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2013年9月12日13時40分 〜
記事 [経世済民82] 日本株下落、円安一服し輸出安い−「五輪相場」反動で証券も (ブルームバーグ) 
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-MSZGQV0D9L3601.html
2013/09/12 12:11 JST  

  9月12日(ブルームバーグ):午前の東京株式相場は下落。為替の円安一服が響いたほか、米金融政策への不透明感も残り、自動車やゴム製品、精密機器など輸出関連株が売られた。チャート分析などから見た短期過熱感もあり、「五輪相場」で週初の急騰ぶりが顕著だった証券、不動産株も安い。

TOPIX の午前終値は前日比6.06ポイント(0.5%)安の1183.19、日経平均株価 は42円15銭(0.3%)安の1万4382円92銭。

豪IGマーケッツのチーフ市場ストラテジスト、クリス・ウェストン氏は「イベントリスクが依然残っており、私は先行きをまだかなり警戒している」と話していた。

午前の東京外国為替市場では1ドル=99円台半ば、1ユーロ=132円台半ばと、前日の東京株式市場終了時の100円44銭近辺、133円10銭付近から円高方向に振れた。日本時間午前10時30分すぎに公表された7月の豪雇用者数が予想外に減少、豪ドル安が進んだ影響もあった。

また、日経平均は週初からの3日続伸で564円(4.1%)上昇、25日移動平均線からの上方乖離(かいり)率が11日時点で5%と上昇ピッチの速さ、短期過熱への警戒感が出やすい状況。あすには株価指数先物・オプションの特別清算値(SQ)算出、来週には米国の金融政策を占う連邦公開市場委員会(FOMC)の開催も控え、積極的な買いが入りづらい中、持ち高整理の売り圧力に押された。

いちよしアセットマネジメントの秋野充成執行役員は、「東京五輪決定を受けた関連銘柄を買う動きがいったん消化され、為替の円安一服で輸出関連株も手掛けにくい」と指摘。来週のFOMC)待ちのムードが強まってきた、とも言う。

三菱自、シャープ売られる

東証1部33業種は証券・商品先物取引、ゴム、輸送用機器、医薬品、精密、パルプ・紙、不動産、サービス、その他金融、電気・ガスなど25業種が下落。証券、不動産は前日までの3日間の上昇率上位に並んでおり、売り対象になりやすかった。売買代金上位では、2013年度中に2000億円規模の公募増資を実施する方針を固めた、と12日付の日本経済新聞で報じられた三菱自動車が1株価値の希薄化懸念で下落。増資観測のシャープも売られ、ソニーによる保有株一部の売却でエムスリーは急落した。このほか近畿日本鉄道、野村ホールディングス、日東電工、三井不動産、村田製作所、富士重工業、ヤマダ電機も安い。

半面、鉱業や海運、石油・石炭製品、空運、倉庫・運輸、水産・農林など8業種は上昇。個別ではコマツ、ファーストリテイリング、川崎汽船、商船三井、国際石油開発帝石、東洋埠頭が高い。海運株には、ばら積み船の国際運賃市況であるバルチック海運指数が11日に5.7%高と8連騰するプラス材料があった。

内閣府が取引開始前に発表した7月の機械受注統計によると、民間設備投資の先行指標となる「船舶・電力を除く民需」は前月比ほぼ横ばいの7772億円。ブルームバーグの事前調査によるアナリスト予想は前月比2.4%増で、発表値は下振れた。ただ、大和証券投資戦略部の塩村賢史シニアストラテジストは、市場予想中央値を下回ったが「まずまずの内容。上下に振れやすい統計でインパクトは限定的」と見ていた。

東証1部の売買高は概算で13億4906万株、売買代金は8772億円。騰落銘柄数は下落が1033、上昇579。

記事についての記者への問い合わせ先:東京 河野敏 skawano1@bloomberg.net



http://www.asyura2.com/13/hasan82/msg/400.html

コメント [原発・フッ素33] 放射線管理区域の東京でオリンピックなど正気の沙汰ではない/「原発は未来犯罪」(小出裕章さん) けたぐれ后王
08. 2013年9月12日 13:40:44 : jUXGRDJo37
>05
直前でない限り東京に何かあったら首都移転で移転先がオリンピック会場になるだけ。九州オリンピックとか北海道オリンピック。
コメント [社会問題8] JAL本社前抗議行動に怒りの300人/日本航空はただちに整理解雇を撤回しろ!(レイバーネット) gataro
709. 2013年9月12日 13:40:55 : N0HuWNeDGg
ここでいう美人とはタバコをすわないし、きれいな女性を言う

コメント [原発・フッ素33] 安倍首相「完全にブロック」は嘘/小出裕章さん「こんな軽々しい発言をする人を一国の首長に持っていることが、大変恥ずかしい」 gataro
60. 2013年9月12日 13:41:42 : WuBgWjXpPU
アベだけが悪いのではなく、少数でもオリンピック反対する政治家がいない。
マスコミが、不正選挙を。遂行したから。もうすぐ天罰が下る。
スポンサーはかなり、的確に、市場調査を始めているから。
コメント [原発・フッ素33] 福島原発告訴団、被害者を愚弄する「不起訴処分」を受けて、ただちに抗議! taked4700
05. 2013年9月12日 13:44:43 : nCFbwhGpcc
福島検審では「架空議決」もしくは「誘導議決」ができないから
東京地検に送ったのでは?

第1審査会か第5審査会が割り当てられたら怪しいね

コメント [経世済民82] ニューヨークダウの入れ替え(値上がりしない銘柄は削除) (NEVADAブログ)  赤かぶ
01. 2013年9月12日 13:45:08 : niiL5nr8dQ
中枢同時テロ12年 米「復興の象徴」はや苦難 WTC、入居契約進まず
産経新聞 9月12日(木)7時55分配信
 【ニューヨーク=黒沢潤】米中枢同時テロで崩壊した世界貿易センター(WTC)跡地で建設されているWTC1号棟が来年の完成を控え、試練に立たされている。未曽有のテロに見舞われた米国の“復興の象徴”として注目されながら、2008年のリーマン・ショック以降の経済停滞やテロ再来の懸念から、入居契約数が約半分にとどまっているからだ。

 WTC1号棟は高さ541メートルで来年前半には全104階が完成予定だ。ところが、6月時点で約半分のスペースがガラ空きの状態だ。背景には、リーマン・ショック以降の景気停滞がある。大企業はここ数年、職場スペースを縮小したり、安価な場所に移転する傾向にある。特に、豪華な高級物件を借りていた金融企業にその傾向が強いという。

 関係者によれば年間の賃料は1平方フィート(約0・1平方メートル)当たり約70ドル(約7千円)と高めで、デベロッパー側は借り手が増え次第、80ドルに引き上げたい意向だ。しかし、現状では魅力的な額ではない。

 ニューヨークは、多額の法人税を落とす金融企業に過度に依存してきた歴史を持つ。ニューヨーク大学のローレンス・ロンガ准教授(経済学)は英紙フィナンシャル・タイムズに対し、「そのツケが今、回ってきたのだ」と指摘する。

 新ビルが再び、国際テロ組織アルカーイダなど過激派組織の標的になるとの懸念も入居契約が伸びない理由だ。廃虚からよみがえったWTC1号棟を“目障り”とみるイスラム過激派は少なくないといわれる。「上空を毎日かすめ飛ぶ飛行機を仰ぎつつ、仕事しろといわれても無理だ」(33歳の金融マン)といった声は少なくない。

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最終更新:9月12日(木)10時55分産経新聞

全米各地で9.11テロの追悼式典(ウォール・ストリート・ジャーナル)13時12分
【写真特集】米同時多発テロから12年、各地で追悼式写真(AFP=時事)12時13分
同時多発テロから12年 WTC跡地など各地で追悼式典映像(テレビ朝日系(ANN))11時54分
米同時テロ称賛=アルカイダ系組織(時事通信)11時36分
同時多発テロから12年、NYで追悼式典映像(日本テレビ系(NNN))10時34分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130912-00000099-san-n_ame


 

 

 

 
米同時テロ12年で式典=脅威依然消えず
時事通信 9月12日(木)0時10分配信
 【ニューヨーク時事】日本人を含む2977人が死亡した2001年の米同時テロから、11日で12年を迎え、ハイジャックされた旅客機が突っ込んで崩壊したニューヨークの世界貿易センタービルの跡地「グラウンド・ゼロ」など、米各地で追悼式典が開かれた。
 跡地での式典では、貿易センタービルやワシントン郊外の国防総省などに旅客機4機が激突したり墜落したりした時刻に合わせ、黙とうがささげられた。また、1993年の貿易センタービル爆破事件の死者6人と合わせ、犠牲者全員の名が遺族によって読み上げられた。
 同時テロを実行した国際テロ組織アルカイダは、米国が始めた対テロ戦争で弱体化したものの、今年4月、ボストン・マラソン爆弾テロが発生するなど、米国でのテロの脅威は消えていない。 

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〔写真特集〕押収銃器〜ペンシル型拳銃から自作機関銃まで〜
最終更新:9月12日(木)0時13分時事通信

 

 

 

 
アメリカ中枢同時テロから12年
産経新聞 9月12日(木)7時55分配信
 【ニューヨーク=黒沢潤】2001年の米中枢同時テロから12年となる11日、全米各地で追悼式典が行われた。厳戒態勢が敷かれる中、犠牲者遺族らは鎮魂の祈りをささげた。

 ニューヨークの世界貿易センター(WTC)ビル跡地で行われた式典では、ハイジャックされた1機目がビルに激突した午前8時46分(日本時間午後9時46分)に黙祷(もくとう)が始まった。追悼の鐘が鳴り響く中、遺族が交代で約3000人の犠牲者の名前を読み上げた。

 「おじさん、私たちの傷は癒えないままです」。幼い少年が震える声でメッセージを読み上げると、会場からすすり泣く声が漏れた。

 「息子よ、とてもさびしいよ。2人の甥(おい)たちはお前の名前を引き継いでいるんだよ」。青空を見上げ、こう切々と語った初老の男性の言葉も来場者の涙を誘った。

 会場では、犠牲者の遺影をプリントしたTシャツを着た関係者らが追悼記念碑にチューリップをささげ、犠牲者の冥福を祈った。

 ハイジャックされた3機目が激突したワシントン郊外の国防総省でもこの日、オバマ大統領らが出席して式典が行われた。

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準備8年 票読み的中
最終更新:9月12日(木)9時42分産経新聞

記事 [経世済民82] 政府が4月消費税3%引き上げ方針固める、2%分の経済対策も=関係筋(ロイター) 
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE98B01320130912
2013年 09月 12日 11:15 JST


[東京 12日 ロイター] - 政府は、来年4月に消費税率を現行の5%から8%へ予定通りに3%分引き上げる方針を固めた。デフレ脱却の芽を摘むことがないよう、2%の増税分に相当する5兆円規模の経済対策を検討することが浮上している。関係筋が12日明らかにした。

安倍晋三首相は10月1日に日本銀行が発表する企業短期経済観測調査(短観)などを踏まえ最終判断する。

消費税は、3%の引き上げで約8兆円の国民負担が発生すると試算されている。日銀の異次元緩和による円安効果もあり、消費者物価指数(CPI)は来春にも1%を展望できる情勢となりつつある。

首相は3%の増税がデフレ脱却の芽を摘む可能性を懸念、首相の経済ブレーンである浜田宏一、本田悦朗両内閣官房参与も増税の延期や1%ずつの小刻み増税を提唱してきた。このため何らかの負担緩和策が必要との見方で政府内は一致しており、5兆円規模の経済対策で、実質的な国民負担を軽減する案が選択肢の1つとして浮上してきた。

政府や与党関係者の間では、国際公約である基礎的財政収支(プライマリーバランス)の削減・黒字化を進めるうえで、予定通りの3%増税は不可避であり、変更・延期すれば長期金利の急上昇や株式市場の急落を招くとの声が多数だった。これに対し、安倍首相周辺やリフレ派の識者は、デフレ脱却の芽を摘みかねないとして反対していた。

しかし、内閣府が9日発表した4─6月期の国内総生産(GDP)2次速報値は1次速報値の2.6%から3.8%(年率)に大幅上方修正された。2020年の夏季五輪の東京開催も決まり、その経済効果が増税の影響を一定程度緩和するとの見方もあり、「増税延期・変更の理由はなくなった」(関係筋)とみられる。

ただ、経済対策の中身については、政府内で多様な意見が存在しており、今後の議論の展開によっては、曲折を経る可能性がある。

法人税減税や投資減税、低所得者への給付措置のほか、一部に時限的な所得税減税も検討するべきだとの意見もある。

さらに経済対策の規模が5兆円台とされることについて、ある政府筋は、まだ幅のある議論だと思うとの見解を示している。

また、別の政府筋は、経済対策の規模は、今年度補正予算だけでなく、来年度の税制改正等に含まれる分も包括して考えることになるのではないかと話す。財源については「国債を発行してまでやろうと思っている人はいない」として、国債発行は回避する考えを示している。

(ロイターニュース 竹本 能文 吉川 裕子 編集;石田 仁志)



http://www.asyura2.com/13/hasan82/msg/401.html

コメント [政治・選挙・NHK153] みのもんたのセクハラをこれ以上放置してはいけない (天木直人のブログ)  笑坊
58. 2013年9月12日 13:46:29 : l5VRCRS4NQ

慶応は幼稚舎から大学まで大金を積めば入れる。

40年前は3千万円、30年前は6千万円、20年前は9千万円、10年前は1億2千万円、今は1億円で落ち着いている。

また、政治家のコネでも入れる。

これも大金が必要だ!

慶応は毎年裏口で300人は入れるので300億円の裏金が入る。

慶応は東大の滑り止めにもなっているので、東大を落ちた学生も来る。

彼らの存在がレベルを維持しているのだが、下から上がってくる連中の学力レベルは中学

生レベルで全く勉強が出来ない。

良く卒業できると思うが、カンニングだけはベテランだ。


コメント [政治・選挙・NHK153] 室井佑月 東京五輪決定も「世の中の雰囲気についていけない」〈週刊朝日〉  赤かぶ
29. 2013年9月12日 13:49:53 : X8K3Jt2Lhg
室井さんは勇敢な人だよね
他の女流作家は何しているのか
コメント [経世済民82] 日本株下落、円安一服し輸出安い−「五輪相場」反動で証券も (ブルームバーグ)  かさっこ地蔵
01. 2013年9月12日 13:51:14 : niiL5nr8dQ
ドル99円半ば、弱い豪雇用統計でクロス円下落
2013年 09月 12日 12:53 JST
[東京 12日 ロイター] - 正午のドル/円は、ニューヨーク市場午後5時時点に比べてドル安/円高の99円半ば。8月のオーストラリア就業者数が予想外の前月比マイナスになったことで、豪ドル/円などクロス円が下落した。

ドル/円も上値を圧迫された。ドル/円は前日、100円半ばを上抜いたにもかかわらず相場が走らなかったことで、投機筋の投げが出た。

<クロス円が巻き戻される>

ドル/円は99円台で取引された。オーストラリア連邦統計局が発表した8月の雇用統計で、就業者数が予想外の前月比マイナスになったことで、クロス円の売り圧力が強まり、ドル/円も圧迫された。クロス円はこのところ上昇圧力を強めていただけに、ロングが巻き戻された格好だ。

朝方に93円台で推移していた豪ドル/円は、92円割れ寸前まで下落。米10年債利回りが2.88%台に低下するなか、ドル/円も99.39円まで下落した。もっとも、売り一巡後は下げ渋っている。

市場では「ドル/円は100円ミドルを抜けたにもかかわらず、相場が走らなかったので、投機筋が利食いに回っている。ただ、この下げでロングはある程度切らされたので、そろそろ下げ止まるのではないか」(大手邦銀)との声が出ていた。

オーストラリア連邦統計局が発表した8月の雇用統計によると、就業者数は季節調整済みで前月比1万0800人減と、予想外の減少となった。失業率は5.8%に上昇し、4年ぶりの高さとなった。

ロイターがまとめた市場予想は、就業者数が1万人増、失業率が5.8%だった。

ドル/円  ユーロ/ドル  ユーロ/円

正午現在   99.51/53  1.3317/21  132.53/57

午前9時現在 99.79/81  1.3312/16  132.85/89

NY午後5時 99.89/91  1.3308/13  132.95/99

 


 


 


 
豪就業者数、8月は前月比-1.08万人で予想外の減少
2013年 09月 12日 11:48 JST
[シドニー12日 ロイター] - オーストラリア連邦統計局が12日発表した8月の雇用統計によると、就業者数は季節調整済みで前月比1万0800人減と、増加予想に反して減少した。失業率は5.8%に上昇し、4年ぶりの高さとなった。

ロイターがまとめた市場予想では、就業者数は1万人増、失業率は5.8%だった。

フルタイム雇用者は季節調整済みで2600人減少、パートタイム雇用者は同8200人減少した。

7月の失業率は5.7%。就業者数は季節調整済みで前月比1万1400人減に改定された。


 


 


 


 


消費増税や経済対策の規模、何も決まっていない=官房長官
2013年 09月 12日 12:01 JST 
9月12日、菅義偉官房長官は、安倍晋三首相が消費税を来年4月に予定通り3%引き上げるとの報道に関連して、「まだ何も決まっていない」と述べた。写真は10日、都内で代表撮影(2013年 ロイター) 


[東京 12日 ロイター] - 菅義偉官房長官は12日午前の会見で、安倍晋三首相が消費税を来年4月に予定通り3%引き上げるとの報道に関連して、「まだ何も決まっていない」と述べた。

官房長官は「引き上げるかどうかは首相の判断」とし、増税による経済下押しの影響を緩和するための経済対策について「規模など申し上げるのは控えたいし、まだ全く決まっていない」とした。

菅官房長官は「首相が(消費税を予定通り)引き上げるという判断をした事実はない」と否定。消費税率を引き上げた場合の経済の落ち込みに対して首相が経済政策パッケージの策定を指示したことについては「まだ具体的な数字はでていない。麻生太郎財務相と甘利明経済再生担当相の間で詰めていく」との認識を示すにとどめた。

そのうえで「様々な皆さんの意見の中で、対策も含めて、(対策が)上がった時点で総合的に判断するということだ」とし、経済対策の中身も含めて10月上旬に首相が判断するとの見方をあらためて示した。

首相が消費増税を決断した際に記者会見するかとの質問には「重大な決断になる。常識的にはそういう方向になる」と語った。
 
政府が4月消費税3%引き上げ方針固める、2%分の経済対策も=関係筋 2013年9月12日
安倍首相が経済政策とりまとめ指示、消費増税判断の材料 2013年9月10日
首相が9月末の経済対策とりまとめ指示=甘利経済再生相 2013年9月10日
アングル:首相周辺は消費増税に慎重発言、フリーハンド狙いか 2013年9月9日


米国シリア攻撃、地域の治安さらに悪化させる恐れ=ロシア大統領
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米ヤフー、月間アクティブユーザーが8億人突破=CEO
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コメント [原発・フッ素33] 国費投入でも解決不可? 福島第一原発、汚染水問題のドロ沼 (週プレNEWS)  赤かぶ
09. 2013年9月12日 13:51:38 : hoCL8veNHY
当然、談合です。
自民党と仲良しの同族会社、財政投融資で法外な高額受註ばかりしている悪名高き鹿島建設に決まりでしょう。
福一の施工をしたのも鹿島建設。
自腹でやらせろ。
下請けを使うな。
だいたい野帳場の土建屋に、放射線の知識がある所なんかないだろ。 作業員は、のちに被害甚大だろう。

「採択事業者は鹿島/凍土式遮水壁FS/エネ庁の福島第一原発地下水流入抑制」
http://www.kensetsunews.com/?p=18272
資源エネルギー庁は8日、「平成25年度発電用原子炉等廃炉・安全技術基盤整備事業(地下水の流入抑制のための凍土方式による遮水技術に関するフィージビリティ・スタディ事業)」を企画競争した結果、採択事業者に鹿島を決めた。同社以外の応募はなかった。

コメント [原発・フッ素19] 被ばく 排出 放射能 内部被曝 対策 放射線 防護 抗酸化 甲状腺 キレート サプリ SaveChild厨
597. 爺さん 2013年9月12日 13:52:04 : pkMRoq8j2xu8g : GKXPQSbOmQ
>>586に挙げたリンク先(イギリス)にある製品。
信憑性はご自身で、詳しく調べる時間はありませんが、ご参考まで。

@子供用の風呂用ベントナイトクレイ、
Kids Clear Detoxifying Clay Baths,
http://www.yourhealthbasket.co.uk/index.php?l=product_detail&p=10

A @と同時に使用すると良いと進められていたドイツ製製品の子ども版、
Kids Chelate Heavy Metal Chelator,
http://www.yourhealthbasket.co.uk/index.php?l=product_detail&p=11
-----------------------------------

B子供用とは書いてありませんが、DMSAキャプセルまでありました。
Captomer(100mg DMSA)-45 Veg Caps-Thorne Research,
http://www.yourhealthbasket.co.uk/index.php?l=product_detail&p=547
---------------------------------

現在、本業とinterstitial cystitis及びmicturition disorderの調べに時間をとられていて、上記3つについてはこれ以上調べません。
micturition disorder、子どもにも隠れて進行中かもと疑っています。

コメント [原発・フッ素33] 高放射線量地域で生物に異変、奇形疑われるツバメも (TBS) 毛虫の死骸が…チョウや蜂も  赤かぶ
07. 2013年9月12日 13:52:17 : jUXGRDJo37
虫→鳥→小動物→ヒト
でもたとえその場所に昆虫がいなくなったとしても他からすぐ入ってくる。
死滅→他から新参者→死滅のループを何度も繰り返すうちにその場に適応できるものが生まれ、その子孫が増えるのが自然界のルール。たとえ人間のもたらした災害でも虫や動物は自然のルールに従う。人間も例外ではない。

コメント [政治・選挙・NHK153] みのもんたの恐るべき報復 (simatyan2のブログ)  赤かぶ
171. 2013年9月12日 13:52:30 : wJ05ugVJjY
かつて、みのは警察にでっち上げられた小沢さんをさんざんこき下ろして
いたが、遂にブーメランとなって自分に襲いかかった訳だ。

大変、いいことだ。
でっち上げられて世間の信用を失う事の辛さがわかったろう!

みのは。二度と表舞台には出てこねえな!

最初からTBSの戦略だったのか?相変わらず黒い放送局だ!

オウムの頃から全く変わってねえ!



コメント [政治・選挙・NHK153] みのもんたの恐るべき報復 (simatyan2のブログ)  赤かぶ
172. 2013年9月12日 13:56:42 : jmoUjnyggo
>>130JohnMung
>>159JohnMung

おめえさん、そんな情報を羅列して、誰が有難いと思うやつがおるんや!
おめえの情報なんか待ってるやつなんていねぇーよ!
世間はな、明日どうやって飯を食っていこうか、明日仕事が首にならへんやろうか、そんな心配をしながら生活してんやっ!
この日本に毎晩飯に沢庵だけで口に糊する家庭がどれだけあると思ってんねん!えっ、わーとるのかー!!!
妻や子供を路頭に迷わせたらいけん!
俺が死んでも、妻子には、迷惑をかけられない。
おめえに、わかるか、おめえみたいなアホ二才に何がわかるねん!

 それにしてもおめえは、滓だよなっ!みのさんが、安全な余生を送るには、セーフティー・ネットワークで守ってやんなきゃならんだろうがぁ、暴力団とか右翼がなんのためにおると思ってんや。そうやってみのさんを踏襲する人間の気持ちを落ち着かせることで、第二のみのさんが朝ズバに登場するんだろうがぁ、ちょっとは、マスコミに協力しろよっ!みのさんが、殺されたら、みのさん代わりをしてくれる人がいなくなるじゃないか。そんなことも噛んで含めて説明しなきゃわからんようじゃ、周りが疲れるんだよ!

      異国の人?
       ↓
危険人物→JohnMung←工作ヤーさん?
       ↑
     芸能レポーター?

JohnMungさん、芸能なんて、廃れたよ!

私の感想、アメリカのドラマ・映画の映像文化は、すばらしいと思います。
そのアメリカのテレビ番組や映画に韓国人や中国人も悪役で登場するけど、人間的に味があると思います。それに比べて日本の映像文化は、なんじゃありゃ、おくれてる〜〜〜ぅ。アジア人が、主役になる映画は、カンフーしかねーだろっ!
あぁー著っ著っ著っ著っ著っ著っ著っ、ア父ぃー

あきらめろ、それが日本の運命さ!
日本人も悪役で、アメリカの映画に出演すればいいんだよ。
「日本人は、映像不向きです。」整形しても、輪郭が無いのでべたーとした
顔になる。ハイビジョンになってそれが顕著になってしまった。
北米北部、イギリス連邦に属するカナダは、韓国人が沢山いる。国際化が進んだ国だよ、韓国は、・・・・日本は、完璧に遅れた。
 首都オタワは、製材業で盛んな土地だ、嘗てこの地域で日本の製材業者が、アメリカ人を買収し恫喝していたことの経緯について事実なのかどうか、JohnMungさん直ちにカナダに行って調べてくれっ!

By シンスケ

コメント [原発・フッ素33] 鉛で、汚染水を発生させず、放射線も低下させる方法 (KAZE to HIKARI)  赤かぶ
18. 2013年9月12日 13:57:05 : jUXGRDJo37
>17、鉛による地下水汚染は厄介だぞ。海も汚染される。
コメント [原発・フッ素19] 被ばく 排出 放射能 内部被曝 対策 放射線 防護 抗酸化 甲状腺 キレート サプリ SaveChild厨
598. 2013年9月12日 13:57:07 : GKXPQSbOmQ
わたしの子どもではありません。
コメント [経世済民82] フジもヤル気 五輪開催で加速する“カジノ誘致”狂騒 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
04. 2013年9月12日 13:57:06 : niiL5nr8dQ
インタビュー:カジノ誘致で地方都市の活性化を=澤田HIS会長
2013年 09月 12日 12:55 JST
[東京 12日 ロイター] - エイチ・アイ・エス(9603.T)の澤田秀雄会長はロイターとのインタビューに応じ、日本でカジノ運営が解禁され、長崎県佐世保市にカジノを誘致できれば、地方都市の活性化につながるとの考えを示した。

カジノをめぐっては、国内外の娯楽運営会社が東京や大阪など大都市での運営参画に意欲を見せているが、澤田氏は投資が大都市に一極集中するより、地方都市への誘致で雇用や観光が拡大すれば、日本経済の活性化につながるとみている。

澤田氏は、カジノ経営は中途半端な規模では失敗のリスクがあると指摘。誘致における投資額は何千億円にも及ぶため、基盤のない他の地方都市に作ると採算がとれなくなる可能性があるという。

また澤田氏は、カジノにはゲームだけでなく、アミューズメント面などの集客コンテンツが重要だと強調。すでにアジアではマカオや韓国などに大型のカジノが開業していることもあり、日本でのカジノ成功には万全なエンターテインメント施設・コンテンツが欠かせないと述べた。

エイチ・アイ・エスはリゾート施設、ハウステンボス(長崎県佐世保市)を保有し、ここに、すでに2000数百億円を投資したアミューズメント施設がある。このため、ハウステンボスを土台とし、「(あと)500─1000億円前後の投資」(澤田氏)をするだけで、質の高いカジノ設立が可能とした。

設立にあたってエイチ・アイ・エスは、土地・場所の提供などで協力をする。資金面ではエイチ・アイ・エスのほか、自治体など「いろんな方が共同でやればいい」(澤田氏)と考えている。

澤田氏は、「ある程度のアミューズメントがついていないと単なる賭博(とばく)場になってしまう。やるなら立派で、エンターテイメントと一緒にやらないとだめだろう」と述べ、誘致できれば、これまでに培ったノウハウを活かせると自信を示した。

米国、フランス、中国などのカジノの場合、首都に大きな施設はなく、1─3時間離れた立地にある。ハウステンボスに誘致すれば「湯布院や阿蘇、福岡など(長崎だけでなく)九州全体の観光に大きなプラスになる」(澤田氏)と期待を示した。

澤田氏は、カジノを設立することになった場合、ハウステンボスの近くに専用の飛行場を作る構想も明らかにした。70─100人乗りの飛行機をピストン輸送できるような小型の空港で、建設費用は100─200億円を見込むという。

澤田氏によると、「エンターテインメントが楽しめる空港を作り、そこから3時間以内のところに飛行機を飛ばせば、中国、台湾、香港、韓国、東南アジアに安価で利便性の高いアクセスが増やせる」という。国内だけでなく、アジア近隣諸国からも観光客を呼び込み、九州の観光業を活性化したいと意気込みを示した。

現在、日本でカジノ運営は違法だが、新たな税収減への期待や雇用拡大など経済効果から解禁すべきとの見方があり、今秋の臨時国会に議員立法での法案提出が予定されている。

*インタビューは11日に行われました。

コメント [政治・選挙・NHK153] 誰かをさらし者にすれば成績が上がるとでも思っているのか、最低だ。知事による教育現場イジメ、恐怖支配。 gataro
02. 2013年9月12日 13:57:15 : m8MoUKtCoc
情報は公開して皆で考えるのが基本。
公開されなきゃ議論の材料にすらならない。
イジメを隠蔽してほじくられない様にする体質だから子供が自殺する。
自殺してから議論したんじゃ遅い。
それと、学力だけではなくスポーツや文化の評価方法も検討すべき。
最もスポーツの場合、大会があるから優秀校は衆目を集める。

問題はビリッケツをどうするかだけれど、認識しない事には始まらない。
学力問題も、イジメ問題も同根だな。 

俺達の世界に入らないでくれというんなら、よその国でやってくれ。

コメント [政治・選挙・NHK153] 地方自治の終焉……ひどすぎる茨城県知事選挙 (稗史(はいし)倭人伝)  赤かぶ
02. 2013年9月12日 13:57:22 : le4J0suVgI
権力が腐敗するのは、何者にも指摘されないからだ

それどころか、権力は権力の横暴を指摘する者を抹殺してきた

自浄能力を失えば、腐敗するのは当然だ

誰かが監視する必要があるのだが、現行権力が法律を守っていないため、また、違反のレベルが半端ないため、取り締まるなら公務員の全員逮捕に繋がる共同正犯が成立してしまっている

日本は、国民全員非権力者というレベルから、やり直す必要がある

罪は、権力を手放すなら免除しないと、それこそ犯罪者の方が多くなってしないかねない

独立など早すぎで、ましてや地方分権など以ての外

憲法さえ暗唱できない政治家が、世界で最も煩雑な関連法を扱って、適性な処理などできるわけがない

コメント [政治・選挙・NHK153] 日本IBM ひどい/嫌がらせ退職強要の上 ロックアウト解雇/人間らしく働ける会社へ たたかう女性 gataro
36. 2013年9月12日 14:00:25 : pJRx3VdshU
まず全員が守れる法律に緩和しなきゃね
記事 [中国3] 〈石平のChina Watch〉思想教育の総元締「中央党校」から反乱ののろし (産経新聞) 
中国の習近平国家主席。“お膝元”からの批判に頭が痛い?=今年7月、北京(AP)


【石平のChina Watch】思想教育の総元締「中央党校」から反乱ののろし
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130912/chn13091208030001-n1.htm
2013.9.12 07:58 産経新聞


 中国には「中央党校」という特別な学校がある。共産党中央委員会直属の教育機関で、党の高級幹部の養成を主な任務としている。かつて毛沢東もその校長を兼任したことがあり、中央党校は党の思想教育の総元締という位置づけである。

 だが最近、この中央党校から「思想」にかかわる重要問題に関し、党中央の方針に真っ正面から対抗するという前代未聞の動きが見られたのである。

 たとえば今月2日、民間企業運営の「共識網」というサイトが、中央党校の女性教師、蔡霞教授の講演録を掲載した。彼女は講演の中で「憲政こそは国家安定維持の大計」だと訴えて、持論の憲政擁護論を展開した。

 7月18日掲載の本欄が記しているように、中国では今、いわゆる「憲政論争」が巻き起こっている。民間知識人の多くが「憲法を基本とする政治」を求めているのに対して、「党の指導的立場が否定される」と危惧する党直属宣伝機関は批判のキャンペーンを始めた。共産党中央委員会機関紙の人民日報も8月5日から3日連続で「憲政批判」の論評を掲載し、キャンペーンの展開に力を入れている。

 だが、党中央直属の人民日報が「憲政批判」を展開している中で、同じ党中央直属の中央党校の教師が堂々とそれに対抗して憲政擁護論をぶち上げている。共産党のいわば「中枢神経」において、分裂が始まっているのだ。

 同じ今月2日、中央党校機関紙の『学習時報』が衝撃的な内容をもつ論評を掲載した。

 書いたのは中央党校の宋恵昌教授である。中国周王朝きっての暴君の●(=がんだれに萬)王が民衆の不満の声を力ずくで封じ込めた結果、自分自身が追放される憂き目にあったとの故事を引用しながら、「民衆の口をふさいではいけない」と説いた内容。昨今の中国の政治事情を知る者なら、この論評の意図するところが即時に理解できたはずだ。

 習近平国家主席率いる指導部は今、ネット世論を中心とする「民衆の声」を封じ込めようと躍起になっている。

 今月4日、国営新華社通信の李従軍社長が人民日報に寄稿して「旗幟(きし)鮮明に世論闘争を行う」と宣言し、軍機関誌の解放軍報も同じ日に「ネット世論闘争の主導権を握ろう」との論評を掲載した。党と軍を代弁する両紙が口をそろえて「闘争」という殺気のみなぎる言葉を使って、ネット世論への宣戦布告を行っているのだ。

 こうしてみると、上述の学習時報論評は明らかに、党指導部が展開する世論封じ込めに対する痛烈な批判であることがよく分かる。論評は、「いかなる時代においても、権力を手に入れれば民衆の口をふさげると思うのは大間違いだ。それが一時的に成功できたとしても、最終的には民衆によって権力の座から引き下ろされることとなる」と淡々と語っているが、誰の目から見てもそれは、最高権力者である習近平氏その人への大胆不敵な警告なのである。

 当の習氏がこの論評に目を通せば、ショックの大きさで足元が揺れるような思いであろう。本来なら、自分の親衛隊であるはずの中央党校の教師に指をさされるような形で批判されるようでは、党の最高指導者のメンツと権威はなきも同然である。

 そして、中央党校の2人の教師が同時に立ち上がって党指導部に反乱ののろしを上げたこの事態は、習近平指導部が党内の統制に失敗していることを示していると同時に、共産党が思想・イデオロギーの面においてすでに収拾のつかない混乱状態に陥っていることを如実に物語っている。

 習政権発足当時からささやかれてきた「習近平がラストエンペラーとなる」との予言はひょっとしたら、実現されるのかもしれない。

                ◇

【プロフィル】石平

 せき・へい 1962年中国四川省生まれ。北京大学哲学部卒。88年来日し、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関を経て、評論活動に入る。『謀略家たちの中国』など著書多数。平成19年、日本国籍を取得。


http://www.asyura2.com/12/china3/msg/622.html

コメント [戦争b11] イランのハメネイ師、シリア問題めぐる米国の外交努力に期待示す 小泉犬
01. 2013年9月12日 14:01:37 : niiL5nr8dQ
米国シリア攻撃、地域の治安さらに悪化させる恐れ=ロシア大統領
2013年 09月 12日 13:41 JST
[ワシントン 11日 ロイター] - ロシアのプーチン大統領は、米ニューヨーク・タイムズ紙への寄稿で、米国がシリア攻撃に踏みきれば、紛争がシリア国外に広がり、テロリストの攻撃も引き起こす恐れがあると警告した。

2年半にわたるシリア内戦で「民主主義の推進派はほとんどいない」が「政府と戦う過激派やアルカイダ系武装派は有り余るほどいる」と指摘。

米国がアサド政権が行ったと主張している8月の化学兵器攻撃は、外国の介入を望む反体制派の仕業との見解をあらためて示した。

国連安保理の承認を得ずに軍事行動を起こしてはならないと主張。

「多くの国、主要政治指導者やローマ教皇などの宗教指導者が反対しているにもかかわらず、米国がシリアを攻撃すれば、罪のない犠牲者がさらに増え、シリア国外に争いが拡大する可能性がある」とし、「攻撃は暴力をあおり、テロリズムの新たな動きを引き起こすことになる」と述べた。

さらに「イラン核問題やイスラエル・パレスチナ問題への国際的打開努力にも悪影響を及ぼし、中東・北アフリカを一段と不安定化させる恐れがある。国際法や秩序のバランスを崩すことになりかねない」と指摘した。

コメント [政治・選挙・NHK153] 誰かをさらし者にすれば成績が上がるとでも思っているのか、最低だ。知事による教育現場イジメ、恐怖支配。 gataro
03. 2013年9月12日 14:01:40 : ieEe7Z9J8I
これを言うと身も蓋もないんやが、勉強の能力は個人の資質が大きいんや。
(スポーツなんかでは「恵まれた資質と日々の鍛練〜」とか平気で言ってるのに勉強ではタブーや!)
「難関高校に入学したから、難関大学に入学できた。」ではないで。
勉強出来る生徒ばっかり集めたら、勉強出来て当たり前やがな。

私立中学に行ったから、頭が良くなったって思うんかね?
(やりようで、各教科が上下10点ぐらいは違うやろけど)
身内のヤクザもんが小学生の時に、叔父が算数を教えていた事があった。
簡単な事を何回教えても解らんのだけど、横で遊んでた年下の俺は解るんよ。

校長の所為や!教師の所為や!この地区は所得が〜!ばっかり叫ぶ。
集団就職から何十年も経った現在、能力の有る人間は自分に見合った人間と結婚してる。
出来た子供も、それなりの能力や。
(以前、東京の難関女子高の名前を調べた教授の話が週刊誌に載っていた。子の付く名前が多いとの結果。子を付けたら賢くなるんかちゅうの!親のレベルやろ!難関就職先でもキラキラネームはマズ居ないね。)

皆の能力(色々な)が違ってもエエやん!
どこかで伸ばしていったれよ!
(クイズミリオネア出演「仏の顔も○度まで」が親子で判らんカメダでもチャンピオンやねんで)
スマップも歌ってるやろ!(元は、チューリップの花で、その元は仏説阿弥陀経やけどな。)
  仏説阿弥陀経:「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」の部分な。

確かに出来ない子ばかりの中ではレベルも上げられないんだが、義務教育やろ。
ここまでやるなら能力別学習を認める事になるで。

コメント [政治・選挙・NHK153] みのもんたのセクハラをこれ以上放置してはいけない (天木直人のブログ)  笑坊
59. 2013年9月12日 14:01:57 : WgK5h5lzmA
尿検査をすぐにやれ。
コメント [経世済民82] 政府が4月消費税3%引き上げ方針固める、2%分の経済対策も=関係筋(ロイター)  かさっこ地蔵
01. 2013年9月12日 14:02:51 : niiL5nr8dQ
消費税 来年4月8% 首相決断、経済対策5兆円
2013年9月12日 12時27分
 安倍晋三首相は12日、2014年4月から予定通り消費税率を5%から8%に引き上げる方針を決めた。最近の各種経済指標が堅調だとして、増税の環境はほぼ整ったと判断した。増税に伴う景気の落ち込みを避けるため、上げ幅3%のうち2%分に当たる5兆円規模の経済対策を合わせて実施する方向だ。
 首相が増税の是非を判断するのに重視したのは、4〜6月期の国内総生産(GDP)改定値。9日発表の改定値は、名目で年率換算3・7%増、実質で3・8%増。消費税増税法の付則で税率引き上げの目安となっている経済成長率(名目3%、実質2%)を上回った。
 政府・与党で予定通り増税を容認する意見が大勢を占めていることも考慮した。
 また、2020年の東京五輪の開催が決まったことで、一定の経済効果が見込めることも判断材料となった。
 首相は10月1日に発表される完全失業率や日銀の企業短期経済観測調査(短観)の内容を確認した上で、同日中にも増税方針と経済対策を表明する方針。
 ただ、消費税増税に伴う低所得者対策はまだ決まっていない。
 政府・与党は食料品などの生活必需品に関し、税率を低くする軽減税率を導入する準備が整っていないとして、現金を配る「簡素な給付措置」を実施する方針だが、具体的な内容は未定だ。
 政府は8月下旬、有識者から意見を聞き、消費税増税を実施した場合の景気への影響を検証する「集中点検会合」を開催。増税を容認する有識者からも、低所得者対策の充実などを求める意見が相次いだ。
 菅義偉(すがよしひで)官房長官は12日午前の記者会見で、消費税率引き上げは正式決定していないとしつつも、増税に伴う経済対策について「規模や中身を麻生太郎財務相と甘利明経済再生担当相で詰めている」と述べた。
(中日新聞)
コメント [社会問題8] JAL本社前抗議行動に怒りの300人/日本航空はただちに整理解雇を撤回しろ!(レイバーネット) gataro
710. 2013年9月12日 14:03:40 : N0HuWNeDGg
社畜たちに本読む気力ねぇ
コメント [政治・選挙・NHK153] ついに「安倍総理が嘘をついていたこと」を政府が認めた! (simatyan2のブログ)  赤かぶ
01. 2013年9月12日 14:05:37 : bK3ozBYuCN
汚染水「問題ないレベル」と政府釈明 「完全にブロック」を修正(09/11 07:10、09/11 08:13 更新)

 東京電力福島第1原発の汚染水漏れの状況について、「完全にブロックされている」と断言した安倍晋三首相の国際オリンピック委員会(IOC)総会での発言をめぐり、政府は10日、汚染水が海洋に流出している可能性を認め、「放射性物質が問題ないレベル(に収まっている)との意味」と軌道修正した。

 「(港湾内外で)水は当然出入りしている」。菅義偉官房長官は同日の記者会見でこう説明。同原発の港湾内には汚染水の拡散を防ぐ水中カーテン「シルトフェンス」が設置されているが、汚染水が港湾外にも流出している可能性があることを認めた。

 周辺海域などで行っているモニタリング調査で放射性物質が基準値を大幅に下回っていることを理由に「完全にブロックという表現を使った」と説明した。

 7日のIOC総会のプレゼンテーションで、首相は「汚染水の影響は福島原発の港湾内0・3平方キロメートルで完全にブロックされている」と断言。専門家らから「事実誤認」などの指摘が相次ぎ、政府として釈明に追われた格好だ。

 一方、10日開かれた汚染水問題の対策を協議する関係閣僚会議では、低濃度汚染水の海洋放出の是非について関係者間の意見の食い違いが鮮明になった。

 原子力規制委員会の田中俊一委員長は席上、陸上のタンクにたまり続ける汚染水の処分について、「放射性物質を基準値以下まで取り除き、海に放出を検討することが必要だ」との認識をあらためて示した。

 これに対し、林芳正農水相は同会議後の記者会見で「科学的に大丈夫ということと、風評被害にどうつながるかは必ずしもイコールではない」と述べ、放出に慎重な考えを強調した。

<北海道新聞9月11日朝刊掲載>

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/490956.html

コメント [経世済民82] ニューヨークダウの入れ替え(値上がりしない銘柄は削除) (NEVADAブログ)  赤かぶ
02. 2013年9月12日 14:06:09 : niiL5nr8dQ
米、最富裕層が国民収入の19% 格差、歴史的水準に
2013年9月12日 11時56分
 【ニューヨーク共同】貧富の格差が拡大する米国で、上位1%の最富裕層の収入が2012年には国民全体の19%を超し、大恐慌前年の1928年以来最大の割合となったことが11日までに判明した。上位10%の収入は全体の48・2%を占めた。AP通信が米カリフォルニア大バークリー校などの分析として報じた。
 投資による利得に課税する資本利得税の増税を前に、最富裕層が駆け込みで株式などを売却したことが一因。12年は最富裕層の収入が20%増加したのに対し、国民の99%は収入が1%しか増えず、格差が一層鮮明になった。
コメント [戦争b11] シリアのアサド政権、反体制派に毒ガス使用した可能性高い=国際人権団体  ロイター ダイナモ
16. 母系社会 2013年9月12日 14:07:10 : Xfgr7Fh//h.LU : Glr035Y1Ww

★反政府軍が化学兵器攻撃を行ったとする情報もあります。

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シリア反政府軍が化学兵器攻撃を行ったとする会話を耳にした
――誘拐されていたジャーナリストらが解放され、証言
http://unitingforpeace.seesaa.net/article/374481461.html

9月9日付 FRANCE 24「解放されたベルギー人とイタリア人がシリアでの
誘拐を語る」の翻訳です。

シリア反政府軍に拘束されている間、反政府軍がシリアで化学兵器攻撃
を行ったとする会話を耳にしたという証言、シリアでなおもジャーナリスト
13人が行方不明であることが注目されます。

Freed Belgian, Italian recount Syria kidnap ordeal - FRANCE 24
http://www.france24.com/en/20130909-freed-belgian-italian-recount-syria-kidnap-ordeal

AFP - 解放されたイタリア人ジャーナリストのDomenico Quiricoとベルギー人
教師のPierre Piccininは月曜、シリアで5カ月間にわたって拘束されるという
難儀の「極めて過酷」な状況を語り、暴力と辱め、模擬処刑に遭ったと話した。

男性2人は日曜に解放され、拘束していた者らがダマスカス近郊での毒ガス
攻撃に反政府軍が関与していた可能性について話しているのを耳にした、
と語った。だがQuiricoはこの情報を確認する術がないと言う。

彼らの難義の状況については詳細が明らかになっていないが、Quiricoが所属
する新聞はイタリアのシークレットサービスが米国による軍事攻撃の前に、
彼らの自由を確保するために乗り出したと述べた。

Piccininはベルギーのラジオ局Bel RTLに「私たちは虐待を受けたが大丈夫だ」
と語った。

「実際に暴力を振るわれることがありました。辱め、虐待、模擬処刑ですが、
Domenicoはリボルバーで2回の模擬処刑を受けました。」

やせ衰えて疲れ果てたQuiricoとひげが濃くなったPiccininは日曜遅く、
イタリア政府機でローマに降り立った。

「月に住んでいたような5カ月間でした。虐待を受け、おびえていました」
とQuiricoはレポーターに語った。

Quiricoは月曜、エンリコ・レッタ首相、エンマ・ボニーノ外相、事件を捜査
しているローマの検察官らと面会した。その後同日中に、勤務するLa Stampa
の本社があるイタリア北部のトリノに移動することになっていた。

イタリアの通信社ANSAによれば、Quiricoは自分とPiccininがピックアップ
トラックに乗った武装集団に足止めされたと検察官らに語った。

ANSAはこのベテラン戦争ジャーナリストの言葉を次のように引用している。

「初日は目隠しをされました。私たちを扱ったのはおそらく3グループで
しょう。」

「私たちが拘束された状況は最初から非常に過酷なものでした。与えられた
食事はせいぜい一日に一食です。」

QuiricoはLa Stampaのオンライン版に掲載された記事で、2人が耳にした
会話について、反政府軍が化学兵器の使用に関与していたらしいとする
Piccininの主張に、疑問を投げかけている。

「ある日、私たちが拘束されていた部屋から、半開きのドアを通じて、
スカイプで身元不明の3人が英語を使って会話しているのを耳に挟みました。」

「連中はその会話で、西側に軍事介入させる呼び水として、ダマスカスの郊外
2カ所でガス攻撃を反政府軍が実行した、と話していたのです。」

「この会話が本当の事実に基づくのか、伝聞に基づくのか、言い当てることは
まったくできません。」

ベルギー南部の町で歴史の教師をしているPiccininは、この会話はシリア政府軍
が化学兵器攻撃に関与したのでないことを証明したと主張している。

ベルギー政府に近い筋は、Piccininのコメントが「彼個人だけに関わる私的なもの」
とAFPに伝えた。

Piccininによれば、当初はQuiricoと共に、西側が支援する自由シリア軍によって
4月に拘束されたが、その後で「イスラム主義者というより無法者」の反政府グル
ープであるAbu Ammar旅団に引き渡された。

2人の拘束は「シリアにおける恐ろしい長旅」を証明したと、Piccininは
Bel RTLに語った。

「私たちはかなり引きずり回されました。拘束していたのは常に同じグループ
というわけではなく、非常に暴力的なグループがいて、極めて反西洋的、
かなり反キリスト教的でした。」

Piccininによると、拘束した兵士らが祈りをしていた時に2人は2回の脱出を
試みたが、2日後に見つけ出され、「ひどい懲罰」を受けた。

アラビア語を話すPiccininは、2011年に紛争が勃発して以来、7回にわたって
シリアに行った。反政府勢力の大義は変化し、強盗に落ちぶれたと語る。

イタリア当局にとっての懸念は、米国主導によるシリア空爆の可能性が高まる
中で、「前線の事態が急展開し、誘拐犯との連絡が途絶える可能性がある」
ことだと言われていた。

記者の人権監視団体である国境なき記者団は、13人のジャーナリストがなおも
シリアで行方不明であると発表している。

誘拐されているのは、フランス人ジャーナリストのDidier Francoisと
Edouard Elias、米国人ジャーナリストのJames Foleyなどで、グローバル・
ポストやフランス通信社、その他の国際メディアで活躍していたジャーナリスト
である。

イタリアも依然として、7月からシリアで消息を絶っている国民の1人、
Paolo Dall'Oglio神父の解放に向け努力している。同神父は長年にわたって
シリアに住み、宗教間対話を推進してきた人物だ。



コメント [マスコミ・電通批評14] みのもんたさんの次男、日テレ社員を逮捕 窃盗未遂容疑 (産経新聞)  赤かぶ
12. 2013年9月12日 14:07:38 : pzRzX8B4ec
みのむし、終了。
コメント [政治・選挙・NHK153] 「ざまあみろ判決の飯田喜信裁判長」(EJ第3630号) (Electronic Journal)  赤かぶ
18. 次郎 2013年9月12日 14:08:20 : FV0BoL10KVXeM : 5GFBiaNZBE
彼らは本当に東大か?。だとすれば政治的な勢力と一緒に動いているとしか考えられない。自分の立身出世のためにもどなたかの意向に従っているのだ。偏差値と正義や使命感とは関係ないから。
コメント [政治・選挙・NHK153] 中・韓「反日」嘘つき国家に対して、日本政府は国際社会で適宜・適切な反論をすべきだ。(日々雑感)  笑坊
06. 狂人 2013年9月12日 14:08:43 : 3eBU0nj9lpikE : F4ALSFhiNU
反論する前に、日本はファシズム侵略国家であり、WW2の戦敗国である、ということを忘れないでね。
コメント [政治・選挙・NHK153] ついに「安倍総理が嘘をついていたこと」を政府が認めた! (simatyan2のブログ)  赤かぶ
02. JohnMung 2013年9月12日 14:09:08 : SfgJT2I6DyMEc : ECLp876zHU

 謀略朝鮮カルト「統一協会」とズブズブの安倍晋三と、ファシズム礼賛・戦争の党でペテン詐欺集団自民党そして安倍自公売国政権の赤っ恥晒し!

