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DbsSfawrpEw コメント履歴 No: 100013
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[番外地6] 米ネオコンとは? 中川隆
12. 中川隆[7095] koaQ7Jey 2017年3月13日 13:45:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7561]

2017.03.13 3月利上げと半世紀ぶりのサウジ国王来日
http://golden-tamatama.com/blog-entry-saudiarabia-in-japan.html


FOMCが15日に利上げ発表。
そしてその時、サウジのサルマン国王が日本にいる。

何かある。。

ちなみに半世紀前にサウジ国王がやってきた時は何が起きたでしょう。
直後にニクソンショックが起きたのでした。


1971年 5月20日 サウジ ファイサル国王来日

1971年 8月15日 ニクソンショック(米ドルと金との兌換停止)

つぁぁぁ。
これは非常に気になります。

ちなみにサウジと言えば、昔からCIAの資金提供国でした。
CIAとつるんでテロのスポンサーをやってきた国ですね。
アルカイダのビンラディンさんに始まり今はイスラム国のIS。

なんでISがトヨタのランドクルーザーを乗り回せるのかというと
中東でトヨタ車を陸揚げできるのは、イスラエルとサウジアラビアの港だけだからです。
それを考えればスポンサーが誰なのか分かるでしょう。

中東の偽テロはCIA、そしてサウジやトルコが作ってた。
来日するサルマン国王は優しげな国王というイメージで語られることが多いのですが
偽テロを作ってきたスポンサーが優しい訳ないのです。

ちなみにトルコにはISの訓練場があります。
これも色んな人が言ってることです。

で、最近、トランプさんになって中東のテロがぱったり止まった。
ワタスが気になってるのは石油がかなり下がり始めてるとこです。

3月に入って急に下がる原油価格。

そのためCRB指数も暴落してます。

CRB指数が下がると、次に株が暴落することが多い。

サウジ国王は、日本の後、中国に行きます。
今まで米国債を買ってきたのは日本、サウジ、中国です。

今までCIAの手下で頑張ってきました。
アメリカさんを支えてきました。

でも、もう、限界です。
米ドルを買い支えるのやめます。

必殺、逆ニクソンショーック!
サウジ国王は、日本にその相談に来たのでしょうか。

どうも今月15日のFOMCのイエレンおばちゃん。
そしてサウジ国王来日。
連動してる気がします。

今後の大きな流れ。
アメリカ一国支配体制を終わらせる。
世界を多極化させる。

だからこそトランプ政権誕生であり、ISの解散なのかもしれません。

今月後半。
何か大きく動く気がしてきました。
http://golden-tamatama.com/blog-entry-saudiarabia-in-japan.html
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/751.html#c12

[政治・選挙・NHK222] 新党憲法9条は東京都議会選挙に挑戦します!  新党憲法9条 天木直人 赤かぶ
2. 中川隆[7096] koaQ7Jey 2017年3月13日 17:45:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7562]
このアホは軍隊も核兵器も無ければ日本が中国人に乗っ取られるというのがわからないんだな:


1972年2月、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー補佐官が北京を訪問し、
周恩来首相と会談した時に、日本に対して三つの密約が交わされた。

米中密約の内容

1.日本に核武装そして単独防衛させない
2.これを防ぐために米軍は日本に駐留する(ビンの蓋論)
3.朝鮮半島および台湾問題で日本に発言権を与えない


中国の兵器は移民爆弾
中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無い


漢民族は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。


秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。


ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。


清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。


今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。


戦争に勝てなくても領土を増やす方法

そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。


漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。


チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。


このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
http://thutmose.blog.jp/archives/66023396.html

50年後の日本地図 (日本人は放射能汚染された東日本に押し込められる)
http://blog.goo.ne.jp/hps777/e/ee6e8a91af4cf1c9b0adb452f1667b7e



http://www.asyura2.com/17/senkyo222/msg/325.html#c2

[近代史02] プーチン大統領は神の申し子_____小沢一郎先生はこういう人になって欲しかった 中川隆
55. 中川隆[7097] koaQ7Jey 2017年3月13日 17:51:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7563]

オバマのウクライナ・クーデターは250万人のウクライナ難民ロシア流入を引き起こした
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/250-d600.html
2017年3月13日 マスコミに載らない海外記事 Eric ZUESSE 2017年3月12日

3月7日火曜日、ウクライナ難民のロシアへの殺到に対応している、つまり、ウクライナで民主的に選ばれたヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領を打倒した、アメリカ大統領バラク・オバマによる2014年クーデターの結果、ウクライナから逃れた人々に対応しているロシアの幹部議員が、 2014年2月クーデター後、ロシアで亡命を受け入れられたウクライナからの亡命申請者の包括的数値を初めて発表した。ロシア政府は、これまで公式に数値を発表してこなかったが、“失業補償を含む様々な社会福祉の受領が許される”公式難民認定を含む、ウクライナ難民各人が政府に登録される難民処理システムを立ち上げた。

タスはこう報道している。

東ウクライナでの紛争勃発以来、ロシアは、2,500,000人以上の難民を受け入れたと、ロシア上院副議長で、南東ウクライナ住民公的支援委員会委員長のユーリー・ヴォロビヨフが、火曜日に述べた。

“ヨーロッパは900,000人の[難民]を受け入れて、おののいているが、我々は、2,500,000人以上の難民を国内に受け入れ、支援を提供し続けている”と“ロシア-ドンバス: 新たな協力の仕組み”の討論会冒頭に彼は述べた。

こうした何百万人もの難民を産み出したクーデターは、アメリカホワイト・ハウスにより、2011年以来計画されており、2014年2月20日に頂点に達した。同じ日に、クリミア住民の75%が投票した大統領打倒に反対するプラカードを持って、キエフで立っていた何百人ものクリミア住民は、クーデター支持者によって攻撃された(、実際には、ウクライナの民主主義を終わらせた連中に率いられていたのに、ウクライナで“マイダン革命”は‘民主主義’を要求しているものとして宣伝された)。これらのクリミア住民は即座に、彼らをキエフに運んだ8台のバスに乗車し、故郷へ向け出発したが、アメリカ政府が支援する右派セクター武装集団が、必死のバス追跡を開始し、キエフの外、コルスンの町で、何台かを燃やし、抗議行動参加者の多くを虐殺した。これは“コルスン大虐殺”と呼ばれるようになり、クリミア内のクリミア住民は、即座に、クリミアが、1954年までそうだったように、再度ロシアの一部になるよう抗議行動を開始した。

クリミア住民は、アメリカ合州国よりも、ロシアを圧倒的に好んでおり、現在、キエフで支配する人種差別主義反ロシア政府に怯えていた。この恐怖、単に虐殺だけによもるのではなく、75%のクリミア住民が、オバマが打倒した人物に投票していたためだけでもなく、クリミア住民の大半が(とヤヌコーヴィチに投票した大半のウクライナ人が)、実際にクーデターを行った右派セクター連中による、親ロシア派ウクライナ人に対する人種差別主義の強烈な憎悪を十分知っていたためでもある。2014年3月16日に、クリミアで住民投票が行われ、ロシア再編入賛成票は90%を超えた。すると、アメリカのオバマ大統領は、クリミアをロシアに受け入れたかどで、ロシアに経済制裁を課した。こうした経済制裁や、キエフの新たな軍事政権に対するアメリカの軍事支援が、公式に西欧の対ロシア冷戦を再開することになった(実際には、ソ連が1991年に崩壊して以来、ロシアに対し、秘かに継続していた。冷戦は、ロシア側でのみ終わっていたのだ)。

もちろん、アメリカのオバマ大統領は、票の90%が、ヤヌコーヴィチだった、ウクライナの極東地域、ドンバス住民が、それ以降のいかなる全国的なウクライナ大統領選挙でも、アメリカが押しつけたウクライナ政権によるウクライナ支配の継続を不可能にしかねないことを認識していたのだ。それゆえ、彼のウクライナ政府は、彼らを出来るだけ多く殺害し、できるだけ多くのドンバス住民をロシアに逃れるよう仕向けるドンバスでの民族浄化作戦を開始したのだ。これら有権者を追い出すことは、オバマのウクライナ作戦成功には必要不可欠だった。この民族浄化こそが、一体なぜ250万人の元ウクライナ人が現在ロシアで暮らしているかという理由だ。ウクライナ有権者の中に、彼らがい続ければ、ウクライナ政府に対するアメリカの支配継続を危うくするので、それは認めがたいことだった。これらの250万人は、現在、こうして、ウクライナから完全に追い出され、おそらく、こうした有権者の十分な人数が、アメリカが、ウクライナ支配を継続する中、ドンバスが、再びウクライナの一部になることが可能になるよう、ウクライナから去ったのだ。

アメリカや、アメリカ支配層に牛耳られている他の国々では、マスコミは一般的に、ウクライナ難民に関し、“ロシア政府の政策は、彼らをロシア国民が耐えているより一層不利な立場においており”、これら難民は、アメリカ政府のせいではなく、ロシア政府のせいで苦しんでいるというようなことを言って、ロシアを批判している。

アメリカのドナルド・トランプ新大統領は、対ロシア経済制裁は、クリミアもドンバスも、再びウクライナの一部になるまで終わらないことをはっきりさせた。だから彼は前任者のロシア政策を支持しているのだ。言い換えれば、ロシアを絞め殺すための(サダム・フセインやムアマル・カダフィや、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチを含むロシアに対して友好的な指導者を抹殺するなどして - バッシャール・アル・アサドに対しても同じことを行おうとしている)アメリカの戦争は継続するだろう。

記事原文のurl:http://www.strategic-culture.org/news/2017/03/12/obama-ukrainian-coup-caused-millions-ukrainian-refugees-into-russia.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/297.html#c55

[近代史02] 平成バブル崩壊と ソロモン・ブラザース証券 相場師列伝3 スットン教
11. 中川隆[7099] koaQ7Jey 2017年3月13日 18:25:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7565]
29. 中川隆[7098] koaQ7Jey 2017年3月13日 18:25:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7564]

2017年03月13日
ドイツG20で為替激変か アメリカがドル安要請

日本が貿易で儲ける限り、悪夢は何度でも繰り返される
引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/ee/13cd9121bad6347cfe7fbc8ed4137307.jpg


G20で日米通貨対決

3月17日にG20(財務相・中央銀行総裁会議)が開催され、翌18日に共同声明が発表されるが、声明から為替文言が削除されるのがわかりました。

ロイターなどによると草案から為替安定を求める定番の言葉が、アメリカの要請によって削除されました。

草案からは過度のボラティリティーや、無秩序な動き、競争的な通貨切り下げという言葉がなくなっていた。

          
これらの言葉はリーマンショックからずっとG20やG7では声明に加えられていて、特に日本が好んで要請した。

「為替相場の過度のボラティリティーや無秩序な動き」とはつまり円高の事であり、中川財務大臣や麻生財務大臣は声明に加える事にこだわっていた。

現在の麻生財務大臣もこの一言を要望していた筈なので、議長国ドイツは日本よりアメリカの要望を取り入れた事になる。


替わりに「行き過ぎた世界的な不均衡」という言葉が加えられ、ロイターは中国とドイツの貿易黒字を指していると言っています。

安倍首相は2017年2月9日から13日まで訪米し、首脳会談の他にトランプファミリーと夕食会やゴルフなどをして親密ぶりをアピールしていた。

その時は日米同盟の重要性や対北朝鮮対策などが主要議題で、為替の話は出なかったので「問題は杞憂だった」とする解説が多かった。


トランプは選挙中から為替の不正操作や貿易不均衡を問題視していて、日本を名指しで批判したが、問題は解決して日米は親密になったとされた。

だが3月9日、アメリカはWTO世界貿易機関に、日本の自動車や農業市場の解放を求める意見書を提出し、解放を迫る方針なのが分かった。

やはり日米経済摩擦は解消されたのではなく、首脳会談では「安倍首相とトランプ大統領の顔を立てる」ために問題を先送りにしただけだったようです。

投資家は円高に備えたほうが良い

アメリカの貿易赤字のなかで日本は、中国に次ぐ689億ドルとなっており、日米経済対話で強硬姿勢を取る事が考えられる。

ここで思い出すのは80年代のレーガンと90年代のビルクリントンの対日政策で、非常に強硬な態度を取ってきました。

レーガンは中曽根首相と「ロンヤス」と呼ぶ仲で日米同盟は強固な関係だったが、貿易と為替では日本叩きを展開しました。


中でも有名なのは1985年9月22日のプラザ合意で、日曜日に竹下蔵相(後の竹下首相)がNYに呼びつけられて、G5蔵相・中央銀行総裁会議が開催されました。

会議の前に日本以外のG4(アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツ)で話し合いは終わっていて、日本には決定した結果だけが伝えられ、賛成するよう強要された。

円相場を高くするためG5が円買い協調介入するのが決議され、ホテルの名前をとってプラザ合意と呼ばれている。


プラザ合意の結果、260円だったドル円レートは2年半後には120円台と半額以下になり、以降日本はずっと円高に苦しむ事になった。

1971年8月15日にアメリカは金との交換をやめ、変動為替相場制にしたが、日本は従わずに政府の介入で固定相場を維持していた。

その結果貿易で不利を受けたG4は強制的な円高を引き起こすのを決め、ダムが決壊するように日本政府が維持した為替相場は崩壊した。

日本の悪夢は繰り返されるか

90年代のビルクリントン政権でも日米経済摩擦と為替対立は続き、1995年には1ドル79円の超円高を記録している。

95年円高は阪神大震災やオウム事件、社会党反米政権なども影響したが、その前からジリジリと円高が進行していた。

プラザ合意のような協調介入はなかったが、既に変動相場になっていた為替市場は、クリントンが軽く押しただけで崩壊した。


このようにアメリカの圧力で簡単に円高になる理由は、実は日本自身が作り出していて、アメリカはきっかけを作ったに過ぎない。

日本は最近は貿易赤字と黒字を交互に繰り返しているが、その代わり貿易外収支が大幅に黒字なので、以前に増して国際収支の黒字を積み上げている。

国際収支や貿易収支の黒字が貯まれば、いずれ外国から日本に対価の支払いが行われ、円が大量に買われて円高になるのは避けられません。


要するにトヨタが外国で自動車を1兆円売れば、その1兆円はいつか必ずドルから円に交換されて、その分円高を引き起こします。

中国はそうならないように大量のドルを買って人民元を安く維持し、不正操作だと指摘されてきました。

韓国やドイツも同じ手で自国通貨を安く維持して輸出で儲け、アメリカの貿易赤字になっています。


この中で日本はアメリカに軍事力を依存していて、アメリカが「円高にしろ」と命令して拒否したら「じゃあ尖閣諸島を守らない」と言ってきます。

アメリカとしては日本が逆らえないのを知っているので交渉がやりやすく、「いじめやすい人間からいじめる」のです。

ムニューシン米財務長官はG20で「自国通貨安を誘導しようとする国を米国は容認しない」と表明する方針を示しています。
http://www.thutmosev.com/archives/69906735.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/258.html#c11

[リバイバル3] 伝説の静電型スピーカー QUAD ESL57・ESL63 中川隆
17. 中川隆[7100] koaQ7Jey 2017年3月13日 19:07:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7566]

2012-06-16
ARE YOU EXPERIENCED? / QUAD ESL57
http://lotuscalifornia.blogspot.jp/2015/01/are-you-experienced-quad-esl57.html


梅雨になると思い出すものがある。
好きで好きで手に入れたけど、どうしてもうまく使いこなせなかったあれ。


強く張った二枚の薄いラップのような膜に
高電圧をかけて振動させて音を出す特殊な仕組みのこのスピーカーは、
湿度が高いと膜どうしが接触して壊れやすいらしく、
梅雨の間はエアコンの除湿を常にかけていた。


僕は好きになったものは骨の髄までしゃぶり尽くしてやろうと思っている。

そのたたずまいの良さ、
スピーカーとは思えないデザインの斬新さに惚れ込んで
音も聴かずに手に入れた英国QUAD ESL 57。(1957年のデザイン)

かのチャールズ・イームズもSTEPHENS社になかなかのスピーカーを残したけど
これほど美しいスピーカーは他には無いと思う。
その美しさに入れ込んでいた僕はフロントパネルを新品に張り替え、
サイドのフレームも家具屋でレストアし、
そのエレガントな脚も新品に取り替えた。
(もちろんオリジナルは保管しておいた。)

眺めているだけでも満足だった。はじめのうちは。

イギリスのBBCがモニタースピーカーとして使っていた由緒ある名機。

でも僕の部屋ではさえない音でしか鳴らなかった。
いや、ただ鳴らせなかっただけかもしれない。

QUAD44と405の純正セットで出て来た音は、
隣の部屋から聞こえてくるラジオのような音。
メリハリのないBGMというべきか...。
音楽聴いていてもなんだかのれないし心が踊らない。


ESLには電源が重要だと聞いては,
200Vオーディオ専用電源をことのついでに引いてみた。
球のアンプじゃなきゃいい音で鳴らないないよと言われては、
真空管のアンプをつなげてみた。
奇才アンプデザイナー、マーク・レヴィンソンが
ESLを中域だけにつかっていたと知っては
ツィーターとサブウーファーの導入を検討してみたり...。

ESLは部屋の真ん中に置いて後方から出る低域を
自由にさせてやるのが本来の使い方と知り、
家族が留守のときに部屋の真ん中に置いてみた。
いい音になるポイントを探して少しずつ椅子を近づけていくうち
ESLは巨大なヘッドフォンのように僕に近接していた...。

ふと我に返った。
なにやってんだろう...。
まるで惚れた女の子に振り回されるさえない十代の少年の恋愛のようだった。


気づけば音楽を聴かずに、
いい音を出す工夫の日々。
しらずしらずのうちにそこそこに鳴ってくれる
BOSANOVAやFOLKばかりを聴くように。
つまりは低音の入ってない音楽ばかりで、
僕の音楽を聴く楽しみは半減していた。

ヤーメタ!
僕は音楽を聴きたいんだ。
時にはディストーションの効いたジミ・ヘンドリックスのギターを、
レッド・ゼッペリンのジョン・ボーナムのドラムスの重低音を
爆音で浴びるように聴きたいんだ。
降り注ぐ音楽で心を振るわせたいんだ。

一目惚れから覚醒した僕の部屋には、
音楽を聴くことを単純にたのしむために四角いJBLのスピーカーがある。


でもときどきESL57のことを思い出す。
きょうのような雨の日に。
甘酸っぱい初恋のように。



コメント:

その後のESL2012年10月30日 8:45

その後、拙宅へやってきたESL57。確かに低音が全然鳴らない。。。電源を入れてからの立ち上がりも遅い。高圧整流基板交換しようと、裏の網を外してみると・・・ありゃりゃ、低域の配線が断線してます! 半田付けして、埃も取って、整流基板交換して、、、 素晴らしい音です!低域もすごい! 鳴らせ方が悪かったのではなく、そもそもESLのコンディションが悪かっただけでした。とっても素晴らしい音で鳴ってますよ!特にボーカルは生唾ものです。是非、リトライされんことを!


lotuscalifornia2012年11月6日 1:13

その後のESLさん、
もしかして僕のESLのその後のお話なんでしょうか。そうだとしたらとても嬉しいことです。断線ですか、メンテナンスしていただいてうまくならしていらっしゃるんですね。いい方のところに嫁いでくれて良かったです。いつかまたESL...。うーん。その後の僕のQUAD44&405はCELESTION/6SLiに、33&303はROGERS LS3/5aに繋がれコンパクトにまとまっています。でも、やっぱりESLもいいなー。はぁー(笑)。


通りすがりの人2013年9月5日 20:52

失礼致します。
オーディオの楽しさを存分に感じる素敵な記事です。まさに少年の頃の恋愛そのものですね。現在がCELESTIONやLS3/5aというあたりもやはり恋愛に通じているように思えますしw いつまでたっても忘れられないものです。


lotuscalifornia2013年10月25日 3:02

通りすがりの人さん>コメントありがとうございます。
オーディオも含めて、モノとの出会いも10代の恋愛のようなものですね。
わーっと一方的に好きになって、なんとかモノにしてやるぞーみたいな(笑

ESL ファン2014年1月21日 8:06

亀レスです。世の中にはESLファンがやっぱりいるんですね。僕も57を8組持ってます、仕事場、住宅などに。それは故障品を自分でレストアしました。レストアからいろいろ学びました。この会社の事を。1950年代によくぞこうい物を設計して売ろうとした英国人に感服しました。レストアの過程で設計問題がわかりそれを改善しましたので放電問題はもう起きません。使えば使うほどに、このESLの音の良さがわかります、先人に感謝です。


ESL ファン2014年1月21日 8:06

亀レスです。世の中にはESLファンがやっぱりいるんですね。僕も57を8組持ってます、仕事場、住宅などに。それは故障品を自分でレストアしました。レストアからいろいろ学びました。この会社の事を。1950年代によくぞこうい物を設計して売ろうとした英国人に感服しました。レストアの過程で設計問題がわかりそれを改善しましたので放電問題はもう起きません。使えば使うほどに、このESLの音の良さがわかります、先人に感謝です。


k2014年2月13日 8:06

loutuscaliforniaさん、失礼します。
ESLをググっていて、偶然見つけました。
ESLファンさん。私も、ESL57を使っていますが、低音ユニットから、パチパチ音がするようになりました。やはり、湿気によって、パチパチの頻度が変わりますが、もし、よろしければ、改善点を御教示ください。

ESLファン2014年3月3日 10:10

音がパチパチと乾いた音か、あるいはボツボツとかポツポツ音で故障の原因が違います。
前者ですと、振動膜の破れです。後者ですと固定電極が固定枠から外れて浮いています。
ともに4分割されたパネルの不良です。
日本の修理代行店にたのんでも直らないです、修理代だけが高くて。

lotuscalifornia2014年3月5日 6:15

ESLファンさん、もっとはやくにお会いできていたら良かったのにと思います。いつかまた手に入れたときにはいろいろ教えてくださいね。僕は、もう少し広い家が手に入ったら(夢ですが)10帖くらいの寝室のベッドの足下にポンとESLをおいて、朝おきたらそのやさしい音でゆっくりと目を覚ましたいと夢みていますW


ESLファン2014年3月5日 12:02

もう一点重要なポイントです。
ESL57は床から50cm以上あげて聞くともっと素直な低音〜高音が聴けます。高さのポイントは、ご自身の耳の高さまでESLを上げることです。私の場合はやく65cmにしました。ちなみにオランダ・フィリップス社、英国BBCでは、いまだこのESLをモニターで使ってます。


ESLファン2014年3月5日 12:23

http://community.phileweb.com/mypage/2796/
ここにESL57の写真を掲載しています。
ご覧ください

lotuscalifornia2014年11月17日 7:07

ESLファンさん、写真拝見しました。ESLにすばらしいハイヒールのコーディネイト。足下にひれ伏してしまいそうですW
ハイヒールの裏側は真っ赤にしたいですね、ルブタンのように。
http://lotuscalifornia.blogspot.jp/2015/01/are-you-experienced-quad-esl57.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/682.html#c17

[経世済民120] 政府や日銀の壮大な無駄遣いが「日本国の寿命」を縮めている(週刊ポスト) 赤かぶ
1. 中川隆[7101] koaQ7Jey 2017年3月13日 19:57:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7567]
>もはや日本は成長しえないという現実を受け入れて


この知恵遅れは、GDPが成長してないのは世界中で日本だけだというのも知らないんだな

金さえ ばらまけばすぐに高度成長するのは経済学の常識だ
http://www.asyura2.com/17/hasan120/msg/163.html#c1

[経世済民120] 政府や日銀の壮大な無駄遣いが「日本国の寿命」を縮めている(週刊ポスト) 赤かぶ
4. 中川隆[7102] koaQ7Jey 2017年3月13日 22:12:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7568]
>>2
>金をばら撒いて成長するのは新興国だよ。


金が日本国内で使われれば高度成長するんだよ

今は余った金がすべて外国に投資されるから日本国内で金が不足するんだ
http://www.asyura2.com/17/hasan120/msg/163.html#c4

[リバイバル3] 本当にあった怖い話 中川隆
61. 中川隆[7103] koaQ7Jey 2017年3月13日 23:26:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7569]

ほんとにあった怖い話 第02話
https://www.youtube.com/watch?v=3gcDSpJ-ZRo


2004年1月17日放送

さがしもの(主演:成宮寛貴、共演:平田竜也)
見えない住人(主演:山口日記、共演:野村恵里、大江聡、袴田裕幸)
最期の声(主演:深田Y子、共演:田中千絵)
赤い服の女(主演:富岡涼、共演:石川眞吾、雅子)



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/645.html#c61

[不安と不健康15] コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ)  赤かぶ
194. 中川隆[7104] koaQ7Jey 2017年3月14日 08:27:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7570]

コンビニのから揚げは人体に超危険!中国産は中国政府も危険視する「薬まみれ」
http://biz-journal.jp/2017/03/post_18326.html
2017.03.14 文=郡司和夫/食品ジャーナリスト Business Journal


 なぜか酉年は、から揚げなどのチキン製品がよく売れるといいます。もともと酉は、西の方角や午後6時ごろを指す言葉です。「トリ」とはいえ、チキンとは関係ないのですが、ファストフードやコンビニエンスストアチェーン各社は、“12年に一度のビジネスチャンスを逃すな”とばかりに、年明けとともに激しい“チキン商戦”を繰り広げています。なかでも熾烈なのが、チキン製品のなかで一番の人気製品である「から揚げ」をめぐる戦いです。

 しかし、チキン製品で消費者の頭にすぐに浮かぶのが、2014年7月に発覚し、てんやわんやの大騒動となった、賞味期限切れの中国産鶏肉使用の一件です。

 賞味期限切れの腐った鶏肉を使った上海福喜食品のチキン製品は、13年7月から14年7月までに6000トンが中国から日本に輸入され、日本マクドナルドやファミリーマートで販売されていたことが明らかになりました。

 その結果、日本マクドナルドの14年8月の売上高は、01年に上場して以来の最大の下落幅となる前年同月比25.1%減となりました。ファミリーマートも該当する商品の販売を中止し、レシート持参者への返金対応を行うなど、大きなダメージを受けました。

 厚生労働省は、この事態を受けて、から揚げなどの鶏肉の原産地を消費者に明らかにするようにコンビニ各社に指導しました。その後、ローソンとファミリーマートは、レジ前の鶏のから揚げコーナーに「国産若鶏100%使用」などと大きく表示しています。また、セブン−イレブンは、インターネット上でタイ産(一部中国産)と明らかにしています。他方、中国産鶏肉を使用していることを明らかにしているコンビニチェーンもあります。

 もちろん、上海福喜食品製の鶏肉製品は使用していないと思われますが、簡単には安い中国製鶏肉から脱却できないコンビニチェーンは多いのです。

■中国の危険な養鶏事情

 中国産鶏肉(主にブロイラー)の最大の不安点は、賞味期限切れの腐った肉よりも、抗生物質や抗菌剤など薬剤の残留です。から揚げなどの加工品で輸入すれば、薬剤残留検査はフリーパスです。

 中国のブロイラー生産現場での薬漬け飼育は、中国政府も問題視しているほどです。雛の段階から、感染予防のために毎日、飼料に抗生物質のリンコマイシン、さらに成長ホルモン剤を規定の使用量以上与えて飼育しています。こうこうと電灯をつけて夜も眠らせず餌を食べ続けさせ、わずか40日程度で食肉加工場に出荷します。

 背景に、中国国内でブロイラーの膨大な需要がある限り、こうした促成の飼育状況は容易に変わらないはずです。

 中国政府はこれまで、「中国国内で危険な食品が出回っているのは認めるが、輸出向け食品はまったく別管理で厳しくしている。国内向け食品で問題が起きたからといって、それがそのまま輸出されることはない」と説明してきました。しかし、輸出用の鶏肉は中国国内とは別の環境で飼育しているというのは、とても信じられません。上海福喜食品の一件が、それを明らかにしました。同社は中国国内の最大手鶏肉加工品メーカーですが、国内用も輸出用も同じ飼育環境のブロイラーを使用していたのです。

 抗生物質や合成抗菌剤が残留している食品を食べ続けると、体内に薬剤耐性菌が生まれ、万が一病気になったときに抗生物質の薬がまったく効かないということになります。

 したがって、中国産から揚げは避けたほうが健康のためです。中国産に限らず、コンビニのから揚げは小さな子どもには食べさせるべきではありません。子どもの将来に悪影響が出るおそれのある食品添加物が使われているからです。

 白身の魚肉や抗生物質、抗菌剤漬けの鶏肉をくっつける結着剤として縮合リン酸塩が使われています。この縮合リン酸塩は、多量に摂取すると老化が早まり、腎臓障害を起こすと国際毒科学会で報告されています。また、縮合リン酸塩は、日本大学医学部病院の富田寛元副院長は、味覚障害の原因になると指摘しています。

 また、コンビニのから揚げは、もともと栄養分の滅失した粗悪な原料でつくられているので、ナイアシン、リボフラビン、乳酸カルシウムなどの添加物が栄養強化剤として添加されています。乳酸カルシウムは世界保健機関(WHO)から乳児用に使用すべきではないと警鐘を鳴らされている添加物です。せめて、乳酸カルシウムと縮合リン酸塩の使用の有無は明らかにすべきです。

http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html#c194

[政治・選挙・NHK222] 事態はここまで悪化した 尖閣周辺で我が物顔の中国 トランプの奥の院に入り込んだ誇り高き英雄 森友学園問題に政治家関与? 軽毛
1. 中川隆[7105] koaQ7Jey 2017年3月14日 10:57:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7571]
もう宣戦布告するしかないだろ

中国人は弱虫だから、アメリカが助けない時には強く出れば何でも言う事を聞くんだよ:


1972年2月、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー補佐官が北京を訪問し、
周恩来首相と会談した時に、日本に対して三つの密約が交わされた。

米中密約の内容

1.日本に核武装そして単独防衛させない
2.これを防ぐために米軍は日本に駐留する(ビンの蓋論)
3.朝鮮半島および台湾問題で日本に発言権を与えない


中国の兵器は移民爆弾
中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無い


漢民族は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。


秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。


ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。


清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。


今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。


戦争に勝てなくても領土を増やす方法

そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。


漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。


チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。


このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
http://thutmose.blog.jp/archives/66023396.html


50年後の日本地図 (日本人は放射能汚染された東日本に押し込められる)
http://blog.goo.ne.jp/hps777/e/ee6e8a91af4cf1c9b0adb452f1667b7e

http://www.asyura2.com/17/senkyo222/msg/351.html#c1

[昼休み53] 日本はアメリカの仮想敵国 _ 米軍は日本が独立するのを阻止する為に日本に駐留している 中川隆
11. 中川隆[7106] koaQ7Jey 2017年3月14日 11:29:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7572]
>>9 の続き


2017年03月14日
スウェーデン徴兵制復活 廃止した各国が復活の動き

徴兵を禁止した国は実はない(写真はスウェーデン)
引用:http://media.breitbart.com/media/2017/03/wi/ap/02/1tclils-640x427.jpg


スウェーデンが徴兵制復活

北欧のスウェーデンは3月2日、フルトクビスト国防相が、2010年に廃止した徴兵制を復活させると発表しました。

徴兵制は時代遅れという指摘もあるが、意外にも一度徴兵制を廃止した国々で、再び検討する例が増えています。

背景には経済的に豊かになるにつれて、兵士に志願する若者が減少し、政府の給与負担が増加しているなどがある。
         


日本でも景気が回復するにつれて自衛隊員に応募する若者が減少し、募集する為には民間より良い条件を提示しなくてはならない。

自衛隊員の給与は民間企業の平均より高くなるよう設定されているが、当然ながら民間給与が上がるほど政府の負担が増える。

それに先進国はどこも少子高齢化傾向なので、年々子供の人数が減り、なおさら兵士の確保が困難になっています。


スウェーデンは徴兵制復活の理由としてロシアの脅威を挙げていて、領土は隣接していないが、ソ連時代から圧力を受けてきました。

スウェーデンの人口は約960万人で出生数は毎年11万人ほど、徴兵するのは毎年4000人とされているので、3.6%ほどになる。

女性も徴兵するとされているが、ほとんどは男性だとすると、同年齢の7%以上の人が徴兵される事になる。


徴兵期間は11ヶ月間なので日本で言われている『徴兵制度』の概念と違い、兵役訓練という意味合いもある。

スウェーデンでは4000人の兵士募集に対して2500人の応募しかなく、軍の弱体化が進んでいました。

スウェーデンは1990年代までは人口900万人に対して兵士6万人、予備役60万人、郷土防衛隊30万人、合計約95万人の兵力を維持していが、、現在は志願兵だけの1万2千人まで減少した

多くの国で徴兵は合法

陸海空軍を合わせても日本の海上本庁より少なく、もはや軍隊の体を成していませんでした。

スウェーデンはスイスと同じく国民皆兵の理念の下に、全国民に軍事訓練をして戦争に備えていたが、冷戦終結で関心が低下しました。

そのお手本のスイスでも、最近のニュースで空軍が週休2日で夜間飛行もできないため、平日昼間しか領空侵犯機にスクランブル発進していないのが問題になっていた。


イギリスは1960年に徴兵制廃止したが、やはりロシアの脅威に晒されていて、軍事力の空白が深刻な問題になっています。

イギリスはEUから離脱しNATOとも疎遠になっているので、徴兵制復活の議論が高まっています。

徴兵制を廃止したとは言っても、禁止したわけではなく、欧州の国はすべて必要なら復活できるようになっています。


フランスは2001年に徴兵制を廃止したが、必要なら復活が可能になっていて、永遠に徴兵しないなどとは一言も言っていない。

ドイツも同じで「徴兵をしない」などと言ったことは無く、今は兵士が足りているので徴兵しないというだけです。

そのドイツはロシアの軍事的脅威や米国の影響力低下などで、将来の徴兵制復活を検討しています。


アメリカはベトナム戦争以降徴兵していないが、やはり「していない」だけで必要なら徴兵が可能になっています。

米国の徴兵拒否には厳しい罰則があったが、現代では多くの国では徴兵拒否が制度化されていて、社会奉仕活動の従事で代替できるようになっている。

兵役が嫌な人は同じ期間、介護施設や福祉施設で労働するようなシステムのようです。


そして兵役といっても様々な形態があり、短期間に軍事知識や軍事訓練などの教育を受けるという国も多い。

国民全員に戦争時の行動などを教育して被害を食い止めたり、基本的な知識を広める狙いがある。


日本でも憲法に「徴兵を禁ずる」とは書いていないので実は合法であり、国会の議決で徴兵できるようになっている。
http://www.thutmosev.com/archives/69913775.html

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/528.html#c11

[日本の事件30] コンクリ殺人の犯人が全員出所したらしい(2ch) 木卯正一
1505. 中川隆[7107] koaQ7Jey 2017年3月14日 12:50:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7573]

Wikipedia:進行中の荒らし行為
https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E9%80%B2%E8%A1%8C%E4%B8%AD%E3%81%AE%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E8%A1%8C%E7%82%BA

このページはウィキペディア日本語版で荒らし行為を継続して行っている利用者の活動についてまとめ、情報を共有することを目的とした場です(短期間から中期間の荒らし利用者を対象としています)。


「闇の組織」作成荒らし[編集]

闇の組織なる悪戯記事の繰り返しの作成。作成保護がかけられる度に記事名を変えての作成をしています。内容は全て「女子高生コンクリート詰め殺人事件」「幼女誘拐殺人事件」「足利事件」「神戸連続児童殺傷事件」などの凶悪事件には、人身売買等を行う国際的な犯罪組織が関与しているというもので、文章も全て同じです。

全て同一人物による作成と思われ、本人(佐伯まお名義)のブログ上で削除に関わった管理者を「工作員」として晒しています[1]。ニコニコ大百科やウィクショナリーでも同様の記事の作成を確認しています[2]。将来的に長期的な荒らしに発展する可能性が極めて高いものと思われます。

因みに闇の組織の2006年の削除は原口一博氏の発言を元に作成された全くの別記事であると推測されます(Wikipedia:削除依頼/闇の組織)。

作成した記事は次の通りです。

闇の組織
国際犯罪組織
国際犯罪組織(闇の組織)
福岡OLバラバラ死体遺棄事件


確認できた登録アカウント及びIPは以下の通りです。

特記のないアカウントは上記記事の作成を行ったものです。出現した時系列順に並べてあります。


利用者:佐伯まお(会話 / 投稿記録 / 記録) - 女子高生コンクリート詰め殺人事件に自説の陰謀論を記載、ブログ上で「おおたこうじ」での荒らしを行ったと宣言

利用者:おおたこうじ(会話 / 投稿記録 / 記録)

利用者:中央情報局(会話 / 投稿記録 / 記録)
IP:106.188.162.42(ノート / 履歴 / ログ / Whois IPv4 ・ IPv6) - UQ WIMAX(KDDI、大阪)[3]
IP:106.188.128.68(ノート / 履歴 / ログ / Whois IPv4 ・ IPv6) - UQ WIMAX(KDDI、大阪)[4]

利用者:故郷足利(会話 / 投稿記録 / 記録)

利用者:国際組織(会話 / 投稿記録 / 記録) - おおたこうじのソックパペットとしてブロック。2017年1月27日 (金) 21:22‎UTC、

利用者:多摩に暇人(会話 / 投稿記録 / 記録)氏ご報告のアカウント


参考として、ウィクショナリーでの編集を行ったアカウントも記載します。

利用者:シノブ
IP:106.188.160.77 - UQ WIMAX(KDDI、大阪)[5]
IP:106.188.177.118 - UQ WIMAX(KDDI、大阪)[6]


全てのログを追えていない可能性がありますので、情報をお持ちの方はフォローをお願い致します。--Fusianasan1350(会話) 2017年1月27日 (金) 17:42 (UTC)


2017年3月現在、佐伯まお本人のWikipediaでの活動は事実上停止しています。但し信者に協力を呼びかけており、荒らしが再発する可能性は否定できません[7]。--Fusianasan1350(会話) 2017年3月13日 (月) 23:32 (UTC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E9%80%B2%E8%A1%8C%E4%B8%AD%E3%81%AE%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E8%A1%8C%E7%82%BA
http://www.asyura2.com/11/nihon30/msg/632.html#c1505

[政治・選挙・NHK222] 事態はここまで悪化した 尖閣周辺で我が物顔の中国 トランプの奥の院に入り込んだ誇り高き英雄 森友学園問題に政治家関与? 軽毛
5. 中川隆[7108] koaQ7Jey 2017年3月14日 13:14:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7574]
>>3
>中国は西欧諸国のようによその土地へ行って原住民を虐殺して建国したわけではない。


今の中共は他の国をすべて虐殺して乗っ取ったんだろ:


3.ウイグル人絶滅作戦1

米国で最も人気の高い科学雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」最新号が、中国の新疆(しんきょう)ウイグル自治区で中国当局が
実施した40数回の核爆発実験の放射能により、数十万ものウイグル住民が死亡した可能性があるとする記事を掲載した。

 記事は、ウイグル人医師のアニワル・トヒティ氏と札幌医科大教授で物理学者の高田純氏の合同調査結果を基礎に書かれたもの。
高田教授は同自治区のシルクロード紀行番組を長年、放映したNHKの核実験無視の姿勢を非難している。

 「サイエンティフィック・アメリカン」7月号は、「中国の核実験は多数の人を殺し、次世代を運命づけたのか」「中国が40年にわたり
核爆弾を爆発させたことで、放射能の雲は住民の上を覆った」という見出しの記事を掲載した。

 同記事はまず、トヒティ医師が新疆ウイグル自治区で1973年の子供時代、3日間、空が黒くなり、土砂のような雨が降ったのを
目撃し、後年、それが核爆発の結果だったことを認識したと指摘。その上で「シルクロード上のロプノル実験場における、1964年から
96年までの40数回の核爆発による放射能の結果、数十万の住民が死んだ可能性がある」と報じた。

 記事はさらに、現在、英国やトルコを拠点にウイグル人の放射能被害を研究するトヒティ医師が、高田教授と「ロプノル・プロジェクト」
という共同研究を進めているとし、高田教授の「新疆ウイグル地区で放射能汚染のために19万4千人が死亡し、120万人が白血病
などを病んだ」という算定を伝えた。

 「サイエンティフィック・アメリカン」は米国だけでなく国際的評価が高く、同誌が今回、事実として正面から伝えた「シルクロードの
核汚染」は、それを否定してきた中国政府にも厳しい詰問となる。

 また、高田教授はNHKが長年、シルクロードの番組を放映し、多数の日本人観光客に核汚染が明白な地域を訪問させながら、
核爆発については一切、沈黙してきたとして今年4月、公開質問状の形で抗議した。

 NHK側は、「(放射能汚染についての)認識は放送当時も現在も持っていない」と回答したというが、今回の米国の科学雑誌の記事は、
高田教授側の研究の成果や意見に国際的認知を与えたこととなる。


4.ウイグル人絶滅作戦2

中国が、ウイグルで民族浄化作戦を展開している。

民族浄化には、一定の民族を「絶滅させる」ために直接、市民を大量虐殺する方法と、その民族独自の宗教・習慣・文化・言語を「取り上げ」、一定の文化そのものを破壊し、存在させなくさせる方法がある。

後者は日本人に対し、日本語の使用を全面的に禁止し、寿司・刺身・和食を食べる事を違法行為・犯罪とし、コメの生産を犯罪行為として禁止する等の事態に該当する。

 現在、中国政府は7歳〜14歳までのウイグル人の子供をウイグル地域から「強制連行」し、漢民族の居住地域で生活させ、教育を受けさせている。つまり中国語を使う教育を強制し、ウイグル語を地球上から消滅させようとしている。そして中国文化の中で育て、ウイグル文化に「一切触れさせない」ようにし、ウイグルの文化の継承者が居ない状況を作り、その文化を破壊している。

これは民族虐殺に等しく、文字通り、民族浄化である。

中国政府の政策は、ナチスの行ったユダヤ人虐殺と同等であり、本来、多様な文化・言語が地球上に多数、存在する事によって、相互に影響を与え合い、新しい別の文化・文明が次々と作り出されてきた人類の歴史に対する「虐殺行為」である。中国政府の政策は全人類への「冒涜」「犯罪」である。

 また中国政府は、若いウイグル人女性を40万人、漢民族の済む天津、青島へ「強制移住」させ、ウイグル人同士の結婚を「事実上」禁止し、ウイグル人と漢民族の結婚・混血を強制している。これはウイグル人を「地球上から絶滅させる」ウイグル人絶滅政策であり、ナチスのユダヤ人虐殺と同一の政策である。

これは仮に、日本政府が、日本人同士の結婚を禁止するため、若い日本人女性を全員アメリカへ強制移住させ、事実上、日本人女性にアメリカ人との結婚しか「認めない」政策を取る事と同じである。

 しかも、強制移住させられたウイグル人女性は、安い賃金で一日12時間も労働を強制され、宿泊施設は衛生環境の悪い汚れきった部屋に閉じ込められ、刑務所での生活のような人生で「若い時代を浪費」させられている。

これは中国人によるウイグル人の事実上の奴隷化である。

 またウイグルの宗教はイスラムであるが、中国政府は18歳以下のウイグルの若者達にイスラムのモスク(寺院)への出入りを法律で禁止している。そして、イスラムの習慣である「ラマダン=断食」の時期に、ウイグルで食糧の配布を意図的に行っている。これ等は明らかなウイグルの宗教・文化に対する破壊工作であり、極めて悪質な「民族浄化・虐殺」である。

これが中国を「表に立てて行う、ロスチャイルドの世界帝国の支配原理」である。

ウイグルは、明日の日本の姿である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/123821982.html


5.チベット人絶滅作戦

* 1959年の3月チベットの首都のラサで「改革解放」の名のもと「民族浄化」が開始、

殺戮・破壊・強奪・強姦が行われた。

* 15万人の僧侶と尼僧は公開虐殺によって1400人に減らされた。

僧侶に対しては、滑車を使い仏像の重みによる絞首刑や、尼僧に対し警棒の形をした
5万ボルトのスタンガンを性器に入れて感電死させ彼女の死体は裸のまま路上に捨てられた。

* 一般民衆の犠牲者は120万人におよぶ。中国は「強制断種(チベット男性の生殖機能を手術に

よって奪う事)」や「強制交種(チベット女性を中国男性と交わらせ民族の血統を絶つ事)」等
の民族浄化に力を入れた。

* 生き残った証言者によると、親の死体の上で子供に泣きながらダンスをさせ、人民解放軍は

それを笑いながら銃殺した。


「妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。」
特に尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。
ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。

拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、 「仏陀に腕を返してもらえ」 と嘲笑された。
大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、
馬や車で引きずり殺されていった。
アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、村人はそのうえに
小便をかけるように命じられた。


さらに高僧たちは「霊力で穴から飛び上がって見せろ」 と中共兵に嘲られ、
挙句に全員射殺された。おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、
大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。

貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。
僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されてしまった。

リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。
何千人もの村民は強制労働に駆り出されそのまま行方不明になっていった。

僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、 「仏陀はどうしたんだ?」 と中共兵に嘲られた。


* 「ジュネーブ法律家国際委員会」が受理した供述書によると

「何万というわが国民が殺された。軍事行動においてばかりでなく、個人的に、また故意に
殺されたのである。彼らは銃殺されたばかりでなく、死ぬまでむち打たれたり、磔にされたり、
生きながら焼かれた。ある者は生き埋めにされたり、はらわたを取り除かれたりして殺された。
こうした殺人行為はいずれも公衆の面前でなされた。
犠牲者の同じ村人、友人たち、隣人たちは、それを見物するよう強いられた。」とある。 -- (東亜から転載) 2008-03-19 10:46:18

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル ダナム著

妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。
尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。
拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。
大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、
熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。
さらに高僧たちは「霊力で穴から飛び上がって見せろ」と嘲られ、挙句に全員射殺された。
おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれた。 -- (名無しさん) 2008-03-19 21:09:31
鉄砲でやられてる犠牲者の写真
http://www.tchrd.org/press/2008/pr20080318c.html


2016年05月30日
中国の治安維持部隊 予算18兆円で少数民族弾圧
http://thutmose.blog.jp/archives/60763210.html


北京は大陸では最も遅れた地域で、北京人種は少数民族に過ぎなかった。
故に北京以外は全て他民族の土地です。


中国勢力図☆5500年前
http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/7/f/7f12e8cc.jpg


中国は一つの民族と言っているが、実際は北京系が他の民族を支配しています。

北京は中国でも遅れた地域だったので、他の地域は全て異人種が統治していた外国だったのです。


2つの軍隊を持つ中国

中国には2つの軍事力があり、一つは目に見えてテレビで姿を見ることができます。

見えるのは表向きの軍事力で予算は約16兆円、南シナ海に軍艦を送り、日本の領空を侵犯しています。

もう一つは見えない軍事力で、見える軍事力を1割ほど上回って推移しています。


見えないほうは「治安維持費」と呼ばれていて、表も裏も最高機密で、本当の予算は非公開です。

欧米メディアによると表の軍事費は16兆円で、裏の軍事費は18兆円と見られています。

ちなみにアメリカの軍事費は約70兆円で日本は約5兆円となっています。


中国は表と裏を合計すると約34兆円で、ついにアメリカの半分に達しました。

中国の軍事費は2016年も7%以上増えていて、今後もGDPの伸びを上回る伸び率が予想されています。

ではこの「裏の軍隊」は一体何をしているのでしょうか。


治安維持費の正式名称は公共安全予算で、公式には抗議活動の予防や暴動鎮圧、インターネット管理に当てられる。

だが国民一人ずつに監視をつけても18兆円は簡単に使いきれる金額ではありません。

アメリカには西武開拓時代というのがあり、昔は西部劇が人気の映画ジャンルでした。


北京は最も遅れた地域だった

アメリカ合衆国は最初首都があったワシントン州や東海岸だけだったが、南と西に領土を広げて現在の形になりました。

西部開拓とは、アメリカ人は綺麗事を言っているが、原住民を消し去って無人の荒野にしてしまい、白人が占領した事を言います。

原住民は抵抗するので軍隊やガンマンがインディアンを討伐したのを、かっこ良く映画にしたのが「西部劇」でした。

アメリカが「合衆国」になるために犠牲にした原住民は、2000万人とも6000万人とも言われています。

その手口は文字を読めない先住民に同意のサインをさせ、軍隊を投入して村ごと焼き払うなどだが、西部劇ではカットされています。


次に中国の歴史を見ると、現代の「中国人」とは要するに黄河文明の人々で、北京周辺の狭い範囲の民族でした。

彼らは数千年の間、弱小民族であり、モンゴル人や長江文明などに支配されていました。

歴史上黄河文明が中国全土を支配したのは、1950年に建国した現在の中国だけです。


北京以外は全て「外国」であり植民地なので、アメリカの西部劇と同じく軍事力で敵を消し去る必要があります。

アメリカにとってのインディアンが中国人にとってのモンゴル人、ウイグル人、チベット人、満州人などです。

上海も本来は長江文明に属し、北京とは異なる文明ですが、現在は渾然一体となっています。


漢字、火薬、羅針盤、印刷など中国が発明したと言っているもののほとんど全ては、長江文明で始まったものです。

長江に比べると黄河すなわち北京は遅れた地域で、遅れていたのでやたら子供を産んで人口を増やしました。

すると遅れて劣っていた黄河文明の北京の方が、数で圧倒してどんどん南下していきました。


秦の始皇帝をはじめ、歴代皇帝は今日の少数民族だった


http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/d/b/dbcfae0f.jpg


治安維持とは原住民弾圧

今中国が国内でやっている事は、9割以上の地域の「本来の所有者」の少数人種をこの世から消し去る事業です。

北京以外は全て「外国」なので少数民族は邪魔であり、特にウイグルとチベットを敵視しています。

「治安維持」とは要するに少数民族をこの世から消し去り、中国全土を北京人種が支配するための費用です。


中国では毎日10回以上どこかで暴動が起きていて、テロも頻繁に発生しています。

中国は「国内だ」と言っているが、ウイグル人やチベット人から見ると、北京系中国人こそ外国人です。

ウイグルやチベットでは現地語の禁止、民族衣装の禁止、移住政策、教育の禁止などが行われている。


少数民族の年間所得は中国人の10分の1で、年収数万円といったところです。

絶え間ない弾圧政策で、例えば夕飯を食っている最中でも治安部隊が銃を持って突入してきて、家族を連行したりします。

テロ容疑だとかもっともらしい理由をつけるが、何の理由も無く連れ去って恐怖を与えるのは、中国4000年の伝統的な統治方法です。


台湾原住民によると中国人は、理由もなく暴行し、理由を説明せずに連れ去って処刑する。

理由を明かさない事が「何をしても無駄だ」という恐怖を増幅させ、住民を服従させるのだという。

対して日本軍は必ず理由を説明し、その理由を論破すれば相手を議論で負かすことが可能だという。
http://thutmose.blog.jp/archives/60763210.html

中国の農業人口は2億6000万人だが、現在の平均年収は10万円以下で、現在も電気が通っていない村が多くある。

大都市周辺の農村は裕福な暮らしをしているが、都市から遠い農村ほど貧しくなり、少数民族地域が貧困地帯になっている。

ウイグル族やチベット族居住地ではテロや暴動が発生しているが、そうした地域では意図的に貧困を作り出す政策を取っている。


意図的な貧困に落とされる人々

お金を手にすると彼らは武器を買って武装するので、買えないように貧困状態にして暴動を防いでいる。

こうした人たちの年収は4万円以下で、一日1ドル=100円の収入しかない事になる。

住居は小屋あるいは洞窟で、家具はなくむろん電気製品もなく、衣類や食料もほとんどない。


レンガ、石ころ、土で固めた壁、トタン屋根、ブルーシート、ベニア板といった素材でできていて、都会にでて物乞いをする子供が社会問題になっている。

そうした最貧困農村でも莫大な公共事業によって立派な道路があって自動車が走り回り、公共建造物や権力者の住居もあるので、一見すると貧困地帯には見えない。

こうして見渡すと中国全体の平均収入を出すのは、格差が巨大すぎてほとんど不可能なことが分かる。


それでも公務員や企業正社員の平均年収100万円、主要31省の平均年収は約30万円、農民10万円、貧困層4万円という数字が割り出せる。

もし中国の平均年収が30万円とすると中国全体の総所得は405兆円に過ぎず、公称GDP1200兆円の3分の1にすぎない。

平均50万円でも675兆円、平均70万円でも945兆円で1000兆円に届かないが、これより多いというのは考え難い。


中国の本当の平均年収は30万円から60万円の間、したがって中国の本当のGDPは500兆円から1000兆円の間でしょう。
http://thutmose.blog.jp/archives/67069734.html


http://www.asyura2.com/17/senkyo222/msg/351.html#c5

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
388. 中川隆[7109] koaQ7Jey 2017年3月14日 18:09:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7575]

仕事に縛られなければ生活費は安く済む。1億円を貯めて31歳でリタイアした女性からの助言

BUSINESS INSIDER JAPAN 3/11


「働くことにどれくらいのコストがかかっているのか、多くの人は無自覚」と語るシェン氏。


クリスティ・シェン(Kristy Shen)氏は、リタイア生活を送る人としては、カナダでもっとも若いかもしれない。

【どうやって100万ドルを貯めたのか?】

2015年、31歳だった彼女は100万ドル(約1億1400万円)を貯めて、コンピュータエンジニアの職を辞めた。彼女は今、夫のブライス(Bryce)氏と一緒に世界中を旅している。

「Millennial Revolution (ミレニアル革命)」のブロガー、シェン氏はどうやって100万ドルを貯め、どのように投資ポートフォリオを組み立てたのか。そして、今後50年の生活費をどうするのか。ファーヌッシュ・トラビ(Farnoosh Torabi)氏のポッドキャスト「So Money」で語った。

シェン氏にとって「リタイア」とはビーチでくつろぐことではない。「(彼女にとってのリタイアとは)投資ポートフォリオから得られる不労所得で生活を維持できるようになり、働くか、働かないかを自分で選べること」(シェン氏)だという。

シェン氏によると、リタイア後の生活は多くの人が考えているほどコストがかからない。

「みんな意識していないと思うけど、わたしたちは『働くため』にたくさんのお金を使っている。わたしはそこに気づいたんです。毎日の通勤にいくらかかる? プロフェッショナルに見える服装とそれをクリーニングに出すお金は? 子供のいる人たちは託児所などにいくら出費しているの?」

シェン氏はトラビ氏にそう説明し、「その立場にならないと実感できないけど、仕事に関する経費がなくなれば、生活コストは下がるんです」と続けた。

また、リタイヤ生活は、何にお金を使うかをよく考えなければならない。配当金(あるいは貯金や投資からの収入)で暮らしていくためには、“機動力”が必要だ。

「何を持っていなければならなくて、何があれば快適に過ごせるか。そして何を諦める必要があるか」(シェン氏)

シェン氏は以下のように助言した。

「諦めなければいけないものは、そんなにないんです。柔軟に考え、優先順位をつけること。そして重要じゃないことは気にしないこと。つまり、リタイアするとトロントに住まないといけないとか(あるいはサンフランシスコなんかの家賃が高い所とか)、そんな事実に縛られなくなります。だって、もう仕事とつながっていないわけだから」

[原題:A 31-year-old who left her 9-5 with $1 million says most people have the same misconception about retirement]

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c388

[近代史02] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 中川隆
358. 中川隆[7110] koaQ7Jey 2017年3月14日 18:10:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7576]

仕事に縛られなければ生活費は安く済む。1億円を貯めて31歳でリタイアした女性からの助言

BUSINESS INSIDER JAPAN 3/11


「働くことにどれくらいのコストがかかっているのか、多くの人は無自覚」と語るシェン氏。


クリスティ・シェン(Kristy Shen)氏は、リタイア生活を送る人としては、カナダでもっとも若いかもしれない。

【どうやって100万ドルを貯めたのか?】

2015年、31歳だった彼女は100万ドル(約1億1400万円)を貯めて、コンピュータエンジニアの職を辞めた。彼女は今、夫のブライス(Bryce)氏と一緒に世界中を旅している。

「Millennial Revolution (ミレニアル革命)」のブロガー、シェン氏はどうやって100万ドルを貯め、どのように投資ポートフォリオを組み立てたのか。そして、今後50年の生活費をどうするのか。ファーヌッシュ・トラビ(Farnoosh Torabi)氏のポッドキャスト「So Money」で語った。

シェン氏にとって「リタイア」とはビーチでくつろぐことではない。「(彼女にとってのリタイアとは)投資ポートフォリオから得られる不労所得で生活を維持できるようになり、働くか、働かないかを自分で選べること」(シェン氏)だという。

シェン氏によると、リタイア後の生活は多くの人が考えているほどコストがかからない。

「みんな意識していないと思うけど、わたしたちは『働くため』にたくさんのお金を使っている。わたしはそこに気づいたんです。毎日の通勤にいくらかかる? プロフェッショナルに見える服装とそれをクリーニングに出すお金は? 子供のいる人たちは託児所などにいくら出費しているの?」

シェン氏はトラビ氏にそう説明し、「その立場にならないと実感できないけど、仕事に関する経費がなくなれば、生活コストは下がるんです」と続けた。

また、リタイヤ生活は、何にお金を使うかをよく考えなければならない。配当金(あるいは貯金や投資からの収入)で暮らしていくためには、“機動力”が必要だ。

「何を持っていなければならなくて、何があれば快適に過ごせるか。そして何を諦める必要があるか」(シェン氏)

シェン氏は以下のように助言した。

「諦めなければいけないものは、そんなにないんです。柔軟に考え、優先順位をつけること。そして重要じゃないことは気にしないこと。つまり、リタイアするとトロントに住まないといけないとか(あるいはサンフランシスコなんかの家賃が高い所とか)、そんな事実に縛られなくなります。だって、もう仕事とつながっていないわけだから」

[原題:A 31-year-old who left her 9-5 with $1 million says most people have the same misconception about retirement]

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/430.html#c358

[リバイバル3] 音楽はこういう部屋で聴きたい 中川隆
21. 中川隆[7111] koaQ7Jey 2017年3月14日 20:59:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7577]

3Dサウンド今昔 2016/12/18
http://blogs.yahoo.co.jp/jazzlp2000/14145404.html

最近、一部のブログで話題の、スピーカーを対向配置すること(対向法)で、比較的容易に、「真の音場が現れる」という、「3Dサウンド」とはどんなものか、実験をしてみることにしました。


テストには、音源位置の調整が楽に行えるように、拙宅でリファレンスと呼んでいる、サイズが一番小型の、再生システムを使うことにします。


ちなみに、拙宅のリファレンスは、安定した基準音の確保が狙いで、特段、高品質を要しないため、導入時から、映像用の7.1chサラウンドのフロントSP兼用で、AVアンプPioneer VSA-D8EX でドライブしていました。


なお、フロントSPとしては、センターSPの LE8Tに合わせ、8インチ2WAY の Pioneer CS-300 を、正面壁から約1m手前に、バッフル面を正面に向けた形(平行法)で、左右約2.7mの間隔を置いて設置しています。


リスポジでは、フロントSPのラインから垂直距離で凡そ2mとなるため、相対的に、左右のスピーカー間か広く感じられるものの、不思議と、中抜けすることがなく、今まで、音楽や映画などの鑑賞に、不都合を感じることはありませんでした。


また、リファレンスは、7.1chの名残か、VSA-D8EXの仕様上、2chステレオ再生も、2.1chで作動し、18インチのBehringer VP-1800とBTL接続したSONY SRP-P150 のコンビが80Hz以下で働くため、偶然とはいえ、以前から、いわゆる3Dシステムとして、昔流の「3Dサウンド」を聴かせていた点が御愛嬌です。


さて、某ブログを参考に、見よう見まねで、左右のスピーカーとも、置き台との間に端材を咬ませて、若干仰角をつけて、真正面で向かい合わせた位置から、前面がリスポジに向く方向に回転させながら、正面の音場が一番深く感じられるよう、少しずつ、水平方向の角度を変化させてみました。


ハイレゾ Cantate Domino を使って調整した結果、左右のエンクロージャー前面を、最初の位置から、ほんの僅か、リスポジに向けた辺りが、「3Dサウンド」再生のベストポジションのようです。

http://blogs.yahoo.co.jp/jazzlp2000/GALLERY/show_image.html?id=14145404&no=0
http://blogs.yahoo.co.jp/jazzlp2000/GALLERY/show_image.html?id=14145404&no=3

参考までに、伝送特性を較べてみると、対向法は、ユニットの軸を外した聴き方のため、当然ながら、高域の減衰がみられることになります。


【平行法のリスポジ伝送特性】
http://blogs.yahoo.co.jp/jazzlp2000/GALLERY/show_image.html?id=14145404&no=1

【対向法のリスポジ伝送特性】
http://blogs.yahoo.co.jp/jazzlp2000/GALLERY/show_image.html?id=14145404&no=2

このことから、高域の減少に伴う低域の増加という、相対的な、エネルギーバランスの変化が、暗騒音の増加などによって、臨場感を加速させる一助となり、さらに、ユニットからの直接音の減少が、これも相対的に、目に見えぬ、間接音の増加に繋がり、音場感を高めている可能性が頭に浮かびました。


そして、この帯域バランスの変化は、試聴環境やスピーカーの設置調整に連動して、それなりに、最適化されるとすれば、部屋の種類や大きさに因らず、調整次第で音場再現は可能と思われます。


ところで、拙宅の場合、対向法で現れた音場は、中央の音像が、今までより、若干遠くなる以外は、普段、平行法で聴く場合と、音場感のベクトルは大差なく感じられました。


そのため、実は、期待したほど対向法の効果は見られなかったというのが、今回の実験結果です。


恐らくは、拙宅の爆音ルームは、全ての壁面が、床や天井を含めて、反射性の材料で出来ており、吸音はランダムに配置した家具調度や人間が担うという、一般よりも、かなりライブな環境のため、直接音と間接音の比率の変化が小さく、音場感の違いが出難くかったのではないかと思われます。


事実、今までも、N-5WAY で、ユニット軸を、リスポジ後方に焦点を結ぶような角度
で、緩やかに交差させ、壁面に背後を付けた状態で、再生することにより、平行法や対向法を採らないスピーカー設置でも、しばしば、音場は広大になり、壁や天井やスピーカーは、意識の中から消え去る場面がありました。


このような経験から、音場感を求めるなら、室内環境は、極力ライブな方が宜しいようです。


逆に、対向法は、六畳日本間など、一般的に、空間ボリュームやライブネスに制約を受ける環境下で、豊かな音場感を求める場合、手軽にトライすることができ、上手く往けば、たいへん効果的な方法のように思われました。


おカネも体力も要らないのが一番イイ〜ですね。


♪♪♪
http://blogs.yahoo.co.jp/jazzlp2000/14145404.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/655.html#c21

[経世済民120] 中国人(華人)の多い国家トップ10、1位は米国ではなくあの島国(ZUU online) 赤かぶ
4. 中川隆[7112] koaQ7Jey 2017年3月14日 21:09:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7578]

世界では
移民受け入れ推進派がリベラル・左翼

移民受け入れ反対派が極右

という分類になってるんだよ

安部先生は移民受け入れ推進派だからリベラル・左翼

日本共産党は移民受け入れ反対派だから極右


というのが正しい評価だな


2016年05月30日
中国の治安維持部隊 予算18兆円で少数民族弾圧
http://thutmose.blog.jp/archives/60763210.html


北京は大陸では最も遅れた地域で、北京人種は少数民族に過ぎなかった。
故に北京以外は全て他民族の土地です。


中国勢力図☆5500年前
http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/7/f/7f12e8cc.jpg


中国は一つの民族と言っているが、実際は北京系が他の民族を支配しています。

北京は中国でも遅れた地域だったので、他の地域は全て異人種が統治していた外国だったのです。


2つの軍隊を持つ中国

中国には2つの軍事力があり、一つは目に見えてテレビで姿を見ることができます。

見えるのは表向きの軍事力で予算は約16兆円、南シナ海に軍艦を送り、日本の領空を侵犯しています。

もう一つは見えない軍事力で、見える軍事力を1割ほど上回って推移しています。


見えないほうは「治安維持費」と呼ばれていて、表も裏も最高機密で、本当の予算は非公開です。

欧米メディアによると表の軍事費は16兆円で、裏の軍事費は18兆円と見られています。

ちなみにアメリカの軍事費は約70兆円で日本は約5兆円となっています。


中国は表と裏を合計すると約34兆円で、ついにアメリカの半分に達しました。

中国の軍事費は2016年も7%以上増えていて、今後もGDPの伸びを上回る伸び率が予想されています。

ではこの「裏の軍隊」は一体何をしているのでしょうか。


治安維持費の正式名称は公共安全予算で、公式には抗議活動の予防や暴動鎮圧、インターネット管理に当てられる。

だが国民一人ずつに監視をつけても18兆円は簡単に使いきれる金額ではありません。

アメリカには西武開拓時代というのがあり、昔は西部劇が人気の映画ジャンルでした。


北京は最も遅れた地域だった

アメリカ合衆国は最初首都があったワシントン州や東海岸だけだったが、南と西に領土を広げて現在の形になりました。

西部開拓とは、アメリカ人は綺麗事を言っているが、原住民を消し去って無人の荒野にしてしまい、白人が占領した事を言います。

原住民は抵抗するので軍隊やガンマンがインディアンを討伐したのを、かっこ良く映画にしたのが「西部劇」でした。

アメリカが「合衆国」になるために犠牲にした原住民は、2000万人とも6000万人とも言われています。

その手口は文字を読めない先住民に同意のサインをさせ、軍隊を投入して村ごと焼き払うなどだが、西部劇ではカットされています。


次に中国の歴史を見ると、現代の「中国人」とは要するに黄河文明の人々で、北京周辺の狭い範囲の民族でした。

彼らは数千年の間、弱小民族であり、モンゴル人や長江文明などに支配されていました。

歴史上黄河文明が中国全土を支配したのは、1950年に建国した現在の中国だけです。


北京以外は全て「外国」であり植民地なので、アメリカの西部劇と同じく軍事力で敵を消し去る必要があります。

アメリカにとってのインディアンが中国人にとってのモンゴル人、ウイグル人、チベット人、満州人などです。

上海も本来は長江文明に属し、北京とは異なる文明ですが、現在は渾然一体となっています。


漢字、火薬、羅針盤、印刷など中国が発明したと言っているもののほとんど全ては、長江文明で始まったものです。

長江に比べると黄河すなわち北京は遅れた地域で、遅れていたのでやたら子供を産んで人口を増やしました。

すると遅れて劣っていた黄河文明の北京の方が、数で圧倒してどんどん南下していきました。


秦の始皇帝をはじめ、歴代皇帝は今日の少数民族だった


http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/d/b/dbcfae0f.jpg


治安維持とは原住民弾圧

今中国が国内でやっている事は、9割以上の地域の「本来の所有者」の少数人種をこの世から消し去る事業です。

北京以外は全て「外国」なので少数民族は邪魔であり、特にウイグルとチベットを敵視しています。

「治安維持」とは要するに少数民族をこの世から消し去り、中国全土を北京人種が支配するための費用です。


中国では毎日10回以上どこかで暴動が起きていて、テロも頻繁に発生しています。

中国は「国内だ」と言っているが、ウイグル人やチベット人から見ると、北京系中国人こそ外国人です。

ウイグルやチベットでは現地語の禁止、民族衣装の禁止、移住政策、教育の禁止などが行われている。


少数民族の年間所得は中国人の10分の1で、年収数万円といったところです。

絶え間ない弾圧政策で、例えば夕飯を食っている最中でも治安部隊が銃を持って突入してきて、家族を連行したりします。

テロ容疑だとかもっともらしい理由をつけるが、何の理由も無く連れ去って恐怖を与えるのは、中国4000年の伝統的な統治方法です。


台湾原住民によると中国人は、理由もなく暴行し、理由を説明せずに連れ去って処刑する。

理由を明かさない事が「何をしても無駄だ」という恐怖を増幅させ、住民を服従させるのだという。

対して日本軍は必ず理由を説明し、その理由を論破すれば相手を議論で負かすことが可能だという。
http://thutmose.blog.jp/archives/60763210.html

中国の農業人口は2億6000万人だが、現在の平均年収は10万円以下で、現在も電気が通っていない村が多くある。

大都市周辺の農村は裕福な暮らしをしているが、都市から遠い農村ほど貧しくなり、少数民族地域が貧困地帯になっている。

ウイグル族やチベット族居住地ではテロや暴動が発生しているが、そうした地域では意図的に貧困を作り出す政策を取っている。


意図的な貧困に落とされる人々

お金を手にすると彼らは武器を買って武装するので、買えないように貧困状態にして暴動を防いでいる。

こうした人たちの年収は4万円以下で、一日1ドル=100円の収入しかない事になる。

住居は小屋あるいは洞窟で、家具はなくむろん電気製品もなく、衣類や食料もほとんどない。


レンガ、石ころ、土で固めた壁、トタン屋根、ブルーシート、ベニア板といった素材でできていて、都会にでて物乞いをする子供が社会問題になっている。

そうした最貧困農村でも莫大な公共事業によって立派な道路があって自動車が走り回り、公共建造物や権力者の住居もあるので、一見すると貧困地帯には見えない。

こうして見渡すと中国全体の平均収入を出すのは、格差が巨大すぎてほとんど不可能なことが分かる。


それでも公務員や企業正社員の平均年収100万円、主要31省の平均年収は約30万円、農民10万円、貧困層4万円という数字が割り出せる。

もし中国の平均年収が30万円とすると中国全体の総所得は405兆円に過ぎず、公称GDP1200兆円の3分の1にすぎない。

平均50万円でも675兆円、平均70万円でも945兆円で1000兆円に届かないが、これより多いというのは考え難い。


中国の本当の平均年収は30万円から60万円の間、したがって中国の本当のGDPは500兆円から1000兆円の間でしょう。
http://thutmose.blog.jp/archives/67069734.html

http://www.asyura2.com/17/hasan120/msg/133.html#c4

[文化2] FX ・ 先物取引 ・ 空売り は『ネットパチンコ』、絶対に手を出してはいけない 中川隆
18. 中川隆[7113] koaQ7Jey 2017年3月14日 22:55:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7579]
>>12 相場関係で参考になるサイト


ついてる仙人の「株式投資」「日経225先物」と「ありがとう」で幸せになるブログ
http://tuiterusennin.blog109.fc2.com/

ついてる仙人の相場塾  日経225先物・株式投資スクール≪公式サイト≫
http://nk225.info/lesson/

amazon.co.jp ついてる仙人作品一覧、著者略歴
https://www.amazon.co.jp/ついてる仙人/e/B00IJ5WICQ/ref=sr_ntt_srch_lnk_1?qid=1489499567&sr=8-1


を入れたのですが、ブログで色々質問して、ついてる仙人氏が素人同然のアホだというのを確認しました。

ついてる仙人氏のブログは一切参考にしない方がいいです。


http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/844.html#c18

[近代史02] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 中川隆
359. 中川隆[7114] koaQ7Jey 2017年3月14日 22:57:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7580]

ついてる仙人の「株式投資」「日経225先物」と「ありがとう」で幸せになるブログ
http://tuiterusennin.blog109.fc2.com/

ついてる仙人の相場塾  日経225先物・株式投資スクール≪公式サイト≫
http://nk225.info/lesson/

amazon.co.jp ついてる仙人作品一覧、著者略歴
https://www.amazon.co.jp/ついてる仙人/e/B00IJ5WICQ/ref=sr_ntt_srch_lnk_1?qid=1489499567&sr=8-1


を入れたのですが、ブログで色々質問して、ついてる仙人氏が素人同然のアホだというのを確認しました。

ついてる仙人氏のブログは一切参考にしない方がいいです。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/430.html#c359

[近代史02] 株で損した理由教えてあげる 中川隆
459. 中川隆[7115] koaQ7Jey 2017年3月14日 22:58:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7581]

ついてる仙人は完全なアホだった

ついてる仙人の「株式投資」「日経225先物」と「ありがとう」で幸せになるブログ
http://tuiterusennin.blog109.fc2.com/

ついてる仙人の相場塾  日経225先物・株式投資スクール≪公式サイト≫
http://nk225.info/lesson/

amazon.co.jp ついてる仙人作品一覧、著者略歴
https://www.amazon.co.jp/ついてる仙人/e/B00IJ5WICQ/ref=sr_ntt_srch_lnk_1?qid=1489499567&sr=8-1


ブログで色々質問して、ついてる仙人氏が素人同然のアホだというのを確認しました。

ついてる仙人氏のブログは一切参考にしない方がいいです。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/428.html#c459

[近代史02] 株で損した理由教えてあげる 中川隆
460. 中川隆[7116] koaQ7Jey 2017年3月14日 23:01:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7582]

ついてる仙人のブログに秘密アリ!?9割の相場塾生が知らないこと
http://tuiterusennin.hatenablog.com/

ついてる仙人の評判って良過ぎません?元相場塾生が語る高評価の”裏側”
http://kabu-blog.com/107/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/428.html#c460

[近代史02] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 中川隆
360. 中川隆[7117] koaQ7Jey 2017年3月14日 23:03:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7583]

ついてる仙人のブログに秘密アリ!?9割の相場塾生が知らないこと
http://tuiterusennin.hatenablog.com/

ついてる仙人の評判って良過ぎません?元相場塾生が語る高評価の”裏側”
http://kabu-blog.com/107/

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/430.html#c360

[近代史02] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 中川隆
361. 中川隆[7118] koaQ7Jey 2017年3月14日 23:09:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7584]

ついてる仙人の勧める「日経225先物」は完全なギャンブルだし、移動平均線やオシレーターだけでは相場の予測は絶対にできないのですね。

ついてる仙人氏のやり方では1年も持たないでしょう:


38 :山師さん:2010/10/09(土) 14:03:17 ID:EvRp2zOd

証券会社の人が書いた本では、

225先物取引では、半年でメンツががらり変わるって書いてあったな。

まあ、それが即専業の寿命ではないだろうけど・・・

きびしいね。


5 :山師さん:2010/08/12(木) 18:28:28 ID:XbDRNjv9

専業だと通常はだいたい半年ぐらいしか持たないよ

494 : 山師さん 2016/09/04(日) 22:01:25.76 ID:x9KK2yAk

株投資、商品先物など 10人中 生き残れるのは1人だそうだ
業者が言ってた


500 : 山師さん 2016/09/04(日) 22:43:22.03 ID:dropg1tV

マネックス証券の人の話によると、225先物の個人プレイヤーは半年で9割が入れ替わるそうだ
オプションはもう少し長持ちするとか


詳細は

FX ・ 先物取引 ・ 空売り は『ネットパチンコ』、絶対に手を出してはいけない
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/844.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/430.html#c361

[近代史02] 株で損した理由教えてあげる 中川隆
461. 中川隆[7119] koaQ7Jey 2017年3月14日 23:11:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7585]

ついてる仙人の勧める「日経225先物」は完全なギャンブルだし、移動平均線やオシレーターだけでは相場の予測は絶対にできないのですね。

ついてる仙人氏のやり方では1年も持たないでしょう:


38 :山師さん:2010/10/09(土) 14:03:17 ID:EvRp2zOd

証券会社の人が書いた本では、

225先物取引では、半年でメンツががらり変わるって書いてあったな。

まあ、それが即専業の寿命ではないだろうけど・・・

きびしいね。


5 :山師さん:2010/08/12(木) 18:28:28 ID:XbDRNjv9

専業だと通常はだいたい半年ぐらいしか持たないよ


494 : 山師さん 2016/09/04(日) 22:01:25.76 ID:x9KK2yAk

株投資、商品先物など 10人中 生き残れるのは1人だそうだ
業者が言ってた


500 : 山師さん 2016/09/04(日) 22:43:22.03 ID:dropg1tV

マネックス証券の人の話によると、225先物の個人プレイヤーは半年で9割が入れ替わるそうだ
オプションはもう少し長持ちするとか


詳細は

FX ・ 先物取引 ・ 空売り は『ネットパチンコ』、絶対に手を出してはいけない
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/844.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/428.html#c461

[文化2] FX ・ 先物取引 ・ 空売り は『ネットパチンコ』、絶対に手を出してはいけない 中川隆
19. 中川隆[7120] koaQ7Jey 2017年3月15日 08:26:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7586]

amazon.co.jp ついてる仙人作品一覧
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しかし、トレンドラインも引けない、エリオット波動も知らない、出来高分析もできない 『ついてる仙人』氏が自分がアホだという自覚すら無いというのが不思議ですね

詐欺師というのは自分自身も騙しているんでしょうね
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/844.html#c19

[近代史02] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 中川隆
362. 中川隆[7121] koaQ7Jey 2017年3月15日 08:28:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7587]


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[近代史02] 株で損した理由教えてあげる 中川隆
462. 中川隆[7122] koaQ7Jey 2017年3月15日 08:29:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7588]

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[リバイバル3] 日本人は金髪美女に弱い _ 小布施からセーラ・カミングスの姿が消えた 中川隆
107. 中川隆[7123] koaQ7Jey 2017年3月15日 08:41:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7589]

時は戦前。来日したアインシュタインを感動させた神秘の国ニッポン 伊勢雅臣
http://www.mag2.com/p/news/242620

喜劇王のチャールズ・チャップリン、作家のラフカディオ・ハーンなど、親日家として知られる偉人は少なくありません。

親日家として知られる偉人のひとり、天才物理学者のアルベルト・アインシュタインと、「彼の目から見た日本と日本人の印象」について、詳しくご紹介します。日本を賞賛しつつも、彼が残した「警告」とは、一体どんなものだったのでしょうか?


アインシュタインの見た日本

大正11(1922)年11月17日、アインシュタインを乗せた日本郵船の北野丸は、瀬戸内海を通って、神戸港に近づいた。フランスのマルセイユを出てから、1カ月以上の船旅だった。瀬戸内海の景色について、アインシュタインはこう記している。


私の好奇心が最高潮に達したのは、「北野丸」が日本の海峡を進むとき、朝日に照らされた無数のすばらしい緑の島々を見た時でした。
(『アインシュタイン日本で相対論を語る』アルバート・アインシュタイン/著 杉元賢治/翻訳 講談社)

景色ばかりでなく、その時に同乗していた日本人船客らの態度も、アインシュタインを感動させた。


しかし、いちばん輝いていたのは、日本人の乗客と乗組員全員の顔でした。いつもは朝食前にけっして姿を見せたことのない多くの華奢なご婦人たちは、一刻も早く祖国を見たいと、ひんやりとした朝風も気にせず6時ごろにはいそいそと甲板に出て、楽しげに歩き回っていました。私はそうした人々を見て深く感動しました。

日本人は、他のどの国の人よりも自分の国と人びとを愛しています。
(同上)

これが、アインシュタインの40日以上に渡る日本滞在の始まりだった。

「神秘のベールに包まれている国」

アインシュタインの来日は、改造社の山本実彦社長からの招待によるものだった。


山本氏(改造社)から日本へ招待いただいた時に、私は数ヶ月を要する大旅行に行こうとただちに意を固めました。それに対する私の説明しうる理由というのは、もし私が、日本という国を自分自身の目で見ることのできるこのチャンスを逃したならば、後悔してもしきれないというほかありません。

私が日本へ招待されたということを周囲の人びとが知ったその時、ベルリンにいた私が、あれほどまでに羨望の的になったことは、いまだかつて、私の人生の中でなかで経験したことはありませんでした。というのも、われわれにとって、日本ほど神秘のベールに包まれている国はないからです。
(同上)

当時の日本を限りない愛情を込めて西洋に紹介したのは、ラフカディオ・ハーンであった。アインシュタインはハーンの著作を読み、日本への期待を抱いていた。来日後、彼は次のような手紙を親友に認めている。


やさしくて上品な人びとと芸術。日本人はハーンの本で知った以上に神秘的で、そのうえ思いやりがあって気取らない。
(同上)

当時のヨーロッパは、第一次大戦が終わったばかりの荒廃した状態だった。多くのヨーロッパ人は、現代西欧文明の精神的な行き詰まりを感じていただろう。それに対して日本はいまだ「神秘のベールに包まれている国」であった。

熱狂的な歓迎

11月17日に神戸に上陸したアインシュタインは、京都で一泊。翌朝、東京に向かった。


朝、9時から夕方7時まで雲ひとつない空の下、展望車に乗って東京まで汽車旅行。海、入り江を通過。雪に被われた富士山は遠くまで陸地を照らしていた。富士山近くの日没はこのうえなく美しかった。森や丘のすばらしいシルエット。村々は穏やかで綺麗であり、学校は美しく、畑は入念に耕されていた。…

東京に到着! 群衆に取り囲まれ、写真撮影で凄まじいフラッシュを浴びた。無数のマグネシウムをたく閃光で完全に目が眩む。
(同上)

この情景を翌日の大阪毎日新聞は大きな写真入りで、こう伝えた。


東京駅で人びとが絶叫――「アインシュタイン!」「アインシュタイン!」「万歳!」怒濤のごとく群衆が博士に殺到し、東京駅は大騒ぎとなった。日本人の熱狂ぶりを見て、駅に博士を出迎えたドイツ人関係者らは喜びのあまり目に涙を浮かべる人さえいた。
(同上)

この熱狂的な歓迎について、アインシュタイン自身こんな談話を残している。


私の生涯に、こんなことはありませんでしたよ。米国に行った時も大騒ぎでしたが、とてもこんな赤誠はありませんでした。これは日本人が科学を尊ぶためでしょう。ああ愉快だ、心からうれしい。
(同上)

「6時間におよぶ講演に聴衆が酔った」

11月19日には、アインシュタインは長旅の疲れをものともせずに、慶應義塾大学にて6時間もの講演を行った。読売新聞はこう伝えている。


6時間におよぶ講演に聴衆が酔った――慶應義塾大学での日本初の講演は内容は「特殊および一般相対性理論について」。1時間半から3時間の講演後、1時間の休憩をはさみ、講演が再開され8時半に閉会。実質6時間の長講演にもかかわらず、2,000人以上の聴衆は一人として席を立たず、アインシュタインと通訳石原純の一言一言に静粛かつ真剣に聞き入っていた。理屈が理解できる、できないにかかわらず、皆アインシュタインの音楽のような声に酔いしれたという。
(同上)

その後も、東京帝国大学での6回連続の特別講演、東京、仙台、京都、大阪、神戸、博多での一般講演などが続いたが、どの会場も盛況で、千人単位の聴衆が集まり熱心に聞き入った。

アインシュタインがいかに分かり易く説いたとしても、これだけ多くの一般的な聴衆が、相対性理論をよく理解し得たとは思えない。東京駅での熱狂的な歓迎、そして講演での熱心な聴講態度は、何が原因だったのだろう。

「外国の学者に対する尊敬の念」

12月10日、京都に戻ったアインシュタインは、講演後、京都御所を訪問し、「御所は私がかつて見たなかでもっとも美しい建物だった」との感想をもらした。


中庭からは即位式用の椅子がある即位の間が見えた。そこには約40人の中国の政治家の肖像画があった。中国から実のある文化を日本にもたらしたことが評価されたためである。

外国の学者に対するこの尊敬の念は、今日もなお、日本人のなかにある。ドイツで学んだ多くの日本人の、ドイツ人学者への尊敬には胸を打たれる。さらには細菌学者コッホを記念するために、一つ寺が建立されなければならないようだ。

嫌味もなく、また疑い深くもなく、人を真剣に高く評価する態度が日本人の特色である。彼ら以外にこれほど純粋な人間の心をもつ人はどこにもいない。この国を愛し、尊敬すべきである。
(同上)

「外国の学者に対するこの尊敬の念」は、日本人の伝統だが、近代西洋科学への尊敬はまた格別の念があった。富国強兵は、世界を植民地化しつつある西洋諸国から国家の自由と独立を護るための日本の国家的課題であった。そして経済力にしろ、軍事力にしろ、その根幹は近代西洋の科学技術にあったからだ。

そしてアインシュタインこそ、その西洋近代科学の最高峰を体現する人物であった。当時の日本人が、彼を熱狂的に歓迎し、その講演に陶酔したのは、「外国の学者に対する尊敬の念」という伝統と共に、近代西洋科学の国家的重要性を国民の多くが感じ取っていたからであろう。


「微笑みの背後に隠されている感情」

日本は明治以降、ヨーロッパに多くの留学生を送り、西洋近代科学を学び取ろうとしていた。アインシュタインは来日前から日本からの多くの留学生と出会い、ある印象を抱いていた。


われわれは、静かに生活をし、熱心に学び、親しげに微笑んでいる多くの日本人を目にします。だれもが己を出さず、その微笑みの背後に隠されている感情を見抜くことはできません。そして、われわれとは違った心が、その背後にあることがわかります。
(同上)

日本滞在中、講演と観光の合間を縫って、アインシュタインは多くの日本人と会った。長岡半太郎や北里柴三郎ら日本を代表する科学者、学生、ジャーナリスト、そして一般家庭の訪問まで。そして「微笑みの背後に隠されている感情」が何かに気がついた。


もっとも気がついたことは、日本人は欧米人に対してとくに遠慮深いということです。我がドイツでは、教育というものはすべて、個人間の生存競争が至極とうぜんのことと思う方向にみごとに向けられています。とくに都会では、すさまじい個人主義、向こう見ずな競争、獲得しうる多くのぜいたくや喜びをつかみとるための熾烈な闘いがあるのです。
(同上)

全世界の植民地化、そして1,900万人もの死者を出したと言われる第一次大戦は、この「熾烈な闘い」の結果であろう。

「日本人の微笑みの深い意味が私には見えました」

それに対して、日本人はどうか?


日本には、われわれの国よりも、人と人とがもっと容易に親しくなれるひとつの理由があります。それは、みずからの感情や憎悪をあらわにしないで、どんな状況下でも落ち着いて、ことをそのままに保とうとするといった日本特有の伝統があるのです。

ですから、性格上おたがいに合わないような人たちであっても、一つ屋根の下に住んでも、厄介な軋轢や争いにならないで同居していることができるのです。この点で、ヨーロッパ人がひじょうに不思議に思っていた日本人の微笑みの深い意味が私には見えました。

個人の表情を抑えてしまうこのやり方が、心の内にある個人みずからを抑えてしまうことになるのでしょうか? 私にはそうは思えません。この伝統が発達してきたのは、この国の人に特有のやさしさや、ヨーロッパ人よりもずっと優っていると思われる、同情心の強さゆえでありましょう。
(同上)

「不思議な微笑み」の背後にあるもの、それは「和をもって貴し」とする世界であった。

「自然と人間は、一体化している」

日本人の「個人の表情を抑えてしまうこのやり方」のために、アインシュタインは日本滞在中も、その心の奥底に入り込むことはできなかった。


けれども、人間同士の直接の体験が欠けたことを、芸術の印象が補ってくれました。日本では、他のどの国よりも豊潤に、また多様に印象づけてくれるのです。私がここで「芸術」と言うのは、芸術的な意向、またはそれに準じ、人間の手で絶えず創作しているありとあらゆるものを意味します。

この点、私はとうてい、驚きを隠せません。日本では、自然と人間は、一体化しているように見えます。…

この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じてあたえられたものと密接に結びついています。

かわいらしいのは、小さな緑の島々や、丘陵の景色、樹木、入念に分けられた小さな一区画、そしてもっとも入念に耕された田畑、とくにそのそばに建っている小さな家屋、そして最後に日本人みずからの言葉、その動作、その衣服、そして人びとが使用しているあらゆる家具等々。

…どの小さな個々の物にも、そこには意味と役割とがあります。そのうえ、礼儀正しい人びとの絵のように美しい笑顔、お辞儀、座っている姿にはただただ驚くばかりです。しかし、真似することはきません。
(同上)

「和をもって貴し」とする世界で、人びとは自然とも和して生きてきたのである。


アインシュタインの警告

明治日本が目指した富国強兵は、西洋社会の闘争的世界に、日本が参戦することを意味していた。国家の自由と独立を維持するためには、それ以外の選択肢はなかった。しかし、闘争的な世界観は「和をもって貴し」とする日本古来の世界観とは相容れないものであった。

また富国強兵を実現するために、明治日本は西洋の科学技術を学んだ。しかし、近代科学の根底には、自然を征服の対象として、分析し、利用しようとする姿勢があった。それは自然と 一体化しようとする日本人の生き方とは異なるものであった。

西洋近代科学を尊敬し、アインシュタインを熱狂的に歓迎した日本国民の姿勢は、彼が賛嘆した日本人の伝統的な生き方とはまた別のものであった。両者の矛盾対立について、アインシュタインはこう警告している。


たしかに日本人は、西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいます。けれどもそういう場合に、西洋と出会う以前に日本人が本来もっていて、つまり生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って忘れずにいて欲しいものです。
(同上)

科学技術の進展から、人類は核兵器を持ち、地球環境を危機に陥れてきた。アインシュタインが賛嘆した人間どうしの和、自然との和を大切にする日本人の伝統的な生き方は、いまや全世界が必要としているものである。
http://www.mag2.com/p/news/242620

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/444.html#c107

[リバイバル3] 日本人は金髪美女に弱い _ 小布施からセーラ・カミングスの姿が消えた 中川隆
108. 中川隆[7124] koaQ7Jey 2017年3月15日 08:47:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7590]

アインシュタイン日本で相対論を語る – 2001/10
アルバート アインシュタイン (著), Albert Einstein (原著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A7%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E8%AB%96%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88-%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/406210931X


「私は相対性理論が、どんなにやさしいものかを日本の皆さんに伝えに来ました」
幻の日記、全世界に先駆け初出版!!
来日80周年記念!!日本滞在43日間の全記録と「講演録」完全再現!!

アインシュタインは、日本と日本人に恋をした!!

「日本人は西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて科学に飛び込んでいます。けれども、西洋と出会う以前に日本人が本来もっていた生活の芸術化、謙虚さと質素さ、純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って、忘れずにいてほしいものです」
――アインシュタインの「日本における私の印象」

「厭味(いやみ)もなく、疑い深くもなく、人を真剣に高く評価する態度が日本人の特色である。彼ら以外にこれほど純粋な人間の心をもつ人はどこにもいない。この国を愛し、尊敬すべきである」
――1922年12月10日付、アインシュタインの日記より


1922年11月17日より43日間にわたってアルバート・アインシュタインが来日したときの記録を、本人直筆の旅日記や日本から投函した手紙、当時の新聞記事、写真やイラストなどによってまとめた図録。滞在中、名古屋で行われた相対性理論の講演内容も収録されているのに加え、アインシュタインの旅日記が翻訳出版されるのは、本書が世界で初めてというから、貴重な本である。

アインシュタインの旅日記には、食べたものや見たものに対する無邪気な感想や、日本人についての印象などが克明に描かれている。その日記に並行するように掲載された当時の新聞記事や写真などからは、アインシュタインを見た日本人のフィーバーぶりがうかがえる。また、アインシュタインに同行していた、近代漫画の先駆者である岡本一平(岡本太郎の父)のイラストは、素顔のアインシュタインの魅力を伝えてやまない。さらに、随所に織り込まれているコラムでは、相対性理論が理解できるかどうかについての「閣議による大論争」や、女子学生に囲まれ大人気だったアインシュタインの様子など、くすっと笑える話も紹介されている。相対性理論はチンプンカンプンでも、活気あふれる大正デモクラシー時代の日本がのぞき見られるだけでも、得をした気分になれる。

アインシュタインは日本人に好感を持っていたようで、息子への手紙には、「物静かで、控えめで、知的で、芸術好きで、思いやりがあってひじょうに感じがよい」としたためている。また、日本の雑誌に寄せたエッセイの中では、「西洋と出会う以前に日本人が本来持っていた、(中略)謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って、忘れずにいてほしいものです」という言葉を残している。


カスタマーレビュー


大物理学者の日本観察が鋭い 投稿者 tttabata 2002/12/27

 北九州市門司を訪れたとき、旧三井倶楽部のアインシュタイン記念室を見学した。そこはアインシュタインが1922年に来日した際、5日間滞在したところである。彼の日本印象記の和訳も陳列されていたが、その出典が記載されていないことを残念に思った。その後間もなく、本書の出版を知って購入したところ、たまたま、その印象記が再録されていたので、嬉しかった。それは、雑誌「改造」の1923年1月号に掲載されたものだそうである。

本書の中心をなすのは、43日間におよぶアインシュタインの講演旅行日記の和訳である。来日80周年の機会に、当のわが国で世界に先駆けて、この日記が出版されたのは、すばらしいことである。日記の随所に、アインシュタインの観察の鋭さがみられ、感心させられる。

日本人の熱狂的な歓迎ぶりを伝える多数の写真や新聞記事のコピー、随行して描いた岡本一平の漫画なども多数含まれており、眺めるだけでも楽しい本である。巻末にある佐藤文隆京大名誉教授の解説は、世間に流布するアインシュタイン観を正すように書かれたユニークな一文である。

始めに記した日本印象記の末尾において、アインシュタインは、西洋と出会う以前に日本人が本来もっていた、生活の芸術化、謙虚さ、質素さ、純粋で静かな心などを、忘れずにいてほしい、と述べている。その願いは果たしてかなえられているかと、昨今のわが国が反省させられもする。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/444.html#c108

[経世済民120] 水素水に国が「効果なし」警告、業界が一斉反発で異例バトル「テストに疑義」「言語道断」(Business Journal) 赤かぶ
1. 中川隆[7125] koaQ7Jey 2017年3月15日 08:55:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7591]

本当に効くのも有るんだよね:

大中山温泉水素水「ハイドレート」|奇跡の水で作った水素水です
https://www.ohnakayama.jp/

大中山温泉の何処が素晴らしいかというと:


備前市の海岸からもさほど遠くない、ここ和気町大中山は標高が60mほどあります。その温泉地の地下1000mから自噴する水は、海水面よりも遙かに深い地底より噴き上がっており地表では考えられない特質を持っています。

水質検査では、細菌・微生物は検出されず、適量のラドンを含み、水素の溶存を表す酸化還元電位がマイナス200mV(夏)〜マイナス300mV(冬)を示しています。


 酸化還元電位はORP計で常に計測していますが、自然の水ならプラス200mVくらいで、これよりプラスなら酸化力(錆びたり腐ったりすること)が、マイナスなら還元力(錆が取れたり浄化されること)が強いとされます。現在の日本では川の汚染も進み、よほどの場所でなければプラス200mV以下の水には出会えません。市販されているミネラルウォーターでは、今まで計測した中で最高がプラス200mV前後でした。

 ところで、普通の水道水ならプラス400〜500mV、地方も含め都市部ではプラス500〜700mVにも達しますから、非常に酸化力が強いといえます。さらに水道水は塩素消毒臭もきつく、水道管の錆びや、熱しても消えないトリハロメタンの発がん性が指摘されている時代です。人体の60%以上が水分で出来ている私たちは、飲み水についても真剣に考える時ではないでしょうか。

 ラドン温泉では、世界有数の放射能泉として三朝温泉、また有馬温泉の銀泉なども有名ですが、ラドンは入浴・飲泉ともにその効能が高く、痛風・神経痛・リューマチをはじめ万病の湯とされています。ただ安心して飲泉できるところとなると、非常に限られてしまいます。

大中山温泉の源泉は、硫黄・メタケイ酸などが少なく、大変飲みやすい弱アルカリの軟水となっています。どんなに医学が発達しようとも、生物が健康に生きていくためには、自然治癒力・免疫力をいかに維持していくかにかかっています。ラドンはその強力なイオン化作用で、余分な脂肪や糖分など老廃物の代謝を促進して血液を浄化させ体温上昇と発汗作用を促し、神経を鎮めるなどの働きもあるとされています。さらには肌の老化を防ぐことから、三大美肌の湯にも挙げられています。

http://ohnakayamaonsen.life.coocan.jp/99_blank003_003.html


奇跡の水として世界で有名なのは、フランスは「ルルドの泉」、ドイツの「ノルデナウの水」、メキシコの「トラコテの水」などがあります。いずれも難病が治ったり、白血病が消えたりとの伝承があり、毎年数十万の人々が水を汲みに訪れているそうです。近年色々な研究によると、これらの水には天然で水素が含まれているとのことです。直接計った訳ではありませんが、これら奇跡の水の酸化還元電位はマイナス50mV〜マイナス100mVだそうです。

 事実だとすると、大中山温泉の源泉は噴出時にマイナス300mVですから、奇跡の水をはるかに凌ぐ値だということになります。実際そんな水に当たることが奇跡のようなことなのですが、日本にもマイナス電位で湧いている水は少なからずあると思われます。

 しかし問題は、マイナスの水も地表に出て熱などに触れると、ドンドンと±0に近づいてしまうのです。当温泉の源泉も放っておくと数日で±0となり、その後は市販の有名なミネラルウォーター同様、プラスの200mV前後に収まってしまいます。

 源泉のままなら汲んですぐに使わないと、効果は半減するということなのです。それでも水道水や一度沸かしたミネラルウォーターよりは、はるかに健康によい水であることは言うまでもありません。

 この源泉のマイナス電位を保ったまま日本中の人に届けるには、水素を注入するしかない、という結論になるのです。それから長い模索が始まりました。触媒や電気分解による電離、加圧式やバブリング方式と色々と試しましたが、どれも一旦は水素が溶存しますが、栓を開けると瞬く間に放出してしまうのでした。


以下は真偽不明ですが、一応そのままコピペしておきます:


 ところがある日、ちょっとしたきっかけから画期的溶存法にたどり着いたのです。この方法なら電位をマイナス500mVくらいにまで下げることが出来、ペットボトルでも1週間はほとんど変わらず、2週間はマイナス300mV程度を保つことに成功したのです。もちろんアルミパウチなら半年でも大丈夫です。特許申請も考えてはいますが、今の所は企業秘密となっています。

http://ohnakayamaonsen.life.coocan.jp/99_blank001.html

子宮癌と肺転移を克服


2008年01月:子宮体ガンV期A 子宮・卵巣の全摘手術
術後は抗がん剤シスプラチン、パクリタキセル併用
副作用:激しい嘔吐・白血球の減少・肝機能の低下

特に嘔吐が激しく入院中は食事はほとんど摂れない。
3ヵ月後退院、通院で抗がん剤を続ける。

髪はほとんど抜け落ち医療用のカツラを購入。


2008年05月:生活のためパートの仕事に復帰

副作用を緩和するため漢方を猛勉強する。
癌が好む低体温性を直すため生姜湯を(通常体温34.8℃)
白血球の減少と嘔吐対策に六君子湯を免疫力強化によいとβグルカンを豊富に含む霊芝を服用する。

漢方の効果か嘔吐はましになり、白血球も抗がん剤投与後は急激に下がるものの、回復も早くなった。

6月で2クール目も終わり、腫瘍マーカーも基準内だったのでひと安心、
治ったような気持ちでいた。
食事も医師の勧めに従い栄養の高い肉類も食べた。漢方では牛肉・豚肉・鳥皮・エビ・カニは絶対に食べてはいけないとなっていたが・・・
再発防止期間こそ最も重要と、のちになって痛感する

2008年11月:肺への転移が発見される


1ミリ以下の小細胞癌が数ヶ所に散らばって発生、手術は不可で抗がん剤パクリタキセル(タキソール)投与

2週に一度のペースで抗がん剤を打つが、3度目で白血球が異常に低下。(白血球は1000以下)
インフルエンザの季節に入っていて、感染症の疑いもあるとされ、抗がん剤の投与はストップ。

今ウィルス感染すれば死の危険がある、と言われる。


2009年1月デザイナー・フーズに基づく野菜・果物ジュースを飲み始める
牛エキスを与えたガン細胞は何倍も増殖することや、アメリカの医師へのアンケートでは、90%が自分には抗がん剤を打たないと答えてる事実などを知る。

美味しいものを食べないで人生何の楽しみがあるの?
なんて考えてた自分が愚かで無知で恐ろしいくらいでした。

病院は検査で様子をみながら、悪化するようなら次の対策を相談しましょう、
ということになる。

2009年7月:人参ジュースを毎日1L飲み始める
肺の転移癌は増えたり減ったり、マーカーは正常値

ジュースのせいで手のひらがオレンジ色になる。
きついクーラーを避け、身体を冷やさないように気をつけているけど、体温計は上がらない。熱くて汗はかくようになってきた。

2010年4月:親しい人の紹介でビタミンCの点滴治療と、電子治療を受け始める(個人病院)
誘ってくれた人も癌で、大事な人だったから断れなくて、2週間に1回のペースで通うが不安もあった。ブドウ糖を点滴されて元気になるけれど、癌も元気になる気がしていた。

2010年10月:CT検査の結果小細胞癌が増殖


医師は抗がん剤かどうしても無理ならホルモン治療のどちらかを選ぶよう選択をせまる。目の前が真っ暗になった、抗がん剤は怖い。せっかく伸びてきた髪も抜ける。またあの嘔吐と、白血球低下の不安と、じん臓・肝臓も相当弱っていると言われているし・・・。


そんな時、大中山温泉の水素水を飲んでみるよう勧められる。

水なんかで?と半信半疑だったが、ビタミンCや電子は止めて飲むことにした。
もうこれで駄目なら打つ手はない、300万もする重粒子や癌センターの免疫治療も3ヶ月で200万、とてもお金が続かない。病院にはホルモン治療を選ぶ、と答える。

2011年2月:CT検査の結果大部分の癌が消失

奇跡が起きた!と思った。

この3ヶ月余り、どんな日も言われた通り一日1.5Lの水素水を飲み続けた。

信じられないけど、何度も何度も結果報告書を見たが間違いない。

http://miracle-water.digi2.jp/


奇跡は起きた


先進医療の重粒子治療も、免疫治療も、抗がん剤もいらないんです。

こんなに安い温泉の水素水で命をいただきました。

私にとっては「奇跡の水」!誰かに伝えたくてこのページを作っています。

髪の毛も生えてきました。
いつ死ぬのか、ばかり考えて夜中に叫びたくなるような日々とは、さよならすることが出来ました。笑って仕事ができるようになれたんです。普通でいることがどんなに幸せか、毎日噛みしめています。

大中山温泉の水素水を飲む前、ビタミンCの点滴を続けていた時のCT結果:小細胞癌の増大


抗がん剤は怖くて受けられず、副作用の少ないホルモン療法と大中山温泉で売っている水素水を4ヶ月間毎日1.5L何があっても飲み続けました。


CT結果:ほとんどの癌が消失


私には最後の頼みの綱でした。初めは知り合いに勧められてもほとんど信じてはいませんでした。トイレばかり行くことになり、冬に水ばかり飲むのは少し苦痛でもありました。でも止めなくて本当によかったと思っています。


とにかく毎日1.5L以上飲まなければ大きな効果は出ません。

そこがきついところでもあるのですが、300mlや500mlじゃあ病気の人は駄目だって言われました。確かに安いし、いい水だってことは前から聞いてたので、職場に一箱、家に一箱置いて必ず1.5L飲み切るように頑張りました。

便秘や下痢がなくなって来て、トイレにあまり行かなかった私が何回も行くようになりました。冷たい水を飲んでいるのに平均体温がだんだんと上がっていきました。

もちろん食生活にも気を使って、肉類は避けキノコ・海藻・もずくのフコイダン・うにのセレン・人参のβカロテンなど、なるべく摂るようにしています。

水素水を飲んでいると食欲もすごく湧いてきます。前より体重も増え、顔色がいいとみんなに言われだしました。働くことと笑うことが免疫力を高めると教わったので、週5日めいっぱい仕事もしています。

死ぬまでガン細胞が減ることはない、増やさないよう精一杯努力するしかない、とあきらめていたので、消えてきたなんて夢のよう!
奇跡はあったんだ、と思いました。

http://miracle-water.digi2.jp/99_blank.html

http://www.asyura2.com/17/hasan120/msg/198.html#c1

[経世済民120] 水素水に国が「効果なし」警告、業界が一斉反発で異例バトル「テストに疑義」「言語道断」(Business Journal) 赤かぶ
2. 中川隆[7126] koaQ7Jey 2017年3月15日 08:59:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7592]
先輩の女性は最後に近くの温泉の水素水を勧められ3ヶ月以上毎日1.5リットルを黙々と飲み続けた。

私も無理はするなと、半分疑っていたが病院でCTを撮ったら、 肺の転移ガンはほぼ消失している、という報告書をもらってきたのだ。

他の水素水は知らないのだが、大中山温泉の水素水はすい臓ガンが半分になったとか、胃がんが完全に消えたとか、糖尿病もインシュリンを毎日打っていた人が正常値になったとか、温泉の常連の人はみんな知っているようだ。

3年半に及ぶ彼女の闘病生活に付き合って、私も大いに学んだ。
紛れも無い事実なので私も母に買ってあげている。
http://plaza.rakuten.co.jp/hakuunkoubou21/diary/?ctgy=10


2012年7月再訪時、この社長さんに会いました。

この温泉水に水素を混ぜてペットボトルに詰めて販売しているとのこと。

半年ほど飲み続けると癌細胞がなくなると言ってました十数人助けたとか。

真相はともかくここを訪れている人々はグビグビ温泉水を飲んでました)


18時30分の外観。この状況で、初めて行くのは勇気がいるかも・・・
http://kimamura.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/20127-87f4.html


大中山温泉水素水

本物の水素水だ、と地元では大変な反響を呼んでいます。
癌・肝炎・糖尿の方々に特に喜ばれているようです。
お肌にも良いようですね。
https://ja-jp.facebook.com/pages/%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E6%B8%A9%E6%B3%89%E6%B0%B4%E7%B4%A0%E6%B0%B4/169829553077915


本当はこういう温泉は沢山あるんですけどね。

他の温泉水と大中山温泉の温泉水の違いは

酸化還元電位を−500mVから−600mVを6ヶ月以上保つ

様に工夫している事ですね。

http://www.asyura2.com/17/hasan120/msg/198.html#c2

[番外地6] 中川隆 阿修羅番外地 相場・経済・社会関係投稿集 中川隆
68. 2017年3月15日 11:16:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7593]

財務省は日本人の敵
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/773.html

http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/571.html#c68
[文化2] 自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか 岡本太郎 (リバイバル板へのリンク) 中川隆
4. 2017年3月15日 12:10:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7594]

優秀な人間が勝利を手に入れるわけではない現実
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/694.html

http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/764.html#c4
[番外地6] 米ネオコンとは? 中川隆
13. 中川隆[7127] koaQ7Jey 2017年3月15日 12:51:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7595]
2017.03.15
米国でトランプを排除し、ペンスを大統領に据える工作が進行中だとWikiLeaksのアッサンジ


WikiLeaksのジュリアン・アッサンジは3月14日にTwitterで、マイケル・ペンス副大統領を大統領にする計画が進行中だと書いている。ドナルド・トランプを排除してペンスを後釜に据えようということらしい。ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されて大統領になったリンドン・ジョンソン、ウォーターゲート事件で失脚したリチャード・ニクソンを引き継いだジェラルド・フォードと同じパターン。この情報はペンスに近い情報関係者から今月、入手したようだ。

 アッサンジによると、こうした動きをヒラリー・クリントンは歓迎、水面下で支援しているとも書いている。ペンスの動きは予想可能で、打ち負かすことができることが理由だとしている。

 こうした情報を「ばかげている」と否定しているペンス副大統領はキリスト教系カルト(キリスト教シオニスト)に近く、アメリカはイスラエルと共にあると公言している人物。インディアナ州知事の時代に成立させた「宗教の自由復活法」は、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)の顧客を宗教的な理由で差別しても処罰されなくすることが目的だったと言われている。トランプ大統領も親イスラエルを表明しているが、ペンス副大統領はシオニストの領域に入っていると言え、ネオコンに近い。

 ネオコンはロシア、中国、イランなどを軍事的に制圧する戦略を持ち続けていいるが、トランプが国家安全保障担当補佐官に選んだマイケル・フリン元DIA局長はロシアとの関係改善を訴えていた。そのフリンは2月13日に国家安全保障担当補佐官を辞任している。

 その辞表を読んでみると、辞任する理由は事実上、書かれていない。次期政権の国家安全保障担当補佐官として、各国の安全保障担当者、大臣、大使と電話で話をしたが、それは政権の移行を円滑に進め、大統領、補佐官、外国の指導者との必要な関係を築く手始めだったとしている。これは正しい。辞任する理由として挙げられているのは次期副大統領のペンスに対する電話に関する説明が不完全だったということくらいだが、これが辞任の理由だとは思えない。

 そこで、イランに対する強硬姿勢が本当の理由だとする人もいるが、イランに対する軍事的な圧力はロシアとの関係悪化に直結する。つまり、ロシアとの関係改善を掲げている人物はそうした方向へ進みたくないはずだ。

 1991年にイラクやシリアと同様、イランの破壊を主張していたのはネオコンのポール・ウォルフォウィッツである。その姿勢は現在に至るまで変化していない。アメリカの話し合いは時間稼ぎ、あるいはカラー革命、軍事クーデター、軍事侵略などの環境整備に過ぎない。

 タックスヘイブンのひとつであるパナマを舞台にした資金の情報を明らかにしたパナマ文書についてロシアの情報機関がリークしたと主張していたクリフォード・ガディ、シリアに飛行禁止空域を作るべき(アメリカが制空権を握るべき)だと主張していたマイケル・オハンロンが所属するブルッキングス研究所はネオコン系で、トランプを敵視している勢力。

 ネオコンなどアメリカの好戦派のプランを作成しているのはブルッキングス研究所だと見られている。バラク・オバマ政権で国連大使を経て安全保障問題担当大統領補佐官に就任したのはスーザン・ライスだが、彼女の母親、ロイスはブルッキングス研究所の研究員だった。

 ロイスはマデリーン・オルブライト(ユーゴスラビアを軍事侵攻したときの国務長官)と親しく、その縁でスーザンは子どもの頃からオルブライトを知っていた。そのオルブライトの師はアフガニスタンで戦争を仕掛けたズビグネフ・ブレジンスキーだ。

 そのブルッキングス研究所はイランをいかに攻撃し、破壊するかを提案をしている。しばしば好戦派の人びとが使う台詞、「本当は避けたいのだが、やむを得ず、苦汁の選択で戦争する」を使える環境を整備して戦争を仕掛けようということだ。これはネオコンのプランであり、ヒラリー・クリントンやバラク・オバマの政策を決めてきた。そうした政策にトランプが抵抗するならフリンのように排除してペンスを次の大統領に決めるということ。そうした動きがあるとアッサンジは言っている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201703150000/
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/751.html#c13

[リバイバル3] 『冷たい熱帯魚』 Cold Fish 2010年 日活 中川隆
14. 中川隆[7128] koaQ7Jey 2017年3月15日 21:36:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7596]


仁義の報復 元ヤクザの親分が語る埼玉愛犬家殺人事件の真実 2016/12/28 田燿山 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%81%E7%BE%A9%E3%81%AE%E5%A0%B1%E5%BE%A9-%E5%85%83%E3%83%A4%E3%82%AF%E3%82%B6%E3%81%AE%E8%A6%AA%E5%88%86%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E5%9F%BC%E7%8E%89%E6%84%9B%E7%8A%AC%E5%AE%B6%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E9%AB%99%E7%94%B0%E7%87%BF%E5%B1%B1/dp/4801909531

遺体を砕いて川に捨て…被害者はヤクザまで――かつての親分が語る、愛犬家に惨殺された「子分たちへの鎮魂歌」

週刊SPA! 3/9(木) 9:00配信


遺体を砕いて川に捨て…被害者はヤクザまで――かつての親分が語る、愛犬家に惨殺された「子分たちへの鎮魂歌」


ガンを患い闘病中でもあった田氏。入院を繰り返してはいるものの、体調は良好だという


 1993年、埼玉県大里郡で起きた「埼玉愛犬家連続殺人事件」。

 ペットショップ「アフリカケンネル」を経営していた関根元と風間博子夫妻(1993年に離婚)が、80年代から90年代にかけて金銭トラブルなどから多くの人の命を奪ったとされる事件だ。

 夫妻が殺人と死体遺棄の疑いで逮捕されたのは95年1月だが、それ以前から夫妻の周辺で行方不明事件が相次いでいるとの噂が広まり、テレビのワイドショーなどで「疑惑の夫婦」として連日報道されていた。

 4人の殺害容疑で逮捕起訴された関根元・風間博子夫妻は09年に死刑が確定しているが、被害者の一人である遠藤安旦(やすのぶ)さんが現役のヤクザだったことも当時は注目された。犯人逮捕から20年余りを経た今、遠藤さんの親分だった田燿山氏が事件を振り返った著書『仁義の報復 元ヤクザの親分が語る埼玉愛犬家殺人事件の真実』が刊行、増刷もされ話題になっている。

◆被害者は30人以上?

