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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100267
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[リバイバル3] 敷金礼金ゼロで家賃半額も…超安値の「いわく付き」事故物件に人気殺到!首都圏にも多数 中川隆
28. 中川隆[-11292] koaQ7Jey 2019年3月21日 23:02:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[714]

「部屋貸せなくなる」 孤独死物件所有者 修繕・家賃、負担限界
2019/2/28 琉球新報社


 高温多湿の沖縄では遺体は腐敗しやすい。賃貸アパートで「孤独死」が起きた場合、床の張り替えなど部屋の修繕には数十万円以上かかる。借り主が孤立した困窮者であれば、請求できずに大家が修繕費を自費で支払っている。本島中部のアパートを所有するある大家は、生活保護受給者の孤独死が相次ぎ、原状回復に計100万円以上かかったという。大家は「こんなに負担があるなら生活保護世帯に部屋を貸さない大家も出てくる」と懸念する。

 大家は、保証人の該当者がいない場合でも身元引受人を設定しているが、身元引受人は法的に費用を弁償する責任がない。一方、保証人がいても支払い能力がなく、一部費用を自らが出費することもある。

 大家は「困っている人を助けるために部屋を貸している側面もあるが、今後、孤独死が増えてくれば負担も大きくなる。孤立する保護世帯の場合は、行政が対応を考えてほしい」と訴える。現在、生活保護受給者が部屋を借りる際は、行政が最低限度の火災保険額を支出することになっている。大家は最低限度では修繕費用が賄えないとして、保険の掛け金の引き上げを求める。

 家賃が割高な半面、保証人が不要なマンスリーマンションの場合、さらに費用請求が難しい。昨年12月、40代男性が那覇市内のマンスリーマンションで孤独死した。不動産会社によると、部屋の修繕費とリフォーム代には総額約300万円かかる。だが男性と親族は関係を断絶しているため、大家が自費で支払うことになる見込みだ。

 孤独死に対応した大家向けの保険もあるが、全戸にかけないといけないことから費用面でハードルが高いという。不動産会社社長は「ある程度のリスクは覚悟しないといけないが、今後は孤独死が増えてくるので対策を講じたい。高齢者の場合は包括支援センターに連れて行くなどの対応をして、孤独死を減らしたい」と語った。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/662.html#c28

[リバイバル3] CD/SACDプレーヤーからPC・ネットワークオーディオへ 中川隆
32. 中川隆[-11291] koaQ7Jey 2019年3月22日 07:01:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[715]

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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/854.html#c32

[環境・自然・天文板6] 「自由人物理」とは何か〜第一は学問のパラダイム化からの自由。第二はもっと重要なことで学問のビジネス化からの自由/西村肇 短足鰐
5. 中川隆[-11290] koaQ7Jey 2019年3月22日 09:25:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[716]
>その天才たちはマクスウエル、ニュートンの間違いに気がつかなかった。


そもそも、マクスウエル、ニュートンに間違いなんか無いけどね

理論の適応可能域では間違いは全く無いよ
http://www.asyura2.com/15/nature6/msg/702.html#c5

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
15. 中川隆[-11289] koaQ7Jey 2019年3月22日 12:19:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[717]

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20

 ドイツ統合は敗戦の否認か


 戦争の記憶を改竄することによって、敗戦国民は当座の心の安らぎは手に入れることができるかも知れません。でも、そこで手に入れた「不当利得」はどこかで返済しなければならない。いずれ必ず後でしっぺ返しが来る。世界の敗戦国を一瞥すると、どこも七〇年かけて、ゆっくりと、でも確実に「記憶の改竄」のツケを支払わされている。『永続敗戦論』が明らかにしたように、日本も敗戦の否認のツケを払わされている。そして、この返済はエンドレスなんです。「負債がある」という事実を認めない限り、その負債を割賦でいいから返して行かない限り、この「負債」は全く別の様態をとって、日本人を責め続ける。

 「ドイツは敗戦経験の総括に成功した」と多くの人が言います。でも、本当にそうなんでしょうか。僕は簡単には諾うことができません。東ドイツのことを勘定に入れ忘れているような気がするからです。

東ドイツは「戦勝国」なんです。東ドイツはナチスと戦い続けたコミュニストが戦争に勝利して建国した国だという話になっている。だから、東ドイツ国民はナチスの戦争犯罪に何の責任も感じていない。感じることを国策的に禁止されていた。責任なんか感じてるはずがない。自分たちこそナチスの被害者であり、敵対者だということになっているんですから。悪虐非道なるナチスと戦って、それを破り、ドイツ国民をナチスの軛から解放した人々が、何が悲しくて、ナチスの戦争犯罪について他国民に謝罪しなければならないのか。

 一九九〇年に合併した当時、西ドイツと東ドイツとは人口比でいうと四対一でした。ということは、その時点では、全ドイツ人口の二〇%、一六○○万人は「自分たちはナチスドイツの戦争犯罪に何の責任もない」と子供のころからずっと教えられてきた人たちだったということです。それが合併後のドイツの国民的自意識にどういう影響を与えたのか。僕は寡聞にして知りません。

 日本国内に「日本軍国主義者の戦争犯罪について、われわれには何の責任もない。われわれは彼らと戦って、日本を解放したのである」と教えられて来た人が二四○○万人いる状況を想定してください。そう信じている「同胞」を受け容れ、戦争経験について国民的規模での総括を行い、合意を形成するという作業がどれほど困難であるか、想像がつくと思います。さて、果たして、ドイツでは東西ドイツが合併した時に、戦争経験の総括について、国民的合意を形成し得たのか。僕は「ドイツはこんな風に合意形成を成し遂げました」と納得のゆく説明をしたものをこれまで読んだことがありません。いや、それは僕がただ知らないでだけで、そういう「全く相容れない戦争経験総括を一つにまとめあげたドイツの素晴らしい政治的達成」については既に色々な報告や研究が出ているのかも知れません。でも、そうだとしたら、それこそ「国民的和解」の最良のモデルケースであるわけですから、国内的な対立を抱える様々な国について、何かあるごとに、「ここでも『和解のためのドイツ・モデル』を適用すべきではないか」ということが言及されてよいはずです。でも、僕はそのような「和解モデル」について聞いたことがない。

 ドイツの戦争総括の適切さを語るときに、よくヴァイツゼッカー元大統領の演説が引かれます。この人はヨーロッパの諸国を訪れては、そのつどきちんとナチス・ドイツ時代の戦争犯罪について謝罪しています。その倫理性的な潔さは疑うべくもありません。けれども、やはり日本とは話の運びが微妙に違う。ヴァイツゼッカーは五月四日、ドイツが連合国に無条件降伏した日を「ドイツ国民解放の日」と言っているからです。われわれはナチスの暴虐からその日に解放されたのである、それをことほぐという立場を取る。悪いのはあくまでナチスとその軍事組織や官僚組織や秘密警察組織であって、ドイツ国民はその犠牲者であったという立場は譲らない。ドイツ国民の罪はナチスのような政党を支持し、全権を委ねてしまったことにある。そのような過ちを犯したことは認めるけれども、基本的にはドイツ国民もまたナチスの被害者であり、敗戦によってナチスの軛から解放されたという物語になっている。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c15

[近代史3] 比較敗戦論のために - 内田樹の研究室

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html


2019年度の寺子屋ゼミは「比較敗戦論」を通年テーマにすることにした。

どうしてこのようなテーマを選ぶことになったのか。それについて姜尚中さんとのトークセッションで語ったことがある。
そのときの講演録を再録しておく。講演があったのは2016年


敗戦国は日独だけではない

 今回の「比較敗戦論」というタイトルは、問題提起という意味でつけました。特に僕の方で用意した結論があるわけではありません。ただ、歴史を見るときに、こういう切り取り方もあるのだというアイディアをお示ししたいと思います。

「比較敗戦論」という言葉は『永続敗戦論』(太田出版 二〇一三年)の白井聡さんと対談をしまたときにふと思いついたのです(この対談はその後、『日本戦後史論』(徳間書店、二〇一五年)という本にまとまりました)。

『永続敗戦論』での白井さんの重要な主張は「日本人は敗戦を否認しており、それが戦後日本のシステムの不調の原因である」というものでした。「敗戦の否認」というキーワードを使って、戦後七〇年の日本政治をきわめて明晰に分析した労作です。

ただ、僕が思ったのは、白井さんと話をしていて、日本人が戦後七〇年間にわたって敗戦経験を否認してきたということは全くご指摘の通りなんだけれども、日本以外の敗戦国ではどうなのか、ということが気になりました。日本以外の他の敗戦国はそれぞれ適切なやり方で敗戦の「総括」を行ったのか。その中で日本だけが例外的に敗戦を否認したのだとすれば、それはなぜなのか。そういった一連の問いがありうるのではないかと思いました。

白井さんの言う通り「敗戦の否認」ゆえに戦後日本はさまざまな制度上のゆがみを抱え込み、日本人のものの考え方にも無意識的なバイアスがかかっていて、ある種の思考不能状態に陥っていること、これは紛れもない事実です。でも、それは日本人だけに起きていることなのか。他の敗戦国はどうなっているのか。多の敗戦国では、敗戦を適切に受け容れて、それによって制度上のゆがみや無意識的な思考停止を病むというようなことは起きていないのか。よく「ドイツは敗戦経験に適切に向き合ったけれど、日本はそれに失敗した」という言い方がされます。けれども、それはほんとうに歴史的事実を踏まえての発言なのか。

まず僕たちが誤解しやすいことですけれど、第二次世界大戦の敗戦国は日独伊だけではありません。フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイ、これらは連合国が敵国として認定した国です。それ以外にも、連合国がそもそも国として認定していない交戦団体として、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア自由国、満州国、中華民国南京政府があります。これだけの「国」が敗戦を経験した。でも、僕たちはこれらの敗戦国で、人々が敗戦経験をどう受け容れたのか、どうやって敗戦後の七〇年間を過ごしてきたのかについて、ほとんど何も知りません。例えば、「フィンランド国民は敗戦をどう総括したか」というような研究は、フィンランド国内にはしている人がいるのでしょうけれど、僕はそれについての日本語文献のあることを知らない。でも、「敗戦の否認」という心理的な痼疾を手がかりにして現代日本社会を分析するためには、やはり他の敗戦国民は自国の敗戦をどう受け止めたのか、否認したのか、受容したのかが知りたい。敗戦の総括をうまく実行できた国はあるのか。あるとしたら、なぜ成功したのか。敗戦を否認した国は日本の他にもあるのか。あるとしたら、その国における敗戦の否認は、今その国でどのような現実を帰結したのか、それを知りたい。「敗戦の否認」が一種の病であるとするなら、治療のためには、まず症例研究をする必要がある。僕はそんなふうに考えました。

フランスは果たして戦勝国なのか

 このアイデアには実はいささか前段があります。枢軸国の敗戦国というと、ふつうは日独伊と言われます。けれども、フランスだって実は敗戦国ではないのか。僕は以前からその疑いを払拭することができずにいました。

ご承知の方もいると思いますが、僕の専門はフランス現代思想です。特にエマニュエル・レヴィナスというユダヤ人哲学者を研究してきました。その関連で、近代フランスにおけるユダヤ人社会と彼らが苦しんだ反ユダヤ主義のことをかなり長期にわたって集中的に研究してきました。そして、そのつながりで、19世紀から20世紀はじめにかけてのフランスの極右思想の文献もずいぶん読み漁りました。

 僕がフランスにおける反ユダヤ主義の研究を始めたのは1980年代のはじめ頃ですが、その頃フランスの対独協力政権、ペタン元帥の率いたヴィシー政府についての研究が続々と刊行され始めました。ですから、その頃出たヴィシーについての研究書も手に入る限り買い入れて読みました。そして、その中でも出色のものであったベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』(国文社、一九八九年)という本を翻訳することになりました。これはフランスが実はファシズムと反ユダヤ主義というふたつの思想の「母国」であったという非常に挑発的な内容で、発売当時はフランスでは大変な物議を醸したものでした。

 歴史的事実をおさらいすると、一九三九年九月にドイツのポーランド侵攻に対して、英仏両国はドイツに宣戦布告します。フランスはマジノ線を破られて半年後の六月にフランスは独仏休戦協定が結ばれます。フランスの北半分はドイツの直接統治領に、南半分がペタンを首班とするヴィシー政府の統治下に入ります。第三共和政の最後の国民議会が、ペタン元帥に憲法制定権を委任することを圧倒的多数で可決し、フランスは独裁制の国になりました。そして、フランス革命以来の「自由、平等、友愛」というスローガンが廃されて、「労働、家族、祖国」という新しいファシズム的スローガンが掲げた対独協力政府ができます。

フランスは連合国に対して宣戦布告こそしていませんけれども、大量の労働者をドイツ国内に送ってドイツの生産活動を支援し、兵站を担い、国内ではユダヤ人やレジスタンスを行いました。フランス国内で捕らえられたユダヤ人たちはフランス国内から鉄道でアウシュヴィッツへ送られました。

 対独レジスタンスが始まるのは1942年くらいからです。地下活動という性質上、レジスタンスの内実について詳細は知られていませんが、初期の活動家は全土で数千人規模だったと言われています。連合国軍がノルマンディーに上陸して、戦局がドイツ軍劣勢となってから、堰を切ったように、多くのフランス人がドイツ軍追撃に参加して、レジスタンスは数十万規模にまで膨れあがった。この時、ヴィシー政府の周辺にいた旧王党派の準軍事団体などもレジスタンスに流れ込んでいます。昨日まで対独協力政権の中枢近くに人たちが、一夜明けるとレジスタンスになっているというようなこともあった。そして、このドイツ潰走の時に、対独協力者の大量粛清が行われています。ヴィシー政権に協力したという名目で、裁判なしで殺された犠牲者は数千人と言われていますが、これについても信頼できる史料はありません。調書もないし、裁判記録もない。どういう容疑で、何をした人なのか判然としないまま、「対独協力者だ」と名指されて殺された。真実はわからない。

アルベール・カミュは最初期からのほんもののレジスタンス闘士でしたけれど、戦後その時代を回想して、「ほんとうに戦ったレジスタンスの活動家はみな死んだ」と書いて、今生き残って「レジスタンス顔」をしている人間に対する不信を隠そうとしませんでした。このあたりの消息は外国人にはなかなかわかりません。

シャルル・ド・ゴールもその回想録の中で、ヴィシー政府壊滅後のフランス各地の混乱に言及して、「無数の場所で民衆の怒りは暴力的な反動として溢れ出した。もちろん、政治的な目論見や、職業上の競争や、個人的な復讐がこの機会を見逃すはずもなかった」と証言しています。(Charles De Gaulle, Mémoire de guerre, Plon, 1959, p.18)

 国防次官だったシャルル・ド・ゴールはペタン元帥が休戦協定を結んだときにロンドンに亡命して亡命政府を名乗りますけれど、もちろん彼の「自由フランス」には国としての実体などありません。国際法上はあくまでヴィシー政府がフランスの正統な政府であって、自由フランスは任意団体に過ぎません。そもそもド・ゴール自身、フランスの法廷で欠席裁判のまま死刑宣告されているのです。

ド・ゴール以外にも、フランソワ・ダルラン将軍、アンリ・ジロー将軍といった軍の実力者がいて、フランスの正統な代表者の地位を争っていました。最終的にド・ゴールが競争相手を排除して、自由フランス軍のトップに立ちますけれど、それでも一交戦団体に過ぎません。44年にド・ゴールが「フランス共和国臨時政府」を名乗ったときも、アメリカもイギリスもこれを承認するのを渋りました。ド・ゴールが一交戦団体に過ぎなかった自由フランスを「戦勝国」にカテゴリー変更させたのは、彼の発揮した軍事的・外交的実力によってです。44年、ノルマンディー上陸後西部戦線でのドイツ軍との戦闘が膠着状態にあったとき、ド・ゴールはこの機会にフランスを連合国に「高く売る」ことに腐心しています。回想録にはそのことが率直に書いてあります。

「戦争がまだ長引くということは、われわれフランス人が耐え忍ばなければならない損失、被害、出費を考えれば、たしかに痛ましいことである。しかし、フランスの最優先の利害を勘案するならば、フランス人の当面の利益を犠牲にしても、戦争の継続は悪い話ではなかった。なぜなら、戦争がさらに長びくならば、アフリカやイタリアでそうだったように、われわれの協力がライン河・ドナウ河での戦闘にも不可欠のものとなるからである。われわれの世界内における地位、さらにはフランス人がこれから何世代にもわたって自分自身に対して抱く評価がそこにかかっている。」(Ibid., p.44、強調は内田)

 ド・ゴールは、パリ解放からドイツ降伏までのわずかの時間内に、フランス軍の軍事的有用を米英に誇示できるかどうかに戦後フランスの、国際社会における立場がかかっているということを理解していました。ほんとうにこのときのフランスは綱渡りだったのです。ノルマンディー上陸作戦の時点ではド・ゴールの自由フランスの支持基盤は国内のレジスタンスだけでした。それが戦局の推移に伴ってそれ以外のフランス人たちも自由フランスを自分たちの代表として承認する気分になり、最後に米英はじめ世界の政府がド・ゴールの権威を承認せざるを得なくなった。ですから、ド・ゴールが「国を救った」というのはほんとうなのです。対独協力国、事実上の枢軸国がいつのまにか連合国の一員になり、さらに国際社会の重鎮になりおおせていたわけですから、これはド・ゴールの力業という他ありません。

でも、このド・ゴールが力業でフランスの体面を救ったことによって、フランス人は戦争経験の適切な総括を行う機会を奪われてしまった。ほんとうを言えば、ドイツの犯したさまざまな戦争犯罪に加担してきたフランス人たちはもっと「疚しさ」を感じてよかったのです。でも、フランス人は戦勝国民として終戦を迎えてしまった。フランス人は「敗戦を総括する義務」を免除された代わりにもっと始末におえないトラウマを抱え込むことになりました。


イタリアは戦勝国ではないのか

 僕たち日本人はイタリアがどんなふうに終戦を迎えたかについてはほとんど知るところがありません。世界史の授業でもイタリアの敗戦については詳しく教えてもらった記憶がない。教科書で教えてもらえないことは、映画や小説を通じて学ぶわけですけれども、イタリアの終戦時の混乱については、それを主題にした映画や文学も日本ではあまり知られておりません。『無防備都市』(ロベルト・ロッセリーニ監督、一九四五年)にはイタリアのレジスタンスの様子がリアルに描かれていますが、僕が知っているのはそれくらいです。ですから、ナチスと命がけで戦ったイタリア人がいたことや、イタリア人同士で激しい内戦が行われていたという歴史的事実も日本人はあまり知らない。

一九四三年七月に、反ファシスト勢力が結集して、国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が主導して、ムッソリーニを20年にわたる独裁者の地位から引きずり下ろしました。そして、首相に指名されたピエトロ・バドリオ将軍は水面下で連合国と休戦交渉を進めます。その後、監禁されていたムッソリーニをドイツの武装親衛隊が救い出して、北イタリアに傀儡政権「イタリア社会共和国」を建て、内戦状態になります。最終的にドイツ軍はイタリア領土内から追い出され、ムッソリーニはパルチザンに捕らえられて、裁判抜きで処刑され、その死体はミラノの広場に逆さ吊りにされました。イタリア王国軍とパルチザンがムッソリーニのファシスト政権に引導を渡し、ドイツ軍を敗走させた。ですから、イタリアは法理的には戦勝国なんです。でも、たぶん「イタリアは戦勝国だ」と思っている日本人はほとんどいない。自分たちと同じ敗戦国だと思っている。

たしかに、戦後イタリアを描いた『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1948年)のような映画を観ると、街は爆撃でひどいことになっているし、人々は食べるものも仕事もなくて、痩せこけている。「ああ、イタリアも日本と同じだ」と思っても不思議はない。でも、違います。イタリアは戦勝国なんです。だいたい、イタリアは一九四五年七月には日本に宣戦布告しているんです。

 フランスとイタリアを比べれば、フランスよりイタリアの方がずっと戦勝国条件が整っている。フランスは先ほど述べたように紙一重で戦勝国陣営に潜り込み、国連の常任理事国になり、核保有国になり、今も世界の大国としてふるまっています。それは一にシャルル・ド・ゴールという卓越した政治的能力を持つ人物が国家存亡のときに登場したからです。ド・ゴールがいて、ルーズベルトやチャーチルと一歩も引かずに交渉したから、フランスは戦勝国「のようなもの」として戦後世界に滑り込むことができた。でも、イタリアにはそんなカリスマ的な人物がいませんでした。戦争指導者であったヴィットリオ・エマヌエーレ三世とバドリオ将軍は、ドイツ軍がローマに侵攻してきたとき、市民を「無防備都市」に残したまま自分たちだけ逃亡してしまった。そのせいでイタリア軍の指揮系統は壊滅しました。戦後の国民投票で国民たちの判断で王政が廃止されたのは、このときの戦争指導部の国民に対する裏切りを国民が許さなかったからです。

フランスとイタリアのどちらも「勝ったんだか負けたんだかよくわからない仕方で戦争が終わった」わけですけれど、フランスにはド・ゴールがいて、イタリアにはいなかった。それが戦後の両国の立ち位置を決めてしまった。

でも、僕はこれを必ずしもフランスにとって幸運なことだったとも、イタリアにとって不幸なことだったとも思わないのです。イタリアは「敗戦国みたいにぼろぼろになった戦勝国」として終戦を迎えました。戦争の現実をありのままに、剥き出しに経験した。戦勝を誇ることもできなかったし、敗戦を否認する必要もなかった。だから、彼らの戦争経験の総括には変なバイアスがかかっていない。

先日、イタリアの合気道家が僕の道場に出稽古に来たことがありました。稽古のあとの歓談のとき、「そういえば君たち、昔、日本に宣戦布告したことがあるでしょう」と訊いてみました。たぶん、そんなこと知らないと思ったんです。意外なことに、彼はすぐに苦笑して、「どうもすみませんでした」と謝るんです。「イタリアって、どさくさまぎれにああいうことをやるんです。フランスが降伏したときにも仏伊国境の土地を併合したし。そういう国なんです。申し訳ない」と。僕は彼のこの対応にびっくりしました。自国の近代史のどちらかというと「汚点」を若いイタリア人が常識として知っているということにまず驚き、それについて下手な言い訳をしないで、さらっと「ごめんね」と謝るところにさらに驚きました。事実は事実としてまっすぐみつめる。非は非として受け容れ、歴史修正主義的な無駄な自己弁護をしない。そのとき僕は「敗戦の否認をしなかった国民」というものがあるとしたら、「こういうふう」になるのかなと思いました。

イタリアは「ほとんど敗戦」という他ないほどの被害を蒙った。内戦と爆撃で都市は傷ついた。行政も軍もがたがたになった。戦死者は30万人に及んだ。でも、その経験を美化もしなかったし、否認もしなかった。「まったくひどい目に遭った。でも、自業自得だ」と受け止めた。だから、戦争経験について否認も抑圧もない。

フランスの場合は、ヴィシーについてはひさしく歴史的研究そのものが抑圧されていました。先ほど名前が出ましたベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』はヴィシーに流れ込む十九世紀二○世紀の極右思想史研究ですが、この本が出るまで戦後四四年の歳月が必要でした。刊行されたときも、保守系メディアはこれに集中攻撃を加えました。「なぜせっかくふさがった『かさぶた』を剥がして、塩を塗り込むようなことをするのか」というのです。それからさらに30年近くが経ちますが、ヴィシー政府の時代にフランスが何をしたのかについての歴史的な研究は進んでいません。

ナチスが占領していた時代のフランス人は何を考え、何を求めて、どうふるまったのか。いろいろな人がおり、いろいろな生き方があったと思います。それについての平明な事実を知ることが現代のフランス人には必要だと僕は思います。ド・ゴールが言うように「自分自身に対して抱く評価」を基礎づけるために。でも、それが十分に出来ているように僕には思えません。フランスの場合は「敗戦の否認」ではなく、対独協力国だったという歴史的事実そのものが否認されている。その意味では、あるいは日本より病が深いかもしれない。

 現在の政治状況と敗戦の総括との関係

 本来なら、ヴィシー政府の政治家や官僚やイデオローグたちの事績を吟味して、「一体、ヴィシーとは何だったのか、なぜフランス人は民主的な手続きを経てこのような独裁制を選択したのか」という問いを徹底的に究明すべきだったと思います。でも、フランス人はこの仕事をネグレクトしました。ヴィシー政府の要人たちに対する裁判もごく短期間のうちに終えてしまった。東京裁判やニュルンベルク裁判のように、戦争犯罪の全貌を明らかにするということを抑制した。ペタン元帥や首相だったピエール・ラヴァルの裁判はわずか一ヶ月で結審して、死刑が宣告されました。裁判は陪審員席からも被告に罵声が飛ぶというヒステリックなもので、真相の解明というにはほど遠かった。この二人に全責任を押しつけることで、それ以外の政治家や官僚たちは事実上免責されました。そして、この「エリートたち」はほぼそのまま第四共和政の官僚層に移行する。

 レヴィによれば、フランスにおいて、ヴィシーについての歴史学的な検証が進まなかった最大の理由は、ヴィシー政府の官僚層が戦後の第四共和政の官僚層を形成しており、彼らの非を細かく咎めてゆくと、第四共和政の行政組織そのものが空洞化するリスクがあったからだということでした。事情を勘案すれば、フランス政府が、国家的選択として対独協力していたわけですから、それをサボタージュした官僚はうっかりするとゲシュタポに捕まって、収容所に送られるリスクがあったわけです。組織ぐるみの対独協力をせざるを得なかった。だから、一罰百戒的に、トップだけに象徴的に死刑宣告を下して、あとは免罪して、戦後の政府機構に取り込むことにした。それは当座の統治システムの維持のためには、しかたなかったのかも知れません。

ですから、ヴィシーについての歴史学的な実証研究が始まるのは、この官僚たちが現役を引退した後になります。一九八〇年代に入って、戦後四〇年が経って、ヴィシー政府の高級官僚たちが退職したり、死んだりして、社会的な影響がなくなった時点ではじめて、最初は海外の研究者たちが海外に流出していたヴィシー政府の行政文書を持ち出して、ヴィシー研究に手を着け始めた。フランス人自身によるヴィシー研究は『フランス・イデオロギー』が最初のものです。戦争が終わって四五年後です。「ヴィシーの否認」は政治的に、意識的に、主体的に遂行された。でも、そのトラウマは別の病態をとって繰り返し回帰してきます。僕はフランスにおける「イスラモフォビア」(イスラーム嫌悪症)はそのような病態の一つではないかと考えています。

 フランスは全人口の一〇%がムスリムです。先日のテロで露呈したように、フランス社会には排外主義的な傾向が歴然と存在します。大戦後も、フランスは一九五〇年代にアルジェリアとベトナムで旧植民地の民族解放運動に直面した時、暴力的な弾圧を以って応じました。結果的には植民地の独立を容認せざるを得なかったのですが、独立運動への弾圧の激しさは、「自由・平等・友愛」という人権と民主主義の「祖国」のふるまいとは思えぬものでした。そんなことを指摘する人はいませんが、これは「ヴィシーの否認」が引き起こしたものではないかと僕は考えています。「対独協力政治を選んだフランス」、「ゲシュタポと協働したフランス」についての十分な総括をしなかったことの帰結ではないか。

もしフランスで終戦時点で自国の近過去の「逸脱」についての痛切な反省がなされていたら、五〇年代におけるフランスのアルジェリアとベトナムでの暴力的な対応はある程度抑止されたのではないかと僕は想像します。フランスはナチス・ドイツの暴力に積極的に加担した国なのだ、少なくともそれに加担しながら反省もせず、処罰も免れた多数の国民を今も抱え込んでいる国なのだということを公式に認めていたら、アルジェリアやベトナムでの事態はもう少し違うかたちのものになっていたのではないか。あれほど多くの人が殺されたり、傷ついたりしないで済んだのではないか。僕はそう考えてしまいます。

 自分の手は「汚れている」という自覚があれば、暴力的な政策を選択するときに、幾分かの「ためらい」があるでしょう。けれども、自分の手は「白い」、自分たちがこれまでふるってきた暴力は全て「正義の暴力」であり、それについて反省や悔悟を全く感じる必要はない、ということが公式の歴史になった国の国民には、そのような「ためらい」が生まれない。フランスにおけるムスリム市民への迫害も、そのような「おのれの暴力性についての無自覚」のせいで抑制が効きにくくなっているのではないでしょうか。

 他の敗戦国はどうでしょう。ハンガリーは最近、急激に右傾化して、排外主義的な傾向が出てきています。タイも久しく穏やかな君主制でいましたけれども、近年はタクシン派と反タクシン派が戦い続けて、国内はしばしば内戦に近い状態を呈しています。スロバキアとかクロアチアとかにもやはり政治的にある種の不安定さを常に感じます。

戦争後は、どの国も「この話はなかったことに」という国民的合意に基づいて「臭いものに蓋」をした。当座はそれでよかったかも知れません。でも、蓋の下では、抑圧された国民的な「恥辱」や「怨嗟」がいつまでも血を流し、腐臭を発している。だから、ハンガリーの現在の政治状況や、タイの現在の政治状況が、それぞれの国の敗戦経験の総括と全く無関係かどうかということは、かなり精密な検証をしてみないとわからない。そこには何らかの「関連がある」という仮説を立てて検証をしてみてよいのではないか。してみるだけの甲斐はあると僕は思います。

 ドイツ統合は敗戦の否認か

 戦争の記憶を改竄することによって、敗戦国民は当座の心の安らぎは手に入れることができるかも知れません。でも、そこで手に入れた「不当利得」はどこかで返済しなければならない。いずれ必ず後でしっぺ返しが来る。世界の敗戦国を一瞥すると、どこも七〇年かけて、ゆっくりと、でも確実に「記憶の改竄」のツケを支払わされている。『永続敗戦論』が明らかにしたように、日本も敗戦の否認のツケを払わされている。そして、この返済はエンドレスなんです。「負債がある」という事実を認めない限り、その負債を割賦でいいから返して行かない限り、この「負債」は全く別の様態をとって、日本人を責め続ける。

 「ドイツは敗戦経験の総括に成功した」と多くの人が言います。でも、本当にそうなんでしょうか。僕は簡単には諾うことができません。東ドイツのことを勘定に入れ忘れているような気がするからです。

東ドイツは「戦勝国」なんです。東ドイツはナチスと戦い続けたコミュニストが戦争に勝利して建国した国だという話になっている。だから、東ドイツ国民はナチスの戦争犯罪に何の責任も感じていない。感じることを国策的に禁止されていた。責任なんか感じてるはずがない。自分たちこそナチスの被害者であり、敵対者だということになっているんですから。悪虐非道なるナチスと戦って、それを破り、ドイツ国民をナチスの軛から解放した人々が、何が悲しくて、ナチスの戦争犯罪について他国民に謝罪しなければならないのか。

 一九九〇年に合併した当時、西ドイツと東ドイツとは人口比でいうと四対一でした。ということは、その時点では、全ドイツ人口の二〇%、一六○○万人は「自分たちはナチスドイツの戦争犯罪に何の責任もない」と子供のころからずっと教えられてきた人たちだったということです。それが合併後のドイツの国民的自意識にどういう影響を与えたのか。僕は寡聞にして知りません。

 日本国内に「日本軍国主義者の戦争犯罪について、われわれには何の責任もない。われわれは彼らと戦って、日本を解放したのである」と教えられて来た人が二四○○万人いる状況を想定してください。そう信じている「同胞」を受け容れ、戦争経験について国民的規模での総括を行い、合意を形成するという作業がどれほど困難であるか、想像がつくと思います。さて、果たして、ドイツでは東西ドイツが合併した時に、戦争経験の総括について、国民的合意を形成し得たのか。僕は「ドイツはこんな風に合意形成を成し遂げました」と納得のゆく説明をしたものをこれまで読んだことがありません。いや、それは僕がただ知らないでだけで、そういう「全く相容れない戦争経験総括を一つにまとめあげたドイツの素晴らしい政治的達成」については既に色々な報告や研究が出ているのかも知れません。でも、そうだとしたら、それこそ「国民的和解」の最良のモデルケースであるわけですから、国内的な対立を抱える様々な国について、何かあるごとに、「ここでも『和解のためのドイツ・モデル』を適用すべきではないか」ということが言及されてよいはずです。でも、僕はそのような「和解モデル」について聞いたことがない。

 ドイツの戦争総括の適切さを語るときに、よくヴァイツゼッカー元大統領の演説が引かれます。この人はヨーロッパの諸国を訪れては、そのつどきちんとナチス・ドイツ時代の戦争犯罪について謝罪しています。その倫理性的な潔さは疑うべくもありません。けれども、やはり日本とは話の運びが微妙に違う。ヴァイツゼッカーは五月四日、ドイツが連合国に無条件降伏した日を「ドイツ国民解放の日」と言っているからです。われわれはナチスの暴虐からその日に解放されたのである、それをことほぐという立場を取る。悪いのはあくまでナチスとその軍事組織や官僚組織や秘密警察組織であって、ドイツ国民はその犠牲者であったという立場は譲らない。ドイツ国民の罪はナチスのような政党を支持し、全権を委ねてしまったことにある。そのような過ちを犯したことは認めるけれども、基本的にはドイツ国民もまたナチスの被害者であり、敗戦によってナチスの軛から解放されたという物語になっている。

 日本人にも敗戦が一種の解放感をもたらしたということは事実だったでしょう。けれども、八月一五日を「解放の日」だと言う人はほとんどいません。表だってそう発言するのは、かなり勇気が要る。けれども、実感としては、それに近いことを思っていた日本人は少なくなかったと思います。

 小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』(松竹、一九六二年)の中で、笠智衆の演じる今はサラリーマンをしている駆逐艦の元艦長平山と、加東大介の演じるかつての駆逐艦の乗組員坂本が、町なかでばったり出会うという場面があります。坂本が平山を誘って、トリスバーのカウンターに座ってウィスキーを飲む。この時に坂本が「ねえ、艦長、もしあの戦争に勝っていたらどうなったんでしょうね」と問う。平山は静かに笑いながら、「負けてよかったじゃないか」と答える。そうすると、坂本は「え?」と一瞬怪訝な顔をするのですが、ふと得心したらしく、「そうかもしれねえな。ばかなやつが威張らなくなっただけでもね」と呟く。これは敗戦がもたらした解放感についての、あの世代の偽らざる実感だったんじゃないかなと思います。

 僕は一九五〇年生まれで、父はもちろん戦中派なのですが、僕が小さい頃に、父が会社の同僚を家に連れてきて飲んでいるときに誰かが「負けてよかったじゃないか」と呟くのを僕は二三度聞いたことがあります。特に力んで主張するというのではなく、何かの弾みにぽろりと口にされる。そして、その言葉が口にされると、男たちは皆黙り込む。それで怒り出す人もいないし、泣き出す人もいない。それは思想とは言えないものでした。敗戦の総括としてはあまりに言葉が足りない。けれども、おそらくこれが戦中派の実感だったと思います。それが世代的な実感として、言挙げしないでも共有されている限り、そのような敗戦の総括もそれなりのリアリティーを持ち得た。けれども、そういう片言隻句だけでは、彼らの思いが輪郭のしっかりした思想として次の世代に継承されることはありません。

 恥ずべき過去も含んだタフな物語

 白井さんの本を読んでいると、日本は異常な仕方で敗戦を否認してきたことがわかる。これは全くその通りなんですけれども、それだけでなく、多くの敗戦国はそれぞれ固有の仕方で自国の敗戦を否認している。僕にはそう思われます。

それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。

カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。

 歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

 カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。

 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

ノモンハンを書こうとした作家がもう一人います。村上春樹です。『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社 一九九四〜九五年)で村上春樹はノモンハンについて書いています。でも、なぜノモンハンなのか。その問いに村上は答えていない。何だか分からないけれども、急に書きたくなったという感じです。でも、ノモンハンのことを書かないと日本人の作家の仕事は終わらないと直感したというところに、この人が世界作家になる理由があると僕は思います。日本人にとっての「タフな物語」の必要性を村上春樹も感じている。それが今の日本に緊急に必要なものであるということをよくわかっている。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。日本の左翼知識人には、あまりアメリカに学ぶ人はいません。親米派の学者たちも、よく見ると、まったくアメリカに学ぶ気はない。アメリカに存在する実定的な制度を模倣することには熱心ですけれど、なぜアメリカは強国たりえたのかについて根源的に考えるということには全く興味を示さない。アメリカの諸制度の導入にあれほど熱心な政治家も官僚も、アメリカにあって日本に欠けているものとしてまずカウンターカルチャーを挙げる人はいません。連邦制を挙げる人もいない。でも、アメリカの歴史的成功の理由はまさに「一枚岩になれないように制度を作り込んだ」という点にあるのです。でも、日本のアメリカ模倣者たちは、それだけは決して真似しようとしない。

 ほかにもいろいろ言いたいことはありますけれど、すでに時間を大分超えてしまったので、この辺で終わります。ご静聴ありがとうございました。


【Q&A】


ナラティブの力

姜 今日のお話を聞いていて、どういう「物語」をつくるかということが最大のポリティクスになっている気がします。内田さんの比較敗戦論は、我々のパースペクティブを広げてくれました。韓国や中国では日本例外論、単純にドイツと日本を比較して日本はだめなんだ、だから我々は日本を半永久に批判していい、そういう理屈立てになりがちです。そのときに内田さんの比較敗戦論をもちいてみると、我々のブラインドスポットになっている部分がよく見えてくる。解放の物語の自己欺瞞みたいなところも見えてくる。ところが、安倍さんのような人が出てくると、逆に、かつて自分たちが植民地であった、侵略をされた国は、ますます解放の物語を検証することをやらなくて済んでしまいますね。

内田 イージーな物語に対してイージーな物語で対抗すれば、どちらもどんどんシンプルでイージーな話に落ち込んでしまう。実際の歴史的な事件は「善玉と悪玉が戦っている」というようなシンプルな話ではないんです。さまざまな人たちが複雑な利害関係の中でわかりにく行動を取っている。うっかりすると、本人たち自身、自分たちがどういう動機で行動しているのか、いかなる歴史的な役割を果しているのか、わかっていないということだってある。それが歴史の実相だろうと思います。ですから、それをありのままに淡々と記述していく。軽々には評価を下さない。わかりやすいストーリーラインに落とし込むという誘惑にできる限り抵抗する。そういう歴史に対する自制心が非常に大事になると思います。

 こういう仕事においては、歴史を叙述するときの語り口、ナラティブの力というのが大きいと思うんです。最近、読んだ本の中でフィリップ・ロスの小説『プロット・アゲンスト・アメリカ──もしもアメリカが...』(柴田元幸・訳、集英社、二〇一四年)がとても面白かった。これは一九四〇年の米大統領選挙でルーズベルトではなく、共和党から出馬した大西洋単独飛行の英雄チャールズ・リンドバーグ大佐がヨーロッパでの戦争への不干渉を掲げて勝利してしまうという近過去SFなんです。現実でも、リンドバーグは親独的立場で知られていて、ゲーリングから勲章を授与されてもいます。ロスの小説では、アメリカに親独派政権が誕生して、ドイツと米独不可侵条約を、日本とは日米不可侵条約を結ぶ。そして、アメリカ国内では激しいユダヤ人弾圧が起きる・・・という話です。

 僕はナラティブというのは、こういうSF的想像力の使い方も含むと思います。もし、あのときにこうなっていたらというのは、ほんとうに大事な想像力の使い方だと思う。

フィリップ・K・ディックの『高い城の男』(浅倉久志・新訳 早川書房、原著一九六二年)というSFがあります。これは枢軸国が連合国に勝った世界の話です。日独がアメリカを占領している。東海岸がドイツ占領地で、ロッキー山脈から西側が日本の占領地。そういう場合に、日本人はアメリカをどういうふうに植民地的に統治するのか、それを考えるのは実は非常に大事な思考訓練なんです。実際に日本がアメリカ西部を安定的に統治しようとしたら、日本の価値観とか美意識とか規範意識を「よいものだ」と思って、自発的に「対日協力」をしようと思うアメリカ人を集団的に創り出すしかない。ドイツがフランスでやったのはそういうことでした。でも、日本の戦争指導部にそのようなアイディアがあったと僕は思いません。

アメリカの方は、日本に勝った後にどうやって占領するかの計画を早々と立案していた。日本人のものの考え方とか組織の作り方とかを戦時中に民族学者に委託して研究しています。卓越した日本人論として今も読み継がれている『菊と刀』はルーズベルトが設置した戦争情報局の日本班のチーフだったルース・ベネディクトが出した調査報告書です。日本社会を科学的に研究して、どういう占領政策が適切かを戦争が終わる前にもう策定していた。

果たして日本の大本営にアメリカに勝った後、どうやってアメリカを統治するか、何らかのプランがあったでしょうか。どうやって対日協力者のネットワークを政治家や学者やジャーナリストやビジネスマンの中に組織するかというようなことをまじめに研究していた部門なんか日本の軍部のどこにも存在しなかったと思います。戦争に勝ったらどうするのかについて何の計画もないままに戦争を始めたんです。そんな戦争に勝てるはずがない。

 僕のSF的妄想は、一九四二年のミッドウェー海戦の敗北で、これはもう勝てないなと思い切って、停戦交渉を始めたらどうなったかというものです。史実でも、実際に、当時の木戸幸一内大臣と吉田茂たちは、すでに講和のための活動を始めています。近衛文麿をヨーロッパの中立国に送って、連合国との講和条件を話し合わせようという計画があった。もし、この工作が奏功して、四二年か四三年の段階で日本が連合国との休戦交渉に入っていれば、それからあとの日本の国のかたちはずいぶん違ったものになっただろうと思います。

ミッドウェー海戦で、帝国海軍は主力を失って、あとはもう組織的抵抗ができない状態でした。戦い続ければ、ただ死傷者を増やすだけしか選択肢がなかったのに、「攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち」というような、まったく非科学的な軍事思想に駆動されていたせいで、停戦交渉という発想そのものが抑圧された。

この時点で戦争を止めていれば、本土空襲もなかったし、沖縄戦もなかったし、原爆投下もなかった。300万人の死者のうち、95%は死なずに済んだ。民間人の死傷者はほぼゼロで済んだはずです。ミッドウェーは日本軍の歴史的敗北でしたけれど、死者は3000人に過ぎません。ほとんどの戦死者(実際には戦病死者と餓死者でしたが)はその後の絶望的、自滅的な戦闘の中で死んだのです。

空襲が始まる前に停戦していれば、日本の古い街並みは、江戸時代からのものも、そのまま手つかずで今も残っていたでしょう。満州と朝鮮半島と台湾と南方諸島の植民地は失ったでしょうけれど、沖縄も北方四島も日本領土に残され、外国軍に占領されることもなかった。四二年時点で、日本国内に停戦を主導できる勢力が育っていれば、戦争には負けたでしょうけれど、日本人は自分の手で敗戦経験の総括を行うことができた。なぜこのような勝ち目のない戦争に突っ込んで行ったのか、どこに組織的瑕疵があったのか、どのような情報を入力し忘れていたのか、どのような状況判断ミスがあったのか、それを自力で検証することができた。戦争責任の徹底追及を占領軍によってではなく、日本人自身の手で行えた可能性はあった。日本人が自分たちの手で戦争責任を追及し、戦争責任の追及を行い、憲法を改定して、戦後の日本の統治システムを日本人が知恵を絞って作り上げることは可能だった。

「もしミッドウェーのあとに戦争が終わっていたら、その後の戦後日本はどんな国になったのか」というようなSF的想像はとてもたいせつなものだと僕は思います。これはフィクションの仕事です。小説や映画やマンガが担う仕事です。政治学者や歴史学者はそういう想像はしません。でも、「そうなったかもしれない日本」を想像することは、自分たちがどんな失敗を犯したのかを知るためには実はきわめて有用な手立てではないかと僕は思っています。「アメリカの属国になっていなかった日本」、それが僕たちがこれからあるべき日本の社会システムを構想するときに参照すべき最も有用なモデルだと思います。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/301.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 日本文化関係投稿リンク 中川隆
91. 中川隆[-11288] koaQ7Jey 2019年3月22日 12:43:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[718]
比較敗戦論のために - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/301.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/466.html#c91
[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
56. 中川隆[-11287] koaQ7Jey 2019年3月22日 13:41:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[719]

七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。

ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。

この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。

なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

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比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html


2019年度の寺子屋ゼミは「比較敗戦論」を通年テーマにすることにした。

どうしてこのようなテーマを選ぶことになったのか。それについて姜尚中さんとのトークセッションで語ったことがある。
そのときの講演録を再録しておく。講演があったのは2016年


敗戦国は日独だけではない

 今回の「比較敗戦論」というタイトルは、問題提起という意味でつけました。特に僕の方で用意した結論があるわけではありません。ただ、歴史を見るときに、こういう切り取り方もあるのだというアイディアをお示ししたいと思います。

「比較敗戦論」という言葉は『永続敗戦論』(太田出版 二〇一三年)の白井聡さんと対談をしまたときにふと思いついたのです(この対談はその後、『日本戦後史論』(徳間書店、二〇一五年)という本にまとまりました)。

『永続敗戦論』での白井さんの重要な主張は「日本人は敗戦を否認しており、それが戦後日本のシステムの不調の原因である」というものでした。「敗戦の否認」というキーワードを使って、戦後七〇年の日本政治をきわめて明晰に分析した労作です。

ただ、僕が思ったのは、白井さんと話をしていて、日本人が戦後七〇年間にわたって敗戦経験を否認してきたということは全くご指摘の通りなんだけれども、日本以外の敗戦国ではどうなのか、ということが気になりました。日本以外の他の敗戦国はそれぞれ適切なやり方で敗戦の「総括」を行ったのか。その中で日本だけが例外的に敗戦を否認したのだとすれば、それはなぜなのか。そういった一連の問いがありうるのではないかと思いました。

白井さんの言う通り「敗戦の否認」ゆえに戦後日本はさまざまな制度上のゆがみを抱え込み、日本人のものの考え方にも無意識的なバイアスがかかっていて、ある種の思考不能状態に陥っていること、これは紛れもない事実です。でも、それは日本人だけに起きていることなのか。他の敗戦国はどうなっているのか。多の敗戦国では、敗戦を適切に受け容れて、それによって制度上のゆがみや無意識的な思考停止を病むというようなことは起きていないのか。よく「ドイツは敗戦経験に適切に向き合ったけれど、日本はそれに失敗した」という言い方がされます。けれども、それはほんとうに歴史的事実を踏まえての発言なのか。

まず僕たちが誤解しやすいことですけれど、第二次世界大戦の敗戦国は日独伊だけではありません。フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイ、これらは連合国が敵国として認定した国です。それ以外にも、連合国がそもそも国として認定していない交戦団体として、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア自由国、満州国、中華民国南京政府があります。これだけの「国」が敗戦を経験した。でも、僕たちはこれらの敗戦国で、人々が敗戦経験をどう受け容れたのか、どうやって敗戦後の七〇年間を過ごしてきたのかについて、ほとんど何も知りません。例えば、「フィンランド国民は敗戦をどう総括したか」というような研究は、フィンランド国内にはしている人がいるのでしょうけれど、僕はそれについての日本語文献のあることを知らない。でも、「敗戦の否認」という心理的な痼疾を手がかりにして現代日本社会を分析するためには、やはり他の敗戦国民は自国の敗戦をどう受け止めたのか、否認したのか、受容したのかが知りたい。敗戦の総括をうまく実行できた国はあるのか。あるとしたら、なぜ成功したのか。敗戦を否認した国は日本の他にもあるのか。あるとしたら、その国における敗戦の否認は、今その国でどのような現実を帰結したのか、それを知りたい。「敗戦の否認」が一種の病であるとするなら、治療のためには、まず症例研究をする必要がある。僕はそんなふうに考えました。

フランスは果たして戦勝国なのか

 このアイデアには実はいささか前段があります。枢軸国の敗戦国というと、ふつうは日独伊と言われます。けれども、フランスだって実は敗戦国ではないのか。僕は以前からその疑いを払拭することができずにいました。

ご承知の方もいると思いますが、僕の専門はフランス現代思想です。特にエマニュエル・レヴィナスというユダヤ人哲学者を研究してきました。その関連で、近代フランスにおけるユダヤ人社会と彼らが苦しんだ反ユダヤ主義のことをかなり長期にわたって集中的に研究してきました。そして、そのつながりで、19世紀から20世紀はじめにかけてのフランスの極右思想の文献もずいぶん読み漁りました。

 僕がフランスにおける反ユダヤ主義の研究を始めたのは1980年代のはじめ頃ですが、その頃フランスの対独協力政権、ペタン元帥の率いたヴィシー政府についての研究が続々と刊行され始めました。ですから、その頃出たヴィシーについての研究書も手に入る限り買い入れて読みました。そして、その中でも出色のものであったベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』(国文社、一九八九年)という本を翻訳することになりました。これはフランスが実はファシズムと反ユダヤ主義というふたつの思想の「母国」であったという非常に挑発的な内容で、発売当時はフランスでは大変な物議を醸したものでした。

 歴史的事実をおさらいすると、一九三九年九月にドイツのポーランド侵攻に対して、英仏両国はドイツに宣戦布告します。フランスはマジノ線を破られて半年後の六月にフランスは独仏休戦協定が結ばれます。フランスの北半分はドイツの直接統治領に、南半分がペタンを首班とするヴィシー政府の統治下に入ります。第三共和政の最後の国民議会が、ペタン元帥に憲法制定権を委任することを圧倒的多数で可決し、フランスは独裁制の国になりました。そして、フランス革命以来の「自由、平等、友愛」というスローガンが廃されて、「労働、家族、祖国」という新しいファシズム的スローガンが掲げた対独協力政府ができます。

フランスは連合国に対して宣戦布告こそしていませんけれども、大量の労働者をドイツ国内に送ってドイツの生産活動を支援し、兵站を担い、国内ではユダヤ人やレジスタンスを行いました。フランス国内で捕らえられたユダヤ人たちはフランス国内から鉄道でアウシュヴィッツへ送られました。

 対独レジスタンスが始まるのは1942年くらいからです。地下活動という性質上、レジスタンスの内実について詳細は知られていませんが、初期の活動家は全土で数千人規模だったと言われています。連合国軍がノルマンディーに上陸して、戦局がドイツ軍劣勢となってから、堰を切ったように、多くのフランス人がドイツ軍追撃に参加して、レジスタンスは数十万規模にまで膨れあがった。この時、ヴィシー政府の周辺にいた旧王党派の準軍事団体などもレジスタンスに流れ込んでいます。昨日まで対独協力政権の中枢近くに人たちが、一夜明けるとレジスタンスになっているというようなこともあった。そして、このドイツ潰走の時に、対独協力者の大量粛清が行われています。ヴィシー政権に協力したという名目で、裁判なしで殺された犠牲者は数千人と言われていますが、これについても信頼できる史料はありません。調書もないし、裁判記録もない。どういう容疑で、何をした人なのか判然としないまま、「対独協力者だ」と名指されて殺された。真実はわからない。

アルベール・カミュは最初期からのほんもののレジスタンス闘士でしたけれど、戦後その時代を回想して、「ほんとうに戦ったレジスタンスの活動家はみな死んだ」と書いて、今生き残って「レジスタンス顔」をしている人間に対する不信を隠そうとしませんでした。このあたりの消息は外国人にはなかなかわかりません。

シャルル・ド・ゴールもその回想録の中で、ヴィシー政府壊滅後のフランス各地の混乱に言及して、「無数の場所で民衆の怒りは暴力的な反動として溢れ出した。もちろん、政治的な目論見や、職業上の競争や、個人的な復讐がこの機会を見逃すはずもなかった」と証言しています。(Charles De Gaulle, Mémoire de guerre, Plon, 1959, p.18)

 国防次官だったシャルル・ド・ゴールはペタン元帥が休戦協定を結んだときにロンドンに亡命して亡命政府を名乗りますけれど、もちろん彼の「自由フランス」には国としての実体などありません。国際法上はあくまでヴィシー政府がフランスの正統な政府であって、自由フランスは任意団体に過ぎません。そもそもド・ゴール自身、フランスの法廷で欠席裁判のまま死刑宣告されているのです。

ド・ゴール以外にも、フランソワ・ダルラン将軍、アンリ・ジロー将軍といった軍の実力者がいて、フランスの正統な代表者の地位を争っていました。最終的にド・ゴールが競争相手を排除して、自由フランス軍のトップに立ちますけれど、それでも一交戦団体に過ぎません。44年にド・ゴールが「フランス共和国臨時政府」を名乗ったときも、アメリカもイギリスもこれを承認するのを渋りました。ド・ゴールが一交戦団体に過ぎなかった自由フランスを「戦勝国」にカテゴリー変更させたのは、彼の発揮した軍事的・外交的実力によってです。44年、ノルマンディー上陸後西部戦線でのドイツ軍との戦闘が膠着状態にあったとき、ド・ゴールはこの機会にフランスを連合国に「高く売る」ことに腐心しています。回想録にはそのことが率直に書いてあります。

「戦争がまだ長引くということは、われわれフランス人が耐え忍ばなければならない損失、被害、出費を考えれば、たしかに痛ましいことである。しかし、フランスの最優先の利害を勘案するならば、フランス人の当面の利益を犠牲にしても、戦争の継続は悪い話ではなかった。なぜなら、戦争がさらに長びくならば、アフリカやイタリアでそうだったように、われわれの協力がライン河・ドナウ河での戦闘にも不可欠のものとなるからである。われわれの世界内における地位、さらにはフランス人がこれから何世代にもわたって自分自身に対して抱く評価がそこにかかっている。」(Ibid., p.44、強調は内田)

 ド・ゴールは、パリ解放からドイツ降伏までのわずかの時間内に、フランス軍の軍事的有用を米英に誇示できるかどうかに戦後フランスの、国際社会における立場がかかっているということを理解していました。ほんとうにこのときのフランスは綱渡りだったのです。ノルマンディー上陸作戦の時点ではド・ゴールの自由フランスの支持基盤は国内のレジスタンスだけでした。それが戦局の推移に伴ってそれ以外のフランス人たちも自由フランスを自分たちの代表として承認する気分になり、最後に米英はじめ世界の政府がド・ゴールの権威を承認せざるを得なくなった。ですから、ド・ゴールが「国を救った」というのはほんとうなのです。対独協力国、事実上の枢軸国がいつのまにか連合国の一員になり、さらに国際社会の重鎮になりおおせていたわけですから、これはド・ゴールの力業という他ありません。

でも、このド・ゴールが力業でフランスの体面を救ったことによって、フランス人は戦争経験の適切な総括を行う機会を奪われてしまった。ほんとうを言えば、ドイツの犯したさまざまな戦争犯罪に加担してきたフランス人たちはもっと「疚しさ」を感じてよかったのです。でも、フランス人は戦勝国民として終戦を迎えてしまった。フランス人は「敗戦を総括する義務」を免除された代わりにもっと始末におえないトラウマを抱え込むことになりました。


イタリアは戦勝国ではないのか

 僕たち日本人はイタリアがどんなふうに終戦を迎えたかについてはほとんど知るところがありません。世界史の授業でもイタリアの敗戦については詳しく教えてもらった記憶がない。教科書で教えてもらえないことは、映画や小説を通じて学ぶわけですけれども、イタリアの終戦時の混乱については、それを主題にした映画や文学も日本ではあまり知られておりません。『無防備都市』(ロベルト・ロッセリーニ監督、一九四五年)にはイタリアのレジスタンスの様子がリアルに描かれていますが、僕が知っているのはそれくらいです。ですから、ナチスと命がけで戦ったイタリア人がいたことや、イタリア人同士で激しい内戦が行われていたという歴史的事実も日本人はあまり知らない。

一九四三年七月に、反ファシスト勢力が結集して、国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が主導して、ムッソリーニを20年にわたる独裁者の地位から引きずり下ろしました。そして、首相に指名されたピエトロ・バドリオ将軍は水面下で連合国と休戦交渉を進めます。その後、監禁されていたムッソリーニをドイツの武装親衛隊が救い出して、北イタリアに傀儡政権「イタリア社会共和国」を建て、内戦状態になります。最終的にドイツ軍はイタリア領土内から追い出され、ムッソリーニはパルチザンに捕らえられて、裁判抜きで処刑され、その死体はミラノの広場に逆さ吊りにされました。イタリア王国軍とパルチザンがムッソリーニのファシスト政権に引導を渡し、ドイツ軍を敗走させた。ですから、イタリアは法理的には戦勝国なんです。でも、たぶん「イタリアは戦勝国だ」と思っている日本人はほとんどいない。自分たちと同じ敗戦国だと思っている。

たしかに、戦後イタリアを描いた『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1948年)のような映画を観ると、街は爆撃でひどいことになっているし、人々は食べるものも仕事もなくて、痩せこけている。「ああ、イタリアも日本と同じだ」と思っても不思議はない。でも、違います。イタリアは戦勝国なんです。だいたい、イタリアは一九四五年七月には日本に宣戦布告しているんです。

 フランスとイタリアを比べれば、フランスよりイタリアの方がずっと戦勝国条件が整っている。フランスは先ほど述べたように紙一重で戦勝国陣営に潜り込み、国連の常任理事国になり、核保有国になり、今も世界の大国としてふるまっています。それは一にシャルル・ド・ゴールという卓越した政治的能力を持つ人物が国家存亡のときに登場したからです。ド・ゴールがいて、ルーズベルトやチャーチルと一歩も引かずに交渉したから、フランスは戦勝国「のようなもの」として戦後世界に滑り込むことができた。でも、イタリアにはそんなカリスマ的な人物がいませんでした。戦争指導者であったヴィットリオ・エマヌエーレ三世とバドリオ将軍は、ドイツ軍がローマに侵攻してきたとき、市民を「無防備都市」に残したまま自分たちだけ逃亡してしまった。そのせいでイタリア軍の指揮系統は壊滅しました。戦後の国民投票で国民たちの判断で王政が廃止されたのは、このときの戦争指導部の国民に対する裏切りを国民が許さなかったからです。

フランスとイタリアのどちらも「勝ったんだか負けたんだかよくわからない仕方で戦争が終わった」わけですけれど、フランスにはド・ゴールがいて、イタリアにはいなかった。それが戦後の両国の立ち位置を決めてしまった。

でも、僕はこれを必ずしもフランスにとって幸運なことだったとも、イタリアにとって不幸なことだったとも思わないのです。イタリアは「敗戦国みたいにぼろぼろになった戦勝国」として終戦を迎えました。戦争の現実をありのままに、剥き出しに経験した。戦勝を誇ることもできなかったし、敗戦を否認する必要もなかった。だから、彼らの戦争経験の総括には変なバイアスがかかっていない。

先日、イタリアの合気道家が僕の道場に出稽古に来たことがありました。稽古のあとの歓談のとき、「そういえば君たち、昔、日本に宣戦布告したことがあるでしょう」と訊いてみました。たぶん、そんなこと知らないと思ったんです。意外なことに、彼はすぐに苦笑して、「どうもすみませんでした」と謝るんです。「イタリアって、どさくさまぎれにああいうことをやるんです。フランスが降伏したときにも仏伊国境の土地を併合したし。そういう国なんです。申し訳ない」と。僕は彼のこの対応にびっくりしました。自国の近代史のどちらかというと「汚点」を若いイタリア人が常識として知っているということにまず驚き、それについて下手な言い訳をしないで、さらっと「ごめんね」と謝るところにさらに驚きました。事実は事実としてまっすぐみつめる。非は非として受け容れ、歴史修正主義的な無駄な自己弁護をしない。そのとき僕は「敗戦の否認をしなかった国民」というものがあるとしたら、「こういうふう」になるのかなと思いました。

イタリアは「ほとんど敗戦」という他ないほどの被害を蒙った。内戦と爆撃で都市は傷ついた。行政も軍もがたがたになった。戦死者は30万人に及んだ。でも、その経験を美化もしなかったし、否認もしなかった。「まったくひどい目に遭った。でも、自業自得だ」と受け止めた。だから、戦争経験について否認も抑圧もない。

フランスの場合は、ヴィシーについてはひさしく歴史的研究そのものが抑圧されていました。先ほど名前が出ましたベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』はヴィシーに流れ込む十九世紀二○世紀の極右思想史研究ですが、この本が出るまで戦後四四年の歳月が必要でした。刊行されたときも、保守系メディアはこれに集中攻撃を加えました。「なぜせっかくふさがった『かさぶた』を剥がして、塩を塗り込むようなことをするのか」というのです。それからさらに30年近くが経ちますが、ヴィシー政府の時代にフランスが何をしたのかについての歴史的な研究は進んでいません。

ナチスが占領していた時代のフランス人は何を考え、何を求めて、どうふるまったのか。いろいろな人がおり、いろいろな生き方があったと思います。それについての平明な事実を知ることが現代のフランス人には必要だと僕は思います。ド・ゴールが言うように「自分自身に対して抱く評価」を基礎づけるために。でも、それが十分に出来ているように僕には思えません。フランスの場合は「敗戦の否認」ではなく、対独協力国だったという歴史的事実そのものが否認されている。その意味では、あるいは日本より病が深いかもしれない。

 現在の政治状況と敗戦の総括との関係

 本来なら、ヴィシー政府の政治家や官僚やイデオローグたちの事績を吟味して、「一体、ヴィシーとは何だったのか、なぜフランス人は民主的な手続きを経てこのような独裁制を選択したのか」という問いを徹底的に究明すべきだったと思います。でも、フランス人はこの仕事をネグレクトしました。ヴィシー政府の要人たちに対する裁判もごく短期間のうちに終えてしまった。東京裁判やニュルンベルク裁判のように、戦争犯罪の全貌を明らかにするということを抑制した。ペタン元帥や首相だったピエール・ラヴァルの裁判はわずか一ヶ月で結審して、死刑が宣告されました。裁判は陪審員席からも被告に罵声が飛ぶというヒステリックなもので、真相の解明というにはほど遠かった。この二人に全責任を押しつけることで、それ以外の政治家や官僚たちは事実上免責されました。そして、この「エリートたち」はほぼそのまま第四共和政の官僚層に移行する。

 レヴィによれば、フランスにおいて、ヴィシーについての歴史学的な検証が進まなかった最大の理由は、ヴィシー政府の官僚層が戦後の第四共和政の官僚層を形成しており、彼らの非を細かく咎めてゆくと、第四共和政の行政組織そのものが空洞化するリスクがあったからだということでした。事情を勘案すれば、フランス政府が、国家的選択として対独協力していたわけですから、それをサボタージュした官僚はうっかりするとゲシュタポに捕まって、収容所に送られるリスクがあったわけです。組織ぐるみの対独協力をせざるを得なかった。だから、一罰百戒的に、トップだけに象徴的に死刑宣告を下して、あとは免罪して、戦後の政府機構に取り込むことにした。それは当座の統治システムの維持のためには、しかたなかったのかも知れません。

ですから、ヴィシーについての歴史学的な実証研究が始まるのは、この官僚たちが現役を引退した後になります。一九八〇年代に入って、戦後四〇年が経って、ヴィシー政府の高級官僚たちが退職したり、死んだりして、社会的な影響がなくなった時点ではじめて、最初は海外の研究者たちが海外に流出していたヴィシー政府の行政文書を持ち出して、ヴィシー研究に手を着け始めた。フランス人自身によるヴィシー研究は『フランス・イデオロギー』が最初のものです。戦争が終わって四五年後です。「ヴィシーの否認」は政治的に、意識的に、主体的に遂行された。でも、そのトラウマは別の病態をとって繰り返し回帰してきます。僕はフランスにおける「イスラモフォビア」(イスラーム嫌悪症)はそのような病態の一つではないかと考えています。

 フランスは全人口の一〇%がムスリムです。先日のテロで露呈したように、フランス社会には排外主義的な傾向が歴然と存在します。大戦後も、フランスは一九五〇年代にアルジェリアとベトナムで旧植民地の民族解放運動に直面した時、暴力的な弾圧を以って応じました。結果的には植民地の独立を容認せざるを得なかったのですが、独立運動への弾圧の激しさは、「自由・平等・友愛」という人権と民主主義の「祖国」のふるまいとは思えぬものでした。そんなことを指摘する人はいませんが、これは「ヴィシーの否認」が引き起こしたものではないかと僕は考えています。「対独協力政治を選んだフランス」、「ゲシュタポと協働したフランス」についての十分な総括をしなかったことの帰結ではないか。

もしフランスで終戦時点で自国の近過去の「逸脱」についての痛切な反省がなされていたら、五〇年代におけるフランスのアルジェリアとベトナムでの暴力的な対応はある程度抑止されたのではないかと僕は想像します。フランスはナチス・ドイツの暴力に積極的に加担した国なのだ、少なくともそれに加担しながら反省もせず、処罰も免れた多数の国民を今も抱え込んでいる国なのだということを公式に認めていたら、アルジェリアやベトナムでの事態はもう少し違うかたちのものになっていたのではないか。あれほど多くの人が殺されたり、傷ついたりしないで済んだのではないか。僕はそう考えてしまいます。

 自分の手は「汚れている」という自覚があれば、暴力的な政策を選択するときに、幾分かの「ためらい」があるでしょう。けれども、自分の手は「白い」、自分たちがこれまでふるってきた暴力は全て「正義の暴力」であり、それについて反省や悔悟を全く感じる必要はない、ということが公式の歴史になった国の国民には、そのような「ためらい」が生まれない。フランスにおけるムスリム市民への迫害も、そのような「おのれの暴力性についての無自覚」のせいで抑制が効きにくくなっているのではないでしょうか。

 他の敗戦国はどうでしょう。ハンガリーは最近、急激に右傾化して、排外主義的な傾向が出てきています。タイも久しく穏やかな君主制でいましたけれども、近年はタクシン派と反タクシン派が戦い続けて、国内はしばしば内戦に近い状態を呈しています。スロバキアとかクロアチアとかにもやはり政治的にある種の不安定さを常に感じます。

戦争後は、どの国も「この話はなかったことに」という国民的合意に基づいて「臭いものに蓋」をした。当座はそれでよかったかも知れません。でも、蓋の下では、抑圧された国民的な「恥辱」や「怨嗟」がいつまでも血を流し、腐臭を発している。だから、ハンガリーの現在の政治状況や、タイの現在の政治状況が、それぞれの国の敗戦経験の総括と全く無関係かどうかということは、かなり精密な検証をしてみないとわからない。そこには何らかの「関連がある」という仮説を立てて検証をしてみてよいのではないか。してみるだけの甲斐はあると僕は思います。

 ドイツ統合は敗戦の否認か

 戦争の記憶を改竄することによって、敗戦国民は当座の心の安らぎは手に入れることができるかも知れません。でも、そこで手に入れた「不当利得」はどこかで返済しなければならない。いずれ必ず後でしっぺ返しが来る。世界の敗戦国を一瞥すると、どこも七〇年かけて、ゆっくりと、でも確実に「記憶の改竄」のツケを支払わされている。『永続敗戦論』が明らかにしたように、日本も敗戦の否認のツケを払わされている。そして、この返済はエンドレスなんです。「負債がある」という事実を認めない限り、その負債を割賦でいいから返して行かない限り、この「負債」は全く別の様態をとって、日本人を責め続ける。

 「ドイツは敗戦経験の総括に成功した」と多くの人が言います。でも、本当にそうなんでしょうか。僕は簡単には諾うことができません。東ドイツのことを勘定に入れ忘れているような気がするからです。

東ドイツは「戦勝国」なんです。東ドイツはナチスと戦い続けたコミュニストが戦争に勝利して建国した国だという話になっている。だから、東ドイツ国民はナチスの戦争犯罪に何の責任も感じていない。感じることを国策的に禁止されていた。責任なんか感じてるはずがない。自分たちこそナチスの被害者であり、敵対者だということになっているんですから。悪虐非道なるナチスと戦って、それを破り、ドイツ国民をナチスの軛から解放した人々が、何が悲しくて、ナチスの戦争犯罪について他国民に謝罪しなければならないのか。

 一九九〇年に合併した当時、西ドイツと東ドイツとは人口比でいうと四対一でした。ということは、その時点では、全ドイツ人口の二〇%、一六○○万人は「自分たちはナチスドイツの戦争犯罪に何の責任もない」と子供のころからずっと教えられてきた人たちだったということです。それが合併後のドイツの国民的自意識にどういう影響を与えたのか。僕は寡聞にして知りません。

 日本国内に「日本軍国主義者の戦争犯罪について、われわれには何の責任もない。われわれは彼らと戦って、日本を解放したのである」と教えられて来た人が二四○○万人いる状況を想定してください。そう信じている「同胞」を受け容れ、戦争経験について国民的規模での総括を行い、合意を形成するという作業がどれほど困難であるか、想像がつくと思います。さて、果たして、ドイツでは東西ドイツが合併した時に、戦争経験の総括について、国民的合意を形成し得たのか。僕は「ドイツはこんな風に合意形成を成し遂げました」と納得のゆく説明をしたものをこれまで読んだことがありません。いや、それは僕がただ知らないでだけで、そういう「全く相容れない戦争経験総括を一つにまとめあげたドイツの素晴らしい政治的達成」については既に色々な報告や研究が出ているのかも知れません。でも、そうだとしたら、それこそ「国民的和解」の最良のモデルケースであるわけですから、国内的な対立を抱える様々な国について、何かあるごとに、「ここでも『和解のためのドイツ・モデル』を適用すべきではないか」ということが言及されてよいはずです。でも、僕はそのような「和解モデル」について聞いたことがない。

 ドイツの戦争総括の適切さを語るときに、よくヴァイツゼッカー元大統領の演説が引かれます。この人はヨーロッパの諸国を訪れては、そのつどきちんとナチス・ドイツ時代の戦争犯罪について謝罪しています。その倫理性的な潔さは疑うべくもありません。けれども、やはり日本とは話の運びが微妙に違う。ヴァイツゼッカーは五月四日、ドイツが連合国に無条件降伏した日を「ドイツ国民解放の日」と言っているからです。われわれはナチスの暴虐からその日に解放されたのである、それをことほぐという立場を取る。悪いのはあくまでナチスとその軍事組織や官僚組織や秘密警察組織であって、ドイツ国民はその犠牲者であったという立場は譲らない。ドイツ国民の罪はナチスのような政党を支持し、全権を委ねてしまったことにある。そのような過ちを犯したことは認めるけれども、基本的にはドイツ国民もまたナチスの被害者であり、敗戦によってナチスの軛から解放されたという物語になっている。

 日本人にも敗戦が一種の解放感をもたらしたということは事実だったでしょう。けれども、八月一五日を「解放の日」だと言う人はほとんどいません。表だってそう発言するのは、かなり勇気が要る。けれども、実感としては、それに近いことを思っていた日本人は少なくなかったと思います。

 小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』(松竹、一九六二年)の中で、笠智衆の演じる今はサラリーマンをしている駆逐艦の元艦長平山と、加東大介の演じるかつての駆逐艦の乗組員坂本が、町なかでばったり出会うという場面があります。坂本が平山を誘って、トリスバーのカウンターに座ってウィスキーを飲む。この時に坂本が「ねえ、艦長、もしあの戦争に勝っていたらどうなったんでしょうね」と問う。平山は静かに笑いながら、「負けてよかったじゃないか」と答える。そうすると、坂本は「え?」と一瞬怪訝な顔をするのですが、ふと得心したらしく、「そうかもしれねえな。ばかなやつが威張らなくなっただけでもね」と呟く。これは敗戦がもたらした解放感についての、あの世代の偽らざる実感だったんじゃないかなと思います。

 僕は一九五〇年生まれで、父はもちろん戦中派なのですが、僕が小さい頃に、父が会社の同僚を家に連れてきて飲んでいるときに誰かが「負けてよかったじゃないか」と呟くのを僕は二三度聞いたことがあります。特に力んで主張するというのではなく、何かの弾みにぽろりと口にされる。そして、その言葉が口にされると、男たちは皆黙り込む。それで怒り出す人もいないし、泣き出す人もいない。それは思想とは言えないものでした。敗戦の総括としてはあまりに言葉が足りない。けれども、おそらくこれが戦中派の実感だったと思います。それが世代的な実感として、言挙げしないでも共有されている限り、そのような敗戦の総括もそれなりのリアリティーを持ち得た。けれども、そういう片言隻句だけでは、彼らの思いが輪郭のしっかりした思想として次の世代に継承されることはありません。

 恥ずべき過去も含んだタフな物語

 白井さんの本を読んでいると、日本は異常な仕方で敗戦を否認してきたことがわかる。これは全くその通りなんですけれども、それだけでなく、多くの敗戦国はそれぞれ固有の仕方で自国の敗戦を否認している。僕にはそう思われます。

それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。

カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。

 歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

 カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。

 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

ノモンハンを書こうとした作家がもう一人います。村上春樹です。『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社 一九九四〜九五年)で村上春樹はノモンハンについて書いています。でも、なぜノモンハンなのか。その問いに村上は答えていない。何だか分からないけれども、急に書きたくなったという感じです。でも、ノモンハンのことを書かないと日本人の作家の仕事は終わらないと直感したというところに、この人が世界作家になる理由があると僕は思います。日本人にとっての「タフな物語」の必要性を村上春樹も感じている。それが今の日本に緊急に必要なものであるということをよくわかっている。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。日本の左翼知識人には、あまりアメリカに学ぶ人はいません。親米派の学者たちも、よく見ると、まったくアメリカに学ぶ気はない。アメリカに存在する実定的な制度を模倣することには熱心ですけれど、なぜアメリカは強国たりえたのかについて根源的に考えるということには全く興味を示さない。アメリカの諸制度の導入にあれほど熱心な政治家も官僚も、アメリカにあって日本に欠けているものとしてまずカウンターカルチャーを挙げる人はいません。連邦制を挙げる人もいない。でも、アメリカの歴史的成功の理由はまさに「一枚岩になれないように制度を作り込んだ」という点にあるのです。でも、日本のアメリカ模倣者たちは、それだけは決して真似しようとしない。

 ほかにもいろいろ言いたいことはありますけれど、すでに時間を大分超えてしまったので、この辺で終わります。ご静聴ありがとうございました。


【Q&A】


ナラティブの力

姜 今日のお話を聞いていて、どういう「物語」をつくるかということが最大のポリティクスになっている気がします。内田さんの比較敗戦論は、我々のパースペクティブを広げてくれました。韓国や中国では日本例外論、単純にドイツと日本を比較して日本はだめなんだ、だから我々は日本を半永久に批判していい、そういう理屈立てになりがちです。そのときに内田さんの比較敗戦論をもちいてみると、我々のブラインドスポットになっている部分がよく見えてくる。解放の物語の自己欺瞞みたいなところも見えてくる。ところが、安倍さんのような人が出てくると、逆に、かつて自分たちが植民地であった、侵略をされた国は、ますます解放の物語を検証することをやらなくて済んでしまいますね。

内田 イージーな物語に対してイージーな物語で対抗すれば、どちらもどんどんシンプルでイージーな話に落ち込んでしまう。実際の歴史的な事件は「善玉と悪玉が戦っている」というようなシンプルな話ではないんです。さまざまな人たちが複雑な利害関係の中でわかりにく行動を取っている。うっかりすると、本人たち自身、自分たちがどういう動機で行動しているのか、いかなる歴史的な役割を果しているのか、わかっていないということだってある。それが歴史の実相だろうと思います。ですから、それをありのままに淡々と記述していく。軽々には評価を下さない。わかりやすいストーリーラインに落とし込むという誘惑にできる限り抵抗する。そういう歴史に対する自制心が非常に大事になると思います。

 こういう仕事においては、歴史を叙述するときの語り口、ナラティブの力というのが大きいと思うんです。最近、読んだ本の中でフィリップ・ロスの小説『プロット・アゲンスト・アメリカ──もしもアメリカが...』(柴田元幸・訳、集英社、二〇一四年)がとても面白かった。これは一九四〇年の米大統領選挙でルーズベルトではなく、共和党から出馬した大西洋単独飛行の英雄チャールズ・リンドバーグ大佐がヨーロッパでの戦争への不干渉を掲げて勝利してしまうという近過去SFなんです。現実でも、リンドバーグは親独的立場で知られていて、ゲーリングから勲章を授与されてもいます。ロスの小説では、アメリカに親独派政権が誕生して、ドイツと米独不可侵条約を、日本とは日米不可侵条約を結ぶ。そして、アメリカ国内では激しいユダヤ人弾圧が起きる・・・という話です。

 僕はナラティブというのは、こういうSF的想像力の使い方も含むと思います。もし、あのときにこうなっていたらというのは、ほんとうに大事な想像力の使い方だと思う。

フィリップ・K・ディックの『高い城の男』(浅倉久志・新訳 早川書房、原著一九六二年)というSFがあります。これは枢軸国が連合国に勝った世界の話です。日独がアメリカを占領している。東海岸がドイツ占領地で、ロッキー山脈から西側が日本の占領地。そういう場合に、日本人はアメリカをどういうふうに植民地的に統治するのか、それを考えるのは実は非常に大事な思考訓練なんです。実際に日本がアメリカ西部を安定的に統治しようとしたら、日本の価値観とか美意識とか規範意識を「よいものだ」と思って、自発的に「対日協力」をしようと思うアメリカ人を集団的に創り出すしかない。ドイツがフランスでやったのはそういうことでした。でも、日本の戦争指導部にそのようなアイディアがあったと僕は思いません。

アメリカの方は、日本に勝った後にどうやって占領するかの計画を早々と立案していた。日本人のものの考え方とか組織の作り方とかを戦時中に民族学者に委託して研究しています。卓越した日本人論として今も読み継がれている『菊と刀』はルーズベルトが設置した戦争情報局の日本班のチーフだったルース・ベネディクトが出した調査報告書です。日本社会を科学的に研究して、どういう占領政策が適切かを戦争が終わる前にもう策定していた。

果たして日本の大本営にアメリカに勝った後、どうやってアメリカを統治するか、何らかのプランがあったでしょうか。どうやって対日協力者のネットワークを政治家や学者やジャーナリストやビジネスマンの中に組織するかというようなことをまじめに研究していた部門なんか日本の軍部のどこにも存在しなかったと思います。戦争に勝ったらどうするのかについて何の計画もないままに戦争を始めたんです。そんな戦争に勝てるはずがない。

 僕のSF的妄想は、一九四二年のミッドウェー海戦の敗北で、これはもう勝てないなと思い切って、停戦交渉を始めたらどうなったかというものです。史実でも、実際に、当時の木戸幸一内大臣と吉田茂たちは、すでに講和のための活動を始めています。近衛文麿をヨーロッパの中立国に送って、連合国との講和条件を話し合わせようという計画があった。もし、この工作が奏功して、四二年か四三年の段階で日本が連合国との休戦交渉に入っていれば、それからあとの日本の国のかたちはずいぶん違ったものになっただろうと思います。

ミッドウェー海戦で、帝国海軍は主力を失って、あとはもう組織的抵抗ができない状態でした。戦い続ければ、ただ死傷者を増やすだけしか選択肢がなかったのに、「攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち」というような、まったく非科学的な軍事思想に駆動されていたせいで、停戦交渉という発想そのものが抑圧された。

この時点で戦争を止めていれば、本土空襲もなかったし、沖縄戦もなかったし、原爆投下もなかった。300万人の死者のうち、95%は死なずに済んだ。民間人の死傷者はほぼゼロで済んだはずです。ミッドウェーは日本軍の歴史的敗北でしたけれど、死者は3000人に過ぎません。ほとんどの戦死者(実際には戦病死者と餓死者でしたが)はその後の絶望的、自滅的な戦闘の中で死んだのです。

空襲が始まる前に停戦していれば、日本の古い街並みは、江戸時代からのものも、そのまま手つかずで今も残っていたでしょう。満州と朝鮮半島と台湾と南方諸島の植民地は失ったでしょうけれど、沖縄も北方四島も日本領土に残され、外国軍に占領されることもなかった。四二年時点で、日本国内に停戦を主導できる勢力が育っていれば、戦争には負けたでしょうけれど、日本人は自分の手で敗戦経験の総括を行うことができた。なぜこのような勝ち目のない戦争に突っ込んで行ったのか、どこに組織的瑕疵があったのか、どのような情報を入力し忘れていたのか、どのような状況判断ミスがあったのか、それを自力で検証することができた。戦争責任の徹底追及を占領軍によってではなく、日本人自身の手で行えた可能性はあった。日本人が自分たちの手で戦争責任を追及し、戦争責任の追及を行い、憲法を改定して、戦後の日本の統治システムを日本人が知恵を絞って作り上げることは可能だった。

「もしミッドウェーのあとに戦争が終わっていたら、その後の戦後日本はどんな国になったのか」というようなSF的想像はとてもたいせつなものだと僕は思います。これはフィクションの仕事です。小説や映画やマンガが担う仕事です。政治学者や歴史学者はそういう想像はしません。でも、「そうなったかもしれない日本」を想像することは、自分たちがどんな失敗を犯したのかを知るためには実はきわめて有用な手立てではないかと僕は思っています。「アメリカの属国になっていなかった日本」、それが僕たちがこれからあるべき日本の社会システムを構想するときに参照すべき最も有用なモデルだと思います。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c56

[近代史3] かぐや姫 神田川 _ 1970年代 四畳半フォークの時代 中川隆
10. 中川隆[-11286] koaQ7Jey 2019年3月22日 13:43:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[720]

七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。

ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。

この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。

なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

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比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html


2019年度の寺子屋ゼミは「比較敗戦論」を通年テーマにすることにした。

どうしてこのようなテーマを選ぶことになったのか。それについて姜尚中さんとのトークセッションで語ったことがある。
そのときの講演録を再録しておく。講演があったのは2016年

敗戦国は日独だけではない

 今回の「比較敗戦論」というタイトルは、問題提起という意味でつけました。特に僕の方で用意した結論があるわけではありません。ただ、歴史を見るときに、こういう切り取り方もあるのだというアイディアをお示ししたいと思います。

「比較敗戦論」という言葉は『永続敗戦論』(太田出版 二〇一三年)の白井聡さんと対談をしまたときにふと思いついたのです(この対談はその後、『日本戦後史論』(徳間書店、二〇一五年)という本にまとまりました)。

『永続敗戦論』での白井さんの重要な主張は「日本人は敗戦を否認しており、それが戦後日本のシステムの不調の原因である」というものでした。「敗戦の否認」というキーワードを使って、戦後七〇年の日本政治をきわめて明晰に分析した労作です。

ただ、僕が思ったのは、白井さんと話をしていて、日本人が戦後七〇年間にわたって敗戦経験を否認してきたということは全くご指摘の通りなんだけれども、日本以外の敗戦国ではどうなのか、ということが気になりました。日本以外の他の敗戦国はそれぞれ適切なやり方で敗戦の「総括」を行ったのか。その中で日本だけが例外的に敗戦を否認したのだとすれば、それはなぜなのか。そういった一連の問いがありうるのではないかと思いました。

白井さんの言う通り「敗戦の否認」ゆえに戦後日本はさまざまな制度上のゆがみを抱え込み、日本人のものの考え方にも無意識的なバイアスがかかっていて、ある種の思考不能状態に陥っていること、これは紛れもない事実です。でも、それは日本人だけに起きていることなのか。他の敗戦国はどうなっているのか。多の敗戦国では、敗戦を適切に受け容れて、それによって制度上のゆがみや無意識的な思考停止を病むというようなことは起きていないのか。よく「ドイツは敗戦経験に適切に向き合ったけれど、日本はそれに失敗した」という言い方がされます。けれども、それはほんとうに歴史的事実を踏まえての発言なのか。

まず僕たちが誤解しやすいことですけれど、第二次世界大戦の敗戦国は日独伊だけではありません。フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイ、これらは連合国が敵国として認定した国です。それ以外にも、連合国がそもそも国として認定していない交戦団体として、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア自由国、満州国、中華民国南京政府があります。これだけの「国」が敗戦を経験した。でも、僕たちはこれらの敗戦国で、人々が敗戦経験をどう受け容れたのか、どうやって敗戦後の七〇年間を過ごしてきたのかについて、ほとんど何も知りません。例えば、「フィンランド国民は敗戦をどう総括したか」というような研究は、フィンランド国内にはしている人がいるのでしょうけれど、僕はそれについての日本語文献のあることを知らない。でも、「敗戦の否認」という心理的な痼疾を手がかりにして現代日本社会を分析するためには、やはり他の敗戦国民は自国の敗戦をどう受け止めたのか、否認したのか、受容したのかが知りたい。敗戦の総括をうまく実行できた国はあるのか。あるとしたら、なぜ成功したのか。敗戦を否認した国は日本の他にもあるのか。あるとしたら、その国における敗戦の否認は、今その国でどのような現実を帰結したのか、それを知りたい。「敗戦の否認」が一種の病であるとするなら、治療のためには、まず症例研究をする必要がある。僕はそんなふうに考えました。


フランスは果たして戦勝国なのか

 このアイデアには実はいささか前段があります。枢軸国の敗戦国というと、ふつうは日独伊と言われます。けれども、フランスだって実は敗戦国ではないのか。僕は以前からその疑いを払拭することができずにいました。

ご承知の方もいると思いますが、僕の専門はフランス現代思想です。特にエマニュエル・レヴィナスというユダヤ人哲学者を研究してきました。その関連で、近代フランスにおけるユダヤ人社会と彼らが苦しんだ反ユダヤ主義のことをかなり長期にわたって集中的に研究してきました。そして、そのつながりで、19世紀から20世紀はじめにかけてのフランスの極右思想の文献もずいぶん読み漁りました。

 僕がフランスにおける反ユダヤ主義の研究を始めたのは1980年代のはじめ頃ですが、その頃フランスの対独協力政権、ペタン元帥の率いたヴィシー政府についての研究が続々と刊行され始めました。ですから、その頃出たヴィシーについての研究書も手に入る限り買い入れて読みました。そして、その中でも出色のものであったベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』(国文社、一九八九年)という本を翻訳することになりました。これはフランスが実はファシズムと反ユダヤ主義というふたつの思想の「母国」であったという非常に挑発的な内容で、発売当時はフランスでは大変な物議を醸したものでした。

 歴史的事実をおさらいすると、一九三九年九月にドイツのポーランド侵攻に対して、英仏両国はドイツに宣戦布告します。フランスはマジノ線を破られて半年後の六月にフランスは独仏休戦協定が結ばれます。フランスの北半分はドイツの直接統治領に、南半分がペタンを首班とするヴィシー政府の統治下に入ります。第三共和政の最後の国民議会が、ペタン元帥に憲法制定権を委任することを圧倒的多数で可決し、フランスは独裁制の国になりました。そして、フランス革命以来の「自由、平等、友愛」というスローガンが廃されて、「労働、家族、祖国」という新しいファシズム的スローガンが掲げた対独協力政府ができます。

フランスは連合国に対して宣戦布告こそしていませんけれども、大量の労働者をドイツ国内に送ってドイツの生産活動を支援し、兵站を担い、国内ではユダヤ人やレジスタンスを行いました。フランス国内で捕らえられたユダヤ人たちはフランス国内から鉄道でアウシュヴィッツへ送られました。

 対独レジスタンスが始まるのは1942年くらいからです。地下活動という性質上、レジスタンスの内実について詳細は知られていませんが、初期の活動家は全土で数千人規模だったと言われています。連合国軍がノルマンディーに上陸して、戦局がドイツ軍劣勢となってから、堰を切ったように、多くのフランス人がドイツ軍追撃に参加して、レジスタンスは数十万規模にまで膨れあがった。この時、ヴィシー政府の周辺にいた旧王党派の準軍事団体などもレジスタンスに流れ込んでいます。昨日まで対独協力政権の中枢近くに人たちが、一夜明けるとレジスタンスになっているというようなこともあった。そして、このドイツ潰走の時に、対独協力者の大量粛清が行われています。ヴィシー政権に協力したという名目で、裁判なしで殺された犠牲者は数千人と言われていますが、これについても信頼できる史料はありません。調書もないし、裁判記録もない。どういう容疑で、何をした人なのか判然としないまま、「対独協力者だ」と名指されて殺された。真実はわからない。

アルベール・カミュは最初期からのほんもののレジスタンス闘士でしたけれど、戦後その時代を回想して、「ほんとうに戦ったレジスタンスの活動家はみな死んだ」と書いて、今生き残って「レジスタンス顔」をしている人間に対する不信を隠そうとしませんでした。このあたりの消息は外国人にはなかなかわかりません。

シャルル・ド・ゴールもその回想録の中で、ヴィシー政府壊滅後のフランス各地の混乱に言及して、「無数の場所で民衆の怒りは暴力的な反動として溢れ出した。もちろん、政治的な目論見や、職業上の競争や、個人的な復讐がこの機会を見逃すはずもなかった」と証言しています。(Charles De Gaulle, Mémoire de guerre, Plon, 1959, p.18)

 国防次官だったシャルル・ド・ゴールはペタン元帥が休戦協定を結んだときにロンドンに亡命して亡命政府を名乗りますけれど、もちろん彼の「自由フランス」には国としての実体などありません。国際法上はあくまでヴィシー政府がフランスの正統な政府であって、自由フランスは任意団体に過ぎません。そもそもド・ゴール自身、フランスの法廷で欠席裁判のまま死刑宣告されているのです。

ド・ゴール以外にも、フランソワ・ダルラン将軍、アンリ・ジロー将軍といった軍の実力者がいて、フランスの正統な代表者の地位を争っていました。最終的にド・ゴールが競争相手を排除して、自由フランス軍のトップに立ちますけれど、それでも一交戦団体に過ぎません。44年にド・ゴールが「フランス共和国臨時政府」を名乗ったときも、アメリカもイギリスもこれを承認するのを渋りました。ド・ゴールが一交戦団体に過ぎなかった自由フランスを「戦勝国」にカテゴリー変更させたのは、彼の発揮した軍事的・外交的実力によってです。44年、ノルマンディー上陸後西部戦線でのドイツ軍との戦闘が膠着状態にあったとき、ド・ゴールはこの機会にフランスを連合国に「高く売る」ことに腐心しています。回想録にはそのことが率直に書いてあります。

「戦争がまだ長引くということは、われわれフランス人が耐え忍ばなければならない損失、被害、出費を考えれば、たしかに痛ましいことである。しかし、フランスの最優先の利害を勘案するならば、フランス人の当面の利益を犠牲にしても、戦争の継続は悪い話ではなかった。なぜなら、戦争がさらに長びくならば、アフリカやイタリアでそうだったように、われわれの協力がライン河・ドナウ河での戦闘にも不可欠のものとなるからである。われわれの世界内における地位、さらにはフランス人がこれから何世代にもわたって自分自身に対して抱く評価がそこにかかっている。」(Ibid., p.44、強調は内田)

 ド・ゴールは、パリ解放からドイツ降伏までのわずかの時間内に、フランス軍の軍事的有用を米英に誇示できるかどうかに戦後フランスの、国際社会における立場がかかっているということを理解していました。ほんとうにこのときのフランスは綱渡りだったのです。ノルマンディー上陸作戦の時点ではド・ゴールの自由フランスの支持基盤は国内のレジスタンスだけでした。それが戦局の推移に伴ってそれ以外のフランス人たちも自由フランスを自分たちの代表として承認する気分になり、最後に米英はじめ世界の政府がド・ゴールの権威を承認せざるを得なくなった。ですから、ド・ゴールが「国を救った」というのはほんとうなのです。対独協力国、事実上の枢軸国がいつのまにか連合国の一員になり、さらに国際社会の重鎮になりおおせていたわけですから、これはド・ゴールの力業という他ありません。

でも、このド・ゴールが力業でフランスの体面を救ったことによって、フランス人は戦争経験の適切な総括を行う機会を奪われてしまった。ほんとうを言えば、ドイツの犯したさまざまな戦争犯罪に加担してきたフランス人たちはもっと「疚しさ」を感じてよかったのです。でも、フランス人は戦勝国民として終戦を迎えてしまった。フランス人は「敗戦を総括する義務」を免除された代わりにもっと始末におえないトラウマを抱え込むことになりました。

イタリアは戦勝国ではないのか

 僕たち日本人はイタリアがどんなふうに終戦を迎えたかについてはほとんど知るところがありません。世界史の授業でもイタリアの敗戦については詳しく教えてもらった記憶がない。教科書で教えてもらえないことは、映画や小説を通じて学ぶわけですけれども、イタリアの終戦時の混乱については、それを主題にした映画や文学も日本ではあまり知られておりません。『無防備都市』(ロベルト・ロッセリーニ監督、一九四五年)にはイタリアのレジスタンスの様子がリアルに描かれていますが、僕が知っているのはそれくらいです。ですから、ナチスと命がけで戦ったイタリア人がいたことや、イタリア人同士で激しい内戦が行われていたという歴史的事実も日本人はあまり知らない。

一九四三年七月に、反ファシスト勢力が結集して、国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が主導して、ムッソリーニを20年にわたる独裁者の地位から引きずり下ろしました。そして、首相に指名されたピエトロ・バドリオ将軍は水面下で連合国と休戦交渉を進めます。その後、監禁されていたムッソリーニをドイツの武装親衛隊が救い出して、北イタリアに傀儡政権「イタリア社会共和国」を建て、内戦状態になります。最終的にドイツ軍はイタリア領土内から追い出され、ムッソリーニはパルチザンに捕らえられて、裁判抜きで処刑され、その死体はミラノの広場に逆さ吊りにされました。イタリア王国軍とパルチザンがムッソリーニのファシスト政権に引導を渡し、ドイツ軍を敗走させた。ですから、イタリアは法理的には戦勝国なんです。でも、たぶん「イタリアは戦勝国だ」と思っている日本人はほとんどいない。自分たちと同じ敗戦国だと思っている。

たしかに、戦後イタリアを描いた『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1948年)のような映画を観ると、街は爆撃でひどいことになっているし、人々は食べるものも仕事もなくて、痩せこけている。「ああ、イタリアも日本と同じだ」と思っても不思議はない。でも、違います。イタリアは戦勝国なんです。だいたい、イタリアは一九四五年七月には日本に宣戦布告しているんです。