 安倍晋三は、’90年代初頭に脱税した相続税3億円を、延滞税分を含めて、10億円余を国庫に即納し、日本国民に土下座して謝罪し、内閣総辞職、議員辞職せよ!

 自民党は46年超も不法占拠している国有地(衆院所有地)の賃貸料相当額1050億円(政府機関算定ベース。民間不動産算定ベースでは3500億円)を国庫に即納し、日本国民に謝罪せよ!

コメント [政治・選挙・NHK153] 橋下市長が、セクハラ校長やセクハラ区長を生み出しながらも「公募自体は悪くない」と強弁。こんな言い訳もう聞きたくない。 gataro
03. 2013年9月12日 14:12:34 : ieEe7Z9J8I
公募は任命者の権益になるでしょ!
任命者の責任はどうなるの?

しかし、ハシゲネタの反応が減ったね。
もう、無視されてるね。

コメント [政治・選挙・NHK153] 「ざまあみろ判決の飯田喜信裁判長」(EJ第3630号) (Electronic Journal)  赤かぶ
19. のぼっさん 2013年9月12日 14:13:23 : fkt3FbbrckgTg : JGgUJ7xOxW
小澤裁判から見えてきたことは「正義の味方、国民の味方、遠山の金さん!」
「鬼平、長谷川平蔵」とこくみんから信頼を得ていた「検察と裁判所」が実は
犯罪の温床、犯罪者の元締めであったとはシャレにならない事態が顕在化した。
特捜検察の田代検事は「石川議員の取り調べ調書を「ねつ造し、犯罪を創出」
「登石、飯田と言う判事は、証拠もないのに、推認判決で、裁判官が証拠をねつ造し、冤罪で有罪判決を出した」
これは法治国家ではありえないことが起きたが、なんと、権力を監視するマスメデイア、ジャーナリストが知らん顔の半兵衛を通していることです。
アメリカでも権力の乱用はあり得ますが、ウオータゲート事件ではワシントンポストの若い記者達は、正義を信じ、真実追求には命がけで調査して、時の大統領を
辞任に追い込むという、これこそ、ジャーナリズムの矜持です。
いまの記者クラブと言う、既得権益の温床の中で、ぬくぬくと、管制の情報を
有難く受け撮る、報道カルテルの記者の記事にどこの真実があると言うのか?
田舎のぼけ老人でも記者クラブのインチキ報道にへきへきし、反吐が出る思いの
読者の多いことか、わかっているのか?
若手の勇気ある記者たちの真実報道する記事を期待したいが、無理なことか?
小澤事件、小澤裁判の真実。福島事故の事故調査の真実はどうか、今の汚染水流出はなぜ起きたか、今度どうすべきか、真実はすべて闇の中、なぜ停止中の福島
第四原発が爆発したのか、停止していたら安全とは言えない、この実態はなぜか?
小澤強制起訴した検察審査会の議事録はなぜ公開しないのか?審査員は架空ではなく存在していたのか、議事は架空と指摘されているが、真実は何か?
今の日本はあまりにもウソが多すぎる、信頼できる新聞テレビはいつから嘘を平気でつくのか?
官房機密費の餌付けで政府御用達の御用学者、御用評論家、御用コメンテータの
インチキ発言の多いことか、ぼけ老人の下名でも欺瞞を見抜いているよ。
勇気ある若い社員の行動発言を期待する、元フジテレビの長谷川アナ,元NHKの堀潤アナ、もっともっと発言してください。
小澤無罪判決の高裁の小川判事は数少ない、信頼できる判事かも知れない。
東電OL殺人事件のゴビンダさんの冤罪事件を解決した勇気ある判事ですが
最高裁の裏金疑惑に毅然としてほしい、原発訴訟でも裁判所の判断が福島事故の
爆発の原因とさえ言われており、司法はもっと市民に解放されるべき、司法記者クラブの好き放題の報道姿勢こそ、法治国家の存在を危うくするものです。



コメント [原発・フッ素33] 国費投入でも解決不可? 福島第一原発、汚染水問題のドロ沼 (週プレNEWS)  赤かぶ
10. 2013年9月12日 14:14:50 : mAKWjxKjsw
6さん、昨日のNHKクローズアップ現代は見なかったの?
凍土壁を作る時に、海側と山側を完全に同時に凍らせないと
原子炉内のものすごい放射能を含んだ水が
圧力で全部外に流れ出てしまうのだという
奥深くに貯まっているものまでが出てくるのだそうです
海側が凍結するのが遅くなれば、全部海に放出
山側が遅くなれば施設が高濃度に汚染され、作業員退避
どっちにしても・・・
完全に同時にって、すごい綱渡り
なのにさらっと放送してました
誰か見てないの?
コメント [原発・フッ素33] 安倍首相「完全にブロック」は嘘/小出裕章さん「こんな軽々しい発言をする人を一国の首長に持っていることが、大変恥ずかしい」 gataro
61. 2013年9月12日 14:15:49 : MlDOS6iApg
官邸機密費を使ったんでしょうね。

コメント [政治・選挙・NHK153] 原発マフィアが安倍の発言を公然と批判 (陽光堂主人の読書日記)  笑坊
24. 2013年9月12日 14:21:24 : MlDOS6iApg
今や、官邸機密費の入った金庫はからっぽなのでしょうね。

じいさんばあさんのざれごと(意地?見え?プライド?)のために、血税がむざむざと使われ、福島の人々にはお金をけちる。
最悪の政府だ。

コメント [政治・選挙・NHK153] みのもんたの恐るべき報復 (simatyan2のブログ)  赤かぶ
173. 次郎 2013年9月12日 14:21:36 : FV0BoL10KVXeM : 5GFBiaNZBE
大金持ちのみのさんとしては息子が金を無心してくるので親父としては自立しろと援助はしなかった。息子は逆恨みして有名親父に恥をかかせた、のだろうかと夢想してしまうくらい理解できない事件。息子が麻薬を飲んで事件を起こした有名人もいたね。窃盗犯は金での示談はできないだろうし、31歳にもなるのだから独立責任。みのさんはじぶんのセクハラ事件を解決すべきだ。
コメント [マスコミ・電通批評13] 「朝ズバッ!」司会者みのもんたの正体(simatyan2のブログ) 運否天賦
94. 「生活党応援団」 2013年9月12日 14:24:14 : gx0s7Tp1IhHJo : PAUi92RZ8e
さんへ
そうはなりません。正しくないもの(民主党)を正しくないもの(みのもんた)が批判したからと言って「みのもんた」は別に正しくなりません。あなたの頭の中をのぞくまでもなく論理的というものからかけ離れていますよ。反省せよ。

コメント [戦争b11] シリアの化学兵器全廃に向けたロシアの提案を歓迎する アメリカは武力行使を行なわず提案を受け入れるべき ダイナモ
07. 2013年9月12日 14:25:00 : mAKWjxKjsw
自分も上記の投稿に賛同だが
今までここを支えて?きたのはダイナモさんの投稿なんだから
あんまりクソミソに言うのもねえ
反論の投稿をするのが楽しかったでしょうに
コメント [政治・選挙・NHK153] 小沢代表、小選挙区制度と政権交代、二大政党政治の未来について語る 共同通信インタビュー要旨  赤かぶ
22. 2013年9月12日 14:25:17 : nykpRolTdU
新潟選挙区で森ゆう子氏の比例票が12万票行方不明になっていたとすれば、告訴しないのはおかしいね。
検察批判は検察批判でよいとして、12万票の行方不明が事実なら候補者は選管を告訴するのが普通でしょ。

コメント [戦争b11] イランのハメネイ師、シリア問題めぐる米国の外交努力に期待示す 小泉犬
02. 2013年9月12日 14:26:01 : U0YbWp4ff2
かって、10年前、イラク戦争のときに、イラク戦争はフセインを倒すことだけでなく、ドミノ論(中東の反米諸国を民主化のドミノ倒し)にすることが目的と言われていたが、その主張が、今回の米国のシリアへの攻撃姿勢で正しかったことが証明された。

10年前、NNNで桜井良子さんが、米国のシンクタンクの研究員への、テレビでのライブの取材で、研究員から「イラク戦は、中東の民主化が目的である」との言葉を、口先を尖らせながら流暢な英語で、引出していたことがデジャブのように思い出される。

ブッシュをオバマに
イラクをヨルダンに

役者は変わっても、どこかの筋書は変わらない。

コメント [政治・選挙・NHK153] みのもんたの恐るべき報復 (simatyan2のブログ)  赤かぶ
174. JohnMung 2013年9月12日 14:26:20 : SfgJT2I6DyMEc : ECLp876zHU

 >>172. 2013年9月12日 13:56:42 : jmoUjnyggo
     ↑
 またまた出没! 真っ昼間からゴキブリ1匹!

 ID:jmoUjnyggoは、みの虫悶多御用達の在日密航右翼・セクハラ・窃盗推奨隊!

 セクハラ、窃盗は、この国では明らかに犯罪なのだよ!

 在日密航右翼の朝鮮野郎は、みの虫悶多親子と豚箱に入れて貰えば、いいジャン!

コメント [原発・フッ素33] 東電役員OB海外バブル生活 福島原発事故900日目の「天国と地獄」 vol.1 (週刊大衆)  赤かぶ
19. けろりん 2013年9月12日 14:26:55 : xfW5FN1G6ouU2 : mvBqTxPV0U


ネトウヨ・・という保身いっぱいの意識どん底辺のリアル不充実・不満鬱積最下層B層が
大好きな、東電と東電役員・・・利権種族のお上さまの太鼓持ち・ネット世界のかぶせ右翼の

『 ニッポンから出て行けェ−!!』・・・が、

あらぬところで、効果を発揮してるじゃ、ねぇ〜〜かいな???


イッショケンメイ、国旗ふりふりしながら・・・
『 ニッポンから出て行けェ−!!』
『 電車で 帰るなァァー!!』
『 電気、使うなァァーー!!』

 wwwwwwwwww

嗤わせよるから、
「コイツら、糞奴隷が・・」
などと、嗤いながらの海外移住・・・


今回は、2chから飛んでくる
『 ニッポンから出て行けェ−!!』種族は
静かだな・・・???


コメント [政治・選挙・NHK153] 室井佑月 東京五輪決定も「世の中の雰囲気についていけない」〈週刊朝日〉  赤かぶ
30. 次郎 2013年9月12日 14:27:06 : FV0BoL10KVXeM : 5GFBiaNZBE
オリンピックが決まって浮かれる日本全土。私は室井さんと同じ感覚でした。福島の事故の実態はどこまで隠されているか不明のままだ。汚染水がどんどん流れ入るのに今まで安全という情報ばかりだった。安倍首相は都合の良い情報ばかり使っているとしか思えない。汚染水だけでなく更なる事故がわかってオリンピック中止ということにならなければいいが。そのとき誰がどういう責任を取るかなんて言っても馬耳東風だろう。
コメント [戦争b11] イランのハメネイ師、シリア問題めぐる米国の外交努力に期待示す 小泉犬
03. 2013年9月12日 14:30:23 : niiL5nr8dQ

国連シリア報告書、化学兵器使用の「犯人」示唆へ=外交筋
2013年 09月 12日 14:14 JST
[国連/アムステルダム 12日 ロイター] - 外交筋によると、シリアの化学兵器使用をめぐる国連調査団の報告書は、化学兵器使用の「犯人」については特定しない見通し。ただし外交筋は、事実を挙げることによって、化学兵器使用に関してシリア政府と反体制派のどちらに責任があるのか示唆する内容にはなる、との見方を示している。

報告書は、首都ダマスカス付近で先月、化学兵器により市民が多数死亡したとされる疑惑に関するもので、近いうちに公表される見通し。

シリア情勢をめぐっては現在、シリアに化学兵器の放棄を求めるロシアの提案を受けた主要国の調整が行われている。国連安全保障理事会の決議案づくりも絡み、報告書が交渉の行方を左右する可能性がある。

西側の外交関係者2人は、報告書について、サリンが使われたという米国の主張を確認する内容になると、強く確信している、と述べた。

またある外交筋は、報告書が16日にも公表される可能性がある、と述べたが、公表時期は今週末から来週にかけて、と見る向きもある。

外交筋によると、報告書は誰に化学兵器使用の責任があるのかについては明確にしないもよう。ただ潘基文・国連事務総長が報告書を受け、アサド政権に責任があると解釈できるのかどうか、考えを示す可能性があるという。

コメント [原発・フッ素33] 東電役員OB海外バブル生活 福島原発事故900日目の「天国と地獄」 vol.1 (週刊大衆)  赤かぶ
20. 2013年9月12日 14:31:56 : nYqO3uLJhE
お約束通り、特に家宅捜索するでもなく不起訴。

小沢さんの期ズレの捜査には30億円かけて家宅捜索までしたのに、この巨大な被害を生んだフクイチの事故を起こした連中はおとがめ無しだとは、あまりにもやることがちぐはぐだろうが。

佐久間は30億円の血税を返して東電の犯罪者の操作にまわせ!

●『原発事故、全員不起訴=東電元幹部や菅元首相ら—検察当局』
http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887323410304579064571717249330.html

漁業関係者、農業関係者などあらゆる人々は事故、汚染水漏洩等を引き続き訴え続けるべきだ。


コメント [戦争b11] イランのハメネイ師、シリア問題めぐる米国の外交努力に期待示す 小泉犬
04. 2013年9月12日 14:32:00 : U0YbWp4ff2
↑修正


誤:イラクをヨルダンに

正:イラクをシリアに

コメント [政治・選挙・NHK150] 供託金300万は収めた。国民の皆様に感謝!! 藤島利久氏 参議院大阪選挙区から出馬 loveholic
190. 2013年9月12日 14:32:55 : WVlCYg6IKg
良いソフトが出ました。これで藤島さんの監視がしやすくなります。

ツイキャス録画君
http://skypower.nobody.jp/TwitCasting_rokugakun.html

コメント [カルト12] 米英仏イバビロンは海底核爆発兵器やプラズマ兵器がばれて二酸化炭素注入地震に注力しているようで監視が必要である。 ポスト米英時代
09. 123456 2013年9月12日 14:35:25 : .QEk9Shmz5ssA : ZqJnqlqLXg
VOR(英語版)によりますと、プーチンがニューヨークタイムスに意見を書いたようです。議員団の派遣(米側に拒否されて実現しなかった)に続いて、プーチン大攻勢!:

「国連安保理の承認のない武力行使は承認できない」

http://bit.ly/19JGawC

とにかく、その中でプーチンは国連中心主義を擁護しているのですが、火曜日のオバマ演説を批判して、アメリカの例外主義、つまりアメリカは選ばれた特別な国だという考え方を批判しています。ほんと、これこそアメリカ以外の世界の国々が言いたかったことですよ!

この記事ではないんですけど、他のVOR記事でプーチンの外交原則の1つとして、
内政干渉、とくに武力干渉に反対というのがありました。昔でいったら「民族自決」。だから、プーチンが国連中心主義のワン・ワールドだかNWOだかの役者にすぎないという説はないと思いますねえ。

コメント [政治・選挙・NHK153] 消費増税を忘れた みのもんたは、後の山に捨てましょか −歌を忘れたカナリアの末路− 佐藤鴻全
10. JohnMung 2013年9月12日 14:35:29 : SfgJT2I6DyMEc : ECLp876zHU

 いつものことですが、この事案でも、小生が紹介する情報が都合の悪い方々、つまり、みの虫悶多御用達の在日密航右翼893・セクハラ・窃盗推奨隊が出没しています。

 下記に貼り付けた情報を確認するとともに、ご都合の悪い方々のもみ消し策動もみておきましょう。

 ”みのもんたの恐るべき報復 (simatyan2のブログ)”
 http://www.asyura2.com/13/senkyo153/msg/607.html
 投稿者 赤かぶ 日時 2013 年 9 月 10 日 11:00:00: igsppGRN/E9PQ

 ”みのもんたのセクハラをこれ以上放置してはいけない (天木直人のブログ)”
 http://www.asyura2.com/13/senkyo153/msg/640.html
 投稿者 笑坊 日時 2013 年 9 月 11 日 09:23:33: EaaOcpw/cGfrA

コメント [政治・選挙・NHK153] 「事実を見て下さい」というなら、「事実を見せて下さい」 (生き生き箕面通信)  笑坊
01. 「生活党応援団」 2013年9月12日 14:37:24 : gx0s7Tp1IhHJo : PAUi92RZ8e
これから安部は福島の地は踏めません。また行くつもりもないだろう。
コメント [政治・選挙・NHK153] 「ざまあみろ判決の飯田喜信裁判長」(EJ第3630号) (Electronic Journal)  赤かぶ
20. 2013年9月12日 14:37:32 : WgK5h5lzmA
私なら小沢は有罪にすると言い切った田中喜代重弁護士、小沢は悪人だと言い切った大澤弁護士。
コメント [原発・フッ素33] 「安倍は狂っている。本当にこんなことを言ったんだ!とんでもない事態になった:藤原直哉氏」(晴耕雨読)  赤かぶ
68. 2013年9月12日 14:39:01 : kXX0mVDAHo
 
】【これは酷いで;;】 貼り付けにされ「三本の矢」で殺されてるようにみえる「安倍人形」が最優秀賞に

1 名前: 閃光妖術(大阪府) 2013/09/12(木) 11:48:16.42 ID:mCguR36S0 PLT(12231) ポイント特典

どやm9っ`Д´)

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/images/2013/09/12/2013091210115367-1-256.jpg

  

最優秀は「安倍首相」 吉備中央で案山子まつり

 岡山県吉備中央町豊野地区で開かれている「第16回案山子(かかし)まつり」(実行委主催)の入賞作が決まり、自営業さん(54)=同町=のグループが手掛けた作品が最優秀賞に輝いた。安倍晋三首相をリアルに表現した力作。まつり最終日の14日に表彰される。

 目や眉毛、頬などの特徴を細かく捉え、首相が唱える政策の「三本の矢」(金融緩和、財政出動、成長戦略)をもじり、スーツの胸ポケットに矢を収めた。吉岡さんは家族や従業員と一緒に作り、3年連続、通算5度目の最優秀となった。

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2013091210115367/
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コメント [戦争b11] イランのハメネイ師、シリア問題めぐる米国の外交努力に期待示す 小泉犬
05. 2013年9月12日 14:39:29 : niiL5nr8dQ
コラム:シリアめぐる米議会採決は「無用の長物」
2013年 09月 12日 13:48 JST  

9月10日、シリアの化学兵器使用疑惑をめぐるオバマ米政権の姿勢は刻一刻と変わっているようだだが、米議会の採決の行方はさほど重要とは言えない。写真はペロシ下院院内総務ら(2013年 ロイター)

コラム:量的緩和の有効性めぐる日米の温度差=河野龍太郎氏
コラム:米アップルの指紋認証システムが秘める可能性
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コラム:米アップルの10日発表会、画期的新製品は期待薄

国際政治学者イアン・ブレマー

シリアの化学兵器使用疑惑をめぐるオバマ米政権の姿勢は、刻一刻と変わっているようだ。当初は、国際社会の支持を得たうえで懲罰的な限定攻撃を行うつもりだったが、次第に単独攻撃も視野に入れ始めた。そして約10日前には、議会にシリア攻撃の承認を求めるようになった(その間、承認がなくても攻撃可能だと強調し続けてはいるのだが)。

だが最近、米国が外交でしくじった結果、シリアを攻撃しない可能性も出てきた。シリア化学兵器の国際管理をロシアが提案するなど、米政府も外交的解決を検討し始め、議会の採決を遅らせようとしている。このロシアの提案について、米国に攻撃を断念させる狙いがあるとの見方があるが、それは見当違いと言えるだろう。

この約1週間は、米国によるシリア攻撃の可能性がメディアを席巻し、米議会の採決は極めて重要だと思われていた。だが、こうした報道には欠けていたことがある。現時点では、米国が実際に軍事攻撃をしてもしなくても、それは大して重要なことではない。議会が対シリア軍事介入決議案を可決しても否決しても、もしくは採決すら実施されなくても、オバマ大統領やシリア、さらには米国にとって中東での最重要課題であるイランに多大な影響を与えることはない、ということだ。

もしシリアへの攻撃がオバマ大統領にとって極めて重要だったなら、そもそも議会に決断を委ねたりはしなかっただろう。この10年間で、外交政策が選挙を左右しないことをオバマ氏は心得ている。2012年の大統領選で、外交政策が最大の争点だと答えた有権者はわずか5%だった。今回のことで、大統領が目の前にある実際の問題よりも、議会という政治的大義名分を重んじていることははっきりした。もし議会で決議案が否決されても、大統領が国内で受けるダメージは限られたものになるだろう。また、採決が無期限に延期された場合には、ダメージはさらに緩和されることになる。

シリアにとっても、米議会の採決はさして重要ではない。もし米国がパワーバランスの変化を狙って介入しようとするなら話は全く別だが、米国は根本的にアサド政権の弱体化を意図してはいない。ケリー米国務長官は、攻撃について信じられないほど小規模になると述べていた。そして今、オバマ大統領も攻撃を回避すべく外交的手段を探ろうとしている。

シリアへの攻撃が、米国の信頼に関わる問題であることは明らかだ。オバマ大統領が議会に決断を委ねたとき、その信頼はほとんど失われた。

イランにとっても、米議会の採決の結果はあまり重要ではない。なぜならシリア問題に関する議会の審議は、イランが核兵器製造へと大きく近づいた場合とはかけ離れているからだ。イランにとって最大の関心事は、オバマ大統領が自身の設定したレッドライン(越えてはならない一線)を守るため、同盟諸国と自身の勇気を奮い立たせることができるかどうかにあった。だが、大統領はそれに失敗した。イランにしてみれば、軍事攻撃に関してオバマ政権の支持獲得能力の低さが明らかになったことが大きな収穫と言えるだろう。今後何が起きようとも、これは変わることのない事実だ。

一方、日本やイスラエルのような米国の主要同盟国は、対シリア攻撃をめぐる失態について、米国が安全保障上の重要問題を減らしているサインと捉える可能性もあるだろう。化学兵器使用の防止に軍事介入が必要だとうまく説明できないホワイトハウスに、同盟国への軍事支援を議会に承認させることはできるのだろうか。

問題はそもそも、シリア内戦には変化を与えないであろう象徴的な意思表示をそれでもすべきかどうかだ。これが、米議会の採決の行方が重要ではないとするもう1つの理由だ。今回のことは、今後の行動に際し、先例とはならない。

オバマ大統領がロシアの提案に乗るなら、米議会も採決に向けて加速するだろう。あまり重要ではないけれど。

[10日 ロイター]

*筆者は国際政治リスク分析を専門とするコンサルティング会社、ユーラシア・グループの社長。スタンフォード大学で博士号(政治学)取得後、フーバー研究所の研究員に最年少で就任。その後、コロンビア大学、東西研究所、ローレンス・リバモア国立研究所などを経て、現在に至る。全米でベストセラーとなった「The End of the Free Market」(邦訳は『自由市場の終焉 国家資本主義とどう闘うか』など著書多数。

*筆者はロイターのコラムニストです。本コラムは筆者の個人的見解に基づいて書かれています。


 
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シリア軍事行動決議案、外交解決とん挫すれば米上院は来週にも採決の可能性 2013年9月12日
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上院は当初、週内に本会議で決議案の採決を行う予定だったが、ロシアがシリアの化学兵器の国際管理を提案したことを受け、オバマ米大統領は結果が出るまで決議案の採決を見送るよう議会に要請している。

上院議員の間では、軍事行動の脅威継続がアサド政権への圧力になるため、必要なら来週にも採決を行うとの声がある。

上院外交委員会のベン・カーディン委員(民主党)は「上院の採決時期に関する戦略は、政府との間で決めることだ」とし、「来週の可能性がある。その可能性を排除しない」と述べた。

上院外交委員会の民主、共和党議員らはこの日、それぞれ個別に協議した。委員会指導部がシリア問題に関する各党の委員らの考えを探ることが目的だ。

12─13日にはケリー米国務長官とロシアのラブロフ外相による会談が予定されている。外交委員会のメンバーによると、上院は少なくとも今後数日間は会談の行方や国連安保理の動向を見極め、それを受けて次の段階でとる措置を決める見通し。

メネンデス上院外交委員長は「確かな軍事力行使(の脅威)を維持することが必要との強い確信がある」と述べた。

下院指導部は、決議案を下院として策定するのか、上院案を採決にかけるのか、それとも他のアプローチを模索するのか、方針を明らかにしていない。


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オバマ米大統領は前日、外交努力が実らなかった際にシリアへ軍事攻撃を仕掛けることに国民の支持を求めた。

ケリー米国務長官は12日に、スイス・ジュネーブでロシアのラブロフ外相とシリア問題について協議する予定となっている。米国務省によると、協議は2日間以上にわたって行われる予定。

カーニー報道官は記者会見で、外交努力について「われわれは責任を果たしていく。そこで成功の可能性が試されるだろう」と指摘。「それ(外交解決)にはしばらくかかるとみている」と述べた。 

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コメント [政治・選挙・NHK153] 東京オリンピック中止〜東南海地震・新たな原発震災・フクシマ〜 けたぐれ后王
07. 2013年9月12日 14:41:13 : NYKgInvTtU
>>01 「韓国人と共謀して」だ?ここまで妄想が酷くなったら入院した方がいい。自分が同意できない事は何でもかんでも「韓国人と共謀しているんだ」と思い込んでるらしいから。
コメント [政治・選挙・NHK153] みのもんたのセクハラをこれ以上放置してはいけない (天木直人のブログ)  笑坊
60. 2013年9月12日 14:41:38 : Jny2RmHXSQ
TBSの再現ドラマが見たい
ないことをより悪質にさもこんなにひどいことをやったとか得意だから
何かを飲ませて? 暴行? カツアゲ? 逮捕? 黙秘権? 調書へ署名拒否?
余罪が出てきて再逮捕?
家族・知人・関係者の執拗以上に追い掛け回してコメントとって
編集してください
さあレポーターが直撃インタビュー
過去も家族も洗いざらい調べ上げてください

オヤジは俺には関係ない これからも皆さんの為に頑張るため夏休みを取って
充電中!

それともお金を積んでないことにしようと頑張っているのか

 

コメント [政治・選挙・NHK153] 橋下市長が、セクハラ校長やセクハラ区長を生み出しながらも「公募自体は悪くない」と強弁。こんな言い訳もう聞きたくない。 gataro
04. OVNI43free 2013年9月12日 14:42:39 : IhyfVrYJsi8bA : Q7yF03GWXg
公募であっても、審査員に本当に人を見る目があれば問題は無いのだが・・・
本当の問題は、ろくな奴が審査委員にならないということだね。これ世の常。
コメント [カルト12] 日韓五輪が共同開催の見通し、ロシア五輪も実質日中露共同開催として4千万人大移住の好機とすべきである。 ポスト米英時代
20. 2013年9月12日 14:42:43 : b5emMlQqLU
オ!たくさん釣れた!
このテーマはかかりが強いのですね!フーン?ナゼだろう?

コメント [政治・選挙・NHK153] みのもんたの恐るべき報復 (simatyan2のブログ)  赤かぶ
175. アクビ娘 2013年9月12日 14:43:52 : .dvo6d1MD5pDA : yNFm488VFU
>>172
> 首都オタワは、製材業で盛んな土地だ、嘗てこの地域で日本の製材業者が、
>アメリカ人を買収し恫喝していたことの経緯について事実なのかどうか、
>JohnMungさん直ちにカナダに行って調べてくれっ!


JohnMungさん、私も知りたいわ、あなたの諜報力ならこんなこと簡単にできそう。

コメント [原発・フッ素33] 東電役員OB海外バブル生活 福島原発事故900日目の「天国と地獄」 vol.1 (週刊大衆)  赤かぶ
21. けろりん 2013年9月12日 14:46:49 : xfW5FN1G6ouU2 : mvBqTxPV0U

>日本が法治国家・・・・

ウソだよ、ウソ、真っ赤なウソだよ。
法の遵守やその成り立ちは、そこの構成員であるコクミンの
意識レベルの高さから、維持されるモノであってだな・・・

・・・コクミン大衆の、まるで週刊誌のような意識レベルの
『ネトウヨ』種族が80%も占めているこの国で・・・

>日本が法治国家・・・・

なんぞは、有り得んのだよ・・・
支配構造の目くらましのための< 法治 >。
ガス抜きのための< 法治 >< 議院制度 >。

議員も、頂点近くに昇れば昇るほど、
その支配構造の実態を 目の当たりにする。
本人らも、肉体的な『 生死脅迫の渦中に叩き込まれる 』
支配される側から、選ばれる任期付の ガス抜きシステム・・< 法治 >。


世界手には、どこも大差無い。
タックス・ヘイブンの、裏の抜け道が
それを端的に現している・・・。




記事 [経世済民82] 黒田日銀総裁が予定通りの消費増税を政府に迫る 権限外への「口出し」、さすが「財務省DNA」の声(J-CAST) 
http://www.j-cast.com/2013/09/12183559.html?p=all
2013/9/12 11:32  J-CASTニュース


黒田東彦日銀総裁が、予定通り消費税増税することを政府に促す姿勢を強めている。安倍晋三首相は2013年10月1日をめどに最終判断する方針だが、なお先送りの余地を残していることに対し、国債市場の混乱を懸念し危機感を募らせているようだ。

権限外のことへの「口出し」に、日銀内にも驚く向きもありき、財務省のDNAを指摘する声もある。

■記者会見で雄弁に持論を展開

9月5日、日銀が金融政策決定会合を開いた後、黒田総裁の記者会見が開催された。ただ、金融政策自体は「戦力の逐次投入はしない」との方針のもと、4月4日の「異次元緩和」導入以降、一歩も動いていない。このため、会見でのやりとりの焦点は「景気判断の変更」といった点に限られる。「旬」の経済政策に関する考え方について質問が相次ぐことも多く、この日は「消費増税」の質問が繰り返された。

予定通り2014年4月に消費税増税するかどうかは、まさに政府というか安倍首相が経済情勢などを見極めて判断するものであり、日銀総裁といえどもとやかく口を出すようなことではない。霞が関の官僚生活が長かった黒田氏でもある。その辺りの「分」をわきまえ、適当に質問をかわすのが普通だと思われるが、「政府において経済状況などを総合的に勘案して判断される」との前提のもと、雄弁に持論を展開した。

まず議論の前提として、予定通りに消費税を8%に引き上げたとしても、「景気が腰折れするとは思っていない」「経済の前向きな循環は維持される」との考えを強調した。増税に伴い既に住宅市場では駆け込み需要が発生しており、この反動が2014年4月以降に現れると見られているが、それを踏まえても、「0%台半ば」(黒田総裁)とされる日本経済の潜在成長率を上回る実質経済成長率(日銀が「展望リポート」で示した2014年度1.3%)を達成する、との日銀のシナリオ通りに進むとの見方を示した。「デフレ脱却と増税が両立する」との考えからだ。

■「追加緩和」についても言及

一方で、増税を先送りした場合、「金融市場あるいは経済に与える影響は難しい」としたうえで「大切なことは財政運営に対する市場の信認を確保すること」と強調。「信認が失われると国として極めて困難な状況に陥りかねない」とも述べた。さらに仮に先送りで国債価格が大幅に下落した場合、「(財政・金融政策の)対応は非常に難しくなる」と指摘した。

国債価格が急落すれば新たな国債発行が難しく「財政を拡張するわけにはいかないため」で、国債を大量に買い入れる金融政策も効かなくなる、との考えだ。聞いていた多くの記者は、リスクを指摘することで「予定通り増税するべきだと促した」と受け止め、翌日の各紙紙面は一様にそんな見出しが躍った。

そのうえで、黒田総裁は逐次投入しないため封印している追加緩和についても言及。消費増税などにより、景気の落ち込みが想定を超え「日銀の2%の物価目標達成に対しリスクが顕在化すれば、適切な対応をとる」とも述べた。金融市場はこれを「来年度前半の追加緩和が現実味を帯びた」(外資系エコノミスト)と受け止めている。逆に言えば、「追加緩和で支えるから増税してください」とのメッセージでもあろう。越権行為ギリギリの言及に日銀内には驚く人もおり、市場では「財務省で税担当だったからなあ」と「DNA」を指摘する声も多い。



http://www.asyura2.com/13/hasan82/msg/402.html

コメント [政治・選挙・NHK153] 室井佑月 東京五輪決定も「世の中の雰囲気についていけない」〈週刊朝日〉  赤かぶ
31. 2013年9月12日 14:47:19 : NYKgInvTtU
>>29 男流作家にもハッパをかけてやれ。
コメント [政治・選挙・NHK153] さらば、「小沢信者」どもよ。私は、なかば冗談のつもりで、言い換えると半分は本気で、「元祖小沢信者」を… (山崎行太郎)  笑坊
01. 2013年9月12日 14:48:22 : bqvEZWGgus
成熟した信念に基づかない小沢待望論などは、まるで中学生の認識である。

その様な程度の視野で、政治を国家を論じることなど、遊びに過ぎない、

自己陶酔に過ぎない。

いい加減で、大人の視野を持つべきである。

小沢を否定するも、肯定するも!

コメント [政治・選挙・NHK153] 誰かをさらし者にすれば成績が上がるとでも思っているのか、最低だ。知事による教育現場イジメ、恐怖支配。 gataro
04. 静岡在住 2013年9月12日 14:50:11 : cn0HRjOLIMbis : Q7yF03GWXg
 川勝さんも元大学の学長でもあり、教育畑の人だったので、顔に泥を塗られた感じがしたんだろうね。気持ちはわからないでも無い。
 ただその前にこういう学力テストに正当性があるかどうかよく考えることが必要だろうね。
コメント [政治・選挙・NHK153] みのもんたのセクハラをこれ以上放置してはいけない (天木直人のブログ)  笑坊
61. 2013年9月12日 14:51:58 : KO4C9oEhYU
>60
そうですね。TBSに本件についてレポーターやってもらいたいですね。そしてある事無い事ジャンジャンやって客間を面白くして欲しいですね。本件追っかけレポートでお得意の捏造報道はもっとも歓迎をするところです。楽しみにしています。
コメント [政治・選挙・NHK153] さらば、「小沢信者」どもよ。私は、なかば冗談のつもりで、言い換えると半分は本気で、「元祖小沢信者」を… (山崎行太郎)  笑坊
02. 2013年9月12日 14:52:47 : bqvEZWGgus
孫崎!

自分の職責で知りえた情報を小出しにして飯の種にしている要領がよいだけの知れ者。

その様なものを信奉することも、小沢を教祖としてあがめているようなもの。

奴など、単なる暴露屋に過ぎない。

コメント [政治・選挙・NHK153] 中・韓「反日」嘘つき国家に対して、日本政府は国際社会で適宜・適切な反論をすべきだ。(日々雑感)  笑坊
07. 2013年9月12日 14:53:44 : VtFvDH8aCY
事実を事実として認識できない幼児性、自分で自分の首を絞めてことにも気が付かず、ハシャイでいるバカウヨよりは、まだマシかもね。www
コメント [Ψ空耳の丘Ψ61] 人類の目指す理想社会とは・・・ 路傍の花
91. 2013年9月12日 14:53:47 : hfD8riyeAY
>>90

> やはり神社参りは、害はあっても一利無しなのですね。

はい。何処かのスレでも何度か コメントしましたが…
きびなごの天ぷらを、浅草聖観音(龍族)が たいそう喜びました。

ふと、いつも浅草聖観音は、空腹なので怪訝だったんですが…
仲間の龍女(人権関連法案通過阻止をした霊能師)が、
神社に閉じ込められ 鎖で繋がれた状態の魔物を開放しているとか
神社側の罠の話をしていたので 確認取って やはりそうか!と気が付きました。

浅草聖観音も 伊勢神宮の天照大神たちと同じで、閉じ込められています。
御利益信仰の参拝者達は、境内に放たれた魔物や邪霊の類に騙されてます。

神社仏閣で 変な祈りをする事で、正神=龍族と眷属稲荷たち から引き離されています。


横浜在住の叔父に、色んな神社仏閣巡りするのは 止める様に忠告しているのですが
受け付けません。
叔父曰く、『呼ばれるから参拝するのだ!』と。

ペテルギウスからの転生者も同じような事を云っていたのを 思い出して
質問してみて やはり叔父と同じだと解りました。

正神が呼んでいるのではなく、神社仏閣に仕掛けた罠の魔物に呼ばれて参拝しています。

これでは、正神が出す信号と、魔物が出す信号の識別が出来ないので
肝心な事に関心を示さず、霊能を開けないまま 生涯を終えてしまいます。

霊感 NOT= 霊性 なのですが、精神レベルも低いままです。


スネかじり信仰は、成長させないための罠でもあります。
良く考えれば、解る筈ですが、考えないから解らない。 ⇒人間牧場の家畜化


龍雲

コメント [経世済民82] 黒田日銀総裁が予定通りの消費増税を政府に迫る 権限外への「口出し」、さすが「財務省DNA」の声(J-CAST)  赤かぶ
01. 2013年9月12日 14:54:28 : nJF6kGWndY

>追加緩和で支えるから増税して

日銀の超緩和政策の可否(金利を低く保ちながら、インフレ率を上げ、実質金利低下できるか)は、市場が政府の財政政策を信認するかどうかに依存しているから当然の行動

つまり日銀が政府に従属し、独立性を失うとは、逆に言えば、政府の責任が増すということだ


コメント [戦争b11] イランのハメネイ師、シリア問題めぐる米国の外交努力に期待示す 小泉犬
06. 2013年9月12日 14:55:27 : 4nNTtbQ57E
志位委員長、シリア代理大使と会談
化学兵器廃棄、内戦の政治解決を提起

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-09-12/2013091201_02_1.jpg
(写真)会談するワリフ・ハラビ駐日シリア代理大使(右)と志位和夫委員長(左)=11日、党本部

 日本共産党の志位和夫委員長は11日、党本部でシリアのワリフ・ハラビ駐日代理大使の訪問を受け、会談しました。

 ハラビ氏は、志位氏が8月30日に発表した談話「シリアへの違法な軍事攻撃の企てに強く反対する」に注目したとのべ、米軍が攻撃の構えを見せてきたシリア情勢について、同国政府の立場を説明しました。

 これに対し志位氏は、「化学兵器の使用は誰によるものであれ、人道と国際法に反する重大な残虐行為だが、事実の解明は国連が進めている途上にある。国連安保理の決議もないまま一方的に攻撃を強行することは、明白な国連憲章と国際法違反であり、強く反対する」とあらためて表明。

 そのうえで、「軍事攻撃を回避し、問題を政治的に解決するうえで、二つの点を率直に提起したい」とのべました。

 第一は、この間、ロシア政府が、シリア政府に、化学兵器禁止条約への参加、化学兵器の国際管理・廃棄を提案していることについてです。志位氏は、この提案を、「問題の政治的解決の道を示したものとして、歓迎・支持する。シリア政府が、積極的にこれに合意し、誠実に履行することを求めたい」とのべました。

 第二に、内戦の解決の問題です。志位氏は、「破滅的な内戦が10万人以上の命を奪い、地域全体の不安定化をつくりだしていることを強く憂慮している。今年5月15日に採択された国連総会決議にもとづき、シリア政府と反政府勢力の双方が、真剣な政治対話を開始し、双方を包括する暫定政権樹立をめざして努力すべきだ」とのべました。

 ハラビ氏は、「シリア政府は、ロシア政府の提案を受け入れ、化学兵器禁止条約に加盟する用意がある」とのべました。さらに、志位氏の談話と二つの提案について、本国に伝えるとのべました。

 緒方靖夫副委員長・国際委員会責任者、田川実書記局員が同席しました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-09-12/2013091201_02_1.html

コメント [カルト11] トリチウムとは?危険性は?海洋放出量は?(ポストさんてん日記) 会員番号4153番
02. 2013年9月12日 14:55:41 : 7FDus7RRvw
ふーん、もともとトリチウムお漏らししてたのに、5重の安全装置があって事故は1万年に1回も起きないって言ってたんだ。
コメント [原発・フッ素33] 安倍首相「完全にブロック」は嘘/小出裕章さん「こんな軽々しい発言をする人を一国の首長に持っていることが、大変恥ずかしい」 gataro
62. みんな 2013年9月12日 14:56:26 : Xaxms5w2Jsr/M : whmpTRXNF6
>1 これがほんとの「お・も・て・な・し」てっかwww

「おもて(表)なし」だから「うら(裏)」金があるんだよ(爆)。

コメント [マスコミ・電通批評14] みのもんた 朝からズバっと女子アナのお尻を触りセクハラ! チクリ虫
11. 2013年9月12日 14:56:57 : BIgfJMRMNE
TBSは必死こいて消してるじゃん。
まるで水谷建設の金銭授受の捏造がバレて、必死にyoutubeの動画を消しまくったのと似てるな。
コメント [政治・選挙・NHK153] 「登石裁判長は掟破りを冒している」(EJ第3631号) (Electronic Journal)  赤かぶ
01. 2013年9月12日 14:57:02 : KO4C9oEhYU
堀田力が言っていましたよ。これからの裁判は推認は当然ありですと。それが陪審員裁判が始まった時代の流れですと。ボーっと聞いているとそうですかと思ってしまう。
コメント [政治・選挙・NHK153] 日本:死刑執行に対する抗議声明  アムネスティ・インターナショナル日本 ダイナモ
01. 2013年9月12日 14:57:25 : Q7yF03GWXg
 先ほどニュースで出たけれど現政権はコンスタントに死刑執行をしている。
死刑執行賛成派と反対派は永遠に交わらない立場のように思えるが、死刑囚というのは罪の無い人に対して勝手に「死刑執行」をした人なわけだから、死刑賛成派ということになるのかな・・・
コメント [政治・選挙・NHK153] 小沢グループの「政治的言論」は、何故、衰退したのか? (山崎行太郎)  笑坊
62. S.T 2013年9月12日 14:57:47 : TNEHs1z1b5edM : qnra6FR1RU
>小沢グループや小沢ファンの政治的思考が、まさにそうであるように見える。
>「⚫⚫反対」「⚫⚫反対」・・・のワンパターンの繰り返しである。そいうところでは、考えることは禁じられ、
>馬鹿が大手を振って闊歩するようになる。「小沢グループの共産党化」である。

アンチ小沢は「小沢反対!」「小沢反対!」という書き込みばかりで、小沢氏の政策が間違っているのなら指摘すれば良い事なのに、安倍総理みたいにウソやデマを使い「小沢反対!」を唱えて来た。

私はこの阿修羅掲示板で、小沢がダメなら君の信頼出来る政治家とその政策を教えてくれないか? と語ってもまず反応無し。
しかも妙な事は、自民党支持者が多ければ当然ながら、この阿修羅掲示板でも自民党の良さをいう投稿者やコメントが多くあっても良いはずだし、むしろ多くなければ自民党の政策を支持している人こそ少数派かも知れない。

衆議院選挙に置いても、不正選挙を行われる可能性が疑われているのに「どうすれば不正を防げる効果的な方法」を考える投稿が無かったのかは小沢氏支持者、しいては「自民党支持者」にも必ず跳ね返る。
以前民主党が大勝利した事をもうお忘れですか?