 「30人以上の生命を奪った」 しばしば関根はこう側近にうそぶいたといわれたが、実際に立件されたのは遠藤さんとその運転手、県内の会社役員と主婦の4人だけだった。いずれも犬や猫の殺処分に使われる硝酸ストリキニーネを入れたドリンク剤を飲ませて殺し、バラバラにした遺体を焼却することで証拠隠滅を続けていた。

「遠藤の遺骨は今も見つかっていませんが、まだ遺体も見つかっていない犠牲者はたくさんいるでしょう。被害者が4人でも30人でも死刑以上の刑罰はありませんから、警察が捜査から手を引いてしまったのです」

 遠藤さんが生前所属していた田組(現在は二代目田一家)の元組長だった田氏は、怒りを隠さない。

 当時の報道では、関根夫妻は県内の主婦やスナックのママ、トラック運転手など少なくとも7人の失踪への関与が取り沙汰されてもいた。

「関根が生まれ育った秩父でも勤務先のラーメン店主やヤクザなどを手にかけたという噂がありました。おそらく事実でしょうね。古い事件なので物証がなく、立件できなかっただけです」

 殺した後に遺体をバラバラにして焼却し、灰を川に捨てることで、証拠はほとんど残らなかった。川の周辺で見つかった遠藤さんらと見られる骨片も高温で焼かれていたために、人物が特定できていない。

「川の周辺からは遠藤の自宅の鍵や私が贈ったライターなどは見つかっていますが、遺骨は誰のものかわかりませんでした。関根らは、ほぼ完璧な証拠隠滅を図っていたのです。ただしバラバラにして焼くのも手間がかかりますから、すべて焼いていたとは考えていません。何体かは関根の豪邸の庭に今も埋められているはずです」

 物的証拠がほとんどない本件の「解決」には、元側近の証言があった。

「元側近が証言したのは自分だけが助かりたかったからでしょう。実際にこの側近は刑も軽く済んでいます。警察は、もっと丁寧に捜査すべきでした」

◆「最初から関根が怪しいと思った。直感のほうが正しいこともある」

 なぜ、遠藤さんは殺害されたのか。

「関根は経営していたペットショップの客との金銭トラブルを多く抱えており、遠藤はその相談を受けていたと聞いていました。そうしたことで揉めたのかもしれません。関根はカタギなので、遠藤も油断していたのかとも思います」

 だが、遠藤さんが行方不明になった時に、田氏は真っ先に関根を疑った。

「老子の言葉に『不出戸知天下』(戸を出でずして天下を知る)とありますが、外に出ていろいろな情報に振り回されないほうが、真実がわかることもあるのです」

 直感でひらめいた「関根による犯行」を裏付けるために、田氏は関根と側近との電話を盗聴し、地元で有名な「拝み屋」に鑑定を依頼するなどして独自に調査を続けた。

「関根を自宅に呼びつけて、別室で待たせておいて拝み屋に話を聞いたんです。私はインチキだとわかっていましたが、関根は非常にビビっていました。簡単に人を殺すくせに、インチキな霊媒師のような者には弱い男なのです。その怖がり方を見ても、やはり関根が犯人だと確信しました」

 その後に、組員たちと「関根が逮捕される前にトって(殺して)しまおう」と謀議を繰り返すことになるが、既に報道陣が関根の店や自宅に押しかけ、警察も警戒態勢に入っていた。

「いま問題になっている『共謀罪』があったら大変でしたけど(笑)、最終的には捜査に協力する形になりました。本書でもふれていますが、私が初代を務めた田組と田一家は、人を殺さないことを徹底し、子分にも指を詰めさせたこともありません。遠藤の仇を取れなかったことは今でも悔やまれますし、渡世から見れば情けないことかもしれません。いろいろな評価をされていますが、結果としてはよかったのだと思います」

 組長としての責任の取り方も考えた。

「もちろん私がしっかりしていなければなりません。でも、ヤクザは人を殺すことの恐ろしさをよくわかっていますから、実はめったに殺すことはないんですよ。最近の殺人事件も、ほとんどが親族や顔見知りによるものですね」

◆「死刑執行の前にすべてを話してほしい」

 アブない話も満載の本書だが、執筆は熟慮の末だった。

「私も不良として生きてきて、この件以外にも墓場まで持って行かなくてはならないことはたくさんあります。でも、癌を何度か患って余命を考えるようになり、遠藤のことだけはきちんと記しておかなくてはならないと思いました。まあ流行りの言葉で言えば『終活』であり、被害者へのレクイエム(鎮魂歌)でもあります」

 田氏は穏やかに微笑むが、この事件における警察や検察への捜査への怒りは今もある。

「最近のヤクザは任侠道なんか忘れているようですが、関根はヤクザよりひどい存在ですよ。私利私欲のためだけに何人も殺してきたのです。2人には刑が執行されるまでにすべてを明かしてほしいですが、期待できないですね。私は、引退はしても任侠の道まで外れたつもりはありません。やはり弱きを助け、強きをくじくという『任侠道』が大切だと思っています」

 すべての事件が明らかにならなければ、被害者の魂は浮かばれない。だが、果たしてその日は来るのか。

【たかだ・ようざん】

1945年、埼玉県生まれ。稲川会直参・初代田一家元総長。高校生の頃から愚連隊として名を馳せる。「猛者ぞろい」で知られる松本少年刑務所や府中刑務所に収監され、71年に26歳で稼業入り。90年に稲川裕紘三代目会長から盃を受けて直参となり、会長秘書も務め上げた。11年に初代田一家を立ち上げて総長に就任し、14年引退。著書に『稲川会系元総長の波乱の回顧録 ヤクザとシノギ』(双葉社、15年)など。


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/640.html#c14

[リバイバル3] 本当にあった怖い話 中川隆
62. 中川隆[7129] koaQ7Jey 2017年3月15日 23:40:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7597]

ほんとにあった怖い 第01話
https://www.youtube.com/watch?v=vBrQ9LIUv_E


2004年1月10日放送

廃屋の少女(主演:和希沙也、共演:近田慎太郎、ゆうき(ヒデヨシ)、松浦寿來)

死ねば良かったのに(主演:田中哲司、共演:三宅隆太)

深夜の鏡像(主演:神木隆之介、共演:土肥優真、安室満樹子、下村恵理、藤原まゆか)

部屋に棲む者(主演:高岡蒼佑、共演、斉藤直行)

夕暮れの迷子(主演:柊瑠美、共演:久保晶、熊谷智博、坂越由実子)

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/645.html#c62

[リバイバル3] 本当にあった怖い話 中川隆
63. 中川隆[7130] koaQ7Jey 2017年3月16日 00:52:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7598]

ほんとにあった怖い話 第03話
https://www.youtube.com/watch?v=-gvNvlZ3CiU


2004年1月24日放送

踏切の怪(主演:森本ゆうこ、共演:小出早織)

見知らぬ光景(主演:相武紗季、共演:土屋美穂子)

本が招く幽霊(主演:堀北真希、共演:寉岡瑞希、古川真紀)

真夜中の奇蹟(主演:奥貫薫、共演:山下容莉枝、大塚ちひろ、内山眞人、徳永えりか、宇都秀星、井上浩、茄子しのぶ、塚本安屋子)

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/645.html#c63

[経世済民120] 水素水は「ただの水」?がん予防もダイエット効果もなし!不当表示で国が異例の警告(Business Journal) 赤かぶ
1. 中川隆[7131] koaQ7Jey 2017年3月16日 08:26:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7599]
本当に癌に効くのも有るんだよね:

大中山温泉水素水「ハイドレート」|奇跡の水で作った水素水です
https://www.ohnakayama.jp/


大中山温泉の何処が素晴らしいかというと:


備前市の海岸からもさほど遠くない、ここ和気町大中山は標高が60mほどあります。その温泉地の地下1000mから自噴する水は、海水面よりも遙かに深い地底より噴き上がっており地表では考えられない特質を持っています。

水質検査では、細菌・微生物は検出されず、適量のラドンを含み、水素の溶存を表す酸化還元電位がマイナス200mV(夏)〜マイナス300mV(冬)を示しています。


 酸化還元電位はORP計で常に計測していますが、自然の水ならプラス200mVくらいで、これよりプラスなら酸化力(錆びたり腐ったりすること)が、マイナスなら還元力(錆が取れたり浄化されること)が強いとされます。現在の日本では川の汚染も進み、よほどの場所でなければプラス200mV以下の水には出会えません。市販されているミネラルウォーターでは、今まで計測した中で最高がプラス200mV前後でした。

 ところで、普通の水道水ならプラス400〜500mV、地方も含め都市部ではプラス500〜700mVにも達しますから、非常に酸化力が強いといえます。さらに水道水は塩素消毒臭もきつく、水道管の錆びや、熱しても消えないトリハロメタンの発がん性が指摘されている時代です。人体の60%以上が水分で出来ている私たちは、飲み水についても真剣に考える時ではないでしょうか。

 ラドン温泉では、世界有数の放射能泉として三朝温泉、また有馬温泉の銀泉なども有名ですが、ラドンは入浴・飲泉ともにその効能が高く、痛風・神経痛・リューマチをはじめ万病の湯とされています。ただ安心して飲泉できるところとなると、非常に限られてしまいます。

大中山温泉の源泉は、硫黄・メタケイ酸などが少なく、大変飲みやすい弱アルカリの軟水となっています。どんなに医学が発達しようとも、生物が健康に生きていくためには、自然治癒力・免疫力をいかに維持していくかにかかっています。ラドンはその強力なイオン化作用で、余分な脂肪や糖分など老廃物の代謝を促進して血液を浄化させ体温上昇と発汗作用を促し、神経を鎮めるなどの働きもあるとされています。さらには肌の老化を防ぐことから、三大美肌の湯にも挙げられています。

http://ohnakayamaonsen.life.coocan.jp/99_blank003_003.html


奇跡の水として世界で有名なのは、フランスは「ルルドの泉」、ドイツの「ノルデナウの水」、メキシコの「トラコテの水」などがあります。いずれも難病が治ったり、白血病が消えたりとの伝承があり、毎年数十万の人々が水を汲みに訪れているそうです。近年色々な研究によると、これらの水には天然で水素が含まれているとのことです。直接計った訳ではありませんが、これら奇跡の水の酸化還元電位はマイナス50mV〜マイナス100mVだそうです。

 事実だとすると、大中山温泉の源泉は噴出時にマイナス300mVですから、奇跡の水をはるかに凌ぐ値だということになります。実際そんな水に当たることが奇跡のようなことなのですが、日本にもマイナス電位で湧いている水は少なからずあると思われます。

 しかし問題は、マイナスの水も地表に出て熱などに触れると、ドンドンと±0に近づいてしまうのです。当温泉の源泉も放っておくと数日で±0となり、その後は市販の有名なミネラルウォーター同様、プラスの200mV前後に収まってしまいます。

 源泉のままなら汲んですぐに使わないと、効果は半減するということなのです。それでも水道水や一度沸かしたミネラルウォーターよりは、はるかに健康によい水であることは言うまでもありません。

 この源泉のマイナス電位を保ったまま日本中の人に届けるには、水素を注入するしかない、という結論になるのです。それから長い模索が始まりました。触媒や電気分解による電離、加圧式やバブリング方式と色々と試しましたが、どれも一旦は水素が溶存しますが、栓を開けると瞬く間に放出してしまうのでした。


以下は真偽不明ですが、一応そのままコピペしておきます:


 ところがある日、ちょっとしたきっかけから画期的溶存法にたどり着いたのです。この方法なら電位をマイナス500mVくらいにまで下げることが出来、ペットボトルでも1週間はほとんど変わらず、2週間はマイナス300mV程度を保つことに成功したのです。もちろんアルミパウチなら半年でも大丈夫です。特許申請も考えてはいますが、今の所は企業秘密となっています。

http://ohnakayamaonsen.life.coocan.jp/99_blank001.html


子宮癌と肺転移を克服


2008年01月:子宮体ガンV期A 子宮・卵巣の全摘手術
術後は抗がん剤シスプラチン、パクリタキセル併用
副作用:激しい嘔吐・白血球の減少・肝機能の低下

特に嘔吐が激しく入院中は食事はほとんど摂れない。
3ヵ月後退院、通院で抗がん剤を続ける。

髪はほとんど抜け落ち医療用のカツラを購入。


2008年05月:生活のためパートの仕事に復帰

副作用を緩和するため漢方を猛勉強する。
癌が好む低体温性を直すため生姜湯を(通常体温34.8℃)
白血球の減少と嘔吐対策に六君子湯を免疫力強化によいとβグルカンを豊富に含む霊芝を服用する。


漢方の効果か嘔吐はましになり、白血球も抗がん剤投与後は急激に下がるものの、回復も早くなった。

6月で2クール目も終わり、腫瘍マーカーも基準内だったのでひと安心、
治ったような気持ちでいた。
食事も医師の勧めに従い栄養の高い肉類も食べた。漢方では牛肉・豚肉・鳥皮・エビ・カニは絶対に食べてはいけないとなっていたが・・・
再発防止期間こそ最も重要と、のちになって痛感する


2008年11月:肺への転移が発見される


1ミリ以下の小細胞癌が数ヶ所に散らばって発生、手術は不可で抗がん剤パクリタキセル(タキソール)投与

2週に一度のペースで抗がん剤を打つが、3度目で白血球が異常に低下。(白血球は1000以下)
インフルエンザの季節に入っていて、感染症の疑いもあるとされ、抗がん剤の投与はストップ。

今ウィルス感染すれば死の危険がある、と言われる。


2009年1月デザイナー・フーズに基づく野菜・果物ジュースを飲み始める
牛エキスを与えたガン細胞は何倍も増殖することや、アメリカの医師へのアンケートでは、90%が自分には抗がん剤を打たないと答えてる事実などを知る。

美味しいものを食べないで人生何の楽しみがあるの?
なんて考えてた自分が愚かで無知で恐ろしいくらいでした。

病院は検査で様子をみながら、悪化するようなら次の対策を相談しましょう、
ということになる。


2009年7月:人参ジュースを毎日1L飲み始める
肺の転移癌は増えたり減ったり、マーカーは正常値

ジュースのせいで手のひらがオレンジ色になる。
きついクーラーを避け、身体を冷やさないように気をつけているけど、体温計は上がらない。熱くて汗はかくようになってきた。


2010年4月:親しい人の紹介でビタミンCの点滴治療と、電子治療を受け始める(個人病院)
誘ってくれた人も癌で、大事な人だったから断れなくて、2週間に1回のペースで通うが不安もあった。ブドウ糖を点滴されて元気になるけれど、癌も元気になる気がしていた。


2010年10月:CT検査の結果小細胞癌が増殖


医師は抗がん剤かどうしても無理ならホルモン治療のどちらかを選ぶよう選択をせまる。目の前が真っ暗になった、抗がん剤は怖い。せっかく伸びてきた髪も抜ける。またあの嘔吐と、白血球低下の不安と、じん臓・肝臓も相当弱っていると言われているし・・・。


そんな時、大中山温泉の水素水を飲んでみるよう勧められる。

水なんかで?と半信半疑だったが、ビタミンCや電子は止めて飲むことにした。
もうこれで駄目なら打つ手はない、300万もする重粒子や癌センターの免疫治療も3ヶ月で200万、とてもお金が続かない。病院にはホルモン治療を選ぶ、と答える。


2011年2月:CT検査の結果大部分の癌が消失

奇跡が起きた!と思った。

この3ヶ月余り、どんな日も言われた通り一日1.5Lの水素水を飲み続けた。

信じられないけど、何度も何度も結果報告書を見たが間違いない。

http://miracle-water.digi2.jp/


奇跡は起きた


先進医療の重粒子治療も、免疫治療も、抗がん剤もいらないんです。

こんなに安い温泉の水素水で命をいただきました。

私にとっては「奇跡の水」!誰かに伝えたくてこのページを作っています。

髪の毛も生えてきました。
いつ死ぬのか、ばかり考えて夜中に叫びたくなるような日々とは、さよならすることが出来ました。笑って仕事ができるようになれたんです。普通でいることがどんなに幸せか、毎日噛みしめています。


大中山温泉の水素水を飲む前、ビタミンCの点滴を続けていた時のCT結果:小細胞癌の増大


抗がん剤は怖くて受けられず、副作用の少ないホルモン療法と大中山温泉で売っている水素水を4ヶ月間毎日1.5L何があっても飲み続けました。


CT結果:ほとんどの癌が消失


私には最後の頼みの綱でした。初めは知り合いに勧められてもほとんど信じてはいませんでした。トイレばかり行くことになり、冬に水ばかり飲むのは少し苦痛でもありました。でも止めなくて本当によかったと思っています。


とにかく毎日1.5L以上飲まなければ大きな効果は出ません。

そこがきついところでもあるのですが、300mlや500mlじゃあ病気の人は駄目だって言われました。確かに安いし、いい水だってことは前から聞いてたので、職場に一箱、家に一箱置いて必ず1.5L飲み切るように頑張りました。

便秘や下痢がなくなって来て、トイレにあまり行かなかった私が何回も行くようになりました。冷たい水を飲んでいるのに平均体温がだんだんと上がっていきました。

もちろん食生活にも気を使って、肉類は避けキノコ・海藻・もずくのフコイダン・うにのセレン・人参のβカロテンなど、なるべく摂るようにしています。

水素水を飲んでいると食欲もすごく湧いてきます。前より体重も増え、顔色がいいとみんなに言われだしました。働くことと笑うことが免疫力を高めると教わったので、週5日めいっぱい仕事もしています。

死ぬまでガン細胞が減ることはない、増やさないよう精一杯努力するしかない、とあきらめていたので、消えてきたなんて夢のよう!
奇跡はあったんだ、と思いました。

http://miracle-water.digi2.jp/99_blank.html





先輩の女性は最後に近くの温泉の水素水を勧められ3ヶ月以上毎日1.5リットルを黙々と飲み続けた。
私も無理はするなと、半分疑っていたが病院でCTを撮ったら、 肺の転移ガンはほぼ消失している、という報告書をもらってきたのだ。

他の水素水は知らないのだが、大中山温泉の水素水はすい臓ガンが半分になったとか、胃がんが完全に消えたとか、糖尿病もインシュリンを毎日打っていた人が正常値になったとか、温泉の常連の人はみんな知っているようだ。

3年半に及ぶ彼女の闘病生活に付き合って、私も大いに学んだ。
紛れも無い事実なので私も母に買ってあげている。
http://plaza.rakuten.co.jp/hakuunkoubou21/diary/?ctgy=10


2012年7月再訪時、この社長さんに会いました。

この温泉水に水素を混ぜてペットボトルに詰めて販売しているとのこと。

半年ほど飲み続けると癌細胞がなくなると言ってました十数人助けたとか。

真相はともかくここを訪れている人々はグビグビ温泉水を飲んでました)


18時30分の外観。この状況で、初めて行くのは勇気がいるかも・・・
http://kimamura.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/20127-87f4.html

大中山温泉水素水

本物の水素水だ、と地元では大変な反響を呼んでいます。
癌・肝炎・糖尿の方々に特に喜ばれているようです。
お肌にも良いようですね。
https://ja-jp.facebook.com/pages/%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E6%B8%A9%E6%B3%89%E6%B0%B4%E7%B4%A0%E6%B0%B4/169829553077915


本当はこういう温泉は沢山あるんですけどね。

他の温泉水と大中山温泉の温泉水の違いは

酸化還元電位を−500mVから−600mVを6ヶ月以上保つ

様に工夫している事ですね。


http://www.asyura2.com/17/hasan120/msg/222.html#c1

[経世済民120] 水素水は「ただの水」?がん予防もダイエット効果もなし!不当表示で国が異例の警告(Business Journal) 赤かぶ
2. 中川隆[7132] koaQ7Jey 2017年3月16日 08:31:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7600]

因みに、大中山温泉水は奇跡の水としては番外の最低レベルの温泉水だからね:


本物の『奇跡の水』

@ 群馬 釈迦の霊泉・奈女沢温泉(群馬県月夜野町)
http://www.shakanoreisen.com/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/568.html


A 富山県 穴の谷の霊水(上市町)
http://www.anantan.jp/


B山形県 今神温泉の水

宅急便での発送もしております。

山形県戸沢村 今神温泉   0233-73-2311

http://poohsan888.da-te.jp/c3135.html
http://kinspa.com/onsen_report/yamagata/imagami/imagami.html


C大分 塚野鉱泉

塚野鉱泉水の宅配・取り寄せ

旅館山水荘 TEL(097-541-0008) FAX(097-541-0260)
http://www.sansuisou.jp/
http://water-1.seesaa.net/category/3688071-1.html


D長野県 毒沢鉱泉の水(長野県下諏訪町)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/213.html

毒沢鉱泉 旅館 宮乃湯 ミネラル鉱泉水販売のご案内
http://miyanoyu.com/ons.html


E山梨県 金峰泉

2L入りペットボトルで1500円。全国に宅配可。

金峰泉本舗
〒404-0013山梨県山梨市牧丘町窪平883

0553-35-2270/FAX35-2371
http://life.ge3.jp/modules/news/index.php?storytopic=0&start=0
http://ameblo.jp/kazgensensui6/entry-11595954656.html


F 栃木県 鶏頂山鉄鉱水(栃木県藤原町)
http://www.mizuhiroba.jp/shop/products/detail/541
http://www.tochinavi.net/spot/home/index.shtml?id=3319


G 千原温泉

島根県邑智郡美郷町千原1070
電話:0855-76-0334
http://www.chihara-onsen.jp/
https://www.facebook.com/chiharaonsen
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/522.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/527.html

温泉・飲泉リスト by ONKEN21
http://www.asahi-net.or.jp/~UE3T-CB/bbs/special/onken/insen_list.htm

温泉・飲泉リストその2 by ONKEN21
http://www.asahi-net.or.jp/~UE3T-CB/bbs/special/onken/insen_list2.htm


カラダにいい水いい温泉 朝倉一善のブログ
http://ameblo.jp/kazgensensui6/

病気に効く温泉
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/742.html

http://www.asyura2.com/17/hasan120/msg/222.html#c2

[経世済民120] 緩む財政 元大蔵幹部の悔恨録 あっしら
2. 中川隆[7133] koaQ7Jey 2017年3月16日 08:36:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7601]
>敗戦直後のハイパーインフレの記憶は高度経済成長にかき消され


こいつはハイパーインフレがどういうものか何も知らない経済のド素人だな


戦後のインフレと言われているのはアメリカの指示で戦時国債を返さなくても良くする為に、意図的に円の価値を下げて、借金の額面だけ据え置いただけの話

デノミの逆をやって資産家の財産を取上げたんだ

インフレは供給より需要が大きい場合にしか起きない
日銀がいくら金融緩和しても株式市場や海外投資に廻るだけで物価は上がらない


そもそも日本は常に供給過剰な国でハイパーインフレになった事は一度もない

ハイパーインフレーションとはフィリップ・ケーガンにより、「インフレ率が毎月50%を超えること」と定義されている。毎月のインフレ率50%が継続すると、一年後には物価が130倍に上昇することになる。すなわち、インフレ率13000%である。


戦後の日本は確かにインフレ率が高まったが、別にハイパーインフレになどなっていない。

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではない。

戦時中も終戦後しばらくも大したインフレにならなかったんだから、農業が再開されれば食料不足は有り得ない、

従って戦後のインフレはアメリカが意図的に作った偽りのインフレという事

元々日本は供給能力が高かったから輸入と上手く組み合わせればインフレになる訳ないんだよ

米軍は食料の流通と配給制度を破壊した上で、ララ物資という食料を配給し、アメリカに恩義を感じさせる政策をとったんだよ。

GHQは小麦や脱脂粉乳などのアメリカの余剰農産物を大量に日本に輸出したかったので、日本の農業を壊滅させる占領政策を取ったんだ。
それが農家には食料が有り余っていたにもかかわらず餓死者が出た理由

 東京の小売物価は、全国平均と比べて高く推移する傾向があった。その東京の小売物価指数で見てさえ、1946年のピーク時のインフレ率は500%「程度」に過ぎない。


 米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

 当時の我が国の供給能力は、戦前と比較して実に2割の水準にまで落ち込んだと考えられている。供給能力の8割を喪失してさえ、インフレ率が500%程度で済むわけだから、日本国の生産力や技術、さらには「人材」の蓄積は凄まじい限りだ。


戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではないですね。


戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したと語っている。

コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、アメリカの占領政策によるもの。

終戦直後は大したインフレは起きなかった。

円がその後安くなったのはアメリカの命令で戦時国債を踏み倒す為に意図的に紙幣をそれまでの何十倍も発行したからだ

アメリカが日銀にやらせたのは、それまでの 1円札を100円札に名称変更して、戦時国債の額面だけは昔と同じままにしておいた。


戦後の農地解放と同じで、アメリカは地主の金を貧農・小作人に再分配させる為に円の額面を変えたんだ。 だからハイパーインフレとは全く違う。
その結果、農民はすべて自民党支持層になって日本が共産化する可能性がなくなったたんだ。

ドイツやジンバブエのハイパーインフレとは中身が全然違うよ

因みに、日本が一億総中流、世界で一番成功した社会主義国と言われる様になったのは

・GHQ の農地改革で富農の土地をインフレ前に強制買い取り、小作農にインフレ後にインフレ前の金額と同額(タダ同然)で売ってその金額だけ売主に渡した

・意図的なインフレと預金封鎖で富裕層の預金を没収


が原因

要するに、日本を共産化させない為にブルジョアジーの持つ農地と銀行預金・国債を没収してプロレタリアートに再分配したんだ

一億総中流の無階級社会になったらもう共産革命を起こす必要がなくなるからね


http://www.asyura2.com/17/hasan120/msg/225.html#c2

[お知らせ・管理20] これが阿修羅に巣食う電通工作員 中川隆
52. 中川隆[7134] koaQ7Jey 2017年3月16日 19:03:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7602]
2017.03.16
オバマが昨年の大統領選挙で英国の電子情報機関を使ってトランプ陣営を盗聴した可能性は十分ある


アンドリュー・ナポリターノ元ニュージャージー州最高裁判事はFOXニュースの番組の中で、バラク・オバマは昨年の大統領選挙でドナルド・トランプ陣営の盗聴をイギリスの電子情報機関GCHQに依頼したと語った。これは情報機関の情報源から得た情報だという。

 これは十分にありえる話だ。アメリカの電子情報機関NSAとGCHQはUKUSAという連合体を作り、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの機関を従えてい情報を収集、分析している。多国間の情報機関が連携することで、各国の法律に拘束されず、外国人だろうと自国民だろうと監視できる。実際、UKUSAはそうしてきた。

 昨年5月、ナポリターノは、ロシアで外務省と情報機関との間でヒラリー・クリントンの2万に及ぶ電子メールを公開するかどうかが議論されていると語っているのだが、これは正しくなかった可能性が高く、今回の発言が信頼できるものかどうかは不明。ただ、そうしたことは日常的に行われていることで、ナポリターノの発言に関係なく、そうした盗聴が行われていた可能性は高い。

 情報機関の連携は通信傍受以外の分野でも行われている。例えば、かつて、ラテン・アメリカの軍事政権(アメリカ巨大資本の傀儡)は情報機関のネットワークを作り、自分たちの支配システムにとって好ましくない人びとを世界規模で暗殺していた。「コンドル」作戦だ。

 最近ではエレクトロニクス技術が発達して便利になったが、監視にとっても便利になった。その実態の一端を先日、WikiLeaksは「Vault 7」として公表している。以前から想定されていたことだが、インターネットに接続されている機器は全てCIAにハッキングされる危険性を秘めていることを具体的に示した。

 CIAはマルウエア(有害ソフト)を使うことで、iPhoneやアンドロイド系のスマートフォン、スマートTV、またWindows、OSx、LinuxといったOS、あるいはWi-Fiルーターに侵入し、その情報を入手することができる。利用者が危機をオフにしたつもりでも、利用者に気づかれずオンにすることも技術的に可能で、そうした電子機器は監視カメラ、盗聴器になる。PASMOやSUICAといったIC乗車券、あるいはGPSが搭載されて携帯電話などを所持していたりいれば、行動もトレースされてしまう。

 こうした電子的な監視は1970年代から始まり、技術の進歩に伴ってその能力も高まってきた。その能力を懸念する声は1980年代から世界的に強まったが、日本ではマスコミも「運動家」も興味を示さなかった。それに対して法務省/検察がそうした技術に興味を持っていたことは本ブログでも指摘してきた。

 例えば、1970年代の終盤、駐米日本大使館に一等書記官として勤務していたのが原田明夫や、その下で活動していた敷田稔は不特定多数のターゲットに関する情報を収集、分析するシステムPROMISを調べている。調査結果は1979年と80年に「研究部資料」として紹介された。

 監視を容易にするため、アメリカでは1994年にCALEA(法執行のための通信支援法)なる法律が制定されたが、こうした動きは西側世界全域に及んでいる。1993年から毎年、アメリカはヨーロッパ諸国の捜査機関ともこの問題に関する会議を開催、日本政府も当然、アメリカの意向に従っている。

 軍と同様、情報機関は「安全保障」という口実で秘密のベールで守られ、その実態は国民に知らされていない。その情報機関は国民の一挙手一投足を監視、支配階級に背く疑いが生じたなら弾圧できる仕組みも作られている。日本の支配階級は、特定秘密保護法や国家安全保障基本法に続き、共謀罪を成立させようとしているが、これはそうした流れに沿ってのことだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201703160000/
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c52

[外国人参政権・外国人住民基本法01] トヨタの為に毒塗オレンジを食べさせられている日本人 _ 日本を農業の無い国にして良いのか? 中川隆
67. 中川隆[7135] koaQ7Jey 2017年3月16日 19:12:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7603]

2017年03月16日
ライトハイザー米通商代表 日本の農業を潰すと宣言


アメリカは過去何度も使った手を、必ず今回も使ってくる
引用:http://www.nikkei.com/content/pic/20170205/96958A9F889DE3E0E6EBE2EAE6E2E2E1E2E0E0E2E3E5E2E2E2E2E2E2-DSXMZO1249120003022017000001-PB1-30.jpg


アメリカはまた反日政策に舵を切る

アメリカの通商代表部(USTR)代表に指名されているライトハイザーは、農業分野で日本を標的にすると明言しました。

3月14日に行われた米上院委員会の承認公聴会で同氏は、「農産物の市場開放で日本を第一の標的にする」と発言しました。

二月に安倍首相が訪米して首脳会談を行ったときには、貿易問題は話し合われず、双方に都合が良いことだけが話し合われた。

          

安倍首相は日米の絆は強固になったと自負していたが、やはり調子の良い事だけを先に合意しただけでした。

日本に厳しく接してきたレーガン大統領やビルクリントン大統領も同じで、自分は「日米友好」など調子の良いことだけを言います。

だが後で通商代表部やホワイトハウスのスタッフが出てきて「ジャップは汚い事をやっている!」と喚き散らすのです。


80年代、90年代、2000年代とこの構図は繰り返され、日本は必ず抵抗し日米貿易摩擦が起きます。

すると突如として巻き起こるのが韓国と中国の「過去の侵略への謝罪要求」で実は米大統領が依頼して騒いでもらっていました。

韓国と中国は日本叩きで総攻撃を始め、欧州各国も「日本は酷い国だ、侵略しておいて謝罪もしない」とBBC放送などキャンペーンを展開します。


そこでやおらアメリカ大統領が出てきて「日本よ、謝罪し反省するならアメリカが中韓との仲を仲介してやろう」などと言い出します。

するとなぜか中曽根首相や橋本首相、小泉首相は”アメリカ大統領に謝罪”してアメリカへの市場開放を約束する事になります。

アメリカは牛肉もオレンジも自動車も、すべてこの手で市場開放させ、今回も必ず同じ手を使ってくるでしょう。


自民党の責任者は日本農業叩きに明け暮れている
CronzQfUMAAZu3V
引用:https://pbs.twimg.com/media/CronzQfUMAAZu3V.jpg

アメリカはここまでやる

さらに悪い事に日本は安全保障や防衛をアメリカに依存しているので、軍事的圧力を受けます。

アメリカの要求を呑まないと守ってもらえないばかりでなく、”核の傘”から外されて敵国の扱いを受けます。

90年代のクリントン政権では北朝鮮に経済援助をする一方で、有力議員は日本を「敵国」と名指しして日米同盟解消や再占領を主張していました。


その頃ヒラリークリントンを中心にして南京事件は日本軍の犯行だったという大々的なキャンペーンが展開され、「日本を叩き潰せ」という世論が支持を受けていました。

「日本はこんなに酷い事をしたのだからもう一度原爆を落として占領しろ」とまで議員やメディアは言っていました。

そんな中で起きたのが非自民の最悪政権の誕生や、オウム事件、阪神大震災で、アメリカはこれを利用して超円高を作り出し、文字通り日本経済を叩き潰しました。


それでいてビルクリントンは平気な顔で日本にやってきて日米友好を語り、日本の首相にお礼を言わせ、侵略戦争の謝罪もさせていました。

アメリカという国の人間は貿易交渉で経済的利益を得る為には、ここまでやるのだと理解しなくてはなりません。

日本人が考えている「アメリカがやってくるのはこの辺だろう」という想像の、10倍はあくどい事を考えているのがアメリカ人です。


さてライトハイザー通商代表は「日本の農業市場を開放させる」と言いましたが、実際には閉鎖されているのはアメリカ農業で、日本農業は解放されまくっています。

アメリカ農業はコメ、小麦、とうもろこしにジャガイモ、牛肉、豚肉、キャベツに至るまで政府から平均50%の補助金が出ています。

例えばキャベツ農家の所得が300万円だとしたら、アメリカ政府がもう300万円の補助金を出して、農家の所得を600万円にしています。


「アメリカのコメは日本より安い」等と言いますが、実際には「日本のコメはアメリカの半額なのに、アメリカ政府が補助金を出して値下げしている」のです。

欧州にいたってはフランスは90%の補助金を出していて、ぶどう農家は事実上の国家公務員です。

先進国で唯一、農業補助金を出していないのが日本で、そのせいで日本の農作物は世界一高いのです。


そんな事は百も承知のうえでアメリカ側は「ジャップは汚い!農業を保護して閉鎖している」と言って開放を迫ります。

アメリカがいつも日本を標的にする理由は、日本の安全保障をアメリカが握っているから、拒否できないのを見越しているからで、必ず勝てるゲームが面白いからです。

情けない事にこうした事を勉強もせずに、「日本の農業には競争が無い」「日本の農家は怠け者」など農業叩きに精を出しているのが小泉進次郎自民党農林部会長です。
http://www.thutmosev.com/archives/69965034.html
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/518.html#c67

[昼休み53] 日本はアメリカの仮想敵国 _ 米軍は日本が独立するのを阻止する為に日本に駐留している 中川隆
12. 中川隆[7136] koaQ7Jey 2017年3月16日 19:16:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7604]
2017年03月16日
ライトハイザー米通商代表 日本の農業を潰すと宣言

アメリカは過去何度も使った手を、必ず今回も使ってくる
引用:http://www.nikkei.com/content/pic/20170205/96958A9F889DE3E0E6EBE2EAE6E2E2E1E2E0E0E2E3E5E2E2E2E2E2E2-DSXMZO1249120003022017000001-PB1-30.jpg


アメリカはまた反日政策に舵を切る

アメリカの通商代表部(USTR)代表に指名されているライトハイザーは、農業分野で日本を標的にすると明言しました。

3月14日に行われた米上院委員会の承認公聴会で同氏は、「農産物の市場開放で日本を第一の標的にする」と発言しました。

二月に安倍首相が訪米して首脳会談を行ったときには、貿易問題は話し合われず、双方に都合が良いことだけが話し合われた。

          

安倍首相は日米の絆は強固になったと自負していたが、やはり調子の良い事だけを先に合意しただけでした。

日本に厳しく接してきたレーガン大統領やビルクリントン大統領も同じで、自分は「日米友好」など調子の良いことだけを言います。

だが後で通商代表部やホワイトハウスのスタッフが出てきて「ジャップは汚い事をやっている!」と喚き散らすのです。


80年代、90年代、2000年代とこの構図は繰り返され、日本は必ず抵抗し日米貿易摩擦が起きます。

すると突如として巻き起こるのが韓国と中国の「過去の侵略への謝罪要求」で実は米大統領が依頼して騒いでもらっていました。

韓国と中国は日本叩きで総攻撃を始め、欧州各国も「日本は酷い国だ、侵略しておいて謝罪もしない」とBBC放送などキャンペーンを展開します。


そこでやおらアメリカ大統領が出てきて「日本よ、謝罪し反省するならアメリカが中韓との仲を仲介してやろう」などと言い出します。

するとなぜか中曽根首相や橋本首相、小泉首相は”アメリカ大統領に謝罪”してアメリカへの市場開放を約束する事になります。

アメリカは牛肉もオレンジも自動車も、すべてこの手で市場開放させ、今回も必ず同じ手を使ってくるでしょう。


自民党の責任者は日本農業叩きに明け暮れている
CronzQfUMAAZu3V
引用:https://pbs.twimg.com/media/CronzQfUMAAZu3V.jpg


アメリカはここまでやる

さらに悪い事に日本は安全保障や防衛をアメリカに依存しているので、軍事的圧力を受けます。

アメリカの要求を呑まないと守ってもらえないばかりでなく、”核の傘”から外されて敵国の扱いを受けます。

90年代のクリントン政権では北朝鮮に経済援助をする一方で、有力議員は日本を「敵国」と名指しして日米同盟解消や再占領を主張していました。


その頃ヒラリークリントンを中心にして南京事件は日本軍の犯行だったという大々的なキャンペーンが展開され、「日本を叩き潰せ」という世論が支持を受けていました。

「日本はこんなに酷い事をしたのだからもう一度原爆を落として占領しろ」とまで議員やメディアは言っていました。

そんな中で起きたのが非自民の最悪政権の誕生や、オウム事件、阪神大震災で、アメリカはこれを利用して超円高を作り出し、文字通り日本経済を叩き潰しました。


それでいてビルクリントンは平気な顔で日本にやってきて日米友好を語り、日本の首相にお礼を言わせ、侵略戦争の謝罪もさせていました。

アメリカという国の人間は貿易交渉で経済的利益を得る為には、ここまでやるのだと理解しなくてはなりません。

日本人が考えている「アメリカがやってくるのはこの辺だろう」という想像の、10倍はあくどい事を考えているのがアメリカ人です。


さてライトハイザー通商代表は「日本の農業市場を開放させる」と言いましたが、実際には閉鎖されているのはアメリカ農業で、日本農業は解放されまくっています。

アメリカ農業はコメ、小麦、とうもろこしにジャガイモ、牛肉、豚肉、キャベツに至るまで政府から平均50%の補助金が出ています。

例えばキャベツ農家の所得が300万円だとしたら、アメリカ政府がもう300万円の補助金を出して、農家の所得を600万円にしています。


「アメリカのコメは日本より安い」等と言いますが、実際には「日本のコメはアメリカの半額なのに、アメリカ政府が補助金を出して値下げしている」のです。

欧州にいたってはフランスは90%の補助金を出していて、ぶどう農家は事実上の国家公務員です。

先進国で唯一、農業補助金を出していないのが日本で、そのせいで日本の農作物は世界一高いのです。


そんな事は百も承知のうえでアメリカ側は「ジャップは汚い!農業を保護して閉鎖している」と言って開放を迫ります。

アメリカがいつも日本を標的にする理由は、日本の安全保障をアメリカが握っているから、拒否できないのを見越しているからで、必ず勝てるゲームが面白いからです。

情けない事にこうした事を勉強もせずに、「日本の農業には競争が無い」「日本の農家は怠け者」など農業叩きに精を出しているのが小泉進次郎自民党農林部会長です。
http://www.thutmosev.com/archives/69965034.html

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/528.html#c12

[番外地6] 日銀が買い入れた国債は、再び売却しない限り、存在しないのと同じ 中川隆
5. 中川隆[7137] koaQ7Jey 2017年3月16日 19:21:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7605]


スティグリッツ教授の「日本国債無効化論」 2017-03-16

日本では重大な報道が相次いでいますが、本日はこれ。


『スティグリッツ教授:政府・日銀保有国債の無効化主張−諮問会議
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-03-14/OMSL6D6JIJUO01
●政府債務が「瞬時に減少」、「不安和らぐ」と−スティグリッツ氏
●債務の永久債や長期債への組み換えも提言−金利上昇リスク移転可能
 ノーベル経済学賞受賞者のスティグリッツ米コロンビア大学教授は14日夕、経済財政諮問会議に出席し、政府・日銀が保有する国債を無効にすることを提言した。
 会議に提出された資料によると、スティグリッツ教授は、政府・日銀が保有する国債を無効化することで、政府の債務は「瞬時に減少」し、「不安はいくらか和らぐ」と主張。また、債務を永久債や長期債に組み換えることで、「政府が直面する金利上昇リスクを移転」できるとしている。永久債の発行は「政府支出に必要な追加的歳入を調達し、経済を刺激する低コストの方法」だとした。
 日本の政府債務については、金利の大幅な上昇で「政府は問題に直面するかもしれない」と懸念を表明。しかし「政府債務を低下させるために消費税を上げることは逆効果」であり、代替案として企業の設備投資を促す炭素税の導入を挙げた。
 スティグリッツ氏は記者団に対し、金融政策では強い経済を取り戻すのに必要な刺激を与えるのは難しい、と説明。財政政策によって、さまざまな分野の構造改革を進めるべきだと述べた。
 スティグリッツ氏は昨年3月、政府が開いた国際金融経済分析会合の初会合に出席し、17年4月に予定していた消費増税について、世界経済が低迷する中での実施は間違っているとして安倍晋三首相に再考を促した。安倍首相は6月、消費増税の再延期を正式に表明した。』


 日本銀行は、日本政府の子会社です。そのため、日本銀行が保有する国債については、連結決算で相殺されるため、返済の必要も、利払いの必要もありません。これは価値観云々とは関係ない、単なる統計的な真実です。


 償還期限が来たところで、借り換え「させれば」済む話です。何しろ、日本銀行は日本政府の子会社です。(別に、日銀保有ではない国債にしても、償還期限が来ると借り換えされるのですが、本日はその話はしません)


 すなわち、日本政府が保有する国債は、「シャッキ〜ンッ!」とやらではないのです。単なる、貨幣です。と言いますか、そもそも中央銀行の国債買取は「国債の貨幣化(マネタイゼーション)」と呼びます(財政ファイナンスとやらではありません)。今、この瞬間も、日本政府は国債の貨幣化を猛烈な勢いで推進しているのです(量的緩和による)。


 というわけで、わたくし共は、
「日本に財政問題(国の借金で破綻する!)など、存在しない」
 と主張し、青木泰樹先生の「長期の無利子国債(ゼロクーポン債)」といった提言を拡散してきたわけです。


 すでにして、日銀保有の国債は「実質的に負債ではない」わけですが、これを名目的にも単なる貨幣にしてしまうのが、長期無利子国債です。日本政府が長期無利子国債を発行し、日本銀行の保有する国債と交換してしまえば、名実ともに「クニノシャッキ〜ン」は消滅します。


 文字通り「消える」のです。


 などと、わたくし共が主張を続けても、一向に受け入れられないのですが、ノーベル経済学者のジョセフ・スティグリッツ教授が言ってくれれば、別でしょう?


「政府・日銀が保有する国債を無効化することで、政府の債務は「瞬時に減少する」


 上記のスティグリッツ教授の言葉が、真実なのです。 


 ちなみに、政府が保有する国債とは、恐らく社会保障基金(国民年金や厚生年金など)が保有する国債のことなのでしょうか。バランスシート上、日本政府の一部である社会保障基金も国債を保有しているため、「政府が政府に金を借りている」状況になってます。 


 もちろん、財務省は日銀保有分も、社会保障基金保有分も「政府の負債」に積み上げ、
「クニノシャッキンデハタンスル〜ッ!!!」
 プロパガンダに活用しています。日本政府は、自分が自分に借りている負債分までもを「借金」に積み増しされ、破綻する、破綻すると騒がれているのです。


 ちなみに、上記のスティグリッツ教授の発言は、今のところブルームバーグ紙にしか載っていませんでした。こうして、日本国民は情報を統制され、間違った道を歩まされることになるというわけです。


 日本に財政問題など存在しないにも関わらず、財務省の「国の借金プロパガンダ」により我が国は亡国路線を邁進しています。


 スティグリッツ教授の経済財政諮問会議による発言が、少しでも政府をまともな方向に動かしてくれることを願うばかりです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12256819916.html
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/755.html#c5

[リバイバル3] 本当にあった怖い話 中川隆
64. 2017年3月16日 20:58:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7606]

ほんとにあった怖い話 第04話
https://www.youtube.com/watch?v=fqVQABoI9OQ


2004年1月31日放送

病棟の夜(主演:石橋けい、共演:立川絵理、田村真依奈、矢田有三)

姉さん(主演:岡本綾、共演:田中圭)

のびる腕(主演:真木よう子、共演:中島由紀)

最後の買い物(主演:森山未來、共演:小鹿番、広岡由里子、内田滋啓、渡辺憲吉、増子倭文江、川瀬忠行、川田希、澁谷武尊、市川千恵子)



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/645.html#c64

[政治・選挙・NHK222] 2012年 安倍晋三教育を語る! byチャンネル桜 そして2017年 安倍晋三記念小学校が開校? 知る大切さ
1. 中川隆[7138] koaQ7Jey 2017年3月16日 21:07:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7607]

反安部の小沢信者は朝鮮の反日工作員だった


日本を憎悪する反日工作員、侵略(のりこえ)を画策している


アメリカはオバマ政権時代から徐々に内向き外交政策に転換していた。そして、それと入れ替わるように中国が国家膨張主義政策を取るようになった。

そして中国は、韓国を鉄砲玉にして日本を破壊しようとあらゆる手段を使うようになっている。日本は、明確に破壊工作の対象になっている。

日本国内で集団的自衛権に反対したり、九条を守れと叫んでいたり、沖縄に独立しろと煽っている活動の裏側には、中国・韓国・北朝鮮の工作員が紛れ込んでいる。それは、もう日本人なら誰でも知っている。

日本の破壊工作を進める上で、中国・韓国・北朝鮮にとっては日本がいつまでも「戦争できない国」でいてくれる方がいいので、工作員を使って世論操作をして、さらに侵略に向けて公然と動いているのである。

その工作活動はあからさまだ。

しかし、「運動に中国・韓国・北朝鮮の工作員が紛れ込んでいる」と指摘されると、 これらの活動家は一転して「差別された」と被害者になりすまして日本の言論を封殺する。

マスコミも中国・韓国・北朝鮮に乗っ取られているので、工作員が公然と活動しているのをまったく報じないで、むしろ侵略行為を指摘する側の方を攻撃する。そんな異常な光景が日本で広がっている。


アメリカが守ってくれていたから平和だった

安倍政権になってから日本は着実に日本の主権を取り戻しつつある。

2014年7月1日には集団的自衛権の行使を容認する閣議決定が行われたが、アメリカはこの動きを非常に歓迎している。そもそも、集団的自衛権の行使を容認は、アメリカが求めていたものである。

アメリカは今まで、「日本が攻撃されたら、アメリカが攻撃されたと見なして戦う」と言ってくれていた。

この意味が分かるだろうか。

日本が中国、韓国、北朝鮮等の敵対国に攻撃された場合、アメリカが「血を流して」それを防衛すると明言していたのだ。戦後から現在まで、アメリカはずっとそのスタンスを崩さないでいたのである。

もちろん、これはアメリカが日本を愛しているからではない。アメリカにとって日本が同盟国であった方が好都合であるからそうしていた。

今まで日本が戦争に巻き込まれなかったのは、このアメリカの力強い宣言があったからである。

日本人が世界から恐れられていたからではない。憲法九条があったからでもない。アメリカが世界から恐れられていたのだ。

もっとはっきり言うと、日本は戦後から今日までたまたま平和だったのではない。「アメリカが守ってくれていた」から平和だったのだ。

日本は武力を持たないが、「日本を攻めたらアメリカが黙っていない」というのが抑止となって日本は、今までずっと平和ボケでいられた。


日本の国民の安全は、日本政府が守るという基本

しかしながら、こうしたアメリカの態度は大統領の考え方ひとつで変化する可能性も高い。たとえば、オバマ大統領は当初は日本に対して非常に冷淡であり、尖閣諸島問題でも強く日本を守る姿勢を見せなかった。

オバマ大統領は中国に取り込まれつつあった大統領であり、そのため日本を冷遇した。その結果、日本を守ってきたバリアが消えかけていたのだった。

つまり、日本は戦争できない無防備状態のまま、アジアの一角に取り残される危険な状態にあったと言うことができる。

トランプ大統領は反中派だが、もし中国がトランプ大統領の取り込みに成功したら、いつでも日本冷遇の時代がやってくる。日本はどうしたらいいのか。

結局、自分の身は自分で守らなければならないという「当たり前」を早急に整備するしかない。日本国民の安全を、アメリカが守っていたということ自体が異常だったのである。

自分の身は自分で守るという普通の国がしていることを日本もするしかない。日本の国民の安全は、日本政府が守るという基本に立ち戻るのである。

安倍政権は、そのように動いている。つまり、当たり前のことを淡々と実現しようとしている。

しかし安倍政権を見ても分かる通り、そこには高揚感も何もない。やらなければならない当たり前のことをきちんとするという姿勢だけである。

本来であれば、もっと早くそれは実現されていなければならなかった。しかし、歴代政権は無能だったので、それができなかっただけだ。

中国が膨張主義を取って、日本の領土を侵略しつつある今、それは早急に整備されなければならないものでもあった。日本は2014年7月1日、やっとのことで第一歩を踏み出せた。


日本人は現実を見なければならない時が来ている

日本人は平和ボケしすぎて忘れているのかもしれないが、戦争や紛争、民族間の殺し合いは、珍しいものでも何でもない。それは常に起きている。人類の歴史で戦争が途切れたことは一度もないのだ。

今でもシリア・イラクやアフリカ各地で激しい殺し合いが起きているのは、そこから目を背けている日本人でもよく知っているはずだ。

戦争によって人間が殺されるという現象は、現実としてそこにある。世界中、どこの国の人間であっても、いつでも戦争に巻き込まれていく。

もちろん、日本人も例外ではない。

今まで、日本はアメリカが守っていたが、そのアメリカが世界から静かに撤退し始めている今、日本が戦争に巻き込まれる確率は今まで以上に強くなってきている。

中国がこれから日本に戦争を仕掛けないと誰が言えるのか。中国の属国となりつつある韓国が、鉄砲玉として日本に襲いかからないと誰が言えるのか。

日本は、今まで守られていたから戦争に巻き込まれなかった。「血を流す」という汚れ仕事をアメリカに押しつけて、自分たちは良い子ぶって戦争反対と叫んでいた。

しかし、そういったご都合主義は終わった。日本が攻められたら、日本人も命を賭けて自国を防衛しなければならないのだ。

同盟を組んでいれば、同盟国も集団的自衛権の範囲で助けてくれるかもしれない。

しかし、日本が攻められているのに日本人自身が戦わないのであれば、誰が日本を守るというのだろうか。

また、同盟国が窮地に陥っているのに日本が助けないのであれば、誰が日本が窮地に陥ったときに助けてくれるというのだろうか。もう時代は変わっている。

中国・韓国・北朝鮮の日本人憎悪を見ても分かる通り、暴力の時代に入りつつあり、日本はその対応を迫られている。日本人を憎悪する反日の工作員が、侵略(のりこえ)を画策している。

日本人は現実を見なければならない。


日本が攻められているのに日本人自身が戦わないのであれば、誰が日本を守るというのだろうか。また、同盟国が窮地に陥っているのに日本が助けないのであれば、誰が日本が窮地に陥ったときに助けてくれるというのだろうか。もう時代は変わっている。

http://www.asyura2.com/17/senkyo222/msg/461.html#c1

[リバイバル3] 本当にあった怖い話 中川隆
65. 2017年3月16日 22:56:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7608]

ほんとにあった怖い話 第05話
https://www.youtube.com/watch?v=408rNGGbPXk


2004年2月7日放送

折れた護符(主演:蒼井優)

うしろの女(主演:長澤まさみ、金沢映子、塩澤英真)

迷子(主演:佐々木蔵之介、共演:三咲レア、今井悠貴)

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/645.html#c65

[リバイバル3] 本当にあった怖い話 中川隆
66. 2017年3月16日 23:45:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7609]

ほんとにあった怖い話 第06話
https://www.youtube.com/watch?v=xuHWgsJC4Jk


2004年2月14日放送

横断歩道奇譚(主演:綾瀬はるか、共演:日向崇、海田葉月)

真夜中の白い指(主演:宮地真緒、共演:上野なつひ、篠原麻里)

邪悪な影の正体は(主演:松尾れい子、共演:池津祥子、北村修)

深淵から(主演:田島有魅香、共演:芳賀優里亜、大滝寛、上原袈裟俊、橋本佳代、長野京子、山路和弘)



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/645.html#c66

[不安と不健康18] 花粉症、3日間〇〇するだけで治った!〇〇をやめるだけで症状が消えることも! 赤かぶ
1. 中川隆[7139] koaQ7Jey 2017年3月17日 11:11:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7610]
戦前までは花粉症もアトピーもうつ病も無かったんだよ


http://www.asyura2.com/16/health18/msg/435.html#c1

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
389. 中川隆[7140] koaQ7Jey 2017年3月17日 12:26:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7611]

「湯沢町(新潟)」 に関するテレビ情報
http://datazoo.jp/w/%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E7%94%BA%EF%BC%88%E6%96%B0%E6%BD%9F%EF%BC%89/30156213

2017年3月6日放送 16:50 - 19:00 テレビ朝日スーパーJチャンネル新着 いま何が?

新潟県湯沢町はリゾート地として知られ、かつてはスキーが楽しめる人気の別荘地だった。

東京駅から越後湯沢駅までは電車で1時間20分。かつては東京都湯沢と呼ばれていた。

そんな湯沢のリゾートマンションに移住する人がこの10年で2倍以上に急増している。
多くは年配で、1DK 300万円で購入した男性は「天国だ」と語る。

こうしたリゾートマンションはバブル期に建設され、大浴場やサウナ・スポーツジムなどの設備が充実しているからだ。

1DK 10万円の部屋もあり、井戸水を引いているため水道代は 0。

管理人修繕積立金を合わせ別途 2万円が必要とのこと。

また、周辺に買い物できる場所が少ないためスーパーとリゾートマンションをつなぐシャトルバスも運行している。

湯沢に住む人 50人に、リゾート住宅の満足度を聞いた。

満足しているのは50人中45人。

満足している人からは、「水が美味しい」「季節の風景が綺麗」という声が。

満足していない人からは「冬は結露が凄い」「交通の便が良くない」「病院に通うのが遠い」「リゾート物件は価格が落ち込んでおり売れない」という意見があった。


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2017年2月26日放送 4:00 - 5:00 TBSTBSニュースバード列島リポート

定住促進策として岐阜県揖斐川町では、指定地に新居を建てて住むなら土地代 0円という 0円宅地事業を始める。

揖斐川町の人口は2万2200人で、ピークだった1980年の3万1000人あまりに比べおよそ3割も減っている。

多くの自治体がこの問題を抱え対策を講じており、愛知県豊田市の小原地区では、住民から空き家登録を募集し、利用希望者に情報提供する空き家バンクを行っている。ここでは7年間で11世帯34人が移住した。

新潟県湯沢町では大規模な支援策として新幹線通勤代を月最大 5万円を 10年間補助、マンションの購入者には固定資産税相当額を5年間補助した。

揖斐川町は 0円宅地事業で 700万円の予算を計上した。今回の募集は全3戸で、順次増やす予定だという。満50歳以下など、いくつかの条件が挙げられている。

町ではこれまでも、空き家バンクに家賃や医療費などの助成など様々な取り組みを行なってきた。気になる点として、町の財産である町有地を個人向けに処分することになるが、町民は人が増えるから良いなどと話していた。
http://datazoo.jp/w/%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E7%94%BA%EF%BC%88%E6%96%B0%E6%BD%9F%EF%BC%89/30156213
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c389

[政治・選挙・NHK222] 安倍首相を追い込んだ勇気ある二人の英雄  天木直人 赤かぶ
1. 中川隆[7141] koaQ7Jey 2017年3月17日 14:02:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7612]
こんなどうでもいい小さな汚職で英雄とか大袈裟なんだよ

天木直人は完全な知恵遅れという事だな

そんなに暇を持て余しているなら、アメリカから独立する方法でも考えろよ
http://www.asyura2.com/17/senkyo222/msg/499.html#c1

[不安と不健康15] コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ)  赤かぶ
195. 中川隆[7142] koaQ7Jey 2017年3月17日 14:08:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7613]


貧困層だけが「安物」を食べて早死にしていく社会となった

私たちの給料は決まっている。毎日その決まった給料の中で生活をしなければならないので、しっかりした人ほど「安いもの」を選ぶ。

資本主義の世界では、少しでも安いものを選ぶというのは、疑いもない常識だった。今でもその常識をそのまま信じている人も多い。「安ければ安いほど正義」というわけだ。

しかし、最近の安すぎる安物を買うというのは、大きなワナがあるというのが分かって来ている。

特に、中国・韓国製の安物はいろいろなワナが待ち受けているのが明らかになりつつある。

たとえば、サムスンの携帯電話はバックドアが仕込まれていた。

(サムスン電子のギャラクシーにバックドアが仕掛けられていた)
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2014/03/20140315T1655000900.html


中国の家電製品は勝手にインターネットに接続して情報を飛ばしている。

(あなたの家にもあるかもしない。スパイ行為をする電化製品)
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2013/12/20131226T1413000900.html

安ければいいというわけではなくなってしまっている。

常軌を逸した値下げのために業界が暴走している

安いものが危険になっている。もはや、それは無視できないまでの危険となっている。

消費者は「安ければ安いほどいい」というので、製造者は安くするために、今まではコスト削減で対応してきた。

このコスト削減が、「高賃金の日本人労働者を切り、低賃金のアジア人労働者を雇う」という動きとなっていったのはよく知られている。

その結果、安物しか買わなくなった日本人は、安物しか買えなくなってしまったのである。

しかし、このコスト削減という方法は、すでにライバル企業も行っているものであり、それだけでは競争に勝てなくなってしまっている。ここからの価格競争は、さらなる別の施策が必要になっている。

そこで常軌を逸した値下げを実現するために、いよいよあらゆる業界が、とんでもない手抜きをするようになったり、ごまかしをするようになってきている。

この中で、最も恐ろしいのが「食品」の分野である。

コスト削減のために、食品はすでに「食べ物」ではなく「化学物質」と化したと言われている。また、本物に見える「なりすまし」も横行している。

回転寿司のネタはニセモノのオンパレードというのはよく知られるようになったが、問題は回転寿司だけではないということだ。すでに、ありとあらゆる製品でニセモノが横行している。


安いものを追い求めることで危険が増す

ニセモノは、本物とはまったく違う「安い原料」を使って作られる。

レストランやスーパーで売っているカニ爪フライも、海老フライも、イカリングのフライも、今ではすべてニセモノの安い原材料を使って作ることができるし、実際ニセモノが堂々と売られている。

多くのニセモノは、安い原料でそれらしき食感を作って、そこに香料と化学調味料フレーバーを混ぜて、匂いと味をそれらしくする。

コンビニで売られているサンドイッチに入っている卵もニセモノであると言われている。卵の黄身はデンプンで「創作」されたものなのである。

それらしきニセモノを作る過程で、多くの添加物が使われる。ニセモノを固めるために、増粘多糖頬が使われる。固めたものを強化するために、リン酸塩が使われる。

本物のような色を出すために「着色料」が使われる。本物のような匂いを出すために「合成化学調味料」が使われる。さらに賞味期限を長引かせるために「保存料」も混ぜられる。

消費者は量にもこだわるので、大量に入っていると見せかけるために、「増量剤」もたっぷりと入れられる。

たったこれだけの説明でも、怪しい添加物がぞろぞろと出てきていることが分かるはずだ。

本体を偽造するために、増粘多糖頬、リン酸塩。
色を偽造するために、着色料。
匂いを偽造するために、合成化学調味料。
消費期限を偽造するために、保存料。
量を偽造するために、増量剤。

私たちが安いものを追い求めるために、食品はどんどん危険なニセモノで溢れるようになっている。


安物ばかりを食べることによって、早死にする

安さを追求することによって、資本主義社会は「安物」を提供することを目的にするようになっている。安物を提供するためには、何でも許されるようになり、ニセモノが横行するようになっていった。

今、私たちは本物ではないものを食品業者に食べさせられている。それ自体が悪質な食品犯罪であると言える。しかし、もっとひどいのは、ニセモノを食べることによって健康被害も起きることだ。

これらの添加物のいくつかは発癌物質が含まれていたり、骨をもろくするものであったりする。食べ続けると癌を発症する可能性もある。

では、生野菜を食べればいいのかというと、こういった野菜は化学肥料と農薬にまみれていて、残留農薬の恐れがあるばかりか、野菜そのものにすでに有害な化学物質が取り込まれていたりする。

安い卵も、同じだ。ニワトリが抗生物質と農薬にまみれたエサを食べており、そういった化学物質がすべて卵の中に含まれてしまっている。

安物ばかり追い求めている人は、企業のコスト削減(人員削減)を促して、自らの給料を下げる要因を作って貧しくなるばかりではない。

安い食べ物で害悪のあるニセモノを食べさせられて、自ら健康被害を招き寄せることになる。

安物ばかりを食べることによって、早死にすることすらあり得る時代になっている。人類史上、最悪の食品汚染が現代文明の闇の中で広がっている。

「安ければ安いほど正義」というのは、すでに成り立たない世の中になっているのだ。安ければ何でもいい、という風潮は本当に「何でもあり」を生み出してしまっている。

ところで、ここで考えなければならないことがある。

こうした事実が明らかになって対策を取れるのは誰か。それは経済的に余裕がある層である。対策が取れないのは、経済的に余裕のない層である。

安物を食べ続けることによって寿命が縮まるのであれば、貧困層「だけ」がそうなるということである。富裕層は安物から遠ざかってより健康になり充実するが、貧困層は分かっていても安物を食べ続けて病気になって早死にする。

弱肉強食の資本主義のワナはこんなところにも表れている。


安物ばかりを食べることによって、早死にすることすらあり得る時代になっている。人類史上、最悪の食品汚染が現代文明の闇の中で広がっている。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170316T1619260900.html
http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html#c195

[近代史02] 命を賭して悪の帝国と闘ったサダム・フセイン (小沢先生もこれ位カッコ良ければなあ) 中川隆
55. 中川隆[7142] koaQ7Jey 2017年3月17日 18:56:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7613]
2017.03.17
逃げ場を失ったダーイッシュの指揮官たちを米軍がヘリコプターで救出しているとイラン系メディア

 アメリカ、サウジアラビア、イスラエルを中心とする国々がリビアやシリアで始めた侵略戦争の傭兵グループ、つまりアル・カイダ系武装集団やそこから派生したダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)は崩壊寸前にあるようだ。西側の有力メディア、「人権擁護団体」、あるいは国連などは侵略軍を攻撃しているシリア政府軍やロシア軍などを激しく批判しているが、戦況を変えることは難しいだろう。

 そうした中、アメリカ軍はイラクのモスルやシリアのデリゾールでダーイッシュの指揮官たちをヘリコプターで救出しているとイランのメディアは伝えている。ここにきて侵略軍は逃げ場を失っているので、そうせざるをえないのだろう。

 アル・カイダについてロビン・クック元英外相はCIAから軍事訓練を受けた「ムジャヒディン」のコンピュータ・ファイルだと説明している。アル・カイダはアラビア語で「ベース」を意味し、「データベース」の訳語としても使われているようだ。なお、クックはこの指摘をした翌月、保養先のスコットランドで心臓発作に襲われて死亡している。享年59歳だった。

 こうした訓練は1970年代の終盤にジミー・カーター政権の大統領補佐官だったズビグネフ・ブレジンスキーが考えた戦略に基づいて始められた。アフガニスタンの武装集団とCIAを結びつけたのはパキスタンの情報機関ISI。資金を提供し、サラフ主義者/ワッハーブ派やムスリム同胞団を中心とする戦闘員を送り込んだのがサウジアラビア。アメリカはTOW対戦車ミサイルや携帯型のスティンガー対空ミサイルを提供、戦闘員を訓練していた。こうした構図の戦闘は1989年2月にソ連軍が撤退するまで続いた。

 2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センターやバージニア州アーリントンにある国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃された直後にジョージ・W・ブッシュ政権は証拠を示すことなく、アル・カイダという名前を「テロの象徴」として使い始める。その組織を率いているのがオサマ・ビン・ラディンだというのだが、この主張を嘘だとクック元英外相は2005年に指摘したわけだ。

 その翌年、フォーリン・アフェアーズ誌(CFR/外交問題評議会が発行)の3/4月号にロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できるとするキール・リーバーとダリル・プレスの論文が掲載された。ロシアや中国の反撃を恐れる必要はないという主張だ。当然、この論文はロシアや中国の人びとが読むことを念頭に置いて書かれたわけで、アメリカのすることの口出しするなという恫喝だったのだろう。

 その一方、2007年3月5日付けのニューヨーカー誌には、アメリカがイランとシリアを標的にした秘密工作を開始、イスラエルとサウジアラビアが参加していると調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュが書いている。

 この工作を作成するにあたって中心的な役割を果たしたのはリチャード・チェイニー副大統領(当時。以下同じ)、ネオコンのエリオット・エイブラムズ国家安全保障問題担当次席補佐官、ザルメイ・ハリルザド、そしてサウジアラビアのバンダル・ビン・スルタン国家安全保障問題担当顧問(元アメリカ駐在大使、後に総合情報庁長官)だという。ビン・スルタンはアル・カイダ系武装集団を動かしていた人物だ。

 2007年には調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュがニューヨーカー誌に興味深い記事を書いている。アメリカ、イスラエル、サウジアラビアがシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラをターゲットにした秘密工作を始めたというのだ。

 その記事の中で、ジョンズホプキンス大学高等国際関係大学院のディーンで外交問題評議会の終身メンバーでもあるバリ・ナスルの発言を引用している。「サウジは相当な金融資産があり、ムスリム同胞団やサラフ主義者と深い関係がある」としたうえで、「サウジは最悪のイスラム過激派を動員することができた。一旦、その箱を開けて彼らを外へ出したなら、2度と戻すことはできない。」と指摘している。

 そのサウジアラビアの国王がアジア大陸の東岸に現れた意味は重い。彼らが見せびらかす札束の向こう側には地獄が存在している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201703170000/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/298.html#c55

[不安と不健康18] 謎の皮膚病が妻の手に、「主婦湿疹」ってなんだ 軽毛
1. 中川隆[7143] koaQ7Jey 2017年3月17日 19:16:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7614]

ごまちゃん温泉体験記

きっかけは主婦湿疹(手湿疹)の治療目的ではじまった湯巡り。 今は湯巡りそのものを楽しんでいます。

主婦湿疹(手湿疹)に効く温泉 January 08 [Sat], 2005, 18:28


わたしの温泉めぐりテーマである主婦湿疹治療。

以前も書いたけど、治療に効果のある温泉ってあるんですよ。
体質とかにもよるだろうけど・・・

ここには,マネージャーの主婦湿疹に効果のあった温泉を随時追加していきます。
手あれ,主婦湿疹に効く温泉を知っている方はぜひぜひお知らせください。
温泉に限らず,主婦湿疹に関する良い治療法をご存知の方はよろしくお願いします。

ブログ中に主婦湿疹の治り具合度を標記してみました。

◎ 即効性があり,即日痛みがなくなった。
○ 即効性は感じられなかったが,主婦湿疹予防には最適
× 主婦湿疹悪化しました
コメントがない分は検証できなかった温泉です。

即日効果の確認できた温泉

秋田県
・日景温泉
・須川温泉 栗駒山荘
・玉川温泉 (ただし,うちではちょいと強すぎ。皮膚がピリピリしすぎる)

岩手県
・須川温泉 須川高原ホテル、栗駒山荘
・国見温泉 石塚旅館

山形県
・蔵王温泉 大露天風呂、各共同浴場、おおみや旅館、深山荘高見屋

宮城県
・鳴子温泉 鳴子ホテル、西多賀旅館、東多賀の湯

福島県
・高湯温泉 あったか湯、玉子湯、安達屋旅館

栃木県
・塩原元湯温泉 大出館
・那須温泉 清水館

群馬県
・万座温泉 豊国館
・草津温泉 各共同浴場

即効性はないが,痛みがなくなった又は予防に効果のある温泉

宮城県
・鳴子温泉  姥の湯
・東鳴子温泉 高友旅館 馬場温泉共同浴場
・川渡温泉  旅館中鉢温泉

栃木県
・奥鬼怒温泉郷 加仁湯
・奥塩原新湯温泉 むじなの湯


*マネージャーの話では,循環湯で塩素のきつい温泉(浴室に入った瞬間プールの臭いがする温泉)は逆に手荒れが激しくなるそうです。


うちで確認済みの一番理想の入り方は,

@まずは,蔵王温泉などの即効性のある温泉で確実に治す。(殺菌力のある温泉)
 10分ぐらい手を湯の中に入れているとOKらしいです。
A次に,即効性のある温泉で治療後は,肌にやさしい温泉に週一回ぐらい入る。
 例:東鳴子温泉高友旅館,川渡温泉旅館中鉢温泉,中山平温泉琢秀など

これを繰り返していると,手が切れるのはひと月に1回あるかないかになってきます。
ただ,温泉だけで治療しているのではなく,どうしても主婦湿疹がひどい時のために,皮膚科からきちんと薬を処方していただいております。
この皮膚科から処方していただいている薬。温泉治療はじめる前は,日に数回使っていましたが,今では冬場でも週に1回使うか使わないか,状態の良い時は,2ヶ月ぐらい手の状態が安定するとのことです。
http://yaplog.jp/gomagoma/archive/44
http://www.asyura2.com/16/health18/msg/436.html#c1

[不安と不健康18] 謎の皮膚病が妻の手に、「主婦湿疹」ってなんだ 軽毛
2. 中川隆[7144] koaQ7Jey 2017年3月17日 19:21:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7615]

沢乃湯じぇる October 17 [Mon], 2005, 22:55


毒沢鉱泉 国民宿舎 沢の湯 に行くと、とんでもない強烈な張り紙が廊下にあります。


これ見ると、ほんとにいいものなの?って怪しい気分になってきます。怪しいもの好きの私は少しそそられるのです。他にも似たような張り紙がありますが、どうも私は笑ってしまうのでした。もちろん、建物の入口にもありますよ。


この「沢の湯じぇる」は主婦湿疹(手湿疹)のマネージャー愛用品です。沢の湯の源泉を利用して造られた全国でも珍しい温泉ジェルなのです。
沢の湯の人の話では、化粧品メーカーと7年の歳月をかけて開発した苦心の作品だそうです。加熱すると変色してしまう沢の湯の源泉。見た目が悪すぎると誰も買ってくれないので、そういった部分もクリアするのに相当苦労したそうです。
(参考までに、「沢の湯じぇる」を製造している化粧品メーカーは、自社ブランドだと海洋深層水を利用した化粧品を中心に営業活動しています)

アトピーの人にはとても好評らしいですね。アトピーの人は、普通の化粧品メーカ−で売っているものを使うと、逆にかぶれたりして肌に悪いですからね。
私はネットの掲示板でこの「沢の湯じぇる」を知りました。

軟膏やクリームではなく、お化粧に使うジェルと同じです。なのでとても使いやすい!
沢の湯源泉を使っているだけあって、錆臭いのがちょっと難点。顔や手につけてのばすと、とてもみずみずしくなるのです。普通の化粧品メーカーで売っているジェルのほうが保湿の持続感は強いと思いますが、この「沢の湯じぇる」は温泉成分でできているため、体に悪いものは一切入っていないのが安心要素。化粧品として購入するよりは、保湿剤として購入する人がほとんどだそうです。

家のマネージャーは、これを顔にも手に使っています。まあ、これだけで主婦湿疹が治る訳ではありませんが、主婦湿疹の場合、予防も大事。体に合わないものを極力排除することも大切。化粧品も添加物が多いものはどうしても荒れる原因になってしまうので、「沢の湯じぇる」みたいなものは使い続けると良いのかもしれません。


今回は参考までに載せてみました。万人にこのジェルが良いとは思ってませんが、気になる人は試してみる価値あるかもしれませんよ。

100g 2,000円
150g 3,000円
200g 3,500円

通販もやっているそうです。6,000円以上になると送料無料!
詳しいことは、沢の湯さんに聞いてください。


主婦湿疹やアトピーとは関係なく、温泉マニア(湯ヲタ)の人もお試しあれ!
http://yaplog.jp/gomagoma/archive/126

沢の湯はもう廃業したので入手できないだろうけど。
http://www.asyura2.com/16/health18/msg/436.html#c2

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
78. 中川隆[7145] koaQ7Jey 2017年3月17日 19:54:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7616]

千葉の山には入ってはいけない


千葉 鋸山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%8D%83%E8%91%89+%E9%8B%B8%E5%B1%B1

千葉 伊予ヶ岳 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%8D%83%E8%91%89+%E4%BC%8A%E4%BA%88%E3%83%B6%E5%B2%B3

鋸山 - Google マップ
https://www.google.co.jp/maps/place/%E9%8B%B8%E5%B1%B1/@35.160391,139.8386807,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x60181b26e686b0ef:0xc258c596637b9320!8m2!3d35.160391!4d139.8408694!5m1!1e4?hl=ja

鋸山ハイキングまとめ【登山マップ】見どころ・難易度・所要時間・行き方・アクセス・食事・お風呂|千葉県 wryoku
http://wryoku.com/howto-hiking-nokogiriyama-chiba/

スリル満点!崖の上から地獄を覗く、鋸山「地獄のぞき」へGO!
https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_1056/


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千葉・鋸山の崖下に男女の遺体 林道で遭難か(17/03/15)
https://www.youtube.com/watch?v=d5vVMx5AE5E
https://www.youtube.com/watch?v=d4_dIiGgYPE

masa旅 千葉への旅1日目 鋸山登山遭難編 2017.3.13
https://www.youtube.com/watch?v=n0XGLojMXLY
https://www.youtube.com/watch?v=QhaiTyHCWQ0
https://www.youtube.com/watch?v=iHdrJ-wq8gU
https://www.youtube.com/watch?v=3vgeXvTpWTo


【千葉】鋸山で70代男女2人が山岳遭難か 消防・機動隊など70人態勢で捜索 /富津市

千葉テレビ 3/14(火) 19:47配信

富津市金谷にある鋸山で、70代男女2人が遭難したとみられています。

遭難したと見られるのは、東京都板橋区の鈴木孝之さん(71)と、その友人の70代くらいの女性の2人です。

11日の朝、鈴木さんは知人男性に「鋸山に行ってくる」と伝えてから未だに帰ってきていないということです。

警察によりますと11日午前11時ごろ、鋸山の最寄駅のJR内房線浜金谷駅の防犯カメラに、駅員と話す2人の姿が映っていたということです。
地元の消防や機動隊など70人態勢で捜索にあたっています。

鋸山ロープウェイの職員は「鋸山はハイキングコースもあり初心者も登山を楽しめますが、コースを外れると足場も悪く急斜面の危険な場所もある」と話していました。

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鋸山で遭難か 標高330メートルでなぜ? 地形複雑、標高低くても危険


千葉日報オンライン 3/15(水) 10:49配信

 「鋸山での遭難は普通はない」。公益社団法人・日本山岳会の三木雄三千葉支部長(66)は千葉県内有数の観光地での事故に驚いた。

標高約330メートルの鋸山をはじめ、標高が低い千葉の山での登山を「標高が低く見通しが利かないため、自分のいる場所がわからなくなることがある」として「日本アルプスより危険」と指摘する。

「千葉の山は地形が複雑で、標識も少なく、観光気分で登ると危ない。また、山が泥と石でできており、雨の日などは滑って転落してしまうこともある」

と警告。今回の事故については「鋸山はロープウエーの終点が頂上だと勘違いしやすいが、本当の頂上はその奥にあり、向かうのは危険。そこに行ったのかもしれない」と危惧する。

 富津市商工観光課の平野勉課長(53)は「コースによっては登山が困難なものがあるが、鋸山での遭難はほとんど聞いたことがない。昨年は体調不良者の救助が4回あったと聞いている」と話す。

 一方、日本救助犬協会は県警からの要請を受け、ラブラドルレトリバーやシェパードなど5匹を投入。14日午後3時半ごろから、周囲が暗くなるまで約2時間半にわたり、手分けして登山道を捜索したが、痕跡は得られなかったという。

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鋸山の山岳遭難 山の専門家が警鐘 “低い山だから簡単ではない” /千葉
チバテレ 3/15(水) 23:00配信

鋸山は標高329メートルでロープウェーなども整備された県内有数の観光地です。 山岳遭難からは縁遠いイメージですが、県内の山に詳しい専門家は「低い山だから簡単というイメージは捨てて欲しい」と警鐘を鳴らします。


日本山岳会千葉支部三木さん

「千葉の山は(標高が)低い。せいぜい300メートルくらい。低い山イコール簡単だというイメージがあるが、千葉の山の恐ろしいところは森の中に入ると自分の位置が分からなくなる。見通しがきかないので自分のいる場所がわからない。」

日本山岳会千葉支部の三木雄三さんは千葉特有の山の地形にも注意してほしいと言います。

三木さん

「千葉の山は100メートル進んで尾根が分かれ、その先でまた分かれるので、非常に道に迷いやすい。沢に迷い込むと崖が急峻で登ってこられない。遭難するのもそういう場所」。

そして三木さんは、こうした山の特徴を理解した上で、初心者の内は必ず経験者を伴って登山を楽しんでほしいと呼びかけています。

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不明男女か、2遺体発見 鋸山 2017年3月15日 17:56
 15日午前11時25分ごろ、富津市金谷の鋸山で、いずれも70代とみられる男女の遺体を富津署員が見つけた。同署は、鋸山で遭難したとみて県警などが捜索していた東京都板橋区成増1、無職、鈴木孝之さん(71)と、友人女性とみて身元確認を急いでいる。

 同署によると、男女の遺体が見つかったのは、山頂付近から北西に約160メートルの高さ約30メートルの崖の下。約5メートル離れいずれもあおむけに倒れていた。

 着衣が鈴木さんと友人女性のものと酷似しており、同署は、2人が崖の上の登山道から誤って転落した可能性があるとみて調べている。崖の上の登山道は、利用者が少ない難所と言われるルートだったという。

 鈴木さんは11日午前7時ごろ、知人男性に「(女性と)2人で鋸山に行ってくる」と告げて外出後、行方不明となっていた。知人男性からの届け出を受け、県警などが捜索していた。

___


26 :名無しさん@1周年:2017/03/15(水) 18:30:05.06 ID:bdPjOnCT0

鋸山って遭難するような山だっけか?

33 :名無しさん@1周年:2017/03/15(水) 18:34:16.15 ID:1dQsYtDd0
>>26
遭難というか滑落だから

22 :名無しさん@1周年:2017/03/15(水) 18:22:39.41 ID:EuGhC/RL0

http://2chan.tv/jlab-long/s/long170315182143.jpg

なるほど、これは死にますわ
採石場跡なんですのう

93 :名無しさん@1周年:2017/03/15(水) 20:33:43.58 ID:23WrSZsj0

>登山道の近くにある崖から約30メートル下で見つかった

「地獄のぞき」から飛び降りれば100%死ぬ
 ↓
http://tabisuke.arukikata.co.jp/mouth/86294/image/


128 :名無しさん@1周年:2017/03/14(火) 23:37:10.88 ID:vFn9MgfY0

鋸山のハイキングルートは山頂にはその直前にあるお寺に拝観料を払わないと入れないルールよ。
車専用道もあるけど徒歩は禁止になっている。

まさか拝観料を嫌がって変な所から登ってこうなっちゃったんだろうか。

52 :名無しさん@1周年:2017/03/15(水) 19:23:05.33 ID:HwZPmyup0

安兵衛井戸登山道コースを行ったな。そこの崖難所で滑落か?
ジジババが行くコースでは無いよ
ロープウェイ山頂と本当の鋸山山頂を間違えた?
車力道、ふれあい道方向と間違えて左の安兵衛コースに行ったのか?


85 :名無しさん@1周年:2017/03/15(水) 20:16:53.54 ID:H9Qw2jQT0

もともと いろんなコースがある

http://i.imgur.com/reoMUH1.png
http://i.imgur.com/Zn6Hh5Y.jpg

その中の危険めなコースを登っていたんだろう


328 :名無しさん@1周年:2017/03/15(水) 23:07:19.80 ID:F36Xa2IV0
>>85
山頂から北西160mってことだからそこの崖難所ってところかな
ぐぐったら出てきてた

https://www.youtube.com/watch?v=l7Wfpa3VqbA

中高年ならなんという事ないけど70過ぎの年寄りだと足滑らすかもね
当日は朝から降ったりやんたりで強風吹いてたから足場悪いし
集中力途切れるし登り続けで疲れてたのかねも


106 :名無しさん@1周年:2017/03/15(水) 23:39:55.67 ID:a9ECmaoF0

崖難所って云われるルートかな?
チェーンやロープを掴んで登る超厳しいルートがある


108 :名無しさん@1周年:2017/03/15(水) 23:59:23.54 ID:lfXNRBf50
>>106
まだ寒い時期に70代の爺婆が選ぶコース?


111 :名無しさん@1周年:2017/03/16(木) 00:19:59.96 ID:7Z6kLgHF0
>>108
自称登山家なら選ぶかも
俺なら金貰っても断る程の難コース

112 :名無しさん@1周年:2017/03/16(木) 00:24:18.33 ID:7Z6kLgHF0
>>110
遭難ヵ所が崖難所だったら、先導者が堕ちると巻き添えになりやすい
高齢だから避けられなかったのかも

91 :名無しさん@1周年:2017/03/15(水) 20:28:47.22 ID:fgA9hCHX0

ネットでいろんなコースが紹介されてるからね
中には普通の人は行っちゃいかんだろみたいなコースがハイキングコースとして紹介されてる


7 :名無しさん@1周年:2017/03/15(水) 18:09:27.20 ID:5k/roPC70

千葉に滑落して死ぬような山があったんだ
丘しかないと思ってたわ

50 :名無しさん@1周年:2017/03/15(水) 19:08:46.90 ID:CAeS5SR3O
>>7
鋸山は、千葉県に唯一存在する山。
他は丘しか無い。

日本で最も山が無い県だからな。


89 :名無しさん@1周年:2017/03/15(水) 20:26:30.55 ID:Yle0bUAo0
>>50
鎖場もある伊予ガ岳を無視するな


90 :名無しさん@1周年:2017/03/15(水) 20:26:58.32 ID:X9Ne0NKU0

千葉のマッターホルン、伊予ヶ岳も忘れないでください


121 :名無しさん@1周年:2017/03/16(木) 01:28:37.49 ID:y8tr7MYK0

千葉の山って面白いよな。
標高は低いが、石が柔らかいのか、谷が独特の浸食をされている。
人が強引に、山をくりぬいて川をショートカットさせる場合もある。
さらには、日本の山のほとんどがそうかも知れないけど、
人の手が入っていないようで、山奥まですべて人の手が入っている。


137 :名無しさん@1周年:2017/03/16(木) 07:14:19.20 ID:+JcmhVzy0
>>121
面白い。
地盤が弱く登山道はすぐに荒れ、クライミングポイントもボロボロ剥がれ落ち、山中の景色はほぼ一緒、房総ハイキングと言えば馬鹿にされる。

でも、素掘りトンネル、川廻しと特有の地形。
ちょっと登るだけで海がバーンと拡がり、北側は東山魁夷が描いた山並み。標高ない癖に深い山々が連なっている様に見える。

海とセットで首都圏から手軽に楽しめる良いところだよ。

333 :名無しさん@1周年:2017/03/16(木) 21:41:32.15 ID:5t39r4c60

鋸山はともかく、千葉県のぐぐるまっぷなんかの地図でも見れば一目瞭然だが、
実は房総半島は山深く、森林面積が広大
見晴らしのいい高所なら、房総の山々が十重二十重に連なっているのが見える

低山ばかりで、目標となる高山や目標物もなく、樹木に地形は隠され、読図は困難
奥多摩や秩父、丹沢のような親切な登山地図やガイドもない
獣道、当事者だけしか知らない作業道が交錯し、どこもかしこも荒れて藪だらけ
しかも鹿も猪もキョンまで多数棲息し、蛭ケ岳以上の異常な蛭密度
登山者は少ないから、夏なんか山の細道は蜘蛛の巣だらけ
勿論、雀蜂の巣も沢山ある

ま、房総は低山だが、意外にトラブルに遭いやすいから、やめとけ


340 :名無しさん@1周年:2017/03/16(木) 22:34:51.69 ID:+s5+AvXC0
>>333
下生えが一年中消えないないから視界が全くなくって地形なんて見えないから読図どころじゃないもんな
読図の本何冊も読んで講習会とかで教えてもらったりもしたけど地元じゃ手も足も出なかった

344 :名無しさん@1周年:2017/03/17(金) 01:20:28.74 ID:NE+TM/2F0

ロープウェーからだとあのへん見渡す限り樹海だな。
青木ヶ原よりも広そう。
一度迷い込んだら抜け出せないのでは?

345 :名無しさん@1周年:2017/03/17(金) 01:36:13.89 ID:5hQLRL9v0
>>344
割と作業路やら林道が入り組んでるから出てこれる
もっと内部に行くと崖地が多くなって移動困難な迷路となって目の前に道路があるけど
登れなくてビバークかギブアップで救助要請遭難騒ぎかなんて事態に・・・

347 :名無しさん@1周年:2017/03/17(金) 13:13:48.05 ID:jKSgXMll0

房総半島は未開の地とよくネタで言われるが、あながち間違いじゃない。
山の標高自体は低いが、森林は深く住民ですら把握していない
場所や道なんか沢山ある・・・甘く見てはいけない。

205 :名無しさん@1周年:2017/03/15(水) 00:28:25.42 ID:GzUHlBjcO

その昔、鋸山で若いカップルの心中があってな、女の方が若く美しかったため、墓をあばいて…という事件があったそうだ。
土葬の時代の話な。
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1489568484/
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1489498780/

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c78

[昼休み53] 風俗嬢「涙の極貧物語」 中川隆
28. 中川隆[7146] koaQ7Jey 2017年3月17日 20:00:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7617]

性風俗店勤め、40代で収入減 「夜の世界白書」孤立しがちな実態浮き彫り
西日本新聞 3/17(金) 11:17配信

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●知られたくない 進む孤立化

 東京を拠点に、性風俗店で働く女性たちを支援する一般社団法人「Grow As People」(GAP、角間惇一郎代表理事)が、初の報告書「夜の世界白書」をまとめた。若いうちは高収入でも、年齢が上がると減少していくことや、職業が明らかになることを恐れ、孤立しがちな女性たちの姿が浮き彫りになった。

 調査は現状を把握して支援に生かす狙いで、2015年度にインターネット上で実施。女性がホテルなどで客と会う「デリバリーヘルス」といった関東の無店舗型風俗店などに勤める377人から有効回答を得た。


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170317-00010006-nishinpc-soci.view-000


 実際に接客した実働日数と月収の全体の平均は、11・8日で43万995円。年齢別では18〜22歳が16日、81万9200円と最多で、43歳以上では7日で18万2千円と最も少なかった。

 風俗業を始めたきっかけ(複数回答)は生活費や学費、借金返済など金銭的な理由が延べ215人で最多。「仕事がない」(60人)「なんとなく」(47人)が続いた。「なんとなく」は27歳までが半数超、「仕事がない」は33歳以上が6割超を占めた。GAPは「20代でなんとなく始め、30代で他の仕事に移りにくくなり、40代になると収入が減っていくという姿が表れている」と指摘する。

 職業については「誰にも知られたくない」と答えた人が多く、仕事以外では外出を控え、家に閉じこもる傾向も強かったという。
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「頼れる人がいなかった」

 GAPは全国の性風俗店で働く女性のトラブル処理や転職支援などに関わっている。

 九州北部の20代後半の女性からは、今年に入り相談メールが届いた。連絡を取ると、出産予定日が数日後に迫っていた。

 昨春から昼間の仕事と掛け持ちをしていて、店にも相手の男性にも妊娠の事実を「話せなかった」。GAPは店に連絡を取り事情を説明。出産後の行政手続きを含め、対応に奔走した。

 女性は「頼れる人がいなかった」と話し、支援に感謝しているという。

 転職支援では12年度以降、GAPを通じて37人が一般企業などに就職した。

 提携する関東のNPO法人でインターンとして働く20代後半の女性は高校卒業後、週3日ほど風俗店で働いていたが、昨夏「このままで大丈夫だろうか」と相談した。電話対応や資料整理などインターン先での経験を通じ「昼の仕事でもやっていけるかも」と自信がついてきたという。

●セカンドキャリアは… 悩む「40歳の壁」 角間GAP代表理事に聞く

 GAPの活動について、代表理事の角間惇一郎さん(33)に聞いた。

 −支援のきっかけは。

 「2010年に風俗店のオーナーと知り合う機会があり、直後に大阪で(風俗店勤務の女性が子ども2人を餓死させた)事件が起きたことがきっかけ。何ができるか、実態を知るために風俗店で2年間働いた」

 −現場で見えたものは。

 「店で働く女性には他人に言えないことがあり、社会的に孤立しやすい。『男に殴られた』『借金でどうしようもなくなった』など、店にはトラブルの情報がある。その情報を行政や弁護士などにつなぐ支援ができると分かった」

 「抱える問題は人それぞれだが、引退する時が来るのは誰しも同じ。店でのキャリアは遅くても40歳ころには終わる。私たちは『40歳の壁』と呼ぶのですが、次の仕事、セカンドキャリアを支援することは活動の軸になると感じた」

 −活動して良かったと思うのは。

 「支援を続けるには、多くの人の関わりが必要。風俗店員やNPO、ボランティアと、いろんな立場で関わってくれる人が増えていくのはうれしい」

西日本新聞社

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/286.html#c28

[昼休み53] 豊洲市場「空洞」騒動の真実 _ なぜ、デマやウソが阿修羅掲示板を席巻してしまうのか? 中川隆
13. 中川隆[7147] koaQ7Jey 2017年3月17日 20:40:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7618]

2017年03月17日
小池百合子のペテン 築地の危険情報は隠し、豊洲の危険情報は偽造

小池知事の発言には嘘とペテンしかない
引用:https://amd.c.yimg.jp/im_siggRUw69CQ3me03N79pDirg_g---x900-y503-q90/amd/20170117-00010001-abema-000-1-view.jpg


不都合な情報は握りつぶした

2107年夏に実施される東京都議選の前哨戦として注目された千代田区長選は2月5日、「小池党」の石川雅己区長が圧勝しました。

ところがこの時期、小池知事が区長選を有利に進めるため、不都合な情報を隠し、都合の良い偽情報を発信していました。

まず「偽情報」はライバルの与謝野信が「国旗の日の丸を侮辱した」と因縁をつけた所から始まった。

         

イベントで日の丸の旗に酷似したものを的にして矢を刺し、横で与謝野信が笑って侮辱している写真なのだが、これを「国旗侮辱だ」と小池知事が大騒ぎした。

ところがこのイベントには小池党の石川雅己も同席し、与謝野信の隣で同じように笑っていたのだが、マスコミが報道したのは与謝野信の写真だけだった。

写真を撮影したのもそれを報道するようマスコミに依頼したのも、小池陣営だったのは想像に難くない。


次に豊洲の危険情報なのだが、小池百合子が都知事選に勝ったのも、石川雅己が区長選に勝ったのも『豊洲が危険だ』という事に掛かっている。

夏の都知事選の争点も豊洲が危険かどうかで、豊洲が危険なら小池党が勝ち、安全なら負けるでしょう。

2017年1月14日に東京都は環境基準の79倍の高濃度汚染が見つかったと発表し、これが千代田区長選で圧勝する流れを作った。


その後東京都の依頼で地下水の検査を実施した業者が「東京都の指示で間違った検査方法に変更した」と証言しました。

東京都議会の特別委員会は3月4日、地下水モニタリング調査をした業者を参考人招致した結果、高い数値が出るよう検査方法を変更していたと公表した。

この日付は重要で、東京都の検査データ偽造が発覚したのは千代田区長選の1ヶ月後でした。

嘘と偽造と恫喝

報道によると小池知事就任前の1回目から7回目検査では、環境基準値を超える数値は一回も出ず、小池知事に変わった8回目で僅かに基準値を超えた。

8回目までを同じ業者が担当したが証言を拒否していて、9回目は小池知事の指示で別な業者に変更された。

9回目を担当した業者は、2016年11月から12月にかけて「パージ」から時間をおかずに採取するよう都職員に指示されたと証言しました。


地下水採取は蓄積された不純物や、地表から染み込んだ雨水などを計ってしまうのを防ぐため、検査前に水抜き(バージ)を行います。

さらに水抜きで攪拌された不純物を計ってしまうのを防ぐため、一晩置いて翌日計る事になっていました。

つまりバージしてすぐに計ると高い値が、一晩寝かせると低い値が出る事になっていて、一晩置いた方が本当の「地下水の数値」です。


東京都職員は9回目の業者に「時間をおかずすぐ計測しろ」と指示し、業者は拒否したが都職員から強要されたと証言しています。

9回目の業者は何度も「検査方法を戻してほしい」「検査を辞退したい」と申し出たが、東京都は聞き入れず、契約や立場を盾に恫喝した疑いが強い。

こうして地下水そのものは「無害」なのに雨水や不純物が計測され『環境基準の79倍』という数字が発表されました。


この環境基準そのものもおかしいもので、東京都は水道水の基準を用いて「豊洲の汚染は基準値の79倍だった」と発表しました。

実際には業者に命令して偽造したデータですら、地下水の汚染濃度としては基準値を超えてはいませんでした。

それだけ日本の飲料水には厳しい基準が設けられているという事で、豊洲の水をコップで飲んでも、理論上人体に影響はありません。


築地の地下には米軍が残した化学物質、建物は違法建築で倒壊の恐れ、アスベストが使用され、排気ガスまみれだが環境調査の予定すらない
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引用:http://blog-img.esuteru.com/image/article/201608/46f255651ddc058c17f806fc7ae172c2.jpg

築地の環境汚染は握りつぶした

さらに東京都議会では、小池知事が2017年1月20日に「豊洲市場の建物は安全」という報告を受けながら2月28日まで隠蔽していたのが判明しました。

小池知事は「誰も聞かなかったから言わなかった」のような説明をしているが、”豊洲の危険情報”との落差には選挙との関連を疑わざるを得ない。

「豊洲地下水から79倍の汚染物質」と嘘の発表をしたのが1月14日、豊洲の建物は安全という報告を受けたのが1月20日、千代田区長選は2月5日に迫っていました。


区長選前に「豊洲は安全」と公表するのは小池党の石川雅己にマイナスであり、検査データ偽造とともに選挙後まで発表を遅らせたと推測できる。

さらに他にも隠していたものがあり、2月23日に東京都が発表した、築地市場の耐震性能不足とアスベスト残留物でした。

現在の築地市場の建物には十分な耐震性がなく、震度6の地震で倒壊が予想されています。


建物には有害なアスベストが使用され、建物から魚介類に「降り注いでいる」疑いがあります。

築地の35の施設は仮設建築物だが、すでに仮設許可が切れている違法建築物だったのも判明しました。

さらに2月28日、これも千代田区長選後なのだが、東京都は昭和20年代に進駐軍(GHQ)が残した地下残留物が存在すると発表しました。


この調査は2016年3月25日に東京都に報告され、舛添要一知事はスキャンダルを追及されていたので、それどころではなく放置したと考えられます。

小池知事が就任したのは2016年8月2日で、選挙戦の争点は豊洲移転であり、就任後も豊洲と築地を最重要政策にしたので、知らなかったとは考えられない。

小池知事は豊洲については移転を中止させてまで地下水検査を命じ、検査データの偽造までさせて高濃度汚染を捏造したが、築地については検査をする予定すらない。


それでいて「豊洲は危険だが築地は安全だ」と断言し、築地市場の使用を続ける方針を持っているようです。

これらで分かるのは小池知事は最初から豊洲については危険性を強調し、築地については危険性を隠蔽する意図があったという事です。

東京都民がアスベストの「ふりかけ」が掛かった魚を食べ続けるのは勝手だが、「汚染魚」を都内から外に出さないで欲しいものです。
http://www.thutmosev.com/archives/69985987.html

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/541.html#c13

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
79. 中川隆[7148] koaQ7Jey 2017年3月17日 20:55:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7619]

吉行淳之介 『鋸山心中』


 淳之介は大正13年4月13日、父:エイスケ(モダニズム詩人)と母:あぐり(美容師)の長男として岡山県岡山市に生まれ、東京麹町(現:千代田区麹町)に育った。淳之介が小学校低学年であった昭和7〜9年頃、避暑のために竹岡村・金谷村(現:富津市)を何度か訪れている。

この時の回想が、後年『鋸山心中』という短編小説となって発表されている。

その一部を以下に引用する。

 「小学2年、7歳の夏休は、浜金谷から東京寄りの竹岡村に部屋を借りた。

この同じ部屋で、8歳と9歳の夏も過した。この頃になると、私の記憶もかなりはっきりしてくる。

房総西線は、上総湊、竹岡、浜金谷、保田の順で、今度の部屋は竹岡駅のすぐ傍にあった。この土地が気に入った私は、夏休になるとすぐに出かけ、土用波が立つ8月末までそこにいた。母や叔父が短期間、何度か訪れてきた。祖母は、この夏から避暑地にくることができなくなった。

この3年間は、化け猫や火の玉は姿を見せず、それに替って男女が起す事件で賑かだった。

その極端なものが、昭和8年の鋸山の心中である。

鋸山は標高330メートルの低い山で、そこに登るのにさして苦労はいらない。
山登りとは程遠く、ハイキングというよりむしろピクニックにちかかった。

その鋸山の山頂のあたり、平たくひらけて草の生えた場所で、心中があった。

学生とカフェの女給だっただろうか。2人とも絶命した。

ポータブル蓄音機が草の上に置いてあり、「天国に結ぶ恋」というレコードが載っていた。」

 文中に出てくる竹岡駅は昭和5年(1930)8月に開設されており、駅ができて間もない頃であった。

この時代は、上海事変、五・一五事件、小林多喜二の検挙、虐殺などが相次いで起きた暗い緊迫した世相であり、房総沿岸は要塞地帯指定で写真撮影もままならなかった。そんな時代背景でありながら、この作品には当時の竹岡周辺の、のどかで風光明媚な漁村風景が描かれている。
http://www.city.futtsu.lg.jp/0000002725.html


死後の世界へ体験自殺

  千葉県阿房郡に住む高校1年生から、毎日新聞社に一通の遺書が届いた。それには

「死後の世界の存在を確認するために死んでみることにしました」

とかかれていた。新聞社はすぐに手配をしたが、千葉県富津市金谷の鋸山山頂から飛び降り自殺をしたあとだった。(1973.4.17)
http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199807.html

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c79

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
80. 中川隆[7149] koaQ7Jey 2017年3月17日 20:59:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7620]

「死後の世界を検証する」ため---死んでみます


この「実験」も高度な探求心から行われた。現在では「あり得ない」自殺である。

それは昭和48年4月17日、毎日新聞東京本社に1通の「手紙」が届けられた。

千葉県鋸南町の高校生「谷口俊雄」君(当時15歳)であった。

「私は自殺を計画しました。実行予定日は4月15日です。

---私は死後の世界というものを信じています。それを確認するために死んでみることにしました---

鋸山で高校生の男子が自殺をしていたら、それは私です」

驚いた新聞社が調べたところ、本当に谷口君はその地で投身自殺を遂げていた。

昭和40年代から若者に広がったものが「超能力、予言、心霊術」である。

合理的判断が及ばない領域のブームが始まっていた。

谷口俊雄君は、新高校生で中学時代は学年で1,2番を争う秀才であったらしい。

この「事件」に関して心理学者の「加賀乙彦」や「大原健士郎」がマスコミからコメントを求められたが、どう理解すればいいのか戸惑いを隠せなかったようである。世間には理解できる大人たちはいなかった。
https://www.earlybird65.com/%E6%98%AD%E5%92%8C%E3%82%92%E6%98%A0%E3%81%9910%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%81%BA%E6%9B%B8/
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c80

[政治・選挙・NHK222] 世界支配層は、「4京円を分配(シェア)」を妨害している安倍晋三首相に退陣を迫り、小沢一郎政権樹立を促している(板垣 英憲 笑坊
3. 中川隆[7150] koaQ7Jey 2017年3月18日 08:45:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7621]

小沢は前は奥の院から民主党壊滅を指示されていた

今度は共産党壊滅を指示されてんだ

それで山本太郎に共産党が喜びそうな事を言わせたんだな
奥の院は一人にすべて任せないで、一つの任務が終わったら次の人間を総理に付けるんだ

小沢には湾岸戦争に大金を出させ、滅茶苦茶な財政出動をしてバブル経済にし、小選挙区制を導入させて自民党の派閥を壊滅、日本を超円高にして日本経済を崩壊、民主党の評判を落として反自民党勢力を壊滅させて任務完了

小泉・竹中には人材派遣制度を導入、累進課税を形骸化させ、企業間の株式持合いを止めさせ株価を大暴落させ、日本株を底値で外資に買い取らせる、郵政民営化させて任務完了

野田には TPP推進、消費税増税の法律作らせて任務完了

安倍には 移民受入れ・英語の公用語化の準備、安保法案を導入させて任務完了予定


一人にすべてやらせるといくらアホ日本人でも背後の勢力の存在に気付いてしまうからね。

この中では小沢のやった事が一番酷かった、日本経済を壊滅させたのが小沢の業績だったんだ

小沢がごり押しした小選挙区制は自民党と第二自民党が交互に政権を取って、アメリカの犬を代わる代わる首相につける制度

誰が総理になっても奥の院の指示通りにしか動かないから同じ事なんだけど
阿修羅の住人みたいなアホ日本人の目眩ましにはなるからな


小沢一郎は毎年ロンドンやフランクフルトのロスチャの所に御用聞きに行ってる

つまり小沢せんせは奥の院の指示通りに動いているだけ

中国を世界の経済センターにして、日本を中国小日本省にするのがロスチャと小沢せんせの最終目標

こういう売国奴を放置しておくから日本が中国に乗っ取られるんだ


石原慎太郎都知事「アメリカの犬 小沢一郎の正体」を暴く
https://www.youtube.com/watch?v=MERTrcik8CU

50年後の日本地図 (日本人は放射能汚染された東日本に押し込められる)
http://blog.goo.ne.jp/hps777/e/ee6e8a91af4cf1c9b0adb452f1667b7e
http://www.asyura2.com/17/senkyo222/msg/530.html#c3

[議論31] 狂った宗教 イスラム教 _ 頭がおかしいのは中国人と朝鮮人だけではない 中川隆
103. 中川隆[7151] koaQ7Jey 2017年3月18日 08:50:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7622]

世界で信者数が最も伸びるのはイスラム教 米調査機関
http://www.cnn.co.jp/world/35098272.html

2017.03.17 Fri posted at 10:53 JST


(CNN) 米調査機関ピュー・リサーチ・センターはこのほど、世界の宗教の中で最も急速に信者を増やしているのはイスラム教で、2050年までに欧州でも人口の10%がイスラム教徒になるとの分析結果を公表した。

ピューによれば、2010〜50年にイスラム教徒が73%増となる見込み。これはキリスト教徒の35%増、ヒンズー教徒の34%増を大きく上回る。

これにより、今世紀末までにイスラム教はキリスト教を超えて世界最大の信者を抱える宗教になると予想されている。

信者数が増加する背景として、イスラム教徒の女性が出産する子どもの数が平均3.1人と他の宗教(平均2.3人)に比べて多いことや、信者の平均年齢が他の宗教より約7歳若いことが挙げられている。

同報告書では、米国人のイスラム教徒観が02年(9・11テロの翌年)以降、どう変わったかについて支持政党別の分析も行った。これによれば、共和党寄りの人々のイスラム教徒へのイメージは02年よりも悪くなっていたが、民主党寄りの人々はその逆の結果だった。

 

http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/332.html#c103

[雑談・Story41] 日本国家懐疑的自虐史観に立脚する人の愚の極み 宗教と政治の在り方 金十字架
1. 中川隆[7152] koaQ7Jey 2017年3月18日 09:01:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7623]

そもそも、天照大御神を崇める国家神道は朝鮮から来たカルトで、紛い物の神道だし、天皇一族は日本人じゃないからね:


天皇一族は武家上層部等の日本の支配階級は朝鮮から渡来した漢民族だから
日本人の精神性や思考は全く持っていない。

日本を支配していた天皇家や武家は朝鮮から渡来した漢民族(Y染色体O2系統)で、
縄文人・弥生人系の日本の一般民とは殆ど混血していない。

現代の日本の政治家や資産家は殆どが渡来漢民族:Y染色体O2系統(旧 O3系統)
地主や自作農は 弥生系: Y染色体O1b系統(旧 O2系統)
貧農や小作人や部落民は 縄文系「D2」

太平洋戦争で最前線に送られて死んだのは縄文人・弥生人系の日本人だけ
これから中国人移民と競争させられて搾取され食っていけなくなるのも縄文人・弥生人系の日本人だけなんだな

縄文人・弥生人系の日本人の問題は羊より従順でかつ自分が搾取されて滅ぼされる劣等民族だという自覚が無い事だな
お上には絶対に逆らわないもんな


漢民族は中国でも、日本に来ても えげつなさは変わらない。

日中戦争で日本兵がやった残虐行為は昔、日本国内で支配階級がやっていた事を繰り返しただけ

日本の支配階級になった漢民族は選民思想が強く、日本人を人間だと思っていなかった:


空海とか皇族・公家とか当時の日本の支配階級は2000年前には朝鮮の38度線近くの某集落に住んでいた漢民族(Y-DNA O2)だよ。

朝鮮での権力闘争に負けて日本に逃げてきたんだ:


現在の縄文系Y-DNA「D2」,「C1」と「C3」の合計出現頻度が50%弱もあるためには、

 ・弥生系「O1」,「O1b」や武装侵略者系「O2」に比べかなり高い縄文系の無精子症や乏精子症の出現頻度、

 ・現在の中国の出生率でも容易に理解できる武装侵略者系「O2」の異常なまでの人口増加率の高さ

 ・現代でも60〜70%を占める縄文系女性遺伝子mtDNA「M」系列

 つまり人口増加能力が低い縄文系が現代でもこれだけの人口比率を持っているためには、縄文時代にかなりの絶対人口を持っていなければ不可能なのです。

 日本列島の基層文化は縄文時代に確立され、3.11で世界から感嘆された日本人の持つ忍耐と従順性、また以前から称賛されているホスピタリティなど、やや古代的な日本人の感性は縄文時代に確立されたと言って差し支えないでしょう。

 一方、大和朝廷族や他の天孫族、抗争を繰り広げてきた武士団族の好戦性や残虐性は朝鮮半島の生存競争に敗れ追い出され武装侵略集団として日本列島を支配してきた中華王朝の出先機関にいた黄河文明の子孫の(漢民族が確立する前の)プロト漢族の特性に他ならないでしょう。

 このプロト漢族Y-DNA「O2」は現代では中国のY-DNAの50%以上を占め、韓国のY-DNAの40%以上を占める全く同根の遺伝子集団なのです。日本人も持つ好戦性や残虐性の共通の起源なのです。

 残念ながら、この遺伝子もその高い人口増加能力で今では日本男子の20%を形成する主要遺伝子の一つに成りあがっています。



http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/506.html#c1

[雑談・Story41] 日本国家懐疑的自虐史観に立脚する人の愚の極み 宗教と政治の在り方 金十字架
2. 中川隆[7153] koaQ7Jey 2017年3月18日 09:04:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7624]

「朝鮮と日本の神話を考える」 上田正昭 京都大学名誉教授

 敬愛してやまない末本徹夫さんがお亡くなりなって早くも2周年になります。仏教で申しますと3回忌になりますが、徹夫さんは京都大学の先輩でもありました。学生でありながら京都市会議員に当選され、人権問題、とりわけ日朝友好促進に力を入れられました。末本徹夫さんを偲んでの2周年の集いに「神話の問題」の話をしてほしいと雛子さんから言われまして喜んで参上した次第です。末本徹夫さんの写真がここに置かれていますが、その志を受け継いでいきたいと念じております。

 今日は「朝鮮と日本の神話を考える」というテーマです。新しい歴史教科書の問題がありますが、歴史学も科学です。小説家の歴史ではなく、歴史的事実を正確に認識することが大前提になります。伝仁徳天皇陵も仁徳天皇が葬ってあるかどうか大変あやしいのですが、伝仁徳天皇陵は私が学長をしていました大阪女子大学の近くにある日本最大の前方後円墳です。巨大な前方後円墳の仁徳天皇陵と伝えられている古墳ですが、堺では大仙という地名がありますので、我々は大仙古墳と言っています。大仙古墳を天皇を尊敬する方々がご覧になったら全長六百メートルの古墳になる。天皇制に反対の方がご覧になったら二百メートルだ、ということでは学問として成り立たない。

歴史は解釈の問題も大事ですが、誰がどういう立場で言おうと、史実は変わらない。正確な史実をまず認識するということが学問としての歴史研究の第一歩です。神話についても皇国史観の人が解釈する神話と、左翼の人が解釈する神話で全く違う評価が生まれるということでは学問になりません。

神話の定義

そこで神話をどう定義するか。定義が正確でないと内容が間違って解釈されることになりかねないと思います。「神話」という漢字の熟語は中国の古典にもありません。漢字文化圏である朝鮮半島の古典にも神話という漢字の熟語はありません。中国の『三国志』にも神話という文字はない。翻訳漢字です。日本の学者が1890年代に英語のmyth,mythusを「神話」と漢字に訳したものです。神話という翻訳漢字は失敗であったと思います。神話は神様の話という単純なものではありません。

日本の古典の中に神話に類似する用語があるか。「神語」というのはあるんです。『日本書紀』、皇極天皇2年、同3年の条、西暦643・644年の条に「神語」と文字があります。「カムガタリ」という方が皆さんがお考えになっている神話の意味がより正確に言えると思います。神の語りです。神話の定義は神話学者の数ほどあると言われるようにいろんな定義があります。

ギリシャ神話とか文字に記録された神話は神話の本来の姿ではないんですね。記録された神話は第二次、第三次の神話です。書かれた神話は本来の神話とは違うということです。文字を知らない人や、民族でも神話を持っています。なぜなら神の語りだからです。耳から口へ、口から耳へと語り伝えていくものが本来の神話です。文字に属するのではなく言葉の世界に属します。ホーリー・ラングウェッジ、聖なる言葉が神話の大事な点です。

沖縄の研究も復帰前から進めてまいりました。沖縄での国際会議にもたびたび招かれています。沖縄が本土に復帰する以前、米軍が占領していた時代、沖縄に行くにはパスポートがいった時代です。その時代から沖縄の調査をしていますが、本島から先島つまり宮古、八重山諸島など台湾に近いところです。

たとえば宮古島では神話が伝わっていますが、記録にはない。巫女さん、「ツカサ」のおばあさんたちが神話を言葉として語り伝えている。祭りの場で伝えられる。記録としてはないわけです。祭りに参加しなければ神話は聞けない。日常は語られません。男子禁制なので入れない。ツカサの神話の語りを録音させてほしいと申し入れて、

「祭りの場でもないのに語れません」

と拒否されました。お供えをして帰ろうとしたらおばあさんが

「待ってなさい。あなたは神の子だという御告げがあったから語ってあげます」

と録音させていただいたこともありました。

記録された神話

 『記・紀神話』といわれているものは、語られた神話ではなくて書かれた神話です。『古事記』は3巻あっては上巻に神話が書いてある。『日本書紀』は30巻ありまして、巻第一と巻第二が神代の話です。『古事記』は和銅5年、西暦712年正月28日に完成しましたが、時の天皇家の立場から作為的に記録されたものです。天武天皇の勅語に

「偽を削り、実を定める」

と書いてある。天皇家の立場からこれはふさわしくないというのは削ってある。天皇家の立場から書いている。神話のすべてを書いてあるわけではありません。


例えば今日の話について皆さんは、私の言葉を速記するなら別ですが、上田の話はここは大事だなと思う箇所を書いておられる。全部書いているわけではない。皆さんの日記でも全部正確に書いているとはいえない。都合の悪いことは自分の都合のいいように書く。日記だから本当のことが書いてあると思ったら間違いです。将来、孫が読むかもしれない。「おじいちゃんはこんなに立派だった」と第三者を予想して書いている場合もある。

記録する時には作為がある。歴史学をやるものは、書かれたものが全て本当だと思うようでは歴史研究をする資格がない。どこが本当で、どこがウソか文献批判が必要です。ラブレターはそれの最たるものです。「私はあなたを愛しています」と書くわけです。その瞬間はそう書くんです。口説くために。騙されて結婚して今日に至っている人もたくさんいると思います。ラブレターの文献批判をしていない。

自由民主党の新聞に書いている内容と共産党の新聞に書いている内容では違うことがありうる。一つの事実がさまざまに記録されるわけです。新聞が書いているからその通りだと思ってはいけない。毎日新聞の立場がある。朝日新聞には朝日の立場がある。6紙くらい読んでどれが真実かと考える。

 これは文字による記録の限界なんですね。書かれた神話には誇張の潤色が入る場合がある。『古事記』や『日本書紀』が日本の神話のすべてだと言っていたら、神話を教科書に載せる資格は全くない。こんな教科書で勉強するのは気の毒です。戦争中はそういう教育を受けた。神話を疑ってはいない。神武天皇橿原宮で即位された。「紀元は二千六百年、ああ一億の」という時は中学2年生でした。昭和15年。私は級長でしたから並んで国旗掲揚をしました。

紀元二千六百年の元年は西暦ではB.C.660年です。縄文時代の晩期の頃です。弥生時代の前です。そういう時代に日本国ができたというのは、少し勉強したらちょっと待ってくれと言わざるをえない。日本国家が縄文時代にできたなんてことはありえない。邪馬台国よりはるかに昔の話ですよ。邪馬台国の卑弥呼の時代は紀元後3世紀前半の話です。そのときから900年くらい昔の話です。日本国が誕生したという考えには幼稚園の子どもでも待ってくれと言わざるをえないのではないでしょうか。だけどそれは『日本書紀』に書いてあるわけです。『日本書紀』に書いてあるからその通りですと言うていたら、ウソということになるわけです。

神話とはなにということを理解していただかないと、これからお話する日本と朝鮮の神話の問題も間違ってくると思います。神話はまさに聖なる言葉でした。

神話とよく似た言葉には「伝説」「昔話」があります。語り伝える口頭伝承です。言葉の世界に属していますが、しかし内容はみな違うんです。

神話は神様が出てくる。この世のはじめ、天地開闢と関係がある。

「この世のはじめにおける神と人との重要な出来事を語り伝えた聖なる言葉」

が神話です。ハレは非日常、ケは日常。神様をお祭りするハレの時に着る着物が本来の晴れ着です。日本人の晴れ着は祭りの日に着る着物です。ケ着は日常の着物です。ハレの非日常の聖なる時と場の語りが神話です。神の行いを信じるという信仰が神話にはある。語られている内容がどんなに非合理であっても。

国産み神話。イザナギとイザナミの命が鉾を天空から海中に下ろして、それが塩で固まって島ができた。次々に国を生んでいく。塩が固まって島ができる、国土ができる。全く不合理な話ですが、語っている人、聞いている人が信じていた。信仰です。祭りの場に参加していないと聞けない。信じてかつてそのような出来事があったことを深く信じている。

 ところが伝説というのは全く違うんです。ある特定の物に則して語られる。伝説には神様が登場しなくてもいい。即物性がある。弘法大師が池をつくられた。弁慶が運んだ石がある。義経が腰をかけた石がある。何か物に則して伝説は語られる。語られている内容は自分たちの祖先がやってきたこととして語る。伝説には何年何月何日、「頃は元禄15年12月14日」は忠臣蔵の日ですが、日時まで物に則して語られる場合がある。

昔話は語られる内容が全く違う。どの昔話でも「昔、昔、あるところに」と時がわからない。伝説は特定している。昔話は特定しない。「で、あったとさ」と語りの最後は結ばれる。もちろん土地の言葉で語られる。伝説や昔話はケの語りです。いろり端で語る。「昼の話はネズミが笑う」という諺がありますが、夜、語られる。

神話はケの語りではない。神を祀るというハレの時と場で語られる。文字を知らないどこの民族でも神話はある。朝鮮民族には朝鮮民族の神話があり、日本民族には日本民族の神話があるわけです。それが後に記録化される。日本の場合は記録化された神話としては『古事記』『日本書紀』が有名です。

『古事記』『日本書紀』以外も我々の祖先のことが書かれているものがあります。『風土記』があります。『古語拾遺』は西暦807 年にまとめられたものです。『風土記』は各国々で編纂されましたから国々にあります。語り部の神話の記録もあります。『万葉集』の中にも『延喜式』にもあります。『先代旧事本紀』の神話もある。『古事記』や『日本書紀』だけが日本神話のすべてではないということを押さえておかないといけないと思います。

朝鮮の神話では

 朝鮮の神話はどうか。もちろん朝鮮民族の神話も最初から文字で書かれたわけではない。好太王碑文は有名ですが、その冒頭は建国神話で、高句麗の祖先はこういう人たちであったと語っているわけです。25、26年前、高句麗文化展がありました。京都市立美術館で朝鮮民主主義人民共和国から貴重なものを送っていただきました。京都を皮切りに巡回されました。私は西日本の高句麗文化展の責任者だったんです。東日本の責任者は騎馬民族説で著名な江上波夫先生でした。

碑は高さが6メーター38センチあります。これをレプリカにして送ってきましたが、美術館に入らない。京都の場合は屋外に展示しました。そのはじめに高句麗の神話が書いてある。広開土王という高句麗の王様の石碑が彼の子どもの長寿王の2年の時に建った。西暦414年、5世紀のはじめです。[史料5]この碑文が有名なのは、碑文に

「由来朝貢而倭以辛卯年来渡」。

西暦391年に倭人が海を渡ってきた。「百殘」は百済です。「新羅以為臣民」と書いてあります。

倭イコール大和朝廷と解釈しているのは歴史的事実に反します。

倭をどう解釈するか問題があるのですが、北九州を中心にする倭の勢力が海を渡ってきて、朝鮮半島の百済、新羅、伽耶を破って臣民にしたと書いてある。

これを明治以来の日本の政府はかつて朝鮮半島は日本の属国であったということをこの碑文を証拠に言ったわけです。その中心になったのは東京帝国大学の先生方ではなく、陸軍参謀本部なのです。そのことを明らかにしたのが、在日の歴史家の李進熈さんです。和光大学の名誉教授の考古学者です。

陸軍参謀本部が改ざんしたのだというのが李さんの説です。李説が発表された時、中国の学者も韓国の学者も台湾の学者も日本の学者もショックを受けた。好太王碑文の陸軍参謀本部の改ざん説が契機になりまして、好太王碑の研究が前進しました。その功績は高く評価していますが、改竄説には賛成してはいないのですが、李さんの問題提起がなければ好太王碑の研究はあれほど盛んになるとは思われません。

共和国の学者も好太王碑についての論文も書きました。中国の学者も書きました。好太王碑をめぐって大変な論争を展開することになります。その火付け役をしたのが李進熈さんです。このことはちゃんと認めないといけないと思います。

 好太王碑が立っているところは中国の吉林省にある集安、鴨緑江を挟んで対岸は朝鮮で共和国の皆さんが歩いておられる姿が見えます、川を挟んで。

その碑文の調査に私は3回行きました。碑文の文字は残っているのですが、剥落して判読できないところも若干あります。

 この碑文が大事なひとつは高句麗の神話が記述されている事です。

朝鮮にも古典はたくさんあります。たとえば『三国史記』がありますが、『古事記』や『日本書紀』より出来たのははるかに遅いんです。1145年に編纂の命をうけて書かれました。12世紀のなかば、日本でいえば平安時代の終わりです。平清盛の頃に書かれた神話を高句麗の本来の神話として議論してはいけない。

高句麗の神話は5世紀にあったということは好太王碑文を見たらわかるわけです。この碑文ができたのは414年です。414年の好太王碑文の最初に神話が書いてある。

「惟昔始祖 牟王之創基也」。

朱蒙が高句麗の基を築いた祖先である。

「出自北夫餘天帝之子」、

天の神様の子どもであって、お母さんは「河伯女郎」なり。河の神の娘である。お父さんは天の神様。お母さんは河の神の娘である。卵を裂けて世に降りる。生まれながらにして聖。

高句麗には5世紀のはじめのころに建国神話があったということは、好太王碑文によってわかるわけです。もちろん書かれた神話ですが、そういう神話が5世紀のはじめに高句麗にあったことを物語っているわけです。

 昨年12月23日の天皇誕生日の前の12月17日、宮中で記者会見があった。記者クラブが7つ質問している。その中の一つが

「来年はワールドカップで日韓共催でやる。天皇はどう思われるか」

という質問に

「自分の先祖である桓武天皇の生母高野新笠は百済武寧王の子孫であった。
韓国とのゆかりを感じます」

と語られたわけです。私にもすぐ朝日新聞社からコメント依頼がきました。私が感動したのは、人物の交流が皇室を含めてあったのだけれども

「不幸な関係があったということも忘れてはなりません」

とちゃんと言っておられる点ですね。そこがあまり報道されてないんです。

 私は朝日のコメント依頼に「そこが大事だ。それを書いてくれなければコメントしない」と申し上げたのです。1月16日、京都新聞には載りませんでしたが、共同通信が後追いの記事を出しました。なるほどと思ったのは「誕生日の記者会見くらいは自分の言葉で言わせてほしい」と言われたそうです。宮内庁のチェックはなかったようですね。宮内庁は大慌てになったということを1月16日の共同通信配信で知りました。私はその日、松江に行っていまして、山陰中央新報で知りました。実はこれは、神話の問題とも関係があります。


桓武天皇のお母さんの高野新笠は、勅撰の歴史書である『続日本紀』が明記するとおり武寧王の子孫ですが、延暦8年12月に亡くなります。お葬式は正月にあった。葬ったのは大枝の沓掛にある旧山陰道の右手の山の中腹。そこに高野新笠のお墓があります。階段を登らないと行けません。延暦9年1月にお葬式をしている。

『続日本紀』に新笠の伝記が書いてある。どういう人だったかということを書いて百済の神話を書いている。そこに書いてあるものを読むと

高句麗の建国神話と百済の建国神話が同じであったことがわかります。今、残念ながら朝鮮人民民主主義共和国と大韓民国は分断されていますが、百済の建国の神話と高句麗の建国神話は同じです。在日の皆さんが自分の祖国の神話も知らずにいるというのでは残念です。

朝鮮と日本の神話の類似性

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。

 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。

朝鮮と日本の神話の相違性

 日本の神話と朝鮮の神話は極めて類似性がある。
玄界灘を隔てて隣り合っている国ですから共通性がある。
日本の神話と朝鮮の神話には共通性がある。

比較というのは似ている点だけをすることではない。どこがどう違うかということを正しく理解することが極めて重要です。朝鮮の文化と日本の文化のどこが共通しているか。

日本の中に朝鮮の文化がこんなにたくさんある。
遺跡めぐりをしても朝鮮の文化が各地にある。
それにあわせてどこがどう違うかという、共通性だけでなく独自性も見ていないと、本当の友好、連帯はできない。全く同じだったら改めて勉強する必要はないんです。キムチと漬物の文化とは違うじゃないですか。

なぜ違ってきたのかを正しく理解しなければ、本当の連帯はできない。同じだと言ってばかりいると「日鮮同祖論」になる。祖先は同じなんだから日本に朝鮮が併合されてももとは一緒ではないかという論理と類似のものになってくる。どこがどう違うかということだけを言っていても具合悪いんですね。共通性と独自性の両方を理解することが必要だと思います。


 書かれた日本の神話と、書かれた朝鮮の神話の決定的に違うところが三つあります。それも知っておく必要がある。

クシの峰、天降った山の名は類似している。

けれども、日本の神話では「荒ぶる神」がいた。降ってきて平定するんです。

高天原から降って「言向和平」する。

朝鮮の神話では違う。民衆が

「どうか神様降ってください」

とお祈りすると降ってくる。 [史料4]「又曰 

皇天所以命我者 御是處 惟新家邦 為君后為茲故降矣 称須掘峯頂撮土 歌之云 亀何亀何」。

もしもし亀よ亀さんよと歌うわけです。

「首其現也 若不現也 燔灼而喫也」。

亀さんの姿を現せ、そうでなければ焼いて食べるぞと。民謡だと思います。

「以之踏舞 則是迎大王・歓喜踴躍之也」。

神が降ってきたといって民衆が喜び、踊り回る。

「歓喜踴躍」する。すばらしいシーンです。


 朝鮮の高句麗や百済、伽耶の神話の場合は卵が天から降ってきて、それが割れて中から誕生する。卵から生まれるという卵生型は日本の神話にはありません。

 そして朝鮮の神話ではお供を連れて天降ってこない。単独降臨です。

日本ではお供の神様がついてくる。

アメノコヤネの命は中臣氏の祖先です。瓊瓊杵尊と一緒に天降ってくる。

後の天皇家の周辺の有力貴族の祖先も一緒に天降ってくる。
朝鮮には檀君神話を除いて随伴神伝承はないんです。
後の時代はお供が増えますが。そのように内容が違う。


 もとは共通であったはずの朝鮮と日本の神話がなぜこのように違ってきたのか。

語られた神話、『古事記』『日本書紀』に書かれる段階で、すでに我が国には天皇制があった。

天皇制を背景にできあがった『古事記』『日本書紀』の神話に対して、朝鮮の場合は貴族の合議制。王者はいるのですが、貴族が合議しながら政治をやる(和白制)。

よりデモクラティックな民主的な要素の強い朝鮮社会と、我が国のように天皇制を中心にする社会体制ができあがっている。記録化の背景が違ってくる。社会の仕組みが違うので神話の内容も専制的なものになっていく。極めてデモクラティックな朝鮮との違いができたのではないかというのが私の説です。文庫本(日本の神話を考える)をお持ちの方もおありのようですが、そこにも詳しく書いておりますので参考にして下さい。

 韓国、朝鮮は日本と最も近い国です。善隣友好、隣と仲良くできなくて、どうしてアメリカ、ヨーロッパと仲良くできるか。近くで対立しているようでは、国際化日本にはなれないと思います。そのためには日本の文化と韓国、朝鮮の文化のどこが共通しているかを確かめると同時に、なぜこんなに違ってきたのかということを相互に詳しく理解しなければ本当の信頼関係は生まれないと思います。国際化ということは、相手を知ることがまず第一です。

我々が朝鮮の文化、朝鮮の歴史、朝鮮の生活を知る。そして己を知る。自分を知る。日本人が日本を知らなくて国際化なんてできません。在日の皆さんもそうです。朝鮮の皆さんが朝鮮のことを知らなくてどうして国際化ができますか。朝鮮民族が日本のことだけを知っているのではなく、己を知ることも大事です。いかに友好の関係史があったか。そのことにあわせて極めて不幸な侵略の歴史、大変なご迷惑をかけた、拭うことのできない歴史も忘れてはなりません。

共通の認識と共にどこがどう違うか。異質性、独自性の認識が正しい理解を生むのだと思います。共通性もありますが、違う点もあることをよくご理解いただきたいと思います。以上で終わらせていただきます。

ご静聴ありがとうございました

質問 三つだけ教えてください。

@神話は科学的に実証することができるかどうか。
A真床追衾(まとこおふすま)について。
B邪馬台国について。

上田 神話を正しく理解するには書かれた神話、記録化した時にどこにどう手を加えたということを知ることが大事です。原像を復元することはむずかしいと思います。しかしその作業をなおざりにはできません。

 2番目の真床追衾。マは形容語で、寝床の床です。高御座の台です。
被りものを被って降臨する。オブスマは被りもの。スマは中が空洞になっているものです。

 3つ目に邪馬台国、卑弥呼の時代は3世紀前半です。
邪馬台国は私の考えでは前期邪馬台国と後期邪馬台国に二つに分けて考えられる。

後期邪馬台国は畿内の大和だと思います。前期は九州だと考えています。

講談社学術文庫『大和朝廷』に私の説が書いてありますのでお読みください。大王家の祖先は邪馬台国の卑弥呼になるのですが、神武天皇が北九州から入ってくる。北九州から大和に入ってくる伝承を全くの架空とは断言できない。西から東に王権が移ったということがあったに違いない。考古学は1、2世紀の文化は畿内大和より北九州の方が進んでいる。3世紀では畿内大和が進んでいる。

弥生時代の前期は九州の方が進んでいる。弥生時代後期は断然大和が進んでいる。2世紀後半に遡る可能性がある。最近は畿内説の方が調子がいい。畿内説から九州説に寝返った人もいるが、私は一貫して畿内説ですが、生え抜きの畿内ではない。邪馬台国後期の畿内論です。

(2002年1月26日 講演記録より)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html

http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/506.html#c2

[雑談・Story41] 日本国家懐疑的自虐史観に立脚する人の愚の極み 宗教と政治の在り方 金十字架
3. 中川隆[7154] koaQ7Jey 2017年3月18日 09:08:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7625]

もう20数年前のことである。考古学者の江上波夫が、昭和天皇に質問した。

昭和天皇は、オフレコならばと前置きして答えられた。


Q:天皇家の先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックというものがある。
  これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。
http://akirakakun.iza.ne.jp/blog/entry/1574364/

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、

天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ 知らない方が良いこともあるのだ と答えたという研究者の話が伝わっています。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html


古代朝鮮からの侵略部族が、一貫して日本を支配してきた 

古代日本、とりわけ朝鮮半島が戦乱にあけくれた2世紀〜6世紀に 、彼らは日本にやってきた。当時南朝鮮は、部族連合から国家への 移行期であり、激しい戦いを繰り広げ、そこから押し出された部族 が、一族郎党で武装のまま新天地の日本にやってきたのだった。

彼らは既に鉄製の剣を持ち、戦慣れした武装勢力であり、当時の縄文人・弥生人が敵う相手ではない。西日本に侵略部族による国が、あっという間に出来 あがる。

その後も、蘇我氏(高句麗からの侵略部族、神社を持たず仏教を導入)などが相次いだ。特に6世紀中ごろの任那滅亡、7世紀中ごろの百済滅亡の際には、任那・百済の支配部族の中核・大半が日本に移住した。
http://blog.trend-review.net/blog/2008/08/000801.html

http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/506.html#c3

[雑談・Story41] 日本国家懐疑的自虐史観に立脚する人の愚の極み 宗教と政治の在り方 金十字架
4. 中川隆[7155] koaQ7Jey 2017年3月18日 09:13:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7626]

日本古来の神道には天皇が出る幕はない.