 フランスとイタリアを比べれば、フランスよりイタリアの方がずっと戦勝国条件が整っている。フランスは先ほど述べたように紙一重で戦勝国陣営に潜り込み、国連の常任理事国になり、核保有国になり、今も世界の大国としてふるまっています。それは一にシャルル・ド・ゴールという卓越した政治的能力を持つ人物が国家存亡のときに登場したからです。ド・ゴールがいて、ルーズベルトやチャーチルと一歩も引かずに交渉したから、フランスは戦勝国「のようなもの」として戦後世界に滑り込むことができた。でも、イタリアにはそんなカリスマ的な人物がいませんでした。戦争指導者であったヴィットリオ・エマヌエーレ三世とバドリオ将軍は、ドイツ軍がローマに侵攻してきたとき、市民を「無防備都市」に残したまま自分たちだけ逃亡してしまった。そのせいでイタリア軍の指揮系統は壊滅しました。戦後の国民投票で国民たちの判断で王政が廃止されたのは、このときの戦争指導部の国民に対する裏切りを国民が許さなかったからです。

フランスとイタリアのどちらも「勝ったんだか負けたんだかよくわからない仕方で戦争が終わった」わけですけれど、フランスにはド・ゴールがいて、イタリアにはいなかった。それが戦後の両国の立ち位置を決めてしまった。

でも、僕はこれを必ずしもフランスにとって幸運なことだったとも、イタリアにとって不幸なことだったとも思わないのです。イタリアは「敗戦国みたいにぼろぼろになった戦勝国」として終戦を迎えました。戦争の現実をありのままに、剥き出しに経験した。戦勝を誇ることもできなかったし、敗戦を否認する必要もなかった。だから、彼らの戦争経験の総括には変なバイアスがかかっていない。

先日、イタリアの合気道家が僕の道場に出稽古に来たことがありました。稽古のあとの歓談のとき、「そういえば君たち、昔、日本に宣戦布告したことがあるでしょう」と訊いてみました。たぶん、そんなこと知らないと思ったんです。意外なことに、彼はすぐに苦笑して、「どうもすみませんでした」と謝るんです。「イタリアって、どさくさまぎれにああいうことをやるんです。フランスが降伏したときにも仏伊国境の土地を併合したし。そういう国なんです。申し訳ない」と。僕は彼のこの対応にびっくりしました。自国の近代史のどちらかというと「汚点」を若いイタリア人が常識として知っているということにまず驚き、それについて下手な言い訳をしないで、さらっと「ごめんね」と謝るところにさらに驚きました。事実は事実としてまっすぐみつめる。非は非として受け容れ、歴史修正主義的な無駄な自己弁護をしない。そのとき僕は「敗戦の否認をしなかった国民」というものがあるとしたら、「こういうふう」になるのかなと思いました。

イタリアは「ほとんど敗戦」という他ないほどの被害を蒙った。内戦と爆撃で都市は傷ついた。行政も軍もがたがたになった。戦死者は30万人に及んだ。でも、その経験を美化もしなかったし、否認もしなかった。「まったくひどい目に遭った。でも、自業自得だ」と受け止めた。だから、戦争経験について否認も抑圧もない。

フランスの場合は、ヴィシーについてはひさしく歴史的研究そのものが抑圧されていました。先ほど名前が出ましたベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』はヴィシーに流れ込む十九世紀二○世紀の極右思想史研究ですが、この本が出るまで戦後四四年の歳月が必要でした。刊行されたときも、保守系メディアはこれに集中攻撃を加えました。「なぜせっかくふさがった『かさぶた』を剥がして、塩を塗り込むようなことをするのか」というのです。それからさらに30年近くが経ちますが、ヴィシー政府の時代にフランスが何をしたのかについての歴史的な研究は進んでいません。

ナチスが占領していた時代のフランス人は何を考え、何を求めて、どうふるまったのか。いろいろな人がおり、いろいろな生き方があったと思います。それについての平明な事実を知ることが現代のフランス人には必要だと僕は思います。ド・ゴールが言うように「自分自身に対して抱く評価」を基礎づけるために。でも、それが十分に出来ているように僕には思えません。フランスの場合は「敗戦の否認」ではなく、対独協力国だったという歴史的事実そのものが否認されている。その意味では、あるいは日本より病が深いかもしれない。


 現在の政治状況と敗戦の総括との関係

 本来なら、ヴィシー政府の政治家や官僚やイデオローグたちの事績を吟味して、「一体、ヴィシーとは何だったのか、なぜフランス人は民主的な手続きを経てこのような独裁制を選択したのか」という問いを徹底的に究明すべきだったと思います。でも、フランス人はこの仕事をネグレクトしました。ヴィシー政府の要人たちに対する裁判もごく短期間のうちに終えてしまった。東京裁判やニュルンベルク裁判のように、戦争犯罪の全貌を明らかにするということを抑制した。ペタン元帥や首相だったピエール・ラヴァルの裁判はわずか一ヶ月で結審して、死刑が宣告されました。裁判は陪審員席からも被告に罵声が飛ぶというヒステリックなもので、真相の解明というにはほど遠かった。この二人に全責任を押しつけることで、それ以外の政治家や官僚たちは事実上免責されました。そして、この「エリートたち」はほぼそのまま第四共和政の官僚層に移行する。

 レヴィによれば、フランスにおいて、ヴィシーについての歴史学的な検証が進まなかった最大の理由は、ヴィシー政府の官僚層が戦後の第四共和政の官僚層を形成しており、彼らの非を細かく咎めてゆくと、第四共和政の行政組織そのものが空洞化するリスクがあったからだということでした。事情を勘案すれば、フランス政府が、国家的選択として対独協力していたわけですから、それをサボタージュした官僚はうっかりするとゲシュタポに捕まって、収容所に送られるリスクがあったわけです。組織ぐるみの対独協力をせざるを得なかった。だから、一罰百戒的に、トップだけに象徴的に死刑宣告を下して、あとは免罪して、戦後の政府機構に取り込むことにした。それは当座の統治システムの維持のためには、しかたなかったのかも知れません。

ですから、ヴィシーについての歴史学的な実証研究が始まるのは、この官僚たちが現役を引退した後になります。一九八〇年代に入って、戦後四〇年が経って、ヴィシー政府の高級官僚たちが退職したり、死んだりして、社会的な影響がなくなった時点ではじめて、最初は海外の研究者たちが海外に流出していたヴィシー政府の行政文書を持ち出して、ヴィシー研究に手を着け始めた。フランス人自身によるヴィシー研究は『フランス・イデオロギー』が最初のものです。戦争が終わって四五年後です。「ヴィシーの否認」は政治的に、意識的に、主体的に遂行された。でも、そのトラウマは別の病態をとって繰り返し回帰してきます。僕はフランスにおける「イスラモフォビア」(イスラーム嫌悪症)はそのような病態の一つではないかと考えています。

 フランスは全人口の一〇%がムスリムです。先日のテロで露呈したように、フランス社会には排外主義的な傾向が歴然と存在します。大戦後も、フランスは一九五〇年代にアルジェリアとベトナムで旧植民地の民族解放運動に直面した時、暴力的な弾圧を以って応じました。結果的には植民地の独立を容認せざるを得なかったのですが、独立運動への弾圧の激しさは、「自由・平等・友愛」という人権と民主主義の「祖国」のふるまいとは思えぬものでした。そんなことを指摘する人はいませんが、これは「ヴィシーの否認」が引き起こしたものではないかと僕は考えています。「対独協力政治を選んだフランス」、「ゲシュタポと協働したフランス」についての十分な総括をしなかったことの帰結ではないか。

もしフランスで終戦時点で自国の近過去の「逸脱」についての痛切な反省がなされていたら、五〇年代におけるフランスのアルジェリアとベトナムでの暴力的な対応はある程度抑止されたのではないかと僕は想像します。フランスはナチス・ドイツの暴力に積極的に加担した国なのだ、少なくともそれに加担しながら反省もせず、処罰も免れた多数の国民を今も抱え込んでいる国なのだということを公式に認めていたら、アルジェリアやベトナムでの事態はもう少し違うかたちのものになっていたのではないか。あれほど多くの人が殺されたり、傷ついたりしないで済んだのではないか。僕はそう考えてしまいます。

 自分の手は「汚れている」という自覚があれば、暴力的な政策を選択するときに、幾分かの「ためらい」があるでしょう。けれども、自分の手は「白い」、自分たちがこれまでふるってきた暴力は全て「正義の暴力」であり、それについて反省や悔悟を全く感じる必要はない、ということが公式の歴史になった国の国民には、そのような「ためらい」が生まれない。フランスにおけるムスリム市民への迫害も、そのような「おのれの暴力性についての無自覚」のせいで抑制が効きにくくなっているのではないでしょうか。

 他の敗戦国はどうでしょう。ハンガリーは最近、急激に右傾化して、排外主義的な傾向が出てきています。タイも久しく穏やかな君主制でいましたけれども、近年はタクシン派と反タクシン派が戦い続けて、国内はしばしば内戦に近い状態を呈しています。スロバキアとかクロアチアとかにもやはり政治的にある種の不安定さを常に感じます。

戦争後は、どの国も「この話はなかったことに」という国民的合意に基づいて「臭いものに蓋」をした。当座はそれでよかったかも知れません。でも、蓋の下では、抑圧された国民的な「恥辱」や「怨嗟」がいつまでも血を流し、腐臭を発している。だから、ハンガリーの現在の政治状況や、タイの現在の政治状況が、それぞれの国の敗戦経験の総括と全く無関係かどうかということは、かなり精密な検証をしてみないとわからない。そこには何らかの「関連がある」という仮説を立てて検証をしてみてよいのではないか。してみるだけの甲斐はあると僕は思います。


 ドイツ統合は敗戦の否認か

 戦争の記憶を改竄することによって、敗戦国民は当座の心の安らぎは手に入れることができるかも知れません。でも、そこで手に入れた「不当利得」はどこかで返済しなければならない。いずれ必ず後でしっぺ返しが来る。世界の敗戦国を一瞥すると、どこも七〇年かけて、ゆっくりと、でも確実に「記憶の改竄」のツケを支払わされている。『永続敗戦論』が明らかにしたように、日本も敗戦の否認のツケを払わされている。そして、この返済はエンドレスなんです。「負債がある」という事実を認めない限り、その負債を割賦でいいから返して行かない限り、この「負債」は全く別の様態をとって、日本人を責め続ける。

 「ドイツは敗戦経験の総括に成功した」と多くの人が言います。でも、本当にそうなんでしょうか。僕は簡単には諾うことができません。東ドイツのことを勘定に入れ忘れているような気がするからです。

東ドイツは「戦勝国」なんです。東ドイツはナチスと戦い続けたコミュニストが戦争に勝利して建国した国だという話になっている。だから、東ドイツ国民はナチスの戦争犯罪に何の責任も感じていない。感じることを国策的に禁止されていた。責任なんか感じてるはずがない。自分たちこそナチスの被害者であり、敵対者だということになっているんですから。悪虐非道なるナチスと戦って、それを破り、ドイツ国民をナチスの軛から解放した人々が、何が悲しくて、ナチスの戦争犯罪について他国民に謝罪しなければならないのか。

 一九九〇年に合併した当時、西ドイツと東ドイツとは人口比でいうと四対一でした。ということは、その時点では、全ドイツ人口の二〇%、一六○○万人は「自分たちはナチスドイツの戦争犯罪に何の責任もない」と子供のころからずっと教えられてきた人たちだったということです。それが合併後のドイツの国民的自意識にどういう影響を与えたのか。僕は寡聞にして知りません。

 日本国内に「日本軍国主義者の戦争犯罪について、われわれには何の責任もない。われわれは彼らと戦って、日本を解放したのである」と教えられて来た人が二四○○万人いる状況を想定してください。そう信じている「同胞」を受け容れ、戦争経験について国民的規模での総括を行い、合意を形成するという作業がどれほど困難であるか、想像がつくと思います。さて、果たして、ドイツでは東西ドイツが合併した時に、戦争経験の総括について、国民的合意を形成し得たのか。僕は「ドイツはこんな風に合意形成を成し遂げました」と納得のゆく説明をしたものをこれまで読んだことがありません。いや、それは僕がただ知らないでだけで、そういう「全く相容れない戦争経験総括を一つにまとめあげたドイツの素晴らしい政治的達成」については既に色々な報告や研究が出ているのかも知れません。でも、そうだとしたら、それこそ「国民的和解」の最良のモデルケースであるわけですから、国内的な対立を抱える様々な国について、何かあるごとに、「ここでも『和解のためのドイツ・モデル』を適用すべきではないか」ということが言及されてよいはずです。でも、僕はそのような「和解モデル」について聞いたことがない。

 ドイツの戦争総括の適切さを語るときに、よくヴァイツゼッカー元大統領の演説が引かれます。この人はヨーロッパの諸国を訪れては、そのつどきちんとナチス・ドイツ時代の戦争犯罪について謝罪しています。その倫理性的な潔さは疑うべくもありません。けれども、やはり日本とは話の運びが微妙に違う。ヴァイツゼッカーは五月四日、ドイツが連合国に無条件降伏した日を「ドイツ国民解放の日」と言っているからです。われわれはナチスの暴虐からその日に解放されたのである、それをことほぐという立場を取る。悪いのはあくまでナチスとその軍事組織や官僚組織や秘密警察組織であって、ドイツ国民はその犠牲者であったという立場は譲らない。ドイツ国民の罪はナチスのような政党を支持し、全権を委ねてしまったことにある。そのような過ちを犯したことは認めるけれども、基本的にはドイツ国民もまたナチスの被害者であり、敗戦によってナチスの軛から解放されたという物語になっている。

 日本人にも敗戦が一種の解放感をもたらしたということは事実だったでしょう。けれども、八月一五日を「解放の日」だと言う人はほとんどいません。表だってそう発言するのは、かなり勇気が要る。けれども、実感としては、それに近いことを思っていた日本人は少なくなかったと思います。

 小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』(松竹、一九六二年)の中で、笠智衆の演じる今はサラリーマンをしている駆逐艦の元艦長平山と、加東大介の演じるかつての駆逐艦の乗組員坂本が、町なかでばったり出会うという場面があります。坂本が平山を誘って、トリスバーのカウンターに座ってウィスキーを飲む。この時に坂本が「ねえ、艦長、もしあの戦争に勝っていたらどうなったんでしょうね」と問う。平山は静かに笑いながら、「負けてよかったじゃないか」と答える。そうすると、坂本は「え?」と一瞬怪訝な顔をするのですが、ふと得心したらしく、「そうかもしれねえな。ばかなやつが威張らなくなっただけでもね」と呟く。これは敗戦がもたらした解放感についての、あの世代の偽らざる実感だったんじゃないかなと思います。

 僕は一九五〇年生まれで、父はもちろん戦中派なのですが、僕が小さい頃に、父が会社の同僚を家に連れてきて飲んでいるときに誰かが「負けてよかったじゃないか」と呟くのを僕は二三度聞いたことがあります。特に力んで主張するというのではなく、何かの弾みにぽろりと口にされる。そして、その言葉が口にされると、男たちは皆黙り込む。それで怒り出す人もいないし、泣き出す人もいない。それは思想とは言えないものでした。敗戦の総括としてはあまりに言葉が足りない。けれども、おそらくこれが戦中派の実感だったと思います。それが世代的な実感として、言挙げしないでも共有されている限り、そのような敗戦の総括もそれなりのリアリティーを持ち得た。けれども、そういう片言隻句だけでは、彼らの思いが輪郭のしっかりした思想として次の世代に継承されることはありません。


 恥ずべき過去も含んだタフな物語

 白井さんの本を読んでいると、日本は異常な仕方で敗戦を否認してきたことがわかる。これは全くその通りなんですけれども、それだけでなく、多くの敗戦国はそれぞれ固有の仕方で自国の敗戦を否認している。僕にはそう思われます。

それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


 歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

 カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

ノモンハンを書こうとした作家がもう一人います。村上春樹です。『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社 一九九四〜九五年)で村上春樹はノモンハンについて書いています。でも、なぜノモンハンなのか。その問いに村上は答えていない。何だか分からないけれども、急に書きたくなったという感じです。でも、ノモンハンのことを書かないと日本人の作家の仕事は終わらないと直感したというところに、この人が世界作家になる理由があると僕は思います。日本人にとっての「タフな物語」の必要性を村上春樹も感じている。それが今の日本に緊急に必要なものであるということをよくわかっている。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。日本の左翼知識人には、あまりアメリカに学ぶ人はいません。親米派の学者たちも、よく見ると、まったくアメリカに学ぶ気はない。アメリカに存在する実定的な制度を模倣することには熱心ですけれど、なぜアメリカは強国たりえたのかについて根源的に考えるということには全く興味を示さない。アメリカの諸制度の導入にあれほど熱心な政治家も官僚も、アメリカにあって日本に欠けているものとしてまずカウンターカルチャーを挙げる人はいません。連邦制を挙げる人もいない。でも、アメリカの歴史的成功の理由はまさに「一枚岩になれないように制度を作り込んだ」という点にあるのです。でも、日本のアメリカ模倣者たちは、それだけは決して真似しようとしない。

 ほかにもいろいろ言いたいことはありますけれど、すでに時間を大分超えてしまったので、この辺で終わります。ご静聴ありがとうございました。

【Q&A】


ナラティブの力

姜 今日のお話を聞いていて、どういう「物語」をつくるかということが最大のポリティクスになっている気がします。内田さんの比較敗戦論は、我々のパースペクティブを広げてくれました。韓国や中国では日本例外論、単純にドイツと日本を比較して日本はだめなんだ、だから我々は日本を半永久に批判していい、そういう理屈立てになりがちです。そのときに内田さんの比較敗戦論をもちいてみると、我々のブラインドスポットになっている部分がよく見えてくる。解放の物語の自己欺瞞みたいなところも見えてくる。ところが、安倍さんのような人が出てくると、逆に、かつて自分たちが植民地であった、侵略をされた国は、ますます解放の物語を検証することをやらなくて済んでしまいますね。

内田 イージーな物語に対してイージーな物語で対抗すれば、どちらもどんどんシンプルでイージーな話に落ち込んでしまう。実際の歴史的な事件は「善玉と悪玉が戦っている」というようなシンプルな話ではないんです。さまざまな人たちが複雑な利害関係の中でわかりにく行動を取っている。うっかりすると、本人たち自身、自分たちがどういう動機で行動しているのか、いかなる歴史的な役割を果しているのか、わかっていないということだってある。それが歴史の実相だろうと思います。ですから、それをありのままに淡々と記述していく。軽々には評価を下さない。わかりやすいストーリーラインに落とし込むという誘惑にできる限り抵抗する。そういう歴史に対する自制心が非常に大事になると思います。

 こういう仕事においては、歴史を叙述するときの語り口、ナラティブの力というのが大きいと思うんです。最近、読んだ本の中でフィリップ・ロスの小説『プロット・アゲンスト・アメリカ──もしもアメリカが...』(柴田元幸・訳、集英社、二〇一四年)がとても面白かった。これは一九四〇年の米大統領選挙でルーズベルトではなく、共和党から出馬した大西洋単独飛行の英雄チャールズ・リンドバーグ大佐がヨーロッパでの戦争への不干渉を掲げて勝利してしまうという近過去SFなんです。現実でも、リンドバーグは親独的立場で知られていて、ゲーリングから勲章を授与されてもいます。ロスの小説では、アメリカに親独派政権が誕生して、ドイツと米独不可侵条約を、日本とは日米不可侵条約を結ぶ。そして、アメリカ国内では激しいユダヤ人弾圧が起きる・・・という話です。

 僕はナラティブというのは、こういうSF的想像力の使い方も含むと思います。もし、あのときにこうなっていたらというのは、ほんとうに大事な想像力の使い方だと思う。

フィリップ・K・ディックの『高い城の男』(浅倉久志・新訳 早川書房、原著一九六二年)というSFがあります。これは枢軸国が連合国に勝った世界の話です。日独がアメリカを占領している。東海岸がドイツ占領地で、ロッキー山脈から西側が日本の占領地。そういう場合に、日本人はアメリカをどういうふうに植民地的に統治するのか、それを考えるのは実は非常に大事な思考訓練なんです。実際に日本がアメリカ西部を安定的に統治しようとしたら、日本の価値観とか美意識とか規範意識を「よいものだ」と思って、自発的に「対日協力」をしようと思うアメリカ人を集団的に創り出すしかない。ドイツがフランスでやったのはそういうことでした。でも、日本の戦争指導部にそのようなアイディアがあったと僕は思いません。

アメリカの方は、日本に勝った後にどうやって占領するかの計画を早々と立案していた。日本人のものの考え方とか組織の作り方とかを戦時中に民族学者に委託して研究しています。卓越した日本人論として今も読み継がれている『菊と刀』はルーズベルトが設置した戦争情報局の日本班のチーフだったルース・ベネディクトが出した調査報告書です。日本社会を科学的に研究して、どういう占領政策が適切かを戦争が終わる前にもう策定していた。

果たして日本の大本営にアメリカに勝った後、どうやってアメリカを統治するか、何らかのプランがあったでしょうか。どうやって対日協力者のネットワークを政治家や学者やジャーナリストやビジネスマンの中に組織するかというようなことをまじめに研究していた部門なんか日本の軍部のどこにも存在しなかったと思います。戦争に勝ったらどうするのかについて何の計画もないままに戦争を始めたんです。そんな戦争に勝てるはずがない。

 僕のSF的妄想は、一九四二年のミッドウェー海戦の敗北で、これはもう勝てないなと思い切って、停戦交渉を始めたらどうなったかというものです。史実でも、実際に、当時の木戸幸一内大臣と吉田茂たちは、すでに講和のための活動を始めています。近衛文麿をヨーロッパの中立国に送って、連合国との講和条件を話し合わせようという計画があった。もし、この工作が奏功して、四二年か四三年の段階で日本が連合国との休戦交渉に入っていれば、それからあとの日本の国のかたちはずいぶん違ったものになっただろうと思います。

ミッドウェー海戦で、帝国海軍は主力を失って、あとはもう組織的抵抗ができない状態でした。戦い続ければ、ただ死傷者を増やすだけしか選択肢がなかったのに、「攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち」というような、まったく非科学的な軍事思想に駆動されていたせいで、停戦交渉という発想そのものが抑圧された。

この時点で戦争を止めていれば、本土空襲もなかったし、沖縄戦もなかったし、原爆投下もなかった。300万人の死者のうち、95%は死なずに済んだ。民間人の死傷者はほぼゼロで済んだはずです。ミッドウェーは日本軍の歴史的敗北でしたけれど、死者は3000人に過ぎません。ほとんどの戦死者(実際には戦病死者と餓死者でしたが)はその後の絶望的、自滅的な戦闘の中で死んだのです。

空襲が始まる前に停戦していれば、日本の古い街並みは、江戸時代からのものも、そのまま手つかずで今も残っていたでしょう。満州と朝鮮半島と台湾と南方諸島の植民地は失ったでしょうけれど、沖縄も北方四島も日本領土に残され、外国軍に占領されることもなかった。四二年時点で、日本国内に停戦を主導できる勢力が育っていれば、戦争には負けたでしょうけれど、日本人は自分の手で敗戦経験の総括を行うことができた。なぜこのような勝ち目のない戦争に突っ込んで行ったのか、どこに組織的瑕疵があったのか、どのような情報を入力し忘れていたのか、どのような状況判断ミスがあったのか、それを自力で検証することができた。戦争責任の徹底追及を占領軍によってではなく、日本人自身の手で行えた可能性はあった。日本人が自分たちの手で戦争責任を追及し、戦争責任の追及を行い、憲法を改定して、戦後の日本の統治システムを日本人が知恵を絞って作り上げることは可能だった。

「もしミッドウェーのあとに戦争が終わっていたら、その後の戦後日本はどんな国になったのか」というようなSF的想像はとてもたいせつなものだと僕は思います。これはフィクションの仕事です。小説や映画やマンガが担う仕事です。政治学者や歴史学者はそういう想像はしません。でも、「そうなったかもしれない日本」を想像することは、自分たちがどんな失敗を犯したのかを知るためには実はきわめて有用な手立てではないかと僕は思っています。「アメリカの属国になっていなかった日本」、それが僕たちがこれからあるべき日本の社会システムを構想するときに参照すべき最も有用なモデルだと思います。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/284.html#c10

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
125. 中川隆[-11285] koaQ7Jey 2019年3月22日 13:43:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[721]

七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。

ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。

この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。

なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

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比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html


2019年度の寺子屋ゼミは「比較敗戦論」を通年テーマにすることにした。

どうしてこのようなテーマを選ぶことになったのか。それについて姜尚中さんとのトークセッションで語ったことがある。
そのときの講演録を再録しておく。講演があったのは2016年

敗戦国は日独だけではない

 今回の「比較敗戦論」というタイトルは、問題提起という意味でつけました。特に僕の方で用意した結論があるわけではありません。ただ、歴史を見るときに、こういう切り取り方もあるのだというアイディアをお示ししたいと思います。

「比較敗戦論」という言葉は『永続敗戦論』(太田出版 二〇一三年)の白井聡さんと対談をしまたときにふと思いついたのです(この対談はその後、『日本戦後史論』(徳間書店、二〇一五年)という本にまとまりました)。

『永続敗戦論』での白井さんの重要な主張は「日本人は敗戦を否認しており、それが戦後日本のシステムの不調の原因である」というものでした。「敗戦の否認」というキーワードを使って、戦後七〇年の日本政治をきわめて明晰に分析した労作です。

ただ、僕が思ったのは、白井さんと話をしていて、日本人が戦後七〇年間にわたって敗戦経験を否認してきたということは全くご指摘の通りなんだけれども、日本以外の敗戦国ではどうなのか、ということが気になりました。日本以外の他の敗戦国はそれぞれ適切なやり方で敗戦の「総括」を行ったのか。その中で日本だけが例外的に敗戦を否認したのだとすれば、それはなぜなのか。そういった一連の問いがありうるのではないかと思いました。

白井さんの言う通り「敗戦の否認」ゆえに戦後日本はさまざまな制度上のゆがみを抱え込み、日本人のものの考え方にも無意識的なバイアスがかかっていて、ある種の思考不能状態に陥っていること、これは紛れもない事実です。でも、それは日本人だけに起きていることなのか。他の敗戦国はどうなっているのか。多の敗戦国では、敗戦を適切に受け容れて、それによって制度上のゆがみや無意識的な思考停止を病むというようなことは起きていないのか。よく「ドイツは敗戦経験に適切に向き合ったけれど、日本はそれに失敗した」という言い方がされます。けれども、それはほんとうに歴史的事実を踏まえての発言なのか。

まず僕たちが誤解しやすいことですけれど、第二次世界大戦の敗戦国は日独伊だけではありません。フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイ、これらは連合国が敵国として認定した国です。それ以外にも、連合国がそもそも国として認定していない交戦団体として、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア自由国、満州国、中華民国南京政府があります。これだけの「国」が敗戦を経験した。でも、僕たちはこれらの敗戦国で、人々が敗戦経験をどう受け容れたのか、どうやって敗戦後の七〇年間を過ごしてきたのかについて、ほとんど何も知りません。例えば、「フィンランド国民は敗戦をどう総括したか」というような研究は、フィンランド国内にはしている人がいるのでしょうけれど、僕はそれについての日本語文献のあることを知らない。でも、「敗戦の否認」という心理的な痼疾を手がかりにして現代日本社会を分析するためには、やはり他の敗戦国民は自国の敗戦をどう受け止めたのか、否認したのか、受容したのかが知りたい。敗戦の総括をうまく実行できた国はあるのか。あるとしたら、なぜ成功したのか。敗戦を否認した国は日本の他にもあるのか。あるとしたら、その国における敗戦の否認は、今その国でどのような現実を帰結したのか、それを知りたい。「敗戦の否認」が一種の病であるとするなら、治療のためには、まず症例研究をする必要がある。僕はそんなふうに考えました。


フランスは果たして戦勝国なのか

 このアイデアには実はいささか前段があります。枢軸国の敗戦国というと、ふつうは日独伊と言われます。けれども、フランスだって実は敗戦国ではないのか。僕は以前からその疑いを払拭することができずにいました。

ご承知の方もいると思いますが、僕の専門はフランス現代思想です。特にエマニュエル・レヴィナスというユダヤ人哲学者を研究してきました。その関連で、近代フランスにおけるユダヤ人社会と彼らが苦しんだ反ユダヤ主義のことをかなり長期にわたって集中的に研究してきました。そして、そのつながりで、19世紀から20世紀はじめにかけてのフランスの極右思想の文献もずいぶん読み漁りました。

 僕がフランスにおける反ユダヤ主義の研究を始めたのは1980年代のはじめ頃ですが、その頃フランスの対独協力政権、ペタン元帥の率いたヴィシー政府についての研究が続々と刊行され始めました。ですから、その頃出たヴィシーについての研究書も手に入る限り買い入れて読みました。そして、その中でも出色のものであったベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』(国文社、一九八九年)という本を翻訳することになりました。これはフランスが実はファシズムと反ユダヤ主義というふたつの思想の「母国」であったという非常に挑発的な内容で、発売当時はフランスでは大変な物議を醸したものでした。

 歴史的事実をおさらいすると、一九三九年九月にドイツのポーランド侵攻に対して、英仏両国はドイツに宣戦布告します。フランスはマジノ線を破られて半年後の六月にフランスは独仏休戦協定が結ばれます。フランスの北半分はドイツの直接統治領に、南半分がペタンを首班とするヴィシー政府の統治下に入ります。第三共和政の最後の国民議会が、ペタン元帥に憲法制定権を委任することを圧倒的多数で可決し、フランスは独裁制の国になりました。そして、フランス革命以来の「自由、平等、友愛」というスローガンが廃されて、「労働、家族、祖国」という新しいファシズム的スローガンが掲げた対独協力政府ができます。

フランスは連合国に対して宣戦布告こそしていませんけれども、大量の労働者をドイツ国内に送ってドイツの生産活動を支援し、兵站を担い、国内ではユダヤ人やレジスタンスを行いました。フランス国内で捕らえられたユダヤ人たちはフランス国内から鉄道でアウシュヴィッツへ送られました。

 対独レジスタンスが始まるのは1942年くらいからです。地下活動という性質上、レジスタンスの内実について詳細は知られていませんが、初期の活動家は全土で数千人規模だったと言われています。連合国軍がノルマンディーに上陸して、戦局がドイツ軍劣勢となってから、堰を切ったように、多くのフランス人がドイツ軍追撃に参加して、レジスタンスは数十万規模にまで膨れあがった。この時、ヴィシー政府の周辺にいた旧王党派の準軍事団体などもレジスタンスに流れ込んでいます。昨日まで対独協力政権の中枢近くに人たちが、一夜明けるとレジスタンスになっているというようなこともあった。そして、このドイツ潰走の時に、対独協力者の大量粛清が行われています。ヴィシー政権に協力したという名目で、裁判なしで殺された犠牲者は数千人と言われていますが、これについても信頼できる史料はありません。調書もないし、裁判記録もない。どういう容疑で、何をした人なのか判然としないまま、「対独協力者だ」と名指されて殺された。真実はわからない。

アルベール・カミュは最初期からのほんもののレジスタンス闘士でしたけれど、戦後その時代を回想して、「ほんとうに戦ったレジスタンスの活動家はみな死んだ」と書いて、今生き残って「レジスタンス顔」をしている人間に対する不信を隠そうとしませんでした。このあたりの消息は外国人にはなかなかわかりません。

シャルル・ド・ゴールもその回想録の中で、ヴィシー政府壊滅後のフランス各地の混乱に言及して、「無数の場所で民衆の怒りは暴力的な反動として溢れ出した。もちろん、政治的な目論見や、職業上の競争や、個人的な復讐がこの機会を見逃すはずもなかった」と証言しています。(Charles De Gaulle, Mémoire de guerre, Plon, 1959, p.18)

 国防次官だったシャルル・ド・ゴールはペタン元帥が休戦協定を結んだときにロンドンに亡命して亡命政府を名乗りますけれど、もちろん彼の「自由フランス」には国としての実体などありません。国際法上はあくまでヴィシー政府がフランスの正統な政府であって、自由フランスは任意団体に過ぎません。そもそもド・ゴール自身、フランスの法廷で欠席裁判のまま死刑宣告されているのです。

ド・ゴール以外にも、フランソワ・ダルラン将軍、アンリ・ジロー将軍といった軍の実力者がいて、フランスの正統な代表者の地位を争っていました。最終的にド・ゴールが競争相手を排除して、自由フランス軍のトップに立ちますけれど、それでも一交戦団体に過ぎません。44年にド・ゴールが「フランス共和国臨時政府」を名乗ったときも、アメリカもイギリスもこれを承認するのを渋りました。ド・ゴールが一交戦団体に過ぎなかった自由フランスを「戦勝国」にカテゴリー変更させたのは、彼の発揮した軍事的・外交的実力によってです。44年、ノルマンディー上陸後西部戦線でのドイツ軍との戦闘が膠着状態にあったとき、ド・ゴールはこの機会にフランスを連合国に「高く売る」ことに腐心しています。回想録にはそのことが率直に書いてあります。

「戦争がまだ長引くということは、われわれフランス人が耐え忍ばなければならない損失、被害、出費を考えれば、たしかに痛ましいことである。しかし、フランスの最優先の利害を勘案するならば、フランス人の当面の利益を犠牲にしても、戦争の継続は悪い話ではなかった。なぜなら、戦争がさらに長びくならば、アフリカやイタリアでそうだったように、われわれの協力がライン河・ドナウ河での戦闘にも不可欠のものとなるからである。われわれの世界内における地位、さらにはフランス人がこれから何世代にもわたって自分自身に対して抱く評価がそこにかかっている。」(Ibid., p.44、強調は内田)

 ド・ゴールは、パリ解放からドイツ降伏までのわずかの時間内に、フランス軍の軍事的有用を米英に誇示できるかどうかに戦後フランスの、国際社会における立場がかかっているということを理解していました。ほんとうにこのときのフランスは綱渡りだったのです。ノルマンディー上陸作戦の時点ではド・ゴールの自由フランスの支持基盤は国内のレジスタンスだけでした。それが戦局の推移に伴ってそれ以外のフランス人たちも自由フランスを自分たちの代表として承認する気分になり、最後に米英はじめ世界の政府がド・ゴールの権威を承認せざるを得なくなった。ですから、ド・ゴールが「国を救った」というのはほんとうなのです。対独協力国、事実上の枢軸国がいつのまにか連合国の一員になり、さらに国際社会の重鎮になりおおせていたわけですから、これはド・ゴールの力業という他ありません。

でも、このド・ゴールが力業でフランスの体面を救ったことによって、フランス人は戦争経験の適切な総括を行う機会を奪われてしまった。ほんとうを言えば、ドイツの犯したさまざまな戦争犯罪に加担してきたフランス人たちはもっと「疚しさ」を感じてよかったのです。でも、フランス人は戦勝国民として終戦を迎えてしまった。フランス人は「敗戦を総括する義務」を免除された代わりにもっと始末におえないトラウマを抱え込むことになりました。

イタリアは戦勝国ではないのか

 僕たち日本人はイタリアがどんなふうに終戦を迎えたかについてはほとんど知るところがありません。世界史の授業でもイタリアの敗戦については詳しく教えてもらった記憶がない。教科書で教えてもらえないことは、映画や小説を通じて学ぶわけですけれども、イタリアの終戦時の混乱については、それを主題にした映画や文学も日本ではあまり知られておりません。『無防備都市』(ロベルト・ロッセリーニ監督、一九四五年)にはイタリアのレジスタンスの様子がリアルに描かれていますが、僕が知っているのはそれくらいです。ですから、ナチスと命がけで戦ったイタリア人がいたことや、イタリア人同士で激しい内戦が行われていたという歴史的事実も日本人はあまり知らない。

一九四三年七月に、反ファシスト勢力が結集して、国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が主導して、ムッソリーニを20年にわたる独裁者の地位から引きずり下ろしました。そして、首相に指名されたピエトロ・バドリオ将軍は水面下で連合国と休戦交渉を進めます。その後、監禁されていたムッソリーニをドイツの武装親衛隊が救い出して、北イタリアに傀儡政権「イタリア社会共和国」を建て、内戦状態になります。最終的にドイツ軍はイタリア領土内から追い出され、ムッソリーニはパルチザンに捕らえられて、裁判抜きで処刑され、その死体はミラノの広場に逆さ吊りにされました。イタリア王国軍とパルチザンがムッソリーニのファシスト政権に引導を渡し、ドイツ軍を敗走させた。ですから、イタリアは法理的には戦勝国なんです。でも、たぶん「イタリアは戦勝国だ」と思っている日本人はほとんどいない。自分たちと同じ敗戦国だと思っている。

たしかに、戦後イタリアを描いた『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1948年)のような映画を観ると、街は爆撃でひどいことになっているし、人々は食べるものも仕事もなくて、痩せこけている。「ああ、イタリアも日本と同じだ」と思っても不思議はない。でも、違います。イタリアは戦勝国なんです。だいたい、イタリアは一九四五年七月には日本に宣戦布告しているんです。

 フランスとイタリアを比べれば、フランスよりイタリアの方がずっと戦勝国条件が整っている。フランスは先ほど述べたように紙一重で戦勝国陣営に潜り込み、国連の常任理事国になり、核保有国になり、今も世界の大国としてふるまっています。それは一にシャルル・ド・ゴールという卓越した政治的能力を持つ人物が国家存亡のときに登場したからです。ド・ゴールがいて、ルーズベルトやチャーチルと一歩も引かずに交渉したから、フランスは戦勝国「のようなもの」として戦後世界に滑り込むことができた。でも、イタリアにはそんなカリスマ的な人物がいませんでした。戦争指導者であったヴィットリオ・エマヌエーレ三世とバドリオ将軍は、ドイツ軍がローマに侵攻してきたとき、市民を「無防備都市」に残したまま自分たちだけ逃亡してしまった。そのせいでイタリア軍の指揮系統は壊滅しました。戦後の国民投票で国民たちの判断で王政が廃止されたのは、このときの戦争指導部の国民に対する裏切りを国民が許さなかったからです。

フランスとイタリアのどちらも「勝ったんだか負けたんだかよくわからない仕方で戦争が終わった」わけですけれど、フランスにはド・ゴールがいて、イタリアにはいなかった。それが戦後の両国の立ち位置を決めてしまった。

でも、僕はこれを必ずしもフランスにとって幸運なことだったとも、イタリアにとって不幸なことだったとも思わないのです。イタリアは「敗戦国みたいにぼろぼろになった戦勝国」として終戦を迎えました。戦争の現実をありのままに、剥き出しに経験した。戦勝を誇ることもできなかったし、敗戦を否認する必要もなかった。だから、彼らの戦争経験の総括には変なバイアスがかかっていない。

先日、イタリアの合気道家が僕の道場に出稽古に来たことがありました。稽古のあとの歓談のとき、「そういえば君たち、昔、日本に宣戦布告したことがあるでしょう」と訊いてみました。たぶん、そんなこと知らないと思ったんです。意外なことに、彼はすぐに苦笑して、「どうもすみませんでした」と謝るんです。「イタリアって、どさくさまぎれにああいうことをやるんです。フランスが降伏したときにも仏伊国境の土地を併合したし。そういう国なんです。申し訳ない」と。僕は彼のこの対応にびっくりしました。自国の近代史のどちらかというと「汚点」を若いイタリア人が常識として知っているということにまず驚き、それについて下手な言い訳をしないで、さらっと「ごめんね」と謝るところにさらに驚きました。事実は事実としてまっすぐみつめる。非は非として受け容れ、歴史修正主義的な無駄な自己弁護をしない。そのとき僕は「敗戦の否認をしなかった国民」というものがあるとしたら、「こういうふう」になるのかなと思いました。

イタリアは「ほとんど敗戦」という他ないほどの被害を蒙った。内戦と爆撃で都市は傷ついた。行政も軍もがたがたになった。戦死者は30万人に及んだ。でも、その経験を美化もしなかったし、否認もしなかった。「まったくひどい目に遭った。でも、自業自得だ」と受け止めた。だから、戦争経験について否認も抑圧もない。

フランスの場合は、ヴィシーについてはひさしく歴史的研究そのものが抑圧されていました。先ほど名前が出ましたベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』はヴィシーに流れ込む十九世紀二○世紀の極右思想史研究ですが、この本が出るまで戦後四四年の歳月が必要でした。刊行されたときも、保守系メディアはこれに集中攻撃を加えました。「なぜせっかくふさがった『かさぶた』を剥がして、塩を塗り込むようなことをするのか」というのです。それからさらに30年近くが経ちますが、ヴィシー政府の時代にフランスが何をしたのかについての歴史的な研究は進んでいません。

ナチスが占領していた時代のフランス人は何を考え、何を求めて、どうふるまったのか。いろいろな人がおり、いろいろな生き方があったと思います。それについての平明な事実を知ることが現代のフランス人には必要だと僕は思います。ド・ゴールが言うように「自分自身に対して抱く評価」を基礎づけるために。でも、それが十分に出来ているように僕には思えません。フランスの場合は「敗戦の否認」ではなく、対独協力国だったという歴史的事実そのものが否認されている。その意味では、あるいは日本より病が深いかもしれない。


 現在の政治状況と敗戦の総括との関係

 本来なら、ヴィシー政府の政治家や官僚やイデオローグたちの事績を吟味して、「一体、ヴィシーとは何だったのか、なぜフランス人は民主的な手続きを経てこのような独裁制を選択したのか」という問いを徹底的に究明すべきだったと思います。でも、フランス人はこの仕事をネグレクトしました。ヴィシー政府の要人たちに対する裁判もごく短期間のうちに終えてしまった。東京裁判やニュルンベルク裁判のように、戦争犯罪の全貌を明らかにするということを抑制した。ペタン元帥や首相だったピエール・ラヴァルの裁判はわずか一ヶ月で結審して、死刑が宣告されました。裁判は陪審員席からも被告に罵声が飛ぶというヒステリックなもので、真相の解明というにはほど遠かった。この二人に全責任を押しつけることで、それ以外の政治家や官僚たちは事実上免責されました。そして、この「エリートたち」はほぼそのまま第四共和政の官僚層に移行する。

 レヴィによれば、フランスにおいて、ヴィシーについての歴史学的な検証が進まなかった最大の理由は、ヴィシー政府の官僚層が戦後の第四共和政の官僚層を形成しており、彼らの非を細かく咎めてゆくと、第四共和政の行政組織そのものが空洞化するリスクがあったからだということでした。事情を勘案すれば、フランス政府が、国家的選択として対独協力していたわけですから、それをサボタージュした官僚はうっかりするとゲシュタポに捕まって、収容所に送られるリスクがあったわけです。組織ぐるみの対独協力をせざるを得なかった。だから、一罰百戒的に、トップだけに象徴的に死刑宣告を下して、あとは免罪して、戦後の政府機構に取り込むことにした。それは当座の統治システムの維持のためには、しかたなかったのかも知れません。

ですから、ヴィシーについての歴史学的な実証研究が始まるのは、この官僚たちが現役を引退した後になります。一九八〇年代に入って、戦後四〇年が経って、ヴィシー政府の高級官僚たちが退職したり、死んだりして、社会的な影響がなくなった時点ではじめて、最初は海外の研究者たちが海外に流出していたヴィシー政府の行政文書を持ち出して、ヴィシー研究に手を着け始めた。フランス人自身によるヴィシー研究は『フランス・イデオロギー』が最初のものです。戦争が終わって四五年後です。「ヴィシーの否認」は政治的に、意識的に、主体的に遂行された。でも、そのトラウマは別の病態をとって繰り返し回帰してきます。僕はフランスにおける「イスラモフォビア」(イスラーム嫌悪症)はそのような病態の一つではないかと考えています。

 フランスは全人口の一〇%がムスリムです。先日のテロで露呈したように、フランス社会には排外主義的な傾向が歴然と存在します。大戦後も、フランスは一九五〇年代にアルジェリアとベトナムで旧植民地の民族解放運動に直面した時、暴力的な弾圧を以って応じました。結果的には植民地の独立を容認せざるを得なかったのですが、独立運動への弾圧の激しさは、「自由・平等・友愛」という人権と民主主義の「祖国」のふるまいとは思えぬものでした。そんなことを指摘する人はいませんが、これは「ヴィシーの否認」が引き起こしたものではないかと僕は考えています。「対独協力政治を選んだフランス」、「ゲシュタポと協働したフランス」についての十分な総括をしなかったことの帰結ではないか。

もしフランスで終戦時点で自国の近過去の「逸脱」についての痛切な反省がなされていたら、五〇年代におけるフランスのアルジェリアとベトナムでの暴力的な対応はある程度抑止されたのではないかと僕は想像します。フランスはナチス・ドイツの暴力に積極的に加担した国なのだ、少なくともそれに加担しながら反省もせず、処罰も免れた多数の国民を今も抱え込んでいる国なのだということを公式に認めていたら、アルジェリアやベトナムでの事態はもう少し違うかたちのものになっていたのではないか。あれほど多くの人が殺されたり、傷ついたりしないで済んだのではないか。僕はそう考えてしまいます。

 自分の手は「汚れている」という自覚があれば、暴力的な政策を選択するときに、幾分かの「ためらい」があるでしょう。けれども、自分の手は「白い」、自分たちがこれまでふるってきた暴力は全て「正義の暴力」であり、それについて反省や悔悟を全く感じる必要はない、ということが公式の歴史になった国の国民には、そのような「ためらい」が生まれない。フランスにおけるムスリム市民への迫害も、そのような「おのれの暴力性についての無自覚」のせいで抑制が効きにくくなっているのではないでしょうか。

 他の敗戦国はどうでしょう。ハンガリーは最近、急激に右傾化して、排外主義的な傾向が出てきています。タイも久しく穏やかな君主制でいましたけれども、近年はタクシン派と反タクシン派が戦い続けて、国内はしばしば内戦に近い状態を呈しています。スロバキアとかクロアチアとかにもやはり政治的にある種の不安定さを常に感じます。

戦争後は、どの国も「この話はなかったことに」という国民的合意に基づいて「臭いものに蓋」をした。当座はそれでよかったかも知れません。でも、蓋の下では、抑圧された国民的な「恥辱」や「怨嗟」がいつまでも血を流し、腐臭を発している。だから、ハンガリーの現在の政治状況や、タイの現在の政治状況が、それぞれの国の敗戦経験の総括と全く無関係かどうかということは、かなり精密な検証をしてみないとわからない。そこには何らかの「関連がある」という仮説を立てて検証をしてみてよいのではないか。してみるだけの甲斐はあると僕は思います。


 ドイツ統合は敗戦の否認か

 戦争の記憶を改竄することによって、敗戦国民は当座の心の安らぎは手に入れることができるかも知れません。でも、そこで手に入れた「不当利得」はどこかで返済しなければならない。いずれ必ず後でしっぺ返しが来る。世界の敗戦国を一瞥すると、どこも七〇年かけて、ゆっくりと、でも確実に「記憶の改竄」のツケを支払わされている。『永続敗戦論』が明らかにしたように、日本も敗戦の否認のツケを払わされている。そして、この返済はエンドレスなんです。「負債がある」という事実を認めない限り、その負債を割賦でいいから返して行かない限り、この「負債」は全く別の様態をとって、日本人を責め続ける。

 「ドイツは敗戦経験の総括に成功した」と多くの人が言います。でも、本当にそうなんでしょうか。僕は簡単には諾うことができません。東ドイツのことを勘定に入れ忘れているような気がするからです。

東ドイツは「戦勝国」なんです。東ドイツはナチスと戦い続けたコミュニストが戦争に勝利して建国した国だという話になっている。だから、東ドイツ国民はナチスの戦争犯罪に何の責任も感じていない。感じることを国策的に禁止されていた。責任なんか感じてるはずがない。自分たちこそナチスの被害者であり、敵対者だということになっているんですから。悪虐非道なるナチスと戦って、それを破り、ドイツ国民をナチスの軛から解放した人々が、何が悲しくて、ナチスの戦争犯罪について他国民に謝罪しなければならないのか。

 一九九〇年に合併した当時、西ドイツと東ドイツとは人口比でいうと四対一でした。ということは、その時点では、全ドイツ人口の二〇%、一六○○万人は「自分たちはナチスドイツの戦争犯罪に何の責任もない」と子供のころからずっと教えられてきた人たちだったということです。それが合併後のドイツの国民的自意識にどういう影響を与えたのか。僕は寡聞にして知りません。

 日本国内に「日本軍国主義者の戦争犯罪について、われわれには何の責任もない。われわれは彼らと戦って、日本を解放したのである」と教えられて来た人が二四○○万人いる状況を想定してください。そう信じている「同胞」を受け容れ、戦争経験について国民的規模での総括を行い、合意を形成するという作業がどれほど困難であるか、想像がつくと思います。さて、果たして、ドイツでは東西ドイツが合併した時に、戦争経験の総括について、国民的合意を形成し得たのか。僕は「ドイツはこんな風に合意形成を成し遂げました」と納得のゆく説明をしたものをこれまで読んだことがありません。いや、それは僕がただ知らないでだけで、そういう「全く相容れない戦争経験総括を一つにまとめあげたドイツの素晴らしい政治的達成」については既に色々な報告や研究が出ているのかも知れません。でも、そうだとしたら、それこそ「国民的和解」の最良のモデルケースであるわけですから、国内的な対立を抱える様々な国について、何かあるごとに、「ここでも『和解のためのドイツ・モデル』を適用すべきではないか」ということが言及されてよいはずです。でも、僕はそのような「和解モデル」について聞いたことがない。

 ドイツの戦争総括の適切さを語るときに、よくヴァイツゼッカー元大統領の演説が引かれます。この人はヨーロッパの諸国を訪れては、そのつどきちんとナチス・ドイツ時代の戦争犯罪について謝罪しています。その倫理性的な潔さは疑うべくもありません。けれども、やはり日本とは話の運びが微妙に違う。ヴァイツゼッカーは五月四日、ドイツが連合国に無条件降伏した日を「ドイツ国民解放の日」と言っているからです。われわれはナチスの暴虐からその日に解放されたのである、それをことほぐという立場を取る。悪いのはあくまでナチスとその軍事組織や官僚組織や秘密警察組織であって、ドイツ国民はその犠牲者であったという立場は譲らない。ドイツ国民の罪はナチスのような政党を支持し、全権を委ねてしまったことにある。そのような過ちを犯したことは認めるけれども、基本的にはドイツ国民もまたナチスの被害者であり、敗戦によってナチスの軛から解放されたという物語になっている。

 日本人にも敗戦が一種の解放感をもたらしたということは事実だったでしょう。けれども、八月一五日を「解放の日」だと言う人はほとんどいません。表だってそう発言するのは、かなり勇気が要る。けれども、実感としては、それに近いことを思っていた日本人は少なくなかったと思います。

 小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』(松竹、一九六二年)の中で、笠智衆の演じる今はサラリーマンをしている駆逐艦の元艦長平山と、加東大介の演じるかつての駆逐艦の乗組員坂本が、町なかでばったり出会うという場面があります。坂本が平山を誘って、トリスバーのカウンターに座ってウィスキーを飲む。この時に坂本が「ねえ、艦長、もしあの戦争に勝っていたらどうなったんでしょうね」と問う。平山は静かに笑いながら、「負けてよかったじゃないか」と答える。そうすると、坂本は「え?」と一瞬怪訝な顔をするのですが、ふと得心したらしく、「そうかもしれねえな。ばかなやつが威張らなくなっただけでもね」と呟く。これは敗戦がもたらした解放感についての、あの世代の偽らざる実感だったんじゃないかなと思います。

 僕は一九五〇年生まれで、父はもちろん戦中派なのですが、僕が小さい頃に、父が会社の同僚を家に連れてきて飲んでいるときに誰かが「負けてよかったじゃないか」と呟くのを僕は二三度聞いたことがあります。特に力んで主張するというのではなく、何かの弾みにぽろりと口にされる。そして、その言葉が口にされると、男たちは皆黙り込む。それで怒り出す人もいないし、泣き出す人もいない。それは思想とは言えないものでした。敗戦の総括としてはあまりに言葉が足りない。けれども、おそらくこれが戦中派の実感だったと思います。それが世代的な実感として、言挙げしないでも共有されている限り、そのような敗戦の総括もそれなりのリアリティーを持ち得た。けれども、そういう片言隻句だけでは、彼らの思いが輪郭のしっかりした思想として次の世代に継承されることはありません。


 恥ずべき過去も含んだタフな物語

 白井さんの本を読んでいると、日本は異常な仕方で敗戦を否認してきたことがわかる。これは全くその通りなんですけれども、それだけでなく、多くの敗戦国はそれぞれ固有の仕方で自国の敗戦を否認している。僕にはそう思われます。

それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


 歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

 カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

ノモンハンを書こうとした作家がもう一人います。村上春樹です。『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社 一九九四〜九五年)で村上春樹はノモンハンについて書いています。でも、なぜノモンハンなのか。その問いに村上は答えていない。何だか分からないけれども、急に書きたくなったという感じです。でも、ノモンハンのことを書かないと日本人の作家の仕事は終わらないと直感したというところに、この人が世界作家になる理由があると僕は思います。日本人にとっての「タフな物語」の必要性を村上春樹も感じている。それが今の日本に緊急に必要なものであるということをよくわかっている。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。日本の左翼知識人には、あまりアメリカに学ぶ人はいません。親米派の学者たちも、よく見ると、まったくアメリカに学ぶ気はない。アメリカに存在する実定的な制度を模倣することには熱心ですけれど、なぜアメリカは強国たりえたのかについて根源的に考えるということには全く興味を示さない。アメリカの諸制度の導入にあれほど熱心な政治家も官僚も、アメリカにあって日本に欠けているものとしてまずカウンターカルチャーを挙げる人はいません。連邦制を挙げる人もいない。でも、アメリカの歴史的成功の理由はまさに「一枚岩になれないように制度を作り込んだ」という点にあるのです。でも、日本のアメリカ模倣者たちは、それだけは決して真似しようとしない。

 ほかにもいろいろ言いたいことはありますけれど、すでに時間を大分超えてしまったので、この辺で終わります。ご静聴ありがとうございました。

【Q&A】


ナラティブの力

姜 今日のお話を聞いていて、どういう「物語」をつくるかということが最大のポリティクスになっている気がします。内田さんの比較敗戦論は、我々のパースペクティブを広げてくれました。韓国や中国では日本例外論、単純にドイツと日本を比較して日本はだめなんだ、だから我々は日本を半永久に批判していい、そういう理屈立てになりがちです。そのときに内田さんの比較敗戦論をもちいてみると、我々のブラインドスポットになっている部分がよく見えてくる。解放の物語の自己欺瞞みたいなところも見えてくる。ところが、安倍さんのような人が出てくると、逆に、かつて自分たちが植民地であった、侵略をされた国は、ますます解放の物語を検証することをやらなくて済んでしまいますね。

内田 イージーな物語に対してイージーな物語で対抗すれば、どちらもどんどんシンプルでイージーな話に落ち込んでしまう。実際の歴史的な事件は「善玉と悪玉が戦っている」というようなシンプルな話ではないんです。さまざまな人たちが複雑な利害関係の中でわかりにく行動を取っている。うっかりすると、本人たち自身、自分たちがどういう動機で行動しているのか、いかなる歴史的な役割を果しているのか、わかっていないということだってある。それが歴史の実相だろうと思います。ですから、それをありのままに淡々と記述していく。軽々には評価を下さない。わかりやすいストーリーラインに落とし込むという誘惑にできる限り抵抗する。そういう歴史に対する自制心が非常に大事になると思います。

 こういう仕事においては、歴史を叙述するときの語り口、ナラティブの力というのが大きいと思うんです。最近、読んだ本の中でフィリップ・ロスの小説『プロット・アゲンスト・アメリカ──もしもアメリカが...』(柴田元幸・訳、集英社、二〇一四年)がとても面白かった。これは一九四〇年の米大統領選挙でルーズベルトではなく、共和党から出馬した大西洋単独飛行の英雄チャールズ・リンドバーグ大佐がヨーロッパでの戦争への不干渉を掲げて勝利してしまうという近過去SFなんです。現実でも、リンドバーグは親独的立場で知られていて、ゲーリングから勲章を授与されてもいます。ロスの小説では、アメリカに親独派政権が誕生して、ドイツと米独不可侵条約を、日本とは日米不可侵条約を結ぶ。そして、アメリカ国内では激しいユダヤ人弾圧が起きる・・・という話です。

 僕はナラティブというのは、こういうSF的想像力の使い方も含むと思います。もし、あのときにこうなっていたらというのは、ほんとうに大事な想像力の使い方だと思う。

フィリップ・K・ディックの『高い城の男』(浅倉久志・新訳 早川書房、原著一九六二年)というSFがあります。これは枢軸国が連合国に勝った世界の話です。日独がアメリカを占領している。東海岸がドイツ占領地で、ロッキー山脈から西側が日本の占領地。そういう場合に、日本人はアメリカをどういうふうに植民地的に統治するのか、それを考えるのは実は非常に大事な思考訓練なんです。実際に日本がアメリカ西部を安定的に統治しようとしたら、日本の価値観とか美意識とか規範意識を「よいものだ」と思って、自発的に「対日協力」をしようと思うアメリカ人を集団的に創り出すしかない。ドイツがフランスでやったのはそういうことでした。でも、日本の戦争指導部にそのようなアイディアがあったと僕は思いません。

アメリカの方は、日本に勝った後にどうやって占領するかの計画を早々と立案していた。日本人のものの考え方とか組織の作り方とかを戦時中に民族学者に委託して研究しています。卓越した日本人論として今も読み継がれている『菊と刀』はルーズベルトが設置した戦争情報局の日本班のチーフだったルース・ベネディクトが出した調査報告書です。日本社会を科学的に研究して、どういう占領政策が適切かを戦争が終わる前にもう策定していた。

果たして日本の大本営にアメリカに勝った後、どうやってアメリカを統治するか、何らかのプランがあったでしょうか。どうやって対日協力者のネットワークを政治家や学者やジャーナリストやビジネスマンの中に組織するかというようなことをまじめに研究していた部門なんか日本の軍部のどこにも存在しなかったと思います。戦争に勝ったらどうするのかについて何の計画もないままに戦争を始めたんです。そんな戦争に勝てるはずがない。

 僕のSF的妄想は、一九四二年のミッドウェー海戦の敗北で、これはもう勝てないなと思い切って、停戦交渉を始めたらどうなったかというものです。史実でも、実際に、当時の木戸幸一内大臣と吉田茂たちは、すでに講和のための活動を始めています。近衛文麿をヨーロッパの中立国に送って、連合国との講和条件を話し合わせようという計画があった。もし、この工作が奏功して、四二年か四三年の段階で日本が連合国との休戦交渉に入っていれば、それからあとの日本の国のかたちはずいぶん違ったものになっただろうと思います。

ミッドウェー海戦で、帝国海軍は主力を失って、あとはもう組織的抵抗ができない状態でした。戦い続ければ、ただ死傷者を増やすだけしか選択肢がなかったのに、「攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち」というような、まったく非科学的な軍事思想に駆動されていたせいで、停戦交渉という発想そのものが抑圧された。

この時点で戦争を止めていれば、本土空襲もなかったし、沖縄戦もなかったし、原爆投下もなかった。300万人の死者のうち、95%は死なずに済んだ。民間人の死傷者はほぼゼロで済んだはずです。ミッドウェーは日本軍の歴史的敗北でしたけれど、死者は3000人に過ぎません。ほとんどの戦死者(実際には戦病死者と餓死者でしたが)はその後の絶望的、自滅的な戦闘の中で死んだのです。

空襲が始まる前に停戦していれば、日本の古い街並みは、江戸時代からのものも、そのまま手つかずで今も残っていたでしょう。満州と朝鮮半島と台湾と南方諸島の植民地は失ったでしょうけれど、沖縄も北方四島も日本領土に残され、外国軍に占領されることもなかった。四二年時点で、日本国内に停戦を主導できる勢力が育っていれば、戦争には負けたでしょうけれど、日本人は自分の手で敗戦経験の総括を行うことができた。なぜこのような勝ち目のない戦争に突っ込んで行ったのか、どこに組織的瑕疵があったのか、どのような情報を入力し忘れていたのか、どのような状況判断ミスがあったのか、それを自力で検証することができた。戦争責任の徹底追及を占領軍によってではなく、日本人自身の手で行えた可能性はあった。日本人が自分たちの手で戦争責任を追及し、戦争責任の追及を行い、憲法を改定して、戦後の日本の統治システムを日本人が知恵を絞って作り上げることは可能だった。

「もしミッドウェーのあとに戦争が終わっていたら、その後の戦後日本はどんな国になったのか」というようなSF的想像はとてもたいせつなものだと僕は思います。これはフィクションの仕事です。小説や映画やマンガが担う仕事です。政治学者や歴史学者はそういう想像はしません。でも、「そうなったかもしれない日本」を想像することは、自分たちがどんな失敗を犯したのかを知るためには実はきわめて有用な手立てではないかと僕は思っています。「アメリカの属国になっていなかった日本」、それが僕たちがこれからあるべき日本の社会システムを構想するときに参照すべき最も有用なモデルだと思います。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c125

[近代史3] 靖国神道は軍人を殺人の前に奮い立たせる為のものであって、信仰ですらないインチキ神道 中川隆
2. 中川隆[-11284] koaQ7Jey 2019年3月22日 14:07:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[722]

僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。


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比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html


2019年度の寺子屋ゼミは「比較敗戦論」を通年テーマにすることにした。

どうしてこのようなテーマを選ぶことになったのか。それについて姜尚中さんとのトークセッションで語ったことがある。
そのときの講演録を再録しておく。講演があったのは2016年


敗戦国は日独だけではない

 今回の「比較敗戦論」というタイトルは、問題提起という意味でつけました。特に僕の方で用意した結論があるわけではありません。ただ、歴史を見るときに、こういう切り取り方もあるのだというアイディアをお示ししたいと思います。

「比較敗戦論」という言葉は『永続敗戦論』(太田出版 二〇一三年)の白井聡さんと対談をしまたときにふと思いついたのです(この対談はその後、『日本戦後史論』(徳間書店、二〇一五年)という本にまとまりました)。

『永続敗戦論』での白井さんの重要な主張は「日本人は敗戦を否認しており、それが戦後日本のシステムの不調の原因である」というものでした。「敗戦の否認」というキーワードを使って、戦後七〇年の日本政治をきわめて明晰に分析した労作です。

ただ、僕が思ったのは、白井さんと話をしていて、日本人が戦後七〇年間にわたって敗戦経験を否認してきたということは全くご指摘の通りなんだけれども、日本以外の敗戦国ではどうなのか、ということが気になりました。日本以外の他の敗戦国はそれぞれ適切なやり方で敗戦の「総括」を行ったのか。その中で日本だけが例外的に敗戦を否認したのだとすれば、それはなぜなのか。そういった一連の問いがありうるのではないかと思いました。

白井さんの言う通り「敗戦の否認」ゆえに戦後日本はさまざまな制度上のゆがみを抱え込み、日本人のものの考え方にも無意識的なバイアスがかかっていて、ある種の思考不能状態に陥っていること、これは紛れもない事実です。でも、それは日本人だけに起きていることなのか。他の敗戦国はどうなっているのか。多の敗戦国では、敗戦を適切に受け容れて、それによって制度上のゆがみや無意識的な思考停止を病むというようなことは起きていないのか。よく「ドイツは敗戦経験に適切に向き合ったけれど、日本はそれに失敗した」という言い方がされます。けれども、それはほんとうに歴史的事実を踏まえての発言なのか。

まず僕たちが誤解しやすいことですけれど、第二次世界大戦の敗戦国は日独伊だけではありません。フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイ、これらは連合国が敵国として認定した国です。それ以外にも、連合国がそもそも国として認定していない交戦団体として、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア自由国、満州国、中華民国南京政府があります。これだけの「国」が敗戦を経験した。でも、僕たちはこれらの敗戦国で、人々が敗戦経験をどう受け容れたのか、どうやって敗戦後の七〇年間を過ごしてきたのかについて、ほとんど何も知りません。例えば、「フィンランド国民は敗戦をどう総括したか」というような研究は、フィンランド国内にはしている人がいるのでしょうけれど、僕はそれについての日本語文献のあることを知らない。でも、「敗戦の否認」という心理的な痼疾を手がかりにして現代日本社会を分析するためには、やはり他の敗戦国民は自国の敗戦をどう受け止めたのか、否認したのか、受容したのかが知りたい。敗戦の総括をうまく実行できた国はあるのか。あるとしたら、なぜ成功したのか。敗戦を否認した国は日本の他にもあるのか。あるとしたら、その国における敗戦の否認は、今その国でどのような現実を帰結したのか、それを知りたい。「敗戦の否認」が一種の病であるとするなら、治療のためには、まず症例研究をする必要がある。僕はそんなふうに考えました。

フランスは果たして戦勝国なのか

 このアイデアには実はいささか前段があります。枢軸国の敗戦国というと、ふつうは日独伊と言われます。けれども、フランスだって実は敗戦国ではないのか。僕は以前からその疑いを払拭することができずにいました。

ご承知の方もいると思いますが、僕の専門はフランス現代思想です。特にエマニュエル・レヴィナスというユダヤ人哲学者を研究してきました。その関連で、近代フランスにおけるユダヤ人社会と彼らが苦しんだ反ユダヤ主義のことをかなり長期にわたって集中的に研究してきました。そして、そのつながりで、19世紀から20世紀はじめにかけてのフランスの極右思想の文献もずいぶん読み漁りました。

 僕がフランスにおける反ユダヤ主義の研究を始めたのは1980年代のはじめ頃ですが、その頃フランスの対独協力政権、ペタン元帥の率いたヴィシー政府についての研究が続々と刊行され始めました。ですから、その頃出たヴィシーについての研究書も手に入る限り買い入れて読みました。そして、その中でも出色のものであったベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』(国文社、一九八九年)という本を翻訳することになりました。これはフランスが実はファシズムと反ユダヤ主義というふたつの思想の「母国」であったという非常に挑発的な内容で、発売当時はフランスでは大変な物議を醸したものでした。

 歴史的事実をおさらいすると、一九三九年九月にドイツのポーランド侵攻に対して、英仏両国はドイツに宣戦布告します。フランスはマジノ線を破られて半年後の六月にフランスは独仏休戦協定が結ばれます。フランスの北半分はドイツの直接統治領に、南半分がペタンを首班とするヴィシー政府の統治下に入ります。第三共和政の最後の国民議会が、ペタン元帥に憲法制定権を委任することを圧倒的多数で可決し、フランスは独裁制の国になりました。そして、フランス革命以来の「自由、平等、友愛」というスローガンが廃されて、「労働、家族、祖国」という新しいファシズム的スローガンが掲げた対独協力政府ができます。

フランスは連合国に対して宣戦布告こそしていませんけれども、大量の労働者をドイツ国内に送ってドイツの生産活動を支援し、兵站を担い、国内ではユダヤ人やレジスタンスを行いました。フランス国内で捕らえられたユダヤ人たちはフランス国内から鉄道でアウシュヴィッツへ送られました。

 対独レジスタンスが始まるのは1942年くらいからです。地下活動という性質上、レジスタンスの内実について詳細は知られていませんが、初期の活動家は全土で数千人規模だったと言われています。連合国軍がノルマンディーに上陸して、戦局がドイツ軍劣勢となってから、堰を切ったように、多くのフランス人がドイツ軍追撃に参加して、レジスタンスは数十万規模にまで膨れあがった。この時、ヴィシー政府の周辺にいた旧王党派の準軍事団体などもレジスタンスに流れ込んでいます。昨日まで対独協力政権の中枢近くに人たちが、一夜明けるとレジスタンスになっているというようなこともあった。そして、このドイツ潰走の時に、対独協力者の大量粛清が行われています。ヴィシー政権に協力したという名目で、裁判なしで殺された犠牲者は数千人と言われていますが、これについても信頼できる史料はありません。調書もないし、裁判記録もない。どういう容疑で、何をした人なのか判然としないまま、「対独協力者だ」と名指されて殺された。真実はわからない。

アルベール・カミュは最初期からのほんもののレジスタンス闘士でしたけれど、戦後その時代を回想して、「ほんとうに戦ったレジスタンスの活動家はみな死んだ」と書いて、今生き残って「レジスタンス顔」をしている人間に対する不信を隠そうとしませんでした。このあたりの消息は外国人にはなかなかわかりません。

シャルル・ド・ゴールもその回想録の中で、ヴィシー政府壊滅後のフランス各地の混乱に言及して、「無数の場所で民衆の怒りは暴力的な反動として溢れ出した。もちろん、政治的な目論見や、職業上の競争や、個人的な復讐がこの機会を見逃すはずもなかった」と証言しています。(Charles De Gaulle, Mémoire de guerre, Plon, 1959, p.18)

 国防次官だったシャルル・ド・ゴールはペタン元帥が休戦協定を結んだときにロンドンに亡命して亡命政府を名乗りますけれど、もちろん彼の「自由フランス」には国としての実体などありません。国際法上はあくまでヴィシー政府がフランスの正統な政府であって、自由フランスは任意団体に過ぎません。そもそもド・ゴール自身、フランスの法廷で欠席裁判のまま死刑宣告されているのです。

ド・ゴール以外にも、フランソワ・ダルラン将軍、アンリ・ジロー将軍といった軍の実力者がいて、フランスの正統な代表者の地位を争っていました。最終的にド・ゴールが競争相手を排除して、自由フランス軍のトップに立ちますけれど、それでも一交戦団体に過ぎません。44年にド・ゴールが「フランス共和国臨時政府」を名乗ったときも、アメリカもイギリスもこれを承認するのを渋りました。ド・ゴールが一交戦団体に過ぎなかった自由フランスを「戦勝国」にカテゴリー変更させたのは、彼の発揮した軍事的・外交的実力によってです。44年、ノルマンディー上陸後西部戦線でのドイツ軍との戦闘が膠着状態にあったとき、ド・ゴールはこの機会にフランスを連合国に「高く売る」ことに腐心しています。回想録にはそのことが率直に書いてあります。

「戦争がまだ長引くということは、われわれフランス人が耐え忍ばなければならない損失、被害、出費を考えれば、たしかに痛ましいことである。しかし、フランスの最優先の利害を勘案するならば、フランス人の当面の利益を犠牲にしても、戦争の継続は悪い話ではなかった。なぜなら、戦争がさらに長びくならば、アフリカやイタリアでそうだったように、われわれの協力がライン河・ドナウ河での戦闘にも不可欠のものとなるからである。われわれの世界内における地位、さらにはフランス人がこれから何世代にもわたって自分自身に対して抱く評価がそこにかかっている。」(Ibid., p.44、強調は内田)

 ド・ゴールは、パリ解放からドイツ降伏までのわずかの時間内に、フランス軍の軍事的有用を米英に誇示できるかどうかに戦後フランスの、国際社会における立場がかかっているということを理解していました。ほんとうにこのときのフランスは綱渡りだったのです。ノルマンディー上陸作戦の時点ではド・ゴールの自由フランスの支持基盤は国内のレジスタンスだけでした。それが戦局の推移に伴ってそれ以外のフランス人たちも自由フランスを自分たちの代表として承認する気分になり、最後に米英はじめ世界の政府がド・ゴールの権威を承認せざるを得なくなった。ですから、ド・ゴールが「国を救った」というのはほんとうなのです。対独協力国、事実上の枢軸国がいつのまにか連合国の一員になり、さらに国際社会の重鎮になりおおせていたわけですから、これはド・ゴールの力業という他ありません。

でも、このド・ゴールが力業でフランスの体面を救ったことによって、フランス人は戦争経験の適切な総括を行う機会を奪われてしまった。ほんとうを言えば、ドイツの犯したさまざまな戦争犯罪に加担してきたフランス人たちはもっと「疚しさ」を感じてよかったのです。でも、フランス人は戦勝国民として終戦を迎えてしまった。フランス人は「敗戦を総括する義務」を免除された代わりにもっと始末におえないトラウマを抱え込むことになりました。


イタリアは戦勝国ではないのか

 僕たち日本人はイタリアがどんなふうに終戦を迎えたかについてはほとんど知るところがありません。世界史の授業でもイタリアの敗戦については詳しく教えてもらった記憶がない。教科書で教えてもらえないことは、映画や小説を通じて学ぶわけですけれども、イタリアの終戦時の混乱については、それを主題にした映画や文学も日本ではあまり知られておりません。『無防備都市』(ロベルト・ロッセリーニ監督、一九四五年)にはイタリアのレジスタンスの様子がリアルに描かれていますが、僕が知っているのはそれくらいです。ですから、ナチスと命がけで戦ったイタリア人がいたことや、イタリア人同士で激しい内戦が行われていたという歴史的事実も日本人はあまり知らない。

一九四三年七月に、反ファシスト勢力が結集して、国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が主導して、ムッソリーニを20年にわたる独裁者の地位から引きずり下ろしました。そして、首相に指名されたピエトロ・バドリオ将軍は水面下で連合国と休戦交渉を進めます。その後、監禁されていたムッソリーニをドイツの武装親衛隊が救い出して、北イタリアに傀儡政権「イタリア社会共和国」を建て、内戦状態になります。最終的にドイツ軍はイタリア領土内から追い出され、ムッソリーニはパルチザンに捕らえられて、裁判抜きで処刑され、その死体はミラノの広場に逆さ吊りにされました。イタリア王国軍とパルチザンがムッソリーニのファシスト政権に引導を渡し、ドイツ軍を敗走させた。ですから、イタリアは法理的には戦勝国なんです。でも、たぶん「イタリアは戦勝国だ」と思っている日本人はほとんどいない。自分たちと同じ敗戦国だと思っている。

たしかに、戦後イタリアを描いた『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1948年)のような映画を観ると、街は爆撃でひどいことになっているし、人々は食べるものも仕事もなくて、痩せこけている。「ああ、イタリアも日本と同じだ」と思っても不思議はない。でも、違います。イタリアは戦勝国なんです。だいたい、イタリアは一九四五年七月には日本に宣戦布告しているんです。

 フランスとイタリアを比べれば、フランスよりイタリアの方がずっと戦勝国条件が整っている。フランスは先ほど述べたように紙一重で戦勝国陣営に潜り込み、国連の常任理事国になり、核保有国になり、今も世界の大国としてふるまっています。それは一にシャルル・ド・ゴールという卓越した政治的能力を持つ人物が国家存亡のときに登場したからです。ド・ゴールがいて、ルーズベルトやチャーチルと一歩も引かずに交渉したから、フランスは戦勝国「のようなもの」として戦後世界に滑り込むことができた。でも、イタリアにはそんなカリスマ的な人物がいませんでした。戦争指導者であったヴィットリオ・エマヌエーレ三世とバドリオ将軍は、ドイツ軍がローマに侵攻してきたとき、市民を「無防備都市」に残したまま自分たちだけ逃亡してしまった。そのせいでイタリア軍の指揮系統は壊滅しました。戦後の国民投票で国民たちの判断で王政が廃止されたのは、このときの戦争指導部の国民に対する裏切りを国民が許さなかったからです。

フランスとイタリアのどちらも「勝ったんだか負けたんだかよくわからない仕方で戦争が終わった」わけですけれど、フランスにはド・ゴールがいて、イタリアにはいなかった。それが戦後の両国の立ち位置を決めてしまった。

でも、僕はこれを必ずしもフランスにとって幸運なことだったとも、イタリアにとって不幸なことだったとも思わないのです。イタリアは「敗戦国みたいにぼろぼろになった戦勝国」として終戦を迎えました。戦争の現実をありのままに、剥き出しに経験した。戦勝を誇ることもできなかったし、敗戦を否認する必要もなかった。だから、彼らの戦争経験の総括には変なバイアスがかかっていない。

先日、イタリアの合気道家が僕の道場に出稽古に来たことがありました。稽古のあとの歓談のとき、「そういえば君たち、昔、日本に宣戦布告したことがあるでしょう」と訊いてみました。たぶん、そんなこと知らないと思ったんです。意外なことに、彼はすぐに苦笑して、「どうもすみませんでした」と謝るんです。「イタリアって、どさくさまぎれにああいうことをやるんです。フランスが降伏したときにも仏伊国境の土地を併合したし。そういう国なんです。申し訳ない」と。僕は彼のこの対応にびっくりしました。自国の近代史のどちらかというと「汚点」を若いイタリア人が常識として知っているということにまず驚き、それについて下手な言い訳をしないで、さらっと「ごめんね」と謝るところにさらに驚きました。事実は事実としてまっすぐみつめる。非は非として受け容れ、歴史修正主義的な無駄な自己弁護をしない。そのとき僕は「敗戦の否認をしなかった国民」というものがあるとしたら、「こういうふう」になるのかなと思いました。

イタリアは「ほとんど敗戦」という他ないほどの被害を蒙った。内戦と爆撃で都市は傷ついた。行政も軍もがたがたになった。戦死者は30万人に及んだ。でも、その経験を美化もしなかったし、否認もしなかった。「まったくひどい目に遭った。でも、自業自得だ」と受け止めた。だから、戦争経験について否認も抑圧もない。

フランスの場合は、ヴィシーについてはひさしく歴史的研究そのものが抑圧されていました。先ほど名前が出ましたベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』はヴィシーに流れ込む十九世紀二○世紀の極右思想史研究ですが、この本が出るまで戦後四四年の歳月が必要でした。刊行されたときも、保守系メディアはこれに集中攻撃を加えました。「なぜせっかくふさがった『かさぶた』を剥がして、塩を塗り込むようなことをするのか」というのです。それからさらに30年近くが経ちますが、ヴィシー政府の時代にフランスが何をしたのかについての歴史的な研究は進んでいません。

ナチスが占領していた時代のフランス人は何を考え、何を求めて、どうふるまったのか。いろいろな人がおり、いろいろな生き方があったと思います。それについての平明な事実を知ることが現代のフランス人には必要だと僕は思います。ド・ゴールが言うように「自分自身に対して抱く評価」を基礎づけるために。でも、それが十分に出来ているように僕には思えません。フランスの場合は「敗戦の否認」ではなく、対独協力国だったという歴史的事実そのものが否認されている。その意味では、あるいは日本より病が深いかもしれない。

 現在の政治状況と敗戦の総括との関係

 本来なら、ヴィシー政府の政治家や官僚やイデオローグたちの事績を吟味して、「一体、ヴィシーとは何だったのか、なぜフランス人は民主的な手続きを経てこのような独裁制を選択したのか」という問いを徹底的に究明すべきだったと思います。でも、フランス人はこの仕事をネグレクトしました。ヴィシー政府の要人たちに対する裁判もごく短期間のうちに終えてしまった。東京裁判やニュルンベルク裁判のように、戦争犯罪の全貌を明らかにするということを抑制した。ペタン元帥や首相だったピエール・ラヴァルの裁判はわずか一ヶ月で結審して、死刑が宣告されました。裁判は陪審員席からも被告に罵声が飛ぶというヒステリックなもので、真相の解明というにはほど遠かった。この二人に全責任を押しつけることで、それ以外の政治家や官僚たちは事実上免責されました。そして、この「エリートたち」はほぼそのまま第四共和政の官僚層に移行する。

 レヴィによれば、フランスにおいて、ヴィシーについての歴史学的な検証が進まなかった最大の理由は、ヴィシー政府の官僚層が戦後の第四共和政の官僚層を形成しており、彼らの非を細かく咎めてゆくと、第四共和政の行政組織そのものが空洞化するリスクがあったからだということでした。事情を勘案すれば、フランス政府が、国家的選択として対独協力していたわけですから、それをサボタージュした官僚はうっかりするとゲシュタポに捕まって、収容所に送られるリスクがあったわけです。組織ぐるみの対独協力をせざるを得なかった。だから、一罰百戒的に、トップだけに象徴的に死刑宣告を下して、あとは免罪して、戦後の政府機構に取り込むことにした。それは当座の統治システムの維持のためには、しかたなかったのかも知れません。

ですから、ヴィシーについての歴史学的な実証研究が始まるのは、この官僚たちが現役を引退した後になります。一九八〇年代に入って、戦後四〇年が経って、ヴィシー政府の高級官僚たちが退職したり、死んだりして、社会的な影響がなくなった時点ではじめて、最初は海外の研究者たちが海外に流出していたヴィシー政府の行政文書を持ち出して、ヴィシー研究に手を着け始めた。フランス人自身によるヴィシー研究は『フランス・イデオロギー』が最初のものです。戦争が終わって四五年後です。「ヴィシーの否認」は政治的に、意識的に、主体的に遂行された。でも、そのトラウマは別の病態をとって繰り返し回帰してきます。僕はフランスにおける「イスラモフォビア」(イスラーム嫌悪症)はそのような病態の一つではないかと考えています。

 フランスは全人口の一〇%がムスリムです。先日のテロで露呈したように、フランス社会には排外主義的な傾向が歴然と存在します。大戦後も、フランスは一九五〇年代にアルジェリアとベトナムで旧植民地の民族解放運動に直面した時、暴力的な弾圧を以って応じました。結果的には植民地の独立を容認せざるを得なかったのですが、独立運動への弾圧の激しさは、「自由・平等・友愛」という人権と民主主義の「祖国」のふるまいとは思えぬものでした。そんなことを指摘する人はいませんが、これは「ヴィシーの否認」が引き起こしたものではないかと僕は考えています。「対独協力政治を選んだフランス」、「ゲシュタポと協働したフランス」についての十分な総括をしなかったことの帰結ではないか。

もしフランスで終戦時点で自国の近過去の「逸脱」についての痛切な反省がなされていたら、五〇年代におけるフランスのアルジェリアとベトナムでの暴力的な対応はある程度抑止されたのではないかと僕は想像します。フランスはナチス・ドイツの暴力に積極的に加担した国なのだ、少なくともそれに加担しながら反省もせず、処罰も免れた多数の国民を今も抱え込んでいる国なのだということを公式に認めていたら、アルジェリアやベトナムでの事態はもう少し違うかたちのものになっていたのではないか。あれほど多くの人が殺されたり、傷ついたりしないで済んだのではないか。僕はそう考えてしまいます。

 自分の手は「汚れている」という自覚があれば、暴力的な政策を選択するときに、幾分かの「ためらい」があるでしょう。けれども、自分の手は「白い」、自分たちがこれまでふるってきた暴力は全て「正義の暴力」であり、それについて反省や悔悟を全く感じる必要はない、ということが公式の歴史になった国の国民には、そのような「ためらい」が生まれない。フランスにおけるムスリム市民への迫害も、そのような「おのれの暴力性についての無自覚」のせいで抑制が効きにくくなっているのではないでしょうか。

 他の敗戦国はどうでしょう。ハンガリーは最近、急激に右傾化して、排外主義的な傾向が出てきています。タイも久しく穏やかな君主制でいましたけれども、近年はタクシン派と反タクシン派が戦い続けて、国内はしばしば内戦に近い状態を呈しています。スロバキアとかクロアチアとかにもやはり政治的にある種の不安定さを常に感じます。

戦争後は、どの国も「この話はなかったことに」という国民的合意に基づいて「臭いものに蓋」をした。当座はそれでよかったかも知れません。でも、蓋の下では、抑圧された国民的な「恥辱」や「怨嗟」がいつまでも血を流し、腐臭を発している。だから、ハンガリーの現在の政治状況や、タイの現在の政治状況が、それぞれの国の敗戦経験の総括と全く無関係かどうかということは、かなり精密な検証をしてみないとわからない。そこには何らかの「関連がある」という仮説を立てて検証をしてみてよいのではないか。してみるだけの甲斐はあると僕は思います。

 ドイツ統合は敗戦の否認か

 戦争の記憶を改竄することによって、敗戦国民は当座の心の安らぎは手に入れることができるかも知れません。でも、そこで手に入れた「不当利得」はどこかで返済しなければならない。いずれ必ず後でしっぺ返しが来る。世界の敗戦国を一瞥すると、どこも七〇年かけて、ゆっくりと、でも確実に「記憶の改竄」のツケを支払わされている。『永続敗戦論』が明らかにしたように、日本も敗戦の否認のツケを払わされている。そして、この返済はエンドレスなんです。「負債がある」という事実を認めない限り、その負債を割賦でいいから返して行かない限り、この「負債」は全く別の様態をとって、日本人を責め続ける。

 「ドイツは敗戦経験の総括に成功した」と多くの人が言います。でも、本当にそうなんでしょうか。僕は簡単には諾うことができません。東ドイツのことを勘定に入れ忘れているような気がするからです。

東ドイツは「戦勝国」なんです。東ドイツはナチスと戦い続けたコミュニストが戦争に勝利して建国した国だという話になっている。だから、東ドイツ国民はナチスの戦争犯罪に何の責任も感じていない。感じることを国策的に禁止されていた。責任なんか感じてるはずがない。自分たちこそナチスの被害者であり、敵対者だということになっているんですから。悪虐非道なるナチスと戦って、それを破り、ドイツ国民をナチスの軛から解放した人々が、何が悲しくて、ナチスの戦争犯罪について他国民に謝罪しなければならないのか。

 一九九〇年に合併した当時、西ドイツと東ドイツとは人口比でいうと四対一でした。ということは、その時点では、全ドイツ人口の二〇%、一六○○万人は「自分たちはナチスドイツの戦争犯罪に何の責任もない」と子供のころからずっと教えられてきた人たちだったということです。それが合併後のドイツの国民的自意識にどういう影響を与えたのか。僕は寡聞にして知りません。

 日本国内に「日本軍国主義者の戦争犯罪について、われわれには何の責任もない。われわれは彼らと戦って、日本を解放したのである」と教えられて来た人が二四○○万人いる状況を想定してください。そう信じている「同胞」を受け容れ、戦争経験について国民的規模での総括を行い、合意を形成するという作業がどれほど困難であるか、想像がつくと思います。さて、果たして、ドイツでは東西ドイツが合併した時に、戦争経験の総括について、国民的合意を形成し得たのか。僕は「ドイツはこんな風に合意形成を成し遂げました」と納得のゆく説明をしたものをこれまで読んだことがありません。いや、それは僕がただ知らないでだけで、そういう「全く相容れない戦争経験総括を一つにまとめあげたドイツの素晴らしい政治的達成」については既に色々な報告や研究が出ているのかも知れません。でも、そうだとしたら、それこそ「国民的和解」の最良のモデルケースであるわけですから、国内的な対立を抱える様々な国について、何かあるごとに、「ここでも『和解のためのドイツ・モデル』を適用すべきではないか」ということが言及されてよいはずです。でも、僕はそのような「和解モデル」について聞いたことがない。

 ドイツの戦争総括の適切さを語るときに、よくヴァイツゼッカー元大統領の演説が引かれます。この人はヨーロッパの諸国を訪れては、そのつどきちんとナチス・ドイツ時代の戦争犯罪について謝罪しています。その倫理性的な潔さは疑うべくもありません。けれども、やはり日本とは話の運びが微妙に違う。ヴァイツゼッカーは五月四日、ドイツが連合国に無条件降伏した日を「ドイツ国民解放の日」と言っているからです。われわれはナチスの暴虐からその日に解放されたのである、それをことほぐという立場を取る。悪いのはあくまでナチスとその軍事組織や官僚組織や秘密警察組織であって、ドイツ国民はその犠牲者であったという立場は譲らない。ドイツ国民の罪はナチスのような政党を支持し、全権を委ねてしまったことにある。そのような過ちを犯したことは認めるけれども、基本的にはドイツ国民もまたナチスの被害者であり、敗戦によってナチスの軛から解放されたという物語になっている。

 日本人にも敗戦が一種の解放感をもたらしたということは事実だったでしょう。けれども、八月一五日を「解放の日」だと言う人はほとんどいません。表だってそう発言するのは、かなり勇気が要る。けれども、実感としては、それに近いことを思っていた日本人は少なくなかったと思います。

 小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』(松竹、一九六二年)の中で、笠智衆の演じる今はサラリーマンをしている駆逐艦の元艦長平山と、加東大介の演じるかつての駆逐艦の乗組員坂本が、町なかでばったり出会うという場面があります。坂本が平山を誘って、トリスバーのカウンターに座ってウィスキーを飲む。この時に坂本が「ねえ、艦長、もしあの戦争に勝っていたらどうなったんでしょうね」と問う。平山は静かに笑いながら、「負けてよかったじゃないか」と答える。そうすると、坂本は「え?」と一瞬怪訝な顔をするのですが、ふと得心したらしく、「そうかもしれねえな。ばかなやつが威張らなくなっただけでもね」と呟く。これは敗戦がもたらした解放感についての、あの世代の偽らざる実感だったんじゃないかなと思います。

 僕は一九五〇年生まれで、父はもちろん戦中派なのですが、僕が小さい頃に、父が会社の同僚を家に連れてきて飲んでいるときに誰かが「負けてよかったじゃないか」と呟くのを僕は二三度聞いたことがあります。特に力んで主張するというのではなく、何かの弾みにぽろりと口にされる。そして、その言葉が口にされると、男たちは皆黙り込む。それで怒り出す人もいないし、泣き出す人もいない。それは思想とは言えないものでした。敗戦の総括としてはあまりに言葉が足りない。けれども、おそらくこれが戦中派の実感だったと思います。それが世代的な実感として、言挙げしないでも共有されている限り、そのような敗戦の総括もそれなりのリアリティーを持ち得た。けれども、そういう片言隻句だけでは、彼らの思いが輪郭のしっかりした思想として次の世代に継承されることはありません。

 恥ずべき過去も含んだタフな物語

 白井さんの本を読んでいると、日本は異常な仕方で敗戦を否認してきたことがわかる。これは全くその通りなんですけれども、それだけでなく、多くの敗戦国はそれぞれ固有の仕方で自国の敗戦を否認している。僕にはそう思われます。

それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。

カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。

 歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

 カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。

 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

ノモンハンを書こうとした作家がもう一人います。村上春樹です。『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社 一九九四〜九五年)で村上春樹はノモンハンについて書いています。でも、なぜノモンハンなのか。その問いに村上は答えていない。何だか分からないけれども、急に書きたくなったという感じです。でも、ノモンハンのことを書かないと日本人の作家の仕事は終わらないと直感したというところに、この人が世界作家になる理由があると僕は思います。日本人にとっての「タフな物語」の必要性を村上春樹も感じている。それが今の日本に緊急に必要なものであるということをよくわかっている。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。日本の左翼知識人には、あまりアメリカに学ぶ人はいません。親米派の学者たちも、よく見ると、まったくアメリカに学ぶ気はない。アメリカに存在する実定的な制度を模倣することには熱心ですけれど、なぜアメリカは強国たりえたのかについて根源的に考えるということには全く興味を示さない。アメリカの諸制度の導入にあれほど熱心な政治家も官僚も、アメリカにあって日本に欠けているものとしてまずカウンターカルチャーを挙げる人はいません。連邦制を挙げる人もいない。でも、アメリカの歴史的成功の理由はまさに「一枚岩になれないように制度を作り込んだ」という点にあるのです。でも、日本のアメリカ模倣者たちは、それだけは決して真似しようとしない。

 ほかにもいろいろ言いたいことはありますけれど、すでに時間を大分超えてしまったので、この辺で終わります。ご静聴ありがとうございました。


【Q&A】


ナラティブの力

姜 今日のお話を聞いていて、どういう「物語」をつくるかということが最大のポリティクスになっている気がします。内田さんの比較敗戦論は、我々のパースペクティブを広げてくれました。韓国や中国では日本例外論、単純にドイツと日本を比較して日本はだめなんだ、だから我々は日本を半永久に批判していい、そういう理屈立てになりがちです。そのときに内田さんの比較敗戦論をもちいてみると、我々のブラインドスポットになっている部分がよく見えてくる。解放の物語の自己欺瞞みたいなところも見えてくる。ところが、安倍さんのような人が出てくると、逆に、かつて自分たちが植民地であった、侵略をされた国は、ますます解放の物語を検証することをやらなくて済んでしまいますね。

内田 イージーな物語に対してイージーな物語で対抗すれば、どちらもどんどんシンプルでイージーな話に落ち込んでしまう。実際の歴史的な事件は「善玉と悪玉が戦っている」というようなシンプルな話ではないんです。さまざまな人たちが複雑な利害関係の中でわかりにく行動を取っている。うっかりすると、本人たち自身、自分たちがどういう動機で行動しているのか、いかなる歴史的な役割を果しているのか、わかっていないということだってある。それが歴史の実相だろうと思います。ですから、それをありのままに淡々と記述していく。軽々には評価を下さない。わかりやすいストーリーラインに落とし込むという誘惑にできる限り抵抗する。そういう歴史に対する自制心が非常に大事になると思います。

 こういう仕事においては、歴史を叙述するときの語り口、ナラティブの力というのが大きいと思うんです。最近、読んだ本の中でフィリップ・ロスの小説『プロット・アゲンスト・アメリカ──もしもアメリカが...』(柴田元幸・訳、集英社、二〇一四年)がとても面白かった。これは一九四〇年の米大統領選挙でルーズベルトではなく、共和党から出馬した大西洋単独飛行の英雄チャールズ・リンドバーグ大佐がヨーロッパでの戦争への不干渉を掲げて勝利してしまうという近過去SFなんです。現実でも、リンドバーグは親独的立場で知られていて、ゲーリングから勲章を授与されてもいます。ロスの小説では、アメリカに親独派政権が誕生して、ドイツと米独不可侵条約を、日本とは日米不可侵条約を結ぶ。そして、アメリカ国内では激しいユダヤ人弾圧が起きる・・・という話です。

 僕はナラティブというのは、こういうSF的想像力の使い方も含むと思います。もし、あのときにこうなっていたらというのは、ほんとうに大事な想像力の使い方だと思う。

フィリップ・K・ディックの『高い城の男』(浅倉久志・新訳 早川書房、原著一九六二年)というSFがあります。これは枢軸国が連合国に勝った世界の話です。日独がアメリカを占領している。東海岸がドイツ占領地で、ロッキー山脈から西側が日本の占領地。そういう場合に、日本人はアメリカをどういうふうに植民地的に統治するのか、それを考えるのは実は非常に大事な思考訓練なんです。実際に日本がアメリカ西部を安定的に統治しようとしたら、日本の価値観とか美意識とか規範意識を「よいものだ」と思って、自発的に「対日協力」をしようと思うアメリカ人を集団的に創り出すしかない。ドイツがフランスでやったのはそういうことでした。でも、日本の戦争指導部にそのようなアイディアがあったと僕は思いません。