>たこつぼの中で語られるような小沢信者たちの陰謀論が一般国民に理解されると思ってるのだろうか?
ここで言う「たこつぼ」とは、日本の政治政界(マスコミ情報も含む)と言う事ですよ。
自民党の2枚舌公約さえ見破れないで投票してしまう国民こそが「たこつぼ情報」で踊らされていると思いますよ。
先日のオリンピックスピーチも、総理がウソを真顔でしゃべる行為こそ恐ろしいですもんね。
世界に向けてウソを平気でつくのは、国民に対しても平気でウソをつく公約とか、もう国民への罪悪感なんてないでしょう。
このままでは世界の情報の「たこつぼ化」となる可能性が危惧されます。
戦時中の日本帝国軍大勝利というウソの報道で気がつけば市民が大量に死んで行く悲惨な事になりましたよね。

小沢支持とはすべてにおいて支持していると勝手に思い込んでいるアンチ小沢連中の馬鹿加減さにはうんざりです。
小沢氏を支持しているのは、小沢氏個人の支持ではなく、日本の現在の政治で最も国民の為になる政治を行おうとしていると思うからこその「政策の支持」と言う訳です。
だから小沢氏以上の良い政策を実行しようと言う政治家が他に居るのならもちろん支持しますよ。
政治家の政策が肝心であって、ウソをつかれて当選し、その後に公約って破っても大した事無いし〜 って詫びる事無く公約を覆す政治家や政党ってどうなの?

小沢氏を支持するだけで、突然銀行からの融資を断られたという事例も以前に阿修羅掲示板では投稿がありましたね。
小沢氏を支持する者は排除される、批判されるからこそ、普通の国民はそんな嫌な思いをしてまで支持したくないって考えますよ。
日本人って本来は争いを好まない民族ですから。
だからこそ自分から先にとにかく謝っておくとか、礼儀を重んじ、相手に対して思いやる気持ちを大切にしようとか、そんな文化のはず。

ところで安倍総理が真面目にウソをつかずちゃんと政治を行ってくれれば良いだけの事ですよね。
ちゃんとやっていれば反論の余地さえ無いです。
でもね、どんな政治家や国民や官僚ってどこかで間違いを犯すもんです。
その間違いを気付かせるのが「野党」の役割でもありますね。
もちろん野党が間違っている可能性も強いが、政策論争が無ければ検証も想定も対策も何も出来ないし、むしろ多方面の政策検証を捨て去る行為こそ、国家が弱体化していくだけ。
矛盾を減らしていかに納得出来る政治を行えるのか。
それが選挙で政治家へ票を入れる行為ですね。
低投票率の現状を「山崎行太郎」氏はどう考えているのか知りたいもんです。

コメント [原発・フッ素33] 東京五輪選手に腕3本描く 仏紙が汚染水風刺画 (産経)  赤かぶ
08. 2013年9月12日 14:59:33 : vSYSxJiuPs
菅官官は、コントロールされている、ブロックされていると言った自分や首相の発言が、福島県民を傷つけていることには、思いを致さないのか?

>「状況はコントロールされている」。安倍晋三首相は、国際オリンピック委員会(IOC)総会で、東京電力福島第一原発事故の汚染水漏れについて、こう明言した。しかし、福島の漁業関係者や識者らからは「あきれた」「違和感がある」と批判や疑問の声が相次いで上がった。

コメント [政治・選挙・NHK153] さらば、「小沢信者」どもよ。私は、なかば冗談のつもりで、言い換えると半分は本気で、「元祖小沢信者」を… (山崎行太郎)  笑坊
03. S.T 2013年9月12日 15:01:14 : TNEHs1z1b5edM : qnra6FR1RU
だめだ、こりゃ。
山崎行太郎っていう人物こそまともな政策論を言わず、まるで阿修羅掲示板でウソを履き続けているアンチ小沢連中の奴らのようだわ。

もしかして、書き込んでいるとかw
しかもコメントを論破?削除?されて腹いせ?

コメント [原発・フッ素33] 国費投入でも解決不可? 福島第一原発、汚染水問題のドロ沼 (週プレNEWS)  赤かぶ
11. 2013年9月12日 15:01:53 : 8awOEz3Txc
NHKのクローズアップ現代は終わりのほうだけ見ました。
前例の無い広範囲の凍土壁が失敗した時のために、他の策があるのか?との問いに
二重三重に手立てを考えてることが大切だみたいな、答えになってない話でしかなかった。
もう今まで未知数で見送りになっていた凍土ぐらいしか、やってるそぶりを世間に発信できるものがないんだろう。

凍土の完成が予定されている2015〜2016年は、福島の放射能の影響も顕在化してくる頃だろう。
2016年のリオデジャネイロオリンピックを国民が果てしてどのような目で見ることになるのか。


コメント [原発・フッ素33] 東電役員OB海外バブル生活 福島原発事故900日目の「天国と地獄」 vol.1 (週刊大衆)  赤かぶ
22. けろりん 2013年9月12日 15:06:38 : xfW5FN1G6ouU2 : mvBqTxPV0U

週刊大衆コクミンが、夢うつつからめざめてだな・・・
ネトウヨ・お上さまさま税金分捕り分配の< 絆 >の・・・
おのれらの、ガテン系の背中に掲げる、ツナギシンボル
< 絆 >に、心底から恥ずかしさを、感じるようになればダナ・・・
小賢しい利権分け前の、分配に群がる、その保身被せの
”よゐこ・よゐひと気取り”・・を
『ゲロゲロぉ〜』と気持ち悪く
感じるまで、めざめてだな・・・

これからは、このクニを
『法治国家にしていこう・・』
・・・と言うのなら・・・ハナシのスジは通る。

『法治国家』というのは
これからのハナシだ、これからの・・・

『 日本は法治国家 』・・ウソだよ、ウソ。
最高裁で全部が都合良く、ヒッリ返るんだよ。
ソコまで行かせる間に『ガス』を抜くんだ。

どん底意識レベル状態で、刷り込まれたまま
洗脳されたまんま・・・
解りもしない幻想知識モドキのまんま・・・


底の浅い・・・
リスクもなにも取らずに・・
肚も何も無い、アタマすら無い、
気取った表面的な、

コトバを垂れ流している間は、無理だ



コメント [マスコミ・電通批評13] 悪質!住所変更すると全員強制的にNHKに通知される(simatyan2のブログ)  かさっこ地蔵
36. 2013年9月12日 15:06:48 : HppyiJ0996
なんちゃって!

皆様の声、信頼、見応え、公共放送だからね。

コメント [カルト12] G20の結論は、米英仏イバビロンは化学兵器詐欺はやめろ、である。だから、たった4か国しかシリア攻撃に賛成しないのである。 ポスト米英時代
08. 2013年9月12日 15:07:15 : TzdSaXv6Z6
宇宙への朝立ちさんの話では人工地震や気象兵器の記事を書くと、必ずグアムのほうからアクセスがきまって100程集中してあるそうだが、やはり観光地なのでスマトラ沖津波のようなのを恐れて過敏になってるんだろうか?
記事 [経世済民82] 懲りないウォール街  リーマン破綻から5年で何が変わったのか (Bloomberg Twitter)  
2008年9月、モルガン・スタンレー のバンカー、ルース・ポラット氏は金融システムへのリスクというものを理解しているつもりだった。ファニーメイ(連邦住宅抵当金庫)やフレディマック(連邦住宅貸付抵当公社)の救済について米財務省に助言していた同氏にも、それは予想がつかない事態だった。アメリカン・インターナショナル・グループ(AIG )破綻への対応のためにワシントンに戻ってきてほしいという連絡が来たのだ。


電話の相手は「闘うべき相手は別にいた」とつぶやいたと、同氏は先月のインタビューで振り返った。現在モルガン・スタンレーの最高財務責任者(CFO)を務める同氏は、AIGが「あれほど簡単に倒れ、その影響が国中を揺るがし、しかも誰もそれを予想しなかったことにただ驚くばかりだった」と語った。
当時はモルガン・スタンレーも危うかった。破綻したリーマン・ブラザーズ・ホールディングスから資金を取り戻すことができなかったことで警戒したヘッジファンドが、2週間に1280億ドル(約12兆8000億円)余りをモルガン・スタンレーから引き揚げ、同社は20%の出資を受け入れたほか銀行持ち株会社に転身、連邦準備制度理事会(FRB)から1073億ドルを借り入れた。


2008年9月15日、リーマンが破綻し大恐慌以来で最悪の金融危機を引き起こしてから5年がたつ。モルガン・スタンレーはもう安泰だとポラット氏は言う。同氏とジェームズ・ゴーマン最高経営責任者(CEO)は規制当局に尻をたたかれつつ、次の危機の衝撃を小さくするためリスク低減化と資本強化を進めてきた。


◆危機の条件は残されたまま


米国の大手6銀行の資本の合計は08年のほぼ2倍になっているが、まだ不十分だとの見方もある。パニックに耐えるにはレバレッジが高過ぎ、複雑過ぎ、密接に絡み合い過ぎ、規制当局は力不足と、前回の危機に至った条件はそろってる。


ブルームバーグ・ニュースはバンカーや当局者、エコノミスト、議員らにインタビューしたが、何をすべきかについて意見はさまざまだった。6大米銀は07年以降、大きくなるばかりで、ますますつぶせなくなったと指摘する声もあった。ブルームバーグのデータによれば、6行の合計資産は28%増えている。一方で、銀行の大きさや時に政府介入が必要になるシステムに問題はないという見方もある。世界のビジネスに資金を流れさせるために避けられないコストだという考えだ。


1996−2002年にかけてメリルリンチのCEOを務めたデービッド・コマンスキー氏は、「銀行が大き過ぎるのは必要なことだ」と言う。「政府が介入することに対して強いアレルギーはない」とも述べた。


◆3つの元凶


米議会の調査結果や危機について書かれた300冊余りの書籍は、危機の元凶としていろいろなグループを挙げた。借り過ぎの住宅保有者、サブプライム住宅ローンを販売した銀行、ローンに保証を付けた住宅公社、ローンを証券化したウォール街、その証券に高い格付けを与えた格付け会社、これらに対して無策だった監督当局、そのような事態を奨励した政治家。


基本的な問題として次の3つが際立つ。監督当局に十分な力がなく、銀行が短期借り入れで有害資産を積み上げリスクを膨らませるのを止められなかったこと。銀行の資本が手薄く、資産の価値が暴落したときに吸収できる余地がほとんどなかったこと。規模が大き過ぎ、不透明で絡み合ったシステムのため、銀行が破綻すれば経済への大打撃が避けられなかったこと。


モルガン・スタンレーのゴーマン氏は2010年にCEOに就任した直後のスピーチで、危機の原因についてこう要約した。「短期の資金に支えられた非流動資産を、レバレッジが高過ぎ、資本が不足している金融機関が保有していた」。


当局は以来、レバレッジ低下と流動資産の保有増、翌日物借り入れへの依存低下を促した。2010年に成立した金融規制改革法(ドッド・フランク法)は、システム全体を破壊せずに当局が大手銀行を接収し解体することを理論的には可能にした。複数の銀行監督当局がシステムへのリスク監視で協力できる仕組みも作った。


◆見えない敵


まだ十分とは言えないかもしれない。最大のリスクは見えないところに潜んでいることがある。巨額のクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)契約のためにAIGが倒れてから5年、銀行のトレーディングとデリバティブ(金融派生商品)事業、カウンターパーティーについての透明性は相変わらずゼロに近い。


シカゴ大学ブース経営学大学院のアニル・カシャップ教授(経済学)は、「基本的なモデルはあまり変わっていない。依然として脆弱だ。銀行にははるかに大きな資本と流動性が必要だ。安全とはまだ言えない」と語った。


http://www.bloomberg.co.jp/news/123-MSWOR86TTDSA01.html


(以下感想)



◆アメリカ10月半ばのディフォルトの可能性大 日本はどうなるのか


カリフォルニア経済大ジェームス・ハミルトン教授は、
米国の国家債務は70兆ドル以上に達して、国家財政が破綻している。
その上、米国政府の借金は議会が法律で設けた上限の16兆7000億ドルに本年5月に達したあと、
追加の借金ができないで、公務員の年金積立金等を流用して一時しのぎをしていると警告している。


それも限界に来ているようだ。
財務長官ルーは、借金の上限引き上げで議会と取引しないと言明。
議会の否定的態度で借金の再度上限引上げ対策は困難になっている。


8月26日、財務長官ルーは、
「財政再建が行われないまま、来月10月半ばを迎えると、アメリカ合衆国はデフォルトが必須に至る」と、上下両院に通告した。 


アメリカ政府は、デフォルトを行うと対外債務は全部チャラになり、涼しい顔で出直しできる。
しかし、日本財務省の指導で、9200億ドル(91兆円)の米国債を買わされ続けている、
国内の金融機関・生保・農林中金などは、保有している米国債が1ドルも換金されないまま、紙くクズ同然となり、
金融機関の顧客である預金者のお金が消失することになるのだ。


2020年の東京五輪オリンピックを、北京オリンピックのように、国威発揚に利用したいのだろうか。
しかし、現実的に7年後の日本がどのようになっているか不明である。
生き残る企業の経営者には、半年先を目安に、経営戦略を講じるの応力が必要とされている。


ジャパンハンドラー防諜工作で首相に再選sれた安倍晋三は、
泥船アメリカと一緒に沈んでいくのか、独自の外交を歩むのか、
日本人としての真価が問われれている。



http://www.asyura2.com/13/hasan82/msg/403.html

コメント [政治・選挙・NHK153] <サンデー時評>亀井節、「日本人は生体反応失った」  かさっこ地蔵
06. 2013年9月12日 15:12:34 : gYd773L3D6
>03さん レッテルを貼るのもねぇ。 赤報隊・相楽総三が年貢半減令を
掲げ東征中の下諏訪で、偽官軍として処刑された。 奇兵隊総管であった
赤根武人が長州藩内戦危機を避けるべく工作(裏切り者・スパイ)で処刑
された。 病没の高杉晋作や相楽総三は靖国、赤根武人は名誉回復なし。

明治史観では亀井氏の史観が理解できないわな。 


上野の命名は、藤堂高虎の下屋敷があり、藤堂は所領の上野に準えた。

東叡山寛永寺 寒松院
http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/kanshoin/

文禄慶長の役で捕虜をとって帰った。 千利休の茶道が全盛の頃
九州の陶芸名産地は、この時代の陶工によるといわれてる。
明治の思想源流である儒教朱子学は、藤原惺窩が姜(きょうこう)に
学んだといわれる。 弟子に林羅山、その弟子が山鹿素行。 忠臣蔵の

山鹿流陣太鼓であり、吉田松陰が山鹿流兵学を講義し、長州藩出版の
長防臣民合議書で、忠臣蔵を記述している。 水戸学は黄門さまの
光圀と朱舜水とういうのもある。 これは儒教という統治学の系譜。

日教組や文科官僚にマスコミに洗脳されると宗教も理解できないのがいる。

江戸時代の日本人は仏教徒でなければ生活できなかった。
寺請制という戸籍管理を寺がやっていたからである。 天皇家は国家
仏教を始めたから、崇仏戦争の聖徳太子、その親の用明紀(日本書紀)
に「信佛法 尊神道」とある。 神仏混淆(習合)が明治から敗戦期間を

除いて日本人に一般的なことになる。 天皇家の香華院(菩提寺)で
ある泉涌寺寺略にも記されている。 菊紋は明治に入り一般使用が禁止
されるが、この寺は御寺で許されている。

御寺 泉涌寺
http://www.mitera.org/outline.php


で、亀井氏に戻れば大村益次郎の彰義隊攻撃や薩摩藩に気をつけろ
というのがある。 征韓論もあるが、藩兵論と農兵論(徴兵論)もある。
大村死後、山縣有朋らにより徴兵制となる。 初期の目的は反乱暴動の

鎮圧である。 戊辰戦争の描写を読むと惨いものであるが、西南の役は
徴兵で参戦した元会津の兵士も敵討ちで同じような事をしたとされる。


政教分離は憲法というのでもなく、天皇が出ると乱が起きるのが日本史。
信長と本願寺の石山戦争を和議で調停したというのもある。 信長は
官位にこだわらなかったというが、正親町天皇の調停を受けた。

この天皇の時代、江戸もそうであるが、没落して即位もできない。
これを救った、献金したのが本願寺で、門跡を得たというのもある。
まあ、藤原摂関・武家政治が永く、祭政不一致が伝統といえる。


亀井氏の歴史観の一部を取り出して反応するのは、若いのかな?


因みに、左翼史観を社共主義とするなら、これらの国に軍隊は存在する。
シリア攻撃を辞さないとする仏オランド大統領は社会党である。
民主主義では左派右派、過激な極もあるが、意見論理じゃないのかな?

コメント [カルト12] 米国議会採決先送りはオバカの完敗という意味である、日中がロシア提案支持、米英時代が終わり日中露時代の幕開けである。 ポスト米英時代
22. 2013年9月12日 15:12:35 : TzdSaXv6Z6
「尖閣に公務員常駐も選択肢、菅氏」

ほらほら、危ない、危ないですよ。お鉢が極東のこっちへ
回って来ましたよ。シリア戦争詐欺がコケたので。
戦争中毒禁断症状は断末魔の苦しみ。

<巷の意見>

戦争火付けの方法。素人で考えてみました。

トルコでの女子大生殺害動機はまだ見えてきませんが
カンボジアでもPKO要員が、イラクでも外務官僚が

尖閣の常駐公務員上空にある日突如 
国籍不明無人機が現れ、攻撃、全員死亡。
国籍不明だったのに、グーグルの追跡画像も隠蔽改変され・・
某国であるとの偽情報が喧伝され、自衛隊が配備され
そこへも大胆にもまた国籍不明無人機が
ちょうど威嚇排除へ航行中の某国船団の方向上空から攻撃
自衛隊応戦、紛争へ


コメント [政治・選挙・NHK153] 汚染水でフクイチは崩壊寸前 安倍政権の”五輪ファシズム”が国を滅ぼす〈週刊朝日〉  かさっこ地蔵
07. 2013年9月12日 15:12:48 : OlLnPLnRU2
オリンピックなんて悪い冗談です
水による冷却に限界─金属による冷却も検討すべき事態
小出裕章さん(京都大学原子炉実験所助教)インタビュー
http://www.jimmin.com/htmldoc/149201.htm
コメント [政治・選挙・NHK153] 消費税率、来年4月に8%…首相が意向固める(読売新聞)  かさっこ地蔵
16. 自転車乗りの新聞配達人 2013年9月12日 15:16:17 : JHO/XA0cW8YqI : Q7yF03GWXg
そうか・・・
とりあえずピザを注文するのはやめよう。
自炊して小食に徹すればかえって健康には良いかもしれない。
金のかかることは出来るだけしないで、老後に備えよう。
年金だってもらえるかどうかわからないしね・・・
コメント [政治・選挙・NHK153] 小沢代表、小選挙区制度と政権交代、二大政党政治の未来について語る 共同通信インタビュー要旨  赤かぶ
23. 2013年9月12日 15:20:50 : nCFbwhGpcc
>>13

司会は誰がやるのだろう?

メイン司会は石原良純、堀潤(元NHKアナ)
アシスタントは春香クリスティーン(自称政治家オタクアイドル)

http://www.tv-aichi.co.jp/gekiron/

先週の放送では東京オリンピック開催が決まったことを
喜ぶのは当たり前的な誘導をする良純が不愉快だった。

良純が司会の時点でリベラル色は期待できんと思ったが、
堀潤もまだ遠慮しているのか、ぬるいことしか言わない。

小沢さんが出るなら、とりあえず今週までは見るか。

記事 [マスコミ・電通批評14] セクハラ&二男逮捕 みのもんた「朝ズバッ!」降板必至 (日刊ゲンダイ) 
               そろそろ引き際か/(C)日刊ゲンダイ


セクハラ&二男逮捕 みのもんた「朝ズバッ!」降板必至
http://gendai.net/articles/view/geino/144514
2013年9月12日 日刊ゲンダイ


<「2度目」の夏休みという“偶然”>

「父親として申し訳ない気持ちでおります。今後も捜査の推移を見守ってまいりたいと思います」

 次男で日本テレビ社員の御法川雄斗(31)が11日、窃盗未遂で警視庁に逮捕されたことを受け、みのもんた(69)が直筆コメントを発表した。

 みのは現在、夏休み中のためレギュラー出演している朝の情報番組「朝ズバッ!」(TBS)には出ておらず、今後、謝罪会見などを開く予定もないという。

 しかし、この夏休み。「ちょっとタイミングが良すぎますね」というのは民放キー局関係者だ。というのも、実はみのは8月上旬に夏休みを取得済み。異例ともいえる今夏2度目の夏休みなのだ。

「先日のセクハラ騒動のほとぼりを冷ますための謹慎じゃないかという声もありましたが、次男逮捕の善後策を協議するためのインターバルと考える方が自然です。あらかじめ警察サイドから11日に逮捕するという情報が流れていたのでしょう。みのほどの大物となれば社会的影響力も大きいですからね」(前出のキー局関係者)

 TBSでは「2回目の夏休みはあらかじめ決まっていたこと」(広報部)というが、視聴者の疑念を晴らす説得力に欠けるといわざるを得ない。

 生放送中に女子アナの尻をなでた先のセクハラ騒動に続いて不祥事連発のみの。いくら成人した息子のしでかしたこととはいえ、舌鋒鋭く“ズバッ”と釈明できないならキャスター失格。来年は70歳。引き際だ。



http://www.asyura2.com/13/hihyo14/msg/185.html

コメント [政治・選挙・NHK153] さらば、「小沢信者」どもよ。私は、なかば冗談のつもりで、言い換えると半分は本気で、「元祖小沢信者」を… (山崎行太郎)  笑坊
04. 2013年9月12日 15:24:23 : m2nohvN0kk
こんな頭悪いとは思わなかった。
コメント [政治・選挙・NHK123] パックイン・ジャーナルを存続させろ フクイタカノリ
8614. タマ通信 2013年9月12日 15:24:29 : Uapa503HmbXSc : HppyiJ0996
チーム世耕の代表 せこーさん
再婚の感想を記者団に問われて
日テレ記者「副官房長官 おめでとうございます。ご心境は如何ですか?」
世耕「晴天明朗なり、波高し、いいもんですよ」ちょっと照れながら
記者「赤ちゃんの予定は? それで何人を?」
世耕「そうですね、3,4人はいけると思います、いや、2人までかな?」
(野良ネコじゃないんだからいっぺんに4人は無理です)
記者「奥様の林さんとは何処でお知り合いになられましたか?」
世耕「お互いに再婚で未だ前のつれあいが生きているのでそれは答えられません」
記者「もう議員会館に一緒にお住まいですか?
」世耕「それは女房の古巣の日テレの貴方がスクープしてください。久美子もスクープ連発でしたよ」(朝日政治面)

世耕せんせー、林センセイ めでとう!
センセイ、センセイ それ〜はせんせ〜い ♪ by森 昌子

コメント [カルト12] 米英仏イバビロンは海底核爆発兵器やプラズマ兵器がばれて二酸化炭素注入地震に注力しているようで監視が必要である。 ポスト米英時代
10. 2013年9月12日 15:26:04 : ThWNk0yyAY
アイフォンに指紋認証***使用者全ての指紋がエヌエス何とかに流れる仕組み完了。
コメント [マスコミ・電通批評13] 悪質!住所変更すると全員強制的にNHKに通知される(simatyan2のブログ)  かさっこ地蔵
37. 2013年9月12日 15:27:51 : hcJpQvLxec
考えてみれば、私が最初に引っ越しを経験したのが20年ほど前である。
その当時も移転早々、間髪入れずにNHK外交員がやってきた。
例えば、移転後半年ほど経ってから外交員が来るのなら、不断の訪問努力によって未加入者宅を探し出した、と理解もできようが、移転後、待ってましたとばかりにやって来るのはタイミングが良すぎる。
仮に当時は複写式でなくとも、コピーかファックスしてNHKに流せば済むことだ。相当前から郵便局からの横流しが横行していたのではないか。

コメント [原発・フッ素33] 国費投入でも解決不可? 福島第一原発、汚染水問題のドロ沼 (週プレNEWS)  赤かぶ
12. 2013年9月12日 15:28:30 : VbWAbFllIA
>>10
そのクローズアップ現代で見たが、確かに海側の
凍土壁が遅いとたまった汚染水が海に流出するようだ。
また山側遅いと今度は敷地の全体に汚染水が拡がって行く。

思うにどちらが良いかと言えば海側が遅いほうがいい。
なぜなら海に出る汚染水は海で拡散して流れて行く。
高濃度とは言っても何もメルトダウンの核燃料ではなく
1兆ベクレル程度の汚染水。
これだと流れてもせいぜい数日で平常値に戻るはず。
フクイチはすでに爆発事故で40万兆ベクレルを空と海に
放出している(チェルノブイリは600万兆ベクレル)ので
1兆ベクレルなど鼻くそ程度。


コメント [政治・選挙・NHK123] パックイン・ジャーナルを存続させろ フクイタカノリ
8615. タマ通信 2013年9月12日 15:30:35 : Uapa503HmbXSc : HppyiJ0996
集団的自衛権を容認(時事)
オリンピックで旨味を知り、増税と、そして集団的自衛権に踏み込んで、あとは言論の抑圧か?
お爺ちゃんの信介さんんも下関で酒を飲んでいるだろうな?ワインかな?
コメント [原発・フッ素33] 東京五輪選手に腕3本描く 仏紙が汚染水風刺画 (産経)  赤かぶ
09. 2013年9月12日 15:34:13 : DnMKHAQt3w
この際4号機建屋プールで泳げ!
障害物だらけでさぞエキサイトするだろう。
記事 [経世済民82] 住宅ローンバブル サブプライムの教訓を忘れたか(週刊文春) 
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130912-00003102-sbunshun-bus_all
週刊文春 9月12日(木)13時1分配信

 日銀による異次元緩和を背景に、住宅ローン市場で空前のバブルが生じている。三井住友信託銀行と住信SBIネット銀行は、9月適用分の固定金利型で、期間10年の最優遇金利を年1.25%に引き下げた。「ここまで下げると赤字覚悟のレート水準。追随は難しい」(メガバンク幹部)とライバル行も驚く。

 また、国土交通省は住宅金融支援機構の「フラット35」について、消費増税に合わせ借り入れ上限を緩和し、頭金なしで住宅を買えるようにする意向だ。さらに変動金利ではキャンペーンで年0.7〜0.8%台の商品が目白押しの状況。1990年に変動金利は年8%強だったから、当時の10分の1の水準だ。

 ここまでして金融機関が住宅ローンの取り込みに躍起になっているのは、「住宅ローンを獲得すれば給与振り込みなど家計をごっそり獲れるため、総合採算でプラスとなれば、住宅ローン金利は赤字でいい」(同前)との判断だ。

 だが、行き過ぎた競争には副作用も伴う。「過当競争の煽りを受け、じわじわと貸し倒れリスクが高まっている」(金融機関役員)というのだ。

 金融庁幹部は「住宅ローンは5年程度経った時点で、デフォルト(返済不能)率がピークになる。繰り上げ返済などもあり、企業与信と異なるリスクがあることに注意しなければならない」と釘を刺す。日銀の調査(2010年度)では、住宅ローンの利ザヤは大手銀行で0.1%、地域銀行で0.5%にすぎない。少しでも貸し倒れ率が高まれば、一挙に収益は吹き飛ぶ。

 一方、買う側の懐事情も、「当面、金利は上昇しないとみて変動金利で住宅ローンを組む客は多い。1%を切る金利ではじめて住宅が購入できる若年層も少なくない」(都内の不動産業者)と高リスク。

 金利が反騰した場合、こうした顧客の返済が行き詰ることは目に見えている。

 住宅バブルに沸いた2000年代初頭の米国では、超低金利を背景に信用度の低い借り手にまで住宅ローンが提供されたが、その後の金利反騰で焦げつきが急増し、証券化されたサブプライムローンが一挙にデフォルトした。

 「日本の住宅ローンバブルもその二の舞になる可能性がある」(エコノミスト)との声が早くも聞かれ始めた。

<週刊文春2013年9月19日号『THIS WEEK 経済』より>

森岡 英樹(ジャーナリスト)



http://www.asyura2.com/13/hasan82/msg/404.html

コメント [リバイバル3] 中川隆 _ カルト・国際麻薬組織 関係投稿リンク 中川隆
05. 2013年9月12日 15:34:49 : W18zBTaIM6

松下忠洋金融・郵政民営化担当相が殺された理由
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/417.html

松下金融相が愛人を怒らせた理由は?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/421.html

コメント [政治・選挙・NHK123] パックイン・ジャーナルを存続させろ フクイタカノリ
8616. 2013年9月12日 15:34:49 : HppyiJ0996
フランスの人気漫画誌に
日本人が手足それぞれ3本の風刺漫画で大騒ぎ。
菅さんも在日フランス大使を呼びつけてクレーム?
フランス人はプライド高し。それで大使は謝ったのか・・・続報を!
コメント [経世済民82] 懲りないウォール街  リーマン破綻から5年で何が変わったのか (Bloomberg Twitter)   良寛
01. 2013年9月12日 15:36:34 : nJF6kGWndY

債務上限は茶番

>アメリカ政府は、デフォルトを行うと対外債務は全部チャラになり、涼しい顔で出直しできる

よくある妄想

記事 [近代史02] たそがれのプロカメラマン物語 第一章 古代日本史へタイムトリップ
http://www.kitanet.ne.jp/~aash/tasogare.html#1-18

第一章 古代日本史へタイムトリップ


白い小さな錠剤の世界へ
どうしたことか、脳みそが波打つように動き回る感じだ。意識が消え行く瞬間に、「何故だ?」という意識の問いに、フラッシュバックが始まった。住居兼事務所のボロマンションの一室。氷酢酸の臭いのする赤い光が灯る風呂場。大学病院の心療内科の治験部屋。テーブルの上の白い小さな錠剤とコップ。「そうだ、あの錠剤を、、、。」と思ったときには、意識が消えていた。

初夏の日差しに照らされたレンガが所々欠落している建物の一室で、若い医師に問診されている男が、オレ亀田満。本名は「かめだみつる」なのに、「カメダマン」とひとは言う。そのあだ名で今は通している。数年前まで、出版社でカメラマンをしていた。しかし、社の方針で、パソコン編集に対応して、銀塩カメラからデジタルカメラへの切り替えが指令された。
オレはパソコンアレルギーで、キーボードでの入力などできなかった。当然、デジカメの操作などできるはずもないし、したくもなかった。そこで、自己都合の退社となったわけだ。35歳独身、技術者でもあるカメラマンは、どこでも職場が探せると思った。それが、そもそもの間違いであることは、職を求めて二三の出版社を尋ねて分かった。
編集者は、机上のパソコンで、写真をデータとしてカメラマンと遣り取りをしている。銀塩カメラでの現像・プリント作業などなく、デジカメは、記憶媒体をパソコンに挿入すれば、瞬時にモニター上で映像を見ることが可能だ。
ひと昔、写真学校で教師が語ったデジタルカメラの世界が、今、現実の世界に現れていたのだ。授業で未来のカメラマン像を熱っぽく語る老教師を、ひややかな眼でみていた自分を恥じた。オレが初めて手にしたデジカメは、その軽さからオモチャのように感じたし、その画素が300万ほどであったので、四つ切り(254mm×305mm)でプリントアウトをすると、画面が荒れて、まるで砂漠の嵐のなかのような像であった。これは使えない。それからのオレは、デジカメの情報収集をしなかったし、デジカメを手にすることもなかった。だから、それからのデジカメメーカー技術者の努力の結果を知る由もなかったのだ。
しかし、就活で現実の写真界の激変を悟ったオレは、わずかに残った退職金から中古パソコンと中古デジカメを買い、その操作を自己学習したが、パソコンは、人差し指一本とひらがな入力で、かろうじて操作できるまでになった。でも、デジカメは生理的に受け付けない。デジカメのファインダーが、写欲を湧かさない、モニターなどは、なお更だ。
若い医師は、問診表を手にして、オレが提出したメモを見ながら言った。「脳みそが動く感じとは、どのようなことか具体的に説明できませんか。」
そう、オレは、何ヶ月にも及ぶ職探しに疲れ果てて、軽いうつ状態に落ち込んでいたのだ。フリーカメラマンといえばカッコがいいかもしれないが、それは無職カメラマンの意味でもある。保険料滞納のため今や健康保険証もないし、病院に行く余裕もない。そこで新聞で眼にした治験広告だ。その治験広告の質問は、オレの今の精神状態ピッタシだった。コールセンターに電話をすると、交通費名目で何がしかの金がもらえるらしかった。それに、初診料を自費で払えば、あとの治療は無料ということで、オレは、その治験に参加し、エントリーされたというわけだ。

「すみません。実は、薬飲み忘れて、二日分を一度に飲みました。薬を飲んで暗室作業を終わり、光を灯したら、急に、脳みそがグワーンと動くように感じて、そのまま意識を失いました。」
「で、それでどうでした。」
「どうでしたって、何ですか。」
「有害事象が現れませんでしたか。幻聴とか幻覚が。これは誘導質問ではありませんが、、、。」
「この治験、うつ病でしょう。パソコンで調べたら、うつ病のくすりは、元気の素ノルアドレナリンやドーパミンを調節して、うつ症状を緩和するのですよね。」
「そうですが、、、。」
「実は、意識を失ったのではなく。別の世界に居たのです。その世界はリアルでした。この治験薬には、幻覚や覚醒作用があるのですか。」
「被治験者には、治験薬の作用機序については述べることは出来ない規則になっているのですが、、、。」
オレが黙っていると、若い医師は、治験脱落を恐れたのか、「この治験薬は、亀田さんの言うように、ノルアドレナリンとドーパミンを調整するものです。今回の治験は、PFCの影響力を測るためのものです。」
「PFCって何ですか。」
「前頭前皮質のことで、作業記憶および認知機能をつかさどる処です。その役割は、計画する、まとめる、反応を開始、または遅延させる、といわれています。」
若い医師は、その後も、この治験について説明したが、専門過ぎてその内容はオレには理解できなかった。
「そのリアルな幻覚とは具体的に説明できますか。」
「ええ、簡単に言えば、治験薬を飲む前に、推理小説を読み終わったのです。その推理小説の全編が、映像となって現れたのです。その全映像は、暗室タイマーで確認したところ1分も経っていなかったのです。こんなことってアリですか。」
オレは、幻覚の説明中、若い医師の動作を観察していた。それは、オレの脳には、何か重大な欠陥があるのか心配だったからだ。若い医師は、オレの説明をひととおり聞くと、少し時間があるかと尋ねた。金はないけど、時間はたっぷりあるオレは、頭を縦に少し振った。
3時も過ぎると大学病院は、その喧騒から静寂に替わっていた。黒いスーツに黒カバンの人達が廊下に佇む医局のすわり心地のよくないソフアーに腰掛けると、若い医師は、少し声を落として、オレに頼みごとを申し入れた。オレは、その頼みごとを即座に受け入れた。

四週間の治験が済むと、なんだか気のせいか気分の落ち込みが改善したように感じられた。オレは、溜まっていた仕事に取り掛かることにした。今の仕事とは、出前で肖像写真を撮ることだ。この仕事は、就活中にオヤジが脳梗塞で急に亡くなって、葬儀の写真がないかと兄貴からの連絡で、編集取材の残りのフィルムがもったいなかったので、時々オヤジの日常を、スナップしていたものだ。
その盆栽を手にして誇らしげにポーズをとるオヤジの、明日の葬儀に間に合わせるために急いで暗室作業をした結果の、定着と水洗が完全ではなかったため、セピア調に変色したモノクロ全紙(457mm×560mm)写真が、葬儀出席の親類縁者の評判となり、その口コミで、日常生活を背景とする葬儀用のスナップ撮影依頼が舞い込んできたのだ。そのころのオレは、少しうつ状態だったので、ほとんどの撮影依頼を断わっていたのだ。
オレの愛用のカメラ機材は、ペンタックスSPブラック、それにレンズは3本、スーパーマルチコーテッドタクマー28mmF2.8、同じく、50mmF2.8、それに、85mmF2.8と、ポラロイドSX−70が、オレの手足となって、時間と空間を切り取ってくれるのだ。
オレが出版社カメラマン時代に、ニコン、キャノンではないのですね、って取材先でよく言われたものだ。プロ用ニコンもキャノンも小柄のオレには、すっごく重い。それに、メカも複雑だ。それに比べるとペンタックスは、軽くてシンプル。スクリューマウントの難点を外せば、レンズも優秀だ。
写真は、カメラを道具として撮るものだ。機材は、好みだ。オレは、そんなニコン・キャノン時代に逆らって、なけなしの給料とボーナスでハッセルブラッド500CMを買ってアクセサリーにしていた時もあったが、上から覗くファインダーと、パカッというシャッター音には最後までなじめなかったので、ハッセルは中古カメラ店に二束三文で売り払ってしまったのだった。
あとの機材といえば、カコの小型ストロボと、ラッキー90Mの集散光式黒白引き伸ばし機と、退職時に出版社から払い下げられた現像タンク、バット、竹ピンセットなどの小物と、現像薬品類だ。
現像薬品といえば、オレはグラビアのモノクロが専門だったので、現像液はD−76を高校写真部時代から使っている。高校時代に、そのD−76フィルム現像液は、PQやMQ現像液のカブリの難点を克服して登場したのだ。新物好きな先輩は、そのD−76の処方をどこからか入手して、新入部員のオレに毎週作らせていた。
池袋の大塚寄りのキクヤカメラで、メトール、無水亜硫酸ナトリウム、ハイドロキノン、ホウ砂などを買い込んで、上皿天秤で量り、D−76現像液を作っていたから、もう二十年も過ぎても、その処方を覚えている。

D−76フィルム現像液
約50度Cのお湯    750ml
メトール          2g
無水亜硫酸ナトリウム 100g
ハイドロキノン      5g
ホウ砂          2g
水を加えて総量1000mlとする。

フィルム用停止液
水           1000ml
クロムミョウバン    30g
無水硫酸ナトリウム   60g

フィルム・印画紙兼用定着液
水          600ml
チオ硫酸ナトリウム(ハイポ)240g
無水亜硫酸ナトリウム    15g
氷酢酸         13.4ml
ホウ酸          7.5g
粉末カリミョウバン     15g
水を加えて総量1000ml

因みに、D−72印画紙用現像液
約50度Cのお湯    500ml
メトール          3g
無水亜硫酸ナトリウム   45g
ハイドロキノン      12g
炭酸ナトリウム1水塩   80g
臭化カリウム        2g
水を加えて総量1000mlとする。

今や、銀塩フィルムのこんなメンドクサイ処方箋も無しに、デジカメ映像は電子媒体で切り取られ、そして、現像・停止・定着作業もなしに映像を固定させることが出来るのだ。これが写真界の現実だ。

肖像撮影の仕事帰りで、愛車バイクのトモスを駐車場脇に置くオレに、管理人が小荷物が届いているから管理人室に来るように言った。
このマンションは、マンションとは名ばかりで、エレベータがないため、五階のオレの部屋までは、階段を上らなければならないのだ。カメラバックをソファーに放るように置き、その小荷物の封を開けると、一枚のメモ、CD-ROM、、一冊のハードカバー本、そして、自動タイマーのような物があった。
小荷物は、あの治験担当医師からだった。メモには、「お言葉に甘えて、資料をお送りさせていただきます。」の他に、オレの幻覚の医学的所見は「状況関連性発作/一過性てんかん」が疑われるが心配無用とあり、その下に簡単な自己紹介があった。それによると、治験担当医師の名は、田辺功で、「日本騎馬民族研究会」のメンバーで、その研究会設立の簡単な趣旨と、今回の依頼の件が三つ箇条書されていた。そして、その本は、オレの幻覚の心配を和らげるための資料としてお読み下さい、とあり、養老孟司監修「脳と心の地形図」だった。
箇条書きその1、この依頼事項は強制ではないので、いつでも中止できます。
その2、今後の連絡は、パソコンでお願いします。
その3、この依頼の件は、他人に話さないで下さい。
以上に同意していただけましたら、パソコンにCD-ROMを挿入して下さい、とあった。
オレは、仕事をためるのが苦手だから、今日撮影したフィルムを現像してから、パソコンに向かおうと、現像準備にとりかかった。
大型冷蔵庫から、現像処理の薬品ポリタンクをとりだすと、風呂場に急いだ。風呂場がオレの現像室だ。保温機で20度Cに暖められた、現像液D-76、停止液、そして、定着液をセットすると、現像タンクのリールに素早くネオパンSS36フィルムを巻きつけ、タンクの蓋を閉めた。そこまでは、暗闇での作業だ。現像タンクをトレイに置くと、赤灯を灯した。現像液をタンクに注ぐと、タイマーをセットした。後は、時間通りに停止・定着の流れ作業を進めれば、フィルムは現像されるわけだ。現像されたフィルムの滴をスポンジで拭い、錘のクリップを付けて吊るせば、乾くまでは時間はフリーだ。
パソコンにCD-ROMを挿入すると、しばらくしてメッセージが現れた。プロバイダーとの契約書類にある英数字を指示どおり打ち込んでください、との指示に従い順次に英数字を打ち込んだ。このパソコンをインターネットに接続する時、友人のパソコンマニアの作業を横で眺めていたので、この動作は接続作業であることぐらいは、パソコンアレルギーのオレにも分かった。
最後に、エンターキーを押すようにの指示に従うと、画面にメッセージが現れた。「田辺功です。これで、チャットは完全に暗号化されたので、パソコンでの会話の安全が構築されました。午後10時以降であれば、チャットは可能です。もし、不都合でしたら、メールでも連絡がとれます。」、とあった。
オレは、撮影と現像作業での疲れを覚えたので、送られてきた本を見ながらソファーに寝転んだ。その本をパラパラ捲ると、所々にマーカーで印があるのが分かった。24頁から25頁にかけて、

カリフォルニア大学サンディエゴ校の神経学者たちは、側頭葉を調べているうちに、神秘的な何かが存在するという感覚と、すべてを超越したという霊的な感覚を生みだすと思われる領域をつきとめた。カナダのローレンシア大学で神経化学を研究するマイケル・パーシンガーは、その領域を刺激することで、信仰心を持たない人にこうした感覚を起こさせることにも成功している。「まず例外なく、被験者は何かの存在を感じたと報告している。ストロボ光を点滅させると、そこにキリストがみえたという者もいた、、、、[別の]被験者は、神が自分のもとにやってきたと言った。あとで彼女の脳波図を調べたところ、その経験をしていたとき、側頭葉に典型的なスパイク波形と低速波の変動がみられた---ほかの部分に異常はなかった」

そして、33頁には、

赤ん坊の脳には、おとなが持っていないものがある。例えば聴覚と視覚の連絡、さらに網膜と視床(音情報を受けいれるところ)の連絡である。そのため幼児は、音を「見たり」、色を「聞いた」りすることもがある----これがおとなになっても続くと、共感覚と呼ばれる状態になる。

更に頁を捲ると、41頁に、

ドーパミン
脳のいろいろな場所で喚起レベルをコントロールし、神体面の動機づけを与える。パーキンソン病のように、ドーパミンが極端に少なくなると、自分の意志で前に進むこともできなくなる。精神的な停滞状態にも、ドーパミンがかかわっているとされる。逆にドーパミンの過剰は精神分裂病に見られ、幻覚を引きおこしたりする。幻覚を誘発する薬物は、ドーパミンの分泌に働きかけている。

