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[近代史3] 皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式 中川隆
8. 中川隆[-10568] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:37:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1508]

大嘗祭の本義 折口信夫
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     一

最初には、演題を「民俗学より見たる大嘗祭」として見たが、其では、大嘗祭が軽い意義になりはせぬか、と心配して、其で「大嘗祭の本義」とした。

題目が甚、神道家らしく、何か神道の宣伝めいた様なきらひがあるが、実は今までの神道家の考へ方では、大嘗祭はよく訣らぬ。民俗学の立場から、此を明らかにして見たい。

此処で申して置かねばならぬのは、私の話が、或は不謹慎の様に受け取られる部分があるかも知れない、といふ事である。だが、話は明白にせぬと何も訣らぬ。話を明白にするのが、却つて其を慕ふ事にもなり、ほんとうの愛情が表れる事にもなる。或は、吾々祖先の生活上の陰事カクレゴト、ひいては、古代の宮廷の陰事をも外へ出す様になるかも知れぬが、其が却つて、国の古さ・家の古さをしのぶ事になる。単なる末梢的な事で、憤慨する様な事のない様にして頂き度い。国家を愛し、宮廷を敬ふ熱情に於ては、私は人にまけぬつもりである。

     二

まづ「にへまつり」の事から話して見る。「にへ」は、神又は天皇陛下の召し上り物、といふ事である。調理した食物の事をいふので、「いけにへ」とはちがふ。生贄イケニヘとは、生ナマのまゝで置いて、何時でも奉る事の出来る様に、生イけてある贄の事である。動物、植物を通じていふ。

只今の神道家では、にへといへば、生ナマなものをも含めて言ふが、にへといふ以上は、調理したものを言ふのである。御意の儘に、何時でも調理して差し上げます、といつて、お目にかけておくのが、生贄イケニヘである。ほんとうは食べられる物を差し上げるのが、当り前である。生物ナマモノを差し上げるのは、本式ではない。この贄の事から出発して、大嘗祭の話に這入りたい。

大嘗祭は、古くはおほむべまつりと言うて居る。おほんべ即、大嘗に就ては、次の新嘗・大嘗の処で話す事にして、此処では、まづまつりの語源を調べて見る事にする。此まつりといふ語がよく訣らぬと、上代の文献を見ても、解決のつかぬ事が多い。

まつりごととは、政といふ事ではなく、朝廷の公事全体を斥して言ふ。譬へば、食国政・御命購政などゝ言ふし、平安朝になつても、検非違使庁の着駄チヤクダの政などいふ例もある。着駄チヤクダといふのは、首枷クビカセを著ける義で、謂はゞ、庁の行事始めと言つた形のものである。ともかくも、まつり・まつりごとは、其用語例から見ると、昔から為来シキタりある行事、といふ意味に用ゐられて居る。

私は、まつる・またすといふ言葉は、対句をなして居て、自ら為る事をまつると謂ひ、人をして為さしむる事をば、またすと謂ふのであると見て居る。日本紀を見ても、遣又は令といふ字をまたすと訓ませて居る。

一体、まつるといふ語には、服従の意味がある。まつらふも同様である。上の者の命令通りに執り行ふことがまつるで、人をしてやらせるのをまたすといふ。人に物を奉る事をまたすといふのだ、と考へる人もあるが、よくない。人をしてまつらしむる事、此がまたすと謂ふのである。させる・してやらせる、此がまたすである。
日本の太古の考へでは、此国の為事は、すべて天つ国の為事を、其まゝ行つて居るのであつて、神事以外には、何もない。此国に行はれる事は、天つ神の命令によつて行つて居るので、つまり、此天つ神の命令を伝へ、又命令どほり執り行うて居る事をば、まつるといふのである。

処が後には、少し意味が変化して、命令通りに執行いたしました、と神に復奏する事をも、まつるといふ様になつた。古典に用ゐられて居る「祭り」といふ言葉の意味は此で、即御命令によつてとり行ひました処が、かくのごとく出来上りました、と報告する、神事の事を謂ふのである。

まつりは、多くは、言葉によつて行はれる。即、仰せ通りに致しましたら、此様に出来上りました、と言つた風に言ふのである。此処から段々と「申す」といふ意味に変つて来る。そして、復奏する事をも「申す」といふ様になり、其内容も亦、まつるの本義に、近づく様になつて来た。

まをすとは、上の者が理会をして呉れる様に、為向ける事であり、又衷情を訴へて、上の者に、理会と同情とをして貰ひ、自分の願ひを、相手に容れて貰ふ事である。こひまをす(申請)などいふ語も、此処から出て来たのだ。此様に、大体に於ては「申す」と「まつる」とは、意義は違ふが、内容に於て、似通つた所がある。此点は又、後に言ふ事にする。

     三

日本の天子様は、太古からどういふ意味で、尊位にあらせられるか。古い文献を見ると、天子様は食国ヲスクニのまつりごとをして居らせられる事になつて居る。だから天孫は、天つ神の命によつて、此土地へ来られ、其御委任の為事をしに来らせられた御方である。

天子様が、すめらみこととしての為事は、此国の田の生ナり物を、お作りになる事であつた。天つ神のまたしをお受けして、降臨なされて、田をお作りになり、秋になるとまつりをして、田の成り物を、天つ神のお目にかける。此が食国ヲスクニのまつりごとである。

食ヲすといふのは、食クふの敬語である。今では、食ヲすを食クふの古語の様に思うて居るが、さうではない。食国ヲスクニとは、召し上りなされる物を作る国、といふ事である。後の、治ヲサめる国といふ考へも、此処から出てゐる。食ヲすから治ヲサめる、といふ語が出た事は、疑ひのない事である。天照大神と御同胞でいらせられる処の、月読命の治めて居られる国が、夜の食国ヲスクニといふ事になつて居る。此場合は、神の治ヲサめる国の中で、夜のものといふ意味で、食すは、前とは異つた意味で用ゐられて居る。どうして、かう違ふかと謂ふと、日本の古代には、口で伝承せられたものが多いから、説話者の言語情調や、語感の違ひによつて、意味が分れて行くのである。此は民間伝承の、極めて自然の形であつて、古事記と日本紀とでは、おなじ様な話に用ゐられてゐる、おなじ言葉でも、其意味は異つて来て居る。時代を経る事が永く、語り伝へる人も亦、多かつたので、かうした事実があるのである。

さて、食国ヲスクニをまつる事が天子様の本来の職務で、それを命令したのは、天つ神である。古事記・日本紀では、此神を天照大神として居る。此点は、歴史上の事実と信仰上の事実とが、矛盾して居る。歴史上では、幾代もの永い間、天子様は一系で治めていらつしやる。信仰上では、昔も今も同様で、天つ神の代理者として、此土地を治めておいでになる。此土地を御自分の領土になさる、といふ様な事や、領土拡張の事などは、信仰上では、御考へなさらない。天子様は、神の言葉を此国にお伝へなさる為に、お出でになつたのである。此意味がかはつて、神に申し上げる報告の意味が、出たのである。

吾々の考へでは、働かなければ結果が得られない、と訣つて居るが、昔は、神の威力ある詞を精霊に言ひ聞かせると、詞の威力で、言ふ通りの結果を生じて来る、と信じて居た。此土地の精霊は、神の詞を伝へられると、其とほりにせねばならぬのである。貴い方が、神の詞を伝へると、其通りの結果を生じたのである。此が、まつるといふ事で、又食国ヲスクニのまつりごとである。

私は、祭政一致といふ事は、まつりごとが先で、其まつりごとの結果の報告祭が、まつりであると考へて居る。祭りは、第二義的なものである。神又は天子様の仰せを伝へる事が、第一義である。処が、天子様は、天つ神の詞を伝へるし、又天子様のお詞を伝へ申す人がある。そして又、此天子様の代理者の詞を伝へる人がある。かうして段々、上から下へ、と伝へる人がある。此天子様のお詞を伝へる人をまつりごと人といふ。日本紀には、大夫・宰等の文字が宛てゝある。此大夫や宰は、高い位置の官吏ではないのに、何故まつりごと人などいふ、尊い名称で呼ばれるか。此は、前に言うた様に、段々下へ/\と行くからである。かうした人々の事を、御言持ミコトモチといふ。此意味で、天子様も御言持である。即、神の詞を伝達する、といふ意味である。

神の代理をする人は、神と同様で、威力も同様である。譬へば、神ながらの道などいふ語は、天子様の為さるゝ事すべてを、斥して言ふのであつて、決して神道といふ事ではない。天子様は、神ながらの方で、神と同様といふ事である。神ながらは、信仰上の語であつて、道徳上の語ではない。此意味に於て、天子様のお言葉は、即、神の御言葉である。日本の昔の信仰では、みこともちの思想が、幾つも重なつて行つて、時代が進むと、下の者も上の者も同様だ、と考へて来た。そして鎌倉時代から、下尅上の風も生じた。日本の古来の信仰に、支那の易緯の考へ方を習合させて、下尅上と言うたのである。此話は、幾らしても限りのない事であるが、申さねば、贄祭りのほんとうの意味が知れないから、述べたのである。

古い時代のまつりごとは、穀物をよく稔らせる事で、其報告祭がまつりである事は、前にも述べた。此意味に於て、天子様が人を諸国に遣して、穀物がよく出来る様にせしむるのが、食国の政である。処が穀物は、一年に一度稔るのである。其報告をするのは、自ら一年の終りである。即、祭りを行ふ事が、一年の終りを意味する事になる。此報告祭が、一番大切な行事である。此信仰の行事を、大嘗祭オホムベマツリと言ふのである。

此処で考へる事は、大嘗と、新嘗との区別である。新嘗といふのは、毎年、新穀が収穫されてから行はれるのを言ひ、大嘗とは、天子様御一代に、一度行はれるのを言ふのである。処が「嘗」といふ字を宛てたのは、支那に似た行事があつて、それで当てたのである。新嘗の用語例を蒐めて考へて見ると、新穀を召し上るのを、新なめとは言へない。なめるといふ事には、召食メシアガるの意味はない。日本紀の古い註を見ると、にはなひといふ事が見えて居る。万葉集にも、にふなみといふ言葉があり、其他にへなみと書かれた処もある。

今でも、庄内地方の百姓の家では、秋の末の或一日だけ、庭で縄を綯なひ、其が済むと、家に這入る。此を行ふには、庭へ竈を造つて、其日一日は、庭で暮すらしい。日本紀の古註に見える庭なひと言ふのは、其であらう。此事は、考へて見ると、一種の精進で、禁慾生活を意味するのである。だが、庭で縄を絢ふから、庭なひだとしてはいけない。此には、何かの意味があつて、庭で縄を綯ふのであらう。
にはなひ・にふなみ・にひなめ・にへなみ、――此四つの用語例を考へて見ると、にへ・には・にふは、贄と同語根である事が訣る。此四つの言葉は、にへのいみといふことで「のいみ」といふことが「なめ」となつたのである。発音から見ても、極近いのである。結局此は、五穀が成熟した後の、贄として神に奉る時の、物忌み・精進の生活である事を意味するのであらう。新しく生つたものを、神に進める為の物忌み、と言ふ事になるのである。神様の召し上りものが、にへであることは、前にも言うた通りであるが、同時に、天子様の召し上りものも亦、にへである。さうすると、新嘗の大きな行事であるから、大にひなめといひ、それからおほんべとなつたことが訣る。

此大嘗と新嘗とは、どちらが先かは問題であるが、大嘗は、新嘗の大きなものといふ意味ではなくて、或は大は、壮大なる・神秘なるの意味を表す敬語かも知れぬ。此方が或は、本義かも知れぬ。普通には、大嘗は天皇御一代に一度、と考へられて居るが、古代ではすべて、大嘗であつて、新嘗・大嘗の区別は、無かつたのである。何故かと言ふと、毎年宮中で行はれる事は、尠くとも御代初めに、行はれる事の繰り返しに過ぎない、といふ古代の信仰から考へられるのである。御代初めに一度やられた事を、毎年繰り返さぬと、気が済まぬのであつた、と見るべきである。其が新嘗である。新嘗のみではなく、宮中の行事には、御代初めに、一度行へば済む事を、毎年繰り返す例がある。だから、名称こそ新嘗・大嘗といへ、其源は同一なものである。

此新嘗には、生物ナマモノのみを奉るのではなく、料理した物をも奉る。其前には長い/\物忌みが行はれる。単に、神秘な穀物を煮て差し上げる、といふのみの行事ではない。民間には、其物忌みの例が残つて居る。常陸風土記を見ると、祖神ミオヤガミが訪ねて行つて、富士で宿らうとすると、富士の神は、新粟ワセの初嘗ニヒナメで、物忌みに籠つて居るから、お宿は出来ない、と謝絶した。そこで祖神は、筑波岳で宿止ヤドメを乞うた処が、筑波の神は、今夜は新嘗をして居るが、祖神であるから、おとめ申します、といつて、食物を出して、敬拝祇ツヽシミツカヘ承つた、とある。此話は、新嘗の夜の、物忌みの事を物語つたものである。此話で見る様に、昔は、新嘗の夜は、神が来たのである。

猶、万葉集巻十四に、

にほとりの 葛飾早稲カツシカワセをにへすとも、そのかなしきを、外トに立てめやも
誰ぞ。此家ヤの戸おそぶる。にふなみに、わが夫セをやりて、斎イハふ此戸を

新嘗の夜の、物忌みの有様の見えて居る歌である。此歌などは、もう神の来る事が忘れられて、たゞの男女関係の歌のやうに見えるが、猶、神が来たといふ原義が見えて居る。神の来たのが、愛人が来るやうに考へられて来たのだ。ところが、この新嘗に似た行事が、まだ他にもある。其は神嘗祭である。そこで、神嘗祭の話に移る。

     四

神嘗祭・神今食・相嘗祭、此三つは新嘗祭に似て居る。だから、まづ神嘗祭から話を進めて見る。これは、新嘗祭と相対して行はれた祭りであつて、九月に行はれる。伊勢の神宮に早稲ワセの走穂ハツホを奉る祭りであると考へられて居る。天子様の新嘗に先立つて行はれる。此より前の六月と十二月とにも同様な行事が行はれる。神今食といふのが其である。此神今食を、或人々は「かむいまけ」と読んで、新米を奉るのだとして居るが、十二月の方はともかくも、六月には、まだどの様にしても、新米は出来ないから、此説は同意出来かねる。猶、神今食に奉るものは、早稲の初穂ではなくて、古米を奉るのであらう、と私は考へて居る。

だが、従来、神今食と、神嘗と、新嘗とは、区別が判然して居ない。私は、新米を奉るのと、古米を奉るのとの違ひであらう、と考へて居る。何故かと言ふと、神今食の直前に行はれるのに、月次祭がある。此は、六月と十二月とに行はれる。つまり、一年を二つに分けて、行うたのである。此事は、平安朝に見えて居る。この月次祭の後、直に、つゞいて行はれるのが、神今食である。月次祭の時は、日本中の大きな社の神々が、天子様の許に集まつて来る。その集まつて来た神々に、天子様が、物を食べさせて、おかへし申すのが、神今食である。

一年に二度行ふといふのは、大切な祭りは、一年を二期に分けてする習慣が出来てからの事である。つまり、夏の終りを年の終りと考へ、又、年の終りの冬毎に神が来る。其神に御馳走して帰すのが、神今食である。此は、よく考へて見ると、新嘗を二つに分けて、日をちがへて行つた、といふ事になる。月次祭は、新嘗祭の変化したもので、新嘗祭を行ふ中に、変態な習慣が行はれ出したのである、と考へられる。

神嘗祭とは、諸国から奉つた処の、早稲の走穂ハツホを、宮廷で整理して置かれて、九月になつてから、伊勢の大神に奉られることである。諸国から、初穂を朝廷へ奉る使を、のさきのつかひといふ。荷前使と書くのである。古くから神嘗祭と言うたか、どうか。或は、新嘗といふ支那訳が出来てから後に、神の新嘗といふ意味から、神嘗と言うたのかも知れぬ。ともかくも、神嘗祭は、前に言うた相嘗祭と、関聯させて話さねばならぬ。

諸国から稲穂を奉るのは、鎮魂式と関係があるから、此処で話して置く。諸国から稲穂を奉るのは、宮廷並びに、宮廷の神に服従を誓ふ意味なのである。日本では、稲穂は神である。其には、魂がついて居る。国々の魂がついて居る。魂の内容は、富・寿命・健康等である。諸国から米を差し上げるのは、此等の魂を差し上げる事になる故に、絶対服従といふ事になる。米の魂が身に入ると強くなり、寿命が延び、富が増すのである。そして、此魂たる米を差し上げることを、みつぎといふ。たゞつぎといふ事もある。

かうして、諸国から差し上げた稲穂を、天子様は、御自分で召食メシアガらぬ先に、上の方かたで居られる処の伊勢の大神に奉られる。奉り物は、料理した御飯と、料理せない稲の穂のまゝのを二通り、はざ木にかけて、差し上げる。此をかけぢからといふ。かうして、諸国から到来した米を、天子様が自ら、伊勢の大神に差し上げるのは、祖神に魂を差し上げる事になり、即服従を誓はれる事になるのである。

かうした関係は、民間にもある。本家・中本家・小本家といつた風に分れて居る家では、各の家で、子分を持つて居る。其子分が小本家へ奉つた物を、小本家では中本家へ、中本家では、小本家から奉つたものと、自分の子分の奉つたものとを一処にして、大本家へ差し上げる。此場合には、到来物だから差し上げます、と言うて奉るのである。かうして子方から、次第に、上へ差し上げて行く。すると、献上物としての威力は、其効力を増し、且強くなる。此は信仰上の事実であつた。

上述の様な次第で、神嘗と新嘗とは、大分違つたものである。新嘗は、後にこそ刈り上げ祭りの様になつて居るが、ほんとうは、神の命令に依つて行つた、農事の報告であり、神嘗は、諸国から宮廷へ奉つた稲穂を整理して、更に、伊勢大神宮へ奉る行事である。処が、諸国から奉つた稲の魂を、天子様が更に、上位の神に奉られる行事は、他にもある。即、相嘗祭で、十一月の中の卯の日に行はれる。卯の日が二度しかない時は、上の卯の日に行はれる。新嘗祭よりは、一まはり先の卯の日に行はれるのである。此時は、宮廷から畿内の近辺の大きな社に、稲穂を供へる。此が、相嘗祭である。又、天子様のお血筋や、外戚の陵墓にも奉る。此を荷前ノサキといふ。

約言すると、地方から、宮廷へ奉る処の稲の初穂を、九月に入つて、伊勢へ奉るのを神嘗といひ、其他の神々又は、大きな社に奉るのを相嘗と言ひ、陵墓に奉るのを荷前ノサキと言ふのである。何れも、新嘗祭と前後して行はれたのである。本来は、神に奉るのは相嘗と云ひ、其以下の神で、而も天子様の尊敬する神、又は、天子様の御血つゞきの方に差し上げるのを荷前、と言うたのである。

此等の行事が済んだ後で、新嘗祭が行はれたのだ。新嘗祭は正式には、十二月の中の卯の日に行はれたのである。此処で問題となるのは、卯の日といふ干支を用ゐる事が、果して、古代からあつたかどうか、と言ふ事である。現在知り得る範囲では、日を数へる事よりは、干支を数へる暦法の方が古い、と云へよう。尠くも、支那の古い暦法を伝へた漢人種や、朝鮮人種が、天孫民族と同時に、或はそれ以前に、渡来して居た事は事実である。

新嘗祭其他、すべての行事をするのに、干支に依つて定められる以前は、占ひによつてきめた。此がいつの間にか、干支に依つて、定められるやうになつたのである。かうして日を定めて、十一月の中の卯の日、又は、下の卯の日に、新嘗祭をするのである。此を秋の祭りといふ。

延喜式の祝詞を見ると、大和の龍田の風神祭祝詞がある。此は、五穀の稔る事を祈り、さて稔ると、斯様々々に出来ました、と言うて、秋祭りをして、五穀を奉るのである。此処の秋祭りといふのは、四季でいふ「秋」ではなくて、新嘗祭といふ意味であつて、農事に関係ある語である。処が、相嘗祭は、龍田風神祭の詞の中には、見えては居ないが、古から無かつたとは見られない。中世から、何かの原因で絶えた、と見るべきである。

祝詞の、秋祭りに就て考へて見ても、新嘗、又は相嘗は、今の暦法上の秋ではない。だが、其を秋祭り、と古くから言うて居る処を見ると、秋に就ての考へ方が、昔と今とでは差異があつたのであらう。事実、地方の秋祭りは、早稲の刈り上げ前に行はれるのであつて、晩稲の刈り上げが済んでからやるのは、正式の秋祭りではなくて、其は家々の祭りである。何故、斯うして家々即、地方では、早く秋祭りをするか、と言ふと、朝廷へ奉る荷前ノサキの使と同時に、国々の神の祭りをする為である。朝廷の新嘗祭と前後して、諸国で神に差し上げる。此が秋祭りの始めである。もう一つ、後の理由であるが、稲の花の散つた後が大切だから、やるのである。

此二つの考へが一つになつて、今の秋祭りが行はれるのである。だから、今民間に行はれて居る秋祭りは、ほんとうの秋祭りとしてのものではなくて、寧、家々の祭りと見てよろしい。社の祭りではないのである。新嘗祭と同様なものが、ほんとうの秋祭りである。田舎の秋祭りは、新嘗祭よりも、早く行はれる。新嘗を中心にして考へると、少しく変だが、認容出来ぬ事はない。前に挙げた処の「にほどりの」と言ふ歌にしても、其地方で勝手に、祭りを行うた処から、出来た歌で、宮廷よりは先に、行つた消息が窺はれる。

宮廷の新嘗祭は、日本中の稲の総括りの様なものである。秋祭りには、前述の意味と、もう一つは、冬祭りともいふべき程の意味とがある。さて、秋祭りが、同時に冬祭りに当るのに、どうして冬祭りと言はぬかといへば、其は、秋祭りには、祭りの最古い意味があるが、冬祭りは、少し意味が違つて居るからである。

     五

私の考へでは、一夜の中に、秋祭り・冬祭り・春祭りが、続いて行はれたものであつて、歳の窮キハマつた日の宵の中に、秋祭りが行はれ、夜中に冬祭りが行はれ、明け方に春祭りが行はれるのである。

そして、続いて、初春の行事が行はれる、といふ順序である。此が後に、太陰暦が輸入せられてから、秋・冬・春といふ暦法上の秋・冬・春が当て篏められて、秋祭り・冬祭り・春祭りとなり、更に其中へ夏祭りが、割り込んで来たものと思ふ。

冬祭りとは何かと言ふと、歳、窮つた時期に、神がやつて来て、今年の出来たものを受けて、報告を聞き、家の主人の齢を祝福し、健康の寿ぎをする所の、祭りを言ふのである。古い書物を見ると、秋祭りの晩には、尊い方がやつて来られた事が、書いてある。神の来られた事を忘れた後には、自分よりも身分の高い人を頼んで、来て貰つて居る。後世の宴席に、又は祭事に当つて、正客の習慣は、遠い昔に、其起原のある事が知れる。即、秋祭りとは、主人より遠来の神に、田畑の成績の報告をする事である。そして冬祭りとは、此秋祭りが済んで、客神マレビトが主人の為に、生命の寿ぎと、健康の祝福とをする事である。同席で行はれても、両者の間には、区別は明らかにある。

此処で「冬」といふ言葉を考へて見る。ふゆは、殖ゆで、分裂する事・分れる事・枝が出る事などいふ意味が、古典に用ゐられてゐる。枝の如く分れて出るものを、取扱ふ行事が、冬の祭りである。ふゆは、又古くは、ふると同じであつた。元来、ふるといふ事は、衝突する事であるが、古くは、密着するといふ意味である。此処から「触れる」といふ意味も出て来る。

日本の古代の考へでは、或時期に、魂が人間の身体に、附着しに来る時があつた。此時期が冬であつた。歳、窮つた時に、外から来る魂を呼んで、身体へ附着させる、謂はゞ、魂の切り替へを行ふ時期が、冬であつた。吾々の祖先の信仰から言ふと、人間の威力の根元は魂で、此強い魂を附けると、人間は威力を生じ、精力を増すのである。

此魂は、外から来るもので、西洋で謂ふ処のまなあである。此魂が来て附着する事を、日本ではふるといふ。そして、魂の附着を司る人々があつた。毎年、冬になると、此魂を呼んで附着させる。すると春から、新しい力を生じて活動する。今から考へると、一生に只一度つければよい訣だが、不安に感じたのでもあらう。毎年繰り返した。新嘗を毎年、繰り返すのと同じ信仰で、魂は毎年、蘇生するものだ、との考へである。此復活の信仰は、日本の古代には、強いものであつた。

古代信仰に於ける冬祭りは、外来魂を身に附けるのだから、ふるまつりである。処が後には、此信仰が少し変化して、外来魂が身に附くと同時に、此魂は、元が減らずに分割する、と考へて来た。此意味が、第二義のふゆまつりである。

日本紀の敏達天皇の条を見ると、天皇霊といふ語が見えて居る。此は、天子様としての威力の根元の魂といふ事で、此魂を附けると、天子様としての威力が生ずる。此が、冬祭りである。処が後には、或時期に於て、此魂は分割するのだ、と考へ出して来た。そして分割の魂は、人々に分けてやつた。此分割の一つ/\の魂は、着物を以てしるしとした。一衣一魂として、年の暮に、天子様は、親しく近い人々に、着物を分配してやられた。此を御衣配といふ。天子様以下の人に於ても、やはり、家々の氏ノ上の魂は分割する。其を衣に附けて分配した。此を衣配キヌクバりというた。此が近世まで続いて、武家時代になつても、召し使ひに為着シキせを呉れるといふ習慣があつた。

此魂の分割、衣分配の信仰は、冬祭りの第二義である。此祭りの事を鎮魂式といふのである。たまふり、又はみたまふりといふ。後世になると、たましづめといふ。たましづめといふのは、人間の魂が或時期に於て、游離し易くなるから、其を防ぐ為と、又既に、游離した魂を落ちつかせる為で、此考へ方は、後のものである。支那にも、此に似た行事があつて、鎮魂と謂うて居た処から、日本のたまふりをも鎮魂と訳したのである。その大元は、外来魂を身に附ける事が、第一義。更に、分割の魂を、人々の内身へ入れてやる事。此が、第二義。そして、鎮魂を意味するのが、第三義である。

此鎮魂の行事は、非常に重大なもので、宮廷では、十一月中に、日を卜ひ定めて行うた。処が、たまふりの祭りの中にも、もう一つ違つた祭りがある。それは、魂を附着する、といふ意味の理会が変つて、目下の者が、自分の主人又は、長上の人に服従を誓ふ為に、自分の魂の主要なものを、相手の長上なり、主人なりに献上して了ふといふ祭りである。それで主人或は、目上の人は、元来の自分の魂と、目下が持つて来て奉つた魂とを合せて持つ事になるから、上位の人となる。此行事がやはり、天子様の御代初めに行はれた。其が又、新嘗の如く、毎年繰り返される事になつた。此行事も亦、みたまふりの一の意味である。

上述の如く、生きて居る人が、自分の魂の大部分を、長上に奉る事をみつぎといひ、目下が献つた数多の魂と、元来天子様の持つて居られる魂とを一処にして、其を分割して臣下が頂くのをば、みたまのふゆといふ。そして、此為の行事即、祭りの事をみたまのふゆ祭りといふ。結局冬祭りは、魂分割の祭りで、年の暮には、此魂の切り替へに関する行事が、いろ/\と行はれた。後世になると、年に二度、盆と年の暮れとに行はれた。更に其が、盆と正月とに行はれる事になつた。

元来、冬祭りと秋祭りとは、引続いて一日の中に行はれたのであつたが、漸次分れて来て、秋祭りを十一月、冬祭りを十二月に行ふ様になつた。かうなつて来てからは、十一月に行はれるのをば鎮魂祭といひ、十二月に行はれるのを、普通には御神楽といひ、内侍所の御神楽ともいふ。此二つは共に、鎮魂祭である。十一月の方の祭りは、元来日本にあるみたまふりの祭りで、十二月の方のは、後に、宮中へ這入つて来た処の鎮魂ミタマシヅメの祭りである。

天子様に、下から魂を差し上げる時期は、大体に於て、冬の祭りと一定して居つたが、後には、春行はれることになつた。併し、処によると、違つた時期にも差し上げた。此は、国や家によつて、違つてゐるのである。譬へば、出雲の国造家では、国造の代替りには、其年と、其年の翌年と、引続いて二度、京都へ出て来て、天子様に魂を奉る儀式をした。

     六

前にも言うた通り、宮廷の鎮魂式には、三通りある。

一、猿女の鎮魂  鈿女の鎮魂法の事をいふ。高天原伝来のもの。
二、物部の鎮魂  物部氏に伝来されて居る処の石ノ上鎮魂法。
三、安曇の鎮魂  奈良朝の少し前、宮廷へ這入つた、と見るべき鎮魂法。


此三つの中、猿女鎮魂と、石ノ上鎮魂とは、合体して了うた。最後に這入つた処の、阿曇アヅミの鎮魂式は、海人部の者が取扱つたもので、此は、特殊な面白味があつたので、日本元来のみたまふりとは異つた待遇を受けて、十二月に行はれる事になつた。古来の日本流のがみたまふりで、阿曇のは、たましづめの意義が、主なる要素をなして居る。外来魂を身に附けるのが、古い意義の、日本伝来のみたまふりで、魂の発散を防止し、且既に、発散した魂をして、鎮まらせる。此が、阿曇のたましづめ即、御神楽である。

とにかく、鎮魂式といふのは、群臣から天子様に、魂を差し上げる事だ、とわかればよい。同時に、冬というても、時代によつては、十月の事でもあり、十一月の事でもあり、又十二月の事でもあつた、といふ事を承知してかゝらねばならぬ。

此鎮魂を行ふと、天子様はえらくなる。併し、かうした行事を毎年やるのは、どうした事か。一代に一度やれば、よろしいのであるが、昔の人は、魂は一年間活動すると、もう疲れて役に立たなくなる、と考へて居たから、毎年やるのである。毎年々々、新しく復活して来ねばならぬ、と考へて居つたからである。

恐れ多い事であるが、昔は、天子様の御身体は、魂の容れ物である、と考へられて居た。天子様の御身体の事を、すめみまのみことと申し上げて居た。みまは本来、肉体を申し上げる名称で、御身体といふ事である。尊い御子孫の意味であるとされたのは、後の考へ方である。すめは、神聖を表す詞で、すめ神のすめと同様である。すめ神と申す神様は、何も別に、皇室に関係のある神と申す意味ではない。単に、神聖といふ意味である。此非常な敬語が、天子様や皇族の方を専、申し上げる様になつて来たのである。此すめみまの命に、天皇霊が這入つて、そこで、天子様はえらい御方となられるのである。其を奈良朝頃の合理観から考へて、尊い御子孫、という風に解釈して来て居るが、ほんとうは、御身体といふ事である。魂の這入る御身体といふ事である。

此すめみまの命である御身体即、肉体は、生死があるが、此肉体を充す処の魂は、終始一貫して不変である。故に譬ひ、肉体は変つても、此魂が這入ると、全く同一な天子様となるのである。出雲の国造家では、親が死ぬと、喪がなくて、直に其子が立つて、国造となる。肉体の死によつて、国造たる魂は、何の変化も受けないのである。

天子様に於ても、同様である。天皇魂は、唯一つである。此魂を持つて居られる御方の事を、日の神子ミコといふ。そして、此日の神子ミコとなるべき御方の事を、日つぎのみこといふ。日つぎの皇子とは、皇太子と限定された方を申し上げる語ではない。天子様御一代には、日つぎのみこ様は、幾人もお在りなされる。そして、皇太子様の事をば、みこのみことと申し上げたのである。

天子様が崩御なされて、次の天子様がお立ちになる間に、おほみものおもひ(大喪)といふのがある。此時期は、日本に於ては、日つぎのみこの中のお一方が、日の御子(天子様)となる為の資格を完成する時、と見る事が出来る。祝詞や、古い文章を見ると、「天のみかげ・日のみかげ」などゝいふ詞がある。此詞は普通には、天子様のお家の屋根の意味だ、と云はれて居るが、宮殿の奥深い所といふ事である。そこに、天子様はおいでになるのである。此は、天日に身体を当てると、魂が駄目になる、といふ信仰である。天子様となる為の資格を完成するには、外の日に身体をさらしてはならない。先帝が崩御なされて、次帝が天子としての資格を得る為には、此物忌みをせねばならぬ。此物忌みの期間を斥して、喪といふのである。喪と書くのは、支那風を模倣しての事で、日本のは「裳」或は「襲」であらうと思ふ。

大嘗祭の時の、悠紀・主基両殿の中には、ちやんと御寝所が設けられてあつて、蓐・衾がある。褥を置いて、掛け布団や、枕も備へられてある。此は、日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、此御寝所に引き籠つて、深い御物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂ミタマフリの行事である。此処に設けられて居る衾は、魂が身体へ這入るまで、引籠つて居る為のものである。裳といふのは、裾を長く引いたもので、今の様な短いものゝみをいうては居ない。敷裳などゝいうて、着物の形に造つて置いたのもある。此期間中を「喪」といふのである。

或人は、此お寝床の事を、先帝の亡き御身体の形だといふが、其はよくない。死人を忌む古代信仰から見ても、よろしくない。猶亦、或人は、此が高御座だといふが、此もよくない。高御座に枕を置いたり、布団をおく筈はない。高御座は、天子様がお立ちになつて、祝詞を申される場所であつて、決してお寝になる場所ではない。此処では、何も、ものを仰せあらせないから、高御座と考へる事は出来ぬ。
古代日本の考へ方によれば、血統上では、先帝から今上天皇が、皇位を継承した事になるが、信仰上からは、先帝も今上も皆同一で、等しく天照大神の御孫で居られる。御身体は御一代毎に変るが、魂は不変である。すめみまの命といふ詞は、決して、天照大神の末の子孫の方々といふ意味ではなく、御孫といふ事である。天照大神との御関係は、ににぎの尊も、神武天皇も、今上天皇も同一である。

此重大な復活鎮魂が、毎年繰り返されるので、神今食・新嘗祭にも、褥が設けられたりする事になる。大嘗祭と、同一な様式で設けられる。復活を完全にせられる為である。日本紀の神代の巻を見ると、此布団の事を、真床襲衾マドコオフスマと申して居る。彼のににぎの尊が天降りせられる時には、此を被つて居られた。此真床襲衾マドコオフスマこそ、大嘗祭の褥裳を考へるよすがともなり、皇太子ヒツギノミコの物忌みの生活を考へるよすがともなる。物忌みの期間中、外の日を避ける為にかぶるものが、真床襲衾である。此を取り除いた時に、完全な天子様となるのである。此は、日本紀の話であるが、此を毎年の行事でいへば、新嘗祭が済んだ後、直に鎮魂祭が行はれ、其がすんで、元旦の四方拝朝賀式が行はれる。だが此は、元は、一夜の中に一続きに行はれたもので、秋祭りの新嘗祭と、冬祭りの鎮魂祭即、真床襲衾から出て来られ、やがて高御座にお昇りなされて、仰せ言を下される。此らの事は元来、一続きに行はれたのであるが、暦法の変化で、分離して行はれる様になつたのである。

日嗣ぎの皇子ミコが、日の皇子(天子様)におなりなされると、天子様としての仰せ言が下る。すると、群臣は天子様に対して、寿言ヨゴトを申し上げる。寿言の正確な意味は、齢を祝福申し上げる、といふ処にある。すめみまの命の御身体に、天子霊が完全に這入つてから、群臣が寿言を申すのだ。寿言を申すのは即、魂を天子様に献上する意味である。群臣等は、自分の魂の根源を、天子様に差し上げて了ふのだ。此程、完全無欠な服従の誓ひは、日本には無い。寿言を申し上げると、其語について、魂は天子様の御身に附くのである。

天子様は倭を治めるには、倭の魂を御身体に、お附けにならなければならない。譬へば、にぎはやひの命が、ながすね彦の方に居た間は、神武天皇は戦にお負けなされた。処が、此にぎはやひの命が、ながすね彦を放れて、神武天皇についたので、長髓彦はけもなく負けた。此話の中のにぎはやひの命は、即、倭の魂である。此魂を身に附けたものが、倭を治める資格を得た事になる。

此大和の魂を取扱つたのは、物部氏である。ものとは、魂といふ事で、平安朝になると、幽霊だの鬼だのとされて居る。万葉集には、鬼の字を、ものといふ語にあてゝ居る。物部氏は、天子様の御身体に、此倭を治める魂を、附着せしむる行事をした。此が、猿女鎮魂以外に、石イソノ上カミの鎮魂がある所以である。

此処で、猿女の鎮魂式を考へて見る。さうすると、日本人の生死観がよく訣る。元来、日本の古い信仰では、生と死との区別は、不明瞭なものであつた。人が死んでも、魂をよび戻せば生きかへる、と思うてゐた。そして、どうしても魂がかへらぬとあきらめるまでは、略ほぼ一年間かゝつた。此一年の間は、生死不明の時期で、古い文献を見ると、殯宮モガリノミヤ、又はあらきの宮と言うて居るが、此は此魂を附着せしめようとして居る間の、信仰行事を斥していふのである。御陵を造つて居る間が殯宮だ、といふ考へは、後の考へ方で、支那の考へが這入つて来て居る。
殯宮の間に於ける天子様を、大行天皇と申上げて居る。此も亦、支那流の考へが混つて居る。此期間中は、生死不明であると共に、日つぎの皇子が、裳(襲)に籠つて居られる期間である。

猿女鎮魂の起原ともいふべきは、天ノ岩戸の一条の話である。天照大神は、天ノ岩戸に籠られた。そして、天ノ鈿女命は、盛んなる鎮魂術をやつた。それで、一度発散した天照大神の魂は、戻つて来て、大神は復活した。魂を附着せしむるといふ事は、直に死を意味するものとはならない。此処から考へても、あの大嘗祭の時の蓐の行事が、真に死骸だと考へる事は出来ぬ。

此蓐の行事の、毎年繰り返されるのが、神今食・新嘗祭などの蓐である。蓐に籠る度数が、多ければ多いだけ、威力を増す、といふ考へである。こんな考へ方からして、天子様は、御一代の間に、毎年新嘗をせられて復活されるのである。そして、毎年復活して、新しい威力ある御身体を以て、高御座にお昇りなされて、祝詞を下されるのである。

     七

此処で春の祭りの話をする。春の祭りは、大嘗祭と、即位式と、四方拝と、もう一つ朝賀式とを兼ねたもので、正月の元日から三日の間に行はれるのである。

大宝令――詳しくは養老令――を見ると、五つの詔書々式が残つて居る。其中の主なものは二つで、此は、外国に対しての詔書々式で、他の三つは、国内に対してのものである。此は、大・中・小の三つに分れて居るが、大体から見て、内・外は対をなして居るもの、と見る事が出来る。

内国に対する詔書中、大きな事に用ゐられる書式は、最初の書き出しの言葉に、

明神御大八洲天皇詔旨アキツミカミトオホヤシマグニシロシメススメラガオホミコト……咸聞モロ/\キコシメセトノル

といふ詞を、此書式の詔書のはじめに、据ゑねばならぬ。次に、外国即、朝鮮に対しての詔書には、同じく養老令を見ると、大八洲天皇詔旨の代りに、御宇日本天皇詔旨と書いて居る。(「高御座」参照。全集第二巻)

斯くの如く、国内に対しては大八洲天皇といひ、外国には御宇日本天皇といふのである。そして此言葉を唱へられる場合は、初春か、又は、即位式の時である。此点から見ても、即位式と、初春とは同一である、といふ事がわかる。

其意味は、大八洲は皆私のものだ、といふ意味である。そして、御宇日本天皇といふのは、此言葉を受ける人は、皆日本の天子様の人民になつて了ふ、といふ信仰上の言葉である。支那に対しては、言へなかつた。朝鮮にのみ用ゐられた。朝鮮の任那の国をば、内屯倉ウチミヤケとよんで居つた。うちみやけは、朝廷の御料を収めて置く処といふ意味である。

初春の詔書の全体の意味は、即位式の詔書の意味と、全く同一である。内屯倉ウチミヤケは、天子様の御言葉の勢力が及んだ証拠で、此大八洲天皇とか、御宇日本天皇とかいふ言葉を聞くと、もう、人々の心も身も、天子様のものになつて了ふ。後にこそ、大八洲・御宇日本と分けて用ゐられて居るが、語の及ぶ効力は同一で、其間に、少しの距たりも無かつたのであらう。即、此語の及ぶ範囲が、天子様の御領土といふ事になる。

日本歴史で、知り得る限りでは、大和国の山辺郡の大倭村が、やまとの本地であつたらしい。其が次第に拡がつて、今吾々の考へて居る程の、広さになつたのであらう。猶日本紀によつて、仮説を樹てゝ見れば、日本の宮廷は、或時期の間、筑紫の方面に栄えられた事を伝へて居る。筑紫の山門ヤマト郡の名称が、神武天皇の大和に入られたのと同時に、ついて来た名称とも考へられる。とにかく、何故に、全国到る所をやまとと言うたかといふと、前に言うた通り、明神御大八洲天皇詔書……咸聞といふ、言葉の勢力が及ぶ範囲、といふ意味である。この信仰を度外視しては、何故に日本全体をやまとと言うたか、といふ事は訣らぬ。戦争で領土が拡まつた、といふ考へのみでは、説明は出来ぬ。

又、続日本紀を見ると、天子様は、御代初めに、何か仰せ言を下される時に、大倭根子何々天皇、と最初に言ひ出される。古事記にも、日本紀にもある。「根子」の古い例は、山背根子・難波根子等である。根子は、神主・君主といふ事である。昔は、神主は即、君主であつた。大倭根子といふと、大倭の地方全体の神事を司る人即、君主といふことになるのである。後には、日本全体の祭主、即君主との意味になつて来た。かうした天子様のお言葉も、古い時代は、口頭で言はれたが、奈良朝頃から、文書に書いてやられる事が行はれた。此を宣命といふ。此宣命が、飛鳥ノ宮の末頃からは、文書の形式が定まる様になり、天皇御即位の年の、春の初めには、必、宣命をお下しなされた。後になつて、御即位の式と、朝賀の式とが分れても、両方共に、仰せられるお言葉は、似たものである。

宮廷の儀式をみると、春の儀式と、即位式と沢山、似た処がある。昔から、即位式と、大嘗祭とは同じだ、といふ学者は、沢山ある。昔は必、同一な者であつたと思ふ。そして、此式が春行はれるものだ、と考へられる様になつた。

さて、春といふ語の本義が、不明である。草木の芽が発する事を「はる」といふ処から言ふのだ、と言はれて居るが、ほんとうの事は訣らぬ。其他、いろ/\と言はれて居るが、不明である。そして、春といふ用語例の、古い処も訣らぬ。何にしても、はるかす・はるく・はるなど考へて見ると、開けるといふ意味があるらしい。

今此処で、民間の春の行事からして、宮廷の春の行事を考へて見る事にする。俳句の歳事記を見ると、逆簑岡見といふ事がある。此は、大晦日の夜、簑を逆に着て、小高い所へ上つて四方を見ると、来年一年の村の吉凶・五穀の豊凶等、万事が見えるといふのである。此風習は、春の前に当つて、山の尾根伝ひに、村を祝福しに来た、神のあつた事を語るものである。

日本では、簑は、人間でないしるしに着るものである。処が、百姓は簑を着るが、此は、五月の神事の風習が便利だから、其神事の風を真似て了うたのである。すさのをの命は、千位置戸を負はせられて、爪をぬかれ、髪を抜かれ、涙も唾も痰も皆とられて、為方が無いから、青草を束ねて簑として、下つたと言うて居るし、奈良朝以前の風習と思ふが、簑を着て人の家に這入ると、這入つた人から、科料を取るといふ事もある。此は、簑は神の着るもので、神が来ると、祓へをしなければならぬから、其入費を科するのである。簑について神が来るので、簑を着て来る人から、入費をとるのである。今でも、民間には、人の家へ簑を着て行く時は、必、外でぬいで這入れ、というて居る。

又、前の岡見の話に還るが、高い山から、里に近い岡の上に神が来て、村人の為に、来年の様子を言うてくれた。此は、大晦日の夜から、明け方にかけてのことである。此風が替つて、今度は里人が神になつて、簑をきて、岡へ上つて行つた。こんな習慣が固定して出来たのである。神のやつてくれたのを、人間がやる様になり、神の祝福の語からして、人間がやつて見ても訣る、といふ風に変つて来たものである。

考へて見ると、ににぎの尊も、山の尾根伝ひに、降臨されて居る。一体、日本へ来られた神々は、皆高い所から、山の尾根伝ひに下つて来られて居る。此信仰上の事実が、今でも国々村々には、ざらに残つて居る。

処で、春といふのは、吾々の生活を原始的な状態に戻さうとする時であつて、其には、除夜の晩から初春にかけて、原始風な信仰行事が、繰り返される事になつて居る。つまり、原始時代に一度あつた事を毎年、春に繰り返すのである。古代の考へでは、暦も一年限りであつた。国の一番始めと、春とは同一である、との信仰である。此事からして、天子様が初春に仰せられる御言葉は、神代の昔、ににぎの尊が仰せられた言葉と、同一である。又、真床襲衾を被られ、其をはねのけて起たれた神事、そして、日の皇子となられた事など、其がつまり、代々の天子様が行はせられる、初春の行事の姿となつて居るのである。

     八

元旦の詔詞は、後には書かれて居るが、元は、天子様御自分で、口づから仰せ出されたものである。だからして、天子様の御言葉は、神の言葉と同一である。神の詞の伝達である。此言葉の事を祝詞ノリトといふ。今神主の唱へる祝詞は、此神の言葉を天子様が伝達する、といふ意味の変化したものである。

のるといふのは、上から下へ命令する事である。上から下へ言ひ下された言葉によつて、すべての行動は規定される。法・憲・制等の文字に相当する意義を持つて居る。祝詞は正式には、天ツ祝詞ノ太祝詞といふのである。のりとは、のりを発する場所の事で、神座の事である。而して、此神座で発する言葉が、祝詞である。「天つ祝詞の太祝詞ごと」とは、神秘な壮大崇高な場所で下された御言葉、といふ事である。此尊い神座の事を高御座といふ。

高御座とは、天上の日神の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。だから、祝詞を唱へる所は、どこでも高御座となる。そんなら、御即位式の時に昇られる高御座は、何を意味するかといへば、前述の様に、天が下の神秘な場所、天上と同一な価値を持つて居る所、といふ意味である。天子様の領土の事を天が下、天子様の御家の事を天のみかどなどいふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持つて居る処、といふ意味である。みかどといふ語が後には、天子様の版図の事にもなるのは、此意味であり、後には、天子様の事をも申し上げる様になつて来て居る。

高御座で下される詞は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる。天子様は、天上の神となる。かうして、時も、人も、所も、詞も、皆元へかへる。不思議な事に、天上にある土地の名が、其々地上にもある。天の安河原は、天上の土地の名であるが、近江の国にもある。天上に高市タケチがあるかと思へば、倭にも高市郡がある。天上から降つて来た土地だなどいふ伝説も、かうした信仰から出たのである。

天子様は、申すまでもなく、倭の神主であらせられて、神事が多い故に、常に御物忌みをせられなければならぬ。殆ど一年中祭りをして居らせられねばならぬ。此は、信濃の国の諏訪の神主に見ても知れる様に、年中祭りに忙殺されて居る。天子様は、日本中の神事の総元締めで、中々やりきれない。そこで、日本には中臣といふ御言詔持ミコトモチが出来た。此中臣は、天子様と群臣との中間に居て、天子様の御言葉を、群臣に伝達する職のものである。

それから、天子様と、神との中間に在るものを、中天皇ナカツスメラミコトといふ。万葉集には、中皇命と出してある。此中皇命の役に立つものは、多くは、皇女或は后などである。

中臣は主として、天子様の御言葉を伝達するのが、為事であつた。元来なら、天子様が申されるはずの祝詞をも、中臣が代理で申すのだ。だから後には、中臣の詞が、祝詞と云はれる事になつた。今ある祝詞は、平安朝の延喜年間に書きとられたものである。平安朝には、斯様に、固定して居たのであらう。其前には、常に詞章が変化して居た、と見るべきである。後には、中臣の家一軒に定まつて了ひ、且、次第に勢力を得て来た。此は御言葉伝達ミコトモチの職をつとめたからである。

今ある祝詞は、一般に古いものとされて居るが、実は古い種の上に、新しい表現法が加はつて居る。神代ながらのものは無い。奈良朝又は平安朝頃の手加減が加はつて居る。古い姿のまゝでは、訣らなかつたのである。時代々々で理会し易い様に、変へて了ふ。又、故意になさずとも、口伝の間に、自ら誤りが生ずる。祝詞の中では、何の事か訣らなくなつて、手のつけようのなかつたと思はれる部分が、古いものである。天つ神の言葉とされて居るのを、天子様が高御座で唱へられるのが、古い意味の祝詞である。中臣の手に移つてからは、祝詞の価値は下つて了うた。

奈良朝の少し前頃から、地方の神々が、朝廷から良い待遇を受けて居る。平安朝では、地方の神々に、位を授けて居る。朝廷の神は別として、それ以外の地方神は、精霊の成り上りで、天子様よりは、位が下の筈である。だから、天子様から位を授けられるのも、尤な事である。併し、位を授けられてからは、漸次地位が高くなつて来て、遂には天子様と同じ程の位のものにも考へられて来た。其で地方神に申される言葉が、対等の言葉づかひで申される様になつて来た。処が、伊勢の天照大神に対しては、天子様の方が、下位に立たれて居る。だから、天子様が伊勢の大神に申される御言葉は、元来寿言ヨゴトの性質のものである。だが、延喜式では、前者も後者も等しく、祝詞と称して居る。

かうした訣で、祝詞には、今日から見れば、種々の意味があるが、ほんとうは天子様が、高御座で仰せ出されるのが、祝詞である。祝詞の中では、春の初めのが、一番大切である。古くは、大嘗祭の後に、天子様の即位式があつた。昔は、即位式といつて、別にあつた訣ではない。真床襲衾からお出になられて、祝詞を唱へられると、即、春となるのである。

元来、大嘗祭と、即位式と、朝賀の式とは、一続きである。其間に於て、四方拝といふのは、元来は、天子様が高御座から、臣下や神に対して、お言葉を下される事を斥して、言うたのであつたが、後に、支那の道教の考への影響を受けて、天子四方を拝すといふ様になつて了うた。

     九

此処で大嘗祭に奏上される寿詞に就て言うて見る。

寿詞とは服従を誓ふ時に、即、自分の守り魂を奉る時に、唱へる言葉である。此は国々に伝はつて居る物語と、同様なものである。後には変化して、宮廷と自分等の氏々、又は、国々との関係の、初めを説く様になつた。其で、宮中に仕へて居る役人等は、自分の職業の本縁・来歴を説く物語を申し上げる。朝廷に直接に、仕へて居る役人のみでなく、地方官・豪族の首長、又、氏々の長なども、地方を又は、氏々を代表して、寿詞を申し上げる。此事は、近世まで、初春の行事に、其儀を留めて居る。一年に二度行はれたらしい様子も、盆の行事に、其名残りが見えて居る。今日民間でも、初春に「おめでたう」といふのは、おめでたく今年一年間いらせられまする様に、といふ寿詞の最大事な部分が、単純化されたものである。此を言ふのが、即、服従を誓ふ所以である。

処が、初代から、朝廷に仕へて来た人々の寿詞と、国々で申し上げる寿詞とは、性質が違うて居る。初代からのものは、自分の職業の神聖なる所以と、来歴とを説くし、国々のは、天子様に服従した来歴・関係を物語るのである。譬へば、天孫降臨の時に、ににぎの尊がつれて来られた、五ノ伴ノ緒の子孫等の申される寿詞は、古いものであるが、朝廷と国々との関係を申し上げる物語は、新しい寿詞である。此寿詞をば、大嘗祭・即位式・元旦此三つの場合に申されるのである。後には、春と大嘗祭との二度、代表者で、間に合せる事になつた。

元旦の朝賀の式に、天子様が祝詞を下される式は、奈良朝には既に、陰に隠れて了うて、群臣が寿詞を申し上げに出る式のみとなつた。此は、物部とか、蘇我とか、大伴とかいふ、高い氏の代表者が出て、申し上げるのであつた。処が、大嘗祭の時には、中臣氏が代表して、寿詞を申し上げるのである。即、自分の家の職業を申し、天寿を祝福して、百官を代表するのである。同時に、諸国の寿詞が奉られるが、此諸国の寿詞の話は、後に言ふ事にして、此処では、中臣の寿詞の話をする。
後世では、大嘗祭の第二日目の辰の日の卯の刻に、中臣ノ天神ノ寿詞を奏上する。天子様は、此より少しまへに、悠紀殿へ御出御になり、つゞいて皇太子・群臣が着座する。そこへ神祇官の中臣が、榊の枝を笏に取り添へて、南門から這入つて、定座に着いて、寿詞を申し上げる。即位式にも、全く此と同様な事を行ふ。此から見ても、即位式と大嘗祭とは同一であると言へる。

では、中臣ノ天神ノ寿詞とは何かといふと、全く中臣の寿詞で、天つ神の寿詞ではない。元来、この寿詞は、藤原頼長の台記の中に書きとられたのが、残つたものである。康治元年に、近衛天皇が、即位式を挙げられた時に用ゐられたのを、書きとつたものである。実に、偶然な幸ひであつた。

寿詞の大体の意味は、次の如くである。

中臣の遠つみ祖である処のあめのこやねの命、皇御孫尊にお仕へ申してあめのおしくもねの命をして、二上山に登らしめて、其処で、天神にお尋ね申さしめられるには、皇御孫尊に差し上げる御膳の水は、如何致したらよろしうございますか、と申された。すると、天神の教へ諭されるには、其は、人間界の水と、天上の水とを一処にして、差し上げねばならぬ。あめのおしくもねの命は又、お尋ねした。然らば、其を得るには、如何致したらよろしうございますか、と問ふと、天神は、玉串をお授けになつて、言はるゝ事に、此玉串を地上に立てゝ、夕日の時から、朝日の照り栄える時まで、天つ祝詞と太祝詞を申せ。かく申せば、その祝詞の効力に依つて、直に兆象が顕れる。そして若蒜が五百個、篁の如く生える。そこを掘つて見ると、天の八井が湧く。その水をとつて奉れ、と教へられた。だから、此をおあがりなさいませといふ。

つまり、中臣としての聖職の歴史を申し上げるのである。此縁故・来歴によつて、悠紀・主基の地方の米に、天つ水をまぜて、御飯を炊き、お酒をこしらへて、天皇に差し上げる。此をお召しあがりなされると、天子様は健康を増し、弥栄えに栄えられるのである。

中臣家は、水の事を司る家筋である。だから、天子様の御湯殿にも、仕へる。そこからして、后が出る事にもなる。つまり中臣は、水の魂を天子様に差し上げる聖職の家である。言ひ換へれば、中臣の家は、水の魂によつて生活して居る家筋である。其故、水の魂を、天子様に差し上げるといふ事は、自分の魂を差し上げる事になる。中臣は、群臣を代表して居るから、他の臣たちのも、此意味で、各々の家筋の魂を天子様に奉る事になる。昔は、神事と家系とは、切り離す事の出来ぬ、深い/\関係があつたのである。

譬へば、大伴家にしても、本来は、宮廷の御門を守つた家筋である。一体「伴」といふのは、何にてもあれ、宮廷に属して居るものをいふ語であつて、大伴は御門の番人である。記・紀を見ると、門の神をば、大苫部と言うて居る処がある。大苫部と大伴部とはおなじで、門をお預りして居る役人といふ事である。後世は、かういふ職の役人も増して来て、物部の家筋の者も、御門の番人となつて来た。そこで、門部の発達をも見る様になつた。平安朝では、大伴は単に、伴というて居る。

大嘗祭の時に、悠紀・主基の御殿の垣を守る為に、伴部の人と、門部の人とが出る。此は両者同一な役を勤めるが、元来は、異つた系統の者である。此等の御門の番人は、元来は或呪言を以て、外来の悪い魂を退けたのである。此等の家筋の頭をば、伴造と云ひ、其部下の者をば、伴部又は部曲というて居る。此頭即、伴造は、種々あるが、神主の地位に居たのであつた。神主たる職業を以て、天子様に仕へて居た。此者達が、後には官吏化して、近衛・衛門・兵衛等の職が出来た。此等は、大伴部・門部・物部等が、元来の家筋を離れて、官吏化して出来たものである。平安朝にはもう、むちやくちやになつて、庭掃きの者に至るまで「殿守の伴のみやつこ」などゝ言ふ様になつて了うた。だが、大嘗祭の時には、昔の形を復活して、大伴部・門部・物部等の人々の代表を、官人から任命して、御門警衛の任に用ゐられた。

     一〇

次には、大嘗祭の時の、御所の警衛の話をして見る。

一体、物部といふ語には、固有名詞としての意味と、普通名詞としての意味とがある。八十物部(八十武夫)といふ様に、此部に属する者は、沢山あつた。物部も、其中の一つである。広く言へば、魂を追ひ退けたり、ひつつけたりする処の部曲が、物部である。大伴が代表者となつたのは、大倭の魂を取り扱つたからである。大嘗祭の時に、物部の任務が重大視されるのも、此故である。物部氏が、本流は亡びたが、石イソノ上カミ氏が栄えてゐて、大嘗祭の時に、大切な御門の固めをした。門の処に、楯と矛とを樹てゝ、外敵を差し止める事をした。此楯を立てゝ、宮廷を守る事を歌つたのが、万葉集巻一に出てゐる。

健男マスラヲの鞆トモの音すなり。物部モノノフの大臣オホマヘツギミ楯立つらしも(元明天皇御製)

此歌に和せられたのが、

我が大君。物な思ほし。尊神スメガミのつぎて給へる君なけなくに(御名部皇女)

此御製は、大嘗祭の時に、物部の首長が、楯を立てる儀式をしてゐる様子を歌はれた、即興の歌である。和せられた方のは、天皇が何か考へて居られるを見てとつて「何もそんなに、お考へなさらずとも、いゝではありませんか。あなた様は、尊い神様が、順次にお立てになつた所の、尊い御方ですもの」との意である。

大嘗祭などの重大な儀式に当つて、楯を立てるのは、悪い魂が邪魔をすると、それを物部が追ひ払ふ為である。口では、呪言を唱へて、追ひ払ふ事をするが、具体的には、此楯を立てる。又、矛をも振り、弓をも鳴らす。かうして、宮廷の御門を固めるのみではなくて、海道四方の関所を固めた。日本の三関といはれて居る所の逢坂・不破・鈴鹿などは、何れも固められた。全く宮殿の御門を固めるのと同一な考へからやるのである。

さて、大嘗宮は、柴垣の中に、悠紀・主基の二殿を拵へてあつて、南北に門がある。天子様は、まづ悠紀殿へ出御なされて、其所の式をすませ、次に主基殿へお出でなされる。古来の習慣から見ると、悠紀殿が主で、主基殿は第二義の様である。すきは、次といふ意だと言はれて居る。悠紀のゆは斎む・いむなどの意のゆで、きは何か訣らぬ。そして、ゆき・すきとなぜ二つこしらへるのか、其も訣らぬ。だが、大体に於て、推定は出来る。

日本全国を二つに分けて、代表者として、二国を撰定し、其二国から、大嘗祭に必要な品物をすべて、持つて来させて、この二殿で、天子様が御祭りをなされる。昔は或は、宮廷の領分の国の数だけ、悠紀・主基に相当する御殿を建てたものかも知れぬ。そして、天子様が大きなお祭りをせられたのかも知れぬ。そして、此御祭りの中に、いろ/\の信仰行事が取り込まれて来て、天子様の復活祭をも行はれる様になつたのであらうと思ふ。

天子様は、悠紀・主基の二殿の中に、御蓐を設けられるのは、何時の頃からか、よく考へて見ると、何も左様な褥の設けられねばならぬ、といふ理由はない。悠紀殿・主基殿の二个所で、復活なされる必要はない。大嘗宮の外に、復活式をせられる場所がなければならぬ。悠紀殿・主基殿へ出御なさるのは、新嘗を御うけなされる為であらう。

大嘗祭の時には、廻立殿をお建てになるが、恐らく此が、天子様の御物忌みの為の御殿ではなかつたか、と考へられる。此宮でなされる復活の行事が、何時の間にか、悠紀・主基の両殿の方へも移つて行つて、幾度も此復活の式をなさる様になつたのであらう。次に、風俗と語部の話をして見たい。

     一一

昔は、大嘗祭の時には、ゆき・すき二国からして、風俗歌が奉られた。平安朝の頃は、其国の古歌を用ゐて居た。後には、其国から出た、古い歌人の歌を用ゐる事になつた。後には、都の歌人が代表して歌を作る様になつた。

此風俗歌は、短歌の形式であつて、国風クニフリの歌をいふのである。此国ふりの歌は、其国の寿詞に等しい内容と見てよろしい。国ふりのふりは、たまふりのふりで、国ふりの歌を奉るといふ事は、天子様に其国の魂を差し上げて、天寿を祝福し、合せて服従を誓ふ所以である。

ふりは、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)にもいひ、歌にもいふ。ふりといふと、此二つを意味するのである。歌をうたつて居ると、天子様に、其歌の中の魂がつき、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)を舞つて居ると、其※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)の中の魂が、天子様に附着する。諸国の稲の魂を、天子様に附着せしめる時に、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)や歌をやる。すると、其稲の魂が、天子様の御身体に附着する。

此魂ふりの歌を、いつでも天子様に申し上げる。其が宮中に残つたのが、記紀のふりの歌である。今残つて居るのは、短い長歌の形をして居る。国風の歌の出発は、呪詞と同様に、諸国の寿詞中から、分裂して出来たもので、つまり、長い呪言中のえきすの部分である。長い物語即、呪言を唱へずとも、此部分だけ唱へると、効果が同様だ、といふ考へである。大嘗祭の歌は、平安朝になると、全く短歌の形になつてゐる。

大嘗祭には、かうして、ふりの歌が奉られて居るが、一方、卯の日の行事を見ると、諸国から、語部が出て来て、諸国の物語を申し上げて居る。平安朝には、七个国の語部が出て来て居る。

美濃  八人    丹波  二人    丹後  二人    但馬  七人
因幡  三人    出雲  四人    淡路  二人

皆で、廿八人である。昔から、此だけであつたかどうか、其は訣らぬ。又、此だけの国が、特別な関係があつての事か、其も訣らぬ。恐らく、或時に行はれた先例があつて、其に倣つて、やつた事であらう。其が又、一つの例を作つて、延喜式には、かう定まつて居たと考へればよい。平安朝以前には、此よりも多くの国々から出たのか、或は、此等の国々が、代表して出たのか、其辺の事もよく訣らぬ。

何処の国にも、語部の後と見るべきものはあるが、正しく其職は伝はらない。語部は、祝詞・寿詞を語るものゝ他に、歴史を語るものもある。奈良朝を中心として、一時は栄えたが、やがては、衰へて了うた。大嘗祭の時に出て来る語部は、ふりの歌の本縁を語るのである。歌には又※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)が附いて居るから、此歌の説明をすると、其由来の古さも感ぜられる。随つて、其歌の来歴も明らかになり、歴史づけられるのである。かうした訣で、大嘗祭には、語部は、歌の説明に来たのである。語部も、もう此辺になると、末期のもので、此から後は、どうなつたかよく訣らぬ。鎌倉や室町の頃になると、もう全く、わからなくなつててゐる。さて、国風の歌は奉らなくなつても、語部は出て来て居る。そして、風俗歌を出したのは、悠紀・主基二国だけである。

此国風の中で、一種特別なものが、東歌であつて、即すなはち東の風俗である。不思議な事に、此東の歌や※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)は、大嘗祭には参加しない。此は、東の国は大嘗祭が固定して了うて後に、天子様の領分になつた国であるからである。東がまだ、日本の国と考へられないうちに、大嘗祭は、日本の生活古典として、固定して了うて居たのだ。吉野の国栖や、薩摩の隼人が歌を奏するのに、東だけがやらぬといふのは、東が新しく領土となつたといふ証拠である。平安朝になつてから、何かの機会にやつと、宮中に奉られたのである。尤此より先に、万葉集には既に、東歌が採られて居る。古今集には、勿論ある。そして東遊び(寿楽)も、宮中へ這入つて居る。此は、何かの儀式の時に、東歌や、東遊びが、宮中で行はれ出したのに違ひない。

東歌が、どんな時に、宮中に這入つたか、略目当てはつく。此は、東の諸国から、荷前の使が行く時に、宮廷で奏したのであらう。即、東の国の稲の魂を持つて行つて、服従を誓うた時の歌が、東歌である。只、大嘗祭が行はれる時期と、東の国で、荷前を奉る時期とが、合つて居た為であらう。

平安朝に入つてから、風俗といへば、主として、悠紀・主基二国のものと考へられては居るが、其は、此二地方が注意にのぼり易く、且繰り返される場合が、多かつた為である。だが、東遊中の風俗歌は、主として、東の国のものが残つて居る処を見ると、風俗といふのは、何も悠紀・主基二国のものと限つて居つたわけでもない。寧、風俗歌は、東が主だと信ぜられて居つたと思はれる。

悠紀・主基の国では、稲穂を中心として、すべての行事が行はれる。稲穂は、神様の取り扱ひを受けて居る。其役員には、男・女共に定められる。女の方では、郡領の娘が造酒子サカツコに定められる。造酒子サカツコは、地位の高い巫女である。男の方は、稲実の君が定められる。此で、酒と米との役人が出来た訣である。――昔の考へでは、酒と米との間に、劃然とした区別はなかつた――それから、造酒子サカツコの下には、酒波さかなみが一人、篩粉コフルヒが一人、共造アヒツクリが二人、多明ためつ酒波が一人あるが、此等は皆、酒に関する巫女である。男子の方は、稲実の君の外に、灰焼一人、採薪四人が定められる。猶、歌女二十人、其他、いろ/\の役割りが定められる。然も、酒の事に仕へるのみかと思ふと、さうではない。山へ行つて、薪や御用の木を伐る時に、一番先に斧を入れたり、又野原へいつて、御用の茅を刈るのも、造酒子サカツコの為事であつた。

此人々は、時期が来ると、稲を積んで都へ上り、土地を選んで、そこへ斎庭を作る。後世は大抵、北野につくられた。そして大嘗祭の前に、大嘗宮へ運んで来る。つまり、此等の人々は、稲の魂を守つて都へ上り、其で酒もこしらへ、御飯も焚きして、其を天子様の御身体に入れる、といふ信仰上の行事を行うた。

稲の魂は、神の考へが生ずる、一時代前の考へ方である。外来魂の考へである。此魂を身につけると、健康になり、農業に関する、すべての権力を得ることにもなる。大嘗祭の中へ、稲穂を入れる時には、警蹕の声をかける。警蹕は、神又は天子様の時でないと、かけない。そして、警蹕のかけ方で、何処の国、何処の誰といふ事が訣つた位である。

警蹕の意味は「尊い神が来た。悪い者よ。そこをどけ」といふ事である。此で見ても、稲穂が大切な尊いものであつた事が知れる。此稲魂の事をば、うかのみたまといふ。うかはうけで、召食メシアガリものといふ事で、酒の方に近い語である。

悠紀・主基の二个国は、何時頃から定められたか訣らぬが、近代は、亀卜で定められる。昔は、何かの方法があつたのであらう。延喜式で見ても、御幣について上る国を以て、其とする様だ。これを国郡卜定と言うて居る。だが、悠紀・主基の国といふのは、大抵、朝廷の近くの国である。そして、東は悠紀・西は主基とされる。御殿もやはり、此様にこしらへる。つまり、大倭朝廷を中心として、其進路の前後を示したのであらう。或は、往き・過ぎの意かも知れぬ。ともかく、悠紀は大和の東南、主基は西北に当つて居る。此二国が定まる前は、新嘗屋が沢山造られて、其をば、天子様は一々廻つて御覧なされた事と思ふ。

悠紀殿・主基殿は、おなじ囲ひの中にあつて、両殿の界は、目隠しだけである。後世は、立蔀を立てゝ拵へられた。立蔀というても、椎の青葉で立てられたもので、此は、昔の青柴垣の形である。南北に御門がある。御殿は、黒木を用ゐる。黒木といふのは、今考へる様に、皮のついたまゝの木といふ事ではなくて、皮をむいて、火に焼いた木の事である。かうすると、強いのである。昔は京都の近くの八瀬の里から、宮殿の材木を奉つた。此を八瀬の黒木というた。後世には、売り物として、市へも出した。此黒木を出すのが、八瀬の人々の職業であつた。とにかく、此は、神秘な山人の奉る木で、此の黒木で造つた御殿の周囲に、青柴垣を拵へたのである。

かうして、尊いお方の御殿を拵へるのに、青柴垣を以てした事は、垂仁記のほむちわけの命の話にも見えて居る。

故、出雲に到りまして、大神を拝み訖ヲへて、還りのぼります時に、肥河の中に黒樔橋クロキノスバシを作り、仮宮を仕へ奉りて、坐マさしめき。こゝに、出雲国造の祖、名は岐比佐都美キヒサツミ、青葉ノ山を餝カザりて、其河下に立てゝ、大御食献らんとする時に、其子詔りたまひつらく、此川下に、青葉の山なせるは、山と見えて、山にあらず。若ケタシ、出雲の石※イハクマ[#「石+囘」、209-14]の曾宮ソノミヤに坐す、葦原色許男アシハラシコヲ大神を以て斎イツく祝ハフリが、大庭か、と問ひ賜ひき。こゝに、御伴につかはさえたる王等、聞き歓び、見喜びて、御子をば、檳榔アヂマサの長穂の宮に坐マせまつりて、駅使を貢上りき。

此話は、ほむちわけの命をして、青葉の山を拵へて、国造の岐比佐都美がお迎へしようとしたのである。即、青葉の山は、尊いお方をお迎へする時の御殿に当るもので、恐らく大嘗祭の青葉の垣と、関係のあるものであらう。かの大嘗祭の垣に、椎の若葉を挿すのも、神迎への様式であらう。尊い天つ神にも、天子様にも、かうするのである。

此、青葉の垣は、北野の斎場では、標の山として立てられる。此は平安朝にはへうのやまと発音されて居るが、其は誤つて音読したからである。本来はしめのやまで、神のしめる標シルシの山といふ事である。神様を此標の山に乗せて、北野から引いて来て、悠紀・主基の御宮にお据ゑ申す。標の山は神の目じるしとしてのものである。だが後には此標の山は、どうなつて了うたかわからぬ。

併し、此標の山の形のものは、近世まで、祭りの時は引き出す。屋台とか、山車ダシとか、お船とかいふ様なものは、此標の山の名残りの形と見る事が出来る。松本の青山様も、此様式のものであらう。

先に引いた垂仁記のは、古い形のものであらう。此が常に、尊い神や、人をお迎へする時に造られたのであつて、大嘗祭にも注意せられたのである。後世、祭りとして、一番「標の山」が用ゐられたのは、夏祭りの標本なる、祇園の祭りである。祇園祭りといふのは、ほんとうは、田植ゑのさなぶりの祭りで、田の神に振舞ひをする祭りであつて、本来は農村の祭りであつた。其が、だん/\と農村から出て、道教の考へと一処になり、怨霊の祟りの考へと一つになつて、御霊の信仰が強くなつた。京都などでは、殊に此考へが盛んになつて、五个処に御霊様を祀つて、御霊会を行ひ、神を慰め、悪事をやめて貰つたのである。こんな風で、後には、悪い事を防ぐ神と信じられて来て、其が仏教と習合して、牛頭天王様であると考へて来たのである。そして、其牛頭天王の垂跡が、すさのをの命だといふ様になつた。すさのをの命は、農業の神だから、直に一処にして了うたのだ。此時も「山」を出し、其山を中心として、祭りを行ふのである。こんな風で、後には、夏祭りには、鉾や山が行はれるやうになつた。

次に天子様の御禊の話をして見る。

     一二

大嘗祭の用意として、十一月は全体、物忌みの月である。これを散斎と言うて居る。其中で、大嘗祭の前二日と、其当日とをば、殊に、致斎と呼ぶ。散斎は割合に自由な物忌みといふ事で、穢れた事や、神事上の絆れた問題には与らない、といふ程の意味である。致斎の方は、昔は絶対な物忌みであつたらうが、令の規定以来、少しく軽くなり、十月の末日と定められて、山城の京都では、加茂川の某地点で、御禊を行はせられた。かうした御禊は、伊勢の斎宮・加茂の斎院を定められる時も、予めなされる。天子様・斎宮・斎院の御禊は、同一な格式でなされる。平安朝になると、音読してごけいと言うて居るが、古くは、みそぎと言うて居る。

此所で、少しく、みそぎ(禊)とはらへ(祓)との区別をいうて見る事にする。
祓へといふのは、穢れ又は、慎しむべき事を冒した場合、又は彼方からして、穢れや慎しむべき事がやつて来て、此方に触れた時に、其を贖ふ為に、自分の持つて居るものを提供して、其穢れを祓ふ事である。神は、此贖ひ物を受けて、其穢れを清めて呉れるのである。元来、祓へは、神事に与る人が、左様にして呉れるから、他動風なものである。自分からするのならはらひであるが、はらへと他動風に昔からいうて居る。

次に、みそぎといふのは、神事に与る為の用意として、予め、身心を浄めておくことである。家でも、神の来べき時には浄める。謂はゞ、みそぎは、家でも身体でも、神に接する為の資格を得る方法である。後世の神道家は、吉事祓へ・悪事祓へと対照して言ふが、元来、吉事に祓へはない筈である。吉事をまつため、迎ふる為の行事は、禊ぎである。其に対して、祓へは悪事を前提として行はれるものである。謂はゞ、祓へは後世の刑罰に当るものである。

宮廷で大祓へというて居られるのは、実は禊ぎであつて、平安朝の初期から、間違うて居る。だが、まづ罪といふ事を考へて見る。大祓へのうちに、祓ふべき罪・穢れ即、神に対して、慎しむべき事を罪といふ。其中で「天つ罪」といふのは、天上の罪といふ事で、普通にはすさのをの尊が、天上で冒した罪を斥していふ。それから此国で慎しまねばならぬ罪を「国つ罪」といふ。国つ罪の中には、勿論慎しまなければならぬ事のあるのは勿論だが、又さうでなく、何でも無い様なのがある。譬へば、這ふ虫の禍罪ワザハヒ・たかつどりの禍、かういふのがある。此は、鳥や蛇が家に這入つて来たのは、此家が、神の家になつたといふ標で、其故に慎しまねばならぬ、といふ意味である。

奈良朝の頃でも、此禊ぎと祓へとを混用して、両方とも慎しみ、と考へて居る。祓へは、贖罪として、祭りの費用を出す行事であるし、禊ぎはよい事を待ち迎へる為に、予め家又は、身心を清浄に、美しくする行事である。

日本古来の信仰からいふと、一度呪言を唱へると、何でも新しくなる。それで、新嘗祭の新室も、一言呪言を唱へて、其で、新室と信じきつて居つた。其事が、大嘗祭にも行はれ、また米を食べる神今食の時にも行はれる。其を宮廷では、大殿祭といふ。此は、祭りの行はれる前の日の夜明け方に、仮装した神人が、宮廷を浄めて廻る。家を浄める為である。そして其後で、祭りが行はれる。此清浄になつた家、即大殿へ、神様がお出でになると、天子様は御一処に、此処で御飯をおあがりなされる。凡て神様の来られるお祭りは、神様に振舞ふといふ事が、行事の中心になつて居るものである。

大殿祭は、大嘗祭の時にもあるのであるが、此は、悠紀殿・主基殿が出来ると、直に早く行はれる故に、隠れて見えないのである。此大殿祭の間、天子様は御身浄めの為に、御湯殿へ御這入りになつて居られる。つまり、天子様は、禊ぎをして居られる訣である。

神の祭りの時に、一番初めに出て来る人は、御馳走を享けられる神ではなくて、御殿を浄める為の神人である。此浄めの為に来る人々を、平安朝の考へでは、山人だとされて居る。山人は、山の神に仕へる神人である。本来は山の神が自ら来て、御殿を清めて呉れた、と考へて居るのである。此清浄にされた御殿へ客人神マレビトカミが来て、天子様と御一処に、御飯を召し上るのである。此御殿を清める時の詞を、延喜式によれば、大殿祭祝詞というて居る。

ほかひといふのは、祝福すること、又は其詞、或は動作などをくるめていふのである。此言葉を祝詞というたのは、平安朝の事で、元来は鎮詞イハヒゴト、又は鎮護詞イハヒゴトなどゝいふべき詞である。其語の性質から見ても、仲間の親分が、子分に申し聞かせ、又は相談する様な物言ひぶりである。「かうだから、お互ひに、かうしようぞ」といふ意味が、主要な部分である。上から下への、のるではない。
かうして見ると、山の神は、土地の精霊の代理者で、同じ仲間の者同志である、其精霊の代理者が、精霊を鎮まらせるのである。さて、此いはひごとが済んだ後で、本式な祭りが行はれるのである。

大嘗祭の時は、大殿祭は既に済んで居るので、卯の日には、其行事が見えないが、お湯へお這入りになる事は、屡行はれる。本来は、此湯へ這入つて居られる時に於て、一方では、御殿のほかひが行はれて居るのである。大嘗宮は、紫宸殿の前で、南に建てられる。東には廻立殿が造られる。そして、紫宸殿から廻立殿への出御は、廊下を渡つてなされる。

廻立殿といふのは、悠紀・主基両殿へお出でになる御用意の為に、設けられた御殿で、いはゞ祭事の為に、お籠りになる御殿である。

此御殿の名称が、何の故に廻立殿とよばれるか、其は訣らぬ。そして、此廻立殿の御儀式は、外部からは、一切訣らぬものにされて居る。廻立殿は、東西五間、南北三間の御殿である。西側三間を、天子様の居られる所とし、東側二間は、竹の簀子にしてある。此所が、茶の湯所となつて居るが、なにか、忌斎の場所らしい。天子様は、大嘗祭の卯の日の儀式にも、始終、この廻立殿へ出御なされる。そして、御湯をお使ひなされる。此処で、此お湯のお話をする事にする。

     一三

湯は斎ユに通ずる音で、古く湯といつたのが、果して、今の吾々の云ふ所の温いものかどうか、一寸疑問である。斎川水といふ事もあつて、此は、天子様の御身体をお浄めになる水で、用水でも、池でも、泉でも、何でも左様にいふのである。だから、斎川といふのは、御禊に使ふ水をいふ事である。此斎川水が段々と変化して、終には湯にまでなつた、と見るべきである。

日本の古い信仰では、初春には、温い水が遠い国から、此国土へ湧き流れて来る、と信じて居つた。そして事実、日本には温泉が多い。こんな事からして、いづる湯についても、神秘な考へを持つて居つた。温泉は、常世の国から、地下を通つて来た温い水で、禊ぎには理想的なもので、そこで、斎川水ユカハミヅとして尊重されたものである。又さうでなくとも、斎川水は温いと信じて居つた。こんな風な信仰から、禊ぎには、温い水を用ゐる様になつた。だから古い書物に、湯とあつても、其は、今日の吾々の考へて居る温湯である、と直ぐに、極めつける事は出来ぬ。

藤原の宮から奈良・飛鳥の宮にかけては、天子様が時々、湯に行かれたり、温泉を求められたりした事が、記・紀・万葉集などには、非常に多く出てゐる。此温泉へ旅行せられるのは、今日の吾々の様に、たゞの遊山や避暑ではなく、御禊の信仰の考へから見ねばならぬ。とにかく、以上いうた様な信仰から、宮廷の斎川水の考へは、温い湯と変つたので、又其を直にゆと申す事になつた。此湯に這入られると、尊い方となられるのである。日本にある処の、天の羽衣伝説は、此禊ぎと深い関係を持つて居る話である。天上から降つた処女が、天の羽衣を脱いで、湯に這入つたら、人間になつてしまつた。又、天の羽衣を奪ふと、人間になる。かういふ筋の話は沢山あるが、此天女の羽衣の話の源をなすものは、丹波の天の真名井マナヰの、七人の天つ処女の伝説である。

天の真名井の話で見ると、七人の天女の中で、羽衣を奪はれた一人の娘が、後には、伊勢の外宮の豊受大神となられた。此七人の天つ処女の縁故で、丹波からは、八処女が、宮廷へも、伊勢へも出て来て、禊ぎの事に奉仕する。不思議なのは、禊ぎに奉仕する処女が、其尊い方の后となられる、習慣の見えて居ることである。だから、或時期の間は、丹波氏の娘が、宮廷へ仕へて、后となつて居る。さうでなくとも、丹波氏の娘の形式をとつて、后となつて居る。

先に申した所の、天の羽衣を脱いだから人間になつて了うた、といふのは誤りで、脱げば、物忌みから解放されたのだから、神人とならねばならぬ筈だ。御禊をせられた尊い方は神であり、羽衣をぬがれた処女は、或任務を果たす為の、巫女である。巫女は神に仕へる、最高な女である。

此処で、話をずつと、後世へ引き下げて言うて見る。汚い話のやうであるが、今より二百年前までは、御湯へ這入る時に、湯具・褌などは、締めたまゝ這入つた。ほんとうは、湯に行く時は、褌を二筋持つて行つた。一筋は締めて居り、一筋は這入る時に締め換へて這入る為の用意である。何の為に、締め換へて這入るのか。此は、陰所を見せては恥づかしい、といふ考へからでは、決してない。

元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである。民間では、褌をするのは、一人前の男になつた時のしるしだと言はれて居る。十五歳になると、褌を締めて、若衆宿へ仲間入りの挨拶に行く。此行事の事を、袴着というて居る。此が、女の方だと、裳着といふ。正式には、男女共に、二回ある筈だ。

第一回は、村の子どもとなる為で、五六歳頃にやる。平安朝頃の貴族たちの仲間でも、やかましく行はれた。源氏物語など見ても、書いてある。次のは、をとこ・をとめになる為の行事としてゞある。我々は、二度の行事をすまさぬと、一人前の男女には、なれなかつたのである。今日では略して、一回だけしか行はぬが、ほんとうは、二回あつた。第一回の時には、お宮参詣マヰリをして、それで子どもになつて、村の小さな神に仕へる資格を得る。子どもが、道祖神のお祭りをするのは、何処にでもある。二回目がすむと、村の産土の神に仕へる資格を得る。此二度の袴着を終つたものを、をとこ・をとめといふ。ふんどしはじめ・ゆもじはじめがすむと、立派な一人前の男女になる。だから、一人前の男女になつてから、初めて褌を締める、ゆもじをするといふのではない。男女になる前提の行事として、此事が行はれるのである。

此物忌みの褌を締めて居る間は、極端なる禁欲生活をせねばならぬ。禁欲というても、今日の我々の考へる様な、鍛錬風な生活ではない。神秘なる霊力をして発散させぬ為の禁欲である。処が或期間、禁欲生活をすると、解放の時が来る。すると、極めて自由になる。此処で初めて、性の解放がある。さうして、此紐を解いて、物忌みから解放されるのが、湯の中である。即、斎川水ユカハミヅの中である。天子様の場合には此湯の中の行事の、一切の御用をつとめるのが、処女である。天の羽衣をおぬがせ申し上げるのが、処女の為事なのである。そして羽衣をおとりのけなさると、ほんとうの霊力を具へた、尊いお方となる。解放されて、初めて、神格が生ずるのである。

昔から、湯の信仰に就ては、わりあひに考へられて居なかつたが、今考へて見ると、不思議な事が多い。譬へば、御湯殿腹などいふ子どもゝある。そして、お湯殿腹の子、というて重んぜられた、傾向がある。さうかと思ふと、又、垢掻き女に子どもが出来るのは当然だ、とも云はれて居る。此等の事は、日本の昔の産湯の話をして見ると、判然として来る。

一体昔は、今の世の乳母の役をする者が、四人あつた。大湯坐オホユヱ・若湯坐ワカユヱ・飯嚼イヒガミ・乳母である。此大湯坐は、主として、産児に産湯をつかはせる役目をする者、つまり湯の中へ、御子をお据ゑ申す役目なのである。若湯坐も同様である。乳母は、乳をのませる者、飯がみは、飯や食物を嚼んで、口うつしに呉れる者である。

まづ御子が産れると、其御子をば、豪族に附托して、養育せしめる。昔でいふと、其家筋を壬生氏といふ。壬生氏は、壬生部といふ団体の宰領である。

此話で名高いのは、反正天皇がお産れになつた時、天皇の為に、河内の丹比氏が、壬生部となつて、御育て申し上げた。其で、丹比の壬生部氏といふのである。御子が生れると、此氏の者の中から、四人の養育係が選定せられる。前にいうた所の、大湯坐・若湯坐は、高い身分の者から出る。大湯坐はつまり、水の神として、禊ぎの御世話をする役目である。御子がお産れになつた時に行はれるのが、第一回の禊ぎである。

此禊ぎをおさせ申して居る一方に於て、氏の上は、天つ寿詞を申して居る。水の魂をして、天子様となるべき尊いお方におつけ申すのだ。水中の女神が出て来て、お子様のお身体に、水の魂をおつけ申して、お育て申す儀式である。だから、壬生部の事を、入部ニフベとも書いて居る。「入」は水に潜る事であつて、水中に這入る事である。それから、大湯坐は主で、若湯坐は附き添への役である。

此第一回の禊ぎの形を、天子様は、毎年初春におやりなされる。生れ替つて、復活する、といふ信仰である。大湯坐は、年をとつた女で、若湯坐は、年の若い者がつとめる。それから事実に徴して見ると、大湯坐は、天子様の后となるし、若湯坐は、皇子の后となる傾きが見えて居る。飛鳥以前の后は、天子様の御家の禊ぎの行事に、奉仕した女がなつた。丹比氏は、元来禊ぎの事を司つた家筋で、宮廷及び伊勢のお宮へ、八処女を奉つて居る。此八処女は、五節の舞姫に関係があるが、其事は後に言ふ事にする。

     一四

日本の昔の語に、天つ罪・国つ罪といふ並立した語のある事は、前に述べた。其天つ罪とは、すさのをの命が、天上で犯された罪で、其罪が此国土にも伝はつて、すべて農業に関する罪とされて居る。つまり、田のなり物を邪魔するのが、此国でいふ処の天つ罪である、とされて居る。だが今では、罪といふ語が、余りに新しい意味の罪悪観念に這入り過ぎて居る様である。天つゝみのつみの語原は、他に無くてはならぬ。

万葉集を見ると、雨障・霖禁・霖忌など書いて、あまつゝみとよませて居る。

あまつゝみ常する君は、久方の きのふの雨に こりにけんかも(巻四)

此歌は、いつも雨つゝみをしてゐるあなたは、昨日の雨で外出が出来ずに、懲りた事でせう、といふ意だとされて居るが、実は男、女の禁欲生活をして居る意味の罪である。

猶、此事を考へるのに、手がゝりとなるのは、景行記に見える次の話である。景行天皇が、美濃の国造の祖神、大根王の娘、兄媛・弟媛を、皇子大碓命をして召し上げさせられた時、大碓命は、媛二人を我ものとしてしまひ、他の娘を奉つた。そこで、天子様はお憤りなされて「つねに、長眼ナガメを経ヘしめ、又婚メしもせず、惚モノオモはしめたまひき」とある。普通には、此ながめのめは男女相合ふ機会の事を言ふから、其間を長く経る事をば、長目を経るといふのだとしてゐる。だが、此ながめは、霖禁に関係がありさうだ。

さて、此ながめ・ながむといふ言葉の意味は、平安朝頃になると、「ぼんやりして何も思はず」といふ位な風になつて居る。もう一つ伊勢物語の例を挙げると、

起きもせず、寝もせで夜をあかしては、春のものとて、ながめくらしつ

此等のながめは長雨で、長雨のふりつゞ頃の、物忌みから出た言葉であらうと思はれる。長雨の物忌み、即、雨のふりつゞくころの、慎しみから出た言葉であらうと思ふ。

かうして考へて来ると、天つ罪は、天上の罪ではない。本義は、五月の田植ゑ時の慎しみ、即、雨つゝみ(雨障・霖禁)である。今でも、処によると、田植ゑ時に夫婦共寝せぬ地方がある。田植ゑの頃は、一年中で一番、長雨のふりつゞく時期であつて、此間は、村の男女は、すつかりと神事関係になつて了うて、男は神、女は巫女となるのである。

四月の頃、女は山に籠つて成女戒を受け、躑躅の花をかざして下りて来て、今年の早処女をつとめる。此は、田植ゑの神事に与る巫女の資格で、田植ゑの終るまで処女の生活をする。此処で考ふべきは、処女生活といふ事であるが、此には三通りあつた。一つはほんとうの処女、此はまだ男を持つた事のない女(一)。次に或期間のみ男に逢はぬ女、即、或期間だけ処女生活をする女(二)。次は床退サりをした女、即、或年齢に達すると、女は夫を去つて、処女生活に入る信仰があつたが、さういふ様な女(三)。此床退りの女は、其以後の生活は、神に仕へるのである。後世のお室様といふのは、此の事をいふのだ。平安朝には床退りした女は、尼となつて仏事に入り、処女生活をしたのである。

さて女は、五月の田植ゑの済むまでは、男を近づけない。男の方でも女に触れない。此期間は男女共に、袴や裳に標を附けて、会ふ事をしない。此間の事をながめをふるといふのである。一軒の家に同居して居ても、会はない。前の、景行天皇の話の、媛をして、長眼を経しめたまふといふのは、媛にお顔を見せながら、霖雨中放つて置いて、性欲的の苦しみをなさしめたといふ事である。其が固定してながめとなり、性欲的な憂鬱からして、ぼんやりして居る事を表す語になつたのである。

平安朝になつてからのながめは、美しい意味に替つて来て了うたので、根本は、性欲的の憂鬱の状態を言ひ表す語である。

五月の物忌みが雨つゝみで、此が天つ罪となるには、すさのをの命が元来、田の神で、其犯された罪を一処にして了うたのだ。すさのをの命は、仏教では牛頭天王にされて居る。悪い方の田の神である。其悪い方の田の神を祀つて、いたづらせぬ様に守つてもらふ所から出た、信仰である。悪い神も祀られると、よい事をするといふ考へ方である。さて、此すさのをの命に対する慎しみが、天つ罪である。其がちようど雨の時の慎しみと、同じ時期に当つて居る。

神は普通には、夜出現するが、田植ゑ時には、昼間出て来る。夏祭り神事の中心は、昼間行はれる。昼間、田を植ゑて居ると、神が来て田を囃してくれる。後世では、田植ゑの前後にのみ囃しをするが、本来は植ゑて居る最中に、囃すのである。後には、囃す田も固定して、はやし田といふ名も出て来て居る。又、田植ゑの初めに囃して、其で、後やらぬ様になつた所もある。此囃しに来る神は、仮装して出て来る。此仮装がやがて、田舞ひを生む。そして田舞ひが、猿楽と合体して、田楽が出来る。男女共に顔を隠して、神の形になつて居る。五月の田植ゑの時は、昼は勿論、夜も神が廻つて歩いて居るから、男女相逢ふことは出来ぬ。だが、さなぶりの時から自由になつて、男女の語ひは許される。

此所で、不思議な誤解が一つある。其は神事が始まれば、物忌みは無い訣であるが、其がある事である。播磨風土記を見ると、田植ゑ女を大勢でかまつて、隠し所を断ち切つたといふ話がある。だから、雨つゝみといふのは、田植ゑの始まる前の、物忌みである事が知れる。其が、いつか田植ゑの済むまで続くものだ、と考へられて来たのである。此は、男の資格を得る為の褌が、いつか褌するのが男の資格だ、と考へられて来たのと、同一である。