戦没者は恐ろしいものではないから神にはなれない.従って祭る必要もない.

神道の教義では,神になれるのは日本軍に残虐な殺され方をして,恨みを呑んで死んでいった中国やアジアの人々だけだろうね.


神道というのは原始信仰のアニミズムやトーテミズムをそのまま残した化石的な宗教だ.

アニミズムやトーテミズムでは人格神ではなく,人間に危害を及ぼす様なものはすべて神になる. 神仏習合というのは仏教の仏を神道の沢山いる神の一つにしただけだ.

日本の仏教というのは本当の仏教ではなく,中身は完全に神道で外形だけを仏教から借りただけの代物だ.だから仏教は日本に根付いたが,キリスト教は完全に放逐された.キリスト教は一神教で神道の精神と相容れないからだ.

しかし,靖国は神道の基本精神と合い入れないから,神道とは共存できない.
靖国は軍人を殺人の前に奮い立たせるためのものであって,信仰ですらないからだ.

靖国参拝は殺しの前の儀式行動としてやるものであって,宗教的な行動ではない.


___


本物の神道とは

これが弥生人の神道
 
古代の日本人の霊魂観によると、人は肉体と霊魂からなり、また霊魂を「タマ(魂・玉)」と呼びました。生命の維持はタマの働きによって保たれ、死はタマの離脱することだと考えられていたのです。病気や怪我などはタマの一時的離脱であり、死はタマの永遠の離脱(脱出)を意味していました。つまり、「タマ(魂・玉)」は生命活力の根源とされてきたのです。

 「タマフリ(魂振り)」は、「タマ(魂・玉)」を振り動かして、その霊威を高める働きです(魂振・魂殖・魂触・魂降などは少しずつニュアンスが違いますが、生命エネルギーの活性化という意味では同じです)。神や人のタマを人の中府(ちゅうぶ・体内)に鎮め結び付けること(「タマシズメ(魂鎮め)」)は、霊威が活き震うことの前提であり、「タマフリ(魂振り)」により人の生命力と活動力が強化されると考えられたのです。

 「タマフリ(魂振り)」いわゆる鎮魂(ミタマシズメ・ミタマフリ)は、禊祓(みそぎはらい)と並ぶ神道の重要な行法で、枯渇する人の魂を振り起こし、衰微する魂の生命力を再生する救霊の呪法です。そして鎮魂祭は、人の肉体から遊離しようとする「タマ(魂・玉)」をしっかりと中府(ちゅうぶ・体内)に鎮め固定し(「タマシズメ(魂鎮め)」)、「タマフリ(魂振り)」をすることによって人の生命力と活動力を強化すると考えた古代信仰から生まれた神事(祭祀)なのです
http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045056.html

人里に近い山を「葉山」といい、亡者の霊がしばし山中に留まり、この世への執着を絶った後に祖霊となり、やがて里を訪れて子孫に福をもたらしてくれる、という葉山信仰が東北に多く、恐山もその一つだ、といいます。
http://www.kurikomanosato.jp/to-r07simokita.htm


「人が死ねば肉体は滅びても、その霊は祖霊として永遠不滅な一種の生命体となって蘇生復活し、高い山に上って住み、山上から麓の子孫を守ってくれる」と信じられていました。この我が国固有の信仰は、すでに「古事記」にも見られ、永年にわたって脈々と受け継がれてきたのです。

 古来、子孫の生活の中で最も重要なことは「稲作」であり、祖霊なる「ハヤマの神」は、春4月8日ごろ「田の神」とになって田に降りて、子孫の農耕を助け、秋の収穫が終わると、家族と新穀を共食し、10月8日ごろ再び山に帰って休むと信じられていました。

したがって、「ハヤマ」のある場所は、田の見える端の山でなければなりません。もっとも、祖霊の住まう山は「ハヤマ」の冠を持つとは限らず、山形県や秋田県の「モリノヤマ」などは、「ハヤマ」に相当する山です。
http://www.geocities.jp/hayama1462m/hayama-history.htm


これが縄文人の神道  

上の稲作云々の部分は弥生時代以降に変わった部分で本来の神道は:

アイヌの人々が考える宇宙は、この世とあの世とからなる。人間は死ぬとあの世へ旅立つが、そこではあの世での新しい生活がある。そこで一生を終えるのと、またこの世に戻ってくる。この世とあの世とは、同じ生活が営まれているが、季節や昼夜は反対である。

 霊魂 この行き来するものが霊魂であるが、この世にあるすべてのものに霊魂が宿っているとされている。

 アイヌにとってのカミ観念 そうした霊魂のうち、火や雷、地震、津波などの自然現象、クマやオオカミ、トリカブトなどの強い力を持った動植物など人間の意のままにならないもの、力を持ったもの、不思議もの、役に立つもの、あるいは恐ろしいものが、神として崇められ、畏れられた。神は崇められるだけではない。神として崇められた霊魂は、人間世界へなんらかの恩恵をもたらすことで、返礼する。


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東漢氏の遺産・「祓いの神道」


梅原猛は、その著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)の中で、「祓いの神道」は初めて天武天皇によって開始されたが、それは東漢氏の遺産によるものだと言っている。詳しくは「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)を読んでほしいが、その要点のみここに紹介しておこう。梅原猛は、次のように述べている。すなわち、

『 平城遷都とともに、まさに、飛鳥の時代は完全に終焉を遂げるのである。後に、東漢氏の中にただ一氏、坂上氏が栄えたが、それは、武人・坂上田村麻呂を出現せしめたことによってである。東漢氏は、文化的指導力を失って、武人として生き残ったのである。(岩井國臣の注:梅原猛は丹波康頼に眼がいっていないのは残念である。阿知王の子孫は、坂上氏と丹波氏がずっと歴史を通じて文化的指導力を発揮したのである。丹波氏のこと、医心方のことを忘れてはならない。)』

『 こうして、飛鳥はと遠くなったが、私は、不比等、というより藤原氏は、東漢氏から実に重要なものを受け継いでいると思う。それは、「祓いの神道」である。われわれはふつう日本の神道というと、祓いのことを考えるが、祓いは、けっして昔から日本の神道の中心的行事ではなかった。』

『「大宝令」の施行とともに、この祓いの行事は、もっとも重要な国家の神事の一つになったのである。この定例の祓いの神事に、東漢氏は西漢氏とともに重要な役割を演じるのである。』

『 まず、東西の漢氏によって祓いが行われ、次に文武百官を集めて、中臣氏によって祓いが行われるのである。この東西漢氏の祓いと、中臣氏の祓いの言葉が、「延喜式」の祝詞(のりと)に残されているが、東西漢氏の祓詞(はらえごと)は漢語であり、中臣氏の祓詞(はらえごと)は和語である。東西漢氏の祓詞(はらえごと)次のようである。「謹請、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司令司籍、左東王父、右西王母、五方五帝、四時四気、捧以禄人、請除、禍災捧以金刀、請延帝祚、呪曰、東至扶桑、西至虞淵、南至炎光、北至弱水、千城百闕、精治万歳、万歳万歳」』

『 これは、明らかに道教の神事であろう。東西漢氏は、これを漢語で読み、人形(ひとがた)を捧げて、天皇の身のけがれを除き、金刀を捧げて、天皇の齢(よわい)の長久を祈る訳である。祓いの儀式の一つの目的は、明らかに、天皇の長久を祈るためである。しかし、それに尽きないところに、祓いの神道の政治的性格がある。中臣の祓いは、文武百官を集めて行われるところに、その意味がある。親王以下文武百官を侍らせて、祓いがなされ、神の言葉が告げられる。皇孫が天降りましましてから多くの罪が出たが、この罪を、この六月の晦(つごもり)、あるいは十二月の晦(つごもり)を期して、水に流してやる。それゆえに、購(あがな)いを出せ。これを私は、国家による司法権の確認の神事であると思う。』

『 このように不比等は、東漢氏の伝える道教の儀式を、律令の精神によって改造して、「中臣の大祓の祝詞」なるものを作成し、そして、それに基づいた記紀神話を創造したと思われるが、この祓いに刑罰を含ませる事は、おそらく天武帝から学んだのであろう。』・・・と。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-db00.html

【天武天皇】

日本書紀の天武紀を見ますと、第四〇代天武天皇(在位六七三〜六八六年)の和風の諡は、「天淳中原瀛真人」(あまのぬなかはらおきのまひと)といいます。

「天淳中原」は沼の中の原ということで、天武天皇が水沼を開拓して飛鳥浄御原宮の都づくりをしたことに由来しています。

瀛州は東海に浮かぶ神山の一つです。八色の姓の最上位は真人であり、真人は仙人の上位階級になるので、天皇も道教の最高神に近い存在であることを示しています。

ここに天武天皇の宗教観に道教の要素がみられるのです。

「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神のことを指し、仙人の上位にいる存在であったのです。天武天皇は天文遁甲を重視していたことがわかります。この道教への関心は天武天皇だけではなく、母の斉明天皇に顕著にみえます。天武天皇の没後以後は、日本の道教と神道と分かちがたく融合し、独立には存在していないといいます。ただし、影響をどこまで大きく評価するかは見方が分かれるところです。(『日本の古代』6、鎌田元一稿、五三頁)。

天武天皇などの名称は漢風の諱で八世紀の後半ころにつけられました。この「真人」とは道教でいう勝れた道士とか覚者の呼称です。陶弘景は神・真人・仙人の三階級を説き、それぞれは七または三に分け、これらのランクに対応して天宮を説きます。最高の宮殿は玉清宮で、中央にあるのは元始天尊(虚皇道君)です。

また、真人とは現人神のことで、悟りを開いた神仙のことです。後漢になりますと天上世界の最高神となります。この「天皇大帝」は北極星を神格化したものです。紀元六世紀に老子の「元始天尊」が説かれますと、この新しい最高神である「元始天尊」に移行します。つまり、日本の天皇に道教の影響が伝わっていたということです。「天淳中原瀛真人」の「瀛」というのは司馬遷の『史記』始皇本紀に、仙人がすむ東方海中の三神山の一つです。三神山は蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことで、瀛州にすむ真人という諱が送られているのです。理由は風神を祭った竜田の風神の祭祀や、占星占台を作る道教の行事を行っていることに関係しているといいます。

天武四(六七五)年に始めて占星台が置かれます。『日本書紀』に天武天皇は「天文遁甲を能くす」とあり、これらの基盤に八門遁甲や天文占星を使いこなしていたことがわかります。天武天皇が式占に通じていたということは、式盤(ちょくばん)のような占具や占法を記した易書が輸入されていたことになります。式盤の現物は北朝鮮の平壌府の近郊にある漢代楽浪郡治の遺跡から発見されています。(村山修一著『日本陰陽道史話』四〇頁)。

また、天武天皇は伊勢の日神を天照大神としてあがめ、天武三年に大来皇女を伊勢に遣わして祭祀にあたらせています。一方では鎮護国家の経典として『金光明経』を重視していました。神道と仏教をその目的に向かって両立させていました。天武天皇と天照太神は強い結びつきがあります。

神道の振興は外来文化の浸透に対抗する、日本の民族意識を高揚させるためであったといいます。結論的には、天武天皇は日本古来の豪族の信仰を重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げたのが天照太神といえます。しかし、各地豪族の祭祀をそのまま容認することではなく、天皇家が祖神とした天照大神の下位に、各地の神を位置づけ体系化することにありました。つまり、天皇権力の強化の指標でもあったのです。

この条件のもとに各地の神社・祭祀は保護されますが、引き換えに国家の管理に服すことを余儀なくされたのです。こういう情勢のなかに古代の国家神道が形成されました。天武天皇は伊勢神宮を日本の最高の神社とする道筋をつけたのです。天武天皇が天照太神を祭祀した由来は「壬申の乱」にあります。

『日本書紀』に「壬申の乱」のとき伊勢に入った大海人皇子は、途中の迹太川(朝明川)のほとりで伊勢神宮の方角に向かい天照大神を望拝したとあります。

古代の伊勢神宮は「私幣禁断の制」があり、皇族であっても私的な参拝や奉幣はできませんでした。天武天皇が陣中から望拜しただけではなく、戦勝祈願のため使者を神宮に使わしたとも言います。(萩原龍夫編『伊勢信仰』T、六二頁)。

天武天皇は式占と呼ぶ仙術に通じていたといいます。式は栻(チク)とも書き、楓子棗の心木で作り回転して吉凶を占う陰陽道の用具です。伊賀国を通過するとき黒雲が十余丈にわたって天になびいたのを見て、式占により天下が二つに分かれる兆候であること、そして、自分が勝利すると占ったといいます。楽浪の遺跡から式が二個発見されており、方円の二枚の小薄板で表面に黄粉を塗り朱線で輪郭を書いています。

円盤は径が九a、北斗七星を朱画し一二月神名・十干十二支を墨書し、方盤は一三、四a、墨で八卦・十干十二支・二十八宿を配列し、方盤の上に円盤を重ねて使用します。(金指正三著『星占い星祭り』五五頁)。この『日本書紀』の天照大神望拜の記事は、『安斗智徳日記』を基に書かれたといいます。安斗智徳は天武天皇に従って吉野を出発した舎人の一人です。

ここから天武天皇における天照太神と伊勢神宮の創立が始まります。

伊勢神宮は陰陽五行説を導入した当初の姿を今に伝える重要な宮といいます。

天武朝の思潮は星の信仰と五行の理の応用の二つに分けられ、星の信仰は主として仏教に吸収され、五行の理の応用は神社の祭祀に下降していったといいます。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』三六九頁)。

ただし、一説には天武天皇が望拜したのは天照太神ではなく、滝原の地で祭られていた伊勢大神であるともいいます。この解釈においては、天照大神の出現は伊勢大神からの移行ではなく新しい神の創出であるとし、伊勢大神を望拜したが伊勢大神を通して天照大神にであり、その神は名前も無くいわば原初の天照大神であるとします。そして、この根拠は仏教にあるとします。

欽明天皇の仏教受容いらい、傍観中立の立場をとってきた倭王家でしたが、始めて仏教受容に踏み切った舒明天皇の子として生まれ、出家した経歴をもっていたのが天武天皇でした。つまり、『金光明経』(正論品)の帝王神権説を基にして、天照大神を祖神とする神統譜がつくられたとします。

天照大神は三十三の諸天=神になぞらえられたのであり、その子孫である天孫・皇孫は天護によって天子となったとのべます。天皇=明神=現人神の思想的根拠となります。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』一一八頁)。

道教の天皇・地皇説と『金光明経』の正法治世説の両者が融合されたことになります。

「壬申の乱」が終わり天武元(六七二)年九月に飛鳥京に帰ります。まず嶋宮に着き数日後に岡本宮に移ります。岡本宮は斉明天皇の後飛鳥岡本宮です。そして、翌六七三年二月に即位します。近江朝廷に従った豪族が排除され、皇后の鵜野皇女(持統天皇)や草壁・大津皇子などの皇族を重用し、その下に豪族を位置づける皇親政治を行います。そして、味方となった美濃の尾張氏(熱田神社)、鴨氏(賀茂神社)、三輪氏(三輪神社)などに、功績により伊勢神宮・熱田神宮として国家から擁護され、三種の神器の賦与がこの二神宮におこなわれました。(西野儀一カ著『古代日本と伊勢神宮』二三一頁)。

即位後の一番初めの新嘗祭を大嘗祭といいます。天武天皇が最初(次の持統天皇とも)に始めます。新嘗祭は一一月下の卯・辰の二日間の行事で常設の神嘉殿を祭場としますが、大嘗祭は卯の日から午の日までの四日間行います。大嘗宮を臨時に増設して祭場とします。二日目の辰の日には中臣寿詞(よごと)の奏状や、忌部による神器の鏡剣献上という即位儀そのままの儀式があります。(『神道史大辞典』六二七頁)。

大嘗祭において天皇は新穀を神と共食したのち、神座に莚と薦を重ねてとじた褥(しとね)を巻いて作られた坂枕を寝具として、その床に籠もる儀礼を行います。この寝具を天孫瓊瓊杵尊が降臨するさいに覆われていた真床追衾に比定し、天皇がこれに籠もることによって、天孫の霊を獲得することができるとします。(折口信夫稿「大嘗祭の本義」『古代研究』民俗学篇)。

このような床に籠もる儀礼が特徴です。美園古墳(大阪府八尾市。古墳時代前期末から中期初頭)出土の家形埴輪は床を持つことから、新嘗祭を行う建物を表現しているといいます。豪族居館のハレの場の中心となる建物には床が設けられていたのです。(『日本の古代』5、辰巳和弘稿、三七六頁)。また、六七四年に斎宮制度の復活として、娘の大来皇女を伊勢神宮に送り、初代斎王として仕えさせます。四年二月一三日には娘の十市皇女と天智天皇の娘阿閉皇女(元明天皇)が伊勢神宮に参詣します。

天武天皇の没後の七〇一年(大宝元年八月三日)に大宝律令が施行されます。六八一年に天武天皇は律令制定を命ずる詔を発令し六八六年に没します。持統天皇の三(六八九)年六月に飛鳥浄御原令が制定されます。この令は律がなく国情に適さないものでした。

律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂などで、藤原不比等は天智天皇から藤原朝臣の姓を賜った藤原鎌足の子です。

文武天皇二(六九八)年に不比等の子孫のみが藤原姓を名のり、太政官の官職に就くことができました。不比等の従兄弟たちは中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当します。不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めます。

大宝律令において初めて日本の国号が定められたように、白村江の敗戦を契機に進められた大きな国家事業でした。これにより、天皇を中心として二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官制を骨格にした中央集権統治体制が成立します。天皇は律令的な官僚機構に裏付けられた王権となったのです。

二官は国政を総括します。神祇官(カミツカサ・カムツカサ)の淵源は、推古・舒明朝ころの祭官である中臣氏が担当しています。中臣氏は従来の物部・忌部氏に代わって、宮廷祭祀を担当した新興氏族でした。中国の皇帝に対する日本の天皇の特徴は、祭祀に大きな役割がかかっていることです。そのような天皇像をつくりだしたのが、律令の立法者である藤原不比等(六五九〜七二〇年)にほかならないといいます。(『日本の古代』一四、佐藤宗諄稿、一二頁)。

伊勢神宮の式年遷宮開始年については、天武天皇一四(六八六)年、持統天皇二(六八八)年などがありますが、持統天皇四(六九〇)年に第一回が行われたとされます。注目すべきは同三(六八九)年正月に吉野に行幸を始めたことです。

方位のうえで内宮は熱田神宮と吉野宮までの距離が同じです。外宮は断夫山古墳と吉野宮までの距離も同じです。伊勢神宮の内外宮ともに吉野宮とつながる方位なのです。「高天原広野姫天皇」の諡号は、高天原の女神である天照太神になぞらえたことです。天武天皇一四年一月二一日に冠位制定がなされ、二月四日に大唐人・百済人・高麗人の併せて一四七人に官位を与えています。藤原京造営に関わるものとされますが、伊勢神宮の遷宮にも関わっていたといいます。

百済王氏への位階授与と賜姓は百済系渡来人に結束をもたらし、大仏造立にあたり藤原仲麻呂と関与していきます。(大坪秀敏著『百済王氏と古代日本』一三三頁)。持統五(六九一)年に呪禁博士木素丁武・沙宅万首に銀二十両を賜っています。翌六(六九二)年二月、伊勢行幸に先だって、陰陽博士沙門法蔵・道基に銀二〇両を賜っています。

これは、行幸の安全や神宮祭祀など、政策における褒美といわれます。先には、天武天皇三(六七四)年八月三日に、石上神宮に忍壁皇子を遣わして神宝を磨かせています。同四(六七五)年四月一〇日には、竜田の風神を祀るために美濃王を、広瀬の大忌神を祀るために間人大蓋を遣わしています。両神を祀るために勅使が遣わされる初めとされます。この年一月二三日に諸々の社を祭ったのを、祈年祭の始まりとみる説もあります。同一三(六八五)年の二月に広瀬王を畿内に遣わします。このとき陰陽師が同伴し四神相応の要件を相地しています。

占筮相地の判断は『周易』『新撰陰陽書』『黄帝金匱』『五行大義』『大唐陰陽書』によります。天武天皇の強権により、道教が日本土着宗教との合体により図られたといいます。持統朝には斎王の派遣はありませんが、同六(六九二)年三月に伊勢に行幸します。その後の天皇は行幸をしていません。ここに、伊勢神宮の謎といわれる一面が指摘されています。(関裕二著『伊勢神宮の暗号』九六頁)。

明治から敗戦までの国家神道全盛時には、道教が海を渡って神道になったとか、天皇が立てた多武峰の両槻宮は道観と同じというと、学会から非難されたといいます。

いずれにしても七世紀の伊勢神宮にその変化の秘密が隠されていました。

天武天皇の玄孫になる称徳天皇の崩御により、皇統は天武系から天智天皇の孫である光仁天皇に移ります。これにより天武天皇の血筋は皇統から絶えますが、舎人親王の子孫が清原真人の姓を賜り清原氏の祖となり、高市皇子の子孫が高階真人の姓を賜り高階氏の祖となっています。ともに、後世になっても「真人」を名のっています。

そして、天武・持統陵が藤原京の真南(丙午)に造ったのは、蘇りの地を意味していました。持統天皇は子供の草壁皇子と敵対した大津皇子を刑死させ二上山に葬りました。二上山は藤原京からは庚の方角で、「金=刑死」を意味した所です。『万葉集』に飛鳥の神奈備や神岳をよんだ歌が二〇首あまり収められています。

そのなかに、天武天皇の死にさいしての持統天皇の歌があります。この神岳は通説では雷岳(いかずちのおか)でしたが、橘寺の背後に「ミハ山」という小字名があることから、この山を神奈備・神岳にあてることができます。

ミハとはミワともいえます。ミハ山の麓一帯は橘と呼ばれた地域で、橘は神仙の常世にある「非時の香菓」(ときじゃくのかぐのみ)のことです。つまり、ミハ山はこの神仙の山なのです。(『日本の古代』9、千田稔稿、一三四頁)。

また、天武天皇は「壬申の乱」のとき迹太川畔で天照太神に加護を祈っています。古来、伊勢大神は倭王によって日の神として、伊勢の滝原に祀られていました。

また、伊勢神祀の原初形が蛇神(竜蛇神)を祀るものであったといいます。クサナギのナギは蛇の古語を意味しており、クサナギの剣は猛蛇剣といえる霊異をもつ剣の通称で、スサノオのヤマタノオロチ退治の神話がクサナギ剣を通してヤマトタケルにつながるとき、伊勢を舞台に同じような大蛇退治と霊剣発見の英雄譚が語られたといいます。(本位田菊士著『伊勢神宮と古代日本』三四頁)。

即位した天武天皇は律令国家の樹立をめざし、伊勢大神を皇祖神天照大神として祀り、伊勢神宮を国家の総廟、日本統治の根幹としました。そして、天皇は天照大神の聖性を継承した明神、現人神としたのです。

また、即位のときに大来皇女を斉内親王として泊瀬で潔斎させ迫瀬斎宮に送ります。これにより、斉内親王による伊勢奉斉を再興しました。同時に護国の経典である『金光明経』と『仁王経』を寺院で読誦させます。

さらに、その皇統を確立するために『古事記』の編纂を命じ、養老四(七二〇)年には諸氏族の伝承も納めた『日本書紀』がまとめられます。

皇大神宮の創始に関する伝承は、こうした天武天皇の意図に即した記述といいます。(宮家準著『神道と修験道』五八頁)。
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index205.htm

http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/506.html#c4

[雑談・Story41] 日本国家懐疑的自虐史観に立脚する人の愚の極み 宗教と政治の在り方 金十字架
5. 中川隆[7156] koaQ7Jey 2017年3月18日 09:18:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7627]

収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族 _ 朝鮮から渡って来た華僑は日本の支配階級となったが…

暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族


射殺された清少納言の実兄、不正のかぎりを尽くして私腹を肥やす受領……。

藤原道長や藤原行成の日記に書かれていたのは、王朝貴族たちの犯罪と暴力だった!
 
風雅で優美なイメージの裏側に隠蔽されてきた衝撃の実態。

平安時代には支配階級・特権階級である貴族たちが、庶民から収奪の限りを尽くし、暴走に次ぐ暴走を重ねている。


『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)
「序 清少納言の実兄、白昼の平安京にて射殺される」
「結 清少納言、源頼光の四天王に殺されそうになる」
「あとがき」

から要約する。


現代日本人がイメージする王朝貴族は、和歌や音楽や恋愛に人生の喜びを見出す繊細な人々であり、血が流れるのを見たら気絶するような気の弱い人々である。

このような王朝貴族のイメージを形成してきた情報源は『源氏物語』や『枕草子』に代表される一群の文学作品である。

紫式部や清少納言の作品に親しむ人々にとって、王朝貴族社会は犯罪や暴力とは縁のない、風雅で優美な世界である。

しかし、疑いのない事実として、王朝貴族が諸々の犯罪行為に手を染め、数々の暴力沙汰を起こしていた。王朝貴族の犯罪行為も数々の暴力沙汰も、王朝時代には当たり前の日常茶飯事だったのである。

その証拠は、藤原道長や藤原行成といった上級貴族たちの日記である。

彼らの日記を紐解けば、王朝貴族が犯罪や暴力に関与していたことは否定のしようがない。

1017年の藤原道長の日記『御堂関白記』によると、清少納言の実兄清原致信が騎馬武者の一団の襲撃を受けて殺されている。 清原致信は王朝貴族の一人であり、朝廷に仕える中級官人であった。大宰府の三等官である大宰少監を務めていた。そして、清少納言の実兄である清原致信が襲撃され殺されたのは、それに先立って、致信自身が人殺しをしていたからである。

清原致信を殺したのは、源頼親の武士団であり、致信殺害は源頼親が命じたものである。
そして、源頼親は王朝貴族たちから「人を殺すことを得意としている」と見られていた。一方で、源頼親は淡路守や右馬頭といった官職を帯びる中級官人であり、王朝貴族であった。

同時に、大江山の酒呑童子を退治したことで知られる源頼光の弟であり、「大和源氏」と呼ばれる武士団の祖でもあった。王朝貴族の一員でありながら自ら強力な武士団を率いていた、「軍事貴族」と呼ばれる存在だったのである。

その軍事貴族の源頼親が、配下の武士たちに命じて清原致信を殺害したのは、仲間の当麻為頼の仇を討つためであった。当麻為頼が清原致信によって殺されていたからである。

ところが、当麻為頼殺害の真の首謀者は清原致信ではなく、その背後にいた。清原致信が仕える藤原保昌であろう。

丹後守として丹後国に赴任した藤原保昌は、悪名高い王朝時代の受領国司たちの一人だった。しかも丹後守の他に日向守・肥後守・大和守・摂津守などをも歴任した保昌は、その貪欲さと悪辣さとで知られる受領を代表する存在であった。

藤原保昌が1017年の清原致信殺害事件に先立って大和守の任にあった。従って、藤原保昌の朗等であった清原致信は、大和国において大和守保昌の汚い欲望を満たすことに勤しんだこともあっただろう。

当時、大和守の住人であった当麻為頼は保昌にとって邪魔な存在であり、保昌が為頼の抹殺という汚れ仕事を致信に押しつけたものと想像される。

清原致信殺害の首謀者であった源頼親は、配下の武士たちに致信を殺させたことが露見したため、それまで帯びていた淡路守および右馬頭の官職を取り上げられたが、当時の朝廷は、これ以上には頼親を罰しようとはしなかった。つまり、致信の殺害を謀った頼親は、ただ官職を失うだけで済んだ。しかも、1017年に淡路守と右馬頭を罷免された頼親も、1024年には、新たに伊勢守を拝命し、続けて大和守と信濃守を務めている。

さらに真の黒幕である藤原保昌に至っては、致信が殺されても、馴染みの朗等の一人を失っただけで、1020年あたりに丹後守に任命され、その後、大和守を経て、摂津守に任命されている。

それにしても、人を殺すという凶悪な犯罪行為が、王朝貴族にとっては、いかに身近なものであったことか。

王朝貴族の世界とは、悪事を働いた者が臆面もなく暮らすような、悪徳に満ちた世界だったのである。

この事例は、王朝貴族の悪だくみの氷山の一角にすぎない。

当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

清少納言の実兄である清原致信殺害事件の真相は、次のように理解される。

1013年頃、大和守に任命された藤原保昌は、同国の豪族たちから少しでも多くの財を巻き上げようとして、不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領といった不正行為の数々に手を染めていた。

だが、そんな藤原保昌に歯向かったのが、大和国の当麻為頼である。

地元の有力豪族として大和守藤原保昌との確執を深めた当麻為頼は、藤原保昌の配下によって消される。保昌から当麻為頼殺害という汚れ仕事を任されたのが、保昌の朗等であった前大宰少監清原致信であった。清少納言の実兄である致信は、藤原保昌が大和国で財を成すことを助けるため、保昌の命じるままに為頼の始末を実行した。

しかし、清原致信が藤原保昌から与えられた汚れ仕事は、為頼抹殺だけではなかっただろう。藤原保昌が企図した不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領などの実行にあたったのは、藤原保昌の朗等たちだったはずであり、その中には(清少納言の実兄)清原致信がいたに違いない。

清少納言が『枕草子』に描いた王朝貴族社会の豊かさは、悪徳受領たちが地方諸国において不正行為を用いて築き上げた汚れた富によって支えられたものだったのである。

それだけではない。試験制度の弊害は枚挙に暇がないが、試験制度(官人採用試験)は平安時代には既に整えられていた。


宮中での取っ組み合いの喧嘩、従者の殴殺。
果ては邸宅建設のために平安京を破壊するなど、優雅な王朝時代のはずが、貴族たちはやりたい放題の暴れぶり。当時の記録をもとに貴族たちの意外な素顔を探り出した意欲作。

『殴り合う貴族たち〜平安朝裏源氏物語』繁田信一著 柏書房刊

序 素行の悪い光源氏たち
藤原道長、官人採用試験の試験官を拉致して圧力をかける」

によると、


988年当時、23歳の権中納言の藤原道長が、従者たちに命じて、式部少輔橘淑信という貴族を拉致させた。

橘淑信は式部省という官司の次官であった。式部省とは官人の採用や評価を職掌とする官司であり、この頃の橘淑信には官人採用試験の試験官の職務が与えられていた。当時、家柄のぱっとしない者にとっては、式部省の官人採用試験で好成績を残すことが、出世のための重要な足がかりとなった。

ところが、藤原道長は、自身が懇意にしている受験者の試験結果に手心を加えさせようと、試験官に脅しをかけた。この受験者を何とか官人にしようとする道長の身勝手な思惑の犠牲となったのが、官人採用試験の試験官式部少輔橘淑信であった。

この事件は瞬く間に世間の知るところとなり、この一件を伝え聞いた人々は、嘆きの吐息を洩らしたという。

庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたのである。


これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。
おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにあるからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/05/002556.html


暴走の源流=平安貴族2 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた

国府を焼く平忠常の乱 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族)
では、

●庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたこと。

●これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにある。

ということを提起しました。


今回記事では、

●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めていきます。

 『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)「第2章 公共事業費を横領し尽くす」から要約します。 


@収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族から生命を狙われていた。

1007年の7月1日、鎮西の大宰府において大隅守菅野重忠が殺されるという事件が起きた。

歴史書の『日本紀略』によれば、重忠を殺したのは、大宰大監大蔵種材の息子の大蔵光高であった。その光高が、重忠を弓矢で射殺したのである。 こうして生命を落とした大隅守重忠は「王朝貴族」と呼ばれる人々の一人であった。彼は、受領国司として鎮西に下向した王朝貴族だったのである。従って、その重忠が非業の最期を遂げたという話は、当時の貴族層の人々に大きな衝撃を与えたことだろう。

大隈守菅野重忠を射殺した大蔵光高の父親は、1019年の「刀伊の入寇」の折に異国の賊徒を相手に奮戦するように、鎮西の軍事貴族の一人であった。しかも、大宰府の三等官である大宰大監を務めたことから見て、鎮西において相当に有力な軍事貴族であったらしい。その彼を「豪族」と呼ばずに「軍事貴族」と呼ぶのは、彼が従五位下以上の位階を持つ厳密な意味での貴族の一人だったことが推測されるからに他ならない。

ただし、大蔵種材という実在の軍事貴族は、おそらく、大隈国の有力者だったのだろう。また種材の一族は、大隅国内の権益を守るため、ときとして同国の受領国司である大隅守と衝突しなければならなかったに違いない。そして、歴代の大隅守たちの中で最も激しく種材の一族と対立したのが、寛弘4年に種材の息子によって射殺された菅野重忠だったのではないだろうか。

このように、一条天皇が玉座にあった1007年、わが国の西の辺境である鎮西において、大隅守が大隅国の軍事貴族によって殺害されるという事件が起きていたわけだが、これは、けっして希有な出来事ではなかった。

例えば、一条天皇の曾祖父にあたる醍醐天皇の治世にも、かつて本朝の東の辺境であった上野国において、同国の豪族たちが上野介を殺すという事件が起きていた。

そして1002年の年末もしくは、その翌年の年頭には、平維良という下総国の軍事貴族が、下総守の公邸である下総守館に焼き討ちをかけていたらしい。『百錬抄』という歴史書によれば、長保五年二月八日の公卿会議において、「平維良が下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国の公有財産を掠奪したこと」が議題にされているのである。

受領国司の生命を狙って守館に焼き討ちをかけるという事件は、鎮西の軍事貴族よって引き起こされている。すなわち、一条天皇の息子の後一条天皇が帝位にあった長元2年(1029)の春もしくは夏、大隅国を活動拠点とする従5位下平兼光などとともに、大隅国府や大隅守館などを襲撃して火を放ったのである。この一件でも、大隅守自身は難を逃れていたようだが、『小右記』によれば、国府・守館に攻め込んだ季基・兼元の一党は、その場に居合わせた人々を殺戮しつつ、大隅国の国有財産を掠奪したらしい。

A地元の王朝貴族(受領)は、地元の豪族から恨まれていた。その証拠として
 「尾張国郡司百姓等解」という文章があります。


■「尾張国郡司百姓等解」

永祚元年(989)の2月5日および同6日、両日の公卿会議における議題の一つは、「尾張国の百姓などが朝廷に尾張守藤原元命の違法行為を告発したこと」であった。 尾張守元命は、任国の百姓たちからのみならず、国守を助けて働くべき郡司たちからまでも、その罷免を強く望まれていたことになろう。そして、尾張国の百姓たちと歩調を合わせて朝廷に尾張守の交替を求めた尾張国の郡司たちというのは、尾張国内の各郡の統治にあたる地元出身の地方官人たちである以前に、それぞれの郡内に地盤を持つ古くからの豪族達であった。
 
ここで朝廷に尾張守元命の更迭を要求したとされている「尾張国の百姓」というのは、映画「七人の侍」やテレビドラマ「水戸黄門」に登場するような、汗と泥にまみれて朝から晩まで働き続けながらも食うや食わずの生活を送らねばならないという、貧しく憐れな農民ではない。むしろ、そうした無力な農民たちを自在に使役することによって広大な田地から膨大な収益を上げようとしていた、才覚ある農業経営者として理解されるべきであろう。王朝貴族が「尾張国の百姓」と呼んだのは、尾張国において豪族のような立場にあった人々であり、あるいは、尾張国の豪族そのものとみなされるべき人々であった。

尾張守元命の罷免を望む尾張国の百姓達は、元命の行った31種類もの違法行為を書き連ねた解を、元命の頭越しに朝廷に提出したのである。そして、その嘆願書あるいは告訴状こそが、われわれが「尾張国郡司百姓等解」や「尾張国解文」などの名称で聞き知っている文書に他ならない。

その嘆願書なり告発状なりに示されているは、郡司あるいは百姓として尾張国に根を張っていた大勢の豪族達の総意なのである。


■5種類の悪行

「尾張国郡司百姓等解」の冒頭に置かれたのは、文書の表題の役割を果たす次のような一文であった。この嘆願書もしくは告発状を朝廷に提出したのが尾張国の郡司と百姓とであるということは、ここに改めて確認されよう。

「尾張国の郡司および百姓が解を提出して朝廷によるお裁きをお願い致します。」
「願わくば、ご裁断くださいませ。当国の国守である藤原元命殿は、本年を含む3カ年の間、税の名目で物品を奪い盗るという違法を行うとともに、暴力を用いた脱法を行いましたが、それらの違法行為や脱法行為は、合わせて31ヶ条にも及びます。これが本状の趣旨です。

そこで、尾張国の郡司や百姓が数え上げる尾張守元命の不正は、おおむね、以下の5つに分類されよう。

A.不当課税および不当徴税(9ヶ条)
B.恐喝およびさ詐欺(3ヶ条)
C.公費横領(10ヶ条)
D.恐喝および詐欺の黙認(4ヶ条)
E.その他(4ヶ条)
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002566.html

暴走の源流=平安貴族3 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?


任国に赴く受領(因幡堂縁起) 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族2 収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた)
では、


●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めました。

この地元の受領たちが恨まれていた証拠として、「尾張国郡司百姓等解」という書物が残っています。今日はこの書物に綴られている悪行の数々について具体的な中身を紹介していきます。


■悪用された公的融資制度

[第1条]公的融資の利息を名目とした不当な増税を行った。

 王朝時代、尾張国をはじめとする地方諸国の政府=国府は、われわれ現代人には少し奇異なもの見えるような公的融資を行っていた。それは、毎年の春先、国内の百姓=農業経営者たちに対して一年間の農業経営の元資となる米を貸しつけるというものであり、また、その年の冬、新たに収穫された米の中から元本と三割ほどの利率と利息とを回収するというものであった。

こうして公的な融資は、表面上、国府による農業振興策に見えるのではないだろうか。しかし、これは借り手の意志を無視した強制的な融資であった。つまり、農業経営に携わる百姓達は、たとえ経営の元資に困っていなくとも、毎年、必ずや国府から融資を受けなければならなかったのである。そしてこの融資をまったく無意味に受けた百姓であっても、融資を受けた以上、絶対に利息を払わなければならなかった。当然豊富な元資を持つ百姓にしてみれば、右の公的融資の制度は、迷惑なものでしかなかっただろう。

 結局、王朝時代の国府が行っていた公的融資は、農業振興策であるどころか、融資の体裁を借りた課税でしかなかった。当時の百姓たちは、正規の税を納めさせられた上に、公的融資に対する利息を名目とする不可解な税の納付をも義務づけられていたのである。

 986年に着任した尾張守藤原元命は、こうした従来よりの規定を平然と無視したという。988年までの3ヶ年に合計で2万1500石を超える額の強制融資を追加して、百姓たちから6400石以上もの米を利息として取り立てたのである。

 ちなみに、こうして元命が尾張国の百姓たちから巻き上げた米6400石は王朝時代の大半の人々にとって、一生を費やしても稼ぎ出し得ないほどの巨富であった。当時一般的な雑役に従事する労働者は、朝から晩まで働いても、一升(0.01石)もしくは二升(0.02石)ほどの米しか手にできなかったのである。そんな庶民層の人々にしてみれば、6400石というのは、数百年分から千数百年分の年収に等しい額であった。


■着服のための増税

 尾張国の富を吸い上げられるだけ吸い上げるつもりであった元命は、本来的な課税制度をも、存分に悪用したのである。

[第2条]課税対象ではない田地からも税を取り立てた。

 当然のことながら、本来は徴収されないはずの税は、徴収された後、国府の財政に組み込まれることもなければ、朝廷に上納されることもなかった。非課税のはずの田地から不当に徴収された税の行き先は、言うまでもなく、尾張守元命の懐であったろう。


[第3条]朝廷の許可を得ずに税率を大幅に引き上げた。

 違法な税率を用いて百姓達から税を取り立てた尾張守は、けっして藤原元命だけではない。王朝時代の尾張国においては、法定に倍する税率での課税が慣例化してしまっていたようなのである。だが、そんな尾張国に生きる百姓たちも、元命が986年に新しく採用した税率には、さすがに憤慨せずにはいられなかった。というのも、元命の提示した新税率が1町につき21.6石というあまりにも高いものだったからである。それは従来の違法税率の1.8倍から2.4倍の税率であり、法定税率と比較すれば4.8倍にもなる高すぎるほどに高い税率であった。


[第4条]着服するためにまったく名目の立たない税を取り立てた。

 一町につき8.4石というのは、尾張守元命が任国の百姓たちに臨時で課した特別税の税率である。これが本来の税の法定税率の2倍に近い高い税率であることは、ことさらに言うまでもないだろうが、この高税率の特別税は、一片の正当性もないまったく違法なものであった。すなわち、この税は、ただたんに元命の懐を温めるためだけに課されたものだったのである。


[第5条]前3条の不正によって毎年のように5万石を超す不当な利益を上げた。

 15万石というと、王朝時代の一般的な労働者の2万年分の年収を上回る額である。それは、当時の庶民層の人々にとって、まったく現実感のない数字であったかもしれない。だが、確かな現実として、尾張国の百姓達は3年間の間にそれだけの富を尾張守元命によって巻き上げられていたのである。


■公務としての掠奪


[第6条]絹織物の公定価格を不正に改変して事実上の増税を行った。

尾張国の百姓たちが負っていた税には、2.4町の田地について一疋(0.67メートル×15.56メートル)の絹織物を納めるというものもあった。そしてこの税の税率は、田地一町につき米2石というものとして理解されていた。


[第14条]絹織物を納付する期限を不当に早めた上に乱暴な取り立てをした。

 尾張守に就任した藤原元命には、任国の百姓の都合など、まったく考慮するに値しないものであったらしい。元命が絹織物の取り立てを開始したのは、毎年、いまだ多くの田地において田植が完了していなかったであろう5月中旬だったのである。それまでより半月以上も早く絹織物が徴収されはじめるようになったことは、尾張国の百姓たちをひどく困惑させたことだろう。

 しかも、尾張守元命による絹織物の徴収は、実に乱暴なものであった。元命の配下の徴税使は、その郎等や従者を百姓たちの家宅に踏み込ませ、徴収するべき絹織物の他、めぼしい物品の全てを、手当たり次第に奪い去ったというのである。これでは強盗団の掠奪と何ら変わるところがあるまい。いや、強盗よりも始末が悪かったかもしれない。というのは、あくまで公務を遂行していることになっていた徴税使たちには、手向かう者があった場合、尾張守元命の名のもとに容赦のない刑罰を与えることも可能だったからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002571.html

暴走の源流=平安貴族4 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?(第2回)


今回も、引き続き古文書から平安貴族の実態を暴きます!

以下引用は、繁田信一氏「王朝貴族の悪だくみ〜清少納言危機一髪〜」からです。

●熱心な取り立て

藤原元命のような悪徳受領は、ときとして、あたかも謹厳な国司であるかのような顔をすることもあった。

〔第八条〕過去の未納分の税を無関係な郡司や百姓から不当に取り立てた。

元命が尾張守を拝命した当時、どこの国の国府の帳簿を見ても、ずいぶんと昔の国司たちが取り立て損ねた税が、累積しつつ繰り越され続けているものであった。が、当時の朝廷は、そうした税を徴収することを、すでに締めていたらしい。そうした意味では、過去の未納分の税というのは、あくまでも帳符上の数字にすぎなかったのである。

そう、税の徴収が大好きな尾張守元命は、すでに時効を迎えたものとして扱われていた過去の未納分の税をも、かなりの熱意を持って完璧に取り立てようとしたのであった。

つまりその時点で尾張国内に住んでいた郡司や百姓が、まったく理不尽にも、かなり以前に赤の他人が滞納した税を負わされたのである。「尾張国郡司百姓等解」 によれば、このときの徴税もまた、掠奪さながらに実行されたらしい。


〔第十五条〕課税対象でない作物にも税を課した。

しかし、貪欲な元命は、そうした非課税の作物にさえ、徴税の手を延ばした。尾張何の隅々から、麦や豆をも容赦なく取り立てたのである。

そして、もちろん、任期中に多量の漆をせしめておくことも忘れなかった。彼の治めた尾張国には、上質の漆を産出することで知られる丹羽郡があったのである。


●不払いを決め込む受領国司

王朝時代の受領国司は、税として徴収した米を財源として、さまざまな物品の買い上げを行った。

というのも、任国にて調達した多様な物品を朝廷に上納することもまた、当時の受領たちが帯びていた重安な任務の一つだったからである。

 だが、尾張守藤原元命のような悪徳受領は、そうした公務としての買い上げの際にさえ、私腹を肥やさんとして、あまりにもえげつない不正を働いたのであった。

                                     
[第七条] 買い上げの名目で種々の物品を騙し盗った

元命が尾張守として尾張国において買い上げたのは、絹織物・麻織物・漆・油・苧麻・染料・綿といった品々である。そして、これらの物品を生産して元命に売ったのは、尾張国の百姓たちだったわけだが、その百姓たちの不満は、元命が物品を不当に安く買い上げたことにあった。そうした不公正な買い上が尾張国の百姓たちにもたらした損失は、絹織物に関してだけでも、数千疋にも及んでいたという。

貸しつけというかたちで元命のために絹織物を用立てた百姓の中には、その貸しっけを踏み倒された者もあった。


〔第九条〕借り入れの名目で大量の絹織物を騙し盗った

この絹織物の借り入れに関して、元命が一瞬でも返済の意思を持ったことがあったとは思えない。おそらく、ここでの借財は、当の元命にとって、返済するつもりなど初めからまったくない、事実上の接収だったのだろう。彼が、彼が借り入れの名目で集めた絹織物の総量は、一二一二疋にも及んでいたという。

尾張守元命が踏み倒した借り入れの総額は、当時の庶民層の人々にとって、八〇〇年分ほどもの年収に相当するものだったようだ。

ちなみに、こうした不正によって元命のもとに番えられた富を都に運び上げたのは、運送業をも営む百姓たちであったが、そうした百姓たちは、ここでもひどい目に遭っていた。


[第二十二条]物品の運送に雇った人々に不当に安い賃金しか支払わなかった


どうやら、貪欲な元命は、払うべき運賃の四割弱ほどしか払わなかったらしいのである。

●救民策の完全な放棄

 さて、尾張守藤原元命が悪辣な受領国司であったことは、ここまでに見てきたところからも、すでに十分に明らかであろう。しかし、元命の行った悪事を数え上げる「尾張国郡司百姓等解」は、まだまだこれでは終わらない。尾張国の郡司や百姓は、元命による公費横領の数々をも、かなり強い口調で弾劾しているのである。


〔第十条〕 貧民救済に充てる費用の全てを着服した

〔第十三条〕灌漑施設補修費および災害対策費の全てを着服した

地方諸国の漑漑施設の補修は、当時、受領国司たちに期待されていた重安な役割の一つであった。

また、それは、当の受領たちにとっても、切実な意味を持つ事業であったろう。任国から少しでも多くの利益を上げたかった彼らは、それぞれの任国の農業力を維持あるいは強化するため、ある程度漑施設を整えておかねばならなかったはずなのである。

しかし、王朝時代を代表する悪徳受領として知られる尾張守元命は、潅漑施設補修費および災害対策費として計上されていた六〇〇石余りの米の全てを、何のためらいもなく横領したという。

●食い尽くされた公共事業費

尾張守藤原元命が任国において横領した公共事業費は、灌漑施設補修費や災害対策費だけではない。

〔第十一条〕公的な連絡網を維持するための費用の全てを着服した。

〔第十二条〕公有の馬の飼育費および購入費の全てを着服した。


「駅」と呼ばれる施設を置いていた。そして、朝廷から諸国への命令や諸国から朝廷への報告は、駅から駅へと運ばれるかたちで、ほぼ確実に伝達されていたのである。
それぞれの駅には、多数の馬が用意されていた。駅ごとに馬を替えながら情報や使者を選ぶというのが、王朝時代の国家的な連絡網としての駅の制度であった。

また、その広域連絡網の結節点であった諸国の駅は、それぞれの国を治める受領国司の責任において維持されることになつていた。つまり、諸国に下った受領は、駅を維持するために、一定の規模の財源を確保しなければならなかったのである。

 しかし、尾張守藤原元命の場合、そうしたことに意を砕くことはなく、むしろ、駅のために支出するべき費用を丸ごと自分の懐に入れていたらしい。

そして、その尻拭いをさせられたのは、尾張国の郡司たちであったという。尾張国を治めていた三ケ年の問、同国の駅の全ては、同国の郡司たちの私財によって維持されていたのである。

しかも、これと同様の不正は、水上交通網の整備を巡っても行われていた。

   任地に赴く受領

●罰あたりな横領

〔第二十四条〕国分尼寺の再建に充てられるべき費用の全てを着服した。

王朝時代の受領国司たちは、国分寺や国分尼寺を存続させることに意を用いねばならなかった。要するに国分寺・国分尼寺の修理や改築などは、受領の責任において行われなければならなかったのである。

 ところが、尾張国の受領国司となった藤原元命は、任国の国分尼寺が火災によって失われていたにもかかわらず、けっして同寺の再建に必要な費用を支出しようとはしなかった。いや、それどころか、国分尼寺再建費に充てられるべきであった米九〇〇石に相当する財を、悪びれることなく自分のものにしてしまっていたのである。

〔第二十五条〕国分寺の僧および国分尼寺の尼への公的な布施の全てを着服した。
ここで元命が横領したとされる布施の総額は、六〇〇石強にもなったというが、それは、本来、国分寺あるいは国分尼寺において仏法を行う僧尼の生活費となるべき財であった。


●給料未払い

こうして、多様な名目の公共事業費を着服し尽した藤原元命であったが、そんな悪徳受領の元命は大胆にも、彼以外の尾張国司たちの給料にまで手を出していた。


〔第二十条〕掾(じょう)、目(さかん)、史生(ししょう)など下級国司の給料を全て着服した。

諸国の国司としては、長官である守と次官である介との下に、文書の作成や管理などに当たる国府の書記官のような官職もあった。これら国司の給料というのは、諸国の国府が行なう公的融資の利息を財源として支払われることになっていた。しかし、尾張国では、元命がその大半を横領し、結果として、下級国司には給料はほとんど支払われていなかった。


〔第二十一条〕国府に勤務する国司以外の人々の給料の全てを着服した。


「尾張国郡司百姓等解」が国府関係者の給料に関する不正をも糾弾しているのは、右の二カ条に見える横領によって損害を被った下級国司や国府職員の多くが、毛張国諸郡の郡司を兼任する人々だったからに他ならない。つまり、ここにおいてもまた、元命によって少なからぬ財を巻き上げられたのは、尾張国の郡司たちだったのである。 

以上は、役職を利用した横領や着服ですが、次の文を見ると、配下の者を使って、直接略奪を働いていたようです。こうなると完全なギャングです。


●受領に仕える野獣たち

王朝時代の受領国司にとっては、連れ下った子弟・郎等・従者こそが、任国における悪辣な蓄財活動の実行委員であった。尾張守藤原元命、彼の子弟や郎党や従者は、尾張国の郡司や百姓から財を巻き上げるため、元気に横暴の限りを尽くし続けた。


[第十六条]徴税使が人々に贅沢な接待や土産を強要するのを黙認した。

[第二十七条]子弟や郎等が郡司や百姓から物品を脅し取るのを黙認した。

[第二十八条]息子が馬を持つ人々から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。

[第二十九条]子弟や郎等が郡司や百姓から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。


 尾張守藤琴冗命の徴税便を務めたのは、当然、元命が都から連れ下った子弟や郎等や従者であった。そして、この連中は、公務にかこつけて頻繁に尾張国内の村々を訪れては、接待や土産などの名目で、郡司や百姓から多くの財を脅し盗っていた。「尾張同郡司百姓等解」によれば、そうして奪われた尾張国の冨は、数千石にも及んだらしい。

また、尾張守の威光を振りかざす元命の子弟や郎党は、尾張国の人々のもとに何か欲しいものがあれば、とにかく何でも奪い去ったという。これを「尾張同郡司百姓等解」は。「民の物を奪ひては、則ち京洛の家に運ぶ」と訴え、また、「日に見る好物は乞ひ取らざる莫く、耳に閃く珍財は使を放ちてしひ取る」と弾じる。

そして、尾張国の郡司や百姓による元命の手下たちについての総合的な評価は、おおよそ次のようなものであった。「尾張守殿の子弟や郎等の様子は、辺境に住む野蛮人と異なるところがなく、むしろ、山犬や狼のような野獣に近いほどです」。

●隠匿された法令

藤原元命が尾張守の任にあった三ケ年の間、尾張国の人々が悩まされ続けたことの一つは、ありにも頻繁に都への物品の移送に駆り出されることであった。

[第二十三条] 物品の還送のために国内の人夫や荷馬を動員することが不当に多かった。

[第二十六条]任地の大半を都の自宅で過ごして郡司や百姓からの陳情機会を奪った。

都からそう遠くない国々を預かる受領の場合、任国の支配を郎等たちに任せて、自身は多くの時間を住み慣れた都で過ごしていたのであった。

〔第三十条〕 官人身分の悪人たちを積極的に国内に連れ込んだ。


尾張守元命が下向の折に任国へと連れ込んだのは、位階や官職を持つ宮人であり、中級貴族層あるいは下級貴族層に属する人々であった。当然、彼らは、それなりに身元の確かな者たちであったろう。だが、この連中こそが、尾張守に仕える野獣の如き郎等たちの主力となったのであった.

[第三十一条]受領国司に都合の悪い新規の法令を発布しなかった。

●幸運な悪徳受領

さて、以上に「尾張国都司百姓等解」 の内容を少し詳しく見てきたわけだが、これによって明らかになったように、尾張守藤原元命がその任国において犯した罪は、あまりにも大きなものであった。

数々の悪行が尾張国にもたらした損失は、経済的なものだけを見ても、十七万数千石にもなっていたのである。それは、王朝時代において、一般労働者の二万数千年分の年収に匹敵する額であった。そして、国司の権力を振りかざして欲望のままに犯行を重ねた悪徳受領は、989年の四月五日、ついに尾張守を罷免されることになる。

右に見た『小右記』の一節に明らかなように、元命を失職に追い込んだのは、「尾張国都司百姓等解」あるいは「尾張国解文」として知られる一過の文番であった。朝廷に元命の更迭を決断させたのは、この嘆願書もしくは告発状だったのである。そして、件の「尾張国郡司百姓等解」を朝廷に提出したのは、当然のことながら、尾張国に暮らす郡司たちや百姓たちであった。

とすると、受領ぶりを遺憾なく発揮した尾張守藤原元命は、尾張国に地般を持つ豪族たちからひどく憎まれていたということになろう。そう、元命の更迭を願って「尾張国郡司百姓等解」を作成した尾張河の郡司たちや百姓たちというのは、要するに、同国に根を張る新旧の豪族たちだのである。

このことからすれば、現実には罷免されるだけですんだ尾張守元命も、ことによっては、任国の豪族たちの手により、むごたらしく血祭りに上げられていたかもしれないのである。

すでに幾つかの事例を紹介したように、受領国司たちが任国の軍事費族や豪族に生命を狙われるというのは、王朝時代において、まったく珍しいことではなかった。激しく憎まれていた尾張守元命ならば、彼に恨みを持つ豪族たちに襲撃されて血塗れの最期を迎えていたとしても、それは、実に似つかわしいことであろう。


・・・・以上が平安時代の貴族の実態です。これでも日本人か?もうこれ以上の悪は居ないだろう・・・と思うくらいですね。

でも上には上が、もっと悪い奴が居たようです。「尾張国郡司百姓等解文」という告発文により藤原元命は解任されたのですが、もっとあくどい奴は、このように告発されないように、事前に手を廻して押さえつけていたようです。次回紹介します。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002574.html


暴走の源流=平安貴族5 

自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じする貴族たち

前回までの記事は、貴族たちが行ったありえないほどのえげつない収奪についてまとめました。
 
平安貴族たちの悪行はこれだけに止まりません。
 
今回は自分達の都合が悪いことを隠蔽、口封じしまくった貴族たちについてまとめます。
 
『王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪』より抜粋引用します。
  
  『餓鬼草子』に描かれている貴族の食事
 
  『餓鬼草子』に描かれている庶民の様子

 
○告発者の親兄弟を皆殺しにした『藤原文信』

尾張国の豪族たちが「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)」を通じて朝廷に強く求めたのは、要するに、悪徳受領の罷免であった。そして、この国司更迭の請願は、あっさりと聞き届けられることとなった。すなわち、「尾張国郡司百姓等解」によって尾張守藤原元命(おわりのかみふじわらのもとなが)の度を越した悪辣せを知った朝廷が、永祚元年(九八九)の四月五日、元命に代わる新たな尾張守を任命したのである。

そして尾張国の豪族たちは、藤原元命の追放を成し遂げた後、その成功に味をしめてか、朝廷に受領国司の解任を要求することを繰り返すようになる。

 
 ところが、現存する史料を見る限り、藤原元命の後任の尾張守については、朝廷によって罷免されたという事実もなければ、尾張国の豪族たちから退任を要求されたという事実もない。どうやら、元命の次の尾張守は、その任を無事に務めおおせたようなのである。

そして、その藤原元命の後任の尾張守というのは、藤原実資の『小右記』の藤原文信であった。
  
尾張国の豪族は藤原元命の悪行に怒りを示し、「尾張国郡司百姓等解」を作成し、朝廷に罷免を求め、見事成功。それ以来、受領国司の解任要求を朝廷に繰り返すようになります。

しかし、元命の後任の藤原文信は地方豪族ではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪だったようです。
 


 だが、この事実は、文信が善良な受領国司であったことを示すとは限らない。また、尾張国の豪族たちが文信に好感を抱いていたことを示すとも限らない。任国の豪族たちから明白なかたちで拒絶されることのなかった尾張守文信は、ことによると、尾張国の郡司や百姓にとって、現に彼らの働きかけによって尾張守の職を追われた元命や経国などよりも、はるかに厄介な受領だったかもしれないのである。もしかすると、文信というのは、地方豪族などではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪な受領だったのではないだろうか。

というのもこの藤原文信という中級貴族には、恐ろしい前科があったからに他ならない。実は、かつて筑後守の任にあった頃の文信は、自身に不都合な筑後国の住人を抹殺しようとしたうえ、その筑後国人の親兄弟を皆殺しにしていたのである。

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朝廷が藤原文信を尾張守に任命したのは、永祚元年四月五日のことであったが、その直前となる同月一日、当の文信が暴漢に襲われて頭部に傷を負うという事件が起きていた。

そして、永祚元年四月六日の『小右記』には、次のような記述が残されている。

「藤原文信を負傷させた安倍正国(あべのまさくに)が、伊賀国の以忠(もちただ)という名前の追捕使によって捕獲されたらしい。

そこで、検非違使の右衛門尉藤原惟風(うえもんのじょうふじわらこれかぜ)が、伊賀国追捕使以忠から正国の身柄を引き取ったところ、件(くだん)の正国は、両手の指を切断されたうえ、脚をへし折られていたらしい。また、その文信襲撃事件の犯人と見られる男は、鎮西(ちんざい)において文信に父母・兄弟・姉妹を殺されたことから、その報復をしようと、文信が隙を見せるのを待っていたらしい」。

 こうして検非違使が安倍正国の身柄を確保したことで都の人々の前に明らかにされたところによれば、前筑後守藤原文信が正国に生命を狙われねばならなかったのは、かつて文信が正国の家族を殺害していたためであった。検非違使が正国の口より「鎮西において文信に父母・兄弟・姉妹を殺された」との供述を引き出したことから見て、また、正国がたった一人で家族の仇を討とうとしていたらしいことから見て、筑後守であった頃の文信は、その任国において、正国の家族を皆殺しにしていたにちがいない。

 
このように、藤原文信は安倍正国の家族を皆殺しにし、そのあだ討ちに来た正国自身も返り討ちにし殺してしまいます。しかも、両手の指を切断し、脚をへし折るという残虐なやり方で、、、

この凶暴さに地方豪族もびびってしまい、文信が朝廷に受領の任期を伸ばす要請を出しても止めることができず、長期間受領を勤めることができたようです。
  

文信の筑後守の任期は、本来、天元四年正月の四年後の正月となるはずであった。

文信が受領としてその任国から富を吸い上げ得る期間は、正規のかたちで正月に任命された受領の場合に比して、ほとんど一年間も短くなってしまうはずだったのである。

 だが、これに納得できなかった文信は、彼の筑後守としての任期を天元五年正月からの四年間とするよう、文章を通じて朝廷に願い出たのであった。そうして少しでも長く受領国司の任にあり続けようとするのは、当時の中級貴族層の人々にとって、あまりにも当たり前のことであったろう。

そして、『小右記』によれば、文信から上げられた申請が朝廷において検討されたのは、天元五年、の二月二十五日のことであったが、この新任の筑後守の切実な願いは、すんなりと承認されたものと思われる。

 
○自分の横領を知った盗人の口を封じる『伯耆守』
 

王朝時代の人物と思しき橘経国(たちばなのつねくに)は、伯耆守(ほうきのかみ)の任にあった頃、国府の倉庫に忍び込んだ盗人を、捕らえた途端に処刑したことがあった。その盗人は、四十歳ほどの男であったが、身形もよく肌の色も白かったというから、おそらくは、伯耆国に地盤を持つ新旧の豪族たちの一人だったのだろう。そして、そんな人物が盗みなどに手を染めたのは、折からの飢饉のため、食べるものがまったく手に入らなかったからであったという。
      
しかし、王朝時代のこととはいえ、ただの盗人が死刑に処されるというのは、尋常なことではない。そもそも、当時の朝廷の方に従えば、わが国の臣民を死刑に処し得たのは、日本の国の主である天皇だけであり、天皇の名代として諸国を治めるにすぎない受領たちは、その任国の住人に対してさえ、独自の判断で死刑を科してはならないはずであった。

 それにもかかわらず、伯耆守経国が盗人の処刑を強行したのは、『今昔物語集』によれば、「後の聞こえも有り」という事情を鑑みてのことであったらしい。つまり、同様の犯罪の再発を防ぐため、敢えて盗みの罪を犯した程度の罪人に死刑を科したというのである。

 だが、『今昔物語集』が語るのは、経国の本音ではあるまい。

 というのは、伯耆国府の倉庫に忍び込んだ盗人が、そこには何もないことを目撃していたからである。これは、『今昔物語集』も認める事実であるが、国府の倉庫が空になっていたというのは、受領国司が国府の財を横領していたことの動かぬ証拠であろう。そして、そんな重大な証拠を握ってしまった盗人を、悪徳受領が放置するはずはなかったのである。
 
当然、筑後守藤原文信も、国府の倉庫に入った盗人を生かしてはおけなかっただろう。また、その盗人が倉庫の中で見たことを彼の家族に話したとすれば、盗人本人のみならず、その家族までもが、文信に生命を狙われることになったにちがいない。そして、安倍正国の家族が皆殺しにされた理由は、もしかすると、こんなところにあったのかもしれない。

 
前稿でまとめたように、当時の貴族達は横領を当たり前のように行っていました。そのため、倉庫が空になったのだと思いますが、それを知ったものは口封じのため容赦なく殺されたようです。
 
藤原文信が安倍正国に命を狙われたのもこんなやりとりがあったからかもしれません。
 
 
○殺人を隠蔽する『常陸介』 

 ところで、王朝時代において、受領国司が任国の住人を殺害するというのは、少しも珍しいことではなかった。いや、むしろ、当時の受領たちについては、殺人の常習犯であったと見ておいた方がいいようにさえ思われる。

 しかも、自分の犯した殺人の罪を姑息に隠蔽しようとするのが、王朝時代の受領たちの常であった

常陸国(ひたちこく)において同国に住む公侯有常(きみこのありつね)が殺害されたのは、万寿元年(一〇二四) のことである。そして、その頃に常陸介(ひたちのすけ)として常陸国の受領国司であった平維衡(たいらのこれひら)が朝廷に報告したところによると、有常の生命を奪ったのは、常陸国住人の公侯有材(つねもと)であった。
 ここに登場する公侯有常と公侯常材とは、それぞれの氏名から推測されるように、おそらく、かなり近い親類であったろう。 

しかし、常陸介維衡によれば、そんな二人の間でおきてしまったのは、あろうことか、生命のやりとりであった。つまり、万寿元年に常陸国で起きた殺人事件は、同国の責任者として事件の捜査を指揮した維衡の言うところ、親類間のいざこざが激化した末の悲劇だったのである。
 
だが、万寿二年の三月、都の貴族社会の人々は上の殺人事件に関して、それまでに得ていたのとは全く異なる情報を与えられることになる。
 
 同月二十六日の『小右記』から知られるように、前年より公侯有常殺害事件の犯人と見なされていた公侯常材が、みずから朝廷に出頭したうえで、有常の最後について「国司の為に殺される」と証言したためであった。

結論から言えば、有常殺害事件に関する事実は、常材が捨て身で告発した通りであった。
すなわち、同年七月二十一日の『小右記』によると、維衡の後任の常陸介となった藤原信通(のぶみち)が、朝廷の指示に従って事件の捜査をやり直したところ、かつて犯人断定の決め手とされた被害者の妻の証言は、維衡によって捏造されたものだったのであり、また、そうして常材を殺人犯に仕立て上げた維衡こそが、有常殺害の真犯人だったのである。

 
常陸介は自分に都合の悪い人間を殺しておきながら、それを他の人間、しかも親縁に罪をなすりつける
 
○書生に帳簿を改ざんさせ口封じのために殺した悪徳受領『日向守』
 

 地方諸国の国府に勤める下級事務職員として「書生(しょせい)」と呼ばれた人々も、その本来の姿は、それぞれの国に根づいた豪族であった。それゆえ、任国の豪族たちから富を吸い上げようとする悪徳受領にしてみれば、公式には彼の下僚ということになっている書生たちも、けっして信頼できる部下などではあり得なかっただろう。いや、それどころか、現に国府の事務処理に携わっていた如くに読み書きに長じていた書生たちは、いつ受領国司の不正を告発しないとも限らない、どうにも厄介な存在であったにちがいない。

 一方、その書生たちの側でも、任国で蓄財に励むことしか考えていない悪徳受領に対しては、けっして気を許すわけにはいかなかったはずである。とくに、何らかの事情で受領国司の不正行為に手を貸してしまった書生ともなれば、不正の露見を未然に防ごうとする悪辣な上司に消されてしまわないよう、つねに警戒していなければならなかったことだろう。

 そして、実際のところ、日向国の国府に勤務していた一人の書生が、若くして生命を落とさねばならなかったのは、強いられてのこととはいえ、悪徳受領である日向守(ひゅうがのかみ)の不正の片棒を担いでしまったがゆえのことであった。

 その日向守某が手を染めていた不正の多くは、おそらく、「尾張国郡司百姓等解」が弾劾する違法行為や脱法行為と同じものであったろう。すなわち、問題の日向守もまた、尾張守藤原元命と同様、さまざまな機会に不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領といった悪事を働き、郡司や百姓として任国に暮らす豪族たちから、多くの財を巻き上げていたと考えられるのである。

 それにもかかわらず、この日向守の場合、受領国司としての任期を全うすることができたわけだが、任期満了を迎えた日向守某は、後任者の下向を待つ間、それまでに多くの不正が行われてきた痕跡を消し去ることに余念がなかった。すなわち、自身の行った不正が次の日向守によって暴かれることのないよう、何か辻褄の合わないところのある書類を徹底的に洗い出し、それらを全て整合性のあるものへと書き直していったのである。当然、それは、かなり根気の要る作業であったろう。

 そして、この困難な隠蔽作業のために重用されたのが、かねてより日向国府に出仕していた一人の書生であった。機転が利くうえに字も上手かったという彼は、国府の一室に監禁され、二十日ほどもの間、書類を改竄する作業を続けさせられたのである。


もちろん、切れ者であった書生は、自身が悪事に関与していることに気づいていた。が、日向守某の従者たちに厳しく監視されていたため、逃亡することもかなわず、命じられるままに偽装書類の作成を続けるしかなかったという。

 しかも、こうして意に反して不正行為に荷担することになった書生は、その役割を終えるや、彼に不正への関与を強いた悪徳受領の勝手な都合により、あっさりと殺されてしまう。『今昔物語集』巻第二十九第二十六の「日向守口口□□の書生を殺す語」という話によれば、書類の改竄を完了した日のうちに、日向守某の郎等に射殺されたのであった。

日向守某が私利私欲のためにまったく非のない書生の生命をを奪ったというのが、正真正銘の史実であったとすれば、やはり、『今昔物語集』の編者としては、「日向守□□□□」の氏名を明かすわけにはいかなかったにちがいない。

 
このように、平安貴族達は自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じしまくっていたようです。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002575.html

うーん、漢民族は中国でも、日本に来ても えげつなさは変わらないですね。  

http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/506.html#c5

[雑談・Story41] 日本国家懐疑的自虐史観に立脚する人の愚の極み 宗教と政治の在り方 金十字架
6. 中川隆[7157] koaQ7Jey 2017年3月18日 09:20:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7628]

天皇一族の悪事は昭和天皇まで続いた:


天皇一族は売春業者

 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。


困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。


貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。

天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html

高校教科書『新詳説・日本史』の一節から引用する。


「日本の商社活動が活発となり、横浜正金銀行が積極的な貿易金融を行った。(略)また、海運業奨励政策によって、日本郵船会社などの手で、次々と遠洋航路がひらかれていった。(注)日本郵船会社は、三菱会社と半官半民の共同運輸会社との合併によって1885年に設立され、1893年にはボンベイ航路、1899年にはヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアへの各航路がひらいた。」

日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。
アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。

<中略>

天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。
この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。
詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。


日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、


「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」

(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。

娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。


「至尊の位と至強の力を一に合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」


福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。


至尊の位(天皇)と至強の力(三菱)を一に合して、日本郵船は発展していった。日露戦争後、アメリカ移民が増えていった。1908年ごろには、約十万人の移民がアメリカにいた。

1901年、共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。 片山は、アメリカでの移民生活をベタほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。
やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。


男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。


このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。

片山潜は、天皇が支配(大株主)する横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)から金を貰って生活していた。当時の日本共産党幹部たちが、ニューヨーク、ロンドン、モスクワと流れていったが、そのほとんどの金は、この銀行が出したのである。元社会党委員長鈴木茂三郎もこの銀行から金を貰った一人である。

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825

1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社


日本郵船が創立される。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。

そこで福沢諭吉は、


「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」


という指示を天皇に与える。賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。

(福沢諭吉全集 第15巻)


1900年初頭から天皇の命令の下、

「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」


という宣伝が日本全国で大々的に行われた。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は天皇の言葉を信じた。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で
あれば10数年分の給与を手に入れていた。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族のサギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。 その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、
大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性をだまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の売春業者であった。

天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。
数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。

これが従軍慰安婦の原型である。


日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。
この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、全額三菱財閥の出資で建設する。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する「売春業参加のお礼」として建設された。

(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。

また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。 こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた

米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で1億ドルを超えると記録されている。

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。

戦争中全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で「無給」で重労働を行っていた。
そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。

また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」という巨大な壷に蓄財された。

中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争 は天皇の個人的蓄財のために行われていた。

この問題を調査したエドワード・ベアは、「天皇一族は金銭ギャングである」と吐き棄てるように語っている。

(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)


1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族はこの蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、スイスに850万ポンド、ラテンアメリカに1004万ポンド等、広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5〜10億ドルに上るとしている。

(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。

広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本をどのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そしてスイス銀行まで遠路運搬されていた。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されている最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路
アルゼンチン、スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など何も考えていない事は明白である。

(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」マルジュ社)。


なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。
天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の金融ビジネスマンである。

そしてここでも「何故か」CIAと天皇は「共同経営者」である。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族の蓄財を隠していた。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。

(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 


ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。


1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。
日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し、それを禁止した法律であった。


天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」

(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語るのがジャーナリストの仕事である。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。

http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607

人身売買と近代日本の成立 


自国女性を海外に売るのが「ロイヤルビジネス」だった


「からゆきさん」と呼ばれたどちらかといえば普通の「娘の身売り」の陰には、さらに悪質な詐欺的人身売買が、国策として、天皇のロイヤルビジネスとして、白人商人と連携して組織的に、国策会社日本郵船(=三菱)により、大々的に行われていた。

そして、その人身売買こそが、日本資本主義の原初的蓄積過程だった。

つまり、近代日本国家は自国女を売って成立した。


「オルタナティブ通信」などを通じて知るようになったこの事実ですが、まとまった知識を持った人をTwitterで見つけました。

http://twitter.com/urashima2


戦前の日本は民族差別に反対してたとか言ってる方がいまだに多いが、実際のところは人身売買する上で邪魔だったというのが大きな理由のようだ。そもそもアメリカが排日移民法を作らざるを得なかったのは日本からあまりに膨大な日本人女性が売られてきたからにほかならない。


戦前の日本が差別を許さないとか、プロパガンダにもならない妄想…。

世界最大の賤業婦人(売春婦)輸出大国だったのに。

それも騙して海外へ連れ出すという極悪非道ぶり。


いわゆる「からゆきさん」なんてハイカラな名称付けられているのが、それ。

ジャパゆきさんは自分の意志でオーディション受けて、どういう場所で働くか承知で来るかも知れない、からゆきさんの大半は国策として騙された人や誘拐・拉致同然に連れだされた方々なのでまるっきり違う。


からゆきさんと言っても中国だけじゃない。

世界中に貨物船の片隅に押し込められ売られており、明治から昭和にかけて、その数は30万人以上とも言われている。

戦争責任を追求する大手マスコミでさえ、からゆきさんについては非情に及び腰。

理由はロイヤル・ビジネスだから。


おもに日本郵船=三菱と組んでいるが、三菱といえば岩崎弥太郎。

岩崎といえば龍馬。龍馬といえばグラバー。

グラバーといえば武器商人…ってな具合に背後は真っ黒の助。

そもそも武器を買うための資金として人身売買をはじめた。


グラバーといえばマセソン商会の元社員で代理人。

マセソンといえばアヘン商人。

ようするに茶を買うためアヘンを売るのが、武器を買うために女性を売る…にかわっただけ。

長州ファイブを留学させたのもマセソン商会。

岩崎=長州閥=天皇家は一蓮托生でアヘン・武器商とつるんでた。


騙して日本人女性を売った金で武器を買う。

その両方でピンハネすればボロ儲け。


三菱財閥が巨大化した最大の理由が人身売買…

などとは歴史の教科書や社史にも出てくるわけない。


人身売買であげた利益で武器を買い、それで戦争を行っては国民を虫けらのように死なせた。そういうビジネスを明治以来一貫して下衆なアヘン・武器商人と結託しながらやってきた。宗教も人種も違う連中を奴隷貿易するでもなく、自国の同胞女性を詐欺まがいに海外へ大量に売り飛ばすという豪快なことをしていた日本。


さうがの毛唐も

「オーマイガッツ!

ジャップのやつ正気の沙汰とは思えない。

オークレイジー」

なんて驚いたことだろう。


そういう背景により、クレージーなジャップによる人身売買を阻止するため、アメリカは排日移民法をつくってくれた。それを、差別だとかいうのだから凄い。


戦争の原因について


「カリフォルニア州への移民拒否については、 日本を憤慨させるに十分なものであった」

とは裕仁天皇のお言葉。これが戦争の原因なのだというから素晴らしい。


戦前の国策による人身売買の実態を隠蔽するため「からゆきさん」と混同されるようにイメージの偽装転換が巧妙になされている。実際はからゆきさんなんてレベルをこえた国策の人身売買が壮大なスケールで行わていた。


本来の「からゆきさん」なんてのは九州の貧しい農村部の女性が女衒に連れられアジアの娼館で働くというものだが、日本郵船とかがやってたのは基本的に詐欺。


「海外で教養を身につけよう」

「あこがれのアメリカで働こう」


なんてかんじで良家の子女から寒村にいたるまで処女を集めた。


私もこのブログで、アメリカの人身売買報告書が日本に異常に厳しいことを人種差別ではないかと批判したことがありましたが、見当違いだったかもしれません。

彼らは当然ながらこういう過去の事実を知っている。この件の被害者は日本人であり、欧米商人も関与していたので、あえて言挙げはしないが、日本国がこういう体質をもっているということには留意している。このような過去の犯罪行為について、日本人がほとんど知らされておらず日本国内に批判も反省もないことも見ている。

普通に「人身売買を防止する」という観点から見て、日本が要警戒国になるのは当然ですね。


これから必然的に貧しくなっていく日本ですが、日本女性は日本国家および天皇一族を警戒したほうが良いといえます。同時に、従軍慰安婦問題や南京強姦事件で騒いでくれる近隣国の人々に感謝しなければならない。被害者が日本人だけなら、誰も騒がず、語ろうとする者は口封じをされ、そんな過去はなかったことになります。

天皇と三菱とが一体になり、外国商人と連携して、国策でこのような犯罪行為を行った歴史が「なかったこと」にされている。何の反省もない。

このままでは、日本国家にカネが必要なときにはまた同じことが繰り返されることになるでしょう。


日本国=天皇=三菱等、

はその成立時から人身売買マフィアであり、芯から腐っていると言えます。初めから腐っているものはどうしようもありません。「日本の解体」が是非必要です。

http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/

あめゆきさんの歌、山田わか


 日系アメリカ人の歴史の本を読んでいた時に、

「アメリカの日本人の嚆矢(はじまり)は日本人売春婦」

という記述に出会って、愕然としたことがある。


 コロラドに、江戸時代の日本人売春婦の墓標が残されているそうだが、日米和親条約(1853年)が締結される以前の話である。日本から、アメリカに直接に向かうことができなかったので、アジアを経由して、密航者としてアメリカに渡ったらしい。

 この女性たちの歴史の発掘に尽力されたのが、サンフランシスコの日本語協会の石崎五郎さん(UCデイビス校の獣医学の教授、故人)だった。石崎さんは、そうした女性の存在を不憫に思われたようだ。 中国や東南アジアに渡ったからゆきさんのことは、森崎和江や山崎朋子の著作で知ってはいたが、そうした事実が、このアメリカでもあったのだ。


 明治の新聞ダイジェストを読んでいた時に、オーストラリア行きの船の船倉で、日本人売春婦が窒息死体となって発見されたという記事を目にしたことがあるが、日本人売春婦は、オーストラリアにも、密航させられていたようだ。 十九世紀末のアジアに渡った日本人売春婦を意味する”からゆきさん”という言葉から、山崎朋子(ノンフィクション作家)が、”あめゆきさん”という言葉を作り、「あめゆきさんの歌:山田わかの数奇なる生涯」という本を書いたのが、1978年。

 プラムさんに、山田わかが働いていた場所を訊ねられた私は、シアトル時代の山田わかの手掛かりを求めて、この本を読み返した。 この本の記述とシアトル旧日本人街明細図から、20世紀初頭に、彼女が白人相手の売春婦として働いていた場所が分かった。

現在のシアトル・アジア人街のあるインターナショナル・ディストリクトの一角だ。 私自身、以前、インターナショナル・ディストリクトを訪れた時に、山田わかはどこで働かされていたのだろうと、漠然とした疑問をもちながら、同地域を歩いていたのだが、今回、キング・ストリートと5番街の角のアロハ・ハウス(現在は別のお店になっている)で働いていたことが分かった。


 1906年に、26歳で日本に帰国した山田わかは、近所に住んでいたことから平塚らいてふと知遇を得て、青鞜に参加。『朝日新聞』の人生相談の回答者になって、アメリカ帰りの女流評論家として成功した。


 アメリカの図書館で、私は、戦前に発行された山田わかの本を2冊、見掛けたことがあるし、サンフランシスコで、彼女の夫となった山田嘉吉の教える英語塾で山田わかに出会ったことがあるという人から話を訊いたこともある。 私が渡米した頃には、ヤングさんと呼ばれた日系一世の若手がまだ、生きていたのだ。ヤングさんは、英語の勉強のために、サンフランシスコの山田嘉吉の英語塾に通ったようだ。

 山田わかのシアトル時代の記述については、サンフランシスコで発行された『あめりか新聞』(1937年)のオリジナルをUCLAのライブラリー(special collections library)で読んだこともあるし、山崎朋子が出会ったリン(林)司書から、直接、お話を聞いたこともある。リンさんは、UCLAのアジア関係の生き字引のような方だったが、1990年代の前半に退職された。

第二次世界大戦後、山田わかが心血を注いだ仕事に、売春婦の更生施設の建設、運営があった。 売春婦から更生して家庭人となった彼女だからこそ、更生が、いかに大切であるかということを知っていたのであろう。

 私は、アメリカに住む日本人のことをリサーチしている理由の一つに、日本人は、アメリカから何を学ぶのだろか、ということがある。山田わかの場合は、不屈の向上心だったのではないだろうか。

http://plaza.rakuten.co.jp/katiebooks/diary/200408240000/

昔アメリカで、ハロウィーンに英語もできないくせに白人様の真似をして調子こいていた馬鹿な日本人留学生が射殺された事件がありました。しかし、アメリカ白人がやったことなので日本人は怒りません。その因縁のハロウィーンを、やがて日本人たちはアメリカ白人と一緒になって馬鹿騒ぎして祝うようになりました。

だいたい日本人に同胞意識などない。自分が白人様にでも引き立てられれば、黄色人種の同胞なんてクソみたいなものです。日本人で出世して偉くなる人はみんなそう思っています。


天皇のロイヤルビジネスは、日本人の素人女性を騙して、日本郵船の貨物船に乗せて海外に性奴隷として売り、外貨を稼ぐというものでした。


日露戦争などの戦費もそれで出した。

同胞の日本人女でさえ騙して奴隷にして、船内で白人船員に強姦させて売春婦教育し、外国の売春宿に平気で売る事をしてきた日本人なので、朝鮮人従軍慰安婦の強制連行や戦地や日本軍進駐先(前記事のタイにも進駐していた)での住民強姦など朝飯前のことです。

(そんなことを否定したり事実を争ったりする方がどうにかしています)。


日本はもともとそういう麗しい国なのです。なので、マトモな人間なら、日本人であれ外国人であれ、「反日」になるのが自然です。
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/

http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/506.html#c6

[雑談・Story41] 日本国家懐疑的自虐史観に立脚する人の愚の極み 宗教と政治の在り方 金十字架
7. 中川隆[7158] koaQ7Jey 2017年3月18日 10:18:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7629]

靖国神道は神道とは別物のインチキカルト


靖国は日本の伝統的な神道から逸脱している。古事記の神道を伝統とすれば、古事記は天皇の祖先神である天照大神を祀る伊勢神宮と、天照大神の子孫が滅ぼした(殺した)大国主命を祀る出雲大社。この二つの神社からなる。天皇は自分たちの先祖よりも、むしろ滅ぼした出雲の方に大きな神社を建てた。


*自分たちが権力を取るために滅ぼした人たちを鎮魂する神社を、自分たちの祖先の神社より大きくつくるのが日本の清清しい伝統であります* 。元寇との戦いでも、鎌倉に戦死した元の人たちを祀る寺をつくっているし、あの虐殺鬼「秀吉」でさえ、朝鮮で殺した人々の耳塚までつくっている。

そういうことを、先の大戦でも行うべきであった。中国や朝鮮、東アジアの人々の犠牲は、日本の犠牲の5倍も多い。1千万人の方々が日本の犠牲となった。伝統的な神道であれば、その人たちの霊を厚く祀るべきなのだ。その人たちの霊を慰めることをしないで、自国の死んだ人たちだけを祀るのはおかしいこと。

靖国は明治の初めの廃仏毀釈とつながっている。廃仏毀釈は仏を廃し神を残したといわれるが、実は神も排斥した。というのは、それと同時に修験道が同時に廃止されているからだ。


修験道は神と仏を結びつけたもの。神仏習合は東大寺を宇佐からやってきた八幡神が祝福したことに始まる。ここで公式に神と仏は習合した。それを助けたのが行基。それが空海によって完成される。そこから修験道が始まる。神と仏が仲良くするのが修験道なのだ。

ところが、その修験道を禁じ、仏を殺し、神を殺して、そのかわり国家を神とする神道が、新しい近代神道として起こった。神道のなかではごく最近のものである。近代日本の国家主義の産物で、他の神仏を殺してしまった。つぶして再度、国家神道の下に神道を統合した。だから、それはほんとうの神様ではない。一木一草のなかに神をみる。これが日本の伝統。そういう神様を全部殺して、天皇と国家を神としたのが国家神道。そういう伝統にあらざる神道を首相が公式参拝して保護するのはどうなのか?

*日本の伝統は犠牲になったものを祀らないと怨霊となって祟りをなす。だからその祟りを鎮めようというもの。アジアの人たちに酷いことをして殺したことが祟りになって日本の前途を危うくする、だからそういう魂を祀るという精神が靖国には皆無だ。これは日本の伝統的神道に欺くことである* 。

靖国は密かに祀る。心の中で祀る。そういう精神にしたらよい。近所に迷惑をかけた以上は近所に対し黙って祀る。目立たないように祀るのが国と国との礼儀だ。日本人とは慎ましやかな民族であるはずなのである。コイズミのように声高に祀るのは、「恥」と云わざるをえない。
http://ch05028.kitaguni.tv/e71190.html

非業の死を遂げた人 = 自分たちが権力を取るために滅ぼした人

今度の戦争の事でいえば

非業の死を遂げた人 = 日本兵に殺された中国や朝鮮、東アジアの人々


非業の死を遂げた人を祭るのなら日本兵に殺された中国や朝鮮、東アジアの人々を祭るしかない。


靖国神道が古来の神道とは別物のインチキカルト

社の格好をしているから神道の神社だと思ってしまうが、その思想とか教義から見れば道教の土俗型に近いと思います。 祭られている「神」も、道教の「魔」とみれば、神社の解説もすっきり読めますね。 「宮司」も、道教の「陰陽師」と解せば、日ごろの行動まですっきり読めます。

 日本古来の神道の衣を被った道教の廟ということでしょう。
http://www.asyura.com/0601/dispute24/msg/192.html


宗教史や民俗史を学んできた者にとっては、靖国神社という存在が、幕末から明治期にかけての国学者たちによってデッチ上げられた、本来の意味での神道的信仰とはかけはなれた存在であるということは常識です。

日本古来の伝統文化とは縁もゆかりもない「奇形」と言ってもいい存在です。そもそも、日本古来の伝統文化の最大の「破壊者」が、明治政府であるということもあまり知られていません。(明治期の政府による廃仏毀釈運動によって、75%以上の寺院が破壊された)

つまり、靖国神社とは、我々、宗教史家たちがこよなく愛する日本の伝統文化(純粋な意味での神道、仏教、儒教、その他の民間信仰)を、非道にも破壊しつくした果てに誕生した、国家イデオロギー装置でしかありえないのです。

つまり、靖国を伝統文化論の立場から擁護するのは完全なる誤りであるといえます。
http://pacolog.cocolog-nifty.com/pacolog/2005/08/post_aca5.html

靖国神社は教義もかたまっていない新興宗教ですから、道教といふのもおかしいインチキカルトでしょう. 靖国神社が おかしいのに全く気付かないのはクリスマスを祝い,仏教の僧に葬式をやってもらう日本人ならではですね. 本当の仏教は葬式をやらない宗教なのです. 京都や奈良の本物の仏教寺院で葬式をやってますか?

靖国参拝は仏教徒がクリスマスを祝うのと同じ類ですね.

招魂教(靖国神社)はテロリストのための新興宗教である。

招魂教の起源は1862年の「殉難の志士の霊祭」、1863年に福羽美静が八坂神社に建てた小祠に由来する。

招魂祭は死者の魂を呼び寄せて生者の魂を奮い立たせる儀式。

招魂と慰霊とは全く異なる
慰霊は魂を慰め鎮めること。(魂鎮、たましずめ)。
招魂は死者の魂を呼び寄せて生者の魂を奮い立たせること。(魂振、たまふり)。

>魂鎮(たましずめ)、
>魂振(たまふり)
>「たましずめ」は、魂を身体の中府に鎮めること。「たまふり」は衰弱した魂を呪物や体の震動によって励起すること。


下記の記事の中で「陣中の一時的な招魂祭」とあることに注目。招魂祭は、戦闘に赴く兵士に、戦死者の荒ぶる魂を招き入れて、兵士の戦闘意識を高める宗教儀式だったことがわかる。

招魂教の精神は特攻隊という自爆テロの元祖を生んだ。

靖国は神道とは全く別物の新興宗教である

本当の神道は魂鎮(たましずめ)の宗教であり、戦争においては敗者となった敵の魂を鎮めることのほうに力点が置かれていた。

靖国には神道的な背景(魂振)もある。しかし、戦闘中に死んだ死人の魂を招き入れることによって、生者の魂振を行うというような発想は神道の伝統にはなかった。


>各地の招魂社(護国神社)で行われていた忠死霊の招祷祭も「招魂祭」と呼ばれますが、招魂社成立以前の神道の儀式としての「招魂祭」というのは思い当たりません。なお、陰陽道では、災厄の源となる怨霊などを鎮めて息災を祈る祭儀を招魂祭と称しており、これについては古来の記録も多数残っています。

当事者も神道だとは思っていなかったようだ。

>なぜ「神社」となったのか。国学院大学の阪本是丸教授(近代神道史)によると、最大の要因は「神官設置問題」であった。陸軍省によって「社格」などは念頭外で、ただ「神官を置いて神社らしくしたい」と願っただけだという(阪本『国家神道形成過程の研究』)。それ以前は正式な神社ではなかったから、神官も置かれず、財政困難を強いられていたらしい。

靖国神社を所轄していた陸軍省にとっては神道の魂鎮(たましずめ)の伝統を持ちこまれては、迷惑千万といったところだろう。

招魂教はテロリストや軍隊のための宗教であり、日本列島の人々が信仰してきた神道とは別物である。戦前の行政上の管轄の扱いでもそうなっていた。
http://www.asyura.com/0304/bd25/msg/514.html


神道には天皇が出る幕はない.

戦没者は恐ろしいものではないから神にはなれない.従って祭る必要もない.

神道の教義では,神になれるのは日本軍に残虐な殺され方をして,恨みを呑んで死んでいった中国やアジアの人々だけだろうね.


神道というのは原始信仰のアニミズムやトーテミズムをそのまま残した化石的な宗教だ.

アニミズムやトーテミズムでは人格神ではなく,人間に危害を及ぼす様なものはすべて神になる. 神仏習合というのは仏教の仏を神道の沢山いる神の一つにしただけだ.

日本の仏教というのは本当の仏教ではなく,中身は完全に神道で外形だけを仏教から借りただけの代物だ.だから仏教は日本に根付いたが,キリスト教は完全に放逐された.キリスト教は一神教で神道の精神と相容れないからだ.

しかし,靖国は神道の基本精神と合い入れないから,神道とは共存できない.
靖国は軍人を殺人の前に奮い立たせるためのものであって,信仰ですらないからだ.

靖国参拝は殺しの前の儀式行動としてやるものであって,宗教的な行動ではない.

 


____

靖国参拝の件について、ASREADのサイトで、川端祐一郎氏が素晴らしい論考を書いていますので、是非、お読みください。

http://asread.info/archives/332

前回、安倍総理の靖国参拝が悪い結果をもたらす場合を四つ、例示しましたが、
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/01/01/korekiyo-77/


川端氏の論考を読んで、うかつにも、もう一つ、ありそうな重大な結果を見落としたことに気付きました。

それは

5)靖国参拝の意味が変わってしまう場合

です。

前回、申し上げましたが、靖国神社は「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝える」ための場所であり、英霊を慰めるとは「日本を守るために、よくぞ敵と戦ってくださいました。私も、日本を守るために戦う覚悟です」と誓うことです。

だから、我が国の領土である尖閣を狙っている「敵」である中国が、総理の靖国参拝に猛反発するのは、当たり前。

ところが、川端氏によれば、参拝に賛成する論者の間ですら、靖国参拝の意義を単なる「慰霊」「哀悼」「鎮魂」で済ましている傾向があるというのです。

確かに靖国神社を、単なる追悼施設と位置付けたり、あるいは「冥福を祈る」とか「世界平和を願う」場所にしたりしてしまえば、政治的な摩擦も少なくなるので、参拝しやすくなるだろうし、それに中韓米が反発する方がおかしいと反論しやすくもなるでしょう。

ですが、靖国は、そういう場所ではありません。

靖国参拝の意味を歪めてまで参拝して、それで英霊を慰められるわけがありません。参拝すりゃいいってもんじゃないでしょう。それでは、反発している中国の方が、靖国参拝の本当の意味を理解しているってことにすらなりかねない。これこそ、最悪のケースです。

もっとも、政治家が海外に対して説明する場合には、言い方に気をつかって、言葉を多少丸めざるを得ないという事情は勘案してもいいとは思いますが、でも、我々一般の日本国民は、あくまでも「靖国神社は単なる追悼施設ではなく、外国の反発を覚悟してでも参拝しなければならない特別な場所なんだ」としっかり認識しておくべきだと思います。

その意味で、総理談話の

「本日、靖国神社に参拝し、国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました」

という箇所は、「ご冥福を」さえなければ、異論はありません。ポイントは「国のために戦い」と「尊崇の念を表し」です。

他方で、私は原理主義者じゃあないんで、前回申した政治家の「責任倫理」の観点から、総理の靖国参拝が国益を大きく損なう結果が起きる可能性が高いのなら、やむなく参拝しないという現実主義的な選択肢も十分ありだったと思います。現在、東アジア情勢が、冷戦終結以降最悪といっていいレベルにまで不安定化しているからです。

したがって、もし私が官房長官だったとして、12月26日の朝に総理から参拝を告げられたら、こう言って、止めてましたね。

「総理、お気持ちは十分に分かりますが、しかしながら、このタイミングでは、中国に軍拡の口実を与え、米国の不信を招くリスクがあるので、お控えくださいませんか。

特に今日は、調べたところ、毛沢東生誕120周年の日だとかで、中国を刺激しすぎます。いずれ誰にも遠慮することなく靖国参拝できる国にすべく、今は、臥薪嘗胆、富国強兵に努める時と存じますので、なにとぞご辛抱ください。それから話は変わりますが、竹中平蔵はクビにすべきかと。」


でも、もし総理にこう返されたら、総理の判断に従ったと思います。

「確かに今日はまずいが、だが日を改めて参拝させてくれ。
君の言うリスクも分からないではないが、しかし、中国は、参拝の有無とは無関係に、機が熟したら、必ず尖閣を獲りに来るだろう。

そして米国には、参拝と関係なく、どうせ日本を守る気も力もないのだ。
ならば、いずれ自衛隊の諸君は、尖閣を守るべく、戦いに赴くことになる。
その際、一国の指導者が英霊を祀ることもできないようでは、自衛隊の士気にかかわるのではないか。

むしろ情勢が不穏な今だからこそ、私が参拝を決行してみせ、日本人の独立自尊の精神を取り戻すことが大事なのだ。
それと、話は変わるが、竹中はクビだ。」

他方、もし総理にこう言われたら、即刻、辞表を提出します。

「はあ?そんなリスク、ないない。TPPに参加するんだから、米国が中国から尖閣を守ってくれるに決まってるじゃん。もはや、国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました。バイ、マイ、ヘイゾーノミクス!」
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/01/08/korekiyo-78/

http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/506.html#c7

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
390. 中川隆[7159] koaQ7Jey 2017年3月18日 11:04:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7630]

湯沢町 移住定住促進プロジェクト
http://livelife.town.yuzawa.lg.jp/


湯沢町役場 移住定住相談窓口

〒949-6192
新潟県 南魚沼郡 湯沢町 大字 神立300番地

相談窓口:0120-558-140 FAX:025-784-1818

開庁時間 月曜日から金曜日(祝日、年末年始を除く)8時30分から17時15分


湯沢町 移住定住促進プロジェクト
移住促進パンフレット「湯沢U・I・Jタイムズ」
http://livelife.town.yuzawa.lg.jp/site/oshiraseitiran.html

U・Iターンのための賃貸住宅家賃等補助金

賃貸住宅契約時にかかる費用と家賃の一部を補助します。

補助対象となる方

・Uターン者又はIターン者で湯沢町内の民間賃貸住宅に居住し、湯沢町に住民登録をした者で、住民登録をした時点の年齢が40歳未満の者。かつ、住民登録をした日から1月を経過していない方

・新潟県内で常用労働者(フルタイム勤務で期間の定めのない労働契約により雇用された労働者に限る)として就職した方又は個人事業主


補助の対象となる住宅

・湯沢町内に所在する民間の賃貸住宅


補助金額

・賃貸住宅家賃の1世帯1月当たりの補助金の額は、上記6(1)の額の2分の1の額とし、上限は3万円(千円未満の端数が生じた場合は、その端数を切り捨てた額)とします。

・賃貸住宅契約時に係る費用の1世帯当たりの補助金の額は、上記6(2)の3分の2以内の額とし、上限は12万円(千円未満の端数が生じた場合は、その端数を切り捨てた額)とします。


補助金交付の具体例/算出方法

・賃貸住宅家賃 

1月当たりの家賃−共益費等−住宅手当=補助対象家賃×1/2

1月当たりの家賃80,000円−共益費5,000円−町内会費1,500円
−勤務先から支給される住宅手当25,000円
=補助対象家賃48,500円

補助金の計算は48,500円×1/2=24,250円

※補助金の額は24,000円となります。
※1年分の補助金の額は24,000円×12か月=288,000円となります。


・賃貸住宅契約時に係る費用 

礼金+不動産取引手数料+家賃支払保証料×2/3
    礼金73,500円+不動産取引手数料73,500円+家賃支払保証37,000円×2/3
    =122,000円
※補助金の額は上限の120,000円となります。
http://livelife.town.yuzawa.lg.jp/live/chintaishien.html

湯沢町への移住促進のための住宅取得補助金

(最大・年間15万円/5年間 固定資産税相当分)補助金

補助対象となる方

・夫婦が新潟県外に継続して5年以上居住し、湯沢町へ平成28年8月1日以降転
入した若者世帯(初回補助金申請時において、夫婦の合計年齢が80歳未満である世帯)であること(独身者は不可)
http://livelife.town.yuzawa.lg.jp/live/jutakushutoku.html

移住定住のための新幹線通勤補助金

新幹線通勤定期券購入費を毎月最大5万円、10年間補助します。

補助対象となる方

・上越新幹線の通勤定期券を購入し、越後湯沢駅から通勤する方


(1) 「湯沢町への移住促進のための住宅取得補助金」の要件を満たし、交付申請する見込みの方及びその配偶者

・勤務先の上越新幹線最寄り駅が高崎駅、本庄早稲田駅、熊谷駅、大宮駅、上野駅、 東京駅であること。


(2)湯沢町に通算15年以上居住していた方、居住している方

・過去に湯沢町に 15 年以上居住したことのある、又は現在 15 年以上居住している 方
・初回補助金申請時において、年齢が 30 歳未満の方(独身者可)
・勤務先の上越新幹線最寄り駅が高崎駅、本庄早稲田駅、熊谷駅、大宮駅、上野駅、 東京駅、長岡駅、燕三条駅、新潟駅であること。
  

補助金額

補助金額は、定期券購入費用から通勤手当等の控除した額の2分の1とし、1月5万円を上限とし、最大10年間(120ヵ月)補助します。

(新幹線通勤定期券購入費用 − 通勤手当) × 1/2

補助金交付の具体例/算出方法

越後湯沢駅〜新宿駅間を通勤する場合

・越後湯沢駅〜新宿駅間の一か月定期券購入費用:154,040円
 (上越新幹線分のみ補助対象となります。)

・会社からの通勤手当:1/2
  
( 148,870 − 74,000 ) × 1/2 ≒ 37,000円(千円未満切捨)
http://livelife.town.yuzawa.lg.jp/business/shinkansetukin.html

起業支援補助金

湯沢町内で新規事業に参入する事業者または個人に最大100万円補助します。

補助対象となる方

湯沢町内に事業所を設置し、通年で営業する事業を、起業する方及び新規事業参入する方であること
http://livelife.town.yuzawa.lg.jp/business/kugyoushien.html

18歳以下子ども医療費全額無料(平成28年10月1日以降)

対象となる方

湯沢町に在住の18歳以下の方(18歳の誕生日後の最初の3月31日まで)

対象経費

・診察
・薬剤又は治療材料の支給
・処置、手術その他の治療
・居宅における療養上の管理及びその治療に伴う世話その他看護
・病院又は診療所への入院及びその療養に伴う世話その他の看護
・医療保険法の規定による指定訪問看護
http://livelife.town.yuzawa.lg.jp/child/18iryohimuryo.html

【克雪住まいづくり支援】
新築/中古住宅を克雪づくりにした場合の費用の一部を補助します。
http://36.55.70.34/cyosei/jyosei/jyutakuhojo/kokusetu_sien.html

【克雪住まいづくり応援金】
住宅取得支援策を利用された方が、克雪住宅にした場合、5万円を上限に給付します。
http://livelife.town.yuzawa.lg.jp/snow/kokusetuouenn.html


まあ、湯沢じゃあ誰も行かないだろうな
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c390

[政治・選挙・NHK222] 世界支配層は、「4京円を分配(シェア)」を妨害している安倍晋三首相に退陣を迫り、小沢一郎政権樹立を促している(板垣 英憲 笑坊
11. 中川隆[7160] koaQ7Jey 2017年3月18日 14:56:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7631]
>>9
日本で保守政党は日本共産党だけだから、グローバリズムと闘えるのは日本共産党だけだよ

因みに、世界では

移民受け入れ推進派がリベラル・左翼

移民受け入れ反対派が極右

という分類になってるんだ


安部先生は移民受け入れ推進派だからリベラル・左翼

中国共産党はグローバリズム推進の旗手だからリベラル・左翼

トランプは移民受け入れ反対派だから極右

日本共産党は移民受け入れ反対派だから極右
http://www.asyura2.com/17/senkyo222/msg/530.html#c11

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
74. 中川隆[7161] koaQ7Jey 2017年3月18日 16:50:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7632]

Instagram photo March 16, 2017 at 0333PM Kuantanlog

via Instagram
http://ift.tt/2nqlzhB

英語で書いて単位を dollars なんてしている時点で、「お前の負けだ」だろ。国士様や#ネトウヨ がいうように「#イギリス の手下だった#中国人 を懲らしめてマレー人を解放しようとした」のなら、なんでマレー語で書かないんだ?

