動員して、この地位を得ようと躍起になっていますが、その間に急いで指揮できたのは、喝采のみ呼び起こすものばかり。おそらく今ごろは、イゾルデが第二幕でトリスタンを待ち受けるときの緊張さながら、その気持ちは逆であるにせよ、ボクの演奏会の結果いかんと待ち受けているでしょう。自分にたいしてなんらかの関心をかきたてるために、ぼくのほうはまったくなにもしなかったし、主義としてもなにひとつしていません。ぼくの全生涯にわたり、ただ業績によってのみ道を切り開くことだけに限ってきました。

実を言うと、今ミュンヘンを離れるにあたって(10月1日に去ります--ただし事柄はまだ秘密です)、ニキシュの後任となるのは、ぼくには決定的に重要なことでしょう。それが手に入りそうだと、ほとんどぼくも信ずるほどです--全オーケストラは一致してぼくに賛成の意見を表明したそうで、ぼくの知るところではルイーゼ・ヴォルフ(ベルリンの辣腕コンサートマネージャー・筆者註)も望んでいます。しかし--だめな場合は、それもよし。いまさらそんなことに驚くぼくではありません。--その地位が得られるならば、ぼくの意見では、3月と4月にぼくがアメリカにいる妨げにはなりえない。ベルリンの十回の演奏会だけが問題となるわけで、同じくニキシュも、いたるところ世界中をめぐったのに。そのためベルリンの演奏会をいちども欠かしたことはないのでした」(「ブルーノ・ワルターの手紙」)。

 ワルターの希望は、ベルリン・フィルとのコンサートの合間に、アメリカで活動することにあった。アメリカで活動することに関しては、ワルターはボストンで活躍するムックの莫大な収入に憧れを抱いていたという事実がある。1916年9月30日のガブリロヴィッチへの手紙に、すでにムックがボストン交響楽団を離れるときに備え、ワルターが招聘されるよう、根回しをしてくれるよう頼んでいる。結局、その時夢に描いたアメリカ遠征は、第1次世界大戦のアメリカ参戦で果たせなかったが(中立を宣言していたアメリカは結局連合軍に参加、アメリカの対ドイツ宣戦布告は、1917年4月6日である。敵性国人であるドイツ人は収容所に入れられた。例外なく、ムックも収容された)。

 ワルターは、ミュンヘンとの決別を決意する。

「責任ある地位での十年間近い仕事によって、私の力は使いつくされていた。かくも困難な芸術的状況のもとで、しかも増大する経済的危機と政治的不安が予想されるなかで、私は自分が『限界』に達したことをさとった。そればかりではなく、自分がミュンヘンに与えることのできるものはすでに与えてしまったこと、これ以上とどまっていても刷新や向上は期待できず、ただこれまでの仕事を継続しうるだけだということも、ますますはっきり解ってきた」(「主題と変奏」)。

 さらにワルターは「主題と変奏」の中で、他にも離任を決意するまでにいたった理由を暗示している。

「ミュンヘンを去ろうとする決心に本質的な寄与を果たした或るきわめて個人的な動機も、せめてここで暗示ぐらいはしておこうと思う。私は当時、悲劇的な発展の要素をはらんだ情熱に巻き込まれて、危険な状態にあった。それで、ミュンヘンを去ろうという芸術的な考慮から生まれた考えは、同時に人間的な苦しみに満ちた状況からの脱出を、可能にするものであった」

 相手は分からないながら、恐らくワルターは浮気をしていたものと思われる。
「個人的な動機」、「悲劇的な発展の要素をはらんだ情熱」、「人間的な苦しみ」という言葉がそれに当てはまる。ワルターの心は千々に乱れるほど混乱していたのだろう。

 ワルターは、政治的、経済的、そして個人的な苦しみを抱えたミュンヘンを何としても離れたかったのだと考えられる。

 自分の辞任理由とナチとは関係がなかったことについても書いている。

「一般にひとびとは、私がナチに追いたてられてミュンヘンを去ったのだと思っていた。しかし繰り返して言うが、私はミュンヘンを辞任するまで、ほんとうに政治的な敵対行為に悩んだことはなかったのであって、離別の理由は、一部自分の任務は終わったという感情から、一部は個人的な体験の領域から生まれたものだったのである」

 ナチはこの頃にはまだ、気にくわない演奏者のコンサートではあっても、演奏会場で騒いだり、臭気爆弾を破裂させるような妨害活動は行っていない。後にはそれらの妨害活動はナチのお家芸とも言えるようになるのだが。ましてや奥波氏も書いている通り、クナッパーツブッシュがワルター追い落としに一役買ったということもなかったのである。

  結局、ワルターはベルリン・フィルの首席指揮者の座をフルトヴェングラーに奪われている。4月1日のガブリロヴィッチへの手紙で、「ぼくがミュンヘンを離れるのは決定的だと思う。ニキシュの後任も同じく決定的にフルトヴェングラーがせしめました。ぼくが『職のない指揮者』であることは、したがってなんら疑いなしです」と、ベルリン・フィルの地位を得られなかったことをさばさばした様子で書いている。

 ワルターとフルトヴェングラーは、比較的近い存在だった。親友の付き合いをしていたプフィッツナーは、1909年からシュトラスブルク市立歌劇場に音楽総監督として迎えられた。その時、フルトヴェングラーは第3指揮者に採用されている。

 ワルターはプフィッツナーをシュトラスブルクに訪ねた時、フルトヴェングラーを知った。以後、ワルターはフルトヴェングラーの才能を認め、さまざまな助言を行う。フルトヴェングラーをマイハイムの歌劇場音楽監督に推薦したのはワルターだった(クルト・リース著「フルトヴェングラー 音楽と政治」八木浩・芦津丈夫訳 みすず書房)。

 3月8日には、ワルター離任の決心はまだ「秘密」だという手紙の文面があり、クナッパーツブッシュへのミュンヘン客演の打診は3月29日なので、ワルターが総支配人ツァイスに辞任を申し出た、あるいはバイエルン州立歌劇の事務室が具体的に「ワルター後」を睨んで動き出したのはその間のことだろうと思われる。トーマス・マン、ハンス・プフィッツナー、パウル・ニコラウス・コスマンなどのミュンヘンの文化人から、ワルター留任の請願書が出されたが、ワルターの決意は翻らなかった。

 クナッパーツブッシュの選出に関し、公募制オーディションや複数の候補者によるオーディションが行われなかったのは不自然だと見る見方もあるが、指名をして次期音楽総監督を決めるのはバイエルン州立歌劇の伝統である。ワルターもオーディションを受けず、「指名」という形でバイエルン州立歌劇(ワルター就任時は宮廷歌劇)音楽総監督に就任した。

 バイエルン州立歌劇場離任後、1923年8月8日のワルターのガヴリロヴィチへの手紙には、さまざまな国からの招聘があり、それに応ずるつもりだと書き、ドイツの歌劇場への就任とアメリカでの活動の場の確保を天秤にかけている。

「もちろん、ドイツの歌劇場はぼくに腕を差し伸べている。まずライプツィヒで、それからフランクフルト、今はベルリンだ--後者ははなはだ熱心である。どんな犠牲をも覚悟して、是が非でもぼくを得ようとしている。無造作に断りはしなかったが、1924年4月まで決定を保留しておいた。つまり、アメリカからぼくの帰国後までということになる。というのも、アメリカでなにか決定的なものが見つかるか否か、そのときまでには分かるにちがいないからだ。それできみに正直に言っておく。すっかりアメリカに行ってしまうのが、やはりただ一つの可能なことではなかろうか。ドイツは非常に恐ろしい状態になりはてたし、それにドイツのために働くことも、これはぼくの生涯にわたる念願なのだが、本国内より他の国でいっそう良くできるのである。だからお願いだ、どこかで勤め口が見つかりはしないか、よく見張っておいてくれたまえ」(「ブルーノ・ワルターの手紙」)。

 ベルリン・フィルでの地位はのがしたが、ワルターは辞任する前に、アメリカのダムロッシュ歌劇団を組織するワルター・ダムロッシュと個人的な知己を得ている。「主題と変奏」によると、意気投合したふたりは1923年初頭にニューヨークで指揮をすることを決め、ガブリロヴィチからもデトロイトへの招待、ボストン、ミネアポリスからも招待を受け、ワルターの当初の希望は、半分だけ実現することになった。

 ナチの実権を握った後も、ヒトラーの生活は質素だった。相変わらず狭いアパート(トーランド本によると8フィート×15フィート)に住んでいた。トーランドは続けて「ウィーンの独身男子寮と大差なかった。そこはその建物の中で一番寒い部屋で、家主のエルランガー氏によれば、『その部屋を借りた下宿人の何人かは病気になりました。いまは物置がわりに使っています。もう借り手は一人もつかないでしょう』」と書いている。

 さらにトーランドはエルランガーについて、「ヒトラーが当時住んでいた下宿の主人エルランガーがユダヤ人で、しかも(ヒトラーに対して)快い想い出しか持っていなかったというのは皮肉である。『わたしはしばしば階段や入り口で彼と顔を合わせました……彼はたいていノ−トに何か書いていました……かれがわたしをほかの人間とはちがう目で見ている、と感じさせられたことは一度もありません』」と別のページの脚注につけ加えている。

 ところが、演説ではヒトラーはユダヤ人を攻撃した。第1次世界大戦の敗北、その後の革命騒ぎ、そのような状況下でも儲ける金融資本家を批判して、4月12日の演説で以下のように語っている。

「我々は、すでに外国の植民地なのである。しかも、我々は能う限り卑屈な態度をとり、我々自身の名誉を毀損してまで、これを助成した……共同体を形成するというがごとき概念がユダヤ人にはまったく欠けているため、彼[ユダヤ人]は破壊し、また破壊せねばならないということである。この場合、個々のユダヤ人が『正しい』か否かは、もとより問題とはならない。彼[ユダヤ人]は自然が彼に付与した特質をあくまで有しているのであって、永久にこれから脱れることはできないのである」(「我が新秩序」、阿部良男著「ヒトラー全記録」よりまた引き)

 6月24日、ベルリンでは外国の信頼の厚かったワルター・ラーテナウ外相が、右翼グループに暗殺される事件が起こる。ラーテナウはユダヤ人で企業家であり、大富豪だった。外相就任後、アメリカへのドイツの苦境の理解の浸透、賠償を請求する連合国諸国にはヴェルサイユ条約を履行する積極的な態度を示しながら、いかにその賠償を支払うことが不可能に近いかを理解させることに力を尽くした。

 東方に向かっては、ラーテナウはソヴィエトと条約を結び、相互賠償の破棄、通商関係の再開、ソヴィエト近代化への助成、軍の相互協力がその中に盛り込まれた。

 国粋主義者はそれに反発した。

 ラーテナウ暗殺は外国を刺激し、ベルリン、ハンブルクの取引市場は大混乱に陥り、マルクは大暴落した。「当日1ドル350マルク、7月末670マルク、8月中2000マルク、10月末4500マルク(「全記録」。「ワイマール共和国史」には「7月にはいるとドル相場は5000マルク以上に達した」と書かれていることも紹介されている)
 ドイツ政府は緊急通貨政策を実施、地方自治体、鉄道、大手醸造所などは独自通貨を発行してそれをしのごうとしたが、インフレは収まる気配がなかった。

 ラーテナウが暗殺された6月24日、ヒトラーはバイエルン分離主義者の集会を妨害した罪で収監される。ヒトラーの入獄は約1ヶ月間続いた。ヒトラーは監獄でますますユダヤ人攻撃の思索を重ねた。7月27日に釈放され、その翌日にはラーテナウ暗殺をきっかけに生まれた「ドイツ共和国擁護法」(右翼、左翼を取り締まる法律)を批判、その中でより激しくユダヤ人を攻撃した。

「ユダヤ人はけっして紳士民族ではない。彼らは搾取者であり、強盗民族なのだ。彼らの破壊した文化は幾百に上がろうが、彼らは未だかつて文化を建設したことはない。彼らの有するものは、自ら創造したものではない」(「全記録」)

 この年の秋、第1次世界大戦の空の英雄ヘルマン・ゲーリングがナチに入党した。

 第1次世界大戦終盤から1923年頃まで、日本は大正期で、第1次世界大戦での山東省からドイツの駆逐、ロシア革命を牽制するための欧米列強に倣ったシベリア出兵などはあったが、概ね大きな波は起こっていない。

 1918年、米の価格が暴騰したため富山を発端とする全国規模に膨れあがった大正米騒動が起こったり、1920年3月株価が大暴落、戦後恐慌など不安定な出来事もあったが、「大正デモクラシー」の時代であり、後年から俯瞰すると昭和への前奏曲という感が強いことは否めない。

 政治的には1921年(大正11年)11月4日、原敬首相暗殺事件、市民生活・自然災害としては1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の発生が昭和への不気味な胎動を思わせる。

 軍備は増強され、大艦巨砲主義から巨大戦艦や空母の建造、また無政府主義者や共産主義者の弾圧・暗殺も行われた。憲兵大尉甘粕正彦による大杉栄、伊藤野枝を殺害した事件は関東大震災の直後、1923年9月16日だった。

 また、袁世凱の死後(1916年)、軍閥が割拠しはじめた中国で、日本は中国東北部(満州)での足がかりを確固としたものにしようとしている。租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が1919年(大正8年)に関東軍として独立した(Wikipediaより)。
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=17

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c58

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
15. 中川隆[-13380] koaQ7Jey 2020年3月24日 21:53:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1524]
第5集「世界は地獄を見た」



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c15
[近代史4] アジア人の白人との戦い
アジア人の白人との戦い


第6集「アジア 自由への戦い」





http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
1. 中川隆[-13379] koaQ7Jey 2020年3月24日 22:46:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1525]

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68804023.html


不潔なインド
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(左 : 汚い川に入るインド人 / 右 : 劣悪な便所に嫌気が差すインド人女性)
https://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/e/7/e7d213ab.jpg
https://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/a/c/ac3b84f7.jpg

  1月下旬から、武漢肺炎の報道がマスメディスアのトップ・ニュースとなっている。地上波のワイドショーは、安倍政権を批判すべく朝から晩まで感染の不安を煽り、最近はPCR検査で潜在的な感染者を炙り出そうと躍起だ。しかし、もっと熱心なのは支那人擁護である。日本人が支那人に嫌悪感を感じるのは何としても避けたい。そこで、マスコミは支那人への批判を軽減するには、国内での感染状況に焦点を当てるのが一番と考えた。常識的に原因を考えてしまうと、日本国民が支那人による災禍を恨むようになるから、防疫対策の遅れや景気の悪化に話題を移す方がいい。日本人は鰯(イワシ)のように靡(なび)く習性があるから、ちょいと舵を切ってやれば簡単に動く。

  一方、イタリアやアメリカ、ブリテンなどで武漢肺炎が広まったことで、感染拡大の元兇である習近平は万々歳。なぜなら、西歐の指導者は自国民の安全を最優先に考えるから、習近平への攻撃は後回しとなる。もし、支那人が“良心的”ならば、他国へ広めないよう、自国を封鎖して潜在的感染者を出さないよう努めるが、支那人は悪魔よりも狡猾だから、なるべく多くの支那人を外国へ輸出しようと密かに謀っていた。仮に、コロナウイルスの漏洩が偶発的なら、感染拡大の防止は不可能だから、全世界が不幸になるよう日本やアメリカ、ヨーロッパに拡散させた方がよい。支那人だけがウイルスに苦しむのは損である。ところが、この極悪民族は日本人を道連れにして地獄に落ちるより、日本人だけを蹴落として自分だけは助かろうとする連中だ。したがって、こんな支那人に永住権を与え、数年経てば国籍取得を許し、多民族共生を讃美する議員や官僚、またこれを促進する大学教授や弁護士などは、とても日本人とは思えない。

  しかし、哀しいかな、高等教育を受けた日本人は、知らないうちに洗脳されている場合がほとんど。大学でピンク左翼に染まったインテリ国民は、「アジア人を排除すべし」と考えない。もし、「移民排斥は正しい」と聞けば、「あら嫌だ、右翼かネオナチの言い草ねぇ〜」と眉を顰める。でも、高学歴で高額所得の上流国民は、アジア移民のいない高級住宅地に住んでいるから偽善的だ。(大阪の西成区や朝鮮人部落に自宅を構えるインテリなんていないぞ。) 久米宏風の“気取り屋左翼”は、水商売で働くフィリピン人やタイ人に同情を示すが、社交界で友人となるのは、洗練されたマナーを持つ西歐白人とか、社会的地位の高いビジネスマンだったりする。「人権尊重」の奥様方は、あえて南鮮人を排除しないが、かといって朝鮮語を学んだり、朝鮮風住宅を建てることはない。大学で勉強するのはアングロ・サクソン人が話す英語で、大金を払って購入するのも西歐の美術品や北歐の家具であり、自慢するのもフランスかイタリアで評判の高級ワインだったりする。日本人女性が財界や政界のパーティーに出席する場合、クリスチャン・デオールやイヴサンローランのイヴニング・ドレスを着ることがあっても、チマ・チョゴリを着てゆくことは絶対にない。


(左 : 日本への移住を目指すフィリピン人女性 / 中央 : 乳房を露出する朝鮮人女性 / 右 : アフリカに住む黒人女性)

  ヨーロッパ人と同じく、日本人も同じ民族で仲良く暮らす方が遙かに素晴らしい。異民族との共存なんて幻想だし、人種的多様性などは国家破壊を目論む左翼のまやかしである。もし、多文化主義者の学者が、同質的な日本社会を「けしからん!」と否定するのであれば、江戸時代の日本人は不幸な日々を過ごしていたことになるじゃないか。明治維新で海外渡航が許されるようになったが、当時の日本人が「やった ! 倒幕で朝鮮人や支那人と一緒に暮らせるぞ !」とはしゃいだ事は無かったぞ。むしろ、朝鮮半島に住む鮮人を目の当たりにして、「なんだぁぁ〜、この乞食よりも汚い賤民は・・・!?」とビックリ仰天。さらに、悪臭漂う朝鮮を通り越して、支那大陸に入ると更に驚く。漢籍の中に登場する聖人君子と違って、現実の支那人は不潔な苦力でなければ、高位高官の詐欺師か残酷がトレード・マークの匪賊、あるいは生まれながらの殺人鬼といった連中だ。安南(ベトナム)に行くと、多少は残虐性が減るけど、庶民が貧しく不潔なのが一般的。ある日本人旅行者が列車の窓から、うずくまるベトナム人を見みたら、野糞をしていたというくらい。まぁ、現代でも支那人は電車の中で脱糞するから、アジア人に清潔さを求めるのは酷だ。

  不潔と言えば、インド人を忘れてはならない。インド人というのは独特の感性を持っているのか、鼻と口が曲がってしまうほど臭いガンジス川でも水浴びができてしまう民族だ。彼らは動物の死骸やゴミが浮いていても平気である。インド人の子供や老人は免疫力が桁外れなのか、嬉しそうに顔や体を洗って元気溌溂。除菌クリーナーで便座を拭いている日本人には到底真似できない。でも、こんな国が真夏を迎えたらどうなるのか。未だにインドは階級社会で格差社会。自宅に便所が無い庶民も多く、近くの穴や共同便所で排便だ。インドの田舎だと約50%の家庭が屋内の便所を持っていないので、排便の時は外に出て、草むらや林の中で用を足すらしい。さすがに都会では“路上排便”は少なくなったけど、ムンバイに住むある映画プロデューサーの夫人が外出したら、野糞をしている人を見かけて驚いたという。


(写真 / インドにおける野外便所 )

  下水設備や衛生施設が普及していないインドだと、都市部でも7.5%の人々が適切なトイレを利用できず、一般世帯の39%くらいしか便所附自宅に住んでいなそうだ。こんな状況だから、ボリウッド(インドの映画界)は民衆が共感できる『トイレ : ある愛の物語(Toilet : Ek Prem Katha)』というラヴ・コメディーを作った。日本人だと信じられないが、インドではそれなりにヒットした。この作品では、主人公のジャヤが新婚の女性という設定になっている。だが、彼女は夫のもとを離れてしまう。なぜなら、二人の新婚家庭には屋内便所が無いからだ。近代的生活に憧れるインド人女性には、トイレ無しの住宅なんて我慢できない。野外便所が普通の田舎では、排便に出掛けた女性が強姦されるという事件がよくあるから、野原で下半身を露出するのは危険である。

(左 : 街角に貼られた円河の宣伝ポスター / 右 : インド人の一般女性)

  日本人女性がインドを旅行すれば、ちゃんと綺麗な便所が設置されているホテルに泊まり、外人観光客が訪れる施設を巡ると思うが、地方の観光地だと衛生的なトイレは期待できない。たぶん、真夏の便器から漂う臭気は強烈だから、排便を断念する人もいるだろう。一般の観光客だと悲鳴を上げて卒倒するんじゃないか。普通の日本人は口にしないけど、インドには色々な雑菌やウイルスが存在する。だから、インドを旅行するなんて、黴菌を浴びに行くようなものだ。仮に、たけし軍団が「お笑いウルトラ・クイズin インド」を企画しても、インダス川に飛び込む“罰ゲーム”は恐ろしくて出来ないぞ。もし、若手藝人が何らかの病原菌に感染したら、番組のプロデューサーやディレクターは左遷か降格だ。バブル時代には無謀な企画が数々あったけど、平成から令和の不況時代だと無理。

牛の小便は特効薬?

  日本では武漢ウイルスが流行し、老人から幼児まで、アルコール消毒液で両手を殺菌だ。一部の人々は、無駄と分かってもマスクをしたり、と涙ぐましい努力で感染拡大防止に努めている。しかし、インドでは別の方法が“実行”されていた。何と、牛の尿を呑んでコロナウイルスを退治しようとする集団がいたのだ。スワミ・チャクラパニという人物に率いられた「牛尿党(gaumuta party)」のメンバーは、コップに牛の小便を注ぎ、その液体を一気に飲み干していたのである。("Coronavirus : Group hosts Cow urine party, says COVID19 due to meat-eaters", The Hindu, March 14, 2020.)

(左 / 牛の尿を飲み干すインド人)

  このチャクラパニという党首は、「アキル・バラト・ヒンドゥー・マハサバ(Akhil Bharat Hindu Mahasabha)」という団体の議長であるという。彼によれば、今回の新型コロナウイルスは、非菜食主義者を罰するためにやって来た神様の化身であるそうだ。つまり、肉を食べる奴らを懲らしめるために、神様がウイルスに化けて現れたという教義らしい。なるほど、牛を神聖な動物と考えるインド人にしたら、ハンバーガーを食べるヨーロッパ人や日本人は「けしからん連中」だから、病気になっても“当然”という理屈だ。件(くだん)の党首様は歐米の記者に向かって、「君らが動物を殺す時は、破壊をもたらすある種のエネルギーを創りだしているんだぞ !」と言い放ち、「世界の指導者達は、インドから牛の小便を輸入すべきだ。なぜなら、全知全能の神様はインドの牛にしか存在せず、外国で育った牛には居ないんだからな !」と説教した。もちろん、インド政府や衛生当局のクリティ・ブシャン局長は、牛の尿にウイルスを殺す効果は無く、科学的根拠のない話である !」と否定したそうだ。

(左 / 牛の小便をタンクから出すインド人 )
  確かに、動物の尿を飲んだからといって、ウイルスの感染を防止できる訳じゃない。たぶん、大多数のインド国民は「馬鹿らしい迷信だ !」と思っているはずだ。しかし、「牛尿党」の一般党員は信じている。サヴィタという主婦は自慢げに、「私は毎日これを飲んでいるわ! これ異常に健康的なものは無いのよ ! 私の家族も牛の尿を毎日飲んでいるの !」と笑顔で話し、グラスに注いだ牛の尿を啜っていたそうだ。「世田谷自然食品」とか「青汁」なら分かるけど、牛が排出した黄色い液体なんか御免である。でも、まぁ、「病は気から」という格言もある。牛の小便を飲んで元気ならいいじゃないか。ただし、目の前で牛乳ならぬ「牛尿」を飲まれては、ちょっと距離を置きたくなる。インドのネレンドラ・モディ首相は、「清潔なインド(Swachh Bharat)」運動を提唱し、各家庭に屋内便所を普及させる、と意気込んでいたが、それなら同時に「啓蒙活動」も展開した方がいいんじゃないか。

  筆者は「アジア人が全て不潔」と断定している訳じゃない。単に「異なった風習や信仰、伝統文化を持つ外国人を日本に招くのは危険だ」と言いたいだけである。特に、アジアやアフリカの異民族を受け容れると、日本人の拒絶反応を増加させるばかりか、日本社会の破壊にも繋がってしまうのだ。多文化主義というのは、ホスト国の住民に「我慢」と「譲歩」を要求する一方で、異質な移民の主張を正当化するイデオロギーとなっている。これは有害思想以外の何物でもない。もし、普通の日本人が支那人や朝鮮人、あるいはインド人やアラブ人の慣習を嫌うと、いくら「自然な拒絶反応」であっても、日本人による「民族差別」とか「異国人への偏見」と見なされてしまうのだ。とりわけ、大学時代に文化人類学とか国際関係論、社会学などの講義を受けた日本人ほど、アジア移民に譲歩し、卑屈な態度を取ってしまう。一般的に、高学歴の日本国民は“無自覚”のリベラル派、つまり確固たる信念無き“なんちゃって左翼”になりやすい。

  多文化主義の弊害は具体例を考えてみれば解るはずだ。例えば、インド人の青年が日本に移住し、日本語を習得して寿司職人の修行を始めたとする。貧しいアジア国から来た移民が日本人以上にコツコツと働き、熱心に努力すれば、巷の日本人は「大したもんだなぁ〜」と感心するだろう。しかし、この見習い職人が休憩時間に便所に入り、左手の指で肛門を洗えば、「えぇぇぇ〜、嫌だぁぁ !!」と身震いし、彼が握る寿司をつまむことはないはずだ。いくら、この見習い職人が「ちゃんと洗面所で石けんを使って手を洗いました」と述べても、日本人の顧客は彼の寿司店を敬遠し、常連客でも寄りつかなくなる。もちろん、インド人の観光客がこの寿司店を嫌い、同胞の寿司を食わないのは理解できる。インド人によれば、左手は不浄なので、見ず知らずの他人が両手を使って握る寿司なんか、とても食えたもんじゃない。なにせ、下層民が触れた食器でさえ厭がるんだから。したがって、もし、この見習い職人が下層階級の出身者なら、上流階級のインド人は決して彼の料理を食べないだろう。実に酷い話だが、これはインド人の伝統的風習だから非難されることはない。

ところが、日本人に「左手は不浄」と見なす文化は無いから、インド人が握った寿司を拒めば、不合理な「民族差別」となる。机上の空論をもてあそぶ大学教授は、気軽に「異文化との共存」を説くが、実際の社会では文化の衝突や軋轢の方が多い。インド人からすれば、紙で肛門を拭く日本人の方が汚く、水を掛けて、肛門を入念に洗浄するインド人の方が清潔だ。一般の日本人は、こう説明されると反論しにくく、感情的に反撥するしかない。だが、もし、日本人がインド人の風習を否定すると、異文化の否定に繋がってしまい、「違った文化を尊重すべし」という多文化主義のドグマ(教義)に反してしまう。だが、多文化主義の“洗脳”を受けていない普通の日本人だと、「そんなの嫌だ ! ふざけんじゃねぇ!」と激怒してしまうから、こうした人々は「ネオナチ」とか「排外義者」と呼ばれてしまうのだ。テレビに出てくる御用学者はよく「寛容の精神」を説くが、そんなのは「屈服の根性」に過ぎない。日本は「日本人のホームランド(自宅のような国家)」であるから、「嫌なものは嫌」と言える自由があるし、不愉快な外人を排除するのは我々勝手である。

妊婦は異質なものを排斥する

  高学歴社会に生きる日本人は、異国人を排除することに抵抗感を持っている。日本では左翼教育が徹底しているから、学校の先生が「支那人とか黒人を毛嫌いしてはいけません!」と教えれば、大半の生徒が「はぁぁ〜い。わかりました !」と素直に従う。ところが、人間は“本能的”に不気味なものや未知のものを避ける。例えば、癩病(らいびょう)患者とか、奇妙な痣(あざ)がある人を見ると怪訝な顔を表すし、違った種族の移民を見れば不快感を抱く。行動においても危険を察知するようで、膿(うみ)とか血を見ると恐れるのは、それに触ると感染するかも知れない、と考えてしまうからだ。テューレン大学の心理学者であるダミアン・R・マレー (Damian R. Murray)博士とブリティッシュ・コロンビア大学のマーク・シャラー(Mark Schaller)博士は、病原体から身を守ろうとする行動的免疫システムがあることを説明した。見知らぬ土地から来た者は、どんな病気を持っているのか判らない。保菌者が元気でも、感染者が死んでしまうケースはある。昔、アメリカ大陸に住んでいた原住民が、見知らぬヨーロッパ人と接触したせいで麻疹(はしか)や天然痘、百日咳などに罹って死亡、あるいは重症になったことは有名だ。


(左 : ダミアン・R・マレー / 中央 : マーク・シャラー / 右 : デイヴッド・アモディオ )

  我々は危険な細菌を保有する「よそ者」ばかりではなく、馴染みのない風習を持つ外人に懸念を示す。たぶん、親しみの無い人や物に遭遇すると不安になるからだろう。ニューヨーク大学で心理学を教えるデイヴッド・アモディオ(David M. Amodio)教授によれば、我々は脅威に曝されたり異人に遭うと、身体が凍結し、闘うか逃げるかの準備をするらしい。そして、もし、その人物を不快と判断すれば、脳内にある島皮質(insula)に衝撃が走り、強い嫌悪感が巻き起こる。アモディオ氏の指摘で興味深いのは、赤ん坊を身籠もった女性が、より自己中心的となり、異質なものに対する警戒感や嫌悪感が強くなることだ。これは妊婦が胎児を守るべく、病原菌を持っていそうな人や潜在的な危険物に対し敏感になるためだろう。子供だって本能的に「悪そうな人」と「親切そうな人」を嗅ぎ分けることができる。もし、防禦能力が低い子供が多民族主義者に従い、どんな人間に対しても警戒心を抱かず、「オープンな態度」で接触したら、どんな災難に遭うのか、想像しただけでも恐ろしくなるじゃないか。

( 写真 / 保護されるべきタイプの弱者 )

  したがって、ある地域に住む民族が、よそからやって来た流れ者に警戒感を抱くのは当然だ。例えば、日本の幼稚園児が独りで、いきなり通りすがりの黒人に遭遇し、聞いたこともない言語で話しかけられたら、どうしていいのか分からず、小さな体が凍りつく場合もあるし、奇妙な容貌に恐れをなして泣き出すこともある。日本よりも流動性の高いヨーロッパでも、一般人があまりにも異質なアフリカ人やユダヤ人を見れば、嫌な気持ちになるだろう。日本の知識人はユダヤ人を嫌った西歐人を非難するけど、第19世紀のユダヤ人なんて本当に不愉快な連中だった。たとえ裁判官や科学者になった人物がいたとはいえ、一般のユダヤ人はゲットーから抜け出た賤民と同じで、近づきたくはない。特に、社会主義やマルクス主義、無政府主義などに魅了されたユダヤ人を目にすれば、日本人だってゾッとするはずだ。

(左 : カール・ラデック / ゲンリフ・ヤゴーダ / イリヤ・エレンバーグ / 右 : ベラ・クン )

  例えば、カール・マルクスを始めとして、日本でもファンが多いレオン・トロツキー、如何にも下品な顔つきのカール・ラデック(Karl Radek)、メンシェビキの指導者であったユーリ・マルトフ(Julius Martov)、ソ連の秘密警察(NKVD)の初代長官を務めたゲンリフ・ヤゴーダ(Genrickh Yagoda)、ドイツ人の婦女子を輪姦せよと叫んだイリヤ・エレンバーグ(Ilya Ehrenberg)、テロリストのアイザック・シュタインバーグ(Isaac Steinberg)、ハンガリー人民共和国の首相になったマチヤス・ラーコシ(Mátyás Rakosi / Mátyás RosenfRosenfeld)、ハンガリー・ソビエト共和国の独裁者になったベラ・クン(Béla Kun)、放埒な性教育を推奨した変態のジョルジ・ルカーチ(György Lukács)、米国から追放された共産主義者の革命家エマ・ゴールドマン(Emma Goldman)、ブラジルの全体主義者であったウラジミール・ヘルツォーク(Vladimir Herzog)など、数え出したらキリがない。呆れてしまうけど、ユダヤ人には共産主義者とか極左分子が非常に多い。でも、普通の日本人で真っ赤なユダヤ人を即座に列挙できる者は極僅かだろう。大抵の日本人は「ヤゴーダとかエレンバーグなんて聞いたことがないなぁ〜」と言うはずだ。それも、そのはず。学校で歴史を担当する教師が“意図的”に隠しているからだ。左翼教師の役目は共産主義者にとって「都合の悪い過去」を闇に葬ることで、赤色分子に対抗する健全な日本人を育成することではない。


(左 : マチヤス・ラーコシ / ジョルジ・ルカーチ / エマ・ゴールドマン / 右 : ウラジミール・ヘルツォーク )

  武漢ウイルスが流行する前、安倍総理や二階幹事長は「支那人の皆さぁぁ〜ん、いらっしゃい!!」と呼びかけていたが、京都や鎌倉の日本人は本当に歓迎していたのか? 確かに、土産物店や飲食店などで働く従業員は、「ゼニ儲け」だから“仕方なく”支那人を接客していたが、私生活に戻れば「何だ、あんな奴ら !」と嫌っていたはずだ。ホテルの清掃員なんか、「支那人の客が泊まると、ベッドや洗面所とか便所だけじゃなく、カーテンとか床まで汚すから、普段より清掃に何倍もの時間がかかっちゃうのよねぇ〜」と愚痴をこぼしてばかり。こんな惨状だから、観光業に携わっていない庶民は、支那人や朝鮮人、および東南アジア人の到来で大迷惑。街中に、不気味なフィリピン人とかベンガル人、ビルマ人、マレー人、インド人、ベトナム人がウロチョロすれば、さっさと買い物を済ませて家に帰りたくなる。それでも、観光客はやがて帰るからいい。ところが、もし隣にアジア人が住み着けば憂鬱になるどころか、自宅の地価が下がるんじゃないかと心配だ。品の良い西歐白人が住む麻布や広尾、目黒なら「お洒落な街」となるが、朝鮮人が密集する新大久保とか川崎、支那人が跋扈する北池袋なんて「魔界」を彷彿させるゲットーでしかない。

  日本人は武漢ウイルスに感染しないよう、「免疫力をアップさせるぞ!」と張り切っているが、アジア人の侵入に対する免疫力になると、自ら抹殺していることに気づかない。我々の体は異物が侵入してくれば、単球系のマクロファージやリンパ系のキラー細胞、顆粒系の好中球とか好塩基球が出動し、有害物質を撲滅しようとする。もし、体から白血球を除外して、「どんな細菌でもOK」となったら大変だ。したがって、本能的に「嫌い!」と思った外人は、迷わず排除すべし。だいたい、支那人や朝鮮人と係わって「いいこと」があったのか? 日本人は左翼学者に従わず、アジア人をドンドン排斥した方がいい。排外思想を放棄した歐米諸国がどんな事態に陥ったのか、ちょっと調べれば判るじゃないか。筆者はなにも全ての外国人を排斥しろ、と述べている訳じゃない。「受け容れてよい外人」と「門前払いにすべき外人」がいると言っているだけだ。もし、我々に「言論の自由」と「選択の自由」があるなら、躊躇なく行使すべきである。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68804023.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c1

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
2. 中川隆[-13378] koaQ7Jey 2020年3月24日 22:53:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1526]

植民地のインドは商品を輸出しても、その見返りの代金は
ポンドでイギリスに蓄積され、デフレになり、不景気になった

2006年2月9日 アメリカの謎を解く 橋本裕の文学・人生日記帳

ブッシュ大統領が1月31日の一般教書演説で、「私は8800億ドルを減税し、国民に返却した。今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」と述べた。

 一方で、アメリカの経常赤字は05年が7900億ドル(93兆6940億円)、財政赤字も06年度は4230億ドル(約50兆2千億円)で過去最大、債務残高はすでに8兆ドル(約950兆円)を越えている。

 日本では、税制赤字を解消するために、増税をしなければならないと考えられているが、アメリカは逆である。減税をして国内消費を活性化し、景気をよくして税収をあげようとする。さらにアメリカの場合は戦争によって軍需景気を作りだしているわけだ。

 いずれにせよ、アメリカは消費大国。国も国民も借金をして消費を楽しんでいる。このアメリカの消費を助けているのが日本をはじめとするアジア諸国だ。とくに日本の貢献が大きい。日本は政府と民間が何百億ドルというアメリカ国債を買っている。

 先日、朝日新聞夕刊「経済気象台」に「米国のもう一つの謎」という文章が載った。経常収支の赤字が拡大しているにもかかわらず、ドル高が持続している謎について、それは借金国のアメリカが負債について支払う金利が「異常」に低いからだと書いている。これに反して、アメリカの対外資産は巨大な利益を手にしている。

 アメリカは莫大な借金をし、そしてその中から、わずかな一部を他国に貸している。そして不思議なことに、巨大な借金のための利払いよりも、わずかな海外資産の方が多くの利益を生み出しているというのだ。

 どうしてこんなマジックが可能なのか。それは日本がこの逆をしているからである。なぜ日本がこの分の悪い役回りを続けるのか、実はこれこそが本当の謎だということになる。

驚くべきことに、小さな対外資産から受け取る利子と配当が、大きな対外負債に支払う利子と配当を今日まで上回り続けている。家計にたとえると、収入を上回る買い物をして毎月赤字が続き、借金が膨らんでいる。ところが、多額の借金に支払う金利がゼロに近ければ、わずかばかり保有する預金などから受け取る利子の方が大きいという状態なのだ。これでは赤字をいくら出しても、借金さえできれば、後は何の憂いもなく買い物ができる

このうまい話に手放しで悪のりして、米国は経済収支赤字を続け、負債の増加に加速度がついている。この構図が最近話題になり、債権国が浮き足だっている。日本にその気配がないことが「謎」の源である

 実はアメリカのこの「うまい話」は、19世紀に繁栄した大英帝国をまねているだけだ。大英帝国の場合は、その繁栄の謎をとく鍵はインドをはじめとする植民地が持っていた。たとえば当時イギリスの植民地であったインドは、香辛料などの原材料を輸出してイギリスを相手に多額の黒字を計上していた。ところが黒字はルピーではなく、ポンドを使って決済され、そのままイギリスの銀行に預けられていた。

 だからイギリスはいくら植民地を相手に赤字を出しても平気だった。イギリスの銀行に預けられたポンドを、イギリス国内で使えばいいからだ。インドは名目上は債権が増え、お金持ちになったが、そのお金をイギリスの銀行から自由に引き出し、自分の国では使えなかった。お金の使い道は預金者ではなく、イギリスの銀行が決めていたからだ。そしてもちろん、イギリスの銀行は国内の人々に貸し出した。

 イギリス国民は植民地から輸入した品物で生活をたのしみ、しかもしはらったポンドもイギリスの銀行に吸収され、イギリスのために使われるわけだ。こうしてイギリスはどんどん発展した。

 一方植民地はどうなったか。たとえばインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積されるだけだから、国内にお金がまわらなくなる。どんどんデフレになり、不景気になった。

 仕事がきつくなり、給料が下がり、ますます必死で働いて輸出する。ところが黒字分の代金は、ポンドのまま名義上の所有としてやはりイギリス国内で使われる。こうしていくら黒字を出してもインドは豊かになれなかった。そして、赤字を出し続けたイギリスは、これを尻目に繁栄を謳歌できた。

 このイギリスとインドの関係は、そっくり現在のアメリカと日本の関係だと言ってもよい。経済同友会元副代表幹事の三國陽夫さんは、「黒字亡国」(文春新書)にこう書いている。

輸出拡大によっていくら日本が黒字を蓄積しても、それはアメリカ国内にあるアメリカの銀行にドルで預け入れ、アメリカ国内に貸し置かれる。日本からの預金は、アメリカにしてみれば資金調達である。貸し出しなどに自由に使うことができる。

 日本は稼いだ黒字にふさわしい恩恵に与らないどころか、輸出関連産業を除いて国内消費は慢性的な停滞に喘いでいる。停滞の原因であるデフレはなかなか出口が見えない。

 日本の黒字がドルとして流入したアメリカはどうなのか。ドルはアメリカの銀行から金融市場を経由して広く行き渡り、アメリカ経済の拡大のために投下されている。日本の黒字は結局、アメリカが垂れ流す赤字の穴埋めをし、しかもアメリカの景気の底上げに貢献しているのである。・・・

 輸出で稼いだ黒字を日本がドルでアメリカに預け、日本の利益ではなく、アメリカの利益に貢献している限り、円高圧力もデフレ圧力も弱まることなく、政府・日銀がいくら財政支出や金融緩和というデフレ解消策を講じても、一向に持続性ある効果は現れないのである

 幸い、最近この貿易構造がかわりつつある。日本の貿易相手国が中国をはじめとするアジアやヨーロッパにシフトしたことで、日本の対米黒字の割合が相対的に低下したからだ。こうして日本がデフレから解放されるチャンスがここから拡大した。

 しかし、問題はすでに厖大なドル建て資産をアメリカに持っていることだ。日本人の汗の結晶であるドル建て資産が、今後ドル安で何百兆と失われる可能性がある。こうした形で、アメリカは最終的に日本の資産を合法的に手に入れようとする。

「今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」というブッシュの一般教書の宣言は、これからも日本をはじめ、世界から資金を調達するという意思表示と読むべきなのだろう。
http://www.asyura2.com/0601/hasan45/msg/253.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c2

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
3. 中川隆[-13377] koaQ7Jey 2020年3月24日 22:56:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1527]
欧米人が植民地経営の方法として洗練させていった分割統治政策とは


安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。
https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/


浅間山荘事件直後の国会で、当時の後藤田正晴警察庁長官や富田朝彦同警備局長は、「連合赤軍」のなかに「協力者」をもち「謝礼金」も渡していたと認めました。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-20/ftp20081120faq12_01_0.html


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。
http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/495.html


日本赤軍のテルアビブ空港襲撃事件が世界中に大きな衝撃の理由は

イスラエルとパレスチナの紛争に、全く利害関係を持たないはずの日本の極左組織が、命を掛けて参加した理由が分からないことである。

 彼らは宗教的にイスラム教を信奉しているわけでもないし、命をかけるほどの利益があるわけでもない。

従がって、イスラエルの空港に日本赤軍と称する組織が命がけの攻撃をする理由は、西洋人は勿論、中東の人々にも理解できなかった。

何故、日本赤軍は、自分たちの命を犠牲にしてイスラエル空港を攻撃したのか? 

そしてそれに輪を掛けて理解できなかったことは、日本政府がこの襲撃事件に遺憾の意を表明して、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払ったことである。
http://www.araki-labo.jp/samayoe017.htm

P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月7日
@mayshigenobu @cinematoday

重信末夫は、四元義隆を通じて警察官僚の佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月9日
@cinematoday @mayshigenobu
ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。
https://twitter.com/mayshigenobu/status/486330664204001280


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トルーマンの言葉

「猿(日本人)を『虚実の自由』と言う名の檻で我々が飼うのだ。
方法は彼らに多少の贅沢さと便利さを与えるだけで良い。
そしてスポーツ・スクリーン・セックス(3S)を解放させる。
これで真実から目を背けさせる事が出来る。猿は我々の家畜だからだ。

家畜が主人である我々のために貢献するのは当然の事である。そのために我々の財産でもある家畜の肉体は長寿にさせなければならない。(化学物質などで)病気にさせてしかも生かし続けるのだ。これによって我々は収穫を得続けるだろう。これは戦勝国の権限でもある」
https://pbs.twimg.com/media/DqbZiVDU0AA6Sv0.jpg


RK: 彼らのやり方は、少数によって大多数の人々を管理して富を独占する。
  そのやり口を見ていると、まるで人間を家畜と考えていて、
  ある意味非常に効率的に管理支配していますね。

BEN:ここが農耕民族である日本人には理解しにくいところで、
  彼らの発想は非常に遊牧民的というか、非常に残酷なのです。

  それはユダヤ人の割礼なんかもそうですが、
  乳牛でもちょっとでも乳の出が悪いとすぐ殺処分するし、
  主人の言うことを聞かない暴れるオスだと、すぐに断種して
  睾丸を抜いてしまうんです。

  だけどこれが農耕民族だと、牛や馬は家族扱いにして大切にする。
  彼ら動物は田畑を耕したり、荷物を運んだりする使役動物だから、
  日本の昭和初期頃までは家の中で大切に飼って、
  潰して食用にすることもあまりなかった。それだけ感覚がまったく違うわけです。

  事実、遊牧民たちは農耕民族のことを、草を食べる
  あるいは穀物と言い換えてもいいのですが、
  羊人(Sheeple シープル)と呼んでいます。

  その羊人である農耕民族を管理するために「羊飼い」としての一神教
  (キリスト教やユダヤ教)があり、その神を動かすことで
  全体を支配するという考えです。

  これまでもその発想でずっと世界を支配してきたのです。

  ですから支配者たちから見ればその他大勢の庶民は同じ人間ではなく、
  「羊人」という家畜にすぎません。

  だから増えて管理が面倒になれば「間引こう」となるし、
  劣等な種族は断種して子孫を作らせないようにする。

  家畜を使って利益を得れば、当然のように牧場主がすべてを奪い取る。

  文句を言えば餌を減らし、ムチで叩いて大人しくさせる。

  このようにして食料と軍事力で世界を管理・コントロールしている連中が
  存在しているのです。
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-a3d1.html


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ロスチャイルドは、スマートにおしゃれに、ナイスに振舞いながら、人生をゲームとして謳歌し、微笑みながら、人間大量虐殺の報告のみを、部下より聞く。

とってもナイスな人物に世間では映る。

唯、感覚が違うのだ。

ロスチャイルドの瞳には、自分達以外の人間が、チェスの駒としか映らないのだ。


かつてベルギー領であったアフリカのコンゴでは、ベルギー国王レオポルト2世の経営する無数の大規模ゴム農園で、黒人が凄まじい奴隷労働を強制された事実があります。

この奴隷農園を経営していた実働部隊が、ロスチャイルド一族とその盟友・銀行ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジックです(拙稿「核兵器の密売人フランス」参照)。
本書p28には、ロスチャイルドによって手首を切り落とされた黒人の少年の写真が掲載されております。

黒人には1日に採集するゴムの量が1人1人割り当てられていました。

1日でもその割り当てノルマが達成できないと、ロスチャイルドはその黒人奴隷の手首をオノで切断し、制裁を加えたのでした。

相手が少年であっても容赦などされなかったのです。

本書に掲載されている写真が残されている事は、「写真という技術が登場し、しかもアフリカの奥地にまで持ち込める携帯用のカメラが開発・販売されるようになったつい近年まで、ロスチャイルドによる黒人奴隷の手首切断が実行されていた」事実を指し示しています。

この有色人種を奴隷とし人間とも思わない一族が、今後、中国を支配し、原発と核兵器を大量生産する事になるでしょう。

原発の事故が起こり、核戦争が起こり、アジア人=有色人種が死のうとロスチャイルドが「何とも思わない」事、むしろ不要な人種が死んで喜ぶ事を、この写真は事実として示しているとおもいます。

今後、国連の中心となり、国連という国際機関を「動かす」中心国となるベルギーとロスチャイルドによる、この黒人・有色人種虐殺の犠牲者は、数百万人に上ります(p33)。

国連が平和維持活動と称しPKO部隊を送り込み、有色人種の国々で虐殺を繰り返している事実は、このベルギーとロスチャイルドによるコンゴでの大虐殺に「同一起源・源流」を持つと考えられます。

p79にも、切り落とされた黒人奴隷の手首を持つ黒人の写真が掲載されており、ロスチャイルドは、逆らった黒人、病気・ケガで働けなくなった黒人を射殺する事を農園の監督人に命じました。

しかしライフル銃の弾丸を節約するために、殺害に使用した弾丸の数と同一の数の黒人の手首を持ち帰る事を監督人に要求したのです。

殺害された黒人1名につき弾丸1個しか使用してはならない、という弾丸の節約命令が出されていた訳です。

黒人の命より、弾丸1個の方が「もったいない」という事でしょう。

一方、監督人は木の棒等で黒人を撲殺し、弾丸を未使用のまま残し、「黒人が逆らったので銃殺した」とウソの報告を行い、弾丸を銃器販売店に「横流しし」、その利益を「小遣い」として着服する事が常態化していたらしいのです。

つまり逆らってもいない黒人を撲殺し、弾丸を横流し販売する事で「小遣い」が得られたのです。

ロスチャイルドの監督人達は、ビール1杯を飲む小銭のために、逆らってもいない黒人を殴り殺し続けて来た事になります。

このベルギー国王(英国王室と同族のザクセン・コブルク・ゴータ一族)とロスチャイルドの行った大虐殺を知り、写真を撮り世界に知らせた勇敢なジャーナリストが三名おりました。

最初の告発者ワシントン・ウィリアムズは、わずか32歳の若さで何者かに毒殺されてしまいました。

盟友の毒殺にも屈せず政府とロスチャイルドの告発を行ったジャーナリスト、ロジャー・ケースメントは「国家反逆罪」で、ベルギー政府の手で逮捕され「絞首刑」となり処刑されてしまいました。

3人目のE・D・モレルも逮捕され、ケースメントと同一の刑務所に収監され、出獄後、病死しています。

こうした写真は、この勇敢なジャーナリスト達が自分の命と引き換えに撮影してきたものです。

p142には、南アフリカで絞首刑にされ、「さらし者」にされている3名の黒人奴隷の木に吊り下げられた死体の写真が掲載されています。

裁判抜きで、白人が「気に入らない黒人を自由にリンチ処刑している」。

同時に、リンチにされた黒人の姿を「満足気に葉巻を吸いながら眺めている白人達の姿」も撮影されています。

有色人種をリンチ殺害する事は、大好物の葉巻を吸いながらそれを眺める程、「最もリラックスできる楽しい時間」であった事を、この写真は物語っています。

これは、携帯用の小型カメラが世界中に販売されるようになった時代のリンチであり、「つい最近」の出来事である事を、写真撮影という事実が示しています。

そしてコンゴだけでなく、南アというロスチャイルドの支配下に入った国・地域では、どこでもリンチ殺人が行われていた事実を、こうした写真は示しているのです。

コンゴは、ゴムだけでなく核兵器原料のウランの最大手の生産国であり、ロスチャイルドの核兵器原料企業ソルベイ社が、コンゴでのウラン採掘と世界への販売を担当してきた。

このソルベイ社とベルギー国王が「国連所在地のブリュッセル」で3年に1度開催する「ソルベイ会議」は、世界中の核兵器メーカーと核物理学者が集まり、今後の核兵器販売計画を密談する、ソルベイ社から招待された者だけが参加可能な、マスコミにも情報を出さない「隠密会議」となっているようです。

かつて、第5回ソルベイ会議に出席したアインシュタインが、ソルベイ社に説得され、米国のルーズベルト大統領に書簡を送り、原爆開発の推進を「提言」した事実は有名である。著名であったアインシュタインの書簡であれば米国大統領も「核兵器開発を認め、説得されるであろう」と計算したソルベイ会議は、アインシュタインを「上手に誘導し説得した」のでした。

このソルベイ会議が無ければ、日本の広島・長崎への原爆投下も原爆開発も無かったでしょう。

この会議を開催している者が、ロスチャイルドとベルギー王室、つまりコンゴの奴隷虐殺者達。

日本人という有色人種を大量に虐殺した広島・長崎への原爆投下と、コンゴでの有色人種=黒人大虐殺が、同じ「論理」、同じ企業・人間達によって行われてきた事実が浮かび上がってきます。


その論理とは「有色人種虐殺」である。


この企業・人間達が、今後アジアの盟主として中国の政権中枢を担当することになるのです。

その金融面での動きがアジア統一通貨の形成であり、それは欧米・ロスチャイルドの新しい支配戦略です。

アジア通貨の誕生をドル支配からのアジアの独立である等という寝呆けた主張は、国際情勢への無知か、自分がロスチャイルドの「手先」である事を自白していることになります。

なお、ベルギーによるコンゴ支配を描いた小説「闇の奥」の作家ジョセフ・コンラッドは、「ベルギーのような遅れた国がこうした虐殺を行うが、自分達、英国人であれば、こうした虐殺は行わない」と英国人を自画自賛しています。

英国王室とベルギー王室が同一一族である事実を知識人コンラッドが知らないはずは無く、悪質なデマをコンラッドは流している事になります。

こうした悪質なデマを流し、真実を隠す作家でなければ「大作家」「人種差別に最初に気付いた知識人」などと言う「名誉ある称号」は手に入らないのでしょう。


またコンラッドの小説を映画化し「地獄の黙示録」を製作した映画監督・「巨匠」フランシス・コッポラは、ベルギー政府とロスチャイルドの行った、この残虐な黒人奴隷の手首切断をベトナムに舞台を移し、「ベトナム共産軍の行った野蛮な行為」として描き出しています。

ベトナム戦争でベトナム共産軍を敵として戦争を行った米国政府の「ご機嫌を伺うために」、ベルギー政府の行った虐殺を「ネジ曲げ」、米国政府の敵=共産軍が行った野蛮な行為として手首切断を、「巨匠」コッポラは描いています。

手首切断を行ったロスチャイルドの米国支部はロックフェラーであり、そのロックフェラーこそがベトナム戦争を行った米国政府中枢である事を、無知からか意図的にかコッポラは無視し、デマを世界中にタレ流しているのです。

こうした悪質なデマを流し、真実を隠す作家でなければ「巨匠・映画監督」にはなれないという事なのでしょう。


真実を語るものは絞首刑になり、デマを「タレ流す」者だけが「大作家」、「巨匠」になる。

現代世界と芸術界は、ニセ者だけが表通りを歩く事の出来る肥溜めと化しているのか?
http://www.studiosugi.com/blog/labels/44Ot44K544OB44Oj44Kk44Or44OJ.html

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第25代日本銀行総裁(1984-1989年) 澄田智がやった事


その昔、日本は国民総ででバブルに踊った時代がありますたね。
バブルを起こして潰す。奴らの詐欺手口の最たるものですた。
バブルがはじけて今では失われた10年と言われていますが、今だに日本経済はその後遺症を引きずっています。自殺者はバブル崩壊から毎年3万人。今だにその数は変わっていません。

その手口を見れば分かるのですがいつもワンパターンです。
最初は甘い話でカモを釣る。こうやれば儲かりますよ。おいしい話でカモを誘います。

そしてころ合いを見計らって真っ逆さまに突き落とす。詐欺師の典型的なパターンです。

最初に奴らはバカスカ札束を刷って、バブルを引き起こす。銀行は貸して貸して貸しまくる。株に投資すれば儲かるよ。土地を買えば儲かるよ。そしてカモが罠にかかったころ合いで急に蛇口を閉める。貸し渋りをやるわけです。
これをやられたら投資家はいきなり資金難に陥ります。そして、資金難に陥ったカモ達から担保として株、土地、あらゆる資産を奪い取るのです。昔からやっていることは同じです。
いい加減気付いたらどうかと思うのですが、今だに引っ掛かっている人がいます。

その当時の日銀総裁であった澄田智(すみださとし)と言う方をご存じでしょうか。日銀退官後は日本ユニセフ協会の会長などをやっていた方です。

澄田さんがバブル潰しの張本人と言われています。
プラザ合意以降、5%だった金利を2.5%に下げ、銀行は貸して貸して貸しまくった。その当時は、黙ってても銀行が頭を下げて貸しに来たという話は誰でも覚えているはずです。そういうジャブジャブ溢れた資金が株や不動産に流れ込んだ。借金しても金利は安いし土地や株を買えば値上がりするしで猛烈なバブルが起きたのですた。

そしてバブルが膨らみきったころ合いを図って、澄田さんはいきなり公定歩合を8%、長期金利は 10%まで引き揚げた。蛇口を閉めたのですた。借金すると金利が高い。値下がりリスクのある株や不動産よりも安全な銀行預金の方が良いということで投資家は一斉に株と不動産から資金を引き上げた。土地や株は一気に値下がり=バブル崩壊と言われています。

バカスカ金を貸し出して狂乱状態を作ってからブルを破裂させる。
その後には膨大な焼け野原、不良債権の山だけが残る。
それを二束三文で奴らが買い叩く。
昔からの手口。ばればれの三文シナリオだったのですた。

さて、それにしても、そのバブル潰しの張本人澄田さんはどのような経歴の持ち主だったのでしょうか。
澄田さんと言えばフランスに留学した留学組で、その後ベルギー大使館、フランス大使館の一等書記官からキャリアをスタートしたエリート官僚ですた。
そしてその後は、順調に大蔵省で出世して日銀総裁になっています。
澄田さんとフランス財界のつながりはお父様の代から囁かれていますた。


澄田智さんは、日銀総裁を辞めた後、ロス茶イルドフランスの旗艦、投資銀行ラザール・不レールに最高顧問として天下りしています。
ちっとはカモフラージュでもして隠せと思うのですが、親子二代に渡って奴らの充実な部下だったという、そのまんまの経歴の持ち主ですた。
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/


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誰が法律を作ろうが関係ない 2009/10/12


さて、奴らは言います。
「我に通貨発行権を与えよ。そうすれば誰が法律を作ろうが関係ない」

日銀が奴らの出先機関だと書いたら反論がありますた。
日本銀行の株の55%は財務省が保有しているから日銀は日本政府の持ち物であって、奴らの手先とは言えないでしょうというご指摘ですた。
確かにまぁ法律上の話はそういう話になります。
しかし、いろいろと歴史を見れば、そんなものは単なるカモフラージュの理屈付けなのが分かると言うものです。

その昔、日本は国民総ででバブルに踊った時代がありますたね。
バブルを起こして潰す。奴らの詐欺手口の最たるものですた。
バブルがはじけて今では失われた10年と言われていますが、今だに日本経済はその後遺症を引きずっています。自殺者はバブル崩壊から毎年3万人。今だにその数は変わっていません。

その手口を見れば分かるのですがいつもワンパターンです。
最初は甘い話でカモを釣る。こうやれば儲かりますよ。おいしい話でカモを誘います。
そしてころ合いを見計らって真っ逆さまに突き落とす。詐欺師の典型的なパターンです。

最初に奴らはバカスカ札束を刷って、バブルを引き起こす。銀行は貸して貸して貸しまくる。株に投資すれば儲かるよ。土地を買えば儲かるよ。そしてカモが罠にかかったころ合いで急に蛇口を閉める。貸し渋りをやるわけです。
これをやられたら投資家はいきなり資金難に陥ります。そして、資金難に陥ったカモ達から担保として株、土地、あらゆる資産を奪い取るのです。昔からやっていることは同じです。
いい加減気付いたらどうかと思うのですが、今だに引っ掛かっている人がいます。

その当時の日銀総裁であった澄田智(すみださとし)と言う方をご存じでしょうか。日銀退官後は日本ユニセフ協会の会長などをやっていた方です。

澄田さんがバブル潰しの張本人と言われています。
プラザ合意以降、5%だった金利を2.5%に下げ、銀行は貸して貸して貸しまくった。その当時は、黙ってても銀行が頭を下げて貸しに来たという話は誰でも覚えているはずです。そういうジャブジャブ溢れた資金が株や不動産に流れ込んだ。借金しても金利は安いし土地や株を買えば値上がりするしで猛烈なバブルが起きたのですた。

そしてバブルが膨らみきったころ合いを図って、澄田さんはいきなり公定歩合を8%、長期金利は 10%まで引き揚げた。蛇口を閉めたのですた。借金すると金利が高い。値下がりリスクのある株や不動産よりも安全な銀行預金の方が良いということで投資家は一斉に株と不動産から資金を引き上げた。土地や株は一気に値下がり=バブル崩壊と言われています。

バカスカ金を貸し出して狂乱状態を作ってからブルを破裂させる。
その後には膨大な焼け野原、不良債権の山だけが残る。
それを二束三文で奴らが買い叩く。
昔からの手口。ばればれの三文シナリオだったのですた。

さて、それにしても、そのバブル潰しの張本人澄田さんはどのような経歴の持ち主だったのでしょうか。
澄田さんと言えばフランスに留学した留学組で、その後ベルギー大使館、フランス大使館の一等書記官からキャリアをスタートしたエリート官僚ですた。
そしてその後は、順調に大蔵省で出世して日銀総裁になっています。
澄田さんとフランス財界のつながりはお父様の代から囁かれていますた。

澄田さんのお父さんは何をやっていた人でしょうか。

澄田ライ四郎という方です。

第二次世界大戦中、満州の軍司令官ですた。
実はお父さん、ライ四郎さんの代から澄田さんはフランスとべったりな関係ですた。ライ四郎さんも元はフランス陸軍大学で学びんだフランス駐在武官だったのですた。その後、日本陸軍で出世して満州での軍司令官になったのですた。

『蟻の兵隊』という映画をご存じでしょうか。

『蟻の兵隊』
監督:池谷 薫 主演:奥村和一
2005年|日本|カラー|35mm|1時間41分|ヴィスタ|製作・配給 蓮ユニバース 
第2次世界大戦後も中国に残留し、中国内戦を戦った2600人もの日本軍部隊があった。
世界で初めて"日本軍山西省残留問題"に正面から切り込んだドキュメンタリー。
https://www.youtube.com/watch?v=wH92AduwJcU


この映画は、満州で戦っていた大勢の日本兵が置き去りにされた悲劇を描いたものですた。日本兵を大勢、満州に置き去りにして一人ライ四郎は日本に逃げ帰った。残された日本兵の多くが死んだ。北斗の拳のケンシロウさんも真っ青の大量虐殺拳の使い手、それがライ四郎さんですた。

実はライ四郎さんは、戦争前からすでにフランスロス茶イルドキチガイ男爵さんの手下だったのですた。戦後は戦争犯罪人として裁かれると思いきやGHQは無罪放免。
満州の軍司令だった人間です。普通は絞首刑でしょう。

誰でも知っていることですが、日本はその当時、中国で麻薬を売っていますた。
その麻薬、アヘンの生産地は東南アジア地方のフランス領の国ベトナム、ラオス、カンボジア。
もちろんフランス領ですた。

フランス領、東南アジアでアヘンを栽培し、中国で売っていた。
麻薬の生産、管理していたのはフランスの軍産企業ドレフェ須、今は穀物商社としての方が有名でしょうか。ADM(アーチャド駄ニエルミッドランド)=ドレフェ須です。
もちろんカーギルとならぶロス茶イルドキチガイ男爵の巨大穀物商社です。
ドレフェ須から仕入れて、中国で売りさばく。
その利益たるや膨大なものですた。

何度も書いているのですが、戦争というのは兵器産業と、麻薬産業のヤラセ金儲け祭りです。
澄田ライ四郎は、ロス茶イルドキチガイ男爵の手下。
ドレフェ須社の社員。
日本兵なんて置き去りにしようがなんだろうが、会社に忠誠を誓っていたのですから、そんなものは関係なかったのですた。

そして、ライ四郎さんの息子も立派にロス茶イルドさんの命令を実行しバブルを弾けさせた。
焼け野原に残された大量の日本人は死んでいった。ロス茶イルドキチガイ男爵の忠実な部下なのだから、日本人が凍死家になって死んでいこうがなんだろうが関係ないのですた。
満州に日本兵を置き去りにして大量に凍死させたお父上と奇しくもやっていることは同じだったのですた。

息子の澄田智さんは、日銀総裁を辞めた後、ロス茶イルドフランスの旗艦、投資銀行ラザール・不レールに最高顧問として天下りしています。
ちっとはカモフラージュでもして隠せと思うのですが、親子二代に渡って奴らの充実な部下だったという、そのまんまの経歴の持ち主ですた。

誰でも調べれば分かることです。
この地球は、キチガイが支配している。
法律などあってないようなものなのです。
法律など誰が作ろうが関係ない。

まぁ、まぁワタスのようなふんどし姿のキチガイが言っていることです。
こんな話を聞いても半信半疑なことでしょう。
皆様どうぞご自分でお調べになって下さい。
http://www.golden-kintama.com/?date=20091012&page=0

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c3

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
4. 中川隆[-13376] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:00:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1528]

右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた


2018年3月31日
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/


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2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)


アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

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英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

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(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。


背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html

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60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2

アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3

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ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html


アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。

 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c4

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
5. 中川隆[-13375] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:05:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1529]

白人崇拝がタイ人を猿にした


タイ人女性は白人の奴隷女であることが嬉しい


仏教や王室に対する侮辱にヒステリックに反応して見せるタイ人だが、自国の娘たちが白人の女奴隷として扱われることには何の抵抗も感じない。

現にまったく抗議しないのだ。 嫌だという意思表示も一切しない。

タイ人は白人には一切文句を言わない。

彼らは白人からはどんな扱いを受けても平気なのである。

タイ人自身、どうせ自分たちは「猿」だと思っているからである。

それが猿の猿たるゆえんでもある。

そして、白人の前で他の有色人種がタイ人より勝って評価されないようにその足を引っ張ることにのみ専念する。


「日本人もヨーロッパに行くときには往復航空券が要るよね」

「日本人の女の子もファランが好きだよね」

タイ人が日本人に対する決め手として出してくるのはだいたいこんなとこである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/08/post_eecb.html


「猿」とは、白人が有色人種を見る歴史的な見方を、まずもって見られる側として次にはあくまでそれに従属する形で見る側として、内面化してしまった者のことである。

(したがって、日本の「過去の歴史」と「猿」性とは関係がない)。

白人との関係で、

有色人種の世界で他の有色人種に比べて上位の者とされたい、

白人に愛されたい、

白人が有色人種支配のために課したシステムの優等生になりたい、

という動機が内面に刷り込まれて本能のようになっている者のこと。


「金髪碧眼」に言われることにはおとなしく従う気分になるということだろうか。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/cat6237979/index.html

タイでは都会はもとよりよほどの田舎町でも、ごろつき白人が奴隷女を囲って貴族滞在している風景を普通に見ます。

そういう「白人のいる風景」を毎日見ていて平気でいられる、それが普通なのだと思っている、というのがタイ人です。

これほど白人を受け入れている国民はアジアでも他にはあまりないと思います。

自国民の女をクズ白人爺が奴隷女のように囲って自分の町や村に滞在している、そんな「白人のいる風景」をタイでは普通に自分の生活空間の中で、屋台でも喫茶店でもモールでも、毎日のように目にしなければならない。

つまり、ごろつき白人はタイ人の生活の一部になっているわけです。

これがもしネパールだったら、と考えてみると、カトマンドゥのタメル地区(ツーリスト地区)では猿女連れ毛唐をたまに見ますが、女奴隷連れで旅行している白人で、女はネパールで調達したのではなくタイなど外国から連れてきたのが多いように見える。
ネパールでは契約売春婦の調達は簡単ではないようです。

ネパールの田舎町だったら、仮にその毛唐が囲っているのが自分とは無縁のカーストの女であったとしてもネパール人は黙ってはいないと思います。
 
ヨーロッパ人はタイのバービア嬢やゴーゴー嬢と安易に結婚して(短期間=結局破綻するので)本国に連れ帰る例が多いようですね。

白人ツーリズム=買春拠点であるチェンマイではそんな話をよく聞きました。

ヨーロッパで暮らしたことがあるというのを自慢にしている売春婦(自称「ガールフレンド」、「支払われるガールフレンド」を稼業にしている女)のも少なくないような。

そんなタイ女がヨーロッパにいっぱい住んでいるのだから、タイ人の場合、先進国で差別されて当然というほかないような気がします。

ごろつき白人がタイでだらだら暮らすために売春婦と結婚して本国にも連れて行くという例も非常に多いのですが(係累のない孤児のような女を必死で探すのだとか=それは納得ですが)、堅いイギリス人などで育ちの良いのがちょっとタイに来て売春婦につかまってしまう例も少なくないと聞きました。

タイに来ただけで「アジア」がわかってしまったと思い込むタイプの白人が多いようです。

まじめなヨーロッパ人男が初めてのアジア旅行でタイに来て、自分が教えられてきたヨーロッパの価値観や美意識とはまったく違うものがまかり通っていて、しかもそれで結構楽しい思いができたことにショックを受け、

「これだ!これでいいんだ!これがアジアなんだ!」

とか思い込み、売春婦と本気で結婚してしまうこともあるのではないかと思います。

実際、人身売買、児童売買、海外移送の手先として国際的に活躍しているタイ女が非常に多いので、タイ女が国際社会で胡散臭い目で見られるのはむしろ当然でしょう。それはタイが国策として長年やってきたことの当然の結果です。

タイの「ガールフレンド産業」のせいでタイ人以外のアジア女性全体が「ガールフレンド」や「レディー」のような目で見られている面が相当あるのだから、タイ人が差別されるのは自業自得というほかありません。

私は日本の入管もタイ女だけは極力入れないようにすべきだと思います。フィリピン女よりたちが悪い。彼女らが売春するだけならまだしも、そのかげではるかに弱い立場にいる少数民族などの少女が売買され搾取されている可能性が非常に高い。

白人の児童性的虐待のカバーとして、児童の母親役のタイ女と偽装カップルになるというのはタイではごくありふれたことです。

(児童とも母親役の女とも・・・ということがあるかどうかまではわかりません。これでは偽装親子○ですね)。

これだと目立ちにくいので、それによってタイが「児童買春支援国家」として国際的非難を浴びることもないから、タイ国内では白人がやってる分にはほぼ野放しのようですね。

しかし(どうでもいいことですが)こういう悪い遊びをするにはある程度ネットワークが必要です。

児童の調達はもとより、母親役の女の調達など、現地人の支援と白人同士の助け合いが必要になります。

日本人買春オヤジはこういう組織性が必要な遊びは苦手なように見えます。

たしかに、白人同士はアジアでよく助け合っているように見える。

「野蛮人の地では助け合う」というのは、数百年にわたる経験で白人が得た知恵かもしれません。

在外日本人たちのようにいつも互いに足を引っ張り合っているよりは麗しいことかもしれません。
 http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-174.html


52 : [sage]:03/06/10 01:24 ID:KpHVIBQs

白人コンプレックスのタイ人女性をFBIが分析した


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    |:::::| ∴∴  -二二二二- ∴∴ |:::::::|  < 白人男は私の物
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顔・目は細く、小さい。目頭が無く、寄り目。眉毛が無い。鼻は低く穴は丸く、鼻筋が無い。

出っ歯。のっぺり顔。口は開きっぱなし。夢見る表情。

身体的特徴・チビ、弛んだ身体。首が短く、短足O脚。大顔。貧乳。 貧尻で垂尻。ぶ厚い前髪。

趣味・欧米の映画や音楽、白人スターの追っかけ、白人男性を見る。

好きな映画・ハリポタ、ロードオブザリングなど。ファンタジーや、中世映画で白人美男が出てくる作品。

目的・美形白人の恋人を作る。

性格・内弁慶。白人的外見の黄色人女性に嫉妬。親に八つ当たり。自虐的。
僻みっぽく、被害妄想。執着型。強迫神経症的。 誇大妄想。ナルシスト。

白人男性のこととなると急に自棄になり、白人男性と一緒にいるタイ人女性を見ると酷く嫉妬し、悪口を言いストーキング。

特徴・白人男性にしか興味が無く、有色男性を無視。色白で金髪青目の王子様ルックスや貴族を好む。

有色混血白人男性には興味無し。

完璧な白人男性を手に入れられず苦しむ。

自身を白人と同等に考えているため、白人とは別物だという事を理解しない。

自身を黄色人だと思わない。

白人男性からのナンパを期待しウロウロ。

白人男性とは下手糞な英語で皆に聞こえるよう大声で話す。

心の中で黄色人差別。英語が上手いふり。

欧米留学は白人男性が目的だから語学は上達せず大金を払った親が苦労。

欧米旅行も運命的な出会いを期待して。欧米人の集まる場所も同。 

291 :名無しさん:2006/10/19(木) 16:49:52 ID:G0tVeQpI
タイ人の心の中

「日本? あー戦争に負けたアメリカの植民地ね。
独立してる我が国とは格が違うわ。
あっスティーブンから電話だわ、着替えなくちゃ」


304 :権:2007/04/04(水) 20:26:51 ID:4BjjlJOw
それにしてもパタヤの女は完全ファラン漬けだ。

ファランの後ろを歩いていると実感するね。

「セクシーメーン!ウェカ〜ム!」 

そのあとを歩く俺には顔を伏せて一斉無言を決め込む。 
 全く自身喪失になるよ。
日本でこんな屈辱知らないからね。

62 :名無し:03/09/10 18:09 ID:MH6fliqX
本国に帰ったら、永久に窓拭きやっているようなヤツにペコペコ頭さげてるタイ人を見ると哀れだよね。


413 :mm:2007/04/11(水) 00:09:41 ID:yti/C4HH

タイ人女は白人男とセックスの相性がいいからだよ。

白人がセックスするときの声とか聞いたことあるか?
ポルノ顔負け、というかポルノは演技じゃない。

実に卑猥な動物的な声でヒヒヒヒヒイエースイエースハーハーハーオーオーオー
って感じ。

それに対してタイ女が反応する。

オホーイオーイオホーイってね。これもまた実に動物的。

動物同士のセックスがうまくいくからなんだよ。

タイの女で日本女みたいに高周波な?ひーひーってあえぎ声出せる
やついるの?


182 :G[sage]:2006/08/29(火) 09:25:50 ID:gls40XbM
タイの若い女は全員売春婦になっちゃったからな
女子大生の憧れがGOGOで踊る事らしいorz


118 : :2005/04/06(水) 10:20:28 ID:VYJCzbfq
タイだけじゃねーよ。ぴーなもジャパニーズも台湾人もチョンも女は同じ。
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237


▲△▽▼


先進国にはたいてい「ミスコン批判」という運動があり、いろいろな理由で美人コンテストを激しく非難する人たちがいるものです。

そのせいかどうかは分かりませんが、日本では美人コンテストを敢行する人々はあらかじめいろいろな言いわけを用意しなければなりません。

曰く、容姿だけでなく知性や教養も審査するだの、人間性を総合的に審査するだの・・・言えば言うほど滑稽になる理屈を用意し、何かしゃべらせたり、受け答えを見たりしたりするようです。

しかし世界にはそのような心配から一切自由な国もあります。そんな国の代表格の一つがタイです。タイでは、美貌こそ善であり正義である、という大原則が社会を貫いています。ミスコン批判など出る幕はないようです。

先日タイで行われた美人コンテストでは、母国語すらロクに話せない、オーストラリア白人との混血の女性がトップに立ち、ミスタイランドに選ばれました。

結局、タイ語ができないからミスタイランドとしての仕事が果たせないという分かりやすい理由で、賢明にも本人がトップの座を辞退しました。しかし、その人を選んだ人たちが何を考えていたのかは謎です。あとさきも考えず混血美人に飛びついたのでしょうか。

タイ人の「美」の基準はわれわれのものとはすこし異なると思われます。
まず、肌の色が白ければ白いほど美しい。何はさておき肌が白くなければダメ。肌さえ十分白ければ何とかなる。色黒は問題外です。

日本人から見れば色黒な人が多い国なので、これほどまでに色白に憧れる姿はいささか憐れを催します。しかし、上流階級のタイ人には華人系の肌の白い人も多いので、色白はわれわれが想像する以上に切実で具体的な憧れなのかもしれません。

褐色の肌を美の基準にすればもっと多くの人が幸せになれると思うのですが、彼らにその気はまったくないようです。タイ人が最も嫌うものが「平等」です。

ともあれ、ちょっと余裕のある人は異様な情熱で美白に励んでいるようですが、美白といっても、日本ではやっているようなシミそばかすやクスミを防ぐ美白ではなく透明感うんぬんでもなさそうです。そんなことより、なんでもいいからとにかくすこしでも肌を白く見せたい。できれば白人のように、それが無理なら中国人のように白く見せたいというダイレクトな白い肌への憧憬のようです。つまり、われわれから見れば「タイ人らしくなく」見せるためです。

タイ人にとって美はたんなる僥倖ではなく、むしろ倫理規範であり正義です。

つまり「美」を求めるのはタイ国民の義務であり、そのことに躊躇や恥じらいはまったくないようです。

そんなことから、大部分のタイ人とは似ても似つかない白人との混血女性を、タイを代表する「ミスタイランド」にしたてあげるのも平気だったのかもしれません。

美が正義である以上、美が要求されるのは男性も同じことで、その基準も同じ。

色白=ハンサム=金持ち=正義の人、ということになります。

色黒の人は、外で働かなければならない人=貧乏人とみなされます。

タイでは貧しさは悪です。

貧乏人や「弱者」は人間とはみなされません。

すこしカネのある人は下女に働かせて自分は日焼けしないように昼間から日陰でごろごろというのがよくあるタイ人の姿です。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-category-7.html


タイの男が最も気にするのが女性の肌の色


白ければ白いほど美しいと同義語になる。

タイ人は元々浅黒い肌(蜜色)なので、色白であることは美人の絶対条件の一つ。
浅黒い肌は最も蔑まれる。

華人との混血の人、北部出身の人、東北のイサーン人でもほとんどラオスとの国境にいる人々などは色白が多い。

外で力仕事をしている下層階級の人々は日照時間が長いから色白になりえない、家の中にいて優雅な暮らしをしている人々は色白だと固く信じられているのか、肌の色は社会階層まで表す。

それだけに色白の娘というのはタイ男が最も憧れる女の条件の一つになっている。

“ピユ・ダーム”と言えば「肌が黒い」という意味になるが、タイ語の「黒い」という言葉は何かしら蔑みの気持ちも含まれている。
http://hage.momo-club.com/news/mp-ura3.html

タイでテレビに出るような「美人」(とされる人)たちの大部分は、白人との混血。ただし日本のテレビに出る白人混血とはかなり違う顔立ちである。

タイの環境からして必然的に、ほとんどが契約売春婦の子か売春契約的婚姻関係で生まれた人たちと言うことになる。

背が低すぎたり顔が醜すぎたりして本国では女に相手にされない白人男性たちが、タイの女紹介エージェントに殺到している。

以前白人のサイトを見ていたら、「タイ人はもう大部分が白人との混血だから安心しろ」なんて書き込みもあった。

アジア全体が中南米のようになってしまうのが白人にとって一番都合が良い。
それが白人にとって最高のアジア戦略だということもこれまで書いてきたとおり。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2008/04/post_6ce7.html


数年前に私が飛行機内で隣り合わせた一人旅の日本人の女の子は、タイの入管役人に「お前はタイ人の癖になんで日本のパスポートを持っているんだ」と詰め寄られたと語っていた。

その理由はどうやら、彼女が小柄で「猿顔」だったからのようである。

それだけでなかなか通してもらえなかったそうである。

この一件で彼女はひどく傷ついたらしく、「タイの差別はひどい」「タイ人は人種差別主義者」としきりに訴えていた。

当時の私はまだタイに行ったこともなかったし、タイのことは何も知らなかった。

ご多分に漏れず、「仏教国で親日的な『微笑みの国』なのではないか」という、よくある幻想を抱いていたので、彼女の言っていることの意味がピンとこなかった(あとあとになってタップリと知らされることになる)。

この事例からも窺えるように、タイはまず「容姿」による差別を合理化し、制度化さえしている。

タイ人にとって「容姿」はIDカードに準ずるか、時にはそれにまさるものであり、法的資格でさえある。

その土台にあるタイの階級社会における生殖によって、「猿」顔は再生産されるとともに、「土人」搾取のシステムもまた再生産される。

白人がレンタルワイフにどんどん生ませている混血児が(時にマスメディアのセレブリティを獲得したりもして)事態を多少複雑にさせているかもしれないが、これが却って「土人」搾取の現実を対外的に曖昧化し、「タイ式社会」への「国際的」(=白人世界の)認知あるいは黙認を導き入れているのである。

タイ人は、「タイには(卑しい)土人がいる」ことを抵抗なく受け容れる。

タイ族は、彼ら(色黒の人、モン系、クメール系、山岳少数民族、マレー系等)を、外国人の前でも公然と侮蔑する発言をしてみせる。

ところが現実は、このようにタイ人自身が「タイに土人がいる」ということを受け容れていることによって、タイ人全体が「土人性」を帯びることになるのである。

このことこそ、タイがどこまでいっても土人国家、土人売春国家(土人性奴隷国家)であり続けるゆえんである。

なぜなら、タイ人自身による「土人蔑視」は、客観的にはタイ人(タイ国民)としての自己卑下でしかなく、タイの「土人国家」性にかんする自己規定にほかならないからである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/07/post_3d74.html

強きものを強きがゆえに尊敬し、嬉々としてこれにへつらい、弱きものを弱きがゆえにおとしめ、ないがしろにし、踏みつけにする。

これがタイ精神であり、タイの思想であり文化であり美意識なのである。

白人の植民地になると白人崇拝になる、というのであれば、400年も白人に支配されていたインドネシアはよっぽど白人崇拝の国になっていなければならないはずだが、実際はそうではない。

誰が見たってインドネシアよりタイのほうがはるかに白人崇拝主義者のスクツである。

ただ、フィリピンや中南米のように混血が進んでしまうとなかなか誇りの回復は難しくなるようである。しかも、発端が「女奴隷」や「レイプ」のようなものであることは明らかなので、白人との混血系は白人と対等の立場を持つことは無理である。

タイもベトナム戦争以後今日に至るまでどんどん白人との混血が進んでいる。

ほとんどが売春婦やレンタルワイフや、白人が遊びで「結婚」した事実上のレンタルワイフの子である。
 http://ibrahim.blog49.fc2.com/?mode=m&no=126


179 :名無しさん:2008/08/14(木) 10:59:59 ID:7RddDhgX

タイは白人マンセーの国なので黒人はもてません。
黒人差別はアメリカよりひどいかもしれない。


180 :名無しさん:2008/08/14(木) 11:01:30 ID:A4vKdFxZ
一時期服の仕入れのメッカになって黒人が押し寄せてたけど、 宿はあからさまに嫌がってたなあ


184 :名無しさん:2008/08/14(木) 22:06:06 ID:3aWIcBuT
タイのCM観りゃ白人や色白ハーフばかりだろ
タイ人は色白ハンサムなファランが大好きなんだよ
逆に自分よりも色黒の黒人なんかは見下してるのが現実


188 :名無しさん:2008/08/15(金) 22:31:33 ID:rEbk8CMW
大体よ、白い肌が上位なら
黒い肌のタイ人は醜いってことになるじゃん。


189 :名無しさん:2008/08/15(金) 22:37:37 ID:xnOEZCFS
>>188
そうだよ
タイ人の中でもそうなってる
南方系の黒い人たちより北方系のが美人とされてる
白人や日本人(白いとされてる)と結婚したがるのは白い血をいれたいため


190 :名無しさん:2008/08/16(土) 03:54:52 ID:IksD8qsA
>>188
そうなんだよね。
タイ社会の中でも色の白いのが優位に扱われているし、色黒の人達は
コンプレックスを持っている。
>>184>>189の言うとおりなのが現実だよ。

実際、色白華僑系のムエタイ選手なんてほとんどいないだろ?
あんなのは低階級のやることだって言うのがタイ人の認識。
いろんな意味でタイは人種差別があるのが本当。


209 :名無しさん:2008/09/01(月) 19:45:32 ID:DWVoKR3B
白人を優遇してるのは白人との混血を増やして人種を白人に近づけようとしてるのかもしれん。
肌が白いほど良いとしてるのも国策なんじゃないか。


210 :名無しさん:2008/09/02(火) 10:36:32 ID:DtuBEVFN
混血増やそうたって、白人女性はタイ人を全く相手にしてないんだけど。
俺、白人と結婚したタイ人男性を一人も見たこと無い。
負け犬白人にはらまされたパン助は多いが。


337 :名無しさん:2009/10/27(火) 06:07:17 ID:MSkrVtb4
金持ちタイ人って他のアジア人(日本人含む)を見下す人が多い気がする。
タイの中で金持ちっていっても日本人からしてみれば普通レベル。
まぁまれに桁違いの金持ちがいるけど。
日本人が住むごく普通のコンドミニアムにそういうのが多いな。

アジア人には無愛想、白人には親切、ってね。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/world/1193226362/l50

59 : :03/08/06 00:12 ID:qux8372O
タイ人の場合、白人コンプレックスというより「肌白」 に対する崇拝のほうが激しい気がする


514 :soi57:2008/04/05(土) 20:18:52 ID:hgaEKE71
タイのTVとかも酷いよね
「色白でないと女じゃない!」みたいなCFとか平気で流してるし
タイの会社案内とか見ても、必ず登場するのは白人ビジネスマン
アメリカでこんな事したら、間違いなく黒人連中からクレームだよw


66 :☆:03/09/12 22:14 ID:SWf4IJqN
タイでは色黒は嫌われる。
よってタイ在住のインド人は好かれない。
勿論、黒人はアメリカ人でもモテない。
しかし母親がタイ人のタイガー・ウッズは例外。
白人は基本的にモテるが、タイの観光業者はイスラエル人やユダヤ系の人は大嫌い。
(とにかくドケチなくせに、 気難しく口うるさいから)


90 :☆:04/09/23 18:39:28 ID:iBNubaf+
タイ人は色白になりたがる
小麦色に焼きたがる日本人が理解できないらしい

113 :タイ焼き:2005/04/05(火) 03:12:08 ID:xbhNBPtZ
タイのポップス歌手はやたら混血が多い、白人顔が好まれる、
アジアで唯一植民地にならなかったのに、多のアジアの国より白人に憧れ度が高い。
ベトナムみたいに白人国家と戦争して勝った経験がないし 白人支配の経験が無いのが、白人に媚る原因か?