ふんどしは、ふもだし・ほだし・しりがひ・おもがひ・とりがひなどゝ同一なもので、又たぶさき・たぶさくなどいふ語も、同一である。たぶさくとは、またふさぐといふ事で、着物の後の方の裾を、股をくゞらして前の方に引き上げて、猿股みたいにする事で、子どもの遊戯にも、今日は廿五日の尻たくり、といつて、此形をする。元来は、人間のふんどしも、馬のふもだしも同一任務のもので、或霊力を発散させぬやうに、制御しておくものである。そして、物忌みの期間が済むと、取り避けるものである。事実朝廷の行事に見ても、物忌みの後、湯殿の中で、天の羽衣をとり外して、そこで神格を得て自由になられ、性欲も解放されて、女に触れても、穢れではない様になられる。

先にもいうたが、大湯坐・若湯坐などが、御子を育てゝ行く間に、湯の中で、若い御子の着物をとりさけて、まづ其御子に触れられるのは、若湯坐である。大湯坐は、前述の如く、御子の父君につかへる。

此みづのをひもを解くと同時に、ほんとうの神格になる。そして、第一に媾あはれるのが、此紐をといた女である。さうして、其人が后になるのである。だが此事は、もう奈良の頃は忘れられて了ひ、此行事以後、御子を育てる所の、乳母の役になつた。さうして、若い乳母即、子守りである人が、お育て申した方の妻となる。其証拠は、うがやふきあへずの尊が、御叔母玉依姫と御夫婦になられた、とあるのをみても訣る。元来、めのとといふ言葉は、妻の弟といふ事で、乳母の弟が、妻になつた事を意味してゐるのである。

不思議な事に、后になられる御方は、水の神の娘、又は水の神に関係の深い女である。かの丹波氏の家筋も、水の神に深い関係を持つて居る。世が下つてからは、丹波氏の資格を以て、藤原氏が禊ぎを司る事になり、其家から后が出た。

一体御湯殿は、平常でも、非常に重ぜられて居た。「御湯殿の上の日記」も、平安朝からのものではあらうが、女の手になつたもので、断篇ながら、参考にはなる。此で見ても、湯棚・湯桁は、神秘な行事の行はれた所である事が、察せられるのである。即、湯棚には天子様の瑞ミヅの緒紐ヲヒモを解く女が居て、天子様の天の羽衣、即ふもだしを解くのである。

話を元へ戻して、大嘗祭第一回に天子様が湯へお這入りになるのは、紫宸殿の近くで行はれるのかと思ふが、正式には廻立殿で行はれたのである。平安朝には既に、行はれなくなつて了うたらうが、太古は必、行はれたのである。此問題は、天の羽衣の話と関係がある。天人の話の天の羽衣と同一で、飛行の衣とする話は、逆に考へられて了うたからである。天子様の、天の羽衣をおぬがせ申し奉るのが、八処女のすべき勤めである。今では、廻立殿から大嘗宮へ行く道に敷かれてある布の事を、天の羽衣と称へて居るが、其は何かの間違ひである。或は、羽衣ではなくて、葉莚ハゴモといふのであらう。此は、延喜式にも、見えて居る。葉莚は、天子様が、お通りなされる時に敷いて、通られると、直に後から巻いて行くものである。其を今では、新しく道を拵へた形であると言うて居る。一寸合理風でほんとうらしいが、やはり誤りである。

天子様はかくして、悠紀殿・主基殿へ行かれるが、其間に、折々お湯にお這入りになられる。とにかく、日本の后の出る根本は、水の神の女で、御子をして、神秘な者にする為事を、司る所から出て居るのである。
次に直会の事をいうて見る。

     一五

直会は、直り合ふ事だと云はれて居るが、字は当て字で、当てになるまい。元来なほるといふ語は、直日の神の「直」と関係のある語で、間違ひのあつた時に、匡正してくれる神が、直日の神だから、延喜式にある所の、天子様の食事の時につかへる最姫・次姫の事から考へて見ねばならぬ。天子様が食事をせられる時に、此最姫・次姫は「とがありともなほびたまへ……」といふ呪言を唱へる。此は、よし、手落ちがあつたとしても、天子様の召し上り物には間違ひのない様に、といふ意味のとなへ言である。普通には、座をかへてものする時に、なほると言うて居る。此は或は、二度食事をする事から出た解釈かも知れぬ。大嘗祭の行事に見ても、一度食事をせられてから、座を易へて、もう一度、自由な態度でお召し上りなされる。此が直らひの式である。つまり、ゆつたりと寛いだ式である。そして、其席上へ出る神も亦、直日の神と言はれて居る。平安朝に入つてからは、直日の神といふのは、宴会の神、又は遊芸の神となつて居るのも、此考へから出たのである。

大嘗祭の直会の時には、大和舞ひが行はれ、田舞ひが行はれ、舞姫の舞ひも行はれる。そして、すべての人は、今までの厳重な物忌みから、開放される。直会ナホラヒは、一口に言へば、精進落ちともいへる。だが、精進とは、仏教の考へから、魚を食はぬ事を斥していふが、本来は、禁欲生活・物忌み生活を言うた語である。
昔は、正式な祭りが済んでも、猶、神が居られた。そして、祭りの後で、豊かな気分で宴席に臨んで、くだけた饗応を享けて帰られたのである。肆宴トヨノアカリ(豊明楽)といふのは、此行事をいふのである。とよのあかりとは、酒を飲んで、真赤な顔になるからだといふが、ほんとうは、よく訣らぬ。ともかく、とよのあかりのうちに、神を満足させて帰す、といふのが本義であらう。

大嘗祭に来られる神は、どんなお方か、よく訣らぬ。天子様は、神を招く主人でいらつしやると同時に、饗宴をなされる神である。つまり、客であり、又神主でもある。神の為事を行ふ人であると同時に、神その者でもある。だから、極点は解らぬ。結局、お一人でお二役つとめなされる様なものである。

他の家々でいふと、新嘗祭の時には、主人よりも格式の上の人を招いて、客になつてもらふ。此は其昔、尊い神が来られた形を見せて居るのである。

次に、五節の舞ひの話をして見る。五節といふのは、五節イツヨの舞ひを舞うたから言うたのではあるまいか。五節イツヨの舞ひは、天子様の寿命を祝福する舞ひで、天子様の禊ぎの時に、竹で御身の丈を計つて、御身の長さだけの処へ標シルシをつける。此を節折ヨヲリと言ふ。折ヲリは繰り返すといふ事で、竹で幾度も/\、繰り返して計る。かうする事は亦、天子様の魂の事と関係がある。平安朝頃までの信仰によると、天子様の魂には、荒世の魂・和世の魂と言うて、二つあつたのである。其で、天子様の御身の丈を竹で計るにも、二度計つたのである。竹で計つて着物を拵へて、其着物を、節折ヨヲリの式に与つた人々に、分配なされる。あらよの御衣ミソ・にぎよの御衣ミソといふのが、此である。

かう考へて来ると、五節の舞ひの時も、実は天子様の御身の丈を、五度繰り返して計つたのではなからうか。さうして、其行事に出る女が、五節の舞姫といふのであつたらうと思はれる。そして五節に出る女は、天子様の食事の事に与つた女である。すると、供饌に与つた女が、衣を進め、節折もし、舞ひも舞うたのである。舞ひを舞ふといふのは、みたまふり(鎮魂)の意味のもので、他の意味ではなかつた事と思ふ。

古く、神服女カムハトリメの舞ひといふ事も見えて居る。此は、着物を取扱ふ女の舞ひといふ事で、後の五節の舞ひと同一である。だから五節舞も神服女舞も同一で、正式には八人で舞うたのだらうと思ふ。神の八処女の事は、前にもいうた。
五節の舞姫の仕へる所を、五節の帳台といふ。そして、五節の帳台の試みといふ事が行はれる。此は、舞姫をして、天子様が、女にせしめる行事である。平安朝頃のものを見ると、舞姫が、何とかかとかいうて、言ひ騒がれて居るのも、此帳台の試みの考へから見ねば訣らぬ。

五節の舞ひがすむと、其後に悠紀・主基両殿の式の名残りとして、国風クニフリの奏歌が行はれる。各其国の国司が、歌人や歌姫を引きつれて行つて、やるのだ。そして、其後に、忌みを落す舞ひがある。此を解斎舞といふ。此がすむと、凡て此祭りに与つた人・神が、皆散らばる形になる。其時も、式に与つた人たちは、お酒や御飯を頂く。それから各人は、忌服をぬいで、散会する。散会の時は、男も女も乱舞して、躍り狂うて帰る。

一体宴会の時は、二度目の食事をすませて、最後の食事の時に、主人側から舞姫が出で、客人側からは、いろ/\の持ち芸が出る。つまり、此は主人に答へる形である。うたげは、打ち上げといふ事で、盛んに手を拍つてやる事である。此乱舞の時に、巡の舞ひというて、正座の客から次第に、下位の客に廻つて行つてやる。

此中に、一つ面白いのは、家の精霊が出て舞ふ形のものがある。滑稽な風をしてやる。此は、今見ても、地方の神社の祭りの時に、滑稽な踊りをするが、皆此精霊の舞ひから出て居るのである。今の民間の宴会は、神事の直会ナホラヒ以後の形をとつてやつて居るのである。

此処で一寸、附け加へて置く。天子様をもてなす役は、藤原氏がやつた。藤原氏の家は、宴会に使用する道具を、大事にして居る。朱器・台盤は、藤原氏の家長が、大切に保存して伝へて居る。此は、藤原氏は、朝廷に仕へて、祭りのある時は、神をもてなす役をして居たからである。客人マレビトをもてなすに大切なのは、道具である。其道具を預つて居るのが、藤原氏であつた。今日でも、民間に、椀貸伝説はいくらも残つて居る。

私は、直会と宴会とを同一だ、とは思はぬ。宴会の方は、客人側が主人に替つて、大いに騒いだものと考へる。大嘗祭に於ける客人の式も、三段に考へられる。

一、供饌の式
二、直会の式
三、宴会ウタゲの式

かうなると思ふ。
たゞ、此間に於て、客が主人になり、主人が客になり、主人か客か訣らぬ様な場合が多い。其は、長い間に於て、其時代々々で、祭りが合理化されて、其に又、種々の説明が加へられて、今日の如くに変化したからである。

ともかくも、大嘗祭は、平安朝に固定して、今日に及んだもの故、神代その儘、そつくりのものとは考へられない。吾々は、其変化のうちに、隠れて居る所を見たいものである。

以上、長々と話しはしたが、極荒筋のものである。今年の十一月に行はれる大嘗祭は、宮内省の方々も緊張して、出来るだけ古の形をとる、といつて居られるから、有り難い大嘗祭を拝める事と思ふ。

大分話が混み入つて、味のない、雑然たるものに終つてしまうた。だが、私の考へは、大体申したつもりである。


底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
※「昭和三年講演筆記」の記載が底本題名下にあり。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18411_27474.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html#c8

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
78. 中川隆[-10567] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:49:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1509]

「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く 2019/03/01


平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)© SHOGAKUKAN Inc. 提供平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)

 新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *

 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】

 天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


 前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

※SAPIO2019年4月号
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E3%80%8C%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E3%80%8D%E3%81%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E7%A7%98%E5%84%80%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%80%81%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%AE%E4%BE%8B%E3%81%8B%E3%82%89%E7%B4%90%E8%A7%A3%E3%81%8F/ar-BBUdNGb#page=2

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c78

[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
78. 中川隆[-10566] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:49:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1510]

「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く 2019/03/01


平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)© SHOGAKUKAN Inc. 提供平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)

 新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *

 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】

 天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


 前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

※SAPIO2019年4月号
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E3%80%8C%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E3%80%8D%E3%81%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E7%A7%98%E5%84%80%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%80%81%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%AE%E4%BE%8B%E3%81%8B%E3%82%89%E7%B4%90%E8%A7%A3%E3%81%8F/ar-BBUdNGb#page=2

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c78

[近代史3] 皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式 中川隆
9. 中川隆[-10565] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:50:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1511]

「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く 2019/03/01


平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)© SHOGAKUKAN Inc. 提供平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)

 新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *

 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】

 天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


 前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

※SAPIO2019年4月号
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E3%80%8C%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E3%80%8D%E3%81%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E7%A7%98%E5%84%80%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%80%81%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%AE%E4%BE%8B%E3%81%8B%E3%82%89%E7%B4%90%E8%A7%A3%E3%81%8F/ar-BBUdNGb#page=2

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html#c9

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
79. 中川隆[-10564] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:00:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1512]

2019.03.01 SAPIO
「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html

新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神(あまてらすおおみかみ)や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *
 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】


天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

【PROFILE】工藤隆●1942年栃木県生まれ。東京大学経済学部卒、早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了、同博士課程単位取得退学。大東文化大学文学部日本文学科講師・助教授・教授を経て、現職。著書に『大嘗祭――天皇制と日本文化の源流』(中公新書)などがある。

※SAPIO2019年4月号
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c79

[近代史3] 皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式 中川隆
10. 中川隆[-10563] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:00:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1513]

2019.03.01 SAPIO
「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html

新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神(あまてらすおおみかみ)や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *
 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】


天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

【PROFILE】工藤隆●1942年栃木県生まれ。東京大学経済学部卒、早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了、同博士課程単位取得退学。大東文化大学文学部日本文学科講師・助教授・教授を経て、現職。著書に『大嘗祭――天皇制と日本文化の源流』(中公新書)などがある。

※SAPIO2019年4月号
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html#c10

[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
79. 中川隆[-10562] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:01:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1514]

2019.03.01 SAPIO
「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html


新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神(あまてらすおおみかみ)や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *
 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】


天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

【PROFILE】工藤隆●1942年栃木県生まれ。東京大学経済学部卒、早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了、同博士課程単位取得退学。大東文化大学文学部日本文学科講師・助教授・教授を経て、現職。著書に『大嘗祭――天皇制と日本文化の源流』(中公新書)などがある。

※SAPIO2019年4月号
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c79

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
80. 中川隆[-10561] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:19:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1515]
諏訪春雄通信 27 「大嘗祭」
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm

 今回のテーマは「大嘗祭」です。

 神話時代が終わって、日本は現実の国家経営に乗りだしてゆきます。統一国家の形態をととのえたのは4世紀から7世紀にかけてのころ、中国の隋・唐の王朝制度をとりいれて律令国家の制度を整備したのは7世紀末から8世紀初頭といわれています。

 これ以前、これ以降の国家としての日本の歴史は、中国の北方原理と南方原理の摂取と融合・葛藤のなかに展開してゆきます。その両原理は、また、日本の王権の歴史的展開を解明する重要な鍵にもなります。

 日本の天皇制永続の秘密をあきらかにするという本通信テーマの独自な視点の一つをあらかじめ提示しておくなら、じつは、この《中国の北方原理と南方原理の融合・葛藤として日本の天皇制をかんがえる》ということにあるのです。

 両原理は、一方が優越することもあれば、拮抗することもあり、また対立もしながら、日本の歴史をつくってゆきます。現時点で両原理はつぎのように対比されます。


北方原理  天の信仰   雑穀の思想  男神信仰   多元的  秩序への志向  
南方原理  太陽の信仰  米の思想   女神信仰   一元的  融和への志向

 これらの特性がどのようにあらわれて日本の国家と天皇の歴史を織りなしてゆくかをこれからあきらかにしてゆきます。

 大嘗祭は、天皇の即位後、最初に挙行する大きな規模の新嘗祭です。大嘗祭をおこなうことによってあたらしい天皇としての資格をもつことできるのですから、即位式でもあります。この大嘗祭をテーマにとりあげて、北方原理、南方原理を検討します。

 大嘗祭の文献上の初出は、『日本書紀』の天武天皇2年(673)12月の記事に「大嘗(おおにえ)」とある記事です。式の進行がよくわかるのは、平安時代にはいってからで、『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』などの有職故実の書に記載があります。

 4月の悠紀国(ゆきのくに)、主基国(すきのくに)の選定からはじまって、11月の午の日の豊明節会(とよあかりのせちえ、天皇と臣下の饗宴)まで、半年にわたる行事の中心をしめるのは、11月の卯の日におこなわれる大嘗宮の祭りです。

 大嘗宮は、大嘗祭のためにあらたにたてられた黒木造りの建築物で、東西に悠紀殿、主基殿、廻立殿(かいりゅうでん)という三つの建物がつくられ、外部を柴垣でかこみます。

 外部からうかがい知れない秘密の祭りであるために、のちにみるように種々の推測説がだされていますが、基本の骨組みは、天皇の、廻立殿における《湯浴み》、悠紀殿・主基殿における《聖餐》、《就寝》という三つの行事に還元されます。この三つは、日本の各地の民俗行事にふつうにみられる儀礼であって、その一つ一つには、なんの不思議も神秘もありません。

 《湯浴み》は禊ぎです。水、海水または湯によって心身をきよめることで、祭りをおこなう当事者がけがれをさけるための行為です。

 この禊ぎが火の浄化力とむすびついたものが湯立てです。湯立ては、祭りの場の中央にしつらえられた釜で湯をわかし、笹の葉などにその湯をつけて、あつまってきた参加者たちにあびせるかたちをとるのがふつうです。

 この形式の儀礼は各地の民間神楽に一般的にそなわっている行事です。愛知、静岡、長野の3県をながれる天竜川ぞいに演じられる花祭りには、生まれ清まりと称して、すべてこの湯立ての儀礼をつたえていますし、また、暮れから新春にかけておこなわれる湯立て神楽とよばれる行事も、おなじ儀礼を祭りの中心にすえています。

 《聖餐》は、神と人との共食ですが、大嘗宮では、天皇と天皇の祖先の霊であるアマテラスとの共食です。

 天皇が一世一代の即位式として挙行する湯立てと聖餐が、日本人の民俗行事と共通して、特殊なものではないということをのべました。ここまでなら、数は多くありませんが、日本の民俗学者のなかにも指摘する人がいます(真弓常忠『日本の祭りと大嘗祭』朱鷺書房・1990年、森田悌編『天皇の祭り 村の祭り』新人物往来社・1994年)。

 しかし、この通信で、とくに私が強調したいことは、この二つの儀礼の由来が中国の南方にあるということです。

 稲魂信仰と祖霊信仰が結合した新嘗の祭りが、中国の長江南方の少数民族社会でおこなわれていることについては、この通信の15、18などで報告しました。

諏訪春雄通信 15
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa15.htm

諏訪春雄通信 18
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa18.htm

ミャオ族の人たちは日本の新嘗にあたる祭りを《喫新節》といい、ハニ族の人たちは《フォシージャー新嘗祭》とよんでいます。いずれも、新穀を祖霊、穀霊および天神にそなえたのちに共食する儀礼です。

 中国でも一般的に祭りにさいして清めの火と水が重要な役割を演じていることについて、以前、私は日本・韓国・中国の事例について詳細に検討したことがあります(「中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭りー」『日中比較芸能史』吉川弘文館・1994年)。

 日本の新春の若水汲みという民俗行事は水に生命更新の力をみとめる信仰です。この習俗が中国南方の稲作民族社会にひろく分布していることは、大林太良氏の報告があります(『正月の来た道』小学館・1992年)。水に清めの力をみとめ、祭りにさいして禊ぎに使用するのは、この若水汲みと共通する水への信仰にもとづきます。

 《就寝》は篭りです。記録によると、大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意されてありました。この寝具にくるまって天皇はお休みになるものとみられますが、しかし、この就寝の儀礼については、注目される説がこれまでに提出されています。整理するとつぎの4つです。
1.亡くなられた先帝と新帝との共寝
2.新帝と采女(うねめ)との聖婚
3.死者をほうむる喪屋
4.新生児のための産屋

 4つの説ともに新帝に新生の活力、それは天皇霊とよばれることの多い天子の霊力を付与することを目的にするという点では、ほぼ一致していますが、具体的な儀礼順序や性格規定で、以上のような対立があります。

1の説は、折口信夫(「剣と玉と」昭和7年、「上代葬儀の精神」昭和9年)、堀岡文吉氏(『国体起源の神話学的研究』培風館・1929年)などがとなえています。折口の「剣と玉」から引用します。


 古代には死と生とがあきらかに決らなかったので、死ぬものならば生きかえり、死んだものならば他の身体にたましいが宿ると考えて、もとの天皇霊の著いていた聖躬と新しくたましいの著く為の御身体と二つ、一つ衾で覆って置いて盛んに鎮魂術をする。この重大な鎮魂の行事中、真床襲衾と言う布団の中に篭って物忌みをなされるのである。

2の説をもっとも強力に主張しているのは岡田精司氏です(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・1970年)。岡田氏は、新嘗祭には、服属儀礼の一環として、天皇と采女とのあいだに同衾がおこなわれたと推定しています。氏は、大嘗祭は新嘗祭の延長とかんがえ、マドコオスフスマは、これにつつまれて祖神と一体化した天皇と、国々の神の資格をもって奉仕する采女との神婚がおこなわれた衾の遺物であろうとします。

 岡田説の根底には、折口信夫の神の嫁という考えがあります。日本の古代、男性の君主と女性の巫女がたすけあって国をおさめていた時代がありました。君主の身近にある女性が神の嫁となって神意をききわけ、それを君主につたえて政治の方向を決定しました。

 巫女は、地方豪族が服属のあかしとして自己の子女を朝廷にさしだしたものでした。彼女たちは、出身の国々の神につかえる巫女の資格をもち、彼女たちが朝廷につかえることは、国々の神が朝廷に服従することを意味していました。采女は、祭りのさいには、神の生活にはいる天皇に奉仕し、神の嫁として、天皇と神聖な結婚をとげることがあったと、折口は説きました(「宮廷儀礼の民俗学的考察」)。

 この折口の説を支持するような事例が『日本書紀』などに記載されていることは事実です。神の嫁という折口の論はそれなりの有効な射程距離をもっていますが、しかし、それを大嘗祭に適用することについては、反対意見のほうが圧倒的に優勢です。

 その一人、谷川健一氏は諸種の資料を引用して、采女は、推古・皇極・斎明とつづいた女帝の成立によって地位を低下させ、天武天皇以降は、後宮十二司の最下位に所属したと主張します。「大嘗祭という一世一代の由々しい盛儀における采女の役割は、神膳をととのえる以外にはあり得ない」というのが谷川氏の断定です(『大嘗祭の成立』小学館・1990年)。したがうべき見解です。

 3の喪屋説は1の説とかかわる論です。この3の説を強力に主張する谷川氏(前掲書)は、南島のモガリの習俗を論拠に、先帝の死にさいして死者が完全に死者になりきるまえに、死者と共寝して、その活力をうけつぐ儀礼が、喪屋としての大嘗宮でおこなわれたといいます。モガリの習俗が日本の古代におこなわれていたことは確実ですから、谷川説は就寝儀礼の本質をついた説といえます。

 しかし、3の裳屋説と4の産屋説は、じつは相互に補完しあう説なのです。産屋説は、折口信夫がはじめにとなえ、いったんすてたのちに、晩年また採用した説でした(「大嘗祭の本義」昭和3年)。大嘗宮の悠紀、主基の両殿に布団がしかれ、枕もそなえられているのは、「日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、御寝所に引き篭って、深い御物忌みをなさる場所である。実に重大なる鎮魂の行事である」とのべています。

 おなじ考えは、西郷信綱『古事記研究』(未来社・1973年)にもみることができます。マドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為であったといいます。

 就寝の儀礼は民俗の死生観をあらわしています。民俗では、死と生は連続または循環として意識されます。死んでよみがえる擬死再生の儀礼がおこなわれる場所が大嘗宮であるといえます。それは稲の種子が大地におちて死に、あたらしい生命を得てよみがえる《篭りの精神》の儀礼化でもあります。

 大嘗祭の就寝の儀礼がモガリとウブヤの複合した性格をもっているとすれば、その習俗もまた中国の南方にもとめることができます。

 1993年の4月から5月にかけて、私たちは中国の東海沿岸、ジョウ泗列島、舟山列島の現地調査をおこなったことがあります。その調査報告は『中国東海の文化と日本』(勉誠社・1993年)として刊行されています。

 そのなかですでにのべたことですが、この地方一帯にお墓を二度つくる複葬がおこなわれています。死者がでると、その死骸を、住まいの近くの田畑などに仮の埋葬の墓(殯廓とよんでいます)をつくっておき、1年または3年が経過した時点で、山の傾斜地などに里のほうにむけて永久的な墓をつくって埋葬しなおします。

 日本の古代のモガリや近畿地方などにおこなわれている両墓制の起源もまた江南にあったことをしめす調査結果です。それが農耕民に顕著な篭りの精神と結合したものが、大嘗宮の就寝儀礼なのです。

 このようにみてきますと、大嘗宮での行事は明確に中国の南方原理をしめしていますが、しかし、全体としての大嘗祭は大嘗宮以外の行事もおこなわれており、大きく、

  A 大嘗宮での天皇一人の儀礼
  B 宮中における天皇と群臣の饗宴(豊楽院の節会、最後の豊明の節会)

と二分されます。

 Bは一種の新帝にたいする服属の儀式であり、そこでは悠紀・主基の両国から献上された貢物が分配されます。悠紀・主基の両国は天皇の統治する日本国の象徴であり、Bはあきらかに新しい天皇とそれに仕える臣下の秩序を確定する北方の原理に支配されています。

 このようにみてきますと、大嘗祭は、結局、北方原理の外枠に核心としての南方原理がつつみこまれた儀礼であると規定できます。この構造は、日本の王権構造全体の象徴でもあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c80

[近代史3] 皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式 中川隆
11. 中川隆[-10560] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:20:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1516]
諏訪春雄通信 27 「大嘗祭」
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm

 今回のテーマは「大嘗祭」です。

 神話時代が終わって、日本は現実の国家経営に乗りだしてゆきます。統一国家の形態をととのえたのは4世紀から7世紀にかけてのころ、中国の隋・唐の王朝制度をとりいれて律令国家の制度を整備したのは7世紀末から8世紀初頭といわれています。

 これ以前、これ以降の国家としての日本の歴史は、中国の北方原理と南方原理の摂取と融合・葛藤のなかに展開してゆきます。その両原理は、また、日本の王権の歴史的展開を解明する重要な鍵にもなります。

 日本の天皇制永続の秘密をあきらかにするという本通信テーマの独自な視点の一つをあらかじめ提示しておくなら、じつは、この《中国の北方原理と南方原理の融合・葛藤として日本の天皇制をかんがえる》ということにあるのです。

 両原理は、一方が優越することもあれば、拮抗することもあり、また対立もしながら、日本の歴史をつくってゆきます。現時点で両原理はつぎのように対比されます。


北方原理  天の信仰   雑穀の思想  男神信仰   多元的  秩序への志向  
南方原理  太陽の信仰  米の思想   女神信仰   一元的  融和への志向

 これらの特性がどのようにあらわれて日本の国家と天皇の歴史を織りなしてゆくかをこれからあきらかにしてゆきます。

 大嘗祭は、天皇の即位後、最初に挙行する大きな規模の新嘗祭です。大嘗祭をおこなうことによってあたらしい天皇としての資格をもつことできるのですから、即位式でもあります。この大嘗祭をテーマにとりあげて、北方原理、南方原理を検討します。

 大嘗祭の文献上の初出は、『日本書紀』の天武天皇2年(673)12月の記事に「大嘗(おおにえ)」とある記事です。式の進行がよくわかるのは、平安時代にはいってからで、『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』などの有職故実の書に記載があります。

 4月の悠紀国(ゆきのくに)、主基国(すきのくに)の選定からはじまって、11月の午の日の豊明節会(とよあかりのせちえ、天皇と臣下の饗宴)まで、半年にわたる行事の中心をしめるのは、11月の卯の日におこなわれる大嘗宮の祭りです。

 大嘗宮は、大嘗祭のためにあらたにたてられた黒木造りの建築物で、東西に悠紀殿、主基殿、廻立殿(かいりゅうでん)という三つの建物がつくられ、外部を柴垣でかこみます。

 外部からうかがい知れない秘密の祭りであるために、のちにみるように種々の推測説がだされていますが、基本の骨組みは、天皇の、廻立殿における《湯浴み》、悠紀殿・主基殿における《聖餐》、《就寝》という三つの行事に還元されます。この三つは、日本の各地の民俗行事にふつうにみられる儀礼であって、その一つ一つには、なんの不思議も神秘もありません。

 《湯浴み》は禊ぎです。水、海水または湯によって心身をきよめることで、祭りをおこなう当事者がけがれをさけるための行為です。

 この禊ぎが火の浄化力とむすびついたものが湯立てです。湯立ては、祭りの場の中央にしつらえられた釜で湯をわかし、笹の葉などにその湯をつけて、あつまってきた参加者たちにあびせるかたちをとるのがふつうです。

 この形式の儀礼は各地の民間神楽に一般的にそなわっている行事です。愛知、静岡、長野の3県をながれる天竜川ぞいに演じられる花祭りには、生まれ清まりと称して、すべてこの湯立ての儀礼をつたえていますし、また、暮れから新春にかけておこなわれる湯立て神楽とよばれる行事も、おなじ儀礼を祭りの中心にすえています。

 《聖餐》は、神と人との共食ですが、大嘗宮では、天皇と天皇の祖先の霊であるアマテラスとの共食です。

 天皇が一世一代の即位式として挙行する湯立てと聖餐が、日本人の民俗行事と共通して、特殊なものではないということをのべました。ここまでなら、数は多くありませんが、日本の民俗学者のなかにも指摘する人がいます(真弓常忠『日本の祭りと大嘗祭』朱鷺書房・1990年、森田悌編『天皇の祭り 村の祭り』新人物往来社・1994年)。

 しかし、この通信で、とくに私が強調したいことは、この二つの儀礼の由来が中国の南方にあるということです。

 稲魂信仰と祖霊信仰が結合した新嘗の祭りが、中国の長江南方の少数民族社会でおこなわれていることについては、この通信の15、18などで報告しました。

諏訪春雄通信 15
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa15.htm

諏訪春雄通信 18
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa18.htm

ミャオ族の人たちは日本の新嘗にあたる祭りを《喫新節》といい、ハニ族の人たちは《フォシージャー新嘗祭》とよんでいます。いずれも、新穀を祖霊、穀霊および天神にそなえたのちに共食する儀礼です。

 中国でも一般的に祭りにさいして清めの火と水が重要な役割を演じていることについて、以前、私は日本・韓国・中国の事例について詳細に検討したことがあります(「中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭りー」『日中比較芸能史』吉川弘文館・1994年)。

 日本の新春の若水汲みという民俗行事は水に生命更新の力をみとめる信仰です。この習俗が中国南方の稲作民族社会にひろく分布していることは、大林太良氏の報告があります(『正月の来た道』小学館・1992年)。水に清めの力をみとめ、祭りにさいして禊ぎに使用するのは、この若水汲みと共通する水への信仰にもとづきます。

 《就寝》は篭りです。記録によると、大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意されてありました。この寝具にくるまって天皇はお休みになるものとみられますが、しかし、この就寝の儀礼については、注目される説がこれまでに提出されています。整理するとつぎの4つです。
1.亡くなられた先帝と新帝との共寝
2.新帝と采女(うねめ)との聖婚
3.死者をほうむる喪屋
4.新生児のための産屋

 4つの説ともに新帝に新生の活力、それは天皇霊とよばれることの多い天子の霊力を付与することを目的にするという点では、ほぼ一致していますが、具体的な儀礼順序や性格規定で、以上のような対立があります。

1の説は、折口信夫(「剣と玉と」昭和7年、「上代葬儀の精神」昭和9年)、堀岡文吉氏(『国体起源の神話学的研究』培風館・1929年)などがとなえています。折口の「剣と玉」から引用します。


 古代には死と生とがあきらかに決らなかったので、死ぬものならば生きかえり、死んだものならば他の身体にたましいが宿ると考えて、もとの天皇霊の著いていた聖躬と新しくたましいの著く為の御身体と二つ、一つ衾で覆って置いて盛んに鎮魂術をする。この重大な鎮魂の行事中、真床襲衾と言う布団の中に篭って物忌みをなされるのである。

2の説をもっとも強力に主張しているのは岡田精司氏です(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・1970年)。岡田氏は、新嘗祭には、服属儀礼の一環として、天皇と采女とのあいだに同衾がおこなわれたと推定しています。氏は、大嘗祭は新嘗祭の延長とかんがえ、マドコオスフスマは、これにつつまれて祖神と一体化した天皇と、国々の神の資格をもって奉仕する采女との神婚がおこなわれた衾の遺物であろうとします。

 岡田説の根底には、折口信夫の神の嫁という考えがあります。日本の古代、男性の君主と女性の巫女がたすけあって国をおさめていた時代がありました。君主の身近にある女性が神の嫁となって神意をききわけ、それを君主につたえて政治の方向を決定しました。

 巫女は、地方豪族が服属のあかしとして自己の子女を朝廷にさしだしたものでした。彼女たちは、出身の国々の神につかえる巫女の資格をもち、彼女たちが朝廷につかえることは、国々の神が朝廷に服従することを意味していました。采女は、祭りのさいには、神の生活にはいる天皇に奉仕し、神の嫁として、天皇と神聖な結婚をとげることがあったと、折口は説きました(「宮廷儀礼の民俗学的考察」)。

 この折口の説を支持するような事例が『日本書紀』などに記載されていることは事実です。神の嫁という折口の論はそれなりの有効な射程距離をもっていますが、しかし、それを大嘗祭に適用することについては、反対意見のほうが圧倒的に優勢です。

 その一人、谷川健一氏は諸種の資料を引用して、采女は、推古・皇極・斎明とつづいた女帝の成立によって地位を低下させ、天武天皇以降は、後宮十二司の最下位に所属したと主張します。「大嘗祭という一世一代の由々しい盛儀における采女の役割は、神膳をととのえる以外にはあり得ない」というのが谷川氏の断定です(『大嘗祭の成立』小学館・1990年)。したがうべき見解です。

 3の喪屋説は1の説とかかわる論です。この3の説を強力に主張する谷川氏(前掲書)は、南島のモガリの習俗を論拠に、先帝の死にさいして死者が完全に死者になりきるまえに、死者と共寝して、その活力をうけつぐ儀礼が、喪屋としての大嘗宮でおこなわれたといいます。モガリの習俗が日本の古代におこなわれていたことは確実ですから、谷川説は就寝儀礼の本質をついた説といえます。

 しかし、3の裳屋説と4の産屋説は、じつは相互に補完しあう説なのです。産屋説は、折口信夫がはじめにとなえ、いったんすてたのちに、晩年また採用した説でした(「大嘗祭の本義」昭和3年)。大嘗宮の悠紀、主基の両殿に布団がしかれ、枕もそなえられているのは、「日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、御寝所に引き篭って、深い御物忌みをなさる場所である。実に重大なる鎮魂の行事である」とのべています。

 おなじ考えは、西郷信綱『古事記研究』(未来社・1973年)にもみることができます。マドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為であったといいます。

 就寝の儀礼は民俗の死生観をあらわしています。民俗では、死と生は連続または循環として意識されます。死んでよみがえる擬死再生の儀礼がおこなわれる場所が大嘗宮であるといえます。それは稲の種子が大地におちて死に、あたらしい生命を得てよみがえる《篭りの精神》の儀礼化でもあります。

 大嘗祭の就寝の儀礼がモガリとウブヤの複合した性格をもっているとすれば、その習俗もまた中国の南方にもとめることができます。

 1993年の4月から5月にかけて、私たちは中国の東海沿岸、ジョウ泗列島、舟山列島の現地調査をおこなったことがあります。その調査報告は『中国東海の文化と日本』(勉誠社・1993年)として刊行されています。

 そのなかですでにのべたことですが、この地方一帯にお墓を二度つくる複葬がおこなわれています。死者がでると、その死骸を、住まいの近くの田畑などに仮の埋葬の墓(殯廓とよんでいます)をつくっておき、1年または3年が経過した時点で、山の傾斜地などに里のほうにむけて永久的な墓をつくって埋葬しなおします。

 日本の古代のモガリや近畿地方などにおこなわれている両墓制の起源もまた江南にあったことをしめす調査結果です。それが農耕民に顕著な篭りの精神と結合したものが、大嘗宮の就寝儀礼なのです。

 このようにみてきますと、大嘗宮での行事は明確に中国の南方原理をしめしていますが、しかし、全体としての大嘗祭は大嘗宮以外の行事もおこなわれており、大きく、

  A 大嘗宮での天皇一人の儀礼
  B 宮中における天皇と群臣の饗宴(豊楽院の節会、最後の豊明の節会)

と二分されます。

 Bは一種の新帝にたいする服属の儀式であり、そこでは悠紀・主基の両国から献上された貢物が分配されます。悠紀・主基の両国は天皇の統治する日本国の象徴であり、Bはあきらかに新しい天皇とそれに仕える臣下の秩序を確定する北方の原理に支配されています。

 このようにみてきますと、大嘗祭は、結局、北方原理の外枠に核心としての南方原理がつつみこまれた儀礼であると規定できます。この構造は、日本の王権構造全体の象徴でもあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html#c11

[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
80. 中川隆[-10559] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:20:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1517]

諏訪春雄通信 27 「大嘗祭」
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm

 今回のテーマは「大嘗祭」です。

 神話時代が終わって、日本は現実の国家経営に乗りだしてゆきます。統一国家の形態をととのえたのは4世紀から7世紀にかけてのころ、中国の隋・唐の王朝制度をとりいれて律令国家の制度を整備したのは7世紀末から8世紀初頭といわれています。

 これ以前、これ以降の国家としての日本の歴史は、中国の北方原理と南方原理の摂取と融合・葛藤のなかに展開してゆきます。その両原理は、また、日本の王権の歴史的展開を解明する重要な鍵にもなります。

 日本の天皇制永続の秘密をあきらかにするという本通信テーマの独自な視点の一つをあらかじめ提示しておくなら、じつは、この《中国の北方原理と南方原理の融合・葛藤として日本の天皇制をかんがえる》ということにあるのです。

 両原理は、一方が優越することもあれば、拮抗することもあり、また対立もしながら、日本の歴史をつくってゆきます。現時点で両原理はつぎのように対比されます。


北方原理  天の信仰   雑穀の思想  男神信仰   多元的  秩序への志向  
南方原理  太陽の信仰  米の思想   女神信仰   一元的  融和への志向

 これらの特性がどのようにあらわれて日本の国家と天皇の歴史を織りなしてゆくかをこれからあきらかにしてゆきます。

 大嘗祭は、天皇の即位後、最初に挙行する大きな規模の新嘗祭です。大嘗祭をおこなうことによってあたらしい天皇としての資格をもつことできるのですから、即位式でもあります。この大嘗祭をテーマにとりあげて、北方原理、南方原理を検討します。

 大嘗祭の文献上の初出は、『日本書紀』の天武天皇2年(673)12月の記事に「大嘗(おおにえ)」とある記事です。式の進行がよくわかるのは、平安時代にはいってからで、『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』などの有職故実の書に記載があります。

 4月の悠紀国(ゆきのくに)、主基国(すきのくに)の選定からはじまって、11月の午の日の豊明節会(とよあかりのせちえ、天皇と臣下の饗宴)まで、半年にわたる行事の中心をしめるのは、11月の卯の日におこなわれる大嘗宮の祭りです。

 大嘗宮は、大嘗祭のためにあらたにたてられた黒木造りの建築物で、東西に悠紀殿、主基殿、廻立殿(かいりゅうでん)という三つの建物がつくられ、外部を柴垣でかこみます。

 外部からうかがい知れない秘密の祭りであるために、のちにみるように種々の推測説がだされていますが、基本の骨組みは、天皇の、廻立殿における《湯浴み》、悠紀殿・主基殿における《聖餐》、《就寝》という三つの行事に還元されます。この三つは、日本の各地の民俗行事にふつうにみられる儀礼であって、その一つ一つには、なんの不思議も神秘もありません。

 《湯浴み》は禊ぎです。水、海水または湯によって心身をきよめることで、祭りをおこなう当事者がけがれをさけるための行為です。

 この禊ぎが火の浄化力とむすびついたものが湯立てです。湯立ては、祭りの場の中央にしつらえられた釜で湯をわかし、笹の葉などにその湯をつけて、あつまってきた参加者たちにあびせるかたちをとるのがふつうです。

 この形式の儀礼は各地の民間神楽に一般的にそなわっている行事です。愛知、静岡、長野の3県をながれる天竜川ぞいに演じられる花祭りには、生まれ清まりと称して、すべてこの湯立ての儀礼をつたえていますし、また、暮れから新春にかけておこなわれる湯立て神楽とよばれる行事も、おなじ儀礼を祭りの中心にすえています。

 《聖餐》は、神と人との共食ですが、大嘗宮では、天皇と天皇の祖先の霊であるアマテラスとの共食です。

 天皇が一世一代の即位式として挙行する湯立てと聖餐が、日本人の民俗行事と共通して、特殊なものではないということをのべました。ここまでなら、数は多くありませんが、日本の民俗学者のなかにも指摘する人がいます(真弓常忠『日本の祭りと大嘗祭』朱鷺書房・1990年、森田悌編『天皇の祭り 村の祭り』新人物往来社・1994年)。

 しかし、この通信で、とくに私が強調したいことは、この二つの儀礼の由来が中国の南方にあるということです。

 稲魂信仰と祖霊信仰が結合した新嘗の祭りが、中国の長江南方の少数民族社会でおこなわれていることについては、この通信の15、18などで報告しました。

諏訪春雄通信 15
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa15.htm

諏訪春雄通信 18
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa18.htm

ミャオ族の人たちは日本の新嘗にあたる祭りを《喫新節》といい、ハニ族の人たちは《フォシージャー新嘗祭》とよんでいます。いずれも、新穀を祖霊、穀霊および天神にそなえたのちに共食する儀礼です。

 中国でも一般的に祭りにさいして清めの火と水が重要な役割を演じていることについて、以前、私は日本・韓国・中国の事例について詳細に検討したことがあります(「中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭りー」『日中比較芸能史』吉川弘文館・1994年)。

 日本の新春の若水汲みという民俗行事は水に生命更新の力をみとめる信仰です。この習俗が中国南方の稲作民族社会にひろく分布していることは、大林太良氏の報告があります(『正月の来た道』小学館・1992年)。水に清めの力をみとめ、祭りにさいして禊ぎに使用するのは、この若水汲みと共通する水への信仰にもとづきます。

 《就寝》は篭りです。記録によると、大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意されてありました。この寝具にくるまって天皇はお休みになるものとみられますが、しかし、この就寝の儀礼については、注目される説がこれまでに提出されています。整理するとつぎの4つです。
1.亡くなられた先帝と新帝との共寝
2.新帝と采女(うねめ)との聖婚
3.死者をほうむる喪屋
4.新生児のための産屋

 4つの説ともに新帝に新生の活力、それは天皇霊とよばれることの多い天子の霊力を付与することを目的にするという点では、ほぼ一致していますが、具体的な儀礼順序や性格規定で、以上のような対立があります。

1の説は、折口信夫(「剣と玉と」昭和7年、「上代葬儀の精神」昭和9年)、堀岡文吉氏(『国体起源の神話学的研究』培風館・1929年)などがとなえています。折口の「剣と玉」から引用します。


 古代には死と生とがあきらかに決らなかったので、死ぬものならば生きかえり、死んだものならば他の身体にたましいが宿ると考えて、もとの天皇霊の著いていた聖躬と新しくたましいの著く為の御身体と二つ、一つ衾で覆って置いて盛んに鎮魂術をする。この重大な鎮魂の行事中、真床襲衾と言う布団の中に篭って物忌みをなされるのである。

2の説をもっとも強力に主張しているのは岡田精司氏です(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・1970年)。岡田氏は、新嘗祭には、服属儀礼の一環として、天皇と采女とのあいだに同衾がおこなわれたと推定しています。氏は、大嘗祭は新嘗祭の延長とかんがえ、マドコオスフスマは、これにつつまれて祖神と一体化した天皇と、国々の神の資格をもって奉仕する采女との神婚がおこなわれた衾の遺物であろうとします。

 岡田説の根底には、折口信夫の神の嫁という考えがあります。日本の古代、男性の君主と女性の巫女がたすけあって国をおさめていた時代がありました。君主の身近にある女性が神の嫁となって神意をききわけ、それを君主につたえて政治の方向を決定しました。

 巫女は、地方豪族が服属のあかしとして自己の子女を朝廷にさしだしたものでした。彼女たちは、出身の国々の神につかえる巫女の資格をもち、彼女たちが朝廷につかえることは、国々の神が朝廷に服従することを意味していました。采女は、祭りのさいには、神の生活にはいる天皇に奉仕し、神の嫁として、天皇と神聖な結婚をとげることがあったと、折口は説きました(「宮廷儀礼の民俗学的考察」)。

 この折口の説を支持するような事例が『日本書紀』などに記載されていることは事実です。神の嫁という折口の論はそれなりの有効な射程距離をもっていますが、しかし、それを大嘗祭に適用することについては、反対意見のほうが圧倒的に優勢です。

 その一人、谷川健一氏は諸種の資料を引用して、采女は、推古・皇極・斎明とつづいた女帝の成立によって地位を低下させ、天武天皇以降は、後宮十二司の最下位に所属したと主張します。「大嘗祭という一世一代の由々しい盛儀における采女の役割は、神膳をととのえる以外にはあり得ない」というのが谷川氏の断定です(『大嘗祭の成立』小学館・1990年)。したがうべき見解です。

 3の喪屋説は1の説とかかわる論です。この3の説を強力に主張する谷川氏(前掲書)は、南島のモガリの習俗を論拠に、先帝の死にさいして死者が完全に死者になりきるまえに、死者と共寝して、その活力をうけつぐ儀礼が、喪屋としての大嘗宮でおこなわれたといいます。モガリの習俗が日本の古代におこなわれていたことは確実ですから、谷川説は就寝儀礼の本質をついた説といえます。

 しかし、3の裳屋説と4の産屋説は、じつは相互に補完しあう説なのです。産屋説は、折口信夫がはじめにとなえ、いったんすてたのちに、晩年また採用した説でした(「大嘗祭の本義」昭和3年)。大嘗宮の悠紀、主基の両殿に布団がしかれ、枕もそなえられているのは、「日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、御寝所に引き篭って、深い御物忌みをなさる場所である。実に重大なる鎮魂の行事である」とのべています。

 おなじ考えは、西郷信綱『古事記研究』(未来社・1973年)にもみることができます。マドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為であったといいます。

 就寝の儀礼は民俗の死生観をあらわしています。民俗では、死と生は連続または循環として意識されます。死んでよみがえる擬死再生の儀礼がおこなわれる場所が大嘗宮であるといえます。それは稲の種子が大地におちて死に、あたらしい生命を得てよみがえる《篭りの精神》の儀礼化でもあります。

 大嘗祭の就寝の儀礼がモガリとウブヤの複合した性格をもっているとすれば、その習俗もまた中国の南方にもとめることができます。

 1993年の4月から5月にかけて、私たちは中国の東海沿岸、ジョウ泗列島、舟山列島の現地調査をおこなったことがあります。その調査報告は『中国東海の文化と日本』(勉誠社・1993年)として刊行されています。

 そのなかですでにのべたことですが、この地方一帯にお墓を二度つくる複葬がおこなわれています。死者がでると、その死骸を、住まいの近くの田畑などに仮の埋葬の墓(殯廓とよんでいます)をつくっておき、1年または3年が経過した時点で、山の傾斜地などに里のほうにむけて永久的な墓をつくって埋葬しなおします。

 日本の古代のモガリや近畿地方などにおこなわれている両墓制の起源もまた江南にあったことをしめす調査結果です。それが農耕民に顕著な篭りの精神と結合したものが、大嘗宮の就寝儀礼なのです。

 このようにみてきますと、大嘗宮での行事は明確に中国の南方原理をしめしていますが、しかし、全体としての大嘗祭は大嘗宮以外の行事もおこなわれており、大きく、

  A 大嘗宮での天皇一人の儀礼
  B 宮中における天皇と群臣の饗宴(豊楽院の節会、最後の豊明の節会)

と二分されます。

 Bは一種の新帝にたいする服属の儀式であり、そこでは悠紀・主基の両国から献上された貢物が分配されます。悠紀・主基の両国は天皇の統治する日本国の象徴であり、Bはあきらかに新しい天皇とそれに仕える臣下の秩序を確定する北方の原理に支配されています。

 このようにみてきますと、大嘗祭は、結局、北方原理の外枠に核心としての南方原理がつつみこまれた儀礼であると規定できます。この構造は、日本の王権構造全体の象徴でもあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c80

[近代史3] 天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨 中川隆
11. 中川隆[-10558] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:59:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1518]
諏訪春雄通信 29
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 年度末の学校行事が一段落し、ようやく時間的なゆとりも出来ました。そこで、収集してあった中国の神話資料の整理と読み直しをすこしずつはじめました。日本神話とかかわりのある新しい資料が続々と出てきています。

 以前、この通信の24で、

《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa24.htm

という、私の研究の基本態度を説明しました。新しい資料を補足することによって、この研究姿勢に誤りはないという確信をますますつよめています。

 まだ完全な整理がおわっていませんので、結果が出次第、この通信で概要を報告しましょう。

 今回は「天皇と祭祀」というテーマでお話しします。これも大きな問題ですので、数回にわたって、この通信でとりあげる必要がありそうです。

 前回の通信の最後に、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったと申しました。まず、この結論にたいして説明をくわえます。

 通信27で「大嘗祭」をとりあげました。

諏訪春雄通信 27
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm


そこで説明しましたように、大嘗祭の中心行事である大嘗宮での祭りは天皇一人の儀礼であって、女官がその他が奉仕するにしても脇役にすぎず、祭りを進行させる神主はとくにいません。天皇自身が神と直接に接触する祭祀主体=シャーマンです。

 この大嘗祭のほかにも、天皇自身が祭祀主体となる祭りは、宮中行事に数多く存在します。

 奈良時代の養老2年(718)に古代法を集成して編纂された法令集が養老律令です。奈良時代から平安時代にかけての日本国家の基本法でした。そのなかで、国家祭祀を規定した
 「神祇令」には、全部で13の祭祀があげられています。

祈年祭  鎮花祭  神衣祭  三枝祭  大忌祭  風神祭  月次祭  鎮火祭
道饗祭  神嘗祭  相嘗祭  鎮魂祭  新嘗祭(大嘗祭)

 「神祇令」の冒頭の第1条には「およそ天神、地祇は、神祇官が神祇令の規定にしたがって祭れ」とあって、13種の祭りを執行するのは、「神祇官」であって、天皇の名は出てきません。

 このことから天皇は国家祭祀に関与していないという結論を出すことはできません。神祇官は祭祀を管轄する行政官であって神主ではないからです。

 わかりやすい例でいえば、文部科学省の役人は教育の管轄はするが教師ではありません。学校の現場で児童に接触するのは教師です。おなじように、祭りで神に接触したのは天皇でした。

 このあたりの事情は、通信27の「大嘗祭」についての記述をお読みいただければわかります。大嘗祭は、天皇一代一度の大祭であって、例年は神嘗祭として執行されます。その神嘗祭は「神祇令」の規定によれば、神祇官が管轄しますが、実際に祭りの主体者として神と接触するのは天皇です。同様の事情がほかの12種の祭祀にもあてはまります。

 国家的規模の祭りの祭祀主体は天皇であって、神祇官は儀式の管轄者、あるいは代理人にすぎなかったという事実をほかの方法で説明してみましょう(丸山裕美子「天皇祭祀の変容」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社・2001年)。

 前掲13の祭祀には、新嘗祭(大嘗祭)のように、天皇が関与したことのあきらかな


月次祭  鎮魂祭  新嘗祭

などのほかに、天皇が直接には関与していない多くの祭祀があります。つまり地方の神社で祭りをおこない、そこに天皇が参加していないものです。

 しかし、そうした祭りでも、中央の神祇官から幣帛つまり供物がわけあたえられます。こうした資格をもつ神社を官幣大社といいます。天皇の参加しない国家祭祀でも、官幣大社でいとなまれます。

 その分与式(班幣)はつぎのように進行します。上京した神主(祝部ほうり)たちは、宮中神祇官の役所前の広場に集合します。大臣以下の役人たちが参列するなかで、神祇官の中臣氏がつぎのような内容の祝詞を奏上します。


 あつまってきた神主・祝部らよ、皆聞きなさい。高天原にいらっしゃいます、スメラミコトがむつまじく親しむ男女皇祖神のご命令にしたがって天神・地祇としてまつる神々の前に申しあげます。今年の二月、ゆたかな収穫をたまわりますように皇孫のスメラミコトが珍しく尊い供え物を、朝日がみごとに輝きのぼるときに祝詞を奏上して、奉ります。

 大宝2年(702)2月に実施された祈年祭の祝詞です。この例からもあきらかなように、国家祭祀の正当性は、高天原の神々の子孫である天皇が奉る供物によって保証されるとともに、天皇は供物をとおして、自身直接に参加しない祭祀の主体者となっているのです。

 この祝詞のなかに天皇ということばは出てきません。和語でとなえられる祝詞に漢語の天皇が出てこないことは当然とかんがえられるかも知れませんが、天皇にあたることばとして「皇」と「皇御孫命」という漢語は出てきます。これは「すめら」、「すめみまのみこと」とよまれています。その基本に「すめらみこと」が祭祀用語として存在したとかんがえます。

 「神祇令」は中国の唐代の祭祀を規定した「祀令」を参照して成立したといわれています。しかし、根本精神は日本流に変更がくわえられています。それは天皇が国家祭祀の主宰者であるという観念です。

 天皇は祭祀王であるという観念は7世紀から8世紀にかけて、日本が国家体制をととのえていったときに、為政者によって周到に準備され、律令にもとりいれられましたが、それだけにとどまらず、『古事記』や『日本書紀』のような編纂物のなかにも布石されています。

 一例を『日本書紀』の第10代崇神天皇の記事にとります。

1.天神地祇に祈願する。
2.天照大神・倭大国魂の二神を宮中にまつる。
3.八百万の神々を神浅茅原に招いて占いをする。
4.お祈りした夜の夢に大物主神があらわれ、大物主神をまつる。
5.八十万の神々をまつる。
6.夢中の神の教えのままに墨坂神・大坂神をまつる。
7.鏡をまつる。

 崇神天皇については各種の説がこれまでに提出されています。


事実上の初代天皇である。
三輪王朝の創始者である。
騎馬民族系の渡来王である。
『魏志倭人伝』の卑弥呼をたすけた男弟である。

 複雑な性格をもった天皇であったことが推測されますが、いずれにしても祭祀王であったことは『日本書紀』の以上の記載からあきらかです。

 天皇が祭祀王としての性格をもつようになった過程については、大きく三つの考え方が成立します。

A.天皇ははじめから祭祀王としての本質をそなえていた。
B.巫女王の時代から男性祭祀王の時代に推移した。
C.男女の祭祀王ははじめから並存していた。

 この問題を解決するためには、巫女王、女帝、斎王、後宮などについて検討する必要があります。次回以降、これらの課題を解明してゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html#c11

[近代史3] 知ってはいけない真実 _ 阿修羅でアクセスを禁止されているサイト 中川隆
4. 中川隆[-10557] koaQ7Jey 2019年4月27日 19:16:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1519]

RAPT ついに私にも暗殺の手が回ってきました。私の自家用車に細工がされた模様です。
(リンク元へのにリンクを貼るとコメントできなくなるので Google 検索して下さい)


ついに私にも暗殺の手が回ってきました。私の自家用車に細工がされた模様です。

18 6月 ついに私にも暗殺の手が回ってきました。私の自家用車に細工がされた模様です。


私はこのブログを通して、この日本社会の闇の実態を解明し、それを記事にして日本全国の皆さんに知らしめようと努めてきました。

ただこの国に良くなってほしい、同じ日本民族が少しでも幸せになってほしいとの一心で、この国がおかしくなっている原因を解明し、自分なりに解決策を見出そうとしたわけです。

ところが、実際にその原因を解明しようとすればするほど、この国の闇の深さに驚くばかりでした。この国が金融ユダヤ人に乗っ取られている、だからこの国がおかしくなっているということは最初から分かっていましたが、その手口は余りに陰湿、悪質、そして露骨なもので、しかもその闇の手は今でも皆さんが気付かないうちにどんどん日本全国に食指を広げています……。

だからこそ、私のように日本の闇を解明しようとする人は、恐ろしくなってその作業を止めたり、あるいは逆に何者かに止めらりれたりしてきたのでしょう。

そして、私にもついに暗殺の手が回ってきたようです。これほど早くからこの時が来るとは思っていませんでしたが、それだけ私が闇の核心部分に触れてしまったという証拠だろうと思います。

今日の夜中、私が自家用車に乗ってドライブしていると、突然、車のハンドルが動かなくなりました。幸い、他に車のほとんど通っていない山道を走っていましたので、大きな事故にはなりませんでした。もし高速を走っていたり、交通量の多い場所を走っていたりしたら、大変な事故になっていたことでしょう。最悪の場合、死んでいたはずです。

しかし、神様は私を守ってくださいました。私に霊感を与え、全く交通量のない山道を、しかも深夜の12時過ぎにドライブさせるようにしたのです。別に何か行くべきところがあって車を走らせたわけではありません。ただ、なんとなく山の新鮮な空気を吸いたかっただけです。

もちろん、家から山まで行くには交通量の多い道も一旦は通らなければなりません。しかし、トラブルが起きたのは山道に入ってしばらく経ってからのことでした。しかもくねくねと曲がりくねった山道でしたので、それほどスピードも出してはいませんでした。

ロードサービスにレッカーに来てもらいましたが、夜中なのでまだ修理には出していません。なので、何が原因で故障したのかはよく分かりませんが、レッカーに来て下さった方の話ではパワステが故障したのだろうということでした。

それだけでなく、バッテリーにまで異常があるとの表示がダッシュボードに点灯していました。明らかに何者かに細工された感じでした。要するに、パワステが壊れなかった場合に備えて、バッテリーにも細工していたということではないかと思います。もしかしたら、他の部分にも何か細工されているかも知れません。

私はこれまで何十年と車に乗ってきましたが、ハンドルが動かなくなったというトラブルには今まで一度も遭ったことがありませんし、周りでそんなトラブルに遭ったという人も一人も見たことがありません。

第一、そんな簡単にハンドルが動かなくなるようなことがあったら、世界のあちこちで頻繁に事故が起きてしまいます。私の乗っている車は国産車ですが、日本の優れた自動車会社がそんないい加減な車を作るはずがありません。

それに、私が普段メンテナンスをしてもらっているのはトヨタです。トヨタに定期点検も車検もお願いしています。トヨタがそんないい加減な整備をするとは思えません。

恐らく明日には、故障の原因がはっきりと分かるでしょう。もちろん、細工した人間は、細工したことが分からないように細工しているはずですから、はっきりと暗殺計画があったと証明できるようなことはご報告できないかも知れません。

しかし、一応は状況証拠になると思いますので、きちんと報告だけはさせていただこうと思います。それまで私の命があればの話ですが……。

もっとも、私もこれからやるべきことをやって、裏社会の皆さんにさらなるダメージを与えようと思っています。報告すべきところにきちんと報告し、裏社会がこれ以上、私にも、また私と同じような真相解明をしている人にも危害を加えられないように様々な対処していくつもりです。

警察に報告する……なんて甘い考えではありません。もっと恐ろしいことが裏社会の皆さんの身の上に起こることになるでしょう。

一応、今の時点では、犯人は創価学会の関係者ではないかと思っています。私はここのところ創価=パソナ=竹中平蔵のことを深く追求していましたから。あるいは統一教会=安倍晋三のことも追求してきましたので、そちら方面の方の犯行かも知れません……。

もし私が死んでいたら、適当な遺書を書いて、自殺だったと見せかけるつもりだったのでしょうか……。あるいは、いつの間にか私がどこかの会社の役員になっていて、私が死んだとたん、その会社に保険金が下りる仕組みになっていたのでしょうか……。

もしかしたらダイアナ妃の事故も、同じように車に何か細工されていたのかも知れませんね。そんな想像がちらりと浮かびました。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/377.html#c4

[お知らせ・管理21] 2019年04月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
135. 中川隆[-10556] koaQ7Jey 2019年4月27日 20:00:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1520]
魑魅魍魎氏も僕がかかってる病院に行けば少し良くなるよ:

東京都立 松沢病院 精神科
http://www.byouin.metro.tokyo.jp/matsuzawa/shinryoka/seishin.html
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/553.html#c135

[番外地7] 1970年代, 1980年代の日本歌謡曲名曲集 中川隆
70. 中川隆[-10555] koaQ7Jey 2019年4月27日 20:33:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1521]

聖母たちのララバイ/岩崎宏美
作詞:山川啓介 作曲:木森敏之、John Scott リリース 1982年5月21日
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%81%96%E6%AF%8D%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E3%83%A9%E3%83%A9%E3%83%90%E3%82%A4%E3%80%80%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%AE%8F%E7%BE%8E+&sp=mAEB
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/255.html#c70

[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
27. 2019年4月27日 21:01:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1522]
1970・80年代の日本歌謡曲名曲集 _ 岩崎宏美 聖母たちのララバイ(1982年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/378.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c27
[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
28. 2019年4月27日 21:08:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1523]
八神純子 みずいろの雨(1978年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/379.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c28
[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
29. 2019年4月27日 21:14:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1524]
ハイ・ファイ・セット フィーリング (1976年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/380.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c29
[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
30. 2019年4月27日 21:19:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1525]
高橋真梨子 桃色吐息 (1984年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/381.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c30
[近代史3] 天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨 中川隆
12. 中川隆[-10554] koaQ7Jey 2019年4月28日 07:03:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1526]

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html#c12

[近代史3] 皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式 中川隆
12. 中川隆[-10553] koaQ7Jey 2019年4月28日 07:05:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1527]

諏訪春雄通信 29
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 年度末の学校行事が一段落し、ようやく時間的なゆとりも出来ました。そこで、収集してあった中国の神話資料の整理と読み直しをすこしずつはじめました。日本神話とかかわりのある新しい資料が続々と出てきています。

 以前、この通信の24で、

《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa24.htm

という、私の研究の基本態度を説明しました。新しい資料を補足することによって、この研究姿勢に誤りはないという確信をますますつよめています。

 まだ完全な整理がおわっていませんので、結果が出次第、この通信で概要を報告しましょう。

 今回は「天皇と祭祀」というテーマでお話しします。これも大きな問題ですので、数回にわたって、この通信でとりあげる必要がありそうです。

 前回の通信の最後に、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったと申しました。まず、この結論にたいして説明をくわえます。

 通信27で「大嘗祭」をとりあげました。

諏訪春雄通信 27
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm


そこで説明しましたように、大嘗祭の中心行事である大嘗宮での祭りは天皇一人の儀礼であって、女官がその他が奉仕するにしても脇役にすぎず、祭りを進行させる神主はとくにいません。天皇自身が神と直接に接触する祭祀主体=シャーマンです。

 この大嘗祭のほかにも、天皇自身が祭祀主体となる祭りは、宮中行事に数多く存在します。

 奈良時代の養老2年(718)に古代法を集成して編纂された法令集が養老律令です。奈良時代から平安時代にかけての日本国家の基本法でした。そのなかで、国家祭祀を規定した
 「神祇令」には、全部で13の祭祀があげられています。


祈年祭  鎮花祭  神衣祭  三枝祭  大忌祭  風神祭  月次祭  鎮火祭
道饗祭  神嘗祭  相嘗祭  鎮魂祭  新嘗祭(大嘗祭)

 「神祇令」の冒頭の第1条には「およそ天神、地祇は、神祇官が神祇令の規定にしたがって祭れ」とあって、13種の祭りを執行するのは、「神祇官」であって、天皇の名は出てきません。

 このことから天皇は国家祭祀に関与していないという結論を出すことはできません。神祇官は祭祀を管轄する行政官であって神主ではないからです。

 わかりやすい例でいえば、文部科学省の役人は教育の管轄はするが教師ではありません。学校の現場で児童に接触するのは教師です。おなじように、祭りで神に接触したのは天皇でした。

 このあたりの事情は、通信27の「大嘗祭」についての記述をお読みいただければわかります。大嘗祭は、天皇一代一度の大祭であって、例年は神嘗祭として執行されます。その神嘗祭は「神祇令」の規定によれば、神祇官が管轄しますが、実際に祭りの主体者として神と接触するのは天皇です。同様の事情がほかの12種の祭祀にもあてはまります。

 国家的規模の祭りの祭祀主体は天皇であって、神祇官は儀式の管轄者、あるいは代理人にすぎなかったという事実をほかの方法で説明してみましょう(丸山裕美子「天皇祭祀の変容」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社・2001年)。

 前掲13の祭祀には、新嘗祭(大嘗祭)のように、天皇が関与したことのあきらかな


月次祭  鎮魂祭  新嘗祭

などのほかに、天皇が直接には関与していない多くの祭祀があります。つまり地方の神社で祭りをおこない、そこに天皇が参加していないものです。

 しかし、そうした祭りでも、中央の神祇官から幣帛つまり供物がわけあたえられます。こうした資格をもつ神社を官幣大社といいます。天皇の参加しない国家祭祀でも、官幣大社でいとなまれます。

 その分与式(班幣)はつぎのように進行します。上京した神主(祝部ほうり)たちは、宮中神祇官の役所前の広場に集合します。大臣以下の役人たちが参列するなかで、神祇官の中臣氏がつぎのような内容の祝詞を奏上します。


 あつまってきた神主・祝部らよ、皆聞きなさい。高天原にいらっしゃいます、スメラミコトがむつまじく親しむ男女皇祖神のご命令にしたがって天神・地祇としてまつる神々の前に申しあげます。今年の二月、ゆたかな収穫をたまわりますように皇孫のスメラミコトが珍しく尊い供え物を、朝日がみごとに輝きのぼるときに祝詞を奏上して、奉ります。

 大宝2年(702)2月に実施された祈年祭の祝詞です。この例からもあきらかなように、国家祭祀の正当性は、高天原の神々の子孫である天皇が奉る供物によって保証されるとともに、天皇は供物をとおして、自身直接に参加しない祭祀の主体者となっているのです。

 この祝詞のなかに天皇ということばは出てきません。和語でとなえられる祝詞に漢語の天皇が出てこないことは当然とかんがえられるかも知れませんが、天皇にあたることばとして「皇」と「皇御孫命」という漢語は出てきます。これは「すめら」、「すめみまのみこと」とよまれています。その基本に「すめらみこと」が祭祀用語として存在したとかんがえます。

 「神祇令」は中国の唐代の祭祀を規定した「祀令」を参照して成立したといわれています。しかし、根本精神は日本流に変更がくわえられています。それは天皇が国家祭祀の主宰者であるという観念です。

 天皇は祭祀王であるという観念は7世紀から8世紀にかけて、日本が国家体制をととのえていったときに、為政者によって周到に準備され、律令にもとりいれられましたが、それだけにとどまらず、『古事記』や『日本書紀』のような編纂物のなかにも布石されています。

 一例を『日本書紀』の第10代崇神天皇の記事にとります。

1.天神地祇に祈願する。
2.天照大神・倭大国魂の二神を宮中にまつる。
3.八百万の神々を神浅茅原に招いて占いをする。
4.お祈りした夜の夢に大物主神があらわれ、大物主神をまつる。
5.八十万の神々をまつる。
6.夢中の神の教えのままに墨坂神・大坂神をまつる。
7.鏡をまつる。

 崇神天皇については各種の説がこれまでに提出されています。


事実上の初代天皇である。
三輪王朝の創始者である。
騎馬民族系の渡来王である。
『魏志倭人伝』の卑弥呼をたすけた男弟である。

 複雑な性格をもった天皇であったことが推測されますが、いずれにしても祭祀王であったことは『日本書紀』の以上の記載からあきらかです。

 天皇が祭祀王としての性格をもつようになった過程については、大きく三つの考え方が成立します。

A.天皇ははじめから祭祀王としての本質をそなえていた。
B.巫女王の時代から男性祭祀王の時代に推移した。
C.男女の祭祀王ははじめから並存していた。

 この問題を解決するためには、巫女王、女帝、斎王、後宮などについて検討する必要があります。次回以降、これらの課題を解明してゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm



▲△▽▼

天皇が行う祭祀(悪魔崇拝)のルーツ

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html#c12

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
81. 中川隆[-10552] koaQ7Jey 2019年4月28日 07:06:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1528]

諏訪春雄通信 29
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 年度末の学校行事が一段落し、ようやく時間的なゆとりも出来ました。そこで、収集してあった中国の神話資料の整理と読み直しをすこしずつはじめました。日本神話とかかわりのある新しい資料が続々と出てきています。

 以前、この通信の24で、

《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa24.htm

という、私の研究の基本態度を説明しました。新しい資料を補足することによって、この研究姿勢に誤りはないという確信をますますつよめています。

 まだ完全な整理がおわっていませんので、結果が出次第、この通信で概要を報告しましょう。

 今回は「天皇と祭祀」というテーマでお話しします。これも大きな問題ですので、数回にわたって、この通信でとりあげる必要がありそうです。

 前回の通信の最後に、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったと申しました。まず、この結論にたいして説明をくわえます。

 通信27で「大嘗祭」をとりあげました。

諏訪春雄通信 27
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm


そこで説明しましたように、大嘗祭の中心行事である大嘗宮での祭りは天皇一人の儀礼であって、女官がその他が奉仕するにしても脇役にすぎず、祭りを進行させる神主はとくにいません。天皇自身が神と直接に接触する祭祀主体=シャーマンです。

 この大嘗祭のほかにも、天皇自身が祭祀主体となる祭りは、宮中行事に数多く存在します。

 奈良時代の養老2年(718)に古代法を集成して編纂された法令集が養老律令です。奈良時代から平安時代にかけての日本国家の基本法でした。そのなかで、国家祭祀を規定した
 「神祇令」には、全部で13の祭祀があげられています。


祈年祭  鎮花祭  神衣祭  三枝祭  大忌祭  風神祭  月次祭  鎮火祭
道饗祭  神嘗祭  相嘗祭  鎮魂祭  新嘗祭(大嘗祭)

 「神祇令」の冒頭の第1条には「およそ天神、地祇は、神祇官が神祇令の規定にしたがって祭れ」とあって、13種の祭りを執行するのは、「神祇官」であって、天皇の名は出てきません。

 このことから天皇は国家祭祀に関与していないという結論を出すことはできません。神祇官は祭祀を管轄する行政官であって神主ではないからです。

 わかりやすい例でいえば、文部科学省の役人は教育の管轄はするが教師ではありません。学校の現場で児童に接触するのは教師です。おなじように、祭りで神に接触したのは天皇でした。

 このあたりの事情は、通信27の「大嘗祭」についての記述をお読みいただければわかります。大嘗祭は、天皇一代一度の大祭であって、例年は神嘗祭として執行されます。その神嘗祭は「神祇令」の規定によれば、神祇官が管轄しますが、実際に祭りの主体者として神と接触するのは天皇です。同様の事情がほかの12種の祭祀にもあてはまります。

 国家的規模の祭りの祭祀主体は天皇であって、神祇官は儀式の管轄者、あるいは代理人にすぎなかったという事実をほかの方法で説明してみましょう(丸山裕美子「天皇祭祀の変容」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社・2001年)。

 前掲13の祭祀には、新嘗祭(大嘗祭)のように、天皇が関与したことのあきらかな


月次祭  鎮魂祭  新嘗祭

などのほかに、天皇が直接には関与していない多くの祭祀があります。つまり地方の神社で祭りをおこない、そこに天皇が参加していないものです。

 しかし、そうした祭りでも、中央の神祇官から幣帛つまり供物がわけあたえられます。こうした資格をもつ神社を官幣大社といいます。天皇の参加しない国家祭祀でも、官幣大社でいとなまれます。

 その分与式(班幣)はつぎのように進行します。上京した神主(祝部ほうり)たちは、宮中神祇官の役所前の広場に集合します。大臣以下の役人たちが参列するなかで、神祇官の中臣氏がつぎのような内容の祝詞を奏上します。


 あつまってきた神主・祝部らよ、皆聞きなさい。高天原にいらっしゃいます、スメラミコトがむつまじく親しむ男女皇祖神のご命令にしたがって天神・地祇としてまつる神々の前に申しあげます。今年の二月、ゆたかな収穫をたまわりますように皇孫のスメラミコトが珍しく尊い供え物を、朝日がみごとに輝きのぼるときに祝詞を奏上して、奉ります。

 大宝2年(702)2月に実施された祈年祭の祝詞です。この例からもあきらかなように、国家祭祀の正当性は、高天原の神々の子孫である天皇が奉る供物によって保証されるとともに、天皇は供物をとおして、自身直接に参加しない祭祀の主体者となっているのです。

 この祝詞のなかに天皇ということばは出てきません。和語でとなえられる祝詞に漢語の天皇が出てこないことは当然とかんがえられるかも知れませんが、天皇にあたることばとして「皇」と「皇御孫命」という漢語は出てきます。これは「すめら」、「すめみまのみこと」とよまれています。その基本に「すめらみこと」が祭祀用語として存在したとかんがえます。

 「神祇令」は中国の唐代の祭祀を規定した「祀令」を参照して成立したといわれています。しかし、根本精神は日本流に変更がくわえられています。それは天皇が国家祭祀の主宰者であるという観念です。

 天皇は祭祀王であるという観念は7世紀から8世紀にかけて、日本が国家体制をととのえていったときに、為政者によって周到に準備され、律令にもとりいれられましたが、それだけにとどまらず、『古事記』や『日本書紀』のような編纂物のなかにも布石されています。

 一例を『日本書紀』の第10代崇神天皇の記事にとります。

1.天神地祇に祈願する。
2.天照大神・倭大国魂の二神を宮中にまつる。
3.八百万の神々を神浅茅原に招いて占いをする。
4.お祈りした夜の夢に大物主神があらわれ、大物主神をまつる。
5.八十万の神々をまつる。
6.夢中の神の教えのままに墨坂神・大坂神をまつる。
7.鏡をまつる。

 崇神天皇については各種の説がこれまでに提出されています。


事実上の初代天皇である。
三輪王朝の創始者である。
騎馬民族系の渡来王である。
『魏志倭人伝』の卑弥呼をたすけた男弟である。

 複雑な性格をもった天皇であったことが推測されますが、いずれにしても祭祀王であったことは『日本書紀』の以上の記載からあきらかです。

 天皇が祭祀王としての性格をもつようになった過程については、大きく三つの考え方が成立します。

A.天皇ははじめから祭祀王としての本質をそなえていた。
B.巫女王の時代から男性祭祀王の時代に推移した。
C.男女の祭祀王ははじめから並存していた。

 この問題を解決するためには、巫女王、女帝、斎王、後宮などについて検討する必要があります。次回以降、これらの課題を解明してゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm



▲△▽▼

天皇が行う祭祀(悪魔崇拝)のルーツ

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c81

[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
81. 中川隆[-10551] koaQ7Jey 2019年4月28日 07:06:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1529]

諏訪春雄通信 29
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 年度末の学校行事が一段落し、ようやく時間的なゆとりも出来ました。そこで、収集してあった中国の神話資料の整理と読み直しをすこしずつはじめました。日本神話とかかわりのある新しい資料が続々と出てきています。

 以前、この通信の24で、

《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa24.htm

という、私の研究の基本態度を説明しました。新しい資料を補足することによって、この研究姿勢に誤りはないという確信をますますつよめています。

 まだ完全な整理がおわっていませんので、結果が出次第、この通信で概要を報告しましょう。

 今回は「天皇と祭祀」というテーマでお話しします。これも大きな問題ですので、数回にわたって、この通信でとりあげる必要がありそうです。

 前回の通信の最後に、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったと申しました。まず、この結論にたいして説明をくわえます。

 通信27で「大嘗祭」をとりあげました。

諏訪春雄通信 27
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm


そこで説明しましたように、大嘗祭の中心行事である大嘗宮での祭りは天皇一人の儀礼であって、女官がその他が奉仕するにしても脇役にすぎず、祭りを進行させる神主はとくにいません。天皇自身が神と直接に接触する祭祀主体=シャーマンです。

 この大嘗祭のほかにも、天皇自身が祭祀主体となる祭りは、宮中行事に数多く存在します。

 奈良時代の養老2年(718)に古代法を集成して編纂された法令集が養老律令です。奈良時代から平安時代にかけての日本国家の基本法でした。そのなかで、国家祭祀を規定した
 「神祇令」には、全部で13の祭祀があげられています。


祈年祭  鎮花祭  神衣祭  三枝祭  大忌祭  風神祭  月次祭  鎮火祭
道饗祭  神嘗祭  相嘗祭  鎮魂祭  新嘗祭(大嘗祭)

 「神祇令」の冒頭の第1条には「およそ天神、地祇は、神祇官が神祇令の規定にしたがって祭れ」とあって、13種の祭りを執行するのは、「神祇官」であって、天皇の名は出てきません。

 このことから天皇は国家祭祀に関与していないという結論を出すことはできません。神祇官は祭祀を管轄する行政官であって神主ではないからです。

 わかりやすい例でいえば、文部科学省の役人は教育の管轄はするが教師ではありません。学校の現場で児童に接触するのは教師です。おなじように、祭りで神に接触したのは天皇でした。

 このあたりの事情は、通信27の「大嘗祭」についての記述をお読みいただければわかります。大嘗祭は、天皇一代一度の大祭であって、例年は神嘗祭として執行されます。その神嘗祭は「神祇令」の規定によれば、神祇官が管轄しますが、実際に祭りの主体者として神と接触するのは天皇です。同様の事情がほかの12種の祭祀にもあてはまります。

 国家的規模の祭りの祭祀主体は天皇であって、神祇官は儀式の管轄者、あるいは代理人にすぎなかったという事実をほかの方法で説明してみましょう(丸山裕美子「天皇祭祀の変容」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社・2001年)。

 前掲13の祭祀には、新嘗祭(大嘗祭)のように、天皇が関与したことのあきらかな


月次祭  鎮魂祭  新嘗祭

などのほかに、天皇が直接には関与していない多くの祭祀があります。つまり地方の神社で祭りをおこない、そこに天皇が参加していないものです。

 しかし、そうした祭りでも、中央の神祇官から幣帛つまり供物がわけあたえられます。こうした資格をもつ神社を官幣大社といいます。天皇の参加しない国家祭祀でも、官幣大社でいとなまれます。

 その分与式(班幣)はつぎのように進行します。上京した神主(祝部ほうり)たちは、宮中神祇官の役所前の広場に集合します。大臣以下の役人たちが参列するなかで、神祇官の中臣氏がつぎのような内容の祝詞を奏上します。


 あつまってきた神主・祝部らよ、皆聞きなさい。高天原にいらっしゃいます、スメラミコトがむつまじく親しむ男女皇祖神のご命令にしたがって天神・地祇としてまつる神々の前に申しあげます。今年の二月、ゆたかな収穫をたまわりますように皇孫のスメラミコトが珍しく尊い供え物を、朝日がみごとに輝きのぼるときに祝詞を奏上して、奉ります。

 大宝2年(702)2月に実施された祈年祭の祝詞です。この例からもあきらかなように、国家祭祀の正当性は、高天原の神々の子孫である天皇が奉る供物によって保証されるとともに、天皇は供物をとおして、自身直接に参加しない祭祀の主体者となっているのです。

 この祝詞のなかに天皇ということばは出てきません。和語でとなえられる祝詞に漢語の天皇が出てこないことは当然とかんがえられるかも知れませんが、天皇にあたることばとして「皇」と「皇御孫命」という漢語は出てきます。これは「すめら」、「すめみまのみこと」とよまれています。その基本に「すめらみこと」が祭祀用語として存在したとかんがえます。

 「神祇令」は中国の唐代の祭祀を規定した「祀令」を参照して成立したといわれています。しかし、根本精神は日本流に変更がくわえられています。それは天皇が国家祭祀の主宰者であるという観念です。

 天皇は祭祀王であるという観念は7世紀から8世紀にかけて、日本が国家体制をととのえていったときに、為政者によって周到に準備され、律令にもとりいれられましたが、それだけにとどまらず、『古事記』や『日本書紀』のような編纂物のなかにも布石されています。

 一例を『日本書紀』の第10代崇神天皇の記事にとります。

1.天神地祇に祈願する。
2.天照大神・倭大国魂の二神を宮中にまつる。
3.八百万の神々を神浅茅原に招いて占いをする。
4.お祈りした夜の夢に大物主神があらわれ、大物主神をまつる。
5.八十万の神々をまつる。
6.夢中の神の教えのままに墨坂神・大坂神をまつる。
7.鏡をまつる。

 崇神天皇については各種の説がこれまでに提出されています。


事実上の初代天皇である。
三輪王朝の創始者である。
騎馬民族系の渡来王である。
『魏志倭人伝』の卑弥呼をたすけた男弟である。

 複雑な性格をもった天皇であったことが推測されますが、いずれにしても祭祀王であったことは『日本書紀』の以上の記載からあきらかです。

 天皇が祭祀王としての性格をもつようになった過程については、大きく三つの考え方が成立します。

A.天皇ははじめから祭祀王としての本質をそなえていた。
B.巫女王の時代から男性祭祀王の時代に推移した。
C.男女の祭祀王ははじめから並存していた。

 この問題を解決するためには、巫女王、女帝、斎王、後宮などについて検討する必要があります。次回以降、これらの課題を解明してゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm



▲△▽▼

天皇が行う祭祀(悪魔崇拝)のルーツ

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10


http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c81

[昼休み54] 日本の中枢は既に在日朝鮮人に乗っ取られている 中川隆
31. 中川隆[-10550] koaQ7Jey 2019年4月28日 07:11:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1530]
学習院には、既に1960年代から朝鮮総連活動家の子弟が送り込まれており、皇族とそれを取り巻く元華族の動向を調査させていた。どのような人間関係を構築し、どのような言葉遣いで何を話題にしており、学校と自宅以外にどのような場所に出入りし、何をしているのか。総連活動家の親は、子供から仕入れた情報を持ち寄り、夜な夜な会合を開いていました。そのような朝鮮人の子を私は直接知っており、いろんな話を聞きました。

学習院の小学校で愛子様がクラスメートから髪の毛を引っ張られて登校拒否みたいな話が漏れていた頃、その種の「小学生活動家」に小突かれていたんだろうな、と想像していました。←この最後の段落の部分、私の勝手な想像に過ぎませんが。

「学習院だから安心」は、何十年も前に崩壊している古い話です。
https://rondan.net/21117
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/232.html#c31

[近代史3] 秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください 中川隆
40. 中川隆[-10548] koaQ7Jey 2019年4月28日 07:35:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1532]

2019.04.28
秋篠宮殿下の側近中の側近が「公然わいせつマン」で逮捕


宮内庁乱交職員は子持ちパパの公務員だった

先日書いた記事で、秋篠宮家担当の宮内庁職員がハプニングバーで乱交パーティーを行い公然わいせつで逮捕された事件について紹介しましたが、『週刊ポスト』2014年12月5日号では産経新聞記事よりも詳しい人物像の紹介がなされていました。


「秋篠宮ご夫妻や年頃の眞子さま、佳子さまにどうご説明すればいいのか……」──宮内庁職員は苦悩の表情でそう語った。

11月8日、東京都新宿区の高級マンションの一室にあるハプニングバーで、男女3人が別の客に見せながら性行為に及んだとして、経営者らとともに公然わいせつ容疑で現行犯逮捕された。

捜査員を驚かせたのは客の中に宮内庁職員、それも秋篠宮家の事務方トップの宮務官を務めたA氏がいたことだった。

「A氏は50代で妻と小さな子供がいると聞いている。女好きだといった噂もなく、宮内庁内では誰もが驚いていた」(皇室記者)
「公然わいせつ容疑の宮内庁職員 女好きの噂なく庁内は皆驚く」『週刊ポスト』2014.11.27
妻子持ちで女好きの噂も立たない宮内庁勤務の公務員、如何にも真面目そうな人物を想像してしまいますが、一体、何が彼のこのような異様な行動を取らせたのでしょうか?


関連記事
秋篠宮家「公然わいせつ」で逮捕者 その“家風”と眞子さま
2019年4月26日
https://rondan.net/20999



乱交職員は秋篠宮殿下の側近中の側近だった?

『週刊ポスト』の記事によると、どうやら公然わいせつ罪で逮捕された職員は秋篠宮殿下の側近であり、一家のすべてを取り仕切る要職であったそうです。


A氏は民間会社から公務員に転職。ロンドンに派遣されていた際に留学中の秋篠宮の世話をした経験があったことから2011年2月に宮務官に抜擢された。

「宮務官は公務の取り仕切りから悠仁さまや眞子さま、佳子さまのお世話など、一家のすべてを取り仕切るいわば執事といえる要職です」(宮内庁関係者)

しかしA氏は今年3月にその役職を解かれている。
同上
役職解任の理由は職務上の不手際であり、事実上の左遷とのこと。

トラブルの原因は激務によるストレス?

また記事によると、やはり激務によるストレスによっておかしな行動を取ってしまったのではないか?と書かれています。


「宮家の宮務官は歴代担当者が悲鳴を上げる激務。特に宮内庁プロパーでないAさんはストレスをためていたのではないか」(前出・宮内庁関係者)
同上
秋穂宮家の職員が仕事 では「殿下と紀子さまの指示がそれぞれ違うことがあり、怒られることが多々ある」とも言われているようです。

この殿下と紀子さまのお考えの違いというのは、基本的には眞子さまの結婚トラブルに端を発する問題ではありますが、2014年のこの時期にはすでに眞子さまは小室圭さんと交際しており、佳子さまも学習院大学を中退した歳でもあります。

おそらくは、表には出てこない様々な家庭内のトラブルや対立が数多くあったことでしょう。

子持ちパパ、ハメたつもりが、ハメられた?

また最後に一つ不審に思われる点を挙げておくと、何やら捜査に踏み込まれるタイミングが偶然にしては出来過ぎていて、何者かにハメられたのではないか?などと邪推してしまいます。


事情を知る宮内庁関係者によると、「A氏は1人で飲んでいたところ、カップルに誘われて性行為に及び、裸でいるところを捜査員に踏み込まれた」というが、常連客だったかどうかは不明だ。
同上
記事には「常連客であったかは不明だ」とありますが、幼い子供を育てる父親であり、宮内庁の激務に勤しんでいたという状況を考えると、しょっちゅうハプニングバーに入り浸るような常連客であるとは考えにくい。

となると、たまたま何かのきっかけでフラっと入ったハプニングバーでカップルに誘われて他の客の目の前で乱交に及び、たまたま裸で行為に及んでいるタイミングで捜査官に踏み込まれて逮捕されたことになります。

偶然といえばそれまでですが、あまりにもタイミング悪すぎて、どうしても筆者などは「何者かにハメられたのでは?」などと想像してしまいます。

家庭崩壊の秋篠宮一家

それにしても、つくづく秋篠宮一家は災難の多い家庭であると思います。

眞子さまはダメ男に引っかかって婚約トラブル。佳子さまは、母親の反対を押し切ってダンスレッスンに没頭し、チャラついたセクシー衣装でクラブイベントに出入り。秋篠宮殿下はタイの愛人疑惑やプチエンジェル事件の関与の疑いを蒸し返されて炎上状態です。

もちろん、一つ一つは所詮「よくあるトラブル」に過ぎないのでしょうが、こうも家族全員がお騒がせタイプのトラブルメーカーだと、皇族として「ちょっと大丈夫なのか?」と不安を抱かずにはおれません。

おそらく「令和」の新時代になって元号が変わっても、秋篠宮家のお騒がせ皇族一家ぶりは変わらぬままでしょう。
https://rondan.net/21134
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c40

[近代史3] プチエンジェル事件の顧客と噂されている秋篠宮・高円宮はロリコンなのか? 中川隆
24. 中川隆[-10547] koaQ7Jey 2019年4月28日 07:37:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1533]
2019.04.28
秋篠宮殿下の側近中の側近が「公然わいせつマン」で逮捕

宮内庁乱交職員は子持ちパパの公務員だった

先日書いた記事で、秋篠宮家担当の宮内庁職員がハプニングバーで乱交パーティーを行い公然わいせつで逮捕された事件について紹介しましたが、『週刊ポスト』2014年12月5日号では産経新聞記事よりも詳しい人物像の紹介がなされていました。


「秋篠宮ご夫妻や年頃の眞子さま、佳子さまにどうご説明すればいいのか……」──宮内庁職員は苦悩の表情でそう語った。

11月8日、東京都新宿区の高級マンションの一室にあるハプニングバーで、男女3人が別の客に見せながら性行為に及んだとして、経営者らとともに公然わいせつ容疑で現行犯逮捕された。

捜査員を驚かせたのは客の中に宮内庁職員、それも秋篠宮家の事務方トップの宮務官を務めたA氏がいたことだった。

「A氏は50代で妻と小さな子供がいると聞いている。女好きだといった噂もなく、宮内庁内では誰もが驚いていた」(皇室記者)
「公然わいせつ容疑の宮内庁職員 女好きの噂なく庁内は皆驚く」『週刊ポスト』2014.11.27
妻子持ちで女好きの噂も立たない宮内庁勤務の公務員、如何にも真面目そうな人物を想像してしまいますが、一体、何が彼のこのような異様な行動を取らせたのでしょうか?


関連記事
秋篠宮家「公然わいせつ」で逮捕者 その“家風”と眞子さま
2019年4月26日
https://rondan.net/20999

乱交職員は秋篠宮殿下の側近中の側近だった?

『週刊ポスト』の記事によると、どうやら公然わいせつ罪で逮捕された職員は秋篠宮殿下の側近であり、一家のすべてを取り仕切る要職であったそうです。


A氏は民間会社から公務員に転職。ロンドンに派遣されていた際に留学中の秋篠宮の世話をした経験があったことから2011年2月に宮務官に抜擢された。

「宮務官は公務の取り仕切りから悠仁さまや眞子さま、佳子さまのお世話など、一家のすべてを取り仕切るいわば執事といえる要職です」(宮内庁関係者)

しかしA氏は今年3月にその役職を解かれている。
同上
役職解任の理由は職務上の不手際であり、事実上の左遷とのこと。

トラブルの原因は激務によるストレス?

また記事によると、やはり激務によるストレスによっておかしな行動を取ってしまったのではないか?と書かれています。


「宮家の宮務官は歴代担当者が悲鳴を上げる激務。特に宮内庁プロパーでないAさんはストレスをためていたのではないか」(前出・宮内庁関係者)
同上
秋穂宮家の職員が仕事 では「殿下と紀子さまの指示がそれぞれ違うことがあり、怒られることが多々ある」とも言われているようです。

この殿下と紀子さまのお考えの違いというのは、基本的には眞子さまの結婚トラブルに端を発する問題ではありますが、2014年のこの時期にはすでに眞子さまは小室圭さんと交際しており、佳子さまも学習院大学を中退した歳でもあります。

おそらくは、表には出てこない様々な家庭内のトラブルや対立が数多くあったことでしょう。

子持ちパパ、ハメたつもりが、ハメられた?

また最後に一つ不審に思われる点を挙げておくと、何やら捜査に踏み込まれるタイミングが偶然にしては出来過ぎていて、何者かにハメられたのではないか?などと邪推してしまいます。


事情を知る宮内庁関係者によると、「A氏は1人で飲んでいたところ、カップルに誘われて性行為に及び、裸でいるところを捜査員に踏み込まれた」というが、常連客だったかどうかは不明だ。
同上
記事には「常連客であったかは不明だ」とありますが、幼い子供を育てる父親であり、宮内庁の激務に勤しんでいたという状況を考えると、しょっちゅうハプニングバーに入り浸るような常連客であるとは考えにくい。

となると、たまたま何かのきっかけでフラっと入ったハプニングバーでカップルに誘われて他の客の目の前で乱交に及び、たまたま裸で行為に及んでいるタイミングで捜査官に踏み込まれて逮捕されたことになります。

偶然といえばそれまでですが、あまりにもタイミング悪すぎて、どうしても筆者などは「何者かにハメられたのでは?」などと想像してしまいます。

家庭崩壊の秋篠宮一家

それにしても、つくづく秋篠宮一家は災難の多い家庭であると思います。

眞子さまはダメ男に引っかかって婚約トラブル。佳子さまは、母親の反対を押し切ってダンスレッスンに没頭し、チャラついたセクシー衣装でクラブイベントに出入り。秋篠宮殿下はタイの愛人疑惑やプチエンジェル事件の関与の疑いを蒸し返されて炎上状態です。

もちろん、一つ一つは所詮「よくあるトラブル」に過ぎないのでしょうが、こうも家族全員がお騒がせタイプのトラブルメーカーだと、皇族として「ちょっと大丈夫なのか?」と不安を抱かずにはおれません。

おそらく「令和」の新時代になって元号が変わっても、秋篠宮家のお騒がせ皇族一家ぶりは変わらぬままでしょう。
https://rondan.net/21134

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/362.html#c24

[近代史3] 中野剛志 _ アメリカで大論争の「現代貨幣理論」とは何か 中川隆
11. 中川隆[-10546] koaQ7Jey 2019年4月28日 08:01:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1534]

中野剛志 消費増税も吹っ飛ばす破壊力。「MMT」(現代貨幣理論)の正体 2019年4月26日
https://www.excite.co.jp/news/article/BestTimes_10271/

■アメリカでいま大論争
消費増税も吹っ飛ばす破壊力。「MMT」(現代貨幣理論)の正体

「MMT」って、聞いたことありますか?