そこまで読むと、本を支えていた腕の力が抜け、同時に、意識が薄らえていくのを感じた。

どのくらい眠ったのか分からなかったが、日は当に暮れていた。時計を見ると、午後9時少し前だった。いつものように冷蔵庫からパックされた十六穀米をチンすると、豆乳をコップに注いだ。オレの夕食はこれだけだ。以前は、食欲に任せて脂ぎった食物をタラフク食べていた時代もあった。その結果がメタボ。日本人は、飽食には弱いが、飢餓に強い民族だ。精神的な落ち込みを別とすれば、身体はいたって健康。豆乳を飲み干すと、パソコンに向かった。
オレは、人差し指二本で、「こんばんわ、カメダマンです。」と打ち込んだ。
すると、すかさず、「こんばんわ、田辺です。」の返事がきた。
「ごぶさたです。で、オレ何をすればいいんですか。」
「一寸した実験をしてもらいたいのです。」
「どのような実験ですか。」
「これから添付する文章を読んで、暗室の赤ランプを灯けて、自動タイマーに電気スタンドのコンセントをつないで、そのタイマーのボタンをおしてもらいたいのですが。」
「何ですか、この実験。」
「幻覚ではなく、共感覚の実験です。亀田さんには、文字情報を映像化する回路があるようですから。」
「あの治験薬を二錠一度に飲んだ時の幻覚の再現ですか。治験薬がないのに。」
「幻覚の原因は、治験薬ではなかったのです。プラセボだったのです。亀田さんのは」
「でも、治験でうつ状態から脱出できました。」
「それは、プラセボ効果です。」
「そうですか、プラセボですか。で、本当の原因は何ですか。」
「ポケモン事件を覚えていますか。日本全国のポケモンファンの子供が、状況関連発作を起こして、全国の小児科がパニックになった事件です。」
「覚えています。」
「間歇光刺激下で光過敏性のある人は、その条件下で「誘発性けいれん」を起こすことが知られています。赤色が10ヘルツから20ヘルツで点滅すると、脳内のドーパミンに作用するのです。亀田さんが見た幻覚のスイッチが、暗室内の赤い暗室ランプと白色灯の点滅だったというのが、私の推論です。」
そして、しばらくチャットが止まると、メールが届いたとの知らせがパソコン上に現れた。プリントアウトすると、A4で四枚あった。そこには、「魏石鬼八面大王について」、のタイトルに続いて、その歴史が書かれていた。
何か、覚えのある大王だったので、パソコンで検索すると、その魏石鬼八面大王が支配していたとする地に、オレは、出版社カメラマン時代に取材に訪れていたのを思い出した。黒澤明監督の映画のロケ地の取材で、大王わさび農園を訪れた時、大きな石と、立派な横穴石室のある古墳を見学していたのだ。
オレは、田辺さんの指示どおりに、レポートを読むと、暗室に入り、自動タイマーに電気スタンドをセットし、そのスイッチを押した。20ヘルツで赤色と白色が点滅する光の中に、魏石鬼八面大王が立っていた。
オレは、パソコンに向かって、今「見た」状況を簡潔にキーボードから打ち込んだ。
すかさず応答があった。
「レポートのストーリーと大分違うようですね。何か別の資料か、魏石鬼八面大王について知っていたのですか。」
「大王についてパソコンで調べました。それに、以前、大王が立てこもったという岩屋を見学したことがあります。」
「そうですか。納得できました。送った本お読みになりました。」
「50頁ぐらいまで。」
「253頁から第七章 「記憶はどのように保存されるか」を後でお読みになれば分かると思いますが、人間の記憶はいい加減なものです。興味のないものは、直ぐ記憶から外され、覚えていませんが、興味があるものは長く記憶に留まる傾向があるのです。古墳に興味があるのですか。」
「子供の頃ですが、実家の田舎に夏休みを過ごすことが多かったのです。裏の小山の上に神社があったのですが、その小山の横に穴があり、その中に入ると大きな石で囲まれた空間があったのです。日本史を学んで分かったのですが、その大石に囲まれた空間は石室で、神社は古墳の上にあったのです。石室は遊び場だったので、それ以来興味をもっていますが。」
「そうですか。そこは何処ですか。」
「栃木県の佐野の近くです。」
「北関東ですね。昔の陸奥国への玄関ですね。」
「古墳は、墓ですね。何故、大王の石室が露出しているのですか。」
「それはいい質問です。奈良の石舞台も石室が露出していますね。石室が残っているのは、それはあまりにも大きな石で作られた石室だったので、破壊できなかったのです。」
「誰が、何のために、大王の墓を破壊するのですか。」
「大王わさび農園に行きましたね。その茶屋にその大王の歴史を簡単に説明したボードをご覧になりましたか。」
「覚えていません。」
「そこには、坂上田村麻呂の理不尽な要求に対して、威圧にさらされた農民を護るために「八面大王」が立ち上がり、田村麻呂と戦い敗れた、とあるのです。その時、立てこもったのが魏石鬼窟だというのです。」
「田村麻呂が蝦夷を壊滅するために北征したのは、九世紀始めですね。古墳が築かれなくなったのは七世紀末ですよね。その100年間はどんな時代だったのですか。」
「歴史教科書的には、白鳳時代に続く天平の奈良時代。大和朝廷が、文化国ニッポンを確立するために、唐の律令制度を導入し、優秀な青年を遣唐使として、唐に送り込んでいた、とする時代です。」
「飛鳥大和時代に築かれた古墳が、何故、平安時代初期には破壊されていたのですか。」
「飛鳥大和時代、と言いますが、「あすか」が「飛鳥」と表示されたのは713年好字令からです。それ以前は、万葉語といわれる漢字を使ったアルフアベットで、「明日香」と記述されていたのです。その明日香とは、奈良だけではなく、東国には多くあるのです。「アスカ」は「ナスカ」と関係があるとする人もいます。」
「何故、713年に「明日香」を「飛鳥」に替えたのですか。」
「いい質問です。歴史書籍には、漢字二文字の人名や地名がありますよね。その漢字二文字は、713年以降の記述です。それ以前は、中国式に漢字一文字や、漢字アルファベットで二文字以上で人名や地名が記述されていたのです。それは、支配者が替ったからです。」
「それおかしいです。日本は万世一系の天皇が、紀元前660年から飛鳥大和を支配していたのではないですか。」
「カメダマンさん、日本の本当の歴史を知りたくありませんか。」
「知りたいです。」
「分かりました。今日はもう遅いので、これで終わりにしましょう。」
「分かりました。おやすみなさい。」
パソコンのスイッチを切ると、時計の針は午前二時を回っていた。

目覚まし時計のベルの音にオレは起こされた。6時、カーテンを威勢よく開き窓を開けると、土手の上に早朝散歩をする人達が行き交っていた。冬の川風はキツイが、夏の朝風は気持ちよい。体調を崩した原因のひとつが、不規則な生活であることを治験で指導されてからは、オレはどんな時でも、6時に起きることを実行している。
夕飯がシンプルだと、朝の食欲はどんな状態でもある。オレの朝食はいたって簡単。卵をチンして温泉卵をつくり、オレンジジュースと食パン一枚だ。
朝食を済ませると、ソフアーに横たわり、本の第七章「記憶はどのようにしに保存されるか」を読む。そこにも、マーカで印があった。

種類はともかく、記憶の仕組みは基本的に同じものだ。それは、ニューロン集団の連合であり、ひとつのニューロンが活発になれば、それが全体に波及して特定のパターンを作り出す。

3頁先にもマーカがあった。

細部まではっきり残っている記憶は、脳の扱いかたも異なる。こちらはエピソード記憶と呼ばれ、時間と場所の感覚に支えられている。「たしかにそこにいた」という個人的な記憶が含まれていて、ホワイトハウスがワシントンにあるという知識とは一線を画す。記憶がよみがえるときは、それが定着したときの心の状態も再現される。

更に頁を捲ると、

長期記憶になるエピソードは、皮質から海馬へと送られる。海馬でニューロンパターンとして記憶されるわけだが、そこまでは皮質のときと変わらない。ただし海馬は皮質のいろんな部分と接続しているので、より包括的なイメージを作ることができる。

更に、

個人的な記憶を記号化して取りだすのは海馬だが、恐怖感を覚えた記憶となると、少なくとも一部は扁桃体にたくわえられるという証拠もある。扁桃体は大脳辺縁系にある小さな核で、恐怖を記憶するところだ。心的外傷後ストレス障害で起こるフラッシュバックは、この扁桃体に由来すると考えられる。だから、フラッシュバックは記憶のリブレイであるにもかかわらず、身体的、心理的にもとの体験に匹敵する強烈さを伴うのだ。

脳にある何十億というニューロンは、100兆もの結合を持っていて、そのひとつずつが記憶の一部になる可能性を秘めている。だから人間の記憶能力は、正しいやりかたでたくわえれば無限なのである。

そして、第八章の「意識はどこにあるか」の扉の裏には、文章をマーカで囲んであった。

観念をうみだし、計画を組み立て、思考と連想を結びあわせて新しい記憶を作る。すぐに消えようとする知覚を引きとめて、長期記憶に昇格させるか、忘却のかなたに追いやる。これはみんな前頭葉がやっていることである。意識が住むところ、それが前頭葉だ。明るく照らされたこの場所では、脳の奥深くにある組み立てラインで作られた産物が、厳しい検査を受けている。自意識もここで生まれるし、物理的な存在システムが主観的な感覚に移しかえられるのもここだ。精神の地図に「現在地はここ」という印を入れるとしたら、それは前頭葉だろう。脳に対する新しい見かたと、古くからの知恵はここで響きあう。なぜならこの前頭葉には、古来より神秘主義者が唱えていた第三の目---意識の最高点への入り口---があるからだ。

オレは、田辺さんがマークした文章をもう一度読み返し、田辺さんがオレに依頼した事の意味を少し理解した。田辺さんはオレを「第三の目」として「歴史の地図」を創ろうとしているのか、と自問した。
オレは、本を読み終わると、昨日の暗室作業の続きを始めた、印画紙現像は、フィルム現像に比べると神経が休まる。現像に失敗してもやり直しが出来るからだ。乾燥したフィルムを光源に晒すと、コントラストがあまりハッキリとしていない。室内での撮影だったからだ。印画紙は、1 号から5号までの諧調があって、号数が多くなるにしたがって軟調から硬調になる。オレは、5号の印画紙を用意した。
試し焼きをしてから現像時間を確認すると、慎重にピントを合わせる。ニッコール引き伸し用レンズは製版用に開発されただけあって、周辺までシャープに像を結ぶ。ルーペで銀粒子を確認すると、露光開始だ。「オバーチャン」と呪文を唱えると1秒だ。今回は、サンプルプリントなので、6切(203o×254o)で焼くことにした。呪文を5回唱えると、印画紙を現像液に浸けた。潜像が徐々に像として現れる。いつものことだか、何か、魔術師になった気分になる。それと同時に、昨日の撮影現場を思い出した。

今回の撮影依頼者は、シロウトではなかった。地図を頼りに、愛車のトモスで越谷まで行くと、町外れに大きな屋敷があった。高いコンクリート塀に囲まれた屋敷は、要塞のように感じられた。時代遅れの冠木門には、監視カメラがあった。門にあるドアホーンを押すと、何か用かとの若者の声が返ってきた。オレは用件を素早く告げると、脇門が開いた。そこには警棒を持った若者が居た。
その若者は、オレの営業用スタイルを見て、少し、警戒しているのが感じられた。オレの服装は、同業者の様だからだ。黒のスーツに黒ネクタイ、糊の利いた白のボタンダウンのYシャツ。それに、跳ね上げ式グレーサングラス付きメガネだ。このような服装をしているのは、オレは、出版社カメラマン時代に、カメラマンは雰囲気作りが必要だということを学んでいたからだ。オレは、葬儀用肖像プロカメラマンなのだ。
大企業の静寂な社長室での社長の撮影で、Tシャツ姿のカメラマンでは、被写体である社長は威厳のあるポーズはとらない、そして、活気ある町工場の現場撮影では、タキシードに蝶ネクタイのカメラマンでは、工場の被写体の工員は緊張してしまう。プロカメラマンは、被写体に合わせて、どのような写真を撮るのかを前提に、身だしなみを繕い、その場の雰囲気を演出する必要があるのだ。つまり、プロカメラマンは、シャッターを押す前に、演出家でなくてはならないのだ。
若者に従って屋敷内にはいると、そこは外界の猥雑さから遊離して、静寂さがあった。広い部屋に通されると、床の間の前に老人が居た。それが、今回の依頼主だった。
角刈りと甚平姿が如何にもヤクザの親分らしかった。
「マッ、座んねぃ。」
オレは、東映ヤクザ映画の一シーンを思い出した。座卓を挟んで、親分子分の図だ。
「何処から起こしなすった。」
「荒川の赤門近くからです。」
「あの自転車で、」、親分は庭に止めたトモスを見て言った。
「あれはバイクです。」
「ペタルがあるじゃねえか。どう見たって自転車でぃ。まっ、そんなことどうでもいいゃ。ワシもそろそろお迎えが来る年だ、冥土の土産に写真でもって思ったんで、電話したわけサ。」
「ありがとうございます。お気に入る写真を撮らさせていただきます。」
オレは、部屋の欄間にズラッと飾ってある先代の写真を眺めながら言った。中には、写真修正の失敗かビックリ目のような肖像写真もあった。大昔、ストロボなどない時代、マグネシュウムでの一発勝負の写真には、目をつぶった人物写真は、筆で目を開ける開眼術を必要としていたのだ。
オレは、次に依頼主が質問する流れを知っている。それは、カメラマンの腕を調べるための質問だ。そう思っていると、
「ところで、カメラは何?」
依頼主が期待するのは、カメラ通だと四五ではリンホフテヒニカ、35ミリだとライカかニコンだ。オレが、皮製のリュックからペンタックスSPブラックを取り出すと、親分の顔が期待はずれの色となった。
「なんでぃ、ペンタックスか。ワシだってライカでぃ。おぃ、カメラもって来い。」奥に控える若い衆に言った。
親分は、皮製のカメラケースから取り出したのはライカDVだった。オレは、その型のライカを高校時代写真部で見たことがあった。写真部の後輩で医者の娘が使っていたのだ。フォーカルプレン式ゴム引き布幕シャッターで、T.B.1〜500秒不等間隔で、スロースピードダイヤルはボディ前部右手側にあるのだ。フィルム巻上げはノブ式だ。レンズ部は沈胴式で携帯性は抜群だ。
「ワシが、日中戦争(1937年〜1940年)でボロ儲けした時の記念として買った物サ。」、一瞬親分の顔が子供のようになった。オレは、その瞬間をこころのシャッターで記録した。
そのような依頼主が期待外れの顔をした時には、オレは、次の手を打つのだ。リュックから写真集を取り出し、依頼主に見せるのだ。写真集は、知人の印刷屋に格安で製作してもらったものだ。このブロカメラマンのセールステクニックも出版社カメラマン時代に習得したものだ。
依頼主は、プロカメラマンの腕を評価する基準があるらしい。それらは、カメラ機材、カメラ師匠の名、写真展開催の有無、そして、写真集を出しているかである。これらのハードルを越えることができれば、一般社会ではプロカメラマンとして評価されるらしい。そこで、オレには写真の師匠もいないし、写真展開催の実績もない、更に、カメラもライカやニコンではなく、ペンタックスだ。そこで、印刷屋の友人に頼んで、写真集を製作した。もちろん、総モノクロ豪華写真集だ。表紙はハードカパーの銀箔型押しだ。その「亀田満写真集」を撮影の前に被写体のモデルに示すと、撮影がスムースにいくことを経験で学んでいたのだ。
親分は、オレの写真集を一枚一枚捲るたびに、表情に変化が現れていくのを感じた。オレは、その間、部屋を観察した。気がつかなかったが、床の間には、刀が飾ってあり、掛物には「神農皇帝」と立派な筆で書かれていた。その刀は、今まで見たこともない、柄が妙に長かった。
「撮影オネゲェします。ところで、撮影料金時価とサイトにあったのは、いっテェ幾らねんでぃ。」
オレが、このビジネスを始めた頃、プロカメラマンはただ依頼された撮影をこなせばよい、と考えていた。サラリーマンカメラマンには、撮影料金など無縁であったからだ。だから、フリーカメラマンになった時には、写真を渡す時、対価として料金をもらうというプロカメラマンビジネスの基本が分からなかった。親類縁者の撮影の時は、撮影料金を先に決めていなくてもよかった。しかし、見ず知らずの依頼者は、オレの撮影技術に対しての対価を厳しく査定して、その基準を満たしていない時は、オレの提示した料金を高いと言う。
二三撮影料金で揉めてから、オレは、撮影料金を依頼者に決めてもらうことにしたのだ。それが、撮影料金時価の意味だ。
「時価って、高級スシヤみてぃだナ。おもしれェ。撮ってもらおいじゃねえか。」
オレは、人物撮影のコツを、やはり、出版社カメラマン時代に学んだ。それは、グラビア頁で有名人の乳幼児の子供を掲載する企画だ。子供は、子供なりに自由に行動する。カメラマンの指示など無視だ。オレは撮影に疲れ果て、試しに有名女優の母親にカメラを渡してみた。すると、女優カメラマン(マン?)は、むずがる子供をあやした。そして、興味のある玩具を子供に渡すと、子供は玩具に夢中になって活発に行動し、また表情も豊かになった。そこを空かさずシャッターを切った。できあがった写真は、オレが撮ったのと異なり、子供の表情をよく捕らえていた。
ひとは、夢中になれる物を手にしている時と、興味のあることを語っている時、瞳が輝くのを理解した。それからは、オレは、撮影に入る前に、被写体のモデルが何に興味があるのか、何を語ると興味を示すのかを観察することにしているのだ。
ひとには、オーラを発する時期がある。その一瞬を捕えれば、生きた肖像写真を撮ることができるのだ。後は、テクニックとして、アイキャッチの光を取り入れる技術を学ぶことだ。オレは、その方法のひとつとして、銀レフを被写体の足元に置き、小光量で下向きにストロボを焚く。
話しのキッカケがないときに活躍するのが、ポラロイドSX−70だ。撮影テストとして、ポラロイドで撮って、そのポラロイドをモデルに見せながら、良い点だけを指摘する。するとモデルの瞳が輝いてくるのだ。
おっといけない、ライカと日本刀を手にしたモデルが微笑んでいる写真が現像オーバーになるところだった。間一髪、オレは、現実の世界に戻って印画紙現像作業を続けた。
ドラム式乾燥機、これも退社時の払い下げ、から出てくるプリントは満足いくものだった。10枚ほど選んで写真ファイルに入れ、郵送すれば今日の仕事は終わりだ。オレのシステムは、なるべく移動しないことが基本だ。時間も経費もかかるからだ。サンプル写真と注文書を依頼主に送り、FAXかメールで来る引き伸ばし注文を受け、注文された写真と時価と書いた請求書を送り、銀行振り込み先を指定すれば、期日には撮影代とプリント代が入金されるということだ。しかし、その入金額は神のみぞ知る。
一服しようと時計を見ると、1時を回っていた。昼メシはいつも、ビスケットと紅茶だ。
昨夜の田辺さんとのチャットで気になることを思い出した。日本全地図を取り出すと、大王わさび農園の位置を確認した。むかし取材で訪れた時、長野自動車道の豊科ICをおりると直ぐだったように記憶している。やはりそうだった。わさび農園内にある岩屋とするその巨大石室は、糸魚川街道寄りにある。その街道の日本海側には姫川があり、そこは縄文時代から翡翠の産地だ。古代中国の皇帝は、その姫川産の翡翠を加工して魔除けとしていたと歴史書で読んだことがある。
そして、糸魚川街道を南に下ると、ユーラシアからの渡来遊牧民族がトルファンと名付けた地が広がる。そのトルファンは、713年好字令により「諏訪」と改名された、と何かの書籍で読んだ記憶がある。
糸魚川街道は、フォッサマグナといわれる断層に沿ってできた、古来からある、日本海と太平洋を繋ぐ古道だ。その糸魚川街道は、日本列島本土を西国と東国を分ける道でもあるのだ。
「日本書記」では、平安時代以前の東国は蝦夷の棲む未開の地としているが、その地にある古代遺跡の多くは、高度な石切りや土木建設技術を駆使して造作されている。「日本書記」は、東国の「何」を隠そうとしていたのか。今夜は、古代史のほかに、ヤクザのことなども、田辺さんに色々教えてもらいたいことが多くある。10時が待ち遠しかった。