アメリカの方は、日本に勝った後にどうやって占領するかの計画を早々と立案していた。日本人のものの考え方とか組織の作り方とかを戦時中に民族学者に委託して研究しています。卓越した日本人論として今も読み継がれている『菊と刀』はルーズベルトが設置した戦争情報局の日本班のチーフだったルース・ベネディクトが出した調査報告書です。日本社会を科学的に研究して、どういう占領政策が適切かを戦争が終わる前にもう策定していた。

果たして日本の大本営にアメリカに勝った後、どうやってアメリカを統治するか、何らかのプランがあったでしょうか。どうやって対日協力者のネットワークを政治家や学者やジャーナリストやビジネスマンの中に組織するかというようなことをまじめに研究していた部門なんか日本の軍部のどこにも存在しなかったと思います。戦争に勝ったらどうするのかについて何の計画もないままに戦争を始めたんです。そんな戦争に勝てるはずがない。

 僕のSF的妄想は、一九四二年のミッドウェー海戦の敗北で、これはもう勝てないなと思い切って、停戦交渉を始めたらどうなったかというものです。史実でも、実際に、当時の木戸幸一内大臣と吉田茂たちは、すでに講和のための活動を始めています。近衛文麿をヨーロッパの中立国に送って、連合国との講和条件を話し合わせようという計画があった。もし、この工作が奏功して、四二年か四三年の段階で日本が連合国との休戦交渉に入っていれば、それからあとの日本の国のかたちはずいぶん違ったものになっただろうと思います。

ミッドウェー海戦で、帝国海軍は主力を失って、あとはもう組織的抵抗ができない状態でした。戦い続ければ、ただ死傷者を増やすだけしか選択肢がなかったのに、「攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち」というような、まったく非科学的な軍事思想に駆動されていたせいで、停戦交渉という発想そのものが抑圧された。

この時点で戦争を止めていれば、本土空襲もなかったし、沖縄戦もなかったし、原爆投下もなかった。300万人の死者のうち、95%は死なずに済んだ。民間人の死傷者はほぼゼロで済んだはずです。ミッドウェーは日本軍の歴史的敗北でしたけれど、死者は3000人に過ぎません。ほとんどの戦死者(実際には戦病死者と餓死者でしたが)はその後の絶望的、自滅的な戦闘の中で死んだのです。

空襲が始まる前に停戦していれば、日本の古い街並みは、江戸時代からのものも、そのまま手つかずで今も残っていたでしょう。満州と朝鮮半島と台湾と南方諸島の植民地は失ったでしょうけれど、沖縄も北方四島も日本領土に残され、外国軍に占領されることもなかった。四二年時点で、日本国内に停戦を主導できる勢力が育っていれば、戦争には負けたでしょうけれど、日本人は自分の手で敗戦経験の総括を行うことができた。なぜこのような勝ち目のない戦争に突っ込んで行ったのか、どこに組織的瑕疵があったのか、どのような情報を入力し忘れていたのか、どのような状況判断ミスがあったのか、それを自力で検証することができた。戦争責任の徹底追及を占領軍によってではなく、日本人自身の手で行えた可能性はあった。日本人が自分たちの手で戦争責任を追及し、戦争責任の追及を行い、憲法を改定して、戦後の日本の統治システムを日本人が知恵を絞って作り上げることは可能だった。

「もしミッドウェーのあとに戦争が終わっていたら、その後の戦後日本はどんな国になったのか」というようなSF的想像はとてもたいせつなものだと僕は思います。これはフィクションの仕事です。小説や映画やマンガが担う仕事です。政治学者や歴史学者はそういう想像はしません。でも、「そうなったかもしれない日本」を想像することは、自分たちがどんな失敗を犯したのかを知るためには実はきわめて有用な手立てではないかと僕は思っています。「アメリカの属国になっていなかった日本」、それが僕たちがこれからあるべき日本の社会システムを構想するときに参照すべき最も有用なモデルだと思います。
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[近代史02] 戦争に行ったら こんな事もしてみたい あんな事もやってみたい__わくわく どきどき 中川隆
52. 中川隆[-11283] koaQ7Jey 2019年3月22日 15:11:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[723]

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
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それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。
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[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 中川隆
21. 中川隆[-11282] koaQ7Jey 2019年3月22日 15:12:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[724]

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
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それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html#c21

[近代史3] チャンネル桜や正論で大活躍中のアホ右翼・アホ陰謀論評論家 まとめ 中川隆
3. 中川隆[-11281] koaQ7Jey 2019年3月22日 15:12:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[725]

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html


それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。
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[近代史3] 従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ 中川隆
6. 中川隆[-11280] koaQ7Jey 2019年3月22日 15:13:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[726]

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
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それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。
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[近代史3] 南京大虐殺30万人は過大評価なのか? 中川隆
10. 中川隆[-11279] koaQ7Jey 2019年3月22日 15:14:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[727]

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
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それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/129.html#c10

[近代史3] 朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一 中川隆
3. 中川隆[-11278] koaQ7Jey 2019年3月22日 15:15:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[728]

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
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それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。
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[近代史3] 日本のアホ右翼は太平洋戦争はアジアを植民地支配から解放する為にやったというデマを流しているが… 中川隆
9. 中川隆[-11277] koaQ7Jey 2019年3月22日 15:16:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[729]

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
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それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/157.html#c9

[近代史3] 朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由 中川隆
10. 中川隆[-11276] koaQ7Jey 2019年3月22日 15:16:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[730]

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html


それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。
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[近代史3] 戦後の日本人は本当に GHQ とマッカーサーに洗脳されて東京裁判史観・自虐史観を持つ様になったのか? 中川隆
23. 中川隆[-11275] koaQ7Jey 2019年3月22日 15:21:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[731]
比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20

2019年度の寺子屋ゼミは「比較敗戦論」を通年テーマにすることにした。

どうしてこのようなテーマを選ぶことになったのか。それについて姜尚中さんとのトークセッションで語ったことがある。
そのときの講演録を再録しておく。講演があったのは2016年

敗戦国は日独だけではない

 今回の「比較敗戦論」というタイトルは、問題提起という意味でつけました。特に僕の方で用意した結論があるわけではありません。ただ、歴史を見るときに、こういう切り取り方もあるのだというアイディアをお示ししたいと思います。

「比較敗戦論」という言葉は『永続敗戦論』(太田出版 二〇一三年)の白井聡さんと対談をしまたときにふと思いついたのです(この対談はその後、『日本戦後史論』(徳間書店、二〇一五年)という本にまとまりました)。

『永続敗戦論』での白井さんの重要な主張は「日本人は敗戦を否認しており、それが戦後日本のシステムの不調の原因である」というものでした。「敗戦の否認」というキーワードを使って、戦後七〇年の日本政治をきわめて明晰に分析した労作です。

ただ、僕が思ったのは、白井さんと話をしていて、日本人が戦後七〇年間にわたって敗戦経験を否認してきたということは全くご指摘の通りなんだけれども、日本以外の敗戦国ではどうなのか、ということが気になりました。日本以外の他の敗戦国はそれぞれ適切なやり方で敗戦の「総括」を行ったのか。その中で日本だけが例外的に敗戦を否認したのだとすれば、それはなぜなのか。そういった一連の問いがありうるのではないかと思いました。

白井さんの言う通り「敗戦の否認」ゆえに戦後日本はさまざまな制度上のゆがみを抱え込み、日本人のものの考え方にも無意識的なバイアスがかかっていて、ある種の思考不能状態に陥っていること、これは紛れもない事実です。でも、それは日本人だけに起きていることなのか。他の敗戦国はどうなっているのか。多の敗戦国では、敗戦を適切に受け容れて、それによって制度上のゆがみや無意識的な思考停止を病むというようなことは起きていないのか。よく「ドイツは敗戦経験に適切に向き合ったけれど、日本はそれに失敗した」という言い方がされます。けれども、それはほんとうに歴史的事実を踏まえての発言なのか。

まず僕たちが誤解しやすいことですけれど、第二次世界大戦の敗戦国は日独伊だけではありません。フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイ、これらは連合国が敵国として認定した国です。それ以外にも、連合国がそもそも国として認定していない交戦団体として、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア自由国、満州国、中華民国南京政府があります。これだけの「国」が敗戦を経験した。でも、僕たちはこれらの敗戦国で、人々が敗戦経験をどう受け容れたのか、どうやって敗戦後の七〇年間を過ごしてきたのかについて、ほとんど何も知りません。例えば、「フィンランド国民は敗戦をどう総括したか」というような研究は、フィンランド国内にはしている人がいるのでしょうけれど、僕はそれについての日本語文献のあることを知らない。でも、「敗戦の否認」という心理的な痼疾を手がかりにして現代日本社会を分析するためには、やはり他の敗戦国民は自国の敗戦をどう受け止めたのか、否認したのか、受容したのかが知りたい。敗戦の総括をうまく実行できた国はあるのか。あるとしたら、なぜ成功したのか。敗戦を否認した国は日本の他にもあるのか。あるとしたら、その国における敗戦の否認は、今その国でどのような現実を帰結したのか、それを知りたい。「敗戦の否認」が一種の病であるとするなら、治療のためには、まず症例研究をする必要がある。僕はそんなふうに考えました。


フランスは果たして戦勝国なのか

 このアイデアには実はいささか前段があります。枢軸国の敗戦国というと、ふつうは日独伊と言われます。けれども、フランスだって実は敗戦国ではないのか。僕は以前からその疑いを払拭することができずにいました。

ご承知の方もいると思いますが、僕の専門はフランス現代思想です。特にエマニュエル・レヴィナスというユダヤ人哲学者を研究してきました。その関連で、近代フランスにおけるユダヤ人社会と彼らが苦しんだ反ユダヤ主義のことをかなり長期にわたって集中的に研究してきました。そして、そのつながりで、19世紀から20世紀はじめにかけてのフランスの極右思想の文献もずいぶん読み漁りました。

 僕がフランスにおける反ユダヤ主義の研究を始めたのは1980年代のはじめ頃ですが、その頃フランスの対独協力政権、ペタン元帥の率いたヴィシー政府についての研究が続々と刊行され始めました。ですから、その頃出たヴィシーについての研究書も手に入る限り買い入れて読みました。そして、その中でも出色のものであったベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』(国文社、一九八九年)という本を翻訳することになりました。これはフランスが実はファシズムと反ユダヤ主義というふたつの思想の「母国」であったという非常に挑発的な内容で、発売当時はフランスでは大変な物議を醸したものでした。

 歴史的事実をおさらいすると、一九三九年九月にドイツのポーランド侵攻に対して、英仏両国はドイツに宣戦布告します。フランスはマジノ線を破られて半年後の六月にフランスは独仏休戦協定が結ばれます。フランスの北半分はドイツの直接統治領に、南半分がペタンを首班とするヴィシー政府の統治下に入ります。第三共和政の最後の国民議会が、ペタン元帥に憲法制定権を委任することを圧倒的多数で可決し、フランスは独裁制の国になりました。そして、フランス革命以来の「自由、平等、友愛」というスローガンが廃されて、「労働、家族、祖国」という新しいファシズム的スローガンが掲げた対独協力政府ができます。

フランスは連合国に対して宣戦布告こそしていませんけれども、大量の労働者をドイツ国内に送ってドイツの生産活動を支援し、兵站を担い、国内ではユダヤ人やレジスタンスを行いました。フランス国内で捕らえられたユダヤ人たちはフランス国内から鉄道でアウシュヴィッツへ送られました。

 対独レジスタンスが始まるのは1942年くらいからです。地下活動という性質上、レジスタンスの内実について詳細は知られていませんが、初期の活動家は全土で数千人規模だったと言われています。連合国軍がノルマンディーに上陸して、戦局がドイツ軍劣勢となってから、堰を切ったように、多くのフランス人がドイツ軍追撃に参加して、レジスタンスは数十万規模にまで膨れあがった。この時、ヴィシー政府の周辺にいた旧王党派の準軍事団体などもレジスタンスに流れ込んでいます。昨日まで対独協力政権の中枢近くに人たちが、一夜明けるとレジスタンスになっているというようなこともあった。そして、このドイツ潰走の時に、対独協力者の大量粛清が行われています。ヴィシー政権に協力したという名目で、裁判なしで殺された犠牲者は数千人と言われていますが、これについても信頼できる史料はありません。調書もないし、裁判記録もない。どういう容疑で、何をした人なのか判然としないまま、「対独協力者だ」と名指されて殺された。真実はわからない。

アルベール・カミュは最初期からのほんもののレジスタンス闘士でしたけれど、戦後その時代を回想して、「ほんとうに戦ったレジスタンスの活動家はみな死んだ」と書いて、今生き残って「レジスタンス顔」をしている人間に対する不信を隠そうとしませんでした。このあたりの消息は外国人にはなかなかわかりません。

シャルル・ド・ゴールもその回想録の中で、ヴィシー政府壊滅後のフランス各地の混乱に言及して、「無数の場所で民衆の怒りは暴力的な反動として溢れ出した。もちろん、政治的な目論見や、職業上の競争や、個人的な復讐がこの機会を見逃すはずもなかった」と証言しています。(Charles De Gaulle, Mémoire de guerre, Plon, 1959, p.18)

 国防次官だったシャルル・ド・ゴールはペタン元帥が休戦協定を結んだときにロンドンに亡命して亡命政府を名乗りますけれど、もちろん彼の「自由フランス」には国としての実体などありません。国際法上はあくまでヴィシー政府がフランスの正統な政府であって、自由フランスは任意団体に過ぎません。そもそもド・ゴール自身、フランスの法廷で欠席裁判のまま死刑宣告されているのです。

ド・ゴール以外にも、フランソワ・ダルラン将軍、アンリ・ジロー将軍といった軍の実力者がいて、フランスの正統な代表者の地位を争っていました。最終的にド・ゴールが競争相手を排除して、自由フランス軍のトップに立ちますけれど、それでも一交戦団体に過ぎません。44年にド・ゴールが「フランス共和国臨時政府」を名乗ったときも、アメリカもイギリスもこれを承認するのを渋りました。ド・ゴールが一交戦団体に過ぎなかった自由フランスを「戦勝国」にカテゴリー変更させたのは、彼の発揮した軍事的・外交的実力によってです。44年、ノルマンディー上陸後西部戦線でのドイツ軍との戦闘が膠着状態にあったとき、ド・ゴールはこの機会にフランスを連合国に「高く売る」ことに腐心しています。回想録にはそのことが率直に書いてあります。

「戦争がまだ長引くということは、われわれフランス人が耐え忍ばなければならない損失、被害、出費を考えれば、たしかに痛ましいことである。しかし、フランスの最優先の利害を勘案するならば、フランス人の当面の利益を犠牲にしても、戦争の継続は悪い話ではなかった。なぜなら、戦争がさらに長びくならば、アフリカやイタリアでそうだったように、われわれの協力がライン河・ドナウ河での戦闘にも不可欠のものとなるからである。われわれの世界内における地位、さらにはフランス人がこれから何世代にもわたって自分自身に対して抱く評価がそこにかかっている。」(Ibid., p.44、強調は内田)

 ド・ゴールは、パリ解放からドイツ降伏までのわずかの時間内に、フランス軍の軍事的有用を米英に誇示できるかどうかに戦後フランスの、国際社会における立場がかかっているということを理解していました。ほんとうにこのときのフランスは綱渡りだったのです。ノルマンディー上陸作戦の時点ではド・ゴールの自由フランスの支持基盤は国内のレジスタンスだけでした。それが戦局の推移に伴ってそれ以外のフランス人たちも自由フランスを自分たちの代表として承認する気分になり、最後に米英はじめ世界の政府がド・ゴールの権威を承認せざるを得なくなった。ですから、ド・ゴールが「国を救った」というのはほんとうなのです。対独協力国、事実上の枢軸国がいつのまにか連合国の一員になり、さらに国際社会の重鎮になりおおせていたわけですから、これはド・ゴールの力業という他ありません。

でも、このド・ゴールが力業でフランスの体面を救ったことによって、フランス人は戦争経験の適切な総括を行う機会を奪われてしまった。ほんとうを言えば、ドイツの犯したさまざまな戦争犯罪に加担してきたフランス人たちはもっと「疚しさ」を感じてよかったのです。でも、フランス人は戦勝国民として終戦を迎えてしまった。フランス人は「敗戦を総括する義務」を免除された代わりにもっと始末におえないトラウマを抱え込むことになりました。

イタリアは戦勝国ではないのか

 僕たち日本人はイタリアがどんなふうに終戦を迎えたかについてはほとんど知るところがありません。世界史の授業でもイタリアの敗戦については詳しく教えてもらった記憶がない。教科書で教えてもらえないことは、映画や小説を通じて学ぶわけですけれども、イタリアの終戦時の混乱については、それを主題にした映画や文学も日本ではあまり知られておりません。『無防備都市』(ロベルト・ロッセリーニ監督、一九四五年)にはイタリアのレジスタンスの様子がリアルに描かれていますが、僕が知っているのはそれくらいです。ですから、ナチスと命がけで戦ったイタリア人がいたことや、イタリア人同士で激しい内戦が行われていたという歴史的事実も日本人はあまり知らない。

一九四三年七月に、反ファシスト勢力が結集して、国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が主導して、ムッソリーニを20年にわたる独裁者の地位から引きずり下ろしました。そして、首相に指名されたピエトロ・バドリオ将軍は水面下で連合国と休戦交渉を進めます。その後、監禁されていたムッソリーニをドイツの武装親衛隊が救い出して、北イタリアに傀儡政権「イタリア社会共和国」を建て、内戦状態になります。最終的にドイツ軍はイタリア領土内から追い出され、ムッソリーニはパルチザンに捕らえられて、裁判抜きで処刑され、その死体はミラノの広場に逆さ吊りにされました。イタリア王国軍とパルチザンがムッソリーニのファシスト政権に引導を渡し、ドイツ軍を敗走させた。ですから、イタリアは法理的には戦勝国なんです。でも、たぶん「イタリアは戦勝国だ」と思っている日本人はほとんどいない。自分たちと同じ敗戦国だと思っている。

たしかに、戦後イタリアを描いた『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1948年)のような映画を観ると、街は爆撃でひどいことになっているし、人々は食べるものも仕事もなくて、痩せこけている。「ああ、イタリアも日本と同じだ」と思っても不思議はない。でも、違います。イタリアは戦勝国なんです。だいたい、イタリアは一九四五年七月には日本に宣戦布告しているんです。

 フランスとイタリアを比べれば、フランスよりイタリアの方がずっと戦勝国条件が整っている。フランスは先ほど述べたように紙一重で戦勝国陣営に潜り込み、国連の常任理事国になり、核保有国になり、今も世界の大国としてふるまっています。それは一にシャルル・ド・ゴールという卓越した政治的能力を持つ人物が国家存亡のときに登場したからです。ド・ゴールがいて、ルーズベルトやチャーチルと一歩も引かずに交渉したから、フランスは戦勝国「のようなもの」として戦後世界に滑り込むことができた。でも、イタリアにはそんなカリスマ的な人物がいませんでした。戦争指導者であったヴィットリオ・エマヌエーレ三世とバドリオ将軍は、ドイツ軍がローマに侵攻してきたとき、市民を「無防備都市」に残したまま自分たちだけ逃亡してしまった。そのせいでイタリア軍の指揮系統は壊滅しました。戦後の国民投票で国民たちの判断で王政が廃止されたのは、このときの戦争指導部の国民に対する裏切りを国民が許さなかったからです。

フランスとイタリアのどちらも「勝ったんだか負けたんだかよくわからない仕方で戦争が終わった」わけですけれど、フランスにはド・ゴールがいて、イタリアにはいなかった。それが戦後の両国の立ち位置を決めてしまった。

でも、僕はこれを必ずしもフランスにとって幸運なことだったとも、イタリアにとって不幸なことだったとも思わないのです。イタリアは「敗戦国みたいにぼろぼろになった戦勝国」として終戦を迎えました。戦争の現実をありのままに、剥き出しに経験した。戦勝を誇ることもできなかったし、敗戦を否認する必要もなかった。だから、彼らの戦争経験の総括には変なバイアスがかかっていない。

先日、イタリアの合気道家が僕の道場に出稽古に来たことがありました。稽古のあとの歓談のとき、「そういえば君たち、昔、日本に宣戦布告したことがあるでしょう」と訊いてみました。たぶん、そんなこと知らないと思ったんです。意外なことに、彼はすぐに苦笑して、「どうもすみませんでした」と謝るんです。「イタリアって、どさくさまぎれにああいうことをやるんです。フランスが降伏したときにも仏伊国境の土地を併合したし。そういう国なんです。申し訳ない」と。僕は彼のこの対応にびっくりしました。自国の近代史のどちらかというと「汚点」を若いイタリア人が常識として知っているということにまず驚き、それについて下手な言い訳をしないで、さらっと「ごめんね」と謝るところにさらに驚きました。事実は事実としてまっすぐみつめる。非は非として受け容れ、歴史修正主義的な無駄な自己弁護をしない。そのとき僕は「敗戦の否認をしなかった国民」というものがあるとしたら、「こういうふう」になるのかなと思いました。

イタリアは「ほとんど敗戦」という他ないほどの被害を蒙った。内戦と爆撃で都市は傷ついた。行政も軍もがたがたになった。戦死者は30万人に及んだ。でも、その経験を美化もしなかったし、否認もしなかった。「まったくひどい目に遭った。でも、自業自得だ」と受け止めた。だから、戦争経験について否認も抑圧もない。

フランスの場合は、ヴィシーについてはひさしく歴史的研究そのものが抑圧されていました。先ほど名前が出ましたベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』はヴィシーに流れ込む十九世紀二○世紀の極右思想史研究ですが、この本が出るまで戦後四四年の歳月が必要でした。刊行されたときも、保守系メディアはこれに集中攻撃を加えました。「なぜせっかくふさがった『かさぶた』を剥がして、塩を塗り込むようなことをするのか」というのです。それからさらに30年近くが経ちますが、ヴィシー政府の時代にフランスが何をしたのかについての歴史的な研究は進んでいません。

ナチスが占領していた時代のフランス人は何を考え、何を求めて、どうふるまったのか。いろいろな人がおり、いろいろな生き方があったと思います。それについての平明な事実を知ることが現代のフランス人には必要だと僕は思います。ド・ゴールが言うように「自分自身に対して抱く評価」を基礎づけるために。でも、それが十分に出来ているように僕には思えません。フランスの場合は「敗戦の否認」ではなく、対独協力国だったという歴史的事実そのものが否認されている。その意味では、あるいは日本より病が深いかもしれない。


 現在の政治状況と敗戦の総括との関係

 本来なら、ヴィシー政府の政治家や官僚やイデオローグたちの事績を吟味して、「一体、ヴィシーとは何だったのか、なぜフランス人は民主的な手続きを経てこのような独裁制を選択したのか」という問いを徹底的に究明すべきだったと思います。でも、フランス人はこの仕事をネグレクトしました。ヴィシー政府の要人たちに対する裁判もごく短期間のうちに終えてしまった。東京裁判やニュルンベルク裁判のように、戦争犯罪の全貌を明らかにするということを抑制した。ペタン元帥や首相だったピエール・ラヴァルの裁判はわずか一ヶ月で結審して、死刑が宣告されました。裁判は陪審員席からも被告に罵声が飛ぶというヒステリックなもので、真相の解明というにはほど遠かった。この二人に全責任を押しつけることで、それ以外の政治家や官僚たちは事実上免責されました。そして、この「エリートたち」はほぼそのまま第四共和政の官僚層に移行する。

 レヴィによれば、フランスにおいて、ヴィシーについての歴史学的な検証が進まなかった最大の理由は、ヴィシー政府の官僚層が戦後の第四共和政の官僚層を形成しており、彼らの非を細かく咎めてゆくと、第四共和政の行政組織そのものが空洞化するリスクがあったからだということでした。事情を勘案すれば、フランス政府が、国家的選択として対独協力していたわけですから、それをサボタージュした官僚はうっかりするとゲシュタポに捕まって、収容所に送られるリスクがあったわけです。組織ぐるみの対独協力をせざるを得なかった。だから、一罰百戒的に、トップだけに象徴的に死刑宣告を下して、あとは免罪して、戦後の政府機構に取り込むことにした。それは当座の統治システムの維持のためには、しかたなかったのかも知れません。

ですから、ヴィシーについての歴史学的な実証研究が始まるのは、この官僚たちが現役を引退した後になります。一九八〇年代に入って、戦後四〇年が経って、ヴィシー政府の高級官僚たちが退職したり、死んだりして、社会的な影響がなくなった時点ではじめて、最初は海外の研究者たちが海外に流出していたヴィシー政府の行政文書を持ち出して、ヴィシー研究に手を着け始めた。フランス人自身によるヴィシー研究は『フランス・イデオロギー』が最初のものです。戦争が終わって四五年後です。「ヴィシーの否認」は政治的に、意識的に、主体的に遂行された。でも、そのトラウマは別の病態をとって繰り返し回帰してきます。僕はフランスにおける「イスラモフォビア」(イスラーム嫌悪症)はそのような病態の一つではないかと考えています。

 フランスは全人口の一〇%がムスリムです。先日のテロで露呈したように、フランス社会には排外主義的な傾向が歴然と存在します。大戦後も、フランスは一九五〇年代にアルジェリアとベトナムで旧植民地の民族解放運動に直面した時、暴力的な弾圧を以って応じました。結果的には植民地の独立を容認せざるを得なかったのですが、独立運動への弾圧の激しさは、「自由・平等・友愛」という人権と民主主義の「祖国」のふるまいとは思えぬものでした。そんなことを指摘する人はいませんが、これは「ヴィシーの否認」が引き起こしたものではないかと僕は考えています。「対独協力政治を選んだフランス」、「ゲシュタポと協働したフランス」についての十分な総括をしなかったことの帰結ではないか。

もしフランスで終戦時点で自国の近過去の「逸脱」についての痛切な反省がなされていたら、五〇年代におけるフランスのアルジェリアとベトナムでの暴力的な対応はある程度抑止されたのではないかと僕は想像します。フランスはナチス・ドイツの暴力に積極的に加担した国なのだ、少なくともそれに加担しながら反省もせず、処罰も免れた多数の国民を今も抱え込んでいる国なのだということを公式に認めていたら、アルジェリアやベトナムでの事態はもう少し違うかたちのものになっていたのではないか。あれほど多くの人が殺されたり、傷ついたりしないで済んだのではないか。僕はそう考えてしまいます。

 自分の手は「汚れている」という自覚があれば、暴力的な政策を選択するときに、幾分かの「ためらい」があるでしょう。けれども、自分の手は「白い」、自分たちがこれまでふるってきた暴力は全て「正義の暴力」であり、それについて反省や悔悟を全く感じる必要はない、ということが公式の歴史になった国の国民には、そのような「ためらい」が生まれない。フランスにおけるムスリム市民への迫害も、そのような「おのれの暴力性についての無自覚」のせいで抑制が効きにくくなっているのではないでしょうか。

 他の敗戦国はどうでしょう。ハンガリーは最近、急激に右傾化して、排外主義的な傾向が出てきています。タイも久しく穏やかな君主制でいましたけれども、近年はタクシン派と反タクシン派が戦い続けて、国内はしばしば内戦に近い状態を呈しています。スロバキアとかクロアチアとかにもやはり政治的にある種の不安定さを常に感じます。

戦争後は、どの国も「この話はなかったことに」という国民的合意に基づいて「臭いものに蓋」をした。当座はそれでよかったかも知れません。でも、蓋の下では、抑圧された国民的な「恥辱」や「怨嗟」がいつまでも血を流し、腐臭を発している。だから、ハンガリーの現在の政治状況や、タイの現在の政治状況が、それぞれの国の敗戦経験の総括と全く無関係かどうかということは、かなり精密な検証をしてみないとわからない。そこには何らかの「関連がある」という仮説を立てて検証をしてみてよいのではないか。してみるだけの甲斐はあると僕は思います。


 ドイツ統合は敗戦の否認か

 戦争の記憶を改竄することによって、敗戦国民は当座の心の安らぎは手に入れることができるかも知れません。でも、そこで手に入れた「不当利得」はどこかで返済しなければならない。いずれ必ず後でしっぺ返しが来る。世界の敗戦国を一瞥すると、どこも七〇年かけて、ゆっくりと、でも確実に「記憶の改竄」のツケを支払わされている。『永続敗戦論』が明らかにしたように、日本も敗戦の否認のツケを払わされている。そして、この返済はエンドレスなんです。「負債がある」という事実を認めない限り、その負債を割賦でいいから返して行かない限り、この「負債」は全く別の様態をとって、日本人を責め続ける。

 「ドイツは敗戦経験の総括に成功した」と多くの人が言います。でも、本当にそうなんでしょうか。僕は簡単には諾うことができません。東ドイツのことを勘定に入れ忘れているような気がするからです。

東ドイツは「戦勝国」なんです。東ドイツはナチスと戦い続けたコミュニストが戦争に勝利して建国した国だという話になっている。だから、東ドイツ国民はナチスの戦争犯罪に何の責任も感じていない。感じることを国策的に禁止されていた。責任なんか感じてるはずがない。自分たちこそナチスの被害者であり、敵対者だということになっているんですから。悪虐非道なるナチスと戦って、それを破り、ドイツ国民をナチスの軛から解放した人々が、何が悲しくて、ナチスの戦争犯罪について他国民に謝罪しなければならないのか。

 一九九〇年に合併した当時、西ドイツと東ドイツとは人口比でいうと四対一でした。ということは、その時点では、全ドイツ人口の二〇%、一六○○万人は「自分たちはナチスドイツの戦争犯罪に何の責任もない」と子供のころからずっと教えられてきた人たちだったということです。それが合併後のドイツの国民的自意識にどういう影響を与えたのか。僕は寡聞にして知りません。

 日本国内に「日本軍国主義者の戦争犯罪について、われわれには何の責任もない。われわれは彼らと戦って、日本を解放したのである」と教えられて来た人が二四○○万人いる状況を想定してください。そう信じている「同胞」を受け容れ、戦争経験について国民的規模での総括を行い、合意を形成するという作業がどれほど困難であるか、想像がつくと思います。さて、果たして、ドイツでは東西ドイツが合併した時に、戦争経験の総括について、国民的合意を形成し得たのか。僕は「ドイツはこんな風に合意形成を成し遂げました」と納得のゆく説明をしたものをこれまで読んだことがありません。いや、それは僕がただ知らないでだけで、そういう「全く相容れない戦争経験総括を一つにまとめあげたドイツの素晴らしい政治的達成」については既に色々な報告や研究が出ているのかも知れません。でも、そうだとしたら、それこそ「国民的和解」の最良のモデルケースであるわけですから、国内的な対立を抱える様々な国について、何かあるごとに、「ここでも『和解のためのドイツ・モデル』を適用すべきではないか」ということが言及されてよいはずです。でも、僕はそのような「和解モデル」について聞いたことがない。

 ドイツの戦争総括の適切さを語るときに、よくヴァイツゼッカー元大統領の演説が引かれます。この人はヨーロッパの諸国を訪れては、そのつどきちんとナチス・ドイツ時代の戦争犯罪について謝罪しています。その倫理性的な潔さは疑うべくもありません。けれども、やはり日本とは話の運びが微妙に違う。ヴァイツゼッカーは五月四日、ドイツが連合国に無条件降伏した日を「ドイツ国民解放の日」と言っているからです。われわれはナチスの暴虐からその日に解放されたのである、それをことほぐという立場を取る。悪いのはあくまでナチスとその軍事組織や官僚組織や秘密警察組織であって、ドイツ国民はその犠牲者であったという立場は譲らない。ドイツ国民の罪はナチスのような政党を支持し、全権を委ねてしまったことにある。そのような過ちを犯したことは認めるけれども、基本的にはドイツ国民もまたナチスの被害者であり、敗戦によってナチスの軛から解放されたという物語になっている。

 日本人にも敗戦が一種の解放感をもたらしたということは事実だったでしょう。けれども、八月一五日を「解放の日」だと言う人はほとんどいません。表だってそう発言するのは、かなり勇気が要る。けれども、実感としては、それに近いことを思っていた日本人は少なくなかったと思います。

 小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』(松竹、一九六二年)の中で、笠智衆の演じる今はサラリーマンをしている駆逐艦の元艦長平山と、加東大介の演じるかつての駆逐艦の乗組員坂本が、町なかでばったり出会うという場面があります。坂本が平山を誘って、トリスバーのカウンターに座ってウィスキーを飲む。この時に坂本が「ねえ、艦長、もしあの戦争に勝っていたらどうなったんでしょうね」と問う。平山は静かに笑いながら、「負けてよかったじゃないか」と答える。そうすると、坂本は「え?」と一瞬怪訝な顔をするのですが、ふと得心したらしく、「そうかもしれねえな。ばかなやつが威張らなくなっただけでもね」と呟く。これは敗戦がもたらした解放感についての、あの世代の偽らざる実感だったんじゃないかなと思います。

 僕は一九五〇年生まれで、父はもちろん戦中派なのですが、僕が小さい頃に、父が会社の同僚を家に連れてきて飲んでいるときに誰かが「負けてよかったじゃないか」と呟くのを僕は二三度聞いたことがあります。特に力んで主張するというのではなく、何かの弾みにぽろりと口にされる。そして、その言葉が口にされると、男たちは皆黙り込む。それで怒り出す人もいないし、泣き出す人もいない。それは思想とは言えないものでした。敗戦の総括としてはあまりに言葉が足りない。けれども、おそらくこれが戦中派の実感だったと思います。それが世代的な実感として、言挙げしないでも共有されている限り、そのような敗戦の総括もそれなりのリアリティーを持ち得た。けれども、そういう片言隻句だけでは、彼らの思いが輪郭のしっかりした思想として次の世代に継承されることはありません。


 恥ずべき過去も含んだタフな物語

 白井さんの本を読んでいると、日本は異常な仕方で敗戦を否認してきたことがわかる。これは全くその通りなんですけれども、それだけでなく、多くの敗戦国はそれぞれ固有の仕方で自国の敗戦を否認している。僕にはそう思われます。

それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


 歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

 カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

ノモンハンを書こうとした作家がもう一人います。村上春樹です。『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社 一九九四〜九五年)で村上春樹はノモンハンについて書いています。でも、なぜノモンハンなのか。その問いに村上は答えていない。何だか分からないけれども、急に書きたくなったという感じです。でも、ノモンハンのことを書かないと日本人の作家の仕事は終わらないと直感したというところに、この人が世界作家になる理由があると僕は思います。日本人にとっての「タフな物語」の必要性を村上春樹も感じている。それが今の日本に緊急に必要なものであるということをよくわかっている。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。日本の左翼知識人には、あまりアメリカに学ぶ人はいません。親米派の学者たちも、よく見ると、まったくアメリカに学ぶ気はない。アメリカに存在する実定的な制度を模倣することには熱心ですけれど、なぜアメリカは強国たりえたのかについて根源的に考えるということには全く興味を示さない。アメリカの諸制度の導入にあれほど熱心な政治家も官僚も、アメリカにあって日本に欠けているものとしてまずカウンターカルチャーを挙げる人はいません。連邦制を挙げる人もいない。でも、アメリカの歴史的成功の理由はまさに「一枚岩になれないように制度を作り込んだ」という点にあるのです。でも、日本のアメリカ模倣者たちは、それだけは決して真似しようとしない。

 ほかにもいろいろ言いたいことはありますけれど、すでに時間を大分超えてしまったので、この辺で終わります。ご静聴ありがとうございました。

【Q&A】


ナラティブの力

姜 今日のお話を聞いていて、どういう「物語」をつくるかということが最大のポリティクスになっている気がします。内田さんの比較敗戦論は、我々のパースペクティブを広げてくれました。韓国や中国では日本例外論、単純にドイツと日本を比較して日本はだめなんだ、だから我々は日本を半永久に批判していい、そういう理屈立てになりがちです。そのときに内田さんの比較敗戦論をもちいてみると、我々のブラインドスポットになっている部分がよく見えてくる。解放の物語の自己欺瞞みたいなところも見えてくる。ところが、安倍さんのような人が出てくると、逆に、かつて自分たちが植民地であった、侵略をされた国は、ますます解放の物語を検証することをやらなくて済んでしまいますね。

内田 イージーな物語に対してイージーな物語で対抗すれば、どちらもどんどんシンプルでイージーな話に落ち込んでしまう。実際の歴史的な事件は「善玉と悪玉が戦っている」というようなシンプルな話ではないんです。さまざまな人たちが複雑な利害関係の中でわかりにく行動を取っている。うっかりすると、本人たち自身、自分たちがどういう動機で行動しているのか、いかなる歴史的な役割を果しているのか、わかっていないということだってある。それが歴史の実相だろうと思います。ですから、それをありのままに淡々と記述していく。軽々には評価を下さない。わかりやすいストーリーラインに落とし込むという誘惑にできる限り抵抗する。そういう歴史に対する自制心が非常に大事になると思います。

 こういう仕事においては、歴史を叙述するときの語り口、ナラティブの力というのが大きいと思うんです。最近、読んだ本の中でフィリップ・ロスの小説『プロット・アゲンスト・アメリカ──もしもアメリカが...』(柴田元幸・訳、集英社、二〇一四年)がとても面白かった。これは一九四〇年の米大統領選挙でルーズベルトではなく、共和党から出馬した大西洋単独飛行の英雄チャールズ・リンドバーグ大佐がヨーロッパでの戦争への不干渉を掲げて勝利してしまうという近過去SFなんです。現実でも、リンドバーグは親独的立場で知られていて、ゲーリングから勲章を授与されてもいます。ロスの小説では、アメリカに親独派政権が誕生して、ドイツと米独不可侵条約を、日本とは日米不可侵条約を結ぶ。そして、アメリカ国内では激しいユダヤ人弾圧が起きる・・・という話です。

 僕はナラティブというのは、こういうSF的想像力の使い方も含むと思います。もし、あのときにこうなっていたらというのは、ほんとうに大事な想像力の使い方だと思う。

フィリップ・K・ディックの『高い城の男』(浅倉久志・新訳 早川書房、原著一九六二年)というSFがあります。これは枢軸国が連合国に勝った世界の話です。日独がアメリカを占領している。東海岸がドイツ占領地で、ロッキー山脈から西側が日本の占領地。そういう場合に、日本人はアメリカをどういうふうに植民地的に統治するのか、それを考えるのは実は非常に大事な思考訓練なんです。実際に日本がアメリカ西部を安定的に統治しようとしたら、日本の価値観とか美意識とか規範意識を「よいものだ」と思って、自発的に「対日協力」をしようと思うアメリカ人を集団的に創り出すしかない。ドイツがフランスでやったのはそういうことでした。でも、日本の戦争指導部にそのようなアイディアがあったと僕は思いません。

アメリカの方は、日本に勝った後にどうやって占領するかの計画を早々と立案していた。日本人のものの考え方とか組織の作り方とかを戦時中に民族学者に委託して研究しています。卓越した日本人論として今も読み継がれている『菊と刀』はルーズベルトが設置した戦争情報局の日本班のチーフだったルース・ベネディクトが出した調査報告書です。日本社会を科学的に研究して、どういう占領政策が適切かを戦争が終わる前にもう策定していた。

果たして日本の大本営にアメリカに勝った後、どうやってアメリカを統治するか、何らかのプランがあったでしょうか。どうやって対日協力者のネットワークを政治家や学者やジャーナリストやビジネスマンの中に組織するかというようなことをまじめに研究していた部門なんか日本の軍部のどこにも存在しなかったと思います。戦争に勝ったらどうするのかについて何の計画もないままに戦争を始めたんです。そんな戦争に勝てるはずがない。

 僕のSF的妄想は、一九四二年のミッドウェー海戦の敗北で、これはもう勝てないなと思い切って、停戦交渉を始めたらどうなったかというものです。史実でも、実際に、当時の木戸幸一内大臣と吉田茂たちは、すでに講和のための活動を始めています。近衛文麿をヨーロッパの中立国に送って、連合国との講和条件を話し合わせようという計画があった。もし、この工作が奏功して、四二年か四三年の段階で日本が連合国との休戦交渉に入っていれば、それからあとの日本の国のかたちはずいぶん違ったものになっただろうと思います。

ミッドウェー海戦で、帝国海軍は主力を失って、あとはもう組織的抵抗ができない状態でした。戦い続ければ、ただ死傷者を増やすだけしか選択肢がなかったのに、「攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち」というような、まったく非科学的な軍事思想に駆動されていたせいで、停戦交渉という発想そのものが抑圧された。

この時点で戦争を止めていれば、本土空襲もなかったし、沖縄戦もなかったし、原爆投下もなかった。300万人の死者のうち、95%は死なずに済んだ。民間人の死傷者はほぼゼロで済んだはずです。ミッドウェーは日本軍の歴史的敗北でしたけれど、死者は3000人に過ぎません。ほとんどの戦死者(実際には戦病死者と餓死者でしたが)はその後の絶望的、自滅的な戦闘の中で死んだのです。

空襲が始まる前に停戦していれば、日本の古い街並みは、江戸時代からのものも、そのまま手つかずで今も残っていたでしょう。満州と朝鮮半島と台湾と南方諸島の植民地は失ったでしょうけれど、沖縄も北方四島も日本領土に残され、外国軍に占領されることもなかった。四二年時点で、日本国内に停戦を主導できる勢力が育っていれば、戦争には負けたでしょうけれど、日本人は自分の手で敗戦経験の総括を行うことができた。なぜこのような勝ち目のない戦争に突っ込んで行ったのか、どこに組織的瑕疵があったのか、どのような情報を入力し忘れていたのか、どのような状況判断ミスがあったのか、それを自力で検証することができた。戦争責任の徹底追及を占領軍によってではなく、日本人自身の手で行えた可能性はあった。日本人が自分たちの手で戦争責任を追及し、戦争責任の追及を行い、憲法を改定して、戦後の日本の統治システムを日本人が知恵を絞って作り上げることは可能だった。

「もしミッドウェーのあとに戦争が終わっていたら、その後の戦後日本はどんな国になったのか」というようなSF的想像はとてもたいせつなものだと僕は思います。これはフィクションの仕事です。小説や映画やマンガが担う仕事です。政治学者や歴史学者はそういう想像はしません。でも、「そうなったかもしれない日本」を想像することは、自分たちがどんな失敗を犯したのかを知るためには実はきわめて有用な手立てではないかと僕は思っています。「アメリカの属国になっていなかった日本」、それが僕たちがこれからあるべき日本の社会システムを構想するときに参照すべき最も有用なモデルだと思います。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/232.html#c23

[リバイバル3] マルクスはやはり正しかった _ もうすぐ共産革命の嵐が吹き荒れる時代がやって来る 中川隆
238. 中川隆[-11274] koaQ7Jey 2019年3月22日 18:06:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[732]
書評 『エスタブリッシュメント』 
オーウェン・ジョーンズ著、海と月社発行
(B6判・439ページ、定価2600円+税)

長周新聞 2019年3月21日
 
 イギリスのEU離脱をめぐり、日本のメディアは「合意なき離脱か」「離脱延期か」というだけで、いったい何と何が対立しているのか今ひとつわかりにくい。この本は1984年生まれのイギリスのコラムニストが、エスタブリッシュメントと呼ばれる人たちへの取材をもとに、新自由主義導入から30年あまりたってイギリス社会はどのように変貌したのか、英国人の意識はどう変わっているのかを描いたものだ。そこからEU離脱の背景も探ることができる。
 
 エスタブリッシュメントとは誰か? マルクス、エンゲルスが活動した19世紀のエスタブリッシュメント(一握りの特権階級)は、もし労働者階級に普通選挙権を与えたら富の平等な分配を要求するに違いないとおびえた。現代のエスタブリッシュメントは、世界を危機に陥らせながら最大のボーナスを要求する金融資本家やその代理人である政治家、特権階級の犯罪から庶民の目をそらすマスメディアなど、新自由主義を信奉する特権階級のネットワークのことで、同じように有権者を排除して自分たちの富と権力を守ろうとしている。それは保守党のサッチャー時代に生まれ、労働党ブレア時代に完成した、と著者は見ている。
 
 その先兵となったのは、新自由主義学派の祖であるフリードマンやハイエクの弟子たちだった。戦後、英国政府は社会主義国との対抗上、電力や鉄道の国有化や社会保障制度の整備を進めたが、彼らは金ドル交換停止を決めたニクソン・ショック(1971年)を奇貨として、民営化、規制緩和、富裕層の減税をメディアで拡散し始めた。もう一つの先兵が、無党派の草の根運動の姿をまとった「納税者同盟」などの民間団体で、政府の税金の無駄遣いを告発し、公共部門の支出の削減運動をやり始めた(削減した大部分が私企業に移された)。
 
 こうした団体には銀行や保険会社をはじめ大企業が資金を提供しており、そのメンバーが政治家になり内閣の一員になったりしている。著者によれば、右も左も財界とべったりになり、政界と財界のエリートは混合が進みすぎて区別がつかないほどになったという。
 
 その典型が、2001年に総選挙で「歴史的勝利」を収めたといわれるトニー・ブレアの労働党だった。ブレアは「富裕層への増税はしない」と誓い、法人税を減らし続け、反労働組合法を継続し、サッチャーを上回る規模で公共サービスの民営化を推進した。またアメリカのイラク戦争に参戦した。それはサッチャーをして「私たちの最大の功績はブレアを新自由主義者にしたことだ」といわしめたほどだった。
 
 その流れに乗って労働党の政治家たちが、多国籍企業の特別顧問になったり大企業の取締役に収まったりして荒稼ぎしまくったことを、本書は逐一暴露している。元共産青年同盟でブレアの政策の主要な推進者となったピーター・マンデルソンもその一人で、投資顧問企業の会長になったり、インドネシアの熱帯雨林の破壊で非難されたアジア・パルプ&ペーパー社のコンサルティングで大金を得、「大金持ちになる」夢を達成した。米ソ冷戦構造の崩壊で元からの性根が暴露されたわけだ。そして英国民は既成政党を見限った。
 

■ 富裕層千人が78兆円所有 大企業は納税拒否
 
 その結果、イギリスはどうなったか?
 
 最富裕層の1000人が5200億ポンド(約78兆円)の富を所有する一方で、何十万人の人がフードバンクで食べ物をもらう列に並んでいる。
 
 イギリスの大企業の5分の1がビッグ・フォー(四大会計事務所)の手ほどきで法人税を一切払っておらず、納税額が1000万ポンド(約15億円)を下回る企業が半数をこえている。大企業は国家に寄生しながら、租税回避地を使って納税を拒否している。
 
 一方労働者は、ゼロ時間契約(雇用主の必要があるときにだけ働く契約)を結んでいる者が550万人にのぼるなど、非正規化が進んでいる。自営業の英国人の収入は2006年以降、2割減り、リーマン・ショックの後で自営業になった10人中9人近くは週に30時間未満しか働いていない。
 
 たとえばブレアは2005年、障害者給付金の申請者を減らすのを目的にフランス企業アトスと契約を結んだ。給付を希望する者は、アトスに申し込んで就労能力審査を受けねばならないが、その審査というのがデタラメきわまりない。
 
 脳卒中で体が不自由な元警備員(57歳)が審査を受けたが、就労可能と判定されて給付金を止める通知がきて、その翌日に路上で心臓発作を起こして他界したという。そればかりか提出書類をそもそも受け付けてもらえない申請者が多く、アトスの医師による報告書の改ざんも見つかっており、審査した4割以上が否決となっている。
 
 こうした福祉削減のための委託金として、英国政府は年間40億ポンド(約6000億円)もの税金を民間企業に注ぎ込んでいる。英国メディアは生活保護受給者や障害者、移民などを「たかり屋」といってバッシングしているが、本当のたかり屋は彼ら民間企業にほかならない。
 
 そして、最大のたかり屋はリーマン・ショックのときの銀行だ。英国政府による銀行支援は、1兆1620億ポンド(約174兆3000億円)にものぼった。貧困者100万人が借金を返済できなくなっても政府による救済はないどころか、執行人が家財を差し押さえるため玄関口にあらわれる。ところが世界経済を大災害に巻き込んだ銀行には、国の「福祉」が救出にあらわれる。
 

■ 「右傾化」嘆く左翼の外側で新たな運動の息吹
 
 以上のような新自由主義・グローバリズムにNOを突きつけたのが、2016年のEU離脱国民投票だった。日本のメディアがいうような排外主義だけがそれをもたらしたのではない。右派ポピュリスト政党と報道されるUKIP(イギリス独立党)でさえ、七割以上の支持者は緊縮政策に反対し、電力や国鉄の国有化を求めていると著者はのべている。
 
 注目すべきは、既存の左翼がひたすら年長世代の右傾化と排外主義を嘆き、文句をいうだけなのに対して、著者が、それより先に自分たちが労働者階級の生活や共同体から遊離していることを直視すべきだ、とのべていることだ。左翼がアカデミック志向の人向けの仰仰しい学術書や、衰退していく左翼コミュニティーだけに読まれる本を出しているかぎり、自滅するしかないというのである。変化は、政治の外側にいる普通の人人が、集団の力を使って権力を圧倒することによって起こるものであり、それによってエスタブリッシュメントが私物化している富と権力を民衆の側に取り戻すのだ、と。
 
 新自由主義が破綻するなかで、欧米で巻き起こっている新しい運動の息吹を感じさせる一冊である。
 
https://www.chosyu-journal.jp/review/11231  

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/704.html#c238

[近代史3] 実は魅力ぎっしり、過小評価されている米大陸スキーリゾート7選


実は魅力ぎっしり、過小評価されている米大陸スキーリゾート7選
2019.03.22 Fri posted at 17:00 JST
https://www.cnn.co.jp/travel/35133712.html

米州大陸の知る人ぞ知る名物スキーリゾート7カ所を紹介/Courtesy Schweitzer Mountain Resort


(CNN) 降雪量が多い、低価格、混雑していない、などの利点がありながら、よその施設ほどには話題に上らないスキーリゾートがある。

今回は、ともすると見落とされがちな、アメリカ大陸の素晴らしいスキーリゾートを7つご紹介する。


レベルストーク・マウンテン・リゾート(カナダ・ブリティッシュコロンビア州)

カナダ・ブリティッシュコロンビア州のレベルストーク・マウンテン・リゾート/Courtesy Joey Wallis


2007年にオープンしたレベルストークは、ブリティッシュコロンビア州のセルカーク山脈内に位置し、ややアクセスが悪いため、ほとんど注目されていない。しかし、年間積雪量10メートル以上、標高差約1700メートルを誇り、滑走距離は北米のスキーリゾートの中では最長だ。また伝説的なパウダースノー、標高の高い山々、田舎町の雰囲気でも知られる。


カッパー・マウンテン(米コロラド州)

コロラド州のカッパー・マウンテン/Courtesy of Tripp Fay Copper Mountain

ブリッケンリッジ、ベイルという2つのスキーリゾートに挟まれているカッパー・マウンテンは、長らく地元の人々に人気のスキーリゾートだったが、8人乗りのゴンドラ、6人乗りリフト、スキー板を履いたまま出入り可能なロッジを新たに導入したおかげで、近隣の有名リゾートと肩を並べる存在になった。


グランド・タージー・リゾート(米ワイオミング州)

パウダースノーが絶品のワイオミング州グランド・タージー/BRONWYN ISHII

ワイオミング州ティトン郡西部の山の斜面に位置するグランド・タージーは、東から移動してくる嵐がもたらすパウダースノーが最も多く降り積もる絶好の位置にある。スキー情報サイト「スキードットコム」の広報担当ダン・シャーマン氏によると、同じワイオミング州内のスキーリゾート、ジャクソンホールに全く雪が降っていなくても、グランド・タージーに約30センチの積雪がある時もあるという。

 

ボヘミア山(米ミシガン州)

米中西部最大規模の降雪量を誇るミシガン州のボヘミア山/Courtesy of Joey Wallis


実はミシガン州でもスキーは可能だ。ボヘミア山は比較的小さな山だが、スキー場のコース面積は約243ヘクタールあり、五大湖沿岸に見られる湖水効果雪の年間降雪量は約7メートルに達する(中西部では最大)。姉妹リゾートのブードゥー山では、ロッキー山脈以東では唯一にして最も素晴らしいキャットスキー(雪上車をチャーターして行うスキー)が楽しめる。

マッド・リバー・グレン(米バーモント州)

北米で2つしかない1人乗りリフトがあるマッド・リバー・グレン/Courtesy Jeb Wallace Brodeur


バーモント州のスキーリゾートと言えばストウやキリントンが有名だが、マッド・リバー・グレンは、かつて独立共和国だった同州の性格を最もよく反映している。このスキー場は、コースの整備は行わず、スノーメーキングは最小限、その上スノーボーダーはリフトではなく徒歩で山を登らなくてはならない。

このスキー場の最大の売りは、北米に2つしかない1人乗りのリフトだ(もう1つはアラスカにある)。


シュバイツアー・マウンテン・リゾート(米アイダホ州)

リフトの順番待ちを気にせずさまざまなコースを楽しめるシュバイツァー/Courtesy Schweitzer Mountain Resort


サンドポイントから約19キロ離れたアイダホ州の「取っ手」部分に位置するシュバイツアーは、西海岸の他のリゾートほどアクセスが良くないため、リフトの順番待ちで5分以上待たされることはまずない。コース面積は約1173ヘクタールで、アイダホ州でより知名度の高いサンバレーを上回る。

シュバイツアー山は、木々の間を滑るオフトレイルスキーで知られるが、バニーヒル(緩やかな斜面)から急こう配のダブルブラック(超上級)コースまで、さまざまなコースがある。標高約1950メートルの頂上からは、ペンド・オレイル湖に加え、アイダホ、モンタナ、ワシントンの各州、さらにカナダまで見渡せる。


バジェ・ネバド(チリ)

割安価格のヘリスキーが嬉しいバジェ・ネバド/Courtesy Valle Nevado

チリの首都サンティアゴの北東約56キロに位置するバジェ・ネバド・スキーリゾートは、毎年8月になると深いパウダースノーに覆われる。チリの有名リゾート、ポルティージョよりも新しいバジェ・ネバドには、素晴らしいゴンドラやヘリポートなど、今時の山々に備わっている設備がすべてそろっている。

ヘリスキーは半日の料金が1100ドル(約12万円)で、1滑走あたりの最大滑走標高差は約1830メートルと、比較的割安だ。
https://www.cnn.co.jp/travel/35133712.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/302.html

[近代史3] (小室圭問題/佳子さま盗撮) 皇室記事まとめ一気読み 中川隆
3. 中川隆[-11273] koaQ7Jey 2019年3月23日 09:11:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[734]
美智子・雅子は CIA のエージェントで CIA と外務省創価グループは秋篠宮家を葬ろうとしている


小室母子問題は連日のように我が国のメディアを賑わしていますが、読者の方々にぜひ知っておいていただきたいことがあります。それは、私たちは無意識の内にメディア報道に洗脳されているということです。

私たちはあたかも自分の意見を持っているかの如くに錯覚していますが、これらの意見は自分の頭で考えた結果ではなく、メディアが報じる内容を鵜呑みにしているケースがほとんどではないかと私は見ています。

ここでは、読者の皆さんがメディアの報道によって承知している小室母子問題を、一旦白紙に戻して読んでいただければ幸いです。そこでまず考えなければならない疑問は、小室母子問題を巡る我が国のメディア報道のトーンは一体誰が決めているのかということです。それぞれのメディアが自前の報道を行っているわけではありません。我が国の既存のメディアは、一定の方向付けをされているのです。

誰がそうしているのかと言いますと、主としては主要メディアを所有、またはそこで影響力を行使している人々によってです。これらの人々は外務省創価グループや統一教会です。外務省創価グループや統一教会の戦略に沿って事件の争点が決められているのです。争点が何かを理解することは小室母子問題を判断する上で決定的に重要です。

ところが、日々の小室母子問題に関する情報を受け取っている読者の方々は、今述べたようなメディアの争点は誰が決めているのかとの問いかけ自体に違和感を覚えた方が多いと思います。しかし、まさに皆さんが当然のようにメディアの報道から小室家での出来事を受け取っていること自体が、小室母子問題の真相を見破ることを困難にしているのです。

メディアの報道は決して公平ではありません。何らかの意図に基づいてニュースが取捨選択されているのです。日本のメディアの報道をこの観点からフォローしていると、メディアが小室母子問題を世論にどのように受け取らせたいかが見えてくるのです。

私たちは戦後「報道の自由」や「国民の知る権利」といった言葉に、その意味を充分吟味せずに洗脳されてきました。その結果、あたかも私たちは自由な報道が存在するかのように錯覚してきたのです。これは、何も私の偏見ではありません。ジャーナリズムの本家アメリカにおいては、第一次世界大戦の頃からすでに報道は自由には存在していませんでした。

アメリカでは、1920年代に民主主義体制化での国民当時におけるメディアの隠された役割に注目したジャーナリストがいます。私たちが「ジャーナリストの鑑」と教えられてきたウォルター・リップマンです。リップマンは純粋なジャーナリストではありません。彼は第一次世界大戦にアメリカが参戦した1917年にはアメリカ政府の戦争長官のアシスタントを務め、アメリカ軍情報部の大尉になります。

このような経歴を持つリップマンは自らの著書「幻の公衆」の中で、国民大衆が民主主義的権力を行使していると思っているのは幻想であると断言しています。そして国民大衆に自ら民主主義的権力を行使していると信じ込ませる必要があると論じています。どのように信じ込ませるのかの答えは、リップマンと共にアメリカ大統領府の対独戦争広報委員会で活躍したエドワード・バーネイズが明確に述べています。

彼は、一般大衆がどのような意見を持つべきかについて、相手にそれを意識されずに知性的にコントロールすることが非常に重要であるとして、この仕組みを大衆の目に見えない形でコントロールできる人々こそがアメリカの新の支配者として君臨すると論じています。つまり、アメリカの新の支配者は大衆の目に見える形で存在していないということです。大統領や諸閣僚、上下両院議員などではないといっているのです。アメリカを真に支配しているのは目に見えない統治機構であるというのです。

そこで、真の支配者とは誰かというと、一般大衆が持つべき意見をメディアの洗脳によってコントロールしているメディアの所有者、国際金融資本家たちということになるわけです。アメリカではすでに第一次大戦の頃から国際金融資本家たちが真の支配者なのです。もちろん、この実態は今も変わりません。相しますと、小室母子問題に関する私たちの判断基準はメディアによって与えられており、しかもその事実に私たちは気付いていないということになります。今小室母子問題の論点は、創価学会とそのバックのCIAが決めているのです。小室母子問題の報道姿勢には、創価学会とそのバックのCIAの戦略が表れているわけです。つまり、小室母子問題は「情報戦」なのです。このような視点を持って、創価学会とそのバックのCIAの真相を私たち自身の頭で考えなければなりません。


http://www.kanekashi.com/blog/2019/03/6135.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/291.html#c3

[近代史3] (小室圭問題/佳子さま盗撮) 皇室記事まとめ一気読み 中川隆
4. 中川隆[-11272] koaQ7Jey 2019年3月23日 09:15:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[735]

マスコミは意図的に、秋篠宮家に反発している人の意見だけを選別して拡散している

柏原芳恵のバイブレーター騒動や植草教授の痴漢事件でも創価学会が必死でネットやマスコミにデマを流していた:


652 名無しさん@13周年 2013-04-13 10:20:42 ID:YpMLpa4q0

思うのは なんで皇太子にもっと若くて他に家柄のいい女性を引き合わせられんかったのか?
昔みたいに側室持てるわけじゃないんだ
でも血統が権威のよりどころの血筋でこういうタイプの高齢女性との結婚はギャンブルだろ


731 名無しさん@13周年 2013-04-13 10:35:00 ID:cUKuFLtP0
>>652
お妃候補は小和田と外務省創価がすべて潰した。

創価から敵認定されシモネタ満載の非難中傷ビラを自宅の周辺でばら撒かれれば誰でも逃げる。

皇太子がファンだと公言した柏原よしえは捏造のシモネタスキャンダルで潰された。

昭和時代にお妃候補からはずされた雅子を小和田と外務省創価が高円宮まで動員して皇室に押し込んだんだよ。


785 名無しさん@13周年 2013-04-13 10:46:51 ID:w99lO9FdO
>>731
トヨタ自動車の豊田一族も候補(達郎氏の娘由美子さん)に挙がっていたが、
すべて層化と小和田の誹謗中傷で潰されたのか
http://labs.digitalhell.net/2ch/dat/20130413/newsplus/1365810231.html


____

植草氏を擁護するブログには、執拗(しつよう)な批判を書き込む人が必ず居座る。2チャンネルにも。あらゆるメディアを横断する植草氏への悪評流布は、大掛かりな組織がなければ不可能に思われる。あるサイトには、このキャンペーンに電通が関与しているとの指摘もあった。

植草氏の逮捕劇にはマスコミが張っていたそうな。あそこで植草氏が逮捕されると事前に知っていてその瞬間を撮ったひとがいる。

もしそれが読売グループだったら・・・神奈川県警と連携して謀議をたくらんだことになりますよね。わたしは第一報であの辛抱治郎さんが何度も何度も植草氏の実名を連呼していたのをはっきりきいています。その後の怒涛のような書き込みはここ2ちゃんねるのみなさんが一番よくおわかりでしょう。

多くの国民が植草氏を「クロ」だと見なすのは、マスコミの影響が大きい。マスコミでは意図的とも思える植草氏へのブラックキャンペーンが張られている。

新聞の場合、検察側の主張だけを載せる。

30日以上に及ぶ拘留のあいだ、マスコミは一方的に警察からの情報を垂れ流しつづけた。普通の人間なら、松本サリン事件のことを思い浮かべるはずだ。ましてや植草氏は政府の政策を批判していた人物だ。しかしテレビ・新聞・雑誌は躊躇せず全面協力した。
http://www.asyura2.com/0601/senkyo23/msg/289.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/291.html#c4

[リバイバル3] 借金は「時間を買うこと」_ 良い借金と悪い借金

借金は「時間を買うこと」_ 良い借金と悪い借金


借金をするとお金を貯めるまで買えなかった物が、今すぐ買える


借金は「時間を買うこと」

借金といえば多くの人はネガティブなイメージを持っていて、借りている本人もそうだろうと思います。

借金のマイナス面としては金利が複利でつくため、元本を減らさない限り永遠に返済がつづく。

甚だしい場合には借りた元本より多く金利を支払ったり、元本の数倍も払うことがあります。




最近話題のリボルビング払いでは、毎月少し借りて少し返すのを繰り返すので、10年以上返済が終わらないことがあります。

試しに最初10万円借りて、利息分だけを返済してまた借りるのを繰り返すと、金利年16%なら10年で金利16万を支払います。

リボルビングでも分割でも、元本を減らすのが重要で、利息だけ払い続けると数年で元本より多くの金利を払うことになります。


借金にはプラス面もあり、それはお金を借りることで「時間を買うことができる」点です。

一般的な収入の人が貯金できるのは収入の1割程度なので、年収400万なら年40万円の現金しか用意できません。

これでは200万円の車を買うには5年間働かねばならず、その間自転車通勤などで我慢しなくてはならない。

時間を買って時間で支払う

ところが自動車ローンを使うことで、5年働かなくては買えない車が「今すぐ」自分の物になります。

住宅に至っては平均3000万円するので年収500万で年50万円貯金だったら買えるのは60年も先になってしまいます。

これも本当なら60年後にしか買えなかった住宅が「今すぐ」購入でき、支払いはその後30年かけて行います。


これだと支払いは年収の2割になるのでかなりキツイ筈で、住宅にはローン以外にも様々な費用がかかります。

車にしろ家にしろ他の買い物にしろ、本当なら貯金しなくては買えなかった物を今すぐ買えるので、時間を買ったことになります。

その代償として買った時間に相当する自分の時間を、支払いのために使わなくてはなりません。


生活費を借りる場合も、借金をすることで問題を先送りにできるので、時間を買ったことになります。

こうして人は1か月なり30年なりの時間を買うのですが、支払う時は自分の時間を売っているのです。

元本を返せず金利だけ払って先送りする人は、1か月先送りするたびに1か月という時間を追加で買った事に成ります。


いずれにしてもお金を借りるときは嬉しいものですが、返済するための長い時間は大変です。

いつまでも元本が残り返済が終わらないようだと、良い借金とは言えない。
http://www.thutmosev.com/archives/79353550.html



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/942.html

[番外地6] 山の危険 _ 迷っているときは沢に下りてはいけません(絶対に!) 中川隆
39. 中川隆[-11271] koaQ7Jey 2019年3月23日 12:05:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[737]

2019年03月23日
スマホ地図はアウトドアでどれだけ使えるか


登山アプリ「ジオグラフィカ 」の表示例

画像引用:ジオグラフィカ -スマホを登山用GPSにするアプリ-http://geographica.biz/


スマホの地図精度は内蔵GPSで左右される

ハイキングやトレッキング、登山などで最も気になるのは天候悪化や道に迷うことだと思います。

スマホがあればそうした情報はいつでも得られるが、電波が届く場所にいる場合に限られます。

自然あふれる魅力的な場所ほど電波が届きにくいので、スマホの電波は受信できないと思った方が良い。




スマホは内蔵GPSによってあらかじめダウンロードした地図上に位置を表示できるが、この時GPSの精度が大きく影響します。

電波が届く時ですら地図上の位置が不正確なスマホだったら、森の中や山中ではまったく役に立たないでしょう。

分岐点から百メートルも離れた位置を表示すると、スマホが原因で遭難するかもしれません。


当然ながら安いスマホには精度の低いGPS、高いスマホには精度が高いGPSが搭載されています。

Apple iPhoneとその他のアンドロイドスマホでは、どれも安定して高精度のiPhoneに対して、アンドロイド勢は千差万別と言われています。

アンドロイドの高性能機種を買っても良いのですが、どれを買えば良いか分からない人はiPhoneのどれかを購入すれば良いでしょう。


安いスマホや古い機種は位置情報や方角も信用できないので、過信してはいけません。

高くて新しいスマホほど正確に表示

信頼できるスマホを買ったとして、電波が届かない場所で地図を見るには、あらかじめ地図アプリをダウンロードします。

ダウンロードしただけではだめで、これから行く山や森の地図を表示させ、隅々まで拡大して眺めます。

こうすることでスマホ内にキャッシュ(閲覧データ)が保存され、電波が届かない場所でも同じように地図を閲覧し位置が表示されます。


気を付けたいのは事前に地図を拡大して見た場所しか拡大表示できず、いざ現地に行って初めて拡大しようとしてもできません。

また「高速化」と称する起動するたびにキャッシュを掃除するアプリを使っている場合、閲覧データが消えてしまいます。


こうして電波が届かなくても地図が見れるようになるが、電池残量がなければ地図を見れず、頻繁に地図を見るので電池消費が速い筈です。

スマホ本体とは別にモバイルバッテリーを携帯したほうが良く、最近は大容量タイプが5千円以下から購入できます。

こうしてスマホ地図の準備は万全だとして、昔ながらの紙の地図と磁石も持って行った方が良い。


スマホはしょせん機械ものなので雨に濡れたりお尻で踏んだり、落としただけで壊れるもので絶対ではありません。

スマホが壊れたから場所が分からず電話もできなくなって遭難、というような事態は避けたいです。

低価格で高性能なHUAWEIスマホは人気ですが、地図スマホとしては適していないとされています。
http://www.thutmosev.com/archives/79354286.html
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/587.html#c39

[近代史3] 燃え上がる"老人ホーム恋愛"〜「モテる男・モテない男」の違い〜

燃え上がる"老人ホーム恋愛"〜「モテる男・モテない男」の違い〜
PRESIDENT Online 2019年3月14日記事より抜粋

施設で「モテる男・モテない男」は、どこが違うのか。今回、介護現場で働く3人に集まってもらい、話を聞いた。「ツレに先立たれた97歳と94歳、93歳と94歳、92歳と85歳の3組のカップルがいる」という老人ホームの現状とは――。


Aさん●ケアマネジャー。53歳女性。地域包括支援センターに勤務。介護職歴33年。
Bさん●有料老人ホーム施設長。45歳女性。事業の立ち上げから運営まで幅広く従事。
Cさん●介護福祉士。65歳男性。10年前にメーカーを早期退職して介護の道へ進む。

(中略)

――75歳以上は男性684万人、女性1065万人ですものね。でも、そもそも、老人ホームでの恋愛って、よくあることですか?

【Bさん】うちにはツレに先立たれた97歳と94歳、93歳と94歳、92歳と85歳の3組のカップルがいますね。

(中略)

【Aさん】高齢者になったからって、男がモテるポイントはそう変わらないですよ。イケメンはいくつになっても人気だし、お金に余裕があったほうがないよりはモテる。モテないのは、自慢話をする人、すぐに怒鳴る人、悲観的なことばかり言う人、身なりの不潔な人。高齢になっても同じですよ。

【Bさん】モテるおじいさんって、鮮やかな色のシャツを着ていません? 清潔感があっておしゃれ。そして誰に対しても穏やかで、人の話をよく聞く。あと、褒め上手ですね。

【Cさん】要するにコミュニケーション能力が高い(笑)。

愛と欲望が、渦を巻くこともある

――年を取っても男性から積極的にアプローチするのですか?

【Bさん】人にもよるけれど、高齢になると女性のほうがやや積極的かも。

【Cさん】嫉妬が渦巻くこともある。

【Bさん】うちの一組は男性が積極的で、実は数人の女性に声をかけては断られて、今の彼女とカップル成立となったんです。で、先日、施設のイベントで、みんなで外出したときの記念写真を廊下に貼り出したんです。すると、いつのまにか写真の彼女の顔が何かで削られている。男性を振ったおばあさんのうちの1人の仕業らしくって。

【Cさん】学校や職場であちこちに手を出すのもマズイけど、ホームは卒業や人事異動がないからね。

【Aさん】奥さんのいる80代の男性を60代の愛人女性2人が取り合って殺人事件というのもあったでしょう。職員のほうが気を使うよ。

――ズバリうかがいますが、90代のカップルはセックスしているのですか?

【Bさん】うちの3組はしていないと思う。でも90代になれば性欲がなくなるわけじゃなくって、それこそ毎朝、隠れてマスターベーションしている90代の男性もいます。この人は元お医者さまで、ボケてもいない。

【Aさん】オムツしているのにマスターベーションして、オムツがずれて排泄物をまき散らしちゃうケースとかって、あるからね。80歳で勃起する人も結構いるのに、うちの旦那は50代半ばで役立たず(苦笑)。

初恋の人同士が、巡り逢うことも

【Cさん】男性職員の股間に手を伸ばしたり、抱いてと迫ってくる女性もいますよ。品のいい、可愛らしい女性ですけどね。彼女の場合、まだらボケなんだけれど、年を取るってそういうこと。

――ロマンチックなものを想像していましたが、生々しいですね。

【Bさん】でも、ロマンチックなこともあります。私が知っている初恋の人同士80代のカップル。若いころの2人は事情があって結ばれず、それぞれ別の人と結婚して、女性は九州の小さな島で暮らしていたのだけれど、80歳を過ぎて、夫もお子さんも亡くしてしまったの。女性のお孫さんが1人いて『おばあちゃん、誰か会いたい人いる?』って尋ねると『初恋の人に会いたい』って。そこでお孫さんが相手を探し出して連絡すると、向こうも奥さんを亡くして東京で一人暮らしをしていることがわかったの。で、彼女が上京して2人で暮らし始めたんです。少し認知症が現れ始めているけれど、男性は健気に面倒を見ていますね。

【Cさん】男性に子どもは?

【Bさん】近所に一人息子が暮らしていますが、好意的に見守っています。

【Aさん】普通、子どもは親の恋愛を嫌がるよね。年老いて色気づいた親なんて見たくないし、結婚するなんて言いだしやしないか、ハラハラしている。

【Cさん】相続とかお墓のこととか、面倒なことが起きるのも嫌だしね。

【Aさん】結局、年を取るにつれ、異性への欲望やお金への執着が薄れ、枯れていくというわけじゃないから。

【Bさん】いつまでも欲があっていいじゃないですか。いくつになってもモテたいと思うのは大事。最期まで、人生を楽しんでほしいですね。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=344347
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/303.html

[近代史3] 遥かなる縄文の記憶〜科学の目で見た縄文〜 中川隆
17. 中川隆[-11270] koaQ7Jey 2019年3月23日 12:17:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[739]

かつて教科書から消えた縄文時代。その理由とは?
2019年03月15日 関裕二(歴史作家)
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6143?p=1

国指定特別史跡 三内丸山遺跡(青森県青森市)

※本稿は、

関裕二著『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP新書)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4569842429/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=php6245-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4569842429&linkId=841bd403c715a8e5fb76f972565e5d5e


より、一部を抜粋編集したものです。


一度、教科書から消えた縄文時代

ゆとり教育のせいだろうか。平成10年(1998)の小学校学習指導要領改訂によって、一度旧石器時代と縄文時代(新石器時代)は教科書から消えてしまった。平成20年(2008)に、ようやく復活したが、それでも教科書の記述はわずかで、一般社団法人日本考古学協会は平成26年(2014)5月に「小学校学習指導要領の改訂に対する声明」を発表して、改善を求めている。

なぜ、縄文時代は教科書からはねられてしまったのだろう。その理由の一つに、「日本人の歴史は大陸や半島から稲作が伝えられて、ようやく発展の糸口を摑んだ」という、漠然とした常識が支配していたからではなかろうか。野蛮で未開な縄文時代を学んでも、何も意味を持たないと、信じられていたからにちがいない。

しかし、縄文時代がわからなければ、日本史や日本人の正体は、わからないままだ。大袈裟に言っているのではない。縄文人が1万年の歳月をかけて作り上げてきた文化と習俗と文明が、「民族の三つ子の魂」となって現代まで継承されている。日本人がなぜ「世界でも稀な文化を形成したのか」といえば、日本列島が東海の孤島で、縄文人が他の世界にはない独自の文化を編み出したからにほかならない。

その後、大陸と半島の混乱によって、多くの人びとがボートピープルとなって海を渡ってきて、渡来系の血が混じり、水田稲作をはじめて人口爆発を起こしていったが、それでも、1万年の縄文の文化と習俗を消し去ることはできなかったのだ。

たとえば日本料理は、「煮る作業」が基本だが、これは縄文文化の名残だ。縄文人は、世界最古級の縄文土器(1万6000年前か?)を利用して、ひたすら食品を煮て食していたのである。

神道は稲作民族の信仰と思われがちだが、縄文時代はおろか、旧石器時代までつながる、長い伝統に根ざしている。

さらに、「日本語」はいったいどこからもたらされたのか、はっきりとわかっていない。

似ている言語が、周辺になく、孤立しているからだ。言語の血縁関係の判定法「規則的音声対応」を用いても、琉球語だけが、日本語とつながるだけだった。

かつて、「現代人が使っている日本語は、弥生時代に渡来人が縄文語を駆逐して、弥生時代に完成した」と考えられていた。縄文時代と弥生時代に、大きな文化の断絶が起きていたという発想だ。「縄文人は大量に海を渡ってきた渡来人に圧倒された」と信じられてきたのである。

しかし、すでに縄文時代に日本語は完成していたのではあるまいか。一度に大量の渡来人がやってこなければ、言語の入れ替わりは起こりえない。少数の渡来が長い年月続き、その都度、渡来人は「日本語を習得していった」と考えざるをえない。

奈良県南部の十津川村とその周辺は、近畿地方に属しながら、なぜか、関東の言語によく似ている(乙種アクセント)。それはなぜかといえば、小泉保は『縄文語の発見』(青土社)の中で、柳田國男が提唱した「方言周圏論」(『蝸牛考』)が有力な武器になると考えた。「カタツムリ」を、近畿では「デデムシ」と呼び、外側の関東や北九州では「マイマイ」、東北や四国西部では「カタツムリ」と呼ぶ。柳田國男は、デデムシ⇒マイマイ⇒カタツムリという順に近畿地方から言葉が広がっていった結果、遠くに行くほど古い言葉が残っていると推理したのだ。つまり、弥生化していく近畿地方の中で、十津川周辺は取り残され、古い言葉が残ったと考えた。また、日本語はすでに縄文時代に完成していて、琉球縄文語は、縄文中期に本土縄文語と分離したと指摘したのである。

ちなみに、出雲の方言が東北地方とよく似ているのも、「方言周圏論」で説明がつくとする説もあるが、岡山県の人びとの口調も、関西弁とはかけ離れ、むしろ関東弁に近い。

次のような指摘もある。

縄文の海人たちは、難所として名高い津軽海峡を普通に往き来して文化圏を形成していた。また、縄文の海人は沖縄から南西諸島を経由して、日本列島との間を行き来していたが、対馬から朝鮮半島へは、交流の頻度が落ちる。それはなぜかというと、航海術が未熟だったからではなく、その当時は、言葉が通じなかったのではないかといい、すでに縄文時代、日本列島では日本語の原型が誕生していたのではないかと推理している(小林達雄『縄文の思考』ちくま新書)。

この発想はおもしろい。その通りかもしれない。その後、次第に朝鮮半島南部と北部九州は、交流を重ねていくのだが、縄文時代の往き来は、比較的少なかった。


戦後史学界を席巻していた唯物史観の弊害

農耕をする以前の狩猟採集の時代が縄文時代とする定義は、すでに戦前になされていた(1930年代)。縄文人は先住民のアイヌ族と考えられてもいた。

すでに大正時代の1910年代ごろから、科学的な研究が進み、土器の編年作業が始まっていたが、縄文は未開社会というイメージは、つきまとった。

この考えから先に進んだのが、山内清男だった。大陸との交渉がほとんどなく、農業を行った痕跡がない時代と、大陸と交渉を持ち農業が一般化した時代に区切り、紀元前2500年に始まる縄文土器の時代(当時はそう考えられていた)とそのあとに続く弥生時代の概念を明確にしたのだ。

ちなみに、新石器時代に入っても農耕を行わなかった縄文人を「高級狩猟民」と、山内は位置づけたのだった。

戦後になると、今度は唯物史観が、史学界を席巻してしまった。物質や経済、生産力という視点で歴史を捉え、「人間社会は段階的に発展し、最後は共産主義に行き着く」という考えで、農耕を行っていなかった縄文時代に対し、負の歴史的評価を下している。生産力は低く、無階級で、無私財であり、停滞の時代とみなした。採集生活には限界があり、呪術と因習も、弥生時代に大陸から新技術が導入されることによって、払拭されたと考える。歴史的発展は余剰と階級の差が生まれる農耕社会によってもたらされると、考えられていたのだ。

もし仮に、縄文時代を通じて、徐々に社会が発展し、成熟していったとしても、自然の再生産まかせで、これを越えることができないのだから、縄文社会には限界があり、後期から晩期にかけて呪術や祭祀が盛んになるのは、限界と矛盾の現れと、みなされた。入れ墨や抜歯の風習も、縄文社会停滞のシンボルと判断されてしまったのだ。そして、稲作技術が伝わり、ようやく、発展のチャンスを得たというわけである。

たしかに、縄文人は都市に暮らしていたわけではないし、国を形成していたわけでもない。のちの時代のような、階級社会が生まれていたわけでもない。文字もなかった。

そして、狩猟採集をして、獲物を獲得する生活では、歴史発展が進まなかったと信じられていたし、本格的に農業をはじめる「生産経済」になって、ようやく歴史は動き始めたと信じられていたのだ。教科書から縄文時代が消えてしまった理由も、ここにある。


「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける


縄文時代に対する見方が変わってきた

つい二十数年前のこと。縄文時代を礼讃し、縄文文化は日本固有だと称えれば、「夜郎自大なヤツ」とけなされ、へたすれば、「縄文右翼」と揶揄されたものだ(事実、そう言われたことがある)。

「何もかもが渡来人の仕業」と考えることが最先端、という風潮があったのだ。渡来系の人びとから、先進の文物をもらい受け、海外の文化を猿まねすることで、日本は成り立っていたという。

縄文時代の野蛮で未開な日本列島に、朝鮮半島から新たな文物がもたらされたことで、発展のチャンスがやってきた……。これが、常識のようになっていた。

しかし、ようやく人類は直線的、段階的に進歩していくという唯物史観の呪縛から解き放たれようとしている。

たとえば谷口康浩は、次のように述べている。

狩猟採集社会と農耕社会という段階区分が絶対的な指標になりすぎているために、時代区分や通史が膠着し、過去との自由な対話が閉ざされてしまったような閉塞感がある(『縄文時代の考古学1 縄文文化の輪郭』小杉康・谷口康浩・西田泰民・水ノ江和同・矢野健一編 同成社)

縄文時代を見直すという作業は、歴史の連続性を再確認することでもあると思う。狩猟社会が農耕社会に移行し発展していったというこれまでの常識を、疑ってかかる必要があるということだ。

物質と経済に重きを置いた唯物史観は、縄文人を「原始的な社会」と指摘し、これが大きな影響力を持ってしまったのだ。

しかし、イデオロギーや理屈に歴史を当てはめていくという発想そのものが間違っていたのだ。幸い、考古学の物証の積み重ねによって、新たな発想や仮説が次々と飛び出すようになった。そしていよいよ、事実が思想(思い込み)を凌駕するに至ったのである。

1980年ごろからあと、縄文時代に対する見方が変わってきた。縄文人の「高度な資源利用技術や管理技術(特に、植物の利用法)」が判明してきて、彼らがただの狩猟民族ではなかったことが次第に明らかになってきたのだ。

たとえばクリなどの植物の栽培やイノシシの飼育を行っていたことがわかってきた。建築材に使われる木材は耐久性に優れたクリの木が多く、しかもその使用量が「自然に生えている木を切ってきた」レベルではなく、またクリの成長が、自然木よりも速かった。

縄文時代前期後葉に縄文人は集落を構成するようになったが、花粉分析によって、ちょうどこのころから、ナラ類やブナなどの落葉広葉樹が減り、クリが急速に増えていったこともわかっている。クリの自生する北限の北海道でも、縄文前期後葉にクリが増えていく。人が手を加えて、クリを増やしていったと推理されていた。この仮説はのちに、三内丸山遺跡(青森県青森市)が発見されて、証明されていくのだが……。

ちなみに、鉄道の防風林にクリが多く用いられたが、クリの木は固く丈夫なので、鉄道の枕木に使われ、一石二鳥の働きをしていた(それはともかく)。

縄文時代後期から晩期にかけて、すでにイネ(陸稲)や雑穀が栽培されていたことがわかってきた。イネや雑穀の原生種は存在しない(イヌビエは例外)から、朝鮮半島や大陸から、タネがもたらされたのだろう(当然だ)。


近代日本人が縄文人を野蛮視した

あらかじめお断りしておくが、日本列島にかつて、「縄文人」という単独の民族が存在したわけではない。すでに述べたように、旧石器時代に多くの人びとが色々な場所から日本列島に流れ込み、縄文時代にも、さまざまな人びとが日本列島にやってきた。そしてその後1万年以上の間、日本列島の中で融合し、地域ごとに異なる面も合わせ持ちながらも、ほぼ共通する文化を熟成させていった。われわれはその日本列島内で、おそらく共通の言語を語り(方言もあっただろう)、よく似た土器を使っていた。この1万年の歴史を積み重ねていた人たちを、暫定的に「縄文人」と呼んでいるに過ぎない。

ただし、強調しておきたいのは、日本列島が東海の孤島だったこと、大挙してこの島国を席巻するような勢力が到来することはなかっただろうこと、縄文人(列島人)が1万年という年月をかけて、他の世界にはなかった独自の文化と信仰を育んでいったことなのだ。そして、だからこそ、縄文時代の生活や習慣が継承され、縄文の精神が日本人の三つ子の魂になったのであって、1万年という時間こそ、日本人の揺籃期になったと思うのである。

そこでいよいよ、縄文人を、掘り下げていこう。

縄文時代が始まった時期に関して、長い間紀元前4〜5000年と考えられてきたが、炭素14年代法(放射性炭素C14の半減期が約5700年という性格を利用して遺物の実年代を測る方法)の出現で、一気に1万3000年前にさかのぼるようになった。さらに、炭素14年代法も、放射性炭素が、一定に減っていくわけではなく、微妙に誤差を修正する必要がある。そこで、修正してみると、縄文時代の始まりの「較正年代」は、1万6000年前ではないかと、考えられるようになった(青森県の大平山元T遺跡から出土した無文土器片から割り出された)。氷河時代が終わって、温暖な気候がめぐってきて、縄文文化も花開いたのだ。そして、縄文土器も、世界的にみて、最古級の土器と考えられるようになった。世界最古の可能性もある。ただし、やはり最古級の土器がみつかるシベリアや沿海州の発掘が遅れているために、さらに古い土器が出土する可能性がある。

また、縄文時代の終焉(弥生時代のはじまり)の時期に関しても、大きく見方が変わってきた。紀元前300年と考えられていた時代もあったが、次第に古くなり、やはり炭素14年代法によって、今では、紀元前10世紀後半の可能性が高くなってきた。この結果、「北部九州に渡来人が稲作をもたらし、一気に日本列島を稲作文化が席巻した」というかつての常識は、通用しなくなった。北部九州から、徐々に東に稲作文化は伝えられていったと修正されているのだ。

縄文の年代観だけでなく、縄文文化に関しても、見方は変わってきている。かつて縄文人といえば、狩猟採集に明け暮れ、移動生活をしていた野蛮人とみなされていた。縄文時代は、原始時代と同意語だったのだから、隔世の感がある。

平成6年(1994)に青森県青森市で三内丸山遺跡が発見されたころから、縄文見直し論が徐々に高まってきたが、それ以前、地方の「実際に遺跡を発掘している考古学者」たちは、縄文の実力を、すでに高く評価していた。資料館などでお話を伺うと、「すべて渡来人の仕業と考えることはできない」と、しきりに訴えられ、また、「縄文の習俗は消えたわけではない」と、口々におっしゃっていた。特に、渡来系の影響を強く受けたと思われる日本海側の北部九州や山陰地方の考古学者たちは、古い史学者や歴史愛好家が、「なんでもかんでも渡来人の影響」と信じる傾向にあったことを嘆かれていた。その苦々しい表情を、よく覚えている。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/223.html#c17

[近代史3] 遥かなる縄文の記憶〜科学の目で見た縄文〜 中川隆
18. 中川隆[-11269] koaQ7Jey 2019年3月23日 12:18:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[740]

縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか

「縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか」第5回〜クリが縄文人を作った、縄文人がクリを作った
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3438.html

クリと縄文社会は密接に繋がっている。

縄文中期の巨大集落、三内丸山ではくりの栽培が盛んに行われていた事は有名な話だ。今回はこのクリをテーマにどのようにクリと縄文人が繋がり相互に繁栄したかを追いかけていきたい。

今回も「縄文探検隊の記録」からの紹介ですが、少し方法を変えて、本文はこちらで書き、それを示す記事を間に入れていきます。>は著書からの抜粋です。

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クリの歴史】
クリは日本列島に1億年くらい前からずっとある植物。白亜紀の地層からクリの化石が出てきている。1億年は恐竜が闊歩していた時期で非常に長い歴史を持つ植物である。最終氷河期の終わりごろから温暖化と時期を重ねて爆発的に増えていく。
クリの利用は1万3800年頃が一番古く、1万2千年前には建物の基礎として杭の代わりに使われた。
材で利用されたのが早いかと言うとそうでもない。食用利用も1万2700年前には福井県鳥浜で確認されており、食と材、ほぼ同時期に利用が始まった事が推察される。

>クリはひょっとして、縄文人の暮らしの中でかなり重要な位置を占めていた植物ではないかと考えられるようになったのは、考古学植物学の有効性がわかりだしてからですね。

栽培に向い始めたのはいつからだろうか?】
一番古いクリの木が出る1万2000年前頃から花粉が増え、9000年前頃にどっと増える。それをどう解釈するか。気候の急激な変化に伴ってクリが一気に増えたのか、それとも定住を始めた人間が意図的に増やしたのかが焦点になる。

>植生というのはきっかけがあると変わっていくものです。最初はシイやブナのような大きな木を中心とする生態系ができて安定した状態にはなりますが、シイやブナはずっと主役ではいられない。何かアクシデントがあれば、たとえば山火事や土砂崩れのようなことが起きると、森という劇場の配役はリセットされてしまうのです。そうしたところにいち早く生える先駆主がアカマツやクリなのです。しかし、シイのような巨木になる木がまた生え始め,陰を作るようになると退場を余儀なくされます。つまり、クリは植生の遷移の中で一時的に登場する木であって、自然の森の中では永遠の主役ではないのです。
>私達の説では地球が急激に温暖化したことでクリの木も勢いづいた。それが鳥浜の縄文人の暮らしを形成した。
>狩猟採採集生活といっても、縄文時代はそこら辺が大きく違います。数世帯が必要なものを周りからかき集め、永続的に活動できるセンターを作っていた。そういう定住生活、センターを縄文の「むら」と呼んでいるのです。
>クリは人間との出会いによって繁栄のチャンスを得たといってもようように思う。
>本来クリは植生の遷移の中で消えていく木なのです。人間が森を壊したら、日当たりを好み、おいしい実のなるクリが偶々増え始めた。管理の第2段階は栽培。もっと実がたくさんほしい、もっとたくさんの木材が欲しい、その為にはクリの生長を妨げる他の木を排除する。或いは実を土に埋めて発芽させ、苗にして植える。問題は栽培はいつの時点から始まったと言えるか。私は縄文草創期から既に始まっていたと考えています。

>徐々にクリの有用性を知っていったのではなく、出合った最初から秘めている価値に気づき、すぐに栽培を試みたと考えます。彼らは定住を選択する前から自然環境の仕組みというものを熟知していた、生まれながらの観察者です。どういうふうにすれば自然は都合よく利用できるかということをわかっていたと思うのです。森を切り拓いてむらを作り始めた段階で、既にクリの有用性に気づいたと考えます。
>クリの栽培は定住の為の開発と同時期に始まった。
>大雑把な例えですが、人類の歴史を400万年とすれば、そのうちの399万年は遊動生活です。最後の1万年前から始まった定住生活は、人類の生き方の枠組そのものを完全に変えた。まさに大革命だったのです。

クリの有用性】

建材、木材としてのクリのメリット)
・成長が早い事(同じ太さを得る為にクリはスギやヒノキの約倍のスピードで生育する)
・加工のしやすさ。特に生木の時はとても細工がしやすい。石斧でも伐採しやすい、割り加工もしやすい。割裂性が非常によくてまっすぐ切れるのもクリ。
・湿気に強い事。防腐効果のあるタンニンをたくさん含んでおり、シロアリや腐朽菌におかされにくい。三内丸山の6本柱がクリでできている為、土中にあれだけの年月残ることができた。
上記に加えておいしい実もたくさんつける。縄文人にとってのクリはまさにスーパーツリーであった。

クリの木がどれほど使われていたか】

>文化財センターの研究によると、南関東の縄文遺跡では建材の8割がクリで、炉の燃え残りの炭も4割がクリだった。
>三内丸山で得られたデーターを見るとそれこそ「そこら中にクリが生えていた」

クリと縄文人の関係】
縄文人はクリをどのように扱い、この木に対する思いはどうだったのか?
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>三内丸山の巨大な柱(直径1m)から見て、統合のシンボルだったのだと思います。ひょっとするとそれぞれの集落の巨大なクリの木をここに集めたのかもしれない。
>自分達を見守ってくれる存在、クリの木が生きているうちからトーテムと位置付けていた可能性もあります。かなりの共通認識がないとあれだけの巨大なものは作れない。
>クリの木は縄文時代に津軽海峡を渡り、北海道に持ち込まれている。当時の人たちが舟で運んで移植した可能性がある。
>最終氷河期には南日本の海岸部にわずかしかなかったクリが温暖化が始まると爆発的に分布が広がった。縄文人がその分布の拡大を後押しした可能性がある。
>人とクリは出会うべくして出合った。人間活動の広がりに伴いクリの分布も広がった。
>つまり里山の起源ですね
>縄文人との共生的な関係を結んだ事によって、クリが拡散に成功したことは間違いありません。
>クリが神のような位置付けにあった可能性もあります。
>縄文人は家を解体するときに抜いた柱の穴の中に焼いたクリの実を入れています。つまり儀式です。トチの実の場合もありますが、クリが一番多い。今も神せん(供物)にクリは、はいっています。
>正月の栗きんとんもその名残か、日本人とクリの関係は今も神聖な繋がりがあるのです。
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3438.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/223.html#c18

[リバイバル4] 縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか 中川隆
2. 中川隆[-11268] koaQ7Jey 2019年3月23日 12:19:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[741]

この続きは


遥かなる縄文の記憶〜科学の目で見た縄文〜
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/223.html

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/131.html#c2

[リバイバル3] 中川隆 _ 古代史、人類学、ハプロタイプ、民族学関係投稿リンク 中川隆
17. 中川隆[-11267] koaQ7Jey 2019年3月23日 12:20:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[742]
遥かなる縄文の記憶〜科学の目で見た縄文〜
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/223.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/811.html#c17
[リバイバル3] アメリカの有名大学では金で合格を買える 中川隆
8. 中川隆[-11266] koaQ7Jey 2019年3月23日 12:47:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[743]
全米を震撼させた裏口入学スキャンダル、その驚きの手口
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/03/post-11872.php
2019年3月22日(金)18時50分 スコット・マクドナルド ニューズウィーク


『デスパレートな妻たち』の主演女優の1人ハフマン(写真右)も起訴された Mike Blake-REUTERS


<セレブな親たちが超高額の「賄賂」で子供を不正入学、被告の中には有名女優の名前も......>

アメリカで、米司法省が呼ぶところの「米史上最大の大学入学スキャンダル」が発覚した。

エール大学やスタンフォード大学、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)やジョージタウン大学など一流名門校に不正な手段で子供を入学させていたとして、金持ちの家庭の親や仲介者など50人が3月12日、連邦検察に起訴されたのだ。被告となった親の中には、人気テレビドラマ『フルハウス』に出演した女優ローリ・ローフリンや『デスパレートな妻たち』の主演女優の1人フェリシティー・ハフマンの名前もあった。

成績が入学基準に満たない場合、リッチな親がいれば「裏口」から入学する道があるという話は珍しくない。一般的に、裏口入学の見返りは大学や校舎への巨額の寄付金だ。しかし今回発覚したのは、首謀者に言わせれば「通用口」からの入学だった。