 MMTというのは、現代貨幣理論(Modern Monetary Theory)のことです。

 最近、アメリカで大論争を巻き起こし、日本でもよく採り上げられている経済理論です。

 きっかけとなったのは、2019年1月に、アメリカの史上最年少議員(民主党)として話題のアレクサンドリア・オカシオコルテス議員が「MMT」への支持を表明したことで、突如、MMTが脚光を浴びました。

 MMTの論者たちは、「財政赤字は心配するな」という過激とも思える大胆な主張をしています。

 このため、著名な主流派経済学者や政策当局が、MMTを「トンデモ理論」だとバッシングを始めました。

 ところが、このバッシングに対して、MMTを提唱する経済学者ステファニー・ケルトン教授らが、強力に反論したので、大騒ぎになりました。

 そして、この論争が、日本にも飛び火したというわけです。

 なぜ、日本に飛び火したのか。

 言うまでもなく、日本は、GDP比の政府債務残高が先進国の中でもダントツで大きく、財政危機だと言われているからです。

 しかも、今年、消費税率を8%から10%に引き上げようとしているところです。

 それなのに、「財政赤字は心配するな」などというMMTが正しかった、なんて話になったら、消費増税は、ぶっ飛びます。
 それどころか、これまで二十年以上にもわたって、財政危機を騒いできたのは、いったい何だったのかという話になって、大変なことになります。


 最近、世界経済も国内景気も急激に悪化しており、このまま消費増税をしていいのだろうかという不安が高まっています。

 先日も、自由民主党の萩生田幹事長代行が、消費増税延期を口走ったため、大きな波紋を呼んでいます。

 そんな最中に、海の向こうから、突然「財政赤字は心配するな」という理論がやってきたのです。

 それで、日本の財務省は、MMTに対して、異例の反論を行い、火消しに走っているというわけです。

 また、長年、財政健全化を訴えてきた朝日新聞編集委員の原真人さんも、MMTを「トンデモ経済理論」呼ばわりしています。
■意外とシンプルな理論
 ところで、MMTとは、どのような理論なのでしょうか。

 一見すると難しそうですが、ポイントだけ押さえれば、意外と簡単に分かります。

 ポイントは、こうです。

 日本やアメリカやイギリスのように、自国通貨を発行できる政府(正確には、政府と中央銀行)は、デフォルト(債務不履行)しない。

 自国通貨建ての国債は、デフォルトすることはない(アルゼンチンなど、デフォルトの事例は、外貨建て国債に関するものだけ)。   

 だから、アメリカや日本は、財源の心配をせずに、いくらでも、好きなだけ支出ができる。

 ただし、財政支出を拡大し、需要超過になって、インフレになる。

 たった、これだけです。
 しかし、実は、このMMTの主張は、単に「事実」を言っているだけで、何も新奇な理論を提唱しているわけではありません。


通貨を発行できる政府が、自国通貨建ての国債を返済できるなんて、当たり前の話です。

 それどころか、財務省だって、日本の国債は、自国通貨建てなので、デフォルトしないと言っているのです。

 平成14年に、海外の格付け会社が日本国債の格付けを引き下げました。すると、財務省は、格付け会社(ムーディーズ、S&P,フィッチ)宛に、質問状を発出しました。そこには、こう書かれています。
(1) 日・米など先進国の自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない。デフォルトとして如何なる事態を想定しているのか。
 デフォルトしないのならば、政府は財源の心配は無用ということになります。

 しかし、もしそうだとすると、税金は、何のためにあるのでしょうか。

「財源の心配がいらないなら、無税国家ができるじゃないか」と思われたかもしれません。

 もちろん、無税国家は不可能です。

 なぜなら、税金を一切なくして、政府が好きなだけ財政支出をしまくったら、消費や投資が拡大し続け、インフレが止まらなくなって、大変なことになるからです。
■消費税は何を減らす?
 だから、税金を課して、消費や投資を抑えて、インフレを止めるのです。

 ただし、税金を重くし過ぎると、今度は、インフレの反対、すなわちデフレになります。

 この場合、税金は、物価を調整するための手段だということになります。

 他にも、税金には、重要な役割があります。
 例えば、高所得者により重い所得税を課すと、所得格差を是正できます。


また、温室効果ガスの排出に対して、炭素税を課すと、温室効果ガスを抑制できます。

 このように、税金は、抑制したいものや減らしたいものに課すことで、経済をうまく調整するのに使うのです。

 ですから、税金は、財源確保の手段ではなく、経済の調整の手段として、必要だということです。

 これが、MMTの、最も初歩的な説明です。

 しかし、この最も初歩的な説明だけでも、破壊力が抜群なのです。

 例えば、先ほど説明したように、税金は、温室効果ガスの排出に対して課すと、温室効果ガスを減らせます。

 ということは、消費税は、何を減らすのでしょうか。

 消費に税金を課しているのですから、当たり前ですが、消費を減らすことになります。

 さて、今年、消費税を増税する予定ですが、そうなると、消費が減ります。

 消費を減らしたら、当然、不景気になり、国民生活は苦しくなります。
■増税とインフレ・デフレの関係
 それなのに、どうして、消費を減らしたいのでしょうか?

 えっ、消費増税は、社会保障財源を確保し、財政赤字を減らすために必要?

 でも、自国通貨建て国債はデフォルトしないというのは、財務省ですら認めている事実ですよ。

 デフォルトしないならば、財源を確保する必要なんて、ないじゃないですか。

 こういうことを言うと、「そんなこと言ったって、財政赤字が大きくなり過ぎたら、インフレが止まらなくなるじゃないか!」と批判されるでしょう。
 この批判は、まったく、その通りです


実際、MMTも、財政赤字を増やすと、インフレになると言っています。

 でも、ということは、逆に財政赤字を減らしたら、インフレの反対のデフレになるはずですね。

 ところで、日本は二十年もデフレで苦しんでいて、安倍政権はデフレ脱却を掲げています。

 つまり、安倍政権は、インフレにしたいわけです。実際、インフレ率2%という目標を掲げています。

 そうだとしたら、安倍政権は、インフレを実現するために、財政赤字を増やさなきゃ、いけないはずですよね。

 それなのに、消費増税で財政赤字を減らしたりなんかしたら、どう考えたって、デフレはひどくなるでしょう。

 そもそも、安倍政権は、2%のインフレ率を目標に掲げています。

 だったら、2%のインフレ率という「行きつく先」まで、財政赤字を拡大すればいいではないですか。
■MMT反対派への反論
 えっ、MMTなんてトンデモ経済理論の実験なんか、してはいけない?

 それを言うなら、「デフレなのに、消費増税を断行する」ことの方が、よほど「実験」でしょう。

 だいたい、「デフレ時に消費増税をやっても問題ない」なんて経済理論、どこにあるんですか?

 MMTをトンデモ呼ばわりした原真人さん、教えてください。

 しかも、消費増税の実験でしたら、すでに、1997年の消費増税(税率3%から5%へ)と、2014年の消費増税(5%から8%へ)の二度もやっています。
 いずれの実験も、デフレを悪化させました


何で、二度も失敗した危険な実験を、もう一回、やろうとしているのでしょうか。

 意味が分かりません。

 ところが、財政赤字の拡大については、まだ、こう反論する人がいます。

「いや、財政赤字の拡大を認めてしまったら、インフレは止まらなくなる。インフレを止めるために、歳出を削減したり、増税したりするなんて、できないんだ。なぜって、国民が嫌がる歳出削減や増税を、政治家は決断できないからだよ」

 これは、ひどい反論ですね。

 なぜなら、財政支出や増税は、国会で決めることになっています。

 これは「財政民主主義」と言って、日本国憲法第83条で定められています。

「歳出削減や増税はできないから、インフレが止まらなくなる」というなら、財政は、国会以外のどこで決めるのでしょうか?

 財務省が決めるのでしょうか?

 いや、ダメです。それは、憲法83条違反ですよ。

 それに、日本は、すでに20年も、インフレを止めています。

 むしろ、インフレにしたくてもできなくて、困っています。

 2014年には、デフレで国民が苦しんでいるのに、消費増税をしてしまいました。

 そんな日本が、どうしてインフレが進み過ぎて国民が苦しんでいる時に、歳出削減や増税ができないというのでしょうか?

 日本の民主主義をバカにするのも、いい加減にしてもらいたいものです。

 というわけで、MMTの破壊力、いかがでしたでしょうか?

 財政や税金について、もっと知りたくなったでしょうか?

 それとも、狐につままれたようで、どうも納得できないといった感じでしょうか?

 どちらにしても、議論の続きについては、


目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室【基礎知識編】 – 2019/4/22
中野 剛志 (著)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4584138958/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=bestshoseki-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4584138958&linkId=288b8e2d2b0e6fa2b42e0c3d793db718


をお読みいただけますと、幸いです。

 読み終わったら、経済学者、官僚、そして朝日新聞編集委員もビビるほど、経済が理解できるようになっているでしょう。
https://www.excite.co.jp/news/article/BestTimes_10271/?p=6
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/314.html#c11

[近代史3] チャンネル桜の常連の三橋貴明はチャンネル桜関係者の受け売りしかできないアホだった 中川隆
2. 中川隆[-10545] koaQ7Jey 2019年4月28日 08:22:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1535]

嘘は許せない より 2019年4月28日 8:19 AM


チャンネル桜の常連の三橋貴明さんの嘘 _ 3

江上波夫(東大名誉教授)に代表される「頭のおかしい歴史学者」たちは、基本史料である古事記や日本書紀を無視し、日本国の古代史を貶める歴史捏造に手を染めました。特に強烈なのは、やはり江上の「騎馬民族征服王朝説」です。

 騎馬民族征服王朝説とは、ユーラシア・ステップの騎馬民族が朝鮮半島経由で日本列島を征服し、4世紀後半以降に大和朝廷を立てたという奇想天外なフィクションです。これを、日本の歴史学者たちが礼賛し、あたかも真実であるかのごとく、日本国民に流布されました。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12457348269.html

騎馬民族征服王朝説の発表直後から日本の歴史家や考古学者の批判が相次ぎ、日本の歴史学会で騎馬民族征服王朝説を認めた人は一人も居なかったよ。

『民族学研究』誌上に、江上がはじめて騎馬民族征服王朝説を話した座談会の記録が掲載されたのは、朝鮮戦争前年の1949年

すぐに当時の考古学の最高権威だった小林行雄が騎馬民族征服王朝説は間違いだという論文を書いているよ:

小林行雄「上代日本における乗馬の風習」『史林』34-3(1951)

佐原眞は、江上の「騎馬民族」なるものの概念はきわめて「融通無碍」で、自説の都合のよいかたちに自由に変更できることが可能であると批判し、騎馬民族説はもはや「昭和の伝説」であると述べ[18]、「戦時中には、日本神話が史実として扱われ、神武以来の万世一系の歴史が徹底的に教え込まれました。江上説にはそれをうちこわす痛快さ、斬新さがあり、解放感をまねく力がありました。また、人びとの心の奥底では、日本が朝鮮半島や中国などに対して近い過去に行ってきたことの償いの役割を、あるいは果たしたのかもしれません」といっている[19]。

田辺昭三は「この説はこれが提唱された時代の要請の中で生まれた産物であり、いくら装いを改めても、もはや現役の学説として正面から取り上げる段階ではない」と評した[20][18]。

大塚初重は「多くの考古学者はこの仮説には否定的であったが、アジア大陸での雄大な民族の興亡論にロマンを感じる人も多かった」としている[21]。

樋口隆康は「大陸から対馬海峡を渡っての大移動による征服」という大きなイベントにもかかわらず、中国・朝鮮・日本の史書に揃って何ら記載がない。それどころか中国の史書では、日本の国家を、紀元前1世紀から7世紀に至るまで一貫して「倭」を用いており、何の変化もない」としている[22]。

岡内三眞は「江上は、騎馬民族がどのようにして日本に侵入し、征服したのか、そしてどのように征服王朝を立てたのかを、考古学の面から何も立証していない」[23]とし、また「この仮説は、現代では通用しなくなった戦前の喜田貞吉の「日鮮両民族同源論」を基礎にして、戦前・昭和初期の歴史教育を受けて北京に留学し、軍隊の庇護の下に中国東北地区を闊歩した江上流の資料収集法と旧式研究法に基づいている。無意識に吐露する現代論や人間感にはアジアの人々の心を逆なでするような言葉が含まれる。」としている[24]。

田中琢は「騎馬民族が国家を形成経営しうる能力を持った優秀な民族で農耕民はその面で劣っていると決め付け、人間集団をラベルを貼るような危険」としている[25]。
https://38news.jp/default/13511#comment-23922
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/374.html#c2

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
197. 中川隆[-10544] koaQ7Jey 2019年4月28日 08:48:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1536]
平野憲一の株のお話 2019.04.28 ここで役立つ相場格言。


 今日は、日経CNBC昼エクスプレス毎週木曜日の筆者のコーナー「平野憲一投資道場」で最近放送した「ここで役立つ相場格言」を簡単にご紹介します。


 閑散に売り無し:

 閑散で出来高が少なく、日経平均がほとんど動かない時は、売る事は有りません。逆に買いの好機と見るべきです。但し、はっきりした懸念材料が発生した時は、大幅下落の事例もあります。今はっきりした懸念材料は、どこから発生するでしょうか。米中、米欧、日米摩擦からでしょうか。発生すると思えば売りですが、そうでない(あるいは織り込んでいる)と思えば今は買いです。シンプルですが、明確な判断材料です。


 半値戻しは全値戻し: 

大幅下落後、下げ幅の半分を回復した時は、下落前の値段まで回復する確率が高い。今は既に昨年10月の天井と12月の底値の半値戻しを達成しています。この格言から言うと、2万4000円台に戻る確率は高い事になります。但し、下げはなぜ起こったのか?この半値戻しもなぜ起こったのか?その理由が分からないと、織り込み度合いを分析する事は出来ません。とにかく株は研究に始まり研究に終わります。研究する事は楽しい事です。
http://kasset.blog.fc2.com/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c197

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
180. 中川隆[-10543] koaQ7Jey 2019年4月28日 08:58:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1537]
4. 晴れ間[1429] kLCC6orU 2019年4月27日 23:22:28: xni5yVaf3k : UExEM2RXUElUbUU=[7]

ゴーンはフランス人なんかではない。レバノン人。つまり中東人。アラブ人。レバノン商人というのは、中東やアフリカでは「強欲」で有名。レバノンのキリスト教徒はマロン派で反動極右。ゴーンのあの顔を見れは、フランス人ではないことは一目瞭然ではないか。(フランス人は爬虫類のような顔はしていない。)

ゴーンはフランス的な価値観は持っていないから、フランス人からは嫌われている。利害を共にする者はいても、「友人」は一人もいないようだ。

フィヨンは、2017年の大統領選挙で、保守派(共和党) の最有力候補だったが、マクロンを当選させようとするフランス版ディープステートによる工作、つまり大量のメディア宣伝により退却させられた。単に親族名で(日本風に言えば)「秘書給与」等を受け取っていただけだ。

マクロンがロスチャイルド銀行から受け取った数億円に比べれば、金額的には「かわいい」ものだ。

現在の首相フィリップも、自分の妻を、その資格もないのに教育学術機関の「高給閑職」につけて、公金を横領して何食わぬ顔でいる。

マクロンがルノーと日産の「経営統合」に異常な執念を燃やしているのも、「フランス人の雇用を守った大統領」として、次の大統領選挙での「再選」に繋げたいから。マクロンにとって日産支配は、単なる個人的な「踏み台」。マクロンは、そういう人間だ。

日産をフランスとマクロンの「食い物」にさせてはいけない。
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/292.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c180

[昼休み54] カルロス・ゴーンは所得税をゼロにする為に世界各地の日産所有豪邸を転々としていた 中川隆
32. 中川隆[-10542] koaQ7Jey 2019年4月28日 08:59:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1538]
4. 晴れ間[1429] kLCC6orU 2019年4月27日 23:22:28: xni5yVaf3k : UExEM2RXUElUbUU=[7]

ゴーンはフランス人なんかではない。レバノン人。つまり中東人。アラブ人。レバノン商人というのは、中東やアフリカでは「強欲」で有名。レバノンのキリスト教徒はマロン派で反動極右。ゴーンのあの顔を見れは、フランス人ではないことは一目瞭然ではないか。(フランス人は爬虫類のような顔はしていない。)

ゴーンはフランス的な価値観は持っていないから、フランス人からは嫌われている。利害を共にする者はいても、「友人」は一人もいないようだ。

フィヨンは、2017年の大統領選挙で、保守派(共和党) の最有力候補だったが、マクロンを当選させようとするフランス版ディープステートによる工作、つまり大量のメディア宣伝により退却させられた。単に親族名で(日本風に言えば)「秘書給与」等を受け取っていただけだ。

マクロンがロスチャイルド銀行から受け取った数億円に比べれば、金額的には「かわいい」ものだ。

現在の首相フィリップも、自分の妻を、その資格もないのに教育学術機関の「高給閑職」につけて、公金を横領して何食わぬ顔でいる。

マクロンがルノーと日産の「経営統合」に異常な執念を燃やしているのも、「フランス人の雇用を守った大統領」として、次の大統領選挙での「再選」に繋げたいから。マクロンにとって日産支配は、単なる個人的な「踏み台」。マクロンは、そういう人間だ。

日産をフランスとマクロンの「食い物」にさせてはいけない。
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/292.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/333.html#c32

[リバイバル3] 不動産投資は絶対にやってはいけない 中川隆
28. 中川隆[-10541] koaQ7Jey 2019年4月28日 09:04:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1539]

2019年4月28日
特殊清掃員もひるんだ、異臭を放つアパートの惨状
『にわか大家はつらいよ。老朽限界アパート物語』 第3回
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/16053



限界アパート今昔物語


 承前。実家の老朽アパートであるコーポ◎◎の住人の入れ替わりと並行して、義父の所有する『△△ハイム』でもトラブルが進行していた。△△ハイムは義父母が住んでいる敷地内にある築42年の木造モルタル塗り老朽アパート。

 駅から徒歩5分、商店街まで徒歩1分、都心への通勤時間50分という好立地条件から、42年前の新築時には棟上げ式前に8室全て入居者が決まっていたというのが義父の自慢であった。

 6畳の和室、トイレ、浴室、台所という典型的昭和の1Kの間取り。高度成長期には常に若い勤め人で満室、築後数年でローンを繰上げ完済したという。

 私自身も△△ハイムの近所に住んでいるので、限界アパート化している現状はそれとなく見知っていた。数年前からある部屋から異臭がすると時折苦情が寄せられていた。ゴミを溜め込んで、さらに野良猫が何匹も窓の隙間から出入りしていた。

 義父母から相談を受けて即日対策に着手。義父母も90歳近い高齢なので早々に△△ハイムの管理を全て引き受ける時期であった。

ゴミ溜め部屋の住人

 先ずは敵情把握。契約書類を整理して義父母にヒアリングした:
1.借主のN氏は地方出身の44歳。結婚歴なし。職業は電気工。17年前に中堅ゼネコンの独身寮から転居。現在は電気工事会社勤務。夜勤や出張が多い。
2.連帯保証人は地方公務員の父親。役場に電話すると既に死去していた。法的には遺産相続した母親が連帯保証責任を負うことになる。最後の更新契約書が締結されてから3年以上経っている。無契約書状態だが家賃は毎月払っている。

不動産屋は引退し行方不明

 事実確認するために不動産屋を訪問したが廃業していた。隣家によると老齢のため1年前に店を閉めたが転居先は不詳。郵便局に転居先を照会したが規則で開示できないと。青色申告会に照会したが記録がない。

 商店街を尋ね回ると、蕎麦屋の女将さんが隣町の工場の近くに越したことを覚えていた。隣町の町内地図を調べてやっとのことで元不動産屋の老人と面談。事実関係を確認した。

契約更新手続

 未払いとなっている2回分の契約更新料、即ち家賃2カ月分を納付してもらうのが第一歩だ。居室を訪問して自分で作成した新契約書を手交。

 その場でN氏の署名捺印を取り付けて契約書を2通とも回収した。連帯保証人である母親に直接郵送して署名捺印してもらうためである。

 このやり取りは全てドア越しで行われた。N氏はドアを開けることを拒み、書類をドアの下の隙間から出し入れした。ちなみに法律上は緊急時以外、借主には開錠義務はなく、大家は強行立入できない。


母親からの返信が遅いので、電話で母親と話したが認知症らしく、埒があかない。長兄と名乗る人物が電話を代わってくれた。実直な人柄で手続きを引き受けてくれた。

 数日後、N氏は翌月分家賃と契約更新料の2カ月分家賃相当額を我が家に持参した。

原状回復誓約書

 第2段階として、3週間以内に居室を原状回復するという趣旨の誓約書を提出してもらった。
室内を清掃・消毒・消臭して大家による確認を受けるという義務を課したのだ。

 何度も同様に警告書、誓約書を繰り返したが埒があかない。夜勤出張が多いことは割り引いてもN氏は逃げているようであった。

 N氏に電話すると毎度必ず「数日以内に必ず実行しますのでご勘弁下さい」と平身低頭。夜間に居室のドアをノックして督促すると消え入るような声で謝る。

 不潔な居住空間で暮らすのは心の病と聞くが、N氏も心の闇を抱えていたのだろうか。

最後通牒に絶句

 業を煮やした私は携帯電話で「○月△日までに原状回復しない場合には勤務先とご実家に相談させて頂きます」と通告して、同時に書面を居室のドアに投げ込んだ。

 電話口でN氏は長い沈黙の後「わかりました」とだけ答えた。最終期限の3日前にN氏より「明日から清掃会社が作業を始めますのでよろしくお願いします」と突然連絡があった。

特殊清掃業者

 作業開始当日の朝、業者の代表が挨拶に来た。威勢のいい元ヤンキー系っぽいお兄さんだ。遺品整理、ゴミ屋敷清掃、廃品回収などを手掛ける業者で清掃のみならず消毒・消臭を実施する“特殊清掃”業者である。

パンドラの箱を開けたら

 作業を開始した途端に、血相を変えて代表のお兄さんが我が家に駆け込んできた。「旦那さん、とにかく現場に来てよ」と語気が荒い。

 衝撃の光景であった。奥の6畳間と台所は天井までゴミが堆積して、畳も天井もほとんど見えない。手前の床板は得体のしれない生ごみと液体で腐敗して、大きな穴が開いていた。

 作業員が台所に入った途端に床板が崩落して陥没したとのこと。室内の天井板は腐って大半が消失していた。

 居室全体が猫、ネズミ、ゴキブリの糞尿で覆われて、強烈なアンモニア臭で目を開いていられない。水洗便器も浴槽も汚物とゴミで覆われ使用不能状態だ。居室全体が『巨大な肥溜め』と化していた。

原状回復不能

 清掃作業員は原発の炉内作業員のような顔全体を覆うマスク、ゴーグル、つなぎの作業服、分厚いゴム手袋、白い長靴で完全武装している。

 代表は私に「旦那さん、どこまで作業すれば良いのか教えてくださいよ。フツウの人間が住める状態にすることは不可能ですよ。ゴミを撤去するという依頼だけだったので、割増料金が必要ですよ」と怒気を込めて詰問してくる。

 その場でN氏へ電話してゴミ撤去・清掃・消毒・消臭をして近隣へ迷惑がかからない状態にすることを要求。

N氏の支払い能力

 清掃業者の代表によると工期は一週間、作業一式で150万円以上となる模様。悪臭を封じ込めるために特殊塗料で居室内全体をコーティングすることが必要という。

 N氏の申告年収が400万円なので実家の支援が必要かと推測した。N氏の懐事情では業者への支払いが増えれば、大家へ払う損害賠償の原資がそれだけ減ると咄嗟に算盤をはじいた。

 一刻も早く請求金額を決めて、N氏に通告しなければ手遅れとなる緊急事態だ。

損害賠償額の算定

 義父母と相談しても困惑するだけなので、家内と交渉方針を確認した:
1.N氏が清掃作業後に退去する場合は、居住不能となった空室に対する損害賠償金として契約期間の残り23カ月分を一括払い条件で請求する。
2.安全・防火のための最低限の床板、天井の補修費用を請求する。

 以上の方針を義父母に了承してもらい、すぐさま工務店を呼んで補修見積を作成した。

賠償請求の受諾

 N氏は工事現場に寝泊まりしていた。その夜電話で今後の予定を聞くと案の定「月末までに退去します」と弱弱しく答えた。実はN氏の対人恐怖症と思われる気弱な性格から△△ハイムに住み続けるのは精神的に無理だろうと予想していたのだ。

 空室補償としての“残存契約期間の23カ月分の一括払い”と補修作業の見積金額を説明。「Nさんにとっては突然の大きな出費になるけど大家側の立場は理解できるよね」と尋ねたところ、間をおいて「実家とも相談してみます」とだけ答えた。

 数日後「23カ月分の家賃は実家から10日後に振り込みます。補修作業費用は分割払いで自分が毎月10万円銀行振込して年末までに全額お支払いします」と回答があった。

エピローグ

 23カ月分の家賃は期日に全額入金、さらに補修作業費用は約束よりも早く全額完済。その後のN氏の消息は知らない。N氏が△△ハイムの悪夢を忘れて新しい人生を歩んでいることを祈るばかりだ。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/16053

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/827.html#c28

[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
31. 2019年4月28日 09:45:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1540]
ロシア民謡「黒い瞳」(Ochi Chernye)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/389.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c31
[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
32. 2019年4月28日 09:56:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1541]
ロシア民謡 「Дорогой длинною 長い道を」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/390.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c32
[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
33. 2019年4月28日 10:08:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1542]
メリー・ホプキン 悲しき天使 Those Were the Days
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/391.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c33
[近代史3] メリー・ホプキン 悲しき天使 Those Were the Days 中川隆
1. 中川隆[-10540] koaQ7Jey 2019年4月28日 10:17:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1543]

メリー・ホプキン

Fields of St. Etienne - Mary Hopkin - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=s2UX7_kpNHg

Mary Hopkin - Fields of St. Etienne - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QMlkJKZTPe0
https://www.youtube.com/results?search_query=Mary+Hopkin++Fields+of+St.+Etienne+

▲△▽▼


Through the fields of St Etienne        サンテティエンヌの野原をぬけて
Amidst the corn I wander             とうもろこし畑の只中を私はさまよう
In my hand an ear of corn the morning dew has kissed  手には朝露に濡れた
                                 一粒のとうもろこし 
      
       
Here beneath these skies               この空の下で
I lay with my lover                 私は愛する人と寝そべっていた
While the summer winds gathered clouds of war    夏風に吹かれて   
                            暗雲がたちこめるのも知らず…


Au revoir my love                   オ・ヴォア 愛する人
Though the reasons pass me              私には分からない
Why we can't remain in the fields of St. Etienne  どうして私たちは
                            あの土地に留まることができないの?

Waving proudly, singing loudly         誇らしげに手を振って 歌声は高らかに
Being young and foolish             若く まだ愚かな彼は
He was going never knowing           二度と戻れぬ道と知らずに
He would not return               あの道を歩いていった

Singing songs of war               それは戦の歌
Filled with God and country           ”神”と”愛国”の言葉に満ちた歌
Marching down the road with the boys that day  彼はあの道を
                            若い仲間と共に行進していった   
Au revoir my love                   オ・ヴォア 愛する人
Though the reasons pass me              私には分からない
Why we can't remain in the fields of St. Etienne  どうして私たちは
                            あの土地に留まることができないの?


Au revoir my love
Though the reasons pass me
Why we can't remain in the fields of St. Etienne...


※ Au revoir …フランス語で”さようなら”



https://ameblo.jp/montagna225/entry-11909443499.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/391.html#c1

[近代史3] メリー・ホプキン 悲しき天使 Those Were the Days 中川隆
2. 中川隆[-10539] koaQ7Jey 2019年4月28日 10:19:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1544]

メリー・ホプキン

The Beatles Lontano Dagli Occhi with Mary Hopkin - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=girjs-CUymQ

Mary Hopkin Lontano Degli Occhi - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_cBYm_oOSrQ


Mary Hopkin - Lontano dagli occhi (Sanremo 1969) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=z66qc101i-M


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/391.html#c2

[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
34. 2019年4月28日 10:41:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1545]
ロシア民謡 「カチューシャ」 (Катюша)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/393.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c34
[近代史3] ロシア民謡 「カチューシャ」 (Катюша) 中川隆
1. 中川隆[-10538] koaQ7Jey 2019年4月28日 10:45:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1546]

ガールズ&パンツァー 第8話 ロシア民謡カチューシャ - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%B38%E8%A9%B1+++%E3%82%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3+++

アニメ「ガールズ&パンツァー」で歌われたロシア民謡「カチューシャ」が世界で人気な件。 海外の反応。
http://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51869966.html


海外「この曲好きだわ、日本訛りのロシア語がまた素晴しい!」
NONNA2


ロシア民謡「カチューシャ」は1938年に製作された、カチューシャという娘が川の岸辺で恋人を思って歌う姿を描いた歌曲で、第二次大戦中にはソ連軍兵士の行進曲としても使われたり、兵士達が替え歌として歌ったことで人気の流行歌に。その後は世界中でカバーされる名曲となった「カチューシャ」


動画URL https://www.youtube.com/watch?v=vHO6rTgG_W0


そして今回紹介するのはアニメ「ガールズ&パンツァー」の中で歌われた「カチューシャ」についての海外反応です。

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「ガールズ&パンツァー」は戦車を用いて行なわれる武道「戦車道」を極める女子高生達のストーリーを描いたアニメで、実はこのアニメ日本でも一時期話題になりましたが、海外でもコアな人気のあるアニメったりするのです。大戦中に使われた各国の戦車が登場して活躍するストーリーということもあってか、世界中のミリタリーオタクの間でもかなり話題になったそうです。ちなみにこのアニメは中国でも話題になり、中国オタクの間でも「これは軍国主義アニメではないか?」などと議論が起こったりもしたとか(笑)

という訳で今日はこの日本人声優の歌う「カチューシャ」に海外からのコメントが大量に寄せられてましたのでその反応を紹介したいと思います^^


動画 ガールズ&パンツァー プラウダ戦まとめ動画

動画URL https://www.youtube.com/watch?v=UOlSLfJy99s

動画 ガルパン、カチューシャ10時間バージョン コメント数3800件超

動画URL http://www.youtube.com/watch?v=sA5IFJqjXiQ

こちらの動画もコメント数2800件越え↓
https://www.youtube.com/watch?v=rIY36UbDbQQ
以下海外の反応↓

・この曲は我が祖国の偉大な歌ではないか。


・この曲良いよなぁ、何度聞いても飽きないんだよ、中毒性がある(笑)


・これってロシア語なの?それとも日本語?


・↑これは日本のアニメでロシアの曲でロシア語。OK?


・この歌はロシアの歌だけど、この動画で歌ってるのは日本人なんだよ。
日本人はロシア語の発音がイマイチだから、これもちょっと完璧ではないんだけどね。


・なぜ日本人がソビエトの歌を歌ってる!?


・この動画は女子高生が戦車に乗って戦うアニメのワンシーンだ。
そしてこの曲は第二次大戦中にガールフレンドがボーイフレンドへの思いを歌った民謡。
それをこのシーンではロシアの戦車部隊を使ってる女子高生達が歌ってる。


・ちなみこのアニメ、「ガールズ&パンツァー」のパンツァーはドイツ語な。

(パンツァーはドイツ語で戦車)


・実際の戦争も戦車道で解決すればいいのに・・・。


・↑それもはや戦争じゃないから。


・この動画を見るとWorld of Tanksがやりたくなるわ。

(World of Tanksは全世界に7500万人以上のユーザーを抱えている人気オンライン戦車ゲーム。)

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・↑お前もか!?俺も同じだよ。


・俺はWorld of Tanksをやる時はいつもこの曲を聴きながらやってるよ。

(ガルパンのカチューシャを流しながらWorld of Tanksをプレイする外国人↓)

動画URL https://www.youtube.com/watch?v=O_G9MDlfkAc


・このアニメって楽しいの?


・↑YES、このアニメは戦車での戦いがスポーツになってる学校の話なんだよ。


・このようなアニメにこの曲を使って侮辱するのはやめろ!


・この曲って若い女子学生がボーイフレンドへの思いを綴った歌だろ?


・↑そうだけど、この歌は戦歌でもあるんだよ。
これはソ連兵士のための曲でもあったんだ、このようなアニメにこの曲を使うのはオリジナルへの侮辱だよ。


・俺が聞いた色んな「カチューシャ」の中でこの日本人の歌ってるのが一番良いってどういうことだ(笑)


・日本語訛りのロシア語が素晴しい!


・このロシア語のアクセントは酷くないか?


・いや、でも彼女達はかなり頑張ってると思うよ。
日本人にとってロシア語の発音は結構難しいのに良い仕事をしてると思う。


・完璧なロシア語じゃないけど、それでもこの曲は大好きだ。
自分はこのアニメのプラウダ高校が大好きなんだ、そしてノンナは大のお気に入りキャラだ。


・日本語訛りのロシア語だけど、ノンナの声優は素晴しいロシア語アクセントを持ってるように聞こえる。

NONNA

・この歌を歌ってる上坂すみれはロシア語を学んでるんだよ、彼女は大学でロシア語を専攻してた。

(ロシアが大好きな声優、上坂すみれさんがロシアについて語る動画はこちら↓)


動画URL https://www.youtube.com/watch?v=OgsJR75Q5L0


・俺はこの動画の「カチューシャ」がきっかけでこのアニメを見てしまった(笑)


・それでこのアニメはなんで8歳くらいの女の子が戦車に乗ってるんだ!?

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KA

・↑彼女達は一応これでも高校生なんだよ。
というか全てのアニメの女の子達は設定年齢よりも5歳は若く見えるものだから。

ガールズ&パンツァーは海外でも結構評価が高かったりするんですよね。
海外レビューとか見ると絶賛してる人が沢山いるんですよ。
http://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51869966.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/393.html#c1

[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
35. 2019年4月28日 11:00:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1547]
ロシア民謡 「カリンカ」 (Калинка)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/394.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c35
[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
36. 2019年4月28日 11:10:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1548]

ロシア民謡 「ともしび」 ( Огонёк )
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/395.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c36
[近代史3] 「アメリカニズムの終焉」を認めたくない日本 中川隆
21. 中川隆[-10537] koaQ7Jey 2019年4月28日 11:36:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1549]

内田樹の研究室 涅槃状態に入った安倍政権 2019-04-26
http://blog.tatsuru.com/2019/04/26_0924.html


北方領土問題の解決が政府のアジェンダから消されました。

そんな問題ははじめから存在しなかった、ということにすれば政権の失策は問われない。

これは安倍政権になってから、重要な問題のすべてについて政権が採用してきた遁辞です。

それについて去年ある大学での講演でしゃべったことの一部を再録しておきます。

 そして、2012年から安倍政権が始まる。これが僕の戦後史第五段階論の第五段階に相当するわけですけれども、これはもう切るカードが何もないわけですね。経済カードも政治カードも、新しいカードは何もない。やれることは外交的には全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売り。

 とりあえず、それさえしておけば政権は延命できる。

 とにかく「やってはいけないこと」だけはわかっている。

 それは鳩山政権がやったことです。

「国土を返してくれ、国家主権を返してくれ」ということはおくびに出してもいけない。それを言った瞬間に政権が崩壊することだけはわかっている。だから、対米交渉は一切何にもしない。全部アメリカの言う通りにするということだけが決まっている。

「対米交渉」というのは、交渉らしきものをしているただの時間つぶしです。安倍政権の国会運営と同じです。「やっているふり」をしているだけです。最終的にはアメリカの要求を全部丸のみにする。それがわかっているから、アメリカは安倍政権の延命を許している。さすがに対米自立のために何もしなかった政権というのは戦後初めてです。

 日本は主権国家であって、望むものはもうすべて手に入れているので、要求することはなにもない。完全に満たされているというのが安倍政権下の日本国民が享受している「妄想」です。

 もう全部達成し終えた。国土も回復したし、国権も奪還した。だから、世界中から日本は尊敬されている。世界中の人が日本をすばらしい国だとあこがれている。「日本すごい」とか、「世界が尊敬する日本」とかいうテレビ番組や書物が溢れていますけれど、これが第五段階の特徴です。

 もう達成すべき目標がなくなった。すべては手に入ったので、何の努力も要らない。涅槃状態のうちにある。それが現在の日本です。

 敗戦後の国民的な課題であったはずの「国土の回復、国権の回復」は実はとっくの昔から達成されていたので、そんなことは今さら考えるに及ばない。それどころか、明治維新からあと先の大戦までの近代日本がやってきたことはすべて「すばらしい達成」ばかりであって、そのせいで世界中の人々から、とりわけアジアの被侵略地や旧植民地の人たちから感謝され、尊敬されているというような妄説に人々が取り憑かれている。

 沖縄の基地問題に対する日本国民の無関心、北方領土に対する無関心、北朝鮮の拉致問題に対する無関心、すべて同根です。今の日本は最高の状態で、安倍政権がやっている政策は外交も経済すべて成功しているという話のうちに眠りこけているのが現代日本人が落ち込んでいる「ニルヴァーナ状態」です。

 その病的な「努力したくない」感は自民党改憲草案の前文に徴候的に現れています。そこにはこんなことが書いてあります。

「我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。」

 これを日本国憲法の前文と比べると、その異様さが際立ちます。憲法前文にはこうあります。

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」

 自民党改憲案は「占めており」、現行憲法は「占めたいと思う」です。

 自民党草案を起草した人間の脳内では、日本はすでに国際社会において重要な地位を「占め終わっている」。

 だとすれば、いったいこれ以上何を努力する必要があるのか。
 実現困難な理想を掲げて、それに向けて鋭意邁進するというタイプの文言はもう使わないということについてどうやら起草委員たちはひそかに合意していたようです。

 日本にはもう努力目標が存在しない。

 アメリカからの国家主権の奪還は不可能なので、それについてはもう語らない。アメリカとロシアからの領土の回復は不可能なので、それについても、もう語らない。安保理の常任理事国入りについても、もう語らない。

 それが21世紀の日本人が落ち込んでいる国民的規模での「涅槃」状態です。

 これは重い病気に罹った人間が「私はまったく健康である。他の人たちが私の健康を羨ましがっているほどだ」とへらへら笑っているのと変わらない。主観的にはいい気分かも知れないけれど、そうやっているうちに手当をしない患部はどんどん壊死している。(後略)
http://blog.tatsuru.com/2019/04/26_0924.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/319.html#c21

[近代史3] 安倍首相は売国官僚と親中議員に支配された政治を変えようとした為に引き摺り降ろされようとしている 中川隆
9. 中川隆[-10536] koaQ7Jey 2019年4月28日 11:39:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1550]

馬渕睦夫さんより内田樹さんの方が正しそうですね:


内田樹の研究室 涅槃状態に入った安倍政権 2019-04-26
http://blog.tatsuru.com/2019/04/26_0924.html

北方領土問題の解決が政府のアジェンダから消されました。

そんな問題ははじめから存在しなかった、ということにすれば政権の失策は問われない。

これは安倍政権になってから、重要な問題のすべてについて政権が採用してきた遁辞です。

それについて去年ある大学での講演でしゃべったことの一部を再録しておきます。

 そして、2012年から安倍政権が始まる。これが僕の戦後史第五段階論の第五段階に相当するわけですけれども、これはもう切るカードが何もないわけですね。経済カードも政治カードも、新しいカードは何もない。やれることは外交的には全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売り。

 とりあえず、それさえしておけば政権は延命できる。

 とにかく「やってはいけないこと」だけはわかっている。

 それは鳩山政権がやったことです。

「国土を返してくれ、国家主権を返してくれ」ということはおくびに出してもいけない。それを言った瞬間に政権が崩壊することだけはわかっている。だから、対米交渉は一切何にもしない。全部アメリカの言う通りにするということだけが決まっている。

「対米交渉」というのは、交渉らしきものをしているただの時間つぶしです。安倍政権の国会運営と同じです。「やっているふり」をしているだけです。最終的にはアメリカの要求を全部丸のみにする。それがわかっているから、アメリカは安倍政権の延命を許している。さすがに対米自立のために何もしなかった政権というのは戦後初めてです。

 日本は主権国家であって、望むものはもうすべて手に入れているので、要求することはなにもない。完全に満たされているというのが安倍政権下の日本国民が享受している「妄想」です。

 もう全部達成し終えた。国土も回復したし、国権も奪還した。だから、世界中から日本は尊敬されている。世界中の人が日本をすばらしい国だとあこがれている。「日本すごい」とか、「世界が尊敬する日本」とかいうテレビ番組や書物が溢れていますけれど、これが第五段階の特徴です。

 もう達成すべき目標がなくなった。すべては手に入ったので、何の努力も要らない。涅槃状態のうちにある。それが現在の日本です。

 敗戦後の国民的な課題であったはずの「国土の回復、国権の回復」は実はとっくの昔から達成されていたので、そんなことは今さら考えるに及ばない。それどころか、明治維新からあと先の大戦までの近代日本がやってきたことはすべて「すばらしい達成」ばかりであって、そのせいで世界中の人々から、とりわけアジアの被侵略地や旧植民地の人たちから感謝され、尊敬されているというような妄説に人々が取り憑かれている。

 沖縄の基地問題に対する日本国民の無関心、北方領土に対する無関心、北朝鮮の拉致問題に対する無関心、すべて同根です。今の日本は最高の状態で、安倍政権がやっている政策は外交も経済すべて成功しているという話のうちに眠りこけているのが現代日本人が落ち込んでいる「ニルヴァーナ状態」です。

 その病的な「努力したくない」感は自民党改憲草案の前文に徴候的に現れています。そこにはこんなことが書いてあります。

「我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。」

 これを日本国憲法の前文と比べると、その異様さが際立ちます。憲法前文にはこうあります。

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」

 自民党改憲案は「占めており」、現行憲法は「占めたいと思う」です。

 自民党草案を起草した人間の脳内では、日本はすでに国際社会において重要な地位を「占め終わっている」。

 だとすれば、いったいこれ以上何を努力する必要があるのか。
 実現困難な理想を掲げて、それに向けて鋭意邁進するというタイプの文言はもう使わないということについてどうやら起草委員たちはひそかに合意していたようです。

 日本にはもう努力目標が存在しない。

 アメリカからの国家主権の奪還は不可能なので、それについてはもう語らない。アメリカとロシアからの領土の回復は不可能なので、それについても、もう語らない。安保理の常任理事国入りについても、もう語らない。

 それが21世紀の日本人が落ち込んでいる国民的規模での「涅槃」状態です。

 これは重い病気に罹った人間が「私はまったく健康である。他の人たちが私の健康を羨ましがっているほどだ」とへらへら笑っているのと変わらない。主観的にはいい気分かも知れないけれど、そうやっているうちに手当をしない患部はどんどん壊死している。(後略)
http://blog.tatsuru.com/2019/04/26_0924.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/191.html#c9

[近代史3] トルーマン :猿(日本人)を自由と言う名の檻で我々が飼うのだ、家畜が主人である我々のために貢献するのは当然の事である 中川隆
4. 中川隆[-10535] koaQ7Jey 2019年4月28日 12:37:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1551]

内田樹の研究室 涅槃状態に入った安倍政権 2019-04-26
http://blog.tatsuru.com/2019/04/26_0924.html


北方領土問題の解決が政府のアジェンダから消されました。

そんな問題ははじめから存在しなかった、ということにすれば政権の失策は問われない。

これは安倍政権になってから、重要な問題のすべてについて政権が採用してきた遁辞です。

それについて去年ある大学での講演でしゃべったことの一部を再録しておきます。

 そして、2012年から安倍政権が始まる。これが僕の戦後史第五段階論の第五段階に相当するわけですけれども、これはもう切るカードが何もないわけですね。経済カードも政治カードも、新しいカードは何もない。やれることは外交的には全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売り。

 とりあえず、それさえしておけば政権は延命できる。

 とにかく「やってはいけないこと」だけはわかっている。

 それは鳩山政権がやったことです。

「国土を返してくれ、国家主権を返してくれ」ということはおくびに出してもいけない。それを言った瞬間に政権が崩壊することだけはわかっている。だから、対米交渉は一切何にもしない。全部アメリカの言う通りにするということだけが決まっている。

「対米交渉」というのは、交渉らしきものをしているただの時間つぶしです。安倍政権の国会運営と同じです。「やっているふり」をしているだけです。最終的にはアメリカの要求を全部丸のみにする。それがわかっているから、アメリカは安倍政権の延命を許している。さすがに対米自立のために何もしなかった政権というのは戦後初めてです。

 日本は主権国家であって、望むものはもうすべて手に入れているので、要求することはなにもない。完全に満たされているというのが安倍政権下の日本国民が享受している「妄想」です。

 もう全部達成し終えた。国土も回復したし、国権も奪還した。だから、世界中から日本は尊敬されている。世界中の人が日本をすばらしい国だとあこがれている。「日本すごい」とか、「世界が尊敬する日本」とかいうテレビ番組や書物が溢れていますけれど、これが第五段階の特徴です。

 もう達成すべき目標がなくなった。すべては手に入ったので、何の努力も要らない。涅槃状態のうちにある。それが現在の日本です。

 敗戦後の国民的な課題であったはずの「国土の回復、国権の回復」は実はとっくの昔から達成されていたので、そんなことは今さら考えるに及ばない。それどころか、明治維新からあと先の大戦までの近代日本がやってきたことはすべて「すばらしい達成」ばかりであって、そのせいで世界中の人々から、とりわけアジアの被侵略地や旧植民地の人たちから感謝され、尊敬されているというような妄説に人々が取り憑かれている。

 沖縄の基地問題に対する日本国民の無関心、北方領土に対する無関心、北朝鮮の拉致問題に対する無関心、すべて同根です。今の日本は最高の状態で、安倍政権がやっている政策は外交も経済すべて成功しているという話のうちに眠りこけているのが現代日本人が落ち込んでいる「ニルヴァーナ状態」です。

 その病的な「努力したくない」感は自民党改憲草案の前文に徴候的に現れています。そこにはこんなことが書いてあります。

「我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。」

 これを日本国憲法の前文と比べると、その異様さが際立ちます。憲法前文にはこうあります。

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」

 自民党改憲案は「占めており」、現行憲法は「占めたいと思う」です。

 自民党草案を起草した人間の脳内では、日本はすでに国際社会において重要な地位を「占め終わっている」。

 だとすれば、いったいこれ以上何を努力する必要があるのか。
 実現困難な理想を掲げて、それに向けて鋭意邁進するというタイプの文言はもう使わないということについてどうやら起草委員たちはひそかに合意していたようです。

 日本にはもう努力目標が存在しない。

 アメリカからの国家主権の奪還は不可能なので、それについてはもう語らない。アメリカとロシアからの領土の回復は不可能なので、それについても、もう語らない。安保理の常任理事国入りについても、もう語らない。

 それが21世紀の日本人が落ち込んでいる国民的規模での「涅槃」状態です。

 これは重い病気に罹った人間が「私はまったく健康である。他の人たちが私の健康を羨ましがっているほどだ」とへらへら笑っているのと変わらない。主観的にはいい気分かも知れないけれど、そうやっているうちに手当をしない患部はどんどん壊死している。(後略)
http://blog.tatsuru.com/2019/04/26_0924.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/292.html#c4

[近代史3] 伊藤貫氏に聞く _ 日本人は何故アメリカの犬になりたがるのか 中川隆
7. 中川隆[-10534] koaQ7Jey 2019年4月28日 12:38:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1552]

内田樹の研究室 涅槃状態に入った安倍政権 2019-04-26
http://blog.tatsuru.com/2019/04/26_0924.html

北方領土問題の解決が政府のアジェンダから消されました。

そんな問題ははじめから存在しなかった、ということにすれば政権の失策は問われない。

これは安倍政権になってから、重要な問題のすべてについて政権が採用してきた遁辞です。

それについて去年ある大学での講演でしゃべったことの一部を再録しておきます。

 そして、2012年から安倍政権が始まる。これが僕の戦後史第五段階論の第五段階に相当するわけですけれども、これはもう切るカードが何もないわけですね。経済カードも政治カードも、新しいカードは何もない。やれることは外交的には全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売り。

 とりあえず、それさえしておけば政権は延命できる。

 とにかく「やってはいけないこと」だけはわかっている。

 それは鳩山政権がやったことです。

「国土を返してくれ、国家主権を返してくれ」ということはおくびに出してもいけない。それを言った瞬間に政権が崩壊することだけはわかっている。だから、対米交渉は一切何にもしない。全部アメリカの言う通りにするということだけが決まっている。

「対米交渉」というのは、交渉らしきものをしているただの時間つぶしです。安倍政権の国会運営と同じです。「やっているふり」をしているだけです。最終的にはアメリカの要求を全部丸のみにする。それがわかっているから、アメリカは安倍政権の延命を許している。さすがに対米自立のために何もしなかった政権というのは戦後初めてです。

 日本は主権国家であって、望むものはもうすべて手に入れているので、要求することはなにもない。完全に満たされているというのが安倍政権下の日本国民が享受している「妄想」です。

 もう全部達成し終えた。国土も回復したし、国権も奪還した。だから、世界中から日本は尊敬されている。世界中の人が日本をすばらしい国だとあこがれている。「日本すごい」とか、「世界が尊敬する日本」とかいうテレビ番組や書物が溢れていますけれど、これが第五段階の特徴です。

 もう達成すべき目標がなくなった。すべては手に入ったので、何の努力も要らない。涅槃状態のうちにある。それが現在の日本です。

 敗戦後の国民的な課題であったはずの「国土の回復、国権の回復」は実はとっくの昔から達成されていたので、そんなことは今さら考えるに及ばない。それどころか、明治維新からあと先の大戦までの近代日本がやってきたことはすべて「すばらしい達成」ばかりであって、そのせいで世界中の人々から、とりわけアジアの被侵略地や旧植民地の人たちから感謝され、尊敬されているというような妄説に人々が取り憑かれている。

 沖縄の基地問題に対する日本国民の無関心、北方領土に対する無関心、北朝鮮の拉致問題に対する無関心、すべて同根です。今の日本は最高の状態で、安倍政権がやっている政策は外交も経済すべて成功しているという話のうちに眠りこけているのが現代日本人が落ち込んでいる「ニルヴァーナ状態」です。

 その病的な「努力したくない」感は自民党改憲草案の前文に徴候的に現れています。そこにはこんなことが書いてあります。

「我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。」

 これを日本国憲法の前文と比べると、その異様さが際立ちます。憲法前文にはこうあります。

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」

 自民党改憲案は「占めており」、現行憲法は「占めたいと思う」です。

 自民党草案を起草した人間の脳内では、日本はすでに国際社会において重要な地位を「占め終わっている」。

 だとすれば、いったいこれ以上何を努力する必要があるのか。
 実現困難な理想を掲げて、それに向けて鋭意邁進するというタイプの文言はもう使わないということについてどうやら起草委員たちはひそかに合意していたようです。

 日本にはもう努力目標が存在しない。

 アメリカからの国家主権の奪還は不可能なので、それについてはもう語らない。アメリカとロシアからの領土の回復は不可能なので、それについても、もう語らない。安保理の常任理事国入りについても、もう語らない。

 それが21世紀の日本人が落ち込んでいる国民的規模での「涅槃」状態です。

 これは重い病気に罹った人間が「私はまったく健康である。他の人たちが私の健康を羨ましがっているほどだ」とへらへら笑っているのと変わらない。主観的にはいい気分かも知れないけれど、そうやっているうちに手当をしない患部はどんどん壊死している。(後略)
http://blog.tatsuru.com/2019/04/26_0924.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/125.html#c7

[近代史3] 安倍首相は売国官僚と親中議員に支配された政治を変えようとした為に引き摺り降ろされようとしている 中川隆
10. 中川隆[-10533] koaQ7Jey 2019年4月28日 12:41:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1553]
今の安倍氏の米国トランプへの卑屈な態度は、外人の本性を知らないド素人の日本人のレベルでしかない:自分では外交の達人と勝手に思い込んでいるハダカの王様そのもの
https://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/folder/57483.html
2019/4/25(木) 午後 3:22 新ベンチャー革命 2019年4月25日 No.2324

1.安倍氏の米国トランプに対する卑屈な態度は、ほんとうに“見苦しい!”の一言しかない

 安倍氏が今、強行している今回の世界一周旅行の最終ゴールは米国訪問であることは明らかですが、報道によれば、4月26日、トランプの夫人であるメラニアの誕生日会に夫婦そろって参加するようです。

 安倍氏はトランプを宗主国の王様くらいに思っていて、典型的な朝貢外交に血道を上げています。

 はたから見ると、安倍氏ほど、見苦しい国家リーダーは世界を見渡しても、他にいないのではないでしょうか。

2.安倍氏は、米国白人との応対の仕方をわかっていないド素人の典型的日本人

 さて、筆者個人は、16年半に及ぶ米国外資勤務の経験がありますが、日本人の代表としての安倍氏の、米国白人に接する態度は、白人との応対法を知らないド素人日本人そのものにしか見えません。

 筆者はかつて、米国白人の同僚や上司を伴って、日本企業を何度も訪問した経験を持っていますが、そのとき応対する日本企業の日本人の多くは、外人慣れしていなくて、過剰な応対をする人が多かったのですが、今の安倍氏がまさに、それに該当します。安倍氏のトランプへの過剰なまでの媚びへつらいは、見ていて、背中がムズムズします。

 安倍氏のような日本人ほど、社内の日本人にはいばりくさる人が多いのですが、安倍氏もそのたぐいと思われます。

3.安倍氏のような、外人対応のド素人は、トランプにとっては、絶好のカモでしかない

 トランプは、世界のビジネスマンと交渉してきた百戦錬磨のつわものなのでしょうが、彼から見ると、安倍氏は赤子の手をひねるような相手でしかないでしょう。

 いずれにしても、安倍氏はトランプから完全に見透かされています。

 このザマでは、安倍氏はトランプの言いなりになって、日本の国益を損ねるようなことでも、意味不明のニヤニヤ顔で、平気で妥協しそうです。

 一方、安倍氏の方はトランプに気に入られることが日米外交くらいに思っているでしょうから、自分は、トランプと一生懸命、外交していると勝手に思い込んでいそうです。

 そして、安倍氏は、日本国民も、安倍氏は日米外交をよくやっていると評価してくれているはずと思い込んでいて、勝手に自画自賛しそうです。

 この意味で、今の安倍氏は、ほんとうにおめでたいハダカの王様そのものです。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/191.html#c10

[近代史3] 世界に比類なき日本文化 _ 名誉白人認定されたいアホ右翼は欧米人に金渡して「日本スゴイ!」と言わせている 中川隆
10. 中川隆[-10532] koaQ7Jey 2019年4月28日 12:44:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1554]
内田樹の研究室 涅槃状態に入った安倍政権 2019-04-26
http://blog.tatsuru.com/2019/04/26_0924.html

北方領土問題の解決が政府のアジェンダから消されました。

そんな問題ははじめから存在しなかった、ということにすれば政権の失策は問われない。

これは安倍政権になってから、重要な問題のすべてについて政権が採用してきた遁辞です。

それについて去年ある大学での講演でしゃべったことの一部を再録しておきます。

 そして、2012年から安倍政権が始まる。これが僕の戦後史第五段階論の第五段階に相当するわけですけれども、これはもう切るカードが何もないわけですね。経済カードも政治カードも、新しいカードは何もない。やれることは外交的には全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売り。

 とりあえず、それさえしておけば政権は延命できる。

 とにかく「やってはいけないこと」だけはわかっている。

 それは鳩山政権がやったことです。

「国土を返してくれ、国家主権を返してくれ」ということはおくびに出してもいけない。それを言った瞬間に政権が崩壊することだけはわかっている。だから、対米交渉は一切何にもしない。全部アメリカの言う通りにするということだけが決まっている。

「対米交渉」というのは、交渉らしきものをしているただの時間つぶしです。安倍政権の国会運営と同じです。「やっているふり」をしているだけです。最終的にはアメリカの要求を全部丸のみにする。それがわかっているから、アメリカは安倍政権の延命を許している。さすがに対米自立のために何もしなかった政権というのは戦後初めてです。

 日本は主権国家であって、望むものはもうすべて手に入れているので、要求することはなにもない。完全に満たされているというのが安倍政権下の日本国民が享受している「妄想」です。

 もう全部達成し終えた。国土も回復したし、国権も奪還した。だから、世界中から日本は尊敬されている。世界中の人が日本をすばらしい国だとあこがれている。「日本すごい」とか、「世界が尊敬する日本」とかいうテレビ番組や書物が溢れていますけれど、これが第五段階の特徴です。

 もう達成すべき目標がなくなった。すべては手に入ったので、何の努力も要らない。涅槃状態のうちにある。それが現在の日本です。

 敗戦後の国民的な課題であったはずの「国土の回復、国権の回復」は実はとっくの昔から達成されていたので、そんなことは今さら考えるに及ばない。それどころか、明治維新からあと先の大戦までの近代日本がやってきたことはすべて「すばらしい達成」ばかりであって、そのせいで世界中の人々から、とりわけアジアの被侵略地や旧植民地の人たちから感謝され、尊敬されているというような妄説に人々が取り憑かれている。

 沖縄の基地問題に対する日本国民の無関心、北方領土に対する無関心、北朝鮮の拉致問題に対する無関心、すべて同根です。今の日本は最高の状態で、安倍政権がやっている政策は外交も経済すべて成功しているという話のうちに眠りこけているのが現代日本人が落ち込んでいる「ニルヴァーナ状態」です。

 その病的な「努力したくない」感は自民党改憲草案の前文に徴候的に現れています。そこにはこんなことが書いてあります。

「我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。」

 これを日本国憲法の前文と比べると、その異様さが際立ちます。憲法前文にはこうあります。

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」

 自民党改憲案は「占めており」、現行憲法は「占めたいと思う」です。

 自民党草案を起草した人間の脳内では、日本はすでに国際社会において重要な地位を「占め終わっている」。

 だとすれば、いったいこれ以上何を努力する必要があるのか。
 実現困難な理想を掲げて、それに向けて鋭意邁進するというタイプの文言はもう使わないということについてどうやら起草委員たちはひそかに合意していたようです。

 日本にはもう努力目標が存在しない。

 アメリカからの国家主権の奪還は不可能なので、それについてはもう語らない。アメリカとロシアからの領土の回復は不可能なので、それについても、もう語らない。安保理の常任理事国入りについても、もう語らない。

 それが21世紀の日本人が落ち込んでいる国民的規模での「涅槃」状態です。

 これは重い病気に罹った人間が「私はまったく健康である。他の人たちが私の健康を羨ましがっているほどだ」とへらへら笑っているのと変わらない。主観的にはいい気分かも知れないけれど、そうやっているうちに手当をしない患部はどんどん壊死している。(後略)
http://blog.tatsuru.com/2019/04/26_0924.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/235.html#c10

[近代史3] チャンネル桜の常連の三橋貴明はチャンネル桜関係者の受け売りしかできないアホだった 中川隆
3. 中川隆[-10531] koaQ7Jey 2019年4月28日 13:26:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1555]

2019年4月28日【三橋貴明】経済学者を怯えさせるMMT


出鱈目な理論の下で発展した経済学が、追い詰められようとしています。

同じように、嘘つきの学者が蔓延しているのが「歴史」の分野です。

無論、歴史的な「解釈」はあっても構いませんが、
基礎資料を無視するなど言語道断です。

冗談でも何でもなく、
日本の歴史学者は日本史の基礎資料である
古事記や日本書紀の記述を思い込みで否定するのです。
その割に、なぜか中国の史書は妄信する。

皮肉なことに、科学の発展が
「日本書紀の間違いが、実は正しかった」
といった事態を招いています。

例えば、神武東征に際し、
浪速(大阪)に到着した一行が、
「三月の十日、川をさかのぼって、
まっすぐに河内の国の、草香(くさか)の村の、波静かな白肩の津に着いた。」

と、日本書紀に地形的に
あり得ないルートが記載されていたことを受け、
歴史学者が神武天皇を全否定していたところ、
その後の地形学の発展で、

「河内潟」(−紀元前50年まで)の時代、
潮が引くと川が現れ、
「川をさかのぼり、白肩の津(生駒山の麓)に着く」
ことが可能だったことが証明されるといった話です。

それでも、歴史学者たちは相変わらず
「神武天皇の実在を信じる説はない」などと平気で書く。
まさに、財政破綻論者と同じく、
最低な人間たちでございます。

令和の御代では、
この種の「最低な人間」を駆逐しましょう。
日本は言論の自由が保障されている国ではありますが、
「嘘つきの学者」はダメです。

情報発信で所得を稼ぐ以上、
製品の品質(=情報の正しさ)を真摯に追求することは、
最低限、必要な姿勢だと思うのです。

「嘘」で所得を稼いでいる連中を排除するためにも、
日本国民が正しい知識を身に着ける必要があります.。

というわけで、三橋初の本格的な
歴史的なコンテンツ「経世史論」をリリースしました。

【経世史論〜「正しい祖国の歴史」を学び、「現代」を読み解く〜】
http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/


_____


【三橋貴明】経済学者を怯えさせるMMTへの1件のコメント

嘘は許さない より 2019年4月28日 1:20 PM


妄想はもういいよ:

>神武東征に際し、 浪速(大阪)に到着した一行が、 「三月の十日、川をさかのぼって、まっすぐに河内の国の、草香(くさか)の村の、波静かな白肩の津に着いた。」

と、日本書紀に地形的に あり得ないルートが記載されていたことを受け、 歴史学者が神武天皇を全否定していたところ、その後の地形学の発展で、「河内潟」(−紀元前50年まで)の時代、 潮が引くと川が現れ、 「川をさかのぼり、白肩の津(生駒山の麓)に着く」ことが可能だったことが証明されるといった話です。
>それでも、歴史学者たちは相変わらず
「神武天皇の実在を信じる説はない」などと平気で書く。
まさに、財政破綻論者と同じく、 最低な人間たちでございます。

河内湖の存在は戦前から常識だったから、そんな事を言っていた歴史家も考古学者も過去に一人も存在しないよ。

石器や土器の分布から弥生時代・古墳時代の河内湖の位置は歴史家も考古学者もみんな知っていた。

以前は神武紀に出て来る河内湖の地名の分布から、神武天皇が河内に来たのは2世紀代だと言われていた。

但し、文献学の研究から神武天皇は崇神天皇と同一人物だという意見が有力になった。

その後、放射性同位元素や木の年輪による年代判定の進歩と唐古遺跡と纏向遺跡の発掘が進んでから、神武天皇(崇神天皇)が河内に来たのは3世紀初めだというのが有力な説だ:

唐古・鍵遺跡 : ナガスネヒコ・ニギハヤヒノミコトの本拠地

弥生時代中期後半から末にかけての洪水後に環濠再掘削が行われ、環濠帯の広さも最大規模となる。洪水で埋没したにもかかわらず、この期に再建された。ここに唐古・鍵遺跡の特質がみられる。
集落南部で青銅器の製作。

古墳時代前期 集落の衰退 大環濠の消滅。

環濠の一部再掘削。弥生時代を通しての環濠集落を放棄したにもかかわらず、古墳時代の初めに再度環濠集落をも形成する。ここに唐古・鍵遺跡の特徴があると、考えられている。
弥生時代前期と同様に、三個所の地区(西・北・南)を中心に居住遺構が検出されている。次の時期には遺構数も増加する傾向にある。
井戸などの遺構が減少していることから、居住域が規模が縮小していることがわかる。

____

纒向遺跡 : 大和朝廷の本拠地

弥生時代末期から古墳時代前期にかけての遺跡である。
当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡である。
遺跡内に箸墓古墳があり、倭迹迹日百襲姫命(モモソヒメ)の墓との伝承を持つが、これは墳丘長280mにおよぶ巨大前方後円墳である。それに先駆けて築造された墳丘長90m前後の「纒向型前方後円墳」も3世紀においては日本列島最大の墳丘規模を持っており、ヤマト王権最初の大王墓である。纒向型前方後円墳は各地にも築造されており、政治的関係で結ばれていたとも考えられている。

ヤマト王権の王都

寺沢薫は、「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」の中で、纒向遺跡の特徴と特異性を6点挙げている。

1.3世紀初めに突然現れた。きわめて計画的集落で、規模も大きい。

2.搬入土器が多く、その搬出地は全国にまたがっている。遺跡規模は日本列島最大であり、市的機能を持っていた。

3.生活用具が少なく土木具が目立ち、巨大な運河が築かれ大規模な都市建設の土木工事が行われている。

4.導水施設と祭祀施設は王権祭祀。王権関連建物。吉備の王墓に起源する弧帯文、特殊器台・壺など。

5.居住空間縁辺に定型化した箸墓古墳、それに先行する纒向型前方後円墳。

6.鉄器生産。(纒向遺跡では鉄器は見つかっていない)

____

つまり、神武天皇(崇神天皇)がナガスネヒコ・ニギハヤヒノミコトの連合軍を倒したのは3世紀初めだよ。

もし神武東征が紀元前50年より「前」のことだとしたら、銅鐸の祭りをしていた時代だから、鏡信仰の大和朝廷では有り得ない。

崇神天皇については各種の説がこれまでに提出されています。

事実上の初代天皇である。
三輪王朝の創始者である。
騎馬民族系の渡来王である。
『魏志倭人伝』の卑弥呼をたすけた男弟である。

 複雑な性格をもった天皇であったことが推測されますが、いずれにしても祭祀王であったことは『日本書紀』の以上の記載からあきらかです。

▲△▽▼

天皇が行う祭祀のルーツ

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。

https://38news.jp/economy/13553
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/374.html#c3

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
181. 中川隆[-10530] koaQ7Jey 2019年4月28日 19:18:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1556]
高級時計・カンヌ宿泊…ゴーン氏、13億円私的支出疑い/朝日デジ
パリ=疋田多揚 2019年4月28日11時41分
https://www.asahi.com/articles/ASM4X3QXRM4XUHBI00S.html?iref=comtop_8_05

仏紙レゼコー(電子版)は27日、日産自動車とルノーの前会長のカルロス・ゴーン被告(65)が会社の金を使い、高級時計やカンヌ国際映画祭での宿泊費用など、計1090万ユーロ(約13億6千万円)を私的支出にあてていた疑いがあると報じた。両社による内部調査で明らかになっているという。

 同紙によると、両社はオランダにある統括会社「ルノー・日産BV」の2009〜18年の会計を調査した。その結果、ゴーン前会長が15〜18年に南仏カンヌの国際映画祭に出席した際に、キャロル夫人のほか、共通の友人らの超高級ホテルの宿泊費を統括会社が負担したほか、ゴーン前会長が購入した2万9千ユーロ(約360万円)の高級ブランド時計も会社が支払ったことがわかったという。

 会社が所有する複数のジェット機も、大半はゴーン前会長の家族が使っていた。ゴーン前会長の息子が通ったパリ郊外のインターナショナルスクールへの寄付もこの会社が支払ったという。(パリ=疋田多揚)

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c181

[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
20. 中川隆[-10529] koaQ7Jey 2019年4月28日 19:21:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1557]
日産と関連して : マクロン政権の性格
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/300.html
投稿者 晴れ間 日時 2019 年 4 月 28 日 15:46:16: FhUYgDFvAt2/E kLCC6orU
 



日産がルノーの軍門に下ることは、日産の死を意味する。民間企業として生きてゆけなくなる。フランスにしゃぶり尽くされ、日本人社員の勤労意欲は失われ、進取の精神も消失する。

フランスのことを「社会主義国」だなどと呼ぶ人がいるが、それは正しくない。より正確には、フランスは「国家資本主義の国」だというべきだ。
国家の上層部や中心を「特権的エリート層」が仕切っている。「超学歴エリート」と「超富裕層」と「銀行=主にユダヤ系の金融資本」が権力を独占し、私物化している。そしてその特権層の内部で婚姻を行い、特殊な「支配カースト」を形成している。これが「フランス版ディープステート」だ。

日本の官僚制との違いは、日本の官僚は概して薄給で、退官後にしか「天下り」しない。退職金の額もたかが知れている。しかしフランスの官僚の場合、まだ若い在職中から民間企業と政府機関を自由に移動し、渡り歩く。年収何千万円もの高給を食む。国家機関内に「高給閑職」を作り、国民から集めた税金を高級官僚のサークル内部で相互に分配する。このサークルは、財界、特に金融資本と繋がっており、フランスのメディアも財界+超富裕層の手中にある。

マクロンを見れば分かるだろう。ロスチャイルド系の投資銀行業務で成果を上げて数億円単位の収入を得たと言われるが、それはマクロンの実力ではない。この支配カーストが「自分たちの表の顔=宣伝人形」を意図的に作り出すシステムの結果でしかない。「宣伝人形」に渡す「報奨金」の「前払い金」でしかない。
それまで、地方議員や国会議員の経歴が全くなかった者が、どうしていきなり「共和国大統領」になれたりするのだろうか。

多数の雑誌が表紙に特定の候補者の写真を一斉に表紙に載せるなどということが、なぜ起きるのか。水着姿のマクロン夫妻の写真など、まるで「芸能ニュースのノリ」だった。ルモンドも含め、雑誌やメディアの所有者自身が「超富裕層」だ。

フランス版ディープステートが「白羽の矢を立てた人物」には、多額の報酬付きの「ちょっとした仕事」をさせて、カネを掴ませる。「上級カースト」が所有するマスメディア(その9割を超富裕層が所有) を使って、大量宣伝で「共和国大統領」に押し上げる。そうやって大統領になったのが、マクロンだ。マクロンはひたすら自分のバックにいる「超富裕層」に奉仕するのみ。その役割は、巧言令色で国民全体を騙す芝居をうまく続けることだけ。

この「上級カースト」は外界には閉ざされている。子供は庶民の行く公立学校には通わず私学に通い、別世界で生きる。ただ「超富裕層」であれば、人種や国籍は問われない。麻生の娘がフランスのロスチャイルド家の人物と結婚したのもその例。日本の水道事業も、フランスの超富裕層の私有財産に、少なくとも「儲けの種」に変わる。マクロン政権も、黒字経営の空港の民営化を進めるなど、国民財産の民間払い下げ政策を推進している。(だったら、ルノーが持つ日産株も売却すればよさそうなものだが。)

「黄ベスト」がなぜマクロンを敵視して、週末デモを続けるのか。マクロン政府がなぜ「黄ベスト」デモ者に、後遺障害(手足の切断や失明) が残るほどの弾圧をかけるのか。メディアを使って「黄ベスト」を攻撃する宣伝を繰り広げるのか。全てはこの「特権カースト」の利害と意思が説明する。

マクロン政権が誕生したとき、この政権は「内戦で終わる」と予想した人が少なからずいた。そのときは、私は「移民(特にムスリム移民)推進派と反移民派」との間の内戦ではないか、と予想していた。(実際、イスラム教徒を狙ったテロがいくつか未然摘発された。) しかし今になってみれば、「黄ベスト運動」とそれに対するマクロン政府の弾圧(フラッシュ・ボール等の戦争用武器の使用) こそが、「内戦」ではないか。

ロスチャイルドついでに言うが、日本の財政赤字は最終的には日銀が始末する。日本国債が安全だと言われているのは、日本国債が全て国内で消化されているからだという。これが外資に所有されていれば、ギリシャのような、あるいはアジア通貨危機の際のアジア諸国のような事態になる可能性もある。日銀の株式の株主構成は完全公表されていないが、仮に外資に所有されていなければ日銀券は安全だろう。
これがフランスだと、国家の財政赤字はロスチャイルド銀行からの借入金で賄うことになっている。(これはポンピドゥー大統領期に作られた法律によるもので、今現在どういう運用方法が採られているのかについては、私は専門家ではないので知らない。) つまり、フランスの国家財政自体が、ロスチャイルドの支配下にあるということだ。2012年、オランドが大統領選挙に出る直前に「フランスを支配しているのは金融資本(フィナンス) だ」と語った動画が残っているが、その根拠も、その辺りにあるのだろう。

つまり、日産がルノーの軍門に下れば、これまで以上に日産はフランスに食い物にされるということだ。

日刊ゲンダイを始め、日本の「ゴーン」擁護派は、日産に「フランスとルノーに食い物にされろ!」「日産はルノーの奴隷になれ!」と平気で喚いている。今後、自動車の中心がガソリン車から電気自動車に変われば、必要な労働力は半減(1/3減) すると言われている。軍需産業と原発とファッション産業以外に競争力のある産業がないフランスは、何が何でも日産を手に入れて、電気自動車産業で生き残りたいと考えている。自動車部門での雇用が減れば、平気で日本その他の工場をフランス本国に集約し、国内の雇用と税収確保に走るだろう。

そのためと、マクロン政権の「人気浮揚」のために、マクロンは、日産への「異常な執着」を剥き出しにしている。「雇用を増やした大統領」というのが、次の選挙の切り札になると考えているのだろう。そしてフランス財務省や経産省の官僚たちは、濡れ手で粟の「報奨金」と「高給閑職」にありつけることを狙っている。

「煽り記事」で愚か者を騙すのが基本である『日刊ゲンダイ』は、かくして日本人大量失業計画+少子化計画に加担しそれを推進する。日本の官僚以下の「国賊」「ピープルの敵」だ。


日本のいくつかのメディアも、「マクロン礼賛」につながる報道をしている。比較的最近にも、読売新聞が気味の悪いほどのマクロン礼賛記事を載せた。NHKも、マクロン政権の黒幕であるジャック・アタリを「◯◯最大の智」などという言葉で紹介していたらしい。(これは仁王像の投稿記事を参照。正確な表現は、私は確認していない。) (ジャック・アタリは「フランスのソロス」と呼ばれている人物。「フランス最高の悪知恵」と呼ぶのがふさわしい。) ほかにも、単なるネット記事にもマクロン礼賛記事はある。

ひとつには、日本にまともなジャーナリストが殆どいないことが影響しているのかもしれない。(三井美奈氏と田中龍作氏は別。) マクロンやEUの現体制や、移民導入を称賛・主張する記事があれば、その媒体を疑ってかかれ! ということだけを今回は指摘しておく。

また、英語圏の個人ブロガーやユーチューバーも、マクロン政治を様々に論評しているので、(仏語が不得手な人は) 英語で情報を手に入れるという方法もある。
「メインストリーム・メディア」が流すのは「フェイク・ニュース」だと思っていてよい。

田舎町の音楽コンクールで3位に入賞しただけのマクロンを「金融界のモーツアルト」に変貌させる程度の「脚色」はふつうにある。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c20

[近代史3] 馬渕睦夫のユダヤ陰謀論はどこまで本当なのか? 中川隆
12. 中川隆[-10528] koaQ7Jey 2019年4月28日 22:59:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1558]

2019年04月28日
対皇室テロに無関心な日本 / 防諜組織を作れ !
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68763730.html


 4月26日正午頃、悠仁親王殿下が通われる「お茶の水女子大附属中学校」に、工事業者を装った男が侵入し、殿下の机に刃物を置いて立ち去ったという。幸い、殿下を含め生徒らは教室の外にいたので、直接的な被害を受けなかったというが、悪意を持つ不審者が教室に忍び込んだという事実は見過ごせない。一体、どんな意図を持って学校に侵入したのか分からないが、兇器を持参して守衛を騙す輩(やから)なので、普通の犯罪者ではないだろう。もしも、教室に生徒がいた状態で、侵入者が攻撃してきたらどうするのか? 今回は刃物だったからいいけど、拳銃を持った不審者が乱入してきたら一大事だ。(おそらく、護衛官が取り押さえるか、射殺すると思うけど、日本のマスコミは事件が起きた場合、警護する側を非難するから気が重くなる。) 綿密な暗殺計画は無いと思うが、皇室を尊ぶ国民は真剣に考えた方がいい。

  そもそも、日本人は安全保障に無頓着すぎる。いくら日米安保があるとはいえ、どの国家も自衛が基本である。半世紀以上も占領憲法を遵守し、国防軍や諜報組織を創設しないというのは信じがたい。日本の大学には法学部があり、毎年大量の卒業生を輩出しているのに、廃憲論者はほぼゼロで、大半が護憲派なんだから、日本人は高等教育を受けて馬鹿になっているという証拠なんじゃないか。それに、外国のスパイや協力者を取り締まる防諜組織を作らず、これに反対する国民が多いというのも日本の特徴である。スパイ防止法に反対する議員というのは、「もしかしたら、自分が捕まるんじゃないか」と心配する売国奴で、一般国民の自由が脅かされるという言い訳は真っ赤な嘘だ。むしろ、国民の安全を守るために工作員やテロリストを監視・逮捕する機関が必要で、歐米諸国なら当然持っている。「警察や公安があるからいいじゃん」と考えるのは素人で、FBIやMI5のような組織じゃないと無理。映画では公安が持て囃されているいるけど、実際の公安調査庁なんてたいしたことないだろう。そもそも、ロシアや支那は日本を「チョロい国」と思っているから、優秀なスパイは送らず、二流のスパイで充分と考えているんじゃないか。

  筆者がテロについて考える切っ掛けは幾つかあるんだけど、一つ挙げるとすれば、米国の大学に通っていた時の爆破予告である。まだクリントン政権時代の頃、政治学の授業を受けていると突如、避難勧告が伝えられ、建物から出ることになった。みんなと階段を降りる途中、筆者は「こんな大学をテロリストが狙うのか?」と馬鹿らしく思い、「どうせガセ(悪戯)だろう」と推測したものである。案の定、警察がキャンパスを探しても、何ら爆発物は発見されず、単なる虚偽の脅迫であることが判った。ただし、アメリカ人が爆破予告に過敏になったのも無理は無い。1993年2月26日、「ワールド・トレード・センター」の地下駐車場に、爆発物を積んだバンが侵入し、その大爆発で千名以上の負傷者が出ていたからだ。これはラムジー・ヨセフ(Ramzi Yousef)率いるイスラム集団によるテロ事件で、当時のアメリカ人は本当に大きな衝撃を受けていた。このヨセフはフィリピン航空機を爆破したことでも知られており、後に逮捕されて終身刑を言い渡されている。

  爆弾予告で改めて考えさせられたのは、テロリストはどんな方法で大量殺戮を犯すのか、ということである。不謹慎だけど、当時NYにあるロックフェラーセンターの直ぐ側で、コーヒーを飲みながら「どんなテロが有効で、一番インパクトがあるのかなぁ〜」と考えてみたことがある。化学兵器やウィルスを使ったテロは効果的なんだが、映像的には地味なので、全世界の視聴者に対する衝撃が足りない、という難点がある。NBCスタジオの近くにある地下鉄で爆破テロを行えば被害は甚大になるが、地下だと「絵」にならないから、これも駄目だ。したがって、地上でのド派手な爆発がいい。筆者は巨大なクリスマス・ツリーが設置されるロックフェラー・センターのスケート場で大爆発が起きたら凄いと思った。そして、可能な方法としてハイジャックされたジャンボ・ジェット機による自殺攻撃があるのでは、と考えた。なぜなら、道路からタンクローリーが突入するのは難しいし、かといって空からミサイルを打つというのも不可能だから、ミサイルに代わる飛行機を乗っ取るしかない。

Medusa Touch 11(左 / 「メドゥーサ・タッチ」の撮影シーン )
  1996年に制作された映画『イグゼクティヴ・ディシジョン』でも、テロリストが民間旅客機に化学兵器を搭載し、ハイジャックした飛行機をワシントン突っ込ませるというシナリオがあった。ラッセル・クロウとスティヴン・セガールが出演した作品なので覚えている人も多いだろう。1978年に制作された『恐怖の魔力 / メドゥーサ・タッチ(The Medusa Touch)』はもっと興味深く、飛行機がビルに激突するシーンがあった。しかも、驚くべき事実は、これを制作したエグゼクティヴ・プロデューサーが、ハリウッドの大御所であるアーノン・ミルチャン(Arnon Milchan)であったことだ。数年前、彼が「モサド(イスラエルの諜報機関)」の協力者であったことがバレて話題になったので、当ブログでも紹介したことがある。


Arnon MilchanAron Milchan 2


(左 : ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーと一緒のアーノン・ミルチャン / 右 : シモン・ペレスとベンジャミン・ネタニヤフと一緒のミルチャン)

  実際の9/11テロでは、ロックフェラーセンター・ビルじゃなく、WTCビルに飛行機が突入したが、事件の一報を耳にした時、予想が外れたものの「やはり空からか !」と納得したのを覚えている。日本人はオウム真理教によるサリン攻撃を経験したのに、スパイやテロリストを素早く拘束し、厳しく尋問できる組織を創設しないんだから本当に脳天気だ。温室育ちのインテリどもは、何かと言えば「人権」を持ち出すが、テロリストや工作員が容易に潜入できる日本の状況を本当に解っているのか? 日本人は大卒者でも外国の特殊部隊が侵入することや、バイオ・テロをやらかす危険性を予測できない。もし、天然痘ウィルスを持つ北鮮人が密かに侵入し、日本の駅や繁華街をうろつき他人と接触すれば、不特定多数の人が感染し、日本中がパニックとなるだろう。さらに、感染した北鮮人が電車で日本全国を縦断すれば、その被害は悲惨なものになるはずだ。生物兵器を用いたテロは滅多に無いが、病気持ちの外人が入国してくる危険性は常にある。「外人労働者の皆さん、いらっしゃぁ〜い」と気軽に歓迎している日本人は、健康な人間だけが入ってくると思っているのか? まぁ、国際関係論を学ぶ大学生でも、軍事戦略や非常事態はスキップだから、一般人が縁側のペンギンでもしょうがない。

国内の有害分子を一網打尽にする計画

  第21世紀が「テロの時代」になる予測した知識人の中で、筆者が印象に残っているのは、未来学者のアルヴィン・トフラー(Alvin Toffler)だ。彼は「第三の波」を提唱し、一時期日本でも話題となった。1990年代の前半、竹村健一の『世相を斬る』にも出演していたから、覚えている人もいるんじゃないか。彼は「トフラー・アソシエイツ」を設立し、マネージメント業やコンサルタント業を展開していたが、2016年に87歳で息を引き取った。トフラーは「フューチャー・ショック(Future Shock)」という看板を掲げて、来たるべき社会の変革を説明していたが、日本人にとって興味深いのは、彼が予測した「未来」より、彼が隠していた「過去」の方である。

Alvin Toffler 2Alvin & Heidi Toffler 2

(左 : アルヴィン・トフラー / 右 : アルヴィンとハイジ・トフラー)

  元下院議長のニュート・ギングリッチも称讃していたアルヴィン・トフラーは、若い頃「アメリカ共産党」に属する左翼分子であった。当ブログの常連読者は、「もしかして、トフラーも・・・」と嫌な予感がするだろうが、その直感は正しく、彼もマルクス主義に傾倒したユダヤ人。現在、「自由情報公開法(Freedom Information Act)」により、400ページにも及ぶFBIの機密ファイルが公開され、アメリカの一般人は闇に包まれたトフラーの過去を知ることができる。(筆者もFBIの報告書に目を通したけど、「さすがFBI、よく調べているなぁ」と感心した。アメリカの防諜組織は本当に羨ましい。) トフラーの監視はオハイオ州クリーブランド支局の特別捜査官チームによって行われていた。主に、ジェイムズ・ギャフニー(James J. Gaffney)、カール・エクラッド(Carl A. Eklad)、エドワード・シェア(Edward A. Shea)、チャールズ・ハーヴェイ(Charles A. Harvey)らが担当していたそうだ。

  FBIの監視が始まったのはトフラーが25歳の時、すなわち1953年の頃だという。彼は黒人の有権者登録を助けていた時、同類の左翼女性アデレード・エリザベス・ファレル(Adelaide Elizabeth Farrel)と出逢い、1950年4月29日に結婚した。(彼女の愛称が「ハイジHeidi」なので、トフラー夫人は一般的にこの名前で通っている。) ハイジ夫人も極左活動家だったようで、アルヴィンと同じくシカゴの「労働青年同盟(Labor Youth League)」、ならびにアメリカ共産党に属していたという。1950年代中期、トフラー夫妻は表面上「堅気の生活」を送っていたという。二人は「労働者」としてクリーヴランドにある製造工場に勤めたり、『インダストリアル・ウェルディング(Industrial Welding)』という雑誌の編集をしていたというが、実際は密かにマルクス・レーニン主義の宣伝活動をしていたそうだ。

  我々が刮目すべきは、トフラーの名が載っていた「DETCOMプログラム・リスト」である。この「デットコム(DET-COM)」というのは、「DETain COMmunist」の略で、リストに記されてる者は、有事の際、FBIが拘束することになっていた。反共主義者のエドガー・フーバー(J. Edgar Hoover)長官は、この一環として「COMSABプログラム」も用意していたそうだ。これは「共産主義者による破壊工作(COMmunist SABotage)」の略で、危険な共産主義者をターゲットにした取締計画である。つまり、普段から警戒している悪党が動き出したら、その前に一網打尽にするという計画だ。

Edgar Hoover 1Alvin & Heidi Toffler 1

(左 : エドガー・フーバー / 右 : 若いときのアルヴィントハイジ・トフラー)

  もっとも、トフラー夫妻は破壊工作に係わっていなかったようで、もっぱら労働組合への浸透をメインにしていたらしい。それでも、FBIの存在は怖かったそうだ。1957年9月24日、ヴァージニアで暮らしていたトフラーのもとに、二人のFBI捜査官エルマー・リー・ドッド(Elmer Lee Todd)とジョン・ジョセフ・バグリー(John Joseph Bagley)が尋ねてきて、「インタヴュー」を行ったという。報告書によれば、玄関のドアに立つトフラーは突然の訪問に驚き、緊張した様子で対応したそうだ。しかし、捜査官がいくら尋問しても、トフラーは貝のように口を閉ざして答えず、頑なに拒んだという。そこで、捜査官は再び11月1日にやって来たが、依然としてトフラーは拒み続けたので、翌月も捜査官が訪れるという事態になったそうである。ところが、1959年1月、トフラーはついに折れ、FBIの質問に答えたそうだ。でも、同志の名前は教えなかった。その代わり、自分の過去を正直に告白したという。トフラーはFBIの尋問を受けた際、自分はもうマルキストではない、と宣言したそうだ。これが功を奏したのかどうか分からないが、FBIはトフラー夫妻を「もはや合衆国に対する脅威ではない」と判断し、1959年2月、監視対象から外したそうである。この後、解放されたトフラーは『フォーチュン』誌に記事を書くようになった。

ブラックリストに載った赤いユダヤ人

  トフラーの例でも分かる通り、「DETCOM」リストに載っていた人物を眺めると、どうしてもユダヤ人が目に付く。例えば、政治学者のロナルド・ラドッシュ(Ronald Radosh)で、今はハドソン研究所に入って「保守派」もどきになっているが、元々はマルキストである。彼は若い頃、「労働青年同盟(LYL)」に参加し、その後アメリカ共産党のメンバーになった。しかし、フルシチョフ時代のソ連に幻滅したのか、ラドッシュは共産党と決別することになる。だが、共産主義者を辞めても左翼思想は残っているから、彼はアメリカでの新左翼(New Left)を牽引する人物になった。左翼活動家らしくベトナム戦争に反対したラドッシュは、札付きの左翼が集まる「デモクラシー社会を目指す学生(Students for a Democratic Society)」組織に入った。

  ちなみに、この極左集団にもユダヤ人が多く、創設と指導的役割を担ったアリエ・ナイアー(Aryeh Neier)もユダヤ人。後に、彼はヘッジ・ファンドの帝王ジョージ・ソロスが設立した「オープン・ソサエティー・インスティテュート」の所長になったし、左翼人権団体の「米国市民自由協会(American Civil Liberty Union)」にも属していた。左翼色を薄めたラドッシュは、やや保守系の『ニュー・リパブリック』『ウィークリー・スタンダード』『ナショナル・レヴュー』誌に論文を寄稿するようになるが、ドナルド・トランプには我慢できなかったようで、この不動産王を支援した友人のデイヴッド・ホロウィッツ(David Horowitz)とは関係を絶っている。ホロウィッツも有名な元左翼で、主要メディアに登場するから一般のアメリカ人にも馴染みがある。ただし、彼もマルキストから保守派に転向したユダヤ人。

Ronald Radosh 1Aryeh Neier 1George Soros 1


(左 : ロナルド・ラドッシュ / アリエ・ナイアー / 右 : ジョージ・ソロス)

  「DETCOM」リストに載っていたくらいだから、モートン・ソベル(Morton Sobell)もかなり危険な人物だった。彼は元々「ジェネラル・エレクトリック社」に勤めていた電気技師で、軍需産業にも携わっていた。しかし、ソベルの正体はソ連のスパイで、悪名高いユダヤ人科学者ジュリアス・ローゼンバーグ(Julius Rosenberg)の事件で逮捕され、裁判を受けると18年の懲役刑が言い渡された。もっと有名な人物は、ピューリッツァー賞をもらった詩人のジョージ・オッペン(George Oppen)だろう。彼もアメリカ共産党のメンバーだったというから、受賞者を決める連中の頭がどうなっているのか、日本人でも察しがつくだろう。それにしても、日本のマスコミは矢鱈とピューリッツァー賞を褒めそやすが、選ばれた人間には「ロクでなし」が多く、ほとんどが左翼思考の知識人ときている。残りは、アメリカ社会を憎む黒人とかヒスパニックだ。例えば、ニューヨーク・タイムズ紙のブレント・ステイプル(Brent Staples)は、優秀な編集員として受賞したそうだが、こんなのは白人を憎む黒人にすぎない。日本人から見れば馬鹿らしいけど、アメリカの黒人は白人への恨みを綴ると、進歩的白人から褒めてもらえるのだ。(そんなに西歐文明が嫌いなら、心の祖国であるアフリカに帰ればいいのにねぇ〜。)

Morton Sobell 1George Oppen 1Brent Staple 1Elaine Black Yoneda 1


(左 : モートン・ソベル / ジョージ・オッペン / ブレント・ステイプル / 右 : エレインとカール・ヨネダ )

  「レッド・エンジェル(Red Angel)」として知られるエレイン・ブラック・ヨネダ(Elaine Black Yoneda)は、名前からすると日系人みたいだが、それは日系左翼の米田剛三(よねだ・ごうぞう / Karl Hama Yoneda)と再婚したからだ。彼女の本名は「ローズ・エレイン・バックマン(Rose Elaine Buchman)といい、アメリカへ渡ってきたユダヤ移民の娘である。両親も左翼だったそうで、エレインは「Young Workers League」に参加し、そこで一番目の夫であるエドワード・ラッセルと出逢った。彼女は結婚し、娘を産んだというが、労働活動への情熱は冷めず、依然として組合活動やストライキに躍起になっていた。「国際労働防衛(ILD)」という左翼組織に入ったエレインは、労働デモで投獄されていたカール米田と知り合う。彼女は米田の保釈を手伝い、しばらくすると、亭主のエドワードと離婚する。「ヨネダ」という日系左翼と再婚し、日本名を冠したエレインは、公民権活動に奔走したかと思えば、共産党に入って腕を磨き、IDLの支部長としても忙しかったそうだ。ユダヤ人には赤い思想が肌に合っているのか、三度の飯より社会革命の方が大好きときている。