「こんばんわ、カメダマンです。」
「こんばんわ、田辺です。今、亀田さんに読んでもらいたいレポートを作成中です。出来上がったらメールで送ります。」
「わかりました。入力省エネのため亀田さんでなくて、カメと呼んでください。」
「分かりました、カメさん。では、田辺ではなく、ナベと呼んでください。ところで、田辺のナベは、古代エジプト語です。その意味は、ナーベの「小山」です。」
「そうなんですか。ちっとも知りませんでした。」
「日本語には、各国の渡来民族の言葉が基礎となって構成されているのです。」
「そうですか。一寸聞きたいことがあるのですが。それは、ヤクザのことです。」
「ヤクザですか、渋いですね。」
「ヤクザの語源はどこからきているのですか。ヤクザ本によると、博打での893目が語源で、博打では役に立たない数字から、役に立たない者の意味とか書いてあるのですが。それに、会話でやたらと逆語をつかうのです。旅のことを「ビタ」と言ったり。」
「ヤクザさんと会話したのですか。」
「ええ、昨日。撮影でそのヤクザさんの家で」
「場所はどこですか。」
「越谷郊外です。立派な屋敷で冠木門がありました。広い玄関には、提灯がズラリ飾ってあり、丸に十の字がありました。名刺をもらたのですが、その名刺には関東土木事業協会副理事と小料理店「小吉」代表とありました。どうみても、東映ヤクザ映画の雰囲気です。床の間には、柄の長い日本刀と、模造品と言っていましたが、「神農皇帝」と書かれた掛け軸がありました。」
「そうですか。ヤクザの歴史は、闇の日本列島史でもあるのです。逆語のことですが、「神武紀」に「大来目の諷歌・倒語(さかしまごと)を以って妖(わざわい)をはらう」とあるように、逆語は呪術の一種なのです。因みに、「神武紀」は、720年完成の「日本書記」にはなく、百済系桓武天皇が支配した平安時代に創作されたものです。更に、神武天皇稜は江戸末期から明治維新にかけて創造されたのです。逆語は、平安時代に、放免という警察請負業者が現れる以前から、使われていたのです。京の都を警備した検非違使の手下である放免は逆語をよく使っていたらしいのです。現在でも、刑事警察隠語には逆語が多くあるのは、警察と逆語には関係があるからです。」
「では、警察の祖はヤクザですか。何故、逆語は、ヤクザと関係があったのですか。」
「ヤクザと的屋(テキヤ)とは混同されているのですが、ヤクザは、鎌倉時代の「座」から発生したのです。的屋は江戸時代からです。的屋の前身は、香具師(ヤシ)です。香具師の前身は矢師ですが、その矢師の前身は野士(ヤシ)で、野武士なのです。その野武士は、生きるために、座でのバザールで、馬油や香具を商いしていたのです。がまの油売りがそうです。がまの油とは、馬油だったのです。野士は、バザールで売薬や歯抜きなどの小外科手術などもおこなっていたのです。」
「ヤクザの発生は鎌倉時代の「座」からですか、ずいぶん古いですね。座って、神社(ジンジャ)から発生したのですよね。」
「ジンジャの言葉は、明治革命後からです。それまでは、神社は、「モリ・ホコラ」などと呼ばれていたのです。」
「そうですか。そのモリからヤクザが発生したのですよね。何故ですか。」
「座は、同業者組合です。ヨーロッパのギルドと機構は同じです。同業仲間内の結束を図るための排他的結社です。何故、座がモリで発生したのかは、モリは禁足地で、異界だったからです。つまり、その地に入ると祟られると信じられていたので、王権からの治外法権の場であったのです。」
「何故、そのような異界のモリに座が出来たのですか。」
「そのモリに集まったのが、異界の民族であったからです。」
「すると、ヤクザは異界民族ですか。」
「そうです。王権から見ればですが。正統ヤクザは、王権に逆らうアウトローでなくてはならないのです。その座を武力で護るのがヤクザで、「座」を仕切る「顔役」から「役座」が発生したのです。」
「分かりました。では何故、掛け軸に「天照大神」ではなく、「神農皇帝」なのですか。東映ヤクザ映画では、「天照大神」ですが。「神農皇帝」とは何ですか。」
オレは、それまでは、田辺さんの歴史解説を素直に受け入れることができなかった。あまりにも、いままで知った歴史知識と異なっていたからだ。
「神農様は、日本古来の神様ではなく、中国大陸で発明された神様です。その神農様は、漢訳仏教と対立する道教に取り入れられ、渡来民族と供に日本列島にあらわれたのです。」
「いつごろですか。」
「はっきりは分かりませんが、漢訳仏教が伝来する前は確かです。漢訳仏教が北九州から明日香ヤマトに現れたのが、645年です。」
「それってヘンですね。歴史教科書では、「仏教伝来538さん」と教わりましたが。」
「実は、飛鳥時代の歴史は良く分からないのです。それは、奈良時代に藤原氏が「日本書記」で飛鳥時代の歴史を改竄し、更に、平安時代に亡命百済貴族がその「日本書記」を改竄していたからです。日本古代史は謎だらけなのです。例えば、飛鳥時代の次の時代の奈良時代も分からないのです。奈良時代に遣唐使船が、唐文化輸入のために、日本と唐国とを行き来していた、と学校で教わったと思いますが、その遣唐使船の歴史物語の多くは、奈良時代ではなく、平安時代に創作された物語なのです。その根拠のひとつとして、日本六国史の「日本書記」に続く、797年完成の「続日本紀」には、その遣唐使船の華々しい物語はごくわずかしか記述がないのです。「続日本紀」は、697年文武天皇から781年即位の桓武天皇までの、奈良時代の歴史を綴ったものです。しかし、中国の「旧唐書日本伝」には、遣唐使の記録が多く記述されているのです。それによると、遣唐使の日本人は、中国名で皇帝に謁見しているのです。これ、どういう意味が分かりますか。」
「分かりません。」
「それは、奈良時代の遣唐使は、独立国日本の使節ではないことを示唆しているのです。だから、奈良時代の大和朝廷には、遣唐使は触れられたくないことであったのです。」
「それって本当ですか。」
「「続日本紀」を読んで下さい。どこまで話しましたか、そう、漢訳仏教伝来が645年と言ったのですね。その645年から、奈良盆地に仏寺が移築されるのです。」
「奈良の仏寺が移築ですか。どこから?」
「北九州からです。明日香の都の仏寺は移築です。では、それ以前には「何」が建っていたかといえば、景教寺と道観です。」
「景教、道観?それ何ですか。」
「景教は、太陽神を祀り、雄牛を屠る儀式を持つ宗教です。その寺が景教寺です。景教は中国伝来以前では、ミトラ教と呼ばれていたのです。道観は、道教の神を祀る寺です。寺と言うと、仏教寺の連想をしてしまいますが、寺(ジ)とは、関税施設であったのです。中国に渡来する異国の商人を取り調べる施設を「寺」と言っていたのです。それが、漢訳仏教が中国皇帝に取り入ると、漢訳仏教僧が異国から大挙して中国を訪れていたので、やがて、その「寺」が、漢訳仏教僧の溜まり場となり、「寺=仏寺」となってしまったのです。」
「そうですか。では、景教寺と道観はどうなったのですか。」
「645年漢訳仏教が明日香ヤマトを支配してから、それらの景教寺と道観は、徹底的に破壊され、その跡に、仏寺が北九州から移築されたのです。」
「その証拠でもあるのですか。」
「史料としての証拠はありません。645年に前政権の歴史書は焚書されたからです。証拠は、遺跡です。明日香ヤマトから斑鳩までの「太子道」と、法隆寺境内から発掘された若草伽藍遺跡です。それらは、仏教建築軸と異なる基準で建設されていたのです。法隆寺の謎はそのうち話ます。「神農様」の話に戻します。道教の神様のひとつである神農様は、薬草の神様であったのです。」
「そういえば、出版社カメラマン時代、大阪道修町を取材した時「神農祭り」を行っていました。その薬草の神様が、何故、アウトローの役座の神様なのですか。」
オレは、田辺さんの歴史解説から、日本列島史の闇が解き明かされるのではないか、と直感した。と同時に、自分が立っている地盤が揺れ動くような不安も感じた。日本人とは「何」か、オレは「何者」なのか。
「今でも医薬品会社が多くある大阪道修町では神農様が祀られているのに、日本史をよく読んでも、神農様も景教も道教も出てきませんが、何故ですか。」
「神農様は、騎馬民族と関係があるからです。徳川家康が騎馬民族の流れにある根拠として、徳川家康は薬草を煎じる創薬の名人であったのです。部下が病気になると、徳川家康は、部下のために薬草を煎じていたのです。しかし、教科書の日本史では、日本列島には騎馬民族が渡来していないことになっているようです。それは、神農様の歴史を辿ると道教に行き着くからです。その道教の渡来が、ユーラシアの騎馬民族が日本海沿岸に渡来した歴史を示すからです。日本列島に前方後円墳が築かれていた五世紀、中国の北魏では、騎馬民族が祀る道教と、農耕民族が祀る漢訳仏教とで熾烈な戦いを行っていたのです。宗教の魅力のひとつが、病気の治療です。道教の治癒技術は、仙術と薬草です。それに対して、漢訳仏教は読経と仏像崇拝です。中世ヨーロッパでは、ローマ・キリスト教が治療を独占するため、小動物や薬草で「くすり」を作り治療する民間治療者を魔女として焼き殺していたのです。それほど、病気治療は民衆が求めていた技術なのです。宗教者は、病気治療を独占するため、敵対する優れた治療者を抹殺したのは、東西同じです。」
「その道教と漢訳仏教の戦いが、日本列島に持ち込まれたのですか。」
「教科書の日本史にはそのような記述はありません。しかし、歴史教科書に記述がないからと言って、その歴史がないとはいえません。簒奪王権は、王権に不利な歴史は抹殺か隠蔽し、それが出来ない時、改竄して自史に取り込むのです。先ほど、奈良時代の歴史が分からない、と言ったと思います。奈良時代のハイライトは、なんと言っても東大寺大仏鋳造です。しかし、その時代を綴ったとされる国史の「続日本紀」には、華々しい大仏開眼の記述もなければ、聖武太上天皇や光明皇太后の列席の記述はないのです。カメさんが知っている大仏開眼の華々しい天平時代とは、平安時代後期に創作された「東大寺要録」を参考にした、井上靖「天平の甍」の小説による影響です。その小説物語の刷り込みにより、インド僧の菩提センナが筆を持って大仏の目に筆を入れ、その筆からひいた綱を聖武太上天皇がもち、さらに分けて多くの人々が綱を持ったと言うことは、歴史虚構の小説なのです。史実は、聖武太上天皇は水銀中毒で病に臥し、奈良の大仏の頭部には螺髪(らほつ・巻き毛)などはなかったのです。奈良東大寺の巨大像が仏像だとする根拠も、奈良時代の資料には何一つないのです。今日に伝わる奈良の大仏物語は、全て平安時代に創作されたのです。」
「それって、本当ですか。」
「「続日本紀」を読んで下さい。それに、中国僧鑑真の渡来も奈良時代のハイライトですが、その渡来についても「続日本紀」にはないのです。鑑真は、いきなり天平勝宝6年(754年)に歴史上現れるのです。鑑真の渡来については、大和朝廷には不都合があったようです。それは、鑑真が聖武太上天皇に戒を授けたとされる「唐招提寺」とは、「招提」とは、僧院を意味する語で、「唐招提寺」とは、「唐の寺」という意味なのです。太上天皇が、「日本の寺」ではなく、「唐の寺」で受戒する意味がわかりますか。」
「「唐の寺」で聖武太上天皇が戒を授かったのですか。でも、日本史には、唐の文化を導入するために高僧を唐から招いたと述べていますが。史実はその逆なのですか。」
「日本の律令制度は、701年大宝律令からです。この、罰と法律による人民統制のシステムも、唐のものです。奈良時代といわれる、藤原京から長岡京までは、唐進駐軍と前政権の明日香ヤマト政権の闘争時代だったのです。奈良時代では、明日香ヤマトの残党が、奈良盆地北の山背国を支配していたのです。何故、都が奈良盆地から北進していたのが何故か分かりますか。」
「歴代天皇の道楽というのは冗談です。オレもその度重なる遷都が気になっていたのです。何故ですか。」
オレは、田辺さんの歴史解説に引き込まれて行くのを感じていた。
「古代日本列島史は、中国大陸とユーラシア大陸との戦いのミニチュア版です。つまり、南の農耕民族と北の騎馬民族の戦いが、日本列島にも持ち込まれていたのです。この大陸での戦いが、日本列島にもたらされたのが、四世紀以降です。その根拠は、騎馬民族系方墳が現れるのが四世紀以降で、その方墳に、装飾品ではなく、実戦用馬具や鉄剣が埋葬されるのが、五世紀半ばからです。さいたま県行田市の稲荷山古墳の鉄剣は、五世紀末です。」
「騎馬民族は、朝鮮半島から渡来したのではないですか。江上氏の「騎馬民族征服王朝説」では、朝鮮半島を南下して、北九州に渡来したことになっていますよね。」
「朝鮮半島から騎馬民族が渡来したことは否定できません。古代新羅は、ギリシャ・ローマ文化国であったので、当然、騎馬軍団も存在していたのです。その根拠は、慶州天馬塚古墳から出土した遺品が証明します。しかし、騎馬民族渡来の痕跡は、北九州よりも、越前・越後・秋田など日本海側に多くあるのです。そして、古代高速道路は、畿内から出羽国の酒田津まで続いていたのです。酒田津は、どう見ても朝鮮半島からの海路のための津ではないようです。教科書の日本史は、朝鮮半島が文化の渡来ルートと教えているようですが、ユーラシアには騎馬民族が暮らしていて、紀元一世紀からローマ帝国と馬絹交易をおこなっていたのです。当然、ローマ帝国と中国後漢との馬絹交易が始まった紀元一世紀以降、中国の絹生産植民地の日本列島に、国際交易民族でもあるユーラシアの騎馬民族も渡来していたことが考えられます。」
「日本列島が、中国の絹生産植民地ですか。」
「三世紀の女王卑弥呼は、魏に絹製品を貢いでいたのです。魏は邪馬台国に軍事顧問も送り込んでいたのです。中国と日本列島は絹でつながっていたのです。騎馬民族はその絹を求めて渡来したのです。騎馬民族は、国際交易民族でもあるので、渡海のための技術を持った民族とも友好関係にあったのです。そのひとつに、突厥語で豊かな水という意味の、バイカル湖沿岸に住む、騎馬民族突厥は、河筋に住む民族とも友好関係にあったのです。遠方より津に運ばれた荷物を人馬により船を引き河を遡上し、内陸の都市まで運んでいたのです。そのような騎馬民族には、内海の日本海を渡るのはさほどの技術がなくてもできたのです。」
「そうですか。朝鮮半島からではなく、ユーラシアから騎馬民族が日本列島に押し寄せたというのですね。」
「そうです。そして、明日香ヤマトをユーラシアから渡来の騎馬民族突厥が支配したのが、六世紀半ば、と言うのが私の推論です。」
ヤクザの歴史を知りたいオレは、田辺さんの話が長くなりそうなので、一服した隙に、話題を変えた。
「ところで、ヤクザさんの家にあった長い柄の日本刀は、なにか意味があるのですか。」
「もし、間違いがなければ、その刀は「上州長脇差」です。上州は戦国時代から長い柄の刀を好んでいたようです。長い柄の刀は戦闘用です。日本刀の発生は、平安時代で、戦闘用武器としてではなく、祭祀具として発明されたものです。」
「武器ではない。歴史物の映画では、日本刀での戦闘シーンがよくありますが。」
「その日本刀による武士の戦闘場面のイメージ作りは、1673年江戸で歌舞伎の荒事(戦闘物語)を演じたことによるのです。1651年由比正雪の乱で、エドの武士は壊滅されたのです。その時代までは、道場では、剣道ではなく、槍術や弓術を教えていたのです。鉄砲が伝来する前の戦国時代の武士の戦闘用武器は、日本刀ではなく、弓と槍だったのです。道場で剣道を教えたのは、幕末からです。何故、幕末の道場では、「刀術」ではなく、「剣術」を教えたのでしょう。「刀」と「剣」は異なる武器です。カメさん、武士とサムライの違いは分かりますか。」
「武士もサムライも同じでは。」
「同じく日本刀で武装していても武士とサムライの発生は異なるのです。武士の発生は、939年から941年にかけての天慶の乱を、祭祀者の武芸者が鎮圧したことにより、平安朝廷より祭祀者である武芸者が、「武士」と認められたのです。武芸者は、禁足地の神社(モリ)で、「日本刀」の剣舞により怨霊鎮めを行っていたのです。」
「何故、平安時代に怨霊鎮めなのですか。」
「それは、平安朝を拓いたとされる百済系桓武天皇が、騎馬民族系天武王権の流れにある井上内親王と他戸親王を謀略により抹殺し、更に、実弟早良親王も抹殺していたのです。古代では、不穏な死に方をした者は、祟りを行うと信じられていたのです。この平安時代初期の歴史も謎だらけなのです。それは、「続日本紀」には平安遷都の記述はないのですが、それに続く、840年完成の「日本後紀」には、第一巻から第四巻が現存していないのです。その欠損の巻には、平安京遷都の記述があったはずです。しかし、藤原緒嗣らの選者の「序」があるのに、巻五巻からいきなり記述されているのです。誰かが、その四巻を抹殺したのでしょう。「日本書記」の系図一巻の紛失や「日本後紀」の策謀をみると、日本列島史には、藤原氏や亡命百済貴族が隠さなければならない歴史があったようです。」
「武士の歴史はわかりました。サムライの発生は。」
「サムライの発生は、平城天皇と嵯峨天皇との確執において、亡命百済貴族の子息を貴人の警護のために武装させたのが始まりです。貴人の側に「侍/サブライ」て、秘書兼警護がサムライの任務だったのです。」
「武士とサムライとは、祭祀者と秘書兼警護者の違いですね。」
「そうです。武士は祭祀者なのです。ここから、武士は、日本刀を使い、祭祀者として罪人の首を落とす刑死業者となっていくわけです。」
「では、日本刀は、平安時代の誰が発明したのですか。」
「日本刀は別名「カタナ」と言います。「カタナ」とは、「カタの刃」で、「カタ」とは完成していない、もしくは、「未熟な刀」、の意味です。文字では、「カタカナ」があります。それも、「未熟なカナ」の意味で、蔑視された言葉です。」
「何故、日本刀が蔑視されたのですか。」
「それは、日本刀は、蝦夷の武器である反りのある蕨手刀を改良したものだからです。騎馬民族の武器は、上から振り下ろすために、刃に反りをつけて衝撃を防いでいたのです。日本刀の特徴は、直刃の剣と異なり、騎馬民族の知恵である反りがあることです。」
「蝦夷の武器から日本刀が発明されたのですか。では、その蝦夷とは何者ですか。学校では、アイヌ民族のように教えていたように記憶しているのですが。」
「蝦夷は、アイヌ民族ではありません。その根拠は、アイヌ民族には、騎乗弓射の技術はありません。「後日本紀」にも、平安王朝軍団と戦う蝦夷は、騎馬により戦闘を行い、振り向きざまに矢を射る、との記述があります。」
「では、その騎乗弓射する蝦夷は、どこから陸奥国に渡来したのですか。」
「明日香ヤマトからです。蝦夷の祖は、ユーラシアから渡来の騎馬民族突厥と、朝鮮半島から渡来の秦氏の軍団である花郎騎士団であったのです。六世紀の中ごろ、教科書歴史では継体天皇の時代、明日香ヤマトに、それらの軍団が侵攻して奈良盆地を支配したのです。」
「「日本書記」では、継体天皇が越前から大和に入京したことになっているのですが。それって、何か証拠でもあるのですか。」
「書籍としての史料は、645年藤原氏の祖中臣族により焚書されてしまい、現存していません。しかし、遺跡までは焚書?できなかったのです。その六世紀中ごろから、奈良盆地では、前方後円墳が築かれなくなり、その代わり、騎馬民族の墓性である方墳が多く築かれて行くのです。そして、秦氏の支配地の河内には、巨大前方後円墳が築かれていくのです。もし、四世紀に大和朝廷が存在していた根拠として、巨大前方後円墳の築造であるのならば、何故、継体天皇が大和入りした時期から、奈良盆地では前方後円墳に代わり、騎馬民族の墓である方墳が築かれていたのでしょう。」
「そう言われると、「日本書記」の記述も不思議ですね。」
「「日本書記」では、約200年前の明日香ヤマトの歴史を記述しているのです。そこには、作為が存在します。しかし、だからと言って、「日本書記」は、デタラメを書いているわけではないのです。「日本書記」の作者は、明日香ヤマトの歴史を全て知っての上で、飛鳥大和物語を創作しているのです。」
「すると、ナベさんの推論では、ヤクザの祖が武士で、武士の祖が蝦夷で、蝦夷は騎馬民族突厥と秦氏の花郎騎士団が祖と言うわけですね。」
「そうです。ヤクザの渡世のひとつに、博打がありますね。博打はサイコロを使う遊戯です。そのサイコロ博打の祖は、双六です。双六の駒は、馬を模したのです。その双六が、サイコロ賭博の祖です。つまり、博打は騎馬民族の遊戯であったのです。」
「博打が騎馬民族の遊戯?」
オレは、田辺さんの歴史解説についていけなくなっていた。
「オレには、トンデモ歴史に思えるのですが、もう少し、ヤクザと博打の歴史を詳しく説明してくれませんか。」
「ヤクザと博打の歴史は、史料として残っているものは、王権側の貴族の日記類や寺社の証文類で、ヤクザ側のものはほとんどないのです。ですから、これから述べることは推測にすぎません。」
「推測でも、知りたいです。」
「博打は、古代では博奕と書かれていたのです。「博」は勝負を争う遊戯の意味です。「奕」は「やく・えき」とも読み、古代中国では勝負遊戯の碁を囲むの意味です。博奕とは碁や将棋、双六での勝負事なのです。そして、博奕は、正式には賽博奕と言い、賽とは、賭銭の交易など含む売買や貿易を意味する語であるのです。日本の山伏は、「役エンの行者」などとも呼ばれていたのは、山野を越えて交易の民でもあったからです。その山伏も、講などを立てて、博打をおこなっていたのです。」
「山伏は、仏教系ではないのですか。山伏が博打をした。信じられません。」
「それは、山伏のルーツを知れば理解できます。山伏は、火を祭る民族です。山伏は、645年以前は、火を祀る民であったのです。カメさんも知っていると思いますが、古代ペルシャで、三神を祀るミトラ教から、二神を祀るゾロアスター教が発明されるのです。」
「三神を祀るミトラ教って何ですか。」
「ミトラ教の歴史は、史料により知ることは出来ません。紀元四世紀にローマ・キリスト教にその歴史が抹殺されてしまったからです。しかし、ミトラ教の儀式は、ローマ・キリスト教や漢訳仏教に取り込まれて現在に至っているのです。鉄器を始めて製作した古代ヒッタイト帝国で発明されたミトラ教は、太陽神を祀る宗教で、日の出の神、天中の神、日没の神の三神を祀っていたのです。その三神を祀るミトラ教から、日の出の神と日没の神の二神を祀るのが、古代ペルシャで発明されたゾロアスター教です。そのミトラ教の二神は、光の神と暗黒の神となって、ゾロアスター教では祀られて行くのです。ゾロアスター教の世界は、その光と闇の戦いが永遠に続くのです。このゾロアスター教の光と闇の思想が、ローマ・キリスト教では、天国と地獄、そして、漢訳仏教では極楽と地獄となるわけです。」
「それって本当ですか。信じられません。」
「ゾロアスター教では、光を火として聖なるものとして崇拝していたのです。ですから、中国に渡来したゾロアスター教は、太陽神を祀るミトラ教が景教と呼ばれたように、拝火教と呼ばれていたのです。ところで、ヤクザが仕切る縁日を何と言いましたか。」
「確か、高市タカマチだと思います。」
「その高市が何故、タカマチなのか、それは、マチとは、古代朝鮮語の「赫・マチ」が語源と言われています。「赫・マチ」とは、火・雷を意味する語です。火を祀るゾロアスター教では、太陽を祀るミトラ教が暗黒の冬至を祭日としたのに対して、黎明の夏至を祭日としたのです。その日の光が長くなる陰暦5月の最頂点を日辻と言い、「高い火=赫・マチ」、つまり、「高市・タカマチ」となったのです。その陰暦5月の「高市」では、「常陸風土記」には、「夏暑の時、おちこちの郷里、酒肴をもたらし男女つどへて遊び楽しめり」とあります。ゾロアスター教では、夏至が祭りの日であったのです。」
「ナベさんは、山伏の祖が、そのゾロアスター教徒というのですか。」
「そうです。山伏の祖は、拝火教のゾロアスターの流れにあるのです。」
「それって変ですね。学校で、蘇我氏と物部氏の神仏戦争で、蘇我氏の崇仏派が勝利して、飛鳥大和に仏教文化の種を撒いた、と教わりました。そして、仏教を導入したが、疫病が流行り、仏像は難波の堀江に投棄され、その仏像が長野善光寺に祀られている、と教わりました。そして、再び、神道が復活した、とも教わりましたが。拝火教が神道なのですか。」
「カメさんは、神道の発生がいつごろだと思っていますか。」
「神代の昔、日本列島が発生した時。」
「そう思っているひとは沢山います。明治史学者による日本史の刷り込みの成功です。神道は、漢訳仏教が現れた後に、奈良時代に藤原氏により発明された宗教です。」
「神道が、仏教の後ですか。信じられません。」
またしても、オレの頭は混乱した。田辺さんの歴史解説は、学校で学んだ歴史を超えていた。
「カメさんは、「日本書記」の世界観で、日本列島史を観ているのです。その世界観は、藤原氏と亡命百済貴族の世界です。古代日本列島には、飛鳥大和以外にも、多数の異民族が暮らしていた国があったのです。何故、ゾロアスター教徒が、仏教系山伏になったのかを述べましょう。山伏は、明日香ヤマトが壊滅された、645年以前は、ゾロアスター教、ミトラ教、道教などの祭祀者だったのです。それらの異民族の祭祀者が暮らせたのは、明日香ヤマトは、オリエント文化の国際交易都市であったからです。その明日香ヤマトを軍事支配していた突厥進駐軍の母国突厥帝国が、630年唐軍団により散逸されてしまったため、明日香ヤマトの防衛力が劣勢となり、645年唐進駐軍に明日香ヤマトが壊滅されてしまったのです。このことを藤原日本史では、中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我入鹿を暗殺した「大化の改新」としているのです。しかし、その大化の改新物語は、朝鮮半島の「ヒドンの乱」のコピーです。明日香ヤマトの祭祀場を追われた、それらの祭祀者は、山奥に逃げ込むわけです。しかし、散逸された突厥帝国残党は再び息を吹き返すのです。それが七世紀末です。それにより、山奥に逃避した明日香ヤマトを追われた残党軍が、近江の亡命百済王朝を攻撃し、壊滅したのが、672年壬申の乱というわけです。しかし、藤原日本史では、その乱は、天智天皇側と天武天皇側の兄弟の争いとして描いています。そのような不安定な国際情勢時に、672年即位したのが、日本初の天皇である天武天皇です。この頃、中国王朝から、「倭国」から「日本国」と呼ばれていくのです。」
「一寸待ってください。「日本国」の成立が672年ですか。信じられません。」
「「日本国」といっても、その頃では、近畿一帯のことで、それ以外の日本列島では、隣国から渡来の異民族が暮らす国が多くあったのです。日本語の単語の中には、ポリネシア語、アイヌ語、古代エジプト語、古代朝鮮の高句麗・百済・古代新羅語、そして、突厥語などがあるのです。それは、古代日本列島では、多くの異民族が暮らしていたからです。」
「「日本民族」は、単一民族ではないのですか。」
「そう言っているのは、明治の政府を支配した結社です。話を山伏に戻します。日本国として発足した天武王朝は、東アジアでの唐と突厥との闘争に影響された、不安定な王朝だったのです。その天武天皇が、686年崩御すると、百済系の女帝持統天皇が即位するのです。この持統天皇をロボット化したのが、藤原不比等であるのです。この藤原不比等により、オリエント文化の明日香ヤマトが、仏教文化の飛鳥大和に改竄されてしまうのです。そのために、藤原不比等は、713年日本列島の各支配地に、その土地の歴史物語を報告させるのです。その地方史を改竄して「風土記」を創作し、その土地・人名を漢字二文字で記述することにより、オリエント・ユーラシア文化色を抹殺していくのです。例えば、トルファンは、諏訪としたり、ローランを浪速・難波として、「風土記」に記述していたのです。だから、「風土記」を調べても、オリエント・ユーラシア文化を知ることはできないのです。そのように、地方史を抹殺した後に、720年「日本書記」を著すのです。」
「だから、地方をドライブすると漢字二字の地名が読めない道路標識があるのですね。ところで、「日本書記」は、漢語で書かれていたのですよね。学校では、飛鳥大和では、万葉語で詩を詠んでいた、と教わりました。万葉語と漢語とは違いますよね。当時の日本人には、漢字が読めたのですか。何故、「日本書記」は漢字なのですか。」
「それは、漢字の読めるひと向けに書かれたからでしょう。」
「漢字を読めるひとって?」
「それは、唐帝国のひとです。」
「唐帝国って?」
「天武天皇が686年崩御すると、即位した女帝持統天皇は、694年藤原京に遷都するのです。そして、697年文武天皇が即位すると、701年日本初の法律である大宝律令が発せられるのです。その藤原京は唐の都のコピーです。そして、日本初の法律の大宝律令も唐の律令のコピーです。この意味が分かりますか。」
「分かりません。」
「それは、唐帝国の支配下に入ったことを示唆します。つまり、明日香ヤマトを支配していた突厥帝国進駐軍に替わり、唐進駐軍が奈良盆地の南部を、天皇家を傀儡として占領した、ということです。万葉語の話に戻しましょう。カメさんは、万葉集の成立がいつだと思いますか。」
「学校では、759年と教わりました。」
「年代が分かっているもので新しいものが、大友家持の歌で、それは天平宝字3年(759年)ですから、学校ではそう教えていたのでしょう。しかし、万葉集の成立には、色々な謎があるのです。そのひとつに、平安時代に発明された「ひらがな」には、長らく濁音をあらわす文字がなかったのです。しかし、それよりも300年以上前の万葉仮名には、弖(て)に対する泥(で)などのように、濁音をあらわす万葉仮名が存在していたのです。更に、母音の一部に二種類の発音があり、単語ごとに明確に使い分けられていたのです。例えば、「任那」は、「みまな」と読みますが、万葉仮名の使用者は、「にむな」と読んでいたのです。万葉語とは、「色々な民族のことば」の意味なのです。」
「ナベさんは、明日香時代と平安時代とに民族の断絶があったとでも言うのですか。」
「そうとでも考えなければ、この万葉仮名の謎は解けません。「万葉集」が現在のように読めるようになったのは、鎌倉時代に仙覚という人物が、当時伝わっていたいろいろな「万葉集」を集めて解読したことによるのです。」
「すると、「万葉集」の原著は存在しないのですか。」
「そうです。「日本書記」も含めて、全ての古文書の原著は存在していないのです。しかし、その「万葉集」に面白い歌があるのです。春日に神を祭る日に、藤原太后の作らす歌一首  大船に ま梶しじ貫き この我子を 唐国へ遣る 斎へ神たち、とあるのですが、その遣唐使の無事を祈る歌が作られた頃、藤原氏の神を祀る春日大社は存在していなかったのです。」
「それって本当ですか。春日大社は、神道の拠点ですよね。その歌が読まれたのはいつ頃ですか。」
「藤原清河が遣唐使に任じられたのが、天平勝宝2年(750年)の9月です。その頃、春日大社が存在していない根拠は、天平勝宝8年(756年)の正倉院の「東大寺山堺四至図」には、その春日大社が建立している地は、空き地で「神地」と書かれているからです。」
「すると、神道の神を祀る、藤原氏の春日大社は、どう考えても、756年以降に建立されたと言うわけですね。」
「そうです。その春日山の「神地」の空き地は、何を意味していると思いますか。」
「分かりません。」
「それは、祭祀場であったのです。春日山は、平城京の東にあります。その平城京が遷都される前には、その地に巨大古墳があったのです。その春日山の祭祀場で、山伏の祖が、夏至には火を祀るゾロアスター教が、そして、冬至には太陽を祀るミトラ教が祭事を行っていたのです。」
「そのことを証明する史料はあるのですか。」
「ありません。あくまでも推測です。しかし、その710年平城京遷都から87年後に書かれた、797年「続日本紀」には、そのヒントが記述されているのです。藤原京から平城京への遷都は、奈良王朝には乗り気ではなかったようで、「平城遷都の詔」には、「遷都のことは必ずしも急がなくてもよい」と記されているのです。そして、その平城京遷都は、朝廷の官人らが、「衆議忍びがたく詞情深く切りなり」とあるように、全員賛成したわけではないようです。では、神を先祖にもつ元明天皇に、藤原京から平城京への遷都を誰が命令したのでしょうか。その平城京造営の記事に、平城京が遷都される前、その地がどのような地であるかを示唆した文があるのです。それが、「平城京の地ならしで墳墓が掘りだされたら埋め戻もどし、酒を地に注いで霊魂を慰めよ」、の記述です。その記述は、平城京の地は、以前、巨大古墳があったことを示唆します。」
「古墳を破壊して平城京が造られたのですね。」
「そうです。更に、「続日本紀」には、その平城京が、貴族や庶民のための都ではなく、軍事都市であったことを示唆する文があるのです。それが、和銅四年(711年)「諸国の軍団から選抜された都を警護する衛士は、体が弱く、武芸にはげまず、役に立たない。もっと武勇の者をおくるように」との詔です。そして、「諸国の賦役の民のなかには造営に疲れて逃亡する者が多い。禁じても止まないという。まだ宮の大垣も完成せず、防守もままならない。仮の軍営をつくって武器庫を警護せよ」、との詔があるのです。「大垣」とは、土を盛った巨大な城です。城とは、戦国時代の石垣の上に仏閣を乗せたものではなく、土を盛った囲いのことです。平城京は、巨大な土壁に護られていたのです。カメさんこれってどう思う。」
「「青丹よし寧楽の都は咲く花の薫ふがごとし今盛りなり」、と歌われたように、平城京は、白鳳時代に続く、仏教文化の平安な時代ではなかったのですか。」
「白鳳時代は、日本の年代ではありません。」
「教科書にもありますが。」
「白鳳時代は、五世紀からの朝鮮半島で仏教文化が花咲いた時代です。その根拠に、「日本書記」には、白鳳などの年号はありません。藤原日本史は、朝鮮半島史も取り入れて創作されているのです。その「続日本紀」の記述から、藤原京から平城京への遷都は、唐進駐軍の傀儡である奈良王朝が、明日香ヤマト残党軍との戦闘中におこなわれたことが示唆されます。」
「それって、ナベさんの推測でしょ。」
「そう言われれば、何も語れません。反奈良王朝の史料は、全て焚書されているわけですから。だから、勝者側の史料を読み解くか、破壊から免れた遺跡から、敗者側の歴史を推測することしかできないのです。例えば、長野の大王わさび農園の魏石鬼窟の伝承には、二つありましたよね。王権側の物語では、民に迷惑をかける「鬼」と呼ばれる八面大王を、平安王朝から派遣された坂上田村麻呂が征伐したとなっているのです。しかし、地元の伝承では、平安王朝が派遣した坂上田村麻呂が、蝦夷の支配地である陸奥国を侵略する途上、信濃の民に食料などの貢を強いたため、その惨状を見かねた八面大王が立ち上がり、平安王朝軍の坂上田村麻呂に戦い挑んで、敗れた、との物語です。歴史物語には、二面性があるのです。それは、勝者側と敗者側とです。カメさんが知っている歴史は、勝者側の歴史です。」
「歴史に二面性ですか。学校で教えるのは勝者の歴史ですか。でも、ナベさんの言う歴史もなんとなく分かるような気がします。奈良時代の奈良盆地が、南端の唐進駐軍の軍事都市藤原京とすると、奈良盆地の北端の山背国に、明日香ヤマト残党軍の花郎騎士団と突厥帝国残党軍が布陣していたとすると、都が北進するということは、唐進駐軍の北進ということですね。」
「そうです。だから、藤原京も平城京も高い壁で、騎馬民族突厥と花郎騎士団の攻撃を防いでいたのです。京都には、平安京を明日香ヤマトの残党軍から護るために築かれた土壁の一部が現存しています。」
「藤原京→平城京→長岡京→平安京と遷都されたのは、唐進駐軍と供に、軍事都市が北上したということですね。」
「そうです。それに伴い、反唐・反藤原氏の聖武天皇は、恭仁宮→紫香楽宮→難波宮へと逃避行を重ねていたのです。それらの、奈良盆地での闘争も、744年東ユーラシアを支配していた東突厥が、唐帝国軍により滅亡すると、明日香ヤマト残党軍は、東突厥の軍事援助が受けられなくなり、防戦一方となり、ついに、山背国の防衛基地が陥落し、794年平安京の遷都となり、唐進駐軍の支配下となってしまったのです。」
「それって、証拠でもあるのですか。」
「史料としてはありません。六国史のひとつ、840年「日本後紀」の一巻から四巻までが欠落しているので、長岡京から平安京遷都への公式歴史は知ることが出来ないのです。しかし、伝承では、781年桓武天皇の即位式は、奈良時代の公式発音の呉音ではなく、唐帝国の公式発音の漢音で詔がおこなわれて、唐の儀式により執り行われた、と云われています。その即位儀式では、藤原氏が発明した天照大神を祖神としないで、桓武天皇の父親光仁太上天皇を祖神としたのです。その光仁太上天皇の出自は、亡命百済貴族であったのです。」
「日本初の天皇である天武天皇は、新羅系ですよね。すると、奈良時代末期に、天皇家の血が、新羅系から百済系に替わったというのですか。」
「そうです。現在の天皇家の位牌を護る仏寺には、天武天皇から称徳天皇までの位牌が祀られていないことで証明できます。平安時代中期までは、唐帝国が907年滅亡するまで、唐進駐軍が、亡命百済貴族を傀儡天皇として支配した時代であったのです。この平安時代中期までに、放免、山伏(山の武士)、遊行する芸能民、武士などが発生するのです。それらは、唐進駐軍に敗れた、明日香ヤマト側の敗者末裔であったのです。」
「すると、役座の祖も、その流れにあるわけですね。」
「そうです。毎日の生活に密着する生活様式や社会様式は、その民族が誇りを持っている限り、抹殺や改竄はできないのです。役座が逆語を使うのも、そのルーツが、平安時代に発生した放免や武士であったからです。逆語は、霊を鎮める呪術の一種で、検非違使の手下である放免から発生した武士は、元は、怨霊を刀舞で鎮める武芸者であったからです。武士の祖も、芸能民であったのです。」
「逆語を使うのは、芸能界でもそうですよね。」
「そうです。芸能のルーツも、平安時代に発生した遊行する芸能民であるからです。役座には、仁義という「シキタリ」がありますが、競馬の旗手の世界にも、役座の「シキタリ」が流れているのです。それは、その役座と旗手のルーツが騎馬民族に関係するからです。先ほど高市のルーツを述べましたが、古代での高市では、馬の取引もおこなわれていたのです。」
「馬は、日本列島在来の種ではないですね。いつ、どこから渡来したのですか。」
「馬が日本列島に渡来した年度を証明する史料はありません。しかし、三世紀の「魏志倭人伝」には、倭国には、馬、牛がいない、とあります。しかし、三世紀半ばから発生する前方後円墳の埋葬品には、馬の埴輪があります。五世紀からの古墳の埋葬品に、実用品の馬具があることから、馬の渡来は四世紀末からと考えられます。六世紀半ば以降には、明日香ヤマトには、道幅12mを超える直線道路が築かれていることから、かなりの馬が日本列島を闊歩していたことが推測されます。その古代高速道路の拠点には、「ミヤケ」という軍事中継基地が設けられていたのです。八世紀以降、唐進駐軍が支配した奈良時代には、軍馬が迅速に移動できるように、全国に駅舎を設けていたのです。中国の王朝は、秦から唐までの支配者は、漢族化した騎馬民族であったのです。ですから、その軍団も騎馬民族により組織されていたのです。」
「でも、平安時代の貴族は、馬車ではなく、牛車で移動していたのですよね。」
「平安時代の半ばまでは、平安京は唐文化一色だったのです。唐は、漢訳仏教を思想武器として、北方の騎馬民族突厥帝国を蔑視していたのです。そこで、秦氏の最後の支配地「山背国」を乗っ取り「山城国」とすると、唐進駐軍は、傀儡天皇の桓武天皇をして、奈良時代の天皇家を陰謀・謀略で支配していた藤原氏色の付いた軍団を廃止して、792年健児(こんでん)を設置したのです。そして、東国から陸奥国に退避した騎馬民族の軍団が、馬を疾走させることができないように、道幅12mを超える直線道路を、道幅6mに狭めてしまうのです。その幅広の古代高速道路は、東京オリンピックまで土の下に埋葬されていたのです。九世紀、その唐傀儡の平安王朝軍団が陸奥国を侵略する時代が、信濃の大王わさび農園に掲げてある八面大王の伝承物語の時代背景です。唐進駐軍は、陸奥国の金、琥珀、鉄や馬などの資源を略奪するために、そして、百済系桓武天皇軍は、母国百済を滅ぼした新羅花郎騎士団を壊滅するために、中国製武器で武装した、それらの歩兵軍団が、陸奥国へ進軍していたのです。しかし、騎射による奇襲攻撃により、平安王朝軍団は苦戦し、武力では侵略できなかったため、金髪の坂上田村麻呂が蝦夷棟梁のアテルイを騙して、京都で惨殺したことにより、陸奥国の軍事力は削がれて、津刈(ツカル)を残して、陸奥国は平安王朝の支配下となってしまったのです。」
「そういえば、出版社カメラマン時代、東北を取材した時、田村麻呂は侵略者と言っていた老人がいました。そして、関西弁を聞くと虫唾が走る、とも言っていました。正に、歴史の二面性ですね。」
「関西弁と、東北の人は言いますが、関西弁とは、大阪弁と京都弁があります。さらに、大阪弁と言っても、河内弁があります。何故、狭い日本列島で、そのように発音が異なるのかと言えば、それは、その地域を支配した民族の発音が、その地域文化を支配したからです。そして、その地域の発音は、代々途切れることなく、現在に継承されているのです。」
「すると、平安王朝の京都は、唐進駐軍と唐の山東半島から移民した亡命百済民の都だから、京都弁のルーツは、唐音ということですね。」
「そうです。朝鮮半島や中国語には、濁音が少ないのです。だから、唐帝国が滅亡したため、平安王朝では唐の公用語の漢語文が使われなくなると、「ひらかな」が発明されるわけですが、その「ひらかな」には、濁音字がなかったのです。「ひらかな」に濁音字が加わるのは、ずっとあとのことです。しかし、「カタカナ」には、濁音字があったのです。そして、明日香ヤマトで使われていた万葉仮名にも、濁音字があったのです。「かな」歴史も不思議ですが、「国史」の歴史も不思議です。901年「日本三代実録」が漢語文により著されたのですが、それ以降、漢語文による「国史」は著されていないのです。」
「その意味は何ですか。」
「考えられることは、六国史と言われる「国史」は、唐帝国を意識していたからです。もし、純粋に、六国史が、日本国のために国史が漢語文で著されていたら、907年唐帝国が滅亡したからといって、漢語文による国史編纂を中止することはないはずです。」
「それもそうですね。」
「時間だいじょうぶですか。12時回りましたが。」
「だいじょうぶです。仕事入っていませんから。」
「カメさんは、プロカメラマンでしたね。仕事頼めますか。」
「どのような撮影ですか。」
「今週の土曜日、治験解析の中間発表のセミナーがあるのです。その会場撮影と演者の顔写真を撮ってもらいたいのですが。プロカメラマンだから撮影料金高いのでしょうね。」
「撮影料金は、時価です。」
「時価って?」
「撮影料金はナベさんが決めてください。」
「分かりました。詳細は、メールします。ところで、先ほどの続きですが、国史編纂の不思議が存在するのですが、日本国自体は不思議な国なのです。」
「日本国の不思議って?」
「カメさんの宗教は何ですか。」
「仏教徒でもないし、神道でもありません。強いて言えば日本教かな。」
「日本人の多くは、仏教か神道かの選択を迫られているようですが、大方のひとたちは、子供が生まれたら神社にお参りし、死んだら仏式で葬儀をします。これって変じゃないですか。」
「そうですね。確かに変です。」
「では、仏教は、日本国で生まれた宗教ですか。この仏教の伝来の歴史が分からないのです。そして、神道の伝来の歴史もわからないのです。」
「神道は、日本列島古来の宗教で、仏教は538年百済から伝来したのではないですか。」
「そのような説もあります。しかし、それらを確定する史料がないのです。神道の歴史は、藤原氏が創作し、百済仏教伝来538年は、亡命百済貴族が創作したものだからです。」
「神道は、伊勢神宮が始まりの地ではないのですか。20年毎に宮が建て替えられて今日に至っている、と観光で伊勢神宮を参拝した時、ガイドさんの説明がありましたが。」
「伊勢神宮が、神道世界のメッカというのは、明治新政府の宣伝です。伊勢神宮の創建は、天武天皇が、685年道観を伊勢の地に建てたことから始まるのです。奈良時代、藤原氏が、その伊勢の道観を破壊し、その跡に建てられたのが伊勢神宮です。その後、藤原氏は、中臣神道を発明して、漢訳仏教を支配するために、神仏習合のトリックを考えるのです。そして、伊勢神宮に天照大神の神を発明すると、その伊勢神宮に仏像を造らせるのです。」
「ちょっと待ってください。伊勢神宮は神道のメッカですよね。その地に、敵対する仏像の建立ですか。信じられません。」
「このことは、「続日本紀」に、天平神護2年(766年)伊勢大神宮寺に仏像を造らせる、との記述があります。」
「そうですか。伊勢神宮に仏像があったのですね。その仏像はどうなりました。」
「明治革命のドサクサで、300以上もあった神仏習合の宮寺にあった仏像は、藤原氏に近い者達により、どこかに持ち出されていたのです。そして、その跡に、神殿が建てられたのです。」
「伊勢神宮の神殿が、江戸時代末期に建てられたと言うのですか。」
「そうです。伊勢神宮だけではなく、日本全国の神社の神殿には、多くの謎が隠されているのです。カメさんは、信濃の大王わさび農園を訪れたと言いましたよね。それでは、その近隣の穂高神社も訪れましたか。」
「ええ、訪れました。静かな境内の中に荘厳な社殿があったように記憶しています。」
「その穂高神社は、海神を祀っているのを知っていますか。」
「そういえば、境内に扁平底の船が祀られていました。それが何か。」
「その穂高神社の氏子は、安曇族です。安曇族の伝承では、安曇族の祖は、北九州に興った海神族の国から北上して、信濃に渡来した、としているのです。その安曇の言葉は、713年以前では、ワダツミであったようです。ワダツミとは、海人という古語です。ワダツミは、海だけではなく、河川の水運もその仕事としていたのです。ワダツミは、海から運ばれた荷物を、平底の河船に移すと、人馬により、その河船を引き、内陸の奥深くまで、荷物を運んでいたのです。信濃の盆地は、太平洋に流れる天竜川、木曽川の源であり、そして、日本海に流れる越後川の源にあるのです。古代の信濃盆地は、騎馬民族のユーラシアと農耕民族の中国本土との交易の中継基地であったのです。その中心地が、ユーラシアからの騎馬民族が渡来したトルファン(諏訪)であるのです。この信濃の地に、騎馬民族と海洋民族の交易の中心があったことが推測されるのです。」
「その推測の根拠は何ですか。」
「それは、諏訪神社の謎が解明してくれます。諏訪神社は不思議な神社です。本殿がないのです。諏訪大社は、上社と下社を合わせ、1社をなしています。その上社は、前宮と本宮、そして、下社は秋宮と春宮に分かれ、四箇所に所在しているのです。その中心が、上社の本宮です。その本宮の拝殿の奥には建物がまったくないのです。空き地があるだけです。その理由として、当宮では守屋山の中央に位置する宮山をご神体として信仰の対象としてきたからと言うのです。しかし、不思議なことに、その宮山は拝殿の位置からは拝めないのです。これは一体何でしょう。宮山を拝めない拝殿。そして、本殿がなく、その位置には空き地があるのです。」
「空き地とは、春日山と同じに、禁足地ですよね。神域だから、空き地でしょう。何も不思議はないようですが。」
「藤原日本史では、空き地は「神地」の禁足地で、神の領域だから、何人も入ることができない、とするのですが、諏訪神社の祭神を調べると、不思議なことが分かるのです。上社の本宮には健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)を祀っているのですが、その「御名方」とは、「製鉄炉の主要な柱」の意味なのです。この諏訪には、産鉄民族が古くからいたことを示唆します。その根拠として、戦国時代の武田軍団には、産鉄民族の「金山衆」がいたからです。そして、農業神の他に、狩猟神も祀られていたのです。その狩猟神事では、「鹿食免」という肉食を許した護符が発行されていたのです。また、御頭際では、鹿の頭が本宮に供えられていたのです。これってカメさんどう思う。」
「不思議ですね。漢訳仏教も中臣神道も、獣を「シシ」と言い、穢れものであったはずですね。その鹿の肉を食うことを諏訪大社が許し、その上、鹿の頭を宮に供えていたとは、正に、諏訪神社は謎だらけですね。」
「不思議は、諏訪神社だけではないのです。未だに、神社のルーツが分からないのです。神社だけではなく、鳥居も、注連縄も、禁足地といわれる「空き地」の存在も、神道のルーツは謎だらけなのです。」
「そういえば、「神社本」を読んでも、それらのことを明快に述べたものはなかったですね。神社って、本当に神を祀っていたのですか。」
「分かりません。ただ言えることは、アウトローの役座の発生は神社(もり)で、その祖は、神社で怨霊鎮めを刀舞によりおこなっていた武芸者であったのです。その武芸者の祖は、俘囚と言われた陸奥国の蝦夷捕虜であったのです。そして、捕虜の蝦夷の一部は、京の都を護る検非違使の手下である放免となっていたのです。その放免は、役座と同じに逆語を使っていたのです。そのように、神社(もり)には、反体制の色があるのです。」
「反体制の色とは何ですか。」
「神社には、本殿がないものがありますが、その本殿がなく、空き地の「神地」がある神社の地域には、騎馬民族文化の影響が強く残っていることです。そのような地にある神社の神地(空き地)には、何か特別な施設があったことが推測されます。藤原氏の神を祀っている春日大社が建立する前、その地は、禁足地の空き地があったのです。その面積は約60m四方であったのです。カメさん、このことで何か思い出しません。」
「方墳や円墳は、だいたいその面積のように思いますが。」
「そうです。その禁足地の神地といわれる空き地は、方墳か円墳があったことが推測されるのです。」
「その推測を裏付ける証拠はあるのですか。」
「文献としてはありません。しかし、神社の境内にその証拠があるのです。カメさん、穂高神社に行きましたよね。その境内に「石」がありませんでしたか。名のある古い神社境内には、「石」が注連縄で祀ってあるのです。その意味は何だと思いますか。」
「分かりません。」
「出雲は不思議な国で、大和朝廷に国譲りをしたとの神話があるのです。その出雲支配地には、古代の遺跡が多く出土するのですが、古墳も不思議な形をしていたのです。その古墳は、方墳で四隅に角のような突起があるのです。その方墳には、丸石があったのです。」
「古墳に丸石ですか。丸石と言えば、信濃の魏石鬼窟にもありました。石と古墳との関係は何ですか。」
「石は、何らかの宗教的象徴だと思います。ミトラ教では、その神である太陽は、東の山の頂上から誕生すると信じられていたようです。ミトラ教は契約の神でもあったので、国際交易商人と供に世界に伝播するうちに、太陽神ミトラの誕生場は、その山の頂上から、洞窟、そして、大岩、更に、丸石などに変換していったようです。「猿」の孫悟空が岩から誕生したという物語は、そのような信仰がヒントであったかもしれません。太陽神を祀るミトラ教は、秦と供に中国に渡来していたようです。秦とは、西域の国の意味です。紀元一世紀頃には、ローマ帝国は、中国では「大秦」と呼ばれていたのです。その秦は、蔑称で「猿」とも言われていたのです。それは、秦→しん・申→さる・猿、の流れです。日本史に登場する、猿田彦も蔑称で、本来は、「秦の日の子」です。そのように、四隅突角墳には丸石があったのです。」
「でも、穂高神社には、丸石ではなく、二つの岩ですが。」
「方墳は、騎馬民族と関係のある古墳です。穂高神社は、海神を祀る海洋民族の宗教施設であったので、四隅突角墳ではなかったのでしょう。いずれにしても、古墳と石とは関係があったのです。古墳が破壊された歴史的記述は、「続日本紀」の平城京を建設する時の記述にありますが、七世紀末まで築かれていた巨大古墳が、奈良時代には破壊されていたことは、支配民族の変換が示唆されます。奈良時代から始まる古墳破壊により、「空き地」ができるわけです。しかし、古墳の小山が削られて「空き地」となっても、その古墳を祀っていた民族は、その「空き地」を信仰するために集まって来るのです。そこで、簒奪王権は、注連縄で、その地を禁足地としたのです。「空き地」を囲む注連縄の本来の意味は、「閉め縄」で、そして、神を祀る木とされる榊の本来の意味は、「佐加木」で、その意味は「塞也、閉塞也」と現在最古とされる漢和辞典「新撰字鏡」にはあります。それらの神社に関係する注連縄、榊とは、被征服民族が、被征服民族の祭祀場に足を踏み入れることを厳しく禁じるための道具であったのです。」
「それって、またまたナベさんの推測でしょう。」
「文献がないのです。神道の歴史については、神社関連の施設・道具・儀式をもとに推測する以外に、方法がないのです。「神社」を「ジンジャ」と読んでいますが、古代では「モリ」であったのです。その根拠は、万葉集の歌です。木綿懸けて斎ふこの神社(モリ)超えぬべく念ほゆるかも恋の繁るきに、とあるように、古代では、神社は「モリ」と読まれていたのです。「モリ」と言われたのは、「神社」だけではなく、「社」も「モリ」と読まれていたのです。そして、万葉集では、「杜」と「社」の漢字に混同があるのです。その「社」は、「やしろ」とも読まれて、万葉集では、神の住む聖域で、注連縄を引きめぐらして、ひとが立ち入ることを禁じているのです。この「禁足地」を意味する「モリ」とか「やしろ」とかの意味がわからないのです。では、「神社」、「社」に対する「宮」とは何でしょう。」
「神を祀る建物でしょう。」
「「神社」には本殿がないものがあり、中には、山を前にした鳥居だけのものもあります。しかし、「宮」には、必ず建物があるのです。「神社本」では、「宮・みや」は、「御屋」だと説明するものもあります。更に、「日本書記」では、「仏像を造ること既に訖りて、堂(みや)にいることを得ず」とあるように、仏堂や寺も「みや」と読まれていたのです。神霊を祀る神社には、「空き地」だけで、建物がないものがあるが、政権が変わり、仏像を安置するには堂(みや)が必要だったようです。その神社(モリ)と宮とが厳格に区別されたのが、「延喜式神名帳」からのようです。平安時代初期に著された「延喜式神名帳」は、唐進駐軍の指揮下、前政権の宗教施設であった古墳を破壊しただけではなく、唐の国教である漢訳仏教思想を広めるため、「堂・みや」を建て、仏像を安置したのでしょう。」
「ナベさん、それって変ですよ。仏教が伝来する前に、神道があったのでしょう。だったら、仏像を安置する「堂・みや」の以前に、神道の神を祀る「宮」があったはずです。伊勢神宮、鹿島神宮、そして、八幡大菩薩宇佐宮だって、仏教伝来以前にあったのでしょう。」
「カメさん、前にも言ったと思いますが、神道は、仏教伝来の後に、藤原氏により、奈良時代に発明されたものです。」
「日本史では、蘇我氏と物部氏との神仏戦争があって、在来の神道を祀る廃仏派が破れ、崇仏派の蘇我氏が勝って、仏像を安置するために仏寺を建立したことになっているはずですが。」
「それは、藤原氏が創作した物語です。明日香ヤマト時代には、仏教など伝来していません。その時代は、太陽を祀る景教(ミトラ教)、北極星を祀る道教、そして、火を祀る拝火教(ゾロアスター教)など、西域の宗教であったのです。その根拠は、六世紀半ば、明日香ヤマトを支配したのは、騎馬民族突厥進駐軍であったからです。その突厥は、東アジアで、漢訳仏教を国教とする唐帝国と戦争をしていたのです。敵国宗教の漢訳仏教など、突厥が支配する明日香ヤマトで布教を許されるはずはないのです。」
「でも、学校の日本史では、仏教の伝来は、538年と教えていますよ。」
「仏教伝来の538年は、平安王朝を築いた、亡命百済貴族が創作した物語です。「モリ」の話に戻します。「モリ」の語源は、「モロ」のようです。その「モロ」の「モ」とは、つまり、古代では「神」、「精霊」を意味していた「モノ」が降臨する処であったようです。その神や精霊が降臨する処は、美称の「ミ」を付けて、「ミムロ」「ミモロ」と言われたようです。「万葉集」の歌には、よく「ミモロ」は出てくるのですが、そのほとんどは明日香ヤマトなのです。例えば、「三諸の神杉」とは、桜井市三輪の三輪山で、「三諸の神名備山」の「三諸」は、奈良県高市郡明日香村の雷丘のことと云われています。」
「高市と雷丘ですか。それって、役座のバザールがおこなわれるタカマチと、マチとは、「火」「雷」を意味する古代朝鮮語ですよね。」
「そうです。ゾロアスター教は、旧暦の5月の太陽の位置が一番高い日に、酒肴をもたらし男女つどへて遊び楽しんだのです。古代の「遊び」とは、「まぐわい」の意味です。」
「そういえば、盆踊りのルーツは、村の「男女交際の日」と聞いたことがあります。」
「明日香ヤマトでは、高市郡では、丘に男女が集い、高い日(火・マチ)の太陽を祀り、お祭りをしていたのです。」
「ナベさん、その祭りがおこなわれる丘って、もしかすると「古墳」ではないですか。」
「私も、その丘は、「古墳」だと思っています。その丘が、「モロ」で、神や精霊が降臨する処で、その「モロ」が「モリ」となったのです。奈良時代、その「モリ」の「古墳」を、征服民族が破壊し、空き地の「禁足地」としたのです。そして、その前政権の神や精霊を封じ込めるために「神社・モリ」を建立したのですが、被征服民族の力が残存している地域では、神社が建立できなかったので、「空き地」のままだったのです。ですから、騎馬民族の残存勢力が強い地域の神社には、本殿がなく、「空き地」があるわけです。」
「その説明なんとなく理解できます。神社が「モリ」で、その「モリ」は「モロ」が語源で、その「モロ」とは、神が降臨する「丘」、つまり、「古墳」というわけですね。」
「そうです。その「古墳時代」は、藤原日本史で述べる、「飛鳥時代」とオーバーラップするのです。藤原氏が創作した「日本書記」は、推理小説を読む視線で眺めると、藤原氏が、明日香ヤマトの歴史の「何」を隠そうとしたかの「意図」が分かります。」
「藤原氏は、「何」を隠そうとしたのですか。」
「それは、明日香ヤマトのオリエント文化です。明日香ヤマトは、仏教文化の発祥の地などではなく、オリエントの石造文化の地であったのです。」
「それって、飛躍しすぎません。現に、飛鳥大和には、飛鳥寺など古代の仏教寺が多く存在していますよね。」
「その飛鳥大和のトリックは、明治維新での「国家神道」を伝播させるためのトリックを述べることで説明できます。その飛鳥大和も明治維新も、その影には藤原氏の存在があたのです。日本列島史の謎は、天皇の謎などではなく、藤原氏の謎なのです。藤原氏の謎を解明できれば、日本史の封印が解けるのです。」
「ナベさんは、「大化の改新」と「明治維新」が、同じ藤原氏による陰謀とでもいうのですか。」
「民族の思考は、時代を経てもそう変化するものではありません。藤原氏の戦術のひとつは、「夷を以って、夷を制す。」です。敵対する同族を分裂させ、その弱い方に味方して、強い方を壊滅した後に、その弱い方の勢力を取り込むか、或いは、抹殺するのです。そして、外国の勢力を利用して旧政権を倒すと、傀儡新政権を裏でコントロールするのも、藤原氏の得意とするところです。」
「それって、具体的にどういうことですか。」
「645年明日香ヤマトを倒した時は、唐進駐軍の軍事力を、そして、1868年江戸幕府を倒した時は、イギリス東インド会社の軍事援助を利用していたのです。藤原氏は、古来から外国勢力とのパイプを持っていた民族です。」
「藤原氏は、日本列島で最も古い民族で、天照大神を天磐戸から引き出した時の祭祀者である天児屋根命が祖ではないのですか。」
「カメさん、天照大神はいつごろの神だと思っていますか。」
「神武天皇が紀元前660年即位ですから、紀元前八世紀頃かと思います。」
「天照大神を祀っている伊勢神宮は、奈良時代に建てられたのです。それ以前は、天武天皇が、685年道教の神である北極星(太一)を祀るための道観であったのです。ですから、天照大神が発明されたのは、685年以降です。」
「その解説信じられません。」
「では、天照大神は、男神か女神かどちらですか。」
「それは女神です。日本神話では、スサノウの姉となっていますから。」
「天照大神は太陽神と言われていますよね。世界の神話では、太陽神は、全て男神なのです。何故、日本の太陽神だけが女神なのでしょう。」
「分かりません。」
「それは、藤原氏が、天照大神の天磐戸物語を創作した時、ギリシャ神話の「デメテルが女王を笑わす物語」を種本としていたからです。」
「それって本当ですか。」
「暇な時、ギリシャ神話と読み比べてください。明治維新のトリックが、大化の改新のトリックと同じと言いましたよね。大化の改新の645年大和朝廷は仏教興隆の詔を発しているのです。そして、明治維新の1868年明治新政府は神仏分離令を発しているのです。その意味は、宗教改革を利用して、旧勢力の抹殺が、藤原氏一族の意図であるのです。明治維新の宗教改革を解析すれば、明日香ヤマトがどのようにして、オリエント文化から仏教文化に摩り替えられたかを知ることが出来るのです。」
「明治維新が宗教改革ですか。それって変ですよ。万世一系の天皇家は、古来から神道の神を祀り、天皇はその神道の儀式の祭祀者であった、と歴史本で読みましたが。」
「明治天皇が神道の十三の儀式を執り行ったのは史実です。しかし、その十三の神道儀式の十二は、明治維新以降に、藤原氏により発明されたものです。そのひとつの五節舞も、戦国時代には廃れていたのです。天皇家は、781年即位の桓武天皇から、新羅系から、百済系に替わり、嵯峨天皇の時代から江戸末期の孝明天皇まで、錬金術師空海が発明した真言密教のダキニの呪法の儀式により天皇家は祀られていたのです。」
「それって本当ですか。」
「天皇家の皇祖を祀っていると云われる伊勢神宮境内には、明治革命以前、宮寺が300以上もあって、そこには仏像が安置されていたのです。奈良時代、伊勢神宮が天皇家の皇祖を祀っていなかったことは、道鏡を天皇にするかどうかの宣託を受けるのに、769年伊勢神宮ではなく、宇佐八幡宮に和気清麻呂を遣わしたことで理解できます。奈良時代の伊勢神宮は、天皇家ではなく、藤原氏の宮であったのです。もうだいぶ時間が経ちましたよね。今日はこれくらいにしませんか。」
「そうですね。ナベさんの歴史解説についていくのに疲れました。ひとつだけ質問をしていいですか。」
「どうぞ。」
「ナベさんが所属している「日本騎馬民族研究会」とは何を目的の会なのですか。」
「その答えは簡単でもあり、難関でもあります。簡単に述べれば、何故ひとを罵倒する時の言葉の「バカ」が、何故「馬鹿」なのかを解明するのが目的です。」
「関西では、「バカ」ではなく、「アホウ」ですが、違いは何ですか。」
「簡単に言えば、罵倒相手の民族が異なるからです。「馬鹿」の対象は「騎馬民族」です。「阿呆」の場合は、「古代新羅民」です。」
「騎馬民族を罵倒するのが「馬鹿」の文字であるのは理解できますが、古代新羅民を罵倒する文字が、何故「阿呆」なのですか。」
「一説には、古代新羅の数詞からきていると云われています。「アホウ」とは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅では、数詞の「九」を表す言葉です。「アホウ」は、「十」に足らないことから、「抜けている」の意味に転訛して、「アホウ」が「間抜け」となったようです。今日でも、関西の百済系日本人が、新羅系日本人によく使う「罵倒言葉」です。京都が、日本歴史上において民族差別発祥の地であることは、そのような民族差別の罵倒言葉からも理解できるのです。京都を支配した亡命百済貴族のDNAは、母国百済を滅ぼした新羅を今も憎み続けているのです。」
「関西でよく使われる罵倒言葉の「アホウ」が、そのような民族差別語であったのですね。」
「「馬鹿」の語源は、巷で解説の秦の時代の「馬」を「鹿」と言ったという創作物語ではなく、愚か者の意味の、サンスクリット語の「ハーカ」からきているのです。」
「何故、そう言えるのですか。」
「中国読みでは、「馬」は、呉音「メ」、漢音「バ」、「唐音」「マ」ですが、「馬鹿」は、「バロク」なのです。鹿の中国読みは「ロク」で、「カ」は、日本語読みの訓です。ですから、「バカ」を「馬鹿」としたのは、中国人ではなく、日本人なのです。サンスクリット語の「ハーカ」が中国語の「莫迦」になり、「馬鹿」になったのは、民族差別が激しくなった第三百済王朝の江戸時代中期からなのです。そのように、藤原氏や亡命百済貴族が、騎馬民族を貶めるために色々な史料を創作して、日本列島史の騎馬民族やオリエント文化を抹殺、或いは、隠蔽・改竄しても、文化のDNAである「言葉」までは、抹殺、或いは、隠蔽・改竄はできないのです。」
「分かりました。今日も、色々勉強になりました。ありがとうこざいました。」
「では、今週の土曜日の撮影、よろしく。後で、必要事項をメールします。では。」
オレは、チャットが終わっても、パソコンをオフする状態ではなかったので、今日のチャツトを再び読み始めていた。

会場内のざわめきは、開始のアナウンスが流れると、シーンと静まり返った。オレは、一脚に乗せたカメラを構えると、司会者に200ミリレンズを向けて、二三回シャッターを切った。
イベントの撮影は、何が起こるかわからない。イベント写真は、その時を切り撮れなければ、二度とはできない一発勝負の仕事だ。出版社カメラマン時代の教訓で、昨日会場でのリハーサルを見学していたのだ。演壇舞台が広いので、オレの愛用の85ミリレンズでは、顔のアップは無理と分かり、リハーサル見学後、急遽、中古カメラ店で、200ミリレンズを購入したわけだ。それにしても、中古タークマーレンズは安過ぎる。
会場でのイベント撮影、特に、学会などは、ひとつのミスも許されないので、コンベンション会社は、本番の前にリハーサルをおこなう。大体、午後開場の場合、当日の早朝からリハーサルがおこなわれる。午前開場では、前日の夕方にリハーサルがおこなわれるようだ。リハーサルでは、演者の立ち位置やライトの光量、そして、マイクの音量のチェックが念入りにおこなわれる。そして、学会撮影での大事な確認事項は、演者の誘導のことだ。演者控え室から演壇までの歩行経路だ。
何故、演者の歩行経路が大事なのかは、講演者の撮影では、会場内のライトが落とされたら、撮影禁止が原則だからだ。演者の中には、演壇に登場と同時に、「スライドお願いします。」と言って、講演を始める演者もいるからだ。そのような時、講演が終わった演者を待ち構えて、顔写真を撮る位置を、前もって決めておくことは、プロカメラマンの保険だ。
それに、リハーサルに立ち会っていれば、当日のライティングと撮影位置が確認できる。なにより、講演の流れが掴めれば、どのように撮影位置を移動すればよいかを知ることが出来る。イベント撮影では、必ずアクシデントが起こると思っていたほうが、もし、起こってしまっても気持ちが落ち着き、冷静な判断により乗り越えられる確率がアップする。
そして、演者の名前を覚えておくのも大切なことだ。講演撮影がうまくいかなかった場合、廊下で、演者を待ち、演者に声をかけるとき、○○先生と、本名で声をかけるのと、ただの先生とでは、演者の反応は大いに異なるからだ。
そして、イベント撮影でプロカメラマンとして大事なことは、プレスの腕章を付けることだ。このプレスの腕章があるかないかで、被撮影者の反応は大いに異なることは、出版社カメラマンからフリーカメラマンになった時、実感した。だから、オレは、イベントでの撮影の場合、自作のプレス腕章をするのだ。
第一演者の紹介が終わると、いかにも医者らしいタイプの演者が現れた。オレは、昨日下見で決めていた位置で、カメラを構えてシャッターを切った。目つぶり写真を回避する方法のひとつは、被写体が目をつぶった瞬間にシャッターを切ることだ。そして、二三枚切ったら、その位置を他のカメラマンに譲ることだ。そうすれば、カメラマン同士のトラブルが回避できる。それにしても、女性カメラマン?が多い。デジカメが普及してからは、編集者がカメラマン兼任となってしまったからのようだ。
「では、スライドをお願いいたします。近年、ニコチン性アセチルコリン作動性神経系やグルタミン酸作動性神経系、などを介する、新規の薬理学的特徴を持つ薬物が開発されています。では、」
オレは、講演を聴きにきたわけではないし、聞いても意味が分からないので、押さえのために、廊下での撮影位置に移動した。
「オッ、カメ久しぶり。」
「田中か。十数年ぶりだな。元気か。少し老けたな。」
「お互い様。お前、出版社辞めたそうだな。ここで何しているんだ。」
田中は、オレが六ヶ月のサラリーマン時代に終止符を打って、写真学校に入学した時に知り合った。前歴がパチプロだったことで、気があって写真学校時代つるんでいた。就職で、オレは運良く出版社のカメラマンとして採用されたが、一緒に受けた田中は落ちた。その後、田中には会っていなかった。
「田中こそ、ここで何してるんだ。」
「カメと違って、才能ないから、出版社の営業で、今にもつぶれそうな地味な出版社に就職したのが、医療系の雑誌を出版したら、あっという間に自社ビル建てて、オレはそこの営業部長。」
そう田中は言って、名刺ホルダーから名刺を出し、オレに渡した。その一連の動作から、営業慣れがうかがわれた。その時、ひとは環境に影響される、と感じた。オレは、カメラマンバックから名刺を出し、渡した。
「モノクロ専門肖像写真家。カメダマン。スナップ写真協会会員。何だいコレ。」
「オレの営業ツール。デジカメ苦手だし、長らく銀塩カメラで人物撮っていたから、希少価値をウリにしようと考えたわけ。」
「ビジネスになるのか。今はデジカメのカラーの時代だぜ。写真学校でも言っていただろ。銀塩カメラの終焉。今は、そのたそがれ時。やがて、闇になる。銀塩カメラは、博物館で展示。」
「いいじゃないか。そのたそがれ時に、最後の華を咲かせるのも。肖像写真っていっても、葬儀用写真で、結構需要がある。六十台以上のひとは、デジカメより銀塩カメラに親しみを持っているからね。」
オレは、腕時計を見た。もうそろそろ講演が終わる頃だ。
「悪い。これから撮影。名刺に連絡先があるから、電話して。」
オレは、田中にそういうと、所定位置に行き、そこで演者を待った。
誘導者に従って演者が現れた、オレは頭を軽く下げて、
「矢崎先生。T医大の田辺先生からの撮影依頼です。二枚ほど撮らせて下さい。」と言って、名刺を出した。
矢崎医師は、オレのプレス腕章をチラリと見て、うなずいた。オレは、矢崎医師を所定位置に誘導すると、カメラマンバックからポラを取り出し、シャッターを切った。
「ポラロイドだね。まだあるんだ。懐かしいね。」
矢崎医師の表情が緊張から解放されたように一変した。オレは、排出されたポラを矢崎医師に渡すと、もう一度ポラを切った。
「先生、よろしかったらポラどうぞ。では、本番いきます。」
オレは、ストロボを天井に向けると、矢崎医師の目線より下の位置からレンズを向けた。下から仰ぐアングルは、被撮影者の威厳を演出する。卑屈の演出は、上から見下ろすアングルだ。レンズ位置は、写真を鑑賞するひとの目となるのだ。
「ありがとうございました。」
「今日は懐かしいものを見た。ペンタックスっていいよね。軽くてシンプルで。私も昔、S2を使っていたことがあるよ。」
そう言いながら、オレの名刺を再び見た。
「モノクロで撮ったの。よかったら、写真送ってくれない。」
「いいですよ。」
「先生、後は私が引き受けます。お車が玄関に到着しています。」
オレと同じような服装をしたMRが、オレと矢崎医師との会話に割り込んで言った。
「では。」、と言って、矢崎医師が立ち去った。オレは、もう一枚のポラに、医師名と日付を書き込んだ。何人もの人物写真を撮った場合、後で整理するのに便利だからだ。
今日の講演は、三名だ。あと二人、オレは、急いで会場内に戻った。
本日の講演も終わり、スポンサーの製薬会社の重臣らしきひとが、御礼のご挨拶を始めると、退席が始まった。挨拶が終わる頃には、会場内にはほとんどひとがいなかった。
オレは、事務局のある部屋に、田辺さんを尋ねた。
「撮影終わりました。依頼事項は全て撮りました。」
「ご苦労様です。写真、データでお願いします。」
田辺は事務的に言った。白衣を着ている時と、半そでYシャツ姿の田辺さんは、別人のように感じた。課長どまりのサラリーマンのようだ。やはり、「馬子にも衣装だ」、とオレは思った。それにしても、何故「馬子」なのだろう。この小部屋には何人かがいるので、いつかチャットで、田辺さんに聞いてみようと思った。
今日の仕事も無事終わった。たそがれの人生、急ぐこともないので、法定速度30kmの愛車トモスでトロトロと家路に着いた。