不正入学を斡旋していたのは、入試コンサルティング会社の設立者ウィリアム・シンガー。シンガーは33人の親に大金を「キー・ワールドワイド財団」という偽の慈善団体に寄付させ(寄付者が課税されるのを免れるため)、それを「賄賂」として大学の試験監督者やスカウト権限を持つ大学スポーツチームのコーチなどに支払った。その総額は、11年から8年余りで2500万ドルを上回るという。

■子供たちは知らなかった

ニューヨーク・タイムズ紙によれば、先週行われた裁判で証言台に立ったシンガーは、「自分の力で通り抜ける正面入り口と、巨額の寄付をして入学させる裏口があるとしたら、自分がつくったのは通用口だ」と発言した。「裏口では入学は必ずしも保証されていない。そこで、入学が保証される通用口をつくったところ、多くの家族が使いたがった」

驚くのは起訴状で明らかになった手口だ。あるケースでは、子供が大学進学適性試験SATとACTを受ける際の試験監督に賄賂を渡し、試験中に答えを教えたり試験後に正解に書き換えたりさせた。別のケースでは子供に学習障害があると偽り、試験時間を延長させたり別室で受験させたりした。

また、大学のスポーツチームのコーチを買収したケースでは、子供を未経験のスポーツの特待生にしてもらうため、シンガーの同僚が本物のスポーツ選手の体の写真に子供の顔をフォトショップで合成して大学側に提出していたことも発覚した。

親たちが支払った額は、1回の試験につき1万5000〜7万5000ドルだという。ローフリンの場合、ボート競技が未経験の娘2人を南カリフォルニア大学ボート部の特待生として入学させるために支払った額は50万ドルに上る(2人のうち19歳の妹、オリビア・ジェイドはインスタグラムのフォロワー数が140万というインフルエンサーだ)。ハフマンは、1万5000ドルを前述の慈善団体への寄付金として支払い、試験監督に娘のSATの答えを書き換えさせていた。

検察側によれば、多くのケースで子供は親たちの不正行為に気付いていなかったという。実際、子供や大学は訴追されておらず、知らなかったとすれば子供や大学も金持ちの親バカたちにだまされた被害者ということになる。

とはいえ最大の被害者は、不正入学のせいで入学枠を逃した真面目な学生たちに違いない。

<本誌2019年03月26日号掲載>

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/933.html#c8

[リバイバル3] オオカミってやっぱすごい! ほんの少数のオオカミの群れが自然に奇跡をもたらすまで(米イエローストーン国立公園) 中川隆
3. 中川隆[-11265] koaQ7Jey 2019年3月23日 13:17:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[744]

2017.12.16
NYT記者がオオカミと戯れたくて取材 前編
イヌとオオカミの違いってなに? 研究最前線に迫る
https://courrier.jp/news/archives/106568/


イヌの祖先はオオカミだとされるが、その共通点と相違点はどこにあるのか。どこで彼らは袂(たもと)を分かったのか。子オオカミと戯れたい下心丸出しのNYT記者が、研究者たちの最新の発見に迫る現場ルポを前後編でお送りする。


「オオカミはイヌにはならない」

私は屋外の囲いのなかに座っている。膝の上には4匹の子イヌが乗り、私の指をしゃぶったり、帽子や髪の毛に噛みついたりしながら、興奮のあまりうれションしまくっている。

彼らは生後8週で、鼻先から尾の先までが約60cm、体重は3〜4sほどだ。噛み痕がいっぱいある鹿の皮を奪い合って、唸ったり叩いたりする。そして私の顔を、長い間行方不明だった友達、あるいは新しく見つけた玩具かのように舐めまわす。

だがこの子たちは、オオカミなのだ。

この子たちが成熟して体重約45kgになるころには、あごの力はヘラジカの骨を噛み砕けるほど強くなる。

この子たちは、目も見えず耳も聞こえず立ち上がることもできないときから人間の近くにいたので、人間が近寄っても大丈夫だし、身体検査にも抵抗せず、耳の後ろを掻かせたりもする──すべてがうまくいけば。

それでも育て親の人間でさえ、用心は必要だ。たとえ生後すぐから哺乳瓶でミルクを与え、母親のように世話をしてきた人間でも、彼らがケガしているとか気分が悪いときには、囲いに入るべきではない。彼らが捕食反応を起こすかもしれないからだ。

オオカミから追いかけられて逃げるのが楽しいなんて人はいないだろうし、オオカミを追いかけるふりする人もいないだろう。経験が豊かなオオカミ飼育者ほど油断がない。

私が何年もかけて取材してきたオオカミ専門家、イヌ専門家たちの言うことに共通点が1つあるとすれば、それは、「どんな育て方をしても、オオカミはイヌにはならない」だ。

オオカミとイヌは同種だと言う科学者もいるほど共通点も多いが、それと同じくらい相違点もある。

身体的には、オオカミのあごのほうがずっと強力だし、オオカミは年に1回しか繁殖しない。イヌは年に2回だ。

行動は、オオカミ飼育者によれば、オオカミはイヌに比べて捕食本能が発動しやすく、自主性が高く、食物やその他の物への独占欲が強い。多くの研究から、オオカミのほうが子供の面倒見がいいこともわかっている。

そして、オオカミには、ラブラドールレトリーバーのような「人類みんなを愛しています」的レベルのフレンドリーさはカケラもない。逆に、ドッグ・トレーナーとペットフードメーカーがイヌに内在する「オオカミ性」を促進しようとしても、オオカミと同じようにはならない。

科学的合意によると、イヌは1万5000年以上前に絶滅したオオカミの一種から進化してきた。オオカミの巣穴からさらってきたオオカミの子が進化したのではなく、狩人から残り物を餌にもらったりしながら人間と接する時間が増えた個体が進化したというのが、ほとんどの科学者の現在の考えだ。

これらのオオカミのうちだんだん人間を恐れなくなったものが、さらに人間に近づき、残飯にありつくようになり、より多くの子、しかもオオカミのどう猛さが少ないDNAを持つ子たちを産むようになった。これが代々繰り返され、オオカミが、科学的用語ではないが「フレンドリー」になるまでに進化したのが、最初のイヌだ。

オオカミの子に人間が一緒にいられる相手だとわかってもらうには、1日24時間、週7日、何週間もぶっ通しで一緒に過ごす必要がある。一方、イヌの子なら身近な人間にすぐに従うようになる。野良イヌであっても、適切な時期に人間と接したことがあれば、フレンドリーになる。

Photo: Renaud Philippe / The New York Times

オオカミとイヌの遺伝子には類似点も多くあるが、大きな違いもあり、この遺伝子がいつどのように活性化するか、またその違いが何であるかを科学者たちが究明している。

いくつか手がかりはある。

イヌの人懐っこさは、ウィリアムズ症候群のようなものが原因ではないかとする最近の研究もある。ウィリアムズ症候群とは、人間の遺伝子疾患で、過度な社会性の高さを生じさせるなどの症状を示す。患者は普通の限度を超えて、誰に対してもフレンドリーなことで知られる。

また別の研究では、イヌの生後早い段階の「社会化期」に、なんらかの発達の遅れが生じることでこの違いが生じるのではないかとするものもある。この遅れはDNAのなかから発見されるかもしれない。遺伝子そのものではなく、いつどのように遺伝子を活性化させるかをつかさどる部分に発見される可能性が高い。

この研究は始まったばかりで、ある意味大きな賭けだ。2017年の春と夏、2人の科学者がカナダのケベック州に行き、6匹の子オオカミの発達をモニターし、行動をテストし、遺伝子サンプルを採取した。私は彼らに同行する機会を得た。

私は、別のオオカミたち(子と成体)も訪問した。どのようにこの研究プロジェクトが始まるのかを垣間見るため、そして正直に言えば、子オオカミと遊ぶ機会を期待していた。

私は、動物との直接的な、オオカミの目をのぞき込むような経験を記事にしたかった。しかしそれはあくまで比喩的な意味でだ。おとなのオオカミの囲いに入る前の訓練で強調されたのは、絶対に彼らの目をのぞき込んではならないということだった。
https://courrier.jp/news/archives/106568/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/632.html#c3

[リバイバル3] オオカミってやっぱすごい! ほんの少数のオオカミの群れが自然に奇跡をもたらすまで(米イエローストーン国立公園) 中川隆
4. 中川隆[-11264] koaQ7Jey 2019年3月23日 13:19:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[745]

2017.12.17
NYT記者がオオカミと戯れたくて取材 後編
野生のオオカミを飼育するのは倫理的に問題では?
https://courrier.jp/news/archives/106713/


米インディアナ州にある「ウルフ・パーク」で飼育されている母オオカミ、ティンバー


オオカミと眠る

「ズー・アカデミー(Zoo Académie)はカナダのセントローレンス川の南岸、モントリオールから2時間のところにある動物園と訓練所を兼ねた施設だ。オーナーのジェサント・ブシャーはオオカミを含む世界中の野生動物や家畜を訓練してきた。

2017年春、ブシャーは、この動物園で2匹の雌オオカミと1匹の雄オオカミで繁殖に成功、どちらの母親も6月初めに同じ巣穴で出産した。

珍しくセントローレンス川が氾濫し、巣穴が安全ではなくなったので、ブシャーは生後7日で子オオカミを巣穴から取り出さねばならなかった(通常は生後2週間)。

そこから子オオカミたちを社会化させる奮闘が始まった。ブシャーとアシスタントは最初の数週間は昼も夜もオオカミたちと過ごし、それから徐々に一緒の時間を減らしていった。

6月30日、キャスリン・ロードとエリノア・カールッソンが同僚数名とやってきた。カールッソンの研究室で遺伝子研究の指揮を執るダイアン・ジェネルーもそのひとりだ。

ロードが属するカールッソンチームは、マサチューセッツ州ウースターにあるマサチューセッツ大学医学部と、マサチューセッツ州ケンブリッジのブロード・インスティテュートに分散されている。彼らは、子オオカミと子イヌの行動と遺伝子を組み合わせた研究をしている。

進化生物学者のロードは、オオカミの世話に関してはベテランだ。彼女はこれまでに5腹分の子オオカミを育てあげた。

「1週間休みなく、1日24時間、一緒にいなければなりません。一緒に眠り、4時間おきに哺乳瓶でミルクをあげるんです」とロードは言う。

左から研究者のキャスリン・ロード、ミッシェル・コルトゥーキアン、ダイアン・ジェネルー
Photo: Renaud Philippe / The New York Times

最初の何日かはシャワーを浴びないそうだ。子オオカミたちが臭いを嗅ぎ分けられるようにするためだ。

これは非常に重要だ。子オオカミにとっても子イヌにとっても周囲の世界を探検しながら誰が友達で誰が家族なのかを学んでいく重要な時期だからだ。

オオカミは生後2週間くらいでこの時期を迎えると考えられている。その時まだ子オオカミたちの耳は聞こえず、目も見えない。臭いがすべてなのだ。

イヌの場合、目も見え、鼻も嗅げ、耳も聞こえるようになっている生後4週間頃から社会化期が始まる。この発達の違いがカギとなっているのではないか、つまりイヌはすべての感覚を使えるので、人間との関係を強める能力に長けているのではないかとロードは考えている。

おそらく、イヌのほうが機能している感覚が多いので、嗅覚、視覚、聴覚によって人間一般と特定の臭いをもつ個々の人間を識別できるのだろう。

この社会化期が終わると、オオカミは人間の赤ん坊の人見知りのようなものを経験する。軽度ながらイヌにも同様のことが起こる。家族以外を突然怖い存在と感じるようになるのだ。

Photo: Renaud Philippe / The New York Times

社会化期の遺伝的変化を突き止めるのは簡単にはいかないようだ。とはいえロードもカールッソンも、これは追究する価値のある説だと考えている。ブロード・インスティテュートも同様の考えで、未知の、いわば「もしかすると」の世界に飛び込んだ科学者たちを支援するプログラムから、研究費を少額ながら助成している。

科学者たちが究明したい問題は2つある。そのひとつは「森に棲んでいた1匹のオオカミが、どのようにして人間の家に住むイヌになったか」という問いだとカールッソンは言う。

もうひとつは「イヌのもつ恐れや社会性は、人間と同じく感情や行動に関係しているのか」という問いだ。そうだとすれば、人間の自閉症、ウィリアムズ症候群、統合失調症など、社会的交流に影響する症状について、イヌを研究することでなんらかの洞察が得られるかもしれない。

Photo: Renaud Philippe / The New York Times

研究者たちが最初にやって来たとき、ズー・アカデミーの子オオカミたちは生後わずか3週間だった。

私がアカデミーを取材した朝、部屋に入ると、マットレスと研究者たちと子オオカミがあちこちに転がっていた。人間たちは昨晩からほとんど寝ておらず疲れていたが、この時期の子オオカミは数時間ごとに目覚め、クンクン鳴いたり、届くところにある温かい体を前足で触ったりする。

母オオカミは子のお腹を舐めることで排尿や排便を促す。人間が世話をする場合は、同じ理由で子オオカミのお腹をマッサージするが、たいていの場合、排尿の予測がつかない。そういう次第で、彼らの話題の中心は、子オオカミのおしっこだった。「量は?」「誰のうえに?」「どの子が?」という具合だ。

そこで私は1匹の子オオカミを渡され、抱っこしてミルクをあげるように言われた。その子はまるで毛虫のようで、しつこくて単純で、目的のためにはぜったいにあきらめない。

猛獣の毛皮を着て、牙も爪もあるが、子オオカミたちはそれでも腹を空かせ、頼りなかった。私は自分の子供たちをだっこして哺乳瓶でミルクを飲ませていたころを思い出さずにはいられなかった。おそらくトラの子にもクズリの子にも、同じように拒絶できないものがあるのだろうと思う。哺乳類に特有のなにかが──。

ズー・アカデミー、お昼寝の時間
Photo: Renaud Philippe / The New York Times


オオカミとイヌの社会化期の違い

ロードが研究の初期段階で目的としたのは、オオカミの社会化期がイヌのそれよりも早く始まり早く終わるという見解を確証することだった。

ロードは、子オオカミたちに「未知との遭遇」をさせる実験をした。それは、小刻みに揺れながらブンブン音を立てる鳥よけの棒、三脚、赤ちゃん用モビールを合体させたシロモノだ。

生後8週目の子オオカミを使って実験するロード博士
Photo: Renaud Philippe / The New York Times

そのシロモノに子オオカミが慣れてしまわないように、1週間に1匹だけテストした。1匹の子オオカミを、壁の低い狭い囲いに移し、モビールを動かす。子オオカミの気を散らさないように実験者は身を隠す。

子オオカミがどのようにそのシロモノに遭遇し、その周りを歩き回ったか、それから身を守ったか、近づいて臭いを嗅いだかなどはすべてビデオカメラに録画された

https://courrier.jp/news/archives/106713/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/632.html#c4

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
160. 中川隆[-11263] koaQ7Jey 2019年3月23日 17:13:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[746]

3月FOMCは量的引き締めの停止を予告、日経平均とドル円への影響は?2019年3月22日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8206

アメリカの中央銀行であるFed(連邦準備制度)は米国時間で3月19日から20日まで金融政策決定会合であるFOMC会合を開き、2018年10月から起こった世界同時株安に対する対策を纏めた。

先ずは米国株のチャートから紹介しよう。

見ての通り下落は10月から始まったが、当初Fedのパウエル議長の示した姿勢は利上げと量的引き締めという金融引き締めを停止することはないというものだった。Fedが強硬姿勢を続ければ市場が崩壊するということは、ここでは夏頃から主張し続けていた。
•パウエル議長の致命的誤りが株式市場暴落の理由となる (2018/8/27)

しかしパウエル議長は下落が始まった後も強硬姿勢を貫き、その結果米国株は20%前後下落した。

パウエル議長はそれでようやく方向転換をすることになる。当初は量的緩和で増加したバランスシートを縮小する量的引き締めは世界同時株安の原因ではないと主張していたが、これを撤回し、量的引き締めを年内に終了すると予告した。そして今回の会合で量的引き締め終了の具体的なスケジュールを提示したということである。

FOMC会合結果

さて、では今回の会合の結果を見てゆくが、先ず金利については今年中の利上げはほぼないという結論となっている。会合参加者の今後の利上げ見通しを表にしたドットプロットでは、11人が年内の利上げなし、4人が1回の利上げ、2人が2回の利上げとし、年内の利上げがないというのがコンセンサスとなっている。

これは2回か3回の利上げがコンセンサスとなっていた前回のドットプロットからの大幅な譲歩となるが、一方で市場はより緩和寄りの金融政策を予想しており、金利先物市場はFedが年内に利下げを行う確率を40%だと織り込んでいる。

量的引き締めについては具体的に終了までの道筋が示された。前回同様、いつもは発表されない量的引き締めに関する追加文書を公表し、以下の2点を発表した。
•2019年5月より債券保有額の減額量を月間300億ドルから150億ドルに減額する。
•2019年9月末に債券保有量の減額を停止する。

これを受け、米国株はやや上昇、ドル円は下落、日経平均はその両方の影響を受け横ばいとなった。

相場への影響は?

さて、投資家としてはこの発表をどう受け止めるかが問題となる。筆者は昨年の下落前から日経平均とドル円の空売りを行なっており、今年に入ってからは日経平均よりもドル円の空売りに重点を置くということを主張してきた。
•上がった米国株、上がらない日経平均、ドル円含め今後の動向は (2019/2/6)

その理由については明白であり、Fedには緩和余地があり、日銀にはないからである。この単純な図式が2019年の世界市場を決める支柱となる。そしてその動きはドル円に反映される。今回の大きな動きは株価の下落から始まったが、次の大きな動きはドル円なのである。それが日経平均の空売り分を徐々にドル円の空売りへと移し替えてきた理由である。

とはいえ、日経平均も年始からの反発は米国株に比べて劣っている。以下は日経平均のチャートである。

ここで報告している通り、筆者は日経平均を昨年の間に23,000弱から頂点の24,000強の水準で空売りしているので、現在の水準でも10%程度の利益となる。

ここで、残っている株の空売りポジションを何処で利益確定するかということが問題となる。筆者の鉄則としては、株価の原因は量的引き締めであるから、その原因が無くなった時点で株の空売りを止めるということになる。しかし問題は、このパウエル議長の結論で「量的引き締めを止めた」と言えるかどうかである。

パウエル議長の結論は、9月までに量的引き締めを止めるということである。5月から引き締めを減額するとはいえ、9月まではまだ半年ある。

それでも量的引き締めの終了は宣言されたと言えるかもしれない。しかし筆者の頭に引っかかっているのは、これまでの金融危機でFedの譲歩が常に十分ではなかったということである。リーマンショックではFedは利下げを繰り返したが、市場暴落を止めるためには段階的な利下げは十分ではなく、Fedは結局ゼロ金利と量的緩和の開始を強いられることになった。

今回パウエル議長が言っているのは半年後に引き締めを止めるということであり、利下げさえ行なっていない。リーマンショックと今回の下落の原因が異なることは事実である。しかし、やはり量的引き締めの半年後の停止という措置が市場をなだめるために十分な措置とは思いがたく、その引っかかりの分だけ株の空売りのポジションをいまだ残している。

いずれにしても今後のメインのトレードはドル円となる。しかしそのドル円の下落幅がこれだけに留まっていることもどう考えてもおかしいのである。世界同時株安を引き起こしたような状況がこの程度の副作用で収まるはずがない。

十分な緩和が行われて株が上がり、ドル円が下がるか、十分な緩和が行われず株が下がり、ドル円も下がるか、どちらかなのである。市場はまだそのどちらも織り込んでいない。

今後の市場の展開としては、どちらかが必ず起こるだろう。それが起きない間は、市場は単に夢の中にいるのである。そして夢からはいずれ覚めなければならないだろう。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8206
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c160

[リバイバル3] 魔性の歌姫 Lowther 中川隆
7. 中川隆[-11262] koaQ7Jey 2019年3月23日 17:36:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[747]

優れたユニット+それを奏でる箱=名器   それがスピーカー 2014年10月16日
https://blog.goo.ne.jp/8417chiharu/e/d25072bde9bbde60abf0bafea1fb8ef1


ラウザーと呼ぶのが正しいのだろうか、最近はローサーと

呼ばれているようだが、古い呼び方ですみません、ラウザーのほうが好きですのでそう呼びますね

呼び名は難しいDENONは社名変更してデノン、でもデンオンのほうが呼びやすいけどまあいい


ものすごい長い期間作られてきていながら、あまり知られていないラウザー


ユニット自体の性能はすばらしいのだが、メーカーの方針であろう家庭で楽しむ楽しみ方を


独自の理論で提供し続けている、その奇怪な?難解な?独自の理論が


あれだけの機器を作り使いながら爆発的なブームにはならない


ごく一部のかたがたには絶賛されるが、

メインスピーカーの座にはつけない理由だろうか


難解な理論のひとつは、オーディオマニアの常識である


ユニットが正面を向かない


そんな機種が多い、もちろん珍しく正面を向く機種も多少あるが


私が印象に残っている機種は、斜め後ろを向いたり、前を向いても少し上

箱の中で下を向いたり、果ては上を向いたり

なぜ堂々とユニットが正面を向かないんだこのメーカーは!


と感じたメーカーでもある

バックロードホーンがこのメーカーの主流だが

まともなバックロードホーンは少ないのでは?


まともなバックロードホーンとはおかしな言い方だが、よく回路を見ると

かなり難解な、しかもユニットの後ろからではなく横から音を出してロードをかけるとか

とにかくユニークだと思いません?

こんな箱の頭に大口開けたホーンを載せたスピーカーなんてそうざらにはありませんよね

そう、風変わりな社風のスピーカ、それが私の知るラウザー


先日アンチタンノイの氏の話ではないが、このラウザーのボイスコイルは薄くて細い


タンノイの半分以下の細さと薄さである


これだけでもいい音がするであろうことは容易に想像できる

だがその手作り風のつくりは、はっきりって貧弱である

この薄いボイスコイルを受け止めるスロート溝もかなり狭い


これもタンノイの半分以下?


この狭い溝に、この手作り風の華奢なボイスコイルを、

あの超強力なマグネットで動かすのだから

ボイスコイルも大変だ、そりゃあのユニットはすぐ切れると悪評も立つだろう

JBLのような鋼鉄のリングの元にボイルコイルを巻けば歪むことは無いだろう

タンノイのように広くて長い溝に、あの太い銅線を三重に巻けばゆがみも少ないだろう


ラウザーのユニットは細い線を手作りの華奢な紙に行きと帰りの二回だけまかれている


どんな高精度で作られていても所詮は紙に巻かれた細いアルミ線

湿度変化の多い所では当然歪んで、コイルがマグネットにあたり簡単に切れてしまう

湿度の高い英国製とは思えない品だ

でもQUAD ESLも湿度に厳しいスピーカーだが英国製

以外に湿度が低いの?あの国は?


まあそんな理由で、このユニットを使うにはやはり湿度には気を使うべきだと思う


ついでにAXIOM80同様で、大入力にも耐えられません、

品良く大切に鳴らす人専用のスピーカーかな?


まあそんなイメージであったラウザーがいつものTオーディオにやってきた


その名はオーディオベクター

このスピーカーはメインのPM2が上を向いていて


石膏のフロントホーン(当然上向き)、そして奇怪なバックロードホーンでできている

さらに高級なこのスピーカーはフロントにもPM4がパラレルに接続されている

フロントのPM4が無いバージョンもあるらしい

珍しくユニットが堂々と正面を向いてると思ったら、正面を向いているのは


サブユニット、メインユニットは上向きのやっぱりな奇怪なスピーカーである

T氏が昔作ったチャイナ300Bシングルのアンプで聞いてみる

あまり良い音がしないように見えるが・・・・・T氏が作ったのだから・・・

これに文句を言ったら大変なことになるので

鳴らすアンプには問題ありません


ほー良いですねー


今まで聞いたラウザーの中で、一番いい!

このユニットはいわずと知れた、このクラスのユニットでは最強のマグネットを搭載している

なんと2万4千ガウスもの磁力を誇る


遠くへ音を飛ばす目的でコンプレッションを掛ける、

業務用のコンンプッレッションドライバーよりも

その目的が家庭用でありながら磁力が強い

この磁力の強さが音に出ている

言葉にすれば、音の密度だろうか、この密度がすごい

関係ないが、人間の体には1キロ当たり1兆個の細胞があるそうで

私の体は75兆個の細胞でできている、何気にすごい密度である

そう、このラウザーはその細胞の密度がすさまじくギッシリと、細かく聞こえる


私の使っているアメリカンな脳天気ユニットは桁が二桁は足りない気がする、


話がそれたが、その密度の濃い(音が詰まって響きがいい)おとは


実に心地いい、

以前聞いた、ユニットを二つ並べたバックロードの機種では


こんなに心地よくは無かった、もっと個性的な高域と取ってつけた低域な気がしたが

このオーディオベクターはしっかりまとまっている


二つの異なるユニットを使っていながら、音に一体感があり楽器もまとまっている

このスピーカーを聞くと

間接音はわりとプアーなユニットでも良いといわれていたけど


そうではなかった、


間接音で聞くユニットこそ反応の速さが求められてくるようだ

上を向いたユニットが雰囲気を作るだけではなく、ちゃんと音楽を奏でている


そして箱の中で遮断された正面のユニットがそれを補っているように聞こえる


散々聞いて最後にオーディオマニア御用達、プロプリュウスのカンターテドミノを聞いたが


はっきり言って鳥肌もの


教会の高さが感じられて声の伸びがすばらしい


そしてなによりすばらしいかったのは、

その声の消え方

・・・


教会で声が響いて、


吸い寄せられるように、スーッと消えてゆく、声

か・い・か・ん・・・・


いや〜いい音楽を聞かせて頂きありがとうございました


感謝・感謝

https://blog.goo.ne.jp/8417chiharu/e/d25072bde9bbde60abf0bafea1fb8ef1
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/685.html#c7

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
145. 中川隆[-11261] koaQ7Jey 2019年3月23日 17:39:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[748]

本日の演題「なぜWE594Aは音が良いのか」2019年03月10日
https://blog.goo.ne.jp/8417chiharu/e/9c00d82ffd651a214d8c1c187167631b

288ー16G FieldCoilを作るにあたり

その元祖WE594Aの音の謎を探ります

なぜ音がいいと思います?


まずはフェイズプラグの精度が桁違いは当たり前

フェイズプラグの音道幅、プラグの形状に秘密があるようです

ここは大切です、振動板とフェイズプラグの間で圧縮された空気は、

帯域の異なった音道のフェイズプラグホーンを抜けて

スロートへと抜けていきます

コンプレッションドライバーの要は、フェイズプラグ


この作りが音の質を決定的に決めるのかもしれません

綺麗に研磨されたWE、それなりにきれいなJBL、荒削りなALTEC


研磨と精度で質が決まるような気がします


あっつ、JBLでもペラッペラのプラスチックのフェイズプラグは論外


全く高域の伸びや響きは有りません、


まあ、至近距離で検聴用には向いているのかもしれませんが

伸びや響きのない、音を殺すフェイズプラグの某37○は論外として


伸びやかな活きた音を奏でる真鍮製フェイズプラグによるコンプレッション


その形状をよく見ると594と、288やLE85の違いがよくわかります


594の形状で作りたいですが、これは無理

スムースにざらついて尖った288で我慢します


凸凹を埋めて研磨しようと思いましたが、やめました、今回はこのまま使います


ポールピースも高級な金属を諦めました、純鉄ではなくs10cという金属になりました

594を真似たいですが、物理的に無理なところは諦めて作ります


ざらついたALTEC288-16Gですが、このざらつきは、歪みになり、

確信犯で作られた歪みは力に変わります


今回は質より、「力と圧」で攻めます


低域も同様のテーマで作ります

ついでに励磁電源は全てセレンで作ります

力のある電源で力のあるユニットを駆動します

もちろん音源は力のあるMono音源


594のような、いい音は目指しません

ざらつきと、歪みで、強烈な「音力」を目指します

いいでしょう〜〜

聴いてみたいでしょ〜〜

一緒に聞きませんか?、ただその前にちょっとだけ力仕事があるんですが・・・・、

一人じゃムリです〜〜持ち上がりません
https://blog.goo.ne.jp/8417chiharu/e/9c00d82ffd651a214d8c1c187167631b
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c145

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
146. 中川隆[-11260] koaQ7Jey 2019年3月23日 17:45:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[749]

個性的で色濃く鮮やかな・WEリアルサウンド 2019年02月24日
https://blog.goo.ne.jp/8417chiharu/e/640302824443db839b056f63f28493df?fm=entry_awc


わがスピーカーは演出の道具

前のブログで、生意気に書かせていただきましたが、
そもそもスピーカーの目的は・・・・・

声や楽器音などの自然音の音波を

マイクで拾い電気信号に変換して、保存もしくは増幅し

その信号を再び、元の音波と同様に振動させ、その音を再生することが、目的ですね

その存在意味からすると、本来は「忠実再生」HI・FIが目的なんだと思います

しかし、我が国ではHIFIあまり聞かなくなりましたね、死語となったのでしょうか?

海外では未だに多く見かけられますが、何故か我が国ではほとんど聞かれなくなりました


わが国で聞くキャッチフレーズは、


その存在を消す、スピーカーが消えた・・

バランスの整った・優れた音楽再生能力

音楽だけを奏でる

そこには音楽だけがあった・・・・等々

忠実再生とはまた少し違う、「スピーカーの存在を消す」という考え方が主流のようです


オーディオを愛する、皆さんご自身にとっての、スピーカーの存在ってどうでしょうか


HI・FI再生機器?


立体音像再生機器?


感動音波表現機器


マッサージ機器?


私にとってのスピーカーは、原音忠実&濃い〜彩&説得力ある表現力・・・、

私はWE製品は今の無色透明を目指す日本製品の反対で、

WEは個性的な濃い音色を持った製品だと思っています


彩や説得力は大切だと思います


最も濃い音色で、演技力が高かったサウンドが、WEサウンドだとも思っています

当時の最高の技術力を持った科学者やエンジニアが

小国の国家予算並みの超高額な資金を投じて奏でたとんでもないサウンド

そんな最高の演技力を持った最高のWE SOUNDが、やがて時代の流れの中で終焉を迎え

その音質のコストを下げて、

材質も下げ、誰でも扱えるように簡易的にした結果


多くの人に普及させることができたALTEC


その音質を引き締めて家庭でも楽しめるようにしたJBL


アンプでも、さらにゴージャスに豊かにを目指したマッキン


いやいや、WEを削ぎ落としてスリムにしたマランツ


やがてそれに力とキレと狂気をプラスしたレビンソン


そこからアクを抜いて、空気感・透明感を含めたクレル

当時の主張の強いオーディオ製品が大好きでした

実は私のオーディオは順序が逆です


クレル・レビンソン→マランツ→マッキン→WEと濃さを求めていきました(笑)

最も色濃く鮮やかに奏でる音響機器がWEだったのです。


主演男優の男らしいかっこいい哀愁溢れるセリフも

主演女優の冷たい吐き捨てるような非情なセリフも


その演技力以上に魅力を増す、音声感情付帯増加装置がWEだと思っています


ちなみに演技力って人を騙すことや、ごまかすことではないと思います

演技ではない素直が一番?

正直が一番・・・・・

素顔が一番・・???

ホントだろうか、私は夫婦も家庭も会社も演技が必要だとお思います

演技と見破られない演技

相手のことを想い、相手を喜ばせるために演ずる技

それはバレることは無い演技

相手のことを想って演じれば、バレるというか、それは真実とい


演技やちょっと彩を加えたりもするが、偽りではない

相手を想って演じるものは大切、身だしなみや化粧も同じこと

化粧は相手を想ってするものらしいい、中島みゆきさんの歌で知ったが


するとしないでは大違い、


大きな声では言えないが私もまざまざと毎日見せつけられている

・・・・・・・


私は、演技も化粧も大好き、人や個性があるから楽しいい


スピーカーの存在を消す?キャッチフレーズの

自分の存在を消すことが目標だという、某楽器屋さんのスピーカーや

それとマッチしたと言われるアンプは私には理解できないだろう

個性豊かに煌びやかに艶やかに

これを一番手軽に感じられるWE製品は、

WE618Bトランスかもしれない

WE141Aブースターアンプやラインアンプに使われ、

史上最高の演技力を持つマイクと言われる鉄仮面にも内臓されていたWE618Bトランス


これをMCの昇圧トランスして使えば、WEの華やかさ演技力が感じられると思う

高音質で高性能なトランスだと思って、使い方を誤れば

ちょーケバいトランスになってしうこともあるが

その評価は市場価値が物語っている、音がいいトランスはほかにも沢山あるとお思います、

EMTの切れ味はベリオンの方が上、

SPUの力ならJSの方がある


でも華やかな演技力を持った説得力は・・・・・、


そんなわけで

我がシステムは一応、原音忠実再生を装いながら


WEの演技力、説得力、華やかな彩をプラスした


なんちゃってWEサウンドシステムを目指しています
https://blog.goo.ne.jp/8417chiharu/e/640302824443db839b056f63f28493df?fm=entry_awc
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c146

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
147. 中川隆[-11259] koaQ7Jey 2019年3月23日 17:48:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[750]

自分で所有したスピーカーで最も長く使用しているのが何と言ってもJBL LE8Tだ

40年までとは言わないが37年間の付き合いになる

色々な箱に入れて使ってきたがやはり私は平面バッフルが一番好きだった

ステレオサウンドに出ていたサブロク板を使ったバッフルで

かなり大がかりなものなので今は残念ながらスペースの関係で

しまいこまれている、また引っ張り台してこようとは思っている


この8Tは三回くらいはエッジを貼り替えている

今度はコーン紙を全部張り替えようと思っている

何年使っても飽きないこのユニットは本当に気に入っている

大音量でも小音量でも良く鳴るユニットだが

音の響きがバスレフ箱だといまいちだった


この気に入っていたLE8Tだったが、

20年ほど前に、あるショップで知り合った方がLE8Tは”妥協の産物”

フルレンジスピーカの成れの果ての姿

と私に言い切った

(>_<)じゃあ何が本物ですかとの私の問いに

ウエスタンエレクトリックのWE750次いで755Aが元祖


でも本当に最高のフルレンジは555+15Aホーンだね

これを聴かずにフルレンジは語れない


と言い切ったオヤジがいた

あの頃からウエスタンファンは妥協知らずで傲慢で横柄で・・・


まあの時は頭にきたが言われたとおりであった


もう少しやさしく言ってくれれば付き合いがあったかもしれないが


あまりの傲慢さにその人とは会っても二度と口を聴かなかった

でもその言葉があったからWE755を気に止め、やがて手に入れたのかもしれないが・・
https://blog.goo.ne.jp/8417chiharu/e/5c273619cb883e03c3f5921bce7c2cfa?fm=entry_awp
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c147

[リバイバル3] ジャズ喫茶「ベイシー」の選択 _ JBLの本当の音とは 富山誠
131. 中川隆[-11258] koaQ7Jey 2019年3月23日 17:51:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[751]

フルレンジスピーカー2 2013年10月21日
https://blog.goo.ne.jp/8417chiharu/e/5c273619cb883e03c3f5921bce7c2cfa?fm=entry_awp


長年オーディをやってらっしゃる方なら

一度はフルレンジスピーカーをお使いになった経験がおありだろう


私が始めて使ったユニットもフルレンジユニットだった

大昔、私が中学1年のころ伯父さんが、コンポーネントステレオなるものを買い

古いセパレートステレオを私にくれたのがオーディーオの始まりである

そのテクニクスのセパレートステレオに使われていたのが

ゲンコツユニットだった


レシーバーを取り外し、サンスイのプリメインアンプを取り付け

格子のフロントグリルをはがし使った思い出がある


音は良く覚えていないがあまりぱっとした音では無かったような気がする

電球のようなものが真中についていて、

子供心にそのユニットをかっこいいーとは思わなかった

その後ユニットをLE8Tに変えて、バッフルを米松に変え長年使った
これは30年前の写真
LE8Tを当時最新のクレルのKSA50で鳴らしていた、懐かしー

そう言えば色々なフルレンジユニットを聴いてきたなー

フルレンジと言えばまず個性的な

グッドマン アキシオム80エッジレススピーカー

これはだれもが知る名器中の名器

この何とも魅惑的なスピーカに惚れた方は多いのではないでしょうか

オールマイティーなフルレンジなどあまりないが

このスピーカーも好みが分かれる個性的な麻薬的なユニットだ

大音量はもちろん無理、それを求める人は絶対に使わない

管弦楽室内楽声楽がお好きな方はこの世界にはまるのではないでしょうか


大音量が出るフルレンジではJBL D130

平面バッフルでこのユニットを使っている音を聴いたが

かなりのものだった、バスレフ箱やバックロードで使っている方は

ほとんどが175DLHや075を追加していてツーウエイで使われる方が多かったが

このバッフルで鳴らしたD130の反応の速さと響きの良さは格別だったなー

ローサー?ラウザーが正しいの?バックロードの箱に入ったものを聴いたが

バックロードの割に低音が出ていなくてなんかスカスカしていたような気がした


ジョーダンワッツ、このユニットの良さがわからなかった、何がよかんたんだろう

このユニットをたくさん使ったステレオラも聴いたが良くわからなかった

煩いだけ?

またちゃんとした機会があったら使ってみたいものだ


ダイヤトーンP610も使っていたが

これは本当に良い音がするユニットだった

あまり国産ユニットは使わなかったがこのP610にはまいった

文句のつけようがないスピーカーだったスピーカーの優等生

ある一定レベルの音量までは全く文句のつけようがない

こんなの使っていたらオーディオが終わっちゃうよ

と言って手放したスピーカーだ


自分で所有したスピーカーで最も長く使用しているのが何と言ってもJBL LE8Tだ

40年までとは言わないが37年間の付き合いになる

色々な箱に入れて使ってきたがやはり私は平面バッフルが一番好きだった

ステレオサウンドに出ていたサブロク板を使ったバッフルで

かなり大がかりなものなので今は残念ながらスペースの関係で

しまいこまれている、また引っ張り台してこようとは思っている


この8Tは三回くらいはエッジを貼り替えている

今度はコーン紙を全部張り替えようと思っている

何年使っても飽きないこのユニットは本当に気に入っている

大音量でも小音量でも良く鳴るユニットだが

音の響きがバスレフ箱だといまいちだった


この気に入っていたLE8Tだったが、

20年ほど前に、あるショップで知り合った方がLE8Tは”妥協の産物”

フルレンジスピーカの成れの果ての姿

と私に言い切った

(>_<)じゃあ何が本物ですかとの私の問いに

ウエスタンエレクトリックのWE750次いで755Aが元祖


でも本当に最高のフルレンジは555+15Aホーンだね

これを聴かずにフルレンジは語れない


と言い切ったオヤジがいた

あの頃からウエスタンファンは妥協知らずで傲慢で横柄で・・・


まあの時は頭にきたが言われたとおりであった


もう少しやさしく言ってくれれば付き合いがあったかもしれないが


あまりの傲慢さにその人とは会っても二度と口を聴かなかった

でもその言葉があったからWE755を気に止め、やがて手に入れたのかもしれないが・・

https://blog.goo.ne.jp/8417chiharu/e/5c273619cb883e03c3f5921bce7c2cfa?fm=entry_awp
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/402.html#c131

[リバイバル3] オールド QUAD の安物アンプは名機なのか? 中川隆
42. 中川隆[-11257] koaQ7Jey 2019年3月23日 18:08:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[752]

QUAD QA12/P について(1)2017-01-29
https://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/261771bd82de9f5f8fa85d4f87c48019

 英国の有名なアンプメーカーQUADの創始者Peter・J・Walkerは1936年に10代で”Acoustical manufacturing company”をロンドンに設立し業務用拡声装置を作っていた。アンプの出力管はKT66ppでそれらしき写真が残っています。
 

  
 回路などは不明ですが僅かに見えるトランスの形態はその後の物と似ている気がします。

 第二次世界大戦後の1949年には家庭用の音響機器を開発するようになりQA12/Pを発表します。QA12/Pは"Quality Amplifier 12 Watt with Preamp"ということだそうです。
 

 

 


 QA12/Pはその名の通りプリメインアンプですが各々は分離可能です。またプリアンプの入力は写真からホーンジャックで回路図では負荷抵抗が1.5MΩなのでクリスタルカートリッジが接続されたと思われます。アンプと同時期にFMチューナー(写真)、コーナーリボン型スピーカーなどが発売された。

 その後現在でも現役で多数稼働していると思われる英国を代表するアンプ、1951年にQUAD T、1953年にはQUAD Uが発表されます。
 

 写真を比べると時代の流れを感じはするがやはり同一人物が設計したという印象が強く、根本は変ってない気がする。"QUAD"は"Quality Unit Amplified Domestic "の略で社名ではなかった(1983年に正式に改名)。1950年代にプリアンプのQC2はステレオ化されQC22となり(「魔法」と言われた)また有名なコンデンサースピーカーのESLが発売されたり、、とまさに黄金期で大英帝国の面目躍如と言ったところ。さぞかし光り輝いていたのでしょう。ESLは20年以上に渡って、またQUAD Uは18年間に8万台が製造された。
https://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/261771bd82de9f5f8fa85d4f87c48019
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/840.html#c42

[リバイバル3] オールド QUAD の安物アンプは名機なのか? 中川隆
43. 中川隆[-11256] koaQ7Jey 2019年3月23日 18:10:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[753]

QUAD QA12/P について(2)2017-01-29
https://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/6fdfb13d15f369835e804d52fbabb742

 
 この記事によれば製造は1948年〜1951年の3年間、BBCへ供給、プリアンプなしのQA12は14.5£、プリアンプ付きのQA12/Pは21.0£となっている。

 

 


 QA12/Pがどれくらい現存しているかはわかりません。拙宅に居るのはQA12(プリアンプなし)10数年前に海外オークションで入手しました。かなり改造されていてコネクターが増設されていた。QUAD T のように仕立てたと思われた。


 

 

 
 当初は不動。チョークコイル断線、電解コンデンサーは寿命が来ていた。シャーシはかなり手が入っていたが幸いに内部はオリジナル度が高い。
 チョークコイルはテフロン線を入手して自分で巻き直した。煙突のような電解コンデンサーは中身をほじって入れ替えた。当時試聴してもらった方々の感想は概ね良好でQUAD T に似ている(そりゃまあ、、)というもの。
 その後写真のST管タイプのOSRAM KT-66を入手して装着しています。この貴重なtubeは太いのでQUAD U には装着できない。ただシャーシの構造でソケット部が沈み込んでいないのでちょっと「頭でっかち」な印象は拭えない。
 電源は3パターンの電圧に対応している。  シリアルNoは211
 
 QA12の回路図

 ちなみにQUAD T

 QUAD U

 QUAD TとU は少々異なるようですがQA12とQUAD T は同じように見える。トランスの形状も端子の位置が異なるがよく似ている。したがってQUAD T とQCはプリメインアンプのQA12/Pのメインアンプ部をモノラルレコード再生用にイコライザーを充実させたプリアンプと組み合わせた商品構成だったようです。

 QCの回路図   
 


 QA12/Pのプリアンプ部の回路図と貴重な内部写真 パネル部
    
 パネルの表示は残念ながら切り替えスイッチの部分は判読できない。


 数年ぶりに通電してみる。200Vなので昇圧トランス

 200V入力、100V出力のトランスを逆にして自作の木製ケースに収めたもの。3500円のジャンクですが大きくて立派。確か仲間で数個は購入している。

 WE755Ax2を繋いで7Ω出力で試聴。。
 なかなか、、良いです。。最初はちょっとハムが混じったりざらついてましたがすぐに落ち着きました。。っと思ってたら歪みっぽくなって来た。チェックしたらカップリングコンデンサーがアウト。要交換ですが銘柄は何にしよう??英国アンプは色々と面倒な作法がある。

 プリアンプ部のシャーシケースは特注品。「タカチ」のHPを見ていたらMBFシリーズは1mm単位で特注を受けてくれるとの事なので初めてお願いしてみました。
 直接注文したら「代理店を通してほしい」との事。で隣町のパーツ屋さんからお願いしたら約1週間で入手できました。ただし形状、材質はMBFシリーズなのは仕方がない。とりあえず本体と連結してみる。

 板金して買ってきたグレーのスプレーを吹いてみるが
 
 全く色が一致せず。黒を吹いてもだめ。オリーブドラブかと思ってコンバットごっこ用のスプレーを注文した。。また不鮮明な写真からパネルを推理する。。しかし切り替えスイッチ(最下段)の表示は判らない。どなたか現物をお持ちの方はおられませんか??ぜひ教えていただきたい。

 仕事の合間にちまちまと進めます。端子板を作ってみる。
 

 


 3枚重ねで絶縁と高さ合わせ。

 注文してたオリーブドラブのウレタンスプレーが来ました。2液混合のスプレー!使うときはしっかり準備が必要。

 天気が良い午後に吹いてみる。きちゃないのはウェザリング(ウソ)

 ウレタンが硬化していないが分かっている部分のレタリングを入れる。下段の表示は右半分は "CONTINUOUS OUT" ではないかとの情報が入る。

 続いてコンパスの芯を釘に置き換えた即席デバイダーで引っ掻いてアルミの地を出す。

 、、だからきちゃないのはウェ、、、。

 透明シールにプリンターで印刷したいと毎度思うのだが白色(色ではないが)印刷はインクジェットではできない(と思ってますが、、)文字もインレタではフォントが限られる。何かいい方法がないものか。特注はお金がかかるし、、。

 ボリュームは2MΩ。手持ちはないので奮発してA&B製を新規購入。結構高価だし北米製だし。。ロータリースイッチは3接点、2回路(以上)で手持ちの日本製。チキンヘッドのつまみはQA12に付いていたのと同じのがラッキーにも入手できました。

 チキンヘッドは多数出てますが色々な形状があります。

 で完成しました(ウソ)。


 
 ボリュームとロータリースイッチと端子板だけのドンガラです。オリーブドラブの色合いが違うけどあと60年くらい経ったら色あせて似てくるかもしれないし(、、なわけないか)。
 、、っと眺めていたら、、なんと!「BASS」のはずが「BASE」になってる〜!!せっかくクリアー吹いたのに。。
 しょぼしょぼ直してこれから内部配線にかかります。


 基板の材料は適当なのが見当たらなかったので既製品を改造。端子を引き抜いて新たに穴を開けて端子をネジ止めして並べる。実は最初はリベット止めしようと買ってきたのだがリベット叩いたらベーク板が割れてしまって作り直し。リベットは諦めました。
 基板のサイズは多分QA12本体と同一(端子数は異なる)と思われるので実測してカットしています。端子間が広いのは当時の抵抗、コンデンサーが大きかったため。

 入力ジャックと真空管ソケットも加工して取り付け。
 


 これで配線できます。

 部品が揃わないのでまたちまちま行きます。配線はエンパイアチューブに錫メッキ線

 寒い連休で各地に大雪だそうです。でも雪国はそうでもないという話もある。普段と異なる状況だと大混乱するが雪国では日常なのです。 真空管周りが済みました。。

 でもコンデンサーはまだです。どうしようか思案中。トーンコントロール部分もまだ。
 内部写真では真空管ソケット周りがごちゃごちゃしているので迷ったのですが整理して端子板に移してます。特にコンデンサー類は交換しやすいことを念頭に置いて。
 あんまりこだわりすぎるといつまで経っても未完成のままでそのうちに飽きがやって来る。自分の性格と相談しながら進めてます。コンデンサーもとりあえず取り付けて動作状態になってからゆっくりとそれらしきものと(なんだそれ?)取り替える。

 
 トーンコントロール部なども配線した。パスコンのみまだです。肝心のtubeは「ECC35」ところが調べてみると結構高騰している。6SL7GTはそれほどでもない。これはどういうことか?どっちにしても手持ちはないので6SN7で通電してみましょう。

 本体のQA12はカップリングコンデンサーが逝ってます。2本のうち1本はすでに交換されていたがもう1本はオリジナルの「HUNTS」ダメになってたのは(当然)こちらの方。

 適当な0.1μFに交換して他を見渡すと抵抗器が切れていて新たにパラに繋いだのがある。オリジナルの(切れた)抵抗器を外してなくってよかった。チョークコイルの下に隠れていたカソード抵抗180Ωは切れていて220Ωになっている。そして端子板に取り付けられている電解コンデンサーがパスコンでした(回路図は25μF 50Vだが50μFに)

 ただ端子板を利用してコンデンサーが固定されているのですがどうも回路図とは異なる端子に繋がっている。。まあこのまま行きましょう。。というのも唯一入手した内部写真でも同じところに「HUNTS」のコンデンサーが入っている。これがオリジナルなのかもしれない。

 太い錫メッキ線買ってきて本体と接続。パスコンとECC35無いけど6SN7刺して初めて通電してみる。

 本体のメインボリューム(メーカー不明)を絞り切ると音量が最大になる!というトラブル発生。しょうがないので外して分解してみる。
 
 抵抗体は無事のようで導通体部分の接触不良のよう。良かったです。掃除して組み立てて完了。

 改めて聴いてみる。切り替えスイッチ、トーンコントロールは効いている。適当なパスコンを繋いでしばらく聴いてみます。

 と思ってたらコンデンサー到着。ヨーロッパ製。。

 英国からジャンクのコンデンサーが届くのはもう少し先になると思われるのでこれで一応蓋を閉じます。

 蓋したらS/Nはかなり改善しました。
 6SL7も到着。ただしRCA製。電圧を測定すると回路図記載値よりかなり高めで気になる。元々のB電圧も高い。ヒーター電圧を6.3Vにした入力電圧レンジ設定にしています。ところがヒーター巻線は中点アースのはずだが固定抵抗でハムバランサーらしき回路が追加されている。これを外したらヒーター電圧も上がるのかもしれない。
https://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/6fdfb13d15f369835e804d52fbabb742
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/840.html#c43

[リバイバル3] オールド QUAD の安物アンプは名機なのか? 中川隆
44. 中川隆[-11255] koaQ7Jey 2019年3月23日 18:12:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[754]

QUAD QA12/P について(3)2017-02-18 22:11:13
https://blog.goo.ne.jp/kobmina/c/5cebf170c0a78ee529076a714d3cf400


 ようやく動き出したQA12/P。数日間聴いてみました。

 S/Nは良好、おかしな挙動もありません。入力信号が大きすぎると歪むので注意が必要。トーンコントロールはわずかに効きます。2段階切り替えののゲイン設定は適度でボリュームの位置も適当で使いやすい。
 音質は? 古い英国製品だから濃厚なブリティッシュサウンドのはず、、だけど正直私にはわかりません。目が覚めるようなクリアーな音でもないし、ロンドンの霧がかかったような音でもないし。WEと比較しても業務機と民生機の違いは感じるが、、程度。
 それよりも強く思うのはインテグレーテッドアンプとしての完成度。写真では無骨なシャーシに無造作に真空管、トランス類を並べただけの本体にそっけない箱に入ったプリアンプをくっつけた素朴な佇まい、にしか見えないし確かにそうなのだが、高密度にレイアウトされた配置と赤い真空管、シャーシの色彩などやはりQUAD U をデザインした人の作品だということを改めて感じる。英国製品の品の良さ、(BBCに納入されたらしいが)居間に置いてもマッチするような大きさ、雰囲気。正直このセンスには脱帽、痺れます。たとえ音が出なくてもオブジェとして飾っておきたいくらい可愛らしい。

 KT66をGECのクリアーにしています。STタイプのKT66は貴重なのですがQUADにはやはりこちらの方が似合うようです。真空管の間隔も絶妙。

 ソケットの向きの関係でGECのシールが裏側に隠れてしまって残念。(このシールに憧れて以前レプリカを作ったことがありました)

 お読みいただきありがとうございました。

 後日談1
 英国からジャンクのコンデンサー(HUNTS,TCCなど)が届きました。テストして使えそうなものを装着しています。

 音味の変化はやはりあってちょっとくぐもった感じです。これが英国風なのか?しばらく聞いてみます。。
 それから6SL7だと入力オープンで発振(!)します。仕方ないのでまた6SN7に戻してます。
https://blog.goo.ne.jp/kobmina/c/5cebf170c0a78ee529076a714d3cf400
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/840.html#c44

[リバイバル3] オールド マランツ 中川隆
47. 中川隆[-11254] koaQ7Jey 2019年3月23日 18:15:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[755]

Marantz Model 7C について 2016-08-13
https://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/1aebf4f5514c7c8355865812a812e483

 Marantz社でというか世界で一番有名で人気のあるアンプ。発表は1958年12月なので実際の発売は1959年から。1958年にステレオLPレコードが登場しそれに対応した最初期にして究極の真空管式プリアンプと言われ続けて60年近い。

 このパンフレットは「Model 7C」ではなく「Model 7」になっています。両者の違いは定かではありませんが外観上の違いとしてはツマミの大きさが異なっていてそれに伴ってパネルも。また電源スイッチは「Model 7K」みたいな幅の狭いもの。価格は$249でキャビネットは別売り。

 最大の特徴は(私は)オーディオ製品としての完成度の高さだと思います。電源内蔵で適度な大きさ、高級感のあるデザイン、誰もが認める名機としての地位、音が良いと言われていること、、など所有することの満足感を満たしている。大量に生産され(13000台と言われている)廃棄されたものは無いと思われるので世界中に残っている。大変高価な製品だったので扱いも丁寧で改造されているものも少ない。欠品すると稼動できないような特殊部品もなくすべて汎用部品で賄うことができる。など生き残るのに良い条件が揃っている。
 その中でも人気の一番の要素としてやはり「デザイン」が大きいと思っています。「Model 7C」のデザインが嫌いという人にお目にかかったことがありません。好かれる工業デザインの要素が詰まっているのではないかと素人ながら思います。流通価格も高値安定でオーディオ骨董としての地位は揺るぎない。

 13000台も存在するとして60年近くも経過すれば1台毎に状況は異なるのは当然です。その状況により同じ「Model 7C」でも価値に差が出るのは理解出来る。一般の骨董と比べて骨董工業製品は比較がし易いのです。
 比較要素を考察してみると

 1 シリアルNo  骨董品の常で古いものが珍重されます。最初期、初期、中期、、シリアルNo10000番から始まるとされる最初期の1000台までは特に。シリアルNoはプレートと本体シャーシ、そしてフロントパネル(未確認)にもスタンプされているので誰にでもわかる鑑別点。ではシリアルNoによる製品の違いはあるのか、、という疑問がありますが6年間にわたる生産期間なので極一部の使用部品は異なっています。一番分かり易いのはメインボリュームで途中で米国製品から日本製品へと変更されました。その他ではフロントパネルの色、厚み、シャーシの色なども。また一説によると大量生産のため途中から配線力量が低下しているという事も言われるようですが私にはわかりません。ただ全体に漂うオーラのようなものは初期製品から感じたことはあります。

 2 使用環境  酷使されたものは傷も多く見た目が悪い。やはりキレイなもの(ミントコンディション)が望まれる。(ということはずっと仕舞ってあったのが一番で使っちゃダメか?)喫煙環境で酷使されていたものなんて触りたくも無い、、のが一般的心情。 

 3 修理状況  度重なる修理でネジが痛んでいたり各パネルに傷があったり。内部を見たときに穏やかな状況かどうか、、。半田コテが入っている場合は何らかの事情があったわけで。コード類がコテによる焼けがあったりしては敬遠される。メンテナンスの力量、センスが問われる。個人的な好みは「何事もなかったような」

 4 交換部品  工業製品ですので部品の経年劣化は避けられない。代表格は真空管、セレン整流器、コンデンサー。オリジナルの真空管は「telefunken ECC83」だと思いますが大量生産品でも次第に数が減って現在入手できるオリジナルのダイヤマーク(♢)が底にあるものは高値で取引されています。1980年代では日本でも普通に1200円程度で入手できましたので10倍〜20倍といったところ。しかしこれは需要と供給のバランスで仕方ないかもしれない。「telefunken ECC83」が高音質かどうかはわかりませんが低雑音だったことは確かなようで「Model 7」のカタログスペックを満たすには必要だったようです。セレン整流器はヒーターの直流点灯用ブリッジタイプのと高圧B電源用の半波整流のもの2種類でほとんど劣化しています。劣化すると内部抵抗が高くなり必要な電力が取り出せなくなり電圧が降下する。特にヒーター電圧が低下するとかなり支障が出る。メンテナンスされているものは大抵はダイオードがセレンにパラ接続されていることが多い。(ダイオードの入れ方もセンスが問われる?)しかしダイオードから発せられるノイズを嫌ってセレンを入手、取り替える場合も多く専用セレンの需要もあるため流通しています(入手したことはありません)2個で30000円〜40000円とこれも驚かされる。(でも必要と感じる人がいるのですから)コンデンサーについてですがセレンは細々でも現行品が入手できるがコンデンサーについてはオリジナルと同じものは生産されていないため新品は入手できません。もともとオリジナルはsprague社のバンブル・ビーという黒のボディーにカラーで縦線で容量表示したものでした。このコンデンサーも大量に生産されたので現在でも当時のものが流通しています。黒色ボディは樹脂の色ですが、未使用品でも経年劣化があり樹脂にヒビが入って使用不能になっているものがほとんどです。コンデンサーの役割として直流を遮断する場合が多いわけで劣化が進むと遮断しなくてはいけない側に電圧がかかってしまい動作に不具合を生じてしまう。コンデンサーの種類もいろいろあるので容量と耐圧が合っていれば代用品でも構わないわけですがオリジナルを重視する方々にはそれは許されない。したがって怪しげな骨董コンデンサーが1個数万円で取引されている、、。(すべて使用不能というわけではないので適切な試験(規定の電圧をかけてリークを測定する)をパスすれば問題無い)市場が大きければ再生産もありうるわけですがやっぱり儲からないのでしょうね。当時なぜソウル・B・マランツはバンブル・ビーを採用したのか、、はいろいろと述べられていますが企業としてはコスト、パフォーマンス、安定供給など考慮してとのことだと思います。「コンデンサーの種類による音質の意図的な構成」は無かったのではないでしょうか?一説によるともっと高価で高信頼のものを使いたかったがコスト面で断念したと。
 ボリューム(音量とバランス)は途中でメーカー自体が変更されたわけですが、60年近く経って劣化に伴いバリバリ雑音が出てしまう所謂「ガリオーム」状態になっているのが多い。我々素人のできることは唯一気の済むまで(我慢できる範囲まで)「グリグリ回す」事くらい。接点復活剤も「一時しのぎ」ばかりか「害になってしまう」という記事をよく見ます。さて問題はどうやってもガリオームから脱出できない場合にどうするか、、ということ。一般製品の場合プロは躊躇なく代替え品に交換するだろうが愛好家にとっては「Model 7C」のボリューム変更は「許し難い行為」ということになっています。分解整備する猛者も当然存在する。もしももしも取り替えるのであれば新しくても古くても初期製品に用いられた「クラロスタット製品」に限ると。何処に代替え品があるのか、、と思ってしまいますが需要があるためか一応入手ルートはあるようです(他人の話)ただしボリューム1個で100.000円だったそうで(実話)何処の国で生産されたかもわからないモノがとにかくすごいことになっています。なぜこれほどまでにクラロスタットにこだわるのか。もともとボリュームは信号を減衰させるもので抵抗体と摺動子との接点があり音質を悪くする要素しかありません。なるべく音質を落とさないように、また長期信頼性は大切な要素です。ボリュームによって音質が向上する事は決してないがツマミを回した時の「ねっとりしたフィーリング」や「音量調整のしやすさ」などが関係しているのではないかと思っています、がそれだけでは説明にはならない。動的な状態を維持確保しながら骨董品的なオリジナルの尊重という観点からなのでしょう。(「お前は分かってない!」という声が聞こえる、、)

 5 音質    数台の「Model 7C」を並べて試聴できるような環境であれば「音質」も比較要素だと思います。一台毎に異なると言われていますし事実だとは思います。もともと「Model 7C」は安定動作させることが難しいアンプだということらしいのです。発端は「コピー、レプリカ、キットなど同一回路で製作したアンプ類が音質評価においてオリジナルには全くかなわない」という共通認識にあります。これについても異論を唱える人を見たことがないので(多分)事実だと思います。私も長い間『Model 7K』を使っていました。諸先輩方のアドバイスでダイオードからセレン整流に変えたりロータリースイッチの切り替えフィーリング(カチッという音など)を一生懸命調整して「結構イケてるのではないか」と思っていた。ある日オリジナルと比較試聴できる機会がありましてようやく「目が覚めた」これは幸せなのか不幸なのか、、比較しなければそれなりの満足感にひたって音楽を楽しめていたと思います。では同じ回路、部品構成でなぜ異なるのか、、。色々と考察されてきてオカルトまがいの説まで。測定技術進歩で解析できているのかもしれないが私は寡聞にして知りません。よく言われるのは不安定な回路構成による発振についてで、寸前の状態が一番望ましいというもの。なかなか凡人には理解できない世界です。私なりの結論は「オリジナルのModel 7Cで故障なく動いていればいいのではないか」というありきたりのものです。技術のある方は目標に向かってチューニングすればよい。ただし私の見てきた範囲ではチューニングは「部品交換によっていかにもとの状態に近づけるか」以外は知りません。spragueバンブルビーですが、音質に与える影響について賞賛する記述は多いようです。オリジナルパーツですので多少リークがあっても使いたいという心情も理解出来る。メインテナンスで交換するか否かの判断はとても難しい。リークが進めば次段のグリッドバイアスがプラスになってしまうので動作はめちゃくちゃになってしまいます。もちろん本来の音は望めない。でも世間では「それでも良い。オリジナルが大切」という人も居るのです。これもアリの世界。劣化したバンブルビーを健全な同品と交換、、が一番目にする高額メンテナンスパターンですがどこまでが健全かは(高圧での絶縁抵抗値)は闇の中。また交換したコンデンサーがいつまで働いてくれるかもだれも分からない。でもこれもアリ。もちろん良心的なメインテナンスを行う業者がほとんどかと思いますが。


 このマニュアル、回路図は「Model 7」とあります。回路はその後の「Model 7C」と同じです。したがって「Model 7」から「Model 7C」への変更は意匠の変更だったようです。「Model 7」は何台作られたかわかりませんが私はパンフレット以外写真ですら見たことがありません。激レアなのでしょう。ファンクション切替とバランスボリュームは操作する頻度としてはボリュームなどと比べて低いのでこのデザインもアリだと思うのですが、なぜ変更されたのでしょう?大きいツマミが2個、小さいツマミが6個でバランスが悪かったのか、ファンクションの記述がごちゃごちゃしていると判断したのか、、。ソウル・B・マランツさんに話しを聞きたいです。

 回路の特徴は散々言い尽くされてきたので今更、、ですが。最大の特徴の3段EQで6本の12AX7の3本を使っている。EQの終段はカソードフォロワーで1本を左右に振り分けている。これはプリ出力段のカソードフォロワーも同一。カップリングコンデンサーは0.47μFと0.22μFで各々2本必要。入力切り替えとボリュームの次は12AX7を左右1本ずつ使って2段増幅してまた0.22μFでトーンコントロール素子へ。この6本のコンデンサーが基板上に並ぶとかなりの存在感アリ。トーンコントロールは中点がスルーポジションという優れもの。


「Model 7C」メインテナンス その1
 修理依頼のあった「Model 7C」です。シリアルNoは10400番台なので最初期のもの


 
 トラブル内容は片ch出力しない。出力する側のトーンコントロールが効かない。出力ゲインボリュームの調整が効かない。入力切り替えの不具合などなど。
 カップリングコンデンサはほとんど交換されているがそれ以上に残念な事は半田コテによる線材の被覆の焼け、基板焼け、シールド線の長さが足りない、などアタマの痛いこと多しです。線材の継ぎ足しや焼けた被覆をヒシチューブで保護したり、半田付けの修正をしたり、ひたすら掃除をしたり、、。トーンコントロールが効かなかったのは基板への配線が1本無かった(!)というもの。電源基板からの接続線もそうだが細く黒い被覆のより線が美しいカーブを描いて等間隔につながっている。全く同じ線材がない場合にどうするか(こっそりすべて取り替えてしまうか、1本を気の済むまで探すか)など。
 最後までトラブルが解決しなかったのが片ch出力しないということ。終段のカソードフォロアーは両chとも正常。前段2段の増幅段もしっかり稼動している(最初は誤配線で働かず)。原因はトーンコントロールについている結合コンデンサーが接地していたという不良だった。とりあえず両ch稼動するようになったが品格を上げるにはさらなる手入れが必要。しかしこれは音質の向上とは全く関係がありません。ある大家によれば内部を修復しても一度失われてしまった音の修復は不可能との事。あえて「なぜか?」とは尋ねないほうが夢がある。バイオリンなど楽器の修理、メインテナンスに近いものがあるのかもしれない。工業製品だが「匠の修理、修復」の存在する余地がある。
 機能的な問題は解決したので一応お返しした。巷で貴重と言われている最初期型なのでもう少し手を入れたいところだ、、などとイヤらしいことを考えてしまった。

「Model 7C」メインテナンス その2
 こちらはシリアルNo14000番台。かなりオリジナルに近い。


 しばらく(数年間)使ってなかったとのことで点検。カップリングコンがspragueのビタミンQに変更されている。コンデンサー類は外さないとはっきりとはわからないが問題ないことを祈ります。ヒーターセレンは問題ないがB電源は規定の電圧よりかなり下がっている。セレンの交換が必要。全体的にとても綺麗で品格を感じ好感が持てる。このまま音出しできるがガリオームあり。しばらくすると落ちついてきました。

 回路図から消耗コンデンサーを拾うと(( )は回路図の電圧の記入値)
 0.01μF 4本(153V,166V)    0.1μF 2本(153V)    0.22μF 4本(52V,161V)  0.47μF 2本(52V)   0.33μF 2本(1.7V)  0.01μF(セラミック) 2本
 このうち0.47μFまでが高耐圧オイルペーパーコンデンサ

「Model 7C」メインテナンス その3
 シリアルNo13000台です。しばらく(数年)使ってなかったもの。点検してみます。


 
 ところでフロントパネルを留めているネジは一応プラスの木ネジなのですが表面が湾曲している独特なもので入手が難しい。オークションで見かけて入手したこともあるのですが、、

 このネジはホームセンターネジをヤスリで加工して使っています。また上下パネルを留めてるネジは一説によると「Model 7」では2種類あって

 いずれもプラスのタッピングなのですが先端がとんがってるのとそうでないのがあるそうです。ちなみに「Model 1」はインチネジ、「Model 7K」ではイソネジ(ミリネジ)が使われています。


 鬼門のセレンですがヒーター電源用は取り替えられています。

 ヒーター電圧は1.5本で本来は18.9V必要ですがこの個体は17.2V(117V入力で)です。このままスルーします。。

 B電源用はオリジナルのようです。

 本来280Vですが実測値は215Vでこれはダメですね。高圧用セレンはやはり劣化しやすいようです。ここを正常値にしないと以降の測定値は意味が無くなる、、。

 コンデンサーはspragueバンブルビーから同じsprague160Pに変更されているところが多い。


 接続状態でもれ電圧を測ってみるとやはりバンブルビー部分はアウトのようです。外して測定すればだだ漏れ状態かと。
 またEQ初段には♢マークのECC83が入っていたのですがどうも不良でこれもアウト。もったいない、、。
 全体にメンテの手がはいっていますが品格は今一歩というところです。
 さてどうするかな、、。補修メニューを考えてみる。
  ・電源トランスは塗装がバリバリ剥がれている。何とかしたい。
  ・漏れバンブルビーは交換。使えそうなコンデンサーを漁ってみる。
  ・焼けているコードの修復
  ・手抜きのハンダ付けの修復
  ・ヒーター用セレンの取り付けビスを短く

 手をつけやすい所から、、カッコ悪いヒーターセレン取り付け部。ネジを短くしてスペーサーをなくす。


 一応生きてると思われるsprague160Pだがすんごいハンダ付け


 真空管ソケットにハンダ球がぶら下がっている。。全部吸い取って付け直す。外したコンデンサーも検査して漏れ無しを確認した。

 
 また漏れありのバンブルビーもはずしてメグオームメーターで250Vかけてみると、、やっぱりアウトでした。手持ちをしらべるとsprague vitaQがあったので付け替え。


 いずれも0.01μFですが漏れ無しでしばらく安心。


 以前のメンテナンスで交換されたコンデンサーの取り付けが他のパーツのリードから枝分かれしたようになってるのを根元から生える(!)ように修正した。


 またハンダコテで焼けたコードやコンデンサーはひっくり返して(!)見えなくした。。。われながら酷いもんです。乾いたかさぶたのように剥がれている電源トランスの再塗装はまた今度に。
 というわけで修復完了しました。ソケットに残ったままのリード線の切れ端は丁寧に取り除く必要があるので手早く行います。これを残したままのメンテナンスはやはり美しくない。ところが真空管ソケットに長時間加熱すると金属がもろくなって折れる恐れがあります。そうするとリベットを外してソケット交換するハメになる。また焼けたコードを交換することは同じのを入手することも難しいしかなりの勇気がいります。修復の際のハンダ付けや他に被害を及ぼさない配慮などメンテナンスする側の力量が問われます。一度破壊してしまうと完全修復するのは不可能に近いのです。大切な愛機の修理、メインテナンスはやはり信頼の置ける方にお願いするのが望ましい。信頼の置ける方というのは技術的に長けているばかりでなくオーディオ骨董に通じている方という意味合いがあります。なんでもかんでも部品交換してしまう方も見受けられますが相手は半世紀も経過したロートル、骨董です。全体に調和したやり方があると思っています。オーナーとのインフォームドコンセントが大切かと。

 カップリングコンデンサーをバンブルビーからvitaQに変更したのですが(やっぱり)音質が変化しました。スッキリ出ていた音に「ため」もしくは「つかえ」が加わってしまった。要は聴感上悪くなりました。。左右ch1ヶ所づつなのですが影響は大きい。「リークしていた方が良かった」というまたまた混乱する話です。数十時間は経過しないと評価はできないと言われますのでもう少し経過をみてみます。
 
 「Model 7C」の内部構造はわかりやすく整理されているので私のような素人でも部品交換はできます。しかしEQカーブの修正などは測定器が無いと不可能ですし、ガリオームなのか異常発振なのかの判断も同様です。高額で取引されている関係で「俄か匠」が横行し易い状況もあるように思いますが何度も書きましたがメインテナンスを依頼するときはまず現状をよく説明してもらいどういったメニューでメンテナンスを行うかをはっきりさせるべきです。新たに購入する場合はシリアルNo以外でもフロントパネル、バンブルビー、クラロスタットボリュームに目が行きますが本来のものなのか寄せ集めのものなのか、、難しいとは思いますが価格に見合った内容なのかを判断したい。骨董には目利きが必要で、何十台も見てきた玄人にアドバイスをお願いするのが良いかと(そんな人が身近な知り合いだったらいいのですが)。
https://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/1aebf4f5514c7c8355865812a812e483
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/635.html#c47

[昼休み53] 旭川女子中学生校内集団レイプ事件 中川隆
13. 中川隆[-11253] koaQ7Jey 2019年3月23日 18:38:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[756]

旭川女子中学生集団暴行事件の概要!加害者と被害者の現在は?
https://career-find.jp/archives/183950

旭川女子中学生集団暴行事件は、1996年12月に発覚した性的いじめ・暴行、強姦事件です。犯人10人に対し被害者は1人。そして加害者、被害者ともに中学生であると共に、卑劣な事件の詳細と教師の不適切な対応がメディアに取り沙汰されました。

旭川女子中学生集団暴行事件の概要


1996年12月、教師からの通報によって発覚した北海道旭川市の中学校で起こった集団暴行事件です。被害者は女子生徒1人。犯人は同中学校の男子生徒総勢10人と、近年例を見ない集団暴行事件です。

最初は少し「からかう」程度で、女子生徒も凄く嫌がるほどの事ではなかったのですが、その行為は徐々にエスカレートしていきます。

最終的に女子生徒を精神的に追い詰めるほどの悪質ないじめ、そして性的暴力にまで及んだこの事件は通報されるまで2年以上もの間続いており、被害者女子生徒の心と身体に酷く深い傷を残すものとなったのです。

1996年に北海道の市立中学校の女性を集団暴行


1996年12月24日、街中がクリスマスムード一色となるこの日。被害者の女子生徒が中学3年生の時に事件は起こりました。下校途中だった女子生徒は、3人の加害者男子生徒たちによって学校に連れ戻されます。

校内では主犯格の生徒を含め男子生徒7名が待ち構え、総勢10人の男子生徒たちに取り囲まれた女子生徒は「助けて」と叫び抵抗します。悲痛な叫びに手を差し伸べる者はいなく、校内の男子トイレに連れ込まれます。

トレイ内では殴るなどの暴行を受け、加害者生徒10人のうち3人は見張り役、6人の生徒は女子生徒の身体を触るなど弄び、1人の男子生徒は女子生徒を強姦しました。そして女子生徒に水をかけ水浸しにしたのです。

性的暴行や強姦を受け泣いているところを教師が通報

被害者の女子生徒はトイレ内での集団暴行被害を受けた直後、廊下で泣き崩れました。それを親友が見つけ駆け寄りました。そしてこの出来事を教師に訴えたのです。

話を聞いた教師は、まず女子生徒を家まで送り届け、その後警察への通報しました。この通報をきっかけに、それまでの2年をも超える長い期間の集団暴行事件が実態が明るみとなったのです。

事件があった旭川市立北都中学校について


1947年5月「旭川市立第七中学校」として開校。2年後の1949年9月に「旭川市立北都中学校」と改称。2015年に中央中学校が新設され(常盤中学校、聖園中学校と併せ統廃合)これにより閉校となりました。

現在も校舎は存在していますが、校舎の1階部分の玄関や窓には板が打ちつけられ、侵入が出来ないようになっています。体育館やグラウンドは中央中学校の部活などで現在も使用されています。

当時の北都中学校は、生徒たちが「学校美術館」と呼ぶほど学校内には美術品が飾られており、何故かトイレ内にまで美術品が飾ってあるという少し異質な雰囲気を醸し出していたようです。

事件当時は荒れた時代だった?

事件が発生した1996年当時、不良生徒たちの素行は酷く、この中学校では不良生徒たちが荒れ狂う動物園のような状態だったと言います。

この頃、加害者の不良生徒たちは中学3年生となり、自分たちが最上級生となったことでより一層狂暴化しました。校内を原付バイクで走ったり他の生徒にカツアゲをさせたり、時には教師を殴ることもあったようです。
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旭川女子中学生集団暴行事件の概要!加害者と被害者の現在は?
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旭川女子中学生集団暴行事件の時系列


この集団暴行事件は、女子生徒が中学校に入学した1994年、女子生徒が中学1年生の頃から実は始まっていました。当初は、その容姿からクラスのアイドル的な存在だった女子生徒をからかう程度の軽微なものでした。

しかし、加害者である男子生徒の1人が女子生徒に告白し振られたことで行為は次第にエスカレート。耐えられなくなった女子生徒は教師に報告しますが、教師は男子生徒を軽く注意する程度の対応しかしませんでした。

教師に注意された事で、女子生徒に怒りを覚えた男子生徒は暴走していきます。女子生徒を裸にして身体を触わり、口淫を強要し、最終的には日常的に性的暴行が繰り返されるほどの事態となってしまうのです。

事の発端は被害者となるクラスのアイドル的女子生徒に振られたから

中学1年生の2学期早々に、加害者である不良グループのリーダー格の男子生徒は被害者の女子生徒に告白しますが、女子生徒は告白を断りました。このことがリーダー格の男子生徒のプライドを傷つけたのでしょう。

女子生徒への好意は怒りに変わり、リーダー格だった男子生徒の「からかい」でしかなかった行為は日に日に悪質化し、「いじめ」や「性的暴行」へと変化していくのです。

1994年中学1年秋頃からスカートめくりが始まった


当時、不良グループの間では、被害者の女子生徒以外にも可愛いと思う女子生徒に対してスカートめくりをしたり、お尻を触るなどの行為を日常的に行っていました。

しかしお尻を触るというのは「軽く触る」ということではなく、特別教室に連れていき1人の女子生徒を数名で押さえつけ身体を弄ぶのです。昼休みの間、不良生徒たちが満足するまで身体を触り続ける行為だったのです。

被害者の女子生徒がスカートめくりのターゲットになったのは中学1年生の秋頃です。告白の一件の後から始まったのでしょう。不良グループからのスカートめくりは日常的に行われるようになっていきました。

リーダー格の男子生徒だけがしていた行為

被害者の女子生徒に告白する前から、女子生徒に想いを寄せていたリーダー格の男子生徒だけは、女子生徒のお尻を軽く触ったり胸を揉むなどの行為をしていました。

ただ、この頃はまだ被害者の女子生徒は男子生徒に胸を揉まれても、「ちょっとやめてよ」と笑いながら流す程度で、周囲にはふざけてじゃれあっているようにしか見えない対応だったようです。

女子生徒が本気で嫌がる素振りを見せなかったことも、加害者である男子生徒のその後の行為を助長させるきっかけとなってしまったのかもしれません。

両親に相談するが教師には言えずエスカレート


周囲にはじゃれあっているようにしか見えなかった行為も、被害者の女子生徒は本心では嫌だったのでしょう。実は早い段階で両親に相談をしています。両親からは「そんな人は無視しなさい」と言われます。

両親はきっと、中学生の男子が好きな子をからかう程度の「いたずら」でしかないと受け止めたのでしょう。悪質な事件に発展するなどとは想像もしなかったはずです。

両親からのアドバイスを受けた女子生徒は、教師には相談しませんでした。中学1年生という多感な年ごろの女子が、教師とはいえ他人に対して性的被害を話すことは、気恥ずかしさもあり躊躇したのでしょうか。

スカートめくり以上の性的いじめが始まる


この頃にはスカートめくり以上の性的いじめが始まっていました。リーダー格の男子生徒が振られたことで、不良グループの仲間たちもリーダー格の生徒と一緒となり、性的いじめをエスカレートさせます。

不良グループの数名で被害者の女子生徒を囲んでスカートの中に手を入れ、パンツの上から女子生徒の股間を触ったり、女子生徒の机にアダルト本を入れておいたりと卑猥な行為に変わっていったのです。
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中学1年秋に耐え切れず教師に報告
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被害者の女子生徒は、中学1年の秋には卑猥な嫌がらせに受けており、それに耐え切れず遂に勇気を出して教師に報告をします。報告を受けた教師は加害者の男子生徒を呼び出しやんわりと注意をします。

卑猥な嫌がらせをしても叱責されず軽い注意しか受けなかったこと、そして教師に自分たちの愚行を報告した女子生徒に対する怒りは、不良生徒たちの行為を更にエスカレートさせるきっかけとなってしまいました。

中学1年冬に裸にされる


教師からの注意を受けた後、不良グループの生徒たちの性的いじめは加速し、猥褻行為も悪質化します。中学1年の冬になると休憩時間に限らず授業中でも平気で被害者の女子生徒を連れ出すようになります。

加害者生徒たちは複数名で女子生徒を取り囲み、両脇を捕まえて強引にトイレや特別教室に引きずって連れていき、服を脱がして裸にした後その身体を弄ぶのです。口淫を強要するようになったのもこの頃からでした。

執拗に身体を弄ぶ行為は日常化し、行為は性交直前までいきます。しかしあくまでも性交直前までで性交渉はなかったのです。この性的いじめや猥褻行為は、中学2年の夏までエスカレートしながら続きました。

性交渉しないために必死だった

この頃、性交渉することがなく行為が性交直前で終わっていたのは、加害者生徒たちが寸前で止めていたというよりも、被害者の女子生徒が自分の身を守るため、殴られても必死に抵抗していました。

性交しない替わりに加害者生徒たちは女子生徒に敬語を使わせるようになり、更には口淫まで強要します。男子生徒たちは順番待ちの列を作り、入れ替わり口淫させるのです。

「性交渉だけは絶対にさせない」と、女子生徒は加害者たちのどんな要求にも応え、必死に耐え続ける日々を送るのでした。

中学2年夏に男子生徒の家に連れ込まれる

性的いじめ、暴力が繰り返されますが、被害者の女子生徒は誰にもそれを訴えませんでした。暴力や脅迫に怯えていたのでしょう。そしてそれが性交渉をしない為の最善策だと信じていたはずです。

しかし1995年、被害者の女子生徒が中学2年生の夏、男子生徒の家に連れていかれ逃げ場を失った女子生徒は、遂に強姦されてしまいます。これが女子生徒にとって初の性交渉でした。

この強姦をきっかけに、思春期真っただ中である加害者の男子生徒たちの性的興奮・欲求は抑えられないものとなり、女子生徒に対する性的暴力は更に酷いものとなっていくのです。

その後日常的に性的暴力が繰り返される

初めて強姦されて以降、被害者の女子生徒に対する性的暴力は日常化、更に暴力行為自体も悪質化はエスカレートしていきました。口淫の強要以外にも度々強姦されるようにもなってしまいます。

当初は女子生徒も必死に抵抗していましたが、その度に激しく暴力を振るわれます。夏休み前には肋骨辺りを骨折し入院していたそうです。そして酷く暴力に怯えるようになりました。

暴力から逃れるため

女子生徒は「なんでも言うことを聞くから痛いことはしないで下さい」と加害者生徒に懇願します。過激な暴力から逃れるため、女子生徒は抵抗することを諦めるしかなかったのです。

被害者の女子生徒は、リーダー格の男子生徒を「ご主人様」と呼ぶように言われます。ご主人様の命令は『絶対』です。反抗的な素振りを見せると殴られ、タバコの火を身体に押しつけられました。

美味しいミルクやご主人様の命令

以前と変わらず口淫を強要、射精後は精液を口から吐き出すことは許されていないので飲み込みます。そして「美味しいミルクをありがとうございます」と卑猥なセリフを言わされるようになります。

ご主人様に命令されれば、それがどの場所だろうと裸になり、命令されればどこであろうと口淫もしました。クラスメイトがいる教室内だったとしても裸になり、口淫しなければならないのです。

脅迫され追い詰められる


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殴るなどの暴力と並行し、被害者の女子生徒は「脅迫」を受けていました。その脅迫は女子生徒自身に対するものもあれば、女子生徒の家族をターゲットした脅迫もあったようです。

女子生徒は「兄貴とセックスさせるぞ」と言われたり「母親も犯すぞ」と脅されます。「家を燃やすぞ」という脅迫は、彼らの悪質性から本気でやりかねないと最も恐れていた脅しでした。

女子生徒自身も性的暴力を強要される度に「〇〇しないと全員で輪姦するぞ」「やらないと殺すぞ」などと常々脅迫されており、恐怖に慄く女子生徒は指示に従うしかありませんでした。
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1995年中学2年秋に男性教師が無視
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1995年、女子生徒が中学2年の秋には、放課後の教室で猥褻な行為をされているのを通りかかった男性教師が目撃しています。女子生徒は男性教師に向かって「助けて」と叫びますが無視されてしまいます。

女子生徒の悲痛な叫びを背にし、この男性教師は何を思ったのでしょうか。学校の評判でしょうか。それとも自分自身の保身のでしょうか。

この後、女子生徒が助けを求めたことに加害者の男子生徒は怒り、トイレに場所を移し女子生徒の後頭部を殴るなどの暴力、背中にタバコの火を押しつける暴行を加え強姦し、個室に監禁し水をかけたのです。

エスカレートしていく男子生徒たち


口淫や強姦が日常的に行われ、被害者の女子生徒も抵抗することなく従順な奴隷のようになると、加害者の男子生徒たちは「性的欲求」を満たすだけでは満足せず、性的いじめを悪質化させます。

可愛い女子生徒の身体を散々弄び、それが当たり前の日常となってしまうと、今度はまるで自分たちの『玩具』と言わんばかりに女子生徒に対し凌辱の限りを尽くしていくようになるのです。

男子生徒たちの女子生徒に対する性的いじめ・暴力は校内外の至るところで行われるようになります。近隣でも知られるほど有名で、旭川市内の他の中学校でも噂になるほどでした。

尿をためたペットボトル


加害者の男子生徒たちは、被害者の女子生徒に対しペットボトルに排尿することを強要し、その尿をためたペットボトルを教室に持ち込ませます。

女子生徒のいる目の前で、同じクラスの男子生徒に匂いを嗅がせ、その反応を見て笑い転げ合うのです。

また、家庭科教室から漏斗を盗み、その漏斗を使って空きペットボトルに尿をためて女子生徒に飲ませることもありました。

ノーパン命令


被害者の女子生徒が中学3年の1学期頃には、下着を着けずに登校するよう命令されます。そのころには加害者の男子生徒たちによって、陰毛を剃刀ですべて剃られていました。

毎日、リーダー格の男子生徒が登校すると「ノーパンチェック」があり、女子生徒は2階の男子トイレへと呼び出され、そこで下着を着けていないかチェックされるのです。

男子生徒が「ノーパンチェック」と呼称すると、女子生徒は自らの手でジャージをおろし下半身を露出し、下着を着けていないことを確認してもらいます。そして口淫するのが一連の日課でした。

剃毛やタンポンを使って遊ぶ

加害者の男子生徒たちは、剃毛した被害者生徒の陰毛までも遊び道具として使用していました。剃毛した陰毛を透明のカードケースにいれて保管し持ち歩いていたのです。

この陰毛を同級生の男子生徒に触らせ(「女子生徒の陰毛だぞ」とでも言っていたのでしょうか)、触った男子生徒が興奮し、勃起すると殴るという遊びを行っていました。

そして下着の着用禁止とともにタンポンの使用を強要していたので、被害者の女子生徒が使用したタンポンも没収し、剃毛と同様、他の男子生徒に見せたり臭いを嗅がせて遊んでいたのです。

最も恐れていた六角椅子でのいじめ


執拗に繰り返されるいじめの中で、被害者の女子生徒を恐怖に陥れていたのが「六角椅子」を使ったいじめです。このいじめは女子生徒が泣きわめくのが見て笑うことが目的でした。

この椅子は重く頑丈で中は空洞の造りです。女子生徒に正座をさせ頭を床につけさせます。座った状態で丸まるような姿勢です。そこに六角椅子を被せると女子生徒の身体は椅子の空洞にきつく入ります。

更にその椅子の上に男子生徒たちが座るのです。空洞に余っている隙間などありません。正座のまま背中を押しつぶされ、息も苦しくなり女子生徒は泣いて許しを請うことしか出来ませんでした。

校外でも口淫させられる


被害者の女子生徒へのいじめや性的暴力は校外でも行われ、公園や橋の下に連れていき過激な暴行をくわえました。女子生徒は複数人の男子生徒たちに身体を弄ばれ、口淫を強要され精液を浴びせられるのです。

この行為を目撃したという人もいますが、アダルトビデオの撮影だと思ったそうです。同時に「それにしても若いな」と感じたそうですが、声を掛けることも通報することもありませんでした。
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リーダーは「マインドコントロールの天才」と自画自賛
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リーダー格の男子生徒は、被害者の女子生徒に自分をご主人様と呼ばせ、どんな猥褻な要求にも従うようになり「俺らはマインドコントロールの天才だ」と自画自賛していました。

当時は、1995年にオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件の後でしたので、オウムの事件で有名になった「マインドコントロール」という言葉を使ったのでしょう。

確かに、不良グループの中でリーダ格で内気な男子生徒を手下にし、女子生徒を凌辱しても教師や周囲の大人に咎められる事もなければ、生徒もまだ少年なので有頂天になり自己陶酔してしまいそうです。

1996年4月に女性教師が無視


1996年4月頃には、被害者の女子生徒が加害者の男子生徒たちに特別活動教室に連れ込まれそうになりますが、その教室には女性教師が居ました。女子生徒は女性教師に「助けて」と叫びました。

ここで身を挺して助けてこそ教師です・・・が、女性教師は男子生徒たちに「帰れ」と怒鳴られます。女子生徒の助けを請う叫びは空を切り、女性教師は女子生徒を無視しその教室を立ち去るのです。

女性教師が立ち去ってしまった特別活動教室で、女子生徒はいつものように男子生徒たちから猥褻な行為を受けてしまうのです。

教師たちは皆黙認していた

中学2年の秋に男性教師に助けを求めた時も、男性教師は手を差し伸べることなく立ち去っています。この頃女子生徒は授業中でも平気で連れ出されたり、体育の授業中に体操服を脱がされたりしています。

校内の至るところで裸になるよう命令され、口淫を強要されています。教師たちは女子生徒が不良グループに酷いことをされているとわかっていながら黙認していたのです。

必死になって助けを求めた女子生徒は、教師たちが自分に背を向けて立ち去る姿を見て、きっと絶望したに違いありません。

後輩にも権威を示すため加担させる


最上級生になった加害者の男子生徒たちは、後輩の不良たちに対し、自分たちの権威と力を鼓舞することを意識するようになります。権威を示すため手下の少年宅に後輩の不良たちを集めました。

少年宅には総勢20人ほどが集まり、そこで被害者の女子生徒に裸になることを強要しました。そして後輩たちに「好きなだけ弄って構造を勉強して良いぞ」と偉そうに言い放ちニヤニヤと笑っていたそうです。

先輩としての威厳を保つために、女子生徒を利用した卑劣な行為であり、後輩たちもその猥褻行為に加担させたのです。後輩たちを加担させたのには、「口止め」の意味もあったのでしょう。

後輩たちに肛門の皺を数えさせる


被害者女子生徒の身体を散々弄らせた後は、女子生徒に四つん這いになってお尻を突き出す姿勢をとらせ、後輩たち一人一人に肛門の皺の数を数えさせました。

こうすることで「自分たちが如何に凄いか」、「自分たちは可愛い子にこんなこともさせることが出来るんだ」と権威を示していたと言います。

女子生徒の臀部にたれぱんだを描き踊らせる


被害者の女子生徒が、当時流行っていたたれぱんだのシールを自分の持ち物に貼っていたのを見たリーダー格の男子生徒は、たれぱんだの絵を女子生徒のお尻にマジックで描き、お尻を振って踊らせていました。

この際、火のついたタバコを女子生徒の肛門に挿し、「落としたらヤキを入れる」と言って女子生徒を脅して踊らせ遊んでいたのです。

男子生徒が肛門に力を入れてタバコを動かうように命令し、女子生徒が言われたとおりに動かすとたれぱんだがタバコを咥えているように見え、男子生徒たちは大爆笑しました。
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1996年6月に性被害を告げられた教師が注意
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1996年6月、精神的にも身体的にもボロボロになっていた被害者の女子生徒は、意を決して担任教師に性被害を告げました。現状から逃れるためには大人の助けが、教師の助けが必要だったからです。

女子生徒がどの程度詳細に性被害の内容を告げたのか、本当のところは女子生徒と担任教師しか知り得ないことですが、少なくとも羞恥心をぬぐい捨て報告したはずです。

この時の担当教師の間違った注意によって、女子生徒への性的暴力は今まで以上にエスカレートしてしまったのです。

担任教師の対応の誤り


被害者の担任教師は、加害者の男子生徒が別クラスだったにもかかわらず、加害者の男子生徒がいるクラスの担任教師に被害を報告したり、情報を共有することをしませんでした。

養護教論にだけは、女子生徒たちから身体を触られたなど性的被害の訴えがなかったか確認しますが、教師としての対応は全くと言って不充分なものでした。

クラスの帰りの会で注意


性的被害を告げられた後は、クラスの男子生徒たちの様子を2、3日見ていただけで、別クラスだった加害者の男子生徒たちの様子を観察することはありませんでした。

そして最終的にクラスの帰りの会で「女子生徒の身体を触るとセクハラになるからしないように」と、学級全体に注意を促し、これで終わらせてしまったのです。

リーダーの性行為を筆頭に群がる加害者たち

その後、加害者であるリーダー格の男子生徒だけが実はこっそりと被害者の女子生徒と性交渉をしていたことが仲間たちにバレてしまいます。

不良グループの仲間たちはそれまで口淫してもらうだけだったので、この事実を知り我慢していた性欲が爆発します。女子生徒に群がり「自分もやらせろ」と性交渉を迫りました。

この一件を機に女子生徒は複数の男子生徒たちかに代わる代わる強姦されるようになり、遂に1996年12月の事件へと発展していくのです。

1996年12月に廊下で泣いているところを親友が発見し教師に報告

1996年12月の事件発生直後、たまたま被害者の女子生徒の後輩でもある親友が通りがかり、廊下で泣き崩れている女子生徒を発見します、この2人はその場で抱き合って涙し、教師に事件を報告しました。

報告を受けた教師は被害者の女子生徒の訴えを無視することなく、まずは女子生徒を家まで送り届け、女子生徒の両親に事件の経緯を説明しました。両親がようやく真実を知ったのです。

そして教師は警察へ通報します。それは2年を優に超える、言葉では表現しきれないほどの長くて辛い性的いじめ、性的暴行から女子生徒が解放された瞬間でした。

旭川女子中学生集団暴行事件のその後について


集団暴行事件が表沙汰となった後、当然、この事件にかかわった加害者の男子生徒10人は旭川市家庭裁判所で処分を下されました。

そして事件から少し時間が経過した1998年に、被害者家族は旭川市と北海道を相手取り、民事訴訟を起こしました。
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裁判が行われた
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この事件にかかわったとされる加害者の男子生徒たち10人の処分が、旭川家庭裁判所で決定しました。

加害者の生徒3人が少年院へ送致となり、6人は試験観察処分、残り1人は保護観察処分を言い渡されています。

今回の事件が発覚したことで、実は被害を受けていたのは今回の被害者の女子生徒だけではなく、他の女子生徒にまで被害が及んでいたことが判明したのです。

1998年4月に女子生徒と両親が慰謝料を求める


1998年4月、被害者の女子生徒とその両親は旭川地方裁判所に、当時、学校側の対応が不適切だったとし、北海道と旭川市を相手に慰謝料を含めた総額4430万円の損害賠償を求める訴訟を起こします。

何故、旭川市だけでなく、北海道に対しても訴訟を起こしたのかというと、教師の給料の負担をしているのが「北海道」だからなのです。

2001年1月に判決


この民事訴訟は、2001年1月30日に結審します。旭川地方裁判所は女子生徒の事件全体での慰謝料を1千万円程度が相当だと認定したのです。

この時すでに加害者生徒たちのグループと示談金860万円で示談が成立していたので、その示談金860万円を差し引いた金額を旭川市と北海道に対して支払うよう命じました。

結果、被害者の女子生徒には170万円、被害者の両親に対しては1人15万円ずつ、計30万円を支払うように命じたのです。

被害者の女子生徒について


被害者の女子生徒は、普通の「女の子」でした。ただ、その可愛すぎる顔と、他の子たちよりも大きくて目立ってしまっていた胸が、思春期の男子の恋心だけでなく性的興味の対象となってしまったのです。

また、目立つ容姿ではありましたが、比較的大人しめなグループに属しており、クラスの中心でワイワイと騒ぐようなタイプの生徒ではなかったようです。

顔が可愛く人気者だった


被害者となった女子生徒は小柄で肌は色白、目鼻立ちがくっきりと整った可愛らしい顔つきで、芸能人の遠藤久美子に顔が似ていたという話もあります。

黒髪をツインテールに結び、清潔感が漂うこの女子生徒は性格も明るく活発で友達も多く人気者だったそうです。群を抜いた可愛らしさが人の目を惹きつけていたのでしょう。

成績もよく加害者リーダーとも最初は普通に話していた


明朗快活な女子生徒でしたが、不良とは全く無縁で真面目な生徒だったそうです。服装などもいたって真面目で、違反行為などするタイプではありませんでした。

勉強もできる方だったようで、成績は学年で約100人中20位以内には入っているという、まさに才色兼備な生徒だったのです。

加害者のリーダー格の男子生徒は別クラスでしたが、廊下などで度々話しかけられることがあり、最初は「ちょっと悪っぽくてかっこいい」と思い、普通に接し話していたのです。
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[昼休み53] 旭川女子中学生校内集団レイプ事件 中川隆
14. 中川隆[-11252] koaQ7Jey 2019年3月23日 18:45:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[757]

旭川女子中学生集団暴行事件の概要!加害者と被害者の現在は? 続き

他の被害者女子生徒について
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この事件は、被害者となってしまった女子生徒の他にも同様の被害を受けた女子生徒がいるようです。。同様の被害とは果たしてどこまでなのか。実はその詳細は明らかになっていません。

他に被害を受けたという女子生徒は、その卑劣極まりない行為の数々が表沙汰になる事を拒んだのではないでしょうか。

被害者は中学生です。屈辱感よりも羞恥心が勝ってしまい、泣き寝入りしてしまった女子生徒がいるのでしょう。周囲の大人に言えず、陰で泣いていた女子生徒がいると思うと悔やまれる事件です。

加害者の男子生徒たちについて


捕まった総勢10人の加害者の男子生徒たちは、ひとつの不良グループに属するメンバーです。ただしグループ内には上下関係があり、全員が並列な関係性ではありませんでした。

主犯格だったリーダー格の男子生徒、他に、リーダー格と同格の生徒が数人。それ以外の生徒は同格以下でありましたが、

この不良グループはその素行の悪さと暴力で、旭川市内の中学校ではとても有名な非行グループだったようで、教師をはじめ周囲の大人たちも手が付けられなかったと言います。

10人の不良少年たち


10人の不良少年たちは全員同学年で、中学生時代はひとつの非行グループとしてつるんで色々な悪事を働いて遊んでいたようです。

市立中学校なので学区も決まっているはずですから、この少年たちは同じ小学校の出身だったり、顔見知りだったり、中には幼馴染みがいたのかもしれません。

そして「不良」というステータスは少年たちにとって「格好良い」ものであり、大人たちが誰も制止しなかった事で、少年たちの悪事もどんどんエスカレートしていったのでしょう。

教師も生徒も逆らえない存在


この不良少年たちは特に学校内ではやりたい放題だったようです。特に中学3年生になり、自分たちが最上級生になると誰も手がつけられないほどの傍若無人ぶりを発揮します。

平気で暴力を振るう少年たちに同級生や下級生はおろか、教師さえも平気で殴るような少年たちに誰も逆らえない状況がいつの間にかつくられていってしまったのです。

リーダー格の生徒の親が地元の名士だった事や、不良少年の親が暴力団関係者だったことなども、教師たちが不良少年たちに逆らえない理由のひとつとなっていたのかもしれません。

非行グループとして目立っていた


この不良少年たちは、旭川市内の中学校ではかなり有名な非行グループでした。他校生との暴力事件を起こしたり、喫煙はもちろんのこと窃盗やカツアゲなども日常的に行っていました。

校内では廊下でバイクを乗り回したり、内気な生徒を「パシリ」にしてカツアゲをさせたり、被害者の女子生徒に猥褻行為をする時の見張り役をさせたりしていました。

教師でさえも自分たちを恐れ逆らわないことで、学校を牛耳りやりたい放題だったのです。

旭川女子中学生集団暴行事件の問題点


旭川女子中学生集団暴行事件は、事件が発覚するまでに2年以上もの時間を要しました。被害者の女子生徒は事件が発覚するまで、加害者生徒の言いなりになってからも何度も周囲に助けを求めていました。

両親は一緒に生活している我が子の変化に本当に気づけなかったのでしょうか。学校の教師の対応は、果たして何度も助けを求める女子生徒を本気で救おうとしての行動だったのでしょうか。

加害者の男子生徒たちの暴力や脅迫に屈していた以外に、周囲の大人たちの対応に問題はなかったのでしょうか。
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教師は何故ちゃんと対応しなかったのか
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世間を広く驚かせたのは、旭川女子中学生集団暴行事件が発覚しマスコミ取材の矢面にたった同中学校の教頭が、この事件について公表せず事件を伏せていたということです。

また、被害者女子生徒の両親に対してもいじめや性的暴行の事実をひた隠しにし「男子生徒たちに胸などを触られただけ」と、事実とは全く異なる説明をしていました。

他の教師たちに関しては、2年もの間被害者の女子生徒が性的暴行を受けているのを目撃したり相談を受けていたにもかかわらず、男子生徒たちに適切な指導を怠り黙視し続けたのです。

担任教師たちの対応に問題があった


事件が発覚するまでの2年の間に、女子生徒は担任教師に何度かその被害を報告しています。他にも男子生徒たちに連れられて行く女子生徒を目撃した教師、恫喝され立ち去った女性教師もいました。

担任教師に至っては、養護教論に女子生徒からの訴えがなかったか確認もしているにもかかわらず、別クラスだった男子生徒たちの担任教師に報告することもなければ、生徒たちに適切な指導もしていません。

学校がとった対応は、不良グループの生徒たちと女子生徒を同じクラスさせなかったこと以外、何もしていないのと変わらなかったのです。

学校側の主張に問題あり


学校及び教師の対応はあまりにも被害者の女子生徒の性的いじめ・暴行を軽視、黙認した重大な過失であり、この事件において最も重篤な問題点であることは明白です。

校内外で日常的に性的暴行が行われ、学校内では他学年にも知れ渡り、他校にもその噂は流れ、学校の近隣でも知られる程の猥褻行為を学校の教師たちだけが知らないはずはないのです。

事件後、学校側で行った聞き取り調査で、「女子生徒は男子生徒たちと仲が良く、被害を受けていた時も女子生徒は笑っていた」として女子生徒にも非はあると訴える始末でした。

女子生徒が笑みを浮かべながら相談した


被害者の女子生徒に何度か被害の報告や相談をされていた担任教師は、相談は1度だけで「女子生徒は笑みを浮かべながら相談してきた」と主張しています。その為、深刻な事態だとは思わなかったというのです。

ですが、女子生徒は授業中でも男子生徒たちによって教室から連れ出されたり、校内の至るところで口淫などを強要されていることは、周囲の生徒はもちろん教師たちも目撃している事実です。

羞恥心もあり、仮に女子生徒が少しの笑みを浮かべてしまったとしても、「笑みを浮かべていたから、男子生徒たちからのからかい程度」だと判断するのは見当違いすぎます。

加害者の母親が「被害者にも落ち度がある」


この事件が発覚した後、被害者家族が学校の対応に抗議に出向いた際、加害者の男子生徒の母親が「女子生徒にも落ち度があったのではないか」と自分の息子の卑劣な行為を棚に上げ反論しました。

被害者の女子生徒のどこに「落ち度」があったと言うのでしょうか。自分の子供が償いきれないような罪を犯してしまったという事実を、親自体が深く重く受け止めていないような発言です。

仮に自分の息子が自分の犯した卑劣な行為について、自分に有利に親に話したとしても、これほどの事件を起こした事実を考えれば、我が子を庇うのは筋違いというものではないでしょうか。

両親は相談されるも「無視しなさい」


被害者の女子生徒は、中学1年生という早い段階で両親に学校での性的なからかいについて相談しています。この時両親は「そんな人たち無視しなさい」と軽くアドバイスする程度しかしませんでした。

実はその後、からかいが性的いじめへとエスカレートしていくなかで、女子生徒は再度両親に相談していたのです。この女子生徒の訴えを聞き、さすがに両親は学校に対し相談をしました。

しかし学校側は「事実が確認できない」として訴えを否定したのです。両親は学校に再三訴え続けましたが、学校側の対応は変わりませんでした。両親も学校に訴える以外に取るべき手段を考えるべきでした。
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一生の心の傷に対する判決にも問題か?
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一連の学校側の対応に対しての憤りや不信感から、被害者側は旭川地方裁判所に訴訟を起こしましたが、その判決は女子生徒の受けた心身に残る傷を考えると余りにも無情なものでした。

地方裁判所の出した判決は、事件全体の慰謝料は1000万円相当が妥当であり、加害者グループとの示談により支払われている和解金を差し引いた200万円を旭川市と北海道に支払うよう命じたものでした。

事件発覚当時15歳だった女子生徒は長い間心身ともに凌辱され苦痛にひとり耐え忍び、そして癒えることのない深い傷を一生背負っていくことを考えると、この判決結果は非常に残酷なのではないでしょうか。

学校側の聞き取り調査結果

学校側の聞き取り調査によって、女子生徒が加害者の少年たちと仲良くしているように見えたこと、被害を受けている時にも笑っていたなどという証言があり、女子生徒の対応にも落ち度があると指摘されました。

被害者の女子生徒は、男子生徒たちからの暴力から逃れるために、少年たちの機嫌を損ねないよう言いなりとなってしまっていた結果、周囲の目には女子生徒も楽しんでいたように見えたのでしょう。

女子生徒が自己防衛のためにとった苦肉の策は、裁判では自分に不利な証言となってしまったのです。

女子生徒に不利な証言が多数あった


旭川市教育委員会は、裁判が進む中加害者の男子生徒たちを含めた同級生の生徒たちに対して聞き取り調査を実施し、その調査結果を法廷で明らかにしています。

加害者の生徒たちに対し同情するような証言が聞かれたこと、逆に被害者の女子生徒の心情を知り得る同級生は見つからず、女子生徒側の証言を得ることは不可能だったとしたのです。

ここでも女子生徒が同級生に対して本心を打ち明けるなどせずにいたことが裏目となって出てしまい、それが被害者側にとっては到底納得し難い、厳しい判決結果に結びついてしまったのでしょう。

旭川女子中学生集団暴行事件の関係者の現在は?