  日本にも左翼がゴロゴロいて、中には朝鮮系や支那系の極左分子もいるから、何としても取締まりを強化せねばならない。しかし、我が国にはFBIに匹敵するような防諜組織も無ければ、強襲をかけて一斉摘発できるような捕獲プログラムも無い。第一、国会議員の大半がスパイの炙り出しや逮捕に反対なんだから、機密情報の共有やテロ攻撃の防止なんて無理だ。たとえ破防法があっても、その運用には制約が多すぎて使い物にならない。怪しい外国人がいても滅多なことでは逮捕できず、上層部に談判している内に見逃してしまうことだってあるだろう。それに、総理大臣が国家機密を北鮮に流したり、首相官邸の中を工作員がウロウロすんだから、公安の職員だって匙を投げたくなる。日本にはイザという時、国内に潜伏する工作員を抹殺できる準備があるのか? 何十年にも亙って朝鮮総連が存在することさえ異常なのに、ほとんどの国民は「しょうがない」と思って諦めている。政治家はもっとだらしなく、マスコミからの非難や人権活動家による抗議を恐れているので、一向に手が出ない。

  こんな調子だから、国内に皇族を狙うテロリストがいてもおかしくはないだろう。これから多民族社会に向かう日本には、皇室を何とも思わない「国民」が増えてくる。だから、どんな暴漢が現れてくるか分からないぞ。悠仁親王殿下を抹殺するために、中学校全体を標的にし、天然痘や炭疽菌を無差別に使うかも知れないし、テロの時に護衛された殿下の脱出ルートが事前に漏れている場合もあり得る。どこにスパイや協力者が潜み、情報を盗み出すのか分からないから、皇族の安全は想定より低くなる。自衛隊や警察内部にも、外国の協力者が要職に就いているので、油断がならない。恒例の「まさか!」という事態が起きなければいいんだけど、何となく心配だ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68763730.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/212.html#c12

[近代史3] 馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた 中川隆
11. 中川隆[-10527] koaQ7Jey 2019年4月28日 23:00:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1559]

2019年04月28日
対皇室テロに無関心な日本 / 防諜組織を作れ !
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68763730.html


 4月26日正午頃、悠仁親王殿下が通われる「お茶の水女子大附属中学校」に、工事業者を装った男が侵入し、殿下の机に刃物を置いて立ち去ったという。幸い、殿下を含め生徒らは教室の外にいたので、直接的な被害を受けなかったというが、悪意を持つ不審者が教室に忍び込んだという事実は見過ごせない。一体、どんな意図を持って学校に侵入したのか分からないが、兇器を持参して守衛を騙す輩(やから)なので、普通の犯罪者ではないだろう。もしも、教室に生徒がいた状態で、侵入者が攻撃してきたらどうするのか? 今回は刃物だったからいいけど、拳銃を持った不審者が乱入してきたら一大事だ。(おそらく、護衛官が取り押さえるか、射殺すると思うけど、日本のマスコミは事件が起きた場合、警護する側を非難するから気が重くなる。) 綿密な暗殺計画は無いと思うが、皇室を尊ぶ国民は真剣に考えた方がいい。

  そもそも、日本人は安全保障に無頓着すぎる。いくら日米安保があるとはいえ、どの国家も自衛が基本である。半世紀以上も占領憲法を遵守し、国防軍や諜報組織を創設しないというのは信じがたい。日本の大学には法学部があり、毎年大量の卒業生を輩出しているのに、廃憲論者はほぼゼロで、大半が護憲派なんだから、日本人は高等教育を受けて馬鹿になっているという証拠なんじゃないか。それに、外国のスパイや協力者を取り締まる防諜組織を作らず、これに反対する国民が多いというのも日本の特徴である。スパイ防止法に反対する議員というのは、「もしかしたら、自分が捕まるんじゃないか」と心配する売国奴で、一般国民の自由が脅かされるという言い訳は真っ赤な嘘だ。むしろ、国民の安全を守るために工作員やテロリストを監視・逮捕する機関が必要で、歐米諸国なら当然持っている。「警察や公安があるからいいじゃん」と考えるのは素人で、FBIやMI5のような組織じゃないと無理。映画では公安が持て囃されているいるけど、実際の公安調査庁なんてたいしたことないだろう。そもそも、ロシアや支那は日本を「チョロい国」と思っているから、優秀なスパイは送らず、二流のスパイで充分と考えているんじゃないか。

  筆者がテロについて考える切っ掛けは幾つかあるんだけど、一つ挙げるとすれば、米国の大学に通っていた時の爆破予告である。まだクリントン政権時代の頃、政治学の授業を受けていると突如、避難勧告が伝えられ、建物から出ることになった。みんなと階段を降りる途中、筆者は「こんな大学をテロリストが狙うのか?」と馬鹿らしく思い、「どうせガセ(悪戯)だろう」と推測したものである。案の定、警察がキャンパスを探しても、何ら爆発物は発見されず、単なる虚偽の脅迫であることが判った。ただし、アメリカ人が爆破予告に過敏になったのも無理は無い。1993年2月26日、「ワールド・トレード・センター」の地下駐車場に、爆発物を積んだバンが侵入し、その大爆発で千名以上の負傷者が出ていたからだ。これはラムジー・ヨセフ(Ramzi Yousef)率いるイスラム集団によるテロ事件で、当時のアメリカ人は本当に大きな衝撃を受けていた。このヨセフはフィリピン航空機を爆破したことでも知られており、後に逮捕されて終身刑を言い渡されている。

  爆弾予告で改めて考えさせられたのは、テロリストはどんな方法で大量殺戮を犯すのか、ということである。不謹慎だけど、当時NYにあるロックフェラーセンターの直ぐ側で、コーヒーを飲みながら「どんなテロが有効で、一番インパクトがあるのかなぁ〜」と考えてみたことがある。化学兵器やウィルスを使ったテロは効果的なんだが、映像的には地味なので、全世界の視聴者に対する衝撃が足りない、という難点がある。NBCスタジオの近くにある地下鉄で爆破テロを行えば被害は甚大になるが、地下だと「絵」にならないから、これも駄目だ。したがって、地上でのド派手な爆発がいい。筆者は巨大なクリスマス・ツリーが設置されるロックフェラー・センターのスケート場で大爆発が起きたら凄いと思った。そして、可能な方法としてハイジャックされたジャンボ・ジェット機による自殺攻撃があるのでは、と考えた。なぜなら、道路からタンクローリーが突入するのは難しいし、かといって空からミサイルを打つというのも不可能だから、ミサイルに代わる飛行機を乗っ取るしかない。

Medusa Touch 11(左 / 「メドゥーサ・タッチ」の撮影シーン )
  1996年に制作された映画『イグゼクティヴ・ディシジョン』でも、テロリストが民間旅客機に化学兵器を搭載し、ハイジャックした飛行機をワシントン突っ込ませるというシナリオがあった。ラッセル・クロウとスティヴン・セガールが出演した作品なので覚えている人も多いだろう。1978年に制作された『恐怖の魔力 / メドゥーサ・タッチ(The Medusa Touch)』はもっと興味深く、飛行機がビルに激突するシーンがあった。しかも、驚くべき事実は、これを制作したエグゼクティヴ・プロデューサーが、ハリウッドの大御所であるアーノン・ミルチャン(Arnon Milchan)であったことだ。数年前、彼が「モサド(イスラエルの諜報機関)」の協力者であったことがバレて話題になったので、当ブログでも紹介したことがある。


Arnon MilchanAron Milchan 2


(左 : ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーと一緒のアーノン・ミルチャン / 右 : シモン・ペレスとベンジャミン・ネタニヤフと一緒のミルチャン)

  実際の9/11テロでは、ロックフェラーセンター・ビルじゃなく、WTCビルに飛行機が突入したが、事件の一報を耳にした時、予想が外れたものの「やはり空からか !」と納得したのを覚えている。日本人はオウム真理教によるサリン攻撃を経験したのに、スパイやテロリストを素早く拘束し、厳しく尋問できる組織を創設しないんだから本当に脳天気だ。温室育ちのインテリどもは、何かと言えば「人権」を持ち出すが、テロリストや工作員が容易に潜入できる日本の状況を本当に解っているのか? 日本人は大卒者でも外国の特殊部隊が侵入することや、バイオ・テロをやらかす危険性を予測できない。もし、天然痘ウィルスを持つ北鮮人が密かに侵入し、日本の駅や繁華街をうろつき他人と接触すれば、不特定多数の人が感染し、日本中がパニックとなるだろう。さらに、感染した北鮮人が電車で日本全国を縦断すれば、その被害は悲惨なものになるはずだ。生物兵器を用いたテロは滅多に無いが、病気持ちの外人が入国してくる危険性は常にある。「外人労働者の皆さん、いらっしゃぁ〜い」と気軽に歓迎している日本人は、健康な人間だけが入ってくると思っているのか? まぁ、国際関係論を学ぶ大学生でも、軍事戦略や非常事態はスキップだから、一般人が縁側のペンギンでもしょうがない。

国内の有害分子を一網打尽にする計画

  第21世紀が「テロの時代」になる予測した知識人の中で、筆者が印象に残っているのは、未来学者のアルヴィン・トフラー(Alvin Toffler)だ。彼は「第三の波」を提唱し、一時期日本でも話題となった。1990年代の前半、竹村健一の『世相を斬る』にも出演していたから、覚えている人もいるんじゃないか。彼は「トフラー・アソシエイツ」を設立し、マネージメント業やコンサルタント業を展開していたが、2016年に87歳で息を引き取った。トフラーは「フューチャー・ショック(Future Shock)」という看板を掲げて、来たるべき社会の変革を説明していたが、日本人にとって興味深いのは、彼が予測した「未来」より、彼が隠していた「過去」の方である。

Alvin Toffler 2Alvin & Heidi Toffler 2

(左 : アルヴィン・トフラー / 右 : アルヴィンとハイジ・トフラー)

  元下院議長のニュート・ギングリッチも称讃していたアルヴィン・トフラーは、若い頃「アメリカ共産党」に属する左翼分子であった。当ブログの常連読者は、「もしかして、トフラーも・・・」と嫌な予感がするだろうが、その直感は正しく、彼もマルクス主義に傾倒したユダヤ人。現在、「自由情報公開法(Freedom Information Act)」により、400ページにも及ぶFBIの機密ファイルが公開され、アメリカの一般人は闇に包まれたトフラーの過去を知ることができる。(筆者もFBIの報告書に目を通したけど、「さすがFBI、よく調べているなぁ」と感心した。アメリカの防諜組織は本当に羨ましい。) トフラーの監視はオハイオ州クリーブランド支局の特別捜査官チームによって行われていた。主に、ジェイムズ・ギャフニー(James J. Gaffney)、カール・エクラッド(Carl A. Eklad)、エドワード・シェア(Edward A. Shea)、チャールズ・ハーヴェイ(Charles A. Harvey)らが担当していたそうだ。

  FBIの監視が始まったのはトフラーが25歳の時、すなわち1953年の頃だという。彼は黒人の有権者登録を助けていた時、同類の左翼女性アデレード・エリザベス・ファレル(Adelaide Elizabeth Farrel)と出逢い、1950年4月29日に結婚した。(彼女の愛称が「ハイジHeidi」なので、トフラー夫人は一般的にこの名前で通っている。) ハイジ夫人も極左活動家だったようで、アルヴィンと同じくシカゴの「労働青年同盟(Labor Youth League)」、ならびにアメリカ共産党に属していたという。1950年代中期、トフラー夫妻は表面上「堅気の生活」を送っていたという。二人は「労働者」としてクリーヴランドにある製造工場に勤めたり、『インダストリアル・ウェルディング(Industrial Welding)』という雑誌の編集をしていたというが、実際は密かにマルクス・レーニン主義の宣伝活動をしていたそうだ。

  我々が刮目すべきは、トフラーの名が載っていた「DETCOMプログラム・リスト」である。この「デットコム(DET-COM)」というのは、「DETain COMmunist」の略で、リストに記されてる者は、有事の際、FBIが拘束することになっていた。反共主義者のエドガー・フーバー(J. Edgar Hoover)長官は、この一環として「COMSABプログラム」も用意していたそうだ。これは「共産主義者による破壊工作(COMmunist SABotage)」の略で、危険な共産主義者をターゲットにした取締計画である。つまり、普段から警戒している悪党が動き出したら、その前に一網打尽にするという計画だ。

Edgar Hoover 1Alvin & Heidi Toffler 1

(左 : エドガー・フーバー / 右 : 若いときのアルヴィントハイジ・トフラー)

  もっとも、トフラー夫妻は破壊工作に係わっていなかったようで、もっぱら労働組合への浸透をメインにしていたらしい。それでも、FBIの存在は怖かったそうだ。1957年9月24日、ヴァージニアで暮らしていたトフラーのもとに、二人のFBI捜査官エルマー・リー・ドッド(Elmer Lee Todd)とジョン・ジョセフ・バグリー(John Joseph Bagley)が尋ねてきて、「インタヴュー」を行ったという。報告書によれば、玄関のドアに立つトフラーは突然の訪問に驚き、緊張した様子で対応したそうだ。しかし、捜査官がいくら尋問しても、トフラーは貝のように口を閉ざして答えず、頑なに拒んだという。そこで、捜査官は再び11月1日にやって来たが、依然としてトフラーは拒み続けたので、翌月も捜査官が訪れるという事態になったそうである。ところが、1959年1月、トフラーはついに折れ、FBIの質問に答えたそうだ。でも、同志の名前は教えなかった。その代わり、自分の過去を正直に告白したという。トフラーはFBIの尋問を受けた際、自分はもうマルキストではない、と宣言したそうだ。これが功を奏したのかどうか分からないが、FBIはトフラー夫妻を「もはや合衆国に対する脅威ではない」と判断し、1959年2月、監視対象から外したそうである。この後、解放されたトフラーは『フォーチュン』誌に記事を書くようになった。

ブラックリストに載った赤いユダヤ人

  トフラーの例でも分かる通り、「DETCOM」リストに載っていた人物を眺めると、どうしてもユダヤ人が目に付く。例えば、政治学者のロナルド・ラドッシュ(Ronald Radosh)で、今はハドソン研究所に入って「保守派」もどきになっているが、元々はマルキストである。彼は若い頃、「労働青年同盟(LYL)」に参加し、その後アメリカ共産党のメンバーになった。しかし、フルシチョフ時代のソ連に幻滅したのか、ラドッシュは共産党と決別することになる。だが、共産主義者を辞めても左翼思想は残っているから、彼はアメリカでの新左翼(New Left)を牽引する人物になった。左翼活動家らしくベトナム戦争に反対したラドッシュは、札付きの左翼が集まる「デモクラシー社会を目指す学生(Students for a Democratic Society)」組織に入った。

  ちなみに、この極左集団にもユダヤ人が多く、創設と指導的役割を担ったアリエ・ナイアー(Aryeh Neier)もユダヤ人。後に、彼はヘッジ・ファンドの帝王ジョージ・ソロスが設立した「オープン・ソサエティー・インスティテュート」の所長になったし、左翼人権団体の「米国市民自由協会(American Civil Liberty Union)」にも属していた。左翼色を薄めたラドッシュは、やや保守系の『ニュー・リパブリック』『ウィークリー・スタンダード』『ナショナル・レヴュー』誌に論文を寄稿するようになるが、ドナルド・トランプには我慢できなかったようで、この不動産王を支援した友人のデイヴッド・ホロウィッツ(David Horowitz)とは関係を絶っている。ホロウィッツも有名な元左翼で、主要メディアに登場するから一般のアメリカ人にも馴染みがある。ただし、彼もマルキストから保守派に転向したユダヤ人。

Ronald Radosh 1Aryeh Neier 1George Soros 1


(左 : ロナルド・ラドッシュ / アリエ・ナイアー / 右 : ジョージ・ソロス)

  「DETCOM」リストに載っていたくらいだから、モートン・ソベル(Morton Sobell)もかなり危険な人物だった。彼は元々「ジェネラル・エレクトリック社」に勤めていた電気技師で、軍需産業にも携わっていた。しかし、ソベルの正体はソ連のスパイで、悪名高いユダヤ人科学者ジュリアス・ローゼンバーグ(Julius Rosenberg)の事件で逮捕され、裁判を受けると18年の懲役刑が言い渡された。もっと有名な人物は、ピューリッツァー賞をもらった詩人のジョージ・オッペン(George Oppen)だろう。彼もアメリカ共産党のメンバーだったというから、受賞者を決める連中の頭がどうなっているのか、日本人でも察しがつくだろう。それにしても、日本のマスコミは矢鱈とピューリッツァー賞を褒めそやすが、選ばれた人間には「ロクでなし」が多く、ほとんどが左翼思考の知識人ときている。残りは、アメリカ社会を憎む黒人とかヒスパニックだ。例えば、ニューヨーク・タイムズ紙のブレント・ステイプル(Brent Staples)は、優秀な編集員として受賞したそうだが、こんなのは白人を憎む黒人にすぎない。日本人から見れば馬鹿らしいけど、アメリカの黒人は白人への恨みを綴ると、進歩的白人から褒めてもらえるのだ。(そんなに西歐文明が嫌いなら、心の祖国であるアフリカに帰ればいいのにねぇ〜。)

Morton Sobell 1George Oppen 1Brent Staple 1Elaine Black Yoneda 1


(左 : モートン・ソベル / ジョージ・オッペン / ブレント・ステイプル / 右 : エレインとカール・ヨネダ )

  「レッド・エンジェル(Red Angel)」として知られるエレイン・ブラック・ヨネダ(Elaine Black Yoneda)は、名前からすると日系人みたいだが、それは日系左翼の米田剛三(よねだ・ごうぞう / Karl Hama Yoneda)と再婚したからだ。彼女の本名は「ローズ・エレイン・バックマン(Rose Elaine Buchman)といい、アメリカへ渡ってきたユダヤ移民の娘である。両親も左翼だったそうで、エレインは「Young Workers League」に参加し、そこで一番目の夫であるエドワード・ラッセルと出逢った。彼女は結婚し、娘を産んだというが、労働活動への情熱は冷めず、依然として組合活動やストライキに躍起になっていた。「国際労働防衛(ILD)」という左翼組織に入ったエレインは、労働デモで投獄されていたカール米田と知り合う。彼女は米田の保釈を手伝い、しばらくすると、亭主のエドワードと離婚する。「ヨネダ」という日系左翼と再婚し、日本名を冠したエレインは、公民権活動に奔走したかと思えば、共産党に入って腕を磨き、IDLの支部長としても忙しかったそうだ。ユダヤ人には赤い思想が肌に合っているのか、三度の飯より社会革命の方が大好きときている。

  日本にも左翼がゴロゴロいて、中には朝鮮系や支那系の極左分子もいるから、何としても取締まりを強化せねばならない。しかし、我が国にはFBIに匹敵するような防諜組織も無ければ、強襲をかけて一斉摘発できるような捕獲プログラムも無い。第一、国会議員の大半がスパイの炙り出しや逮捕に反対なんだから、機密情報の共有やテロ攻撃の防止なんて無理だ。たとえ破防法があっても、その運用には制約が多すぎて使い物にならない。怪しい外国人がいても滅多なことでは逮捕できず、上層部に談判している内に見逃してしまうことだってあるだろう。それに、総理大臣が国家機密を北鮮に流したり、首相官邸の中を工作員がウロウロすんだから、公安の職員だって匙を投げたくなる。日本にはイザという時、国内に潜伏する工作員を抹殺できる準備があるのか? 何十年にも亙って朝鮮総連が存在することさえ異常なのに、ほとんどの国民は「しょうがない」と思って諦めている。政治家はもっとだらしなく、マスコミからの非難や人権活動家による抗議を恐れているので、一向に手が出ない。

  こんな調子だから、国内に皇族を狙うテロリストがいてもおかしくはないだろう。これから多民族社会に向かう日本には、皇室を何とも思わない「国民」が増えてくる。だから、どんな暴漢が現れてくるか分からないぞ。悠仁親王殿下を抹殺するために、中学校全体を標的にし、天然痘や炭疽菌を無差別に使うかも知れないし、テロの時に護衛された殿下の脱出ルートが事前に漏れている場合もあり得る。どこにスパイや協力者が潜み、情報を盗み出すのか分からないから、皇族の安全は想定より低くなる。自衛隊や警察内部にも、外国の協力者が要職に就いているので、油断がならない。恒例の「まさか!」という事態が起きなければいいんだけど、何となく心配だ。
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[リバイバル3] 共謀罪批判は中国・朝鮮工作員が扇動していた 中川隆
13. 中川隆[-10526] koaQ7Jey 2019年4月28日 23:13:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1560]

2019年04月28日
対皇室テロに無関心な日本 / 防諜組織を作れ !
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68763730.html


 4月26日正午頃、悠仁親王殿下が通われる「お茶の水女子大附属中学校」に、工事業者を装った男が侵入し、殿下の机に刃物を置いて立ち去ったという。幸い、殿下を含め生徒らは教室の外にいたので、直接的な被害を受けなかったというが、悪意を持つ不審者が教室に忍び込んだという事実は見過ごせない。一体、どんな意図を持って学校に侵入したのか分からないが、兇器を持参して守衛を騙す輩(やから)なので、普通の犯罪者ではないだろう。もしも、教室に生徒がいた状態で、侵入者が攻撃してきたらどうするのか? 今回は刃物だったからいいけど、拳銃を持った不審者が乱入してきたら一大事だ。(おそらく、護衛官が取り押さえるか、射殺すると思うけど、日本のマスコミは事件が起きた場合、警護する側を非難するから気が重くなる。) 綿密な暗殺計画は無いと思うが、皇室を尊ぶ国民は真剣に考えた方がいい。

  そもそも、日本人は安全保障に無頓着すぎる。いくら日米安保があるとはいえ、どの国家も自衛が基本である。半世紀以上も占領憲法を遵守し、国防軍や諜報組織を創設しないというのは信じがたい。日本の大学には法学部があり、毎年大量の卒業生を輩出しているのに、廃憲論者はほぼゼロで、大半が護憲派なんだから、日本人は高等教育を受けて馬鹿になっているという証拠なんじゃないか。それに、外国のスパイや協力者を取り締まる防諜組織を作らず、これに反対する国民が多いというのも日本の特徴である。スパイ防止法に反対する議員というのは、「もしかしたら、自分が捕まるんじゃないか」と心配する売国奴で、一般国民の自由が脅かされるという言い訳は真っ赤な嘘だ。むしろ、国民の安全を守るために工作員やテロリストを監視・逮捕する機関が必要で、歐米諸国なら当然持っている。「警察や公安があるからいいじゃん」と考えるのは素人で、FBIやMI5のような組織じゃないと無理。映画では公安が持て囃されているいるけど、実際の公安調査庁なんてたいしたことないだろう。そもそも、ロシアや支那は日本を「チョロい国」と思っているから、優秀なスパイは送らず、二流のスパイで充分と考えているんじゃないか。

  筆者がテロについて考える切っ掛けは幾つかあるんだけど、一つ挙げるとすれば、米国の大学に通っていた時の爆破予告である。まだクリントン政権時代の頃、政治学の授業を受けていると突如、避難勧告が伝えられ、建物から出ることになった。みんなと階段を降りる途中、筆者は「こんな大学をテロリストが狙うのか?」と馬鹿らしく思い、「どうせガセ(悪戯)だろう」と推測したものである。案の定、警察がキャンパスを探しても、何ら爆発物は発見されず、単なる虚偽の脅迫であることが判った。ただし、アメリカ人が爆破予告に過敏になったのも無理は無い。1993年2月26日、「ワールド・トレード・センター」の地下駐車場に、爆発物を積んだバンが侵入し、その大爆発で千名以上の負傷者が出ていたからだ。これはラムジー・ヨセフ(Ramzi Yousef)率いるイスラム集団によるテロ事件で、当時のアメリカ人は本当に大きな衝撃を受けていた。このヨセフはフィリピン航空機を爆破したことでも知られており、後に逮捕されて終身刑を言い渡されている。

  爆弾予告で改めて考えさせられたのは、テロリストはどんな方法で大量殺戮を犯すのか、ということである。不謹慎だけど、当時NYにあるロックフェラーセンターの直ぐ側で、コーヒーを飲みながら「どんなテロが有効で、一番インパクトがあるのかなぁ〜」と考えてみたことがある。化学兵器やウィルスを使ったテロは効果的なんだが、映像的には地味なので、全世界の視聴者に対する衝撃が足りない、という難点がある。NBCスタジオの近くにある地下鉄で爆破テロを行えば被害は甚大になるが、地下だと「絵」にならないから、これも駄目だ。したがって、地上でのド派手な爆発がいい。筆者は巨大なクリスマス・ツリーが設置されるロックフェラー・センターのスケート場で大爆発が起きたら凄いと思った。そして、可能な方法としてハイジャックされたジャンボ・ジェット機による自殺攻撃があるのでは、と考えた。なぜなら、道路からタンクローリーが突入するのは難しいし、かといって空からミサイルを打つというのも不可能だから、ミサイルに代わる飛行機を乗っ取るしかない。

Medusa Touch 11(左 / 「メドゥーサ・タッチ」の撮影シーン )
  1996年に制作された映画『イグゼクティヴ・ディシジョン』でも、テロリストが民間旅客機に化学兵器を搭載し、ハイジャックした飛行機をワシントン突っ込ませるというシナリオがあった。ラッセル・クロウとスティヴン・セガールが出演した作品なので覚えている人も多いだろう。1978年に制作された『恐怖の魔力 / メドゥーサ・タッチ(The Medusa Touch)』はもっと興味深く、飛行機がビルに激突するシーンがあった。しかも、驚くべき事実は、これを制作したエグゼクティヴ・プロデューサーが、ハリウッドの大御所であるアーノン・ミルチャン(Arnon Milchan)であったことだ。数年前、彼が「モサド(イスラエルの諜報機関)」の協力者であったことがバレて話題になったので、当ブログでも紹介したことがある。


Arnon MilchanAron Milchan 2


(左 : ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーと一緒のアーノン・ミルチャン / 右 : シモン・ペレスとベンジャミン・ネタニヤフと一緒のミルチャン)

  実際の9/11テロでは、ロックフェラーセンター・ビルじゃなく、WTCビルに飛行機が突入したが、事件の一報を耳にした時、予想が外れたものの「やはり空からか !」と納得したのを覚えている。日本人はオウム真理教によるサリン攻撃を経験したのに、スパイやテロリストを素早く拘束し、厳しく尋問できる組織を創設しないんだから本当に脳天気だ。温室育ちのインテリどもは、何かと言えば「人権」を持ち出すが、テロリストや工作員が容易に潜入できる日本の状況を本当に解っているのか? 日本人は大卒者でも外国の特殊部隊が侵入することや、バイオ・テロをやらかす危険性を予測できない。もし、天然痘ウィルスを持つ北鮮人が密かに侵入し、日本の駅や繁華街をうろつき他人と接触すれば、不特定多数の人が感染し、日本中がパニックとなるだろう。さらに、感染した北鮮人が電車で日本全国を縦断すれば、その被害は悲惨なものになるはずだ。生物兵器を用いたテロは滅多に無いが、病気持ちの外人が入国してくる危険性は常にある。「外人労働者の皆さん、いらっしゃぁ〜い」と気軽に歓迎している日本人は、健康な人間だけが入ってくると思っているのか? まぁ、国際関係論を学ぶ大学生でも、軍事戦略や非常事態はスキップだから、一般人が縁側のペンギンでもしょうがない。

国内の有害分子を一網打尽にする計画

  第21世紀が「テロの時代」になる予測した知識人の中で、筆者が印象に残っているのは、未来学者のアルヴィン・トフラー(Alvin Toffler)だ。彼は「第三の波」を提唱し、一時期日本でも話題となった。1990年代の前半、竹村健一の『世相を斬る』にも出演していたから、覚えている人もいるんじゃないか。彼は「トフラー・アソシエイツ」を設立し、マネージメント業やコンサルタント業を展開していたが、2016年に87歳で息を引き取った。トフラーは「フューチャー・ショック(Future Shock)」という看板を掲げて、来たるべき社会の変革を説明していたが、日本人にとって興味深いのは、彼が予測した「未来」より、彼が隠していた「過去」の方である。

Alvin Toffler 2Alvin & Heidi Toffler 2

(左 : アルヴィン・トフラー / 右 : アルヴィンとハイジ・トフラー)

  元下院議長のニュート・ギングリッチも称讃していたアルヴィン・トフラーは、若い頃「アメリカ共産党」に属する左翼分子であった。当ブログの常連読者は、「もしかして、トフラーも・・・」と嫌な予感がするだろうが、その直感は正しく、彼もマルクス主義に傾倒したユダヤ人。現在、「自由情報公開法(Freedom Information Act)」により、400ページにも及ぶFBIの機密ファイルが公開され、アメリカの一般人は闇に包まれたトフラーの過去を知ることができる。(筆者もFBIの報告書に目を通したけど、「さすがFBI、よく調べているなぁ」と感心した。アメリカの防諜組織は本当に羨ましい。) トフラーの監視はオハイオ州クリーブランド支局の特別捜査官チームによって行われていた。主に、ジェイムズ・ギャフニー(James J. Gaffney)、カール・エクラッド(Carl A. Eklad)、エドワード・シェア(Edward A. Shea)、チャールズ・ハーヴェイ(Charles A. Harvey)らが担当していたそうだ。

  FBIの監視が始まったのはトフラーが25歳の時、すなわち1953年の頃だという。彼は黒人の有権者登録を助けていた時、同類の左翼女性アデレード・エリザベス・ファレル(Adelaide Elizabeth Farrel)と出逢い、1950年4月29日に結婚した。(彼女の愛称が「ハイジHeidi」なので、トフラー夫人は一般的にこの名前で通っている。) ハイジ夫人も極左活動家だったようで、アルヴィンと同じくシカゴの「労働青年同盟(Labor Youth League)」、ならびにアメリカ共産党に属していたという。1950年代中期、トフラー夫妻は表面上「堅気の生活」を送っていたという。二人は「労働者」としてクリーヴランドにある製造工場に勤めたり、『インダストリアル・ウェルディング(Industrial Welding)』という雑誌の編集をしていたというが、実際は密かにマルクス・レーニン主義の宣伝活動をしていたそうだ。

  我々が刮目すべきは、トフラーの名が載っていた「DETCOMプログラム・リスト」である。この「デットコム(DET-COM)」というのは、「DETain COMmunist」の略で、リストに記されてる者は、有事の際、FBIが拘束することになっていた。反共主義者のエドガー・フーバー(J. Edgar Hoover)長官は、この一環として「COMSABプログラム」も用意していたそうだ。これは「共産主義者による破壊工作(COMmunist SABotage)」の略で、危険な共産主義者をターゲットにした取締計画である。つまり、普段から警戒している悪党が動き出したら、その前に一網打尽にするという計画だ。

Edgar Hoover 1Alvin & Heidi Toffler 1

(左 : エドガー・フーバー / 右 : 若いときのアルヴィントハイジ・トフラー)

  もっとも、トフラー夫妻は破壊工作に係わっていなかったようで、もっぱら労働組合への浸透をメインにしていたらしい。それでも、FBIの存在は怖かったそうだ。1957年9月24日、ヴァージニアで暮らしていたトフラーのもとに、二人のFBI捜査官エルマー・リー・ドッド(Elmer Lee Todd)とジョン・ジョセフ・バグリー(John Joseph Bagley)が尋ねてきて、「インタヴュー」を行ったという。報告書によれば、玄関のドアに立つトフラーは突然の訪問に驚き、緊張した様子で対応したそうだ。しかし、捜査官がいくら尋問しても、トフラーは貝のように口を閉ざして答えず、頑なに拒んだという。そこで、捜査官は再び11月1日にやって来たが、依然としてトフラーは拒み続けたので、翌月も捜査官が訪れるという事態になったそうである。ところが、1959年1月、トフラーはついに折れ、FBIの質問に答えたそうだ。でも、同志の名前は教えなかった。その代わり、自分の過去を正直に告白したという。トフラーはFBIの尋問を受けた際、自分はもうマルキストではない、と宣言したそうだ。これが功を奏したのかどうか分からないが、FBIはトフラー夫妻を「もはや合衆国に対する脅威ではない」と判断し、1959年2月、監視対象から外したそうである。この後、解放されたトフラーは『フォーチュン』誌に記事を書くようになった。

ブラックリストに載った赤いユダヤ人

  トフラーの例でも分かる通り、「DETCOM」リストに載っていた人物を眺めると、どうしてもユダヤ人が目に付く。例えば、政治学者のロナルド・ラドッシュ(Ronald Radosh)で、今はハドソン研究所に入って「保守派」もどきになっているが、元々はマルキストである。彼は若い頃、「労働青年同盟(LYL)」に参加し、その後アメリカ共産党のメンバーになった。しかし、フルシチョフ時代のソ連に幻滅したのか、ラドッシュは共産党と決別することになる。だが、共産主義者を辞めても左翼思想は残っているから、彼はアメリカでの新左翼(New Left)を牽引する人物になった。左翼活動家らしくベトナム戦争に反対したラドッシュは、札付きの左翼が集まる「デモクラシー社会を目指す学生(Students for a Democratic Society)」組織に入った。

  ちなみに、この極左集団にもユダヤ人が多く、創設と指導的役割を担ったアリエ・ナイアー(Aryeh Neier)もユダヤ人。後に、彼はヘッジ・ファンドの帝王ジョージ・ソロスが設立した「オープン・ソサエティー・インスティテュート」の所長になったし、左翼人権団体の「米国市民自由協会(American Civil Liberty Union)」にも属していた。左翼色を薄めたラドッシュは、やや保守系の『ニュー・リパブリック』『ウィークリー・スタンダード』『ナショナル・レヴュー』誌に論文を寄稿するようになるが、ドナルド・トランプには我慢できなかったようで、この不動産王を支援した友人のデイヴッド・ホロウィッツ(David Horowitz)とは関係を絶っている。ホロウィッツも有名な元左翼で、主要メディアに登場するから一般のアメリカ人にも馴染みがある。ただし、彼もマルキストから保守派に転向したユダヤ人。

Ronald Radosh 1Aryeh Neier 1George Soros 1


(左 : ロナルド・ラドッシュ / アリエ・ナイアー / 右 : ジョージ・ソロス)

  「DETCOM」リストに載っていたくらいだから、モートン・ソベル(Morton Sobell)もかなり危険な人物だった。彼は元々「ジェネラル・エレクトリック社」に勤めていた電気技師で、軍需産業にも携わっていた。しかし、ソベルの正体はソ連のスパイで、悪名高いユダヤ人科学者ジュリアス・ローゼンバーグ(Julius Rosenberg)の事件で逮捕され、裁判を受けると18年の懲役刑が言い渡された。もっと有名な人物は、ピューリッツァー賞をもらった詩人のジョージ・オッペン(George Oppen)だろう。彼もアメリカ共産党のメンバーだったというから、受賞者を決める連中の頭がどうなっているのか、日本人でも察しがつくだろう。それにしても、日本のマスコミは矢鱈とピューリッツァー賞を褒めそやすが、選ばれた人間には「ロクでなし」が多く、ほとんどが左翼思考の知識人ときている。残りは、アメリカ社会を憎む黒人とかヒスパニックだ。例えば、ニューヨーク・タイムズ紙のブレント・ステイプル(Brent Staples)は、優秀な編集員として受賞したそうだが、こんなのは白人を憎む黒人にすぎない。日本人から見れば馬鹿らしいけど、アメリカの黒人は白人への恨みを綴ると、進歩的白人から褒めてもらえるのだ。(そんなに西歐文明が嫌いなら、心の祖国であるアフリカに帰ればいいのにねぇ〜。)

Morton Sobell 1George Oppen 1Brent Staple 1Elaine Black Yoneda 1


(左 : モートン・ソベル / ジョージ・オッペン / ブレント・ステイプル / 右 : エレインとカール・ヨネダ )

  「レッド・エンジェル(Red Angel)」として知られるエレイン・ブラック・ヨネダ(Elaine Black Yoneda)は、名前からすると日系人みたいだが、それは日系左翼の米田剛三(よねだ・ごうぞう / Karl Hama Yoneda)と再婚したからだ。彼女の本名は「ローズ・エレイン・バックマン(Rose Elaine Buchman)といい、アメリカへ渡ってきたユダヤ移民の娘である。両親も左翼だったそうで、エレインは「Young Workers League」に参加し、そこで一番目の夫であるエドワード・ラッセルと出逢った。彼女は結婚し、娘を産んだというが、労働活動への情熱は冷めず、依然として組合活動やストライキに躍起になっていた。「国際労働防衛(ILD)」という左翼組織に入ったエレインは、労働デモで投獄されていたカール米田と知り合う。彼女は米田の保釈を手伝い、しばらくすると、亭主のエドワードと離婚する。「ヨネダ」という日系左翼と再婚し、日本名を冠したエレインは、公民権活動に奔走したかと思えば、共産党に入って腕を磨き、IDLの支部長としても忙しかったそうだ。ユダヤ人には赤い思想が肌に合っているのか、三度の飯より社会革命の方が大好きときている。

  日本にも左翼がゴロゴロいて、中には朝鮮系や支那系の極左分子もいるから、何としても取締まりを強化せねばならない。しかし、我が国にはFBIに匹敵するような防諜組織も無ければ、強襲をかけて一斉摘発できるような捕獲プログラムも無い。第一、国会議員の大半がスパイの炙り出しや逮捕に反対なんだから、機密情報の共有やテロ攻撃の防止なんて無理だ。たとえ破防法があっても、その運用には制約が多すぎて使い物にならない。怪しい外国人がいても滅多なことでは逮捕できず、上層部に談判している内に見逃してしまうことだってあるだろう。それに、総理大臣が国家機密を北鮮に流したり、首相官邸の中を工作員がウロウロすんだから、公安の職員だって匙を投げたくなる。日本にはイザという時、国内に潜伏する工作員を抹殺できる準備があるのか? 何十年にも亙って朝鮮総連が存在することさえ異常なのに、ほとんどの国民は「しょうがない」と思って諦めている。政治家はもっとだらしなく、マスコミからの非難や人権活動家による抗議を恐れているので、一向に手が出ない。

  こんな調子だから、国内に皇族を狙うテロリストがいてもおかしくはないだろう。これから多民族社会に向かう日本には、皇室を何とも思わない「国民」が増えてくる。だから、どんな暴漢が現れてくるか分からないぞ。悠仁親王殿下を抹殺するために、中学校全体を標的にし、天然痘や炭疽菌を無差別に使うかも知れないし、テロの時に護衛された殿下の脱出ルートが事前に漏れている場合もあり得る。どこにスパイや協力者が潜み、情報を盗み出すのか分からないから、皇族の安全は想定より低くなる。自衛隊や警察内部にも、外国の協力者が要職に就いているので、油断がならない。恒例の「まさか!」という事態が起きなければいいんだけど、何となく心配だ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68763730.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/711.html#c13

[社会問題10] 「日本:首相が強制不妊手術の被害者たちに謝罪する」(RFI・首相官邸) 無段活用
1. 中川隆[-10525] koaQ7Jey 2019年4月28日 23:16:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1561]
卵巣だけでなく子宮も取ったから髭が生えて来たみたいだね
http://www.asyura2.com/18/social10/msg/195.html#c1
[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
198. 中川隆[-10524] koaQ7Jey 2019年4月29日 07:29:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1562]

株価が売上高より大きく動く理由は3つ
塚崎公義(久留米大学商学部教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15983


 今回は『老後破産しないためのお金の教科書』の著者である塚崎が、株価が売上高より大きく動く理由を説明します。

 企業の売上高が2割も3割も増減する事は稀ですが、株価が2割も3割も上下する事は珍しくありません。その理由は大きく分けて3つあります。「固定費があるから」「借金があるから」「美人投票だから」です。


(zoom-zoom/gettyimages)

固定費があるから会社の利益は大きく変動する

 まずは、「会社の売り上げが少し増えると会社の利益が大きく増える」というメカニズムについてです。利益が大きく増えれば、株価が大きく値上がりする可能性は高くなりますから。

 会社の利益は売上から費用を引いたものですが、費用の中には売上が増えても減っても変わらないものがあります。たとえばレストランは、客が来ても来なくても店を借りる費用や社員の人件費などがかかります。これを固定費と呼びます。

 一方で、売り上げが増えると連動して増える費用もあります。レストランの材料費などですね。これを変動費と呼びます。

 いま、レストランの固定費が9万円だとします。レストランは1500円の定食を提供していて、その材料費(=変動費)は500円だとします。

 客が一人も来ないと、9万円の赤字です。客が一人来て、1500円の売上を得ると、変動費を差し引いて1000円の利益が出ますから、赤字が8万9000円になります。客が90人来ると、赤字が消えます。この点を損益分岐点と呼びます。

 客が100人来ると、収入が15万円、固定費が9万円、変動費が5万円ですから、差し引きの利益は1万円です。客が110人だと同様に計算して利益は2万円です。なんと、客数が100人から110人に1割増えただけなのに、利益は2倍になっているのです。

 このように、普通の会社には、売り上げが少し増える(減る)と利益が大きく増える(減る)メカニズムが働いているわけです。


借金があると株主の儲けは大きく振れる

 次に、「会社の売り上げが少し増えると株主の持分が大きく増える」というメカニズムについてです。株主の持分が大きく増えれば、株価が大きく値上がりする可能性は高くなりますから。

 上記のレストランが株式会社で、資本金9万円、無借金だとします。固定費は資本金で、変動費は売上金で賄おう、ということですね。

 客が100人来て利益が1万円稼げると、株主の持分は、資本金の9万円に利益の1万円を加えた10万円になります。客が110人来て利益が2万円稼げると、株主の持分は9万円プラス2万円で11万円になります。客数が10%増えると、株主の持分も10%増えます。

 売り上げもメニューも全く同じ内容のレストランが今ひとつあったとします。ただし、資本金は4万円で、銀行借り入れが5万円です。

 客が100人来て利益が1万円稼げると、株主の持分は4万円プラス1万円で5万円になります。客が110人来て利益が2万円稼げると、株主の持分は4万円プラス2万円で6万円になります。客数が10%増えると、株主の持分は20%増えるのです。

 銀行借り入れをしている企業の方が、客数が増えた時の持分の増加率が高いのです。もちろん、客数が減った時の持分の減少率も高いので、どちらが得だとは言えませんが。

 なぜそんなことが起きるかと言えば、銀行には「儲かっても損しても、決められた利息を払う」という契約だからです。店の半分は自分の資本金で、残りの半分は銀行からの借金で借りているわけですが、借金で借りている店からの利益(または損失)も株主のものになるわけですね。

 まあ、自己資金10万円で株を買っている人と、自己資金10万円プラス借金10万円で20万円分の株を買っている人では、利益も損も後者が2倍ですから、それと同じことだと考えれば良いのでしょうね。

 余談ですが、資本金9万円の無借金会社と、資本金4万円で借金5万円の会社を比較すると、(銀行への利払いを考えなければ)利益額は同じですから、株主が支払った金額に対して後者の方が効率よく稼いでいることになります。これが「ROE(Return on Equity)が高い会社」というわけです。もっとも、会社が赤字になれば、ROEのマイナス幅が大きい会社になってしまいますが。

 この場合、売上高が少し増減するとROEが大きく上下することになります。つまり、投資家にとってはハイリスク・ハイリターンになる、というわけですね。


美人投票で株価は大きく動く場合あり

 株価は美人投票です。したがって、「売上と利益が増えた。来期も増えそうだ」といった決算発表に対し、「他の投資家たちも買うだろうから、株価は上がるだろう。他の投資家たちが買う前に、自分も買おう」と考える投資家が多いと、株価は大幅に値上がりすることになります。

 増収増益が続くとなると、当該企業が成長企業だという認識が投資家の間で広まるかも知れません。そうなると、将来の巨額の利益を期待して買おうという投資家も増えるかもしれません。

 もっとも、固定費と借金が確実に利益や株主持分の振れ幅を大きくし、株価の大幅な変化につながるのとは異なり、美人投票の世界では投資家たちが何を考えるか、によって影響が大きく出たり小さく出たりすることになりますので、ケース・バイ・ケースということになるのでしょうね。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15983


2018年10月15日
金融緩和で株価は上がる?「黒田教」信者が信仰を続けたワケ
塚崎公義(久留米大学商学部教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/14211


 今回は『老後破産しないためのお金の教科書 』の著者である塚崎が、「株式市場は美人投票」と言われる理由について解説します。

 「株式市場は美人投票だ」と言われます。経済学者ケインズの言葉なのですが、その意味を知っている人は意外と少ないようです。以下、厳密ではありませんが、イメージを掴んで頂けるように説明して行きます。

 現在の美人投票は、審査員が壇上の女性を見て、美人だと思った候補に投票し、最も得票の多かった候補が優勝してトロフィーを受け取ります。しかし、ケインズの時代の美人投票は、優勝した候補のみならず、その候補に投票した審査員も「美的センスが高い」という賞品がもらえましたから、話は複雑でした。

 自分が美人だと思っても、他の審査員がそう思わなければ、その候補は優勝しませんから、その候補に投票しても賞品はもらえません。賞品が欲しければ、他の候補が投票しそうな候補に投票すべきなのです。

 そうなると、他の審査員たちの審査基準が気になります。顔だけ見るのかスタイルも見るのか、目に注目するのか口元に注目するのか。他の審査員が見ていないポイントをチェックしても仕方ありませんから。

 さらに言えば、審査員たちは壇上の候補を眺めるよりも、審査員席の噂話を気にするようになります。「どの候補が優勝するという噂が流れているのか」という情報が最も価値があるわけです。その噂に沿って皆が投票するでしょうから、噂通りの結果になる可能性が高いからです。

 場合によっては、「候補Cが審査員に賄賂を贈ったらしいからCが勝つだろう」という噂が流れて、審査員たちが「Cが勝ちそうだからCに投票しよう」と考えて、実際にCが勝つかもしれません。そして、重要なことは、その噂が嘘であっても審査員が信じればCが勝つということです。

 審査員の中にCの親友がいて、Cが賄賂を贈っていないことを知っていたとしても、Cに投票するのが賢い行動です。真実を知っているから儲かるという訳ではありませんから。

 株式市場も、上記と同様だ、というのがケインズの教えです。株式投資で儲けようと思ったら、何が真実かを探求するのではなく、他の投資家が何に投資するのかを探るべきだ、というのです。

 一歩進めると、経済統計などで何を見たら良いのか、ということにも関わってきます。たとえば、市場関係者は金融政策に強い関心を持っています。金融が緩和されるという噂が立つと株価が上がるからです。したがって、日銀総裁の発言などには投資家たちが強い関心を示します。


 一方で、たとえば鉱工業生産指数は、景気を語る上では重要な経済指標ですが、投資家たちの注目度は、いまひとつです。それは、投資家たちが「他の投資家たちが鉱工業生産に注目していないので、鉱工業生産が発表されても株価は動かないだろう。それなら自分も見る必要はなさそうだ」と思うからです。

 こうして、皆が注目するものは一層皆が注目し、皆が注目しないものは一層注目されなくなる、というわけです。

 筆者は、株価等々ではなく景気そのものを観察して予測する「エコノミスト」なので、日銀総裁の発言や日銀短観の大企業製造業業況判断DIといった市場関係者の注目度の高いものよりも、鉱工業生産等々の方を見るようにしていますが、これは関心や目的の違いによるものであって、どちらが正しいという物ではありません。読者も、関心によって何に注目するかを決めれば良いのです。

 アベノミクスが始まり、黒田東彦日銀総裁が異次元の金融緩和を宣言した時、株価は上昇しました。宣言しただけで、未だ金融緩和が実施される前から株価が上昇したのは、投資家たちが「世の中に資金が出回るから株価が上がるだろう。その前に買っておこう」と考えて買い注文を出したからです。本稿では、彼らのことを「黒田教信者(失礼)」と呼ぶことにします。

黒田日銀総裁は間違えていると、知っていた

 しかし、筆者を含む銀行関係者は「日銀が金融を緩和しても世の中には資金は出回らない。黒田日銀総裁は間違えている」と知っていました。では、銀行関係者は株を買わなかったでしょうか。そんなことはありません。

 ちなみに、筆者は零細投資家として、株式に投資をしています。そこで、黒田日銀総裁が就任した時、株を買いました。元手は小さかったですが、おかげさまでそこそこ儲かりました。

 なぜ買ったのかといえば、上記のように、美人投票に於いては、他の投資家が買う物を他の投資家より先に買えば良いのであって、他の投資家が信じている事が正しいか否かは関係ないからです。


黒田教信者は、よりいっそう黒田教を信じるようになった

 少し難しくなりますが、黒田教の美人投票では、不思議なことが二つ起こりました。景気が回復して株価上昇が正当化されたこと、それによって黒田教信者が、よりいっそう黒田教を信じるようになったこと、です。

 多くの銀行員は「世の中に資金が出回らないのを見て、黒田教が誤りだと人々が気付けば、株価は下がるだろう」と思っていました。しかし、そうはならなりませんでした。アベノミクスにより景気が回復し、企業収益が増えたので、美人投票で上がりすぎた株価に企業収益が追いついてしまったからです。

 それを見た黒田教信者たちは、「やはり金融を緩和すると株価が上がるのだ」と考えて、いっそう黒田教を信じるようになったのです。「途中経過の説明が間違っていても、結果が合っていればそれを信じた方が得だ」ということなのでしょうね。

 なお、重要なことは、株価が美人投票なのは、短期投資をする場合であって、長期投資をする場合には違う、ということです。10年持っているつもりで株を買うならば、他の投資家のことは考えずに、「この会社は10年後も利益を出し続けているだろうか」「この会社は今後10年で大きくて立派な会社に成長するだろうか」を考えていれば良いのです。

 他の投資家の動向は、噂や思惑で動きますが、「他人の噂は75日」ですから、長期投資には関係ないと考えましょう。

 その意味では、他人の噂の変化を予想する短期投資より会社の将来を予想する長期投資の方が、ある意味で簡単かもしれませんし、運より実力の世界だと言えそうですね。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/14211
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c198

[近代史3] マスコミの偽情報 _ CIA は有力メディアを情報操作のために使っている 中川隆
6. 中川隆[-10523] koaQ7Jey 2019年4月29日 07:34:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1563]

2019.04.29
マスコミは広告主や広告会社に弱い


 民間放送局が広告収入で成り立っていることは言うまでもないが、日本の新聞や週刊誌も購読料で儲けているわけではないようだ。利益の大半を広告収入に頼っていると言われている。購読料は配達などの経費で消えてしまうらしい。広告主のマスコミに対する発言力は大きいということである。

 マスコミの経営者は「社会の木鐸」でも「言論の自由」を守っているわけでもない。カネ儲けを目的としている。手間暇かけて中身のある報道してスポンサーと喧嘩するより、スポンサーや政府などが望む情報を流していた方が楽。それを見越してマスコミを操ろうとする人は飴と鞭を使い分ける。そうした傾向は1980年代から強まった。

 2008年11月12日にトヨタ自動車の相談役だった奥田碩は首相官邸で開かれた「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」で、「正直言ってマスコミに報復してやろうか。スポンサーでも降りてやろうか」と発言している。年金や保険の問題を批判的に取り上げているマスコミを不愉快に感じたようだ。マスコミの編集権に経営者が介入するやり方があるとも奥田は口にした。

 広告会社の影響力も強い。電通の場合、視聴率をコントロールできると言われ、それは放送局の収入に直結する。オリンピックなど大きなイベントでも利権を握っているという。かつては電力会社もマスコミの懐を潤す存在だった。そのひとつの結果としてマスコミは原発の「安全神話」を広めたわけだ。

 その神話は2011年3月11日の東電福島第1原発の事故で崩壊する。その日、炉心が溶融する大事故が引き起こされたのだ。そして日本中の原発が止まる。その停止した原発を安倍晋三政権は再稼働させようとしている。

 福島県には第1原発のほかに第2原発があるが、その第2原発で1989年1月6日にトラブルが発生している。冷却水再循環ポンプ内にボルトや座金が脱落、それが原子炉内に流入するという重大な事故だった。前年の暮れからポンプ内で振動があり、警報も鳴っていたのだが、東電の指示で運転を続けた結果だと言われている。

 これだけの事故であるにもかかわらず、東電や国は県へ速やかに報告していない。2002年8月には東電による点検記録の改竄を国が報告していなかったことを知る。当時の知事、佐藤栄佐久が怒り、プルサーマル計画の了承を取り消して東電管内の原発稼働を拒否した。

 佐藤知事が再稼働を認めたのは2006年7月。その時、知事の弟の祐二が土地取引に関して検察から取り調べを受けている。9月に祐二は逮捕され、県議会内では知事の辞職を求める声が高まった。そして10月、佐藤栄佐久は東京地検特捜部に収賄の容疑で逮捕される。懲役2年、執行猶予4年の判決が確定しているが、裁判の記録を読むと、冤罪だった可能性が高いと言わざるをえない。警察、検察、裁判所は支配システムの一部だと言うことを忘れてはならない。

 福島第1原発の事故後、日本中の原発が停止する。政府や電力会社は早く再稼働させようと目論むが、そのターゲットのひとつが東電の柏崎刈羽原発。

 その当時の新潟県知事、泉田裕彦は通産省(現在の経産省)出身だが、原発の再稼働は拒否する。2016年の知事選挙にも立候補する意向を示していたが、地元の新潟日報が中古フェリー購入に関する疑惑を報道して知事を攻撃、泉田はその報道を否定したものの、立候補を撤回した。現在は衆議院議員を務めている。

 その選挙で当選した米山隆一も再稼働に反対、県独自で福島第1原発事故などの検証作業を進めるのだが、2018年4月に週刊文春が知事の女性問題に関する記事を掲載、それが原因で辞任する。そして行われた2018年の選挙では自民党と公明党が支持する花角英世が当選した。

 巨大利権の原発を日本へ導入する際、中心的な役割を果たしたのは中曽根康弘である。中曽根たちは1954年3月2日、2億3500万円という原子力予算案が国会に提出している。

 中曽根が出世階段を登り始めるのは1950年だと言われている。スイスで開かれるMRA(道徳再武装運動)の世界大会へ出席したのだが、この団体はアメリカの「疑似宗教団体」で、CIAの別働隊だと見なされている。日本人としては岸信介や三井本家の弟、三井高維らが参加していた。

 そのMRAで中曽根はヘンリー・キッシンジャーなどCFR(外交問題評議会)のメンバーと知り合うことにも成功、1953年にはキッシンジャーが責任者を務めていた「ハーバード国際セミナー」に参加している。

 キッシンジャーがセミナーの責任者に選ばれたのはハーバード大学を卒業した直後の1950年だが、大学へ入る前に彼は軍のCIC(対敵諜報部)で活動しただけでなく、破壊工作(テロ)組織のOPCにも所属していたと言われている。OPCは後にCIAの秘密工作部門になる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904290000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/330.html#c6

[近代史3] マスコミは何時からフェイクニュースを流す様になったのか 中川隆
11. 中川隆[-10522] koaQ7Jey 2019年4月29日 07:34:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1564]

2019.04.29
マスコミは広告主や広告会社に弱い


 民間放送局が広告収入で成り立っていることは言うまでもないが、日本の新聞や週刊誌も購読料で儲けているわけではないようだ。利益の大半を広告収入に頼っていると言われている。購読料は配達などの経費で消えてしまうらしい。広告主のマスコミに対する発言力は大きいということである。

 マスコミの経営者は「社会の木鐸」でも「言論の自由」を守っているわけでもない。カネ儲けを目的としている。手間暇かけて中身のある報道してスポンサーと喧嘩するより、スポンサーや政府などが望む情報を流していた方が楽。それを見越してマスコミを操ろうとする人は飴と鞭を使い分ける。そうした傾向は1980年代から強まった。

 2008年11月12日にトヨタ自動車の相談役だった奥田碩は首相官邸で開かれた「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」で、「正直言ってマスコミに報復してやろうか。スポンサーでも降りてやろうか」と発言している。年金や保険の問題を批判的に取り上げているマスコミを不愉快に感じたようだ。マスコミの編集権に経営者が介入するやり方があるとも奥田は口にした。

 広告会社の影響力も強い。電通の場合、視聴率をコントロールできると言われ、それは放送局の収入に直結する。オリンピックなど大きなイベントでも利権を握っているという。かつては電力会社もマスコミの懐を潤す存在だった。そのひとつの結果としてマスコミは原発の「安全神話」を広めたわけだ。

 その神話は2011年3月11日の東電福島第1原発の事故で崩壊する。その日、炉心が溶融する大事故が引き起こされたのだ。そして日本中の原発が止まる。その停止した原発を安倍晋三政権は再稼働させようとしている。

 福島県には第1原発のほかに第2原発があるが、その第2原発で1989年1月6日にトラブルが発生している。冷却水再循環ポンプ内にボルトや座金が脱落、それが原子炉内に流入するという重大な事故だった。前年の暮れからポンプ内で振動があり、警報も鳴っていたのだが、東電の指示で運転を続けた結果だと言われている。

 これだけの事故であるにもかかわらず、東電や国は県へ速やかに報告していない。2002年8月には東電による点検記録の改竄を国が報告していなかったことを知る。当時の知事、佐藤栄佐久が怒り、プルサーマル計画の了承を取り消して東電管内の原発稼働を拒否した。

 佐藤知事が再稼働を認めたのは2006年7月。その時、知事の弟の祐二が土地取引に関して検察から取り調べを受けている。9月に祐二は逮捕され、県議会内では知事の辞職を求める声が高まった。そして10月、佐藤栄佐久は東京地検特捜部に収賄の容疑で逮捕される。懲役2年、執行猶予4年の判決が確定しているが、裁判の記録を読むと、冤罪だった可能性が高いと言わざるをえない。警察、検察、裁判所は支配システムの一部だと言うことを忘れてはならない。

 福島第1原発の事故後、日本中の原発が停止する。政府や電力会社は早く再稼働させようと目論むが、そのターゲットのひとつが東電の柏崎刈羽原発。

 その当時の新潟県知事、泉田裕彦は通産省(現在の経産省)出身だが、原発の再稼働は拒否する。2016年の知事選挙にも立候補する意向を示していたが、地元の新潟日報が中古フェリー購入に関する疑惑を報道して知事を攻撃、泉田はその報道を否定したものの、立候補を撤回した。現在は衆議院議員を務めている。

 その選挙で当選した米山隆一も再稼働に反対、県独自で福島第1原発事故などの検証作業を進めるのだが、2018年4月に週刊文春が知事の女性問題に関する記事を掲載、それが原因で辞任する。そして行われた2018年の選挙では自民党と公明党が支持する花角英世が当選した。

 巨大利権の原発を日本へ導入する際、中心的な役割を果たしたのは中曽根康弘である。中曽根たちは1954年3月2日、2億3500万円という原子力予算案が国会に提出している。

 中曽根が出世階段を登り始めるのは1950年だと言われている。スイスで開かれるMRA(道徳再武装運動)の世界大会へ出席したのだが、この団体はアメリカの「疑似宗教団体」で、CIAの別働隊だと見なされている。日本人としては岸信介や三井本家の弟、三井高維らが参加していた。

 そのMRAで中曽根はヘンリー・キッシンジャーなどCFR(外交問題評議会)のメンバーと知り合うことにも成功、1953年にはキッシンジャーが責任者を務めていた「ハーバード国際セミナー」に参加している。

 キッシンジャーがセミナーの責任者に選ばれたのはハーバード大学を卒業した直後の1950年だが、大学へ入る前に彼は軍のCIC(対敵諜報部)で活動しただけでなく、破壊工作(テロ)組織のOPCにも所属していたと言われている。OPCは後にCIAの秘密工作部門になる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904290000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/119.html#c11

[近代史3] チャンネル桜の常連の三橋貴明はチャンネル桜関係者の受け売りしかできないアホだった 中川隆
4. 中川隆[-10521] koaQ7Jey 2019年4月29日 08:24:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1565]

2019年4月29日
【三橋貴明】古代史分野の三橋貴明

三橋は別に経済学者でも経済評論家でも
エコノミストでも官僚でも政治家でもない、
ただの経営者です。

が、なぜか日本国に蔓延する「経済の嘘」を暴き、
正しい情報を広めることが仕事の一部になってしまっています。

理由はもちろん、財政破綻論をはじめ、
日本で蔓延している経済関連の情報が
「嘘だらけ」であるためです。

「日本は財政破綻する」
「日本は公共事業をやり過ぎて、借金が膨れ上がった」
「日本は輸出依存国。日本経済は中国に依存している」
「日本は人口減少で衰退する。人口減少している国の経済は成長しない」
「日本の公務員は多すぎる」

などなど、国内では嘘八百の情報が流通していましたが、
誰も「根拠」「ソース」「データ」を示さなかった。

というわけで、三橋がデータに基づき、
上記の嘘を暴いていったところ、
やたら受けてしまったのです。

恐ろしいことに、三橋以前の日本では、
データに基づき経済を論評するというスタイル
そのものが存在しないに等しかったのです。

まあ、理由は分かるのです。
何しろ、インターネットが発展し、
官公庁がWEBにアップし始める前は、

そもそも一般人が
データにアクセスすること自体が難しかったのです。

というわけで、一般人がデータに基づき発言する際には、
新聞の切り抜きを持ち歩かなければならなかった。

もっとも、新聞の記事やグラフにしても、
一時データではないため、何らかの情報操作が
なされている可能性はありました。

ちなみに、三橋が作成する膨大なグラフについて、
ある高齢の方が「一体何人のスタッフを雇っているんですか!」
と驚嘆していましたが、一人でやっています。

正直、インターネット以前の「グラフ作成業務」と、
三橋の作業では、生産性が数百倍は違うと思います。

ところで、同じく
嘘情報が蔓延してしまっているのが、歴史分野です。

特に、古代史の分野については、
歴史学者の嘘が目を覆いたくなるほど
凄まじいレベルに達しています。

昨日も書きましたが、
日本の歴史学者は古代史の基本資料である
古事記や日本書紀を無視するというか、
根拠なく否定するのです。
(その割に、中国の史書はやたら妄信する)

日本国の情報を正すために、
歴史分野においても「嘘を暴き、拡散する」
必要があると考えていたのですが、
実はこの分野には先駆者がいらっしゃいます。

「日本人ルーツの謎を解く」などの著作を出されている、長浜浩明氏です。
https://amzn.to/2L6LozM

長浜氏のスタイルは、
経済分野における三橋と酷似しています。

一次ソースから素直に「歴史」を読み解き、
現代の自虐歴史学者たちの欺瞞を次々に暴いていく。

何しろ、単にソースデータを読み解いているに過ぎないため、
長浜氏が発する「情報」は、誰も否定できません。
しかも、インターネットにより、
誰でもソースデータを確認出来てしまうのです。

自分とスタイルが似ているためというわけではないですが、
三橋は以前から長浜氏の大ファンです。

というわけで、三橋経済塾第八期第八回講義(19年8月)
のゲスト講師として、長浜氏にお願いし、
快くお引き受け頂きました(超嬉しかった!)。

それはともかく、三橋は長浜氏の後追いの形で、
ソースデータに基づき古代史を
「正す」お仕事を増やしていきます。

第一弾として、三橋初の本格的な歴史的なコンテンツ「経世史論」をリリースしました。

【経世史論〜「正しい祖国の歴史」を学び、「現代」を読み解く〜】
http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/


▲△▽▼

【三橋貴明】古代史分野の三橋貴明への2件のコメント

嘘は許さない より 2019年4月29日 8:07 AM

>特に、古代史の分野については、 歴史学者の嘘が目を覆いたくなるほど凄まじいレベルに達しています。

チャンネル桜関係者や水島総社長の問題は

人類学、遺伝学、考古学、民族学、神話学や歴史学の研究者は全員極左なので言う事は一切信用できない

という判断をしていて、

西岡力や渡部昇一の様な詐欺師や田中英道の様なパラノイアのキチガイだけを出演させて嘘八百のデマを拡散している事なんですね。

南京大虐殺や慰安婦・徴用工強制連行は既に証明されていて否定できる筈もないのに、詐欺師の詭弁で視聴者を騙そうとしている。

そもそも、吉田清治さんの慰安婦強制連行の証言でも、歴史学会では疑っている人は昔から殆ど居ないのに、まだ詐欺師呼ばわりしているんですね:

経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html

___

嘘は許さない より 2019年4月29日 8:14 AM


今は遺伝子ゲノムすべてを調べているから長浜浩明氏みたいな一昔前の話は通用しなくなっているんだよ:

サイエンスZERO 動画
日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
https://www.dailymotion.com/video/x6zpgpj

弥生人は韓国人に近い遺伝子だと思われてたが今回の調査で違うことがわかった

大がかりなDNA解析による新情報では弥生人の初期は縄文人に近い遺伝子だったが集団の戦いなどで弥生人は時代が進むにつれて韓国人のDNAに近づいて 現代日本人はほとんど韓国人のDNAと一緒になった

これ旧日本人が韓国人に大虐殺された後に中出しレイプされて生まれたのが俺たち現代日本人ってことになるぞ

ナレーション(弥生人の核DNA分析から予想された現代日本人の位置は ここ。弥生人同士がまじわって 現代日本人が成立したと考えられるからです。ところが…。)

篠田謙一:実はですね 現代日本人はもう既に この辺りだということが分かったんですね。つまり 弥生人って 混血していけば恐らく 混血する相手はこの縄文人になりますから当然 現代日本人の位置っていうのはこちらに ずれてくるはずなんですよね。ところが そうならなくてこっちに来てしまったということで ちょっと 考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり こっち(韓国人)に引っ張る 何かがなければいけないということになるんですね。

小島瑠璃子:てことは 韓国とか あとは大陸の方と多くまじわりながら人口を増やしてったのが私たちってことですか?

篠田謙一:そういうことになると思うんです。

小島瑠璃子:え〜!
https://38news.jp/default/13556



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/374.html#c4

[近代史3] チャンネル桜の常連の三橋貴明はチャンネル桜関係者の受け売りしかできないアホだった 中川隆
5. 中川隆[-10520] koaQ7Jey 2019年4月29日 09:19:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1566]
あなたのコメントは承認待ちです。 2019年4月29日 9:17 AM


長浜浩明氏の嘘は amazon のカスタマーレビューでも指摘されていますね:

古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


____

 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/374.html#c5

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
182. 中川隆[-10519] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:15:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1567]
古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RCQT9M0397NL/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4886563694


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c182

[近代史02] 弥生人の起源2 中川隆
25. 中川隆[-10518] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:15:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1568]

古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RCQT9M0397NL/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4886563694


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/549.html#c25

[近代史3] 日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか? 中川隆
34. 中川隆[-10517] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:16:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1569]

古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


____


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RCQT9M0397NL/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4886563694


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html#c34

[近代史3] 天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統 中川隆
1. 中川隆[-10516] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:18:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1570]

天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統


「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

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古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RCQT9M0397NL/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4886563694


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/316.html#c1

[近代史3] 天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨 中川隆
13. 中川隆[-10515] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:20:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1571]
古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RCQT9M0397NL/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4886563694

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html#c13

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
82. 中川隆[-10514] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:51:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1572]

天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統

外務省創価グループ、宮内庁とそのバックにいる CIAが 必死にデマを拡散していますが、天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統です。

昔は年上の兄弟はどんどん他の土地へ出て行って、末弟が最後まで実家に残るので
末弟に家を継がせるのが普通だったのですね:

「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

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古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3


内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
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皇位継承


7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,

16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,

仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で,兄弟相続が多い。

応神・仁徳を境として,皇位継承の原則に大きな変化が起こっているように見える。
しかし,父子直系相続は7世紀末以降の天皇の目ざした皇位継承法であり,兄弟相続は日本固有の継承法であることからすると,応神以前の直系相続は記紀編纂の過程で作為された可能性が強い。

また,記紀にみえる天皇の名称をみると,

7,8,9代の孝霊,孝元,開化と41,42,43,44代の持統,文武,元明,元正はヤマトネコ,

10,11代の崇神,垂仁はイリヒコ,

12,13,14代の景行,成務,仲哀と34,35代の舒明,皇極はタラシヒコ(メ),

15,17,18代の応神,履中,反正と38代の天智はワケ,

27,28,29代の安閑,宣化,欽明はクニオシ


という称をもつというように時期により特色があり,それらを検討すると

7〜9代の名称は持統以下の名称を手本に,
12〜14代の名称は舒明,皇極の名称を手本にして作られた

と推定される。

これに加えて記紀には9代までの天皇の事績については神武以外ほとんど所伝がないこと,10代の崇神が初代の天皇を意味する所知初国(はつくにしらす)天皇の称号をもつことなどから,9代までの天皇の実在性は疑われている。

10代以後も,皇居や陵墓の所在地や称号の変化などから,10〜12代の天皇は大和を根拠としていたが,15〜25代の天皇は河内平野を主要な根拠地とする別系統の天皇ではないかとして,前者を三輪政権(初期大和政権),後者を河内政権と呼ぶ説もある。

同様に26代の継体以後の天皇もそれまでとは別系統の天皇とする説もある。

これらの説に従えば,古代の皇位継承は,10代の崇神以後2度断絶したが,6世紀中葉以降に,万世一系の思想により崇神からはじまる一系統の系譜にまとめ,さらに崇神以前の系譜をつぎ足したということになる。

しかしこれも一つの解釈ないし仮説であって,古代の皇位継承にはなお多くの疑問が残っている。
→王朝交替論
[直木 孝次郎]

皇嗣の冊定

大化以前の皇位継承については,天皇が任意に選定したとする中田薫の選定相続説,天皇が神意により卜定したとする滝川政次郎の卜定相続説,末子相続から兄弟相続への移行を説く白鳥清の兄弟継承説,あるいは大兄(おおえ)(同腹中の長子)からその兄弟,ついで大兄の子の順に継承反復したとする井上光貞の大兄相続説などがある。

そして天智朝に至り,中国より継受した嫡長子相続主義にもとづく皇位継承法が定められたとも説かれている。

しかし爾後の実例に徴すると,皇嗣の選定は,嫡系男子の優位を認めながらも,天皇(あるいは上皇)の勅定するところであり,明治の皇室典範制定以前は,立太子の詔において初めて皇嗣を冊定するのを本則とした。

ただ立太子の儀はときに省略された例も少なくなく,ことに室町時代から江戸初期にかけて中絶したが,霊元天皇がこれを再興するに当たり,立太子に先立ち朝仁親王(東山天皇)を儲君(ちよくん)に治定したのが例となって,明治の嘉仁親王(大正天皇)の立太子に至るまで,儲君治定が実質的な皇嗣冊立を意味した。

皇位継承の資格

皇位継承者は,いうまでもなく皇親に限られる。

推古天皇をはじめ皇后から皇位を継いだ例も数例あるが,皇曾孫の皇極,皇孫の元正以外の女帝はみな皇女である。

継嗣令に〈女帝子〉の語が見えるから,令制では女帝の存在を公認しており,江戸中期の後桜町まで10代8女帝が生まれたが,いずれも中継ぎ的色彩が濃く,やはり皇男子の継承が本則であったとすべきであろう。

平安・鎌倉時代には,いったん臣籍に降下したのち,さらに皇籍に復した例が数例あり,そのうち光孝の皇子定省(宇多)は皇位にのぼったが,やはり変則であろう。

皇位継承の原因

上古の皇位継承は,天皇が没することによって行われたが,645年(大化1)皇極が孝徳に皇位を譲って譲位の例を開いてからは,明治まで87代中(北朝天皇を除く)56代の天皇が譲位によって皇位を継いだ。

天皇譲位の場合には,皇嗣が禅(ゆずり)を受けて直ちに践祚(せんそ)するのを常例としたが,天皇が没した場合には,没時と践祚との間に時日を要した例も多く,ことに上古においては数年月を経ることもあった。

また鎌倉時代以後は,皇嗣の選定について朝廷と幕府の間の交渉に日時を要した場合も数例ある。

なお斉明の皇太子中大兄(天智天皇),天武の皇后鸕野讃良(持統天皇)は,天皇没後,皇位につかずに数年にわたり執政したが,これを〈称制(しようせい)〉といった。

81代安徳が平氏に擁されて西海に幸した後,京都において後鳥羽が践祚し,1年余にわたって2人の天皇が存立し,また96代後醍醐の譲位否認のもとで光厳が践祚し,爾後50余年にわたって南北両朝が併存対立した。

また天皇がいったん譲位したのち,再び皇位についたことが2度あり,これを重祚(ちようそ)という。

35代皇極が重祚して37代斉明となり,46代孝謙が重祚して48代称徳となったのがそれで,ともに女帝にして,特殊な政情によるものである。
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=128  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c82

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
83. 中川隆[-10513] koaQ7Jey 2019年4月29日 11:02:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1573]

2世紀にソウルから北九州伊都国に移住してきた天皇一族は大和に天孫降臨

畿内に先住していた縄文人・弥生人を征服、
若い女性以外は全員殺して、若い女性をレイプしまくって生まれたのが畿内人だった:


サイエンスZERO 動画
日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
https://www.dailymotion.com/video/x6zpgpj


弥生人は韓国人に近い遺伝子だと思われてたが今回の調査で違うことがわかった

大がかりなDNA解析による新情報では弥生人の初期は縄文人に近い遺伝子だったが集団の戦いなどで弥生人は時代が進むにつれて韓国人のDNAに近づいて 現代日本人はほとんど韓国人のDNAと一緒になった

これ旧日本人が韓国人に大虐殺された後に中出しレイプされて生まれたのが俺たち現代日本人ってことになるぞ

ナレーション(弥生人の核DNA分析から予想された現代日本人の位置は ここ。弥生人同士がまじわって 現代日本人が成立したと考えられるからです。ところが…。)

篠田謙一:実はですね 現代日本人はもう既に この辺りだということが分かったんですね。つまり 弥生人って 混血していけば恐らく 混血する相手はこの縄文人になりますから当然 現代日本人の位置っていうのはこちらに ずれてくるはずなんですよね。ところが そうならなくてこっちに来てしまったということで ちょっと 考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり こっち(韓国人)に引っ張る 何かがなければいけないということになるんですね。

小島瑠璃子:てことは 韓国とか あとは大陸の方と多くまじわりながら人口を増やしてったのが私たちってことですか?

篠田謙一:そういうことになると思うんです。

小島瑠璃子:え〜!
https://38news.jp/default/13556

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被差別同和部落の起源 _ ソウルから日本に移住した天皇一族が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した


同和部落民は日本に先住していた縄文人・弥生人の末裔

朝鮮から渡来した漢民族の天皇一族が畿内を完全に乗っ取って、被支配者の縄文人・弥生人を迫害してエタ地域に隔離したのが同和部落の起源


▲△▽▼


畿内の被差別部落民は日本先住の縄文人・弥生人の子孫

2013年12月17日 形質人類学のデータ

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、


部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。


とし、


頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。


と書き、さらに、


大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。


と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html


▲△▽▼


小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」
『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号

畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。

このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
一致することは興味深い(以上、75頁)

(追加)形質人類学的にみた未解放部落

われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。

(中略)

身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。

大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
(大阪大学医学部教授)


▲△▽▼


網野善彦 『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』 岩波現代文庫

私がこの『東日本と西日本』を読んで、とくに衝撃をうけた記憶がはっきりとあるのは、小浜基次さんの論文でした。

小浜さんは大阪大学の名誉教授で、形質人類学・解剖学の専門家、1904年に生まれ、1970年に亡くなっておられます。

この文章は短いものですが、小浜さんは形質人類学の立場から日本列島の、
東と西に住む人びとの差異をいろいろな角度から指摘しておられます。

その中で私がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びとがきわめてよく似ており、
形質上は同じであると指摘されている点です。

そしてそれに対して、山陰・北陸と東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人の違いに比べて、
はるかに大きく、東北、北陸の人びとはむしろアイヌに近いと小浜さんは強調しておられます。

これは頭部の特性、短頭、中頭、長頭をはじめ、身体的な特質から導き出された結論ですが、
さらに衝撃だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。

小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、
被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たちだというとらえ方をする人たちが、実際に関西では少なからずあったと思います。

これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、
差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。

小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。


▲△▽▼


埴原和郎 東京大学・国際日本文化研究センター各名誉教授

私どもが行った現代日本人頭骨の分析からみても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で“特殊な日本人”ともいえる。

その理由は、この地方で渡来系集団の影響がきわめて濃厚であるためと
想像されるが、このような傾向は、すでに古墳時代に現れていたといえる。

時代はやや下がるが、平安時代に編纂された『新撰姓氏録』によると、
畿内の氏族一一八二氏のうち、ほぼ三分の一が渡来系の氏族といわれる。
とくに新羅系の秦氏、百済系の漢氏、高句麗系の高麗氏などは
代表的な氏族で、ともに畿内を中心として、ほぼ全国に拡散した。

この他、日本書紀や続日本紀などにある渡来人の歴史をみれば、
近畿地方に渡来系の特徴が濃厚に残っていることは当然ともいえる。
そして人骨の研究からこれが裏付けられることは、日本人および
日本歴史を考えるうえできわめて重要である。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c83

[近代史3] チャンネル桜の常連の三橋貴明はチャンネル桜関係者の受け売りしかできないアホだった 中川隆
6. 中川隆[-10512] koaQ7Jey 2019年4月29日 11:09:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1574]

嘘は許さない より 2019年4月29日 11:06 AM


2世紀にソウルから北九州伊都国に移住してきた天皇一族は大和に天孫降臨
畿内に先住していた縄文人・弥生人を征服、
若い女性以外は全員殺して、若い女性をレイプしまくって生まれたのが畿内人だった:


サイエンスZERO 動画
日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
https://www.dailymotion.com/video/x6zpgpj


弥生人は韓国人に近い遺伝子だと思われてたが今回の調査で違うことがわかった

大がかりなDNA解析による新情報では弥生人の初期は縄文人に近い遺伝子だったが集団の戦いなどで弥生人は時代が進むにつれて韓国人のDNAに近づいて 現代日本人はほとんど韓国人のDNAと一緒になった

これ旧日本人が韓国人に大虐殺された後に中出しレイプされて生まれたのが俺たち現代日本人ってことになるぞ

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被差別同和部落の起源 _ ソウルから日本に移住した天皇一族が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した

同和部落民は日本に先住していた縄文人・弥生人の末裔

朝鮮から渡来した漢民族の天皇一族が畿内を完全に乗っ取って、被支配者の縄文人・弥生人を迫害してエタ地域に隔離したのが同和部落の起源

▲△▽▼

畿内の被差別部落民は日本先住の縄文人・弥生人の子孫

2013年12月17日 形質人類学のデータ

エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、

部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。

とし、

頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

と書き、さらに、

大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。

と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。

▲△▽▼

埴原和郎 東京大学・国際日本文化研究センター各名誉教授

私どもが行った現代日本人頭骨の分析からみても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で“特殊な日本人”ともいえる。

その理由は、この地方で渡来系集団の影響がきわめて濃厚であるためと
想像されるが、このような傾向は、すでに古墳時代に現れていたといえる。

時代はやや下がるが、平安時代に編纂された『新撰姓氏録』によると、
畿内の氏族一一八二氏のうち、ほぼ三分の一が渡来系の氏族といわれる。
とくに新羅系の秦氏、百済系の漢氏、高句麗系の高麗氏などは
代表的な氏族で、ともに畿内を中心として、ほぼ全国に拡散した。

この他、日本書紀や続日本紀などにある渡来人の歴史をみれば、
近畿地方に渡来系の特徴が濃厚に残っていることは当然ともいえる。
そして人骨の研究からこれが裏付けられることは、日本人および
日本歴史を考えるうえできわめて重要である。
https://38news.jp/default/13556
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/374.html#c6

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
199. 中川隆[-10511] koaQ7Jey 2019年4月29日 12:03:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1575]

平野憲一の株のお話 2019.04.29 ここで役立つ相場格言 その2


 ここで役立つ相場格言 その2


 相場は最後が大きい : 
平成バブル相場は平成元年に天井を打ちましたが、その年1年で1万円上がりました。正に最後は火のついたような活況相場でした。今は不透明感や不安感の方が幅をきかせ、大きな上げ相場と言うイメージではありません。従って最後では無いと言う事が言えます。

 相場が変われば作戦を変えよ : 
2万2000円や200日移動平均線にはね返されてきた相場は、その重要なポイントを越えました。今までは吹き値売りでおおむね成功でした。しかし相場は重要ポイントを越えた事により、「吹き値売り」から「押し目買い」に変わりました。
http://kasset.blog.fc2.com/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c199

[昼休み54] 太陽光発電は国家経済を破綻させ環境も破壊する 中川隆
32. 中川隆[-10510] koaQ7Jey 2019年4月29日 12:09:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1576]

2019年04月29日
2021年に再エネ固定価格買取を廃止 市場制度に移行


事業用は14円だが将来は8円程度まで下がるでしょう


画像引用:ソーラーサポートセンター太陽光発電の売電価格推移表https://sorasapo.com/wp-content/uploads/2018/12/solar-feed-in-tariff-taransition-graph-2019.png


固定買い取り価格は廃止へ

経済産業省は固定価格買い取り制度(FIT)の廃止に向けた検討を始めた。

4月に開催された再生可能エネルギー大量導入・次世代電力ネットワーク小委員会では、固定価格から変動価格への移行が提言された。

現在のFIT制度は「市場から隔離されている」として、市場取引をベースにした新たな仕組みを検討するとしている。




再生エネルギー固定買取価格は2012年に42円(住宅用)と40円(事業用)で始まりました。

通常キロワット27円で販売する火力や原子力は7円以下で発電しているので、約6倍で買い取っていた。

割高な分は電気料金として毎月上乗せされ、平均的な家庭で現在770円ほど支払っています。


一方本来7円程度の価値しかない電力を40円で買い取って貰った発電事業者は大儲けし、新エネルギーブームが起きた。

ストレートに言えば全家庭が毎月700円を支払って、売電事業者が受け取っている構造です。

日本の再生エネルギー比率は水力を除くと8%程度で、さらにバイオマスも除くと5%程度です。


にも拘わらず毎月の電気料金は既に770円上昇しているので、再生エネルギーが20%になったら毎月2千円くらいになるでしょう。

固定買取価格は年々引き下げられて2019年度は事業用14円、将来は10円以下まで引き下げられる。

8円以下まで引き下げられると他の発電方式と対等になり、固定買取価格の必要もなくなる。

太陽光と風力を増やせない事情

固定価格買取が始まったのは2009年で10年間の契約、2012年から契約期間20年になり2032年まで40円で買い取ります。

今振り返るとあまりにふざけた制度で、本来7円の価値しかない電力を20年間に渡って40円で買い取っている。

買取価格は10円以下に引き下げられるが、今までに契約した事業者の買取価格は稼働した年の買取価格のままです。


ここにメスを入れるべきなのだが、買取価格全体を引き下げるために、新規参入者から買い叩こうとしています。

市場と連動した価格制度ではおそらく、火力発電などの発電コストが上昇すると太陽光などの買取価格も上昇するでしょう。

天候が悪いなどの気象条件によっても、太陽光や風力の買取価格は変動するでしょう。


太陽が出ず無風だと自然エネルギーの発電量は減るので、その時だけ買取価格が上昇してもトータルの売り上げは減少する。

エネルギー基本計画では再生エネルギーは全体の22%程度で原発も20%程度、火力が55%程度となっています。

再生エネルギーの半分は水力や地熱なので、太陽光や風力は実質10%と低く抑え込まれています。


こうなった理由は発電コストの高さで、他の発電方法の2倍以上で買い取ったら電気料金が上昇し国際競争力が低下してしまう。

欧米では風力や太陽光のコストが安い例もあるが、詳しくつっこむとどれも補助金適用後の入札価格にすぎない。

欧米では自然エネルギーに膨大な補助金を使っていて、一見すると火力や原子力より安く見せかけている。


日本は補助金を適用する前の「生の数字」で議論しているので、欧米より非常に高くなります。

今後は本当に低コストで発電できる事業者だけが生き残り、コスト高の事業者は全滅します。
http://www.thutmosev.com/archives/79692160.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/144.html#c32

[リバイバル3] 音がわからないアホ・オーディオマニアが良く引用する「オーディオの科学」の何処がおかしいか 中川隆
21. 中川隆[-10509] koaQ7Jey 2019年4月29日 12:11:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1577]

自宅システムのサウンドが変わり始めた - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年04月29日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/d76e973246c81fbb12cc35317bb7db18

4月17日にエクスクルーシブ M4パワーアンプが修理を終えて帰って来た。(パワーSWのO/H)その後毎日4時間ほど鳴らし込んでいる。一昨日まで4日間ほど、アンプのSWを入れてから1時間ほど経つとRchから音が出たり、出なかったりを繰り返していた。(アンプが温まると出る不具合?)