タイガーウッズもゴルフしてなかったら有色カテゴリだろな。
多の元植民地国家の対白人意識とタイの意識は違いを感じる。


114 : [sage]:2005/04/05(火) 04:10:26 ID:5U7GCaNQ
単純に白人のほうが見栄えがするからだと思うが?


88 : [sage]:04/09/07 23:25 ID:FVFrndTt
白人女性はアジア女性よりはるかに美しいと思う。 
ヤローについては何人でも何とも思わない。


102 :     :04/12/09 13:54:44 ID:XR/sZIYq
白人女性、綺麗だよね。若いうちは。


103 :XXXX     :04/12/10 00:01:56 ID:+0moPS9B
バッグパッカーでも何でも良いがタイで見かける白人女性の中には Miss World Class が随分といるよね。


78 :名無しさん@お腹いっぱい[sage]:04/07/07 15:14 ID:lsSuGp52
なんか、このスレの白人コンプレックスな奴キモイ。
白人の容姿が優れているとか思うのは、六本木とかテレビとかでみてる白人がそうだからだろ。
六本木にいる奴とかテレビに出てる奴は、モデルやモデル崩れなんだよ。
一般人の白人はそうでもないよ。とくにアメリカ人は野暮で下品だ。


194 :うむ :2006/09/02(土) 09:43:07 ID:DJuY2RVD
タイ国人は誇り高き民族 
経済発展で収入が底上げされれば地位が上がったように勘違いする。
特にバンコクのサラリーマン層は勘違いは甚だしい。
外国に言って自分の地位を再確認するべし(どうせ出国できないが)

周辺の国境を接している国やタイ族のいる外国では自分達が一番という態度をとる。
理由は建国から現在までの持続している歴史がありかつ現在の経済状況がいいから。

ミャンマーや西双版納、カンボジアでの彼らの振る舞いは「横柄、威張り」そのもの
もし日本人が中国、朝鮮等でそんなことをしたら絶対ボコられる。

国内でのマイノリティーに対する差別もあからさま。階層の順はこう考えているらしい

1位タイ人(中華系含む)、
2位イサーン人、
3位ベトナム人、
4位カンボジア人
5位イスラム教徒、
6位ミャンマー、インド、
最下位山岳民族(アカ族等)

※イスラム教徒は以前底辺扱いだったが南部爆弾テロの成果で少しは
地位が向上した様子。アカ族も一揆を起こせば少しは状況が変わるかも
しれない。

タイ人の人をモロに馬鹿にする場面もよく見たな

とあるホテルのロビーでなかなか来ない予約したタクシーを待っていると
レセプションの女どもがインド系の人達が流暢な英語で話しかけるとタイ語で何ですかとかよく理解できませんと言ってもろ嫌な顔をして文句ブツブツ言いながら不機嫌モロだしだった。

その後に白人が英語で話すとちゃんと英語で対応している場面あり。

ここで怒っちゃいけない。そういう文化というか風習の人達決して悪気はない (と思う)

多民族国家によくある差別は当たり前。

この差別にタイで抗議しているのは南部のマレー系の人達のみ。
北部少数民族や東北地方のラオ系は蜂起しないので彼らの扱いは醜い。

こうして考えればカースト制度というかアパルトヘイトみたいなのが自然に存在する

外国人旅行者もランク付けされているので ある意味白人以外はチップも必要ないし、外国人価格の適用を受けなくてもいいと思われる。

しかしこのあたりはタイらしく、金に関しては地位に関係なく持っている人は還元せよ的な自分本位な考えがある。

タイ人との結婚を考えている方 基本的に日本人とこのあたりの感覚が違うのは念頭においておいた方がいい。

530 :通りすがり:2008/11/12(水) 22:15:59 ID:vJiUbpJf
タイ人の人種差別は凄いぞ

山岳民族、ラオス、イサーン人は公然と差別して構わない雰囲気がある
それに比べ欧米人にはバカみたいに媚びる
奴隷ほど醜い人種差別を行うってことか
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237

499 :オー様と名無し:2010/07/15(木) 03:52:54 ID:xpca9PFw0
タイの現在の法制度ではタイ人と山岳民族(タイヤイも含む?)は日本の戸籍制度にあたる住民登録が違っているのですが、

純粋のタイ人は黒のタビアンバーンで、
山岳民族等はタイに住んでいても外国人を意味する黄色のタビアンバーンを与えられています。


524 :オー様と名無し:2010/07/16(金) 01:46:30 ID:8pGGVD4U0
チェンマイでもどこでも良いけれど役所の窓口で1時間くらい観察してみてください。
黒(濃紺ですか)と黄色の扱いの違いがはっきりわかるから。

黄色ホルダーの相手には役人はほとんど命令口調。
書類不備なのかどうか罵声を浴びせられてる場面もありました。

しかもまわりのタイ人はそれを見て笑ってました。
田舎へ行くほどその傾向は強いようです。
そういう社会なんですわ。

まあ外国人の黄色タビアンにはそういう扱いは無いようですけど。

528 :オー様と名無し:2010/07/16(金) 09:11:52 ID:11VZTIw60
タイ人の人種差別意識には、ほんとにウンザリさせられる。

まず初めに気づいたのは、イサーン人への差別、俺がモーラムやルークトーン
が好きだと言ったら、赤貧農家の小作人にさえ馬鹿にされた。

次に気がついたのはインド人や黒人等、白人以外への差別。

また、隣国(ラオス、ミヤンマー、カンボジア人)への差別意識も物凄い。

最も酷いのが、山岳、少数民族への差別感、彼らは人間でなく家畜並みの存在だと思っている。

この鼻持ちならない差別意識に、今ではすっかりタイ人の性格がよく分かり
微笑みの裏にある、厭らしくて姑息で偏見だらけの国民であることが、最近よく分かった。

もうすぐ日本に帰るけど、もう沢山だよ、こんな国。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/3341/1275952742/

154 : [&]:2005/12/30(金) 02:11:29 ID:oFbK3j9h
タイ人ってのは、無学な国民が大多数なので見た目でしか人を判断できません。

見た目が金持ちなら、親切な態度をとってくれますが貧乏そうだと、自分よりも下のレッテルをはって見下した態度をとります。

ためしに、ヨレヨレのTシャツに短パン、不精ひげといういでたちで55やソイ7の円光バーに行ってみましたが、その時は見事に無視されました。

翌日アルマーニのYシャツ&ズボン、グッチの革靴で、こぎれいにしていくと、全然態度が違い、女が寄ってきてウザイほどでした。

男の店員もミスター扱いで、やれやれといったところです。
ホント、タイ人って馬鹿で、面白い国民です。


156 :THAI邦人:2006/01/13(金) 19:04:42 ID:OzVB37eF
タイ人は、貧乏人を最下級層と判断するDNAを持っている。(山岳民族等と同等)
よって、ミエ張りばかりで御座います。
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c5

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
6. 中川隆[-13374] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:08:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1530]

タイ:売春国家、お猿さんの国、白人と仏教とアレが好き、世界一の人種差別大国

タイ人女性 :金に困っている訳ではないのに上から下まで全員売春婦

凶暴で、浮気して〇〇〇を切られた男多数あり

白人 :タイ山岳民族の幼女と金を払って“自由恋愛”をするのが好き, 幼女でないと立たない

日本人 :鴨ネギちゃん, 生〇〇〇されるのが大好き, 若いタイ女性と結婚後 行方不明になる事多し


_______________


1.「猿」とは何か


タイ社会は、自己の中にある「土人」性を十分に自覚している。

「土人」を制度化し、「土人搾取」のシステムを内包しているのがタイの社会なのである。

これは「土人」とそうでない人がいるという意味ではない。

そうではなくて、上流色白タイ族であっても、自分自身も白人の前ではいつでも「土人」として最低に卑屈に振舞えるように、それ以上に、タイ社会の中の「弱い部分」を自分以下の「土人」として徹底的に卑下し搾取し、外国人に奴隷として容易に売り払える体制のことである。

この意味でタイこそはアジアの「土人売春国家体制」の大元であり震源地たる「便所国家」なのである。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-4.html


実に、猿ほど鈍感なものはない。

このことを見失うと痛い目にあうと思う。

そしてよく覚えておかなければならないことは、アジアの諸民族は、発展の過程で必ず反日になるということ。

彼らにとって「反日」はアジア新興国・準先進国の証である。

彼らがたとえムスリムであっても、彼らの社会観、他者観は相対的である。

彼らの風土に根ざした人間関係に唯一絶対の神が入り込むことは難しそうである。

つまり、より身近な者との間の比較と嫉妬とが彼らの燃料である。

理念で高みを目指すのではなく、情念で近くにいる者の足を引っ張ることのほうに、彼らのエネルギーは費やされるのである。

中国韓国が反日だ、だから東南アジアに目を向けてみた、という具合に、「仏教国」幻想でタイに投資し、タイ人の嫉妬反日と怠惰ぶりにうんざりして、今度はマレーシアに投資し、インドネシアに投資し、、、、というのはナイーブな日本人のやりそうな失敗ではないだろうか。

東南アジアの猿というのは、喩えて言えば、反抗期を経ていない子供のようなものである。

自我をもって親とぶつかったことのない子供にとって、親はひたすら怖い、絶対的な存在である。


この場合彼らの親は白人である。

あるいは、反抗期に自我を確立しきれずに引きこもり、家庭教師の先生だけをよりどころにしているような子供。

この家庭教師は親よりも学歴が高く、子供に適当におだてたことを言ってくれる。

耳に快い理念や人道に関する話も教えてくれる。

この子供はその家庭教師の話を暗誦し、彼の威を借りて親にたてつく。

家庭教師の入れ知恵を自分で考えたことのように親に向かって復唱し、兄弟の前でしゃべりたてて得意になる。


タイ人にしろマレー人にしろおそらくインドネシア人にしろ、およそ猿というのは成人ではないし、成人になる意思もない。

猿の神は「力」である。

彼らは自分が困ると努力をする前に大いに保護と援助を訴える。

おねだり、物乞いは猿の文化である。


が、彼らを援助してやろうと手を出す者は大きなリスクを覚悟しなければならない。

保護され援助されながらも、彼らは常に、保護者たちのなかで一番強いのは誰かを観察する。

一番強いものに取り入って、他の保護者の上に立てないまでも、それを見下す態度を取ろうとする。

そのようにして嫉妬と羨望の念を紛らわせることは猿にとってきわめて重要な生活条件なのである。

ここは見落としがちな重要なところである。日本人は嫉妬に関してきわめて淡白な国民であることを自覚したほうがいいと思う。

もし日本で、民族間の扱いの違いなどを、「平等原理に反する差別」という理念的な問題とするのではなく、その代わりに「嫉妬」という形で政治問題にするとしたら、左右を問わず、日本ではちょっと恥ずかしい沙汰だろう。

しかし彼ら猿の間ではそうではない。

猿の尊敬を獲得できるのは嫉妬の相対性を超えた圧倒的な力だけなのである。

そのような形で尊敬を獲得することを潔しとしないのなら、間違っても猿に何かを期待することのないように自らの心に命ずるしかないだろう。

だからわれわれは彼らに安易に援助を申し出てはいけない。共同事業も同じである。

「むかしどおりに白人の保護を受け入れたほうがいいのではないの?」


「白人のほうが偉いでしょ?

尊敬してるでしょ?

奴隷になるにしてもボスが白人のほうが威張れるでしょ?」


と粘り強く勧奨すべきなのである。


「白人に支配されていたことが不幸だったという実感がない、

日本の占領は許しがたいがそれまでずっと白人のご主人様の奴隷だったことはそう悪かったと思わない、

今ではむしろ誇りにさえ感じる」(マレー人)。


「アジア全体が白人の従属の下に置かれていても自分たちさえ自由でいい生活が出来ていれば何の問題も感じない、

一族の体面を保つためには隣国の土地を勝手に白人に割譲してもいいし、娘を女奴隷に売ってもいい」(タイ人)。


猿とはこういう連中なのである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/cat6237979/index.html

タイでは、全国土に渡って白人崇拝が「作法」ないし「制度」として定着している。

日本人の場合、白人崇拝の念を持っていたとしても、それをあからさまに表現するということは、普通の場所では少ない。

肉便器はいざ知らず、公共の場や接客の場面では少ないと思う。

日本人には「人種差別は良くないこと」という「タテマエ」がある。

したがって、あえて白人崇拝を表現することには躊躇と「うしろめたさ」がともなうのが普通だと思う。


ところが、タイ人の場合には、このような躊躇や「うしろろめたさ」は一切ない。

彼らは白人崇拝を公共の場所であからさまに表現することに何の恥らいもうしろめたさも感じない。

むしろ、自らの白人崇拝をあえてあからさまに表現することによって、白人客へのホスピタリティの表現としようとするのがタイ人である。

その表現方法には、「白人客を上げる」という以外に、その場にいる「有色人種をことさら下げる」という方法がある。

「差別の表現」によって一方を満足させるというのは、典型的なタイ的ホスピタリティの表現である。

つまり、タイには「人種差別はよくないこと」という思想が、「タテマエ」としてすら存在しないのである。


日本の銀行や旅行代理店の窓口で、アジア系外国人を受け付けているときに、白人客が入ってきたからといってアジア系外国人を押しやって公然と白人を先に受け付けるというようなことがありうるだろうか。

アジア系外国人が先に並んでいるところに後から来た白人の優先受付を認めるようなことがあるだろうか。

ありえないだろう。しかしタイではこれが普通なのである。

ホテルでもレストランでも、ちゃんとした身なりの有色人種外国人客にはむっつりと接客し、汚い半ズボン白人客には最高の笑顔で媚びへつらうというようなことが、日本にあるだろうか。

よっぽど特殊な場所でないかぎりないだろう。しかしタイではこれが基本なのである。

すなわち、日本に白人崇拝があるとしても、それはタイ人の白人崇拝とは量質ともに比較にならないものである。


かつて東南アジアで反日暴動が頻発したときの感情的な理由のひとつは、

「日本人は有色人種のクセに白人のような生活をしている」

というものだった。


言うまでもなくこれは、白人の作り上げた枠組にすっぽりはまりこんだ奴隷根性というほかない。

この考え方は、自分たちが白人より絶対的に「下」であるという前提をおいた上で、日本人を自分たちレベルに「引き下げ」たいという卑屈な感情である。

このような感情は、

「白人に支配されるのならまだしも日本人に支配されるのは我慢がならない」

という中国韓国の感情にも類似している。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/10/post_8b81.html

お猿さんの白人崇拝と人種差別


東南アジア土人は欧州でも人種差別接客=白人至上主義接客をする 


そう聞いていたが本当にそうのようである。

パリは白人も黒人も親切な人が多い。大都会の真ん中でも道など聞くと親切に教えてくれる。

英語を話す人も多く、英語を話したからといって嫌な顔をされたことはない。

しかし、東南アジア系だけは要注意である。

東南アジア系には嫌な思いをさせられる可能性が高いと思う。

東南アジア系がいる店は避けたほうがいい。

今朝、サンミシェル通りのソルボンヌの向かいにあるホテルTrianon(www.trianon-rive-gauche.com)で部屋を予約した。

200ユーロ以上する部屋しかなかったが、ほかが見当たらなかったので今夜のために予約した。

しかしそのときはまだ部屋が空いておらず、午後2時まで待てということだったので、荷物をストアに置いて街に出た。

予約の証拠として、クレジットカード番号も取られた。

ところが夕方戻ってみると部屋はまったく予約してない。

フロントの人間は変わっていて、東南アジア系の女が受け付けていた。

タイ人にほんの少し白人を混ぜたような顔立ちの色黒の女。

クレジットカード番号まで控えさせてストアに荷物も置いているのに、この女は予約はされていない、部屋はないと言い張る。

そして、案の定、後から来た白人客を優先的に受け付け、こちらの重要な話を聞こうとしない。

そして恩着せがましくそれなら部屋を用意してやるという。そしてまたすぐにカードを見せろという。

その態度があまりにも偉そうで、また白人客優先のやり方が露骨だったので、

「お宅はアジア系の客は歓迎していないのか」といってみた。

すると、とたんに開き直り、

「だったら泊まらなくていい。他に泊まれ」と言った。


まさにタイ土人女である。

もちろんこんなところに泊まらない。

3万円も出してこういう接客態度だ。しかも白人優先接客。

荷物を持ってTrianonを出て、明日の予約をしてある近くのCujasというホテルに行って聞いてみると、幸い今夜もダブルの部屋が空いていた。92ユーロだと言う。

欧州でも東南アジア系とくにタイ人のような連中が働いている店には行かないほうが無難だと思う。

率直に言って、彼らは色黒になるほど人種差別的になるとみていいと思う。

タイやマレーシアでも色黒土人のほうが実際に白人によく媚びるし性格も悪いものである。

ブダペストでの経験からいうと色白のベトナム人などはまだわりとマトモなようだ。

タイ人は白人かどうかでの対応の違いがまずあり

(白人優遇はタイの国是ともいえる確立したルールであり好き嫌いとは関係ない)、

次に「承認された権威」と「カネ」と「力」が基準になる。


タイ族はもともと中国から来た、というのはタイ人が好んで口にするフレーズである。

また、白人との関係で


タイ人のほうが日本人よりも白人に愛されている=タイ人のほうが日本人より上だ


という具合に序列をつけようとすることはすでに頻繁に見られること。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/journal/cat6339137/index.html

TG(タイ航空)のひどさについて


タイという国の白人崇拝および人種差別主義が、

「そういう人もいるしそうでない人もいる」というレベルの話ではなくて、

確立した「制度」であるということを手っとりばやく体験し観察してみたい人は、
TG(タイ航空)に乗って見るのが良いと思う。


「日本-バンコク」線は当然日本人を意識するので、「バンコク-カトマンドゥ」線とかがいいだろう。

最初は、エコノミークラスだから大バカなクルーが配置されているのかと思ったが、聞くところによるとビジネスクラスやファーストクラスの方がもっとひどいということである。

ホテルやレストランの接客の場合には、主観的なさまざまな要因

(つまり「あなたが身なりや態度のせいで個人的に差別されていただけですよ」という反論を導くような要因)が関与しないとはいえないが、

一列に座席が並んだ飛行機内ではより客観的な観察が可能になる。


つまり、他の人たちがどういうふうに接客されているか、クルーが客の人種によってどんなふうに態度を変えているかを、客観的に観察することができてしまう。

私が観察したところでは、意外なことに、女のクルーは(差別接客は)それほどでもなかった。

これは、白人バーの売春婦のように見られたくないということかもしれない。

しかし、「エイズ以前」、売春ツーリズムリゾートとして大いに売り出していた誉れ高きタイ王国においては、どんな女も売春婦とみなされがちなのは自業自得の結果である。

恨むなら自分の国とその国の全権を掌握する国王を恨むべきである。

これに対して、TGの男のクルーの醜態はこっけいを極めていた。

白人の周りをくるくると回っている茶色い猿というほかはない。

ビジネスクラスだとこれがもっとひどくなるというからたまらない。

念のためにもう一度いえば、私はここでは、自分がどう扱われたかという話をしているのではない。


飛行機だと他人のこともはっきり見えてしまう。

白人がちやほやされる一方、アジア人、有色人種が邪険にされたり冷笑されたりしている様子を見せつけられるのは、非白人としては不快である。

TGの男のキャビンクルーは、客の人種によって満面の笑みやむっつり顔、振舞い方までクルックルッと変換することができる。


あの反射神経の良さはやはり猿のものであろう。

飯の注文をとるとき、白人とアジア人乗客とが並んで座っている席では、必ず白人を先に、満面の笑みを浮かべほがらかに声をかけて注文を聞く。

次の瞬間には、さっとむすっとした表情に切り替え、アジア系客をろくに見もせずに

「わかってるだろ、早く言え」という感じでちょっと首を横に振って「催促」する。

エコノミーとはいえ、仮にそのアジア系が隣の白人の上司またはボスだったらどうするつもりだろうと思うが、タイではホテルやレストランなどでも白人とアジア人とが(男同士)一緒に入っていけば、アジア人のほうは完全にその白人の下僕扱いが普通である。

一度タイを白人の友達と旅行してみることをすすめる。

これが、タイの猿王の航空機、タイ王国のフラッグキャリアなのである。

人種差別接客はTGおよびタイ王国の「制度」なのである。

「猿王」といわれたくないならば、自分でクーデタを起こすというボス猿のような行為をつつしみ、猿の群れのような国を多少でも人間らしいものに変える努力をすべきである。


タイにおいては、高級なところに行けば行くほどますます、人種差別・白人崇拝がひどくなり露骨に表現される。

この点が他のアジア諸国の「白人崇拝」と趣を異にするところであると思う。

つまり、他のアジアの国々では、高級なところに行くほどバカは少なくなるのが普通である。

バカでなければ露骨な人種差別や白人崇拝を表に出したりしない(白人国は別である)。

なぜならこれらの国では白人崇拝は国の「制度」にはなっていないからである。

これに対して、タイ人にとっては、白人崇拝の強さはその場所の「高級」の証しであるらしい。

そして「差別」がひどいことは、その場所に「特別なもてなし」があることの徴のようである。

おそらくタイ人客たちは、自分が来た場所の白人崇拝のひどさを見て、自分も「高級」な場所に来れたことを喜ぶのであろう。

このようにタイにおいては、頂点に近づけば近づくほど白人崇拝がひどくなる。

その「頂点」こそが、クーデタの黒幕にしてクーデタ政治の守護者であるタイ国王・プミポンの宮廷にほかならないことは容易に了解せられるであろう。

タイの白人崇拝は、国王崇拝に次ぐ国家の「制度」であり、タイの「国体」の不可欠の要素だということである。

ほんの数百年前にインドシナに乱入した文盲の蛮族の野盗の子孫が猿王よろしく君臨し、その私兵として軍と警察を掌握し、白人崇拝主義を御誓文のごとく戴き、弱い者の娘たちを毛唐に貢いではシノギとする国、これがタイ王国。

軍事クーデタをおこしても白人からはほとんど批判されることのない、インドシナの「優等生」の猿王国である。

現に多くの白人がタイの各地に女を囲って定住しているという事実が、白人世論のタイへの矛先を鈍らせているということを忘れてはいけない。

このように多数の白人がタイ人と(肉体)関係を持ちながら各地に定住していることは白人世界にとって有利なネットワークである。

それはタイ国内での白人国家の情報機関やミッショナリーの活動を容易にしているのである。

このようなことも含めた、総体的な「女の貢ぎ」である。

それにしても、TG、日-タイ線の日本語アナウンスの客を馬鹿に仕切った感じは他社に例がない。

説教口調で「トイレでタバコを吸うな」などとくどくど言う。

それだけTGの客層、そしてタイへ行く日本人の水準も低いということなのだろう。

タイ人の差別体質・白人崇拝体質は、タイの数百年に及ぶ白人とのやり取りを通じた国家形成の歴史に根ざすものであり、タイの文化の根本にあるもの、すなわちタイ人のアイデンティティと不可分のものだから、そう簡単に変わるものではないし、変えようとする意思さえなかなかもてないものだろう。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/cat6759876/index.html


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1 : :03/04/09 03:23 ID:RbE4RsDU

タイにはロシアとか旧共産圏の国から、女の子が出稼ぎに来ていて まあ、売春なワケだが。

タイには観光客や買いつけでやって来る外国人が多いからそういう男を相手にしているわけなんだ。

俺も、何人かそういう子と遊んだわけだ。

気に入った子、相性があった子とは一緒にいろんなとこに行くわけだが、なんかね、
白人連れていると、タイ人の店員の態度が全然違うわけ。
すごい親切接客なんだよね。


俺ひとりだと割とぶっきらぼうなのだが白人相手だとタイ人は親切なんだな。
7倍くらい。

なんだろうね、これは。

でも、女の子のほとんどがタイ人男とは寝たく無いって言っていた。

なんだろうね、タイ人は。


166 :うむ :2006/08/26(土) 23:17:38 ID:rHOc5cgo
タイ人のあからさまな白人優遇に何度もあった

トゥクトゥクに乗ってホテルの門まできたところ白人が手を上げて乗る意思表示をした。

門から扉までは50メートルくらいあるのだが、運ちゃんは私にここで降りろと言う
タイでは日常的にこういうことがあるから別に腹が立ったわけではなかったが
ちょっとからかうつもりで

「白人が優先か?」と聞くとあっさり「そうだ」と言う。

交渉金額の半額だけ渡して降りてやった。

(外国人価格に納得してのったため現地人相場の金額を渡した)

まあ日本でもあることだけどね


115 : [sage]:2005/04/05(火) 22:03:30 ID:zhT6Cti9
タイは白人の植民地並に白人が大手を振って歩いてるね


121 :ペン習字:2005/04/06(水) 18:01:16 ID:9kDqInKW

タイ人の白人に対する感情は、他の植民地体験のある国より、白人崇拝意識が高い。


318 :在住:2007/04/05(木) 22:18:34 ID:QJ/3B951

タクシーの窓に貼ってあるステッカー
「I love Farang!welcome foreigner! 」

コレ見るたびに複雑な心境になる


333 :static:2007/04/07(土) 14:20:09 ID:+iXaspSz

近隣国の一流ホテルと比べてもタイのホテルやレストランの白人崇拝はかなり際立ってるよ。

タイで差別されるのは日本人だけではなく、有色人種一般。

逆にその場所に白人がいないときはあきらかに態度が違ったりする。

そういうのはシンガポールやマレーシアではあまり経験しない。

高級ホテルとは言わないが、タイの中級どころのホテルのスタッフがどう見てもクズな半ズボンはいたような白人にへらへらして、まともなかっこうしたアジア人客より持ち上げてるのはなぜ?

ああいう接客は東南アジアでも他の国ではあまりみない。
白人崇拝、人種差別は、タイ旅行業者にとって鬼門。
それを理由にタイを避けるアジアアフリカ系ツーリストは実に多い。

日本人にはまだすくないだろうが。
隣のマレーシアに来てるツーリストの人種構成と比較してみれば一見してわかる。


289 :      :2006/10/14(土) 23:49:46 ID:2zYl6W9I
タイはいろいろ問題もあるがそんなのは旅行している分には
マイペンライでいいでしょう。

タイ語で、「気にしない」、「大丈夫」、「どういたしまして」とかを表す言葉)


この国深夜徘徊してもそれほど危なくない国
深夜、タクシーが強盗になる話もあまり聞かない

わけのわからん詐欺師は今でも出没するが、相手にしなけりゃ問題なし。
人さらいも聞かないし、長距離バスで荷物がなくなったことは100回のって一度もなし。

フィリピンや、インドネシア、中国、カンボジアから帰ってきたらタイはまるで日本のように安全だよ


しかし白人に甘い国。

白人文化の自由恋愛のゴーゴーは取締りがゆるく しかも白人経営の店も多い
しかし日本人好みのMPは何かと厳しく、日本人の経営は絶対ゆるしてくれないだろう。
ホテル、旅行会社では明らかに白人が優先


308 :chego:2007/04/05(木) 14:47:43 ID:btKNQVVe
その理由は簡単だよ。

タイは日本と軍事同盟を結んでいたわけ。日本と一緒にビルマにも侵略した。

しかし、第二次大戦後、すぐにはじまったインドシナ内戦で欧米列強のインドシナ再植民地化戦争に全面的に加担し協力することによって、タイは戦争責任逃れをした。
タイの日本軍への協力やビルマ進駐については不問に付された。

ようするに、植民地再獲得を目指すフランス兵やベトナム戦争のアメリカ兵に売春婦をあてがうことで責任を帳消しにしてもらったわけ。

だから、タイは欧米から日本との軍事同盟の責任を一切問われていない。

その代わりに、タイは一貫して欧米人を優遇することで報いている。

もし欧米にたてついたら、タイも戦争責任を問われることになりかねないから必死なだけ。

374 :しかし:2007/04/09(月) 01:39:22 ID:yDx0ZWmq
タイの外人の夜遊びは歴史的にいってもベトナム戦争から。
そういうところで白人が優先されるのは当然のこと。

もうひとつはタイ人はもともと中国系の民族だから事大主義が基本ということ。
中国系はどこでも白人にへつらう。

310 :B-777:2007/04/05(木) 14:59:52 ID:CcobfenZ
>>308
まさに正論なんだがそれは国家としてのスタンスですね。
一般庶民までファラン崇拝している理由にはならないと思います。

311 :d:2007/04/05(木) 15:15:37 ID:/g6AwFuX

白人=自分たちとは違う別格の生物

って考えてるんじゃない?


319 :大魔王 ◆0gMZz1uVmM :2007/04/05(木) 22:35:55 ID:bDRIJhYP
クラス社会のタイで英語が喋れるということは上流のたしなみ。
白人の腕にぶら下がっていたら自分のクラスが3階級特進だ。


320 :ima[sage]:2007/04/06(金) 16:14:55 ID:Sm8857yp

タイ人って犬に似てると思う。

犬は人間たちのパワーバランスを本能的に察知して強いほうにつく。

だから売春婦でも国際的なパワーバランスを敏感に察知して行動してる可能性はある。


321 :maa:2007/04/06(金) 20:01:21 ID:BaCilH7h
タイではファランは国王の次に尊敬されている。

日本人はタイ人とさほど変わらない外見のくせに金持ちになってる、憎らしい人種。
 
でも金払いのいい日本人なら相手をしてもいいよ。
金払いの悪いケチな日本人は犬より下。

さっさと帰国して2度と来るな!  とタイ人が申しております。


176 :うむ :2006/08/28(月) 02:34:44 ID:Nu7/6KJv

★私は見た日本人に対する無礼な態度

外国人と接する英語を話せる職業の人達の中には結構陰口が多い人散見される。
たかだが白人に媚びるための英語が日本人より話せるからって調子乗るなよな!


・エアポートバスの受付嬢
日本のおじさんがたどたどしい英語で話していると 「英語も話せないのかよ!」 と言って呆れ顔になる
私は良くないマナーだと注意したらびっくりしてた。


・旅行代理店
先に受け付けてもらいトレッキングの話をしている最中白人の若者が入ってきたら何故か彼を優先して私は後回しにされた。
「何故だ?」と聞くと苦笑いしてたので「見栄っ張り」といったら逆切れ状態になった。


コンビニなどお店系のタイ人は白人には絶対嫌な顔をしない
笑顔を作って「THANK YOU」か無言かどちらか絶対タイ語を口にしない


その理由は白人が怒ったらとても恐ろしいことを良く知っているから
当然中華系のお金持ち同国民に対してもしない、ヘタするとクビになること
を知っているから

日本人は何しても笑ってるからどんどん図に乗る
白人同様朝鮮人、中国人へはヘタなことをすると一喝されるのを知っているからある程度緊張して対応する。

ついでに彼らはたとえ日本人が怒ってもたいしたことない
ことを知っているので逆切れできる。

駐在員でタイ人を監督する立場にある人はつい日本のマナーでかなりタイではやさしい対応をするがこれがどうも間違いのはじまりになると考えられている。

心にもない謝罪外交と金まき外交しているからこうなるんだ
日本人のタイ旅行者や現地在住者もどんどんこれからは抗議するべきだ

白人、中国、韓国はゴネ得してるぞ 
日本の美徳とされる「大人になる」 ということは相手を付け上がらせて金だけ要求され結果バカにされることを意味する。

タイではこの傾向が反日枢軸国よりひどい、フィリピンの方がまだまし

189 :デスノート:2006/08/30(水) 01:20:31 ID:ZGfJvlHI
日本人は簡単にお金を出すからねw
それに、適当にあしらっても怒らない。

だから、限度を知らないタイ人は、とことんまで付け上がるw

白人、韓国人は、まず、金を出さないからな。
そして、残虐性もある。


197 :名無し[あげ]:2006/09/14(木) 03:26:49 ID:DEpAEKSH
日本の美徳は命取りってことですかね
帰国子女は生意気だといじめられるが、自己主張をきちんとする海外文化に馴染んでるってことなんだね


198 :うむ:2006/09/14(木) 07:07:41 ID:6ZqBsa/D
日本の美徳は忘れてはいけない。世界に誇れるよ。
しかしそれを知って(意識して)、朝鮮人の手法も取り入れる。
アホタイにはよく効くぞ

奴らの嘲笑、差別発言は日常なので腹が立たなくても、朝鮮風のやり方で 抗議しよう。
大人の対応でバカにされるなら、嫌われる方がいいな
やつらとにかく力に弱いからかえって尊敬されるかも

「タイ人も悪い人もいれば、いい人もいるし、それは日本でも同じこと」

こんなことを言う人が多いくいるのではないかと思う

果たして同列に見て良いのか?

タイの常識は日本の非常識であるのは多くの人が知るところである。
逆に日本の常識はタイでは否定されることが多いのである。

ハイレベルな惨い いじめ、差別、カツアゲ(たかり含む) が社会の常識であるのです。

それをいい加減さとあまり深く考えない教育というか国民性でカバーして、意味なく笑顔で笑っているのです。
それが今日の「微笑みの国」なのです。

254 :・・・:2006/09/24(日) 08:50:01 ID:iPGkDScQ
風俗嬢になめられとる日本人がなんと多いことか
ちゃんと説教・文句言わないといつまでたっても手抜きサービスとチップの強要されるぞ


255 :カンタ:2006/09/24(日) 11:10:35 ID:UB90zLRw
猿国の人間と付き合う時点で終わってるよ。
猿の扱いにかけては、白人様に一日の長があるわな。

256 :・・・:2006/09/24(日) 12:13:28 ID:iPGkDScQ
猿の扱いは難しいね

性格はワガママだし、すぐスネるし、金くればっか

白人にはおりこうさんで、日本人には、駄々っ子

やっぱりよくないけど、基本的に見下した態度を先にとって「お前らは下だよ」という雰囲気をつくらないとアカンかな

中華系とか、カウリーなんかは、絶対猿に控えめな態度をとらないからな。
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237


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2. お猿さんの知能


「文化なし」「知能低い」 60年代の英大使がタイ酷評


タイの外資系大手スーパーで買い物をしていて、つり銭間違いや計算間違いの多いこと。

1個8バーツのドーナッ5個を45バーツの張り紙をする、それも若い女子店員二人居て。

こちらの14、5才以上は、同年代の恋人が居るんですね〜 

誰に聞いても、18から20才以上のバージンは居ないとの答え。

アパートの周り、大通りでは14,5才から大学生、大人まで手をつないで歩いている。

女女 男男に走るのもいいが、もっと勉強しろよと 言いたい、最低限の教養ぐらい身に付けろよ と。

40数年前と、変わらないようだ。


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「タイには何もないといわざるを得ない。文学、絵画は皆無で、奇怪な音楽があるのみだ。

彫刻、陶器、舞踊はほかからの借り物で、建築は単調、内装はおぞましい。

金持ちの楽しみは賭博とゴルフで、国民的娯楽は性的放縦」――。


 英BBC放送のラジオ番組が、英国の大使が駐在先に関する感想を離任時に本国へ送った文書を公開し、辛らつな評価が物議をかもしている。1回目はタイ、ニカラグアなどが俎(そ)上に載せられた。

 1965―1967年に駐タイ大使を務めたアンソニー・ランボルド卿はタイには文化がないと評した上、

「タイ人の平均的な知能は低い。我々よりはるかに、中国人よりもかなり低い」


ときつい感想を記した。


タイのネット掲示板には


「奴らはファラン(欧米人)だ。タイの文化がわかってたまるか」、

「もう英国のサッカーはみない」(タイでは英プレミアリーグが最も人気のスポーツ)


といった怒りの投稿が続いているが、中には


「大使の言ったことは本当だ。

タイの芸術の多くは我々の先祖が作ったものではなく、外国から持ってきて、子孫に伝えたのだ。

先祖がそれを正直に言わなかったので、自分たちのものと勘違いしている」
といった意見も少数ながらあった。
http://asukana777.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/index.html

タイ児童知能指数


タイから フィリピンにかけて,元々知能の低い人種ではないでしょうか。 

世界数学競技に出て金メダルを取るタイ人は、華僑系のお金持ち。

日本の戦後は食う物が手に入らなかった、私の子供の時「昭和30年代」もいつも腹をすかせ、学校から帰ってきても何も無い。

麦ご飯はある、それに醤油をかけ何時も食べていた。

栄養が無くても日本人は、たえず向上心を持ってどんどんと成長・発展していった。

タイ人、フィリピン人を見ていると 向上心など持ち合わせていない事に驚く。

日本人も含め知能の低い人間は、思春期に異性へと走る。男男彼氏彼氏 女女彼女彼女 へと、タイは非常に多い。

あげくに、子供が出来、離婚。

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タイ児童の平均知能指数88 保健相がヨウ素不足に警鐘

2010/6/29 (14:39)| 主要ニュース 社会


【タイ】タイのジュリン保健相は28日、ヨウ素の不足によりタイ人の体、頭脳の質が危機的な状態になりつつあるとして、ヨウ素の摂取促進に取り組む考えを明らかにした。

保健相によると、タイの家庭でヨウ素添加塩を使用している割合は2008年の82%から2009年は77%に低下。また、タイの児童の平均知能指数は1997年の91から2002年には88に低下した。


 独立行政法人国立健康・栄養研究所によると、ヨウ素は海藻類や魚介類に豊富に含まれる元素で、不足すると、甲状腺ホルモンの生成が出来なくなり、精神発達の遅滞、甲状腺機能低下症などを引き起こす。妊婦のヨウ素欠乏は子どもの精神障害と神経系の障害を伴う成長不全をもたらすという。


小学3年生の4分の1が計算力不足

 教育省が実施した全国学力テストにおいて、タイ人小学3年生の22・9%が「計算力不足」であることが明らかになった。

 同省基礎教育委員会(OBEC)は、全体の4分の1にあたる生徒が落第点をとったことについて「公立小学校における学習水準の低さが露呈したと判断、早急な対策が必要」としている。

 なお、前年度の25・29%からはやや向上しているものの、OBECでは依然として深刻な事態と受けとめており、近々教育関係者を招集し、具体的な解決方法について話し合う方針という。

 また、識字率についても7・72%と、前年度の8・82%からわずかな向上がみられたが、OBECでは「まだ相当数の生徒が読み書きできないというのに変わりない」としている。
http://asukana777.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-eed3.html

906 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 13:30:43 ID:9oTcy99s0
ベトナム人は引き算できるんだよね。

あれには驚いた。


907 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 13:34:20 ID:C9RAh3iI0
タイ人はできないんだよね。


909 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 13:37:05 ID:9oTcy99s0
>>907

知人の子供が小学生だが、引き算できない。


916 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 13:55:54 ID:dgIiQjE20
引き算どころかタイ人は計算が出来ない。


918 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 14:01:31 ID:jRHKb11Y0
>>916
全国統一の大学入試のテストで上位100位に入った義妹が率の計算出来なかった。
しかも理系クラスなのに。


920 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 14:09:30 ID:dgIiQjE20
タイ人は暗算出来ないのか買い物したら最低3回はお釣り数える。


921 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 14:12:26 ID:jOnVJNUg0

4+3×2−3の計算をタイ人にやらせてみな。

院卒のエリートでも、答えを11というだろう。

前に某大学の先生に試したら、やっぱり11と答えた。

バカというよりも、計算の基礎ができてないんだな。

922 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 14:15:10 ID:gwj5M6T.0
>>918
要するに基礎的な計算力が欠けているわけだけど、これを克服するにはソロバンが有効なはず。

しかも安価だから貧乏人でも手が出せる。

実際島根県の横手町とイサーンのある地域では交流があり、ソロバンを教育に取り入れているが、タクシン政権時代、この非常に有意義な基礎教育の予算が削減されたと聞いた。


926 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 14:59:20 ID:dgIiQjE20
日本は九九小学生から教育してるから自然と暗算身に付くよね。
タイのガキって何勉強してるの?親のしつけも最低。

928 :921:2010/06/08(火) 15:06:40 ID:jOnVJNUg0
俺も面白がって、いままで50人以上に 4+3×2−3 の計算をやらせてみたが、
7と答えたタイ人はゼロ。みんな例外なく11と答える。

こっちもそれなりの利口そうな奴選んで聞くんだが。

それも「何でこんな簡単な事聞くんだ?」みたいな感じ。

941 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 15:39:39 ID:jOnVJNUg0
>>932
>紙に4+3×2−3と書いたら、多くのタイ人は7と答える。


だから、紙に書いて解かしても、タイ人はみんな11と答えたわけね。

大学の先生、マネージャークラス、タマサートの学生など、それなりに地位のある人たち。

間違っても、屋台のおばちゃんやモタサイのライダーには聞いてない。


925 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 14:56:22 ID:jRHKb11Y0

教育制度改革で基礎教育再編やろうとしてて王様に潰されたじゃん。

タイの教師は教育制度改革に反対で反タクシンの急先鋒だったから悪く言うだろ。


930 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 15:07:59 ID:gwj5M6T.0
>>925
国王がどの部分を潰したのか?
バカでもちゃんと教育すればまともになると、国王は思っていると聞いたが。


946 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 15:53:34 ID:jRHKb11Y0
>>930
小中の教師自体に基礎学力がないので、基礎学力についての教育が疎かになってたんだよ。
で、免許更新制や人事制度の刷新をはかろうとした。
で、教職員組合から反発があり、国王は署名拒否


ちなみに、◯×や選択肢の選択式の試験が殆どだったタイの高校教育に、論述を取り入れて自分で考える力をつけさせようとした。


948 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 16:05:13 ID:Yv5.YijQ0
http://www.bangkokpost.com/news/local/38353/teachers-fail-exams-on-own-subjects
Teachers fail exams on own subjects

先生がアホでどうして生徒が賢くなれるのかとタイ人も思っているらしい

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/3341/1275007783/

覚醒剤「メタンフェタミン」乱用国


言葉や文化の違う、国々で 唯一違わない物、

それは、男女関係 恋愛 失恋 結婚 離婚 再婚。

西洋の影響で、それまで キッス と言うものが無かった国々に 広く浸透し 日本を含め、今では人前でも当たり前になっている。

当然、タイにも 浸透している。 

敬虔な仏教国だが仏教で、戒律の厳しいのは 僧侶だけで、一般市民は関係が無い。

やりたいほうだい(酒 賭博 薬物 性的放縦)。

人間と言うのは、あらゆる欲望に弱い。

 これをやっては駄目、と口で言っても埒があかない。

したがって、法律が作られた。 この法律も国によってかなり違ってくる。

大麻は罰せられない国、 日本のようにすべて駄目と。

日本の酒気帯びと同じで 本人しだい、 薬物乱用で死傷事件が多くなれば、法を重くしないといけないでしょうが。


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チュラロンコン大学、タンヤラック研究所、米国エール大学の共同調査により、タイが世界有数の「メタンフェタミン乱用国」であることが明らかになった。

特に若者による乱用が増えていることに関係者が強い懸念を示している。

 同覚醒剤の乱用件数は、報告されたケースだけでも2009年で約12万件。2010年は既に10万件にのぼっている。

 そのうち65%がティーンやヤングアダルト層によるもので、15歳から19歳の割合は32%を示している。タンヤラック研究所が運営する薬物更正施設には、2009年だけで計11万7886人が入所、そのうちの79%を15歳から19歳の若者が占めた。

 施設でのリハビリは、4カ月の投薬治療と1年間のモニタリングで完了する。全てのプログラムを終えた者の85%が完全な更正を遂げるが、途中で放棄した者の90%は再び薬物に手を出すという。

 調査チームは、予防薬などについても研究を進めている。
http://asukana777.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-c94a.html


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3. お猿さんが微笑む理由


「微笑みの国」とか「敬虔な仏教国」などとタイを美化する人たちが未だにいます。
そういう言い方は、自分はタイ人をバカにしていると言っているようなものです。


「微笑みの国」=「ニタニタした能無しの馬鹿な猿の国」、

「だから馬鹿でも外国語もまったくできなくても安心して行ける」、


というのがタイへの旅行者の一般的な意識です。

そして、そういう意識を全肯定するのが「微笑みの国」という<ほめ言葉>にほかなりません。

タイ自身がそれを売り物にしてきた面もあるが、これほど現地人をなめきった態度はありません。
 
そのせいか、現実のいまのタイは、東南アジアのどの国よりも、否、ヨーロッパ諸国よりもはるかに、「シカメッツラの国」になっており、「ことさらなるシカメッツラの国」になっているといえます。


外国人はみんな自分たちを、

「ニコニコした性格が良いだけの能無しの猿」だという頭で来ている、

ということを彼らは知っている。

(重ねて言うと、タイ国家自身がそういう売り方をしてきた責任はもちろんあるのですが)。ならばなおさら、


「そうじゃないんだ」

「自分はニコニコしているだけが取り柄のお人よしの猿じゃないんだ」、

というところをことさらに見せたくなるのは自然な情動です。
その結果、不必要に気難しい顔をする、ということになるのでしょう。


今でも、外人ずれしていないミャンマー・シャン州(チャイントオン)などのタイヤイ(大タイ族)などなら、本当にリラックスした良い微笑みを見せてくれるかもしれません。

数年前はチャイントオンでもそうでした。もちろん、他の少数民族も同じです。

しかし、そういう柔らかいところに容赦なく付け込み搾取する白人キリスト教ミッショナリーや白人NPOらの活動が衰えることは、白人世界が存在している限り決してありません。

したがって、彼らの心の荒廃も時間の問題となっていると思います。

あの辺り、数年行っていないのですでに荒廃しているかもしれません。 

すなわち、チャイントオンの湖畔に売春婦連れ毛唐がのさばり白人ツーリストが村民児童を漁りに来るのも時間の問題だろうと思います。

ミャンマーが「民主化」されでもしたら、シャン州などの「少女たち」にとっては地獄が待っているはずです。

だから、私は、白人たちが望むようなミャンマーの「民主化」にはまったく反対なのです。

チャイントオン辺りでは、毛唐の作法に汚れきったタイのタイ族ツーリストがすでに精神汚染を撒き散らしています。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/?mode=m&no=213


___________


206 :オー様と名無し:2010/02/25(木) 01:49:10 ID:5249.CQI0
タイ人は、微笑みの国、と言いますが、実際は、何も考えてない人が多いです。
と言うよりほぼ99%です。

大学を出ていても、家族も、結婚感、金銭感覚は、アッパラパーです。

お金も、仕事も、結婚も、人生も、行き当たりバッタリ!
場当たり的な対応、考えしか持ってません。

女性側の、学歴も、家庭環境もあまり関係ありません。
日本人の几帳面で、節約家、働き者から見れば、タイ女性の頭の中は、カラッポです!
マジで本当です!
何も考えていないから、笑って、誤魔化しているだけです!(これのみが武器です)
http://jbbs.livedoor.jp/travel/3341/storage/1266494140.html#108

471 名前:オー様と名無し 投稿日:2006/12/12(火) 03:05:39
タイ人の笑顔は仮面の笑顔

その裏には見栄や嫉妬の感情が渦巻いてる


472 名前:オー様と名無し 投稿日:2006/12/12(火) 03:46:28
本当の笑顔はタイ人にしか見せないよね


484 名前:オー様と名無し 投稿日:2006/12/14(木) 13:14:53
微笑みの国って、単にバカが初対面の人に対してどう対応して良いか分からず
に微笑んでいるだけだと分かった時。


485 名前:オー様と名無し 投稿日:2006/12/14(木) 13:31:18
誤魔化し笑いの国。


489 名前:オー様と名無し 投稿日:2006/12/14(木) 13:47:55
出版されているタイ関係の本は何で本当の事書かないんだ。
平気で嘘つくし騙すし逃げるし殺すし貧富の差が激しい原始資本主義社会だと。


490 名前:オー様と名無し 投稿日:2006/12/14(木) 13:57:52
道徳観、倫理観もないし。


631 名前:オー様と名無し 投稿日:2007/01/06(土) 15:24:33
タイ人は

性格悪い人には悪人になります。

優しく接すると優しくなります。


632 名前:↑ 投稿日:2007/01/06(土) 15:33:58
タイ(タイ人)は微笑みの国・・・

その裏側に隠された陰湿な部分が露呈しただけ(藁)

元々、皆が言うほど良い人が居る訳じゃー無い、所詮3流国

633 名前:オー様と名無し 投稿日:2007/01/06(土) 15:37:18
>>632

もう最近は微笑むのは打算があるときと物品いただく時だけで
いつもしかっめ面ですね?

陰湿な部分(大部分?)をかっくし切れなくなった、ということですね?


637 名前:オー様と名無し 投稿日:2007/01/06(土) 15:43:45
昔日本人がみな金持ちだと思われてたころ
なんか取り入ろうとしてニコニコしてただけだったんだな


641 名前:オー様と名無し 投稿日:2007/01/06(土) 17:39:18
>>ドラマに出てくる性悪、意地悪キャラクターって、昔はドラマにしかない道化かと思ったけど

テレビで、ヒステリー丸出しでギャアギャア騒ぎ立てる女達、性格の悪い女達が、これでもかと多いテレビドラマ。

これらのテレビドラマは誇張じゃなく真実のタイ、そのものなんだよね。

性格のよいヒロインの女なんか、100人に一人もいないだろう。

最初は、奥ゆかしい控えめな女も、一皮むけばテレビドラマの性格の悪い女そのものだから、タイは困るんだよ。

ハイソの女も売春婦も中身は同じなのは、国民性なんだろう。

643 名前:オー様と名無し 投稿日:2007/01/06(土) 17:55:39
>>641
その通り!実在するんだから怖いよ。

自分の友達(普段は明朗)が目の前でギャーギャー女に変貌した時に思い知った。

噛み付いてる相手もギャーギャー女。

そういうのがイヤで外国人女に目がいっちゃうタイ人男もいるよ。

浮気性のタイ人男がいやで外国人男に目がいっちゃうタイ人女に同じく。
http://jbbs.livedoor.jp/travel/3341/storage/1099834899.html

87 :オー様と名無し:2008/08/25(月) 15:28:00 ID:JkEJeu2E0
タイ政府観光局は、タイは微笑みの国だなんて嘘だけ宣伝しているね。
中国よりはマシだけど無愛想な国民だろ。


88 :オー様と名無し:2008/08/25(月) 15:29:48 ID:GbBprCGI0
>>87
金を渡したときは満面の笑みをくれる国


89 :オー様と名無し:2008/08/25(月) 15:30:09 ID:ewnVsrJQ0
タイ人は微笑を帰すべき相手とそうでない相手を区別します。
90 :オー様と名無し:2008/08/25(月) 16:48:55 ID:KFU6nORo0
>>89
そういうことか?
金に微笑んでたのか。


91 :オー様と名無し:2008/08/25(月) 17:08:32 ID:98zBdMVw0
>タイ人は微笑を帰すべき相手とそうでない相手を区別します。

わたしもその通りだと思います。
金だけでは駄目なんです。
タイ人は見た瞬間に自分より上か下かを判断できます。
余裕のない(金銭的にも人間的にも)は低く見られます。

タイの生活で知り合うタイ人はそのまま自分の環境や言動、行動の結果です。

93 :オー様と名無し:2008/08/25(月) 17:30:16 ID:s.0LaKDM0
ラオスに行けば今でも微笑みの国だよ。
特にパクセやサワナケットあたり。
>>91の説は明らかに間違いで、タイ人が変わっていったということだろ。
イサーンに行けばバンコクよりは遥かにマシだよ。


97 :オー様と名無し:2008/08/25(月) 18:30:53 ID:Tt7RtINs0
タイ人の微笑みは、何かを誤魔化すためのものと理解すればよろしい。


98 :オー様と名無し:2008/08/26(火) 22:28:38 ID:M1Yqe.xE0
>タイ人は見た瞬間に自分より上か下かを判断できます。

すごく当たってます。

特に外見は大事です。
 
また金の無い人物でもハンサムとか美人とか背がすごく高いだけでも尊敬されるところがタイ流。

日本人を名乗っても、ダサ男だとモロ不機嫌な眉間にしわを寄せた顔になります。

日本人よりタイ人って素直というか、顔の表情がすぐ変わりますよ。


99 :オー様と名無し:2008/08/26(火) 22:45:19 ID:M1Yqe.xE0
タイ人から笑顔が消えたのは、80〜90年代という人がいます。
バンコクに最初の高速が出来た頃。

あれからというもの、街の変貌ぶりはすごいものがありました。
今建っている高層ビルのほとんどが80年代以降です。

要するに外資の急速流入で、街も人の心も大きく変わっていったんです。
ぜいたく品が街にあふれ、金のある人と無い人との生活レベルが天と地のようになっていった。

ラオスやミャンマーのように、9割以上が貧困ラインにいると、皆も同じ横並びだから
ヒガミもネタミもなく、また向上心や欲もなくヘラヘラ笑っていられると思うのです。


100 :オー様と名無し:2008/08/26(火) 22:49:00 ID:SpOrZkAI0
>モロ不機嫌な眉間にしわを寄せた顔になります

これマネしてあげると、恥ずかしそうな顔するけどね。

107 :オー様と名無し:2008/08/27(水) 13:30:44 ID:rOYOTd/M0
微笑みの国だなんて幻想だね。


108 :オー様と名無し:2008/08/27(水) 13:36:52 ID:C9NskgPw0
バンコク近辺と歓楽街しかうろつかない人種にはそう見えるだろうね。


109 :オー様と名無し:2008/08/27(水) 13:51:09 ID:w/Hj0p0c0
>107
俺も最近やっと判ってきた。
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/2009/08/blog-post_1860.html


91 :オー様と名無し:2007/02/20(火) 22:55:31
微笑みの国というが、実情はニッコリ笑って人を斬る国


902 :オー様と名無し:2010/07/04(日) 11:46:16 ID:Ud7CPP5E0
微笑みの国ってのにロマンを連想させられたものだったな。本当のタイを知るまでね。
微笑みに程遠い正反対の国だわ。

微笑みの無い国・ホスビタリティの無い国・嘘だらけの国・金が全ての国・・限が無

92 :名無しさん:2006/07/12(水) 03:15:25 ID:4yEmFzjE

タイ人の印象は遊びに行ってた時と住んだ後とでまるっきり変わる。

「微笑みの国」の「微笑み」とは、
相手に心中を探られないために彼らが身につけている作り笑顔、いわば世渡り術。

一定期間住んでいる日本人は、みんな一度は騙されてる。

金銭面で騙されたり、女の子であれば、やられちゃったり。
特にプーケットでは、タイ人男に入れ込んではまった挙句妊娠させられたりする日本人の女の子が多い。

多くの者は金に汚くなっているので、平気で人を騙す。
逆に、そうでなければタイでは勝ち上がれない。

プーケットにいた頃はパトンビーチにいたのだが、小さな村なのにやたら殺人事件が起こる。
大きな金が動くビーチリゾートなので、タイ人同士の揉め事や、外国人が狙われるケースも多い。

タイは日本で一般的に思われているほど安全ではない、というのが俺の印象。
それは住む期間が長くなるにつれ、トラブルに巻き込まれる機会が多くなっていく、ということだと思う。

俺自身がタイ人の恨みを買って、銃を持った男5〜6人に部屋を包囲された事もある。
タイ人は切れるとすぐ銃を持ち出し、おまけにマジで撃つ、というのは、在住者の間では常識。
むかつく奴も多いけど、放置で、怒らせない事が大事。

タイ語は、騙されないために、そしてタイ人の性格を知るためにも、是非覚えた方がいい。

本音と建前の差は、日本人よりも激しいかもしれない、と思う。

在タイ期間中は、手放しで楽しかったのは初めの1年くらいで、あとはむかついた事や大変だった事の方が印象が強い。

これからタイで住むことを考えている人への助言としては、

「人を信じるな。」

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/world/1149082416/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c6

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
7. 中川隆[-13373] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:11:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1531]
白人はなぜ白人か 2006年8月28日


進歩主義者や、市民主義者、「地球市民」主義者らは、われわれが「白人」というカテゴリーを用いて問題を取り扱うことを、唾棄すべきことのように言うであろう。そのような論者に対しては直ちに右翼、さらには「人種主義者」のレッテルが貼られる。しかし、このような進歩主義者は、「人種差別」「人種主義」の意味すら理解していない。

しかしながら、われわれは正当に、「白人」という範疇を用いて、問題を取り扱うべきなのである。「白人」範疇を用いなければ解明することができない多くの諸論点・諸問題が、論ぜられるべきものとして歴史的にわれわれの前に提示されているからである。

「白人」範疇を最初に作り出したのも白人自身であることもよく確認しておく必要がある。「白人」は白人の自称である。これに対して、黒人、黄色人種等は、白人による他称である。

われわれは「白人」と対決しなければならない。われわれの真の敵は、「白人」なのである。

では、白人はなぜ白人か。

まず第一に、遺伝によってである。

彼らは日本の一般人以上に、はっきりと血統を重んずる。さらに、伝統的に、日本人よりはるかに「容貌」にこだわってきた。血統と婚姻関係と容貌とが、ずっと昔から、大のおとなの男子によっても強く意識されてきたのである。そのような意識の下で、彼らは交配を繰り返し、半ば人為的に現在の「白人」を作り上げてきたのである。さらに、その自らの人為について、誇りすら持っている。

これは白人に直接に接してみればわかることだが、彼らは容貌について実に細かいところを気にしている。日本人のように、鼻が高いか、目が二重であるか、顔が小さいかというような大雑把なものではない。彼らは、高級飼猫や競走馬の毛並みを気にするような目で、人間の容姿をも見るのである。日本人が、金があるのに歯並びなどの容姿を修正しようとしないのを、彼らは奇異に感じている。日本人が自然であることを評価するのとは全く違った容姿に対する感性を彼らはもつ。そもそも彼ら自身が(理性による)人工的な製作物なのだ。

彼らの「血統」と「伝統文化」と「容貌」のコングロマリットに関する強烈な意識は、たとえばトーマスマンの「ブッデンブローク家の人びと」のような小説にもその率直な表現を見ることができると思う。

彼らの先祖はイラン高原(またはロシア南部)を出てヨーロッパに広まったといわれる。またインドにも侵入しインダス文明を滅ぼした。彼らはヨーロッパにおいては先住民を消滅させ、人口稠密であったインドにおいてはカースト制度を考案し、これを先住民に課して苛烈な支配収奪を行なった。

このようにヨーロッパ白人は、「征服して根絶やしにする」こと、すなわち「ホロコースト」「民族浄化」によって自らを確立した人種なのである。

すなわち白人は、その人種としての成立においてすでに、「ホロコースト」の刻印をもつ。

白人はその遺伝的な貪欲さ、攻撃性、粗暴さ、征服欲の強さ、そして他者を顧慮しないで平気でいられる傍若無人な特性によって、その覇権を拡大したのである。

白人はこのような遺伝的素質によって人種的な版図を拡大した後、彼らのうちの特権層・貴族階級が、自らの眷族の中において、牧畜経営で覚えたとおりの人工的な交配を繰り返すことによってその血統的なアイデンティティおよびある種のブランド価値を確立していくのであるが、白人「市民」革命は、この特権貴族層の血統的アイデンティティ即ち身分的「優越」の意識を、「白色人種」の人種的アイデンティティ即ち人種的「優越」の意識へと移行・拡散させ、これを全白人に平等に共有せしめたのである。その背景にはいうまでもなく、新大陸の「発見」と植民地支配と奴隷制とがあった。

「世界の拡大」にともなう新しい他者たる「新しい野蛮」の発見と、新植民地および「奴隷」の獲得とが、物質的にのみならずイデオロギー的にも、白人全体のある種の貴族化・特権層化を可能にした。

「野蛮」と「奴隷」との現出が、白人全体の「市民」化を可能にしたのである。(「市民」とは昔から有産者のことであり、城塞で保護された都市・市場の中に「特権的な地位を有する者」のことである。ただし必ずしも城塞の内側に住む必要はない。都市の原型ともいうべき塀で囲まれた小さな市場は、夜は鍵をかけられて閉鎖され無人になるのが通例である。)

即ち、白人「市民」革命は、イデオロギー的にも、「野蛮の再発見」と植民地支配および人種的奴隷制なくしては成立し得なかった。「自由な市民」は常に「野蛮」と「奴隷」とを要件とするのである。

「イデオロギー的にも」これらが必要であるという意味は、「自由な市民」たる白人は、「白人」たる以上永久に、「野蛮」と「奴隷」とを、自らを規定し境界づけるものとして探し求め、定義し続けなければならないということである。

それらが仮に「非難さるべき野蛮」「啓蒙されるべき野蛮」「保護されるべき野蛮」あるいは「解放されるべき奴隷」という形をとるとしても、「野蛮」と「奴隷」(隷従)との存在が「自由な市民」たる「白人」の存立要件であることには変わりはない。このことが白人の「日本たたき」の背景をも形作っている。

彼ら白人には、われわれ日本人が普通に考えるような「人間的な」感情はない。根が極端にセルフィッシュなので、彼らがまともな社会を築くためには、外から強力な道徳規範を特別に叩き込まれる必要があった。そうされないと何でもやってしまうDNAだからである。

この外から叩き込まれなければならない道徳規範が、キリスト教であったり、現在の人権思想や環境保護思想だったりするのである。

白人は、われわれにとっては自然な感情のように思われる道徳規範さえ、宗教的権威によってドグマとして与えられなければならなかった。彼らは「自然な」罪の意識というものを持たない。キリスト教の教義によって教えられた「罪」しか持たないのである。

日本人にはホンネとタテマエの区別があるといわれる。それは、日本人がしばしばホンネを漏らしてしまうということにすぎない。白人にその区別がないように見えるとすれば、それは彼らが言葉ではタテマエ以外は決して語らず、ホンネの部分は有無を言わさず強力に実行し、永久に隠蔽してしまうからである。彼らのホロコーストの後には何も残らない。したがってホロコーストもなかったことになる。

アジアにおいてはさまざまな系統の言語が錯綜していて日本語のような系統不明の言語も散見されるのに対し、ヨーロッパは、後に侵入したモンゴル系の言語やバスク語などごくわずかな例外を除き、ほとんどが「インドヨーロッパ語族」一色である。

このこともまた、ヨーロッパ人種がその始原において「ホロコースト」「民族浄化」を要件として成立したことを意味する。「ホロコースト」「民族浄化」の衝動は、白色人種の持って生まれた刻印(性格)なのである。

実際のところ大陸世界で、謙虚で欲のない性質の優しい民族というものが仮に存在したとしても、真っ先に強欲粗暴な民族の餌食になって淘汰され、絶滅させられるか辺境に追いやられてしまっているだろう。そのような希少な有徳の民族は、日本列島のような隔離された辺境にしか存続しえなかったのである。

第二に、白人は「白人」として扱われることによって、この世界に確立している「白人」範疇に属するメンバーとして認知され、白人になる。これも大きい。

「白人」としての十分な容貌を備えた者は、世界中どこへ行っても「白人」として扱われる。また、そのような扱いによって、彼らは自らが「白人」であることを再認識する。

彼ら自身がそのことに否定的であれ(その場合ほとんどは口だけだが)、肯定的であれ、彼らはその枠の中で生きていくのである。

たとえば、アジアの辺境の貧しい山村に白人系の孤児がいたとする。もしその孤児が白人らしい容姿をしているならば、どこからともなく白人の篤志家やボランティアたちが現れ、大変な情熱でその子供を支援し、また、白人にふさわしい教育を与えるであろう。ついでにその村も支援する。

貧しい村を支援するという形に糊塗して、白人系の孤児を救うということもある。このような仕事には多くの場合、福音派系のミッショナリーが関与する。(高床式の伝統的な村落に、けばけばしいペンキを塗りたくった礼拝堂や集会所を建て、英会話や聖書の教育をし、村の伝統宗教や先祖崇拝をやめさせ子供の名前も変えさせて「文明」を教えてやる。)

そして、「救われた」混血児は、自らが村の他の人々に比べ、「選ばれた」そして「文明化された」存在という意識を持つようになるかもしれない。また、豊かな生活にあこがれる村の人々は、選ばれた混血児のように、祖先の名前を覚えず、精霊を信じず、英語名を名乗り、伝統的な慣習を無視して、教会小屋で祈ることが、「文明」への道であると錯覚するかもしれない。

このようにして、アジアのあちこちに孤児を産み捨てていく白人の罪も贖われるのであるが、しかし、その子供が不幸にも母親に似てしまい、白人らしい容貌をもたなかったならば、子供は完全に無視され、彼に関しては最初から何事もなかったことにされるであろう。

アメリカ政府もまた、日本占領期、小笠原のドイツ系日本人に対しては、彼らが白人であるがゆえに特別の有利な待遇を与えたことを忘れてはならない。

この事実に対して、白人側にどんな言い訳が用意されているのだろうか。「ドイツ系日本人」だから、二重に「敵性」種族と見られてもよいはずだが、そうはならず、逆に優遇されたのである。ひたすら彼らが「白人」であるが故に。

タイは白人至上主義の東南アジアにおけるイデオロギーエンジンである(その燃料はセックスと「安さ」)

何年か前、タイの銀行の両替窓口に並んでいたときのこと、タイ人係員が私より後ろに並んでいる白人を呼びよせて、私より先に受け付けようとした。

そのときはまだタイに慣れていなかったこともあり、私はその白人に「俺のほうが先だ」と言って注意した。すると、その男はニヤッとしながら「彼(係員)が俺を呼んでいるんだ」と平然と開き直った。これは立派な白人といえる。

後ろに並んでいる白人のほうを先に並んでいるアジア人ツーリストよりも優先受付するということはタイではまったく珍しくない。そういうことはタイではいろいろな場所でたびたび経験した。旅行代理店で用件を話しているときに白人が入ってくるとこちらをそっちのけにして白人を先に受け付けるなど。このような場合、初心の日本人ツーリストはただ唖然として見ているしかないことがほとんどだろうが、タイ初心者の白人のほうは、自分が優先されているということ自体にまったく気づかないか、「ツーリスト優先」(彼らの頭の中ではツーリスト=白人)なのだと考えたり、アジア系はみなローカルだと決め付けて「タイ人はフレンドリーな人たちだ」と喜んだりするくらいであろう。

しかし先にあげた両替窓口の白人の場合は、すでに十分に気づいている。わかった上で開き直っている。白人が白人ゆえに優先される扱いを自分たちの当然の権利と考えている。

その「権利」を前面に押し出して「タイでは白人が優先されるのがルールだ。何か文句あるか」といっているわけだ。

タイは世界中から、安さとセックス、つまりは決して上品とはいえない条件で屑な白人たちを意識的に大量にかき集め、その「屑白人外道ツーリズム」を、金持ちのフトコロが痛まない救貧政策ともしてきた(セックスツーリズム)。

屑白人ツーリズムのルールとして、最低の屑白人をどんな有色人種客よりも上客として扱うという白人優先主義がタイの多くの場所で普通に行われている。

このような白人優先の扱いを日ごろから普通に受けていれば、どんな白人でも、白人が優先されるのが当然のルールだという感覚になっていくのは自然であろう。もとが屑白人ならなおさらである。

そして、多かれ少なかれ、そのような感覚を備えた白人こそ「白人」の名にふさわしい本物の白人なのである。

このように、「白人優先が当然だ」という感覚は、東南アジアではタイに始まったが、現在周辺の白人ツーリストの多く来る地域に急速に広まりつつある。

この数年で東南アジアの人々の感覚は大きく変化し、特にインドシナは急速にタイ化しつつあると思う。

たとえば、現在、ラオスは大量の汚い貧乏白人バックパッカーが押し寄せる国になっていて、ひょっとするとタイ以上に白人密度が高くなっているかもしれない。

ラオスのバスチケット売り場では、乗客の名前をいちいち記録するのだが、ある田舎のバスチケット売り場の若いラオス人は、汚い白人パッカーにはCould you please tell me your name?などという結構な英語を丁寧に使い、われわれにはWhat's your name? Write here.であった。

彼らにとって「ツーリズムを振興させる」とは、必然的に、タイツーリズムの「作法」をそのまま学ぶということに他ならない。それ以外の選択はないのである。

白人ツーリズムの盛況とともにアジア全体に蔓延しつつあるこのような白人の特別扱い・白人優先の実例、慣例化が、若い白人ツーリストたちの「白人」としての自覚をさらに高め、白人を「白人」として鍛え上げていくのである。

そしてタイこそは、「差別OK」「人種差別の何が悪い」「差別は文化」という思想の東南アジアにおける宗家であり、発信地なのである。

どんなに「リベラル」な白人でも、タイでの白人優先には納得しこれを素直に受け入れてしまう理由が用意されている。それは自分が不利益を受けないからばかりではない。

「『一見不当に見える差別扱い』にこそ『西洋的合理主義では理解できないオリエンタルな秘密』があるのであり、それに異議を唱えるのは野暮である」という思想を、タイはもっともらしくブランド化し、白人客のみならず白人優先を甘受する日本人客等にも向けても、高くラベルを貼って売り出しているからである。

欧米「リベラル」派白人としても、この「神秘の微笑みに包まれたオリエンタルな異文化」をやみくもに否定できない。それはちょうど、彼らが「『古式タイマッサージ』は医療とは無縁の擬似性風俗あるいは売春の口実に過ぎない」という真相について、うすうす気づいていてもそれを断言しにくいことと似ている。

このような「タイ式オリエンタリズム」の総本山がホテル「オリエンタル・バンコック」であることはいうまでもないだろう。

タイの「ホスピタリティ」は、日本(東京)のように客を平等に歓待することによっては表されず、「客に差をつけること」によって表現される。

そのようにして客の足元を見、あるいは見るフリをし、客を不安にさせたり喜ばせたりするのが彼らの流儀のようだが、そのほうが結局は誠実な接客より安上がりで楽だったりする。

上客を特にもてなす努力をしなくても他の客を「下げる」だけで「特別扱い」の意思を表現でき、あとはニヤニヤしていればいいだけだからである。

有名なタイの「差別診療」も、本当に金額に見合った治療が受けられるのかどうか私は大いに疑問である。高い費用の大部分は単なる「差別代」であろうと思われるからである。

このようにタイは、「差別」を「オリエンタルな文化」として公然と売り出している。そして、それによって、人種差別云々というような「ケチな」問題をイデオロギー的に「棚上げ」してしまう文化戦略に出ているのである。

それは、白人優先主義を制度化すると同時に、国民の間のさまざまな不条理な差別を日常の些事と感じさせ、少数民族問題や貧困問題などタイの国内問題をも同時に棚上げするイデオロギー政策にもなるとタイの支配層は考えているように見える。

しかし、このようなタイという「オリエンタルな」差別主義のイデオロギー的「エンジン」を東南アジアの中心に据え付けているのもまた、白人の世界的イデオロギー戦略の一環にほかならない。

タイは白人を「白人」として扱うことによって本物の「白人」にする、東南アジアにおけるエンジンである。

日本にいては想像できないほどの、大量の老若男女を問わない白人ツーリストが、季節を問わず、毎日、タイに押しかけている。タイは白人の学校である。彼らはそこで「白人」として鍛えられ、アジアや有色人種を見る「白人」的「視座」を確立していくのである。

第三に、「白人」はシステムである。白人は「白人システム」のなかにあることによって、「白人」の十全な意味を獲得する。

事実上、(自称ユダヤ人のスラブ系白人を含めた)白人が主導し、白人の利益を増進し、主として白人に利益が還流する組織を持ち、白人の価値と美意識を宣教して白人イデオロギーを護持する社会や国家は、白人社会であり、白人国家である。そこに有色人種の構成員が相当数いて、個人的に富み、活躍しているように見えたとしても、そのことはその国家が白人国家であることを妨げない。言うまでもなく、アメリカは白人国家である。

数百年にわたって全世界を覆う、この白人システムに対して、正面から宣戦を布告し、自覚的に戦いを挑んだ有色人種国家は、実は日本だけなのである。

白人が現在もなお、執拗な「日本たたき」をやめようとしない理由はまさにここにある。白人の「反日主義」が、彼らの伝統的な人種主義の悪質かつ必須な要請であることは、すでに明らかであろう。

「反日主義」は人種主義である。「反日主義」を創始したのも実は白人であることに、われわれは十分注意しなければならない。これは、白人システムに対する有色人種によるいかなる挑戦をも容赦なく叩き潰すという、白人の強烈な意思の表現であり、その目的のために白人が特別に創設した戦略的なイデオロギーなのである。

中韓の反日は、白人の創始したこの「反日主義」イデオロギーを借りているにすぎない。反日主義という白人の人種主義イデオロギーを借りて日本を攻撃する中韓は、自らが愚かにも白人のアヘン商売の荷役を買って出ているにすぎないことに気付かない。

「白人システム」は、白人ツーリズムにおいて却って顕著に現れる。白人はいかなる個人旅行においてもこの「白人システム」をできる限り持ち歩こうとする。

このことは彼らが「カウンターカルチャー」だとか思い込んでいるらしいアジアへのバックパック旅行においても同様である。

彼らは自分の国での生活様式をそのまま、アジアの安いゲストハウスの自分たちの空間に持ち込もうとする。白人ツーリストが例外なく、巨大なバックパックを担いでいるのはそのためである。彼らは自国と同様の白人的な生活空間を、多少のエキゾティシズムを加えることはあっても基本的には、滞在先の各所にそのまま実現しようとする。

この点、白人はマイキムチを持ち歩く韓国人ツーリストに似ているが、白人の特徴は「空間の支配」の志向である。

彼らがアジアでは安宿を好み、大いにアジアの「安さ」を求め、背景に「アジア的」なアンビエンスを好んだり、アジア的な習慣のマネゴトをしてみたりするとしても、そこに持ち込む自分の空間はあくまで「白人世界の空間」でなければならないのである。

次に白人は必ず、そこに作り上げた自分たちの空間を外部に向けて拡大しようと働きかける。これは、白人文化に刻印されたコロニー作り・植民地主義の志向性にほかならない。

どんな辺境の地にあっても、貧乏旅行者を自称する白人ツーリストたちはコカコーラを要求するであろう。白人ツーリストの来るところには必ずコカコーラが流通する。

ロシアから来た白人も、東ドイツの田舎から来た白人も、アイルランドから来た者も、旅先ではコカコーラを飲むのである。それが白人ツーリズムのルールだからである。それに従いコカコーラはローカルにも浸透する。

白人ツーリズムは、白人援助・白人NPOとともに、なによりも白人世界・「白人空間」の非白人世界への拡大を目指す、現代の植民地主義にほかならない。

「白人」は自然人類学上の人種であると同時に、文明論上の客観的な範疇なのである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/journal/cat6354425/index.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c7

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
8. 中川隆[-13372] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:12:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1532]

オーストラリア人に乗っ取られたニセコ

【アジアの国が白人を受け入れて得るものなし:失うばかり】


オーストラリア人に乗っ取られた 北海道のリゾート町

国土交通省がまとめた2006年の都道府県地価調査(06年7月1日時点)で、北海道町が住宅地としては上昇率全国1位になった。スキーリゾート地として知られる同町だが、原因はオーストラリア人観光客の急増と、それを収容するコンドミニアムの建設ラッシュ。町内では「オーストラリア人に町が乗っ取られる!? 」という半分冗談が飛び交っている。

倶知安町観光協会によると、オーストラリア人観光客が増えたのは5年ほど前から。05年度は前年を80%上回る約7,700人のオーストラリア人観光客が来た。うち殆どが冬場に7日〜10日間滞在する。スキーやカヤック、温泉などが目当てだ。

コンドミニアム建設ラッシュが続く

倶知安町には英語以外にも、中国語のウェブサイトもある

町の人口は1万6,000人。その半分近い観光客。

「急に観光客が増えたため驚いている町民も少なくない。冬場だと街は外国人で溢れている。あわてて英語の観光案内を作ったほどだ」

J-CASTニュースの取材に協会はこう答えた。観光客が増えたきっかけと言われているのは、オーストラリア出身のロス・フィンドレーさんが十数年前にニセコに住んだこと。ロスさんが倶知安の素晴らしさをPRしていくうちに、口コミやインターネットでオーストラリアの人たちに伝わり、5年ほど前から一気に観光客が増えていった。

地価上昇の直接の要因は、この観光客をターゲットとしたコンドミニアム。倶知安町の「ひらふ」地区は建設ラッシュで、06年冬には36室の施設が新たにオープンし、08年の夏には60億円を投資した100戸以上の施設も予定されている。報道によれば、土地の価格は03年に3.3平方メートルあたり5万円だったものが、06年は30万円を超えるまでに上昇しているという。

経営はオーストラリア企業が大半で、地元に恩恵なし

これによって倶知安町の経済も活気付いているかというと、そうではないらしい。駅前商店街はシャッターが下りたままの商店街がすくなくない。コンドミニアムの経営はオーストラリア企業が大半。地元の宿泊施設もオーストラリア企業に買われているという。

また、「ニセコ花園スキー場」もオーストラリア企業の経営に代わった。同観光協会は、

「コンドミニアムの建設や運営は地元企業ではないため、(経済的な)恩恵は少ないんです」

と寂しそうに打ち明ける。さらに、地価が上がりすぎて「地元の人たちが手を出せなくなってしまった」と、人口減少の心配まで出ているのだという。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/141291/125681/18935312?page=2

ニセコ町、倶知安町は完全に白人によって現地人が駆逐され撃沈されつつあります。

2001年頃にオーストラリア人の英語講師サイモンが盛んにニセコへオーストラリア人を送るビジネスを開始したときには、純朴で外国人を疑う事のないニセコの地元の人たちや、札幌のHBC、STV、TVH等のテレビ局、北海道新聞等のメディアは

「北海道が国際的な観光地になり、オーストラリア人が観光で多くの資金を落としてくれ、素晴らしく、歓迎すべき大切なお客様」

という取り扱いであった。

北海道人はイギリス、ヨーロッパから世界中(オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ大陸、アフリカ、東南アジア)に植民地を作り、現地人を駆逐しながら定住し、一度略奪した土地は二度と現地人に返さない英国系の人達の文化に対して、完全に無知でナイーブであり、本当に馬鹿であった。

今でも馬鹿な人も多く、完全に駆逐され、白人の蛮行や搾取により八方塞がりにされ、自分の故郷で快適に生活できなくなってやっと気づく、純朴を通り越して馬鹿すぎる人も多い印象を受ける。

倶知安町の福島町長は2007年末でも

「ニセコが国際的に認められる観光地になり嬉しく思う」

等の発言をされているようであるが、現実は「国際的観光地」ではない。利用価値の高い土地はほぼ全て、観光ブームの火付け役となったオーストラリア人が、ブーム直前に破格に安く土地を買占め、建築計画、デベロッパー、販売会社、購入者ほぼ全てオーストラリア人をはじめとする外国人で、地元民は北海道の最低賃金の640円程度で、白人の別荘でメイド、女中をしたりしている。

白人は2001年頃に北海道のテレビ局等のメディアが賞賛したような経済効果をニセコや北海道に落とすことは殆どなく、地域開発、観光業の利益はオーストラリア人、オーストラリア企業に落ちている。倶知安町、ニセコ町や地元民は、土地だけ最低価格で売却した時の一時金を得ただけである。その後に発生した利益はまったく地元に還元されていない。

現在は白人が非常に増え、大柄な態度で、日本人を無礼に篤かったり、夜中に酔っ払って騒いで日本人に注意されるとなおさら嫌がらせをエスカレートさせたりと、日本人が平穏に暮らせない状態になりつつある。日本人は本当に白人に対して無知でナイーブ過ぎた。いずれ、オーストラリアのアボリジニー(原住民)のように日本人用の保護区を作ろうという態度に出かねない様相である。

保護区というより、会員制白人専用ゲレンデ、白人住民専用の地区、住宅街をつくり、住民以外(=日本人)出入り禁止地区を作るかもしれない。

白人に利用され駆逐されつつある地域に一定の規制を作り、植民地化をこれ以上進行させない時期に確実にきている。ニセコ町、倶知安町、後志支庁、北海道庁、中央省庁各機関が連携して、現況を再考し、具体策を作り早急に実行しなければいけない。

また、白人の中には北海道の女と多数関係を持っているものもいるので、倶知安、ニセコではHIV、エイズとうも確実に広がっていると考えられる。彼女らが、札幌等に出てきて、他の北海道の人達とも接点を持つので、急速に広がっているであろう。ニセコのオーストラリアブームはオーストラリア人だけが利益を上げ、現地人は逆に利益を害され、そのほかの日本人にも得なことは何もないと言って過言ではないだろう。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/141291/125681/18935312/list_comments

ニセコ温泉の話 オーストラリア人の富豪別荘エリア

ホテルニセコいこいの村に来る途中、別荘エリアの「入口」を通る。

 で、帰りは、別に別荘エリア内には侵入禁止ではないので、エリア内をドライブして、貧乏夫婦(私と奥さん)は素晴らしい別荘を車の中から眺めて思う存分嫉妬の嘆声を上げてきた。

 というのも、ここはオーストラリアの富豪(!)たちの別荘エリアだからである。


 なぜ、富豪と解るか?
 なぜ、日本人のものではないと解るか?