宿の受付の机に飾ってあった#日本軍 の#軍票 。#大日本帝国 政府とある。
The Japanese government promises to pay the bearer on demand
TEN DOLLARS
とある。

宿の主人たちは#マレー人 。

若奥さんによればオリジナルだという。

ついでに「昔#マレーシア に日本軍が来て・・・」という話になったので、やんわりそらして逃げてきた。

マレーシアの御用英字紙New Straits Timesを毎日読んでいたことがあるが、定期的にマレー半島侵略時の日本軍の残虐行為が特集される。

マレーシア政府は基本的にマレー人支配。華人とは対立している。

その政府御用新聞が忘れまいとして特集するのだ。

「シナチョン」は無関係。

日本軍の残虐行為の証言者もマレー人やインド系が多い。

日本人は歴史を直視したほうが良い。

#日本 #太平洋戦争 #マレー半島 #侵略 #アロースター #AlorSetar #malay #malaysia #japan #japanese #army #millitary http://ift.tt/2nHqV3L
https://kuantan2007.wordpress.com/2017/03/16/instagram-photo-march-16-2017-at-0333pm/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c74

[政治・選挙・NHK222] 恐ろしい国だ 「首相を侮辱」で証人喚問の横暴と身勝手 だったら昭恵夫人の国会招致も必要だ(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
1. 中川隆[7162] koaQ7Jey 2017年3月18日 18:15:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7633]
しかし、不細工なババアだな

知恵遅れだとこんなブスとしか結婚できないんだ
http://www.asyura2.com/17/senkyo222/msg/548.html#c1

[社会問題9] 「認知症700万人時代」にどう立ち向かうべきか 避けられない認知症「破壊的増加」今こそ抜本的対策を 落下の日本学 軽毛
1. 中川隆[7163] koaQ7Jey 2017年3月18日 18:46:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7634]
すべて見当外れなんだよ

認知症の原因は植物油(サラダ油・パーム油)

植物油(サラダ油・パーム油)を大量に使った食品:

インスタントラーメン、ピザ、クロワッサン、食パン
ショートニング、マーガリン、マヨネーズ、ドレッシング、
ホイップクリーム、アイスクリーム、コーヒーフレッシュ

市販のカレー、シチュ-、ハンバーグ、おでん、焼肉、から揚げ、トンカツやコロッケ、天麩羅


全部食べちゃダメだよ

http://www.asyura2.com/12/social9/msg/772.html#c1

[政治・選挙・NHK222] 恐ろしい国だ 「首相を侮辱」で証人喚問の横暴と身勝手 だったら昭恵夫人の国会招致も必要だ(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
4. 中川隆[7164] koaQ7Jey 2017年3月18日 19:02:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7635]
>>2
戦争は起きるし平和は実現しないという圧倒的な現実がある


2017年3月17日、ドイツのアンゲラ・メルケル首相がアメリカのトランプ大統領と対談している。

その中で、メルケル首相が「難民の受け入れは正しい解決策」と言ったのをトランプ大統領は完全に無視し、握手を促されても応じなかったという場面があった。

選挙期間中、トランプ大統領はドイツの移民・難民政策を「惨劇」と呼んで切り捨てていたのだが、メルケル首相が行ってきた実質的な「多文化主義」をトランプ大統領が非常に嫌っているのが鮮明になった場面だった。

すでに「多文化主義など、単なる理想論だ」という声が圧倒的になっており、メルケルの路線はドイツ国内でも疑問視されている。ドイツだけではない。オランダでもフランスでも疑問視されている。

多文化主義が成り立つのは、自分たちの生活がきちんと守られているという前提が必要だが、EU(欧州連合)はその前提を保証しなかった。

すでに完成されている文化の中に、移民という異質を無理やり押し込めて、「さあ、融和しろ」と投げ出してうまくいくと誰かが思ったのだ。しかし、実際にそうしたらうまくいかなかった。

その結果、人々はやっと「理想」と「現実」の違いを認識するようになった。現実は、理想を圧倒するのである。

社会には「理想」と「現実」というものがある

社会には「理想」と「現実」というものがある。

人間社会の営みは決して「理想」で動かない。黒いものを白と言って目をつぶる部分もあれば、昔からそうだというだけで非効率なものを続けている部分もある。

何事も白黒と決着を付けないで、曖昧な状態のまま運用して、やっと何とかなっている部分もある。それが「現実」なのだ。

理想主義者になってもいいが、理想主義者は常に現実の前に破滅する。理想は現実社会の前で実現されることはないからだ。天国はない。天国は作れないし、天国は一度も存在したこともない。

理想と言えば、ドイツと共に移民を大量に受け入れたフランスも「自由・平等・博愛」という精神がある。しかし、これは単なる理想であり、現実社会には自由も平等も博愛もない。

現実的になるとは、どういう考え方をすることを指すのか。

「自由・平等・博愛」が単なる理想論であるのであれば、これをひっくり返すと現実的な考え方になるというのは、ご存知だろうか。つまり、現実的になるというのは、こういうことなのである。

「世の中は、自由ではないと認識する」
「世の中は、平等ではないと認識する」
「世の中は、博愛ではないと認識する」

「自由・平等・博愛」をひっくり返したものが現実であると考えれば、現実主義者になれる。現実が何かを知りたければ、どうすればいいのかがここにある。「理想」が実現できないと認識するのが、世の中を知るということなのだ。


存在しないものを説くから宗教家は存在できる

宗教家が「人類愛」を説いているのであれば、「世の中は、人類愛はないと認識する」ことによって現実主義になれる。たしかに誰も争いは望んでいないが、実際にはそれぞれの立場があって、利害が衝突し、人々は激しく対立する。

人類愛は理想だが、現実ではない。だから、宗教家はそれを説き、現実主義者はそれが存在しないことを悟る。存在しないものを説くから宗教家は存在できるのである。

政治家が「平和」を説いているのであれば、「世の中は、平和はないと認識する」ことが重要なのだ。平和はたしかに重要なものだが、実際には人間の社会は憎悪と戦争にまみれていて、今でもそれが続いている。

理想は現実化しないから、いつまで経っても政治家という職業はなくならないのだ。

日本人だけが「世の中は平和だ」と思っても、現実はまったくそうではない。日本人もまた反日国家である中国・韓国に憎悪され、敵視されているのは言うまでもない。

このような現実に対応するためには、現実主義者でなければならないのは当然のことだ。

そうでなければ世の中から乖離してしまう。現状認識をするためには、現実主義者になるしかないのである。

「中国・韓国とは仲良くなれる」という理想や、「戦争は起きない」という理想や、「平和は実現する」という理想が先にあると、現実に裏切られて、現状が受け入れられなくなる。

理想はどこかの馬鹿な大学教授の頭の中にだけに存在すればいいのであって、それを現実社会に持ってくるから世の中の捉え方がおかしくなってしまう。

私たちは、早く現実に目覚める必要がある。


理想を逆さまにして、現実感を取り戻せ

日本がおかしくなっているのは、日本人の一部があまりにも強く「理想」に洗脳されてしまい、そこから抜け出せなくなっていることに理由がある。

もう、私たちは理想主義を唱えている場合ではなくなっており、現実主義者にならなければ日本自体が消滅する危機に陥っている。私たちがやらなければならないことは明白だ。

「戦争は起きない」
「平和は実現する」

これらのすべてが理想だったと気付いたのであれば、今度はそれを逆さまにして現実を取り返すことである。すなわち、このように考えて現実の世界に降りて来なければならない。

・戦争は起きる。
・平和は実現しない。

現状認識をするというのは、理想を忘れるということだ。理想が頭の中に残っていると、現状認識が中途半端になって正しい現実が見えなくなる。

どこの国も例外ではない。

もちろん日本もまた例外ではない。現に、中国や韓国のように、激しく日本を敵視している国もある。

民族憎悪は昨日今日はじまったのではない。数十年にも渡る対立の中で叩き込まれている。もはや通常の手段では是正できないところにまで達しているのだ。

憎悪は止まらない。民族間の憎しみはそれぞれの民族の骨髄に達している。感情が暴走しているので、民族憎悪は行き着くところまでいく。

憎悪は平和を呼び込むのではない。戦争を呼び込む。

憎悪と対立がマグマのようにくすぶっているのであれば、いずれはそれが大爆発を起こして衝突し、最後には戦争になる。それが、現実なのである。


人類愛? 平和? そんなものもなさそうだ。憎悪と対立がマグマのようにくすぶっているのであれば、いずれはそれが大爆発を起こして衝突し、最後には戦争になる。それが、現実なのである。
http://www.asyura2.com/17/senkyo222/msg/548.html#c4

[番外地6] アホが書いた日本国憲法 中川隆
16. 中川隆[7165] koaQ7Jey 2017年3月18日 19:12:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7636]

2017-03-18
戦争は起きるし平和は実現しないという圧倒的な現実がある



2017年3月17日、ドイツのアンゲラ・メルケル首相がアメリカのトランプ大統領と対談している。

その中で、メルケル首相が「難民の受け入れは正しい解決策」と言ったのをトランプ大統領は完全に無視し、握手を促されても応じなかったという場面があった。

選挙期間中、トランプ大統領はドイツの移民・難民政策を「惨劇」と呼んで切り捨てていたのだが、メルケル首相が行ってきた実質的な「多文化主義」をトランプ大統領が非常に嫌っているのが鮮明になった場面だった。

すでに「多文化主義など、単なる理想論だ」という声が圧倒的になっており、メルケルの路線はドイツ国内でも疑問視されている。ドイツだけではない。オランダでもフランスでも疑問視されている。

多文化主義が成り立つのは、自分たちの生活がきちんと守られているという前提が必要だが、EU(欧州連合)はその前提を保証しなかった。

すでに完成されている文化の中に、移民という異質を無理やり押し込めて、「さあ、融和しろ」と投げ出してうまくいくと誰かが思ったのだ。しかし、実際にそうしたらうまくいかなかった。

その結果、人々はやっと「理想」と「現実」の違いを認識するようになった。現実は、理想を圧倒するのである。

社会には「理想」と「現実」というものがある

社会には「理想」と「現実」というものがある。

人間社会の営みは決して「理想」で動かない。黒いものを白と言って目をつぶる部分もあれば、昔からそうだというだけで非効率なものを続けている部分もある。

何事も白黒と決着を付けないで、曖昧な状態のまま運用して、やっと何とかなっている部分もある。それが「現実」なのだ。

理想主義者になってもいいが、理想主義者は常に現実の前に破滅する。理想は現実社会の前で実現されることはないからだ。天国はない。天国は作れないし、天国は一度も存在したこともない。

理想と言えば、ドイツと共に移民を大量に受け入れたフランスも「自由・平等・博愛」という精神がある。しかし、これは単なる理想であり、現実社会には自由も平等も博愛もない。

現実的になるとは、どういう考え方をすることを指すのか。

「自由・平等・博愛」が単なる理想論であるのであれば、これをひっくり返すと現実的な考え方になるというのは、ご存知だろうか。つまり、現実的になるというのは、こういうことなのである。

「世の中は、自由ではないと認識する」
「世の中は、平等ではないと認識する」
「世の中は、博愛ではないと認識する」

「自由・平等・博愛」をひっくり返したものが現実であると考えれば、現実主義者になれる。現実が何かを知りたければ、どうすればいいのかがここにある。「理想」が実現できないと認識するのが、世の中を知るということなのだ。


存在しないものを説くから宗教家は存在できる

宗教家が「人類愛」を説いているのであれば、「世の中は、人類愛はないと認識する」ことによって現実主義になれる。たしかに誰も争いは望んでいないが、実際にはそれぞれの立場があって、利害が衝突し、人々は激しく対立する。

人類愛は理想だが、現実ではない。だから、宗教家はそれを説き、現実主義者はそれが存在しないことを悟る。存在しないものを説くから宗教家は存在できるのである。

政治家が「平和」を説いているのであれば、「世の中は、平和はないと認識する」ことが重要なのだ。平和はたしかに重要なものだが、実際には人間の社会は憎悪と戦争にまみれていて、今でもそれが続いている。

理想は現実化しないから、いつまで経っても政治家という職業はなくならないのだ。

日本人だけが「世の中は平和だ」と思っても、現実はまったくそうではない。日本人もまた反日国家である中国・韓国に憎悪され、敵視されているのは言うまでもない。

このような現実に対応するためには、現実主義者でなければならないのは当然のことだ。

そうでなければ世の中から乖離してしまう。現状認識をするためには、現実主義者になるしかないのである。

「中国・韓国とは仲良くなれる」という理想や、「戦争は起きない」という理想や、「平和は実現する」という理想が先にあると、現実に裏切られて、現状が受け入れられなくなる。

理想はどこかの馬鹿な大学教授の頭の中にだけに存在すればいいのであって、それを現実社会に持ってくるから世の中の捉え方がおかしくなってしまう。

私たちは、早く現実に目覚める必要がある。


理想を逆さまにして、現実感を取り戻せ

日本がおかしくなっているのは、日本人の一部があまりにも強く「理想」に洗脳されてしまい、そこから抜け出せなくなっていることに理由がある。

もう、私たちは理想主義を唱えている場合ではなくなっており、現実主義者にならなければ日本自体が消滅する危機に陥っている。私たちがやらなければならないことは明白だ。

「戦争は起きない」
「平和は実現する」

これらのすべてが理想だったと気付いたのであれば、今度はそれを逆さまにして現実を取り返すことである。すなわち、このように考えて現実の世界に降りて来なければならない。

・戦争は起きる。
・平和は実現しない。

現状認識をするというのは、理想を忘れるということだ。理想が頭の中に残っていると、現状認識が中途半端になって正しい現実が見えなくなる。

どこの国も例外ではない。

もちろん日本もまた例外ではない。現に、中国や韓国のように、激しく日本を敵視している国もある。

民族憎悪は昨日今日はじまったのではない。数十年にも渡る対立の中で叩き込まれている。もはや通常の手段では是正できないところにまで達しているのだ。

憎悪は止まらない。民族間の憎しみはそれぞれの民族の骨髄に達している。感情が暴走しているので、民族憎悪は行き着くところまでいく。

憎悪は平和を呼び込むのではない。戦争を呼び込む。

憎悪と対立がマグマのようにくすぶっているのであれば、いずれはそれが大爆発を起こして衝突し、最後には戦争になる。それが、現実なのである。


人類愛? 平和? そんなものもなさそうだ。憎悪と対立がマグマのようにくすぶっているのであれば、いずれはそれが大爆発を起こして衝突し、最後には戦争になる。それが、現実なのである。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/03/20150109T1916500900.html
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/613.html#c16

[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
95. 中川隆[7166] koaQ7Jey 2017年3月18日 19:31:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7637]

奇習! 実父と娘が常習的セックス、子どもができたら… 秋田県南部で行われていた“伝統的”近親相姦


その文化や宗教観などによって異なりはするものの、世の中には実に様々な“性のタブー”が存在する。そうしたタブーの中で割と知名度はありながらも、その実、踏み込む人がそれほど多いわけではないと考えられるものの1つが、親子兄弟姉妹間などにおける性交渉、すなわち「近親相姦」だ。


「……ああ、たしかにそうだよ。このあたりじゃ、昔はそれが当たり前でね。どこの家でもみんなそうしてたもんだよ」


 かつて秋田県南部のとある地域で行われていたという「近親相姦」に関する習慣についてそう語るのは、今でも同地域に住むという元養殖業・戸川盛一朗さん(仮名・69)。戸川さんの話によると、かつて当地においては、親と子がごくごく当たり前のように交わるという信じ難い習慣が存在していたのだという。


「親子って言ってもね、そういうことするのは、男親と娘だけなんだよ。だから兄妹とか姉弟とか、女親と息子っていう組み合わせはない。あくまで男親と娘だけなんだよな」


 当地における近親相姦の習慣において、その「組み合わせ」として認められているのは、男親と娘のみ。逆にそれ以外の組み合わせについては、絶対に行ってはならないものとされていたという。その理由は定かではないものの、戸川さんの話によれば、もしそれ以外の組み合わせで関係を持ってしまった場合は、当人たちはもちろんのこと、家人全員が村から追放されるという厳しい掟が存在していたのだそうだ。


「みんなそれが当たり前のものとして考えてたわけだから、誰一人、躊躇う人間もいないし、みんながみんな、そういうことをやっていたんだけどもね、一応は子どもができないように、中に挿れてはいけないことになっていてね。もっとも、実際には嫁入り前の娘が腹ボテになっていたりするのも見かけたから、守られていたわけじゃないんだろうけどな」

あくまで“建前上”は挿入ナシのセックスに限定されていたものの、戸川さんが言うように、実際にはそれを守る者はほとんどなく、実父の子を身ごもる少女たちが後を絶たなかったという。


「身ごもったのがわかるとね、薬を飲んでおろすんだよ。そう、虫下しをするみたいにね。だから村の共同墓地にはね、そういうのを供養するための地蔵がいくつも祀られていたよな…」


 なぜか「習慣」というだけで実父とのセックスを繰り返し、その子供を身ごもるたびに中絶を繰り替えしていたという当地の少女たち。どこをどう贔屓目に見たところで、現代人の我々の感覚からすれば、それは単なる性的虐待でしかない行為だが、いずれにしろ彼女たちが、その後の人生において、“普通の大人”として生きていけたのかどうか、誠にもって疑問である。
(取材・文/戸叶和男)
http://tocana.jp/2017/03/post_12314_entry.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c95

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
391. 中川隆[7167] koaQ7Jey 2017年3月18日 22:14:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7638]

無料でもいらない湯沢町のリゾートマンション 2017/2/11 


若いころは憧れの対象だったリゾートマンション

昨日(2月10日)のTV朝日スーパーJチャンネル内の特集「冬は誤算!?…夢の終の住処・有名リゾート地=越後湯沢で」を観て、いろいろ考えることがありました。

この番組の趣旨は、リタイア後に都内などから越後湯沢へ移住してきた何名かの夫婦や独身男性を取材して、移住後の生活を密着取材したものです。

移住にある程度満足している人もいれば、移住を後悔している人もいて、これから移住を考えているものにとっては非常に参考になる番組内容でした。

さて、新潟県南魚沼郡湯沢町と言えばバブル時代(1980年後半〜1990年前半)に高級スキーリゾート地として大変賑わった場所です。

当時20代だった私は、スキーが大好きで都内から毎週のようにクルマで苗場スキー場を目指したものです。映画「私をスキーに連れてって」の影響もあり、当時の若者がスキーをするのはファッションの一部だったんですよね。

それで貧乏会社員の私は苗場に続々と建設されていたリゾートマンションを観て

「いつかお金持ちになって苗場にリゾートマンションを別荘として買ってやる!」

と心に誓ったものです。当時お金が無かった私は、会社が終わって夜中にクルマで苗場まで行き、車中泊をして朝一番からスキーを楽しんでいました。狭いクルマの中で寝るのは大変苦痛でしたが、若かったので大した睡眠時間を取らなくても大丈夫でしたね。まあ必ず女の子が一緒に居ましたし楽しかったので疲れも吹き飛んでいたんでしょう(笑)

そんな思い出の湯沢町ですが、近年バブル当時に建設されたリゾートマンションが売れているそうです。

主に高齢者が終の棲家として都内などから移住されるパターンが多いとのこと。
しかも購入したマンションの価格が激安!

調べたら1部屋10万円のマンションが沢山あります。

上記のマンションは苗場スキー場から徒歩圏内の西武グループ管理物件の1つです。

まさに私が27年前に「このマンション、いつか買うてやる!」と誓った物件…

「今なら1棟ごと買えるがな」


ネットオークションでマンションを購入した50代男性

番組内で50代独身男性の1人を取材しておりました。

湯沢町の中古マンションをネットオークションで落札し、1LDKの部屋を19万1000円で購入。2年ほど独りで住んでいたが、大阪のご両親の世話をするため実家へ戻ろうと検討。

不動産会社に部屋の買い取りを依頼したところ新たな買い手を見つけるには3年かかると判断され、買い取りには管理費、修繕積み立て、固定資産税などを含め200万円以上の支払いが必要と言われた…

この部屋が最終的に売れたのかは分かりませんが、安いのは理由があるんですよね。

築30年のマンションを10万で買えても、維持費が毎月3〜4万、固定資産税が毎年10万程度掛かります。途中で売却したくても次のオーナーが見つかるまで何年も待たなければならない…

普通の物件ならば値段を下げればいつかは売れますが、10万程度で売られている物件はこれ以上値下げしようが有りません!

(無料でも良いんでしょうが、不動産屋の仲介料が全く取れないので仲介しない)

昔夢見ていたリゾートマンションがこんな姿になってしまって複雑な心境になった番組でした。

じゃあ今このリゾートマンションを買うか?と問われても

タダでもいらねー
http://freedom3.asia/2017/02/post-333/


移住するなら、北軽井沢か蓼科・八ヶ岳、最悪でも妙高か富士山の辺りの別荘地にしておいた方がいいですよ。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c391

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
392. 中川隆[7168] koaQ7Jey 2017年3月18日 22:52:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7639]

さくら不動産株式会社|長野県 白馬村の不動産情報
https://www.sakurafudousan.jp/

売買物件一覧さくら不動産株式会社
https://www.sakurafudousan.jp/src/ichiran.php?page=1&_lng=jp&_base=sx&page=1&sel_baseX%5B%5D=sm&kakaku1=0&kakaku2=999999&bikou=&submit=%E6%A4%9C%E7%B4%A2


2009年06月10日 不動産屋のたわごと 〜その3〜白馬のマンション

 白馬村にはいわゆるリゾートマンションが二棟あります。

一棟は昭和50年に完成したもので総戸数139戸、もう一棟は平成15年12月に完成したもので総戸数74戸のもの.

完成前からそれぞれ販売に全力をあげたわけですが、完売するまでにどのくらいかかったと思われますか?

 軽井沢など人気のある地区のものは即日完売なんて場合もあるわけですが、139戸のものはなんと15年、74戸のものは5年かかりました。

それぞれ事業としては大赤字であったと推測されます。

74戸の方は値引き販売の影響もあったのでしょう事業者が完売直後に倒産してしまいました。売れ行きはその時代の不動産事情に大きく左右される事情を勘案しても、5年も15年もかかったことからどんなことが読み取れるのでしょうか。

残念ながら白馬はリゾートマンションの需要がほとんどないということになります。

事業者側から言えば、白馬でリゾートマンションを建てても売れず、大損するぞということです。  


 白馬村には新潟の湯沢のようにリゾートマンションが林立しては困るとして、一時はリゾートマンションを建てさせない条例まで制定しました。あのバブルの時代には一定の防止効果はあったのでしょうが、この二つの事例から通常の日本人向けのリゾートマンションを計画する会社はもう現れないでしょう。売れなかった最大の原因は何だったのでしょうか。  


 それは東京圏、中京圏、関西圏の需要者から見て遠すぎるという一点にあります。

一般的にリゾートしての要件は、ドアツゥドアで2時間以内といわれています。

白馬への高速道路からのアクセスは、北陸道の糸魚川IC,長野道の長野IC,中央道の豊科ICと三箇所ありますが、どれもICを降りて1時間かかります。新幹線は東京から約1時間40分で長野市、そこからバスで1時間とどのルートを利用しても3時間以上かかってしまいます。高速道路の場合は連休などにあたると5〜6時間かかってしまうこともあるでしょう。

スキー場や北アルプスの眺めは類のないものを持っていますが、いかんせん到達までの時間がかかりすぎるのが現実です。  


 白馬には越後湯沢のようになっては困るということで、マンション建設に当たってはなかなか厳しい条例がありますが、二つの事例から日本人向けのマンションについては全く心配することはないと思います。高速交通網が新たに出来ない限り越後湯沢のようにマンションが林立することはないでしょう。  


 一方全く新しい方面からコンドミニアムの重要が出てきました。それはご存知のように北海道ニセコを舞台に豪州人を主体とする長期滞在用コンドミニアムです。この波が一昨年あたりから白馬にも及び始めたことによります。

世界のスキーリゾートではゲレンデに面してコンドミニアムが林立しているのが通常で、普通各部屋は分譲されて所有者が利用する期間以外は賃貸に出しています。我々日本人は自分の別荘やマンションを見知らぬ第三者に賃貸するのには大きな抵抗がありますが、彼らは空いている期間は賃貸に出して少しでもインカムを図るという合理的な考え方をします。

白馬村にも47スキー場に来年春からホテルと分譲コンドミニアムの複合施設の建設工事が始まる予定です。これが完成すると人の流れが変わるでしょう。新しい顧客である富裕層の外国人が求める設備が出来ることにより、白馬村が真の国際的山岳観光都市を目指す第一歩となることを切に期待しています。
http://sakurafudousan.seesaa.net/article/121212533.html

2009年04月06日 不動産屋のたわごと〜その2

白馬村の人口はペンションブームの前までは6,500人ほど、昭和50年代のペンションブームと共に都会からの流入者が増えて一時9,600人近くまで膨れましたが、現在では9,200人。ここ数年人口が漸減傾向にありこのままではあと数年で9,000人を割ることは間違いないと思われます。


 この人口減少の原因は、ずばり白馬に仕事がないことです。

バブル崩壊以後スキー客が激減し、今後もかつてのようにお客様が押し寄せることはまずありません。よくて横ばい、それよりも漸減していく可能性の方がずっと強い。

お客様が減ったことにより全ての業種にわたって人手が必要なくなり、また売り上げが落ちたことにより撤退した企業も出てきました。都会から移住してきた若い人達も白馬が好きで住みたいのに仕事がないということで、アパートを退去する事例を沢山見てきました。
http://sakurafudousan.seesaa.net/article/116953790.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c392

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
393. 中川隆[7169] koaQ7Jey 2017年3月18日 23:18:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7640]

みなさん白馬を知ってますか?

白馬とは、日本の中心・長野県にあり、1998年に開催された冬季オリンピックの開催地であり、今や世界中から多くの人々が訪れる国際リゾートとなった北アルプスに点在する山とその麓に広がるスキー場、周辺の村のことです。

人々が訪れ、ハマる魅力とはなんのか? 80年の歴史と共にご紹介。

八方尾根スキー場、80年の歴史


白馬には80年前、海外からスキーが日本に持ち込まれました。そして素晴らしい白馬の山々を歩いて登るようになったのが、白馬のスキーの歴史の始まりです。その頃は当然リフトなんて無いため全てがハイクアップによるアクセスで、もちろん雪上車もないのでコンディションは全てパウダー!

スキーは今で言うテレマークのような板で、スノーボードなんて考えられない時代でした。それでもパウダージャンキーは居たようで、ジャンプをしている写真も残っています。

今から50年ほど前には八方尾根スキー場が誕生しました。

白馬の人々の熱い想いから、東京のスキー好きな資産家に出資をしてもらい、山から丸太を切り出し、木造の支柱のシングルリフトが立つことになったのです。

現在のようにホテルなど無く、夏は農家を営む人々が民宿としてスキーに来る人を泊めていました。当時、スキーをするということはお金持ちだけの特権だったのでしょう。スーツで滑っている写真が残っていますが、どれだけお金を持っていたとしてもきっと寒かったに違いありません。

1960年代後半、スキーブームが到来したことでスキー客は増えていき、スキー場の規模も拡大していきました。

1980年代後半のバブル経済の波に乗った際には、スキーヤーは爆発的に増え、ゴンドラに乗るために数時間時間待ちは当たり前という状況にもなりました。湾岸戦争が始まりバブル経済が弾ける寸前には、八方尾根スキー場だけでも年間のべ140万人のスキーヤーが訪れていたといわれます。エコーランドあたりは車が通れないほど夜は人で溢れかえり、女の子はミニスカート&ハイヒールでディスコ「マハラジャ」に通ったといいます。

この頃の白馬村はみんな羽振りが良く、国内の村の外車保有率ナンバーワンだったようです。

バブル経済が崩壊すると国内のスキーヤー人口は急激に減少していきました。1998年の長野冬季オリンピック時には、世界中から外国人選手や応援団、関係者が白馬村に集まりましたが、オリンピックが終わると誰も居なくなってしまい、オリンピックに投資した白馬村の経済は大打撃を受けました。

しかし2006年頃を境にオーストラリアを中心とするオセアニア地区からの来場者が激増し、白馬は国際リゾートへと変貌を遂げます。

雪の少ない、低い山ばかりのオーストラリアの人々にとって、白馬のコンディションはかなり衝撃的に写るのでしょう。今では1月〜2月の平日の夜、白馬の村を歩いているのはほとんどが外国人です。

日本人は昔からのスタイルである 1泊2食付きプランで週末だけ宿に泊まり、コンビニで買ったビールを部屋で飲んで寝てしまうようですが、オーストラリア人やヨーロピアンたちは、昼はパウダーを思い切り滑り、夜は地元の美味しい料理を楽しみ、食後はバーやクラブに繰り出すというスタイルを楽しんでいるようです。
http://www.outdoorjapan.com/magazine/story_details/245?language=japanese


白馬村は外国人一色。スキーで活性化のわけ 2016/01/15


​白馬村は外国人一色。スキーで活性化のわけ1月12日放送、「あさチャン!」(TBS)では、白馬村の外国人観光客について。

スキーで知られる長野県白馬村に世界各国から外国人観光客が押し寄せている。

雪質が非常によく、世界のスキー場の中で比較的暖かいのが人気の理由と見られる。
白馬村では10年ほど前から年々、外国人宿泊数が増えている。

今シーズンは10万人に到達する見込みだ。なかでも半数以上を占めるのがオーストラリア人。

修学旅行の生徒も受け入れている。文化の違いに戸惑う人もいるが、受け入れには成功している。

宿の経営者の中には「オーストラリアの観光客がいなければ、宿をやってはいけない」と話す人もいる。観光で訪れた外国人が白馬を気に入り、ここでホテル経営を始めるケースもある。

かつてのスキーブームの時、白馬には年間280万人ものスキー客が訪れたが、ブームの幕切れで数が落ち込んだ。そこで、長野オリンピックを契機に、外国人誘致を始めたという。アメリカのテレビ局が選んだ美しい場所に選ばれるなど、白馬は今、世界中の注目の的だ。


白馬は外国人スキーヤー、スノーボーダーが多く、ゲレンデによるが滑っている人の半数近くが外国人ということもよくある。

北アルプスの連峰の景観と大自然、最高の雪質、日本の文化が感じられる村、世界中の味が楽しめるレストラン、最高にリラックスできる温泉、ホスピタリティーあふれる温かい地元の人たちなど、白馬には外国人を魅了する要素がたくさんある。

オーストラリア人にとって日本が魅力的なのは、時差がないこと。また成田から直接白馬に直行バスが出ているので、東京に寄る事無く白馬だけに滞在して帰国する観光客も多い。逆に白馬から東京への日帰りツアーがあったりなど、白馬はオーストラリア人スキー客の誘致に熱心だ。白馬は今、ニセコと並んで世界の人気スキーリゾートに成長しつつある。

外国人客は平均して、長期滞在で7泊から10泊していく。日本人客が土日に集中するのに対して、外国人は平日にお金を落としてくれるありがたい存在。一人あたり平均で一日32,000円使う。日本人の平均は20,000円弱。

全般的に客層が良く、リピーターも多い。
平日買い物するのはほとんどが外国人客で、アップルパイなどの箱菓子やニンジャなどのフィギュア、キティちゃんグッズなどが良く売れている。
https://gakumado.mynavi.jp/gmd/articles/29596

白馬スキー場が外国人に人気の理由…アクセスのよさ、おもてなしの心 2016.3.11


長野県の11のスキー場で構成されるエリア「Hakuba Valley(ハクバ・バレー)」が2014年2月に誕生した。

ゲレンデ面積、コース、リフトの本数など、さまざまな指標で全国トップクラスの数字を誇る日本最大級のスノーリゾートだ。1998年の長野冬季オリンピックの会場としても利用された。

●増加する外国人スキー客…昨年比で40%増加

ハクバ・バレーは外国人スキー客の誘致をここ10年ほど積極的に進めており、現在では北海道ニセコに次いで国内で2番目に外国人スキー客数が多い。

2015年4月には、2022年北京冬季オリンピックのメイン会場となる河北省のスキー場「密苑雲頂楽園」との友好交流提携を締結した。同年6月には米国のアスペン、フランスのシャモニー・モンブランなど世界的スキーリゾートのみで構成される「マウンテン・コレクティブ」に、日本で唯一のスキーリゾートとして加盟した。

それは海外での知名度向上に一役買い、今年1月の段階で外国人スキー客は昨年比で40%増加する盛況ぶりを見せている。特に人気の高い白馬八方尾根スキー場では、シーズン合計来場者の約20%を外国人スキー客が占めるという。

2015/2016シーズンの外国人スキー客来場者数は、ハクバ・バレー内全スキー場合計で20万人を突破する見込みだ。これは今シーズンの主要スキー場での外国人スキーヤー向けチケットの利用状況、JHNトラベルが運行する成田空港から白馬エリアへの直行バスの予約状況、ツアー部門の予約状況などから予測している。

しかし、ハクバ・バレーの一角を担う白馬八方尾根スキー場、白馬岩岳スノーフィールド、つがいけ高原スキー場の3つを運営する白馬観光開発の深澤宣夫マネージャーは、「実際の統計は正確にはとれていない。白馬観光に加盟している宿からの報告はあるが、そうでない宿もかなり増えている。公表されている数値よりもかなり来ているのではないかという気がする」と話す。

現在の外国人スキー客の国別構成比は、オーストラリアが60〜70%を占めているという。南半球に位置し、日本とは季節が逆であるオーストラリアからは、多くのスキーヤー、スノーボーダーが夏休みのレジャーとしてハクバ・バレーを訪れる。

成田空港から直接白馬に直行バスが出ていることもあり、東京など他の観光地に訪れることなく、白馬だけを目的として来日する観光客も多いという。

●なぜ外国人の間で白馬は人気なのか

外国人の間で人気を博している理由を深澤マネージャーは、「北海道の方も雪はあるが白馬の方がアクセスしやすい。その強みを活かして先手を打って、プロモーションをかけているからだと思う」と交通の便のよさを理由のひとつにあげる。

外国人客の対応について、多言語スタッフを雇い入れることには課題が山積しているようだが、スキー場内にある看板を徐々に多言語対応させている。

「白馬の宿泊関係の人々も、ボディランゲージなどで地元ならではのおもてなしをしている。外国の方には好評を頂いている。あるひとつの宿の例ですが、日本酒のサービスとか、太鼓の演奏を行なったりして」

ホスピタリティあふれる宿泊施設の工夫も外国人観光客に人気を博している。
http://cyclestyle.net/article/2016/03/11/33562.html

2013-01-21 白馬の外国人スキーヤー


週末、7年ぶりに長野県は白馬でスキーを滑ってきた。

白馬で感じたのは外国人スキーヤー、スノーボーダーの多さ。

ゲレンデによるだろうが、滑っている人の半数近くは外国人だと思われた。

中国や韓国から訪れる人もある程度はいるが、なんといってもオーストラリア人が多い。

僕が泊まったホテルにも一定の割合でオーストラリア人が止まっていたが、ゲレンデに向かうシャトルバスに乗っていると、彼らの大半は規模の小さな、築年数も相当経ったペンションで乗り降りしている。

聞けば、もとは日本人が建てたものの後継者がいなくなったり経営難となったペンションを、白馬の雪質の良さに目を付けたオーストラリア人が買い取って経営しているところが多いらしい。海外からのスキーヤーが多くなだれこんでくるゲレンデと言えばニセコが有名だが、

白馬もかなり活況だ。レストランにも英語のメニューがあったり、ゲレンデにも英語やハングルの案内文が併記されていたり、白馬の人たちも外国人に対してとてもフレンドリーだ。白馬が外国人スキーヤーで賑わっている理由は、単に雪質が良いからというだけではないのだと思う。

少子高齢化と人口減少傾向の続く日本では、白馬のように海外からの需要を取り込むことがますます重要になっていくことは間違いない。これは地方に限ったことではないが、特に地方では今後、「よそ者」に対する排他性の有無が、地域の豊かさに大きく影響を及ぼす姿が見られることになるだろう。もっと言えば、それは個人レベルでも起こり得ることなのかもしれない。

朝日に映える北アルプスの山々は神々しいほどに美しい。自然環境という意味では本当に日本は恵まれているし、日本人に生まれたこと自体も世界的に見ればまだまだアドバンテージがあるのだと思う。それをより生かしていくのか、宝の持ち腐れにするのか、選択によるシナリオの差が大きくなっていく時代なのだと思う。
http://d.hatena.ne.jp/ats1109/20130121/1358776101

2009-12-07 白馬の魅力を外国の方に聞いてみた。

みなさん!

白馬行ったことありますか


とある雑誌にライターとして白馬の記事を書くため、最近、様々な立場で白馬に住んでいる「外国の方」に魅力を聞いてみました。

いろんな意見があるんだろうな〜

と聞いてみると!

割と僕が白馬が好きな理由、住みたい!とまで思う理由と同じでした。


当たり前か


でも、最近のスノーボーダーは、近い、安いがテーマでスキー場を選ぶ人が多いそうです。

白馬は東京からわずか「3時間半」です。

これを「遠い」と考えるか「近い!」と考えるかは、価値観と、求める物の違いで変わってきます。


では、遠く海外から来る方から見た白馬の魅力とは?なんでしょう??


彼らは、本物、リアルを知っています。

その上で、白馬、いわゆる八方をベースとしたエリアに「わざわざやってくる」のです。

日本が世界に誇る「白馬」というブランド。
以外に地元の方には「当たり前」になりすぎている、非現実的な景色。

外国人が持つセンスや、素晴らしい考えを受け入れながら、日本の伝統文化を守り、世界に発信していける数少ない地域だと思います。


以下、記事になるまで内容は出せませんが、海外の人の白馬の魅力はこんな感じ。

白馬を訪れる外国人にその魅力を聞くと

「迫力の北アルプス連峰の景観と大自然」
「最高の雪質」
「日本の文化が感じられる村」
「世界中の味が楽しめる美味しいレストラン」
「最高にリラックス出来る温泉」
「ホスピタリティーいっぱいの暖かい地元の人たち」

という意見が多かった。

ある白馬在住の外国人は言ってました。

「ニセコは雪質は最高だけど、日本の文化をあまり感じられない。
そしてなにより山が違う。
ここは世界でもベスト。バックカントリーは本当にヤバイ!
雪質も、地形も斜度も、ニセコとは比べものにならないよ」と話す。

最近、ニセコはまるで「オーストラリアに居るようだ」と多くのオージーは言う。建物がオーストラリアで、オージーだらけで、日本に居る気がしないと。

僕としては、ニセコは大好きですけどね〜
僕らがハワイ・ワイキキに行っても、日本人だらけであまり「アメリカに行った!」と感じないようなものなのでしょうかねえ。

その点、白馬は多くの伝統的な日本スタイルの「旅館」も点在する。また、長野の有名なスノーモンキーや有名なお寺や神社、酒蔵、そば打ち体験や着物の着付け体験など、ウィンターリゾートに居ながらにして、日本の文化を感じ、体験することが出来るってわけです。

また世界に誇る日本の食文化「寿司」を始め、日本スタイルのレストランバー「居酒屋」や、ラーメンにお好み焼き、日本食が安価に食べられる「定食屋」までレストランもたくさん揃っている。

バーやクラブでは夜な夜なイベントやライブが開催され、日本人ローカルとの触れあいやナイトライフも楽しい!

成田や中部国際空港からのアクセスも、バスやタクシー、新幹線など非常に便利。ビレッジ内にはシャトルバスも走り、大きなスーパーもあり、長期滞在でも快適に生活することが出来る。
行き帰りには、東京経由でショッピングや、京都観光なども可能。


アルプスの雪解けの美味しい水や美味しい空気、太古の昔から数千年の時を超え湧出する天然温泉。

なにより美味しい日本酒と、1時間の位置にある日本海から直送される新鮮な魚を使った寿司も最高!

特に八方尾根スキー場には、アメリカ以外で唯一の「High Cascade Snow Park」があり、キッズからプロライダーまでが楽しめる。

と、取材をしていて、まあざっと、こんなところが外国の人から見た、白馬の魅力らしい。

八方尾根の名木山に、木製のシングルリフトが誕生して50年。

誰がこんな風にスノーボーダーが来て、ハイカスケードパークが出来て、外国から人が集まると想像しただろう?

本当に、毎日がプチ海外旅行気分の白馬。
毎日英語を話す環境がある国内は、ニセコとここくらいではないかな?
http://ameblo.jp/snowsurferigarin/entry-10405347122.html


ニセコ同様 オーストラリア人に乗っ取られた白馬は、不動産価格が暴騰して、日本人にはもう手が届かなくなってしまいましたね:


白馬のリゾートマンションを探す|別荘・リゾート物件サイト「リゾートアットホーム」
http://resort-athome.jp/13_00120/31/

白馬村の別荘や田舎暮らしリゾート物件紹介
http://www.hakuba-fudousan.net/index.html株式会社ビューバレー -VIEWVALEY HAKUBA Real Estate-


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c393

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
394. 中川隆[7170] koaQ7Jey 2017年3月18日 23:30:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7641]

外国人だらけの白馬スキー場 オーストラリア人急増のワケは? - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YhsPfZD5TzU

日本観光大好き美系家族に突撃!白馬八方尾根スキー場が楽しみ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6DRpigKBFPE

なぜ白馬村に外国人観光客が多くなったか? - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bAYACKwKDhk

白樺の上 パウダー外人を追え2016.3.1白馬八方 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dNU4a5voJUM

ニセコ、白馬、妙高、野沢には欧米人が沢山押しかけるのに

一方、苗場、湯沢には中国人と日本の最底辺の人間だけしか来ない

苗場や湯沢スキー場の関係者もその理由を考えてみた方がいいですね。



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c394

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
395. 中川隆[7171] koaQ7Jey 2017年3月19日 00:08:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7642]

>ニセコ、白馬、妙高、野沢には欧米人が沢山押しかけるのに
>苗場、湯沢には中国人と日本の最底辺の人間だけしか来ない

湯沢の人間はホスピタリティーがゼロなのが一番問題かな:

苗場 プリンスホテル【 2017年の口コミ 】- トリップアドバイザー


“修学旅行の宿レベル”

昔の憧れの苗場プリンスホテルとはあまりにもかけ離れたお粗末ぶりに毎回がっかりしています。

ユーミンのコンサートを観るため仕方なく宿泊しています。

何十年も改装していないのがわかる古い設備で使い勝手が悪いです。
部屋の中や廊下の絨毯や壁も決して綺麗ではありません。
色々なことをケチっているのが随所に透けて見え、テンションが下がりました。

そういう経営姿勢のためかスタッフの士気も下がっているような印象を受けます。

中華料理のレストランで夕食を取りましたが、大したものではないのにホテル価格でした。
朝食バイキングはまずまずです。

大浴場と露天風呂がありますが、宿泊者でもそれぞれ入場料が500円もかかります。
露天風呂に行きましたが、6畳ぐらいの広さの申し訳程度のものでした。
しかも利用時間は15時から夜中の0時まで。

車寄せに屋根がないので、雪、雨が降ると濡れます。

豪華にしてとは言いませんが、もう少し気持ちよく泊まれるようなホテルにして欲しいです。


2017年 2月に、友達と訪問(体験)
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g1119245-d301350-r462114445-Naeba_Prince_Hotel-Yuzawa_machi_Minamiuonuma_gun_Niigata_Prefecture_Chubu.html#CHECK_RATES_CONT

“最低なホテル”

1/5から4号館の1112に宿泊してみましたが、最低でしたのでコメント記載致します。

部屋も非常に古く、壁にヒビが入ってる。

デザインもバブル時代そのままの古さ。

ベットは古くマットが凹んでいる。

喫煙者でも気になるタバコとカビの臭い。カラオケボックスの様な臭い。


部屋の内容としては古いビジネスホテルのイメージなのでおすすめは出来ません。

温泉はあるが、宿泊者も非宿泊者も同じ風呂。且つ、同じ料金の500円が必要。
朝風呂などは基本やっていない。ほんの限られた数日だけは実施。正月などの特定日のみ。

部屋に荷物を運んだカートを自分で返却したら粗品をプレゼントとエレベーターに記載があるが、自ら返却しても何も無い。

キッズパークは 9:30開始なのに係員の準備が遅く、客が並んでいるのに無視。
客に9:30を過ぎている事を指摘されて始めるありさま。その際に謝罪も無し。

リフトは三本しか動いていないのにリフト代金通常料金。
天候などの理由があるとしてもリフト代金を安くしているスキー場を見習って欲しい。

広いゲレンデだからい選んだが客の数に合わせて一部のリフトしか動かさない方針とのこと。でもリフトには並んでいる客がいる状況。

たった一泊でこれだけ気になる部分がある最低のホテルでした。

2度と行くことは無いですが、これから利用する方は参考にして頂ければ良いかと思います。

きっと、このままでは5年も持たない古さとサービス内容のホテルでした。

古くても清潔感があってサービスが出来ていれば良いにですが、何も出来ていないホテルです。

客室選びのポイント: 楽しい旅行にするには苗場プリンスを選ばないこと
もっと見る

2017年 1月に、家族で訪問(体験)
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g1119245-d301350-r449944651-Naeba_Prince_Hotel-Yuzawa_machi_Minamiuonuma_gun_Niigata_Prefecture_Chubu.html#CHECK_RATES_CONT

“ゴミゴミしすぎでしょ。”

つぎはぎ的な迷路のような館内は分かりにくいだけでなく、低級ホテル感でいっぱい。

店も老朽化していて値段と不釣り合い。

たぶん2度といかないでしょう。
プリンスホテルも年々レベルダウンが否めない。心配です。

2017年 1月に、家族で訪問(体験)
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g1119245-d301350-r448413714-Naeba_Prince_Hotel-Yuzawa_machi_Minamiuonuma_gun_Niigata_Prefecture_Chubu.html#CHECK_RATES_CONT

“お粗末すぎる苗場サマーパーク”

苗場プリンスといえば新潟県を代表する大型施設。

今年はスキーワールドカップで各国のトップスキー選手をもてなし、かつてのスキーブーム時代を牽引した由緒あるホテルなはず。

スキーブーム終焉とともに営業期間も縮小され、僅かなスキーシーズンとフジロックだけが頼り、から家族連れへのアピール頑張ってるな〜と魅力的なホームページに惹かれ行ってきましたが、正直がっかりでした。

おもしろ自転車 → 何処かの潰れた遊園地から持ってきたような古くて面白くない自転車20分¥600!

苗バッシャーン → 手作りウォータースライダー 水が冷たすぎて3回やったら家族全員ギブアップ30分¥1200!!

わんぱく広場 → こちらもどこかの潰れた施設から持ってきたような汚いエアートランポリン、エアースライダー(汚れていて全く滑らない)、説明書きもない謎のスケボーのような乗り物、超ゆっくり回る回転ブランコ、5才の子供が全て「つまらない」と言っておりました。20分¥600


ほんとにくだらないこの3種目で¥2400なり。3人姉弟で¥7200

長男が一番楽しみだったシューティングゲームは弾切れ?で営業終了。

最後に乗ったお散歩カートは距離も長く唯一楽しめましたが、歩道も車道もなく、お客さんが普通に歩く場所を走るので危険極まりない。要普通免許2人乗り、のはずが免許の確認もなく4〜5人で乗る家族も全く放置。


どのエリアでもそうだったが、係員は客を管理もせずかなり放置状態。
小屋の中で談笑してました。チケット払わずにエリアに入っても絶対にわからない状態。

これがプリンスホテル???

どこかの場末の遊園地よりも酷い。

今まで色々投稿しましたがここまで書くのは初めてです。


2016年 8月に、家族で訪問(体験)
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g1119245-d301350-r408665421-Naeba_Prince_Hotel-Yuzawa_machi_Minamiuonuma_gun_Niigata_Prefecture_Chubu.html#CHECK_RATES_CONT


“盗難にあったにも関わらずフロントは対応無し”

スキーで1泊したのですが、初日にロッカーに保管していたゴーグルが盗難にあいました。
スキー場のロッカーはどこも換気の為か上部にかなり大きめの換気口があり、そこから盗られたと思われます。

保管する際、主人と「このゴーグルはここに掛けようね。」という会話をしていたのでそこに置いていたのは間違いなく、翌日盗難が発覚した際にすぐその経緯をフロントに説明したのですが、男性フロントスタッフの返答は一言、
「はぁ・・・・」でした。

あっけにとられる私達。

続けてこちらには届いてないですね・・・と、たった一言。

社内に犯人はいるのではないか、と邪推するほどのやる気のない対応でした。
今思えば警察に届ければよかったと後悔しています。

このホテルを使う際は、有名メーカーのゴーグル・手袋等は部屋に持ち帰って保管する事をお勧めします。


2015年 4月に、家族で訪問(体験)
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g1119245-d301350-r358708967-Naeba_Prince_Hotel-Yuzawa_machi_Minamiuonuma_gun_Niigata_Prefecture_Chubu.html#CHECK_RATES_CONT


“最悪でした...”

今回は2号館に宿泊致しました。

まず部屋に入って驚いたのが床にゴミが落ちていたことです。
そして便器の中が泡だらけでした
トイレの床には髪の毛が落ちていて。

せっかく泊まりに来たのにとてもショックでした

でも部屋にはハンモックが付いており子供はすごく楽しんでいました

次の日お掃除をお願いしたのですがシーツは交換されておらず汚れた状態でした。
そしてタオルも交換されていませんでした。

お金を払っているからにはちゃんとして欲しいです。

プリンスホテルはこんなもんでしょうか?

もう二度と泊まりには来たくありません。最悪なホテルでした

2016年 1月に、家族で訪問(体験)
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g1119245-d301350-r338131727-Naeba_Prince_Hotel-Yuzawa_machi_Minamiuonuma_gun_Niigata_Prefecture_Chubu.html#CHECK_RATES_CONT

“春スキー時はやめましょう”

4月初めの土日にスキーがまだ出来そうだったので初めて宿泊しました。

結論から言いますと、何もかもひどかったです。

まず、お金をとっているにも関わらず、店はたった一つの売店しか空いていない(時間限定)、

大浴場はやっていない、

レストランは一か所で決められた夕食・または朝食(ブッフェではない)、しかもメニューは一つのみ選択の余地なし。

夕食が一人5000円で選べもしなかったので、朝食も期待できなかったので食べに行きませんでした。

そして、私は乳児と部屋で留守番だったのですが、お昼を食べられるところが無く、売店にはカップラーメンすら売っていませんでした。

また、ホテル内のドラックストアも閉まっていましたので、オムツや離乳食など子供関係の物は一切手に入りませんでした。


部屋は4号館のみ空けているようで、ゲレンデが見える角の部屋に泊まりました。

想像以上に古くて、よくぞここまで古いままで使用しているな、といった感じでした。

そして、テントウムシの大量発生。掃除機で吸い取ってもらいましたが、気持ちの良いものではありませんでした。

そして、日中はホテル全館で経費削減のためなのか、エアコンの電源を切っているようで、いくら部屋の温度調整を上げても暖まらず、寒いのを我慢していました。

目の前のスキー場は土が見えているし、リフトも動いてないのもあるし、かぐらみつまた?の方へのゴンドラも停止。

直前のスタッフさんのブログには今年は雪も多くて、まだまだ苗場は滑れますよ〜なんて書いてあったのに全然違いました。

プリンスホテルさんってこんなレベルなんでしょうか。

オンシーズンだともっと違うのかもしれませんが、お客さんからお金もらっているのですから、もう少しホテルとしても機能を果たすところまで運営してもらいたいです。

こんなにひどいホテルは久しぶりでした。

少なくとも春スキーのシーズンはおすすめできません。

2015年 4月に、家族で訪問(体験)
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g1119245-d301350-r272665078-Naeba_Prince_Hotel-Yuzawa_machi_Minamiuonuma_gun_Niigata_Prefecture_Chubu.html#


“子供連れには最悪のホテル”

1月にスキー旅行で行ってきました。1泊2日で家族4人(子供3歳、5歳)です。

とにかく使いかってが悪かったです。以下が感想です。


@駐車場がホテル入口から遠い。ホテル入口から近い駐車場には朝7時に到着したくらいではとめられない。要するに宿泊客数にたいしてのキャパが絶対的に不足している。子供の足では大変。

A部屋までが遠すぎる。ホテルがでかいだけに部屋までたどり着くのが大変。何か忘れ物したら戻れないので致命的。またエレベーターの絶対数が少なすぎる。朝や夕方は最悪で乗れない。

Bスキー場内もレンタルスキーはあっち、レッスンはこっち、など子供には無理。

C昼飯は大混雑。しかしそれはスキー場では当たり前の光景として、まさか夕食までも1時間待ちとは思わなかった。そして、やっとこさ入店できたとおもったらウエイターの接客はいまどき珍しいくらいの悪さ。売上のあがらないコンビニの店員と同レベル。

D入口のベルボーイ。子供連れで大きな荷物を車への積み込みで行ったり来たりしているのに、つったたまま傍観、後ろの車の交通整理くらいすればいいのに。雪がふっているので濡れたくなかったのかな?

E夕食。近くの2歳くらいの子供が軽く吐いていたのに知らん顔のウエイター達。子供だから口にいれすぎれば軽く吐くのは当たり前(もちろん親の責任もあるが)なのに、あの嫌そうな態度はないと思う。さらには、吐いたところに消毒剤をまき散らしたのには驚いた。近くの席で食事していた私たち家族は、その悪臭?で咳がしばらくとまらなかった。


とにかく、ありえないくらい悪いホテルでした。

私をスキーに連れてって世代の私としては、苗場プリンスは良いホテルの印象があったのですが愕然としました。

最近のスキー宿は昔と違ってかなり改善されていて、昔のイメージとは違うのに、相変わらずの殿様商売では・・・・


2013年 1月に、家族で訪問(体験)
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g1119245-d301350-r149625368-Naeba_Prince_Hotel-Yuzawa_machi_Minamiuonuma_gun_Niigata_Prefecture_Chubu.html#

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c395

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
396. 中川隆[7172] koaQ7Jey 2017年3月19日 00:20:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7643]

“苗プリよ! 頑張る気はあるのかい?”


アラフォー以上の世代には特別な存在に感じる方も多い苗プリ。

当時は私もだいぶ通いました。
その後も何度か泊まっていますが、先日6、7年ぶりに宿泊しました。

今回はとてもお得なパックがあって急遽苗プリに久々行ってみるかーっとなったのですが、結果はタイトル通り、昔の巨大リゾート苗プリ時代の遺産を食いつぶしているような印象。

立地、知名度、施設、客層全てを手に入れてるだけに、本気でやったらもっと素敵な施設として今も1位で有り続けられるだろうに・・・残念です。


まず、施設。

宿泊は4号館のツイン部屋。

ソファーベットを使えば3人もOKなタイプなので、狭小ほどではなく、許せる範囲の広さです。ただプリンスは基本狭いので、他のホテルに慣れてるとちょっとねえ。今時ベッド幅がシングルサイズ、長さもむかしのタイプなので短め。硬いスプリング式。空調は壁付のメモリを動かすタイプ。これ最近の若者使い方知らないんじゃない?という旧式。冬は暖房のみです。ユニットバスタイプで洗面台は外に出てます。


アメニティ?

聞いちゃあいけません。いたって普通です。

ここまでは、まーねええという印象ですが、掃除、メンテがひどい。
壁紙が至るところ破れています。汚れてるではなく、破れたままです。

部屋の中だけでなく、廊下やレストラン、ロッカーなどあちこちがそんな状態。

特に苗場温泉の大浴場の脱衣所はひどかった。苗場は巨大ホテルなので、どの部屋に泊まるかで状況も変わるでしょうが、いわゆる大浴場が有料の小さな内風呂1箇所のみ。露天もありますが、3月は土日しかやってませんって!

おいおい。こんなデカイホテルにただでさえも大浴場が少ないのになぜ平日やらないという発想になるのか・・・・


次はレストラン。

何件ものレストランがあります。
繁盛期はお客さんが大量にいるので予約殺到大混雑ですが、平日なのでそこそこでした。

どこも夕食は5500円くらいから。居酒屋風の店や単品の定食なんかは1000円ちょっとで食べられるものもあります。ピザハットが一番安いのかな?まープリンスなので割高ではありますが、選べるくらいの食事処はあります。プリンスといえば昔から中華のイメージなので中華を選択。店内の雰囲気も落ち着いていて美味しかったですよ。

昼食のレストランはアゼリアでしたがメニューを工夫していたり華やかなバブル時代風?苗場らしさを感じさせてくれました。


次はソフト面。

スタッフの対応は・・・・超大型ホテルなのでまーホスピタリティなんて言葉はありません。てきぱきと対応することを第一目標に置いてる接客です。

クロークのお姉さんは荷物はロッカーに入れて下さい。とかなり上から目線。
フロントは必要最低限の説明でさばく。
レストランのスタッフは割と感じよかったですが。

一番良かったのは苗場浴場のおばちゃま。唯一温かい笑顔と元気な声かけ、懸命にお掃除してくれてました。

客層は 若者がとにかく多くてテンションが高い。若い人が沢山来てくれるのはありがたいですので、いいことですが、渋谷や池袋を歩くときのようなストレスが伴います。


あとは3世代などのファミリー層。この客層にはとっても向いているホテルですね。

ゲレンデ目の前の部屋から孫が滑る姿を眺められますし、レストランやカフェもありますので過ごしやすいでしょう。おじいちゃん世代も苗場ならどんなところか知っていますしね。そういった常連さんらしきファミリーが沢山いました。


滞在した結果の感想は、なんか疲れたね。という一言がつい出ました。
イライラするのは覚悟して行きましたが、やっぱり疲れました。

最後にゲレンデ。

まー言わずもがなの苗場ですが、相変わらずゴンドラ上は滑りにくいので中上級限定、下の方はだらーっと初級コースが横に広がっています。

なにより今回ショックだったのは、リフトが止まりまくっていて動いていない。
ゴンドラも2本のうち1本のみの営業。

初日は苗場で滑りましたが二日目は田代へ行きました。

すっごく利用客が多いので初級コースは平日でも大混雑。
賑わってるのはありがたいですが、じゃあリフト動かしてよって感じです。

ゴンドラで上がっても初級者が迂回コースで降りられれば、ばらけるのでしょうけど。上にはいけないから下に溜まる。
中間のコブ、非圧雪バーンはほとんど人がいないって感じ。


総合的に、苗場人気は健在なようで良かったですが、ホテル側に努力は見られません。

壁紙の破れなんて他の旅館やホテルなら悪評が沢山ですよね。

料金も通常期は決してお安くないし。
巨大リゾートも最近は北海道のリゾートホテルに慣れてしまってるので感動はないし、小さな子供や年配な方や休みが取れなくて北海道はいけないという方にはいいかもしれませんが、わざわざ苗プリに泊まる理由は感じられませんでした。

ホテル側がお客様に喜んでもらいたいという気持ちを持ってくれれば、素敵なリゾートして君臨し続けられるのではないかと思いますが・・・
やはり苗プリがなくなってしまったら寂しいですからね。頑張って欲しいです。

でも当分行きませんw


2015年 3月に、カップルで訪問(体験)
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g1119245-d301350-r260646159-Naeba_Prince_Hotel-Yuzawa_machi_Minamiuonuma_gun_Niigata_Prefecture_Chubu.html#

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c396

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
397. 中川隆[7173] koaQ7Jey 2017年3月19日 00:25:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7644]

まあ、ゲレンデが これでは欧米人が来る訳ないですね:


>最後にゲレンデ。

>まー言わずもがなの苗場ですが、相変わらずゴンドラ上は滑りにくいので中上級限定、下の方はだらーっと初級コースが横に広がっています。

>なにより今回ショックだったのは、リフトが止まりまくっていて動いていない。
>ゴンドラも2本のうち1本のみの営業。

>初日は苗場で滑りましたが二日目は田代へ行きました。

>すっごく利用客が多いので初級コースは平日でも大混雑。
>賑わってるのはありがたいですが、じゃあリフト動かしてよって感じです。

>ゴンドラで上がっても初級者が迂回コースで降りられれば、ばらけるのでしょうけど。上にはいけないから下に溜まる。
>中間のコブ、非圧雪バーンはほとんど人がいないって感じ。

Re 苗場地区の将来は? 投稿者:タワー引退者 投稿日:2016年 8月31日(水)12時22分29秒


私は苗場スキー場に絶望してタワーを売却しました。
毎年いるとわかるのですが、経営が傾斜した時から、

・コースの廃止(火打ゲレンデはかなりコース廃止されましたね)

・コース整備の手抜き(コースは存在しても滑れない。大斜面も迂回くねくねが存在して、初中級者でも上から下まで何とか降りてこれたはず)、

・ロープウェイ・ゴンドラがすぐに運休(強風とか視界不良とかの理由ですぐ1日運休する)

・平日はさらにコースも縮小

・プリンスホテル内の店が穴あき状態(行くと営業してないとか)

・プリンスホテル自体が季節営業に以降(今は夏はやっているようですが、冬しか営業せず)

など、スキー場としてまともではなくなりました。
子供と外国人だけ相手して、下の方で滑ってろと言わんばかり。
子どももちょっと滑れるようになると、満足せず田代や湯沢まで遠征してました。

さらにスキーシーズン以外で営業していたゴルフ場も廃止されましたしね。

プリンスホテルだけのせいにするつもりは無いです。

地元も浅貝ゲレンデもM選手の仲間内だけでの営業(レストハウスで仲間内だけでの盛り上がりで営業しているのかどうかもわかず、地元のホテル・ペンションとの連携もなし)で、M選手がスキー選手のせいかスノボパークもなくなり、地元もやる気なし(浅貝と温泉のセットでもやればいいのに)

タワーは気に入ってたのですが、手放しました。

苗場は温暖化で雪質も悪くなり、さらに奥の三国スキー場があれば雪質の良さは多分売りになると思うんですけど、地元もこうじゃ難しんでしょうね。残念です。
http://8601.teacup.com/naebatower/bbs/983

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c397

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
81. 中川隆[7174] koaQ7Jey 2017年3月19日 00:55:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7645]

★千葉県民が考える千葉県の地図はこんな感じだ?


ひどいこと言うなぁー(´・ω・`)=3
まーでもこん通りだもんで仕方ねーっぺか(*´∀`)

自分の出身地は、未開の地、及び地の果てですなww
http://sanadado.blog.so-net.ne.jp/2013-09-13-1


doitunosyoujoさん 2014/5/31
千葉県は未開の地ですか?


open_bl_alさん 2014/6/22

関東一のド田舎で未開の地ですけど?

千葉って住む魅力が皆無だから人口が減ってるんじゃないんですか?

だって千葉って災害にも弱いし、放射能汚染されてるし、半島なので雪が降らなくても陸の孤島だし、何も話題や魅力が無く文化や歴史も全くありません。

名産品も聞きませんし、ご自慢の海や東京と名の付いた場所が山ほどあるにもかかわらず都道府県別ブランド力や旅行に行きたい県では上位に入ることもできない千葉は相当魅力が無いので、東京や神奈川や埼玉に住めないから妥協して暮らす以外に、千葉に暮らす理由って無さそうですが?

ベッドタウンのくせに東京へのアクセスが悪い、地価が安い、災害に弱い

文化や歴史がまったくない、名産品がピーナッツしかないって(笑)

笑っちゃいますよね?

なんで千葉なんかに住んでるんでしょうね?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10129922470
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c81

[リバイバル3] 「住宅は資産」という幻想で誰があなたをカモにするのか? 中川隆
77. 中川隆[7175] koaQ7Jey 2017年3月19日 08:51:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7646]

マンション、上がりきった価格がもうすぐ一気に下落→バブル崩壊へ…これだけの兆候
http://biz-journal.jp/2017/03/post_18388.html
2017.03.19 文=榊淳司/榊マンション市場研究所主宰、住宅ジャーナリスト Business Journal


 不動産の価値を鑑定する場合、3種類の手法があるとされている。同じものを新しくつくるといくらになるのか、という原価法。周辺の似たような物件がいくらで取引されているかという、取引事例比較法。そして、将来得られる収益を現在価値に割引く収益還元法。

 10年ほど前までは、もっぱら取引事例比較法で市場価格が形成されていた。ところが、最近の東京都心立地における収益物件は、もっぱら収益還元法で価格が決まっている。というのは、収益の利回りが軒並み4.5%から5.5%の間に収まっているからだ。

 収益物件というのは、総額が1億円から5億円くらいまでの1棟もののマンションやビル、アパートなどのことだ。いわゆるサラリーマン大家と呼ばれるような、セミプロ級の不動産投資家が購入するタイプの物件。その収益モノの市場に出回っている物件の利回りが、中身のいかんにかかわらず、きれいに4.5%から5.5%のレンジに入っているのが、今の状態だ。なんとも不自然さを感じるのは、私だけだろうか。

 購入金額のほとんどを融資で賄う個人の不動産投資家は、何よりもキャッシュフローを重視する。毎月得られる家賃から融資返済額を差し引いた額がいくらになるのかがキャッシュフロー。

 現在の融資金利を考えると、20年返済くらいでなんとかギリギリ意味のあるキャッシュフローを出せるのが、この4.5%から5.5%の利回りなのだ。本音を言えば6%以上、欲をかけば10%の利回り物件を求めるのが不動産投資家だ。3、4年前までは丁寧に探せばそういう物件を市場で見つけることができた。今はほとんどない、といっていい。わずかにあっても、あからさまに中身のよくない物件だ。空室リスクが高かったり、予想外のトラブルや修繕費が発生しそうな物件は利回りが高い。しかし、そういうハイリスクな物件には投資しないほうがいい。

 堅実な投資を心がけるサラリーマン大家さんたちは、4.5%未満まで利回りが下がった物件には手を出せない。仮に利回りが3%の物件に投資すると、毎月のキャッシュフローが赤字になる。

 サラリーマンのワンルームマンション投資なら、利回りが主目的ではないので3%程度の物件もあり得る。というか、新築のワンルームだと投資利回りは軒並み3%台だ。ワンルームマンション投資というものは、中長期ではかなりハイリスクなのだが、多くのサラリーマンは所得税還付に目を奪われてそれに気づいていない。

■収益物件市場の「剣が峰」

 さて、この利回りが4.5%から5.5%のレンジに、ほとんどの収益物件が入ってしまう現状をどう捉えればいいのだろう。

 私は、「上がるところまで上がりきった」状態だと考える。金利は史上最低レベルに張り付いている。これよりも下がりようがないから、投資家もこの先4.5%未満の物件には手を出せない。つまり、収益物件の市場価格は理論的に今よりも上がることはない。ということは、この先どこかで下がり始める可能性があるということ。

 もっともわかりやすいのは、金利動向だろう。サラリーマン大家が調達できる銀行融資の金利が1%でも上がれば、収益物件の市場価格は下がらざるを得ない。4.5%から5.5%のレンジが、5.5%から6.5%へと移行するからだ。

 たとえば、利回りが4.5%の1億円の物件を、賃料を変えずに5.5%の物件にするには、価格を8182万円にしなければならない。6.5%なら6923万円だ。単純に考えると、投資家にとって調達できる金利が2%上がると、買える物件価格は3割下がることになるのだ。これが市場への下落圧力となることは確実。

 だから、この利回りが4.5%から5.5%のレンジにきれいに収まっている現状は、収益物件市場の「剣が峰」ではなかろうか。

■バブル崩壊前夜

 金利動向はどうだろうか。日本では今のところ史上最低水準が維持されている。日本銀行は金利上昇を神経質なまで警戒しているようにみえる。一方、アメリカは今年中にあと3回の利上げが行われる予定らしい。FRB(米連邦準備制度理事会)のイエレン議長は、常識的なセントラルバンカーだと伝えられている。

 史上例を見ない「異次元金融緩和」により、金利を最低水準に導いてきた黒田東彦日銀総裁の任期は来年の4月8日まで。次の総裁が常識的なセントラルバンカーであれば、「異次元」な状態から「正常」な状態を志向するはず。つまり、金利は今の異様な低水準から徐々に上がっていくことも予想される。

 黒田総裁の退任が秒読みに入る今年の後半から、金利の先高感が本格化するはずだ。収益物件もふくめた不動産市場全体に、今以上の不透明感が広がるだろう。住宅ローン金利が上がれば、マンション市場にも下落圧力がかかる。しかし、なんといっても金利にもっとも敏感に反応するのは、投資向けの不動産市場だ。

 金利上昇の足音が、ひたひたと迫ってきた。不動産の収益物件市場は、まさにバブル崩壊前夜ではなかろうか。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/615.html#c77

[リバイバル3] 音は凶器 中川隆
23. 中川隆[7176] koaQ7Jey 2017年3月19日 09:05:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7647]

耳トレ!-こちら難聴・耳鳴り外来です。 – 2011/10/3 中川雅文 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E8%80%B3%E3%83%88%E3%83%AC-%E3%81%93%E3%81%A1%E3%82%89%E9%9B%A3%E8%81%B4%E3%83%BB%E8%80%B3%E9%B3%B4%E3%82%8A%E5%A4%96%E6%9D%A5%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82-%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E9%9B%85%E6%96%87/dp/476781202X

耳トレ!


「音楽&オーディオ」を愛する人間にとって「耳が遠くなる」ことほど悲しいことはない。自分などは、そうなるともう死んだ方がマシとさえ思うが、悲しい現実として「聴力は20歳ころをピークに徐々に低下しはじめていき、65歳以上の4人に1人、75歳以上の2人に1人は補聴器が必要な状態だ」と、ショッキングな書き出しで始まるのが「耳トレ!」(2011.10.3)である。

                      

大学教授で現役のお医者さんが書いたこの本には「耳の健康」に対する情報が満載で実に”ため”になる本だった。

以下、とりわけ興味を引いた点を自分自身のために忘れないように箇条書きスタイルで整理してみた。

なお、※の部分は自分勝手な独り言なのでけっして鵜呑みにしないようにしてくださいな(笑)。

☆ 難聴の大きな要因は「騒音」と「動脈硬化」

2007年10月、日本の国立長寿医療研究センターから「加齢と難聴には相関関係がない」というショッキングなニュースが発表された。主として難聴に関係していたのは「騒音」と「動脈硬化」の二つだという。

「騒音」の原因には「騒音職場」とともに「ヘッドフォン難聴」「イヤフォン難聴」が挙げられ、一方の「動脈硬化」は言わずと知れたメタボリック・シンドロームである。

この二つは日常生活の中で十分予防が可能だが、今の段階から一人ひとりが心がけていかない限り、近い将来「大難聴時代」がやってくることは必至だ。

☆ 日本語は世界一「難聴者」にやさしい言語

どの国の言語にもそれぞれ固有の周波数帯というものがあり、母国の言語を繰り返し聞いて育つうちにその周波数帯以外の音を言語として聞き取る脳の感受性が失われていく。

そのため生後11歳くらいまでには母国語を聞いたり発音する能力に特化した脳が出来上がる。

日本語で頻繁に使われる周波数帯は125〜1500ヘルツで、英語は200〜12000ヘルツと随分と違う。日本語は世界の言語の中でもっとも低い周波数帯の言語で、英語は世界一高い周波数帯の言語である。

したがって、英語民族は高齢になると早い段階で高い音が聞き取りにくくなって不自由を感じるが、日本人はすぐには不自由を感じない。その点で日本語は世界一難聴者にやさしい言語である。

※ これは一人で二か国の言語を操るバイリンガルの「臨界期」が10歳前後と言われる所以でもある。また、英語圏の国で製作されたアンプやスピーカーなどのオーディオ製品には、高音域にデリカシーな響きをもったものが多いが、これで謎の一端が解けたような気がする。その一方で、とかく高音域に鈍感な日本人、ひいては日本のオーディオ製品の特徴も浮かび上がる。

☆ 聴力の限界とは

音の高い・低いを表す単位がヘルツなら、音の強さや大きさ(=音圧レベル)は「デシベル(dB)」であらわす。

人間が耳で聞き取ることのできる周波数の範囲は「20〜2万ヘルツ(空気中の1秒間の振動が20回〜2万回)」の間とされているが、イルカやコウモリなどは耳の形や構造が違うのでこの範囲外の超音波でさえ簡単に聞き取れる。

ただし人間の場合は20ヘルツ以下の音は聴覚ではなく体性感覚(皮膚感覚)で感じ取り、2万ヘルツ以上の音(モスキート音)は光や色として感じ取りその情報を脳に伝えている。

※ 人間の耳は一人ひとりその形も構造も微妙に違うし、音を認知する脳の中味だって生まれつき違う。したがって同じオーディオ装置の音を聴いたとしても各人によって受け止め方が千差万別というのが改めてよくわかる。

自分でいくら「いい音だ」と思ってみても、他人にとっては「それほどでもない」という日常茶飯事のように起こる悲劇(?)もこれで一応説明がつくが、音に光や色彩感覚があるように感じるのは超高音域のせいだったのだ!

☆ 音が脳に伝わるまでの流れ

耳から入った空気の振動は外耳道と呼ばれる耳の穴を通り、アナログ的に増幅されて鼓膜に伝わり、アブミ骨などの小さな骨に伝わってリンパ液のプールである蝸牛へ。そこで有毛細胞によって振動が電気信号に変換され、聴神経から脳に伝わる。これで耳の中の伝達経路はひとまず終了。

この電気信号が言語や感情と結びついた「意味のある音」として認識されるまでにはもう少し脳内での旅が続く。

電気信号が聴神経や脳幹を経て脳内に入ると、まず、大脳の中心部にある「視床」に送られる。ここは、脳内の情報伝達の玄関口となっている。視覚、聴覚、皮膚感覚などあらゆる感覚情報が必ず通る場所で、単純に音だけを聴いているつもりでも、様々な感覚情報とクロスオーバーしている。

また「視床」を通過すると音の伝達経路は「言語系ルート」と「感情系ルート」の二つに大きく分かれる。前者は最終的に「言語野」に到達するが、後者は大脳の一次聴覚野を通らず、いきなり「扁桃体」に直結していて「イヤな音」「うれしい音」というように音を直感的・情緒的に受け止める。

※ 音楽を聴くときにカーテンなどでスピーカーを隠してしまったり、あるいは目を瞑って聴いたりすると、機器の存在を意識しないでより一層音楽に集中できるのは経験上よく分かる。

さらに、直感的なイメージとしてオーディオマニアが音楽を聴くときには主として「感覚系ルート」がはたらき、それ以外の人たちが(音楽を)聴くときには主として「言語系ルート」が働いているように思うが果たしてどうだろうか・・・。

ほかにも本書には「音楽好きための難聴予防テクニック」など貴重な情報が満載で、末永く「音楽&オーディオ」を楽しみたいと思われる方は是非ご一読されることをお薦めしたい。
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c85e3a32c3aca5331dd2fb7adaf73d2a

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/205.html#c23

[リバイバル3] ブリティッシュ・サウンドとは何か? _ 安物スピーカー スペンドール BCII から奇跡の音が… 中川隆
6. 中川隆[7177] koaQ7Jey 2017年3月19日 09:22:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7648]

耳トレ!


耳トレ!-こちら難聴・耳鳴り外来です。 – 2011/10/3 中川雅文 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E8%80%B3%E3%83%88%E3%83%AC-%E3%81%93%E3%81%A1%E3%82%89%E9%9B%A3%E8%81%B4%E3%83%BB%E8%80%B3%E9%B3%B4%E3%82%8A%E5%A4%96%E6%9D%A5%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82-%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E9%9B%85%E6%96%87/dp/476781202X

                      

大学教授で現役のお医者さんが書いたこの本には「耳の健康」に対する情報が満載で実に”ため”になる本だった。

☆ 日本語は世界一「難聴者」にやさしい言語

どの国の言語にもそれぞれ固有の周波数帯というものがあり、母国の言語を繰り返し聞いて育つうちにその周波数帯以外の音を言語として聞き取る脳の感受性が失われていく。

そのため生後11歳くらいまでには母国語を聞いたり発音する能力に特化した脳が出来上がる。

日本語で頻繁に使われる周波数帯は125〜1500ヘルツで、英語は200〜12000ヘルツと随分と違う。日本語は世界の言語の中でもっとも低い周波数帯の言語で、英語は世界一高い周波数帯の言語である。

したがって、英語民族は高齢になると早い段階で高い音が聞き取りにくくなって不自由を感じるが、日本人はすぐには不自由を感じない。その点で日本語は世界一難聴者にやさしい言語である。

※ これは一人で二か国の言語を操るバイリンガルの「臨界期」が10歳前後と言われる所以でもある。また、英語圏の国で製作されたアンプやスピーカーなどのオーディオ製品には、高音域にデリカシーな響きをもったものが多いが、これで謎の一端が解けたような気がする。その一方で、とかく高音域に鈍感な日本人、ひいては日本のオーディオ製品の特徴も浮かび上がる。

☆ 聴力の限界とは

音の高い・低いを表す単位がヘルツなら、音の強さや大きさ(=音圧レベル)は「デシベル(dB)」であらわす。

人間が耳で聞き取ることのできる周波数の範囲は「20〜2万ヘルツ(空気中の1秒間の振動が20回〜2万回)」の間とされているが、イルカやコウモリなどは耳の形や構造が違うのでこの範囲外の超音波でさえ簡単に聞き取れる。

ただし人間の場合は20ヘルツ以下の音は聴覚ではなく体性感覚(皮膚感覚)で感じ取り、2万ヘルツ以上の音(モスキート音)は光や色として感じ取りその情報を脳に伝えている。

※ 人間の耳は一人ひとりその形も構造も微妙に違うし、音を認知する脳の中味だって生まれつき違う。したがって同じオーディオ装置の音を聴いたとしても各人によって受け止め方が千差万別というのが改めてよくわかる。

自分でいくら「いい音だ」と思ってみても、他人にとっては「それほどでもない」という日常茶飯事のように起こる悲劇(?)もこれで一応説明がつくが、音に光や色彩感覚があるように感じるのは超高音域のせいだったのだ!

☆ 音が脳に伝わるまでの流れ

耳から入った空気の振動は外耳道と呼ばれる耳の穴を通り、アナログ的に増幅されて鼓膜に伝わり、アブミ骨などの小さな骨に伝わってリンパ液のプールである蝸牛へ。そこで有毛細胞によって振動が電気信号に変換され、聴神経から脳に伝わる。これで耳の中の伝達経路はひとまず終了。

この電気信号が言語や感情と結びついた「意味のある音」として認識されるまでにはもう少し脳内での旅が続く。

電気信号が聴神経や脳幹を経て脳内に入ると、まず、大脳の中心部にある「視床」に送られる。ここは、脳内の情報伝達の玄関口となっている。視覚、聴覚、皮膚感覚などあらゆる感覚情報が必ず通る場所で、単純に音だけを聴いているつもりでも、様々な感覚情報とクロスオーバーしている。

また「視床」を通過すると音の伝達経路は「言語系ルート」と「感情系ルート」の二つに大きく分かれる。前者は最終的に「言語野」に到達するが、後者は大脳の一次聴覚野を通らず、いきなり「扁桃体」に直結していて「イヤな音」「うれしい音」というように音を直感的・情緒的に受け止める。

※ 音楽を聴くときにカーテンなどでスピーカーを隠してしまったり、あるいは目を瞑って聴いたりすると、機器の存在を意識しないでより一層音楽に集中できるのは経験上よく分かる。

さらに、直感的なイメージとしてオーディオマニアが音楽を聴くときには主として「感覚系ルート」がはたらき、それ以外の人たちが(音楽を)聴くときには主として「言語系ルート」が働いているように思うが果たしてどうだろうか・・・。
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c85e3a32c3aca5331dd2fb7adaf73d2a

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/690.html#c6

[リバイバル3] ブリティッシュ・サウンドとは何か? _ 安物スピーカー スペンドール BCII から奇跡の音が… 中川隆
7. 中川隆[7178] koaQ7Jey 2017年3月19日 09:59:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7649]

>日本語で頻繁に使われる周波数帯は125〜1500ヘルツで、英語は200〜12000ヘルツと随分と違う。

>日本語は世界の言語の中でもっとも低い周波数帯の言語で、英語は世界一高い周波数帯の言語である。

>英語圏の国で製作されたアンプやスピーカーなどのオーディオ製品には、高音域にデリカシーな響きをもったものが多い。

>その一方で、とかく高音域に鈍感な日本人、ひいては日本のオーディオ製品の特徴も浮かび上がる。

>人間の場合は20ヘルツ以下の音は聴覚ではなく体性感覚(皮膚感覚)で感じ取り、2万ヘルツ以上の音(モスキート音)は光や色として感じ取りその情報を脳に伝えている。

共感覚

共感覚(きょうかんかく、シナスタジア、synesthesia, synæsthesia)は、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。

例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする。 英語名 synesthesia は、ギリシア語で共同を意味する接頭辞 syn- と感覚を意味する aesthesis から名づけられた。感性間知覚。

音に色が見える共感覚

色聴と呼ばれ、日本にも専門の研究者が存在する。

共感覚者であると確証される現在の海外の人物

共感覚者であることを第三者が確証できるほどの極めて具体的な自らの共感覚の例を掲げた著作・芸術作品などの活動が確認できるほか、大学などの研究機関において被験者として検証実験を受けたり、研究者の著作・学術論文中にて引用・言及されており、共感覚者であると確証するに足る人物を挙げる。


エレーヌ・グリモー (ピアニスト)

アメリカ公共放送PBSとのインタビューで本人が語っている。


Helene Grimaud interviewed by Alexis Bloom for Quick Hits
https://www.youtube.com/watch?v=N_dw9-Bt_sM

いつもCは黒、Bは青、Fは赤、リストの曲は金色がかった色調に感じる。


また、11歳の時にバッハの平均律クラヴィーア曲集Fシャープメイジャー(嬰ヘ長調)のプレリュードを弾いている時に明るい暖かな赤とオレンジの間の色調を感じた。

数字にも色を感じる。2は黄色、4は赤、5は緑。

曲によってはいつも特殊な色の世界を感じる。時によって調性に影響される。

Cマイナー(ハ短調)は黒、Dマイナー(ニ短調)は青。

ベートーヴェンのテンペストソナタは黒、合唱幻想曲は黒、緑、赤、黄色のらせんを感じる。

___

マイケル・トーキー(作曲家)

音階や母音などに色を感じ、その色を主題として題名に取り入れたバレエ音楽『グリーン』『エクスタティック・オレンジ』などを作曲した。インタビューの中で、ひとつの実験として始めたが、特定の趣を押し付け「観客が音楽を楽しめる幅を狭めてしまったのではないか」と心配もしたと述べている。


___


イツァーク・パールマン(ヴァイオリニスト)

パールマンは、G線でBフラットを弾くときは深緑色、E線でAを弾くときは赤を感じる。

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フランツ・リスト(作曲家・ピアニスト・指揮者)

オーケストラを指揮したとき、「ここは紫に」など、音を色として表現した指示ばかり出し、団員たちが困惑したエピソードが有名[要出典]。


____


女性の高い声を「黄色い声」などと言うように、人類、あるいは特定の環境・文化において複数の種類の感覚を結びつける比喩的習慣が広く存在するが、共感覚はそのようなものと直接は関係しておらず、共感覚を持たない人には感じられない上述の数字に色を見るなどの感覚を、主観的な知覚現象 (クオリア) として生々しく感じている。

共感覚は五感のような基本的な感覚の種別に関してだけではなく、感情や単語や数などに関して起こることもある。 共感覚者の間での複合した知覚の関係に相関は認められていない。 例えば、ある人がある文字を青く感じたとしても、他の共感覚者が同様に感じる傾向があるとは限らない。

共感覚を手がかりに主観的な心の世界と客観的な脳との関係を深く探る手がかりとしようとする研究が継続的に行われている。

赤ちゃんにおいては視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚等の異なる種類の感覚が未分化な知覚を生み出しており、通常その後の成長による感覚の発達にともなう脳の結合の変化によってこうした共感覚は失われていくとされる。この場合、成人して共感覚を保持している人は発達の過程で何らかの理由で脳の異なる部位への結合が保たれ、これらの複合した知覚もそのまま保たれているとする説もある。

共感覚の中でも、音楽や音を聞いて色を感じる知覚は「色聴」といわれる。

絶対音感を持つ人の中には、色聴の人がいる割合が高い。

また、色聴は共感覚の中で一番発生率が高いと報告されている。

色を感じる音にも様々なものがあり、音程、和音、単語、または音楽自体が聴こえることもある。 似たような感覚として「音視」というものもある。これは色に形や音が聴こえるという色聴とは反対の感覚である。

かつては共感覚で感じる知覚というのは共感覚者によって異なるとされてきたが、最近の研究では、多くの被験者を対象にした実験の場合、知覚にいくつかの共通点が見られることが分かった。

例えば、聞こえた音に色が付いて聞こえるサウンド・カラー共感覚(sound-color synesthesia:色聴)保有者の集団実験では、高い音ほど明るい色に見えるという傾向が見られたという。

また黒字の文字を見ても別の色に見えることがあるというグラフィーム・カラー共感覚(grapheme-color synesthesia:書記素色覚)保有者の集団実験では、やはりある文字には似たような色を感じる傾向があるということがわかった。

ところが、ある傾向が見られることは確かだが、あらゆる種類の共感覚があり、いずれの共感覚にしても個人によって誘因や症状の度合いは異なることも分かっている。この多様性のせいで、個人のもつ共感覚を定義するのは容易なことではないし、彼ら自身、自分の持っている感覚に名前が付いていないことに気付いていないことが多い。



色の付いていない文字なのに色が付いて見える人がいる。これを共感覚という。また、音声に色がついて見える人や、円周率の数列に美しさを感じる人もいる。
神経学者のリチャード・E. シトーウィックは、共感覚の診断のために用いる基準を以下のように決定した。


1.共感覚者のイメージは空間的な広がりをもち、はっきりと限定されたロケーション(位置)を特定できることが多い。 [訳註]共感覚者は空間的なイメージの中で、自分の位置している場所がはっきりと分かる。

2.共感覚は無意識的に起こる。

3.共感覚の知覚表象は一貫性がある。

4.共感覚はきわめて印象的である。

5.共感覚は感情と関係がある。

シトーウィックは、空間の広がりを見据えた実験を提言したが、最近の多くの研究はこれを正しくないとしている。例えば、共感覚者の中には文字の色や、単語の味が「わかる」のであり、実際に視覚器や味覚器で感じているわけではないのである。


共感覚者の多くは子供のころに他人とは異なる隠れた感覚に気づく。

そして彼らは自然とその感覚を日常生活に適用させていく。

また、共感覚で人の名前を覚えたり、電話番号を覚えたりすることに使うこともあれば、暗算に利用することもできる。しかし同時に、絵画・映画などの視覚的な作品や音楽を創造する上での困難になることさえある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F%E8%A6%9A
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/690.html#c7

[リバイバル3] ブリティッシュ・サウンドとは何か? _ 安物スピーカー スペンドール BCII から奇跡の音が… 中川隆
8. 中川隆[7179] koaQ7Jey 2017年3月19日 10:15:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7650]

音に色や温度を感じる 「共感覚」が不思議すぎる! 2016.01.12
http://eye-media.jp/entertainment/%e5%85%b1%e6%84%9f%e8%a6%9a%e3%81%ae%e4%b8%8d%e6%80%9d%e8%ad%b0/


音に色を感じる――。

なんだか詩的な表現のように感じますが、本当に音を色として感じることのできる人々が、世の中には存在しているのです。

こうした特殊な知覚現象を『共感覚』と呼びますが、共感覚を持つ人々にとって、音は単なる音ではなく、また形は単なる形ではありません。今回は、人が持つ特殊な感受性『共感覚』の不思議をご紹介します。

脳による五感の錯綜が「共感覚」を引き起こす?

共感覚は、英語では『シナスタジア』と呼ばれています。シナスタジアとは“感性間知覚”の意味を持つ言葉で、脳に存在する複数の感覚器官が同時に音や形を知覚する現象のことを指しています。

例えば、本来なら脳の一次聴覚野だけで処理される音情報を、視覚野でも処理することで、音から色を感じるなどの感性間知覚が引き起こされます。このように、ある現象に対して、五感の異なる感覚が作用することで起こる主観的なクオリア(感覚質)が、共感覚の原因だといわれています。

これにより、共感覚を持つ人にとっては、数字が特定の色を持つ絵として感じられたり、音を聞けば音階によって色が感じられたりします。こうした共感覚にはさまざまのパターンがありますが、「形に味がついて感じられる」、「人の容姿が色として感じられる」などの例が報告されています。

著名人にも共感覚の持ち主はいる!

中でも発生率がもっとも高い共感覚は“色聴”と呼ばれていますが、この現象は、文字通り「音に色を感じる」というものです。色聴は絶対音感を持つ人に一定の割合で存在するといわれており、ピアニストのエレーヌ・グリモーなど、自ら共感覚者であることを表明している著名人も数多く存在しています。

そして、色聴と逆の知覚現象が“音視”という共感覚です。音視を持つ人にとっては、色が特定の音階として感じられるのだそうです。


実は、私たち全員がかつて共感覚者だった!?


とても不思議な共感覚ですが、実は私たちも、新生児の頃には共感覚を持っていたといわれています。

というのも、生後間もない赤ちゃんは脳の受容器官が未分化なため、複数の器官で感覚を同時に処理していると考えられているのです。

音を色で感じ、形を音で感じる。こうした知覚の不思議を、私たちが考えるよりもずっと多くの人が経験し、記憶しているのかもしれませんね。
http://eye-media.jp/entertainment/%e5%85%b1%e6%84%9f%e8%a6%9a%e3%81%ae%e4%b8%8d%e6%80%9d%e8%ad%b0/


野生のしらべ – 2004/5/11 エレーヌ グリモー (著)
https://www.amazon.co.jp/%E9%87%8E%E7%94%9F%E3%81%AE%E3%81%97%E3%82%89%E3%81%B9-%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8C-%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%A2%E3%83%BC/dp/4270000163

2007年06月28日 狼女=エレーヌ・グリモー


・性別: 女性。
・姓名: エレーヌ・グリモー Helene Grimaud。
・何人?: フランス人。
・何者?: クラシックのピアニスト。
・生年月日: 1969年11月7日生。
・備考: 美人ドキドキ


対称性の強迫

・子供の頃は奇行と奇癖の目立つ問題児。集団生活に馴染めず、いじめられっ子で友達もできなかった。

・幼少時からの対称性の強迫行為。勉強机の上で本の両側に同数の鉛筆が配され、本はノートから等距離に並べられなければならない。靴紐は両足とも同じようになるまで結んでは解いてを何時間も繰り返した(エレーヌ・グリモー『野生のしらべ』p.59)。


・コンサート・ピアニストになってからも強迫行為は暫く続いた。演奏旅行中に投宿したホテルの家具や備品を左右対称に並べ替えないと気が済まない。コンサート後は疲れているにもかかわらず、気を利かせたメイドが凝りに凝った強迫的ディスプレイを元に戻してしまったと確信して、恐れつつ電気も点けずに、ベッドルーム、バスルーム、洗面台と巡り、全てを並べ直して回った(同上。p.59-60)。


・しかし日本を演奏旅行中のある日、ホテルに帰り疲労の極致にあって猶、イルカのプリントされたセーターをその柄が上下左右対称になるよう物差し(!)を使って折り畳んでいた時に、発作的にセーターを窓から投げ捨て、以後強迫症状は止んだ(同上。p.60)。


・楽器の演奏やスポーツ等、完璧の追及が要求される営みには生得的な強迫的性格が必要、とエレーヌ・グリモーは主張する(同上。p.65)。


就眠の儀式

・眠る前にベッドの中で、教理問答で習った祈りを一定の規則で繰り返し声に出して唱える。そうして漸く眠りに就くことができた。言い間違えたり、発音やイントネーションが気に入らないと最初から唱え直し、満足するまで何時間でも続け、時には明け方に疲れ切って眠り込む、ということもあった(同上。p.51-52)。


・後、この儀式は音楽で役立つことになる。音楽学校の試験前夜、課題のシャルパンティエがどうにも退屈で憶える気が起こらず、諦めて床に就いたが、突然祈りの習慣が甦り、無意識的にスキャンされていたシャルパンティエの譜面を全て、かつて祈りを反復したようにリズムとアクセントに満足が行くまで飽くことなく繰り返してイメージ・トレーニングし、翌日試験ではその曲を完璧に弾きこなした(同上。p.52-53)。


自傷行為或いはエンドルフィン嗜癖(?)


・自傷行為が対称強迫の対象となる。6歳の時、母の故郷コルシカの海岸でかかとに傷を負い、麻酔無しで縫合の手術を受けたのだが、その最中に思わず笑みがこぼれるほどの至福感を体験する。たぶんエンドルフィン(*)が大量に分泌されたんだと思う。しかし心配する両親を尻目にめくるめく快感に浸っている自分に対して後ろめたさを感じてしまい、苦痛と涙を装ってことがこじれる。数分後に全ては忘却されたが、これを契機に全ての障害が始まった、とグリモー自身は記している(それが隠蔽記憶でなければね)(同上。p.40-44)。

(*)エンドルフィンについては ↓

「報酬系・ドーパミン・渇望:コルトレーン、ヘロインを断つ その16」
http://ameblo.jp/lm199781/entry-10017910374.html

「練習による依存の適正な代替:コルトレーン、ヘロインを断つ その28」 参照。
http://ameblo.jp/lm199781/entry-10025913975.html


・数年後、砂利道で偶然転んで膝に傷を負い、生を強く実感、エンドルフィン体験が甦る。自傷行為が勃発し、しまいには対称強迫と連動して右手に傷をつけると左手にも傷をつけないではいられなくなる。両手・両膝・両肘に絆創膏を貼った以前にも増して奇妙な子供とグリモーはなってしまう。(同上。p.57-59)。

[覚書: エンドルフィンは自傷行為が習慣化する理由の一つであるかもしれないが、事後的に(或いは発端として)生ずる自罰衝動はエンドルフィンでは説明できない? やはりエンドルフィンだけではタナトスを説明できない? そりゃそうか。]


・7歳の時、情操教育のため(まあ、問題児だったから)両親に音楽教室へ連れて行かれ、女性ピアノ教師が弾くシューマンを聴き、深く魅惑される。

自身の内奥から生ずる魔力、とグリモーは表現するが、それってやっぱエンドルフィンじゃないだろうか(音楽に感動するとエンドルフィンが出ます)。明らかに音楽はグリモーの性に合っていた。以後ピアノにのめり込み、自ら進んで練習する。両親はさらに偏った性格になるのではないかと心配するがもう遅い(*)。音楽という全く別種の刺激に触れて報酬系は新たに賦活され、グリモーを猛烈に駆り立てる。それかあらぬかパリ音楽院に入学した13歳の頃に自傷行為は自然に消えた(**)(強迫性プラス報酬系駆動、というのはコルトレーンの生涯を理解する上でもかなり参考になる)。


(*)この辺はグレン・グールドとちょっと似ている。手袋おやじも子供の頃はむちゃくちゃ練習大好きで、変人になることを危惧した両親から練習時間を日に4時間と制限されていた。そしてグールドもまたグリモー同様友達のできないいじめられっ子だった。しかし性格はちょっと(いやかなり)違う。グールドの場合は強迫じゃなくって分裂病質だとかアスペルガー症候群だとか言われたりしている。ミシェル・シュネデール『孤独のアリア』、宮澤淳一「グールドと精神医学」(KAWADE夢ムック文藝別冊『グレン・グールド』)参照。
(**)『野生のしらべ』p.64, p.59


・エンドルフィン仮説(ドーパミンでもいいけど)をさらに裏付けるのは、くたくたになるまで運動することを好んだ、というエピソード。延々と続く歩行や階段の駆け上り、バーベルや鉄アレイ、ランニング・マシーンを通じての肉体の酷使。この女、疲労を超越した快楽の味を占めているのが見え見えですぜ、ニセ医者の旦那(ちなみに歩行やジョギングといった反復運動はセロトニン神経を活性化する。セロトニンについては後で触れるかも)(同上。p.256-257)。


狼大好き

狼マニア。「狼女」たる由縁の症状。

アメリカ移住後、狼と運命的な出会いを経験、強く嵌り込む。

狼について大学で勉強し、果ては土地を買い込み放し飼いにして狼保護センターを設立するに至る。狼についての生物学的・博物学的な知識は『野生のしらべ』にも惜しみなく投入され、自伝的エピソードのカウンター・メロディを成す。気に入るととことん強迫的(いちず、とルビを振りたい)になるタイプみたいです。狼のために恋人も捨ててしまいました。
http://ameblo.jp/lm199781/entry-10038082588.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/690.html#c8

[リバイバル3] ブリティッシュ・サウンドとは何か? _ 安物スピーカー スペンドール BCII から奇跡の音が… 中川隆
9. 中川隆[7180] koaQ7Jey 2017年3月19日 10:50:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7651]

>人間の場合は20ヘルツ以下の音は聴覚ではなく体性感覚(皮膚感覚)で感じ取り、2万ヘルツ以上の音(モスキート音)は光や色として感じ取りその情報を脳に伝えている。


音色は倍音成分の入り方で決まるので、音色というのは本当に色彩の色なのです

ブラームスは灰色、ドビュッシーは水中の光の色、モーツアルトは 1小節毎に音色が変わる

というのはイメージではなく本当にそういう色が付いているのですね

僕もプリアンプの marantz 7c を使っていた時は音に緑色の色が付いていて不思議だったです

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/690.html#c9

[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
96. 中川隆[7181] koaQ7Jey 2017年3月19日 14:40:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7652]

奇習! 花婿が義母からセックスを学ぶ「母娘どんぶり婚」 ― “良い息子”に成長するための秘密の夜伽=愛知県


【日本奇習紀行シリーズ】 愛知県西部

 作家・谷崎潤一郎の小説をもとに1959年に映画化された市川崑監督の『鍵』。この映画においては、中村鴈治郎演じる古美術鑑定家の剣持が、愛娘の敏子(叶順子)の婚約者で、大学病院のインターンとして多忙な毎日を送る木村(仲代達矢)に、妻の郁子(京マチ子)をあてがおうとするという、なんとも奇妙な性的嗜好の持ち主として登場するが、実はこの映画を彷彿とさせる奇習が、かつて愛知県西部のとある地域に存在していたという。


「まあ、言ってしまえば、娘婿と花嫁の母親が寝るという話ですよ。それが婚礼の際のしきたりとなっていましてね。今となっては変な話にしか思えないのですが」


 自身が知るその奇習について今回我々に証言してくれたのは、かつて当地で暮らしたことがあるという崎田善三郎さん(仮名・82)。崎田さんの話によると、その地域においては、娘の婚礼が決まると、その生みの親である母親を、娘婿に抱かせるという、なんとも奇妙な風習が存在していたという。


「まず結婚が決まると、婚礼の前の1週間だけ、村全体で共用している小屋というか、離れみたいな小さな家がありましてね、そこで花嫁の母親と花婿が暮らすと。それこそ新婚生活のような感じでしてね、要はそういう時間の中で、一番大切にされているのが、夜伽(よとぎ)と。そういうわけです」

崎田さんの話によると、花嫁の母と花婿との“営み”は、必ず毎日1回以上と決められており、それを1週間続けるのだという。我々の常識で考えれば、少々想像しづらい話だが、村人たちから崎田さんが聞いた話では、そうした行為を一定期間続けることにより、花婿は血の繋がっていない義理の母であっても実母以上に大切に想うことができるようになり、「良い息子」へと成長することに繋がるのだとされていたという。


「おそらくなんですが、熟練された母親にですね、若い娘婿を手ほどきさせて……っていう話なんだと思いますから、要は、広い意味での“子宝祈願”というのが建前であったのではないかと思います」


 この行為が持つ大義名分について、そう分析する崎田さん。実際のところ、その推測がどの程度正確なものなのかは定かではないが、たしかにそうした関係を持つことで、義理の母に対して、男性が格別の想い入れを持てそうな気もしてくることは事実だが……如何だろうか。
(取材・文/戸叶和男)
http://tocana.jp/2017/03/post_12305_entry.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c96

[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
97. 中川隆[7182] koaQ7Jey 2017年3月19日 14:46:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7653]

奇習! 逆らえばリンチ、輪姦、処刑… 紳士的村人の“裏の顔”と強烈すぎる男尊女卑地獄=青森県


【日本奇習紀行シリーズ】 青森県


「今は平気で女の人が男の人を振ったりするでしょ? けどね、私らのところじゃ、昔、そんなことをすると、えらいことになったものだよ」


 自らが生まれ育った地域の知られざる実態についてそう語るのは、青森県のとある地域で暮らす無職・世良善三さん(仮名・82)。世良さんの話によると、彼が生まれ育ち、三十路手前まで暮らしていたという同県の「有名な湖の近くの某地域」においては、「強烈な男尊女卑文化」ともいうべき、恐るべき風習が存在していたのだという。


「まあ、簡単に言ってしまうと、女が男に逆らっちゃいけないっていう。逆らったり、機嫌を損ねたら、むごい目に遭わされるっていう風習ですよ」


 要は結論から言ってしまうと、当地においては結婚はもとより、恋愛に関しても、女性側に何ら選択権はなく、婚姻関係にあったり、交際中にある際に女性は完全に男性に対して隷属し、男性の機嫌を損ねたりすれば、即座に、村人全員を巻き込んでの「処罰」が下されるのだという。


「もともと色恋に関しては、男から言うの。くっつくときも離れるときも。女からは言えない。くっつくきはまだしも、離れるときに女側からそんなことを言い出そうもんなら、それこそ袋叩きにされるからね。だから傍目に見ると、あの村で幸せそうに暮らし続けている夫婦というのは、夫も妻も完璧すぎるというか、どこをどう見ても善人でしかないんだよ。だって、そうじゃない人は殺されちゃったりするんだから」


 世良さんの話によると、男性側の申し出により、「処罰」が行われる際には、概ね、(1)集団でのリンチ(2)集団輪姦(3)処刑……のいずれかを選び、その「刑罰」が下されるのだという。一応、刑の執行にあたっては、女性側からの申し開きの場も設けられるが、それはあくまで形式上のことであり、現実にはほぼ100%、女性に対して先述した「三刑」のいずれかが下されるのだ。


「そういう目に遭うからね、女はものすごく気立てが良い嫁さんになるし、夫はそういう嫁を見て、とても大切にするんだよ。けど、それがもしね、うまくいかなくなったりしたら、嫁だけが間引かれるから。他所から嫁にきたってそう。夫婦喧嘩なんかしようものなら、晒し者にされた挙げ句に殺されて終わりよ」


無論、こうした一方的な「私刑」が公然と行われる一方で、世良さんが言うように、その日常において、必ずしもこの集落の男性が「男尊女卑」的な言動をとるわけではなく、むしろ、日頃は至って紳士的。それこそ100年以上も前から、「レディファースト」の習慣が定着し、結婚後も、家事や育児は夫婦で分担するなど、「いい男」揃いなのだという。にもかかわらず、ひとたび女性が男性の怒りを買うと、このような刑罰が下されるのである。


「昔からあのあたりは優男というか、いい男が多かったみたいだからね。そういう男たちによって、至れり尽くせりの生活をして、自分もいい女でい続けようと思って振舞えれば、何一つ不自由なんてありゃしないハズなのさ。けど、多くの女が増長して、いつしかそういうありがたみを忘れちまう。だからその歯止めにするために、ああいう風習ができたんじゃないかな」


 当地のおぞましき奇習について、ある種の「抑止力」としての意味合いがあると推測する世良さん。その是非はともかく、また、こうした奇習の有無に関係なく、日頃、身近な男性に対して傍若無人の振る舞いをして憚らぬ女性は、たまには自身の言動を顧みることがあっても良いのかもしれない。

(取材・文=戸叶和男)
http://tocana.jp/2016/10/post_11238_entry.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c97

[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
98. 中川隆[7183] koaQ7Jey 2017年3月19日 14:54:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7654]

奇習!母娘の「親子丼」を正当化した邪悪な男たち―ある資産家男性の告白


【日本奇習紀行シリーズ】 北関東


 今でこそインターネット上の情報交換が盛んとなり、性に関する情報が氾濫している状況となっている。だが、こうした時代になるまでは、一般とは少し違った性嗜好は、まさに「秘せるもの」であった。ましてやそれが、集団による不可思議な習慣として結実したものともなれば、それは後世の人々にとって、なおさら神秘のベールに包まれたものとなる。


「もともとは自分の中だけの秘密といいますかね、そういう行為だったんですけれども、行きがかり上、習慣になってしまった、と。そういう話です」


 自らの抱えている特異な性的嗜好と、そうした嗜好が生み出した行為、さらにはその賛同者によって定着したという「秘せる習慣」についてそう語るのは、東京都在住の元会社経営・堀江孝三郎さん(仮名・89)。彼の話によると、今を遡ること約60年前の昭和30年代初頭、北関東のとある地域では、彼が生み出した習慣が、その地域全体で「公然の事実」として定着していたという。


「私はね、若い頃から女というものに執着していましてね。特に、母と娘、姉妹といった近い血のつながりがある女に対しては、とにかく“味比べ”をしたくてしようがなかった。だからね、最初は自分の手近なところで、そういう嗜みとでもいいますかね、やっていたんですよ」


 もともと、母娘を同時に犯すという、いわゆる「親子丼」の行為について異常な執着を持っていたという堀江さんは、自らが経営していた会社で事務員として雇った当時30代半ばの女性を愛人として囲うようになった。その時点で既に彼の頭の中には、彼女の娘で、中学に入ったばかりの少女に対する強烈な執着と欲望が生まれ始めていたという。


「その女は三十路のいい女でしてね。となると、その娘だって、色気づく年頃には、母親と似てくるわけでしょう? そうなればどうしても“味見”したくなっちゃう。ましてや、母親よりも若いし、男を知らぬときたものですからね。私はね、母親の方の股を覗き込みながらね、『ここからあの娘が出てきたのか』って感慨深く思いますし、さらにここから出た娘が、もうこんなになっているって思ったら、もう…。だからね、話がまとまったときにはね、布団をふたつ敷いて、ふたりを並べましてね、交互に“味比べ”をね、したものですよ」


 沸き起こる性衝動を抑えきれずに、継父的な立場でありながらも、娘とその母を同時に性奴隷化したという堀江さんに対し、薄々事情を察しつつあった周囲の目は極めて厳しかった。それまで気さくに挨拶を交わしていた近隣住民たちは彼を避けるようになり、商売上、付き合いのあった人々ですら、彼と距離をとるようになっていったという。

 そこで彼は一計を案じ、有力な町議会議員や町で富豪として知られていた人物に接触。彼らに多額の金を握らせることで地域社会の「世論」を再構築することを思いついた。結果、彼は少女とその母親を同時に抱くという「親子丼」を、さも当たり前のことであるかのようにした上で、地域住民を巻き込む形で「古くからある習慣」として事実を歪曲・捏造し、定着させることに成功したという。


「人間なんてね、所詮は金です、金。金を握らせれば、常識も道徳もありゃしない。だから私は金を使ったんです。するとね、今まで私に陰口を叩いていたような連中までが私に従ってくる。あれは愉快でしたよ。気づいたらね、私のやっていることが、常識みたいな話になって。それからは毎日が幸せでしたね」


 それからというもの、堀江さん自身はもとより、彼と同様の行為に走る男たちが同地域で激増。「極めて自然な形」(堀江さん)で習慣として定着した。また当時ほど大っぴらではないものの、現在もなお、その地域では同様の行為が行われているのだという。


「私はね、もうこういう歳だからそんなにはしないけれども、あの時の私の努力が実ってね、今、こういう習慣として、残ってるわけでしょう? それは感慨深いことですよ。私自身だって、あの時の娘がね、子供を生みまして。その子供がまた娘を産んだんです、つい最近。もちろん、多少の“味見”はしましたけれどもね」


 自らが生み出し、定着させた「習慣」についてそう語る堀江さん。にわかに信じがたい話ではあるが、得てして、世の中に存在する奇習の類というものは、こうした個人のあらぬ欲望によって生み出され、ある種の力技によって、地域全体へと定着したものなのかもしれない。
(取材・文=戸叶和男)
http://tocana.jp/2016/08/post_10561_entry.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c98

[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
99. 中川隆[7184] koaQ7Jey 2017年3月19日 15:05:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7655]

奇習! 終戦直後の“母娘どんぶり”の実態! 継父による性的虐待推奨制度「二婦貰い」とは?