それが昨日から治った様だ。それと共にサウンドも大分良くなって来た。以前は「線の細い音」でとても褒められたものではなかったが、大分「太い音」に変わって来て、ピアノの左手のサウンドに実在感が出て来た。高域も特に線が細かったがそれも解消されて来た。

今までも「こんなサウンドが本来のサウンドではない」と思っていたので、「鳴らし込み」で変わって来ると経験上確信していた。それが如実に良い方向に変わって来てくれている様だ。まだまだ良くなってくると思っている。

電源・電源ケーブル・ラインケーブル・SPケーブル・SP箱内配線(ユニット配線)と全ての接続をNo1グレードのケーブルで揃えている。行く着く先は「オリンパスクラス」のサウンドになる筈だと思っている。多分1年ほど「鳴らし込み」をしないとそこまでは行かないだろうと、最初から考えていた事なのでまだ途中経過である。

予測通りにサウンドが変わり始めている・・・期待出来そうだ。

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音楽を聴くには体力(持久力と筋力)と血流対策が必要

2019年04月28日 | ピュアオーディオ

15年も音楽三昧をしてくると「体力」と「血流」への対策が必須だと感じる。1日2時間程のヒアリングなら「癒し」の効果が得られるだろうが、4時間以上/日も毎日聴いてくると「運動不足」で体力が落ちて来る。

「音楽を聴く」と云う行為は、真剣に音楽と向き合えば向き合うほど、身体を動かさないでじっと聴き込むはずだ。これは精神面では特に問題にはならないが、体力面や血流面では大きな問題となって来る。

リクライニングシートに座って4時間以上、毎日ヒアリングを続けていれば運動機能が下がると共に、体内の血流もおかしくなってくる。オーディオ評論家諸氏に「早死傾向」が有る事は良く知られている。SS誌の執筆家、岩崎氏や瀬川氏、浅沼氏等60歳前に亡くなっている。

オーディオ評論をまじめにやればやるほど、「聴く時間」が増える=「不健康な時間」が増える・・・と私は思う。だから私は25年前から1万歩/日の運動を欠かさない。それでも足りないくらいだと思っている。やはりスポーツをして身体に負荷を掛けてやらないとじり貧になって来ると感じる。

長くオーディオを楽しむためには、体力・筋力・循環力(血の)を維持してやらないと、早死にしてしまうと思う。何事も「ほどほど」が良いのかも知れない。あまりに根を詰めた様な行動は何処かに無理が出て来る。

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まだまだ修理をしなければならない

2019年04月27日 | ピュアオーディオ

自宅のEMT#981が「読み込み」不良になって来ました。5月には修理に出す予定でしたので特に慌てる必要は有りませんが、自宅でCDが聴けなくなる事はチョッとストレスになりますね。おそらく「電源部のコンデンサー」が熱で消耗しているんだと思う。このCDPは電源部(ピックアップユニットの近く)でかなりの発熱をします。

自宅システムは最近音のバランスがおかしい?「音の出方」もおかしい?・・・「ふん詰まり」の症状みたいだと感じている。音自体は出ているが、「中低域の押し出し感」が無くなっている。いつも聴いている音楽をかけると「おかしい?」と感じるのだ。

M4パワーアンプ電源ラインを本来のラインから取り始めたので、「負荷」が大きくなっている(伝送容量が大きくなっている)と思う。まだその容量に対応できなくて「ふん詰まり」を起こしている。この様な経験は十分しているので「時間」だけが解決してくれる。久しぶりに「典型的」な「ふん詰まり」の症状を経験した・・・と思っている。更なる不具合につながらなければ良いが・・・。

いつも聴く音量が小さくて(アッテネーター切り替えレベル”0”ポジションだと1クリック)厳しい使い方だとは思う。C3には本来のボリュームとは別にアッテネーター切り替えレベルが@0db A-15db B-30db となっている。いつも聴く音量だと、@0dbだと1クリック(7時方向以下) A-15dbだと9時の方向 B-30dbだと10時の方向・・・このアッテネーターの切り替えレベルでも「音のバランス」が変わって来る。

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Lo-D HS-01 システムのサウンド

2019年04月26日 | ピュアオーディオ

先週から鳴らし出したLo-D HS-01システム。5pフルレンジスピーカーです。周波数帯域 :150Hz〜20kHzとなっていますが、中域専用の音の様な感じです。10KHz以上は出ていない様な・・・。

とにかく「威圧感」が有りません。現在はカーペンターズを録音したMD専用で鳴らしています。サブシステムのD208システムを聴いてからでも「威圧感」を全く感じません。口径が5pですので箱のサイズ:幅68x高さ88x奥行58mm 重量 :0.55kgと片手に載るサイズの可愛いSPです。

このSPに「音質」を期待してはいけません。ただ鳴ってくれれば良いのです。そう云うものだと思います。現在はBELDEN9497 スピーカーケーブルを接続して鳴らしています。壁掛け用のフックが有れば壁に引っかけて使える様になっています。

「このSPで良いや」と思える日が来た時は「オーディオも終わり」の時の様に思います。

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LE8Tシステム復元完了

2019年04月25日 | ピュアオーディオ

月曜日に修理を終えて発送されたLE8Tユニットが到着しました。早速エンクロージャーに組み付けてセットを完了。

ソースは先日FMエアーチェックしたドボルザーク「新世界」交響曲(カラヤン/ベルリンフィル1964年録音)(MD)です。たまたま今日のメインシステムの演目です。全曲を一気に聴きました。思いの外低音が伸びているので満足でした。

このLE8Tユニットはうまく出来ています。きちんとセッティングして高性能なケーブル類やアンプを使うと、その素性をそのまま出して来ます。シンプルな20pフルレンジなのですがバカに出来ないサウンドを出して来ます。アンプ類はケンソニックのC200+P300です。こちらも修理上がりで調子が良くなっています。

これでサブシステムの修理関係は終わりです。残るは自宅システムを完成をさせる事。現在、「鳴らし込み」の状態で決してC3+M4の組合せに満足している訳では有りません。アンプ類はまだまだ変遷が有るのか?疑問符が付きます?C3+M4の組合せではまだまだ・・・の状態。鳴らし込みで大きく変化してくれれば評価も変わります。現在は自作管球プリ+WE101Dppパワーアンプの「ドラマチック」な表現に対抗出来ていません。何かアッサリした音なのです。もう少し充実したサウンドが出ても良いと思っています。鳴らし込みをしながら待たざるを得ないのかな?・・・と思っています。

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サブシステムをまず1セットに減らそう・・・

2019年04月24日 | ピュアオーディオ

「機器のお守り」でやや疲れ気味。サブシステムが3セット有り、数を減らしたいと思っている。1セットはつい最近増設したLo-d Hs-01システム、こちらはサトリアンプ専用のお守りSP。(こちらは場所を取らないので温存)減らす対象はD208とLE8T。どちらも処分しようかと考えている。そして新たなSP1セットにしたい。

そうなるとアンプ類が余ってしまうが、余ったアンプも処分してしまおうと思う。余計なアンプが有るからSPを買ってシステムを作ってしまう。アンプが無くなれば「諦め」も付く。取り敢えず、ディネッセンのアンプは息子宅に出そうと思う。そうすると彼の処は3台のアンプがTr化される。現在クレル:KST-100、LUXMAN:M-06αと管球アンプ1台の組合せ。本人の希望でTr型アンプへの換装が実現する。どの機種が低域・中域・高域になるかは分からないが彼に任せればよい。更に「低域用」のアンプを200W級に入れ替える予定している。

管球アンプの寿命は長い。下手なTr型アンプより長く持つ。音質も「音の厚み」や「滑らかさ」が有り使いやすい。ただ「低域」の再生だけは「Tr型」の方がキレが有り反応や質感が良い。管球式では低域が丸くなってしまう。その為、メインのオリンパスシステムでも低域はM・レビンソンのNo431L(200W/ch)を使っている。

次に購入するSPは決めている。やはり30pウーハークラスは外せない。38cmクラスになると重量が出て来て一人では動かせない。また38cmクラスでは「スペース」の問題も出て来る。既にメインの2セットが38cmクラスなのでそこまでサブシステムに拘る必要もない。目的が有ってサブシステムを置いているのでその目的を果たせば良い。

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LE8Tも修理完了

2019年04月23日 | ピュアオーディオ

先週修理に出したLE8T(ショート)も修理が完了した。修理代を払ったので今頃は運送途中で有ろう。今回は自分で壊してしまったのだから仕方がない事。修理費用だけが痛い。

一つ不具合が出ると「負の連鎖」が続くモノだ。今月は「修理」ばかりだった様に思う。この際思い切って悪い処や気になる処、騙して使って居る処を直してしまいたいと思っているが「修理代」もバカに出来ない。もう少し時間をかけてじっくりと「正常化」を図って行きたい。「不具合」を溜めない事だ。今まで不具合を溜め過ぎていた。

毎日、サブシステム1→サブシステム2→サブシステム3→メインシステム→自宅システムの順番で鳴らしている。やはり一寸システム数が多い・・・と思う。これでは「お守」ばかりして音楽を楽しめないでいる。アンプも全く眠っているものが4台も有る。持ち過ぎだと思う。早く処分したいと思うが・・・「思い入れ」が有るとなかなか踏ん切りが付かない。「優柔不断」に陥っている。

メインシステムと自宅システムでは最低2時間は「音楽」を楽しむ様にしている。最近はショスタコービッチ:JAZZ組曲1・2番やマーラーシンフォニー1番等を良く聴く。一つのシステムでじっくり聴けるのは2時間が限度。それ以上は体力的に問題が出て来る。先の日曜日はヤルヴィさんがハンス・ロットの交響曲1番をNHK交響楽団で指揮していました。初めて聞く名前なので興味津々で4楽章すべて聞いていました。まだ知らない作曲家や曲が沢山有ります。一杯聴きたいとも思うが、好きな曲の方につい手が伸びてしまう。

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ケンソニックC200+P300の組合せ

2019年04月22日 | ピュアオーディオ

ケンソニックのC200+P300は45年前のアンプです。購入したのは当時憧れていましたが、若干20歳の私には買えない代物でした。あれから45年、中古で廉価で手に入る様になりました。購入にあたって「古すぎてパーツが壊れて故障の連続」と云うのを危惧していました。

実際に購入して1年半にもなります。最初の1年は「眠っていたアンプ」特有の「半導体」が蘇る時に変な音が出ましたが、特にトラブル無く使えました。しかし、P300のSW ON後の「立ち上がり」時になかなかリレーが入ってくれません。そこで今回修理に出しました。修理を終えて帰って来たP300がアッテネーターのガリも無くなりほぼ正常になりました。これからは安心して使えると思います。

「オーディオ全盛時代」の幕開けの「フラッグシップモデル」ですので良い部品を使って有る様です。同時期のパイオニアのエクスクルーシブC3+M4も同じ様に「しっかりした部品」を使って有り、45年経った今でも壊れないですね。当時は「手作り」に近い作り方をされており、修理もパーツ1個1個が交換できる様に作られています。その意味では後の「リフロー半田」の様な「基板毎の交換」見たいな事は有りません。

今後はこのC200+P300がサブシステムのメインになると思います。プリアンプは殆どトラブル無く今までも使えています。丈夫なアンプですね。

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ディネッセンの「アンタレス」パワーアンプ

2019年04月21日 | ピュアオーディオ

ディネッセンのパワーアンプ「アンタレス」は非常に珍しいアンプです。デバイスはFETです。今年このアンプは「処分」しようと予定していたのですが、「残留ノイズが有る」と正直に書いていたら買い手が付かなかったので、改めて聴き直して見たらかなり良いサウンドがしそうだと思い直し、今回「ノイズ取り」の修理に出しました。出ていた「残留ノイズ」は「グランドアース」が十分とれていない症状・・・に思えました。

今回「ゴッドハンド」にお願いして、グランド配線の引き回しを再点検していただきました。その結果、意味不明の「引き回し」が有ってノイズを拾って居たみたいだ・・・との事で、グランドアースを引き直していただきました。

修理が終わったアンプを繋いで「ノイズ確認」・・・D208ユニット(97db/m)に耳を当てて確認しましたが、可聴帯域のノイズはほぼ取れています。これなら「実用」に出来ます。早速鳴らして見ました。ダイナミックレンジが広がっています。当然「音数」や「スケール感」も増えています。組み合わせた管球プリアンプの良さが出ているのか・・・艶やかで細やかさがでて非常に良い感じです。しばらく鳴らし込んで後日ヒアリングの感想を述べたいと思います。

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Lo-D HS-01 システム

2019年04月20日 | ピュアオーディオ

暇を見つけてはまた新しいシステムを構築。「Lo-D HS-01」と云う超ミニSPを鳴らすシステムです。目的は「サトリアンプのお守り用」です。ついでにアイソレーション電源も不具合品を購入。こちらも今回修理して使える様にしました。このアイソレーション電源は「70W仕様」ですので、メインシステムで使うなら、CDPやプリアンプぐらいしか使えません。省エネタイプのサトリアンプ専用になります。

「Lo-D HS-01」は実物を見たのは初めてですが、本当に「超」が付くほど小さいですね。小さいけれど金属エンクロージャーでズッシリしています。周波数特性的に下が150Hzくらいまでしか出ませんので、まさに「BGM」SPとして最適です。ウーハーを追加して大型化する事も出来ますが、オリジナルの状態で使います。

早速鳴らして見ました。ソースはMD。かわいらしいサウンドです。カーペンターズを鳴らしています。フルレンジですので「ヴォーカル」ものが合いますね。意外とエネルギー感や広がり感があります。真夜中用のシステムとしても使えます。何より「場所」を取らないのが良いです。まだ着いたばかりで1時間も鳴らしていません。じっくりと聴きこんでからまたコメントしましょう。



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/881.html#c21

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
183. 中川隆[-10508] koaQ7Jey 2019年4月29日 13:47:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1578]


「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く! (宝島社新書 296) – 2009/9/10
安本 美典 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4796673482?_encoding=UTF8&isInIframe=0&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books&showDetailProductDesc=1#product-description_feature_div

内容紹介

箸墓の出土物が放射性炭素年代測定で卑弥呼の生きた時代と一致したとの発表で、邪馬台国畿内説がいっきに盛り上がってきました。しかし、そもそもこの発表の真偽のほどが疑わしく、さらに考古学的な事実や文献学的な史実からかけ離れた邪馬台国畿内説には、まったく根拠がないのです。著者は邪馬台国北九州説の立場から、「邪馬台国畿内説、箸墓=卑弥呼の陵墓説」を、舌鋒鋭く粉砕します。

内容(「BOOK」データベースより)

よそおいは「科学的」、内容は「支離滅裂」!歴博の研究グループの「炭素14年代測定法」による「箸墓古墳は卑弥呼の墓説」は、捏造に等しい。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

安本/美典
1934年、中国東北(旧満州)生まれ。京都大学文学部卒業。文学博士。産業能率大学教授を経て、現在、古代史研究に専念。『季刊邪馬台国』(梓書院発行)編集責任者。「邪馬台国の会」主宰者。情報考古学会会員。専攻は日本古代史、言語学、心理学。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


カスタマーレビュー

hira
筆者の主張を知りたければ、『邪馬台国への道』を読むべき! 2019年3月20日


 本書は、国立歴史博物館の研究グループが、炭素14年代測定法により、箸墓古墳を3世紀半ばの造営と推定できたので、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が有力だと、発表したことへの批判から、はじまっていますが、結局は、代表作

『邪馬台国への道』
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93&i=stripbooks&adgrpid=60278501504&gclid=EAIaIQobChMIj-_P37704QIVVbaWCh1FmQf7EAAYASAAEgKPmvD_BwE&hvadid=338592697130&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=13828832324121605197&hvtargid=kwd-334597022393&hydadcr=16037_11170827&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_41xwlnckqn_e

で、取り上げられた説の繰り返しが、大半です。

 しかも、それらの説の根拠が、本書であまり記述されていないので、ここでは、それらを次のように、まとめましたが、その中には、前提が怪しく危うい説も、散見できます。


○邪馬台国=畿内説は、成り立たず

 邪馬台国論争は、「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国が、どこにあったかよりも、当時の日本列島で、最も繁栄していたのは、どこだったかのほうに、論点が摩り替えられ、本来は、青銅器・鉄器や土器等の出土と無関係ですが、筆者も、それを持ち出しているので、ますます混乱しています。

 「魏志倭人伝」によると、帯方郡〜邪馬台(壱)国間が、1万2000余里、帯方郡〜狗邪韓国間が、7000余里、狗邪韓国〜対馬国間・対馬国〜壱岐国間・壱岐国〜末盧国間が、それぞれ1000余里、末盧国〜伊都国間が、500里なので、伊都国〜邪馬壱国間が、1500余里以内となります。

 1500余里は、対馬国〜壱岐国間の約1.5倍なので、地図上で、どうみても、近畿まで到達できず、九州の北半分が限界なうえ、方位と距離の両方の書き誤りとなれば、「魏志倭人伝」自体の信憑性が、疑問視されるので、邪馬台国=九州北部説とみるのが、妥当です。

 ちなみに、対馬・壱岐の規模は、それぞれ400余里四方・300里四方、「魏志韓伝」によると、韓(馬韓・辰韓・弁韓)の規模は、4000里四方とあり、当時の1里=75〜90mで、1500余里=112.5〜135kmと算出できます。

 邪馬台国を、筆者は、福岡県朝倉市(平塚川添遺跡)付近に、想定していますが、納得できる根拠は、地名を列挙する程度で、希薄です。

○箸墓古墳=卑弥呼の墓説も、成り立たず

 邪馬台国=九州北部説が、妥当なので、箸墓古墳=卑弥呼の墓説は、当然成り立ちませんが、筆者は、歴博の研究グループが、不確実な炭素14年代測定法で、ホケノ山古墳・箸墓古墳等を、3世紀代と推定したことに反論し、4世紀代だと主張しています。

 特に、土器付着の炭化物は、実際より古い年代を示すようで、今後の科学的知見がないと、何ともいえませんが、大和での大型の前方後円墳の林立が、3世紀代からか、4世紀代からで、状況が多少異なり、筆者は、歴博の研究グループが、邪馬台国=畿内説を有利に、導こうとしたと指摘しています。

○天皇の平均在位年数

 筆者は、21〜50代の天皇29人(39代を除外)が、478(21代=倭王武が、宋皇帝に朝貢)〜793.5(50代の在位が、781〜806年と長期なので、その半分を算入)年の316年間なので、天皇の平均在位年数を、約10年(10.88年)としています。

 これは、神功皇后(14-15代の間)を5世紀初め(400年)に、崇神天皇(10代)を4世紀半ば(360年)に、位置づけることを中心に、組み立てられ、5世紀初めは、倭が、朝鮮半島へ渡海し、高句麗との交戦を断続的に開始した年代、4世紀半ばは、崇神天皇陵とされる行燈山古墳が造営された年代です。

 ですが、行燈山古墳=崇神天皇陵といえない等、各天皇の実在性・事績等は、不確定で、それら以前でも、10年/人を微妙に調整しており、崇神の9代前の神武天皇(初代)を3世紀後半(280〜290年)、神武の5代前のアマテラスを3世紀前半(239年)としています。

○邪馬台国東遷説への疑問

 この説は、3世紀前半に、九州北部にあった邪馬台国の一派が、いったん日向へ、そこから3世紀後半に、大和へ移動し、朝廷を樹立したとする主張で、これと整合させるため、筆者は、アマテラス=卑弥呼を3世紀前半に、神武天皇の東征を3世紀後半に、推定したとみられます。

 「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで、筑紫城に居住し、神武天皇から、大和州へ移住したとあります。

 また、「宋史日本国伝」では、初代がアメノミナカヌシ、23代(「新唐書日本伝」を訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 ただし、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 他方、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、移住直後は、まだ統治基盤が落ち着かないと推測されるので、東遷説と結び付けにくく、神武東征の時期が、もう少し古くないと、納得困難でしょう。

 東遷説の時期は、2世紀後半の倭国乱きっかけと、3世紀半ばの邪馬台国と狗奴国の戦争きっかけがあり、筆者には、3世紀前半に、後述の卑弥呼=アマテラス説があるため、3世紀後半を想定していますが、前述の鉄器の出土数の比較を勘案すれば、2世紀終りのほうが、妥当です。

 私は、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみており、17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、天皇の在位期間の平均が、約12年/人となります。

 1〜16代の17人を、12年/人とすれば、崇神天皇(10代)の即位は、4世紀初め(304年)になり、大和に大型の前方後円墳が林立しはじめた時期と合致し、神武天皇(初代)の即位は、2世紀終り(196年)になり、倭国乱後と合致します。

 そもそも、卑弥呼や壱与を輩出した邪馬台国が突然、遷都する理由はなく、大和に九州の影響が、ほとんどないので、もし、あるとすれば、倭国乱で敗走した勢力が、一時日向へ避難し、そこから大和へ進出した可能性で、それなら当時は、準構造船か丸木舟しかないので、東遷でなく、集団移住程度です。

 なお、九州北部(夜須町)と畿内(大和郷)の地名の一致は、天皇による東遷でなく、有力豪族でも成り立つうえ、斉明天皇(37代)が、新羅派兵で(白村江の合戦前)、朝倉宮まで出陣し、約3ヶ月生活したので、その際に命名した可能性も捨て切れず、これだけでは、東遷説の根拠といえません。


○卑弥呼=アマテラス説への疑問

 「日本書紀」では、神功皇后を卑弥呼と同一視しており、筆者は、卑弥呼をアマテラスに比定していますが、そもそも記紀神話で、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)は、6種類あり、そのうち、アマテラスが天皇の祖先なのは、「古事記」と「日本書紀」本文の2つです。

 そこでは、5男神(長男が天皇の祖先・アメノオシホミミ)が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘となっています。

 一方、「日本書紀」一書第一・第三と次の段の一書第三の3つは、5男神が、スサノオの息子、3女神が、アマテラス(日の神)の娘となっています(「日本書紀」一書第二の1つは、どちらの子供か、明記されていません)。

 ここから、元々は、5男神が、スサノオの息子で、3女神が、アマテラスの娘だったのを、アマテラスを天皇家の祖先神にするために、記紀神話の主要2ヶ所で、5男神が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘へと、改変したとも推測できます。

 よって、アマテラス‐アメノオシホミミ‐ニニギ‐ホオリ(山幸彦)‐ウガヤフキアエズ‐カンヤマトイワレヒコ(神武天皇)の系譜自体の、信憑性が疑問視されるうえ、そもそも筆者が、神代を人代の延長とし、神代でも、平均在位年数を、10年に設定するのは、疑問です。

 「日本書紀」で、タカミムスヒは、アマテラスよりも、天孫降臨の命令を主導しているので、元々は、タカミムスヒが、天皇家の祖先神とされ、天武天皇(40代)の時代に、アマテラスへ転換したとする説が有力です。

 そのうえ、「魏志倭人伝」によると、倭では、卑弥呼‐男王‐壱与と、王位継承されており、ニニギは男神なので、天皇家の祖先神の系譜と、合致しません。

 筆者が、卑弥呼=アマテラス説を主張するのは、「古事記」に登場する地名数から、出雲(2位)を葦原の中つ国に(本文にあり)、九州(1位)を高天原に(本文になし)、比定し、邪馬台国東遷説に結び付けたいからのようですが、すべてをつなげるのには、無理があります。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RO6D5A61LSNPK/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4796673482
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c183

[近代史02] 弥生人の起源2 中川隆
26. 中川隆[-10507] koaQ7Jey 2019年4月29日 13:48:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1579]


「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く! (宝島社新書 296) – 2009/9/10
安本 美典 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4796673482?_encoding=UTF8&isInIframe=0&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books&showDetailProductDesc=1#product-description_feature_div

内容紹介

箸墓の出土物が放射性炭素年代測定で卑弥呼の生きた時代と一致したとの発表で、邪馬台国畿内説がいっきに盛り上がってきました。しかし、そもそもこの発表の真偽のほどが疑わしく、さらに考古学的な事実や文献学的な史実からかけ離れた邪馬台国畿内説には、まったく根拠がないのです。著者は邪馬台国北九州説の立場から、「邪馬台国畿内説、箸墓=卑弥呼の陵墓説」を、舌鋒鋭く粉砕します。

内容(「BOOK」データベースより)

よそおいは「科学的」、内容は「支離滅裂」!歴博の研究グループの「炭素14年代測定法」による「箸墓古墳は卑弥呼の墓説」は、捏造に等しい。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

安本/美典
1934年、中国東北(旧満州)生まれ。京都大学文学部卒業。文学博士。産業能率大学教授を経て、現在、古代史研究に専念。『季刊邪馬台国』(梓書院発行)編集責任者。「邪馬台国の会」主宰者。情報考古学会会員。専攻は日本古代史、言語学、心理学。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


カスタマーレビュー

hira
筆者の主張を知りたければ、『邪馬台国への道』を読むべき! 2019年3月20日


 本書は、国立歴史博物館の研究グループが、炭素14年代測定法により、箸墓古墳を3世紀半ばの造営と推定できたので、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が有力だと、発表したことへの批判から、はじまっていますが、結局は、代表作

『邪馬台国への道』
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93&i=stripbooks&adgrpid=60278501504&gclid=EAIaIQobChMIj-_P37704QIVVbaWCh1FmQf7EAAYASAAEgKPmvD_BwE&hvadid=338592697130&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=13828832324121605197&hvtargid=kwd-334597022393&hydadcr=16037_11170827&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_41xwlnckqn_e

で、取り上げられた説の繰り返しが、大半です。

 しかも、それらの説の根拠が、本書であまり記述されていないので、ここでは、それらを次のように、まとめましたが、その中には、前提が怪しく危うい説も、散見できます。


○邪馬台国=畿内説は、成り立たず

 邪馬台国論争は、「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国が、どこにあったかよりも、当時の日本列島で、最も繁栄していたのは、どこだったかのほうに、論点が摩り替えられ、本来は、青銅器・鉄器や土器等の出土と無関係ですが、筆者も、それを持ち出しているので、ますます混乱しています。

 「魏志倭人伝」によると、帯方郡〜邪馬台(壱)国間が、1万2000余里、帯方郡〜狗邪韓国間が、7000余里、狗邪韓国〜対馬国間・対馬国〜壱岐国間・壱岐国〜末盧国間が、それぞれ1000余里、末盧国〜伊都国間が、500里なので、伊都国〜邪馬壱国間が、1500余里以内となります。

 1500余里は、対馬国〜壱岐国間の約1.5倍なので、地図上で、どうみても、近畿まで到達できず、九州の北半分が限界なうえ、方位と距離の両方の書き誤りとなれば、「魏志倭人伝」自体の信憑性が、疑問視されるので、邪馬台国=九州北部説とみるのが、妥当です。

 ちなみに、対馬・壱岐の規模は、それぞれ400余里四方・300里四方、「魏志韓伝」によると、韓(馬韓・辰韓・弁韓)の規模は、4000里四方とあり、当時の1里=75〜90mで、1500余里=112.5〜135kmと算出できます。

 邪馬台国を、筆者は、福岡県朝倉市(平塚川添遺跡)付近に、想定していますが、納得できる根拠は、地名を列挙する程度で、希薄です。

○箸墓古墳=卑弥呼の墓説も、成り立たず

 邪馬台国=九州北部説が、妥当なので、箸墓古墳=卑弥呼の墓説は、当然成り立ちませんが、筆者は、歴博の研究グループが、不確実な炭素14年代測定法で、ホケノ山古墳・箸墓古墳等を、3世紀代と推定したことに反論し、4世紀代だと主張しています。

 特に、土器付着の炭化物は、実際より古い年代を示すようで、今後の科学的知見がないと、何ともいえませんが、大和での大型の前方後円墳の林立が、3世紀代からか、4世紀代からで、状況が多少異なり、筆者は、歴博の研究グループが、邪馬台国=畿内説を有利に、導こうとしたと指摘しています。

○天皇の平均在位年数

 筆者は、21〜50代の天皇29人(39代を除外)が、478(21代=倭王武が、宋皇帝に朝貢)〜793.5(50代の在位が、781〜806年と長期なので、その半分を算入)年の316年間なので、天皇の平均在位年数を、約10年(10.88年)としています。

 これは、神功皇后(14-15代の間)を5世紀初め(400年)に、崇神天皇(10代)を4世紀半ば(360年)に、位置づけることを中心に、組み立てられ、5世紀初めは、倭が、朝鮮半島へ渡海し、高句麗との交戦を断続的に開始した年代、4世紀半ばは、崇神天皇陵とされる行燈山古墳が造営された年代です。

 ですが、行燈山古墳=崇神天皇陵といえない等、各天皇の実在性・事績等は、不確定で、それら以前でも、10年/人を微妙に調整しており、崇神の9代前の神武天皇(初代)を3世紀後半(280〜290年)、神武の5代前のアマテラスを3世紀前半(239年)としています。

○邪馬台国東遷説への疑問

 この説は、3世紀前半に、九州北部にあった邪馬台国の一派が、いったん日向へ、そこから3世紀後半に、大和へ移動し、朝廷を樹立したとする主張で、これと整合させるため、筆者は、アマテラス=卑弥呼を3世紀前半に、神武天皇の東征を3世紀後半に、推定したとみられます。

 「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで、筑紫城に居住し、神武天皇から、大和州へ移住したとあります。

 また、「宋史日本国伝」では、初代がアメノミナカヌシ、23代(「新唐書日本伝」を訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 ただし、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 他方、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、移住直後は、まだ統治基盤が落ち着かないと推測されるので、東遷説と結び付けにくく、神武東征の時期が、もう少し古くないと、納得困難でしょう。

 東遷説の時期は、2世紀後半の倭国乱きっかけと、3世紀半ばの邪馬台国と狗奴国の戦争きっかけがあり、筆者には、3世紀前半に、後述の卑弥呼=アマテラス説があるため、3世紀後半を想定していますが、前述の鉄器の出土数の比較を勘案すれば、2世紀終りのほうが、妥当です。

 私は、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみており、17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、天皇の在位期間の平均が、約12年/人となります。

 1〜16代の17人を、12年/人とすれば、崇神天皇(10代)の即位は、4世紀初め(304年)になり、大和に大型の前方後円墳が林立しはじめた時期と合致し、神武天皇(初代)の即位は、2世紀終り(196年)になり、倭国乱後と合致します。

 そもそも、卑弥呼や壱与を輩出した邪馬台国が突然、遷都する理由はなく、大和に九州の影響が、ほとんどないので、もし、あるとすれば、倭国乱で敗走した勢力が、一時日向へ避難し、そこから大和へ進出した可能性で、それなら当時は、準構造船か丸木舟しかないので、東遷でなく、集団移住程度です。

 なお、九州北部(夜須町)と畿内(大和郷)の地名の一致は、天皇による東遷でなく、有力豪族でも成り立つうえ、斉明天皇(37代)が、新羅派兵で(白村江の合戦前)、朝倉宮まで出陣し、約3ヶ月生活したので、その際に命名した可能性も捨て切れず、これだけでは、東遷説の根拠といえません。


○卑弥呼=アマテラス説への疑問

 「日本書紀」では、神功皇后を卑弥呼と同一視しており、筆者は、卑弥呼をアマテラスに比定していますが、そもそも記紀神話で、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)は、6種類あり、そのうち、アマテラスが天皇の祖先なのは、「古事記」と「日本書紀」本文の2つです。

 そこでは、5男神(長男が天皇の祖先・アメノオシホミミ)が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘となっています。

 一方、「日本書紀」一書第一・第三と次の段の一書第三の3つは、5男神が、スサノオの息子、3女神が、アマテラス(日の神)の娘となっています(「日本書紀」一書第二の1つは、どちらの子供か、明記されていません)。

 ここから、元々は、5男神が、スサノオの息子で、3女神が、アマテラスの娘だったのを、アマテラスを天皇家の祖先神にするために、記紀神話の主要2ヶ所で、5男神が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘へと、改変したとも推測できます。

 よって、アマテラス‐アメノオシホミミ‐ニニギ‐ホオリ(山幸彦)‐ウガヤフキアエズ‐カンヤマトイワレヒコ(神武天皇)の系譜自体の、信憑性が疑問視されるうえ、そもそも筆者が、神代を人代の延長とし、神代でも、平均在位年数を、10年に設定するのは、疑問です。

 「日本書紀」で、タカミムスヒは、アマテラスよりも、天孫降臨の命令を主導しているので、元々は、タカミムスヒが、天皇家の祖先神とされ、天武天皇(40代)の時代に、アマテラスへ転換したとする説が有力です。

 そのうえ、「魏志倭人伝」によると、倭では、卑弥呼‐男王‐壱与と、王位継承されており、ニニギは男神なので、天皇家の祖先神の系譜と、合致しません。

 筆者が、卑弥呼=アマテラス説を主張するのは、「古事記」に登場する地名数から、出雲(2位)を葦原の中つ国に(本文にあり)、九州(1位)を高天原に(本文になし)、比定し、邪馬台国東遷説に結び付けたいからのようですが、すべてをつなげるのには、無理があります。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RO6D5A61LSNPK/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4796673482
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/549.html#c26

[近代史3] 天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨 中川隆
14. 中川隆[-10506] koaQ7Jey 2019年4月29日 13:49:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1580]


「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く! (宝島社新書 296) – 2009/9/10
安本 美典 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4796673482?_encoding=UTF8&isInIframe=0&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books&showDetailProductDesc=1#product-description_feature_div

内容紹介

箸墓の出土物が放射性炭素年代測定で卑弥呼の生きた時代と一致したとの発表で、邪馬台国畿内説がいっきに盛り上がってきました。しかし、そもそもこの発表の真偽のほどが疑わしく、さらに考古学的な事実や文献学的な史実からかけ離れた邪馬台国畿内説には、まったく根拠がないのです。著者は邪馬台国北九州説の立場から、「邪馬台国畿内説、箸墓=卑弥呼の陵墓説」を、舌鋒鋭く粉砕します。

内容(「BOOK」データベースより)

よそおいは「科学的」、内容は「支離滅裂」!歴博の研究グループの「炭素14年代測定法」による「箸墓古墳は卑弥呼の墓説」は、捏造に等しい。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

安本/美典
1934年、中国東北(旧満州)生まれ。京都大学文学部卒業。文学博士。産業能率大学教授を経て、現在、古代史研究に専念。『季刊邪馬台国』(梓書院発行)編集責任者。「邪馬台国の会」主宰者。情報考古学会会員。専攻は日本古代史、言語学、心理学。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


カスタマーレビュー

hira
筆者の主張を知りたければ、『邪馬台国への道』を読むべき! 2019年3月20日


 本書は、国立歴史博物館の研究グループが、炭素14年代測定法により、箸墓古墳を3世紀半ばの造営と推定できたので、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が有力だと、発表したことへの批判から、はじまっていますが、結局は、代表作

『邪馬台国への道』
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93&i=stripbooks&adgrpid=60278501504&gclid=EAIaIQobChMIj-_P37704QIVVbaWCh1FmQf7EAAYASAAEgKPmvD_BwE&hvadid=338592697130&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=13828832324121605197&hvtargid=kwd-334597022393&hydadcr=16037_11170827&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_41xwlnckqn_e

で、取り上げられた説の繰り返しが、大半です。

 しかも、それらの説の根拠が、本書であまり記述されていないので、ここでは、それらを次のように、まとめましたが、その中には、前提が怪しく危うい説も、散見できます。


○邪馬台国=畿内説は、成り立たず

 邪馬台国論争は、「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国が、どこにあったかよりも、当時の日本列島で、最も繁栄していたのは、どこだったかのほうに、論点が摩り替えられ、本来は、青銅器・鉄器や土器等の出土と無関係ですが、筆者も、それを持ち出しているので、ますます混乱しています。

 「魏志倭人伝」によると、帯方郡〜邪馬台(壱)国間が、1万2000余里、帯方郡〜狗邪韓国間が、7000余里、狗邪韓国〜対馬国間・対馬国〜壱岐国間・壱岐国〜末盧国間が、それぞれ1000余里、末盧国〜伊都国間が、500里なので、伊都国〜邪馬壱国間が、1500余里以内となります。

 1500余里は、対馬国〜壱岐国間の約1.5倍なので、地図上で、どうみても、近畿まで到達できず、九州の北半分が限界なうえ、方位と距離の両方の書き誤りとなれば、「魏志倭人伝」自体の信憑性が、疑問視されるので、邪馬台国=九州北部説とみるのが、妥当です。

 ちなみに、対馬・壱岐の規模は、それぞれ400余里四方・300里四方、「魏志韓伝」によると、韓(馬韓・辰韓・弁韓)の規模は、4000里四方とあり、当時の1里=75〜90mで、1500余里=112.5〜135kmと算出できます。

 邪馬台国を、筆者は、福岡県朝倉市(平塚川添遺跡)付近に、想定していますが、納得できる根拠は、地名を列挙する程度で、希薄です。

○箸墓古墳=卑弥呼の墓説も、成り立たず

 邪馬台国=九州北部説が、妥当なので、箸墓古墳=卑弥呼の墓説は、当然成り立ちませんが、筆者は、歴博の研究グループが、不確実な炭素14年代測定法で、ホケノ山古墳・箸墓古墳等を、3世紀代と推定したことに反論し、4世紀代だと主張しています。

 特に、土器付着の炭化物は、実際より古い年代を示すようで、今後の科学的知見がないと、何ともいえませんが、大和での大型の前方後円墳の林立が、3世紀代からか、4世紀代からで、状況が多少異なり、筆者は、歴博の研究グループが、邪馬台国=畿内説を有利に、導こうとしたと指摘しています。

○天皇の平均在位年数

 筆者は、21〜50代の天皇29人(39代を除外)が、478(21代=倭王武が、宋皇帝に朝貢)〜793.5(50代の在位が、781〜806年と長期なので、その半分を算入)年の316年間なので、天皇の平均在位年数を、約10年(10.88年)としています。

 これは、神功皇后(14-15代の間)を5世紀初め(400年)に、崇神天皇(10代)を4世紀半ば(360年)に、位置づけることを中心に、組み立てられ、5世紀初めは、倭が、朝鮮半島へ渡海し、高句麗との交戦を断続的に開始した年代、4世紀半ばは、崇神天皇陵とされる行燈山古墳が造営された年代です。

 ですが、行燈山古墳=崇神天皇陵といえない等、各天皇の実在性・事績等は、不確定で、それら以前でも、10年/人を微妙に調整しており、崇神の9代前の神武天皇(初代)を3世紀後半(280〜290年)、神武の5代前のアマテラスを3世紀前半(239年)としています。

○邪馬台国東遷説への疑問

 この説は、3世紀前半に、九州北部にあった邪馬台国の一派が、いったん日向へ、そこから3世紀後半に、大和へ移動し、朝廷を樹立したとする主張で、これと整合させるため、筆者は、アマテラス=卑弥呼を3世紀前半に、神武天皇の東征を3世紀後半に、推定したとみられます。

 「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで、筑紫城に居住し、神武天皇から、大和州へ移住したとあります。

 また、「宋史日本国伝」では、初代がアメノミナカヌシ、23代(「新唐書日本伝」を訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 ただし、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 他方、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、移住直後は、まだ統治基盤が落ち着かないと推測されるので、東遷説と結び付けにくく、神武東征の時期が、もう少し古くないと、納得困難でしょう。

 東遷説の時期は、2世紀後半の倭国乱きっかけと、3世紀半ばの邪馬台国と狗奴国の戦争きっかけがあり、筆者には、3世紀前半に、後述の卑弥呼=アマテラス説があるため、3世紀後半を想定していますが、前述の鉄器の出土数の比較を勘案すれば、2世紀終りのほうが、妥当です。

 私は、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみており、17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、天皇の在位期間の平均が、約12年/人となります。

 1〜16代の17人を、12年/人とすれば、崇神天皇(10代)の即位は、4世紀初め(304年)になり、大和に大型の前方後円墳が林立しはじめた時期と合致し、神武天皇(初代)の即位は、2世紀終り(196年)になり、倭国乱後と合致します。

 そもそも、卑弥呼や壱与を輩出した邪馬台国が突然、遷都する理由はなく、大和に九州の影響が、ほとんどないので、もし、あるとすれば、倭国乱で敗走した勢力が、一時日向へ避難し、そこから大和へ進出した可能性で、それなら当時は、準構造船か丸木舟しかないので、東遷でなく、集団移住程度です。

 なお、九州北部(夜須町)と畿内(大和郷)の地名の一致は、天皇による東遷でなく、有力豪族でも成り立つうえ、斉明天皇(37代)が、新羅派兵で(白村江の合戦前)、朝倉宮まで出陣し、約3ヶ月生活したので、その際に命名した可能性も捨て切れず、これだけでは、東遷説の根拠といえません。


○卑弥呼=アマテラス説への疑問

 「日本書紀」では、神功皇后を卑弥呼と同一視しており、筆者は、卑弥呼をアマテラスに比定していますが、そもそも記紀神話で、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)は、6種類あり、そのうち、アマテラスが天皇の祖先なのは、「古事記」と「日本書紀」本文の2つです。

 そこでは、5男神(長男が天皇の祖先・アメノオシホミミ)が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘となっています。

 一方、「日本書紀」一書第一・第三と次の段の一書第三の3つは、5男神が、スサノオの息子、3女神が、アマテラス(日の神)の娘となっています(「日本書紀」一書第二の1つは、どちらの子供か、明記されていません)。

 ここから、元々は、5男神が、スサノオの息子で、3女神が、アマテラスの娘だったのを、アマテラスを天皇家の祖先神にするために、記紀神話の主要2ヶ所で、5男神が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘へと、改変したとも推測できます。

 よって、アマテラス‐アメノオシホミミ‐ニニギ‐ホオリ(山幸彦)‐ウガヤフキアエズ‐カンヤマトイワレヒコ(神武天皇)の系譜自体の、信憑性が疑問視されるうえ、そもそも筆者が、神代を人代の延長とし、神代でも、平均在位年数を、10年に設定するのは、疑問です。

 「日本書紀」で、タカミムスヒは、アマテラスよりも、天孫降臨の命令を主導しているので、元々は、タカミムスヒが、天皇家の祖先神とされ、天武天皇(40代)の時代に、アマテラスへ転換したとする説が有力です。

 そのうえ、「魏志倭人伝」によると、倭では、卑弥呼‐男王‐壱与と、王位継承されており、ニニギは男神なので、天皇家の祖先神の系譜と、合致しません。

 筆者が、卑弥呼=アマテラス説を主張するのは、「古事記」に登場する地名数から、出雲(2位)を葦原の中つ国に(本文にあり)、九州(1位)を高天原に(本文になし)、比定し、邪馬台国東遷説に結び付けたいからのようですが、すべてをつなげるのには、無理があります。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RO6D5A61LSNPK/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4796673482
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html#c14

[近代史3] 日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか? 中川隆
35. 中川隆[-10505] koaQ7Jey 2019年4月29日 13:50:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1581]


「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く! (宝島社新書 296) – 2009/9/10
安本 美典 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4796673482?_encoding=UTF8&isInIframe=0&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books&showDetailProductDesc=1#product-description_feature_div

内容紹介

箸墓の出土物が放射性炭素年代測定で卑弥呼の生きた時代と一致したとの発表で、邪馬台国畿内説がいっきに盛り上がってきました。しかし、そもそもこの発表の真偽のほどが疑わしく、さらに考古学的な事実や文献学的な史実からかけ離れた邪馬台国畿内説には、まったく根拠がないのです。著者は邪馬台国北九州説の立場から、「邪馬台国畿内説、箸墓=卑弥呼の陵墓説」を、舌鋒鋭く粉砕します。

内容(「BOOK」データベースより)

よそおいは「科学的」、内容は「支離滅裂」!歴博の研究グループの「炭素14年代測定法」による「箸墓古墳は卑弥呼の墓説」は、捏造に等しい。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

安本/美典
1934年、中国東北(旧満州)生まれ。京都大学文学部卒業。文学博士。産業能率大学教授を経て、現在、古代史研究に専念。『季刊邪馬台国』(梓書院発行)編集責任者。「邪馬台国の会」主宰者。情報考古学会会員。専攻は日本古代史、言語学、心理学。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


カスタマーレビュー

hira
筆者の主張を知りたければ、『邪馬台国への道』を読むべき! 2019年3月20日


 本書は、国立歴史博物館の研究グループが、炭素14年代測定法により、箸墓古墳を3世紀半ばの造営と推定できたので、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が有力だと、発表したことへの批判から、はじまっていますが、結局は、代表作

『邪馬台国への道』
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93&i=stripbooks&adgrpid=60278501504&gclid=EAIaIQobChMIj-_P37704QIVVbaWCh1FmQf7EAAYASAAEgKPmvD_BwE&hvadid=338592697130&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=13828832324121605197&hvtargid=kwd-334597022393&hydadcr=16037_11170827&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_41xwlnckqn_e

で、取り上げられた説の繰り返しが、大半です。

 しかも、それらの説の根拠が、本書であまり記述されていないので、ここでは、それらを次のように、まとめましたが、その中には、前提が怪しく危うい説も、散見できます。


○邪馬台国=畿内説は、成り立たず

 邪馬台国論争は、「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国が、どこにあったかよりも、当時の日本列島で、最も繁栄していたのは、どこだったかのほうに、論点が摩り替えられ、本来は、青銅器・鉄器や土器等の出土と無関係ですが、筆者も、それを持ち出しているので、ますます混乱しています。

 「魏志倭人伝」によると、帯方郡〜邪馬台(壱)国間が、1万2000余里、帯方郡〜狗邪韓国間が、7000余里、狗邪韓国〜対馬国間・対馬国〜壱岐国間・壱岐国〜末盧国間が、それぞれ1000余里、末盧国〜伊都国間が、500里なので、伊都国〜邪馬壱国間が、1500余里以内となります。

 1500余里は、対馬国〜壱岐国間の約1.5倍なので、地図上で、どうみても、近畿まで到達できず、九州の北半分が限界なうえ、方位と距離の両方の書き誤りとなれば、「魏志倭人伝」自体の信憑性が、疑問視されるので、邪馬台国=九州北部説とみるのが、妥当です。

 ちなみに、対馬・壱岐の規模は、それぞれ400余里四方・300里四方、「魏志韓伝」によると、韓(馬韓・辰韓・弁韓)の規模は、4000里四方とあり、当時の1里=75〜90mで、1500余里=112.5〜135kmと算出できます。

 邪馬台国を、筆者は、福岡県朝倉市(平塚川添遺跡)付近に、想定していますが、納得できる根拠は、地名を列挙する程度で、希薄です。

○箸墓古墳=卑弥呼の墓説も、成り立たず

 邪馬台国=九州北部説が、妥当なので、箸墓古墳=卑弥呼の墓説は、当然成り立ちませんが、筆者は、歴博の研究グループが、不確実な炭素14年代測定法で、ホケノ山古墳・箸墓古墳等を、3世紀代と推定したことに反論し、4世紀代だと主張しています。

 特に、土器付着の炭化物は、実際より古い年代を示すようで、今後の科学的知見がないと、何ともいえませんが、大和での大型の前方後円墳の林立が、3世紀代からか、4世紀代からで、状況が多少異なり、筆者は、歴博の研究グループが、邪馬台国=畿内説を有利に、導こうとしたと指摘しています。

○天皇の平均在位年数

 筆者は、21〜50代の天皇29人(39代を除外)が、478(21代=倭王武が、宋皇帝に朝貢)〜793.5(50代の在位が、781〜806年と長期なので、その半分を算入)年の316年間なので、天皇の平均在位年数を、約10年(10.88年)としています。

 これは、神功皇后(14-15代の間)を5世紀初め(400年)に、崇神天皇(10代)を4世紀半ば(360年)に、位置づけることを中心に、組み立てられ、5世紀初めは、倭が、朝鮮半島へ渡海し、高句麗との交戦を断続的に開始した年代、4世紀半ばは、崇神天皇陵とされる行燈山古墳が造営された年代です。

 ですが、行燈山古墳=崇神天皇陵といえない等、各天皇の実在性・事績等は、不確定で、それら以前でも、10年/人を微妙に調整しており、崇神の9代前の神武天皇(初代)を3世紀後半(280〜290年)、神武の5代前のアマテラスを3世紀前半(239年)としています。

○邪馬台国東遷説への疑問

 この説は、3世紀前半に、九州北部にあった邪馬台国の一派が、いったん日向へ、そこから3世紀後半に、大和へ移動し、朝廷を樹立したとする主張で、これと整合させるため、筆者は、アマテラス=卑弥呼を3世紀前半に、神武天皇の東征を3世紀後半に、推定したとみられます。

 「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで、筑紫城に居住し、神武天皇から、大和州へ移住したとあります。

 また、「宋史日本国伝」では、初代がアメノミナカヌシ、23代(「新唐書日本伝」を訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 ただし、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 他方、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、移住直後は、まだ統治基盤が落ち着かないと推測されるので、東遷説と結び付けにくく、神武東征の時期が、もう少し古くないと、納得困難でしょう。

 東遷説の時期は、2世紀後半の倭国乱きっかけと、3世紀半ばの邪馬台国と狗奴国の戦争きっかけがあり、筆者には、3世紀前半に、後述の卑弥呼=アマテラス説があるため、3世紀後半を想定していますが、前述の鉄器の出土数の比較を勘案すれば、2世紀終りのほうが、妥当です。

 私は、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみており、17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、天皇の在位期間の平均が、約12年/人となります。

 1〜16代の17人を、12年/人とすれば、崇神天皇(10代)の即位は、4世紀初め(304年)になり、大和に大型の前方後円墳が林立しはじめた時期と合致し、神武天皇(初代)の即位は、2世紀終り(196年)になり、倭国乱後と合致します。

 そもそも、卑弥呼や壱与を輩出した邪馬台国が突然、遷都する理由はなく、大和に九州の影響が、ほとんどないので、もし、あるとすれば、倭国乱で敗走した勢力が、一時日向へ避難し、そこから大和へ進出した可能性で、それなら当時は、準構造船か丸木舟しかないので、東遷でなく、集団移住程度です。

 なお、九州北部(夜須町)と畿内(大和郷)の地名の一致は、天皇による東遷でなく、有力豪族でも成り立つうえ、斉明天皇(37代)が、新羅派兵で(白村江の合戦前)、朝倉宮まで出陣し、約3ヶ月生活したので、その際に命名した可能性も捨て切れず、これだけでは、東遷説の根拠といえません。


○卑弥呼=アマテラス説への疑問

 「日本書紀」では、神功皇后を卑弥呼と同一視しており、筆者は、卑弥呼をアマテラスに比定していますが、そもそも記紀神話で、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)は、6種類あり、そのうち、アマテラスが天皇の祖先なのは、「古事記」と「日本書紀」本文の2つです。

 そこでは、5男神(長男が天皇の祖先・アメノオシホミミ)が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘となっています。

 一方、「日本書紀」一書第一・第三と次の段の一書第三の3つは、5男神が、スサノオの息子、3女神が、アマテラス(日の神)の娘となっています(「日本書紀」一書第二の1つは、どちらの子供か、明記されていません)。

 ここから、元々は、5男神が、スサノオの息子で、3女神が、アマテラスの娘だったのを、アマテラスを天皇家の祖先神にするために、記紀神話の主要2ヶ所で、5男神が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘へと、改変したとも推測できます。

 よって、アマテラス‐アメノオシホミミ‐ニニギ‐ホオリ(山幸彦)‐ウガヤフキアエズ‐カンヤマトイワレヒコ(神武天皇)の系譜自体の、信憑性が疑問視されるうえ、そもそも筆者が、神代を人代の延長とし、神代でも、平均在位年数を、10年に設定するのは、疑問です。

 「日本書紀」で、タカミムスヒは、アマテラスよりも、天孫降臨の命令を主導しているので、元々は、タカミムスヒが、天皇家の祖先神とされ、天武天皇(40代)の時代に、アマテラスへ転換したとする説が有力です。

 そのうえ、「魏志倭人伝」によると、倭では、卑弥呼‐男王‐壱与と、王位継承されており、ニニギは男神なので、天皇家の祖先神の系譜と、合致しません。

 筆者が、卑弥呼=アマテラス説を主張するのは、「古事記」に登場する地名数から、出雲(2位)を葦原の中つ国に(本文にあり)、九州(1位)を高天原に(本文になし)、比定し、邪馬台国東遷説に結び付けたいからのようですが、すべてをつなげるのには、無理があります。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RO6D5A61LSNPK/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4796673482
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html#c35

[政治・選挙・NHK260] 小沢一郎衆院議員が、国民民主党に自由党を吸収合併、野党結集に弾み、自民党支持者の中には、古くからの小沢一郎総理大臣待望… 笑坊
1. 中川隆[-10504] koaQ7Jey 2019年4月29日 14:16:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1582]
消費税を廃止する、移民は入れないと公約すれば簡単に勝てるよ

しかし、小沢は絶対に国際金融資本に都合が悪い事は言わないんだ
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/236.html#c1

[近代史3] 中野剛志 _ アメリカで大論争の「現代貨幣理論」とは何か 中川隆
12. 中川隆[-10506] koaQ7Jey 2019年4月29日 14:59:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1580]

「日本の未来を考える勉強会」ーよくわかるMMT(現代貨幣理論)解説
平成31年4月22日 講師:評論家 中野 剛志氏 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=LJWGAp144ak
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/314.html#c12
[リバイバル3] 中川隆 _ 心理学、大脳生理学、文化人類学、文化関係投稿リンク 中川隆
67. 2019年4月29日 16:40:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1581]
センメルヴェイス反射 _ 真理の徒は石もて追われ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/396.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/807.html#c67
[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
28. 中川隆[-10505] koaQ7Jey 2019年4月29日 18:50:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1582]

北方領土「日本人が知らない」真実、占領の黒幕・返還交渉の矛盾…
粟野仁雄 2019/04/26
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%8C%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%80%81%E5%8D%A0%E9%A0%98%E3%81%AE%E9%BB%92%E5%B9%95%E3%83%BB%E8%BF%94%E9%82%84%E4%BA%A4%E6%B8%89%E3%81%AE%E7%9F%9B%E7%9B%BE%E2%80%A6/ar-BBWikav?OCID=ansmsnnews11#page=2

北方領土と日本の複雑すぎる関係

「今、日本でニュースになっているクリル列島(千島列島)の問題をどう思いますか。日本じゃ北方領土と呼ぶのだけれど……」

 1月末、モスクワでの首脳会談に合わせて旧島民たちの取材に訪れた筆者は、北海道根室市のラーメン店で、隣に座った若いロシア人男性に拙いロシア語でこう尋ねた。サハリンから商売に来ていた体格のよい男は、「北方領土ではないよ。あの島は絶対に我国の『南方領土』なんだ。でも日本はいい国だよ。仲良くしたいね」と笑った。

 安倍首相とプーチン大統領による日ロ首脳会談の度に取り沙汰される北方領土問題だが、3月15日、ロシアの『コメルサント』紙が「大きく交渉スピードが後退した」とプーチン大統領が発言していたことを報じた。足もとでは、5月上旬の対ロ協議を前に、河野太郎外相が国会答弁においてロシア側を刺激しない配慮を見せるなど、交渉の「難しさ」が伝わってくる。

 近づいたとか思うと離れるブーメランのような「北方領土」とは、日本人にとってどんな存在なのか。筆者が若き記者時代から関わったこのテーマについて、まずは地理や歴史などの基本事項を解説したい。

 背の低い白い灯台が立つ根室半島先端の納沙布岬。眼下の岩礁にはかつて作家の三島由紀夫を信奉する国粋主義団体「楯の会」がペンキで描いた「千島を返せ」の文字があったが、積年の波で消えている。沖へ視線をやると、水平線上にまっ平で樹木の1本もない不思議な水晶島が見える。貝殻島の「日本時代」からの古い灯台が見える。右には勇留(ゆり)島。いずれもロシアの実効支配下にある歯舞群島の1つだ。

「うわあ、ロシアが見えるなんて」-――。若いカップルが驚いていたが、寒がって車に引っ込んでしまった。夏のシーズンは濃霧で見にくいため寒い時期がいいのだが、この地域の冬の寒さは半端ではない。見えていた数隻の漁船は、あまりの近さに日本の船かと思いたくなるが、潜水でウニを採るロシアの船である。ここから日露の海上の「中間ライン」(固有の領土、領海を主張してきた国は国境とは言えない)はわずか1.7キロだ。

「ロシア人はウニなんて食べないから、みんな日本に売るんです。この寒いのによく潜るよ」とは食堂兼土産物店「請望苑」を経営する竹村秀夫さんだ。訪問者たちの「北方領土って、こんなに近かったんですか」の言葉に地元民は辟易しているが、北海道旅行も根室まで行く人は少ないから、それも仕方がない。

 北方領土は、北から択捉島、国後島、並列する歯舞諸島と色丹島の「4島」だが、沖縄本島より大きい最大の択捉島と2番目に大きい国後島が、全面積の93%を占める。国後島は根室市からも見えるが、標津町からはより近く、好天なら主峰の爺々岳も見える。

 北方領土をめぐる国際的な取り決めの柱は、(1)1855年の日露通交(和親)条約、(2)1875年の千島樺太交換条約、(3)1904年のポーツマス条約、(4)1951年のサンフランシスコ講和条約、そして(5)1956年の日ソ共同宣言だろう。日ロ間における北方領土を巡るターニングポイントについて、おさらいしてみよう。


開国時にロシアだけは

友好な態度だった

 1855年2月7日、江戸幕府はロシア帝国と「日露通好条約」を結ぶ。「日露和親条約」ともいう。ロシア語では「貿易と国境の条約」だが、日本語では「貿易」も「国境」も消え、和親だとか通好とか、わけのわからぬ言葉になる。

 このとき、ニコライ一世の訓令・プチャーチン提督と対峙したのが、幕府の川路聖謨(かわじ・としあきら)という旗本。NHKの元モスクワ支局長の石川一洋解説委員は、2月に鳥取県倉吉市に招かれた講演会で、川路について「優れた人でしたが、ロシアの交渉団が彼の写真を撮ろうとしたら固辞した。『私のような醜男が貴国に紹介されては日本の恥です』と言ったのです」と素朴な人柄を紹介した。川路は戊辰戦争で幕府軍に殉じて自決した。

 この時期、米国のペリー提督が軍艦を連ねて開国を迫るなど、欧米列強が「鎖国日本」を力でこじ開けようとしたが、石川氏は「ロシアだけは非常に友好的な態度で日本に接してきたのです」と強調した。確かにその通りだ。

 この条約で国境線が得撫(ウルップ)島と択捉島の間とされ、樺太は「日露混住の地」となるが、20年後の1875年、ペテルブルグ(今のサンクトぺテルブルグ)で締結された「千島樺太交換条約」で、樺太は全島がロシア領、千島列島すべてが日本領となる。日本は大政奉還から7年目の明治8年、ロシア側は革命で銃殺されるロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世の父、アレクサンドル三世の時代だ。

 20世紀初頭、日露戦争で日本が勝利し、1905年に「ポーツマス条約」で樺太の南半分が日本領となる。これはロシア人にとって大変な屈辱だった。南樺太のロシア人は北緯50度以北へ追いやられ、代わりに日本の開拓団が多数樺太へ移住し、石炭生産、製紙産業、林業、農業、漁業などを繁栄させた。樺太や千島の日本人は、第二次大戦末期に日本本土の人たちが空襲などに苦しんでいた頃も平和を謳歌した。

 それが破られたのが、ポツダム宣言受諾後の1945年8月。日ソ中立条約を一方的に破ったソ連軍が、満州、樺太、北方領土へ侵攻したのだ。戦闘らしい戦闘もなかった北方領土では、樺太や満州のような悲劇は少ないが、金品を奪うソ連軍との諍いや、本土への脱走時に船が銃撃を受けるなどして、幾人かが命を落とした。

 その後、色丹島などでは2年間ほど日露混住の時代もあった。色丹島の混住時代に小学生時代を過ごした得能宏さん(85)は、「先生は怖がっていたけれど、ロシア兵が黒板のほうに来て、生徒の算数の間違いを直してくれた」と振り返る。

 最終的に4島から日本人すべてが追われた。根室や羅臼などに裸一貫で引き揚げた彼らの戦後の苦労は想像に難くない。


意外に知られていない

サンフランシスコ平和会議での失態

 ソ連の対日参戦は1945年2月の米、英、ソのヤルタ会談で密かに決められた。戦争を早期終結させ、米兵の犠牲を減らしたいルーズベルト・米国大統領の求めによるものだが、スターリン・ソ連書記長の談話録には「問題が起きているわけではない日本と戦争することに国民は納得しない」と、代償に領土拡大を求める巧みな会話が残されている。

 後にスターリンは、釧路と留萌を結ぶライン以北の北海道の北半分までも要求したが、米国が拒否した。実現していたら北海道は今頃、どうなっていたのだろうか。

 1951年、米国との単独講和だったサンフランシスコ平和条約で、日本は「クリルアイランズ(千島列島)」を放棄した。実はこのときに、現在に至るまで禍根を残す失態が生じる。批准国会で野党議員に「放棄した千島に国後や択捉を含むのか」と訊かれた西村熊雄条約局長が、「含む」と答えてしまったのだ。

 外務省はこの大失敗に触れられることを今も嫌がるが、和田春樹・東大名誉教授(ロシア史)は「どんなにつらくとも、放棄したことを認めて交渉すべきだ」と話す。外務省は、「サ条約にはソ連が参加していないから、ロシアのものとされたわけではない」としている。

 1956年、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相との間で「日ソ共同宣言」が締結された。今、盛んにニュースになっている史実だ。「平和条約締結後に、色丹島と歯舞諸島は日本に引き渡すとされた」が、「引き渡す」(ロシア語では「ペレダーチ」)とは、「返す」ではなく、「私の物ですが差し上げます」というニュアンスだった。

 結局、平和条約を結べないまま、世界は冷戦時代に突入。日本を自由主義陣営に引き込みたい米国のダレス国務長官が、「歯舞・色丹の返還を目指してソ連と平和条約を結ぶなら、沖縄を永久に占領する」とした有名な「恫喝」が大きな楔だった。

 そして、1960年の日米安保条約延長でソ連は態度を硬化し、「領土問題は解決済み」とされる。1973年、田中角栄首相がブレジネフ書記長に「両国間の未解決諸問題」に領土問題が含まれることを認めさせたが、その後進展はなかった。80年代にゴルバチョフ政権が誕生し、91年にソ連が崩壊、続くエリツィン政権ではロシアが一旦態度を軟化させたものの、日本は何度も好機を逃してきた(これについては、後述する)。

 日本人の最も身近にある国際問題の1つ、北方領土問題はこうした経緯を辿って来たのである。


忘れられがちな史実

本当の先住民は誰だったのか

 2月7日、筆者は大阪は中の島公会堂の「北方領土返還要求大会」に出かけた。入り口で「アイヌ民族抜きで交渉を進めることはおかしい」と抗議の横断幕を掲げる人たちがいた。

 北方領土史で忘れられがちなのは、「本当の先住民は誰だったのか」だ。筆者は1980年代、北海道で知り合いのソ連担当の公安関係者から、「ソ連の学者たちが北海道のアイヌ民族の存在を口実に、北方領土が古来、自分たちの領土だったことにしようとしている」と聞いた経験がある。アイヌはロシア側にも居ることをテコに、「日本人より先にロシアのアイヌが千島にいた」として、日本が主張する「固有の領土」を否定しようとし、「AS協会」という組織を立ち上げたと、といった話だった。

 詳細は省くが、国境という観念も希薄だったその昔、千島列島ではアリュート、樺太アイヌ、北海道アイヌら、様々な民族が狩猟生活や物々交換などをしていた。政府は、第二次大戦までは一度も外国の手に渡っていない「固有の領土」と強調している。 


ソ連の北方領土占領に米国が協力

なぜか後追いされない衝撃の事実

 2017年12月30日の北海道新聞に「歴史の常識を覆す」報道があった。タイトルは「ソ連の北方四島占領、米が援助、極秘に艦船貸与、訓練も」というものだ。

 概要は、1945年8、9月に行われた旧ソ連軍の北方4島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたというものだ。大量の艦船の提供だけではなく、ソ連兵の訓練も行ったといい、4島占領の背景に米国の強力な軍事援助があったことを示唆する内容だった。

 ヤルタ会談の直後、連合国だった米ソは「プロジェクト・フラ」という極秘作戦を実施した。米国は45年5月から掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。ソ連兵1万2000人を米アラスカ州の基地に集め、1500人の米軍人が艦船やレーダーの習熟訓練を行った。

 8月28日からソ連兵が攻め込んだ択捉、国後、色丹、歯舞の占領作戦には、米国に借りた艦船10隻を含む17隻が参加。ソ連軍は各島で日本兵の武装解除を行い、4島の占領は9月5日までに完了した。

 記事には、和田春樹・東京大学教授が次のような談話を寄せている。

「北方4島を含むソ連の対日作戦を米国が軍事援助していたことは、日本ではほとんど知られておらず、発見と言える。ソ連が勝手に行ったのではなく、米国をリーダーとする連合国の作戦だったことを示す」

 日本がポツダム宣言を受諾して降伏した後に、ソ連は日ソ中立条約を破棄して千島列島を南下、樺太からのソ連軍は米軍がいないことを確認して、択捉、国後島、歯舞群島、色丹島に侵攻したという「常識」を覆す話だ。

 ソ連が樺太南部と千島列島での作戦に投入した全艦船を調べた、ロシア・サハリン州戦勝記念館のイーゴリ・サマリン科学部長の論文を、同紙根室振興局が入手した。調査を主導した谷内紀夫前副局長は、「ボリス・スラビンスキーの著書『千島占領・一九四五年夏』(1993年)には、この経緯の一端が出ているが、話題にならなかった」と言う。

 記事を見た千島歯舞諸島居住者連盟の宮谷内亮一・根室支部長は、「驚いた。ソ連の占領に関わっていたのなら領土問題はアメリカにも責任がある」と話す。旧島民も初耳の人は多い。一方、連盟の脇紀美夫理事長(元羅臼町長)は、「日本が降伏しているのに攻めて占領したソ連に対して、当時、アメリカが強く非難したということは聞かないから、米国のソ連軍支援は十分考えられる」と話す。

 日本政府が「米軍の援助」を知らなかったはずはないが、冷戦下、米国とともに反ソ感情を煽るためにも都合の悪い事実だった。納沙布岬にある北方館の小田嶋英男館長も「ソ連は当時、連合国の一員なのでおかしくはない。引き揚げてきた人は国籍不明の船を見たとか、ロシアの船ではないと話していた。でも、ソ連軍の4島の占領にアメリカが関わった歴史を出さない方がいい、ということだったのでしょう」と推測する。

 事実は北海道新聞の報道後、釧路新聞と根室新聞が報じたが、全国紙は無視した。中央メディアも外務省などに問い合わせはしたはずだ。米国に追従する安倍政権に「忖度」したのなら、情けない話だ。現代史の中で語られる出来事は、今の政治に直結しているケースが多いため、こうしたことは多い。日露首脳会談のときだけ賑やかになる北方領土問題も、その実、4島をめぐる現代史の根本事実すら国民には知らされていない。 


一般人が島へ行くことはできるか?

「渡航禁止」にも矛盾はらむ外務省

 さて、こうした複雑な歴史を持つ北方領土だが、日本人が島を訪れることはできるのか。結論から言えば、行けないことはないものの、一般人が訪れるのはなかなか困難だ。

 時代を遡れば、1989年4月、北海道新聞がメディアとして戦後初めて北方領土、国後島の上陸取材を報じた。まだソ連時代でロシア人でも簡単には入れなかった。歴史的快挙だ。

 当時、筆者が親しくしていた札幌領事館のイワノフという副領事(日本語が堪能だった)は、「あんなところに大した秘密も何もないんです。日本のような発展した国の人に、あんな遅れた場所を見せたくないんですよ」と話した。

 残留日本人や韓国人などの取材でサハリンに通っていた筆者は、自然やロシア人の素朴さには魅かれたが、「何と後れた場所か、1世紀前に戻ったようだ」と感じていた。戦後初めて故郷を再訪した引揚者の女性も、「ロスケ(筆者注:ロシア人。必ずしも蔑称ではない)は何してたのよ。日本時代の方が進んでたわ」と呆れていた。

 ソ連社会の中で、極東地方はモスクワから見放された地域。筆者は「サハリン本島でこれなら、北方領土(同じくサハリン州)なんてどんなに原始的か」と感じていたので、イワノフ氏の話は納得できた。

 1992年に「ビザなし交流」が始まった。4島交流、墓参り、自由訪問などがあるが、誰でも行けるわけではない。元居住者(子孫を含む)、返還要求運動関係者、報道関係者、学者などの専門家に限定される。日本政府は一般人の渡航を自粛するように求めている。「旅券や査証を取っての上陸はロシアの領土であることを認めてしまう」というのが言い分だ。


ソ連に億単位のカネを払って

北方領土の海域で漁をさせてもらう

 とはいえ、北方領土や領海をめぐっては、政府とて「建前と本音」の狭間で矛盾だらけ。たとえば、一時期の中断を含めて1960年代から続く夏場の「貝殻島の昆布漁」は、ロシアに億単位の入漁料を払って北方領土の海域で昆布漁が続く。「日本固有の領土、領海」なら金を払うのは明らかにおかしいが、漁民救済の一助として止むを得ないのだ。

 旅券、ビザで上陸した北海道新聞の記事をきっかけに、1990年代はピースボートなど様々な団体が旅券を取って、サハリン経由で北方領土へ渡っている。政府とて、こうした行為を日本の法律で取り締まることはできない。

 1988年、アイヌ民族の男性が「国後のアイヌと共同事業をする」と言い、北海道水産部の制止を振り切って小舟で国後島へ渡った騒動があった。仲間と「ウタリ合同」というソ連との合弁会社を立ち上げて、色丹島海域で大量のカニを水揚げしてきた。北方領土を外国と認めてしまうことになる。結局、北海道海面漁業調整規則違反に問われ、国内法がソ連の実効支配海域に及ぶか どうかが最高裁まで争われたが、「及ぶ」と認定され、有罪となった。

 検疫も税関も無視だから、戻れば検疫法違反や関税法違反などに問われる可能性があった。しかし、そうすると「北方領土を外国と認めてしまう」ことになるためか、その男性の罪は問われなかった。政府としても「痛し痒し」だったのだ。

 日本人にとって「近くて遠い」北方領土――。返還を唱えるならば、まずはかの地を取り巻く状況がどうなっているのかを、日本人一人ひとりが深く知ることから始めるべきではないか。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%8C%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%80%81%E5%8D%A0%E9%A0%98%E3%81%AE%E9%BB%92%E5%B9%95%E3%83%BB%E8%BF%94%E9%82%84%E4%BA%A4%E6%B8%89%E3%81%AE%E7%9F%9B%E7%9B%BE%E2%80%A6/ar-BBWikav?OCID=ansmsnnews11#page=2
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c28

[近代史3] 馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた 中川隆
12. 中川隆[-10504] koaQ7Jey 2019年4月29日 19:02:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1583]

北方領土「日本人が知らない」真実、占領の黒幕・返還交渉の矛盾…
粟野仁雄 2019/04/26
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%8C%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%80%81%E5%8D%A0%E9%A0%98%E3%81%AE%E9%BB%92%E5%B9%95%E3%83%BB%E8%BF%94%E9%82%84%E4%BA%A4%E6%B8%89%E3%81%AE%E7%9F%9B%E7%9B%BE%E2%80%A6/ar-BBWikav?OCID=ansmsnnews11#page=2

北方領土と日本の複雑すぎる関係

「今、日本でニュースになっているクリル列島(千島列島)の問題をどう思いますか。日本じゃ北方領土と呼ぶのだけれど……」

 1月末、モスクワでの首脳会談に合わせて旧島民たちの取材に訪れた筆者は、北海道根室市のラーメン店で、隣に座った若いロシア人男性に拙いロシア語でこう尋ねた。サハリンから商売に来ていた体格のよい男は、「北方領土ではないよ。あの島は絶対に我国の『南方領土』なんだ。でも日本はいい国だよ。仲良くしたいね」と笑った。

 安倍首相とプーチン大統領による日ロ首脳会談の度に取り沙汰される北方領土問題だが、3月15日、ロシアの『コメルサント』紙が「大きく交渉スピードが後退した」とプーチン大統領が発言していたことを報じた。足もとでは、5月上旬の対ロ協議を前に、河野太郎外相が国会答弁においてロシア側を刺激しない配慮を見せるなど、交渉の「難しさ」が伝わってくる。

 近づいたとか思うと離れるブーメランのような「北方領土」とは、日本人にとってどんな存在なのか。筆者が若き記者時代から関わったこのテーマについて、まずは地理や歴史などの基本事項を解説したい。

 背の低い白い灯台が立つ根室半島先端の納沙布岬。眼下の岩礁にはかつて作家の三島由紀夫を信奉する国粋主義団体「楯の会」がペンキで描いた「千島を返せ」の文字があったが、積年の波で消えている。沖へ視線をやると、水平線上にまっ平で樹木の1本もない不思議な水晶島が見える。貝殻島の「日本時代」からの古い灯台が見える。右には勇留(ゆり)島。いずれもロシアの実効支配下にある歯舞群島の1つだ。

「うわあ、ロシアが見えるなんて」-――。若いカップルが驚いていたが、寒がって車に引っ込んでしまった。夏のシーズンは濃霧で見にくいため寒い時期がいいのだが、この地域の冬の寒さは半端ではない。見えていた数隻の漁船は、あまりの近さに日本の船かと思いたくなるが、潜水でウニを採るロシアの船である。ここから日露の海上の「中間ライン」(固有の領土、領海を主張してきた国は国境とは言えない)はわずか1.7キロだ。

「ロシア人はウニなんて食べないから、みんな日本に売るんです。この寒いのによく潜るよ」とは食堂兼土産物店「請望苑」を経営する竹村秀夫さんだ。訪問者たちの「北方領土って、こんなに近かったんですか」の言葉に地元民は辟易しているが、北海道旅行も根室まで行く人は少ないから、それも仕方がない。

 北方領土は、北から択捉島、国後島、並列する歯舞諸島と色丹島の「4島」だが、沖縄本島より大きい最大の択捉島と2番目に大きい国後島が、全面積の93%を占める。国後島は根室市からも見えるが、標津町からはより近く、好天なら主峰の爺々岳も見える。

 北方領土をめぐる国際的な取り決めの柱は、(1)1855年の日露通交(和親)条約、(2)1875年の千島樺太交換条約、(3)1904年のポーツマス条約、(4)1951年のサンフランシスコ講和条約、そして(5)1956年の日ソ共同宣言だろう。日ロ間における北方領土を巡るターニングポイントについて、おさらいしてみよう。


開国時にロシアだけは

友好な態度だった

 1855年2月7日、江戸幕府はロシア帝国と「日露通好条約」を結ぶ。「日露和親条約」ともいう。ロシア語では「貿易と国境の条約」だが、日本語では「貿易」も「国境」も消え、和親だとか通好とか、わけのわからぬ言葉になる。

 このとき、ニコライ一世の訓令・プチャーチン提督と対峙したのが、幕府の川路聖謨(かわじ・としあきら)という旗本。NHKの元モスクワ支局長の石川一洋解説委員は、2月に鳥取県倉吉市に招かれた講演会で、川路について「優れた人でしたが、ロシアの交渉団が彼の写真を撮ろうとしたら固辞した。『私のような醜男が貴国に紹介されては日本の恥です』と言ったのです」と素朴な人柄を紹介した。川路は戊辰戦争で幕府軍に殉じて自決した。

 この時期、米国のペリー提督が軍艦を連ねて開国を迫るなど、欧米列強が「鎖国日本」を力でこじ開けようとしたが、石川氏は「ロシアだけは非常に友好的な態度で日本に接してきたのです」と強調した。確かにその通りだ。

 この条約で国境線が得撫(ウルップ)島と択捉島の間とされ、樺太は「日露混住の地」となるが、20年後の1875年、ペテルブルグ(今のサンクトぺテルブルグ)で締結された「千島樺太交換条約」で、樺太は全島がロシア領、千島列島すべてが日本領となる。日本は大政奉還から7年目の明治8年、ロシア側は革命で銃殺されるロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世の父、アレクサンドル三世の時代だ。

 20世紀初頭、日露戦争で日本が勝利し、1905年に「ポーツマス条約」で樺太の南半分が日本領となる。これはロシア人にとって大変な屈辱だった。南樺太のロシア人は北緯50度以北へ追いやられ、代わりに日本の開拓団が多数樺太へ移住し、石炭生産、製紙産業、林業、農業、漁業などを繁栄させた。樺太や千島の日本人は、第二次大戦末期に日本本土の人たちが空襲などに苦しんでいた頃も平和を謳歌した。

 それが破られたのが、ポツダム宣言受諾後の1945年8月。日ソ中立条約を一方的に破ったソ連軍が、満州、樺太、北方領土へ侵攻したのだ。戦闘らしい戦闘もなかった北方領土では、樺太や満州のような悲劇は少ないが、金品を奪うソ連軍との諍いや、本土への脱走時に船が銃撃を受けるなどして、幾人かが命を落とした。

 その後、色丹島などでは2年間ほど日露混住の時代もあった。色丹島の混住時代に小学生時代を過ごした得能宏さん(85)は、「先生は怖がっていたけれど、ロシア兵が黒板のほうに来て、生徒の算数の間違いを直してくれた」と振り返る。

 最終的に4島から日本人すべてが追われた。根室や羅臼などに裸一貫で引き揚げた彼らの戦後の苦労は想像に難くない。


意外に知られていない

サンフランシスコ平和会議での失態

 ソ連の対日参戦は1945年2月の米、英、ソのヤルタ会談で密かに決められた。戦争を早期終結させ、米兵の犠牲を減らしたいルーズベルト・米国大統領の求めによるものだが、スターリン・ソ連書記長の談話録には「問題が起きているわけではない日本と戦争することに国民は納得しない」と、代償に領土拡大を求める巧みな会話が残されている。

 後にスターリンは、釧路と留萌を結ぶライン以北の北海道の北半分までも要求したが、米国が拒否した。実現していたら北海道は今頃、どうなっていたのだろうか。

 1951年、米国との単独講和だったサンフランシスコ平和条約で、日本は「クリルアイランズ(千島列島)」を放棄した。実はこのときに、現在に至るまで禍根を残す失態が生じる。批准国会で野党議員に「放棄した千島に国後や択捉を含むのか」と訊かれた西村熊雄条約局長が、「含む」と答えてしまったのだ。

 外務省はこの大失敗に触れられることを今も嫌がるが、和田春樹・東大名誉教授(ロシア史)は「どんなにつらくとも、放棄したことを認めて交渉すべきだ」と話す。外務省は、「サ条約にはソ連が参加していないから、ロシアのものとされたわけではない」としている。

 1956年、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相との間で「日ソ共同宣言」が締結された。今、盛んにニュースになっている史実だ。「平和条約締結後に、色丹島と歯舞諸島は日本に引き渡すとされた」が、「引き渡す」(ロシア語では「ペレダーチ」)とは、「返す」ではなく、「私の物ですが差し上げます」というニュアンスだった。

 結局、平和条約を結べないまま、世界は冷戦時代に突入。日本を自由主義陣営に引き込みたい米国のダレス国務長官が、「歯舞・色丹の返還を目指してソ連と平和条約を結ぶなら、沖縄を永久に占領する」とした有名な「恫喝」が大きな楔だった。

 そして、1960年の日米安保条約延長でソ連は態度を硬化し、「領土問題は解決済み」とされる。1973年、田中角栄首相がブレジネフ書記長に「両国間の未解決諸問題」に領土問題が含まれることを認めさせたが、その後進展はなかった。80年代にゴルバチョフ政権が誕生し、91年にソ連が崩壊、続くエリツィン政権ではロシアが一旦態度を軟化させたものの、日本は何度も好機を逃してきた(これについては、後述する)。

 日本人の最も身近にある国際問題の1つ、北方領土問題はこうした経緯を辿って来たのである。


忘れられがちな史実

本当の先住民は誰だったのか

 2月7日、筆者は大阪は中の島公会堂の「北方領土返還要求大会」に出かけた。入り口で「アイヌ民族抜きで交渉を進めることはおかしい」と抗議の横断幕を掲げる人たちがいた。

 北方領土史で忘れられがちなのは、「本当の先住民は誰だったのか」だ。筆者は1980年代、北海道で知り合いのソ連担当の公安関係者から、「ソ連の学者たちが北海道のアイヌ民族の存在を口実に、北方領土が古来、自分たちの領土だったことにしようとしている」と聞いた経験がある。アイヌはロシア側にも居ることをテコに、「日本人より先にロシアのアイヌが千島にいた」として、日本が主張する「固有の領土」を否定しようとし、「AS協会」という組織を立ち上げたと、といった話だった。

 詳細は省くが、国境という観念も希薄だったその昔、千島列島ではアリュート、樺太アイヌ、北海道アイヌら、様々な民族が狩猟生活や物々交換などをしていた。政府は、第二次大戦までは一度も外国の手に渡っていない「固有の領土」と強調している。 


ソ連の北方領土占領に米国が協力

なぜか後追いされない衝撃の事実

 2017年12月30日の北海道新聞に「歴史の常識を覆す」報道があった。タイトルは「ソ連の北方四島占領、米が援助、極秘に艦船貸与、訓練も」というものだ。

 概要は、1945年8、9月に行われた旧ソ連軍の北方4島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたというものだ。大量の艦船の提供だけではなく、ソ連兵の訓練も行ったといい、4島占領の背景に米国の強力な軍事援助があったことを示唆する内容だった。

 ヤルタ会談の直後、連合国だった米ソは「プロジェクト・フラ」という極秘作戦を実施した。米国は45年5月から掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。ソ連兵1万2000人を米アラスカ州の基地に集め、1500人の米軍人が艦船やレーダーの習熟訓練を行った。

 8月28日からソ連兵が攻め込んだ択捉、国後、色丹、歯舞の占領作戦には、米国に借りた艦船10隻を含む17隻が参加。ソ連軍は各島で日本兵の武装解除を行い、4島の占領は9月5日までに完了した。

 記事には、和田春樹・東京大学教授が次のような談話を寄せている。

「北方4島を含むソ連の対日作戦を米国が軍事援助していたことは、日本ではほとんど知られておらず、発見と言える。ソ連が勝手に行ったのではなく、米国をリーダーとする連合国の作戦だったことを示す」

 日本がポツダム宣言を受諾して降伏した後に、ソ連は日ソ中立条約を破棄して千島列島を南下、樺太からのソ連軍は米軍がいないことを確認して、択捉、国後島、歯舞群島、色丹島に侵攻したという「常識」を覆す話だ。

 ソ連が樺太南部と千島列島での作戦に投入した全艦船を調べた、ロシア・サハリン州戦勝記念館のイーゴリ・サマリン科学部長の論文を、同紙根室振興局が入手した。調査を主導した谷内紀夫前副局長は、「ボリス・スラビンスキーの著書『千島占領・一九四五年夏』(1993年)には、この経緯の一端が出ているが、話題にならなかった」と言う。

 記事を見た千島歯舞諸島居住者連盟の宮谷内亮一・根室支部長は、「驚いた。ソ連の占領に関わっていたのなら領土問題はアメリカにも責任がある」と話す。旧島民も初耳の人は多い。一方、連盟の脇紀美夫理事長(元羅臼町長)は、「日本が降伏しているのに攻めて占領したソ連に対して、当時、アメリカが強く非難したということは聞かないから、米国のソ連軍支援は十分考えられる」と話す。

 日本政府が「米軍の援助」を知らなかったはずはないが、冷戦下、米国とともに反ソ感情を煽るためにも都合の悪い事実だった。納沙布岬にある北方館の小田嶋英男館長も「ソ連は当時、連合国の一員なのでおかしくはない。引き揚げてきた人は国籍不明の船を見たとか、ロシアの船ではないと話していた。でも、ソ連軍の4島の占領にアメリカが関わった歴史を出さない方がいい、ということだったのでしょう」と推測する。

 事実は北海道新聞の報道後、釧路新聞と根室新聞が報じたが、全国紙は無視した。中央メディアも外務省などに問い合わせはしたはずだ。米国に追従する安倍政権に「忖度」したのなら、情けない話だ。現代史の中で語られる出来事は、今の政治に直結しているケースが多いため、こうしたことは多い。日露首脳会談のときだけ賑やかになる北方領土問題も、その実、4島をめぐる現代史の根本事実すら国民には知らされていない。 


一般人が島へ行くことはできるか?

「渡航禁止」にも矛盾はらむ外務省

 さて、こうした複雑な歴史を持つ北方領土だが、日本人が島を訪れることはできるのか。結論から言えば、行けないことはないものの、一般人が訪れるのはなかなか困難だ。

 時代を遡れば、1989年4月、北海道新聞がメディアとして戦後初めて北方領土、国後島の上陸取材を報じた。まだソ連時代でロシア人でも簡単には入れなかった。歴史的快挙だ。

 当時、筆者が親しくしていた札幌領事館のイワノフという副領事(日本語が堪能だった)は、「あんなところに大した秘密も何もないんです。日本のような発展した国の人に、あんな遅れた場所を見せたくないんですよ」と話した。

 残留日本人や韓国人などの取材でサハリンに通っていた筆者は、自然やロシア人の素朴さには魅かれたが、「何と後れた場所か、1世紀前に戻ったようだ」と感じていた。戦後初めて故郷を再訪した引揚者の女性も、「ロスケ(筆者注:ロシア人。必ずしも蔑称ではない)は何してたのよ。日本時代の方が進んでたわ」と呆れていた。

 ソ連社会の中で、極東地方はモスクワから見放された地域。筆者は「サハリン本島でこれなら、北方領土(同じくサハリン州)なんてどんなに原始的か」と感じていたので、イワノフ氏の話は納得できた。

 1992年に「ビザなし交流」が始まった。4島交流、墓参り、自由訪問などがあるが、誰でも行けるわけではない。元居住者(子孫を含む)、返還要求運動関係者、報道関係者、学者などの専門家に限定される。日本政府は一般人の渡航を自粛するように求めている。「旅券や査証を取っての上陸はロシアの領土であることを認めてしまう」というのが言い分だ。


ソ連に億単位のカネを払って

北方領土の海域で漁をさせてもらう

 とはいえ、北方領土や領海をめぐっては、政府とて「建前と本音」の狭間で矛盾だらけ。たとえば、一時期の中断を含めて1960年代から続く夏場の「貝殻島の昆布漁」は、ロシアに億単位の入漁料を払って北方領土の海域で昆布漁が続く。「日本固有の領土、領海」なら金を払うのは明らかにおかしいが、漁民救済の一助として止むを得ないのだ。

 旅券、ビザで上陸した北海道新聞の記事をきっかけに、1990年代はピースボートなど様々な団体が旅券を取って、サハリン経由で北方領土へ渡っている。政府とて、こうした行為を日本の法律で取り締まることはできない。

 1988年、アイヌ民族の男性が「国後のアイヌと共同事業をする」と言い、北海道水産部の制止を振り切って小舟で国後島へ渡った騒動があった。仲間と「ウタリ合同」というソ連との合弁会社を立ち上げて、色丹島海域で大量のカニを水揚げしてきた。北方領土を外国と認めてしまうことになる。結局、北海道海面漁業調整規則違反に問われ、国内法がソ連の実効支配海域に及ぶか どうかが最高裁まで争われたが、「及ぶ」と認定され、有罪となった。

 検疫も税関も無視だから、戻れば検疫法違反や関税法違反などに問われる可能性があった。しかし、そうすると「北方領土を外国と認めてしまう」ことになるためか、その男性の罪は問われなかった。政府としても「痛し痒し」だったのだ。

 日本人にとって「近くて遠い」北方領土――。返還を唱えるならば、まずはかの地を取り巻く状況がどうなっているのかを、日本人一人ひとりが深く知ることから始めるべきではないか。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%8C%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%80%81%E5%8D%A0%E9%A0%98%E3%81%AE%E9%BB%92%E5%B9%95%E3%83%BB%E8%BF%94%E9%82%84%E4%BA%A4%E6%B8%89%E3%81%AE%E7%9F%9B%E7%9B%BE%E2%80%A6/ar-BBWikav?OCID=ansmsnnews11#page=2

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html#c12

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
184. 中川隆[-10503] koaQ7Jey 2019年4月29日 19:33:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1584]

新書821伊勢と出雲 (平凡社新書) – 2016/8/10
岡谷 公二 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E6%9B%B8821%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E3%81%A8%E5%87%BA%E9%9B%B2-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B2%A1%E8%B0%B7-%E5%85%AC%E4%BA%8C/dp/458285821X/ref=sr_1_13?qid=1556533857&refinements=p_27%3A%E5%B2%A1%E8%B0%B7+%E5%85%AC%E4%BA%8C&s=books&sr=1-13&text=%E5%B2%A1%E8%B0%B7+%E5%85%AC%E4%BA%8C


内容紹介
日本原初の記憶が刻まれた地でありながら、それぞれ別物とされてきた伊勢と出雲を、古代朝鮮の文化と鉄をキーワードにつなぎ直す。

内容(「BOOK」データベースより)
前著『神社の起源と古代朝鮮』から三年―。両者とも日本の起源が刻まれた地でありながら別物とされてきた伊勢と出雲を、「韓神と鉄」をキワードにつなぎ直す思索の旅の物語がはじまる。二大神社の繋がりの謎を解く。

著者について
1929年東京生まれ。 東京大学文学部卒業。跡見学園女子大学名誉教授。著書に、『柳田国男の青春』(筑摩書房)、『島の精神誌』(思索社)、『神の森 森の神』(東京書籍)、『南の精神誌』(新潮社)、『絵画のなかの熱帯』(平凡社)、『南海漂蕩』(冨山房インターナショナル、和辻哲郎文化賞)、『原始の神社をもとめて』『神社の起源と古代朝鮮』(いずれも平凡社新書)、訳書に、レリス『幻のアフリカ』、ルーセル『ロクス・ソルス』(いずれも平凡社ライブラリー)など多数。

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
起源・発祥から消化・吸収へ、外来から土着への進展も必要なのでは? 2019年3月10日


 音楽業界のアーティストの初期のアルバムが、よい曲が多く、高いクオリティーだったのに、しだいにアルバムで、よい曲が少なくなり、クオリティーが低がるのは、多々あることです。

 それは、おそらくデビュー前までの長期間、よい曲をたくさんストックしていたからで、そこから、よい曲をアルバムで出し尽くせば、個人には限界があるので、これまでと異なる新しいものを、短期間で生み出すのは、大変困難になり、これは、出版業界にも、いえることではないでしょうか。

 特に新書は、それが顕著で、続々編にもなると、似たり寄ったりになるのも散見でき、本作は、前々作『原始の神社をもとめて』・前作『神社の起源と古代朝鮮』に比べて、残念ながら、内容が薄いといわざるをえません。

 前々作でも、伊勢が(6章)、前作でも、出雲が(4章)、取り上げられていますが、それらを、朝鮮半島から西日本へ渡来人が流入した総論とみれば、本作では、伊勢・出雲の各論として、ヨリ詳細に、考察してもらいたかったところです。

 筆者は、渡来人を新羅・伽耶系とまとめていますが、それぞれの地域へ、いつの時期(弥生期・古墳期・飛鳥期等)に流入し、何をして、どう地域に溶け込んだのかが、不明なままなので、多少整理してもらわないと、内容の繰り返しになってしまうのではないでしょうか。

 たとえば、伊勢や出雲を、鉄と結び付けたいのであれば、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転したとされているので、それも勘案すべきです。

 鉄器は、1世紀後半〜2世紀に、山陽・山陰・近畿北部まで流入しましたが、畿内までは、あまり流入しておらず、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく山陽・山陰・近畿北部と同程度になっています。

 また、鉄器が西日本へ本格的に普及したのは、国外品の使用が、前漢による楽浪郡設置(紀元前108年)以降の紀元前1世紀から、国内鍛造が、おそらく1世紀頃から、国内鋳造が、伽耶諸国滅亡(532年に金官伽耶・562年に大伽耶が滅亡)以降の6世紀後半からです(岡山県・千引カナクロ谷遺跡)。

 さらに、鉄の原料には、鉄鉱石と砂鉄があり、鉄鉱石には、褐鉄鉱・赤鉄鉱・磁鉄鉱があり、褐鉄鉱は、葦・茅等の水辺の植物の根に、水中の鉄分が蓄積し、根が枯渇したものですが、これを原料にしても、磁鉄鉱より格段にもろく、石器より劣るようなので、とても使えないでしょう。

 よって、国内鍛造は、出雲では、弥生後期(2世紀)以降、伊勢では、古墳前期(4世紀)以降で、国内鋳造は、砂鉄によるタタラ製鉄の日本最古の想定でも、4世紀後半〜5世紀前半とみられています(兵庫県・入佐山3号墳の浜砂鉄)。

 そのうえ、倭は、4世紀終り〜5世紀初めから、朝鮮半島へ渡海し、高句麗と断続的に交戦、それ以降に渡来人が、日本列島へ大勢流入したうえ、新羅の実質上の建国が、4世紀半ばなので(それ以前は、12の小国があった辰韓)、鉄関連の新羅・伽耶系神社の創建は、古墳中期〜飛鳥期とみるのが自然です。

 朝鮮半島への仏教伝来は、高句麗・百済が4世紀(それぞれが372年・384年)で、新羅が6世紀と、約200年後なので、そこから、日本列島への流入は、「仏」が百済経由(538年か552年)で、その間の、渡来系の「神」が新羅経由と、推定されています(p.37)。

 一方、高麗の時代・12世紀半ば成立の「三国史記」によると、新羅王の初代が死去し、2代が始祖廟を創建、2代の妹が祭祀したのが、新羅での氏神信仰の起源とみられ、5世紀後半(487年)に、始祖廟が「神宮」と呼称され、これが伊勢神宮の名称や斎宮制に影響されたともいわれています(p.37-39)。

 たしかに、伊勢神宮の創建は、5世紀後半から6世紀後半まで、諸説あるようで、これらから、鉄関連の外来神は、5〜6世紀以後に流入したとも導き出せますが、鉄と結び付けなければ、それ以前も想定できるので、そのあたりが、どうも曖昧なのです。

 ただし、筆者は、新羅・伽耶系神社の祭神が、スサノオ・オオアナムチ・コトシロヌシ等の出雲の神なので、出雲の神も渡来系だとしていますが、祭神は、古代・中世(神仏習合の影響)や近世・近代(神仏分離の影響)等での変更・追加も、多々あるので、それらを精緻に調査してもらいたいです。

 仏教が本格的に普及したのは、飛鳥期〜奈良期で、仏寺に対抗し、神社が社殿化され、その時期の朝鮮半島は、唐勢力の排除(676年)後の統一新羅なので、朝鮮半島からの渡来系をすべて、新羅とみなし、命名された可能性もあり、百済遺民が大勢流入したのに、新羅系神社が大半なのも、気になります。

 私が着目しているのは、百済の王族が、天皇(持統/41代)から、百済王(こにきし)の姓が授与(690か691年)されたのが、百済滅亡(660年)の30か31年後で、高句麗の王族が、天皇(文武/42代)から、高句麗王の姓が授与(703年)されたのは、高句麗滅亡(668年)の35年後であることです。

 つまり、朝鮮の王族が、30〜35年で、大和政権の官僚の一員に取り込まれており、それは、かれらが、中央政府に有益なので、利用したかったからでもありますが、30〜35年経過すれば、渡来系氏族と区別されつつも、渡来人も土着人並に取り扱われ、外来が早急に消化・吸収(日本化)されています。

 ところで、大和政権は、天つ神(天神、天上の神)と国つ神(地祇、地上の神)を区分し、スサノオ・オオアナムチ(オオクニヌシ)・コトシロヌシ(オオクニヌシの息子)は、国つ神ですが、もし、筆者のいう、出雲の神が渡来系なら、外来の天つ神が、外来の国つ神に、国譲りを迫ったことになります。

 しかし、実際には、国つ神は、土着神で、天つ神は、外来神という位置づけですが、記紀神話では、土着の国つ神が、国作りしたよりも、外来の天つ神が、国生みしたほうが、優位なので、もし、外来どうしだったとしても、天皇が、日本列島を統治する根拠となるよう、うまく消化・吸収しています。

 このように、日本は、中国・朝鮮の起源・発祥だけに固執するよりも、それをうまく消化・吸収するのが特徴なので、筆者が今後も、神への祭祀・神社関連の新書を発表するなら、外来から土着への進展の考察も期待します。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R55T1YUOXJ2R0/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=458285821X
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c184

[近代史02] 弥生人の起源2 中川隆
27. 中川隆[-10502] koaQ7Jey 2019年4月29日 19:33:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1585]

新書821伊勢と出雲 (平凡社新書) – 2016/8/10
岡谷 公二 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E6%9B%B8821%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E3%81%A8%E5%87%BA%E9%9B%B2-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B2%A1%E8%B0%B7-%E5%85%AC%E4%BA%8C/dp/458285821X/ref=sr_1_13?qid=1556533857&refinements=p_27%3A%E5%B2%A1%E8%B0%B7+%E5%85%AC%E4%BA%8C&s=books&sr=1-13&text=%E5%B2%A1%E8%B0%B7+%E5%85%AC%E4%BA%8C


内容紹介
日本原初の記憶が刻まれた地でありながら、それぞれ別物とされてきた伊勢と出雲を、古代朝鮮の文化と鉄をキーワードにつなぎ直す。

内容(「BOOK」データベースより)
前著『神社の起源と古代朝鮮』から三年―。両者とも日本の起源が刻まれた地でありながら別物とされてきた伊勢と出雲を、「韓神と鉄」をキワードにつなぎ直す思索の旅の物語がはじまる。二大神社の繋がりの謎を解く。

著者について
1929年東京生まれ。 東京大学文学部卒業。跡見学園女子大学名誉教授。著書に、『柳田国男の青春』(筑摩書房)、『島の精神誌』(思索社)、『神の森 森の神』(東京書籍)、『南の精神誌』(新潮社)、『絵画のなかの熱帯』(平凡社)、『南海漂蕩』(冨山房インターナショナル、和辻哲郎文化賞)、『原始の神社をもとめて』『神社の起源と古代朝鮮』(いずれも平凡社新書)、訳書に、レリス『幻のアフリカ』、ルーセル『ロクス・ソルス』(いずれも平凡社ライブラリー)など多数。

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
起源・発祥から消化・吸収へ、外来から土着への進展も必要なのでは? 2019年3月10日


 音楽業界のアーティストの初期のアルバムが、よい曲が多く、高いクオリティーだったのに、しだいにアルバムで、よい曲が少なくなり、クオリティーが低がるのは、多々あることです。

 それは、おそらくデビュー前までの長期間、よい曲をたくさんストックしていたからで、そこから、よい曲をアルバムで出し尽くせば、個人には限界があるので、これまでと異なる新しいものを、短期間で生み出すのは、大変困難になり、これは、出版業界にも、いえることではないでしょうか。

 特に新書は、それが顕著で、続々編にもなると、似たり寄ったりになるのも散見でき、本作は、前々作『原始の神社をもとめて』・前作『神社の起源と古代朝鮮』に比べて、残念ながら、内容が薄いといわざるをえません。

 前々作でも、伊勢が(6章)、前作でも、出雲が(4章)、取り上げられていますが、それらを、朝鮮半島から西日本へ渡来人が流入した総論とみれば、本作では、伊勢・出雲の各論として、ヨリ詳細に、考察してもらいたかったところです。

 筆者は、渡来人を新羅・伽耶系とまとめていますが、それぞれの地域へ、いつの時期(弥生期・古墳期・飛鳥期等)に流入し、何をして、どう地域に溶け込んだのかが、不明なままなので、多少整理してもらわないと、内容の繰り返しになってしまうのではないでしょうか。

 たとえば、伊勢や出雲を、鉄と結び付けたいのであれば、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転したとされているので、それも勘案すべきです。

 鉄器は、1世紀後半〜2世紀に、山陽・山陰・近畿北部まで流入しましたが、畿内までは、あまり流入しておらず、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく山陽・山陰・近畿北部と同程度になっています。

 また、鉄器が西日本へ本格的に普及したのは、国外品の使用が、前漢による楽浪郡設置(紀元前108年)以降の紀元前1世紀から、国内鍛造が、おそらく1世紀頃から、国内鋳造が、伽耶諸国滅亡(532年に金官伽耶・562年に大伽耶が滅亡)以降の6世紀後半からです(岡山県・千引カナクロ谷遺跡)。