 それは簡単である。
 建てられている別荘の「質」が、全く違うからである。
 それは「ひと目」で区別できる。


 私がニセコにたまに来るようになったのは20年前から。オーストラリア人が不動産投資をし、別荘やリゾートマンションを建てるようになったのは10年ほど前からである。20年前のその前から、ニセコは別荘地だった。しかし、どの別荘を見ても、

「倹約してやっと建てた掘っ立て小屋」

 以上のものではなかったし、今でも、そうした日本人のみすぼらしい古い別荘はいたるところにある。

ところが、オーストラリア人のそれは、まるで小さな城のように、頑丈で、立派で、見た目も美しい。何よりも、どの家も壁一面を大きく硝子で作り、景色を楽しむことができるようにしている。南側に向けたその硝子壁だけでも驚きである。

建材もいいのを使っていて、大きな車庫のドアですら、日本人が使うガレージ扉などではなく、ずっしりとした木の、彫刻でも施しているような高級品を使っている。

こうした建材は日本では手に入らないのではないか、オーストラリアから持ってきているのではないか、と思えた。庭に駐めてあるジープは、もちろん宗主国英国製のレンジローバーの高級機種である。

 円高でオーストラリア人観光は減ったなどというけれども、オーストラリアや香港の大金持ちは、何も変わっていない、リッチな金の使いかたというのを心得ている。

 それに比べて、日本人の建てている別荘という名の粗末な小屋。

 日本人の別荘エリアにも入ってみたのだが(東山エリアにあった)、どの家も、地方都市の住宅街の建売住宅のように個性が無い。安普請であることがヒシヒシと見るものに確実に伝わってくる建築物だった。
http://plaza.rakuten.co.jp/atsushimatsuura/diary/200903090000/

まさに植民地になりかけているということだろう。

日本がこんなふうになっていくのは主に海外に滞在している日本人としても不愉快で不安でもある。

白人がいったん空間を作ってしまったら決して取り戻せなくなることを肝に銘じなければならない。彼らにとっては日本人よりロシア人のほうが「近しい」のである。

オーストラリア人、オランダ人、ドイツ人、北欧人など(周縁白人)の悪行の実態を暴き出しきっちり叩いておくことには意義がある。

イスラムやヒンドゥのような頑固な戒律あるいは強固な穢れ意識を持たない現代の日本人が、国内に白人を受け入れて勝手なことをさせていれば、行き着く先は日本全体がタイ北部、チェンマイのようになる(あるいはタイのビーチのようになる)ということ。

そのときの国民の精神の荒廃は、残念ながら現在のタイをしのぐものになる可能性がある。

日本では小学生の援助交際もあるようだが、いずれ毛唐が白昼堂々と日本の女子小学生を連れ歩くようになるだろう。そのとき警察は白人のやることには手を出せない


「ネットカフェで英会話を教えてやってただけだ」

「ただの友達だ。何が悪い」・・・・


どんなふうにでも開き直れる。そして警察官の「英語」をおちょくり毛唐得意の嘲笑交じりのネチャっこい「ニヤケ」とともに無視するだけ。


日本には不敬罪もない。令状主義が厳しく守られている。日本の警察権力が弱体であることを大いに悔やまなければならないという、民主主義を普通に尊重する者としてはたいへん残念な事態になるだろう。

かつて日本が貧しかったころ、幸いなことに「グローバリズム」はなかった。
白人ツーリズムのシステムも確立していなかった。

しかし、今度貧しくなるとしたらそのときは前と同じ状態に戻ることはできない。彼らが作って押し付ける「フェアなルール」の下、白昼公然と、国の深奥から、日本人の精神と肉体の内奥から、「目に見える」形で白人たちに食い荒らされていくことになる。そして彼らの公然たる蚕食の現実をわれわれが容認せざるをえないという事実によって、彼らのより奥深い支配が「合意事項」として確立し固定する。

白人、ましてやオーストラリア毛唐。

各種掲示板やメールを見渡しても、国の内外を問わず、とくにオーストラリア人で不愉快な思いをしたという体験を多数見聞きする。

白人の本丸であるアメリカを正面から敵にまわすことは当面無益だが、周辺の「破れ窓」をこまめに補修していくことで内外の意識を変え、事態を全体として徐々によりマシな方向に向けることができるのではないか(まずはそれをやるしかないのではないか)と考える。

その意味でもこういう小さそうな問題に注意を向けることは重要だと思う。

2流3流白人の実態をしっかり暴き出し、二度とキレイゴトを言ったり説教をしたりできないように叩いておくことで、白人世界の外堀を(すこし)埋める効果がある

(とはいえ、それでも彼らはキレイゴトを言うことをやめないだろうし説教もやめないだろう。それが彼らの「文明」と「野蛮」に関する信仰である。しかし効果は多少薄れる)。

3流も1流も彼らの本質は所詮同じ。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/141291/125681/18935312

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c8

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
9. 中川隆[-13371] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:14:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1533]

日本も早くタイやマレーシアの様な欧米人の理想のアジア国家になろう

2006年8月 1日 (火)
"The Sleeping Dictionary"(セックスする辞書) マレーシアの映画

なんとも情けない話である。

イギリスの植民地になった国々は、旧宗主国に対する尊崇の念が自己のアイデンティティの一部になっていることは確かなようだ。(準植民地だったネパールでもそうだし、ミャンマーでもアメリカは嫌われているのにイギリスはそれほどでもない。)

イギリスの場合は「植民地経営」と呼ばれたりするが、日本の場合は必ず「植民地支配」と呼ばれるのは納得がいかないが、長く支配した者の勝ちという教訓だろう。

植民地支配は、十分な実力を背景に容赦なくやること、被支配者を人間と思わないこと(言葉らしいものをしゃべる猿と人間との中間的な存在ぐらいにみなすこと)、被支配者同士を戦わせ争わせること、支配者の言語を複数の被支配者の共通語にすること、そして、とにかく長く支配を維持することが重要であるようだ。
他者をモノとみなすこと、あるいは本当に見下すことは、日本で思われているほど簡単なことではない。これは訓練を要する心の技術であり、少年時代からの教育と修練が必要である。

"The Sleeping Dictionary"という映画がマレーシアのテレビで放送されるらしい。

ここで"Sleeping Dictionary"というのは、「引かないで眠ったままになっている辞書」のことかと思いきや、そうではなかった。

sleepを英和辞典で引くと・・・「((略式))(異性と)寝る((together/with ...)). ▼「性交する」の婉曲(えんきょく)表現」とある。

サラワク(現在マレーシア領のボルネオ島の一部)の"Sleeping Dictionary"とは、イギリス人の植民地役人にあてがわれた、「寝床の辞書代わり」つまり「現地語教材かつ召使を兼ねた性処理用の土人女」のこと。

つまり「イギリス人殖民役人に寝物語で現地語を教える女奴隷」という意味である。

そしてこの物語は、高邁な精神を持つイギリス人役人が、あてがわれた土人売春婦とヤってるうちに愛が生まれたという世にもまれなる御伽噺のようである。
また、イギリス人に女をあてがったのは地元の土人側が勝手にしたことで、土人の未開な悪習からそうしただけであって、イギリス側が求めたわけではないという立派な結構にもなっている。

forbidden loveとあるのは、「土人側にはよくても文明国のイギリスからは禁じられた関係だった」という、まことによくできたお話である。

なお、この女の出身母体である土人は、サラワクの非ムスリムのIban族ということになっている。

あるツーリストは「ボルネオはタイの次に白人崇拝がひどかった」といっていたが、マレーシアの「土人売春国家」的な面が、非ムスリム少数民族との関係で噴出するということだろうか。

マレーシアも、ムスリムの少ないボルネオでは白人向け土人売春ツーリズム・レンタルワイフツーリズムを、タイ並みに振興したいのかもしれない。

なお、サラワクは、Brookeという白人のゴロツキが私的に占領して「白人王」(White Raja)を名乗っていたという歴史のある土地でもある。
誰か志のある人が、大川周明の「英国東亜侵略史」でも英訳して七つの海の国々に配布してくれると良いと思う。

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(記事全文 NEW STRAITS TIMES, AUGUST 1, 2006 より)

A tale of forbidden love By Hizreen Kamal
Set in the 1930s in Malaysia's rainforests, The Sleeping Dictionary tells the story of the tempestuous and forbidden love affair between a young, idealistic Englishman and a beautiful Iban tribeswomanWhen John Truscott (Played by Hugh Dance) takes up a job in the British colonial outpost of Sarawak to "civilise" the Malaysian natives, he is taken aback when he is presented with a native servant Selima (played by Jessica Alba) as his "sleeping dictionary", a local term used for women given to settlers to teach them the local language as well as sleep with them.

Although this unorthodox practice is a readily accepted custome in the local comunity, the pair is monitored closely by Governor Bullard - John's crusty superior - and Bullard's wife Aggie (played by Brenda Blethyn) to ensure that no romantic attachments result from the liaison.

(土人側には喜んで受け入れられた習慣だったが、イギリス植民当局は渋い顔をしただと。ただの肉便器辞書女の関係なら良いが、「恋愛」に発展するのはまずいと。)

John and Selima soon fall passionately and openly in love.
(普通は同国人の素人娘でも簡単にやれてしまうと急速にさめてしまうのが男の性だと思うが・・・・・

確かに、通常の恋愛とはまったく異質の「南国コロニーでの女奴隷遊び」という「特別な分野」に夢中になる白人は今も少なくないようである)


The colonial authorities and the native population soon turn against the lovers, setting off a chain of events that test their resolve to the limit.

(ローカルに受け入れられたのは「肉便器関係」だけであって「恋愛」ではなかったと。)

Filmed in Malaysia, the bettersweet love story directed by Guy Jenkin boasts spectacular cinematography, featuring the lush rainforests of Sarawak and rich colours of the exotic 1930s (including architecture and traditional custumes)The Sleeping Dictionary premieres on Asian television on Aug 27 at 10pm (Cinemax, Astro Channel 41)----------------------------------------------

サラワク原住民Iban族の野蛮性を良く表現した映画であるといえる。ぜひとも「野蛮」の存在を確認し、野蛮の中に神秘的な美を見出すとともに、それによって自己を確認したい白人にとっては垂涎の物語であるということになるのだろう。

はっきりいって、こういう白人に媚びた土人オリエンタリズムは迷惑である。

これを見た毛唐は

「ああ、アジアはやっぱりそういうところか。そうかそうか」

と納得して喜ぶだろう。サラワクへの土人買春白人ツーリストが増えることは間違いない。

「非ムスリムのアジア・土人のアジアは、白人にとって都合のいい便利な所だ」

という白人ツーリズム振興目的の宣伝は、ムスリムのマレー人のプライドは一向に傷つけない。ネイティブ(土人)でない移民系にも関係ない。だからマレーシアでこういう映画が抵抗なくまかり通ることになるのだろう。

なにより"The Sleeping Dictionary"というタイトルが下品というほかない。

いっそのこと日本も「肉便器」というタイトルの映画を作って、

「アジア女にカネ使うなんて、よっぽどもてない不細工な白人なんだろうね」

というキャンペーンをはってみたらどうだろう。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/cat6237979/index.html

"Sleeping Dictionary" 再考

聞くところによれば、

日本語を習得したいと思っている白人男性がまずなすべきことは「日本人のガールフレンドを作ること」

というのが、日本語学習を志す白人たちの「教科書的な答え」になっていて、そのとおりに活字にもなっているそうである。


彼らの日本語テキストには「日本語を覚えるために日本人のガールフレンドを作りました」とか「作りましょう」という話題が平然と出てくるのだとか。

白人にとってはいまでも、日本人を含めた「アジア女」は、望めばいつでも自由に手に入るもの、コンビニで買えるものという感覚なのだろう。

その意味で彼らにとってタイの売春婦も日本の英会話学生も変わるところはない。
(違いがあるとすれば、タイでは多少なりともカネがかかるのに対して、日本ではカネが入る、ただし、タイではハゲデブ60過のオヤジでも白人ならOK、日本ではそれはちょっと難しいかもしれない、というぐらい)。

この関係は、当事者の主観的な認識には左右されない「客観的な枠組み」として確立しているものであり、彼らが仮に主観的にまじめであったとしても、この枠組みから外に出ることはできない。

彼らがそれを意識しなかったとしても、世界的には、当然のようにその枠組みの中で人々に扱われる。それは、タイの上品な高級ホテルで白人男性とアジア人妻のカップルが歓迎されないのと同じく自然なことであり、タイの有名高級ホテルで白人客がつねに優先されるのと同じように揺るぎがたい、確立した枠組みである。

もし彼らが果敢に、その枠から「外に出よう」と努力するなら、その「努力」という行為自体によって、あらためて彼らの関係の「特殊性」が再規定されることになるだろう。したがって、世界に広がるこの枠組全体を壊してしまう以外に、個別にこの枠から自由になる方法はないということになる。

昔「セブン・イヤーズ・イン・チベット」という映画があったが、そこでも簡単に手に入ってしまうチベットのローカル女性と白人との「模範的な関係」が表現されていた。

そこでは、チベット女性をモノにすることは(よっぽど歪んだ性格の白人でない限り)ちょっと色目を使えばすぐに落ちてくるような容易なことなのだが、珍しい素材としての彼女を磨いて付加価値を付けるのは白人の嗜みである。

彼女の文化にすり寄ってみるのも白人の風流な遊びであり、趣味の類である。彼女の携える文化は一見異質そうに見えても、実は白人に容易に「理解可能な」ものばかりである。

白人にとって「異文化との出会い」は「深刻な葛藤」ではありえず、選択肢がひとつ増えたという素朴な喜びにすぎない。そこで彼らが出会うのは決して白人に理解不可能な、アクセス不可能な「他者」ではない。もしそのようなものだったとすれば、それは断固として根こそぎにすべき野蛮だということになる。

「異文化との出会い」とか「異文化コミュニケーション」という気持ち悪い言葉が日本に流布するようになって久しいが、その「出会い」が少しでも「まじめ」なものであるならば、当事者の内面に「深刻な葛藤」を生ずるのが自然だと思う。「異文化」は「厄介なもの」なのである。この認識は、英語だとか英会話だとか言って喜んでいる多くの日本人にも欠けているように思う。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/08/sleeping_dictio_51bf.html

Restoran Hameed'sで。この二人は周期的にここに来る。

典型的なごろつき白人の「レンタルワイフ」。

白人ツーリストたちが「スーツケースのプラグのようなもの」と表現する通りの女である。

彼らは普段はタイにいて南部のビーチあたりでふんぞり返っているのだろうが、男のビザ(あるいはノービザ滞在の更新)の都合でこうやってマレーシアに出てくるのだろう。マレーシアで見る白人の中でもとりわけ汚らしい、下水のような連中である。

この女がこの男のレンタルワイフ(長期契約売春婦)でないということはないだろうが、万一そうでなかったとしても、そう見られる責任は彼らにある。

タイのレンタルワイフと法律上の「結婚」をする白人男も少なくない。しかし、彼らには日本人のような戸籍の観念はない。1年2年でいくらでも離婚できる。仮に子供が出来ても、タイ女の親族が育てるので平気である。女はまた売春バーで働けばいい。女もカネのことは心配するがそれ以外のことは平気で、白人の子を周囲に自慢するくらいのことである(この点は日本人肉便器と共通しているかもしれない)。男は慰謝料さえほとんど払わないことがある。

タイのレッドネックバー、売春バーを回ってみれば白人と「結婚」したことのある売春婦を見つけることは難しくないはずである。

つまり、白人にとってこのような「結婚」は、買春のひとつの形式なのであり、東南アジアバカンスのパッケージに組み込まれた要素に過ぎない。

白人は、白人の歴史を背負い、この世界でそしてアジアで、現に特権を享受している。そうである以上、彼らの歴史に規定された不利益の方も甘んじて受けなければならない。(白人世界の豊かさは、今日の日本の豊かさのようにほとんどゼロから60年で自力で作り上げたものではないのである)。

東南アジアでこのような薄汚いアジア女を連れ歩く以上、その白人男はレンタルワイフを連れているとみなされてもやむをえない。

東南アジアで現地女を連れ歩く白人の80パーセントがそれに該当するとすれば、残りの20パーセントは世間のそのような評価を甘んじて受け入れるか、それが嫌なら東南アジアに立ち入らないか女を連れて自分の国に帰るべきであろう。

どんな金持ちでもゴム草履と短パンランニングシャツで外を歩くのは自由だが、その格好で高級ホテルに入っていけば守衛につまみ出されても文句はいえない。貴金属店に入っていくなら、警察を呼ばれてパトカーで連行されしばらくあれこれ調べられてもやむをえない。それと同じことである。

つまり、白人が東南アジアでこのような女を連れ歩く以上、これが「契約買春でない」という主張立証責任は白人の側にあるということである。

それ以前に、この男の場合、売春婦であろうとせめてもう少しまともな格好をさせて連れ歩くべきである。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/?mode=m&no=87

"Discrimination"、BBCの日本批判【忘れないために】

自称日系ペルー人、カルロス・ピサロ(ホセ・マヌエル・トレス・ヤギ)による、広島市の木下あいりちゃん強姦殺害事件に関し、BBCニュースは、その背景に日本社会の「差別」があることを強く示唆した。

この事実を忘れてはいけないと思う。

これが白人ジャーナリズムの日本批判、日本報道の基準を示すものであるからだ。

またBBCニュースは、「ある一人のセネガル人」から聞き取ったという日本での「差別体験」を紹介し、日本人の「外国人差別」を強調する。それは何の具体性もないただの被害妄想と言ってもいいもので、次のようなものである。

For many foreigners living in Japan, however, discrimination is a real problem. Treatment appears to be determined by a range of factors - from socio-economic status to ethnic background.

Gemba, a Senegalese who works in a topless bar in the red-light district of Kabukicho, said: "Every day, I feel discriminated against. Japanese people don't like foreigners.

"If you are inside a train, the Japanese will not sit close to the foreigners."
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/asia-pacific/3708098.stm


これはもうお笑いというしかないが、彼がもし差別を感じたとしたら、それは彼が歌舞伎町の「トップレスバー」で働く不法就労外国人だからというのが、普通のマトモな頭の人間の考え方だろう。しかし、BBCはそうは考えないのである。

大男が大股開きで中途半端な位置に座り、足をぐらぐらゆらし、周囲の日本人を睥睨し、コカコーラをラッパのみしたりチューインガムをくちゃくちゃ噛んでいたりすれば(この種の振る舞いは、ほとんどの白人が東南アジアでごく普通にやっていることでもあるが)、そいつが外人であろうと日本人であろうと、白かろうと黒かろうと、普通の人間なら近寄りたくないのは当然である。

合法的に日本に滞在しているまっとうなセネガル人は、この「トップレスバーのセネガル人」についてどう思うだろうか。

また、欧米豪の白人諸国において、白人たちは、電車で不法滞在者らしきアフリカ出身男性の隣の席に座る義務を感じ、その義務を誠実に履行しているというのであろうか?

ともあれ、ジャーナリストがこのような一人の(事実上匿名の)外国人の主観的経験の聞き取りで記事を書いていいのなら、私にも言うことがある。

私が3年ほど前にタイで話をしたあるタイ女性は、かつてデンマーク人と結婚していて、一年ほどデンマークに住んでいた。その間、初めて雪の実物を見るという楽しい体験もあったが、見知らぬデンマーク人から「アジアへ帰れ」と罵倒されることはしょっちゅうであったという。

言葉だけではなかった。あるとき彼女が自転車に乗っていて、交差点で信号待ちをしていたとき、2人の巨体のデンマーク女が突然彼女の自転車を二人がかりで押さえつけ、前へ押し出してきた。彼女はただ恐ろしいだけで、何事が起きているのか一瞬理解できなかったが、それがひたすらなる「悪意」による「嫌がらせ」であることを了解した。

女二人で示し合わせたこの犯行は個人の思いつきや出来心とはいえないない。ネオナチでもないだろう。白人社会の本来の土壌に根ざしたきわめて悪質な人種差別犯罪といえる。

有色系外国人は白人諸国で、白人の人種差別に基づくこのような現実の生命の危険に日々晒されているのである。

このような犯罪は、白人国家では毎日起きているはずだが、白人ジャーナリズムがそれを報じることは決してない。

また、BBCニュースはタイでいかに白人が優遇され、有色外国人、とくに色の黒い人種がひどい扱いを受けているかについても一言も語ったことがないはずである。

優遇のあるところには差別もある。不当に優遇されるものがいれば必ず不当に差別されるものがある。しかし、白人メディアはタイにおけるきわめて明瞭かつ明示的な「白人ゆえの白人優遇」については一切語らない。

というのも、このようなタイのシステムが、白人にとってもっとも都合の良い「アジアのあり方」を示すものであるからである。すなわち、白人の理想とするアジアは、全アジアが「タイのような自由な国」になることだからである(その対極にあるのがイスラム社会であろう)。

したがって、白人の作り上げる評価基準は、タイを「自由な国」とし、デンマークのようなレイシスト国家を「高度に人権の保障された国」と認定し、ロシアでさえ自由で民主的な国と評価する。

ロシアをはじめヨーロッパ各国で、東洋系人種が投石、暴行、殺害等、直接の暴力の危険にさらされていることはほとんど論じられない。

これらの問題が白人ジャーナリズムによって「ネオナチ問題」という「特定地域の特殊問題」として語られることはあるが、彼ら自身の世界の人種差別問題として問われることは一切ない。

すなわち、ヨーロッパ全般で見られるアジア系人種に対する嫌がらせ、罵詈雑言、暴行、投石等の事案は、「ネオナチ」の枠内で処理され、そのことによって「知的でリベラルな」彼ら自身とは無関係な特殊な人々の問題と見做され、安心して脇に置かれる。

これらの切迫した現実の危険を伴う問題が、「ネオナチ」問題の定式を介さず、「白人による有色人種差別」すなわち「白人世界の人種差別主義的な土壌に根ざした人種差別犯罪」として、白人ジャーナリズムによって率直に問題にされたことが一度でもあるだろうか。

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白人の「日本の人種差別」批判は白人自身の人種差別・アジア蔑視に由来する

日本が、白人から「人種差別」という批判を受けることになる一つのありそうなモデルはこうである。

アジアにくる白人ツーリストはまず最初にタイにやって来ることが多い。タイは物価が安くその割に安全であるといわれる。イスラム国でもなく、欧米人を狙ったテロもおきていない。文化的制約やタブーも少なく何よりも白人が優遇されるから欧米ガイドブック等でも絶賛されている。若い白人の貧乏旅行には最適の国ということになる。

実際、タイに行ってみると、日本では想像のできないほど大量の薄汚い白人ツーリストがアジアに来ているのだということがわかる。そのほとんどは日本には恐らく一生来ないだろう。

タイとその周辺国だけを見て、

「私はアジアがわかった」とか「アジアはすばらしい」

とか、寝言を言っている白人ツーリストも少なくない。

彼らは一生日本を見ないまま「アジア」を語って過ごすのだが、彼らがアジアを気に入ったとすればそれは、アジアの「後進性」と白人ゆえに与えられていた「特権」からに他ならない。

彼らの中にはやがて少しカネができたころに日本にやって来るものも出て来る。アジアの非イスラム国・仏教圏だと思って、タイの延長くらいの軽い気持ちで日本にやって来る。

しかし、ちょっと物価の高いタイに行くような気持ちで日本に来てみたところ、タイとはちょっと勝手が違うことに気づく(六本木と肉便器とNova講師だけでやりくりできた者にとってはタイと同じだが、みながそううまく行くとは限らない)。


・タイでは安かった物が日本ではこんなに高い。アジアなのに・・・

・ネット屋がその辺にない。アジアなのに・・・

・米ドルが使えない。街に両替所がない。アジアなのに・・・

・タイでは許されていたヤンチャやワガママが日本ではやりにくいような感じがする。バックパックを担いで喫茶店内を歩き回りながら(白人の普通の声で)しゃべっていたら日本人たちに白い目で見られた。→日本には「自由」がない!「人権」が抑圧されている!

・日本では白人だからといってタイほどにはチヤホヤ持ち上げてもらえない。アジアの非イスラム圏なのに・・・→これはきっと「外国人差別」だ!

・タイでは、禿げて腹の出た60代の白人オヤジも若い娘を自由に連れまわしていたのに、日本では30代の俺が若い娘に持てない。ちょっと禿げて少し体重が増えているだけなのに・・・→これはあきらかに「差別」だ!日本社会の「差別体質」がここに現れている!

・日本にはバービアもゴーゴーバーもない。タイのように若いレンタルワイフを簡単に手に入れられるところがない。その上、風俗店は外国人を入れてくれない。・・・→これは明々白々な「人種差別」である!


註:外国人は日本の風俗店には入れないと聞いていたが、実際はそうでもないようである。

先日バンダ・アチェで会った男は、日本で5年間不法就労したことがあると言っていた。色黒で一見して外国人とわかる容姿だったが、流暢な日本語で日本滞在時代の楽しい思い出について熱く語ってくれた。

インドネシア人の友人に連れられて行った西川口の本ストでは入場料3000円のほかに別室料金3000円で完全満足制であった。外国人だからといって別室で差別されることはなかった。

ただ、「ジャンケン」に参加することができるのは日本人だけであったという。ジャンケンに勝てば別室に行く必要はない。彼はジャンケンに参加できなかったことを何度も残念そうに語っていたが、外国人が本ストのまな板ショーのジャンケンに参加できないことが「外国人差別」として問題にされるべきかどうかは、さらに議論の余地があろう。

アチェはもともと風紀の厳しい土地柄であり、彼は割礼のある敬虔なムスリムである。彼が性感染症を日本に持ち込んだ可能性はきわめて低いと思われる。

これに対して、HIV感染率が高く、ろくに風呂に入らず、傲慢で、自らの傲慢さには気づかず日本人をarrogantと批判し、空気も読めず、遊び方も知らず、「イエース、イエース、ハッハッハッハッ」と女に襲いかかることしか知らない白人が日本の風俗店に入れてもらえないのはきわめて当然の扱いである。
バンダ・アチェの日記はのちに上げる予定である。


・昔カオサンで買ったDieselの半ズボンをはいて脛毛をさらして日本橋三越を歩いていたらなんとなく浮いてるような気がした。タイではどこでも半ズボン姿で歓迎されたのに・・・→これは「人種差別」に違いない!


白人はだいたいこの程度の連中である。

白人の日本批判が基本的に、上記のBBCの「歌舞伎町の風俗店で働くセネガル人」からの伝聞記事のような根拠薄弱な思い付きで成り立っている反日宣伝にすぎない以上、われわれもまた、あらゆる伝聞や噂を動員して、これに対抗し白人世界の反人権・反人道の現実を摘出し続ける必要がある。

そういう努力をしなければ、「日本人は罪を認めた」とみなされ「やっぱり一番悪いのは日本人だ」と強調されて、白人たちの不法非道は不問に付されたままになるだろう。残念ながらこれが現在の世界のルールである。

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白人ツーリズムは現代の植民地主義である

白人の基準によれば、デンマークは「高度に人権と表現の自由の保障された国」であり、タイはマレーシアよりも立派な「自由の国」であって、ミャンマーは民主主義はもちろん人権に関しても最底辺に位置づけられる国であろう。

白人はまず、「ミャンマーに旅行すべきかどうか」すなわち「ミャンマーに旅行することは正しいことかどうか」を議論するところからはじめる。

これは彼らの頭が完全に狂っている証拠としか私には思えないのだが、彼らは、

「(白人)ツーリストがミャンマーの人権状況を監視することができるから行ったほうがいい」

というキチガイじみた結論に達するのである(ロンリー・プラネット)。

しかし彼ら白人ツーリストは、「白人にとって居心地のいい・都合のいい場所」にしか最初から行くつもりはない。常に「白人の生活様式一式」を巨大なバックパックに詰めて辺地を移動する擬似「異文化」体験を求めるツーリストにすぎない。

したがって、彼らのいう「人権を監視する」とは、白人がどれだけ「ふさわしく」「文明的に」扱われるかを監視するということ、すなわち、有色人種たちがご主人様たる白人をもてなすマナーをちゃんと守っているかどうかを監視することに過ぎないのである。

白人ツーリズムはまさに、現代の植民地主義にほかならない。現代の植民地主義たる白人ツーリズムをイデオロギー的に指導し、弁護するのが、「ロンリープラネット」である。

彼らは白人がミャンマーに旅行することの是非については大いに語るが、タイでレンタルワイフを雇ってアジア中を連れ回している大量の白人男たちの「旅」の是非については決して語らない。

脛毛を出してのし歩き、地域住民感情など一切意に介さず、どんな片田舎にもアジア人売春婦を連れまわし、西洋式の買春の仕方とビールとコカコーラのラッパ飲みの仕方を実演して見せ農山村にまで害毒を撒き散らしている大量の白人男たちの行動の是非については、決して語らないのである。

なぜミャンマーが非難されるのか

ミャンマーは人種差別も少なく、日本人旅行者にもやさしい国である。

人権と民主主義に関していえば、ネパールの専制の方が深刻である。ブータンも自由で民主的な国とは言えない。もちろん私はブータンを批判するつもりは全くない。

なぜミャンマーは白人に批判され、ネパールやブータンは批判されないのか。ネパールやブータンはアメリカに楯突いていないし、ネパールはイスラエル人を含む白人ツーリストを大々的に受け入れてちやほやしているからかもしれないが、なにより、ミャンマーには天然資源があり、地政学的にも重要な位置にあるからだろう。

ミャンマーには、将来インドとともに発展し、世界的な食糧難の時代に食料資源の供給に寄与しうる潜在的な力がある。

植民地時代にイギリスは、マンチェスターで織った綿布をビルマにロンジー用に「輸出」し、ビルマの米を「輸入」するという形式で、ビルマの富を搾取していたほどである。

ミャンマーが人権批判をかわすには、根本的にはアメリカに膝を屈し、内外にアメリカの価値の優位性を宣言しなければならないのだろう。

しかし、近道がないこともない。ヤンゴンの目抜き通りに売春バーやプールバーを開き、英国旗やカナダ旗、オーストラリア旗掲げて白人ツーリストを誘致歓迎し、現地女性を自由に抱かせる。これは事実上の白人の「勝利宣言」「優越宣言」であり、ビルマ人の「雌伏」の宣言になる。(ボス猿が交尾の真似をすることによって上下関係を公認させることと同じ原理だが、ここでは従属させようとする集団の雌たちと実際に交尾するのである。)

白人が欲しいのは(広い意味で)イデオロギー的な「ヘゲモニー」であり、白人の文明的「優位性」を、国際的にもミャンマー国民にも、認めさせることだから、現地女が競って白人男に憧れ抱かれたがる姿を世界中に晒させることでもかなりの部分目的は達成できるのである。

しかしそれをやってしまったらミャンマーは終わりであることは言うまでもない。千年単位の国家の自殺である。

タイのようにゆっくりと腐って行き、周囲に腐臭を撒き散らしながらやがて自壊する国になるほかはない。

アウン・サン・スー・チーの意味とアウン・サン将軍の動機

ミャンマーが特別な批判を受ける理由(口実)の第一は、もちろん、アウン・サン・スー・チーをめぐる問題である。

彼女は「人権弾圧」の「象徴」にすぎないが、何よりも「ヘゲモニー」を求める白人にとっては「象徴」が極めて重要な意味を持つ。

ミャンマー政府がアウン・サン・スー・チーを弾圧するということは、アウン・サン・スー・チーが代表するところの「白人世界」(「白人の理念」「白人の正義」および「白人の支配する世界のルール」)に対して、ミャンマー政府が正面きって反抗しているという象徴的な意味を持つ。白人にとっては何よりもこの「意味」が重要である。

アウン・サン・スー・チーは、内面は完全なイギリス人で、ビルマ語も満足に話せないといわれる。イギリスの雌犬にすぎない。それでは、自らの娘を旧宗主国の女奴隷のように育てた「建国の英雄」アウン・サン将軍とはどんな人だったのだろうか。

彼は日本軍の支援のもとでビルマ国民軍を創設し国防大臣の地位についたが、戦後(連合国に対し)「日本人はわれわれを犬のように扱った」と公言している。

The Japanese were able to maintain Burmese political support for only a short time before their harsh and arrogant conduct managed to alienate the Burmese.(日本人はほんの少しの間はビルマ人の政治的支持を得ることができたが、過酷で傲慢な振る舞いでビルマ人を遠ざけようとして支持を失った。・・・・・

訳註:これを書いているのはきっと『ロンリープラネット「タイランド」』を書いているあのレイシスト白人男だろうと思う。ロンリープラネット「ミャンマー」の執筆にはあの男も一部加わっている。

彼はビルマ人とタイ人との区別もつかないようだ。白人が優勢になったらすぐに白人側に日和り、日本人に背を向けただけでなく、日本軍の駐屯地を襲ったりしたのはタイ人である。日本が優勢に見えたときには日本人に媚び、日本軍について来てビルマに侵攻し、シャン州を侵略したが、その罪は、後の白人への必死の媚びへつらいと死に体の日本兵への容赦ない残虐行為という踏み絵により、戦後も不問に付されたのである。

ここに書いてあるのは、タイ人がとった醜悪な行動を白人の側から都合よく解釈したものに過ぎない。それがビルマ人にも当てはまると勝手に妄想しているだけだろう)
Aung San expressed his bitterness during his stay at Japan's 15th Army headquarters in Maymyo(now Pyin U Lwin):

I went to Japan to save my people who were struggling like bullocks under the British.But now we are treated like dogs.We are far from our hope of reaching the human stage,and even to get back to the bullock stage we need to struggle moreLonely Planet, Myanmar(Burma), Facts about Myanmar-Historyより


要するにアウン・サンは、日本人のもとで自分たちは人間並みに扱われなかった、イギリスに支配されていた方が良かったというのである。

イギリスに支配されて去勢された牛、すなわち白人にぺこぺこしながらも結構良い思いのできる植民地エリートでいた方が良かったと彼は思ったのであろう。

結局のところアウン・サンも、アジア途上国エリートにありがちな男で、エリート意識とコンプレックスとのあいだで揺れたすえ、白人にはどうしてもかなわないと観念し、反日にコンプレックスのはけ口を見出した反日家、白人崇拝主義者でしかなかったということだろう。

しかし、すべてのビルマ人が彼と同じように感じていたとは私は思わない。日本兵とともに最後まで戦い散華したビルマ人を含め、大部分のビルマ人は彼とは別の考えを持っていたはずである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/09/discriminationb_bbd7.html

東南アジアにいる白人「教師」たちはほとんど性犯罪者の集まり。

日本でもそうかもしれないが。

若者への「性的いたずら」でタイから追放されるアメリカ人英語教師【NST】

オーストラリア人英語教師が児童買春・児童ポルノ作成で逮捕される ジャカルタ インドネシア

2,3年前には、チェンマイの大学の白人先生が、ホテル「スリ・トーキョー」で売春婦相手にバイアグラセックスをして腹上死した事件があった。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/08/post_1629.html

白人メディアも認めざるを得ない
「アジアでの英語教師職は性犯罪者の隠れ蓑」−AP通信(ジョンべネ事件)

[記事の概要]アジアの英語教師の世界は、旅行中に簡単に現金を稼ぎたいバックパッカーや海外での経験を作りたがっている新卒者、そして、何か隠し事があって絶えず動いている連中の、浮動的なネットワークである。

機会と成功と同視されるこの言語を学びたい人が多い地域では、多くの国で、ネイティブの英語教師の需要が供給をはるかに上回る。

多くの英語学校では教師の転職率は高く、審査は最小限のものである。インチキの認定書を持ってくる者や、−このJohn Mark Karrのように−本国で教師を辞めさせられた者にも、アジア中で広く門戸を開き、彼らを教室に招き入れている。

10年前の事件のときに「ジョンベネと一緒にいた」ことを自供している容疑者Karrは、2001年以来ドイツ、オランダ、コスタリカで教師をしており、同年4月カリフォルニアで児童ポルノ所持で逮捕され6ヶ月の服役の後、姿を消した。

その後、Karrは、2002年に韓国で数ヶ月、2005年にホンジュラスで、そして今年6月、「厳しすぎる」という理由で解雇されるまで2週間、バンコクの一流の学校で教えていた。

Convicted sex offenders from various countries have popped up in Asia as English teachers性犯罪の前科者たちが英語教師としてアジアにひょっこりやってくる。

"It's a very traditional paedophile strategy,""If you want to sexually abuse children what better job would there be."

これはたいへん伝統的な小児性愛者の戦略である。もしあなたが子供を性的虐待したいなら、これよりいい仕事があるだろうか。

犯歴のある外人教師が、ばれないようにするのは簡単である。前歴や素性に関する情報が国際的に共有されることは容易ではないからである。もっとも格式の高い英語学校でさえ審査は困難である。

とくにタイのような観光国家では、英語能力に対する需要が大きく、これが教師の欠員をすぐに埋めなければならないプレッシャーになっている。

アジアではニセの教師証明書も安く手に入る。仕事はいくらでもある。たとえば、昨年度日本では4500の外国語学校があり14000人近い教師がいた。韓国では12000のネイティブスピーカーが私立学校で教えている。

(ニセでもOK仕事はいくらでもあるときて、いきなり日本の数字が挙げられている。いずれ、日本の女が英語教師名目の白人性奴隷を買いあさり虐待している、とか批判されそう。その通りなら仕方がないが・・・・)

世界中の国の学校がネットで求人広告を出しており、教師たちが、仕事を見つける前に短期で働き、すぐに次の仕事に移ることが容易になっている。これが逃亡中の性犯罪者のための完璧な隠れ蓑をセックスツーリズムで悪名高い地域に提供している。・・・・・・・・・・・

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こんなことはいまさらくどくどというまでもないこと。

中卒のオーストラリア人でも白人でさえあれば英語教師の口はすぐに見つかると思う。オランダ人、ドイツ人や北欧人でも英語が話せればOKではないだろうか。しかし、アジア系や黒人だったらアメリカの一流大学を出ていてもタイの民間語学学校で英語教師の仕事はまず無理だろう。

現在大量の一般白人ツーリストたちが、タイを中心とする白人セックスツーリズムセンターにおしよせいるにもかかわらず、彼らがそこで何も見ていないということはありえない。

みんな十分知っているはずなのに、白人メディアは、Karrの事件のような言ってみればくだらない「失踪白人女性症候群」的な騒ぎがおきて初めて教科書的な能書きを披瀝している。

この記事に出てくる白人NGOなども、東南アジアなど行ったことのない人間向けのお上品な言い訳の仕事をしているに過ぎない。

白人はただセックスバカンスにいそしんでいるだけでなく、チャイルドセックスツーリズムを憂いているんです、というところだが、日本人などが何かしたときの彼らの反応に見られるような高飛車な非難の態度はまったくなく、ひたすら「憂う」のみ。

今回は「英語教師」がターゲットなので、白人は逃げられない。アジアの「英語」産業が、名だたる人種主義産業、白人至上主義産業であることは言うまでもない。白人もアジア人もみんな知っていることである。

必要もないのに「英語」を勉強したがることは、かっこ悪いだけでなく、実害を生んでいるという認識を、日本人はもっと持つ必要がある。

私は以前、日本など東アジアでの英語教師を目指す(イギリス)人向けの指南書みたいな本をチラッと見たことがる。前書きで、金額まで挙げて

「日本でビジネスマンとちょっとおしゃべりするだけでこんなに儲かるのだ。これをやらない理由があろうか。これは不道徳だろうか。いや、そうではない・・・・日本人はとてもhumbleな人たちである・・・・」

みたいなことが、くどくど書いてあった。そこしか読まなかったのだが、しんそこ日本人をなめきった内容だった。humbleというのは卑屈とか卑しいという意味だと思った。こういうのを読んだ人間が英語教師として日本などに来るのである。

「教師はみんな外国人」なんて広告を出している学校には特に注意すべきだと思う。正常な感覚の人間が聞けばただでもいかがわしく感じるセリフだが、性犯罪者をかくまいかねない社会的にも有害な施設であるといえるだろう。

こういう学校は、間接的にであれ白人セックスツーリズムを激励し、白人による児童買春ツーリズムにも寄与しているのだということが、今回の事件でますます公になってきたといえる。

小学校で英語を教えるそうだが、これにも反対である。福沢諭吉は25歳から覚えたそうである。戦前の知識人は、ほとんど読本だけで英語を学んだが、英語もほかの外国語もよく使いこなした。読めない外国語がまともに話せるわけがなく、読めるようになれば英会話など習わなくても話せるようになる。

よく言われるとおり、内容のない話をぺらぺらしても軽蔑されるだけである。英語をぺらぺらしゃべって尊敬されるのは、後進国の情けない連中にだけである。尊敬というより羨望で、あなたの英語が彼らから見て上手すぎればだだちに嫉妬に変わり、白人を巻き込んだ返り討ちにあうだろう。

そういうかわいそうな国では、白人ツーリズムが産業の重要部分であり、「英語を話せること」がすなわち「学問」であり「教養」なのである。

彼らはそれ以外の「教養」の定義についてほとんど思いをめぐらせたことがない。国が発展するということの意味も考えたことがなく、自国が事実上の乞食国家であるという自覚もない。

つまり、小学校で英会話を教えましょうというのは、それらしい英語をしゃべるタイの白人バーの売春婦みたいな子供をたくさん養成しましょう、ということにほかならない。

とくに白人の英会話インストラクターを大量に採用するようなことは、現実問題として、日本に大量の白人ぺドフィリアを引き入れるというのとほど同義である。白人NGO団体も性犯罪者をスクリーンのしようがないと認めているのである。

白人男が、キャリアにもならず大してカネにもならない日本での英会話教師などを志願するのは、女以外の目的はまずないだろう。しかも白人男にとってアジアの幼女というのは格別に魅力的なものらしい。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-15.html


児童買春(子供買春)2008年10月 2日 (木)

クアラルンプルでまた幼女(10歳くらいに見える)を連れた白人男を見る
あまりに堂々としているので写真も撮らなかった。「正当な理由」があるのかもしれない。「正当な理由」を準備して堂々と振舞うことで白人は世界を制覇してきた。

今日、クアラルンプルの中華街で、10歳くらいに見える幼女を連れた30歳くらいのバックパッカー風白人男を見た。10歳くらいに見えるというのは、もし日本人の女の子だったらそのくらいの年頃に見える、ということ。東南アジアの子だから12歳か13歳くらいかもしれない。

どう見ても白人の子には見えないが、父親に似ないこともあるのでこの汚い白人男の子でないとは断定できない。かわいいアジアの女の子、どっちかといえば中国系の子に見えた。

「正当な理由」はいろいろある。

「養女(義理の母親もあり。カネで現地女を雇う)」

「孤児と遊ぶボランティア」

「少数民族の子供にただで英会話や勉強を教えてあげるありがたい白人青年ボランティア」

「現地妻の連れ子(現地妻を雇うがそのオバサンが目的ではもちろんない)など。

こちらにも書いておいた。
http://kuantan.aboutme.jp/user_statuses/show/82392


白人の強みは情報、ネットワーク、「野蛮の地」における惜しみない相互扶助、重要なことにはカネを惜しまないこと、長いバカンスが取れる「生活の質」などである。これらの諸要素は、「正当な理由」付の児童買春・児童性的虐待遊びや「ガールフレンド」遊びにも有効である。

「イスラム国家」マレーシアの首都クアラルンプルで幼女連れ白人を見たのはこれで2回目である。いずれも中華街。一回目はこれ。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-116.html
http://journal-ibrahim.blogspot.com/2007/03/kl.html

  
なお、タイの幼女連れ白人の実例はこれ。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/04/crime.html


【タイ】5歳の養女に性的暴行を加えた72歳の米国人男を逮捕 パタヤ

「バービア」というのはビア・バーすなわち、タイの売春バーのことです。タイでは絶対売春(対価を支払って女の子をお持ち帰り)がないバーというのはまずないので、すべてのバーは潜在的に売春バーといえます。

タイではすべての恋愛や結婚も、かなり長期契約売春といえるわけですが。(別にマルクス主義者〔結婚は法制度化された売春だと主張する〕とかでなくても納得するような「あからさまな」意味で)。
 
母によると、ビーチ付近で娘と散歩中に声をかけてきた男にいきなり娘を養子にしたいとの話を持ちかけられ

白人男による、こういう形での幼女少女調達、偽装夫婦による児童性的虐待は、タイではありふれたものです。白人のお家芸といえます。

アジア系男はこういう段取りが苦手なようで、売春宿から児童がいなくなってからはトンと児童買春に縁がなくなったようですが。

  
「タイの地元新聞を読む」より。 
   
5歳の養女に性的暴行を加えた72歳の米国人男を逮捕

 チョンブリー県パッタヤー地区の警察当局は18日夜半、5歳の養女に対する性的暴行容疑で72歳のアメリカ人の男を逮捕した。

 この逮捕は、養女の実母であるバービヤで働く21歳のタイ人女性が警察に被害届を提出した事により実現したもので、実母によると、ビーチ付近で娘と散歩中に声をかけてきた男にいきなり娘を養子にしたいとの話を持ちかけられ、当初は疑っていたものの、男の誠実な対応に心を打たれた両親や親戚の勧めを受け、娘の教育費や自分の住居費の面倒を見るという条件で今年5月に養子契約を締結したという。

 しかし、その後男が、定期的に娘を男の家に行かせるという当初の約束に満足できず、終いには娘を男の家に留め母親に会わせることを拒むようになった為、不審に思い17日に何とか娘に会うことが出来た際に娘に生活状況を聞いたところ、娘から毎晩の様に男に性器を触られたり、無理矢理男の性器を咥えさせられているとの証言が得られたことから、男に娘の返還を要求したが拒絶された為警察に告発したという。

 逮捕された男は警察の取り調べに対して一貫して容疑を否認しているが、警察側は、養女と実母の証言に一致する点が多いことから、実母の告発は事実に基づいたものであると見て、医療機関で養女の診察を行った上で、あらためて詳細な事情聴取を行う方針を明らかにしている。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/times/2008/07/572_c8c3.html

 59歳のアメリカ人男がチャイルドセックスで逮捕 
11歳と12歳の少女とプノンペンのホテルで カンボジア

59歳のアメリカ人男が11歳と12歳のカンボジア人少女とプノンペンのホテルにいるところを警察に逮捕された。月曜日、元旦のこと。

これは児童買春というより、幼女奴隷といったほうがいいのだろう。

白人の場合、同時に二人の幼女と性行為をすると逮捕される確率が高いようである。このケースは男が2人の幼女と一緒にホテルにいるところを逮捕されている。身を隠そうとする形跡すらない。

このケースの被害者はベトナム人少女でなく、カンボジア人少女のようである。(なおさら悪質性が高いように感じられる。ことさら幼女を求めて貧しい家庭と交渉したことが考えられる。というのは、ベトナム幼女の人身売買には「市場」があるが、カンボジア人幼女の人身売買には市場がないからである)。

最近のカンボジアでも、白人が逮捕され報道されるケースはこのようなエゲツナイものばかり。

幼女を連れて歩いているくらいでは逮捕もされないのだろう。

孤児援助のボランティアだ、NGOだ、ミッショナリーだなど、白人にはどんな言い訳でもして開き直る用意がある。実際、その手のボランティア、NGO、ミッショナリー等が、白人のチャイルドセックス、児童性奴隷、人身売買の温床にもなりカバーにもなっているのである。


An American held over child sex

アメリカ人男が幼女性的虐待と人身売買の罪で逮捕される プノンペン カンボジア

裁判所は昨日、アメリカ人の男をヒューマントラフィキングと二人のベトナム人幼女を性的に虐待した罪で告発した。(カンボジアは糾問主義)。Myron Maboris(46歳)が、水曜日、当地のゲストハウスの彼の部屋を手入れされたあと逮捕されたと、市の人身売買対策警察の副長官、Keo Theaが語った。警察は、Maborisが13歳と14歳の2人の少女と部屋にいるのを見つけた。彼は彼女らとセックスをしたとされる。(マレーシア紙New Straits Timesより)

白人が起こすこのような犯罪は、3日に一回ぐらいの割合で報道されている。このアメリカ人男も白人でないとは考えられない。タイ近辺では、黒人は道を歩いているだけで犯罪者扱いされ警察の尋問を受けることが多い(マレーシアを除く。マレーシアはタイとは逆で人種差別がタブーというのが国是の国で、黒人はのびのびしている〔ただし白人崇拝がまったくないわけではない〕)。

日本人男性がこのような事件を一件でも起こしたならば、(産経新聞も含めて)日本の新聞は大きく紙面を割いてスキャンダラスに報道するだろう。そしてその報道がまた世界中にフィードバックされて復唱されるのである。
しかし、こちらで3日に一度のように報道されている白人の性犯罪は白人世界のメディアではまず報道されることがないだろう。彼らにとってはこのような事象は「ない」ということになる。白人セックスツーリズムの醜態についても具体的には報道されることはないのではないか。

カンボジアでクズなドイツ人が逮捕されてもドイツの新聞が報道するということはないだろうし、アメリカ人でも同じ。

当地の新聞で報道されるものも、起訴に至ったものばかりであるし、それもすべてかどうかわからない。実態と比べれば、氷山のほんの小さな一角である。

東南アジアの国々の警察は(マレーシアも含めて)白人に対してはきわめて及び腰である。タイはいうまでもないが、カンボジアのような弱小国ならなおさらであろう。もしも白人を誤認逮捕でもしたら欧米メディアにどれだけたたかれることか。賠償を請求され、重要な資源である観光のイメージを悪くすることか・・・・。

よほどの目にあまる確証(たとえば近所の人間は誰もが知っているとか、白人NPOからの通告とか、白人からの密告とか)がない限り、なかなか強制捜査に着手できないのではないだろうか。この事件の犯人も、2人のローティーンの少女を同時に、ゲストハウスの自分の部屋に連れ込むという、おぞましくも不用意な男である。
underageというのが何歳からになっているのかわからないが、新聞で報道されるのは女の子が15歳未満の場合ばかりである。

日本のように17歳と援助交際で逮捕されて名前を晒されるということはない。17歳の少女を堂々とレンタルワイフにしている白人男は東南アジアにはいくらでもいるだろう。

つまり、underageでない年長女子との同棲や事実上の人身売買は大手を振ってまかり通っており、そのような白人は自国メディアでの倫理批判を受けることもなく開き直っているということである。

児童買春カテゴリーを見てほしい。白人の児童買春犯罪がいかにすさまじく性懲りもないことか。

私は常に新聞をチェックしているわけではないし日本にいるときもあるから、これらは報道されたものの中でも氷山の一角、つまり氷山の一角のさらに一角なのである


ドイツ人男が児童性的虐待で10年の刑 シアヌークビル カンボジア

裁判所は、7歳もの若さの4人のホームレスの少年に性的虐待をした36歳のドイツ人の男に10年の刑を言い渡した。男の名前は、Watrin Alexander Moritz。火曜日、シアヌークビルの地方裁判所により、debauchery(遊蕩):これは当地の当局が使う性的虐待を意味する言葉、の罪で有罪の宣告を受けた。(マレーシア紙New Straits Times記事)

「プノンペンの置屋にたむろする日本人」を批判する産経新聞の記事を前にあげたが、白人流のやり方の一端がこの事件に現れている。ホームレスの少年と直接交渉したようである。白人はフィールドを好むようだ。

アンコールワットの近くにあるレストランなどにも多くの白人ツーリストがたむろしている。

そして、実にかわいらしい(カンボジアの子供はたいていかわいらしいが)幼い少女たちが、彼らのところに笛を売りに来る。白人男たちはまず買わないが、物売りの幼女たちと会話を楽しんでいるようだった。

4年前に私が見たのはそこまでであるからそれ以上のことは言えない。

しかし、3,4年前のタイで。「チェンマイの花売り少女」は8歳ぐらいから20歳近いのまでいた。多くは山岳少数民族の女の子たちで、ロイクローの売春バーにたむろする白人酔客たちのところに行って薔薇を売っている。(チェンマイのバーは売春バーでもオープンバーで花売りが自由に客のところまで行ける)。客は花を買ってバーの女(多くが売春婦で少数民族の少女が多い)にやるのである。

花売り娘たちは夜更けまでチェンマイの街中をうろついていた。中にはかわいらしい12歳の少女で、なぜか英語が上手すぎる子もいた。

NGOのようなところに出入りしていた14歳のアカ族の少女は、バーの白人客から500バーツでホテルに行こうと持ちかけられたことがあると言っていた。彼女は学校には行っていなかったが英語が話せた。キリスト教ミッショナリーに侵食された村の出身らしく、自分もクリスチャンだといっていた。英語は村の教会(高床式の村の中でひときわ目立つけばけばしくペンキを塗りたてた小屋など)で教わったようだった。

タイの山岳少数民族はお金に困ることが多い。彼女らのほとんどが「永久IDカード」は持っていなかった。タイ族なら無条件にIDカード(=タイ市民権)が交付されるが、山岳少数民族には難しい。町に出てきている山岳民族の多くが期限付きのIDしか持たず、その更新をするには警察に大金(私が聞いたときは4000バーツ)を払わなければならない。(IDカードなしでも自分の村には住めるが、移動の自由はなく町に出ることができない。

彼らは本来山岳地域を移動しながら焼き畑農業などをしてきたので、移動を禁じられることは自給自足の生活さえ脅かされることを意味する。また貨幣経済の浸透により、現金収入も必要になっているからどうしても町に出ざるを得ない。一方ミャンマーではすべての山岳民族が永久IDを与えられる。山岳少数民族の市民権に関する扱いではタイよりもミャンマーのほうがより「人権」に配慮している)。

彼女たちにとって4000バーツは気の遠くなる大金である。このような状況に陥った少女たちに対してファラン(白人)の「援助」の手が差し伸べられることは、大いにありそうなことであろう。

東南アジア全域で、花売りや物売りや乞食の少年少女(幼女)に「援助」を持ちかける白人男は数え切れないと思われる。
 
アジアの現地警察は(日本を含めて)、白人の性犯罪に関してはよほど目に余ることをやっていない限り手を出せないということにも注意すべきである。

カンボジア警察はよくやっているほうだが、これは国連が作り出した「スワイパー村」での幼女買春(お客は国連関係者)が問題になった経緯があり、国連機関・国際警察機構が取締りの後押しをしているからである。

タイ当局は「取り締まらないことによって問題がないことにする」政策を貫き、映画「闇の子供たち」をも弾圧している。


「闇の子供たち」、タイで上映中止に=バンコク国際映画祭

(私はこの映画を見ていないし原作も呼んでいないので、その内容についてはここで評価することはしないが)。

実際、タイの田舎を回ってみれば、不自然な3人家族を見かけることは珍しくないはずである。白人の「父親」とタイ人「妻」と12歳前後の「娘」が、会話も交わさず人目を忍ぶように、あまり人の来ないようなホテルに滞在し、転々としている。
タイ北部の田舎でゲストハウスを経営していたあるアメリカ人は、そういうドイツ人の「父親」から宿泊の依頼を受けたが断ったと言っていた。しかし、このアメリカ人は「良心的」といえるか?

「野蛮」の地では白人同士はやばいことでも遠慮なく頼むし、頼まれたほうもできるだけ力になろうとする。野蛮人の警察に通告したり恐喝したりはしないのである。

アジアの白人ツーリズムは異常である。中東から西では、これに類するような嫌なものは見なかった。ごくまれに土人売春婦連れの白人を見たくらい。
    


2008年9月17日 (水)
いまだに繰り返される「日本人もやっている」で黙らせようとする論法
先日、アクセス解析のリンク元解析を見ていたら、ある匿名掲示板にこの記事のリンクが貼ってあり(よくは読まなかったが)、あいかわらず「そういうことは日本人もやっている」という反論がなされていた。

はっきりいえば、少なくとも今、日本人はこんなことはやっていない。80年代の幼女が万国の路上で売りに出されていたころならどうかわからない。しかし、今こういうことを堂々とやっているのは白人だけである。

なぜなら、相手が白人の場合と日本人の場合とでは現地警察の対応がまったく異なってくるからである。

白人も幼女買春で逮捕されることは多いが、東南アジアで逮捕される事例は、被害者が非常に幼い場合がほとんどで、同時に複数の13歳未満の幼女を自宅やゲストハウスの部屋に引き入れて同時に淫行していたとか、常習であったり、派手なものがほとんどである。目にあまるので近所の住人のうわさになり通報があったような場合である。警察が気がついただけでは容疑者が白人なら見て見ぬふりをするのが普通だろう。カンボジアはいまは多少厳しいかもしれないが、タイではまずそうである。

一方、日本人がこの写真にあるような行為をしていたなら、直ちに現地警察が駆けつけて逮捕するだろう。タイなら現地マスコミも大喜びするはずである。

東南アジアのNGOや国際機関も白人主導であり、できるだけ「アジアで児童を虐待しているのはやっぱりアジア人だ」という結論を導きたがっている。彼らも白人の悪行はなるべく表に出したくないのである。

昔も今も、この種の犯罪行為の「数」から言えば白人が圧倒的である。白人は日本人が東南アジアなどに買春旅行にいくようになる何百年も前から、アジア、アメリカ、アフリカの植民地でこの種の犯罪を普通に、犯罪ともされずにずっと行ってきているのである。

「量の違い」、ということを無視することは欺瞞である。白人が今も続けている圧倒的な歴史的犯罪を、日本人の一件の犯罪で中和することはできない。同じような犯罪行為を行う日本人が数名いたとしても、この種の犯罪の主体が白人であることには変わりはない。

圧倒的な量の違いは「質の違い」なのである。

さらに、「日本人もやっている」という反論で白人批判を中和しようとする言論は、その論者がこの種の行為を「本当は悪いと思っていない」ということを示している。

彼らは日本人がやっている限りはその行為を手厳しく批判し、日本人を非難するだろう。rところが、白人だけがやっているときにはすっかり批判の手を緩めてしまう。それが「悪い」ことであるならば、誰がやっていようと、白人がやろうと日本人がやろうと悪いのだが、彼らにとってはそうではないということだ。

「人権」や「正義」は重要な理念である。ところが、世界史上最も人権や正義を踏みにじってきた白人が人権や正義をもっとも声高に叫んでいる。彼らが偽善者なのは確かだが、だからといって人権や正義が無意味になるわけではない。

つまり、仮に「日本人もやっている」としても、われわれは白人のこの種の犯罪行為を見つけたならばそれを糾弾することができるし、また、しなければならない。人権や正義の普遍性ということはそういうことである。白人は白人の評価を下げるような事実をできる限り隠蔽しようとするのが現実なのだから、なおさら非白人が声を上げなければならない。
 
白人によって「アジア人もやっている」という反論がなされる以上に、日本人自身が「日本人もやっている」で黙らせ、議論自体を潰そうとすることが多い。この種の「日本人もやっているで黙らせる論法」は、非常に「ムラ的」で団体主義的で配分主義的な言論だといえると思う。「日本人ならそのようなことをよそに向かって言うべきではない」といって、日本人言論社会の思想統制をしようとしているに等しいからである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/journal/cat6339172/index.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c9

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
10. 中川隆[-13370] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:15:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1534]

日本の文化にすり寄ってみるのも白人の風流な遊びであり、趣味の類である。

日本の文化は一見異質そうに見えても、実は白人に容易に「理解可能な」ものばかりである。

白人にとって「異文化との出会い」は「深刻な葛藤」ではありえず、選択肢がひとつ増えたという素朴な喜びにすぎない。

そこで彼らが出会うのは決して白人に理解不可能な、アクセス不可能な「他者」ではない。もしそのようなものだったとすれば、それは断固として根こそぎにすべき野蛮だということになる。

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c10

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
11. 中川隆[-13369] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:15:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1535]

「日本は地上の天国」「日本に行けばヤリ放題」 2012年10月18日木曜日


沖縄で、27歳の女性が米兵に輪姦される事件がありましたが、女性は複数の米兵に追い掛け回された上、首を絞められて、40分以上にもわたって輪姦されたということです。

しかも、米兵は日本に来たばかり。まだ2週間ほどしかたっていない。

犯人の米兵(海軍。海兵隊ではない)は狂っていたわけではなく、最初は女性に声をかけています。日本語混じりでなにか話しかけ(ナンパしようとしたのかもしれませんが)、無視されたため、腹を立てて、追いかけて輪姦したようです。

これは、日本に来る前から、「沖縄に行けばその辺の女をやり放題だぞ」という話があり、そういう予備知識を持ってやってきたに違いないと思われます。

そんなイメージを作っているのは、沖縄にかぎらず、日本人の責任でしょう。

たとえば、タイを賛美する日本人には、「タイは天国」などという言い方をする者がいるようです、これは「タイはなんでも思い通りに行くところ」という意味でしょう。つまり、早い話が、「タイに行けば女をやり放題だぞ」くらいの意味です。

それと同じような感覚で、この米兵たちも「日本は天国」「沖縄は天国」と聞かされていて、そういうつもりで赴任してきたのだろうと思います。この米兵は、カタコトながら日本語で話しかけているのです。
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.jp/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c11

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
12. 中川隆[-13368] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:16:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1536]

道端に女の子のパンツがいっぱい干してあるようなのどかな村に、西洋式生活を全部入れた巨大なバックパックを背負っておしかけ、欧米直輸入のギラギラした眼差しで、女の子が水浴びしている姿やおばさんが昼寝している姿をノゾキ歩くというのが、白人ツーリズムである。

白人ツーリズムの目的はつねに、征服感なのである。

未知のものを暴き出し、未知の領域を踏破し、その空間に白人が滞在できるシステムを設置したという、征服および空間の支配の感覚こそ白人ツーリズムがあくことなく求め続けているものである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/12/post_ba4e.html


白人ツーリズムの本源は、十字軍ツーリズム、大航海ツーリズム、植民役人ツーリズムであり、その実相はまず持って、レイプツーリズムにはじまり、幼女姦ツーリズム、人買い・児童買いツーリズム、すなわちゴーギャン鬼畜ツーリズムを基本とするものである。

ゴーギャンこそ児童ポルノのパイオニアである。
このように、白人ツーリズムは「セックスツーリズム」と不可分である。

しかし、この「セックス」は本国におけるセックスと同じではない。「隠されたもの」を暴き出し、「未踏の地」を白人の30センチのビブラムソールで踏みにじり踏破する。
目に付いた処女の脚を開かせてその日常における処女膜の様態を確認し、さらにその断裂の様態をも観察する。これもまた人種分類をうちたてた白人人類学に属する。

重要なことは、これら一連の破壊行為が白人にとってはたんなるエネルギーの消費ではないということである。彼らは「野蛮人」の文化の収奪、有色人種の文明的なエネルギーの収奪という意味を持つようなシステムを確立した上で、この破壊行為に及んでいるのである。

ツーリズムは多かれ少なかれ伝統文化の破壊を将来するが、白人ツーリズムの特徴はやはりその宣教師的な性格、すなわち、熱心な「破壊+宣教」活動にある。
つまり、白人(セックス)ツーリズムは、「破壊」であると同時に「宣教」もあるのである。それは次のようなシステムを持つ。

白人ツーリズムはセックスツーリズムと不可分であるだけでなく、「男女関係」にかんする規範の破壊を必ず将来し、旧来の規範に変わる新しい規範を強要する(恋愛ツーリズム)。

ところが、この「男女関係に関する規範」こそ、あらゆる伝統文化の「形」を維持する堤防なのであり、文化の要(かなめ)なのである。

白人ツーリズムによって「男女関係に関する規範」を破壊された土地は、いわば堤防を壊された「輪中」部落のようなものである。

そこには何の歯止めもなくなり、新しい規範たる白人消費文化と(キリスト教を含む)白人イデオロギーとが無制限に流れ込むことになる。

このように、白人ツーリズムは、たんなる「恋愛ツーリズム」によってさえ、白人世界による非白人ローカル文化の破壊と宣教、その文化的なエネルギーの収奪の尖兵となり、その文化破壊と「新規範の注入」を敢行していくのである。

白人ツーリズムの動因は今も昔も「セックス」(これは「破壊と宣教」でもある)である。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/12/post_1ade.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c12

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
13. 中川隆[-13367] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:27:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1537]

アジア人と白人はとても同じ人間には見えない


フランシス・レイ 『続エマニエル夫人』


Francis Lai & Sylvia Kristel 映画「続エマニエル夫人」 Emmanuelle II L'Anti Vierge




Emmanuelle(エマニエル夫人)− Pierre Bachelet





Emmanuelle − Pierre Bachelet
http://www.xvideos.com/video20154645/emanuela_1974
 

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c13
[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
14. 中川隆[-13366] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:31:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1538]

アジア人と白人はとても同じ人間には見えない


フランシス・レイ 『男と女』


Un homme et une femme / 男と女 (フランス映画)






1966 Escena Film Un Homme et Une Femme






「男と女」(1966年)フランス映画
監督:クロード・ルルーシュ(カンヌ映画祭グランプリ受賞作品)
出演:アヌーク・エーメ(アンヌ)、ジャン=ルイ・トランティニャン(ジャン・ルイ)
音楽:フランシス・レイ

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c14
[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
15. 中川隆[-13365] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:36:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1539]

アジア人と白人はとても同じ人間には見えない

ダニエル・リカーリ 『エンニオ・モリコーネ Chi mai (From 'Maddalena')』





Danielle Licari - Mal de toi Ennio Morricone | ダニエルリカーリ





「Chi Mai」音楽の、仏語で歌う「Danielle Licari - Ennio Morricone CHI MAI」。


 Danielle Licari は フランス映画「シェルブールの雨傘」でヒロインの歌の吹き替 えをした歌手、ダニエル・リカーリ。





(Extrait) MADDALENA - Jerzy Kawalerowicz - 1971

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c15
[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
16. 中川隆[-13364] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:40:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1540]

アジア人と白人はとても同じ人間には見えない

フランシス・レイ 『白い恋人たち 13 Jours en France』


13 Jours en France







【フランス語】白い恋人たち (13 Jours en France) (日本語字幕)









作詞:ピエール・バルー Pierre Barouh
作曲:フランシス・レイ Francis Lai
歌 :Pierre Barouh & Nicole Croisille ピエール・バルー&ニコール・クロワジール
監督:クロード・ルルーシュClaude Lelouch & フランソワ・ライシェンバッハFrançois Reichenbach。

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c16
[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
17. 中川隆[-13363] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:56:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1541]

アジア人と白人はとても同じ人間には見えない


Romeo And Juliet (1968) Love Theme















http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c17
[近代史4] 大恐慌の時代 中川隆
10. 中川隆[-13362] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:00:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1542]
[NHKスペシャル]] デジタルリマスター版 映像の世紀 第3集




映像の世紀 第4集 ヒトラーの野望〜人々は民族の復興を掲げたナチス・ドイツに未来を託した〜



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/630.html#c10
[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
16. 中川隆[-13361] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:01:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1543]



映像の世紀 第4集 ヒトラーの野望〜人々は民族の復興を掲げたナチス・ドイツに未来を託した〜



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c16
[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
24. 中川隆[-13360] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:03:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1544]
映像の世紀 第2集 大量殺戮の完成〜塹壕の兵士たちは凄まじい兵器の出現を見た〜



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c24
[近代史4] 20世紀初めはこういう時代だった 中川隆
6. 中川隆[-13359] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:04:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1545]

【新・映像の世紀】第1集 第一次世界大戦・100年の悲劇はここから始まった



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/612.html#c6
[近代史4] 大恐慌の時代 中川隆
11. 中川隆[-13358] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:17:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1546]

ナチの実権を握った後も、ヒトラーの生活は質素だった。相変わらず狭いアパート(トーランド本によると8フィート×15フィート)に住んでいた。トーランドは続けて「ウィーンの独身男子寮と大差なかった。そこはその建物の中で一番寒い部屋で、家主のエルランガー氏によれば、『その部屋を借りた下宿人の何人かは病気になりました。いまは物置がわりに使っています。もう借り手は一人もつかないでしょう』」と書いている。

 さらにトーランドはエルランガーについて、「ヒトラーが当時住んでいた下宿の主人エルランガーがユダヤ人で、しかも(ヒトラーに対して)快い想い出しか持っていなかったというのは皮肉である。『わたしはしばしば階段や入り口で彼と顔を合わせました……彼はたいていノ−トに何か書いていました……かれがわたしをほかの人間とはちがう目で見ている、と感じさせられたことは一度もありません』」と別のページの脚注につけ加えている。

 ところが、演説ではヒトラーはユダヤ人を攻撃した。第1次世界大戦の敗北、その後の革命騒ぎ、そのような状況下でも儲ける金融資本家を批判して、4月12日の演説で以下のように語っている。

「我々は、すでに外国の植民地なのである。しかも、我々は能う限り卑屈な態度をとり、我々自身の名誉を毀損してまで、これを助成した……共同体を形成するというがごとき概念がユダヤ人にはまったく欠けているため、彼[ユダヤ人]は破壊し、また破壊せねばならないということである。この場合、個々のユダヤ人が『正しい』か否かは、もとより問題とはならない。彼[ユダヤ人]は自然が彼に付与した特質をあくまで有しているのであって、永久にこれから脱れることはできないのである」(「我が新秩序」、阿部良男著「ヒトラー全記録」よりまた引き)

 6月24日、ベルリンでは外国の信頼の厚かったワルター・ラーテナウ外相が、右翼グループに暗殺される事件が起こる。ラーテナウはユダヤ人で企業家であり、大富豪だった。外相就任後、アメリカへのドイツの苦境の理解の浸透、賠償を請求する連合国諸国にはヴェルサイユ条約を履行する積極的な態度を示しながら、いかにその賠償を支払うことが不可能に近いかを理解させることに力を尽くした。

 東方に向かっては、ラーテナウはソヴィエトと条約を結び、相互賠償の破棄、通商関係の再開、ソヴィエト近代化への助成、軍の相互協力がその中に盛り込まれた。

 国粋主義者はそれに反発した。

 ラーテナウ暗殺は外国を刺激し、ベルリン、ハンブルクの取引市場は大混乱に陥り、マルクは大暴落した。「当日1ドル350マルク、7月末670マルク、8月中2000マルク、10月末4500マルク(「全記録」。「ワイマール共和国史」には「7月にはいるとドル相場は5000マルク以上に達した」と書かれていることも紹介されている)
 ドイツ政府は緊急通貨政策を実施、地方自治体、鉄道、大手醸造所などは独自通貨を発行してそれをしのごうとしたが、インフレは収まる気配がなかった。

 ラーテナウが暗殺された6月24日、ヒトラーはバイエルン分離主義者の集会を妨害した罪で収監される。ヒトラーの入獄は約1ヶ月間続いた。ヒトラーは監獄でますますユダヤ人攻撃の思索を重ねた。7月27日に釈放され、その翌日にはラーテナウ暗殺をきっかけに生まれた「ドイツ共和国擁護法」(右翼、左翼を取り締まる法律)を批判、その中でより激しくユダヤ人を攻撃した。

「ユダヤ人はけっして紳士民族ではない。彼らは搾取者であり、強盗民族なのだ。彼らの破壊した文化は幾百に上がろうが、彼らは未だかつて文化を建設したことはない。彼らの有するものは、自ら創造したものではない」(「全記録」)

 この年の秋、第1次世界大戦の空の英雄ヘルマン・ゲーリングがナチに入党した。

 第1次世界大戦終盤から1923年頃まで、日本は大正期で、第1次世界大戦での山東省からドイツの駆逐、ロシア革命を牽制するための欧米列強に倣ったシベリア出兵などはあったが、概ね大きな波は起こっていない。

 1918年、米の価格が暴騰したため富山を発端とする全国規模に膨れあがった大正米騒動が起こったり、1920年3月株価が大暴落、戦後恐慌など不安定な出来事もあったが、「大正デモクラシー」の時代であり、後年から俯瞰すると昭和への前奏曲という感が強いことは否めない。

 政治的には1921年(大正11年)11月4日、原敬首相暗殺事件、市民生活・自然災害としては1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の発生が昭和への不気味な胎動を思わせる。

 軍備は増強され、大艦巨砲主義から巨大戦艦や空母の建造、また無政府主義者や共産主義者の弾圧・暗殺も行われた。憲兵大尉甘粕正彦による大杉栄、伊藤野枝を殺害した事件は関東大震災の直後、1923年9月16日だった。

 また、袁世凱の死後(1916年)、軍閥が割拠しはじめた中国で、日本は中国東北部(満州)での足がかりを確固としたものにしようとしている。租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が1919年(大正8年)に関東軍として独立した(Wikipediaより)。
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=17

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/630.html#c11

[近代史4] アドルフ・ヒトラーの世界 中川隆
10. 中川隆[-13357] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:18:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1547]

ナチの実権を握った後も、ヒトラーの生活は質素だった。相変わらず狭いアパート(トーランド本によると8フィート×15フィート)に住んでいた。トーランドは続けて「ウィーンの独身男子寮と大差なかった。そこはその建物の中で一番寒い部屋で、家主のエルランガー氏によれば、『その部屋を借りた下宿人の何人かは病気になりました。いまは物置がわりに使っています。もう借り手は一人もつかないでしょう』」と書いている。

 さらにトーランドはエルランガーについて、「ヒトラーが当時住んでいた下宿の主人エルランガーがユダヤ人で、しかも(ヒトラーに対して)快い想い出しか持っていなかったというのは皮肉である。『わたしはしばしば階段や入り口で彼と顔を合わせました……彼はたいていノ−トに何か書いていました……かれがわたしをほかの人間とはちがう目で見ている、と感じさせられたことは一度もありません』」と別のページの脚注につけ加えている。

 ところが、演説ではヒトラーはユダヤ人を攻撃した。第1次世界大戦の敗北、その後の革命騒ぎ、そのような状況下でも儲ける金融資本家を批判して、4月12日の演説で以下のように語っている。

「我々は、すでに外国の植民地なのである。しかも、我々は能う限り卑屈な態度をとり、我々自身の名誉を毀損してまで、これを助成した……共同体を形成するというがごとき概念がユダヤ人にはまったく欠けているため、彼[ユダヤ人]は破壊し、また破壊せねばならないということである。この場合、個々のユダヤ人が『正しい』か否かは、もとより問題とはならない。彼[ユダヤ人]は自然が彼に付与した特質をあくまで有しているのであって、永久にこれから脱れることはできないのである」(「我が新秩序」、阿部良男著「ヒトラー全記録」よりまた引き)

 6月24日、ベルリンでは外国の信頼の厚かったワルター・ラーテナウ外相が、右翼グループに暗殺される事件が起こる。ラーテナウはユダヤ人で企業家であり、大富豪だった。外相就任後、アメリカへのドイツの苦境の理解の浸透、賠償を請求する連合国諸国にはヴェルサイユ条約を履行する積極的な態度を示しながら、いかにその賠償を支払うことが不可能に近いかを理解させることに力を尽くした。

 東方に向かっては、ラーテナウはソヴィエトと条約を結び、相互賠償の破棄、通商関係の再開、ソヴィエト近代化への助成、軍の相互協力がその中に盛り込まれた。

 国粋主義者はそれに反発した。

 ラーテナウ暗殺は外国を刺激し、ベルリン、ハンブルクの取引市場は大混乱に陥り、マルクは大暴落した。「当日1ドル350マルク、7月末670マルク、8月中2000マルク、10月末4500マルク(「全記録」。「ワイマール共和国史」には「7月にはいるとドル相場は5000マルク以上に達した」と書かれていることも紹介されている)
 ドイツ政府は緊急通貨政策を実施、地方自治体、鉄道、大手醸造所などは独自通貨を発行してそれをしのごうとしたが、インフレは収まる気配がなかった。

 ラーテナウが暗殺された6月24日、ヒトラーはバイエルン分離主義者の集会を妨害した罪で収監される。ヒトラーの入獄は約1ヶ月間続いた。ヒトラーは監獄でますますユダヤ人攻撃の思索を重ねた。7月27日に釈放され、その翌日にはラーテナウ暗殺をきっかけに生まれた「ドイツ共和国擁護法」(右翼、左翼を取り締まる法律)を批判、その中でより激しくユダヤ人を攻撃した。

「ユダヤ人はけっして紳士民族ではない。彼らは搾取者であり、強盗民族なのだ。彼らの破壊した文化は幾百に上がろうが、彼らは未だかつて文化を建設したことはない。彼らの有するものは、自ら創造したものではない」(「全記録」)

 この年の秋、第1次世界大戦の空の英雄ヘルマン・ゲーリングがナチに入党した。

 第1次世界大戦終盤から1923年頃まで、日本は大正期で、第1次世界大戦での山東省からドイツの駆逐、ロシア革命を牽制するための欧米列強に倣ったシベリア出兵などはあったが、概ね大きな波は起こっていない。

 1918年、米の価格が暴騰したため富山を発端とする全国規模に膨れあがった大正米騒動が起こったり、1920年3月株価が大暴落、戦後恐慌など不安定な出来事もあったが、「大正デモクラシー」の時代であり、後年から俯瞰すると昭和への前奏曲という感が強いことは否めない。

 政治的には1921年(大正11年)11月4日、原敬首相暗殺事件、市民生活・自然災害としては1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の発生が昭和への不気味な胎動を思わせる。

 軍備は増強され、大艦巨砲主義から巨大戦艦や空母の建造、また無政府主義者や共産主義者の弾圧・暗殺も行われた。憲兵大尉甘粕正彦による大杉栄、伊藤野枝を殺害した事件は関東大震災の直後、1923年9月16日だった。

 また、袁世凱の死後(1916年)、軍閥が割拠しはじめた中国で、日本は中国東北部(満州)での足がかりを確固としたものにしようとしている。租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が1919年(大正8年)に関東軍として独立した(Wikipediaより)。
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=17

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/374.html#c10

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
53. 中川隆[-13356] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:18:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1548]

ナチの実権を握った後も、ヒトラーの生活は質素だった。相変わらず狭いアパート(トーランド本によると8フィート×15フィート)に住んでいた。トーランドは続けて「ウィーンの独身男子寮と大差なかった。そこはその建物の中で一番寒い部屋で、家主のエルランガー氏によれば、『その部屋を借りた下宿人の何人かは病気になりました。いまは物置がわりに使っています。もう借り手は一人もつかないでしょう』」と書いている。

 さらにトーランドはエルランガーについて、「ヒトラーが当時住んでいた下宿の主人エルランガーがユダヤ人で、しかも(ヒトラーに対して)快い想い出しか持っていなかったというのは皮肉である。『わたしはしばしば階段や入り口で彼と顔を合わせました……彼はたいていノ−トに何か書いていました……かれがわたしをほかの人間とはちがう目で見ている、と感じさせられたことは一度もありません』」と別のページの脚注につけ加えている。

 ところが、演説ではヒトラーはユダヤ人を攻撃した。第1次世界大戦の敗北、その後の革命騒ぎ、そのような状況下でも儲ける金融資本家を批判して、4月12日の演説で以下のように語っている。