【日本奇習紀行シリーズ】 山梨県甲府盆地


 生別か死別かは別として、夫と離れた後に、女手ひとつで我が子を懸命に育てている女性は、今でも数多く存在している。そうした女性が、後に別の男性と所帯を持った場合に、女性の連れ子が女児の場合は、継父から性的虐待を受けたりといった深刻な事態が発生することも少なくない。しかし、かつてこの国においては、そうした継父による性的虐待が、当たり前のこととして行われて、むしろ推奨にも誓い形で定着していた地域が存在している。

 山梨県の甲府盆地から少し北方へと車を走らせたある寒村。周囲に点在する観光地とは裏腹に、ひっそりと静まり返ったその村で、今なお細々と農業を営む義家敬三さん(仮名・78)は、かつて当地で行われていたその儀式について知る、数少ない生き証人のひとりだ。


「戦争がね、終わりの頃にさしかかってくると、みんな兵隊でとられてしまってね、本当に誰もいなくなってしまったんですよ。私はまだ子どもだったからよかったけれども、ちょっと上の世代までは、兵隊で行って、戻ってこなかった。本当にいやな時代でしたよ…」


 たしかに、太平洋戦争末期となると、日本全国の男たちが戦地へと借り出された。ある者は南方のジャングルでその白骨を晒し、またある者は遠くシベリアの地に投獄されたまま餓死……、祖国の地を二度と踏むことなく、最果ての地でひっそりと息絶えた。また、同時にそのことは、国内において、多くの寡婦を生むこととなった。それは義家さんが住むこの山間の村とて例外ではなく、終戦を迎える頃になると、村からほとんど男衆の姿がなくなってしまったという。


「日本が負けて、少しずつだけども、みんなで力を合わせてまた元のような暮らしにしようっていうことになったけれども、もうその頃は村中が後家さんばかりでね。うちの集落だけじゃないよ、この辺はみんなそうだったんです。だから村の偉い人がね、後家さんたちを再婚させようとして、一計を案じたっていうわけです」


 義家さんの話によると、男手がなくなったことで田畑を耕す手も足りなくなったことから、付近一帯をとりまとめる有力者が手引きする形で、零細農家の寡婦たちは、一斉に再婚を目指したという。しかし、折りしも当時は日本全国で男手が足りなかった時代。そうやすやすと再婚相手が見つかるはずもない。そこで考え出されたのが、通称「二婦貰い」と呼ばれる制度なのだという。


「後家さんの年齢は様々だけれども、昔は今よりも子どもが多かったから、どの家にも必ずひとりやふたりくらいは、女の子がいたものでしてね。要はそういう子らをダシに使って、助平な男たちを集めようっていう腹でした。今にして思えば酷い話かもわかりませんけどね、当時はみんな生きるので精一杯でしたから。そのためには田んぼや畑だって耕さなくちゃならない。当の後家さんたちからすりゃあ、無念だったでしょうけども、迷っている暇なんてあったもんじゃなかったんでしょうね」


 男というのは心底救いようがないもので、山奥の田畑しか持たぬ寡婦相手には、再婚希望の手を挙げなかったものの、それがその家に暮らす娘と「セット」ともなれば話は別。邪な欲求に突き動かされた男たちによって、相次いでこの集落の再婚話はまとまり、終戦の翌年の夏頃までには、ほぼ全世帯が再婚した状態となっていたのだという。


「そりゃあね、“そういう目的”で集まってきた男たちだから、女の子が多い家の方が引く手がありましたよ。ひとりよりふたり、ふたりより3人っていう具合にね。けども、そういう継父のね、なぐさみものになるのがよほど耐えられなかったのか、中学を出る頃には、そういう子らはみんな都会へ出ていきましたよ」


 無論、現代の常識で考えれば、この「二婦貰い」の制度は、年端もいかぬ娘たちが犠牲になったことを思うと、胸の痛む話でしかない。しかもそれは彼女たちを生んだ母親、すなわち、夫に先立たれた寡婦たちにとっても、大きな痛みを伴うものであったはずだ。しかし、そうした苦渋の選択をせねばいられなかったほどに、生活が困窮していたこともまた事実。いつの世も、戦争における犠牲者というのは、兵士として戦場で命を落とす者だけではないのである。
(取材/文=戸叶和男)
http://tocana.jp/2016/03/post_8154_entry.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c99

[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
100. 中川隆[7185] koaQ7Jey 2017年3月19日 15:18:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7656]

奇習! 封印された平安貴族たちの蛮行 ― “恍惚”の赤ん坊レイプ


【日本奇習紀行シリーズ・番外】平安貴族たちの隠された悦楽


 かつて、小説家・芥川龍之介は、『今昔物語集』に残る逸話を基に、その著作である小説『羅生門』で、死体から髪を盗んで生業とする老女の姿を描いていた。だが、かつて、京の都が荒みに荒んでいた頃、死人の髪と同様に、常時では考えられぬ需要が生まれていた。それは、生後間もない嬰児の亡骸である。

 以前、世界各地の権力者たちが、幼児の性器から切除した包皮を好んで食していたという内容をご紹介した。(※【世界の奇習】割礼した幼い性器の包皮を食す―永遠の美と不老長寿を求めて)その時にも触れたが、嬰児が持つ生命力に魅了される形で、不可思議な行為を密かに行っていた者は、洋の東西を問わず意外と多く存在していたようだ。しかし、彼らの中には、そうした目的とはまた別の意味合いで、乳幼児の肉体を求めていた者も存在していたのだ。それは、その柔らかき肉体が、性的な快楽を得る上で、この上なく適したものであると感じていた人々である。

「現存する史料に乏しいため、正確な部分については不明な点も少なくないのですが、私は確実に“あった”と考えています」

 かつて平安貴族たちを中心に未曾有の大流行となったとされる“ある秘せる儀式”についてそう語るのは、歴史研究家・山種昭三氏(仮名・78)。彼は以前、定説を無視してまで半ば強引に持論を展開し、学会における地位を失った過去を持つ。氏が研究したところによると、今を遡ること900年以上前の1050年頃、京の貴族たちの間では、嬰児の亡骸を密かに買い入れては、それを性的な欲求を満たすために利用する者が続出した時期があったのだという。

「さる筋の傍流にあたる高貴な方が遺した書物によると、生後3カ月くらいまでの女児の性器は、まるで淡雪のごとく、柔らかき感触であるとのことなのです。またこれは別の史料から少しずつわかってきたことなのですが、ある時、京の北西部にある某寺の僧が、さる雅な血筋の赤子の遺体を弔う際に、なんの好奇からかは知る由もありませんが、その女性器に、自分の指を一本入れてみたそうです。

 すると、今まで感じたことのない感触に驚いたというんです。それで、その僧は仏罰が当たることを百も承知で、その嬰児の屍を抱き寄せて行為に及んでしまった。けれども、その行為の最中に見張りの者に見つかってしまい、彼はその場で斬られてしまうんですね。でも、切断されたその首は、とても恍惚に満ちたような表情を浮かべていたとか…。本当か嘘かはわかりませんが、もしかする当時、こうした逸話に尾ひれがついて、あのおぞましき習慣が広まったのではないでしょうか」


スルジャン・スパソイェヴィッチ監督の映画『セルビアン・フィルム』では、男が赤ん坊をレイプするという、なんとも信じ難い一幕が描かれていた。山種氏によると、平安の世においては、件の僧にまつわる逸話をどこからか聞きつけた一部の堕落した貴族たちにより、嬰児の遺体を買い集める行為が急速に広まっていったという。しかし、夜毎の快楽のためにそうした行為を繰り返していたのでは、死体がいくらあっても足りなくなってしまう。それがさらなる悲劇を生んだ。

「遺体が簡単に手に入らなくなると、今度は褒美を出す形で、貧しい庶民の家から生まれたばかりの生きた赤ん坊を買い集めるようになっていったと聞きます。しかしそれだけでは金も赤子も数が足りない。

 そこで結局は押し込み強盗のような真似をしてまで方々から赤子を誘拐しては、自らの屋敷へと運び込んでいく、と。その際に生死の別は問わなかったそうです。ですが、仮に死後間もない赤ん坊を1とすると、しばらく経ったものでその半分、逆に生きたままの赤ん坊であれば実に3倍のもの価値の褒美を惜しげもなく与えていたと言いますから、今風に表現すれば、とんだ赤ん坊バブルですね」

 夜毎、貴族たちの屋敷の裏手には、あちらこちらから赤ん坊を集めてきた者たちが、列を成してその「換金」を待つという、なんとも奇妙な光景が展開されていたという。折しも、平安時代と言えば、通常の男女であっても、親の承諾が得られない場合などは、誘拐という形で強引に婚姻関係を結んでいた時代。今の時代と比較すれば、いかにこの手の罪に対する意識が緩かったかがわかる。

「まあ、当時は“辻とり”といって、路上で女を浚ってそのまま結婚なんていう時代でしたし、乳幼児の死亡率も極めて高かった時代ですから、今ほど罪の意識はなかったんでしょうね。ましてや、婚姻対象となる年齢そのものも今に比べて格段に低かった。現代で言うところの小学生の女の子をいい歳の男が嫁にするなんていうのも当たり前でしたから、性の対象というもの自体が、あまりに自由すぎる時代だったと言えるのかもしれません」

 性に関するタブーという意味では、あまりに無秩序で、開放的過ぎた平安時代。当時の感覚を持たぬ現代の我々から見て、それが理解に苦しむものであることは、ある意味、致し方のないことなのかもしれない。
(文=戸叶和男)
http://tocana.jp/2015/11/post_7743_entry.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c100

[昼休み53] 新興宗教「神の子どもたち」 中川隆
6. 中川隆[7186] koaQ7Jey 2017年3月19日 15:30:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7657]

【閲覧注意】神の名の下に殺害、近親相姦の館【世界残酷殺人事件】2014/07/29
http://okarutotougijou.com/cruel/734/

「信者以外は全員悪魔」

カルト宗教にはまり近親相姦を繰り返した家族の末路を紹介しよう。

ハラルド&フランク・アレクサンダー事件

1970年12月22日

スペイン領の島の、あるアパートの一室で遺体が発見された。

遺体は三体で全て女性だった。遺体の心臓と性器、乳房は全てくり抜かれ壁に釘で打ち付けられていた。ベテラン鑑識員はあまりの陰惨さに吐いた。 この事件の犯人は父親のハラルド(画像右)と息子のフランク(画像左)16歳。

http://i2.wp.com/okarutotougijou.com/wp-content/uploads/2014/07/alexander.jpg

被害者はダグラル(母)39歳、マリア(姉)18歳、ぺトラ(妹)15歳。 聖なる儀式のために女たちは生贄にされたのだ。

おかしな家族

ハラルドは新興宗教「ローバソサエティ」の信者だった。この宗教、信者の最大数は100人と言われる、全く流行っていないスピリチュアル系宗教だった。信者以外は全員悪という教えがあり、大変危険と世間から認知されていた。

この宗教の教祖様が亡くなり、教祖様の大事にしていた移動式オルガンをハラルドが受け継いだ。ハラルドは歓喜した。ハラルドにとってそれは免許皆伝的なものであったのだろう。

「教祖様の意思を俺が受け継ぐぞ!」ハラルドの目は希望に満ちていた。それを見ていたダグラルは「なんて素敵な男性なの!私が彼を支えていきたい!」と結婚した。

ハラルドとダグラルの間に息子が生まれた。ここから狂気の歯車が動き出す。

息子はフランクと名づけられた。ハラルドは「この子こそが神の預言者だ!!おおお!あなたの意思に全て従います」と生まれたばかりの赤ん坊に忠誠を誓った。ダグラルも勿論従う。

こうしてフランクは我儘三昧の暴君として育てられた。

フランクには二つ年上の姉マリアと一つ下の双子の妹たちぺトラとサビーネと女姉妹に挟まれて育った。姉妹もフランクを兄弟としてではなく、神の預言者として仕えた。

フランクが思春期になると「信者以外の女に触れると身体が穢れる」という理由から「母親と性交する」とハラルドに告げた。ハラルドは「全くそのとおりだ!」と受け入れ息子と妻の性交を見守る。

フランクは母だけでは飽き足らず姉のマリアも含めて、いつでもどこでもやりまくった。

姉マリアは「私は神の預言者とファックしたわー!!」と学校で自慢しまくった。クラスメイトからは奇異な目で見られ、先生にも知れ児童相談所にも通報された。ここで、隔離していれば陰惨な事件は起きなかったであろう。度々やってくる警察官の訪問にうんざりし、一家は引越しを決意する。

スペインのある島で彼らは他人と接触を絶ち暮らしていた。しかし、父親の引く音程外しまくりのオルガンの音にあわせて賛美歌を歌う家族は近所の人間から気味悪がられていた。

家族の収入源は妹が女中をして稼いでいた。この頃になると、妹たちともフランクはやりまくっていた。父親はその光景を見て歓喜していた。

聖なる儀式

1970年12月22日

そのとき、フランクは部屋にいた。母親が部屋に入ってきた。母親は淫らな目でフランクを見たという。フランクは「そのような目で俺を見ることは許されない!許されないんだー!!」と言い木製のハンガーで頭を何度も殴りつけた。母親は失神する。

父親は相変わらずでたらめなオルガンを弾いていた。

フランクはリビングに行き、姉マリア、妹ぺトラを何度も殴打した。

「ギイヤアアアアアアアアアアアアアアアアアア」

このとき、アパートの隣人は「地獄のような叫び声がする」と通報している。

ハラルドは息子の殺人を横目で見ながら、オルガンをかき鳴らした。

「ついに時が来たのだ!フランクよ!神の声を聞いたんだな!!あぁ、神様!」

ハラルドは金槌を持ってきて女たちの頭を打ち続けた。

フランクとハラルドは殺人作業が終わると、不浄なものを解体する作業にうつった。心臓と性器、乳房を取り除く作業だ。ハラルドはフランクが作業中ずっとオルガンを弾き、フランクが休憩するとハラルドはオルガンを弾く手を止め、作業に入った。

三人の遺体から不浄な心臓と性器と乳房を抜きとり、釘で壁に打ちつけた。釘が足りなくなると木製の串を持ってきて心臓をそれに刺した。

「自分たちのもっとも愛する者を殺して、初めて自由が手に入る!!」

聖なる儀式は終わったのだ。

妹サビーネは仕事中だったため、フランクとハラルドは職場まで報告しに行く。

「サビーネ、聞いてくれ。フランクがお前の母と姉たちを殺害することを決めたのだよ」

「まぁ、それはとても必要なことだったのですね。」と、ハラルドの手を取り自分の頬に当てた。これを聞いていたサビーネの職場の人たちびっくり仰天。

「…どういうことなのですか?」

「ああ、聞いていましたか。私たちは妻と娘を殺害したことを娘に報告しにやってきたのです」

よく見ると彼らの服は茶色い染みだらけだった。最初は泥がついてると思ったのだが「…これは血なのか…!」と職場の人は確信した。急いで警察に通報する。

フランクとハラルドは逮捕される。

裁判

裁判では二人とも「聖なる儀式のため、仕方がなかった」と証言した。ハラルドは「うちの女たちはいつかこの日が来るとわかっていました。彼らの不浄なものを切り取ったため彼らは天国に行くことができました」と、のたまった。

彼らに精神鑑定がされ、裁判を受ける状態ではない、ということが判明したため収容施設に送られることになった。

彼らは収容施設で「我らは迫害を受ける殉教者だ」と思い込んでしまった。

一人、難を逃れたサビーネは「自分もハラルドやフランクのいる収容施設に入りたい」と望んだが、それは認められず修道院に送りこまれた。彼女は他人を「悪魔」「不純」と思い、誰とも喋ろうとしなかった。

サビーネは修道院を出ることを許可されたが、彼女に頼れる者は誰もおらず、未だ修道院に留まっているという。
http://okarutotougijou.com/cruel/734/
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/181.html#c6

[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
101. 中川隆[7187] koaQ7Jey 2017年3月19日 15:37:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7658]

2014年12月21日【呪い・祟り・復讐】近親相姦の障害?

うちの実家は東北の田舎なんだけど旧暦の正月に『ささら』っていう祭が有る。
祭事に詳しい人なら地区まで特定できそうだから明記はしないけど、そんくらい田舎だって話。

俺はガキの頃に屋根裏部屋とか物置とか探検するの好きだったと記憶している。
居間の隣に襖(ふすま)を隔てて、親戚が集まった時に宴会する様な応接間(?)が有り、その隣に仏壇や昔の調度品、旧家によく有る母親の子供の頃に買った人形とか母の兄弟の五月人形とかが、うっすら埃(ほこり)被って置かれてる様な部屋があった。

その部屋の押入れの奥に、小部屋が有るんだ。

もう何年も昔に、母方の親が相次いで亡くなって家を手放す時に俺の母の兄である叔父から聞いた話では、そんな感じの部屋ってのは、この辺の部落の旧家には何箇所か有って、その昔『夜這い』の風習とかが残ってる頃の名残だという。

戦前から子不足に悩んでた付近の住民が、あの小部屋で密会して、なんとか子供を増やそうとしていたらしい。


そんな中、ある家系に池沼の娘ばかり生まれる様になって、(近親相姦の障害?)近くの神社の家が「これは祟りだ」とか言い出した。

それで娘を引き取って、巫女として養ってたらしいんだが、戦後の貧しさから、その池沼の姉妹達に客取らせて金貰ってたんだと。
その売春に使われてたのが例の小部屋。

神主は祈祷(きとう)だと言って、夜な夜な巫女を旧家に行かせる。
その家の人間は巫女を小部屋に通し、順に客を招きいれて相手をさせて金を取り、その幾らかが神主の所に入る事になる。

『ささら』ってのは、その巫女がみごもった水子を慰める意味も有るらしい。
叔父は、「俺はこの事を、自分の息子には話さない。俺はここから離れるし、お前の母親も嫁にいった。事実上、この土地で○○(苗字)の家を継ぐのはお前になるから話すんだ」って、酒に酔いながら言ってた。

叔父も子供の頃に巫女が客取ってるとこ盗み見た事が有るから、「その頃はまだ、分家した家系に池沼の娘が生まれてたんだろう」との事。

ちなみにその部落の神社は、叔父が中学出る前に火事で無くなって、その家がどうなったかは知らんのだと。
http://kowainazofushigi.ldblog.jp/archives/18830302.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c101

[文化2] FX ・ 先物取引 ・ 空売り は『ネットパチンコ』、絶対に手を出してはいけない 中川隆
20. 中川隆[7188] koaQ7Jey 2017年3月19日 16:35:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7659]

宝くじは当たるか当たらないか分からないものだ。これを買うのは基本的に貧困層だ。

宝くじは貧困層でも買える小さな金額に設定されている。しかし貧困層は数が多いので、そこから広く小金を集めれば胴元は大きく儲かる。事実、日本の宝くじ市場では、1兆円近い金額が胴元に集まっているのである。

では、その胴元はいくら持っていくのか。

50%から55%である。つまり宝くじで儲かるのはそれを発行している胴元である。貧困層から広く金を集めて、がっちりと50%ほどの利益を稼ぐ。

胴元だけは、絶対に間違いなく手堅く稼げるのだ。

しかし、宝くじの購買者にはその「確実性」がまったくない。皆無だ。しかも高額賞金に当たる確率は限りなく低く、割に合わないもいいところだ。

それなのに、努力も必要なく、しかも労せずして大金が手に入る「かもしれない」ので、貧困層は毎回のように宝くじを買って散財する。

貧困層こそ1円も無駄にしない方がいいにも関わらず、そんな不確実なものに金を使うのである。

「邪悪な世界」が仕掛ける貧困層のワナとは何か?

富裕層であれば、1000万円でも1億円でも、宝くじに賭ける金くらいはいくらでもある。

しかし、宝くじに資金を投じても間違いなく利益が得られるという「確実性」がない。だから、そんなところに金をかけるのであれば、もっと確実性の高い金融資産に資金を投じる。

たとえば、配当3%の株式に1000万円を賭ければ確実に配当30万円が入ってくるし、1億円を賭ければ300万円が配当として入ってくる。

その上、優良企業の株式を長期で持つと、増配や株式上昇でさらに資金を増大させることができる。

宝くじを買うよりも、株式に投資した方が儲かる確率が高いので、その「確実性」を元にして、資金を宝くじではなく株式に賭けるのである。

皮肉に思わないだろうか。貧困層であればあるほど確実性のないところに賭け、富裕層であればあるほど確実性のあるところに賭ける。

貧困層であれば金がないから確実性を重視し、富裕層であれば金があるからその金で夢を見てもおかしくない。しかし、現実で起きているのは真逆である。

貧困層が宝くじという確実性のないところで勝負をさせられて、富裕層はそれを冷笑しながら確実に利益が取れるところで勝負をするのである。

ここに、「邪悪な世界」のワナが仕掛けられていることに気付かなければならない。

富裕層が着実なところに賭けて日に日に資産を膨らませているのに、貧困層は確実性がほとんどないところに賭けさせられて、自分が不利な勝負をさせられていることに「まったく気付かない」でいる。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/03/20170319T1417030900.html
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/844.html#c20

[雑談専用39] 韓国人が絶対に歴史から消し去りたい真実 木卯正一
67. 中川隆[7189] koaQ7Jey 2017年3月19日 17:02:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7660]

日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実


朝鮮人が反日になった理由

1.飢餓輸出させた
2.農民の土地を奪った
3.日本に連れてきてタダ同然で強制労働させた
4.朝鮮の財産をすべて奪った
5.朝鮮女性を性奴隷にした

_______


1.飢餓輸出させた


日本で米が足りなくなったのは日清戦争がきっかけでしたが、それが日露戦争のとき顕著になったと東京外語大の大月先生は語っていました。

   それ以降は米不足が慢性的になり、1918年にはそれが頂点に達し「米騒動」が起き政権が揺らぎました。

この時、政府は次の三つの対策案を練りました。

 1。タイなどから外地米を輸入する。
 2。国内産の米を増産する。
3。朝鮮や台湾など植民地で米を増産する。

第1案のタイ米はパサパサしてまずく評判がさんざんで話になりませんでした。

私も数年前にはタイ米をけっこう食べましたが、カレーやチャーハンにでもしないとなかなか箸が進みませんでした。

   第2案ですが、内地米の増産はその余地があまりなく効果は期待薄でした。

そこで結局、第3案の植民地での産米増殖計画が本格的に採用され、1920年から始まりました。

朝鮮総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道や港湾などインフラの整備を始めました。

また米の品種も、早神力など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さらに栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しました。(早神力を番組では「わせしんりき」と発音していました)


こうした努力の結果が、朝鮮の食生活を少しでも豊かにしたのであれば、かの江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考えをある程度私も認めたいところです。

   しかし、事実は残念ながら忘暮楼さんの指摘通り、米の生産量は増えても朝鮮人一人当たりの消費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実が朝鮮農民を苦しめました。

   その実状を、番組は具体的にある農家の回想をとりあげ紹介していました。

秋に農民が米を70俵収穫しても、水利税や肥料代などもろもろ差し引かれ手元には15俵くらいしか残らないそうでした。

   しかも、これはかなりましな方で日本人の金融組合などに借金のある人は高利のかたにお米をとられ、手元にはせいぜい2、3俵しか残らないそうでした。

   これではとうてい食べていかれないので、農民は知恵を絞って米を土の中に埋めたり隠したりしたのですが、冷酷な借金取りもさるもの、針金で地面をつついてまでそれを見つけだし有無を言わせず持ち去ったとのことでした。

   このように、朝鮮の農民を苦しめた「産米増殖計画」は勢い余って日本の農家をも苦しめました。

安くてしかも品質の向上した朝鮮米の大量導入は内地米の暴落を引き起こし、これに世界的な恐慌が重なり農村では深刻な「娘の身売り」や、はては新たな植民政策「満蒙開拓団」を生み出しました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm007.html#No.61


当時の生活しやすさの基準として「米」の消費量を取り上げるのが最適と思われます。

米はいうまでもなく日本・朝鮮ともに主食で、当時は白米を食べることが「ごちそう」でした。したがって、米の消費量は当時の生活水準のバロメータになるので、この統計をみることにします。

         朝鮮の米穀輸出・消費量

年次 日本に輸出 朝鮮人一人当た   日本人一人当た
    (1000石) りの米消費量(石) りの米消費量(石)

1912 │ 2,910 │ 0.7724 1.068
1917 │ 1,296 │ 0.7200 1.126
1920 │ 1,750 │ 0.6301 1.118
1922 │ 3,316 │ 0.6340 1.100
1924 │ 4,722 │ 0.6032 1.122
1926 │ 5,429 │ 0.5325 1.131
1928 | 7,405 | 0.5402 1.129

'31-34 8,456 0.4059 不明 (年平均)*

資料は、飯沼二郎著『朝鮮総督府の米穀検査制度』(未来社)、ただし
  *印は『朝鮮米穀統計要覧』1936年版


この表から、朝鮮人の米消費量は年々減る一方で、逆に日本人は人口増加にもかかわらず朝鮮米輸入のおかげで僅かずつ増加傾向にあることがわかり、植民地経営の恩恵に浴しているのが歴然としているのではないかと思います。

これからもうかがえるように、植民地の政策はほとんど日本内地本位で決定されました。その典型的な例が1920年、朝鮮での「産米増殖計画」でした。

  日本内地では1918年の米騒動や、1923年の関東大震災など米が慢性的に不足し、米価の値上がりが社会不安になっていました。
それに加え、タイなどからの米の輸入は貿易収支の悪化を招きました。

  こうした事態を打開する政策として、朝鮮での産米増殖計画を本格化し「更新産米増殖計画」として、1925年から10カ年計画で資本金2億8500万円を投下し約30万町歩の土地改良を行い、農事改良により800万石の米を増産するというプロジェクトにとりかかりました。

朝鮮総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道や港湾などインフラの整備を始めました。また米の品種も、早神力(わせしんりき)など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さらに栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しました。

   こうした努力の結果が、朝鮮の春窮・絶糧農家を救ったのであれば、かの江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考えをある程度私も認めたいところです。

   しかし、事実は残念ながら米の生産量は増えても朝鮮人一人当たりの消費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実が朝鮮農民を苦しめました。


こうした日本の収奪政策のもと、朝鮮農民は窮乏化していき、わずかばかりの土地を持っていた農家も次第にそれを手放さざるを得ませんでした。

その実体を表すのが次の表です。これは米どころの全羅北道において、土地所有が産米増殖計画による水利組合の設立の前後でどのように変化したかを示すものです。

          全羅北道、五水利組合の土地移動
                       (単位は町歩)
      日本人所有  朝鮮人所有   その他    合計
 1920年    3,674    4,181    2,694    10,549
 1931年    8,999    3,545    7,292    19,836
(東畑精一「朝鮮米穀経済論」)

  この表のなかで、その他としているのは東拓など日本人の土地会社などを含みます。東拓とは1910年代、「土地調査事業」で国有地とされた土地を総督府から安く払い下げてもらって成長した国策会社です。

  この表からすると、朝鮮人所有の土地は減っても、逆に日本人の土地は倍増以上の伸びを示しました。朝鮮全体でみても、1920年から1927年にかけて日本人の土地所有は25万町歩から40万町歩へと、1.6倍に増大しました。

  灌漑施設やインフラなど朝鮮の富は増えても、その恩恵に浴するのは支配者である日本人であり、それとは対照的に多くの朝鮮農民はやせ細っていったのが植民地の現実でした。
http://www.han.org/a/half-moon/hm023.html#No.187

要するに、日本人が酷使する農奴の数が増えただけ.

できた米はすべて日本に持って行かれる.

李朝時代は独立農だったのが食うや食わずになった.

感謝するバカは一人もいない.


_________


1.農民の土地を奪った


1910年の併合強行後、日本は朝鮮の植民地化を進めるが、その第1歩は、
土地の所有権の確定を目的とした土地調査事業であった。

国内における地租改正がそうであったのと同じように、それは植民地財政の基盤を固める意図からでたものであったが、その過程で耕作関係があいまいな多くの土地が、総督府に奪われることになる。

国有地に編入された耕地面積は朝鮮域内の全耕地の20分の1に達し、その多くは日本人に安価に払い下げられ、大規模な日本人地主が誕生した。

土地を失った朝鮮の民衆は、小作農化するか、あるいは日本や中国大陸へと流失していく。

民族の自立を損なう弾圧的な植民地か政策の展開は、第一次大戦後になると、
激しい独立運動の展開による抵抗に遭遇することになった。

1919年3月1日に朝鮮では独立を宣言して蜂起した民衆運動によって、それまでの植民地支配の枠組みを見直さざるを得なくなる。

 歴史上、「文化統治」への転換と評される斉藤総督の統治政策は、一方で「同化政策」を柱とする「民族としての抹殺」を意図するものであると同時に、農業振興政策による民衆生活の改善によって、日本による支配への不満を融和させようとするものであった。

朝鮮からの人口流失    人  

  日本へ 中国へ

1914 4,179 10,631
1915 5,046 13,281
1916 7,225 13,501
1917 17,463 18,911
1918 27,640 36,627
1919 35,975 44,344
1920 40,759 22,210


産米増殖計画の推進には、日本市場に適した品種の米を生産するという、輸出志向型の農業への切り替えが必要であり、この品種転換の強制と輸出志向は、朝鮮域内での食糧供給の不足、つまり「飢餓輸出」に帰結する。

日本国内では、1920年代に入って、つまり産米増殖計画が軌道に乗って、日本向けの米の輸出(移出)が増加しはじめるころには、当初の思惑とは異なって米の価格は低迷していたからである。

こうした農業振興政策の展開は、植民地を日本経済の一環に組み込み、日本への食糧供給基地化するという役割を果たすものであった。

しかも、このような飢餓輸出を生むような食糧供給基地化は、代替的な食料としての粟や高梁などの供給を、満州に求めることによって、東アジアにおける独自の経済圏を形成させることになる。
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/~takeda/gyoseki/GAKU00-06.htm


1918年6月18日は、朝鮮総督府が植民統治の基盤を固めるために
1910年から8年間にわたり全国を対象に行った土地調査事業が終わった日だ。

同事業で大韓帝国の皇室と政府が所有する土地、村または門中の公有地、
そして荒蕪地はすべて総督府の所有になり、土地を奪われた農民ら数百万人は小作農に転落した。

大地主になった総督府は土地を東洋拓殖株式会社をはじめとする不二興業など土地会社と移住者に安価で譲った。

官吏の制帽と圓衫(韓国女性固有の礼服)で身を装った年老いた新郎・新婦(写真=独立記念館所蔵)は、当時朝鮮に渡って大地主になった日本人夫婦だ。

2人は伝統的な両班(ヤンバン 朝鮮時代の特権的な官僚階級)の地主とは異なる顔の「吸血鬼」だった。

当時の日本による帝国主義は領土を略奪したドラキュラだったというのが、韓国市民社会の普遍的な歴史の記憶だ。

ドラキュラに吸血されていなければ一世紀前の開化期にすでに自力で近代化を成し遂げたはずなのに、
日本の帝国主義のために実現できなかったということだ。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=116883&servcode=100§code=140

日本の土地調査事業であぶり出された農民たちが職を求めて日本へ渡った。
具体的にはこの政策で新しく地主になった日本人の所有する鉱山や工場の労働者としていったり、先に渡って生活基盤を作った親戚を頼って渡った。

世界史で習った土地の「囲い込み政策」を。あれとほぼ同じ現象だ。

日本に来るきっかけとなった「土地調査事業」は、明治43年に朝鮮を植民地にした日本が、その直後から朝鮮全土で実施した、地形、所有権、地価などについての調査である。それまで朝鮮には土地の登記制度が確立していなかった。そこに登記制度を導入し、税収入の増加を狙ったのである。

 朝鮮の村では、共同所有地など所有権がはっきりしない土地が多く、急に登記せよといわれても無理だった。

また、手続きは複雑で、農民が自分で申請することは難しかった。
登記をしなかった土地はすべて、朝鮮総督府のものとなった。


耕していた農民は、追い出されるか、高い小作料に泣かされることになった。
多くの農民が、貞鎬さんの父母のように生活に困り、日本へ出稼ぎに行くことになった。

総督府に取り上げられた土地の多くは、後で国策会社である東洋拓殖株式会
社に払い下げられた。

東洋拓殖はさらに、日本からの移住者に土地を売り、日本の農家の二男、三男らがこの土地を買って、農業を始めた。

朝鮮の村には日本人の地主が増え、土地を取られた朝鮮人が日本人を恨み、今も消えない根強い反日感情が残った。

 朝鮮では、明治43年の日韓併合から、昭和5年までの20年間に、人口
が約30%増えた。土地調査事業と人口の増加により、慶尚南道など南部の人
を中心に、日本に出稼ぎに行くようになった。その数は昭和五年までで40万
人近くにのぼる。

総督府に接収された土地は、山本有造『日本植民地経済史研究』(名古屋大学出版会)によれば、約12万町歩に及ぶ。又定められた期間に申告しなかったり、所有権を証明する書類がないため接収された耕地が約2万7千町歩あり、接収された耕地は合計14万7千町歩である。当時の全耕地面積は 450万町歩であり、約3%である。

 これに正当な売買により取得した土地を加えた、1922年(大正11年)末の日本人農業者所有土地面積は、一般地主17万5千町歩、東洋拓殖8万町歩、合計25万5千町歩で、全耕地面積の6%弱である(朝鮮総督府『調査資料2ー7朝鮮における内地人』)。


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3.日本に連れてきてタダ同然で強制労働させた


朝鮮人戦時労働動員
著者:山田昭次、出版社:岩波書店

 朝鮮人が戦前、日本に渡ってきたのは自発的なものであって、強制されたわけではないという主張があるが、それは次のような調査結果からすると、まったく机上の観念論でしかない。

 1940年から始まった穀物供出制度により、朝鮮の農民は自家の飯半分まで取り上げられたので、貧困は一層激しくなり、農民の離村は強められた。

下層農民の衣服はボロ着で、着換えもなかった。
農民の主食は粟・稗・高梁・どんぐり・草根木皮そして副食物は野菜と味噌だけだった。

1939年と1942年の旱害のときには、餓死者や栄養不良による行路死亡者が多数発生した。

 そのような状況のなかで、ある農民は毎日ひもじい思いの生活を送り、妻子が栄養不足のために死ぬことを恐れ、1939年11月にすすんで募集に応じた。

すると、就業する職場も告げられないまま、日本に連行された。

 実は、私の亡父も三井の労務課徴用係として朝鮮に出向いたことがあります。
京城の総督府に出頭すると、既に三井から連絡が行っていて、
列車で500人ほどを連行してきたというのです。

三井の職員9人で500人もの大勢の朝鮮人を日本へ連れてきたというのですから、
なかには「自発」的な朝鮮人も少なくなかったと思います。
亡父は、やっぱり朝鮮では食えなかったからね、と自分たちの行為を正当化していました。

ところが、食べられないようにし向けたのは日本の政策だったわけです。


昭和14年(1939年)から昭和16年までの3年間に、日本へ渡航した朝鮮人は 107万人。

「募集」制度によって日本へ渡った朝鮮人は15万人。

 このように大量の出稼ぎ渡航者の存在と、強制連行者の併存が、戦時期の植民地朝鮮からの人口移動の実態だった。

つまり、日本の責任は重いということです。

 1939年に朝鮮に「募集」に言った人の体験談が紹介されています。

 当時、朝鮮はどこへ行っても失業者ばかりで、「募集」への希望者が殺到して断るのに苦労した。

 1941年2月、内務省警保局保安課長は、日本へ連れてきた朝鮮人が逃亡しないよう、
家族も日本へ呼び寄せることを促進するよう命じた。日本の官憲や企業は、家族呼び寄せを朝鮮人の逃亡などの防止手段として利用した。

その結果、特高月報によると呼び寄せた家族数は、1943年12月現在で4万158人になった。


貧しさという朝鮮人の生活条件の形成に日本が大きく関与していれば、朝鮮人の決断をそのような方向に導く条件をつくった日本の責任が問われねばならず、朝鮮人の対日渡航が自らの意志によると、単純に言えない。

そして、農民の貧窮化の発端は、総督府による土地調査事業に出発している。

 朝鮮人戦時労働動員は戦時下の植民地他民族抑圧の一つの形態だった。

朝鮮を日本の植民地としていた。

植民地下にあっても、朝鮮人は朝鮮人であって、日本人ではなかった。
日本人は、きちんとした事実認識をもつべきである。
http://www.fben.jp/bookcolumn/2007/02/post_1347.html


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3.朝鮮の財産をすべて奪った

1910年に朝鮮は完全に従属させられた。
公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。


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5.朝鮮女性を性奴隷にした


従軍慰安婦強制連行 _ 吉田清治の話はやっぱり事実だった


経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html


朝鮮女性の場合は日本女性と違って泣き寝入りできなかった特殊な理由があるんだよ

朝鮮は儒教社会だから慰安婦の姉妹や娘は一生 売春婦以外の仕事はできなくなる

だから元慰安婦だったとわかると一家は路頭に迷う事になる

吉田清治はそういう事を考慮して意図的に強制連行した日時と場所を変えて書いたんだ

吉田清治は実際に強制連行した日時と場所を公表しろと何度も言われたけど、元慰安婦の身元がわかって本人や家族が迫害されると困るので、絶対に応じなかったんだ

日本軍の慰安婦は13, 14歳から仕事をさせられていた

一方、売春婦は18歳以上でないと認可が下りない
従って、慰安婦は売春婦ではない

未成年の少女に売春させたら、たとえ本人が承諾していても担当者は死刑相当の重罪だからね


チャンネル桜や文春・産経関係者が慰安婦・南京大虐殺に関するデマを流し続けているので、純真な人は そういうのを安易に信じてしまうんだな :

1925年に当時の日本政府が批准した『婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約』では21歳未満を児童つまり子どもと規定している。

日本政府は本条約の植民地への適応を行わなかった*2が、朝鮮における公娼制の下限は満17歳であり、上図で16歳以下に限ってみたとしても16歳以下の元「慰安婦」は89名、全体の51.5%に及ぶ。

この傾向は、韓国を含めたアジア各国の元「慰安婦」でもみてとれる。以前のエントリで『DAYS JAPAN』2007年6月号の『特集「慰安婦」100人の証言』という記事を基に描いたグラフがあるのでそれを再掲する。

http://f.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20090728170811
http://f.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080628173338


「年端もいかない子供たち」が「強姦」され、「売春」を強要され、日本軍の「性奴隷」を強要されたのだ。

安倍元首相の言うところの「狭義の強制性」の有無など全く重要ではない。

「慰安婦」と言う言葉自体が実態を表していないのだ。


要するに子供を騙して連れて来て、日本軍の建物に監禁してみんなでレイプしまくっただけだね


http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/587.html#c67

[雑談専用39] 韓国人が絶対に歴史から消し去りたい真実 木卯正一
68. 中川隆[7190] koaQ7Jey 2017年3月19日 17:05:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7661]

日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 2


昔の日本はアメリカ並みのあくどさ:

1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。

http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


第二次世界大戦後、日本に進駐して来た米軍GHQには、冶金(やきん)課という部署が設けられた。金塊を生産する国ではない日本に、金塊、貴金属を扱う専門部署が設けられた事は、極めて奇妙であった。

 日本軍は第二次大戦中、中国大陸や朝鮮半島で中国、朝鮮の人々を多数殺害し、その財産を略奪し、また中国においてアヘンを密売し、その莫大な利益を蓄積していた。

 戦争終結間際、日本軍はその莫大な利益を金塊、プラチナ、ダイヤモンドに代えて飛行機で日本本国に持ち帰っていた。その莫大な貴金属は日本各地に隠され、また日銀の地下金庫に保管されていた。

 その隠された財産を摘発、没収するため、GHQには貴金属担当の専門部署が設けられていた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605569.html


遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕となり日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。自民湯なんぞ阿片の金で動いていた麻薬党なのである。

拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていった。

植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/347.html

日本が35年間にわたって行った朝鮮統治によって、本当に得をしたのは誰なのか?

“朝鮮統治”という1つのビジネス・モデルこの問題は余りにも複雑であり、単純化して述べてしまってはその本質を見誤る。

過去における朝鮮統治の問題を考える時、次のような質問をされたならば、皆さんはどのように答えるだろうか。

「日本による植民地統治下にあった朝鮮半島で、石油を売っていたのは誰なのか。

そこにも日本人による現地住民に対する“搾取”という絵柄が見て取れるのか」。


恐らく答えに窮する読者が多いに違いない。


「第2次世界大戦へと突入する直前まで、朝鮮半島で石油を独占的に販売していたのは、日本勢ではなく、英米勢だった」

というのが、この問いに対する正解なのである。


朝鮮統治が行われた1910年以降の大部分の時期において、現地での石油販売を独占していたのは米系のスタンダード社、そして英系のライジングサン社(後のシェル)なのであった。

なぜこれら2社が朝鮮マーケットを独占できたのかといえば、これらいわゆる「外油」に対しては、輸入に際して特例関税が課されていたからである。

具体的には、当時、日本のいわゆる「内地」に石油を輸入するにあたっては高額の輸入税が課せられていたのに対し、朝鮮という「外地」については消費者に安い石油を使わせるべしという理由で、無税に近い税率が設定されていたからである。

そのため、外国から輸入した石油を朝鮮へと転売する日本の石油企業は著しく不利な立場に置かれていたわけなのだ。

満州(現在の中国東北部)における鉄道などについてもいえるのだが、日本の大陸進出を巡るビジネス・モデルには、常にこれと全く同じ1つのパターンが見え隠れする。


すなわち、表向き「進出」していくのは紛れもなく日本である。

だが、その一方で目立たないが重大なセクター(インフラストラクチャー)で広く、着実に収益を上げていたのは米国勢、そして英国勢なのであった。


もちろん、第2次世界大戦の足音が響き始めると同時に、これら英米勢は駆逐され、日本勢が代わりに入っていくことにはなる。

しかし、だからといって「朝鮮統治」というビジネス・モデルは日本が単独で担ったものではなく、むしろステルス(透明)で、より狡猾な形でそれによって莫大な利益をあげていたのは他ならぬ英米勢だったのである。

そして問題なのは、こうした単純な「史実」であっても、私たち=日本人が学校で学ぶ機会はほぼ100パーセント無いという現実なのである。

確かに、過去の一時期において「不幸な出来事」が日朝間で生じたことは否定できない。

しかし、だからといって朝鮮統治というビジネス・モデルの展開によって現地が被った全ての償いを日本に対して求める一方、いわば“本当の黒幕”だった英米に対しては何も問わないという主張は、全く肯んずることはできないのである。

そして、こうしたダブルスタンダード(二重の基準)自身に見え隠れする虚構こそ、今の日本、そして東アジア・マーケットを見る私たち=日本の個人投資家の眼を曇らせる最大の要因でもあるのだ。

http://money.mag2.com/invest/kokusai/2009/03/post_105.html


要するに、当時の日本の政治家もやはりアメリカの手先で、朝鮮統治政策はアメリカの指示通りだったのですね。

96:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 17:01:24 ID:CJqAHY/N0

李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。

その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。


1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権


ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)

アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権)

イギリス(海関管理権、金鉱採掘権)

ドイツ (金鉱採掘権)

日本  (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権) 

当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)

列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが

いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001


李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:


1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/587.html#c68

[雑談専用39] 韓国人が絶対に歴史から消し去りたい真実 木卯正一
69. 中川隆[7191] koaQ7Jey 2017年3月19日 17:14:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7662]

日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 3

大野「現代の農業問題の原点は大正時代の米騒動にあると思っています。はじめてその頃、日本で食糧問題が出てきました。1918年の米価高騰は、凶作と買い占めが原因で、帝国内自給といって、朝鮮半島、満州、台湾でジャポニカ米を作って、本土に持ってきました」

大野「朝鮮の農民に対する“コメの強制連行”とも言われ、技術と品種を持っていき、韓国に農地試験場を作り、食料の本格的な国家統制が始まったのです。『稲もまた、大和民族なり』と言う言葉がありました。コメが植民地支配の尖兵だったと言えます」

大野「朝鮮の在来品種を作っていたら、引っこ抜かれ、日本が奨める品種の栽培を強制されたと言われています。満州事変のあと、満蒙開拓として、日本の失業者を大陸の農村に押し込んで、土地も強奪し、入植した、ということです」
http://sun.ap.teacup.com/souun/16641.html

朝鮮人が食っていけなくなったのは搾取だけが原因ではない _ 換金作物を作らせると餓死者が続出する

朝鮮で飢餓が起きるのは毎年決まった時期だったから、日本統治以前はみんなそれを計算に入れて生活していた:


朝鮮では三月から六月までは食糧が不足する春窮期である。

春窮期を迎えると、朝鮮人は朝鮮総人口の約六割が山野で草根樹皮を採集して
食べる習慣であった。
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


朝鮮には春窮という言葉があるようです。秋に収穫した米、トウモロコシ、芋などの食物を冬のうちに食べつくし、春になると餓死者が出るようです。中世の言葉と思いきや、北朝鮮では今でも現実のようです。

 どこの国でも収穫の季節はあるものです。逆にまったく収穫の期待できない土地なんて、人はほとんどすんでいません。収穫があるということは年中飢えているわけではなく、収穫があって数ヶ月は食料があり、それを食べつくしたころに飢餓が起きるのが通例ではないでしょうか?
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3998244.html


要するに、戦争や伝染病や特別な事態が起きない限りは春窮位はなんとか凌げるので、それ程は困らなかった。

それから、李朝末期は森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に押さえられたので、そういう特別な事態が起きていた時代でもあった:


1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


しかし、それらの中でも特に困まった事態が日本の朝鮮統治だった訳で、それで朝鮮人は日本の統治時代には春窮を越せなくなった:


日本の施策によって農民が収奪された日本の朝鮮統治時代


当時の大半の農家は小作農です。

つまり販売する以前に小作料を取られます。

で、日本の統治時代の朝鮮では小作料で生産量の5割を取ることがまかり通っていたそうです。

そして手元の半分の米のうちいくらかを売り、それで来期の籾を買う。残った米ではとうてい生きていけないので、春窮となる、故郷を捨て流浪するという例がいくらでもあります。


朝鮮半島全体の春窮農家戸数については1930年、朝鮮総督府編「朝鮮の小作慣行」(1932)によると、

自作農   92(18.4)
自小作農 323(37.5)
小作農  838(68.1) 千戸(全体の割合)

で全体の48%以上が春窮だそうです。

日本の統治時代はまともな治世では無いですね。


次に、では小作農以外はどうだったかと言いますと、次の情報をご覧ください。

農民の戸数とその層の割合を示したものです。値は%です。

全体で100%にならないのは兼業農家がいたためです。

また、地主1は自分で小作を行わない地主、2は一部を自作する地主です。

自小作農は、自作と小作の兼業をしている農家です。


年  農家戸数 地主1 地主2 自作農 自小作 小作農 火田民
1918 2,652,484  0.6  2.5  19.7  39.4  37.8
1920 2,720,819  0.6  2.8  19.4  37.4  39.8
1922 2,712,465  0.6  3.1  19.7  35.8  40.8
1924 2,704,272  0.7  3.1  19.4  34.6  42.2
1926 2,753,497  0.8  3.1  19.1  32.4  43.3  1.3
1928 2,799,188  0.7  3.0  18.3  31.9  44.9  1.2
1930 2,869,957  0.7  2.9  17.6  31.0  46.5  1.3
1932 2,931,088  1.1  2.4  16.3  25.4  52.7  2.1


見てわかるとおり、自作、自小作が減り小作農が増加しています。

日本の統治時代の朝鮮では自分の土地を手放さざるを得ないほどの状況だったのがよくわかります。

さて、この人々は何が原因でそうなったのでしょうか? 

貴方が何度も示しているように米は十分に生産していたのですよね? 

なら豊かになるのではないでしょうか?


問題ない生産を行いながら貧しくなるとするなら、それは生産に対して正当な対価が支払われなかったことを意味します。当然ですね。


つまり

「当時の朝鮮の農家は日本の施策により米を収奪された」

というのを共通理解としてよろしいですね?


また、自小作農とありますが、終戦直後1945年の韓国のデータによると、

自小作農は716,000戸、そのうち耕地の50%以上を小作で行っている、

つまり実質的に小作に近い農家は378,000戸となっています。


完全自作農と自作の割合の方が多い自小作農は全体で3割程度。


当時の食料消費量の変遷について、単位は石(全体からの%)、

元データは朝鮮総督府農林局編「朝鮮米穀要覧」だそうです。


年平均  米      麦      粟     豆類    その他   合計
1915-18 0.70(35.6) 0.42(21.2) 0.28(14.4) 0.26(13.2) 0.31(15.7) 1.9766
1921-24 0.64(31.6) 0.42(20.6) 0.36(17.9) 0.26(12.9) 0.35(17.1) 2.0211
1926-29 0.51(28.1) 0.40(21.8) 0.37(20.2) 0.23(12.7) 0.31(17.2) 1.8163
1931-34 0.44(26.7) 0.42(25.2) 0.31(19.1) 0.21(12.5) 0.27(16.5) 1.6487


輸入していても消費量は見事に落ちていますね。

米の消費の割合が落ちている(それだけ貧しくなった)のも顕著です。


「日本の政策のもと、当時の朝鮮半島の農家は飢餓に苦しむほど困窮していた」で共通理解として良いですね?


参考資料:
朝鮮における産米増殖計画 河合和夫著
朝鮮食料品史 朴容九著


おまけ

穀物の輸入出

年,輸出(石),輸入(石),
1915-1919,3467857,387670,5年平均
1920-1924,5147524,1370072,5年平均
1925-1929,6284434,3649237,5年平均
1930-1936,11734219,2875314,7年平均
1937,8601017,2369537,
1938,12505611,1454957,
1939,8120099,2453789,
1940,1665637,3456780,
1941,4831000,1107000,
1942,7032000,786310,
1943,1576000,2048620,総督府資料に基づく
1944,4486000,1927166,朝鮮食料品史 朴容九著より

食品生産量
,米,麦,豆,小豆,粟,キビ
1919,12057,7270,3281,460,3816,538
1929,13702,7212,3990,810,5244,91
1939,14356,7570,2333,419,5029,89
1944,16052,7672,2696,605,3916,47


単位は千石 朝鮮食料品史 朴容九著より,,,,,,
http://www.han.org/hanboard/c-board.cgi?cmd=one;no=1586;id=


植民地下の朝鮮は8割以上を農民が占めていました。

日本の植民支配は軍と警察による力の統治でした。

日本人地主と朝鮮人地主の権力は日本より強固で多くの小作人を支配する農村の社会構造でした。

日本の支配下に年々自作農は少なくなり、小作農が増大しつづけたのが基調でした。

朝鮮農村社会は小作農が52%、これに火田民、農業労働者を入れると57%の人々が土地を全く持たない農民でした。

これに自小作農24%をプラスすると81%の人が小作をしたいたといいえます。

自作農は19%弱に過ぎませんでした。(1939年現在)

また、小作農といっても零細な農家が多かったのです。

朝鮮南部では人口が増加し零細農民が増加する要因になっていましたが、基本的には地主からの高小作料徴収などが農民を没落させていました。


総督府はこうした地主制を維持し、支配の基盤としていました。

農民の多くが食べることが出来ませんでした。

端境期には食べるものがなくなる人が多くなり、総督府はこれを「春窮民」といいました。

総督府は春窮が毎年の年中行事のようにあることを認めていました。

「草根木皮」を食べて暮らさなければならない農民が小作農の大半になっていました。

農民の多くは動物性のタンパク質は採ることが出来ずに、たまにミョルチ(日本のにぼし)を食べれれば良い方でした。

タンパク質はテンジャン(味噌)から得ていました。

こうした食の状況から起きた総督府支配下の朝鮮農村の社会現象を取り上げてみましょう。


その一つは子供の死亡率が著しく高くなっていたことです。                          

 高い乳幼児死亡率

 京城帝国大学医学部教授水島治夫の論文によれば朝鮮人の1歳から5歳までの死亡率は38%にも達していました。

日本人も低い方ではなく21%になっていますが朝鮮人は日本人の2倍弱になっています。

統計に出ない子供の死亡を含めて言えば40%の子供が生き残れなかったのです。

乳幼児の死亡率が高いために朝鮮人の平均寿命は37歳前後となっています。

日本人に較べると約10年の差があります。

栄養状態が悪く一番弱い子供達が多く死亡しました。

多くの死亡原因は食糧不足から来る栄養不良でした。

子供達だけでなく青年達の身長も年々低くなっていました。

特に下層農民の青年の体位の低下が大きかったのです。


子供の高い死亡率と青年たちの体位低下は総督府の政策下に起きていたことです。

窮迫する農家に救済政策がなかった、あるいは役立たなかったことを示しています。

典型的な事例を挙げておきましょう。

 朝鮮に於ける行路死亡人数

 行路死亡人は路傍、畑などで死亡し多人々をいいますが、ここで取り上げるのは

死亡した人たちの内、身元の分からなかった人を引き取り手を捜すために朝鮮総督府官報に掲載された場合に限って取り上げてみます。

官報に掲載された、公認された場合のみを取り上げていますから、実際に身元が分かり、あるいは引き取り手があった場合は官報に掲載されません。

したがって、実際の死亡者はもっと多かったと想定されます。

行路死亡人を取り上げるのは農村社会を象徴するような出来事だったからです。


 朝鮮農村では窮迫した小作農が小作地のみでは暮らしていけなくなり、他の小作地に追い出される人が多かったこと、自然災害などで小作地を失ったりしたこと、などの要因で土地を追われる人が多かったのです。

一部は満州に、一部は火田民として、あるいは都市の下層民として暮らすことになりましたが、落ち着くまでに食糧がなくなり、家族とも離れてしまうことも多かったのです。

農村から離村し、流浪することになります。

ついには路傍で死亡してしまう人も多かったのです。

行路死亡者数一覧  
       
年代 男 女 計 一日あたり死亡者数 行路病人死亡者数 計
1939 4039 669 4708 12.8 866 5574
1940 3863 662 4485 12.3 894 5379
1941 2708 514 3222 8.8 1913 5135
1942 5271 612 5883 16.1 680 6563

  15,881 2,417 18,298 12,5 4,353 22,651

※女性の数が少ない
         

 1939年は旱害があり、離村、流浪する農民が多く、死亡者も多くなっていますがこの4年間の合計で18,298人の人が死亡しています。

死因は餓死、栄養不良がもっとも多く凍死、病死と続きます。

1940年3月1日付けの朝鮮総督府官報には46人の死者が掲載されていますが24人が餓死と栄養不良、8人が凍死、6人が病死などと記録されています。

一日あたり20人以上が死亡している年もあります。

行路病人とは一応の救済施設があり収容されたが死亡した人を言いますが、これも行路死亡人として考えると実数は更に多く22,651人になります。

官報に搭載されていない人を含めれば更に多くなります。

家族が同行していて死亡した場合は官報には掲載されていませんから更に大きな犠牲者が存在したと考えられます。


日本人の行路死亡者数と比較すると官報掲載者のみでも朝鮮のそれは実に15倍(人口比)にもなるのです。

小作地を奪われたり、生活が出来なくなった農民たちは死を覚悟して流浪せざるを得なかったのです。

これが植民地統治の実体です。


 更に強制連行との関連で戦時下朝鮮農村の重要な問題を取り上げておきたいと思います。

朝鮮社会を深刻な状態に追い込んだ米の徹底的な供出政策です。


 農民から米を奪う

 日本と総督府は朝鮮の戦時体制下の要求として労働力と米の供出を求めていました。

戦時下の日本では米が主食でしたが特に軍の食糧は白米中心でした。

朝鮮では1939年に大旱害があり米の減産があり、40年は2100万石、41年は2400万石ほど収穫がありましたが、42年からは16百万石前後に落ち込んでしまいます。

42年から45年まで3年間は大凶作でした。

理由は天候も関係しましたが農村から男子労働力が動員されたこと、肥料不足等を揚げられますがなによりも米の供出が強化されたために起きたのです。


深刻な米不足のなかで1945年には200万石の日本への移出を実施しています。 

供出は愛国班(日本の隣組のような相互監視組織)に割り当てられ、愛国班長の家の庭で警官、面の職員、郡の督励員が立ち会って割当量を集めた。

これに従わない者は罰せられ、検挙されました。

割当量は多く、自家消費量を超えて供出しなければなりませんでした。

また、供出割当の定量に達しない者の家は家宅捜査が行われ、あらゆる所を検索し、発見すると容赦なく供出させた。

生産した物を消費できない農民が多くなりました。

たりない分は満州雑穀を配給しましたが大豆粕などで肥料用に農家に配給した物を代用したのです。


小作農民は農業をしても生産した作物を満足に食べられなくなったのです。

また、米の統制が厳しく自由に売買が出来ず、食糧不足を激しくしました。

米以外でも農民が自分で作った作物を消費できないような統制 が実施されたのです。

これに加えて供出米の代金から自動的に愛国貯金などが差し引かれ、物価は上昇し農民の困窮が一層進んだのです。

農民は農業で食えず、生産する気持ちも萎えてしまっていました。

農業より賃金を得る労働者になれば配給米を受け取れるので下層民ほど離農する人が増加しました。

農民が生産意欲をなくしたのが米の生産減少の最大の要因といえます。

そうした人を高賃金で家族に送金できると説明し、日本に大量に動員したのです。

日本への募集に応じたのはやむを得ないこうした理由が背景がありました。

 この他にも戦時下の朝鮮での暮らしはそれまでにはない困難な条件が多くありました。

例えば経済統制で綿花の作付け統制が実施され、全量供出となり、自家消費が出来なくなり高い衣料品を買わねばならず、白衣の実質的な禁止やもんぺの普及が進められました。

住宅不足も深刻になり暖房も「低温生活」が進められました。


 戦時下の朝鮮では基本産業の農業が疲弊し、統制が強められ暮らしが困難の度合いを深めていました。

 こうした朝鮮社会で賃金をくれて、食事も保障され、家にも送金できるなどというふれこみで募集が始まったのです。

朝鮮人にとって生死ををかけたような植民地支配が存在した中で募集に応じたのは自由意志と言うより、それ以外の道がない閉塞状況が朝鮮社会に存在したということです。

そのようにしたのは日本の植民地支配です。

そうした状況の中から労働者を連れて来るというのは「連行」そのものではないでしょうか。

「強制連行はなかった」論の虚構は植民地支配の悲惨ともいえる農民生活の実態を無視した議論です。

http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data2/data2-2.html


日本統治前の朝鮮人が毎日大食らいできた理由:

イザベラ L ハード「朝鮮紀行」 P203〜P204より

大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事のよさは質より量で決められ、一日四ポンドのごはんを食べても困らないよう、胃にできるかぎりの容量と伸縮性を持たせるのが幼いころからの人生目標のひとつなのである。

ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量のくだもの、木の実、糖菓を食間にとるが、それでもっぎの食事には一週間もひもじい思いをしていたかのような態度でのぞむ。

裕福な家では牛肉と犬の肉は大皿に盛る。また客のごちそうは銘々膳で供されるので、もてなす側は特別大事な客にはふんだんにふるまい、ほかの客には最小限度に抑えておくことができる。

わたしは朝鮮人が一度の食事で三ポンドはゆうにある肉を食べるのを見たことがある。

「一食分」が大量なのに、一日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事もできないほど貧しい人と見なされかねない。

一度の食事で二〇個から二五個のモモや小ぶりのウリが皮もむかれずになくなってしまうのはざらである。

赤ん坊にまで食べさせる莫大な消費量の赤トウガラシがこの大食ぶりを助けているのはまちがいない。

朝鮮人には消化不良のたぐいの疾患が多いというのもうなずける。
http://kukkuri.blog58.fc2.com/blog-entry-573.html


要するに日本人はアホだから歴史に学べないだけ:


仙台藩の主な産物は米である。

江戸時代には、北上川流域の湿地帯の開拓などの新田開発によって実高100万石とも言われるほどに多くの米を収穫できるようになった。

また、買米制と呼ばれる事実上の専売制度が導入されていた。

その米を東回り航路で江戸に運んで大きな利益を得た。

一時期、江戸に流通する米の半数は仙台米と言われた時期もあった。

そのため、石巻はこの航路の拠点として大いに発展した。

また、一部の米は海産物とともに大坂にも運ばれ、上方との交流も盛んであった。

これによって藩財政・農民の暮らし共に潤った時期もあった。


ただし買米制にも凶作に弱いなどの弱点があった。


ひとたび、凶作が起きると領内は大変な食料不足に見舞われ、農民だけではなく武士階級の者までがバダハタと餓死した。

これは他の藩には全く見られない現象であった。


現米収入のみに限定しても楽に100万石を超え、表高で上回り幕府に融資を行うほどであった加賀藩・寛永の大飢饉などにより江戸時代初期から貧乏で幕末に殖産興業に成功してようやく好転した薩摩藩よりも当初から財政的に豊かであり、政宗の時代にはローマへ単独の藩で使節を送るほどの力を有していた。

江戸時代末期の九州人の安井息軒の読書余滴に「二百万石余」、同じく江戸時代末期の九州人の帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。

ただし、東潜夫論は、佐渡12万石(1万7,000石)、隠岐6万石(5,000石)と、太閤検地の10倍表示されており、注意を要する。

佐渡国の佐渡金山についても触れており、米の生産量以外の豊かさも含んだ指標として石高が使用されている。


だが、米に頼りすぎた経済は藩に他の産品の開発の動機を失わせ、藩財政は米の出来・不出来及び米相場の状況によって翻弄され、不安定であった。


凶作が起きれば藩は大借金を抱え、豊作でかつ米相場が高値推移の年には積年の借金が一気に返済できてしまうといった具合である。


まさに「農業は博打である」という格言を地で行く藩経営であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E8%97%A9


小規模自作農で飢饉に強いのは、日本じゃ、アホみたいに、戦前まで米以外に粟や稗を作付け、農作物を多様化している農家だった。


ただ、これをやると農家は基本、貧乏だ。

換金作物を作らず、そのスペースで粟とか稗とか作り、穀物の来年の収穫の見通しがつくまでは新米には絶対に手をつけない用心深い農家だった。

もうけは出ないが、生産量が安定するから飢饉にも強い。

農業経済では、農民が貧困だが安定的な状態ってのが存在していて、うちのご先祖の相模農民なんかは、典型的な貧乏だけど飢饉には強い農民だった。

二宮尊徳のエピソードで、ナスを食べたところ、夏前なのに秋茄子の味がしたことから冷夏となることを予測。

村人に冷害に強いヒエを植えさせた。

二宮の予言どおり冷夏で凶作(天保の大飢饉)となったが、桜町では餓死者が出なかった(実際には、数年前からヒエを準備させていたことが分かっている)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3


用心深い農民ってのは、別に二宮に言われずとも、昔っから、保険として粟とか稗を作付けするもんだったの。


ただ、仙台藩のように、換金作物である米をひたすら推進し、他の産品の開発動機を失わせる農業経営をやっちゃうと、儲かる時は凄く儲かるけど、飢饉になると破滅的な影響がでてしまう。

典型的なギャンブル農業でね。

仙台藩は天候に左右されやすい米みたいな作物を冷害が多発する地方で主要作物にして代替的に推進したせいで、飢饉になると破滅的な影響をうけてしまった。


人口増(子供への医療品の配布)と換金作物推進(農業生産性と収益性の増加)っていうのは、日本の仙台藩の経営と同じだから、素人にはお勧めできない。

というか、仙台藩ならまだいいけど、日本でもっとも一揆が多発した飢饉超発生地帯、盛岡藩になったら悲惨すぐる。
http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20091101/p1


これが飢餓輸出の実態:


天明大飢饉は人災だった
 

 日本の【飢餓】を心配される方が多い原因に、江戸時代の飢饉が誤って伝えられていたこともあるかと、最も酷かったとされる【天明の飢饉】について書かせていただきます。

 結論を先にいっておきますと、これらの飢饉は【人災】でした。

日本中で何百万人も犠牲になったなどということはありません。

江戸では風のたよりに知る程度でした。

もちろん食料は例年と比べかなり不足しましたが、全体としては、それほどのことはありませんでした。

もちろん総論の結論です。

 

 天明に入ると、農作物の収穫が減少しましたが、特に【天明三年】は異変の年で(1783)浅間山が大噴火を起こし、この火山灰による大洪水や山崩れなど大規模な自然災害が発生します。 

 また異常気象が目立ち、海外ではアイスランドのラカギガルム火山が大爆発、また同地のグリームスヴォント火山も大爆発、テムズ川もセーヌ川も凍りついたと伝わります。

 ヨーロッパは冷害となり、このときの飢饉が【フランス革命】のきっかけとなります。地球全体が火山灰の微小粒子に覆われた結果とされています。


 国内の気象は、浅間山爆発の天明三年の冬は異常な暖かさ、年が明けても変わりません。雨はほとんど降らず、その後、雨が少し降ったので五月に田植えが始まりましたが、逆に冷気がつづき、夏になっても綿入れを着るほどの低温だったといいます。このため稲は青立ち(穂が出ないこと)となり、他の作物もほとんど結実せず、大凶作となり関東から東北地方にかけて被害を受け、北に行くほど酷いものでした。

 三月、四月になると冷雨が続き、雨の降らぬ日は七日だけ、それもうす曇で晴天の日は一日もありません。五月六月も同じで、雨の降らぬ日はそれぞれ四日、六日という有様だったといいます。


 「春頃には麦の作柄が例年になく良いと予想され、農民たちは喜んでいたが、雨続きのため麦の刈り取り期にはまったく結実がなかった」といいます。

「稲、大豆、ヒエなどは作柄が良いと見込まれ、経験豊かな老農たちも秋の豊作は間違いないと予測した。しかし異常な天候不順で、七月下旬になっても穂は出ず、わずかに出た穂には実が入っていなかった」とあります。

「八月十三日夜の厳しい寒気で霜が降り、大豆、粟、ヒエ、そば等は全て【穂なし】となり、前例のない大凶作となった」と続きます。

 
 飢饉が予測された津軽藩では、藩主・津軽信寧(のぶやす)は参勤交代で江戸にあり、側用人の大谷津七郎が、藩政を掌握、さまざまな飢饉対策を行っていましたが、

藩は長いこと藩財政が苦しく、大阪商人に借りた借入金が返せず、京坂の商人に代理返済して貰っており、この年にはどうしてもコメを京・大阪へ送らねばならない事情がありました。


【お救(たす)け小屋】の準備をしながら、前年農民から藩に上納されたコメ、「四拾万俵」をすべて大阪と江戸に送り換金しました。


飢えの恐怖におののいている領民の見守るなか、四十万俵のコメを積んだ船が通り過ぎていったと伝わります。

このため領内のコメは尽き、よって農民たちは、飢えの恐怖が現実になり衝撃を覚えます。

 
 「穀物の価格は高騰し、さらに金を出しても買えなくなり、飢えにさらされた領民たちは山菜の根をあさり、そば、大豆の【殻:カラ】までも口にした。

飼料が尽きたので牛や馬を飼うこともできず、すべて捨てて、牛馬が原野を歩きまわった」との記録があり「牛馬を食料にすることは食習慣になかったが、これらを殺して食うものが増した。

また口べらしのため子供を川に流すものが数知れず、大百姓をふくめて多数の農民が田畑、家を捨て、家族とともに【伊勢参り】をよそおって、碇ケ関から秋田藩領へのがれた。世をはかなんで深い森に入り首をくくったり、石を抱いて川に身を沈めたりする者もいた」とつづき


 「このような中で強盗、追剥(おいはぎ)が横行し、盗みに入った者が家に火をつける例も多く、火災が頻発した。天明三年九月から翌年六月まで、津軽藩領では男女八万千七百二人が餓死した」

との記述が残っています。また人間だけでなく「馬一万七千二百十壱頭」と記録にあったといいます。

 

 南部藩(八戸藩・七戸藩)でも被害は甚大でした。

【久慈街道】という八戸市と久慈市を結ぶ街道があり、途中にウミネコの繁殖する島、蕪島(かぶしま)があるというところから、たぶん海沿いの国道45号線のことかと思いますが、十里ほどの道程で途中に新井田村があり、ここの【対泉寺】には天明飢饉を悼む石碑があり、このうちの四文字が素人と思われる手で削られているとか。

そこには【人を食った記述】があったと郷土史家の【中里さん】が語った」と、東北文庫の【久慈街道】に小説家の故井伏鱒二氏が書いています。

 

 人肉の話は事実だったようで、『街道をゆく』の司馬遼太郎氏は確か『久慈街道』で、「これ以上の惨状を書くのは忍びがたい」としていますが、吉村昭氏はそのまま記しています。

両者とも【高山彦九郎】の詳細な日記を引用しています。現在は山門脇に【餓死供養塔】があり、詳細も記されているとか。筆者は中間というか、皆様があまり不快になりそうな表現は避けています。

 

 「野草の類も食いつくすと、人々はイノシシ、シカ、イヌ、ネコ、ウシ、ウマも食いあさり、それらも絶えて人の肉を食うようになった。

親が死ぬと子はそれを食い、子が死ねば親が食う。さらに山中や野外に捨てられた人の死骸も、彼らの食欲の対象になった。

その頃、人の肉を食った村人に聞くと、馬の肉の味はサルやシカのそれよりまさり、さらに人肉のそれは、ウマの肉より優れている、と語ったという」


とあり「村内で人肉を食ったものは、それがたたったらしく十人中七人は死んだ」と記されています。

 

 このような残虐な例は今まで読んだ限りでは、津軽・南部藩(八戸藩・七戸藩)に限られるようです。


津軽は【財政破綻に瀕した好例】であり南部藩は【行政の大失敗】があるようです。


原因のひとつに、この藩には資本主義が日本で最後に入った場所、人々は馴れていないため、商人貸し付けの金銭返済ができず、田畑や家屋などが質流れし、ほとんどの百姓が商人の奴隷となり、百姓から年貢が取れない藩は、百姓の富を奪っていた商人から、無理矢理に金銭を取り立てました。


(たしか戦後、当時の学者で、安藤昌益という今でいう共産主義者が発見されもてはやされましたが、それなりの風土がありました。)
 
 天明三年の大飢饉の際にも、他藩のほとんどは、まさかに備えて十分な準備をしており、特に有名なのが米沢藩、白河藩でした。

このとき、ただ一人の餓死者も出さなかったと伝わります。
 
http://hoihoihoi.iza.ne.jp/blog/entry/1654370/


要するに、東北でやっていたのと同じ悪事を朝鮮でも繰り返した訳ですね。  




http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/587.html#c69

[文化2] 日本人女性2人、リゾート地・セブ島で知り合った韓国人の男2人と飲酒→集団強姦される (昼休み板へのリンク) 中川隆
6. 中川隆[7192] koaQ7Jey 2017年3月19日 17:15:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7663]

韓国人が絶対に歴史から消し去りたい真実
へのコメント
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/587.html
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/757.html#c6
[近代史02] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 中川隆
363. 中川隆[7193] koaQ7Jey 2017年3月19日 17:41:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7664]

日本市場を襲う「株の冬」とヘッジファンドの誤算〜3月FOMCを終えて=E氏 2017年3月19日


これから「株の冬」がやってくる

では、今後の見方がどうかですが、ドル円を始めとする為替市場は年初からのトレンドである、ドル売り円など他通貨買いの流れに戻るでしょうし、過度な金利上昇観測も消えるので、債券へのマネーシフトも見られるでしょう。

米国の利上げは、米国や日本などの先進国以上に、新興国に悪影響を及ぼすので、周辺アセットから世界がリスクオフに転じる可能性が高まって行きます。

そうなると、安全資産である日本円は買われやすくなるので、米国の利上げがオーバーペースでないと判明した以上、円を依然としてショートポジションで持ち続けるのは合理的なポジションとは思えませんから、少なくともショートがニュートラルになるまで、投機筋による買い戻し圧力で円高ドル安になり易いでしょう。

一方の米国株は、議会演説以降、トランプ大統領が市場に過度な期待感を醸成させ続ける機会が事実上終ったことで、今後は現実を見る地合になっていく可能性が高い上に、過度な債券売りが止むということは債券買い/株売りにつながるため、今後は上値が重いでしょう。

加えて、利上げで新興国やコモディティなどの周辺アセットが過度なリスクオフになった場合は、米国株も当然引きずられるので、昨年11月以降延々と続いていた、「いまだかつてないタイプの大統領が何をしでかすか判らない」という極端な見方で形成されていた過剰な期待相場は終焉し、徐々に金融引き締め時の株価形成に入っていくと思われます。

日本株の買い材料は尽きた

このように考えると、円安時は円相場の動きに反応して好感して、しかし円高時は米国株高など他にポジティブな材料を見つけるなど「売らない理由を探していた」日本株の買い材料はほぼ尽きたと思われます。

トランプ大統領による過剰な期待感醸成はなくなり、米国の利上げがあったので、マーケットセンチメントは徐々に冷えていく中で、周辺アセットからのリスクオフの足音も聞こえてきます。

そうした中で、投機筋の円ショート解消という需給的要因で円高になり易いことから、日本株をサポートする外的要因はほとんどありません。

日経平均2万円が近いからというだけで、2万円を目標に頑張ってきたマーケットでしょうが、買い材料がない中でこれ以上買い上がれると考えるのは、かなり楽観的だと思われます。

それよりは、トランプショック以降、円相場の下落以上にオーバーシュートして上げ続けた反動がいつ出てもおかしくないので、今後の日本株は米国株以上にリスクオフ的な動きになり易いと思われます。

冬が終わり、日増しに暖かくなってきていますが、こと株式市場に関しては、トランプ大統領との蜜月期間は終り、FRB主導による「株の冬」がこれからやってくるのです。
http://www.mag2.com/p/money/161274/3


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/430.html#c363

[雑談・Story40] 関東大震災で日本人10万人を虐殺した朝鮮人の黒幕がヤバすぎる…マジかよ…2chより 木卯正一
7. 中川隆[7194] koaQ7Jey 2017年3月19日 17:58:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7665]

朝鮮人の言うことが誇張表現ではなかった例


■「虐殺」という表現について

 関東震災後の日本人による朝鮮人殺害について、「虐殺」と表現するのが適当かどうか。今回の参考文献に、以下のような記述があった。俄かに信じられない(あるいは信じたくない)内容だと感じると同時に、ここに書かれているのはやはり事実なのではないかと思う。正直に言って、どう取り扱うべきかは手に余る問題だったので、虐殺と言う表現の妥当性については、各位の判断にお任せする。


 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。
 
 所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、

婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり……

身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。

(姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年)


 
 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。

しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。


 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、

という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。


 女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。
(『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104)


当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。

植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。

日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。
http://www5d.biglobe.ne.jp/DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm



02. 2012年9月02日 11:35:54 : HNPlrBDYLM

〈関東大震災から80年〉 朝鮮人女性への残虐な性的虐待


荒川放水路の四ツ木橋付近での虐殺に関する証言に次のようなものがある。


 「22、3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは四ツ木橋の下流の土手だ。

西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。

1挺か2挺の機関銃であっという間に殺した。

それからひどくなった。

四ツ木橋で殺されるのをみんな見ていた。

なかには女もいた。


女は……ひどい。

話にならない。

真っ裸にしてね。いたずらをしていた」

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会「風よ 鳳仙花をはこべ」教育史料出版会、1992年、58〜59ページ)


 これは朝鮮人女性を性的にもてあそんだうえで虐殺したということなのであろう。

これは例外的な事件ではない。

女性に対する性的虐待、虐殺の事例は数多くあった。


 東京府南葛飾郡での朝鮮人女性に対する虐待、虐殺事件

 湊七良、亀戸五の橋で朝鮮人女性のむごたらしい惨死体を見た。

「惨殺されていたのは30ちょっと出たくらいの朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。

しかも妊婦である。

正視することができず、サッサと帰ってきた」

と回想した。
(「その日の江東地区」『労働運動史研究』第37号、1963年7月、31ページ)


 亀戸署内では習志野騎兵連隊の軍人たちが朝鮮人や日本人労働者たちを虐殺した。

この状況を目撃した羅丸山の証言によると、殺された朝鮮人のなかには「妊娠した婦人も一人いた。

その婦人の腹を裂くと、腹の中から赤ん坊が出てきた。

赤ん坊が泣くのを見て赤ん坊まで突き殺した」

(崔承万「極熊無筆耕−崔承万文集−」金鎮英、1970年、83ページ)


 当時砂町に住んでいた田辺貞之助は多数の朝鮮人惨殺死体を見た。


「なかでも、いちばんあわれだったのは、まだ若い女が、腹をさかれ、6、7カ月くらいと思われる胎児が、腹ワタの中にころがっているのを見たときだ。


その女の陰部には、ぐさりと竹槍がさしてあった。

なんという残酷さ、

あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった」

(「恥ずべき日本人」『潮』1971年9月号、98ページ)


 野戦銃砲兵士第一連隊兵士の久保野茂次は1923年9月29日の日記に岩波少尉たちが小松川で

「婦人の足を引っ張り又は引き裂き、あるいは針金を首に縛り池に投げ込み、苦しめて殺した」

ことを記した。

(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編「歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺」現代史出版会、1975年、18ページ)


 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺の歴史的意味


 上記のような朝鮮人女性に対する言語に絶する虐殺の残酷さは、民族差別にさらに女性差別が加わって行われた結果であろう。

このような日本人の行動は、朝鮮人が暴動を起こしたとデマが流されたので、自衛のために自警団を結成したといったものではなく、極めて攻撃的である。

それは民族的には支配民族としての優越心、性的には男性としての優越心に発した行動であったと思われる。


 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺に関しては、当時も、その後も議論、反省されることは皆無だった。

その無反省がアジア・太平洋戦争の時期の「従軍慰安婦」制度を生み出したといえないだろうか。

吉野作造は、千葉で行われた朝鮮人少年に対する日本人の虐殺事件をつぶさに日記に記し、その末尾に「これを悔いざる国民は禍である」と記した。

(「吉野作造著作集」14、岩波書店、1996年、357ページ)


 日本人拉致事件発表後の他者のみに厳しく自己に甘い日本人の二重基準を見ると、朝鮮や中国に対する日本人の良心喪失を憂慮し続けた吉野の言葉を日本人は今もう一度かみしめなければならないように思われる。

(山田昭次、立教大学名誉教授)

http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2003/j05/0305j0827-00001.htm


関東大震災直後の朝鮮人に対する殺人行為


 当時,埼玉県の「児玉郡本庄町」や「大里郡熊谷町」(いずれも当時の名称,現在の本庄市・熊谷市)で発生した朝鮮人殺戮事件は,関東大地震発生後,東京方面ですでに起きていた朝鮮人などに対する殺人行為から彼らを保護する目的で,その被害の少なかった埼玉県や群馬県方面に彼らを避難させようとする最中に起こされた出来事である。

 本庄町のばあい,地元の住民たちによって結成された自警団が,本庄警察署に到着したトラックに乗っていた朝鮮人たちに襲いかかり,リンチに発展した。

警察は人員不足から阻止することもできないまま,この事件で50人から100人程度の朝鮮人を殺させた。

しかも,殺された朝鮮人たちは,妊婦の女性や子どもたちも大勢含まれていた。


 それでも,このリンチにくわわった者の多くは,事後に開廷された裁判の判決では「執行猶予付の騒擾罪」を受けるだけの「穏便な処分」で済まされていた。

さらにあとでは「恩赦」があり,彼らの刑罰は免除されてもいた。


これが,朝鮮人の子どもたちの首を刎ね,女性(妊婦)にも竹槍を突きさし,男性を日本刀で切りさいて殺す,などという凶行を働いた人たちに対する「事後の法的刑罰」であった。 


この歴史的な殺人事件の犯人たちは,大地震後の社会不安の状況のなかで「流言蜚語」に惑わされてしまった結果,本庄町では,警察が避難させるために保護し護送してきた子どもや妊婦も含む朝鮮人たちを,50人か100人くらい殺してしまった。

けれども,事後にいちおう裁判がおこなわれたものの,犯人たちは「執行猶予」付きの判決で「実質無罪にされ」だけでなく,さらに恩赦もあって,受けた刑をとり消してもらっていた。


第2次大戦後後に法務省の高官は,外国人〔=在日韓国・朝鮮人など〕は「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」(1965年の発言)と言ってのけた。


 関東大震災直後に起きた朝鮮人〔など〕の虐殺事件は,それよりも32年も前の悲惨な出来事であったけれども,すでに庶民の次元で「朝鮮人はけしからぬ奴ども」だから,「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」という残虐な情念に即して,同じ地震の被災者でもあった朝鮮人たちを「殺してもかまわぬ」という気持を実行に移していた。


裁判の最中に殺人行為に関してみなで哄笑する

 1) 殺人行為の様子

 1910年に朝鮮〔当時は大韓帝国と称していた〕を軍事的に脅して合邦し,植民地にした日本帝国であった。

朝鮮民族の底しれぬ怒り・恨みを買ったことはいうまでもない。

この事実が反転されて,日本人・日本民族側の気分においてはどうなったかといえば,朝鮮民族を心底でひどく恐れる感情を醸成してもいた。

 関東大震災直後,官庁関係〔警察・政府・戒厳司令部など〕から意図的に提供された《流言蜚語》を真に受けた庶民たちは,

「朝鮮人が井戸に毒を撒いている」

「朝鮮人たちが徒党を組んで攻めてくる」

と聞かされたのだから,大地震のために混乱した状況のなかで自衛し,朝鮮人どもを「捕まえてなんとかしてもかまわぬ」と考えた。

ある意味でこの考えは理の必然でもあった。


 国家当局側,それも一部で作為的な虚報を流した部署の関係者においては,たとえば軍隊は「東京などでは朝鮮人が反抗したといった理由で銃剣で刺殺或いは射殺するなどの虐殺をおこなった。

こうしたことは,目撃者の談話などでも明らかにされている」。


さらに,その「流言の拡大に驚いて,日本刀,竹槍,鳶口,棍棒などで武装した自警団が各地に出現したが,こうした軍隊,警察の行動をみて,凶暴な行動に出たことはいうまでもない」。

 「各地で “鮮人狩り” がはじまった」。

その「あまりのひどさに驚いて出したと」いう「9月3日の警視庁の宣伝ビラ『急告』も」「鮮人の大部分は順良にして・・・」といいながらも「『不逞鮮人の妄動』を否定していない」始末であった(前掲『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』13頁)。

萱原白洞「東都大震災過眼録(1924)」の写真は,震災後にその記憶を頼りにして描かれた絵画であるが,よくみると右下部分には「虐殺された朝鮮人の死体」が転がっていた(つぎの左側にその部分を切りとった画像をかかげておく)。

まわりの人たちは「朝鮮人をやっつけたぞ!」といって「歓声を挙げている」図である。

これは,萱原の網膜に焼きついて忘れられなかった記憶を復元させたものである。

     

 この絵画全体(9月1日参照)を観察すると,警察官をはじめ,法被を着た男,そして手に棒切れをもった子どもまで描かれていることに気づく。

前段の著作『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』に説明された当時の,官民一体になる殺人実行の現場の様子がこの絵画には正直に写されている。

 前掲右側の写真は,関東大震災時における殺人行為を現わした〈有名な1葉〉である。

警察官と民間人が「殺した朝鮮人2体」を,それも民間人は棒で突くかのような格好で,あたかも記念写真を撮るかのように構えている(前掲書,口絵より)。


「凶器は日本刀,鳶口,竹槍,鉄棒や長さ6尺位の棍棒,小刀,包丁或いは石棒など奇抜なものがズラリ」(同書,167頁)。


 2) 裁判の様子

 さて,警察が東京方面からトラックに乗せて避難させてきた朝鮮人を殺した人たちのうち,埼玉県熊谷市の人びとに対する裁判もおなわれていた。『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』はその一場面をつぎのように描写している。


 a) ある被告の答弁。

裁判長から「お前は首を落とす積りで再びやったというぢゃないか」と叱られると

「そうです。そうですが首は落ちませんでした」

といい,石を打ちつけたことについては,「黒い石はこの位でした」と大きな輪を作る。

満廷もクスクス笑う。

事件とは思われぬ光景だ(158−159頁,1923年10月22日『東京日日』夕刊)。


 b) 「裁判長の突っ込みも茶気たっぷりで曽我廼家の芝居でも見ているようだ」。

「裁判長が『お前は一番最年長だのにどうしてそう無分別だ』と揶揄すると『毎晩4合ずつ引っかけやすのでツイその』と満廷を笑わせてひとまず休憩・・・」。

〇〇万治は

「私は倒れていた鮮人を殴っていると警官が『もう死んでいるからいいじゃないか』と申しました」
(159頁,1923年10月23日『東京日日』)。


 c) 「〇〇隣三郎は事実を是認したがこの樫棒で殴ったろうといわれた時ヘイそのちょっとやったまででと答え,

裁判長からこの6尺もある樫棒ではちょっとやられたってたまるものかといわれ,判官はじめ満廷も吹き出させた。

また,それがそのちょっと飲んでいたものですからというのに,裁判長が酒を飲んでいたのか,ちょっととはどの位飲んでいたのかと問われ,4合ですと答えてまた満廷を吹き出させた」(161頁,同上)。


 d) 「『本庄警察の方が騒がしかったのでいって見ますと,3台の自動車に鮮人が乗せられてその内ころがり落ちた3鮮人の胸を刺しました。

一ぱい機嫌でしたからついへゝゝ』

とありのままを申し立て『お前のやった事について今日はどう思っている』ときかれても返事も出来ぬ程の被告である」(175頁,1923年10月25日『東京日日』朝刊)。


それにしても,殺人事件の裁判であるにもかかわらず,この法廷に関する当時の報道をとおしても「ずいぶんに和気あいあい」とした雰囲気が,よく伝わってくるではないか。


 そもそも,関東大震災時のこうした虐殺事件で犯人=被告となって裁判を受けた人びとは,関係した非常に多人数の犯行者全員を被告とするわけにもいかない事情があったため,しかたなくその代表として選ばれ応じて出廷していた一部の者であった。

したがって,前段 a) b) c) d) に紹介した法廷におけるやりとりのように,人殺しの犯人たちにしてはふざけたような口調さえ聞こえてくる。

 つまり,関東大震災のさい「惹起された他民族殺戮行為」は,官憲がわがでっち上げた朝鮮人騒擾「説」を契機に起こされていた。

しかもこのように,殺人事件の審理とも思われない〈身内を庇うかのような共有の感情〉のなかで,被告たちが裁かれていた(!?)のであるから,その「異常な事態を異常とも思わない」当時の時代精神の恐ろしさがあらためて疑われてよい。


 要するに,この大量殺人事件を裁くために開廷された場所においては,裁判官にも被告にも傍聴席にも「満廷に笑いの渦」が吹き出ていたというのである。

そもそも軍隊が,多数の朝鮮人・中国人を大衆の面前で虐殺していただけでなく,社会主義者・無政府主義者もついでにといっていいように,無法なかたちでもって捕縛・虐殺していた。

これでは,国家機関である裁判所が,関東大震災時において殺人行為を犯した一般庶民をまともに裁けるはずもなかった。
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2394667


03. 2012年9月02日 11:37:15 : HNPlrBDYLM


歴史の汚点といえば、大正12年(1923年)関東大震災のときの朝鮮人虐殺はどうであろう。

日本人はよくアメリカ人のマネが得意だといわれるが、なぜこのような、おぞましいことまでまねる必要があったのだろうか。

それもたんなる排斥にとどまらず、虐殺の挙にでたところなど、出藍の誉れというべきか。

しかもその虐殺は、政府筋の計画的煽動に乗って一般の民間人がおかした犯行だという点で、アウシュビッツのことは、その存在さえも知らなかったというドイツ人のばあいとも異なる。


震災がおそった9月1日の午後、東京市内の被害状況を巡視した内務大臣水野錬太郎(元朝鮮総督府内務総監)は、その惨状のなかにあえぐ人々のいら立ちがが支配階級に向けられることを防ぐためには、朝鮮人と社会主義者の弾圧が必要であると判断し、

1日夜から2日夜にかけて、東京、神奈川の各警察署に朝鮮人暴動のデマを流させ、

さらに3日午前、朝鮮人暴動の「事実」についての電文を作成、船橋海軍無線送信所から全国地方長官当宛に打電させた。


中山競馬場の名物になっていたこの無電台が1971年夏撤去され、「なつかしい風物詩」が消え去ったことを嘆く人も少なくないという。

しかしわたしはあの不気味な鉄塔をながめるたびに、背筋に寒気をおぼえずにいられなかった。



朝鮮人暴動のデマは、またたく間に日本全国にひろまり、警察とそれに呼応した民間の自警団は、政府公認の朝鮮人虐殺を開始した。


竹槍で刺し、トビグチで頭を割り、ノコギリで首をひき、さしみ包丁で妊婦の腹をさく……


阿鼻叫喚の地獄絵図のなかで、抵抗のすべもなく殺されていった朝鮮人の数は6,000人をこえた。



「ハダカ同然の死がいが、目をあけたまま頭を北にして空地に並べられていました。

数は二百五十ほど。

ノドを切られて気管や食道が見えている人、

首筋を切られて肉がザクロのようにわれている人、

無理に首をねじ切られたらしく、皮と筋がほつれている人…


なかでもあわれだったのは、まだ若い女性の腹が真一文字に切りさかれ、その中に六、七ヶ月の胎児が目をとじて姿でした」



以上は仏文学者田辺貞之助氏が目撃した、その日の朝鮮人の姿である。



「旦那、朝鮮人はどうですい。

俺ァきょうまで六人やりました。…

天下晴れての人殺しだから、豪気なもんでさァ。…

電信柱へ、針金でしばりつけて、…

焼けちゃってナワなんかねえんだからネ…。


そして、殴る、蹴る、鳶で頭へ穴あける、竹槍で突く、めちゃめちゃでさァ。



けさもやりましたよ。…

奴、川へ飛び込んで、向かう河岸へ泳いで逃げようとした。…

みんなで石を投げたが、一つも当たらねえ、でとうとう舟を出した。


ところが旦那、強え野郎じゃねえか。十分位も水の中へもぐっていた。

しばらくすると、息がつまったとみえて、舟のじきそばへ頭を出した。

そこを舟にいた一人の野郎が、鳶でグサリと頭を引掛けて、ズルズル舟へ引きよせてしまった。…

舟のそばへ来れば、もうめちゃめちゃだ。

トビグチ一つでも死んでいる奴を、刀で斬る、竹槍でつく…」


『横浜市震災誌』に記録されている、ある日本人のその日の武勇談である。



サンフランシスコ震災で、日本人排斥運動が燃えあがったとき、大統領テオドル・ルーズベルトは怒りにふるえてこれを非難したという。

大統領が国会に送った年頭教書(1906年12月4日)を読むと、大統領は日本人排斥運動を「ウィキッド・アブサーディティー(悪辣な愚行)」と痛罵し、これがアメリカの恥であることを述べ、もしこのような愚行がやまないならば、日本人保護のために、軍隊を動員するとまでいきまいている。



日本のばあいどうか。


虐殺が行われた大正12年から今日にいたるまで、わたしたちは、責任ある日本の為政者から、一言たりとも陳謝の言葉を耳にした記憶はない。

いや、「貧乏人は麦を食え」で勇名を馳せた池田勇人元首相からは一言きいたことがある。


「朝鮮を併合してから、日本の非行に対しては私は寡聞にして存じません」。

http://blog.livedoor.jp/danjae/archives/51404976.html



04. 2012年9月02日 11:38:55 : HNPlrBDYLM


震災当時、修羅の巷と化していた東京近郊では、もう一つの惨劇が発生していました。

事実無根の流言蜚語に踊らされた人々が、次々に無辜の朝鮮人を虐殺していったのです。


 元来、巨大地震などの激甚災害襲来直後には、情報の空白が生まれ、その中でさまざまな流言蜚語が生まれるといわれています。

関東大震災の時にもやはり、根拠の定かではない怪しげな噂が東京周辺を駆け巡っています。

最初は巨大地震再来や大津波襲来、富士山大噴火の噂が流れました。

これら自然の脅威に関する噂は、震災の記憶が生々しい間には威力を振るいますが、事態が小康を得るにつれ、次第にフェードアウトしていきます。

これに取って代わるように頭をもたげて来たのが、世情不安に絡む諸々の噂です。

地震によって刑務所から放たれた受刑者たちが暴動を起こすと言う噂、平生の世の中に不満を持つ社会主義者たちが混乱に乗じて暗躍すると言う噂…。


そして、日本社会で虐げられてきた朝鮮人が、震災を千載一遇のチャンスとばかりに日本人に対する逆襲を行うと言う噂です。

世情不安型の噂の中でも、朝鮮人に関する噂に対する反応は、前二者に比べてひときわ鋭敏だったようで、つまるところそれが虐殺に結びつきました。


 当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。

背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。

植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。


そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。

その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。

しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。

日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。

日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。

小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。


 惨劇を招いた流言はどこから発生したのか。

噂・流言研究の題材としては定番中の定番ともいえるようなこの関東大震災時流言ですが、実のところ最初の流言が、いつ、どこで発生したのかについて、はっきりとしたことは分かっていないようです。

確認できる範囲でもっとも早い段階の事例だと思われるものは、地震が発生した9月1日当日の夕方、横浜市本牧町あたりのもののようです。

実際には、似たような噂が同時多発的に発生していたと見るのが自然でしょう。

最初に囁かれた噂は、「地震の混乱に乗じて朝鮮人が放火を行っている」という様なものです。


噂は夜を越えるうちに、朝鮮人による強盗、強姦、殺人、井戸水への毒の投げ込みという形へ発展していきました。

噂の伝播・変質をもっと長いスパンで捉えた場合には、「朝鮮人が伊豆大島に爆弾を仕込んで地震を起こした」というような突飛なものまでも発生したようです。


 井戸水へ毒を投げ込まれるという毒水流言は、古くその歴史を遡る事ができ、決して関東大震災に特有の珍しいものではありません。

中世ヨーロッパでは、(大正期日本における朝鮮人と同じように差別待遇を受けていた)ユダヤ人が井戸水にペスト菌を投げ込むと言う噂が流れた事があります。

日本国内の酷似した事例では、明治19年、愛知県下之一色村(当時。現在の名古屋市中川区下之一色)での出来事があります。

当時、全国的にコレラが流行しており、下之一色でも患者が発生しました。

そこで官憲が公衆衛生維持のために井戸水へ消毒薬を投げ込んだのですが、これを見た村人たちは「住人を殺害するために毒薬を投入した」と誤解し、竹槍や鎌で武装して暴動を起こしました。

そして鎮圧に動いた官憲と衝突、双方に死者を出しています。

若干余談になりますが、この名古屋の事例からは、人間には自分の命を脅かす者を容赦なく殺す部分があることをうかがえます。

虐げられた朝鮮人の存在は、震災時に毒水流言の真実味を補強する材料となりましたが、虐殺という行為に直接つながったのは、民族差別とは別次元の要素なのかもしれません。


 地震によって井戸水が濁るのは良くあることです。

関東大震災の時も上野でこの現象があり、知識のない一般人にとっては、これが毒水流言の真実味を補強する材料となりました。


 東京帝国大学教授・吉野作蔵の調査によると、

「朝鮮人はもともとテロ活動を目論んでいたが、震災の破壊と混乱を千載一遇のチャンスとして蠢動しはじめた」

という見方が、数多くの流言の底流にあったと思われる節があります。

そう考えた人たちにしてみれば、「火災被害の拡大も朝鮮人の暗躍のせい」となりました。


 また偽情報の傾向を追っていくと、朝鮮人の襲撃は神奈川方面から東京を目指して行われると考えられていたようです。

あるいは、噂の伝播の傾向と一致するものなのでしょうか。

 このように流言蜚語による混乱が生じた場合の対処には、正確な情報の周知徹底が必要である事は論を待ちません。

現代的な感覚で言えば、行政の広報や、各種マスコミが正しい情報を発信する役割をになう事になります。

では関東大震災の時、各種情報インフラはどのような状態だったのでしょうか。


 当時まだテレビなど存在していなかった事は言わずもがなですが、大正12年にはラジオの放送も行われていませんでした。

NHKによるラジオ放送開始は、震災から2年後の1925年(大正14)の話です。

この時代の情報伝達の手段としては、電信・電話網が重要な役割をになっていたようですが、これも被災して壊滅状態。

在京各社の新聞報道も社屋の被害により停止状態。

復旧が順調だった東京日日新聞の場合で、新聞の発行が再開されたのは5日の夕刊から。遅いところでは19日になるまで新聞記事を発行する事ができませんでした。


これに対し、震災の被害を被らなかった地方新聞は、流言の内容を真に受け、そのまま報道するという失敗(脚注参照)を犯しています。

また地震により発令された戒厳令の関係で、官憲による情報管制も敷かれました。


 その官憲は、早い段階においては流言の内容を信じ、むしろ自分が朝鮮人虐殺に加担していたと言われています。


官憲は自分自身が流言情報の権威付けを行った上でこれを民衆に向けて発信し、そこから跳ね返ってきた情報を自分で受信してそれを信じ込むという過ちを犯してしまったようです(脚注参照)。


官憲による虐殺は、関連資料の多くが隠蔽されたため、実態が良く分かっていません。


そもそも、この流言の発生源が、他ならぬ官憲であったとする陰謀論の見方も根強く、これが一定の説得力を有しているようです。


亀戸事件・甘粕事件など、憲兵隊は流言による混乱に乗じて、日ごろから自分達が不穏分子と見なしていた集団の「粛清」を行ってもいます。

マッチポンプの可能性すら疑われている憲兵に比べ、警察や震災を受けて発足した戒厳令司令部は、比較的早い段階で流言はあくまで流言に過ぎないことを看破し、事態の収拾に向けて動き出しています。


 日本では伝統的に隣組的な組織が存在しており、その点で自警団の結成をうながす素地はあったと言えます。

関東大震災時に結成された多くの自警団も、もともとは朝鮮人に限らず火事場泥棒に対し、また、地震被害に対処するために自然結成されたものでした。

自警団に参加していた人の言によると、飢餓と流言が自警団を虐殺行為へと駆り立てたという実感があるようです。

また、民衆の中でも流言が流言である事に気づいている人が少なくなかったのかもしれません。


しかしながら、そのことに気づきつつ、これを積極的に吹聴した者もいました。

また、内容に不信を持っていても、頭からそれを否定するような事をしにくい空気があったようです。


噂を否定する事で回りから浮き上がってしまう恐れもあったのでしょうし、万一の危険の可能性を見逃してしまう事を恐れたからなのかもしれません。


ある種の使命感に駆られて積極的に言いふらした者もいたようですが、不思議なもので、事実かどうかは怪しいことを自覚しているはずの情報も、「事実である」と言う触れ込みで吹聴して回っているうちに、話者の中で次第に紛れもない事実であると認識されれるようになっていくようです。


 自警団の活動は、流言が盛んに飛び交い始めた前述の1日夜を越えたあたりから始まりました。

手近で武器になりそうなもの、中には銃や日本刀で武装した彼らは、中世ヨーロッパの魔女狩りを彷彿とさせる朝鮮人狩りを開始しました。

外見上では日本人との明確な差異を認められない朝鮮人を識別するために用いられた方法の代表的なものが、「十五円五十銭」と発音させてみる方法です。

朝鮮人には、「チュウゴエンコチュッセン」としか発音できない人が多いそうです。


この方法は官憲も用いていました。


これ以外の識別法としては、「教育勅語の暗誦」「座布団と言わせる」「歴代天皇の名前を答えさせる」「ザジズゼゾ、ガギグゲゴを発音させる」「君が代を歌わせる」「いろはカルタを言わせる」などといったものがあったようです。


もちろんこの方法は、簡易ではあるものの確実な識別法ではなく、勘違いから日本人や中国人も殺害されています。


被害者数は調査主体でまちまちですが、「朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人」(内務省警保局調査)、「2711人」(吉野作造調査)、「6415人」(独立新聞調査)などの数字があがっています。内務省警保局の算出した数はあまりにも少ないと言えます。


事後の事務処理を簡略化するため、「虐殺」の認定条件を極端に厳しくしている可能性があるようです。

その反面、独立新聞=朝鮮人側の新聞が提示した6000人超と言う数字も、他の事実との整合性に問題があるために絶対的に信頼の寄せられるものではありません。

政治的思惑がもっとも薄いと思われるのが、吉野作造による調査結果ですが、組織力=調査力において他の二者に見劣りする感が否めないのも事実です。

なお、この件に関する犠牲者をもっとも多く出したのは、神奈川県ということで間違いないようです。


 最終的に事態が沈静化に向かったのは、民衆が警察などが発信する情報を受け入れて冷静さを取り戻したためではなく、自警団が軍による力での押さえつけに屈したからだと見るのが妥当なようです。

民衆が理性的な判断を行ったのは、力で行動を押さえつけられ、文字通り手も足も出なくなってからの事でした。

なお余談になりますが、当時の警察は、人員数はもちろん、そしてその武装の内容においても、自警団に劣っていたため、最終的には軍部の軍事力を背景にして事態の沈静化に乗り出さなければならなかったようです。


■各地方紙の誤報 ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P61より抜粋


「朝鮮人大暴動 食糧不足を口実に盛に掠奪 神奈川県知事よりは大阪、兵庫に向かひ食料の供給方を懇請せり。

東京市内は全部食料不足を口実として全市に亘り朝鮮人は大暴動を起こしつつあり……」(河北新報、九月三日)


「歩兵と不逞朝鮮人戦斗を交ゆ 京浜間に於て衝突す 

火災に乗じ不逞鮮人跋扈 近県より応援巡査派遣……」
(福島民友新聞、九月四日)


「放火・強盗・強姦・掠奪 驚くべき不逞鮮人暴行 

爆弾と毒薬を所持する不逞鮮人の大集団二日夜暗にまぎれて市内に潜入 

警備隊(自警団のこと)を組織して掃討中……」(河北新報、九月四日)


「不逞鮮人凶暴を極め飲食物に毒薬や石油を注ぐ 

彼らは缶詰に似た爆弾を所持しつつあり」

(北海タイムズ、九月五日)


■官憲の主な動き(時系列) ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P66より抜粋

九月二日十四時ごろ:内務省警保局長より呉鎮守府、地方長官宛電報。

東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不貞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。

スデニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ十分周密ナル視察ヲ加エ、鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加エラレタシ。


九月二日夕刻:警視庁、戒厳令司令部に、朝鮮人による火薬庫放火計画があると報告。

同    :警視庁菅下各警察署に通達。
 
鮮人中不逞ノ挙ニツイテ放火ソノ他凶暴ナル行為ニイズルモノアリテ、現ニ淀橋・大塚等ニ於テ検挙シタル向キアリ。

コノ際コレラ鮮人ニ対スル取締リヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラレタシ。


 九月三日十六時三十分:海軍省船橋送信所所長電信発信(独断)。全国で受信。

船橋送信所襲撃ノオソレアリ。至急救援頼ム。騎兵一個小隊応援ニ来ルハズナルモ、未ダ来タラズ。


九月四日八時十分:船橋送信所電信発信。

本所(船橋送信所)襲撃ノ目的ヲ以テ襲来セル不逞団接近、騎兵二十、青年団、消防隊等ニテ警戒中、

右ノ兵員ニテハ到底防御不可能ニ付約百五十ノ歩兵ノ急派取計イ度ク、当方面ノ陸軍ニハ右以上出兵ノ余力ナシ。


■不逞鮮人

 震災当時の政治用語。抗日的な運動を行う朝鮮人に対し、官憲が用いた呼称。

この言葉にも当然、「朝鮮人」と同じ問題が付きまとう。


 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。

 
 所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、

一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、

婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり……


身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。

(姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年)


 
 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。

実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。

そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。

しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。


 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、

その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、


という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。


なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。


 女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。

したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。

(『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104)


 魔女狩りを彷彿とさせる、集団ヒステリーが生んだ狂気か。


 この「虐殺」に関する話は、関東大震災を起源とする「防災の日」の各種行事の場面などでも、滅多に触れられる事がないのだという。

この種のイベントは専ら自然災害としての地震の恐ろしさに対する啓蒙を目的に行われるものらしく、天災から派生した人災についてはほとんど言及しないのだそうだ。そして、その現状を無念に思う韓国人・朝鮮人は多い。


参考文献
山岸秀 、2002年、『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』、早稲田出版
http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm



05. 2012年9月02日 11:40:47 : HNPlrBDYLM


1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生。
この時政府の宣伝


「朝鮮人や社会主義者が震災に乗じて内乱を企てている」

に乗せられた民衆は、社会主義者、労働組合幹部や朝鮮人に対して野蛮なテロを行い、9.3日、亀戸事件により南葛労働組合の指導者・川合義虎らの社会主義者やアナーキストらが亀戸警察署で虐殺された。

9.16日、大杉栄が妻・伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一と共に甘粕正彦憲兵大尉に殺害された。


 9.7日、政府は、関東大震災時の混乱に対して「治安維持の為の緊急勅令」を公布した。

これは、前に成立を見なかった「過激社会運動取締り法案」を、このたびは天皇の名のもとに議会の審議を要しない緊急勅令という形で公布したということである。

しかし、政府はなお満足せず、やがて治安維持法に向けて着々と周辺整備していく。


 「第一次共産党事件」と「関東大震災直後の反動攻勢」に接して、獄中闘争組の中からも解党的方向が提起されたようである。

幸徳秋水の大逆事件、関東大震災時の大杉栄虐殺事件という官憲側のテロル攻勢に「緊急避難」の名目で党の解党止む無し論が強まっていった。


 これに関連して福永操は次のように述べている。

「革命運動の犠牲者たちは、人民が(人民のほんの一部でもが)その犠牲の意義をみとめて心の中で支持してくれると思えば、よろこんで死ねるであろう。

なさけないのは、大逆事件関係者に対する日本の一般民衆の反感がものすごかったことであった。

事件そのものにまったく無関係であった社会主義者たちまでが、この事件のとばっちりを受けて、『主義者』というよびかたのもとに一括して世間からつまはじきされて、文字どおり広い世間に身のおきどころもない状態になったことであった。

労働運動も火が消えたような状態になった」(福永1978)。


 以下、検証する。 


【関東大震災発生】

 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。

地震の規模はマグニチュード7.9、震度6であった。

焼失家屋24万戸、崩壊家屋2万4千棟、死者5万9千人、行方不明者を入れると犠牲者は10万人以上という被害が発生した。

これにより関東一円の商工業地区が壊滅的大打撃を受けた。被害総額は当時の金で約100億円(当時の一般会計の6.5年分、現在で数兆円)と推定される。


 関東大震災の翌9.2日急遽、軍による戒厳令司令部を設置した。

この日、後藤新平が内務大臣に就任している。

 警視庁は、非常事態に備えて臨時警戒本部を設置し、正力官房主事が特別諜報班長になって、不穏な動きを偵察する任務を持ち、その行動隊長として取締まりに専念した。

後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。


「内務大臣・後藤新平と正力の繋がり」について


 正力は、この後藤新平と深く繋がっており、「直接ルート」の間柄。正力の富山四高時代の友人にして官房主事であった品川主計は、回想録「叛骨の人生」の中で「正力君は、後藤新平内務大臣に非常に信用があった」と記している。

同書に拠れば、越権的な「汚れ役」(ダーティーワーク)仕事を躊躇無く引き受けることで信頼を得ていったとのことである。

「仕事の鬼としての出世主義的性格」が強かった、ということになる。

正力は、後藤内相の下で警視庁警務部長となる。

同時に、財界のご意見番的存在であった郷とも親しくなって行った。


【流言飛語飛び交い、朝鮮人、社会主義者、アナーキストの検束始まる】


 直後、

「朝鮮人、中国人、社会主義者、博徒、無頼の徒が放火掠奪の限りを尽くしている」

との噂が飛び交い始めた。

発生源は在郷軍人会、民間自警団辺りからとされているが、今日なお真相不明である。


 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、「朝鮮人による放火、井戸への投毒」という風評を逆手に取って朝鮮人と社会主義者、アナーキストの検束を始めた。

9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。


 東京朝日の石井光次郎営業局長の次のような証言がある


 「建物は倒壊しなかったものの、9月1日の夕刻には、銀座一帯から出た火の手に囲まれ、石井以下朝日の社員たちは社屋を放棄することを余儀なくされていた。

夜に入って、石井は臨時編集部をつくるべく、部下を都内各所に差し向けた。

帝国ホテルにかけあってどうにか部屋を借りることは出来たが、その日、夜をすごす宮城前には何ひとつ食糧がない。

そのとき、内務省時代から顔見知りだった正力のことが、石井の頭に浮かんだ。

石井は部下の一人にこう言いつけて、正力のところへ走らせた。


 『正力君のところへ行って、情勢を聞いてこい。

それと同時に、あそこには食い物と飲み物が集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい』。

間もなく食糧をかかえて戻ってきた部下は、意外なことを口にした。

その部下が言うには、正力から、

『朝鮮人が謀反を起こしているという噂があるから、各自、気をつけろ。

君たち記者が回るときにも、あっちこっちで触れ回ってくれ』

との伝言を託されてきたというのである。


 そこにたまたま居合わせたのが、台湾の民生長官から朝日新聞の専務に転じていた下村海南だった。

下村の『その話はどこから出たんだ』という質問に、石井が『警視庁の正力さんです』と答えると、下村は言下に『それはおかしい』と言った。

『地震が9月1日に起るということを、予想していた者は一人もいない。

予期していれば、こんなことになりはしない。

朝鮮人が9月1日に地震がくることを予知して、その時に暴動を起こすことを企むわけがないじゃないか。

流言飛語にきまっている。断じてそんなことをしゃべってはいかん』。


 石井は部下から正力の伝言を聞いたとき、警視庁の情報だから、そういうこともあるかも知れないと思ったが、ふだんから朝鮮や台湾問題を勉強し、経験も積んできた下村の断固たる信念にふれ、朝鮮人謀反説をたとえ一時とはいえ信じた自分の不明を恥じた。

正力は少なくとも、9月1日深夜までは、朝鮮人暴動説を信じていた。

いや、信じていたばかりではなく、その情報を新聞記者を通じて意図的に流していた」


 内務官僚上がりの石井のこの証言に加えて、戒厳司令部参謀だった森五六の回想談によると、正力は腕まくりして戒厳司令部を訪れ、

「こうなったらやりましょう」と息まいている。


この正力の鼻息の荒い発言を耳にした時に、当時の参謀本部総務部長で後に首相になる阿部信行をして、「正力は気が違ったのではないか」と言わしめたという。


 正力にまつわる一連の行動を分析した佐野は、

[正力は少なくとも大地震の直後から丸一日間は、朝鮮人暴動説をつゆ疑わず、この流言を積極的に流す一方、軍隊の力を借りて徹底的に鎮圧する方針を明確に打ち出している]

と結論づけている。

更に、警視庁に宛てた亀戸署の内部文書にも、


「この虐殺の原因はいずれも警察官の宣伝にして、当時は警察官のごときは盛んに支鮮人を見つけ次第、殺害すべしと宣伝せり」

と書いてあり、中国人労働者が300人ほど虐殺された大島事件も、正力がこの事件を発生直後から知っていたのは、間違いないと自身を持って断定するのである。


【関東大震災時事件その@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺】


 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、

「朝鮮人による放火、井戸への投毒、襲撃」、

「震災の混乱にまぎれて、朝鮮人と社会主義者が政府転覆を図っている」

という風評を逆手に取って警察と軍による朝鮮人、中国人、社会主義者、社会主義的労働者の検束を始めた。


 9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。

自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺も発生している。

無抵抗の者を陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが一方的に撃ち殺したところに特質がある。この時官憲テロルに倒れた朝鮮人は3千名、中国人は3百名。

 その後毎年、9.1日は共産主義運動、朝鮮民族運動の逃走記念日として追悼されていくことになる。


【関東大震災時事件そのA、川合義虎らが虐殺される亀戸事件発生】


 9.3日午後10時頃、亀戸事件の被害者となる南葛労働組合の指導者にして共産青年同盟初代委員長にして党員北原龍雄と共に第一次共産党事件後の留守委員会を構成していた川合義虎ら8名の社会主義者と、アナーキスト系の元純労働組合長・平沢計七らが亀戸警察署に拘束監禁された。


 9.5日、河合義虎ら7名の革命的労働者(北島吉蔵、山岸実司、吉村光治(南喜一の弟)、加藤高寿、近藤広造、鈴木直一)、アナーキスト系の平沢計七らが亀戸警察署で虐殺された。

これを「亀戸事件」と云う。

 その遣り口が憤激に耐えない次のような史実を残している。

古森署長は事後対策を警視庁に上申。この時のこの時の警視庁官房主事が正力松太郎(米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った)で、正力は軍隊への応援依頼、千葉県習志野騎兵第13連隊(田村騎兵少尉指揮)がやって来て、留置された中から最も指導能力を有していた危険な人物を選別し、演武場前広場へ引きずり出し、銃剣と軍刀で虐殺した。

 その虐殺の様について今日奇跡的に伝えられた二葉の写真があり、これを見るに多数の刺傷はそれとしても生きたまま打ち首にされている。

遺体は家族に引き渡されず、二、三日放置された後、荒川放水路の一般の火葬死体の中に投擲された。

田村少尉らは軍法会議にもかけられておらず、「この乱痴気が軍隊と警察と裁判所、検事局と監獄とを、内部から腐敗堕落させた」(志賀義雄「日本革命運動の群像」)とある。

 ちなみに、南喜一は、弟の吉村光治虐殺という権力の横暴に義憤して、共産党活動に入った。

「大正13年の春、私は工場や家を全部処分し、17万円の金をつくつた。

妻子に4万円渡し、13万円を持って、亀戸の南葛飾労働組合に入った。

共産党に入党したのだ」、


「大正15年の共同印刷の争議までは、命ぜられることを名誉とし、火の中でも水の中へでも喜んで飛び込んだ」(「南喜一著作全集」)とある。


【関東大震災時事件そのB、中国人留学生・王希天虐殺事件発生】


 この時、東京中華日キリスト教青年会幹事、中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生・王希天は、亀戸署に拉致監禁された上陸軍に引き渡され、陸軍将校の手で斬殺されている。

死体は切り刻まれて川に捨てられた。

警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」。警察と軍の関係を取り持っていたのは、官房主事の正力であった。


 10.20日、中国代理公使から王の殺害について抗議が為される。

中国政府は王希天殺害調査団を派遣してくることになり、一気に国際的大事件となった。日本政府はその対応に苦しむことになった。

警視庁はじめとする当局は口裏を合わせて知らぬ存ぜぬの「徹底的に隠蔽するの外無し」対応に終始した。

結局、事件そのものは当時の日中の力関係を反映し、最後にはうやむやのままに葬り去られることになった。


【関東大震災時事件そのC、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件発生】


 9.16日関東大震災の混乱に際して、アナーキストで社会運動家のリーダー的存在だった大杉栄は妻・伊藤野枝(いとうのえ、28歳)、甥(おい)の橘宗一(たちばなそういち、6歳)と共に甘粕憲兵大尉(あまかすまさひこ、32歳)に殺害された。

享年38歳。妻野技は1895年1月12日生、享年28歳、甥橘宗一は1917年4月12日生、享年6歳。


 この日、大杉は、その妻(婚姻はしていなかったので正式には同棲)の伊藤野枝と横浜鶴見にあった弟の家から自宅へ帰る途中に東京憲兵隊本部に検束された。

一緒にいた甥の橘宗一も一緒に連れ去れた。検束された大杉達は、麹町憲兵分隊に連行された。


午後8時頃、取調中だった大杉に対し、部屋に入ってきた憲兵大尉《甘粕正彦がいきなり背後から大杉の喉に右腕を回し締め上げた。

大杉がもがき後ろに倒れると、背中に乗りさらに締め上げ絞殺したと伝えられている。

続いて伊藤野枝も絞殺され、橘宗一は部下の憲兵が殺害し、遺体は憲兵分隊内にあった古井戸に投げ込まれた。


 ちなみに甘粕のその後は次の通り。

大杉虐殺事件の軍法会議の進行は非常に早かった。戒厳令下の10.8日に第一回、以後、11.16日、17日、21日の4回で結審となり、12.8日に10年の禁固刑に処せられたものの、軍閥団体の助命運動によって3年で出獄、満州国へ渡り参議の地位に上り詰めていく。


 この大杉栄の拘束・殺害が発端となって、軍部による社会主義者の徹底的な弾圧が始まる。


【官房主事・正力松太郎の暗躍】


 この時、警察と軍の関係を取り持っていたのは、警視庁官房主事の正力松太郎であった。

これを追跡してみる。正力は米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、特高制度の生みの親であった。

後に読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買うことになる。


 9.2日、大震災の翌日急遽、軍による戒厳令司令部が設置された。

船橋の海軍無線送信所から「付近鮮人不穏の噂」の打電が為されている。

今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。


 9.3日、「内務省警保局長」名で全国の「各地方長官」宛てに、要約概要「鮮人の行動に対して厳密なる取締要請」電文打たれる。

内務省が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。


実際には「不逞鮮人暴動」は根拠が曖昧で「流言飛語」の観がある。


この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。

つまり、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。


 9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。

 9.11日、更に、正力官房主事名で、

「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令


が発せられている。

 研究者によると、正力が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」のデマを一番最初にメディアを通じて意識的に広め、虐殺を煽ったのは、なんと、官房主事の正力自身であった。