 さらに、鉄の原料には、鉄鉱石と砂鉄があり、鉄鉱石には、褐鉄鉱・赤鉄鉱・磁鉄鉱があり、褐鉄鉱は、葦・茅等の水辺の植物の根に、水中の鉄分が蓄積し、根が枯渇したものですが、これを原料にしても、磁鉄鉱より格段にもろく、石器より劣るようなので、とても使えないでしょう。

 よって、国内鍛造は、出雲では、弥生後期(2世紀)以降、伊勢では、古墳前期(4世紀)以降で、国内鋳造は、砂鉄によるタタラ製鉄の日本最古の想定でも、4世紀後半〜5世紀前半とみられています(兵庫県・入佐山3号墳の浜砂鉄)。

 そのうえ、倭は、4世紀終り〜5世紀初めから、朝鮮半島へ渡海し、高句麗と断続的に交戦、それ以降に渡来人が、日本列島へ大勢流入したうえ、新羅の実質上の建国が、4世紀半ばなので(それ以前は、12の小国があった辰韓)、鉄関連の新羅・伽耶系神社の創建は、古墳中期〜飛鳥期とみるのが自然です。

 朝鮮半島への仏教伝来は、高句麗・百済が4世紀(それぞれが372年・384年)で、新羅が6世紀と、約200年後なので、そこから、日本列島への流入は、「仏」が百済経由(538年か552年)で、その間の、渡来系の「神」が新羅経由と、推定されています(p.37)。

 一方、高麗の時代・12世紀半ば成立の「三国史記」によると、新羅王の初代が死去し、2代が始祖廟を創建、2代の妹が祭祀したのが、新羅での氏神信仰の起源とみられ、5世紀後半(487年)に、始祖廟が「神宮」と呼称され、これが伊勢神宮の名称や斎宮制に影響されたともいわれています(p.37-39)。

 たしかに、伊勢神宮の創建は、5世紀後半から6世紀後半まで、諸説あるようで、これらから、鉄関連の外来神は、5〜6世紀以後に流入したとも導き出せますが、鉄と結び付けなければ、それ以前も想定できるので、そのあたりが、どうも曖昧なのです。

 ただし、筆者は、新羅・伽耶系神社の祭神が、スサノオ・オオアナムチ・コトシロヌシ等の出雲の神なので、出雲の神も渡来系だとしていますが、祭神は、古代・中世(神仏習合の影響)や近世・近代(神仏分離の影響)等での変更・追加も、多々あるので、それらを精緻に調査してもらいたいです。

 仏教が本格的に普及したのは、飛鳥期〜奈良期で、仏寺に対抗し、神社が社殿化され、その時期の朝鮮半島は、唐勢力の排除(676年)後の統一新羅なので、朝鮮半島からの渡来系をすべて、新羅とみなし、命名された可能性もあり、百済遺民が大勢流入したのに、新羅系神社が大半なのも、気になります。

 私が着目しているのは、百済の王族が、天皇(持統/41代)から、百済王(こにきし)の姓が授与(690か691年)されたのが、百済滅亡(660年)の30か31年後で、高句麗の王族が、天皇(文武/42代)から、高句麗王の姓が授与(703年)されたのは、高句麗滅亡(668年)の35年後であることです。

 つまり、朝鮮の王族が、30〜35年で、大和政権の官僚の一員に取り込まれており、それは、かれらが、中央政府に有益なので、利用したかったからでもありますが、30〜35年経過すれば、渡来系氏族と区別されつつも、渡来人も土着人並に取り扱われ、外来が早急に消化・吸収(日本化)されています。

 ところで、大和政権は、天つ神(天神、天上の神)と国つ神(地祇、地上の神)を区分し、スサノオ・オオアナムチ(オオクニヌシ)・コトシロヌシ(オオクニヌシの息子)は、国つ神ですが、もし、筆者のいう、出雲の神が渡来系なら、外来の天つ神が、外来の国つ神に、国譲りを迫ったことになります。

 しかし、実際には、国つ神は、土着神で、天つ神は、外来神という位置づけですが、記紀神話では、土着の国つ神が、国作りしたよりも、外来の天つ神が、国生みしたほうが、優位なので、もし、外来どうしだったとしても、天皇が、日本列島を統治する根拠となるよう、うまく消化・吸収しています。

 このように、日本は、中国・朝鮮の起源・発祥だけに固執するよりも、それをうまく消化・吸収するのが特徴なので、筆者が今後も、神への祭祀・神社関連の新書を発表するなら、外来から土着への進展の考察も期待します。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R55T1YUOXJ2R0/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=458285821X
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/549.html#c27

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
185. 中川隆[-10501] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:12:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1586]

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。

○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。

○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。

○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。

○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1LZN9HINXSIGN?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c185

[近代史02] 弥生人の起源2 中川隆
28. 中川隆[-10500] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:13:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1587]

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。

○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。

○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。

○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。

○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1LZN9HINXSIGN?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/549.html#c28

[近代史3] 天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨 中川隆
15. 中川隆[-10499] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:13:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1588]

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。

○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。

○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。

○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。

○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1LZN9HINXSIGN?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html#c15

[近代史3] 日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか? 中川隆
36. 中川隆[-10498] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:14:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1589]

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。

○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。

○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。

○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。

○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1LZN9HINXSIGN?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html#c36

[近代史3] 天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統 中川隆
2. 中川隆[-10497] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:14:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1590]

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。

○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。

○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。

○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。

○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
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[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
186. 中川隆[-10496] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:37:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1591]

古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 (036)) – 1999/4/20
白石 太一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/古代国家はいかに形成されたか-古墳とヤマト政権-文春新書-036-太一郎/dp/4166600362/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
ヤマト政権が成立したのは、果して三世紀か、五世紀か、七世紀か。最新の発掘成果をふまえて古代史最大の謎・この国のルーツに迫る


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
経済連携していたところに、古墳文化が流行し、政治連合になったのでは? 2019年2月11日

 本書は、為政者の古墳から、政権の変遷を読み取ろうとしていますが、そうするにあたって、問題なのは、主に次の2点ではないでしょうか。

(1)政治の中心地は、王墓よりも、王宮であること
(2)他地域と比べて、古墳の規模が大きいからといって、そこよりも権力があるとはいえないこと


 (1)について、筆者は、「古墳は本来的に、その勢力の本拠地に造営されるのが原則だった」とし(p.119)、「王宮の位置は、その王の姻族(配偶者の血族)や、時の政権を支えた豪族との関係等、時々の政治情勢に規制される可能性が大きい」としています(p.123-124)。

 王宮の位置は、記紀神話での皇宮(天皇の宮殿)の立地と、天皇の妃の出身地・有力豪族の拠点等から、イメージしているようです。

 大型の前方後円墳(帆立貝式も)が立地する、3世紀前半からの大和(おおやまと)・柳本・箸中・鳥見山古墳群(奈良盆地南東部)は、その付近に皇宮も立地していますが、4世紀半ばからの佐紀古墳群(奈良盆地北部)は、皇宮が立地しておらず、豪族の拠点もなく、先行の古墳もなく、根拠不明です。

 一方、4世紀終り〜5世紀初めからの古市・百舌鳥古墳群(大阪平野南東部・南西部)は、交互に古墳が造営され、その付近に皇宮の一部も立地していますが、これは、初期ヤマト政権の盟主が、大和の勢力から、河内南部と和泉北部の二大勢力連合へと、移動したからとしています(p.123)。

 その根拠は、古市・百舌鳥の両方ともに、巨大古墳に先行する、大型古墳が造営されていたからとしていますが(p.122)、そこに有力豪族の拠点があった痕跡は、発見されていないようです。

 また、4世紀半ばに、柳本古墳群の行灯山・渋谷向山の2古墳が続いたので、王位の世襲制が固定化したとし、5世紀にも、佐紀古墳群でも大型古墳が造営されたので、それらから、佐紀の古墳の被葬者は、古市・百舌鳥の古墳を造営した王の妃+その父の家系の可能性が高いとしています(p.124-125)

 これは、夫が妻の家に通い、その子が妻+その父の家に住む、当時の婚姻の風習を想定しているようですが、それだと、筆者が最初に設定した「その王の姻族」で、古墳が立地していることになります。

 吉備・毛野等、畿内以外の地域で、大型古墳(盟主)が移動するのも、婚姻の可能性があると推測でき、婚姻での祖先を共通にした同族意識も、当初は、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野等の、広域内で発達したとみられます。

 ここまでみると、佐紀古墳群の立地が、根拠不明なことと、古市・百舌鳥古墳群の立地が、先行の大型古墳の存在のみで、その付近に、先行古墳の被葬者の拠点が発見されていない以上、根拠にならないことがわかります。

 そうなると、そもそも、王墓は、被葬者の出身地だという、設定自体が、成り立つとはいえなくなり、王墓も、王宮と同様、時々の政治情勢で決定されていたと、みるほうが自然です。

 豪族の拠点がないとすれば、奈良盆地の、北方の佐紀古墳群は、日本海経由の交易ルートの出入口に、西方の古市・百舌鳥古墳群は、瀬戸内海経由の交易ルートの出入口に、それぞれ立地しているので、皇宮のある盆地へ、アプローチする際の視覚的効果が、相当意識されていることになります。

 「日本書紀」の、崇神天皇(10代)による四道将軍の派遣・平定は、4世紀前半とされ、出発から帰還まで、わずか半年なので、実際は、交易ルートの開拓で、輸入用の丹波・西道の2ルートと輸出用の北陸・東海の2ルートを確保した、次のステップの佐紀古墳群と古市・百舌鳥古墳群の造営といえます。

 (2)について、筆者は、「3世紀後半という、あまりに古い時期に、ヤマトを中心とする一元的・集権的な国家的秩序の形成を構想してしまうと、その後の400年にもおよぶ、長い期間における政治連合の変質過程を、正しく認識するうえで支障がある」(p.19)といっており、これに、私も賛同します。

 しかし、出現期の古墳が、畿内の大和で大型、畿内の山城・瀬戸内の吉備・九州北部の豊(とよ)で中型、九州北部の筑紫で小型なので、広域の政治連合が、畿内の大和を中心に形成され(p.56)、連合の盟主である倭国王は、倭の諸国を代表して外交権・交易権を掌握していたとしています(p.61)。

 そして、出現期古墳を生み出した政治連合の形成の契機が、鉄資源をはじめとする、様々な先進的文物の輸入ルートの支配権を巡る、玄界灘沿岸地域と、畿内・瀬戸内海沿岸地域の、争いにあり(p.57)、それを「魏志倭人伝」での2世紀後半の倭国の乱とし、畿内・瀬戸内連合が、勝利したとしています(p.60)。

 つまり、筆者は、3世紀後半を、多元的・分権的といいつつも、いつのまにか、一元的・集権的な畿内の大和をイメージしており、これは、古墳の大きさと権力の大きさを直結し、邪馬台国=畿内説と、安直に結び付けてしまったのが、原因だといえます。

 ところで、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく瀬戸内と同程度になり、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しています。

 もし、倭国の乱で、畿内・瀬戸内連合が、鉄器の輸入ルートを支配したのなら、逆転するのに約100年もかかったことになり、大幅にズレがあることになります。
 そこで私は、古墳の大きさと権力の大きさが、アル程度比例し、上下(主従)関係が成り立つのは、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野の広域内等、盟主が首長を観察でき、反抗すれば、すぐに戦争ができる範囲内だとみています。

 他方、戦争ができる範囲外では、そもそも首長・盟主が、他地域へ頻繁に行き来しないので、古墳の大きさと権力の大きさの比例を想定するのは、大変疑問で、各首長・盟主は、対等が原則、序列があっても、兄弟程度の関係だったと推測できます。

 ここでの戦争ができる範囲とは、当時は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず(1艘最大20人程度)、途中で水・食糧等を調達しなければならず、海路で侵攻しても、長期戦で食糧不足になれば、撤退しかなく、それほど戦果が期待できないので、補給が容易な、陸路での侵攻が前提です。

 そうなると、遠方とは、戦争よりも交易でつながり、古墳の規模は、広域外への権力の表現よりも、まず広域内への権力の表現で、何よりも、大型古墳を造営できる財力があったと、みるのが自然で、最初から政治連合ではなく、経済連携があり、そこに古墳文化が流行したと、イメージすべきでしょう。

 出現期古墳・纏向型前方後円墳の規模が、それぞれ箸墓・大和の大型前方後円墳の約1/4・1/3・1/2・2/3・3/4・1/1・6/5倍となっているのは、共通の築造企画が存在しなくても(p.38)、交易で長さ(絹・布等)の単位が統一され、被葬者の財力を勘案し、周囲を真似すれば、特定の寸法に近づくのではないでしょうか。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは(p.59)、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、徐々に銅鏡の価値が低下したのを、九州北部が認識していたからで、後漢末から、民間工房の量産品が、中国市場に流通していたため、それを九州北部が、率先して商売にしたのでしょう。

 畿内・吉備の土器が、九州北部へ移動し、その逆が、ほとんどみられないのは(p.60)、交易で、畿内・吉備の土器を商品として、九州北部の輸入鉄器と、物々交換していれば、それは成り立ち、それが、5世紀初めからの、和泉での、陶邑窯跡群の須恵器の全国流通につながったとも、いうことができます。

 筆者が、政治連合の1次的なメンバーは、3世紀初めの西日本の邪馬台国連合で、前方後円墳形の墳丘墓を造営し、2次的なメンバーは、3世紀中葉すぎに邪馬台国連合と合体した東日本で、前方後方墳形の墳丘墓を造営したとしていますが(p.69)、「魏志倭人伝」と、安直に結び付けるのは、禁物です。

 私は、大和が、裕福な財力を元手に、鉄器による水田整備・古墳造営+首長霊祭祀(墳丘形式・葬送儀礼)・威信財副葬のセットの、領国統治モデルを、東国に提供・交易したので、ますます蓄財でき、経営力があったとみています。

 5世紀前半には、その利益を、畿内は、国内不戦の意思表示として、巨大古墳造営に、多く投入した一方、九州北部は、国外からの鉄器確保のため、朝鮮半島派兵に、多く投入したとみれば、古墳の規模の格差は、説明できます。

 それが、5世紀後半には、戦況悪化で、鉄器確保の危機になったため、九州北部だけでなく、畿内も、領国統治モデルを維持しようと、巨大古墳を天皇陵のみに制限し、財力を朝鮮半島派兵に、本格投入したと、みることができます。

 ただし、筆者は、2世紀後半に、九州北部の玄界灘沿岸地域が、畿内・瀬戸内海沿岸地域に敗北・衰退し、3世紀半ばに、狗奴国の濃尾(美濃・尾張)が、邪馬台国の畿内に敗北・衰退したと、主張したいため、九州北部・濃尾の大型古墳は、6世紀前半としています(それぞれ岩戸山古墳・断夫山古墳)。

 ところが、九州北部・濃尾には、4世紀にも、全長100m前後の大型古墳が、次のように、散見できるので、その推論は、成り立ちません。

○九州北部
・久里双水古墳(佐賀県唐津市双水):3世紀後半〜4世紀前半・前方後円墳・全長109m
・一貴(いき)山銚子塚古墳(福岡県糸島市二丈田中):4世紀後半・前方後円墳・全長103m
・金立銚子塚古墳(佐賀市金立町):4世紀終り・前方後円墳・全長98m
・黒崎観世音塚古墳(福岡県大牟田市岬):4世紀終り・前方後円墳・全長97m

○濃尾
・青塚古墳(愛知県犬山市青塚):青塚古墳群、4世紀半ば・前方後円墳・全長123m
・白鳥(しらとり)塚古墳(名古屋市守山区上志段味):志段味古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長115m
・昼飯(ひるい)大塚古墳(岐阜県大垣市昼飯町):不破古墳群、4世紀終り・前方後円墳・全長150m
・坊の塚古墳(岐阜県各務原市鵜沼羽場町):4世紀終り・前方後円墳・全長120m
・粉糠(こぬか)山古墳(岐阜県大垣市青墓町):不破古墳群、4世紀終り〜5世紀初め・前方後方墳・全長100m


 以上より、3世紀前半から、濃尾以西で土器の地域差が希薄化し(庄内式)、環壕集落が廃絶したのは、西日本で経済連携ができたからで、そこへ古墳文化が流行し、3世紀半ばから、東日本にも拡大、政治連合化したのは、4世紀終り〜5世紀初めからの、朝鮮半島派兵が、きっかけではないでしょうか。

 経済連携といっているのは、首長・盟主間が、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)の、対等・分権のヨコの関係で、政治連合化すると、支配と服属の、序列・集権のタテの関係もでき、最初は、みんなの自発的な文化摂取だったのが、やがて有力者の強制的な制度摂取へと変容していくのです。

 これまでは、古墳期を飛鳥期につなげようと、「前方後円墳体制」等のように、古墳を制度として取り扱い、タテの関係に偏重してきましたが、統一国家成立前なので、これからは、有力者どうしのヨコの関係も、同時にみていく必要があり、古墳が文化だった原初へ、イメージを遡行させるべきです。
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http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c186

[近代史02] 弥生人の起源2 中川隆
29. 中川隆[-10495] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:38:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1592]
古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 (036)) – 1999/4/20
白石 太一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/古代国家はいかに形成されたか-古墳とヤマト政権-文春新書-036-太一郎/dp/4166600362/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8


内容紹介
ヤマト政権が成立したのは、果して三世紀か、五世紀か、七世紀か。最新の発掘成果をふまえて古代史最大の謎・この国のルーツに迫る

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
経済連携していたところに、古墳文化が流行し、政治連合になったのでは? 2019年2月11日

 本書は、為政者の古墳から、政権の変遷を読み取ろうとしていますが、そうするにあたって、問題なのは、主に次の2点ではないでしょうか。

(1)政治の中心地は、王墓よりも、王宮であること
(2)他地域と比べて、古墳の規模が大きいからといって、そこよりも権力があるとはいえないこと


 (1)について、筆者は、「古墳は本来的に、その勢力の本拠地に造営されるのが原則だった」とし(p.119)、「王宮の位置は、その王の姻族(配偶者の血族)や、時の政権を支えた豪族との関係等、時々の政治情勢に規制される可能性が大きい」としています(p.123-124)。

 王宮の位置は、記紀神話での皇宮(天皇の宮殿)の立地と、天皇の妃の出身地・有力豪族の拠点等から、イメージしているようです。

 大型の前方後円墳(帆立貝式も)が立地する、3世紀前半からの大和(おおやまと)・柳本・箸中・鳥見山古墳群(奈良盆地南東部)は、その付近に皇宮も立地していますが、4世紀半ばからの佐紀古墳群(奈良盆地北部)は、皇宮が立地しておらず、豪族の拠点もなく、先行の古墳もなく、根拠不明です。

 一方、4世紀終り〜5世紀初めからの古市・百舌鳥古墳群(大阪平野南東部・南西部)は、交互に古墳が造営され、その付近に皇宮の一部も立地していますが、これは、初期ヤマト政権の盟主が、大和の勢力から、河内南部と和泉北部の二大勢力連合へと、移動したからとしています(p.123)。

 その根拠は、古市・百舌鳥の両方ともに、巨大古墳に先行する、大型古墳が造営されていたからとしていますが(p.122)、そこに有力豪族の拠点があった痕跡は、発見されていないようです。

 また、4世紀半ばに、柳本古墳群の行灯山・渋谷向山の2古墳が続いたので、王位の世襲制が固定化したとし、5世紀にも、佐紀古墳群でも大型古墳が造営されたので、それらから、佐紀の古墳の被葬者は、古市・百舌鳥の古墳を造営した王の妃+その父の家系の可能性が高いとしています(p.124-125)

 これは、夫が妻の家に通い、その子が妻+その父の家に住む、当時の婚姻の風習を想定しているようですが、それだと、筆者が最初に設定した「その王の姻族」で、古墳が立地していることになります。

 吉備・毛野等、畿内以外の地域で、大型古墳(盟主)が移動するのも、婚姻の可能性があると推測でき、婚姻での祖先を共通にした同族意識も、当初は、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野等の、広域内で発達したとみられます。

 ここまでみると、佐紀古墳群の立地が、根拠不明なことと、古市・百舌鳥古墳群の立地が、先行の大型古墳の存在のみで、その付近に、先行古墳の被葬者の拠点が発見されていない以上、根拠にならないことがわかります。

 そうなると、そもそも、王墓は、被葬者の出身地だという、設定自体が、成り立つとはいえなくなり、王墓も、王宮と同様、時々の政治情勢で決定されていたと、みるほうが自然です。

 豪族の拠点がないとすれば、奈良盆地の、北方の佐紀古墳群は、日本海経由の交易ルートの出入口に、西方の古市・百舌鳥古墳群は、瀬戸内海経由の交易ルートの出入口に、それぞれ立地しているので、皇宮のある盆地へ、アプローチする際の視覚的効果が、相当意識されていることになります。

 「日本書紀」の、崇神天皇(10代)による四道将軍の派遣・平定は、4世紀前半とされ、出発から帰還まで、わずか半年なので、実際は、交易ルートの開拓で、輸入用の丹波・西道の2ルートと輸出用の北陸・東海の2ルートを確保した、次のステップの佐紀古墳群と古市・百舌鳥古墳群の造営といえます。

 (2)について、筆者は、「3世紀後半という、あまりに古い時期に、ヤマトを中心とする一元的・集権的な国家的秩序の形成を構想してしまうと、その後の400年にもおよぶ、長い期間における政治連合の変質過程を、正しく認識するうえで支障がある」(p.19)といっており、これに、私も賛同します。

 しかし、出現期の古墳が、畿内の大和で大型、畿内の山城・瀬戸内の吉備・九州北部の豊(とよ)で中型、九州北部の筑紫で小型なので、広域の政治連合が、畿内の大和を中心に形成され(p.56)、連合の盟主である倭国王は、倭の諸国を代表して外交権・交易権を掌握していたとしています(p.61)。

 そして、出現期古墳を生み出した政治連合の形成の契機が、鉄資源をはじめとする、様々な先進的文物の輸入ルートの支配権を巡る、玄界灘沿岸地域と、畿内・瀬戸内海沿岸地域の、争いにあり(p.57)、それを「魏志倭人伝」での2世紀後半の倭国の乱とし、畿内・瀬戸内連合が、勝利したとしています(p.60)。

 つまり、筆者は、3世紀後半を、多元的・分権的といいつつも、いつのまにか、一元的・集権的な畿内の大和をイメージしており、これは、古墳の大きさと権力の大きさを直結し、邪馬台国=畿内説と、安直に結び付けてしまったのが、原因だといえます。

 ところで、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく瀬戸内と同程度になり、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しています。

 もし、倭国の乱で、畿内・瀬戸内連合が、鉄器の輸入ルートを支配したのなら、逆転するのに約100年もかかったことになり、大幅にズレがあることになります。
 そこで私は、古墳の大きさと権力の大きさが、アル程度比例し、上下(主従)関係が成り立つのは、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野の広域内等、盟主が首長を観察でき、反抗すれば、すぐに戦争ができる範囲内だとみています。

 他方、戦争ができる範囲外では、そもそも首長・盟主が、他地域へ頻繁に行き来しないので、古墳の大きさと権力の大きさの比例を想定するのは、大変疑問で、各首長・盟主は、対等が原則、序列があっても、兄弟程度の関係だったと推測できます。

 ここでの戦争ができる範囲とは、当時は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず(1艘最大20人程度)、途中で水・食糧等を調達しなければならず、海路で侵攻しても、長期戦で食糧不足になれば、撤退しかなく、それほど戦果が期待できないので、補給が容易な、陸路での侵攻が前提です。

 そうなると、遠方とは、戦争よりも交易でつながり、古墳の規模は、広域外への権力の表現よりも、まず広域内への権力の表現で、何よりも、大型古墳を造営できる財力があったと、みるのが自然で、最初から政治連合ではなく、経済連携があり、そこに古墳文化が流行したと、イメージすべきでしょう。

 出現期古墳・纏向型前方後円墳の規模が、それぞれ箸墓・大和の大型前方後円墳の約1/4・1/3・1/2・2/3・3/4・1/1・6/5倍となっているのは、共通の築造企画が存在しなくても(p.38)、交易で長さ(絹・布等)の単位が統一され、被葬者の財力を勘案し、周囲を真似すれば、特定の寸法に近づくのではないでしょうか。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは(p.59)、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、徐々に銅鏡の価値が低下したのを、九州北部が認識していたからで、後漢末から、民間工房の量産品が、中国市場に流通していたため、それを九州北部が、率先して商売にしたのでしょう。

 畿内・吉備の土器が、九州北部へ移動し、その逆が、ほとんどみられないのは(p.60)、交易で、畿内・吉備の土器を商品として、九州北部の輸入鉄器と、物々交換していれば、それは成り立ち、それが、5世紀初めからの、和泉での、陶邑窯跡群の須恵器の全国流通につながったとも、いうことができます。

 筆者が、政治連合の1次的なメンバーは、3世紀初めの西日本の邪馬台国連合で、前方後円墳形の墳丘墓を造営し、2次的なメンバーは、3世紀中葉すぎに邪馬台国連合と合体した東日本で、前方後方墳形の墳丘墓を造営したとしていますが(p.69)、「魏志倭人伝」と、安直に結び付けるのは、禁物です。

 私は、大和が、裕福な財力を元手に、鉄器による水田整備・古墳造営+首長霊祭祀(墳丘形式・葬送儀礼)・威信財副葬のセットの、領国統治モデルを、東国に提供・交易したので、ますます蓄財でき、経営力があったとみています。

 5世紀前半には、その利益を、畿内は、国内不戦の意思表示として、巨大古墳造営に、多く投入した一方、九州北部は、国外からの鉄器確保のため、朝鮮半島派兵に、多く投入したとみれば、古墳の規模の格差は、説明できます。

 それが、5世紀後半には、戦況悪化で、鉄器確保の危機になったため、九州北部だけでなく、畿内も、領国統治モデルを維持しようと、巨大古墳を天皇陵のみに制限し、財力を朝鮮半島派兵に、本格投入したと、みることができます。

 ただし、筆者は、2世紀後半に、九州北部の玄界灘沿岸地域が、畿内・瀬戸内海沿岸地域に敗北・衰退し、3世紀半ばに、狗奴国の濃尾(美濃・尾張)が、邪馬台国の畿内に敗北・衰退したと、主張したいため、九州北部・濃尾の大型古墳は、6世紀前半としています(それぞれ岩戸山古墳・断夫山古墳)。

 ところが、九州北部・濃尾には、4世紀にも、全長100m前後の大型古墳が、次のように、散見できるので、その推論は、成り立ちません。


○九州北部
・久里双水古墳(佐賀県唐津市双水):3世紀後半〜4世紀前半・前方後円墳・全長109m
・一貴(いき)山銚子塚古墳(福岡県糸島市二丈田中):4世紀後半・前方後円墳・全長103m
・金立銚子塚古墳(佐賀市金立町):4世紀終り・前方後円墳・全長98m
・黒崎観世音塚古墳(福岡県大牟田市岬):4世紀終り・前方後円墳・全長97m


○濃尾
・青塚古墳(愛知県犬山市青塚):青塚古墳群、4世紀半ば・前方後円墳・全長123m
・白鳥(しらとり)塚古墳(名古屋市守山区上志段味):志段味古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長115m
・昼飯(ひるい)大塚古墳(岐阜県大垣市昼飯町):不破古墳群、4世紀終り・前方後円墳・全長150m
・坊の塚古墳(岐阜県各務原市鵜沼羽場町):4世紀終り・前方後円墳・全長120m
・粉糠(こぬか)山古墳(岐阜県大垣市青墓町):不破古墳群、4世紀終り〜5世紀初め・前方後方墳・全長100m


 以上より、3世紀前半から、濃尾以西で土器の地域差が希薄化し(庄内式)、環壕集落が廃絶したのは、西日本で経済連携ができたからで、そこへ古墳文化が流行し、3世紀半ばから、東日本にも拡大、政治連合化したのは、4世紀終り〜5世紀初めからの、朝鮮半島派兵が、きっかけではないでしょうか。

 経済連携といっているのは、首長・盟主間が、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)の、対等・分権のヨコの関係で、政治連合化すると、支配と服属の、序列・集権のタテの関係もでき、最初は、みんなの自発的な文化摂取だったのが、やがて有力者の強制的な制度摂取へと変容していくのです。

 これまでは、古墳期を飛鳥期につなげようと、「前方後円墳体制」等のように、古墳を制度として取り扱い、タテの関係に偏重してきましたが、統一国家成立前なので、これからは、有力者どうしのヨコの関係も、同時にみていく必要があり、古墳が文化だった原初へ、イメージを遡行させるべきです。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3355WHQS4KXTS?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/549.html#c29

[近代史3] 天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨 中川隆
16. 中川隆[-10494] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:38:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1593]

古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 (036)) – 1999/4/20
白石 太一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/古代国家はいかに形成されたか-古墳とヤマト政権-文春新書-036-太一郎/dp/4166600362/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8


内容紹介
ヤマト政権が成立したのは、果して三世紀か、五世紀か、七世紀か。最新の発掘成果をふまえて古代史最大の謎・この国のルーツに迫る

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
経済連携していたところに、古墳文化が流行し、政治連合になったのでは? 2019年2月11日

 本書は、為政者の古墳から、政権の変遷を読み取ろうとしていますが、そうするにあたって、問題なのは、主に次の2点ではないでしょうか。

(1)政治の中心地は、王墓よりも、王宮であること
(2)他地域と比べて、古墳の規模が大きいからといって、そこよりも権力があるとはいえないこと


 (1)について、筆者は、「古墳は本来的に、その勢力の本拠地に造営されるのが原則だった」とし(p.119)、「王宮の位置は、その王の姻族(配偶者の血族)や、時の政権を支えた豪族との関係等、時々の政治情勢に規制される可能性が大きい」としています(p.123-124)。

 王宮の位置は、記紀神話での皇宮(天皇の宮殿)の立地と、天皇の妃の出身地・有力豪族の拠点等から、イメージしているようです。

 大型の前方後円墳(帆立貝式も)が立地する、3世紀前半からの大和(おおやまと)・柳本・箸中・鳥見山古墳群(奈良盆地南東部)は、その付近に皇宮も立地していますが、4世紀半ばからの佐紀古墳群(奈良盆地北部)は、皇宮が立地しておらず、豪族の拠点もなく、先行の古墳もなく、根拠不明です。

 一方、4世紀終り〜5世紀初めからの古市・百舌鳥古墳群(大阪平野南東部・南西部)は、交互に古墳が造営され、その付近に皇宮の一部も立地していますが、これは、初期ヤマト政権の盟主が、大和の勢力から、河内南部と和泉北部の二大勢力連合へと、移動したからとしています(p.123)。

 その根拠は、古市・百舌鳥の両方ともに、巨大古墳に先行する、大型古墳が造営されていたからとしていますが(p.122)、そこに有力豪族の拠点があった痕跡は、発見されていないようです。

 また、4世紀半ばに、柳本古墳群の行灯山・渋谷向山の2古墳が続いたので、王位の世襲制が固定化したとし、5世紀にも、佐紀古墳群でも大型古墳が造営されたので、それらから、佐紀の古墳の被葬者は、古市・百舌鳥の古墳を造営した王の妃+その父の家系の可能性が高いとしています(p.124-125)

 これは、夫が妻の家に通い、その子が妻+その父の家に住む、当時の婚姻の風習を想定しているようですが、それだと、筆者が最初に設定した「その王の姻族」で、古墳が立地していることになります。

 吉備・毛野等、畿内以外の地域で、大型古墳(盟主)が移動するのも、婚姻の可能性があると推測でき、婚姻での祖先を共通にした同族意識も、当初は、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野等の、広域内で発達したとみられます。

 ここまでみると、佐紀古墳群の立地が、根拠不明なことと、古市・百舌鳥古墳群の立地が、先行の大型古墳の存在のみで、その付近に、先行古墳の被葬者の拠点が発見されていない以上、根拠にならないことがわかります。

 そうなると、そもそも、王墓は、被葬者の出身地だという、設定自体が、成り立つとはいえなくなり、王墓も、王宮と同様、時々の政治情勢で決定されていたと、みるほうが自然です。

 豪族の拠点がないとすれば、奈良盆地の、北方の佐紀古墳群は、日本海経由の交易ルートの出入口に、西方の古市・百舌鳥古墳群は、瀬戸内海経由の交易ルートの出入口に、それぞれ立地しているので、皇宮のある盆地へ、アプローチする際の視覚的効果が、相当意識されていることになります。

 「日本書紀」の、崇神天皇(10代)による四道将軍の派遣・平定は、4世紀前半とされ、出発から帰還まで、わずか半年なので、実際は、交易ルートの開拓で、輸入用の丹波・西道の2ルートと輸出用の北陸・東海の2ルートを確保した、次のステップの佐紀古墳群と古市・百舌鳥古墳群の造営といえます。

 (2)について、筆者は、「3世紀後半という、あまりに古い時期に、ヤマトを中心とする一元的・集権的な国家的秩序の形成を構想してしまうと、その後の400年にもおよぶ、長い期間における政治連合の変質過程を、正しく認識するうえで支障がある」(p.19)といっており、これに、私も賛同します。

 しかし、出現期の古墳が、畿内の大和で大型、畿内の山城・瀬戸内の吉備・九州北部の豊(とよ)で中型、九州北部の筑紫で小型なので、広域の政治連合が、畿内の大和を中心に形成され(p.56)、連合の盟主である倭国王は、倭の諸国を代表して外交権・交易権を掌握していたとしています(p.61)。

 そして、出現期古墳を生み出した政治連合の形成の契機が、鉄資源をはじめとする、様々な先進的文物の輸入ルートの支配権を巡る、玄界灘沿岸地域と、畿内・瀬戸内海沿岸地域の、争いにあり(p.57)、それを「魏志倭人伝」での2世紀後半の倭国の乱とし、畿内・瀬戸内連合が、勝利したとしています(p.60)。

 つまり、筆者は、3世紀後半を、多元的・分権的といいつつも、いつのまにか、一元的・集権的な畿内の大和をイメージしており、これは、古墳の大きさと権力の大きさを直結し、邪馬台国=畿内説と、安直に結び付けてしまったのが、原因だといえます。

 ところで、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく瀬戸内と同程度になり、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しています。

 もし、倭国の乱で、畿内・瀬戸内連合が、鉄器の輸入ルートを支配したのなら、逆転するのに約100年もかかったことになり、大幅にズレがあることになります。
 そこで私は、古墳の大きさと権力の大きさが、アル程度比例し、上下(主従)関係が成り立つのは、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野の広域内等、盟主が首長を観察でき、反抗すれば、すぐに戦争ができる範囲内だとみています。

 他方、戦争ができる範囲外では、そもそも首長・盟主が、他地域へ頻繁に行き来しないので、古墳の大きさと権力の大きさの比例を想定するのは、大変疑問で、各首長・盟主は、対等が原則、序列があっても、兄弟程度の関係だったと推測できます。

 ここでの戦争ができる範囲とは、当時は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず(1艘最大20人程度)、途中で水・食糧等を調達しなければならず、海路で侵攻しても、長期戦で食糧不足になれば、撤退しかなく、それほど戦果が期待できないので、補給が容易な、陸路での侵攻が前提です。

 そうなると、遠方とは、戦争よりも交易でつながり、古墳の規模は、広域外への権力の表現よりも、まず広域内への権力の表現で、何よりも、大型古墳を造営できる財力があったと、みるのが自然で、最初から政治連合ではなく、経済連携があり、そこに古墳文化が流行したと、イメージすべきでしょう。

 出現期古墳・纏向型前方後円墳の規模が、それぞれ箸墓・大和の大型前方後円墳の約1/4・1/3・1/2・2/3・3/4・1/1・6/5倍となっているのは、共通の築造企画が存在しなくても(p.38)、交易で長さ(絹・布等)の単位が統一され、被葬者の財力を勘案し、周囲を真似すれば、特定の寸法に近づくのではないでしょうか。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは(p.59)、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、徐々に銅鏡の価値が低下したのを、九州北部が認識していたからで、後漢末から、民間工房の量産品が、中国市場に流通していたため、それを九州北部が、率先して商売にしたのでしょう。

 畿内・吉備の土器が、九州北部へ移動し、その逆が、ほとんどみられないのは(p.60)、交易で、畿内・吉備の土器を商品として、九州北部の輸入鉄器と、物々交換していれば、それは成り立ち、それが、5世紀初めからの、和泉での、陶邑窯跡群の須恵器の全国流通につながったとも、いうことができます。

 筆者が、政治連合の1次的なメンバーは、3世紀初めの西日本の邪馬台国連合で、前方後円墳形の墳丘墓を造営し、2次的なメンバーは、3世紀中葉すぎに邪馬台国連合と合体した東日本で、前方後方墳形の墳丘墓を造営したとしていますが(p.69)、「魏志倭人伝」と、安直に結び付けるのは、禁物です。

 私は、大和が、裕福な財力を元手に、鉄器による水田整備・古墳造営+首長霊祭祀(墳丘形式・葬送儀礼)・威信財副葬のセットの、領国統治モデルを、東国に提供・交易したので、ますます蓄財でき、経営力があったとみています。

 5世紀前半には、その利益を、畿内は、国内不戦の意思表示として、巨大古墳造営に、多く投入した一方、九州北部は、国外からの鉄器確保のため、朝鮮半島派兵に、多く投入したとみれば、古墳の規模の格差は、説明できます。

 それが、5世紀後半には、戦況悪化で、鉄器確保の危機になったため、九州北部だけでなく、畿内も、領国統治モデルを維持しようと、巨大古墳を天皇陵のみに制限し、財力を朝鮮半島派兵に、本格投入したと、みることができます。

 ただし、筆者は、2世紀後半に、九州北部の玄界灘沿岸地域が、畿内・瀬戸内海沿岸地域に敗北・衰退し、3世紀半ばに、狗奴国の濃尾(美濃・尾張)が、邪馬台国の畿内に敗北・衰退したと、主張したいため、九州北部・濃尾の大型古墳は、6世紀前半としています(それぞれ岩戸山古墳・断夫山古墳)。

 ところが、九州北部・濃尾には、4世紀にも、全長100m前後の大型古墳が、次のように、散見できるので、その推論は、成り立ちません。


○九州北部
・久里双水古墳(佐賀県唐津市双水):3世紀後半〜4世紀前半・前方後円墳・全長109m
・一貴(いき)山銚子塚古墳(福岡県糸島市二丈田中):4世紀後半・前方後円墳・全長103m
・金立銚子塚古墳(佐賀市金立町):4世紀終り・前方後円墳・全長98m
・黒崎観世音塚古墳(福岡県大牟田市岬):4世紀終り・前方後円墳・全長97m


○濃尾
・青塚古墳(愛知県犬山市青塚):青塚古墳群、4世紀半ば・前方後円墳・全長123m
・白鳥(しらとり)塚古墳(名古屋市守山区上志段味):志段味古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長115m
・昼飯(ひるい)大塚古墳(岐阜県大垣市昼飯町):不破古墳群、4世紀終り・前方後円墳・全長150m
・坊の塚古墳(岐阜県各務原市鵜沼羽場町):4世紀終り・前方後円墳・全長120m
・粉糠(こぬか)山古墳(岐阜県大垣市青墓町):不破古墳群、4世紀終り〜5世紀初め・前方後方墳・全長100m


 以上より、3世紀前半から、濃尾以西で土器の地域差が希薄化し(庄内式)、環壕集落が廃絶したのは、西日本で経済連携ができたからで、そこへ古墳文化が流行し、3世紀半ばから、東日本にも拡大、政治連合化したのは、4世紀終り〜5世紀初めからの、朝鮮半島派兵が、きっかけではないでしょうか。

 経済連携といっているのは、首長・盟主間が、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)の、対等・分権のヨコの関係で、政治連合化すると、支配と服属の、序列・集権のタテの関係もでき、最初は、みんなの自発的な文化摂取だったのが、やがて有力者の強制的な制度摂取へと変容していくのです。

 これまでは、古墳期を飛鳥期につなげようと、「前方後円墳体制」等のように、古墳を制度として取り扱い、タテの関係に偏重してきましたが、統一国家成立前なので、これからは、有力者どうしのヨコの関係も、同時にみていく必要があり、古墳が文化だった原初へ、イメージを遡行させるべきです。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3355WHQS4KXTS?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html#c16

[近代史3] 日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか? 中川隆
37. 中川隆[-10493] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:39:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1594]
古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 (036)) – 1999/4/20
白石 太一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/古代国家はいかに形成されたか-古墳とヤマト政権-文春新書-036-太一郎/dp/4166600362/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8


内容紹介
ヤマト政権が成立したのは、果して三世紀か、五世紀か、七世紀か。最新の発掘成果をふまえて古代史最大の謎・この国のルーツに迫る

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
経済連携していたところに、古墳文化が流行し、政治連合になったのでは? 2019年2月11日

 本書は、為政者の古墳から、政権の変遷を読み取ろうとしていますが、そうするにあたって、問題なのは、主に次の2点ではないでしょうか。

(1)政治の中心地は、王墓よりも、王宮であること
(2)他地域と比べて、古墳の規模が大きいからといって、そこよりも権力があるとはいえないこと


 (1)について、筆者は、「古墳は本来的に、その勢力の本拠地に造営されるのが原則だった」とし(p.119)、「王宮の位置は、その王の姻族(配偶者の血族)や、時の政権を支えた豪族との関係等、時々の政治情勢に規制される可能性が大きい」としています(p.123-124)。

 王宮の位置は、記紀神話での皇宮(天皇の宮殿)の立地と、天皇の妃の出身地・有力豪族の拠点等から、イメージしているようです。

 大型の前方後円墳(帆立貝式も)が立地する、3世紀前半からの大和(おおやまと)・柳本・箸中・鳥見山古墳群(奈良盆地南東部)は、その付近に皇宮も立地していますが、4世紀半ばからの佐紀古墳群(奈良盆地北部)は、皇宮が立地しておらず、豪族の拠点もなく、先行の古墳もなく、根拠不明です。

 一方、4世紀終り〜5世紀初めからの古市・百舌鳥古墳群(大阪平野南東部・南西部)は、交互に古墳が造営され、その付近に皇宮の一部も立地していますが、これは、初期ヤマト政権の盟主が、大和の勢力から、河内南部と和泉北部の二大勢力連合へと、移動したからとしています(p.123)。

 その根拠は、古市・百舌鳥の両方ともに、巨大古墳に先行する、大型古墳が造営されていたからとしていますが(p.122)、そこに有力豪族の拠点があった痕跡は、発見されていないようです。

 また、4世紀半ばに、柳本古墳群の行灯山・渋谷向山の2古墳が続いたので、王位の世襲制が固定化したとし、5世紀にも、佐紀古墳群でも大型古墳が造営されたので、それらから、佐紀の古墳の被葬者は、古市・百舌鳥の古墳を造営した王の妃+その父の家系の可能性が高いとしています(p.124-125)

 これは、夫が妻の家に通い、その子が妻+その父の家に住む、当時の婚姻の風習を想定しているようですが、それだと、筆者が最初に設定した「その王の姻族」で、古墳が立地していることになります。

 吉備・毛野等、畿内以外の地域で、大型古墳(盟主)が移動するのも、婚姻の可能性があると推測でき、婚姻での祖先を共通にした同族意識も、当初は、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野等の、広域内で発達したとみられます。

 ここまでみると、佐紀古墳群の立地が、根拠不明なことと、古市・百舌鳥古墳群の立地が、先行の大型古墳の存在のみで、その付近に、先行古墳の被葬者の拠点が発見されていない以上、根拠にならないことがわかります。

 そうなると、そもそも、王墓は、被葬者の出身地だという、設定自体が、成り立つとはいえなくなり、王墓も、王宮と同様、時々の政治情勢で決定されていたと、みるほうが自然です。

 豪族の拠点がないとすれば、奈良盆地の、北方の佐紀古墳群は、日本海経由の交易ルートの出入口に、西方の古市・百舌鳥古墳群は、瀬戸内海経由の交易ルートの出入口に、それぞれ立地しているので、皇宮のある盆地へ、アプローチする際の視覚的効果が、相当意識されていることになります。

 「日本書紀」の、崇神天皇(10代)による四道将軍の派遣・平定は、4世紀前半とされ、出発から帰還まで、わずか半年なので、実際は、交易ルートの開拓で、輸入用の丹波・西道の2ルートと輸出用の北陸・東海の2ルートを確保した、次のステップの佐紀古墳群と古市・百舌鳥古墳群の造営といえます。

 (2)について、筆者は、「3世紀後半という、あまりに古い時期に、ヤマトを中心とする一元的・集権的な国家的秩序の形成を構想してしまうと、その後の400年にもおよぶ、長い期間における政治連合の変質過程を、正しく認識するうえで支障がある」(p.19)といっており、これに、私も賛同します。

 しかし、出現期の古墳が、畿内の大和で大型、畿内の山城・瀬戸内の吉備・九州北部の豊(とよ)で中型、九州北部の筑紫で小型なので、広域の政治連合が、畿内の大和を中心に形成され(p.56)、連合の盟主である倭国王は、倭の諸国を代表して外交権・交易権を掌握していたとしています(p.61)。

 そして、出現期古墳を生み出した政治連合の形成の契機が、鉄資源をはじめとする、様々な先進的文物の輸入ルートの支配権を巡る、玄界灘沿岸地域と、畿内・瀬戸内海沿岸地域の、争いにあり(p.57)、それを「魏志倭人伝」での2世紀後半の倭国の乱とし、畿内・瀬戸内連合が、勝利したとしています(p.60)。

 つまり、筆者は、3世紀後半を、多元的・分権的といいつつも、いつのまにか、一元的・集権的な畿内の大和をイメージしており、これは、古墳の大きさと権力の大きさを直結し、邪馬台国=畿内説と、安直に結び付けてしまったのが、原因だといえます。

 ところで、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく瀬戸内と同程度になり、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しています。

 もし、倭国の乱で、畿内・瀬戸内連合が、鉄器の輸入ルートを支配したのなら、逆転するのに約100年もかかったことになり、大幅にズレがあることになります。
 そこで私は、古墳の大きさと権力の大きさが、アル程度比例し、上下(主従)関係が成り立つのは、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野の広域内等、盟主が首長を観察でき、反抗すれば、すぐに戦争ができる範囲内だとみています。

 他方、戦争ができる範囲外では、そもそも首長・盟主が、他地域へ頻繁に行き来しないので、古墳の大きさと権力の大きさの比例を想定するのは、大変疑問で、各首長・盟主は、対等が原則、序列があっても、兄弟程度の関係だったと推測できます。

 ここでの戦争ができる範囲とは、当時は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず(1艘最大20人程度)、途中で水・食糧等を調達しなければならず、海路で侵攻しても、長期戦で食糧不足になれば、撤退しかなく、それほど戦果が期待できないので、補給が容易な、陸路での侵攻が前提です。

 そうなると、遠方とは、戦争よりも交易でつながり、古墳の規模は、広域外への権力の表現よりも、まず広域内への権力の表現で、何よりも、大型古墳を造営できる財力があったと、みるのが自然で、最初から政治連合ではなく、経済連携があり、そこに古墳文化が流行したと、イメージすべきでしょう。

 出現期古墳・纏向型前方後円墳の規模が、それぞれ箸墓・大和の大型前方後円墳の約1/4・1/3・1/2・2/3・3/4・1/1・6/5倍となっているのは、共通の築造企画が存在しなくても(p.38)、交易で長さ(絹・布等)の単位が統一され、被葬者の財力を勘案し、周囲を真似すれば、特定の寸法に近づくのではないでしょうか。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは(p.59)、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、徐々に銅鏡の価値が低下したのを、九州北部が認識していたからで、後漢末から、民間工房の量産品が、中国市場に流通していたため、それを九州北部が、率先して商売にしたのでしょう。

 畿内・吉備の土器が、九州北部へ移動し、その逆が、ほとんどみられないのは(p.60)、交易で、畿内・吉備の土器を商品として、九州北部の輸入鉄器と、物々交換していれば、それは成り立ち、それが、5世紀初めからの、和泉での、陶邑窯跡群の須恵器の全国流通につながったとも、いうことができます。

 筆者が、政治連合の1次的なメンバーは、3世紀初めの西日本の邪馬台国連合で、前方後円墳形の墳丘墓を造営し、2次的なメンバーは、3世紀中葉すぎに邪馬台国連合と合体した東日本で、前方後方墳形の墳丘墓を造営したとしていますが(p.69)、「魏志倭人伝」と、安直に結び付けるのは、禁物です。

 私は、大和が、裕福な財力を元手に、鉄器による水田整備・古墳造営+首長霊祭祀(墳丘形式・葬送儀礼)・威信財副葬のセットの、領国統治モデルを、東国に提供・交易したので、ますます蓄財でき、経営力があったとみています。

 5世紀前半には、その利益を、畿内は、国内不戦の意思表示として、巨大古墳造営に、多く投入した一方、九州北部は、国外からの鉄器確保のため、朝鮮半島派兵に、多く投入したとみれば、古墳の規模の格差は、説明できます。

 それが、5世紀後半には、戦況悪化で、鉄器確保の危機になったため、九州北部だけでなく、畿内も、領国統治モデルを維持しようと、巨大古墳を天皇陵のみに制限し、財力を朝鮮半島派兵に、本格投入したと、みることができます。

 ただし、筆者は、2世紀後半に、九州北部の玄界灘沿岸地域が、畿内・瀬戸内海沿岸地域に敗北・衰退し、3世紀半ばに、狗奴国の濃尾(美濃・尾張)が、邪馬台国の畿内に敗北・衰退したと、主張したいため、九州北部・濃尾の大型古墳は、6世紀前半としています(それぞれ岩戸山古墳・断夫山古墳)。

 ところが、九州北部・濃尾には、4世紀にも、全長100m前後の大型古墳が、次のように、散見できるので、その推論は、成り立ちません。


○九州北部
・久里双水古墳(佐賀県唐津市双水):3世紀後半〜4世紀前半・前方後円墳・全長109m
・一貴(いき)山銚子塚古墳(福岡県糸島市二丈田中):4世紀後半・前方後円墳・全長103m
・金立銚子塚古墳(佐賀市金立町):4世紀終り・前方後円墳・全長98m
・黒崎観世音塚古墳(福岡県大牟田市岬):4世紀終り・前方後円墳・全長97m


○濃尾
・青塚古墳(愛知県犬山市青塚):青塚古墳群、4世紀半ば・前方後円墳・全長123m
・白鳥(しらとり)塚古墳(名古屋市守山区上志段味):志段味古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長115m
・昼飯(ひるい)大塚古墳(岐阜県大垣市昼飯町):不破古墳群、4世紀終り・前方後円墳・全長150m
・坊の塚古墳(岐阜県各務原市鵜沼羽場町):4世紀終り・前方後円墳・全長120m
・粉糠(こぬか)山古墳(岐阜県大垣市青墓町):不破古墳群、4世紀終り〜5世紀初め・前方後方墳・全長100m


 以上より、3世紀前半から、濃尾以西で土器の地域差が希薄化し(庄内式)、環壕集落が廃絶したのは、西日本で経済連携ができたからで、そこへ古墳文化が流行し、3世紀半ばから、東日本にも拡大、政治連合化したのは、4世紀終り〜5世紀初めからの、朝鮮半島派兵が、きっかけではないでしょうか。

 経済連携といっているのは、首長・盟主間が、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)の、対等・分権のヨコの関係で、政治連合化すると、支配と服属の、序列・集権のタテの関係もでき、最初は、みんなの自発的な文化摂取だったのが、やがて有力者の強制的な制度摂取へと変容していくのです。

 これまでは、古墳期を飛鳥期につなげようと、「前方後円墳体制」等のように、古墳を制度として取り扱い、タテの関係に偏重してきましたが、統一国家成立前なので、これからは、有力者どうしのヨコの関係も、同時にみていく必要があり、古墳が文化だった原初へ、イメージを遡行させるべきです。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3355WHQS4KXTS?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html#c37

[近代史3] (小室圭問題/佳子さま盗撮) 皇室記事まとめ一気読み 中川隆
20. 中川隆[-10492] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:56:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1595]

2019.04.29
紀子さま“パワハラ”で職員2人「自殺」の闇 小室佳代とお似合い家族?
https://rondan.net/21291

小室親族だけではない連続自殺事件

『週刊新潮』2005月8月11・18日合併号では、秋篠宮家の警備担当者が自殺したという記事が掲載されています。

書かれた内容によれば、これのみならず、前年の2004年にも自殺した警備担当者の後輩も自殺しているとか。 自殺といえば小室佳代さんの周囲でも起こっていますが、どうやら秋篠宮家でも起きているようです。似た者同士、お互いはひかれあう運命なのでしょうか?いま再びこの記事を取り上げて議論する価値は大いにあるでしょう。

その自殺の仔細は次のようなもの。


皇室の守護を目的とする皇宮警察。その本部に所属していた警視(58)が7月15日、自ら命を絶った。実はこの人、秋篠宮家の護衛を担当する侍衛官だったという。

昨年夏にも自殺者か出たというが、一体、皇宮警察で何か起きているのか。亡くなったのは、護衛部の侍衛官、加藤達夫氏(仮名)だ。(中略)

だが、

「昨年8月にも加藤の後輩が、首を吊って自殺しているんです」

と明かすのは、皇宮警察関係者のA氏だ。
「「皇宮警察」また出た自殺者は「秋篠宮」担当」『週刊新潮』2005月8月11・18日合併号
当サイトでは、連続自殺といえば、小室母子といった印象すらありますが、秋篠宮家の関係者でもこのような奇妙な出来事があったようです。


関連記事
愛子さまを「皇太子」に! 配偶者の最有力候補 令和時代の皇統問題
2019年4月29日
https://rondan.net/21291



担当者が不祥事続きの秋篠宮家

秋篠宮家の担当者の不祥事といえば、先日取り上げた公然わいせつ事件も有名ですが、この連続自殺事件も非常に衝撃的な事件です。


関連記事
秋篠宮家「公然わいせつ」で逮捕者 その“家風”と眞子さま
2019年4月26日
https://rondan.net/20999

また、自殺の原因として金銭的なトラブルが背後にあったのだないかと記事では推測されています。


「加藤氏と一緒に秋篠宮家の護衛にあたるのが、護衛部の護衛3課。自殺したのは、3課の高山弘(当時47)=仮名=という側衛官です。高山は、眞子さまや佳子さまをよく学習院に送り迎えしており、紀子さまの大のお気に入りだった。加藤は高山を直接の部下のように面倒を見ていました」

もっとも、高山氏は私生活ではかなりいい加減だったという。

「大の女好きで、生活がハデでね。一千万単位の借金を作り、それか原因で白殺したんです。高山は私に“加藤さんに借金の保証人になってもらっている”と言っていた。もしかすると加藤は、高山の残した借金の返済を迫られていたのかもしれません」(同)

秋篠宮家担当の護衛官がたて続けに自殺するとは、尋常ではない。
同上

公然猥褻、借金トラブル、自殺事件と酷い事件やトラブルを複数の職員が起こしているのは、率直に言って呆れてしまいます。本人問題なのか、それとも秋篠宮家の家風にも問題があるのかが重要な論点になるでしょう。十人十色とはいえ、東宮家からはこのような不祥事は聞かれませんので。

このような事件について情報を集めてみると、あれほど「身分不相応である」と批判されていた小室圭さんと眞子さまの結婚も、つい「似た者同士でお似合いなのではないか?」などとも思ってしまうかも。

背後には、表に出せない重大事件の存在も?

事件の裏に重大な秘密が隠されているという噂もあるようです。


「加藤さんが亡くなった前後に、護衛3課で監察に調べられていた警視が辞意を伝えています。表に出せないようなヤバイ話があるのは確実ですよ。これじゃ、秋篠宮家担当の護衛体制はガタガタじゃないですか。関いた口が塞がらない」
同上


紀子さまのパワハラも事件の原因の一つか?

警備担当者が相次いで自殺し、警備体制はガタガタ。一家のすべてを取り仕切る執事のような宮内庁職員は辞任して公然わいせつ罪で逮捕ということで、宮内庁の職員が秋篠宮家の担当になることを恐れるという話もあながち、ただの噂話とも言えないのかもしれません。

最近の紀子様の笑顔は「自然じゃなくて怖い」とか、「目が笑っていない!」などと言われているようですが、確かにこんな表情で怒鳴りつけられたら結構恐怖かも……。

ともあれ、小室圭問題も何の解決もせず、悠仁さまの身辺警備や進学の問題、秋篠宮家のうつ病疑惑等々、平成も残すところ僅かとなりましたが、秋篠宮家の問題は山積状態です。

果たして、皇室が国民との信頼関係を回復し、安心できるようになる時がいつの日かふたたび訪れるのでしょうか?
https://rondan.net/21294
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/291.html#c20

[近代史3] プチエンジェル事件の顧客と噂されている秋篠宮・高円宮はロリコンなのか? 中川隆
25. 中川隆[-10491] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:57:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1596]

2019.04.29
紀子さま“パワハラ”で職員2人「自殺」の闇 小室佳代とお似合い家族?
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小室親族だけではない連続自殺事件

『週刊新潮』2005月8月11・18日合併号では、秋篠宮家の警備担当者が自殺したという記事が掲載されています。

書かれた内容によれば、これのみならず、前年の2004年にも自殺した警備担当者の後輩も自殺しているとか。 自殺といえば小室佳代さんの周囲でも起こっていますが、どうやら秋篠宮家でも起きているようです。似た者同士、お互いはひかれあう運命なのでしょうか?いま再びこの記事を取り上げて議論する価値は大いにあるでしょう。

その自殺の仔細は次のようなもの。


皇室の守護を目的とする皇宮警察。その本部に所属していた警視(58)が7月15日、自ら命を絶った。実はこの人、秋篠宮家の護衛を担当する侍衛官だったという。

昨年夏にも自殺者か出たというが、一体、皇宮警察で何か起きているのか。亡くなったのは、護衛部の侍衛官、加藤達夫氏(仮名)だ。(中略)

だが、

「昨年8月にも加藤の後輩が、首を吊って自殺しているんです」

と明かすのは、皇宮警察関係者のA氏だ。
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「加藤氏と一緒に秋篠宮家の護衛にあたるのが、護衛部の護衛3課。自殺したのは、3課の高山弘(当時47)=仮名=という側衛官です。高山は、眞子さまや佳子さまをよく学習院に送り迎えしており、紀子さまの大のお気に入りだった。加藤は高山を直接の部下のように面倒を見ていました」

もっとも、高山氏は私生活ではかなりいい加減だったという。

「大の女好きで、生活がハデでね。一千万単位の借金を作り、それか原因で白殺したんです。高山は私に“加藤さんに借金の保証人になってもらっている”と言っていた。もしかすると加藤は、高山の残した借金の返済を迫られていたのかもしれません」(同)

秋篠宮家担当の護衛官がたて続けに自殺するとは、尋常ではない。
同上

公然猥褻、借金トラブル、自殺事件と酷い事件やトラブルを複数の職員が起こしているのは、率直に言って呆れてしまいます。本人問題なのか、それとも秋篠宮家の家風にも問題があるのかが重要な論点になるでしょう。十人十色とはいえ、東宮家からはこのような不祥事は聞かれませんので。

このような事件について情報を集めてみると、あれほど「身分不相応である」と批判されていた小室圭さんと眞子さまの結婚も、つい「似た者同士でお似合いなのではないか?」などとも思ってしまうかも。

背後には、表に出せない重大事件の存在も?

事件の裏に重大な秘密が隠されているという噂もあるようです。


「加藤さんが亡くなった前後に、護衛3課で監察に調べられていた警視が辞意を伝えています。表に出せないようなヤバイ話があるのは確実ですよ。これじゃ、秋篠宮家担当の護衛体制はガタガタじゃないですか。関いた口が塞がらない」
同上


紀子さまのパワハラも事件の原因の一つか?

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最近の紀子様の笑顔は「自然じゃなくて怖い」とか、「目が笑っていない!」などと言われているようですが、確かにこんな表情で怒鳴りつけられたら結構恐怖かも……。

ともあれ、小室圭問題も何の解決もせず、悠仁さまの身辺警備や進学の問題、秋篠宮家のうつ病疑惑等々、平成も残すところ僅かとなりましたが、秋篠宮家の問題は山積状態です。

果たして、皇室が国民との信頼関係を回復し、安心できるようになる時がいつの日かふたたび訪れるのでしょうか?
https://rondan.net/21294
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/362.html#c25

[近代史3] 秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください 中川隆
41. 中川隆[-10490] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:57:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1597]

2019.04.29
紀子さま“パワハラ”で職員2人「自殺」の闇 小室佳代とお似合い家族?
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昨年夏にも自殺者か出たというが、一体、皇宮警察で何か起きているのか。亡くなったのは、護衛部の侍衛官、加藤達夫氏(仮名)だ。(中略)

だが、

「昨年8月にも加藤の後輩が、首を吊って自殺しているんです」

と明かすのは、皇宮警察関係者のA氏だ。
「「皇宮警察」また出た自殺者は「秋篠宮」担当」『週刊新潮』2005月8月11・18日合併号
当サイトでは、連続自殺といえば、小室母子といった印象すらありますが、秋篠宮家の関係者でもこのような奇妙な出来事があったようです。


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愛子さまを「皇太子」に! 配偶者の最有力候補 令和時代の皇統問題
2019年4月29日
https://rondan.net/21291



担当者が不祥事続きの秋篠宮家

秋篠宮家の担当者の不祥事といえば、先日取り上げた公然わいせつ事件も有名ですが、この連続自殺事件も非常に衝撃的な事件です。


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また、自殺の原因として金銭的なトラブルが背後にあったのだないかと記事では推測されています。


「加藤氏と一緒に秋篠宮家の護衛にあたるのが、護衛部の護衛3課。自殺したのは、3課の高山弘(当時47)=仮名=という側衛官です。高山は、眞子さまや佳子さまをよく学習院に送り迎えしており、紀子さまの大のお気に入りだった。加藤は高山を直接の部下のように面倒を見ていました」

もっとも、高山氏は私生活ではかなりいい加減だったという。

「大の女好きで、生活がハデでね。一千万単位の借金を作り、それか原因で白殺したんです。高山は私に“加藤さんに借金の保証人になってもらっている”と言っていた。もしかすると加藤は、高山の残した借金の返済を迫られていたのかもしれません」(同)

秋篠宮家担当の護衛官がたて続けに自殺するとは、尋常ではない。
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最近の紀子様の笑顔は「自然じゃなくて怖い」とか、「目が笑っていない!」などと言われているようですが、確かにこんな表情で怒鳴りつけられたら結構恐怖かも……。

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[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
187. 中川隆[-10489] koaQ7Jey 2019年4月29日 21:20:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1598]

農耕社会の成立〈シリーズ 日本古代史 1〉 (岩波新書) – 2010/10/21
石川 日出志 (著)
https://www.amazon.co.jp/農耕社会の成立〈シリーズ-日本古代史-1〉-岩波新書-日出志/dp/400431271X/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8


内容紹介
縄文の集落から弥生の農耕社会へ。稲作の導入を契機とする、日本列島の歴史の大きな分岐点は、しかし、「縄文人から弥生人へ」という単純な交代ではなく、複線としての歴史の始まりであった。北海道から沖縄まで列島全体をひろく視野に、ゆたかな地域性を保ちつつ緩やかに変わってゆく列島の姿を新鮮に描きだす。

内容(「BOOK」データベースより)
「海を越えてやってきた渡来人が、縄文人にかわり、西日本を中心に新しい文化を築いた」という一般的な弥生時代のイメージ。しかし、稲作の導入を契機とする日本列島の歴史の大きな分岐点は、もっと緩やかにして多様なものであった。縄文から弥生への連続性と、地域文化の豊かさに注目しつつ、「複線」としての歴史像を新鮮に描きだす。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
石川/日出志
1954年新潟県に生まれる。1983年明治大学大学院文学研究科博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は考古学

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち3.0
弥生期は、互酬・交易のヨコの関係と、支配のタテの関係の、はじまりである 2019年2月9日


 日本史で、飛鳥期以後は、政治の中心地を時代名とし、古墳期以前は、中央集権が、未整備なので、新規に登場した文化名を使用していますが、縄文期は、定住による縄文土器の出現、弥生期は現在、弥生土器との区別よりも、水田稲作の伝播を優先し、時代区分としています。

 農耕社会が成立したのは、弥生期ですが、本書は、「シリーズ日本古代史」の最初でもあるので、それ以前の、日本列島最古の出土がある旧石器後期と縄文期、それ以後の、前方後円墳が出現した古墳初期も、取り上げ、連続的・相対的に俯瞰しようとしているので、弥生文化自体は、5章中、2章です。

 よって、弥生期を充分理解したいなら、本書は、総論なので、別書で、各論を補充したほうがよいでしょう。

 本書で気づかされたのは、移動生活だった旧石器期は、すべて自給自足といってよく、定住生活になった縄文期も、食糧・道具等の大半が、自給自足ですが、黒曜石・サヌカイト・ヒスイ・天然アスファルト等、貴重な道具を、交流(互酬)・交易で、調達していることです。

 しかも、それは、長距離を一気に移動する、直接交流・交易ではなく、複数の集落間を、中短距離でリレーする、間接交流・交易だったと推測でき、弥生期の交流・交易は、弥生文化圏とともに、続縄文期の北海道・南島続縄文期(貝塚後期)の沖縄等、弥生文化圏周辺の地域へも、一部到達しています。

 縄文期には、集落をまとめるリーダーがいても当然ですが、集落のメンバーどうしは、平等が原則で、集落どうしは、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)のヨコの関係がありました。

 それが、弥生期には、水田稲作の導入で、リーダーが、集落のメンバーから突出した存在になり、保護(人命・財産の保障)と納税(貢納・労役)のタテの関係が、はじめてできると、リーダーが、集落どうしの交流(互酬)・交易を主導するようになったので、リーダーどうしのヨコの関係になります。

 また、リーダーは、集落どうしの対立を解消したり、同盟で連携したり、抗争に戦勝し、その集落を支配下にすれば、上下(主従)のタテの関係になり、庶民とは格差のある首長ができ、今度は、首長どうしのヨコの関係になり、こうして、タテの関係が重層すれば、高次どうしのヨコの関係ができます。

 青銅器・鉄器は、そのような中での摂取なので、リーダー・首長どうしの互酬(交流)・交易か(ヨコの関係)、上位者(首長)から下位者(リーダー)への授与(下賜)で(タテの関係)、入手したとみるべきでしょう。

 ここで注意したいのは、青銅器・鉄器等の貴重品・舶来品を入手する際に、戦時だと、侵略による略奪も可能ですが、平時だと、自前の工房で製作するか、互酬・交易で調達するか、有力者から授与されるかの、いずれかしかないことで、このうち、製作と互酬・交易には、財力が必要です。

 そして、古墳初期の前方後円墳も、そのような中での摂取ですが、大和に大型古墳が出現するのは、3世紀前半〜半ば、鉄器の出土数で、畿内が九州北部を逆転するのは、3世紀後半と、ズレています。

 それは、大型古墳が、首長と庶民のタテの関係で造営され、対内的な権力の表現である一方、鉄器等の舶来品が、首長どうしのヨコの関係で調達され、財力の表現で、別の力だからです。

 大和は当初、対外的な権力はなく、財力があったので、大型古墳を造営、西の輸入用2方向・東の輸出用2方向に、流通ルートを確保することで、鉄器を普及させ、鉄器による水田整備・古墳造営・威信財副葬のセットの、領国統治モデルを東国に提供したので、ますます蓄財できたのではないでしょうか。

 輸入の場合、売り手側が2者(丹波・吉備)なら、買値の比較ができ、買い手側が有利になり、輸出の場合、買い手側が2者(北陸・東海)なら、売値の比較ができ、売り手側が有利になるからで、こうして大和は、売り買いとも、九州北部より優勢になれ、経営力があったとみるべきでしょう。

 こうして、古墳期には、弥生期由来の支配のタテの関係で、為政者が、リーダー→首長→豪族と、庶民とは隔絶した存在になるとともに、縄文期由来の互酬・交易のヨコの関係で、豪族どうしが、貴重品・舶来品等を取引するようになったと、推測できます。

 特に、銅鏡で、漢鏡7期は(p.202)、後漢が弱体化し、中国の市場に流通していたもの、卑弥呼へ授与された百枚の魏鏡は、民間工房に外注されたもの、三角縁神獣鏡は、日本輸出専用に中国の民間工房が量産したものとみられ、前漢鏡→後漢鏡→魏鏡以降と、銅鏡の価値が低下したのを認識すべきです。

 ヨコの関係については、4世紀終り〜5世紀初めに、倭が朝鮮半島へ渡海・交戦したのも、鉄器確保と引き換えの派兵とみれば、一種の贈与と返礼で、略奪・領土拡大のためというよりも、日本列島での鉄器による水田整備・古墳造営・威信財副葬のセットの、領国統治モデル維持のためといえます。

 さらに、5世紀後半・雄略天皇(21代)の時代にみられる、人制(ひとせい)は、豪族が、天皇に私財で奉仕するかわりに、地位・利得等の恩恵を享受する、一種の贈与と返礼ともいえ、それが、天皇中心の中央集権のタテの関係へと、長期的には発展しましたが、短期的には反抗もあったと説明できます。

 ただし、筆者は、考古学だと、紀元前1〜2世紀に、九州北部で最有力だったのは、奴国・伊都国なのに、「魏志倭人伝」だと、伊都国には代々、王がいるが皆、女王国に統属したとあるので、邪馬台国は、九州以外だとし、畿内説が順当だとしていますが(p.205)、なぜ九州以外なのかが、根拠不詳です。

 邪馬台国=畿内説を主張するなら、九州から近畿までの距離を、どのように統属したのかが、大変疑問で、それぐらいの広域を統治する能力があるなら、すでにアル程度の中央集権化でしょう。

 「三国志・魏志」烏丸鮮卑東夷伝(巻30)には、倭人だけでなく、烏丸・鮮卑・夫餘・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓(馬韓・辰韓・弁韓)の項目もあり、それらの範囲が推定された、朝鮮半島〜中国大陸東北部〜沿海州周辺の地図が、ネットで散見できます。

 そこで、倭の範囲を、近畿以西の西日本とすると、朝鮮半島の他地域に比べて、倭だけが、異様に広いことがわかり、しかも、朝鮮半島の他地域は、拠点を複数設置し、陸路を整備すれば、反乱があっても、すぐに大軍を派兵すれば、騎馬もあり、一気に鎮圧するのも可能です。

 一方、3世紀の倭は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず、途中で水・食糧等を調達しなければならず、九州〜近畿間の海路で、大軍は無理、補給も困難、そんな状況で、畿内の邪馬台国が、九州北部の伊都国の一大率の検察に、畏憚する(おそれはばかる)のは、到底納得できません。

 2章で筆者は、「確かな資料に基づく議論と、可能性を探ることとは、厳密に分ける必要があり、確実さの保証のない議論には慎重でありたい」といっていますが(p.58)、5章の古墳初期の最後で、「魏志倭人伝」等の文献学を安直に取り入れ、考古学のみで押し通さなかったのは、残念です。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1UDQYBN7YRW1X?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c187

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
188. 中川隆[-10488] koaQ7Jey 2019年4月30日 05:08:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1599]

古代国家はいつ成立したか (岩波新書) – 2011/8/20
都出 比呂志 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A4%E6%88%90%E7%AB%8B%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8B-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%83%BD%E5%87%BA-%E6%AF%94%E5%91%82%E5%BF%97/dp/4004313252/ref=la_B001I7HGUQ_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1556568374&sr=1-1

内容紹介

日本列島で「国家」はいつ成立したのか。それを解き明かす一つの鍵が考古学の成果にある。集落の構造、住居間の格差、富を蓄えた倉庫の様子など、社会構造の変遷を追っていったとき、邪馬台国は国家なのか、倭の五王の頃はどうか、あるいは7世紀以降の律令体制を待つのか……。諸外国の集落との比較も交え、わかりやすく語る。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
都出/比呂志
1942年大阪市生まれ。1964年京都大学文学部卒業、68年同大学大学院文学研究科博士課程中退。専攻、考古学・比較考古学。現在、大阪大学名誉教授

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0

古代史の学者達は、序列・集権のタテ関係を重視するあまり、対等・分権のヨコ関係を軽視しがち 2019年2月5日

 筆者は、考古学者なのに、本書の弥生期では、邪馬台国=畿内(大和)説を、古墳期では、倭の五王=履中・反正・允恭・安康・雄略の5天皇(17〜21代)説を、無条件に導入する等、文献学を最初から安直に取り入れて解説しており、とても異例で、大前提が、怪しく危ういです。

 本来なら、先に、考古学で事実を確認し、後に、文献学で推測を補強するのが通例であるうえ、邪馬台(壱)国=九州北部説や、倭の五王=九州王朝説が、あるにもかかわらず、なぜそれらを採用していないかは、ほとんどスルーされています。

 卑弥呼の倭が、狗奴国との交戦の際、魏が帯方郡から派遣した援軍は、長年滞在しているのに、方位の東を南と書き誤ったとしたり、倭の7ヶ国が、伊都国の一大率の検察を畏憚しているのに、邪馬台国が、伊都国(放射式)か投馬国(連続式)から、水行10日+陸行1月もかかるとするのは、強引です。

 軍隊にとって、諸国の位置・距離は、進軍・補給等に最低限必要なので、方位等の記載ミスはありえず(書き誤りなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、訂正してもよいはず)、領土統治は、反乱をすぐに鎮圧できることが、大前提です。

 邪馬台(壱)国=九州北部説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、邪馬台国=畿内(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

 弥生期は、早期・前期・中期・後期・終末期と、5区分し、武器・祭器・環壕(濠)集落・墓地等から、戦争・青銅器祭祀等で、小さな政治的まとまりから、大きな政治的なまとまりへ(リーダーから首長へ)、発展していったと、説明しています。

 紀元前1000〜紀元前800年の早期は、まだ採集を継続していた時代、紀元前800〜紀元前400年の前期は、米の栽培が定着した時代、紀元前400〜紀元前50年の前期は、小国が誕生し、九州北部・吉備・出雲・畿内・東海・関東の各ブロックが出現した時代、紀元前50〜180年の後期は、ブロック間の抗争の時代、180〜240年の終末期は、女王の卑弥呼が君臨した時代と、単純化したいようです。

 ただし、当時は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず(1艘の乗員は、最大でも20人程度)、途中で水や食糧等を調達しなければならず、海路で侵攻しても、高地性集落等に篭城されての長期戦で、食糧不足になれば、撤退するしかなく、それほど戦果が期待できません。

 よって、陸路で侵攻できる範囲でしか、侵略戦争は、非合理的なので、筆者のいう、弥生後期での、九州北部・吉備・出雲・畿内・東海・関東のブロック間の、中小型船が必要な抗争は、非現実的で、それよりも、遠方とは交易でつながるのが、合理的だったとみられます。

 大型船は、4世紀終り〜5世紀初めから、朝鮮半島からの渡来人が、日本列島へ大勢渡海した際に、多用されたと推測でき、それ以前と以後の戦争は、分けて考えるべきではないでしょうか。

 また、古墳期は、3世紀半ばから、前方後円墳・前方後方墳で、設計の尺度に共通性があるので、地方有力首長達が、中央政府を樹立し、そこでは、相互承認で(前方後方墳が存続する4世紀後半までは)、身分秩序や古墳の形状・規模が、決定されたとしています。

 ですが、古墳初期から、中央政府が、実在していたとするのは、大変疑問で、筆者は、「前方後円墳体制」という用語を提唱していますが、初期・前期の古墳は、各地方首長による、「自発的な文化」だったのではないでしょうか。

 中央政府というからには、地方有力首長達が、寄合していなければいけませんが、その証拠はなく、大和の纏向遺跡に、物(土器)が集積していたからといって、人(有力者)が集合したとはいえません。

 古墳の形状・規模等は、各地方有力首長の自己の権力・財力しだいで、どうにでもでき(遠方からは、攻め込まれにくいので)、交易では、長さ・重さ・大きさの単位を、揃える必要があるので、それが古墳の規模にも、影響したのではないでしょうか。

 そして、古墳中期・5世紀後半の雄略天皇の時代には、人制(ひとせい)等で、中央集権化に取り組み、古墳も、やがて「強制的な制度」へと変容し、その時期からの巨大古墳は、畿内で天皇のみに限定されたとみるのが自然です。

 つまり、最初は、全国各地の首長達の対等・分権社会だったのが、しだいに首長の盟主(天皇)中心の序列・集権社会へと移行し、その反発として、古墳後期・6世紀前半の継体天皇(26代)の時代に、磐井の乱が、九州の北半分で勃発したと位置づけられます。

 そののち、中央集権化は、6世紀半ばの欽明天皇(29代)の時代→飛鳥期・7世紀前半の推古天皇(33代)の時代→7世紀半ばの天智天皇(38代)の時代→7世紀後半の天武・持統の2天皇(40・41代)の時代と、徐々に政敵の皇族・有力豪族が排除され、雄略天皇の時代から、約200年もかかりました。

 中央集権化がゆっくりだったのは、海外から日本列島へ攻め込まれる心配がなかったからですが、白村江の合戦(663年)の大敗後、はじめて危機となり、壬申の乱(672年)で、大和政権の中枢にいた有力豪族達が一掃されたため、天武天皇に権威・権力が集中できました。

 最後の6章に、学者達の、日本列島に国家はいつ成立したのかの議論が、取り上げられていますが、玄人の学者にとっては、大切でも、素人の読者にとっては、不毛で、それは結局、どのレベルの領域で、いつ中央集権化がはじまったかで、見方が変化するからです。

 そのうえ、筆者は、3世紀からの地域国家(筑紫・吉備・出雲・毛野)を、中央政府(大和)の鉄に依存し、自立していないので、独立国家でないと言及していますが(p.177)、それだと、現在の日本も、他国にエネルギーの大半を依存しているので、独立国家といえないことになり、論理破綻しています。

 そもそも、大和が自前で航路を開拓し、朝鮮半島南部から直接、鉄資源を輸入し、それを全国各地へ流通させていた確証はなく、自立・自給自足の概念を持ち込むのなら、日本列島で製鉄できるようになったのは、現時点では、6世紀後半とされているので、初期国家を古墳期とするのと、矛盾します。

 古代史の学者達の大半は、徴税(農海産物等の貢納・労役)・青銅器祭祀・戦争等、ある程度の序列・集権の段階での、為政者から庶民への「強制的な制度」を取り上げるのが普通で、本書もそれを踏襲しています。

 しかし、突出した人物が、出現する前後の起源には、共同体の構成員どうしの、対等・分権の段階があり、弥生初期の庶民にとっての水田稲作や、古墳初期の地方首長達にとっての古墳は、「自発的な文化」だったはずですが、その視点が、欠如しており、それは、想像で補充するしかないのも、事実です。

 序列・集権の発想しかなければ、古墳に副葬された威信財を、上位から下位への授与(下賜)とみなすしかなく、無茶ですが、対等・分権の発想があれば、威信財は、贈与と返礼(互酬)か物々交換(交易)の、流通で取得した可能性もあり、古墳期の銅鏡の大半は、すでに中国市場に流通していました。

 私は、畿内が、3〜4世紀に、舶来品の輸入用として丹波ルートと吉備ルート、舶来品の輸出用として、北陸ルートと東海ルートの、東西2方向ずつに、交易ルートを確保したことで、日本列島の流通を、主導できるようになったとみています。
 そうできたのは、輸入の場合、売り手側が、2者(丹波・吉備)なら、買値の比較ができ、買い手側が有利になり、輸出の場合、買い手側が、2者(北陸・東海)なら、売値の比較ができ、売り手側が有利になるからで、こうして畿内は、売り買いとも、九州北部よりも優勢になれたとみるのが自然です。

 威信財を、筆者は、現代社会での外国製のブランド商品になぞらえ、それを入手することで、仲間意識が形成されたのではと、類推していますが(p.183)、実際には真逆で、仲間への対抗意識から、しばしば収集の量・質ともに、エスカレートします。

 それは、威信財だけでなく、古墳の規模も同様で、大和・河内・和泉・吉備で、5世紀前半まで、大型古墳が林立したのは、対抗意識が激化したのも一因ではないでしょうか。

 ブランド商品の流行は、対等・分権社会だからこそ成立し、本人は、「自発的な文化」という認識で購入しますが、仲間とのヒートアップが懸念され、それを抑止するには、制限が必要です。

 その制限が、5世紀後半の雄略天皇の時代からの序列化・集権化で、古墳には、それ以降、「強制的な制度」が作用したとみられ、これまで古墳で浪費していた、地方首長達の財力を、戦況が悪化していた、朝鮮半島への関与に、投入しようとしたのではないでしょうか。

 筆者最大の誤解は、生活様式が共通するからといって、そこが中央政権の影響範囲だとは、とてもいえないもにもかかわらず、文化と制度を同一視していることで、同じ欧米文化を摂取していても、制度の違う国家は、いくらでも存在します。
 文化の摂取は、利得があれば、対象者が、自発的に取り入れ、対等・分権が前提で、国境も、簡単に乗り越えますが、制度の摂取は、支配者の利得で、対象者へ強制的に取り入れさせられ、序列・集権が前提で、支配者の統治範囲が、国境となり、文化と制度を混同すると、トンチンカンな推測になります。

 高齢な筆者は、戦前・戦中に席巻した、極度に中央集権化された皇国史観を、嫌悪しているようですが、戦後に導入した欧米の理論自体も、秩序的・体系的で、序列的・集権的な性向にあるので、その思想に引っ張られ、そこから対等・分権を、なかなかイメージできなかったのかもしれません。

 近代化以前の中国・朝鮮では、ほとんどが、序列・集権のタテ関係で、成り立っていましたが、近代化以前の日本では、為政者の合議制や、百姓の寄合等、対等・分権のヨコ関係も、同時に重要なのに、古代史の学者達は、序列・集権のタテ関係を重視するあまり、対等・分権のヨコ関係を軽視しがちです。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2RTQBW9GMDZ11?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c188

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
189. 中川隆[-10487] koaQ7Jey 2019年4月30日 07:19:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1600]

〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作 (歴史文化ライブラリー) – 2011/9/20
藤尾 慎一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%88%E6%96%B0%E3%80%89%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3-%E4%BA%94%E3%80%87%E3%80%87%E5%B9%B4%E6%97%A9%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%B0%B4%E7%94%B0%E7%A8%B2%E4%BD%9C-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%96%87%E5%8C%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E8%97%A4%E5%B0%BE-%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4642057293/ref=la_B004LTVZ8C_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1556576285&sr=1-2


内容紹介
東アジア国際情勢、広まりの遅い水田稲作…。「炭素14年代測定法」による衝撃の測定結果で、500年遡る日本列島の全体像を描く。

内容(「BOOK」データベースより)
「炭素14年代測定法」の衝撃が、これまでの弥生文化像を覆しつつある。東アジアの国際情勢、鉄器がない当初の数百年、広まりの遅い水田稲作、村や墳墓の景観…。五〇〇年遡る“新”弥生時代における日本列島像を描く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
藤尾/慎一郎
1959年、福岡県に生まれる。1986年、九州大学大学院博士課程単位取得退学。現在、国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学教授、博士(文学)


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち3.0
弥生期の先行的な先進文化の摂取と、総体的な流れを追うことに、特化した本 2019年1月28日


 本書は、弥生期の開始が、紀元前5世紀から紀元前10世紀へと早期化し、その期間も、約700年から約1200年へと長期化する際に、研究成果が変更する事態が、取り上げられており、それらを水田稲作・金属器の伝播、弥生期の集落・墳墓の規模・構造、地域別の文化の特色の、3つに大別しています。

 筆者の『弥生時代の歴史』では、九州北部での水田稲作が、紀元前10世紀の開始となった結果、弥生期の見方が、どう変容するかを、通史的な記述の中で、取り上げられており、本書では、少し重なる部分もありますが、学者達の間での論争や、その根拠・経緯等、詳細まで踏み込んでいます。

 このうち、まず、水田稲作・金属器の伝播では、土器等の出土物に付着した炭化物中の、炭素14の放射線の濃度を測定・分析し(加速器質量分析法=AMS)、年代を特定することで(誤差は±20年程度)、九州北部での水田稲作が、紀元前10世紀に開始されたのが、わかったことから、出発しています。

 そののち、水田稲作は、紀元前7世紀に近畿、紀元前4世紀に東北北部、紀元前2世紀に関東へ伝播し、青銅器・鉄器の使用は、おおむね紀元前4世紀からなので、水田稲作の流入後、約600年間は、金属器のない石器の時代だったことも、導き出されています。

 ここでは、特に、九州北部・大阪・東北北部での、水田稲作の伝播の仕方が、次のように、言及されています。

○九州北部
 紀元前10世紀は、中国大陸の中原(ちゅうげん)地域で、紀元前1046年に(本書では、紀元前1027年説を採用)、殷が滅亡し、周王朝が樹立された頃で、中国大陸から朝鮮半島への影響は、まだないので、朝鮮半島南部からの渡来人が、自分達の意志で、水田稲作等を九州北部に持ち込んだとみられます。

 当初は、九州北部の平野の上・中流域に、狩猟・採集・畑作(陸稲も)の在来の園耕民、下流域に、渡来の水田稲作民と、住み分けられていました。

 それが、紀元前9〜紀元前8世紀に、水田に適した土地が、ほとんど開発し尽くされ、環壕集落が出現、対立・抗争もみられるようになり、紀元前7世紀に、園耕民が、水田稲作民化したので(四箇/しか型)、水田稲作が普及するまで、約300年が必要でした。

 水田稲作民が、朝鮮半島南部からの渡来人といえるのは、朝鮮半島系の調理用土器(刻目/きざみめ文土器)を所有していたからで、やがて、刻目文土器は、日本(板付型)と朝鮮(松菊里型)で、変化しましたが、刻目文土器を持ち込んでいない渡来人も、下流域に進出しています(那珂/なか型)。

○大阪
 それから、水田稲作は、紀元前8〜紀元前7世紀に、九州東部・南部・瀬戸内西部、紀元前7〜紀元前6世紀に、神戸・大阪へと、伝播しています。

 大阪(古河内潟周辺)では、在来の園耕民と、外来(香川からが有力)の水田稲作民が、住み分けられ、しばらくそのままで交流し、その約100〜150年後に、園耕民が、水田稲作民化しました。

 尾瀬ヶ原のハイマツの花粉割合から推定した気温変動によると、紀元前8〜紀元前7世紀は、寒冷のピークで、これ以降、しだいに温暖化していったので、水田稲作が、西日本で普及した時期と呼応しています。

○東北北部
 青森には、日本海沿岸経由で、紀元前4世紀に、狩猟・採集の園耕民が、水田稲作を取り入れましたが、北海道南部の影響下にあるので、農工具・祭祀等は、そのまま縄文系を踏襲し、紀元前1世紀に、水田稲作を放棄、狩猟・採集生活へと逆行し、そののちの水田稲作の再開は、6世紀でした。

 東北中部の仙台・東北南部のいわきでも、紀元前4世紀に、狩猟・採集の園耕民が、水田稲作を取り入れましたが、弥生系の組織・体制に改変したので、水田稲作を放棄しなかった(または、できなかった)とみられます。

 以上より、九州北部・大阪では、園耕民が、なかなか水田稲作民化せず、それぞれ約300年・約100〜150年もかかりましたが、いったん先進文化を摂取すると、縄文系の組織・体制を排除したので、水田稲作に依存するしかなくなりました。
 一方、東北北部では、縄文系の組織・体制を温存したまま、水田稲作を取り入れたので、途中で放棄できました。

 これは、贈与と返礼の関係が優勢の、縄文的な平等・分権社会が、保護と納税の関係が優勢の、弥生的な序列・集権社会へと、移行するには、かなりの抵抗があるということで、序列・集権の組織・体制になれば、反乱か衰退がないかぎり、不可逆的で、古墳期には、ますます序列・集権が拡大しました。

 そして、先進文化を摂取するには、園耕民が、自発的に受け入れるための理由があり、私は、それを初穂と出挙(すいこ)の組み合わせだと推測していますが、それで、序列・集権の地域が、優勢になれば、近隣の平等・分権の地域は、その外圧の影響で、水田稲作を受け入れざるをえなくなります。

 こうして、人々は当初、開いた世界で、自発的に水田稲作に取り組み、それが普及・定着すると、やがて、閉じた世界になり、強制的だとも、受け取られるようになりますが、序列・集権の組織・体制になってしまうと、そこを離脱しないと、抜け出せません。

 この連鎖で、朝鮮半島南部から、西日本・北日本・東日本へと、水田稲作が伝播したとみられますが、水田稲作可能な新天地の情報・丸木舟の船団での渡海技術・水田整備までの食糧調達には、海洋漁労交易民の関与が、不可欠なのではないでしょうか。

 なので、渡来人は、ある程度の財産を持参するか、なければ、現地で負債しての新生活になるかですが、ここから、すでに、序列が形成され、保護と納税の関係へと、発展する可能性があります。

 つぎに、弥生期の集落・墓地の規模・構造では、これまで弥生期が約700年間の際には、土器型式の存在期間が、30〜50年で、世代交代を約30年とみれば、同一の土器型式なら、おおむね同時期に存在していたと仮定できました。

 しかし、これから弥生期が約1200年間になれば、存在期間が、30〜150年になるので、炭素14による年代特定で、精度を30年程度に絞り込むか、30〜150年の累積結果として容認するかの、いずれかで、累積数だと、当時の集落・墓地の状況と食い違うので、復元とはいえず、人口の推定にも影響します。

 さらに、地域別の文化の特色では、北の文化・北のボカシの地域・中の文化・南のボカシの地域・南の文化の、5つに区分し、これらが重なり合いながら、数珠つなぎに連続していると、イメージされています。

 また、水田稲作・環壕集落・青銅器祭祀の、3つを指標とすれば、西から東へ、3つが存在する地域(西日本)・水田稲作と環壕集落の地域(東日本)・水田稲作(北日本)のみの地域の、3段階に区分できますが、水田稲作を取り入れた地域が、そのまま、古墳祭祀の地域と一致するのが、わかります。

 つまり、北の続縄文文化・中の弥生文化・南の貝塚後期文化のうち、中の弥生文化が、古墳文化に置き換わっただけで、それは、水田稲作と古墳造営の組織・体制が、同一だから、抵抗なく移行できたと推測できます。

 このように、本書は、弥生期の先行的な先進文化の摂取と、総体的な流れを追うことに特化した、総論なので、筆者の『弥生時代の歴史』とともに、弥生期に関心がある人は、最初に読むのがお勧めです。

 それから、他の本で、各論を読み進め、先進文化の普及・定着や、後行的な中国大陸からの直接の影響を、補完するのがよいでしょう。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3DK1H6YQL7LDU?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c189

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
190. 中川隆[-10486] koaQ7Jey 2019年4月30日 07:51:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1601]

旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記 (全集 日本の歴史 1) – 2007/11/9
松木 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E3%83%BB%E7%B8%84%E6%96%87%E3%83%BB%E5%BC%A5%E7%94%9F%E3%83%BB%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E6%99%82%E4%BB%A3-%E5%88%97%E5%B3%B6%E5%89%B5%E4%B8%96%E8%A8%98-%E5%85%A8%E9%9B%86-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-1/dp/4096221015/ref=la_B004LREFCM_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1556578152&sr=1-1


内容紹介

この本が対象とするのは、日本列島にヒトが初めて登場した旧石器時代から、人びとが定住を始めて多彩な土器や土偶が登場する縄文時代、稲作が盛んになって列島各地にさまざまな文化が花開く弥生時代を経て、世界的にも類を見ない大規模な古墳が集中してつくられる古墳時代に至る、4万年の日本列島の歩みです。

この4万年は、文字が存在しない、あるいはまだ十分に普及していない時期でした。この時期の社会は、土器や古墳など、ヒトがつくった「もの」が文字の代わりに重要な意味をもつ、文字以前の物質社会でした。そこでは、ヒトがつくる「もの」にさまざまなメッセージや意味が込められるとともに、今度はその「もの」がヒトの行動を規定するという面もありました。いわば、「もの」からヒトの心が見えてくる社会だったのです。