「我々は、すでに外国の植民地なのである。しかも、我々は能う限り卑屈な態度をとり、我々自身の名誉を毀損してまで、これを助成した……共同体を形成するというがごとき概念がユダヤ人にはまったく欠けているため、彼[ユダヤ人]は破壊し、また破壊せねばならないということである。この場合、個々のユダヤ人が『正しい』か否かは、もとより問題とはならない。彼[ユダヤ人]は自然が彼に付与した特質をあくまで有しているのであって、永久にこれから脱れることはできないのである」(「我が新秩序」、阿部良男著「ヒトラー全記録」よりまた引き)

 6月24日、ベルリンでは外国の信頼の厚かったワルター・ラーテナウ外相が、右翼グループに暗殺される事件が起こる。ラーテナウはユダヤ人で企業家であり、大富豪だった。外相就任後、アメリカへのドイツの苦境の理解の浸透、賠償を請求する連合国諸国にはヴェルサイユ条約を履行する積極的な態度を示しながら、いかにその賠償を支払うことが不可能に近いかを理解させることに力を尽くした。

 東方に向かっては、ラーテナウはソヴィエトと条約を結び、相互賠償の破棄、通商関係の再開、ソヴィエト近代化への助成、軍の相互協力がその中に盛り込まれた。

 国粋主義者はそれに反発した。

 ラーテナウ暗殺は外国を刺激し、ベルリン、ハンブルクの取引市場は大混乱に陥り、マルクは大暴落した。「当日1ドル350マルク、7月末670マルク、8月中2000マルク、10月末4500マルク(「全記録」。「ワイマール共和国史」には「7月にはいるとドル相場は5000マルク以上に達した」と書かれていることも紹介されている)
 ドイツ政府は緊急通貨政策を実施、地方自治体、鉄道、大手醸造所などは独自通貨を発行してそれをしのごうとしたが、インフレは収まる気配がなかった。

 ラーテナウが暗殺された6月24日、ヒトラーはバイエルン分離主義者の集会を妨害した罪で収監される。ヒトラーの入獄は約1ヶ月間続いた。ヒトラーは監獄でますますユダヤ人攻撃の思索を重ねた。7月27日に釈放され、その翌日にはラーテナウ暗殺をきっかけに生まれた「ドイツ共和国擁護法」(右翼、左翼を取り締まる法律)を批判、その中でより激しくユダヤ人を攻撃した。

「ユダヤ人はけっして紳士民族ではない。彼らは搾取者であり、強盗民族なのだ。彼らの破壊した文化は幾百に上がろうが、彼らは未だかつて文化を建設したことはない。彼らの有するものは、自ら創造したものではない」(「全記録」)

 この年の秋、第1次世界大戦の空の英雄ヘルマン・ゲーリングがナチに入党した。

 第1次世界大戦終盤から1923年頃まで、日本は大正期で、第1次世界大戦での山東省からドイツの駆逐、ロシア革命を牽制するための欧米列強に倣ったシベリア出兵などはあったが、概ね大きな波は起こっていない。

 1918年、米の価格が暴騰したため富山を発端とする全国規模に膨れあがった大正米騒動が起こったり、1920年3月株価が大暴落、戦後恐慌など不安定な出来事もあったが、「大正デモクラシー」の時代であり、後年から俯瞰すると昭和への前奏曲という感が強いことは否めない。

 政治的には1921年(大正11年)11月4日、原敬首相暗殺事件、市民生活・自然災害としては1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の発生が昭和への不気味な胎動を思わせる。

 軍備は増強され、大艦巨砲主義から巨大戦艦や空母の建造、また無政府主義者や共産主義者の弾圧・暗殺も行われた。憲兵大尉甘粕正彦による大杉栄、伊藤野枝を殺害した事件は関東大震災の直後、1923年9月16日だった。

 また、袁世凱の死後(1916年)、軍閥が割拠しはじめた中国で、日本は中国東北部(満州)での足がかりを確固としたものにしようとしている。租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が1919年(大正8年)に関東軍として独立した(Wikipediaより)。
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=17

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c53

[近代史3] ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった!  中川隆
17. 中川隆[-13355] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:19:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1549]

ナチの実権を握った後も、ヒトラーの生活は質素だった。相変わらず狭いアパート(トーランド本によると8フィート×15フィート)に住んでいた。トーランドは続けて「ウィーンの独身男子寮と大差なかった。そこはその建物の中で一番寒い部屋で、家主のエルランガー氏によれば、『その部屋を借りた下宿人の何人かは病気になりました。いまは物置がわりに使っています。もう借り手は一人もつかないでしょう』」と書いている。

 さらにトーランドはエルランガーについて、「ヒトラーが当時住んでいた下宿の主人エルランガーがユダヤ人で、しかも(ヒトラーに対して)快い想い出しか持っていなかったというのは皮肉である。『わたしはしばしば階段や入り口で彼と顔を合わせました……彼はたいていノ−トに何か書いていました……かれがわたしをほかの人間とはちがう目で見ている、と感じさせられたことは一度もありません』」と別のページの脚注につけ加えている。

 ところが、演説ではヒトラーはユダヤ人を攻撃した。第1次世界大戦の敗北、その後の革命騒ぎ、そのような状況下でも儲ける金融資本家を批判して、4月12日の演説で以下のように語っている。

「我々は、すでに外国の植民地なのである。しかも、我々は能う限り卑屈な態度をとり、我々自身の名誉を毀損してまで、これを助成した……共同体を形成するというがごとき概念がユダヤ人にはまったく欠けているため、彼[ユダヤ人]は破壊し、また破壊せねばならないということである。この場合、個々のユダヤ人が『正しい』か否かは、もとより問題とはならない。彼[ユダヤ人]は自然が彼に付与した特質をあくまで有しているのであって、永久にこれから脱れることはできないのである」(「我が新秩序」、阿部良男著「ヒトラー全記録」よりまた引き)

 6月24日、ベルリンでは外国の信頼の厚かったワルター・ラーテナウ外相が、右翼グループに暗殺される事件が起こる。ラーテナウはユダヤ人で企業家であり、大富豪だった。外相就任後、アメリカへのドイツの苦境の理解の浸透、賠償を請求する連合国諸国にはヴェルサイユ条約を履行する積極的な態度を示しながら、いかにその賠償を支払うことが不可能に近いかを理解させることに力を尽くした。

 東方に向かっては、ラーテナウはソヴィエトと条約を結び、相互賠償の破棄、通商関係の再開、ソヴィエト近代化への助成、軍の相互協力がその中に盛り込まれた。

 国粋主義者はそれに反発した。

 ラーテナウ暗殺は外国を刺激し、ベルリン、ハンブルクの取引市場は大混乱に陥り、マルクは大暴落した。「当日1ドル350マルク、7月末670マルク、8月中2000マルク、10月末4500マルク(「全記録」。「ワイマール共和国史」には「7月にはいるとドル相場は5000マルク以上に達した」と書かれていることも紹介されている)
 ドイツ政府は緊急通貨政策を実施、地方自治体、鉄道、大手醸造所などは独自通貨を発行してそれをしのごうとしたが、インフレは収まる気配がなかった。

 ラーテナウが暗殺された6月24日、ヒトラーはバイエルン分離主義者の集会を妨害した罪で収監される。ヒトラーの入獄は約1ヶ月間続いた。ヒトラーは監獄でますますユダヤ人攻撃の思索を重ねた。7月27日に釈放され、その翌日にはラーテナウ暗殺をきっかけに生まれた「ドイツ共和国擁護法」(右翼、左翼を取り締まる法律)を批判、その中でより激しくユダヤ人を攻撃した。

「ユダヤ人はけっして紳士民族ではない。彼らは搾取者であり、強盗民族なのだ。彼らの破壊した文化は幾百に上がろうが、彼らは未だかつて文化を建設したことはない。彼らの有するものは、自ら創造したものではない」(「全記録」)

 この年の秋、第1次世界大戦の空の英雄ヘルマン・ゲーリングがナチに入党した。

 第1次世界大戦終盤から1923年頃まで、日本は大正期で、第1次世界大戦での山東省からドイツの駆逐、ロシア革命を牽制するための欧米列強に倣ったシベリア出兵などはあったが、概ね大きな波は起こっていない。

 1918年、米の価格が暴騰したため富山を発端とする全国規模に膨れあがった大正米騒動が起こったり、1920年3月株価が大暴落、戦後恐慌など不安定な出来事もあったが、「大正デモクラシー」の時代であり、後年から俯瞰すると昭和への前奏曲という感が強いことは否めない。

 政治的には1921年(大正11年)11月4日、原敬首相暗殺事件、市民生活・自然災害としては1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の発生が昭和への不気味な胎動を思わせる。

 軍備は増強され、大艦巨砲主義から巨大戦艦や空母の建造、また無政府主義者や共産主義者の弾圧・暗殺も行われた。憲兵大尉甘粕正彦による大杉栄、伊藤野枝を殺害した事件は関東大震災の直後、1923年9月16日だった。

 また、袁世凱の死後(1916年)、軍閥が割拠しはじめた中国で、日本は中国東北部(満州)での足がかりを確固としたものにしようとしている。租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が1919年(大正8年)に関東軍として独立した(Wikipediaより)。
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=17

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/352.html#c17

[近代史4] ハンス・クナッパーツブッシュ研究

syuzo's Homepage,Kna-Club,ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)研究
http://www.kna-club.com/

Hans Knappertsbusch Concert Records(English)Until 1940New!
http://kna-club.com/knawiki-en/

クナッパーツブッシュの生涯
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/


はじめに
1888年,クナッパーツブッシュの生まれた年
1889年、ヒトラー生まれる
クナッパーツブッシュとヒトラーの子供時代
クナッパーツブッシュの進路
1908年頃までの世界とヒトラー
1908−1912年頃 それぞれの青春
1913年 クナッパーツブッシュ、エルバーフェルトでデビューする
1914年 「パルジファル」初指揮と第1次世界大戦の勃発
1915年 第1次世界大戦 1
1915−1916年 第1次世界大戦 2
1917年 第1次世界大戦 3
1918年 ライプツィヒ市立歌劇場への就任と、第1次世界大戦の終結
1919年 ライプチヒからデッサウへ、ヒトラーの第1次世界大戦後
1919年 それぞれの戦後
1920年 ムックのワルター訪問 フェルキッシャー・ベオバハター
1921年 デッサウでの批評家裁判事件 ドイツのインフレ
1922年 ミュンヘンでのオーディション ワルター離任の理由
1922年 クナッパーツブッシュ、バイエルン州立歌劇音楽総監督就任
1923年 ミュンヘン一揆
1924年 ミュンヘン一揆後
1925年 初レコーディング(ただしレコーディングは1924年の可能性が高い)
1926年 リヒャルト・シュトラウスと
1927年頃
1928年 39歳から40歳、頻繁にレコーディングする
1929年 批評家裁判事件の発端、ウィーン・フィルとの初共演
1930年 批評家裁判、ナチの躍進
1931年 プフィッツナー「ヘルツ」を初演する
1932年 ナチ政権誕生前夜
1933年 ヒトラー政権掌握と、「トーマス・マン抗議声明」事件
1933年 ヒトラー政権掌握の年2
1934年 クナッパーツブッシュに圧力がかかりはじめる
1935年 クナッパーツブッシュ追放前夜
1936年 クナッパーツブッシュミュンヘン追放、ウィーンへ
1937年 クレメンス・クラウス、ウィーン時代、日中戦争
1938年 ドイツ、オーストリア併合
1939年 第2次世界大戦の勃発
1940年 第2次世界大戦 1
1941年 第2次世界大戦 2
1942年 第2次世界大戦 3
1943年 第2次世界大戦 4
1944年 第2次世界大戦 5
1945年 第2次世界大戦 6 終結
1946年 戦争が終わって。非ナチ化裁判
1947年 クナッパーツブッシュの本格復帰
1948年 「戦後」は続く
1949年 戦争処理進む
1950年 バイロイトへの出演が確定する
1951年 バイロイトに初登場
1952年 円熟の度を深める
1953年 バイロイトと決別する
1954年 バイロイトに復帰
1955年 クナッパーツブッシュとカイルベルト
1956年、5年ぶりにバイロイトで「ニーベルングの指環」を振る
1957年、録音がますます増える
1958年、バイエルン州立歌劇への出演を1年間拒否する
1959年バイエルン州立歌劇に復帰
1960年
1961年 胃潰瘍の手術を受ける
1962年 キューバ危機の中で。クナッパーツブッシュは高齢になっても、ますます活躍する
1963年、最後の輝き
1964-1965年、クナッパーツブッシュ最後の日々


http://kna-club.com/html/modules/knapedia/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/644.html

[近代史4] ハンス・クナッパーツブッシュ研究 中川隆
1. 中川隆[-13354] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:39:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1550]

クナッパーツブッシュの名盤


ベートーヴェン 『交響曲第3番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html

ベートーヴェン 『交響曲第5番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html

ベートーヴェン 『交響曲第8番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html

ベートーヴェン オペラ 『フィデリオ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/836.html

シューベルト 『交響曲 ハ長調 D 944 』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/857.html

シューベルト 『軍隊行進曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/859.html

ロベルト・シューマン 交響曲第4番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/895.html  

ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/811.html

ワーグナー 舞台祝典劇 「ニーベルングの指輪」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/812.html

ワーグナー 楽劇「パルジファル」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/813.html  

ブルックナーの作品は日本の男のためにある _ 日本でのブルックナー人気は宇野功芳のカリスマ評論が唯一の原因
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/684.html  

リヒャルト・シュトラウス 『薔薇の騎士』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/881.html  
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/644.html#c1

[近代史4] ハンス・クナッパーツブッシュ研究 中川隆
2. 中川隆[-13353] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:49:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1551]


クナッパーツブッシュが一番高く評価していた交響曲は


brahms Symphony No. 3, Knappertsbusch (1963) ブラームス 交響曲第3番 クナッパーツブッシュ



指揮:ハンス・クナッパーツブッシュ
シュトゥットガルト放送交響楽団
録音:1963年11月15日 (実況録音)

_____


Johannes Brahms "Symphony No 4" Hans Knappertsbusch





WDR Symphony Orchestra
Hans Knappertsbusch, Conductor
Köln 1953

_______



Bruckner Symphony No.8 in C minor - Hans Knappertsbusch - Munchner Philharmoniker




ハンス・クナッパーツブッシュ
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
1963年ライブ音源

____


Bruckner - Symphony No 9 - Knappertsbusch, BPO, 30-01-1950




Berlin Philharmonic Orchestra conducted by Hans Knappertsbusch
Live recording 30/01/1950 Titania-Palast, Berlin




Bruckner, Sinfonie Nr.5, Knappertsbusch 1959(pseudo-stereo)



Munchner Philharmoniker
Hans Knappertsbusch 1959(pseudo-stereo)

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Bruckner Symphony No.7 Hans Knappertsbusch 1963 -




Koln Radio Symphony Orchestra 10 may 1963

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[近代史4] ハンス・クナッパーツブッシュ研究 中川隆
3. 中川隆[-13352] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:00:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1552]

ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch, 1888年3月12日 - 1965年10月25日)は、ドイツの指揮者。

ミュンヘンやウィーンなどで活躍し、とくにリヒャルト・ワーグナーやアントン・ブルックナーの大家として知られる。1951年から1964年にかけて、ほぼ毎年出演したバイロイト音楽祭では主幹的指揮者を務めた[1]。

193センチの長身で、ドイツや日本では「クナ」(Kna) の愛称で親しまれた。


ラインラント地方の都市エルバーフェルト(現在はヴッパータール市の一部)にあるアルコール蒸留会社を経営していたグスタフの次男として生まれる。(なお、同郷出身の指揮者にはギュンター・ヴァントや、ホルスト・シュタインがいる。)

クナッパーツブッシュは子供の頃から音楽家に憧れていたが、家族、特に母と兄(後に会社を継ぐ)の反対もあり、ボン大学に進み哲学を学んだ。後にミュンヘンでも哲学を学び、卒業論文は『パルジファルにおけるクンドリー』であったと言われる。ケルン音楽大学にて音楽を修め、ブラームスの演奏で有名なフリッツ・シュタインバッハに指揮法を学ぶ[3]。

1909年から1912年までバイロイト音楽祭における、ハンス・リヒターの助手として潜り込むことに成功。それ以後、故郷のエルバーフェルトやライプツィヒ、デッサウ、ミュールハイム・アン・デア・ルール(1910年に、ここでデビューしたと伝えられる)など各地の歌劇場やオーケストラにて修行を重ね、1922年、34歳にしてブルーノ・ワルターの後任としてミュンヘンのバイエルン州立歌劇場の音楽監督に就任する。

翌1923年にはウィーンに初めて進出し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とも1929年のザルツブルク音楽祭で初顔合わせを果たしている。

しかし、1935年にバイエルン州での演奏活動を禁止され、同時にバイエルン州立歌劇場からも追放[4]される(後任は当時ナチ寄りとされたクレメンス・クラウス)。

追放後はウィーンとベルリン、ザルツブルク音楽祭などに定期的に客演した。

1936年からはウィーン国立歌劇場を根城に、1944年6月30日の『神々の黄昏』上演(爆撃で破壊される前の最後の上演)まで同劇場で精力的な演奏活動を繰り広げた。『黄昏』上演後は、終戦まで息を潜めていた。

1945年8月17日、ミュンヘンのプリンツレゲンテン劇場のバイエルン州立管弦楽団とのコンサートで活動を再開するも、1ヵ月後に連合軍から「反ユダヤ主義者」という誤った嫌疑で活動を禁止されてしまう

(彼はユダヤ人とも交際が幅広かった。禁止解除後、連合軍は謝罪している)。

2年後の1947年にバンベルク交響楽団を指揮し改めて活動を再開。ミュンヘンとウィーンを中心に[5]指揮活動を継続した。1951年にはバイロイト音楽祭に初登場、『指環』、『パルジファル』を指揮した。


その後はウィーン、ベルリン、バイロイトを中心に、イタリアやパリでも演奏活動を続けたが、1961年にブリュッセルで胃の大手術を受け、以後は体力が衰えがちとなり椅子に座って指揮するようになった。

1964年の秋に自宅で転倒して大腿骨を骨折したのが原因で一気に体力が衰え、翌1965年に自宅で亡くなった。

クナッパーツブッシュの亡骸は2番目の妻であるマリオン(1895-1984[6])とともにミュンヘンのボーゲンハウゼン墓地(聖ゲオルグ教会)に葬られている[7]。

人物

クナッパーツブッシュは大変な練習嫌いで通っていた。第二次世界大戦中の爆撃で破壊され、1955年に再建されたウィーン国立歌劇場の再開記念公演で、リヒャルト・シュトラウスの楽劇『薔薇の騎士[8]』を上演することになった時には、練習場所のアン・デア・ウィーン劇場でメンバーに向かって「あなたがたはこの作品をよく知っています。私もよく知っています。それでは何のために練習しますか」と言って帰ってしまった[9]。この本番のライヴ録音はCD化されている。ただし音楽評論家の吉田秀和は、これはオーケストラや指揮者がそれまで繰り返し手がけてきた作品であることを前提としており、クナッパーツブッシュがどんな場合でも準備をしなかった訳ではないだろうとしてる[10]。

ナチスの政権奪取後は流石に表だった批判をせず、体制に配慮してトーマス・マンを非難する論文に署名したり、ヒムラーの臨席による親衛隊向けのコンサートを主催するなど、それなりに合わせてはいたが、彼の指揮スタイルがヒトラーの趣味に合わず[11]1936年にミュンヘンを追放された[12]ことで、第三帝国終焉までナチスとの相性は悪かった。ナチスによる音楽活動に従事していたにもかかわらず、大戦後の職務復帰は比較的早かった。

演奏解釈・スタイル・レパートリー

岩城宏之がウィーンにいた頃、ウィーン・フィルの楽員に「クナの指揮スタイルが理想だ」と言ったところ、「クナは若い頃は無茶苦茶していたんだ。年をとってからああいう風になっただけだ。君も若いうちは無茶苦茶やればいい」と諭されたという[13]。このように、若かりし頃のクナッパーツブッシュの演奏スタイルは、後年とは異なるものだったようである。40代からレコーディング活動を行っているが、テンポの変化が激しく、後年にレコーディングされた一連のレコード群の解釈と比較すると、その差は大きい。健康問題もあって、レコーディング活動を徐々に疎ましく思うようになっていったといわれるが、それなりに残された[14]。

21世紀に入ってクナッパーツブッシュがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を振ったコンサート映像(ワーグナーの『ワルキューレ』第1幕全曲、『トリスタンとイゾルデ』から前奏曲と「愛の死」、ジークフリート牧歌など)が映像化[15]されるなど、クナッパーツブッシュの指揮の映像を広く目にすることができるようになった。これらの映像では、クナッパーツブッシュが非常に小さく指示を与えているのみであるにもかかわらず、突き刺さるようなFFFが鳴らされるなど[16]、長年の共同作業に基づく解釈が定着していたことがわかる。

ヴィルヘルム・バックハウスとのベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番などコンチェルトの伴奏も、映像として残されている[17]。

ワーグナー

楽劇の中では『パルジファル』がお気に入りであり、バイロイトでは1951年から死の前年の1964年まで、出演拒否した1953年を除いて連続して指揮をした。バイロイトでのライヴは、1962年の『パルジファル』は早くからフィリップスよりリリースされていたが、20世紀末以降はクナッパーツブッシュ協会の監修を経て GOLDEN MELODRAM[18]など各種レーベルからリリースされている。

クナッパーツブッシュのバイロイト出演記録

1951年:パルジファル、ニーベルングの指環、ニュルンベルクのマイスタージンガー(ヘルベルト・フォン・カラヤンと交代で指揮)
1952年:パルジファル、マイスターシンガー
1954年:パルジファル
1955年:パルジファル、さまよえるオランダ人(ヨーゼフ・カイルベルトと交代で指揮)
1956年:パルジファル、指環(カイルベルトと交代で指揮)
1957年:パルジファル(アンドレ・クリュイタンスと交代で指揮)、指環
1958年:パルジファル、指環
1959年:パルジファル
1960年:パルジファル、マイスタージンガー
1961年 - 1964年:パルジファル

なお、ゲオルク・ショルティがレコーディングしてワーグナー録音の一大金字塔を打ち立てた『ニーベルングの指環』全曲録音は、最初はクナッパーツブッシュに依頼されたものであり、その下準備のためのレコーディング(『ワルキューレ』第1幕。ジークリンデ:キルステン・フラグスタート、ジークムント:セット・スヴァンホルム、フンディング:アーノルト・ヴァン・ミル)も行われた。

ブルックナーのスコア選択

ブルックナーの交響曲もクナッパーツブッシュの得意としたレパートリーであるが、原典版を使用しなかったことでも知られている。

クナッパーツブッシュの若いころにはブルックナーのスコアはいわゆる「改訂版」しか出版されていなかった。この改訂版にはブルックナー以外の者による改変・カットなどがあったが、こうした改変・カットを見直すべく1935年以来ローベルト・ハースによって校訂された「原典版」が出版され、その後ハースに引き続いてレオポルト・ノヴァークによって校訂された新しい原典版も出版されていった

(「ブルックナーの版問題」も参照のこと)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%89%88%E5%95%8F%E9%A1%8C

しかしクナッパーツブッシュはブルックナーの交響曲の演奏に際し、校訂された原典版は採用せず旧来の改訂版ばかりを使用した。クナッパーツブッシュがなぜ旧態依然とした改訂版の使用に固執し、演奏当時入手が可能であった原典版を採り上げなかったのかについてはわかっていない。

クナッパーツブッシュがスタジオ録音したブルックナーの交響曲はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した3番、4番、5番、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した8番がある。

このほか7番や9番にもライヴ録音がある。

現代では改訂版による演奏に接する機会は極めて稀であり、クナッパーツブッシュによる録音が「一番入手しやすい改訂版の音源」となっている。

レパートリー

ワーグナー指揮者、ブルックナー指揮者のイメージが強すぎるため見過ごされがちだが、実際のレパートリーは幅広く、コンサートでは

バッハからモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス[19]、チャイコフスキー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、シベリウス、バルトーク、フランツ・シュミット、ストラヴィンスキー、テオドール・ベルガーを、

オペラではリヒャルト・シュトラウスの他、ヴェルディやプッチーニ、コルンゴルト、プフィッツナー、ヴォルフ=フェラーリ[20]

なども指揮していた。

また、ウェーバーやシューベルト、ヨハン・シュトラウスなどの小品を振った演奏も高く評価されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/644.html#c3

[近代史4] ハンス・クナッパーツブッシュ研究 中川隆
4. 中川隆[-13351] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:05:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1553]

クナッパーツブッシュの生涯
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/


1888年,クナッパーツブッシュの生まれた年
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=1

 小生はドイツに行ったことがない。ドイツに行ったことのない人間がドイツのことを書くのは本来無理であるのは承知しつつ、とにかく「ハンス・クナッパーツブッシュの生涯」を始める。

 ハンス・クナッパーツブッシュは1888年3月12日、ドイツのルール地方、ノルトライン=ヴェストファーレン州の街エルバーフェルトで生まれた。ノルトライン=ヴェストファーレン州はドイツ中西部に位置し、政治的にはプロイセンに属した。 
 エルバーフェルトは、1929年に隣のバルメンと合併しバルメン=エルバーフェルトとなり、1930年にヴッパータール市になった。

 ヴッパータール市はドイツの一大工業地帯、ルール地方の西の端で、ケルン、デュッセルドルフ、デュースブルク、エッセン、ドルトムントの大工業都市群に囲まれたような位置にある。すぐ近くには、刃物で有名なゾーリンゲンがある。東部ドイツに位置するベルリンとはドイツの反対側にあった。

 Wikipediaによると、ヴッパータールは、1901年世界で初めて、懸垂式モノレールが走った街だそうである。モノレールを「空中鉄道」という。

 また、繊細業が栄えたと同時に、製薬会社としても日本でも製品を発売している製薬会社「バイエル社」の発祥の地でもある。

 「バイエル社」は後に、第1次世界大戦の間に生まれた8つの会社が共同して作った化学産業の一大トラスト「IG・ファルベン社」の一部になった。ナチが台頭すると「IG・ファルベン社」はナチ・ドイツに積極的に協力、加担した。戦後、「IG・ファルベン社」は連合国側の財閥・トラスト解体政策によって解体され、「バイエル社」は「バイエル社」として単体で活動を始めて現在に至っている。

 ユダヤ人の大量虐殺で悪名高い毒ガス「チクロンB」の製造販売会社「デゲッシュ社」は、「IG・ファルベン社」が第2次世界大戦の時に作った会社である。
 また、マルクス=エンゲルスのフリードリヒ・エンゲルスもこの街に生まれた。Wikipediaのエンゲルスの生涯の解説によると、バルメン=エルバーフェルトは「封建的遺習の残る地域社会」だったそうだから、ドイツの古い風習の残る地方都市だったのだろう。

 その他、同じ音楽家としては指揮者ギュンター・ヴァント、ホルスト・シュタインがエルバーフェルト出身である。ホルスト・シュタインはバイロイトでクナッパーツブッシュの助手として働き、クナッパーツブッシュを師として仰いだのに対し、ヴァントは全く別の音楽志向を持っており、クナッパーツブッシュの音楽を非難したことが面白い。

「クナッパーツブッシュ 音楽と政治」(みすず書房)の著者、奥波一秀氏とは、氏がその著作の取材でドイツにおられるときに、メールのやりとりで知り合いになり、エルバーフェルトの写真も送っていただけた。その写真は、今でも小生の大切な宝物だ。

 写真では、エルバーフェルトはごく普通のヨーロッパの地方都市という印象で、ビルが林立した「都市」という印象ではない。クナッパーツブッシュの生家や、クナッパーツブッシュの育ったであろう環境はある程度自然に恵まれていて、「町中」という雰囲気ではなかった。

 クナッパーツブッシュの生家は「グスト・クナッパーツブッシュ」というアルコール蒸留販売会社だが、既に経営権はクナッパーツブッシュの親族から、別の人の手に渡っている。どんな製品を作っていたのか飲んでみたかったが、残念ながら飲んだことはない。「グスト・クナッパーツブッシュ」の製品を飲んだことがある人にもまだ巡り会っていない。一度、飲んでみたいと思うのだが…。

 ヴッパータール市を含むルール地方は、第1次世界大戦後フランスに占領されたり、第2次世界大戦の時にはイギリス・アメリカ軍の空襲の標的になったり、第2次世界大戦の末期にはオランダ・ベルギーからドイツ国内に流れ込む連合軍の戦略拠点になったりと、歴史の波に洗われた。20世紀はルール地方にとって激動の歴史でもあった。

 さらに、1945年5月下旬と6月下旬には、連合軍の砲火にさらされ、市の中心部は壊滅的な被害を受けている。たまたま、「地図で読む世界の歴史 ヒトラーと第三帝国」(リチャード・オウヴァリー著永井清彦監訳、秀岡尚子訳、河出書房新社)にヴッパータール市の被害状況の地図が載っており、その被害のすさまじさを知ることができた。

 クナッパーツブッシュの父母の写真は、フランスTAHRAからリリースされた「HANS KNAPPERTSBUSCH IN MEMORIAM」の付録に載っているし、母や兄妹との写真は奥波一秀著「クナッパーツブッシュ 音楽と政治」の図版にも紹介されている。クナッパーツブッシュの父グスタフは、その父(クナッパーツブッシュの祖父)の後を継いで家業ではやり手だったそうだ。写真でも立派な髭を生やし、いかにも実業家という風がある。母親はたっぷりとした体格で、写真で見る限りにおいては、日本でいえば「肝っ玉かあさん」風である。

 クナッパーツブッシュには兄と妹がいて、兄の名前は父の名前を取りワルター・グスタフ、妹はマルガレーテ・エミリーエ・ユーリエという。兄はクナッパーツブッシュ家の家業を継いだことが分かっているが、妹のマルガレーテについては資料がない。どんな生涯を送ったんだろう?

 ハンス・クナッパーツブッシュの子供の頃の写真も前掲書に載っている。幼い頃、クナッパーツブッシュは髪の毛を伸ばし、当時の伝統的なドイツの子供の育て方である、女の子の姿をして育てられたことが分かる。これは、ヘルマン・ヘッセかトーマス・マンか何かの小説で読んだのだが(忘れてしまった)、ドイツでは、男の子はその方が健康的に育つと考えられていたようだ。カールしたオカッパ頭が可愛らしい幼年時代のクナッパーツブッシュから、晩年のクナッパーツブッシュの容姿を想像することはなかなか難しい。

 クナッパーツブッシュ家はプロテスタントのカルヴァン派で、洗礼を受けたクナッパーツブッシュの名前を洗礼名まで入れると、「ハンス・アルフレート・クナッパーツブッシュ」という。「音楽と政治」に、クナッパーツブッシュは一時期、「アルフレート」という名前を好んだということが紹介されている。後に、当時の大指揮者ハンス・リヒターの影響化に入り、同じ「ハンス」にあやかって「ハンス・クナッパーツブッシュ」という名前を通すようになったのではないか、とも書かれている。クナッパーツブッシュは晩年まで就寝前のお祈りを欠かさなかったそうだから、ごく普通の敬虔なキリスト教徒だった、ということが言えるのかも知れない。

 1988年という年は、後年に俯瞰してみると歴史の転換点のひとつで、クナッパーツブッシュの生まれる三日前、3月9日にドイツ皇帝ヴィルヘルム一世が死んだ年である。

 プロイセン王であったヴィルヘルム一世は宰相にオットー・フォン・ビスマルクを起用、その手腕を持って普墺戦争や普仏戦争に勝利し、分裂国家だったドイツを統一し、ドイツ皇帝となった。「バルバブランツァ」(白髭王)と呼ばれ、民衆にひじょうに人気の高い皇帝だった。民族的英雄でもある神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ(1123−1190)の「バルバロッサ」(赤髭王)に対応した呼称である。ヴィルヘルム一世はビスマルクの傀儡とも揶揄されたが、皇帝としては凡庸ではなかった。

 ヴィルヘルム一世が死に、その息子のフリ−ドリヒが皇帝を継ぐ。ところが、ヴィルヘルム一世が91歳と長命だったため、フリードリヒが第2代ドイツ皇帝になったのは56歳の時で、おまけに喉頭癌を患っていた。国民には「我らがフリッツ」と呼ばれ、その自由主義的な傾向が好まれたが、在位期間わずか99日で死去してしまう。

 同じ1888年の6月15日、フリードリヒの長男ヴィルヘルム二世が29歳で第3代ドイツ皇帝として即位する。

 ヴィルヘルム二世は宰相ビスマルクの政策と対立、翌年にはビスマルクを辞任に追い込み、自らの政策を押し通してゆくことになる。ドイツは長年分裂国家だったため、ロシアやイギリスなどのヨーロッパ列強の重商主義に立ち遅れていた。ヴィルヘルム二世はヨーロッパ列強に対抗して、植民地の獲得を目指した。ヨーロッパ強大国の利害と対立し、軍備増強路線は第1次世界大戦の火種を作ることになる。
 例えばドイツの植民地獲得の動きのひとつして、中国の山東省での動きが挙げられる。日清戦争の時、ドイツはフランス、ロシアとともに日本と中国の終戦協定に介入、日本の利益獲得に横槍を入れた。ドイツは中国側に恩を売って交渉(ドイツ人宣教師が山東省で殺されたことがきっかけだった。その事件は義和団の乱に発展する)、1898年に山東省を租借地にして、中国の一部植民地化を謀った。青島(チンタオ)を中心とする山東省は街並みや産業がドイツ化され、小生も好きな「青島ビール」はそのなごりである。さまざまな中国の紹介書を見ると、青島にはいまだにドイツのなごりが多いらしい。

 後の第1次世界大戦の時に、連合国側に付いた日本は、その山東省を巡ってドイツと交戦することになる。

 日本の1888年は、明治21年である。西郷隆盛以下、旧薩摩藩士族の反乱である西南戦争からまだ11年しか経っていなかった。日本は開国後20年を過ぎていたといえ、まだまだ江戸時代の文化を引きずった草深い後進国で、「欧米に追いつけ」が合い言葉の時代だった。

 1888年は、日本標準時が制定され、廃藩置県は明治4年に終わっていたが、市町村制が公布された年でもある(施行は1889年)。

 この年の4月、第2代総理大臣に黒田清隆が就任、枢密院が設置され伊藤博文が初代議長になった。 

http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=1
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/644.html#c4

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
2. 中川隆[-13350] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:21:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1554]

カール・ベームの名盤


モーツァルト 『レクイエム』とベートーヴェン 『ミサ・ソレムニス』の1955年版以外は印象に残っていないですね:

モーツァルト 歌劇「魔笛」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/816.html

モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/817.html

モーツァルト 『レクイエム』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/839.html

ベートーヴェン 『交響曲第6番 田園』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/846.html

ベートーヴェン 『ミサ・ソレムニス』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/837.html

シューベルト 『未完成交響曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/856.html

シューベルト 『交響曲 ハ長調 D 944 』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/857.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c2

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
3. 中川隆[-13349] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:26:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1555]

カール・ベーム(Karl Böhm, 1894年8月28日 - 1981年8月14日)は、オーストリアの指揮者。

学位は法学博士(グラーツ大学)。
称号はオーストリア音楽総監督、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉指揮者。


グラーツ生まれ。弁護士である父親の意向により、グラーツ大学で法律を学び、法学博士の学位を得た。しかし同時に父親がグラーツ市立歌劇場(英語版)の法律顧問をつとめていた関係で音楽界に仲間が多く、父親の友人であったフランツ・シャルクの紹介で、ブラームスの親友であったオイゼビウス・マンディチェフスキの個人教授で音楽を学んだ。

1917年 - グラーツ市立歌劇場(英語版)でデビュー。リヒャルト・ワーグナーの友人であったカール・ムックがベームの『ローエングリン』を聴いた際に感激し、当時バイエルン国立歌劇場音楽監督だったブルーノ・ワルターにベームを紹介した。

グラーツ市立歌劇場では首席指揮者に予定されていたが、ワルターの招きにより、1921年 よりバイエルン国立歌劇場の第4指揮者に転任。

ワルターはベームに多大なる影響を与え、特にモーツァルトの素晴らしさを教えた。
そしてまたベームもモーツァルトの権威として知られることになる。

ワルターとの交遊関係は戦中戦後を通じて続くこととなるが、1922年からはワルターに代わり、クナッパーツブッシュが音楽監督になった。

しかしクナッパーツブッシュも、モーツァルトに関してはほとんどベームに任せている。

1927年 - ダルムシュタット市立歌劇場(英語版)音楽監督に就任(1931年まで)。この時の総監督は、後年メトロポリタン歌劇場の名物総支配人となるルドルフ・ビング(英語版)であり、彼らの友情は終生続くこととなる。ダルムシュタットでは現代オペラの上演に力を注いだが、特にアルバン・ベルクの『ヴォツェック』を指揮して絶賛され、ベルク本人との友情も芽生え、ベルク作品の世界的普及に尽力した。

1931年 - ハンブルク国立歌劇場音楽監督(1934年まで)。ハンブルク時代よりR.シュトラウスとの親交が始まった。

1934年- ドレスデン国立歌劇場総監督に就任。R.シュトラウスゆかりのドレスデンに転任すると、1935年にはR・シュトラウスの『無口な女(英語版)』の世界初演を行い、さらに1938年にはR.シュトラウスから献呈された『ダフネ』も世界初演した。

1943年 - ウィーン国立歌劇場総監督に就任。シュヴァルツコップなど才能ある歌手を次々と見いだして伝説的なベーム・アンサンブルを作り上げた。1944年にはシュトラウス生誕80年祭ではR・シュトラウスに祝辞を述べ、作曲者臨席のもと『ナクソス島のアリアドネ』を指揮した。1945年にはオーストリア(当時はドイツに併合されていた)からフランツ・シャルク以来となる「オーストリア音楽総監督」の称号を受けた。第二次世界大戦での戦局悪化に伴い、R・シュトラウスより芸術上の遺言(今後のオーストリア音楽界をどのように運営・維持すべきか)を託された。また同時にR.シュトラウスのスケッチブックなど、貴重な資料も渡された(これらはベームの死の直前にウィーン・フィルに寄贈されている)。ドイツ・オーストリア敗戦後に連合軍から演奏活動停止命令を受けたが、1947年に解除。

1954年 - 2度目のウィーン国立歌劇場総監督に就任。1955年11月には連合軍の爆撃により焼失していたウィーン国立歌劇場が再建され、この記念すべき再開記念公演の『フィデリオ』を指揮した。(続いて『ドン・ジョヴァンニ』『ヴォツェック』『影のない女』を指揮。ちなみにベームは当初、ドン・ジョヴァンニの指揮をワルターに依頼したが、ワルターは高齢を理由に辞退し、その代わりにブルックナーの『テ・デウム』とベートーヴェン第9交響曲を演奏した。ウィーン国立歌劇場総監督辞任後は特定のポストには就かず、フリーランスとして客演や録音活動を中心に据えた。

1962年 - バイロイト音楽祭に初登場、『トリスタンとイゾルデ』を指揮。ヴィーラント・ワーグナーとともにオペラ史に燦然と輝く新バイロイト様式を作り上げた。のちに『ニーベルングの指環』も指揮。1964年、「オーストリア(共和国)音楽総監督」(戦前のものは自然消滅)の栄誉を授けられている。1967年、ウィーン・フィル創立125周年を記念し、特にベームのために創設された「名誉指揮者」の称号を授けられた。

1973年 - オーストリア政府から若い指揮者のための「カール・ベーム賞」制定が発表される。1974年 - 「ニキシュ=ベーム指環賞」が制定された。

1981年8月14日 - ザルツブルクで死去。86歳没。ザルツブルク音楽祭の開催中であり、レヴァイン指揮ウィーン・フィルのオペラ公演は「お通夜のような雰囲気」になってしまったという。楽聖たちが眠るウィーン中央墓地提供の申し出は遺族の希望により断られ、グラーツ・シュタインフェルト墓地のベーム家の墓に埋葬された。最後の録音は同年春の映画版「エレクトラ」であった。

家族・親族

息子は俳優のカールハインツ・ベーム。孫のカタリナ・ベーム(英語版、ドイツ語版)も女優として活躍している。

欧州楽壇のマエストロ

ベームは、当時のオーストリア大統領ルドルフ・キルヒシュレーガーをして“(オーストリア)共和国が与え得る栄誉はすべて与えました”と言わしめたほど、数多の名誉職を贈られていた。この発言の念頭にあるものも含めて、それらの一例として、「ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団名誉指揮者」「ロンドン交響楽団桂冠指揮者」「ウィーン市、グラーツ市、ザルツブルク市の各名誉市民」「ドイツ連邦功労十字勲章」「バイロイト黄金名誉指環」「バイエルン国立歌劇場名誉会員」「ダルムシュタット国立歌劇場名誉会員」「ベルリン・ドイツ・オペラ名誉会員」などがある。そのため、ベームの死は世界中に衝撃を与えた。

カラヤンはコンサートでの演奏に先立って追悼の言葉を述べ、さらにモーツァルトの『フリーメイソンのための葬送音楽』が演奏された。レヴァインがモーツァルトの『レクィエム』、アバドが『マタイ受難曲』をベームに捧げ、ベルリン・フィルはベームの指揮予定だった演奏会で代行を立てず、指揮者無しの演奏会を行った。ポリーニ、クライバー、ヨッフム、ショルティらも追悼演奏会を開いている。カルロス・クライバーとバイエルン国立管弦楽団による追悼演奏会は広く知られる(ベートーヴェンの交響曲第4番と交響曲第7番)。

ザルツブルク音楽祭は、長年にわたるベームの功績を称えフェルゼンライトシューレ(ザルツブルク祝祭小劇場)とホワイエの間の大ホールを「カール・ベーム・ザール」と名付けている。さらに出身地であるグラーツとザルツブルクを結ぶインターシティ列車をカール・ベーム号(IC517/518)と名付けた。これは現在も運行されている。

ベームの演奏

ベームの身振りはいつもごく控えめで、お世辞にも「格好良いバトン・テクニック」とは言えない。これには、R. シュトラウスの教示・影響がある[1]。マーラーとR. シュトラウスは、当時を代表する指揮者であったが、全身を使って激しい指揮をするマーラーに対して、後年のR. シュトラウスは指揮するときも常に左手をポケットに入れたままで、指揮棒を持った右手も必要最小限しか動かさなかった。

カラヤンは「ベーム85歳の誕生祝賀会」に出席した際に、 “ 禅の高僧が矢を射る時、「私が矢を飛ばす」とは言わず「矢が飛ぶ」と言う。すなわち「無為の為」である。これと同じく、ベームの指揮は「音楽が湧く」と言える。つまりベームによって、音楽が自ら奏ではじめるのである。”と、ベームの指揮を評している。

主な録音

ベームの実力が遺憾なく発揮された分野はオペラであった。モーツァルトは『コジ・ファン・トゥッテ』、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『魔笛』などの録音がある。ペーター・シュライアーはベームのコジ・ファン・トゥッテを特に絶賛しており、「他の指揮者の下ではこれほどの感激を味わえない」と語った。ザルツブルク音楽祭を飾るモーツァルト指揮者でもあった。1971年にウィーン・フィルと録音された、モーツァルトのレクイエムは評価が高い。

リヒャルト・シュトラウスの大家としても知られ(巨匠の『ダフネ』は、ベームに献呈されている)、主なオペラをスタジオ録音している。特に愛した作品は『ナクソス島のアリアドネ』であった(複数の録音あり)。また、『影のない女』は世界初全曲録音(1955/DECCA)である。当時はマイナーな作品であったため、DECCAは録音を渋ったが、ベームの強い要望により「ギャラなし・一発録り」で実現した。同年、ウィーン国立歌劇場の再建記念公演で『影のない女』を指揮。カイルベルトやカラヤン、後のシノーポリに較べると、最少のカットで演奏しており、貴重な記録となっている(ORFEO)。管弦楽曲では、1958年、1963年に録音されたベルリン・フィルを指揮しての『ツァラトゥストラはかく語りき』や『ドン・ファン』、『祝典前奏曲』などの管弦楽曲集が知られている。

バイロイトの巨匠であったことからもわかるように、1966年のバイロイト音楽祭における『トリスタンとイゾルデ』のライヴ録音など、ワーグナーについても高い評価を得た。ビルギット・ニルソンは「これまでに『トリスタンとイゾルデ』を33人の指揮者の下で歌ったが、誰もベームに比肩することはなかった」と書いている。

このほか、ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナー、ブラームスなどドイツ・オーストリア音楽においては、当時はひとつの規範ともされた。ベルリン・フィルを指揮してのモーツァルトの交響曲全集とウィーン・フィルを指揮してのベートーヴェンの交響曲全集はベームの大きな業績である。


ベームと日本

ベームの名が日本に知られるようになったのは早く、1930年代半ばには小品のレコードが発売されていた。1937年11月26日には、シューマンの遺作・ヴァイオリン協奏曲の初演を含む日独交歓放送に、ゲオルク・クーレンカンプらとともに出演した(PodiumよりCD化 No. POL1053)。この放送はナチスの威信をかけたもので、当時既にクーレンカンプ同様、ベームはドイツ圏内で主要な指揮者であったことがわかるが、日本ではあくまでもシューマンの遺作の世界初演を聴く演奏であり、ベームの知名度を高めることはなかった。程なく、第二次世界大戦勃発によって原盤の供給も途絶え、ベームの名はしばらく日本では聞かれなくなった。ベームの人気や知名度が飛躍的に高くなるのは戦後のことであった。ベームが亡くなる際にも、危篤の段階から新聞やテレビ・ニュースで報じられていたほどである。ベームの来日は1963年、1975年、1977年及び1980年の4回。1979年にも来日の予定(読売日本交響楽団の招聘)であったが、体調不良のためキャンセルされている。

初来日

1963年に開場した日生劇場のこけら落しのためにベルリン・ドイツ・オペラを率いて初来日(同行:ロリン・マゼール、ハインリヒ・ホルライザー)。ベームはベートーヴェンの『フィデリオ』[2]とモーツァルトの『フィガロの結婚』[3]、特別演奏会の「第九」を指揮した。両オペラともディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、クリスタ・ルートヴィヒ、ヴァルター・ベリー、グスタフ・ナイトリンガーらの名歌手が多数出演した。第九演奏会では、演奏後に殺到した多くのファンがベームの足に抱きつき、身動きできなくなったこともある。

70年代

日本でのベームの人気に一気に火がついた1975年の公演は、ウィーン・フィルを率いての公演であり、前評判に違わぬ演奏が大きな反響を呼んだ。あまりの反響の大きさにベームは感激し、時期こそ決めないものの再びの来日を即断したとも言われる。この時はリッカルド・ムーティも同行し、ムーティの指揮での公演も別途行われた。

わずか2年後の1977年に再来日が決定したのは、その他に来ていた話をベームがすべて断り最優先で時間を作ったからだった。両公演はNHKやTOKYO-FMによって多数録音され、一部はCDやDVDとして販売されている。

最後の来日

1980年にはウィーン国立歌劇場の引越し公演に同行したが、老いと病気による衰えがはなはだしく、ホルスト・シュタインら多数の同行指揮者を伴っての来日となった。ベームは『フィガロの結婚』3公演(東京および大阪)[4]と十八番であったリヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』の1公演[5]、昭和女子大学人見記念講堂でのウィーン・フィルとの演奏会(1980年10月6日。人見記念講堂のこけら落とし記念演奏会だった。これらはCD・DVD化されている。

なお、2007年には「フィガロ」の公演もDVD化された)だけを指揮し帰国した。このウィーン・フィルとの演奏会は、日本でのベーム最後のオーケストラ演奏会だったのみならず、彼自身も1938年以来続いたウィーン・フィルとの最後の演奏会だった。なお、この時の「フィガロ」上演での第3幕はオリジナルではなく、ロバート・モウバリー&クリストファー・レイバーン提唱版(1965年。第7場、第8場を第4場、第5場の間に挿入する)によるものである。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A0
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c3

[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
135. 中川隆[-13348] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:36:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1556]

ハンス・クナッパーツブッシュ研究
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/644.html

隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html

ウィーン・フィルはナチスに迎合してきた歴史をずっと隠し続けている
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/642.html
 

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c135

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
4. 中川隆[-13347] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:43:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1557]
ベーム最後のインタビュー
ドイツ「シュテルン」誌1981年8月20日号より
http://mahdes.cafe.coocan.jp/wkb2.htm

質問・フェリックス・シュミット、訳・堀内修
(「音楽の友」1981年10月号掲載)

ベーム「あなたにおいで頂いた事を有難く思っております。この様ないまいましい椅子に座り込んでいなければならなくなってこの方、どんな気晴らしも私には有難いのです。人はともすると恵まれた老年という事を話題にしますがね、結構なお恵みとしか私には言えないな。ところで私はこうして座り込んでる訳なんですが、頭はまだちゃんとしているものの、両脚はもう言う事をきかない。両腕もそうですし、昨晩はベッドから転げ落ちてしまった。どうです?こういうのが恵まれているなんて。この齢に成ってパンツをようよう身に着けるのに前より3倍もの時間を喰うというのがお恵みというものなんですかね。」


───ベームさん、あなたの腕はもう言う事をきかないと仰いましたね。という事はもう指揮する事は出来ない訳ですね。ところであなたのカレンダーには1984年に至る迄予定が立てられているでしょう?

ベーム「まあ、カレンダーに線を引く他ないですね。」

───あなたはエネルギーが全くなくなってしまったら、自分はもう指揮はしない、そうしたら生きていたくないと、嘗て仰いましたね?

ベーム「その時はたまたまそう口を滑らせたんです。しかしさて、もううまくいかないというのなら、それがどんな状態なのか私には判りますよ。あのですね、指揮するという事は何しろ私にとって一種の若返り療法みたいなものなんです。その度に何時も齢のひとかけらがこそげ落とされるのですよ。この間の公演、今年の3月、ウィーンでの「フィガロの結婚」の事を覚えています。指揮台に立った時、大してうまくいかない演奏をするんじゃなかろうかと予感したんです。惨めな気分になりました。けれど、既に序曲の間にあらゆる疲れは消え失せてしまい、悩みももうなくなったんです。木だって引っこ抜ける様でしたね。しかしそれももう過ぎ去った事です。御覧なさい、この椅子の傍らの譜面台を。其処には以前は点検中の総譜が常に置かれていたものですが、今や何が乗せてあるとお思いですか?一寸漫読している本なんですよ。」

───ところであなたは病臥なさる前に今一度大変な努力をお払いになりましたね。TVの為にR・シュトラウス「エレクトラ」とレコードのベートーヴェン「第九」を練習なさいました。

ベーム「その為に全力を尽くしました。それが私を倒したんです。けれども私は自分が駄目になる前にもう一度2つの事をしておきたいと思ったんです。そう、「エレクトラ」と「第九」です。この2つの作品を私がその時した様には、人は未だに耳にした事はないと言っても過言ではないと思います。」

───どの様な所が特別なのでしょうか?

ベーム「私は生涯これらの作品と取り組んできました。第一級の「エレクトラ」を保証するに足るチームを持つ迄捜し求めてきました。そうでないと容易ならぬ「侍女達の場」に穴が開いてしまいますから。昔はその場面になると歌手達に対して猛り立ったものでしたよ。というのも、彼女達には歌えないって事が元々解ってたからなんです。宜しいですか?TVの歌劇を必ず観なくちゃいけませんよ。レオニー・リザネックを聴くって事だけの為でも。大変なエレクトラですから。それも彼女は初めてこの役を歌うのですよ。とはいえ、聴かなくちゃいけませんとは、そうた易く言えないでしょうが。そもそも相違を聴き分けられるのは、まあよくて2、3人の人達ですかね。私の息子、カールハインツは聴き取りましたがね。彼は私と同業の沢山の指揮者達よりも実際良い耳を持っているよ。彼女(レオニー)も父親から受け継いだんだね。」

───ベームさん、あなたの耳は本当にまあ多くの音楽家達を絶望に追いやりました。間違った響き、呆けたテンポといったものはあなたをカンカンにさせましたね?

ベーム「ええ、怖れられたのは知ってますよ。ドレスデン・シュターツカペレとでしたが、「神々の黄昏」の事を思い出します。彼らの行う演奏が私には正しい様に聴こえないんです。そこで、まあ私の流儀なんですが、がなり立てたんです。「諸君、一体何を演奏してるんだ?」ところがね、彼らは自分達は何時もそう演奏してるんだと言うんです。で、私はこう応えてやりました。「ではあなた方は今初めて正しい演奏をなさる訳です」とね。100以上の間違いをその後次から次へと総譜から見付け出しましたよ。」

───辛辣な観察によって、ですね?

ベーム「まあ、愛情溢れるシニカルさと言いましょう。」

───ある逸話が伝えられておりますが、それによりますと、あなたは声を相当長くのばしていた女性歌手(正体はレオニー・リザネック)に対し、こう叱り付けたとか。「君はどうしてそんなに長く声をのばすのかね?それで週末休暇用の別荘でも建てようと思ってるのかね?」。

ベーム「失礼、夏季休暇用の別荘と言ったんだよ。」

───あなたは生真面目ですか?

ベーム「私はゲーテと同じ日に生まれた。ゲーテは生真面目だった。私もそうですよ。でも私は特に短気なのですよ。自分の思い込んだ事は、ものにしとかなければいけないのです。それも即座にね。つまり、ある一定のテンポが欲しいと自分が思い、歌手或いはオケがそれを解ってくれないとなると、もう一波瀾起こしてしまうという訳です。或いは、或る時期に或る編成による一つの歌劇をやろうと思い、それがうまくいかないとなると、私はね、家を飛び出してわめき散らすのですよ。さてさて、私は自分の家でオーケストラの事に汲々しているのは厭なんだが。それにしても、妻が長い年月の総てを我慢してきてくれた事は、正に驚くべき事です。」

───ではあなたには妥協というものはないんですか?譲歩はなさらないんですか?

ベーム「そんな事は思いもしないね。音楽にあっては如何なる妥協も知らないね。私の人生、かなりの事をしでかしてきました。私は罪人ですよ。ええ、そう言っていいでしょう。嘘もつきましたし、自分の名誉にならない様な事も沢山してきました。しかしこと音楽にあっては何時もまともに、何時だって誠実でしたよ。」

───何をしでかしたと仰るのですか?

ベーム「老人にその答えは御勘弁願います。私の短気に関わる事でしたら、カラヤンの事を話題にしなければなりませんね。あの人は大変寛容な人ですよ。彼が稽古の時、正しい響き、自分の求める響きが出る迄待っている事や、心を鎮めて楽団員を説得していたのには感心しました。全く驚嘆すべき事でしたよ。ええまあ、あの人は何というか別種の意地悪をするんですよ。」

───あなたに対しても意地悪をですか?

ベーム「いやいや、我々は親友ですし、気楽な付き合いをしていますよ。」

───ライヴァル同士の妬みはないのでしょうか?

ベーム「彼の代弁は出来ないよ。ああ、そうだ、思い出したよ。彼は私に素敵なプレゼントをくれる事に成っているんですよ。私の90歳の誕生日に黄金のカッコー時計を約束してくれたんですよ。でね、金相場がまた上がったのを知ると、子供の様に嬉しがるんですよ、私は。ああ、90を迎えられます様に。」

───あなたは既にカラヤンからの時計をお持ちでしょう?

ベーム「80の時に貰ったんです。その時計はまだまだ動いていますよ。」

───あなたの時計コレクションは有名です。同じ様にそれらの時計は皆揃ってチクタク鳴っているという事も。一個でも進んでいると、あなたはゾッとして即刻調整されるとか。

ベーム「極度の精確さには賛成です。何れにせよ私は楽団員の些細な杜撰、如何なるインチキ、どんな曖昧といえども大目に見る事はありません。精確さへのこの様な性向は正に生まれついてのものでして、これは多くの人には妄想と見なされるかも知れませんが、音楽家にとっては最高の財産なのです。」

───その精確さへの性向というものは、あなたが法律を学ばれた事と関わりがあるのではないですか?法律家は几帳面でなくてはならないでしょう?

ベーム「相互に何らかの関係があるとは思いません。私はね、自分の好みによって法律を勉強したというのではないんでして、ただ父親を喜ばせ様としただけなんですよ。父は大変音楽的素養があり、また音楽狂だったんですけど、私にはお堅い職を身に付ける様に言ってたんです。父はグラーツ劇場の法律顧問でありまして、それで芸術における並の才能というものの惨めさを熟知していたのです。父は私が同じ様な運命を辿らない様にと願ったのです。そうした訳で、父は私にはっきり言いました。

「お前は法律家の試験に通って初めて音楽を勉強する金を手に出来るのだぞ」と。」

───では、あなたが学位審査に受かる以前にグラーツ劇場で既に歌劇を指揮したというのはどうしてだったんですか?実際何時だったのでしょうか?

ベーム「1919年4月に学位を取りました。でも法律学を総ざらいしていた間にも音楽をやっていたんです。グラーツ劇場でコペルティトーアをしていましたし、夜にはよく道具方を取り仕切ったりしていました。」

───すると正規の音楽勉強はなさらなかったのですか?

ベーム「ウィーンで2、3学期勉強しました。でも正式な指揮の講義は受けておりません。指揮法は総て見覚えたものです。私のは独学なんですよ。それについては面白い話があるんです。病気になった指揮者の代わりに「アイーダ」を引き受けざるを得ない事があったんです。ところがその当時私は4/4拍子では左の方で2拍振るものだという事を知らなかったんです。でね、自分の知っている3/4拍子で絶えず右の方に振ったんですよ。これには楽団員も大混乱をきたしましたね。それで楽団の代表が支配人に抗議しまして、正しく4/4拍子の振れる指揮者を要求したんです。私は彼らに短時間でまともに4/4拍子を振れる様にすると請け合いました。」

───ベームさん、あなたの欧州での音楽の歴史を思い浮かべてみて、最も深い印象を覚えられるのはどの様な事でしょうか?

ベーム「先ず第一にアルバン・ベルクの「ヴォツェック」です。私としてはこの歌劇は私どもの世紀の最後に書かれた最後の、最も優れた歌劇であると思っています。総譜を初めて手にした時の事は、今でもありありと覚えていますね。ずっしりとした総譜でした。その当時私はダルムシュタットの音楽総監督でした。」

───1931年の事ですね?

ベーム「そう、31年でした。当時私はあの孤高の音楽家と共に声部に手を入れる作業をしたのです。私はこの作品は全く類を見ない音楽であると繰り返し力説してきました。本当に骨の折れる作業を強いる作品でして、稽古に丸一年要しました。今日では全く思いもよらないでしょうが。それで私はね、「ヴォツェック」にかけてはパイオニアみたいなものだったんですよ。まあ、初演の指揮はとりませんでしたが。ですが私はこの歌劇をナポリ、そしてブエノスアイレスへと持っていった最初の人間なんですよ。ナポリではオーケストラが「パッサカリア」を、つまり「ヴォツェック」中で抽象的音楽の独創的な部分をもう全然うまく通せないという事がありました。私の名高い悪態も憤怒も何の助けにもならなかったのですよ。彼らは兎に角全然出来なかったんです。私は我慢出来なくて指揮棒を放り捨て部屋に戻ってしまいました。

かなり経ってオケの全幹部が追いかけてきました。彼らは私の前に跪いたんです。本当の事なんです、誓っても好いですよ。彼らはしゃくり上げながら「どうかお戻り下さい」と嘆願したんです。私は彼らを5分程しゃくり泣くままにさせた後、戻りました。そしてピットに歩み入りますと、全楽団員が立ち上がって拍手を浴びせかけたんです。誰かが盆を運んできました。今お話している事は正真正銘の事実なんですよ。盆の上にはヴェルモットの瓶と菓子鉢が置いてありました。私が一口飲みますと、オーケストラが熱情込めて「オー・ソレ・ミオ」を弾き始めたのでした。本当に巧く弾いてのけましたよ。そうした上で我々は「ヴォツェック」の正規の上演を実現させたんです。」

───あなたが力をお尽くしになったもう一人の作曲家はR・シュトラウスですね?

ベーム「あの人の為にはもうグラーツ時代に学校をさぼった事がありますよ。「薔薇の騎士」のリハーサルに居合わせ様と思いましてね。後にドレスデン歌劇場の監督だった時、シュトラウスと私的に親しく接しました。それが長い密接な友好の始まりでした。彼はオペラ「ダフネ」を私に献呈してくれました。無論私が初演しました。それからは彼は幾つかの習作ノートを贈ってくれました。貴重なものです。この間それを金庫から取り出しました。私のオーケストラに遺贈する為にね。」

───ウィーン・フィルの事ですか?

ベーム「勿論ですとも。」

───勿論ですって?あなたは世界の著名なオーケストラの総てとしょっちゅう演奏なさってたんでしょう?

ベーム「確かにそうですよ。しかし1933年に初めてウィーン・フィルを指揮した時−「トリスタン」でした−恋愛結婚の様なものをしたのです。そうして我々は長い間ハーモニックな結婚生活を送ってきたのです。我々は人がお世辞を言って下さる様に、表も裏も知り尽くしているのです。だからこそ先例のないものと憚る事なく評しても好いブルックナー、ベートーヴェン、モーツァルトの表現に、我々は成功する事が出来たのです。指揮者にとって楽団員各人を知る事以上に素晴らしい事はありますまい。この間、こんな風にブルブル震える老人が「エレクトラ」を録音した時の事ですが、私は指揮台に行き、こう言ったんです。「この老人をよく見て下さいよ。これがあなた方の前に立つ恐らく最期でしょう。有終の美を飾る手助けをして下さいよ」。彼らは、ああ、正にその様に演奏したんです。」

───あなたはブルックナー、ベートーヴェンの他に、生涯を通してモーツァルトに特に親しみを感じていらっしゃいました。

ベーム「ええ、でも常にとは限りませんでしたよ。モーツァルトの開眼はブルーノ・ワルターに負っているのです。」

───彼はミュンヘン(バイエルン)国立歌劇場の監督だった時、あなたをグラーツからミュンヘンにお呼びになった……

ベーム「ええ、客演として「蝶々夫人」を振りました。うまく振る事が出来ました。といいますのも、彼は後で私を呼んでこう言ったからです。「まだ何かと勉強したいとお思いならミュンヘンの私の許へいらっしゃい。けれどあなた自身一人前の指揮者であるとお考えならば、そのままあなたのグラーツに残りなさい」。無論(ミュンヘンに)行きましたよ。」

───ベームさん、一寸あなたは聞き取れない程小声でお話しになりますね。ところで何しろモーツァルトはあなたにとって清涼剤みたいなものでしょう?

ベーム「そういって宜しいでしょう。とはいえ私は先ずはこちこちのワーグナー教徒でしてね、モーツァルトは侮蔑的に見下していたんですよ。けれどもワルターの模範的なモーツァルト演奏を聴きまして、突然モーツァルトに燃え上がる様な欲求を覚えたのです。ワルターは私の願いを叶えてくれ、「後宮からの逃走」を振らせてくれました。……序に言いますとマリア・イヴォーギュンやリヒャルト・タウバーが出ました。そういう事だったんですよ。」

───けれども、モーツァルトの他に、あなたは一人の娘さんを思ってらした。

ベーム「17歳のそれは素晴らしい歌手でして、彼女が私の許で歌う時には特に熱情込めて伴奏したものでしたよ。今日でしたらこう言うでしょう、首っ丈だった、とね。」

───そして1927年彼女はあなたの奥様になられた。

ベーム「元はと言えば私達はモーツァルトについて話していたのではなかったかね?今やこの老人の慰めであるモーツァルトを。」

───モーツァルトを非常に表情豊かに指揮した、あなたの後援者であるワルターと違い、あなたはパトスのないモーツァルトを演奏なさいますね?

ベーム「ええ、そう言って宜しいでしょう。それが良い意味で近代的なモーツァルト解釈なのです。」

───あなたのモーツァルト像にすらラディカルな修正が、今やニコラウス・アーノンクールのオリジナル楽譜に基く上演によって行われました……

ベーム「オリジナル楽譜によるものも確かに一つの主張ではありましょう。私がテンポを変えるとすれば、それはオリジナル楽譜とは無関係です。私にはモーツァルトを手ひどく扱う彼の遣り方は気に入らない。彼の解釈がモーツァルトとは少しだけ関わっているに過ぎないという事を私は証明出来るのですがね。まあ、彼には別の立場があるからね。私は彼には賛成しませんし、彼の方も私に対してそうである様にと思いますよ。」

───若い指揮者とあなたの世代の指揮者ではどんな違いがありますか?

ベーム「同僚については何も語りません。若し私が言いたい事を言ったら、それは自分自身を苦しめるでしょう。」

───けれども、あなた位の年齢になれば、そうする資格があるのではないでしょうか?

ベーム「はあ、あなたはベームがもはや善悪の彼岸の老齢にあるとお考えですな。宜しい、色々言いましょう。若い指揮者達は大部分間違って教育されています。楽器について、声楽について、しばしばまるで解っていません。例えばホルン奏者に何を求める事が出来、何を求めてはいけないか、知らないんです。或いは歌手がどう呼吸するのか、などをね。私はグラーツの劇場で練習指揮者をしている時に、歌手に何を望め、何を望めないかを学びました。

指揮者は自分の直観だけではやっていけないんです。オーケストラを前にした時に、目を閉じ、そして聖霊のお告げが下されるのをじっと待つだけじゃ充分じゃないんです。お告げなんてそうたやすく下りてきません。指揮者は何よりも先ず勤勉でなければならず、勉強に勉強を重ね、そして誠実でなければなりません。いかさまは許されないのです。同業者には非常に多くのイカサマ師がいるのですが、私はそれを5分もあれば見抜けますよ。」

───誰の計略をあなたは見破ったのですか?

ベーム「それを言い立てる訳には参りませんよ。」

───話を他へ向けたいとお思いですね。しかし本当に小さい声ですね、もう少し大きくはなりませんか?

ベーム「私は歌手じゃありませんよ。」

───でもあなたが不誠実だとお思いになっている沢山の指揮者達は腐れ切った誤魔化しをやっているのでしょう?

ベーム「若し私が今その名前を言ったりしたら、ベームはすっかり老いぼれた、もう判断する事が出来ない、と言われるでしょう。けれども、私は老いぼれにはなりたくないので黙っています。」

───あなたが肯定的に例外と思われている方の指揮者、カルロス・クライバーの事にしましょう。あなたは彼を何時も称賛しておいでですね。

ベーム「天才的な男です。父親の様にね。」

───エーリッヒ・クライバーですね。

ベーム「やっぱり(父同様)気難しい男でね、周りの者は奔放な行動に梃子摺ってましたよ。私は彼自身にしばしば紡ぎ手だと言いました。人を魅了する紡ぎ手だとね。」

───レナード・バーンスタインともあなたは良い関係を持ってますね。

ベーム「ええ、私は彼を大変素晴らしい指揮者だと評価しております。何ものにも囚われない、スケールの大きな音楽家ですね。」

───しかし、指揮はあなたと丁度正反対ですよね?あなたは労力を最少限に抑えた身振りで指揮している様に見受けられますが……。

ベーム「つまり、私は汗をかきません。バーンスタインは水がしたたる位に汗をかく。」

───彼はオケとスコアの前で飛び跳ねているといっていいでしょう。

ベーム「でもそれは彼の内面から来るものなのですよ。ワシントンでのコンサートの後、彼が私に尋ねました。「あなたが全く汗をかかずに指揮をするのは一体どうやってなのか教えて下さい。私は何時でも物凄く汗をかくんですよ」とね。で、私は言いました。「ウィスキーも程々にしなさい。そうすればそんなに汗をかかなくなりますよ」(バーンスタインは酒豪&ヘヴィ・スモーカーで有名)。

───あなたは酒を飲んで何かする事はなかったんでしょう?

ベーム「ええ、私は食事も酒も、何をするにも差し支えない位に控えめですから。父と違ってね。父は100キロも体重があり、甚だ社交的な人でした。」

───反対にあなたは独りでいるのが好きだと噂されてますね?適応するのが難しいと、例えばウィーン国立歌劇場の監督の頃そうだったという事ですね?

ベーム「お尋ねになりたいのはそれだけじゃないでしょう。私はその地位を全然望まなかったんです。何故ならウィーンの人々が陰謀にかけては世界的な名人なのを知っていたからです。有名な音楽家、例えばマーラーとかカラヤンがこの街の歌劇場監督の地位を追われています。私はその地位をウィーンの劇場連盟からのさしせまった要請で引き受けたに過ぎません。」

───あなたはその後旅に出て、他所の場所で指揮し、客演契約をしたので、ウィーンの人は突然「ベームはもう此処にいない」と確認したんだそうですね。

ベーム「私が「フィデリオ」を振る為に再びそのオーケストラ・ボックスに戻って来た時ですが、桟敷席の連中が何分間も悪意に満ちて怒鳴ったのです。今でも耳に響く様ですよ。私が有難い事にウィーン国立歌劇場監督を続けずに済んで、国際的な活動が出来る様になるという、あれは元気一杯の告知だった訳です。」

───あなたは1954年から1955年迄1年間耐えました。

ベーム「若しかしたら長過ぎたかも知れません。丁度国際的な繋がりが始まった頃だったんですが、その時期をウィーンの人達の為に捧げて、しかも少しも喜びがなかったんですから。1947年、再び指揮する事が許される様に成った際、決して一人だけで任命されまいと誓ったんですが。」

───1934年から1942年の終わり迄ドレスデンで音楽監督をしていますね?

ベーム「ええ、アメリカ人もロシア人も私の非ナチ化の処置の時良く言ってはくれましたが、こう尋ねましてね、「ベームさん、あなたが本当にナチの反対者だったのなら、どうして亡命もせず、どうして英国や米国で指揮なさらなかったんですか?」。」

───で、どうしてなんですか?

ベーム「当時私はドレスデンの音楽総監督として、外国との如何なる繋がりも持っていませんでした。どうやって逃げ出したらいいんでしょう?どうやってお金を稼いだらいいんでしょう?しかも、私には家族がありました。」

───国内に留まった事であなたは戦後2年間に渉って演奏禁止に成ったのですか?

ベーム「ええ、とはいっても私はNSDAP(ナチス)に属していたんじゃありません。でも厭な2年間でした。私が一番焦燥感を味わった頃で、毎日毎日私の件が調査されるのを待っていました。音楽を教える事も許されていませんでした。ナチのハ長調音階を教えるとでも思ったんでしょう。いや、厭な頃でした。私は妻とグラーツの小さな家に腰を落ち着けて待ちに待ちました。もう待てない位に。」

───あなたがその後実現なさった国際的な活動を始めようとしていたのでしょうね?演奏出来る様になって数年を経ずして、一番稼ぐ指揮者に成りました。

ベーム「それは知りません。けれども結果はその様に成りましたね。私の後をお金が追ってきたんじゃありません。報酬として手に入れたんです。」

───そしてあなたは何時も倹約家でした。

ベーム「私にはそうする為の広い意味での大きな家族があるんです。」

───あなたは日本で特に称賛(報酬という意味もある)されましたね?

ベーム「ええ、日本は特別ですね。1980年の秋に行ったんですが、その時にTV中継される演奏会を1回振って、それで6万マルク(当時の通貨。当時の日本円にして約550万円)入りました。この秋にもう一度日本へ行ってもいいと思っています。けれどもこんな椅子に座って、病気の相手をしてやっているもんでね。」

───どんな御病気なのですか?

ベーム「老衰という間違った名をつけようなんて企てられてますね。あなたがよく知りたいと思うなら言いましょう。これは2年前にロンドンで始まりました。ホテルで倒れた訳です。その時それは素晴らしい小さな場所を見付けたんですよ。倒れていたのは浴室の便器とビデの間なんです。其処で私の硬い頭蓋と一緒に転んだのです。直ぐにウィーンに運ばれました。医者はひどい脳の出血があると診断しました。人がいうように、自分は低能になってしまうと思いました。しかし、低能にはならなかった。そうなっていたらあなたにこうして総てを説明出来なかったでしょうからね。それから療養しました。けれどもそれは非常に有効という訳にはいきませんでした。出血による障害が繰り返される訳です。この前はTV用「エレクトラ」の冒頭について話し合っている際中でした。有難い事に私は回復しました。気が紛れる位によくなろうと思います。」

───どうしてですか?

ベーム「不機嫌だからですよ。私は周囲の人たちの生活を不愉快にしています。それで少しだけ読んでます。」

───読むって、あなたのその目でですか?

ベーム「まだ幾らかは見えるんですよ。とはいえ灰色の星が良い方の目にも大きな悲しみを与えつつありますが。そして勿論私の誕生日に演奏するという計画も変更を余儀なくされています。もう一度回復するものなら、ウィーン・フィルと一緒にモーツァルトの46の交響曲をレコーディングしたいと望んでいるんですが。」

───凄い計画ですね。

ベーム「ええ、老人が皆そんな事をする訳じゃありませんね。」


これは巨匠が亡くなる少し前に行われたインタビューであり、文字通り最後のものとなった。

もうベームはこの時期には相当体力が落ちていたが、かなりの質問に答えている。多くは当時既に世間によく知られた内容で、この大指揮者の音楽人生を振り返る意味合いが強いが、ベーム自身が語っているというところに意義があろう。

後は最後の録音となったベートーヴェンの第九やR・シュトラウスの『エレクトラ』に関するコメントや、カラヤンやバーンスタインとの親交やカルロス・クライバーへの称賛、アーノンクールへのささやかな批判等同業に触れている個所が貴重だ。

http://mahdes.cafe.coocan.jp/wkb2.htm
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[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
5. 中川隆[-13346] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:49:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1558]

ベーム・エトセトラ
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リハーサルの鬼

リハーサルの凄まじさといえば、マーラーとトスカニーニが伝説的存在だ。彼らの時代には、指揮者が軍隊の司令官の如く振る舞い、オケはそれに絶対服従しなければならなかった。今時の指揮者がそうした練習を行おうとしたら、直ぐにオケから追放されるか、二度と声がかかる事はないだろう。

ベームは決してマーラーやトスカニーニの様にオケを絶対的に支配するというタイプではなかったが、重箱の隅を突付く様な厳格なリハーサルは世界的に有名で、しかもその口やかましいリハーサルを許されるという特権を与えられていた稀有の存在である。オケも歌手も、練習は厭だが、ベームとの共演で得られる幾多の効果には逆らえなかったのだろう。一つはベームという世界的指揮者と組む事による知名度アップ。もう一つは、確かにベームは練習では厳しいが、決して融通性がない訳ではなく、特に実演ではオケや歌手の自主性を尊重したからである。

要するにベームの練習はスポーツと似ている。普段厳しく基礎を鍛えない限り、本番での応用がきかない。基礎が出来ないのに、本番がこなせる訳がない。ましてや、指揮者は自分で音を出す訳ではない。従って、指揮者はオケを隅々迄知り、オケは指揮者を隅々迄知る事によって、信頼関係が生じ、自発性に富む音楽が生まれるのである。いわばベームのリハーサルは各々の技を磨く為にあるというよりは、自分一人で演奏しているのではないという全体意識を植え付けつつ、そうした中で各自の最高のパフォーマンスを引き出せる様な環境を整える為にあるのである。実際ベームも回想録でその様に述べている。

その代わり、リハーサルでは如何なる妥協も許さない。例えば、腕立て100回と決めたら、それは必ずこなさなければ成らない。50回で諦めさせたら、本番で力を発揮出来なくなる可能性があるからだ。丁度、中国の孫子や韓信が兵を厳しく調練したのと似ている。彼らが精鋭を鍛えたのは、いざという時どの様な状況下にもこちらの指示に対応し得る反応を身につけさせる為のものであった。言葉を換えるなら、厳しく鍛え上げず、”烏合の衆”のままでは実戦での成果が期待出来ない。”軍団”として成果を収める為には、日頃から厳しく鍛錬されていなければならない、という事だ。

しかし、実戦では何が起こるか判らない。従って、どの様な状況にも対応し得る様指揮官は身構えていなければならない。時には当初立てた作戦を急遽変更しなければならない事もあろう。多くの指揮者は自分のヴィジョンを知って貰う為、オケに意図を説明する。しかし、ベームは強弱やテンポの狂い等正に基礎練習しか行わなかった。それというのも、ベームが本番で何を意図するか判らない、本番で自在に指揮したいからこそなのだという事が分かるのである。

見た目の厳格なリハーサル風景がベームへの誤解を生じさせた事は確かである。私も自分がオケのメンバーや歌手だったら、ベームのリハーサルには耐えられないと思う。しかし、こうした厳しい練習を乗り越えたからこそ、本番で驚異的なパフォーマンスを引き出す事が出来たという事は、決して忘れてはなるまい。


喝采の嵐

当時メディアで盛んに議論の対象に成っていたのがベームへの拍手の多さ。出て来るだけで「ブラヴォー!」の大喝采が湧き起る妙な現象は殆どベームの専売特許だった。しかも、時には10分以上も喝采が収まらず、演奏が始められない事が多々あったという。オランジュ音楽祭の「トリスタン」やバイエルン国立歌劇場の「後宮」でも、出て来るだけで怒涛の様な喝采を受けるベームを目撃する事が出来る。終演後の拍手も凄まじく、日本ではステージに殺到する若者が続出し、世界中のメディアに報じられた。この現象はどうして発生したのかと考えてみると、矢張りベームが”伝統の象徴”と捉えられていた事が大きいだろう。多くの19世紀の巨人が世を去った中、ベームがまだ生きている。その”生ベーム”に逢えた喜びが、登場するだけで未曾有の拍手を巻き起こしたのではあるまいか。もう一つはベームの人間性である。巨匠の多くは何となく近寄り難い偉大な雰囲気を具えていたが、ベームは指揮をしている時意外は普通の爺さんで、気軽に喝采を贈れる雰囲気があったのではないだろうか。カーテンコールにぎこちなく応えるベームの姿はもはや指揮者には見えないのである。

ギャラ王

ベームといえばギャラが高い事でも有名だ。チェリビダッケはそうしたベームの姿勢をあからさまに批判している。しかし、私は芸術家というものは人間がどうであろうと、素晴らしい感動を与えてくれれば、何の問題もないと考えている。実際、モーツァルトやベートーヴェン、ワーグナーやブルックナーらも人間性はさ程高く評価されていないし、金への執着心はあった。聖人君子ではないし、ボランティアや素人芸術家ではないのだから、自らの業績に対し、何らかの報酬を求める事は寧ろ当然ではないだろうか。特にベームにはカラヤンというこれまた稼ぎまくるライヴァルがいたから、対抗意識もあったであろう。そういえば、ベームの師匠であるR・シュトラウスもアルマ・マーラーの自伝で”守銭奴”とこきおろされている。若しかするとベームの金銭への執着は師匠譲りなのかも知れない。或いは戦前から戦後にかけて、極貧生活を経験した為、二度とあんな思いはしたくないという気持ちがあったのかも知れない。しかし、繰り返すがそうした要素はベームの評伝等には必要かも知れないが、演奏とは無関係である。我々にしてみれば、素晴らしい演奏であれば、日常生活がどうであろうと一向に構わない。芸術家というものは、寧ろ公私の落差が激しい人種なのだ。


名誉職コレクター

ベームといえば、歌劇場総監督や常任指揮者等の音楽的実権を掌握する地位からは二度目のウィーン国立歌劇場総監督辞任後は遠ざかっている。その代わり、やたらと記念色の濃い実権のない名誉職やメダルを数多く授かっている。その筆頭はオーストリア音楽総監督である。これは別にオーストリアの音楽行政を統括する様な権力は一切ない。しかし、この肩書きは海外においては功を奏し、人間国宝的価値、或いはオーストリアの親善大使みたいな役割をはたした。ベームが外来の指揮者としては初めて皇居を訪問する事が出来たのも、この飾り物の肩書きがものを言ったのである。

他ではウィーン・フィルの終身名誉指揮者に選ばれた事も忘れては成るまい。しかも、これは史上初めての快挙である。他にも名誉市民や記念メダル等折に触れてベームに多くの名誉が授けられている。今からは考えられない程、当時のベームの存在感が大きかった事を示していると言えるだろう。


時計コレクター

ベームといえば時計コレクションも有名で、来日した折もセイコーの工場を見学している。沢山ある時計の内、一つでも時間がずれると直ぐに調整し直したとか。そうしたベームの趣味を知っていたから、カラヤンもベームの誕生日に時計をプレゼントしたのだろう。

カール・ベーム賞

1973年にオーストリアの若い指揮者の為に制定された賞。コンクールで最も優秀だった者に授与された。因みに第一回の優勝者はラルフ・ヴァイケルト。

カール=ベーム・ザール
ザルツブルク祝祭小劇場内にあるホール。

カール=ベーム財団
世界の難民救済を目的にベームが設置した財団。ベームの死後は長男のカールハインツが運営している。

カール=ベーム号
巨匠の名を冠したグラーツ〜ザルツブルクを結ぶオーストリアの特急。拙サイトの常連、こうもり様よりの情報提供。

オリンピック

1964年、冬季オリンピックはオーストリアのインスブルックで開催された。ベームは世界中が注目するこの一大イヴェントの開会式で、恩師R・シュトラウスの「オリンピック賛歌」を指揮している。若しかすると、この時のフィルムや録音が残っているかも知れない。

誕生日

欧州音楽界において、ベームの誕生日は一大イヴェントと呼べるものであった。嘗てベームが師のR・シュトラウス生誕80年祝祭で祝辞を述べた様に、ベームも多くの人から誕生を祝ってもらったのである。特に80歳を祝った1974年と、85歳を祝った1979年はカラヤンが参加した事もあり、欧州音楽界をあげての一大イヴェントと化したのである。しかも、1979年にはバーンスタインやレヴァインも参加し、バーンスタインの自作をレヴァインが演奏してベームに献呈。カラヤンはベルリン・フィルを、ベームはウィーン・フィルを指揮し、大いに盛り上がった。更にカラヤンはベームに豪華な時計の目録を贈呈(実物は90歳の誕生日に贈ると約束)。このパーティーは正に古き佳き時代の最後を飾る華やかな内容だったのである。


冗談好き

一見生真面目で四角四面と思われがちなベームだが、結構融通性があり、冗談好きでもあった。特にさり気なくドイツ語の駄洒落をかましていたそうだ。


ベームと病気

一度目のウィーン国立歌劇場総監督時代に、凍結した地面でしたたかに腰を打って寝込んだ事があったそうだが、指揮者生命を左右する様な重病も二度経験している。最初は米国客演時、失明の危機に晒された。この時は同行したリーザ・デラ・カーザが紹介してくれた医師のおかげで助かったと、ベーム自身が述べている。二度目は1979年にロンドンのホテルで脳内出血で倒れた事だ。生命は取りとめたものの、後遺症は以後死ぬ迄残ったという。中には最晩年のベームが極端にテンポが遅くなったのは、このせいではないかという人もいる。


酒とベーム

ベームは酒や煙草が苦手だという事を述べている。しかし、一度だけ大酒を飲んだ事がある。戦時中にベルリン・フィルに客演したベームだったが、翌晩にはウィーンで指揮をする事に成っていた。戦時中故、急遽の移動に使われたのは軍用機。しかし、機内はあまりに寒く、他の乗客からこのままでは凍死するからとコニャックを勧められたベーム、ウィーンに着いた時にはホロ酔い加減を遥かに超えていたという。ウィーンでの演奏がどう成ったのかは語られていない。


今は昔

1981年の『ステレオ芸術』10月号に掲載されている指揮者の人気投票では、

@アバドAベームBカラヤンC小澤DC・クライバーEフルトヴェングラーFバーンスタインGショルティHワルターIマゼール

で2位に支持されていたベームだが、1996年『レコード芸術』3月号で評論家やファンを交えて行われた「20世紀最大の指揮者は誰か」という投票では、

@フルトヴェングラーAカラヤンBトスカニーニCバーンスタインDワルターEベームFブーレーズGC・クライバーHクナッパーツブッシュIムラヴィンスキー

で、ベームは6位に後退。一応上位6人は嘗て”3大指揮者”と称されたトスカニーニ、ワルター、フルトヴェングラーと”20世紀後半3大指揮者”と言われたベーム、カラヤン、バーンスタインだから、或る意味順当といえる結果だとも言える。しかし、2009年の『レコード芸術』12月号で行われた「世界の名指揮者ベスト・ランキング」投票では、

@フルトヴェングラーAカラヤンBバーンスタインCトスカニーニDC・クライバーEワルターFクレンペラーGムラヴィンスキーHセルIクナッパーツブッシュ
JチェリビダッケKベームKミュンシュMアーノンクールNジュリーニNショルティNブーレーズQモントゥーRアバドSライナー

で、ベームは12位と大きく順位を下げてしまった。読者投票では、

@フルトヴェングラーAカラヤンBワルターCバーンスタインDトスカニーニEC・クライバーFクレンペラーGムラヴィンスキーHベームIチェリビダッケ

で、辛うじて十傑に名を列ねているが、評論家票では、

@フルトヴェングラーAカラヤンBバーンスタインCC・クライバーDトスカニーニEワルターFクレンペラーGムラヴィンスキーHセルIアーノンクール

で、十傑から洩れている。実績を考えれば、常に十傑に列せられるべきベームが、信じ難い過小評価を受けている。評論家がこれでは、ベームがメディアに登場する回数は減り、新規のファン開拓の裾野が拡がらず、少しずつ支持者が減って行くのは当然だ。フルトヴェングラー亡き後の欧州楽壇をカラヤンと二分し、1970年代にはバーンスタインを加えて”20世紀後半三大指揮者”を形成していた人なのに、何でこんな格下扱いに成るのだろう。

古くからの世代で彼の録音や実演に数多く接した評論家が減り、時代認識に著しく欠け、ベームの事をよく知らない世代の評論家が増えたという事なのだろうか。何れにせよ、今はまだ古くからのファンがいるからいいが、評論家がこの調子では将来更に地盤沈下が進んでしまうに違いない。まあ、現在も高く評価されている歴史的名盤が少なからず存在するのがせめてもの救いだ。それにしても、この手の企画は時代の変遷を感じざるを得ない。しかし、私はこの結果に納得していないし、ベームの名誉回復の為、生涯戦い続ける積りだ。


総評

ベームは指揮者としてはともかく、人間としては決して偉大でなかったかも知れない。しかし、逆にそうした庶民的な部分が独特の魅力を感じさせ、彼が空前絶後のカリスマに成れたのかも知れない。尤も、マーラーが「私には墓石は要らない。作品が残れば充分だ」という意味の事を語っている様に、芸術家にとって大事な事は、名前や生涯が語られる事ではない。作品(演奏家は演奏)が残る事こそ大事なのであって、人間ベームをよく知りもしない癖にあしざまにけなし、演奏の価値迄低くしようとする人がいる事はおかしい。

これもマーラーが「何故ワーグナーの様な最低な人間の音楽を愛好するのか」という質問に対して「牛肉を食べたからといって、牛に成る訳ではない」と語っている事を忘れてはなるまい。

また、ベームの人間性を貶している人間に果たしてベームを貶せるだけの人間性が具わっているだろうか。ベームは公の場で他人を名指しで批判するという様な事は滅多にしていない。するにしても、オブラートに包んでいる。相手を知るという事は、文献や他人の風評からだけで判断してはならない。直に会って話してみる必要がある。それもなるべく多くの機会に。ましてや、個人的な知己でもない故人をよく分かりもしない癖に貶す連中の方が余程人間的に最低だ。少なくとも彼らに比べれば、ベームの方が遥かに立派な人間であり、人格者であると思う。

それに、ベーム程追悼コンサートが盛んに行われた巨匠はいないのではあるまいか。即ちベームには同業の演奏家達にそうした気持ちを起こさせるものがあったという事だ。そういう意味においては、人間的魅力も充分に具えていたのではなかろうか。

http://mahdes.cafe.coocan.jp/ekb.htm

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c5

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
6. 中川隆[-13345] koaQ7Jey 2020年3月25日 08:05:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1559]

カール・ベームはバックハウスの伴奏が一番良かったですね:


Wilhelm Backhaus plays Beethoven, Piano Concerto No.4 - Karl Böhm, Wiener Symphoniker (1967)




WILHELM BACKHAUS, piano
Wiener Symphoniker
KARL BÖHM, conductor

Recorded at Studio Rosenhügel, Vienna, 3-9 April 1967


______



Wilhelm Backhaus- Brahms Piano Concerto No. 2




Wilhelm Backhaus plays Johannes Brahms Piano Concerto, in 1967.
This is one of the last of his recording.