事件が発覚してから既に20年以上が経過し、当時中学生だった被害者と加害者たちは皆、30代後半となっています。事件に関与した生徒たちは現在どうしているのでしょうか。

一生消えない傷を背負ってしまった被害者の女子生徒と、少年院送致や試験観察・保護観察処分となった加害者の男子生徒たちはその後の人生をどのように歩んでいるのでしょう。

被害者の女子生徒の現在について


事件が発覚した1996年から20年余りが経過し被害者の女子生徒も既に30代後半となっています。実は女子生徒は、この事件が発覚した翌日以降も学校に登校し続け、驚くことに中学校生活は皆勤賞だったそうです。

辛い日々の中、一日も休まずに登校し続けた女子生徒の「皆勤賞」の重みは言葉にし難い尊いものです。そしてその後も周囲の好奇の眼差しに負けることなく高校に進学したのです。

しかし気持ちも新たに高校に進学した被害者でしたが、事件での精神的な傷は癒えることはなく、特に男性に対しては恐怖心などがあり会話をすることはなかったといいます。

男性への恐怖心は消えたのか


事件発覚当時は未成年でしたので、被害者の女子生徒の実名や顔写真などは公表されていません。当時は2ちゃんねるなどで名前や写真が晒されることもあったようですが、現在は削除されています。

ですので、現在の被害者については詳細はわからないのですが、既に結婚しているという噂もあります。それが本当ならとても喜ばしいことですが、完全に立ち直るには長い年月が必要なことも確かです。

現在30代後半となっているであろう被害者については、事件に対するトラウマや男性への恐怖心を乗り越えて幸せで輝かしい人生を歩んでいてほしいと切に願うばかりです。
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加害者の男子生徒たちの現在について
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被害者の女子生徒と同学年だった加害者たちも現在は30代後半です。被害者と同様に事件当時未成年だった少年たちは少年法により身元を保護された為、実名や顔写真が公表されることはありませんでした。

被害者の女子生徒に対する性的暴行などが著しく酷く少年院送致となった少年3人は、被害者家族が裁判で係争中は少年院に収監されていましたが、判決が出る頃には出所しています。おそらく20歳くらいでしょう。

同じように試験観察処分、保護観察処分となった少年たちも裁判が終わるころまでには既に処分も解け、普通の生活に戻っていたはずです。

社会に出て普通に生活しているのか


被害者が受けた心の傷は一生残りますが、加害者たちは少年法により保護され、受けた処分を全うさえすれば数年でそれまでの生活に戻ることが出来ます。普通に社会に出て働いている加害者も多いでしょう。

この事件で処分された10人を含め、判明しているだけでもこの不良グループの同級生で成人してから、殺人事件を起こし逮捕された者が1人、殺人未遂事件で逮捕が1人、逆に殺害されてしまった者が1人いるそうです。

現在の年齢は被害者と同様に30代後半。結婚し家庭を持ち、子供がいる加害者もいることでしょう。自身が親になったからこそ気づく「痛み」と「懺悔」はあるのでしょうか。

旭川女子中学生集団暴行事件と類似した事件


旭川女子中学生集団暴行事件は近年例を見ない、未成年による凄惨な性的暴力・強姦事件です。性犯罪事件で取り沙汰されるものは最終的に殺人事件となる事案が多い中、命を失うことがなかった事は不幸中の幸いです。

この事件に類似するような、未成年が犯した凄惨な事件は他にもあったのでしょうか。

尼崎児童暴行事件

尼崎児童暴行事件とは、2006年兵庫県尼崎市で発生した事件で、小学生4年生の男子児童が主犯格となり、被害者である同級生の女子児童に対し集団で性的いじめ・集団暴行をおこなった事件です。

小学校4年生の男子児童が自宅でアダルトビデオを観て興奮し「ビデオと同じことがしたい」と思い、他の男子児童を使い被害者の女子児童を家に呼び寄せ、複数人の児童が女子児童の身体を弄びました。

女子児童は後日、両親と教師に被害を打ち明けます。被害者家族は転校を希望するもそれは叶わず、その後男子児童たちは1年以上も被害者の女子児童に性的いじめと性的暴行を加え続けました。

大邱小学生集団性暴行事件

大邱小学生集団性暴行事件とは、2008年に大韓民国(韓国)で発覚した事件で、小学校高学年の男子児童複数人が被害者の女子児童に対し日常的に性的暴行を行っていたという異常な事件です。

当初は小学生の男子児童同士のいじめから始まりました。上級生の児童が下級生の男子児童に無理矢理陰部を見せ、同性同士の性行為を強要し下級生の児童が断ったら殴るなどの性的いじめ・暴力でした。

そのうち、いじめられていた男子児童が女子児童に暴行を加える行為に参加し始め、女子児童の身体を弄び、強姦するようになります。被害者が一転、加害者になるという未成年の起こした事件です。

加害者の男子生徒たちの裏に隠れた「加害者たち」


旭川女子中学生集団暴行事件が発覚し、加害者の不良グループの男子生徒10人が性的暴行などの罪で処分を受け、被害者側は旭川市や北海道を相手取り裁判を起こし結審。そしてこの事件は終わりを迎えました。

これだけの事件を起こしながらも、加害者の少年たちは少年法により保護され、処罰自体成人の受ける刑事事件の量刑より当然ですが相当軽いものです。この事件の処分はこれだけで終わっているのです。

しかし、本来罰せられるべき人物はもっと他に大勢いたのではないでしょうか。10人の加害者生徒たちの陰には大勢の罰せられなかった加害者がいたはずです。
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逮捕・補導された加害者の他に被害者に猥褻行為をした生徒たち
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この事件は被害者の女子生徒が中学1年生の頃から始まっています。主体となって女子生徒に性的いじめや暴行を加え続けていたのは、主犯格の男子生徒を含む不良グループの生徒たちですが犯人は他にもいます。

女子生徒の身体を弄んだ下級生の不良生徒たち、不良グループの生徒たちに勧められて、女子生徒に口淫を強要したり強姦した他校の男子生徒たち。彼らは加害者生徒たちと同罪なのではないでしょうか。

事件発覚後、大勢の男子生徒が女子生徒を凌辱していたことが明らかになっているにもかかわらず、加害者以外、誰一人として処罰を受けることなく普段通りの生活を送っていることに疑念を感じざるを得ません。

黙視し続けたクラスメイトや同級生たち


女子生徒はクラスメイトがいる教室でも頭を殴られたり裸になるよう強要されていましたし、授業中に連れ出されても、猥褻行為を目撃しても、クラスメイトや同級生たちは助けることはなく黙視し続けていたのです。

被害者の女子生徒に対し直接危害を加えたわけではありませんが、見て見ぬふりをし続ける行為は「間接的ないじめ」であり、傍観していた者たちは立派な加害者なのではないでしょうか。

教師という立場と責任を見失いすぎた


教師たちに至っては、生徒を守るべき立場でありながら、被害者である女子生徒の性被害の報告を軽んじて受け止め、適切な対応をすることなく放置したり、猥褻行為を目撃しても通り過ぎる始末です。

事態が深刻だと受け止めなかったとしても、教師という立場や責任を心に留めて教職を全うしているのであれば、校内で猥褻行為があるという事実を教師同士が共有し、改善するように働きかけるべきなのです。

事件が発覚した際に相談を受けた教師以外のこの学校の教師たちは、善悪の判断が出来る立派な成人であるのに、女子生徒を助けることを「あえて」しなかった。これは加害者と言わずにはいれません。

旭川女子中学生集団暴行事件の深い謎


旭川女子中学生集団暴行事件は、突発的に発生した性的暴行事件ではなく、被害者と加害者が中学1年の頃から事件が発覚した中学3年の12月まで長期間に渡って被害が継続された悪質な事件です。

ただ裁判での判決結果は元より、学校や教育委員会が独自で行った聞き取り調査の結果を知る限り、加害者を擁護する声や同情の声が多くあったというのはとても不思議です。

被害者の女子生徒が誰にも本心を打ち明けていなかったとしても、泣き叫ぶ女子生徒を見ていれば何も出来なかったにしても、内心少しは同情したりするものではないでしょうか。

被害者の女子生徒の謎


中学校に入学当初、明るく友人も多かったという被害者の女子生徒ですが、いつの間にか学校内で「孤立」しているように感じます。小学校から一緒だった友人や被害を見聞きした友人はいなかったのでしょうか。

そして女子生徒には1つ年上の兄がいます。猥褻行為が悪質化した中学2年生の頃、お兄さんは中学3年生です。学年は違ったとしても、妹が猥褻行為をされている事を噂で聞いたりすることがなかったのも不思議です。

また加害者生徒たちとの行為を楽しんでいるように見えたという証言もあります。この事件は最初から女子生徒はや嫌がっていたはずですが、本当はどこまでがおふざけで、どこからが嫌々の言いなりだったのでしょうか。

加害者の男子生徒たちの謎


加害者の男子生徒たちは中学1〜2年の時に集った仲間たちです。犯人であるリーダー格で男子生徒の失恋を機に性的嫌がらせが始まりましたが、なぜ執拗に被害者の女子生徒に猥褻な行為をし続けたのでしょうか。

少年たちは酷く素行の悪い不良グループで、この事件での性的暴行などに同情の余地はないはずなのですが、聞き取り調査の際には彼らに同情する声が多数挙がっていたのは何故でしょう。

加害者の男子生徒たちの起こした罪は大罪であることは明白ですが、周囲の目から見ると男子生徒たちだけが悪い訳ではないと同情できるような「事実」が隠れている気がしてなりません。
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被害者女子生徒の家族の謎
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全ての家族が仲が良いわけではないでしょうが少なからず被害者の女子生徒の両親は、学校での性的嫌がらせについて本人から何度か相談を受けています。事件発覚までの間に子供の変化に気づかなかったのでしょうか。

女子生徒が無理やり強姦された日、帰宅した女子生徒はいつもと変わらぬ様子で家族と食卓を囲み、雑談をし笑い合っていたのでしょうか。傷ついた心と身体をひた隠し普段通り両親と接すれるのでしょうか。

両親は女子生徒が性的嫌がらせの相談をしなくなってから事件発覚までの間、寧ろ両親の方から思春期の娘に問いかけたり寄り添うことで、少しの変化や異変を察することは出来なかったのでしょうか。

旭川女子中学生集団暴行事件のような事件が二度と起こらないために


この事件は全てが異常です。女子生徒が2年以上も凌辱され続けていたのに、誰一人として女子生徒を助けることなく傍観し続けた事。男子生徒たちを野放しに資、校内での様々な悪行と犯罪を黙認し続けた教師たち。

事件自体を隠蔽しようとした、学校の悪質な体制と対応。これが逆にこの事件がメディアに取り沙汰れる結果に繋がり、卑劣極まりない集団暴行事件として有名になったのもかもしれません。

そして二度とこのような事件が世間を騒がせることがないよう、教師をはじめ親や周囲の大人たちはもっと子供たちに関心を持ち、目を向け語り合い愛情の手を差し伸べることが必要なのではないでしょうか。
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http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/885.html#c14

[昼休み53] 中学で一番の美少女に毎朝精液を飲ませていた旭川女子中学生校内集団レイプ事件 中川隆
113. 中川隆[-11251] koaQ7Jey 2019年3月23日 18:49:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[758]

旭川女子中学生集団暴行事件の概要!加害者と被害者の現在は?
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旭川女子中学生集団暴行事件は、1996年12月に発覚した性的いじめ・暴行、強姦事件です。犯人10人に対し被害者は1人。そして加害者、被害者ともに中学生であると共に、卑劣な事件の詳細と教師の不適切な対応がメディアに取り沙汰されました。


旭川女子中学生集団暴行事件の概要


1996年12月、教師からの通報によって発覚した北海道旭川市の中学校で起こった集団暴行事件です。被害者は女子生徒1人。犯人は同中学校の男子生徒総勢10人と、近年例を見ない集団暴行事件です。

最初は少し「からかう」程度で、女子生徒も凄く嫌がるほどの事ではなかったのですが、その行為は徐々にエスカレートしていきます。

最終的に女子生徒を精神的に追い詰めるほどの悪質ないじめ、そして性的暴力にまで及んだこの事件は通報されるまで2年以上もの間続いており、被害者女子生徒の心と身体に酷く深い傷を残すものとなったのです。

1996年に北海道の市立中学校の女性を集団暴行


1996年12月24日、街中がクリスマスムード一色となるこの日。被害者の女子生徒が中学3年生の時に事件は起こりました。下校途中だった女子生徒は、3人の加害者男子生徒たちによって学校に連れ戻されます。

校内では主犯格の生徒を含め男子生徒7名が待ち構え、総勢10人の男子生徒たちに取り囲まれた女子生徒は「助けて」と叫び抵抗します。悲痛な叫びに手を差し伸べる者はいなく、校内の男子トイレに連れ込まれます。

トレイ内では殴るなどの暴行を受け、加害者生徒10人のうち3人は見張り役、6人の生徒は女子生徒の身体を触るなど弄び、1人の男子生徒は女子生徒を強姦しました。そして女子生徒に水をかけ水浸しにしたのです。

性的暴行や強姦を受け泣いているところを教師が通報


被害者の女子生徒はトイレ内での集団暴行被害を受けた直後、廊下で泣き崩れました。それを親友が見つけ駆け寄りました。そしてこの出来事を教師に訴えたのです。


話を聞いた教師は、まず女子生徒を家まで送り届け、その後警察への通報しました。この通報をきっかけに、それまでの2年をも超える長い期間の集団暴行事件が実態が明るみとなったのです。

事件があった旭川市立北都中学校について

1947年5月「旭川市立第七中学校」として開校。2年後の1949年9月に「旭川市立北都中学校」と改称。2015年に中央中学校が新設され(常盤中学校、聖園中学校と併せ統廃合)これにより閉校となりました。

現在も校舎は存在していますが、校舎の1階部分の玄関や窓には板が打ちつけられ、侵入が出来ないようになっています。体育館やグラウンドは中央中学校の部活などで現在も使用されています。

当時の北都中学校は、生徒たちが「学校美術館」と呼ぶほど学校内には美術品が飾られており、何故かトイレ内にまで美術品が飾ってあるという少し異質な雰囲気を醸し出していたようです。


事件当時は荒れた時代だった?


事件が発生した1996年当時、不良生徒たちの素行は酷く、この中学校では不良生徒たちが荒れ狂う動物園のような状態だったと言います。

この頃、加害者の不良生徒たちは中学3年生となり、自分たちが最上級生となったことでより一層狂暴化しました。校内を原付バイクで走ったり他の生徒にカツアゲをさせたり、時には教師を殴ることもあったようです。
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旭川女子中学生集団暴行事件の概要!加害者と被害者の現在は?
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旭川女子中学生集団暴行事件の時系列

この集団暴行事件は、女子生徒が中学校に入学した1994年、女子生徒が中学1年生の頃から実は始まっていました。当初は、その容姿からクラスのアイドル的な存在だった女子生徒をからかう程度の軽微なものでした。

しかし、加害者である男子生徒の1人が女子生徒に告白し振られたことで行為は次第にエスカレート。耐えられなくなった女子生徒は教師に報告しますが、教師は男子生徒を軽く注意する程度の対応しかしませんでした。

教師に注意された事で、女子生徒に怒りを覚えた男子生徒は暴走していきます。女子生徒を裸にして身体を触わり、口淫を強要し、最終的には日常的に性的暴行が繰り返されるほどの事態となってしまうのです。

事の発端は被害者となるクラスのアイドル的女子生徒に振られたから


中学1年生の2学期早々に、加害者である不良グループのリーダー格の男子生徒は被害者の女子生徒に告白しますが、女子生徒は告白を断りました。このことがリーダー格の男子生徒のプライドを傷つけたのでしょう。


女子生徒への好意は怒りに変わり、リーダー格だった男子生徒の「からかい」でしかなかった行為は日に日に悪質化し、「いじめ」や「性的暴行」へと変化していくのです。

1994年中学1年秋頃からスカートめくりが始まった

当時、不良グループの間では、被害者の女子生徒以外にも可愛いと思う女子生徒に対してスカートめくりをしたり、お尻を触るなどの行為を日常的に行っていました。

しかしお尻を触るというのは「軽く触る」ということではなく、特別教室に連れていき1人の女子生徒を数名で押さえつけ身体を弄ぶのです。昼休みの間、不良生徒たちが満足するまで身体を触り続ける行為だったのです。

被害者の女子生徒がスカートめくりのターゲットになったのは中学1年生の秋頃です。告白の一件の後から始まったのでしょう。不良グループからのスカートめくりは日常的に行われるようになっていきました。

リーダー格の男子生徒だけがしていた行為


被害者の女子生徒に告白する前から、女子生徒に想いを寄せていたリーダー格の男子生徒だけは、女子生徒のお尻を軽く触ったり胸を揉むなどの行為をしていました。

ただ、この頃はまだ被害者の女子生徒は男子生徒に胸を揉まれても、「ちょっとやめてよ」と笑いながら流す程度で、周囲にはふざけてじゃれあっているようにしか見えない対応だったようです。

女子生徒が本気で嫌がる素振りを見せなかったことも、加害者である男子生徒のその後の行為を助長させるきっかけとなってしまったのかもしれません。

両親に相談するが教師には言えずエスカレート

周囲にはじゃれあっているようにしか見えなかった行為も、被害者の女子生徒は本心では嫌だったのでしょう。実は早い段階で両親に相談をしています。両親からは「そんな人は無視しなさい」と言われます。


両親はきっと、中学生の男子が好きな子をからかう程度の「いたずら」でしかないと受け止めたのでしょう。悪質な事件に発展するなどとは想像もしなかったはずです。

両親からのアドバイスを受けた女子生徒は、教師には相談しませんでした。中学1年生という多感な年ごろの女子が、教師とはいえ他人に対して性的被害を話すことは、気恥ずかしさもあり躊躇したのでしょうか。

スカートめくり以上の性的いじめが始まる

この頃にはスカートめくり以上の性的いじめが始まっていました。リーダー格の男子生徒が振られたことで、不良グループの仲間たちもリーダー格の生徒と一緒となり、性的いじめをエスカレートさせます。

不良グループの数名で被害者の女子生徒を囲んでスカートの中に手を入れ、パンツの上から女子生徒の股間を触ったり、女子生徒の机にアダルト本を入れておいたりと卑猥な行為に変わっていったのです。
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中学1年秋に耐え切れず教師に報告
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被害者の女子生徒は、中学1年の秋には卑猥な嫌がらせに受けており、それに耐え切れず遂に勇気を出して教師に報告をします。報告を受けた教師は加害者の男子生徒を呼び出しやんわりと注意をします。

卑猥な嫌がらせをしても叱責されず軽い注意しか受けなかったこと、そして教師に自分たちの愚行を報告した女子生徒に対する怒りは、不良生徒たちの行為を更にエスカレートさせるきっかけとなってしまいました。

中学1年冬に裸にされる


教師からの注意を受けた後、不良グループの生徒たちの性的いじめは加速し、猥褻行為も悪質化します。中学1年の冬になると休憩時間に限らず授業中でも平気で被害者の女子生徒を連れ出すようになります。

加害者生徒たちは複数名で女子生徒を取り囲み、両脇を捕まえて強引にトイレや特別教室に引きずって連れていき、服を脱がして裸にした後その身体を弄ぶのです。口淫を強要するようになったのもこの頃からでした。

執拗に身体を弄ぶ行為は日常化し、行為は性交直前までいきます。しかしあくまでも性交直前までで性交渉はなかったのです。この性的いじめや猥褻行為は、中学2年の夏までエスカレートしながら続きました。

性交渉しないために必死だった


この頃、性交渉することがなく行為が性交直前で終わっていたのは、加害者生徒たちが寸前で止めていたというよりも、被害者の女子生徒が自分の身を守るため、殴られても必死に抵抗していました。

性交しない替わりに加害者生徒たちは女子生徒に敬語を使わせるようになり、更には口淫まで強要します。男子生徒たちは順番待ちの列を作り、入れ替わり口淫させるのです。

「性交渉だけは絶対にさせない」と、女子生徒は加害者たちのどんな要求にも応え、必死に耐え続ける日々を送るのでした。

中学2年夏に男子生徒の家に連れ込まれる


性的いじめ、暴力が繰り返されますが、被害者の女子生徒は誰にもそれを訴えませんでした。暴力や脅迫に怯えていたのでしょう。そしてそれが性交渉をしない為の最善策だと信じていたはずです。

しかし1995年、被害者の女子生徒が中学2年生の夏、男子生徒の家に連れていかれ逃げ場を失った女子生徒は、遂に強姦されてしまいます。これが女子生徒にとって初の性交渉でした。

この強姦をきっかけに、思春期真っただ中である加害者の男子生徒たちの性的興奮・欲求は抑えられないものとなり、女子生徒に対する性的暴力は更に酷いものとなっていくのです。

その後日常的に性的暴力が繰り返される


初めて強姦されて以降、被害者の女子生徒に対する性的暴力は日常化、更に暴力行為自体も悪質化はエスカレートしていきました。口淫の強要以外にも度々強姦されるようにもなってしまいます。

当初は女子生徒も必死に抵抗していましたが、その度に激しく暴力を振るわれます。夏休み前には肋骨辺りを骨折し入院していたそうです。そして酷く暴力に怯えるようになりました。

暴力から逃れるため

女子生徒は「なんでも言うことを聞くから痛いことはしないで下さい」と加害者生徒に懇願します。過激な暴力から逃れるため、女子生徒は抵抗することを諦めるしかなかったのです。

被害者の女子生徒は、リーダー格の男子生徒を「ご主人様」と呼ぶように言われます。ご主人様の命令は『絶対』です。反抗的な素振りを見せると殴られ、タバコの火を身体に押しつけられました。

美味しいミルクやご主人様の命令


以前と変わらず口淫を強要、射精後は精液を口から吐き出すことは許されていないので飲み込みます。そして「美味しいミルクをありがとうございます」と卑猥なセリフを言わされるようになります。

ご主人様に命令されれば、それがどの場所だろうと裸になり、命令されればどこであろうと口淫もしました。クラスメイトがいる教室内だったとしても裸になり、口淫しなければならないのです。

脅迫され追い詰められる


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殴るなどの暴力と並行し、被害者の女子生徒は「脅迫」を受けていました。その脅迫は女子生徒自身に対するものもあれば、女子生徒の家族をターゲットした脅迫もあったようです。

女子生徒は「兄貴とセックスさせるぞ」と言われたり「母親も犯すぞ」と脅されます。「家を燃やすぞ」という脅迫は、彼らの悪質性から本気でやりかねないと最も恐れていた脅しでした。

女子生徒自身も性的暴力を強要される度に「〇〇しないと全員で輪姦するぞ」「やらないと殺すぞ」などと常々脅迫されており、恐怖に慄く女子生徒は指示に従うしかありませんでした。
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1995年中学2年秋に男性教師が無視
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1995年、女子生徒が中学2年の秋には、放課後の教室で猥褻な行為をされているのを通りかかった男性教師が目撃しています。女子生徒は男性教師に向かって「助けて」と叫びますが無視されてしまいます。

女子生徒の悲痛な叫びを背にし、この男性教師は何を思ったのでしょうか。学校の評判でしょうか。それとも自分自身の保身のでしょうか。

この後、女子生徒が助けを求めたことに加害者の男子生徒は怒り、トイレに場所を移し女子生徒の後頭部を殴るなどの暴力、背中にタバコの火を押しつける暴行を加え強姦し、個室に監禁し水をかけたのです。

エスカレートしていく男子生徒たち

口淫や強姦が日常的に行われ、被害者の女子生徒も抵抗することなく従順な奴隷のようになると、加害者の男子生徒たちは「性的欲求」を満たすだけでは満足せず、性的いじめを悪質化させます。

可愛い女子生徒の身体を散々弄び、それが当たり前の日常となってしまうと、今度はまるで自分たちの『玩具』と言わんばかりに女子生徒に対し凌辱の限りを尽くしていくようになるのです。

男子生徒たちの女子生徒に対する性的いじめ・暴力は校内外の至るところで行われるようになります。近隣でも知られるほど有名で、旭川市内の他の中学校でも噂になるほどでした。

尿をためたペットボトル


加害者の男子生徒たちは、被害者の女子生徒に対しペットボトルに排尿することを強要し、その尿をためたペットボトルを教室に持ち込ませます。

女子生徒のいる目の前で、同じクラスの男子生徒に匂いを嗅がせ、その反応を見て笑い転げ合うのです。

また、家庭科教室から漏斗を盗み、その漏斗を使って空きペットボトルに尿をためて女子生徒に飲ませることもありました。

ノーパン命令

被害者の女子生徒が中学3年の1学期頃には、下着を着けずに登校するよう命令されます。そのころには加害者の男子生徒たちによって、陰毛を剃刀ですべて剃られていました。

毎日、リーダー格の男子生徒が登校すると「ノーパンチェック」があり、女子生徒は2階の男子トイレへと呼び出され、そこで下着を着けていないかチェックされるのです。

男子生徒が「ノーパンチェック」と呼称すると、女子生徒は自らの手でジャージをおろし下半身を露出し、下着を着けていないことを確認してもらいます。そして口淫するのが一連の日課でした。


剃毛やタンポンを使って遊ぶ


加害者の男子生徒たちは、剃毛した被害者生徒の陰毛までも遊び道具として使用していました。剃毛した陰毛を透明のカードケースにいれて保管し持ち歩いていたのです。

この陰毛を同級生の男子生徒に触らせ(「女子生徒の陰毛だぞ」とでも言っていたのでしょうか)、触った男子生徒が興奮し、勃起すると殴るという遊びを行っていました。

そして下着の着用禁止とともにタンポンの使用を強要していたので、被害者の女子生徒が使用したタンポンも没収し、剃毛と同様、他の男子生徒に見せたり臭いを嗅がせて遊んでいたのです。

最も恐れていた六角椅子でのいじめ

執拗に繰り返されるいじめの中で、被害者の女子生徒を恐怖に陥れていたのが「六角椅子」を使ったいじめです。このいじめは女子生徒が泣きわめくのが見て笑うことが目的でした。

この椅子は重く頑丈で中は空洞の造りです。女子生徒に正座をさせ頭を床につけさせます。座った状態で丸まるような姿勢です。そこに六角椅子を被せると女子生徒の身体は椅子の空洞にきつく入ります。


更にその椅子の上に男子生徒たちが座るのです。空洞に余っている隙間などありません。正座のまま背中を押しつぶされ、息も苦しくなり女子生徒は泣いて許しを請うことしか出来ませんでした。

校外でも口淫させられる

被害者の女子生徒へのいじめや性的暴力は校外でも行われ、公園や橋の下に連れていき過激な暴行をくわえました。女子生徒は複数人の男子生徒たちに身体を弄ばれ、口淫を強要され精液を浴びせられるのです。

この行為を目撃したという人もいますが、アダルトビデオの撮影だと思ったそうです。同時に「それにしても若いな」と感じたそうですが、声を掛けることも通報することもありませんでした。
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リーダーは「マインドコントロールの天才」と自画自賛
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リーダー格の男子生徒は、被害者の女子生徒に自分をご主人様と呼ばせ、どんな猥褻な要求にも従うようになり「俺らはマインドコントロールの天才だ」と自画自賛していました。

当時は、1995年にオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件の後でしたので、オウムの事件で有名になった「マインドコントロール」という言葉を使ったのでしょう。

確かに、不良グループの中でリーダ格で内気な男子生徒を手下にし、女子生徒を凌辱しても教師や周囲の大人に咎められる事もなければ、生徒もまだ少年なので有頂天になり自己陶酔してしまいそうです。

1996年4月に女性教師が無視

1996年4月頃には、被害者の女子生徒が加害者の男子生徒たちに特別活動教室に連れ込まれそうになりますが、その教室には女性教師が居ました。女子生徒は女性教師に「助けて」と叫びました。

ここで身を挺して助けてこそ教師です・・・が、女性教師は男子生徒たちに「帰れ」と怒鳴られます。女子生徒の助けを請う叫びは空を切り、女性教師は女子生徒を無視しその教室を立ち去るのです。


女性教師が立ち去ってしまった特別活動教室で、女子生徒はいつものように男子生徒たちから猥褻な行為を受けてしまうのです。

教師たちは皆黙認していた


中学2年の秋に男性教師に助けを求めた時も、男性教師は手を差し伸べることなく立ち去っています。この頃女子生徒は授業中でも平気で連れ出されたり、体育の授業中に体操服を脱がされたりしています。

校内の至るところで裸になるよう命令され、口淫を強要されています。教師たちは女子生徒が不良グループに酷いことをされているとわかっていながら黙認していたのです。

必死になって助けを求めた女子生徒は、教師たちが自分に背を向けて立ち去る姿を見て、きっと絶望したに違いありません。

後輩にも権威を示すため加担させる


最上級生になった加害者の男子生徒たちは、後輩の不良たちに対し、自分たちの権威と力を鼓舞することを意識するようになります。権威を示すため手下の少年宅に後輩の不良たちを集めました。

少年宅には総勢20人ほどが集まり、そこで被害者の女子生徒に裸になることを強要しました。そして後輩たちに「好きなだけ弄って構造を勉強して良いぞ」と偉そうに言い放ちニヤニヤと笑っていたそうです。

先輩としての威厳を保つために、女子生徒を利用した卑劣な行為であり、後輩たちもその猥褻行為に加担させたのです。後輩たちを加担させたのには、「口止め」の意味もあったのでしょう。

後輩たちに肛門の皺を数えさせる

被害者女子生徒の身体を散々弄らせた後は、女子生徒に四つん這いになってお尻を突き出す姿勢をとらせ、後輩たち一人一人に肛門の皺の数を数えさせました。

こうすることで「自分たちが如何に凄いか」、「自分たちは可愛い子にこんなこともさせることが出来るんだ」と権威を示していたと言います。

女子生徒の臀部にたれぱんだを描き踊らせる


被害者の女子生徒が、当時流行っていたたれぱんだのシールを自分の持ち物に貼っていたのを見たリーダー格の男子生徒は、たれぱんだの絵を女子生徒のお尻にマジックで描き、お尻を振って踊らせていました。

この際、火のついたタバコを女子生徒の肛門に挿し、「落としたらヤキを入れる」と言って女子生徒を脅して踊らせ遊んでいたのです。

男子生徒が肛門に力を入れてタバコを動かうように命令し、女子生徒が言われたとおりに動かすとたれぱんだがタバコを咥えているように見え、男子生徒たちは大爆笑しました。
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1996年6月に性被害を告げられた教師が注意
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1996年6月、精神的にも身体的にもボロボロになっていた被害者の女子生徒は、意を決して担任教師に性被害を告げました。現状から逃れるためには大人の助けが、教師の助けが必要だったからです。

女子生徒がどの程度詳細に性被害の内容を告げたのか、本当のところは女子生徒と担任教師しか知り得ないことですが、少なくとも羞恥心をぬぐい捨て報告したはずです。

この時の担当教師の間違った注意によって、女子生徒への性的暴力は今まで以上にエスカレートしてしまったのです。

担任教師の対応の誤り

被害者の担任教師は、加害者の男子生徒が別クラスだったにもかかわらず、加害者の男子生徒がいるクラスの担任教師に被害を報告したり、情報を共有することをしませんでした。

養護教論にだけは、女子生徒たちから身体を触られたなど性的被害の訴えがなかったか確認しますが、教師としての対応は全くと言って不充分なものでした。


クラスの帰りの会で注意

性的被害を告げられた後は、クラスの男子生徒たちの様子を2、3日見ていただけで、別クラスだった加害者の男子生徒たちの様子を観察することはありませんでした。

そして最終的にクラスの帰りの会で「女子生徒の身体を触るとセクハラになるからしないように」と、学級全体に注意を促し、これで終わらせてしまったのです。

リーダーの性行為を筆頭に群がる加害者たち


その後、加害者であるリーダー格の男子生徒だけが実はこっそりと被害者の女子生徒と性交渉をしていたことが仲間たちにバレてしまいます。


不良グループの仲間たちはそれまで口淫してもらうだけだったので、この事実を知り我慢していた性欲が爆発します。女子生徒に群がり「自分もやらせろ」と性交渉を迫りました。

この一件を機に女子生徒は複数の男子生徒たちかに代わる代わる強姦されるようになり、遂に1996年12月の事件へと発展していくのです。

1996年12月に廊下で泣いているところを親友が発見し教師に報告


1996年12月の事件発生直後、たまたま被害者の女子生徒の後輩でもある親友が通りがかり、廊下で泣き崩れている女子生徒を発見します、この2人はその場で抱き合って涙し、教師に事件を報告しました。

報告を受けた教師は被害者の女子生徒の訴えを無視することなく、まずは女子生徒を家まで送り届け、女子生徒の両親に事件の経緯を説明しました。両親がようやく真実を知ったのです。

そして教師は警察へ通報します。それは2年を優に超える、言葉では表現しきれないほどの長くて辛い性的いじめ、性的暴行から女子生徒が解放された瞬間でした。


旭川女子中学生集団暴行事件のその後について


集団暴行事件が表沙汰となった後、当然、この事件にかかわった加害者の男子生徒10人は旭川市家庭裁判所で処分を下されました。

そして事件から少し時間が経過した1998年に、被害者家族は旭川市と北海道を相手取り、民事訴訟を起こしました。
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裁判が行われた
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この事件にかかわったとされる加害者の男子生徒たち10人の処分が、旭川家庭裁判所で決定しました。

加害者の生徒3人が少年院へ送致となり、6人は試験観察処分、残り1人は保護観察処分を言い渡されています。

今回の事件が発覚したことで、実は被害を受けていたのは今回の被害者の女子生徒だけではなく、他の女子生徒にまで被害が及んでいたことが判明したのです。

1998年4月に女子生徒と両親が慰謝料を求める

1998年4月、被害者の女子生徒とその両親は旭川地方裁判所に、当時、学校側の対応が不適切だったとし、北海道と旭川市を相手に慰謝料を含めた総額4430万円の損害賠償を求める訴訟を起こします。

何故、旭川市だけでなく、北海道に対しても訴訟を起こしたのかというと、教師の給料の負担をしているのが「北海道」だからなのです。


2001年1月に判決

この民事訴訟は、2001年1月30日に結審します。旭川地方裁判所は女子生徒の事件全体での慰謝料を1千万円程度が相当だと認定したのです。

この時すでに加害者生徒たちのグループと示談金860万円で示談が成立していたので、その示談金860万円を差し引いた金額を旭川市と北海道に対して支払うよう命じました。

結果、被害者の女子生徒には170万円、被害者の両親に対しては1人15万円ずつ、計30万円を支払うように命じたのです。

被害者の女子生徒について


被害者の女子生徒は、普通の「女の子」でした。ただ、その可愛すぎる顔と、他の子たちよりも大きくて目立ってしまっていた胸が、思春期の男子の恋心だけでなく性的興味の対象となってしまったのです。

また、目立つ容姿ではありましたが、比較的大人しめなグループに属しており、クラスの中心でワイワイと騒ぐようなタイプの生徒ではなかったようです。

顔が可愛く人気者だった

被害者となった女子生徒は小柄で肌は色白、目鼻立ちがくっきりと整った可愛らしい顔つきで、芸能人の遠藤久美子に顔が似ていたという話もあります。

黒髪をツインテールに結び、清潔感が漂うこの女子生徒は性格も明るく活発で友達も多く人気者だったそうです。群を抜いた可愛らしさが人の目を惹きつけていたのでしょう。

成績もよく加害者リーダーとも最初は普通に話していた


明朗快活な女子生徒でしたが、不良とは全く無縁で真面目な生徒だったそうです。服装などもいたって真面目で、違反行為などするタイプではありませんでした。

勉強もできる方だったようで、成績は学年で約100人中20位以内には入っているという、まさに才色兼備な生徒だったのです。

加害者のリーダー格の男子生徒は別クラスでしたが、廊下などで度々話しかけられることがあり、最初は「ちょっと悪っぽくてかっこいい」と思い、普通に接し話していたのです。
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他の被害者女子生徒について
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この事件は、被害者となってしまった女子生徒の他にも同様の被害を受けた女子生徒がいるようです。。同様の被害とは果たしてどこまでなのか。実はその詳細は明らかになっていません。

他に被害を受けたという女子生徒は、その卑劣極まりない行為の数々が表沙汰になる事を拒んだのではないでしょうか。

被害者は中学生です。屈辱感よりも羞恥心が勝ってしまい、泣き寝入りしてしまった女子生徒がいるのでしょう。周囲の大人に言えず、陰で泣いていた女子生徒がいると思うと悔やまれる事件です。

加害者の男子生徒たちについて

捕まった総勢10人の加害者の男子生徒たちは、ひとつの不良グループに属するメンバーです。ただしグループ内には上下関係があり、全員が並列な関係性ではありませんでした。

主犯格だったリーダー格の男子生徒、他に、リーダー格と同格の生徒が数人。それ以外の生徒は同格以下でありましたが、

この不良グループはその素行の悪さと暴力で、旭川市内の中学校ではとても有名な非行グループだったようで、教師をはじめ周囲の大人たちも手が付けられなかったと言います。


10人の不良少年たち

10人の不良少年たちは全員同学年で、中学生時代はひとつの非行グループとしてつるんで色々な悪事を働いて遊んでいたようです。

市立中学校なので学区も決まっているはずですから、この少年たちは同じ小学校の出身だったり、顔見知りだったり、中には幼馴染みがいたのかもしれません。

そして「不良」というステータスは少年たちにとって「格好良い」ものであり、大人たちが誰も制止しなかった事で、少年たちの悪事もどんどんエスカレートしていったのでしょう。

教師も生徒も逆らえない存在

この不良少年たちは特に学校内ではやりたい放題だったようです。特に中学3年生になり、自分たちが最上級生になると誰も手がつけられないほどの傍若無人ぶりを発揮します。


平気で暴力を振るう少年たちに同級生や下級生はおろか、教師さえも平気で殴るような少年たちに誰も逆らえない状況がいつの間にかつくられていってしまったのです。

リーダー格の生徒の親が地元の名士だった事や、不良少年の親が暴力団関係者だったことなども、教師たちが不良少年たちに逆らえない理由のひとつとなっていたのかもしれません。

非行グループとして目立っていた

この不良少年たちは、旭川市内の中学校ではかなり有名な非行グループでした。他校生との暴力事件を起こしたり、喫煙はもちろんのこと窃盗やカツアゲなども日常的に行っていました。

校内では廊下でバイクを乗り回したり、内気な生徒を「パシリ」にしてカツアゲをさせたり、被害者の女子生徒に猥褻行為をする時の見張り役をさせたりしていました。

教師でさえも自分たちを恐れ逆らわないことで、学校を牛耳りやりたい放題だったのです。

旭川女子中学生集団暴行事件の問題点


旭川女子中学生集団暴行事件は、事件が発覚するまでに2年以上もの時間を要しました。被害者の女子生徒は事件が発覚するまで、加害者生徒の言いなりになってからも何度も周囲に助けを求めていました。

両親は一緒に生活している我が子の変化に本当に気づけなかったのでしょうか。学校の教師の対応は、果たして何度も助けを求める女子生徒を本気で救おうとしての行動だったのでしょうか。

加害者の男子生徒たちの暴力や脅迫に屈していた以外に、周囲の大人たちの対応に問題はなかったのでしょうか。
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教師は何故ちゃんと対応しなかったのか
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世間を広く驚かせたのは、旭川女子中学生集団暴行事件が発覚しマスコミ取材の矢面にたった同中学校の教頭が、この事件について公表せず事件を伏せていたということです。

また、被害者女子生徒の両親に対してもいじめや性的暴行の事実をひた隠しにし「男子生徒たちに胸などを触られただけ」と、事実とは全く異なる説明をしていました。

他の教師たちに関しては、2年もの間被害者の女子生徒が性的暴行を受けているのを目撃したり相談を受けていたにもかかわらず、男子生徒たちに適切な指導を怠り黙視し続けたのです。

担任教師たちの対応に問題があった

事件が発覚するまでの2年の間に、女子生徒は担任教師に何度かその被害を報告しています。他にも男子生徒たちに連れられて行く女子生徒を目撃した教師、恫喝され立ち去った女性教師もいました。

担任教師に至っては、養護教論に女子生徒からの訴えがなかったか確認もしているにもかかわらず、別クラスだった男子生徒たちの担任教師に報告することもなければ、生徒たちに適切な指導もしていません。

学校がとった対応は、不良グループの生徒たちと女子生徒を同じクラスさせなかったこと以外、何もしていないのと変わらなかったのです。


学校側の主張に問題あり

学校及び教師の対応はあまりにも被害者の女子生徒の性的いじめ・暴行を軽視、黙認した重大な過失であり、この事件において最も重篤な問題点であることは明白です。

校内外で日常的に性的暴行が行われ、学校内では他学年にも知れ渡り、他校にもその噂は流れ、学校の近隣でも知られる程の猥褻行為を学校の教師たちだけが知らないはずはないのです。

事件後、学校側で行った聞き取り調査で、「女子生徒は男子生徒たちと仲が良く、被害を受けていた時も女子生徒は笑っていた」として女子生徒にも非はあると訴える始末でした。

女子生徒が笑みを浮かべながら相談した

被害者の女子生徒に何度か被害の報告や相談をされていた担任教師は、相談は1度だけで「女子生徒は笑みを浮かべながら相談してきた」と主張しています。その為、深刻な事態だとは思わなかったというのです。


ですが、女子生徒は授業中でも男子生徒たちによって教室から連れ出されたり、校内の至るところで口淫などを強要されていることは、周囲の生徒はもちろん教師たちも目撃している事実です。

羞恥心もあり、仮に女子生徒が少しの笑みを浮かべてしまったとしても、「笑みを浮かべていたから、男子生徒たちからのからかい程度」だと判断するのは見当違いすぎます。

加害者の母親が「被害者にも落ち度がある」

この事件が発覚した後、被害者家族が学校の対応に抗議に出向いた際、加害者の男子生徒の母親が「女子生徒にも落ち度があったのではないか」と自分の息子の卑劣な行為を棚に上げ反論しました。

被害者の女子生徒のどこに「落ち度」があったと言うのでしょうか。自分の子供が償いきれないような罪を犯してしまったという事実を、親自体が深く重く受け止めていないような発言です。

仮に自分の息子が自分の犯した卑劣な行為について、自分に有利に親に話したとしても、これほどの事件を起こした事実を考えれば、我が子を庇うのは筋違いというものではないでしょうか。

両親は相談されるも「無視しなさい」


被害者の女子生徒は、中学1年生という早い段階で両親に学校での性的なからかいについて相談しています。この時両親は「そんな人たち無視しなさい」と軽くアドバイスする程度しかしませんでした。

実はその後、からかいが性的いじめへとエスカレートしていくなかで、女子生徒は再度両親に相談していたのです。この女子生徒の訴えを聞き、さすがに両親は学校に対し相談をしました。

しかし学校側は「事実が確認できない」として訴えを否定したのです。両親は学校に再三訴え続けましたが、学校側の対応は変わりませんでした。両親も学校に訴える以外に取るべき手段を考えるべきでした。
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一生の心の傷に対する判決にも問題か?
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一連の学校側の対応に対しての憤りや不信感から、被害者側は旭川地方裁判所に訴訟を起こしましたが、その判決は女子生徒の受けた心身に残る傷を考えると余りにも無情なものでした。

地方裁判所の出した判決は、事件全体の慰謝料は1000万円相当が妥当であり、加害者グループとの示談により支払われている和解金を差し引いた200万円を旭川市と北海道に支払うよう命じたものでした。

事件発覚当時15歳だった女子生徒は長い間心身ともに凌辱され苦痛にひとり耐え忍び、そして癒えることのない深い傷を一生背負っていくことを考えると、この判決結果は非常に残酷なのではないでしょうか。

学校側の聞き取り調査結果


学校側の聞き取り調査によって、女子生徒が加害者の少年たちと仲良くしているように見えたこと、被害を受けている時にも笑っていたなどという証言があり、女子生徒の対応にも落ち度があると指摘されました。

被害者の女子生徒は、男子生徒たちからの暴力から逃れるために、少年たちの機嫌を損ねないよう言いなりとなってしまっていた結果、周囲の目には女子生徒も楽しんでいたように見えたのでしょう。


女子生徒が自己防衛のためにとった苦肉の策は、裁判では自分に不利な証言となってしまったのです。

女子生徒に不利な証言が多数あった

旭川市教育委員会は、裁判が進む中加害者の男子生徒たちを含めた同級生の生徒たちに対して聞き取り調査を実施し、その調査結果を法廷で明らかにしています。

加害者の生徒たちに対し同情するような証言が聞かれたこと、逆に被害者の女子生徒の心情を知り得る同級生は見つからず、女子生徒側の証言を得ることは不可能だったとしたのです。

ここでも女子生徒が同級生に対して本心を打ち明けるなどせずにいたことが裏目となって出てしまい、それが被害者側にとっては到底納得し難い、厳しい判決結果に結びついてしまったのでしょう。

旭川女子中学生集団暴行事件の関係者の現在は?


事件が発覚してから既に20年以上が経過し、当時中学生だった被害者と加害者たちは皆、30代後半となっています。事件に関与した生徒たちは現在どうしているのでしょうか。

一生消えない傷を背負ってしまった被害者の女子生徒と、少年院送致や試験観察・保護観察処分となった加害者の男子生徒たちはその後の人生をどのように歩んでいるのでしょう。

被害者の女子生徒の現在について

事件が発覚した1996年から20年余りが経過し被害者の女子生徒も既に30代後半となっています。実は女子生徒は、この事件が発覚した翌日以降も学校に登校し続け、驚くことに中学校生活は皆勤賞だったそうです。

辛い日々の中、一日も休まずに登校し続けた女子生徒の「皆勤賞」の重みは言葉にし難い尊いものです。そしてその後も周囲の好奇の眼差しに負けることなく高校に進学したのです。


しかし気持ちも新たに高校に進学した被害者でしたが、事件での精神的な傷は癒えることはなく、特に男性に対しては恐怖心などがあり会話をすることはなかったといいます。

男性への恐怖心は消えたのか

事件発覚当時は未成年でしたので、被害者の女子生徒の実名や顔写真などは公表されていません。当時は2ちゃんねるなどで名前や写真が晒されることもあったようですが、現在は削除されています。

ですので、現在の被害者については詳細はわからないのですが、既に結婚しているという噂もあります。それが本当ならとても喜ばしいことですが、完全に立ち直るには長い年月が必要なことも確かです。

現在30代後半となっているであろう被害者については、事件に対するトラウマや男性への恐怖心を乗り越えて幸せで輝かしい人生を歩んでいてほしいと切に願うばかりです。
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加害者の男子生徒たちの現在について
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被害者の女子生徒と同学年だった加害者たちも現在は30代後半です。被害者と同様に事件当時未成年だった少年たちは少年法により身元を保護された為、実名や顔写真が公表されることはありませんでした。

被害者の女子生徒に対する性的暴行などが著しく酷く少年院送致となった少年3人は、被害者家族が裁判で係争中は少年院に収監されていましたが、判決が出る頃には出所しています。おそらく20歳くらいでしょう。

同じように試験観察処分、保護観察処分となった少年たちも裁判が終わるころまでには既に処分も解け、普通の生活に戻っていたはずです。

社会に出て普通に生活しているのか

被害者が受けた心の傷は一生残りますが、加害者たちは少年法により保護され、受けた処分を全うさえすれば数年でそれまでの生活に戻ることが出来ます。普通に社会に出て働いている加害者も多いでしょう。

この事件で処分された10人を含め、判明しているだけでもこの不良グループの同級生で成人してから、殺人事件を起こし逮捕された者が1人、殺人未遂事件で逮捕が1人、逆に殺害されてしまった者が1人いるそうです。


現在の年齢は被害者と同様に30代後半。結婚し家庭を持ち、子供がいる加害者もいることでしょう。自身が親になったからこそ気づく「痛み」と「懺悔」はあるのでしょうか。

旭川女子中学生集団暴行事件と類似した事件

旭川女子中学生集団暴行事件は近年例を見ない、未成年による凄惨な性的暴力・強姦事件です。性犯罪事件で取り沙汰されるものは最終的に殺人事件となる事案が多い中、命を失うことがなかった事は不幸中の幸いです。

この事件に類似するような、未成年が犯した凄惨な事件は他にもあったのでしょうか。

尼崎児童暴行事件

尼崎児童暴行事件とは、2006年兵庫県尼崎市で発生した事件で、小学生4年生の男子児童が主犯格となり、被害者である同級生の女子児童に対し集団で性的いじめ・集団暴行をおこなった事件です。

小学校4年生の男子児童が自宅でアダルトビデオを観て興奮し「ビデオと同じことがしたい」と思い、他の男子児童を使い被害者の女子児童を家に呼び寄せ、複数人の児童が女子児童の身体を弄びました。

女子児童は後日、両親と教師に被害を打ち明けます。被害者家族は転校を希望するもそれは叶わず、その後男子児童たちは1年以上も被害者の女子児童に性的いじめと性的暴行を加え続けました。

大邱小学生集団性暴行事件


大邱小学生集団性暴行事件とは、2008年に大韓民国(韓国)で発覚した事件で、小学校高学年の男子児童複数人が被害者の女子児童に対し日常的に性的暴行を行っていたという異常な事件です。

当初は小学生の男子児童同士のいじめから始まりました。上級生の児童が下級生の男子児童に無理矢理陰部を見せ、同性同士の性行為を強要し下級生の児童が断ったら殴るなどの性的いじめ・暴力でした。


そのうち、いじめられていた男子児童が女子児童に暴行を加える行為に参加し始め、女子児童の身体を弄び、強姦するようになります。被害者が一転、加害者になるという未成年の起こした事件です。

加害者の男子生徒たちの裏に隠れた「加害者たち」

旭川女子中学生集団暴行事件が発覚し、加害者の不良グループの男子生徒10人が性的暴行などの罪で処分を受け、被害者側は旭川市や北海道を相手取り裁判を起こし結審。そしてこの事件は終わりを迎えました。

これだけの事件を起こしながらも、加害者の少年たちは少年法により保護され、処罰自体成人の受ける刑事事件の量刑より当然ですが相当軽いものです。この事件の処分はこれだけで終わっているのです。

しかし、本来罰せられるべき人物はもっと他に大勢いたのではないでしょうか。10人の加害者生徒たちの陰には大勢の罰せられなかった加害者がいたはずです。
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逮捕・補導された加害者の他に被害者に猥褻行為をした生徒たち
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この事件は被害者の女子生徒が中学1年生の頃から始まっています。主体となって女子生徒に性的いじめや暴行を加え続けていたのは、主犯格の男子生徒を含む不良グループの生徒たちですが犯人は他にもいます。

女子生徒の身体を弄んだ下級生の不良生徒たち、不良グループの生徒たちに勧められて、女子生徒に口淫を強要したり強姦した他校の男子生徒たち。彼らは加害者生徒たちと同罪なのではないでしょうか。

事件発覚後、大勢の男子生徒が女子生徒を凌辱していたことが明らかになっているにもかかわらず、加害者以外、誰一人として処罰を受けることなく普段通りの生活を送っていることに疑念を感じざるを得ません。

黙視し続けたクラスメイトや同級生たち

女子生徒はクラスメイトがいる教室でも頭を殴られたり裸になるよう強要されていましたし、授業中に連れ出されても、猥褻行為を目撃しても、クラスメイトや同級生たちは助けることはなく黙視し続けていたのです。

被害者の女子生徒に対し直接危害を加えたわけではありませんが、見て見ぬふりをし続ける行為は「間接的ないじめ」であり、傍観していた者たちは立派な加害者なのではないでしょうか。


教師という立場と責任を見失いすぎた

教師たちに至っては、生徒を守るべき立場でありながら、被害者である女子生徒の性被害の報告を軽んじて受け止め、適切な対応をすることなく放置したり、猥褻行為を目撃しても通り過ぎる始末です。

事態が深刻だと受け止めなかったとしても、教師という立場や責任を心に留めて教職を全うしているのであれば、校内で猥褻行為があるという事実を教師同士が共有し、改善するように働きかけるべきなのです。

事件が発覚した際に相談を受けた教師以外のこの学校の教師たちは、善悪の判断が出来る立派な成人であるのに、女子生徒を助けることを「あえて」しなかった。これは加害者と言わずにはいれません。

旭川女子中学生集団暴行事件の深い謎


旭川女子中学生集団暴行事件は、突発的に発生した性的暴行事件ではなく、被害者と加害者が中学1年の頃から事件が発覚した中学3年の12月まで長期間に渡って被害が継続された悪質な事件です。

ただ裁判での判決結果は元より、学校や教育委員会が独自で行った聞き取り調査の結果を知る限り、加害者を擁護する声や同情の声が多くあったというのはとても不思議です。

被害者の女子生徒が誰にも本心を打ち明けていなかったとしても、泣き叫ぶ女子生徒を見ていれば何も出来なかったにしても、内心少しは同情したりするものではないでしょうか。

被害者の女子生徒の謎

中学校に入学当初、明るく友人も多かったという被害者の女子生徒ですが、いつの間にか学校内で「孤立」しているように感じます。小学校から一緒だった友人や被害を見聞きした友人はいなかったのでしょうか。

そして女子生徒には1つ年上の兄がいます。猥褻行為が悪質化した中学2年生の頃、お兄さんは中学3年生です。学年は違ったとしても、妹が猥褻行為をされている事を噂で聞いたりすることがなかったのも不思議です。


また加害者生徒たちとの行為を楽しんでいるように見えたという証言もあります。この事件は最初から女子生徒はや嫌がっていたはずですが、本当はどこまでがおふざけで、どこからが嫌々の言いなりだったのでしょうか。

加害者の男子生徒たちの謎

加害者の男子生徒たちは中学1〜2年の時に集った仲間たちです。犯人であるリーダー格で男子生徒の失恋を機に性的嫌がらせが始まりましたが、なぜ執拗に被害者の女子生徒に猥褻な行為をし続けたのでしょうか。

少年たちは酷く素行の悪い不良グループで、この事件での性的暴行などに同情の余地はないはずなのですが、聞き取り調査の際には彼らに同情する声が多数挙がっていたのは何故でしょう。

加害者の男子生徒たちの起こした罪は大罪であることは明白ですが、周囲の目から見ると男子生徒たちだけが悪い訳ではないと同情できるような「事実」が隠れている気がしてなりません。
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被害者女子生徒の家族の謎
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全ての家族が仲が良いわけではないでしょうが少なからず被害者の女子生徒の両親は、学校での性的嫌がらせについて本人から何度か相談を受けています。事件発覚までの間に子供の変化に気づかなかったのでしょうか。

女子生徒が無理やり強姦された日、帰宅した女子生徒はいつもと変わらぬ様子で家族と食卓を囲み、雑談をし笑い合っていたのでしょうか。傷ついた心と身体をひた隠し普段通り両親と接すれるのでしょうか。

両親は女子生徒が性的嫌がらせの相談をしなくなってから事件発覚までの間、寧ろ両親の方から思春期の娘に問いかけたり寄り添うことで、少しの変化や異変を察することは出来なかったのでしょうか。

旭川女子中学生集団暴行事件のような事件が二度と起こらないために


この事件は全てが異常です。女子生徒が2年以上も凌辱され続けていたのに、誰一人として女子生徒を助けることなく傍観し続けた事。男子生徒たちを野放しに資、校内での様々な悪行と犯罪を黙認し続けた教師たち。

事件自体を隠蔽しようとした、学校の悪質な体制と対応。これが逆にこの事件がメディアに取り沙汰れる結果に繋がり、卑劣極まりない集団暴行事件として有名になったのもかもしれません。

そして二度とこのような事件が世間を騒がせることがないよう、教師をはじめ親や周囲の大人たちはもっと子供たちに関心を持ち、目を向け語り合い愛情の手を差し伸べることが必要なのではないでしょうか。
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http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/738.html#c113

[番外地7] 中学で一番の美少女に毎朝精液を飲ませていた旭川女子中学生校内集団レイプ事件(昼休み板へのリンク) 中川隆
13. 中川隆[-11250] koaQ7Jey 2019年3月23日 18:50:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[759]

旭川女子中学生集団暴行事件の概要!加害者と被害者の現在は?
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旭川女子中学生集団暴行事件は、1996年12月に発覚した性的いじめ・暴行、強姦事件です。犯人10人に対し被害者は1人。そして加害者、被害者ともに中学生であると共に、卑劣な事件の詳細と教師の不適切な対応がメディアに取り沙汰されました。


旭川女子中学生集団暴行事件の概要


1996年12月、教師からの通報によって発覚した北海道旭川市の中学校で起こった集団暴行事件です。被害者は女子生徒1人。犯人は同中学校の男子生徒総勢10人と、近年例を見ない集団暴行事件です。

最初は少し「からかう」程度で、女子生徒も凄く嫌がるほどの事ではなかったのですが、その行為は徐々にエスカレートしていきます。

最終的に女子生徒を精神的に追い詰めるほどの悪質ないじめ、そして性的暴力にまで及んだこの事件は通報されるまで2年以上もの間続いており、被害者女子生徒の心と身体に酷く深い傷を残すものとなったのです。

1996年に北海道の市立中学校の女性を集団暴行


1996年12月24日、街中がクリスマスムード一色となるこの日。被害者の女子生徒が中学3年生の時に事件は起こりました。下校途中だった女子生徒は、3人の加害者男子生徒たちによって学校に連れ戻されます。

校内では主犯格の生徒を含め男子生徒7名が待ち構え、総勢10人の男子生徒たちに取り囲まれた女子生徒は「助けて」と叫び抵抗します。悲痛な叫びに手を差し伸べる者はいなく、校内の男子トイレに連れ込まれます。

トレイ内では殴るなどの暴行を受け、加害者生徒10人のうち3人は見張り役、6人の生徒は女子生徒の身体を触るなど弄び、1人の男子生徒は女子生徒を強姦しました。そして女子生徒に水をかけ水浸しにしたのです。

性的暴行や強姦を受け泣いているところを教師が通報


被害者の女子生徒はトイレ内での集団暴行被害を受けた直後、廊下で泣き崩れました。それを親友が見つけ駆け寄りました。そしてこの出来事を教師に訴えたのです。


話を聞いた教師は、まず女子生徒を家まで送り届け、その後警察への通報しました。この通報をきっかけに、それまでの2年をも超える長い期間の集団暴行事件が実態が明るみとなったのです。

事件があった旭川市立北都中学校について

1947年5月「旭川市立第七中学校」として開校。2年後の1949年9月に「旭川市立北都中学校」と改称。2015年に中央中学校が新設され(常盤中学校、聖園中学校と併せ統廃合)これにより閉校となりました。

現在も校舎は存在していますが、校舎の1階部分の玄関や窓には板が打ちつけられ、侵入が出来ないようになっています。体育館やグラウンドは中央中学校の部活などで現在も使用されています。

当時の北都中学校は、生徒たちが「学校美術館」と呼ぶほど学校内には美術品が飾られており、何故かトイレ内にまで美術品が飾ってあるという少し異質な雰囲気を醸し出していたようです。


事件当時は荒れた時代だった?


事件が発生した1996年当時、不良生徒たちの素行は酷く、この中学校では不良生徒たちが荒れ狂う動物園のような状態だったと言います。

この頃、加害者の不良生徒たちは中学3年生となり、自分たちが最上級生となったことでより一層狂暴化しました。校内を原付バイクで走ったり他の生徒にカツアゲをさせたり、時には教師を殴ることもあったようです。
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旭川女子中学生集団暴行事件の概要!加害者と被害者の現在は?
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旭川女子中学生集団暴行事件の時系列

この集団暴行事件は、女子生徒が中学校に入学した1994年、女子生徒が中学1年生の頃から実は始まっていました。当初は、その容姿からクラスのアイドル的な存在だった女子生徒をからかう程度の軽微なものでした。

しかし、加害者である男子生徒の1人が女子生徒に告白し振られたことで行為は次第にエスカレート。耐えられなくなった女子生徒は教師に報告しますが、教師は男子生徒を軽く注意する程度の対応しかしませんでした。

教師に注意された事で、女子生徒に怒りを覚えた男子生徒は暴走していきます。女子生徒を裸にして身体を触わり、口淫を強要し、最終的には日常的に性的暴行が繰り返されるほどの事態となってしまうのです。

事の発端は被害者となるクラスのアイドル的女子生徒に振られたから


中学1年生の2学期早々に、加害者である不良グループのリーダー格の男子生徒は被害者の女子生徒に告白しますが、女子生徒は告白を断りました。このことがリーダー格の男子生徒のプライドを傷つけたのでしょう。


女子生徒への好意は怒りに変わり、リーダー格だった男子生徒の「からかい」でしかなかった行為は日に日に悪質化し、「いじめ」や「性的暴行」へと変化していくのです。

1994年中学1年秋頃からスカートめくりが始まった

当時、不良グループの間では、被害者の女子生徒以外にも可愛いと思う女子生徒に対してスカートめくりをしたり、お尻を触るなどの行為を日常的に行っていました。

しかしお尻を触るというのは「軽く触る」ということではなく、特別教室に連れていき1人の女子生徒を数名で押さえつけ身体を弄ぶのです。昼休みの間、不良生徒たちが満足するまで身体を触り続ける行為だったのです。

被害者の女子生徒がスカートめくりのターゲットになったのは中学1年生の秋頃です。告白の一件の後から始まったのでしょう。不良グループからのスカートめくりは日常的に行われるようになっていきました。

リーダー格の男子生徒だけがしていた行為


被害者の女子生徒に告白する前から、女子生徒に想いを寄せていたリーダー格の男子生徒だけは、女子生徒のお尻を軽く触ったり胸を揉むなどの行為をしていました。

ただ、この頃はまだ被害者の女子生徒は男子生徒に胸を揉まれても、「ちょっとやめてよ」と笑いながら流す程度で、周囲にはふざけてじゃれあっているようにしか見えない対応だったようです。

女子生徒が本気で嫌がる素振りを見せなかったことも、加害者である男子生徒のその後の行為を助長させるきっかけとなってしまったのかもしれません。

両親に相談するが教師には言えずエスカレート

周囲にはじゃれあっているようにしか見えなかった行為も、被害者の女子生徒は本心では嫌だったのでしょう。実は早い段階で両親に相談をしています。両親からは「そんな人は無視しなさい」と言われます。


両親はきっと、中学生の男子が好きな子をからかう程度の「いたずら」でしかないと受け止めたのでしょう。悪質な事件に発展するなどとは想像もしなかったはずです。

両親からのアドバイスを受けた女子生徒は、教師には相談しませんでした。中学1年生という多感な年ごろの女子が、教師とはいえ他人に対して性的被害を話すことは、気恥ずかしさもあり躊躇したのでしょうか。

スカートめくり以上の性的いじめが始まる

この頃にはスカートめくり以上の性的いじめが始まっていました。リーダー格の男子生徒が振られたことで、不良グループの仲間たちもリーダー格の生徒と一緒となり、性的いじめをエスカレートさせます。

不良グループの数名で被害者の女子生徒を囲んでスカートの中に手を入れ、パンツの上から女子生徒の股間を触ったり、女子生徒の机にアダルト本を入れておいたりと卑猥な行為に変わっていったのです。
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中学1年秋に耐え切れず教師に報告
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被害者の女子生徒は、中学1年の秋には卑猥な嫌がらせに受けており、それに耐え切れず遂に勇気を出して教師に報告をします。報告を受けた教師は加害者の男子生徒を呼び出しやんわりと注意をします。

卑猥な嫌がらせをしても叱責されず軽い注意しか受けなかったこと、そして教師に自分たちの愚行を報告した女子生徒に対する怒りは、不良生徒たちの行為を更にエスカレートさせるきっかけとなってしまいました。

中学1年冬に裸にされる


教師からの注意を受けた後、不良グループの生徒たちの性的いじめは加速し、猥褻行為も悪質化します。中学1年の冬になると休憩時間に限らず授業中でも平気で被害者の女子生徒を連れ出すようになります。

加害者生徒たちは複数名で女子生徒を取り囲み、両脇を捕まえて強引にトイレや特別教室に引きずって連れていき、服を脱がして裸にした後その身体を弄ぶのです。口淫を強要するようになったのもこの頃からでした。

執拗に身体を弄ぶ行為は日常化し、行為は性交直前までいきます。しかしあくまでも性交直前までで性交渉はなかったのです。この性的いじめや猥褻行為は、中学2年の夏までエスカレートしながら続きました。

性交渉しないために必死だった


この頃、性交渉することがなく行為が性交直前で終わっていたのは、加害者生徒たちが寸前で止めていたというよりも、被害者の女子生徒が自分の身を守るため、殴られても必死に抵抗していました。

性交しない替わりに加害者生徒たちは女子生徒に敬語を使わせるようになり、更には口淫まで強要します。男子生徒たちは順番待ちの列を作り、入れ替わり口淫させるのです。

「性交渉だけは絶対にさせない」と、女子生徒は加害者たちのどんな要求にも応え、必死に耐え続ける日々を送るのでした。

中学2年夏に男子生徒の家に連れ込まれる


性的いじめ、暴力が繰り返されますが、被害者の女子生徒は誰にもそれを訴えませんでした。暴力や脅迫に怯えていたのでしょう。そしてそれが性交渉をしない為の最善策だと信じていたはずです。

しかし1995年、被害者の女子生徒が中学2年生の夏、男子生徒の家に連れていかれ逃げ場を失った女子生徒は、遂に強姦されてしまいます。これが女子生徒にとって初の性交渉でした。

この強姦をきっかけに、思春期真っただ中である加害者の男子生徒たちの性的興奮・欲求は抑えられないものとなり、女子生徒に対する性的暴力は更に酷いものとなっていくのです。

その後日常的に性的暴力が繰り返される


初めて強姦されて以降、被害者の女子生徒に対する性的暴力は日常化、更に暴力行為自体も悪質化はエスカレートしていきました。口淫の強要以外にも度々強姦されるようにもなってしまいます。

当初は女子生徒も必死に抵抗していましたが、その度に激しく暴力を振るわれます。夏休み前には肋骨辺りを骨折し入院していたそうです。そして酷く暴力に怯えるようになりました。

暴力から逃れるため

女子生徒は「なんでも言うことを聞くから痛いことはしないで下さい」と加害者生徒に懇願します。過激な暴力から逃れるため、女子生徒は抵抗することを諦めるしかなかったのです。

被害者の女子生徒は、リーダー格の男子生徒を「ご主人様」と呼ぶように言われます。ご主人様の命令は『絶対』です。反抗的な素振りを見せると殴られ、タバコの火を身体に押しつけられました。

美味しいミルクやご主人様の命令


以前と変わらず口淫を強要、射精後は精液を口から吐き出すことは許されていないので飲み込みます。そして「美味しいミルクをありがとうございます」と卑猥なセリフを言わされるようになります。

ご主人様に命令されれば、それがどの場所だろうと裸になり、命令されればどこであろうと口淫もしました。クラスメイトがいる教室内だったとしても裸になり、口淫しなければならないのです。

脅迫され追い詰められる


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殴るなどの暴力と並行し、被害者の女子生徒は「脅迫」を受けていました。その脅迫は女子生徒自身に対するものもあれば、女子生徒の家族をターゲットした脅迫もあったようです。

女子生徒は「兄貴とセックスさせるぞ」と言われたり「母親も犯すぞ」と脅されます。「家を燃やすぞ」という脅迫は、彼らの悪質性から本気でやりかねないと最も恐れていた脅しでした。

女子生徒自身も性的暴力を強要される度に「〇〇しないと全員で輪姦するぞ」「やらないと殺すぞ」などと常々脅迫されており、恐怖に慄く女子生徒は指示に従うしかありませんでした。
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1995年中学2年秋に男性教師が無視
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1995年、女子生徒が中学2年の秋には、放課後の教室で猥褻な行為をされているのを通りかかった男性教師が目撃しています。女子生徒は男性教師に向かって「助けて」と叫びますが無視されてしまいます。

女子生徒の悲痛な叫びを背にし、この男性教師は何を思ったのでしょうか。学校の評判でしょうか。それとも自分自身の保身のでしょうか。

この後、女子生徒が助けを求めたことに加害者の男子生徒は怒り、トイレに場所を移し女子生徒の後頭部を殴るなどの暴力、背中にタバコの火を押しつける暴行を加え強姦し、個室に監禁し水をかけたのです。

エスカレートしていく男子生徒たち

口淫や強姦が日常的に行われ、被害者の女子生徒も抵抗することなく従順な奴隷のようになると、加害者の男子生徒たちは「性的欲求」を満たすだけでは満足せず、性的いじめを悪質化させます。

可愛い女子生徒の身体を散々弄び、それが当たり前の日常となってしまうと、今度はまるで自分たちの『玩具』と言わんばかりに女子生徒に対し凌辱の限りを尽くしていくようになるのです。

男子生徒たちの女子生徒に対する性的いじめ・暴力は校内外の至るところで行われるようになります。近隣でも知られるほど有名で、旭川市内の他の中学校でも噂になるほどでした。

尿をためたペットボトル


加害者の男子生徒たちは、被害者の女子生徒に対しペットボトルに排尿することを強要し、その尿をためたペットボトルを教室に持ち込ませます。

女子生徒のいる目の前で、同じクラスの男子生徒に匂いを嗅がせ、その反応を見て笑い転げ合うのです。

また、家庭科教室から漏斗を盗み、その漏斗を使って空きペットボトルに尿をためて女子生徒に飲ませることもありました。

ノーパン命令

被害者の女子生徒が中学3年の1学期頃には、下着を着けずに登校するよう命令されます。そのころには加害者の男子生徒たちによって、陰毛を剃刀ですべて剃られていました。

毎日、リーダー格の男子生徒が登校すると「ノーパンチェック」があり、女子生徒は2階の男子トイレへと呼び出され、そこで下着を着けていないかチェックされるのです。

男子生徒が「ノーパンチェック」と呼称すると、女子生徒は自らの手でジャージをおろし下半身を露出し、下着を着けていないことを確認してもらいます。そして口淫するのが一連の日課でした。


剃毛やタンポンを使って遊ぶ


加害者の男子生徒たちは、剃毛した被害者生徒の陰毛までも遊び道具として使用していました。剃毛した陰毛を透明のカードケースにいれて保管し持ち歩いていたのです。

この陰毛を同級生の男子生徒に触らせ(「女子生徒の陰毛だぞ」とでも言っていたのでしょうか)、触った男子生徒が興奮し、勃起すると殴るという遊びを行っていました。

そして下着の着用禁止とともにタンポンの使用を強要していたので、被害者の女子生徒が使用したタンポンも没収し、剃毛と同様、他の男子生徒に見せたり臭いを嗅がせて遊んでいたのです。

最も恐れていた六角椅子でのいじめ

執拗に繰り返されるいじめの中で、被害者の女子生徒を恐怖に陥れていたのが「六角椅子」を使ったいじめです。このいじめは女子生徒が泣きわめくのが見て笑うことが目的でした。

この椅子は重く頑丈で中は空洞の造りです。女子生徒に正座をさせ頭を床につけさせます。座った状態で丸まるような姿勢です。そこに六角椅子を被せると女子生徒の身体は椅子の空洞にきつく入ります。


更にその椅子の上に男子生徒たちが座るのです。空洞に余っている隙間などありません。正座のまま背中を押しつぶされ、息も苦しくなり女子生徒は泣いて許しを請うことしか出来ませんでした。

校外でも口淫させられる

被害者の女子生徒へのいじめや性的暴力は校外でも行われ、公園や橋の下に連れていき過激な暴行をくわえました。女子生徒は複数人の男子生徒たちに身体を弄ばれ、口淫を強要され精液を浴びせられるのです。

この行為を目撃したという人もいますが、アダルトビデオの撮影だと思ったそうです。同時に「それにしても若いな」と感じたそうですが、声を掛けることも通報することもありませんでした。
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リーダーは「マインドコントロールの天才」と自画自賛
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リーダー格の男子生徒は、被害者の女子生徒に自分をご主人様と呼ばせ、どんな猥褻な要求にも従うようになり「俺らはマインドコントロールの天才だ」と自画自賛していました。

当時は、1995年にオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件の後でしたので、オウムの事件で有名になった「マインドコントロール」という言葉を使ったのでしょう。

確かに、不良グループの中でリーダ格で内気な男子生徒を手下にし、女子生徒を凌辱しても教師や周囲の大人に咎められる事もなければ、生徒もまだ少年なので有頂天になり自己陶酔してしまいそうです。

1996年4月に女性教師が無視

1996年4月頃には、被害者の女子生徒が加害者の男子生徒たちに特別活動教室に連れ込まれそうになりますが、その教室には女性教師が居ました。女子生徒は女性教師に「助けて」と叫びました。

ここで身を挺して助けてこそ教師です・・・が、女性教師は男子生徒たちに「帰れ」と怒鳴られます。女子生徒の助けを請う叫びは空を切り、女性教師は女子生徒を無視しその教室を立ち去るのです。


女性教師が立ち去ってしまった特別活動教室で、女子生徒はいつものように男子生徒たちから猥褻な行為を受けてしまうのです。

教師たちは皆黙認していた


中学2年の秋に男性教師に助けを求めた時も、男性教師は手を差し伸べることなく立ち去っています。この頃女子生徒は授業中でも平気で連れ出されたり、体育の授業中に体操服を脱がされたりしています。

校内の至るところで裸になるよう命令され、口淫を強要されています。教師たちは女子生徒が不良グループに酷いことをされているとわかっていながら黙認していたのです。

必死になって助けを求めた女子生徒は、教師たちが自分に背を向けて立ち去る姿を見て、きっと絶望したに違いありません。

後輩にも権威を示すため加担させる


最上級生になった加害者の男子生徒たちは、後輩の不良たちに対し、自分たちの権威と力を鼓舞することを意識するようになります。権威を示すため手下の少年宅に後輩の不良たちを集めました。

少年宅には総勢20人ほどが集まり、そこで被害者の女子生徒に裸になることを強要しました。そして後輩たちに「好きなだけ弄って構造を勉強して良いぞ」と偉そうに言い放ちニヤニヤと笑っていたそうです。

先輩としての威厳を保つために、女子生徒を利用した卑劣な行為であり、後輩たちもその猥褻行為に加担させたのです。後輩たちを加担させたのには、「口止め」の意味もあったのでしょう。

後輩たちに肛門の皺を数えさせる

被害者女子生徒の身体を散々弄らせた後は、女子生徒に四つん這いになってお尻を突き出す姿勢をとらせ、後輩たち一人一人に肛門の皺の数を数えさせました。

こうすることで「自分たちが如何に凄いか」、「自分たちは可愛い子にこんなこともさせることが出来るんだ」と権威を示していたと言います。

女子生徒の臀部にたれぱんだを描き踊らせる


被害者の女子生徒が、当時流行っていたたれぱんだのシールを自分の持ち物に貼っていたのを見たリーダー格の男子生徒は、たれぱんだの絵を女子生徒のお尻にマジックで描き、お尻を振って踊らせていました。

この際、火のついたタバコを女子生徒の肛門に挿し、「落としたらヤキを入れる」と言って女子生徒を脅して踊らせ遊んでいたのです。

男子生徒が肛門に力を入れてタバコを動かうように命令し、女子生徒が言われたとおりに動かすとたれぱんだがタバコを咥えているように見え、男子生徒たちは大爆笑しました。
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1996年6月に性被害を告げられた教師が注意
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1996年6月、精神的にも身体的にもボロボロになっていた被害者の女子生徒は、意を決して担任教師に性被害を告げました。現状から逃れるためには大人の助けが、教師の助けが必要だったからです。

女子生徒がどの程度詳細に性被害の内容を告げたのか、本当のところは女子生徒と担任教師しか知り得ないことですが、少なくとも羞恥心をぬぐい捨て報告したはずです。

この時の担当教師の間違った注意によって、女子生徒への性的暴力は今まで以上にエスカレートしてしまったのです。

担任教師の対応の誤り

被害者の担任教師は、加害者の男子生徒が別クラスだったにもかかわらず、加害者の男子生徒がいるクラスの担任教師に被害を報告したり、情報を共有することをしませんでした。

養護教論にだけは、女子生徒たちから身体を触られたなど性的被害の訴えがなかったか確認しますが、教師としての対応は全くと言って不充分なものでした。


クラスの帰りの会で注意

性的被害を告げられた後は、クラスの男子生徒たちの様子を2、3日見ていただけで、別クラスだった加害者の男子生徒たちの様子を観察することはありませんでした。

そして最終的にクラスの帰りの会で「女子生徒の身体を触るとセクハラになるからしないように」と、学級全体に注意を促し、これで終わらせてしまったのです。

リーダーの性行為を筆頭に群がる加害者たち


その後、加害者であるリーダー格の男子生徒だけが実はこっそりと被害者の女子生徒と性交渉をしていたことが仲間たちにバレてしまいます。


不良グループの仲間たちはそれまで口淫してもらうだけだったので、この事実を知り我慢していた性欲が爆発します。女子生徒に群がり「自分もやらせろ」と性交渉を迫りました。

この一件を機に女子生徒は複数の男子生徒たちかに代わる代わる強姦されるようになり、遂に1996年12月の事件へと発展していくのです。

1996年12月に廊下で泣いているところを親友が発見し教師に報告


1996年12月の事件発生直後、たまたま被害者の女子生徒の後輩でもある親友が通りがかり、廊下で泣き崩れている女子生徒を発見します、この2人はその場で抱き合って涙し、教師に事件を報告しました。

報告を受けた教師は被害者の女子生徒の訴えを無視することなく、まずは女子生徒を家まで送り届け、女子生徒の両親に事件の経緯を説明しました。両親がようやく真実を知ったのです。

そして教師は警察へ通報します。それは2年を優に超える、言葉では表現しきれないほどの長くて辛い性的いじめ、性的暴行から女子生徒が解放された瞬間でした。


旭川女子中学生集団暴行事件のその後について


集団暴行事件が表沙汰となった後、当然、この事件にかかわった加害者の男子生徒10人は旭川市家庭裁判所で処分を下されました。

そして事件から少し時間が経過した1998年に、被害者家族は旭川市と北海道を相手取り、民事訴訟を起こしました。
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裁判が行われた
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この事件にかかわったとされる加害者の男子生徒たち10人の処分が、旭川家庭裁判所で決定しました。

加害者の生徒3人が少年院へ送致となり、6人は試験観察処分、残り1人は保護観察処分を言い渡されています。

今回の事件が発覚したことで、実は被害を受けていたのは今回の被害者の女子生徒だけではなく、他の女子生徒にまで被害が及んでいたことが判明したのです。

1998年4月に女子生徒と両親が慰謝料を求める

1998年4月、被害者の女子生徒とその両親は旭川地方裁判所に、当時、学校側の対応が不適切だったとし、北海道と旭川市を相手に慰謝料を含めた総額4430万円の損害賠償を求める訴訟を起こします。

何故、旭川市だけでなく、北海道に対しても訴訟を起こしたのかというと、教師の給料の負担をしているのが「北海道」だからなのです。


2001年1月に判決

この民事訴訟は、2001年1月30日に結審します。旭川地方裁判所は女子生徒の事件全体での慰謝料を1千万円程度が相当だと認定したのです。

この時すでに加害者生徒たちのグループと示談金860万円で示談が成立していたので、その示談金860万円を差し引いた金額を旭川市と北海道に対して支払うよう命じました。

結果、被害者の女子生徒には170万円、被害者の両親に対しては1人15万円ずつ、計30万円を支払うように命じたのです。

被害者の女子生徒について


被害者の女子生徒は、普通の「女の子」でした。ただ、その可愛すぎる顔と、他の子たちよりも大きくて目立ってしまっていた胸が、思春期の男子の恋心だけでなく性的興味の対象となってしまったのです。

また、目立つ容姿ではありましたが、比較的大人しめなグループに属しており、クラスの中心でワイワイと騒ぐようなタイプの生徒ではなかったようです。

顔が可愛く人気者だった

被害者となった女子生徒は小柄で肌は色白、目鼻立ちがくっきりと整った可愛らしい顔つきで、芸能人の遠藤久美子に顔が似ていたという話もあります。

黒髪をツインテールに結び、清潔感が漂うこの女子生徒は性格も明るく活発で友達も多く人気者だったそうです。群を抜いた可愛らしさが人の目を惹きつけていたのでしょう。

成績もよく加害者リーダーとも最初は普通に話していた


明朗快活な女子生徒でしたが、不良とは全く無縁で真面目な生徒だったそうです。服装などもいたって真面目で、違反行為などするタイプではありませんでした。

勉強もできる方だったようで、成績は学年で約100人中20位以内には入っているという、まさに才色兼備な生徒だったのです。

加害者のリーダー格の男子生徒は別クラスでしたが、廊下などで度々話しかけられることがあり、最初は「ちょっと悪っぽくてかっこいい」と思い、普通に接し話していたのです。
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他の被害者女子生徒について
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この事件は、被害者となってしまった女子生徒の他にも同様の被害を受けた女子生徒がいるようです。。同様の被害とは果たしてどこまでなのか。実はその詳細は明らかになっていません。

他に被害を受けたという女子生徒は、その卑劣極まりない行為の数々が表沙汰になる事を拒んだのではないでしょうか。

被害者は中学生です。屈辱感よりも羞恥心が勝ってしまい、泣き寝入りしてしまった女子生徒がいるのでしょう。周囲の大人に言えず、陰で泣いていた女子生徒がいると思うと悔やまれる事件です。

加害者の男子生徒たちについて

捕まった総勢10人の加害者の男子生徒たちは、ひとつの不良グループに属するメンバーです。ただしグループ内には上下関係があり、全員が並列な関係性ではありませんでした。

主犯格だったリーダー格の男子生徒、他に、リーダー格と同格の生徒が数人。それ以外の生徒は同格以下でありましたが、

この不良グループはその素行の悪さと暴力で、旭川市内の中学校ではとても有名な非行グループだったようで、教師をはじめ周囲の大人たちも手が付けられなかったと言います。


10人の不良少年たち

10人の不良少年たちは全員同学年で、中学生時代はひとつの非行グループとしてつるんで色々な悪事を働いて遊んでいたようです。

市立中学校なので学区も決まっているはずですから、この少年たちは同じ小学校の出身だったり、顔見知りだったり、中には幼馴染みがいたのかもしれません。

そして「不良」というステータスは少年たちにとって「格好良い」ものであり、大人たちが誰も制止しなかった事で、少年たちの悪事もどんどんエスカレートしていったのでしょう。

教師も生徒も逆らえない存在

この不良少年たちは特に学校内ではやりたい放題だったようです。特に中学3年生になり、自分たちが最上級生になると誰も手がつけられないほどの傍若無人ぶりを発揮します。


平気で暴力を振るう少年たちに同級生や下級生はおろか、教師さえも平気で殴るような少年たちに誰も逆らえない状況がいつの間にかつくられていってしまったのです。

リーダー格の生徒の親が地元の名士だった事や、不良少年の親が暴力団関係者だったことなども、教師たちが不良少年たちに逆らえない理由のひとつとなっていたのかもしれません。

非行グループとして目立っていた

この不良少年たちは、旭川市内の中学校ではかなり有名な非行グループでした。他校生との暴力事件を起こしたり、喫煙はもちろんのこと窃盗やカツアゲなども日常的に行っていました。

校内では廊下でバイクを乗り回したり、内気な生徒を「パシリ」にしてカツアゲをさせたり、被害者の女子生徒に猥褻行為をする時の見張り役をさせたりしていました。

教師でさえも自分たちを恐れ逆らわないことで、学校を牛耳りやりたい放題だったのです。

旭川女子中学生集団暴行事件の問題点


旭川女子中学生集団暴行事件は、事件が発覚するまでに2年以上もの時間を要しました。被害者の女子生徒は事件が発覚するまで、加害者生徒の言いなりになってからも何度も周囲に助けを求めていました。

両親は一緒に生活している我が子の変化に本当に気づけなかったのでしょうか。学校の教師の対応は、果たして何度も助けを求める女子生徒を本気で救おうとしての行動だったのでしょうか。

加害者の男子生徒たちの暴力や脅迫に屈していた以外に、周囲の大人たちの対応に問題はなかったのでしょうか。
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教師は何故ちゃんと対応しなかったのか
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世間を広く驚かせたのは、旭川女子中学生集団暴行事件が発覚しマスコミ取材の矢面にたった同中学校の教頭が、この事件について公表せず事件を伏せていたということです。

また、被害者女子生徒の両親に対してもいじめや性的暴行の事実をひた隠しにし「男子生徒たちに胸などを触られただけ」と、事実とは全く異なる説明をしていました。

他の教師たちに関しては、2年もの間被害者の女子生徒が性的暴行を受けているのを目撃したり相談を受けていたにもかかわらず、男子生徒たちに適切な指導を怠り黙視し続けたのです。

担任教師たちの対応に問題があった

事件が発覚するまでの2年の間に、女子生徒は担任教師に何度かその被害を報告しています。他にも男子生徒たちに連れられて行く女子生徒を目撃した教師、恫喝され立ち去った女性教師もいました。

担任教師に至っては、養護教論に女子生徒からの訴えがなかったか確認もしているにもかかわらず、別クラスだった男子生徒たちの担任教師に報告することもなければ、生徒たちに適切な指導もしていません。

学校がとった対応は、不良グループの生徒たちと女子生徒を同じクラスさせなかったこと以外、何もしていないのと変わらなかったのです。


学校側の主張に問題あり

学校及び教師の対応はあまりにも被害者の女子生徒の性的いじめ・暴行を軽視、黙認した重大な過失であり、この事件において最も重篤な問題点であることは明白です。

校内外で日常的に性的暴行が行われ、学校内では他学年にも知れ渡り、他校にもその噂は流れ、学校の近隣でも知られる程の猥褻行為を学校の教師たちだけが知らないはずはないのです。

事件後、学校側で行った聞き取り調査で、「女子生徒は男子生徒たちと仲が良く、被害を受けていた時も女子生徒は笑っていた」として女子生徒にも非はあると訴える始末でした。

女子生徒が笑みを浮かべながら相談した

被害者の女子生徒に何度か被害の報告や相談をされていた担任教師は、相談は1度だけで「女子生徒は笑みを浮かべながら相談してきた」と主張しています。その為、深刻な事態だとは思わなかったというのです。


ですが、女子生徒は授業中でも男子生徒たちによって教室から連れ出されたり、校内の至るところで口淫などを強要されていることは、周囲の生徒はもちろん教師たちも目撃している事実です。

羞恥心もあり、仮に女子生徒が少しの笑みを浮かべてしまったとしても、「笑みを浮かべていたから、男子生徒たちからのからかい程度」だと判断するのは見当違いすぎます。

加害者の母親が「被害者にも落ち度がある」

この事件が発覚した後、被害者家族が学校の対応に抗議に出向いた際、加害者の男子生徒の母親が「女子生徒にも落ち度があったのではないか」と自分の息子の卑劣な行為を棚に上げ反論しました。

被害者の女子生徒のどこに「落ち度」があったと言うのでしょうか。自分の子供が償いきれないような罪を犯してしまったという事実を、親自体が深く重く受け止めていないような発言です。

仮に自分の息子が自分の犯した卑劣な行為について、自分に有利に親に話したとしても、これほどの事件を起こした事実を考えれば、我が子を庇うのは筋違いというものではないでしょうか。

両親は相談されるも「無視しなさい」


被害者の女子生徒は、中学1年生という早い段階で両親に学校での性的なからかいについて相談しています。この時両親は「そんな人たち無視しなさい」と軽くアドバイスする程度しかしませんでした。

実はその後、からかいが性的いじめへとエスカレートしていくなかで、女子生徒は再度両親に相談していたのです。この女子生徒の訴えを聞き、さすがに両親は学校に対し相談をしました。

しかし学校側は「事実が確認できない」として訴えを否定したのです。両親は学校に再三訴え続けましたが、学校側の対応は変わりませんでした。両親も学校に訴える以外に取るべき手段を考えるべきでした。
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一生の心の傷に対する判決にも問題か?
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一連の学校側の対応に対しての憤りや不信感から、被害者側は旭川地方裁判所に訴訟を起こしましたが、その判決は女子生徒の受けた心身に残る傷を考えると余りにも無情なものでした。

地方裁判所の出した判決は、事件全体の慰謝料は1000万円相当が妥当であり、加害者グループとの示談により支払われている和解金を差し引いた200万円を旭川市と北海道に支払うよう命じたものでした。

事件発覚当時15歳だった女子生徒は長い間心身ともに凌辱され苦痛にひとり耐え忍び、そして癒えることのない深い傷を一生背負っていくことを考えると、この判決結果は非常に残酷なのではないでしょうか。

学校側の聞き取り調査結果


学校側の聞き取り調査によって、女子生徒が加害者の少年たちと仲良くしているように見えたこと、被害を受けている時にも笑っていたなどという証言があり、女子生徒の対応にも落ち度があると指摘されました。

被害者の女子生徒は、男子生徒たちからの暴力から逃れるために、少年たちの機嫌を損ねないよう言いなりとなってしまっていた結果、周囲の目には女子生徒も楽しんでいたように見えたのでしょう。


女子生徒が自己防衛のためにとった苦肉の策は、裁判では自分に不利な証言となってしまったのです。

女子生徒に不利な証言が多数あった

旭川市教育委員会は、裁判が進む中加害者の男子生徒たちを含めた同級生の生徒たちに対して聞き取り調査を実施し、その調査結果を法廷で明らかにしています。

加害者の生徒たちに対し同情するような証言が聞かれたこと、逆に被害者の女子生徒の心情を知り得る同級生は見つからず、女子生徒側の証言を得ることは不可能だったとしたのです。

ここでも女子生徒が同級生に対して本心を打ち明けるなどせずにいたことが裏目となって出てしまい、それが被害者側にとっては到底納得し難い、厳しい判決結果に結びついてしまったのでしょう。

旭川女子中学生集団暴行事件の関係者の現在は?