真昼の照り返しがキツイ。オレは久しぶりに神田に来た。神田の古書店通りは、来るたびに古書店が減っていた。高校時代、長谷川という古本好きがいて、古本屋で購入した古本を、神田の古書店で売りさばくのを手伝っていたことがあった。それまでは知らなかったが、古本屋と古書店とは古本の値付けが異なる。古本屋の基準は、本の内容よりも体裁に価値基準を置く。しかし、古書店では、その体裁よりも、本の内容に置く。
長谷川は、古本屋から内容の良い、少し汚れた初版本を安く購入して、神田の古書店に売りさばいて、利鞘を得ていたのだ。古本屋では、全集でも、中に汚れている本があると、その汚れた本は買い取らない。しかし、古書店では、そのようなことはない。内容がよければ、汚れていても購入してくれる。全集を売るなら、古本屋ではなく、古書店だ。
久しぶりに神田の古書店に来たのは、田辺さんとのチャットで歴史の認識がずれてしまったようなので、もう一度、日本の歴史を確認したかったからだ。それに、田辺さんの歴史観の種本は何かも知りたかった。神田の歴史専門古書店で、それらの答えが見つかるかもしれないと思ったからだ。
店に入ると、本が湿気を吸って醸し出す、独特のニオイが鼻に付いた。棚だけではなく、通路にも平積みされた古書は、褐色で、いかにも歴史の宝庫のように感じた。適当に棚から一冊取り出す。ページを捲ると、そこには漢字がびっしり、更に、その漢字は旧字だ。オレの漢字知識では、到底解読できない。棚の下に、江戸絵図の古書があった。絵だったらと思い、ページを捲った。何回か捲ると、伊勢神宮の絵が開かれた。その絵は、何枚かに分かれていて、伊勢神宮の遍歴を絵で解いていた。一枚目の絵は、川筋にぽっんと建つ祠が描かれていた。二枚目には伊勢神宮境内に点在する宮寺が描かれていた。そして、三枚目には、伊勢参りの旅人が、銭を川に投げるのを、橋の欄干から子供が飛び込む図が描かれていた。
オレは、その伊勢神宮の遍歴絵を見ながら、田辺さんが「伊勢神宮には、江戸時代末期まで、宮寺が無数にあった。」、と言っていたことを思い出した。すると、江戸時代末期まで伊勢にあった無数の仏像はどこに消えたのか。現在のような、宮寺のない、神道の聖域とする伊勢神宮は、何時、誰が、何を目的に企画したのか。ニッポンの古来からの宗教は、神道ではなかったのか。だったら、「日本書記」で述べている物部氏と蘇我氏との神仏戦争物語での、神とは何か。オレの脳内は混乱し始め、その結果、軽い眩暈がした。
古書店を出て、新刊本屋に行った。もちろん歴史コーナーだ。そこには、無数の歴史本が、時代順に置かれていた。古代の列には、聖徳太子本が多くあった。
近年、聖徳太子の実在性が疑われていたが、今では、「聖徳太子はいなかった」側に分があるようだ、それは、徐々に聖徳太子の存在を否定する本が多く出版されているからだ。聖徳太子の連想で、蘇我馬子を思い出し、そのことにより、「馬子にも衣裳」の諺が浮かんだ。
そこで、何故、「馬子」なのだろうという疑問が再び湧いた。オレは、辞書のコーナーに急いだ。諺辞典を手に取ると、索引欄を開き、ページを確認して、「馬子にも衣裳」を引き当てた。その解説では、「誰でも外面を飾れば立派に見える」、とある。その言外の意味からすれば、「誰でも」が「馬子」なら、「馬子」は身分の低い者の意味か。
その諺の隣に、「馬子にわんぽう」とある。その意味は、馬子には「どてら」が似合うとある。そして、分相応の意のたとえ、とある。「わんぽう」とは、「どてら」のことで、粗末な着物のことだ。そして、その「どてら」とは、他人の衣服を褒めるのではなく、けなして言う語だ。そして、馬子の意味としては、駄馬をひいて人や荷物を運ぶことを業とする人、とある。
いずれにしても、「馬子」は、尊敬される者ではないようだ。平安末期に成立の、大江匡房の談話を藤原実兼が筆記した「江談抄」には、昌泰2年(899年)の上野国の馬盗の話には、坂東諸国の富豪は、京都方面へ物を運ぶ時、賃馬を雇ったが、その賃馬の「駄馬」は、略奪を業とする徒党が盗んだ馬であると述べてある。そして、戦国時代を記述している「上野国志」には、乱波(ラッパ・シッハ)という曲者多く抱いて、これ馬盗人にして、また盗人にもあらず、乱波は我国にありて、盗人よくせんさくす、長野家乱波大将軍風車と申せしなり、と述べている。
それらの書籍史料によれば、馬盗人は、ただの盗賊ではなく、間者(諜報員)であったようだ。その馬盗人は、後に、テキ屋の「馬賊」と称される者になっていくようだが、古来「馬子」は、忍び者でもあったようだ。
それらの書籍史料を読むと、「馬子」は、体制側からは良く思われていなかったようだ。だったら、何故、蘇我馬子なのだろう。そして、孫の蘇我入鹿との一字を組み合わせれば、「馬鹿」になる。古墳後期時代(飛鳥時代)、530年から645年まで、明日香ヤマトを支配した蘇我氏の名前が、稲目、馬子、蝦夷、そして入鹿との蔑称が、何故、付けられているのか。その名前は、713年好字令により、命名されたものだ。その蔑称を使って、藤原不比等は、「日本書記」を創作した。何故だ。オレは、田辺さんの歴史観で、日本史を観るようになっていることに驚いた。

「こんばんわ。カメダマンです。」
「こんばんわ。ナベです。写真ありがとう。カメさん、銀塩カメラでしたよね。どうして、写真メールで送れたのですか。」
「スキャナーで取りこんだんです。」
「だったら、はじめからデジカメで撮ったら楽なのに。現像もなしに撮れるから。」
「気持ちがデジカメについていけないんです。でも、パソコンのテクは無視できません。画像を送れるわけですから。大昔の新聞社で使われた電送写真が、パソコンだと誰にでも、簡単に出来るのですから。ところで、諺に「馬子にも衣裳」ってありますよね。何故、「馬子」なんですか。」
「諺は、時代や地域によって異なります。そして、解釈も。言葉の意味も同じです。例えば、「くだらない。」という言葉がありますよね。その意味は、平安時代と江戸時代では異なっていたのです。「くだらない。」の語源は、「百済のものではない。」つまり、平安時代の京都は、唐の山東半島から移民してきた亡命百済民で溢れていて、百済系桓武天皇は、その亡命百済貴族を高級官僚に登用したり、息子の嵯峨天皇の時代には、814年「新撰姓氏録」を創作して、亡命百済貴族を「皇族」として優遇していたのです。」
「日本の皇族の祖は、亡命百済人なのですか。」
「そうです。そのような、唐に支配された平安時代の京都では、百済の文化は先進であったのです。つまり、「くだらない。」とは、「百済のものではない。」つまり、「取るに足らないもの」の意味であったのです。それに対して、江戸時代、つまり、第三代将軍徳川家光には、百済の血が流れていて、天台宗の怪僧天海により、騎馬民族の血が流れる徳川家康の霊は、改築された日光東照宮で猫により幽閉され、その結果、河口の湿地帯を金山衆の産鉄民族や秦氏末裔の高度土木建築技術で宅地に変えた三河・河内文化のエドは、京都文化の江戸になってしまったのです。」
「江戸文化が京都文化ですか。信じられません。」
「その江戸の物資の多くは、百済文化色が残る京都の本社の支店がある日本橋で売りさばかれていたのです。そこで、上方の京都から下ってくる物品は、「下るもの」で高級で、「下ってきたものではない」つまり、関東の物品は「くだらない」物で、「取るに足らない物」の意味となったのです。」
「なんとなく理解できました。では、日本橋にエド時代に居た三河・河内のひと達は、何処にいったのですか。」
「多くは北関東です。関八州です。」
「関八州と言えば、上州を中心に関東ヤクザの拠点ですよね。」
「そうです。1651年槍術の道場を開いていた武士の由比正雪は、怪僧天海の陰謀により江戸幕府転覆の首謀者として抹殺されると、翌年、「エド時代の武士」であった浪人達は江戸から追放されるのです。それが、武士→野武士→野士→やし→香具師、となって、高市(タカマチ)で、がまの油売り、薬売り、むし歯を抜歯する藪医者として、第三百済王朝の江戸時代の「サムライ世界」で生き延びて行くわけです。」
「何故、上州がヤクザの拠点となったのですか。」
「それは、シルクロード交易の北限地だったからです。桐生は、古来から絹製品の北関東の集積地であったのです。平安時代末期、律令制が崩れ、荘園制に移行すると、僧兵の武力により、比叡山延暦寺は、東国一円を支配下においたのです。その比叡山延暦寺の東国支配を壊滅したのがイエズス会傀儡の織田信長です。その織田信長により、市や座は、仏教徒から解放され「楽市楽座」となったのですが、江戸時代になると、再び、天台宗の勢力が、絹交易地の関東にも及んだのです。その結果、武士の末裔は、ヤクザの香具師として貶められたのです。その漢訳仏教徒の下で、各地でバザールが開かれていたのです。絹製品交易は、貨幣を必要としたのです。貨幣が潤沢にある処には、娯楽施設が発展します。博打は、賽博打と言われているように、宗教と関係があったのです。仏教徒が支配する宮寺で、「寺銭・テラセン」を払って開帳される賽博打は、騎馬民族の、祭事で、リクリエーションでもあったのです。」
「その絹製品を馬子が、桐生から京都に運んでいたわけですね。」
「そうです。馬子は、日本国での運送業の祖であるのです。」
「でも、日本史や通史、諺、そして、蘇我馬子を含めて、馬子は良く言われていませんよね。何故ですか。」
「それは、古墳時代後期の明日香ヤマトを支配していたのが、騎馬民族で、天皇制度も騎馬民族の制度だからです。」
「天皇制度が騎馬民族の制度なのですか。」
「天皇の元は、天子(テングリ)で、騎馬民族の王です。その王は、北極星の太一の命により、王権を授かるわけです。その天命の儀式が、天武天皇が始めた「大嘗祭」となるのです。しかし、国が乱れると、太一(北極星)が命を改めて、実力のある者を王とするのです。それが、命を替えることで、「革命」となるのです。」
「革命とは、天子の交代ですか。」
「倭国から日本国へと国名を替えた、日本初の天皇である天武天皇は、騎馬民族のギリシャ・ローマ文化の古代新羅の流れにあったのです。その騎馬民族の「天皇システム」を、藤原氏が利用して、今日に至っているのです。」
「どうして、そう言えるのですか。」
「藤原氏が、明日香ヤマトの歴史を改竄するために創作した「日本書記」と、その改竄日本史の「日本書記」を否定するために著された「古事記」により、藤原氏と亡命百済貴族による、明日香ヤマトの歴史改竄が暴かれるのです。明日香ヤマトは、オリエント文化、そして、騎馬民族文化であったのです。」
「その証拠とか、根拠は何ですか。」
「残念ながら、史料は、645年焚書されてしまったのです。そのことを、藤原氏は、「日本書記」で、「蘇我蝦夷が、天皇紀と国紀を燃やしてしまった。」、と述べています。実際は、藤原氏が明日香ヤマトの史料を焚書してしまったのでしょう。書籍は、焚書して抹殺できますが、文化や言葉は、そのようにはできません。騎馬民族文化が、明日香ヤマトに存在していた根拠のひとつとして、「だいご」の言葉があります。その「だいご」は、古墳時代後期から、現在まで食されているのです。」
「その「だいご」とは何ですか。」
「チーズのことです。乳の脂肪を固めて醗酵させたものです。まさに、日本版チーズです。おいしいの意味の「醍醐味」とは、チーズを語源としているのです。チーズが、農耕民族の食べ物だと思いますか。」
「そうですね。チーズは、牧畜民族の食べ物ですね。やはり、明日香ヤマトには、騎馬民族が暮らしていたのですね。「だいご」と言えば、平安時代初期に「醍醐天皇」がいますよね。」
「その「醍醐天皇」の母は、貴族出自ではなく、庶民であったようです。可能性としては、騎馬民族末裔を母としたので、「チーズ天皇」と呼ばれたのかもしれませんね。」
「それってアリですか。」
「日本の天皇についての謎は、藤原氏の謎、って先日言いましたよね。藤原氏は、その天皇の号の始まりを、天武天皇ではなく、もっと先にするために「日本書記」で推古天皇物語を創作するのです。」
「推古天皇は、実在の女帝で、「聖徳太子」を摂政として、607年隋に遣使小野妹子を送ったのですよね。」
「「日本書記」ではそのようになっています。しかし、「隋書」では、隋使が倭国で謁見したのは、女王ではなく、男王となっています。「日本書記」と「隋書」のどちらかが「ウソ」をついているのです。カメさん、「古事記」が、何故、推古天皇で終わっているか分かりますか。」
「歴史本では、何らかの事情で途中で終わった、とありましたが。」
「その説明は、説明になっていません。それだったら、どうして、序に天武天皇のお言葉が記述されているのでしょう。その天武天皇の序のお言葉では、「古事記」が書かれた理由が述べられているのです。簡単に言えば、日本の歴史が改竄されている、このままでは日本の本当の歴史が分からなくなる、そこで「古事記」を著したのだ、ということです。」
「「古事記」が完成したのは、712年ですよね。645年に蘇我蝦夷が天皇紀や国紀を焚書したから、その復元を考えたのでは。」
「カメさん、「古事記」が、和銅5年(712年)完成というのは、何の根拠もないのです。奥付に、和銅5年とあるから、後のひとは、その奥付の年度を信じているだけです。実際に、「古事記」が完成したのは、百年後の812年です。平安時代初期に、万葉語学者の多人長が著したのです。」
「その証拠でもあるのですか。」
「証拠は、その使用した万葉語にあります。奈良時代では、万葉語の発音は統一されていなかったのです。それは、万葉とは、諸国のことで、諸外国の言葉が万葉語であったからです。その万葉語が、日本語として統一されたのが、平安時代だからです。その統一された万葉語が、「古事記」にはあるのです。更に、神話物語が、「日本書記」では、陰陽思想の二元論で記述されているのに対して、「古事記」では、一元論です。一元論は、二元論より新しい思想観念です。それに、「古事記」は、「日本書記」のある書に曰くについて、その反論を試みているのです。決定的なのは、「日本書記」の天皇の年齢は、二倍年で記述されているのです。だから、百歳以上の天皇がゴロゴロいるのです。しかし、「古事記」では、二倍年ではありません。飛鳥大和を支配したと言う継体天皇の年齢は、二倍の開きがあるのは、「日本書記」は、倭国が一年を前期・後期にわけて、一年で二歳となる古い史料を基に創作されていたからです。そのように、「古事記」は、「日本書記」よりも、「新しい」のです。」
「ちょっと信じがたいですね。でも、何故、八年後に著された「日本書記」と「古事記」との記述事項の違いの意味が少し理解できました。」
「「天皇」の祖が、騎馬民族の王である「天子・テングリ」であったことに話を戻します。「日本書記」では、推古天皇により派遣された小野妹子が、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつが無きや」と国書を送ったことになっていますよね。その解釈として、日本国の天皇が隋の皇帝と対等の立場を主張した、という解釈です。しかし、その推古天皇が存在していたとする時代の東アジアでは、騎馬民族の突厥帝国が、隋と対峙していたのです。その突厥帝国の天子は、隋に国書を送っていたのです。その文面は、「天より生まれたる大突厥の天下聖賢天子のイリキュルシャドバガ・イシュバラ可汗、書を大隋皇帝に致す。」、とあるのです。騎馬民族の突厥の王は、自らを「天子・テングリ」と言っていたのです。」
「その突厥の王と、日本の天皇とは、何か関係があるのですか。」
「私の推論では、「日本書記」で創作した、越前出自の継体天皇とは、ユーラシアを支配していた突厥帝国より倭国侵略のために派遣された将軍ではないか、ということです。その突厥将軍が、明日香ヤマトを支配したのです。その史実を隠すために、720年藤原不比等が「日本書記」で蘇我氏を創作した、というのが私の主張です。蘇我氏とは、突厥帝国進駐軍の将軍一族です。蘇我氏、つまり、突厥の将軍が、明日香ヤマトのテングリ(天子)であったのです。」
「それって、飛躍しすぎでは。」
「ひとは、小さなウソは簡単に指摘します。しかし、大ウソには飲み込まれてしまうのです。カメさんは、天皇号が、神武天皇から今日まで続いていると信じていますよね。しかし、天皇号は、唐が907年に滅びてからは使われなくなり、それ以来「天子」や「院」と言われていたのです。やっと、第三百済王朝の江戸時代後期に「天皇号」が復活して、外交文書の「皇帝」を「天皇」に変えたのは、昭和時代の1936年だったのです。中世・近世を通じて、「院」と呼ばれていた「過去の天皇」を、「○○天皇」と呼び変えたのは、1925年(大正14年)だったのです。」
「それって、本当ですか。学校での日本史では、日本国の天皇は万世一系で、太古より続いている、と教わった記憶があるのですが。」
「例えば、豊臣秀吉により関東の湿地帯に左遷された、騎馬民族末裔の徳川家康は、1615年大阪夏の陣で、藤原氏傀儡の豊臣家を滅ぼすと、「禁中並公家諸法度」を制定して、天皇家、藤原氏、亡命百済貴族をイジメるのですが、その法度では、「天皇」ではなく、「天子諸芸能事」から始まって、文中には、「国王」はあっても、「天皇」の文字は無いのです。そして、騎馬民族の血が流れる徳川家康の孫娘を、女帝明正天子(天皇)としてしまうのです。女帝とは、女の皇帝という意味です。701年大宝律令で定められた、祭祀に称する所の「天子」、詔書に称する所の「天皇」、そして、華夷に称する所の「皇帝」の号は、中国の唐の滅亡と供に、日本列島の歴史では、あやふやとなっていたのです。その「天皇号」と「十三の天皇の儀式」を復活させたのは、明治革命で復活した藤原氏であったのです。「天皇の謎とは、藤原氏の謎である。」とは、そのことなのです。」
「その藤原氏って何者ですか。」
「それが良く分からないのです。藤原氏の謎が解ければ、日本史の謎も解けると思います。藤原氏の出現は、645年からだと思います。そして藤原氏は、明日香ヤマトを壊滅した唐進駐軍の傀儡として、唐の律令制度を藤原氏に有利に改竄して、日本列島支配の中枢に入り込むのです。その原点は、大宝律令の「蔭位制・おんいせい」です。「蔭位」とは、三位以上の貴族の子・孫、五位以上の子に、成人すると自動的に高い位階を授ける制度です。そして、三位以上の貴族には、広義の官庁である「家」を設けることを許したのです。奈良時代の「家」とは、ただの家族単位などではなく、「公的な官庁」であったのです。この制度を利用して、藤原不比等は、自分の子息に、南家、北家、式家、そして、京家を造り、官庁の独占の布石を造ったのです。このことは、ヨーロッパの金貸しの赤い盾のロートシルトの、自分の息子にフランクフルト、ロンドン、パリ、ローマの支店を開かせた戦略と同じようです。」
「藤原氏がユダヤだとでも言うのですか。」
「断言は出来ませんが、藤原氏が発明した中臣神道の儀式の多くは、ユダヤ教儀式と酷似しているのです。」
「神道は、日本古来の宗教ではないのですか。日本神話にも、藤原氏の祖天児屋根命がいますし。」
「日本に神道が現れたのは、奈良時代です。その日本神話の創作年度も古くはないのです。日本神話が創作されたのは、藤原氏が暗躍し始めた奈良時代で、その種本は、ギリシャ神話です。カメさん、暇があったら、日本神話とギリシャ神話を読み比べてみてください。その結果を自分で判断してください。」
「それも飛躍しすぎです。どうして、古代の日本列島に、はるか遠方のギリシャ文化があるのですか。」
「文化はひとが運びます。当然、ギリシャ文化を日本列島にもたらしたのは、渡来人です。」
「では、その渡来人とは。」
「それは、秦氏です。秦氏は、古代新羅から渡来したのです。」
「新羅は、仏教国でしょ。」
「527年までは、非仏教国だったのです。漢訳仏教が、古代新羅に隆盛となるのは、528年からです。」
「527年と言えば、北九州筑紫国造磐井の反乱がありますよね。」
「「日本書記」では、日本国の内乱として描いていますが、それは、朝鮮半島南端のギリシャ・ローマ文化の古代新羅貴族が、北九州に亡命した時の、九州在住の民族との戦闘です。その、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅亡命民が、唐が支配する奈良時代に藤原氏により「秦氏」と命名されたのです。秦氏も蘇我氏も、奈良時代に発明された氏名なのです。」
「では、秦氏が、ギリシャ・ローマ文化民族であるとの証拠は何ですか。」
「古代新羅の都の慶州の古墳が、古代新羅がギリシャ・ローマ文化国であったことを証明します。」
「物品は、どこからか持ってくることもできるし、遺跡の改竄も可能です。他に証拠は。」
「証拠になるか分かりませんが、新羅系天武王朝と古代新羅には、文化的に共通点があるのです。それは、女帝の存在です。古代朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅が、互いに覇権を競って対立したり、同盟を結んだりしていたのです。その三国の内、高句麗と百済には、女帝が存在していないのです。しかし、新羅では、七世紀に女帝善徳、女帝真徳、そして、九世紀には女帝真聖が即位していたのです。「日本書記」でも、七世紀の女帝推古、女帝皇極、女帝斉明の架空女帝を創作し、天武王朝では、女帝持統、女帝元明、八世紀の女帝元正、女帝孝謙、女帝称徳、そして、騎馬民族のエド時代では女帝明正、女帝後桜町が即位していたのです。女帝は、仏教文化には存在しないのです。それは、漢訳仏教思想では、女性は「穢れ」の存在だからです。女性が成仏するには、一度男に生まれ直さなければ、成仏できなかったのです。そのことからも、女帝が存在した、古代新羅と明日香ヤマト文化を引き継いだ天武王朝は、唐に実効支配されているため表面的には仏教徒を装っても、その真髄は仏教文化ではなく、ギリシャ・ローマ文化であったことが示唆されるのです。」
「では、古代新羅のギリシャ・ローマ文化は、何処から渡来したのですか。」
「それは、遠く秦帝国からです。秦帝国は、母国バクトリアの衛星国だったのです。そのバクトリアとは、アレクサンドロス大王が、インド北部を制圧し、支配下に置いた時の残存部隊が興した国です。だから、バクトリアにはギリシャ文化が継承されていたのです。インドの北部に、ギリシャ文化のバクトリアが存在していたことは、ギリシャで迫害されたプラトン一家が、バクトリアに亡命していたことからも証明できます。そのバクトリアの地が、後に、紀元一世紀に大乗仏教が発明される国際交易都市ガンダーラとなるのです。ですから、大乗仏教思想には、ギリシャ科学、文学、神学、天文学などが導入されていたのです。大乗仏教徒が、初めて仏像を創作したのは、ギリシャ彫刻の影響を受けたため、写実的なガリガリの仏像だったのです。」
「宗教の話には、ちょっとついていけません。」
「古代朝鮮半島には、ギリシャ文化が、紀元前から渡来していたのです。そして、紀元一世紀、ローマ帝国が後漢と絹馬交易を開始すると、後漢には、ローマ帝国の軍団が渡来していたのです。」
「それって証拠でもあるのですか。」
「97年後漢の和帝は、甘英をローマ領に派遣したと、歴史書にあります。そのローマ帝国軍は、ギリシャ文化を崇拝していたのです。ローマ騎士道は、ギリシャ文化からもたらされたのです。そのローマ騎士道は、古代新羅に渡来して、新羅花郎騎士道となるのです。その新羅花郎騎士団が、日本列島のローラン(浪速→難波)に渡来して、明日香ヤマトを支配し、645年唐進駐軍に敗れると、東北に逃れ蝦夷となるのです。そして、その陸奥国の新羅花郎騎士団と突厥軍団末裔が、平安時代に発生する武家源氏の祖となるのです。日本武士道とローマ騎士道思想に多くの共通点があるのはそのためです。」
「古代の日本列島に、ギリシャ・ローマ文化が存在していたことが、少し理解できました。でも、それって矛盾では。」
「何が。」
「527年古代新羅軍団が渡来して、ローラン(浪速)から明日香ヤマトに侵攻して、そこを支配するのですよね。」
「そうです。」
「だったら、越前から琵琶湖を下って樟葉から明日香ヤマトに侵攻し、明日香ヤマトを支配した突厥進駐軍との存在が矛盾です。その異民族軍団の明日香ヤマトの支配形態をどのように説明するのですか。」
「「日本書記」での説明では、継体天皇が越前から樟葉に侵攻し、その周辺民族を平ら上げるのに20年かかり、その後、飛鳥大和に入り、筑紫国造磐井の乱の指揮を執り、崩御したことになっています。そして、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇、敏達天皇、用命天皇、崇峻天皇、そして、593年女帝推古天皇が即位し、飛鳥大和を支配したことになっています。そして、女帝推古天皇は、607年小野妹子を隋に遣わしたことになっているのですが、倭国は、600年にも隋に使者を送っているのです。しかし、飛鳥大和の歴史を記述している「日本書記」には、その600年遣隋使の記事はないのです。カメさん、何故だと思います。」
「分かりません。」
「それは、明日香ヤマトの政治形態が、「隋書」に書かれているからです。その「隋書」では、「倭王は、姓は阿毎、字は多利思比弧、号は阿輩鷄弥、使を遣わして闕に詣らしむ。」とあり、そして、倭国の使者の奏上を、「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざるとき、出て政を聴き、跏趺して座す。日出づれば便ち理務を停め、我が弟に委ねんという。」、とあるのです。これってすごいよね。明日香ヤマトの王の名は、女帝推古天皇ではなく、アメ・タリシヒコと言っているし、跏趺とは胡坐のことで、騎馬民族チュルク系の座り方です。そして、明日香ヤマトの政は、天に委ねている、つまり、太一の北極星を祀っていたことを示唆している。」
「それがどうなんですか。」
「日本初の天武天皇は、伊勢に道観を建て、北極星の太一を祀っていたのです。その孫の長屋王は、北極星を祀ったことにより、鬼道を行ったと、729年藤原氏により謀殺されていたのです。「隋書」から推察すれば、600年の明日香ヤマトでは、天、つまり、太一の北極星を祀ることが政であったのです。」
「夜、兄が天を祀るのですよね。兄は、北極星を祀るから騎馬民族と理解できるのですが、そしたら、昼の弟とは誰なのですか。」
「日とは、太陽です。太陽を祀るのは、ミトラ教です。中国では、そのミトラ教は、景教と呼ばれていたのです。そのミトラ教は、ローマ帝国軍の軍神であったのです。カメさん、古代新羅の軍団が、花郎騎士団って言いましたよね。その「花」とは、「ミトラ」の借字です。花郎とは、ミトラ教徒の意味です。」
「すると、「隋書」によれば、明日香ヤマトは、夜、騎馬民族の突厥軍団が政を行い、そして、昼になると秦氏の花郎騎士団が政を行っていた、と述べていると解釈できますね。」
「そうです。だから、藤原不比等が、600年の遣隋使の出来事を「日本書記」には記述しなかったことがわかるのです。それに、その600年の明日香ヤマトには、女帝推古天皇など存在していなかったこともバレてしまうから。平安時代の多人長が、サイファー式暗号解読法により、「古事記」で女帝推古天皇の存在を否定していたことも、「隋書」の記述が証明しているのです。」
「仏教を隆盛させた聖徳太子を摂政とした、女帝推古天皇が架空の人物だとしたら、明日香ヤマトは騎馬民族文化とギリシャ・ローマ文化に溢れていたわけですね。しかし、飛鳥大和には、聖徳太子建立の七寺など、沢山の仏寺が存在していたことは、どのように暴くことができるのですか。」
「それは、以前言ったように、江戸末期の伊勢をみればわかります。江戸末期に、伊勢が宮寺から神道テーマパークに改竄されたように、奈良時代に、明日香ヤマトは、景教・道教から仏教テーマパークに改竄されたのです。」
「その改竄者は誰ですか。」
「藤原氏一族です。」
「その藤原氏一族による改竄は、何故告発されなかったのですか。奈良時代はともかく、明治維新は、1868年として、約150年前、世代でいえば、四五代前ですよね。何故ですか。」
「史実の隠蔽は、色々行われていますが、参考になるのは、「清盛公のかぶら」があります。」
「その「かぶら」って何ですか。」
「強いて言えば、賎民により組織された「親衛隊」です。平清盛は、1167年太政大臣となるのです。しかし、その祖父正盛は賎民であったのです。正盛は、京を流れる加茂川の死体が流れ着く処、つまり、髑髏ヶ原を拠点に勢力を伸ばしていた賊の棟梁だったのです。その正盛を、朝廷の官僚機構を支配する藤原氏に対抗していた白可上皇が、私兵として雇うわけです。これが、「平家」の始まりです。その平正盛の武力による活躍により、白河上皇は、藤原氏に対抗すると、今度は、藤原氏が源氏武士を私兵として雇うのです。この対立が後に、「源平合戦」となるわけです。」
「平安時代末期を支配した「平家」は、賎民出自だったのですか。でも、清盛の父忠盛は、内昇殿を許されていますよね。」
「「平家」の祖は、アラブ系海洋民族だから、船による海戦が得意だったのです。内昇殿が許されたのは、その海戦技術により、瀬戸内海の海賊を平定した功績です。「平家」が京で勢力を伸ばすと、その根拠地の「髑髏ヶ原」も「六波羅」と改名されるのです。そして、京の亡命百済貴族が避けていた、髑髏ヶ原で行われていた祇園祭りも、京の祭りとなっていくのです。しかし、太政大臣平清盛の時代となっても、その「平家」の実態を知っている者がいたのです。更に、「噂」には蓋ができません。そこで、平清盛は、「かぶら」を街に放ち、「平家」の悪口を言う者の家を破壊したりして、口封じをしたのです。このことにより、「平清盛」は、白河上皇の「ご落胤」となって、今日に伝わっているのです。」
「「平家」がアラブ系海洋民族を祖としていたのですか。すると、平安時代、伊勢・尾張を支配していたのが、「おミャーサン」と八母音を話すアラブ系海洋民族だとしたら、戦国時代の織田信長もアラブ系ですか。」
「そう考えられるのが、1568年織田信長が、足利義昭を奉じて入京すると、「余部」を支配下に置いて保護するのです。その「余部」とは、「海部」で、漢訳仏教徒に、賎民としてイジメられていた海洋民族であったからです。」
「だから、織田信長は、比叡山延暦寺の僧侶全員を打ち首にしたわけですね。代々の民族の恨みですか。その「清盛公のかぶら」が、明治革命後の歴史を隠蔽したことと、何か関係があるのですか。」
「明治新政府も、歴史改竄の隠蔽工作として、「かぶら」を使ったのです。」
「その「かぶら」とは何ですか。」
「ひとつは、1889年皇室典範の発布です。皇室の歴史の封印です。これにより、皇室の歴史を調べることが、法律上禁止されたのです。しかし、法を犯すものは何時の時代にもいます。そこで、「明治天皇のかぶら」が登場するのです。それが、カメさんが越谷のヤクザさんの家で見た「神農皇帝」ではなく、藤原氏の神である「天照大神」を祀る「二束わらじ」の「役座」です。その「役座」により、皇室の史実を口外する者を脅すわけです。そして、「落語家」が動員されて、「明治天皇物語」を寄席で宣伝したのです。ですから、「明治天皇」のイメージは、役座の威圧と落語家の話術により創られていたのです。」
「それって本当ですか。」
「江戸末期や明治初期の一般庶民は、「天皇」などの存在を知らなかったのです。もちろん、江戸時代では、漢訳仏教が神道を支配する「宮寺」であったので、純粋に神道儀式で運営される「ジンジャ・神社」なども知らなかったのです。そこで「明治天皇」のプロパガンダとして、日本各地に国家神道による「ジンジャ・神社」が建てられて、その「ジンジャ・神社」を中心に祭りがおこなわれていくのです。その祭りの運営には、「役座」も参加していたのです。」
「現在では、役座は祭りから排除されているのに、何故、明治時代には、役座が祭りに参加していたのですか。」
「役座のルーツは、平安時代の放免まで遡れるのです。放免は、陸奥国の蝦夷捕虜です。京都の治安・公安警察を司る検非違使は、その放免を利用して、京都の治安・公安警察をおこなっていたのです。」
「何故、陸奥国の蝦夷捕虜を治安・公安警察に利用したのですか。」
「京都の地は、794年平安京が遷都される前は、秦氏の支配地だったのです。その秦氏の支配地を、唐進駐軍の軍事武力を背景に、百済系桓武天皇が乗っ取ったのです。そして、亡命百済貴族は、その京都を防衛するために、秦氏のミトラ教の祭祀場があった比叡山に、延暦寺を建立するのです。古代の寺は、仏像を祀るだけではなく、軍事砦でもあったのです。つまり、比叡山延暦寺は、山城でもあったのです。その唐の軍事力を背景に、秦氏などのまつろわぬ先住民を、山背国(山城国)の都から河原や山奥に追放するのです。百済系桓武天皇にまつろう秦氏は、氏名を秦氏から惟宗氏に変えて、仏教文化の平安時代を生き延びて行くのです。河原者や遊芸者となった秦氏末裔は、闇の世界を築いて、平安時代を生き延びて行くのです。しかし、朝廷に逆らい、都を追われた蝦夷の武人は、山に篭り盗賊となり、京都を襲うわけです。その盗賊取締りに、平安王朝は、放免を利用したのです。」
「放免は、私設ガードマンというわけですか。」
「その放免には、別の仕事があったのです。それは、「もり・神社」での、怨霊鎮めです。桓武天皇は、天武王朝の血が流れる井上皇后や他戸皇子や実弟早良皇子を謀殺していたのです。京都の天変地変や盗賊の仕業は、それらの怨霊によると、平安貴族は信じていたのです。そこで、騎馬民族の死者が眠る古墳を破壊して空き地とした「モリ・神社」で、蝦夷の放免による武芸で、怨霊を鎮めていたのです。その時に発明されたのが、日本刀と牛の角を付けた冑です。雄牛は、ミトラ教では、死と再生を繰り返す太陽神の化身です。その牛の角を付けた冑の武芸者が、後に、祭祀道具の日本刀と鎧兜で武装した「武士」となるのです。ですから、祭祀道具の日本刀が、武士の魂と呼ばれて行くのです。「モリ・神社」の怨霊を鎮めていたのが、武士の祖です。その武士を祖とするのが、役座です。だから、「神社」が「モリ」と言われていた、明治初期までは、「神社」での怨霊を鎮める行事を裏で仕切るのは、「役座」の仕事であったのです。」
「では、何故、現在では、役座が排除されているのですか。」
「詳しくは分かりませんが、役座の存在が、藤原氏に不都合になったからでしょう。役座=暴力団のキャンペーンは、今のところ成功しています。しかし、役座と暴力団とは、同じ暴力を振るうにも、根本的に異なるのです。役座には、日本武士道が流れているのです。それは、「任侠」です。弱い立場のひとを護るために使う暴力と、己の私利私欲を満たすために使う暴力とでは、根本的に異なるのです。藤原氏は、「明治天皇のかぶら」を見捨てたため、天皇の謎、つまり、藤原氏の謎を封印するための「仕掛け」を外してしまったのです。だから、「明治天皇のかぶら」が存在しない現在では、「明治天皇すり替え説」まで、堂々とネットで語られてしまうのです。」
「ナベさんも、そのうちのひとりでしょう。明治時代であれば、ナベさんの家は「明治天皇のかぶら」により打ち壊しですね。でも、役座が、何故、「明治天皇のかぶら」になったのですか。役座は、「神農様」を祀る道教系で、天皇家は漢訳仏教を祀る百済系でしょ。北魏の時代からの敵対関係者がどうして協力できるのですか。」
「明治革命のドサクサで、天皇が北朝系から南朝系に摩り替わったからです。詳しくは、ネットで調べてください。藤原氏は、日本列島を支配するため、戦国時代にイエズス会と結託して、美濃のゲリラ隊長の織田信長を傀儡として、比叡山延暦寺軍団や一向宗軍団を壊滅したように、明治革命で、薩摩の賎民軍団と長州の賎民軍団により、第三百済王朝の江戸幕府を壊滅するのです。そして、その第三百済王朝を思想的に支えた天台宗系仏教組織を壊滅するために、闇の世界を支配していた役座組織を利用したのです。それは、役座は、鎌倉時代から仏教組織に、賎民としてイジメられていたからです。」
「仏教は貧民弱者を救う、平和的な組織ではないのですか。」
「誰がそのように言っているのですか。日本列島では、645年中国製武器の長刀で武装する僧兵に護られた僧侶は、砦の仏寺で、何をしていたと思いますか。」
「仏像を祀り、お経を読んでいたのでは。」
「仏教が一般民の葬儀を行うのは、第三百済王朝の江戸時代からです。その葬式儀式も、仏教オリジナルではないのです。例えば、葬儀後、49日は、魂は死者の家の軒下に居座ってから、あの世に旅立つ、と説教されていますよね。その49日の魂の旅立ち思想は、中国道教の「中陰説」からの租借なのです。」
「その「中陰説」って何ですか。」
「神仙思想の道教では、死者の行方が決まるまでの49日間を中陰と言っていたのです。更に、日本列島に根付いた漢訳仏教思想と、北インドに誕生した釈尊が唱えた教えは、根本的に異なるのです。大乗仏教から、中国で変身した漢訳仏教には、極楽浄土思想や西方浄土思想など、あの世の存在があります。しかし、釈尊の教えには、あの世はないのです。あの世がないから、当然、魂などもないのです。それは、カースト制度を発明してインドを思想支配するバラモン教に対抗したのが、釈尊の教えであるからです。その基本は、そのバラモン教の輪廻転生思想から脱却することです。その答えが、人間と死者との中間で暮らすことです。それが、乞食して非人として生きることです。釈尊は、この世は互いに関係しあって成り立っていると考え、それを「五蘊」としたのです。その「五蘊」とは、色(肉体)、受(感じること)、想(思うこと)、行(意思)、識(判断すること)です。「五蘊」は、五つの要素で成り立っているから、そのひとつである「色・肉体」がなくなってしまえば、全てのものがなくなってしまうのです。この「五蘊」思想により、バラモン教が唱える生死を越えて替わらない非物資の「アートマン」思想を否定したのです。」
「なんだか、難しすぎて理解不能です。」
「釈尊は、霊魂の存在を否定していたのです。しかし、漢訳仏教では、釈尊の教えを百八十度変えて、霊魂の存在を肯定して、その霊魂を祀る事をビジネスとしているのです。」
「そう言われると、敵対する道教思想を取り入れたり、釈尊の教えを捻じ曲げたり、漢訳仏教が何を基本の宗教が分からないですね。」
「漢訳仏教が、日本列島に渡来した時期も謎なのです。」
「ナベさんが言うには、「仏教伝来538さん」の飛鳥時代というのはウソでしたよね。そもそも、飛鳥は明日香で、仏教文化ではなく、騎馬民族・オリエント文化なのでしょ。」
「藤原氏には謎が多いのですが、漢訳仏教にも、それ以上に謎が多くあるのです。まず、渡来時期が分からない。だれが招いたかも分からない。そして、その漢訳仏教が、日本列島で何をしていたのかも分からないのです。」
「仏教思想を布教していたのでは。」
「日本列島原住民に仏教の教えを広めるのが目的ならば、何故、梵語(サンスクリット語)で、教えを唱えるのですか。戦国時代のイエズス会の宣教師は、日本語辞典を編纂して、たどたどしい日本語で布教していたのに比べれば、漢訳仏教は、現在でもお経は、サンスクリット語です。不思議だとは思いません。」
「そう言われれば不思議ですね。意味の分からない外国言葉では、仏教思想など布教できるはずはないですよね。だとすると、漢訳仏教の何に日本列島の貴族は惹かれたのですか。」
「酒と女と博打です。」
「ナベさん、冗談でしょ。」
「漢訳仏教は、645年に明日香ヤマトに侵攻してから、織田信長の仏教軍団壊滅まで、治外法権という特権で、日本列島に仏教王国を築いていたのです。その闇の仏教史を解読できれば、藤原日本史の改竄実態を解明することが出来るのですが、残念ながら、その史料はありません。あっても、鎌倉時代の京都高雄の神護寺の張り紙に、酒・女・遊芸者を寺に入れてはならぬ、とあったことが伝わっているだけです。」
「漢訳仏教組織は、自己に不利な史料は焚書したのでしょうか。」
「今に残る仏教史料は、賎民の史料と仏教の光を称える史料だけです。しかし、反仏教の織田信長が、高僧を山の頂に上げて、麓に薪を積み上げて焼き殺したり、比叡山延暦寺の僧侶全員を、「欺瞞者ども」と侮って斬首している事実からすると、中世から近世にかけて漢訳仏教は、非仏教徒に相当な弾圧をしていたことが示唆されるのです。」
「ナベさんは、漢訳仏教組織が、藤原氏と同じに、闇の支配者だとでも言うのですか。」
「漢訳仏教は、紀元一世紀の国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教を基本に、中国で発明されたものです。法外なお布施をもらう為の戒名など、大乗仏教にはありません。戒名は、漢訳仏教のオリジナルなのです。大乗仏教は、一世紀頃、ローマ帝国と中国後漢との絹馬交易に携わる国際交易商人達と供に、中国大陸に渡来したのです。その頃の後漢では、上流階級は儒教が盛んで、庶民は土着宗教だった道教です。儒教は、格式を重んじる宗教で、「礼に始まり、礼に終わる」と言われ、宮廷儀式から庶民の儀式まで、儒教儀式が浸透していたのです。その儒教の儀式を真似て、漢訳仏教も色々な儀式を発明するのです。そのひとつが、釈尊の教えである「戒」を守った受戒者に与える「戒名」です。中国で発明された戒名は、中国での漢字一字文字ではなく、二文字で表したのです。カメさん、何か思い当たりません。」
「漢字二文字表記は、確か、713年好字令で、それまでの日本列島の地名・人名が漢字一文字や、漢字アルファベットの万葉仮名数文字で表されたものを、日本語表記として漢字二文字にしたのですよね。」
「そうです。それまでは、貴族階級は、中国式に漢字一文字で、オリエント系は、ワカタケルなどのように、漢字アルフアベットにより多くの文字で名前や地名を表していたのです。その漢字二文字の戒名を与えるための戒の正式の行法を伝えたのは、藤原日本史の根本史料の「日本書記」での飛鳥時代の552年ではなく、奈良時代の753年(天平勝宝5年)来日とする、鑑真によるのです。」
「すると、唐が認める戒を受けていないとすれば、それまでの僧侶は、正式の僧侶ではないということですか。」
「そうとも考えられますね。」
「だったら、645年に、仏教興隆の詔を発したとある「日本書記」の記述は、何を意味していたのですか。」
「分かりません。飛鳥大和時代から奈良時代にかけての歴史は、謎だらけですから。飛鳥と奈良時代に、白鳳時代が挿入されていますが、その白鳳号は、「日本書記」にも記述がないのです。その白鳳号は、六世紀頃から朝鮮半島全土が仏教文化に染まった時の年号なのです。藤原氏の他に、藤原日本史を改竄したひとが存在していたのです。不思議出すよね、日本史は。」
「そうですね。不思議の国、ニッポン。ナベさんの歴史解説で、オレの前頭葉はグシャグシャです。」
「今日はこれまでにしましょうか。では、二三日で、レポートをメールしますから、よろしく。そうそう、カメさん、「たそがれ」が、騎馬民族の突厥語だって知っていました。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
「たそがれ」が、大和言葉ではなく、突厥語だって、オレの脳味噌の処理能力は、ナベさんとのチャットを理解するために、限界を超えていた。