Wiener Philharmoniker
Conductor: Karl Böhm


______


Brahms / Backhaus / Böhm, 1953: Piano Concerto No. 1 in D minor, Op. 15 - Complete, Vinyl LP




Karl Böhm
the Vienna Philharmonic Orchestra


______


Mozart / Wilhelm Backhaus, August 2, 1960 (Live): Piano Concerto No. 27 in B-flat major, K. 595



Karl Bohm
the Vienna Philharmonic orchestra.

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c6
[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
7. 中川隆[-13344] koaQ7Jey 2020年3月25日 08:11:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1560]


ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番 バックハウス




ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 作品37

ピアノ:ヴィルヘルム・バックハウス
指揮:カール・ベーム
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

録音:1950年9月23日 ムジークフェラインザール (ウィーン)


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c7
[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
299. 中川隆[-13343] koaQ7Jey 2020年3月25日 08:29:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1561]
平野憲一 2020.03.25 勝負どころ!

 24日のNY株。
 ダウは2112.98ドル高の2万0704.91ドル、ナスダックも557.19ポイント高の7417.86ポイントと大幅反発。

ダウの上げ幅は過去最大で2万ドル回復。


 議会通過で揉めていた(と言っても民主党は更に大型の対案)超大型経済対策が可決の方向との報道で一気の買い戻しとなりました。

 いくらコロナウイルス感染拡大が続く国内経済への不安が大きいと言っても、大規模経済対策を無視して、ダウ2月の史上最高値から1ヶ月で1万1000ドルの下げは、余りにも下げ過ぎではないかと言う投資家の買い戻しです。

投資家の不安を表すVIX指数は、100年に一度と言われ、世界恐慌論まで飛び出したリーマンショック時の最高80.86に対して、3/16の82.69は悲観の極み(セリングクライマックス)だったと思われます。

 日本株。
 昨日は、日銀や年金筋(GPIF)の買いで下値が取れないと見たカラ売りファンドの買い戻しで日経平均は、あっと言う間の1万8000円回復です。

明らかに先週末の1万6000円台で底を打った動きですが、リーマンショックの時は、下落前の水準に戻るまで4年かかったとか、1番底の5か月後に厳しい2番底が来たとか言って、投資家はまだ疑心暗鬼です。しかし、東京五輪延期の方向が固まった事は、逆に相場のアク抜け感を誘っています。

 シカゴ日経平均先物は7:20現在1万9010円になっています。これに3月の配当予想180円を足すと1万9190円で、これが今日の日経平均の参考値になります。一気の1万9000円台も可能で、1万9500円と言われるGPIFの評価損はかなり減る事になります。

おそらく下げる過程のリバランス(組み入れ比率が下がっていた為、調整の買い)で簿価は更に下がったと思われますので、このまま行ったらほとんど評価損なしで3月末を迎えられるかもしれません。リバランスとドレッシングの一石二鳥作戦は見事に当たりとなります。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c299

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
8. 中川隆[-13342] koaQ7Jey 2020年3月25日 08:39:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1562]
感動する音楽は、スタイルに関係ない 2013年11月29日(金)

ベームで感動したのは「田園」しかない。(77年のNHKホールでのライヴ)

音楽評論家の吉田秀和氏の正反対の極に立つような評論家がいる。

”毒舌と偏見”で知られる宇野功芳だ。

毒舌はともかく、偏見に対しては本人も異論があると思うが、少なくとも多くのこの人の書物を読んだり、批評をみているとそのように感じるしかない。でもそのことは一面では褒め言葉でもある。それだけ持論が”ぶれない”ということでもあるからだ。

でも持論を押しつけられるような気がして、最近ではほとんど読まなかったが、つい図書館で表題につられて読むことにした。

『宇野功芳のクラシックの聴き方』(音楽之友社刊)。
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E8%81%B4%E3%81%8D%E6%96%B9%E3%80%8D-%E5%AE%87%E9%87%8E-%E5%8A%9F%E8%8A%B3/dp/4276211190


ところが、この本が実に面白かった。なかでも評論家山崎浩太郎との音楽放談「ベートーヴェンの交響曲演奏と大巨匠の音楽」が愉快だった。

ワインガルトナーから始まって、歴代の巨匠たちを順番にベートーヴェンの演奏を中心に批評してゆく。もともと日頃の評論そのものが”放談”みたいな人の音楽放談だから面白いに決まっている。それこそ毒舌を通り越して、”なんでもあり”の世界だ。

うなずいたり、感銘を受けたり、興味深く読んだ個所をちょっとひろってみると・・・

ワインガルトナー
音程はいいけれど、縦の線がひどい。とてもプロの指揮者とは言えない。
いいかげんだしね。聴いていて、学者という感じがします。


トスカニーニ

フルトヴェングラーやワルター全盛期に彼がスカラ座を連れてベルリンで実演をした。その凄さは格別だった。


Y:彼のもたらす緊張感のようなものが全然違っていたのかもしれませんね。

U:レコードに入りきれないものすごいものがあるんじゃないの? 
実演を見なきゃわからないものが。
それでなきゃ、あんなに尊敬されるわけがない。


メンゲルベルク

僕の若いころから、すでに正統的じゃなくて、メンゲルベルク節のような感じにとらえられていて、われわれはあまり聴くものじゃないという印象をもってましたよ。麻薬のような。


ワルター(宇野功芳が若い時、ワルターと文通していたのは有名な話)
僕はワルターを聴いていると、ワインガルトナーに比べて、芸術的に相当上の指揮者だと思うなあ。

ワルターは、ルフトパウゼがすごく巧いんですよ。日本人的な”間”の感覚がある。「田園」を聴いていても、「40番」の例のルフトパウゼにしても、あの”間”は至芸だね。


クレンペラー

U:「7番」を最初聴いたときにはいやになっちゃったけど、フルトヴェングラーに飽きてくるとあの四楽章はいかしてますよ。(1960年・フィルハーモニア管)

Y:わかります。私もあの四楽章が大好きで、終わりのほうの、第一ヴァイオリンと他の弦楽器たちとの対話を聴いたときに、ああ、これが聴きたかったものだと。

U:絶対興奮しないしね。最後まで踏みしめていって、しかも冷静でね。でも中は猛烈温かいんだよ。駆け落ちするようなやつだからね。新婚の人妻を連れて駆け落ちするようなところがまだ残っているわけですよ。しかも、表面は冷静にやるから。

フルトヴェングラー

彼の「田園」の第一楽章を聴いてぶったまげたね。あの演奏は偉大な人生体験の一つだな。(1952年・ウィーンフィル) 

ワルターは夢みたいに美しいけどね。フルトヴェングラーの第一楽章は、人生を背負っているという感じですね。


昔、佐川吉男さんが編集長をしていた『ディスク』で対談を編集長としたが、私が「魔笛」は最高の音楽だと思うと言ったら、佐川さんは「私はザルツブルクの人形芝居しか観たことがない」と言うから、「おれはもう帰らせてもらう」と言った。
(笑) 

でも、僕も偉そうなことが言えないんだ。ブルックナーの話になって、「ブルックナーは要らない」と言った。(笑い)
ブルックナーがわからない、そんな時代だったのです。

クナッパーブッシュ(みんな知っている宇野功芳一押しの指揮者)

クナは、ワーグナーだけを尊敬していますね。ワーグナーのときはまったく恣意的なところがない。

ワーグナー以外は全部下に見ている。自分の遊び道具にしています。

だから、ベートーヴェンさえ一段下に見ています。
「第九の終楽章は、あんなひどい曲はない、だから指揮しない」と言っています。

彼は天才ですね。大天才です。

朝比奈隆

「ここはメロディだ、ここは伴奏だから少し弱くしよう」とかいうのが朝比奈のリハーサルにはないんですよ。

フォルテは「フォルテだぞ」と。

「トランペットがフォルテで下を向いて遠慮しながら吹いているから音が出なくなるんだ、堂々と吹け」と。


朝比奈がドイツ式だ、ドイツ風だとかいうのは全くの間違い。

ドイツ風に聴こえるだけであって、昔のドイツの指揮者はもっともっと、フルトヴェングラーでさえも主題と伴奏ということを絶えず考えて、その分だけスケールが小さくなっていたと思う。

ムラヴィンスキー

凄かったのはムラヴィンスキーですね、

何といっても。あのベーチーヴェンの「4番」はほんとうにもう、震えましたよ。

僕のいちばん嫌いなタイプの演奏なんです。

テンポが速くて、動かなくて、直線的で、歌わないし、とにかく即物的で、微笑みのない、ドラマのない。効果も狙わない。

それに痺れたんですよ。いかに彼が凄いか。

場内の空気は一変しました。最初の一音から。指揮者というものは凄いものですね。

ショスタコヴィッチの演奏は全部すばらしいけど、「5番」だけは僕はあまり買えない。あれは大衆的なおんがくですよ。それを高踏的に演奏している。


U:ショスタコヴィッチの「5番」はベートーヴェンの「5番」に比べるとずいぶん落ちる音楽だと思うよ。ベートーヴェンの第四楽章なんて凄いですよね。

僕は一時、「5番」より「エロイカ」のほうが好きだったんです。
ずーっとずーっと好きだったですよ。でもいまでは、「5番」のほうがやっぱり上だなあと思ってきた。

Y:なるほど。私はまだ修行が足らないせいか、「エロイカ」のほうが好きです。

U:修行じゃないです。歳です、アハハハハ。
(これは僕も同意見。ベートーヴェンの「5番」ほど最初から最後まで完璧な音楽は、僕は他に知らない)


シューリヒト

シューリヒトの名盤というと、やはり「エロイカ」と「田園」かな。

あの人はスピードでスーッといくから、「1番」もいいね。

「田園」がなぜかいいんです。非常にユニークな指揮者だね。
スーッと行っていながらいろんなことをやっているんだよ。目立たないように。
面白いですね。名人じゃないですか。やはり巨匠だな。

(「エロイカ」1963年フランス放送管、「田園」1957年パリ音楽院)

ベーム

ベームで感動したのは「田園」しかない。(77年のNHKホールでのライヴ)

カラヤン

カラヤンのベートーヴェンはまったく買わない。

バーンスタイン

バーンスタインで良くないのはベートーヴェンです。
NHKホールでの「3番」を聴いたことがありますが、非常に浅い、ヤンキーのベートーヴェンだった。アメリカの大衆性が悪く出てしまう。

だけれども、ウィーン・フィルを振った全集はオケがしっかりしているから、あれはあれなりに優れた演奏のひとつだと思う。

クライバー

U:ヴァントがいちばんいい例で、三流、二流、一流、超一流となる。
朝比奈先生も二流だったもんね。

60歳ぐらいから少しずつ一流になってきて、長生きしたおかげで曲によっては超一流になった。


Y:そういう意味ではカルロス・クライバーは、決して亡くなったとき若くはないですけれども、老い、円熟ということは一切なく、カルロス・クライバーという人がそのまま来て、そのままいなくなった。

U:ああいう天才型は大体そうだなあ。アルゲリッチもそうだし、ハイドシェックもそうだし、天才型というのは何か進歩しないんだ。


アバド
まったく買わないです。アバドは腑抜けだよね。
音は美しいよ。だから、「田園」は聴いていていやじゃないなあ。

チェリビダッケ

彼の「5番」と「田園」を聴きました。
いちばん面白いのは「5番」ですね。個性のかたまり。

ゲルギエフ

「エロイカ」を埼玉まで聴きにいったんです。旧スタイルなんですよ、ロシア人だから。

巨匠風かというと、全然そんなことはない。中途半端ですね。

小澤もそうですよ。ゲルギエフよりまだスケールが小さい。

マタチッチ

U:マタチッチは詰めが甘いんです。録音で聴くと、なんだかずいぶん怪しいところがある。

Y:彼は、それをそのまま放っておくようなところがありますね。

スメターチェク

あとは、スメターチェクを忘れてはいけない。
彼は、日本に来るたびに大感動した指揮者です。

チェコへ行ったと聞いた話ですが、ノイマンの政治力が強い。
スメターチェクにはまるでないんだって。

社会主義国家だったから、上の覚えがめでたくなくて、不遇だったと言っていた。楽員はみんな、実力はスメターチェクが全然上だと言っていましたけど。

Václav Smetáček - Dvorak Symphony No.9 From the New World
Symfonický orchestr Českého

宇野功芳:

僕はいつも、いちばん最終の判断は、知識のない、『レコ芸』なんか読まない、何にも知らない、ただ音楽が好きで音楽がわかる人が感動する演奏がいちばん凄いんだと思う。スタイルに関係なく。
http://kirakuossa.exblog.jp/20038456/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c8

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
9. 中川隆[-13341] koaQ7Jey 2020年3月25日 08:43:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1563]

指揮者チェリビダッケの音楽語録〜 2008年04月15日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c2454e666c6de0a509d1ca7dcd889015


☆カール・ベーム

「彼の演奏を聴けば聴くほど、彼が心の中で音楽と思い込んでいるものと、彼という人間のあいだの距離が目に見えてどんどん開いてゆくばかりだ。」

「ベーム・・・・・、これまでのキャリアのなかで、まだ一小節たりとも音楽というものを指揮したことのない男」

先日(4月5日)、我が家での試聴にjmc音楽研究所長のO君が持ってきたCD盤の「シェラザード」がすっかり気に入って、いまのところ愛聴盤として活躍中。(4月8日付けのブログで紹介)

オーケストラの音の響かせ方やテンポ、調和のとれたハーモニー、独奏ヴァイオリンの歌わせ方などによく練りこまれた独特の味わいが感じられる。

こうなると自然にその指揮者に関心が向く。

セルジュ・チェリビダッケ(1912〜1996:ルーマニア)

「私が独裁者?モーツァルトこそ!〜チェリビダッケ音楽語録〜」(シュテファン・ピーンドルほか著、音楽の友社刊)に略歴や人となり、音楽の考え方などが詳しく記載されている。

哲学と数学を専攻する中、音楽に目覚め24歳のときにベルリンに移住して作曲、指揮、音楽学を修めた。1945年にはベルリン放送交響楽団の指揮者コンクールに入賞。

当時、ベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者だったフルトヴェングラーが非ナチ化裁判のため指揮を許されなかった1945年から1947年にかけてベルリン・フィルを任されたほどの逸材。

フルトヴェングラー死去後、誰もが世界の名門オーケストラのベルリン・フィル常任指揮者に就任するものと思ったが、楽団員達が択んだのはなんとヘルベルト・フォン・カラヤンだった。

以後、チェリビダッケは国際的な指揮活動に集中せざるを得なくなり、イタリア、デンマーク、スウェーデン、フランスなどで指揮棒を振るが、晩年はミュンヘン・フィルハーモニーの音楽総監督として12年間に亘り蜜月時代が続く。

彼がとくに関心を抱いていたのが、若い指揮者を育てることで、自由になる時間のほとんどすべてを後輩の育成に捧げた。

彼がカラヤンに代わって当時のベルリン・フィルの常任指揮者に納まっていたら、その後、世界のクラシック音楽の動向も変わっていただろうといわれるほどの超大物指揮者だ。

チェリビダッケは言う。

「わたしがベルリン・フィルをさらに指揮し続けたら、このオーケストラは別の道を歩んだことだろう。カラヤンはアメリカ流に艶っぽく磨きぬかれたオーケストラに変えてしまった。わたしならそれをドイツ的なひびきを持つオーケストラに育て、その結果フルトヴェングラーの伝統を受け継いだことだろう。」

彼には指揮者から演奏者までさまざまな「歯に衣をきせない」発言がなかなか面白い。ここでは指揮者に限定して抜粋してみよう。

☆フルトヴェングラー

師として仰いだので次のように賞賛の言葉が続く。

「私はフルトヴェングラーの後継者になることを望まなかった。彼の後継者になれるものなどいない」

『私は彼にこう訊ねたことがある。「先生、ここのテンポはどうすればよいのでしょう。」答えは「そうだね、それがどんなひびきを出すかによるね」。まさに啓示だった。テンポとはメトロノームで測れるような物理的なものではない。結局、テンポが豊かなひびきを出し、多様性を十分に得るのに私はかなりの期間を必要とした。』

※通常、作曲家は楽譜にいかなるテンポで演奏するかを指定していないという。つまり、これは完全に指揮者任せということで、テンポ次第で音楽から受ける印象がすっかり変わる。しかし、速いテンポでも遅いテンポでも違和感がなく自然に聴ける唯一の音楽がベートーヴェンの作品!

☆クラウディオ・アバド

「まったく才能のない男。災厄だね。私は3週間何も食べなくても生きていける。だが演奏会に3時間もいれば〜心臓発作を起こしかねない。その相手が彼なら怒り心頭」

☆カール・ベーム

「彼の演奏を聴けば聴くほど、彼が心の中で音楽と思い込んでいるものと、彼という人間のあいだの距離が目に見えてどんどん開いてゆくばかりだ。」

「ベーム・・・・・、これまでのキャリアのなかで、まだ一小節たりとも音楽というものを指揮したことのない男」

☆ヘルベルト・フォン・カラヤン

「彼は天才ではない。すべての若い音楽家にとってひどい毒となる実例である」

「彼は大衆を夢中にさせるやり方を知っている。コカ・コーラもしかり。」

☆ユージン・オーマンディ

「あんな凡庸な楽長がどうしてストコフスキーの後継者になることができたのか」


☆ヴォルフガング・サバリッシュ

「私の見るところ、彼は高校の校長といったところ。彼は音楽家ではない。メゾフォルテの男だ。イタリアでは長距離専門アスリートをメゾフォルテと呼ぶ」

☆ゲオルグ・ショルティ

「ピアニストとしては傑出している。指揮者としては凡庸な耳しかない。テクニックはお粗末。」

☆アルトゥーロ・トスカニーニ

「トスカニーニは楽譜どおりに演奏した唯一の指揮者だといわれてきた。といっても彼はそもそも音楽などまったくひびかせず、音符だけを鳴らした唯一の指揮者だった。彼は純粋な音符工場だった。」

以上、かっての名指揮者たちもチェリビダッケにかかってはかたなしというところ。

最後に、最近HMVから取り寄せた3枚のチェリブダッケが指揮するCD盤を試聴してみた。

☆ベートーヴェン交響曲第6番「田園」

以前、このブログで田園の11枚の試聴を行って、およその演奏レベルを把握しているつもりだが、これは、ベストだったマリナー、ワルター指揮と十分比肩しうる名盤。
嵐のあとの感謝の歌の神々しいまでの荘厳さといい、全体的に細かいところに手を抜かず、重厚かつ深々としたひびきに”チェリビダッケは凄い”と感心した。

☆ベートーヴェン交響曲「第九番」

何だかフルトヴェングラーの最新ステレオ録音を聴いている思いがした。第一楽章から第四楽章まで時を忘れて聴き耽った。

☆シューマン交響曲「第2番」

仲間のMさんによるとチェリビダッケはシューマンとかブルックナーといったあまり陽のあたらない作品に光を当てて、見直させるのが得意な指揮者だという。たしかにこのひびきは人を飽きさせず作品に没入させる何かを持っている。

以上3曲(ライブ録音)についてとにかく重厚なひびきに圧倒された。これがドイツ的なひびきというものだろうか。ミュンヘン・フィルでこのくらいだから、彼がベルリン・フィルを引き継いでいたらもの凄かっただろう。本人が言うようにフルトヴェングラーの伝統を引き継ぐ資格に太鼓判を押したい。

ただし、自分が思うところフルトヴェングラー、チェリビダッケともにひびきを重視していることに変わりはないが、前者はいったん演奏に入るとひびきを忘れて演奏に深く没入するが、後者は常にひびきを念頭において(そのひびきを)冷静に第三者の目で観察しているところに違いがある。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c2454e666c6de0a509d1ca7dcd889015



チェリビダッケ語録

「(マゼールは)カントについて語る二歳児」

「(クナッパーツブッシュは)スキャンダルそのもの」

「(ムーティは)才能はある、おそろしく無知だが」

「(アドルノは)世界史のなかでいちばんの大言壮語野郎」

「(ムターは)彼女は自分の弾き方に自信を持っている。だが彼女のやること全てには真に偉大な音楽性はない。彼女には視野がない」

「シェーンベルクはまったくどうしようもない愚鈍な作曲家である」

「イーゴリ・ストラヴィンスキーはディレッタントの天才に過ぎない。彼は生まれつき忍耐力に欠けていた。そしてこの欠陥をいつも、
新しい様式で補った。だから彼の音楽は様式感に欠けるところもあるわけだ」

「私の見るところ、サヴァリッシュは高校の校長といったところ。彼は音楽家ではない。メゾフォルテの男だ」

「リズムが機械的なものと理解すれば、それがブーレーズだ」

「(ムターに対して)さてと、あなたがヘルベルト・フォン・カラヤン氏のところで学んだことをすべて忘れなさい」

(とあるマスタークラスにて、若き日のインバルに向って)
「ちゃんと勉強しないと、バーンスタインみたいな指揮者になってしまうぞ!」

「ハイフェッツは哀れな楽譜運搬業者だ」

「人間は何も食わずとも3週間くらいは生きられる。だがアバドのコンサートを3時間聴いたら心筋梗塞を起こす」

「ベートーヴェンの交響曲第5番は失敗作、特に終楽章は」

「(カルロス・クライバーは)あんな常軌を逸したテンポでは何も分からない。
彼は音楽がなんであるか、 経験したことがない」

私が独裁者だって?モーツァルトこそ独裁者だ!」

評論家など寄生虫だ」

「フランス人くらいドビュッシーやラヴェルを下手糞に演奏する連中はいない」

「(ショルティは)ピアニストとしては傑出している。指揮者としては凡庸な耳しかない。テクニックはお粗末」

「チャイコフスキーは、真の交響曲作曲家であり、ドイツでは未知の偉大な男である」

「ベートーヴェンの《第九》の終楽章の合唱もサラダ以外のなにものでもない。ぞっとするサラダだ」

「(カラヤン時代の)ベルリンフィルには、世界最高のコントラバス奏者がいます。だから、ベルリンフィルのコンサートは、今、すべてがオーケストラ伴奏付きのコントラバス協奏曲なのです」

「(ハスキルは)すばらしいコンサート・ピアニスト。機知に富み、魅力的で、徹頭徹尾、音楽的。 ユーモアと生きる歓びに充ちている」


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c9

[近代史3] リヒャルト・シュトラウス 『薔薇の騎士』 中川隆
7. 中川隆[-13340] koaQ7Jey 2020年3月25日 09:27:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1564]
踏みにじられた「ウィーンの名花」-----デラ・カーザ降板劇
http://www.fugue.us/Intermezzo_combined.html


Tomoyuki Sawado (Sonetto Classics)
リーザ・デラ・カーザ

不可解な主役の変更

1960年7月26日、ザルツブルグ祝祭大劇場のこけら落とし公演において、スイス生まれの名ソプラノ、リーザ・デラ・カーザ(1919-)は「バラの騎 士」の元帥夫人マルシャリン役を歌い、満場の聴衆を魅了していた。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のウィーン・フィル、セーナ・ユリナッチのオクタヴィ アン、ヒルデ・ギューデンのゾフィーという、伝説的な共演者達であった。公演は歴史的と言える成功をおさめた。そして、この後、本来ならば、デラ・カーザ を主役としたオペラ映画「バラの騎士」が撮影される運びだった。彼女にとっては、キャリアのピークとなる、輝かしい夏となる筈だったのだ。ところが、実際 の映画の撮影現場にいたのはデラ・カーザではなく、ライヴァル、エリーザベト・シュヴァルツコップだった。完成した映画は公開当初から最高の評価を受け、 デラ・カーザの公演での大成功にも関わらず、マルシャリン=シュヴァルツコップのイメージだけが後世に残ることとなった。


映画において、シュヴァルツコップの良くコントロールされた歌唱、毅然とした佇まいが、元帥夫人の一つの優れたモデルを提供していたのは確かである。しか し、当初の予定通り、デラ・カーザが映画に出演していたら、映像の魅力は、より大きなものとなっていたかもしれない。というのも、デラ・カーザはハリウッ ド黄金期の女優達を彷彿とさせる、優艶なる美貌の持ち主だったからだ。人はデラ・カーザを「アラベリッシマ=最美のアラベラ」「ウィーンの名花」と賞賛し ていた。彼女の舞台姿を評して、「ルードヴィヒ一世のギャラリーにある素晴らしく美しい肖像画から抜け出て来たような」と讃嘆したのは、名バリトンのハン ス・ホッターである("Memoirs", Hans Hotter, p126)。

「デラ・カーザは新しいアラベラになるぞ」(リヒャルト・シュトラウス, 1947年)




バイエルン国立歌劇場での「サロメ」より「7つのヴェールの踊り」を舞うデラ・カーザ。1961年のカール・ベーム指揮の公演はセンセーショナルな成功を収めた。


しかし、デラ・カーザは、単に美貌で売っていた歌手だったわけではな い。彼女はオペラ史上でも稀に見る万能ソプラノだったのだ。なにしろ、彼女は「バラの騎士」において、メゾのアンニーナとオクタヴィアン、ソプラノのゾ フィーとマルシャリンという、音域も性格も異なる4つの女声役全てで成功している。しかも、彼女は、本来ドラマティックソプラノの領分であるクリソテミス やサロメを歌ってセンセーショナルな成功を収め、パミーナ、フィオルディリージ、伯爵夫人などのモーツアルトのリリックな役柄では当代随一の評価を得てい たし、ミミ、トスカなどのイタリア系の役柄でも高く評価された。そしてデビュー当時はコロラトゥーラの夜の女王まで手がけていたのである。ここまで来ると 一種の異才というべきだろう。

フリッツ・ライナーは、ある時、デラ・カーザに向かって、「リーザ、私が歌手の連中を好んでいないのは知っているな。でも君は歌手じゃない。音楽家だ。」 と言ったという。この発言は、二つの観点から解釈することができる。まず、純粋な歌唱技術という観点から見ると、デラ・カーザは100%完璧なものを持っ ていたわけではなかった。もちろん、第一級と言っていい歌唱能力の持ち主ではあったが、弱音になると、中低声部の音程が若干フラットになることがあった。 銀色の美声の持ち主ではあったものの、決して声楽技術を売りにする「歌手」ではなかったと言える。第二に、彼女の最大の特質は、音楽性、特にその歌の「真 正さ」にあった。表情が硬い、と指摘されることがあったが、一方で何を歌っても、控えめな美しさ、清純さ、若々しい息吹を感じさせた。この点で、彼女はマ リア・チェボターリ、マリア・ライニング、グンドゥラ・ヤノヴィッツの系列に属する、正統的シュトラウス・プリマだったと言える。



デラ・カーザのアラベラと、フィッシャー・ディスカウのマンドリカは、黄金の組み合わせだった。


高貴な美貌はもとより、その若々しく上品な歌声は、シュトラウスのオペラ「アラベラ」の世界に完璧にマッチしていた。結婚を夢見る令嬢の心の揺れ動きを、 デラ・カーザほどさりげなく、そして見事に歌い、演じた歌手はいない。彼女のアラベラは伝説的で、いまだに世界中のどこかで誰かがこの役を歌うたびに、 「デラ・カーザ」の名が比較にあげられるほどである。現在、4種類の公式録音が手に入る上、全曲のライヴ映像もドイツのテレビ局に残っている。特に、最近 オルフェオから発売された「アラベラ」のライヴ録音は瞠目すべき演奏で、そこでは彼女の最高のアラベラを聴くことができる。もちろん、名盤として知られる ショルティとの1957年のデッカ録音では、ジョン・カルショーによる見事な録音と、瑞々しいデラ・カーザの美声が満喫できるのだが、一方で彼女の表現は ややクールに過ぎ、ショルティの指揮も力づくで味わいに欠けているのは否めない。1963年のカイルベルトとのDG録音では、デラ・カーザの表現ははるか に深みを増している反面、声は重くなり、そのコントロールは完璧ではなくなっている。その点、1958年のオルフェオ録音は、声、表現、カイルベルトの指 揮VPOの豊麗な伴奏ともに、ほぼ理想的な状態にある。


完璧なマルシャリン


1960年の「バラの騎士」ザルツブルグ公演の美しい舞台写真。マルシャリンのデラ・カーザ(左)とオクタヴィアンのユリナッチ(右)。



冒頭にあげた公演、1960年に行われた「バラの騎士」プレミエの録音が、最近になってDGから発売になった。モノラルの放送録音由来というハンディをい れても、演奏内容でシュヴァルツコップとカラヤンが製作した著名なEMI盤を凌駕する、という意見が多い(英グラモフォン誌のAlan Blythもこのライヴ盤をEMI盤よりも上位に置いている)。実際、カラヤンの流麗な指揮は見事なもので、EMIのスタジオ録音よりも音楽が自然に流れ ている。ゾフィーを歌ったギューデンだけはやや不調だが、他の歌手は素晴らしい出来だ。特に、デラ・カーザに関しては、レコードで聴くことのできるマル シャリンの中でも最上のものに属する。入念に準備されたらしく、低音から高音までムラなく美しい声で、非の打ち所の無い歌唱を聴くことができる。最後の三 重唱では、遅めのカラヤンの指揮によりそい、クリスタルガラスのように輝くトーンと、見事なヴォイス・コントロールを聴かせている。そして、少しもわざと らしさ、押し付けがましさを感じさせない表現が新鮮だ。他の歌手が歌うとやりすぎて暑苦しくなる「時計のモノローグ」も、さりげなく歌われ、心の微妙なゆ らめきが伝わってくる。何より、30代前半の女性を想定されて書かれたマルシャリンに相応しく、声に若々しい息吹を感じさせるのが良い。全ての点でゾ フィーを上回る魅力を持つマルシャリン、というのはプロット上問題かもしれないが......

この素晴しい結果から見ても、指揮者カラヤンと監督ツインナーが、当初、デラ・カーザを公演と映画でのマルシャリンに起用しようとしたのは正しい判断だっ た。カラヤンは、この公演に先立つ1959年の夏、デラ・カーザに翌年の「バラの騎士」の出演を依頼している(ただ、この時点から、なぜかカラヤンは、 シュヴァルツコップをセカンドとしたダブルキャストにこだわっていた)。そして、公演の4カ月前の1960年の3月に、音楽祭のプレジデントであった Baron Puthonが、デラ・カーザ夫妻に「バラの騎士」映画製作の話をした。デラ・カーザが喜んだのは当然である。特に、監督のツインナーは、ことのほかデ ラ・カーザ起用に熱心であったようだ。彼らは1960年の4月の段階でデラ・カーザに映画主演のオファーを出し、デラ・カーザも受諾した。6月には、ツイ ンナーは、デラ・カーザ夫妻に「マルシャリンとザルツブルグでの映画を大変楽しみにしている」というカードを送っている((Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken", p249-251)。デラ・カーザが心配することは何も無かった。あとは公演をこなし、カメラの前に立つだけである。

寝耳に水の降板劇と6年前の伏線


流れが突然変わったのは、7月、ザルツブルグ音楽祭が始まった後である。突然、彼女は映画の主役から外されたのだ。しかも、その決定は、デラ・カーザ本人にさえ知らされなかったらしい。メゾ・ソプラノのクリスタ・ルードヴィヒの自伝に以下の記述がある。

「リー ザ・デラ・カーザは、ザルツブルグで不愉快な驚きを経験させられた。彼女は、新しい祝祭大劇場で、1960年の7月、カラヤンの指揮で素晴らしいマルシャ リンを歌った。私がきいたところでは、その公演が映画化されるとのことだったが、(実際の)映画では、シュヴァルツコップがマルシャリンだった。音楽祭の 最中、私はリーザに道でばったり会ったのだが、彼女はその映画の話をし始め、わたしにその映画に出演することをどんなに楽しみにしているか、ということを 語ったのだ。私はひどく無邪気に、「あなた、シュヴァルツコップが映画でマルシャリンを歌うことになっているのを知らないの?」と言ってしまった。リーザ は、誰かが彼女を排除した、ということを全く知らなかったのだ。契約というのは破るためにあるのだ。ヴォータンが「指輪」で幾度もやったよう に............」(「In My Own Voice:Memoirs」p185-6)



ドンナ・エルヴィーラに扮した、イングリッド・バーグマン風のデラ・カーザとサイン。(筆者蔵)


いったい、何が起こったのだろうか?

Richard Fawks のOpera on Filmsによれば、ツインナーの1954年の映像作品、「ドン・ジョヴァンニ」に、「バラの騎士」降板事件の伏線があるという (p161)。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮のこの映像作品のプロトタイプとなった本公演では、シュヴァルツコップがドンナ・エルヴィーラ役とし て、ザルツブルグの6公演に参加した。しかし、シュヴァルツコップ夫君のEMIプロデューサー、ウォルター・レッグの意向で、シュヴァルツコップは映像版 への参加を取り止めてしまう。

その理由は、「ドン・ジョヴァンニ」の製作中に、ツインナー監督で「バラの騎士」映画制作の計画があることをレッグが知ったためである。レッグは、その映 画に妻のシュヴァルツコップをマルシャリンとして登場させることを優先させたのだ。「ドン・ジョヴァンニ」をあきらめることで、最初の映画出演から派生す る契約上の束縛から自由になることも狙っていたことだろう。シュヴァルツコップが役を降りてしまったため、急遽、デラ・カーザが映画「ドン・ジョヴァン ニ」のドンナ・エルヴィーラ役に起用された。既に製作は進んでいたこともあって、デラ・カーザの登場箇所のみは、後になって改めて撮り直され、シュヴァル ツコップが登場する箇所と差し替えられた。つまり、シュヴァルツコップとレッグの間では、「バラの騎士」は数年越しの夢だったのだ。そして、この夢は何が 何でも達成されなければならなかった。

シュヴァルツコップ、レッグ夫妻の水面下での動き


自伝ではぼかしているのだが、クリスタ・ルードヴィヒはデラ・カーザ降板の舞台裏を知っていた筈である。デラ・カーザの夫君、デベルジェヴィッチ (Dragan Debeljevic)の「Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken"」によれば、ルードヴィヒとデベルジェヴィッチは、ザルツブルグ祝祭劇場の前でばったり出会い、以下の会話を交わしているという (p251)。

ルードヴィヒ「私、エリーザベトには頭に来てるの」

デベルジェヴィッチ「どのエリーザベトのことで怒っているんだい?」

ルードヴィヒ「(驚いて)シュヴァルツコップのことよ」

デベルジェヴィッチ「なぜ?」

ルードヴィヒ「なぜ?映画のことに決まっているじゃないの。シュヴァルツコップが映画に出演するなんて、ひどい話だと思うわ。」

デベルジェヴィッチ「そんなはずはないさ。リーザはずっと前から出ることが決まっている。ツインナーとは、出演料の話がのこっているだけなんだよ」

ルードヴィヒ「シュヴァルツコップの契約のことで誰もあなた達に連絡していないの?」

驚いたデベルジェヴィッチは、リハーサル中の妻のデラ・カーザに電話をかけた。デラ・カーザは、当初、夫の話を信じなかったのだが、ついに監督のツイン ナーから一件をきかされるはめになる。デベルジェヴィッチによれば、ツインナーは「うなだれた姿」で、「ひどい話だ。私は運が悪い」と口走っていたとい う。ツインナー曰く、「シュヴァルツコップとその夫君(レッグ)がロンドンの映画会社と直接交渉し、最終契約を結んでしまった」というのである。そして、 ツインナーは、「自分は知らなかったんだ」としつつも、「口約束しかしなかったのは君たちのミスだった」とデラ・カーザ側を責める言葉を吐く。デベルジェ ヴィッチは激昂し、激しくツインナーを罵る。デラ・カーザはカラヤンに直訴しようとするが、ツインナーは「もう変更はきかない」と言うのみだった。 (Dragan Debeljevic, p251-2)



映画は、ライヴァル、シュヴァルツコップのマルシャリン歌いとしての名声を不朽のものとした


確かに、デラ・カーザがカラヤンのもとへ行ったとしても、時間の無駄だったろう。シュヴァルツコップは既にカラヤンとも手を打ってしまっていたからだ。ロ ンドンの映画会社といい、カラヤンといい、彼女の動きは見事なまでに素早く、効果的で、そして容赦の無いものだった。

「  最初に問題が起きたのは、カラヤンがマルシャリン役にシュヴァルツコップではなく、リーザ・デラ・カーザを起用する、と決めたときであった。デラ・カーザ はマルシャリンの役をそれほど好んでいなかったから、シュヴァルツコップには二重のショックだった-----彼女は、前年の12月にコヴェント・ガーデン でショルティの元でこの役を歌った時、イギリスのメディアから、「好意的に見ても賛否半ば」、という評価を受けていたのである。-------シュヴァル ツコップはカラヤン指揮で『ドン・ジョヴァンニ』のドンナ・エルヴィラを、ベーム指揮で『コジ・ファン・トゥッテ』のフィオルディリージを歌う予定になっ ていたのにも関わらず、1960年のザルツブルグ音楽祭から完全に降りると脅した。そして、シュヴァルツコップは、カラヤン指揮、パウル・ツィンナー監督 の映画、「バラの騎士」のマルシャリンとして出演する、という合意を確実に取り付けた。」
(Herbert Von Karajan: A Life in Music, p454 Richard Osbone)


普 通であれば、帝王カラヤンを脅した段階でシュヴァルツコップのキャリアは暗転していたかもしれない。仮にシュヴァルツコップがザルツブルグ音楽祭から完全 撤退したとしても、芸術面、人気面で音楽祭が損害を受けることはなかったろう。なにしろ、当時のデラ・カーザの高いレパートリー能力と人気は、シュヴァル ツコップの穴を埋めるに十分すぎるものだったからだ。そして、もしそうなっていたら、1960年のザルツブルグ音楽祭の主役はデラ・カーザになっていた。 そして、後世は、オペラ演奏史上、もっとも美しいマルシャリンのカラー映像を目にしていたに違いない。


音楽ビジネスの論理を優先したカラヤン



一世を風靡した当たり役、美女アラベラに扮したデラ・カーザ。作曲者リヒャルト・シュトラウスは、脇役を演じる20代の彼女の舞台を見て、「彼女は将来、新たなアラベラになるだろう」と予言した。


だが、実際にはそのような事は起きなかった。カラヤンがシュヴァルツ コップの要求をそのまま受け入れ、シュヴァルツコップを映画の主役にしてしまったからである。カラヤンの翻意の理由は、シュヴァルツコップの実力というよ り、シュヴァルツコップの夫君、ウォルター・レッグの存在があったからに他ならない。レッグは敏腕プロデューサーとして、大会社EMIを実質的に統括して おり、ある意味、カラヤン以上に大きな力を持っていた。また、カラヤンは、ナチ党員として演奏活動が禁じられていた戦後間もない時期、レッグが創設した フィルハーモニア管弦楽団との録音の場を提供してもらっていた。カラヤンにとって、シュヴァルツコップを切って、恩も力もあるレッグとの関係にヒビを入れ ることなど想像もできなかっただろう。そして、シュヴァルツコップは、当時、賛否半ばだったとは言え、独自のマルシャリンを歌い、演じることが出来たか ら、カラヤンの行為は、道義的にはともかく、芸術的には理不尽な判断ではなかった。そのことは、シュヴァルツコップ主演の映画が成功したことからも明らか である。

無惨だったのは、さんざん持ち上げられたあげくに梯子を外され、しかも、部外者であったルードヴィヒから道端で一件を知らされたデラ・カーザ夫妻である。 カラヤンを始めとする関係者は、誰も彼女に説明しようとしなかったのだ。大物達の政治的思惑が交錯する中、後ろ盾のない彼女は、ただ苦い涙を飲む他なかっ た。デベルジェヴィッチによれば、彼女は、降板が決定した後、数日間というもの、ひどくふさぎ込み、プレミエの大成功についても、「何の意味があるの?明 日になれば皆忘れてしまうわ。でも映画は記録として残るのよ。」と言っていたという。そして、「自分は裏切られた。自分は失敗者」とさえ考え、「Ich will nie mehr nach Salzburg-----もうザルツブルグ音楽祭では歌わない」と語るまでになっていた(Dragan Debeljevic, p252)。実際、翌年以降の同プロダクションはシュヴァルツコップが歌ったし、シュトラウス・イヤーであった1964年にも、カラヤンからの音楽祭への 出演オファーを断っている(Dragan Debeljevic, p253)。もちろん、彼女も栄光あるザルツブルグ音楽祭への出演を断りつづけることで、自身のキャリアを傷つけていることは分かっていたが、彼女は自分 をもてあそんだ場所を許すことができなかった。間もなく、彼女のメジャーレーベルへの録音も途絶えてしまう。


苦い涙とともに

こ の不条理な降板事件は、デラ・カーザの心に、音楽業界に対する大きな不信をもたらした。彼女は、これ以降もシュヴァルツコップと共演しており、少なくとも 表面上、二人のライヴァルの関係がささくれ立つようなことはなかったようだ。ただ、音楽ビジネスの象徴であるザルツブルグ音楽祭への思いは別である。「陳 腐」「誇りも人間味もない」「不公正。嘘。詐欺」「私はザルツブルグ音楽祭なしでも生きていけるし、ザルツブルグは私なしでも生きていける」と、プライ ヴェートな場でではあるが、激しい言葉を使っていた(Dragan Debeljevic、p253)。そして、後年のデラ・カーザは、音楽ビジネス全体、オペラの世界に充満する陰謀、嫉妬、政治的な動き、スター歌手達の 自己中心的な振る舞いに対する違和感を表明するようになっていく。彼女は1974年、突然、引退を表明した。娘の病気が理由である。とあるインタビュー で、「とてつもなく深い悲しみの表情とともに」、かつて負った心の傷を伺わせるような言葉を残している。

歌手の運命の一番奇妙なところは、目的のために全てをなげうち、そして儚く全てが終わってしまうこと.............

私達の残した足跡なんて、今日の午後降った雪のようなものなのです。明日には消え、何も残らないの。

そうね、何人かは覚えていてくれるでしょう。でも、それも本当に短い間だけね。

(The Prima Donnas, Lanfranco Rasponi)


彼女は敗北したのか?


1960年のザルツブルグでの「バラの騎士」の舞台から。デラ・カーザ(左)とセーナ・ユリナッチ(右)



幸運なことに、これらの言葉は、彼女に限ってはせいぜい半分程度しか当てはまらなかった。確かに、現在、デラ・カーザの名は、レッグと彼の息のかかったメ ディアによって過剰なまでに神格化されたシュヴァルツコップに比べ、ひどく過小な扱いを受けている。しかし、その反面、彼女が1960年代前半までに残し たいくつかの録音は、オペラを少しでも聴き込んだ人々にとっての大切な宝物であり続けている。「アラベラ」4種(DG、デッカ、オルフェオ、テスタメン ト)、ミトロプーロスとの「エレクトラ」(オルフェオ)、ベームとの「四つの最後の歌」「コシ・ファン・トゥッテ」(デッカ)「ナクソス島のアリアドネ」 (DG)、エーリヒ・クライバーとの「フィガロの結婚」(デッカ)、セルとの「魔笛」(オルフェオ)、フルトヴェングラーとの「ドン・ジョヴァンニ」 「フィデリオ」、そして、何と言ってもカラヤンとの1960年の「バラの騎士」のライヴ録音(DG)..........。これだけ多くの名盤、綺羅星の ような名演に関わって来た歌手の名が、「雪のように、明日には何も残らない」ことがありうるだろうか。

興味深いことがある。近年、シュヴァルツコップの歌唱アプローチが、若い世代の歌手や批評家達から、作為的、表情過多、マンネリズムと批判されることが増 えてきているのである。巷で「完璧」とされてきた技巧についても、よく聴いてみれば、音程も正しいわけではないし、特に後年は、もっぱら声の美感の不足を 隠すために使われていたようにも聴こえる。ウォルター・レッグによる宣伝とは無縁の若い世代の聴衆には、かつて「お行儀が良すぎる」と言われた、デラ・ カーザのナチュラルで上品な歌い方の方がフレッシュに響くのではないだろうか。実際、ここ10年の間に彼女が参加した公演のライヴ録音が、オルフェオ、 DG、テスタメント等を通じて日の目を見て来たが、どの盤も最高の評価を受けている。1960年にバイエルン国立歌劇場で収録された、「アラベラ」の全曲 映像が正規ルートで発売される日もそう遠くはないだろう。

来年初頭、「ウィーンの名花」リーザ・デラ・カーザは89歳になる。彼女は、ささやかだが、着実に進行しているリバイバルの流れをどのように見ているのだろうか。できることなら、話をきいてみたい気がする。

10/23/2007
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References

Memoirs, by Hans Hotter

Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken", Dragan Debeljevic

In My Own Voice: Memoirs, by Christa Ludwig

Herbert Von Karajan: A Life in Music, by Richard Osbone

The Prima Donnas, by Lanfranco Rasponi

Opera on Films, by Richard Fawks

"Lisa Della Casa" (International Opera Collector, p26-31), by Roger Nichols


追記)デラ・カーザの90歳記念特集のテレビ番組が制作された。その中で、白黒ではあるが、60年ザルツブルグ音楽祭の「薔薇の騎士」の舞台を記録した映像が流されている。

http://www.fugue.us/Intermezzo_combined.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/881.html#c7

[近代史3] モーツァルトで本当にいいのは 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」だけ 中川隆
5. 中川隆[-13339] koaQ7Jey 2020年3月25日 09:28:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1565]
踏みにじられた「ウィーンの名花」-----デラ・カーザ降板劇
http://www.fugue.us/Intermezzo_combined.html


Tomoyuki Sawado (Sonetto Classics)
リーザ・デラ・カーザ

不可解な主役の変更

1960年7月26日、ザルツブルグ祝祭大劇場のこけら落とし公演において、スイス生まれの名ソプラノ、リーザ・デラ・カーザ(1919-)は「バラの騎 士」の元帥夫人マルシャリン役を歌い、満場の聴衆を魅了していた。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のウィーン・フィル、セーナ・ユリナッチのオクタヴィ アン、ヒルデ・ギューデンのゾフィーという、伝説的な共演者達であった。公演は歴史的と言える成功をおさめた。そして、この後、本来ならば、デラ・カーザ を主役としたオペラ映画「バラの騎士」が撮影される運びだった。彼女にとっては、キャリアのピークとなる、輝かしい夏となる筈だったのだ。ところが、実際 の映画の撮影現場にいたのはデラ・カーザではなく、ライヴァル、エリーザベト・シュヴァルツコップだった。完成した映画は公開当初から最高の評価を受け、 デラ・カーザの公演での大成功にも関わらず、マルシャリン=シュヴァルツコップのイメージだけが後世に残ることとなった。


映画において、シュヴァルツコップの良くコントロールされた歌唱、毅然とした佇まいが、元帥夫人の一つの優れたモデルを提供していたのは確かである。しか し、当初の予定通り、デラ・カーザが映画に出演していたら、映像の魅力は、より大きなものとなっていたかもしれない。というのも、デラ・カーザはハリウッ ド黄金期の女優達を彷彿とさせる、優艶なる美貌の持ち主だったからだ。人はデラ・カーザを「アラベリッシマ=最美のアラベラ」「ウィーンの名花」と賞賛し ていた。彼女の舞台姿を評して、「ルードヴィヒ一世のギャラリーにある素晴らしく美しい肖像画から抜け出て来たような」と讃嘆したのは、名バリトンのハン ス・ホッターである("Memoirs", Hans Hotter, p126)。

「デラ・カーザは新しいアラベラになるぞ」(リヒャルト・シュトラウス, 1947年)




バイエルン国立歌劇場での「サロメ」より「7つのヴェールの踊り」を舞うデラ・カーザ。1961年のカール・ベーム指揮の公演はセンセーショナルな成功を収めた。


しかし、デラ・カーザは、単に美貌で売っていた歌手だったわけではな い。彼女はオペラ史上でも稀に見る万能ソプラノだったのだ。なにしろ、彼女は「バラの騎士」において、メゾのアンニーナとオクタヴィアン、ソプラノのゾ フィーとマルシャリンという、音域も性格も異なる4つの女声役全てで成功している。しかも、彼女は、本来ドラマティックソプラノの領分であるクリソテミス やサロメを歌ってセンセーショナルな成功を収め、パミーナ、フィオルディリージ、伯爵夫人などのモーツアルトのリリックな役柄では当代随一の評価を得てい たし、ミミ、トスカなどのイタリア系の役柄でも高く評価された。そしてデビュー当時はコロラトゥーラの夜の女王まで手がけていたのである。ここまで来ると 一種の異才というべきだろう。

フリッツ・ライナーは、ある時、デラ・カーザに向かって、「リーザ、私が歌手の連中を好んでいないのは知っているな。でも君は歌手じゃない。音楽家だ。」 と言ったという。この発言は、二つの観点から解釈することができる。まず、純粋な歌唱技術という観点から見ると、デラ・カーザは100%完璧なものを持っ ていたわけではなかった。もちろん、第一級と言っていい歌唱能力の持ち主ではあったが、弱音になると、中低声部の音程が若干フラットになることがあった。 銀色の美声の持ち主ではあったものの、決して声楽技術を売りにする「歌手」ではなかったと言える。第二に、彼女の最大の特質は、音楽性、特にその歌の「真 正さ」にあった。表情が硬い、と指摘されることがあったが、一方で何を歌っても、控えめな美しさ、清純さ、若々しい息吹を感じさせた。この点で、彼女はマ リア・チェボターリ、マリア・ライニング、グンドゥラ・ヤノヴィッツの系列に属する、正統的シュトラウス・プリマだったと言える。



デラ・カーザのアラベラと、フィッシャー・ディスカウのマンドリカは、黄金の組み合わせだった。


高貴な美貌はもとより、その若々しく上品な歌声は、シュトラウスのオペラ「アラベラ」の世界に完璧にマッチしていた。結婚を夢見る令嬢の心の揺れ動きを、 デラ・カーザほどさりげなく、そして見事に歌い、演じた歌手はいない。彼女のアラベラは伝説的で、いまだに世界中のどこかで誰かがこの役を歌うたびに、 「デラ・カーザ」の名が比較にあげられるほどである。現在、4種類の公式録音が手に入る上、全曲のライヴ映像もドイツのテレビ局に残っている。特に、最近 オルフェオから発売された「アラベラ」のライヴ録音は瞠目すべき演奏で、そこでは彼女の最高のアラベラを聴くことができる。もちろん、名盤として知られる ショルティとの1957年のデッカ録音では、ジョン・カルショーによる見事な録音と、瑞々しいデラ・カーザの美声が満喫できるのだが、一方で彼女の表現は ややクールに過ぎ、ショルティの指揮も力づくで味わいに欠けているのは否めない。1963年のカイルベルトとのDG録音では、デラ・カーザの表現ははるか に深みを増している反面、声は重くなり、そのコントロールは完璧ではなくなっている。その点、1958年のオルフェオ録音は、声、表現、カイルベルトの指 揮VPOの豊麗な伴奏ともに、ほぼ理想的な状態にある。


完璧なマルシャリン


1960年の「バラの騎士」ザルツブルグ公演の美しい舞台写真。マルシャリンのデラ・カーザ(左)とオクタヴィアンのユリナッチ(右)。



冒頭にあげた公演、1960年に行われた「バラの騎士」プレミエの録音が、最近になってDGから発売になった。モノラルの放送録音由来というハンディをい れても、演奏内容でシュヴァルツコップとカラヤンが製作した著名なEMI盤を凌駕する、という意見が多い(英グラモフォン誌のAlan Blythもこのライヴ盤をEMI盤よりも上位に置いている)。実際、カラヤンの流麗な指揮は見事なもので、EMIのスタジオ録音よりも音楽が自然に流れ ている。ゾフィーを歌ったギューデンだけはやや不調だが、他の歌手は素晴らしい出来だ。特に、デラ・カーザに関しては、レコードで聴くことのできるマル シャリンの中でも最上のものに属する。入念に準備されたらしく、低音から高音までムラなく美しい声で、非の打ち所の無い歌唱を聴くことができる。最後の三 重唱では、遅めのカラヤンの指揮によりそい、クリスタルガラスのように輝くトーンと、見事なヴォイス・コントロールを聴かせている。そして、少しもわざと らしさ、押し付けがましさを感じさせない表現が新鮮だ。他の歌手が歌うとやりすぎて暑苦しくなる「時計のモノローグ」も、さりげなく歌われ、心の微妙なゆ らめきが伝わってくる。何より、30代前半の女性を想定されて書かれたマルシャリンに相応しく、声に若々しい息吹を感じさせるのが良い。全ての点でゾ フィーを上回る魅力を持つマルシャリン、というのはプロット上問題かもしれないが......

この素晴しい結果から見ても、指揮者カラヤンと監督ツインナーが、当初、デラ・カーザを公演と映画でのマルシャリンに起用しようとしたのは正しい判断だっ た。カラヤンは、この公演に先立つ1959年の夏、デラ・カーザに翌年の「バラの騎士」の出演を依頼している(ただ、この時点から、なぜかカラヤンは、 シュヴァルツコップをセカンドとしたダブルキャストにこだわっていた)。そして、公演の4カ月前の1960年の3月に、音楽祭のプレジデントであった Baron Puthonが、デラ・カーザ夫妻に「バラの騎士」映画製作の話をした。デラ・カーザが喜んだのは当然である。特に、監督のツインナーは、ことのほかデ ラ・カーザ起用に熱心であったようだ。彼らは1960年の4月の段階でデラ・カーザに映画主演のオファーを出し、デラ・カーザも受諾した。6月には、ツイ ンナーは、デラ・カーザ夫妻に「マルシャリンとザルツブルグでの映画を大変楽しみにしている」というカードを送っている((Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken", p249-251)。デラ・カーザが心配することは何も無かった。あとは公演をこなし、カメラの前に立つだけである。

寝耳に水の降板劇と6年前の伏線


流れが突然変わったのは、7月、ザルツブルグ音楽祭が始まった後である。突然、彼女は映画の主役から外されたのだ。しかも、その決定は、デラ・カーザ本人にさえ知らされなかったらしい。メゾ・ソプラノのクリスタ・ルードヴィヒの自伝に以下の記述がある。

「リー ザ・デラ・カーザは、ザルツブルグで不愉快な驚きを経験させられた。彼女は、新しい祝祭大劇場で、1960年の7月、カラヤンの指揮で素晴らしいマルシャ リンを歌った。私がきいたところでは、その公演が映画化されるとのことだったが、(実際の)映画では、シュヴァルツコップがマルシャリンだった。音楽祭の 最中、私はリーザに道でばったり会ったのだが、彼女はその映画の話をし始め、わたしにその映画に出演することをどんなに楽しみにしているか、ということを 語ったのだ。私はひどく無邪気に、「あなた、シュヴァルツコップが映画でマルシャリンを歌うことになっているのを知らないの?」と言ってしまった。リーザ は、誰かが彼女を排除した、ということを全く知らなかったのだ。契約というのは破るためにあるのだ。ヴォータンが「指輪」で幾度もやったよう に............」(「In My Own Voice:Memoirs」p185-6)



ドンナ・エルヴィーラに扮した、イングリッド・バーグマン風のデラ・カーザとサイン。(筆者蔵)


いったい、何が起こったのだろうか?

Richard Fawks のOpera on Filmsによれば、ツインナーの1954年の映像作品、「ドン・ジョヴァンニ」に、「バラの騎士」降板事件の伏線があるという (p161)。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮のこの映像作品のプロトタイプとなった本公演では、シュヴァルツコップがドンナ・エルヴィーラ役とし て、ザルツブルグの6公演に参加した。しかし、シュヴァルツコップ夫君のEMIプロデューサー、ウォルター・レッグの意向で、シュヴァルツコップは映像版 への参加を取り止めてしまう。

その理由は、「ドン・ジョヴァンニ」の製作中に、ツインナー監督で「バラの騎士」映画制作の計画があることをレッグが知ったためである。レッグは、その映 画に妻のシュヴァルツコップをマルシャリンとして登場させることを優先させたのだ。「ドン・ジョヴァンニ」をあきらめることで、最初の映画出演から派生す る契約上の束縛から自由になることも狙っていたことだろう。シュヴァルツコップが役を降りてしまったため、急遽、デラ・カーザが映画「ドン・ジョヴァン ニ」のドンナ・エルヴィーラ役に起用された。既に製作は進んでいたこともあって、デラ・カーザの登場箇所のみは、後になって改めて撮り直され、シュヴァル ツコップが登場する箇所と差し替えられた。つまり、シュヴァルツコップとレッグの間では、「バラの騎士」は数年越しの夢だったのだ。そして、この夢は何が 何でも達成されなければならなかった。

シュヴァルツコップ、レッグ夫妻の水面下での動き


自伝ではぼかしているのだが、クリスタ・ルードヴィヒはデラ・カーザ降板の舞台裏を知っていた筈である。デラ・カーザの夫君、デベルジェヴィッチ (Dragan Debeljevic)の「Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken"」によれば、ルードヴィヒとデベルジェヴィッチは、ザルツブルグ祝祭劇場の前でばったり出会い、以下の会話を交わしているという (p251)。

ルードヴィヒ「私、エリーザベトには頭に来てるの」

デベルジェヴィッチ「どのエリーザベトのことで怒っているんだい?」

ルードヴィヒ「(驚いて)シュヴァルツコップのことよ」

デベルジェヴィッチ「なぜ?」

ルードヴィヒ「なぜ?映画のことに決まっているじゃないの。シュヴァルツコップが映画に出演するなんて、ひどい話だと思うわ。」

デベルジェヴィッチ「そんなはずはないさ。リーザはずっと前から出ることが決まっている。ツインナーとは、出演料の話がのこっているだけなんだよ」

ルードヴィヒ「シュヴァルツコップの契約のことで誰もあなた達に連絡していないの?」

驚いたデベルジェヴィッチは、リハーサル中の妻のデラ・カーザに電話をかけた。デラ・カーザは、当初、夫の話を信じなかったのだが、ついに監督のツイン ナーから一件をきかされるはめになる。デベルジェヴィッチによれば、ツインナーは「うなだれた姿」で、「ひどい話だ。私は運が悪い」と口走っていたとい う。ツインナー曰く、「シュヴァルツコップとその夫君(レッグ)がロンドンの映画会社と直接交渉し、最終契約を結んでしまった」というのである。そして、 ツインナーは、「自分は知らなかったんだ」としつつも、「口約束しかしなかったのは君たちのミスだった」とデラ・カーザ側を責める言葉を吐く。デベルジェ ヴィッチは激昂し、激しくツインナーを罵る。デラ・カーザはカラヤンに直訴しようとするが、ツインナーは「もう変更はきかない」と言うのみだった。 (Dragan Debeljevic, p251-2)



映画は、ライヴァル、シュヴァルツコップのマルシャリン歌いとしての名声を不朽のものとした


確かに、デラ・カーザがカラヤンのもとへ行ったとしても、時間の無駄だったろう。シュヴァルツコップは既にカラヤンとも手を打ってしまっていたからだ。ロ ンドンの映画会社といい、カラヤンといい、彼女の動きは見事なまでに素早く、効果的で、そして容赦の無いものだった。

「  最初に問題が起きたのは、カラヤンがマルシャリン役にシュヴァルツコップではなく、リーザ・デラ・カーザを起用する、と決めたときであった。デラ・カーザ はマルシャリンの役をそれほど好んでいなかったから、シュヴァルツコップには二重のショックだった-----彼女は、前年の12月にコヴェント・ガーデン でショルティの元でこの役を歌った時、イギリスのメディアから、「好意的に見ても賛否半ば」、という評価を受けていたのである。-------シュヴァル ツコップはカラヤン指揮で『ドン・ジョヴァンニ』のドンナ・エルヴィラを、ベーム指揮で『コジ・ファン・トゥッテ』のフィオルディリージを歌う予定になっ ていたのにも関わらず、1960年のザルツブルグ音楽祭から完全に降りると脅した。そして、シュヴァルツコップは、カラヤン指揮、パウル・ツィンナー監督 の映画、「バラの騎士」のマルシャリンとして出演する、という合意を確実に取り付けた。」
(Herbert Von Karajan: A Life in Music, p454 Richard Osbone)


普 通であれば、帝王カラヤンを脅した段階でシュヴァルツコップのキャリアは暗転していたかもしれない。仮にシュヴァルツコップがザルツブルグ音楽祭から完全 撤退したとしても、芸術面、人気面で音楽祭が損害を受けることはなかったろう。なにしろ、当時のデラ・カーザの高いレパートリー能力と人気は、シュヴァル ツコップの穴を埋めるに十分すぎるものだったからだ。そして、もしそうなっていたら、1960年のザルツブルグ音楽祭の主役はデラ・カーザになっていた。 そして、後世は、オペラ演奏史上、もっとも美しいマルシャリンのカラー映像を目にしていたに違いない。


音楽ビジネスの論理を優先したカラヤン



一世を風靡した当たり役、美女アラベラに扮したデラ・カーザ。作曲者リヒャルト・シュトラウスは、脇役を演じる20代の彼女の舞台を見て、「彼女は将来、新たなアラベラになるだろう」と予言した。


だが、実際にはそのような事は起きなかった。カラヤンがシュヴァルツ コップの要求をそのまま受け入れ、シュヴァルツコップを映画の主役にしてしまったからである。カラヤンの翻意の理由は、シュヴァルツコップの実力というよ り、シュヴァルツコップの夫君、ウォルター・レッグの存在があったからに他ならない。レッグは敏腕プロデューサーとして、大会社EMIを実質的に統括して おり、ある意味、カラヤン以上に大きな力を持っていた。また、カラヤンは、ナチ党員として演奏活動が禁じられていた戦後間もない時期、レッグが創設した フィルハーモニア管弦楽団との録音の場を提供してもらっていた。カラヤンにとって、シュヴァルツコップを切って、恩も力もあるレッグとの関係にヒビを入れ ることなど想像もできなかっただろう。そして、シュヴァルツコップは、当時、賛否半ばだったとは言え、独自のマルシャリンを歌い、演じることが出来たか ら、カラヤンの行為は、道義的にはともかく、芸術的には理不尽な判断ではなかった。そのことは、シュヴァルツコップ主演の映画が成功したことからも明らか である。

無惨だったのは、さんざん持ち上げられたあげくに梯子を外され、しかも、部外者であったルードヴィヒから道端で一件を知らされたデラ・カーザ夫妻である。 カラヤンを始めとする関係者は、誰も彼女に説明しようとしなかったのだ。大物達の政治的思惑が交錯する中、後ろ盾のない彼女は、ただ苦い涙を飲む他なかっ た。デベルジェヴィッチによれば、彼女は、降板が決定した後、数日間というもの、ひどくふさぎ込み、プレミエの大成功についても、「何の意味があるの?明 日になれば皆忘れてしまうわ。でも映画は記録として残るのよ。」と言っていたという。そして、「自分は裏切られた。自分は失敗者」とさえ考え、「Ich will nie mehr nach Salzburg-----もうザルツブルグ音楽祭では歌わない」と語るまでになっていた(Dragan Debeljevic, p252)。実際、翌年以降の同プロダクションはシュヴァルツコップが歌ったし、シュトラウス・イヤーであった1964年にも、カラヤンからの音楽祭への 出演オファーを断っている(Dragan Debeljevic, p253)。もちろん、彼女も栄光あるザルツブルグ音楽祭への出演を断りつづけることで、自身のキャリアを傷つけていることは分かっていたが、彼女は自分 をもてあそんだ場所を許すことができなかった。間もなく、彼女のメジャーレーベルへの録音も途絶えてしまう。


苦い涙とともに

こ の不条理な降板事件は、デラ・カーザの心に、音楽業界に対する大きな不信をもたらした。彼女は、これ以降もシュヴァルツコップと共演しており、少なくとも 表面上、二人のライヴァルの関係がささくれ立つようなことはなかったようだ。ただ、音楽ビジネスの象徴であるザルツブルグ音楽祭への思いは別である。「陳 腐」「誇りも人間味もない」「不公正。嘘。詐欺」「私はザルツブルグ音楽祭なしでも生きていけるし、ザルツブルグは私なしでも生きていける」と、プライ ヴェートな場でではあるが、激しい言葉を使っていた(Dragan Debeljevic、p253)。そして、後年のデラ・カーザは、音楽ビジネス全体、オペラの世界に充満する陰謀、嫉妬、政治的な動き、スター歌手達の 自己中心的な振る舞いに対する違和感を表明するようになっていく。彼女は1974年、突然、引退を表明した。娘の病気が理由である。とあるインタビュー で、「とてつもなく深い悲しみの表情とともに」、かつて負った心の傷を伺わせるような言葉を残している。

歌手の運命の一番奇妙なところは、目的のために全てをなげうち、そして儚く全てが終わってしまうこと.............

私達の残した足跡なんて、今日の午後降った雪のようなものなのです。明日には消え、何も残らないの。

そうね、何人かは覚えていてくれるでしょう。でも、それも本当に短い間だけね。

(The Prima Donnas, Lanfranco Rasponi)


彼女は敗北したのか?


1960年のザルツブルグでの「バラの騎士」の舞台から。デラ・カーザ(左)とセーナ・ユリナッチ(右)



幸運なことに、これらの言葉は、彼女に限ってはせいぜい半分程度しか当てはまらなかった。確かに、現在、デラ・カーザの名は、レッグと彼の息のかかったメ ディアによって過剰なまでに神格化されたシュヴァルツコップに比べ、ひどく過小な扱いを受けている。しかし、その反面、彼女が1960年代前半までに残し たいくつかの録音は、オペラを少しでも聴き込んだ人々にとっての大切な宝物であり続けている。「アラベラ」4種(DG、デッカ、オルフェオ、テスタメン ト)、ミトロプーロスとの「エレクトラ」(オルフェオ)、ベームとの「四つの最後の歌」「コシ・ファン・トゥッテ」(デッカ)「ナクソス島のアリアドネ」 (DG)、エーリヒ・クライバーとの「フィガロの結婚」(デッカ)、セルとの「魔笛」(オルフェオ)、フルトヴェングラーとの「ドン・ジョヴァンニ」 「フィデリオ」、そして、何と言ってもカラヤンとの1960年の「バラの騎士」のライヴ録音(DG)..........。これだけ多くの名盤、綺羅星の ような名演に関わって来た歌手の名が、「雪のように、明日には何も残らない」ことがありうるだろうか。

興味深いことがある。近年、シュヴァルツコップの歌唱アプローチが、若い世代の歌手や批評家達から、作為的、表情過多、マンネリズムと批判されることが増 えてきているのである。巷で「完璧」とされてきた技巧についても、よく聴いてみれば、音程も正しいわけではないし、特に後年は、もっぱら声の美感の不足を 隠すために使われていたようにも聴こえる。ウォルター・レッグによる宣伝とは無縁の若い世代の聴衆には、かつて「お行儀が良すぎる」と言われた、デラ・ カーザのナチュラルで上品な歌い方の方がフレッシュに響くのではないだろうか。実際、ここ10年の間に彼女が参加した公演のライヴ録音が、オルフェオ、 DG、テスタメント等を通じて日の目を見て来たが、どの盤も最高の評価を受けている。1960年にバイエルン国立歌劇場で収録された、「アラベラ」の全曲 映像が正規ルートで発売される日もそう遠くはないだろう。

来年初頭、「ウィーンの名花」リーザ・デラ・カーザは89歳になる。彼女は、ささやかだが、着実に進行しているリバイバルの流れをどのように見ているのだろうか。できることなら、話をきいてみたい気がする。

10/23/2007
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References

Memoirs, by Hans Hotter

Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken", Dragan Debeljevic

In My Own Voice: Memoirs, by Christa Ludwig

Herbert Von Karajan: A Life in Music, by Richard Osbone

The Prima Donnas, by Lanfranco Rasponi

Opera on Films, by Richard Fawks

"Lisa Della Casa" (International Opera Collector, p26-31), by Roger Nichols


追記)デラ・カーザの90歳記念特集のテレビ番組が制作された。その中で、白黒ではあるが、60年ザルツブルグ音楽祭の「薔薇の騎士」の舞台を記録した映像が流されている。

http://www.fugue.us/Intermezzo_combined.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/815.html#c5

[近代史4] 巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか


巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか
ノーマン・レブレヒト (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%B7%A8%E5%8C%A0%E7%A5%9E%E8%A9%B1-%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3-%E3%83%AC%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%92%E3%83%88/dp/4163519009


ノーマン・レブレヒトにやり玉にあげられていたカラヤンですが、個人的に親しい友人に、

「なあ、皆は自分のことを権力者だとか、金銭亡者だとかいろいろ言う。
しかし、結局は自分はこの右腕一本だけなんだ。これで音楽を作っているだけなんだ」

と寂しく笑っていたそうです。
http://www.fugue.us/Oct2007.html


▲△▽▼

カラヤンの名盤

ヘルベルト・フォン・カラヤン 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/198.html

プッチーニ オペラ 『ラ・ボエーム』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/907.html

プッチーニ オペラ 『蝶々夫人』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/908.html

ビゼー 『カルメン』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/909.html

リヒャルト・シュトラウス 『薔薇の騎士』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/881.html

チャイコフスキー バレエ音楽 『白鳥の湖』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/941.html

アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html  

ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html  

ウェーベルン
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/155.html

▲△▽▼


”帝王”カラヤンは ファルコンになって舞い戻る(富永 壮彦)2008年8月
https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/32580

「カラヤンさんはナチ党員だったと聞いています。党員番号を教えていただけませんか」

1960年代の初め、カラヤンがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率い何度目かの来日をしたときの記者会見である。

会場は一瞬静まりかえり、カラヤンの表情は厳しくなった。「ナチ」のひとことが聞きとれないわけがない。通訳が戸惑い、司会者が引き取った。

「質問は音楽に関することに限らせていただきます」

●天は二物を与えず?

あのとき、アメリカでの嫌な思い出が、カラヤンの脳裏をよぎったのではあるまいか。

1955年、カラヤンはベルリン・フィルを率いてアメリカ・デビューをした。ニューヨーク・カーネギーホールでの演奏会。カラヤンがステージに現れるや、客席から「ゴー・ホーム・ナチ野郎!」の声が飛んだが、カラヤンは予定通り二度のコンサートを指揮して帰国した。

カラヤンがナチに入党したのは1935年、ドイツ北西部の古都アーヘンの音楽総監督になったときだった。市長に呼び出され、就任の条件としてナチ入党を示されてのことだった。

1946年には、ナチ協力の嫌疑がかけられ、非ナチ化の手続きが終わっていないこともあって、指揮活動禁止処分にあっている。処分は半年ぐらいで解けたが、ザルツブルク音楽祭から招待があり行ってみると、ほかの指揮者がモーツァルトの「フィガロの結婚」とリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」を指揮することになっており、カラヤンにはステージの床下のプロンプター・ボックスから歌手にサインを送る役しか残されていなかった。

のちにこの音楽祭も“支配”するようになった“帝王”カラヤンも、このような扱いを受けた時期があったのである。

さきの記者会見は、その後穏やかに進行した。今後期待できる若手指揮者は、との問いに「メータ、オザワ(小澤征爾)、アバド」と答えるなど、カラヤンは、何事もなかったかのように応答していた。

この会見で、私はカラヤンの声を初めて聞いた。あの、完全につくり上げられた、優雅ともいえるステージからは想像もできないようなしわがれ声だった。天は二物を与えずか。ヘルベルト・フォン・カラヤンの名をもらい、わが家のヒマラヤ杉に住みついている特別声の悪いカラスに「ヘルベルト」と名をつけた。

●来日11回“帝王”ブーム

カラヤンが初めて来日したのは1954年。単独でやって来てNHK交響楽団を指揮した。このときを含め計11回来日している。私は、初めての頃の、颯爽とした、まだ目をつむって指揮することのないカラヤンに好感をもっていた。

1956年にベルリン・フィルと来日したときには、札幌から福岡まで全国各地で公演した。その模様をNHKテレビが繰り返し放送した。日本でのカラヤン人気が急上昇しピークへ向かったのは、あの頃であったろう。カラヤンは、それまでクラシック音楽を聴いたことのない家庭の茶の間にまで入ってきた。

あるおばあちゃんの話がある。テレビの前に座っているおばあちゃんが、かたわらの孫に言う。

「あれがカラヤンていうおじさんだよ。あの人を見習いなさい。目が見えないのに、こんなにたくさんの楽隊さんを、棒一本で操っているでしょ」

茶の間だけではない。夜、酒場をのぞくと、割り箸をタクトに、目をつむってカラヤンの真似をする酔客を見かけた。

レコード店では、飛び込んできた男が「カラヤンのレコードください」。店員が「カラヤンが指揮したなんという曲をお求めですか」と聞くと、「えーと…」と言葉に詰まってしまう。こんな光景があちこちであったと聞いた。

ともかくテレビの視聴率は上がり、レコードは売れた。LP、CDを含めカラヤンの演奏したディスクは、生前だけでも世界で一億枚は売れたといわれる。そのうち日本で売れたのは、どのくらいであろうか。

●7回も録音した「悲愴」

カラヤンはかつて、こう言ったことがある。

「コンサートに来る人は、たかが数千人ぐらいに過ぎない。私は、全世界の何十億もの聴衆を相手にしているのだ」

自らオーディオ、ビデオのプロダクションを経営し、録音、録画に精出したカラヤンの自負であろう。そこには、クラシック音楽の大衆化への意気込みが感じられると同時に、“商業主義”ともいわれた商売熱心さもみえる。そういえば、CDを「上着のポケットに入るような大きさで」と発案したのもカラヤンであった。

録音への並々ならぬ意欲ということで、思い当たることがある。

カラヤンは、ベルリン・フィルのほかにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、フィルハーモニア管弦楽団などを指揮して、1939年から1984年までの間に、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を7回も録音している。

音楽記者は、せっせとコンサートに通わなければならないが、ディスクを聴くのも欠かせない仕事である。私も、朝晩の自宅にいる時間を使って、LP、CDを含め月に100枚は聴くという生活を何年も続けた。そんななかで、同じ演奏家による同じ曲に何度も出会えば、またかという気持ちにもなる。

カラヤンは手抜きをしない。念には念を入れて同じ作品を繰り返し録音している。しかし、細部にこだわり、念入りに仕上げ過ぎることは、中身が虚しくなる危険につながることだと知ったのは、カラヤンの「悲愴」との出会いによってであった。

●マリア・カラスの最晩年

カラヤンの11回の来日公演を次々と聴きながら、並行して私はさまざまな音楽体験をした。忘れ難いもののひとつが、カラヤンがベルリン・フィルと6度目の来日をした1973年、名ソプラノ、マリア・カラスが、テノールのジョゼッペ・ディ・ステファノとともに来日し、横浜で開いたリサイタルである。これがただ一度の来日で、カラスは4年後に亡くなった。

すでに声には期待できない状態だったが、カラスが県民ホールのそでから優雅このうえなく歩み出したとたん、満場の聴衆の目と心が、その歩みに吸い込まれた。自然に、美しく流れるときのなかで、私はカラスを聴くのではなく、見ていた。見るのではなく、感じていた。沈黙のあとに、快く重いものが残る。これが本物のスターの最晩年だと思った。

●霊魂再来説を信じる

一方カラヤンは1975年、9時間におよぶ椎間板の手術を生き抜いたが、もうあまり時間がないことを悟ったような発言をするようになっていった。

「いまの私は、私の生涯があと何年かで終わるであろうことを知っている。私は少しも死を恐れない。言うまでもなく、私は霊魂再来説を信じている」

「私は、ファルコン(タカ、ハヤブサ)になってこの世に舞い戻って来るという説に、なんら異議をとなえるつもりはない」

1989年の、ややあっけないとも言える死のあと、カラヤンは何度かファルコンになって、この世に舞い戻ってきている。

一度は1995年、カラヤンの演奏からアダージョの部分を集めたオムニバス盤CD「アダージョ・カラヤン」の爆発的売れ行きとカラヤン再発見の動き。

もう一度は今年、生誕100年に合わせて起きている再評価である。カラヤンはこれからも、ファルコンになって舞い戻るだろう。

とみなが・たけひこ会員 1933年生まれ 58年共同通信社入社 90年退社 大半を文化部で音楽を担当し 現在も音楽評論家として活躍 音楽記者歴は50年を数える
https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/32580



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/645.html

[近代史4] 巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか 中川隆
1. 中川隆[-13338] koaQ7Jey 2020年3月25日 09:54:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1566]

フルトヴェングラーとカラヤン


フルトヴェングラーは過大評価だよね?