この本は、そうしたヒトと「もの」との双方向的な関係に着目する「認知考古学」という新しい方法論を用いて、4万年の日本列島の歩みを、考古資料という「もの」の分析から綴っています。たとえば縄文時代につくられた、火炎土器に代表される派手な装飾の土器の数々。これはただ当時の人びとの美的感覚を語るものではなく、当時の人びとが土器にそのような派手な装飾を加えなければならない、社会的な必要性があったからこそ生まれたものであり、その必要性とは何かと考えることで、当時の社会が見えてくるのです。

こうした視点から考古資料を見ていくことで、従来なかった、新しい列島像が描かれます。古墳についても、これまでの歴史学では「なぜ5世紀の日本列島にこのような巨大古墳がつくられたのか」という問いに明確な答えは出せませんでしたが、本書では、ある答えが提示されています。その答えが正しいかどうかは読んでご判断いただくとして、読者のみなさんの知的好奇心を刺激する1冊であることは間違いありません。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
松木/武彦
岡山大学文学部准教授。1961年愛媛県生まれ。大阪大学大学院文学部研究科博士課程修了。専攻は日本考古学。ヒトの心の現象の科学的な分析・説明による、科学としての歴史の再構築をめざしている

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち4.0
認知考古学での推論は、分権的で自発的な対象者のみに、適用すべきでは? 2019年1月26日


 本書は、日本列島の旧石器・縄文・弥生・古墳期の無文字社会4万年間の歴史を、認知科学(感情・欲望・神・迷信等、心の現象を科学的に分析・説明する分野)の考古学への適用、地球環境の気候変動による影響、未分化な状態から日本国形成までの最初の経緯、の3本柱で、読み解こうとしています。

 ですが、古代以前の日本列島の人々は主に、旧石器時代に日本列島へ流入して縄文期に定住した土着人、弥生期の渡来人、古墳期の渡来人の3種に大別でき、弥生期と古墳期は、中国大陸・朝鮮半島の先進文化を摂取してきたので、物質文化も、海外からの影響を考慮するのが通例です。

 そこから、縄文等の土着文化を深層(基層)、弥生等の外来文化を表層としたり、時代とともに、表層の物質文化は、変化しても、深層の精神文化は、不変だと、主張されることが、多々あり、古代での和魂漢才、近代での和魂洋才のように、縄魂弥才ともいわれます。

 それで、研究者達は、縄文期以前と弥生期以後を、明確に区分し、中国の歴史書等、文字記録(文献史料)があれば、それを物質資料(考古資料)と併用しますが、筆者は、無茶を承知で、物質文化のみを対象とし、旧石器・縄文・弥生・古墳期の無文字社会から、一貫した理論を導き出そうとしています。

 認知科学では、人間は、体だけでなく、脳も進化し、自分達の生存・生活に都合のいい、有利な文化を摂取するとされており、海外から影響されるのも、人々の心が、進化していないと、それを摂取し、定着することは、ありません。

 そうなると、物質文化の普及が、少数か多数か、狭域か広域か、定着の範囲を、重要視すべきですが、日本列島のオリジナルか、中国大陸・朝鮮半島のコピーかアレンジかは、ほとんど無意味になります。

 ただし、中国大陸の先進文化を、日本列島は、自発的・選択的に摂取し、朝鮮半島は、強制的・全面的に摂取してきた傾向にあるので、海外からの影響といっても、強制的・全面的だと、認知科学を信用するのは、無理ですが、自発的・選択的だったからこそ、適用を許容できるのかもしれません。

 本書の要旨は、まず、機能的な実用性を超える、視覚的な象徴性が表現された「凝り」に着目し、「凝り」のある人工物は、人の心を呼び起こし(認知的誘引性)、それが社会的なメッセージとなることがあり(モニュメントは、その一例)、そうなるのは、環境が変化する際に顕著だと、指摘されています。

 つぎに、無文字社会4万年間の、環境の変化(気候変動)を、次のように、分類しています。

・第1寒冷化期(4万年前〜後期旧石器後半・2万年前)
・第1温暖化期(後期旧石器後半・約2万年前〜縄文前期・7,6000年前)
・第2寒冷化期(縄文前期・7,6000年前〜縄文晩期・28,2700年前)
・第2温暖化期(弥生期前半・28,2700年前〜紀元前後)
・第3寒冷化期(弥生期後半・紀元前後〜奈良期・8世紀末)


 さらに、人々は、生存・生活のために、環境の変化(気候変動)に対応しようとしますが、温暖化期と寒冷化期で、それぞれ類似した行動をとる傾向にあると、主張されています。

 温暖化期は、食糧増加による生存・生活の安定・余裕から、人口が増加するとともに、小集団が大集団化し、特定の物質文化が形成され、大集団で既存のアイデンティティを保守したり、子孫に既存文化を伝達する等、標準的になりがちです。

 温暖化期に「凝り」が現れるのは、発展が限界の時期で、それは、周囲の集団に対抗・競合するためで、既存文化の地域色が濃厚化しますが、差異化・差別化は、改善・改良程度です。

 一方、寒冷化期は、食糧減少による生存・生活の不安・危機から、大集団が小集団化し、別地へ移動したり、小集団で新規のアイデンティティを独創する等、流動的になりがちです。

 寒冷化期に「凝り」が現れるのは、衰退が急落の時期で、それは、外からの影響・内からの模索が活発化するからで、新規文化の萌芽である一方、既存文化の地域色が希薄化します。

 そして、温暖化期でも寒冷化期でも、機能・実用を超えた「凝り」に固執するのは、我々には意味不明ですが、その集団が共有する意味があるからで、そこには、人々を結束・連帯する役割があるといえます。

 近代人は(筆者も)、機能的な実用性と視覚的な象徴性を区分しますが、当時の人々は、それらが未分化で、我々が視覚的な象徴性の表現といっている部分も、そこには、社会的なメッセージという、機能的な実用性があると解釈でき、これは、近代的な分析手法といえるのではないでしょうか。

 現代は、機能・実用を超えた「凝り」のある大物(モニュメント、太陽の塔は、その一例)は、生み出しにくい社会になりましたが、小物は、商品の付加価値と位置づけられ、魅力か無駄かの間を、行き来しており、現在でも通用する、着眼点ではないでしょうか。

 なお、本書では、寒暖の変動を、花粉の割合から推定されているようですが(p.231)、屋久杉の年輪炭素同位体比をもとに復元した気候変動では、弥生終末期の3世紀は寒冷、古墳前期の4世紀は温暖、古墳中期の5世紀は寒冷、古墳後期の6世紀は温暖、飛鳥期の7世紀は寒冷、奈良期の8世紀は温暖となっています。

 寒冷の、3世紀には、倭国乱後に諸小国が広域連合としてまとまり、5世紀には、倭が朝鮮半島へ渡海し、断続的に戦争する中で、前方後円墳が特化され、7世紀には、朝鮮半島での戦争が激化するとともに、朝鮮3国や大和で、中央集権化が急速に推進されました。

 温暖の、4世紀には、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳等、多様な古墳が出現し、6世紀には、皇室・有力豪族間の勢力争いが続き、8世紀には、律令制下で、皇室・有力貴族間の勢力争いが続き、為政者達は、寒冷期には、戦争だから結束し、温暖期には、平和だから乱立している印象があります。

 筆者の指摘で、私が最も注目したのは、後期旧石器時代の、中・小型動物しかいなくなった際に、「オレのヤリ」を誇示・優越するため、ほぼ実用がない、希少な大型動物の狩猟専用の大型尖頭器(打製石器)が、特別視されるようになったことです。

 時代遅れの「無用の長物」になって初めて、社会的なメッセージ性が植え付けられ、この現象は、鉄器が利器として普及すると、武器形青銅器が、祭器化したり、朝鮮式小銅鐸や、中国由来の実用的な小・中型銅鏡が、日本で大型化・祭器化したり、古墳も、日本で巨大化する等、後世にも再現されています。

 私が大変疑問なのは、古墳出現期から、大和で、大型の前方後円墳が造営されたり、銅鏡が多数出土したからといって、学者達の間では、前方後円墳が、大和から流行したとか、大和が、銅鏡を配布していたとか、想定していることで、本書では、そのようには、言及されていないので、共感できます。

 纏向遺跡に、近畿だけでなく、瀬戸内〜東海・北陸の土器が、多数出土するのは、大和の流通域が、その範囲だということで、九州北部と直接の交易は、なかったようで、当時は、このような流通域が、全国各地で重なり合いながら、数珠つなぎに連続していたとみるべきです。

 ただ、本書で忘れ去られているのは、村の酋長や小国の王どうしで、圧倒的な力の差があれば、力の強い者が、弱い者へ、物を授与・配布することは、ありますが、ほぼ対等や、多少の強弱であれば、物は、贈与と返礼(互酬)や、物々交換(交易)で、流通することです。

 当時は、互酬(交流)と交易が、区別されていたと推測できますが、現在は、同類のようにみえ、物の出土の分布から、安直に授与・配布と判断されがちですが、飛鳥期・奈良期の集権社会になる以前の、弥生期・古墳期の分権社会では、互酬・交易は、大半で、授与・配布は、極稀とみるべきです。

 そして、弥生期の墳丘墓の副葬品は、漢・魏からの授与・配布の可能性もありますが、古墳期の5世紀前半までの古墳の副葬品は、漢・魏の滅亡後で、中央集権でもないので、ほとんどが、互酬・交易による調達で、中国の皇帝や大和の天皇からの授与・配布は、わずかな可能性でしょう。

 筆者は、日本列島で古墳が大型化したのを、鉄器等の先進文化輸入の窓口が、諸国の王(大酋長)に集約されたこと、王個人が突出せず、集団の一体性・共同性が尊重されていたこと、古墳造営が単純・容易な技術なので、庶民の集団労働が可能なことの、3つをあげています。

 しかし、大型古墳が、4世紀に、全国で造営されたということは、その時点から、圧倒的な力をもち、庶民から突出した王(豪族)が、各地に出現するようになったということです。

 よって、古墳の規模は、諸国の豪族(王族)が決定しており、庶民の意向が反映されることは、ありえず、5世紀後半から、豪族の古墳の規模が縮小したのは、鉄器が庶民にも普及したので、鉄器の価値(「有り難さ」)が低下したからとするのは(p.333)、あまりにも突飛です。

 また、文字(制度・法典・神話・歴史書・度量衡・貨幣・暦・年号等)が出現し、モニュメントの必要性が低下したからとするのも、こじつけで、庶民に文字が普及するのは、もっと後世で、何より天皇の巨大な前方後円墳が、6世紀も顕在で、為政者の威信を表現する手段として、まだ有効な状況です。

 5世紀後半は、国内的には、天皇中心の集権体制に歩み出した初期なので、そこから、大和の政権が、諸国の豪族へ、古墳の規模を制限したか、国外的には、友好国の百済が相当劣勢で、朝鮮半島の戦況が悪化し、鉄確保の不安から、豪族達が、そちらへ人員を投入したかの、いずれかではないでしょうか。

 つまり、天皇(大王)と諸豪族の関係しだいで、タテ(集権)の関係なら、大和の政権が強制できるので、古墳の規模を制限することもありえますが、ヨコ(分権)の関係なら、豪族達の自発になるので、領国経営の一環として、古墳造営を軽視・朝鮮派兵を重視し、人員を割り振ったとみることもできます。

 このように、弥生期の諸小国の王・古墳期の諸国の豪族等、為政者の登場後は、庶民よりも、為政者達のほうの、認知科学を重要視すべきですが、その前提として、弥生期に、いかに庶民から王が突出し、古墳期に、いかに小国の王達から豪族が突出したのかも、大切です。

 弥生期に、庶民から王が突出できたのは、私の推論ですが、王が、初穂と出挙(すいこ)の制度を導入し、わずかな初穂(律令制下では、収穫量の約3%)を元手に、出挙(利息は、私出挙で100%と高金利、律令制下の公出挙でも50%)で運用すれば、徴税せずに、簡単に財産形成できます。

 初穂は、今秋の収穫直前に、神への感謝のために献上する、最短で充分に生育した稲穂で、祭祀の主催者である王に貢納、出挙は、今春の種蒔期に、高床倉庫の管理者である王が、農耕民に初穂の稲種を貸与し、今秋の収穫期に、利子付で返済させる慣習です。

 もちろん、王は、開墾時・洪水時に水田整備を統率したり、近隣との同盟・戦闘を主導しますが、それらには、能力が必要な一方、初穂と出挙は、能力不要の、弥生期の領国経営モデルといえます。

 古墳期に、小国の王達から豪族が突出できたのは、本書のように、豪族が、鉄器入手の窓口になったからとみられ、鉄器は、開墾時・洪水時の水田整備や、農繁期の田植え・稲刈り等で、作業効率や農産物の生産量が向上できるので、鉄器調達も、能力不要の、古墳期の領国経営モデルといえます。

 弥生期には、農閑期が比較的短かったうえ、抗争していたのが、古墳期には、農閑期が長くなったうえ、抗争が無駄になり、その時間を古墳造営に割り当てられるようになったのでしょう。

 4世紀終り〜5世紀初めから、朝鮮半島へ渡海し、断続的に戦争するようになると、大勢の渡来人が、日本列島へ流入し、朝鮮半島では戦闘(軍事)、日本列島では水田稲作・古墳造営(民政)と、住み分けられたと推測でき、5世紀後半からの戦況悪化で、領国経営モデルが不安・危機となっています。

 ここで注意したいのは、領国経営モデルの導入当初には、為政者が突出しておらず、分権の段階で、弥生期では庶民が、古墳期では小国の王達が、自分達の利益につながるので、自発的に取り入れていることで、やがて、領国経営モデルが定着すれば、強制的だとも受け取られ、集権の段階になります。

 ここまでみると、認知考古学は、関係者が、集権的か分権的か、対象者が、自発的か強制的かも、考慮すべきで、原始社会のように、分権的で自発的な状況が確保されていないと、安易に適用してはいけないのではないでしょうか。

 たとえば、縄文期は、統率者が突出していなかったとされているので、人々は、分権的で自発的といえますが、弥生期は、集団の酋長→小国の王と、集権化されたので、物質文化は、庶民よりも、為政者達の意思の反映とみるべきで、古墳期は、諸国の豪族と庶民の格差が拡大し、豪族は、圧倒的な力をもちます。

 なので、認知考古学での推論は、分権的で自発的な対象者のみに適用すべきで、そうでないと、本書でも多少みられたように、トンチンカンな理由づけになってしまうおそれがあります。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R35E0FR93J8EFU?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c190

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
191. 中川隆[-10485] koaQ7Jey 2019年4月30日 08:19:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1602]

弥生時代の歴史 (講談社現代新書) – 2015/8/20
藤尾 慎一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%97%A4%E5%B0%BE-%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4062883309/ref=sr_1_4?qid=1556579810&refinements=p_27%3A%E8%97%A4%E5%B0%BE+%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E&s=books&sr=1-4&text=%E8%97%A4%E5%B0%BE+%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E


内容紹介

稲作は五〇〇年も早く始まっていた! AMS炭素14年代測定法が明らかにした衝撃の事実をもとに、弥生時代の歴史を書き換える。


AMS炭素14年代測定に基づき、水田稲作の開始は従来よりも500年早かったとした国立歴史民俗博物館の研究発表は当時、社会的にも大きなセンセーションを巻き起こしました。発表時には当時の常識からあまりにもかけ離れていたために疑問を呈する研究者も数多くいましたが、その後、測定点数も4500点ほどまでにと飛躍的に増加を遂げ、現在では歴博説の正しさがほぼ確定されています。

では、水田稲作の開始が500年早まると、日本列島の歴史はどのように書き換えられるのでしょうか。一言で言えば、「弥生式土器・水田稲作・鉄器の使用」という、長らく弥生文化の指標とされていた3点セットが崩れ、「弥生文化」という定義そのものがやり直しになったと言うことです。この3つは同時に導入されたものではなく、別々の時期に導入されたものでした。例えば鉄器は水田稲作が始まってから600年ほど経ってからようやく出現します。つまりそれ以前の耕作は、石器で行われていたのです。また水田稲作そのものの日本列島への浸透も非常に緩やかなものでした。水田稲作は伝来以来、長い間九州北部を出ることがなく、それ以外の地域は依然として縄文色の強い生活様式を保持していました。また東北北部のように、いったん稲作を取り入れた後でそれを放棄した地域もありました。関東南部で水田稲作が始まるのは、ようやく前3~2世紀になってからでした。

とすると、これまで歴史の教科書で教えていたように、何世紀から何世紀までが縄文時代で、その後に弥生時代が来ると単純に言うことはできなくなります。水田農耕社会であるという弥生「時代」の定義は、ある時期までは日本列島のごくごく一部の地域にしか当てはめられなくなるからです。

本書は、このような問題意識の元で「弥生文化」が日本列島に浸透していく歴史を「通史」として描く初めての本です。

著者について

藤尾 慎一郎
1959年福岡県生まれ。広島大学文学部史学科卒業、九州大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、国立歴史民俗博物館副館長・総合研究大学院教授。専門は考古学。著書に『縄文論争』(講談社選書メチエ)、『弥生時代の考古学』(同成社)、『弥生時代 500年早かった水田稲作』、『弥生文化像の新構築』(ともに吉川弘文館)が、共著書に『弥生文化の輪郭』、『弥生文化誕生』(ともに同成社)がある。AMS炭素14年代測定に基づいて弥生時代の開始を500年遡らせ大きな話題となった国立歴史民俗博物館の研究において主導的な役割を担った。

カスタマーレビュー

hira
弥生時代は難解だ 2019年1月20日


 古代以前の日本史において、縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期、古墳時代は、出現期・前期・中期・後期・終末期と、学者間での時期区分が、おおむね一致していますが、弥生時代は、20世紀の古い研究と、21世紀の新しい研究で、ズレているので、大変理解しにくくなっています。

 20世紀の研究は、遺跡から出土する土器の型式から、相対的に年代を推定していましたが、21世紀の研究は、土器に付着した炭化物中の、炭素14の測定・分析(加速器質量分析法=AMS)を追加することで、±20年程度の誤差がありつつも、絶対的に年代を特定することができるようになりました。

 本書では、それにより、水田稲作が、紀元前10世紀に、九州北部へ伝播したと判明したので、弥生時代を再定義していますが、従来のように、早期・前期・中期・後期を使用しており、それも混乱する要因なので、年代が特定できるなら、「何世紀頃」という表記を、メインにしてもらいたいです。

 本書は、素人にもわかる入門書の位置づけなので、地域各々の特徴をテーマにするなら、広域別の変遷とし、先進文化の流入をテーマにするなら、著者の前作『〈新〉弥生時代−500年早かった水田稲作』で取り上げられている区分を、今作でこそ、全面に押し出しても、よかったのではないでしょうか。

 前作では、弥生時代が、紀元前10〜3世紀の1200年間になったので、前半の紀元前10〜紀元前4世紀の600年間は、水田稲作+石器の時代、後半の紀元前4〜3世紀の600年間は、水田稲作+石器+鉄器の時代と、区分されています。

 そのうえ、後半の前半の紀元前4〜紀元前1世紀の300年間は、石器が主・鉄器が副の時代、後半の後半の紀元前1〜3世紀は、鉄器が主・石器が副の時代と区分されており、とても明解です。

 また、本書は、特に、水田稲作・青銅器・鉄器等の、日本各地への流入が、取り上げられており、それらをまとめると、次に示す通りです。

・水田稲作+農工具:
紀元前50世紀に長江下流域、
紀元前30世紀に山東半島、
紀元前11世紀に朝鮮半島、
紀元前10世紀に九州北部、
紀元前8世紀に九州東部・中部、
紀元前7世紀に神戸・大阪・鳥取、
紀元前6世紀に徳島・奈良・伊勢湾沿岸、
紀元前4世紀に津軽(紀元前1世紀に断念)・仙台・いわき、
紀元前3世紀に長野・関東南部

に伝播

・青銅器:使用は、
紀元前15〜13世紀に朝鮮半島、
紀元前8世紀に九州北部(今川遺跡の銅鏃・銅ノミ)、
紀元前4世紀に西日本で銅剣・銅矛・銅戈(か)・小銅鐸等、

鋳造は、紀元前4〜紀元前3世紀に九州北部・中部に伝播、
銅資源は、7世紀に産出

・鉄器:製造(鋳造)は、
紀元前9世紀に黄河中・下流域、
紀元前5世紀に遼東半島(燕)・朝鮮半島北部、
紀元前3か紀元前1世紀に朝鮮半島南部、
6世紀に西日本、

鋳造鉄器の使用は、
紀元前4世紀に西日本(燕から)、
紀元前2世紀に東日本、

鍛造鉄器の使用は、
紀元前3世紀に九州北部、

鍛造は、1世紀に西日本で普及、(紀元前1世紀に石器が衰退)


 ただし、これらは、何ヶ所の遺跡・遺物で判断しているのか、詳細不明な部分もあり、それによって、一所での突発なのか、狭域での先駆なのか、広域での定着なのか、根拠をすべて提示してもらえれば、もっと親切なのに、残念です。

 ここで、一所での突発か、狭域での先駆か、広域での定着かに、注目するのは、狩猟・採集社会では、抗争が異例ですが、水田稲作社会では、抗争が通例だからで、水田稲作が普及すれば、水田整備・田植え・稲刈りや、近隣との利害の衝突・抗争等があり、集団行動・集団生活が大切になります。

 そのため、集団を統率する有力者が、首長として台頭しますが、環壕集落がないのは、近隣との縄張意識があまりなく、有力者の墓がないのは、首長が突出しなくてよい、縄文的な分権社会といえます。

 分権的な狩猟採集社会から、集権的な水田稲作社会への転換は、ある集団が、分権から集権化すれば、隣接集団も、防御・対抗するために、分権から集権化しなければならなくなり、東北北部で、水田稲作を途中で断念できたのは、周囲から孤立し、近隣からの圧迫がなかったからではないでしょうか。

 ところで、本書では、朝鮮半島南部の村から離脱した水田稲作民が、九州北部の平野の下流域に定住し、中・上流域に定住していた園耕民と住み分けたのが、水田稲作の最初だとしているようです。

 しかし、海洋漁労民は、縄文時代から、朝鮮半島〜日本列島の間で交流していたので、かれらの情報で、九州北部の平野に新天地があり、かれらの支援で、丸木舟の船団で渡海し、水田稲作民の水田整備期間には、食糧調達もしなければならないので、陸海両面で、相当の人数が必要になります。

 しかも、日本最古級の九州北部の板付遺跡では、自然を大規模に改変し、石製品・木製品だけで、高度な水田を整備したとあるので、相当の期間がかかり、水田稲作民だけでは不可能でしょう。

 「魏志倭人伝」には、倭人に入墨文化があるとされているので、渡来当初からの、海洋漁労民の関与が想定でき、一大率は、一大(壱岐)国が、交易+統治の拠点として、九州北部に設置したとの仮説を、連想させます。

 なお、本書は、弥生時代の通史という位置づけで、執筆を開始したようですが、研究成果が新旧で変更された、前半の600年間と、後半の前半の300年間は、重点的に取り上げられている一方、後半の後半の300年間は、かなり省略され、弥生時代のすべてを、網羅しているわけではありません。

 筆者は、水田稲作・青銅器・鉄器等の、日本各地への流入の先駆を、テーマとしているようで、紙面の制限があるからか、それらが普及してからの、諸小国の王の出現、王墓とその副葬品、高地性集落の分布、小国と外国との交流等が、多少手薄になっています。

 さらに、水田稲作は、紀元前10世紀の朝鮮半島南部からの流入だけでなく、中国大陸の江南地域からの影響もあるとされ、紀元前5世紀の呉の滅亡・紀元前4世紀の越の滅亡や、紀元前3世紀の秦の始皇帝による徐福伝説が、その候補ですが、それらにも踏み込んでいないので、留意すべきでしょう。

 最後に、後半の後半の300年間において、2世紀後半に、九州北部の諸国(倭)と、近畿中部の諸国は、相互に圏外で、倭国乱は、九州北部周辺の戦争で、終戦で交易が活発化できるようになった3世紀前半から、九州北部が、近畿中部へ、徐々に鉄器を販売しはじめたのではないでしょうか。

 近畿中部は、倭国乱に参戦していないので、米で鉄器を購入し、後漢が衰退しはじめた2世紀後半以降の漢鏡7期は、すでに大量生産され、市場で商品化されていたので、米で銅鏡も購入、威信財とした一方、九州北部は、3世紀前半に後漢が滅亡すると、商売目的で、銅鏡を調達・販売したとみられます。

 大阪平野の池上・曽根遺跡や、奈良盆地の鍵・唐古遺跡では、大勢の人々が生活していたので、かれらの食糧を供給できるほど、近畿中部では、米が大量生産できたと推測できます。

 西日本では、2世紀までに、各地で陸橋付の円形周溝墓・突出部付の円丘墓が出現し、それが、3世紀前半からの、帆立貝式前方後円墳・前方後円墳の登場につながっており、前方後円墳は、大和が発祥というわけではなく、同時多発とみるべきです。

 3世紀半ばのホケノ山古墳・箸墓古墳等は、近畿中部の諸国連合の王墓で、大型の前方後円墳の造営は、大和が顕著ですが、それは、王が米の財力で、農閑期に、水田稲作民を雇用したからで(富の再分配)、周辺諸国への不戦の意思表示として、全国に流行し、交易も活発化したのではないでしょうか。

 よって、近畿中部には、何もなく、関東〜九州の中央なので、中心になったと主張するのには、無理があり、私は、近畿中部の諸国が連合した大和政権が、3〜4世紀に、西方2・東方2の計4方向に、交易(先進文化の輸入と輸出)ルートを確保することで、流通を主導したとみています。

 それらは、輸入のための丹波ルート(日本海側)・西道ルート(瀬戸内海側)と、輸出のための北陸ルート(日本海側)と東海ルート(太平洋側)で、「日本書紀」では、崇神天皇(10代)による四道将軍の派遣・平定ですが、出発から帰還まで、わずか半年なので、実際は、交易ルートの開拓でしょう。

 輸入も輸出も、それぞれ2方向の交易ルートを開拓したのは、輸入の場合、売り手側が2者なら、買値の比較ができ、買い手側が有利になり、輸出の場合、買い手側が2者なら、売値の比較ができ、売り手側が有利になるからで、こうして大和政権は、売り買いとも、優勢になったとみるのが自然です。

 他方、九州北部の諸国が連合した筑紫政権(倭)は、輸入が、朝鮮半島南部ルートの1方向のみなので、価格が一定になり、輸出が、出雲ルート(日本海側)と吉備ルート(瀬戸内海側)の2方向としても(出雲は、朝鮮半島と直接交易していたかも)、大和政権と比較すれば、やや劣勢といえます。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R5DMQWRG5BIKL?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c191

[近代史3] センメルヴェイス反射 _ 真理の徒は石もて追われ 中川隆
1. 中川隆[-10484] koaQ7Jey 2019年4月30日 08:50:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1603]

センメルヴェイス反射の例


2019.4.26
財政赤字容認の「現代貨幣理論」を“主流派”がムキになって叩く理由
中野剛志:評論家
https://diamond.jp/articles/-/200555

 昨今、「現代貨幣理論(MMT、Modern Monetary Theory)」なる経済理論が、米国、欧州そして日本でも話題となり、大論争を巻き起こしている。

 今なぜ、MMTなのか。

 景気減速感が強まる一方、金融政策が手詰まりな状況で、「財政政策で活路を」と考える論者や、格差是正やグリーン・ニューディールなどを訴えて財政拡張政策を主張するいわゆるリベラル政治家らが、その理論的な根拠としていることがある。

 だが、このMMTに対して、主要な経済学者や政策当局の責任者たちは、ほぼ全員、否定的な見解を示している。日本でも、MMTに関する肯定的な論調はごくわずかだ。それには理由がある。

「異端の学説」なのか
MMTをめぐり大論争

 MMTが注目を集めているのは、その支持者が「財政赤字を心配するな」という主張をするからだとされている。

 より正確に言うと、「(米英日のように)通貨発行権を持つ国は、いくらでも自国通貨を発行できるのだから、自国通貨建てで国債を発行する限り、財政破綻はしない」というのである。

普通であれば、MMTのような「異端の経済学説」が、真面目に取り上げられるなどということは考えられない。無視あるいは一蹴されて終わりだろう。

 ところが、極めて面白いことに、MMTは、無視されないどころか、経済学者のみならず、政策当局、政治家、投資家そして一般世論までも巻き込んで、大騒ぎを引き起こしたのである。

暴露された
主流派の「不都合な事実」

 その理由は、MMTが、主流派経済学者や政策当局が無視し得ない「不都合な事実」を暴露したからである。

 もう一度言おう。MMTが突きつけたのは、「理論」や「イデオロギー」ではない。単なる「事実」である。

 例えば、MMTの支持者が主張する「自国通貨建て国債は、デフォルト(返済不履行)にはなり得ない」というのは、まぎれもない「事実」である。

 通貨を発行できる政府が、その自国通貨を返せなくなることなど、論理的にあり得ないのだ。

 実際、「自国通貨建て国債を発行する政府が、返済の意思があるのに財政破綻した」などという例は、存在しない。財政破綻の例は、いずれも自国通貨建てではない国債に関するものだ。

 実は、MMT批判者たちもこの「事実」を否定してはいない。その代わりに、彼らは、次のいずれかの批判を行っている。

 批判(1)「財政規律が緩むと、財政赤字が野放図に拡大し、インフレを高進させてしまう」

 批判(2)「財政赤字の拡大は、いずれ民間貯蓄の不足を招き、金利を高騰させる」

 MMTに対する批判は、ほぼ、この2つに収斂している。

 では、それぞれについて、その批判の妥当性を検討してみよう。この検討を通じてMMTが指摘した「不都合な事実」とは何かが明らかになるだろう。

財政赤字拡大で
「インフレは止まらなくなる」は本当か?

 まず「財政赤字の拡大は、インフレを招く」という批判(1)を考えてみよう。

 実は、MMT批判者たちが指摘するように、財政赤字の拡大はインフレを招く可能性はある。これはMMT自身も認める「事実」だ。

 政府が、公共投資を増やすなどして財政支出を拡大すると、総需要が増大する。総需要が増大し続け、総供給が追い付かなくなれば、当然の結果として、インフレになる。

 それでもなお、野放図に財政赤字を拡大し続けたら、インフレは確かに高進するだろう。

 ということは、MMT批判者たちもまた、「インフレが行き過ぎない限り、財政赤字の拡大は心配ない」「デフレ脱却には、財政赤字の拡大が有効」と認めているということである。

 言い換えれば、仮に「財政規律」なるものが必要だとすれば、それは「政府債務の規模の限度」や「プライマリーバランス」ではなく、「インフレ率」だということだ。

 すなわち、インフレ率が目標とする上限を超えそうになったら、財政赤字を削減すればいいのである。

 そして、米国も欧州も低インフレが続いており、日本にいたっては20年もの間、デフレである。

 そうであるなら、財政赤字はなお拡大できる。それどころか、デフレの日本は、財政赤字がむしろ少なすぎるということになる。

 この点は、MMTの批判者でも同意できるはずだ。


 実際、MMTを批判する主流派経済学者の中でも、ポール・クルーグマンや、ローレンス・サマーズ 、あるいはクリスチーヌ・ラガルドIMF専務理事らは、デフレや低インフレ下での財政赤字の拡大の有効性を認めている。 

 ところが、より強硬なMMT批判者は、「歳出削減や増税は政治的に難しい。だから、いったん財政規律が緩み、財政赤字の拡大が始まったら、インフレは止められない」などと主張している。

 しかし、これこそ、極論・暴論の類いだ。

 そもそも、国家財政(歳出や課税)は、財政民主主義の原則の下、国会が決める。「財政規律」なるものもまた、財政民主主義に服するのだ。

「政治は、財政赤字の拡大を止められない」などというのは、財政民主主義の否定に等しい。

 また総需要の超過は好景気をもたらすので、所得税の税収が自動的に増大し、財政赤字は減る。したがって、仮に増税や歳出削減をしなくとも、インフレはある程度、抑制される。

 加えて、金融引き締めによるインフレ退治という政策手段もある。

 要するに、インフレというものは、経済政策によって止められるものなのだ。

 実際、歴史上、ハイパーインフレの例は、戦争・内戦による供給能力の棄損や社会主義国の資本主義への移行による混乱、独裁国家による政治的混乱といった、極めて特殊なケースに限られる。

 また、1960年代後半から70年代にかけての米国の高インフレも、ベトナム戦争、石油危機、変動相場制への移行といった特殊な外的要因が主である。

 特に戦後の先進国で、財政支出の野放図な拡大が止められずにインフレが抑制できなくなったなどという事例は、皆無だ。

 そして何より、日本は、過去20年間、インフレが止められないどころか、デフレから脱却できないでいる。歳出抑制や消費増税といった経済政策によってインフレを阻止できるという、皮肉な実例である。

 したがって、「財政赤字の拡大を容認すると、インフレが止まらなくなる」などということはないのだ。

 これは、「事実」である。


「民間の貯蓄不足を招き
金利を高騰させる」は本当か?

「財政赤字の拡大は民間貯蓄の不足を招き、金利を高騰させる」という批判(2)は、先ほどの批判(1)とは違って、完全に「事実」に反する。

 まず、基本的な事実確認から始めよう。

 一般に、銀行は、個人や企業から預金を集めてきて、それを貸し出すと思われている。しかし、それは「誤解」である。

 実は、銀行は、集めた預金を貸し出すのではない。その反対に、銀行の貸し出しによって預金が創造されるのである。

「預金⇒貸し出し」ではない。「貸し出し⇒預金」なのだ。これが、いわゆる「信用創造」である。

 これは、MTT固有の理論ではない。銀行の実務における「事実」にすぎない。

 余談だが、この「事実」は、最近でも例えば、参議院決算委員会(2019年4月4日)の質疑で、西田昌司参議院議員が黒田日銀総裁に確認している。ちなみに、黒田総裁はMMTには否定的である。

 西田委員「銀行は信用創造で10億でも100億でもお金を創り出せる。借り入れが増えれば預金も増える。これが現実。どうですか、日銀総裁」

 黒田総裁「銀行が与信行動をすることで預金が生まれることはご指摘の通りです」


政府の赤字財政支出が
民間貯蓄を増やす

 貸し出しが預金を創造するというのは、政府に対する貸し出しにおいても、同様である。

 すなわち、政府の赤字財政支出(国債発行)は、民間貯蓄(預金)によって賄われているのではない。その反対に、政府の赤字財政支出が、民間貯蓄(預金)を増やすのである。

 ただし、政府は民間銀行に口座を開設しておらず、中央銀行にのみ口座を開設している。

 それゆえ、実際のオペレーションは、図1の通りとなる。


オペレーションの流れ

https://diamond.jp/articles/-/200555?page=6


 この図1からも明らかなように、民間銀行は、個人や企業が預け入れた預金をもとに、新規発行国債を購入するわけではない。

 中央銀行から供給された準備預金(日銀当座預金)を通じて、購入するのだ【1】。その上で、政府が財政支出を行うと【2】、それと同額だけ民間貯蓄が増える【4】。


政府債務残高及び長期国債金利の推移

https://diamond.jp/articles/-/200555?page=7


超インフレ、金利高騰は起きず
主流派経済学の「権威」脅かす

 このように、MMTは、実は、特殊な理論やイデオロギーではなく、誰でも受け入れ可能な単なる「事実」を指摘しているのにすぎないのである。

 だが、その「事実」こそが、主流派経済学者や政策当局にとっては、この上なく、不都合なのだ。

 例えば、「インフレが行き過ぎない限り、財政赤字の拡大は心配ない」というのが「事実」ならば、これまで、主流派経済学者や政策当局は、なぜインフレでもないのに財政支出の拡大に反対してきたのだろうか。

 防災対策や貧困対策、少子高齢化対策、地方活性化、教育、環境対策など、国民が必要とする財政支出はいくらでもあった。にもかかわらず、主流派経済学者や政策当局は、財政問題を理由に、そうした財政支出を渋り、国民に忍耐と困苦を強いてきたのである。

 それなのに、今さら「インフレが行き過ぎない限り、財政赤字の拡大は心配ない」という「事実」を認めることなど、とてもできないということだろう。

 さらに、「財政赤字は民間貯蓄で賄われているのではない」という「事実」を知らなかったというのであれば、「貸し出しが預金を創造する」という信用創造の基本すら分かっていなかったことがバレてしまう。

 主流派経済学者や政策当局にとって、これほど不都合なこともない。彼らのメンツに関わる深刻な事態である。

 というわけで、主流派経済学者や政策当局が、よってたかってMMTをムキになって叩いている理由が、これで明らかになっただろう。

 その昔、ガリレオが宗教裁判にかけられたのは、彼が実証した地動説が教会の権威を揺るがしたからである。

 それと同じように、MMTが攻撃にさらされているのは、MMTが示した「事実」が主流派経済学者や政策当局の権威を脅かしているからなのだ。

(評論家 中野剛志)
https://diamond.jp/articles/-/200555

▲△▽▼

中野剛志 消費増税も吹っ飛ばす破壊力。「MMT」(現代貨幣理論)の正体 2019年4月26日
https://www.excite.co.jp/news/article/BestTimes_10271/

■アメリカでいま大論争
消費増税も吹っ飛ばす破壊力。「MMT」(現代貨幣理論)の正体

「MMT」って、聞いたことありますか?

 MMTというのは、現代貨幣理論(Modern Monetary Theory)のことです。

 最近、アメリカで大論争を巻き起こし、日本でもよく採り上げられている経済理論です。

 きっかけとなったのは、2019年1月に、アメリカの史上最年少議員(民主党)として話題のアレクサンドリア・オカシオコルテス議員が「MMT」への支持を表明したことで、突如、MMTが脚光を浴びました。

 MMTの論者たちは、「財政赤字は心配するな」という過激とも思える大胆な主張をしています。

 このため、著名な主流派経済学者や政策当局が、MMTを「トンデモ理論」だとバッシングを始めました。

 ところが、このバッシングに対して、MMTを提唱する経済学者ステファニー・ケルトン教授らが、強力に反論したので、大騒ぎになりました。

 そして、この論争が、日本にも飛び火したというわけです。

 なぜ、日本に飛び火したのか。

 言うまでもなく、日本は、GDP比の政府債務残高が先進国の中でもダントツで大きく、財政危機だと言われているからです。

 しかも、今年、消費税率を8%から10%に引き上げようとしているところです。

 それなのに、「財政赤字は心配するな」などというMMTが正しかった、なんて話になったら、消費増税は、ぶっ飛びます。
 それどころか、これまで二十年以上にもわたって、財政危機を騒いできたのは、いったい何だったのかという話になって、大変なことになります。


 最近、世界経済も国内景気も急激に悪化しており、このまま消費増税をしていいのだろうかという不安が高まっています。

 先日も、自由民主党の萩生田幹事長代行が、消費増税延期を口走ったため、大きな波紋を呼んでいます。

 そんな最中に、海の向こうから、突然「財政赤字は心配するな」という理論がやってきたのです。

 それで、日本の財務省は、MMTに対して、異例の反論を行い、火消しに走っているというわけです。

 また、長年、財政健全化を訴えてきた朝日新聞編集委員の原真人さんも、MMTを「トンデモ経済理論」呼ばわりしています。
■意外とシンプルな理論
 ところで、MMTとは、どのような理論なのでしょうか。

 一見すると難しそうですが、ポイントだけ押さえれば、意外と簡単に分かります。

 ポイントは、こうです。

 日本やアメリカやイギリスのように、自国通貨を発行できる政府(正確には、政府と中央銀行)は、デフォルト(債務不履行)しない。

 自国通貨建ての国債は、デフォルトすることはない(アルゼンチンなど、デフォルトの事例は、外貨建て国債に関するものだけ)。   

 だから、アメリカや日本は、財源の心配をせずに、いくらでも、好きなだけ支出ができる。

 ただし、財政支出を拡大し、需要超過になって、インフレになる。

 たった、これだけです。
 しかし、実は、このMMTの主張は、単に「事実」を言っているだけで、何も新奇な理論を提唱しているわけではありません。


通貨を発行できる政府が、自国通貨建ての国債を返済できるなんて、当たり前の話です。

 それどころか、財務省だって、日本の国債は、自国通貨建てなので、デフォルトしないと言っているのです。

 平成14年に、海外の格付け会社が日本国債の格付けを引き下げました。すると、財務省は、格付け会社(ムーディーズ、S&P,フィッチ)宛に、質問状を発出しました。そこには、こう書かれています。
(1) 日・米など先進国の自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない。デフォルトとして如何なる事態を想定しているのか。
 デフォルトしないのならば、政府は財源の心配は無用ということになります。

 しかし、もしそうだとすると、税金は、何のためにあるのでしょうか。

「財源の心配がいらないなら、無税国家ができるじゃないか」と思われたかもしれません。

 もちろん、無税国家は不可能です。

 なぜなら、税金を一切なくして、政府が好きなだけ財政支出をしまくったら、消費や投資が拡大し続け、インフレが止まらなくなって、大変なことになるからです。
■消費税は何を減らす?
 だから、税金を課して、消費や投資を抑えて、インフレを止めるのです。

 ただし、税金を重くし過ぎると、今度は、インフレの反対、すなわちデフレになります。

 この場合、税金は、物価を調整するための手段だということになります。

 他にも、税金には、重要な役割があります。
 例えば、高所得者により重い所得税を課すと、所得格差を是正できます。


また、温室効果ガスの排出に対して、炭素税を課すと、温室効果ガスを抑制できます。

 このように、税金は、抑制したいものや減らしたいものに課すことで、経済をうまく調整するのに使うのです。

 ですから、税金は、財源確保の手段ではなく、経済の調整の手段として、必要だということです。

 これが、MMTの、最も初歩的な説明です。

 しかし、この最も初歩的な説明だけでも、破壊力が抜群なのです。

 例えば、先ほど説明したように、税金は、温室効果ガスの排出に対して課すと、温室効果ガスを減らせます。

 ということは、消費税は、何を減らすのでしょうか。

 消費に税金を課しているのですから、当たり前ですが、消費を減らすことになります。

 さて、今年、消費税を増税する予定ですが、そうなると、消費が減ります。

 消費を減らしたら、当然、不景気になり、国民生活は苦しくなります。
■増税とインフレ・デフレの関係
 それなのに、どうして、消費を減らしたいのでしょうか?

 えっ、消費増税は、社会保障財源を確保し、財政赤字を減らすために必要?

 でも、自国通貨建て国債はデフォルトしないというのは、財務省ですら認めている事実ですよ。

 デフォルトしないならば、財源を確保する必要なんて、ないじゃないですか。

 こういうことを言うと、「そんなこと言ったって、財政赤字が大きくなり過ぎたら、インフレが止まらなくなるじゃないか!」と批判されるでしょう。
 この批判は、まったく、その通りです


実際、MMTも、財政赤字を増やすと、インフレになると言っています。

 でも、ということは、逆に財政赤字を減らしたら、インフレの反対のデフレになるはずですね。

 ところで、日本は二十年もデフレで苦しんでいて、安倍政権はデフレ脱却を掲げています。

 つまり、安倍政権は、インフレにしたいわけです。実際、インフレ率2%という目標を掲げています。

 そうだとしたら、安倍政権は、インフレを実現するために、財政赤字を増やさなきゃ、いけないはずですよね。

 それなのに、消費増税で財政赤字を減らしたりなんかしたら、どう考えたって、デフレはひどくなるでしょう。

 そもそも、安倍政権は、2%のインフレ率を目標に掲げています。

 だったら、2%のインフレ率という「行きつく先」まで、財政赤字を拡大すればいいではないですか。
■MMT反対派への反論
 えっ、MMTなんてトンデモ経済理論の実験なんか、してはいけない?

 それを言うなら、「デフレなのに、消費増税を断行する」ことの方が、よほど「実験」でしょう。

 だいたい、「デフレ時に消費増税をやっても問題ない」なんて経済理論、どこにあるんですか?

 MMTをトンデモ呼ばわりした原真人さん、教えてください。

 しかも、消費増税の実験でしたら、すでに、1997年の消費増税(税率3%から5%へ)と、2014年の消費増税(5%から8%へ)の二度もやっています。
 いずれの実験も、デフレを悪化させました


何で、二度も失敗した危険な実験を、もう一回、やろうとしているのでしょうか。

 意味が分かりません。

 ところが、財政赤字の拡大については、まだ、こう反論する人がいます。

「いや、財政赤字の拡大を認めてしまったら、インフレは止まらなくなる。インフレを止めるために、歳出を削減したり、増税したりするなんて、できないんだ。なぜって、国民が嫌がる歳出削減や増税を、政治家は決断できないからだよ」

 これは、ひどい反論ですね。

 なぜなら、財政支出や増税は、国会で決めることになっています。

 これは「財政民主主義」と言って、日本国憲法第83条で定められています。

「歳出削減や増税はできないから、インフレが止まらなくなる」というなら、財政は、国会以外のどこで決めるのでしょうか?

 財務省が決めるのでしょうか?

 いや、ダメです。それは、憲法83条違反ですよ。

 それに、日本は、すでに20年も、インフレを止めています。

 むしろ、インフレにしたくてもできなくて、困っています。

 2014年には、デフレで国民が苦しんでいるのに、消費増税をしてしまいました。

 そんな日本が、どうしてインフレが進み過ぎて国民が苦しんでいる時に、歳出削減や増税ができないというのでしょうか?

 日本の民主主義をバカにするのも、いい加減にしてもらいたいものです。

 というわけで、MMTの破壊力、いかがでしたでしょうか?

 財政や税金について、もっと知りたくなったでしょうか?

 それとも、狐につままれたようで、どうも納得できないといった感じでしょうか?

 どちらにしても、議論の続きについては、


目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室【基礎知識編】 – 2019/4/22
中野 剛志 (著)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4584138958/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=bestshoseki-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4584138958&linkId=288b8e2d2b0e6fa2b42e0c3d793db718


をお読みいただけますと、幸いです。

 読み終わったら、経済学者、官僚、そして朝日新聞編集委員もビビるほど、経済が理解できるようになっているでしょう。
https://www.excite.co.jp/news/article/BestTimes_10271/?p=6


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/396.html#c1

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
192. 中川隆[-10483] koaQ7Jey 2019年4月30日 08:55:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1604]

天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ (NHKブックス) – 2015/10/22
中村 修也 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E6%9C%9D%E3%81%A8%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2-%E5%94%90%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%B8-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E4%BF%AE%E4%B9%9F/dp/4140912359?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp


内容紹介

古代日本に存在した、もう一つの「占領」

663年の「白村江の戦い」に敗れた日本は、唐の再攻撃に備えて防衛態勢を整備し、その後は律令国家建設へ邁進したと言われている。だが、それは本当なのか? 本書は、唐の羈縻政策を軸に展開した当時の東アジア情勢を踏まえつつ、中国・朝鮮側の史料との比較から『日本書紀』を再検証し、これまでの通説に挑む力作。唐の支配体制が、その後の律令国家体制とどのように結びついていったのかを鮮やかに描く。

内容(「BOOK」データベースより)

古代東アジアに起こった一大戦役・白村江の戦。通説では、唐・新羅連合軍に敗れた日本は以後、唐の律令に学び、国家体制を整備していったと言われる。だが、この通説は果たして本当か?敗戦国の日本が、唐の支配を全く受けずに友好関係を保つことが可能だったのか?本書は、中国・朝鮮側の史料、最新の考古学の知見、古今東西の「戦争」における常識など、多角的な視点から『日本書紀』を再解釈。白村江後に出現した唐の日本「支配」の実態、さらに、それがのちの律令国家建設に与えた影響を鮮やかに描く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
中村/修也
1959年、和歌山県生まれ。1989年、筑波大学大学院歴史・人類学研究科博士課程単位取得修了。博士(文学)。現在、文教大学教育学部教授


カスタマーレビュー

hira
史料がわずかしかない日本古代史で、新説か既説かは、そんなに大事? 2018年12月29日


 筆者は、近代のアジア太平洋戦争で、日本が大敗した後、GHQに占領され、再建を指導された経験から、古代の白村江の合戦で、倭+百済遺民が大敗した後を、想像すべきだとし、通説を批判、異説を展開しています。

 異説では、まず、663年の白村江の合戦で、倭+百済遺民が、唐+新羅に大敗後、唐が、九州にも進出し、朝鮮式山城(やまじろ)・水城(みずき)や防(防御地)・烽(ノロシ台)を設置、後世の大宰府の位置には、筑紫都督府も設置し、占領統治するつもりだったと主張されています。

 それは、唐の6度の来日時期の664〜672年の間に、それらが整備されているうえ、唐が、大量の人員を、朝鮮半島から日本列島へと、送り込んだからで、そうなると、それらは、唐や新羅の侵攻を防御する施設でないことがわかります。

 また、667年の近江・大津京への遷都は、大和政権の前方拠点の難波・河内と後方拠点の大和から引き離す、唐の強制で、両拠点の中間の山頂の高安城(たかやすのき)は、唐が、両拠点を監視するためとみられます。

 そのうえ、670年の庚午年籍(こうごねんじゃく)・671年の近江令は、戸籍を作成することで、公正・円滑に徴税でき、671年の水時計(漏刻)の設置は、官僚の勤務管理に有効で、いずれも唐が、直接持ち込んだとみれば、納得できます。

 さらに、唐が、百済の王子の扶余隆を、熊津都督に利用したように、671年の大友皇子の後継も、唐の傀儡政権で、唐の日本列島撤退直後の、672年の壬申の乱での大海人皇子の政権奪取は、その転換とも受け取れ、689年の飛鳥浄御原令は、当時頻繁に通交していた新羅と、唐の制度を折衷したようです。

 朝鮮半島では、642年に、百済は、高句麗と同盟し、新羅を攻撃、新羅は、西部40余城を奪取され、劣勢から、643年に、唐に援軍を要請しましたが、反応なく、647年に、政権の内乱が発生しましたが、鎮圧し、ようやく、648年に、唐と同盟できましたが、654年に、北部30余城も奪取されています。

 そののち、唐は、高句麗を挟み撃ちにするため、660年に、新羅と連携し、百済を滅亡させると、倭は、百済復興のため、援軍を渡海しましたが、663年に、白村江の合戦で大敗、唐は、668年に、新羅と連携し、高句麗も滅亡させ、百済に熊津都督府を、高句麗に安東都護府を設置し、占領統治しました。

 ところが、唐は、新羅も、鶏林州都督府を設置し、統治しようとしたので、670年から、新羅が、唐に反抗・交戦し、唐は、それを鎮圧できず、朝鮮半島の戦況が悪化したので、672年に、日本列島から撤退すると、同年に、壬申の乱が勃発、唐は、676年に、朝鮮半島からも撤退させられています。

 唐は、同盟国の新羅でさえ、鶏林州都督府を設置したので、敗戦国の倭に、筑紫都督府を設置するのも、当然だったでしょう。

 なお、盗作だと酷評しているレビューも、一部あり、学者間のルールは、遵守すべきですが、そもそも史料が、わずかしかない日本古代史では、異説といっても、類似する傾向にあり、それが先行研究に無知だっただけで、異説の積み重ねが、通説になるので、既説か新説かのみに固執するのは、不毛です。

 古代日本の制度・技術・文化も、たかが、中国発祥・朝鮮経由と一蹴することもできますが、されど、独自に変容・洗練されたので、盗作ではなく、固有と位置づけられるので、それと同様、読者は、新説の「藤原鎌足」の12ページ?と、既説の細密な本書の、違いを楽しめばよいのではないでしょうか。

 ところで、「隋書倭国伝」で、600年に、妻子のいる倭王のアメ・タリシヒコ・アホケミが、隋に使者を派遣していますが、女帝の推古天皇(33代)と一致せず、「旧唐書日本伝」で、日本国は倭国の別種とあるので、推古天皇を大和政権、タリシヒコを筑紫政権(倭)とする説(九州王朝説)があります。

 他にも、「日本書紀」と「隋書倭国伝」「隋書」で、冠位12階と内官12等の序列や、遣唐使の訪問年が、食い違っており、「日本書紀」では、608年に帰国した遣隋使の小野妹子が、隋の国書を百済で奪い取られたのに免罪で、「隋書倭国伝」では、九州の地名しか登場せず、不自然です。

 私は、個人的に、九州王朝説(古田武彦)を、本書の説と組み合わせ、白村江の合戦には、大和政権配下の全国各地の豪族達が、参戦したのではなく、各々自立しつつ、相互交流していた、大和政権・筑紫政権等が、協力して参戦したとみています。

 4世紀半ばには、高句麗の南下で、馬韓の諸国が百済、辰韓の諸国が新羅に結束した一方、弁韓は、6世紀半ばまで、諸国(伽耶諸国)のままで滅亡したように、日本列島でも、外圧が強い九州(筑紫政権)、中くらいの近畿(大和政権)、弱い東国と、諸国の結束の度合に差があったでしょう。

 そして、白村江の合戦での疲弊が、九州で比較的大きく、近畿で中くらい、東国で小さかったうえ、合戦後の唐の占領統治も、九州で比較的強く、近畿で中くらい、東国で弱かったと推測できます。

 なので、唐が日本列島から撤退すると、壬申の乱で、反乱軍は、戦力が温存されていた東国を味方に引き入れられたので、大和政権の中枢を一掃できたうえ、新生大和政権は、かなり疲弊していた筑紫政権等も併合でき、国号を日本に改称したのではないでしょうか。
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http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c192

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
193. 中川隆[-10482] koaQ7Jey 2019年4月30日 09:25:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1605]

日本古代史と朝鮮 (講談社学術文庫) – 1985/9/5
金 達寿 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%81%A8%E6%9C%9D%E9%AE%AE-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%87%91-%E9%81%94%E5%AF%BF/dp/4061587021


内容紹介

「日本古代史は、朝鮮との関係史である」とは、古代史研究家・金達寿の主張しつづけてきたことばである。本書は、地名や古墳・神社などを手がかりに日本各地に現存する古代朝鮮遺跡の発掘に執念を燃やしてきた著者がこれらの事実と、記・紀などに残された高句麗・百済・新羅系渡来人の足跡をはじめ、豊富な文献資料などから「帰化人史観」によってゆがめられた歴史記述を痛烈に批判し、真の日本古代史への道を開示したものである。

著者について

1919年、朝鮮・慶尚南道で生まれ、1930年に渡日。日本大学芸術科卒業。作家・古代史研究家。主著に『金達寿小説全集』『金達寿評論集』『古代日朝関係史入門』『日本古代史と朝鮮文化』『古代日本と朝鮮文化』『朝鮮−民族・歴史・文化−』『わがアリランの歌』『行基の時代』『故国まで』『日本の中の古代朝鮮』『日本の中の朝鮮文化』(学術文庫)などがある。

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
日本人と朝鮮人の区別は、否定的なのに、高句麗系・百済系・新羅系の区別に、肯定的なのは、なぜ? 2018年12月28日


 本書は、巧妙で、それは、韓国出身の筆者が、日本列島の歴史・文化の起源を、ただ、朝鮮半島由来だと力説しても、簡単に受け入れられないのを想定し、日本出身の他者が、そう主張している文章を引用することで、説明しているからです。

 ですが、現在主流でない、皇国史観の記述を引用し、それを批判する等、一昔前の執筆を実感するとともに、当時の日本人と朝鮮人(帰化人)の区別を否定する反面、出身不詳の渡来人を、高句麗系・百済系・新羅系と、安易に断定したり、日本の史実に朝鮮が関与したとする等、行き過ぎも散見されます。

 海で隔てられた、日本列島と朝鮮半島を、区分するよりも、陸で続いた、高句麗・百済・新羅等を、区分するほうが、当時の戦乱もあって、大変困難なのに、矛盾しているのではないでしょうか。

 日本人の文章を引用する中、筆者は唯一、朝鮮人の文定昌の「日本上古史」を引用しており、それは、本書で最も、主張したかったからでしょう。

 そこでは、大化の改新(645年)と孝徳天皇=新羅系、白村江の合戦(663年)と斉明・天智天皇=百済系、壬申の乱(672年)と天武天皇=新羅系、新羅・唐戦争(〜676年)後と持統天皇=百済系と、日本の史実に朝鮮が関与したと指摘しています。

 そこで、「日本書紀」に該当する、その時代や、それ以前の、大和政権と朝鮮諸国の外交をみていくこととし、それらを列挙すると、次のようになります。

 なお、各時代の※印は、筆者が取り上げた記事を、まとめたものです。


●推古天皇(33代、在位592〜628年)の時代
○他国の使者が来訪
・新羅:597・598・610・611・616・621・623年(600・623年:新羅派兵)
・高句麗:595(仏僧)・610・618・625年
・百済:597・599・602年
・任那:610・611・623年(562年:任那滅亡)
○自国の使者を派遣
・新羅:600・623年
・高句麗:601年
・百済:601年
・任那:600・623年
※推古16(608)年9月11日:隋使が帰国、遣隋使が派遣され、8人(南淵請安・日文=旻・高向玄理)が留学
※推古31(623)年7月:唐の学問僧2人・医者2人(恵日)等が、帰国し、新羅使が同行

●舒明天皇(34代、在位629〜641年)の時代
○他国の使者が来訪
・新羅:632・638・639・640年
・高句麗:630年
・百済:630・631(人質)・635・638・640年
・任那:638年
※舒明4(632)年8月:唐使が来訪、唐の学問僧3人(旻)が、帰国し、新羅送使等が同行
※舒明12(640)年10月11日:唐の学問僧2人(南淵請安・高向玄理)が、新羅経由で帰国し、百済・新羅の朝貢使が同行

●皇極天皇(35代、在位642〜645年)の時代
○他国の使者が来訪
・新羅:642×2年
・高句麗:642・643年
・百済:642×3・643年
○自国の使者を派遣
・新羅:642年
・高句麗:642年
・百済:642年
・任那:642年

●孝徳天皇(36代、在位645〜654年)の時代:新羅系?
○他国の使者が来訪
・新羅:645・646・647×2(人質)・648・649(人質)・650・651×2・652・653・654×2年
・高句麗:645・646・647・654年
・百済:645・646・651・652・653・654×2年
・任那:646年
○自国の使者を派遣
・新羅:646・648(学僧)・649年
・高句麗:648(学僧)
・百済:648(学僧)
※645年:乙巳(いっし)の変
※大化3(647)年7月:新羅への使者(高向玄理)が帰国し、新羅の金春秋(のちの29代・武烈王)が、人質に
※648年:新羅の金春秋が、入唐
※白雉5(654)年2月:第3次遣唐使(高向玄理・恵日)が、新羅道を経由

●斉明天皇(37代、在位655〜661年)の時代:百済系?
○他国の使者が来訪
・新羅:655×2(人質)・656年
・高句麗:655・656×2・660年
・百済:655・656・660×2・661年(660年:百済滅亡)
○自国の使者を派遣
・新羅:657年
・高句麗:656年
・百済:661年

●天智天皇(38代、在位668〜671年)の時代:百済系?
○他国の使者が来訪
・新羅:667・668・669・671×2年
・高句麗:666×2・667・668・671年(668年:高句麗滅亡)
・百済:662・663・667・668・671×2年
○自国の使者を派遣
・新羅:668・670年
・高句麗:663年
※663年:白村江の合戦
※天智4(665)年9月23日:唐使が来訪、12人(定恵/じょうえ、藤原鎌足の息子)が、百済経由で帰国(白雉5年2月に記載)

●天武天皇(40代、在位673〜686年)の時代:新羅系?
○他国の使者が来訪
・新羅:672・673×2・675×3・676×2・677・679×2・680×2・681・682・683・684・685年
・高句麗:673・676・679・680・682年
○自国の使者を派遣
・新羅:675・676・677・681・684年
※670〜676年:新羅・唐戦争
※672年:壬申の乱

●持統天皇(41代、在位690〜697年)の時代:百済系?
○他国の使者が来訪
・新羅:687・689・690・692・693・695年
○自国の使者を派遣
・新羅:687・692・695年

※朱鳥元(686)年10月2日:大津皇子の謀反が発覚し、本人+新羅僧の行心(こうしん)等30余人が逮捕


 以上より、まず、当時は、情報収集のためか、全方位外交が通例で、他国の使者が来訪し、自国の使者を派遣するので、他国の使者と自国の使者が一緒だったり、送使が同行することも、多々あります。

 そのうえ、「日本書紀」は、中国とは対等、朝鮮とは優越な関係で、日本が小帝国だと主張したいため、周辺諸国との通交を、朝貢と潤色しがちなので、通交のすべてが、記載されているわけではないと認識しておくべきです(他国の使者の来訪に比べて、自国の使者の派遣が少ないです)。

 つぎに、遣隋使・遣唐使が、日本列島から朝鮮半島へ渡海する際、新羅経由や新羅使が同行と記載されているので(623・632・640年)、そこから、列島の渡来系氏族と半島の政権が結託し、大和政権に関与したとの仮説がありますが、これは、562年に、任那が新羅に吸収されたからではないでしょうか。

 654年の遣唐使出発は、新羅道を経由したとありますが、対馬から旧・任那へ渡海し、そこから百済も経由しないと当然、山東半島(萊州/らいしゅう)には到着できず、665年の定恵帰国での百済経由は、663年の白村江の合戦での大敗後に、唐が百済を占領していたからです。

 645年の乙巳の変の時期には、642年に、百済は、高句麗と同盟し、新羅を攻撃、新羅は、西部40余城を奪取され、劣勢から、643年に、唐に援軍を要請しましたが、反応なく、647年に、政権の内乱が発生・鎮圧、ようやく、648年に、唐と同盟できましたが、654年に、北部30余城も奪取されています。

 つまり、当時の新羅は、半島での戦争に手一杯で、とても列島の内政にまで、干渉する余裕は、なかったとみるのが自然で、劣勢の新羅が、大和政権に使者を頻繁に派遣し、人質も送り込んだのは(647・649・655年)、大和政権が百済を救援しないか、情報収集のためと推測できます。

 そして、663年に、白村江の合戦で大敗し、朝鮮式山城の築造を主導したのは、筆者のいう、百済遺民ではなく、戦後処理で6度も来日し(664・665・667・669・671×2年)、大量の人員を送り込んだ、唐でしょう。

 また、672年の壬申の乱の時期は、670年から、新羅は、唐に反抗・交戦し、唐は、鎮圧できず、戦況が悪化したため、列島から撤退すると、その直後に壬申の乱で、大和政権が一掃、新羅は、676年の唐の半島撤退後もしばらく、大和政権に使者を頻繁に派遣し、唐との関係を注視していたとみられます。

 さらに、持統天皇の時代は、すでに百済が滅亡し、復興も絶望的なので、百済系に影響力があったとは、到底いえず、大津皇子の謀反事件で、飛騨の寺に強制移住させられた、新羅僧の行心と結び付けるのは、いくらなんでも無理があります。
 このように、日本の史実に、朝鮮が関与したとする仮説は、成り立ちそうになく、筆者は、記紀神話の些細な記述を、こじつけ的に解釈する傾向にあり、これは、新興の神道が、教義を創作する際の手法と類似しています。

 筆者は、日本の史実に、朝鮮が関与したと指摘したいようですが、そもそも記紀神話での天皇家自体が、日向からの渡来人と公言しており、大和に侵攻・平定し、政権を樹立・土着できたので、昔の出身地よりも、今の居住地のほうを、重要視しているのがわかります。

 そのうえ、天上の神々(天つ神)の子孫とされる、天皇家や中央豪族は、天から渡来した血統だとし、地上の神々(国つ神)の子孫とされる、地方豪族を、統治してきたので、地へと土着した実績もあると、記紀神話から読み取れるのに、そのような中で、出身のみに執着するのは、不毛です。

 ただし、平安初期に、嵯峨天皇(52代)が編纂させた、古代氏族名鑑「新撰姓氏(しょうじ)録」によると、京・畿内の貴族1182氏のうち、渡来系氏族(諸蕃)が、326氏(漢163氏・百済104氏・高句麗41氏・新羅9氏・任那9氏)・約28%なので、当時も渡来人が、相当数いたと認識しておくべきです。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1JCEH3J1W1XUJ/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4061587021
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c193

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
194. 中川隆[-10481] koaQ7Jey 2019年4月30日 09:29:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1606]

古代朝鮮と日本文化 (講談社学術文庫) – 1986/9/5
金 達寿 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%87%91-%E9%81%94%E5%AF%BF/dp/4061587544?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp


内容紹介

本書は、日本独自の文化といわれる神社・神宮の中に、高麗(こま)神社、百済(くだら)神社、新羅(しらぎ)神社など、古代朝鮮三国の名を負った神社が日本各地に散在するのに注目した著者が以来、十数年の歳月にわたり、それらの由来を明かすべく、文献や地名などを手がかりに実地踏査したものをまとめたものである。新羅において祀った祖神廟(そしんびょう)を神社・神宮の原形とみるなど、日本の神々のふるさとを遙か古代朝鮮に見いだした、著者ならではの労作といえよう。


著者について

1919年、朝鮮・慶尚南道で生まれ、1930年に渡日。日本大学芸術科卒業。作家・古代史研究家。主著に『金達寿小説全集』『金達寿評論集』『古代日朝関係史入門』『日本古代史と朝鮮文化』『古代日本と朝鮮文化』『朝鮮―民族・歴史・文化―』『わがアリランの歌』『行基の時代』『故国まで』『日本の中の古代朝鮮』『日本古代史と朝鮮』(学術文庫)などがある。


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
朝鮮文化的な見方と日本文化的な見方 2018年12月28日

 本書は、「日本古代史と朝鮮」の続編で、前作は、概論、今作は、各論という位置づけといえます。

 今作も、前作同様、韓国出身の筆者が、日本列島の文化の起源を、ただ、朝鮮半島由来だと力説しても、簡単に受け入れられないのを想定し、日本出身の他者が、そう主張している文章を引用することで、説明しており、日本列島各地の、朝鮮半島の影響のある神社・祭神等が、取り上げられています。

 しかし、それらが、いかに朝鮮半島を起源としているのか、または、いかに皇国史観で解説されているかに、終始するあまり、いかに日本列島で定着していったのか、そこにどのような意味・価値があるのか等まで、ほとんど踏み込んでいないのは、大変残念です。

 たとえば、特定の人物を取り上げ、なぜその人物に魅力があるのかを掘り下げる際に、どこで誰から生まれたかだけでは、その人物を理解できたとは、到底いえず、どう育ち、どう過ごし、どう死に、何を感じ、何を思い、何を考えていたのか等まで、探求するほうが、その何倍も重要です。

 それと同様、日本文化も、その起源は、それほど大切ではなく、それは、その大半が、中国大陸・朝鮮半島・欧米等の海外に由来するのは、自明だからですが、むしろ、日本列島の中で、たんなる模倣でなく、独自に変容・洗練してきたことが、固有の文化が形成されたといえるのではないでしょうか。

 筆者も、前作で、《ネーション(国民)、民族というものは、その風土における長い歴史の積み重ねによって形成されるのであって、原初から「朝鮮人」「日本人」としてあったものではない》といっていますが、朝鮮由来の神社・祭神にも、日本化していく過程があるはずです。

 T‐1章・U‐11章では、紀元4年に、新羅の初代王が死去し、2代王が、初代のために建立した祖神廟を、神社・神宮の起源だと指摘されていますが、それは元々、儒教・道教での、祖先を祭祀する霊廟に由来し、発祥は結局、中国大陸に行き着くので、由来・起源のみに固執するのは、不毛です。

 しかも、大勢の渡来人達が、朝鮮半島から日本列島へと移住したり、その間を往来して交易していたので、伽耶諸国・百済・高句麗・新羅等の文化を持ち込み、朝鮮語の地名・社名にするのも、当然の結果といえます。

 T‐2章では、高句麗の王族が、天皇(42代・文武)から、高句麗王の姓が授与(703年)されたのは、高句麗が滅亡(668年)して35年後で、百済の王族が、天皇(41代・持統)から、百済王(こにきし)の姓が授与(690か691年)されたのは、百済が滅亡(660年)して30か31年後です。

 つまり、朝鮮の王族が、30〜35年で、大和政権の官僚の一員に取り込まれており、それは、かれらが、中央政府に有益なので、利用したかったからでもありますが、30〜35年経過すれば、渡来人も土着人並になったといえるのではないでしょうか。

 ここで注意したいのは、渡来人達が持ち込んだ、先進の制度・技術・文化等が、国境を容易に乗り越えていることで、当時の日本列島は、人種が多様だったのに、古代史を探求する際に、日本人・朝鮮人・中国人等を過度に意識するのは、現代人の近代的な偏見です。

 ところで、筆者は、T‐1章とT‐4章で、朝鮮では、新しい文化を取り入れると、従来のものを否定・滅亡させたり、新旧が対立的で、「あれかこれか」になる一方、日本では、神仏習合・本地垂迹等、新旧が同居・調和するといっています。

 筆者の関心は、各地の神社の起源が、自分の出身地の朝鮮由来とわかれば、それで満足のようで、そこでは、日本と朝鮮を対立させたまま、思考停止・終了しており、これは、朝鮮文化的な見方といえ、筆者が韓国人なので、納得すべきなのでしょうか。

 一方、私は、渡来人達が定住・混血する中で、神社の祭神が、信仰の対象として、日本社会に、どう受け入れられ、融合していったのかにも、興味があり、これは、日本文化的な見方といえますが、本書の内容は、そこまで差し迫っていないので、日本人には、広く浅くみえてしまうのでしょうか。

 日本文化は、「たかが、」中国発祥・朝鮮経由といえば、それまでですが、「されど、」独自に変容・洗練されたので、「盗作」ではなく、「固有」と位置づけられますが、日本発祥といえるものが、希少なのも、事実です。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1FE45AH1ETTWN?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c194

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
35. 中川隆[-10480] koaQ7Jey 2019年4月30日 09:36:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1607]
2019.04.30
再び存在感を誇示し始めたダーイッシュが米の敵、トルコや中国を攻撃する可能性

 ダーイッシュ(IS、ISIS、ISIL、イスラム国などとも表記)の指導者とされる​アブ・バクル・アル・バグダディの映像がインターネット上にアップロード​された。この武装集団は4月21日にスリランカであった爆破事件を実行したのは自分たちだと主張している。

 当局の発表によると、直接的な実行者は地元の武装集団、ナショナル・タウヒード・ジャマート(NTJとも表記される)に所属する7名で、その集団の指導者と言われているモウルビ・ザフラン・ハシムはダーイッシュを支持する発言をしている。

 ジョージ・W・ブッシュ政権の命令でアメリカ主導軍がイラクを先制攻撃、サダム・フセイン政権を倒したのは2003年3月のこと。その翌年にダーイッシュはAQI(イラクのアル・カイダ)として組織されたと言われている。

 2006年にISI(イラクのイスラム首長国)が編成された際、このAQIは中核になり、2010年にISIのリーダーになったのがアブ・バクル・アル・バグダディだという。

 調査ジャーナリストの​シーモア・ハーシュが2007年にニューヨーカー誌に書いた記事​によると、それまでにジョージ・W・ブッシュ政権はシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラを最大の敵だと定め、スンニ派の過激派と手を組むことにしたという。

 アメリカ政府を動かしていたネオコンはフセイン体制を倒した後に親イスラエル政権を樹立するつもりだったが、その計画は失敗し、イラクの多数派であるシーア派が主導権を握ってしまった。その結果、同じシーア派のイランと接近する。

 2009年1月にアメリカ大統領となったバラク・オバマは翌年の8月にPSD-11を出し、ムスリム同胞団を主力とする体制転覆プロジェクトを始めた。スンニ派の過激派とはサラフ主義者やムスリム同胞団を指しているので、オバマはブッシュ・ジュニア政権の方針を引き継いだ、つまりチェンジしなかったと言えるだろう。

 そして2010年12月にチュニジアでいわゆる「アラブの春」が始まり、11年2月にはリビア、3月にはシリアで戦争が勃発する。当然のことながら、いずれもムスリム同胞団が中心的な役割を果たした。

 2011年10月にリビアのムアンマル・アル・カダフィ体制が倒され、戦闘員や武器/兵器はトルコ経由でシリアへ運ばれるが、その際にNATO軍とアル・カイダ系武装集団LIFGの連携が明らかになった。カダフィ体制が倒された直後、反カダフィ勢力の拠点だったベンガジでは裁判所の建物にアル・カイダの旗が掲げられたのは象徴的な出来事だった。(​ココ​や​ココ​)

 ​輸送の拠点になったのはベンガジにあったCIAの施設やアメリカの領事館​で、アメリカの国務省はそうした行為を黙認していた。​マークを消したNATOの輸送機​が武器をリビアからトルコの基地まで運んだとも伝えられている。

 アメリカ領事館は2012年9月11日に襲撃され、大使だったクリストファー・スティーブンスが殺された。​領事館が襲撃される前日、大使は武器輸送の責任者だったCIAの人間と会談、襲撃の当日には武器を輸送する海運会社の人間と会っていたとされている​。ちなみに、当時のCIA長官はデイビッド・ペトレイアス、国務長官はヒラリー・クリントンだ。

 襲撃の前月にアメリカ軍の情報機関DIAはホワイトハウスに対し、シリア情勢に関して報告している。​その中でシリアで政府軍と戦っている武装勢力はサラフ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)、ムスリム同胞団、アル・ヌスラ(AQIと実態は同じだと指摘されていた)​だとしている。ちなみに、アル・ヌスラの主力はサラフ主義者やムスリム同胞団だ。

 アル・カイダ系武装集団との連携が露見していたバラク・オバマ政権は「穏健派」を支援していると主張していたが、そうした勢力は存在しないと報告している。オバマ政権の政策はシリアの東部(ハサカやデリゾール)にサラフ主義者の支配地域を作ることになるとも警告していた。ダーイッシュの出現を見通していたと言える。


 ISI(イラクのイスラム首長国)は2013年に活動範囲がシリアへ拡大し、西側ではシリア(Syria)のSを加えてISIS、またはレバント(Levant)のLを加えてISILと呼ばれるようになるが、現地での呼び名はダーイッシュ。2014年に売り出された当時のダーイッシュは残虐性を演出、アメリカ主導軍のシリア空爆の口実に使われる。

 アメリカ主導軍とダーイッシュの連携でリビアと同じように体制を転覆させようとしたのだろうが、シリア軍がリビア軍と違って強かったことに加え、アメリカ政府が大規模な軍事介入へ入る動きを見せる中、2015年9月30日にロシアがシリア政府の要請で軍事介入し、ダーイッシュを含むジハード傭兵の支配地域は急速に縮小していく。

 そこでアメリカ軍は手先をクルド勢力に切り替え、ダーイッシュが支配していた油田地帯をアメリカ軍が占領していく。現在はイラクで同国政府の抗議を無視して軍事力を増強、中東支配の拠点にしようとしている。

 敗走したダーイッシュなどの戦闘員をアメリカ軍は救出、アフガニスタンなどへ運んでいると言われているが、出身国へ戻る動きもあり、東アジアでの活動も活発化している。

 例えば、2017年5月にはフィリピン南部にあるミンダナオ島のマラウィ市をダーイッシュ系だというマウテ・グループやアブ・サヤフが制圧、普通のイスラム教徒をワッハーブ派へ改宗させる工作が数十年にわたって続けられてきたインドネシアでは2016年1月にジャカルタで何回かの爆破と銃撃戦があった。ミャンマーのロヒンギャが住む地域や中国西部の新疆ウイグル自治区へも戦闘員が潜り込んでいると言われている。

 新疆ウイグル自治区、アフガニスタン、スリランカ、インドネシアは中国が進める一帯一路の重要な場所。次のターゲットはトルコになるのではないかとも言われている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904300000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c35

[近代史3] 秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください 中川隆
42. 中川隆[-10479] koaQ7Jey 2019年4月30日 09:43:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1608]

2019.04.30
秋篠宮家付き職員(19)も拳銃で自殺! 小室家と並ぶ「3名」の不審死
https://rondan.net/21383

19歳の少年の自殺、普通ではない秋篠宮家担当職

当サイトでは、秋篠宮家担当の警備2名が立て続けに自殺した事件について紹介しましたが、どうやら、二人の警備担当者が自殺した1年後にも別の秋篠宮家担当の19歳の少年の警備員が拳銃自殺をしていたようです。


28日午後0時10分ごろ、東京都港区元赤坂の赤坂御用地内のトイレで、皇宮警察赤坂護衛署勤務の男性巡査(19)が頭から血を流して倒れているのを同僚が見つけた。病院に搬送されたが、約1時間後に死亡が確認された。皇宮警察によると、貸与されている拳銃で自殺を図ったという。

皇宮警察によると、この日は午前9時から1時間半、皇太子ご一家の住まいである東宮御所の正門で勤務。その後、約70メートル離れた警備待機所で、次の勤務時間まで待機するスケジュールだった。

巡査は昨年4月に採用され、今年2月に同署勤務に。特に悩んだりする様子もなかったという。
「19歳の皇宮警察官が拳銃自殺 赤坂御用地内で」『朝日新聞』2006.9.28

19歳皇宮護衛官が赤坂御用地内で拳銃自殺

皇太子ご一家や秋篠宮ご一家の住まいがある赤坂御用地の警備を担当する皇宮警察の男性巡査が28日昼過ぎ、拳銃で頭を撃って自殺した。

「皇宮警察官拳銃自殺事件 – ドス子の事件簿(皇太子妃雅子殿下の事件簿)」livedoor Wiki

関連記事紀子さま“パワハラ”で職員2人「自殺」の闇 小室佳代とお似合い家族?
2019年4月29日
https://rondan.net/21294


警察の自殺はそれほど珍しい事件ではないかもしれませんが、普通「特に悩んだりする様子もなかった」19歳の少年が、勤務後半年足らずで精神的に追い詰められ拳銃自殺などするものでしょうか?

また、この少年の自殺は3人目で、なんと2004年から3年続けて秋篠宮家と関係する警備職員が一人ずつ自殺していることになります。

尋常ではない連続自殺事件

2004年と2005年の秋篠宮家担当警備員の自殺を報じた『週刊新潮』の記事には「秋篠宮家担当の護衛官がたて続けに自殺するとは、尋常ではない。」と書かれてしますが、さらに、続けて19歳の少年が拳銃自殺するというのは、異常としか言いようがないでしょう。

また、先の二人の自殺に関しては「金銭的トラブルが原因ではないか?」という報道もされていますが、19歳の少年の自殺に関しては原因は全く不明です。

そういえば、眞子さまの婚約内定先の小室家も、小室圭さんの父、と父方の祖父母の計3人の自殺…。なんの因果でしょうか?

自殺の原因は何か?考え得る選択肢

これほど連続して自殺者が出るということは、単純な金銭的トラブルのみが原因とは言い切れません。

考えられる連続自殺事件の原因として、一つは、秋篠宮家の「パワハラ問題」です。

そして二つ目は、警備担当の激務によるストレス。

ただし、この二つ目の「激務」という可能性はほぼあり得ないでしょう。過去の『日刊ゲンダイ』の記事によると、皇族警察は「激務」どころか、「暇すぎること」こそが、相次ぐ皇族警察の不祥事の原因ではないか?と指摘しています。


そもそも皇宮警察官の不祥事は今に始まった話ではない。03年には巡査部長(54)が痴漢で逮捕。04年には女性職員の下着を盗んだ警部補(45)とビデオ店からAVを盗んだ巡査長(31)が懲戒処分。05年には愛知万博にキセル出張した警視(53)、08年にはATMに置き忘れていた現金を持ち去った巡査部長(49)が懲戒。06年には護衛官(19)が赤坂御用地で拳銃自殺した。1000人前後の小所帯なのに、事件が異常に多いのだ。

「彼らは日々、皇居や京都御所など施設の警備や皇族の護衛に当たっています。一般市民に接する機会がほとんどないうえ、犯人を捕まえるケースもまずない。皇室の安全を守る毎日が延々と繰り返される。定年までの自分の仕事と給料が計算できるほど単調な職場です。狭い組織なので人間関係も濃密になりやすい。ストレスを爆発させる皇宮警察官が増えているのです」(捜査事情通)

「ヒマ過ぎる?不祥事続きの皇宮警察 知られざる日常」2010.7.2

最後に、考えられるのが、自殺にみせかけた口封じの殺害といったところでしょうか。

新聞報道にも含みが…

新潮や朝日新聞の報道も、最後の可能性をそれとなく匂わせているようにも思えます。


B氏はさらにこう話した。

「加藤さんが亡くなった前後に、護衛3課で監察に調べられていた警視が辞意を伝えています。表に出せないようなヤバイ話があるのは確実ですよ。これじゃ、秋篠宮家担当の護衛体制はガタガタじゃないですか。開いたロが塞がらない」

最後に、残された加藤氏の妻は涙ながらに語った。

「何故、こんなことになってしまったのか。理由もさっぱりわからず、それだけに残念でなりません。主人が監察に呼ぱれたことは聞いていましたが、内容については知りません。でも、そんなに弱い人ではないと思っていたのですが……」

「「皇宮警察」また出た自殺者は「秋篠宮」担当」『週刊新潮』2005月8月11・18日合併号

巡査は昨年4月に採用され、今年2月に同署勤務に。特に悩んだりする様子もなかったという。

「19歳の皇宮警察官が拳銃自殺 赤坂御用地内で」『朝日新聞』2006.9.28

最後の選択肢は陰謀めいた内容になってしまいますが、『週刊新潮』の記事内の「表に出せないようなヤバイ話があるのは確実」という箇所は、明らかに自殺者の個人的な問題が原因ではなく、皇室警備という職務上の問題と自殺に何らかの関りがある可能性を示唆しています。

まとめ

何らかの責任を押し付けられて、もしくは何らかの知ってはいけない内部事情を知ってしまった結果、「殺された」とまではいわずとも自殺せざるを得ない状況に追い込まれたというのは、陰謀論めいてはいても、全く荒唐無稽な妄想とも言い切れないのではないでしょうか?

代替わりによって、秋篠宮家は皇嗣家となることで職員も大幅増員されますが、宮内庁職員の間では「秋篠宮家に異動になるのでは」と、戦々恐々な状況であるとも噂されますが、現在のトラブル続きの秋篠宮家の状態を考えると無理もないでしょう。

ここは、早急に眞子さまと小室圭さんの結婚問題等、様々な問題を解決し、職員にとって安心して働ける環境を整えることが重要です。
https://rondan.net/21383
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c42

[近代史3] プチエンジェル事件の顧客と噂されている秋篠宮・高円宮はロリコンなのか? 中川隆
26. 中川隆[-10478] koaQ7Jey 2019年4月30日 09:43:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1609]

2019.04.30
秋篠宮家付き職員(19)も拳銃で自殺! 小室家と並ぶ「3名」の不審死
https://rondan.net/21383

19歳の少年の自殺、普通ではない秋篠宮家担当職

当サイトでは、秋篠宮家担当の警備2名が立て続けに自殺した事件について紹介しましたが、どうやら、二人の警備担当者が自殺した1年後にも別の秋篠宮家担当の19歳の少年の警備員が拳銃自殺をしていたようです。


28日午後0時10分ごろ、東京都港区元赤坂の赤坂御用地内のトイレで、皇宮警察赤坂護衛署勤務の男性巡査(19)が頭から血を流して倒れているのを同僚が見つけた。病院に搬送されたが、約1時間後に死亡が確認された。皇宮警察によると、貸与されている拳銃で自殺を図ったという。

皇宮警察によると、この日は午前9時から1時間半、皇太子ご一家の住まいである東宮御所の正門で勤務。その後、約70メートル離れた警備待機所で、次の勤務時間まで待機するスケジュールだった。

巡査は昨年4月に採用され、今年2月に同署勤務に。特に悩んだりする様子もなかったという。
「19歳の皇宮警察官が拳銃自殺 赤坂御用地内で」『朝日新聞』2006.9.28

19歳皇宮護衛官が赤坂御用地内で拳銃自殺

皇太子ご一家や秋篠宮ご一家の住まいがある赤坂御用地の警備を担当する皇宮警察の男性巡査が28日昼過ぎ、拳銃で頭を撃って自殺した。

「皇宮警察官拳銃自殺事件 – ドス子の事件簿(皇太子妃雅子殿下の事件簿)」livedoor Wiki

関連記事紀子さま“パワハラ”で職員2人「自殺」の闇 小室佳代とお似合い家族?
2019年4月29日
https://rondan.net/21294


警察の自殺はそれほど珍しい事件ではないかもしれませんが、普通「特に悩んだりする様子もなかった」19歳の少年が、勤務後半年足らずで精神的に追い詰められ拳銃自殺などするものでしょうか?

また、この少年の自殺は3人目で、なんと2004年から3年続けて秋篠宮家と関係する警備職員が一人ずつ自殺していることになります。

尋常ではない連続自殺事件

2004年と2005年の秋篠宮家担当警備員の自殺を報じた『週刊新潮』の記事には「秋篠宮家担当の護衛官がたて続けに自殺するとは、尋常ではない。」と書かれてしますが、さらに、続けて19歳の少年が拳銃自殺するというのは、異常としか言いようがないでしょう。

また、先の二人の自殺に関しては「金銭的トラブルが原因ではないか?」という報道もされていますが、19歳の少年の自殺に関しては原因は全く不明です。

そういえば、眞子さまの婚約内定先の小室家も、小室圭さんの父、と父方の祖父母の計3人の自殺…。なんの因果でしょうか?

自殺の原因は何か?考え得る選択肢

これほど連続して自殺者が出るということは、単純な金銭的トラブルのみが原因とは言い切れません。

考えられる連続自殺事件の原因として、一つは、秋篠宮家の「パワハラ問題」です。

そして二つ目は、警備担当の激務によるストレス。

ただし、この二つ目の「激務」という可能性はほぼあり得ないでしょう。過去の『日刊ゲンダイ』の記事によると、皇族警察は「激務」どころか、「暇すぎること」こそが、相次ぐ皇族警察の不祥事の原因ではないか?と指摘しています。


そもそも皇宮警察官の不祥事は今に始まった話ではない。03年には巡査部長(54)が痴漢で逮捕。04年には女性職員の下着を盗んだ警部補(45)とビデオ店からAVを盗んだ巡査長(31)が懲戒処分。05年には愛知万博にキセル出張した警視(53)、08年にはATMに置き忘れていた現金を持ち去った巡査部長(49)が懲戒。06年には護衛官(19)が赤坂御用地で拳銃自殺した。1000人前後の小所帯なのに、事件が異常に多いのだ。

「彼らは日々、皇居や京都御所など施設の警備や皇族の護衛に当たっています。一般市民に接する機会がほとんどないうえ、犯人を捕まえるケースもまずない。皇室の安全を守る毎日が延々と繰り返される。定年までの自分の仕事と給料が計算できるほど単調な職場です。狭い組織なので人間関係も濃密になりやすい。ストレスを爆発させる皇宮警察官が増えているのです」(捜査事情通)

「ヒマ過ぎる?不祥事続きの皇宮警察 知られざる日常」2010.7.2

最後に、考えられるのが、自殺にみせかけた口封じの殺害といったところでしょうか。

新聞報道にも含みが…

新潮や朝日新聞の報道も、最後の可能性をそれとなく匂わせているようにも思えます。


B氏はさらにこう話した。

「加藤さんが亡くなった前後に、護衛3課で監察に調べられていた警視が辞意を伝えています。表に出せないようなヤバイ話があるのは確実ですよ。これじゃ、秋篠宮家担当の護衛体制はガタガタじゃないですか。開いたロが塞がらない」

最後に、残された加藤氏の妻は涙ながらに語った。

「何故、こんなことになってしまったのか。理由もさっぱりわからず、それだけに残念でなりません。主人が監察に呼ぱれたことは聞いていましたが、内容については知りません。でも、そんなに弱い人ではないと思っていたのですが……」

「「皇宮警察」また出た自殺者は「秋篠宮」担当」『週刊新潮』2005月8月11・18日合併号

巡査は昨年4月に採用され、今年2月に同署勤務に。特に悩んだりする様子もなかったという。

「19歳の皇宮警察官が拳銃自殺 赤坂御用地内で」『朝日新聞』2006.9.28

最後の選択肢は陰謀めいた内容になってしまいますが、『週刊新潮』の記事内の「表に出せないようなヤバイ話があるのは確実」という箇所は、明らかに自殺者の個人的な問題が原因ではなく、皇室警備という職務上の問題と自殺に何らかの関りがある可能性を示唆しています。

まとめ

何らかの責任を押し付けられて、もしくは何らかの知ってはいけない内部事情を知ってしまった結果、「殺された」とまではいわずとも自殺せざるを得ない状況に追い込まれたというのは、陰謀論めいてはいても、全く荒唐無稽な妄想とも言い切れないのではないでしょうか?