軍事都市明日香ヤマトへ
オレは、今、出雲大社の巨大注連縄の前にいる。昨日、と言っても今日の早朝までの、田辺さんとのチャットで、気になっていたことを思い出し、朝一の飛行機で、出雲大社に来たわけだ。
それは、以前、古本屋で手に入れた歴史書には、「梁書」に五世紀頃、出雲地域に文身国があった、との記述が気になっていたからだ。文身とは、身体に刺青(いれずみ)を施すことだ。「梁書」では、五世紀の出雲には、刺青をした民族の国であると認識していたのだ。身体に刺青をするのは、どうみても、南方系の民族だ。五世紀の出雲は、南方系民族の国ではなかったのか、とオレは思っていたのだ。
しかし、学校で学習した出雲の歴史は、大昔、オオクニヌシノミコトが、飛鳥大和朝廷に国譲りをしたことぐらしか覚えていなかった。でも、田辺さんとのチャットで、今まで常識という覆いで封印されていた日本史の疑問が、一気に噴出したようだ。
今まで、「日本書記」や「出雲国風土記」を史実と信じて疑わなかった。しかし、「日本書記」は、奈良時代の720年成立、そして、「出雲国風土記」は、733年だ。それらの書籍は、713年好字令が発令された後に創作されたものだ。だから、それらの書籍からは、713年以前の歴史を知ることはできないのだ。
何故ならば、それらの書籍は、漢字二文字により、地名・人名が記述されているからだ。その713年以前の日本列島には、漢字をアルファベットとして使用した民族がいたからだ。田辺さんは、「たそがれ」は、突厥語だと言っていた。
突厥語は、膠着語のウラル語系だ。ユーラシア大陸の騎馬民族の言葉だ。日本列島には、漢語が渡来する前には、異なる言葉を話す多くの民族がいたのだ。万葉語とは、万国語のことなのだ、と思い始めると、出雲の風景も異なって見えてきた。ここには、水田稲作技術を持って、黒潮に乗って渡来した、青銅器の武器で武装した南方系の民族も暮らしていたのだ。
オレは、出雲大社をカメラに収めながら、何故だ、の問いを発していた。日本の神社には、多くの謎がある。鳥居の由来もわからないが、その建築物の由来も分からない。でも、出雲が文身国であったならば、その文化も南方系だ。そう言えば、昔、インドネシアに取材旅行に行った時、神社本殿のような建物を見て、不思議に思ったことがあった。何故、神社本殿は、南方系高床式なのか。何故、神社本殿の屋根に、海洋民族を暗示する賢魚木(かつおぎ)を乗せているのか。神社を祀る神道は、肉・魚を穢れ物としていたのではないのか。オレは、シャッターを切りながら、自問自答していた。
境内はだいぶ賑やかになっていた。バスツアーの観光客が、列を成して境内を散策する。大きな看板の前には、観光客に囲まれてガイドさんがいた。ガイドさんが、看板の絵図を示しながら説明している。
「今の建物は、高さ24mでございます。古代の建物は、48mと言われております。太古では96mもあったようです。その建物の柱が最近発掘されて、その柱の模型があちらにございます。」
ガイドさんが指し示した方向に、つい最近発掘された三本柱の実物大の模型があった。想像していたより大きかった。
有名建築会社の考察の発表で、高さ48mの神殿の存在は、多くの人に認められているようだが、でも、オレは、その超高層神殿の存在を、以前から疑っていた。
田辺さんの神社発祥の解説を聞いてから、更に、その疑いは高まった。神社の始めは、710年平城京遷都のおり、藤原不比等が、山背国の山階寺を奈良に移し、興福寺と改称した後、藤原不比等が春日明神を、藤原氏の守護神として勧請したと、寛治7年(1093年)「扶桑略記」にあるように、古代からではなく、奈良時代からなのだ。
出雲大社境内から発掘された三本柱の年代測定も、平安時代末期から鎌倉時代を示していたようだ。だとすると、46mの超高層神殿は、平安時代末期に存在していたのか。すると、「日本書記」で云う、出雲の国譲りの条件で建立したとする出雲大社とは、何んなんだ。オレは、更に、出雲の歴史に疑問を持った。
オレの今度の調査のひとつに、荒神谷遺跡見学があった。タクシーを拾うと、直行した。
「お客さん。取材ですか。」
人のよさそうな初老の運転手が、バックミラーでオレを観察しながら言った。
「そう見えますか。」
「カメラマンバックでしょ。それ。」
「そうですけど。」
「だいたい、カメラマンバックで、荒神谷遺跡を指定するのは、取材の方ですから。そうでしょ。」
オレは、今朝までのチャツトのため眠いので、運転手さんの問いかけを無視して、眠り込んだ。
「お客さん、着きました。」
オレは、グッスリ寝込んでしまったようで、だいぶ時間が掛かったように感じたが、十分程だった。
「そこの荒神谷博物館のわき道を辿り、ハス池の左側中腹が、遺跡です。」
「ありがとう。」
「この後のご予定は。」
「二三枚写真撮ったら、空港です。」
「だったら、そこの駐車場で待っていますよ。メータ切っておきますから。」
「では、お願いします。」
オレは、運転手さんが教えてくれたように行くと、左手側の斜面に遺跡があった。思ったよりも小規模だ。これが、日本全国で出土した300銅剣を上回る、358銅剣も埋葬されていた遺跡か。オレは、周辺の風景を写真に収めた。
「どうでした。」
運転手が、メーターを倒しながら言った。
「ええ、まあ。」
オレは、睡眠の続きをしたいので、曖昧に答えたが、運転手さんは、話好きのようだ。
「この間乗せたお客さんが言っていたのですが、出雲の歴史は、「日本書記」とだいぶ違うようですよ。」
「オオクニヌシが、大和朝廷に国を譲ったのでしょ。それが違うのですか。」
「お客さん、「出雲国風土記」っての知っていますよね。その風土記には、オオクニヌシが登場していないんです。それに、出雲大社も、この辺じゃ昔から、杵築大社なんですよ。なんで、出雲が、イズモと読めるのでしょ。」
「そう言われれば、出雲がイズモとは読めませんよね。」
「飛鳥もアスカとは読めませんでしょ。更に、安曇も、アズミとは読めませんよね。諏訪も、何故、スワなんでしょうか。お客さん、不思議に思いませんか。」
「そうですね。呉音でも、漢音でも読めませんね。」
「この間のお客さんが、出雲は、弥生中期まで、北九州と新潟を結ぶ国際交易中継点といっていましたよ。糸魚川では、縄文の昔っから翡翠が採れたって。その翡翠を中国へ持っていくと、高価に取引ができたようです。」
「弥生時代って今から2000年も前ですよね。」
「その後、朝鮮半島から産鉄民族が、出雲に渡来して、青銅器武器の弥生民族を征服し、その征服された民族が、信濃に逃れた、って言ってました。」
「そうですか。」
「お客さん、ヤスキ節って知っていますか。」
「どじょうすくいですか。」
「そのどじょうすくいのほんとの意味は、土の土壌です。川床の土をすくっていたのが、どじょうすくいの、ほんとの意味です。」
「何のために、川の土をすくうのですか。」
「川砂鉄ですよ。島根では、製鉄をタタラ製鉄って言いますけどね。」
「そうですか。」
「そのタタラ製鉄の、タタラって、ユーラシアのタタールからきたんです。」
「出雲には、南方からの海洋民族の後に、北方のユーラシアから騎馬民族が渡来していたのですか。」
「そこまでは知りません。この話、ぜんぶ、この間乗せたお客さんの受け売りです。運転手の独り言です。忘れてください。」
「運転手さんは、東京の方ですか。」
「何故ですか。出雲の者ですが。」
「言葉が東京弁だから。」
「出雲生まれの両親が、出雲訛りを嫌いましてね。小さい私を、東京の親戚に里子に出していたんです。お客さん、知っています。出雲弁は、東北地方と同じ、ズーズー弁なんですよ。」
「出雲と東北とは、歴史的につながっていたのですか。」
「この間のお客さんが、出雲大社の大木遺跡の話をしたのですが、その時、日本海沿岸には、巨木文化があった、と言っていましたね。その日本海沿岸の巨木文化を、信濃に伝えたのが、海洋民族の安曇族で、その名残が、諏訪大社の御柱だって言っていました。」
「そのお客さんってどのような人でした。」
「だいぶお年のひとで、学者タイプでした。日本海沿岸の巨木文化って何なんですかね。三内丸山遺跡には、巨木で作られた見張り台があったようですが、海岸だと、灯台ですかね。」
「運転手さんも、そう思いますか。オレも、以前から、出雲大社の超高層神殿といわれている建築物は、古代の灯台だと思っていたんです。意見が合いますね。」
「楽しいお話も、此処でお終いですね。空港に着きました。」
オレは、話に夢中になっていたので、車外の景色が目に入らなかったのだ。

オレは、昨日取材撮影した写真を、四畳半いっぱいに敷き詰めると、四つ切のモザイク写真を俯瞰した。モノクロ写真の良いところは、カラー写真が現実世界の切撮りとすると、想像世界へトリップ出来ることだ。色がないのに、心に思った色がそこにはある。時間は、過去に自由に退行する。モノクロ写真は、カラー写真に比べ、想像力を描きたてるのだ。
御埼山から望んだ日本海の波が洗う海岸写真から、出雲大社、荒神谷遺跡までの写真の流れを辿ると、そこにひとつの古代史ストーリが浮かんだ。
オレは、急いで暗室へ行き、赤色ランプを点けて、田辺さんが送ってくれたタイマーのスイッチを押した。20ヘルツで、赤と白が点滅する、脳内のドーパミンが一気に多量に放出されると、オレの視界が突然真っ白に、そして、フェードインした像が徐々に現れた。
オレは、昼下がりの海を見渡す小山にいた。沖合いには多数の帆を立てた外洋船が見えた。徐々に近づいて来る船の船員が、大きな赤旗を振っている、船員が旗を振る方向に目を遣ると、海岸近くに、巨木で組み上げられた、見上げるように大きな櫓があり、その天辺の見張り台にいる者も、大きな赤旗を振っていた。やがて、船は、入り江の港に着くと、槍を持った男に急き立てられるように、綱で繋がれた刺青をした多くのひとが下船した。その光景から、その船は、南の国から来た奴隷船と直感した。
空になった船には、奴隷達が、生糸、翡翠、毛皮、昆布やアワビなどの海産物を運んでいた。やがて、船は、南に去った。ここの港は、国際交易の中継港のようだ。
場面は、急に展開した、入り江の奥の小山の前に、オレは居た。金ぴか王冠を被り、きらびやかな剣をベルトに帯びた、筒袖にズボン姿の男を前にして、裸同然の刺青をした多くのひとが、膝まづいている。やがて、刺青男達は、武装解除した剣を小山の中腹に埋めた。その後、多くの刺青男達は、船に乗り、北を目指して去っていった。それは、正に、国譲りの光景だった。
オレは、前頭葉に、鈍い痛みを感じた。すると、そのセピアがかった映像は、フェードアウトし、真っ暗となった。やがて、瞼に赤白の点滅する光を確認すると、オレの意識は、現実の世界に戻った。

「カメさん、レポートありがとう。やはり、出雲に行ったのですね。」
オレは、今日見た出雲の幻視についてのコメントを田辺さんからもらいたかったので、レポートにして、メールしていたのだ。
「ナベさん、出雲の歴史には深い闇があるようですね。」
「カメさんも、そう思いますか。私も、以前から出雲には、「日本書記」が述べている歴史と異なる歴史があると感じていたのです。カメさんの幻視レポートを読んだら、そのことを確信しました。出雲弁と東北弁が同じルーツであることは、画期的です。古代北関東から東北以北は、アイヌ民族が支配した地域でした。それだったら、アイヌ民族は、ズーズー弁かといえば、そうではないのです。カメさんのレポートは、アイヌ民族が支配した北関東から東北地域にかけて、出雲から渡来した民族がズーズー弁を広めたことを示唆します。」
「出雲弁は、イ→え、シ→す、ヒ→ふ、と音韻変化するのですよね。」
「そうです。民族言葉は、民族のDNAだから、代々継承されていくわけです。だから、征服民族は、被征服民族を抹殺するために、文化の基である民族言葉を抹殺するわけです。明日香ヤマトにも、多数の民族言葉があったはずです。しかし、713年藤原不比等らによる、文化大革命により、明日香ヤマト言葉は、漢字二文字表記に改竄されてしまったのです。」
「タクシーの運転手さんが、「出雲国風土記」にはオオクニヌシノミコトが登場していないといっていましたが、本当ですか。」
「藤原氏が、645年古代史料を焚書してしまったので、出雲の歴史を知るには、720年「日本書記」、733年「出雲国風土記」、812年「古事記」の三書しかないのです。その「日本書記」では大己貴神(オオナムチのカミ)、「出雲国風土記」では大穴持命(オオナムチのミコト)、「古事記」では大国主神(オオクニヌシのカミ)、と物語の主人公の名が、それぞれ異なるのです。そして、後世の歴史物語改竄により、オオクニヌシノカミの名前は、大己貴神・大物主神・大地主神・八千矛神・葦原醜男神・大国魂神・顕国魂神・奇甕魂神・広矛魂神・所造天下大神・伊和大神・幽冥事知食大神などの名前が創作されてしまうのです。カメさん、これってどう思う。」
「考えられることは、出雲の支配者の名前の隠蔽ですね。」
「出雲物語のハイライトは、国譲り物語です。その国譲りの条件としての大社建立の申し出も、「日本書記」と「古事記」では、異なるのです。「日本書記」では高天原からの申し出となっているのに対して、「古事記」では大国主命が言い出しているのです。そして、不思議なのは、全国に数ある神社(モリ)の中で唯ひとつ、出雲大社についてだけ、その造営のいきさつを語っていることです。」
「古代の神社(モリ)って、神様を祀るのではなく、前政権の宗教施設を封印した施設ですよね。藤原氏にとって、神社(モリ)の歴史は知られたくないことですよね。それが、何故、「日本書記」に書かれているのですか。」
「推測ですが、出雲には、藤原氏が抹殺・隠蔽しなければならない歴史があったからです。「日本書記」では、天照大神につかわされて下界に降りてきた武甕槌神ら二柱の神は、出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀にて外交折衝をおこない、天照大神の第二子の天穂日命を始祖として、代々「出雲国造」となり国譲りされ、大和朝廷の支配下となった、としています。しかし、「古事記」では、健御雷ら二柱の神が、大国主神を前にして十拳の剣を伊那佐(いなさ)の浜に突き立てて、出雲の国を譲り渡すよう強談判にでているのです。その談判に対して、大国主神は、二人の息子に尋ねると、兄は出雲をあげてしまいなさいと言って神隠れしてしまったが、弟健御名方神は戦い挑んで負けてしまい、科野(しなの)の国の洲羽海(すわのうみ)まで逃げて行き、洲羽の神となった、と述べているのです。カメさん、この「古事記」の物語をどう思う。」
「ナベさんが、「古事記」は、「日本書記」の物語を否定するために、平安時代初期に書かれた書物であると言っていたことから、出雲を支配した民族は、「日本書記」のように交渉で国譲りされたのではなく、「古事記」が述べるように、剣の力で奪い取ったのでしょう。そして、出雲の地を追われたズーズー弁の出雲民族は、信濃のスワに逃亡し、神となり、そこを支配したというわけですね。出雲から信濃への広域移動は、信濃の大王わさび農園の八面大王に続く物語ですね。レポートにも書いたように、日本海沿岸巨木文化と海洋民族との関係も考えられますね。」
「カメさん、佐渡おけさ音頭のルーツを知っていますか。」
「知りません。佐渡おけさと出雲と関係があるのですか。」
「佐渡おけさ音頭のルーツは、江戸時代に北九州で流行した「ハンヤ節」が、北前船により小木港に上陸し、鉱山で仕事唄として歌われるようになると、「ハンヤ」が「おけさ」と呼ばれるようになり、島全体に広まると「ハンヤ節」から「佐渡おけさ」に統一されて今日に至っているのです。その小木港から本土に渡るルートに越後出雲港があるのです。」
「越後出雲と出雲が関係あるのですか。」
「カメさん、世界遺産として有名になった石見銀山って知っていますよね。その出雲の先の石見と、佐渡の石見とは、古来から交流があったのです。日本海沿岸は、縄文時代から、海洋民族が国際交易のため、外洋船で行き来していたのです。藤原氏は、このことを隠蔽したかったのです。「出雲国風土記」には、出雲周辺だけではなく、高志(北陸)、因幡国(鳥取)、筑紫(九州)だけではなく、新羅(朝鮮半島)までもの記述があるのです。出雲の国際性は、日本列島を孤島とする藤原日本史では、抹殺すべき歴史であったのです。」
「発掘された遺跡によれば、出雲と同じに、明日香ヤマト文化も国際性豊かであったようですね。」
「日本の歴史教育の不思議は、日本史と世界史を別々に分けて教えていることです。そして、紀元一世紀から平安時代までを「古代」、鎌倉時代から室町時代までを「中世」、そして、戦国時代から江戸時代までを「近世」と教えていることです。その日本の古代と言われる時代、ヨーロッパではローマ帝国の繁栄があり、その後、封建制の時代になっているのです。そして中国大陸では後漢・魏呉蜀の三国時代・五胡十六国時代・南北朝・隋・唐・北宋・金・南宋が支配国としてヨーロッパと絹馬の国際交易をおこなっていたのです。」
「藤原日本史によれば、神功皇后が新羅を征伐する、201年までは、天孫族が日向に天降った日本列島の住民は、異民族の国の存在も知らない孤島であったということですね。」
「藤原氏の創作した「日本書記」を史実として信じれば、何処からともなく渡来した天孫族の後裔は、201年までは外界の世界を知らなかったことになります。しかし、紀元前からの縄文時代から、北の岩手県久慈では琥珀が産出され、バルト海沿岸との琥珀ロードが存在していただけではなく、新潟県糸魚川上流から産出された翡翠は中国皇帝で珍重されていたのです。更に、奈良県宇陀では朱砂が産出され、三輪山麓のイワレでは、異民族による沈黙交易がおこなわれていたのです。」
「では、何故、藤原氏は「日本書記」を創作して、201年まで日本列島は孤島であったと「ウソ」を述べているのですか。」
「色々な考え方がありますが、強いて言えば、藤原氏が海外から渡来した、明日香ヤマトを支配した民族と異なる、異民族であったからです。」
「海外と言うと、何処からですか。」
「縄文時代から続く日本海沿岸の海洋巨木文化を、奈良時代ではなく、平安時代に建立された出雲大社なる建築物で隠蔽している事実からすると、南方からの渡来が考えられます。」
「具体的に言うと、何処ですか。」
「南インドのマラバル沿岸です。」
「その証拠とか、根拠は何ですか。」
「弥生時代に、日本列島に水田稲作が発生するのです。水田稲作は、陸稲作に比べて、作業が複雑です。それは、水田稲作は、土の囲いを作り、その囲いの中で人工的に洪水を起こし、そして、その水を抜き、干潟を造る作業だからです。元来、水田稲作は、定期的に氾濫する河口湿地帯がルーツであったようです。その水田稲作作業で使われる、「アゼ」「ウネ」などの言葉が、南インドで使われていた「タミル語」であるからです。このタミル語を使う、水田稲作民族の埋葬は、甕棺に死者を屈葬させるのです。この埋葬遺跡は、北九州で多く発掘されています。」
「ナベさんは、水田稲作はタミル語を話す民族が日本列島にもたらしたというのですか。何故、遠くの南インドからわざわざ日本列島に渡来したのですか。」
「南インドのマラバル沿岸とヨーロッパとでは、フェニキア商船のタルシシ船により、紀元前10世紀のヘブライ国のソロモンの時代から、孔雀・猿・染料のベンガラ・香辛料・香木・真珠などが、南インドのマラバル沿岸から持ち出されていたのです。そして、紀元一世紀になると、ローマ帝国の盛隆と供に、絹の需要が増大したのです。その絹は、中国大陸南部の特産品だったのです。絹を求める国際交易商人は、その絹を求めて、中国を目指したのです。その結果が、シルクロードです。やがて、そのシルクロードは、三ルートが開発されたのです。そのひとつが、NHKが忘れた頃にシルクロード特集を組む、長安→敦煌→楼蘭の中央砂漠ルートです。そして、騎馬民族の交易ルートの北の草原ルート。更に、ペルシャ湾→南インド→中国大陸の南海ルートです。シルクロードには、その三ルートがあったのです。」
「そのシルクロードとタミル語を話す民族と、何か関係があるのですか。」
「日本列島は、縄文時代の古来から、琥珀・翡翠・朱砂などの国際交易をおこなっていたので、日本列島の気候が、繭生産地として良好と知られていたのでしょう。それらの、南方系の民族が、繭を持ち込んだのです。それが、在来種に比べて、多くの糸を吐くポンピックス・モリ種です。蛾は、蝶に比べて、飛来距離は極端に短いのです。中国南部の蛾は、東シナ海を飛渡することは困難です。」
「すると、ナベさんは、絹を求める南インドを基地とする国際交易商人が、タミル語を話す民族を農奴として、日本列島を繭生産基地とするために渡来したというのですか。」
「そう考えています。日本海沿岸には、東南アジアと同じ、棚田が多く見られます。能登の千枚田は有名です。何故、沿岸のそのような急な山肌に、棚田を作ったのかと推測すると、それは、海から渡来して、又、船により他の地に移動するのに適しているからです。騎馬民族の国が「風の王国」とすれば、海洋民族の国は、半農半漁の「海風の王国」と考えられます。その二つの民族の特徴は、定着しないということです。だから、その二民族は、基本的に、土地の支配権を主張するための「歴史書」を持たないのです。」
「すると、「日本書記」などの偽書を創作した藤原氏は、騎馬民族でも海洋民族でもないということですね。」
「そうです。藤原氏は、祭祀民族です。祭祀権を独占することにより、異民族を支配するのが、藤原氏です。」
「ナベさん、藤原氏とは、何者なのですか。」
「私にも分かりませんが、ユダヤ民族のニオイがするのです。」
「どのようなニオイですか。」
「藤原氏が創作した中臣神道の思想・儀式の多くは、ユダヤ教の思想・儀式と酷似しているのです。日本列島に水田稲作をもたらしたタミル語を話す民族のルーツは、南インドです。その南インドのマラバル沿岸には、紀元一世紀ユダヤ教ヨシュア派の教会が存在していたのです。その南インドのマラバル沿岸は、戦国時代のイエズス会が、日本列島の銀を独占するための基地としたように、古来からユダヤ教ヨシュア派の拠点であったのです。」
「そういえば、「日本書記」と「旧約聖書」は似ていますよね。天照大神をヤハヴェとすれば、藤原氏の祖である祭祀者天児屋根命は、ユダヤ民族の祭祀者モーセということですね。」
「カメさん、ユダヤ教に詳しいですね。私も、以前から、ユダヤ教と中臣神道には、共通点が多くあると思っていました。紀元四世紀のローマ帝国の出来事と、645年明日香ヤマトの出来事が、以前から気になっていたのです。」
「それって、関係ないように思えますが。」
「前政権の宗教の歴史的抹殺です。」
「宗教の抹殺って、何ですか。」
「392年ローマ帝国のテオドシウス一世の時代、ローマ帝国に逆らう、「ヨシュアはメシア」と唱えるユダヤ教ヨシュア派を、ローマ帝国の国教としてしまうのです。それが、ギリシャ語で、「イエス・キリスト」です。ローマ帝国がキリスト教国となると、395年ローマ帝国は、東西に分裂してしまうのです。その当時のローマ帝国は、征服した民族の宗教を認めていたので、ローマ帝国には主たる宗教が存在していなかったのです。その多くの宗教の中に、太陽神を祀るミトラ教があったのです。このミトラ教は、戦場で勇敢な戦士を護る神として、ローマ帝国軍の軍神であったのです。この太陽神ミトラは、民族平等思想を持っていたため、独裁を望むテオドシウス一世には、邪魔な神であったのです。そこで、唯一神を祀るユダヤ教ヨシュア派が発明した宗教を、ローマ帝国の国教としたわけです。そして、ローマ帝国の国教となったキリスト教は、ミトラ教を歴史的に抹殺するために、ミトラ教地下神殿を徹底的に破壊して、その跡に、キリスト教教会を建てるのです。そして、ミトラ教の痕跡を消すために、その教義・儀式を、キリスト教に取り込むのです。」
「そのキリスト教の行いと、明日香ヤマトと何か関係があるのですか。」
「カメさん、明日香ヤマトは、仏教発祥の地と思っていますか。」
「ええ、学校の歴史授業で教わりました。」
「明日香ヤマトが、仏教発祥の地で、蘇我氏が崇仏派だとすると、明日香ヤマトの遺跡は、仏教色でなくてはならないはずですよね。」
「蘇我氏が仏教を保護したのなら、当然、明日香ヤマトから発掘される遺跡は、仏教文化を示すはずですね。」
「カメさん、それが違うのです。確かに、地上には仏教寺が多く存在するのですが、現在も、明日香ヤマトから発掘される遺跡の数々は、仏教文化など示していないのです。その遺跡が示すのは、石の文化と軍事都市明日香ヤマトです。」
「それって、本当ですか。」
「これって、ローマ帝国での、ミトラ教抹殺技法の真似と考えられませんか。」
「仏教文化ではない明日香ヤマトの宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、仏教寺を建設したとするのですね。」
「そのとおりです。これならば、明日香ヤマトから発掘される遺跡が、仏教文化を示していないことをうまく説明できます。」
「その明日香ヤマトの遺跡を残したのは、どのような民族であったのですか。」
「カメさん、明日香ヤマトに始めて持ち込まれた仏像は、何んだと思いますか。」
「新羅からの弥勒菩薩だと思います。」
「その弥勒菩薩は、インドではマイトレーヤと言われ、インド渡来以前では、ミトラと言われていたのです。日本初渡来の仏像と言われる弥勒菩薩は、ミトラを変身させたものです。抹殺・隠蔽できないモノは、それを取り込むことにより抹殺する技法が、明日香ヤマト文化抹殺にも応用されていたのです。」
「そう言えば、西方浄土を約束する阿弥陀様は、エジプトの太陽神アトンであると、ある本で読んだことがあります。その本には、キリスト教と大乗仏教は一卵性双生児とも述べていました。ナベさん、それってトンデモ歴史ですか。」
「そうではないようです。以前から、キリスト教の教義・儀式と大乗仏教の教義・儀式が酷似していると言われています。キリスト誕生物語と大乗仏教のブッタ誕生物語の基本は同じようです。」
「ナベさん、話を明日香ヤマトに戻しませんか。」
「明日香ヤマトの歴史を知るには、大乗仏教の歴史を知る必要があります。しかし、大乗仏教は、405年中国の後秦で、バラモン僧の鳩摩羅汁により、騎馬民族を蔑視する道具として改竄され「漢訳仏教」となってしまったため、キリスト教との同一性が薄まってしまいましたが、ギリシャ文化継承国バクトリアがあった地であった国際交易都市ガンダーラで発明された宗教物語が、西に向かってキリスト教となり、東に向かって大乗仏教(漢訳仏教)となったのは、それらのギリシャ神話を含んだ宗教物語を広めた民族は、同じ民族だからと考えています。初期の「聖書」がギリシャ語で著されていたのは、そのためです。大乗仏教の経典も、後の宗教者により、ギリシャ語からサンスクリット語に変換されたのでしょう。仏教専用語と思われているサンスクリット語は、ギリシャ語から派生した言語であったのです。」
「すると、ナベさんは、藤原氏は、ユダヤ民族で、中臣神道は、ユダヤ教だとでも言うのですか。」
「今は、確信がありませんが、いずれ、結論を出したいと思います。話が長くなってしまいましたが、古代史のレポートを書き上げるところです。後ほどメールしますから、カメさん、幻視のレポートお願いします。」
「分かりました。レポートします。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」


そこには継体天皇も聖徳太子もいなかった。
翌日、オレは、簡単な朝食を済ませると、パソコンを開いた。そこには、メール受信の表示があった。メールを開くと、田辺さんからのものだった。
「レポートを送ります。A4で百枚ほどです。四章で構成されていますから、その都度でも良いし、まとめてレポートしていただいても結構です。レポートを読む前に、確認事項に目を通してください。」、とあり、
「確認事項1.天皇の出現は、紀元前660年神武天皇は「ウソ」で、672年天武天皇からです。
2.日本神道の出現は、神代の昔からではなく、奈良時代からです。
3.神社(モリ)の出現も、古墳時代が終わって百年後の奈良時代からです。
4.仏教伝来は、538年ではなく、645年です。
5.「日本書記」は、明日香ヤマトやイズモの異民族の歴史を抹殺する目的のために、藤原不比等が創作したものです。
6.「古事記」出現は、奈良時代の712年ではなく、平安時代初期の812年です。
よって、藤原日本史が述べる、四世紀の飛鳥大和朝廷の存在を否定します。」、とあった。
オレは、添付資料をプリントアウトするために、プリンターに印刷紙を詰め込んだ。印刷をクリックすると、プリンターから印刷紙が排出された。一枚目を取ると、そこには、タイトルとして、「消された日本古代史」とあった。その下に、レポートの趣旨が簡潔に書かれていた。
「このレポートは、「日本書記」で構築された日本古代史を、敗者の側から眺めるものである。古代の日本列島には、諸外国から多くの異民族が、それぞれの目的により渡来し、それぞれの部族国家が存在していた。その異民族の文化を抹殺したのが、645年軍事都市明日香ヤマトを壊滅した、仏教を侵略思想武器とした、唐進駐軍と藤原氏である。当レポートは、日本列島に古墳が出現した三世紀後期から、その古墳時代が終わる、645年までを考察するものである。そして、第一章は、古代日本列島に渡来した民族と文化を知るために、オリエント史を述べることにする。」、とあった。
それに続く文章が、論文形式ではなく、どうみても、シナリオ形式だ。そこには、いつ、どこで、だれが、何をした、と簡潔に記述されていた。その記述が、年代順のブロックとなっていた。田辺さんのレポートを要約すると、以下のようだ。

第一章「オリエントから日本列島へ」
No.1、紀元前14世紀黒海沿岸に、鉄器製造を発明したヒッタイト帝国から、エジプト王国へ、土木建築技術者一団が渡来した。そのヒッタイト帝国では、三神からなるミトラ神は、太陽神の化身として、異国民族との交易を見守る神として信仰を集めていた。
No.2、ヒッタイト帝国の技術者は、エジプト王国のアメンホテプ4世の宗教改革により、新都アケトアテンの造営のために招かれたのだ。アメンホテプ4世は、多神教により宮廷を支配する神官達を排除するために、ヒッタイト帝国の太陽神であるミトラ神から、唯一神アトン神を発明した。しかし、急激な宗教改革に対して、神官達は反乱を起こし、アメンホテプ4世一家は暗殺されてしまった。その結果、エジプト王国で建築技術者として優遇されていたヒッタイト帝国の技術者達は、エジプト神官の迫害を逃れて、シナイ半島に逃れた。
No.3、そのシナイ半島で、バビロニアから放浪してきた民族と合同して、エジプト軍に廃墟とされたカナンの地にたどり着くと、その二つの異民族は、紀元前1230年ヘブライ王国を築いた。
No.4、そのヘブライ王国は、海岸地域を支配する海洋交易民族フェニキアの外洋交易船を利用して、南インドと交易をおこなった。しかし、バビロニアからの民族は、ヒッタイト帝国からの民族を支配下に置いたため、ソロモン王が死去すると、紀元前932年ユダ国とイスラエル国に分裂した。分裂は時間の問題だった。それは、その二つの民族は、祀る神が異なっていたからだ。ヒッタイト帝国からの民族は、太陽神と牡牛を祀る多神教だ。それに対して、バビロニアからの民族は、エジプト王国の太陽神の唯一神アトンを取り入れ、唯一神ヤハヴェとして祀った一神教だ。
No.5、太陽神と牡牛を祀るイスラエル民族は、紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンにより滅ぼされ、アッシリアの砂漠に消えてしまった。一方のユダ王国は、紀元前586年バビロニアにより滅亡した。しかし、バビロニアが、紀元前538年滅びると、再びカナンの地に戻ることが出来た。この異なる二民族は、645年日本列島で、再び出会い、そして、戦い始めることになる。
No.6、紀元前334年マケドニア王国のアレクサンドル大王は、グラニコス川の戦いにより、東征を開始した。アレクサンドル大王は、ペルシャ帝国への侵略を開始したのだ。このアレクサンドル大王により、紀元前330年ペルシャ帝国が滅亡した。これにより、アレクサンドル大王の支配地は、ギリシャから北インドのガンダーラ地域までとなった。しかし、紀元前323年アレクサンドル大王がバビロニアで病死すると、統制がきかず、内部分裂により、紀元前301年最後の支配者デメトリオスが、イプソスの戦いでアンチゴノス緒将に敗れ、広大なアレクサンドル大王領は、マケドニア王国、エジプト王国、トラキア王国、パルチア、バクトリアなどに分割された。しかし、その北インドを支配したギリシャ文化を継承したバクトリは、東征を止めなかった。
N0.7、北インドを支配したバクトリアは、中国大陸で紀元前403年から始まった戦国時代を統一するために、秦を軍事援助することにより、紀元前221年中国の戦国時代が終わり、ここに秦帝国が興った。秦帝国の母国バクトリアは、中国では大月氏と呼ばれた。
No.8、中国戦国時代中期、北アジアでは騎馬民族匈奴が興った。騎馬民族の歴史は、現在でも謎が多い。それは、騎馬民族は、基本的には歴史書を持たないで、自然の法則に従い、定着せず、移動を繰り返す、地上に建築遺跡を残さない「風の王国」だからだ。騎馬民族の歴史は、紀元前五世紀のギリシヤの歴史学者ヘロドトスの「ヒストリア」によれば、紀元前八世紀カスピ海北岸に興ったスキタイが始めだ。スキタイが騎馬民族となれたのは、鉄器製造技術を保持していたからだ。鉄器製造技術により、轡を作り、馬の口にはめ、手綱により馬を制御可能にしたのだ。その鉄器製造技術は、カスピ海南岸を支配する、敵対国アッシリアの捕虜から手に入れたものだ。アッシリアには、鉄器を発明したヒッタイト帝国→エジプト王国→ヘブライ国→イスラエル国へと流れた民族がいた。そして、そのイスラエル国は、紀元前722年アッシリアに滅ぼされていたのだ。母国を失ったヒッタイト帝国の鉄器製造技術を持つイスラエル民族には、エジプト王国で習得した、石切技術・石組み技術・運河掘削技術を保持していた。スキタイ民族は、そのイスラエル民族の技術を取り込むことにより騎馬民族として、北ユーラシアの覇者となり、東進することにより、紀元前3世紀には、そのスキタイ民族末裔が、東ユーラシアに渡来して、遊牧原住民を取り込み、騎馬民族匈奴として、南の農耕民族国と対峙していた。
No.9、紀元一世紀、ローマ共和国は、ギリシャ・マケドニア王国・ペルガモン・エジプト王国を支配すると、アウグスツスは、初代ローマ皇帝となり、ここにローマ帝国が興った。ローマ帝国軍は、ロンギヌスの槍と盾により、隣国を支配国とすると、ローマ帝国軍式直線道路により、戦略品をローマ都市に持ち込むことにより、国際交易商人が多く集まるようになった。そして、富の蓄積により贅沢品の絹の需要が激高した。その絹の生産地の中国後漢には、オリエントから国際交易商人が多く渡来した。その後漢は、北の匈奴との戦闘に対処するために、俊敏なアラブ馬を求めていた。ここに、絹を求めるローマ帝国と、アラブ馬を求める後漢による、絹馬交易が始まった。97年後漢の和帝は、甘英をローマ領に派遣した。
No.10、紀元一世紀、ローマ帝国と後漢との絹馬交易の中継国際交易都市、ギリシャ文化継承国のガンダーラで、不思議な宗教が発明された。それが無数の経典を著した大乗仏教だ。大乗仏教の祖とする釈尊は、バラモン教の偶像崇拝主義を否定するために、仏像製造を禁止していた。しかし、大乗仏教徒は、ギリシャ彫刻思想により、写実的なガリガリ仏像を造った。148年パルチア王国の僧安世高は、後漢の洛陽に渡来し、仏典を訳した。定説では、サンスクリット語から、漢語に訳したことになっている。では、405年鳩摩羅汁が、後秦で漢訳したとする仏典原著は、何語で著されていたのか。
No.11、166年ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者が、後漢に渡来した。ローマ帝国では、シルクロードの交易権をめぐって、隣国のパルチア王国と度々戦闘をおこなっていた。ローマ帝国は、パルチア王国との戦闘に対して、後漢の加勢を求めたのだ。しかし、後漢は、匈奴を北アジアから駆逐した、騎馬民族鮮卑の度重なる攻撃により、疲弊し、220年滅びた。その後漢が分裂し、魏・蜀・呉の三国時代へ突入した。東アジアの中国北部を支配した魏は、ローマ帝国と絹馬交易をおこなうため、日本列島での繭生産経営に乗り出した。この時代の日本列島の様子は、「魏志倭人伝」により、窺がい知ることが出来る。この魏・蜀・呉の中国三国時代に、日本列島は古墳時代の黎明期に突入したのだ。三世紀の日本列島には、周辺諸国から、多くの異民族が渡来していた。