1 :名無しの笛の踊り:2010/02/28(日) 17:59:08 ID:NBZERu3V

悪い指揮者ではないが、崇められすぎだ
カラヤンやショルティ、アバドラのほうがいい指揮者だろう


9 :名無しの笛の踊り:2010/03/03(水) 00:12:20 ID:vkIoeWU4

知らん奴はホントにほっとけばいいと思う。
そして或る日突然目覚めてそれまでの無知の日々を激しく後悔すると...

ざまあwである(笑)

11 :名無しの笛の踊り:2010/03/03(水) 00:23:27 ID:vtxcfQiE

昔は過大評価だったが今は正当評価だと思うぞ
「過大評価だよね?」などということすら憚られた時代があったから。
そして過大評価だと言えるようになって久しい今こんな旬過ぎたネタ持ってくるあたりがしょーもない。

ざっと言えばフルトヴェングラーは20世紀の形而上学の崩壊期における最後の徒花。

奇もてらうがあらゆる音に意味付けしたがる。そういうのが好きな人もいる。
意味付けから脱却して美しければいいとしたのがカラヤンで、美しさって甘ったるいことじゃないだろ、もっとはきはきしろよ、ってな感じのアバド。

美しさの基準は時代によって異なるからなんとも言えない。


31 :名無しの笛の踊り:2010/04/24(土) 22:39:49 ID:pWYw84Tg

フルトヴェングラーが解らない=音楽が解らない
だったよな、昔…


58 :名無しの笛の踊り:2010/05/20(木) 21:40:31 ID:jy5Ed3Vo

フルトヴェングラーのベートーヴェンこそ人類の至宝と崇めて未発表の録音を血眼で捜索していた時代が懐かしいです


78 :名無しの笛の踊り:2010/06/10(木) 00:40:06 ID:r7iCCYP7

フルヴェンは我儘な指揮者だった。
初めてVPOに客演したとき、「もっとはっきりと振ってもらわなければ分かりません」と言われて
怒って帰ってしまったというエピソードが残っている。

売り出し中のカラヤンという若手指揮者を潰しにかかったという点でフルヴェンは肝っ玉の小さな奴だった。 ナチに協力して指揮活動を停止された時期、BPOを救ったチェルビダッケにも嫉妬したものな。 そんなだからロクな死に方をしなかったんだ。


93 :寝言:2010/08/18(水) 04:56:45 ID:U9paKfnL

フルベンは、モーツァルトとかバッハの演奏がとてつもなく下手くそ
比較的ブラームスが上手い
あと合唱曲も苦手だったらしい。
ミサソレの依頼があったが「振れない」と正直に断ったそうだ。
謙虚だね。


95 :sage:2010/08/18(水) 22:26:43 ID:NFdD7+Wt
だからマタイの依頼も返事保留したのか。


96 :名無しの笛の踊り:2010/08/18(水) 22:32:20 ID:clgjjKYV
>>93
新潮文庫版「音と言葉」の訳者芳賀檀の訳者解説によると、
芳賀はフルトヴェングラー指揮の「ミサ・ソレムニス」を現地で実際に聴いて、
生涯忘れがたい感銘を受けた、と書いているが・・・

97 :名無しの笛の踊り:2010/08/18(水) 22:39:33 ID:2j9ZjaJ/

まあ偽物には間違いないがカラヤンよりは分を弁えてたようだな。


110 :名無しの笛の踊り:2010/09/23(木) 03:07:16 ID:DhL9JogD

29 July 1951 Bayreuth Fes. Orc. The last rehearsal & Live(EMI=Legge)
Beethoven:Sym.No.9

そろそろこの演奏の神格化は考えた方が良い。
第一楽章のテンポは断じてベートーベンが想定したものではないし、
第三楽章も遅すぎ。音については時代を考えれば十分であり、
些細な向上が毎回製作者の金づるになっているだけ。
上級者向けにはぜひ備えたい演奏だが、初心者に勧められる演奏ではない。

ベートーベンの第九を元にしたフルトヴェングラーによる自由なファンタジーであり、興行としてのお祭り、祭典として歴史の証言である。

こういう表現もありだし、これはこれで素晴らしい名演である。
第九をここまで想像力により、原曲を改編し、聴き栄えのある形に仕上げたフルトヴェングラーの力量は大したものである。

しかしベートーベンの設定はもっとテンポが速いのである。
勿論作曲者の意図だけが唯一ではないことも事実である。
フルトヴェングラーがベートーベンを上回る天才と信じる方には、このバイロイトが唯一最高の演奏となろう。その気持ちも解らぬではない。

ベートーベンの残された楽譜を忠実に再現するだけという制約を課していては、フルトヴェングラーの時代の指揮者では不可能だった早いテンポによるベートーベンの感動的な再現が その後記録された。

その指揮者は フルトヴェングラーがいずれは自分を抜いていく才能と看破し、抜かれる前に潰してやろうと嫉妬心を燃やし、徹底的に活動を妨害したヘルベルト・フォン・カラヤンである。

カラヤンの記録では1968年のDVDにより 最高の結実を見ることができる。
そしてカラヤンは見事にフルトヴェングラーを抜き去ったのはご存知の通りである

111 :名無しの笛の踊り:2010/09/23(木) 22:28:12 ID:14fKkTfj

カラヤンの才能に嫉妬し、カラヤン潰しに奔走したフルヴェンはじつに見苦しい音楽家だった

実力も人気もかなわないとこういう醜い行動に出るフルヴェンは最低な指揮者
こんなのを神格化した日本の評論家はクソ、その批評を鵜呑みにしてディスクを買いあさった側もアホ


280 名前:名無しの笛の踊り 投稿日:2010/09/23(木) 12:33:39 ID:ufzijpbj

なんでフルヴェンは第九のゴーダをいつもあのやたら早いテンポにしたのか?
初期はいいとしても晩年に至るまでずっとやってたね。

282 名前:名無しの笛の踊り 投稿日:2010/09/23(木) 14:27:03 ID:jBaClGoi
>>280
コーダで加速すると、一回聴くだけなら非常に興奮した演奏ができる。 しかし、レコードでその演奏を何回か聴いていくと興ざめするんだよな。

レコードが一定程度普及したときの演奏のあり方に、フルベンは最後まで答えをだせなかったな。当時としては偉大な指揮者だったとは思うが。

聴衆が「来るぞ、来るぞ」と期待してたから?

112 :名無しの笛の踊り:2010/09/24(金) 02:07:18 ID:JDM8LXv0

フルトヴェングラーも若い内から称賛されてた天才型指揮者だからカラヤンの台頭には穏やかではいられなかっんじゃないか。2人共初期のナチスの思想に共感してたし(まあ当時のドイツ人の大半はそうだけど) 演奏スタイルは違うけどどちらも典型的なドイツ系のナルシストだよね

才能も自信もあるけど意外とめめしい。

113 :中川隆:2010/09/24(金) 22:53:54 ID:HkFA5snx

カラヤンは誰が見ても三流なのに人気だけあるのが気に入らなかったんだろ。

カラヤンはアルメニア系ギリシャ人でゲルマン人の血は入っていない。
だからカラヤンがゲルマン音楽をやるとムード音楽になるのさ。

115 :名無しの笛の踊り:2010/09/24(金) 23:04:08 ID:0F0ijqR8

フルヴェンが当時だから通用した(ただし欧州だけで)指揮者、アメリカでは受け入れられなかった
今ではあのような演奏スタイルは支持されない、ようするに時代遅れ
常に先を見ていたカラヤンに嫉妬したのもそのためだ

116 :中川隆:2010/09/24(金) 23:49:33 ID:HkFA5snx

アメリカ人には音楽は理解できないだけさ。

アメリカに亡命したバルトーク、ブルーノワルター、アドルフ・ブッシュすべて駄目になった。

そもそもマーラーやメンゲルベルクよりトスカニーニを選んだアメリカ人って。

118 :名無しの笛の踊り:2010/09/25(土) 02:29:16 ID:Swf5Rqyj

http://www.muzieklijstjes.nl/100conductors.htm

カラヤンが1位だな。
フルベンも3位か、意外と高評価だな。

119 :名無しの笛の踊り:2010/09/25(土) 09:18:07 ID:w7HuGZqG

カラヤン、トスカニーニ、フルヴェンか
まあ順当だな、と思ったら2位(バルビローリ)が予想外でした


120 :名無しの笛の踊り:2010/09/25(土) 09:48:21 ID:7CoEbseq
>>117
アメリカ人は、過去の栄光にすがり、惰性で仕事する奴より、日夜努力する改革者が好きなのさ。
>>119
普通ならその3人だろう、順番は異論があってもかまわない
と思うがな。

121 :中川隆:2010/09/25(土) 10:30:52 ID:qoJ7IzLk

アメリカ人に音楽がわからない理由


この「聖」と「毒」が一緒に存在する世界・・・


このようなワーグナーの世界は、ある意味において、ヨーロッパの精神世界そのものと言えるでしょう。
この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と同じラース・フォン・トリアー監督の「キングダム」という作品の冒頭のモノローグは
「この魑魅魍魎の渦巻く沼地の上に建てられた、近代科学の粋を集めた病院」
という言葉でしたが、この言葉はヨーロッパの精神の比喩そのものでしょ?

「神」による「聖」なるもの、それに対する「毒」、あるいは「近代科学」・・・

すべてあってこそヨーロッパと言えるのだとフォン・トリアー監督は考えているようですね。

この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の冒頭の、全く光のない劇場に弦楽器とホルンによって立ち上ってくる音響は、ワーグナーの引用であり、この映画が「聖なるもの」と「毒々しいもの」を含んだ「ヨーロッパの精神」をテーマにした作品であることを聴き手?に印象つけるわけです。

しかし、この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」に舞台はアメリカですよね?
つまり、この作品の設定は、「アメリカの中のヨーロッパ人」そして「アメリカ文化?の中のヨーロッパ精神」になっているわけです。

ヨーロッパには「聖」と「毒」がある。 では、アメリカ精神には何があるの?
それは「正義」と「悪」ですね。

アメリカにはこの世を越えた「聖」はなくても、この世の規範である「正義」はあるでしょ?

自らを蝕む「毒」はない代わりに、他者を裁く「悪」がある。

この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、そのようなヨーロッパの「聖」と「毒」が明確に描かれています。

「聖」なるものの代表例は言うまでもなく、教会です。 この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では不思議なくらいに教会が出てこない。 死刑のシーンにつきものの、聖職者(牧師とか神父)がいないでしょ?


映画における普通の死刑のシーンでは、刑の執行される前に聖職者と会話するシーンがつきものです。 一番感動するシーンですからね。では、どうしてないの?
この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、このような「聖」を思い起こすような人物は注意深く避けられているわけです。 キリスト教関係でいうと、セルマが刑務所のダクトから聞こえる賛美歌と、囚人の部屋にある1枚のキリストの肖像くらいです。

ダクトから聞こえる賛美歌・・・この賛美歌は一体どこから聞こえるのでしょうか?

他の人には聞こえない賛美歌・・・セルマの心にしか聞こえない音楽・・・

これはヨーロッパから聞こえる・・・と言えるでしょう。 勿論、物理的には無理ですが、心では聴こえているわけ。
つまり賛美歌を喜んで聴くセルマにもかかわらず、死刑において神父の立会いもない・・・

これくらいアメリカには「聖」から距離がある・・・とフォン・トリアー監督は言っているわけです。


では、ヨーロッパの「毒」とは?

それはまさにこの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、遺伝性の病気として示されているわけです。

「遺伝することがわかっているのに、何故に子供を作ったのか?」という疑問は、

「毒に満ちて閉塞感の漂うヨーロッパ文化を伝承することに、価値や意味があるのか?」

という、監督のフォン・トリアーの自問でもあるわけです。

毒に満ちた文化を伝承することによって、その「毒」も伝承される。 その価値と覚悟・・・

ヨーロッパの持っている出口のない状況と、未来一杯のアメリカ。
シリアスなヨーロッパの表現と、能天気なミュージカル仕立てのアメリカ風表現。

精神主義のヨーロッパと、商業主義から抜け出せないアメリカ家族。
約束を守るヨーロッパ人と、約束を無視するアメリカ家族。

例の事件のあった家族の庭に星条旗がはためいているのは偶然ではないわけ。 あの家族がアメリカ人の典型だ!とフォン・トリアー監督は言っているわけです。

あるいは、あの家における知性の欠落は、本棚を見ればスグわかるようになっています。 何かの全集ものがキレイに並んでいるんですね。 本棚の本がズラーと並んでいて、外見上もキレイなのは、本を読んでいない証拠。

フォン・トリアー監督がアメリカの単純さに距離を置く人であることは明白ですね。 まあ、「あんなに単純で生きられたらラクだろうなぁ・・・」と思っているのかな?

http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/03-12/03-12-16.htm

まあ、アメリカ人にフルトヴェングラーが理解できる訳ないわな(嘲笑い)。


126 :名無しの笛の踊り:2010/09/25(土) 23:31:08 ID:u3q9lZsw

いまどき、フルヴェンを崇拝してる輩なんていないだろ?
昔はイカサマ評論家に騙されて、LPを買いあさった単細胞がいたけどCD時代になってからは耳が肥えてきたリスナーが増えたんだから あんな時代遅れの駄演盤を買う奴なんているわけねえよな

285 名前:名無しの笛の踊り 投稿日:2010/09/25(土) 13:58:27 ID:QKA/pZAT

フルヴェン聞いてる自分が好きなんだ、おれ。

127 :中川隆:2010/09/25(土) 23:43:53 ID:qoJ7IzLk

演奏がどうこう言う前に、音そのものがカラヤンなんかとは比較にならないよ。

128 :名無しの笛の踊り:2010/09/26(日) 06:14:42 ID:XLcQnO3j

確かに比較にならんな
フルヴェンは異常に芝居がかった演奏をするし、表現するのがちっぽけな人間的感情だけ
はっきり言って、曲を矮小化させてると思う。気持ち悪いし


129 :中川隆:2010/09/26(日) 09:50:01 ID:EBOV+P7W

芝居がからない演奏 = ムード音楽

132 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 02:31:10 ID:HM57NYyB

何度も聞くと鬱陶しい。
本人もそれわかってたみたいだし。

133 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 03:24:30 ID:OrFxSTLH

俺はシューマンの4番がフルヴェンの最高傑作と信じて疑わん!


134 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 06:37:26 ID:MX7WlJNi

俺のCDの棚にはそう言えばフルトヴェングラーのCDは少ないな。 ベートーベンの第9バイロイト、その他2〜3枚程度

人生は短いから、音の良い演奏で色々な曲や演奏を聞きたいとなると避けがちになる

135 :愛撫 先:2010/10/02(土) 07:38:01 ID:jUW+8RAO

不思議なのは、古楽器演奏や演奏法によるベートーヴェンが主流になってもフルトヴェングラーのベートーヴェンを第一とする人があまりに多い。 評論家もリスナーも。

トスカニーニだって楽譜に手を入れてるし、フルトヴェングラーはいわずもがな。 古楽器演奏や演奏法の是非はともかくとして、これを基準にするとフルトヴェングラーは演歌になってしまう。

粘るところはとことん粘り、盛り上げる部分はオケが崩壊しても突っ走る。 自分も中2のころは、「第5」の復帰演奏を毎日聴いてたが今聴くと…
「今、フルトヴェングラーの解釈をするとオケの団員からバカにされる。 今や誰も出来ないコトを(時代が違うとはいえ)やっていたフルトヴェングラーに価値を見出しているにだろう」 と思う。


136 :中川隆:2010/10/02(土) 08:44:27 ID:hSQXWzjT

ブルーノワルターもヨーロッパ時代は
粘るところはとことん粘り、盛り上げる部分はオケが崩壊しても突っ走る
だった。 メンゲルベルクも同じ様なもんだし。 これが19世紀の標準スタイル。


137 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 09:09:05 ID:b/j4ReU6

フルベンは、一回目聴くといい演奏と思うこともあるのだが、何回も聴くと本当に鼻についてしまう。

聴衆が聴きに来る曲をほとんどレコード等で聴いたことがない時代ならこの演奏方法は価値があったのだが、今となっては明らかに時代遅れとなっている。
実演では偉大な指揮者として考えるけど、正しいレコードの残し方は死ぬまで分からなかったのではないか。1954年に無くなったが、ステレオ時代まで生きていたら、おそらく評価が急落したと思う。


138 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 10:12:11 ID:z4+7UHYM
>>136
>これが19世紀の標準スタイル

19世紀って・・・せいぜい世紀末に彼らが幼少期、青年期を過ごしたってだけじゃん。
100年間もあれば演奏様式も技術も楽器の性能も変わるだろうし、ベートーヴェンからマーラーまで録音なんか残ってないのに、よくそういう見てきたような嘘をつけるね。


139 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 10:42:36 ID:bnuyrT5v

後期ロマン派スタイルだわな
それに最後のロマン派リヒャルトの演奏はまったく違うわけだし、フルヴェン流が演奏の主流だったのってほんの一瞬だったと思う


140 :中川隆:2010/10/02(土) 10:47:05 ID:hSQXWzjT

少年時代の音楽教育でその後のスタイルがすべて決まるもんだろ。
インテンポは20世紀のスタイルだよ。

楽器で進歩したのはピアノだけだろ。 19世紀のオーケストラはノンヴィブラートのポルタメント奏法

それに合った指揮をしてただけだろ。

フルヴェン流 = テンポが遅い

ヨーロッパ時代のワルターもリヒャルトシュトラウスもシューリヒトもテンポが極端に速く、演奏が軽い。

これがヨーロッパ標準


142 :中川隆:2010/10/02(土) 11:23:42 ID:hSQXWzjT

20世紀最高の指揮者はワインガルトナーだというのが昔の常識だったみたいですね。


本物の貴族
テンポが極端に速く、演奏が軽い
ノンヴィブラート・ポルタメント奏法の奥義を極めた天才

143 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 11:27:12 ID:bnuyrT5v

>フルヴェン流 = テンポが遅い
すげえ、こんなの初めて知った


144 :中川隆:2010/10/02(土) 11:50:26 ID:hSQXWzjT

こういうことさ

演奏法の点から言えば、ワーグナー以前とワーグナー以後、さらに、第二次世界大戦以降から現代の3つの大きな流れがある。

現代のオーケストラの演奏は、ニュース原稿を読むアナウンサーのようなもので、標準的ではあるが、非常に特徴に乏しいものである。

この他、今世紀前半の録音には、十九世紀後半以降に出現した、「ロマンティックなスタイル」を聴くことができる。

アムステルダム・コンセルトヘボー管弦楽団の指揮者であったヴィレム・メンゲルベルクや、マーラーの作品を数多く指揮したオスカー・フリートなどはその典型的な例といえるだろう。 ここでいう「ロマンティック」は、後期ロマン派の音楽家たちが好んで用いたという意味で、現代の通常の意味とはニュアンスが違うのでご注意いただきたい。 フレーズに応じたテンポの変化や強弱記号の強調、弦楽器のポルタメントや激しいヴィヴラートなどがその代表的な特徴である。

また、ベートーベンなどの音楽に文学的な解釈をあてはめて、表現を加えていくという手法が好んで用いられたのもこうしたロマンティック・スタイルとの関連性が高い。 これらの表現法の確立は、ワーグナーの存在なしでは考えられなかっただろう。 ワーグナーは、その作品で文学と音楽の融合を試みたのみならず、指揮者としても、ベートーベン解釈などにおいて当時の音楽界に大きな影響を及ぼした。 ワーグナーは近代演奏史の大きな分岐点である。

第3のスタイルは、ワーグナー出現以前のスタイルで、最近のオリジナル楽器オーケストラやライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などに代表されるような古いスタイルである。

ノン・ヴィヴラート奏法、音符の音価の強調、すなわち、長い音符は本来よりわずかに長く、短い音符は本来よりやや短く演奏する処理や、長い音符の後ろの方で音量が強くなる後置型アクセントなどはその代表的な特徴である。
おそらく十九世紀中頃までは、世界中のすべての指揮者とオーケストラが多かれ少なかれこのスタイルに従っていたのではないかと思われる。 シャルク、ワインガルトナーに認められる意味不明なアクセントなどは、その名残りではないかと考えられるが、現代の我々が聴くと、音楽の文脈とまったく関係のない、形式的で余計な表現として受け止められるのだ。

本来、こうした古い演奏体系には、音楽の構造と結びついた明確な規則があった。

しかし、ロマンティック・スタイルの出現、その反動のノイエ・ザッハリヒカイト、さらに、現代のより洗練された演奏スタイルが普及していく過程で、古い演奏スタイルの必然性は失われ、現代の我々にはまったく理解不可能な単に形式的なものへと変化していったのではないかと思われる。

つまり、ブラームスやブルックナーが初演された状況などにおける古い演奏体系と現代の演奏体系の間には、missing link(失われた関連性)があり、シャルクやワインガルトナーの録音は、途切れてしまった鎖をつなぎあわせる重要な手がかりといえるのではないだろうか?
 
今世紀前半の指揮者たちの演奏を聴くためには、この3つのスタイルをきちんと聴き分ける知識と能力が必要とされるのではないだろうか。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/7792/weingartner.html

146 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 12:03:30 ID:Dz7Mu4tB

他人のサイトの意見を鵜呑みにして「こういうことさ」って恥ずかしくないの?


147 :中川隆:2010/10/02(土) 12:22:48 ID:hSQXWzjT

これは常識だからね。

ワーグナー出現以前のスタイルというのはカペー四重奏団の演奏そのものだろ。
フルヴェンはロマンティックスタイルの代表

ノンヴィブラート・ポルタメント奏法に戻るのはもう不可能だから、フルヴェンを否定したら未来は無いのさ。


148 :中川隆:2010/10/02(土) 12:33:50 ID:hSQXWzjT

もうこんな演奏は無理だもんね

カペーSQの演奏を特徴付けるのはノン・ヴィブラートとポルタメントである。
カペーSQの演奏は、同世代或は先輩格の四重奏団―ロゼーSQ、クリングラーSQ、ボヘミアSQらと、これらの点で共通する。

そして、第1次世界大戦を境に勃興し、カペーSQの後塵を拝してゐた四重奏団― レナーSQ、ブッシュSQ、ブダペストSQの各団体がヴィブラート・トーンを基調とするのと、大きな相違点を持つ。

しかも、カペーのポルタメントは旧式で、時代を感じる。 ポルタメントを甘くかける印象の強いレナーも、カペーとは世代が違ふことが聴きとれる。 ここで、最も藝術的なポルタメントを使用したクライスラーの特徴を例に挙げることで、ポルタメントの様式における相違点を検証したい。

クライスラーの奥義は3点ある。第1に、必ずしも音の跳躍―即ち運指法の都合―でポルタメントを使はない。 云ひ換へれば、指使ひを変へないでも弾けるパッセージであらうとも、感興の為にポルタメントを使用する。


第2に、音から音への移行過程は最初が緩やかで、最後になるほど速く行なはれる。

第3に、フレーズの変わり目が同じ音のままの場合、敢てポジションを変へて音色を変へる。 この際に同一音の連続にも関わらず、ポルタメントが入ることになる。

このクライスラーの特徴は、ティボー、エルマンそしてレナーにも概ね当て嵌まる。

これに反してカペーはポルタメントの使用箇所に運指の都合が見られ、何よりも移行過程の速度が均一である。カペーの左手による表現はロゼーやマルトーと云つた旧派と同じ音楽様式に根付いてゐるのだ。

http://www.h6.dion.ne.jp/~socrates/capet.html

19世紀後半から20世紀前半の名ヴァイオリニストと言われた人達の語録を辿ると、「ヴィブラートは必要不可欠なものだ」的な発言が急に増えているように思われます。その人々の多くは現在復刻盤で聴くことができます。

例:クライスラー、ティボー、イザイ、フーベルマン、ジンバリスト、サラサーテ、ヨアヒム、フレッシュ(順不同)

上記の人は、全て僕の聴いたことのある人ですが、皆、大きなヴィブラートとポルタメントを多用しています。

※なお、ポルタメントは専ら上昇音形に用いられるのが普通でした。下降音形に用いるのは“下品”とされていたようです。ここがパールマンとは違うところ。
そして、彼らの多くは音程も揺れ動くようなヴィブラートです

「ああいうヴィブラートはクライスラーが始めたことで、ロゼーのような人は用いていなかった。クライスラーが若い頃にウィーン国立歌劇場管のオーディションに落ちたのは、そのためである。云々」という文章を読んだことがあります。

http://pseudo-poseidonios.net/okuzashiki/15_review_7.htm

ビブラートは、1830年代の特徴からは遙かに隔たったもので、それは欧米のオーケストラでは1930年代までは一般的ではなかったのです。

しかし驚くべきことに、演奏者も聴衆も、それ以前の偉大な作曲家たちが誰一人として期待も想像もしなかったオーケストラの音に、全面的に慣れ親しんでしまったようです。

ベルリオーズやシューマン、ブラームスやワーグナー、ブルックナーやマーラー、シェーンベルクやベルクがその傑作を書いた時、オーケストラの音は ただ一種類だけが存在していました:暖かく、表現力豊かで、ピュアな音色。 私たちが慣れてしまったグラマーなビブラートのない音。

20世紀になって新しく加わったのは、全ての音符に、どんな短いものであっても絶えずビブラートをかけるというアイデアです。 フリッツ・クライスラーが、カフェの音楽家やハンガリーやジプシーのバイオリン弾きのスタイルを取り入れて、グラマーなビブラートを始めたように思われます。

1900年以降、偉大なソリストとオーケストラが、最初は前の世紀からのピュアな音色で演奏しており、そして今日私たちが知っているものに徐々に変化していくのを聴くことができます。 しかし、ごく徐々になのです。高潔なドイツや大きなアメリカの団体の大部分は、30年代になるまで手を染めませんでした。

ベルリン・フィルは1935年まではっきりしたビブラートの録音は出てきませんし、
ウィーン・フィルは1940年までありません。

ですから、20世紀前半のバイオリン協奏曲の録音を聴くと、ソリストはビブラートを使っていますが、ドイツの最高のオーケストラはピュアな音色で演奏しています。当時はそれが普通だったのだと思われます。

http://www.kanzaki.com/norrington/roger-nyt200302.html


151 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 14:09:02 ID:lXJZscod
>>136,>>140
で、結局「標準」って何だ?

152 :中川隆:2010/10/02(土) 15:01:23 ID:hSQXWzjT


1.本来のヨーロッパ標準

ノンヴィブラート・ポルタメント奏法の甘味で純粋・透明な音色
インテンポ、テンポは極端に速く、演奏が軽い
ワインガルトナーとカペーSQがそのとう尾を飾った。

2.ロマンティック・スタイル

テンポの極端な変化やダイナミックレンジの広さ、弦楽器のポルタメントや激しいヴィヴラート
テンパニの強打、金管楽器の強調
音楽の文学的な解釈、ドラマチックな盛り上げ
フルヴェンとメンゲルベルクが代表


3.現代的演奏
ムード音楽と変わらない
カラヤンが代表


153 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 15:07:20 ID:ydGg4Bll

そういえば何かの文献にワインガルトナーの演奏はアンチ・ビューロー
ということが書いてあった。

(ビューローの面前で「カルメン」指揮した際に逆鱗に触れたエエピソードあり)


154 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 15:14:03 ID:bnuyrT5v

>>136ではヨーロッパ時代のワルターをメンゲルベルクと同じスタイルだとし
>>141ではシューリヒトやRシュトラウスと並べてる。矛盾してるぞ
他にも突っ込みどころがありすぎる。かわいそうな人だ


156 :中川隆:2010/10/02(土) 15:23:46 ID:hSQXWzjT

20世紀初めは本来のヨーロッパ標準とロマンティック・スタイが共存していただけさ。

1930年代のウイーンフィルは本来のヨーロッパ標準に近かったから、ワルターのウイーン録音はヨーロッパ標準

ウイーンフィル以外のオーケストラは自由に振れたからロマンティック・スタイル

になった。

シューリヒトやRシュトラウスはヨーロッパ標準の指揮者に近いが、ポルタメント奏法が無くなった時代だからインテンポの所だけ標準に近い。


157 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 15:28:43 ID:HM57NYyB
>>152
ムード音楽の指揮者ってあとどの辺の人?


158 :中川隆:2010/10/02(土) 15:30:31 ID:hSQXWzjT

バーンスタイン

159 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 15:44:24 ID:HM57NYyB

たったそんだけ?
じゃ別にそんな大きな勢力じゃないじゃん。

160 :中川隆:2010/10/02(土) 15:57:48 ID:hSQXWzjT

オーケストラが全部ムード音楽専用オケになったという事。 今、フルヴェンが生まれてきても、もうああいう演奏はできないもんね。

161 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 16:08:06 ID:HM57NYyB

わかった、君が最近の音楽を聞いてないことはわかった。 だって聞くに値しないだろうからね。

162 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 20:39:49 ID:lXJZscod

実証も反証もしようがないから言ったもんがちだな

163 :中川隆:2010/10/02(土) 21:58:14 ID:hSQXWzjT

20世紀初頭と19世紀中頃はそんなに変わっていない。

20世紀初頭の状況はSP録音の歴史から推測できる。

従って、19世紀中頃の演奏スタイルはノンヴィブラート・ポルタメント奏法しか考えられない。

当時は早いテンポで小さい音で上品で甘い音で演奏していたんだ。

だから、フルヴェンの前にフルヴェンは無く、フルヴェンの後にフルヴェンは居ないというのは厳然たる事実だね。


165 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 09:04:04 ID:DGWEGJvm
>>160
なぜムード音楽専用オケばかりになったの?
なぜフルヴェンが今指揮してもああいう演奏できないの?
大指揮者なんだから出来るに決まってるだろ?
メンゲルベルクの第9のエンディングは「ドラマチックな盛り上げ」なの?
音楽になんで文学的解釈が必要なの?

167 :中川隆:2010/10/03(日) 09:23:17 ID:trtEv+0L

(なぜフルヴェンが今指揮してもああいう演奏できないの?)


昔はレコード会社自体がフルヴェンに輪を掛けたアレだったからできたのさ:


ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」
フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団、同合唱団

フルトヴェングラー・センターから会員向けにバイロイトの「第九」が発売された。

それも、編集がない、正真正銘のライブ盤だとか。

この「センター盤」が出現したことで、EMI盤が当時のプロデューサー、ウォルター・レッグによる編集を経て作られたことがほぼ明らかになりました。


 例えば、EMI盤にあった「vor Gott」のクレッシェンドは「センター盤」にはありません。

というより、「センター盤」は全体的に音楽の流れがとても自然です。
つぎはぎをされたらとてもこのように自然な流れにならないでしょう。

 気になったのは第4楽章の終結部です。もしかすると普通のテンポになっていないかと興味津々で聴いたのですが、猛烈なスピードで畳みかけるのは一緒ですが、音はよく揃っていて「ハチャメチャ」な感じは全くしません。 見事に最後の音に着地しています。

 こうなるとますます奇妙です。レッグはわざわざハチャメチャな方を編集材料に選んだことになります。

また、「vor Gott」にクレッシェンドをつけて強力に厚化粧をしています。
ライブ盤と銘打って発売するからにはこれくらいのことをしておいた方がインパクトがあると考えたのでしょうか。

実際に多くのファンに強烈な印象を与え続けたわけですから、レッグの目論見は完全に成功したと言えます。

http://www.kapelle.jp/classic/9th_symphony/beethoven.html


「EMI盤は、全体の4分の3が編集したものではないか。 EMI盤の憶測がいくつか明らかになった。

第4楽章中間あたり、”vor Gott"と合唱がフォルテで歌い、声を長く伸ばす、有名な箇所があるが、最後、瞬間的に合唱、トランペットのレベル(音量)が上がる。

これは、レコード制作時にわざとレベルを上げて、演出したのではないかという疑問だ。

バイエルン放送局盤はそのような音量の変化はない。 したがって作られたものだと判った。


______

要するに、楽員もレコード会社も聴衆も全員狂ってないとああいう演奏はできない:

何度も繰り返し再生され、なおも愛好家を増やしつつあるEMIバイロイト盤の「レコード芸術」としての歴史に、残念ながらセンター盤「真正実況盤」は敵わないように思う。

あれほどまでに聴きたいと思いつづけてきた「真正実況」だが、「今まで以上に優れたものではなかった」というレッグの実演に対する評価が、大きな実感としてshin-pの胸にのしかかった−(07/07/19)

http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/comp03.htm

169 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 11:16:41 ID:mm5Di51H

いまだにムード音楽なんて引き合いに出す爺がいるのか

170 :中川隆:2010/10/03(日) 12:31:39 ID:trtEv+0L

カラヤンやバーンスタイン、ショルティ、クライバーの時代はムード音楽の全盛期だったから、彼らもその真似をしたのさ:


その場に快適な雰囲気をかもし出してくれる音楽、あるいは快適な雰囲気そのもののような音楽を、かつてムード音楽と呼んでいた。
太平洋戦争がおこなわれていた時代からアメリカで開発され、戦後の40年代後半から50年代なかばにかけて、完成の頂点を迎えた、おそらくもっとも贅沢な音楽が、ムード音楽だった。

日本では軽く扱われたが、もっとも豊かでしかも若かった時代のアメリカで、多くの天才的な才能と経費そして時間を惜しみなく注ぎ込んで、ムード音楽のLPが大量に作り出された。


1965年ごろから“ムード音楽”という言葉がもてはやされ、色々なオーケストラが出てきた。

マント・ヴァーニ、ポール・モーリア、レイモン・ルフェーブル、
パーシ・フェイス、ボストン・ポップス、アンドレ・プレヴィン、
カーメン・キャバレロ、カラベリ、ニニ・ロッソ、サム・テーラー、シル・オースティン等など。

http://kouji-trumpet.hp.infoseek.co.jp/moodmusic.htm

上にベルリンフィルやNYフィルも加えて欲しかった。


172 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 13:28:32 ID:trtEv+0L

(音楽になんで文学的解釈が必要なの?)
フルヴェンが表現したかったのはこういうのだから:


            ̄~^ヽ、;ヽ;;;;ヽ;:ヽ
           '~" ̄ヽヽ;i;;;i;;;;i;;;;i   
              ノ:ノ::ノ;/;;;;;i;;i   あ…ん? ああ…あああ…いや? いや? ダメぇ!
        __,,,,,,,,,,,___/:/;/:/;;i::ノ/
  /^~"´ ̄-‐‐‐'''"´/:/;ノ;;;;ノ://
 /::::::/:::::::_,,,、---‐‐'''`~,、-''/::/
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;;;/~":、---、___/´ ,,i:'''  ::   ヽ. ヽ.`'''"´  /´    :::..,/        .:::ヽ
;;;;;'''''^~~~~^'''''/ー-  ';、 :::    `  ヽ`''ー-,,,i_    -‐''"          ::::::::;i、,
;;;、;;;`''ー-,,,,,,,,,,,,,,_,,,,,、_   ''       ',::::    `'ー            .:::::::::;/:: ヽ、
;;;ヽ、ー、;;ー-、,,,,,,,、-‐''"    .;´ ̄`,   ',::::,,,,、-    _、           ''~     ''ー
:::::ー、ヽ、,,''ー-ヽ.''''",.,;' "^' 'ー-‐'' . _、-'''''"´    "       ヽ     ::
:::ヽ、`''ー-、ー-、'ヽ"、i;.     ヽ /"     .::..   '::,,:ヽ.     i     :::::
、::ヽ;;ヽ、:ー-、,,,,,、.ヽ ';''   ノノノ/;/      ..:: ::::  ヽ,,,ノ     ':::    :::
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  ヽ


173 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 13:37:55 ID:7sTH8MA/
>>170
ムード音楽っていうけどさバッハの管弦楽組曲やモーツァルトのディベルティメントなんかも目的は似たようなもんだよ

それに19世紀にはコンサートオケというのはむしろ少数派でオケといえばウィーンやドレスデンのように本来はオペラが本職、そしてほとんどのオペラは芸術鑑賞と言うより社交の一環だよ

その点はどう考えるんだ?

174 :中川隆:2010/10/03(日) 14:03:07 ID:trtEv+0L


1.本来のヨーロッパ標準
貴族や大金持ち向けのサロン音楽から生まれたもの


2. ロマンティック・スタイル
インテリの中産階級を対象として生まれたもの。


3.ムード音楽
レコードを買える一般大衆向け


要するに、レコード文化と共に生まれたのがムード音楽やカラヤンの演奏

177 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 17:26:48 ID:VcxWNf3D

ID:trtEv+0Lって他所のリンク貼り付けてるばかりだな
受け売りばっかで自分の意見がないなら邪魔だから止めてくれ

178 :中川隆:2010/10/03(日) 17:36:54 ID:trtEv+0L

真実は既に知られているけど、君達がそれを知らないというだけの事さ。

179 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 17:49:36 ID:iIY0Bhgl
>>173
なかなか鋭い突っ込みだね。

>>174
その3つのカテゴリーだと、トスカニーニはどこに分類されるんだ。
毎週一千万人が聴取するラジオ放送をやっていたから、1や2でないことは明白だが。

180 :中川隆:2010/10/03(日) 18:06:20 ID:trtEv+0L

トスカニーニもインテリの中産階級が対象だからロマンティック・スタイル
ロマンティック・スタイル というのは別に演奏がロマン的という意味ではなく、伝統を否定する演奏様式なら該当する。

181 :179:2010/10/03(日) 18:29:55 ID:iIY0Bhgl
>>180
回答サンクス
なるほどね。
まあそれなら3つの分類も有りかなと思った。

182 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 18:56:29 ID:7Aw9y7+s

せっかくだからオペラ指揮についてもどうぞ
ここまでクラシック最重要ジャンルの話がまったくでないので

183 :中川隆:2010/10/03(日) 19:22:12 ID:trtEv+0L

ポッペアの戴冠が理解できたる天才と理解できないアホ


天才は
ヤーコプス&コンチェルト・ヴォカーレ、ボルス、ロランス、他(1990 ステレオ)(3CD)
http://www.hmv.co.jp/product/detail/3891140


アホは
ガーディナー&EBS、マクネアー、オッター、他 輸入盤 〔C
http://store.shopping.yahoo.co.jp/hmv/790492.html


天才のヤーコプスはロマンティック・スタイル

アホのガーディナーはヨーロッパ標準


ネロを悪役としているのがヨーロッパ標準のアホ演奏

モンテヴェルディが表現したかったのはこれだからね:


醴雛翩|||III;(i.'.:' .                           、.:.、'.''゙(}I}}}||IIIi゙(.( :.'.、' ' 、'.:、'.'.(.(i゚(}}}}|tq,
醴醴雛即lI゙(.'.、                    .、...:.x.(iicsij:,;、'.::‘(i゚(}}|||ロIl,( :.'.、    . `` '' .(i゙(Il}}][q,
醴醴靈瓰II,(:.:、                  . . . `' `_).''''ミ!}|||Ijj,'。:.(.(}I}||||IIi>.'.、          .'.?ミ(}照|g,、
醴醴醴翩|IIi>:                   . ' . ' ` 'テi;  :゙(}蹤|I,(.'.?.(}I}||||I;(、'..          . ' :‘(浴}}}}諭gg_、
醴醴醴雛||II,( :. .                       、゙(li:ョ涸阨[|Ili.'.:.'.ミII}}|||Ii;、.          .、:::: (i゙(I浴||||謳薑
醴醴醴雛|||I)).:: .                       . .(ii.i}浴屈[}}'、'.':: (.(II}||||I,(. .         . `.'.、.(0IIII||||醴‡゚゙
醴醴醴靈詬I;(i:.:、                      . .('゙(}}}}}笏'゙'... . .'.:ii゙(I}|||回>.           .'.、.(,(II||朋醴「...
醴醴醴醴齟|IIi'。::. .                       . `' `'゙'.'` .  、'.:.(.(泪屈Iiン. .       .、::.'_(.(II泪讃置
醴醴醴醴鑿||II,(>:、..                              丶.'_(i゙(I泪窗||Ii:、..    .、.:.'_(.(.(,(II屈醴歡

ネロが大人になる為の自立の闘いを描いているだけなのに、アホは勧善懲悪の話にしてしまうんだ。

救いようがない馬鹿。


それからこれがムード音楽


・モンテヴェルディ:『ポッペアの戴冠』 セーナ・ユリナッチ(S ポッペア)
 ゲルハルト・シュトルツェ(T ネローネ)
 ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)ウィーン国立歌劇場管弦楽団

 録音:1963年4月1日,ウィーン国立歌劇場(ライヴ)

http://artist.cdjournal.com/d/lincoronazione-di-poppea/1398040114


幾らなんでも趣味が悪すぎる(という話を聞いた)。
アホのヨーロッパ標準スタイルの方がまだまし。

186 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 19:58:05 ID:DGWEGJvm

ムード歌謡最高!


187 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 21:15:37 ID:YiwaLXSO
>>185
カラヤンはな、アンタみたいなコピペジジイなんかが太刀打ちできる相手じゃないんだよ。てか、いいCD持ってるじゃないか?
それ売ってくれよ。 もう廃盤なんだよな。


188 :中川隆:2010/10/03(日) 21:27:45 ID:trtEv+0L

確かにカラヤンを誉めてた大指揮者もいたね:

クレンペラー「悪くないぞぉ、カラヤン。みんなが言ってる程悪くないぞ。」


189 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 23:40:36 ID:7sTH8MA/
>>180
>ロマンティック・スタイル というのは別に演奏がロマン的という意味ではなく、伝統を否定する演奏様式なら該当する。

>>152 >>2.ロマンティック・スタイル
>
>テンポの極端な変化やダイナミックレンジの広さ、弦楽器のポルタメントや激しいヴィヴラート
>テンパニの強打、金管楽器の強調
>
>音楽の文学的な解釈、ドラマチックな盛り上げ
これ、どう折り合いつけるの?


190 :中川隆:2010/10/03(日) 23:47:35 ID:trtEv+0L

トスカニーニはティンパニを強打してるし、ドイツの伝統を無視してドイツ音楽を演奏してるからね。

ムラヴィンスキーも金管を強奏してるし、低弦のバランスが異常だし、
チャイコフスキーみたいにドイツ音楽を演奏してるからロマンティック・スタイル

カルロスクライバーはカラヤンのファンだし、カッコ付けてるだけだからムード音楽


191 :中川隆:2010/10/04(月) 00:13:04 ID:aJwK12JL

ここにアホ・カラヤンファンが居るから教えといてやるけど、

カラヤンの凄さは stax の静電型ヘッドフォン(最上級機)で聴かないと絶対にわからない。

カラヤンは聴覚能力が異常に発達していたから、凡人とは音の聞こえ方が全然違うのさ。

超高音が練り絹の様にレガートで繋がっていくのを再現できる装置でないと、カラヤンの意図は再現できない。

ここのアホファンにはカラヤンの本当の凄さはわからないのさ。


まあ、これ買ってからカラヤンの評価しようね:

SR-007A 定価 210,000円(税込)
STAXイヤースピーカーのフラグシップ機。

コンデンサタイプらしからぬ量感たっぷりの低域、滑らかな中域、
繊細無比の高域をお楽しみください。
http://www.airy.co.jp/sub_stax.htm


194 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 10:28:16 ID:isR28n0L

売れないメーカーの必死の宣伝か。。。
こんなの使ったら難聴になるのにな。
あ、そうか、難聴の爺さん向けの宣伝だったか。
でもなんだか哀れで同情を誘うぜ。 ま、がんばれや。

195 :中川隆:2010/10/04(月) 11:18:55 ID:aJwK12JL

良く知ってんね(感心)
俺は stax を使ってて耳痛くなったからカラヤンを聴くの止めたのさ。

カラヤンは確かに凄いんだけど、それは音楽としての凄さではなく、
音そのものの生理的な快感なんだよね。


197 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 12:42:06 ID:omalygRl
>>196
生理的な快感を起こせる指揮者ってすごいよな。
aJwK12JLとは親友になれそうだ。

198 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 13:02:02 ID:UGA8ddCn

カラヤンの凄さはスピーカーでは再現できないのか、ヘッドホンて嫌いなんだよね。


199 :中川隆:2010/10/04(月) 13:29:07 ID:aJwK12JL

Quad ESL57 か ESL63プロにチェロかゴールドムントの超高級アンプを使えば Stax に近くはなるみたいだけど。

ESLは振動板が3年で劣化するし、交換に何十万円もかかる。
100万円以下のアンプではいい音にならない


安いのもあるけど振動板が劣化してるとあの音にならない:

QUAD ESL57(3ペアー在庫あり、金、黒、ベージュ)ペアー¥18万
QUAD ESL63(3ペアー在庫あり、茶、黒)ペアー¥25万

QUAD ESL63PRO ペアー¥28万


ESLは全て整備済み。
http://homepage2.nifty.com/soundpoint55/newpage3.html

サウンドボックス
ESL57  22+II  ESL63の復刻・再生品 新発売
http://www.soundbox.co.jp/quad.htm


5 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2001/06/24(日) 13:01

チェロはオーディオスィート、パレット、パフォーマンスが圧倒的に良くて、他はそれ程でもないと思う。アンコールシリーズは日本では売れたけど、音は今三。

61 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2001/08/08(水) 22:47
>>60
チェロはアンコールはそんなに良く無いよ。
スィートとは較べものにならないと思う。
どうせ買うなら、スィートだ。今ならヴィオラオーディオでアップグレードも出来る。
中古で見掛けたら即ゲットだね。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:03/04/07 12:20 ID:8J/ZIr7M

リモコンは使えないが、スィートの音は今でも最高だろ。
アンコールは駄目だが。

39 :AI ◆4wBVGeQHPA :03/04/26 00:41 ID:???
>>38
何度も言っているけど、チェロの場合スィート以外のプリはダメだよ。
チェロの神髄はスィートを聴いて語ってね。

http://mimizun.com/log/2ch/pav/1049683747/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/645.html#c1

[近代史4] 巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか 中川隆
2. 中川隆[-13337] koaQ7Jey 2020年3月25日 09:58:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1567]

201 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 14:30:58 ID:K1SYU52Q
>>190
どっかのパートかセクションを強調し、ドイツ人でなければロマンティック・スタイルということになるね。
(インテンポかどうかは実は関係なく)
ちなみにモントゥーとかビーチャムはどれに属するのかな?

202 :中川隆:2010/10/04(月) 14:58:41 ID:aJwK12JL

モントゥーはブラームスが好きでドイツの伝統を尊重したからヨーロッパ標準 だろ。

ビーチャムやバルビローリも中庸だからたぶんヨーロッパ標準。

要するに、まともな人間はヨーロッパ標準
パラノイアや異常性格者はロマンティック・スタイル

になるのさ。


愛の音楽家 ブルーノ・ワルターがロマンティック・スタイルだった理由も説明しとくね:

レブレヒトの「巨匠神話」(文藝春秋)によれば、ブルーノ・ワルターは大変な偽善者で、性格の悪さは天下一品だったらしいです。本から抜き書きいたしますと、驚くべきことに次のような言葉がでてきます。


「ワルターは、卑劣で意地悪な利己主義だった」(アンナ・マーラー)

「昔から貪欲な豚で、考えるだけで気分が悪くなる」(シェーンベルク)

「感傷的なばか」(トスカニーニ)

「ワルターは偽善者だった」(レブレヒト)

「ブルーノ・ワルターは、すばらしい指揮者がすばらしい人間でなくてもいいという、生きた証拠であった。」

http://www.kapelle.jp/classic/archive/archive9904_b.html


205 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 17:44:22 ID:PCv3/VKg

ワルターがいくら性格悪くてもかまわない。 あの美しい音楽がすべて。
おれだってかなり性格悪いし頭も悪い。

206 :名無しの笛の踊り:2010/10/05(火) 00:35:26 ID:/NFwZQZF

じゃあどうして一銭にもならない当時病気だった宇野との文通を何年も続けたんだ?

207 :名無しの笛の踊り:2010/10/05(火) 06:59:24 ID:w+UWmkQM

ワルターはナチスに迫害されたり娘を事件で失ったりしてるんだから多少は性格悪くても仕方ない。
まあそれならアンチェルルはどうなんだとかいろいろ言えるけど、何も経験してない

俺らが言うことじゃないな。

208 :中川隆:2010/10/05(火) 09:26:50 ID:zX2qjY6K

みんなから非難されている若き日のブルーノ・ワルターの行動はすべて、女狂いから来てるんだよ。

歳取って落ち着いてからまともになったんだ。

210 :名無しの笛の踊り:2010/10/05(火) 12:00:07 ID:DmqQ66xE

だけどフルちゃんのおねだり病は異常なくらいだったらしいね。
それにニキシュの後釜がほぼワルターだったのに裏であちこちに手を廻してフルちゃんがベルリン・フィルを手に入れたんだよね。 ま、もしワルターだったとしても戦争始まったらその立場を追われるけどね。

それはともかくフルちゃんて、とても人間的。 音楽はあまり好きじゃないけどね。


211 :名無しの笛の踊り:2010/10/06(水) 22:27:53 ID:c2UQR4cG

ワルターが非難されてたのは戦後ヨーロッパで困窮してたなじみのユダヤ人のオケ団員を援助しるのを渋ったり。巨匠にふさわしい社会的振る舞いをしなかったから、ようするにせこくて小市民だったからではないか。


215 :名無しの笛の踊り:2010/10/13(水) 12:23:18 ID:ja608Fsz

試しにワーグナーの「神々の黄昏」から聴いてみた。
うーむ、どうも音楽が物々しいやらおどろおどろしいやらで、魔物か何かが出てきそうな雰囲気である。

じゃあ「ジークフリート牧歌」ならマイホーム的なホンワカ・ムードでいいんじゃないかと思ったが、これも何か深刻な家族会議ふうで、ときどきオヤジが激昂したりしていたたまれない。

「タンホイザー」も妙に壮大だったり興奮のルツボ状態だったりして、どうも暑苦しい。気を取り直してR.シュトラウスに向かったが、こちらも事情は五十歩百歩どころか、何か新興宗教みたいに神がかって鬱陶しい。

いやはや困った演奏である。なにせ鳴っている音のすべてが、いつもいわくありげなので、音楽を聴こうと思っても門前払い、あるいは置いてけぼりのような気分にさせられたり、「おうおう盛り上がってるな」とか「悩んでるな」とかいうように、ほとんど他人の不幸(?)を喜ぶようなギャラリー気分になってしまう。
でもしばらく付き合っていると、フルトヴェングラーの狙いが読めてくる。
おそらくそれは、聴き手を感動の方程式にはめ込むことである。

だからこんなに情でがんじがらめの音楽をやるのである。

しかしそれにしたって、そうしたフルトヴェングラーの術にハマるには、現在の聴き手にとって、かなり意識的、または自己催眠的にマインド・コントロールする努力が必要だろう。ましてやこちとら筋金入りのスレっからし。残念ながらそんなウブな純朴さはとうになくしてしまった。

セピア色に変色した昔の写真を見つめて、遠き日の感動をなぞるのもときにはいいかもしれない。でもそれはあくまで過去の出来事であり、いつまでも後生大事にするものではない。なんらかの「追憶」はあっても、そこに「今」を聴くことの面白さは見出せないのだから。

だからこの演奏は、ある時期には一定の影響を及ぼしたかもしれないが、「終わっている」としか言いようがない。

218 :名無しの笛の踊り:2010/10/13(水) 15:54:23 ID:jUv7npsN

ベートーベンやバッハもある時期には一定の影響を及ぼしたかもしれないが、「終わっている」としか言いようがないんじゃないの。


219 :名無しの笛の踊り:2010/10/13(水) 18:52:26 ID:TSsYnk+W

それレコ芸再発欄の石原立教の評だろ
まるまる載せるなら引用元書いておけよ

220 :名無しの笛の踊り:2010/10/14(木) 21:04:15 ID:dlVQLDJJ

主観的すぎて何書いててもはあ、あなたにとってはそうなんですかって感想しか出てこない文章だよね


>>215

221 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 08:46:57 ID:JwiL3ntH

信者にとっては絶賛以外は全部「バカの私見」だからなw


222 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 09:56:00 ID:a4fptUoV
>>221
確かにそうだね。
でも、フルベンを否定する奴を批判する奴こそ、きちんと論理性が通った文章を書けないのが現実なんだが。だから頭ごなしの否定文しか書けない。


223 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 16:18:19 ID:JwiL3ntH

否定はしてないだろ。あんな音質じゃ良し悪しの断定はできないというだけ。

224 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 17:16:27 ID:Tu3y5P5p
>>215
レコ芸にもこういうまともな評論が載るんだね。 なんか見なおした。
だけど、好きな人にはたまらないんだからお互い、いがみ合わないで棲み分けするしかない。

225 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 17:36:40 ID:CedQe6JL

フルトヴェングラーは歌謡界で言えば美空ひばりみたいな存在なんだよ
俺もフルトヴェングラー崇拝者の1人だけど、カラヤンだって初期のDGやコロンビア録音にはいいものも多い。彼の実演もいい思い出。 何でもかんでも対立軸で議論したがるのも短絡的で困り者。

でもショルティやアバドはどうだろう。フルトヴェングラーより優れていると言えるかね?

単なる好き嫌いと混同するなよ

226 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 17:50:27 ID:rD2Fcyv3

一つのスタイルを極めたってことではフルヴェンは確かに偉大だったと思うなぁ
ただ、別のスタイルを極めたカラヤン、トスカニーニやロッシーニ復活に功あったアバドも同じように偉大な音楽家

問題は彼のスタイル以外認めず、別な方法論を採った演奏家を「内容空虚」「ムード音楽」とかいうことだと思う

227 :中川隆:2010/10/16(土) 18:11:56 ID:04+WnRvX

トスカニーニは狂人の音楽


228 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 18:28:52 ID:a4fptUoV
>>227
トスカニーニは、偉大な開拓者だと思うがな。確かにある意味狂人だが、その手の批判は、茨の道をいく人間の宿命。


229 :中川隆:2010/10/16(土) 19:00:52 ID:04+WnRvX

フルトヴェンは意志薄弱のダメ男、というより男じゃない。
ほんとに情けない男だったみたいだね。 天才だけど。

230 :中川隆:2010/10/16(土) 19:20:00 ID:04+WnRvX

オケメンバーにとっては、リハーサルで失敗したとき、激怒してかんしゃくを爆発させる激情型のトスカニーニの激しい叱責より、ワルターに

「私の指揮が足らず君に失敗があった。 指揮者として申し訳ない」

と言われて涙を滲ませられると、失敗した楽団員にとってはそちらの方(トスカニーニの叱責よりワルターの涙の方)が辛かったという逸話も伝わっています


フルトヴェングラーはあまりそういった逸話がなく、良くも悪くも、フルトヴェングラーは音楽の神に自らの全身全霊を捧げており、「音楽以外はどうでもいい」という感じのする、ひたすら音楽を追求し、あまり人間的な部分を感じさせない求道者的指揮者です。

フルトヴェングラーの家がドイツの富裕な名門であることも音楽以外に気を払わない彼の求道的スタンスに関係しているのかもしれません。

http://nekodayo.livedoor.biz/archives/840652.html


本当はフルトヴェンは他人とは意志の疎通が全然できなかっただけなんだけどね。

236 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 23:23:12 ID:Mi20l35J
>>230
× 「音楽以外はどうでもいい」
○ 「音楽と女以外はどうでもいい」

231 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 19:29:26 ID:033ETuRF

フルヴェンとかトスカニーニまたはカラヤン・クラスになるといくら嫌いでも否定は難しい。 時代をリードしてきてきた大巨匠達だからね。


232 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 19:50:52 ID:JIp9hOWC

どの指揮者が好きでも嫌いでもいいが、人格と演奏を結びつけて罵倒するのは愚かなことだ。

指揮者でも作曲家でも、人格の良し悪しと作品や演奏の良し悪しは別だからな。
ワーグナーなんか嘘つき・尊大・自己中心で、身近にいたらとんでもなく厭な奴だろうけど、幸いなことに離れた立場でいられるので、作品を楽しめるわけだ。
フルトヴェングラーが偶像化されるのは下らないことだが、人格をあげつらって演奏が良くないというのもこれまた愚かなことだ。


233 :中川隆:2010/10/16(土) 20:07:47 ID:04+WnRvX

まともな人間は大指揮者にはなれないという話なんだけどね。

245 :名無しの笛の踊り:2011/01/08(土) 08:59:20 ID:jJu19gDs

やはり少し過大評価を受けているね。
確かに、偉大な指揮者の1人であるという点では違いないけど、まあネットが普及したおかげで、評価が少しずつ適正な位置に移動しようとしているけど、まだまだ実力と比べて高すぎる。

246 :名無しの笛の踊り:2011/01/09(日) 02:10:42 ID:eiNs6h1H
>>1
評価の仕方が悪い。
馬場さんのプロレスを想い起こすがいい。
技術的には大したことが無いし、技の切れも無い。

何も良いところがないようだが、感動する人には感動させた。
ゆったりと動いて、不器用に大きく振り被って、ガァっー!!と決めた。

フルトヴェングラーの音楽そのものではないか?
感じることのできる者だけが感じられるのだ。
感じられないものがとやかく言うことではない。


247 :名無しの笛の踊り:2011/01/09(日) 10:52:12 ID:w0+S9HjN
>>246
まあ、ある意味その通りと思うよ。
でも古便オタや批評家って、カラヤンやトスカニーニを散々叩きまくったじゃない。
その辺が話をややこしくしていると思うが。

248 :名無しの笛の踊り:2011/01/09(日) 11:00:58 ID:ot841RyZ

バカだなぁおまいら
ベートーベンをどう演奏しなけりゃならんかを知っていた唯一の指揮者だぞ
馬場もプロレスをどう見せなきゃならんかは弁えてたがな

249 :名無しの笛の踊り:2011/01/09(日) 13:29:51 ID:9gQRyXPu
>>247
その通りと思うなら、もう16文突っ込んで考えるんだ!
カラとかトスカとかは、デストロイヤーとかブッチャーとかドリー & テリーなんだよ!!
別の国ではヒーローでも、馬場さんの国では悪役なんだっ!!!

250 :名無しの笛の踊り:2011/01/10(月) 18:24:27 ID:E3cCL/fG
>>247
>でも古便オタや批評家って、カラヤンやトスカニーニを散々叩きまくったじゃない。
???
当時の批評家の推薦版にやたらカラヤンが多かったよ。

ほとんどカラヤン盤だったね。レコード芸術とか何とか読んだことないの?
トスカニーニやフルトヴェングラーは過去の人扱いだったよ。

http://toki.2ch.net/test/read.cgi/classical/1267347548

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/645.html#c2

[近代史4] 巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか 中川隆
3. 中川隆[-13336] koaQ7Jey 2020年3月25日 10:15:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1568]

宇野功芳先生が大嫌いな演奏 _ カラヤン・レガート


カラヤン 動画

http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3

http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3&oq=%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3&gs_l=youtube-reduced.3..0l4.1554.3677.0.4348.9.9.0.0.0.0.309.2022.0j2j6j1.9.0...0.0...1ac.1j4.zol2awpx5Sw
http://www.youtube.com/results?search_query=karajan&oq=karajan&gs_l=youtube.3..0j0i4j0l2j0i4j0l4j0i4.20616.23599.0.24458.7.7.0.0.0.0.125.864.0j7.7.0...0.0...1ac.1j4.6WUHbDHxc4U


カラヤン Herbert von Karajan ―音楽が脳を育てる 茂木健一郎

クラシック界の帝王と呼ばれた男、指揮者・ヘルベルト・フォン・カラヤン。
生誕100周年、没後20周年を迎え、今も世界を魅了してやまないその音の秘密を、脳科学者・茂木健一郎氏が読み解きます。

ザルツブルク・ベルリン・ウイーン。カラヤンゆかりの三都を旅し、茂木氏が辿り着いたキイワードは「レガート」。

音楽用語で「なめらかにつなげる」を意味するこの言葉こそ、カラヤンを成功に導き、現代日本に生きる我々に最も必要なことと喝破する。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3-Herbert-Karajan-%E2%80%95%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%81%8C%E8%84%B3%E3%82%92%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%82%8B-CD%E4%BB%98%E3%81%8D/dp/4418092234



小節の縦線が聴こえない、レガートの響き。
美とは一点の曇りもない美しい表面を持っていなければいけない。

カラヤンのレガートへの拘りは異常なほどだったという。
http://renoncule.exblog.jp/11491231/



  その頃のフルトヴェングラーはベルリンでの非ナチ化法廷での審理の最中であり、1946年12月に無罪となった後も米国を中心とする西側メディアからの追求と批判をあびていた。 その時期にカラヤンは、戦中時代からの行き違い(勿論、芸術性における解釈には違いがあるが)について、フルトヴェングラーとの和解を試みている。

1946年初冬、フルトヴェングラーが列車でチューリッヒに行く途中、カラヤンの滞在先であるザンクトアントンで途中下車し会いたいというカラヤンの願いに同意し、二人はアールベルクで対面をした。

対談自体は、フルトヴェングラーのカラヤン嫌いがあまりにも強く、修復の余地はなく失敗に終わった。しかし、後年、フルトヴェングラーはカラヤンのレガート表現の資質について、こだわりも悪意も捨ててカラヤンをほめ妻に語っている。

「カラヤンはほんもののレガートが使いこなせる。自分で学んだに違いない。
教えられて出来ることではないからな」と。

  歌うようなオーケストラ的レガートを正しく理解し、使いこなさなければ、第九交響曲や19世紀から20世紀初頭の多くのドイツ作品を指揮することが不可能であることをフルトヴェングラーはよく心得ていたからである。
http://www16.plala.or.jp/annys-house/karajan.htm



チェリダッケが、カラヤンのことを

「音は美しいが中身がない」

と言って、インタビューアーが

「でもカラヤンは世界中で知られていますよ」

と言ったら

「コカ・コーラだって世界中で知られているさ」

と言った話は有名です。


チェリビダッケは他にも

「トスカニーニは一流の演奏家だが音楽家として二流だ」

「オーマンディのような凡庸な指揮者がよくストコフスキーの後を継いでフィラデルフィア管の常任指揮者になれたものだ」

「人は水だけでもしばらくは生きていけるが、アバドの退屈な演奏を2時間聴いたら心筋梗塞を起こすだろう」

「ムーティは素晴らしい才能の持ち主だが、トスカニーニと同じで無学だ」

「ベームは音楽の解らないジャガイモ袋」


等、マスコミが喜びそうなことを言ってました
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1377955283


クナッパーツブッシュ
「(私がカラヤンみたいに暗譜で指揮をしないのはカラヤンと違って)楽譜が読めるからだ」


__________


カラヤンがモーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」を演奏していたときのこと。その上演になぜか立ち会っていたクレンペラーが突然大音声を発した。

「いいぞ カラヤン、いいぞ、決して皆が言うほど悪くない!」

カラヤンは、それ以後決してクレンペラーを許さなかった、という。
http://nyhanako.exblog.jp/10641334



川口マーン惠美 『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』

カラヤンについては、共にその黄金期を過ごしたベルリンフィルのコントラバス奏者だったハルトマン氏は、次のように語っている。

カラヤンは素晴らしい業績を残した。しかし、亡くなって、まだ二十年も経たないのに、もうすでに忘れられつつあるような気がする。

ところが、フルトヴェングラーは、没後五十年以上経つのに、いまだに偉大で傑出している。あなただって、フルトヴェングラーのために、ここまで来たのでしょう。
あなたの求めている『フルトヴェングラーかカラヤンか』という問への答えは、おのずと決まっていくかもしれませんよ。
http://blog.livedoor.jp/weidows95/tag/%E3%83%AC%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88



405 :名無しの笛の踊り:2012/11/06(火) 16:05:35.14 ID:7ySo7EVD
カラヤンが子供騙しな指揮者だったって事は本当ですか?


406 :名無しの笛の踊り:2012/11/06(火) 16:35:44.59 ID:ij4qrj9g
三分の一くらい本当です。


407 :名無しの笛の踊り:2012/11/06(火) 16:55:44.92 ID:n6gAFbdL
子ども騙しの最右翼はフルヴェン。
初心者のおれが「ここでこうやったらカッコイイ〜」
という解釈でやってくれるからわかりやすかった。

でもいずれネタがわかってしまい飽きてしまった。

それになにをやっても芝居がかってて鬱陶しくなった。
時代物として聞くならいいだろう。
シゲティとかカザルスとかコルトーもそう。


409 :名無しの笛の踊り:2012/11/06(火) 17:10:23.49 ID:jU7IpzTY

大衆化路線をそんなにバカにしちゃいかんよw。
カラヤンが早くからメディアの可能性に着目して、大量にレコードを出したから、批評家にも仕事のチャンスがたくさん回って、手厚く稼がせてやったわけだ。

その上アンチ批評家がフルヴェンやクナを聴け!と読者を説教したものだから、そちらのレコードもよく売れて、レコード会社は更にウマーw。

結果として俺たちは、氾濫したメディアのおかげで何時でも何処でも好きなように音楽を聴けるようになったんだし、評論家ごっこまでして遊べるようにもなったわけw。
感謝しなくちゃ。


410 :名無しの笛の踊り:2012/11/06(火) 19:04:43.55 ID:iZCOeSva
クラシック鑑賞は高尚な趣味で敷居が高い、という時代が短からず確かにあったんだよ。 それを居酒屋でオッサンが談義できるレベルまで降ろしてくれたのがカラヤン。


411 :名無しの笛の踊り:2012/11/06(火) 20:23:11.71 ID:bGTHVZUa
>>410
>>それを居酒屋でオッサンが談義できるレベルまで降ろしてくれたのがカラヤン。

いや、カラヤンではなく、宇野功芳などの俗悪音楽物書きのお陰で、クラシックが、居酒屋で呑んでるオヤジや、電車内でスポーツ新聞を広げてるようなオッサンでも語れるような庶民の文化となったのだよ。
少なくとも日本では確実にそうだと思う。


413 :名無しの笛の踊り:2012/11/06(火) 20:36:05.66 ID:cmXB50aQ
フルベンやクナなんか聴いてるの世界中で日本人だけらしい
同じ日本人として恥ずかしい
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/classical/1347016336/



岡本太郎

「きれいであってはならない。うまくあってはならない。心地よくあってはならない。
ほんとうの美とは、きれいとか、うまいとか、心地よいなどとは反対のものなのです。」


宇野功芳
「その本物の美しさと正反対なのが、カラヤンの演奏だと思う。」
http://www.geocities.jp/descanso_sabatical/music/classical/bruckner/conductor/karajan/karajan9bpo75.html


宇野功芳
現在、“帝王”と呼ばれる指揮者にカラヤンがいます。その人気はすばらしく、まさにスターですが、それはカラヤンの美男ぶりや洗練された指揮姿によるもので、音楽的な実力は明らかにベームのほうが上なのです。

芸術というものは芸術家の心が正直に反映します。カラヤンの演奏は音が美しくて、角がなくて、実にスマートですが、いささか表面的で聴く人の心を打ちのめすような内容の深さに欠けています。

彼がオペラを好み、ベートーヴェンをあまり得意にしていないのはそのためでしょう。ところがベームは違います。華やかなオペラよりは、内容できかせるモーツァルトとベートーヴェンを最も得意にしているのです
http://www.tokai-med.ac.jp/staffs/obara/sb/log/eid250.html


宇野功芳

エロイカ 朝比奈盤
カラヤン/ベルリン・フィルなど、オーケストラは数段上だが、いくら技術的に優れていても、本当に魂のこもった迫力において大阪フィルより落ちる。それはカラヤンの指揮が外面的だからであろう。
http://classicalmusic.livedoor.biz/archives/50856054.html



指揮者の中には、実演第一主義とでも言いましょうか、コンサートでの演奏が全てであって、録音用の設備を整えたスタジオで、何回も取り直しを繰り返し、果てはテープの継ぎはぎ迄して、出来上がりの完成度を高める様な、そんな録音は絶対に取らないと言う、言わば硬派のご意見の方も多く居そうです。

その言葉が批難している対象は実はカラヤンなのです。

彼の完成させた録音はですから、プロが楽譜と突き合わせれば、恐ろしく楽譜に忠実な事に驚くのでは無いかと思われます。また、彼程耳の良い人も珍しかった様で、楽隊の鳴らす和音の中の、単一の楽器の音のずれを聞き逃さなかったと言われます。

加えて、記憶力抜群の指揮者でして、殆どの曲を暗譜で演奏したらしいのです。これは長大な時間の掛る膨大な楽譜のオペラでもそうだったと言われます。彼の残した映像を見て居ますと、協奏曲の伴奏オーケストラの指揮も原則的には暗譜で指揮して居ます。この事からも彼の暗譜力の素晴らしさが伺えます。
http://koten.kaiteki-jinsei.jp/080619.html



「売れる」演奏とは? 
カラヤンとリヒテル相容れない巨匠と名録音の知られざる裏側

ベートーヴェン作曲の三重協奏曲。
この曲、ピアノがリヒテル、ヴァイオリンがオイストラフ、チェロがロストロポーヴィチ、そしてカラヤン指揮でベルリン・フィルという、これ以上考えられない夢のような豪華な顔ぶれの録音があります。


BEETHOVEN - The Triple Concerto in C Major, Op. 56 - Oistrakh/Rostropovich/Richter/Von Karajan



 
そのレコーディングについて、リヒテルがドキュメンタリーフィルム「リヒテル(謎>」の中で知られざる裏について語っています。

     ・・・・・(以下引用)・・・・・
 
三重協奏曲のレコーディングが悪夢だった。カラヤンとロストロポーヴィチ、オイストラフと私。2対2の戦争だった。カラヤンは私の不満顔に首を傾げた。

私はうわべだけの演奏が嫌だった。
オイストラフも失望してしょげかえっている。

一方、ロストロポーヴィチはただ目立とうとする。
私とオイストラフが不満だったのは第2楽章のテンポの遅さだ。だが、ロストロポーヴィチはすぐカラヤンに追随した。カラヤンが"これでよし"と終わろうとするから、私がやり直しを頼むと

"一番大事な仕事がある!"

・・・・写真撮影さ。
我々はバカみたいにヘラヘラ笑ってる。おぞましい写真だ。見るに耐えない。
 
     ・・・・・(以上引用)・・・・・


それにしても、一触即発の緊張感の中でのぶつかり合いだったということが想像できます。 
ロストロポーヴィチのチェロは、録音を聴く限り、気迫十分、間違いなく全盛期の演奏そのもの。実際は、ロストロポーヴィチもカラヤンと対立し、席を立って出て行ったという穏やかではない一場面もあったようです。
 
問題の2楽章、レガート奏法を多用し、艶やかで美しい音楽を追求するカラヤンからすると、やはりテンポは上げられなかったのかな、と思います。
カラヤンは、どうすれば「売れるか」ということをよく分かっていた人だと思います。
超有名演奏家を一同に集め、カラヤン美学で音楽を作り上げれば必ずヒットする。

そこが、生涯をただ純粋に音楽だけに捧げた孤高の芸術家リヒテルとは相容れなかったところだったのでしょう。
 
しかし、カラヤンのおかげで、本物のクラッシック音楽がある特定のファンのものだけではなく、一般の人々にまで受け入れられるようになったのです。そういう意味ではカラヤンの功績は大きいと思います。裏で何があろうとも、一筋縄ではいかない巨匠たちに、ここまですごい演奏をさせたカラヤンの手腕も見事。この名演奏から感じられる異常なまでの緊張感を生み出したのは、またしてもカラヤンの仕掛け?とふと思ってしまうのです。
http://blogs.itmedia.co.jp/nagaichika/2010/09/post-7296.html



“カラヤンの第1回目の「チャイ5」セッション録音”

チャイコフスキー 交響曲第5番 カラヤン&フィルハーモニア管
録音年:1952年5月ー6月、1953年6月 ロンドン、キングスウェイ・ホール
第2楽章ホルン・ソロ: デニス・ブレイン





参考

Tchaikovsky - Symphony No. 5 in E minor, Op. 64
Wiener Philharmoniker Orchestra, Herbert von Karajan




アナログ本来の持ち味を生かした復刻で定評のあるOPUS蔵のリリースだけに大いに期待したのですが、かつて発売されたEMI盤(7364602)よりも、音の伸び、ハリ、スケール感、各楽器の輪郭が明らかに劣ります。フーベルマンのチャイコフスキーなど、生々しい訴えかけを再現した復刻を知っている者にとっては、この結果は全く意外です。EMI盤をお持ちの方は、買い替える必要は全くありません。

演奏そのものに生命感が漲っていないものはアナログで聴いても同じ…とは決して思いませんが、少なくとも音の粒子が宿している微妙なニュアンスや深みを追及するタイプでないカラヤンの演奏は、ライヴ録音は別として、録音の美しさを前提にしなければ厳しいものがあるのでは…、と改めて考えさせる結果となりました。

演奏自体は、後年のカラヤンの基本形がここですでに完成していたことが確認できます。全体的に大人しいイメージですが、細かく聴くと例のカラヤン・レガートが後年の録音ほど練れていない分だけ露骨な形で表出されるので、その意図があからさまになりすぎて、音楽の流れを寸断する結果にも繋がっています。

時代掛かったルバートが控えめに盛り込まれているのも特徴的ですが、それがいかにも中途半端。よく揶揄される「表面的」というイメージを決定付けてしまいかねない演奏と言えましょう。

第2楽章のブレインのソロも、他の録音と聴き比べるまでもなく、彼だけが持ち得る閃きがまるで感じられない(EMI盤でも同様)のが信じられないほどで、それこそライナーに書かれている「スケール豊かなふくらみ」が抑え込まれているのですから痛恨の極みです。真に本領を発揮したときのブレインがいかに素晴らしいかを痛感していれば、「このブレインが素晴らしい」などと軽々しく言えないはずです!

第3楽章はカラヤンに相応しい楽曲のはずですが、綺麗に整えようとする意図ばかりが先走り、「ほら、こんなに素敵ですよ」と語りかけてくる箇所が見当たりません。勢いに任せた演奏=生命感のある良い演奏、とは言えませんが、人間的な自然な律動を抑えて音楽を組み立てようとすることの無理が表面化してしまい、いたたまれません。

終楽章も、展開部冒頭の8分休符がゲネラル・パウゼになっている珍妙さ以外は、後年の録音とスタイルは同じ。しかし、音自体に輝きと自信がなく、スケールも小さく、個々の奏者のセンスも封じ込まれているようなもどかしさが終始付きまとうので、当時のフィルハーモニア管の魅力を味わうとしても、肩透かしを食らいます。

しかしこの録音の後、オケの個人芸が自分より注目されることがないように徹底的に意識すること以外は熟考を重ね、1975年に(DG)に比類なき金字塔を築くのですから、この録音こそがその理想に向けての第一歩だったと言えるかもしれません。


第1楽章のツボ

後年の録音で顕著となる独特のぬめりを持つレガートがここでも出現。
メンゲルベルクほどではないが、73小節でわずかにテンポを落として19世紀的なニュアンスを漂わせるが、香りが立ち上ってこない。
活気付くことなく、媚を売るようななよなよとした進行。
まったく非の打ち所のない美しいフレージングで、響き極めて均整が取れているが、心に直に訴えかけるものに乏しい。


第2楽章のツボ
スコアを忠実に再現しているが、イメージを喚起させるニュアンスには乏しい。
注目のD・ブレインのソロも、ここでの演奏は何度聴いても彼本来の音楽性を発揮しているとは思えない。カラヤンが自分よりも彼が注目されてしまうことを恐れて何らかの操作をしたのだろうか?と勘ぐってしまう。
血の気が失せた顔で何やらワーッと叫んでいるだけのような感じ。
まるで心ここにあらず。
各小節の第1音は、縦の線をあえてずらして響きに広がりを持たせようとしているが、その全てが機械的。オケもその必然性を感じ取りながら弾いているとは感じられない。
スコアに書かれたとおりのスケール感は表出しているが、最後のぎりぎりのところで足を引っ張るような力が作用し、フォルテ4つの箇所に至っても、音楽が突き抜けないのは実にもどかしい。その原因は録音の古さだけではない。オケの弾きにくそうな顔が目に浮かぶ。


第3楽章のツボ
リズムがいかにも鈍く、楽想の持ち味が生かされていない。靴底にガムをつけたまま踊らされている感じ。
214小節からの終結部は音量を落とし、カラヤン特有のレガート節を徹底尾的に盛り込んでいるのは、後年の録音では影を潜める表現。場面転換にメリハリを与えるという点では大いに功を奏している。
http://www.wakuwakudo.net/review_chai5/karajan_opk7029.html



カラヤンの「大地の歌」をデジタルマスターリングLPで聴く

カラヤンには個性がないのではないだろうか。

それとも時代に応じて演奏スタイルを変えてきたから、統一された特徴や演奏スタイルというものが無いように見えるのか。

演奏を聴いて、それがカラヤンの指揮によるものだと特定できるものは、音響的にはあっても、音楽的には余りないことが経験的なことだ。

カラヤンはゲルマン的なところとラテン的な所を併せ持つが、逆に言えば無国籍のグローバルさ・・・インターナショナルテイックなものをもっている、というよりそうなってしまったのは・・・カラヤンの美学によって楽曲の持つローカルエリア的風土を排除したことにその要因があるような気がする。

言い換えれば、母国語があるのに、エスペラント語に置き換えてしゃべって表現するようなところがあるので、万人に理解されるようで、主観的すぎる翻訳が必ずしも上手く行ってないから、誤解を産むとが多いような気がする。

初期〜中期のカラヤンは、ザッハリヒな演奏スタイルだったが、カラヤンレガートが象徴するように、超メジャーになってからのカラヤンの演奏の特徴は、楽曲の解釈はあくまでもカラヤン自身の美学の帰結であり、誰がどこでどのような経緯で作ったのかなどは眼中にないようで、あくまでも楽譜とカラヤン自身の美学で音楽が成立する。

中期以降のカラヤンは、カラヤンレガートがあらわす如く、自分の美学に基づいて、音楽をソフティフィケートすることに専念するようになった。

注目すべきは、基本的にはザッハリヒな演奏スタイルなのだが、レガート、フェルマータなどを多用することでロマン主義的な演奏スタイルに思わせるような所があることだ。

万人に好まれるがコアなクラシックファンから嫌われるのは、カラヤンの美しさを追求する没個性の美学にあるのではないか。

マーラーの曲に内包されるものは、ドイツ辺境や周辺の地の民謡や踊りのメロディとリズムの引用、近代的和声とのシナジーを高めること、それらによって、音楽に新たな生命を宿らせた事なのではないか。

しかも楽曲には合唱やソロが登場するものが多く、つまり人間の声とオーケストラの調和と非調和、融合と拡散、協調と離反が合いまみえる曲であるといえる。

「大地の歌」では、意識しない宗教性と民族性、東洋思想、ペンタトニックスケール、現世否定と死への恐怖と憧憬、刹那的快楽主義、不条理、自己矛盾といったものが塗り込められているように思われる。

どうしても揚げておかなくてはならないのは、カラヤンは大体において、合唱を人間の声としてではなく、楽器のように扱っているということであるが、果たして合唱無しソロオンリーの大地の歌の場合はいかにしたのか。

例えばモツレクのキリエの終わりのキリエエレイソーンのフェルマ−タは、息が続くギリギリまで合唱を引っ張るが、このようなやり方は随所に見られ、声は楽器であるというカラヤンの考え方の表れであると思う。

ソロの声をも、楽器として扱うような気配があるや否やも、大事なチェックポイントである。

以上の観点を踏まえた、カラヤンの「大地の歌」、果たして如何なるものだったか。

音楽が美しい、いや美しすぎるぐらいだから、全曲をいとも簡単に聴けてしまった。
美しさの要因は、ここでもやはりレガートそしてフェルマータの乱用に近い使用である。

ソロの歌唱においてもそれは同様で、このためにソロ歌手の息が苦しそうな気配が、とくにはテナーのルネコロに著しい。

しかしマーラーを表現するテクニックとして、ひたすら美しい音楽づくりが果たして相応しいだろうか。

カラヤンはいつもたいていそうなのだが、「再生音響」に強いこだわりを持っているようで、この演奏録音では普段聴こえない音がハッキリクッキリ聴こえてくる。

ライブ映像で見る光景として、普段は中央よりやや下向きに吹く管楽器群が、一斉に楽器を上方前にして吹く事があるが、これは作曲家の指示かそれとも指揮者の指示なのか、マーラー演奏にそれが多いように思うが果たしてどうなのだろうか。

カラヤンの良いところ、それは再生装置で聞く人のことをも慮っていて、ホールの位置によってライブでは掻き消されてしまう楽器の音を、きちんと聞こえるようにしていることだ。

終楽章琵琶の音を模倣するためなのか、マンドリンの音色が今まで聴いたどれよりもよく出ており、マンドリンなどは使用してないと思うような録音がある中、音響を重視したカラヤンはマイク技術あるいはマスターリングで、それを再生装置で聞く聴衆のため、克復したとみてよいだろう。

1楽章に出てくるフルートのタンギングは、クレンペラー盤が最もよく表出していたが、カラヤン盤もよく聴こえてくる。

先日録画したアバド/BPOライブでは、フルートのタンギングが埋もれてしまいがちになったが、実際はそんなものなのであろう。

マーラーの曲は、押しなべて管楽器がハイライトされるものが多く、ホルンは勿論、特にイングリッシュホルン(コールアングレ)に活躍の場が多いが、それも含めた管楽器の音の表情付けだが、カラヤンは管楽器のソロにまで、たっぷりのレガートを要求する場面が多いから、弦が加わった暁には、滑らかに美しく聞こえるが音楽が甘ったるい蜜のようになるから、ひと舐めするには良いが、たくさん舐めると、その諄さが勝ってしまい、たちまち嫌気が襲ってくる。

確かにマーラーには、神秘主義的陶酔の感覚があるとは思うが、音楽は決して甘ったるくは無いはずだ。
ポルタメントを多用したメンゲルベルクよりさらに甘ったるくロマンティックに聴こえる。

アダージョ楽章では、ストイックで病的なものを感じることさえあるマーラーであるが、カラヤンはひたすら美しさを追求し、陶酔に導こうとするかのような演奏をする。

ソロ歌手のコロとルートビッヒだが、いずれもバックのオケとのマッチングがよくないのか、コロは神経質な歌唱が随所に見られるし、ルートビッヒも、クレンペラー盤であれだけの歌唱をしながら、カラヤン盤では楽曲の・・・詩の内容の深堀が出来てないのか、心なしか自信なさげに聴こえる。

クレンペラー盤よりも新しいカラヤン盤だから、どうもカラヤンの声も楽器という仕業のような気がしてならないが、ソロの歌唱にも無機質さを要求したのだろうか。

デジタルリマスターによるLPレコードは、確かに耳触りはよいのだが、リマスターで倍音成分まで除去してしまった結果なのか、本来持っているオケの音のエネルギーまでそぎ落としてしまったように聴こえる。従ってオケがBPOであるか否かの判断がつきにくいが、それを無視すれば、実に上手な演奏であることは間違いないことだと思われる。

カラヤンはなおさらに、録音によっても大きく評価は変わるから、今回聴いたLPのデジタルリマスターは、技術水準の問題、エンジニアの耳、商業的勇み足のいずれか、あるいはそれらの複合の産物のように小生は想っている。
http://sawyer.exblog.jp/14085204/


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カラヤンがゲルマン的でない理由

ヘルベルト・フォン・カラヤン
(Herbert von Karajan, 1908年4月5日 - 1989年7月16日)

アルメニアの姓で、「黒い肌の息子」という意味。アルメニア人は、国民の九割近くが -ian、もしくは -yan で終わる姓をもっている。
カラヤンの四代前の先祖は、ギリシア領マケドニアの生まれで、カラヤンニスというギリシア人的な語尾の姓をもっていたという。さらに、もともとは、アルメニア人であり、カラヤンのカラはトルコ語で「黒い」を意味するとある。

時間順に見ると以下のようになる。

カラ トルコ語(テュルク語) 「黒」

カラ アルメニア人の個人名になる。

カラヤン アルメニア人の姓になる。

カラヤンニス(Karaiannis, Caragianni) ビザンティン帝国に仕えたギリシャ人で、ギリシャ風の姓になる。

フォン・カラヤン(von Karajan) 高祖父のゲオルク・ヨハネス・カラヤニスは、現在のギリシャ共和国のコザニで誕生。1767年にウィーンへ向けて出発して最終的にはザクセン地方のケムニッツに定住。兄弟と共にザクセンの服飾産業の世界で成功してフリードリヒ・アウグスト3世に仕えて1792年6月1日に爵位を受け貴族の称号である von を添えた。
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/1336057.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2


1908年にザルツブルクで貴族の子として生まれた。兄のヴォルフガング(1906年-1987年)も後に音楽家になっている。

ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院とウィーン音楽院で学んだ後、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。

ドイツのウルム市立歌劇場の総監督から誘いが来て、1929年に『フィガロの結婚』でオペラ指揮者として脚光を浴び、1934年には同国アーヘン市立歌劇場で音楽監督に就任した。

1938年のベルリン国立歌劇場におけるヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の指揮で国際的にも認められ、これにより、翌1939年にはベルリン国立歌劇場およびベルリン国立管弦楽団の指揮者の地位を得るとともに、イタリアのミラノ・スカラ座でオペラを指揮することとなった。

1954年、フルトヴェングラーが急逝したことで、翌1955年にベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督の地位に登りつめ、1989年まで34年もの長期間この地位にとどまった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3


■カラヤンはアルメニア系か?