事件が発覚してから既に20年以上が経過し、当時中学生だった被害者と加害者たちは皆、30代後半となっています。事件に関与した生徒たちは現在どうしているのでしょうか。

一生消えない傷を背負ってしまった被害者の女子生徒と、少年院送致や試験観察・保護観察処分となった加害者の男子生徒たちはその後の人生をどのように歩んでいるのでしょう。

被害者の女子生徒の現在について

事件が発覚した1996年から20年余りが経過し被害者の女子生徒も既に30代後半となっています。実は女子生徒は、この事件が発覚した翌日以降も学校に登校し続け、驚くことに中学校生活は皆勤賞だったそうです。

辛い日々の中、一日も休まずに登校し続けた女子生徒の「皆勤賞」の重みは言葉にし難い尊いものです。そしてその後も周囲の好奇の眼差しに負けることなく高校に進学したのです。


しかし気持ちも新たに高校に進学した被害者でしたが、事件での精神的な傷は癒えることはなく、特に男性に対しては恐怖心などがあり会話をすることはなかったといいます。

男性への恐怖心は消えたのか

事件発覚当時は未成年でしたので、被害者の女子生徒の実名や顔写真などは公表されていません。当時は2ちゃんねるなどで名前や写真が晒されることもあったようですが、現在は削除されています。

ですので、現在の被害者については詳細はわからないのですが、既に結婚しているという噂もあります。それが本当ならとても喜ばしいことですが、完全に立ち直るには長い年月が必要なことも確かです。

現在30代後半となっているであろう被害者については、事件に対するトラウマや男性への恐怖心を乗り越えて幸せで輝かしい人生を歩んでいてほしいと切に願うばかりです。
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加害者の男子生徒たちの現在について
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被害者の女子生徒と同学年だった加害者たちも現在は30代後半です。被害者と同様に事件当時未成年だった少年たちは少年法により身元を保護された為、実名や顔写真が公表されることはありませんでした。

被害者の女子生徒に対する性的暴行などが著しく酷く少年院送致となった少年3人は、被害者家族が裁判で係争中は少年院に収監されていましたが、判決が出る頃には出所しています。おそらく20歳くらいでしょう。

同じように試験観察処分、保護観察処分となった少年たちも裁判が終わるころまでには既に処分も解け、普通の生活に戻っていたはずです。

社会に出て普通に生活しているのか

被害者が受けた心の傷は一生残りますが、加害者たちは少年法により保護され、受けた処分を全うさえすれば数年でそれまでの生活に戻ることが出来ます。普通に社会に出て働いている加害者も多いでしょう。

この事件で処分された10人を含め、判明しているだけでもこの不良グループの同級生で成人してから、殺人事件を起こし逮捕された者が1人、殺人未遂事件で逮捕が1人、逆に殺害されてしまった者が1人いるそうです。


現在の年齢は被害者と同様に30代後半。結婚し家庭を持ち、子供がいる加害者もいることでしょう。自身が親になったからこそ気づく「痛み」と「懺悔」はあるのでしょうか。

旭川女子中学生集団暴行事件と類似した事件

旭川女子中学生集団暴行事件は近年例を見ない、未成年による凄惨な性的暴力・強姦事件です。性犯罪事件で取り沙汰されるものは最終的に殺人事件となる事案が多い中、命を失うことがなかった事は不幸中の幸いです。

この事件に類似するような、未成年が犯した凄惨な事件は他にもあったのでしょうか。

尼崎児童暴行事件

尼崎児童暴行事件とは、2006年兵庫県尼崎市で発生した事件で、小学生4年生の男子児童が主犯格となり、被害者である同級生の女子児童に対し集団で性的いじめ・集団暴行をおこなった事件です。

小学校4年生の男子児童が自宅でアダルトビデオを観て興奮し「ビデオと同じことがしたい」と思い、他の男子児童を使い被害者の女子児童を家に呼び寄せ、複数人の児童が女子児童の身体を弄びました。

女子児童は後日、両親と教師に被害を打ち明けます。被害者家族は転校を希望するもそれは叶わず、その後男子児童たちは1年以上も被害者の女子児童に性的いじめと性的暴行を加え続けました。

大邱小学生集団性暴行事件


大邱小学生集団性暴行事件とは、2008年に大韓民国(韓国)で発覚した事件で、小学校高学年の男子児童複数人が被害者の女子児童に対し日常的に性的暴行を行っていたという異常な事件です。

当初は小学生の男子児童同士のいじめから始まりました。上級生の児童が下級生の男子児童に無理矢理陰部を見せ、同性同士の性行為を強要し下級生の児童が断ったら殴るなどの性的いじめ・暴力でした。


そのうち、いじめられていた男子児童が女子児童に暴行を加える行為に参加し始め、女子児童の身体を弄び、強姦するようになります。被害者が一転、加害者になるという未成年の起こした事件です。

加害者の男子生徒たちの裏に隠れた「加害者たち」

旭川女子中学生集団暴行事件が発覚し、加害者の不良グループの男子生徒10人が性的暴行などの罪で処分を受け、被害者側は旭川市や北海道を相手取り裁判を起こし結審。そしてこの事件は終わりを迎えました。

これだけの事件を起こしながらも、加害者の少年たちは少年法により保護され、処罰自体成人の受ける刑事事件の量刑より当然ですが相当軽いものです。この事件の処分はこれだけで終わっているのです。

しかし、本来罰せられるべき人物はもっと他に大勢いたのではないでしょうか。10人の加害者生徒たちの陰には大勢の罰せられなかった加害者がいたはずです。
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逮捕・補導された加害者の他に被害者に猥褻行為をした生徒たち
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この事件は被害者の女子生徒が中学1年生の頃から始まっています。主体となって女子生徒に性的いじめや暴行を加え続けていたのは、主犯格の男子生徒を含む不良グループの生徒たちですが犯人は他にもいます。

女子生徒の身体を弄んだ下級生の不良生徒たち、不良グループの生徒たちに勧められて、女子生徒に口淫を強要したり強姦した他校の男子生徒たち。彼らは加害者生徒たちと同罪なのではないでしょうか。

事件発覚後、大勢の男子生徒が女子生徒を凌辱していたことが明らかになっているにもかかわらず、加害者以外、誰一人として処罰を受けることなく普段通りの生活を送っていることに疑念を感じざるを得ません。

黙視し続けたクラスメイトや同級生たち

女子生徒はクラスメイトがいる教室でも頭を殴られたり裸になるよう強要されていましたし、授業中に連れ出されても、猥褻行為を目撃しても、クラスメイトや同級生たちは助けることはなく黙視し続けていたのです。

被害者の女子生徒に対し直接危害を加えたわけではありませんが、見て見ぬふりをし続ける行為は「間接的ないじめ」であり、傍観していた者たちは立派な加害者なのではないでしょうか。


教師という立場と責任を見失いすぎた

教師たちに至っては、生徒を守るべき立場でありながら、被害者である女子生徒の性被害の報告を軽んじて受け止め、適切な対応をすることなく放置したり、猥褻行為を目撃しても通り過ぎる始末です。

事態が深刻だと受け止めなかったとしても、教師という立場や責任を心に留めて教職を全うしているのであれば、校内で猥褻行為があるという事実を教師同士が共有し、改善するように働きかけるべきなのです。

事件が発覚した際に相談を受けた教師以外のこの学校の教師たちは、善悪の判断が出来る立派な成人であるのに、女子生徒を助けることを「あえて」しなかった。これは加害者と言わずにはいれません。

旭川女子中学生集団暴行事件の深い謎


旭川女子中学生集団暴行事件は、突発的に発生した性的暴行事件ではなく、被害者と加害者が中学1年の頃から事件が発覚した中学3年の12月まで長期間に渡って被害が継続された悪質な事件です。

ただ裁判での判決結果は元より、学校や教育委員会が独自で行った聞き取り調査の結果を知る限り、加害者を擁護する声や同情の声が多くあったというのはとても不思議です。

被害者の女子生徒が誰にも本心を打ち明けていなかったとしても、泣き叫ぶ女子生徒を見ていれば何も出来なかったにしても、内心少しは同情したりするものではないでしょうか。

被害者の女子生徒の謎

中学校に入学当初、明るく友人も多かったという被害者の女子生徒ですが、いつの間にか学校内で「孤立」しているように感じます。小学校から一緒だった友人や被害を見聞きした友人はいなかったのでしょうか。

そして女子生徒には1つ年上の兄がいます。猥褻行為が悪質化した中学2年生の頃、お兄さんは中学3年生です。学年は違ったとしても、妹が猥褻行為をされている事を噂で聞いたりすることがなかったのも不思議です。


また加害者生徒たちとの行為を楽しんでいるように見えたという証言もあります。この事件は最初から女子生徒はや嫌がっていたはずですが、本当はどこまでがおふざけで、どこからが嫌々の言いなりだったのでしょうか。

加害者の男子生徒たちの謎

加害者の男子生徒たちは中学1〜2年の時に集った仲間たちです。犯人であるリーダー格で男子生徒の失恋を機に性的嫌がらせが始まりましたが、なぜ執拗に被害者の女子生徒に猥褻な行為をし続けたのでしょうか。

少年たちは酷く素行の悪い不良グループで、この事件での性的暴行などに同情の余地はないはずなのですが、聞き取り調査の際には彼らに同情する声が多数挙がっていたのは何故でしょう。

加害者の男子生徒たちの起こした罪は大罪であることは明白ですが、周囲の目から見ると男子生徒たちだけが悪い訳ではないと同情できるような「事実」が隠れている気がしてなりません。
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被害者女子生徒の家族の謎
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全ての家族が仲が良いわけではないでしょうが少なからず被害者の女子生徒の両親は、学校での性的嫌がらせについて本人から何度か相談を受けています。事件発覚までの間に子供の変化に気づかなかったのでしょうか。

女子生徒が無理やり強姦された日、帰宅した女子生徒はいつもと変わらぬ様子で家族と食卓を囲み、雑談をし笑い合っていたのでしょうか。傷ついた心と身体をひた隠し普段通り両親と接すれるのでしょうか。

両親は女子生徒が性的嫌がらせの相談をしなくなってから事件発覚までの間、寧ろ両親の方から思春期の娘に問いかけたり寄り添うことで、少しの変化や異変を察することは出来なかったのでしょうか。

旭川女子中学生集団暴行事件のような事件が二度と起こらないために


この事件は全てが異常です。女子生徒が2年以上も凌辱され続けていたのに、誰一人として女子生徒を助けることなく傍観し続けた事。男子生徒たちを野放しに資、校内での様々な悪行と犯罪を黙認し続けた教師たち。

事件自体を隠蔽しようとした、学校の悪質な体制と対応。これが逆にこの事件がメディアに取り沙汰れる結果に繋がり、卑劣極まりない集団暴行事件として有名になったのもかもしれません。

そして二度とこのような事件が世間を騒がせることがないよう、教師をはじめ親や周囲の大人たちはもっと子供たちに関心を持ち、目を向け語り合い愛情の手を差し伸べることが必要なのではないでしょうか。
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http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/304.html#c13

[リバイバル3] 北海道の最低市町村ランキング 中川隆
194. 中川隆[-11249] koaQ7Jey 2019年3月23日 18:52:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[760]

旭川女子中学生集団暴行事件の概要!加害者と被害者の現在は?
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旭川女子中学生集団暴行事件は、1996年12月に発覚した性的いじめ・暴行、強姦事件です。犯人10人に対し被害者は1人。そして加害者、被害者ともに中学生であると共に、卑劣な事件の詳細と教師の不適切な対応がメディアに取り沙汰されました。


旭川女子中学生集団暴行事件の概要


1996年12月、教師からの通報によって発覚した北海道旭川市の中学校で起こった集団暴行事件です。被害者は女子生徒1人。犯人は同中学校の男子生徒総勢10人と、近年例を見ない集団暴行事件です。

最初は少し「からかう」程度で、女子生徒も凄く嫌がるほどの事ではなかったのですが、その行為は徐々にエスカレートしていきます。

最終的に女子生徒を精神的に追い詰めるほどの悪質ないじめ、そして性的暴力にまで及んだこの事件は通報されるまで2年以上もの間続いており、被害者女子生徒の心と身体に酷く深い傷を残すものとなったのです。

1996年に北海道の市立中学校の女性を集団暴行


1996年12月24日、街中がクリスマスムード一色となるこの日。被害者の女子生徒が中学3年生の時に事件は起こりました。下校途中だった女子生徒は、3人の加害者男子生徒たちによって学校に連れ戻されます。

校内では主犯格の生徒を含め男子生徒7名が待ち構え、総勢10人の男子生徒たちに取り囲まれた女子生徒は「助けて」と叫び抵抗します。悲痛な叫びに手を差し伸べる者はいなく、校内の男子トイレに連れ込まれます。

トレイ内では殴るなどの暴行を受け、加害者生徒10人のうち3人は見張り役、6人の生徒は女子生徒の身体を触るなど弄び、1人の男子生徒は女子生徒を強姦しました。そして女子生徒に水をかけ水浸しにしたのです。

性的暴行や強姦を受け泣いているところを教師が通報


被害者の女子生徒はトイレ内での集団暴行被害を受けた直後、廊下で泣き崩れました。それを親友が見つけ駆け寄りました。そしてこの出来事を教師に訴えたのです。


話を聞いた教師は、まず女子生徒を家まで送り届け、その後警察への通報しました。この通報をきっかけに、それまでの2年をも超える長い期間の集団暴行事件が実態が明るみとなったのです。

事件があった旭川市立北都中学校について

1947年5月「旭川市立第七中学校」として開校。2年後の1949年9月に「旭川市立北都中学校」と改称。2015年に中央中学校が新設され(常盤中学校、聖園中学校と併せ統廃合)これにより閉校となりました。

現在も校舎は存在していますが、校舎の1階部分の玄関や窓には板が打ちつけられ、侵入が出来ないようになっています。体育館やグラウンドは中央中学校の部活などで現在も使用されています。

当時の北都中学校は、生徒たちが「学校美術館」と呼ぶほど学校内には美術品が飾られており、何故かトイレ内にまで美術品が飾ってあるという少し異質な雰囲気を醸し出していたようです。


事件当時は荒れた時代だった?


事件が発生した1996年当時、不良生徒たちの素行は酷く、この中学校では不良生徒たちが荒れ狂う動物園のような状態だったと言います。

この頃、加害者の不良生徒たちは中学3年生となり、自分たちが最上級生となったことでより一層狂暴化しました。校内を原付バイクで走ったり他の生徒にカツアゲをさせたり、時には教師を殴ることもあったようです。
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旭川女子中学生集団暴行事件の概要!加害者と被害者の現在は?
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旭川女子中学生集団暴行事件の時系列

この集団暴行事件は、女子生徒が中学校に入学した1994年、女子生徒が中学1年生の頃から実は始まっていました。当初は、その容姿からクラスのアイドル的な存在だった女子生徒をからかう程度の軽微なものでした。

しかし、加害者である男子生徒の1人が女子生徒に告白し振られたことで行為は次第にエスカレート。耐えられなくなった女子生徒は教師に報告しますが、教師は男子生徒を軽く注意する程度の対応しかしませんでした。

教師に注意された事で、女子生徒に怒りを覚えた男子生徒は暴走していきます。女子生徒を裸にして身体を触わり、口淫を強要し、最終的には日常的に性的暴行が繰り返されるほどの事態となってしまうのです。

事の発端は被害者となるクラスのアイドル的女子生徒に振られたから


中学1年生の2学期早々に、加害者である不良グループのリーダー格の男子生徒は被害者の女子生徒に告白しますが、女子生徒は告白を断りました。このことがリーダー格の男子生徒のプライドを傷つけたのでしょう。


女子生徒への好意は怒りに変わり、リーダー格だった男子生徒の「からかい」でしかなかった行為は日に日に悪質化し、「いじめ」や「性的暴行」へと変化していくのです。

1994年中学1年秋頃からスカートめくりが始まった

当時、不良グループの間では、被害者の女子生徒以外にも可愛いと思う女子生徒に対してスカートめくりをしたり、お尻を触るなどの行為を日常的に行っていました。

しかしお尻を触るというのは「軽く触る」ということではなく、特別教室に連れていき1人の女子生徒を数名で押さえつけ身体を弄ぶのです。昼休みの間、不良生徒たちが満足するまで身体を触り続ける行為だったのです。

被害者の女子生徒がスカートめくりのターゲットになったのは中学1年生の秋頃です。告白の一件の後から始まったのでしょう。不良グループからのスカートめくりは日常的に行われるようになっていきました。

リーダー格の男子生徒だけがしていた行為


被害者の女子生徒に告白する前から、女子生徒に想いを寄せていたリーダー格の男子生徒だけは、女子生徒のお尻を軽く触ったり胸を揉むなどの行為をしていました。

ただ、この頃はまだ被害者の女子生徒は男子生徒に胸を揉まれても、「ちょっとやめてよ」と笑いながら流す程度で、周囲にはふざけてじゃれあっているようにしか見えない対応だったようです。

女子生徒が本気で嫌がる素振りを見せなかったことも、加害者である男子生徒のその後の行為を助長させるきっかけとなってしまったのかもしれません。

両親に相談するが教師には言えずエスカレート

周囲にはじゃれあっているようにしか見えなかった行為も、被害者の女子生徒は本心では嫌だったのでしょう。実は早い段階で両親に相談をしています。両親からは「そんな人は無視しなさい」と言われます。


両親はきっと、中学生の男子が好きな子をからかう程度の「いたずら」でしかないと受け止めたのでしょう。悪質な事件に発展するなどとは想像もしなかったはずです。

両親からのアドバイスを受けた女子生徒は、教師には相談しませんでした。中学1年生という多感な年ごろの女子が、教師とはいえ他人に対して性的被害を話すことは、気恥ずかしさもあり躊躇したのでしょうか。

スカートめくり以上の性的いじめが始まる

この頃にはスカートめくり以上の性的いじめが始まっていました。リーダー格の男子生徒が振られたことで、不良グループの仲間たちもリーダー格の生徒と一緒となり、性的いじめをエスカレートさせます。

不良グループの数名で被害者の女子生徒を囲んでスカートの中に手を入れ、パンツの上から女子生徒の股間を触ったり、女子生徒の机にアダルト本を入れておいたりと卑猥な行為に変わっていったのです。
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中学1年秋に耐え切れず教師に報告
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被害者の女子生徒は、中学1年の秋には卑猥な嫌がらせに受けており、それに耐え切れず遂に勇気を出して教師に報告をします。報告を受けた教師は加害者の男子生徒を呼び出しやんわりと注意をします。

卑猥な嫌がらせをしても叱責されず軽い注意しか受けなかったこと、そして教師に自分たちの愚行を報告した女子生徒に対する怒りは、不良生徒たちの行為を更にエスカレートさせるきっかけとなってしまいました。

中学1年冬に裸にされる


教師からの注意を受けた後、不良グループの生徒たちの性的いじめは加速し、猥褻行為も悪質化します。中学1年の冬になると休憩時間に限らず授業中でも平気で被害者の女子生徒を連れ出すようになります。

加害者生徒たちは複数名で女子生徒を取り囲み、両脇を捕まえて強引にトイレや特別教室に引きずって連れていき、服を脱がして裸にした後その身体を弄ぶのです。口淫を強要するようになったのもこの頃からでした。

執拗に身体を弄ぶ行為は日常化し、行為は性交直前までいきます。しかしあくまでも性交直前までで性交渉はなかったのです。この性的いじめや猥褻行為は、中学2年の夏までエスカレートしながら続きました。

性交渉しないために必死だった


この頃、性交渉することがなく行為が性交直前で終わっていたのは、加害者生徒たちが寸前で止めていたというよりも、被害者の女子生徒が自分の身を守るため、殴られても必死に抵抗していました。

性交しない替わりに加害者生徒たちは女子生徒に敬語を使わせるようになり、更には口淫まで強要します。男子生徒たちは順番待ちの列を作り、入れ替わり口淫させるのです。

「性交渉だけは絶対にさせない」と、女子生徒は加害者たちのどんな要求にも応え、必死に耐え続ける日々を送るのでした。

中学2年夏に男子生徒の家に連れ込まれる


性的いじめ、暴力が繰り返されますが、被害者の女子生徒は誰にもそれを訴えませんでした。暴力や脅迫に怯えていたのでしょう。そしてそれが性交渉をしない為の最善策だと信じていたはずです。

しかし1995年、被害者の女子生徒が中学2年生の夏、男子生徒の家に連れていかれ逃げ場を失った女子生徒は、遂に強姦されてしまいます。これが女子生徒にとって初の性交渉でした。

この強姦をきっかけに、思春期真っただ中である加害者の男子生徒たちの性的興奮・欲求は抑えられないものとなり、女子生徒に対する性的暴力は更に酷いものとなっていくのです。

その後日常的に性的暴力が繰り返される


初めて強姦されて以降、被害者の女子生徒に対する性的暴力は日常化、更に暴力行為自体も悪質化はエスカレートしていきました。口淫の強要以外にも度々強姦されるようにもなってしまいます。

当初は女子生徒も必死に抵抗していましたが、その度に激しく暴力を振るわれます。夏休み前には肋骨辺りを骨折し入院していたそうです。そして酷く暴力に怯えるようになりました。

暴力から逃れるため

女子生徒は「なんでも言うことを聞くから痛いことはしないで下さい」と加害者生徒に懇願します。過激な暴力から逃れるため、女子生徒は抵抗することを諦めるしかなかったのです。

被害者の女子生徒は、リーダー格の男子生徒を「ご主人様」と呼ぶように言われます。ご主人様の命令は『絶対』です。反抗的な素振りを見せると殴られ、タバコの火を身体に押しつけられました。

美味しいミルクやご主人様の命令


以前と変わらず口淫を強要、射精後は精液を口から吐き出すことは許されていないので飲み込みます。そして「美味しいミルクをありがとうございます」と卑猥なセリフを言わされるようになります。

ご主人様に命令されれば、それがどの場所だろうと裸になり、命令されればどこであろうと口淫もしました。クラスメイトがいる教室内だったとしても裸になり、口淫しなければならないのです。

脅迫され追い詰められる


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殴るなどの暴力と並行し、被害者の女子生徒は「脅迫」を受けていました。その脅迫は女子生徒自身に対するものもあれば、女子生徒の家族をターゲットした脅迫もあったようです。

女子生徒は「兄貴とセックスさせるぞ」と言われたり「母親も犯すぞ」と脅されます。「家を燃やすぞ」という脅迫は、彼らの悪質性から本気でやりかねないと最も恐れていた脅しでした。

女子生徒自身も性的暴力を強要される度に「〇〇しないと全員で輪姦するぞ」「やらないと殺すぞ」などと常々脅迫されており、恐怖に慄く女子生徒は指示に従うしかありませんでした。
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1995年中学2年秋に男性教師が無視
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1995年、女子生徒が中学2年の秋には、放課後の教室で猥褻な行為をされているのを通りかかった男性教師が目撃しています。女子生徒は男性教師に向かって「助けて」と叫びますが無視されてしまいます。

女子生徒の悲痛な叫びを背にし、この男性教師は何を思ったのでしょうか。学校の評判でしょうか。それとも自分自身の保身のでしょうか。

この後、女子生徒が助けを求めたことに加害者の男子生徒は怒り、トイレに場所を移し女子生徒の後頭部を殴るなどの暴力、背中にタバコの火を押しつける暴行を加え強姦し、個室に監禁し水をかけたのです。

エスカレートしていく男子生徒たち

口淫や強姦が日常的に行われ、被害者の女子生徒も抵抗することなく従順な奴隷のようになると、加害者の男子生徒たちは「性的欲求」を満たすだけでは満足せず、性的いじめを悪質化させます。

可愛い女子生徒の身体を散々弄び、それが当たり前の日常となってしまうと、今度はまるで自分たちの『玩具』と言わんばかりに女子生徒に対し凌辱の限りを尽くしていくようになるのです。

男子生徒たちの女子生徒に対する性的いじめ・暴力は校内外の至るところで行われるようになります。近隣でも知られるほど有名で、旭川市内の他の中学校でも噂になるほどでした。

尿をためたペットボトル


加害者の男子生徒たちは、被害者の女子生徒に対しペットボトルに排尿することを強要し、その尿をためたペットボトルを教室に持ち込ませます。

女子生徒のいる目の前で、同じクラスの男子生徒に匂いを嗅がせ、その反応を見て笑い転げ合うのです。

また、家庭科教室から漏斗を盗み、その漏斗を使って空きペットボトルに尿をためて女子生徒に飲ませることもありました。

ノーパン命令

被害者の女子生徒が中学3年の1学期頃には、下着を着けずに登校するよう命令されます。そのころには加害者の男子生徒たちによって、陰毛を剃刀ですべて剃られていました。

毎日、リーダー格の男子生徒が登校すると「ノーパンチェック」があり、女子生徒は2階の男子トイレへと呼び出され、そこで下着を着けていないかチェックされるのです。

男子生徒が「ノーパンチェック」と呼称すると、女子生徒は自らの手でジャージをおろし下半身を露出し、下着を着けていないことを確認してもらいます。そして口淫するのが一連の日課でした。


剃毛やタンポンを使って遊ぶ


加害者の男子生徒たちは、剃毛した被害者生徒の陰毛までも遊び道具として使用していました。剃毛した陰毛を透明のカードケースにいれて保管し持ち歩いていたのです。

この陰毛を同級生の男子生徒に触らせ(「女子生徒の陰毛だぞ」とでも言っていたのでしょうか)、触った男子生徒が興奮し、勃起すると殴るという遊びを行っていました。

そして下着の着用禁止とともにタンポンの使用を強要していたので、被害者の女子生徒が使用したタンポンも没収し、剃毛と同様、他の男子生徒に見せたり臭いを嗅がせて遊んでいたのです。

最も恐れていた六角椅子でのいじめ

執拗に繰り返されるいじめの中で、被害者の女子生徒を恐怖に陥れていたのが「六角椅子」を使ったいじめです。このいじめは女子生徒が泣きわめくのが見て笑うことが目的でした。

この椅子は重く頑丈で中は空洞の造りです。女子生徒に正座をさせ頭を床につけさせます。座った状態で丸まるような姿勢です。そこに六角椅子を被せると女子生徒の身体は椅子の空洞にきつく入ります。


更にその椅子の上に男子生徒たちが座るのです。空洞に余っている隙間などありません。正座のまま背中を押しつぶされ、息も苦しくなり女子生徒は泣いて許しを請うことしか出来ませんでした。

校外でも口淫させられる

被害者の女子生徒へのいじめや性的暴力は校外でも行われ、公園や橋の下に連れていき過激な暴行をくわえました。女子生徒は複数人の男子生徒たちに身体を弄ばれ、口淫を強要され精液を浴びせられるのです。

この行為を目撃したという人もいますが、アダルトビデオの撮影だと思ったそうです。同時に「それにしても若いな」と感じたそうですが、声を掛けることも通報することもありませんでした。
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リーダーは「マインドコントロールの天才」と自画自賛
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リーダー格の男子生徒は、被害者の女子生徒に自分をご主人様と呼ばせ、どんな猥褻な要求にも従うようになり「俺らはマインドコントロールの天才だ」と自画自賛していました。

当時は、1995年にオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件の後でしたので、オウムの事件で有名になった「マインドコントロール」という言葉を使ったのでしょう。

確かに、不良グループの中でリーダ格で内気な男子生徒を手下にし、女子生徒を凌辱しても教師や周囲の大人に咎められる事もなければ、生徒もまだ少年なので有頂天になり自己陶酔してしまいそうです。

1996年4月に女性教師が無視

1996年4月頃には、被害者の女子生徒が加害者の男子生徒たちに特別活動教室に連れ込まれそうになりますが、その教室には女性教師が居ました。女子生徒は女性教師に「助けて」と叫びました。

ここで身を挺して助けてこそ教師です・・・が、女性教師は男子生徒たちに「帰れ」と怒鳴られます。女子生徒の助けを請う叫びは空を切り、女性教師は女子生徒を無視しその教室を立ち去るのです。


女性教師が立ち去ってしまった特別活動教室で、女子生徒はいつものように男子生徒たちから猥褻な行為を受けてしまうのです。

教師たちは皆黙認していた


中学2年の秋に男性教師に助けを求めた時も、男性教師は手を差し伸べることなく立ち去っています。この頃女子生徒は授業中でも平気で連れ出されたり、体育の授業中に体操服を脱がされたりしています。

校内の至るところで裸になるよう命令され、口淫を強要されています。教師たちは女子生徒が不良グループに酷いことをされているとわかっていながら黙認していたのです。

必死になって助けを求めた女子生徒は、教師たちが自分に背を向けて立ち去る姿を見て、きっと絶望したに違いありません。

後輩にも権威を示すため加担させる


最上級生になった加害者の男子生徒たちは、後輩の不良たちに対し、自分たちの権威と力を鼓舞することを意識するようになります。権威を示すため手下の少年宅に後輩の不良たちを集めました。

少年宅には総勢20人ほどが集まり、そこで被害者の女子生徒に裸になることを強要しました。そして後輩たちに「好きなだけ弄って構造を勉強して良いぞ」と偉そうに言い放ちニヤニヤと笑っていたそうです。

先輩としての威厳を保つために、女子生徒を利用した卑劣な行為であり、後輩たちもその猥褻行為に加担させたのです。後輩たちを加担させたのには、「口止め」の意味もあったのでしょう。

後輩たちに肛門の皺を数えさせる

被害者女子生徒の身体を散々弄らせた後は、女子生徒に四つん這いになってお尻を突き出す姿勢をとらせ、後輩たち一人一人に肛門の皺の数を数えさせました。

こうすることで「自分たちが如何に凄いか」、「自分たちは可愛い子にこんなこともさせることが出来るんだ」と権威を示していたと言います。

女子生徒の臀部にたれぱんだを描き踊らせる


被害者の女子生徒が、当時流行っていたたれぱんだのシールを自分の持ち物に貼っていたのを見たリーダー格の男子生徒は、たれぱんだの絵を女子生徒のお尻にマジックで描き、お尻を振って踊らせていました。

この際、火のついたタバコを女子生徒の肛門に挿し、「落としたらヤキを入れる」と言って女子生徒を脅して踊らせ遊んでいたのです。

男子生徒が肛門に力を入れてタバコを動かうように命令し、女子生徒が言われたとおりに動かすとたれぱんだがタバコを咥えているように見え、男子生徒たちは大爆笑しました。
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1996年6月に性被害を告げられた教師が注意
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1996年6月、精神的にも身体的にもボロボロになっていた被害者の女子生徒は、意を決して担任教師に性被害を告げました。現状から逃れるためには大人の助けが、教師の助けが必要だったからです。

女子生徒がどの程度詳細に性被害の内容を告げたのか、本当のところは女子生徒と担任教師しか知り得ないことですが、少なくとも羞恥心をぬぐい捨て報告したはずです。

この時の担当教師の間違った注意によって、女子生徒への性的暴力は今まで以上にエスカレートしてしまったのです。

担任教師の対応の誤り

被害者の担任教師は、加害者の男子生徒が別クラスだったにもかかわらず、加害者の男子生徒がいるクラスの担任教師に被害を報告したり、情報を共有することをしませんでした。

養護教論にだけは、女子生徒たちから身体を触られたなど性的被害の訴えがなかったか確認しますが、教師としての対応は全くと言って不充分なものでした。


クラスの帰りの会で注意

性的被害を告げられた後は、クラスの男子生徒たちの様子を2、3日見ていただけで、別クラスだった加害者の男子生徒たちの様子を観察することはありませんでした。

そして最終的にクラスの帰りの会で「女子生徒の身体を触るとセクハラになるからしないように」と、学級全体に注意を促し、これで終わらせてしまったのです。

リーダーの性行為を筆頭に群がる加害者たち


その後、加害者であるリーダー格の男子生徒だけが実はこっそりと被害者の女子生徒と性交渉をしていたことが仲間たちにバレてしまいます。


不良グループの仲間たちはそれまで口淫してもらうだけだったので、この事実を知り我慢していた性欲が爆発します。女子生徒に群がり「自分もやらせろ」と性交渉を迫りました。

この一件を機に女子生徒は複数の男子生徒たちかに代わる代わる強姦されるようになり、遂に1996年12月の事件へと発展していくのです。

1996年12月に廊下で泣いているところを親友が発見し教師に報告


1996年12月の事件発生直後、たまたま被害者の女子生徒の後輩でもある親友が通りがかり、廊下で泣き崩れている女子生徒を発見します、この2人はその場で抱き合って涙し、教師に事件を報告しました。

報告を受けた教師は被害者の女子生徒の訴えを無視することなく、まずは女子生徒を家まで送り届け、女子生徒の両親に事件の経緯を説明しました。両親がようやく真実を知ったのです。

そして教師は警察へ通報します。それは2年を優に超える、言葉では表現しきれないほどの長くて辛い性的いじめ、性的暴行から女子生徒が解放された瞬間でした。


旭川女子中学生集団暴行事件のその後について


集団暴行事件が表沙汰となった後、当然、この事件にかかわった加害者の男子生徒10人は旭川市家庭裁判所で処分を下されました。

そして事件から少し時間が経過した1998年に、被害者家族は旭川市と北海道を相手取り、民事訴訟を起こしました。
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裁判が行われた
https://career-find.jp/archives/183950/7


この事件にかかわったとされる加害者の男子生徒たち10人の処分が、旭川家庭裁判所で決定しました。

加害者の生徒3人が少年院へ送致となり、6人は試験観察処分、残り1人は保護観察処分を言い渡されています。

今回の事件が発覚したことで、実は被害を受けていたのは今回の被害者の女子生徒だけではなく、他の女子生徒にまで被害が及んでいたことが判明したのです。

1998年4月に女子生徒と両親が慰謝料を求める

1998年4月、被害者の女子生徒とその両親は旭川地方裁判所に、当時、学校側の対応が不適切だったとし、北海道と旭川市を相手に慰謝料を含めた総額4430万円の損害賠償を求める訴訟を起こします。

何故、旭川市だけでなく、北海道に対しても訴訟を起こしたのかというと、教師の給料の負担をしているのが「北海道」だからなのです。


2001年1月に判決

この民事訴訟は、2001年1月30日に結審します。旭川地方裁判所は女子生徒の事件全体での慰謝料を1千万円程度が相当だと認定したのです。

この時すでに加害者生徒たちのグループと示談金860万円で示談が成立していたので、その示談金860万円を差し引いた金額を旭川市と北海道に対して支払うよう命じました。

結果、被害者の女子生徒には170万円、被害者の両親に対しては1人15万円ずつ、計30万円を支払うように命じたのです。

被害者の女子生徒について


被害者の女子生徒は、普通の「女の子」でした。ただ、その可愛すぎる顔と、他の子たちよりも大きくて目立ってしまっていた胸が、思春期の男子の恋心だけでなく性的興味の対象となってしまったのです。

また、目立つ容姿ではありましたが、比較的大人しめなグループに属しており、クラスの中心でワイワイと騒ぐようなタイプの生徒ではなかったようです。

顔が可愛く人気者だった

被害者となった女子生徒は小柄で肌は色白、目鼻立ちがくっきりと整った可愛らしい顔つきで、芸能人の遠藤久美子に顔が似ていたという話もあります。

黒髪をツインテールに結び、清潔感が漂うこの女子生徒は性格も明るく活発で友達も多く人気者だったそうです。群を抜いた可愛らしさが人の目を惹きつけていたのでしょう。

成績もよく加害者リーダーとも最初は普通に話していた


明朗快活な女子生徒でしたが、不良とは全く無縁で真面目な生徒だったそうです。服装などもいたって真面目で、違反行為などするタイプではありませんでした。

勉強もできる方だったようで、成績は学年で約100人中20位以内には入っているという、まさに才色兼備な生徒だったのです。

加害者のリーダー格の男子生徒は別クラスでしたが、廊下などで度々話しかけられることがあり、最初は「ちょっと悪っぽくてかっこいい」と思い、普通に接し話していたのです。
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他の被害者女子生徒について
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この事件は、被害者となってしまった女子生徒の他にも同様の被害を受けた女子生徒がいるようです。。同様の被害とは果たしてどこまでなのか。実はその詳細は明らかになっていません。

他に被害を受けたという女子生徒は、その卑劣極まりない行為の数々が表沙汰になる事を拒んだのではないでしょうか。

被害者は中学生です。屈辱感よりも羞恥心が勝ってしまい、泣き寝入りしてしまった女子生徒がいるのでしょう。周囲の大人に言えず、陰で泣いていた女子生徒がいると思うと悔やまれる事件です。

加害者の男子生徒たちについて

捕まった総勢10人の加害者の男子生徒たちは、ひとつの不良グループに属するメンバーです。ただしグループ内には上下関係があり、全員が並列な関係性ではありませんでした。

主犯格だったリーダー格の男子生徒、他に、リーダー格と同格の生徒が数人。それ以外の生徒は同格以下でありましたが、

この不良グループはその素行の悪さと暴力で、旭川市内の中学校ではとても有名な非行グループだったようで、教師をはじめ周囲の大人たちも手が付けられなかったと言います。


10人の不良少年たち

10人の不良少年たちは全員同学年で、中学生時代はひとつの非行グループとしてつるんで色々な悪事を働いて遊んでいたようです。

市立中学校なので学区も決まっているはずですから、この少年たちは同じ小学校の出身だったり、顔見知りだったり、中には幼馴染みがいたのかもしれません。

そして「不良」というステータスは少年たちにとって「格好良い」ものであり、大人たちが誰も制止しなかった事で、少年たちの悪事もどんどんエスカレートしていったのでしょう。

教師も生徒も逆らえない存在

この不良少年たちは特に学校内ではやりたい放題だったようです。特に中学3年生になり、自分たちが最上級生になると誰も手がつけられないほどの傍若無人ぶりを発揮します。


平気で暴力を振るう少年たちに同級生や下級生はおろか、教師さえも平気で殴るような少年たちに誰も逆らえない状況がいつの間にかつくられていってしまったのです。

リーダー格の生徒の親が地元の名士だった事や、不良少年の親が暴力団関係者だったことなども、教師たちが不良少年たちに逆らえない理由のひとつとなっていたのかもしれません。

非行グループとして目立っていた

この不良少年たちは、旭川市内の中学校ではかなり有名な非行グループでした。他校生との暴力事件を起こしたり、喫煙はもちろんのこと窃盗やカツアゲなども日常的に行っていました。

校内では廊下でバイクを乗り回したり、内気な生徒を「パシリ」にしてカツアゲをさせたり、被害者の女子生徒に猥褻行為をする時の見張り役をさせたりしていました。

教師でさえも自分たちを恐れ逆らわないことで、学校を牛耳りやりたい放題だったのです。

旭川女子中学生集団暴行事件の問題点


旭川女子中学生集団暴行事件は、事件が発覚するまでに2年以上もの時間を要しました。被害者の女子生徒は事件が発覚するまで、加害者生徒の言いなりになってからも何度も周囲に助けを求めていました。

両親は一緒に生活している我が子の変化に本当に気づけなかったのでしょうか。学校の教師の対応は、果たして何度も助けを求める女子生徒を本気で救おうとしての行動だったのでしょうか。

加害者の男子生徒たちの暴力や脅迫に屈していた以外に、周囲の大人たちの対応に問題はなかったのでしょうか。
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教師は何故ちゃんと対応しなかったのか
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世間を広く驚かせたのは、旭川女子中学生集団暴行事件が発覚しマスコミ取材の矢面にたった同中学校の教頭が、この事件について公表せず事件を伏せていたということです。

また、被害者女子生徒の両親に対してもいじめや性的暴行の事実をひた隠しにし「男子生徒たちに胸などを触られただけ」と、事実とは全く異なる説明をしていました。

他の教師たちに関しては、2年もの間被害者の女子生徒が性的暴行を受けているのを目撃したり相談を受けていたにもかかわらず、男子生徒たちに適切な指導を怠り黙視し続けたのです。

担任教師たちの対応に問題があった

事件が発覚するまでの2年の間に、女子生徒は担任教師に何度かその被害を報告しています。他にも男子生徒たちに連れられて行く女子生徒を目撃した教師、恫喝され立ち去った女性教師もいました。

担任教師に至っては、養護教論に女子生徒からの訴えがなかったか確認もしているにもかかわらず、別クラスだった男子生徒たちの担任教師に報告することもなければ、生徒たちに適切な指導もしていません。

学校がとった対応は、不良グループの生徒たちと女子生徒を同じクラスさせなかったこと以外、何もしていないのと変わらなかったのです。


学校側の主張に問題あり

学校及び教師の対応はあまりにも被害者の女子生徒の性的いじめ・暴行を軽視、黙認した重大な過失であり、この事件において最も重篤な問題点であることは明白です。

校内外で日常的に性的暴行が行われ、学校内では他学年にも知れ渡り、他校にもその噂は流れ、学校の近隣でも知られる程の猥褻行為を学校の教師たちだけが知らないはずはないのです。

事件後、学校側で行った聞き取り調査で、「女子生徒は男子生徒たちと仲が良く、被害を受けていた時も女子生徒は笑っていた」として女子生徒にも非はあると訴える始末でした。

女子生徒が笑みを浮かべながら相談した

被害者の女子生徒に何度か被害の報告や相談をされていた担任教師は、相談は1度だけで「女子生徒は笑みを浮かべながら相談してきた」と主張しています。その為、深刻な事態だとは思わなかったというのです。


ですが、女子生徒は授業中でも男子生徒たちによって教室から連れ出されたり、校内の至るところで口淫などを強要されていることは、周囲の生徒はもちろん教師たちも目撃している事実です。

羞恥心もあり、仮に女子生徒が少しの笑みを浮かべてしまったとしても、「笑みを浮かべていたから、男子生徒たちからのからかい程度」だと判断するのは見当違いすぎます。

加害者の母親が「被害者にも落ち度がある」

この事件が発覚した後、被害者家族が学校の対応に抗議に出向いた際、加害者の男子生徒の母親が「女子生徒にも落ち度があったのではないか」と自分の息子の卑劣な行為を棚に上げ反論しました。

被害者の女子生徒のどこに「落ち度」があったと言うのでしょうか。自分の子供が償いきれないような罪を犯してしまったという事実を、親自体が深く重く受け止めていないような発言です。

仮に自分の息子が自分の犯した卑劣な行為について、自分に有利に親に話したとしても、これほどの事件を起こした事実を考えれば、我が子を庇うのは筋違いというものではないでしょうか。

両親は相談されるも「無視しなさい」


被害者の女子生徒は、中学1年生という早い段階で両親に学校での性的なからかいについて相談しています。この時両親は「そんな人たち無視しなさい」と軽くアドバイスする程度しかしませんでした。

実はその後、からかいが性的いじめへとエスカレートしていくなかで、女子生徒は再度両親に相談していたのです。この女子生徒の訴えを聞き、さすがに両親は学校に対し相談をしました。

しかし学校側は「事実が確認できない」として訴えを否定したのです。両親は学校に再三訴え続けましたが、学校側の対応は変わりませんでした。両親も学校に訴える以外に取るべき手段を考えるべきでした。
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一生の心の傷に対する判決にも問題か?
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一連の学校側の対応に対しての憤りや不信感から、被害者側は旭川地方裁判所に訴訟を起こしましたが、その判決は女子生徒の受けた心身に残る傷を考えると余りにも無情なものでした。

地方裁判所の出した判決は、事件全体の慰謝料は1000万円相当が妥当であり、加害者グループとの示談により支払われている和解金を差し引いた200万円を旭川市と北海道に支払うよう命じたものでした。

事件発覚当時15歳だった女子生徒は長い間心身ともに凌辱され苦痛にひとり耐え忍び、そして癒えることのない深い傷を一生背負っていくことを考えると、この判決結果は非常に残酷なのではないでしょうか。

学校側の聞き取り調査結果


学校側の聞き取り調査によって、女子生徒が加害者の少年たちと仲良くしているように見えたこと、被害を受けている時にも笑っていたなどという証言があり、女子生徒の対応にも落ち度があると指摘されました。

被害者の女子生徒は、男子生徒たちからの暴力から逃れるために、少年たちの機嫌を損ねないよう言いなりとなってしまっていた結果、周囲の目には女子生徒も楽しんでいたように見えたのでしょう。


女子生徒が自己防衛のためにとった苦肉の策は、裁判では自分に不利な証言となってしまったのです。

女子生徒に不利な証言が多数あった

旭川市教育委員会は、裁判が進む中加害者の男子生徒たちを含めた同級生の生徒たちに対して聞き取り調査を実施し、その調査結果を法廷で明らかにしています。

加害者の生徒たちに対し同情するような証言が聞かれたこと、逆に被害者の女子生徒の心情を知り得る同級生は見つからず、女子生徒側の証言を得ることは不可能だったとしたのです。

ここでも女子生徒が同級生に対して本心を打ち明けるなどせずにいたことが裏目となって出てしまい、それが被害者側にとっては到底納得し難い、厳しい判決結果に結びついてしまったのでしょう。

旭川女子中学生集団暴行事件の関係者の現在は?


事件が発覚してから既に20年以上が経過し、当時中学生だった被害者と加害者たちは皆、30代後半となっています。事件に関与した生徒たちは現在どうしているのでしょうか。

一生消えない傷を背負ってしまった被害者の女子生徒と、少年院送致や試験観察・保護観察処分となった加害者の男子生徒たちはその後の人生をどのように歩んでいるのでしょう。

被害者の女子生徒の現在について

事件が発覚した1996年から20年余りが経過し被害者の女子生徒も既に30代後半となっています。実は女子生徒は、この事件が発覚した翌日以降も学校に登校し続け、驚くことに中学校生活は皆勤賞だったそうです。

辛い日々の中、一日も休まずに登校し続けた女子生徒の「皆勤賞」の重みは言葉にし難い尊いものです。そしてその後も周囲の好奇の眼差しに負けることなく高校に進学したのです。


しかし気持ちも新たに高校に進学した被害者でしたが、事件での精神的な傷は癒えることはなく、特に男性に対しては恐怖心などがあり会話をすることはなかったといいます。

男性への恐怖心は消えたのか

事件発覚当時は未成年でしたので、被害者の女子生徒の実名や顔写真などは公表されていません。当時は2ちゃんねるなどで名前や写真が晒されることもあったようですが、現在は削除されています。

ですので、現在の被害者については詳細はわからないのですが、既に結婚しているという噂もあります。それが本当ならとても喜ばしいことですが、完全に立ち直るには長い年月が必要なことも確かです。

現在30代後半となっているであろう被害者については、事件に対するトラウマや男性への恐怖心を乗り越えて幸せで輝かしい人生を歩んでいてほしいと切に願うばかりです。
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加害者の男子生徒たちの現在について
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被害者の女子生徒と同学年だった加害者たちも現在は30代後半です。被害者と同様に事件当時未成年だった少年たちは少年法により身元を保護された為、実名や顔写真が公表されることはありませんでした。

被害者の女子生徒に対する性的暴行などが著しく酷く少年院送致となった少年3人は、被害者家族が裁判で係争中は少年院に収監されていましたが、判決が出る頃には出所しています。おそらく20歳くらいでしょう。

同じように試験観察処分、保護観察処分となった少年たちも裁判が終わるころまでには既に処分も解け、普通の生活に戻っていたはずです。

社会に出て普通に生活しているのか

被害者が受けた心の傷は一生残りますが、加害者たちは少年法により保護され、受けた処分を全うさえすれば数年でそれまでの生活に戻ることが出来ます。普通に社会に出て働いている加害者も多いでしょう。

この事件で処分された10人を含め、判明しているだけでもこの不良グループの同級生で成人してから、殺人事件を起こし逮捕された者が1人、殺人未遂事件で逮捕が1人、逆に殺害されてしまった者が1人いるそうです。


現在の年齢は被害者と同様に30代後半。結婚し家庭を持ち、子供がいる加害者もいることでしょう。自身が親になったからこそ気づく「痛み」と「懺悔」はあるのでしょうか。

旭川女子中学生集団暴行事件と類似した事件

旭川女子中学生集団暴行事件は近年例を見ない、未成年による凄惨な性的暴力・強姦事件です。性犯罪事件で取り沙汰されるものは最終的に殺人事件となる事案が多い中、命を失うことがなかった事は不幸中の幸いです。

この事件に類似するような、未成年が犯した凄惨な事件は他にもあったのでしょうか。

尼崎児童暴行事件

尼崎児童暴行事件とは、2006年兵庫県尼崎市で発生した事件で、小学生4年生の男子児童が主犯格となり、被害者である同級生の女子児童に対し集団で性的いじめ・集団暴行をおこなった事件です。

小学校4年生の男子児童が自宅でアダルトビデオを観て興奮し「ビデオと同じことがしたい」と思い、他の男子児童を使い被害者の女子児童を家に呼び寄せ、複数人の児童が女子児童の身体を弄びました。

女子児童は後日、両親と教師に被害を打ち明けます。被害者家族は転校を希望するもそれは叶わず、その後男子児童たちは1年以上も被害者の女子児童に性的いじめと性的暴行を加え続けました。

大邱小学生集団性暴行事件


大邱小学生集団性暴行事件とは、2008年に大韓民国(韓国)で発覚した事件で、小学校高学年の男子児童複数人が被害者の女子児童に対し日常的に性的暴行を行っていたという異常な事件です。

当初は小学生の男子児童同士のいじめから始まりました。上級生の児童が下級生の男子児童に無理矢理陰部を見せ、同性同士の性行為を強要し下級生の児童が断ったら殴るなどの性的いじめ・暴力でした。


そのうち、いじめられていた男子児童が女子児童に暴行を加える行為に参加し始め、女子児童の身体を弄び、強姦するようになります。被害者が一転、加害者になるという未成年の起こした事件です。

加害者の男子生徒たちの裏に隠れた「加害者たち」

旭川女子中学生集団暴行事件が発覚し、加害者の不良グループの男子生徒10人が性的暴行などの罪で処分を受け、被害者側は旭川市や北海道を相手取り裁判を起こし結審。そしてこの事件は終わりを迎えました。

これだけの事件を起こしながらも、加害者の少年たちは少年法により保護され、処罰自体成人の受ける刑事事件の量刑より当然ですが相当軽いものです。この事件の処分はこれだけで終わっているのです。

しかし、本来罰せられるべき人物はもっと他に大勢いたのではないでしょうか。10人の加害者生徒たちの陰には大勢の罰せられなかった加害者がいたはずです。
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逮捕・補導された加害者の他に被害者に猥褻行為をした生徒たち
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この事件は被害者の女子生徒が中学1年生の頃から始まっています。主体となって女子生徒に性的いじめや暴行を加え続けていたのは、主犯格の男子生徒を含む不良グループの生徒たちですが犯人は他にもいます。

女子生徒の身体を弄んだ下級生の不良生徒たち、不良グループの生徒たちに勧められて、女子生徒に口淫を強要したり強姦した他校の男子生徒たち。彼らは加害者生徒たちと同罪なのではないでしょうか。

事件発覚後、大勢の男子生徒が女子生徒を凌辱していたことが明らかになっているにもかかわらず、加害者以外、誰一人として処罰を受けることなく普段通りの生活を送っていることに疑念を感じざるを得ません。

黙視し続けたクラスメイトや同級生たち

女子生徒はクラスメイトがいる教室でも頭を殴られたり裸になるよう強要されていましたし、授業中に連れ出されても、猥褻行為を目撃しても、クラスメイトや同級生たちは助けることはなく黙視し続けていたのです。

被害者の女子生徒に対し直接危害を加えたわけではありませんが、見て見ぬふりをし続ける行為は「間接的ないじめ」であり、傍観していた者たちは立派な加害者なのではないでしょうか。


教師という立場と責任を見失いすぎた

教師たちに至っては、生徒を守るべき立場でありながら、被害者である女子生徒の性被害の報告を軽んじて受け止め、適切な対応をすることなく放置したり、猥褻行為を目撃しても通り過ぎる始末です。

事態が深刻だと受け止めなかったとしても、教師という立場や責任を心に留めて教職を全うしているのであれば、校内で猥褻行為があるという事実を教師同士が共有し、改善するように働きかけるべきなのです。

事件が発覚した際に相談を受けた教師以外のこの学校の教師たちは、善悪の判断が出来る立派な成人であるのに、女子生徒を助けることを「あえて」しなかった。これは加害者と言わずにはいれません。

旭川女子中学生集団暴行事件の深い謎


旭川女子中学生集団暴行事件は、突発的に発生した性的暴行事件ではなく、被害者と加害者が中学1年の頃から事件が発覚した中学3年の12月まで長期間に渡って被害が継続された悪質な事件です。

ただ裁判での判決結果は元より、学校や教育委員会が独自で行った聞き取り調査の結果を知る限り、加害者を擁護する声や同情の声が多くあったというのはとても不思議です。

被害者の女子生徒が誰にも本心を打ち明けていなかったとしても、泣き叫ぶ女子生徒を見ていれば何も出来なかったにしても、内心少しは同情したりするものではないでしょうか。

被害者の女子生徒の謎

中学校に入学当初、明るく友人も多かったという被害者の女子生徒ですが、いつの間にか学校内で「孤立」しているように感じます。小学校から一緒だった友人や被害を見聞きした友人はいなかったのでしょうか。

そして女子生徒には1つ年上の兄がいます。猥褻行為が悪質化した中学2年生の頃、お兄さんは中学3年生です。学年は違ったとしても、妹が猥褻行為をされている事を噂で聞いたりすることがなかったのも不思議です。


また加害者生徒たちとの行為を楽しんでいるように見えたという証言もあります。この事件は最初から女子生徒はや嫌がっていたはずですが、本当はどこまでがおふざけで、どこからが嫌々の言いなりだったのでしょうか。

加害者の男子生徒たちの謎

加害者の男子生徒たちは中学1〜2年の時に集った仲間たちです。犯人であるリーダー格で男子生徒の失恋を機に性的嫌がらせが始まりましたが、なぜ執拗に被害者の女子生徒に猥褻な行為をし続けたのでしょうか。

少年たちは酷く素行の悪い不良グループで、この事件での性的暴行などに同情の余地はないはずなのですが、聞き取り調査の際には彼らに同情する声が多数挙がっていたのは何故でしょう。

加害者の男子生徒たちの起こした罪は大罪であることは明白ですが、周囲の目から見ると男子生徒たちだけが悪い訳ではないと同情できるような「事実」が隠れている気がしてなりません。
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被害者女子生徒の家族の謎
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全ての家族が仲が良いわけではないでしょうが少なからず被害者の女子生徒の両親は、学校での性的嫌がらせについて本人から何度か相談を受けています。事件発覚までの間に子供の変化に気づかなかったのでしょうか。

女子生徒が無理やり強姦された日、帰宅した女子生徒はいつもと変わらぬ様子で家族と食卓を囲み、雑談をし笑い合っていたのでしょうか。傷ついた心と身体をひた隠し普段通り両親と接すれるのでしょうか。

両親は女子生徒が性的嫌がらせの相談をしなくなってから事件発覚までの間、寧ろ両親の方から思春期の娘に問いかけたり寄り添うことで、少しの変化や異変を察することは出来なかったのでしょうか。

旭川女子中学生集団暴行事件のような事件が二度と起こらないために


この事件は全てが異常です。女子生徒が2年以上も凌辱され続けていたのに、誰一人として女子生徒を助けることなく傍観し続けた事。男子生徒たちを野放しに資、校内での様々な悪行と犯罪を黙認し続けた教師たち。

事件自体を隠蔽しようとした、学校の悪質な体制と対応。これが逆にこの事件がメディアに取り沙汰れる結果に繋がり、卑劣極まりない集団暴行事件として有名になったのもかもしれません。

そして二度とこのような事件が世間を騒がせることがないよう、教師をはじめ親や周囲の大人たちはもっと子供たちに関心を持ち、目を向け語り合い愛情の手を差し伸べることが必要なのではないでしょうか。
https://career-find.jp/archives/183950/13


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/588.html#c194

[リバイバル3] CD プレーヤーは進歩しているのか?  中川隆
62. 中川隆[-11248] koaQ7Jey 2019年3月23日 19:12:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[761]

2019年2月15日 エソテリック 株式会社

ESOTERICの4筐体フラッグシップデジタルソースシステム
ESOTERIC Grandioso P1X/D1X


2019年2月15日
エソテリック 株式会社

ESOTERICの4筐体フラッグシップデジタルソースシステム
ESOTERIC Grandioso P1X/D1X

ESOTERICの英知と技術、そして情熱の全てを結集して完成したフラッグシップ、Grandioso(グランディオーソ)。P1X/D1Xは、威風堂々たる4筐体からなるESOTERIC最上級のデジタルソースシステムです。

最新型のP1Xは、新開発のスーパーオーディオCDトランスポートメカニズム『VRDS-ATLAS』を搭載。モノブロックD/Aコンバーターの最新作D1X*は、ESOTERIC初となる完全自社設計の64bit DAC回路「ESOTERIC Master Sound Discrete DAC」を搭載。独自のデジタル伝送『ES-LINK』はバージョン5に進化し、電源部も大幅に強化。その他、出力バッファーアンプの強化、クロック、シャーシの改良などで、音質面で磨きがかかり、新時代に相応しい進化を遂げています。

※左右一組のペアでステレオ再生をするモノーラル構成のD/Aコンバーターです。

Grandioso P1X
希望小売価格 3,500,000円(税抜)
2019年3月1日発売 
http://www.esoteric.jp/about/whatsnew/20190215.html

Esoteric Grandioso P1x+D1xの私的インプレッション:抗(あらが)う者ここにあり
# by pansakuu| 2019-03-22
https://pansaku.exblog.jp/28107235/


その一瞬全ての者が息を止め 目を奪われた

そして直感した

求めし者は来たれり

”ベルセルク”より

Introduction:

先日、行きつけのレストランで昼食を取った。

今回はトリュフ尽くしのメニューだった。

フランス産のトリュフを使い、

趣向を凝らした料理がいくつか出てきたが、

なかでもオマールブルーとのマリアージュをテーマとした皿に

際立った精彩を感じた。

トリュフの引き立てによって

一層複雑で豊かになったオマール海老の肉質を堪能したあと、

皿を下げにきたスタッフに感想を訊かれたので、

平成の最後を飾るにふさわしい素敵な皿ですね、

などと中二病的な言葉を口走ってしまった。

(こういう愚かな奴なのだ、俺という人間は。)


新たな時代の区切りはすぐそこに来ている。

この区切りはあくまで人為的なものである。

だが、古来から日本人の意識に染み付いた、

時代を名付けて区切る習慣は、

我々の心の底に常に潜み、我々の思考を強く方向づける。

こんなたわけたことばかり言っている私の中においても

新しい時代に臨む気運が高まっている。

戯言をレストランで言い放つ程度には。


私には

平成の次に来る新たな時代の日本のオーディオ界に期するところがある。

それは世界のハイエンドオーディオの中で

日本にしかできない技術によって輝き続けて欲しいということだ。

現在、日本のものづくりは危機にあり、

日本のハイエンドオーディオにも大量絶滅は迫っている。

したがって、なにがしかの緊張感をもって

メーカーもユーザーも新しい時代に向かうべきだが・・・・・。


では果たして我々はどのような機材を武器として

生き延びて行ったらよいものか。

ここに至るまでその具体的な答えは

なかなか出てこなかったように思う。


そんな私の個人的な願いがかなうかどうか、

目前にある日本製のSACDプレイヤーシステムに問おうと思う。

時代の表面的な流れに抗(あらが)うように見える、この製品開発には、

世界のハイエンドオーディオ界で日本が輝き続けるために必要な鍵のようなものが内包されていると考えるからだ。

できれば私はそれを抽出して明るみに出したい。

世にも稀なコーヒー豆から、一杯のスペシャルなコーヒーを抽出する、バリスタのようにね。

Exterior:

4つの筐体から成る、Grandioso P1x+D1xなのだが、先代であるGrandioso P1+D1と外見については実はほとんど変わりがない。P1xは電源とトランスポート本体、D1xはL/R独立筐体であるから計4個もの筐体が必要になるのだが、これ全部を自分の部屋に恰好よく置く自信がない。こういう自信のなさも先代を初めてみたときから続いている。自分の部屋にスペースはあるものの、これら全てを格好よく収めるラックが未だに思いつかない。もしこれ全部がブラックやシャンパンカラーなどの別な仕上げだったら、もう少し別なインテリアを考え着いたかもしれない。メーカー様には検討をお願いしたい。


舞台の幕を意識した襞のような独特のデザインのある分厚いフロントパネルは変わっていない。操作系統もほぼ同じであるし、トレーの出し入れの音や動きもあまり変化していないと思う。

だが、四つ足のフットの位置は変化している。リア側のフット二個が少し前に移動している。これはリスニングテストで最適な位置を探った結果らしい。

それより、これらの4筐体に触れて驚くことは、どれもトップパネルが、あえて完全には固定されていないということである。触るとわずかだがスライドするように動きうる。ガタつくことも外れたりすることもないような特殊な取り付け方ではあるが、天板がこういう具合にセットされているというのは画期的であると思う。他にこういう取り付けをした天板を見たことがない。そういえば以前アキュフェーズのプリアンプを使っていた時、高音のヌケを良くするためにあえて天板を取り去って聞いていた思い出がある。あれと同じ考え方なのだろう。天板がないと内部に埃が入って都合がよくないので、天板はあるべきだが、ガッチリ固定しすぎると音が硬くなりがちだ。

Esotericは柔軟な発想転換から筐体の構造改革に踏み切ったようだ。これはEsoteric独特の剛性の高い、ややキンキンした音から、音の関節を少しリラックスさせたようなほぐれて柔らかいサウンドへの変化に少なからず寄与していると思う。この筐体の改革は挑戦的であるが、こういう思い切ったトライこそ今の日本のオーディオ界に必要とされていることだと思う。未だ旧態依然の感のある老舗アキュフェーズさんなどはおおいに見習うべき点であろうと私個人は思う。

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以上は共通する部分について述べたが、これ以降、それぞれ別々に見ていこう。

まずP1xである。

これはSACDトランスポートであるが、見かけの変化はわずかにP1xのトレーに刻まれた文字がVRDS ATLASとなっただけである。

だが中身は先代からは大きく変貌している。

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お馴染みのVRDS-NEOを使っていない。1987年のVRDSの発表より、ずっと保持してきた基本的なコンストラクションを土台から大きく改変したメカ、VRDS-ATLASという新しい読み取り機構を搭載した。ここでは何と言ってもディスクの上にあったモーターが、ディスクの下に移動しているのがポイントだ。メカ自体の背丈を低くしていることもあるだろうが、結果的に明らかに音の重心が下がった。感覚的には「グッ」と下がったという表現が適切である。トランスポートは全体の構造、とくに重心の位置によって大きくその音を変えることは知っていたが、これほど変化するとは思わなかった。
またメカ全体にも先代よりもさらに剛性が高い設計にしている。

例えば各部の材質をアルミから鋼材に変えた部分があり、強度をさらに高めているのである。またトレーがコの字型からくり抜きのロの字型のくり抜き加工に変わっている。どちらが剛性が高いかは素人が見てもすぐわかりそうなことだが、ロの字型は設計や組み立てが難しそうである。そして結果的にメカの重量は約30%増加している

電源部や基本的なデジタル出力のコンストラクションについてはほぼ先代を踏襲している部分が多く、ES―LINKのバージョンアップ、トランスのレイアウト変更やなど、ドライブメカに比べると小さなブラッシュアップにとどめている。

音質については後でも述べるが、P1x+D1xのトータルの音質は良い意味で以前のEsotericのサウンドシグネチャーとは異なる方向に進化している。そして、この違いに関する寄与の度合いはどちらかというとトランスポートが刷新されたことによる部分が大きいように感じた。そう言うのはdcs Bartokなど他社のDACとP1xを組み合わせても従前のEsotericのトランスポートとはまるで異なる風合いの音が聞けたからだ。

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D1xについては、Esoteric独自開発のディスクリートDACが搭載されていることが目玉である。いままでは採用した旭化成のDACチップの型番とその基盤上での使い方をカタログに書いていたが、これはハイエンドDACとしては上手くなかった。例えばチップの型番が公開されているので、他のもっと安価なDACと中身は同じだと分かってしまう。また、発売から数年も経たないうちに次の世代のチップが出てきて、時代遅れになったのがバレバレだ。さらにチップごとの音質傾向の好き嫌いを決め付けるオーディオファイルもいるので、試聴する前から敬遠されてしまう場合さえある。これらの懸念を払しょくできるが、手間がかかり失敗する可能性もあるこの手法をEsotericがあえて採用したことは他のメーカーにとっても影響が大きい。Esotericがこういう独自性の高いDACを作るようになれば、他の日本のハイエンドメーカーにも追随者が出て、FPGAにオリジナルのプログラムを書き込んで作り上げたディスクリートDACが主流となる可能性もあるのかもしれない。

(そういえばスフォルツァートの開発者の方も、ある会において、ゆくゆくはそうしたいと発言しておられた)

高級機械式時計のムーヴメントにオリジナルムーヴが増えていったように、この先は外観や機能だけでなく、機械の中身のレベルから、他と差別化しないと生き残れないという風潮はありえる。それほどハイエンドオーディオは平均化され、出音やデザインのみで差別化することが難しい時代となってきている。


変わらなかった部分としては基本的な構成であり、左右別筐体でありコンセントが二つ必要なことは今まで通りである。

今回は筐体の内部は上下に分けられ電源は上、DAC回路は下に吊り下げる形で配置されている。

ここに実装された新開発のディスクリートDACは花のような形をした円形回路パターンでできており、8個のエレメントで一つのDACを形成する。全体としては刄ーDACとして動作するようだ。私の記憶するかぎり、今まで似たような構成・回路の外観を持ったDACを見たことがない。

さらに、従来より大きな水晶を使って高い精度を出した新たな基準クロックの内蔵や、内部でDAC回路とセパレートした大型電源、アップコンバート機能なども注目されるが、これらについては独自のディスクリートDACの開発に比べると、バージョンアップとしては予想の範囲内である。

リアパネルにまわると、P1xからのES-LINKのバージョン5によるデュアル伝送を受けるデジタル入力端子の他、XLR,RCA,光、USBの端子が見える。アナログ出力もクロック入力もほぼ変化はない。

なお、D1xのUSB2.0デジタル入力は片方のDACにしかついていないのは面白いし有り難い。つまりPCとUSB経由で接続する場合では片チャンネルを担当するDACのみにUSBの端子を接続、そこからHDMIケーブルを使うES-LINKで反対側のチャンねるに伝送される仕組みになっている。珍しくもDACがL/R独立筐体であるからUSBでPC等の機材と接続したい場合はどうするのかという素朴な疑問があるのだが、特に心配はいらない。


なお、Esotericの機材どうしでしか有効ではないが、アナログ出力には電流伝送も選択できる。これは伝送される信号がケーブルのインピーダンスの影響を受けにくくするための技術であり、様々なメーカーの機材で採用されているが、同じメーカーの製品内でしか互換性がないのがほとんどであり、私は特に興味がない。業界で統一規格でも作って、メーカーをまたいで様々な機材で共用されるなら聞いてみたいところだが・・・。


このDACの中身にはメーカーの新たな独自性が強く表現されている。ドライブメカだけでなく、DACにもEsoteric独自のスタイルが生まれ、プレーヤーシステムトータルでの他のハイエンド機との差別化がより明確となった。ここでEsotericは自社にだけにできることを増やし、ライバルたちを引き離しにかかったのである。


機材全体としては巨大で重い4筐体構成のセパレートプレーヤーシステムであり、クロックを加えれば5筐体、送り出しだけで4口のコンセントを占有する代物である。はっきり言ってコンパクト・シンプルを良しとする私の主義には反する。だが、外国製の同規模の機材と比較して明らかに安価な価格設定や、ドライブメカのメンテナンス修理対応も含めた安心感を考えるとなかなか否定的な態度は取りにくい。さらに音を聞けば、誰でも少なくともP1xかD1xのどちらかは自分の部屋に是非招き入れたいものだと願わずにいられないはずだ。

また別な視点から見ると、先代の良いところは変えず、改革できる・すべき部分は思い切って変えていくメリハリの効いた製品開発とも思う。伝統と改革を渾然一体と成して前に進むEsotericの合理精神の現れと私は取る。


さて、試聴の印象について述べる前に、

このプレーヤーを聞くときに大事なことを一つ押さえておこう。

このモデルは、デジタルディスクプレーヤーとしては大きなトロイダルトランスをいくつも内蔵した電源部を擁するがゆえに、電源投入後、十分な時間を経てから試聴すべきだ。

このプレーヤーシステムは、少なくとも電源投入後、24時間は経たないとその実力の片鱗を聞くことは難しかろう。私の場合はパワーアンプ以外のシステムコンポーネントの電源について、いくつかの例外を除いて年中入れっぱなしであるから問題ない。だが、そんなことをしているオーディオファイルは多数派ではないし、このプレーヤーのパワースイッチがフロントパネルにあるので、聞き始めと聞き終わりに節電のため、ON/OFFしたくなるのが人情だろう。しかしそれは音質のためにはお薦めしかねる。


試聴はCH Precisionのプリアンプとモノラルパワー、MartenのCOLTRANE 3を組み合わせて、比較的広い試聴室で行った。電源にはStromtank S5000を使用している。

私がP1x,D1xを買う場合は当然、オーディオ電源のファイナルアンサーであるStromtankを使うつもりなのでこれでよい。このクラスのプレーヤーの潜在能力を知りたいなら、何を使うにしても電源に凝るのは当たり前だと思う。これについてはドーピングというよりは、機材の本来の姿を浮き彫りにするため、必要な基礎として私は考えている。

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The sound:

雄大で、重心の極めて低い濃厚かつスムーズなサウンドである。

大きな山、地平線や水平線といった地理的な広がりを持つ自然界の雄大さに相似した音が耳に押し寄せるというのが第一印象である。まずはサウンドステージのスケールの大きさに感嘆させられるサウンドなのである。

このデジタルプレーヤーから出るサウンドに雄大という言葉を当てはめることができたのは私にとって誇らしい。こういう感覚が惹起されるのはMSB Select DACの試聴以来であって、当時は日本人が設計した機材がこのようなビッグサウンドを出せるとは思っていなかった。この快挙を日本人として他国の人々に誇示したいほどだ。


このようなサウンドこそは大器と呼ぶべきであろう。目前にあるのは日本製のデジタルプレーヤーに全くなかったレベルの大きさを持つ音楽の器である。

したがって、大きなスケールを持つ音楽を大盛りにする、例えば思い切り音量を上げて聞いてもスピーカー・アンプが耐えられるかぎり破綻せず揺るがず、大きな音楽の中のかなり細かいニュアンスの一滴まで漏らすことなくリスナーにすっかりと飲み込ませることができる。

そして、これほど明るく朗らかな陽性の音調、堂々とそして朗々と下段の機器をドライブし歌わせるプレーヤーという意味でも日本製品では初めてのものである。


さらに言えば、これは勇気を秘めた音だ。

なにか音声に深みと張り、溢れる力、とどめようのない勢いが感じられる。これほどの活力や熱量を感じられるサウンドはデジタルオーディオにおいてあまり類例はない。

状況に応じて、なんらかの心理的バイアスあるいは物語的な傾向を持ちやすい万策堂の感情のフィルターを通せば、そこにはなにか危機的な日本の現状を変えようとする気概が香っているようにさえ感じる。

少しでもボリュウムを上げさえすれば、複雑な様相を内包する音のエネルギーの奔流にリスナーは巻き込まれ、圧倒されると同時に、

そこに込められた気概を注ぎ込まれ、勇気づけられもするはずだ。

このような勇気づけはオーディオ全般が本来持つべき能力だが、特に日本のオーディオにおいて欠けがちな要素であって、私が日本製品にずっと求めてきたものだ。

よくテレビ番組などで、活発で元気な人の近くにいて、勇気をもらいましたとか、エネルギーをもらいましたとかいうたぐいのコメントを時々耳にするが、そういう気分にさせてくれるプレーヤーだと思う。


最初の感傷が過ぎたので、

背中を伸ばし、椅子に座り直しあらためて聞くと、

サウンドステージの広さについてまた言いたくなる。

左右だけでなく上下にもかなり大きく拡がる音のように聞こえる。

この見渡すようなサウンドステージのスケールはまさに圧巻の景色であり、これについては比肩できるDACはほとんど思いつかない。これは壮大な景観の中で風に吹かれ、その土地の空気の匂いをかいでいるようなリスニング体験なのだ。

この部分において例えばMSBのReference DACは超えているだろうし、同社製の現代最高のDACとの呼び声高いSelect DACに及ばぬまでも近づく。また、P1x+D1Xよりさらに高価なVivaldi ONEに全く引けを取らないどころか、音場ではむしろ凌駕していると私は見る。音の輪郭の明瞭さや音のキレの良さはdcsが勝るが、その温かな包容力とロマンテックな音の抑揚、そして音場の広がりはEsotericのこのプレーヤーが勝っている。


このような特別な音の広がりはヘッドホンの世界ではまだ聞けない。

私はこのシステムにRe Leaf E3のモノラルモデルを組み合わせる野望を持っているが、果たせるかどうか。MSBがSelect DAC専用のHPAを開発しているが、そのサウンドに近づくとしたら、その組み合わせぐらいしか思いつかない。ここにはまだヘッドホンオーディオとスピーカーオーディオの歴然とした格差がある。

これを克服することが当面のハイエンドヘッドホンの課題なのかもしれない。


さらに言えば、前代のGrandiosoからもかなり進化している。そもそも音の心根が根本的に違う。

このサウンドは旧来ずっとEsotericのプレーヤーが引きずっていた剛性の強い音・アタックやスレンダーでスピード感のあるサウンドは鳴りを潜め、柔軟で肌理の細かい、たっぷりとしたボディのあるサウンドへと変貌しているのである。

このほぐれてリラックスした感じ、オーディオ・オーディオしすぎていない、大人びた洗練度の高さは今までEsotericの製品にはあまり感じたことがないものだ。

時代の変わり目にふさわしいメタモルフォーゼに私は目を見張った。


このシステムで発揮されるオーディオの諸特性のなかでも、殊更に素晴らしいのはダイナミックレンジである。これほどのヘッドルームを国産機はもちろん世界中のデジタルプレーヤーを思い起こしても、感じたことはほとんどない。この機材に感じる器の大きさというのは、この部分の性能の高さに由来する部分が大きい。音の抑揚の表現に他機と比べてかなりな余裕があり、また音の強弱のつけ方もスムーズかつ繊細である。


それに高域方向のヌケの良さも見逃せない。一聴してわかるものではないが、よく聞くとこの高域の表現は従来機とは明らかに違う。なにか癖が少なく、これ見よがしなものではないが自然と高いところまで音が伸び、サッと引く。今まではEsotiricの高域は硬く、全帯域の中での存在感は際立っていたが、ややスピードが遅かった。

中域はあくまでスムーズ、濃厚で密度感が高く、粘度がやや高い、今までのEsotericのキビキビしてスレンダーな中域の印象とは対照的である。

さらに低域の重心の低さは特筆すべきだ、いままでEsotericのプレーヤーの音を腰高などと感じたことはなかったけれど、P1x+D1xを聞くと、あれでもまだ重心が高かったのだと先入観の修正をせざるえない。確かに地を這うような低音とはこういう音なのだろうと感服しきりである。地球の重力が増して大地によりしっかりと根付いたような不思議な重量感を持ったサウンドとなっている。ただ、この低域はCH Precisionやdcsに比べて音の解像度や楽器の分離がやや足りない印象ではあった。これはさらにエージングをかけたり、下段の機材との相性を探る必要はあるかもしれない。

まあ、これは解像度の高さを売りとするサウンドではない気はする。昨今は情報量が多ければ多いほど音はよいと思う方もいるのかもしれない。だが、ある次元を超えればそれはいつも正しいわけではないような気が私はしている。つまりシステムのプレゼンテーションの質は、情報量だけでは担保できないということだ。そのプレゼンの方法が効果的であることも同様に重要である。

私が今求めているのは、いわゆる原音という手ごわい幻のような言葉で表現されるなにかに限りなく忠実であろうとする再生音ではないし、

ましてや自分がその音楽に対して抱いているイメージをなぞるような音楽性を発揮するサウンドでもない。その忠実性と音楽性という二つの要素をある程度満足させつつも、私の予想の上を行くことができるオーディオが私の欲しているものだ。

P1x+D1xにはそれがある。

これこそ私が日本のオーディオに求めて続けてきたものだ。


音にトゲトゲしさは皆無、柔和で暖かい表情を見せつつ抱擁するときもあれば、大剣で竜の首をバッサリと落とすようなインパクトでリスナーを突き放しもする。ここには音の軽やかさと重さの両立、音のやさしさとワイルドさが紙一重・表裏一体となっている。

おおらかさを保ちつつ緩くならず、厳しさを秘めつつも音を締め上げ過ぎない。身の軽さ・キレの良さだけで売るような若さではないが、鈍重でモヤついた老いの音からも縁遠い。

そんな様々な対立する要素を同居させ、あるいは中和させつつ、複雑なバランスの上にサウンドを成り立たせていることも本品の特徴といえるだろう。これはスーパーハイエンドの機材にのみ許される境地に悠々と達している。


そしてP1x+D1xは音楽におけるクライマックスの高ぶりを見事に表現するシステムでもある。

出音になんらかの興奮剤のようなものが仕込まれているのかのようだ。

勿論それはあり得ない、荒唐無稽な空想なのだが、なぜか同じ音楽でもこのプレーヤーを通して聞くと、より気分が昂(たか)まるようだから説明に困る。

聞けば聞くほど体の奥から力やインスピレーションが湧いてくるようなのだ。

音の輪郭線にはリズミカルな強弱がつけられ、音楽を盛り上げている。鮮やかな油絵のようなビビッドな色彩感覚で彩られた音像が彼方まで林立してピシャリと定位しとても豪華な印象を受ける。音の明暗、静止した静寂、躍動する喧噪が滑らかに移行するグラデーションをもって、音楽の進行に沿って千変万化してゆく。

こういう音を浴びるように聞いていると、ハイエンドオーディオの愉しみはおのずと興奮に変換されてゆくものなのかもしれない。

ことに美しい音の色・スペイシーな音の広がりの表出に注力したアルバムを演奏させると、これまで体験したことのないような壮麗な音の世界を体感することが可能である。これはステレオ方式によるオーディオ体験の一つの極みであろうが、それだけでなく、ここでもやけに気分が上がるところが面白い。

そしてこのようなアゲアゲの興奮の中で演奏が終わった後にくる、

アフターテイストの爽快さといったら。

スピーカーを前にしているだけなのに、

その向こう側にいる幻のアーティストたちを意識して、思わず拍手を送りたくなるほどだ。

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このエソテリックの新しい音は一体どこからくるのか。

私は当初、この特殊な構造をもつDACによるところが大きいだろうと思っていた。

しかし試聴を終えた時点で考え方が少し変わった。

無論、この機材が発生する異様なまでにスペイシーな感覚の由来はそこでよい。

だが、もっと深い部分での進化、音の器量の大きさ・包容力のレベルアップという意味では新型トランスポートの存在が縁の下の力持ちのような機能しているのかなと思うふしがある。

それというのも、ヘッドホン出力のないdcs BartokとP1xを接続してスピーカーで聞く期会があったのである。非常に雑味のないピュアでシンプルな出音はdcsのテイストそのものなのだが、そこに自然な音のボディや肌合いの良さまでが生まれ、実に魅力的なサウンドに変貌していた。以前、dcsのVivaldiにEsotericの比較的古いトランスポートをつないだ時に出てきた堅さとエッジの鋭さをもつ、クリスタルガラスのような音とは対照的だったのである。

またそこにあった魅力というのは聞きなれたハイレゾデジタルファイルを使ったサウンドの良さをも超えるものだった。

私の聞くかぎり、Bartokはdcsの基本モデルであり、dcsとしては簡潔なサウンドに徹している。(そのようなあえて豪勢でない部分を評価しているのだが・・・)

しかしデジタルファイルではなく、あえてP0xを組み合わせてCDを聞くとBartokの評価はさらに高まるのだ。つまり優れたCD・SACDトランスポートに接続する方が、PCやネットワークに接続された場合よりも音質的には優位に立てる場合があることが確認できるのである。

やはり、このトランスポートは称えられるべきなにかだろう。私は、このP1xの恩恵があってこそ、オーディオファイルはシルバーディスクに秘められた真の力に触れることができると考えている。

Summary:

Esotericは1997年にP0という伝説的なCDトランスポートを発表し、シルバーディスクプレーヤーの究極の姿として世にその存在価値を問うた。

結果、彼らは見事に勝利し、ハイエンドオーディオ界において最高級CD・SACDプレーヤーのメーカー、そしてドライブメカのサプライヤーとしての地位を確立した。

しかし、その後の音楽メディアとしてのCD・SACDの退潮は、P0の流れをくむEsotericブランドのデジタルプレーヤー・ドライブメカの発展を鈍らせてきた。私に言わせれば、その灯は消えていなかったが、やや暗く下火となっていたということだ。

しかし今回の取り上げたP1x+D1xでは、ほぼ根底から一新されたドライブメカと、他社製の素子に頼らない、オリジナルのディスクリートDACの開発が完遂され、音質は未踏のステージへと駆け上がり、新たな区切りがつけられた。これは国産の機材では今まで実現できなかったデジタルサウンドであるのみならず、世界のハイエンドオーディオにおいても、ライバルが少ないと思われるほどの高みにある。

P0の発表から22年たった年号の変わり目の年、ついに新たな日本の誇りとなるようなデジタルプレーヤーが完成したことは感慨深い。

ハイエンドのシルバーディスク再生という、いまやマイナーとなりつつある分野でも真の代替わりがおこりうることが実証された。


総じて、この音質は刷新されたドライブメカの機構と大規模な電源、オリジナリティあふれるディスクリートDACが三位一体となって生み出すものだろう。

それは認めつつも、私の個人的な印象では、このシステムの中でもドライブメカの部分が特に貴重なのだ。まずこれは日本でしか企画・設計・製造ができない。そこがまず貴重だ。そして、このドライブメカは音質と動作が、どのようなディスクをかけても安定しており、音に固有の癖が少なく、無色透明に限りなく近いうえ、ディスクに刻まれた情報を世界で最も正しくそして余すところなく抽出できると思われる。これなら恐らく、どのようなDACと組み合わせても最良の結果が期待できる。かつてのVRDS-NEOには音質の細かな部分で賛否があったが、その細部にわたる不満すら綺麗に払しょくできたのではないか。私は究極のトランスポートとしてこのP1xを強く推薦したい。


とはいえ、これらの製品を創出するにあたって、Esotric内部には少なからず葛藤があったかもしれない。今や、デジタルオーディオはデジタルファイル全盛、そしてストリーミング全盛の前夜と見えるからだ。この時代の趨勢、未来への展望を思いやれば、CD・SACDプレーヤーシステムの新規開発がリスクを伴うことをEsotericは理解していたはずだ。

これは時代の流れに抗う開発と取れなくはない。

だが、このようなデジタルファイル全盛ともいえる時代においても、CD・SACDの重要性は消失していないと私は思う。

次々に新規のデジタルファイルの形式や伝送方式が登場し、音楽がコレクションするものから、消費するものへ変わりつつあることを示すストリーミングの隆盛があっても、シルバーディスク再生の手段を保ち続ける意味はある。


私自身はストリーミングでも音楽を聴いているが、

そのカウンターパートとして自前で多くのCDを持っていることにも安心している。

例えばストリーミングは一私企業、しかもほとんどは我々の手の及ばない海外の企業が手掛けている事業に過ぎない。

我々はこれらのサービスがあまりに簡単かつ普遍的にいつでも手に入る状態なので、まるでそれが自分が生きている間、常に変わらず存在するものと考えがちだ。だがこれはいつ突然使えなくなるか分からないものだということは忘れるべきではない。

企業の倒産、インターネットの大規模障害など理由はいくらでも考えられる。

例として適切かどうかわからないが、この問題を考えるとき、よく想起されるニュースがある。

日本の田舎町で、民間の水道会社に水道の管理を任せていたところ、そこの経営がおかしくなり、結果的には村の水の供給に支障をきたしたというニュースだ。

こういう急な事態に対応するには、自前で井戸や貯水槽を持つのが一番である。

ひるがえって、

CD・SACDとはデジタルオーディオにおける、自前の井戸や貯水槽に近いものではないか。

アーティストに不祥事が起こればダウンロードやストリーミングができなくなる可能性があることも、ごく最近示された。電気グルーヴのデジタルファイルはe-Onkyoではダウンロードできなくなっている。

TIDALなどのストリーミングにおいても以前はあったアルバムが主催者側の理由説明のない削除によって聞けなくなっているケースが時にある。

中古市場が存在しないデジタルファイルにとってこれらは大きな問題だろう。

こうしてみるとディスクを所有しているというのは世の中の突然の変化に対して強い。

やはり音楽なしでは1日も生きられない私のような者にとって、CD・SACDはかけがえのないものであり続けている。

そして今も大量のCDが個人や店舗の棚に眠り、高音質で再生される期会を待っていることをオーディオを趣味とする者は忘れてはならない。また未だにストリーミングやダウンロードにはまともなライナーノーツがほとんど付かない。

そもそもストリーミングやダウンロードに上がっていない、素晴らしい音楽がどれくらいあり、その多くがアナログディスクでなく、CDでしか残されていない例がどれくらいあるか。音楽に詳しい方なら簡単に想像できるだろう。

加入の勧誘の文句には楽曲数を誇るストリーミングやダウンロードではあるが、人類がCDに記録した音楽の種類と量はそれらのライブラリーよりも大きい。

私はデジタルファイルやストリーミングはおおいに使うべきと考え、実践もしているが、上記の理由などからCD・SACDと、その再生手段を捨ててしまうのは明らかに早計だと思っている。

まして、このP1X+D1Xにより、これほど優れた音質がまだCDから取り出せることが立証されたからには、ますますシルバーディスクを無視できないのである。

Esotericがデジタルオーディオの表面的な流れに抗ったことは、決して不自然なこと・不合理なこととは言えないのだ。


別な視点から見れば、デジタルオーディオの主流がデジタルファイルになりつつあると同時に、新しいファイル形式やデコードの方式が次々に現れ、事実上コントロール不能の状態になっているというのが現状であると捉えることもできる。(MQAの詳細な仕様や音質をめぐる賛否両論などはその最たるものだろう)

ならば、このようなカオスのただ中でこそ、その真の能力を発揮したCDの音でデジタルオーディオの原点を押さえておく必要があるのではないか。

本機の開発を、「未だに日本ではディスクメディアを楽しむ老人のオーディオマニアが多い」などという、消極的な理由に立脚したものと捉える必要はないし、それはいかにも後ろ向きな姿勢でしかない。そういう考えは新時代の到来にはふさわしくない。

むしろデジタルの原点回帰を促す意味でも、このようなシステムの存在意義は大きいと捉えるべきだろう。


企業にも一個人のように精神というものがあるとしたら、

オーディオメーカーは変貌する世界の中で守るか・挑むかを、己が精神あるいは魂のようなものに問い続けなくてはならない。

永い葛藤の結果として、平成のラストにおいてもEsotericの魂は抗う道を捨てないことを選んだ。それはここまで育て上げてきた本業のひとつであるドライブメカの開発製造を捨てないことにつながる。

脈々と続くシルバーディスクプレーヤーの老舗の矜持、ハイエンドオーディオ向けのドライブメカ開発の世界的リーダーとしてのプライドを保ち続けることが、おのれが輝く道と自覚したのだろうか。