自身も「悪戦苦闘」という本で、

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。

当局者として誠に面目なき次第」


と弁解しているように、朝鮮人大虐殺の張本人と目されている。

 この時、朝日新聞の記者の1人が警視庁で正力官房主事から、

「朝鮮人むほんの噂があるから、君たち記者があっちこっちで触れてくれ」

と示唆されたことを明らかにしている。

しかし、専務の下村海南が「流言飛語に決まっている」と制止したと云う。


「正力の胡散臭さ」について

 後に読売新聞の社主となって登場してきた正力松太郎には「負の過去」がある。


関東大震災当時、警視庁官房主事という警察高級官僚であった正力こそ朝鮮人大虐殺の指揮官であった形跡がある。

こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていく。

その意味で、「読売新聞建て直しの功労者」ではある。

しかし、正力の本領は当時の「聖戦」賛美にあった。

新聞でさんざん戦争を煽った。

これが為、松太郎はA級戦犯指名で巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。

しかし、政権与党に食い入り常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。

「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」


 こうしたムショ帰りの権力主義者の社主に忠誠を誓い、その負の遺産を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。

日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。
http://www.gameou.com/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_oosugisakae.htm


 正力松太郎の生態はもっと研究されて良いように思われる。
内務省特高課(戦前日帝の諜報・弾圧機関)の創設者にして終始黒幕で在り続けた後藤新平に見出され、米騒動、関東大震災時の「暗躍」で「血塗られた強固な同盟」が確立する。以下、この関係を追跡する。


【後藤新平の履歴(1857〜1929)】


 岩手県水沢市の小藩出身。

幕末の蘭学者高野長英の親族。

須賀川医学校を卒業して医師となりも愛知県立病院長を経て内務省に入る。

1892年衛生局長(現在の厚生省事務次官)。

その間ドイツに留学し、プロイセン国家の統一ドイツ建国過程をつぶさに見て、ビスマルク政治に憧憬したと伝えられている。

1895年日清戦争で台湾を割譲させたが、4代目台湾総督になった児玉源太郎が後藤を見出し民政長官となって赴任。


後藤は、「アメと鞭を併用した辣腕政治」で判明するだけで抗日ゲリラ1万1千余名を虐殺している。

結果的に「台湾島民の鎮圧と産業開発で名声を高めた」。


 後藤は、台湾総督府初代民政長官を皮切りに、以後、

1906年満鉄初代総裁、1908(明治41)年桂太郎内閣の下で逓信大臣兼鉄道院総裁、1916(大正5)年寺内正毅内閣の下で内務大臣、

続いて1918(大正7).4.23日外務大臣、

山本権兵衛内閣の下で内務大臣再任を歴任し、晩年に伯爵の位を得ている。


植民地政策の統合参謀本部・満鉄調査部を設置したのも後藤である。

未解明であるが、阿片政策にも手を出しており、その収入が機密費として縦横に駆使された形跡がある。


 その政治的軌跡は、伊藤博文の後継者。後藤は言論統制に著しく関与している。

 1919(大正8)年、後藤は、寺内内閣の総辞職を機会に欧米視察の旅に出た。

訪問先はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、オランダ。

帰国するやいなや、「大調査機関設立の議」建白書を政府に提出している。

これは、アメリカのCIA(中央情報局)のような強力な組織を設立せよという構想であった。


【内務省】


 内務省は、一口で云えば「天皇制警察国家」と呼ばれる当時の大日本帝国の最高官庁であった。

要するに内政にかかわる一切の行政権を一手に握っている中央官庁であった。

現在の機構に当て嵌めれば、国家公安委員会、警察庁、公安調査庁、消防庁、自治省、厚生省、労働省、建設省、農林省の一部、法務省の一部、文部省の一部的機能を持つ官庁であった。

全国の知事と高級官僚は、内務官僚が任命し派遣するというシステムで、地方行政は市町村議会の監督権まで含めて内務省が握っていた。

内務官僚は、天皇直属であり、平常時の警察機構、緊急時の法律に対抗する緊急勅令権、警察命令権を握っており、いわば万能であった。


 大逆事件の年の1911(明治44)年に高等課特高係(特高)が新設され、後に特別高等部に昇格し、得意な指揮系統を持つ事になった。

新聞の統制など言論動向の調査は特高の中の検閲課の任務であり、更に全国の警察機構の元締め内務省警保局の図書課でも行われた。

両者の関係は、図書課が本庁であり、検閲課は出先機関となる。


 内務省本省の図書課は、後藤新平内務大臣時代の1917(大正6).9月、直接の声係りでロシア革命への対応を意識して拡張された。

同時に警視庁の人員増強も要請され、当時の6000名が6年後には1万2000名に倍増された。特高も同時期に12名から80名へと約7倍化している。


【正力松太郎の履歴(1857〜1929)】

 1885(明治18).4.11日、富山県の土建請負業の旧家に生まれる。

青春時代を柔道に打ち込む。

 1911(明治44)年、東京帝国大学法科大学独語科卒業(26歳)。

翌年に内閣統計局に入り、高等文官試験に合格し、1913(大正2).6月、警視庁に雇用される。

直ちに警部となり、翌年に警視、日本橋堀留署長となる。


 1917年、第一方面監察官。

 1918(大正7)年、米騒動鎮圧に一役買い、勲章を貰う。

 1919(大正8)年、刑事課長。

 1920(大正9)年、普通選挙大会の取締まり、東京市電ストの鎮圧。

 1921(大正10)年、警視庁で警視総監に次ぐbQの位置とされる官房主事となり、高等課長を兼任(36歳)。


本人自身が「私ほど進級の早いのはいません」(「週間文春」1965.4.19日)と語っている。


 1923(大正12)年、正力の警視庁官房主事、共産党の猪俣津南雄宅にスパイを送り込み、早稲田大学研究室の捜査、6.5日、第一次共産党検挙を指揮した。

 「米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、

読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、

軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った」。


 「関東大震災時の暗躍」


 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。


 関東大震災の翌9.2日急遽、後藤新平が内務大臣に就任し、非常事態に備えて軍は戒厳令司令部を、警視庁も臨時警戒本部を設置した。

この時、正力は官房主事であったが、特別諜報班長になって不穏な動きの偵察、取締まりに専念した。

後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。


 今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。


「不逞鮮人暴動」に如何ほどの根拠があったのか不明であるが、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。

こうして、内務省が流した「朝鮮人暴動説」が全国各地の新聞で報道され、この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。


 後藤−正力ラインが警戒したのは、社会主義者の動きであった。

9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。

9.11日、正力官房主事名で、「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令が発せられている。


 後藤−正力ラインはこうした通達のみならず、実際に迅速に先制的官憲テロをお見舞いしていった。


@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の多数虐殺、

A、川合義虎らが虐殺される亀戸事件、

B、中国人留学生・王希天虐殺事件、

C、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件)


等が記録されている。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mascomiron_yomiurico2.htm

「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告がある。

民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。

しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。

いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。

 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html


関東大震災に便乗した治安対策


陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒

 正力が指揮した第一次共産党検挙が行われたのは、一九二三年(大12)六月五日である。

 それから三か月も経たない九月一日には、関東大震災が襲ってきた。

このときの警視庁の実質的な現場指揮者は、やはり正力であった。

この一九二三年という年は、日本全体にとっても正力個人にとっても激動の年であった。

月日と主要な経過を整理し、問題点と特徴を明確にしておきたい。


 六月五日に、第一次共産党検挙が行われた。

この時、正力は官房主事兼高等課長だった。

 九月一日に、関東大震災が起きた。正力の立場は前とおなじだった。

 一二月二七日には、虎の門事件が起きた。この時、正力は警務部長だった。

 虎の門事件の際、警備に関して正力は、警視総監につぐ地位の実質的最高責任者である。

警視総監の湯浅倉平とともに即刻辞表を提出し、翌年一月七日に懲戒免官となった。

ただし、同じ一月二六日には裕仁の結婚で特赦となっている。


 以上の三つの重大事件を並べて見なおすと、

第一次共産党検挙と虎の門事件の背景には、明らかに、国際および国内の政治的激動が反映している。

その両重大事件の中間に起きた関東大震災は、当時の技術では予測しがたい空前絶後の天災であるが、この不慮の事態を舞台にして、これまた空前絶後で、しかも、その国際的および国内的な政治的影響がさらに大きい人災が発生した。

朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件である。


 さて、以上のように改めて日程を整理してみたのは、ほかでもない。本書の主題と、関東大震災における朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件との間に、重大な因果関係があると確信するからである。

そこで以下、順序を追って、虐殺、報道、言論弾圧から、正力の読売乗りこみへと、その因果関係を解き明かしてみたい。


 どの虐殺事件においても明らかなことは、無抵抗の犠牲者を、陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが、一方的に打ち殺したという事実関係である。

正力は、当然、秩序維持の責任を問われる立場にあった。

正力と虐殺事件の関係、正力の立場上の責任などについては、これまでにも多数の著述がある。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-1.html


「朝鮮人暴動説」を新聞記者に意図的に流していた正力


 正力自身も『悪戦苦闘』のなかで、つぎのように弁明している。

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」

 これだけを読むと、いかにも素直なわび方のように聞こえるが、本当に単なる「失敗」だったのだろうか。

以下では、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆に当たって参考にした資料に加えて、それ以後に出版された新資料をも紹介する。

いくつかの重要な指摘を要約しながら、正力と虐殺事件の関係の真相にせまってみる。

 興味深いことには、ほかならぬ正力が「ワンマン」として君臨していた当時の一九六〇年に、読売新聞社が発行した『日本の歴史』第一二巻には、「朝鮮人暴動説」の出所が、近衛第一師団から関東戒厳令司令官への報告の内容として、つぎのように記されていた。

「市内一般の秩序維持のための〇〇〇の好意的宣伝に出づるもの」

 この報告によれば、「朝鮮人暴動説」の出所は伏せ字の「〇〇〇」である。


伏せ字の解読は、虫食いの古文書研究などでは欠かせない技術である。

論理的な解明は不可能ではない。

ここではまず、情報発信の理由は「市内一般の秩序維持」であり、それが「好意的宣伝」として伝えられたという評価なのである。

「市内一般の秩序維持」を任務とする組織となれば、「警察」と考えるのが普通である。さらには、そのための情報を「好意的宣伝」として、近衛第一師団、つまりは天皇の身辺警護を本務とする軍の組織に伝えるとなると、その組織自体の権威も高くなければ筋が通らない。

字数が正しいと仮定すると、三字だから「警察」では短すぎるし、「官房主事」「警視総監」では長すぎる。「警視庁」「警保局」「内務省」なら、どれでもピッタリ収まる。

 詳しい研究は数多い。

『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編によれば、すくなくとも震災の翌日の九月二日午後八時二〇分には、船橋の海軍無線送信所から、「付近鮮人不穏の噂」の打電がはじまっている。


 翌日の九月三日午前八時以降には、「内務省警保局長」から全国の「各地方長官宛」に、つぎのような電文が打たれた。

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、

すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」


 正力の『悪戦苦闘』における弁解は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」となっていた。

では、この「虚報」と正力の関係、「失敗」の経過は、どのようだったのだろうか。


 記録に残る限りでは、正力自身が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」の噂を一番最初に、メディアを通じて意識的に広めようとしたのは、なんと、正力自身なのである。


 シャンソン歌手、石井好子の父親としても名高かった自民党の大物、故石井光次郎は、関東大震災の当時、朝日新聞の営業局長だった。

石井は内務省の出身であり、元内務官僚の新聞人としては正力の先達である。

震災当日の一日夜、焼け出された朝日の社員たちは、帝国ホテルに臨時編集部を構えた。

ところが食料がまったくない。

石井の伝記『回想八十八年』(カルチャー出版社)には、つぎのように記されている。


「記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎が官房主事だった。


『正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。

それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい[中略]』といいつけた。

それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。

ところが、帰って来た者の報告では、正力君から、


『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』


と頼まれたということであった」

 ところが、その場に居合わせた当時の朝日の専務、下村海南が、「それはおかしい」と断言した、


予測不可能な地震の当日に暴動を起こす予定を立てるはずはない、

というのが下村の論拠だった。

下村は台湾総督府民政長官を経験している。

植民地や朝鮮人問題には詳しい。

そこで、石井によると、「他の新聞社の連中は触れて回ったが」、朝日は下村の「流言飛語に決まっている」という制止にしたがったというのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html


東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見


 ただし、石井の回想通りに、朝日が「朝鮮人暴動説」報道を抑制したのかどうかについては、いささか疑問がある。

内務省筋が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。


『大阪朝日』は九月四日、「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると」、という書き出しで、さきの船橋送信所発電とほぼ同じ内容の記事を載せた。

『朝日新聞社史/大正・昭和戦前編』には、震災後の東京朝日と大阪朝日の協力関係について、非常に詳しい記述があるが、なぜか、大阪朝日が「朝鮮人暴動説」をそのまま報道した事実にふれていない。


『大阪朝日』ほかの実例は、『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』に多数収録されている。

この基本資料を無視する朝日の姿勢には、厳しく疑問を呈したい。


 東京の新聞でも、同じ報道が流されたはずなのであるが、現物は残っていないようである。

わたしが目にした限りの関東大震災関係の著述には、東京の新聞の「朝鮮人暴動説」の報道例は記されていなかった。

念のためにわたし自身も直接調べたが、地震発生の九月二日から四日までの新聞資料は、実物を保存している東京大学新聞研究所(現社会情報研究所)にも、国会図書館のマイクロフィルムにも、まったく残されていなかった。


 たしかに地震後の混乱もあったに違いないが、そのために資料収集が不可能だったとは考えにくい。

報知、東京日日(現毎日)、都(現東京)のように、活字ケースが倒れた程度で、地震の被害が軽い社もあった。

各社とも、あらゆる手をつくして何十万部もの新聞を発行していたのである。

各社は保存していたはずだから、九月一日から四日までの東京の新聞の実物が、まるでないというのはおかしい。

戒厳令下の言論統制などの結果、抹殺されてしまった可能性が高い。


 ところが意外なことに、『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会)には、新聞報道の「混乱」の「最もよい例」として、「九月三日付けの『報知』の号外」の「全文」が紹介されていた。

要点はつぎのようである。


「東京の鮮人は三五名づつ昨二日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋に捕らわれし者約百名」


「程ヶ谷方面において鮮人約二百名徒党を組み、一日来の震災を機として暴動を起こし、同地青年団在郷軍人は防御に当たり、鮮人側に十余名の死傷者」


 同書の編著者で、当時は東海大学教授の山本文雄に、直接教えを乞うたところ、この号外の現物はないが、出典は『新聞生活三十年』であるという。


 実物は国会図書館にあった。著書の斉藤久治は当時の報知販売部員だった。

同書には、新聞学院における「販売学の講演」にもとづくものと記されている。

発行は一九三二年(昭7)である。のちの読売社長、務台光雄は元報知販売部長で、同時代人だから、この二人は旧知の仲だったに違いない。

ところが、この二人が残した記録は、肝心のところで、いささか食い違いを見せるのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-3.html


号外の秘密を抱いて墓場に入った元報知販売部長、務台光雄


 務台の伝記『闘魂の人/人間務台と読売新聞』(地産出版、以下『闘魂の人』)には、務台が、震災直後から一週間ほど社の講堂で寝泊まりしたことやら、その奮闘ぶりが克明に描き出されている。

「活字が崩れてしまったので、大きい活字を使って、号外のような新聞を、四日には出すところまでこぎつけた」ということになっている。

ところが、『新聞生活三十年』には、「写真1」のような「九月一日」付けの報知号外のトップ見出し部分のみが印刷されているのである。

「四日」と「一日」とでは、この緊急事態に際しては大変な相違がある。


 謎を解く鍵の一つは、まず、『別冊新聞研究』((4)、77・3)掲載、「太田さんの思い出」という題の、務台自身の名による文章である。

そこでは、「直ちに手刷り号外の発行を行う一方、本格的新聞の発行に着手、まず必要なのは用紙だ」となっている。

地震で電気がこないから、輪転機が動かせない。

輪転機用の巻紙もない。

だが、活字を組んでインクを塗れば、「手刷り」印刷は可能だった。

しかも、「手刷り」には、もう一つの手段があった。


 さきの『新聞生活三十年』を出典とする「朝鮮人暴動説」の号外は九月三日付けだが、「写真2」のようなガリ版印刷である。

本文中には、「汗だくになって号外を謄写版に刷る」という作業状況が記されている。


 務台のフトコロ刀といわれた元中部読売新聞社長、竹井博友の著書、『執念』(大自然出版局)によると、電気がこないので九月九日まで、「四谷の米屋からさがしてきたガス・エンジンでマリノニ輪転機を動かして」いたという。

普段よりは印刷能力が低かったので、手刷りやガリ版印刷で補ったのであろう。

晩年の務台から直接取材したという『新聞の鬼たち/小説務台光雄(むたいみつお)』(大下英治、光文社)では、震災当日に「手刷り」と「謄写版」の号外を出した事を認めている。

つまり、務台自身が、段々と真相の告白に迫っていたのだ。


 もう一つの手段は、近県の印刷所の借用である。

斉藤久治の表現によれば、「報知特有の快速自動車ケース号(最大時速一時間百五十哩)」で前橋の地方紙に原稿を届け、九月七日までに、「数十万枚を東京に発、送し、市内の読者に配ることに成功した」という。

 さて、そこからが一編の歴史サスペンスを感じさせるところである。

『新聞生活三十年』の本文には、問題の号外の文章は復原されていない。

そのほかにも本文には、「朝鮮人暴動説」報道に関しての記述はまったくないのである。

 「写真2」は同書の実物大(WEB上の注:87ミリ×53ミリ)である。

もともとのガリ版が乱筆の上に、かなりかすれている。

しかも、極端に縮尺されているから、拡大鏡で一字一字書き写してみなければ、判読できない状態である。

結果から見て断言できるのは、「写真2」のガリ版号外が、『新聞生活三十年』の本文の記述を裏切っているということである。


奇妙な話のようだが、当時の言論状況を考えれば、真相は意外に簡単なことかもしれない。

著者の斉藤が、手元に秘蔵していたガリ版号外の内容を後世に伝えるために、検閲の目を逃れやすいように判読しがたい状態の写真版にして、印刷の段階で、すべりこませたのかもしれないのである。

 わたしは、このガリ版号外の件を『噂の真相』(80・7)に書いた。

読売の役員室に電話をして務台自身の証言を求めたが、返事のないまま務台は死んでしまった。

あの時代の人々には、この種の秘密を墓場まで抱いていく例が多いようだ。残念なことである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-4.html


「米騒動」と「三・一朝鮮独立運動」の影に怯える当局者


「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、発生地帯の研究などもあるが、いまだに決定的な証拠が明らかではない。

軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告もある。

民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。

しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。


いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。

 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。

 さきに紹介した「内務省警保局長出」電文の打電の状況については、「船橋海軍無線送信所長/大森良三大尉記録」という文書も残されている。

歴史学者、松尾尊兌の論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」(『思想』93・9)によると、

大森大尉は、

「朝鮮人襲来の報におびえて、法典村長を通じて召集した自警団に対し四日夜、

『諸君ノ最良ナル手段ト報国的精神トニヨリ該敵ノ殲滅ニ努メラレ度シ』

と訓示したために現実に殺害事件を惹起せしめ」たのである。


 九月二日午後八時以降と、一応時間を限定すれば、「噂」「流言」、または「好意的宣伝」を積極的に流布していたのは、うたがいもなく内務省筋だったのである。

 なお、さきの船橋発の電文例でも、すでに「戒厳令」という用語が出てくる。

「戒厳」は、帝国憲法第一四条および戒厳令にもとづき、天皇の宣告によって成立するものだった。

前出の『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、この経過をつぎのように要約している。


「一日夜半には、内相官邸の中庭で、内田康哉臨時首相のもとに閣議がひらかれ、非常徴発令と臨時震災救護事務局官制とが起草された。

これらは戒厳に関する勅令とともに二日午前八時からの閣議で決定され、午前中に摂政の裁可を得て公布の運びとなったのである」


 前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」によると、この戒厳令公布の手続きは、「枢密院の議を経ない」もので「厳密にいえば違法行為である」という。

ただし、このような閣議から裁可の経過は、表面上の形式であって、警視庁は直ちに軍の出動を求め、それに応じて軍も「非常警備」の名目で出動を開始し、戒厳令の発布をも同時に建言していた。


 戒厳令には「敵」が必要だった。

警察と軍の首脳部の念頭に、一致して直ちにひらめいていたのは、一九一八年の米騒動と一九一九年の三・一朝鮮独立運動の際の鎮圧活動であったに違いない。

 首脳部とは誰かといえば、おりから山本権兵衛内閣の組閣準備中であり、臨時内閣に留任のままの内相、水野錬太郎は、米騒動当時の内相だった。

その後、水野は、三・一朝鮮独立運動に対処するために、朝鮮総督府政務総監に転じた。


 震災当時の警視総監、赤池濃は、水野の朝鮮赴任の際、朝鮮総督府の警務部長として水野に同行し、一九一九年九月二日、水野とともに朝鮮独立運動派から抗議の爆弾を浴びていた。

 震災発生の九月一日、東京の軍組織を統括する東京衛戍司令官代理だった第一師団長、石光真臣は、水野と赤池が爆弾を浴びた当時の朝鮮で、憲兵司令官を勤めていた。

 つまり、震災直後の東京で「市内一般の秩序維持」に当たる組織の長としての、内相、警視総監、東京衛戍司令官代理の三人までもが、朝鮮独立運動派から浴びせられた爆弾について、共通の強い恐怖の記憶を抱いていたことになる。

さらに軍関係者の方の脳裏には、二一か条の要求に反発する中国人へのいらだちが潜んでいたにちがいない。

 その下で、警視庁の実働部隊の指揮権をにぎる官房主事、正力は、第一次共産党検挙の血刀を下げたままの状態だった。

正力自身にも、朝鮮総督府への転任の打診を受けた経験がある。


 かれらの念頭の「仮想敵」を総合して列挙すると、朝鮮人、中国人、日本人の共産党員または社会主義者となる。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html


戒厳司令部で「やりましょう」と腕まくりした正力と虐殺


 戒厳司令部の正式な設置は、形式上、震災発生の翌日の午前中の「裁可」以後のことになる。だが、震災発生直後から、実質的な戒厳体制が取られたに違いない。

前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」には、当時の戒厳司令部の参謀だった森五六が一九六二年一一月二一日に語った回想談話の内容が、つぎのように紹介されている。

「当時の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、腕まくりして司令部を訪れ

『こうなったらやりましょう』

といきまき、阿部信行参謀をして

『正力は気がちがったのではないか』

といわしめたと語っている」


 文中の「阿部信行参謀」は、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となった。

これらの戒厳司令部の軍参謀の目前で、腕まくりした正力が「やりましょう」といきまいたのは、どういう意図を示す行為だったのであろうか。

正力はいったい、どういう仕事を「やろう」としていたのだろうか。

「気がちがったのではないか」という阿部の感想からしても、その後に発生した、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量「保護」と、それにともなう虐殺だったと考えるのが、いちばん自然ではないだろうか。


森五六元参謀の回想には、この意味深長な正力発言がなされた日時の特定がない。


だが、「やりましょう」という表現は、明確に、まだ行為がはじまる以前の発言であることを意味している。

だから、戒厳司令部設置前後の、非常に早い時点での発言であると推測できる。

警察と軍隊は震災発生の直後から、「保護」と称する事実上の予備検束を開始していた。

その検束作業が大量虐殺行動につながったのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-6.html


「社会主義者」の「監視」と「検束」を命令していた警視庁


 関東大震災後の虐殺事件では、直接の殺人犯を二種類に分けて考える必要がある。

 第一の種類は、いわゆる「流言」「噂」または「情報操作」にあおられて、朝鮮人や中国人を無差別に殺した一般の自警団員などの民衆である。

前項で検討した材料から判断すれば、虐殺を煽ったのは正力ほかの警察官であり、こちらの方がより悪質な間接殺人犯である。

背後には日本の最高権力の意思が働いていた。


 同じ中国人の殺害でも、のちにくわしくふれる王希天のような指導者の場合には、ハッキリと「指名手配」のような形で拉致監禁され、しかも、職業軍人の手で殺されている。

日頃から敵視していた相手を、地震騒ぎに乗じて殺したことが明らかである。

朝鮮人についても同じような実例があったのかもしれない。

社会主義者の虐殺に関与したのは、明白に、警察と軍隊だけであった。

これらの、相手を特定した虐殺の関与者が、第二の種類の職業的な直接的な殺人犯である。

その罪は第一の種類の場合よりもはるかに重いし、所属組織の上層部の機関責任をも厳しく問う必要がある。

上層部による事後の隠蔽工作は、さらに重大かつ悪質な政治犯罪である。


 正力らが犯した政治犯罪を明確にするために、虐殺事件の問題点を整理してみよう。

 中国人指導者の王希天や日本人の社会主義者の場合には、かれらが警察と軍の手で虐殺されたのは、いったん警察に「指名手配」のような形で拉致監禁されたのちのことである。

警察の方では、軍に身柄を引き渡せば殺す可能性があるということを、十分承知の上で引き渡している。

軍の方が虐殺業務の下請けなのである。

当時の制度では、戒厳令のあるなしにかかわらず、市内秩序維持に関するかぎりでは警視庁の要請で軍が動くのであった。

全体の指揮の責任は、警視庁にあった。警視庁と戒厳司令部の連絡に当たっていたのは、官房主事の正力であった。


『巨怪伝』では、つぎのような経過を指摘している。

「九月五日、警視庁は正力官房主事と馬場警務部長名で、

『社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよ』

という通牒を出した。

さらに十一日には、正力官房主事名で、

『社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ』

という命令が発せられた」


 これによると、「社会主義者」の「監視」または「検束」に関する警視庁の公式の指示は、九月五日以後のことのようである。

ところが、「亀戸事件」の犠牲者、南葛労働組合の指導者、川合義虎ら八名の社会主義者が亀戸署に拉致監禁されたのは、それ以前の「三日午後十時ごろ」なのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-7.html


「使命感すら感じていた」亀戸署長の暴走を弁護する正力


『関東大震災と王希天事件/もうひとつの虐殺秘史』(田原洋、三一書房、以下『関東大震災と王希天事件』)では、川合義虎ら八名の社会主義者が近衛騎兵によって虐殺された「亀戸事件」の経過を細部にわたり、「時系列にしたがって検分」している。

 かれら八名の社会主義者が

「三日午後十時ごろ、理由も何もなく、狙い打ちで検束されてしまった」

時点では、十一日の「検束」命令どころか、五日の「監視」通牒さえ出ていなかったのである。


 亀戸署管内では、別途、それに先立って、中国人大量虐殺の「大島事件」と、反抗的な自警団員四名をリンチ処刑した「第一次亀戸事件」も発生している。

署長の古森繁高は、社会主義者らの生命を奪うことに「使命感すら感じていた」という点で、「人後に落ちない男」であった。


古森は、「朝鮮人暴動説」が伝えられるや否や、自ら先頭に立ってサイドカーを駆使して管内を駆け巡り、「二夜で千三百余人検束」し、「演武場、小使室、事務室まで仮留置場にした」のである。


 社会主義者の検束に当たって古森が「とびついた」のは、「三日午後四時、首都警備の頂点に立つ一人、第一師団司令官石光真臣」が発した「訓令」の、つぎのような部分であった。

「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」

 つまり、社会主義者が朝鮮人の「暴動」を「悪用」する可能性があるから、注意しろという意味である。

『20世紀を動かした人々』(講談社)所収の「正力松太郎」(高木教典)には、正力が亀戸事件について語った当時の新聞談話が収録されているが、つぎのような説明ぶりで、古森署長の行動の後追い弁護になっている。


「実際、二日、三日の亀戸一帯は、今にも暴動が起るという不安な空気が充満し、二日夜も古森署長は部下の警官を集めて決死の命令を下す程、あたかも無警察の状態で、思想団、自警団が横行していたそうで、

軍隊の力を頼んで治安維持を保つべく、ついにこうしたことになったのであるが、

今回の事件はまったく法に触れて刺殺されたものである。

警官が手を下したか否かは、僕としては、軍隊と協力、暴行者を留置場外に引き出したことは事実であるが、刺殺には絶対関与していないと信ずる」


 この新聞談話から、社会主義者にかかわる部分を抜き出して、検討してみよう。

 まずは、「思想団」が「横行していたそうで」というが、そのような事実があったと主張する歴史書は皆無である。

つぎには、「法に触れて刺殺」と断定していうが、せいぜいのところ、留置場のなかで抗議の大声を挙げたり、物音を立てたぐらいのことであって、

そのどこがどういう「法に触れ」たのかの説明がまったくない。

「暴行者を留置場外に引き出したことは事実」としているが、これも同じ趣旨である。

正力はいったい、どの行動を指して「暴行」だと断定しているのだろうか。


 最後の問題は、「[警察側が]刺殺には絶対関与していないと信ずる」という部分にある。

正力としては、虐殺の責任を「軍隊」になすりつけ、監督責任を逃れたかったのであろう。

だが、すでに指摘したように、当時の制度では警視庁の要請で軍が動くのであった。


『関東大震災と王希天事件』には、古森署長がみずからしたためた「第一次亀戸事件」に関する報告が収録されている。

警視庁が編集した『大正大震火災誌』からの引用である。

引き渡しの理由は、「兵器ヲ用ウルニアラザレバ之ヲ鎮圧シガタキヲ認メ」たからだとなっている。

古森は、「兵器」による「鎮圧」を予測しつつ、または希望しつつ、反抗的な自警団員四名を軍に引き渡したのだ。

結果は、違法なリンチ処刑だった。


 この四名の自警団員の場合は、道路で日本刀を持って通行人を検問していた。

警官が検問の中止を勧告したところ、「怒って日本刀で切りかかった」のだそうである。本人たちは、警察が流した「朝鮮人暴動説」に踊らされていたわけだから、中止勧告が不本意だったのだろう。

留置場内で警察の悪口を並べ、「さあ殺せ」とわめいたりしたようである。

「結局、軍・警察の処置は妥当と認められ、四人は死に損となった」とあるが、リンチ処刑が「横行」するような「無警察」状態を演出したのは、いったいどちらの方なのだろうか。

 しかも、『関東大震災と王希天事件』ではさらに、この四日夜の「第一次亀戸事件」を、川合義虎ら八名の社会主義者の虐殺、いわゆる「亀戸事件」への導火線になったのではないかと示唆している。

反抗的な自警団員四名の引き渡し以後、留置場内は「前にもまして騒然となった」のである。そこで「古森は、ついに五日午前三時」、川合らを騎兵隊に引き渡した。同書では時系列の記述の最後を、つぎのように結んでいる。

「古森は『失態』を告発する恐れのある川合らを抹殺した。

両次亀戸事件の犠牲者十四人の死体は、こっそり大島八丁目に運ばれ、多くの虐殺死体にまぎれて焼却された」


 同書はまた、この「両次亀戸事件」に、中国人指導者王希天虐殺事件と大杉栄ら虐殺事件に共通する「パターン」を指摘する。

「法にしばられる警察は、自ら手を下さずとも、戒厳令下で異常な使命感と功名心に燃え狂っている中下級軍人を、ちょっとそそのかすだけで、目的をとげることができた」のである。

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留学生で中華民国僑日共済会の会長、王希天の虐殺事件


 さらに重大な問題は、すでに何度か記した在日中国人の指導者、王希天の虐殺事件であった。

 ここで「さらに重大な問題」と記した意味には、虐殺そのものとは別の側面も含まれている。

この事件は、読売の紙面が輪転機にかける鉛版の段階で削除されるという事態を招いていた。

つまり、この事件は、本書の主題の読売の歴史に、深い影を落としているのだ。


 元警視庁警務部長が、こともあろうに首都の名門紙に「乗りこむ」という事態は、一種の政治犯罪を予測させる。

だが、およそ重大な犯罪の背景には、間接的または一般的な状況だけではなくて、直接的な契機、または引くに引けない特殊な動機があるものである。

とくに、一応は正常な社会人として通用してきた人物を「重大な犯罪」に駆り立てるためには、それだけ強力で衝動的な動機が必要である。

わたしは、この事件の真相を知ることによって初めて、長年の、もどかしい想いの疑問の核心部分に達したと感じる。

読売の紙面の鉛版削除という稀有な事態を招いたこの事件こそが、正力の読売「乗りこみ」という、これまた稀有な事態の直接的な動機だと、確信するに至ったのである。


 関東大震災と朝鮮人・社会主義者の虐殺の関係は一応、一般にも広く知られている。

 だが、虐殺の被害者の中でも「中国人」の三文字は、これまで付け足りのようだった。

とくに知られていなかったのは、王希天虐殺事件そのものと、その国際的な重要性であった。

中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生、王希天は、陸軍将校から斬殺されていた。

「行方不明」と発表されていた王希天の捜査、調査活動は、当時の政界、言論界を揺るがす国際的な大事件に発展していたのである。


 一九九五年には、さまざまな角度から日本の戦後五〇年が問われた。

試みに、その年の暮れの集まりで会った在日朝鮮人の研究者と、駐日特派員の中国系ジャーナリストに、「王希天虐殺事件を知っていますか」という質問を向けてみた。

案の定、二人とも、まったく知らなかった。

詳しく話すと、真剣な表情で耳を傾けてくれたのちに、「大変に貴重な情報を教えていただき、ありがとうございました」と、ていねいにお礼をいわれた。

その後、何人かの日本人ジャーナリストにも同じ質問を向けてみたが、やはり、王希天の名を知っている人は非常に少ない。

ただし、わたし自身も数か月前に知ったばかりで、自慢などできる立場ではなかった。「五十歩百歩」そのものである。


 王希天が代表としてノミネートされる中国人の大量虐殺事件については、いまから七三年前の一九二三年(大正12)、関東大震災の直後に、中国政府が派遣した調査団が訪日している。

日本政府が対応に苦慮した国際的大事件である。ではなぜ、そんな大事件が、いまだに広くどころか専門家にさえ知られていないのだろうか。


 中心的な理由は簡単である。

当時、日本政府首脳が「徹底的に隠蔽」の方針を決定し、全国の警察組織を総動員して、新聞雑誌(放送は発足前)報道をほぼ完全に押さえこんだからである。

基本的には、そのままの言論封鎖状況が続いているのだ。


 王希天は、関東大震災の直後、亀戸署に留置されたのち陸軍に引き渡され、以後、警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」となっていた。

陸軍当局も、当時は警視庁官房主事兼高等課長の正力松太郎を実質的責任者とする警視庁も、王希天殺害の事実を知りながら、国際的追及の最中、必死になって、ひた隠しにしていた。

実際には王希天は、陸軍の野戦重砲第三旅団砲兵第一連隊の将校たちにだまされて連れ出され、背後から軍刀で切り殺されて、切り刻まれて川に捨てられていた。

事件そのものは、当時の日中の力関係を反映し、最後には、賠償問題さえうやむやのままに葬り去られた。


 象徴的なドラマは、「支那(ママ)人惨害事件」と題する読売新聞(23・11・7)の社説および関連記事の周辺に展開された。

同社説(別掲)と記事をそのまま載せた地方向けの早版は、少部数だが輪転機で刷り出され、発送まで済んでいたのだが、急遽、検閲で不許可、発売禁止となり、各地で押収されたのである。

同時に、その問題の紙面には、「写真3、4」のような鉛版段階での削除という稀有の処置が取られた。


 関係資料は十数点ある。

戦後最初の大手メディア報道は、毎日新聞(75・8・28夕)の「『王希天事件』真相に手掛かり/一兵士の日記公開/『誘い出して将校が切る』」だが、同記事の段階ではまだ、王希天殺害についての証言は、所属部隊の一兵士の「伝聞」にしかすぎない。

以後、日本の研究者、ジャーナリストらの招きで、王希天の遺児が来日した際に、数件の報道があった。

しかし、残念ながら、それらの報道の中には、当時の言論弾圧状況の紹介がなかった。

 専門雑誌の記事、少部数の単行本、断片的なマスコミ報道、それだけでは世間一般どころか普通の企業ジャーナリストの目にさえ、「事件は存在しない」と同様である。

わたしが湾岸戦争以来、「マスコミ・ブラックアウト」と名付けている現象である。

王希天事件の場合には、この現象が意識的かつ政治的に作り出され、しかも、約四分の三世紀にもわたって続いていることになる。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-1.html


「震災当時の新聞」による偶然の発掘から始まった再発見


 おおげさなようだが、わたし自身も、この問題に関する「マスコミ・ブラックアウト」の被害者の一人である。

というのは、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆の際、わたしは王希天について何も知らなかった。

正力と関東大震災後の虐殺事件の関係を調べるために、何冊かの関係書に当たったが、そこには王希天のことは書いてなかった。

実際には、すでにそのころ、雑誌論文や何冊かの単行本に、王希天に関する研究が発表されはじめていたのだが、わたしの資料探索は、そこまで達していなかったのである。


 旧著の発表後にも、つぎつぎと新たな資料が発表されていた。

 前出の『関東大震災と王希天事件』の終章の題は「事件発掘史」となっているが、それによれば、王希天に関して戦後に最初の国内論文が発表されたのは一九七二年である。

 関西大学講師の松岡文平は、『千里山文学論集』(8号)に「関東大震災と在日中国人」を発表した。

その研究の発端の説明は、「震災当時の新聞に、王の『行方不明』が大きく報じられているのに疑問を抱き」始めたからとなっている。

つまり、当時の新聞を調べていたら、偶然、「王希天」というキーワードに突き当たったわけである。


 一九七五年に出版された『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)には、松岡論文を米軍押収資料など裏付け、さらに発展させた横浜市立大学教授、今井清一の研究が収められている。

だが、その時点では、王希天虐殺の事実については、つぎのような推測の範囲にとどまっている。

「野重[野戦重砲第三旅団砲兵]第一連隊の将校が、おそらく旅団司令部の意もうけて人に知られない時間と場所とを選んで殺害したのであろう」


 『甘粕大尉』の著者、角田房子は、一九七九年に同書の中公文庫版の「付記」として、つぎのように記している。

「『甘粕大尉』執筆中私は、関東大震災直後のドサクサの中で惨殺された王奇天を調べたが、努力の甲斐もなく確かな資料を見つけることが出来なかった。

 本書初版は昭和五十[一九七五]年七月二十五日に出版された。それから一ヵ月後、八月二十八日の『毎日新聞』夕刊に『「王奇天事件』真相に手掛り/一兵士の日記公開』という記事と、王奇天の経歴が発表された。関連記事は九月一日夕刊にもあった」

 角田は「希」を「奇」と誤記している。わたしの旧著、『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社、79刊)は、この『甘粕大尉』の「付記」が書かれたのと同じ年の、一九七九年に出版されている。そのころまでは、こんな状況だったのである。

 さきの毎日報道から七年後、『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋(よう)は、王希天を殺した本人の「K中尉」こと、元砲兵中尉(のち大佐)の垣内八州男を探し当てた。

垣内は、拉致された王希天の「後ろから一刀を浴びせた」ことを認める。

「[殺害を指示した佐々木大尉]は、上から命令を受けておったと思います。……

後で、王希天が人望家であったと聞いて……驚きました。

可哀そうなことをしたと……[殺害現場の]中川の鉄橋を渡るとき、いつも思い出しましたよ」、

などと、その後の心境を、ポツリ、ポツリと告白する。


『将軍の遺言/遠藤三郎日記』(宮武剛、毎日新聞社、86刊)は、毎日新聞の連載記事をまとめたものである。

のちに紹介するが、遠藤は当時、垣内中尉の直属上官だった。

 つい最近の一九九三年に発行された『震災下の中国人虐殺/中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』(仁木ふみ子、青木書店、以下『震災下の中国人虐殺』)には、「日本側資料について」の項目がある。

それによると、「軍関係資料」の内、参謀本部関係は米軍による接収以前に処分されており、防衛庁戦史資料室には皆無である。

警視庁関係は米軍に接収され、現在は国会図書館と早稲田大学で一部のマイクロフィルムを見ることができる。

一部の、しかし、きわめて貴重な資料が、外務省外交史料館に、「一目につかない工夫をして保存」されていたようである。

『関東大震災/中国人大虐殺』(岩波ブックレット、91刊)の著者でもある仁木ふみ子は、以上のような資料探索の結果、ついに、外務省外交資料館に眠っていた「まぼろしの読売新聞社説」までを発見した。

 これだけの材料が揃っているのを知ったとき、とりわけ、「まぼろしの読売新聞社説」の「発見」について、最初に『巨怪伝』の記述を目にしたとき、徐々に、そしてなお徐々に徐々に、長年の疑問と戦慄の想いが、わたしの胸の奥底からこみ上げ、背筋を走り、全身に広がり始めた。

これらの発見は、わたし自身にとっても、大変な半生のドラマの一部だったのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-2.html


「相手は外国人だから国際問題」という理解の重大な意味


 以上の資料に接するより一六年前、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』の仕上げの段階で、わたしは一応、国会図書館のマイクロ・フィルムで当時の読売の記事を検索していたのである。

そこには明らかに、輪転機にかける鉛版の段階での削除と見られる紙面があった。だが、その時には、それ以上の詳しい追及をする時間の余裕がなかった。

そこで旧著では、「なお、読売新聞の紙面そのものの細部にわたる調査も必要である」という心覚えを残し、つぎの点だけを中間報告として記しておいたのである。

「実物をみると、関東大震災の記事に、相当量の、鉛版段階における全面削除がみられる。一部の残存文字から察するに、震災時の朝鮮人、社会主義者に関する記事であることに間違いない」

 ところが、「間違いない」と断定的に書いた記事内容の推測は、不十分であった。

まずは「中国人」が抜けていた。

拡大した「写真5」で見れば、全面を削り取られた一九二三年一一月七日の読売記事の残存文字のなかには、明らかにルビ付きで「王希天氏(おう き てん し)」とあるのだが、その意味が、当時のわたしには分からなかった。

その左隣の、やはりルビ付きの「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」の方だけに気を取られて、王希天を朝鮮人だと思い込んでしまったのである。

残念といえば残念だが、わたしは、長年の戦慄の想いに終止符を打ち、この訂正と調査不足の告白を余儀なくしてくれた諸氏の研究に感謝する。


『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋の場合には、わたしとはまったく逆で、偶然の機会に王希天事件の存在を知り、それから追跡取材を開始した。

 念のために田原本人にも直接聞いて確かめたが、田原は別の用向きで、元陸軍中将の遠藤三郎と会った。

話がたまたま関東大震災当時におよび、遠藤が、当時は大尉で、江東地区の第一線の中隊長だったと語った。

田原が「大杉栄が殺されましたね」と相槌を打つと、遠藤は意外なことを語りだした。

 正確を期すために、田原の著書の方から引用すると、遠藤は、「大杉栄どころじゃない。もっと大変な(虐殺)事件があったんだ」と言い出した。

「オーキテンという支那人(原文傍点有り)労働者の親玉を、私の部隊のヤツが殺(ヤ)ってしまった。

朝鮮人(原文傍点付有り)とちがって、相手は外国人だから、国際問題になりそうなところを、ようやくのことで隠蔽(いんぺい)したんだ」

 文中の支那人(原文傍点有り)と朝鮮人(原文傍点有り)の傍点は、田原が付けたものである。

遠藤が育った時代の用語そのままだから、別に他意はないと思う。

最大の問題は「相手は外国人」の部分にある。

 わたしの場合、この部分を自分のワープロで入力した時に、初めて、その意味の重大さに気付いた。


それまでの頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」を、関東大震災の際の「虐殺被害者」という項目で一括して考えていたのである。

「虐殺」を告発する立場の人々の多くは、わたしと同じ錯誤に陥っている可能性が高いと思う。

ところが、立場が違えば、同じ物が別の角度から見える。時の権力の頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」の三者は、まったく別の項目で整理されていたのである。

とくに「中国人」は、別扱いの「外国人」だった。

監督官庁としても外務省が加わるから、行政上では決定的な違いが出てくる。


 震災時の朝鮮人の大量虐殺事件も、もちろん重大であるし、国際的にも非難を浴びた。

しかし、当時の国際法の秩序からいえば、植民地保有とその支配自体は非合法ではない。

許しがたいことではあるにしても、いわゆる欧米列強の帝国主義国を中心とする国際外交上で考えるかぎりでは、日本人の社会主義者の虐殺問題と同様の国内問題である。

ところが、中国人の虐殺となると、当然のことながら、明確に外国人の虐殺であり、国際外交上の問題とならざるをえない。

だから遠藤は、「大杉栄どころじゃない」と語ったのである。


 しかも、当時の日本は、満鉄の利権拡大を中心に、中国東北部への侵略の意図を露骨にしていた。

第一次世界大戦中の一九一五年(大4)には、火事場泥棒で奪った旧ドイツ領の青島に増兵を送って威圧を加えながら、対中国二一ヵ条要求を突き付け、その内の一六ヵ条を承認させていた。

中国の内部での反日運動も高まっていたし、国際的な批判も日を追って増大していた。

だから、「中国人指導者・王希天」の虐殺は、現在の日本人が感じるよりも、はるかに重大な国際問題だったのである。


 その後の資料探索で、田原は読売の紙面の削除を知り、紙面の検索をしている。田原は、事前に、その削除された紙面の執筆者が、中国通の著名記者、小村俊三郎だということまで知っていた。

「中国問題に詳しい小村俊三郎」については、『読売新聞百年史』にも非常に簡単ながら、その「入社」が、松山社長時代の項に記録されている。それだけのキャリアが認められる人物だったのである。

しかし、削除された紙面の内容については、まだ、残存文字という手掛りしかない。田原は、非常に残念そうに、つぎのように記していた。

「削除された記事は、いまとなっては復原の方法はない。

『読売』のバックナンバーは、削られた白紙のままだし、小村も記録は残していない」

 田原はさらに、つぎのような想像を付け加えていた。

「そこで推測するしかないが、この記事の筆者は小村俊三郎記者であった。

彼は期するところがあって、ある“過激な”記事を書こうとした。検閲にかけたのでは通りっこないから、何らかの策を使って『鉛版』をとり、ともかく早版を刷り出すところまでは行った。

が、いよいよ近郊版を刷ろうとしたところで誰かにストップをかけられてしまった。

鉛版工のベテランが、指定された記事に削り(のみを使う)を入れる。……

と、そのとき、小村が必死の形相で近より『ここだけ削り残してくれ』と耳打ちする。

あるいは何らかの方法で、小村の“頼み”が伝えられた。

残せといった文字は『王希天』の三文字であった。

この三文字が残っていれば、何が書かれていたか、およその察しはつくのである」

 田原の想像は、おそらく「当たらずといえども遠からず」であろう。

さきにも記したし、「写真3」で明らかなように三文字のみではないが、「王希天氏(おう き てん し)」と「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」という決定的に重要なキーワードだけが、なぜか明瞭に残っているのだ。

とうてい偶然の結果とは思えない。

戒厳令が敷かれていた当時のことだから、その鉛版がはまっていた輪転機の側には、警察官、それもかなり重要な地位の検閲のベテランが、にらみを利かせていたのではないだろうか。

そうだとすれば、まさに、その目の前で、緊迫の鉛版削りのドラマが展開されていたことになる。

 この想像のドラマの緊迫感が、わたしの全身に、いい知れぬ戦慄を走らせるのだ。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-3.html


「まぼろしの読売社説」の劇的発見! 分散して資料を温存か?


 さて、それだけのドラマを秘めた削除紙面の実物が、また、なんとも劇的なことには、その後に発見されたのである。

削除は二か所にわたっていて、二面は社説、五面は関連記事であった。

「写真6、7」の「要保存/発売禁止トナレル読売新聞切抜」がそれである。

 発見者の仁木は、元日教組婦人部長である。

会ってみると、かつてのいかめしい肩書きとは違って、優しい教師そのままの気さくな人柄だった。

「定年後に時間ができて、ただただシラミ潰しに探し回っただけのことですから……」と、静かにほほ笑む。

とくに事前にお願いしたのでもないのに、貴重この上もない発見資料のコピーをも用意してくれていた。

わたしは、それを押し頂いて、発見の経過をうかがった。


 仁木は、『震災下の中国人虐殺』の中で、つぎのように記している。

「これは『要保存、発売禁止となれる読売新聞切抜』と墨書されて、外務省外交資料館にひっそりとしまわれていたのであった」

 この「ひっそりと」という表現の裏にも、おそらく大変な戦慄の人間ドラマが潜んでいたようなのである。

仁木は、「人目につかない工夫をして保存」されていたという表現もしている。

くわしくは同書を参照していただきたい。

何か所にも分かれて外務省外交資料館の資料管理状況が記されている。

とりあえず簡略に要約紹介すると、「書類を分散させて一見関係なさそうな項目の下に配列し」てあったのである。

最後には、つぎのように謎を解く鍵の人名が出てくる。


「だれがこのような文書配列をしたのであろうか。

事件の結末に何とも納得できなかった一青年事務官が、歴史の検証の日に備えて、暗号のように分散させ保管したのではなかったか。

かれの名は多分守島伍郎である。後の駐ソ大使、戦後は自由党代議士一期。

日本国連協会専務理事、善隣学生会館理事長をつとめ、一九七〇年、七〇歳で亡くなった」


 田原によれば、守島は、「同じ外交出身のワンマン吉田茂(一八七八〜一九六七)とは一定の距離を保ち、『オレは社会党から出てもおかしくはない』と語ることもあった」という。

いわゆるリベラル派であろう。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-4.html


中国側の調査団は「陸軍の手で殺されたと思う」と語って帰国


 さて、以上はまだ、王希天虐殺事件をめぐる緊迫のドラマの導入部にしかすぎない。

もう一度、物語の主人公を紹介し直し、この事件の国際的および国内的な位置付け、引いては歴史的な意味を確認し直したい。

 王希天は、当時はエリートの留学生で、その後に満州国がデッチ上げられる中国東北部の吉林省から来日していた。

推定二七歳。東京中華留日キリスト教青年会の幹事、および中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった。


1948年、東京にて、前列右から周恩来、王希天
写真提供:仁木ふみ子


 事件発生当時においても、日本国内の報道よりも中国での報道の方が早かった。

『中華日報』(23・10・17)の社説では、「共済会長王希天が警察に捕らわれたまま行方不明」という事態を「故意の隠蔽」と疑い、「軍、警察の手」によって「殺された」可能性を指摘していた。

仁木はさらに、王希天の出身地、長春、吉林省の新聞、『大東日報』(23・11・1)の記事から、つぎのような憤激の呼び掛けの部分を紹介している。


「本件発生につき考うるに彼等は吾に人類の一分子と認めざる方法を試みたるものなり。

吾々もし放任し、彼等を問罪せず黙認せば吾々は人間にあらざるなり。同胞起きて醒めよ」


 情報源は、捜索に当たった王希天の友人の留学生や、震災発生後、上海に送還された中国人労働者たちだった。

上海や吉林省などの現地の憤激を背景にして、北京政府も調査団を日本に派遣した。

日本側当局は事実の隠蔽に終始したが、中国側代表団は帰国する前に日本の外務省書記官に対して、「王希天は大杉栄同様陸軍の手で殺されたと思う」と語っていた。

『震災下の中国人虐殺』では、「まぼろしの読売新聞社説」という小見出しを立てて、つぎのように指摘している。

「十一月七日、『読売新聞』の朝刊は発売禁止となり、二面の社説と五面の記事を削りとって、この部分は空白のまま発行された。

政府に強烈なインパクトを与えたといわれる『まぼろしの読売社説』は復原すると次のようである」

 以下、二面の社説、「支那人(ママ)惨害事件」の全文は、巻末(367頁・WEB版(15)資料)に小活字で紹介する。

とりあえず要約すると、「惨害」の犠牲者を「総数三百人くらい」としている。

「支那人労働者の間に設けられた僑日共済会の元会長王希天も亀戸署に留置された以後生死不明となった事実」を指摘し、「重大なる外交問題」の真相を明らかにしないのは、「一大失態」だと論じている。

 結論部分は、「本事件に対する政府の責任は他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。[中略]

故に吾人は我が国民の名において最後にこれをその陸軍に忠言する」となっている。

 仁木は、この「まぼろしの読売新聞社説」を、つぎのように評価している。

「戒厳令下の執筆であるが、実に堂々たる論調である。[中略]

一本の筆に正義を託す記者魂が厳然とそこに立つ」


 同時に鉛版から削除された五面の記事は、

「支那政府を代表し抗議委員が来朝する/王氏外百余名の虐殺事件につき精査の上正式に外務省へ抗議申込/我態度を疑う公使館」

という三段大見出しで、本文約八〇行である。

これは、もしかするとわたしの新発見なのかもしれないが、削除された二面の社説の下のベタ記事を眺めていたら、「虐殺調査委員/支那から派遣する」という本文七行の「北京四日国際発」電が残っていた。

いずれも記事の本文では「調査委員」または「特別委員」となっているのに、見出しで「抗議委員」または「虐殺調査委員」と表現している。

社説の題にも「惨害」とある。

当時の読売新聞のデスクの、この事件に対する判断基準が伝わってくるような気がする。

 読売の全面削除された社説は当然、王希天その人と中国側の動きを知り、その惨殺の事実を知るか、またはその事実にせまりつつあったジャーナリストの存在を示している。

 全面削除の社説を執筆した小村俊三郎(一八七二〜一九三三)は、「外務省一等通訳官退職後、東京朝日、読売、東京日日など各新聞社で中国問題を論評、硬骨漢として知られる中国通第一人者」だった。

王希天事件については、その後も独自の調査を続け、外務省に「支那人被害の実情踏査記事」と題する報告書を提出している。

 しかもこの小村俊三郎は、日露戦争後のポーツマス条約締結で有名な小村寿太郎と、祖父同士が兄弟の再従兄弟の関係にあった。

いわば名家の出でもあるし、もともと東京の主要名門紙に寄稿するコラムニストなのだから、顔も広い。

政府筋が個人的に攻撃すれば逆効果を生み出しかねない。

当時の松山社長時代の読売には、そういう人材が集まっていたのである。

『巨怪伝』では、当時の読売の報道姿勢を、つぎのように指摘している。

「大杉栄殺害の事実を、時事と並んでいち早く号外で報じたことにも示されるように、関東大震災下に起きた一連の虐殺事件の真相と、政府の責任を最も鋭く追及したのが読売新聞だった」

 もしかすると、内務省関係者は、田原が想像したような、「王希天」の三文字をかすかに残す印刷現場でのひそかな抵抗のドラマにも気付いて、警戒の念を高めていたのかもしれないのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-5.html


九二四件の発売禁止・差押処分を大手紙の社史はほぼ無視


 さて、ここで愕然とせざるをえないのは、日本の三大新聞、朝日・毎日・読売、すべての社史に、ほぼ共通する実情である。

王希天虐殺事件はもとより、関東大震災下の言論弾圧に関しての記述が、あまりにもお粗末なのである。

 まずは前項の「まぼろしの読売社説」の件であるが、『読売新聞百二十年史』を最新とする読売の社史には、たったの一行の記述もない。

それどころか、関東大震災後に報道規制があったことすら、まったく記されていない。

改めて呆れはしたが、読売のことだから、さもありなんと諦めた。


 毎日新聞はどうかというと、『毎日新聞七十年』にはまったく記載がないが、最新の『毎日新聞百年史』には、つぎのように記されている。

「新聞は“大杉栄殺し”を直感したが、戒厳令下、報道の自由はなかった」

 ただし、これだけでは、陸軍憲兵隊による社会主義者大杉栄の一家惨殺事件のみが、報道規制の対象になったかのような、誤解が生れかねない。

「王希天」の三文字はもとより、「朝鮮人」という単語も、「中国人」という単語もない。

 朝日の場合も、『朝日新聞の九十年』には確かに、「惨禍の中で特報や号外を連発」の見出しはある。

「『大阪朝日』数十万部を増刷して、船と汽車で東京に送」ったことなどの奮闘の経過は、八頁にもわたって克明に記されている。

だがやはり、報道規制の「キ」の字も出てこないのである。

 朝日は『百年史』を発行せずに、「百年史編修委員会」名で、創立から数えると一一一年目に当る一九九〇年から『朝日新聞社史』全四巻の社内版発行を開始し、一九九五年から全巻を市販している。

本文六五九頁の第二巻、『朝日新聞社史/大正昭和戦前編』には、つぎのように記されている。

「震災直後の流言からおこった社会主義者や朝鮮人の陰謀騒ぎで多数が殺された事件の実態は、九月二日に出された戒厳令によって報道が差し止められ、東朝[東京朝日]は十月二日になってその一部の報道が許された」

 ここでかろうじて「朝鮮人」という単語が、報道差し止めとの関係で登場する。

しかし、「中国人」も「王希天」もない。


 この状況は、いかにも不自然であり、不都合なのである。

国際的にも評判の「横並び」方式による隠蔽工作が、いまだに継続されているのではないかとさえ思えるのである。

 歴史的な資料がなかったわけではない。

さきに挙げたほかにも、たとえば、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会、75刊)では、これらの一連の虐殺事件に関する「ジャーナリズムの沈黙と右傾化」と、それを促進した権力の「強圧」を指摘している。

出典として『災害誌』(改造社編)などを挙げており、当時の新聞統制の模様を、つぎのように要約している。

「甘粕事件、内鮮人殺害、自警団暴挙に関する差止事項を掲げた日刊新聞で、発売頒布を禁止されたものは、寺内内閣当時の米騒動の際における処分に比すべきものと見られ、

新聞紙の差押えが、十一月頃まで殆ど三十以上に及び、一新聞紙の差押えが優に二十万枚に達したものがあった」


 ただし、ここにも「中国人」が登場しないという弱点があるし、さらには、この数字でも実は、まだまだ控え目だったようなのである。

おそらく、ここでいわれている「米騒動の際における処分に比すべきもの」という水準をはるかに越えていたに違いない。

日本の言論弾圧の歴史上、最大規模の問題として根本的な見直しをせよ、日本のメディア史の研究をやり直すべきだと、強調せざるをえないのである。

『関東大震災と王希天事件』の著者、田原は、当時の内務省警保局図書課の秘密報告を入手し、「表1」の「(秘)震災に関する記事に依り発売禁止並びに差押処分に付せられたる新聞件数調」を作成している。

「総件数」は、なんと、さきの『災害誌』の「三十以上」という数字を一桁以上も上回り、「九二四件」に達しているのである。

その内、「亀戸警察署刺殺事件に関する記事」(王希天行方不明記事を含む)と分類されているものだけでも、「三〇件」である。
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後藤内相が呼び掛けた「五大臣会議」で隠蔽工作を決定


 これだけの言論弾圧を行った当時の内務大臣は、いったい誰だったのであろうか。

 おりから新内閣の組閣中で、

関東大震災発生の九月一日までは留任中の水野錬太郎(一八六八〜一九四九)、

二日からは再任の後藤新平(一八五七〜一九二九)だった。

つまり、内務大臣としては水野の先輩に当る後藤が、この激動の際に、二度目の要職を引き受けていたのである。


 後藤が果たした役割については、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』に、つぎのように記されている。


「一〇月中旬に王希天の行方不明が報道され、同二〇日に中国代理公使から王の殺害について抗議をうけると、日本政府も対策の検討をすすめた。

内務省当局では大島事件、王希天事件を両者とも隠蔽する意見で、

一一月七日には閣議のあと後藤内相、伊集院彦吉外相、平沼騏一郎法相、田中陸相、それに山本首相も加わって協議したうえ、

『徹底的に隠蔽するの外なし』と決定し、中国がわとの応対方法については警備会議に協議させることになった」


 この「閣議のあと」の「協議」については、『関東大震災と王希天事件』にも『震災下の中国人虐殺』にも、さらに詳しい記述がある。

内務省や外務省の関係者の記録が残されているからである。

「協議」の場は「五大臣会議」と通称されている。

 本稿の立場から見て、もっとも重要なことは、この「五大臣会議」が行われた「一一月七日」という日付である。

つまり、「まぼろしの読売社説」を掲載した少部数の早版が、輪転機で刷り出されてしまい、その後に急遽、鉛版が削られた日付なのである。

日付の一致は偶然どころではない。

これこそが「協議」開催の原因であることを示す明白な記録が、すでにたっぷりと発掘されているのである。

 閣議後に協議を呼び掛けたのは後藤である。

だが、内務大臣の後藤が「五大臣会議」を発案したという経過の裏には、なにやら、ご都合主義の謀略的な臭気がただよう。


 本来の建て前からいえば、内務省は、犯罪を捜査し、処罰すべき主務官庁である。

ところが後藤個人は、すでに簡略に紹介したように、外務大臣時代に推進したシベリア出兵とそれに続く米騒動に際して、外務省の霞倶楽部の記者たちと紛争を起こしたり、報道取締りの先頭に立ったりしていた。

メディア界の進歩的勢力とは激しい対立関係にあった。

すでに紹介したように「新聞連盟」結成工作、ただし時期尚早で実らず、などの「新聞利用」なり「新聞操縦」政策を展開していた。

ラディオ放送の支配に関する構想をも抱いていたはずである。

後藤は、しかも、首相の座を狙う最短距離にいた。

その機会に備えて、メディア界の敵対分子を排除したいと腹の底で願っていた可能性は、非常に高い。

当の読売社説の内容自体も重大な問題ではあったが、それを逆手を取って政府部内の主導権を握り、一挙に、かねてからの狙いを実現しようと図ったのではないだろうか。

 政府部内の主導権を握る上では、王希天の虐殺事件は絶好の材料だった。

後藤と田中陸相とは不仲だったというし、外務省は国際世論上、日頃から言論統制には消極的だった。

ところが、この際、後藤と相性の悪い陸軍は加害者であり、被告の立場である。

外務省は国際世論対策で四苦八苦である。

いまこそ特高の親玉、内務官僚の出番であった。

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「荒療治」を踏まえた「警備会議」と正力の「ニヤニヤ笑い」


『関東大震災と王希天事件』では、関係者が残したメモ類を多数収録している。

その日の午後五時から開かれた「警備会議」の冒頭で、岡田警保局長は、つぎのような発言をした。

「本日、急に五大臣会議を開いたのは、今朝の『読売』のためであります。

相手の出方を待つ姿勢で、政府がふらふらしていると、新聞に対する取締まりも徹底を欠くし、むずかしい。

今朝は、

危いところで削除 → 白紙のまま発行

という荒療治になってしまったが、今後は隠蔽の方針も定まったことであるし、お互いに緊密なる連携のもとに、ことを進めたいと思うので、よろしくご協力をお願いします」

 早版地区に送られた少部数の「削除前」の読売は、配達直前に押収されていた。

「五大臣会議」の決定は、あくまでも政府段階での正式決定であって、内務省はすでに隠蔽工作を実施していた。

検閲の実務担当者たちは、「まぼろしの読売社説」を目にした時、冷汗三斗の思いだったに違いないのである。

「警備会議」は、実務担当者による実行手段の相談の場である。

そこには、なんと、小村寿太郎の長男の小村欣一が、外務省情報部次長の立場で参加していた。

読売社説の執筆者、小村俊三郎は、東京高等師範学校に在学中、寿太郎の邸宅に書生として住み、この欣一の家庭教師をしていた。

岡田警保局長が、小村たちに事情を話して隠蔽の「諒解を求むる」という方針を報告すると、欣一は、小村たちについて、「主義上の運動者」だから「諒解を求ることすこぶる困難なるべし」という意見をのべ、「考慮を要する」と注意した。

 いやはや、こうなると最早、何ともものすごい接近戦である。

敵味方入り乱れての白兵戦の様相である。

関係者たちは、上を下への大騒ぎ、という感じがしてくる。

 警視総監の湯浅倉平は「すこぶる沈痛なる態度」であった。

以下、関係者のカナまじりのメモに残された湯浅の「熱心説述」を、ひらがなで読みやすいようにしてみよう。


「本件は、本官のいまだ際会せざる重大問題なり。

本件は実在の事件なれば、これを隠蔽するためには、あるいは新聞、言論または集会の取締をなすにつきても、事実においてある種の『クーデター』を行うこととなる義にて、誠に心苦しき次第なり。

また本件は必ず議会の問題となるべきところ、その際には秘密会議を求め得べきも、少くとも事前あらかじめ各派領袖の諒解を求めおく必要あり。

 さればとて、本件の隠蔽または摘発、いずれが国家のため得策なるかは、自分としては確信これ無く、政府において隠蔽と決定したる以上、もちろんこの方針を体し、最善の努力をなすべきも、自分の苦衷は諸君において十分推察されたし」

 この「苦衷」を訴えた警視総監、湯浅倉平は、その後、正力松太郎とともに虎の門事件で責任を追って即日辞任届けを提出し、のち懲戒免官、恩赦となる。

警視総監になる以前に岡山県知事、貴族院議員になっていた。

虎の門事件の恩赦以後には、宮内相、内相となっている。

 湯浅の発言のあとには、「北京政府が派遣する調査団および民間調査団の調査にどう対処するか、新聞取締などが話題」になった。

新聞取締に関する警保局長の提案は、つぎのようであった。

「適当の機会に主なる新聞代表者を招致し、大島町事件は厳密調査を遂げたるも、結局事実判明せず、

ついては事実不明なるにかかわらず揣摩(しま)憶測して無根の記事を掲載するにおいては、厳重取締をなすべき旨を告げ、

もって暗に発売禁止の意をほのめかせば、効果あるべし」


 この発言内容には、当時の言論弾圧の実情が露骨に表れている。

警保局長はさらに、「新聞取締の必要上、戒厳令撤廃の延期」まで提案したが、これには同意者が少く、そのままとなった。

 この時にはまだ官房主事兼高等課長だった正力松太郎は、職責からいえば、当然、右の「警備会議」に出席しているはずであるが、以上に挙げた資料の「警備会議」の発言者の中には、正力の名はない。

まだ位が低いのである。

もちろん、研究者たちは、正力の存在を十二分に意識してきた。

 田原は、遠藤元中将から直接の証言を得て、詳しい経過を記している。


 正力は、遠藤を警視庁に呼び出していた。

「ニヤニヤ笑いを浮かべ」ながら、「聞き込みも一応終わっています」などと脅しを入れた。

すでに後藤と「五大臣会議」の間にただよう「臭気」を指摘したが、この件で、正力または内務省勢力は、陸軍と対等に取り引きができるネタを握ったわけである。

その強みが正力の顔に表われていたのではないだろうか。

田原はさらに、その後の読売への正力の乗りこみと、小村俊三郎の退社との因果関係をも指摘している。

『将軍の遺書』の方には、つぎのような日記添付「メモ用紙」部分の記載がある。

「佐々木兵吉大尉、第三旅団長の許可を得て、王希天のみをもらい受け、中川堤防上にてK[垣内]中尉、その首を切り死がいを中川に流す。[中略]

正力警備課長[警視庁官房主事の誤記]は、その秘密を察知ありしが如きも深く追及せず」

 以上、概略の紹介にとどめるが、いやはや、驚くべき本音の記録の連続である。

これらの発言記録を発見したときの、田原ら先行研究者の興奮が、じかに伝わってくるような気がするのである。


 事件の翌年、一九二四年(大13)二月二六日に、正力は読売「乗りこみ」を果たす。

 同年一〇月四日、読売記者の安成二郎は、築地の料亭で開かれた前編集長千葉亀雄の慰労会での会話を、あとでメモし、「記憶のために」と注記しておいた。

本人が三六年後に自宅で再発見したこのメモは、『自由思想』(60・10)に発表された。

内容のほとんどは、大杉栄ら虐殺事件の関係であるが、その最後の短い(三)は、つぎのようになっている。

「(王希天はどうしたんでせう、軍隊では無いでせうが……)と千葉氏が言うと、

正力氏は(王希天か、ハハハ)と笑って何も言はなかった」


 この正力の「ハハハ」という笑い声は、どういう響きのものだったのだろうか。

壮年期の正力の声については、『経済往来』(10・3)に、「男性的で丸みがあり、声量があって曇りがない」と記されている。

六尺豊かの大男が、柔道で鍛え、警官隊を指揮してきたのだったから、それだけの迫力のある声だったに違いない。

だが、「虐殺」の話題で出た「ハハハ」という笑い声には、いわゆる「地獄の高笑い」のような、真相を知りつつとぼける不気味さが、漂っていたのではないだろうか。

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戒厳令から治安維持法への一本道の上に見る正力の配置


 軍や警察当局が恐れていたのは、新聞報道の内容や新聞そのものだけではなかった。

小村欣一の発言にもあったように、「主義上の運動者」の動きもあった。

すでに「警備会議」の「話題」にものぼっていた「民間調査団」がある。

そこには、読売の小村記者以外に、東京日日(毎日系)、大阪毎日、東京朝日の記者が参加していた。

かれらは中国から来日した宗教家の調査団と接触する一方、吉野作造邸で協議をしていた。北京政府が派遣した調査団も、吉野作造邸に立ち寄っていた。


 吉野作造(一八七九〜一九三三)は、東大法科卒で、同大教授として政治史を講義していた。

デモクラシーを「民本主義」と訳したことでも知られている。

東大新人会の総帥でもあり、いわゆる大正デモクラシーの理論的主柱ともいうべき存在であった。

後日談になるが、関東大震災の翌年に当たる一九二四年(大13)には、朝日新聞社論説顧問に迎えられ、五か月あまりで退社した。

退社の原因は、「五ヶ条のご誓文は明治政府の悲鳴」という講演内容などを、右翼団体が「不敬罪」として告発したためである。

『朝日新聞の九十年』でも、退社の経過について、「検察当局の意向もあり」と記している。

「不敬罪」の告発自体は不起訴となったが、この件でも朝日は「白虹事件」の時と同様、右翼と検察のチームプレーに屈服したのである。


 さて、以上のような状況を背景にしながら、強権の発動による王希天虐殺事件の隠蔽工作が行われたのだが、それはまず戒厳令下にはじまっている。戒厳令は約二か月半も続いた。

解除は一一月一六日である。『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、戒厳令の解除後に「かわって憲兵が大増強され、警察官もまたピストルまで配備された上に増員された」と指摘する。

 戒厳令下、および以後の虐殺問題報道の全体像をも、調べ直す必要があるだろう。

田原は、王希天虐殺事件の隠蔽工作と大杉殺害事件の関係を、つぎのように示唆する。


「王希天事件は『行方不明』扱いで、十月十七日から二十日にかけて、各紙に掲載された。

『殺害』をにおわせる記述は厳重にチェックされたので、さりげない震災エピソード風に受けとめられ、やがて“関係者”以外には忘れられた。

大杉栄殺害事件で、甘粕らがスケープゴートとなった意味は、単に『犯人』を買って出ただけでなく、報道操作の陽動作戦に必要な犠牲バントとしての役割もあったのである」

 大杉栄殺害事件の軍法会議の進行は、非常に早かった。

戒厳令下の一〇月八日に第一回、以後、一一月一六日、一七日、二一日の四回で結審となり、一二月八日には、甘粕に懲役一〇年などの判決が出ている。

この間の新聞報道は、シベリア出兵以来の「反ソ」キャンペーンとも呼応している。

社会主義者への世間一般の反感をも土台にして、甘粕らに同情的な風潮さえ作り出したようである。


 その後、甘粕はたったの三年で釈放され、満州国の黒幕となる。

緊急事態を根拠にして公布された「治安維持勅令」は、そのまま法律化され、翌々年の一九二五年(大14)に制定される治安維持法への橋渡しの役割を果たした。

このようなドサクサまぎれの突貫工事によって、外にはシベリア出兵、内には米騒動、関東大震災という人災、天災のはさみうちの混乱のなかで、昭和日本の憲兵・警察支配、治安維持法体制は完成を見たのである。


 わたしは、正力の読売「乗りこみ」を、以上の政治状況と深くかかわりながら企まれた一大政治謀略に相違ないと確信している。

 さらにさかのぼれば、当時の読売が「出る釘は打たれる」のたとえ通りの襲撃目標に選ばれた理由には、まさに日本のメディア史の矛盾を象徴するような典型的経過があったというべきであろう。

 第一の理由は、その明治初年以来の歴史的ブランドである。

第二の理由は、「白虹事件」残党を中心に形成されつつあった大正デモクラシーの「メディア梁山泊」としての位置づけである。

最後の第三の理由、すなわち、「まぼろしの読売社説」をめぐるオロドオドロの衝撃ドラマは、それらの歴史的経過の必然的な帰結であった。

読売は、日本の歴史の悲劇的なターニング・ポイントにおいて、右旋回を強要する不作法なパートナー、正力松太郎の、「汚い靴」のかかとに踏みにじられたのである。

 日本の最高権力と、それに追随する勢力は、関東大震災という天災を契機として、大量の中国人とその指導者を虐殺し、卑劣にも、その事実の徹底的な隠蔽を図った。

この虐殺と隠蔽工作とは共に、以後ますます拡大される中国大陸侵略への狼煙の役割を果たした。

 正力社長就任以後の読売新聞は、最左翼から急速に右旋回し、「中道」の朝日・毎日をも、さらに右へ引き寄せ、死なばもろとも、おりからのアジア太平洋全域侵略への思想的先兵となった。

正力の読売「乗りこみ」は、いいかえれば、この地獄の戦線拡大への坂道を転げ落ちようとしている日本にとって、雪だるまを突き落とす最初の、指のひと押しの位置づけだったのではないだろうか。

 正力本人は、戦後にA級戦犯として巣鴨入りした。

だが、この時も、アメリカの世界政策上の措置によって、その罪は裁かれずに終わってしまった。

今こそ改めて、多数の中国人労働者と王希天の虐殺事件とその報道状況とを、日本のジャーナリズムの歴史の中央に位置づけ直し、事実関係を確認し直すべきなのではないだろうか。

自社の歴史を正確に記して過去を反省するか否かは、また、メディア企業の決定的な試金石でもあろう。

 わたしは一応、読売新聞広報部に電話をした。本書に記したような事実を読売新聞は把握しているか、今後の社史などで明らかにする予定があるか、などを問いただした。

しかし、「お答えすべき筋のことではないと思う」という、番犬の唸り声のような返事だけだったので、この件について、本書を「公開質問状」とすると告げた。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-9.html



http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/596.html#c7

[雑談専用39] 韓国人が絶対に歴史から消し去りたい真実 木卯正一
70. 中川隆[7195] koaQ7Jey 2017年3月19日 18:37:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7666]

日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 4

李氏朝鮮はそんなにひどい国家だったのか?


嫌韓バカや歴史捏造ウヨクが、よく使うロジックとして「李氏朝鮮の暴虐と悪政」というのがあります。

この「李氏朝鮮の暴虐と悪政」というマジックワードは、様々な自慰史観を正当化するのに利用されてます。

例1)「李氏朝鮮の暴虐と悪政」→「韓国併合した日本は朝鮮人を助けてやったのだ!」

例2)「李氏朝鮮の暴虐と悪政」→「朝鮮人が駄目な証拠、差別されて当たり前!」

例3)「李氏朝鮮の暴虐と悪政」→「朝鮮人が残虐な証拠、南京虐殺も朝鮮人がやった!」*1

こんな感じです。


実際には、江戸時代日本と大差ないんですけどね。

嫌韓バカが強調する李氏朝鮮の暴虐の事例など、ほとんどは江戸時代日本で同様の事例を見出すことが出来ますし。


では、その事例を見て行きましょう。


人口問題

韓国の歴史歪曲検証:人口増加ベースに見る日帝の暴虐と搾取の虚構性

(間違った論証の例)


日本が直接的に朝鮮を収める1905年までの朝鮮の人口増加ベースは、上記からも分かるとおり1850年の李朝末期を基準にとると1906年の日本の保護国なった翌年までの56年間に30%程度の増加ベースでしかない事が分かる。

そして1906年より日本の敗戦の前年1944年までの38年間の人口増加ベースは、156%という驚異的な増加ベースを辿っている。

さらに上記で注目されるべきは、1753年の朝鮮半島内の人口730万人が約100年後の1850年の時点でも750万人にしか増えていない点である。

これは李朝時代の悪政と貧困そして飢餓対策・医療体制の確立などを李朝政府が行ってこなかったことの動かぬ証拠である。

データを見るにおいて、日本が朝鮮半島に直接関与し始めた1905年以降とそれ以前の人口増加ベースを比べれば、朝鮮で日本が「史上最悪の暴虐と搾取」を行っていないことが確信できるのではないだろうか?
http://konrot.at.infoseek.co.jp/rekisi02.htm


こちらは人口の推移をもって、李氏朝鮮の悪政を糾弾しているわけですが・・・

ここで挙げている1753年から1850年の人口推移を日朝で比較してみると・・・


時期 年 日本の人口*2 増加率 朝鮮の人口(推計) 増加率 朝鮮の人口(嫌韓提示ママ) 増加率
I 1600年(日本)・1592年(朝鮮) 1227万人 39.2% 1192万人*3 74.5% - -
II 1756年(日本)・1753年(朝鮮) 3128万人 - 1600万人 - 730万人 -
III 1841年(日本)・1850年(朝鮮) 3230万人 103.3% 1650万人 103.1% 750万人 102.7%

なお、増加率は「1756年(日本)・1753年(朝鮮)」を基準として計算した。

参考として1600年頃の人口も付加しましたが、これについては後で考察。


さて、1750年頃から1850年頃までの100年間の人口推移を日本と朝鮮で比べてみると、ほとんど変わりないことがわかりますね。

何の事はない。この時期はこういう時代だった、というのが適切な評価でしょう。

まさか100年間でわずか0.2%に過ぎない差を誇ったりするほど厚顔無恥な人はいないと思いますが。


で、

李朝時代の悪政と貧困そして飢餓対策・医療体制の確立などを李朝政府が行ってこなかったことの動かぬ証拠

とか言うのなら、

「江戸時代の悪政と貧困そして飢餓対策・医療体制の確立などを江戸幕府が行ってこなかったことの動かぬ証拠」

ということになりますね。嫌韓バカはこれに同意せざるを得ないわけですが・・・


ま、とにかく、人口が大して増加しなかったからといって、取り立てて酷い政治が行われていたとは言えないというのは確かでしょう。


ちなみに日本でこの時期、人口が停滞した直接的な理由として、少子化・晩婚化の傾向があったことが知られています*4。

若者の都市への出稼ぎが晩婚化をもたらした他、意図的な人口抑制として、陰惨な方法としては間引や堕胎、それ以外に禁欲や授乳期間を長く取ることによる次の子の妊娠を遅らせるなどの方法がとられていたそうです。


また、そもそも14世紀末から19世紀半ばまでは「小氷期」という地球規模で冷え込んだ時期なのは良く知られています。

このため、日本でも度々飢饉がおきているわけです。

日本よりも高緯度にある朝鮮も当然その影響を受け飢饉が頻発しています。

1850年ごろまで人口が停滞したのが、別に政治のせいとばかりは言えないわけです*5。

1600年の人口も含めた仮説


では、1600年頃の人口を含めた考察をしてみましょう。

1600年頃の人口は、日本も朝鮮もほぼ同じくらいでした*6。

これが150年後には大きく差が開きます。

人口が急激に増加する要因としては、それまで戦乱が続いたことによる人口抑制と、戦乱期に蓄積された人口増加の潜在力が、戦乱の終結に伴い枷が外され、人口爆発になるというモデルが考えられます。

現在の人口を見ても、もともと日本の国土が養える人口は、朝鮮の国土が養える人口より多いのではないかと思いますが、1600年時点で日本と朝鮮の人口がほぼ拮抗していたのは、日本が1467年*7以降ほぼ150年にわたった戦国時代を経験していたのに対し、朝鮮は1392年の李朝建国以降おおむね平和が続いた点にあるといえるでしょう。

朝鮮は、15世紀前半の世宗の時代に国力が最も充実し、同時期に戦国時代に突入した日本と違い、人口を抑制させるような社会要因は少なかったと言えます。

このため、朝鮮の人口は15世紀前半から16世紀後半まで安定的に増加したと考えられます。


実際、15世紀前半については、耕地面積や戸数が増加したといいます*8。

もちろん、権力闘争はありましたし、倭寇の襲来や倭寇討伐、対馬侵攻などもありましたけど、日本の戦国時代や後の秀吉の朝鮮出兵や清の朝鮮侵攻に比べるべくもありません。


したがって、15世紀から18世紀にかけて朝鮮の人口が抑制させられる要因となったのは、秀吉の朝鮮出兵と清の朝鮮侵攻であってこの影響を受けていた時期の人口が約1000万人であったということになります。

朝鮮の戦乱がひと段落した17世紀後半から人口が再度増加を始め、18世紀半ばには1600万人にまでなったというところでしょうか。

しかし、朝鮮の戦乱より遥かに長い期間、人口抑制の要因となる戦乱が続いていた日本の場合は、戦乱終結後の人口爆発は朝鮮よりも激しく、16世紀末から17世紀半ばまでに人口は1200万人から3000万人にまで倍増したのでしょう*9。


___________


*1:南京虐殺も朝鮮人がやった!」*

ここまでの馬鹿はそうはいないと思うが、いることはいるんだよね。

ちなみに南京事件のあった当時、朝鮮人は徴兵もされてないし、志願兵も募集されていない。

旧大韓帝国軍からの継続として極一部の朝鮮人将校がいたに過ぎず、兵士としては日本人と結婚・養子縁組などして日本人戸籍に入った朝鮮系日本人がいたくらいだろう。

いずれにしても日本軍全体から見て例外的な事例に過ぎない。


_________

*2:「人口で見る日本史」より

*3:「朝鮮の役」参謀本部より、日本が予測した朝鮮の石高より推定

*4:「人口で見る日本史」P88-103

*5:むろん、飢饉対策などは政治の責任だが


*6:ただし、朝鮮人口は日本による朝鮮の予測石高に基いた推定。

予測精度の問題の他、石高計算は純粋な食糧生産以外も含む場合もあり、実際の人口はこれより少なかった可能性は高い。

丙子胡乱で虜囚となった朝鮮人60万人の苦難 | Chosun Online | 朝鮮日報によると、1630年ころの朝鮮の人口は1000万人程度という。


*7:応仁の乱の勃発年。ただし関東などではそれよりも早くから戦乱が勃発している。


*8:「朝鮮」金達寿、岩波新書、P83 や、「入門韓国の歴史 国定韓国中学校国史教科書」石渡延男監訳、三橋広夫共訳、明石書店P167


*9:ただし、1600年の日本の人口については、1500万人という説もある。また、この頃実施された検地による石高は1800万石で、これには畑や屋敷地などが含まれている
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20081102/1225647411

http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/587.html#c70

[雑談専用39] 韓国人が絶対に歴史から消し去りたい真実 木卯正一
71. 中川隆[7196] koaQ7Jey 2017年3月19日 18:39:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7667]

日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 5


悲惨な朝鮮農民の生活 投稿者:まっぺん 投稿日:2010年 7月29日(木)10時53分19秒  

あ呆は「人口増加」を朝鮮人の米消費減少の「原因」とする。
では実際に統計数字を比べてみよう。

以下は朝鮮総督府の調査結果を基にした資料だが、次のようになっている。


年次 日本に輸出 朝鮮人一人当た   日本人一人当た
    (1000石) りの米消費量(石) りの米消費量(石)

1912 │ 2,910 │ 0.7724 1.068
1917 │ 1,296 │ 0.7200 1.126
1920 │ 1,750 │ 0.6301 1.118
1922 │ 3,316 │ 0.6340 1.100
1924 │ 4,722 │ 0.6032 1.122
1926 │ 5,429 │ 0.5325 1.131
1928 | 7,405 | 0.5402 1.129

'31-34 8,456 0.4059 不明 (年平均)*

資料は、飯沼二郎著『朝鮮総督府の米穀検査制度』(未来社)、ただし
  *印は『朝鮮米穀統計要覧』1936年版

次に当時の朝鮮人の人口増加についての調査資料だ。

1717年 1500万人(朝鮮政府統計683万口からの推計)
1753年 1600万人(嫌韓提示資料(朝鮮政府統計?)730万人からの推計)
1777年 1804万人(崔基鎬による韓国教科書からの引用)
1850年 1650万人(嫌韓提示資料(朝鮮政府統計?)750万人からの推計)
1877年 1689万人(崔基鎬による韓国教科書からの引用)
1906年  980万人(警察調査まま)
1910年 1631万人(警察調査1313万人からの推計)
1915年 1703万人(警察調査1596万人からの推計)
1920年 1763万人(警察調査1692万人からの推計)
1925年 1902万人(警察調査1854万人からの推計)
1930年 2044万人(警察調査1969万人からの推計)
1935年 2221万人(警察調査2125万人からの推計)

1877年までの調査はすでに説明したように人口戸主の数であり女・子どもの数は含まれていないので、そこから推計している。

その中で明らかに1906年のデータはおかしい。これは当時、朝鮮全土で義兵がおこり、抵抗闘争の中での調査であったため、まともな調査ができなかったと考えるのが妥当だ。

なお、「1石」とはひとりの人間が1年間に食べる米の量とされているから、
日本へ輸出した米の量を「人間の数」に置き換えることができる。
人口増加率と比較すると次のとおりになる。


年次 日本に輸出した米の量  前回と比較した増加量      人口の増加

1912 │ 291万人分
1915 │                           5年で 72万人
1917 │ 129万6千人分  5年で-161万4千人分
1920 │ 175万人分    3年で+ 45万4千人分    5年で 60万人
1922 │ 331万6千人分  2年で+156万6千人分
1924 │ 472万2千人分  2年で+140万6千人分
1925 │                           5年で139万人
1926 │ 542万9千人分  2年で+ 70万7千人分
1928 | 740万5千人分  2年で+197万6千人分
1930 │                           5年で142万人
'31-34 │ 845万6千人分  1〜4年で+105万1千人分


以上は「米の増加量と人口の増加量を比較したものだ。

ふたつの資料の統計年がちがうので完全に同じ比較はできない。

また1912年には大量に輸出しているので5年後の輸出量は減少となっていることは考慮しなければならない。

緊急対策として大量に送ったのだろう。

また、この米輸出の統計資料が、毎年輸出されている中から一部を抽出した数字なのか、それとも2〜3年毎にしか輸出されなかったのか不明だが、もし2〜3年毎なら1912年から34年まで(31年から34年は毎年輸出され、その平均値)を合計すると6065万2千人分の米が日本に輸出された事になる。

これは25年間で約500万人増えた人口と比較すれば、ほぼ同等の数字となる。

またその間に増産運動が行われ収穫量が約2倍となったと記録されていることからも相当の増産となったことが窺われる。

しかしそれでは朝鮮人の米の摂取量の減少を説明できない。

したがってこの数字は毎年の輸出の中からの抽出と考えるのが妥当。

そこで輸出量の伸びを見れば、人口の伸びは5年ごとに60万〜142万人であるのに対して米の輸出量の伸びは2年〜3年毎に45万〜197万人分。5年毎で比較するなら200万〜300万人分も輸出量が増え続けている。

もしも米の増産がそれを上回っているのなら、朝鮮人の米消費量が減少するのはつじつまが合わない。

したがって、朝鮮人の米の消費が減ったのは「人口増加が原因」とする「あ呆説」はデマ。

飢餓輸出が原因という事になる。

なお、朝鮮農民の当時の生活についてNHKの番組を見た半月城さんが以下のように解説している。

これをみても、「農民が自主的に換金用に食べる分以上の米を売った」などというあ呆の妄想には根拠がなく、むしろむしり取られていった朝鮮農民の姿が浮かび上がる。


   そうした歴史を、数年前の米騒動の時、NHKがTV番組「米に揺れた
日韓近代史」と題して放映していました。

番組では産米増殖計画の歴史的背景
や実施状況などをつぶさに検討し、あわせてこの政策を直接体験した農家の窮
状を具体的に紹介していました。

  それによると、農民が秋に米を70俵収穫しても、水利税や肥料代なども
ろもろ差し引かれ手元には2割の15俵くらいしか残らないそうでした。

   しかも、これはかなりましな方で日本人の金融組合などに借金のある人
は高利のかたにお米をとられ、手元にはせいぜい2、3俵しか残らないそうで
した

   これではとうてい食べていかれないので、農民は知恵を絞って米を土の
中に埋めたり隠したりするのですが、冷酷な借金取りもさるもの、鉄棒で地面
をつついてまでそれを見つけだし有無を言わせず持ち去ったとのことでした。

   このように、朝鮮の農民を苦しめた「産米増殖計画」は勢い余って日本
の農家をも苦しめました。

安くてしかも品質の向上した朝鮮米の大量導入は内地米の暴落を引き起こし、これに世界的な恐慌が重なり農村では深刻な「娘の身売り」や、はては新たな植民政策「満蒙開拓団」を生み出しました。
http://8816.teacup.com/mappen/bbs/20127

http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/587.html#c71

[雑談専用39] 韓国人が絶対に歴史から消し去りたい真実 木卯正一
72. 中川隆[7197] koaQ7Jey 2017年3月19日 18:43:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7668]

日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 6


1. これが詐欺師の論理


朝鮮半島のほうが日本より平地割合が低いらしい。
朝鮮半島では日帝支配以前の主食は米飯ではない。
さらに、1人当たりの米消費量は、おそらく単純に収穫量/人口を出したものなのでは?

これを、朝鮮人の口に入った米の量で考え直すと、こうなる。

年次|人口|朝鮮人一人当たり|朝鮮での
  |  |米消費量(仮)石|米消費量
1906| 980|        |
1910|1312|        |
1912|1318|0.7724     |1071.937
1917|1577|0.7200     |1135.656
1920|1691|0.6301     |1065.499
1922|1746|0.634      |1107.2148
1924|1802|0.6032     |1086.846
1926|1857|0.5325     | 988.959
1928|1913|0.5402     |1033.187
1930|1968|        |

04の数字だけで「飢餓輸出が原因という事になる。」というのは阿呆の戯言である。
そもそも、米消費量が少ないだけで飢餓輸出であるならば、現代日本は米消費量0.4石で日帝時代の朝鮮より飢餓状態なんだが。

朝鮮には主食として高黍換金作物として有利であるから、米が輸出されただけと考えるのが妥当であり飢餓状態であったというのは悪質な嘘。


_________
_________


2.こっちが真理


朝鮮半島南部では古来より、米が食べられています。豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに、当時の日本式の栽培方法が伝わったという記録もあります

朝鮮半島にも古代に中国から日本を経由して、稲作は伝わり継続されています。日本の水田跡の遺跡は最古のもので3,800年ほど前、韓国では2,000年ほど前です。

朝鮮半島北部の主食は日韓併合以前は高黍(別名モロコシ)でしたが、併合後は稲栽培を伝授されて、米に変化しました。

要するに、それまで常食にしていた高黍に代えて日本人の食べる米を強制的に栽培させられて日本にすべて輸出させられたから朝鮮人には食べるものがなくなったのです.

これが飢餓輸出の意味なのです:


朝鮮半島北部は気温が低いため、米は栽培されていませんでした。
高黍(タカキビ)・粟などの雑穀が主食でした。

朝鮮半島南部では古来より、米が食べられています。
豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに、当時の日本式の栽培方法が伝わったという記録もあります。
朝鮮半島ではその後日韓併合まで、品種改良や栽培方法の変化はなかったと思います。
日本に併合され、日本式の栽培方法や日本の品種が伝わり、現在も食べられていると思います。

日本の指導により単位あたりの収穫量は大きく伸びました。
また現在では日本で戦後開発された品種が、食されているかもしれません。

朝鮮半島にも古代に中国から日本を経由して、稲作は伝わり継続されています。
日本の水田跡の遺跡は最古のもので3,800年ほど前、韓国では2,000年ほど前です。

元来朝鮮半島の農民の主食は雑穀かもしれません。
併合中も米を日本に出荷し、その金で生活用品を整え、自分たちは雑穀を食べていたとの記録もあります。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1135908896


現在の朝鮮半島の主食は米である。

しかし、本来の朝鮮の主食は高黍(別名モロコシ)という雑穀で、粥にして食べていた。

稲栽培における、灌漑技術、肥料、耕作方法などは日本の統治時代に日本から伝えられたもので、当時植えられた稲はコシヒカリの先祖にあたる「亀の尾」という品種であった。

元々は雑穀を食べていたが、日本の統治下で米食に移行、伝統食文化は失われた。
http://www.wdic.org/w/CUL/%E4%B8%BB%E9%A3%9F


今の韓国・北朝鮮では主食は日本と同様、米(ジャポニカ米)である。

現在は白米だけの炊飯で食されるが、日本と同様に、玄米の状態の炊飯や雑穀の入った炊き込みご飯を食べていた時期もあった。

韓国の料理にはビビンパやクッパなど米を他の食材と混ぜ食べるものも多く、かかせないものである。

一方北朝鮮は、現在の食糧難から米が十分に食べられず、トウモロコシやジャガイモを主食にしている国民が多いものと思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E9%A3%9F


170:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/18(月) 23:53:15 ID:yf2dtPr70

イザベラ L ハード「朝鮮紀行」 P203〜P204より

大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事のよさは質より量で決められ、一日四ポンドのごはんを食べても困らないよう、胃にできるかぎりの容量と伸縮性を持たせるのが幼いころからの人生目標のひとつなのである。

ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量のくだもの、木の実、糖菓を食間にとるが、それでもっぎの食事には一週間もひもじい思いをしていたかのような態度でのぞむ。

裕福な家では牛肉と犬の肉は大皿に盛る。また客のごちそうは銘々膳で供されるので、もてなす側は特別大事な客にはふんだんにふるまい、ほかの客には最小限度に抑えておくことができる。

わたしは朝鮮人が一度の食事で三ポンドはゆうにある肉を食べるのを見たことがある。

「一食分」が大量なのに、一日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事もできないほど貧しい人と見なされかねない。

一度の食事で二〇個から二五個のモモや小ぶりのウリが皮もむかれずになくなってしまうのはざらである。

赤ん坊にまで食べさせる莫大な消費量の赤トウガラシがこの大食ぶりを助けているのはまちがいない。

朝鮮人には消化不良のたぐいの疾患が多いというのもうなずける。
______

181:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/19(火) 21:40:24 ID:cYc2nMmu0

人口増加ってのがあるけど、あれは豊かになったから人口が増加するのではなく、
貧しいからこそ人口が増加するんだよな。

 人口爆発を起こしている国々をみてみると、かつて先進国の植民地となり、なかば強制的に換金作物(お金に換えるための作物。例えばコーヒー、紅茶、ゴムなど)を栽培させられた経験のある国々だということがわかります。

この換金作物こそが人口爆発の原因を探る大きな鍵となります。

 かつてこれらの国々が自給自足を行っていた頃は、貧しいながらも人口は安定していました。

食糧の供給量以上に人口は増えることができなかったからです。

しかし先進国の登場によって換金作物の栽培が始まると、換金作物を売ることで一時的には食料の供給が増えて人口が増加します。

人口が増えた結果、再び食料が不足しますから、作物の収穫量を上げるためにさらに無理な生産をします。

けれどもそのために地力が落ち、次第に人口を養うだけの作物が収穫できなくなり、不自然な人口爆発だけが残されるのです。


_______


朝鮮人の米消費量、食習慣、などから考察すると、産米増殖計画によって、朝鮮人の大食習慣が失われ、人口増加による貧困の増加、米消費量の低下(途中で改善はされてはいるものの)、結局 朝鮮農民は飢餓線をさまよう状態になった。


184:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 01:49:49 ID:5/Okf5Sz0
その増えた人口の面倒を見切れず、数十万の朝鮮人が半島外へ流出

http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001


米はいうまでもなく日本の統治時代以降は朝鮮でも主食になりました。したがって、米の消費量は当時の生活水準のバロメータになるので、この統計をみることにします。

         朝鮮の米穀輸出・消費量

年次 日本に輸出 朝鮮人一人当た   日本人一人当た
    (1000石) りの米消費量(石) りの米消費量(石)

1912 │ 2,910 │ 0.7724 1.068
1917 │ 1,296 │ 0.7200 1.126
1920 │ 1,750 │ 0.6301 1.118
1922 │ 3,316 │ 0.6340 1.100
1924 │ 4,722 │ 0.6032 1.122
1926 │ 5,429 │ 0.5325 1.131
1928 | 7,405 | 0.5402 1.129

'31-34 8,456 0.4059 不明 (年平均)*

資料は、飯沼二郎著『朝鮮総督府の米穀検査制度』(未来社)、ただし
  *印は『朝鮮米穀統計要覧』1936年版

  この表から、朝鮮人の米消費量は年々減る一方で、逆に日本人は人口増加
にもかかわらず朝鮮米輸入のおかげで僅かずつ増加傾向にあることがわかり、
植民地経営の恩恵に浴しているのが歴然としているのではないかと思います。

これからもうかがえるように、植民地の政策はほとんど日本内地本位で決定さ
れました。その典型的な例が1920年、朝鮮での「産米増殖計画」でした。

  日本内地では1918年の米騒動や、1923年の関東大震災など米が慢
性的に不足し、米価の値上がりが社会不安になっていました。それに加え、タ
イなどからの米の輸入は貿易収支の悪化を招きました。

  こうした事態を打開する政策として、朝鮮での産米増殖計画を本格化し
「更新産米増殖計画」として、1925年から10カ年計画で資本金2億85
00万円を投下し約30万町歩の土地改良を行い、農事改良により800万石
の米を増産するというプロジェクトにとりかかりました。

朝鮮総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道
や港湾などインフラの整備を始めました。また米の品種も、早神力(わせしん
りき)など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さら
に栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しまし
た。
   こうした努力の結果が、朝鮮の春窮・絶糧農家を救ったのであれば、か
の江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考え
をある程度私も認めたいところです。

   しかし、事実は残念ながら米の生産量は増えても朝鮮人一人当たりの消
費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実が朝鮮農民を苦しめました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm023.html#No.187

即ち、日本の搾取がなければ朝鮮人が食ってけなくなって日本に移民してくる事もなかった。

http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/587.html#c72

[雑談専用39] 韓国人が絶対に歴史から消し去りたい真実 木卯正一
73. 中川隆[7198] koaQ7Jey 2017年3月19日 18:44:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7669]

日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 7


日本人はアホだから、美味しい所はすべて英米に持って行かれた


“朝鮮統治”という1つのビジネス・モデルこの問題は余りにも複雑であり、単純化して述べてしまってはその本質を見誤る危険性がある。

しかし同時に、あくまでも冷静に、普通の目線で当時の朝鮮における“日常”を見つめることで、新たな発見をすることが必要でもあるのだ。


たとえば、過去における朝鮮統治の問題を考える時、次のような質問をされたならば、読者の皆さんはどのように答えるだろうか。


「日本による植民地統治下にあった朝鮮半島で、石油を売っていたのは誰なのか。

そこにも日本人による現地住民に対する“搾取”という絵柄が見て取れるのか」。


恐らく答えに窮する読者が多いに違いない。

「第2次世界大戦へと突入する直前まで、朝鮮半島で石油を独占的に販売していたのは、日本勢ではなく、英米勢だった」

というのが、この問いに対する正解なのである。


朝鮮統治が行われた1910年以降の大部分の時期において、現地での石油販売を独占していたのは米系のスタンダード社、そして英系のライジングサン社(後のシェル)なのであった。

なぜこれら2社が朝鮮マーケットを独占できたのかといえば、これらいわゆる「外油」に対しては、輸入に際して特例関税が課されていたからである。

具体的には、当時、日本のいわゆる「内地」に石油を輸入するにあたっては高額の輸入税が課せられていたのに対し、朝鮮という「外地」については消費者に安い石油を使わせるべしという理由で、無税に近い税率が設定されていたからである。

そのため、外国から輸入した石油を朝鮮へと転売する日本の石油企業は著しく不利な立場に置かれていたわけなのだ。


満州(現在の中国東北部)における鉄道などについてもいえるのだが、日本の大陸進出を巡るビジネス・モデルには、常にこれと全く同じ1つのパターンが見え隠れする。

すなわち、表向き「進出」していくのは紛れもなく日本である。

だが、その一方で目立たないが重大なセクター(インフラストラクチャー)で広く、着実に収益を上げていたのは米国勢、そして英国勢なのであった。


もちろん、第2次世界大戦の足音が響き始めると同時に、これら英米勢は駆逐され、日本勢が代わりに入っていくことにはなる。

しかし、だからといって「朝鮮統治」というビジネス・モデルは日本が単独で担ったものではなく、むしろステルス(透明)で、より狡猾な形でそれによって莫大な利益をあげていたのは他ならぬ英米勢だったのである。

そして問題なのは、こうした単純な「史実」であっても、私たち=日本人が学校で学ぶ機会はほぼ100パーセント無いという現実なのである。


確かに、過去の一時期において「不幸な出来事」が日朝間で生じたことは否定できない。

しかし、だからといって朝鮮統治というビジネス・モデルの展開によって現地が被った全ての償いを日本に対して求める一方、いわば“本当の黒幕”だった英米に対しては何も問わないという主張は、全く肯んずることはできないのである。

そして、こうしたダブルスタンダード(二重の基準)自身に見え隠れする虚構こそ、今の日本、そして東アジア・マーケットを見る私たち=日本の個人投資家の眼を曇らせる最大の要因でもあるのだ。
http://money.mag2.com/invest/kokusai/2009/03/post_105.html

http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/587.html#c73

[リバイバル3] 「住宅は資産」という幻想で誰があなたをカモにするのか? 中川隆
78. 中川隆[7199] koaQ7Jey 2017年3月19日 19:01:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7670]

なぜ「終の棲家」に戸建てよりもマンションを選ぶ高齢者が増えているのか?=廣田信子 2017年3月19日

賃貸アパートから分譲マンション、そして戸建てという順に住み替える「住宅すごろく」に異変が起きています。

「あがり」であったはずの戸建てから分譲マンションへ、または分譲マンションから郊外の団地や格安リゾートマンションへ住み替えるといった、いわゆる「住宅ステップダウン」を選択する高齢者が増えているのです。

無料メルマガ『まんしょんオタクのマンションこぼれ話』の著者・廣田信子さんは、なぜこうした現象が起こるのかを解説したうえで、我が国の深刻な住宅問題についても言及しています。


持ち家で苦しい老後に!? 始まった「住宅ステップダウン」の悪循環

高齢者の「大移動」が始まっている

かつて、収入が増えるとともに

「賃貸アパート」→「分譲マンション」→「戸建て住宅」

と、住み替えで住宅をステップアップさせていくことを「住宅すごろく」と言っていました。

しかし最近では、分譲マンション止まりで、分譲マンションを終の棲家にするケースが一般的になっています。また、超高齢化とともに、すごろくの「あがり」であったはずの戸建て住宅での生活が不便になり、最後、分譲マンションに住み替えるという流れも出てきました。

さらに、バブル崩壊とともに負の遺産になっていた越後湯沢のリゾートマンションを買って移住する高齢者が増えているとニュースを見ました。長年ほぼ全部が空き家状態だったバブル期に造られた戸建ての別荘地にも、移住してくる人が見受けられるようになったといいます。


リゾート地で老後を過ごしたい…というより、非常に安く購入できることから、年金のみの長い老後の暮らしに不安を抱える老夫婦が、終の棲家として購入するというケースが多いのです。

家賃負担が不安で購入する人も、自宅マンションを売って、差額を老後の生活資金に当てるために購入する人もいるのです。

また、リゾートでなくても、都心のマンションを売却して、郊外の団地を購入する人も増えています。差額を老後の資金にするという目的が大きいのです。地域再生研究所の松本恭治先生の言うところの、高齢者の住宅ステップダウンが始まっているのです。

確かに、70歳を過ぎ、国民年金に頼る暮らしだったら、家にお金をかけずに、できるだけ生活資金を持っていたいという気持ちになるのもよくわかります。しかし、高経年で価格が格段に安くなっている分譲マンションは、維持管理に大きな費用が掛かる危険も大きいのです。

越後湯沢のマンションは、管理費と修繕積立金で月2万円で、温泉に入り放題と紹介されていましたが、温泉施設をもつマンションが、今後、この金額で、きちんと維持管理できていくとは思えません。

また、郊外の団地も、こういったステップダウンの住み替えが増えれば増えるほど、お金を掛けた再生の合意形成は遠のきます。そうして再生できずに価格が下がると、また、ステップダウンの住み替えが増えるという悪循環に陥ってしまいます。


真剣に考えられてこなかった「所有することのリスク」

そもそも、持ち家政策で住宅を個人の責任分野とし、老後の住宅に対するコストを考えない年金や高齢者施策には大きな矛盾があると思わざるを得ません。30年前、高齢者は家を借りられないことが大きな問題になっていて、無理してローンを組んででも自宅を持っていないと老後に住むところがなくなる…と、不安を感じさせる風潮が強く、それがマンション購入を促すことにもなったのです。

そして漠然と、購入しておけば何かあったら売却できる資産を持つことになる…と誰もが思っていました。所有することのリスクについては、ほとんど考えられていなかったのです。日本では、年齢が高くなるほど、持ち家率が高まり、しかも、住んでいる住宅も広くなります。家族の数に関係なく…です。で、広い持ち家に縛られ、もて余している高齢者もいるのです。

松本恭治先生の分析では、スウェーデンでは、高齢になるほど、賃貸住宅に住む傾向があります。

55〜64歳では、所有が61.1%、賃貸が22.2%ですが、85歳以上では、所有25.1%、賃貸52.7%と逆転しています。

家族構成やサポートの必要度合いによって、住み替えることができるしくみがあるのです。

持ち家があれば住むところに困らないはずが、簡単に住み替えもできず、その維持管理に生活を圧迫するほどの費用がかかる…。日本の高齢者が直面している住宅問題が、そのまま、マンションの維持管理の課題に直結していると改めて思います。根深い問題です。
http://www.mag2.com/p/money/161244
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/615.html#c78

[リバイバル3] 本当にあった怖い話 中川隆
67. 中川隆[7200] koaQ7Jey 2017年3月19日 19:51:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7671]

ほんとにあった怖い話 第07話
https://www.youtube.com/watch?v=EEQp-kTn2xI


2004年2月21日放送

夜話の窓(主演:塚本雛子、共演:寉岡萌希、小関可奈)

近づく足音(主演:香椎由宇、共演:藤間宇宙)

二時四十五分の泣き声(主演:山口香緒里、共演:福本伸一、諸頭未優)

二階が怖い(主演:碇由貴子、共演:喜多道枝)

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/645.html#c67

[雑談専用39] 韓国人が絶対に歴史から消し去りたい真実 木卯正一
74. 中川隆[7201] koaQ7Jey 2017年3月19日 20:49:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7672]

日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 8  

 

 日本統治のせいで朝鮮の古き良き文化が堕落した

淫売婦が日本の最大の輸出品となっているのは、衆目の認めるところである。日本人の行くところ、いかなる土地でも売淫の市が開かれないところはないが、わが国においてはとくに甚だしい。その淫風は、わが国古来の礼俗を破壊し、わが人命を害し、風紀を乱すことこのうえないものになっている。
[朴殷植『朝鮮独立運動の血史』1920年]

日本国内どこの大衆浴場でもみられる風景を、はじめて見る韓国人が驚くことがある。日本の銭湯の番台は、男女に分かれている脱衣場のどまんなかの高台で両方を眺望することができるからである。われわれの知る「男女七歳不同席」の儒教の原則は、日本では通じないのだ。
[朝鮮日報編『韓国人が見た日本』1984年]

日本のテレビでは、昼間でも女性の裸が見られる。それどころか、主婦向けの朝の番組でも、女性の上半身ヌードをよく見かける。(略)

夜11時過ぎると、成人用ビデオ女優がパンティー姿で現れ、服を着た男性タレントとセックスする素振りを見せる。

ただそのものズバリを見せないだけのことで、これではまるごとポルノ映画だ。むしろポルノ映画以上のいやらしい身の動き、そして水準以下の幼稚なセリフがテレビには溢れている。
[田麗玉『悲しい日本人』1994年]


この地球上、女性を裸にして金を儲けようとしない国は一つもないといっても、いいすぎではない。(略)だが日本の場合は、その異常さに問題がある。

彼らが好む対象は幼児であったり、体の一部に支障のある女だったり、あげくには知能の低い白痴女だったりする。一言でいって、社会的、精神的意味で徹底的に弱い者をセックスの対象と考えるのだ。

セックスに異常な関心をもっている日本人は多くのマスメディアを通して、女性をただのおもちゃとして売り、買い、もてあそぶ。そんなものを見る時私は日本社会独特の非人間性に怒りを感じる。弱者を残忍かつ執拗にもてあそぶ日本の一面を見たような思いがするからだ。[同]


(日本という)出版大国の底辺にはものすごい量の低質、ポルノ本が乱舞している。(略)以前、韓国のスポーツ新聞がこのような方向に流れたと言って物議をかもしたことがあるが、日本のスポーツ新聞を見ると本当に韓国は道徳君子の国だということを再度感じる。
[金永明『日本の貧困』1994]

日本女性の多くが韓国の女性に比べて顔がまずく、特に歯並びが悪い女性が大部分で、これは日本の風土病の一種ではないかと思われる程である
[シン・ピョン『日本の地、日本の風』1990年]

我々と異なり、日本人には歯並びがひどく悪い人が多い。専門分野ではないから確言はできないが、先天的に我々より歯並びが悪い民族であるようだ。
[金燦「一事一言」朝鮮日報 1994年11月8日]

日本が三国の圧力に屈服すると、朝鮮では明成皇后[閔妃]を中心に日本の勢力をくいとめるためにロシアに接近する動きがあらわれた。これに日本は、彼らの勢力をばんかいするために軍隊を先頭にして宮中に侵入し、明成皇后を殺害する野蛮な行為を犯した。これを乙未事変という(1895)。
[中学国史 1996年版]

刺客は、各部屋をすみずみまであまねく捜索し、ついに王后を刺して弑逆した。遺体は緞衾につつみ、松坂の上に安置し、殿庭から鹿園の林の中に運び出し、遺体の上に薪をのせて油をそそぎ、これを焼いた。
[朴殷植『朝鮮独立運動の血史』1920年]

八月二十日、ニ、三十人の日本の大陸浪人が、景福宮の閔妃の寝所に踏み込んで斬殺した。それは三浦の命令であった。一国を代表する公使が、外国の王妃斬殺計画の首謀者になるとは、世界史でも稀な事件である。しかも、斬殺した屍体に石油をかけて、王宮の庭で焼いてしまうという蛮行を重ねた。
[金両基『物語韓国史』1989年]

少女の柳寛順は日本の警官や憲兵の銃剣の前にたってもひるまず、後に韓国のジャンヌ・ダルクと称えられた。彼女は水原の警察でひどい拷問にあいながら、「独立万歳」を叫びつづけ、殺されていった。[同]


ソウルで独立運動が展開された日、まだ年のいかない女学生が、右手に国旗をもち「万歳」を叫んだ。

日本兵は、剣をもち、その右手を切りおとした。女学生はさらに左手で旗をあげて「万歳」を叫んだ。

日本兵はまたその左手を切りおとしたが、女学生はなお「万歳」の連呼をやめなかった。
日本兵はその頭をつき刺してこの女学生を殺した。[同]


日本兵二名が左右にあって、一人は女学生の手をきつくにぎり、一人は竹針をたばねて頭に刺した。しかし、それでもなお屈服せず、激烈となり、かえって日本人を怒りののしった。

日本兵はいよいよ怒り、刀をぬいて唇をさこうとしたが、長官が引きとめ、「顔の表面は傷つけてはいけない」と言った。[同]

日本の野蛮人どもは、女学生のうち美貌の者何人かをえらび、輪姦をかさねた。(略)

日本人は、後列の十字架の傍に炭炉を置き、鉄線を真っ赤に焼いて盧永烈の乳頭を三、四回刺してからその縄を解き、刀で四肢を断ちおとし、まるでまこも(苽)のように分切した。血が雨のようにしたたりおちた。

そこでまた他の十字架にうつし、四肢と頭髪など五ヵ所を縛り、天空に架けて仰臥させ、膏薬を火に溶かしたものを頭髪と陰門と左右両腋とにねばりつけ、冷却させた後に強い力で急に引っぱった。髪の毛も皮膚もともに剥げおちて、血があふれるように流れ、大地を染めた。

日本の野蛮人どもは、大笑してこの残虐を楽しんだ。[同]

平壌では、拘留され入獄した女学生に対し、日本の野蛮人どもは、焼きごてをかの女らの陰部にあて、「男は何人いるか」など質問し、拷問を加え、いいしれぬ恥辱を与えた。[同]

朝鮮人女子は、監獄に入るとかならずはだかにされて訊問を加えられた。すでに判決をうけた女学生も、かならず日本人の姦淫暴虐をうけた。(略)

女子をはだかで仰臥させ、その腋毛、陰毛をぬいた。

また膏薬を煮解かし、女子の陰部にそそぎ、冷却して固まってから、いきなりこれをぬきとった。その陰毛はことごとく脱落した。[同]

1942年から始まった朝鮮での徴用の無慈悲さに就ては今更に喃々喋々を要しないであろう。戦時中朝鮮の官憲は日本への食糧供給を確保する為の「米穀供出」に狂奔し農家の糞溜の底まで目を光らした。

「労力供出」も之に劣らない方法、例えば市場とか村落をトラックを以て急襲して手あたり次第に捕えては頭数を揃えるとか、徴用逃亡者の為に山狩りをするとか等々の奴隷狩りを彷彿させる方法が取られた。
[朴在一『在日朝鮮人に関する綜合調査研究』1957年]

とくに大陸侵略と太平洋戦争の時期にいたって、日本帝国主義は戦時労働力の不足を打開するために、朝鮮人民を強制的に大量徴用した。

日本帝国主義は当時朝鮮人を連行するにあたり、夜中に農家を襲撃し、白昼にトラックを横付けして畑で働いている朝鮮の青壮年たちを手当たりしだいに拉致していくなど、文字どおりの「朝鮮人狩り」をおこなった。
[朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』1965年]

日帝が太平洋戦争末期の一九四五年、教師らを動員、一二歳の国民学校少女までも挺身隊に引きずっていった事実が一国民学校の学籍簿で確認された。

この学籍簿には七六年に廃校になったバンサン国民学校(戦前の京城第二公立小学校)六年制の担任だった池田正枝(六八・日本生駒市居住)氏が過去、子供たちを挺身隊に送った後、良心の呵責を感じて昨年八月、日本フジテレビの取材チームとともにバンサン国民学校卒業生学籍簿を保管中だったソウル江南区逸院洞永禧国民学校を訪問し発見した。

一四日、永禧国民学校が公開した池田氏が直接作成した学籍簿には、池田氏が担任だった六年生四班(女学生班)生徒七〇名余りのうち一名が四四年二月二五日に、五名が七月二日に富山不二挺身隊として出発したと記録されている。[朝鮮日報 1991年1月15日]


私自身が絶対に許せないのは、その悪の制度化だ。人類の残酷な歴史の中でも、女性を戦場に連行し娼婦役を強要した国はこの地球上で日本しかない。

強姦が犯罪なら、日本は集団的強姦を制度化したまれな国である。

私は、従軍慰安婦というのは日本がわが国の女性の全てを集団で強姦したようなものだと思う。おそらく日本はその血の代価をこれからずっと払い続けねばならないだろう。
[田麗玉『悲しい日本人』1994年]
http://www7.plala.or.jp/juraian/panil.htm

http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/587.html#c74

[雑談専用39] 韓国人が絶対に歴史から消し去りたい真実 木卯正一
75. 中川隆[7202] koaQ7Jey 2017年3月19日 21:02:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7673]

日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 9

『ある日赤紙が来て』 真鍋元之著  1981

1942年頃、平陽鎮の軍専用慰安所
つねに満員だったと言う。

「私の馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオと呼んでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日突然村長がやってきて

「軍の命令だ。お国への御奉公に、娘を差し出せ」

という。御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが 、村長は耳を貸さない。

この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘は5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ 。

村長の背後では、刀を吊った日本人の巡査(警官)が、肩をそびやかせている。

5名の村娘が、石ころのようにトラックに乗せられ、村境の土橋を 渡ったのが、故郷との別れであった。文字が書けないので、家族の安否を、手紙で問い合わせる事もできない。・・・」
http://194586245.web.fc2.com/11.html


従軍慰安婦は売春婦か?