祖先はアルメニア系とも言われているが、ギリシャ・マケドニア系のカラヨアンネス家の子孫の説が有力と私は考えている。


1)カラヤン本人が否定していること、アイデンティティが存在しない(アルメニア系なら肯定する)、

2)カラヤンはローマンカトリック、アルメニア系ならばアルメニア使徒教会となる、

3)カラヤニスから-nesを取ってカラヤンへ改名した事実があり、最初から-ian、-yanではなかった。


それから、大アルメニア王国(それ以前のウラルトゥ王国‖syuracom-228)は現在のアルメニアと地理的に重なるがアルメニアなのか疑問)が存在したのは紀元前190-66年の間、その後ペルシャ、ローマの支配を受け、離散している。

2000年以上も前に日本へ渡来した朝鮮半島の人は朝鮮系とは言わない。万が一、カラヤンの先祖が古代アルメニアから移住していたとしても、そのアイデンティティがないのではアルメニア系とは言えない。

以上、私の結論ではカラヤンはギリシャ・マケドニア系のオーストリア人である。

ちなみにHerbert von Karajanの「von」は貴族を表す。「von Karajan」、高祖父のゲオルク・ヨハネス・カラヤニスは、現在のギリシャ・コザニで生まれ、1767年にウィーンへ移住、最終的にはザクセン地方のケムニッツに定住し兄弟と共にザクセンの服飾産業で成功した。この功績により神聖ローマ帝国フリードリヒ・アウグスト3世より1792年6月1日に爵位を受け貴族の称号である「von」の使用を許されている。

しかし、第一次世界大戦によりオーストリア帝国は消滅し、1919年4月に制定されたオーストリア共和国憲法によって貴族制が廃止されたことから、正式な氏名は「ヘルベルト・カラヤン」、パスポートにはこのように記されている。

「ヘルベルト・フォン・カラヤン」は芸名とも言える。
http://worldcity-mm.blogspot.jp/search?q=%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3


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A. mahler_no_2さん
♪レガート奏法はお嫌いですか?
私はカラヤンのレガート奏法が好きなんですが、お嫌いな方にお尋ねしますね!
《どんなところがお嫌いですか?》


Q1. makitabadaisukiさん
例えばモーツァルトの音楽でもフレーズが「トリスタン」の無限旋律のようにベタベタになってしまうところです。 私は、衣に油が残ってベタベタした天ぷらより、カラッと揚がっている天ぷらの方が好きです。

つまり、モーツァルトは「カラヤンときらめくストリングス」的な演奏より、虚飾がなく颯爽とした演奏の方が好き、てことです。これは好き嫌いの問題であって優劣の問題ではないことをご理解下さい。

ちなみに私は、ベタベタした「トリスタン」(をはじめ、他のワーグナー作品やマーラーなどの後期ロマン派の音楽)も好きです。



Q2.kurbane_2001さん
『春の祭典』については、作曲者に「あれは冗談だろう」と評価されたのにカラヤンはショックを受けましたが。
旧式レガード奏方自体が死んでしまった代物ですからどうしましょう?

俺的にはジュリーニが具体的に指示する細やかな指定、そこから生まれる自然なレガートが凄いと思うんですが(また贔屓の音楽に対する太鼓持ち)

カラヤンは単に流すだけ。一見するとあまりに無策なベートーヴェン。
しかしその深層?

無策通り。

ジュリーニの場合、自然なカンタービレから必然的に生まれるレガート奏法
カラヤンの場合はフォルムを整えるためのレガート。
単発録音ではそういう態度があからさまに分かってしまいます。
それはそれで楽しい時間を満喫できますが、後には何も残りません。


Q3.roland_gr1さん
簡単にシンセや打ち込みで再現できるので(嘘)有り難みが無いので嫌いです(嘘)。サンプリングの機械やソフトでもそれが売りになっています(笑)。

本当のレガートは生と録音では違う、パート分けなんかの技術的に神経を尖らせている部分が、録音の再生では消え失せるのが気持ち悪いです。

生は凄かったらしいですが、どうも、プラスチックみたいな不自然さを感じて落ち着きません。音を聴く前から生理的に受け付けませんから、たちが悪いです。聞く前から、、、

カラヤン以外にレガート奏法が得意な人の名演が聞きたいです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1228628522

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カラヤン 音楽を語る


『カラヤン、音楽を語る』ききて:アーヴィング・コロディン、訳:萩原秋彦)

にこんなことが書かれていました。

 「ハ短調の第1楽章では、どうなさいますか。例のバスーンの使用について」。

 「使いますとも」とカラヤンはあっさり答えた。

「もちろん、いま私たちは、バスーンを重ねて、ホルンを吹かせています。」

 「あなたは、スコアに書かれたとおり忠実に従われるのですか」

 「だいたいはそうです」と彼(=カラヤン、ゆきのじょう注)は言った。

「テンポやメトロノーム記号・・・などについては必ずしもそうではありません。メトロノーム記号について言えば、私たちは、それに忠実に従おうとしてきました。しかし、時々、うまく行かないことがあるのです。

『エロイカ』の第1楽章には、多くの人たちがショックを受けるでしょうね。じっさい速いのです。ハ短調については、メトロノームの指示どおりに出来ると思いますよ。スケルツォでさえ96で、そんなに速くない・・・(中略)

 もうひとつ、それまでずっとやられていた旧式な解釈ではなく演奏しているところは、第九のスケルツォのリタルダンドです。しかし、今度の録音で、私は楽章全体をひとつのテンポで通しました。」


 これらのカラヤンの話が私にはとても意外に思えました。カラヤンはどちらかというと自己主張の強い指揮者だと思っていたからです。

例えば第7番の第二楽章などは連綿たるレガート奏法で始まるので、正直ぎょっとしました。また提示部の繰り返しをやっていないことも多く、田園の第三楽章でもリピートせずに演奏することもあったはずですから、ベートーヴェンの楽譜を忠実に演奏するなどということとは無縁だと思っていましたのです。それがベートーヴェンの楽譜や指定を尊重しながら録音を行っていたというのです。

 そういう視点で聴き直してみると、「第九」で畳み掛けるようだと思ったのは、実はカラヤンが楽譜通りの演奏をしようとしたからだと気が付きました。

第一楽章の冒頭、混沌とした序奏から第一主題が奏でられるところは、曲想が変わるので一旦一呼吸おいてから演奏されるのが多いように思います。しかし、楽譜には休符がないので間を置くことは「楽譜通り」ではありません。そこでカラヤンは序奏の最後をややテンポを緩めてクレッシェンドすることで違和感を与えずに、間を置かないで第一主題につながるようにしていると感じました。

また第四楽章の冒頭も同様で、残響を利用して少しリタルダントしたかのように見せかけてつながるように工夫していると思ったのです。バリトンの歌い出しも効果を狙っただけではなく、実際に楽譜には休符がないから行った、しかもそれを逆手にとって劇的にして見せたということなのだな、と想いました。

これらは、あの即物的と言われたトスカニーニも慣習的に「間」を空けて処理していた部分でした。

 カラヤンのベートーヴェンの全集での目指した姿勢は、カラヤンの死後1990年に発表されたベーレンライター版のような、学術的な視点からではないことは明白です。

使用楽譜はおそらくはブライコプフ慣行版であろうことは想像に難くはありませんし、私は何の曲の何処の部分をどうやっているかという細部を逐一検証するだけの耳も学も持ち合わせてはおりませんから、慣行版に従っているところが沢山あるだろうという想像をするだけです。

さらに前述の反復の実行の問題にしても、第九の第二楽章の反復をすべてしていないというのは慣行版の指定にすら従っていないではないか、その意味では使用楽譜通りではないだろう、という反論も当然あると思います。

 ただ、私が注目しているのは、カラヤンはただ何も考えずに、伝統的(旧来の)解釈のまま録音に供しているのではなかったということです。再録音が多かったカラヤンですが、再録音するだけの意味を常に考えていたのだと思うのです。
http://www.kapelle.jp/classic/yukinojou/karajan_bach_beethoven.html


基本に忠実

カラヤンの音楽は一般に現代的、スピーディーといわれていましたが、実は大変オーソドックスな音楽の作り方をしています。多くの指揮者があまり根拠もなくテンポを変化させたり、ルバートをするところ、カラヤンは基本的に楽譜に忠実に音楽を作っていました。楽譜に書いてあることをする・・・このごく当たり前のことを再び耳にしたのは、帰国後ラジオのインタビューで朝比奈隆さんのお話を聞いたときでした。


馬の手綱さばき

カラヤンは指揮のこつを、馬の手綱さばきによく例えていました。馬が行きたい方に行く・・オーケストラでいうと、楽員の音楽性を尊重して、その流れをつかむことにすばらしい才能がありました。


最後のばらの騎士

リヒャルト・シュトラウスのオペラばらの騎士のオーケストラ練習中、有名なワルツのところで、ウィーンフィルを前に・・・

「私にとって人生最後のばらの騎士ですが、あなた方は確かにこの曲にかけては世界一です・・みなさんが生まれたままの音楽をして下さい。ただ、本番前はワインは飲み過ぎないように!!」

ここでカラヤンはみごとにウィーンフィルの心をつかまえ、両者の間にはすがすがしい空気が流れました。演奏があっというまに生き生きとなり、ウィーンフィルの弦がポルタメントをたっぷり使い、歌い上げていきました。


ツィメルマンとリハーサル

ベルリンフィルとピアニストのツィメルマンとの初練習で。ショパンコンクールを優勝して、いよいよ初めてカラヤン&ベルリンフィルとの共演、曲はお得意のショパンの第2番、ツィメルマンの気負いに対してカラヤンはちょっと不勉強、さらっと通し、今日はおしまいといったところで・・・

ツィメルマンはスコアー片手にすくっと立ち上がり、カラヤンに対しオーケストラが合わないところがあるから、もう一回やってくれといいました・・・
楽器を仕舞いはじめていた楽員の手が一瞬止まり、それならやろうというカラヤンの一言で、ベルリンフィルがツィメルマンから指摘された場所を再び演奏しました。

今度の演奏は完璧でした・・


カラヤン  「どうですか?」

ツィメルマン「結構です」
  
カラヤン  「音楽は言葉を使うと、どんどん悪くなる!」


カラヤンのこの言葉はとても印象的でした。
たしかにすばらしい音楽は、説明がいらない。私も指揮をしていて、気に入らなくて何度もくりかえし、いろいろ注文をつけると、かえって悪くなってしまうという経験をよくします。
http://www.music-tel.com/maestro/Maestro/Karajan.html


カラヤンが好きになった

友人の家で、結構前にBSでやったらしいカラヤン生誕100年だか90年だかの記念番組の録画を見せてもらった。そこで、噂に聞いていた恐竜のような声という(ひどいしゃがれ声なのだ)のを初めて聞いたのだが、そんなことよりも内容がえらく気に入った。最初に、内藤町にあったNHKのスタジオでベルリンフィルと録画したマイスタージンガー前奏曲を見せてもらった。

「つまらんだろう?」と訊かれたが、いやすさまじくおもしろい、と答えた。すべての楽器の音色がきわめて明瞭に聞こえてくる。ヴァグナーはこんな響きの音楽を作っていたのか。これは不思議だ。(1958年ころの録画だ)

その次に、ヴィーン交響楽団とのシューマンの交響曲4番のリハーサルを見た。これが抜群だった。

たとえばこんな感じのことを言う。

「そこは、本来ピアノでの演奏を意識していたはずのフレーズです。ターンタターですからね。でもそれを弦でやろうとしているせいですごく難しいのです。弦楽器固有の撥音を抑えて演奏する必要がありますね。

余談ですがリヒャルトシュトラウスが指揮をしていたらフレーズを変えてしまうはずです。でもそうはいかないからもっとレガートにもう一度やってみましょう」


おーなるほど。カラヤンレガートというのはこういうのに由来するのかというくらい、レガートを連発する。


「ちょっと待ってください。ここでは第一ヴァイオリンとフルートが同じフレーズを演奏するわけですが、君たち、今フルートが聞こえましたか?

(楽団員首を振る)

ヴァイオリンはもっと指板に近いところを押さえて演奏してください。それによって倍音が抑えられてフルートの音が入ってくるはずです。ではもう一度やってみましょう」

おー、確かにフルートの音色が混ざって聞こえる。これは素晴らしい。

「そうです。今度はフルートの音が聞こえましたね(楽団員うなずく)」

このリハーサル風景を見て一発でカラヤンが好きになった。そしていろいろな情報が整理されて腑に落ちた。

カラヤンは位置としては新古典主義(楽譜に忠実)の完成者なのだ。しかも、それまでの指揮者ががーっとやってぱーっとやってそこでがんがん、ここでさわさわみたいなやり方をしていたのに対して、どう演奏すればどう聞こえるからここではどうすべきかということを理詰めで説明し、かつフィードバックをきちんと与えることができる。

楽団員はプロフェッショナルだから、技術に落とし込まれて説明されればそれを再現できるし、その効果が明らかならその正しさを理解できる。論理と実証が常にペアで廻って音楽を構成する。

逆に、このリハーサル風景を見て、なんか理屈をこねくりまわす技術屋(=芸術をないがしろにしている)と捉えた連中がカラヤンを悪く言っていたわけだ。

カラヤンとフルトヴェングラー (幻冬舎新書) 中川 右介
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%B8%AD%E5%B7%9D-%E5%8F%B3%E4%BB%8B/dp/4344980212)


(この本にも、とにかくリハーサルを繰り返すだけのチェリビダッケに対して、カラヤンのリハーサルはボウイングについての的確な指示を出すものだったことが書かれていた)

するとその後のどたばたもある程度は見えてくる。

おそらくカラヤンは1950〜60年代までは(特にヴィーン交響楽団は2流なので細かく指示をしているのだろうし、録画されていることを意識しているはずだが、それでも普段とそれほどは違わないと仮定して)、ベルリンを含めて、楽団員にとっては理論的な説明によってきわめて斬新的でモダンでありながら、伝統的な(ということが実は新古典主義の目標であるわけだし)音楽を引き出す指揮者としてありがたかったのだろうし、お互いにドイツ零年以降の音楽を作り出す同志であったのだろう。

だが、いつまでもそういうスタイルのリハーサルはできないはずだ。というのは、オーケストラは組織である以上、メンバーの入れ替わりはゆっくりだ。だが、すでに同志として結ばれた楽団員が多勢を占めている間はうまくやれる。すでに知っていることをさらに教えても意味がないし、かっては斬新であったものは普通の伝統芸になっているわけだ。

それが1970年代以降になると、音楽学校で最新の技術を習得して入団してくる演奏家が増えてきて、当然、同志たちは退団していく。そうなったとき、技術的指導者として君臨してきたカラヤンの王座が揺らぎ始めてきて……ということなのだな。

カラヤンの傑作に新ヴィーン学派の作品集がある。


新ウィーン楽派管弦楽曲集

 シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」作品5
 シェーンベルク:管弦楽のための変奏曲作品31
 シェーンベルク:「浄められた夜」作品4
 ベルク:管弦楽のための3つの小品 作品6
 ベルク:叙情組曲からの3つの楽章
 ウェーベルン:管弦楽のためのパッサカリア作品1
 ウェーベルン:弦楽四重奏のための5つの楽章 作品5(弦楽合奏版)
 ウェーベルン:6つの管弦楽曲作品6
 ウェーベルン:交響曲作品21

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー
http://www.hmv.co.jp/artist_-%E6%96%B0%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%A5%BD%E6%B4%BE%E3%82%AA%E3%83%A0%E3%83%8B%E3%83%90%E3%82%B9_000000000035192/item_%E6%96%B0%E3%82%A6%E3%82%A3%E2%88%92%E3%83%B3%E6%A5%BD%E6%B4%BE%E7%AE%A1%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E9%9B%86%E3%80%80%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3%EF%BC%8F%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E7%AE%A1%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%A3_296642


Arnold Schoenberg, Transfigured Night Op. 4 (1899)




Schoenberg : Variationen für Orchester




Alban Berg : Lyric Suite - Karajan




Berg 3 Pieces for Orchestra, Op.6 Praeludium (Prelude)




Webern : Passacaglia Opus 1 - Karajan*




Webern: 3 movements op 5 - Karajan




Webern : 6 pieces for orchestra - Karajan*




これは本当に玄妙にして明解、あー、ヴィーン学派はおもしろいなぁと感じる作品だが、これを作ったときは、久々にかってやったような指導ができたのだろう。それまではばらばらでつながりも脈絡もない音が意味を持ち、つながりを持ち、音楽として構成される、そういうおもしろさを楽団員は堪能したと思う。

同じように、カラヤンの耳と演奏技術や音響についての知識が、録音技術にどれだけ貢献したかについても想像できる。また、それが音楽の技術的側面を無視する愚かな連中の憎悪を駆り立てることになったかも想像できる。

というわけで、まったく間違いなく20世紀中期においてカラヤンは偉大だったのだ。少なくともおれは技術屋だからカラヤンの偉大さを認める必要はある。

でも、田園を聴くとしたらフルトヴェングラーとウィーンなんだけどね。
http://www.artonx.org/diary/20111106.html


うーん、要するにカラヤンは自分では楽譜を忠実に音化していると思い込んでいたんですね。 惜しむらくはアルメニア人だったカラヤンはゲルマンの伝統を何一つ知らなかったし、ドイツ精神もドイツ音楽も全く理解できなかった。

ただカラヤンはピアノ調律師的な聴感と音のセンスだけは掛け値なしの天才だったので音楽がわからない楽員を驚嘆させて高い地位と人気を得た。さらに容貌もドイツ人とは全く違ってエキゾチックでスマートだったので、ミーハー女性に人気を博した。

しかしドイツ音楽の伝統を完全に無視したカラヤンのスタイルで楽譜に書かれた音符だけを忠実に音化すると、どんな深い曲でもみんなムード音楽になってしまうんですね。そして当然の事ながら本物がわかる音楽ファンからはそっぽを向かれてしまった。 そういう事でしょう。

何れにしろ、カラヤンが真剣に努力すればする程 音楽の本質から離れていくというのは間違い無いですね。

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/645.html#c3
[近代史4] 巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか 中川隆
4. 中川隆[-13335] koaQ7Jey 2020年3月25日 10:23:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1569]
「レブレヒトの嘆き」ークラシック音楽は死んだのか? 7.23.2007
http://www.fugue.us/AboutNL_LifeandDeath.html


ノー マン・レブレヒト(Norman Lebrecht)は、Maestro Mythなどの挑戦的な著書で有名になった評論家で、日本でも数冊の本が出ています。音楽ビジネスによるクラシック界の腐敗について書き続けています。素 材の選びかたに主観が強く、誇張はやや多いものの、なかなか面白い視点を持つ作家だと思います。彼は今も、記事や論説を通じ、現代の音楽業界のあり方に警 鐘を鳴らし続けています。

最近、彼の「Life and death of classical music」という本を読みました。

この人の英語はあまり読み易いものではないのですが、メジャーレーベルがいかに凋落していったかが克明に記されてお り、なかなか面白い本になっています。本の後半部に、「100 milestones of the recorded century」と、「20 recordings that should have not been made」という章があります。前者は、グールドのゴルドベルク変奏曲やリパッティのワルツ集などの定番に加え、コリン・デイヴィスの幻想交響曲、マリ ナーの「四季」など、イギリス人以外には理解できないような選択も多くあります。グラモフォン誌と同じく、イギリス人の自国趣味というのは誰でも相当なも ののようです。


「クラシック音楽は死んだ」
http://uk.reuters.com/article/lifestyleMolt/idUKL2628257720070426

http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=20601088&sid=aaC_hhclBSlI&refer=home

レブレヒトは、「THE LIFE AND DEATH OF CLASSICAL MUSIC」や、上の論文でも、アンドレア・ボチェッリらが100万枚も売れ続ける現状を憂え、「クラシック業界は死んだ」と言っています。「10年前、 6つのメジャーレコード会社から、700の新譜が出たのに、3つのメジャーから今は100も出ない。それも半分はクロスオーヴァーや映画音楽だ」と言って います。

彼 のあげた数字がどれだけ正しいかは置くとして、たしかに、例えばドイツ・グラモフォン(DG)一つとっても、70-80年代の勢いの残滓さえ感じることが できません。あの会社から、20-30年前の音源に内容で対抗できる魅力を持つ新譜が、はたしてどれだけでているでしょうか。レコード市場の飽和、巨匠時 代の終焉、実力不足のアイドルの起用、そしてmp3音楽ファイルの登場.............。いろいろな理由で、DGを始めとするメジャーがかつて のブランド力を失う材料が揃っています。レブレヒトの悲嘆は全く根拠なきものではありません。

メジャーレーベルもかつては野心的なプロジェクトが多くあったのです。ショルティ/カルショー/デッカの「指輪」が一例です。しかし、今やメジャーはリス クを怖れ、アイドル路線、無難なプロジェクト、それとフルトヴェングラーやカラヤンらの音盤の復刻しか興味がなくなってしまったように見えます。巨大な油 田を持つが故に近代化のチャンスを逃し、競争力と適応能力を失ってしまった中東国家のようなものです。

もちろん、このような状況を招いたのは、アーティストとプロモーターの側にも大きな責任があります。レブレヒトが「Maestro Myth」で指摘したように、アーティストの報酬は50年前とは比べものになりません。1955年の厳冬、デッカがシュトラウスの「影の無い女」を全曲録 音した際、指揮者のベーム、歌手、ウィーン・フィルの面々は無報酬で良いから、と、無名の大作の録音を躊躇するデッカを説得し、経費節減のために暖房さえ 止め、各幕ワン・テイクで録音したと言われています。まだ、アーティスト達の熱意と判断でそういうことができた時代でした。しかし、音楽がビジネスとな り、アーティストが商品となった今は、そんなことは不可能になっています。実際、同じデッカが、40年後に「影の無い女」をショルティらと録音した時は、 数億円という、録音歴史上でもっとも高額なセッションとなってしまいました。世界中の歌劇場を飛び回るようになったスター歌手をセッションに縛り付けてお くことの難しさ、ギャラの高騰といった問題は、80年代以降のオペラのスタジオ録音を非常に難しいものにしています。

それでも、私は、彼の「クラシック音楽は死んだ」という意見に同調しているわけではありませんし、彼の視野の狭さ、保守性に驚きさえ感じています。その理由を三つあげていきます。


1) インディーレーベルの台頭

レブレヒトが議論をしていない事が一つあります。マイナーレーベルの台頭です。

リスナーの興味の多様化に伴い、かつてなら歯牙にもかけられなかったようなインディーレーベル、ECM、BIS、Chandos, Naxos等から、多くの質の高い録音、興味深い企画の録音が出て、しかもそれが売れるようになりました。特に、メジャーの弱点とも言える北欧や東欧の音 楽、近代フランス音楽、現代音楽での躍進が顕著です。例えば、昨年暮れ、BISが出してきた「シベリウス全集」なども、特筆すべき企画でした。シベリウス のほとんどの作品を収めた13枚組が数千円、しかも、第一級の演奏、録音ばかりで、海外版でありながら、解説書には日本語の文章まで含まれていました。今 のメジャーに、ここまで消費者重視の姿勢が取れるでしょうか。そして、メジャーが同じ企画を同じ値段で出したとして、果たしてBISの全集の魅力と内容を 超えることができるでしょうか。もはや勢力地図が20年前とまったく変わってしまっているのです。レブレヒトのような地位にある人物がそういったことに全 く気づいていないとすれば、これほど不思議なことはありません。

TIMESも、「レブレヒトの主張には穴がある」と、インディーの隆盛を指摘しています。

http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/music/article1710177.ece

これによれば、昨年一年で、ナクソスは、238種のCD、700万枚を売っているそうです。しかし、周知のように、ナクソスの地位は一夜で出来たわけでは ありません。彼らが登場した時、私を含めてほとんどの人がナクソスを馬鹿にしていました(レブレヒトのナクソスに対する文章を読む限り、彼はいまだにその 偏見から抜け出せていないようです)。ナクソスの社長はこう述懐しています。

“We don't have to make money on everything so we do a lot of crazy projects -- the complete Pend-erecki, or the Naxos Quartets [by Peter Maxwell Davies]. But at the end of the day we have to make a profit, and although in the early days I subsidised it from other businesses, in the last five years I've had to live on Naxos and I do live very comfortably."

ナクソスの今の成功の裏には、英グラモフォン誌の強力なバックアップ、宣伝効果があったことは否定できません。しかし、それだけでなく、彼らは実際、数多 くの挑戦的な試みを行って来たのです。「日本人作曲家シリーズ」「シベリウスピアノ作品全集」「スクリャービンピアノ作品全 集」..............なかには質に問題のあるものもありましたが、いまでは曲の代表的な録音となったものも数多くあります。ニレジハージの録 音復刻に興味を示しているのも、今はそういったインディーレーベル達です。常に野心とチャレンジング精神を持つレーベルが多くある以上、「クラシック音楽 が死ぬ」ことは当分ないでしょう。


2) マルチメディアの発達

今は、DVDで、デジタルトランスファーされた映像のオペラのライヴ録音が安価に楽しめるようになりました。未発表の映像が毎月のように発表されていま す。この分野は発展途上で、例えば、リヒャルト・シュトラウスの「無口な女」「ダフネ」、アストル・ピアソラの「ブエノスノス・アイレスのマリア」と言っ た作品の映像が出る余地が残っています。また、既に映像を前提とした舞台作品も登場し始めています。小沢征爾と、「ライオン・キング」のジュリー・テーモ アの共同プロダクションによる、ストラヴィンスキーの「オイディプス王」などはその好例で、映像作品としてもきわめて高いレベルに達しています。

マルチメディアの発展も明るい材料です。雑誌や本にCDがつくことも珍しくなくなりましたし、当サイトのように本と連動させたサイトもあります。そして、 コンピューターの普及により、スクリャービンらのマルチメディア・アートを家庭で再現させることも不可能でなくなっています。Teldecから出たアーノ ンクールのモーツアルトの「レクイエム」の新録音も良い企画で、モーツアルトの自筆譜を見ながら演奏を聴ける、という興味深い趣向でした。こういった手法 を、若手演奏家の録音を出す時にどんどん使えば、過去の音源にはない魅力を与えることができるでしょう。ワーグナーの楽劇のライトモチーフの提示など、大 きな効果を発揮するはずです。楽譜だけでなく、サブ音声に演奏者によるコメントを収録するのもいいでしょうし、ファイルが重ければインターネットにサブ音 声や字幕を置いて、音声と連動させてもいいでしょう。少し前に、ジョイス・ハットーの捏造騒動がありましたが、その発想を逆手にとって、他人の演奏のリ ミックスで新しい演奏、モンタージュを作ることを目的としたCDがあってもいいでしょう。


以上の二点を考えてみても、決して、「クラシック音楽が死んだ」のではないのがあきらかでしょう。「60-80年代のメジャー・レコード会社主導方式の音 楽ビジネスが死んだ」だけの話なのです。レブレヒトは、カラヤン時代の音楽ビジネスの腐敗を追求しつづけるあまり、現代の最前線の動きを見失ってしまった のでしょうか。あるいは、彼が批判し続けた古い時代のシステムにノスタルジーを感じるようになってしまったかのでしょうか。もし後者だとすれば、これほど 皮肉なことはありません。


3) クロスオーヴァーは創造に欠かせぬもの

レブレヒトの悲嘆の理由の一つとして、「クロスオーヴァーと映画音楽がはびこっている」ということがあります。これは、私がもっとも同意できなかったことの一つでした。

http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=newsarchive&sid=aRcHjdWG_06U

このコラムでは、メゾソプラノのフォン・オッターが、DGから出したアルバムの数トラックに、自らが愛してやまないABBAの歌を入れていたことについて嘆いています。

"I'm not doing Benny's songs for a commercial reason," insisted Von Otter when I talked to her soon after the sessions in 2004. "No music makes me cry as his does -- like pushing a stupid button."

Her protestations notwithstanding, the refined trills of one of the finest Monteverdi and Handel singers of the day -- she performs "Theodora" in Paris and London this month -- are as wasted on the trivial ABBA ephemeral titles as a Michelin-starred chef would be in a drive-in McDonald's. What this dross is doing on Deutsche Grammophon, which the conductor Herbert von Karajan led to world classical dominance, is a matter for the conscience of a few senior executives at Vivendi SA's Universal Music Group, the yellow label's U.S.- based owner. They are dumbing down the musical content and quality faster than a Lang Lang piano prestissimo.

最高のモンテヴェルディやヘンデル歌手であるオッターが、DGで「とるにたらぬ」ABBAを歌うことは、「ミシュランのスターシェフがマクドナルドのドラ イヴインにいるようなもの」............この言葉に、クラシック音楽至上主義、メジャー・レーベル至上主義、というレブレヒトの保守性--- -しかも中途半端な保守性----がよく表れています。しかし、当のオッターが、「コマーシャル目的ではありません。(ABBA)の音楽ほど自分を泣かせ るものはないの」、と言っていることは、彼にはさして重要ではないのでしょうか。1920年代、ニレジハージがリストや、当時のポップスを弾いたことで非 難され、プログラムの改変を迫られたのです。まして音楽ビジネス隆盛の現在、ほとんどのアーティストは自身の録音内容を自分で決定できる状況にありませ ん。そのような中、数曲とは言え、オッターが、本当に歌いたい曲を録音したこと.........これは本当に素晴らしいことではないでしょうか。

クラシック界がクロスオーヴァーや映画音楽に手を出す事は、決して非難されるべきことではありません。モーツアルトもヴェルディも、かつて、大衆を十分に 意識したポップスミュージシャンと言える存在だったのです。モーツアルトの「後宮からの誘拐」など、オペラ全体が巨大なクロスオーヴァーとも言えます。も ちろん、安易なクロスオーヴァー、例えば、どこかの国のように、レコード会社にのせられたアイドル音大生が、甘ったるいアレンジで「イエスタデイ」を演奏 するようなCDばかりが氾濫するようなのは問題でしょう。しかし、演奏家達が、同時代の大衆音楽の作家を真摯に選び、それに取り組むのであれば、それは本 当に歓迎すべきことなのです。そして、現代音楽が魅力を失い、過去の大作曲家の作品が軒並み録音された今、演奏家達が大衆音楽や民族音楽に目を向けるの は、全く自然の流れなのです。ピアソラ作品がメーンストリームに躍り出、彼の自作自演盤に大きな注目が集まったのも、90年代のギドン・クレーメルやクロ ノス・カルテットによるクロスオーヴァーがあったからです。前述の小沢征爾とテーモアによる「オイディプス王」にしても、ミュージカル、モダン・ダンス、 オラトリオの優れたクロスオーヴァーでした。

レブレヒトのように、クロスオーヴァーを否定する態度こそが、クラシック音楽を博物館の陳列棚に押し込め、未来の発展の可能性を殺してしまうものなのでは ないかと危惧します。巷の音楽愛好家ならともかく、彼のように多少なりとも影響力のある人物は、時代の流れを正確に見極める眼と、より慎重な判断をもって 発言すべきではないでしょうか。

http://www.fugue.us/AboutNL_LifeandDeath.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/645.html#c4

[近代史4] 巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか 中川隆
5. 中川隆[-13334] koaQ7Jey 2020年3月25日 10:25:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1570]
音楽家の経済学 2017.11.01
筆者:弁理士 石井 正

オーケストラの場合

 クラシック音楽を好む人は多いようで、筆者もその一人です。定期演奏会にはこの30年間、毎月通っています。そうした演奏会で音楽を聴きつつ、その経済を考えることがありますが、冷静にオーケストラ、すなわち楽団の経済を考えると、それはまことに厳しい状況にあることだろうとみています。通常、楽団には100人程度のメンバーが所属し、そこに広報などの裏方の仕事をする人が30人くらいはいるでしょう。演奏に係わる方、裏方に係わる方のそれぞれの人件費は普通のサラリーマンとほぼ同じ程度ですから、全体の人件費はおよそ想像することができるでしょう。

ところが演奏会のチケット収入を考えると、S席が7500円、最も安いC席が3000円としても、普通のコンサート・ホールでは、1回の演奏会の収入はせいぜい1000万円に届くか届かないか程度です。一方で経費は大きいのです。指揮者や独奏者に支払う出演料が数十万円から数百万円、会場使用料が150万円、広告費負担が大きく、また現代音楽の場合には著作権使用料も支払わなければなりません。結局、演奏会のチケット収入が楽団に貢献するのはその半分程度ということになるでしょう。そうなると演奏会を年間に200回行っても楽団メンバーの人件費を賄うことは無理だということとなります。ところが実際の演奏会は年間にせいぜい100回程度なのです。

苦境を乗り切るために

 演奏会の収入だけでは到底、運営していくことができないため、楽団は何らかの公的な支援か、あるいは大スポンサーを探すこととなります。そもそも欧州の音楽の歴史を見ても、貴族達の支援があって演奏家の生活が成り立っていたことを考えれば、そうした大スポンサーに頼るということも自然なことなのかもしれません。しかし楽団にも様々あって、著名な歴史ある高水準の楽団ならば、スポンサーも支援するでしょうが、その逆であれば、容易ではありません。米国の地方都市にある楽団は、80年代から90年代にその活動を停止したのが多くあります。1986年に活動停止したオークランド管弦楽団もその一つです。他方、サンディエゴ交響楽団の場合は、一度倒産の危機に瀕したのですが、IT企業の経営者からの130億円の寄付によって再建されたのです。米国の楽団の音楽監督の役割の一つは大口寄付者に対する高水準のサービスであると言われますが、それも無理もないことなのでしょう。日本の多くの楽団も国や地方公共団体からの補助金、賛助企業からの寄付金等によってなんとか維持されているのが現実です。

天才は別の次元

 音楽の世界の不思議なところは、楽団が厳しい経済状況に直面し、楽団メンバーがせいぜい普通のサラリーマン程度の所得しか得られないのに対して、天才と評価される著名指揮者や演奏家は全く別の次元の所得を得ているという現実なのです。しかもそれは20世紀に入ってから顕著となり、またそうした天才的音楽家を各楽団に仲介するエージェントによって現実化したのです。

 クラシック音楽の場合、世界のトップクラス、すなわち約100名程の天才はそのほとんどが音楽マネジメント会社CAMI社に所属し、巨額な報酬を得ることができます。このCAMI(コロンビア・アーティスト・マネジメント)社は、2015年に亡くなったロナルド・ウイルフォードが作った国際的音楽マネジメント会社で、知る人ぞ知るまさに特別な会社です。ウイルフォードは長くクラシック音楽の世界で、特にコンサートに関わる世界トップクラスの音楽家のエージェントをしてきました。彼の仕事はコンサートに出演するピアニストやバイオリニスト、それに指揮者や歌手等の出演交渉や出演料の交渉でしたが、彼のすごさは、世界の真の天才と交渉しながら、すべてと代理人契約をしていったことなのです。

(詳しくはNORMAN LEBRECHT “THE MAESTRO MYTH : GREAT CONDUCTORS IN PURSUIT OF POWER”邦訳はノーマン・レブレヒト「巨匠神話」文芸春秋社、1996年)


ロストロポービッチもカラヤンも

 ウイルフォードが仲介した天才の名前を列記すれば、亡き天才チェリストのロストロポービッチ、ピアニストのポリーニ、ミケランジェリ、歌手のホセ・カレーラス、指揮者ではカラヤンをトップにムーティ、アバード等々。もちろん小澤征爾もそうでした。小澤が世界の小澤になり得たのはウイルフォードの傘の下に入ったからだと言われています。世界の天才的音楽家はすべてウイルフォードとエージェント契約をし、ウイルフォードは世界各地のコンサートホールやオーケストラと契約交渉をしているのです。彼は世界のどこのオーケストラに対しても交渉のポジションが圧倒的に強く、彼の交渉条件を断るオーケストラはありません。もしも断るのであれば、ウイルフォードは次は誰も紹介しないからです。その結果、CAMIに所属する指揮者の出演料は巨額なものとなっていきました。1回の公演でおよそ5万ドル程度、年間契約した場合には100万ドルを超すのが普通となります。亡きカラヤンの場合、1回の公演で30万ドルという驚くような高額な契約もあります。他のCAMIに所属する指揮者や演奏家もウイルフォードの交渉によって巨額の出演料を獲得することとなったのです。

 オーケストラのメンバーの年間収入は決して多くありません。天才指揮者が一回の演奏会で得る収入が、オーケストラのメンバーの1年間の収入と同じかそれ以上となる皮肉な状況となるわけです。天才に対する報酬の難しい面であり、特殊な経済学となりますね。

https://www.fukamipat.gr.jp/discusses/217/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/645.html#c5

[近代史4] 巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか 中川隆
6. 中川隆[-13333] koaQ7Jey 2020年3月25日 10:27:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1571]

音楽の時代は終わった _ 音楽大学卒業生の悲惨な就職事情…オーケストラ、1名の求人に200名以上殺到も

2018.10.20連載篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」
音楽大学卒業生の悲惨な就職事情…オーケストラ、1名の求人に200名以上殺到も
文=篠崎靖男/指揮者
https://biz-journal.jp/2018/10/post_25188.html


 厚生労働省が発表した8月の有効求人倍率は、1.63倍。日本人の勤勉さをもってしても、よくここまで日本が持ち直したものだと思います。バブル崩壊後の1993年から2005年までの13年間、リーマンショック後の2008年から2013年までの6年間は、有効求人倍率1倍を割っていたわけで、その時代に就職活動をしていた方々は、本当に大変な思いをなされたと思います。転職なんてとんでもない時代でもありました。特に1999年には求人倍率0.48倍を記録。その年を挟んで前後数年間は、2人に1人しか就職できない状況だったわけです。

 一方、オーケストラの就職事情に目を向けてみると、世界のどこを見まわしても、求人倍率0.48倍などという“素晴らしい時期”はなかったことでしょう。最初に答えを言いますと、0.01倍にも届かないのが実情です。9月3日付本連載記事でも少し触れましたが、たとえばヴァイオリンひとつとっても、日本全国42校ある音楽大学から、毎年ものすごい数の卒業生が生まれてきます。そんな彼らに対して、日本にはオーケストラが36団体しかないうえに、各オーケストラのヴァイオリンの求人は毎年、数名程度あるかどうかなのです。オーケストラによっては、募集がまったくない年もあります。しかも、卒業して何年もオーディションを受け続けるので、著名オーケストラともなれば、たった1名の求人に対して200名以上の候補者がオーディションに押しかけて椅子を奪い合うということも珍しい話ではありません。

 この背景には、細分化された専門職集団というオーケストラの特異性があります。オーケストラは大きく、弦楽器、管楽器、打楽器、そしてハープやピアノに分けられます。たとえば管楽器では8種類あります。そのなかで一番高い音を演奏するフルートの定員は、オーケストラの規模にもよりますが、通常2名から3名程度です。それもまた、首席奏者と2番奏者に分かれます。こう聞くと、多くの方は「2番奏者としてオーケストラに入って、経験を積んで首席になるのだろう」と思われるかもしれませんが、そうではありません。ソロが多い首席奏者のほうが給料は高いことは確かですが、2番奏者も首席奏者とは違う特別な技術が必要となる専門技術者なのです。首席奏者も2番奏者も、同じ楽器でありながらオーディションは別に行われます。

 そして、当然のことながら、フルート奏者はフルートしか演奏しないので、仮にトランペットやヴァイオリン、クラリネットの求人がたくさんあったとしても、フルートに空きがなければ、その年の就職口は閉ざされてしまいます。

オーディションに受かった後にも困難が待ち受けている

 このように常に就職難の状況なので、海外のオーケストラのオーディションを受けて、日本から離れて活動をしているオーケストラ奏者も数多くいます。もちろん、留学をして当地のオーケストラのオーディションを受けた方々が多くを占めているので、日本のオーケストラが就職難だから海外で就職というケースは多くありませんが、北はフィンランドから南は南アフリカまで、ヨーロッパ、アメリカ、アジア諸国と、どこのオーケストラに行っても、大概は日本人奏者に出会います。

 では、海外のオーケストラのほうが就職口は多いかといえば、そうではなく、事情は日本とまったく同じです。やはり、誰かが定年退職したり、途中退団してくれないことにはポジションが空きませんし、運よく空いたとしても何十人、何百人もの若い音楽家がオーディションに押し掛ける点では同じなのです。しかも近年、ヨーロッパではビザの申請基準が厳しくなっており、外国人が職を得ることが本当に難しくなってきました。

 さて、オーディションに運よく受かったとします。しかし、「もう一安心。家族親戚にも胸を張って会える」かといえば、そうではありません。ここからが本当の勝負となります。それは、1年間の試用期間です。その期間中は、実際に仕事をしながら、ずっと周りの楽員に審査をされることになります。若い奏者は経験もありませんし、そのオーケストラ独自のやり方を習得するだけでも大変なのに、これまで演奏したことのない新しい曲が毎週、押し寄せてきます。なんとか最初の2、3カ月はこなせたとしても、1年間はとても長く、そこでボロを出してしまうことも多いのです。それをすべて乗り越えたのち、最後にオーケストラの同意を得て、やっとプログラムにも正団員として名前を載せてもらえることになります。残念ながら、その試用期間を通ることができなかった奏者を、僕もたくさん見てきました。

 皆さん、「オーケストラの楽員って、大変だなあ」と思われたと存じます。僕も心からそう思います。しかし、少しは良いことがあります。僕がロサンゼルス・フィルハーモニックの副指揮者をしていた時に、当時のフルート首席奏者であるジャネット・ファーグソン氏が、こう話してくれました。

「私の主人は、ウォルト・ディズニーで仕事をしているの。良い仕事だけど、半面、いつリストラされるかわからない。だから、オーケストラ奏者のほうが安定しているのよ」

 僕はなるほどと、思いました。アメリカのオーケストラは、音楽監督(指揮者)が絶大な力を持っており、奏者をクビにできるほどの権利があるけれども、音楽家組合が強いので、実際にはできません。

 日本のオーケストラでも就職するのは大変ですが、よほどのことがない限り、リストラの心配はありません。オーケストラには一般企業とは違う根本的な理由があるからです。たとえば、いくら経済状態が悪くなっても、「この経営危機を乗り越えるために、フルートは1人だけにしよう。トランペットはなし」といったことはできません。ひとつでも楽器が欠ければ、作曲家の楽譜通りには演奏できなくなります。つまり、オーケストラは全体が一蓮托生といえるのです。
(文=篠崎靖男/指揮者)

●篠ア靖男

 桐朋学園大学卒業。1993年アントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールで最高位を受賞。その後ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクール第2位受賞。

 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後、英ロンドンに本拠を移してヨーロッパを中心に活躍。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、BBCフィルハーモニック、ボーンマス交響楽団、フランクフルト放送交響楽団、フィンランド放送交響楽団、スウェーデン放送交響楽団など、各国の主要オーケストラを指揮。

 2007年にフィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者に就任。7年半にわたり意欲的な活動でオーケストラの目覚ましい発展に尽力し、2014年7月に勇退。

 国内でも主要なオーケストラに登場。なかでも2014年9月よりミュージック・アドバイザー、2015年9月から常任指揮者を務めた静岡交響楽団では、2018年3月に退任するまで正統的なスタイルとダイナミックな指揮で観客を魅了、「新しい静響」の発展に大きな足跡を残した。

 現在は、日本はもちろん、世界中で活躍している。ジャパン・アーツ所属
オフィシャル・ホームページ http://www.yasuoshinozaki.com/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/645.html#c6

[近代史4] 巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか 中川隆
7. 中川隆[-13332] koaQ7Jey 2020年3月25日 10:41:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1572]

カラヤンとナチについてちょっとだけ考えたこと 2007-08-19

テレビでは終戦の日をはさんで、色々と戦争を主題に色々な番組をやっている。特にスカパー!のドキュメンタリーなどのチャンネルではそれが著しい。

考えなくてはならないし、忘れてはならないことだと思う。更に現在進行形でイラクなどのことについても考えていたいと思う。

さて、広島に原爆が落とされた日に、産経新聞にあったカラヤンとナチスのことについての記事を読んで、またまた考えてしまった。

ナチスと関係があったことを戦後問題となった音楽家は数多い。カール・ベームやクレメンス・クラウス、ヴァルター・ギーゼキング、ウィレム・メンゲルベルク、アルフレッド・コルトー、ヴィルヘルム・バックハウス等々、大変多い。

権力を持つナチスに対して、おおっぴらに反対したりしなかった、あるいは協力したからと言って、その後追放したり、烙印を押してそれらの個人に対する反対運動を煽ったりすることは、私は大変違和感がある。

権力者が犯した過ちを、犯罪を、それと知らなかったただの取り巻きにまでその責任を問うというのは「正義」という剣の振り回しすぎに思われるからだ。

ナチはホロコーストをはじめ数多くの人道に対する罪を犯したことは間違いない。だからそれに反対しなかったからといってそこにいただけの人々も罪に問うのであれば、スターリンに追随した人々や、スペインのフランコ政権に追随した人々も同じように社会から追放するなどの制裁をしなくては公平ではないと思うからだ。

最近、プーチンがソ連は「ナチスのような虐殺もしていないし、アメリカのように無差別に民間人相手に原爆を落としたりしていないから、それほど酷くはなかった」とうそぶいているそうだ。アメリカは反論でないだろう。けれど、こういうのを五十歩百歩というのだけれど…。

戦争だから、そして我が国は、ドイツは負けたから一方的に叩かれたということなのだろう。ただ、私はどこかの辞めた大臣のように「しかたがない」と言ってすます気にはなれないでいる。

チスの蛮行はどうしても許せないが、その蛮行と直接関係のないところで、音楽を演奏したということが非難されるとしたら、当時ドイツに住んでいたことだけでも人道に対する罪であると言っているようなものではないか?

当時、ドイツにいた音楽家たちに対して、ナチとの関係を戦後も問い続け、その演奏するベートーヴェンやブラームスにナチの影を感じるとなれば、一体…。

イスラエルでは今でもワーグナーはタブーだと聞いたけれど、実際はどうなのだろう。確かにホロコーストで災難に遭われた人達が、そのことを思い出させるものとしてワーグナーがあるので辞めて欲しいと言われることについてはよくわかる。その思いを傷つけてまでワーグナーをユダヤ人の国で演奏する必要はないと思う。
しかし、正確を期すために言わせていただければ、ワーグナーがナチであったことはない。アメリカに亡命したというワーグナーの娘たちは反ナチであった。ただワーグナーの音楽をヒットラーが好み(大好きだったのはレハールなどであったそうだが)その音楽を利用したからであろう。ワーグナーの音楽はナチのプロパガンダ放送のテーマ音楽として、ヨーロッパでは有名だった。更にバイロイト音楽祭はナチスの保護のもとで戦争中も隆盛を極めていた。

しかし、だからワーグナーはナチスと何の関係もない。ヒットラーが生まれる前にワーグナーは亡くなっているのだ。

カラヤンの演奏にナチの響きを感じるというのは…。確かにカラヤンはナチの党員だった。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがナチだと言って非難する者もいるが、彼がナチであったことは一度もなかった。戦争中にドイツに留まったことが、ナチスであるという非難に繋がっているようで、ナチスのプロパガンダに利用されていたことも事実だろう。

だが、彼はユダヤ人の収容所の番人でもなかったし、殺したわけでもない。どうして亡命しなかったのかと非難しつづけた人々が、亡命しない=ナチスであるという極めて単純な思いこみにあるように思う。

彼よりずっと若く、これから成功への階段を駆け上がろうとしていたカラヤンが、その成功のためにナチの党員証を持つに至ったとしても、私には理解できるこどもある。ナチを肯定していのではないので、誤解のないようにしてほしい!!

音楽は抽象的な言葉である限り、権力に利用されるものであるのだろう。そして、カラヤンにナチを感じるという人に「それは間違いだ」とまで敢えて言う気はないけれど、「音がそんな政治的メッセージやイデオロギーを持つなんてちょっと考えられないけどねぇ」とつぶやくこととしよう。

山田耕筰の「かちどきと平和」を聞いて、戦意高揚の音楽だと非難するような愚かなことだけはしたくないものだ。ちなみに「かちどきと平和」は1912年の作品で、第一次世界大戦前の作曲である。富国強兵の時代から大正デモクラシーへと移る時代の音楽。だから「平和」であったのだと私は思う。

https://suisse.exblog.jp/6758164/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/645.html#c7

[近代史4] ナチス時代のフルトヴェングラーは一体何を考えていたのか? 中川隆
6. 中川隆[-13331] koaQ7Jey 2020年3月25日 10:41:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1573]

カラヤンとナチについてちょっとだけ考えたこと 2007-08-19

テレビでは終戦の日をはさんで、色々と戦争を主題に色々な番組をやっている。特にスカパー!のドキュメンタリーなどのチャンネルではそれが著しい。

考えなくてはならないし、忘れてはならないことだと思う。更に現在進行形でイラクなどのことについても考えていたいと思う。

さて、広島に原爆が落とされた日に、産経新聞にあったカラヤンとナチスのことについての記事を読んで、またまた考えてしまった。

ナチスと関係があったことを戦後問題となった音楽家は数多い。カール・ベームやクレメンス・クラウス、ヴァルター・ギーゼキング、ウィレム・メンゲルベルク、アルフレッド・コルトー、ヴィルヘルム・バックハウス等々、大変多い。

権力を持つナチスに対して、おおっぴらに反対したりしなかった、あるいは協力したからと言って、その後追放したり、烙印を押してそれらの個人に対する反対運動を煽ったりすることは、私は大変違和感がある。

権力者が犯した過ちを、犯罪を、それと知らなかったただの取り巻きにまでその責任を問うというのは「正義」という剣の振り回しすぎに思われるからだ。

ナチはホロコーストをはじめ数多くの人道に対する罪を犯したことは間違いない。だからそれに反対しなかったからといってそこにいただけの人々も罪に問うのであれば、スターリンに追随した人々や、スペインのフランコ政権に追随した人々も同じように社会から追放するなどの制裁をしなくては公平ではないと思うからだ。

最近、プーチンがソ連は「ナチスのような虐殺もしていないし、アメリカのように無差別に民間人相手に原爆を落としたりしていないから、それほど酷くはなかった」とうそぶいているそうだ。アメリカは反論でないだろう。けれど、こういうのを五十歩百歩というのだけれど…。

戦争だから、そして我が国は、ドイツは負けたから一方的に叩かれたということなのだろう。ただ、私はどこかの辞めた大臣のように「しかたがない」と言ってすます気にはなれないでいる。

チスの蛮行はどうしても許せないが、その蛮行と直接関係のないところで、音楽を演奏したということが非難されるとしたら、当時ドイツに住んでいたことだけでも人道に対する罪であると言っているようなものではないか?

当時、ドイツにいた音楽家たちに対して、ナチとの関係を戦後も問い続け、その演奏するベートーヴェンやブラームスにナチの影を感じるとなれば、一体…。

イスラエルでは今でもワーグナーはタブーだと聞いたけれど、実際はどうなのだろう。確かにホロコーストで災難に遭われた人達が、そのことを思い出させるものとしてワーグナーがあるので辞めて欲しいと言われることについてはよくわかる。その思いを傷つけてまでワーグナーをユダヤ人の国で演奏する必要はないと思う。
しかし、正確を期すために言わせていただければ、ワーグナーがナチであったことはない。アメリカに亡命したというワーグナーの娘たちは反ナチであった。ただワーグナーの音楽をヒットラーが好み(大好きだったのはレハールなどであったそうだが)その音楽を利用したからであろう。ワーグナーの音楽はナチのプロパガンダ放送のテーマ音楽として、ヨーロッパでは有名だった。更にバイロイト音楽祭はナチスの保護のもとで戦争中も隆盛を極めていた。

しかし、だからワーグナーはナチスと何の関係もない。ヒットラーが生まれる前にワーグナーは亡くなっているのだ。

カラヤンの演奏にナチの響きを感じるというのは…。確かにカラヤンはナチの党員だった。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがナチだと言って非難する者もいるが、彼がナチであったことは一度もなかった。戦争中にドイツに留まったことが、ナチスであるという非難に繋がっているようで、ナチスのプロパガンダに利用されていたことも事実だろう。

だが、彼はユダヤ人の収容所の番人でもなかったし、殺したわけでもない。どうして亡命しなかったのかと非難しつづけた人々が、亡命しない=ナチスであるという極めて単純な思いこみにあるように思う。

彼よりずっと若く、これから成功への階段を駆け上がろうとしていたカラヤンが、その成功のためにナチの党員証を持つに至ったとしても、私には理解できるこどもある。ナチを肯定していのではないので、誤解のないようにしてほしい!!

音楽は抽象的な言葉である限り、権力に利用されるものであるのだろう。そして、カラヤンにナチを感じるという人に「それは間違いだ」とまで敢えて言う気はないけれど、「音がそんな政治的メッセージやイデオロギーを持つなんてちょっと考えられないけどねぇ」とつぶやくこととしよう。

山田耕筰の「かちどきと平和」を聞いて、戦意高揚の音楽だと非難するような愚かなことだけはしたくないものだ。ちなみに「かちどきと平和」は1912年の作品で、第一次世界大戦前の作曲である。富国強兵の時代から大正デモクラシーへと移る時代の音楽。だから「平和」であったのだと私は思う。

https://suisse.exblog.jp/6758164/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/639.html#c6

[近代史4] ナチス時代のフルトヴェングラーは一体何を考えていたのか? 中川隆
7. 中川隆[-13330] koaQ7Jey 2020年3月25日 10:50:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1574]
ナチス支配下で生きた最大最高の指揮者、フルトヴェングラー
伝説の「第九」を聴きながら鎮魂する
堀川 惠子 『週刊現代」2016年1月2・9日号より
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/47281

年の瀬といえば「第九」。この時期、我が家のCDデッキにはフルトヴェングラーの「第九」、それも伝説のバイロイト盤が入っている。

フルトヴェングラーはドイツの誇る指揮者だ。カラヤンの前任者としてベルリン・フィルを率いた。第二次世界大戦の最中にピークを迎えた音楽人生は、ナチの歴史と背中あわせでもあった。

没後61年、フルトヴェングラー人気は日本でも根強い。今年も関連書籍の再版が相次いだ。

『フルトヴェングラー 最大最高の指揮者』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4309978673/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309978673&linkCode=as2&tag=asyuracom-22

は2011年の増補版だ。丸山眞男はじめ多様な識者がフルトヴェングラーを自由に語りあっている。

当時、ナチはユダヤ人へのホロコーストを行う一方で、その蛮行を覆い隠すために音楽を利用した。その中心にあったのが「第九」。本書によれば1941〜42年だけで「第九」の演奏会は31回。そのうち9回でフルトヴェングラーがタクトをふっている。

祖国に留まり、その伝統の中で演奏することを選んだフルトヴェングラーは二律背反に苦しんだ。ユダヤ人演奏家をかくまい、ナチから依頼される演奏を断り続けるも、巧妙に表舞台へと引き出されていく。

結果として、早くにイタリアから亡命した指揮者トスカニーニとの比較で批判され、戦後は公職追放の憂き目にあい、戦犯にされそうにもなった。祖国が独裁者の手に奪われた時、体制内抵抗者として己の職を貫く生き方がいかに困難なものか、フルトヴェングラーの生涯はよく伝えている。


芸術を絡め取る権力の詐術

暗黒の時代が去って6年後の1951年夏、人々が待ちに待ったバイロイト音楽祭が再開、その冒頭でフルトヴェングラーが「第九」を演奏する舞台が整った。演奏する側も聴衆も万感の思いがこみ上げただろう。

「未曽有の高揚感がフルトヴェングラーをも包み込んだ結果のあの演奏」となり、「忘我の高揚感」をもたらしたと本書はいう。バイロイトの「第九」は伝説となった。

草森紳一著『絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ1』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4892571210/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4892571210&linkCode=as2&tag=asyuracom-22


も復刻版だが、今の時代に読んでこそ面白い。著者は一章を割いて、ナチの宣伝相ゲッベルスがいかにフルトヴェングラーを利用したか、その手法を詳細に描く。

匿名の投書攻めで精神的に追いつめるのは常套手段。フルトヴェングラーからナチ主催のコンサート指揮を断る手紙が届けば、その中から都合の良い部分だけ抜き出して新聞に公表する。

一般のコンサート会場の最前列すべて買い取り、幕が開く直前にヒトラーを連れて座る。フルトヴェングラーが聴衆に向かって礼をする時、あたかもヒトラーに向かって頭を垂れる格好に見える絶好のポジションにカメラマン。演奏後は壇上に駆け上り、有無を言わさず握手、その写真を即刻、世界中に配信した。

権力の宣伝にとって芸術家や有名人がいかに絶好の素材かが分かる。人気芸能人やスポーツ選手に畑違いの議員バッジをつけさせるのも、次元は低いが同じことだろう。

去年の年の瀬は、私自身も戦争について執筆する困難の最中にあり、毎夜、バイロイトの「第九」を聴いた。重厚な旋律に、600万のユダヤ人死者たちへの鎮魂、そして苦しみの果ての歓喜を感じるようで心は奮い立った。

そもそも我が家のバイロイト盤は、夫の所有物だ。彼は高校時代から第九のスコア(総譜)に旋律を追っていたらしく、「第九は神から人類に与えられた宝物」と言ってはばからない。初演から約190年、ベートーベンが人類に遺した偉大な仕事は今も人々の心の奥深くにまでタッチする。だからこそ、権力者の介在は二度と許したくない。


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/639.html#c7

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
17. 中川隆[-13329] koaQ7Jey 2020年3月25日 11:14:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1575]
020年02月11日
原爆は「日本が降伏した後で」投下された 日本の降伏を拒否したアメリカ軍

アメリカ軍は勝利を自らの手柄にするため終戦を遅らせ、2発の原爆を使用した。

引用:http://blog-imgs-82.fc2.com/h/i/s/history365days/10616593_828729970491689_8779173433003972912_n.jpg


広島・長崎の原子爆弾は、日本が降伏しなかったから投下したとされています。

だが少しずつ公開された資料からは、日本が降伏し、アメリカが拒否して原爆を投下した事実が示されている。


日米和平交渉

1945年、日本と米国の終戦交渉が秘密裏に行われていました。

日本側は1942年のミッドウェー海戦から敗戦を続けていて、戦争を終わらせる必要がありました。

一方のアメリカは強敵のドイツ軍をやっつけて、太平洋方面に主力を移動させようとしていて、余力充分でした。

日本側では特に海軍と外務省、昭和天皇が早期終戦を望んでいて、陸軍は徹底抗戦を望んでいました。

アメリカ側はやる気充分だったが、特に軍は積極的で、日本を廃墟にするまで戦う気でした。

だが既にソ連軍の拡大は懸念材料になっていて、国務省など外交筋は早期終戦を望んでいた。


日本本土を戦場にして戦えば、ソ連が日本の半分を占領する事になり、ソ連を利する事になるからだった。

1945年7月にはまだソ連と日本は戦っていないが、既にルーズベルト大統領はヤルタ会談などでソ連参戦を要請していた。

ソ連は日本と戦う見返りとして日本の東半分、つまり名古屋から右側を要求していたとされている。


日本軍はソ連対日参戦の日を8月もしくは9月と予想し、それまでに対米戦を終了しなければならないと認識していた。

なぜなら米国だけに降伏すれば、国土は分割されず、いつかは再び独立できるが、ソ連と分割されれば永遠に復活出来ないからだった。

日本側は国土を分割しない事と憲法護持、天皇制を維持する事を条件として、米国に接触を試みました。


成功するかに見えた和平交渉

1945年4月、日本政府は最早敗戦は決定的であるとして、米国との終戦交渉に着手するのを決定しました。

このとき大本営の数人だけで極秘の決定がなされたが、ソ連に仲介を依頼する事になっていました。

同時に別案として、スイスやバチカンなど中立国で、米国と直接交渉をする事も決められました。


日本は欧州の中立国スイスに公使館を持っていて、米国など連合国側の大使と接触が可能でした。

真珠湾攻撃以降、連合国側との接触は途絶えていたが、一応こちらの方法も実施されました。

5月から7月に掛けて日本側から働きかけが行われ、応じたのがドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスでした。


7月には仲介者を通じて、日本側とアレンダレスの最初の交渉が行われ、ダレスは日本が提案した条件を呑んだとされている。


条件と言っても日本側が絶対に譲らないとしたのは、天皇制護持だけで、国土と憲法の方は譲歩の余地がかなりあった。

この時既に沖縄は米軍に占領されていたので、最悪沖縄が米国領になっても仕方が無い事だった。


日本側の出席者は政府や軍ではなく、表向き民間人の横浜正金銀行の銀行マンだったとされている。

仲介者は国際決済銀行(BIS)のペール・ヤコブソンで、これはヤコブソンの膨大なメモや資料で裏づけられています。

アレンダレスは7月15日に初めてヤコブソンと会談し、そこで日本の条件を受諾する姿勢を示したとされている。

この時日本側は8月の第一週から第二週、つまり直ぐにでも停戦したい旨を提案したとされています。


日本の降伏を無視したアメリカ軍

だがダレス1人が納得しても、アメリカ政府や大統領、外交筋や軍が了承するかは別で、特に軍は徹底的に日本を叩く気でした。

7月23日には、ダレスとヤコブソンの会談で、このルートで和平交渉を進めることを確認したが、8月に入ると事態が大きく動いた。

8月6日に広島原爆投下、8月8日にソ連が対日宣戦布告、8月9日にシベリアで日本軍とソ連軍が激突、同8月9日に長崎原爆が投下されました。


これには裏があり、米軍はダレスの交渉が成功しそうだと知っており、勝手に合意する前に総攻撃を掛けたのだった。

もし米軍が最後のとどめを刺さないまま戦争が終われば、戦争の最大の功労者は外交官だった事になる。

だがドイツを占領したように日本を壊滅させ、占領する事で戦争が終われば、手柄は軍のものになります。


ダレスの終戦交渉が頓挫したのは、米軍上層部が1945年12月まで戦争を続けるとして、日本の降伏を突っぱねたからとされている。

この時米軍は日本に10発の原子爆弾を投下する予定で、生産した爆弾や爆撃機を「消費」しなければならなくなっていた。

おかしな話だが、兵器というものも一度生産したらどこかで消費しないと余ってしまい、誰かが責任を取らされる。


1945年12月まで時間があれば、予定していた10発の原爆のかなりを使用できると考えた。

ダレスは戦略事務局(CIA)職員としてイタリア軍、ドイツ軍を降伏させ、日本との交渉もしていたから、日本が降伏を申し出たのは本国に伝わっていた。

昭和天皇は4月と5月の東京大空襲の時に、既に降伏の意思を固めていたのが、周囲の人々によって記されていました。


原爆投下後の8月14日に御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、玉音放送を録音し、8月15日に放送した。

本来は総理大臣などが発表するべきだが、陸軍が本土決戦を主張した為、末端の兵士にまで直接伝える必要が生じた。

同時に全世界にラジオ放送することで、アメリカ軍が「降伏など受けていない」と絶対に言えないようにしたのでした。


米軍は8月13日には停戦の連絡を受け、日本軍は14日に戦闘をやめているが、15日の夜になっても爆撃を続けている。

このようにアメリカ政府とアメリカ軍は、1945年7月末には日本の降伏申し出を知っていて、なおかつ原爆を使用したのでした。
http://www.thutmosev.com/archives/58195625.html

2020年03月24日
1945年 日本とアメリカの内部抗争 終戦を望まなかった人たち

原爆を投下した理由は官僚が出世したかったからだが、誰もその事は言わない。

引用:http://www.teaparty.org/wp-content/uploads/2015/03/Atomic_cloud_over_Nagasaki_from_Koyagi-jima-1940x1500.jpeg


1945年の戦い

1945年の太平洋では日米で数多くの戦いが展開されていました。

戦闘機や軍艦同士が戦うのではなく、政治的な思惑が対立して戦争終結を巡って争っていた。

山本五十六を失った日本海軍は一刻も早く戦争を辞めたがっていて、外務省と天皇は同調していた。

日本陸軍は敗北を認めず、徹底抗戦によって既得権益を確保しようとした。

早期に負けを認めることで国力を温存しようとする終戦派と、本土決戦で米国を退けようとする抗戦派は互いに譲らなかった。

アメリカでは早期に戦争を終結させて、米ソ冷戦に備えようとする国務省と、戦果を誇示したい国防省が戦っていた。


国務省は日本の外務省と図って、独自の停戦交渉をまとめようとしたが、国防省の妨害などで原爆投下に間に合わなかった。

国防省はもし、国務省の交渉で終戦に至ったら、最大功労者が国務省になり、軍隊の役割りが正当に評価されないと考えていた。

軍隊のおかげで戦争に勝ったのだと証明するためには、日本を焦土にして完全に屈服させなければならないと考えていた。


1945年7月にはもはや戦争そのものは目的ではなくなり、誰が手柄を上げるか、日本では誰に責任を取らせるかの話になった。

日本海軍は沖縄が米軍に占領された6月には降伏を決めていて、外務省も同調していた。

結局責任を押し付けられたのが日本陸軍で、手柄を手にしたのは原爆使用に成功した米国防省だった。


降伏を拒否したアメリカ軍

海軍内でも徹底抗戦派は存在したが、意図的に軍艦を全滅させる特攻作戦で、反対派を封じ込めたとも言われている。

軍艦が無くなれば海軍は戦争を継続出来ないので、米国との講和条約へ向けて動き出す事ができる。

昭和天皇は東京大空襲があった3月から5月に、降伏を決めていたと言われている。


4月に大本営上層部は沖縄戦が絶望的な状況と判断し、米国との停戦交渉に向けて動き出しました。

このとき日本が期待したのは、対日参戦していないソ連が、米国との仲介役になってくれるのではないかという事だった。

同時に大本営はソ連の対日参戦を8月か9月と予想し、それまでの短期間に交渉をまとめる必要があると判断した。


だがソ連は日本と米国の仲介役を拒否し、8月8日に参戦し、日本の領土を分捕りにきました。

計画ではソ連は日本の東半分、つまり名古屋から東を占領する事になっていました。

もう一つの米国との交渉ルートは、中立国のスイスやバチカンの大使館を通すものだったが、絶縁状態だったので期待されていなかった。


大使館ルートの交渉は意外にも手応えがあったが、米国内では国務省と国防省が対立していた。

国務省は既にソ連との対決を予想し、日本との早期停戦を望んだが、国防省は徹底抗戦を主張していた。

停戦交渉にも妨害が入り8月6日と8月9日に、戦争が終わる前に駆け込みで原爆を使用した。


戦後の始まり

原爆が投下される前の7月には、ドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスを通じて降伏の意思は伝えられていた。

日本側は8月の第一週から第二週に停戦したい旨を提案し、実際には8月15日に天皇が停戦命令を出した。

アレン・ダレスは後のCIA長官になった大物で、アメリカ側が本気だったのは分かる。


米国防省はこれを察知し、日本の降伏前に、可能な限りの爆弾と原爆を投下しようと考えた。

国務省は戦争が終わっても活躍できるが、軍人は戦争が終わったら「ごくつぶし」でしか在りません。

国務省への嫌がらせのように日本全土に絨毯爆撃を実施し、あと1週間で日本が降伏するのを知りながら2発の原爆を使用した。


それだけではなく米軍は日本が降伏した後も絨毯爆撃を続け、10発の原子爆弾を使用するつもりでした。

これらの目的は戦争に勝つためではなく、国防省の官僚が出世するために行われました。

そしてダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に、解放者のような振りをして降り立ち、GHQという軍事政権を樹立しました。


その軍事政権がおしつけたのが日本国憲法で、日本人が日本という国を憎むように、NHKや朝日新聞などのメディアを通じて、日本の戦争犯罪を流布しました。

これが戦後の始まりで、国防省や米軍人の「正しさ」や「手柄」を強調するために、多くの戦争犯罪が捏造され、無実の日本軍人が処刑されました。
http://www.thutmosev.com/archives/65832220.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c17

[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
136. 中川隆[-13328] koaQ7Jey 2020年3月25日 12:08:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1576]
巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/645.html
t  

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c136
[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
137. 中川隆[-13327] koaQ7Jey 2020年3月25日 12:14:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1577]

音楽は女性ヴォーカル以外は必要ない
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/575.html

ニーチェが耽溺したワーグナー トリスタンとイゾルデの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/375.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c137

[近代史4] 巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか 中川隆
8. 中川隆[-13326] koaQ7Jey 2020年3月25日 15:34:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1578]

ヘルベルト・フォン・カラヤン

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3

ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908年4月5日 - 1989年7月16日)は、オーストリアの指揮者。

1955年より1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督などのクラシック音楽界の主要ポストを独占し、多大な影響力を持つに至った。20世紀のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりであり、日本では「楽壇の帝王」と称されていた。また、その独自の音楽性と自己演出は「カラヤン美学」と謳われ時代の寵児にもなった[2]。

カラヤンは1908年にザルツブルク州のザルツブルクで、騎士 (Ritter) の子として生まれた。兄のヴォルフガング・フォン・カラヤン(ドイツ語版)(1906年 - 1987年)も後に音楽家になっている。

先祖は東ローマ帝国に仕えたギリシャ人のカラヤニス家(Karaiannis, Caragianni)の出身であるといわれているが、ギリシャ化したアルメニア人(スラブ系マケドニア人の説もあり)だという説もある。

カラヤンのカラはテュルク語で「黒」を意味するが、バルカン言語地域ではその語は存在しない。アルーマニア人(中世の東ローマ帝国時代にギリシャ北部、マケドニアなどの山岳部に住んでいた、ラテン語系統の言語を話す少数民族。ヴラフ人とも呼ばれ、ルーマニア人の先祖ではないかともいわれる)の子孫という説もある[3][4]。

高祖父のゲオルク・ヨハネス・カラヤニスは現在のギリシャ共和国のコザニに生まれて1767年にウィーンへ向けて出発し、最終的にはザクセン地方のケムニッツに定住した[5][6]。ゲオルク・ヨハネスは兄弟と共にザクセンの服飾産業の世界で成功し、フリードリヒ・アウグスト3世に仕えて1792年6月1日に爵位を受け、貴族の称号である「フォン」を添えてvon Karajanという苗字になった[7]。


7.^ http://www.karajan.co.uk/family.html


ヘルベルトの母方はスロヴェニア人の家系であり、民族的にはスラヴ人の血を引いている[8]。カラヤン自身は、自らがオーストリア人であることを強く自認していた。

出生名はHeribert Ritter von Karajan(ヘリベルト騎士フォン・カラヤン、騎士ヘリベルト・フォン・カラヤン)だが、1919年、オーストリア・ハンガリー帝国の終結に伴う貴族制度の廃止により「騎士」「フォン」が外され、以降のオーストリアでの公式名(官公庁の証明書など)はヘリベルト・カラヤン(Heribert Karajan)(母音のiが入るのはスロヴェニア系の特徴)。

芸術活動を行う上でカラヤン自身が出生名(フォン入り)にこだわり、芸名(芸術家名)として「ヘルベルト・フォン・カラヤン」(Herbert von Karajan)を名乗ることを官憲に認めさせた経緯がある。

ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院とウィーン音楽院で学んだ後、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。ドイツのウルム市立歌劇場の総監督から誘いが来て、1929年に『フィガロの結婚』でオペラ指揮者として脚光を浴び、1934年には同国アーヘン市立歌劇場で音楽監督に就任した。1938年のベルリン国立歌劇場におけるヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の指揮で国際的にも認められ、これにより、翌1939年にはベルリン国立歌劇場およびベルリン国立管弦楽団の指揮者の地位を得るとともに、イタリアのミラノ・スカラ座でオペラを指揮することとなった。

1946年、ウィーン・フィルとの第二次世界大戦後初の演奏会を前に、戦時中ナチスの党員であった[9] ことを理由に、ソ連の占領軍によって公開演奏停止処分を受けた。しかし、翌1947年には再び処分保留となった。

註9
1933年4月8日、ザルツブルクにおいて当時オーストリアでは非合法政党だったナチスへの入党手続きをとった。

ナチスの党員簿によると、最初の入党後カラヤンは行方不明扱いとされ、最初の党員番号は抹消されており、同年5月1日にウルムで再入党している。

当時のことを後年「私にとってナチス党員になることはスキークラブの会員になる程度の感覚だった」と述懐している。

戦後の非ナチ化審理の際、カラヤンは1935年、アーヘン市立歌劇場のポスト就任と同時に入党と申告しているが、なぜ非ナチ化委員会でカラヤンの申告が不問にされたかは謎に包まれている。ただし、リチャード・オズボーン著の伝記では「戦後の時代に誤った情報が多く流された」とされており、議論の前提となる資料に多くの誤りがあったと述べられている。

1948年にウィーン交響楽団の首席指揮者、翌1949年にウィーン楽友協会の音楽監督に就任。また、イギリスのレコード会社EMIの録音プロデューサーのウォルター・レッグの元で、フィルハーモニア管弦楽団との演奏活動およびレコード録音も盛んに行うようになった。1951年、戦後再開したバイロイト音楽祭の主要な指揮者として抜擢される。しかし、翌年には音楽祭を主催するヴィーラント・ワーグナーと演出を巡って対立。この後、ヴィーラントの死後もバイロイトに戻ることはなかった。この時期ウィーンフィルおよびウィーン国立歌劇場とも断絶状態となっている。

1954年11月、ドイツ音楽界に君臨していたヴィルヘルム・フルトヴェングラーが急逝したことで、翌1955年にフルトヴェングラーとベルリンフィルとのアメリカ演奏旅行の代役を果たし成功をおさめ、この旅行中にベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督に就任、1989年まで34年もの長期間この地位にとどまった。戦後、フルトヴェングラーの死までカラヤンは同団の指揮台に2〜3回しか登場しておらず、急転直下の就任であった。

1957年には同楽団と初の日本演奏旅行を行う(カラヤン自身は1954年、NHK交響楽団を指揮するため単身来日していた)。日本公演ではワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の「前奏曲と愛の死」やブラームスの交響曲第1番などが特に評価され、日比谷公会堂の客席からはすすり泣きさえ聞かれたという[10]。

1956年にはウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任。ベルリンとともに、世界の人気を二分する両オーケストラを同時にたばねることになり(しかも加えてミラノ・スカラ座でも重要な位置を占めていた)、このころから帝王と呼ばれ始める。残された録音が少ないために忘れられがちであるが、この時期を中心にウィーン交響楽団への登場も非常に多い。演奏会としてはフィルハーモニア管弦楽団の倍以上、150回に及び、これはベルリン・フィルに次ぐ数字である。特に同団とは姉妹関係にあるウィーン楽友協会合唱団との共演による声楽曲(バッハの「マタイ受難曲」やベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」など)やブルックナーがこのコンビの得意レパートリーであった。

ウィーン国立歌劇場のポストは監督のエゴン・ヒルベルトと対立し1964年に辞任。以後十数年、ウィーン・フィルとは一部のレコーディングとザルツブルク音楽祭のみでの関係となる。1950年代からはミラノ・スカラ座でも主要な指揮者として活躍していた(当初はドイツオペラ担当、のちイタリアオペラも指揮)。1964年12月17日にスカラ座での椿姫の上演が完全に失敗したため、以後スカラ座では「椿姫」の上演を封印することとなった(カラスの呪い)。このころから健康問題の不調に悩まされるようになりながらも、世界中でおびただしい回数の演奏旅行を行った。ウィーン離任後はベルリン・ドイツ・オペラにも一度登場するが、この関係は継続されず。以後彼のオペラ活動は歌劇場よりも音楽祭が中心となっていく。

1965年には映画監督アンリ=ジョルジュ・クルーゾーとともにコスモテル社を設立して、クラシック音楽の映像化事業にも着手している。1967年には、自らの理想に沿うワーグナーのオペラの上演をめざして、ザルツブルク復活祭音楽祭を始めた。1972年にはベルリン・フィルとともに3度のコンサートを行い、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭をも創設し、自ら音楽監督に就任した。ベルリン・フィルがオペラのオーケストラピットに入るようになったのはこの音楽祭が契機となっている。1972年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団団員の養成を目的としたオーケストラ・アカデミー、いわゆるカラヤン・アカデミーを創設した。1982年、自身の映像制作会社テレモンディアルをモンテカルロに設立。ベートーヴェン交響曲全集をはじめとする、主要レパートリーの映像化にも着手した。

四半世紀にわたり、カラヤンとベルリン・フィルは良好な関係を維持したが、1983年、女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの入団を巡り、加入を認めないベルリン・フィルと対立した。その激しい軋轢は新聞種にもなり、ベルリン・フィルの芸術監督辞任の噂もささやかれたが、翌年和解に至る(結局マイヤーは自ら退団)。晩年を迎えたカラヤンはこの騒動の後、ベルリン・フィルからの離反を強め、もう一つのヨーロッパを代表する楽団であるウィーン・フィルとの結びつきをより深めていくことになる。1988年、ドイツの雑誌『デア・シュピーゲル』は「お金の魔術師」というタイトルでカラヤン批判の特集記事を組んだ。その内容とは、コロンビア・アーティスト・マネージメントがカラヤンとベルリン・フィルの台湾への演奏旅行の条件として法外な出演料と、カラヤンとウィーン・フィルとの演奏フィルムの購入を台湾側に要求したというものだった。このスキャンダルに加え、カラヤンのベルリンでの演奏回数が減っていたという事情も手伝って、カラヤンへの批判が噴出した。ベルリン・フィルやドイツの野党からも退任を求める声が高まった。