とにかく、単なる惰性でこのように積極的な性質・中身を持つ機材の開発は無理だ。

なにか根本に抗う姿勢がなくてはならない。


その曇りなき判断と悟り、そして気概に、私はひとりのオーディオファイルとして賛辞を惜しまない。

そしておそらく、Esotericにとって、これが最後ではない。さらに彼らは作り続けるだろうし、そうすべきだ。

このようなスペシャルなプレーヤーというのは、CDやSACDがこれから先も消えずに残ることが分かった時点から、どうしても必要な道具となったのだから。

今、私が心の中に抱えている願い、

ただひとつの望みは、

Esotericの魂のようなニューサウンドによって、

かなえられるにちがいない。

P1x +D1xは平成の間、日本製の機材が求めても得られなかった

世界最高レベルのデジタルサウンドを我々にもたらした。

それも日本にしかできない技術をもって。

この渾身のプレーヤーシステムは

日本のオーディオが世界で輝くために必要な切り札の一枚となるだろう。

日本のハイエンドオーディオシーンは、

ここにある勇気あるサウンド、

抗(あらが)う魂が生み出した可能性とともに、

平成の向こう側に進んでゆく運命にあるようだ。
https://pansaku.exblog.jp/28107235/


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/842.html#c62

[近代史3] 馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国 中川隆
7. 中川隆[-11247] koaQ7Jey 2019年3月23日 20:51:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[762]

河添恵子#12-2 ゲスト:馬渕睦夫
★1%の大富豪がつくる世界共産主義体制 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Q0-jbet_YWA


<#12-2 目次的な!>
・世界人口の1%にあたる富裕層が 1年間に生み出された富の82%を独占
 国際NGO「オックスファム(Oxfam)」が2018年1月に発表
・富を独占する1%
・ロックフェラーも「世界の仲間たちと1つの世界を作るために働いてきた」と言う
・デイヴィッド・ロックフェラー(1915年 - 2017年 / 101歳没)
 銀行家・実業家・慈善家 チェース銀行頭取兼最高経営責任者
 アメリカ史上最強一族の頭首(祖父は石油王、兄は副大統領)
・1%が作る世界政府
・「市場(マネー)が最大の権威だ」ジャック・アタリ
 (フランスの経済学者 / DSのスポークスマン)
・マネーの支配は世界の支配
・彼らは「グローバル化(世界政府化)は素晴らしい」とメディアを駆使し喧伝する
・日本人の中にもグローバリストになってしまた人が大勢いる(自民党内にさえも多々いる)
・富の集中を助けるような政策を、自民党の重鎮が実行している
・進行する格差社会
・世界統一政府が混乱を収める
・アンソニー・J・ヒルダー(作家・活動家) の言葉
「共産主義は、銀行(エスタブリッシュメント)を打倒するための大衆の創造物ではない。それは大衆を打倒し奴隷化するための銀行(エスタブリッシュメント)の一つの創造物である。
 共産主義はモスクワ、北京、あるいはハバナによって運営されているのではない。それは、ロンドン、ニューヨーク、そしてワシントンDCによって運営されている。」
・共産主義革命の正体
・共産主義を作ったのは世界の大富豪(国際金融資本家)
・共産主義は世界統一思想
・共産主義(Communism)=グローバリズム
・世界を監視する共産主義システムは中国で発展している
・監視システムはテロを防止するためのものとして安心を与えている
・監視システムは何のため?
・エドワード・スノーデン(2016年6月)の言葉
「情報通信産業は利益の追求という「経済的インセンティブ」に突き動かされながら、いまや世界の軍産複合体の中心部で、この広範な戦争と支配の構造を下支えしている」
・中国監視システムの実態
・その技術はいまやハッキングなど攻撃力に使われ、AI技術によりさらに発展している
・もはや中国が世界一となっており、西欧社会は焦っている
・中国の頭脳を厳重警戒する米国
・象徴的なのがファーウェイ、ZTEなどの中国共産党企業
・アメリカすべての利害関係者の意思として、5Gの中国による覇権は許さない
・中共の監視社会と、DSの監視社会とどっちがいいのかの究極の選択
・ズビグネフ・ブレジンスキー
 (米政治学者・外交アドバイザー・ポーランド系ユダヤ人)
 2017年5月、89歳にて死去する
・2019年以降の中国共産党の動き
・このままでは自壊してしまう中共は、何かしらの行動を起こす可能性が高まる
・『1984年』ジョージ・オーウェル
 “ビッグ・ブラザー”率いる党が支配する全体主義的近未来を描く
 20世紀世界文学の最高傑作 初版は1949年

・<究極の選択>中共かDSか
・日ロ首脳会談 2019年1月22日@モスクワ
 プーチン大統領と25回目の首脳会談を行った
・鉄のトライアングルで中共を包囲する
・日本の国益にとってベストの選択は?
 @DSによる支配 A中共による支配 Bトランプ・プーチン・安倍の三角協力
・その三角協力をさせじとする勢力の存在
・2019年以降の選択は重要
・共産主義独裁政権にいかに対応するか
・共産主義の誤解(共産主義独裁は必ず悪となる)
・バーニー・サンダース(1941年生まれの77歳)
 2020年米大統領選に向け 民主党予備選に立候補する意向を表明
 民主社会主義者を自認するポーランド系ユダヤ人移民(NY生まれ)
・11月7日は「共産主義犠牲者の国民的記念日」
トランプ大統領が2017年11月7日に制定 
ロシア革命から100周年を記念し 犠牲者を追悼するもの
トランプ&ペンス両氏の対共産主義政策の一環
・共産主義を正しく知る
・全然共産主義は滅んでいない、なぜならアメリカ自身が共産主義国家だったから
・共産主義の根源は「被害者意識」
・『共産主義黒書』
 ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト
 (2016年 ちくま学芸文庫より文庫化)

・<共産主義による世界の犠牲者数>
 ソ連:約2000万人 中国:約6500万人 
 全世界合わせて約1億人が殺害されている
・共産主義は殺人思想であることを多くの人が知らない
・2019年以降 歴史を正しく修正する時期
・外からの危険、内からの危険、今の日本は大変な国難
・より悪の要素が少ない方を選ぶ、という作業が必要
・正しい情報と知識で精神武装を
・これから、本当の意味での21世紀が始まる
・20世紀は大富豪ファーストの世紀だった
 21世紀は我々ファーストにしていかなければならない
・Q. 朝鮮半島問題とディープステート勢力についての関係を
  教えていただけますでしょうか?
・朝鮮半島を巡る攻防
・統一朝鮮ができた場合、中国の支配下に置かれないように、トランプとプーチンは考えているか?
・習近平は朝鮮両国のことを、自分のテリトリーと考えている(ウイグルやチベットと同じように)
・習近平と金正恩は4回会談しているが、良好とは言えない
・北朝鮮の軍拡を進めてきたのは中国の江沢民一派
・金王朝は、江沢民一派と親密。北の通信施設も江沢民一派の企業(チャイナユニコム)が作っている
・金正恩が江沢民→習近平に鞍変えることはまず無い
・中国聯合通信(チャイナ・ユニコム)
 中国の大手通信事業者 江沢民の長男・江綿恒と密接な関係の企業
 北朝鮮のインターネット回線を2017年まで独占して開発する
・北朝鮮と隣接する中国の北部、旧瀋陽軍区(現北部戦区の一部)は江沢民一派の影響が強く、北朝鮮とは一蓮托生、核開発も支援しているという話もある
・「実際は北朝鮮が粘り勝ちしている」という報道は間違っている
・金正恩が頼りにしているのはトランプではないか
・問題はDSがどう関わってくるか?
・トランプとDSの関係が変わってくることで、朝鮮半島問題にも変化が起こる
・成り行き次第では朝鮮半島で戦争が勃発する可能性がある

#共産主義 #世界統一政府 #1%の富裕層の正体
===========================
#12-2
収録日:2019年1月21日 / 48分

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/135.html#c7

[近代史3] 馬渕睦夫 deep state の世界を語る _ 朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてヤラセだった 中川隆
27. 中川隆[-11246] koaQ7Jey 2019年3月23日 21:24:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[763]

河添恵子#12-1 ゲスト:馬渕睦夫
★ディープステートと中華人民共和国の末路 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=kZBUkGEmbHs

河添恵子#12-2 ゲスト:馬渕睦夫
★1%の大富豪がつくる世界共産主義体制 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Q0-jbet_YWA

収録日:2019年1月21日 / 48分


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/105.html#c27

[近代史3] 馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた 中川隆
7. 中川隆[-11245] koaQ7Jey 2019年3月23日 21:26:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[764]

河添恵子#12-1 ゲスト:馬渕睦夫
★ディープステートと中華人民共和国の末路 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=kZBUkGEmbHs

河添恵子#12-2 ゲスト:馬渕睦夫
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収録日:2019年1月21日


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html#c7

[近代史3] 右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた 中川隆
20. 中川隆[-11244] koaQ7Jey 2019年3月23日 21:27:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[765]

河添恵子#12-1 ゲスト:馬渕睦夫
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[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
126. 中川隆[-11243] koaQ7Jey 2019年3月23日 21:28:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[766]

河添恵子#12-1 ゲスト:馬渕睦夫
★ディープステートと中華人民共和国の末路 - YouTube 動画
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河添恵子#12-2 ゲスト:馬渕睦夫
★1%の大富豪がつくる世界共産主義体制 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Q0-jbet_YWA

収録日:2019年1月21日 / 48分


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[昼休み54] 太陽光発電は国家経済を破綻させ環境も破壊する 中川隆
31. 中川隆[-11242] koaQ7Jey 2019年3月23日 22:00:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[767]
太陽光発電、年間2.4兆円の国民負担も…コスパが悪すぎる実態
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190320-00000065-sasahi-soci
AERA dot. 3/23(土) 10:00配信 週刊朝日  2019年3月29日号より抜粋


写真はイメージです (c)GettyImages


固定価格買い取り制度導入後の賦課金の推移(週刊朝日2019年3月29日号から)


 建設ラッシュが続く大規模な太陽光発電所「メガソーラー」。立地や自然破壊などを巡って、全国各地で地元住民たちによる反対運動が起きている。そんな中、太陽光発電そのものに対しても、性能や効率を疑問視する意見が出ている。

 立地を巡って住民との深刻なトラブルになるケースは後を絶たない。三重県内で極端な事例がある。家の三方を、太陽光パネルで囲まれてしまったというのだ。窓から数メートルのところまで太陽光パネルが迫っている。

 三重県在住の主婦がその家に住んでいた当時を振り返りながら語る。

「とても静かな場所だったので、気に入ってここに引っ越してきたのです。ところが開発が始まって、家の周りにかなりの高さのブルーシートが張られました。シートが取り払われると家のすぐ際まで太陽光パネルが迫っていたのです。まず、テレビがおかしくなりました。太陽光発電している日中だけ、これまでになかったノイズが出るようになりました。反射光にも悩まされ、夏になると2階の部屋は50度を超え、デジタル温度計は測定不能になりました。業者や自治体に何度か問い合わせて、ようやく家の周辺のパネルだけ撤去していったのです」

 だが、心身にダメージを受け、引っ越しを余儀なくされた。

 17年度現在、太陽光、風力、バイオマス、地熱など再生可能エネルギーの全発電量におけるシェアは約16%(火力81%、原子力3%)。

 エネルギー問題に詳しい熊本一規・明治学院大学名誉教授がこう語る。

「太陽光は自然変動型で、夜は発電できないし、天候にも左右されます。需要に合わせて供給できないところが最大の弱点です。電気は需給バランスが崩れると停電につながるので、太陽光の出力を調整するために火力を待機させておかなければなりません。太陽光の出力が増えた分、火力が節約になったのは確かですが、原発の削減にはつながりません。季節や天候に左右されず、昼夜問わず安定的に供給できるベース電源となり得るのは、地熱です。地熱が増えれば、原発は確実に減らせます。太陽光は必要以上に増えすぎてしまいました」

 太陽光に偏った最大の原因は、12年7月に始まった再エネの固定価格買い取り制度(FIT)にある。FITは再エネで発電した電気を電力会社が決まった価格で買い取るシステム。FIT制度開始後、認定容量の80%を太陽光が占める。制度がスタートした12年、事業用の太陽光の買い取り価格は1キロワット時で40円。導入拡大を図るため、価格を高く設定したのだ。しかも、太陽光は20年間決まった価格で買い取る。事業者が太陽光に殺到したのはこのためだ。

 一方で、電力会社は買い取り費用を「再エネ賦課金」として、家庭や企業の電気料金に上乗せしてきた。特に太陽光の急拡大に伴い、国民負担は年々増大している。12年度の賦課金総額は約1300億円だったのが、18年度は約2兆3726億円に達する。標準家庭の負担額は、月額754円。年間1万円近くを支出しているのだ。

 経済産業省は国民負担を抑えるために、買い取り価格を毎年下げてきた。13年36円、14年32円、15年29〜27円……19年度は14円までに引き下げる。

 長野県で反対運動を行う太陽光発電問題連絡会の小林峰一さんがこう話す。

「太陽光パネルの価格も下がり続けています。買い取り価格の高いときに認定を受けた事業者の中には、より大きな利益を狙い、パネルの価格低下を見越して、まだ着工していない事例も数多くあります。再エネ賦課金の年間約2.4兆円に上る国民負担は、消費税1%分に相当します。買い取り価格の決定は事業認定時ではなく、運転開始時にすべきだったのです」

 経産省は12〜14年度に事業認定を受けながら、いまだ稼働していない事業者を対象に買い取り価格を引き下げる方針を示している。今年度中に送電線接続工事の申し込み手続きを終えないと、例えば40円に決まっていた買い取り価格を、21円まで引き下げるなどの措置を講じる。

 メガソーラー問題に詳しい梶山正三弁護士がこう指摘する。

「再エネ先進国のドイツでは14年、諮問機関のEFI(研究・イノベーション専門家委員会)が、再生可能エネルギー法は、電気代を高騰させるだけで何の役にも立たなかったという結論を出しています。日本も同じ轍(てつ)を踏んだわけです。しかも、太陽光は非常にコスパの悪い発電設備です。設備利用率が、計画出力の15%程度にしかなりません。ですから、必然的に広大な面積を開発しなければならなくなるのです」

 千葉県鴨川市では、事業面積250ヘクタールのメガソーラー計画が持ち上がっている。ビル20階相当の高さの尾根を削って、その土砂で谷を埋めるという。山形県大石田町にいたっては、450ヘクタールの山林を切り開き、出力10万キロワット時のメガソーラーを建設する計画がある。

 自然エネルギーによる自然破壊に、いっそう拍車がかかるばかりなのだ。(本誌・亀井洋志)

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/144.html#c31

[リバイバル3] 日本人は金髪美女に弱い _ 小布施からセーラ・カミングスの姿が消えた 中川隆
169. 中川隆[-11241] koaQ7Jey 2019年3月24日 10:01:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[768]

国を興す国語教育 〜 『齋藤孝のこくご教科書 小学1年生』から 2019/03/24
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201903/article_4.html


 この国語教科書は「自分が次世代の国民を育てる」という覚悟を持った親や教師に使って貰いたい。

■1.「学問のすすめ」から始まる小学生1年向け国語教科書

 齋藤孝・明治大学文学部教授がユニークな国語教科書を出した。目を見張るのは、小学一年生向けの教科書の冒頭から福沢諭吉の「学問のすすめ」を取り上げている点だ。

__________
 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の区別なく、万物の霊たる身と心の働きを以て、、、[1, p10]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 これと、他社の標準的な国語教科書を比べてみよう。

__________
 うみの かくれんぼ

 うみには、いきものがかくれています。
なにが、どのようにかくれているのでしょうか。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 両者の違いは凄まじい。「学問のすすめ」は、すべての漢字に読み仮名が振ってあるとはいえ、小学校一年生がいきなり読めるものなのだろうか? 齋藤教授は、子供たち向けの解説文でこう語る。

__________
 いつも使っている学校の国語の教科書よりも難しく感じるかもしれないけれど、大丈夫。僕はたくさんの一年生に教えていたけれど、みんな、これぐらい読んでしまうからね。一年生でもすごい能力を持っているんだ。[1, p12]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


■2.漢字はひらがなよりも難しいという思い込み

 両教科書で最初に気づく違いは漢字である。「うみの かくれんぼ」では全く漢字が出てこない。

「一年生でもすごい能力を持っているんだ」という齋藤教授の主張は、漢字教育に関しては長年の実証データで裏付けされている。石井勲氏という小学校教師が60年以上も前に幼児に漢字を教える教育を創始した。そこでは小学1年生が漢字700字以上を覚え、知能指数も大幅に伸びるという成果を得ている。「石井式国語教育」として、現在では広く普及している。[a, p171]

 漢字は形を表す象形文字で、抽象的なひらがなよりも覚えやすい。たとえば「鳥」は鳥の形を映しており、さらに鳩、鴉、鶏など鳥類は「鳥」を含んでいて、体系的に学ぶことができる。漢字は幼児には難しい、というのは、根拠のない思い込みなのだ。


■3.漢字は語彙力、思考力の基盤、

 さらに漢字は多様な語彙への扉を開く。たとえば、「うみ」とだけ習っても、それ以上の語彙の発展は限られている。「海」という漢字を習ってこそ、海洋、海底、海抜、海原などの語彙を増やす道が開ける。語彙に関して、齋藤教授は次のように指摘している。

__________
 小学校のうちはみんな割と読書をしますが、中学以降に読まなくなる。小学生が読むような物語は少ない語彙でも対応できますが、大人の本になると語彙が急に増えて、扱う対象も多様になってくるためです。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 語彙力は思考力の基盤だ。豊かな語彙を身につけてこそ、それらを使った幅広い、高度な思考力が発揮できる。こう考えれば、日本語で十分な語彙を学ばせることなく、英語に時間を割く事の矛盾が明らかになる。

 齋藤教授は「外国語を学ぶ時にも母語の限界が第二言語の限界になる」と指摘している。母語に関して中学3年生の国語力しかなければ、それ以上の英語力を身につける、ということはあり得ない。外国語に限らず、数学でも社会科学でも人文科学でも、すべて日本語を通じて学ぶのであるから、国語力が貧弱では他のすべての学科を学ぶにも支障がでる。

__________
 月に一冊も本を読まない大学生の割合が五十%を超えたという調査がありました。そんな知的向上心に欠ける国民に未来があるのか
と疑念が湧き上がります。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この憂国の危機感から「こくご教科書」は作られている。


■4.国語教育は人間教育

 国語教育のもう一つの眼目が「人間教育」であると、齋藤教授は主張する。

__________
 文章に込められた人格の深み、教養の深さ、広さを感じさせる書き手は日本に数多くいますし、また日本語に翻訳された優れた外国の作品もたくさんあります。それらをテキストにして日本語を充実させ、人格を成熟させる役割が国語にはあるのです。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 国語教育は人間教育、という主張は、たとえば弊誌1093号「人間教育としての国語教育 〜『“とっちゃん”先生の国語教室』から」[b]で紹介した。そこでは、国語教育一筋に生きた桑原暁一氏の「国語教育で文学作品をとりあげるのは、文学を学ぶためではなく、文学作品を通じて人間教育を行うためだ」という氏の信念を紹介した。

 また「伝説の国語教師」と呼ばれた灘校の橋本武氏が、中学3年間をかけて『銀の匙』という小説を読み込んで生徒たちの人間力を大幅に伸ばし、その副産物として「東大合格者数日本一」も達成したという事例もある。[a, p182]


■5.「勉強するのが大事」だけど「みんなちがって、みんないい」

 齋藤教授の「こくご教科書」が「学問のすすめ」から始まっているのも、「国語教育は人間教育」の実践だろう。ここでの子供向けの解説文には、次のような一文がある。

__________
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というのはすごく有名なことばだね。みんな、生まれた時は平等で、本当は誰が偉い、誰が偉くないということはないはず。みんなが自由に楽しく生活できるはず。
ところがいまこの人間の世界を見てみると、かしこい人もいるし、そうでない人もいる。こうしたちがいがどうしてあるのかっていうと、それは学ぶと学ばないとによるものなんだって福沢諭吉はいっているんだ。だから「学問のすすめ」なんだね。・・・
キミも小学校一年生になったら、学ぶのが一番大事、勉強するのが大事なことなんだって、何度も繰り返し読んで心に刻んでね。[1, p11]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 しかし「勉強するのが大事」と言われても、成績だけで人を判断してはいけない、という事を、二つ目の作品で子供たちは学ぶ。「私と小鳥と鈴と」という金子みすゞの詩である。その冒頭と結びだけを引用すると:

__________
私が両手をひろげても、/ お空はちっとも飛べないが、/飛べる小鳥は私のように、地面(じべた)を速くは走れない。
・・・
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 子供たち向けの解説は、こう語る。

__________
「みんなちがって、みんないい」という言葉がすごく有名だね。他の人にできて、自分にはできないことがあると、自信をなくすかもしれない。でも、「自分にはこれがある」と思えると、世界がちがって見えてくる。たいせつなのは、自分に自信をもつということ。みんなそれぞれちがいはあるければ、それぞれがそのままでいいんだよ、といっているんだよ。[1, p15]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 こういう文章を通じて、「勉強するのが大事」だけど、国語が得意な子、算数の好きな子、体育で活躍する子、できない子を助けてやる子など、「みんなちがって、みんないい」という大事な人生観を子供たちは学ぶのである。


■6.明治日本の原動力となった国語力

 国語力による思考力、人間力発揮がどのような威力を持つのかは、明治日本によって実証された。1853年にペリーの黒船がやってきた時は、日本は極東の閉ざされた島国で、欧米の植民地に転落するのも時間の問題かと思われた。

 しかし、半世紀後には世界最強の陸軍と屈指の海軍を誇るロシアを撃破し、有色人種は白人に勝てないという神話を打ち破って、アジア、アフリカの諸民族を勇気づけた。同様に立憲政治は白人の独占物と信じられていたのだが、明治日本は有色人種で最初の近代成文憲法を確立し、選挙に基づく議会政治を定着させた。[a, p206]

 こうした明治日本の世界史に刻まれる躍進の原動力となったのが国語力だった。幕末期の日本には全国で1万5千もの寺子屋があり、江戸での就学率は70〜86%。ほぼ同時代のロンドンが20〜25%というから、段違いの教育水準を誇っていた。[a, 113]

 さらにそこでの素読の教材とされていたのは、『論語』や『実語教』などの人間の生き方に関する文章で、これらを通じて子供たちは人間力を身につけていった。

 これだけの国語力と人間力を持つ一般民衆が、福澤諭吉の「学問のすすめ」を読んで、西洋近代の科学技術や社会・人文学を志した。当時の人口は3千万人で、「学問のすすめ」は3百万部売れたというから、10人に一人、さらに借りて読んだ人も含めれば、齋藤教授が次のように言う事態が生じたのだった。

__________
 これを当時、日本中の人たちが読んだ。だから日本人はこれからの時代はたくさん勉強する人になろうという気持ちを持ったんだ。[1, p11]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 さらに明治の先人たちは、西洋の科学技術、社会・人文科学の専門用語を漢字を使って翻訳し、日本語に取り込んでいった。

__________
Societyという言葉に当たる日本語がなかったので、それを「社交」や「社会」と訳しました。rightは「権利」「自由」「通義」と訳していました。
西洋の言葉を翻訳することによって新しい日本語を生み出したのです。明治維新は新たな言葉を生み出す絶好の機会となり、そこで日本語が大きく膨らみ、成長したのです。それらの言葉を通して日本人は西洋のものの考え方を身につけました。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 明治の急速な近代化は、江戸時代に広く一般国民に行き渡っていた国語力、人間力をベースに、漢字の造語能力をフル活用した語彙の急拡大によってもたらされたのである。


■7.文科省の黙殺

 一つ、不思議でならないのは、これだけ先人たちが国語力を通じて国を興すアプローチの見事な成功事例を残しているのに、なぜか文科省は完全にそれを無視していることだ。現代においても石井式国語教育で子供たちの「すごい能力」が実証されているのに、それを公教育で広めようという動きも見えない。

__________
 私はかつて文部科学省の教科書を改善する委員になった時に、小学校の国語教科書はもっと厚くていいし、活字(JOG注: 漢字?)も多くていいのではないかと提案をし、議論をしたことがあります。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 と、齋藤教授は書いているが、その結果は述べていない。教科書が変わっていない処から考えると、教授の提案は黙殺されたのではないか。そのくせ、文科省は「ゆとり教育」、その後の「総合学習」、そして現在は「主体的・協働的な学び(アクティブ・ラーニング)」など、実績もない目先の手法のみを追いかける。

 ひょっとして文科官僚自身が、自虐史観に囚われていて、戦前の教育はすべて悪であると忌避しているのではないか、とすら邪推してしまう。子供たちの「すごい能力」を封印しているのは重大な人権問題だし、その結果、「知的向上心に欠ける国民」を生み出しているのは、国難を内から作りだしているのではないか。


■8.「覚悟を決めて教える」

 齋藤教授は「あとがきにかえて」で、こう述べる。

__________
 かつて寺子屋で子どもたちが読んでいた『金言童子教』『実語教』『論語』などは素晴らしいものでした。それを大人が覚悟を持って教えていました。
この覚悟を決めて教えるということが非常に大切です。これからの子どもたちには、なんとしてもしっかりとした思考力と新しいものを生み出すだけの対話力を身につけさせなくてはいけません。そういう覚悟を共有して、質の高い国語を与えていくことは大人の責務です。[1, p228]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 齋藤教授自身の「覚悟」が伝わってくるような一文である。教育とは、次世代の国を支える国民を育てるという国家の大業である。その人作りの一丁目一番地が国語教育なのだ。

 そういう覚悟を抜きにして、文科省がこの教科書を全国の小学校に配っても、何にもならないだろう。あくまで「自分が次世代の国民を育てるのだ」という覚悟を決めた親や教師にこそ、この教科書を使って貰いたい。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本の教育』、育鵬社、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594077765/japanonthegl0-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー 1位(8/3調べ)、総合41位

b. JOG(1093) 人間教育としての国語教育 〜『“とっちゃん”先生の国語教室』から
「人生を考えはじめている青年と共に考える。ということは、実に当然、国語教師のしなくてはならない事柄である」
http://blog.jog-net.jp/201812/article_5.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 齋藤孝『齋藤孝のこくご教科書 小学1年生』★★★、致知出版社、H31
https://www.chichi.co.jp/specials/kokugokyoukasho/
(こちらから見本ページなども見られます)

2. 齋藤孝「日本の国語教育はかくあれ」、『致知』H3101

https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201903/article_4.html


▲△▽▼

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」、 ケッ!!!

明治政府の私設「広報官」である福沢諭吉は、『学問のすすめ』(8編・明治7年)の中で、

「男も人なり女も人なり。・・・其功能如何にも同様」

と宣言していたのですが、『差別の諸相』の注解者・ひろたまさきは、福沢諭吉の女性論は、「文明的な良妻賢母の要請を求める主張」であり、「娼婦的存在には同情を示さなかった」といいます。

福沢諭吉は、その『品行論』において、

「そもそも娼妓の利害に就いては今更これを論ずるもの少なく、所謂道徳家の所望に任ずれば無き方が宜しと云ふは勿論のことなれども、人間世界は道徳のみの世界に非ず。人類の身も之を二様に分かつときは、一方は人にして一方は禽獣に異ならず。・・・」


というのです。


「遊廓」は「人間世界には非ざるなり」と説く福沢諭吉にとって、その世界に身を置く「遊女」(娼妓)は、「人に非ず」、「人非人」に等しい存在としか見えなかったのでしょう。

福沢諭吉にとって、「遊女」(娼妓)は、「人身の自由」が保障される「臣民」(人間)の対象外だったのでしょう。


福沢諭吉は、

「仮に今、人間世界に娼妓を全廃して痕跡おもなきに至らしめん歟、その影響は実に恐るべきものならん。」

といいます。 遊郭を廃止すると、数ヶ月を経ないで、「満都」に「獣欲」氾濫して、「良家の子女」がその餌食となるというのです。「遊女」(娼妓)が遊廓という苦界で、うめこうが苦しもうが一向に構わないが、「良家の子女」がその被害にあうのは「社会の秩序」を守る上で無視できない・・・というのです。


福沢諭吉は、「遊女」(娼妓)は、「最も賤しく、最も見苦し」い存在であるといいます。


「其業たる最も賤しむ可く、最も悪む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞いなり」と断定するのです。


『品行論』において、福沢諭吉は、売春制度に対する自らの主張を明らかにします。


「我輩は娼妓を廃せんとする者にあらず、却って之を保存せんと願」う

というのです。福沢諭吉は、諸外国から日本の遊廓制度に対する批判、「人身の自由」に対する批判があれば、それをさけるため、「深く之を隠すの注意なかる可らず。」と提言します。


日本の公教育における歴史教育で、福沢諭吉はどのような人物として教えられているのでしょうか・・・。

「福沢諭吉は豊前中津藩(大分県)の士族で、緒方洪庵の適塾(大阪)で洋学を学び、幕末に欧米に留学し、イギリスの自由主義を学んだ。帰国後、慶応義塾を設立し、欧米思想の紹介と教育に一生をささげた。」

(文英堂『くわしい学習事典・中学歴史の精解と資料』)と教えられているのではないでしょうか。福沢諭吉の顕彰は、紙幣に刷り込まれることによって、いまでも続けられているのはなぜでしょうか・・・。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2006/09/post_4f75.html


■福沢諭吉と慶応大が嫌いな理由。


そもそもアンチ論についてぐだぐだ述べるのは好きではありません。

でもコレだけは言いたい、と思ったので書きます。


福沢諭吉といえばあまりに有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。

そう一万円札のあのヒトです。

学問のすゝめの著者であり、某K大の創始者であられる御大。

その福沢諭吉、をネット検索したくらいじゃ出てこないちょっと深いところのソースから引っ張ってきた文章をどうぞ。

福澤の男女同等論

福澤は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、


「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると主張した。


『男女平等、女性にも男性と同様の教育を』


うん、そうだね。現在に通じる平等の基礎。

…此処まではまだいいのですが。


福澤は、男女同等論を唱えながら存娼論者でもあった。

妾を養うことも芸者を買うことも隠してせよ、

と隠匿論を述べ、公娼制度を積極的に肯定し、『品行論』(明治18年12月出版)のなかでは「社会の安寧」「社会の秩序」のために公娼制度はぜひ必要であると主張している。しかし、

その娼婦を称して

「其業たる最も賤しむ可く最も悪(にく)む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞なりと云ふの外なし」

と罵り、隠れて遊べと言っている。

此処です。此処。

『愛人、売春婦とは隠れて遊べ。

社会のために(男性社会のために)売春婦を容認すべきである。

しかし売春業を行なうものは卑しく憎むべきであり、人の倫理に背いた人非人である』


と。なにこれ。


あー、何度読んでも腹立つ!

教育の権利だけが男女平等で、それ以外は???

人格的におかしいのではと思えるほど矛盾甚だしい。


実はコレ、wikipediaで福沢諭吉について以前書かれていた記事の一部分です。

とりあえず今現在wikiではこの引用の後半部分がきれいにまるっと削除されています。

それどころか著書『品行論』についての記事そのものがまるきり空っぽになっていて、不気味なかぎり。

まぁ、仕方ないのかとは思いますが。

巨大な後援会めいた存在が現代に残されていますしね。大学という形で。

深く詮索していくと、日本に巣くう恐ろしく根深い問題にまでたどり着いてしまいますのでこれ以上は此処では書かないことにしておきます。

しかしアカセンあったほうがいいけどそこに働く人は下賤である、だなんて。

教養ある人の発言とはおおよそ思えませんね。あなおそろしや。


一万円札は好きでも、あの肖像画はあんまり直視したくなくなること請け合いです。
http://d.hatena.ne.jp/NextLounge77/20100508/p1



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★ 大学の教師をしていた頃、「それは間違い。原文を読んで」と、学生達の先入観を正すのに苦労したハナシをご披露したいと思います。それと言うのも、ブログやSNSの日記を見ていると、同じ間違いが随分、多用されているからです。


今日、お話ししたいのは、福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず・・・・」の”故事”成句のこと。


★ 私は、大学で「人権論」という講義を担当していました。”天賦人権”を語ると、多くの学生は

「知ってます。福沢諭吉の”天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず” 人間平等の原理」

などと、即答します。高校でそう教えているのですね。

★ その度に、繰り返して来た言葉:


 「それは間違い。その言葉は、福沢諭吉の『学問のすすめ』の一番、最初に出てくる言葉だね。

でも、もう一度、しっかりと原文を読んで来なさい。福沢諭吉は、決して、そうは言っていない。 

福沢諭吉は天賦人権論者ではないョ。 全く逆。 

それをしっかり確かめて来なさい」


★ そのハナシをすると、多くの方々が、「エッ!」と、怪訝な顔を私に向けます。

どなたも日本で最初に人類普遍の原理「平等」を説いたのは福沢諭吉と信じておられるようです。


「天は人の上に・・・・・と言ったのは福沢諭吉では???」


★ 無理はありませんね。 例えば、手軽なネット百科事典として、誰もが利用する「ウィキペディア」にもこのように書かれています。

天賦人権説(てんぷじんけんせつ)とは、すべて人間は生まれながら自由・平等で幸福を追求する権利をもつという思想。ジャン=ジャック・ルソーなどの18世紀の啓蒙思想家により主張され、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に具体化された。日本では明治初期に福澤諭吉・加藤弘之らの民権論者によって広く主張された。


★ しかし、これは間違い。確かに福沢諭吉も、加藤弘之も、明治初期の啓蒙家として、天賦人権の思想を紹介はしていますが、二人とも「天賦人権論者」ではありません。加藤弘之などは、逆に社会進化論の立場からそれを否定しておりますし、福沢諭吉も加藤弘之の社会進化論に近い”学問至上主義”の立場、天賦人権などには否定的です。


★ それをしっかり確かめるために、是非、福沢諭吉の著書『学問のすすめ』を原文で読んでみて欲しいです。巻頭第1ページ冒頭にある、その行を引用してみましょう


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。

されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。

そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。

ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。

         福沢諭吉著 『学問のすすめ』


★ 確かに福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という有名な言葉で、この論文を書き始めています。

大事なことは、それに続く「と言えり」の4文字。「と、言われている」 が、しかし・・・と、以下に続いています。

福沢諭吉が言いたいのは、その先です。 後の文章は、全部、「そうではない」と、その理由を述べています。


◎ 現実は、そうじゃない、賢人愚人、貧しき者、富める者、貴人下人・・・雲泥の差があることは明白。それには理由がある。と言うのです。

つまり人間の優劣は学問によって決定される。優れたものが劣っているものを支配するのは当然のこと。


◎ (天賦人権のような考えより) 我が国で平安時代から子弟の教育に用いられて来た教科書「実語教」にあるように、賢者と愚人の差は、学ぶか、学ばないか、によって定まる。 肉体労働と知的職業に別れるのもそのためだ。

◎ だから医者、学者、政府の役人、富める商人、大地主などは、高い身分の貴人なのだ。


と、そういう論理を展開しています。 

天賦人権論の先駆者どころか、その敵である「社会進化論」の側に立つ主張者ですね。一般に信じられている福沢諭吉像とは全く逆です。 

学問による”弱肉強食” 能ある者が能乏しき者を支配するのは当然、と言っているのです。


★ 「・・・・と言われているが、そうじゃない」と、引用されている「・・・・」句が、短絡にが本文から独立し、しかもその引用句が引用者自身の言葉として一人歩き。 誰も正さないうちに、いつの間にか”故事成句”に成熟して熟語化し、戦後の民主主義の御代になると、爆発的に流行し始めた各種の「人権論」講座の枕詞に用いられる。 

そして我が国における人権論の先駆者として、疑われることもなく君臨し、社会の通念にまでなる。

★ 言葉としては誰もが知っている”社会常識”。 

だが、それを口にするほとんどの人が原文を読んだことがない。

そして間違った”偶像”が信奉され、もはや、誰も疑うものがない・・・・思えば、コワイハナシです。


★ そこで言いたい私の「学問のすすめ」は、故事成句を使うなら、必ず原文を読んで、その真意を確かめよう。 私の大学の恩師は「読書とは師との向かい合いである」と教えられました。その大切さを、今、思います
http://zenmz.exblog.jp/13489906/



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安川寿之輔さんの福沢諭吉批判を聴いて考えたこと


安川寿之輔さんが、「「暗い昭和」につながる「明るくない明治」」と題する講演をされた。


1.福沢諭吉の天賦人権論の虚実


 「明るい明治」と「暗い昭和」を対置する司馬遼太郎の歴史観は、近代日本を「明治前期の健全なナショナリズム」対「昭和前期の超国家主義」と捉える丸山真男の二項対立史観をわかりやすい表現に言い換え、踏襲したものである。そして、その丸山が明治前期の健全なナショナリズムの代表格として評価したのが福沢諭吉の天賦平等論であり、一身独立論であった。

 しかし、福沢の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というフレーズは、「・・・と云へり」という伝聞態で結ばれていることからわかるように福沢自身の思想を表したものではない(アメリカの独立宣言を借りたことばであった)。


丸山氏はこの点をすっぽり落としている。

「万人の」という意味では後掲の福沢の天皇制論に見られる愚民籠絡論や、ここでは紹介できないが工場法反対論にみられる貧困市民層に対する蔑視の思想、家父長制的な女性差別論などは、福沢の人間平等論の虚実を示す典型例といえる。

こうした福沢の天賦人権論の虚実を精緻な文献考証を通じて徹底的に立証した点で安川さんの研究には特筆すべき価値があると感じた。

2.福沢諭吉の「一身独立論」の変節


 福沢が『文明論の概略』の中で、「人類の約束は唯自国の独立のみを以て目的と為す可らず」、「一国独立等の細事に介々たる」態度は「文明の本旨には非ず」という正しい認識を記していた。(もっとも、順序としては「先ず事の初歩として自国の独立を謀り、(一身独立のような)其他は之を第二歩に遺して、他日為す所あらん」と述べ、「自国独立」優先の思想を明確にしていたが)。

 また、福沢は自ら、アメリカ独立宣言を翻訳するにあたって、「人間(じんかん)に政府を立る所以は、此通儀(基本的人権のこと)を固くするための趣旨にて、・・・・・・政府の処置、此趣旨に戻(もと)るときは、則ち之を変革し或は倒して、・・・・新政府を立るも亦人民の通儀なり」と訳し、人民の抵抗権、革命権を正当に訳出・紹介していた。


 しかし、かく紹介する福沢も自分の思想となると、「今、日本国中にて明治の年号を奉る者は、今の政府に従ふ可しと条約(社会契約のこと)を結びたる人民なり」と記して国家への国民の服従を説いた。

 さらに、その後、自由民権運動と遭遇した福沢は1875年の論説において、


「無智の小民」「百姓車挽き」への啓蒙を断念する


と表明し、翌年からは宗教による下層民教化の必要性を説き、


「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合せならん」

という人間蔑視の思想を憚りなく公言するに至った。こうして福沢は啓蒙期の唯一の貴重な先送りの公約であった「一身独立」をも放棄したのであった。


 ところが丸山真男は、福沢自身が優先劣後の区別をした一国独立と一身独立の議論の実態を無視し、さらにはその後の福沢が一身独立の思想を放棄した現実を顧みず、個人的自由と国民的独立の見事なバランスと言い換え、両者に内在する矛盾、軋轢――後年の福沢の一身独立論を変節に導く伏線となる要因――を無視して、福沢賛美の根拠に仕立て上げたのである。

3.福沢の変節の極みとしての神権天皇制論


 安川さんの講演の中で開眼させられた一つは福沢の天皇制論に対する言及だった。福沢は『文明論の概略』の第9章までの記述の中では、たとえば、「保元平治以来歴代の天皇を見るに、其不明不徳は枚挙に遑(いとま)あらず」と記し、「新たに王室を慕うの至情を造り、之(人民)をして、真に赤子の如くならしめんとする」のは「頗る難きこと」と述べて、天皇制に批判的な考えをしていた。

 ところが、福沢は1882年に「帝室論」を書く頃には天皇制論を大転換させ、「帝室・・・・に忠を尽くすは・・・万民熱中の至情」などと言いだした。これについて、福沢は国会開設後の「政党軋轢の不幸」に備えて人心の軋轢を緩和する「万世無欠の全壁」たる帝室の存在が必要になったと説くとともに、「其功徳を無限にせんとするが故に」帝室は日常的には政治の外にあって下界に降臨し、「一旦緩急アレハ」天下の宝刀に倣い、戦争の先頭に立つよう説いた。

 ところが、丸山真男は福沢が日常的にはと断って説いた皇室=政治社外論を一般化し、福沢が「一貫して排除したのはこうした市民社会の領域への政治権力の進出ないしは干渉であった」と誤解したのである。

4.福沢のアジア侵略思想の歩み


 1880年代前半に福沢が『時事小言』、「東洋の政略果たして如何せん」などにおいてすでにアジア侵略の強兵富国  政策を提起していたが、日清戦争が近づいた1894年に書いた論説「日本臣民の覚悟」では、


「我国四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、・・・・事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老若の別なく切死して人の種の尽きるまで戦ふの覚悟」


を呼びかけた。ここに至って、福沢のかつての一身独立論は国家への滅私奉公の前に完全に呑み込まれ、跡形なく消失したといえる。


 また、これに続けて福沢は、


「戦争に勝利を得て・・・・吾々同胞日本国人が世界に対して肩身を広くするの愉快さえあれば、内に如何なる不平等条理あるも之を論ずるに遑あらず」


と公言して憚らなかった。


 さらに、福沢は旅順の占領も終わり、日清戦争の勝利が見えてきた1895年1月に書いた論説(「朝鮮の改革・・・・」)において、


「主権云々は純然たる独立国に対する議論にして、朝鮮の如き場合には適用す可らず。・・・・今、日本の国力を以てすれば朝鮮を併呑するが如きは甚だ容易にして、・・・・・」


と記し、その後の韓国併合の可能性を予見するかのような主張をしていたことに安川さんは注目を喚起された。


 こうした福沢の言動は安川さんも指摘されたように、『坂の上の雲』において司馬が日本にによる朝鮮出兵を「多分に受け身であった」と記しているのがいかに史実に悖る虚言かを、同時代人の言説を通して物語るものといえる。 

また、NHKは『坂の上の雲』の第一部で毎回、冒頭に「まことに小さな国日本が」というフレーズを流したが、上の福沢の言説は当時の日本が少なくとも対朝鮮との関係では「小国」どころか、何時でも朝鮮を呑みこめる国力を持った強兵富国の大国であったことを意味している。

植民地として統治された相手国の認識を等閑に付して、武力で近隣国を占有した自国を「小さな国」などと呼号するのは、過去に自国が犯した罪に対していかに無邪気かを物語っている。

5.福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間の大きな懸隔


 私が安川さんの講演から(正確には安川さんの後掲の3部作から)感じた福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間に大きな懸隔が生まれたのはなぜかということを考えておきたい。


 まず、安川さんの資料から同時代人の評価として私の印象に強く残った論評を2点だけを紹介しておきたい。


 吉岡弘毅(元外務権少丞):

「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」・・・・のは「不可救ノ災禍ヲ将来ニ遺サン事必セリ」

 徳富蘇峰:

「主義ある者は漫りに調和を説かず。進歩を欲する者は漫りに調和を説かず。調和は無主義の天国なり」


 福沢が執筆した(『時事新報』の社説等を含む)全著作を吟味する限り、同時代人の評価が適正な福沢評であることは否めない。


にも拘わらず、それと対極的な評価があろうことか、戦後の「進歩的」知識人の間に広まった理由は、安川さんが精根込めた考証で明らかにしたように、

丸山真男の福沢誤読――『文明論の概略』など初期の著作のみを題材にした雑駁な読解に依拠し、

福沢の政治論、天皇制論、アジア統治論などがもっとも鮮明に記されたその後の論説を顧みない文献考証の重大な瑕疵――

とそれに多くの「進歩的」知識人が事大主義的に追随したことにあったといってよい。


 かくいう私も丸山神話に侵された一人だった。3月20日に私の退職送別会を兼ねて開かれたゼミのOB&OG会に参加した第1期生がスピーチの中で、夏休みのレポート課題として私が丸山真男『『文明論之概略』を読む』を挙げたことを懐古談として話した。自分では忘れていたが、そう言われて記憶が蘇ってきた。2次会でそのゼミOB生と隣り合わせ、今では自分自身、福沢に対する見方がすっかり変わってしまったことを釈明した。


 戦後日本の「民主陣営」に浸透した丸山神話は、過去のことではない。

権威主義、事大主義が今日でもなお「進歩的」陣営の中でも、陣営の結束を図るのに「便利な」イデオロギーとして横行している現実が見受けられる。

しかし、そうした個の自律なき結束は、陣営の外にいる多数の市民の支持を得るのを困難にし、長い目で見れば破綻の道をたどる運命にある。だから私は楽屋落ちの議論や個人の自律を尊ばない組織や運動を拒むのである。

丸山思想の決定的欠陥 鍜治正啓


丸山真男は「文明論の概略を読む」を書いて福沢諭吉を礼賛しましたが、そこでは福沢の侵略思想を見落としており、私はこの見落としを丸山思想の決定的欠陥だと考えます。


福沢諭吉の実像は、日本の民主化への貢献というよりは、軍国主義を煽ったことの方にありました。


「時事小言」の社説で、


「印度・支那の御(ぎょ)し方を英人に見習うのみならず、その英人をも苦しめて、東洋の権柄を我が一手に握るべし」


とか


「滅亡こそ朝鮮人民の幸福」


などという非常識で勇ましい文章を書きなぐっていました。(このことは安川寿之輔氏の研究に詳しく書いてあります。)


この福沢の実態の見落としは、単なる軽率と済ませられるものではなく、丸山思想の根本的欠陥と見るべきと考えます。


福沢諭吉が日本の侵略主義を煽ったのは、自分の国は自分で守る気概を持った国民を作ること、つまり国民国家を作るためでした。こういう「国民」を作り出すためには、民族の一員としての平等感と国政への参加意識を持たせる必要がある、と考えました。

これが人民主権(民主主義)の思想の役割でした。

福沢にとって独立日本国を作ることが第一義で、民主化はそのための方便という二義的な意味しか持っていませんでした。


ところが丸山は「国民国家を作るための民主主義」という思想構造を理解できなかったために、福沢の民主主義の部分だけしか見えず、一方では福沢が重視した侵略思想の方を見落としたものです。


しかしながら福沢のこの思想は、福沢の性格のゆがみとか間違いというような個人的なものではなくて、明治期の時代の空気であったことに留意する必要があります。


この侵略思想は、自由民権運動の中にも顕著に現れていることは、板垣退助、大井憲太郎などの過激な侵略思想を見れば明らかです。福沢や民権派の運動の効果もあって、この思想が順次政府によって実行されて、挙句の果てに昭和の戦争を招いたものであり、長い眼で見れば、彼らは昭和軍国主義の先駆者ということが出来ます。


しかし福沢や民権派の人々が、この日本近代の侵略主義を作りだしたと言ってしまっては、彼らの力の過大評価になります。

彼等はこういう日本の近代化の時代の空気を代表して表現しているに過ぎません。

問題は日本の近代化という大きな流れの方にあるといえます。

この時代の空気を丸山は分析的に見ることが出来なかったのですから、思想家としては失格だったと言えます。

結論として、丸山は近代化の持つ暗黒面に気がつかなかったという意味で、「近代と言うものが理解できなかった近代主義者」だった、と言えます。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-79b8.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/444.html#c169

[文化2] ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン 中川隆
181. 中川隆[-11240] koaQ7Jey 2019年3月24日 10:02:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[769]

国を興す国語教育 〜 『齋藤孝のこくご教科書 小学1年生』から 2019/03/24
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201903/article_4.html


 この国語教科書は「自分が次世代の国民を育てる」という覚悟を持った親や教師に使って貰いたい。

■1.「学問のすすめ」から始まる小学生1年向け国語教科書

 齋藤孝・明治大学文学部教授がユニークな国語教科書を出した。目を見張るのは、小学一年生向けの教科書の冒頭から福沢諭吉の「学問のすすめ」を取り上げている点だ。

__________
 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の区別なく、万物の霊たる身と心の働きを以て、、、[1, p10]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 これと、他社の標準的な国語教科書を比べてみよう。

__________
 うみの かくれんぼ

 うみには、いきものがかくれています。
なにが、どのようにかくれているのでしょうか。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 両者の違いは凄まじい。「学問のすすめ」は、すべての漢字に読み仮名が振ってあるとはいえ、小学校一年生がいきなり読めるものなのだろうか? 齋藤教授は、子供たち向けの解説文でこう語る。

__________
 いつも使っている学校の国語の教科書よりも難しく感じるかもしれないけれど、大丈夫。僕はたくさんの一年生に教えていたけれど、みんな、これぐらい読んでしまうからね。一年生でもすごい能力を持っているんだ。[1, p12]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


■2.漢字はひらがなよりも難しいという思い込み

 両教科書で最初に気づく違いは漢字である。「うみの かくれんぼ」では全く漢字が出てこない。

「一年生でもすごい能力を持っているんだ」という齋藤教授の主張は、漢字教育に関しては長年の実証データで裏付けされている。石井勲氏という小学校教師が60年以上も前に幼児に漢字を教える教育を創始した。そこでは小学1年生が漢字700字以上を覚え、知能指数も大幅に伸びるという成果を得ている。「石井式国語教育」として、現在では広く普及している。[a, p171]

 漢字は形を表す象形文字で、抽象的なひらがなよりも覚えやすい。たとえば「鳥」は鳥の形を映しており、さらに鳩、鴉、鶏など鳥類は「鳥」を含んでいて、体系的に学ぶことができる。漢字は幼児には難しい、というのは、根拠のない思い込みなのだ。


■3.漢字は語彙力、思考力の基盤、

 さらに漢字は多様な語彙への扉を開く。たとえば、「うみ」とだけ習っても、それ以上の語彙の発展は限られている。「海」という漢字を習ってこそ、海洋、海底、海抜、海原などの語彙を増やす道が開ける。語彙に関して、齋藤教授は次のように指摘している。

__________
 小学校のうちはみんな割と読書をしますが、中学以降に読まなくなる。小学生が読むような物語は少ない語彙でも対応できますが、大人の本になると語彙が急に増えて、扱う対象も多様になってくるためです。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 語彙力は思考力の基盤だ。豊かな語彙を身につけてこそ、それらを使った幅広い、高度な思考力が発揮できる。こう考えれば、日本語で十分な語彙を学ばせることなく、英語に時間を割く事の矛盾が明らかになる。

 齋藤教授は「外国語を学ぶ時にも母語の限界が第二言語の限界になる」と指摘している。母語に関して中学3年生の国語力しかなければ、それ以上の英語力を身につける、ということはあり得ない。外国語に限らず、数学でも社会科学でも人文科学でも、すべて日本語を通じて学ぶのであるから、国語力が貧弱では他のすべての学科を学ぶにも支障がでる。

__________
 月に一冊も本を読まない大学生の割合が五十%を超えたという調査がありました。そんな知的向上心に欠ける国民に未来があるのか
と疑念が湧き上がります。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この憂国の危機感から「こくご教科書」は作られている。


■4.国語教育は人間教育

 国語教育のもう一つの眼目が「人間教育」であると、齋藤教授は主張する。

__________
 文章に込められた人格の深み、教養の深さ、広さを感じさせる書き手は日本に数多くいますし、また日本語に翻訳された優れた外国の作品もたくさんあります。それらをテキストにして日本語を充実させ、人格を成熟させる役割が国語にはあるのです。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 国語教育は人間教育、という主張は、たとえば弊誌1093号「人間教育としての国語教育 〜『“とっちゃん”先生の国語教室』から」[b]で紹介した。そこでは、国語教育一筋に生きた桑原暁一氏の「国語教育で文学作品をとりあげるのは、文学を学ぶためではなく、文学作品を通じて人間教育を行うためだ」という氏の信念を紹介した。

 また「伝説の国語教師」と呼ばれた灘校の橋本武氏が、中学3年間をかけて『銀の匙』という小説を読み込んで生徒たちの人間力を大幅に伸ばし、その副産物として「東大合格者数日本一」も達成したという事例もある。[a, p182]


■5.「勉強するのが大事」だけど「みんなちがって、みんないい」

 齋藤教授の「こくご教科書」が「学問のすすめ」から始まっているのも、「国語教育は人間教育」の実践だろう。ここでの子供向けの解説文には、次のような一文がある。

__________
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というのはすごく有名なことばだね。みんな、生まれた時は平等で、本当は誰が偉い、誰が偉くないということはないはず。みんなが自由に楽しく生活できるはず。
ところがいまこの人間の世界を見てみると、かしこい人もいるし、そうでない人もいる。こうしたちがいがどうしてあるのかっていうと、それは学ぶと学ばないとによるものなんだって福沢諭吉はいっているんだ。だから「学問のすすめ」なんだね。・・・
キミも小学校一年生になったら、学ぶのが一番大事、勉強するのが大事なことなんだって、何度も繰り返し読んで心に刻んでね。[1, p11]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 しかし「勉強するのが大事」と言われても、成績だけで人を判断してはいけない、という事を、二つ目の作品で子供たちは学ぶ。「私と小鳥と鈴と」という金子みすゞの詩である。その冒頭と結びだけを引用すると:

__________
私が両手をひろげても、/ お空はちっとも飛べないが、/飛べる小鳥は私のように、地面(じべた)を速くは走れない。
・・・
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 子供たち向けの解説は、こう語る。

__________
「みんなちがって、みんないい」という言葉がすごく有名だね。他の人にできて、自分にはできないことがあると、自信をなくすかもしれない。でも、「自分にはこれがある」と思えると、世界がちがって見えてくる。たいせつなのは、自分に自信をもつということ。みんなそれぞれちがいはあるければ、それぞれがそのままでいいんだよ、といっているんだよ。[1, p15]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 こういう文章を通じて、「勉強するのが大事」だけど、国語が得意な子、算数の好きな子、体育で活躍する子、できない子を助けてやる子など、「みんなちがって、みんないい」という大事な人生観を子供たちは学ぶのである。


■6.明治日本の原動力となった国語力

 国語力による思考力、人間力発揮がどのような威力を持つのかは、明治日本によって実証された。1853年にペリーの黒船がやってきた時は、日本は極東の閉ざされた島国で、欧米の植民地に転落するのも時間の問題かと思われた。

 しかし、半世紀後には世界最強の陸軍と屈指の海軍を誇るロシアを撃破し、有色人種は白人に勝てないという神話を打ち破って、アジア、アフリカの諸民族を勇気づけた。同様に立憲政治は白人の独占物と信じられていたのだが、明治日本は有色人種で最初の近代成文憲法を確立し、選挙に基づく議会政治を定着させた。[a, p206]

 こうした明治日本の世界史に刻まれる躍進の原動力となったのが国語力だった。幕末期の日本には全国で1万5千もの寺子屋があり、江戸での就学率は70〜86%。ほぼ同時代のロンドンが20〜25%というから、段違いの教育水準を誇っていた。[a, 113]

 さらにそこでの素読の教材とされていたのは、『論語』や『実語教』などの人間の生き方に関する文章で、これらを通じて子供たちは人間力を身につけていった。

 これだけの国語力と人間力を持つ一般民衆が、福澤諭吉の「学問のすすめ」を読んで、西洋近代の科学技術や社会・人文学を志した。当時の人口は3千万人で、「学問のすすめ」は3百万部売れたというから、10人に一人、さらに借りて読んだ人も含めれば、齋藤教授が次のように言う事態が生じたのだった。

__________
 これを当時、日本中の人たちが読んだ。だから日本人はこれからの時代はたくさん勉強する人になろうという気持ちを持ったんだ。[1, p11]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 さらに明治の先人たちは、西洋の科学技術、社会・人文科学の専門用語を漢字を使って翻訳し、日本語に取り込んでいった。

__________
Societyという言葉に当たる日本語がなかったので、それを「社交」や「社会」と訳しました。rightは「権利」「自由」「通義」と訳していました。
西洋の言葉を翻訳することによって新しい日本語を生み出したのです。明治維新は新たな言葉を生み出す絶好の機会となり、そこで日本語が大きく膨らみ、成長したのです。それらの言葉を通して日本人は西洋のものの考え方を身につけました。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 明治の急速な近代化は、江戸時代に広く一般国民に行き渡っていた国語力、人間力をベースに、漢字の造語能力をフル活用した語彙の急拡大によってもたらされたのである。


■7.文科省の黙殺

 一つ、不思議でならないのは、これだけ先人たちが国語力を通じて国を興すアプローチの見事な成功事例を残しているのに、なぜか文科省は完全にそれを無視していることだ。現代においても石井式国語教育で子供たちの「すごい能力」が実証されているのに、それを公教育で広めようという動きも見えない。

__________
 私はかつて文部科学省の教科書を改善する委員になった時に、小学校の国語教科書はもっと厚くていいし、活字(JOG注: 漢字?)も多くていいのではないかと提案をし、議論をしたことがあります。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 と、齋藤教授は書いているが、その結果は述べていない。教科書が変わっていない処から考えると、教授の提案は黙殺されたのではないか。そのくせ、文科省は「ゆとり教育」、その後の「総合学習」、そして現在は「主体的・協働的な学び(アクティブ・ラーニング)」など、実績もない目先の手法のみを追いかける。

 ひょっとして文科官僚自身が、自虐史観に囚われていて、戦前の教育はすべて悪であると忌避しているのではないか、とすら邪推してしまう。子供たちの「すごい能力」を封印しているのは重大な人権問題だし、その結果、「知的向上心に欠ける国民」を生み出しているのは、国難を内から作りだしているのではないか。


■8.「覚悟を決めて教える」

 齋藤教授は「あとがきにかえて」で、こう述べる。

__________
 かつて寺子屋で子どもたちが読んでいた『金言童子教』『実語教』『論語』などは素晴らしいものでした。それを大人が覚悟を持って教えていました。
この覚悟を決めて教えるということが非常に大切です。これからの子どもたちには、なんとしてもしっかりとした思考力と新しいものを生み出すだけの対話力を身につけさせなくてはいけません。そういう覚悟を共有して、質の高い国語を与えていくことは大人の責務です。[1, p228]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 齋藤教授自身の「覚悟」が伝わってくるような一文である。教育とは、次世代の国を支える国民を育てるという国家の大業である。その人作りの一丁目一番地が国語教育なのだ。

 そういう覚悟を抜きにして、文科省がこの教科書を全国の小学校に配っても、何にもならないだろう。あくまで「自分が次世代の国民を育てるのだ」という覚悟を決めた親や教師にこそ、この教科書を使って貰いたい。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本の教育』、育鵬社、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594077765/japanonthegl0-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー 1位(8/3調べ)、総合41位

b. JOG(1093) 人間教育としての国語教育 〜『“とっちゃん”先生の国語教室』から
「人生を考えはじめている青年と共に考える。ということは、実に当然、国語教師のしなくてはならない事柄である」
http://blog.jog-net.jp/201812/article_5.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 齋藤孝『齋藤孝のこくご教科書 小学1年生』★★★、致知出版社、H31
https://www.chichi.co.jp/specials/kokugokyoukasho/
(こちらから見本ページなども見られます)

2. 齋藤孝「日本の国語教育はかくあれ」、『致知』H3101

https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201903/article_4.html


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「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」、 ケッ!!!

明治政府の私設「広報官」である福沢諭吉は、『学問のすすめ』(8編・明治7年)の中で、

「男も人なり女も人なり。・・・其功能如何にも同様」

と宣言していたのですが、『差別の諸相』の注解者・ひろたまさきは、福沢諭吉の女性論は、「文明的な良妻賢母の要請を求める主張」であり、「娼婦的存在には同情を示さなかった」といいます。

福沢諭吉は、その『品行論』において、

「そもそも娼妓の利害に就いては今更これを論ずるもの少なく、所謂道徳家の所望に任ずれば無き方が宜しと云ふは勿論のことなれども、人間世界は道徳のみの世界に非ず。人類の身も之を二様に分かつときは、一方は人にして一方は禽獣に異ならず。・・・」


というのです。


「遊廓」は「人間世界には非ざるなり」と説く福沢諭吉にとって、その世界に身を置く「遊女」(娼妓)は、「人に非ず」、「人非人」に等しい存在としか見えなかったのでしょう。

福沢諭吉にとって、「遊女」(娼妓)は、「人身の自由」が保障される「臣民」(人間)の対象外だったのでしょう。


福沢諭吉は、

「仮に今、人間世界に娼妓を全廃して痕跡おもなきに至らしめん歟、その影響は実に恐るべきものならん。」

といいます。 遊郭を廃止すると、数ヶ月を経ないで、「満都」に「獣欲」氾濫して、「良家の子女」がその餌食となるというのです。「遊女」(娼妓)が遊廓という苦界で、うめこうが苦しもうが一向に構わないが、「良家の子女」がその被害にあうのは「社会の秩序」を守る上で無視できない・・・というのです。


福沢諭吉は、「遊女」(娼妓)は、「最も賤しく、最も見苦し」い存在であるといいます。


「其業たる最も賤しむ可く、最も悪む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞いなり」と断定するのです。


『品行論』において、福沢諭吉は、売春制度に対する自らの主張を明らかにします。


「我輩は娼妓を廃せんとする者にあらず、却って之を保存せんと願」う

というのです。福沢諭吉は、諸外国から日本の遊廓制度に対する批判、「人身の自由」に対する批判があれば、それをさけるため、「深く之を隠すの注意なかる可らず。」と提言します。


日本の公教育における歴史教育で、福沢諭吉はどのような人物として教えられているのでしょうか・・・。

「福沢諭吉は豊前中津藩(大分県)の士族で、緒方洪庵の適塾(大阪)で洋学を学び、幕末に欧米に留学し、イギリスの自由主義を学んだ。帰国後、慶応義塾を設立し、欧米思想の紹介と教育に一生をささげた。」

(文英堂『くわしい学習事典・中学歴史の精解と資料』)と教えられているのではないでしょうか。福沢諭吉の顕彰は、紙幣に刷り込まれることによって、いまでも続けられているのはなぜでしょうか・・・。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2006/09/post_4f75.html


■福沢諭吉と慶応大が嫌いな理由。


そもそもアンチ論についてぐだぐだ述べるのは好きではありません。

でもコレだけは言いたい、と思ったので書きます。


福沢諭吉といえばあまりに有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。

そう一万円札のあのヒトです。

学問のすゝめの著者であり、某K大の創始者であられる御大。

その福沢諭吉、をネット検索したくらいじゃ出てこないちょっと深いところのソースから引っ張ってきた文章をどうぞ。

福澤の男女同等論

福澤は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、


「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると主張した。


『男女平等、女性にも男性と同様の教育を』


うん、そうだね。現在に通じる平等の基礎。

…此処まではまだいいのですが。


福澤は、男女同等論を唱えながら存娼論者でもあった。

妾を養うことも芸者を買うことも隠してせよ、

と隠匿論を述べ、公娼制度を積極的に肯定し、『品行論』(明治18年12月出版)のなかでは「社会の安寧」「社会の秩序」のために公娼制度はぜひ必要であると主張している。しかし、

その娼婦を称して

「其業たる最も賤しむ可く最も悪(にく)む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞なりと云ふの外なし」

と罵り、隠れて遊べと言っている。

此処です。此処。

『愛人、売春婦とは隠れて遊べ。

社会のために(男性社会のために)売春婦を容認すべきである。

しかし売春業を行なうものは卑しく憎むべきであり、人の倫理に背いた人非人である』


と。なにこれ。


あー、何度読んでも腹立つ!

教育の権利だけが男女平等で、それ以外は???

人格的におかしいのではと思えるほど矛盾甚だしい。


実はコレ、wikipediaで福沢諭吉について以前書かれていた記事の一部分です。

とりあえず今現在wikiではこの引用の後半部分がきれいにまるっと削除されています。

それどころか著書『品行論』についての記事そのものがまるきり空っぽになっていて、不気味なかぎり。

まぁ、仕方ないのかとは思いますが。

巨大な後援会めいた存在が現代に残されていますしね。大学という形で。

深く詮索していくと、日本に巣くう恐ろしく根深い問題にまでたどり着いてしまいますのでこれ以上は此処では書かないことにしておきます。

しかしアカセンあったほうがいいけどそこに働く人は下賤である、だなんて。

教養ある人の発言とはおおよそ思えませんね。あなおそろしや。


一万円札は好きでも、あの肖像画はあんまり直視したくなくなること請け合いです。
http://d.hatena.ne.jp/NextLounge77/20100508/p1



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★ 大学の教師をしていた頃、「それは間違い。原文を読んで」と、学生達の先入観を正すのに苦労したハナシをご披露したいと思います。それと言うのも、ブログやSNSの日記を見ていると、同じ間違いが随分、多用されているからです。


今日、お話ししたいのは、福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず・・・・」の”故事”成句のこと。


★ 私は、大学で「人権論」という講義を担当していました。”天賦人権”を語ると、多くの学生は

「知ってます。福沢諭吉の”天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず” 人間平等の原理」

などと、即答します。高校でそう教えているのですね。

★ その度に、繰り返して来た言葉:


 「それは間違い。その言葉は、福沢諭吉の『学問のすすめ』の一番、最初に出てくる言葉だね。

でも、もう一度、しっかりと原文を読んで来なさい。福沢諭吉は、決して、そうは言っていない。 

福沢諭吉は天賦人権論者ではないョ。 全く逆。 

それをしっかり確かめて来なさい」


★ そのハナシをすると、多くの方々が、「エッ!」と、怪訝な顔を私に向けます。

どなたも日本で最初に人類普遍の原理「平等」を説いたのは福沢諭吉と信じておられるようです。


「天は人の上に・・・・・と言ったのは福沢諭吉では???」


★ 無理はありませんね。 例えば、手軽なネット百科事典として、誰もが利用する「ウィキペディア」にもこのように書かれています。

天賦人権説(てんぷじんけんせつ)とは、すべて人間は生まれながら自由・平等で幸福を追求する権利をもつという思想。ジャン=ジャック・ルソーなどの18世紀の啓蒙思想家により主張され、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に具体化された。日本では明治初期に福澤諭吉・加藤弘之らの民権論者によって広く主張された。


★ しかし、これは間違い。確かに福沢諭吉も、加藤弘之も、明治初期の啓蒙家として、天賦人権の思想を紹介はしていますが、二人とも「天賦人権論者」ではありません。加藤弘之などは、逆に社会進化論の立場からそれを否定しておりますし、福沢諭吉も加藤弘之の社会進化論に近い”学問至上主義”の立場、天賦人権などには否定的です。


★ それをしっかり確かめるために、是非、福沢諭吉の著書『学問のすすめ』を原文で読んでみて欲しいです。巻頭第1ページ冒頭にある、その行を引用してみましょう


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。

されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。

そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。

ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。

         福沢諭吉著 『学問のすすめ』


★ 確かに福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という有名な言葉で、この論文を書き始めています。

大事なことは、それに続く「と言えり」の4文字。「と、言われている」 が、しかし・・・と、以下に続いています。

福沢諭吉が言いたいのは、その先です。 後の文章は、全部、「そうではない」と、その理由を述べています。


◎ 現実は、そうじゃない、賢人愚人、貧しき者、富める者、貴人下人・・・雲泥の差があることは明白。それには理由がある。と言うのです。

つまり人間の優劣は学問によって決定される。優れたものが劣っているものを支配するのは当然のこと。


◎ (天賦人権のような考えより) 我が国で平安時代から子弟の教育に用いられて来た教科書「実語教」にあるように、賢者と愚人の差は、学ぶか、学ばないか、によって定まる。 肉体労働と知的職業に別れるのもそのためだ。

◎ だから医者、学者、政府の役人、富める商人、大地主などは、高い身分の貴人なのだ。


と、そういう論理を展開しています。 

天賦人権論の先駆者どころか、その敵である「社会進化論」の側に立つ主張者ですね。一般に信じられている福沢諭吉像とは全く逆です。 

学問による”弱肉強食” 能ある者が能乏しき者を支配するのは当然、と言っているのです。


★ 「・・・・と言われているが、そうじゃない」と、引用されている「・・・・」句が、短絡にが本文から独立し、しかもその引用句が引用者自身の言葉として一人歩き。 誰も正さないうちに、いつの間にか”故事成句”に成熟して熟語化し、戦後の民主主義の御代になると、爆発的に流行し始めた各種の「人権論」講座の枕詞に用いられる。 

そして我が国における人権論の先駆者として、疑われることもなく君臨し、社会の通念にまでなる。

★ 言葉としては誰もが知っている”社会常識”。 

だが、それを口にするほとんどの人が原文を読んだことがない。

そして間違った”偶像”が信奉され、もはや、誰も疑うものがない・・・・思えば、コワイハナシです。


★ そこで言いたい私の「学問のすすめ」は、故事成句を使うなら、必ず原文を読んで、その真意を確かめよう。 私の大学の恩師は「読書とは師との向かい合いである」と教えられました。その大切さを、今、思います
http://zenmz.exblog.jp/13489906/



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安川寿之輔さんの福沢諭吉批判を聴いて考えたこと


安川寿之輔さんが、「「暗い昭和」につながる「明るくない明治」」と題する講演をされた。


1.福沢諭吉の天賦人権論の虚実


 「明るい明治」と「暗い昭和」を対置する司馬遼太郎の歴史観は、近代日本を「明治前期の健全なナショナリズム」対「昭和前期の超国家主義」と捉える丸山真男の二項対立史観をわかりやすい表現に言い換え、踏襲したものである。そして、その丸山が明治前期の健全なナショナリズムの代表格として評価したのが福沢諭吉の天賦平等論であり、一身独立論であった。

 しかし、福沢の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というフレーズは、「・・・と云へり」という伝聞態で結ばれていることからわかるように福沢自身の思想を表したものではない(アメリカの独立宣言を借りたことばであった)。


丸山氏はこの点をすっぽり落としている。

「万人の」という意味では後掲の福沢の天皇制論に見られる愚民籠絡論や、ここでは紹介できないが工場法反対論にみられる貧困市民層に対する蔑視の思想、家父長制的な女性差別論などは、福沢の人間平等論の虚実を示す典型例といえる。

こうした福沢の天賦人権論の虚実を精緻な文献考証を通じて徹底的に立証した点で安川さんの研究には特筆すべき価値があると感じた。

2.福沢諭吉の「一身独立論」の変節


 福沢が『文明論の概略』の中で、「人類の約束は唯自国の独立のみを以て目的と為す可らず」、「一国独立等の細事に介々たる」態度は「文明の本旨には非ず」という正しい認識を記していた。(もっとも、順序としては「先ず事の初歩として自国の独立を謀り、(一身独立のような)其他は之を第二歩に遺して、他日為す所あらん」と述べ、「自国独立」優先の思想を明確にしていたが)。

 また、福沢は自ら、アメリカ独立宣言を翻訳するにあたって、「人間(じんかん)に政府を立る所以は、此通儀(基本的人権のこと)を固くするための趣旨にて、・・・・・・政府の処置、此趣旨に戻(もと)るときは、則ち之を変革し或は倒して、・・・・新政府を立るも亦人民の通儀なり」と訳し、人民の抵抗権、革命権を正当に訳出・紹介していた。


 しかし、かく紹介する福沢も自分の思想となると、「今、日本国中にて明治の年号を奉る者は、今の政府に従ふ可しと条約(社会契約のこと)を結びたる人民なり」と記して国家への国民の服従を説いた。

 さらに、その後、自由民権運動と遭遇した福沢は1875年の論説において、


「無智の小民」「百姓車挽き」への啓蒙を断念する


と表明し、翌年からは宗教による下層民教化の必要性を説き、


「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合せならん」

という人間蔑視の思想を憚りなく公言するに至った。こうして福沢は啓蒙期の唯一の貴重な先送りの公約であった「一身独立」をも放棄したのであった。


 ところが丸山真男は、福沢自身が優先劣後の区別をした一国独立と一身独立の議論の実態を無視し、さらにはその後の福沢が一身独立の思想を放棄した現実を顧みず、個人的自由と国民的独立の見事なバランスと言い換え、両者に内在する矛盾、軋轢――後年の福沢の一身独立論を変節に導く伏線となる要因――を無視して、福沢賛美の根拠に仕立て上げたのである。

3.福沢の変節の極みとしての神権天皇制論


 安川さんの講演の中で開眼させられた一つは福沢の天皇制論に対する言及だった。福沢は『文明論の概略』の第9章までの記述の中では、たとえば、「保元平治以来歴代の天皇を見るに、其不明不徳は枚挙に遑(いとま)あらず」と記し、「新たに王室を慕うの至情を造り、之(人民)をして、真に赤子の如くならしめんとする」のは「頗る難きこと」と述べて、天皇制に批判的な考えをしていた。

 ところが、福沢は1882年に「帝室論」を書く頃には天皇制論を大転換させ、「帝室・・・・に忠を尽くすは・・・万民熱中の至情」などと言いだした。これについて、福沢は国会開設後の「政党軋轢の不幸」に備えて人心の軋轢を緩和する「万世無欠の全壁」たる帝室の存在が必要になったと説くとともに、「其功徳を無限にせんとするが故に」帝室は日常的には政治の外にあって下界に降臨し、「一旦緩急アレハ」天下の宝刀に倣い、戦争の先頭に立つよう説いた。

 ところが、丸山真男は福沢が日常的にはと断って説いた皇室=政治社外論を一般化し、福沢が「一貫して排除したのはこうした市民社会の領域への政治権力の進出ないしは干渉であった」と誤解したのである。

4.福沢のアジア侵略思想の歩み


 1880年代前半に福沢が『時事小言』、「東洋の政略果たして如何せん」などにおいてすでにアジア侵略の強兵富国  政策を提起していたが、日清戦争が近づいた1894年に書いた論説「日本臣民の覚悟」では、


「我国四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、・・・・事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老若の別なく切死して人の種の尽きるまで戦ふの覚悟」


を呼びかけた。ここに至って、福沢のかつての一身独立論は国家への滅私奉公の前に完全に呑み込まれ、跡形なく消失したといえる。


 また、これに続けて福沢は、


「戦争に勝利を得て・・・・吾々同胞日本国人が世界に対して肩身を広くするの愉快さえあれば、内に如何なる不平等条理あるも之を論ずるに遑あらず」


と公言して憚らなかった。


 さらに、福沢は旅順の占領も終わり、日清戦争の勝利が見えてきた1895年1月に書いた論説(「朝鮮の改革・・・・」)において、


「主権云々は純然たる独立国に対する議論にして、朝鮮の如き場合には適用す可らず。・・・・今、日本の国力を以てすれば朝鮮を併呑するが如きは甚だ容易にして、・・・・・」


と記し、その後の韓国併合の可能性を予見するかのような主張をしていたことに安川さんは注目を喚起された。


 こうした福沢の言動は安川さんも指摘されたように、『坂の上の雲』において司馬が日本にによる朝鮮出兵を「多分に受け身であった」と記しているのがいかに史実に悖る虚言かを、同時代人の言説を通して物語るものといえる。 

また、NHKは『坂の上の雲』の第一部で毎回、冒頭に「まことに小さな国日本が」というフレーズを流したが、上の福沢の言説は当時の日本が少なくとも対朝鮮との関係では「小国」どころか、何時でも朝鮮を呑みこめる国力を持った強兵富国の大国であったことを意味している。

植民地として統治された相手国の認識を等閑に付して、武力で近隣国を占有した自国を「小さな国」などと呼号するのは、過去に自国が犯した罪に対していかに無邪気かを物語っている。

5.福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間の大きな懸隔


 私が安川さんの講演から(正確には安川さんの後掲の3部作から)感じた福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間に大きな懸隔が生まれたのはなぜかということを考えておきたい。


 まず、安川さんの資料から同時代人の評価として私の印象に強く残った論評を2点だけを紹介しておきたい。


 吉岡弘毅(元外務権少丞):

「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」・・・・のは「不可救ノ災禍ヲ将来ニ遺サン事必セリ」

 徳富蘇峰:

「主義ある者は漫りに調和を説かず。進歩を欲する者は漫りに調和を説かず。調和は無主義の天国なり」


 福沢が執筆した(『時事新報』の社説等を含む)全著作を吟味する限り、同時代人の評価が適正な福沢評であることは否めない。


にも拘わらず、それと対極的な評価があろうことか、戦後の「進歩的」知識人の間に広まった理由は、安川さんが精根込めた考証で明らかにしたように、

丸山真男の福沢誤読――『文明論の概略』など初期の著作のみを題材にした雑駁な読解に依拠し、

福沢の政治論、天皇制論、アジア統治論などがもっとも鮮明に記されたその後の論説を顧みない文献考証の重大な瑕疵――

とそれに多くの「進歩的」知識人が事大主義的に追随したことにあったといってよい。


 かくいう私も丸山神話に侵された一人だった。3月20日に私の退職送別会を兼ねて開かれたゼミのOB&OG会に参加した第1期生がスピーチの中で、夏休みのレポート課題として私が丸山真男『『文明論之概略』を読む』を挙げたことを懐古談として話した。自分では忘れていたが、そう言われて記憶が蘇ってきた。2次会でそのゼミOB生と隣り合わせ、今では自分自身、福沢に対する見方がすっかり変わってしまったことを釈明した。


 戦後日本の「民主陣営」に浸透した丸山神話は、過去のことではない。

権威主義、事大主義が今日でもなお「進歩的」陣営の中でも、陣営の結束を図るのに「便利な」イデオロギーとして横行している現実が見受けられる。

しかし、そうした個の自律なき結束は、陣営の外にいる多数の市民の支持を得るのを困難にし、長い目で見れば破綻の道をたどる運命にある。だから私は楽屋落ちの議論や個人の自律を尊ばない組織や運動を拒むのである。

丸山思想の決定的欠陥 鍜治正啓


丸山真男は「文明論の概略を読む」を書いて福沢諭吉を礼賛しましたが、そこでは福沢の侵略思想を見落としており、私はこの見落としを丸山思想の決定的欠陥だと考えます。


福沢諭吉の実像は、日本の民主化への貢献というよりは、軍国主義を煽ったことの方にありました。


「時事小言」の社説で、


「印度・支那の御(ぎょ)し方を英人に見習うのみならず、その英人をも苦しめて、東洋の権柄を我が一手に握るべし」


とか


「滅亡こそ朝鮮人民の幸福」


などという非常識で勇ましい文章を書きなぐっていました。(このことは安川寿之輔氏の研究に詳しく書いてあります。)


この福沢の実態の見落としは、単なる軽率と済ませられるものではなく、丸山思想の根本的欠陥と見るべきと考えます。


福沢諭吉が日本の侵略主義を煽ったのは、自分の国は自分で守る気概を持った国民を作ること、つまり国民国家を作るためでした。こういう「国民」を作り出すためには、民族の一員としての平等感と国政への参加意識を持たせる必要がある、と考えました。

これが人民主権(民主主義)の思想の役割でした。

福沢にとって独立日本国を作ることが第一義で、民主化はそのための方便という二義的な意味しか持っていませんでした。


ところが丸山は「国民国家を作るための民主主義」という思想構造を理解できなかったために、福沢の民主主義の部分だけしか見えず、一方では福沢が重視した侵略思想の方を見落としたものです。


しかしながら福沢のこの思想は、福沢の性格のゆがみとか間違いというような個人的なものではなくて、明治期の時代の空気であったことに留意する必要があります。


この侵略思想は、自由民権運動の中にも顕著に現れていることは、板垣退助、大井憲太郎などの過激な侵略思想を見れば明らかです。福沢や民権派の運動の効果もあって、この思想が順次政府によって実行されて、挙句の果てに昭和の戦争を招いたものであり、長い眼で見れば、彼らは昭和軍国主義の先駆者ということが出来ます。


しかし福沢や民権派の人々が、この日本近代の侵略主義を作りだしたと言ってしまっては、彼らの力の過大評価になります。

彼等はこういう日本の近代化の時代の空気を代表して表現しているに過ぎません。

問題は日本の近代化という大きな流れの方にあるといえます。

この時代の空気を丸山は分析的に見ることが出来なかったのですから、思想家としては失格だったと言えます。

結論として、丸山は近代化の持つ暗黒面に気がつかなかったという意味で、「近代と言うものが理解できなかった近代主義者」だった、と言えます。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-79b8.html

http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html#c181

[近代史02] 白人はなぜ白人か _ 白人が人間性を失っていった過程 中川隆
184. 中川隆[-11242] koaQ7Jey 2019年3月24日 10:41:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[767]

古代南欧で謎の「男性大量流入」、DNA調査で判明
8000年におよぶイベリア半島の古代人DNA、4500年前にいったい何が? 2019.03.19
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/031800167/

古代の狩猟採集民族の骨。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/031800167/?SS=imgview&FD=-787263934

DNAを解析した結果、この2体は偶然にも兄弟であることが判明した。この骨のおかげで、現在のスペインとポルトガルにあたるイベリア半島で、遺伝子が驚くほど複雑に混ざり合ったことがわかった。(PHOTOGRAPH BY JULIO MANUEL VIDAL ENCINAS)

 人類の移動が始まって以来、現在のスペインとポルトガルが位置するイベリア半島は、アフリカ、欧州、地中海沿岸の文化が混じり合う場所だ。

 8000年にわたるこのイベリア半島の古代人の遺伝的特徴をまとめた新たな論文が、遺伝学者と考古学者からなる111人の研究チームにより、2019年3月15日付けで学術誌「サイエンス」に発表された。論文によると、遺伝子は非常に複雑に入り混じっているという。また、約4500年前に謎の大移動が始まり、それだけで古代イベリア人男性のDNAが完全に一新されたことが示唆された。

 いつ、どのように、イベリア半島へさまざまな人々がやってきたのかを探るため、研究チームはDNAに刻まれた痕跡を調べた。古代イベリア人271人のゲノム配列を決定し、これまでに公表された別の132人のデータと統合した。

 結果は、予想以上に複雑だった。

男性はすべて置き換わっていた

 イベリア半島の古代人の遺伝子構成は、青銅器時代に劇的に変化し始めた。紀元前2500年頃から、黒海とカスピ海周辺のステップ地帯に暮らしていた人々に関連する遺伝子が、イベリア半島の人々から検出され始める。その後、古代イベリア人のDNAの多くが、ステップ地帯の人々のDNAで置き換えられた。

 インド・ヨーロッパ語族を広めたのはステップの人々だったという仮説がある。その「ステップ仮説」では、ステップの人々はほぼ同時期に、東はアジアへ、西はヨーロッパへと広がったとされる。今回の論文は、彼らがイベリアにも到達していたことを示している。その前後で、イベリアの人々の60パーセントにはステップ由来の遺伝子が加わらなかったが、Y染色体は紀元前2000年までにほぼ置き換わった。Y染色体を持つのは男性のみであるため、ステップ地帯から男性が大量に流入したことが示唆される。

(参考記事:「ヨーロッパ諸語のルーツは東欧。DNA分析で判明」)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150305/438058/

「影響は男性にとても偏っていたようです」とナショナル ジオグラフィック協会の上級プログラムオフィサーを務める遺伝人類学者ミゲル・ビラー氏は話す。なお、氏は今回の研究に関わっていない。

 やって来た男性は何者だろうか? 争いはなかったのか? ビラー氏は、ステップの男性は、馬に乗り青銅器を携えてイベリア半島にやって来て、青銅器時代の到来を告げたのではないかと推測している。同氏はこの移動の影響を、1490年代に欧州人が上陸した際に、南北米大陸の先住民が直面した事態になぞらえた。

(参考記事:「征服者の「失われた艦隊」か?16世紀の錨を発見」)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/c/122000110/

「欧州の端から端まで広がる大移動に成功し、いまだにこの西端の地に多大な影響を及ぼしているのです」とビラー氏。

 その頃、青銅器が使われ始めたこと以外に、ステップ文化の明らかな痕跡はイベリアでまだ見つかっていない。一方、今回の研究により、西欧でインド・ヨーロッパ語族ではない唯一の言語を話す現代のバスク人が、ステップの人々と非常に近い遺伝子マーカーを持っていることがはっきりと示された。イベリア半島では、その後も何世紀にもわたり遺伝子が混ざり合ってきた。だが、現代のバスク人の遺伝子は、そうした現代のスペイン人のものとは異なるという。

(参考記事:「食事の変化が「f」「v」の発音を生んだ、研究」)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/031600166/


 また、イベリア中央にある発掘現場で見つかった1体の骨から、北アフリカ人のDNAが検出された。年代測定したところ、紀元前2500年頃のものと出た。

「最初は間違いだと思いました」と研究リーダーを務めた集団遺伝学者イニゴ・オラルデ氏は話す。

 しかし、再度実験を行い、間違いではないと確認した。その孤独なアフリカ人の存在により、イベリア半島と北アフリカの間に、早い段階から散発的な交流があったことが示唆された。これは、イベリアで銅器時代のアフリカゾウの象牙が発掘されたこととも符合する。しかし、今回の研究チームは、北アフリカの人々がイベリアに広がったのは過去2000年ほどのことだと考えている。


ギャラリー:フラメンコの故郷、スペインの洞窟住居に暮らす人々 写真19点
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/gallery/082400339/index.html?P=5


自宅のそばにある廃墟の洞窟で遊ぶ子供たち。以前は、すべての洞窟が埋まっていたが、現在は、使われていない洞窟もある。(PHOTOGRAPH BY TAMARA MERINO)


氷河期にも多様性があった

 今回の論文の結論は、スペインの人々の遺伝子は複雑な歴史をたどったことを示している。2019年3月14日付けで学術誌「Current Biology」に発表された共同研究者の論文でも、同じ傾向が詳しく述べられている。後者の論文によると、イベリア半島にいた狩猟採集民族と農耕民族も、従来考えられていたより遺伝的に多様だったことが明らかになった。1万9000年前の氷河期でも、イベリア半島は比較的暖かく、さまざまな狩猟採集民族が避難し、交流した証拠が見つかっている。その後、イベリアに来た新たな農耕民族が、この狩猟採集民族と交配した。

(参考記事:「ヨーロッパ最初の農耕民は移住者だった」)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/1635/

「DNAの解析結果には、驚きました」と後者の論文の筆頭著者で、スペイン、サラゴサ大学の博士課程に在籍する考古遺伝学者バネッサ・ビラーバ=モウク氏は話す。同氏は、ドイツのマックス・プランク人類史学研究所にも所属し、研究をリードした。「その時代に何が起きたかを知ることは、次の時代の進化を解き明かすのに役立ちます。当時の歴史をより正確に知るために、もっと多くのサンプルが必要です」

(参考記事:「欧州人の遺伝子、形成は旧石器時代か」)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/9920/

「古代人のDNAの研究は、アフリカ人、アジア人、欧州人といった明確な地理的集団という固定観念を壊してくれます」とビラー氏は話す。「イベリア半島のような地域の人々は、単に遺伝的に多様なだけでなく、さまざまな大移動の波の産物そのものなのです」

 オラルデ氏にとって、今回の研究は、故郷と呼べる場所の遺伝子の歴史を調べるまたとない好機だった。「この研究ができたことは、私にとっては夢のようでした」と同氏は語る。

(参考記事:「欧州には青い瞳の狩猟採集民がいた」)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/8803/


 数千年前の骨から採取したDNAのサンプルを大量に扱う機会に恵まれて、米ハーバード大学医学大学院のデイビッド・ライク研究室で働く同氏はとても興奮したという。この手の研究ではめったにないことだった。

「400人近くのDNAを分析できるなんて、すごいことです。そのおかげで、イベリア半島のさまざまな過去の人々すべてについて、および、現代の住人がどのように誕生したかについて、従来よりはるかに多くのことが明らかになりました」

(参考記事:「少女の両親は、ネアンデルタール人とデニソワ人」)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/082400372/

ギャラリー:思わずゾクゾクする考古学フォト13点
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/gallery/020900150/


ラ・ベンタの石頭。1947年のナショジオの写真。メキシコのラ・ベンタでオルメカ文明の巨大な石頭を調査する考古学者たちをとらえている。(PHOTOGRAPH BY RICHARD HEWITT STEWART, NATIONAL GEOGRAPHIC)

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/031800167/

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html#c184

[近代史3] ヤクザの女はピアス大好き

ヤクザの女はピアス大好き


クリトリスにピアスを開けると究極にエロくなる!理由を徹底リサーチ
https://pan-pan.co/detail/132859



「クリトリスにピアスを開けると女性はよりエロくなる」こんな噂があるのはご存知でしょうか。

なんと心もカラダもつける前よりエロくなって、エッチのときにいつも以上に乱れるようになるというのです。そういう噂は知っているけれど眉唾ものに感じている人もいるかもしれません。そこで、今回は実際のところクリトリスピアスによってエロくなるのか、体験者の声なども含めて探りました。驚きの結果をどうぞご覧ください。

クリトリスにピアスを開けている女性は意外に多い

濡れてきたら皮を剥くのがクリトリスの上手な触り方

クリトリスピアスと聞いて、恐らく多くの人は「イラストとかでは見るけど、リアルでやってる人なんていないでしょ」と思うかもしれません。ところが、普通は見えない部分であるだけに分からないというだけで、クリトリスピアスをしている女性は意外と多いのです。


なんと、日本国内である年代からは誰もが知っているアーティストのキロロがしているという噂もあります。


ブームになっているという話すらあるほど。これには驚きを隠せない人も多いかもしれません。見えないから知られないだけで、世の中ではこういう状況が生まれつつあるんですね。


早くニップルピアスあけてクリトリスピアスと鎖で繋いぎたい。— 梨凛(りりん) (@ririn_pinkist) 2018年4月11日

ニップルピアスというのは、乳首につけるピアス。


 海外でブラをしないノーブラ・ルックが流行し、SNS上では「Free The Nipple(フリー・ザ・ニップル/乳首を開放せよ)」というハッシュタグが誕生して頻繁にトレンド入りするなか、90年代に流行した「ニップルピアス」の人気がカムバック。さまざまな形のピアスで乳首を飾る女性たちがじわじわと増加している。

 人気セレブたちの中にも、フェミニストとしての主張やファッションの一環として、このニップルピアスをすでに取り入れている女性たちはたくさん。
引用:フロントロウ


90代の流行のリバイバルとして、乳首ピアスは海外セレブを中心に流行。その流れが日本にもやってきています。最近フェミニズムが日本でも話題になっているのは知っての通り。ピアスで乳首などを飾るのは、ある意味その流れを受けた流行ともいえるかもしれません。


クリトリスピアスをつけてもらうイベントまであるというのですから、この流行は本物といえるでしょう。これを読む限り、男の手によってクリトリスピアスをつけてもらうようですね。その様子を想像すると痛みに身がすくむ思いですが、一方で背徳的ないやらしさも感じてしまいます。

クリトリスにピアスを開けたきっかけを調べてみた

クリトリスピアスが流行りつつあるという話はご理解頂けたと思います。とはいえ、男性にしても女性にしても、「どうしてクリトリスなんて大事なところにピアスを開けたのだろう」と思う人は多いでしょう。しかも耳たぶなどと違い、クリトリスはセックス相手以外にはほとんど見せることのない部位。そこを飾ってどうするか理解しにくいはずです。

一つには、先ほど引用したツイートにあるように、フェミニズム気分の高まりがあげられます。要するに女性の体は性の対象というだけではないというものですね。日頃から性的な視線に晒されることの多い女体ですが、「そうではない」という主張をするためにピアスで飾り、一つのアートとして自分を高めるというわけです。

クリトリスピアス。
この頃痛いなぁ。。(。>ω<。)って思っていたら。。
裂けた。。⸝⸝⸝⸝♡ぱっくりキレイに♡
最初びっくりしたけど????