1925年に当時の日本政府が批准した『婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約』では21歳未満を児童つまり子どもと規定している。

日本政府は本条約の植民地への適応を行わなかった*2が、朝鮮における公娼制の下限は満17歳であり、上図で16歳以下に限ってみたとしても16歳以下の元「慰安婦」は89名、全体の51.5%に及ぶ。

この傾向は、韓国を含めたアジア各国の元「慰安婦」でもみてとれる。以前のエントリで『DAYS JAPAN』2007年6月号の『特集「慰安婦」100人の証言』という記事を基に描いたグラフがあるのでそれを再掲する。

http://f.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20090728170811
http://f.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080628173338


「年端もいかない子供たち」が「強姦」され、「売春」を強要され、日本軍の「性奴隷」を強要されたのだ。


日本の戦争責任資料センターの声明では

「未成年の少女の場合、慰安所での使役は強制でなく本人の自由意志による、と主張することは、当時日本が加盟していた婦人・児童の売買禁止に関する国際諸条約に照らしても、困難である」

となっています。 又日本国内から慰安婦を徴募する場合は21歳以上の経験者にかぎるという法律があったと思います。

未成年を慰安婦として渡航されたことが確認できる公文書は、米三機密第353号「支那渡航婦女の取扱に関する件」と「渡支事由証明書等の取寄不能と認められるる対岸地域への渡航者の取扱に関する件」などでした。年齢がそれぞれに「15・16・17歳」と「14・15・16・18歳」になっています。

研究書に収録された元慰安婦の証言データ(1)朝鮮人慰安婦


出典:「日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦」表2−1,4−16,4−19,4−30より全42人43件(文玉珠は2回慰安婦になっている)

注:徴集年は19XX年、徴集形態は尹明淑の記述による(拉致:暴力による連行、就業詐欺:いい仕事があると騙して連れ去るもの、強制は命令された・逆らえなかったなど、徴集地で特記なきはすべて朝鮮。

名前 年齢 年 徴集形態 徴集人 徴集地 慰安所の場所

崔イルレ 15 1931 拉致 軍人 霊岩 満州

陳キョンベン 16 1939 拉致 軍人 狭川 基降(台湾)

鄭学珠 14  1938 拉致 軍人 釜山 ハルピン

文玉珠1 16 1940 拉致 軍人 大邸 東安省(中国)

姜ムジャ 13 1941 拉致 軍人 新馬山 パラオ諸島コロール

林グマ 16 1939 就業詐欺 民間業者 漢口(中国) 漢口(中国)

李相玉 14 1936 就業詐欺 民間業者 京城 パラオ

金春子 16 1939 就業詐欺 民間業者 清津 東安省(中国)

洪愛珍 14 1942 就業詐欺 民間業者 統営 上海

李玉粉 11 1937 誘拐・詐欺 民間業者 蘆山 台湾

金ブンソン 15 1937 就業詐欺 民間業者 漆谷 台湾

金ボットン 15 1941 詐欺・強制 民間業者 梁山 広東


*1朱徳蘭はこういう項目では分類していないが本文中で、日本人警察官により雑益に強制的に徴集された後、毎日性の相手を無理させられる様になったことが記述されている。

http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/15?from=1

朝鮮での慰安婦徴集の違法性で議論の余地がないのは、未成年者を徴集したことです。

現在日本で裁判をおこしている9名の元慰安婦達は全員が21歳未満であり、この場合、国際条約によれば、本人が了承したとしても慰安婦とする事は処罰の対象としなければならないはずです。

もちろん、この人達は強制をうけて慰安婦になったと詳細な証言をしています。


慰安婦の徴集のやり方について、間に朝鮮人が介在したことが多かったので、そのような場合は、軍の責任ではないとする意見もありますが、それなら慰安所に到着した時点で娼妓取締規則にあるように本人の自由意志であることを確認し、強制されたり騙されて来た者は、家に帰すべきです。

しかし、そのような事を行った形跡はありません。直接命じてやらせたにしろ、黙認したにしろ、軍の責任で行われたことに違いはありません。

http://www006.upp.so-net.ne.jp/nez/ian/


『慰安婦』にされた年齢


尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店、2003年)の表(232、233ページ)から計算した、韓国人元「慰安婦」(43名)の徴集時の年齢は以下のようになります。


11歳  1名
12歳  1名
13歳  1名
14歳  3名
15歳  5名
16歳 16名  ←台湾での公娼の下限年齢*3
17歳  7名  ←朝鮮、満州での公娼下限年齢
18歳  3名  ←日本(内地)での公娼下限年齢
19歳  3名
20歳  -
21歳  1名  ←国際条約*4における成人女性の年齢
22歳  -
23歳  1名
29歳  1名


*「募集年−生誕年」で単純計算しただけなので、実際はこの結果より年齢が1歳下である場合も多いと思われる。

*3:1930年の外務省調査によると、アジアで公娼制度があったのは、日本およびその植民地・統治領、仏領インドシナ、中国(ただし上海など大都市では公娼制度を廃止していく)

*4:『婦人及児童の売買禁止に関する国際条約』


コメント一覧


貧寒 2008/09/27 11:07

韓国での調査なので、年齢が満年齢ではなく数え年齢の可能性があり、さらに気持ちが重くなりました。

2〜30年前には朝鮮の女はパイパン(無毛症)が多いと言うことがまことしやかに語られることが有りました。

おそらく戦時中に朝鮮ピーと遊んだ人達が広めたのだと思います。何のことはない相手が年端もいかない少女達だったとは。


Stiffmuscle 2008/09/27 21:47

子供〜青年前期に強姦の被害者になると、その後の人生に多大で深刻な影響を及ぼします。ましてや元「慰安婦」の方々は監禁されて連続強姦され、身体的にもボロボロにされました。

なぜ、日本軍の兵士はそのことに気がつかなかったのか?

相手を同じ人間として見ていたら、その子たちの将来や親のことを考え付いていたら、決してこんな惨いことは出来なかったと思います。戦争だったというのは何の免罪符にもならない。

Allen 2008/09/28 16:21

ここ数年、世界中で第二次世界大戦を振り返る事態が多くなりました。 何となく日本の小泉政権発足以降とほぼ重なるような気がするのですが、やはり日本の一部の政治家や御用学者による一連の「戦争肯定」行為が影響しているんでしょうか・・・

東中野教授は裁判で事実上「学者失格」と言われ、藤岡教授や八木教授などが在籍する『作る会』は事実上内ゲバで分裂、安倍元首相は1年で政権放棄・・・

日本の自称『保守』も崩壊寸前ですね。まあ自業自得な印象しかありませんが・・・。

Stiffmuscle 2008/09/29 00:59

「慰安婦」の記述が中学校の教科書の全てに載ってからの右派論壇、つくる会、皇国マンセー議員の妄言が跋扈跳梁した1996年以降の基調だと思います。

当初の攻撃テーマが「慰安婦」と「南京大虐殺」だったわけです。

その後、最近になって沖縄の集団自決の件が出てきますが、正直、あいつらの3連敗です。完膚なきまでに叩き潰されないと「おれたちのが勝ってる!」って醜態をさらし続けるのかも。

まぁ、新人の凄腕論客がいないので、先細りするだけでしょうが(爆)
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080923/p1


 日本軍「慰安婦」生活を強要されたキム・デイル女性の証言を聞いてみよう。

 「平壌が故郷だという、“ハナコ”と呼ばれた女子が妊娠したが、田中は酒をひどく飲んで入ってきて、彼女を倒して容赦なく腹を蹴り飛ばし、次に彼女の腹から胎児を取り出して投げ飛ばした。

 そして、朝鮮女性をみな集めてからそのはらわたを刃先で引き出して「慰安婦」の首にかけ、部屋の床の血をなめろと言った。

この時、多くの女子は気絶し、心臓が破裂して死んだ女子もいた。

 ある日、田中は大きい犬一匹を引いて入ってきて、犬に

「俺もしたから、お前もやれ」

とそそのかし、私に×××させた。

私が気を失って倒れると、冷水を浴びせて狂ったように襲いかかり、獣欲を満たした。

 さらに奴らは麻薬を吸わせた後、タバコにガソリンをつけて口や鼻、子宮に突っ込み、火をつけて火傷させた」

 日本兵は、ある「慰安婦」少女が必死に反抗したため、5匹の馬に彼女の腕と脚と首をくくり、引きちぎって殺したという。

かと思えば、ある女性が自分たちの要求に応じないため、「乞食」に「しつけ」をしてやるといい、彼女を木に逆さにぶら下げ、無理矢理襲いかかって銃卓で殴打した後、乳房をえぐり取って残忍に虐殺したという。

 日本兵は「慰安婦」が伝染病にかかれば、彼女らがいる「慰安所」に火を放ち、死体を川や山中に捨て、戦闘に敗れて追われる時には「慰安婦」を一列に並び立たせ、順に首を切り落とした。

http://www.piks.or.tv/date/japan/20040826.htm


『沈黙の叫び 日本軍「慰安婦」出身のおばあさんの声』


耐えかねて逃げようとした女を日本兵達が見せしめに縛り上げて乳房を短剣で
切り落とすと傷口から真っ白な脂肪が溢れ出してきて、やがてそこから血が流れ出した。
http://www.eigaseikatu.com/imp/14905/152813/

日本兵は彼女の首を切り、その煮汁を飲めと強要しました

 私は4人兄弟の長女で、弟3人がいました。

ところが、両親は私たちを残して死んでしまい、一番下で乳飲み子だった弟もお母さんに続いて死んだのです。

  住む家もないので橋の下で雨露をしのぎながら、乞食をしたり農家の手伝いをして弟たちを養いました。
 
私が数え年で17歳の夏、住んでいた小屋に帰って来ると、巡査か兵隊なのかわからない日本人の2人の男が現れたのです。

彼らは私の髪の毛をつかんで、放り投げるように大きなトラックに乗せました。

弟たちが「お姉ちゃん行くな」と泣き叫んだの で私は振り返ろうとしたのですが、男たち に蹴られてトラックに押し込められました。

その中には、幼い少女から20歳前後までの娘たちでいっぱいで100人くらいいました。
男たちは、泣き叫ぶ私たちを殴ったり蹴ったりして黙らせたのです。

  水原(スウォン)の駅から汽車に乗せら松中国の大連へ連れて行かれました。

私たちが列車の外をのぞこうとすると、「何を見ている」 と兵隊は髪を引っ張ったり足で蹴ったりしました。

私は、弟たちのことも心配だしこれから何が起きるかという不安で泣き出したのですが、そしたらまた殴られたのです。

兵隊たちは、途中のハルビンや牡丹江などで娘たちの一部を汽車から次々と降ろして行きました。

私は東寧県で汽車を降ろされ、20人くらいの女性たちとトラックでプチャゴルに連れて行かれました。

到着すると将校が

「天皇と軍の命令だ。 言うことを聞かないと殺す」

と言いました。

私は5号室に入れられ、着いたその日から強姦されたのです。

あちこちの部屋からも悲鳴が聞こえてきました。

それからは、少ない日でも30人くらいの日本兵の相手をしなければなりませんでした。
 

ある日、2人の女性が兵隊の相手をするのを拒否したということで、両手を縛られて庭に引っ張られて来ました。

兵隊たちは、 私たちを呼び集めて2人を高い木に吊るしたのです。

その娘たちは兵隊に

「犬のようなお前たちの言うことなんか聞かない」

と言いました。

そうしたら、奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです。

血が吹き出ました。あまりにも残酷なので私は気絶してしまいました。

  彼女たちが死ぬと兵隊たちは首を切って沸いた湯の中に入れました。

そして、その煮汁を私たちに飲めと強要しました。

拒否 すれば私たちも殺されるので、生きるために仕方なく飲んだのです。

  女性たちの数はいつも20人くらいで、病気で死んだり逃亡に失敗して殺されたりすると新しい女性が補充されました。

ある時、 私は逃げようとして捕まってしまいました。

板にくぐり付けられて何十人もの兵隊に犯され逃げ出せないように足の神経を切られてしまったのです。

  そして、別の部隊に移されて砂地に天幕を張っただけの所に入れられました。

私は、 鉄条網の下をくぐって逃げようとしましたが、鉄条網に鈴が付いていたのを知らなかったので再び捕まってしまいました。

すると、兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押しつけたのです。

この時の火傷はケロイドになってしまったので今でも歩くのが困難で、痛くて横になることもできないほどです。


  ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました。

私は火傷のために早く歩けなかったので食事に遅れたのですが、私が行った時には先に食べていた女性たちがすでに死んでいたのです。

私は、這って逃げ出して、その村の中国人にかくまってもらいました。

私はここの「慰安所」に8年間いました。

  体の火傷の跡を見てください。正視できないほどです。

1947年に帰国しましたが、 故郷には帰れませんでしたし、子どもを生むこともありませんでした。

http://www6.ocn.ne.jp/~kitanisi/knews/knews0109.html


日本軍はどのように慰安婦の秩序を保ったか:


A. 韓国人慰安婦の1人は、なぜ1日に40人もの男にサービスしなければならないのかと尋ねたために、日本軍指揮官の命令によって、他の慰安婦の面前で、刀でたたかれ、裸にされて、たくさんの釘の突き出た板の上を転がされ、血だらけになった後に首を切られた。

さらに、日本軍指揮官の1人は、それを見ていた人々の前で

『あなたたち全員を殺すのは、犬を殺すよりも簡単だ』

と述べ、死んだ女性の死体を煮て食べるように強要した。


B. 韓国人慰安婦の1人は、他の40人とともに蛇だらけの水溜りに入るよう命令され、そのうち数人は、無理やり水中に押し込まれ、その後、土をかぶせて生き埋めにされた。


C. 兵士に噛み付いた新入りの慰安婦は、他の慰安婦の面前、慰安所の中庭で首を切られ、ぶつ切りにされた。


D. 激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦の面前で引きちぎられて殺された。


E. 多くの慰安婦は、中国兵捕虜の頭を煮た水の残りを飲むように強要された。


F. 性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。


G. 性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。


筆者が最近傍聴した集会にも、元慰安婦が招かれ、体験談を語ったが、その上品で温和な顔立ちの元慰安婦が、

「慰安所の天井から赤ん坊の頭で作ったモビールのような飾りが吊るされていた」

と語ったとき、会場は一瞬息を呑んだ。
http://www.cmht.com/casewatch/civil/comfort.html
http://www.geocities.com/lordfreeza88/esytesti.htm


朝鮮人「慰安婦」の証言


12歳で「慰安婦」に 李京生

 私は3歳で母を亡くし、6歳のときには父を亡くし、育ててくれた祖母とも死に別れた。孤児となった私は、地主の家の子守や下女として一人で生きてきた。

 12歳になったある日、区長が呼んでいるというので行ってみたら、既にキム・グワンソン、パク・スボク、ユン・チュンソンの3人がきていた。みんな私と年齢が前後する女の子たちであった。区長は、私に「お前は哀れな星の下に生まれて苦労している。きょうからお前の人生を変えてやろう。良い所へ連れていってあげるがどうだ」と言った。

 私はそれまでのみじめな境遇が辛かったので、今より良い暮らしがあるのなら「行きましょう」と答えた。区長は、「私が呼び出したら朝でも夜でもすぐくるんだよ」と言った。幼い私は、「はい、すぐきます」と答えた。

 夜になって区長の家から使いがきたので、私は急いでいった。区長は立派な日本人が迎えにきたといった。見ると長い刀を腰にさした男が3人きていた。私たちは怖くなって「アッー」と声をだしてしまった。それを見た区長は、「お前たちを良い所へ連れていってくれるのに怖がるな」といった。そしてその男たちに私たちを引き渡すと、村の外まで見送ってくれながら、「きょうからお前たちの運命が変わるのだ。いい所にいけよ」と励ますようにいって家に帰ってしまった。どうしていいのかわからないままに、私たちはその男たちの後についていった。

 男たちの後についていくとやがて駅前に出た。そこで汽車の貨車に乗せられた。良い所に連れていってくれるとは言われてみても、そこは子供だから、次第に心細くなり、4人してめそめそしたりしていた。

 明け方近くなって降りろというので降りたら、駅前に車が迎えにきていた。車には2人の日本人が乗っていた。私たちは、見知らぬ3人の日本人についてくるだけでも怖かったのに、また2人ふえたのでもっと怖くなった。しり込みする私たちをみて、男たちはまるで豚のしっぽをとって車に乗せるように、私たちを5人がかりでほうり上げて乗せた。

 どれくらい行ったのか記憶に残っていないが、まわりが明るくなったころ、やがて山の中に到着した。彼らは「降りろ」といったが、私たちはおじけづいてじっとしていたら、ひきずり降ろされた。そして、「ここが良い所だから入れ」と言って家の中に連れ込まれた。そこが慶尚道・昌原にあった軍の秘密工場であることは、ずっと後で知った。

 指定された部屋の中でしばらくじっとしていると、日本の着物を一抱え持った看護婦が入ってきて、「朝鮮服を脱いでこれに着替えなさい」と命令した。もじもじしているとむりやり脱がされて裸にされ、浴衣を着せられて胸に「ミイコ」という名札を付けられた。そして、「お前はきょうから朝鮮人ではなく日本人だ。日本帝国の天皇陛下のために働かなければならない。お前の名前はミイコだ、朝鮮語を使ってはならない」といった。それからは約半月の間、雑穀の入った食事を三度与えられるだけで、仕事はさせなかった。苦労ばかりしてきた私は、区長が言っていたように良い所へきたのかな、と単純に思ったりした。

 やがて半月が過ぎると今度は将校がやってきて「足を洗え」「つめを切れ」などと命令するだけで、仕事らしいことは何もなかった。ただ、「風呂に入れ」とか「身体検査」と言われれば体重計に乗ったりして、言われるままに行動していた。そんなことでまた半月が過ぎた。

 ある日の朝、前庭に集まれというので行ってみたら、少女たちが20名くらいいた。その少女たちと一緒に私たちも一列に並ばされた。私たちの前に将校たちがやってきた。その中で星が4つ着いた将校が、一列に並んだ少女たちをなめるように見回していたが、一番背が低いので端っこにいた私を、自分のそばに引っ張りだした。次に少しくらいの低い将校が、同じようにして他の少女を選んだ。

 こうして順番に将校が気に入った少女を選びだし、自分の部屋に連れていった。私はその時、8号室に入れられた。私と一緒にきたユン・チュンソンは隣の9号室であった。やがて昼食がすむと、工場から800メートルほど離れたところにある場所に連れていかれた。そこでも8号室に入れられた。そこは将校が入る部屋だと後で聞いた。

 夜になって男が部屋に入ってきたが、それは朝、私を選んだ将校であった。その将校の名前は「トウギョウ」といった。彼は、12歳の私を暴行した。あまりにも幼い体なので膣が引き裂かれてしまった。翌朝の8時か9時ころ、医者と看護婦がやってきて治療してくれた。そんな状態にもかかわらず、その将校は毎夜のように襲ってきた。

 それは、私だけではなく他の部屋でも同じであった。9号室のユン・チュンソンは恐怖と嫌悪感から拒否して叫んだので、口をふさいで窒息死させられてしまった。

 こうした行為を強いられて1か月もしたころ、トウギョウという将校は「もうお前に飽きた。好きにしろ」と言ってこなくなった。それからは毎日のように7、8人くらいの兵士がやってきた。こうして、この秘密工場での私の「慰安婦」生活が始まった。

 これは、慶尚北道安東出身の多くランという18歳の女性のことである。彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。

 忠清北道のキム・サムニョという20歳前後の女性は美しい人であった。彼女のところには数十人の兵士たちが列をなしていた。この屈辱的な暴行に耐えられなくなった彼女は、死を覚悟して抵抗した。日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした。こうして、3人もの女性が殺されるのを見せられた私たちは、恐怖のために抵抗も逃げ出すこともできなかった。

 16歳になった私は、知らぬ間に妊娠していた。それを知った将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した。その時に受けた傷が今でも残っている。

○彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。

○将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した

○日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした


 それから間もなくであったと思う。そこで賄い婦をしている朝鮮人のシン・ファジャというおばさんが私たちのところに忍んできて、「お前たちはみんな可愛い顔しているね。こんな可愛い子たちがここで朽ち果てるのはかわいそうだ」「ここは秘密工場だから、ここにきた女性たちは生きてでられないよ」といって「何とかして逃げなさい」と教えてくれた。それから一緒にきた私たち3人は逃げ出す方法を計画した。

 当時の兵士たちは将校と違って思い通りに酒を飲めなかった。お酒を飲みたがっている彼らの弱みを知っている私たちは、酒を与えて酔いつぶす計画をたてた。私たちは、将校が飲み残した酒やつまみをこっそりとっておいて集めて3本分の酒を用意した。

 土・日曜日は将校たちが家族のもとに帰っていく。その日をねらって門番の兵士に酒を与えた。酒につられた彼らは、私たちの計画にはまり、私たちはやっとの思いで逃げ出すことができた。私たちは3人がバラバラになって逃げた。それっきり私は同郷の友人たちの消息を知らない。

 私は電線のない深い山奥をめざして逃げた。そこでひっそりと住んでいる老人夫婦の家をみつけて、かくまってもらい、老人夫婦の好意でそこに住みついた。

 18歳の時に、山村の人々の世話で、身寄りのない若者と所帯をもった。結婚式も何もない貧しい者が寄り添った暮らしには、家財道具も何もなかった。周辺の人々が持ち寄ってくれた必要最低限の道具で2人の生活は始まった。しかし、私は常に追手の影におびえていた。私は夫に哀願を繰り返し、中国に逃げようとせっついた。そして中国の瀋陽に渡っていったのである。

 解放は中国で迎えた。祖国の解放を知った私は、今度は故郷に帰りたくて、また「朝鮮に渡ろう」と夫に哀願した。夫は「お前は、前には中国にいこうとせっつき、今度は朝鮮に帰ろうと騒ぐ。いったいなぜなんだ」と聞いたが、私は過去のことは一切いわなかった。

 1960年代に祖国に帰国した。祖国では協同農場の一員として夫婦で働いてきた。私たちの農場は稲作を主としてやっている。私は農民として働ける暮らしがうれしくて、本当に良く働いた。

 ことしの3月27日にただ一人の身内である夫を亡くし、一人ぽっちになってしまった。夫にも過去を隠して暮らしてきた自分の半生がなんであったかを考えると、涙にくれるばかりであった。むなしかった。

 今までにも、「慰安婦」時代を思い出して夜中に飛び起きて胸の締めつけられる思いを何度したことか。黙ってしまってきた過去を告発して楽になりたい、と思った。何日も考えた末に、みずから平壌中央テレビを訪ねていき、「私が元慰安婦です」と最初に名乗りをあげた。


(リ・ギョンセン 1917年6月29日生 咸鏡北道魚郎郡出身)

http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101200.html
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/51/

拷問の後遺症に苦しむ日 李福汝


 私は4人兄弟の長女として生まれたが、両親は弟3人と私を残して亡くなった。乳飲み子の弟は、母の死後まもなく死んでしまった。私は6歳と7歳の幼い二人の弟の面倒を見なければならなかった。

 住む家もなかったので、橋の下で雨露をしのぎながら、もらい乞食をしたり、農家の手助けをして生きるだけの食べ物を得て弟たちを養っていた。

 私が数え17歳の夏であった。弟の一人が風邪気味なので、居住していた小屋に寝かせておいて食べ物をもらって帰ってきたら、日本人の、巡査なのか兵士なのか区別ができない男が二人あらわれて、いきなり有無を言わせずに、私の髪の毛をつかんで大きなトラックに放り上げるように乗せた。弟たちが驚いて「お姉ちゃん行くな」と泣き叫ぶ声に振り返ろうとしたが、男たちに蹴られて車に押し込められた。弟たちの「行くな」という声だけが聞こえてきて、姿は見ることができなかった。

 トラックには、既に大勢の女性が乗っていた。幼い少女から20歳前後の娘たちでいっぱいであった。100人くらいはいたと思う。彼女たちは泣きわめいていたが、男たちは泣き叫ぶ私たちに蹴る殴るの暴行を加えながら黙らせた。周囲をうかがおうとしたら、「何を見ている」と言って足で蹴られた。

 水原の駅から汽車に乗せられてソウルを経て大連に連行された。途中、鴨緑江のペネンという所で汽車が途中で止まったので、こっそり外をのぞいたら、鉄橋が二つに分かれて上がっていて川を横切る船が過ぎ去っていくのが見えた。そんな私を見とがめた男が、「何を見ている」と言って髪の毛をつかんで殴った。私は弟のことも心配だったし、これから何が起きるかもわからないので不安で泣きだしたら、また殴られた。

 途中で娘たちの一部を降ろして行きながら、ハルピン、ボンチョン、牡丹江などを経由して東寧県北満州に到着した。そこで汽車を降りた。そこからはトラックに乗せられてプチャゴルに連れて行かれた。

 プチャゴルには20人くらいの娘たちが連れて行かれた。到着すると将校がでてきて、「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す」と言って私たちを脅した。私は5号室に入れられたが、やがてあちこちの部屋から悲鳴が聞こえてきた。私はその日のうちに暴行された。

 私は訳がわからないままに慰安婦にされてしまった。

 それからは慰安婦として毎日2、30人の相手をされた。拒否すると見せしめに庭に引きづり出され木につるされ、「降参しろ」と迫った。

 私たちが到着して間もなくのある日、2人の女性が慰安婦を拒否したというので木につるされていた。軍人たちは「慰安婦」たちを全員呼び集めた目前で「降参しろ」と迫った。しかし、彼女たちは「おまえら犬のようなやつに降参するか」と抵抗した。たけり狂った軍人は、私たちの目の前で乳房をえぐり、なぶり殺しにした。私は余りの残酷さに気絶してしまった。

 鬼のような軍人たちは、2人の慰安婦の首を切り取り、それを、かまゆでにして、その煮汁を私たちに飲めと強要した。しかし、それを拒否すれば、私たちも殺される。殺されては生き延びる手立てもない。仕方なしに私たちは、それを飲んだ。こうしたことを、私たちは何度か体験した。

 「慰安婦」たちは、常に20人くらいいた。病気で死亡したり逃亡に失敗して殺されたりした欠員は補充されていた。

 ここの慰安所には8年いたが、そこにいた軍の部隊の名称はわからない。タカシマという名前と、イケダという50歳過ぎの眼鏡をかけたひげを生やした将校(大将)がいたことは記憶している。このイケダは、逃亡に失敗した私に拷問を命令した男である。

 あるとき私は逃亡しようとして失敗した。捕らえられた私は、板にくくり付けられて何十人もの男たちに犯されて、2度と逃げ出さないようにするといって、足の神経を切られた。それがために現在の、この不具の体になった。

 それから私は東寧県に連れて行かれ、そこで騎馬隊−騎兵隊に引き渡された。そこでは、砂地に天幕を張っただけの所に入れられた。そこには鉄条網が張られていたが、私は、そこ多くぐって、またも逃亡しようとして失敗した。その鉄条網に鈴がついていたのを知らなかったのである。

その時には、火で焼いたドラのような鉄板でお尻の右側に火傷をおわされる拷問を受けた。その時の火傷がケロイド状態で今でも残っている。(調査団のメンバーが肉眼で確認済み)。その火傷のために足がつって歩行困難になってしまった。いまだに、食をするのにもキチンと座ることができない。

 それでも、はってでも逃げようと、私は逃亡することだけ考えていた。

 ある時、チシャ(サラダ菜)に包んでご飯を食べていた慰安婦たちが、2口ほど食べたところで次々と倒れて死亡した。私は、歩行が不自由なので食事に遅れたが、それが幸いして、そのチシャを食べずにすんだ。

 私は、はってそこを逃げ出した。その私を村の中国人が助け出してかくまってくれた。それが1944年であったと思う。中国人は朝鮮に逃げなさいと教えてくれた。1947年清津に帰国した。

 私は、私の青春時代に、花の年齢に、私を拉致して「慰安婦」にし、こんな障害者にした日本軍人を許さない。

(リ・ポクニョ 1919年4月18日生 京畿道出身)
http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101202.html

12年間の「慰安婦」生活 金大日


 私の実家は余りにも貧しかった。数え12歳のときに、わずかな米と引きかえに金持ちの家に下女として連れて行かれた。そこから日本人の経営する紡績工場に売られた。1932年、数え16歳のある日、今度はフクダという日本人がやってきて、「食べ物に困らないところに連れて行く」と言った。私は、またもや売られてのである。

 私は、フクダと一緒に汽車に乗って釜山港に連れて行かれた。そこには朝鮮女性が20人くらい、あちこちから連れてこられていた。自分がどこへ連れて行かれるのか理解できないままに船に乗せられ、下船したのは下関であった。下関に上陸すると同時に、フクダという男は、「これからは朝鮮語を使ってはいけない。もし使ったら殺す」と脅し、そして「これからお前の名前はシズエだ」と行った。そこから連れて行かれたのが大阪の病院であった。

 病院では雑用をさせられた。地で汚れた包帯やガーゼ、患者の大小便で汚れた衣類の洗濯など、日本人が嫌ってしない汚い仕事は全部させられた。

 来る日も来る日もべっ視と屈辱的な扱いの中で、長時間の労働を強いられ、外出する機会も与えられず、病院の雑用を押し付けられていた。

 数え18歳になったお正月の夜、病院の院長だと名乗った男が、私の部屋に入ってきてナイフを突きつけ、「私の言いなりにならなければ殺す」と脅して、叫び声をあげた私の口を手で押さえて暴行した。その日まで、私は院長の顔も知らなければ会ったこともない。院長は「お前は美しいので、前から目をつけていた」と言った。

 それから、しばらく経ったある日、院長が「お前のこの病院で2年も奉公したから、今度はもっと良いところに行かせてあげよう」と言って、見知らぬ日本人の男に私を引き渡した。

 その男は、私を東京に連れて行った。そして、日本の軍隊に「挺身隊」として送り込んだ。そこには朝鮮女性が30人くらいいた。1934年のことである。現在では「従軍慰安婦」と言っているが、私が当時、言われたのは「挺身隊」とはっきり記憶している。

 そこで、軍隊と一緒に連れて行かれたのが旧満州である。まず、東京から船で釜山へ行き、釜山から汽車で新京、それからハルピン、チチハル、牡丹江であった。そこで私のほかに数人の女性が選ばれて、船に乗せられて連れて行かれたのが上海であった。

 上海には既に朝鮮女性が大勢いた。その女性たちは、「あなたはどうしてこんな所にきたの」と言いながら私を哀れんだ。私は、「お姉さんたちと同じように無理やり連れてこられました」と答えるしかなかった。

 上海では中国人の民家の2畳くらいの部屋に入れられた。部屋の前には番号が40くらいふってあって、私は12番に入れられた。その夜、将校たちが私を暴行した。それからは1日4、50名もの日本兵が私の部屋の前に列をなし、「早く早く」とせかして先を争い、入れかわるとすぐにのしかかってきた。私は起き上がる暇もなかった。

 私が最初に従わせられた軍隊は12師団で、その師団の移動に伴って私たちは引きずり回された。上海の次にはハンカオへ連れて行かれた。そこから南京、トウヨウ、キショウと、転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された。

 日本の軍隊のなかでも九州6師団が一番悪かった。他の日本軍は胸に標識をつけていたが、九州6師団はそでに標識をつけていた。

 私はこうして12年間も慰安婦生活を強いられたが、中でも6師団に加えられた数々の暴行は、決して忘れられない。彼らは酒に酔ってやってきて短刀を突きつけて、「おれの言うことを聞かないと殺す」と身体を傷つけたりした。「この朝鮮ピー」とさげすみながら私たちを威嚇した。彼らはまた、ほかの兵士が先に入っていても、「早く出てこい」と言って脅し、先の者がまだいるのに押し入ってきて性行為を強要した。

 私は、こんな「慰安婦」生活がのろわしくなって自殺を2度も図った。2度ともすぐに発見され、生き返らされてしまった。生かしたのはアキカワという大隊長で、「この女は見殺しにするのは惜しい、使い道があるから生かせ」と言った。私には死を選ぶ自由もなかった。

 私は、何か言うと「殺す」と言って脅していた6師団の兵士に、ある日、覚悟を固めて「私も朝鮮人だ。朝鮮人の女の心意気を見せてやる。殺すなら殺せ」と反抗したために縛られて、ひどい拷問を加えられた。それを見ていたアキカワ大隊長が、「それ見ろ。この女は度胸がある。使い物になるから、殺すな」と言って止めた。そのために、私は地獄のような「慰安婦」生活を続けなければならなかった。

 ある時、私は50人もの兵士を相手にして気絶してしまった。その私に彼らは「ノーシン」という薬を飲ませて意識を回復させて行為を継続させようとした。しかし、私がもうろうとして使い物にならないとわかると、たばこに火をつけて鼻や口に押し付けるなどの屈辱を加えた。

 めったなことではたじろがない私が、恐怖に震えたことがある。それは6師団の兵士の蛮行であった。6師団の一将校が、「おれは、飽きたからお前がやれ」と連れてきたセパード犬を私にけしかけたのである。その時はあまりにもの恐怖で、さすがの私も「助けて」と大声で叫び、周囲の部屋から「慰安婦」たちが飛び出してきたほどである。

 こうした屈辱は、私ばかりでなく他の朝鮮人「慰安婦」たちも同じくあじ合わされたばかりか、短刀で傷つけられたり、中には殺された者もいる。

 こんなことがあった。私の隣の部屋にいた全羅道出身の知らぬ間に妊娠した。彼らは妊娠しているのもかまわず性行為を強要し、ついには性行為の最中に流産した彼女のおなかを日本刀で切り裂き、出てきた胎児をごぼう剣で刺し殺し、妊婦までも殺したのである。

 日本の敗戦も濃厚になってきたころ、軍人たちは、私たちが朝鮮語で話したりすると神経質になって、「日本が負けると言っただろう」と執拗に迫り、日本が負けることになったら「お前ら皆殺しにする」と言って脅した。

○火のついた煙草を鼻や子宮に入れる

○将校が「おれは、飽きたからお前がやれ」と言ってシェパードをけしかける

○戦闘で負けた腹いせに慰安婦に銃を乱射して殺したり、穴を掘って入れ、手榴弾を投げ込む

○妊婦の腹を裂き胎児を刺し殺した後、妊婦も殺す

○慰安婦150人を並ばせて斬首

 日本の敗戦が決定的になったころ、血迷った彼らは、朝鮮人と中国人の慰安婦ら150名くらいを2列に並ばせて、「かかれ」と小隊長が号令をかけた。両端から日本刀を振りかざした兵士らが襲いかかり、皆殺しを始めた。飛び散る血の雨に私は意識を無くして倒れた。私には3、4日くらい時間が過ぎたように思う。意識を取り戻してみたら、その血の海の中で、私のほかに2名が生き残っていた。

 はうようにして近くの中国人の家に助けを求めに行った。「私は朝鮮人です。助けてください」と必死に叫んだ。

 中国人は数日間かくまってくれて、中国服を一着くれた。それを着て朝鮮人の家を探して行き、そこでしばらく世話になった。8月15日の解放は、その朝鮮人に教えられた。

 9月になってどうしても故郷の両親に会いたくて、世話になった朝鮮人の家族に旅費を借りてやっとの思いで故郷に帰ってきた。しかし、両親は既に死亡していた。

 私が日本人からもらったものは病気だけ。子宮はメチャメチャにされ、心臓は悪くなり、腸も悪くて下痢ばかりして、今でも病院に通っている。

 日本軍の通った中国大陸の隅々には、犠牲になった朝鮮女性の血がしみこんでいる。このことを知ってもらいたい。

 日本人に問いたい。立場を変えて、あなた方の娘も姉妹、妻や母が私のような体験をさせられたとしたらどう思いますか。

(キム・デイル 1916年11月5日生 黄海道沙里院市出身)
http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101204.html
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/51/

使い捨てにされた朝鮮女性 金英実


 両親、祖母と妹2人、弟1人の7人家族の長女として生まれた。家庭が貧しかったので数え13歳のとき、咸鏡北道の会寧に住んでいた父の妹のところにいった。

 会寧は、私の故郷に比べれればそれでも働き口があるというので、叔母の家で世話になりながら、近所の雑用をして働いた。数え18歳のとき居酒屋で雑用係をしていた。

 1941年のある日、そこに背広を着た日本人があらわれて「条件の良い仕事をあっせんしてやろう」と話しかけてきた。「条件の良い仕事」なら故郷の家族に仕送りができるので、家計を助けるためにもやってみたいと思った。故郷を離れたといっても叔母のそばで働いていたので、見知らぬ土地にいくことには不安があった。しかし、少しでも条件の良い仕事をして故郷に仕送りできればと考えていたので、集合場所に指定されていた村の日本人区長の家にいった。いって見ると私と同世代の女性が、既に14、5 人集まっていた。

 区長の家の前にはトラックが迎えにきていた。それに乗って会寧駅にいき、そこで昼食時に汽車に乗り換えてアオヂを経由してウンドクに到着したのは夕刻であった。そこからチョンアクドンにいくと、ほろ付きのトラックが待機していた。それに乗せられて30分ばかり走ったところの山中に連れていかれた。

 その山中には日本の軍人がいっぱいいた。

 私たちは中国と旧ソ連の国境地帯の、少し奥地に入ったところに連れていかれたが、到着してみるとそこには既に、10人位の朝鮮女性がいた。女性たちは私たちに、「なぜこんなところにきてしまったのか。ここからは生きてでることはできないのに」と悲しげに話しかけてきた。私には何のことかわからなかった。

 軍人がやってきて私たちを最初に倉庫に連れていった。今まで着ていた朝鮮服を脱いで和服に着替えろと強制した。私は恐怖と羞恥から拒否すると殴る蹴るの暴行を受け、むりやり裸にされて着替えさせられた。そして、「ここでは朝鮮語を使うと殺す」と脅かされた。

 その日、一緒にきた女性たちの一部は他所へ連れていかれ、彼女たちがどこへ行ったのか、どうなったのか一切わからない。私は人間2人が入ればいっぱいになるような部屋に入れられた。

 夜、麦御飯とスープだけの粗末な夕食をだされたが、恐怖でのどをとおらなかった。ただどうにかして逃げ出さなければとばかり考えていた。そんなことを考えていたときに、私たちを連行してきた男が軍服を着て入ってきた。将校(肩に星が3つ付いていた)の軍服を着てきた。将校はいきなり入ってきて有無をいわさず私を強姦した。この将校は、それからも和服に着替えてどこかにでかけていっては、朝鮮女性を連れてきて「慰安婦」にした。そればかりか、ここにいた女性をどこかへ連れ去りもした。

 最初の日の夜は、その将校の外に7人もやってきて私に暴行を働いた。私が7人という数字を記憶しているのは、それまで想像もできなかったつらい暴行を受けて、この後何人にこんな思いをさせられるのかと思い詰めていたからである。厳しい監視の中で私は逃げ出す方法も考えられないままに、そのままそこで「慰安婦」を強いられることになってしまった。

 食料事情は悪く、ろくな食べ物はなかった。そのために栄養失調と過労のために病気になるものが多かった。重病のために役に立たないものとわかると、病死者も含めてどこかに連れ去られた。彼女たちがどうなったかはわからない。ただ、行って見たことはないが、豆満江がすぐ近くを流れていたので、そこが墓場になったのではないだろうか。

 この周辺のアオヂ、チョンアクドン、クロン、サフェなどには付設の慰安所があったが、ホンイリにはなかった。

 慰安所のないところには私たちが派遣させられて奉仕させられた。そこには週に1〜2回いかされ、朝から翌朝まで奉仕させられた。時には1泊2日で夜中に帰ってくることもあった。

 私たちのグループは常に14、5 人で、欠員がでるといつのまにか必ず補充されていた。

 ある日、「トキコ」と呼ばれていた私より幼い女性が朝鮮語を使ったという。それをみとがめた将校が私たち全員を呼び集め、その前で見せしめに、幼い「トキコ」の首を日本刀ではねて殺した。あまりの恐ろしさに泣き叫ぶ者、気絶する者もいた。私はただうつむいて声をだすこともできなっかた。それからは、日本語のよくわからない私たちは、ただ目と目で語り合うことしかなかった。

 また、「ジュンコ」と呼ばれていた女性は、妊娠に気付かぬうちにいつしか臨月に近くなっていた。軍人たちは、「ジュンコ」が出産する直前まで「慰安婦」として利用していた。ある日、彼女が出産した。彼女の部屋に入っていった将校は、生まれた乳児を布で包んでどこかに連れ去った。そして、衰弱した「ジュンコ」が役に立たないと思ったのか、彼女をどこかに連れ去っていった。それっきり私たちは、彼女の消息を聞いていない。

 ここにいたらいつか私も殺されると思った。

 1945年8月13日、軍人たちが、「日本に帰るから、お前たちも一緒に連れていく」といった。ここでもこんなに辛い思いをさせられいるのに、日本にいけばどうなるのか見当がつかない。そこで皆と話し合い逃げることに決めた。一緒だと捕まるのでバラバラに逃げようと約束した。

 その夜、私はトウモロコシ畑にひそみ、明け方、山に登っていった。山の中で2日くらい隠れていて、そこから山のふもとの人家を探していき、そこで食べ物をもらった。祖国の解放はその時聞いたが、信じられず捕まることを恐れて、ずっと山の中に潜んでいた。

 秋になって清津にでてきた。


(キム・ヨンシル 1923年10月21日生 両江道普天郡出身)
http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101201.html

チョン・オクスン(ChongOkSun)


現在74歳のチョン・オクスン(ChongOkSun)の証言は、日本帝国陸軍の兵士による性的暴行と日々の強姦に加えて、これらの女性が耐えなければならなかった残酷で苛酷な取り扱いを、とくに反映している。


「私は1920年12月28日、朝鮮半島北部咸鏡南道のプンサン郡フアバル里で生まれました。

13歳の時の6月のある日、私は畑で働いている両親のために昼食の用意をしなければならなかったので、村の井戸に水を汲みに行きました。そこで一人の日本 の守備兵が私を不意に襲い、連れて行きました。ですから両親には自分の娘に何が起きたか分かりませんでした。私はトラックで警察に連れて行かれ、数人の警 官により強姦されました。私が叫ぶと彼らは口に靴下を押し込み強姦を続けました。私が泣いたので警察署長は私の左目を殴りました。その日、私は左目の視力 を失いました。

10日ほどして私はヘイサン市の日本陸軍守備隊の兵営に連れて行かれました。私といっしょに約400人の朝鮮の若い娘がいて、毎日性奴隷として5000人以上の日本兵の相手をしなければなりませんでした――一日に40人もです。

その度に私は抗議しましたが、かれらは私を殴ったり、口にぼろきれを詰め込んだりしました。あるものは、私が抵抗をやめるまで秘所にマッチの棒を押し当てました。私の秘所は血まみれになりました。

一緒にいた一人の朝鮮の少女が、どうして一日に40人もの大勢の相手をしなければならないのかを尋ねたことがあります。質問したことを罰するため、日本の 中隊長ヤマモトはこの少女を剣で打つように命じました。私たちが見ていると、

彼らは少女の衣類をはぎとり、手足を縛り、釘の出た板のうえを、釘が血と肉片 で覆われるまで転がしました。

最後に、彼らは彼女の首を切りました。別の日本人ヤマモトは、

「お前たちみんなを殺すのは簡単だ。犬を殺すよりもっと簡単 だ」

と語りました。彼はまた

「こいつら朝鮮人少女は食べ物がないといって泣いているから、この人肉を煮て食べさせてやれ」

とも言いました。


ある朝鮮人少女は、頻繁に強姦されたため性病にかかり、そのために50人以上の日本兵が病気にかかりました。病気の蔓延を防ぎその朝鮮人少女を「無菌化」 するため、彼らは焼けた鉄棒を彼女の秘所に突き刺しました。

あるとき彼らは私たちのうち40人を、トラックに乗せて遠くの水たまりに連れて行きました。水 たまりは水と蛇でいっぱいでした。兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました。

○「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と刀を下げた兵隊が聞いた。その時に手を上げなかった一五人の女性は、他の女性への見せしめとして殺された。その方法は、裸にした女性たちの頭と足を兵隊たちがつかみ、一面に釘を打った板の上をゴロゴロと転がしたのだ。噴水のように血が噴きだし、釘には肉片がこびりついた。

○鄭さんたちが泣いているのを見た中隊長は、「慰安婦たちは肉を食っていないので、肉が食いたくて泣いているんだ」と言った。兵隊たちは、殺した頭を釜で煮始めた。そして、鄭さんたちを木刀で叩いて、無理やりその汁を飲ませた

○オ・チョンヘという女性が、将校によって子宮に鉄の棒を押し込まれて殺された

○オ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた

○鄭さんの口にゴムホースが押し込まれ、水が注がれた。膨れ上がったお腹の上に板が乗せられ、兵隊がシーソーのように踏みつけた

○鄭さんたちは、足首を縄で縛られて逆さに吊り下げられた。兵隊は、針がたくさんついた拳大の黒い塊を持って来てそれに墨をつけた。そして、鄭さんや他の女性たちの口をこじ開けて強く押し込んだのである。鄭さんの前歯は折れ、激しい痛みで再び気を失った

○口だけでなく全身に刺青がおこなわれた。兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きをしたのだ

○兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました


守備隊の兵営にいた少女たちの半分以上が殺されたと思います。二度逃亡を企てましたが、いつも数日で捕まってしまいました。私たちはいっそうひどく拷問を うけ、私はあまりに多く頭を殴られたので、どの傷もまだ残っています。

彼らはまた私の唇の内側や胸、腹、体に入れ墨をしました。私は気絶しました。気が付いてみると、私は恐らく死体として捨てられて山の蔭にいました。私といっしょにいた二人の少女のうち、私とク・ハエ(KuHae)が生き残りました。山の なかに住んでいた50歳の男が私たちを見つけ、衣服と食べるもの多くれました。彼はまた朝鮮に帰るのも助けてくれました。私は、日本人のための性奴隷とし て5年間使役されたのち、18歳のときに、傷つき子を産めない体で、言葉を話すのも難かしいありさまで帰国しました」。
http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/51/


ファン・ソギョン(HwanSoGyun)


77歳のファン・ソギョン(HwanSoGyun)の証言は、大勢の娘たちを軍事的性奴隷に誘い込んだ詐欺的方法による徴集方法の証拠となる。

「私は、1918年11月28日に日雇い労働者の次女として生まれました。私どもは平壌市カンドン区のタエリ労働者街に住んでいました。17歳のとき、1936年のことですが、部落の長がやってきて私に工場の仕事を世話すると約束しました。私の家はたいへん貧しかったので、私は喜んでその 収入の良い仕事を引き受けました。私は日本のトラックで、すでに20人ほどの朝鮮の娘たちが待っている停車場に連れていかれました。私たちは汽車と、その 次にはトラックに乗せられ、数日間の旅ののち中国の牡丹江のほとりにある大きな家につきました。私はそれが工場だと思いましたが、工場などないことが分か りました。少女たちは、わらの布団があり、ドアに番号がついている部屋を、一人に一室ずつ割り当てられました。

何が身に降りかかるかも知らず二日間待った後、軍服をきて帯剣した日本兵が一人私の部屋にやってきました。彼は「自分の言うことを聞くかどうか」と尋ね、 私の髪の毛をつかんで床のうえに倒し、足を開くようにいいました。彼は私を強姦しました。彼が離れたとき、私は外で20人か30人の男たちが待っているの を見ました。全員がその日私を強姦しました。それ以来、私は毎晩15人か20人の男たちに襲われました。

私たちは定期的に医学的検査を受けなければなりませんでした。病気にかかっているとわかると、殺されてどこか分からない所に埋められました。

ある日、新し い娘が私の隣の部屋に入れられました。彼女は男たちに抵抗を試み、そのうちの一人の腕に噛み付きました。

そのあと彼女は中庭にひきだされ、我々全部の見て いる前で刀で首を切り落とされ、体を切り刻まれました」。

ァン・ソギュン(HwangSoGyun)は、性奴隷として7年間日本兵の相手をさせられた後、1943年に「慰安所」から逃げることができた。その後39歳のとき結婚することができたが、家のものに過去を語ったことはなかった。心理的肉体的な傷と婦人科的問題のため、子供をもつ ことはできなかった。
http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html


ファン・クムジュ(HwanKumJu)


現在73歳で、韓国永登浦区のドンチョン洞に住んでいるファン・クムジュ(HwanKumJu)の証言は、陸軍が慰安所を運営した際の規則類を例示している。


「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだ と思いました。3年も働いたころ、ある日一人の日本兵が自分のテントについてこいと要求しました。

かれは着物を脱げと私にいいました。たいへん怖かったの で抵抗しました。私はまだ処女でした。しかし彼は銃剣の付いている銃で私のスカートを引き裂き、下着を体から切り離しました。そのときに私は気を失いまし た。そしてふたたび気が付いたときには毛布を掛けられていましたが、あたり一面に血が付いていました。

そのときから最初の1年間は、いっしょにいた全ての朝鮮の少女たちと同様に高級将校の相手をするように命令されましたが、時がたち私たちがますます「使役」されるのにしたがい、私たちはもっと下級の将校の相手をするようになりました。もし誰かが病気になれば、その人は消えてしまうのが普通でした。また私 たちは「606号注射」を与えられましたが、それは妊娠しないようにするためや、妊娠したときにいつも流産するようにするためでした。

衣類は一年に2回しか与えられず、食べ物も足りず、餅と水だけでした。私たちの「サーヴィス」には、支払いはありませんでした。私は5年間「慰安婦」とし て使われましたが、そのことで一生苦しめられてきました。私の内臓は何度も病におかされるたび、手術で取り除かれており、苦痛と恥にみちた経験のために、 性交渉を持つことはできません。私はミルクや果汁を吐き気を催さずには飲むことができません。彼らが私に押し付けた汚らしい事柄をあまりにもたくさん思い 出させるからです」。

ファン・クムジュ(HwangkumJu)が特別報告者に語ったところでは、中国の吉林省の慰安所での最初の日に、日本兵からこ こには従わなければならない五つの命令があり、従うか死ぬかだといわれたという。

第一、天皇の命令。
第二、日本政府の命令。
第三、彼女が所属している陸軍 中隊。
第四、中隊のなかの分隊。
そして最後に彼女が自分に仕えているテントの持ち主としての彼の命令。
http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html

キム・ボクスン (KimBokSun)

また別の生存者、韓国のキム・ボクスン (KimBokSun)は、性奴隷としての自分の生活は、軍により直接に統制されていたと証言した。

毎日午後3時から9時は下士官の相手をしなければならず、

午後9時以後の夜は将校のためにとっておかれた。

また大部分の兵隊たちはその使用を拒否したが、全ての女性は兵隊たちを性病から守るため、コンドームを支給された。
http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html


朴永心(パク・ヨンシム)

朴永心の証言

『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0206-8.html


−−どのようにして日本軍「慰安婦」として連行されたのですか。


朴証人:私は四人兄弟の三番目です。上に兄が二人、下に妹が一人いました。幼い頃母を亡くし継母に育てられました。家はとても貧乏でした。一四歳のとき南浦に行き洋服店の女中として働きました。

 一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。

−−「慰安婦」として連れ回された経路について。

朴証人:はじめ、ほかの娘と一緒に平壌に連れて行かれました。二二歳の女性でした。車に乗せられしばらく走り続けました。数日後着いてみると見たこともない所でした。最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ楼」に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。

 たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでしたが二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。

 私たちは南京で汽車に乗りました。上海に行きました。船に乗り換えシンガポール経由でビルマのラングーンに着きました。ラングーンからラシオにある「イッカク楼」へ行きました。慰安所の名前です。そこでまた性奴隷の生活をすることになりました。慰安所の〔経営者が私に名前を付けました。若春という日本名でした。ラシオには二年ほどいました。私がその時相手をしていた二名は今でも名前を憶えています。オオタミノルという将校とタニという軍曹です。

 一九四三年〔正しくは四四年〕春だったと思います。日本軍は私たちを再び車に乗せビルマと中国の境にある拉孟(ラモウ)へ連れてゆきました。日本軍はそこを松山と呼んでいました(中国側の呼称が松山)。その時から連合軍の捕虜になるまでそこにいました。日本軍の性のなぐさみものとしてだけ生かされました。

 松山に来て間もなく猛攻撃が始まりました。連合軍の爆撃でした。私たちがそこで相手をさせられたのは日本軍第五六師団でした。主に歩兵と戦車兵の相手をさせられました。毎日数十名の日本軍から性行為を強いられました。その合間を縫っては握り飯を作り、爆撃の中を運びました。日本軍の戦闘壕へ運んで行ったのです。そこには初め一二名の朝鮮女性が連れられて来ましたが、八名が爆撃で死に私たち四名が残りました。

−−その後、生き残った「慰安婦」たちはどうなったのですか。

朴証人:私たちは……日本軍が日本国民を乗せるということを[……]。日本が敗れたのです。日本軍は、戦争に敗れると何の知らせもなく自分たちだけで逃げました。私たち朝鮮女性四名は、怖くなって防空壕に隠れましたが、中国軍にみつかりました。それで外へ出ましたが、私たちを取り調べたのは米軍将校でした。米将校があれこれと質問しました。

−−ここに一九四四年九月三日、米軍が朝鮮人「慰安婦」を捕虜にしたという写真があります。ここにあなたはいますか。

朴証人:これが私です。この服装で裸足で、……髪も編み下げ〔おかっぱのことと思われる〕にして、確かに私です。連合軍の捕虜になった時、妊娠していました。

−−捕虜になった後どうなりましたか。

朴証人:トラックに載せられ昆明の収容所へ行きました。収容所で捕虜として扱われました。そこには日本軍捕虜がいました。収容所にいってから、おなかがカチカチに張ってきてとうとう出血しました。収容所内の病院に入院しました。中国人医師が注射をし手術しました。妊娠した後も日本軍に絶えず性行為を強いられたのが原因だったと思います。胎児が死んだのです。

 収容所には一年ほどいたと記憶しています。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/11001201/p2

李桂月(イ・ゲウォル)


1922.9.6、黄海南道碧城郡に生まれる。5歳の時、父の死亡と共に家を追い出され、2年間乞食生活を送る。8歳の時、面(※地方行政の最下級機関)の書記の家に子守りに入り、13歳の時、書記に旅館の下働きに売り渡される。15歳になった年、村の区長に「よい仕事を斡旋する」と言われ、ハルピン近くにある日本軍の慰安所に連れて行かれる。1939年、日本軍の将校に酒を飲ませて酔わせ、隙をみて逃亡した。


十五歳になった年の3月頃のことです。ある日、村の区長が訪ねて来て旅館の主人に何か話し、私を呼んで「ここで苦労をしなくてもいいように仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言いました。私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。十五歳といっても私は背が低く、体も弱かったので、私は区長にひっぱられるままでした。

 駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前の男でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。貨車の中にはすでに二人の娘が乗せられていましたが、二人は私より年下の十四歳と十三歳の少女でした。

 翌日、中国のハルビンに着いて、私たちは汽車から降ろされました。〜(中略)〜着いた所は民家一つない日本軍の駐屯地でした。「タナカ」は私たちを駐屯地の建物に監禁したのです。

私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。〜(中略)〜駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。〜(中略)〜日本兵は私たちが逃げるのを恐れて貨車に鍵を掛けたので、私たちは外に出ることができませんでした。


 ○私は部屋に入って来た将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、〜(中略)〜将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は気を失ってしまいました。

 ○「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。

 ○日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「100人でも200人でも入って来るだけ奉仕しろ」と命令しました。

 ○日本兵は妊娠している女は不必要だと言って軍刀で彼女の腹を切り裂きました。

 ○ある日、日本兵は泣き出すイ・プニの頭を石にぶっつけて殺してしまいました。

 ○五人の女性が逃亡して捕まえられたことがありましたが、日本兵は見せしめのつもりで「慰安婦」たちを全員集合させ、彼女たちを裸にして縛って井戸の中に投げ込んで殺しました。

 ○私は夢中で葦原を抜け出し、どこともわからないまま川辺を走っていきました。すると、川辺で釣りをしている朝鮮人が目に入り、私は彼に助けを求めたのです
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/

郭金女(カク・クムニョ)


1923.1.8(注)、忠清南道天安郡(チョナングン)生まれ。生活は苦しく、14歳の時、日本人の家の子守りをし、16歳の時、日本人が経営する製紙工場で女工として働く。1939年10月頃、工場経営者が「ソウルの食品工場で働くことになった」と言って日本人に引渡した。中国牡丹江穆稜(ソ連国境地帯)にある慰安所に入れられる。2年後、警備の歩哨の隙を見て慰安所から逃げ出す。


私の故郷は、南朝鮮の忠清南道天安です。兄が一人、姉二人に妹一人の五人兄弟でした。私が八歳の時に父は亡くなり、母が地主の家で働きました。炊事をしたり、衣類を縫ったりという仕事です。もちろん、子供たちは学校には行けませんでした。

 私は全羅南道順天の日本人の家で子守りとして働いた後、一六歳の時に全羅南道光州の製糸工場へ働きに行きました。ここは日本人の経営でした。カイコから糸を取るのが仕事で、お腹が空いている時にマユの中のサナギを食べたこともあります。

 ここで一年間働いた時、呼ばれて事務所に行くと刑事らしい日本人の男がいました。私が刑事だと思っている理由は、後に列車の中で拳銃を持っているのを見たからです。

 「パンや飴を作る『京城』(現在のソウル)の食料工場で働くと、お腹がいっぱりになるので行くように」と言われたんです。私を含めた娘たちの名簿が、会社から刑事に渡されました。

 ソウルまで汽車で行き、旅館に泊まりました。その翌日になると、「牡丹江に行こう」と刑事が言い出したんです。「なぜ中国に行くのか?私は行かない!」と抗議したところ、「朝鮮は植民地なので、どっちみちお前たちは死ぬのだ!」と言われ、列車に無理やり乗せられました。

 そして翌々日の朝、牡丹江に着きました。駅の待合室に二〇分ほどいると、幌のついた車のトラックがやってきました。降りてきた憲兵に、「長谷川さん、二〇人連れて来ました」と刑事は言っていました。そのトラックに乗せられ、「満州」(中国東北地方)とソ連の国境地帯にある穆稜という所に着きました。

 私たちは、憲兵隊が駐屯している三階建ての建物に連れて行かれ、畳の部屋に入れられて鍵をかけられました。出されたご飯も食べず、その夜はみんなで泣いていたんです。

 翌日、医者と看護婦が私たちを診察しました。今考えれば、病気を兵隊にうつさないためです。連れて来られた女性の一人は、顔がまっ黄色でした。そのため地下室に入れられてしまい、後に亡くなりました。

 大きな建物の中は仕切られていて、一〜二〇番までの部屋があり、私は「一番」の部屋をあてがわれました。中はタタミ二畳ほどの二人がようやく横になれるくらいの広さでした。大切な髪を短く切られ、来ていたチマ・チョゴリを浴衣に着替えさせられたんです。このチマ・チョゴリは母が作ってくれたものなので、くやしくて泣きました。日本人に「レイコ」という名前をつけられました。

 部屋にいると、憲兵の将校が入ってきました。彼は刀を壁に立てかけてから服を脱ぎ、私にのしかかりました。その当時の私は何も知らない娘でしたから、その日本兵を虎よりも恐ろしく思いました。私は泣き叫んで、将校の手を噛みました。すると血を流した将校は、麻酔の注射を私にしました。一分も経たずに気を失った私は、将校に犯されたんです。〜(中略)〜

 一日に二〇〜三〇人もの相手をさせられました。抵抗した私に、「子宮を取ってしまうぞ!」と言って小さなナイフで切りつけてきた将校もいました。刀で刺された太股の傷痕は今も残っています。むこうずねは刀でえぐり取られました。私の体は刀傷だらけです。

 「言うことは聞かない」と言って、兵隊が私の腕をねじり上げたことがあります。骨折して腕が動かなくなってしまい、二ヵ月間ぐらいギブスをして生活しました。髪をつかんで引きずられたこともありました。痛いというよりは悔しい思いだけでした。

 こうしたことをされたのは、私だけではありません。私と一緒に連行された李春心という娘がいました。日本兵は彼女を犯そうとしましたが、彼女は泣き叫びながら激しく反抗しました。

すると将校は、彼女の乳首を歯で噛み切ってしまったんです。そこから血が吹き出し、彼女は気絶しました。彼女はその傷で破傷風にかかり、死んでしまったんです。子宮を蹴られて、二日後に死んだ女性もいます。


 「言うことを聞かないと地下室へ入れるぞ!」

と日本兵は言い、私たちをそこへ連れて行きました。その地下室には、ここで殺された娘たちの死体が捨てられていました。腐った匂いが充満し、少しでもそれを嗅げば頭が痛くなるほどひどい所でした。

 逃げようとして捕まった女性がいました。私たちが見ている前で日本兵は、皮のベルトで彼女を叩いたんです。「私たちは逃げないから、その女性をこれ以上叩かないで!」と頼みました。ですが、その女性は一週間後に亡くなり、その地下室へ捨てられたんです。このようにして殺された女性は一〇人ほどになります。


 ○みな処女であり、初めてのことだから恥ずかしくて検診を拒んだのですが、軍医は「言うとおりにしなければ殺す」と脅しました。

 ○私は必死で抵抗したため、日本兵は怒って私を殴ったり蹴ったりしました。そして「子宮を切り取ってやる」と言い、刀で切りつけました。私は血だらけになって気を失ってしまいました。

 ○私と同じ工場からひっぱられて来た「エイコ」と呼ばれていた金徳女(キムトンニョ)は、乳首を噛み切られ、破傷風になって死んでしまいました。

 ○慰安所の建物には地下室がありましたが、日本軍人は死んだ「慰安婦」を山に葬るのではなく、地下室に投げ込んでおいたのです。そして、軍人に反抗したり、逃亡しようとする女性たちを、その地下室に閉じ込めました。


 「これでは自分も殺される」と思った私は逃げる決意をしました。一一月頃のある日曜日。歩哨が居眠りをしている隙に、小さな門から一人で逃げ出したんです。朝の四時でした。

 八キロメートルほど行った所に「朝鮮病院」と書かれた建物がありました。私は朝鮮語の文字を少しは知っていました。それは朝鮮人が経営する個人病院でした。「助けてください。私は『慰安婦』にされていました」と言うと、医者の妻がごはんを炊き始めたんです。「食事どころではない」と思った私は食べずにいました。すると、「何とか匿ってあげるので、この病院にいなさい」と言ってくれたんです。金という名の医者は咸鏡南道出身で、三五歳くらいでした。
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金英淑(キム・ヨンスク)


1927.1.24、平安北道秦川郡(テチョングン)生まれ。10歳の時、地主の妾の家で奉公をする。1940年、13歳の時、日本人の巡査に「お金が稼げる仕事がある」とだまされ、中国の瀋陽にある憲兵隊専用の慰安所に入れられる。五年間後の1945年3月頃、慰安所を脱出してモンゴルに逃れる。


今は平安南道温泉郡で暮らす金英淑さんは、平安北道泰川郡で生まれた。あまりにも生活は貧しく、母親は家族を捨てて逃げ出した。父親は日本人が経営する金鉱山で働いていたが、日本人の現場監督からひどい暴行を受けて死亡。金さんと弟の二人が残された。その時一〇歳だった金さんは、地主の三番目の妾の家で働くことになった。「水瓶を割ってしまった時など激しい叱責を受けました。夜明けから夜空に星が輝くまで私の涙は乾くことがなかったんです」。

 こうした苦しい生活を続けていた時に、心ひかれる話がきた。

 「一三歳の時、やって来た日本人の巡査に

『ここでそんな苦労をせず、お金の稼げる所へ行こう。おいしい物を食べ、きれいな服も着られるよ』

と言われたんです。

 この巡査に連れて行かれたのは瀋陽です。そこには日本兵がいっぱいいて、巡査は私を『ナカムラ』という名の将校に引き渡しました。私はだまされたんです」

 「慰安所」が谷間に建っていて、高さ五メートルほどの塀で囲われていた。建物は木造平屋で、三〇ほどの部屋が通路の両側に並んでいるという構造だった。途切れることなく金さんの話は続く。

 「その日の夜に私の部屋へやって来た『ナカムラ』は、私を押し倒して覆いかぶさってきました。だけど私が若すぎて欲望を満たせなかったため、私の性器をナイフで切り開いたんです。私は気を失いました」。

「 将校に殺されそうになったこともある。「カネムラ」という将校に従わなかった金さんは、

「言うことを聞かないと肝を取り出して食べるぞ」

と脅された。その言葉にひるまず将校を力一杯に突き飛ばしたところ、日本刀で胸を切りつけられたのだ。「傷を見てください!」と金さんは私に言うやいなや、チマチョゴリを脱いで上半身裸になった。

 胸から腹にかけて、縦に二〇センチほどの鮮明な傷痕がある。かなり深い傷だったようだ。金さんは、全身に残る他の傷も次々と説明する。肩と尻には短刀で突き刺されたいくつもの傷痕、右足の膝には兵隊に軍靴で何度も蹴られて骨が折れた痕が残っている。

 「一日に二〇〜三〇人の兵隊の相手をさせられました。妊娠したために腹を切り裂かれたり、軍犬にかまれたりして、ここの女性たちが次々と殺されて行くようすを見ました」

と金さんは叫ぶように語った。〜(中略)〜


 ○彼の性欲を満たすためには私はあまりに幼かったのです。しばらくしてそれに気がついた「ナカムラ」は刀を取り出し、私の陰部に刀を差し込みました。その瞬間、私は「ぎゃあ!」と悲鳴を上げて気を失ってしまいました。

 ○するとその軍人はかんかんに怒り、私の髪を掴んで部屋の床に打ちつけ、靴で全身を蹴り、私の足を踏みつけました。全身にあざができて、私は気を失ってしまいました。そのとき、奴の乱暴で足の骨が折れたのですが、まともな治療も受けられなかったため元に戻らず、結局、障害者になってしまいました。

 ○日本兵は、私が反抗すると「朝鮮人のくせに帝国の将校を冒涜するのか」とどなり、「日本軍人を慰安できない者は殺してもいい。私の言うことを聞かないとおまえの肝を取り出して食べてしまうぞ」と脅かしました。

 ○野蛮な日本軍人は「慰安婦」たちが苦しむ姿を見て快楽を覚えたのか、「慰安婦」たちを裸にしては刀で刺したり、噛みついたり、火のついたたばこを押し付けるなど、さまざまな残虐なことをしました。

 ○日本兵は「慰安婦」が妊娠すると、容赦なく殺しました。そのような女性の中に、ボンニョという女性がいました。

ある日、日本兵は「慰安婦」たちをみな庭に集合させ、みんなの見ている前でボンニョを木に吊るし、軍刀で彼女の腹を切り裂いたのです。そして、出てきた腸や胎児をめった切りにして、私たちの首に掛けたのです。

 ○そうして、五年の年月が過ぎました。非人間的な虐待や病魔、栄養失調のため、初めの頃は二〇人余りいた「慰安婦」は、五年のあいだに大勢亡くなり、残ったのは数人だけでした。


 この「慰安所」には、金さんが連行されて行った時には二五人の女性がいた。その中には中国人と白人が一人ずついて、他は朝鮮人だった。その鼻が高い白人とは言葉が通じなかった。この場所が中国東北地方ということを考えるとロシア人だろう。

 部隊の中には何人からの朝鮮人軍属がいた。一九四五年三月、金さんはその中の金・サングクさんと死を覚悟してここを脱出。その時点で、「慰安所」で生き残っていた女性はわずか五人だった。
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/


http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/587.html#c75

[雑談専用39] 韓国人が絶対に歴史から消し去りたい真実 木卯正一
76. 中川隆[7203] koaQ7Jey 2017年3月19日 21:05:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7674]

アメリカ合衆国の歴史教科書『Tradition & Encounters:A Global Perspective on the Past』では、

最大で30万人もの14-20歳の女性たちを
強制的に徴集して性行為を強要したとしている。

さらに、「日本軍は慰安婦たちを天皇の贈り物と言いながら兵士などに提供した。
慰安婦たちは韓国と台湾、満洲、フィリピンなど東南アジア各国から連れてこられ、80%が韓国出身であった。

逃げようとしたり性病にかかると日本兵などによって殺され、戦争が終わるころには兵士などが隠蔽するために慰安婦たちを大挙虐殺した。」などとしている。

この歴史教科書は2003年より数千校で100万人以上の学生に使用されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/587.html#c76

[雑談専用39] 韓国人が絶対に歴史から消し去りたい真実 木卯正一
77. 中川隆[7204] koaQ7Jey 2017年3月19日 21:09:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7675]

わたしを犯さず、やさしくしてくれた特攻隊員が一人いた。

彼はわたしに何度もいった。

『ぼくは死ななくちゃならない。しかし、あなたは生きなければならない』


 元「従軍慰安婦」、イ・ヨンスさんが証言 ルモンド東京支局長、フィリップ・ポンス氏が取材し報道 


 フランスのルモンド紙の東京支局長で、日本の歴史文化に明るいフィリップ・ポンス記者が3月5日、先にワシントンの連邦議会下院小委で証言したイ・ヨンス(李容洙)さん(78歳)と都内の韓国レストランで会い、彼女の話を聞いて記事にした。

 ポンス記者はこう書いている。
 
 「現在の韓国南東部、大邸に近くで生まれたイさん(マダム・イ)が14歳のときだった。

『1944年の秋のある朝のことです。寝ていると、わたしを呼ぶ女の声がします。出て行きました。日本兵がひとりいて、わたしを捕まえ、力ずくでわたしを連行したのです』。

汽車は彼女をピョンヤンから中国の大連へと運んだ。大連で彼女は台湾行きの船に乗せられ、自殺パイロット(カミカゼ)の基地の軍用売春宿に配備された」

 台湾の特攻機地の慰安所での体験を、イさんはポンス記者にこう語っている。

 「(慰安所になった)船上で、わたしたち5人は300人の兵にあてがわれました。年上のお姉さんがわたしを隠してくれました。その基地で、わたしは殴られ、犯され、死ぬまで放置されました。わたしの手は針金で縛れていました」

 そんな地獄の日々のなかで、イさんはひとりの特攻隊員(パイロット)に会った。

 「ひとりのパイロットがわたしにやさしくしてくれました。彼はわたしに何度も言いました。『ぼくは死ななくちゃならない。しかし、あなたは生きねばならない』と。その人だけが、わたしを犯しませんでした」

 イさんの証言は続く。

 「何ヶ月かが過ぎていきました。わたしがあてがわれた小さな船室には毎日、10人の兵士がやって来ました。船室には寝床と布団と消毒液がありました。

最後の任務(自殺攻撃)に出て行った彼らは、(わたしの部屋に)長居していました。(特攻隊員の)彼らもまた犠牲者だったのです」


 そして、ついに光復の日が……。

 「ある朝、日本兵が突然、いなくなりました。街の方から中国語の叫び声が湧き上がりました。『戦争は終わった』と」
http://www.asyura2.com/07/senkyo31/msg/992.html

http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/587.html#c77

[雑談専用39] 韓国人が絶対に歴史から消し去りたい真実 木卯正一
78. 中川隆[7205] koaQ7Jey 2017年3月19日 21:32:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7676]

日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 10


天皇家の教育を任されていた福沢諭吉一派は朝鮮人を人間だと思っていなかった:

福沢諭吉の実像は、日本の民主化への貢献というよりは、軍国主義を煽ったことの方にありました。


「時事小言」の社説で、


「印度・支那の御(ぎょ)し方を英人に見習うのみならず、その英人をも苦しめて、東洋の権柄を我が一手に握るべし」


とか


「滅亡こそ朝鮮人民の幸福」


などという非常識で勇ましい文章を書きなぐっていました。(このことは安川寿之輔氏の研究に詳しく書いてあります。)


この福沢の実態の見落としは、単なる軽率と済ませられるものではなく、丸山思想の根本的欠陥と見るべきと考えます。


福沢諭吉が日本の侵略主義を煽ったのは、自分の国は自分で守る気概を持った国民を作ること、つまり国民国家を作るためでした。こういう「国民」を作り出すためには、民族の一員としての平等感と国政への参加意識を持たせる必要がある、と考えました。

これが人民主権(民主主義)の思想の役割でした。

福沢にとって独立日本国を作ることが第一義で、民主化はそのための方便という二義的な意味しか持っていませんでした。


ところが丸山は「国民国家を作るための民主主義」という思想構造を理解できなかったために、福沢の民主主義の部分だけしか見えず、一方では福沢が重視した侵略思想の方を見落としたものです。


しかしながら福沢のこの思想は、福沢の性格のゆがみとか間違いというような個人的なものではなくて、明治期の時代の空気であったことに留意する必要があります。


この侵略思想は、自由民権運動の中にも顕著に現れていることは、板垣退助、大井憲太郎などの過激な侵略思想を見れば明らかです。福沢や民権派の運動の効果もあって、この思想が順次政府によって実行されて、挙句の果てに昭和の戦争を招いたものであり、長い眼で見れば、彼らは昭和軍国主義の先駆者ということが出来ます。


しかし福沢や民権派の人々が、この日本近代の侵略主義を作りだしたと言ってしまっては、彼らの力の過大評価になります。

彼等はこういう日本の近代化の時代の空気を代表して表現しているに過ぎません。

問題は日本の近代化という大きな流れの方にあるといえます。

この時代の空気を丸山は分析的に見ることが出来なかったのですから、思想家としては失格だったと言えます。

結論として、丸山は近代化の持つ暗黒面に気がつかなかったという意味で、「近代と言うものが理解できなかった近代主義者」だった、と言えます。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-79b8.html


岩上「続いて、福沢による他民族差別の言説を見て行きたいと思います。清国に対して、『チャンチャン』『豚尾』『豚尾児』『豚屋』『孑孑』などと、ヘイトスピーチの限りを尽くしています」

杉田氏「当時の辮髪を差して、『豚』と呼んでいるわけですね」

杉田氏「福沢の場合、こうした言葉が、漫言だけでなく、新聞の社説や著書にも出てきます。『豚尾の兵隊』『豚尾児』『豚尾奴』『豚尾兵と名づくる一種の悪獣』といった表現が出てきます」

岩上「他にも、中国人に対するヘイトスピーチはたくさんあります。『流民乞食』『彼(=支那)の国民の骨に徹したる淫欲の余毒』『半死の病人…豚狩り』などなど」

杉田氏「福沢は他の所で『こんなこと言ってはいかん』と、なんの反省もなく自己合理化しています」

岩上「朝鮮人に対するヘイトスピーチもたくさんありますね。『儒教主義に飽満して腐敗を致したる』『上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群衆』など」

杉田氏「朝鮮人に対しては、一貫して『腐儒』という言葉を使いますね。福沢の底流には儒教主義があるのですが」

岩上「こういう言説を見ていると、明治の時代精神とはこんなものなのか、と暗澹たる気持になります。


杉田氏「福沢が朝鮮や中国、台湾に対してどのような態度を取ってきたか、見ていきたいと思います。金玉均らが起こした甲申政変に、福沢が関与しています。しかし福沢はその後、この事実を執拗に隠すんですね。しかし、福沢が援助した事実が残っています」

岩上「金玉均や朴泳孝による甲申政変に関して、『自ら進んで役者を選び、役者を教え、また道具立其他万端を差図せられた事実がある』という文言が残っているわけですね。他国の政変を工作するなんて、とんでもないことです」

杉田氏「武器まで提供しています」

杉田氏「金玉均は、日本に来て福沢に対し『誠に申し訳ありません』と謝っています。福沢の期待通りに事を運べなかったことに対し、謝罪しているわけです。このことからも、どれだけ福沢が甲申政変に深く関与していたか、分かるかと思います」

杉田氏「甲申政変の段階で、井上馨による外交交渉が行われているなか、福沢諭吉は『我政府に於ても、止むを得ず曲直を兵力に訴るの外なかる可し』と、戦争を仕掛けろ、と鼓吹しています。日本人が殺されたことの弁償をしろ、という理屈です」

杉田氏「自分で仕掛けておきながら、支那と朝鮮が加害者だ、と福沢は言います。さらに、『御親征の挙、断じて行う可きなり』と言います。天皇が自ら乗り込んで戦争しろ、ということですね」

杉田氏「有名な『脱亜論』はこの時期に書かれます。この論説で明瞭なのは、列強によるアジアの分割に加わるべきだ、ということです。アジアの土地を奪え、遠慮はいらない、といった調子ですね」

岩上「次が台湾です。台湾に対してはよりあからさまです。『一人も残さず殲滅して』などということを書いています」

杉田氏「台湾で次から次に抵抗運動が起こります。そのたびごとに、台湾人を殺戮するよう煽る文章を発表しています」

杉田氏「時事新報に『雑報』という欄があります。この中に、『自分が見切れないで、とんでもないものが出てしまった』と書いています。しかし、台湾人の殺戮を煽っているような文章は、社論として書いています。平山洋さんが言うように、弟子が書いたものではない」

視聴者からの質問「福沢諭吉は病んでいるとしか思えない」

杉田氏「福沢としては、貧知者が生まれないように、かなり自覚的に差別を行っているのだと思います。それは、アジアに対しての視線でも共通しています」

岩上「最後に、日清戦争後に日本が膠州湾を租借した後の福沢の言動を見ていきたいと思います」

杉田氏「支那人の支配には日本人が最適だ、ということを言います。日清戦争の時にいかに日本が手際よく清国を倒したか、ということを強調しています」

岩上「今日の安倍政権が、改憲の動きや戦争法案の制定に動き出しています。さらに、安倍総理は『ポツダム宣言』は読んでいない、と」

杉田氏「これは、表立って否定する段階ではまだない、ということだと思います。すぐ、次の段階がくるでしょう」

杉田氏「集団的自衛権も含めて、かつての自民党ができなかったことを次々とやれるようになってきています。『ポツダム宣言を読んだことがない』というのも、かなり意識的に言っているのだと思います」
http://sun.ap.teacup.com/souun/17437.html


福沢諭吉は朝鮮や台湾の人びとのことをどう述べているか:


「朝鮮……野蛮国にして、……我属国と為るも……」、

「台湾蛮人……は禽獣……人の二人や三人を喰い殺すは通常……

朝鮮人は唯頑固の固まり」(本書121頁)


朝鮮は、野蛮な国であり、朝鮮人はただ頑固なだけであり、台湾人も野蛮で獣と同じなのだから、日本人が支配してあげるのが正しいことなのだ、という理屈であろうか。


「チャンチャン……皆殺しにするは造作もなきこと」……

「朝鮮……人民は牛馬豚犬に異ならず。」……

「土人を銃殺……狐と思ふて打殺したり」

「島民が反抗……一人も余さず誅戮(ちゅうりく)して醜類を殲(つく)す可し。」……

「支那兵……恰も半死の病人……之と戦う……豚狩の積りにて」

(本書160−161頁)


なんという人種差別か。 このような読むに耐えないようなアジア蔑視を披露している。……甲申政変の際にさえ


「京城の支那兵を鏖(みなごろし)に」


と発言した諭吉は、……日清戦争では中国兵や台湾住民の「皆殺し」「殲滅」「誅戮」をくり返し呼号するようになる。したがって、日本の兵士が平然と「殲滅」作戦を担えるようにするためには、中国人・兵は「チャンチャン」「孑孑(ぼうふら)」「豚犬」「乞食」「烏合の草賊」の類であると教え、殲滅への抵抗感・抵抗意識を解除するマインド・コントロールを用意することも必要であった。(159頁)


中国人は人間以下の動物だから、皆殺しにしてしまえ、というのだ。


なんという怖ろしい「啓蒙思想家」だろう。戦争にあたって、相手国の人間を、人間以下に描き出すことは、侵略する側のひとびとが決まって行なってきたことである。かつてアメリカも、日本と戦争をするにあたって、日本人がいかに「人間以下」であるかをさまざまな方法でアメリカ国民に対して啓蒙した。

それにしても、これらの発言は、福沢に対するイメージを一変させるのではないか。


「目に付くものは分捕品の外なし。

何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚へて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替までも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ。

其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、凱陣の上は参謀本部に御払下を出願して一儲け……」


という私有物の強奪の勧めを書いた。さらに


「生擒(いけどり)」にした捕虜の「老将」軍を「浅草公園に持出して木戸を張り……木戸銭」をとり、

老将軍に「阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します」


という慰み物にして金儲けをする提案までした。」(163頁)


目についたものは、すべて分捕ってくるといい、などと言っている。 しかも、捕虜にした中国の老将軍を、浅草公園に連れてきて、見世物にしてしまおう、と言っている。 ここに見られるのは、「啓蒙思想家」としての姿ではなく、強盗・殺人を奨励する単なる「極悪人」の姿である。


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

こんな言葉で知られる福沢の思想は、決して日本の民主主義の立役者でも何でもなかった。


「天」に代わって日本「人の上に」天皇制と「帝室の藩屏(はんぺい)」としての華族制度をつくりだした福沢諭吉は、

その日本「人の下に」被差別部落民の存在する事実になんらこだわることなく、

『東洋政略論』で日本「人の下に」アジア諸国民を置き、

百篇をこす論稿で男性「の下に」女性をおく家父長制的女性論を体系化し、

金持ち「の下に」貧乏人を位置づけた教育論を構築した。


たとえば、「今の世」で「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」という考えに基づき、

“貧智者”の出現阻止のために官立大学を廃止して私学に改変することを主張したり、

学問・教育も一種の商品だから


金持ちが「子の為に上等の教育を買ひ」中等は中等の教育、貧民は下等の教育を購入する


という貧富に応じた複線型学校論を主張し、それを合理化するために、


豪農・豪商・旧藩士族の「良家の子弟(男子)は「先天遺伝の能力」をもつ


という遺伝絶対論も主張した。こうした貧民無視の罪滅ぼしに、


「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」


と言って、貧民を宥(なだ)め眠らせるために、自らは信じない宗教の振興論を百篇以上書いた。(235頁)


筆者は、福沢諭吉を、「近代日本のアジア侵略思想とアジア蔑視観形成の最大の立役者の一人」と結論づけている。福沢諭吉を1万円札の肖像に使うことは、どのような意味を持つのか。日本人が、いまだに、侵略戦争・植民地支配を真に反省していない証拠である。 福沢諭吉は、いまも、アジア蔑視の差別意識を、金銭の欲望とともに、日本全国に流通させている。
http://jiyuu-gennsou.at.webry.info/200804/article_14.html

福沢諭吉のアジア認識 安川 寿之輔


1.戦後福沢諭吉研究のいい加減さ−「民主主義の先駆者」の虚像


 1万円札の肖像、慶應義塾の創設者、『学問のすすめ』の著者、福沢諭吉は前向きのイメージで見られ、国民作家、司馬遼太郎の「明るい明治」の歴史観とも重ね合わせて、偉大な啓蒙思想家として教えられています。しかし、アジア諸国からは侵略主義者とみられ、たとえば台湾では「最も憎むべき民族の敵」と呼ばれているのも事実です。

実は、民主的啓蒙思想家のイメージは、丸山眞男ら戦後の民主主義を追求をした学者たちが、福沢諭吉全集から自説に都合のいいところを、福沢の文脈とは無関係に抜き出して作り上げた虚像なのです。

たとえば、丸山さんは福沢の天皇制論を「天皇は政治に関与してはならないと主張し、生涯それを貫いた」と述べましたが、


福沢は朝鮮の甲申政変の時は天皇の「御親征」を主張、

日清戦争の時は大本営を旅順に移し天皇の「海外出陣」さえ要求したのです。


天皇は「正宗の銘刀」であるから「深く鞘に収め」と言ったのは、抜きっぱなしでは効用がないから日常的には政治に関与すべきでないという意味でした。


また、『学問のすすめ』の

「一身独立して一国独立する」

は、

「個人の自由が確立しなければ国の独立はない」


と解釈されましたが、これは福沢研究史上最大の誤読です。


理想はそうだが、国の独立が最優先課題であるから民衆の自由の確立は「他日為す所あらん」、すぐにはできないと言ったのであり、やがて「自由民権運動」に出合うと「一身独立」は放り投げ、逆に封建的な制度を擁護する側に回ったのです。

さらに、福沢は無神論者でしたが、民衆に対する啓蒙を放棄するや、


「馬鹿と片輪に宗教、丁度良き取り合わせ」、


すなわち民衆の支配には宗教が有効だとして、「経世の要具」としての宗教の必要性を100編以上の論説で主張したのです。丸山さんは福沢を「原理原則がある哲学をもった思想家」と最大限に持ち上げましたが、上の例から福沢は原理原則に筋を通す思想家などではないことがわかります。


 なぜこのようないい加減な福沢研究が学問の名の下にまかり通ったのか。それは戦後の研究者たちが、民主主義の追求に目を奪われて、昨日まで続いていた日本の侵略戦争、植民地支配の責任を放置し、日本にも「明るい明治」期には福沢のような先駆者がいたのだと、福沢を民主主義のチャンピオンに仕立てたのです。戦後の学問のいいかげんさは戦争責任を忘却したことの結果であり、その罪は重いと言わねばなりません。

2.福沢諭吉の国際関係認識−侵略路線への逸脱


 福沢の幕末維新期の国際関係認識は「国家平等観」に立脚していたというのが定説ですが、これは丸山さんらが、福沢が建て前論として言った部分のみを取り上げて導いた結論です。

福沢は国際関係を「傍若無人」、「切り捨て御免」、「無情残酷」、「パワーイズライト」と認識していました。

また同じ時期の、「台湾出兵」について


「こんなにお祝いすべきことはない」、

「そもそも戦争は国の栄辱の関する所、国権の由て盛衰の致す所」


と述べ、「江華島事件」では


「小野蛮国」の朝鮮が「来朝し、我が属国になるも我の悦ぶに足らず」


と述べました。先行の研究者たちは、こういった不都合な記述を全く取り上げることなく「国家平等論者」だと結論したのです。


 福沢は国際帝国主義の時代状況を「弱肉強食」の関係だと認識すると、『文明論之概略』の中で、自国の独立確保を至上最優先の課題に設定し、『学問のすすめ』の中では


「一国独立」は「国の為には財を失うのみならず、一命を擲ても惜しむに足ら」ない「報国の大義」だ


と書きました。上述したように丸山さんらは「一身独立して一国独立する」を読み間違えたのです。

さらに国の独立確保を最優先するためには

「…、君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別のごとき…文明の方便」

であるから積極的に活用しなければならないと、日本の近代が封建的なさまざまなものを取り組んでいく道を提示したことも極めて重要です。


 中期以降、先進資本主義国が社会主義や労働運動に直面し、「狼狽して方向に迷う」という現実認識が加わると、「富国強兵」ではだめで「強兵富国」でなければならないと唱え、「軍備拡大」、「対外侵略」路線へと踏み出して行きました。そして歴史的現実主義という名の「清濁併呑」路線、すなわち


「世の中そんなに急に変わらないから、民衆があほなら民衆のあほに依拠してやっていく」、


また「権謀術数」的な「内危外競」路線へと傾斜していきました。何よりも見事なのは、天皇制を「愚民を籠絡する詐術」、馬鹿な国民をたぶらかす政治装置だ、と見抜いたことです。その一方で、軽率にも日本人は「完全な文明開化人」になったという宣言をし、「文明史観」の下での対外侵略の合理化を行い、同時代人から


「法螺を福沢、嘘を諭吉」


と非難されました。元外交官の吉岡弘毅からは、「我が日本をして強盗国に変ぜしめんと謀る」道のりは「不可救の災禍を将来に遺せん事必せり」と厳しくも適切な批判を受けたのです。

3.日清戦争と福沢諭吉


 この時期、朝鮮の背後には中国がいるという理由で、一気に北京攻略まで要求し、あまりに激烈な開戦論のために、『時事新報』の福沢の社説は2度検閲で削除され、さらに『時事』は発行停止処分まで受けました。

リベラルなイメージから良識派と考えられがちですが、実像は明治政府を戦争へと誘導、先導する立場だったのです。

 「日本は日清戦争を経ずに近代化の路線を歩むことはできなかったか?」というのは大変に重要なテーマです。実は、当時の権力中枢、山縣有朋や井上毀らは、直接朝鮮半島を支配する野望は持っていたけれども、国際関係等からいきなりは無理であろうから、暴力的にではあってもスイスのように「永世中立国」にすれば、朝鮮を中国の支配からは離脱させられるという考え方をもっていました。日清戦争開戦1ヶ月前の閣議まで、日本が選びうる3つの選択肢の中には「朝鮮の中立化」は存在していたのです。ところが


福沢は日中両国が違いに連携することなど「空想」だと切り捨て、終始一貫、対支強硬論と軍備拡大要求を続けていました。

明治政府よりも右よりで開戦へと誘導・先導する立場だったのです。

4.丸ごとのアジア蔑視と『暴虐のすすめ』


 福沢は侵略合理化のために「文明」という言葉を論説で乱舞させました。すなわち


他国の「国事を改革」したり「国務の実権」を握ることは内政干渉ではない、


「あいつらはばかだから、がつんとやらないとわからないのだ」


という厚顔無恥そのものの論理です。同時にアジアへの蔑視・侮蔑・マイナスの評価はこの時期から悪化の一途をたどりました。初期にもアジア蔑視観は出ていますが、たとえば中国の民族的英雄林則除を「アヘンを焼き捨てた、思慮のない短気者」と侮辱したように、個々の政策を批判するだけだったのです。ところがこの時期になると、中国は、朝鮮はと、丸ごと総体的に侮蔑する言葉を垂れ流すようになりました。


「朝鮮人…上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群衆」、

「朝鮮は国にして国に非ず」、

「朝鮮…人民は牛馬豚犬に異ならず」、

「朝鮮人 南洋の土人に譲らず」、


朝鮮人は豚や犬だというのです。


「支那兵…豚狩りのつもりにて」、

「チャンチャン…皆殺しにするは造作もなきこと」、


中国人をやっつけることなど簡単なことだとはっきり書いています。後に日本軍はその通りのことをやったわけです。


中国人を「チャンコロ」呼ばわりすることを、彼は4回書いています。


このような聞くに堪えない侮蔑の言葉を垂れ流すさまは痛々しいとすらいえます。 『時事』の『漫言』では兵士に向けて


「…目につくものは分取り品の田無、なにとぞ今度は北京中の金銀財宝を書き更え…一儲け」


と戦時国際法が禁止する私有物略奪を呼びかけました。 「三光作戦」の勧めです。


 この時期、広島にあった大本営で90回におよぶ御前会議に立った明治天皇を賞賛し、福沢は海外出陣の可能性を提言しました。史実はその4ヶ月後に陸軍内で大本営を旅順に移す案が出て、明治天皇も了解したのですが、知恵者の伊藤博文の反対で流産しました。また「靖国」の思想も先駈けて打ち出していました。


「死を鴻毛より軽しと覚悟」する「軍人勅諭」の「大精神」が勝利の「本源」
であり、

「…益々この精神を養うことこそ護国の要務にして、これを養うには及ぶ限りの栄光を戦死者並びにその遺族に与えて、もって戦場に倒るるの幸福なるを感じせしめるべからず」


と書きました。


 「朝鮮王宮占領事件」、「旅順虐殺事件」、「閔后殺害事件」、「台湾征服戦争」など日清戦争の不義・暴虐を象徴する事件について、ジャーナリストとしての福沢は終始隠蔽・擁護・合理化・激励する最悪の戦争報道を行いました。

私たち「南京大虐殺」を追求する者にとって重大な意味をもつ「旅順虐殺事件」はアメリカやイギリスの新聞に大きく報道され、何よりも『時事』の特派員報告でも出たのでした。しかし、日本が「文明の戦争」ということで世界に登場しようとしていた時期に、市民を含む2万人近い無抵抗の中国人を殺害したことは、伊藤首相と陸奥外相の判断で不問に付すことになったのです、

福沢は虐殺を「実に跡形も無き誤報・虚言」と切り捨て事実隠蔽のお先棒を担いだのです。

その「結果、日本軍の軍紀には覆うべからざる汚点を生じ、残虐行為に対する罪悪感は失われ、その後この種の事件を続発させることに」なったと『日清戦争』の藤村道夫は述べています。すなわち「南京大虐殺」にいたる道が敷かれたわけです。

5.「日本の近代化=アジア侵略」の「お師匠様」


 福沢は有名な『自伝』の中で、「明治政府のお師匠様」を自負していましたが、彼は「明治政府」に止まらず、アジア太平洋戦に至る日本の近代化の道の総体にわたる「お師匠様」と位置づけるのが正しいと思います。アジア太平洋戦争の有名なキャッチフレーズ「満蒙は我生命線」は後の外相松岡洋右の演説ですが、その先駈けになったのは福沢の「今、日本島を守るに当たりて最近の防御線は朝鮮地方たるや疑いを入れず」です。これは山縣有朋が同じことを主張するよりも3年早くなされたものでした。日本が大東亜共栄圏の盟主だということも福沢は明確に主張しています。

 家永三郎は名著『太平洋戦争』の中で、「日本の民衆が15年戦争を何故阻止できなかったのか」の重要な要素として「隣接アジア諸民族への謂われのない区別意識」を挙げていますが、この蔑視感の形成の先頭に立ってきたのが福沢だったわけです。そしてこの蔑視感は今の日本の有り様にも繋がっております。自分では「偽りにあらずして何ぞや」と冷静に認識しながら、天皇制を「愚民を籠絡するの詐術」と見抜くと、


天皇崇拝は「日本人固有の性」、


「一般の臣民…雖も帝室の為とあらば生命を惜しむ者なし」


とうそぶくしたたかさを持っていました。その福沢諭吉の力もあって「愚民を籠絡する」天皇制は日の丸・君が代とともに今なお健在です。このしたたかな福沢諭吉にどう対抗し乗り越えるのか、それが私たちの課題として問われています。
http://www.jca.apc.org/nmnankin/news10-3.html


◆私は、十五、六歳のころ、「何になりたいか」と兄に聞かれて、「日本一の金持ちになりたい」といった(「福翁自伝」).


 金持ちになるためには、国民をだまして「金と命を出させて、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化財を奪うことが必要だ」と考えた.

 そのためには、教育と報道で世論をつくることが必要であった.教育では慶応義塾を、報道では時事新報を創設した.

 そして台湾・朝鮮半島・中国全土を植民地化するためには、戦力を持ち、「国権を皇張すること」が必要と宣伝した.(1881「時事小言」)

 それが成功して、日清戦争(1894-1895)では、台湾の植民地化を達成し、同時にそれを報道した「時事新報」の発行部数を伸ばして、「金持ちになる夢」に大きく近づいた.


諭吉は、天皇家の先生だった!


昭和天皇は、皇太子(2009年3月現在の天皇)の教育に小泉信三をあてました(1946年4月〜1958年).

小泉信三は、福沢諭吉の「帝室論」を教材に、青年時代の現天皇の教育をおこないました(小泉信三「ジョオジ五世伝と帝室論」).


皇太子の家庭教師役を任命されたとき、小泉信三は慶応義塾の塾長(1933年〜1947年)でした. 彼の父親も、慶應義塾の第二代の塾長(1887年〜1890年)でした.慶応義塾は、諭吉が創設し、第1代塾長は諭吉でした.
彼は、「政府の影のお師匠様」(注)であり、天皇家の先生でもあったのです.


(注)「福沢諭吉全集」(第20巻414頁)


「立君の政治」は「人主が愚民を篭絡するの一欺術」

(天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)

(1881年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)


小泉信三は、「そう指摘されたら、どう答えるか」を若き現天皇に教えていたのです.(注)

現天皇は、皇太子に何を教えたのでしょうか?


(注)

「福沢諭吉の『帝室論』を読むために、殿下も私も、それぞれ福沢全集の一冊をこの一隅に持ち込んだこともある」
 
「部屋の大きさは二十畳ぐらい」

「両陛下がお出ましになったときにもここへお通りになる」

「壁に寄せて直立ピアノが置いてある」

「皇太子殿下は主にその二階にお住居になっている」

(小泉信三「ジョオジ五世と帝室論」)

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天皇制は「支配者が愚民を篭絡するの一欺術」


(天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)
(1882年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)

天皇を頂点とする利権・既得権益の体系、それが「天皇制」の本質ではないか?

それは、天皇制を支持する人びとを見ればわかる.彼らは、何らかの権益をもっている.(反論できる人はいないようだ)

もう一つの証拠は、昭和天皇だ.彼は、終戦の詔勅(ラジオ放送)で、「ここに国体を護持し得て」といった.

天皇制の維持・存続の希望を出し、結果として戦争責任から逃れ、「日本国憲法」第1章に「天皇」を書き込ませたのだ.歴史に残る戦略家というべきではないか?

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「馬鹿と片輪(かたわ)に宗教、丁度よき取り合わせ」

靖国神社が作られた頃の諭吉の文章です.
(福沢諭吉全集 第20巻232頁)

諭吉は、靖国神社の本質をよく理解していた


「国民はだまされて、国のために死んでくれ!」

その諭吉を、一万円札の肖像として毎日拝ませる人たちがいる!

日本の「文化と伝統」は、「だまされること」ではないはずです!

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「天皇が、ヤスクニ神社を参拝するべきだ」 (福沢諭吉)

「靖国神社の臨時祭には、辱(かたじ)けなくも天皇陛下の御臨席さへありて、・・・。 
・・・大に遺族のものに給与して死者の功労に酬ひん(むくいん)こと我輩の切望・・・」
(死者に厚くす可し」 

 (1895年 福沢諭吉全集 第15巻341頁)


(天皇陛下が、死者の功労に十分あつくむくいれば、遺族も悲しまないだろう. そうしてほしい. そうすれば国民は、天皇と国のために、喜んで死ぬだろう)

福沢諭吉の時代には、憲法は国の機関の宗教活動を禁じてはいませんでした.

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英国もフランスも、人の土地を奪っている! 
(対中侵略15年戦争の諭吉の布石)


「今は英国もフランスも、競争して人の土地を奪っている」

「今は競争世界で、英国なり、仏国なり、・・・

皆吾れ負けじと、人の隙に付け入らんとするの時節なれば、理非にも何も構ふことはない、

少しでも土地を奪へば、暖まりこそすれ・・・遠慮に及ばぬ、「さっさ」ととりて暖まるがよい」

(1881年「宗教の説」福沢諭吉全集第19巻711頁 「福沢諭吉のアジア認識」299頁)

「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進て其喉笛に喰付くこと緊要・・・北京、是なり」

(1882年 「喉笛に喰付け」全集第8巻260頁)


「支那国果たして自立を得ずして諸外国人の手に落ちることならば、我日本人にして袖手傍観するの理なし. 我も亦奮起して共に中原に鹿を逐わんのみ」

(1882年 全集第5巻313頁)


「朝鮮は固より論ずるに足らず、我目ざす当の敵は支那なるが故に、先ず一隊の兵を派して朝鮮京城の支那兵を塵(みなごろし)にし、・・・. ・・・両国の戦争となることあらば、・・・日本の勝利必然なり」

(1884年 「戦争となれば必勝の算あり」(全集第10巻159〜)


「目につくものは分捕品の外なし.

何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚えて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替えまでも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ. 

其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、・・・ 一儲け ・・・. 


・・・其老将等が、生擒の仲間で幸にまだ存命にてあらんには、・・・

之を浅草公園に持出して木戸を張り、・・・之に阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します、・・・御慰み」

(1894年 「漫言」全集第14巻570頁)

この諭吉の教えにしたがって、日露戦争(1904〜1905)年の後、旧日本軍が「対中継続的侵略の決意」として、大連近郊より持ち帰った唐時代の文化遺産「鴻臚井(こうろせい)の碑」があります.


それは、1300年ほど前に作られた石碑で、その時代のその地方の唐の統治を示す歴史的な記念碑です(朝日新聞 2006年5月28日). おそらく、旧日本軍は、中国の統治を日本が奪うという意思の確認のために、略奪して日本に持ち帰ったものと考えられます.

この碑は、明治天皇に献上され、21世紀の現在でもひそかに他の略奪物と共に、宮中に保管されています.

日本政府あるいは天皇家は、これらの文化財を含む略奪品を中国へ返還する意思を表明していません. まさか、永久に返還する意思はないということではないとは思いますが.

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/1881711299.html

福沢諭吉:
 
「金と兵は有る道理を保護するの物に非ずして、無き道理を造るの器械なり ・・・
本編(1881年「時事小言」)立論の主義はもっぱら武備を盛んにして国権を皇張するの一点にあり。 

事情切迫におよぶときは、無遠慮にその地面(アジア諸国)を押領して、わが手をもって新築するも可なり」

(福沢諭吉全集第5巻108ページ〜)

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私(福沢諭吉)は、「暗に政府のお師匠様」であった

1897年8月22日「時事新報」(社主・福沢諭吉)から 


「王政維新の前後に日本国中の人が専ら老生の著訳書ばかり読んで文明の新知識を得たるは紛れもなき事実にして、或いは維新政府の新施設も拙著の書を根拠にして発表したるもの多く、暗に政府のお師匠様たりしことは、故老の忘れざるところなり」
(福沢諭吉全集第20巻)


その諭吉は、天皇制について「愚民を篭絡するの一欺術」といっています.(全集第5巻)

また、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」といっています.(全集題20巻)

東京招魂社が、靖国神社になったころです.


「日本は天皇を中心に歴史が作られてきた. 
国が強くなることが大切、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化遺産を奪いとれ.

天皇のため、国のためには、『カネ』も出せ、命も出せ!

死んだ後には靖国神社がある」 


諭吉は、国民を馬鹿と見て、これをだまして税金と命を取る、そのダマシのシステムが天皇制と靖国神社だと考えていたのでしょう.

真に賢い師匠でした.今の日本も、その師匠を一万円札の肖像として、毎日拝ませています.

ダマス者が賢く、国民は愚民!
それが、日本の伝統と文化でした.


___________


「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」 ─ 福沢諭吉の理解!

 「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 
(福沢諭吉全集 第5巻271ページ)


諭吉は、こう書いています.


「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」という意味です.(「そういわれたら、『それは、政治を知らない』と答えよ」といっています)


なぜ、彼はそう書いたのか?
それは、次の理由によります.


◆自分は金持ちになりたい.(「日本一の大金持ちになりたい」
これが、彼の少年時代の夢だった(岩波文庫「福翁自伝」)

◆金持ちは、多数の者の生命と財産の犠牲の上に可能となる


◆支配者が国民の生活を犠牲にして、初めて金持ちが可能となる


◆自分は、支配者の側に立ちたい.
門閥制度で一生下級武士はいやだ!


◆一方国民は、だまって生活を犠牲にはしてくれない.


◆だから、国民をだまさなければならない.


◆国民をだますためには、天皇制をもってくるのが一番よい.


◆天皇のために、命も財産も投げ出す.「お国のため、大義のために死ぬ」ということができる.
(若くして殺された特攻隊員がそうだった)


◆彼らと遺族が、がっかりしないように靖国神社(1879年)をつくっておこう.


◆自分は表向き、教育(慶応義塾)と新聞(時事新報)の責任者ということで行こう.


◆実際には「暗に政府のお師匠さま」(全集第20巻頁)として、侵略戦争を推し進め、そこで上前をはねよう.(実際に戦争報道で大もうけをした)


これが、福沢諭吉の真実です.

福沢諭吉は、少年時代の「大金持ちになりたい(福翁自伝)」夢を実現するためには、天皇制を支持したのだ.


◆「大金持ち」になるためには、略奪・侵略・殺戮・戦争が必要だ.

◆「お前たちが死んで、私たちが略奪物を取るから、戦争に行け」では、賛成してもらえない.

◆そこで、天皇制を利用しよう.

◆「私たちのため」ではなく、「天皇のため」「国のため」「大義のため」に死んでもらおう.

◆そのために、靖国神社も用意しておこう.「英霊になる」なら、死んでも文句はないだろう.

◆そこで、彼は、天皇制についてこういった.

◆「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 (天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための手段だ)
(福沢諭吉全集 第5巻271ページ)

◆彼は、そのリクツを実行して、台湾・朝鮮の植民地化、対中侵略戦争を教育・宣伝して、日清戦争では自分の新聞の発行部数を大いに伸ばして大もうけをした!

◆彼の教えは、日清・日露戦争から、対中侵略15年戦争・太平洋戦争を通じて、2009年の現在にいたるまで続いている.(指導者としての立場は、一万円札の肖像として認められている)


日本では、まだ諭吉の教え子たちが「人主」として生きている.

 
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福沢諭吉は、天皇制を「天皇制は、国民をだますための手段」だと理解していました.


「立君の政治」は、人主が愚民を篭絡するの一欺術」

(天皇制は「バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)という人がいるが、「それに対しては、『政治を知らない者がいうことだ』と答えればよい」と教えています.

(1881年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)


国を富まし、強くするためには、台湾・朝鮮の植民地化だけではなく、対中国侵略こそ「本命」であると主張していました.


「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進で其(その)喉笛に喰付くこと緊要)・・・北京是なり」

(1882年「喉笛に喰付け」全集第8巻260ページ)


中国の領土、資源、労働力をすべて奪いとれ、これが1882年に彼が教えたことです.

国を強くするには、命を捨てろ、天皇のために死ぬことは美しいことだ.