代替わりによって、秋篠宮家は皇嗣家となることで職員も大幅増員されますが、宮内庁職員の間では「秋篠宮家に異動になるのでは」と、戦々恐々な状況であるとも噂されますが、現在のトラブル続きの秋篠宮家の状態を考えると無理もないでしょう。

ここは、早急に眞子さまと小室圭さんの結婚問題等、様々な問題を解決し、職員にとって安心して働ける環境を整えることが重要です。
https://rondan.net/21383
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/362.html#c26

[近代史02] プーチン大統領は神の申し子_____小沢一郎先生はこういう人になって欲しかった 中川隆
150. 中川隆[-10477] koaQ7Jey 2019年4月30日 10:17:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1610]
2019-04-26
国際情勢の大変動を見抜く!-9〜東欧カラー革命は対プーチン戦争〜
http://www.kanekashi.com/blog/2019/04/6221.html


ソ連崩壊後の金貸しによるグローバル化、民営化によって登場した(主に)ユダヤ系新興財閥の主要メンバー達は、次々とプーチン大統領によって排除されていったが、最後までプーチン大統領に抵抗したのがミハイル・ホドルコフスキー。

彼を支援したのが、イギリスのジェイコブ・ロスチャイルド卿とアメリカのキッシンジャー元国務長官。

因みに、キッシンジャーはご存知のとおり、ロックフェラーとの繋がりが深く、バリバリのネオコン派で、TPP、グローバル化推進では主に裏舞台で活躍してきた。ところが、近年はトランプ大統領と親近性を高め、中国習近平やプーチンとの関係をも深めており、民族派への転換が噂されている。(故に動きには注目していく。)

彼らを敵に回してもプーチン大統領は怯むことなく、ホドルコフスキーを逮捕投獄。石油利権が金貸しの手先に渡るのを見事に阻止した。

本丸の取り崩しが失敗に終わった金貸しは、今度は旧ソ連諸国、つまり外堀を埋める動きにでる。いわゆる東欧カラー革命がそうで、グルジアの「バラ革命」、ウクライナの「オレンジ革命」、そしてキルギスの「チューリップ革命」すべて金貸しの画策です。

手口は三つとも判を押したようにすべて同じ。新露派の国家首長が選挙で勝利したが、不正選挙だとして市民デモや暴動が起き再選挙。結果、親欧米派が勝利を納めるというもの。

デモや暴動を扇動したのはいずれも反体制NGO。その黒幕はジョージ・ソロスという。そのシナリオ通りに事が進んだ。

『世界を操る支配者の正体』(馬渕睦夫 著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E9%A6%AC%E6%B8%95-%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/406219175X/ref=sr_1_1?adgrpid=57028848367&hvadid=338514114426&hvdev=c&hvlocphy=1009549&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=7278385446062088875&hvtargid=kwd-334868628383&jp-ad-ap=0&keywords=%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93&qid=1556014387&s=gateway&sr=8-1


からの紹介です。

*************************************

■ロシアの国富をアメリカ資本主義に譲り渡す行為

ベレゾフスキーとグシンスキーの追放以降、新興財閥による政治介入は収まったかに見えました。新興財閥の実力者の一人アブラモビッチは、今やロシア政治ではなくサッカーに関心を寄せています。イングランド・サッカーの名門チェルシーを所有しているのが、アブラモビッチなのです。

そうして政商としては腰砕けになった新興財閥の中で、最後までプーチン大統領に抵抗したのがミハイル・ホドルコフスキーでした。プーチン大統領とホドルコフスキーとの戦いはアメリカやイギリスを巻き込んだ国際的性格を帯びることになります。この闘争の内実を理解することが、現在のウクライナ危機の本質を理解することにつながります。

プーチンとホドルコフスキーの対決は、2003年に決戦を迎えました。プーチン大統領は、石油王手ユーコスの社長であったホドルコフスキーを逮捕したのです。10月のことでした。表向きの理由は脱税です。脱税容疑は単なる逮捕の口実ではありません。実際、ホドルコフスキーは国内オフショア制度を悪用して、他の主要な石油会社が24パーセントの税金を払っているにもかかわらず、わずか12パーセントしか払わなかったのです。しかし、逮捕の本当の理由はホドルコフスキーがプーチンとの約束を破って政治に口を出したことでしょう。

彼は、プーチンに反対する政党をイデオロギーに関係なく反プーチンであるという理由だけで支援したり、自ら2008年の大統領選挙への出馬を公言するようになりました。プーチンにしてみれば、ビジネスに特化していれば少々の脱税くらいは目をつぶることができたのかもしれませんが、自らの政治生命に挑戦するがごとき挑発行為は決して許せないと感じたことは想像に難くありません。

もう一つの決定的理由は、ホドルコフスキーと欧米との緊密な関係です。ユダヤ系のホドルコフスキーは当然欧米のユダヤ系の指導者たちと親しい関係にありました。その一人がイギリスのジェイコブ・ロスチャイルド卿でした。ホドルコフスキーはロスチャイルド卿と組んでNGOの「オープン・ロシア財団」をロンドンに設立しました。読んで字の通り、「ロシアを欧米世界に開放する」というもので、ロシア民族主義者たるプーチンを刺激する活動です。続いて、アメリカにも事務所を開設、なんとユダヤ人のキッシンジャーを理事に招聘するのです。こうなると偶然ではなく、ユダヤ系であるホドルコフスキーが欧米の主要なユダヤ人脈を意図的に活用したといえそうです。

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この欧米との関係緊密化は財団設立にとどまりませんでした。最終的にプーチンにホドルコフスキー逮捕を決断させたのは、アメリカ石油メジャーとユーコスとの提携問題であったと思います。ユーコスはシブネフチ(アブラモビッチ所有)のと合併することになっており、この世界有数のロシア石油会社はアメリカ石油メジャーのシェブロンやエクソンモービルに40パーセントにも及ぶ株を売却する交渉が進んでいたのです。

この一連の動きは、プーチンにとってロシア国家の富をアメリカ資本に事実上譲り渡す行為と映ったとしても不思議ではありません。ここに、プーチンはユーコスつぶしを決断し、ホドルコフスキーを逮捕投獄し、結局彼はシベリアの刑務所に服役することになりました。ホドルコフスキー事件をめぐる一連の動きについては、栢俊彦『株式会社ロシア―渾沌から甦るビジネスシステム』が参考になります。

ホドルコフスキーは、昨年末にプーチン大統領に恩赦され出所しました。このことと、ウクライナ危機とは連動しているのではないでしょうか。本書ではこれを検証する余裕はありませんが、今後のロシアと欧米との関係を見るうえで、関連性を頭に入れておく必要はありそうです。

ホドルコフスキー逮捕投獄を機に新たな米露冷戦がはじまったと見られます。世界のメディアは、2007年2月のミュンヘン安保会議におけるプーチン大統領のアメリカ避難スピーチをもって新冷戦の開始と伝えましたが、実際には2003年の10月に始まっていたのです。以後今日まで、メドベージェフ大統領時代の米露関係リセット時代はありましたが、ロシアとアメリカは基本的には冷戦状態が続いているのです。

2003年という年に注目してください。3月にはアメリカのイラク攻撃が始まり、アメリカの勝利とともに、イラクの石油はアメリカの資本が押さえました。イラク戦争は大量破壊兵器を保有するイラクを予防攻撃した戦争ではなく、イラクの石油をアメリカが奪うための戦争であったのです。これによって、アメリカは世界の主要な産油国を抑えたことになります。残った主要石油大国は、イランとリビアを除けばロシアだったのです。したがって、ホドルコフスキーが逮捕され、やがてユーコスが解体されたことは、世界の石油支配の完成を目指すアメリカのメジャーにとっては大きな後退だったのです。

それから数年後、チュニジアをはじめ突如「アラブの春」減少と称される民主化運動が北アフリカ諸国に吹き荒れます。その結果チュニジアやエジプトで政変が起こりましたが、一連の民主化運動の真の狙いは産油国リビアであったことは想像に固くありません。世俗政権として国内を安定化し、それなりの反映を達成したリビアのカダフィ大佐は虐殺されました。カダフィ政権を倒すことで「民主化」が成功したとされたのです。しかし、リビアはいまだにテロが横行し民主主義も実現されていません。いったい誰のための民主化運動だったのでしょうか。

■東欧カラー革命は対プーチン戦争

ユーコス事件を受けて、アメリカはどう対応したのでしょうか。アメリカはロシアのおひざ元旧ソ連諸国で反撃に出たのです。2003年11月のグルジア「バラ革命」に始まる東欧カラー革命です。グルジアでは、ソ連時代の新思考外交で知られたエドゥアルド・シェワルナッゼ元外相が、1995年以来大統領に就任していました。シェワルナッゼ大統領は当初親米路線をとっていましたが、ロシアの圧力もあって次第にロシアに近づくようになっていました。そこで、親米政権を樹立するために起こったのがバラ革命なのです。

アメリカの法律事務所出身のミヘイル・サーカシビリがシェワルナッゼの対抗馬として議会選挙が行われました。結果は、シェワルナッゼの与党「新グルジア」が21パーセントで第一位、サーカシビリ率いる「国民運動」が18パーセントで二位となりました。ところが、ここで選挙には不正があったとして、野党勢力のデモが発生したのです。デモ隊は議会を占拠するまで暴徒化し、その結果、シェワルナッゼ大統領は辞任してサーカシビリが大統領に就くことになりました。これが「バラ革命」と呼ばれるものです。

この革命がアメリカによって演出されたことは今や世界の常識になっています。前線活躍したのが、ジョージ・ソロスでした。彼は、旧ソ連圏諸国の民主化や市場経済化を支援する「オープン・ソサイエティ」を立ち上げて、資金援助を行ってきました。ソロスはグルジアに「オープン・ソサイエティ」の支部を設立し、反政府のグルジアNGOを育成します。このNGOが反政府デモを主導したのです。

もう一つ、選挙結果を不正であると決めつけた原因は、選挙監視に当たったアメリカの調査会社が投票所の出口調査でサーカシビリ陣営の勝利を発表したことです。正規の選挙管理委員会の発表はシェワルナッゼ陣営の勝利でした。これを受けサーカシビリ派のデモが起こったのです。このパターンをよく覚えておいてください。以下に述べるように、その後も同様の手法でアメリカは親米政権を成立させていきます。

2004年にはウクライナで今度は「オレンジ革命」が起こりました。11月に行われた大統領選挙は、親露派のヤヌコビッチ首相と欧米が推すユーシチェンコ元首相との争いとなり、決選投票でヤヌコビッチ候補が勝利しました。しかしここで、この選挙は不正であるとして敗れたユーシチェンコ派のデモが起こったのです。選挙結果を不正であるとしてデモを起こすのは、グルジアのバラ革命の際と同じパターンです。ユーシチェンコ陣営を応援して、アメリカのNGOや欧州安全保障協力機構(OSCE)などが選挙に不正があったと一斉に非難を始めました。外国の応援を得てデモはますます膨れ上がり、ウクライナ全土があたかも新欧米派のオレンジ色の旗に占領された感がありました。

オレンジ革命は私が赴任する前年に起こりましたが、デモが吹き荒れる中、欧米諸国や我が国はアメリカ大使館での情報分析会議に参加していました。この圧力に屈してクチマ大統領は再選挙に同意します。そして、12月に行われた再選挙の結果、今度はユーシチェンコ候補が勝ちました。つまり、ユーシチェンコ候補が勝てば、選挙は公正に行われたということになったわけです。

アメリカのプーチンに対する反撃はこれで終わったわけではありませんでした。次に標的になったのは中央アジアに位置するキルギスです。キルギスでは2005年3月に議会選挙が行われ、アカエフ大統領の与党が圧勝しました。しかし、野党陣営はこの選挙は防いだとしてデモを起こし、再選挙とアカエフ大統領の退陣を求めました。これに対し、アカエフ大統領はロシアへ逃亡し、ここにキルギス「チューリップ革命」が成就したのです。お気づきの通り、グルジアやウクライナの革命とまったく同様のパターンでした。
http://www.kanekashi.com/blog/2019/04/6221.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/297.html#c150

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
36. 中川隆[-10476] koaQ7Jey 2019年4月30日 10:18:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1611]
2019-04-26
国際情勢の大変動を見抜く!-9〜東欧カラー革命は対プーチン戦争〜
http://www.kanekashi.com/blog/2019/04/6221.html


ソ連崩壊後の金貸しによるグローバル化、民営化によって登場した(主に)ユダヤ系新興財閥の主要メンバー達は、次々とプーチン大統領によって排除されていったが、最後までプーチン大統領に抵抗したのがミハイル・ホドルコフスキー。

彼を支援したのが、イギリスのジェイコブ・ロスチャイルド卿とアメリカのキッシンジャー元国務長官。

因みに、キッシンジャーはご存知のとおり、ロックフェラーとの繋がりが深く、バリバリのネオコン派で、TPP、グローバル化推進では主に裏舞台で活躍してきた。ところが、近年はトランプ大統領と親近性を高め、中国習近平やプーチンとの関係をも深めており、民族派への転換が噂されている。(故に動きには注目していく。)

彼らを敵に回してもプーチン大統領は怯むことなく、ホドルコフスキーを逮捕投獄。石油利権が金貸しの手先に渡るのを見事に阻止した。

本丸の取り崩しが失敗に終わった金貸しは、今度は旧ソ連諸国、つまり外堀を埋める動きにでる。いわゆる東欧カラー革命がそうで、グルジアの「バラ革命」、ウクライナの「オレンジ革命」、そしてキルギスの「チューリップ革命」すべて金貸しの画策です。

手口は三つとも判を押したようにすべて同じ。新露派の国家首長が選挙で勝利したが、不正選挙だとして市民デモや暴動が起き再選挙。結果、親欧米派が勝利を納めるというもの。

デモや暴動を扇動したのはいずれも反体制NGO。その黒幕はジョージ・ソロスという。そのシナリオ通りに事が進んだ。

『世界を操る支配者の正体』(馬渕睦夫 著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E9%A6%AC%E6%B8%95-%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/406219175X/ref=sr_1_1?adgrpid=57028848367&hvadid=338514114426&hvdev=c&hvlocphy=1009549&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=7278385446062088875&hvtargid=kwd-334868628383&jp-ad-ap=0&keywords=%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93&qid=1556014387&s=gateway&sr=8-1


からの紹介です。

*************************************

■ロシアの国富をアメリカ資本主義に譲り渡す行為

ベレゾフスキーとグシンスキーの追放以降、新興財閥による政治介入は収まったかに見えました。新興財閥の実力者の一人アブラモビッチは、今やロシア政治ではなくサッカーに関心を寄せています。イングランド・サッカーの名門チェルシーを所有しているのが、アブラモビッチなのです。

そうして政商としては腰砕けになった新興財閥の中で、最後までプーチン大統領に抵抗したのがミハイル・ホドルコフスキーでした。プーチン大統領とホドルコフスキーとの戦いはアメリカやイギリスを巻き込んだ国際的性格を帯びることになります。この闘争の内実を理解することが、現在のウクライナ危機の本質を理解することにつながります。

プーチンとホドルコフスキーの対決は、2003年に決戦を迎えました。プーチン大統領は、石油王手ユーコスの社長であったホドルコフスキーを逮捕したのです。10月のことでした。表向きの理由は脱税です。脱税容疑は単なる逮捕の口実ではありません。実際、ホドルコフスキーは国内オフショア制度を悪用して、他の主要な石油会社が24パーセントの税金を払っているにもかかわらず、わずか12パーセントしか払わなかったのです。しかし、逮捕の本当の理由はホドルコフスキーがプーチンとの約束を破って政治に口を出したことでしょう。

彼は、プーチンに反対する政党をイデオロギーに関係なく反プーチンであるという理由だけで支援したり、自ら2008年の大統領選挙への出馬を公言するようになりました。プーチンにしてみれば、ビジネスに特化していれば少々の脱税くらいは目をつぶることができたのかもしれませんが、自らの政治生命に挑戦するがごとき挑発行為は決して許せないと感じたことは想像に難くありません。

もう一つの決定的理由は、ホドルコフスキーと欧米との緊密な関係です。ユダヤ系のホドルコフスキーは当然欧米のユダヤ系の指導者たちと親しい関係にありました。その一人がイギリスのジェイコブ・ロスチャイルド卿でした。ホドルコフスキーはロスチャイルド卿と組んでNGOの「オープン・ロシア財団」をロンドンに設立しました。読んで字の通り、「ロシアを欧米世界に開放する」というもので、ロシア民族主義者たるプーチンを刺激する活動です。続いて、アメリカにも事務所を開設、なんとユダヤ人のキッシンジャーを理事に招聘するのです。こうなると偶然ではなく、ユダヤ系であるホドルコフスキーが欧米の主要なユダヤ人脈を意図的に活用したといえそうです。

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この欧米との関係緊密化は財団設立にとどまりませんでした。最終的にプーチンにホドルコフスキー逮捕を決断させたのは、アメリカ石油メジャーとユーコスとの提携問題であったと思います。ユーコスはシブネフチ(アブラモビッチ所有)のと合併することになっており、この世界有数のロシア石油会社はアメリカ石油メジャーのシェブロンやエクソンモービルに40パーセントにも及ぶ株を売却する交渉が進んでいたのです。

この一連の動きは、プーチンにとってロシア国家の富をアメリカ資本に事実上譲り渡す行為と映ったとしても不思議ではありません。ここに、プーチンはユーコスつぶしを決断し、ホドルコフスキーを逮捕投獄し、結局彼はシベリアの刑務所に服役することになりました。ホドルコフスキー事件をめぐる一連の動きについては、栢俊彦『株式会社ロシア―渾沌から甦るビジネスシステム』が参考になります。

ホドルコフスキーは、昨年末にプーチン大統領に恩赦され出所しました。このことと、ウクライナ危機とは連動しているのではないでしょうか。本書ではこれを検証する余裕はありませんが、今後のロシアと欧米との関係を見るうえで、関連性を頭に入れておく必要はありそうです。

ホドルコフスキー逮捕投獄を機に新たな米露冷戦がはじまったと見られます。世界のメディアは、2007年2月のミュンヘン安保会議におけるプーチン大統領のアメリカ避難スピーチをもって新冷戦の開始と伝えましたが、実際には2003年の10月に始まっていたのです。以後今日まで、メドベージェフ大統領時代の米露関係リセット時代はありましたが、ロシアとアメリカは基本的には冷戦状態が続いているのです。

2003年という年に注目してください。3月にはアメリカのイラク攻撃が始まり、アメリカの勝利とともに、イラクの石油はアメリカの資本が押さえました。イラク戦争は大量破壊兵器を保有するイラクを予防攻撃した戦争ではなく、イラクの石油をアメリカが奪うための戦争であったのです。これによって、アメリカは世界の主要な産油国を抑えたことになります。残った主要石油大国は、イランとリビアを除けばロシアだったのです。したがって、ホドルコフスキーが逮捕され、やがてユーコスが解体されたことは、世界の石油支配の完成を目指すアメリカのメジャーにとっては大きな後退だったのです。

それから数年後、チュニジアをはじめ突如「アラブの春」減少と称される民主化運動が北アフリカ諸国に吹き荒れます。その結果チュニジアやエジプトで政変が起こりましたが、一連の民主化運動の真の狙いは産油国リビアであったことは想像に固くありません。世俗政権として国内を安定化し、それなりの反映を達成したリビアのカダフィ大佐は虐殺されました。カダフィ政権を倒すことで「民主化」が成功したとされたのです。しかし、リビアはいまだにテロが横行し民主主義も実現されていません。いったい誰のための民主化運動だったのでしょうか。

■東欧カラー革命は対プーチン戦争

ユーコス事件を受けて、アメリカはどう対応したのでしょうか。アメリカはロシアのおひざ元旧ソ連諸国で反撃に出たのです。2003年11月のグルジア「バラ革命」に始まる東欧カラー革命です。グルジアでは、ソ連時代の新思考外交で知られたエドゥアルド・シェワルナッゼ元外相が、1995年以来大統領に就任していました。シェワルナッゼ大統領は当初親米路線をとっていましたが、ロシアの圧力もあって次第にロシアに近づくようになっていました。そこで、親米政権を樹立するために起こったのがバラ革命なのです。

アメリカの法律事務所出身のミヘイル・サーカシビリがシェワルナッゼの対抗馬として議会選挙が行われました。結果は、シェワルナッゼの与党「新グルジア」が21パーセントで第一位、サーカシビリ率いる「国民運動」が18パーセントで二位となりました。ところが、ここで選挙には不正があったとして、野党勢力のデモが発生したのです。デモ隊は議会を占拠するまで暴徒化し、その結果、シェワルナッゼ大統領は辞任してサーカシビリが大統領に就くことになりました。これが「バラ革命」と呼ばれるものです。

この革命がアメリカによって演出されたことは今や世界の常識になっています。前線活躍したのが、ジョージ・ソロスでした。彼は、旧ソ連圏諸国の民主化や市場経済化を支援する「オープン・ソサイエティ」を立ち上げて、資金援助を行ってきました。ソロスはグルジアに「オープン・ソサイエティ」の支部を設立し、反政府のグルジアNGOを育成します。このNGOが反政府デモを主導したのです。

もう一つ、選挙結果を不正であると決めつけた原因は、選挙監視に当たったアメリカの調査会社が投票所の出口調査でサーカシビリ陣営の勝利を発表したことです。正規の選挙管理委員会の発表はシェワルナッゼ陣営の勝利でした。これを受けサーカシビリ派のデモが起こったのです。このパターンをよく覚えておいてください。以下に述べるように、その後も同様の手法でアメリカは親米政権を成立させていきます。

2004年にはウクライナで今度は「オレンジ革命」が起こりました。11月に行われた大統領選挙は、親露派のヤヌコビッチ首相と欧米が推すユーシチェンコ元首相との争いとなり、決選投票でヤヌコビッチ候補が勝利しました。しかしここで、この選挙は不正であるとして敗れたユーシチェンコ派のデモが起こったのです。選挙結果を不正であるとしてデモを起こすのは、グルジアのバラ革命の際と同じパターンです。ユーシチェンコ陣営を応援して、アメリカのNGOや欧州安全保障協力機構(OSCE)などが選挙に不正があったと一斉に非難を始めました。外国の応援を得てデモはますます膨れ上がり、ウクライナ全土があたかも新欧米派のオレンジ色の旗に占領された感がありました。

オレンジ革命は私が赴任する前年に起こりましたが、デモが吹き荒れる中、欧米諸国や我が国はアメリカ大使館での情報分析会議に参加していました。この圧力に屈してクチマ大統領は再選挙に同意します。そして、12月に行われた再選挙の結果、今度はユーシチェンコ候補が勝ちました。つまり、ユーシチェンコ候補が勝てば、選挙は公正に行われたということになったわけです。

アメリカのプーチンに対する反撃はこれで終わったわけではありませんでした。次に標的になったのは中央アジアに位置するキルギスです。キルギスでは2005年3月に議会選挙が行われ、アカエフ大統領の与党が圧勝しました。しかし、野党陣営はこの選挙は防いだとしてデモを起こし、再選挙とアカエフ大統領の退陣を求めました。これに対し、アカエフ大統領はロシアへ逃亡し、ここにキルギス「チューリップ革命」が成就したのです。お気づきの通り、グルジアやウクライナの革命とまったく同様のパターンでした。
http://www.kanekashi.com/blog/2019/04/6221.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c36

[リバイバル3] OPPO Sonica DAC _ 音楽がわからないアホ・オーディオマニアが絶賛する超お買い得品(?)だけど… 中川隆
46. 中川隆[-10475] koaQ7Jey 2019年4月30日 11:02:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1612]

新しい「ブルーレイレコーダー」 - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2019年04月30日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/772625e088500d336fa26be8b0c668f0


「音楽を長時間聴いていると頭が疲れてくる」のは誰しも経験されることだと思う。

周知のとおり、音楽を聴くという行為は耳から入った音声信号を頭の中で情報処理しているので当然の話。

そこで、我が家ではときどき気分転換にテレビ(ソニーの55インチ)で肩の凝らないドキュメンタリーやミステリ番組をオーディオシステムで音出しをして観ているがこのほど古いテレビチューナーが録画できない状態になった。

再生はできるので全面的な故障ではないものの、大概の番組は録画したうえで観ているので大いに困ってしまった。

故障したチューナーは購入してだいぶ経つので寿命かもしれないと思い、遅ればせながら「ブルーレイレコーダー」でも買おうかと近くの大型電気店に出かけてみた。

事前にネットでどういうブランドがいいのか、相場はどのくらいかおおよそ調べたのは言うまでもない。

そしてパナソニックとソニーに絞っていたところ、たまたまパナソニックの製品が特売価格として展示してあった。

   

お値段はネット価格よりも5000円ほど高かったので、「これネットのお値段と一緒になるのなら購入しますよ。」と、いきなり勝負に出た。

すると店員さんが「上司と相談してきます。」、そして数分後に戻ってきて「ネットのお値段と一緒でいいです。」

しめた!試しでも言ってみるものだった(笑)。

さっそく持ち帰ってセッティング。今どきのチューナーは薄くて軽くて実に扱いやすい。

しかも地デジのチャンネル合わせは、郵便番号を打ち込むだけだからずいぶん楽だった。

また、説明書をよく読んでみるとCDも再生できるようになっている!

我が家にはCDトラポが2台あって、持ち主が言うのも何だがかなりの高級機だし、これらには(音質が)どうせ及ばないのは百も承知だがどのくらい肉薄しているか試聴してみた。

何と何と、結構「いい音」が出るんですよねえ!

さっそく近くのオーディオ仲間に来てもらって聴いてもらったところ、「既存のCDトラポとあまり遜色がありませんよ。自分も買おうかなあ」(笑)。

ここで二つの実験をしてみた。

1 ブルーレイにCDを挿入してそのまま再生する

2 いったんCDをHDDに取り込んで録音したソースを再生する

後者の方が回転系がないぶん音質的に有利のはずだと二人で話しながら聴いたところ予想どおりだった。

2の場合一枚のCDをそっくり取り込むのに17分ほどかかるが、それだけの価値はありそうだ。しかもブルーレイレコーダーに有線ランを接続するとCDジャケットまで表示してくれるのには驚いた。

今どきの「ブルーレイレコーダー」は「費用 対 効果」の面からするとたいへんな穴場ですよ!
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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/852.html#c46

[リバイバル3] CD プレーヤーは進歩しているのか?  中川隆
65. 中川隆[-10474] koaQ7Jey 2019年4月30日 11:03:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1613]


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周知のとおり、音楽を聴くという行為は耳から入った音声信号を頭の中で情報処理しているので当然の話。

そこで、我が家ではときどき気分転換にテレビ(ソニーの55インチ)で肩の凝らないドキュメンタリーやミステリ番組をオーディオシステムで音出しをして観ているがこのほど古いテレビチューナーが録画できない状態になった。

再生はできるので全面的な故障ではないものの、大概の番組は録画したうえで観ているので大いに困ってしまった。

故障したチューナーは購入してだいぶ経つので寿命かもしれないと思い、遅ればせながら「ブルーレイレコーダー」でも買おうかと近くの大型電気店に出かけてみた。

事前にネットでどういうブランドがいいのか、相場はどのくらいかおおよそ調べたのは言うまでもない。

そしてパナソニックとソニーに絞っていたところ、たまたまパナソニックの製品が特売価格として展示してあった。

   

お値段はネット価格よりも5000円ほど高かったので、「これネットのお値段と一緒になるのなら購入しますよ。」と、いきなり勝負に出た。

すると店員さんが「上司と相談してきます。」、そして数分後に戻ってきて「ネットのお値段と一緒でいいです。」

しめた!試しでも言ってみるものだった(笑)。

さっそく持ち帰ってセッティング。今どきのチューナーは薄くて軽くて実に扱いやすい。

しかも地デジのチャンネル合わせは、郵便番号を打ち込むだけだからずいぶん楽だった。

また、説明書をよく読んでみるとCDも再生できるようになっている!

我が家にはCDトラポが2台あって、持ち主が言うのも何だがかなりの高級機だし、これらには(音質が)どうせ及ばないのは百も承知だがどのくらい肉薄しているか試聴してみた。

何と何と、結構「いい音」が出るんですよねえ!

さっそく近くのオーディオ仲間に来てもらって聴いてもらったところ、「既存のCDトラポとあまり遜色がありませんよ。自分も買おうかなあ」(笑)。

ここで二つの実験をしてみた。

1 ブルーレイにCDを挿入してそのまま再生する

2 いったんCDをHDDに取り込んで録音したソースを再生する

後者の方が回転系がないぶん音質的に有利のはずだと二人で話しながら聴いたところ予想どおりだった。

2の場合一枚のCDをそっくり取り込むのに17分ほどかかるが、それだけの価値はありそうだ。しかもブルーレイレコーダーに有線ランを接続するとCDジャケットまで表示してくれるのには驚いた。

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[リバイバル3] 伝説の ソナス ファベール ガルネリ・オマージュ 中川隆
20. 中川隆[-10473] koaQ7Jey 2019年4月30日 11:15:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1614]

千葉県 Komugi邸訪問記 禁断のKRELL

Komugi邸のシンボルスピーカー、Sonusfaber Elipsa
https://ameblo.jp/507576/entry-12457794696.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/684.html#c20

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
88. 中川隆[-10472] koaQ7Jey 2019年4月30日 12:00:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1615]
>>87
>何時が「何時から」の「何時」なんですか?

天皇家では天武天皇(40代)以前は兄弟相続する伝統だったので、有能な皇子でなければ天皇にはなれなかったのです。

それが、天武天皇の時代から中国の儒教に基づいた長子相続に無理やり変えたので
バカでもチョンでも長子で母親の実家の身分が高ければ天皇にせざるを得なくなったのです。

それで、異母妹との結婚で生まれた皇子が皇位継承争いで有利になって、奇形児ばかり産まれる様になったのですね:


初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。


初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。


____


7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,

16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,

仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で,兄弟相続が多い。

応神・仁徳を境として,皇位継承の原則に大きな変化が起こっているように見える。
しかし,父子直系相続は7世紀末以降の天皇の目ざした皇位継承法であり,兄弟相続は日本固有の継承法であることからすると,応神以前の直系相続は記紀編纂の過程で作為された可能性が強い。

また,記紀にみえる天皇の名称をみると,

7,8,9代の孝霊,孝元,開化と41,42,43,44代の持統,文武,元明,元正はヤマトネコ,

10,11代の崇神,垂仁はイリヒコ,

12,13,14代の景行,成務,仲哀と34,35代の舒明,皇極はタラシヒコ(メ),

15,17,18代の応神,履中,反正と38代の天智はワケ,

27,28,29代の安閑,宣化,欽明はクニオシ


という称をもつというように時期により特色があり,それらを検討すると

7〜9代の名称は持統以下の名称を手本に,
12〜14代の名称は舒明,皇極の名称を手本にして作られた

と推定される。

これに加えて記紀には9代までの天皇の事績については神武以外ほとんど所伝がないこと,10代の崇神が初代の天皇を意味する所知初国(はつくにしらす)天皇の称号をもつことなどから,9代までの天皇の実在性は疑われている。

10代以後も,皇居や陵墓の所在地や称号の変化などから,10〜12代の天皇は大和を根拠としていたが,15〜25代の天皇は河内平野を主要な根拠地とする別系統の天皇ではないかとして,前者を三輪政権(初期大和政権),後者を河内政権と呼ぶ説もある。

同様に26代の継体以後の天皇もそれまでとは別系統の天皇とする説もある。

これらの説に従えば,古代の皇位継承は,10代の崇神以後2度断絶したが,6世紀中葉以降に,万世一系の思想により崇神からはじまる一系統の系譜にまとめ,さらに崇神以前の系譜をつぎ足したということになる。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c88

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
89. 中川隆[-10471] koaQ7Jey 2019年4月30日 12:15:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1616]

>天皇家では天武天皇(40代)以前は兄弟相続する伝統だったので、有能な皇子でなければ天皇にはなれなかったのです。
>それが、天武天皇の時代から中国の儒教に基づいた長子相続に無理やり変えたので
バカでもチョンでも長子で母親の実家の身分が高ければ天皇にせざるを得なくなったのです。


因みに、白村江の戦いで負けた後、日本は唐の属国になっていたという説も有るのですね:

天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ (NHKブックス) – 2015/10/22
中村 修也 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E6%9C%9D%E3%81%A8%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2-%E5%94%90%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%B8-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E4%BF%AE%E4%B9%9F/dp/4140912359?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp

内容紹介

古代日本に存在した、もう一つの「占領」

663年の「白村江の戦い」に敗れた日本は、唐の再攻撃に備えて防衛態勢を整備し、その後は律令国家建設へ邁進したと言われている。だが、それは本当なのか? 本書は、唐の羈縻政策を軸に展開した当時の東アジア情勢を踏まえつつ、中国・朝鮮側の史料との比較から『日本書紀』を再検証し、これまでの通説に挑む力作。唐の支配体制が、その後の律令国家体制とどのように結びついていったのかを鮮やかに描く。

内容(「BOOK」データベースより)

古代東アジアに起こった一大戦役・白村江の戦。通説では、唐・新羅連合軍に敗れた日本は以後、唐の律令に学び、国家体制を整備していったと言われる。だが、この通説は果たして本当か?敗戦国の日本が、唐の支配を全く受けずに友好関係を保つことが可能だったのか?本書は、中国・朝鮮側の史料、最新の考古学の知見、古今東西の「戦争」における常識など、多角的な視点から『日本書紀』を再解釈。白村江後に出現した唐の日本「支配」の実態、さらに、それがのちの律令国家建設に与えた影響を鮮やかに描く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
中村/修也
1959年、和歌山県生まれ。1989年、筑波大学大学院歴史・人類学研究科博士課程単位取得修了。博士(文学)。現在、文教大学教育学部教授

カスタマーレビュー

hira
史料がわずかしかない日本古代史で、新説か既説かは、そんなに大事? 2018年12月29日


 筆者は、近代のアジア太平洋戦争で、日本が大敗した後、GHQに占領され、再建を指導された経験から、古代の白村江の合戦で、倭+百済遺民が大敗した後を、想像すべきだとし、通説を批判、異説を展開しています。

 異説では、まず、663年の白村江の合戦で、倭+百済遺民が、唐+新羅に大敗後、唐が、九州にも進出し、朝鮮式山城(やまじろ)・水城(みずき)や防(防御地)・烽(ノロシ台)を設置、後世の大宰府の位置には、筑紫都督府も設置し、占領統治するつもりだったと主張されています。

 それは、唐の6度の来日時期の664〜672年の間に、それらが整備されているうえ、唐が、大量の人員を、朝鮮半島から日本列島へと、送り込んだからで、そうなると、それらは、唐や新羅の侵攻を防御する施設でないことがわかります。

 また、667年の近江・大津京への遷都は、大和政権の前方拠点の難波・河内と後方拠点の大和から引き離す、唐の強制で、両拠点の中間の山頂の高安城(たかやすのき)は、唐が、両拠点を監視するためとみられます。

 そのうえ、670年の庚午年籍(こうごねんじゃく)・671年の近江令は、戸籍を作成することで、公正・円滑に徴税でき、671年の水時計(漏刻)の設置は、官僚の勤務管理に有効で、いずれも唐が、直接持ち込んだとみれば、納得できます。

 さらに、唐が、百済の王子の扶余隆を、熊津都督に利用したように、671年の大友皇子の後継も、唐の傀儡政権で、唐の日本列島撤退直後の、672年の壬申の乱での大海人皇子の政権奪取は、その転換とも受け取れ、689年の飛鳥浄御原令は、当時頻繁に通交していた新羅と、唐の制度を折衷したようです。

 朝鮮半島では、642年に、百済は、高句麗と同盟し、新羅を攻撃、新羅は、西部40余城を奪取され、劣勢から、643年に、唐に援軍を要請しましたが、反応なく、647年に、政権の内乱が発生しましたが、鎮圧し、ようやく、648年に、唐と同盟できましたが、654年に、北部30余城も奪取されています。

 そののち、唐は、高句麗を挟み撃ちにするため、660年に、新羅と連携し、百済を滅亡させると、倭は、百済復興のため、援軍を渡海しましたが、663年に、白村江の合戦で大敗、唐は、668年に、新羅と連携し、高句麗も滅亡させ、百済に熊津都督府を、高句麗に安東都護府を設置し、占領統治しました。

 ところが、唐は、新羅も、鶏林州都督府を設置し、統治しようとしたので、670年から、新羅が、唐に反抗・交戦し、唐は、それを鎮圧できず、朝鮮半島の戦況が悪化したので、672年に、日本列島から撤退すると、同年に、壬申の乱が勃発、唐は、676年に、朝鮮半島からも撤退させられています。

 唐は、同盟国の新羅でさえ、鶏林州都督府を設置したので、敗戦国の倭に、筑紫都督府を設置するのも、当然だったでしょう。

 なお、盗作だと酷評しているレビューも、一部あり、学者間のルールは、遵守すべきですが、そもそも史料が、わずかしかない日本古代史では、異説といっても、類似する傾向にあり、それが先行研究に無知だっただけで、異説の積み重ねが、通説になるので、既説か新説かのみに固執するのは、不毛です。

 古代日本の制度・技術・文化も、たかが、中国発祥・朝鮮経由と一蹴することもできますが、されど、独自に変容・洗練されたので、盗作ではなく、固有と位置づけられるので、それと同様、読者は、新説の「藤原鎌足」の12ページ?と、既説の細密な本書の、違いを楽しめばよいのではないでしょうか。

 ところで、「隋書倭国伝」で、600年に、妻子のいる倭王のアメ・タリシヒコ・アホケミが、隋に使者を派遣していますが、女帝の推古天皇(33代)と一致せず、「旧唐書日本伝」で、日本国は倭国の別種とあるので、推古天皇を大和政権、タリシヒコを筑紫政権(倭)とする説(九州王朝説)があります。

 他にも、「日本書紀」と「隋書倭国伝」「隋書」で、冠位12階と内官12等の序列や、遣唐使の訪問年が、食い違っており、「日本書紀」では、608年に帰国した遣隋使の小野妹子が、隋の国書を百済で奪い取られたのに免罪で、「隋書倭国伝」では、九州の地名しか登場せず、不自然です。

 私は、個人的に、九州王朝説(古田武彦)を、本書の説と組み合わせ、白村江の合戦には、大和政権配下の全国各地の豪族達が、参戦したのではなく、各々自立しつつ、相互交流していた、大和政権・筑紫政権等が、協力して参戦したとみています。

 4世紀半ばには、高句麗の南下で、馬韓の諸国が百済、辰韓の諸国が新羅に結束した一方、弁韓は、6世紀半ばまで、諸国(伽耶諸国)のままで滅亡したように、日本列島でも、外圧が強い九州(筑紫政権)、中くらいの近畿(大和政権)、弱い東国と、諸国の結束の度合に差があったでしょう。

 そして、白村江の合戦での疲弊が、九州で比較的大きく、近畿で中くらい、東国で小さかったうえ、合戦後の唐の占領統治も、九州で比較的強く、近畿で中くらい、東国で弱かったと推測できます。

 なので、唐が日本列島から撤退すると、壬申の乱で、反乱軍は、戦力が温存されていた東国を味方に引き入れられたので、大和政権の中枢を一掃できたうえ、新生大和政権は、かなり疲弊していた筑紫政権等も併合でき、国号を日本に改称したのではないでしょうか。
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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c89

[近代史02] 平成バブル崩壊と ソロモン・ブラザース証券 相場師列伝3 スットン教
30. 中川隆[-10469] koaQ7Jey 2019年4月30日 14:05:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1618]
48. 中川隆[-10470] koaQ7Jey 2019年4月30日 14:05:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1617]
消費税と共に停滞し続けた平成という時代
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-9fdaae.html
2019年4月30日 植草一秀の『知られざる真実』

元号が変わるが時間空間が天皇制によって支配されることは戦後の日本民主化の精神にふさわしくはない。

元号の改定をことさらに大きく報じることも適正でないと感じられる。

辛うじて、歴史の時代区分上の便法として元号を用いることが好都合な場合があるというに過ぎない。

西暦との換算に伴う各種事務コストも無視できない。

平成の30年間は日本が停滞を続けた期間に重なる。

この30年は消費税導入の期間とも完全に重なる。

消費税を導入した直後から日本経済の超停滞が始動したと言って過言でない。

消費税が導入されたのは1989年4月。

1989年は「改元・消費税・参院選・内閣総辞職」の年だった。

奇しくも2019年と重なる部分が多い。

2019年も「改元・消費税・参院選」が重なる予定にある。

「内閣総辞職」まで重なれば、時代の転換にうまく符合することにもなる。

日本のバブル崩壊が始動したのは1990年の年明けだ。

1989年5月と10月にバブル崩壊の予兆があった。

日銀が公定歩合引き上げに動いたのである。

しかし、株価は1989年の年末まで上昇を続け、1989年末が日経平均株価の史上最高値になった。

日経平均株価の水準は38915円だった。

このバブルピークから30年の時間が経過するが、現在の日経平均株価の水準は22000円である。

30年の時間が経過して株価は半分強の水準なのだ。

「失われた10年」は「失われた20年」になり、「失われた30年」になった。

消費税が導入された1989年からの平成の30年間は、日本経済超停滞の時代だった。

「失われた10年」の表現は、拙著『日本の総決算』(講談社)で

「失われた90年代」

と帯に記したのが初出である。

バブル崩壊もバブル崩壊不況も日本の経済政策失敗が大きな原因だった。

政策失敗は国際政策協議という名の「経済外交」の分野で日本外交が対応能力を保持していなかったことによって発生した。

巨大バブルは日本の内的要因によって発生したものではない。

米国の経済政策変化に日本は翻弄され、日本経済は未曽有の混乱に巻き込まれた。

為政者が十分な洞察力、判断力、そして行動力を持たないと国民経済を守ることができないのだ。

私は『中央公論』1991年11月号に「バブル崩壊後日本経済のゆくえ」と題する論文を発表した。

バブルの生成と崩壊のメカニズムを解き明かしたものだった。

1981年に発足した米国のレーガン政権が新しい経済政策を実行した。

これが「レーガノミクス」だ。

レーガノミクスにより米国金利上昇=ドル上昇が生じる一方、米国の財政赤字と経常収支赤字が急膨張した。

米国で保護主義圧力が高まり、レーガン政権は人為的なドル切り下げ政策を発動した。

1985年9月のプラザ合意だ。

急激な円高は日本の長期金利を急低下させて日本の資産価格を急騰させた。

日本経済はバブル経済に沸き立つことになった。

このなかで、日本銀行は1987年に公定歩合を引き上げようとした。

そのタイミングでNY株価急落=ブラックマンデーが発生し、米国は日銀の金利引き上げ中止を指令した。

そのために日本の真正バブルが生成された。

日本の資産価格上昇はジャパンマネーの席巻をもたらした。

これに対して米国の日本批判=ジャパンバッシングが激化した。

そして、1989年に発足したブッシュ政権が日本弱体化を狙って「ストロングアメリカ=ストロングダラー」の路線を掲げた。

円安進行とともに日本金利が上昇し、日本のバブル崩壊がもたらされた。

米国の経済政策によって天国に強制連行された日本経済は、同じ米国の戦術によって地獄に叩き落されたのだ。

経済外交能力を持たない政府の下に置かれる国民は、政府の能力の欠如によって深刻な不幸を背負わされることになる。


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/258.html#c30

[近代史3] 日本や中国のバブルは簡単に崩壊するけれど、アメリカのバブルだけは絶対に崩壊しない理由 中川隆
7. 中川隆[-10468] koaQ7Jey 2019年4月30日 14:06:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1619]

消費税と共に停滞し続けた平成という時代
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-9fdaae.html
2019年4月30日 植草一秀の『知られざる真実』

元号が変わるが時間空間が天皇制によって支配されることは戦後の日本民主化の精神にふさわしくはない。

元号の改定をことさらに大きく報じることも適正でないと感じられる。

辛うじて、歴史の時代区分上の便法として元号を用いることが好都合な場合があるというに過ぎない。

西暦との換算に伴う各種事務コストも無視できない。

平成の30年間は日本が停滞を続けた期間に重なる。

この30年は消費税導入の期間とも完全に重なる。

消費税を導入した直後から日本経済の超停滞が始動したと言って過言でない。

消費税が導入されたのは1989年4月。

1989年は「改元・消費税・参院選・内閣総辞職」の年だった。

奇しくも2019年と重なる部分が多い。

2019年も「改元・消費税・参院選」が重なる予定にある。

「内閣総辞職」まで重なれば、時代の転換にうまく符合することにもなる。

日本のバブル崩壊が始動したのは1990年の年明けだ。

1989年5月と10月にバブル崩壊の予兆があった。

日銀が公定歩合引き上げに動いたのである。

しかし、株価は1989年の年末まで上昇を続け、1989年末が日経平均株価の史上最高値になった。

日経平均株価の水準は38915円だった。

このバブルピークから30年の時間が経過するが、現在の日経平均株価の水準は22000円である。

30年の時間が経過して株価は半分強の水準なのだ。

「失われた10年」は「失われた20年」になり、「失われた30年」になった。

消費税が導入された1989年からの平成の30年間は、日本経済超停滞の時代だった。

「失われた10年」の表現は、拙著『日本の総決算』(講談社)で

「失われた90年代」

と帯に記したのが初出である。

バブル崩壊もバブル崩壊不況も日本の経済政策失敗が大きな原因だった。

政策失敗は国際政策協議という名の「経済外交」の分野で日本外交が対応能力を保持していなかったことによって発生した。

巨大バブルは日本の内的要因によって発生したものではない。

米国の経済政策変化に日本は翻弄され、日本経済は未曽有の混乱に巻き込まれた。

為政者が十分な洞察力、判断力、そして行動力を持たないと国民経済を守ることができないのだ。

私は『中央公論』1991年11月号に「バブル崩壊後日本経済のゆくえ」と題する論文を発表した。

バブルの生成と崩壊のメカニズムを解き明かしたものだった。

1981年に発足した米国のレーガン政権が新しい経済政策を実行した。

これが「レーガノミクス」だ。

レーガノミクスにより米国金利上昇=ドル上昇が生じる一方、米国の財政赤字と経常収支赤字が急膨張した。

米国で保護主義圧力が高まり、レーガン政権は人為的なドル切り下げ政策を発動した。

1985年9月のプラザ合意だ。

急激な円高は日本の長期金利を急低下させて日本の資産価格を急騰させた。

日本経済はバブル経済に沸き立つことになった。

このなかで、日本銀行は1987年に公定歩合を引き上げようとした。

そのタイミングでNY株価急落=ブラックマンデーが発生し、米国は日銀の金利引き上げ中止を指令した。

そのために日本の真正バブルが生成された。

日本の資産価格上昇はジャパンマネーの席巻をもたらした。

これに対して米国の日本批判=ジャパンバッシングが激化した。

そして、1989年に発足したブッシュ政権が日本弱体化を狙って「ストロングアメリカ=ストロングダラー」の路線を掲げた。

円安進行とともに日本金利が上昇し、日本のバブル崩壊がもたらされた。

米国の経済政策によって天国に強制連行された日本経済は、同じ米国の戦術によって地獄に叩き落されたのだ。

経済外交能力を持たない政府の下に置かれる国民は、政府の能力の欠如によって深刻な不幸を背負わされることになる。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/121.html#c7

[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
41. 中川隆[-10467] koaQ7Jey 2019年4月30日 14:07:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1620]

消費税と共に停滞し続けた平成という時代
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-9fdaae.html
2019年4月30日 植草一秀の『知られざる真実』

元号が変わるが時間空間が天皇制によって支配されることは戦後の日本民主化の精神にふさわしくはない。

元号の改定をことさらに大きく報じることも適正でないと感じられる。

辛うじて、歴史の時代区分上の便法として元号を用いることが好都合な場合があるというに過ぎない。

西暦との換算に伴う各種事務コストも無視できない。

平成の30年間は日本が停滞を続けた期間に重なる。

この30年は消費税導入の期間とも完全に重なる。

消費税を導入した直後から日本経済の超停滞が始動したと言って過言でない。

消費税が導入されたのは1989年4月。

1989年は「改元・消費税・参院選・内閣総辞職」の年だった。

奇しくも2019年と重なる部分が多い。

2019年も「改元・消費税・参院選」が重なる予定にある。

「内閣総辞職」まで重なれば、時代の転換にうまく符合することにもなる。

日本のバブル崩壊が始動したのは1990年の年明けだ。

1989年5月と10月にバブル崩壊の予兆があった。

日銀が公定歩合引き上げに動いたのである。

しかし、株価は1989年の年末まで上昇を続け、1989年末が日経平均株価の史上最高値になった。

日経平均株価の水準は38915円だった。

このバブルピークから30年の時間が経過するが、現在の日経平均株価の水準は22000円である。

30年の時間が経過して株価は半分強の水準なのだ。

「失われた10年」は「失われた20年」になり、「失われた30年」になった。

消費税が導入された1989年からの平成の30年間は、日本経済超停滞の時代だった。

「失われた10年」の表現は、拙著『日本の総決算』(講談社)で

「失われた90年代」

と帯に記したのが初出である。

バブル崩壊もバブル崩壊不況も日本の経済政策失敗が大きな原因だった。

政策失敗は国際政策協議という名の「経済外交」の分野で日本外交が対応能力を保持していなかったことによって発生した。

巨大バブルは日本の内的要因によって発生したものではない。

米国の経済政策変化に日本は翻弄され、日本経済は未曽有の混乱に巻き込まれた。

為政者が十分な洞察力、判断力、そして行動力を持たないと国民経済を守ることができないのだ。

私は『中央公論』1991年11月号に「バブル崩壊後日本経済のゆくえ」と題する論文を発表した。

バブルの生成と崩壊のメカニズムを解き明かしたものだった。

1981年に発足した米国のレーガン政権が新しい経済政策を実行した。

これが「レーガノミクス」だ。

レーガノミクスにより米国金利上昇=ドル上昇が生じる一方、米国の財政赤字と経常収支赤字が急膨張した。

米国で保護主義圧力が高まり、レーガン政権は人為的なドル切り下げ政策を発動した。

1985年9月のプラザ合意だ。

急激な円高は日本の長期金利を急低下させて日本の資産価格を急騰させた。

日本経済はバブル経済に沸き立つことになった。

このなかで、日本銀行は1987年に公定歩合を引き上げようとした。

そのタイミングでNY株価急落=ブラックマンデーが発生し、米国は日銀の金利引き上げ中止を指令した。

そのために日本の真正バブルが生成された。

日本の資産価格上昇はジャパンマネーの席巻をもたらした。

これに対して米国の日本批判=ジャパンバッシングが激化した。

そして、1989年に発足したブッシュ政権が日本弱体化を狙って「ストロングアメリカ=ストロングダラー」の路線を掲げた。

円安進行とともに日本金利が上昇し、日本のバブル崩壊がもたらされた。

米国の経済政策によって天国に強制連行された日本経済は、同じ米国の戦術によって地獄に叩き落されたのだ。

経済外交能力を持たない政府の下に置かれる国民は、政府の能力の欠如によって深刻な不幸を背負わされることになる。


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c41

[リバイバル3] 保険会社に騙されるな 中川隆
23. 中川隆[-10466] koaQ7Jey 2019年4月30日 15:14:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1621]
定年後にマイカーを手放しても自動車保険解約は避けるべき理由
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190430-00000001-moneypost-bus_all
マネーポストWEB 4/30(火) 7:00配信 週刊ポスト2019年4月26日号


自動車保険の「等級別割引」は親族に引き継げる(イメージ)


 定年後の家計を考えるとき、「車」は大きな負担となる。それでは、都市部で1500ccクラスの車を“解約”した場合、どれほどのお金が浮く計算になるのか。

 ファイナンシャル・プランナーの森田悦子氏が試算したところ、年間で駐車場代24万円、任意保険代、6万円、自動車税3万4500円、車検7万円、ガソリン代9万6000円と、計50万円の費用圧縮になった。

 免許を自主返納すれば「運転経歴証明書」を受け取れる。自治体によって異なるが、この証明書を提示すればバスやタクシーの利用割引など、様々な特典を受けられる。一方、自動車保険も解約すべきと思いがちだが、子や孫などが新たに車を購入する予定があれば、慌てないほうがよいという。

「免許を返納したドライバーが無事故だった場合、同居の親族が新たに車を購入した際に『等級別割引』を引き継げます。18歳の初心者ドライバーが新規の自動車保険に加入した場合、一般的なフル補償の年間保険料は約35万円ですが、無事故の等級を引き継げば、約16万円で契約できます」(ジャーナリストの柳原三佳氏)

 すぐに車を買いそうな親族がいなくても、自動車保険を解約ではなく「中断」しておけば、その後10年間は等級を引き継げる。

「もとの被保険者が死亡した場合も、中断時から10年間は同居の親族が等級を引き継ぐ権利があります。すでに解約した場合でも、一定の期間内に保険会社に連絡すれば、『中断証明書』が発行されて、引き継ぎできる場合もあります」(同前)

固定電話で年3万円ケータイで年6.5万円の見直し

 携帯電話の普及で、固定電話も解約の検討対象となった。

「基本料金(NTTの場合1836円)に加えてキャッチホンなどのオプションがつけば月2000〜3000円の出費となる。解約で年間3万円ほど浮きます」(ファイナンシャル・プランナーの橋本絵美氏)

 NTTの加入電話を解約する場合は、局番なしの「116」をダイヤルするか、ネットから申し込む。同時に携帯電話の契約も見直したい。

「通話料やデータ通信料はプランによって大きく異なるため、自分に適したプランがどれか見極める必要があります。3か月分の料金明細を準備して、確認しましょう。購入時に、店員に言われるまま『通話かけ放題』『データ容量5GB』、さらに月数百円のオプションサービスをいくつも契約しているケースが多いですが、これらを見直すことで、年間で数万円浮くことも珍しくない」(橋本氏)

住まいの賃貸契約に“いらないサービス”がついていることも

 持ち家を売却して賃貸に引っ越すという“定年後のダウンサイジング”にも、注意すべきポイントがある。

「不動産業者が『引っ越し業者や火災保険を紹介しますよ』と持ちかけてくる場合、マージン込みの価格になりがちなので自分で手配したほうがいい。賃貸契約に年額1万円程度の“24時間駆け付けサービス”などがつけられていることもある。解約して問題ないでしょう」(森田氏)

 年間で10万円単位の支出の見直しが実現できれば、長生きリスクはさらに低減し、「早く年金をもらう」が実践しやすくなる。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/841.html#c23

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
195. 中川隆[-10465] koaQ7Jey 2019年4月30日 15:28:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1622]

倭の五王 - 王位継承と五世紀の東アジア (中公新書) – 2018/1/19
河内 春人 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B-%E7%8E%8B%E4%BD%8D%E7%B6%99%E6%89%BF%E3%81%A8%E4%BA%94%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%B2%B3%E5%86%85-%E6%98%A5%E4%BA%BA/dp/4121024702?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp

内容紹介

倭の五王とは、中国史書『宋書』倭国伝に記された讃・珍・済・興・武を言う。邪馬台国からの交信が途絶えてから1世紀後、中国へ使者を派遣した王たちである。当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が争い、倭もその渦中にあった。本書は、中国史書から、中国”への接近”の意図や状況、倭国内の不安定な王権、文化レベルを解読、天皇と五王との比定などを通し、5世紀の倭の実態を描く。

内容(「BOOK」データベースより)

倭の五王とは、中国史書『宋書』倭国伝に記された讃・珍・済・興・武を言う。邪馬台国による交信が途絶えてから150年を経て、5世紀に中国へ使者を派遣した王たちである。当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が争い、倭もその渦中にあった。本書は、中国への“接近”の意図や状況、倭国内の不安定な王権や文化レベル、『古事記』『日本書紀』における天皇との関係などを中国史書から解読。5世紀の倭や東アジアの実態を描く。


著者について

河内春人(こうち・はるひと)
1970 年東京都生まれ.93 年明治大学文学部卒業.2000 年明治大学大学院博士後期課程中退.2002 年日本学術振興会特別研究員(PD),博士(史学).現在,明治大学・立教大学・中央大学・大東文化大学・首都大学東京など兼任講師. 著書 『東アジア交流史のなかの遣唐使』(汲古書院, 2013 年) 『日本古代君主号の研究――倭国王・天子・天皇』(八木書店,2015 年) 共著 『古代中国・日本における学術と支配 』(同成社,2013 年) 『藤原仲麻呂政権とその時代』(岩田書院,2013 年) 『梁職貢図と東部ユーラシア世界』(勉誠出版,2014 年) 『日本古代の地域と交流』 (塙書房,2016 年) 『日朝関係史』(吉川弘文館,2017 年) 他多数 翻訳 シャルロッテ・フォン・ヴェアシュア著 『モノが語る日本対外交易史 ―― 七〜一六世紀』( 藤原書 店, 2011年)

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち3.0
国際感覚がなければ、日本古代史は理解できない 2018年8月24日

 4世紀初めから、中国大陸の北半分が戦乱で弱体化し(五胡十六国時代)、4世紀後半から、朝鮮半島北部の高句麗が南下すると、5世紀代の日本列島の倭は、半島南中部の伽耶諸国からの鉄資源確保が圧迫されないよう、半島南西部の百済を救援・参戦するとともに、大陸南半分の宋に朝貢しました。

 本書は、6世紀前半成立の中国の歴史書「宋書」に登場する、倭の五王が、5世紀代に、朝鮮半島や中国大陸と、いかに関係したかを、限られた少ない史料にもかかわらず(限られた少ない史料だからこそ、新書の紙面を埋め尽くそうと)、比較的詳細に検討しています。

 歴史学のうち、文献学は、史料批判が必須で、ひとつの史料を、ただ信用するだけだと、もはや信仰の対象としての宗教的な経典や、文学的な神話の読解になってしまうので、本書は、そうならないよう、なるべく複数の史料を照らし合わせ、諸説ある場合には、丁寧に吟味しているのではないでしょうか。

 特に、「日本書紀」は、国内外の様々な書物をもとに、飛鳥後期・天武天皇(40代)の時代に編纂が開始され(681年)、奈良前期・元正天皇(44代)の時代に完成しましたが(720年)、その間の天武系+藤原系の政権の都合がいいように、潤色された箇所も多々あり、それらは、主に3つに大別できます。

 1つめは、歴代天皇の即位では、血筋が正統性の根拠なので、系譜がつながっているように潤色し(ヤマトタケルの息子の14代・仲哀天皇は、父の死から35年後に誕生していて不自然)、中央豪族達も、天皇家の祖先神の家系か、古来より天皇に奉仕していたと潤色することで、正当性を担保しています。

 2つめは、実際よりも以前から、先進的な制度を摂取したり、朝鮮半島へ派兵・支配していたと潤色しており、そうすれば、日本は先進国だと自負できるとともに、先例が国史にあれば、比較的抵抗なく、その制度や派兵を、受け入れやすくなる傾向にあります。

 3つめは、600年から遣隋使、668年から遣新羅使を派遣しましたが、中国とは対等、朝鮮とは優越な関係とし、日本は小帝国だと主張するため、周辺諸国(高句麗・新羅・百済・任那・伴跛/はえ・耽羅/たんら・呉/くれ・蝦夷・隼人・多禰嶋/たねのしま)との外交を、朝貢だと潤色しています。

 このように、「日本書紀」を、そのまま信用するわけにはいかないので、本書での取り扱いは、最低限にしているのでしょう。

 百済と新羅は、4世紀半ばに、実質上建国されましたが、5世紀代は、中央集権化で先行していた高句麗の南下政策で、百済・新羅・倭が、戦争のために、中央集権化しなければならなくなり、国家体制を、「横」の関係から「縦」の関係へと変容させる最初の時期といえます。

 日本の戦国期には、武家・寺社等の様々な勢力が乱立しましたが、極度に集権的だった織田信長が、やや分権的でもあった延暦寺・本願寺を、最後は制圧し、天下統一しており、戦争に中央集権化は、必須なのが実証されています(余談ですが、白村江の合戦もアジア太平洋戦争も、軍隊は、分権的でした)。

 「横」から「縦」への関係切り替えは、国家間の外交でも適用され、高句麗・百済・新羅・倭は、絶対的な地位の、中国への朝貢合戦を繰り広げ、自国が他国よりも優位な地位を確保しようとするとともに、戦争で劣勢になれば、自国の生き残りをかけて、優勢な他国と同盟し、人質も差し出しました。

 ちなみに、百済が、倭へ人質を差し出すようになったのは、高句麗に大敗・屈服した翌年(397年)からで、筆者は、百済の近肖古(きんしょうこ)王(13代)が倭王へ、七支刀を贈与した時期(372年)には、まだ倭と百済が対等な同盟だったと言及しているにすぎません(p.13-14)。

 百済は、七支刀贈与の同年、倭よりも先に、中国南朝・東晋へ朝貢し、近肖古王が、鎮東将軍(将軍号)・領楽浪太守(楽浪郡の長官)を授与しており、国際的には、倭より上の立場で、391年から、倭+百済+伽耶諸国連合軍は、高句麗+新羅連合軍と、朝鮮半島で、断続的に戦争しています。

 そのうえ、百済は、腆支(てんし)王(18代)も、東晋に朝貢し(416年)、使持節(中国皇帝から委譲された特権)・都督百済諸軍事(軍政権)・鎮東将軍・百済王(民政権)を授与しました。

 そののち、東晋が滅亡、宋が建国されると(420年)、高句麗王は、征東大将軍、百済王は、鎮東大将軍に昇格した一方、倭の讃は、その翌年(421年)に、はじめて宋に朝貢し、官爵(倭国王・安東将軍)を授与しましたが、中国への朝貢は、新羅(377年に前秦へ、高句麗も同行)よりも後発です。

 南朝・宋にとっての百済は、両国で北朝を挟み込む、重要な位置にあったので(高句麗も同様)、それ以降の倭の珍→済→興→武が、都督百済諸軍事を要求しても、宋に却下され、国際的には、高句麗・百済より下の立場のままでした(序列は、上から車騎→征東→鎮東→安東、大将軍→将軍の順)。

 しかも、当時の人質は、日本の戦国期のように、政治の役に立たない女性や子供・老人等だけではなく、政治の役に立つ男性を、連携相手へ差し出すこともあると明記しており(p.44-45)、新羅から倭への人質・金春秋(のちの29代・武烈王)は、当時46歳と働き盛りでした。

 また、新羅は、高句麗(392・412年)と倭(402年)の双方へ、人質を差し出しており、当時の戦況の相当な劣勢が読み取れますが、逆に、その程度の「ゆるい主従関係」ともいえ、高句麗も、宋(420年)と北魏(435年)の中国南朝・北朝両方に朝貢し、北魏の皇帝に指摘されても、中止していません。

 さらに、新羅による、392年の高句麗への人質は、のちの実聖(じっせい)王(18代)、412年の高句麗への人質と402年の倭への人質は、奈勿(なこつ)王(17代)の息子、百済による、397年の倭への人質は、のちの腆支王(18代)、461年の倭への人質は、蓋鹵(がいろ)王(21代)の息子か弟です。

 つまり、将来、政権の中枢に有望な王族を抱え込めば、長年にわたる円滑な連携も期待でき、当時の朝鮮半島と日本列島では、国外的にも、国内的にも、まだ序列(秩序)が明確になっていませんでした。

 そして、5世紀代の倭は、朝鮮半島を実効支配するために渡海したのではなく、軍事援助するかわりに、百済・伽耶諸国が、知識人・技術者(渡来人)や鉄素材・先進文物等を提供する、一種の交易といえ、水田稲作(開墾・治水・灌漑施設の整備)・古墳造営等に、大量に鉄器具が必要でした。

 武士の君臣間での御恩と奉公の関係では、戦勝による領地獲得がないと、主従関係が成立・維持できませんが、ここでは、交易なので、派兵すれば、勝敗にかかわらず、知識人・技術者や鉄素材・先進文物等が取得でき、倭王を窓口に、各地の豪族達へ分配することで、先進文化が発達しました。

 これを突き詰めると、戦時の朝鮮半島では、日本列島から将軍・兵士が流入し、平時の日本列島では、朝鮮半島から農民・職人が流入することで(難民も)、日本列島には「民」による平和、朝鮮半島には「軍」による動乱と二分化し、双方を商人が往来するという構図になっていたのではないでしょうか。

 私達が注意しなければいけないのは、近代日本の極度な中央集権や、「きつい主従関係」の知識(偏見)が抜け切らないため、それを過去にも投影しがちなことで、それは、おそらく古代日本の、いつの時点でも同様で、地方分権から中央集権への過渡期を、段階的にイメージしなければいけません。

 珍が倭の隋ら13人(平西・征虜・冠軍・輔国は、珍の安東と同等の3品で、平西は安東の1級下、征虜は平西の2級下、征虜→冠軍→輔国と各1級下)、済が23人と、連名で将軍号を要求したのも、倭王がまだ、有力豪族達の盟主(代表)程度の存在で、地方分権が濃厚だった証拠です。

 古代日本の中央集権化は、5世紀後半の雄略天皇(21代)の時代→6世紀半ばの欽明天皇(29代)の時代→7世紀前半の推古天皇(33代)の時代→7世紀半ばの天智天皇(38代)の時代→7世紀後半の天武・持統の2天皇(40・41代)の時代と、約200年で徐々に推進されました。

 中央集権化に、このような期間がかかったのは、海外から日本列島へ攻め込まれる心配がなかったからですが、白村江の合戦(663年)の大敗後、はじめて危機となり、急速に推進され、壬申の乱(672年)で、政権の中枢にいた有力豪族達が一掃されたため、天武天皇に権威・権力が集中できました。

 筆者が主張したかったのは、総体的には、倭の五王を歴代天皇に比定するのは、現状では大変困難だということ、局所的には、[1]珍から済への継承での王統移動、[2]武=雄略天皇(21代、ワカタケル)説への疑問、[3]5世紀代の始祖王=応神天皇(15代、ホムタワケ)説です。

 それに、大前提として、まず、武による、宋の皇帝への上表文に、「東のかた毛人55国を征し、西のかた衆夷66国を服し、渡りて海北95国を平らぐ。」とあるため、武の政権は、日本列島の中央付近にあったとみるのが自然です。

 7世紀半ば成立の「隋書」倭国伝には、国造(軍尼/くに=国)120人、9世紀初め〜10世紀初め成立の「先代旧事本紀」には、国造家135氏とあるので、東55+西66=121ヶ国と、おおむね合致します。

 つぎに、5世紀までに造営された、全長200m以上の巨大古墳35基は、大和19基、河内6基、和泉5基と(備前2基、摂津・上野・丹後が各1基)、大半が畿内に分布しており、巨大古墳の造営には、大量の鉄器具が必要なので、鉄資源の確保を主導した倭の五王は、畿内の政権だと推測できます。

 筆者も、3世紀後半からの、大和東側の大和・柳本古墳群→大和北側の佐紀古墳群+大和西側馬見古墳群→河内の古市古墳群+和泉の百舌鳥古墳群の変遷を、取り上げており(p.14-17)、5世紀代の畿内の政権が、大和を既成地の後方拠点、河内・和泉を新開地の前方拠点としたのに、異論ないでしょう。

 [1]については、珍は、安東将軍で、倭の隋は、そのわずか1級下の平西将軍と推測でき、筆者は、珍と済に続柄の記載がないので、そこから倭の隋が、珍と対立する済の勢力だとし、珍の勢力と、済+倭の隋の勢力を、古市古墳群(安東)と、百舌鳥古墳群(平西)に、結び付けているようです(p.95-98)。

 [2]については、筆者は、5世紀半ば造営の稲荷台1号墳(千葉県市原市)出土の鉄剣での「王」を、珍か済と推定し、5世紀後半造営の稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土の鉄剣と江田船山古墳(熊本県和水町)出土の鉄刀での、ワカタケルの「大王」とは区別しています(p.98-100)。

 ところが、記紀神話以前の7世紀成立とされる「上宮(じょうぐう)記」の逸文(「釈日本紀」)によると、垂仁天皇(11代)には「大王」、応神天皇(15代)には「王」、継体天皇(26代)には「大公王」が使用されているので、「大王」は、尊称にすぎないと導き出せます。

 むしろ、稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の鉄刀での、「治天下」を重要視すべきですが、「治天下」とは、中国皇帝のように、天下(世界)を統治する唯一の王を意味するので、武=雄略天皇説だと、武が478年に宋へ朝貢、臣下と官爵を要求し、宋の権威に依拠するのと矛盾します。

 しかし、雄略天皇は、稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の鉄刀により、5世紀後半に、関東南部から九州北部にかけて、統治していたと推測でき、5世紀代で唯一、実在性が確実視されています。

 よって、倭の五王の一人に、雄略天皇が該当しないか、武=雄略天皇なら、国外的には、中国へ朝貢・従属、国内的には、「治天下」の王だと使い分けていたか、当初は、朝貢・従属していたのを、途中で、「治天下」の王へと路線変更したかの、いずれかとみるしかありません。

 ただし、筆者は、倭が中国への朝貢を打ち切ったのを、権力を天皇に集中できたからでなく、宋の滅亡・南斉の権威低下と、王位継承での混乱としています。

 [3]については、「古事記」では、百済の近肖古王から応神天皇へ、横刀(たち)・大鏡が贈与され(「日本書紀」では、近肖古王から神功皇后へ、七枝刀・七子鏡が授与)、百済との外交開始が応神天皇なので、中興の祖的に位置づけています。

 一方、武による、宋の皇帝への上表文での、祖・禰(でい)=仁徳天皇(16代)説もあり、そこでは、讃=履中天皇(17代)、珍=反正天皇(18代)、済=允恭天皇(19代)、興=安康天皇(20代)、武=雄略天皇に比定されています。

 ですが、応神天皇と仁徳天皇は、記紀神話に事績の重複があるので、同一人物説もあり、結局、筆者は、倭の五王を厳密に検討し、比定できないと結論づけたにもかかわらず、記紀神話を安直に持ち出し、5世紀代の始祖王=応神天皇とするのには、到底納得できません。

 それよりも、応神天皇の5世孫が、王統断絶後の継体天皇(26代)で、この家系が、現在まで皇位継承されており、応神天皇を八幡神と同一視され、皇祖神としても崇拝されているだけで、実在性が確実視されていません。

 もし、記紀神話を信用できないとするのなら、実際には、王統移動しているのに、親子間や兄弟間で王位継承しているように、潤色している痕跡を発見するほうが得策で、「日本書紀」での気になる点は、次に示す通りです。

‐允恭の父・仁徳天皇、允恭の同母兄・反正天皇と、允恭天皇から王統断絶(25代)まで、年齢が算定できない(履中天皇以外)
‐反正天皇以前は、皇太子が王位継承していたが、允恭天皇で、はじめて群臣の推挙によって即位(仁徳天皇の即位は、皇太子が自殺したので例外)
‐允恭天皇の名前に、近臣を意味する「宿禰(すくね)」が含まれ、允恭の同母兄の履中・反正の2天皇の「別(わけ)」と異なる
‐反正天皇の事績が、わずかしかない(「古事記」も同様)

 どうも、珍=反正天皇と済=允恭天皇の間に、何かありそうです。

 最後に、文章や巻末の簡素な年表だけだと、全体像が把握しにくいので、中国(北朝・南朝)・高句麗・百済・新羅・倭の欄を別々にした、年表を冒頭に掲載してくれれば、朝貢・同盟・攻撃・救援等の様子が、もっとわかりやすくなったのではないでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RNBFVRDJ1WONB?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c195

[お知らせ・管理21] 2019年04月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
172. 中川隆[-10464] koaQ7Jey 2019年4月30日 15:55:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1623]
>>170
>文字列の横に「-〇〇」と付いていて他の人には付いてなかったので「なんだこれ?」とそうしてリロードしてみたらコメント削除

体制側に都合が悪い事を書くと文字列の横に「-〇〇」と付くんだよ:


センメルヴェイス反射 _ 真理の徒は石もて追われ

何故 MMT はこんなにも批判されるのか?

「日本の未来を考える勉強会」ーよくわかるMMT(現代貨幣理論)解説
平成31年4月22日 講師:評論家 中野 剛志氏 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=LJWGAp144ak

の最後にセンメルヴェイス反射について触れられています。


▲△▽▼

センメルヴェイス反射(Semmelweis reflex)は、通説にそぐわない新事実を拒絶する傾向、常識から説明できない事実を受け入れがたい傾向のことを指す。

この用語は、オーストリアのウィーン総合病院産科に勤務していた医師センメルヴェイス・イグナーツが産褥熱、今日で言う接触感染の可能性に気づき、その予防法として医師のカルキを使用した手洗いを提唱するものの存命中はその方法論が理解されず大きな排斥を受け不遇な人生のまま生涯を終えた史実に由来する。

僕がここで嫌われているのもセンメルヴェイス反射なんだな


http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/553.html#c172

[近代史02] 弥生人の起源2 中川隆
30. 中川隆[-10463] koaQ7Jey 2019年4月30日 16:03:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1624]


倭の五王 - 王位継承と五世紀の東アジア (中公新書) – 2018/1/19
河内 春人 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B-%E7%8E%8B%E4%BD%8D%E7%B6%99%E6%89%BF%E3%81%A8%E4%BA%94%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%B2%B3%E5%86%85-%E6%98%A5%E4%BA%BA/dp/4121024702?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp


内容紹介

倭の五王とは、中国史書『宋書』倭国伝に記された讃・珍・済・興・武を言う。邪馬台国からの交信が途絶えてから1世紀後、中国へ使者を派遣した王たちである。当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が争い、倭もその渦中にあった。本書は、中国史書から、中国”への接近”の意図や状況、倭国内の不安定な王権、文化レベルを解読、天皇と五王との比定などを通し、5世紀の倭の実態を描く。


内容(「BOOK」データベースより)

倭の五王とは、中国史書『宋書』倭国伝に記された讃・珍・済・興・武を言う。邪馬台国による交信が途絶えてから150年を経て、5世紀に中国へ使者を派遣した王たちである。当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が争い、倭もその渦中にあった。本書は、中国への“接近”の意図や状況、倭国内の不安定な王権や文化レベル、『古事記』『日本書紀』における天皇との関係などを中国史書から解読。5世紀の倭や東アジアの実態を描く。


著者について

河内春人(こうち・はるひと)
1970 年東京都生まれ.93 年明治大学文学部卒業.2000 年明治大学大学院博士後期課程中退.2002 年日本学術振興会特別研究員(PD),博士(史学).現在,明治大学・立教大学・中央大学・大東文化大学・首都大学東京など兼任講師. 著書 『東アジア交流史のなかの遣唐使』(汲古書院, 2013 年) 『日本古代君主号の研究――倭国王・天子・天皇』(八木書店,2015 年) 共著 『古代中国・日本における学術と支配 』(同成社,2013 年) 『藤原仲麻呂政権とその時代』(岩田書院,2013 年) 『梁職貢図と東部ユーラシア世界』(勉誠出版,2014 年) 『日本古代の地域と交流』 (塙書房,2016 年) 『日朝関係史』(吉川弘文館,2017 年) 他多数 翻訳 シャルロッテ・フォン・ヴェアシュア著 『モノが語る日本対外交易史 ―― 七〜一六世紀』( 藤原書 店, 2011年)


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち3.0
国際感覚がなければ、日本古代史は理解できない 2018年8月24日

 4世紀初めから、中国大陸の北半分が戦乱で弱体化し(五胡十六国時代)、4世紀後半から、朝鮮半島北部の高句麗が南下すると、5世紀代の日本列島の倭は、半島南中部の伽耶諸国からの鉄資源確保が圧迫されないよう、半島南西部の百済を救援・参戦するとともに、大陸南半分の宋に朝貢しました。

 本書は、6世紀前半成立の中国の歴史書「宋書」に登場する、倭の五王が、5世紀代に、朝鮮半島や中国大陸と、いかに関係したかを、限られた少ない史料にもかかわらず(限られた少ない史料だからこそ、新書の紙面を埋め尽くそうと)、比較的詳細に検討しています。

 歴史学のうち、文献学は、史料批判が必須で、ひとつの史料を、ただ信用するだけだと、もはや信仰の対象としての宗教的な経典や、文学的な神話の読解になってしまうので、本書は、そうならないよう、なるべく複数の史料を照らし合わせ、諸説ある場合には、丁寧に吟味しているのではないでしょうか。

 特に、「日本書紀」は、国内外の様々な書物をもとに、飛鳥後期・天武天皇(40代)の時代に編纂が開始され(681年)、奈良前期・元正天皇(44代)の時代に完成しましたが(720年)、その間の天武系+藤原系の政権の都合がいいように、潤色された箇所も多々あり、それらは、主に3つに大別できます。

 1つめは、歴代天皇の即位では、血筋が正統性の根拠なので、系譜がつながっているように潤色し(ヤマトタケルの息子の14代・仲哀天皇は、父の死から35年後に誕生していて不自然)、中央豪族達も、天皇家の祖先神の家系か、古来より天皇に奉仕していたと潤色することで、正当性を担保しています。

 2つめは、実際よりも以前から、先進的な制度を摂取したり、朝鮮半島へ派兵・支配していたと潤色しており、そうすれば、日本は先進国だと自負できるとともに、先例が国史にあれば、比較的抵抗なく、その制度や派兵を、受け入れやすくなる傾向にあります。

 3つめは、600年から遣隋使、668年から遣新羅使を派遣しましたが、中国とは対等、朝鮮とは優越な関係とし、日本は小帝国だと主張するため、周辺諸国(高句麗・新羅・百済・任那・伴跛/はえ・耽羅/たんら・呉/くれ・蝦夷・隼人・多禰嶋/たねのしま)との外交を、朝貢だと潤色しています。

 このように、「日本書紀」を、そのまま信用するわけにはいかないので、本書での取り扱いは、最低限にしているのでしょう。

 百済と新羅は、4世紀半ばに、実質上建国されましたが、5世紀代は、中央集権化で先行していた高句麗の南下政策で、百済・新羅・倭が、戦争のために、中央集権化しなければならなくなり、国家体制を、「横」の関係から「縦」の関係へと変容させる最初の時期といえます。

 日本の戦国期には、武家・寺社等の様々な勢力が乱立しましたが、極度に集権的だった織田信長が、やや分権的でもあった延暦寺・本願寺を、最後は制圧し、天下統一しており、戦争に中央集権化は、必須なのが実証されています(余談ですが、白村江の合戦もアジア太平洋戦争も、軍隊は、分権的でした)。

 「横」から「縦」への関係切り替えは、国家間の外交でも適用され、高句麗・百済・新羅・倭は、絶対的な地位の、中国への朝貢合戦を繰り広げ、自国が他国よりも優位な地位を確保しようとするとともに、戦争で劣勢になれば、自国の生き残りをかけて、優勢な他国と同盟し、人質も差し出しました。

 ちなみに、百済が、倭へ人質を差し出すようになったのは、高句麗に大敗・屈服した翌年(397年)からで、筆者は、百済の近肖古(きんしょうこ)王(13代)が倭王へ、七支刀を贈与した時期(372年)には、まだ倭と百済が対等な同盟だったと言及しているにすぎません(p.13-14)。

 百済は、七支刀贈与の同年、倭よりも先に、中国南朝・東晋へ朝貢し、近肖古王が、鎮東将軍(将軍号)・領楽浪太守(楽浪郡の長官)を授与しており、国際的には、倭より上の立場で、391年から、倭+百済+伽耶諸国連合軍は、高句麗+新羅連合軍と、朝鮮半島で、断続的に戦争しています。

 そのうえ、百済は、腆支(てんし)王(18代)も、東晋に朝貢し(416年)、使持節(中国皇帝から委譲された特権)・都督百済諸軍事(軍政権)・鎮東将軍・百済王(民政権)を授与しました。

 そののち、東晋が滅亡、宋が建国されると(420年)、高句麗王は、征東大将軍、百済王は、鎮東大将軍に昇格した一方、倭の讃は、その翌年(421年)に、はじめて宋に朝貢し、官爵(倭国王・安東将軍)を授与しましたが、中国への朝貢は、新羅(377年に前秦へ、高句麗も同行)よりも後発です。

 南朝・宋にとっての百済は、両国で北朝を挟み込む、重要な位置にあったので(高句麗も同様)、それ以降の倭の珍→済→興→武が、都督百済諸軍事を要求しても、宋に却下され、国際的には、高句麗・百済より下の立場のままでした(序列は、上から車騎→征東→鎮東→安東、大将軍→将軍の順)。

 しかも、当時の人質は、日本の戦国期のように、政治の役に立たない女性や子供・老人等だけではなく、政治の役に立つ男性を、連携相手へ差し出すこともあると明記しており(p.44-45)、新羅から倭への人質・金春秋(のちの29代・武烈王)は、当時46歳と働き盛りでした。

 また、新羅は、高句麗(392・412年)と倭(402年)の双方へ、人質を差し出しており、当時の戦況の相当な劣勢が読み取れますが、逆に、その程度の「ゆるい主従関係」ともいえ、高句麗も、宋(420年)と北魏(435年)の中国南朝・北朝両方に朝貢し、北魏の皇帝に指摘されても、中止していません。

 さらに、新羅による、392年の高句麗への人質は、のちの実聖(じっせい)王(18代)、412年の高句麗への人質と402年の倭への人質は、奈勿(なこつ)王(17代)の息子、百済による、397年の倭への人質は、のちの腆支王(18代)、461年の倭への人質は、蓋鹵(がいろ)王(21代)の息子か弟です。

 つまり、将来、政権の中枢に有望な王族を抱え込めば、長年にわたる円滑な連携も期待でき、当時の朝鮮半島と日本列島では、国外的にも、国内的にも、まだ序列(秩序)が明確になっていませんでした。

 そして、5世紀代の倭は、朝鮮半島を実効支配するために渡海したのではなく、軍事援助するかわりに、百済・伽耶諸国が、知識人・技術者(渡来人)や鉄素材・先進文物等を提供する、一種の交易といえ、水田稲作(開墾・治水・灌漑施設の整備)・古墳造営等に、大量に鉄器具が必要でした。

 武士の君臣間での御恩と奉公の関係では、戦勝による領地獲得がないと、主従関係が成立・維持できませんが、ここでは、交易なので、派兵すれば、勝敗にかかわらず、知識人・技術者や鉄素材・先進文物等が取得でき、倭王を窓口に、各地の豪族達へ分配することで、先進文化が発達しました。

 これを突き詰めると、戦時の朝鮮半島では、日本列島から将軍・兵士が流入し、平時の日本列島では、朝鮮半島から農民・職人が流入することで(難民も)、日本列島には「民」による平和、朝鮮半島には「軍」による動乱と二分化し、双方を商人が往来するという構図になっていたのではないでしょうか。

 私達が注意しなければいけないのは、近代日本の極度な中央集権や、「きつい主従関係」の知識(偏見)が抜け切らないため、それを過去にも投影しがちなことで、それは、おそらく古代日本の、いつの時点でも同様で、地方分権から中央集権への過渡期を、段階的にイメージしなければいけません。

 珍が倭の隋ら13人(平西・征虜・冠軍・輔国は、珍の安東と同等の3品で、平西は安東の1級下、征虜は平西の2級下、征虜→冠軍→輔国と各1級下)、済が23人と、連名で将軍号を要求したのも、倭王がまだ、有力豪族達の盟主(代表)程度の存在で、地方分権が濃厚だった証拠です。

 古代日本の中央集権化は、5世紀後半の雄略天皇(21代)の時代→6世紀半ばの欽明天皇(29代)の時代→7世紀前半の推古天皇(33代)の時代→7世紀半ばの天智天皇(38代)の時代→7世紀後半の天武・持統の2天皇(40・41代)の時代と、約200年で徐々に推進されました。

 中央集権化に、このような期間がかかったのは、海外から日本列島へ攻め込まれる心配がなかったからですが、白村江の合戦(663年)の大敗後、はじめて危機となり、急速に推進され、壬申の乱(672年)で、政権の中枢にいた有力豪族達が一掃されたため、天武天皇に権威・権力が集中できました。

 筆者が主張したかったのは、総体的には、倭の五王を歴代天皇に比定するのは、現状では大変困難だということ、局所的には、[1]珍から済への継承での王統移動、[2]武=雄略天皇(21代、ワカタケル)説への疑問、[3]5世紀代の始祖王=応神天皇(15代、ホムタワケ)説です。

 それに、大前提として、まず、武による、宋の皇帝への上表文に、「東のかた毛人55国を征し、西のかた衆夷66国を服し、渡りて海北95国を平らぐ。」とあるため、武の政権は、日本列島の中央付近にあったとみるのが自然です。

 7世紀半ば成立の「隋書」倭国伝には、国造(軍尼/くに=国)120人、9世紀初め〜10世紀初め成立の「先代旧事本紀」には、国造家135氏とあるので、東55+西66=121ヶ国と、おおむね合致します。

 つぎに、5世紀までに造営された、全長200m以上の巨大古墳35基は、大和19基、河内6基、和泉5基と(備前2基、摂津・上野・丹後が各1基)、大半が畿内に分布しており、巨大古墳の造営には、大量の鉄器具が必要なので、鉄資源の確保を主導した倭の五王は、畿内の政権だと推測できます。

 筆者も、3世紀後半からの、大和東側の大和・柳本古墳群→大和北側の佐紀古墳群+大和西側馬見古墳群→河内の古市古墳群+和泉の百舌鳥古墳群の変遷を、取り上げており(p.14-17)、5世紀代の畿内の政権が、大和を既成地の後方拠点、河内・和泉を新開地の前方拠点としたのに、異論ないでしょう。

 [1]については、珍は、安東将軍で、倭の隋は、そのわずか1級下の平西将軍と推測でき、筆者は、珍と済に続柄の記載がないので、そこから倭の隋が、珍と対立する済の勢力だとし、珍の勢力と、済+倭の隋の勢力を、古市古墳群(安東)と、百舌鳥古墳群(平西)に、結び付けているようです(p.95-98)。

 [2]については、筆者は、5世紀半ば造営の稲荷台1号墳(千葉県市原市)出土の鉄剣での「王」を、珍か済と推定し、5世紀後半造営の稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土の鉄剣と江田船山古墳(熊本県和水町)出土の鉄刀での、ワカタケルの「大王」とは区別しています(p.98-100)。

 ところが、記紀神話以前の7世紀成立とされる「上宮(じょうぐう)記」の逸文(「釈日本紀」)によると、垂仁天皇(11代)には「大王」、応神天皇(15代)には「王」、継体天皇(26代)には「大公王」が使用されているので、「大王」は、尊称にすぎないと導き出せます。

 むしろ、稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の鉄刀での、「治天下」を重要視すべきですが、「治天下」とは、中国皇帝のように、天下(世界)を統治する唯一の王を意味するので、武=雄略天皇説だと、武が478年に宋へ朝貢、臣下と官爵を要求し、宋の権威に依拠するのと矛盾します。

 しかし、雄略天皇は、稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の鉄刀により、5世紀後半に、関東南部から九州北部にかけて、統治していたと推測でき、5世紀代で唯一、実在性が確実視されています。

 よって、倭の五王の一人に、雄略天皇が該当しないか、武=雄略天皇なら、国外的には、中国へ朝貢・従属、国内的には、「治天下」の王だと使い分けていたか、当初は、朝貢・従属していたのを、途中で、「治天下」の王へと路線変更したかの、いずれかとみるしかありません。

 ただし、筆者は、倭が中国への朝貢を打ち切ったのを、権力を天皇に集中できたからでなく、宋の滅亡・南斉の権威低下と、王位継承での混乱としています。

 [3]については、「古事記」では、百済の近肖古王から応神天皇へ、横刀(たち)・大鏡が贈与され(「日本書紀」では、近肖古王から神功皇后へ、七枝刀・七子鏡が授与)、百済との外交開始が応神天皇なので、中興の祖的に位置づけています。

 一方、武による、宋の皇帝への上表文での、祖・禰(でい)=仁徳天皇(16代)説もあり、そこでは、讃=履中天皇(17代)、珍=反正天皇(18代)、済=允恭天皇(19代)、興=安康天皇(20代)、武=雄略天皇に比定されています。

 ですが、応神天皇と仁徳天皇は、記紀神話に事績の重複があるので、同一人物説もあり、結局、筆者は、倭の五王を厳密に検討し、比定できないと結論づけたにもかかわらず、記紀神話を安直に持ち出し、5世紀代の始祖王=応神天皇とするのには、到底納得できません。

 それよりも、応神天皇の5世孫が、王統断絶後の継体天皇(26代)で、この家系が、現在まで皇位継承されており、応神天皇を八幡神と同一視され、皇祖神としても崇拝されているだけで、実在性が確実視されていません。

 もし、記紀神話を信用できないとするのなら、実際には、王統移動しているのに、親子間や兄弟間で王位継承しているように、潤色している痕跡を発見するほうが得策で、「日本書紀」での気になる点は、次に示す通りです。

‐允恭の父・仁徳天皇、允恭の同母兄・反正天皇と、允恭天皇から王統断絶(25代)まで、年齢が算定できない(履中天皇以外)
‐反正天皇以前は、皇太子が王位継承していたが、允恭天皇で、はじめて群臣の推挙によって即位(仁徳天皇の即位は、皇太子が自殺したので例外)
‐允恭天皇の名前に、近臣を意味する「宿禰(すくね)」が含まれ、允恭の同母兄の履中・反正の2天皇の「別(わけ)」と異なる
‐反正天皇の事績が、わずかしかない(「古事記」も同様)

 どうも、珍=反正天皇と済=允恭天皇の間に、何かありそうです。

 最後に、文章や巻末の簡素な年表だけだと、全体像が把握しにくいので、中国(北朝・南朝)・高句麗・百済・新羅・倭の欄を別々にした、年表を冒頭に掲載してくれれば、朝貢・同盟・攻撃・救援等の様子が、もっとわかりやすくなったのではないでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RNBFVRDJ1WONB?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp



http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/549.html#c30

[近代史3] 知ってはいけない真実 _ 阿修羅でアクセスを禁止されているサイト 中川隆
5. 中川隆[-10462] koaQ7Jey 2019年4月30日 16:16:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1625]


阿修羅掲示板では体制側に都合が悪い記事にアクセスできない:

センメルヴェイス反射 _ 真理の徒は石もて追われ


何故 MMT はこんなにも批判されるのか?

「日本の未来を考える勉強会」ーよくわかるMMT(現代貨幣理論)解説
平成31年4月22日 講師:評論家 中野 剛志氏 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=LJWGAp144ak

の最後にセンメルヴェイス反射について触れられています。


▲△▽▼

センメルヴェイス反射(Semmelweis reflex)は、通説にそぐわない新事実を拒絶する傾向、常識から説明できない事実を受け入れがたい傾向のことを指す。

この用語は、オーストリアのウィーン総合病院産科に勤務していた医師センメルヴェイス・イグナーツが産褥熱、今日で言う接触感染の可能性に気づき、その予防法として医師のカルキを使用した手洗いを提唱するものの存命中はその方法論が理解されず大きな排斥を受け不遇な人生のまま生涯を終えた史実に由来する。


僕が阿修羅掲示板で嫌われているのもセンメルヴェイス反射なんだな


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/377.html#c5

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
94. 中川隆[-10461] koaQ7Jey 2019年4月30日 17:10:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1626]

昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=NQhVOTS0j7A

「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、

エ・・・・・、エ・・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、

エー、広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」

1975年10月31日、日本記者クラブ主催「昭和天皇公式記者会見」


▲△▽▼


日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた – YouTube動画
http://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes


「世界大戦は私のせいで多くの人が死んだ?

あ、そう! だから何? 」

昭和天皇の身代わりになって処刑された東条英機

御文庫といって天皇の宮殿の地下深くに御文庫を作り

そこに大本営を置いて天皇が参謀たちを集め図面を置いて

毎日毎日、今度はここ行けここ行けと指図をするわけ

それを指図ができると東条英機が受けてですねやるわけです

だから参謀たちが天皇を大参謀に、参謀たちが戦争計画を作り、それを東条に渡すわけです

東条英機は大文庫に、御文庫の中には入れないわけです

他の連中も

そういうシステムで戦争が進んでいく訳です

____


ゴマすり東条さんは毎日三回は 昭和天皇の所へ顔を出して、御用聞きしてたんだ

それである日、昭和天皇が真珠湾を攻撃しろと言ったんで、へいへいとその通りにしたというのが真実

関係者はみんな八百長戦争だと見破られると困るから真剣に戦った様に見せたかったんだよ:


日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。

アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c94

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
17. 中川隆[-10460] koaQ7Jey 2019年4月30日 18:33:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1627]

2019年04月30日
中国の田舎事情 年収3万円の農村生活とは


中国の農村では年収5万円以下で生きている人が大勢いる


中国の田舎は日本とはレベルが違う

日本のマスコミによると中国と言えばもの凄く発展していて、買い物の9割はキャッシュレスで現金はまったく使われていない。

中国人はみんな高収入になり日本人より豊かになったので、海外旅行で爆買いしているという。

それらの1%くらいは事実だが99%くらいは誇張で、特に豊かな人と貧しい人の差が大きい。



豊かな人は都会に多く、田舎では貧しい人が多く、マスコミ人は都会で遊んで「取材した」と称して記事を書く。

上海の繁華街や深センとかの工業地帯を案内されて、日本に帰ると「中国は素晴らしい」と連呼するようになる。

渋谷と道頓堀を歩いて帰る外国人観光客と変わらず、遊ぶ金は会社持ちなので自腹は切っていない。


それはともかく上海や北京の「年収が日本より上」と言う人がいて、本当だとすると大変な事になる。

中国の平均年収はGDPから推測すると70万から80万円なので、上海や北京が平均500万だったら、他に10万以下の人が無数に存在することになる。

平均とはそういうもので、「中国で資産家が急増」して平均値が少ししか増えていないなら、貧しい人が急増していることになる。


中国の農民の平均年収は公表していた2015年ごろは7万円から10万円以下でした。

農民戸籍を持つ人が9億人、農民人口は約2億人程度と考えられ、農村戸籍でありながら都会で出稼ぎしている人も多い。

農民2億人の平均年収が10万円という事は、大都市周辺では100万円以上も珍しくないので、逆に5万円以下も多い事になる。

中国限界農民の現実

実際に中国には年収5万円以下の人が数千万人存在し、その多くが奥地の農民だといわれている。

大都市には年収数百万円のITサラリーマンが居る一方で、雲南省やウイグルやチベットや内モンゴルには年収2万円の人がいる。

超貧困地帯は旧ウイグルや旧チベットや旧モンゴルのように、本来中国の領土ではなかった地域に多い。


これら異民族は漢民族ではないとみなされて、反乱を防ぐため意図的に貧困状態に置かれている。

たとえばウイグルではウイグル人は電車に乗れず旅行できず、学校や幼稚園にも通えず、大手企業への就職も禁止されている。

これでは農民以外できないし、農民として生産性を上げたり収入を増やす方法もない。


その一方で上海や北京近郊の漢民族の大農場では、都会向けの農作物を栽培して会社化し大儲けをしている。

年収3万円の生活がどんなものかというと、食料は自分の農地で育てたものを食べ、物々交換でも手に入れる。

農作物との交換で服などを手に入れたり、市場で売って多少の現金になることもある、


市場原理が導入された結果、大都市の年金は月5万円だが、貧しい農村の年金は月1000円しかもらえない。

中国では一人っ子政策があり、現在は2人っ子政策に移行したが、実はどちらも金さえ払えば2人目や3人目の子供をつくれる。

金が無いのに2人目や3人目を作ると、年収3万円の人には到底払えない罰金が科せられる。


早い話「漢民族以外は子供を産むな」という政策で、生まれた子供の多くが無戸籍になっている。

無戸籍の人は最低限の権利すら認められず、一生涯年収3万円のままになる。

キャッシュレスがこれに追い打ちをかけていて、年収3万円の人は銀行口座やスマホがない。


今までは出来ていた最低限の買い物すらできないので、物々交換経済に逆戻りしている。
http://www.thutmosev.com/archives/79692633.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c17

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