翌1989年4月24日、ウィーン・フィルとの演奏会出演の翌日に、健康上の理由でベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を辞任した。7月16日、当時ソニーの社長だった大賀典雄がカラヤンの自宅を訪ねた時、カラヤンは「左胸のあたりが調子悪いから、自宅の温水プールで泳いだ」と語った。大賀は、カラヤンに次世代のデジタルビデオ・カメラを出来るだけ早く納品する約束と、カラヤンがLDでの発売しか認めていなかったレガシー・シリーズの映像作品を8ミリのソフトで発売しないかという営業に来ていた。エリエッテ夫人がシャワーを浴びている時に、カラヤンが突然ぐったりとなり、大賀の腕に抱かれたまま心肺停止の状態になった。緊急のヘリコプターが呼ばれたが間に合わなかった。それは、カラヤンがDGからソニーに移籍する直前の死去だった。満81歳没(享年82)。

移籍に当たっては、そのテストケースとしてカルロ・マリア・ジュリーニを先にソニーへ送り込み、また「カラヤンの耳」とも喩えられたレコーディング・エンジニアのギュンター・ヘルマンスも送り込んでいた。

辞任したベルリン・フィルとの最後のコンサートは、ザルツブルク復活祭音楽祭でのヴェルディのレクイエム。生涯最後の録音と演奏会は、ウィーン・フィルとのブルックナーの交響曲第7番だった。カラヤンは逝去する前日にザルツブルク祝祭大劇場で、この年の夏のザルツブルク音楽祭でプレミエを迎えるヴェルディの歌劇『仮面舞踏会』のリハーサルを行っていた。この突然の死がなければ、ウィーン・フィルと自身のレパートリーの新録音・再録音に着手し、また、1991年には10年ぶりにウィーン国立歌劇場に復帰する予定だったともいわれている[11]。

カラヤンは指揮者の職業病とも言える脊椎の持病に悩まされ続け、生涯に12回もの大手術を受けた。1978年の脳梗塞(『家庭交響曲』のリハーサル中、落とした指揮棒を取ろうとして指揮台から落ちたのが発作の原因であった)等が追い撃ちをかけた[12]。晩年には、歩行も厳しいほど体のコントロールを失うことにもなった。その頃のカラヤンは指揮台の柵につけられた、サドル状の特製の椅子に座って指揮し、長年目をつぶって指揮していたオーケストラのみの曲でも1983年ごろからは目を開いて指揮することが多くなった。オペラや合唱曲を指揮する時は、全盛期でも目を開けて指揮しており、これは残された映像で確認できる。

音楽

同じく戦後派の指揮者カール・ベームは、カラヤンは自分の求める響きが出るまで辛抱強く楽団員を説得していたと述べている(ベームは正反対)[13]。レガートを徹底的に使用し、高弦を鋭くさせ、(1960年代後半から)コンサート・マスターを2人おき、コントラバスを最大10人と大型化することにより、オーケストラの音響的ダイナミズムと、室内楽的精緻さという相反する要素の両立を実現した。どんなに金管が鳴っていても、内声や弦パートがしっかり鳴っていなければならないことや、低音パートがいくらか先に音を出すことなどを要求した。ライナー・ツェペリッツ(ベルリン・フィルの首席コントラバス奏者)は当時「(オーケストラが)これほどまでの音楽的充実感、正確性を追求できたことは未だかつてなかった。われわれは世界中のどのオーケストラにも優る、重厚で緻密なアンサンブルを手に入れたのだ」との発言を残している。

一方で、一部の評論家からは音楽の音響面の美しさばかりを追求し作品の芸術的内容を軽視していると感じられたため[14]、「音楽が大衆に媚びている」「音楽のセールスマン」などと批判されることもあった。


註14
音楽評論家の岩井宏之は

「カラヤンは、いかにもスマートで美しい響きを生み出していたものの、作品の中に込められている作曲家その人の、あるいは当の作曲家が生きていた時代の"切なさ"を十分に表出するには至らず、したがって聴き手の心に迫ってくる力が弱かった。(中略)

カラヤンがオーケストラに対すると、どんな作品であれ、美しく響かせること自体を目的にしているような趣があり、それが私には不満だった」

と述べている(カール・ベーム指揮ウィーン交響楽団・ハイドンの四季のCD POCG-2328/9 のライナーノート、5頁)。


しかし、カラヤンの正確さと完璧さの追求はLPレコード時代からその自己演出と相まって一定の評判を得ることに成功し、レコードのセールスと知名度の広がりの面で大きな成功を収めている。

細身の体を黒で統一された服装で包み、白いマフラーを長く垂らせたスタイルでスポーツカーや自家用ジェット機を自在に操る姿はダンディズムに満ち、既成の音楽家のイメージを一新させた。男性モード雑誌から抜け出したようなカラヤンのいでたちは、その作りだす音楽以外の要素でも人目を引いた。指揮者は本来、反射神経を要求する職業であるが、実際にはその激しい動作が笑いの種になってきた歴史があり、その滑稽さを皮肉るカリカチュアも19世紀以来無数に描かれ、フルトヴェングラーでさえも揶揄の対象にされてきた。

そうした既成の概念を覆すように、カラヤンの動作はスマートで美しく洗練され、目を閉じ手を静かにウェイブする姿は神秘的にすら見せることに成功し、その雰囲気に酔う聴衆も多く存在するようになった。

その美意識はオペラの配役にも及び、1977年のザルツブルク音楽祭で『サロメ』のタイトル・ロールに当時はまだ無名だったヒルデガルト・ベーレンスを起用した際、カラヤンは

「サロメという女は20歳になっていない。従って、若くて細身の魅力ある歌手がいて初めて成立するオペラなのだ」

と語った。 オペラという総合芸術の音楽監督が容姿も考慮して歌手を決めたのはカラヤンが最初だといわれ、こうした独自の美学がカラヤンの音楽づくりには徹底されていた[15]。

カラヤンはオーケストラに(長年鍛えられたベルリン・フィルの場合これが顕著であったが)指揮の打点時のずっと後に音を出すことを心がけさせ、非常に重量感のある音を求めていた。また、楽員の集中力や陶酔力を深めるためとして目をつぶって指揮したため、団員ははじめ大いに戸惑ったが、「じきに慣れるさ」の一言で押し通し、事実その通りになった。

目を閉じる指揮法については、暗譜での指揮に関しクナッパーツブッシュから「(暗譜で指揮をしないのは)私は楽譜が読めるからだ」と皮肉を言われ、それに対し演奏に集中するための暗譜であることを誇示するために目を閉じるようになったという伝説がある。

カラヤンは当時の同世代の指揮者としては非常に広範なレパートリーを有していた(同時期に活躍したカール・ベーム、オイゲン・ヨッフム、ヨーゼフ・カイルベルトといったドイツ系指揮者はドイツ系の作曲家以外のレパートリーの比率は非常に低かった)。ベートーヴェンやブラームス、R.シュトラウス、ブルックナーなどのドイツ・ロマン派の音楽や、チャイコフスキー、あるいはモーツァルトのディヴェルティメントやセレナーデなどで特に高く評価された。

また、ヴェルディやプッチーニ等のイタリア・オペラにはドイツオペラ以上のこだわりを見せ、北欧と英米以外の指揮者が演奏することの珍しいシベリウスやグリーグなど北欧の作品も手がけた。

また、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンなどの新ウィーン楽派の演奏でも高い評価を得た。

舞踏音楽、序曲、行進曲といったアンコール・ピース的な小品にも熱心で、世界最高クラスの地位にありながらヨハン・シュトラウスをこれだけ繰り返し録音し続けた指揮者というのは、少なくとも彼の世代まではクレメンス・クラウス程度しか存在しなかった。

R.シュトラウスとは個人的な知己でアドバイスをもらっており、彼の作品の演奏も高い評価を得ている。また『メタモルフォーゼン』(23人の弦楽器奏者のための作品)について、シュトラウス本人に後半部で各パートを3人に増やし69人で演奏することを提案し、同意を得ていたが、ベルリン・フィルの室内楽的緻密さによりその演奏方法の実現を可能にした。

1970年にワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の世界初のステレオによるスタジオ録音を、東西ドイツ統一前のドレスデンで行った(この録音企画の当初の指揮者はサー・ジョン・バルビローリだったが、1968年の「プラハの春」事件に際して、亡命チェコ人であるラファエル・クーベリックが音楽家たちにあてた「東側諸国での演奏自粛」という嘆願書にバルビローリが賛同して、この録音を断った。しかし、カラヤンはその代役を快く引き受けた[16])。また映像作品にも取り組み、積極的に新しい分野を開拓していった。

ヨーロッパのオペラハウスでの原語上演は、カラヤンに始まるといわれている。それ以前はコヴェントガーデンやウィーンですら、オペラの現地の言葉での翻訳上演は半ば常識であった。カラヤンの芸術監督時代のウィーン国立歌劇場で始められた原語上演への改革が、その後の今日に至る原語上演の広まりのさきがけとなった。

その他の録音・映像として、1982年におけるマーラーの交響曲第9番、1988年におけるブルックナーの交響曲第8番、ザルツブルクにおけるオペラ映像などの実績が見られる。

ライフスタイル

ジェット機を乗り継ぎ世界中を飛び回って活動するという、昨今のスター指揮者の活動様式を始めた最初の一人だった。カラヤン以前には、指揮者は一つ処でオーケストラやオペラハウスの顔という役割をするのが普通であった。また、自家用ジェット機を保有していて、自ら操縦し別荘などへ行っていた。愛機はダッソー ファルコン 10。晩年になり、80歳で期限が切れる飛行機免許の代替としてヘリコプターの免許を取得している。

無類の車好きでありスピード狂としても知られ、様々なスポーツカーや高性能車、高級車を所有し乗り継いでいた。

歴代の愛車はメルセデス・ベンツ・300SL、ポルシェ・RSKスパイダー、フェラーリ・275GTB、ロールス・ロイス・ファントムV、フォード・GT40、ランチア・ストラトス、ルノー・5ターボ、ポルシェ・911(ターボおよびカレラRS)、メルセデス・ベンツ・500SEL、アウディ・クワトロなど。オースチン・A90・アトランティック(英語版)やミニ・クーパーMk2といった、より一般的な小型車も所有したことがあり、また、日本車(スバル・レオーネツーリングワゴン)を友人のスイス人医師にプレゼントしたこともある。

運転技術はF1ドライバーのニキ・ラウダ直伝。最晩年には赤いポルシェ・959に乗っていた。エリエッテ夫人は納車された959を見て、「もっとレコードを録音してもらわなきゃね」とジョークを飛ばしていた(DVD「カラヤン・イン・ザルツブルク」にその時の様子が映像収録されている)。

カラヤンのスピード狂はスキーにも及び、直滑降の名手として山小屋の主人[誰?]から「アルプスで1番速いダンナ」と呼ばれていた。

生前は派手な生活で知られたが、自ら地元アニフ(Anif)の教会内に用意し死後に埋葬された墓地は極めて質素である。死後、ザルツブルク市は遺族に対し豪華な墓地の提供を申し入れたが、エリエッテ夫人は故人の遺志を尊重しそれを断っている[17]。


エピソード

新しいもの好きで、録音技術や映像技術への関心は極めて高く、録音技術が進歩する度に得意のレパートリーを再録音した。中でもベートーヴェン交響曲全集、ブラームス交響曲全集、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」などは、何度も再録音を繰り返した。また、映像についても自らのレーベル「テレモンディアル」を設立し、自らの主要レパートリーの映像化を成し遂げた。

1959年、ベルリン・フィルに、東京芸術大学卒のヴィオラ奏者土屋邦雄を日本人初の団員として迎えた。土屋は2001年まで在籍した。

1983年に、日本人初のベルリン・フィルのコンサートマスターとして安永徹を選んだ。コンサートマスターのオーディション曲は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』などだった。

若手指揮者の育成にも積極的で、小澤征爾、マリス・ヤンソンス、オッコ・カム、高関健、クリスティアン・ティーレマン、山下一史などを輩出した。

1975年頃、日本人のみならず東洋人として初のウィーン国立歌劇場の団員として採用された高島一恵は東洋人団員の前例が無いことから、団員やスタッフから酷いイジメや偏見に遭って悩んでいたが、当時、指揮者の世界最高権威であったカラヤンが高島を評価したことで、高島へのイジメや偏見がピタリと止んだ。このことから、カラヤンは高島にとってイジメや偏見から救ってくれた恩人的な存在であるといえる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/645.html#c8

[リバイバル3] 原油価格の底値は 30ドルから 40ドル前半 中川隆
3. 中川隆[-13325] koaQ7Jey 2020年3月25日 15:53:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1579]

新型コロナで暴落した原油価格の推移予想2020年3月25日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9476

2020年に入り新型コロナウィルス肺炎の世界的流行で原油相場が暴落している。年始の高値から半額以下になっているが、筆者はこれを買い場であると考えている。ファンダメンタルズの観点からは激安であり、タイミング的にも底が近いだろう。

新型コロナで原油価格暴落

先ずは原油相場のチャートを見てみたい。

年始の高値65ドルから20ドル付近まで3分の1ほどの水準まで落ち込んでいる。新型コロナの影響で航空機が飛ばなくなっており、都市封鎖などの影響で自動車などの交通量も減っているからである。

新型ウィルスによる需要減少を考えた上で20ドル台という水準が高いのか安いのかと言うと、激安である。

まずもう少し長期で原油価格の推移を見てみよう。

まず2008年のバブルで150ドル付近まで上昇し、バブル崩壊で株価とともにそこから30ドル近くまで暴落、その後数年は100ドル近辺で推移していた。

しかしアメリカで従来の方法では掘り出せなかった場所に埋まっている原油を掘り出す方法が開発され、そうして掘り出されたアメリカの原油(シェールオイル)が世界の原油の供給を急激に押し上げた結果、2015年には原油の価格は半値となり50ドル前後で推移する新たなレンジ相場が始まった。それが5年ほど続いていた中での今回のコロナショックである。

現在の20ドル台という価格を考えるためには、それまでの原油価格が何故50ドルだったのかを考えなければならない。100ドルからの急降下が50ドルで止まったことには理由がある。それはその付近が米国シェール企業の損益分岐点だったからである。

米国シェール企業の窮地

シェールオイルは採掘困難な場所にある原油を掘り出せる分、サウジアラビアなどが行なっている通常の掘削よりもコストがかかる。例えば2019年の原油価格は平均して55ドル程度だったが、テキサスのシェール企業Marathon Oilの損益計算書は簡単に書くと次のようになっている。単位は百万ドルである。

•売上高: 5,190
•実費費用: 2,157
•減価償却等: 2,397
•純利益: 480

ざっと書いたが、実費費用とは採掘にかかった費用や人件費などその年に実際にかかった費用であり、減価償却とは採掘施設の建設のために以前行なった大規模投資を何年かに分けて計上していくものだと思ってほしい。

55ドルの原油価格ではしっかり利益が出ている一方、売上高が10%も減れば純利益は吹き飛びそうである。実際に原油価格が50ドル弱だった2017年には赤字になっており、他のシェール企業の財務諸表を眺めても40ドル台がやはりシェール企業の損益分岐点だと言える。

一方で減価償却の対象となっている採掘施設については既に買ってしまったものであるため、大雑把に言えば既に施設を持っているシェール企業が採掘を止めるかどうかの判断は売上が減価償却以外の実費を上回るかどうかということになり、売上高が5分の2になれば実費を下回ってしまうことを考えると、シェール企業が施設を持っていても稼働させれば赤字になってしまう原油価格(操業停止点と呼ぶ)は20ドル付近、つまり今の原油価格の水準ということになる。

つまり、シェール企業は今の原油価格の水準では掘削設備を動かすと赤字になり、何もできずにローンの利払いなどランニングコストを払うだけの存在となっているはずである。シェール企業はジャンク債と呼ばれる信用の低い債券の主要な発行主体であり、シェール企業の資金繰りが怪しくなっているためにジャンク債が暴落、ドルの調達需要によりドル上昇の原因となっているが、それはまた別の話である。

•ドル円上昇が示す世界的倒産ラッシュの可能性

原油価格の推移見通し

投資家にとっての問題はこのシェール企業の窮地が原油相場に長期的にどういう影響を及ぼすかである。

原油価格は元々100ドルだった。そこにシェール企業による供給増加があり、価格は50ドルになった。

ここからは2つのシナリオがある。1つは原油価格の低迷が長引き、大半のシェール企業が倒産してしまうシナリオである。

この場合、原油に投資をする投資家は価格上昇まで待たなければならなくなるが、シェール企業が絶滅するということは彼らの膨大な供給がなくなるということである。シェール企業が居なかった世界では原油価格は100ドルだった。つまり、このシナリオでは原油価格は長らく低いまま推移するものの、シェール企業が絶滅した時点で最大100ドルまで上昇する余地があるということになる。

もう1つのシナリオは新型コロナウィルスの流行減速と同時に原油価格も反発するシナリオで、この場合はシェールオイルの供給が増えすぎないところまでの上昇ということになり、上昇目標はシェール企業の損益分岐点である40ドル程度ということになるだろう。

長期投資家であれば今後数ヶ月の価格の上下を考えずに今からでも買えるだろうし、短期的な価格の上下を気にする投資家もそろそろ買い始めるべき時期だろう。

タイミングについては株式市場と同様にアメリカとヨーロッパにおける感染者数の推移を眺めることをお勧めする。以下の記事に数字を載せたが、最新のものは逐次更新してゆくつもりである。

•新型コロナ、米国の感染者数急増止まらず ヨーロッパはピーク近し

https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9476
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1040.html#c3

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
18. 中川隆[-13324] koaQ7Jey 2020年3月25日 16:05:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1580]

戦前の日本は台湾・朝鮮の近代化に国家予算のかなりをつぎ込んでいた

当時の朝鮮は欧米資本に経済支配されて搾取されていたんだけど、欧米の悪事まで日本の責任にされたのです。

朝鮮人は儒教信者で事大主義だから

欧米人や中国人がどんな酷い事をやっても何一つ非難しない。

どんな事でもすべて目下の日本人の責任にする。

詳細は


じっくり学ぼう!日韓近現代史【CGS 宮脇淳子】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%98%E3%81%A3%E3%81%8F%E3%82%8A%E5%AD%A6%E3%81%BC%E3%81%86%EF%BC%81%E6%97%A5%E9%9F%93%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%80%90CGS+%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90%E3%80%91

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“朝鮮統治”という1つのビジネス・モデルこの問題は余りにも複雑であり、単純化して述べてしまってはその本質を見誤る危険性がある。

しかし同時に、あくまでも冷静に、普通の目線で当時の朝鮮における“日常”を見つめることで、新たな発見をすることが必要でもあるのだ。


たとえば、過去における朝鮮統治の問題を考える時、次のような質問をされたならば、読者の皆さんはどのように答えるだろうか。


「日本による植民地統治下にあった朝鮮半島で、石油を売っていたのは誰なのか。

そこにも日本人による現地住民に対する“搾取”という絵柄が見て取れるのか」。


恐らく答えに窮する読者が多いに違いない。

「第2次世界大戦へと突入する直前まで、朝鮮半島で石油を独占的に販売していたのは、日本勢ではなく、英米勢だった」

というのが、この問いに対する正解なのである。


朝鮮統治が行われた1910年以降の大部分の時期において、現地での石油販売を独占していたのは米系のスタンダード社、そして英系のライジングサン社(後のシェル)なのであった。

なぜこれら2社が朝鮮マーケットを独占できたのかといえば、これらいわゆる「外油」に対しては、輸入に際して特例関税が課されていたからである。

具体的には、当時、日本のいわゆる「内地」に石油を輸入するにあたっては高額の輸入税が課せられていたのに対し、朝鮮という「外地」については消費者に安い石油を使わせるべしという理由で、無税に近い税率が設定されていたからである。

そのため、外国から輸入した石油を朝鮮へと転売する日本の石油企業は著しく不利な立場に置かれていたわけなのだ。


満州(現在の中国東北部)における鉄道などについてもいえるのだが、日本の大陸進出を巡るビジネス・モデルには、常にこれと全く同じ1つのパターンが見え隠れする。

すなわち、表向き「進出」していくのは紛れもなく日本である。

だが、その一方で目立たないが重大なセクター(インフラストラクチャー)で広く、着実に収益を上げていたのは米国勢、そして英国勢なのであった。


もちろん、第2次世界大戦の足音が響き始めると同時に、これら英米勢は駆逐され、日本勢が代わりに入っていくことにはなる。

しかし、だからといって「朝鮮統治」というビジネス・モデルは日本が単独で担ったものではなく、むしろステルス(透明)で、より狡猾な形でそれによって莫大な利益をあげていたのは他ならぬ英米勢だったのである。

そして問題なのは、こうした単純な「史実」であっても、私たち=日本人が学校で学ぶ機会はほぼ100パーセント無いという現実なのである。


確かに、過去の一時期において「不幸な出来事」が日朝間で生じたことは否定できない。

しかし、だからといって朝鮮統治というビジネス・モデルの展開によって現地が被った全ての償いを日本に対して求める一方、いわば“本当の黒幕”だった英米に対しては何も問わないという主張は、全く肯んずることはできないのである。

そして、こうしたダブルスタンダード(二重の基準)自身に見え隠れする虚構こそ、今の日本、そして東アジア・マーケットを見る私たち=日本の個人投資家の眼を曇らせる最大の要因でもあるのだ。
http://money.mag2.com/invest/kokusai/2009/03/post_105.html

▲△▽▼

96:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 17:01:24 ID:CJqAHY/N0

李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。

その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。


1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権


ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)

アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権)

イギリス(海関管理権、金鉱採掘権)

ドイツ (金鉱採掘権)

日本  (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権) 


当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)

列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが

いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001


李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:


1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

▲△▽▼


儒教が朝鮮人をダメにした。

朝鮮人は儒教信者で事大主義だから

欧米人や中国人がどんな酷い事をやっても何一つ非難しない。

どんな事でもすべて目下の日本人の責任にする。

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儒教の最大の欠点は「士太夫」は(肉体的に)働かない。むしろ働いてはいけないという価値観を造ってしまったところにある。

だから儒教の優等生である中国・朝鮮人は「働かなくても喰っていける」のが理想だと考えている。

かつては、ことさらに爪を伸ばして「食事(という労働)すら自分ではしない(出来ない)」という境遇を自慢したりもした。

今でもその傾向はある。
だから成功した老後は働かないのが当たり前で、はやく働かなくても良くなるように(今は我慢して)働いているだけなのだ。
http://www.asyura2.com/18/hasan127/msg/859.html#c5  


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c18

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
19. 中川隆[-13323] koaQ7Jey 2020年3月25日 16:15:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1581]

安くて従順な子供を、朝から晩までこき使う白人の裏の顔


アディダス、ナイキ、リーヴァイスは、犯罪組織 2012年01月20日


 スポーツシューズの有名ブランド、ナイキは、インドネシアで15歳以下の児童を工場で酷使し、ユニセフ等から犯罪企業として非難を浴びているが、国際的に禁止されている児童の酷使、労働を、ナイキは止めようとしない。

 ナイキのシューズは児童の酷使により、1足あたりわずかに5ドル=400円弱で製造され、1〜2万円で販売されている。原価の50倍前後であり、シューズ価格の98%がナイキの利益となっている。

 また、有名なスポーツ用品メーカーのアディダス、ジーンズのリーヴァイスは、インドネシアで同様の、15歳以下の児童による違法な労働で利益を上げている。児童は工場に閉じ込められ、学校に通う事も出来ず、十分な食料も与えられていない。これは犯罪である。

 アディダスとリーヴァイスは、児童と女性に「睡眠を与えず」死ぬまで働かせるために、覚醒剤の入った飲み物を飲ませ、麻薬中毒にし、文字通り奴隷として死ぬまで酷使している。

 アディダスとリーヴァイスのために多数の児童が「殺され」、児童と女性が麻薬中毒になっている。

 リーヴァイスは、タイではジーンズの原料となる綿花の農園で大量の農薬を使用し、河川を汚染、タイの一般市民にガン患者の多発を引き起こしている。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/247288059.html


上司が部下の女性従業員を自由に強姦出来るスポーツシューズ、ナイキ
2007/10/12(金)

 スポーツシューズの有名ブランド・メーカー、ナイキのメキシコ、インドネシアの工場では、13歳〜14歳の少女達が時給わずか17セント、20円程で働かされている。子供を学校にも通わせない、この児童労働は違法な児童虐待と言える。

 ナイキは、13歳〜14歳の少女達が生理で仕事を休むためには、少女達を上司の男性全員の前で全裸にし、出血を確認するという「義務」を強制していた。

 この義務は、従業員全員に強制されていた。

 これは極めて悪質な人権侵害である。

 また、この少女達は仕事中、強引に別室に連れ込まれ、上司の男性により日常的に強姦されていた。

 ナイキはこの犯罪事実を「隠し」、そのような事は無いと嘘を述べて来たが、2003年6月、米国連邦最高裁判所は、児童労働、人権侵害、強制猥褻、集団強姦等の犯罪で、ナイキに有罪判決を下した。

 現在、従業員の13歳〜14歳の少女達を強姦し続けたスポーツシューズ、ナイキの企業犯罪の有罪判決は確定している。
http://blogs.yahoo.co.jp/y2001317/25567191.html

CIAを作ったのは誰か

 バナナボートという有名な曲がある。中南米のバナナ農園で、奴隷として労働する黒人、先住民(インディアン等と差別的に呼ばれて来た)の悲哀を歌った曲である。
 かつても現在も、米国の貿易商社(穀物商社等)に支配された中米では、住民の食べる食糧を生産する事が禁止され、商社が輸出するバナナだけを生産する、単一作物農業=モノカルチャー化が推進されている(注1)。

 しかも中米全体の経済中枢が、UF=ユナイテッド・フルーツ社(チキータ・バナナ)1社によって、強硬に支配されて来た。

 かつてUFは、黒人、先住民族等の「奴隷」の反乱を押さえるため、秘密警察とスパイ組織を中米の全域に張り巡らせ、奴隷労働に反抗する奴隷=有色人種を次々と殺害して来た。「見せしめ」のために反抗した黒人の体を500片の「肉片」に引き裂く拷問を奴隷の眼の前で行い、その500片の「肉片」が動物により食べ尽くされ、腐敗して消失するまで奴隷の眼に付く場所に放置された。

 こうした奴隷労働と秘密警察による虐殺により、かつて南北アメリカ大陸に居た先住民族の95%以上が殺害された。その数は5000万人を超え、文字通り「皆殺し」である。

 この中米のスパイ、拷問、虐殺組織が、後に米国のCIAとなる。UFの経営者がブッシュ大統領一族であり、CIAの中核部隊がブッシュ一族のUFの秘密警察であったため、CIA本部が「ジョージ・ブッシュ・センター」と呼ばれる事となる。

 第二次世界大戦以前の、こうした状況は現在も変化していない。

 第二次世界大戦後、中南米諸国では、米国の穀物商社にバックアップされた軍事独裁政権が乱立し、穀物商社の農園での奴隷同様の低賃金に反抗する黒人、先住民族は軍事独裁政権の秘密警察により、次々誘拐、殺害されて来た。

 奴隷農園の農園主が、軍事独裁政権の大統領に交代しただけであった(注2)。

 中米の内陸にあるバナナ農園からのバナナを輸送するために、中米には鉄道網が整備され、それは米国本土の鉄道王ブッシュ大統領一族により建設されて来た。ブッシュ一族は、特に豊かな農園地帯であるニカラグアでは、強い支配権力を振るって来た。

 1935年、ニカラグアを植民地として支配するため、米軍の海兵隊の大軍がニカラグアに「侵撃」した。それ以降、ニカラグアは米国の「奴隷農園」になった。

 このニカラグア侵略戦争を実行した米国海兵隊の指揮官=将軍、スメドレー・バトラーは晩年、日記の中で以下のように語っている。

 「私はブッシュ、ロバートソン一族のために、海兵隊を指揮しニカラグアを支配下に置いた。」

 ロバートソン一族とは、「日本人を始めとした有色人種は、人種的に劣った人種であり、核戦争により絶滅すべきだ」と主張するキリスト教原理主義教会の指導者パット・ロバートソン一族である。若い時代、アルコール中毒患者であったブッシュ大統領を説得し、立ち直らせた現在の大統領の「育ての親」ロバートソンである。

 ブッシュ大統領の最大支持基盤であるキリスト教原理主義教会=ロバートソン一族と、ブッシュ一族の「一体化」は、その源流を中米の「奴隷農園」の共同経営に持っていた(注3)。

 中米の奴隷農園で、黒人、先住民族=有色人種を奴隷として虐殺して来た人種差別思想が、「宗教の装い」を取ったものがキリスト教原理主義教会である。


※注1・・このモノカルチャー化は、WTOによる農作物の「貿易自由化」でも同一の事が推進される。WTOの正体が何かをこれは明確に示している。現在の「貿易自由化」とは、中南米に見られた農民の奴隷化の「別名」であるという実態が、そのモノカルチャー化と言う同一の農業形態により、明確に見えて来る。拙稿「日本のコメが危ない」を参照。

注2・・第二次世界大戦後、中南米諸国に乱立した軍事独裁政権の秘密警察には、ドイツから逃亡して来たナチスの生き残りが雇用され、有色人種の虐殺を担当した。

 ナチスの生き残りが中南米に逃亡する「手配」を行ったのは、CIAとローマ・カトリック教会=バチカンであった。ナチスの生き残りは、カトリック教会の修道院の世界的ネットワークを使い、修道院から修道院へと逃亡し、ブラジル、アルゼンチン等に逃げ延びた。

この世で一番恐ろしいことは、「自分で生きていく術を失われる」ということである。自分たちで食料も生産できなくなった社会では、奴隷になる以外の生き方が存在しない。デカイ企業に時給数百円で(言い値)で雇われ続けるしかない。

新たな奴隷商売は世界で起きていることで、この日本にも入ってこようとしている。

日本のJAICAという組織をご存知だろうか?
発展途上国へいって、収入を得る術を教えに行くボランティア集団を抱えている組織である。彼らは、現地民に土地を捨て、現金収入を得るよう促す努力をしている。もちろん日本製品を販売する礎を作るためである。

それはそれでいい。が、問題は彼らから自立を奪い、現金収入に頼る経済機構を構築することにある。これがどのような問題を起こすのか。
想像できない方は、これから先の日本では生きていくことはできないであろう。
http://keifugaku.blog110.fc2.com/?mode=m&no=7


奴隷が作るインスタント・コーヒー=ネッスル社のネスカフェ 2007年10月10日

 アフリカのコートジボワールでは、近隣のマリ共和国から誘拐されて来た7歳から14歳の少女達が2万人、給料も休憩も無く奴隷として強制労働させられている。  現場監督により、この少女達は日常的に殴る蹴るの暴行を受けており、彼女達は病気になっても医者にも見てもらえず、死ぬまで奴隷として労働が強制されている。  ユニセフは、これは悪質な奴隷労働であると「非難」している。  

2万人もの少女達を誘拐し、奴隷として強制労働させている犯罪者は、ロックフェラー(ブッシュ)の経営する穀物商社カーギル=ネッスル社、クラフト・チーズで有名なクラフト社(親会社が最大手の穀物商社コナグラ社)、タバコのマルボロで有名なフィリップ・モリス社(食品加工・最大手)、クラッカーで有名なリッツ社である。  

「非難」するだけで国際刑事警察機構に刑事告訴しない所が、大企業の「味方」国連=ユニセフである。

これらの世界では、自分たちで自立をする手段が全て貨幣経済に差し替えられた。ゆえに貨幣という(紙幣か)虚構を、他人の借金を、使って生きることを余儀なくされている。

彼らの借金とは何か? IMFである。

この高利貸し集団が政府に莫大な借金をさせ、借金返済のための外貨獲得を余儀なくされている。IMFを拒否すれば、武力によって国は蹂躙されることになる。 そうして、IMFとその仲間たちはいわば合法的に奴隷商売に手を染め、莫大な利益を得ることになる。 この世界の姿が、今後の日本の姿になりえるとどれほどの人々が思っているのだろう?
教育上決して教えられない効した事実は、何も知らされない庶民を大量生産し、奴隷商売を助け、そのまま奴隷として死んでゆくのだ。
http://fuen-desu.blogspot.jp/2007/10/blog-post_12.html


安くて従順な子供を、朝から晩までこき使う白人の裏の顔


グローバル経済の中で「人件費を下げる」「コストを下げる」というのは非常に重要な部分である。コストを下げるために、企業は何でもする。そうしなければ、競争に打ち勝つことができないからだ。

消費者は、品質よりも安さを求めることが多く、他人よりも安く買えれば「得した」と満足を得て、高ければ「企業努力が足りない」と悪態をつく。ぼったくられて高い値段を払うのは誰でも苦痛だ。自分の給料や資産にも限りがあるのだから、少しでも安いものを選ばなければならないと誰もが思う。


安くて、文句を言わず、朝から晩までこき使える労働者

それがより安いものを選ぶ消費者行動になり、そして企業はその一点に向けて骨身を削るような「企業努力」を行う。その企業努力というのが、「人件費を下げる」「コストを下げる」という部分になる。

先進国の労働者はコストが高い。だから企業は先進国の労働者をみんな捨てて、新興国の安い賃金に群がる。そして、新興国の中でもより安い人材を求めて捜し回る。人件費は安ければ安いほどいい。安くて、文句を言わず、朝から晩までこき使える労働者であればあるほどいい。

そして、グローバル経済は何を生み出したのか。

いち早く新興国に工場を移したシューズ企業の工場では、より安い労働者を確保して奴隷のように働く労働者を見つけていた。それは「子供たち」である。中国でも、アフリカでも、カンボジアでも、インドでも、新興国では学校に行けない貧しい子供たちがたくさんいる。ある経営者は、そんな子供たちを捕まえてきて、二束三文で働かせて利益を生み出すようになっていた。

2004年にインド・チェンナイの裁縫工場で働かされていた12歳の子供たちは1日14時間も拘束されていた。休みもなし、食事は1日2食、それもほんのわずかな量だ。工場内は非常に暗く、高温多湿で、立ち入った検査官が気分が悪くなるような場所だった。


貧しい子供たちは、それまでずっと犠牲にされたまま

ある朝、カンボジアで食事をしているとき、ひとりの少年が私の前に立って靴を磨かさせてくれと手振りで言った。私はいらないと言って食事を続けていた。こんな少年に労働をさせたくないと思ったからだ。しかし、少年は立ち去ろうとしなかった。とても貧しい身なりの少年だった。

気がつくと、遠くに彼よりもさらに小さな少女がじっとこちらを見ていた。そのとき、ふとこの少年に「労働」させないとこの兄妹が飢えるのだと思って靴を磨いてもらい、金と一緒にテーブルのヨウティアオ(中国の揚げパン)を渡した。少年はそれを妹に渡して消えていった。

新興国では肉体労働にも子供が駆り出されている。バングラデシュを訪れたとき、ダッカ郊外に多くのレンガ工場があったが、そこで働いていたのは小さな子供たちだった。カンボジアではスタンメンチャイのゴミ集積所で大人にまじって子供がゴミ拾いをしている。タイではスクンビットでカンボジア出身の子供が物乞いを強制され、ベトナムではゴミのリサイクル工場で子供が働いている。

これは見える「児童労働」だ。

しかし、先進国の人間が100円ショップに行って安い品物を買ったときはどうだろう。その陰に、強制されて働かされている多くの子供たちの存在がある。そのことを思い浮かべる人はどこにもいない。これは見えない「児童労働」だ。

グローバル経済は、今も新興国・後進国と呼ばれている国で、平然と児童を労働に使っている。これは正しいことではない。しかし、私たちはそれを止めることはできないでいる。あなたは会社に行って

「グローバル経済は人類を幸せにしないから競争なんかやめましょう」

と言えるだろうか。社員から経営者まで誰もそんなことを言えない。競争をやめたら企業は存続できないからだ。現代文明は人類そのものを不幸にしながら暴走するしかない。

行き過ぎた資本主義、行き過ぎたグローバル経済、行き過ぎた消費文化は、いずれ行き詰まる日が来る。それまで貧しい子供たちは、犠牲にされたままだろうか。恐らくそうだろう。先進国では、誰も彼らに興味がないのだから。


2012-asyuracom-22 08:31:06 25b5592tut

以前テレビで、アフリカのどこかの国でカカオの収穫に子供を働かせているのを見たことがあります。朝から晩まで不当にこき使われて、ぶたれたり食事を抜かれたり奴隷のようでした。どの子もみんな痩せ細ってて胸が痛みました。

しかも、本人達はそのカカオがチョコレートの原料であることを知らないばかりかチョコレートを食べたこともないというのが衝撃的でした・・

以来、あまりチョコレートを買わなくなりました。ただこれはショックな事を思い出したくないという自己保身にすぎません。私のようなヘタレは現実に向き合うのがとても厳しいです。知りすぎると何も買えなくなってしまいそうです・・

安い人件費や子供達の犠牲のもとに今の入手価格があるのがわかっても、高くなるとやっぱり不満に感じてしまう・・私も含めこんな人間が多ければやはりこのような問題は解決することがないように思います。

2012-asyuracom-22 16:31:39 ssb5t21u79

子供を労働者に使うと暴動を起こしませんものね(知的障碍者を雇うってのもありましたね)。昨今、海外新興国の工場で賃上げ暴動やストが盛んです。その点、子供ならそういう発想や暴力・団結等はできない・・

搾取する側の大人は、資本主義は、「グローバル経済」とやらは本当に儲け主義で狡猾な発想を生み出します。鈴木さんが言われるように、このままエスカレートしていったら、どうなるのでしょう。

ここ何年かいろいろ購買していて気が付いたのですが、安いものであまり品質の良いものはありません。100円ショップで買ったスリッパはたった1週間で壊れました。じゃあ、と他のドラッグストアで298円のスリッパを買ってみたら、2週間ちょっとで崩れました。値段との正比例っぷりがおかしくて、自分でも納得しました。それらの安い商品は当然「Made in chaina」です。やっぱりスリッパは400〜500円の日本製のものを買わなくちゃなあ・・と思いました。

ところで、先日うちのパソコンが壊れました。グラフィックのBIOSファイルが壊れたようなので、グラフィックボードだけ買いなおすかと思いましたが、新品パソコンとたいして値段が変わらないので、新しいパソコンを買いました。買ったのは「ACER(台湾製)」です。

それまでのは「DELL」でした。たったの4年で壊れました。まあHDの内容がすべて破壊されていたわけではないので、HDは新PCに移行して主要ファイルを移してそのまま使っています。しかし実は私もダンナも日本の某電機メーカ社員です(お互い違う会社です)。当然、両社ともPCは販売しています。最初のころは、お互いの会社のPCを交代に買って穏便に済ませていました。が、その後、買い替える時に私が「うちの会社のは高いから論外!」と言うようになりました。まあ、いろいろ内情を知れば知るほど、わかるものです。

日本製は、人件費(部品は海外で作っているので安いのですが、販促や物流費用やユーザ対応等)や高い広告費等いろいろ付加され、性能が海外PCとそんなにかわらないのに高いのです。ダンナの会社の製品も価格・性能ともに50歩百歩だったので、そのうち私たちは自社のPCを買わなくなりました。だって、中身を分解して時々掃除したりして見ているし、役員や幹部のスピーチを聞く機会がありますから、いろいろわかります。でもそこでお給料をもらっている身としては、多少の罪悪感はあります。いや、多少どころかかなりです。会社の利益とそこからもらう給料、自分の家庭の経済・・これを比較して考えると頭が痛くなります。

かつて、ある役員のスピーチで私の頭に衝撃を感じたものがあります。

「法律を犯さなければ何をやってもいい、いや、ばれなければいい、とにかく儲けろ!」・・・・

この倫理観。私はこうはなれません。会場にいた管理職たちは、「オー!」とか言って応じていました。無常観を感じました。私の父も一部上場企業の役員までいきましたが、技術畑出身なのでこんな発想は決してなかったと思います。むしろ、40年以上前に「原発は危ない」とぽつりと言うような(現地を見てきてから)人でした。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120821T2341010900.html


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うーん、100年前と今と全然変わっていないのが一番問題ですね:


ビール一杯のため、黒人の手首を切り落として遊ぶロスチャイルドの部下達 

藤永茂 「闇の奥の奥」 三交社
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8E%E9%97%87%E3%81%AE%E5%A5%A5%E3%80%8F%E3%81%AE%E5%A5%A5%E2%80%95%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89-%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E4%B8%BB%E7%BE%A9-%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E9%87%8D%E8%8D%B7-%E8%97%A4%E6%B0%B8-%E8%8C%82/dp/4879191671


かつてベルギー領であったアフリカのコンゴでは、ベルギー国王レオポルト2世の経営する無数の大規模ゴム農園で、黒人が凄まじい奴隷労働を強制された。

この奴隷農園を経営していた実働部隊が、ロスチャイルド一族とその盟友・銀行ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジック[Société Générale de Belgique]である(拙稿「核兵器の密売人フランス」参照)。


本書p28には、ロスチャイルドによって手首を切り落とされた黒人の少年の写真が載っている。

黒人には1日に採集するゴムの量が1人1人割り当てられた。1日でもその割り当てノルマが達成できないと、ロスチャイルドはその黒人奴隷の手首をオノで切断し、制裁を加えた。相手が少年であっても容赦はされなかった。

本書に掲載されている写真が残されている事は、「写真という技術が登場し、しかもアフリカの奥地にまで持ち込める携帯用のカメラが開発・販売されるようになったつい近年まで、ロスチャイルドによる黒人奴隷の手首切断が実行されていた」事実を示す。

この有色人種を奴隷とし人間とも思わない一族が、今後、中国を支配し、原発と核兵器を大量生産する事になる。原発の事故が起こり、核戦争が起こり、アジア人=有色人種が死のうとロスチャイルドが「何とも思わない」事、むしろ不要な人種が死んで喜ぶ事を、この写真は事実として示している。

今後、国連の中心となり、国連という国際機関を「動かす」中心国となるベルギーとロスチャイルドによる、この黒人・有色人種虐殺の犠牲者は、数百万人に上る(p33)。

 国連が平和維持活動と称しPKO部隊を送り込み、有色人種の国々で虐殺を繰り返している事実は、このベルギーとロスチャイルドによるコンゴでの大虐殺に「同一起源・源流」を持つ。

本書p79にも、切り落とされた黒人奴隷の手首を持つ黒人の写真が掲載されている。
ロスチャイルドは、逆らった黒人、病気・ケガで働けなくなった黒人を射殺する事を農園の監督人に命じた。しかしライフル銃の弾丸を節約するために、殺害に使用した弾丸の数と同一の数の黒人の手首を持ち帰る事を監督人に要求した。殺害された黒人1名につき弾丸1個しか使用してはならない、という弾丸の節約命令が出されていた。
黒人の命より、弾丸1個の方が「もったいない」という事である。

一方、監督人は木の棒等で黒人を撲殺し、弾丸を未使用のまま残し、「黒人が逆らったので銃殺した」とウソの報告を行い、弾丸を銃器販売店に「横流しし」、その利益を「小遣い」として着服する事が常態化していた。

つまり逆らってもいない黒人を撲殺し、弾丸を横流し販売する事で「小遣い」が得られた。ロスチャイルドの監督人達は、ビール1杯を飲む小銭のために、逆らってもいない黒人を殴り殺し続けて来た事になる。

このベルギー国王(英国王室と同族のザクセン・コブルク・ゴータ一族)とロスチャイルドの行った大虐殺を知り、写真を撮り世界に知らせた勇敢なジャーナリストが三名居た。

最初の告発者ワシントン・ウィリアムズ[George Washington Williams, 1849-91]は、わずか32歳(引用注:正しくは41歳)の若さで何者かに毒殺されている。

盟友の毒殺にも屈せず政府とロスチャイルドの告発を行ったジャーナリスト、ロジャー・ケースメント[Roger David Casement, 1864-1916]は「国家反逆罪」で、ベルギー政府の手で逮捕され「絞首刑」となり処刑されている。

3人目のE・D・モレル[Edmund Dene Morel, 1873-1924]も逮捕され、ケースメントと同一の刑務所に収監され、出獄後、病死している。

こうした写真は、この勇敢なジャーナリスト達が自分の命と引き換えに撮影してきたものである。

本書p142には、南アフリカで絞首刑にされ、「さらし者」にされている3名の黒人奴隷の木に吊り下げられた死体の写真が掲載されている。

裁判等抜きで、白人が「気に入らない黒人を自由にリンチ処刑している」。 同時に、リンチにされた黒人の姿を「満足気に葉巻を吸いながら眺めている白人達の姿」も撮影されている。有色人種をリンチ殺害する事は、大好物の葉巻を吸いながらそれを眺める程、「最もリラックスできる楽しい時間」であった事を、この写真は示している。 これは、携帯用の小型カメラが世界中に販売されるようになった時代のリンチであり、「つい最近」の出来事である事を、写真撮影という事実そのものが示している。 そしてコンゴだけでなく、南アというロスチャイルドの支配下に入った国・地域では、どこでもリンチ殺人が行われていた事実を、こうした写真は示している。

コンゴは、ゴムだけでなく核兵器原料のウランの最大手の生産国であり、ロスチャイルドの核兵器原料企業ソルベイ社[Solvay]が、コンゴでのウラン採掘と世界への販売を担当してきた。

このソルベイ社とベルギー国王が「国連所在地のブリュッセル」で3年に1度開催する「ソルベイ会議[Solvay Conference]」は、世界中の核兵器メーカーと核物理学者が集まり、今後の核兵器販売計画を密談する、ソルベイ社から招待された者だけが参加可能な、マスコミにも情報を出さない「隠密会議」となっている。

かつて、第5回ソルベイ会議に出席したアインシュタインが、ソルベイ社に説得され、米国のルーズベルト大統領に書簡を送り、原爆開発の推進を「提言」した事実は有名である。著名であったアインシュタインの書簡であれば米国大統領も「核兵器開発を認め、説得されるであろう」と計算したソルベイ会議は、アインシュタインを「上手に誘導し説得した」のである。

このソルベイ会議が無ければ、日本の広島・長崎への原爆投下も原爆開発も無かった。 この会議を開催している者が、ロスチャイルドとベルギー王室、つまりコンゴの奴隷虐殺者達である。

日本人という有色人種を大量に虐殺した広島・長崎への原爆投下と、コンゴでの有色人種=黒人大虐殺が、同じ「論理」、同じ企業・人間達によって行われてきた事実が浮かび上がる。その論理とは「有色人種虐殺」である。

この企業・人間達が、今後アジアの盟主として中国の政権中枢を担当する。その金融面での動きがアジア統一通貨の形成であり、それは欧米・ロスチャイルドの新しい支配戦略である。

アジア通貨の誕生をドル支配からのアジアの独立である等という寝呆けた主張は、国際情勢への無知か、自分がロスチャイルドの「手先」である事を自白しているに過ぎない。
*・・・なお、ベルギーによるコンゴ支配を描いた小説「闇の奥」の作家ジョセフ・コンラッド[Joseph Conrad, 1857-1924]は、「ベルギーのような遅れた国がこうした虐殺を行うが、自分達、英国人であれば、こうした虐殺は行わない」と英国人を自画自賛している。

英国王室とベルギー王室が同一一族である事実を知識人コンラッドが知らないはずは無く、悪質なデマをコンラッドは流している。

こうした悪質なデマを流し、真実を隠す作家でなければ「大作家」「人種差別に最初に気付いた知識人」などと言う「名誉ある称号」は手に入らない。

またコンラッドの小説を映画化し「地獄の黙示録」を製作した映画監督・「巨匠」フランシス・コッポラ[Francis Ford Coppola]は、ベルギー政府とロスチャイルドの行った、この残虐な黒人奴隷の手首切断をベトナムに舞台を移し、「ベトナム共産軍の行った野蛮な行為」として描き出している。

ベトナム戦争でベトナム共産軍を敵として戦争を行った米国政府の「ご機嫌を伺うために」、ベルギー政府の行った虐殺を「ネジ曲げ」、米国政府の敵=共産軍が行った野蛮な行為として手首切断を、「巨匠」コッポラは描いている。

手首切断を行ったロスチャイルドの米国支部はロックフェラーであり、そのロックフェラーこそがベトナム戦争を行った米国政府中枢である事を、無知からか意図的にかコッポラは無視し、デマを世界中に「タレ流している」。

こうした悪質なデマを流し、真実を隠す作家でなければ「巨匠・映画監督」にはなれない。

真実を語るものが絞首刑になり、デマを「タレ流す」者だけが「大作家」、「巨匠」になる。現代世界と芸術界は、ニセ者だけが表通りを歩く事の出来る肥溜めと化している。
http://satehate.exblog.jp/15342781/  

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c19

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
20. 中川隆[-13322] koaQ7Jey 2020年3月25日 16:16:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1582]

子供の奴隷を使っているチョコレートブランド7社 世界の裏側ニュース
http://www.asyura2.com/15/kokusai12/msg/558.html


子供の奴隷を使っている有名チョコレート企業7社
7 Famous Brands That Use Child Slaves To Make Your Chocolate

2月9日【AnonHQ】
http://anonhq.com/7-famous-brands-that-use-child-slaves-to-make-your-chocolate/ より翻訳


Vandita著:


西アフリカのカカオ豆農園では、15歳に満たない子供たち(中には5歳の子供も)が朝6時から夕方まで働いています。そしてこれら農園は、あなたの大好きなキットカットやM&Mといったチョコレートの生産のためにネスレーやハーシー(Hershey)、マース(Mars)、クラフト、ADMココア、ゴディバ、そしてFowler’s Chocolateなどと取引を行っているのです。


2015年9月、カリフォルニア州でネスレー、ハーシー、マースに対する集団訴訟が起こされました。これは同社らが社会的・同義的に責任を取っていると間違った印象を与えている一方で、西アフリカのカカオ豆供給業者による人権侵害を黙認していたためです。


2005年に子供の奴隷であった三人のマリ人が現在、ネスレー、カーギル、ADMに対して別個の訴訟を起こしており、コートジボアール国内でのカカオ豆市場で子供の奴隷の使用を支援し、教唆していたと訴えられています。


2000年に公開された「Slavery: A Global Investigation(仮訳:奴隷制度・世界的な調査)」というドキュメンタリーでは、チョコレート産業と子供の奴隷によるカカオ豆の収穫という深い闇の関連性について明らかにしています。

Slavery A Global Investigation
https://www.youtube.com/watch?v=P-mgXSojRuo


コートジボアールの当局によって奴隷の立場から逃れることのできた19人の子供の保護者は、当時の子供たちは毎日、夜明けから日暮れまで働かされた上で毎晩、鍵のかけられた小屋の中に閉じ込められた後、排尿のためのブリキの缶を渡されて服をもぎとられ、縛り付けられて定期的に暴行を受けると言う日常を、チョコレート製造企業に伝えました。


そして、数千人もの子どもたちがマリやブルキナファソ、トーゴなどの国からわずかのお金のために両親から買い取られ、あるいは一部にはあからさまに奪い取られ、コートジボワールに船で運ばれて同国のカカオ豆農園で奴隷とされるまでの経緯も伝えました。


奴隷制度を支援することを避けるために、こちらに子供の奴隷制度を食い物にし、児童労働から利益を得ている7つの人気のあるチョコレートのブランドをリストアップしました。


ネスレー


ネ スレー社は経営上の行動規範の中で、サプライ・チェーンの中での児童労働の使用を禁止しているものの、公正労働協会(FLA)の調査員は、強制労働や、子 供たちがマシェーテ(なたに似た刃物)を使用したり重い荷物を運ぶなど、危険な労働条件の下で14時間労働している子供たちと、同社の関連性を示す証拠を 発見しています。


ガーディアン紙のインタビューに対するネスレーの広報官の説明は次の通りです。


「これまでのところ、自分の家族が経営する農園で労働し(約10%が調査の対象)、児童労働に該当する危険な仕事に関与している3,933人の子供を特定しました。


当社はその児童のうち半分を、当社の「児童労働に対する観察および改善システム」に含めました。このシステムは、学校に必要な物資の提供、出生証明書の取得、そして312人の確認された児童の家族に対して所得創出活動を発展させる役割を担っています。


残念なことに、この問題の規模や複雑さはあまりにもひどいため、コートジボアールをカカオ豆の入手元としている企業はどの社も、供給チェーンから児童労働のリスクを完全に取り除くことができると保証することはできません」


ネスレー社は2014年、チョコレートの売上として916億スイスフラン(約105兆円)を計上しています。


ハーシー


アメリカ国内最大のチョコレート製造企業であるハーシー社は、製品の主な原料をコートジボアールから購入しています。しかしコートジボアールは、強制労働や人身売買、児童労働や子供の奴隷などの面で最悪の環境であると悪名の高い国です。


2012 年、同社の西アフリカで栽培されたカカオ豆のうち、子供の奴隷によって生産された可能性のあるものはどれだけなのかハーシー社の重役が把握している知識に ついて、ルイジアナ州の年金基金が疑問を投げかけたことがありました。虐待的な慣行に対する認識について、ハーシー社企業広報部長のジェフ・ベックマン氏 はConfectionerynews.comに対して次のように説明しています。


「訴訟の申立の内容は新しいものではなく、カカオ豆産出国内での長期的な課題であり、NGOを含む株主やカカオ豆供給チェーンの企業、アメリカ政府が地道に何年にも渡って取り組んできた問題です」


2014年度のハーシー社は純利益として約8.5億ドル(約952億円)を計上しました。


マース(Mars)


マース社は2020年までには(児童労働が用いられていないと)認定を受けたカカオ豆だけを調達すると2009年の時点で誓約しました。


し かしExaminer紙がマース社に対し、なぜ同社のチョコレートに一切、児童奴隷が使用されてないことが認証されるまでに2020年まで必要なのかと質 問したところ、マース社は「カカオ豆農園で人身売買され、あるいは強制労働させられている子供の数はごくわずか」とし、「西アフリカの何百万ものカカオ豆 農園の全員に手を差し伸べるのは難しい仕事」で、子供の奴隷が関与していないチョコレートと保証するのは「複雑」な問題であるため、持続可能性を保証する ためには「10年が現実的な期限」であると考えていると応えています。


チョコレート産業全体での協定として、2005年までにチョコレート産業として子供の奴隷制度を自主規制し、終わらせることを目的としたハーキン=イーグル議定書(Harkin-Engel Protocol)が2001年に調停されましたが、その期限は2005年から2008年から延期され、その後再び2010年に延期されています。


そして2016年になった今も、子供の奴隷制度の終結を誓約しつつも、虐待的な慣行から数百万ドル単位の利益を弾き出しているチョコレート製造企業が存在しているのです。


さらに、2015年の報告書によると、カカオ豆産業で働いている児童の数は2009年から2014年を比較すると51%増加し、現在では合計で140万人になっているということです。


奴隷状態の労働条件で働く子供の数は、2009年から10%増加し、現在は合計で110万人になっています。

ADM、クラフト、ゴディバ、Fowler’s Chocolate


205年、コートジボワールのカカオ豆プランテーションで強制的に労働させられたマリ国籍の者3人が、ネスレーやADM、カーギル(カーギル社はADM社の国際的なチョコレート取引部門を企業価値約4.4億ドルとして買収)が、児童労働によって収穫されたカカオ豆を購入し、奴隷制度、児童労働、虐待を「支援・ほう助」したとして、カリフォルニア州の連邦裁判所で集団訴訟を起こしました。


カカオリカー、ココアパウダー、ココアバターの製造加工業者であるADM社に対する10年越しの訴訟が継続する中、同社はココア関連ビジネスをシンガポールに拠点を置く農業総合商社オーラム・インターナショナル社に13億ドルで売却しました。


2012年、キャドバリー(Cadbury)やクラフトフーズ(Kraft Foods)を買収したモンデリーズ・インターナショナル社は4億ドル(約44.8億円)を投資し、カカオ豆生産農家の生活基準を改善し、持続可能なカカオ豆経済を創設すると誓約しています。しかし、サプライチェーンから強制労働を取り除こうとする同社の企業努力は何年も苦戦し、これまでのところ効果が出ていません。


ゴディバを含め、世界で用いられているカカオ豆の60%以上は西アフリカから供給されています。他の大規模なチョコレート製造企業とは異なり、ゴディバ社は原料が児童労働によって収穫されていないことを確実にするために同社のカカオ豆のサプライチェーンを追跡調査したり、あるいは地元と協力し合うという宣誓をしていません。


ゴディバ社は2020年までにはカカオ豆の供給の100%を持続可能な供給元から行うと約束はしたものの、公正な給料や安全な労働環境を保証し、児童労働をなくすためのゴディバ社の具体的措置については明らかににはされていません。


Fowler’s Chocolate社は児童労働を糾弾する一方で、コートジボアール産のカカオ豆を使用し続け、同社のチョコレートに児童労働が用いられてないことを保証することは不可能になっています。


2010年、BBCがイギリス国内で販売されているチョコレートの大部分に供給しているサプライチェーンについて行った調査
http://news.bbc.co.uk/panorama/hi/front_page/newsid_8583000/8583499.stm


では、人身売買や子供の奴隷が使われている証拠を見つけただけでなく、予防対策は取られているフェアトレードとして販売されているチョコレートでも、サプライチェーンで児童労働がまったく使われていないと保証することはできないということも明らかにされています。
 


(翻訳終了)


*****


【コメント】


バ レンタインですが、あまり甘くないチョコの裏側の話です。児童労働の情報については日本語でもありますが、社名を特定されていた記事があったので翻訳しま した。とはいえもちろん、ここに名前の挙がっていない企業でも同罪なところはたくさんあるので、この辺だけを避ければよいというものでもなく、さらに言え ばこのような問題のある製品はチョコレートに限定されるものでもありません。


【関連記事】


★「安い中国産製品」の裏側に潜む現代の奴隷制度
http://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-11961955129.html

イギリスでは、大人もチョコレートが大好きな人が多く、何か行事がある度にとりあえずチョコレートでも・・・とばかりに販売合戦がすごいです。


Internet.com.の日本語サイト
http://internetcom.jp/wmnews/20120209/2.html


の情報によれば、イギリスのチョコレートの消費量は世界第三位だとか。カカオは摂り方によっては健康によい側面もありますが、チョコを買う=児童労働・奴隷を認めてそこにお金を流し、支援していることになるので控え目にしたいなとは思っています。


ネスレー社といえば、このチョコレートの問題だけでなく、このブログで取り上げてきた記事の中でも何度も登場している「常連」さんです。


ガザ地区で非人道的な侵略を行っているイスラエル政府を支援していたり、


★ボイコット・イスラエル
http://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-11807316661.html

製品にGMOを使用していたり、


★GMOが含まれる外国(アメリカ)製品一覧
http://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-11555568003.html

もちろん、ビルダーバーグ・グループの一部でもあります。


★99%vs1% ビルダーバーグに関連している企業一覧やデモ状況など
http://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-11869072484.html


しかも他の多国籍企業と同様、他の企業やブランドを買収してもいますので、その周辺にも気をつけたいところです。こういう系図を見ていくと、私たちにはいろいろと選択の自由が与えられているようで、実はどの会社を選んでも親会社が同じだったということもよくありますね。


Disclose TVには、世界の水資源を利益のために販売し、子供の奴隷を用い、GMOを支援しているビルダーバーグのネスレーに宣戦布告を行っているアノニマスの動画もアップされています

(Disclose TV リンク)。
http://www.disclose.tv/action/viewvideo/175954/Anonymous__Bilderberg_Nestl_Want_to_Control_World_Water_Supply_Use_Child_Slaves_and_support_GMOs/


イ ギリスではキャドバリー(Cadbury)社もかなり大手で人気ですが、甘すぎる割にチョコの味もしないので私はあまり好きではありません。それ以前に、 ミルクチョコレートの原料になる牛の扱いが非人道的で、それを明らかにした動画を見てからはとてもプレゼント用でも買う気がしません。でも娘の学校で遠足 として、キャドバリーのチョコレート工場見学に行ったりしているんですよね〜


M &Mのチョコレートも人気ですが、フランスにあるM&Mを製造している工場の近くにある蜂の巣の蜂蜜がすごい色になった写真などを見ると・・・M&Mは果たして、人間の食べるものかなと考えてしまいます。


こちらがM&M工場の廃棄物に触れたミツバチの作るはちみつです。見た目にはきれいですが、食べ物にこだわりの強いフランス人農家は激怒していました。


日本のチョコレートを製造・販売している企業はこの問題に対して、どのような取り組みを行っているのでしょう?

子供の奴隷を使っているチョコレートブランド7社 世界の裏側ニュース
http://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-12127771409.html




2. 中川隆[7495] koaQ7Jey 2017年4月03日 16:43:32: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7979]

▲△▽▼

何も考えないで生きていると、必ず誰かに「モノ化」される


人間は考えることを止めても生きることができる。どうするのか。支配してもらうのである。国に支配してもらい、会社に支配してもらい、親に支配してもらい、言われた通りにする。

そうすれば、自分で何か考えたり、決断したり、行動したりしなくてもいい。

独裁国家は考える人間を排除し、考えない人間だけを作り出し、そしてその「無脳集団」を自分の思う通りに動かして独裁を完成させる。

(独裁者が誕生するのは、独裁して欲しいと思う人がいるから)
https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20170403T0400140900.html


自分で考えないで生きるというのは、誰かの駒になるということである。人間社会は昔から、考える人間が考えない人間を支配することで成り立ってきたのだ。

それは、今も社会の中で公然と行われており、これからも続いていく。考えない人間は誰かに都合良く動かされ、要らなくなったらゴミのように捨てられる。

独裁者は国民を使い捨てにするし、ブラック企業は社員を使い捨てにする。考えない人間は奴隷のようにこき使われて、ゴミのように捨てられる。何も考えないと、必ず誰かに「モノ化」される運命が待っている。

人間のモノ化とは、抽象的な概念ではない。文字通りの意味である。人間が人間扱いされない。生きた人間そのものが「商品」や「物体」として認識され、効率的に使い捨てされるようになっていく。誰がそうなるのか。考えない人間だ。


考えないで生きていると、必ずモノ化される運命

4月になったら、多くの新卒の学生が新入社員としてどこかの会社に入る。何か目的を持って会社に入ったというよりも、まわりに合わせて自分もそうした人も多いはずだ。

何も考えないでまわりと同じようにやっていると、必ずモノ化されることになる。企業が労働者をモノ化するというのは昔から行われていることであり、すでに労働者をモノ化する手法は確立されているからだ。

労働の世界で、企業が人間をモノ化するのは今に始まったことではない。

映画『モダン・タイムス』では、チャーリー・チャップリンが強烈な風刺でそれを世に知らしめて、この映画はチャップリンの代表作になった。

日本でも「女工哀史」に見られるように、女性が機械の部品のように扱われて労働者の「人権」はどうなっているのかと世の中が嘆いた。

(日本女性が忘れた女工哀史は、途上国ではリアルタイムだ)
https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20141119T0212040900.html


そういった極度な労働強要はやがて姿を消すようになったが、しかし1980年からグローバル化が加速していくと、それが見えない形で復活するようになった。

まず、強制労働は途上国の、誰も見ていないところで急速に広がることになった。

中国・インド・バングラデシュでは、子供たちが薄暗く、暑く、埃の舞う衛生観念のないような場所で14時間もぶっ通しで働かせられるようになった。

(児童労働。アジアで知り合った子供たちの顔を何人も思い出す)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20130707T2126240900.html


それが常態化すると、今度は先進国で労働者の賃金格差が起きて、アメリカでは高学歴の人間がファーストフードのデリバリー、若年層はインターンという名の無償労働が起きるようになった。

そして、日本では大量に若者を採用して、つぶれるまで働かせて使い捨てするブラック企業が大量発生するようになった。

人間性を奪い取って、機械の部品のように働かせるのは、紛れもなく、人間の「モノ化」という視点がそこにあるからだ。


ポルノの世界でも、日に日に女性がモノ化していく

こういった表社会で起きている「モノ化」の視点は、もちろん裏社会にも波及している。

たとえばインターネットの普及によって凄まじく粗製濫造されているポルノは、もはや女性との出会いや愛からセックスに至るというような「まどろっこしい」描写は消えた。

欧米でも日本でも、ポルノが蔓延すればするほど、もっと剥き出しに、もっと過激に、もっと激しく女性が陵辱される行為を望んだ。

それが突き進んだ結果、普通の快楽ではもう飽き足らなくなり、過激表現はどんどん突き進んで、ポルノは暴力になる。性行為を通して、暴力的なまでに女性を痛めつけるような過激描写になって、それが喜ばれている。

そこでは女性の意思はないし、あったとしても尊重されない。これは何を意味しているのか。もちろん、女性の「モノ化」である。

その大きな流れの中で見ると、女性がどんどん「モノ化」されていることが見えてくる。本当に女性を「モノ化」するには、究極的には女性を「殺す」ことにつながる。

女性が死ねば、女性の肉体は一個の物体になる。完全なるモノ化の完成だ。

今はまだ信じられないかもしれないが、いずれは女性を殺して死姦するポルノが作られることになる。なぜなら社会が「人間のモノ化」「女性のモノ化」を望んでいるからだ。

そういった目で見れば、最近になって大量に起きるようになった女性の人身売買や拉致監禁事件の本質がどこにあるのかが分かってくるはずだ。

それらは「女性のモノ化」にあったのである。

誰かをモノ化すれば、自分の私利私欲が遂げられるというのを考える人間は悟っており、だから考えない人間を作り出し、そんな人間たちを自分の思う通りに動かそうとするのである。


考えることができるようになればモノではなくなる

私たちは、消費社会にどっぷりと浸って生きている。生まれてから死ぬまで、モノを大量消費することで生きてきた。大量消費するということは、大量に「使い捨て」するということでもある。

「モノを買って、利益を得て、棄てる」という行為が延々と繰り返されて、それが現代人の「物の見方」になっていった。だから「モノを買って、利益を得て、棄てる」という行為に、現代人は疑問を抱かない。

そうであれば、社会全体が人間をそのように扱おうと考えるようになるのは決して意外なことではないはずだ。現代社会がモノを使い捨てにすることを奨励しているのであれば、モノの扱いは人間の扱いにも反映されていくのである。

現に労働の現場では「労働させて利益を得て壊れたらクビにする」が徹底されている。労働のために人間がモノ化した。ポルノの現場では「性行為をさせて利益を得て女性を使い捨てにする」が徹底されている。快楽のために女性もモノ化された。

人間をモノ化できたら、自分の利益・快楽・楽しみのために、他人を消費して、要らなくなったら使い捨てできるわけだから、支配者がそれを求めても不思議ではない。

だから、何も考えずに他人に自分の人生を委ねるというのは、とても危険なことなのだ。

何も考えずに学校で教師の言うことを鵜呑みにし、みんなが行っているからとわざわざ莫大な借金を背負って大学に入り、みんなが会社に入るからと自分も会社に入るような生き方をしている人は多い。

みんなと同じように生きていたら何も考えなくてもいいので楽だ。政府も企業も親もあなたがモノ化していれば扱いが楽なのでモノ化するように働きかける。

だから誰もがモノ化して「考えない道」を選ぶ。

ずっとそんな生き方をしていたら、いずれ「自分で何も考えられない、決断できない、行動できない」人間と化す。何も考えられないから誰かに命令されるだけの人生になる。

そして、自分の人生が自分のものでなくなり、誰かにモノ化されて、良いように使われて捨てられる。

まずは自分が今、モノ化されていないかどうかを考えなければならない。そして、モノ化されていることに気付いたら、自分に問いかけなければならない。

「それでいいのだろうか?」

何も考えないで生きていると、必ず誰かにモノ化されることになる。逆に言えば、考える力を取り戻すとモノ化から脱却できる。考えることができるようになれば、モノではなくなる。

労働の世界で、企業が人間をモノ化するのは今に始まったことではない。

映画『モダン・タイムス』では、チャーリー・チャップリンが強烈な風刺でそれを世に知らしめて、この映画はチャップリンの代表作になった。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/04/20170403T1453160900.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c20

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
21. 中川隆[-13321] koaQ7Jey 2020年3月25日 16:17:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1583]
「公平な貿易」は誰を幸せにするか?日本が知らないフェアトレードの今と未来=田中優 2018年1月30日
http://www.mag2.com/p/money/368677

「フェアトレード」を知っているだろうか? 途上国の生産物を「適正な価格」で買おうという運動だが、南北格差の根本解決にはほど遠い状態になっている。


子供の奴隷労働が支える豊かな生活。世界に「観客席」などないのに

「フェアトレード」とは何か

先日友人に話したら、「フェアトレードって何?」と聞かれてしまった。「公正な貿易」と答えたとしても、理解はされないだろう。現象としては「貧しい国とされる南の国の生産者に公正なレベルの報酬を支払い、適正な価格で商品取引を継続すること」となるだろうか。とりわけ近年は理解されにくくなった。おそらく人々の意識が内向きになり、海外に対する意識が乏しくなっているせいもあるだろうが、もっと大きい点は貧しくて生きるのがやっとという人々が世界の中で見えにくくなったことが影響しているだろう。

それは海外ばかりでなく、同じ国に住んでいても見えにくい。子どもの5人に1人が貧困状態にあるなどと言われても、具体的には見えないのだ。だからまず、貧しさによる生活困窮の状態を知ってもらった方がいい。2001年にはこんな事件があった。

2001年に発覚した悲惨な事件


・さまよえる奴隷船と児童労働

2001年4月17日未明のこと、西アフリカのベニンの港町「コトヌー」に一隻の船が帰港した。船はナイジェリア船籍の「MVエティレノ号」だ。全長60mほどの小さな船舶だが、その船の中には23人の子どもがおり、みな病気で食糧や水も不十分な状態だった。

この船が3月30日に同港を出港したとき、多数の子どもたちが積み込まれたというのだ。その数は130人とも180人とも伝えられた。「ユニセフ(国際児童基金)」など諸団体は警告を発した。「その子どもたちは近隣諸国の農場や家庭に人身売買される『奴隷』である」と。

このため船は近隣諸国で入港を拒否されてさまよっていたという。帰港を待ち構えていたベニン政府、警察、ユニセフなどの関係者はくまなく船内を捜索したが、船内で確認できた子どもは23人だけであった

その後調査がおこなわれ、実際に人身売買が確認されたのは13人とされた。親には子ども1人につき14ドル相当のお金(当時のレートで1400円)が支払われていたという。しかし100人以上の子どもの消息は不明のままだ。

子どもたちはどこに消えたのか。

出典:カカオとチョコのほろ苦ものがたり(4) – mamataroの未来のつくりかた(2009年5月17日配信)

しかしこの事件は氷山の一角だ。ユニセフによれば、この地域で人身売買される子どもの数は少なく見積もっても年間20万人。ブルキナファソやマリなどより貧しい国々の子どもたちが30ドルほどで売買されてくるという。受け入れ先は「ガボンや赤道ギニア、コートジボワール、ガーナ」で、待っているのは「家内労働」、「農場や漁場の労働」、「児童買春」などの強制労働だった。

船に乗せられた子どもたちは10才から14才で、強制労働や債務労働、少年兵士、児童買春などは「最悪の形態の児童労働」に就かされるという。調べると、それは奴隷労働に等しい酷使の実態であった。

なかでも注目されたのが「コートジボワールのカカオ農園」だった。「コートジボワール」は世界最大のカカオ産出国で、世界中で食べられているチョコレートやココアの40%がここで作られている。そのカカオ生産が過酷な児童労働に支えられていたのだ。

新しい21世紀だと世界が祝賀を挙げていた頃、世界の一方の片隅では、こんな事件が発生していたのだ。


たわわに実ったバナナ畑の脇で、飢えて死ぬ子どもたち

ぼく自身も海外で実際の状態を見ている。フィリピンの片隅では、山頂に近い荒れたはげ山の土地に先住民が追いやられ、そこからバナナのプランテーションに働きに出ていた。バナナの房は1つ20キロ程度あるが、それは人間が肩に担いでいかなければならない。日本に輸出されるバナナは、傷があると売れないので機械で運び出すことができないのだと聞いた。

そのバナナは、現地の人々の口には入らない。輸出専用だからだ。それを洗浄して防腐して箱詰めしてトラックで運び、船の船倉に運び込むまでが彼らの仕事だった。それでも1日の賃金は100円ほどにしかならない。そのため飢餓の状態で亡くなる子どももいるのだと。

想像してみてほしい。たわわに実ったバナナ畑の脇で飢えて死ぬのだ。書かれてはいないが、そのバナナは「日本人食用専用」だ。自らは飢餓の状態でいながら、輸出しなければならない。文字通りの「飢餓輸出」が起こっていた。

奴隷労働で学校に通えない子どもたち

マレーシアでは油やしのプランテーションを見に行った。子どももプランテーションの中で働いている。親の傍で働くので楽しそうにしているのだが、その子は学校に行っていない。学校に行こうにもそれだけのおカネが稼げない。ましてや油やしのプランテーションは、切り落としてから1日以内に精製しなければ良い油が取れないので、工場の周囲に市町村1つ分のプランテーションがなければ操業できない。市町村1つ分の面積の外に学校があっても、通うことができないのだ。

そして数字も文字も習わないまま結婚に至る。その相手もまたプランテーションの中に住む労働者の子だ。なんと一生に渡って遠くない距離にある街に出たことがない人々が住んでいた。これは奴隷ではないのか。

このようにして私たちの「豊かな」暮らしが成り立っている。そんな血塗られたチョコレートやバナナ、揚げ油にやし油を使ったスナック菓子など食べたくないと思うのは当然ではないだろうか。

「適正な価格で買ったものを食べたい」という運動

そこで人々を奴隷労働させたのではない、適正な価格で買ったものを食べたいと思ったところから「フェアトレード」は始まった。

西欧のクリスチャンに始まったフェアトレードの運動は、多分に慈善運動の要素を含んでいた。だからよく教会で販売するものは、バザーのように買うことが慈善につながると思って買われていた。だから当初は生産現場の公害問題や使っている薬品、デザインや環境的なダメージまでは考えられていなかった。

そのせいで徐々にフェアトレードの品は売れなくなっていった。いくら慈善のためと言っても、その文化圏では着られないような服を購入することはできなかったからだ。

現在もバングラデシュのジュートを使った「ジュートワークス」の籠や服などを販売している「グローバルビレッジ」が、日本にありながらそれに対応できる答えを出した。「グローバルビレッジ」の代表のサフィア・ミニーは、普通のおしゃれなお店で売られているような衣服を販売したかった。そのためにはデザインが良く、素材や染料まで天然のものに代えて、十分センスに対応できるものにしたのだ。これがいち早く日本で広がり、その手法は海外にも広がっていった。

ここからフェアトレードは「2.0」の段階に入る。海外生産者の内部にまで踏み込んで、女性や子どもの労働環境改善といった外部不経済の解決、持続可能社会の実現に向けた環境的配慮にまで活動の裾野が広がってきたのだ。慈善活動からここまで広がることによって、フェアトレードは、「買い物を通してできる身近な国際協力の形」となってきたのだ。

埋まらない南北格差

ここで「一次産品のフェアトレード」の話に戻そう。

世界での南北問題が1960年代に焦点となり、地球の北半球に位置する豊かな先進国と、南半球に分布する貧しい工業発展途上国との対立が先鋭化した。

1961年の国連「開発の10年」を契機として、南北格差を解決すべくUNCTUD(国連貿易開発会議)が国連に常設機関として決議された。ところが、発展途上国間の関税削減と非関税貿易障壁の排除・削除をはかる特恵関税は1988年になってから、一次産品の輸出に大きく依存する発展途上国に援助を提供する政府間金融機関の一次産品共通基金(CFC)は1989年と、実現までに「開発の10年」から25年以上も経っていた。1990年代からは債務削減に関するさまざまな合意へと進んだが、実に緩慢な動きだった。

その間に1973年からは第一次・第二次のオイルショックに見舞われ、南の国々は激甚な被害を受けることとなった。下図はオイルショック当時の原油、食料品、その他の一次産品の価格を指数で示したものだ。

http://www.mag2.com/p/money/368677/3

これを見ると、原油価格が急激に見上がりしたにもかかわらず、石油を使って生産している食料品も一次産品も価格が追いついていない。生産しても原油価格の値上がりに追いついていないのだから、より利益が少なくなるか赤字輸出に陥っていったのだ。これがそもそも「国連貿易開発会議」が必要になるほど困窮していた開発途上国に襲い掛かったのだ。

このオイルショックによって世界全体が不況に陥る中、世界銀行は不況によってだぼついた資金を、開発途上国に振り向けた。先進国は生産のためのプラントなどを途上国に輸出することで不況から脱していった。

特にこれら生産プラントを輸入して工業化をめざした国を「ハイ・アブゾーブドカントリー」と呼ぶが、そうした政策を取り入れた国であればあるほど赤字化した。それらの輸入したプラントは、旧式の品だったのだ。ここから世界中を貧富の格差で分割するような債務問題が発生したのだ。

先進国の付け値で販売を続けるしかない途上国

そして債務問題が深刻化すると、債務を返済させるための仕組みが始まった。国際通貨基金(IMF)が「構造調整プログラム」を債務国に課し、それに従わないと追加融資しないだけでなく、実質的に国際貿易から締め出した。

従わないという選択肢はない。そこで押しつけられる政策は、「社会構造を調整して債務を返済できるようにする」ものであり、具体的には途上国の通貨価値を引き下げること、「福祉・教育・医療」に使うようなおカネがあるなら返済させること、国内で消費するような産物は生産せず、海外への輸出に振り向けて返済に充てることを求めた。同時に途上国にある採算性の良い企業を、先進国企業に身売りさせた。

これは上の「国連貿易開発会議(UNCTUD)」の方針と真逆であることに気づいてほしい。しかも国連よりはるかに強力な国際金融機関によって推進されたのだ。この構造調整プログラムに世界銀行もまたすぐに参加した。しかし世界銀行こそ古いプラントを売り込んで借金地獄に陥れた張本人なのに。

その結果は悲惨なものだった。次の図をみてほしい。

http://www.mag2.com/p/money/368677/3

上で述べたように「一次産品の輸出に大きく依存する発展途上国」なのだ。しかし否応なしの債務返済の圧力によって、「価格が上がって戻るまで待つ」のではなく、「より多量に輸出する」ことを選んだことによって、一次産品の価格は下がり続けたのだ。

実質的に「国連貿易開発会議」の方針と「構造調整プログラム」の方針は真っ向から逆になっている。しかし国連は「一国一票」だからある程度民主主義が進められるが、IMFも世界銀行も出資国の出資額に応じて票になる。なんと先進国G7だけで投票数の過半数を超えるのだ。実質先進国が過半数を得て進めている。

このような仕組みと社会で一次産品共通基金(CFC)を作ったところで、どうなるかは火を見るより明らかだった。

途上国で生産されるコーヒー、紅茶、バナナなどの食料・飲料類、非食用原料、油脂、鉱物性燃料、金属、鉱産物などの一次産品に対しては、途上国経済が大きく依存する品である。そのため価格安定・輸出所得の改善を目的として「国際商品協定」が締結されたのだが、すでに一方には「構造調整プログラム」が進んでいた。やがて「国際商品協定」は実質的に意味を失い、人々の認識の中ですら忘れ去られていった。

実質的に失敗したまま、現在に至っている。途上国の側には価格形成権などなく、ただ先進国側の付け値で販売するしかなくなったのだから。


さらに進む先進国有利

このように実質的に途上国には全く闘う術がないという状況の中、世界はさらに先進国に有利な「経済のグローバリゼーション」の時代に入っていったのだ。その後の世界の価格市況を見てみよう。

http://www.mag2.com/p/money/368677/4

いまだに一次産品の価格指数は下がり続けている。その間にブリックス諸国の台頭、とりわけ中国の資源輸入の急増があったというのに、下がり続けている。

こうして世界の中には貴族のようにマネーゲームで暮らすような先進国と、奴隷のように働きながら食べることも困難な途上国とに分離したのだ。

フェアトレードに期待するのは難しいが…

この経過をきちんと知るなら、フェアトレードに過大な期待などできないことがわかるだろう。国連自ら機関を作って進めたのに敗北したのだ。それを強大な力で叩き潰したのが、多国籍企業とその手先と化している国際通貨基金(IMF)と世界銀行なのだ。

ところが今では「フェアトレードは偽善だ」とか、「効果がほとんどない」とか「相手の団体の組織運営が民主的でない」とか、非難するのが流行っている。もともとそんなに大きな効果はないのだ。国連すら敗北する強大な力に対して何ができるというのか。

しかしだからといって、貧しい国の人々の努力を踏みにじるような行為に加担したくないというのが「フェアトレード」なのだ。そしてさらに言えば、それをさらに進化させたい。「グローバルビレッジ」のサフィアさんは以前に言っていた。国内の農産物も販売したいと。そこに格差があるなら、なくなるようにしたいのだ。

大きな企業の「フェアトレード」への参入もある。否定したい気持ちもわかるが、それでも「悪人」にはしたくない。それほどの効果がなかったとしても、企業の企画に取り入れるのは大変なことだからだ。

フェアトレードを活かす方法とは

その中でぼく自身はさらに夢を見る。インターネットの発達と決済方法の多様化、国際的な物流の発達は、やがて世界中を覆うだろう。その時、個人から発信する商品が販売されていく時代が来るのではないか。

ぼくの友人は「現代農業」という出版社から、『小さな農家で稼ぐコツ(西田栄喜著)』という本を出版し、2年経つというのに未だに売れている。本に書かれている農場では、たった30アールの農地(普通の農地の10分の1しかない)で、年間1200万円の売り上げを出しているのだ。


しかし、インターネットを活用するにしても、画一的な価格だけが競争力になるものの販売には向いていない。私は「一品物」を販売するのに適したツールではないかと思っている。「貿易」がインターネットの発達などによって次世代の販売方法に移っていくなら、新たな「フェアトレード」が可能になるかもしれない。

ただ「フェアトレード」をそしるより、参加する人の気持ちを実現できる仕組みを編み出した方がいい。この世界の中には「観客席」はないのだ。

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