「国のためには財を失ふのみならず、一命を抛て惜しむに足らず」
(1873年「学問のすすめ」第三編 全集第3巻43ページ〜)


(そして、諭吉を含む一部の者が大金持ちになるのです)

日本政府と国民は、この教えを忠実に守り、50年後(1931年)対中国侵略15年戦争に突き進み、太平洋戦争を経て、2009年の現在、諭吉を最高額紙幣の肖像として、毎日拝んでいます.このように、明治以来「ダマシのシステム」はつづいています.
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福沢のアジア侵略思想の歩み


 1880年代前半に福沢が『時事小言』、「東洋の政略果たして如何せん」などにおいてすでにアジア侵略の強兵富国  政策を提起していたが、日清戦争が近づいた1894年に書いた論説「日本臣民の覚悟」では、


「我国四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、・・・・事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老若の別なく切死して人の種の尽きるまで戦ふの覚悟」


を呼びかけた。ここに至って、福沢のかつての一身独立論は国家への滅私奉公の前に完全に呑み込まれ、跡形なく消失したといえる。


 また、これに続けて福沢は、


「戦争に勝利を得て・・・・吾々同胞日本国人が世界に対して肩身を広くするの愉快さえあれば、内に如何なる不平等条理あるも之を論ずるに遑あらず」


と公言して憚らなかった。


 さらに、福沢は旅順の占領も終わり、日清戦争の勝利が見えてきた1895年1月に書いた論説(「朝鮮の改革・・・・」)において、


「主権云々は純然たる独立国に対する議論にして、朝鮮の如き場合には適用す可らず。・・・・今、日本の国力を以てすれば朝鮮を併呑するが如きは甚だ容易にして、・・・・・」


と記し、その後の韓国併合の可能性を予見するかのような主張をしていたことに安川さんは注目を喚起された。


 こうした福沢の言動は安川さんも指摘されたように、『坂の上の雲』において司馬が日本にによる朝鮮出兵を「多分に受け身であった」と記しているのがいかに史実に悖る虚言かを、同時代人の言説を通して物語るものといえる。 

また、NHKは『坂の上の雲』の第一部で毎回、冒頭に「まことに小さな国日本が」というフレーズを流したが、上の福沢の言説は当時の日本が少なくとも対朝鮮との関係では「小国」どころか、何時でも朝鮮を呑みこめる国力を持った強兵富国の大国であったことを意味している。

植民地として統治された相手国の認識を等閑に付して、武力で近隣国を占有した自国を「小さな国」などと呼号するのは、過去に自国が犯した罪に対していかに無邪気かを物語っている。

5.福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間の大きな懸隔


 私が安川さんの講演から(正確には安川さんの後掲の3部作から)感じた福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間に大きな懸隔が生まれたのはなぜかということを考えておきたい。


 まず、安川さんの資料から同時代人の評価として私の印象に強く残った論評を2点だけを紹介しておきたい。


 吉岡弘毅(元外務権少丞):

「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」・・・・のは「不可救ノ災禍ヲ将来ニ遺サン事必セリ」

 徳富蘇峰:

「主義ある者は漫りに調和を説かず。進歩を欲する者は漫りに調和を説かず。調和は無主義の天国なり」


 福沢が執筆した(『時事新報』の社説等を含む)全著作を吟味する限り、同時代人の評価が適正な福沢評であることは否めない。


にも拘わらず、それと対極的な評価があろうことか、戦後の「進歩的」知識人の間に広まった理由は、安川さんが精根込めた考証で明らかにしたように、

丸山真男の福沢誤読――『文明論の概略』など初期の著作のみを題材にした雑駁な読解に依拠し、

福沢の政治論、天皇制論、アジア統治論などがもっとも鮮明に記されたその後の論説を顧みない文献考証の重大な瑕疵――

とそれに多くの「進歩的」知識人が事大主義的に追随したことにあったといってよい。


 かくいう私も丸山神話に侵された一人だった。3月20日に私の退職送別会を兼ねて開かれたゼミのOB&OG会に参加した第1期生がスピーチの中で、夏休みのレポート課題として私が丸山真男『『文明論之概略』を読む』を挙げたことを懐古談として話した。自分では忘れていたが、そう言われて記憶が蘇ってきた。2次会でそのゼミOB生と隣り合わせ、今では自分自身、福沢に対する見方がすっかり変わってしまったことを釈明した。


 戦後日本の「民主陣営」に浸透した丸山神話は、過去のことではない。

権威主義、事大主義が今日でもなお「進歩的」陣営の中でも、陣営の結束を図るのに「便利な」イデオロギーとして横行している現実が見受けられる。

しかし、そうした個の自律なき結束は、陣営の外にいる多数の市民の支持を得るのを困難にし、長い目で見れば破綻の道をたどる運命にある。だから私は楽屋落ちの議論や個人の自律を尊ばない組織や運動を拒むのである。



http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/587.html#c78

[雑談専用39] 韓国人が絶対に歴史から消し去りたい真実 木卯正一
79. 中川隆[7206] koaQ7Jey 2017年3月19日 21:39:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7677]

日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 11

関東震災後の朝鮮人虐殺の黒幕は警視庁だった

■「虐殺」という表現について

 関東震災後の日本人による朝鮮人殺害について、「虐殺」と表現するのが適当かどうか。今回の参考文献に、以下のような記述があった。俄かに信じられない(あるいは信じたくない)内容だと感じると同時に、ここに書かれているのはやはり事実なのではないかと思う。正直に言って、どう取り扱うべきかは手に余る問題だったので、虐殺と言う表現の妥当性については、各位の判断にお任せする。


 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。
 
 所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、

婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり……

身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。

(姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年)


 
 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。

しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。


 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、

という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。


 女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。
(『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104)


当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。

植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。

日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。
http://www5d.biglobe.ne.jp/DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm

02. 2012年9月02日 11:35:54 : HNPlrBDYLM


〈関東大震災から80年〉 朝鮮人女性への残虐な性的虐待


荒川放水路の四ツ木橋付近での虐殺に関する証言に次のようなものがある。


 「22、3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは四ツ木橋の下流の土手だ。

西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。

1挺か2挺の機関銃であっという間に殺した。

それからひどくなった。

四ツ木橋で殺されるのをみんな見ていた。

なかには女もいた。


女は……ひどい。

話にならない。

真っ裸にしてね。いたずらをしていた」

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会「風よ 鳳仙花をはこべ」教育史料出版会、1992年、58〜59ページ)


 これは朝鮮人女性を性的にもてあそんだうえで虐殺したということなのであろう。

これは例外的な事件ではない。

女性に対する性的虐待、虐殺の事例は数多くあった。


 東京府南葛飾郡での朝鮮人女性に対する虐待、虐殺事件

 湊七良、亀戸五の橋で朝鮮人女性のむごたらしい惨死体を見た。

「惨殺されていたのは30ちょっと出たくらいの朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。

しかも妊婦である。

正視することができず、サッサと帰ってきた」

と回想した。
(「その日の江東地区」『労働運動史研究』第37号、1963年7月、31ページ)


 亀戸署内では習志野騎兵連隊の軍人たちが朝鮮人や日本人労働者たちを虐殺した。

この状況を目撃した羅丸山の証言によると、殺された朝鮮人のなかには「妊娠した婦人も一人いた。

その婦人の腹を裂くと、腹の中から赤ん坊が出てきた。

赤ん坊が泣くのを見て赤ん坊まで突き殺した」

(崔承万「極熊無筆耕−崔承万文集−」金鎮英、1970年、83ページ)


 当時砂町に住んでいた田辺貞之助は多数の朝鮮人惨殺死体を見た。


「なかでも、いちばんあわれだったのは、まだ若い女が、腹をさかれ、6、7カ月くらいと思われる胎児が、腹ワタの中にころがっているのを見たときだ。


その女の陰部には、ぐさりと竹槍がさしてあった。

なんという残酷さ、

あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった」

(「恥ずべき日本人」『潮』1971年9月号、98ページ)


 野戦銃砲兵士第一連隊兵士の久保野茂次は1923年9月29日の日記に岩波少尉たちが小松川で

「婦人の足を引っ張り又は引き裂き、あるいは針金を首に縛り池に投げ込み、苦しめて殺した」

ことを記した。

(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編「歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺」現代史出版会、1975年、18ページ)


 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺の歴史的意味


 上記のような朝鮮人女性に対する言語に絶する虐殺の残酷さは、民族差別にさらに女性差別が加わって行われた結果であろう。

このような日本人の行動は、朝鮮人が暴動を起こしたとデマが流されたので、自衛のために自警団を結成したといったものではなく、極めて攻撃的である。

それは民族的には支配民族としての優越心、性的には男性としての優越心に発した行動であったと思われる。


 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺に関しては、当時も、その後も議論、反省されることは皆無だった。

その無反省がアジア・太平洋戦争の時期の「従軍慰安婦」制度を生み出したといえないだろうか。

吉野作造は、千葉で行われた朝鮮人少年に対する日本人の虐殺事件をつぶさに日記に記し、その末尾に「これを悔いざる国民は禍である」と記した。

(「吉野作造著作集」14、岩波書店、1996年、357ページ)


 日本人拉致事件発表後の他者のみに厳しく自己に甘い日本人の二重基準を見ると、朝鮮や中国に対する日本人の良心喪失を憂慮し続けた吉野の言葉を日本人は今もう一度かみしめなければならないように思われる。

(山田昭次、立教大学名誉教授)

http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2003/j05/0305j0827-00001.htm


関東大震災直後の朝鮮人に対する殺人行為


 当時,埼玉県の「児玉郡本庄町」や「大里郡熊谷町」(いずれも当時の名称,現在の本庄市・熊谷市)で発生した朝鮮人殺戮事件は,関東大地震発生後,東京方面ですでに起きていた朝鮮人などに対する殺人行為から彼らを保護する目的で,その被害の少なかった埼玉県や群馬県方面に彼らを避難させようとする最中に起こされた出来事である。

 本庄町のばあい,地元の住民たちによって結成された自警団が,本庄警察署に到着したトラックに乗っていた朝鮮人たちに襲いかかり,リンチに発展した。

警察は人員不足から阻止することもできないまま,この事件で50人から100人程度の朝鮮人を殺させた。

しかも,殺された朝鮮人たちは,妊婦の女性や子どもたちも大勢含まれていた。


 それでも,このリンチにくわわった者の多くは,事後に開廷された裁判の判決では「執行猶予付の騒擾罪」を受けるだけの「穏便な処分」で済まされていた。

さらにあとでは「恩赦」があり,彼らの刑罰は免除されてもいた。


これが,朝鮮人の子どもたちの首を刎ね,女性(妊婦)にも竹槍を突きさし,男性を日本刀で切りさいて殺す,などという凶行を働いた人たちに対する「事後の法的刑罰」であった。 


この歴史的な殺人事件の犯人たちは,大地震後の社会不安の状況のなかで「流言蜚語」に惑わされてしまった結果,本庄町では,警察が避難させるために保護し護送してきた子どもや妊婦も含む朝鮮人たちを,50人か100人くらい殺してしまった。

けれども,事後にいちおう裁判がおこなわれたものの,犯人たちは「執行猶予」付きの判決で「実質無罪にされ」だけでなく,さらに恩赦もあって,受けた刑をとり消してもらっていた。


第2次大戦後後に法務省の高官は,外国人〔=在日韓国・朝鮮人など〕は「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」(1965年の発言)と言ってのけた。


 関東大震災直後に起きた朝鮮人〔など〕の虐殺事件は,それよりも32年も前の悲惨な出来事であったけれども,すでに庶民の次元で「朝鮮人はけしからぬ奴ども」だから,「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」という残虐な情念に即して,同じ地震の被災者でもあった朝鮮人たちを「殺してもかまわぬ」という気持を実行に移していた。


裁判の最中に殺人行為に関してみなで哄笑する

 1) 殺人行為の様子

 1910年に朝鮮〔当時は大韓帝国と称していた〕を軍事的に脅して合邦し,植民地にした日本帝国であった。

朝鮮民族の底しれぬ怒り・恨みを買ったことはいうまでもない。

この事実が反転されて,日本人・日本民族側の気分においてはどうなったかといえば,朝鮮民族を心底でひどく恐れる感情を醸成してもいた。

 関東大震災直後,官庁関係〔警察・政府・戒厳司令部など〕から意図的に提供された《流言蜚語》を真に受けた庶民たちは,

「朝鮮人が井戸に毒を撒いている」

「朝鮮人たちが徒党を組んで攻めてくる」

と聞かされたのだから,大地震のために混乱した状況のなかで自衛し,朝鮮人どもを「捕まえてなんとかしてもかまわぬ」と考えた。

ある意味でこの考えは理の必然でもあった。


 国家当局側,それも一部で作為的な虚報を流した部署の関係者においては,たとえば軍隊は「東京などでは朝鮮人が反抗したといった理由で銃剣で刺殺或いは射殺するなどの虐殺をおこなった。

こうしたことは,目撃者の談話などでも明らかにされている」。


さらに,その「流言の拡大に驚いて,日本刀,竹槍,鳶口,棍棒などで武装した自警団が各地に出現したが,こうした軍隊,警察の行動をみて,凶暴な行動に出たことはいうまでもない」。

 「各地で “鮮人狩り” がはじまった」。

その「あまりのひどさに驚いて出したと」いう「9月3日の警視庁の宣伝ビラ『急告』も」「鮮人の大部分は順良にして・・・」といいながらも「『不逞鮮人の妄動』を否定していない」始末であった(前掲『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』13頁)。

萱原白洞「東都大震災過眼録(1924)」の写真は,震災後にその記憶を頼りにして描かれた絵画であるが,よくみると右下部分には「虐殺された朝鮮人の死体」が転がっていた(つぎの左側にその部分を切りとった画像をかかげておく)。

まわりの人たちは「朝鮮人をやっつけたぞ!」といって「歓声を挙げている」図である。

これは,萱原の網膜に焼きついて忘れられなかった記憶を復元させたものである。

     

 この絵画全体(9月1日参照)を観察すると,警察官をはじめ,法被を着た男,そして手に棒切れをもった子どもまで描かれていることに気づく。

前段の著作『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』に説明された当時の,官民一体になる殺人実行の現場の様子がこの絵画には正直に写されている。

 前掲右側の写真は,関東大震災時における殺人行為を現わした〈有名な1葉〉である。

警察官と民間人が「殺した朝鮮人2体」を,それも民間人は棒で突くかのような格好で,あたかも記念写真を撮るかのように構えている(前掲書,口絵より)。


「凶器は日本刀,鳶口,竹槍,鉄棒や長さ6尺位の棍棒,小刀,包丁或いは石棒など奇抜なものがズラリ」(同書,167頁)。


 2) 裁判の様子

 さて,警察が東京方面からトラックに乗せて避難させてきた朝鮮人を殺した人たちのうち,埼玉県熊谷市の人びとに対する裁判もおなわれていた。『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』はその一場面をつぎのように描写している。


 a) ある被告の答弁。

裁判長から「お前は首を落とす積りで再びやったというぢゃないか」と叱られると

「そうです。そうですが首は落ちませんでした」

といい,石を打ちつけたことについては,「黒い石はこの位でした」と大きな輪を作る。

満廷もクスクス笑う。

事件とは思われぬ光景だ(158−159頁,1923年10月22日『東京日日』夕刊)。


 b) 「裁判長の突っ込みも茶気たっぷりで曽我廼家の芝居でも見ているようだ」。

「裁判長が『お前は一番最年長だのにどうしてそう無分別だ』と揶揄すると『毎晩4合ずつ引っかけやすのでツイその』と満廷を笑わせてひとまず休憩・・・」。

〇〇万治は

「私は倒れていた鮮人を殴っていると警官が『もう死んでいるからいいじゃないか』と申しました」
(159頁,1923年10月23日『東京日日』)。


 c) 「〇〇隣三郎は事実を是認したがこの樫棒で殴ったろうといわれた時ヘイそのちょっとやったまででと答え,

裁判長からこの6尺もある樫棒ではちょっとやられたってたまるものかといわれ,判官はじめ満廷も吹き出させた。

また,それがそのちょっと飲んでいたものですからというのに,裁判長が酒を飲んでいたのか,ちょっととはどの位飲んでいたのかと問われ,4合ですと答えてまた満廷を吹き出させた」(161頁,同上)。


 d) 「『本庄警察の方が騒がしかったのでいって見ますと,3台の自動車に鮮人が乗せられてその内ころがり落ちた3鮮人の胸を刺しました。

一ぱい機嫌でしたからついへゝゝ』

とありのままを申し立て『お前のやった事について今日はどう思っている』ときかれても返事も出来ぬ程の被告である」(175頁,1923年10月25日『東京日日』朝刊)。


それにしても,殺人事件の裁判であるにもかかわらず,この法廷に関する当時の報道をとおしても「ずいぶんに和気あいあい」とした雰囲気が,よく伝わってくるではないか。


 そもそも,関東大震災時のこうした虐殺事件で犯人=被告となって裁判を受けた人びとは,関係した非常に多人数の犯行者全員を被告とするわけにもいかない事情があったため,しかたなくその代表として選ばれ応じて出廷していた一部の者であった。

したがって,前段 a) b) c) d) に紹介した法廷におけるやりとりのように,人殺しの犯人たちにしてはふざけたような口調さえ聞こえてくる。

 つまり,関東大震災のさい「惹起された他民族殺戮行為」は,官憲がわがでっち上げた朝鮮人騒擾「説」を契機に起こされていた。

しかもこのように,殺人事件の審理とも思われない〈身内を庇うかのような共有の感情〉のなかで,被告たちが裁かれていた(!?)のであるから,その「異常な事態を異常とも思わない」当時の時代精神の恐ろしさがあらためて疑われてよい。


 要するに,この大量殺人事件を裁くために開廷された場所においては,裁判官にも被告にも傍聴席にも「満廷に笑いの渦」が吹き出ていたというのである。

そもそも軍隊が,多数の朝鮮人・中国人を大衆の面前で虐殺していただけでなく,社会主義者・無政府主義者もついでにといっていいように,無法なかたちでもって捕縛・虐殺していた。

これでは,国家機関である裁判所が,関東大震災時において殺人行為を犯した一般庶民をまともに裁けるはずもなかった。
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2394667


03. 2012年9月02日 11:37:15 : HNPlrBDYLM


歴史の汚点といえば、大正12年(1923年)関東大震災のときの朝鮮人虐殺はどうであろう。

日本人はよくアメリカ人のマネが得意だといわれるが、なぜこのような、おぞましいことまでまねる必要があったのだろうか。

それもたんなる排斥にとどまらず、虐殺の挙にでたところなど、出藍の誉れというべきか。

しかもその虐殺は、政府筋の計画的煽動に乗って一般の民間人がおかした犯行だという点で、アウシュビッツのことは、その存在さえも知らなかったというドイツ人のばあいとも異なる。


震災がおそった9月1日の午後、東京市内の被害状況を巡視した内務大臣水野錬太郎(元朝鮮総督府内務総監)は、その惨状のなかにあえぐ人々のいら立ちがが支配階級に向けられることを防ぐためには、朝鮮人と社会主義者の弾圧が必要であると判断し、

1日夜から2日夜にかけて、東京、神奈川の各警察署に朝鮮人暴動のデマを流させ、

さらに3日午前、朝鮮人暴動の「事実」についての電文を作成、船橋海軍無線送信所から全国地方長官当宛に打電させた。


中山競馬場の名物になっていたこの無電台が1971年夏撤去され、「なつかしい風物詩」が消え去ったことを嘆く人も少なくないという。

しかしわたしはあの不気味な鉄塔をながめるたびに、背筋に寒気をおぼえずにいられなかった。



朝鮮人暴動のデマは、またたく間に日本全国にひろまり、警察とそれに呼応した民間の自警団は、政府公認の朝鮮人虐殺を開始した。


竹槍で刺し、トビグチで頭を割り、ノコギリで首をひき、さしみ包丁で妊婦の腹をさく……


阿鼻叫喚の地獄絵図のなかで、抵抗のすべもなく殺されていった朝鮮人の数は6,000人をこえた。



「ハダカ同然の死がいが、目をあけたまま頭を北にして空地に並べられていました。

数は二百五十ほど。

ノドを切られて気管や食道が見えている人、

首筋を切られて肉がザクロのようにわれている人、

無理に首をねじ切られたらしく、皮と筋がほつれている人…


なかでもあわれだったのは、まだ若い女性の腹が真一文字に切りさかれ、その中に六、七ヶ月の胎児が目をとじて姿でした」



以上は仏文学者田辺貞之助氏が目撃した、その日の朝鮮人の姿である。



「旦那、朝鮮人はどうですい。

俺ァきょうまで六人やりました。…

天下晴れての人殺しだから、豪気なもんでさァ。…

電信柱へ、針金でしばりつけて、…

焼けちゃってナワなんかねえんだからネ…。


そして、殴る、蹴る、鳶で頭へ穴あける、竹槍で突く、めちゃめちゃでさァ。



けさもやりましたよ。…

奴、川へ飛び込んで、向かう河岸へ泳いで逃げようとした。…

みんなで石を投げたが、一つも当たらねえ、でとうとう舟を出した。


ところが旦那、強え野郎じゃねえか。十分位も水の中へもぐっていた。

しばらくすると、息がつまったとみえて、舟のじきそばへ頭を出した。

そこを舟にいた一人の野郎が、鳶でグサリと頭を引掛けて、ズルズル舟へ引きよせてしまった。…

舟のそばへ来れば、もうめちゃめちゃだ。

トビグチ一つでも死んでいる奴を、刀で斬る、竹槍でつく…」


『横浜市震災誌』に記録されている、ある日本人のその日の武勇談である。



サンフランシスコ震災で、日本人排斥運動が燃えあがったとき、大統領テオドル・ルーズベルトは怒りにふるえてこれを非難したという。

大統領が国会に送った年頭教書(1906年12月4日)を読むと、大統領は日本人排斥運動を「ウィキッド・アブサーディティー(悪辣な愚行)」と痛罵し、これがアメリカの恥であることを述べ、もしこのような愚行がやまないならば、日本人保護のために、軍隊を動員するとまでいきまいている。



日本のばあいどうか。


虐殺が行われた大正12年から今日にいたるまで、わたしたちは、責任ある日本の為政者から、一言たりとも陳謝の言葉を耳にした記憶はない。

いや、「貧乏人は麦を食え」で勇名を馳せた池田勇人元首相からは一言きいたことがある。


「朝鮮を併合してから、日本の非行に対しては私は寡聞にして存じません」。

http://blog.livedoor.jp/danjae/archives/51404976.html

04. 2012年9月02日 11:38:55 : HNPlrBDYLM


震災当時、修羅の巷と化していた東京近郊では、もう一つの惨劇が発生していました。

事実無根の流言蜚語に踊らされた人々が、次々に無辜の朝鮮人を虐殺していったのです。


 元来、巨大地震などの激甚災害襲来直後には、情報の空白が生まれ、その中でさまざまな流言蜚語が生まれるといわれています。

関東大震災の時にもやはり、根拠の定かではない怪しげな噂が東京周辺を駆け巡っています。

最初は巨大地震再来や大津波襲来、富士山大噴火の噂が流れました。

これら自然の脅威に関する噂は、震災の記憶が生々しい間には威力を振るいますが、事態が小康を得るにつれ、次第にフェードアウトしていきます。

これに取って代わるように頭をもたげて来たのが、世情不安に絡む諸々の噂です。

地震によって刑務所から放たれた受刑者たちが暴動を起こすと言う噂、平生の世の中に不満を持つ社会主義者たちが混乱に乗じて暗躍すると言う噂…。


そして、日本社会で虐げられてきた朝鮮人が、震災を千載一遇のチャンスとばかりに日本人に対する逆襲を行うと言う噂です。

世情不安型の噂の中でも、朝鮮人に関する噂に対する反応は、前二者に比べてひときわ鋭敏だったようで、つまるところそれが虐殺に結びつきました。


 当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。

背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。

植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。


そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。

その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。

しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。

日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。

日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。

小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。


 惨劇を招いた流言はどこから発生したのか。

噂・流言研究の題材としては定番中の定番ともいえるようなこの関東大震災時流言ですが、実のところ最初の流言が、いつ、どこで発生したのかについて、はっきりとしたことは分かっていないようです。

確認できる範囲でもっとも早い段階の事例だと思われるものは、地震が発生した9月1日当日の夕方、横浜市本牧町あたりのもののようです。

実際には、似たような噂が同時多発的に発生していたと見るのが自然でしょう。

最初に囁かれた噂は、「地震の混乱に乗じて朝鮮人が放火を行っている」という様なものです。


噂は夜を越えるうちに、朝鮮人による強盗、強姦、殺人、井戸水への毒の投げ込みという形へ発展していきました。

噂の伝播・変質をもっと長いスパンで捉えた場合には、「朝鮮人が伊豆大島に爆弾を仕込んで地震を起こした」というような突飛なものまでも発生したようです。


 井戸水へ毒を投げ込まれるという毒水流言は、古くその歴史を遡る事ができ、決して関東大震災に特有の珍しいものではありません。

中世ヨーロッパでは、(大正期日本における朝鮮人と同じように差別待遇を受けていた)ユダヤ人が井戸水にペスト菌を投げ込むと言う噂が流れた事があります。

日本国内の酷似した事例では、明治19年、愛知県下之一色村(当時。現在の名古屋市中川区下之一色)での出来事があります。

当時、全国的にコレラが流行しており、下之一色でも患者が発生しました。

そこで官憲が公衆衛生維持のために井戸水へ消毒薬を投げ込んだのですが、これを見た村人たちは「住人を殺害するために毒薬を投入した」と誤解し、竹槍や鎌で武装して暴動を起こしました。

そして鎮圧に動いた官憲と衝突、双方に死者を出しています。

若干余談になりますが、この名古屋の事例からは、人間には自分の命を脅かす者を容赦なく殺す部分があることをうかがえます。

虐げられた朝鮮人の存在は、震災時に毒水流言の真実味を補強する材料となりましたが、虐殺という行為に直接つながったのは、民族差別とは別次元の要素なのかもしれません。


 地震によって井戸水が濁るのは良くあることです。

関東大震災の時も上野でこの現象があり、知識のない一般人にとっては、これが毒水流言の真実味を補強する材料となりました。


 東京帝国大学教授・吉野作蔵の調査によると、

「朝鮮人はもともとテロ活動を目論んでいたが、震災の破壊と混乱を千載一遇のチャンスとして蠢動しはじめた」

という見方が、数多くの流言の底流にあったと思われる節があります。

そう考えた人たちにしてみれば、「火災被害の拡大も朝鮮人の暗躍のせい」となりました。


 また偽情報の傾向を追っていくと、朝鮮人の襲撃は神奈川方面から東京を目指して行われると考えられていたようです。

あるいは、噂の伝播の傾向と一致するものなのでしょうか。

 このように流言蜚語による混乱が生じた場合の対処には、正確な情報の周知徹底が必要である事は論を待ちません。

現代的な感覚で言えば、行政の広報や、各種マスコミが正しい情報を発信する役割をになう事になります。

では関東大震災の時、各種情報インフラはどのような状態だったのでしょうか。


 当時まだテレビなど存在していなかった事は言わずもがなですが、大正12年にはラジオの放送も行われていませんでした。

NHKによるラジオ放送開始は、震災から2年後の1925年(大正14)の話です。

この時代の情報伝達の手段としては、電信・電話網が重要な役割をになっていたようですが、これも被災して壊滅状態。

在京各社の新聞報道も社屋の被害により停止状態。

復旧が順調だった東京日日新聞の場合で、新聞の発行が再開されたのは5日の夕刊から。遅いところでは19日になるまで新聞記事を発行する事ができませんでした。


これに対し、震災の被害を被らなかった地方新聞は、流言の内容を真に受け、そのまま報道するという失敗(脚注参照)を犯しています。

また地震により発令された戒厳令の関係で、官憲による情報管制も敷かれました。


 その官憲は、早い段階においては流言の内容を信じ、むしろ自分が朝鮮人虐殺に加担していたと言われています。


官憲は自分自身が流言情報の権威付けを行った上でこれを民衆に向けて発信し、そこから跳ね返ってきた情報を自分で受信してそれを信じ込むという過ちを犯してしまったようです(脚注参照)。


官憲による虐殺は、関連資料の多くが隠蔽されたため、実態が良く分かっていません。


そもそも、この流言の発生源が、他ならぬ官憲であったとする陰謀論の見方も根強く、これが一定の説得力を有しているようです。


亀戸事件・甘粕事件など、憲兵隊は流言による混乱に乗じて、日ごろから自分達が不穏分子と見なしていた集団の「粛清」を行ってもいます。

マッチポンプの可能性すら疑われている憲兵に比べ、警察や震災を受けて発足した戒厳令司令部は、比較的早い段階で流言はあくまで流言に過ぎないことを看破し、事態の収拾に向けて動き出しています。


 日本では伝統的に隣組的な組織が存在しており、その点で自警団の結成をうながす素地はあったと言えます。

関東大震災時に結成された多くの自警団も、もともとは朝鮮人に限らず火事場泥棒に対し、また、地震被害に対処するために自然結成されたものでした。

自警団に参加していた人の言によると、飢餓と流言が自警団を虐殺行為へと駆り立てたという実感があるようです。

また、民衆の中でも流言が流言である事に気づいている人が少なくなかったのかもしれません。


しかしながら、そのことに気づきつつ、これを積極的に吹聴した者もいました。

また、内容に不信を持っていても、頭からそれを否定するような事をしにくい空気があったようです。


噂を否定する事で回りから浮き上がってしまう恐れもあったのでしょうし、万一の危険の可能性を見逃してしまう事を恐れたからなのかもしれません。


ある種の使命感に駆られて積極的に言いふらした者もいたようですが、不思議なもので、事実かどうかは怪しいことを自覚しているはずの情報も、「事実である」と言う触れ込みで吹聴して回っているうちに、話者の中で次第に紛れもない事実であると認識されれるようになっていくようです。


 自警団の活動は、流言が盛んに飛び交い始めた前述の1日夜を越えたあたりから始まりました。

手近で武器になりそうなもの、中には銃や日本刀で武装した彼らは、中世ヨーロッパの魔女狩りを彷彿とさせる朝鮮人狩りを開始しました。

外見上では日本人との明確な差異を認められない朝鮮人を識別するために用いられた方法の代表的なものが、「十五円五十銭」と発音させてみる方法です。

朝鮮人には、「チュウゴエンコチュッセン」としか発音できない人が多いそうです。


この方法は官憲も用いていました。


これ以外の識別法としては、「教育勅語の暗誦」「座布団と言わせる」「歴代天皇の名前を答えさせる」「ザジズゼゾ、ガギグゲゴを発音させる」「君が代を歌わせる」「いろはカルタを言わせる」などといったものがあったようです。


もちろんこの方法は、簡易ではあるものの確実な識別法ではなく、勘違いから日本人や中国人も殺害されています。


被害者数は調査主体でまちまちですが、「朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人」(内務省警保局調査)、「2711人」(吉野作造調査)、「6415人」(独立新聞調査)などの数字があがっています。内務省警保局の算出した数はあまりにも少ないと言えます。


事後の事務処理を簡略化するため、「虐殺」の認定条件を極端に厳しくしている可能性があるようです。

その反面、独立新聞=朝鮮人側の新聞が提示した6000人超と言う数字も、他の事実との整合性に問題があるために絶対的に信頼の寄せられるものではありません。

政治的思惑がもっとも薄いと思われるのが、吉野作造による調査結果ですが、組織力=調査力において他の二者に見劣りする感が否めないのも事実です。

なお、この件に関する犠牲者をもっとも多く出したのは、神奈川県ということで間違いないようです。


 最終的に事態が沈静化に向かったのは、民衆が警察などが発信する情報を受け入れて冷静さを取り戻したためではなく、自警団が軍による力での押さえつけに屈したからだと見るのが妥当なようです。

民衆が理性的な判断を行ったのは、力で行動を押さえつけられ、文字通り手も足も出なくなってからの事でした。

なお余談になりますが、当時の警察は、人員数はもちろん、そしてその武装の内容においても、自警団に劣っていたため、最終的には軍部の軍事力を背景にして事態の沈静化に乗り出さなければならなかったようです。


■各地方紙の誤報 ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P61より抜粋


「朝鮮人大暴動 食糧不足を口実に盛に掠奪 神奈川県知事よりは大阪、兵庫に向かひ食料の供給方を懇請せり。

東京市内は全部食料不足を口実として全市に亘り朝鮮人は大暴動を起こしつつあり……」(河北新報、九月三日)


「歩兵と不逞朝鮮人戦斗を交ゆ 京浜間に於て衝突す 

火災に乗じ不逞鮮人跋扈 近県より応援巡査派遣……」
(福島民友新聞、九月四日)


「放火・強盗・強姦・掠奪 驚くべき不逞鮮人暴行 

爆弾と毒薬を所持する不逞鮮人の大集団二日夜暗にまぎれて市内に潜入 

警備隊(自警団のこと)を組織して掃討中……」(河北新報、九月四日)


「不逞鮮人凶暴を極め飲食物に毒薬や石油を注ぐ 

彼らは缶詰に似た爆弾を所持しつつあり」

(北海タイムズ、九月五日)


■官憲の主な動き(時系列) ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P66より抜粋

九月二日十四時ごろ:内務省警保局長より呉鎮守府、地方長官宛電報。

東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不貞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。

スデニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ十分周密ナル視察ヲ加エ、鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加エラレタシ。


九月二日夕刻:警視庁、戒厳令司令部に、朝鮮人による火薬庫放火計画があると報告。

同    :警視庁菅下各警察署に通達。
 
鮮人中不逞ノ挙ニツイテ放火ソノ他凶暴ナル行為ニイズルモノアリテ、現ニ淀橋・大塚等ニ於テ検挙シタル向キアリ。

コノ際コレラ鮮人ニ対スル取締リヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラレタシ。


 九月三日十六時三十分:海軍省船橋送信所所長電信発信(独断)。全国で受信。

船橋送信所襲撃ノオソレアリ。至急救援頼ム。騎兵一個小隊応援ニ来ルハズナルモ、未ダ来タラズ。


九月四日八時十分:船橋送信所電信発信。

本所(船橋送信所)襲撃ノ目的ヲ以テ襲来セル不逞団接近、騎兵二十、青年団、消防隊等ニテ警戒中、

右ノ兵員ニテハ到底防御不可能ニ付約百五十ノ歩兵ノ急派取計イ度ク、当方面ノ陸軍ニハ右以上出兵ノ余力ナシ。


■不逞鮮人

 震災当時の政治用語。抗日的な運動を行う朝鮮人に対し、官憲が用いた呼称。

この言葉にも当然、「朝鮮人」と同じ問題が付きまとう。


 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。

 
 所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、

一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、

婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり……


身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。

(姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年)


 
 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。

実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。

そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。

しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。


 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、

その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、


という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。


なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。


 女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。

したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。

(『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104)


 魔女狩りを彷彿とさせる、集団ヒステリーが生んだ狂気か。


 この「虐殺」に関する話は、関東大震災を起源とする「防災の日」の各種行事の場面などでも、滅多に触れられる事がないのだという。

この種のイベントは専ら自然災害としての地震の恐ろしさに対する啓蒙を目的に行われるものらしく、天災から派生した人災についてはほとんど言及しないのだそうだ。そして、その現状を無念に思う韓国人・朝鮮人は多い。


参考文献
山岸秀 、2002年、『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』、早稲田出版
http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm

05. 2012年9月02日 11:40:47 : HNPlrBDYLM


1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生。
この時政府の宣伝


「朝鮮人や社会主義者が震災に乗じて内乱を企てている」

に乗せられた民衆は、社会主義者、労働組合幹部や朝鮮人に対して野蛮なテロを行い、9.3日、亀戸事件により南葛労働組合の指導者・川合義虎らの社会主義者やアナーキストらが亀戸警察署で虐殺された。

9.16日、大杉栄が妻・伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一と共に甘粕正彦憲兵大尉に殺害された。


 9.7日、政府は、関東大震災時の混乱に対して「治安維持の為の緊急勅令」を公布した。

これは、前に成立を見なかった「過激社会運動取締り法案」を、このたびは天皇の名のもとに議会の審議を要しない緊急勅令という形で公布したということである。

しかし、政府はなお満足せず、やがて治安維持法に向けて着々と周辺整備していく。


 「第一次共産党事件」と「関東大震災直後の反動攻勢」に接して、獄中闘争組の中からも解党的方向が提起されたようである。

幸徳秋水の大逆事件、関東大震災時の大杉栄虐殺事件という官憲側のテロル攻勢に「緊急避難」の名目で党の解党止む無し論が強まっていった。


 これに関連して福永操は次のように述べている。

「革命運動の犠牲者たちは、人民が(人民のほんの一部でもが)その犠牲の意義をみとめて心の中で支持してくれると思えば、よろこんで死ねるであろう。

なさけないのは、大逆事件関係者に対する日本の一般民衆の反感がものすごかったことであった。

事件そのものにまったく無関係であった社会主義者たちまでが、この事件のとばっちりを受けて、『主義者』というよびかたのもとに一括して世間からつまはじきされて、文字どおり広い世間に身のおきどころもない状態になったことであった。

労働運動も火が消えたような状態になった」(福永1978)。


 以下、検証する。 


【関東大震災発生】

 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。

地震の規模はマグニチュード7.9、震度6であった。

焼失家屋24万戸、崩壊家屋2万4千棟、死者5万9千人、行方不明者を入れると犠牲者は10万人以上という被害が発生した。

これにより関東一円の商工業地区が壊滅的大打撃を受けた。被害総額は当時の金で約100億円(当時の一般会計の6.5年分、現在で数兆円)と推定される。


 関東大震災の翌9.2日急遽、軍による戒厳令司令部を設置した。

この日、後藤新平が内務大臣に就任している。

 警視庁は、非常事態に備えて臨時警戒本部を設置し、正力官房主事が特別諜報班長になって、不穏な動きを偵察する任務を持ち、その行動隊長として取締まりに専念した。

後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。


「内務大臣・後藤新平と正力の繋がり」について


 正力は、この後藤新平と深く繋がっており、「直接ルート」の間柄。正力の富山四高時代の友人にして官房主事であった品川主計は、回想録「叛骨の人生」の中で「正力君は、後藤新平内務大臣に非常に信用があった」と記している。

同書に拠れば、越権的な「汚れ役」(ダーティーワーク)仕事を躊躇無く引き受けることで信頼を得ていったとのことである。

「仕事の鬼としての出世主義的性格」が強かった、ということになる。

正力は、後藤内相の下で警視庁警務部長となる。

同時に、財界のご意見番的存在であった郷とも親しくなって行った。


【流言飛語飛び交い、朝鮮人、社会主義者、アナーキストの検束始まる】


 直後、

「朝鮮人、中国人、社会主義者、博徒、無頼の徒が放火掠奪の限りを尽くしている」

との噂が飛び交い始めた。

発生源は在郷軍人会、民間自警団辺りからとされているが、今日なお真相不明である。


 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、「朝鮮人による放火、井戸への投毒」という風評を逆手に取って朝鮮人と社会主義者、アナーキストの検束を始めた。

9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。


 東京朝日の石井光次郎営業局長の次のような証言がある


 「建物は倒壊しなかったものの、9月1日の夕刻には、銀座一帯から出た火の手に囲まれ、石井以下朝日の社員たちは社屋を放棄することを余儀なくされていた。

夜に入って、石井は臨時編集部をつくるべく、部下を都内各所に差し向けた。

帝国ホテルにかけあってどうにか部屋を借りることは出来たが、その日、夜をすごす宮城前には何ひとつ食糧がない。

そのとき、内務省時代から顔見知りだった正力のことが、石井の頭に浮かんだ。

石井は部下の一人にこう言いつけて、正力のところへ走らせた。


 『正力君のところへ行って、情勢を聞いてこい。

それと同時に、あそこには食い物と飲み物が集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい』。

間もなく食糧をかかえて戻ってきた部下は、意外なことを口にした。

その部下が言うには、正力から、

『朝鮮人が謀反を起こしているという噂があるから、各自、気をつけろ。

君たち記者が回るときにも、あっちこっちで触れ回ってくれ』

との伝言を託されてきたというのである。


 そこにたまたま居合わせたのが、台湾の民生長官から朝日新聞の専務に転じていた下村海南だった。

下村の『その話はどこから出たんだ』という質問に、石井が『警視庁の正力さんです』と答えると、下村は言下に『それはおかしい』と言った。

『地震が9月1日に起るということを、予想していた者は一人もいない。

予期していれば、こんなことになりはしない。

朝鮮人が9月1日に地震がくることを予知して、その時に暴動を起こすことを企むわけがないじゃないか。

流言飛語にきまっている。断じてそんなことをしゃべってはいかん』。


 石井は部下から正力の伝言を聞いたとき、警視庁の情報だから、そういうこともあるかも知れないと思ったが、ふだんから朝鮮や台湾問題を勉強し、経験も積んできた下村の断固たる信念にふれ、朝鮮人謀反説をたとえ一時とはいえ信じた自分の不明を恥じた。

正力は少なくとも、9月1日深夜までは、朝鮮人暴動説を信じていた。

いや、信じていたばかりではなく、その情報を新聞記者を通じて意図的に流していた」


 内務官僚上がりの石井のこの証言に加えて、戒厳司令部参謀だった森五六の回想談によると、正力は腕まくりして戒厳司令部を訪れ、

「こうなったらやりましょう」と息まいている。


この正力の鼻息の荒い発言を耳にした時に、当時の参謀本部総務部長で後に首相になる阿部信行をして、「正力は気が違ったのではないか」と言わしめたという。


 正力にまつわる一連の行動を分析した佐野は、

[正力は少なくとも大地震の直後から丸一日間は、朝鮮人暴動説をつゆ疑わず、この流言を積極的に流す一方、軍隊の力を借りて徹底的に鎮圧する方針を明確に打ち出している]

と結論づけている。

更に、警視庁に宛てた亀戸署の内部文書にも、


「この虐殺の原因はいずれも警察官の宣伝にして、当時は警察官のごときは盛んに支鮮人を見つけ次第、殺害すべしと宣伝せり」

と書いてあり、中国人労働者が300人ほど虐殺された大島事件も、正力がこの事件を発生直後から知っていたのは、間違いないと自身を持って断定するのである。


【関東大震災時事件その@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺】


 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、

「朝鮮人による放火、井戸への投毒、襲撃」、

「震災の混乱にまぎれて、朝鮮人と社会主義者が政府転覆を図っている」

という風評を逆手に取って警察と軍による朝鮮人、中国人、社会主義者、社会主義的労働者の検束を始めた。


 9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。

自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺も発生している。

無抵抗の者を陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが一方的に撃ち殺したところに特質がある。この時官憲テロルに倒れた朝鮮人は3千名、中国人は3百名。

 その後毎年、9.1日は共産主義運動、朝鮮民族運動の逃走記念日として追悼されていくことになる。


【関東大震災時事件そのA、川合義虎らが虐殺される亀戸事件発生】


 9.3日午後10時頃、亀戸事件の被害者となる南葛労働組合の指導者にして共産青年同盟初代委員長にして党員北原龍雄と共に第一次共産党事件後の留守委員会を構成していた川合義虎ら8名の社会主義者と、アナーキスト系の元純労働組合長・平沢計七らが亀戸警察署に拘束監禁された。


 9.5日、河合義虎ら7名の革命的労働者(北島吉蔵、山岸実司、吉村光治(南喜一の弟)、加藤高寿、近藤広造、鈴木直一)、アナーキスト系の平沢計七らが亀戸警察署で虐殺された。

これを「亀戸事件」と云う。

 その遣り口が憤激に耐えない次のような史実を残している。

古森署長は事後対策を警視庁に上申。この時のこの時の警視庁官房主事が正力松太郎(米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った)で、正力は軍隊への応援依頼、千葉県習志野騎兵第13連隊(田村騎兵少尉指揮)がやって来て、留置された中から最も指導能力を有していた危険な人物を選別し、演武場前広場へ引きずり出し、銃剣と軍刀で虐殺した。

 その虐殺の様について今日奇跡的に伝えられた二葉の写真があり、これを見るに多数の刺傷はそれとしても生きたまま打ち首にされている。

遺体は家族に引き渡されず、二、三日放置された後、荒川放水路の一般の火葬死体の中に投擲された。

田村少尉らは軍法会議にもかけられておらず、「この乱痴気が軍隊と警察と裁判所、検事局と監獄とを、内部から腐敗堕落させた」(志賀義雄「日本革命運動の群像」)とある。

 ちなみに、南喜一は、弟の吉村光治虐殺という権力の横暴に義憤して、共産党活動に入った。

「大正13年の春、私は工場や家を全部処分し、17万円の金をつくつた。

妻子に4万円渡し、13万円を持って、亀戸の南葛飾労働組合に入った。

共産党に入党したのだ」、


「大正15年の共同印刷の争議までは、命ぜられることを名誉とし、火の中でも水の中へでも喜んで飛び込んだ」(「南喜一著作全集」)とある。


【関東大震災時事件そのB、中国人留学生・王希天虐殺事件発生】


 この時、東京中華日キリスト教青年会幹事、中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生・王希天は、亀戸署に拉致監禁された上陸軍に引き渡され、陸軍将校の手で斬殺されている。

死体は切り刻まれて川に捨てられた。

警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」。警察と軍の関係を取り持っていたのは、官房主事の正力であった。


 10.20日、中国代理公使から王の殺害について抗議が為される。

中国政府は王希天殺害調査団を派遣してくることになり、一気に国際的大事件となった。日本政府はその対応に苦しむことになった。

警視庁はじめとする当局は口裏を合わせて知らぬ存ぜぬの「徹底的に隠蔽するの外無し」対応に終始した。

結局、事件そのものは当時の日中の力関係を反映し、最後にはうやむやのままに葬り去られることになった。


【関東大震災時事件そのC、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件発生】


 9.16日関東大震災の混乱に際して、アナーキストで社会運動家のリーダー的存在だった大杉栄は妻・伊藤野枝(いとうのえ、28歳)、甥(おい)の橘宗一(たちばなそういち、6歳)と共に甘粕憲兵大尉(あまかすまさひこ、32歳)に殺害された。

享年38歳。妻野技は1895年1月12日生、享年28歳、甥橘宗一は1917年4月12日生、享年6歳。


 この日、大杉は、その妻(婚姻はしていなかったので正式には同棲)の伊藤野枝と横浜鶴見にあった弟の家から自宅へ帰る途中に東京憲兵隊本部に検束された。

一緒にいた甥の橘宗一も一緒に連れ去れた。検束された大杉達は、麹町憲兵分隊に連行された。


午後8時頃、取調中だった大杉に対し、部屋に入ってきた憲兵大尉《甘粕正彦がいきなり背後から大杉の喉に右腕を回し締め上げた。

大杉がもがき後ろに倒れると、背中に乗りさらに締め上げ絞殺したと伝えられている。

続いて伊藤野枝も絞殺され、橘宗一は部下の憲兵が殺害し、遺体は憲兵分隊内にあった古井戸に投げ込まれた。


 ちなみに甘粕のその後は次の通り。

大杉虐殺事件の軍法会議の進行は非常に早かった。戒厳令下の10.8日に第一回、以後、11.16日、17日、21日の4回で結審となり、12.8日に10年の禁固刑に処せられたものの、軍閥団体の助命運動によって3年で出獄、満州国へ渡り参議の地位に上り詰めていく。


 この大杉栄の拘束・殺害が発端となって、軍部による社会主義者の徹底的な弾圧が始まる。


【官房主事・正力松太郎の暗躍】


 この時、警察と軍の関係を取り持っていたのは、警視庁官房主事の正力松太郎であった。

これを追跡してみる。正力は米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、特高制度の生みの親であった。

後に読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買うことになる。


 9.2日、大震災の翌日急遽、軍による戒厳令司令部が設置された。

船橋の海軍無線送信所から「付近鮮人不穏の噂」の打電が為されている。

今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。


 9.3日、「内務省警保局長」名で全国の「各地方長官」宛てに、要約概要「鮮人の行動に対して厳密なる取締要請」電文打たれる。

内務省が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。


実際には「不逞鮮人暴動」は根拠が曖昧で「流言飛語」の観がある。


この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。

つまり、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。


 9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。

 9.11日、更に、正力官房主事名で、

「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令


が発せられている。

 研究者によると、正力が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」のデマを一番最初にメディアを通じて意識的に広め、虐殺を煽ったのは、なんと、官房主事の正力自身であった。

自身も「悪戦苦闘」という本で、

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。

当局者として誠に面目なき次第」


と弁解しているように、朝鮮人大虐殺の張本人と目されている。

 この時、朝日新聞の記者の1人が警視庁で正力官房主事から、

「朝鮮人むほんの噂があるから、君たち記者があっちこっちで触れてくれ」

と示唆されたことを明らかにしている。

しかし、専務の下村海南が「流言飛語に決まっている」と制止したと云う。


「正力の胡散臭さ」について

 後に読売新聞の社主となって登場してきた正力松太郎には「負の過去」がある。


関東大震災当時、警視庁官房主事という警察高級官僚であった正力こそ朝鮮人大虐殺の指揮官であった形跡がある。

こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていく。

その意味で、「読売新聞建て直しの功労者」ではある。

しかし、正力の本領は当時の「聖戦」賛美にあった。

新聞でさんざん戦争を煽った。

これが為、松太郎はA級戦犯指名で巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。

しかし、政権与党に食い入り常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。

「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」


 こうしたムショ帰りの権力主義者の社主に忠誠を誓い、その負の遺産を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。

日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。
http://www.gameou.com/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_oosugisakae.htm

 正力松太郎の生態はもっと研究されて良いように思われる。
内務省特高課(戦前日帝の諜報・弾圧機関)の創設者にして終始黒幕で在り続けた後藤新平に見出され、米騒動、関東大震災時の「暗躍」で「血塗られた強固な同盟」が確立する。以下、この関係を追跡する。


【後藤新平の履歴(1857〜1929)】


 岩手県水沢市の小藩出身。

幕末の蘭学者高野長英の親族。

須賀川医学校を卒業して医師となりも愛知県立病院長を経て内務省に入る。

1892年衛生局長(現在の厚生省事務次官)。

その間ドイツに留学し、プロイセン国家の統一ドイツ建国過程をつぶさに見て、ビスマルク政治に憧憬したと伝えられている。

1895年日清戦争で台湾を割譲させたが、4代目台湾総督になった児玉源太郎が後藤を見出し民政長官となって赴任。


後藤は、「アメと鞭を併用した辣腕政治」で判明するだけで抗日ゲリラ1万1千余名を虐殺している。

結果的に「台湾島民の鎮圧と産業開発で名声を高めた」。


 後藤は、台湾総督府初代民政長官を皮切りに、以後、

1906年満鉄初代総裁、1908(明治41)年桂太郎内閣の下で逓信大臣兼鉄道院総裁、1916(大正5)年寺内正毅内閣の下で内務大臣、

続いて1918(大正7).4.23日外務大臣、

山本権兵衛内閣の下で内務大臣再任を歴任し、晩年に伯爵の位を得ている。


植民地政策の統合参謀本部・満鉄調査部を設置したのも後藤である。

未解明であるが、阿片政策にも手を出しており、その収入が機密費として縦横に駆使された形跡がある。


 その政治的軌跡は、伊藤博文の後継者。後藤は言論統制に著しく関与している。

 1919(大正8)年、後藤は、寺内内閣の総辞職を機会に欧米視察の旅に出た。

訪問先はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、オランダ。

帰国するやいなや、「大調査機関設立の議」建白書を政府に提出している。

これは、アメリカのCIA(中央情報局)のような強力な組織を設立せよという構想であった。


【内務省】


 内務省は、一口で云えば「天皇制警察国家」と呼ばれる当時の大日本帝国の最高官庁であった。

要するに内政にかかわる一切の行政権を一手に握っている中央官庁であった。

現在の機構に当て嵌めれば、国家公安委員会、警察庁、公安調査庁、消防庁、自治省、厚生省、労働省、建設省、農林省の一部、法務省の一部、文部省の一部的機能を持つ官庁であった。

全国の知事と高級官僚は、内務官僚が任命し派遣するというシステムで、地方行政は市町村議会の監督権まで含めて内務省が握っていた。

内務官僚は、天皇直属であり、平常時の警察機構、緊急時の法律に対抗する緊急勅令権、警察命令権を握っており、いわば万能であった。


 大逆事件の年の1911(明治44)年に高等課特高係(特高)が新設され、後に特別高等部に昇格し、得意な指揮系統を持つ事になった。

新聞の統制など言論動向の調査は特高の中の検閲課の任務であり、更に全国の警察機構の元締め内務省警保局の図書課でも行われた。

両者の関係は、図書課が本庁であり、検閲課は出先機関となる。


 内務省本省の図書課は、後藤新平内務大臣時代の1917(大正6).9月、直接の声係りでロシア革命への対応を意識して拡張された。

同時に警視庁の人員増強も要請され、当時の6000名が6年後には1万2000名に倍増された。特高も同時期に12名から80名へと約7倍化している。


【正力松太郎の履歴(1857〜1929)】

 1885(明治18).4.11日、富山県の土建請負業の旧家に生まれる。

青春時代を柔道に打ち込む。

 1911(明治44)年、東京帝国大学法科大学独語科卒業(26歳)。

翌年に内閣統計局に入り、高等文官試験に合格し、1913(大正2).6月、警視庁に雇用される。

直ちに警部となり、翌年に警視、日本橋堀留署長となる。


 1917年、第一方面監察官。

 1918(大正7)年、米騒動鎮圧に一役買い、勲章を貰う。

 1919(大正8)年、刑事課長。

 1920(大正9)年、普通選挙大会の取締まり、東京市電ストの鎮圧。

 1921(大正10)年、警視庁で警視総監に次ぐbQの位置とされる官房主事となり、高等課長を兼任(36歳)。


本人自身が「私ほど進級の早いのはいません」(「週間文春」1965.4.19日)と語っている。


 1923(大正12)年、正力の警視庁官房主事、共産党の猪俣津南雄宅にスパイを送り込み、早稲田大学研究室の捜査、6.5日、第一次共産党検挙を指揮した。

 「米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、

読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、

軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った」。


 「関東大震災時の暗躍」


 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。


 関東大震災の翌9.2日急遽、後藤新平が内務大臣に就任し、非常事態に備えて軍は戒厳令司令部を、警視庁も臨時警戒本部を設置した。

この時、正力は官房主事であったが、特別諜報班長になって不穏な動きの偵察、取締まりに専念した。

後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。


 今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。


「不逞鮮人暴動」に如何ほどの根拠があったのか不明であるが、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。

こうして、内務省が流した「朝鮮人暴動説」が全国各地の新聞で報道され、この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。


 後藤−正力ラインが警戒したのは、社会主義者の動きであった。

9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。

9.11日、正力官房主事名で、「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令が発せられている。


 後藤−正力ラインはこうした通達のみならず、実際に迅速に先制的官憲テロをお見舞いしていった。


@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の多数虐殺、

A、川合義虎らが虐殺される亀戸事件、

B、中国人留学生・王希天虐殺事件、

C、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件)


等が記録されている。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mascomiron_yomiurico2.htm

「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告がある。

民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。

しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。

いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。

 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html


関東大震災に便乗した治安対策


陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒

 正力が指揮した第一次共産党検挙が行われたのは、一九二三年(大12)六月五日である。

 それから三か月も経たない九月一日には、関東大震災が襲ってきた。

このときの警視庁の実質的な現場指揮者は、やはり正力であった。

この一九二三年という年は、日本全体にとっても正力個人にとっても激動の年であった。

月日と主要な経過を整理し、問題点と特徴を明確にしておきたい。


 六月五日に、第一次共産党検挙が行われた。

この時、正力は官房主事兼高等課長だった。

 九月一日に、関東大震災が起きた。正力の立場は前とおなじだった。

 一二月二七日には、虎の門事件が起きた。この時、正力は警務部長だった。

 虎の門事件の際、警備に関して正力は、警視総監につぐ地位の実質的最高責任者である。

警視総監の湯浅倉平とともに即刻辞表を提出し、翌年一月七日に懲戒免官となった。

ただし、同じ一月二六日には裕仁の結婚で特赦となっている。


 以上の三つの重大事件を並べて見なおすと、

第一次共産党検挙と虎の門事件の背景には、明らかに、国際および国内の政治的激動が反映している。

その両重大事件の中間に起きた関東大震災は、当時の技術では予測しがたい空前絶後の天災であるが、この不慮の事態を舞台にして、これまた空前絶後で、しかも、その国際的および国内的な政治的影響がさらに大きい人災が発生した。

朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件である。


 さて、以上のように改めて日程を整理してみたのは、ほかでもない。本書の主題と、関東大震災における朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件との間に、重大な因果関係があると確信するからである。

そこで以下、順序を追って、虐殺、報道、言論弾圧から、正力の読売乗りこみへと、その因果関係を解き明かしてみたい。


 どの虐殺事件においても明らかなことは、無抵抗の犠牲者を、陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが、一方的に打ち殺したという事実関係である。

正力は、当然、秩序維持の責任を問われる立場にあった。

正力と虐殺事件の関係、正力の立場上の責任などについては、これまでにも多数の著述がある。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-1.html


「朝鮮人暴動説」を新聞記者に意図的に流していた正力


 正力自身も『悪戦苦闘』のなかで、つぎのように弁明している。

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」

 これだけを読むと、いかにも素直なわび方のように聞こえるが、本当に単なる「失敗」だったのだろうか。

以下では、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆に当たって参考にした資料に加えて、それ以後に出版された新資料をも紹介する。

いくつかの重要な指摘を要約しながら、正力と虐殺事件の関係の真相にせまってみる。

 興味深いことには、ほかならぬ正力が「ワンマン」として君臨していた当時の一九六〇年に、読売新聞社が発行した『日本の歴史』第一二巻には、「朝鮮人暴動説」の出所が、近衛第一師団から関東戒厳令司令官への報告の内容として、つぎのように記されていた。

「市内一般の秩序維持のための〇〇〇の好意的宣伝に出づるもの」

 この報告によれば、「朝鮮人暴動説」の出所は伏せ字の「〇〇〇」である。


伏せ字の解読は、虫食いの古文書研究などでは欠かせない技術である。

論理的な解明は不可能ではない。

ここではまず、情報発信の理由は「市内一般の秩序維持」であり、それが「好意的宣伝」として伝えられたという評価なのである。

「市内一般の秩序維持」を任務とする組織となれば、「警察」と考えるのが普通である。さらには、そのための情報を「好意的宣伝」として、近衛第一師団、つまりは天皇の身辺警護を本務とする軍の組織に伝えるとなると、その組織自体の権威も高くなければ筋が通らない。

字数が正しいと仮定すると、三字だから「警察」では短すぎるし、「官房主事」「警視総監」では長すぎる。「警視庁」「警保局」「内務省」なら、どれでもピッタリ収まる。

 詳しい研究は数多い。

『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編によれば、すくなくとも震災の翌日の九月二日午後八時二〇分には、船橋の海軍無線送信所から、「付近鮮人不穏の噂」の打電がはじまっている。


 翌日の九月三日午前八時以降には、「内務省警保局長」から全国の「各地方長官宛」に、つぎのような電文が打たれた。

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、

すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」


 正力の『悪戦苦闘』における弁解は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」となっていた。

では、この「虚報」と正力の関係、「失敗」の経過は、どのようだったのだろうか。


 記録に残る限りでは、正力自身が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」の噂を一番最初に、メディアを通じて意識的に広めようとしたのは、なんと、正力自身なのである。


 シャンソン歌手、石井好子の父親としても名高かった自民党の大物、故石井光次郎は、関東大震災の当時、朝日新聞の営業局長だった。

石井は内務省の出身であり、元内務官僚の新聞人としては正力の先達である。

震災当日の一日夜、焼け出された朝日の社員たちは、帝国ホテルに臨時編集部を構えた。

ところが食料がまったくない。

石井の伝記『回想八十八年』(カルチャー出版社)には、つぎのように記されている。


「記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎が官房主事だった。


『正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。

それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい[中略]』といいつけた。

それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。

ところが、帰って来た者の報告では、正力君から、


『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』


と頼まれたということであった」

 ところが、その場に居合わせた当時の朝日の専務、下村海南が、「それはおかしい」と断言した、


予測不可能な地震の当日に暴動を起こす予定を立てるはずはない、

というのが下村の論拠だった。

下村は台湾総督府民政長官を経験している。

植民地や朝鮮人問題には詳しい。

そこで、石井によると、「他の新聞社の連中は触れて回ったが」、朝日は下村の「流言飛語に決まっている」という制止にしたがったというのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html


東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見


 ただし、石井の回想通りに、朝日が「朝鮮人暴動説」報道を抑制したのかどうかについては、いささか疑問がある。

内務省筋が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。


『大阪朝日』は九月四日、「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると」、という書き出しで、さきの船橋送信所発電とほぼ同じ内容の記事を載せた。

『朝日新聞社史/大正・昭和戦前編』には、震災後の東京朝日と大阪朝日の協力関係について、非常に詳しい記述があるが、なぜか、大阪朝日が「朝鮮人暴動説」をそのまま報道した事実にふれていない。


『大阪朝日』ほかの実例は、『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』に多数収録されている。

この基本資料を無視する朝日の姿勢には、厳しく疑問を呈したい。


 東京の新聞でも、同じ報道が流されたはずなのであるが、現物は残っていないようである。

わたしが目にした限りの関東大震災関係の著述には、東京の新聞の「朝鮮人暴動説」の報道例は記されていなかった。

念のためにわたし自身も直接調べたが、地震発生の九月二日から四日までの新聞資料は、実物を保存している東京大学新聞研究所(現社会情報研究所)にも、国会図書館のマイクロフィルムにも、まったく残されていなかった。


 たしかに地震後の混乱もあったに違いないが、そのために資料収集が不可能だったとは考えにくい。

報知、東京日日(現毎日)、都(現東京)のように、活字ケースが倒れた程度で、地震の被害が軽い社もあった。

各社とも、あらゆる手をつくして何十万部もの新聞を発行していたのである。

各社は保存していたはずだから、九月一日から四日までの東京の新聞の実物が、まるでないというのはおかしい。

戒厳令下の言論統制などの結果、抹殺されてしまった可能性が高い。


 ところが意外なことに、『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会)には、新聞報道の「混乱」の「最もよい例」として、「九月三日付けの『報知』の号外」の「全文」が紹介されていた。

要点はつぎのようである。


「東京の鮮人は三五名づつ昨二日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋に捕らわれし者約百名」


「程ヶ谷方面において鮮人約二百名徒党を組み、一日来の震災を機として暴動を起こし、同地青年団在郷軍人は防御に当たり、鮮人側に十余名の死傷者」


 同書の編著者で、当時は東海大学教授の山本文雄に、直接教えを乞うたところ、この号外の現物はないが、出典は『新聞生活三十年』であるという。


 実物は国会図書館にあった。著書の斉藤久治は当時の報知販売部員だった。

同書には、新聞学院における「販売学の講演」にもとづくものと記されている。

発行は一九三二年(昭7)である。のちの読売社長、務台光雄は元報知販売部長で、同時代人だから、この二人は旧知の仲だったに違いない。

ところが、この二人が残した記録は、肝心のところで、いささか食い違いを見せるのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-3.html


号外の秘密を抱いて墓場に入った元報知販売部長、務台光雄


 務台の伝記『闘魂の人/人間務台と読売新聞』(地産出版、以下『闘魂の人』)には、務台が、震災直後から一週間ほど社の講堂で寝泊まりしたことやら、その奮闘ぶりが克明に描き出されている。

「活字が崩れてしまったので、大きい活字を使って、号外のような新聞を、四日には出すところまでこぎつけた」ということになっている。

ところが、『新聞生活三十年』には、「写真1」のような「九月一日」付けの報知号外のトップ見出し部分のみが印刷されているのである。

「四日」と「一日」とでは、この緊急事態に際しては大変な相違がある。


 謎を解く鍵の一つは、まず、『別冊新聞研究』((4)、77・3)掲載、「太田さんの思い出」という題の、務台自身の名による文章である。

そこでは、「直ちに手刷り号外の発行を行う一方、本格的新聞の発行に着手、まず必要なのは用紙だ」となっている。

地震で電気がこないから、輪転機が動かせない。

輪転機用の巻紙もない。

だが、活字を組んでインクを塗れば、「手刷り」印刷は可能だった。

しかも、「手刷り」には、もう一つの手段があった。


 さきの『新聞生活三十年』を出典とする「朝鮮人暴動説」の号外は九月三日付けだが、「写真2」のようなガリ版印刷である。

本文中には、「汗だくになって号外を謄写版に刷る」という作業状況が記されている。


 務台のフトコロ刀といわれた元中部読売新聞社長、竹井博友の著書、『執念』(大自然出版局)によると、電気がこないので九月九日まで、「四谷の米屋からさがしてきたガス・エンジンでマリノニ輪転機を動かして」いたという。

普段よりは印刷能力が低かったので、手刷りやガリ版印刷で補ったのであろう。

晩年の務台から直接取材したという『新聞の鬼たち/小説務台光雄(むたいみつお)』(大下英治、光文社)では、震災当日に「手刷り」と「謄写版」の号外を出した事を認めている。

つまり、務台自身が、段々と真相の告白に迫っていたのだ。


 もう一つの手段は、近県の印刷所の借用である。

斉藤久治の表現によれば、「報知特有の快速自動車ケース号(最大時速一時間百五十哩)」で前橋の地方紙に原稿を届け、九月七日までに、「数十万枚を東京に発、送し、市内の読者に配ることに成功した」という。

 さて、そこからが一編の歴史サスペンスを感じさせるところである。

『新聞生活三十年』の本文には、問題の号外の文章は復原されていない。

そのほかにも本文には、「朝鮮人暴動説」報道に関しての記述はまったくないのである。

 「写真2」は同書の実物大(WEB上の注:87ミリ×53ミリ)である。

もともとのガリ版が乱筆の上に、かなりかすれている。

しかも、極端に縮尺されているから、拡大鏡で一字一字書き写してみなければ、判読できない状態である。

結果から見て断言できるのは、「写真2」のガリ版号外が、『新聞生活三十年』の本文の記述を裏切っているということである。


奇妙な話のようだが、当時の言論状況を考えれば、真相は意外に簡単なことかもしれない。

著者の斉藤が、手元に秘蔵していたガリ版号外の内容を後世に伝えるために、検閲の目を逃れやすいように判読しがたい状態の写真版にして、印刷の段階で、すべりこませたのかもしれないのである。

 わたしは、このガリ版号外の件を『噂の真相』(80・7)に書いた。

読売の役員室に電話をして務台自身の証言を求めたが、返事のないまま務台は死んでしまった。

あの時代の人々には、この種の秘密を墓場まで抱いていく例が多いようだ。残念なことである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-4.html


「米騒動」と「三・一朝鮮独立運動」の影に怯える当局者


「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、発生地帯の研究などもあるが、いまだに決定的な証拠が明らかではない。

軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告もある。

民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。

しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。


いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。

 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。

 さきに紹介した「内務省警保局長出」電文の打電の状況については、「船橋海軍無線送信所長/大森良三大尉記録」という文書も残されている。

歴史学者、松尾尊兌の論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」(『思想』93・9)によると、

大森大尉は、

「朝鮮人襲来の報におびえて、法典村長を通じて召集した自警団に対し四日夜、

『諸君ノ最良ナル手段ト報国的精神トニヨリ該敵ノ殲滅ニ努メラレ度シ』

と訓示したために現実に殺害事件を惹起せしめ」たのである。


 九月二日午後八時以降と、一応時間を限定すれば、「噂」「流言」、または「好意的宣伝」を積極的に流布していたのは、うたがいもなく内務省筋だったのである。

 なお、さきの船橋発の電文例でも、すでに「戒厳令」という用語が出てくる。

「戒厳」は、帝国憲法第一四条および戒厳令にもとづき、天皇の宣告によって成立するものだった。

前出の『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、この経過をつぎのように要約している。


「一日夜半には、内相官邸の中庭で、内田康哉臨時首相のもとに閣議がひらかれ、非常徴発令と臨時震災救護事務局官制とが起草された。

これらは戒厳に関する勅令とともに二日午前八時からの閣議で決定され、午前中に摂政の裁可を得て公布の運びとなったのである」


 前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」によると、この戒厳令公布の手続きは、「枢密院の議を経ない」もので「厳密にいえば違法行為である」という。

ただし、このような閣議から裁可の経過は、表面上の形式であって、警視庁は直ちに軍の出動を求め、それに応じて軍も「非常警備」の名目で出動を開始し、戒厳令の発布をも同時に建言していた。


 戒厳令には「敵」が必要だった。

警察と軍の首脳部の念頭に、一致して直ちにひらめいていたのは、一九一八年の米騒動と一九一九年の三・一朝鮮独立運動の際の鎮圧活動であったに違いない。

 首脳部とは誰かといえば、おりから山本権兵衛内閣の組閣準備中であり、臨時内閣に留任のままの内相、水野錬太郎は、米騒動当時の内相だった。

その後、水野は、三・一朝鮮独立運動に対処するために、朝鮮総督府政務総監に転じた。


 震災当時の警視総監、赤池濃は、水野の朝鮮赴任の際、朝鮮総督府の警務部長として水野に同行し、一九一九年九月二日、水野とともに朝鮮独立運動派から抗議の爆弾を浴びていた。

 震災発生の九月一日、東京の軍組織を統括する東京衛戍司令官代理だった第一師団長、石光真臣は、水野と赤池が爆弾を浴びた当時の朝鮮で、憲兵司令官を勤めていた。

 つまり、震災直後の東京で「市内一般の秩序維持」に当たる組織の長としての、内相、警視総監、東京衛戍司令官代理の三人までもが、朝鮮独立運動派から浴びせられた爆弾について、共通の強い恐怖の記憶を抱いていたことになる。

さらに軍関係者の方の脳裏には、二一か条の要求に反発する中国人へのいらだちが潜んでいたにちがいない。

 その下で、警視庁の実働部隊の指揮権をにぎる官房主事、正力は、第一次共産党検挙の血刀を下げたままの状態だった。

正力自身にも、朝鮮総督府への転任の打診を受けた経験がある。


 かれらの念頭の「仮想敵」を総合して列挙すると、朝鮮人、中国人、日本人の共産党員または社会主義者となる。

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戒厳司令部で「やりましょう」と腕まくりした正力と虐殺


 戒厳司令部の正式な設置は、形式上、震災発生の翌日の午前中の「裁可」以後のことになる。だが、震災発生直後から、実質的な戒厳体制が取られたに違いない。

前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」には、当時の戒厳司令部の参謀だった森五六が一九六二年一一月二一日に語った回想談話の内容が、つぎのように紹介されている。

「当時の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、腕まくりして司令部を訪れ

『こうなったらやりましょう』

といきまき、阿部信行参謀をして

『正力は気がちがったのではないか』

といわしめたと語っている」


 文中の「阿部信行参謀」は、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となった。

これらの戒厳司令部の軍参謀の目前で、腕まくりした正力が「やりましょう」といきまいたのは、どういう意図を示す行為だったのであろうか。

正力はいったい、どういう仕事を「やろう」としていたのだろうか。

「気がちがったのではないか」という阿部の感想からしても、その後に発生した、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量「保護」と、それにともなう虐殺だったと考えるのが、いちばん自然ではないだろうか。


森五六元参謀の回想には、この意味深長な正力発言がなされた日時の特定がない。


だが、「やりましょう」という表現は、明確に、まだ行為がはじまる以前の発言であることを意味している。

だから、戒厳司令部設置前後の、非常に早い時点での発言であると推測できる。

警察と軍隊は震災発生の直後から、「保護」と称する事実上の予備検束を開始していた。

その検束作業が大量虐殺行動につながったのである。

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「社会主義者」の「監視」と「検束」を命令していた警視庁


 関東大震災後の虐殺事件では、直接の殺人犯を二種類に分けて考える必要がある。

 第一の種類は、いわゆる「流言」「噂」または「情報操作」にあおられて、朝鮮人や中国人を無差別に殺した一般の自警団員などの民衆である。

前項で検討した材料から判断すれば、虐殺を煽ったのは正力ほかの警察官であり、こちらの方がより悪質な間接殺人犯である。

背後には日本の最高権力の意思が働いていた。


 同じ中国人の殺害でも、のちにくわしくふれる王希天のような指導者の場合には、ハッキリと「指名手配」のような形で拉致監禁され、しかも、職業軍人の手で殺されている。

日頃から敵視していた相手を、地震騒ぎに乗じて殺したことが明らかである。

朝鮮人についても同じような実例があったのかもしれない。

社会主義者の虐殺に関与したのは、明白に、警察と軍隊だけであった。

これらの、相手を特定した虐殺の関与者が、第二の種類の職業的な直接的な殺人犯である。

その罪は第一の種類の場合よりもはるかに重いし、所属組織の上層部の機関責任をも厳しく問う必要がある。

上層部による事後の隠蔽工作は、さらに重大かつ悪質な政治犯罪である。


 正力らが犯した政治犯罪を明確にするために、虐殺事件の問題点を整理してみよう。

 中国人指導者の王希天や日本人の社会主義者の場合には、かれらが警察と軍の手で虐殺されたのは、いったん警察に「指名手配」のような形で拉致監禁されたのちのことである。

警察の方では、軍に身柄を引き渡せば殺す可能性があるということを、十分承知の上で引き渡している。

軍の方が虐殺業務の下請けなのである。

当時の制度では、戒厳令のあるなしにかかわらず、市内秩序維持に関するかぎりでは警視庁の要請で軍が動くのであった。

全体の指揮の責任は、警視庁にあった。警視庁と戒厳司令部の連絡に当たっていたのは、官房主事の正力であった。


『巨怪伝』では、つぎのような経過を指摘している。

「九月五日、警視庁は正力官房主事と馬場警務部長名で、

『社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよ』

という通牒を出した。

さらに十一日には、正力官房主事名で、

『社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ』

という命令が発せられた」


 これによると、「社会主義者」の「監視」または「検束」に関する警視庁の公式の指示は、九月五日以後のことのようである。

ところが、「亀戸事件」の犠牲者、南葛労働組合の指導者、川合義虎ら八名の社会主義者が亀戸署に拉致監禁されたのは、それ以前の「三日午後十時ごろ」なのである。

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「使命感すら感じていた」亀戸署長の暴走を弁護する正力


『関東大震災と王希天事件/もうひとつの虐殺秘史』(田原洋、三一書房、以下『関東大震災と王希天事件』)では、川合義虎ら八名の社会主義者が近衛騎兵によって虐殺された「亀戸事件」の経過を細部にわたり、「時系列にしたがって検分」している。

 かれら八名の社会主義者が

「三日午後十時ごろ、理由も何もなく、狙い打ちで検束されてしまった」

時点では、十一日の「検束」命令どころか、五日の「監視」通牒さえ出ていなかったのである。


 亀戸署管内では、別途、それに先立って、中国人大量虐殺の「大島事件」と、反抗的な自警団員四名をリンチ処刑した「第一次亀戸事件」も発生している。

署長の古森繁高は、社会主義者らの生命を奪うことに「使命感すら感じていた」という点で、「人後に落ちない男」であった。


古森は、「朝鮮人暴動説」が伝えられるや否や、自ら先頭に立ってサイドカーを駆使して管内を駆け巡り、「二夜で千三百余人検束」し、「演武場、小使室、事務室まで仮留置場にした」のである。


 社会主義者の検束に当たって古森が「とびついた」のは、「三日午後四時、首都警備の頂点に立つ一人、第一師団司令官石光真臣」が発した「訓令」の、つぎのような部分であった。

「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」

 つまり、社会主義者が朝鮮人の「暴動」を「悪用」する可能性があるから、注意しろという意味である。

『20世紀を動かした人々』(講談社)所収の「正力松太郎」(高木教典)には、正力が亀戸事件について語った当時の新聞談話が収録されているが、つぎのような説明ぶりで、古森署長の行動の後追い弁護になっている。


「実際、二日、三日の亀戸一帯は、今にも暴動が起るという不安な空気が充満し、二日夜も古森署長は部下の警官を集めて決死の命令を下す程、あたかも無警察の状態で、思想団、自警団が横行していたそうで、

軍隊の力を頼んで治安維持を保つべく、ついにこうしたことになったのであるが、

今回の事件はまったく法に触れて刺殺されたものである。

警官が手を下したか否かは、僕としては、軍隊と協力、暴行者を留置場外に引き出したことは事実であるが、刺殺には絶対関与していないと信ずる」


 この新聞談話から、社会主義者にかかわる部分を抜き出して、検討してみよう。

 まずは、「思想団」が「横行していたそうで」というが、そのような事実があったと主張する歴史書は皆無である。

つぎには、「法に触れて刺殺」と断定していうが、せいぜいのところ、留置場のなかで抗議の大声を挙げたり、物音を立てたぐらいのことであって、

そのどこがどういう「法に触れ」たのかの説明がまったくない。

「暴行者を留置場外に引き出したことは事実」としているが、これも同じ趣旨である。

正力はいったい、どの行動を指して「暴行」だと断定しているのだろうか。


 最後の問題は、「[警察側が]刺殺には絶対関与していないと信ずる」という部分にある。

正力としては、虐殺の責任を「軍隊」になすりつけ、監督責任を逃れたかったのであろう。

だが、すでに指摘したように、当時の制度では警視庁の要請で軍が動くのであった。


『関東大震災と王希天事件』には、古森署長がみずからしたためた「第一次亀戸事件」に関する報告が収録されている。

警視庁が編集した『大正大震火災誌』からの引用である。

引き渡しの理由は、「兵器ヲ用ウルニアラザレバ之ヲ鎮圧シガタキヲ認メ」たからだとなっている。

古森は、「兵器」による「鎮圧」を予測しつつ、または希望しつつ、反抗的な自警団員四名を軍に引き渡したのだ。

結果は、違法なリンチ処刑だった。


 この四名の自警団員の場合は、道路で日本刀を持って通行人を検問していた。

警官が検問の中止を勧告したところ、「怒って日本刀で切りかかった」のだそうである。本人たちは、警察が流した「朝鮮人暴動説」に踊らされていたわけだから、中止勧告が不本意だったのだろう。

留置場内で警察の悪口を並べ、「さあ殺せ」とわめいたりしたようである。

「結局、軍・警察の処置は妥当と認められ、四人は死に損となった」とあるが、リンチ処刑が「横行」するような「無警察」状態を演出したのは、いったいどちらの方なのだろうか。

 しかも、『関東大震災と王希天事件』ではさらに、この四日夜の「第一次亀戸事件」を、川合義虎ら八名の社会主義者の虐殺、いわゆる「亀戸事件」への導火線になったのではないかと示唆している。

反抗的な自警団員四名の引き渡し以後、留置場内は「前にもまして騒然となった」のである。そこで「古森は、ついに五日午前三時」、川合らを騎兵隊に引き渡した。同書では時系列の記述の最後を、つぎのように結んでいる。

「古森は『失態』を告発する恐れのある川合らを抹殺した。

両次亀戸事件の犠牲者十四人の死体は、こっそり大島八丁目に運ばれ、多くの虐殺死体にまぎれて焼却された」


 同書はまた、この「両次亀戸事件」に、中国人指導者王希天虐殺事件と大杉栄ら虐殺事件に共通する「パターン」を指摘する。

「法にしばられる警察は、自ら手を下さずとも、戒厳令下で異常な使命感と功名心に燃え狂っている中下級軍人を、ちょっとそそのかすだけで、目的をとげることができた」のである。

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留学生で中華民国僑日共済会の会長、王希天の虐殺事件


 さらに重大な問題は、すでに何度か記した在日中国人の指導者、王希天の虐殺事件であった。

 ここで「さらに重大な問題」と記した意味には、虐殺そのものとは別の側面も含まれている。

この事件は、読売の紙面が輪転機にかける鉛版の段階で削除されるという事態を招いていた。

つまり、この事件は、本書の主題の読売の歴史に、深い影を落としているのだ。


 元警視庁警務部長が、こともあろうに首都の名門紙に「乗りこむ」という事態は、一種の政治犯罪を予測させる。

だが、およそ重大な犯罪の背景には、間接的または一般的な状況だけではなくて、直接的な契機、または引くに引けない特殊な動機があるものである。

とくに、一応は正常な社会人として通用してきた人物を「重大な犯罪」に駆り立てるためには、それだけ強力で衝動的な動機が必要である。

わたしは、この事件の真相を知ることによって初めて、長年の、もどかしい想いの疑問の核心部分に達したと感じる。

読売の紙面の鉛版削除という稀有な事態を招いたこの事件こそが、正力の読売「乗りこみ」という、これまた稀有な事態の直接的な動機だと、確信するに至ったのである。


 関東大震災と朝鮮人・社会主義者の虐殺の関係は一応、一般にも広く知られている。

 だが、虐殺の被害者の中でも「中国人」の三文字は、これまで付け足りのようだった。

とくに知られていなかったのは、王希天虐殺事件そのものと、その国際的な重要性であった。

中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生、王希天は、陸軍将校から斬殺されていた。

「行方不明」と発表されていた王希天の捜査、調査活動は、当時の政界、言論界を揺るがす国際的な大事件に発展していたのである。


 一九九五年には、さまざまな角度から日本の戦後五〇年が問われた。

試みに、その年の暮れの集まりで会った在日朝鮮人の研究者と、駐日特派員の中国系ジャーナリストに、「王希天虐殺事件を知っていますか」という質問を向けてみた。

案の定、二人とも、まったく知らなかった。

詳しく話すと、真剣な表情で耳を傾けてくれたのちに、「大変に貴重な情報を教えていただき、ありがとうございました」と、ていねいにお礼をいわれた。

その後、何人かの日本人ジャーナリストにも同じ質問を向けてみたが、やはり、王希天の名を知っている人は非常に少ない。

ただし、わたし自身も数か月前に知ったばかりで、自慢などできる立場ではなかった。「五十歩百歩」そのものである。


 王希天が代表としてノミネートされる中国人の大量虐殺事件については、いまから七三年前の一九二三年(大正12)、関東大震災の直後に、中国政府が派遣した調査団が訪日している。

日本政府が対応に苦慮した国際的大事件である。ではなぜ、そんな大事件が、いまだに広くどころか専門家にさえ知られていないのだろうか。


 中心的な理由は簡単である。

当時、日本政府首脳が「徹底的に隠蔽」の方針を決定し、全国の警察組織を総動員して、新聞雑誌(放送は発足前)報道をほぼ完全に押さえこんだからである。

基本的には、そのままの言論封鎖状況が続いているのだ。


 王希天は、関東大震災の直後、亀戸署に留置されたのち陸軍に引き渡され、以後、警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」となっていた。

陸軍当局も、当時は警視庁官房主事兼高等課長の正力松太郎を実質的責任者とする警視庁も、王希天殺害の事実を知りながら、国際的追及の最中、必死になって、ひた隠しにしていた。

実際には王希天は、陸軍の野戦重砲第三旅団砲兵第一連隊の将校たちにだまされて連れ出され、背後から軍刀で切り殺されて、切り刻まれて川に捨てられていた。

事件そのものは、当時の日中の力関係を反映し、最後には、賠償問題さえうやむやのままに葬り去られた。


 象徴的なドラマは、「支那(ママ)人惨害事件」と題する読売新聞(23・11・7)の社説および関連記事の周辺に展開された。

同社説(別掲)と記事をそのまま載せた地方向けの早版は、少部数だが輪転機で刷り出され、発送まで済んでいたのだが、急遽、検閲で不許可、発売禁止となり、各地で押収されたのである。

同時に、その問題の紙面には、「写真3、4」のような鉛版段階での削除という稀有の処置が取られた。


 関係資料は十数点ある。

戦後最初の大手メディア報道は、毎日新聞(75・8・28夕)の「『王希天事件』真相に手掛かり/一兵士の日記公開/『誘い出して将校が切る』」だが、同記事の段階ではまだ、王希天殺害についての証言は、所属部隊の一兵士の「伝聞」にしかすぎない。

以後、日本の研究者、ジャーナリストらの招きで、王希天の遺児が来日した際に、数件の報道があった。

しかし、残念ながら、それらの報道の中には、当時の言論弾圧状況の紹介がなかった。

 専門雑誌の記事、少部数の単行本、断片的なマスコミ報道、それだけでは世間一般どころか普通の企業ジャーナリストの目にさえ、「事件は存在しない」と同様である。

わたしが湾岸戦争以来、「マスコミ・ブラックアウト」と名付けている現象である。

王希天事件の場合には、この現象が意識的かつ政治的に作り出され、しかも、約四分の三世紀にもわたって続いていることになる。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-1.html


「震災当時の新聞」による偶然の発掘から始まった再発見


 おおげさなようだが、わたし自身も、この問題に関する「マスコミ・ブラックアウト」の被害者の一人である。

というのは、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆の際、わたしは王希天について何も知らなかった。

正力と関東大震災後の虐殺事件の関係を調べるために、何冊かの関係書に当たったが、そこには王希天のことは書いてなかった。

実際には、すでにそのころ、雑誌論文や何冊かの単行本に、王希天に関する研究が発表されはじめていたのだが、わたしの資料探索は、そこまで達していなかったのである。


 旧著の発表後にも、つぎつぎと新たな資料が発表されていた。

 前出の『関東大震災と王希天事件』の終章の題は「事件発掘史」となっているが、それによれば、王希天に関して戦後に最初の国内論文が発表されたのは一九七二年である。

 関西大学講師の松岡文平は、『千里山文学論集』(8号)に「関東大震災と在日中国人」を発表した。

その研究の発端の説明は、「震災当時の新聞に、王の『行方不明』が大きく報じられているのに疑問を抱き」始めたからとなっている。

つまり、当時の新聞を調べていたら、偶然、「王希天」というキーワードに突き当たったわけである。


 一九七五年に出版された『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)には、松岡論文を米軍押収資料など裏付け、さらに発展させた横浜市立大学教授、今井清一の研究が収められている。

だが、その時点では、王希天虐殺の事実については、つぎのような推測の範囲にとどまっている。

「野重[野戦重砲第三旅団砲兵]第一連隊の将校が、おそらく旅団司令部の意もうけて人に知られない時間と場所とを選んで殺害したのであろう」


 『甘粕大尉』の著者、角田房子は、一九七九年に同書の中公文庫版の「付記」として、つぎのように記している。

「『甘粕大尉』執筆中私は、関東大震災直後のドサクサの中で惨殺された王奇天を調べたが、努力の甲斐もなく確かな資料を見つけることが出来なかった。

 本書初版は昭和五十[一九七五]年七月二十五日に出版された。それから一ヵ月後、八月二十八日の『毎日新聞』夕刊に『「王奇天事件』真相に手掛り/一兵士の日記公開』という記事と、王奇天の経歴が発表された。関連記事は九月一日夕刊にもあった」

 角田は「希」を「奇」と誤記している。わたしの旧著、『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社、79刊)は、この『甘粕大尉』の「付記」が書かれたのと同じ年の、一九七九年に出版されている。そのころまでは、こんな状況だったのである。

 さきの毎日報道から七年後、『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋(よう)は、王希天を殺した本人の「K中尉」こと、元砲兵中尉(のち大佐)の垣内八州男を探し当てた。

垣内は、拉致された王希天の「後ろから一刀を浴びせた」ことを認める。

「[殺害を指示した佐々木大尉]は、上から命令を受けておったと思います。……

後で、王希天が人望家であったと聞いて……驚きました。

可哀そうなことをしたと……[殺害現場の]中川の鉄橋を渡るとき、いつも思い出しましたよ」、

などと、その後の心境を、ポツリ、ポツリと告白する。


『将軍の遺言/遠藤三郎日記』(宮武剛、毎日新聞社、86刊)は、毎日新聞の連載記事をまとめたものである。

のちに紹介するが、遠藤は当時、垣内中尉の直属上官だった。

 つい最近の一九九三年に発行された『震災下の中国人虐殺/中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』(仁木ふみ子、青木書店、以下『震災下の中国人虐殺』)には、「日本側資料について」の項目がある。

それによると、「軍関係資料」の内、参謀本部関係は米軍による接収以前に処分されており、防衛庁戦史資料室には皆無である。

警視庁関係は米軍に接収され、現在は国会図書館と早稲田大学で一部のマイクロフィルムを見ることができる。

一部の、しかし、きわめて貴重な資料が、外務省外交史料館に、「一目につかない工夫をして保存」されていたようである。

『関東大震災/中国人大虐殺』(岩波ブックレット、91刊)の著者でもある仁木ふみ子は、以上のような資料探索の結果、ついに、外務省外交資料館に眠っていた「まぼろしの読売新聞社説」までを発見した。

 これだけの材料が揃っているのを知ったとき、とりわけ、「まぼろしの読売新聞社説」の「発見」について、最初に『巨怪伝』の記述を目にしたとき、徐々に、そしてなお徐々に徐々に、長年の疑問と戦慄の想いが、わたしの胸の奥底からこみ上げ、背筋を走り、全身に広がり始めた。

これらの発見は、わたし自身にとっても、大変な半生のドラマの一部だったのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-2.html


「相手は外国人だから国際問題」という理解の重大な意味


 以上の資料に接するより一六年前、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』の仕上げの段階で、わたしは一応、国会図書館のマイクロ・フィルムで当時の読売の記事を検索していたのである。

そこには明らかに、輪転機にかける鉛版の段階での削除と見られる紙面があった。だが、その時には、それ以上の詳しい追及をする時間の余裕がなかった。

そこで旧著では、「なお、読売新聞の紙面そのものの細部にわたる調査も必要である」という心覚えを残し、つぎの点だけを中間報告として記しておいたのである。

「実物をみると、関東大震災の記事に、相当量の、鉛版段階における全面削除がみられる。一部の残存文字から察するに、震災時の朝鮮人、社会主義者に関する記事であることに間違いない」

 ところが、「間違いない」と断定的に書いた記事内容の推測は、不十分であった。

まずは「中国人」が抜けていた。

拡大した「写真5」で見れば、全面を削り取られた一九二三年一一月七日の読売記事の残存文字のなかには、明らかにルビ付きで「王希天氏(おう き てん し)」とあるのだが、その意味が、当時のわたしには分からなかった。

その左隣の、やはりルビ付きの「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」の方だけに気を取られて、王希天を朝鮮人だと思い込んでしまったのである。

残念といえば残念だが、わたしは、長年の戦慄の想いに終止符を打ち、この訂正と調査不足の告白を余儀なくしてくれた諸氏の研究に感謝する。


『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋の場合には、わたしとはまったく逆で、偶然の機会に王希天事件の存在を知り、それから追跡取材を開始した。

 念のために田原本人にも直接聞いて確かめたが、田原は別の用向きで、元陸軍中将の遠藤三郎と会った。

話がたまたま関東大震災当時におよび、遠藤が、当時は大尉で、江東地区の第一線の中隊長だったと語った。

田原が「大杉栄が殺されましたね」と相槌を打つと、遠藤は意外なことを語りだした。

 正確を期すために、田原の著書の方から引用すると、遠藤は、「大杉栄どころじゃない。もっと大変な(虐殺)事件があったんだ」と言い出した。

「オーキテンという支那人(原文傍点有り)労働者の親玉を、私の部隊のヤツが殺(ヤ)ってしまった。

朝鮮人(原文傍点付有り)とちがって、相手は外国人だから、国際問題になりそうなところを、ようやくのことで隠蔽(いんぺい)したんだ」

 文中の支那人(原文傍点有り)と朝鮮人(原文傍点有り)の傍点は、田原が付けたものである。

遠藤が育った時代の用語そのままだから、別に他意はないと思う。

最大の問題は「相手は外国人」の部分にある。

 わたしの場合、この部分を自分のワープロで入力した時に、初めて、その意味の重大さに気付いた。


それまでの頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」を、関東大震災の際の「虐殺被害者」という項目で一括して考えていたのである。

「虐殺」を告発する立場の人々の多くは、わたしと同じ錯誤に陥っている可能性が高いと思う。

ところが、立場が違えば、同じ物が別の角度から見える。時の権力の頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」の三者は、まったく別の項目で整理されていたのである。

とくに「中国人」は、別扱いの「外国人」だった。

監督官庁としても外務省が加わるから、行政上では決定的な違いが出てくる。


 震災時の朝鮮人の大量虐殺事件も、もちろん重大であるし、国際的にも非難を浴びた。

しかし、当時の国際法の秩序からいえば、植民地保有とその支配自体は非合法ではない。

許しがたいことではあるにしても、いわゆる欧米列強の帝国主義国を中心とする国際外交上で考えるかぎりでは、日本人の社会主義者の虐殺問題と同様の国内問題である。

ところが、中国人の虐殺となると、当然のことながら、明確に外国人の虐殺であり、国際外交上の問題とならざるをえない。

だから遠藤は、「大杉栄どころじゃない」と語ったのである。


 しかも、当時の日本は、満鉄の利権拡大を中心に、中国東北部への侵略の意図を露骨にしていた。

第一次世界大戦中の一九一五年(大4)には、火事場泥棒で奪った旧ドイツ領の青島に増兵を送って威圧を加えながら、対中国二一ヵ条要求を突き付け、その内の一六ヵ条を承認させていた。

中国の内部での反日運動も高まっていたし、国際的な批判も日を追って増大していた。

だから、「中国人指導者・王希天」の虐殺は、現在の日本人が感じるよりも、はるかに重大な国際問題だったのである。


 その後の資料探索で、田原は読売の紙面の削除を知り、紙面の検索をしている。田原は、事前に、その削除された紙面の執筆者が、中国通の著名記者、小村俊三郎だということまで知っていた。

「中国問題に詳しい小村俊三郎」については、『読売新聞百年史』にも非常に簡単ながら、その「入社」が、松山社長時代の項に記録されている。それだけのキャリアが認められる人物だったのである。

しかし、削除された紙面の内容については、まだ、残存文字という手掛りしかない。田原は、非常に残念そうに、つぎのように記していた。

「削除された記事は、いまとなっては復原の方法はない。

『読売』のバックナンバーは、削られた白紙のままだし、小村も記録は残していない」

 田原はさらに、つぎのような想像を付け加えていた。

「そこで推測するしかないが、この記事の筆者は小村俊三郎記者であった。

彼は期するところがあって、ある“過激な”記事を書こうとした。検閲にかけたのでは通りっこないから、何らかの策を使って『鉛版』をとり、ともかく早版を刷り出すところまでは行った。

が、いよいよ近郊版を刷ろうとしたところで誰かにストップをかけられてしまった。

鉛版工のベテランが、指定された記事に削り(のみを使う)を入れる。……

と、そのとき、小村が必死の形相で近より『ここだけ削り残してくれ』と耳打ちする。

あるいは何らかの方法で、小村の“頼み”が伝えられた。

残せといった文字は『王希天』の三文字であった。

この三文字が残っていれば、何が書かれていたか、およその察しはつくのである」

 田原の想像は、おそらく「当たらずといえども遠からず」であろう。

さきにも記したし、「写真3」で明らかなように三文字のみではないが、「王希天氏(おう き てん し)」と「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」という決定的に重要なキーワードだけが、なぜか明瞭に残っているのだ。

とうてい偶然の結果とは思えない。

戒厳令が敷かれていた当時のことだから、その鉛版がはまっていた輪転機の側には、警察官、それもかなり重要な地位の検閲のベテランが、にらみを利かせていたのではないだろうか。

そうだとすれば、まさに、その目の前で、緊迫の鉛版削りのドラマが展開されていたことになる。

 この想像のドラマの緊迫感が、わたしの全身に、いい知れぬ戦慄を走らせるのだ。

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「まぼろしの読売社説」の劇的発見! 分散して資料を温存か?


 さて、それだけのドラマを秘めた削除紙面の実物が、また、なんとも劇的なことには、その後に発見されたのである。

削除は二か所にわたっていて、二面は社説、五面は関連記事であった。

「写真6、7」の「要保存/発売禁止トナレル読売新聞切抜」がそれである。

 発見者の仁木は、元日教組婦人部長である。

会ってみると、かつてのいかめしい肩書きとは違って、優しい教師そのままの気さくな人柄だった。

「定年後に時間ができて、ただただシラミ潰しに探し回っただけのことですから……」と、静かにほほ笑む。

とくに事前にお願いしたのでもないのに、貴重この上もない発見資料のコピーをも用意してくれていた。

わたしは、それを押し頂いて、発見の経過をうかがった。


 仁木は、『震災下の中国人虐殺』の中で、つぎのように記している。

「これは『要保存、発売禁止となれる読売新聞切抜』と墨書されて、外務省外交資料館にひっそりとしまわれていたのであった」

 この「ひっそりと」という表現の裏にも、おそらく大変な戦慄の人間ドラマが潜んでいたようなのである。

仁木は、「人目につかない工夫をして保存」されていたという表現もしている。

くわしくは同書を参照していただきたい。

何か所にも分かれて外務省外交資料館の資料管理状況が記されている。

とりあえず簡略に要約紹介すると、「書類を分散させて一見関係なさそうな項目の下に配列し」てあったのである。

最後には、つぎのように謎を解く鍵の人名が出てくる。


「だれがこのような文書配列をしたのであろうか。

事件の結末に何とも納得できなかった一青年事務官が、歴史の検証の日に備えて、暗号のように分散させ保管したのではなかったか。

かれの名は多分守島伍郎である。後の駐ソ大使、戦後は自由党代議士一期。

日本国連協会専務理事、善隣学生会館理事長をつとめ、一九七〇年、七〇歳で亡くなった」


 田原によれば、守島は、「同じ外交出身のワンマン吉田茂(一八七八〜一九六七)とは一定の距離を保ち、『オレは社会党から出てもおかしくはない』と語ることもあった」という。

いわゆるリベラル派であろう。

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中国側の調査団は「陸軍の手で殺されたと思う」と語って帰国


 さて、以上はまだ、王希天虐殺事件をめぐる緊迫のドラマの導入部にしかすぎない。

もう一度、物語の主人公を紹介し直し、この事件の国際的および国内的な位置付け、引いては歴史的な意味を確認し直したい。

 王希天は、当時はエリートの留学生で、その後に満州国がデッチ上げられる中国東北部の吉林省から来日していた。

推定二七歳。東京中華留日キリスト教青年会の幹事、および中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった。


1948年、東京にて、前列右から周恩来、王希天
写真提供:仁木ふみ子


 事件発生当時においても、日本国内の報道よりも中国での報道の方が早かった。

『中華日報』(23・10・17)の社説では、「共済会長王希天が警察に捕らわれたまま行方不明」という事態を「故意の隠蔽」と疑い、「軍、警察の手」によって「殺された」可能性を指摘していた。

仁木はさらに、王希天の出身地、長春、吉林省の新聞、『大東日報』(23・11・1)の記事から、つぎのような憤激の呼び掛けの部分を紹介している。


「本件発生につき考うるに彼等は吾に人類の一分子と認めざる方法を試みたるものなり。

吾々もし放任し、彼等を問罪せず黙認せば吾々は人間にあらざるなり。同胞起きて醒めよ」


 情報源は、捜索に当たった王希天の友人の留学生や、震災発生後、上海に送還された中国人労働者たちだった。

上海や吉林省などの現地の憤激を背景にして、北京政府も調査団を日本に派遣した。

日本側当局は事実の隠蔽に終始したが、中国側代表団は帰国する前に日本の外務省書記官に対して、「王希天は大杉栄同様陸軍の手で殺されたと思う」と語っていた。

『震災下の中国人虐殺』では、「まぼろしの読売新聞社説」という小見出しを立てて、つぎのように指摘している。

「十一月七日、『読売新聞』の朝刊は発売禁止となり、二面の社説と五面の記事を削りとって、この部分は空白のまま発行された。

政府に強烈なインパクトを与えたといわれる『まぼろしの読売社説』は復原すると次のようである」

 以下、二面の社説、「支那人(ママ)惨害事件」の全文は、巻末(367頁・WEB版(15)資料)に小活字で紹介する。

とりあえず要約すると、「惨害」の犠牲者を「総数三百人くらい」としている。

「支那人労働者の間に設けられた僑日共済会の元会長王希天も亀戸署に留置された以後生死不明となった事実」を指摘し、「重大なる外交問題」の真相を明らかにしないのは、「一大失態」だと論じている。

 結論部分は、「本事件に対する政府の責任は他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。[中略]

故に吾人は我が国民の名において最後にこれをその陸軍に忠言する」となっている。

 仁木は、この「まぼろしの読売新聞社説」を、つぎのように評価している。

「戒厳令下の執筆であるが、実に堂々たる論調である。[中略]

一本の筆に正義を託す記者魂が厳然とそこに立つ」


 同時に鉛版から削除された五面の記事は、

「支那政府を代表し抗議委員が来朝する/王氏外百余名の虐殺事件につき精査の上正式に外務省へ抗議申込/我態度を疑う公使館」

という三段大見出しで、本文約八〇行である。

これは、もしかするとわたしの新発見なのかもしれないが、削除された二面の社説の下のベタ記事を眺めていたら、「虐殺調査委員/支那から派遣する」という本文七行の「北京四日国際発」電が残っていた。

いずれも記事の本文では「調査委員」または「特別委員」となっているのに、見出しで「抗議委員」または「虐殺調査委員」と表現している。

社説の題にも「惨害」とある。

当時の読売新聞のデスクの、この事件に対する判断基準が伝わってくるような気がする。

 読売の全面削除された社説は当然、王希天その人と中国側の動きを知り、その惨殺の事実を知るか、またはその事実にせまりつつあったジャーナリストの存在を示している。

 全面削除の社説を執筆した小村俊三郎(一八七二〜一九三三)は、「外務省一等通訳官退職後、東京朝日、読売、東京日日など各新聞社で中国問題を論評、硬骨漢として知られる中国通第一人者」だった。

王希天事件については、その後も独自の調査を続け、外務省に「支那人被害の実情踏査記事」と題する報告書を提出している。

 しかもこの小村俊三郎は、日露戦争後のポーツマス条約締結で有名な小村寿太郎と、祖父同士が兄弟の再従兄弟の関係にあった。

いわば名家の出でもあるし、もともと東京の主要名門紙に寄稿するコラムニストなのだから、顔も広い。

政府筋が個人的に攻撃すれば逆効果を生み出しかねない。

当時の松山社長時代の読売には、そういう人材が集まっていたのである。

『巨怪伝』では、当時の読売の報道姿勢を、つぎのように指摘している。

「大杉栄殺害の事実を、時事と並んでいち早く号外で報じたことにも示されるように、関東大震災下に起きた一連の虐殺事件の真相と、政府の責任を最も鋭く追及したのが読売新聞だった」

 もしかすると、内務省関係者は、田原が想像したような、「王希天」の三文字をかすかに残す印刷現場でのひそかな抵抗のドラマにも気付いて、警戒の念を高めていたのかもしれないのである。

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九二四件の発売禁止・差押処分を大手紙の社史はほぼ無視


 さて、ここで愕然とせざるをえないのは、日本の三大新聞、朝日・毎日・読売、すべての社史に、ほぼ共通する実情である。

王希天虐殺事件はもとより、関東大震災下の言論弾圧に関しての記述が、あまりにもお粗末なのである。

 まずは前項の「まぼろしの読売社説」の件であるが、『読売新聞百二十年史』を最新とする読売の社史には、たったの一行の記述もない。

それどころか、関東大震災後に報道規制があったことすら、まったく記されていない。

改めて呆れはしたが、読売のことだから、さもありなんと諦めた。


 毎日新聞はどうかというと、『毎日新聞七十年』にはまったく記載がないが、最新の『毎日新聞百年史』には、つぎのように記されている。

「新聞は“大杉栄殺し”を直感したが、戒厳令下、報道の自由はなかった」

 ただし、これだけでは、陸軍憲兵隊による社会主義者大杉栄の一家惨殺事件のみが、報道規制の対象になったかのような、誤解が生れかねない。

「王希天」の三文字はもとより、「朝鮮人」という単語も、「中国人」という単語もない。

 朝日の場合も、『朝日新聞の九十年』には確かに、「惨禍の中で特報や号外を連発」の見出しはある。

「『大阪朝日』数十万部を増刷して、船と汽車で東京に送」ったことなどの奮闘の経過は、八頁にもわたって克明に記されている。

だがやはり、報道規制の「キ」の字も出てこないのである。

 朝日は『百年史』を発行せずに、「百年史編修委員会」名で、創立から数えると一一一年目に当る一九九〇年から『朝日新聞社史』全四巻の社内版発行を開始し、一九九五年から全巻を市販している。

本文六五九頁の第二巻、『朝日新聞社史/大正昭和戦前編』には、つぎのように記されている。

「震災直後の流言からおこった社会主義者や朝鮮人の陰謀騒ぎで多数が殺された事件の実態は、九月二日に出された戒厳令によって報道が差し止められ、東朝[東京朝日]は十月二日になってその一部の報道が許された」

 ここでかろうじて「朝鮮人」という単語が、報道差し止めとの関係で登場する。

しかし、「中国人」も「王希天」もない。


 この状況は、いかにも不自然であり、不都合なのである。

国際的にも評判の「横並び」方式による隠蔽工作が、いまだに継続されているのではないかとさえ思えるのである。

 歴史的な資料がなかったわけではない。

さきに挙げたほかにも、たとえば、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会、75刊)では、これらの一連の虐殺事件に関する「ジャーナリズムの沈黙と右傾化」と、それを促進した権力の「強圧」を指摘している。

出典として『災害誌』(改造社編)などを挙げており、当時の新聞統制の模様を、つぎのように要約している。

「甘粕事件、内鮮人殺害、自警団暴挙に関する差止事項を掲げた日刊新聞で、発売頒布を禁止されたものは、寺内内閣当時の米騒動の際における処分に比すべきものと見られ、

新聞紙の差押えが、十一月頃まで殆ど三十以上に及び、一新聞紙の差押えが優に二十万枚に達したものがあった」


 ただし、ここにも「中国人」が登場しないという弱点があるし、さらには、この数字でも実は、まだまだ控え目だったようなのである。

おそらく、ここでいわれている「米騒動の際における処分に比すべきもの」という水準をはるかに越えていたに違いない。

日本の言論弾圧の歴史上、最大規模の問題として根本的な見直しをせよ、日本のメディア史の研究をやり直すべきだと、強調せざるをえないのである。

『関東大震災と王希天事件』の著者、田原は、当時の内務省警保局図書課の秘密報告を入手し、「表1」の「(秘)震災に関する記事に依り発売禁止並びに差押処分に付せられたる新聞件数調」を作成している。

「総件数」は、なんと、さきの『災害誌』の「三十以上」という数字を一桁以上も上回り、「九二四件」に達しているのである。

その内、「亀戸警察署刺殺事件に関する記事」(王希天行方不明記事を含む)と分類されているものだけでも、「三〇件」である。
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後藤内相が呼び掛けた「五大臣会議」で隠蔽工作を決定


 これだけの言論弾圧を行った当時の内務大臣は、いったい誰だったのであろうか。

 おりから新内閣の組閣中で、

関東大震災発生の九月一日までは留任中の水野錬太郎(一八六八〜一九四九)、

二日からは再任の後藤新平(一八五七〜一九二九)だった。

つまり、内務大臣としては水野の先輩に当る後藤が、この激動の際に、二度目の要職を引き受けていたのである。


 後藤が果たした役割については、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』に、つぎのように記されている。


「一〇月中旬に王希天の行方不明が報道され、同二〇日に中国代理公使から王の殺害について抗議をうけると、日本政府も対策の検討をすすめた。

内務省当局では大島事件、王希天事件を両者とも隠蔽する意見で、

一一月七日には閣議のあと後藤内相、伊集院彦吉外相、平沼騏一郎法相、田中陸相、それに山本首相も加わって協議したうえ、

『徹底的に隠蔽するの外なし』と決定し、中国がわとの応対方法については警備会議に協議させることになった」


 この「閣議のあと」の「協議」については、『関東大震災と王希天事件』にも『震災下の中国人虐殺』にも、さらに詳しい記述がある。

内務省や外務省の関係者の記録が残されているからである。

「協議」の場は「五大臣会議」と通称されている。

 本稿の立場から見て、もっとも重要なことは、この「五大臣会議」が行われた「一一月七日」という日付である。

つまり、「まぼろしの読売社説」を掲載した少部数の早版が、輪転機で刷り出されてしまい、その後に急遽、鉛版が削られた日付なのである。

日付の一致は偶然どころではない。

これこそが「協議」開催の原因であることを示す明白な記録が、すでにたっぷりと発掘されているのである。

 閣議後に協議を呼び掛けたのは後藤である。

だが、内務大臣の後藤が「五大臣会議」を発案したという経過の裏には、なにやら、ご都合主義の謀略的な臭気がただよう。


 本来の建て前からいえば、内務省は、犯罪を捜査し、処罰すべき主務官庁である。

ところが後藤個人は、すでに簡略に紹介したように、外務大臣時代に推進したシベリア出兵とそれに続く米騒動に際して、外務省の霞倶楽部の記者たちと紛争を起こしたり、報道取締りの先頭に立ったりしていた。

メディア界の進歩的勢力とは激しい対立関係にあった。

すでに紹介したように「新聞連盟」結成工作、ただし時期尚早で実らず、などの「新聞利用」なり「新聞操縦」政策を展開していた。

ラディオ放送の支配に関する構想をも抱いていたはずである。

後藤は、しかも、首相の座を狙う最短距離にいた。

その機会に備えて、メディア界の敵対分子を排除したいと腹の底で願っていた可能性は、非常に高い。

当の読売社説の内容自体も重大な問題ではあったが、それを逆手を取って政府部内の主導権を握り、一挙に、かねてからの狙いを実現しようと図ったのではないだろうか。

 政府部内の主導権を握る上では、王希天の虐殺事件は絶好の材料だった。

後藤と田中陸相とは不仲だったというし、外務省は国際世論上、日頃から言論統制には消極的だった。

ところが、この際、後藤と相性の悪い陸軍は加害者であり、被告の立場である。

外務省は国際世論対策で四苦八苦である。

いまこそ特高の親玉、内務官僚の出番であった。

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「荒療治」を踏まえた「警備会議」と正力の「ニヤニヤ笑い」


『関東大震災と王希天事件』では、関係者が残したメモ類を多数収録している。

その日の午後五時から開かれた「警備会議」の冒頭で、岡田警保局長は、つぎのような発言をした。

「本日、急に五大臣会議を開いたのは、今朝の『読売』のためであります。

相手の出方を待つ姿勢で、政府がふらふらしていると、新聞に対する取締まりも徹底を欠くし、むずかしい。

今朝は、

危いところで削除 → 白紙のまま発行

という荒療治になってしまったが、今後は隠蔽の方針も定まったことであるし、お互いに緊密なる連携のもとに、ことを進めたいと思うので、よろしくご協力をお願いします」

 早版地区に送られた少部数の「削除前」の読売は、配達直前に押収されていた。

「五大臣会議」の決定は、あくまでも政府段階での正式決定であって、内務省はすでに隠蔽工作を実施していた。

検閲の実務担当者たちは、「まぼろしの読売社説」を目にした時、冷汗三斗の思いだったに違いないのである。

「警備会議」は、実務担当者による実行手段の相談の場である。

そこには、なんと、小村寿太郎の長男の小村欣一が、外務省情報部次長の立場で参加していた。

読売社説の執筆者、小村俊三郎は、東京高等師範学校に在学中、寿太郎の邸宅に書生として住み、この欣一の家庭教師をしていた。

岡田警保局長が、小村たちに事情を話して隠蔽の「諒解を求むる」という方針を報告すると、欣一は、小村たちについて、「主義上の運動者」だから「諒解を求ることすこぶる困難なるべし」という意見をのべ、「考慮を要する」と注意した。

 いやはや、こうなると最早、何ともものすごい接近戦である。

敵味方入り乱れての白兵戦の様相である。

関係者たちは、上を下への大騒ぎ、という感じがしてくる。

 警視総監の湯浅倉平は「すこぶる沈痛なる態度」であった。

以下、関係者のカナまじりのメモに残された湯浅の「熱心説述」を、ひらがなで読みやすいようにしてみよう。


「本件は、本官のいまだ際会せざる重大問題なり。

本件は実在の事件なれば、これを隠蔽するためには、あるいは新聞、言論または集会の取締をなすにつきても、事実においてある種の『クーデター』を行うこととなる義にて、誠に心苦しき次第なり。

また本件は必ず議会の問題となるべきところ、その際には秘密会議を求め得べきも、少くとも事前あらかじめ各派領袖の諒解を求めおく必要あり。

 さればとて、本件の隠蔽または摘発、いずれが国家のため得策なるかは、自分としては確信これ無く、政府において隠蔽と決定したる以上、もちろんこの方針を体し、最善の努力をなすべきも、自分の苦衷は諸君において十分推察されたし」

 この「苦衷」を訴えた警視総監、湯浅倉平は、その後、正力松太郎とともに虎の門事件で責任を追って即日辞任届けを提出し、のち懲戒免官、恩赦となる。

警視総監になる以前に岡山県知事、貴族院議員になっていた。

虎の門事件の恩赦以後には、宮内相、内相となっている。

 湯浅の発言のあとには、「北京政府が派遣する調査団および民間調査団の調査にどう対処するか、新聞取締などが話題」になった。

新聞取締に関する警保局長の提案は、つぎのようであった。

「適当の機会に主なる新聞代表者を招致し、大島町事件は厳密調査を遂げたるも、結局事実判明せず、

ついては事実不明なるにかかわらず揣摩(しま)憶測して無根の記事を掲載するにおいては、厳重取締をなすべき旨を告げ、

もって暗に発売禁止の意をほのめかせば、効果あるべし」


 この発言内容には、当時の言論弾圧の実情が露骨に表れている。

警保局長はさらに、「新聞取締の必要上、戒厳令撤廃の延期」まで提案したが、これには同意者が少く、そのままとなった。

 この時にはまだ官房主事兼高等課長だった正力松太郎は、職責からいえば、当然、右の「警備会議」に出席しているはずであるが、以上に挙げた資料の「警備会議」の発言者の中には、正力の名はない。

まだ位が低いのである。

もちろん、研究者たちは、正力の存在を十二分に意識してきた。

 田原は、遠藤元中将から直接の証言を得て、詳しい経過を記している。


 正力は、遠藤を警視庁に呼び出していた。

「ニヤニヤ笑いを浮かべ」ながら、「聞き込みも一応終わっています」などと脅しを入れた。

すでに後藤と「五大臣会議」の間にただよう「臭気」を指摘したが、この件で、正力または内務省勢力は、陸軍と対等に取り引きができるネタを握ったわけである。

その強みが正力の顔に表われていたのではないだろうか。

田原はさらに、その後の読売への正力の乗りこみと、小村俊三郎の退社との因果関係をも指摘している。

『将軍の遺書』の方には、つぎのような日記添付「メモ用紙」部分の記載がある。

「佐々木兵吉大尉、第三旅団長の許可を得て、王希天のみをもらい受け、中川堤防上にてK[垣内]中尉、その首を切り死がいを中川に流す。[中略]

正力警備課長[警視庁官房主事の誤記]は、その秘密を察知ありしが如きも深く追及せず」

 以上、概略の紹介にとどめるが、いやはや、驚くべき本音の記録の連続である。

これらの発言記録を発見したときの、田原ら先行研究者の興奮が、じかに伝わってくるような気がするのである。


 事件の翌年、一九二四年(大13)二月二六日に、正力は読売「乗りこみ」を果たす。

 同年一〇月四日、読売記者の安成二郎は、築地の料亭で開かれた前編集長千葉亀雄の慰労会での会話を、あとでメモし、「記憶のために」と注記しておいた。

本人が三六年後に自宅で再発見したこのメモは、『自由思想』(60・10)に発表された。

内容のほとんどは、大杉栄ら虐殺事件の関係であるが、その最後の短い(三)は、つぎのようになっている。

「(王希天はどうしたんでせう、軍隊では無いでせうが……)と千葉氏が言うと、

正力氏は(王希天か、ハハハ)と笑って何も言はなかった」


 この正力の「ハハハ」という笑い声は、どういう響きのものだったのだろうか。

壮年期の正力の声については、『経済往来』(10・3)に、「男性的で丸みがあり、声量があって曇りがない」と記されている。

六尺豊かの大男が、柔道で鍛え、警官隊を指揮してきたのだったから、それだけの迫力のある声だったに違いない。

だが、「虐殺」の話題で出た「ハハハ」という笑い声には、いわゆる「地獄の高笑い」のような、真相を知りつつとぼける不気味さが、漂っていたのではないだろうか。

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戒厳令から治安維持法への一本道の上に見る正力の配置


 軍や警察当局が恐れていたのは、新聞報道の内容や新聞そのものだけではなかった。

小村欣一の発言にもあったように、「主義上の運動者」の動きもあった。

すでに「警備会議」の「話題」にものぼっていた「民間調査団」がある。

そこには、読売の小村記者以外に、東京日日(毎日系)、大阪毎日、東京朝日の記者が参加していた。

かれらは中国から来日した宗教家の調査団と接触する一方、吉野作造邸で協議をしていた。北京政府が派遣した調査団も、吉野作造邸に立ち寄っていた。


 吉野作造(一八七九〜一九三三)は、東大法科卒で、同大教授として政治史を講義していた。

デモクラシーを「民本主義」と訳したことでも知られている。

東大新人会の総帥でもあり、いわゆる大正デモクラシーの理論的主柱ともいうべき存在であった。

後日談になるが、関東大震災の翌年に当たる一九二四年(大13)には、朝日新聞社論説顧問に迎えられ、五か月あまりで退社した。

退社の原因は、「五ヶ条のご誓文は明治政府の悲鳴」という講演内容などを、右翼団体が「不敬罪」として告発したためである。

『朝日新聞の九十年』でも、退社の経過について、「検察当局の意向もあり」と記している。

「不敬罪」の告発自体は不起訴となったが、この件でも朝日は「白虹事件」の時と同様、右翼と検察のチームプレーに屈服したのである。


 さて、以上のような状況を背景にしながら、強権の発動による王希天虐殺事件の隠蔽工作が行われたのだが、それはまず戒厳令下にはじまっている。戒厳令は約二か月半も続いた。

解除は一一月一六日である。『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、戒厳令の解除後に「かわって憲兵が大増強され、警察官もまたピストルまで配備された上に増員された」と指摘する。

 戒厳令下、および以後の虐殺問題報道の全体像をも、調べ直す必要があるだろう。

田原は、王希天虐殺事件の隠蔽工作と大杉殺害事件の関係を、つぎのように示唆する。


「王希天事件は『行方不明』扱いで、十月十七日から二十日にかけて、各紙に掲載された。

『殺害』をにおわせる記述は厳重にチェックされたので、さりげない震災エピソード風に受けとめられ、やがて“関係者”以外には忘れられた。

大杉栄殺害事件で、甘粕らがスケープゴートとなった意味は、単に『犯人』を買って出ただけでなく、報道操作の陽動作戦に必要な犠牲バントとしての役割もあったのである」

 大杉栄殺害事件の軍法会議の進行は、非常に早かった。

戒厳令下の一〇月八日に第一回、以後、一一月一六日、一七日、二一日の四回で結審となり、一二月八日には、甘粕に懲役一〇年などの判決が出ている。

この間の新聞報道は、シベリア出兵以来の「反ソ」キャンペーンとも呼応している。

社会主義者への世間一般の反感をも土台にして、甘粕らに同情的な風潮さえ作り出したようである。


 その後、甘粕はたったの三年で釈放され、満州国の黒幕となる。

緊急事態を根拠にして公布された「治安維持勅令」は、そのまま法律化され、翌々年の一九二五年(大14)に制定される治安維持法への橋渡しの役割を果たした。

このようなドサクサまぎれの突貫工事によって、外にはシベリア出兵、内には米騒動、関東大震災という人災、天災のはさみうちの混乱のなかで、昭和日本の憲兵・警察支配、治安維持法体制は完成を見たのである。


 わたしは、正力の読売「乗りこみ」を、以上の政治状況と深くかかわりながら企まれた一大政治謀略に相違ないと確信している。

 さらにさかのぼれば、当時の読売が「出る釘は打たれる」のたとえ通りの襲撃目標に選ばれた理由には、まさに日本のメディア史の矛盾を象徴するような典型的経過があったというべきであろう。

 第一の理由は、その明治初年以来の歴史的ブランドである。

第二の理由は、「白虹事件」残党を中心に形成されつつあった大正デモクラシーの「メディア梁山泊」としての位置づけである。

最後の第三の理由、すなわち、「まぼろしの読売社説」をめぐるオロドオドロの衝撃ドラマは、それらの歴史的経過の必然的な帰結であった。

読売は、日本の歴史の悲劇的なターニング・ポイントにおいて、右旋回を強要する不作法なパートナー、正力松太郎の、「汚い靴」のかかとに踏みにじられたのである。

 日本の最高権力と、それに追随する勢力は、関東大震災という天災を契機として、大量の中国人とその指導者を虐殺し、卑劣にも、その事実の徹底的な隠蔽を図った。

この虐殺と隠蔽工作とは共に、以後ますます拡大される中国大陸侵略への狼煙の役割を果たした。

 正力社長就任以後の読売新聞は、最左翼から急速に右旋回し、「中道」の朝日・毎日をも、さらに右へ引き寄せ、死なばもろとも、おりからのアジア太平洋全域侵略への思想的先兵となった。

正力の読売「乗りこみ」は、いいかえれば、この地獄の戦線拡大への坂道を転げ落ちようとしている日本にとって、雪だるまを突き落とす最初の、指のひと押しの位置づけだったのではないだろうか。

 正力本人は、戦後にA級戦犯として巣鴨入りした。

だが、この時も、アメリカの世界政策上の措置によって、その罪は裁かれずに終わってしまった。

今こそ改めて、多数の中国人労働者と王希天の虐殺事件とその報道状況とを、日本のジャーナリズムの歴史の中央に位置づけ直し、事実関係を確認し直すべきなのではないだろうか。

自社の歴史を正確に記して過去を反省するか否かは、また、メディア企業の決定的な試金石でもあろう。

 わたしは一応、読売新聞広報部に電話をした。本書に記したような事実を読売新聞は把握しているか、今後の社史などで明らかにする予定があるか、などを問いただした。

しかし、「お答えすべき筋のことではないと思う」という、番犬の唸り声のような返事だけだったので、この件について、本書を「公開質問状」とすると告げた。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-9.html

http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/587.html#c79

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