ご主人様のぉ奴隷の証が違う形になったけど。。嬉しい⸝⸝⸝⸝♡— ドM奴隷♡ (@hysmlove2604) 2018年3月11日

クリトリスピアスをする理由の中で、最も多いのはこれですね。つまりクリトリスピアスを欲する男性とそれに応えたい女性が多いというもの。とくにマゾっ気のある女性や依存しやすい女性に目立ちます。男性にいじめられたい、男性に捨てられたくないという感情が、クリトリスピアスをつける方へと誘導するわけです。


痛そうだけど前友達が付けてて可愛いかったからクリトリスピアスつけたい(>_<)???? pic.twitter.com/1R58J6JuZo— あやか (@ayakaaa__a) 2017年12月22日

普通の女性も興味津々。友達の影響でつけたいという人も少なくありません。やっぱり周囲の人の影響力というのは大きいもので、同調圧とまでは言いませんが、興味をかき立てられてつけてしまう女性は多いのです。

クリトリスにピアスを開けた時の喜び
それでは、実際にクリトリスピアスを開けた女性たちの反応はどうなのでしょうか。いくら愛する男性のためや自分の欲求を満たすためとはいえ、つけた後で後悔している女性がほとんどなのではないかと考えるかもしれません。しかし、驚くことに反応は決して悪いものではないのです。


ご主人様の奴隷である証。。

乳首。クリトリス。ピアス開けて頂けて幸せぇ❤️

見るたびご主人様思い出す❤︎*・

もっとご主人様が望む奴隷になるよーに日々精進していく。— ドM奴隷♡ (@hysmlove2604) 2018年2月11日

たとえば、先ほどのドMアカウントですが、幸福感に溢れているのが分かります。クリトリスピアスを通してご主人様が思い起こされ、彼との繋がりを感じられることに悦んでいるようです。第三者から見て痛々しく見えるクリトリスピアスですが、痛みとは生の実感でもあります。一見痛みの象徴として見えるクリトリスピアスは、そのおかげでより愛を実感できる大切な存在になるのです。


飼われている証拠として嬉々としている女性も存在します。やはりピアスは痛みや血を連想させるアクセサリーであることから、狂おしいほどの愛や生の繋がりを連想させるようです。


家に帰ってもアソコの火照りが治まりません。
まだジンジンしてます。
早速、鏡の前で足を開いてよく見てみました。
私『うわ〜本当にクリ貫通してる・・・・・』
タイミング良く弟が来たので見せてみる。
引用:かの的きまぐれ日記


つけるときは激しい痛みに襲われるそうですが、つけた後は見せたくなるほど火照るようです。見せられた弟も驚きだったでしょうね(笑) 突然姉のオマンコを見せられるわけですから。けど、男相手にオマンコを見せたくなるほど感動するほどのインパクトがあることが分かります。

クリトリスにピアスを開けるリスクをチェックしましょう
クリトリスピアスを開けるリスクとしては、以下のようなものがあげられると言われています。


・(適切な衛生管理が行われなかった場合)HIV、B型肝炎などの感染症
・出血
・アレルギー反応
・裂傷やそれに伴う傷跡
・血行阻害
引用:メッシー


中には大きなリスクに感じられるものもありますが、最大のものは衛生管理の不備によるもの。これらはクリニックなどであけてもらうことで、ある程度防げるものが大半です。ここまで紹介した例からも分かる通り、このようなリスクを負っても得られる快楽や生の実感、愛などが勝る女性がクリトリスピアスの虜になっているといえるでしょう。

実際、痛みやリスクを負えば負うほど実感できる愛というのは確かに存在します。もちろん、個々人の価値観などによっても変わりますが、そのような愛の魅力に取り憑かれる女性は現実問題少なくありません。先に紹介した人々の感想からも分かる通り、開けずにはいられない魅力がクリトリスピアスにはあるのです。

クリトリスにピアスを開けている写真やお洒落なクリトリスピアスの写真

初見で驚くこと必至のクリトリスピアス画像ですね。こんなにつけられるのという感かもしれません。強烈な愛や情念を感じますね。

痛々しいといった意見が多いクリトリスピアスですけど、その多くは想像で言われているもの。実際に見てみると、このように意外とかわいらしいものです。というより、かなりエロい見た目になります。

クリトリスの大きさによってつけられる数も変わります。小さいと難しいといった意見もあるようですね。

クリトリスにピアスを開けた事による心と身体の変化

ここまで伝えたように、クリトリスピアスは開けるときの強烈な痛みや大きなリスクを乗り越えてつけられるもの。なので、開ける前と後では心境や体に変化が起きます。ここからは、どのような変化が起こるか紹介しましょう。

心の変化

好きな人にしてあげるなら痛くないです。
引用:Yahoo!知恵袋


痛いことで知られるクリトリスピアスですが、好きな人のためにするなら、意外と痛みは気にならなくようですね。心の変化としては、意外とこういう意見が少なくありません。


後悔はないですね
引用:Yahoo!知恵袋


クリトリスも女性にとっては大事な部分。そんなところにピアスを開けて後悔しないのかと思う人は多いでしょう。しかし、実際に開けてみると意外と後悔しないという人はいますね。


先ほど紹介したツイートと同じものになりますが、クリトリスピアスを開けたマゾ心がより強まる女性は多いです。今まで以上に彼氏に従属したくなって仕方なくなってしまうんですね。男性からすると今まで以上に可愛くて堪らなくなります。


見てみたら、ちゃんとそこに小さな銀色のリングが付いてて嬉しくなった。
引用:another KISS


痛みを乗り越えることもあって、悦ぶ女性も多いですね。強大な試練を乗り越えた感覚があるのかもしれません。

身体の変化

痛みもなく出血ももうありません。
引用:美容医療の口コミ広場


意外と終わってみると痛みも出血もないという声は少なくないですね。もちろん個人差はありますけど、施術後の身体にかなり悪い変化があるといった話は多くありません。


下着や、きつめのズボンでこすれると、あぅっとなることもあります。
引用:Yahoo!知恵袋


クリトリスピアスは敏感なところの近くにつけるもの。なので、このようにこすれる機会が増えて感じちゃうことが増えるようです。感じる機会が増えるということは、それだけ気分が高まりやすくなるということなので、エッチに意欲的になるかもしれませんね。


マン汁が止まらないですぅ!乳首も勃起したままのような感じになっています。
引用:Yahoo!知恵袋


敏感なクリトリスに刺激が入りやすくなるので、マン汁の量も変わるようですね。とにかく常に性的な刺激を受けているような感じになるので、全身エッチな状態になりやすくなるみたいです。

特別編〜クリトリスにピアスを開けている女性がクリトリス以外にもピアスを開けるのはこの3つ
クリトリスピアスをする女性にはMっ気のある女性が多いです。そんな彼女たちですから、クリトリスピアス以外にもけっこうピアスをしていたりします。どんなところにしているかというと次の3ヶ所になります。

特別編〜舌

舌ピアスあいてたらフェラきもちいい
て聴いてめさめさあけたい
ただ!ベロが引くほどみじかい— Az♕ (@Azu_Monroe) 2018年5月14日

クリトリスピアスをつける女性は、男性に尽くしたいと考える傾向があります。なので、このツイートにもあるように、男性をより気持ち良くできるという話から舌ピアスをつける人が多いですね。

舌ピアスによるフェラチオは、舌の生温かい感触とピアスの冷たい感触の二つが交互に攻めてきて確かに気持ちいい。このために女性に舌ピアスをつけさせる男性がいるというのも頷けるものです。


鎖骨ピアスと舌ピアスめっちゃ可愛いィィィ
よし、試験終了後で開けよ(*`▽´*)ウヒョヒョ— 澪@ (@Nyako_sou) 2018年5月13日

舌ピアスはかわいいと感じる女性が多いのもポイント。クリトリスすら飾りたくなる女性にとっては、舌ピアスのかわいさはたまりません。舌ピアスが人気の理由の一つですね。

特別編〜へそ

オシャレとしても人気のへそピアス。クリトリスにも近いことがあり、裸をキレイに見せる目的でつける女性が少なくありません。へそピアスから鎖をクリトリスピアスまで伸ばして、普段見えないクリトリスピアスを匂わせる女性もチラホラ見ますね。性的な匂いが強まるので、男性が欲しくて欲しくてたまらない女性にも人気です。


実際、へそピアスの子が好きという男性は多い! なので、男性に好かれるためにへそピアスをするという女性が多いんですね。クリトリスピアスをする子は、男性のためにしているという女性も多いので、へそピアスに手を出す人はかなり多いですね。

特別編〜乳首


このように乳首ピアスは男性からしてみるとかなりエロい。なので、クリトリスピアスを要求するような男はほぼ確実に乳首ピアスも求めます。おかげで、クリトリスピアスをしている女性で乳首ピアスをしている女性は結構多いですね。乳首ピアスからクリトリスピアスまで鎖で繋いで、ドMな見た目に興奮する男性も非常に多いので、そんな彼氏のためにしてあげる女性も少なくありません。


痛かったですねー…。
乳首って意外と固くて中々刺さらない上に痛みが強いので…。
舌はカミソリの切れ味さえ良ければ柔らかいので一瞬ですよ????— 彩缶-ayakan- (@coco72ayakan) 2018年5月13日

それと地味に多いのは、乳首ピアスも開けるのがかなり痛いので、その痛みを感じたくて開けるという女性。クリトリスピアスは広く知られている通り、かなり痛いです。その痛みを求めて開ける女性は、同じくらい痛い乳首ピアスにも手を出す傾向が高いですね。痛みが気持ちいいというのもあるんですが、やっぱり痛みを通して生きているって感じられるのが大きいらしいです。

まとめ:クリトリスにピアスを開けると女性はエロくなる

クリトリスピアスと聞くと引いてしまう人もいるかもしれません。しかし、敏感な部位につけることもあって、開けた途端にエロくなる女性は少なくありません。それ目当てでツケさせる男性もいますし、もっとエッチな気分になれる身体を作りたくて開ける女性もいます。実際、紹介したように衣服などのちょっとした接触でマン汁ダラダラになってしまう女性もいるほど。なので、興味を持ったら一度調べてみると良いかもしれません。以上、panpan(パンパン)編集部からのお届けでした。

https://pan-pan.co/detail/132859
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/304.html

[近代史3] ヤクザの女はピアス大好き 中川隆
1. 中川隆[-11241] koaQ7Jey 2019年3月24日 12:27:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[769]


性器ピアスとは?開ける方法・場所は?危険性と注意点5個
https://in-bee.net/media/articles/257



近年、ファッション目的やセックスが気持ちよくなるということで、性器ピアスに注目が集まっています。性器ピアスは、その名の通り男性、女性の性器にピアスを開けることですが、どのような方法で開ければ良いのか知らない方も多いでしょう。ここでは、性器ピアスの開け方やセックスの楽しみ方、注意点などを詳しく解説しています。





目次

● 性器ピアスとは?

● 性器ピアスを付けている人は意外と多い?

● 性器ピアスを開ける方法

● 性器ピアスを開ける・付ける場所5つ【男性編】

● 性器ピアスを開ける・付ける場所6つ【女性編】

● 性器ピアスのセックスの楽しみ方5つ

● 性器ピアスの危険性と注意点5個

● まとめ



< ご注意 >
性器へのピアッシングは非常に危険です。実施は必ず専門医のもとでカウンセリングを行った上、デメリットについてもよく理解しし十分に検討し、実施しましょう。


アソコにピアスをする、いわゆる“性器ピアス”に興味を持っている方が増加傾向にあると言われています。海外セレブがファッションとして取り入れた事が引き金になっているようで、以前よりもアウトローなイメージは減って来たようです。

性器ピアスですが、ファッション目的であったり性行為がより楽しくなったり、メリットも多くあるようです。ここでは、性器にピアスを開ける方法や場所、さらに注意点も紹介していきます。ぜひ、参考にしてみてください。


性器ピアスとは?



性器ピアスはその名前が示しているように、男女問わず性器部分につけられるピアスのことです。身体のさまざまな部位に開けることになるボディピアスの一種であり、亀頭や竿部分、会陰や恥丘部分など、細分化していくとその種類(パターン)は多種多様です。

さて、そんな性器ピアスですが、インドに古くから伝承される性愛に関する書物『カーマ・スートラ』にも記述があるようで、古くから行われている決意や意志を灯した証であり、ファッションのひとつであることでも知られています。
ファッションとしての性器ピアスは、数十年前イギリスを発祥に『乳首ピアス』が広まったようですが、次第に廃れて行き、性器ピアス自体が本格的な流行となったのはかなり近年のことです。


性器は非常にデリケートな部位であることから、出血量が多いことでも知られています。そのためか、強烈な痛みを伴うとも言われており、卓越した専門医の元で施術を受ける必要があります。特に男性の場合、性器にかなりの痛みを伴うのですが、その痛み自体が強烈な快感として感じられることもあるなど、その人の性癖によっても感じ方が違うので、『そもそも自分そういった事に向いているタイプか?」を知る必要もありそうです。

もちろん性器ピアスを実施する方は分別の有る大人であると思いますが、実施については冷静に判断しましょう。

性器ピアスを付けている人は意外と多い?



性器ピアスは、前述したように実施時に強烈な痛みを伴う可能性がある行為です。男性の場合であればペニスの先部分に突き刺したり、竿部分を貫通させるなど、見た目にもハードなものがほとんどです。特定の部位の皮にピアスをする場合は耳たぶよりも痛みが無い箇所もあるようです。

目的は様々ですが、女性の海外セレブがファッション目的として開けていたり、セックス中の特定の行為を気持ちよくするために行っている場合、変わった所ではSMプレイの一環で主従感関係の証とする場合などが多いようです。

またこれから本気で性器ピアスを開けたいと思っている方は意見交換が出来るコミュニティが海外に集中している事も知っておくと良いかもしれません。最新のファッション的性器ピアスの情報交換は英語が出来るとより安心でしょう。


性器ピアスを開ける方法



< ご注意 >
この項目はあくまで方法の解説です。実施は必ず専門医の元で行ってください。自宅やご自身での実施するなど無理をしないようお気をつけください。

「これから性器ピアスを開けたい!」と思っている方も多いはずです。しかし実際に性器ピアスを開けるとなるとどのようなやり方で開けるのか、専門医にかかるとしても気が気でない事と思います。ここでは一般的な性器ピアスの開け方を紹介していきましょう。

■@専門医に相談すること


性器にピアスを開けたい場合、決して『軽いノリ』などで開けないようにしましょう。性器は非常に敏感なのはもちろんですが、性行為を行い生殖行動をするための人間にとって重要な部位です。

『専門医で実施しなかった事により命の危険に関わる事故になってしまったケース』として、海外では『友人達と酒に酔ったその勢いのまま盛り上がり、ペニスへのピアッシングを試みたところ、酒の効能で血行が良くなっていた事も悪く働き危険な量の失血に至った』というような事もあります。

注意点は後述しますが、細菌感染しやすかったり、出血を多く伴いトラブルに発展したり、生殖機能や生理機能に支障をきたすなど、日常生活にも多大なる悪影響を与える可能性があります。

そのため、まず男性であれば「自分のペニスにピアスを貫通させることができるのか」「考えうるリスクはどの程度あるのか」などしっかりと専門医に相談すべきでしょう。

女性の場合もピアスを開ける部分によっては大きなリスクを伴うため、同様に医師に相談すべきです。金属アレルギーで無いことを確認したり、正しい消毒の仕方などを聞いておくことをおすすめします。


■Aニードルを用意&消毒


性器に穴を開ける際、ニードルが必要になります。まず、先にニードルで穴をあけてからピアスを差し込みましょう。

ニードルには、16G、18G、20Gなどサイズがさまざまありますが、初心者の場合、あまりにも大きなサイズにしてしまうと痛みに耐えられないため、リスクの少ない小さなサイズからスタートさせることをおすすめします。

女性の場合、クリトリスのサイズによってニードルを変化させる必要があるので、しっかりと自分のサイズを確認しておきます。

さて、利用するニードルですが、必ず消毒&殺菌をしておきましょう。ニードルが不潔だった場合、そこから細菌が入り込んでしまうことがります。


■Bマークをつける


ニードルが用意できたら、次に刺し込む部分をマークします。

ペニスの場合、刺す部位によってはマークが不要とは思いますが、ニードルを差し込む目印になるという意味では、どんな部位であってもマークをつけておくことをおすすめします。マークに利用するのは、洗えばすぐに流れて消えてしまうものにしましょう。

■Cニードルを刺す


そして、マークに向かって、思い切りニードルを刺していきましょう。

部位によって多くの血液が出て来てしまうため、できるだけ清潔なハンカチなどを用意して止血が直ぐにできるようにしましょう。

また、男性の場合、ペニスに貫通させるため女性に比べてかなりの痛みを伴うことが考えられます。特に、亀頭にニードルを差し込む際、相当の痛みを伴うということが多く報告されているので、勢い良く刺してしまう事が重要なようです。

■D部位に合ったピアスを装着


ニードルで穴を開けた後、ピアスを装着します。性器ピアスには、アパトラビアやアンパラング・ピアッシング、リバースプリンスアルバートなど、部位によって利用するピアスが違います。

上級者であれば、自分の好きなピアスを自由にはめるかもしれませんが、初心者の場合はしっかりとその部位専用のピアスを装着するようにしましょう。特に無理に大きいものなどは避けましょう。

また同様に重要なのが『日常生活に支障の無いものを選ぶ』という点です。よくある例として、憧れのピアスがカッコイイピアスが私生活では下着の布を引っかけてしまい不便といった場合などです。


性器ピアスを開ける・付ける場所5つ【男性編】



性器ピアスとひと言でいっても、さまざまな種類があります。まず、ここからは男性における性器ピアスを開ける、付ける場所を紹介していきます。

ぜひ、参考にしてみてください。


■@亀頭の縦部分


まずペニスの縦部分、つまり『亀頭の頂点』にピアスにも刺すことが可能です。

『アパトラビア』と呼ばれているピアスは『尿道を貫通させる』スタイルで、男性の性器ピアスの中ではかなり痛みを伴うであろう、上級者のピアスと言えます。

アパトラビアを装着させるためには、必ず勃起させる必要があり、勃起状態から尿道にニードルを貫通させていきます。自らの力でこの部位にピアスを開ける場合、あまりの恐怖になかなか勃起できない、という方も少なくありません。

リスクは高いですが、やりようによっては快楽も伴うと言われているピアスです。ただし非常に危険ななため、必ず専門医に相談しましょう。


■A亀頭のサイド


亀頭のサイドから貫くカタチでピアスを通すパターンもあります。

この部分にピアスを通すことをアンパラング・ピアッシングと言いますが、縦にピアスを貫通させるよりも痛みは幾分無いと言われています。とはいえ、尿道を通るように開けられることが基本であるため、痛みはそれなりに伴います。

■B尿道を通さないカリ部分


『ここまで紹介してきたものは尿道を通すピアス』でしたが、『尿道を通さずにカリ部分につけるピアス』も存在します。

それらはまとめて『ダイドー・ピアッシング』と呼ばれていますが、垂直のパールピアスを中央、またはサイドにつけるのが基本スタイルとなります。

一部、ぐるっと亀頭に複数ピアスを開ける場合もありますが、これを王冠と呼んでおり、上級者の性器ピアスとして好まれています。


■C裏スジ


『ペニスの裏スジ部分につけるピアス』は『フレナム・ピアッシング』と呼ばれており、複数並べると『フレナム・ラダー』という呼び名になります。部族のような攻撃的な見た目が男性に人気のスタイルです。

また裏スジの箇所によっても呼び名は変わり、『ピュビック』『ローラム』など専門用語で呼ばれます。


■D尿道から亀頭部分


尿道を通さないもの、尿道を中心に通すものなど紹介してきましたが、『尿道口を起点として亀頭につけるピアス』も存在し、『リバースプリンスアルバート』と呼ばます。
また『陰茎の外側から尿道口に向けて貫通させる』場合は、『リバースプリンスアルバート』と呼ばれるピアスとなります。

尿道から亀頭を包むように行うため、丸いカーブド・リングが使用されており、見た目にはナチュラルな雰囲気となります。しかし当然、尿道を通過させているため痛みは伴います。

それぞれ実施は、医師に相談する事と、近くに経験者がいれば予め助言を聞いてみるのも良いでしょう。


性器ピアスを開ける・付ける場所6つ【女性編】



ここからは、女性における性器ピアスは付けられる場所を紹介していきます。ぜひ、参考にしてみてください。

■@クリトリス


女性器にピアスを開ける場合、もっともオーソドックスと言われているのがクリトリスへのピアスです。この部位にピアスを開ける場合、尿道などを貫通させているわけではないので、痛みは伴いますが、『男性の亀頭へのピアスのような』の頂上から刺しこんで来るような激しい痛みを伴うことはないでしょう。

とはいえ、非常に敏感な部位であることに間違いはなく、強烈な痛みはあるので注意が必要です。クリトリス自体に開けるピアスのことは『クリトリス・ピアッシング』と呼ばれておりセレブにも人気の非常にポピュラー(性器ピアスの中では)な物です。デザインもオシャレで可愛い物を筆頭に様々な物が売られています。

真偽のほどは不明ですが、特定のハリウッドセレブが付けているとされるクリトリス用ピアスを特集している海外の通販サイトもあるようです。


■Aクリトリスの包皮


クリトリス・ピアッシング『クリトリス自体に開けるパターン』と『包皮にだけに開けるパターン』があります。

包皮にだけに開けるパターンは『フード・ピアッシング』と呼ばれており、クリトリスを貫通させていない分、安全面においてはこちらが優位と言えるでしょう。


■Bクリトリスの縦と横


クリトリス・ピアッシング『縦に刺す場合』と『横に刺す場合』で呼び名が変わります。縦にピアスを貫通させる場合は『バーティカル』と呼ばれており、横は『ホリゾンタル』と呼ばれています。

とはいえ付けるピアスやスタイルも含め「どのようにするか?」を選ぶためには一般的平均より大きいクリトリスを持っている必要があるため、色々な工夫ができる方は極僅かです。

また自分でクリトリスに無理をしてピアスを開けてしまうと、大きなトラブルの原因になりかねませんので、必ず専門医と相談の上、自分にあったスタイルやサイズを検討しましょう。


■C尿道を貫通させる


クリトリスをまたぎ尿道の上から恥丘にピアスを通すスタイルを『イザベラ・ピアッシング』と呼びます。尿道を貫通させるために、神経を傷つけてしまう危険性の高いピアスと言われており、十分な注意と、それ相応の覚悟が必要でしょう。決して無理はしない事です。

■D恥丘や下腹部


恥丘にもピアスを開けることが可能です。クリトリスの上から、恥丘に向けてピアスを通すものを『ネフェルティティ・ピアッシング』と呼んでいますが、陰裂の上部から腹部の下部分に貫通させるタイプもあります。

『ディープ・フード・ピアス』というスタイルに分類されており、『クリスティナ・ピアッシング』などとも呼ばれています。


■E小陰唇や大陰唇


小陰唇部分に開けるピアスは『インナーラビアピアス』と呼ばれており、大陰唇の場合は『アウターラビアピアス』と呼ばれています。

■F尿道内


尿道を通るピアスは女性の場合『プリンセス・アルバーティナ』と呼ばれています。尿道口から膣内を通すため清潔を保つ事が非常に困難であり、女性器ピアスとしては最もリスクが高いと言われてます。

「憧れのプリンセス・アルバーティナのためなら日々のマメなケアの手間暇もいとわない!」という情熱と決心が無い方にはオススメできません。


性器ピアスのセックスの楽しみ方5つ



性器ピアスの最大の目的はセックスをより気持ちよく楽しむためでしょう。ここからは、性器ピアスのセックスの楽しみ方をいくつか紹介していきます。ぜひ、参考にしてみてください。

■@下着の上から楽しむ


性器ピアスは、内部に入ってしまっているものではなく、外部分に付けられているのが一般的です。そのため、普段装着している下着からこんもりとそのシルエットが出てきますので、それを利用したプレイもおすすめです。

例えば、男性であればペニスのシルエットが分かるような下着を装着し、その飛び出したピアス部分を引っ張ってもらうなどして、快楽を得るようにアプローチします。女性も同様に、パンティの上からピアスを刺激してもらうことで、新しい焦らしプレイを楽しむことができるのです。

ただし、ピアスが繊維に引っかかってしまい、強烈な痛みを伴わないように注意しながらプレイを続けてください。


■A性器ピアスを使ったフェラチオやクンニ


性器ピアスは、当然ですが性器部分に装着されているため、フェラチオやクンニなどにも影響を与えます。普通通りにフェラチオをしても楽しめますが、その性器ピアスを舐めたり甘噛みしたりと、普通とは違ったやり方で楽しむとより高い快楽を得ることができるでしょう。

女性器を男性が舐めるクンニにおいても、性器ピアスを引っ張ったり一緒に舐めたり、アレンジを加えながらのプレイで女性に強い快楽刺激を与えることもできるはずです。

■B性器ピアスを意識した挿入


性器ピアスの多くが、挿入時にその威力を発揮します。例えば、男性の場合は突起しているピアス部分が膣内にほど良く引っかかるため、女性側は新鮮な刺激としてセックスを毎回楽しむことができます。

さらに、男性にとっても挿入して性器ピアスが引っかかりとなるため、場合によってはより強い快楽を得ることができるでしょう。

女性器の性器ピアスでは、クリトリスにつけるものが多いですが、挿入されると性器ピアスがクッションとなり、刺激となるためダブルの快楽を得ることが可能です。性器ピアスが、互いの気持ちよい部分を刺激できるようなセックスの仕方をパートナーと研究してみるのもオススメです。


■Cシックスナイン


性器ピアスを男女で装着していた場合、おすすめはシックスナインです。交互に交わり、互いの性器を刺激するプレイスタイルのひとつですが、シックスナイン状態で、性器ピアスを刺激すると、いつどのタイミングで性器ピアスに刺激が来るのかわからないため、より性器が敏感に反応してくれます。

引っ張ったり、舐めたり、いろいろな方法で相手を刺激してみましょう。


■Dアダルトグッズを活用する


性器ピアスそのものは金属ですので、身につけているだけでも、性器を刺激する状態にあります。そのため、性器ピアスをつけているセックスを最大限楽しむためには、アダルトグッズなどを利用するという手もあります。

例えば、バイブレーションなどを性器ピアスに与えることで、金属からの振動が繊細に性器を刺激します。

直接では無いですが、金属を通じてやってくる独特の刺激が焦らし効果を高め、よりセックスを楽しくさせてくれます。性器ピアスを上手に利用することが、普段のセックスのレベルを上げることに繋がるのです。

性器ピアスの危険性と注意点5個



最後に性器ピアスに関する注意点をまとめましたので、確認しておきましょう。

■@消毒などは必ず行う


性器は哺乳類にとって重要な生殖機能を持った器官です。そのため細菌感染などには十分に注意する必要があります。ピアスが不潔だったり、開通作業を専門医の元で行わなかった場合など、様々な要因が重なって炎症を起こしてしまうこともあります。

必ず、消毒や殺菌をしてから貫通させるようにしましょう。


■A出血により日常生活が困難に


性器にピアスを貫通させることに伴う出血は場合によっては相当量になります。なかなか止血に至らず日常生活にも悪影響を及ぼすこともあります。そういった際は傷口が塞がるのを待ち、再度開通作業を行う事も有ります。

■Bチーズカッター現象


女性の性器ピアスの場合、クリトリスが主な装着部分ですが、あまりに小さなピアスをつけるとチーズカッター現象が起こります。小さなピアスの場合、服などに引っかかりやすいため、注意しないと強烈な痛みを伴うことがあります。


■C普通の快楽で満足できなくなる


個人差がありますが、性器ピアスによってセックスで以前より強い快楽が得られる場合もあります。それによってどんどん追加のピアスを開けたくなる方もいます。無謀なチャレンジを続けると、後戻りできなくなるので注意してください。特に凝り性の方は要注意です。

■D一般的に理解されにくい


性器ピアスの愛好者は一定層おりますが、世界的に見てもまだまだ市民権は得られていないと言えます。保守的な日本国民の間ではなおのことです。相手がごくごく一般的なタイプの人物どんなに理由を説明しても相手が理解を示さない可能性は非常に高いと思っていた方が良いかもしれません。

もしも身の回りに性器ピアスの先輩がいらっしゃれば、色々な意見を聞かせていただくのがオススメです。そして実施は、必ず専門医に相談し安全面を確保した上で臨みましょう。


まとめ


ここでは、性器ピアスの開け方やセックスの楽しみ方、注意点などを紹介していきました。性器ピアスは箇所によっては手軽に自分で開けられてしまいますが、やはりリスクの高さはボディピアスの中でも、群を抜いています。必ず、専門医に相談の上、施術を行うようにしてください。

https://in-bee.net/media/articles/257
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/304.html#c1

[近代史3] ヤクザの女はピアス大好き 中川隆
2. 中川隆[-11240] koaQ7Jey 2019年3月24日 12:30:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[770]
性器ピアスを開けた女性とのセックスはとんでもなくエロかった【体験記】
https://pan-pan.co/detail/134791


皆さんは性器にピアスを開けている女性とセックスしたことはあるでしょうか。おそらくそんなに多くないと思いますし、実際にそんな女性を目の当たりにすると驚くでしょう。でも実際、性器にピアスを開けるような女性は変態が多く、そんな変態とのセックスは常人にはないエロさを持っているんです。そこで今回は、僕が実際に性器ピアスを開けている女性とセックスをしたときのリアルな体験談をお話しします。

性器ピアスとは

そもそも性器ピアスが何かご存知でしょうか。性器ピアスとはその名の通り、性器の敏感な部位に穴を開けるボディーピアスの一種です。開ける瞬間は普通のピアスよりも格段に痛いですが、珍しさやデザインの豊富さなどオシャレを追求した結果辿り着く境地ともいえます。

さらに性器ピアスには感度が増す効果もあり、セックスで得られる性的刺激をもっと激しくする役割もあるので、普通のセックスに飽きてきた人は性器ピアスを開けたがるようになります。また、セックスの時に相手の男性に自分の性器を見せたときの反応を楽しむ人もいるようです。普段見えない部分にこそオシャレなピアスがより映えるんですね。

性器ピアスを開けるには

性器ピアスを開ける方法として一般的なのは病院やクリニックの専門の人に任せる方法です。耳と違って敏感かつ複雑な器官ですので、誤ったやり方や部位、衛生管理がきちんとされていないと大きな事故につながります。

セルフでやったり、彼氏に勧められて勢いで開けたりする人も多いですが、きちんと専門の人に相談してから判断しましょう。性的快感が増すのかどうかなど、性器ピアスの効果も人それぞれなので、開ければ良いと言う訳ではありません。

性器ピアスをあけた女性と出会ったのは

僕は職場が男ばかりで数少ない女性もおばさんしかいませんでした。そんな出会いに恵まれない環境に嫌気が差し、出会い系アプリを使うようになったんですが、そこで気が合いこまめに連絡を取り合うようになった女性がいました。彼女も僕と同い年で、住んでいる地域が近かったので共通点も多く趣味も合いそうだなと思い、勇気を出して「会いませんか?」とお誘いしました。

すると彼女は快く会うことを承諾し、念願の初デートが決まります。学生の頃以来のデートで少し緊張していましたが、まさか出会い系アプリでこんなに良い女性と出会えるとはラッキーだと実感しましたね。決して自分が他の男性よりもモテるわけではないんだろうけど、恋愛は運やタイミングが重要で、僕はまさに彼女と結ばれる運命だったのかもしれない、このときは完全にそう信じていました。

性器ピアスをあけた女性はドMの変態ビッチだった

そして迎えたデート当日、現れた女性は普通に可愛い清楚な女性でした。メッセージの感じもいい人そうだったし見た目も悪くない、それどころか歴代彼女を抜いて可愛いかもしれないです。デートでは水族館やカフェなどありきたりのデートスポットをまわっていましたが、どこか彼女は上の空で様子がおかしかったんです。

「大丈夫?」と聞いてみると、「ちょっと疲れちゃった(笑)」と可愛らしく答える彼女、なら今日はここでお開きにして帰ろうとしますが、どうやらそういうことではなかったようです。彼女の言わんとしていることを察した僕は、近くのホテルにチェックイン。夕方にもかかわらず彼女と激しいセックスを楽しむことになりました。

彼女との変態プレイによって覚醒する僕

性欲が強いのかな、と思っていたのですが、彼女が服を脱ぐとおへそにピアスが開けられており、とてもそんな風に見えなかったので驚きました。僕がへそピアスに驚いている様子を見て嬉しそうにしている彼女はさらにパンツを脱ぎ、性器(クリトリス)に開けられたピアスを僕に見せつけてきます。初めてそんな人と遭遇し、性器ピアスの女性とセックスをする。少しの不安とワクワクが入り交じっていましたが、プレイが始まれば彼女は存分にMっ気を発揮し、陵辱を求め性器のピアスをいじくるように指示してきます。

とても痛そうでしたが彼女にとってはその痛みでさえも快感に変わるようで、最終的には全身を縛り上げて辱めを与えながら挿入し、彼女は快感で体をよじらせながら喘いでいました。そこに最初に抱いた清楚で可愛らしい彼女の面影は一切無く、あるのは変態ドM女でした。でもそんなセックスは生まれて初めてで、同時に僕の中で新しい何かが目覚めたような気がします。

性器ピアスをあけているAV女優

実際に性器にピアスを開けている女性のセックスがどんなものなのか、気になる方のために性器ピアスを開けているAV女優さん達をご紹介します。あくまでも作品ではありますが、イメージは何となく掴む事が出来ますし、普通のセックスとは違った楽しみ方を味わえます。


性器ピアスを開けているAV女優:杠えな

アイドルのような可愛らしいルックスとは裏腹に、ドM気質で痛さや苦しみに快楽を感じるという完全に変態的性癖の持ち主であえる「杠えな」。彼女の変態っぷりを味わえるおすすめ作品は『どM発掘。性器ピアスをつけた変態銀行員』です。こちらは子宮の奥にバイブを突っ込まれたり、ビンタされるシーンが印象的ですね!


ASAMI
乳首ピアスといえばこの人という程印象的なのはASAMIではないでしょうか。パンクでドMな変態女というキャッチコピーで有名であり、両乳首をデカいピアスが貫通してつながっているのはまさに度を超えた変態の証です。

この他にも乳首に電流を流したり、ファミレスで乳首を晒しながらダンスを踊るなど、様々な奇行が楽しめるのは『巨大な乳首ピアスがキーホルダー 衝撃!乳首ピアスの変態女 ASAMI パンクでドMな変態女〜アナーキーインザHENTAI〜』です。性器にピアスを開けるということは、これ位ぶっ飛んでいるんだと思ってもらって構いません。彼女の変態っぷりを是非ご堪能あれ。

石原莉奈
陵辱もので圧倒的支持のある石原莉奈が、乳首にピアスを開けてご主人様に服従する姿は最高の興奮シーンです。特に淫乱なセリフを吐きながらのプレイやねっとりした舌の絡み合いは圧巻で、ピアスを開けるまでの過程まで楽しめるのは貴重でしょう。石原莉奈の『マゾに目覚めた女2』はまさに性器ピアスを開けた女性がどんどんマゾになっていって、セックスも激しくなる様子を楽しめます。

まとめ:性器ピアスを開けている女性はドMビッチだった

やはり性器にピアスを開けるということは、痛みに快感を覚えたり、普通のセックスに飽き足りした人が行う行為であり、共通しているのは病気レベルのセックス好きであるということでしょう。そんな女性ですから当然プレイもドM全開ですし、色んな男とセックスを楽しみたいのですからビッチとも言われてしまします。僕のように初対面は清楚っぽかったのに、いざセックスすると変態だったということもあるので、性器ピアスをしているかどうかも判断材料にしてセックスを楽しんで下さい。以上、panpan(パンパン)編集部からのお届けでした。

https://pan-pan.co/detail/134791
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/304.html#c2

[近代史3] ヤクザの女はピアス大好き 中川隆
3. 中川隆[-11239] koaQ7Jey 2019年3月24日 12:33:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[771]
女性の性器ピアスに迫る:2016/3/20
http://www.trisalford.info/2359/


■性器ピアスって知ってる?

皆さんはボディピアスってしていますか?
自分は耳すら穴を空けてない野郎なんですけど、今は男女とも気軽にボディピアスをしてますよね。

唇やおへそにピアスをするのはファッションのひとつとして取り入れられつつあります。
苦手な人にとってはボディピアスって恐怖だったり痛そうだったりしますけどねw

鼻や唇に大きなピアスをしている人を見てビビっている人にとっては恐ろしい話ですが……。
さらに凄い「性器ピアス」っていうのもあるのをご存知でしょうか?

もうね、文字で見たまんまですw
敏感なアソコにピアス穴を空けて、オシャレなものをぶら下げるんですよ。

頭部やおへそと違ってほとんど人に見られない部分なのに、なぜ性器ピアスを付けるのか。
具体的にどんなピアスを開けているのか。

今回は女性の性器ピアスについて注目していきたいと思います。
苦手な方はこれ以上、ページを進めないほうが良いかもしれません。

逆に、彼女に性器ピアスを空けたいと思っている人や自分で空けたい女性の検討する参考になれば幸いです。

■男も女も開ける「ニップルピアス」(乳首ピアス)

M系男女が空けがちな性器ピアスの代表といえばニップルピアスですよね。
自分の友だちにも「彼女に乳首ピアスをしてほしいって交渉中」と言ってましたw

名前の通り、おっぱいの先、乳首につけるピアスですね。

陵辱系の同人誌なんかでも、屈辱の象徴みたいにニップルピアスを付けてますよね。

ニップルピアスに限りませんが、性器ピアスには「征服感」を伴うんですよ。
だからドSは恋人にニップルピアスをしてほしいし、ドMは恋人のために付けたい。

もちろんファッションの延長線上でニップルピアスをする人もいます。

ただ見た目の可愛らしさだけで空けたい・空けさせたい人はご注意を。

乳首はエッチの際に愛撫することの多い部位です。
その際にニップルピアスは正直、とても邪魔になってしまいます……!

せっかく忠誠を誓うために付けたのに、興醒めアイテムになってしまったら悲しいですよね。
他のボディピアスに比べても性器ピアスは治癒しにくいですから、デメリットも考慮して検討しましょう。

■感度アップを期待する「クリトリスピアス」

高度なドMが挑むクリトリスピアス。
ボディピアス愛好家にとっても注目の部位だと聞きました。

まあ名前を見て分かる通り、クリトリスに穴を空けてピアスをしちゃうってこと……。
クリトリスピアスは直接クリトリスにする人もいれば、剥いた皮にする人もいるらしいですね。

クリトリスピアスに関しては、クリトリスの大きさによってできない場合があるそうです。
また敏感な部分だけに、穴を空ける時なかなか衝撃的な痛みが走るらしい……。

安定するまでは違和感が続いて、ピタッとしたパンツを穿けないという話もありました。

さて、気になるのは「敏感な部分がさらに敏感になるのか?」という点です。

直接体験したわけではないので聞きかじった限りではありますが……。
ぶっちゃけ急激に感度アップがあることはないんだとか。

ただ、クリトリスピアスをしちゃうくらいのM女なら、痛みもスパイスのひとつでしょう。
敏感な部分に繋がったピアスの刺激に悶えているうちにアソコがムズムズしてきちゃうかも!?

■彼のための貞操帯「ラビアピアス」

こちらも性器ピアスの定番といえるかもしれないラビアピアス。
女性器の貝部分というか、あのビラビラしたラビアに、ピアスをつけちゃおうっていうのがコレです!

女性器のビラビラにピアスを付けて、大切なご主人様だけのもの、という証にします。

プロのM女にもなると、ラビアピアスは単なる飾りではありません。
ピアスを繋げて南京錠で閉ざしてしまう、貞操帯みたいな使い方をしちゃう人もいるんだとか。

ご主人様が外してくれるまで自分の指すら入れることができません。
そうしておねだりする雌豚に、男は興奮してしまうのでしょう。

さらにはヒモで結んでみたり、チャームなどをぶら下げたり。
ラビアピアスはそのものだけでなく、応用も楽しめる性器ピアスなんですね。

■人はなぜ性器ピアスをするのか(させたいのか)

ニップルピアス

他のボディピアスと違い、大切な人くらいしか見られない部分のピアス。
だからこそ、そこには当人同士の強い絆があるんですね。

性器ピアスを付けさせることでご主人様は征服感を得ます。
そして敏感な部分にボディピアスをした女性は、ご主人様への忠誠心を得ます。

あえていえば、セックスアピールというか、お互いだけの性器ファッションみたいなもの。

利便性を考えれば不便なことばかりです。
これから乳首・ラビア・クリトリスなどに穴を空けるなら、その点も考えなければなりません。

ケアを怠ると感染の危険があるため、日頃から意識しなければなりません。
下着をしているとはいえ擦れやすい部分ですから、痛みを伴うこともあるでしょう。
ラビアピアスやクリトリスピアスをしたら自転車に乗る時も注意が必要です。
ピアスはあまり無茶をすると切れてしまうこともありますから、乱暴はできません。
タトゥーよりも衝撃的な性器ピアスは、銭湯や温泉にも入れないかも……。
そもそも、ご主人様以外の男性は性器ピアスに嫌悪感を抱くかもしれない……。

それでも、やっぱり性器ピアスの魅力が勝る男女はいるんです。
不便より痛みより、心の繋がりを感じる性器ピアスがいいんですよね。

まだ迷っている人、初めてボディピアスに興味を持った人。
ぜひメリット、デメリットを考えて、自分に最適な結論を出してくださいな。

追記(2016/09/20):性器ピアス好き・全身タトゥー好きにオススメ風俗情報!

実際に自分自身、ボディ改造を施した淫乱美女とのエッチなプレイを楽しみました!
世の中には、タトゥーやボディピアスを専門とする風俗店も存在するのです!!

http://www.trisalford.info/2359/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/304.html#c3

[近代史3] ヤクザの女はピアス大好き 中川隆
4. 中川隆[-11238] koaQ7Jey 2019年3月24日 12:34:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[772]

「私、クリトリスにピアスを開けています」ドМ女性が赤裸々告白【体験記】
https://pan-pan.co/detail/133874


「クリトリスにピアスを開けている」と聞くと理解しがたい気持ちになる方がほとんどだと思います。普通のピアスでも開けるときは痛いのに、ましてあんな敏感な部位によく開けられるなと呆れる方も少なくありません。でも性器にピアスを開けている人が世間に一定数いるということは、開けた人にしか分からない良さがあるからですよね。以下、私がクリトリスにピアスを開けた経験談を赤裸々に綴っていきたいと思います。

クリトリスにピアスを開けることになった経緯
クリトリスにピアスを開けることになった経緯
そもそもなぜクリトリスにピアスを開けようと思うのでしょうか。普段他人に見られるような部位ではないのでオシャレ感覚にしては不適切な気がしますよね。そこで実際にピアスを開けている人を知っている人の声も一緒に聞いて下さい。


こちらは有名なAV男優さんのコメントですが、クリトリスにピアスを開けると私生活の何気ない動作でも快感を得ることが多くなります。実際自転車に乗ると、まさにサドルとの摩擦で手マン状態が永遠に続くような感覚になり、常にいやらしいことを考えているようなスケベな方にはうってつけです。

現に私ももっと感度を良くしてセックスを楽しみたい、相手に見せる時にオシャレだと思われたいという気持ちがピアスを開けるに至った経緯です。


自分の性器ピアスに見慣れ、もの足りなさを感じていたので、相手の感度UP期待出来て、見た目も可愛いくてエロい(笑)
引用:ボディピアッシング.JP


また、クリトリスにピアスを開けると感度も良くなってセックスがより楽しくなるというメリットもあります。さらに性行為の際に相手の男性に見られるので、他の女性とは一線を画すインパクトを与える事が出来るでしょう。

クリトリスにピアスを開ける時の注意点
ここまで読んでクリトリスなどの性器にピアスを開ける事に興味を持った方もいるかと思いますが、何の下調べもせずに開けようと思うのは危険です。なぜならクリトリスなどの性器へのピアスは完全に仕上がるまで時間がかかりますし、痛みも耳に開けるのとは訳が違います。さらに骨格によっては性的快感を得にくい人もいるので、ピアスの効果はまちまちです。

クリトリスにピアスを開ける際、自分でやっては絶対にダメ
もしそれでもクリトリスにピアスを開けたいと思うのであれば、きちんと病院に行って医師に相談しましょう。よく彼氏が強引に誘って開けようとしてくるカップルがいますが、素人が敏感な部位にピアスを開けるのは非常にリスクが高いです。衛生管理や開けるポイントなど考慮すべき点が多いので、専門の方と相談して施術するようにして下さい。

クリトリスにピアスを開ける際の痛みの有無
クリトリスにピアスを開けるとなると、気になるのはやはりどれくらいの痛さなのかでしょう。かなり敏感な器官なので、そんなところに穴を開けるなんて想像もつかないですよね。実際にピアスを開けた人の声を見てみましょう。


意味不明な悲鳴をあげてしまいました(汗)
アソコからフトモモにかけて電流が流れましたよ・・・・・
涙も出ちゃって大変だったけど、痛みはすぐにマシになりました。

引用:かの的きまぐれ日記


この方がおっしゃるように、想像を絶するような痛みが一瞬にして走ります。ただし痛みは割とすぐに引いて、貫通した瞬間さえ我慢できれば大丈夫です。また、人によって痛覚も若干異なりますし、クリトリスのピアスに対する情熱があれば、痛みなんて大したこと無いと言う人も案外多いです。

クリトリスにピアスを開ける際の費用
さらに気になるのはクリトリスにピアスを開ける際の費用ですが、ボディピアスに定評のある大きな美容外科の費用相場を見ると、15,000円からとなっていました。性器以外のボディピアスは1律10,000円だったのを見ると、部位によってはデリケートなため費用も若干高くなるようです。

費用等を詳しく知りたい方はこちら⇒青山セレスクリニックHP

クリトリスにピアスを開けて良かった事
クリトリスにピアスを開けると、今まではありえなかったような恩恵を受ける事が出来ます。例えば性行為の際も感度が良くなる点もありますが、パンツを脱ぐとひと際目立つピアスの存在によって、相手の男性が物珍しさに女性の性器に釘付けとなります。ただし漫画のようにピアスを引っ張ったりするのではなく、行為の際はピアスを外してのプレイになりますのでご注意を。

クリトリスにピアスを開けてちょっと後悔していること
ここまで読むとメリットばかりなイメージを持たれるかもしれませんが、当然クリトリスにピアスを開ける事で起きる弊害もあります。例えばおしっこの際にあちこちに飛散してしまうことであったり、パンツによってはピアスが引っかかって着脱しにくかったりします。ただ、そんなことさえも気にならないくらいこのピアスを気に入っています。

クリトリスの次にピアスを開けたいと思っているところ
クリトリスにピアスを開ける人は珍しいかもしれませんが、実は私はまだクリトリス以外だと耳にしか開けた事がありません。衝動的にクリトリスに開けてしまいましたが、この快感に病みつきになったので、もっと他の部位にもピアスを開けたいと思っています。

具体的にどこにピアスを開けたいかというと、舌と乳首とラビアピアスと呼ばれる性器の別の部位の3カ所です。舌は性行為の際に舐めるプレイのときにピアスの感覚を相手にも共有したいと思ったからです。次に乳首ですが、こちらは個人的にSMプレイが好きなので、そのプレイの幅を広げるためにも乳首ピアスがあれば痛みや快感をより強く感じれるからですね。

最後にラビアピアスに関してですが、このピアスは彼に対する貞操帯とも呼ばれる部位で、南京錠で性器を閉じる事も可能になります。つまり、他の男にはまんこに指すら入れさせないという姿勢を表すこともでき、ご主人様プレイの究極系を楽しむ事が出来るんです。

まとめ:クリトリスにピアスを開けて良かったです
以上がクリトリスにピアスを開けた体験談でした。私のように根っからのM気質で、今の性行為に物足りなさや飽きを感じるのであれば、是非ともクリトリスなどの性器にピアスを開けることも検討してみてはいかがでしょうか。最初は不安かもしれませんが、今までのセックスが退屈に思える程刺激的で、他の人には味わえない快感を味わえちゃいますよ。以上、panpan(パンパン)編集部からのお届けでした。

https://pan-pan.co/detail/133874
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/304.html#c4

[近代史3] ヤクザは女性に言う事をなんでも聞かせる為に刺青をしている 中川隆
14. 中川隆[-11237] koaQ7Jey 2019年3月24日 12:46:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[773]
妻が乳首とクリトリスにピアスされ無許可でAV販売されてた件wwwwwwwwwhttp://infomgitaiken.blog.fc2.com/blog-entry-12957.html


私は30歳妻は26歳。

結婚して7年になり6歳の娘がいる3人家族。

この掲示板でも似たような投稿を見かけたが

妻の性格は無頓着で天然な感じだ。

私は去年仕事の都合で半年間単身赴任だった

妻の無頓着ぶりは慣れっこで

家事はちゃんとしてくれている妻だったので

さほど心配せず単身赴任に行った。

帰ってきたのは年末の忙しい時期

だがそのままちょうど会社も年末年始の休暇に入り

私は家に帰った。

妻と娘が出迎える

懐かしいなぁ〜

娘は成長していた




私のことを忘れていたらどうしよう等と心配していたが

「パパ〜」と駆け寄ってくる娘を見てその心配は吹っ飛んだ。

妻も変わらずやさしい笑顔で「おかえりぃ〜」と出迎える

その時は、まだ妻の異変には気づかなかった…

その夜…

実は年明け早々私達は学生時代の妻の友人の結婚式に招待されていた

私は何度か結婚式にも出ていて衣装はあるのだが、

妻はしばらくぶりで衣装は無く、

先日ドレスを購入しに行ったとのことだった

私はどんなのを買ったのか見たかった、

妻の事だからマナーとか無視した感じの服だと困るからだ。

「じゃ、ちょっと待って〜着替えてくるよー」

と言って妻は部屋に行った

しばらくすると

「お待たせ〜」と言って妻が現れた。

妻が着たドレスはシックな感じの黒で

チューブトップみたいなふうな肩紐の無いドレスでやや透けていた

妻にしてはちゃんとした物を選んだな、という感じだった。

「でもさ、ちょっと胸の部分がキツイんだよね〜」と言いながら笑っている。

この手のタイプのドレスは肩紐が無いのでずり落ちやすいらしく、

それを防ぐためか胸の部分はゴムが入っているらしい。

それもあるが、妻は胸がEカップほどあるので

締め付けられる感じで余計にキツく感じたのかも知れない。

「まぁこんな感じだよぉ」

なんて言いながら話を終えると妻はその場でドレスを脱ぎだした(笑)

まぁ、家の中だし妻の性格だからさして気にしないのだろう

下はGパンをはいていたが上は服を脱いでいた

(ドレスを着てみせるだけなのだから当然か…)

妻がドレスを脱ぎ終わった時、私は目を疑った…

妻の左の乳房に蝶が描かれていた

更にそれだけではない、

ドレスを着るためブラを外していた妻の乳首には

左右にリングのピアスが光っていた…。

タトゥはシールという可能性もあるがピアスはフェイクと言う事は考えにくい…

私は妻に尋ねた

「それ…胸のタトゥとピアスどうしたの?いままでしてなかったよな?」

すると妻は

「あ、気づいた?うん、そうなんだ綺麗でしょ?お店でしてもらったんだよ」と言う

私は「タトゥは…シール?」と聞くと

妻は「ううん、違うよ」と言う

それから妻に詳しく話を聞いた、普通なら浮気を疑う状況かも知れない…

妻の話だとこうだった

ここからは妻に聞いた内容を書く

結婚式のドレスを買いに、あるショップへ行った

その帰りに街で、ある女性に声をかけられたと言う

女性は、新作のアクセサリーのモニターをして欲しいと頼んだそうだ

妻はアクセサリーを持っていなかったので調度よかったらしく引き受けたという

すると声をかけたのとは別の女性がもう一人居て「モニターの様子を記録したいのでカメラでの撮影は良いですか?顔は映しませんから」と言ってきたそうだ

妻は「顔が映らないなら」と承諾したらしい

実はその様子を撮影したDVDが妻に送られてきていたのだが、

妻はそういう機械系の操作は全くできず見ないまま放置していたらしい。

妻は「私見方わかんないし、パパ見れるでしょ?後でみる?」

と言う妻からDVDを受け取った

その夜、私はパソコンでそれを再生した

画面が映し出された

どうやら車の中らしい

妻がカメラに映っていた

少し緊張している様だった

妻の話では顔は映さないといわれたらしいが、

目線に薄いモザイクがある程度で割りとはっきり映っていた…

見る人がみれば妻だとわかるだろう

女性「では、お名前と年齢をお願いします」

妻「○○です、26歳です」

名前のところはピー入りだった

恐らく本名を名乗ったのだろう

女性「はい、○○さんですね、本日はアクセサリーのモニターありがとうございます、先ほど当社の女性スタッフから伺ったと思いますが今年の新作アクセサリーのモニターさんと言う事で来てもらいました、では早速つけてみましょう」

と言うと女性はケースからリングのピアスを取り出した

ピアスにはグリーンのライトストーンがついていた

妻「これですか?、なんだろう初めて見ます」

女性「あら?ご存知ないですか?ピアスですよ?」

妻「あ〜、これがピアスなんですね、私今までしたことも無いから初めて見ます」

女性「じゃあ、服を脱いでもらって良いですか?」

妻「え?どうしてですか?」

女性「これはニップルピアスと言って乳首にするピアスなんです」

妻「あ〜乳首ですか、そんなところにもピアスできるんですね」

女性「最近は若い女の子の間で流行ってますよー」

普通の人なら乳首ピアスって時点で信じられない!

と言って帰って行きそうだが

妻は最初にも書いたが、ああいう性格なので気にならなかったらしい…

女性「はい、では脱いで下さい」

そう言うと妻は服を脱いだ

ブラをしていなかった妻のおっぱいがボロンと飛び出した

女性「大きいですね〜何カップですか?」

妻「EかFぐらいです…あんましブラしないからわからなくて」

女性「うらやましいです、しかも綺麗な形ですし、あ、じゃあ早速つけてみましょうね」

妻「はい、お願いしま〜す」、

女性は針みたいなのを取り出した、

ニードル(ピアッサーよりもあけやすい器具)だろう

女性「ちょっとチクッとします、一瞬ですから」

妻「はい、じゃあ目瞑ってます(笑)」

するとカメラは妻の乳首付近にアップとなり、ピアスが貫通する様子を映した

鮮やかに妻の左の乳首にピアスが通った

女性「はい、次は右ですよ〜」

右も変わらず鮮やかな手つきでピアスをあけた

女性「はい、終わりましたぁ、見てみてください」

妻「凄〜い、綺麗ですね、ありがとうございます、今度結婚式に出るので調度良い感じです(笑)」

女性「あら、そうなんですか?じゃあ是非アートメイクなんてどうですか?ドレスを着て肌が露出する部分にワンポイントで模様を描いてみる感じなんです」

妻「良いですね、やってみたいかも」

女性「じゃあ、やってみましょうきっと綺麗ですよ、ピアスのモニターしてくれたからアートメイクは無料で良いので!

近くにスタジオがあるのでそちらに移動しますね」

そこで一旦画面は暗くなる

数秒後、どこかの室内だろうか?

女性「はい、ではこれからアートメークなんですが、

まずどんな模様にするか決めましょう」

するとまた別の女性が来て妻に本のようなものを渡した

女性「この中から選んでください」

カメラは模様を選ぶ妻も映していた

少しして

妻「じゃあ、これ、この蝶の模様が良いです」

女性「分かりました、じゃあさっそくやっていきましょうか…あ、どこに描きますか?場所決めてないですね(笑)」

妻「どこが良いんだろう、どこが良いとかあるんですか?」

女性「そうですね、一般的には胸の乳房の部分にする方が多いですよ」

妻「じゃあそこにします」

女性「分かりました、では始めましょう、また服脱いでもらっていいですか?」

妻「あ、は〜い」

すると先ほどピアスをつけた妻の胸があらわになった

また別の女性が奥から色々持って現れた、恐らく彫り師だろう

女性「まず下絵を描いてから本番で描いていきます、

後はこちらの方がしてくれるので私は外に出てますね

終わったら呼んでください」

そういい残すと女性は部屋の外へ出た

カメラには残った妻と彫り師の女性が映る

彫り師「じゃあ、よろしくお願いします」

そう言うと作業に取り掛かった

まずは下絵を妻の胸の部分に描いてゆく…

そしていよいよ「彫り」に入る

ジージーと墨の針が音を立てながら妻の胸に蝶の模様が彫られていく

妻は「あっ」とか「うぅ〜」とか声を出しながら痛みに耐えていた

一応麻酔?のような痛みを和らげるクリームみたいなのをぬってくれていたが、

それでも痛いらしい

そして、ついに完成した

妻のおっぱいに蝶が華麗に舞っている

先ほどの女性も入ってきた

女性「わぁ〜すごい、綺麗ですね、似合ってますよ」

妻「ありがとうございます」

そして映像は終わっていった

とにかく何と言っていいか…衝撃だった

後々確認したが、妻はちゃんと合意書にサインしていた…

つまりは無理矢理彫られた、とかは言えないのだ

そして更に衝撃だったのが、この映像がAVとして出回っていることだった

要するに、一種のフェチやマニア向けのレーベルとして作品を出していた

しかも、それだけではなかった

映像には収録されていないが、

妻はピアスのシーンでクリトリスフードとラビアにもピアスをされていた

妻は私の趣味的なものもあってパイパンにしてあった、

しかも剃るのが面倒で数年前永久脱毛をさせた

妻の話だと、ヘアーが無いならピアスで綺麗に飾るのも良いかもしれませんよ、

と言われあけてもらったのだと言う

そして先日、偶然ネットでその、

妻の性器へのピアスシーンの動画を見つけてしまった

よくよく調べると、その映像はDVDには収録されない、

ネット限定配信のもだったのようだ

長文、乱文すみません

しかしこれは実話です
http://infomgitaiken.blog.fc2.com/blog-entry-12957.html

クリに光る婚約ピアス

俺が大学4年の頃、初体験から1年しか経っていない恋人の千里は高3の女の子だった。
ちょっとイモっぽいが無垢そうな可愛さがあった。

処女からじっくり性を開いてきたつもりだったが、俺が未熟なのか、「私、恥ずかしくって、まだ思い切りセックスを楽しめないんです」と言う千里に、俺は『クリマドンナ』と言うクリを吸引しながら振動を加えるグッズを試した。

「性感を高めるために、少しSMみたいなこともしてみようね」

そう言って、開脚したまま腕を膝と肘に縛って閉じなくして、徹底的にクンニで感じさせた後、ローションをたっぷり塗ったクリにクリマドンナのポンプが吸い付き、吸着面にくまなく振動が与えられと、グググッと吸い上げられて伸びたクリが震えた。

「うわぁ!あ、ああ、こ・・・こんな・・・あうっっ・・・はぁん・・・んんっ!・・・と・・・取って・・・ダ・・・ダメ・・・っ!・・・うぐぅ!」

千里の無垢な顔が歪み、呼吸が乱れ、これまで感じたことの無い強烈な刺激に腰がガクガク痙攣した。

吸引されたクリは包皮を飛び出し1cm近く伸びているように見え、そこにバイブレーターが併設されているのだから相当な刺激なのだろう。

「もうダメ・・・取って・・・止めてぇっ・・・あぁ・・・あぁ・・・あぁ・・・あああああーーーーーっ!」

千里は全身を痙攣させ、ヨダレを流しながら全身を硬直させたので、クリマドンナを止めたが、千里は完全にイッていた。

ビクッ、ビククッとそれでもしばらく痙攣が止まらなかった。

縛りを解いてクリを舐めてやろうと思ったら、クリマドンナを外してもクリの伸びは収まっても肥大して包皮から出っ放しで、ペロンと舐めたら、「くひぅーーーっ!」と仰け反った。

「な、何これ、私のクリちゃん、凄く感じるようになってる」
舌先でそっと触れるだけで・・・。
「くぁ・・・んひぃ・・・ひぃっ!」

千里はクリのあまりの快感に戸惑っていた。

俺は、千里のマンコにチンポを根元まで入れて、チンポの根元で千里のクリをコネるように腰をグラインドさせた。

「やあぁっ・・・あぁっ・・・あぁっ・・・あぁっ・・・あぁっーーーーーっ・・・くひぃ・・・ひぁっーーーーっ!!」

マンコの中からブジュルブジュルと汁を出しながらチンポを締め付け、まるで性を知り尽くした人妻のように乱れ、シーツを握り締めて仰け反った。
慌てて生入れのチンポを抜いて、精液を千里にかけた。

「はぁ・・・はぁ・・・何・・・コレ・・・はぁ・・・はぁ・・・」

千里は息も絶え絶えになっていた。

クリマドンナで吸い上げられたクリは数時間で包皮の中に戻っていくが、先端が完全に隠れるのにしばらくかかるらしく、いつまでも擦れるのか千里はモジモジしていた。

これ以来、千里はデートでクリマドンナを見せると怯えた表情になったが、数分してスカートを捲ると、クリの吸引と振動の期待に、パンティをぐっしょり濡らして頬を赤らめるようになっていた。

俺は千里に思い切りセックスを楽しむために快楽を教えようとしたのだが、もしかしたら俺は、千里をマゾ化してしまったのだろうか・・・。

俺が卒業する時、千里も高校を卒業してお互い社会人になった。

俺は90km離れた地元に帰ってしまったので、千里と会えるのは週末だけになった。
会えないとなおさら会いたくなるもので、会えば千里を縛り上げてクリマドンナを吸着しっぱなしにした。

「ひっ・・・あっ・・・ああっ・・・がっ・・・きぁっ!・・・んっ・・・んぅっーーーっ・・・ダ・・・ダメ・・・あぁぁ・・・あぁぁぁ・・・ああっーーっ!」

クリ責め地獄で千里を狂わせ、あまりの責めに潮を噴き、羞恥にまみれた姿を晒した。

それでも千里は俺と別れるとは絶対言わず、ひたすら拷問のような快楽を受け入れる淫乱な時間を過ごした。

そして千里が21歳になった時、気付けば千里のクリは包皮に戻ることなく、赤く肥大して5mmほどの突起物となって飛び出したままになっていた。
俺は、千里に一つ提案した。

「これ、お前の肥大したクリトリスに装着してみないか?」
「これ、ピアス・・・アソコに穴開けるの?痛いわよ。変態じゃない?」
「こういうのしてくれる医療機関があるんだ。これ、婚約ピアスのつもりなんだけど・・・」

「え・・・お嫁さんにしてくれるの・・・う・・・ううぅ・・・嬉しい・・・」

医療機関でクリにピアスをつけた新妻は、パンティの上からピアスを弄ってやるだけでヌルヌルになって、いつでも即入れが出来た。
俺たちは常にやりっ放しの新婚時代を過ごした。

パンツの中にピンクローターを入れてピアスに当ててスイッチオン!すれば、膝をガクガクさせながら座り込み、「んぅうぁうぁうぁーーーっ!」とうつ伏せに倒れ込み、腰をヒクつかせながらもんどり打ち、悲しそうな目でチンポを求めた。
スカートを剥ぎ取ると、パンティだけでは吸収できなかった汁が内股に伝いヌラヌラと光っていた。

パンティを脱がせて生チンポを入れると、「あっ・・・くぅ〜っ!あぁっ!あぅ〜ん・・・あ・・・あ〜っ」と大喜びだから、ついつい中にドクドク出してしまうのだ。

現在俺は30歳、千里は26歳、子供1歳半、結婚して4年が過ぎた。
今はもう、クリマドンナは使っていない。

既に赤く肥大して元に戻らない上にクリにはピアスが通っていて、このピアスに知恵の輪のように数本繋がったリングを引っかけて、ピンクローターをぶら下げて振動させてやる。

「いやぁ〜っ!も〜ダメェ・・・イク・・・イク・・・イッちゃう〜っ!ああぁぁ〜っ!」

狂喜した千里が汁を滴らせ、リングから飛沫を上げてイキ狂うのだった。
ちょっとイモっぽいが無垢そうな可愛い女子高生は、10年過ぎた今でもイモっぽく無垢そうな可愛いお母さんだが、赤く肥大したクリにピアスを光らせる淫乱妻へと進化していた。

やはり俺は、千里をマゾ化してしまっていたようだった。
http://seiai.xyz/post.php?id=003083

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/194.html#c14

[近代史3] ヤクザの女はピアス大好き 中川隆
5. 中川隆[-11236] koaQ7Jey 2019年3月24日 12:47:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[774]

妻が乳首とクリトリスにピアスされ無許可でAV販売されてた件wwwwwwwwwhttp://infomgitaiken.blog.fc2.com/blog-entry-12957.html


私は30歳妻は26歳。

結婚して7年になり6歳の娘がいる3人家族。

この掲示板でも似たような投稿を見かけたが

妻の性格は無頓着で天然な感じだ。

私は去年仕事の都合で半年間単身赴任だった

妻の無頓着ぶりは慣れっこで

家事はちゃんとしてくれている妻だったので

さほど心配せず単身赴任に行った。

帰ってきたのは年末の忙しい時期

だがそのままちょうど会社も年末年始の休暇に入り

私は家に帰った。

妻と娘が出迎える

懐かしいなぁ〜

娘は成長していた

私のことを忘れていたらどうしよう等と心配していたが

「パパ〜」と駆け寄ってくる娘を見てその心配は吹っ飛んだ。

妻も変わらずやさしい笑顔で「おかえりぃ〜」と出迎える

その時は、まだ妻の異変には気づかなかった…

その夜…

実は年明け早々私達は学生時代の妻の友人の結婚式に招待されていた

私は何度か結婚式にも出ていて衣装はあるのだが、

妻はしばらくぶりで衣装は無く、

先日ドレスを購入しに行ったとのことだった

私はどんなのを買ったのか見たかった、

妻の事だからマナーとか無視した感じの服だと困るからだ。

「じゃ、ちょっと待って〜着替えてくるよー」

と言って妻は部屋に行った

しばらくすると

「お待たせ〜」と言って妻が現れた。

妻が着たドレスはシックな感じの黒で

チューブトップみたいなふうな肩紐の無いドレスでやや透けていた

妻にしてはちゃんとした物を選んだな、という感じだった。

「でもさ、ちょっと胸の部分がキツイんだよね〜」と言いながら笑っている。

この手のタイプのドレスは肩紐が無いのでずり落ちやすいらしく、

それを防ぐためか胸の部分はゴムが入っているらしい。

それもあるが、妻は胸がEカップほどあるので

締め付けられる感じで余計にキツく感じたのかも知れない。

「まぁこんな感じだよぉ」

なんて言いながら話を終えると妻はその場でドレスを脱ぎだした(笑)

まぁ、家の中だし妻の性格だからさして気にしないのだろう

下はGパンをはいていたが上は服を脱いでいた

(ドレスを着てみせるだけなのだから当然か…)

妻がドレスを脱ぎ終わった時、私は目を疑った…

妻の左の乳房に蝶が描かれていた

更にそれだけではない、

ドレスを着るためブラを外していた妻の乳首には

左右にリングのピアスが光っていた…。

タトゥはシールという可能性もあるがピアスはフェイクと言う事は考えにくい…

私は妻に尋ねた

「それ…胸のタトゥとピアスどうしたの?いままでしてなかったよな?」

すると妻は

「あ、気づいた?うん、そうなんだ綺麗でしょ?お店でしてもらったんだよ」と言う

私は「タトゥは…シール?」と聞くと

妻は「ううん、違うよ」と言う

それから妻に詳しく話を聞いた、普通なら浮気を疑う状況かも知れない…

妻の話だとこうだった

ここからは妻に聞いた内容を書く

結婚式のドレスを買いに、あるショップへ行った

その帰りに街で、ある女性に声をかけられたと言う

女性は、新作のアクセサリーのモニターをして欲しいと頼んだそうだ

妻はアクセサリーを持っていなかったので調度よかったらしく引き受けたという

すると声をかけたのとは別の女性がもう一人居て「モニターの様子を記録したいのでカメラでの撮影は良いですか?顔は映しませんから」と言ってきたそうだ

妻は「顔が映らないなら」と承諾したらしい

実はその様子を撮影したDVDが妻に送られてきていたのだが、

妻はそういう機械系の操作は全くできず見ないまま放置していたらしい。

妻は「私見方わかんないし、パパ見れるでしょ?後でみる?」

と言う妻からDVDを受け取った

その夜、私はパソコンでそれを再生した

画面が映し出された

どうやら車の中らしい

妻がカメラに映っていた

少し緊張している様だった

妻の話では顔は映さないといわれたらしいが、

目線に薄いモザイクがある程度で割りとはっきり映っていた…

見る人がみれば妻だとわかるだろう

女性「では、お名前と年齢をお願いします」

妻「○○です、26歳です」

名前のところはピー入りだった

恐らく本名を名乗ったのだろう

女性「はい、○○さんですね、本日はアクセサリーのモニターありがとうございます、先ほど当社の女性スタッフから伺ったと思いますが今年の新作アクセサリーのモニターさんと言う事で来てもらいました、では早速つけてみましょう」

と言うと女性はケースからリングのピアスを取り出した

ピアスにはグリーンのライトストーンがついていた

妻「これですか?、なんだろう初めて見ます」

女性「あら?ご存知ないですか?ピアスですよ?」

妻「あ〜、これがピアスなんですね、私今までしたことも無いから初めて見ます」

女性「じゃあ、服を脱いでもらって良いですか?」

妻「え?どうしてですか?」

女性「これはニップルピアスと言って乳首にするピアスなんです」

妻「あ〜乳首ですか、そんなところにもピアスできるんですね」

女性「最近は若い女の子の間で流行ってますよー」

普通の人なら乳首ピアスって時点で信じられない!

と言って帰って行きそうだが

妻は最初にも書いたが、ああいう性格なので気にならなかったらしい…

女性「はい、では脱いで下さい」

そう言うと妻は服を脱いだ

ブラをしていなかった妻のおっぱいがボロンと飛び出した

女性「大きいですね〜何カップですか?」

妻「EかFぐらいです…あんましブラしないからわからなくて」

女性「うらやましいです、しかも綺麗な形ですし、あ、じゃあ早速つけてみましょうね」

妻「はい、お願いしま〜す」、

女性は針みたいなのを取り出した、

ニードル(ピアッサーよりもあけやすい器具)だろう

女性「ちょっとチクッとします、一瞬ですから」

妻「はい、じゃあ目瞑ってます(笑)」

するとカメラは妻の乳首付近にアップとなり、ピアスが貫通する様子を映した

鮮やかに妻の左の乳首にピアスが通った

女性「はい、次は右ですよ〜」

右も変わらず鮮やかな手つきでピアスをあけた

女性「はい、終わりましたぁ、見てみてください」

妻「凄〜い、綺麗ですね、ありがとうございます、今度結婚式に出るので調度良い感じです(笑)」

女性「あら、そうなんですか?じゃあ是非アートメイクなんてどうですか?ドレスを着て肌が露出する部分にワンポイントで模様を描いてみる感じなんです」

妻「良いですね、やってみたいかも」

女性「じゃあ、やってみましょうきっと綺麗ですよ、ピアスのモニターしてくれたからアートメイクは無料で良いので!

近くにスタジオがあるのでそちらに移動しますね」

そこで一旦画面は暗くなる

数秒後、どこかの室内だろうか?

女性「はい、ではこれからアートメークなんですが、

まずどんな模様にするか決めましょう」

するとまた別の女性が来て妻に本のようなものを渡した

女性「この中から選んでください」

カメラは模様を選ぶ妻も映していた

少しして

妻「じゃあ、これ、この蝶の模様が良いです」

女性「分かりました、じゃあさっそくやっていきましょうか…あ、どこに描きますか?場所決めてないですね(笑)」

妻「どこが良いんだろう、どこが良いとかあるんですか?」

女性「そうですね、一般的には胸の乳房の部分にする方が多いですよ」

妻「じゃあそこにします」

女性「分かりました、では始めましょう、また服脱いでもらっていいですか?」

妻「あ、は〜い」

すると先ほどピアスをつけた妻の胸があらわになった

また別の女性が奥から色々持って現れた、恐らく彫り師だろう

女性「まず下絵を描いてから本番で描いていきます、

後はこちらの方がしてくれるので私は外に出てますね

終わったら呼んでください」

そういい残すと女性は部屋の外へ出た

カメラには残った妻と彫り師の女性が映る

彫り師「じゃあ、よろしくお願いします」

そう言うと作業に取り掛かった

まずは下絵を妻の胸の部分に描いてゆく…

そしていよいよ「彫り」に入る

ジージーと墨の針が音を立てながら妻の胸に蝶の模様が彫られていく

妻は「あっ」とか「うぅ〜」とか声を出しながら痛みに耐えていた

一応麻酔?のような痛みを和らげるクリームみたいなのをぬってくれていたが、

それでも痛いらしい

そして、ついに完成した

妻のおっぱいに蝶が華麗に舞っている

先ほどの女性も入ってきた

女性「わぁ〜すごい、綺麗ですね、似合ってますよ」

妻「ありがとうございます」

そして映像は終わっていった

とにかく何と言っていいか…衝撃だった

後々確認したが、妻はちゃんと合意書にサインしていた…

つまりは無理矢理彫られた、とかは言えないのだ

そして更に衝撃だったのが、この映像がAVとして出回っていることだった

要するに、一種のフェチやマニア向けのレーベルとして作品を出していた

しかも、それだけではなかった

映像には収録されていないが、

妻はピアスのシーンでクリトリスフードとラビアにもピアスをされていた

妻は私の趣味的なものもあってパイパンにしてあった、

しかも剃るのが面倒で数年前永久脱毛をさせた

妻の話だと、ヘアーが無いならピアスで綺麗に飾るのも良いかもしれませんよ、

と言われあけてもらったのだと言う

そして先日、偶然ネットでその、

妻の性器へのピアスシーンの動画を見つけてしまった

よくよく調べると、その映像はDVDには収録されない、

ネット限定配信のもだったのようだ

長文、乱文すみません

しかしこれは実話です
http://infomgitaiken.blog.fc2.com/blog-entry-12957.html


クリに光る婚約ピアス

俺が大学4年の頃、初体験から1年しか経っていない恋人の千里は高3の女の子だった。
ちょっとイモっぽいが無垢そうな可愛さがあった。

処女からじっくり性を開いてきたつもりだったが、俺が未熟なのか、「私、恥ずかしくって、まだ思い切りセックスを楽しめないんです」と言う千里に、俺は『クリマドンナ』と言うクリを吸引しながら振動を加えるグッズを試した。

「性感を高めるために、少しSMみたいなこともしてみようね」

そう言って、開脚したまま腕を膝と肘に縛って閉じなくして、徹底的にクンニで感じさせた後、ローションをたっぷり塗ったクリにクリマドンナのポンプが吸い付き、吸着面にくまなく振動が与えられと、グググッと吸い上げられて伸びたクリが震えた。

「うわぁ!あ、ああ、こ・・・こんな・・・あうっっ・・・はぁん・・・んんっ!・・・と・・・取って・・・ダ・・・ダメ・・・っ!・・・うぐぅ!」

千里の無垢な顔が歪み、呼吸が乱れ、これまで感じたことの無い強烈な刺激に腰がガクガク痙攣した。

吸引されたクリは包皮を飛び出し1cm近く伸びているように見え、そこにバイブレーターが併設されているのだから相当な刺激なのだろう。

「もうダメ・・・取って・・・止めてぇっ・・・あぁ・・・あぁ・・・あぁ・・・あああああーーーーーっ!」

千里は全身を痙攣させ、ヨダレを流しながら全身を硬直させたので、クリマドンナを止めたが、千里は完全にイッていた。

ビクッ、ビククッとそれでもしばらく痙攣が止まらなかった。

縛りを解いてクリを舐めてやろうと思ったら、クリマドンナを外してもクリの伸びは収まっても肥大して包皮から出っ放しで、ペロンと舐めたら、「くひぅーーーっ!」と仰け反った。

「な、何これ、私のクリちゃん、凄く感じるようになってる」
舌先でそっと触れるだけで・・・。
「くぁ・・・んひぃ・・・ひぃっ!」

千里はクリのあまりの快感に戸惑っていた。

俺は、千里のマンコにチンポを根元まで入れて、チンポの根元で千里のクリをコネるように腰をグラインドさせた。

「やあぁっ・・・あぁっ・・・あぁっ・・・あぁっ・・・あぁっーーーーーっ・・・くひぃ・・・ひぁっーーーーっ!!」

マンコの中からブジュルブジュルと汁を出しながらチンポを締め付け、まるで性を知り尽くした人妻のように乱れ、シーツを握り締めて仰け反った。
慌てて生入れのチンポを抜いて、精液を千里にかけた。

「はぁ・・・はぁ・・・何・・・コレ・・・はぁ・・・はぁ・・・」

千里は息も絶え絶えになっていた。

クリマドンナで吸い上げられたクリは数時間で包皮の中に戻っていくが、先端が完全に隠れるのにしばらくかかるらしく、いつまでも擦れるのか千里はモジモジしていた。

これ以来、千里はデートでクリマドンナを見せると怯えた表情になったが、数分してスカートを捲ると、クリの吸引と振動の期待に、パンティをぐっしょり濡らして頬を赤らめるようになっていた。

俺は千里に思い切りセックスを楽しむために快楽を教えようとしたのだが、もしかしたら俺は、千里をマゾ化してしまったのだろうか・・・。

俺が卒業する時、千里も高校を卒業してお互い社会人になった。

俺は90km離れた地元に帰ってしまったので、千里と会えるのは週末だけになった。
会えないとなおさら会いたくなるもので、会えば千里を縛り上げてクリマドンナを吸着しっぱなしにした。

「ひっ・・・あっ・・・ああっ・・・がっ・・・きぁっ!・・・んっ・・・んぅっーーーっ・・・ダ・・・ダメ・・・あぁぁ・・・あぁぁぁ・・・ああっーーっ!」

クリ責め地獄で千里を狂わせ、あまりの責めに潮を噴き、羞恥にまみれた姿を晒した。

それでも千里は俺と別れるとは絶対言わず、ひたすら拷問のような快楽を受け入れる淫乱な時間を過ごした。

そして千里が21歳になった時、気付けば千里のクリは包皮に戻ることなく、赤く肥大して5mmほどの突起物となって飛び出したままになっていた。
俺は、千里に一つ提案した。

「これ、お前の肥大したクリトリスに装着してみないか?」
「これ、ピアス・・・アソコに穴開けるの?痛いわよ。変態じゃない?」
「こういうのしてくれる医療機関があるんだ。これ、婚約ピアスのつもりなんだけど・・・」

「え・・・お嫁さんにしてくれるの・・・う・・・ううぅ・・・嬉しい・・・」

医療機関でクリにピアスをつけた新妻は、パンティの上からピアスを弄ってやるだけでヌルヌルになって、いつでも即入れが出来た。
俺たちは常にやりっ放しの新婚時代を過ごした。

パンツの中にピンクローターを入れてピアスに当ててスイッチオン!すれば、膝をガクガクさせながら座り込み、「んぅうぁうぁうぁーーーっ!」とうつ伏せに倒れ込み、腰をヒクつかせながらもんどり打ち、悲しそうな目でチンポを求めた。
スカートを剥ぎ取ると、パンティだけでは吸収できなかった汁が内股に伝いヌラヌラと光っていた。

パンティを脱がせて生チンポを入れると、「あっ・・・くぅ〜っ!あぁっ!あぅ〜ん・・・あ・・・あ〜っ」と大喜びだから、ついつい中にドクドク出してしまうのだ。

現在俺は30歳、千里は26歳、子供1歳半、結婚して4年が過ぎた。
今はもう、クリマドンナは使っていない。

既に赤く肥大して元に戻らない上にクリにはピアスが通っていて、このピアスに知恵の輪のように数本繋がったリングを引っかけて、ピンクローターをぶら下げて振動させてやる。

「いやぁ〜っ!も〜ダメェ・・・イク・・・イク・・・イッちゃう〜っ!ああぁぁ〜っ!」

狂喜した千里が汁を滴らせ、リングから飛沫を上げてイキ狂うのだった。
ちょっとイモっぽいが無垢そうな可愛い女子高生は、10年過ぎた今でもイモっぽく無垢そうな可愛いお母さんだが、赤く肥大したクリにピアスを光らせる淫乱妻へと進化していた。

やはり俺は、千里をマゾ化してしまっていたようだった。
http://seiai.xyz/post.php?id=003083

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/304.html#c5

[近代史3] (小室圭問題/佳子さま盗撮) 皇室記事まとめ一気読み 中川隆
5. 中川隆[-11235] koaQ7Jey 2019年3月24日 12:56:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[775]

2019.03.24
【小室邸の今…/佳子さまご卒業】今週の皇室記事まとめ一気読み【3/18-14】
https://rondan.net/18664


Contents

1 新元号と御代替わりも近づき
2 本ブログ“独自”記事「小室邸の今…」
3 『女性自身』(2019.4.2号)「小室圭さん母「借金返済増額」に!」
3.1 @金欠な小室圭さん
3.2 A元婚約者の強硬姿勢
4 『週刊女性』(2019.4.2号)「雅子さま祝宴行事に“ドタ参加”で高まる「自身」!」
5 『週刊文春』(2019.3.28号)「眞子さま傷つけた紀子さまのお言葉」
5.1 @眞子さまの紀子さまへの怒り
5.2 A小室圭さん「養子計画」の驚愕
6 『週刊新潮』(2019.3.28号)「「悠仁さま」東大計画で支度が始まった「高下駄」」

新元号と御代替わりも近づき

新元号発表まであと僅か。

「安倍晋三」から一字取られるという冗談のような話や、国書から出典がとられるという話も出回っていますが、いったいどうなるのでしょうか?

また今週は、佳子さまがICUをご卒業され、しかも眞子さまと小室圭さんの結婚を後押しするかのような発言が出て波乱を呼びました。この発言は来週の週刊誌を騒がすでしょう。

それでは今週の皇室記事を振り返ってみたいと思います。


関連記事眞子さま佳子さまに「皇族としての自覚」はあるのか? 「自由過ぎる教育」に非難あつまる
2019年3月23日

関連記事佳子さま「ご卒業」で、眞子さまと小室圭さんを「応援」宣言! 異例の「メディア批判」の発言も
2019年3月22日
本ブログ“独自”記事「小室邸の今…」

当ブログ取材班が小室母子のマンション近隣を取材し、独自記事を二本をあげました。

騒動の当初はノイローゼになるほど殺到した取材攻勢も今は落ち着き。小室母子のマンション前には張り込みの記者もおらず、平穏としています。母・佳代さんが知人に600万円の借り入れ依頼をしていたという情報には大変驚かされました。

なお小室母子は地元でも大変“有名”らしく、この他にも様々なエピソードを聞くことが叶いました。これらは裏が取れ次第、来週中は発表していきたいと思います。


関連記事小室圭さん母、「600万円」金策の仰天エピソード
2019年3月22日

関連記事小室母子の住む「マンション」の“今” 近隣住民の声
2019年3月21日
『女性自身』(2019.4.2号)「小室圭さん母「借金返済増額」に!」

『女性自身』の記事は、@「金欠な小室圭さん」とA「元婚約者の強硬姿勢」の二部構成からなります。

@金欠な小室圭さん

まず金欠については、小室圭さんが昼の授業で配給されるピザ目的で、興味の無い授業にも顔を出していたという報道です。


「小室さんは、ピザを昼食代わりにするのが目的で、興味のない講義にわざわざ顔を出したのかもしれません」(同前)
『女性自身』(2019.4.2号)「小室圭さん母「借金返済増額」に!」 
また今得ているマーティン奨学金もこの5月に切れるので、金欠になるだろうとの予想。


確かに、小室さんが金銭的にピンチを迎えているのは、小誌(三月十四日号)既報の通りだ。現在は、学年で一人だけがもらえるマーティン奨学金から授業料や生活費を含めて年間約一千万円が支給されているが、これを受けられるのは今夏まで。以降は別種の奨学金が受けられたとしても、額は半減する可能性が高い。母・佳代さんからの仕送りが見込めないことも、ピンチに拍車をかけている。
『女性自身』(2019.4.2号)「小室圭さん母「借金返済増額」に!」 
また金欠に拍車をかける恐れのある、元婚約者の400万円返却要求。元婚約者に「代理人」が決まり、態度が強硬化していると報じられています。


「ただでさえ留学費用に困っているなか、小室さん側がX氏側の主張を受け入れ、400万円の“返済”もすることになれば、留学中止という最悪のシナリオもありえると思います」(皇室ジャーナリスト)
『女性自身』(2019.4.2号)「小室圭さん母「借金返済増額」に!」 
金欠が深刻化すれば留学中止もあり得ると煽っていますが、果たしてどうなるでしょうか?


関連記事小室母子、借金返済「増額」の絶望 “悪夢”の新展開 元婚約者のウソ
2019年3月19日
A元婚約者の強硬姿勢

ところでこの元婚約者の「代理人」なのですが、なぜか弁護士ではなく、50代の匿名フリー記者という「謎」です。ワイドショーなどではこれを怪しむ声もありました。

「どうして弁護士に依頼しないのか?」という根本的疑問に対して、この代理人による説明がコロコロ変わります。


「X氏は取材対応だけでヘトヘトに疲れ果てて、自分で小室さん側と直接交渉することなど考えられなかったんだと思います。最初は知り合いの弁護士を紹介したのですが、X氏は首を縦に振りませんでした」 (A氏)
『女性自身』(2019.4.2号)「小室圭さん母「借金返済増額」に!」 
この説明の一方、ワイドショー(バイキング, 3/18放送)のインタビューにはこの代理人が次のように答えています。


弁護士には依頼しないのか?

「まだ見つかっていません
知り合いの弁護士に連絡しましたが
断られています
元婚約者の方に金銭的に負担をかけたくないので
無料で引き受けてくれないかと
聞いたのですが難しいですね
元婚約者は苦しい経済環境にいるので
弁護士は立てたくないというスタンスは変わりません」(代理人A氏)
「バイキング」(3.18放送)
「弁護士」依頼を断念した理由が二つのインタビュー間で異なっています。

恐らくですが、そもそも「弁護士に依頼しない」という状況は明らかに不自然ですので、うまい言い訳が思いつかず、こういった状況になってしまっているのではないでしょうか?


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2019年3月21日
『週刊女性』(2019.4.2号)「雅子さま祝宴行事に“ドタ参加”で高まる「自身」!」

『週刊女性』は、雅子さまが快復基調にあり、『ヘルシー・ソサエティ賞』の授賞式に参加されたことを喜ばしく報じています。期待は高まるばかりです。


「大勢で食事をする機会にお出ましになっていくことは、今秋に控えている『響宴の儀』にも生かされると思いますよ。ハードルの高いことから始めるのではなく、徐々にステップを踏むことで、秋の儀式に対して準備されているといえるでしょうね」
『週刊女性』(2019.4.2号)「雅子さま祝宴行事に“ドタ参加”で高まる「自身」!」
ただし、皇室ジャーナリストの山下晋司氏は次のように慎重論を唱えます。


「新天皇の即位を祝う場ですから、皇后が不在でも儀式は可能です。しかし、現在は天皇・皇后がともに活動する機会が多いため、天皇の即位を祝う場とはいえ、皇后が隣にいたほうが好ましいのは当然です。

大勢の関係者が参加したという『ヘルシー・ソサエティ賞』の授賞式と祝宴に出席されたのは、秋に控える『響宴の儀』を見据えられている可能性はあるでしょう。ただ、5月1日以降、即位関連の儀式や行事が続きますので、今は体調の管理が第一で、ご無理されないようにしていただきたい」
『週刊女性』(2019.4.2号)「雅子さま祝宴行事に“ドタ参加”で高まる「自身」!」
過度な期待こそ雅子さまのご負担になられるでしょう。「今は体調の管理が第一で、ご無理されないように」という山下氏の言葉を胸に刻んでおく必要があるかと思います。


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2019年3月19日
『女性自身』グラビアも雅子さまを報じる

『週刊文春』(2019.3.28号)「眞子さま傷つけた紀子さまのお言葉」

『週刊文春』は、豪華二本立て。@「眞子さまの紀子さまへの怒り」とA「小室圭さん「養子計画」の驚愕」です。

@眞子さまの紀子さまへの怒り

まずは眞子さまが怒りを感じているのは、秋篠宮殿下ではなく、紀子さまだという報。眞子さまがお怒りだというのは、次の紀子さまの発言。


「昨年の暮れから、だんだん寒くなっていく中で、長女の体調が優れないことが多くなりました。そうした状況が長く続き、長女は大丈夫だろうか、どのような思いで過ごしているだろうかと大変心配でした」
紀子さま「平成30年 秋篠宮殿下お誕生日会見」 
一見して、何ら問題ない発言のようにも感じられますが、関係者は次のように吐露しています。


一見、母親としての慈愛に満ちたこの発言。だが、これこそが母娘の溝を生んだ決定的要因だった。

「秋篠宮さまは率直に『最近は話す機会がない』と仰っています。ここで紀子さままで『私も話をしていないので、分かりません』と明かせば、皇后さまから『母親として何をやっているのか』とお叱りを受けるかもしれない。紀子さまはそれを恐れて、『娘の身体が心配だ』と話をすり替え、保身に走ったのだ——眞子さまはそう思っているのです」(同前)
『週刊文春』(2019.3.28)「眞子さま傷つけた紀子さまのお言葉」 
このような眞子さまの“お気持ち”を、どのようにこの関係者が知り得たのかは謎ですが、これが事実ならば保身のための「話のすり替え」と解釈できないこともありません。


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2019年3月20日
A小室圭さん「養子計画」の驚愕

二つ目は、佳代さんと元婚約者との「婚約」が解消された際、佳代さんが元婚約者に「圭を養子にしてくれ」とお願いしたという驚愕なエピソード。


一二年にX氏が佳代さんとの婚約解消の意思を伝えた、まさにその時だった。「その日は佳代さんと圭くんが二人で私の家に遊びに来ていました。私はすでに四百万円以上を佳代さんに貸しており、このまま婚約関係を続け、お金を貸し続けるのが苦痛だった。婚約解消を申し出るしかないと思ったのです」(X氏)

「このとき私は、借金については今すぐ全額を返さなくても良いという意味で 『(返し方は)考慮します』と話しました。その直後、佳代さんが養子の話を切り出したのです。しかも、『小室の姓は残してほしい。圭という名前は、(亡くなった)主人と相談して、小室という苗字にあわせて決めたものだから』と」(同前)
『週刊文春』(2019.3.28)「眞子さま傷つけた紀子さまのお言葉」
思えば元婚約者の方には「生命保険」が掛けられていたわけで、圭さんを養子にした後に、この元婚約者が「自殺」すればその遺産は……と思うと恐ろしいものがあります。


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2019年3月20日
『週刊新潮』(2019.3.28号)「「悠仁さま」東大計画で支度が始まった「高下駄」」

『週刊新潮』は、紀子さまの教育ママぶりを批判的に紹介。紀子さまはどうしても悠仁さまを東京大学に入れたくて、そのためには「高下駄」を履かせることもあり得るという内容です。

なんと東大教授が登場して「推薦入試がありますよ」と意味深な発言…。


別の東大教授が推薦入試に触れて、

「例えば、数学オリンピックとか世界的な大会で活躍した人間なら推薦で受け入れますよ、とウチは言っています。でも、東大と秋篠宮家はいわば相思相愛でしょう。ですから、もし必要ならば高下駄でも何でもご用意して入学に備えることでしょう」
『週刊新潮』(2019.3.28)「「悠仁さま」東大計画で支度が始まった「高下駄」」
しかも記事によれば、悠仁さまの進学先第一希望は「東大農学部」と予想。


「植物や昆虫について書かれているところが多く、非常に楽しまれたことが伝わってきました。お父さま譲りで、理系の学問にご興味がおありのようです。悠仁親王は特に昆虫に強い関心を示されており、休み時間にはしゃがみこんでじっと地面を見つめておられることもしばしばだとか」(宮内庁担当記者)

「秋篠宮殿下は学習院で自然文化研究会というサークルを立ち上げられ、ここに紀子さまも入られ、親交を深められました。妹である清子さんの夫、黒田慶樹さんもこのサークルに入っていたのです。

殿下は自著にもあるように、ニワトリがいかにして野禽から家畜になったのかなど、人間の生活史と絡めて学ぶ学問をされたいとお考えになられてきました。実際、サークル活動に留まらず、オックスフォード大や東京農大などでも同様の研究をされてきたのです」(宮内庁担当記者)
『週刊新潮』(2019.3.28)「「悠仁さま」東大計画で支度が始まった「高下駄」」
最後に記事では「水面下ながら東大への、そして農学部への道は舗装されつつあるようだ」と締めくくっています。

そういえば東宮家バッシングの中にあっても、愛子さまの成績は優秀であると報じられていましたが、これまで悠仁さまの成績が優秀であると報じられたことはありません。実際に悠仁さまが推薦入試で東大に入ったら「皇室利用」の極みであるような…。

よって流石に「推薦入試」で東大入学は有り得ないでしょう。

https://rondan.net/18664
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/291.html#c5

[近代史3] ヤクザの女はピアス大好き 中川隆
6. 中川隆[-11234] koaQ7Jey 2019年3月24日 13:07:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[776]
在日の日本人への拷問 2016-01-18 17:25:43 | 日記


女性であれば、激しく輪姦・撮影されたあげく、

全身にピアスを通され

穴という穴は拡張され、

北九州監禁事件では


大便排泄を1日1回に限定し

全裸のままトイレに座らせることなく、がに股で排便させてそれを観察した

勝手に漏らした場合、大便は口で食わせた

言うことを聞かなければ通電といって性器に電極を取り付け電機拷問を行った

一瞬で皮膚が熱傷で破れ脳まで衝撃が来て記憶を失うほどの拷問であったそうだ


朝鮮民族はこういうことを好むのである

ゆえに、監禁されれば飲尿食糞を余儀なくされ、監禁された日本人は
拷問されながら大小便を食べるという地獄の監禁拷問生活をおくる羽目になります


朝鮮人が残酷なのは当然で大陸の人は日本人とは文化背景が違います

チンギスハーンの拷問好きは有名ですし、中国も拷問文化でした朝鮮人の李氏朝鮮もそうです。よって在日に監禁されると大変なことになります


殴る蹴るの基本的なものから、

タバコの火を押し当てる、

ハンダコテで体中焼く、

尿道にマッチ入れて火をつける、

在日が起こした北九州監禁事件のように電撃を与える

大小便を食べさせる


など拷問の種類には事欠きません


女性であれば、激しく輪姦・撮影されたあげく、

全身にピアスを通され

穴という穴は拡張され、


在日が起こした女子コンクリ事件では

鉄アレイを膣と肛門にいれ蹴飛ばしていた有様です


在日を日本人と同じと思ってはいけません、農耕民族と大陸の殺戮民族では文化が違うのです


かわいい娘がいるとこうなります

全裸首輪で性奴隷家畜便器として完全監禁

少しでも反抗したらタバコの火を押し当てたりしていうことを聞かせます

何回も犯されてガバガバになり腕が入るまで広がりきります

尻の穴もそうなります、

栗には太いピアスがされるでしょう

SMビデオやスカトロビデオ撮影もあるでしょう、

厳しい拷問生活で かわいい娘は大便と小便を喜んで四つん這いのまま食べるようになります

こうして肉便器になり、最後は利用価値がなくなったらスナッフビデオといって
拷問して殺すところを撮影してお金にしますので、それからドラム缶でコンクリ詰めにします


【尼崎大量殺人】角田美代子4【コンク李ドラム缶死体】


角田美代子

これだけの凶悪事件を起こした重大犯罪人にしては、こいつの過去が一つも晒されていない。

犯人が日本人の場合は、親戚、何十年も前の同級生、会社関係、全てを晒して追及するハズ。

主犯格に韓国籍の李正則がいることから在日犯罪である事は間違いない。
報道機関、特にテレビメディアは印象操作や犯人隠避の罪で放送免許を剥奪するべき。


民事不介入を盾に見て見ぬ振りをしてきた警察もだらしないけど
所謂『被差別者』に対して強行な捜査をすると、人権派やマスコミがうるさいんだよね
こういう事件が発生するようなシステムが着々と作り上げられてきた


日本人なら微罪でも逮捕するのに、ZやBなら殺人などの重罪でも野放しって
なんかおかしくない?

この国は異常だと思う。


自分が住む部屋でよく殺すよなあ
その辺の神経がやっぱり日本人じゃないって感じ


一部報道では、女性親族が

「女の私からは言えないような猥褻な格好をさせられていた」

と言っていたな。


北九州監禁事件でも、松永太が、嫁の母親や、妹を 嫁の父や、妹の旦那の前で犯して、そのときに、

「私は、松永の性奴隷です。松永のチンポが欲しくてたまりません」

と何回も言わせていたらしいからな。

親族同士の暴力、性行為というのは、マインドコントロールの常套手段なんだろう。


尼崎のコンクリート殺人で捕まってだいぶたってるのに主犯の情報がほとんどでてこない

いつもなら犯人の過去を喜んで暴くマスゴミに在日か同和団体から圧力がかかってるのだろう

もう法律で本当の国籍、本名で報道するようにしないといけないな


☆在日につかまったら若い娘は、舌をかんで自殺するしかないのですね。
http://blog.goo.ne.jp/kimutamako1212/e/96a6656d746c7425de9a2d31c0b09e19

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/304.html#c6

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