第二章「前方後円墳とは何か」
No.1、日本列島史は、645年藤原氏の前政権史料焚書により、その史実を文献により知ることは出来ない。しかし、中国の史料には、日本列島の記述がある。それらの史料により、古代日本列島史を復元することにする。
No.2、藤原日本史のトリックは、日本列島は孤島で、倭人が九州を支配していたとし、その倭人が、近畿一帯に侵攻し、原日本人となったとすることだ。
No.3、中国南朝の梁(502年〜557年)の歴史書「梁書」によれば、5世紀の日本列島には、倭国(北九州+朝鮮半島南端)、文身国(出雲)、大漢国(大阪)、扶桑国(東北以北)の四カ国の存在が記されている。
No.4、この日本列島の謎の四世紀、藤原日本史では、南朝の宋(420年〜479年)の歴史書「宋書」にある、倭王、讃、珍、済、興、武の五王を、讃は仁徳天皇か履中天皇、珍を反正天皇、済を允恭天皇、興を安康天皇、武を雄略天皇とする。しかし、その藤原日本史の「ウソ」は、502年倭王武が、梁の武帝により、征東大将軍となったとする「梁書」の記事が暴くのだ。雄略天皇が、502年梁王から、征東大将軍に任命されていたとすると、その年代前後に存在したとされる、万世一系である清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇、武列天皇の存在が否定されるからだ。
No.5、日本列島の謎の四世紀、日本列島に前方後円墳が出現した。藤原日本史では、大和盆地の東部三輪山麓の傾斜地に、突然、全長250mを超える巨大前方後円墳が出現したことをもって、四世紀の飛鳥大和には、強力な権力組織があったとした。それが、藤原日本史が述べる、大和朝廷だ。しかし、東海・北陸以東では、越中、能登、越後、福島県会津にも、墳長50mを超えない前方後円墳が出現していた。
No.6、飛鳥大和に巨大古墳が築けたのは、強力な政権が存在していたからではなく、その奈良盆地は、定期的な氾濫により、人が住めぬ大湿地帯であったからだ。その大湿地帯を居住地に改良するために、又、朱砂の産地の宇陀の先住民を取り込むために、巨大前方後円墳が、渡来者の意図の下に築かれたのだ。その根拠として、6世紀半ば、オリエントから渡来民族や北アジアを支配した突厥軍団が、明日香ヤマトを支配すると、その奈良盆地では、前方後円墳ではなく、オリエント方式の方墳や八角墳が築かれて行くのだ。しかし、奈良盆地の外側では、前方後円墳が築かれ続けていた。藤原日本史が述べるように、前方後円墳が、歴代天皇の墓であるとするならば、このことをどう説明するのか。
No.7、古墳は民族の思想を表している。古墳時代前期、大和地方では、前方後円墳や新羅慶州に多く存在した円墳が主であった。しかし、イズモ地方、島根県東部、鳥取県、広島県北部山地、富山市では、四隅突出型墳丘墓という、四隅が突き出た四角い糸巻き型方墳が存在していた。しかし、そのイズモ地域では、古墳時代後期になると、四隅突出型墳丘墓に替わり、大型方墳や前方後円墳が、飛鳥大和では、646年薄葬令により巨大古墳築造が禁止されていたのに、依然として築かれ続いていたのだ。これを、藤原日本史では、どう説明するのか。
No.8、前方後円墳が飛鳥大和に出現した、日本列島の謎の四世紀、中国大陸では五胡十六国の時代であった。五胡とは、匈奴、羯(せつ)、鮮卑、テイ、羌(きょう)だ。匈奴、羯、鮮卑は、チュルク系民族で鼻が高く、髭が濃い、それに対して、テイ、羌は、チベット系民族で鼻は低く、髭が薄い。これらの、漢民族ではない、異民族が中国北部黄河沿いに国を興していた。この4世紀から5世紀半ばまでの約150年間、漢民族ではなく、西域の騎馬民族や遊牧民族が、150年間にわたり北部中国を支配していた。
No.9、四世紀半ば、朝鮮半島では、紀元前1世紀に興った高句麗に対抗して、346年百済が、356年新羅が興った。この朝鮮半島三国時代に、372年前秦から高句麗に仏教が伝来し、384年東晉より百済に仏教が伝来した。しかし、新羅では、仏教が伝来したのは、528年であった。新羅は、527年まで、女王国でギリシャ・ローマ文化国であった。
No.10、この中国五胡十六国時代の4世紀から5世紀半ばの150年間、中国の記録には日本列島の記述はない。騎馬民族や遊牧民族は、農耕の定着民族ではないため、土地の支配権を主張するための「歴史書」を持たない。だから、藤原日本史での、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇の存在を、中国史料で確認できない。
No.11、「漢書」には、紀元前2世紀から紀元前1世紀にかけて、朝鮮半島の楽浪の海内には、倭人がいて、分かれて百余国をなしていたとの記述がある。「後漢書」には、紀元1世紀から2世紀に、倭の奴国が朝貢して来たとあり、その奴国は倭の極南界にあり、57年後漢の光武帝は、奴国の使者に印綬を授けた、とある。この中国史料から推測すると、倭国は、九州ではないことが分かる。紀元1世紀から紀元2世紀の200年間、倭国は朝鮮半島にあり、奴国は、朝鮮半島南端にあった。
No.12、中国王朝で云う倭人とは、どのような民族か。「後漢書」の「鮮卑伝」には、光和元年(178年)鮮卑王の壇石槐が、河川にいる魚を捕えるために、倭人を捕虜としていた、とある。鮮卑(93年〜319年)の支配地は、後漢と対峙する内陸の東ユーラシアで、海に接してはいない。そのような騎馬民族の鮮卑が、玄界灘の海を渡り、北九州の倭人を捕虜にすることができるのか。このことからも、1〜2世紀の倭人は、海洋漁労民族ではあるが、、朝鮮半島沿岸だけではなく、中国大陸の内陸まで、暮らしていたことを示唆する。
No.13、青森地方に東日本最古の弥生時代前期の水田跡が発掘されている。弥生時代とは、紀元前1世紀頃から3世紀中頃までだ。東北から出雲にかけて、弥生時代以前の縄文時代から、日本海沿岸には巨木文化があった。その縄文人は、琥珀・黒曜石・翡翠の国際交易のために日本海を渡海して、中国大陸と国際交易をおこなっていた。そして、その日本海は、東南アジアからの黒潮が流れ着くところだ。古代青森地方は陸稲だ。水田稲作は、南インド、東南アジアの技術だ。その青森の水田稲作が、弥生時代前期に青森に伝播していたことは、南インドのタミル語を話す民族の渡来を示唆する。
No.14、弥生時代、倭人の祖は、南インドや東南アジアから、黒潮に乗り、中国大陸沿岸、朝鮮半島、北九州、そして、日本海を通り、秋田まで渡来していた。古代の日本列島は、藤原日本史が述べるように、孤島などではなかった。そして、古代の日本海には、沿岸に巨木で組み上げられた「灯台」を目印に、国際交易船が行き来していた。
No.15、では、弥生時代に、何故、極東の日本列島に、はるばる遠方から危険を冒してまでして、異民族が訪れたのか。考えられるのは、紀元1世紀に始まる、ローマ帝国と後漢による絹馬交易での絹の需要だ。19世紀に、イギリス東インド会社が、薩摩の藤原氏(近衛家)と結託して明治革命を企画した目的のひとつが、中国での絹生産が内乱により減産したため、その絹の需要を日本列島に求めたためだ。1872年富岡製糸場開業と1872年新橋・横浜間鉄道開通は偶然ではない。戊辰戦争最中に建設していたその二つの事業は、紀元1世紀のローマ帝国時代からから続いていたシルクロード交易の極東、日本列島の北関東の絹製品を横浜港からイギリスに持ち出すためだった。
No.16、日本列島の繭が優れていたことは、唐の詩人張説の「梁四公記」に、「東方の扶桑に行くと大きな蚕がいる。その糸は強く卵は大きいが、その卵を高句麗まで持って行き育てると、中国の蚕の卵のように小さくなってしまう。」と記されている。絹につていは、「日本書記」応神朝に弓月君が120県の人民を率いて帰化し、朝廷に庸調の絹を貢進した、との記述がある。平安時代に著された「新撰姓氏録」にも、秦酒公は、秦民92部18670人を率いて、絹を貢進し、酒公は長官に任じられた、とある。絹は、古代でも、明治時代でも、日本列島の国際交易品であったのだ。その日本列島で養蚕の繭は、弥生時代に、タミル語を話す民族により、水田稲作技術と供に持ち込まれた、ポンピックス・モリ種だ。日本列島は、紀元1世紀より、国際交易商人により、中国に供給する繭生産基地となっていたのだ。
No.17、日本列島謎の4世紀にいたる3世紀については、中国史料が、参考となる。「魏志倭人伝」に、247年邪馬台国に軍事顧問の張政を派遣した、との記述がある。その報告によれば、邪馬台国の武器について、矛、盾、木弓、鉄鏃、骨鏃がある、との記述がある。弥生時代の遺跡で、矛が出土するのは北九州の福岡県が中心だ。大和朝廷が四世紀に出現したとする、奈良県は無だ。鉄鏃は、福岡県171個、奈良県2個だ。その「魏志・韓伝」には、邪馬台国は朝鮮半島で、韓人らと争って鉄を採取していた、とある。そして、「魏志倭人伝」には、「魏の皇帝に倭錦、異文雑錦などを贈った。」との記述がある。弥生時代の遺跡で、絹が出土しているのは、福岡県比恵、有田、吉武高木などの北九州だけだ。3世紀、倭人は朝鮮半島から、北九州に渡来して、絹を生産して、魏に貢いでいたのだ。その邪馬台国の卑弥呼には、魏の軍旗を与えられて、その上、魏の軍事顧問も送られていたのだ。そして、「魏志」には、「倭人は自らを、中国三国時代の「呉」の泰伯の子孫だと名乗った。」、との記述がある。3世紀の北九州の倭人中には、中国大陸から渡来した者もいたのだ。
No.18、藤原日本史によると、四世紀に、倭国があった九州から大和に侵攻した天孫族が、その飛鳥大和に、天皇家の墓として巨大前方後円墳を築き、その後、仲哀天皇と神功皇后とにより朝鮮半島新羅の征伐に赴き、仲哀天皇が九州の地で死んだために、神功皇后が新羅を征伐し、飛鳥大和に凱旋して、応神天皇を生んだ、とする。では、天孫族以前に飛鳥大和を支配していた、倭人を祖とする倭国は、四世紀には滅亡していたのか。「唐書」によれば、「倭国」と「日本」がはっきりと別の国として記述され、648年「倭国」は唐とまた交流することになった、との記述がある。そして、「唐書」には、「日本」の記述は、大和政権の年号である大宝3年(703年)からである。因みに、今日の平成年号まで続く、日本初の年号は、大宝元年(701年)からだ。それ以前の「日本書記の年号」は、中国史料では確認できない。つまり、701年以前の「日本国としての年号」は、藤原氏が創作した年号だ。
No.19、藤原日本史では、謎の4世紀を隠蔽するために、そして、4世紀に突然明日香ヤマト現れた巨大前方後円墳の歴史を隠蔽するために、仁徳天皇を登場させる物語に繋げる応神天皇←仲哀天皇(神功皇后)←成務天皇←景行天皇の九州平定物語や新羅征伐物語を「日本書記」で創作したが、その神功皇后の新羅征伐物語は、100年前の中国史料と「魏志」史料を引用していたために「ウソ」が暴かれた。それは、「明帝の景初3年(239年)6月、倭の女王、大夫難升米等(たいふなしめら)を遣わして、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。」、「正始元年(240年)、建忠校尉・梯携印綬を奉りて倭国に詣らしむ。」の文章を、神功皇后新羅征伐物語に挿入していたからだ。景初3年・正始元年は魏・蜀・呉の三国時代の年号で、魏の属国邪馬台国の卑弥呼の時代で、4世紀よりも、100年前の年号だからだ。
No.20、では、謎の4世紀に、明日香ヤマトに突然現れた巨大前方後円墳は、どのような民族により築かれたのか。3世紀までの奈良盆地は、大阪の河内湾が堆積により埋まり、河内湿原に運河を造ることによって河内平野となり、水田稲作地となっても、その上流は、大湿地帯のままだった。だから、その大湿地帯の奈良盆地に到達するには、生駒山麓を迂回するルート以外の「道」が必要だった。
No.21、奈良盆地は、縄文時代の昔から、三輪山麓では、異民族による朱砂などの沈黙交易がおこなわれていた。それは、その三輪山麓は、大湿地帯と、流れ込む川が定期的に氾濫する自然の要塞だったので、宇陀の先住民は、安心して、異民族と国際交易をできたからだ。その三輪山麓の交易地に至るルートは、北九州から、四国を抜け、紀伊から吉野を抜け、伊勢に至る、中央構造線の断層に沿って、縄文の時代から、呪術に必要な朱砂を採取した民族により、開発されていた。
No.22、奈良盆地の三輪山麓の傾斜地に、巨大前方後円墳が築かれた少し前、中央構造線上にある和歌山県紀ノ川河口にも、前方後円墳が出現していた。しかし、その前方後円墳は、平安時代以前に破壊され、溝だけが発掘された。その溝の中から発掘された土器の破片により、その年代が4世紀初期と分かった。そして、その付近から、当時の日本列島では珍しいガラス製の小玉や管玉が出土した。ガラス製造技術は、ギリシャ都市国家と騎馬民族スキタイが交易と戦闘を繰り返した、紀元前七世紀頃のカスピ海沿岸で発明されたのだ。
No.23、日本列島初の前方後円墳が、三輪山麓の傾斜地ではないことは、近年の考古学の研究で証明された。3世紀末から4世紀までに、香川県鶴尾神社4号墳、福岡県津古生掛古墳、兵庫県養久山1号古墳、福島県堂ヶ作山古墳、杵ヶ森古墳などの前方後円墳が、全国的に同時期に築かれている。藤原日本史では、このことを、4世紀に巨大前方後円墳を築いたとする飛鳥大和朝廷が、全国を平定した証拠だと述べている。
No.24、では、その前方後円墳は、大和朝廷のオリジナルなのか。1990年中国国境鴨緑江沿いの旧高句麗支配地だった地域で、紀元前後の積石塚の高さ2m長さ約15m前後の前方後円墳が発見された。積石塚は、日本列島では、香川、徳島、長野、山梨、山口各県で、計約1500基も発掘されている。古墳表面に葺き石を施した「積石塚風」の古墳は、日本列島では無数に発掘されている。そして、1991年朝鮮半島全羅南道咸平郡礼徳里の新徳古墳が発掘された。その横穴式石室の入り口がラッパ型、中央に棺台があり、そして、石の積み方などの特徴が、九州の古墳、佐賀県関行丸古墳と全く同じ構造であることが分かった。その築造時期は、5世紀後半から6世紀前半だ。そして、轡などの馬具、鉄鏃、金製耳飾などが出土した。この出土品は、熊本県江田船山古墳とよく共通していた。これらの考古学上の研究から、前方後円墳は飛鳥大和政権のオリジナルではなく、北方系の騎馬民族の埋葬施設であったことが示唆される。
No.25、前方後円墳の初期にはなかった、横穴式石室は、どのような民族により造られたのか。横穴式石室が、日本列島に現れたのは、5世紀からだ。そして、埋葬品が、祭祀道具から、戦闘道具の馬具や鉄武器に替わっていた。この頃、東アジアの中国では、騎馬民族や遊牧民族が支配した、五胡十六国時代だった。
No.26、この中国大陸が、騎馬民族や遊牧民族により支配された五胡十六国時代の3世紀半ばから、日本列島には突然古墳が現れた。そして、四世紀初期には、岩手県以南から九州まで、相似形の前方後円墳が現れ、約300年間も古墳が築かれていたのだ。そして、5世紀となると、埋葬品は祭祀道具ではなく、戦闘用馬具や鉄製の武器や農具となっていく。
No.27、藤原日本史では、四世紀の飛鳥大和朝廷が、全国の支配地に前方後円墳を築いたとするが、東北の会津は、801年坂上田村麻呂が蝦夷棟梁のアテルイをだまし討ちをした平安時代までは、独立国であった。信濃のわさび農園に掲示してある、八面大王が坂上田村麻呂に滅ぼされた物語は、平安時代初期まで、信濃も独立国であったことを示唆する。
No.28、北関東のさいたま県稲荷山古墳から、115文字を記した鉄剣が発掘された。その文字には、ヲワケ(騎馬民族の王の意味)がワカタケル大王のために鉄剣を捧げた、とあった。そして、ワカタケル大王は「シキの宮」に住んでいた、とあった。遺跡・発掘物のなにもかもを「日本書記」に結びつける歴史学者により、ワカタケル大王が「雄略天皇」だとされ、5世紀には、さいたま県まで、飛鳥大和朝廷の支配権がおよんでいた、とされた。しかし、「日本書記」によれば、雄略天皇が暮らした宮は、二つで、「泊瀬の朝倉」と「吉野宮」だ。「シキの宮」などに暮らしたとの記述は、「日本書記」にはないのだ。では、「シキの宮」とは、何処か。それは、北関東だ。ワカタケル大王は、飛鳥大和などではなく、北関東の大王だった。北関東の群馬県前橋市の前方後円墳の前二子古墳は、九州熊本県宇土半島周辺で発見される「肥後型石室」と同じ横穴式だ。「肥後型石室」とは、横穴式の奥を床から20cmほどの高さに仕切り、ベット状の切石で棺台を造ったものだ。5世紀の北関東は、江戸時代に北九州で流行した「ハンヤ節」が北前船により小木港に上陸し「佐渡おけさ」として歌われたように、九州と何らかの文化交流があったのだ。
No.29、横穴式石室は、5世紀に現れた。そして、その埋葬土器も、陶質土器となっていた。従来の土器は野焼きで800℃で焼き上げた。しかし、陶質土器は、1200℃だ。1200℃の高熱を得るには、自然の風ではなく、フイゴの人工風が必要だ。そのフイゴは、鹿の皮で作られていた。須恵器の陶質土器は、製鉄民族と同じ高温で焼き上げられていた。5世紀の日本列島には、タタラ製鉄をおこなう民族が渡来したことを示唆する。
No.30、6世紀初めに築かれた和歌山県井辺前山10号墳は、珍しく、山頂にあり、そこからは、ユーラシア大陸の文化を色濃く背負った大量の埴輪が出土した。その中に、牛やサイの角で作った角杯を背負った人物埴輪があった。角杯は、東北アジア一帯の騎馬民族が使う、ミルクや酒を飲むためのものだ。同じモチーフの埴輪は、ギリシャ・ローマ文化の新羅の都慶州の瑞鳳塚から出土している。更に、短弓を左手と肩で支えた人物埴輪も発掘された。4世紀から中央ユーラシアで活躍した騎馬民族は、騎射のために、南方系の長弓ではなく、短弓だった。その短弓でも、強く射ることができたのは、弓のしなりだけではなく、動物の小腸から作った弦の弾力性を利用したからだ。北条鎌倉時代から始まる流鏑馬で、短弓ではなく、長弓が使われたのは、騎馬民族の武家源氏三代を謀殺した平氏の北条氏が、騎馬民族ではなかったことを示唆する。そして、ふんどしを付けた力士埴輪も計6体出土した。藤原日本史によれば、日本国の相撲の歴史は、「日本書記」に、垂仁紀7年(4世紀初期か?)に、大和の当麻蹴速と出雲の野見スクネ(古代ペルシャ語で「勇者」の意)に角力(相撲)をとらしめ、野見が勝った試合が初めである、とする。しかし、日本の相撲の源流は、東アジア北方の騎馬民族の格闘技だ。この騎馬民族の格闘技は、高句麗を経て、日本列島にもたらされた。その根拠は、高句麗の安岳3号墳の壁画に、モンゴル相撲図が描かれていたからだ。
No.31、5世紀の日本列島には、北方ユーラシアの騎馬民族が、大挙して渡来したようだ。5世紀後期に築かれた和歌山市古谷古墳からは、騎馬戦用の馬冑・馬鎧・蒙古鉢兜が出土しているが、それと同形の馬冑・馬鎧が朝鮮半島南部伽耶釜山10号墳から出土している。更に、それらの武具類は、和歌山だけではなく、さいたま県さきたま古墳群将軍山、福岡月の岡両古墳からも出土している。このことから、前方後円墳は、朝鮮半島から北九州に渡来して、吉備→近畿へと築かれて行ったと信じられているが、4世紀前期の飛鳥見瀬丸山古墳と同型の前方後円墳が、東北の会津若松で大塚山古墳が発掘されている。藤原日本史では、これをどのように説明するのか。古代東北には、藤原氏により消された歴史があるようだ。
No.32、奈良時代、藤原氏が唐進駐軍の軍事力を背景に、大和朝廷の中枢に入り込むと、祭祀者として、前方後円墳を破壊していくのだ。718年奈良に平城京を遷都するが、その地には、巨大前方後円墳が存在していた。平城京は、前方後円墳跡に築かれた都だった。これは、正に、392年ユダヤ教ヨシュア派が、ローマ帝国の国教となったキリスト教により、ローマ帝国軍の軍神であったミトラ教を歴史的に抹殺するために、ミトラ地下神殿が徹底的に破壊された跡に、キリスト教教会を建てた戦略と同じだ。そして、その平城京に、藤原氏の氏寺である興福寺を建設するのだ。そして、その興福寺の東側の山の麓に、藤原氏の「本当の神=中臣神道」(ユダヤ教と酷似)を祀る春日社を建立した。そこは、牡牛を屠るミトラ教の祭祀場があった場所だ。奈良時代の藤原氏は、前政権の歴史を消すために、全国に存在した前方後円墳を破壊して、その跡に、社(モリ→神社)や神宮を建て、騎馬民族の歴史を消していたのだ。社・神社(モリ)や神宮は、「日本書記」で述べているように古代から存在していたのではなく、奈良時代に、藤原氏により、古墳跡に建立されていたのだ。本殿が存在しない、空き地を祀る社・神社(モリ)の謎は、そのことにより解明できる。
No.33、4世紀初めに、東北の会津若松に、前方後円墳の大塚山古墳が築かれていたことは、東北には、4世紀初めに騎馬民族が渡来していたことを示唆する。奈良時代に、出羽国一帯にあった古墳跡に、藤原氏により古四王神社(モリ)が建立されていたことから、前方後円墳を築いた騎馬民族の渡来の流れは、紀元前1世紀から朝鮮半島付け根を支配した強大な高句麗を避けるために、中国大陸北方→日本海北方沿岸→秋田・新潟→会津→常陸→下総→上野→甲斐→加賀→近江→丹後→河内→大和へのルートが考えられる。これは、「古事記」の倭健の東征物語ルートのほぼ逆を示している。5世紀初期から7世紀後期までの約300年間、日本列島の岩手以南から九州まで、前方後円墳を築いていた騎馬民族の歴史は、奈良時代に、藤原氏が支配した中臣神道と仏教により消されていたのだ。

第三章「552年伝来の仏教とは何か」
No.1、日本人の多くは、日本国は仏教国だと思っているようだ。そして、日本神話は、「古事記」にあるように、日本古来のオリジナルだと信じているようだ。しかし、現在の仏寺にある仏像の多くは、バラモン教やヒンズー教の神・鬼がその祖だ。そして、「古事記」にある日本神話物語のルーツは、ギリシャ神話がその祖だ。何故、そのような外国の神・鬼や神話物語が、日本古来のオリジナルと信じられるようになってしまったのか。
No.2、その謎は、645年にあるようだ。藤原日本史で云う、「大化の改新」の解明が、藤原氏が「日本書記」で封印した古代日本史の封印を解くのだ。それは、「大化の改新」が、オリエント文化の明日香ヤマトの歴史を消すために、藤原氏により創作された架空の物語であるからだ。その根拠は、「日本書記」にある、「大化の改新物語」のストーリは、朝鮮半島の「ヒドンの乱」のコピーであるからだ。その645年「大化の改新」では、「藤原氏」の祖、祭祀者である中臣氏が、中臣鎌足となって初めて歴史上に登場するのだ。しかし、「日本書記」の神話物語では、藤原氏の祖神が、アマテラスオオミカミの天磐戸物語での祭祀者天児屋根命として登場しているのだ。ここからも、645年「大化の改新」での藤原氏の出自の「うさん臭さ」が臭う。日本古代史の謎は、藤原氏の謎なのだ。
No.3、その日本古代史の謎解きは、4世紀から150年間にわたる中国大陸の五胡十六国時代から始まる。しかし、その謎解きのための史料は多くはない。4世紀の東アジアの歴史は、空白なのだ。それは、漢字を発明した漢民族ではなく、自然に従い定着しない「風の王国」の騎馬民族が支配者だったからだ。
No.4、何故、藤原日本史では、4世紀の明日香ヤマトに、大和朝廷が存在していた、と主張するのか。それは、645年以前の明日香ヤマトには、中国大陸から、日本海を渡り、東北の日本海沿岸に渡来した騎馬民族が、支配者として存在していたからだ。それは、日本列島は、東アジア大陸の回廊だからだ。北海道から本州、沖縄列島を通れば台湾にたどり着く。台湾からは、絹生産地の中国南朝は眼前だ。
No.5、絹は、中国南朝で主に生産されていた。ローマ帝国との絹馬交易のために、ユーラシアの騎馬民族は、北朝諸国を避け、朝鮮半島付け根を支配する高句麗を避けるには、縄文時代から続いていた中国大陸へたどり着くために、日本列島の島ずたいの海路を利用したのだ。
No.6、「魏志倭人伝」には、倭国には馬・牛がいないとされたのに、3世紀後期から出現した古墳には、馬の埴輪が埋葬されていた。では、どのような民族が、日本列島に馬を持ち込んだのか。
No.7、国際交易品の馬を繁殖させるには、日本列島の東北は、気候も土地柄もユーラシア大陸と、大変似通っているのだ。東ユーラシアから新潟に渡来して、阿賀野川を遡れば、そこには大草原に囲まれた猪苗代湖があり、又、信濃川を遡れば、そこにも大草原に囲まれた諏訪湖がある。5世紀から、その会津、諏訪には、馬具や鉄武器・農具が埋葬された前方後円墳が築かれていくのだ。
No.8、その諏訪では、渡来騎馬民族は、海洋民族の安曇族と遭遇するのだ。騎馬民族と海洋民族には、国際交易民族としての共通点がある。そして、物流での補完がある。海を渡るには船が必要だ。陸地を行くには馬が必要だ。この船と馬を使うことにより、日本列島での物流網が完成するのだ。しかし、古墳を破壊する奈良時代になると、日本列島の川と山の交易路を開発した海洋民族と騎馬民族の交易権が、唐進駐軍の後ろ盾を得た仏教組織に奪われると、川筋に暮らす海洋民族は「カッパ」と貶められ、そして、山道に暮らす騎馬民族は「テング」として貶められて行くのだ。
No.9、安曇(アズミ)の地名は、「地名大辞典」によれば、新潟、長野、富山、岐阜、山梨、大阪、岡山、奈良、和歌山、兵庫、鳥取、福岡にある。このアズミの地名を辿れば、安曇族の交易ルートが分かる。古代の日本列島では、東北の新潟から、九州の福岡まで、海洋民族の安曇族が、国際交易のため、外洋船や川船を駆使して行き来していたのだ。縄文時代から始まる、出雲から青森まで続く日本海沿岸の巨木文化は、海洋民族の安曇族の海洋国際交易ルートとの関係を示唆する。
No.10、その海洋民族が活躍し始めた、紀元前1世紀前後の日本列島の北九州は、漢字文化圏にあった。北九州と朝鮮半島南端には、倭族(イゾク)の百余国の都市国家があり、その都市国家はローマ帝国と絹馬交易をおこなっていた後漢の支配国となっていた。
No.11、1世紀末期頃、東北ユーラシアに興った遊牧民族鮮卑は、騎馬民族スキタイの騎射技術を取り込むと、遊牧民族匈奴を倒し、絹馬交易で潤う後漢を攻撃したことにより、220年後漢が滅び、魏・蜀・呉の三国時代に突入した。
No.12、この中国三国時代、魏は、247年倭国へ軍事顧問の張政を派遣し、邪馬台国と狗奴国との戦争に介入した。邪馬台国は魏の絹生産基地で、女王卑弥呼は、魏に絹を貢納していたからだ。その根拠として、弥生時代の日本列島の遺跡で、絹が発掘されるのは、北九州以外には無い。そして、それは、魏の明帝から、卑弥呼が親魏倭王に封じられて、金印紫綬を授けられていたことからも証明できる。この北九州には、弥生時代の墓が発掘され、その埋葬法は、南インドや東南アジアと同じ、甕棺に屈葬だった。
No.13、265年魏が滅び、晉が中国を統一すると、しばらくは平穏だった中国も、バイカル湖畔に興るチュルク系騎馬民族の東進により、317年頃から五胡十六国の時代に突入する。この4世紀の五胡十六国時代が、中国も日本列島も謎の時代だ。藤原日本史では、この謎の4世紀を、倭の五王の時代とする。しかし、この五倭王とは、飛鳥大和の王ではなく、朝鮮半島南端と北九州を支配していた王のことだ。
No.14、中国の歴史は、各帝国が歴史書を編纂していたので、それにより歴史が「推測」できる。しかし、中国王朝の北に隣接する遊牧・騎馬民族の歴史は謎だ。それらの民族は、歴史書も地上に遺跡も残さないからだ。
No.15、中国漢代の歴史家司馬遷(紀元前145年〜紀元前86年?)の歴史書「史記」によれば、紀元前3世紀頃、シベリア草原地帯にチュルク系(=トルコ系)の諸民族が存在した。その民族は、紀元前8世紀に、鉄で轡を発明したことにより騎馬を可能にしたスキタイ民族の騎馬技術を習得すると、東西にその勢力を増していった。その騎馬民族は、中国王朝により、丁零(ディンリン)→勅勒(チールー)・高車→鉄勅(ティエルー)と呼ばれ、552年モンゴル高原西方、アルタイ地方に遊牧騎馬民族国家・突厥帝国が興った。
No.16、突厥民族は、ユーラシアを支配した他の遊牧民族や騎馬民族と異なることは、唯一自民族の文字(オルホン・エニセ文字)を創出したことだ。その文字は、象形文字のカナクギ文字で、アルファベットのフェニキア文字・ギリシャ語から影響を受けた表音文字だ。その突厥語の発音も特徴がある。子音に硬・軟の区別があり、母音を省略する。その語順も、中国語語順の、私(主語)+読む(述語)+本(目的語)ではなく、私は(主語)+本を(目的語)+読む(述語)、だ。現在の日本語語順と同じなのだ。そして、突厥語には、中国語にはない、格語尾がある。格語尾とは、日本語の「格助詞」である、「て・に・お・は」と同じ働きをする語尾だ。
No.17、ここに疑問が生じる。それは、日本列島は、紀元前1世紀から江戸時代まで、中国文化の影響を強く受けていた。藤原京、平城京、平安京などの都は、中国の都のコピーだ。そして、日本の正史と信じられている「日本書記」も漢語で記述されている。だったら、日本語語順も、中国語語順でもよいはずた。しかし、日本語語順は、北方騎馬民族の言葉であるウラル語語順だ。これはどうい訳だ。
No.18、日本国には、漢語に対抗して、漢語以前から万葉語がある。そこには、やまと言葉がある、と主張するひとがいる。文字はなかったが、古くから「やまと言葉」が存在した、と信じているのだ。では、その「万葉語」「やまと言葉」とは何か。この万葉語の解明が、藤原氏により消された歴史の封印を解くのだ。
No.19、藤原日本史では、日本古来の言葉で綴られた歌が、飛鳥時代から歌われて、759年大伴家持の歌が最後だから、「万葉集」は759年完成と述べている。しかし、20巻、約4500首ある「万葉集」には、謎が多くあるのだ。現在、出版されている「万葉集」は、奈良時代の759年本ではなく、鎌倉時代に仙覚が、多くの「万葉集」を参考に著した20巻本を基本としているのだ。平安時代に多くの「万葉集」が存在した根拠としては、905年紀貫之等による日本最初の勅撰和歌集「古今集」の序文に、「万葉集」に入らぬ古き歌、みづからのものを奉らしめ給ひてなむ、とあるのに、現在に伝わる「万葉集」巻七の歌が全く同じに15首も「古今集」に入集されているからだ。このことから、現在に伝わるのとは異なる「万葉集」が、平安時代に伝わっていたことが疑われる。
No.20、何故、奈良時代、平安時代に「万葉集」が著されていなかったのか。その謎は、「万葉集」の歌は、安康天皇3年(456年)に即位したとされる雄略天皇から、天平宝字3年(759年)大友家持まで集録されている。「万葉集」には、その456年から756年まで歌われているのに、552年仏教が伝来して、飛鳥大和には仏寺が多く建立され、天皇家を護る宗教として隆盛したと「日本書記」には記述されているのに、仏を詠んだ歌がほとんどないのだ。仏は、「日本書記」で述べているのとは異なり、天皇家では日常生活に関係する「モノ」ではなかったようだ。
No.21、更に、謎は続く。「万葉語」には、濁音を専門にあらわす万葉仮名が使用されていたのに、平安時代に成立した「平仮名」には、長らく濁音をあらわす文字がなかったのだ。「万葉集」の時代には、母音の一部に二種類の発音があり、単語ごとに明確に使い分けられていた。そして、万葉仮名には、平安時代のひとが聞き分けることができない、音の区別を、明確に書き分けているのだ。
No.22、平安時代とは、唐進駐軍に支援された百済系王朝時代だ。だから、平安時代の貴人の会話は、中国の唐音で発音されていた。唐音は、京都弁の祖だ。その平安貴族が、万葉語の発音を聞き分けることができないことは、何を意味しているのか。それは、万葉歌を歌っていた民族は、平安貴族の祖ではないことを示唆する。明日香ヤマトの民族と平安時代の貴族とは、異なる民族だったのだ。
No.23、では、藤原日本史では、「万葉集」が、何故、759年の奈良時代に完成、としたのか。それは、「万葉集」の構成に、その謎が隠されている。「万葉集」の「巻第一」の巻頭歌は、雄略天皇の歌だ。仏教宣伝バイブルと云われる822年「日本霊異記」も雄略天皇の話から始まる。オオハツセ ワカタケノ スメラミコトと云われる雄略天皇の万葉歌をみてみると、

籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも

この歌は、毎年若菜摘みで詠われる「よばい」の歌だ。何故、毎年歌われる「よばいの歌」が、雄略天皇の歌と云われるのか。
No.24、不思議は続く。第二の歌は、舒明天皇だ。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は

この舒明天皇の歌が詠われたのは、628年から641年までの間だ。第一の雄略天皇の歌が5世紀後半だとすると、第二の舒明天皇の歌とには、約180年間の空間がある。この180年間には、日本国の黎明期があるのだ。舒明天皇以降は、謎の「大化の改新」があった孝明天皇の時代を除いて、各天皇ごとに途切れなく続いているのだ。
No.25、「古事記」を、「日本書記」の「黙示録」とすれば、「万葉集」は、明日香ヤマトの謎を解く「鍵」を示しているのか。「万葉歌」を詠っていた、明日香ヤマトの民族は、現在の日本語語順を確立した民族であることを示唆する。それは、ウラル語を話す騎馬民族の突厥民族だ。では、その突厥語の書物は、明日香ヤマトに存在していたのか。
No.26、明日香ヤマトには、大和朝廷に不都合な書籍があったようだ。「続日本紀」に、元明天皇が年号を「慶雲」から「和銅」に改元した、708年に出された恩赦の記事に、

山沢に亡命して、禁書を隠しもっているもので、百日以内に自首しないものは、罪は初めのようにする。(死罪で、恩赦しない。)

このことから、708年には、明日香ヤマトには、禁書があったのだ。これは、藤原日本史で述べる、645年蘇我蝦夷により、天皇紀・国紀が焚書されて、明日香ヤマトの歴史書は存在しない、と矛盾する。日本列島には、藤原氏にも読めない言葉や発音で記述された「書物」があったのだ。
No.27、では、突厥語が、日本語のルーツか。そうではない。突厥民族が、明日香ヤマトに侵攻した、6世紀半ばには、南方系のポリネシア語、先住民のアイヌ語、南インドのタミル語、朝鮮半島の高句麗語・百済語・ギリシャ・ローマ文化の新羅語が存在していたのだ。突厥語の特徴である、カナクギの象形文字(後のカタカナ)、子音に硬・軟の区別、母音の省略などにより、「たそがれ」・「タフノミネ・多武峰」(連山の意)などの突厥言葉を残しただけで、古代日本列島の共通語とはなれなかった。しかし、その突厥語の語順である、主語+目的語+述語は、日本列島に暮らす民族の共通語順として、今日に至っている。万葉語とは、万国の言葉の意味だった。
No.28、「万葉集」の構成が示す、雄略天皇から舒明天皇までの180年の空白が示す不自然さは、何を意味するのか。そして、仏を詠む歌が、「万葉集」にないのは何故か。舒明天皇の歌が詠われた後、孝明天皇時代の646年薄葬令が出され、明日香ヤマトでは、巨大前方後円墳の築造が禁止されていたのだ。しかし、「日本書記」で国譲りされたとする出雲地域では、依然、前方後円墳が造り続けられていたのだ。その前方後円墳築造禁止が出された孝明天皇時代の歌が、「万葉集」にはないのだ。
No.29、仏の歌を詠わない「万葉集」には、何かのメッセージが隠されているようだ。血・死者を穢れとし、そして、死者を燃やす仏教思想が、死者の再生を願い石室に石棺を収める古墳時代中期の552年に、仏教が本当に明日香ヤマトに伝来していたのか。「日本書記」の仏教伝来物語には、藤原日本史に消された歴史があるようだ。
No.30、仏教についての疑問は、江戸時代から多くのひとから発せられていた。そのひとり、江戸時代中期の白隠禅師が、仏の真理を研究するために多数の仏典を読破しても、悟りを得られなかったことにより、「うつ」になってしまい、その結果、悟ったことは、「仏典」には真理がない、ということだった。その仏教の謎を解明したのは、大阪の醤油屋の息子で町儒学者の富永仲基だ。富永仲基は、「出定後語」で、大乗仏教加上説を唱えた。大乗仏教加上説とは、後人は先人の説に自説を加えて正統を装うとし、釈尊の唱えた仏教と大乗仏教とは全く違うことを証明した。
No.31、では、釈尊の唱えた仏教の教えとは何か。それは、バラモン教の唱える輪廻転生のカルマから逃れるため、「非人となり、乞食して生きる」ことだ。そこには、救済も浄土もない。
No.32、大乗仏教による仏教物語では、紀元前6世紀に、シャキャ族の皇子であった釈尊は、人間の生死について悩み、29歳で苦行僧となり、35歳の時、心も物もすべて無関係に存在しているものではない、という真理を悟り、その思想により精神上の生死の苦しみから解脱できる、と説いたとする。
No.33、何故、釈尊は、バラモン教が唱える輪廻転生のカルマから逃れるために「非人・乞食」の思想を考えたのか。それは、釈尊の生国に問題があった。シャキャ族とは、遊牧・騎馬民族スキタイが、黒海沿岸からインドへ渡来した肉食の遊牧民族だ。そのインドへ、アーリア人が侵攻した。アーリア人が、そのインドを支配するために発明したのが、偶像崇拝の菜食主義のバラモン教だ。バラモン教は、先住遊牧民族のトラヴィダを支配するために、身分制度を発明した。それが、バラモンの神官・王と貴族・武士と庶民・奴隷の4身分のカースト制だ。しかし、その他にも身分制があった。それが、不可触賎民チャンダラー(施陀羅)だ。バラモン教では、肉食するトラヴィダ民族を貶めるために、そのようなカースト制を発明し、永遠に変身できないように、輪廻転生の思想を発明したのだ。
No.34、大乗仏教では、釈尊が「非人・乞食」の教えを守り生活するために、生き物を殺すな、ウソをつくな、盗むな、不適切に女と関係するな、そして、午後に食事をするな、身を飾るな、ベットではなく床の上で寝ろ、という五戒・八斎戒を唱えたとする。しかし、その五戒・八斎戒とは、キリスト教の十戒に酷似している。紀元1世紀、ローマ帝国と後漢とによる絹馬交易が盛んとなった頃発明された大乗仏教とキリスト教とには、共通点が多くあるのだ。
No.34、宗教とは、明治時代初期に、英語のリリジョンから作られた言葉だ。その宗教の神が、紀元前14世紀のヒッタイト帝国の楔型文字の粘土版に、契約神ミトラとして記されていた。異民族との交易は、騙し合いだ。どのような宗教でも、「ウソをつくな」との教えがある。それは、宗教の始まりが、取引の平等を求めるために発明された契約神だったからだ。
No.35、紀元1世紀、ローマ帝国と後漢との絹馬交易の中継都市ガンダーラで、新しい宗教が発明された。そのガンダーラは、ギリシャ文化継承国のバクトリアがあった地だ。だから、ガンダーラにはギリシャ文化が継承されていた。そのガンダーラで発明された宗教は、国際交易商人と供に、東西にもたらされた。「ウソをつくな。約束を守れ。」の教えは、国際交易では必須の条件だ。国際交易商人は、その新しい宗教と供に国際交易に励んだ。
No.35、紀元3世紀、インドのバラモン僧のナーガルジュナ(竜樹)が、釈尊の「永久に不変なものはない。」という思想を、インド人が発明した数学の「0」の考えを取り入れ、「空」の思想を発明し、そして、「慈悲」の救済思想へと発展させ、釈尊の「非人・乞食」の個人修行の仏教を、庶民救済仏教に変えてしまった。
No.36、国際交易商人により広められた、この全てのひとを救う救済仏教は、ローマ帝国と後漢との絹馬交易での国際交易に物流で関係していた遊牧・騎馬民族にも浸透していった。国際交易品を中国に運ぶ遊牧・騎馬民族は、中国の儒教や道教に対抗して、救済仏教をこころの拠り所としていた。
No.37、しかし、中国に渡来したばかりの竜樹の発明した救済仏教には、キリスト教物語ソックリの仏教物語とギリシャ彫刻によるガリガリの仏像しか、布教道具がなかった。中国の儒教には、霊魂をあの世に送り出す儀式があった。道教では、不老長寿の仙薬と風水術により庶民の欲望に答えていた。その儒教・道教に対抗して、救済仏教は、中国で変身して行く。ギリシャ彫刻のガリガリの写実的仏像は、女の柔肌に透ける衣装の仏像に替わり、読経もキリスト教の聖歌隊を思わすゴスペル調風となっていった。現在に伝わる仏教儀式の多くは、儒教や道教儀式から租借したものだ。しかし、護摩祈祷の儀式は、平安時代に空海が、拝火のゾロアスター教の儀式から租借したものだ。
No.38、ローマ帝国と絹馬交易で栄えた後漢も、北ユーラシアに興った遊牧・騎馬民族鮮卑の度重なる攻撃により、220年滅んだ。三国時代の内乱から五胡十六国時代にかけて、救済仏教は変身して行くのだ。五胡十六国時代の支配者は、漢民族ではなく、チュルク系騎馬民族やチベット系遊牧民族だ。国際交易のため、全民族に救済を約束した竜樹の救済仏教は、405年五胡十六国のひとつ、後秦(384年〜417年)でバラモン僧クマラジュ(鳩摩羅汁)により、漢訳仏教に変身したのだ。この漢訳仏教には、遊牧・騎馬民族を蔑視する言葉「施陀羅」がふんだんに取り入れられたのだ。
No.39、「施陀羅」とは、バラモン教で遊牧民族トラヴィダを不可触賎民とするチャンダラーの漢訳だ。この「施陀羅」は、肉食する騎馬民族に対抗するには、強力な思想武器となった。殺生禁止により平和を守るとする漢訳仏教思想で、肉食する支配者の騎馬民族を「施陀羅」として、不可蝕賎民とすることが出来るからだ。この漢訳仏教思想を、第二民族とされた漢民族は、支配者の騎馬民族追い落としに利用した。この漢訳仏教思想の布教が、五胡十六国に広がると、騎馬民族の中から、騎馬民族の風俗を遺棄する者も現れた。騎馬民族の漢化だ。五胡十六国後の、隋、唐、宋の支配者も、漢化した騎馬民族だった。
No.40、五胡十六国も、南朝は420年武帝により統一され、宋(420年〜472年)となり、北朝は439年太武帝により統一され、北魏(439年〜534年)となった。その北魏を統一した太武帝は、漢民族ではなく、鮮卑族だった。騎馬民族を蔑視する漢訳仏教思想により、五胡十六国の一部の王朝に食い込んだ漢訳仏教は、寺(ジ)という役所施設を国際交易基地としていた。鮮卑族の太武帝が、洛陽を陥落させ、城内の寺(ジ)を捜査させると、そこには夥しい武器が保管されていた。五胡十六国時代の漢訳仏教は、庶民救済よりも、国際交易に興味があったようだ。そのため、漢訳仏教僧は、国際交易品を保管する寺(ジ)を護るため、武装していたのだ。奈良の興福寺から始まる中国製武器の長刀で武装する僧兵の祖が、北魏にあった。そこで、太武帝は、騎馬民族を「施陀羅」とする漢訳仏教を、446年弾圧するのだ。この弾圧により、200万人とも云われる仏教僧が国外追放となり、移動可能のためにクギを使用しない仏閣と供に、その一部が朝鮮半島に渡来した。漢訳仏教を弾圧した太武帝は、民間土着宗教から発展した道教を優遇した。しかし、452年騎馬民族の風俗を嫌う騎馬民族の文成帝により、仏教を弾圧していた太武帝が暗殺されると、仏教と道教の立場が逆となった。北魏を追われた道教士は、朝鮮半島から日本列島へ、又は、中国大陸から日本海(東海)を渡り、東北の日本海沿岸へと渡来した。平安時代、錬金術師空海に敗れた産鉄民族により、出羽三山が修験道の聖地となったのは、東北には、仏教が伝来する前に、産鉄民族により山岳信仰宗教が土着していたからだ。その産鉄で「火を治める」ため、錬金術師空海の仏教軍団に下った産鉄者は、「ヒジリ」と蔑まれ、「聖」として仏教組織の下人となった。
No.41、騎馬民族を蔑視し、仏典と仏像により布教する漢訳仏教と、肉食を禁忌せず、不老長寿の仙術と薬草治療を行う道教とを比べれば、騎馬民族が受け入れた宗教は、漢訳仏教ではなく、道教の方だ。
No.42、この中国北魏から、道教が追放された時代の日本列島は、謎の4世紀に続く、藤原日本史では、倭の五王時代だ。倭王は、海洋民族で、騎馬民族ではない。しかし、藤原日本史で倭五王とする時代、日本列島の古墳の埋葬品が、祭祀道具から、実戦用の馬具や鉄武器・農具へと替わっていた。このことは、日本列島で、騎馬による戦闘がおこなわれていたことを示唆する。
No.43、5世紀後半の東アジアでは、南朝の宋、北朝の北魏、そして、東ユーラシアの柔然が支配していた。その柔然を、中央ユーラシアに興った騎馬民族チュルク系高車が攻撃をし、508年柔然を破った。その勢いで、高車は北魏を攻撃したため、北魏は、535年西魏と東魏に分裂した。そして、北朝は動乱の時代に突入した。
No.44、その北魏が東西に分裂した頃、藤原日本史では、欽明天皇7年(538年)飛鳥大和に、朝鮮半島百済の聖明王から、釈迦の仏像とお経三巻が届けられたとするのだ。その頃の朝鮮半島では、高車と北魏残党との戦闘により、高句麗が南下して、百済と新羅を圧迫していたのだ。その結果、北魏を追われた仏教徒が、528年ギリシャ・ローマ文化の新羅を占領したので、新羅の王族・貴族は北九州に亡命してきた。その時の、北九州での新羅亡命軍と先住民との戦いを、藤原日本史では、527年筑紫国造磐井の反乱として、大和朝廷での内乱としているのだ。
No.45、北魏を分裂させた高車を、バイカル湖沿岸に興った騎馬民族突厥が取り込み、西はカスピ海沿岸から、東は中国大陸極東までを支配し、552年突厥帝国を興した。この突厥帝国庭に、東ローマ帝国の返使ゼマルクスが入った。東ローマ帝国と突厥帝国とは、絹馬交易をおこなっていたが、その交易を中央ユーラシアを支配するエフタルが妨害していたからだ。そのエフタルは、東ローマ帝国軍と突厥帝国軍に挟み撃ちされ、563年散逸した。
No.46、この突厥が高車を取り込み、535年北魏を東西に分裂させた頃、藤原日本史では、飛鳥大和の朝廷に、突然、蘇我稲目が大臣となって現れるのだ。そして、蘇我稲目は崇仏派となり、廃仏派の物部尾輿と神仏戦争を起こした、と藤原日本史は述べるのだ。しかし、この神仏戦争の不思議は、父親に続いて蘇我馬子と物部守屋も続いて神仏戦争を起こした、とするのだ。そして、蘇我親子と物部親子との二度の戦争に、廃仏派として藤原鎌子が二度も登場していることだ。そして、その二度の神仏戦争のストーリーが、仏像を難波の堀江に捨てるなど同じなのだ。その二度目の神仏戦争の時に、少年「聖徳太子」が崇仏派として登場するのだ。その藤原日本史で二度も仏像を投棄したとする難波の堀江とは、唯の堀などではなく、河内湖の水を大阪湾に流し、海外からの大型外洋船を難波津(浪速←ローラン)に接岸するための大運河なのだ。そして、その堀江から取り出した仏像が、長野県善光寺にあるというのも不思議だ。その善光寺の仏像は、物部尾輿が投棄したものか、物部守屋が投棄したものか、その説明は無い。
No.47、では、この神仏戦争での、神とは何だ。一般的には、神道の神と信じられている。しかし、神道の神は、奈良時代に藤原氏により創作され突然現れた神だ。では、神仏戦争の神が、神道の神ではないのならば、一体、どのような神なのだ。
No.48、日本列島で、現在まで祀られていて、出自の分からない神が二神ある。そのひとつが、比叡山延暦寺の裏戸神である「魔多羅神」で、もうひとつが、ヤクザの的屋が祀る「神農皇帝」だ。その「神農皇帝=神農神」は、薬学部の生徒が祀る薬草学の神でもあるのだ。
No.49、比叡山の魔多羅神のルーツを辿れば、魔多羅神はミトラ神だ。その流れは、比叡山(平安時代、祭祀場跡に延暦寺)←三笠山(奈良時代、祭祀場跡に春日大社)←北九州(608年遣隋使が見聞した秦王国)←ギリシャ・ローマ文化の新羅(356年〜527年、新羅軍団は花郎騎士団=ミトラ騎士団)←秦帝国(紀元前221年〜紀元前206年)←ギリシャ文化継承国バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年、大月氏=弓月国)←アッシリア帝国(紀元前933年〜紀元前612年)←イスラエル国(紀元前932年〜紀元前722年)←ヘブライ(紀元前1230年〜紀元前932年)←古代エジプト(紀元前14世紀アメンホテプ4世時代)←ヒッタイト帝国(紀元前1900年〜紀元前1190年、日の出、天中、日没の三身一神の太陽神で契約神ミトラ)、となる。太陽のように再生を繰り返す、死者の復活を約束するミトラ神は、古代エジプトの土木建設と運河削掘技術を持つ秦氏と供に、死者の復活を信じる古代エジプトの埋葬形式を取り入れた石室・石棺を持つ古墳が現れた時代(5世紀半ば)に日本列島に渡来。
No.50、神農神のルーツを辿れば、神農神は道教の神のひとりだ。「神農皇帝」を祀る露天商の的屋(第三百済王朝の江戸時代中期、矢場で博打をおこなっていた。)←香具師(ヤシ。室町時代、役座が仕切る高市のバザールで香具類を商う。)←野士(ヤシ)←野武士(第二百済王朝の鎌倉時代、都を追われる。)←武士(平安時代、939年天慶の乱を騎馬武力で鎮圧したため、祭祀者の武芸者からガードマンの「武士」と王権から認められる。)←蝦夷(奈良時代、唐進駐軍に明日香ヤマトを追われ、陸奥国に逃れる。)←明日香ヤマトの武人(3世紀後期の古墳時代から645年まで、明日香ヤマトを軍事支配する。)←530年〜645年明日香ヤマトの花郎騎士団(ギリシャ・ローマ文化国新羅から渡来)+騎馬民族突厥帝国武人(フェニキアのアルファベットを利用し、漢字を使って明日香ヤマトの万国言葉を表記。カタカナの祖、カナクギ文字の楔形文字を持つ。突厥語語順は現在の日本語語順のルーツ。)、となる。
No.51、藤原日本史によれば、仏教伝来は538年か552年としている。しかし、明日香ヤマトが、唐進駐軍に壊滅された、645年に仏教興隆の詔が発せられている。これは可笑しい。藤原日本史によれば、593年聖徳太子は、女帝推古天皇の摂政となり、594年仏教興隆の詔を発しているではないか。そして、飛鳥大和には、聖徳太子が建立したとする七寺が存在していたのではないか。その謎は、588年着工したとする法興寺(飛鳥寺)跡の発掘物に、ガラス玉や埴輪など古墳埋蔵物と同じ物があることから、解明される。645年以前の明日香ヤマトには、仏寺など無かったのではないか。古墳が破壊された跡に、仏寺(法興寺=飛鳥寺)が、何処からか移築されたのではないか。蘇我馬子とされる古墳が破壊され、石室がむき出しにされた石舞台が現れた、奈良時代初期、明日香ヤマトは、藤原氏により仏教テーマパークにされたのではないか。それは、明日香ヤマトのオリエント文化と、蘇我氏とする騎馬民族突厥民族の歴史を抹殺するためではないか。
No.52、その推測が正しいとすると、蘇我氏と物部氏による、二度の神仏戦争とは何か。それは、藤原氏が、何かを隠す、或いは、消すために、親子二度の神仏戦争物語を創作したようだ。それでは、何故、藤原氏は、蘇我氏と物部氏を歴史上消そうとしたのか。
No.53、藤原日本史によれば、物部氏は587年に、蘇我馬子により滅ぼされ、そして、その蘇我氏は645年、中大兄皇子と中臣鎌足により滅ぼされた、としている。では、その物部氏と蘇我氏とは、何者なのか。
No.54、神仏戦争時の物部氏は、藤原日本史によれば、朝廷を護る軍事部族か祭祀部族で、河内を拠点とする豪族とする。そして、その出自を辿れば、河内←吉備←北九州となり、その先は不明だ。物部氏の九州支配時代とは、藤原日本史で云う倭五王の時代のようだ。藤原日本史では、その頃、飛鳥大和を支配する倭五王は、南朝の宋と交易をし、宋に替わり梁の時代、502年梁の武帝により倭王が征東大将軍とされたとする。その倭五王のひとりを、藤原日本史では、さいたま県稲荷山古墳から出土した剣にあるワカタケル大王を、雄略天皇とするのだ。つまり、5世紀の飛鳥大和を支配した雄略天皇は、倭王武で、梁から征東大将軍を賜った、とするのだ。しかし、倭王武が、478年宋の皇帝に出した上表文には、奈良の飛鳥大和には、倭王国が存在していなかったことを示すのだ。

昔より祖禰躬ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海の北を平らぐること九十五国。

この倭王武の上表文によれば、倭王の遠い先祖は、自ら甲冑で武装して周辺諸国を武力で制圧していたらしい。その文中で、倭国の位置を示す文章がある。それは、「渡りて海の北を平らぐる」の文章だ。奈良の飛鳥大和の北には、当然内陸の盆地なので、海などない。海の北の夷を平らぐことができるのは、北九州だ。その北九州には、弥生時代の倭族の先祖の埋葬形態を示す、甕棺に屈葬の遺跡が数多く発掘されている。弥生時代、その頃の奈良の盆地は、定期的に氾濫する河川により、ひとも住めぬ大湿地帯だったのだ。だから、古代エジプトの土木建築技術を持つ民族が、その大湿地帯を居住地にするために、奈良盆地に大運河を造り、巨大前方後円墳を築いたのだ。
No.55、五世紀の日本列島に、奈良の大和朝廷が支配する倭国などなかったことが、南朝である梁(502年〜557年)の「梁書」に記されている。それによれば、5世紀の日本列島には、倭国(北九州)、文身国(出雲)、大漢国(大阪)、扶桑国(東北)の国々の存在が示されている。もし、4世紀から奈良の飛鳥大和に、日本列島各地の豪族を支配下とし、日本列島各地に、巨大前方後円墳と同型の古墳を築かせ、そして、さいたま県の支配者に剣を贈るほどの大王が、奈良の飛鳥大和に存在したとするならば、当然、中国の史料にその王国の存在が示されているはずだ。
No.56、7世紀初期の奈良の王国の存在を示す中国史料がある。それは、608年隋使裴清(裴世清)の報告による「隋書」だ。それによると、都にて男王アマタリシヒコに謁見した、とある。藤原日本史によれば、その頃の飛鳥大和の朝廷は、女帝推古天皇(593年〜628年)と摂政聖徳太子とが支配していた時代とする。しかし、「隋書」によれば、飛鳥大和には女帝推古天皇など存在していなかったのだ。そして、隋使裴清は、北九州で中国ソックリの高度文化の「秦王国」を見聞していたのだ。藤原日本史では、3世紀の「魏志倭人伝」の卑弥呼については詳しく語るのに、7世紀の「隋書」による隋使の報告の存在を無視しているのだ。
No.57、中国の史料と藤原日本史の物語とには、整合性に多くの疑問が生じる。これは、どちらかが「ウソ」をついていることを示唆する。藤原日本史の基本史料は、720年「日本書記」だ。その720年「日本書記」の文章と、中国各帝国史料とを比べれば、記述の信憑性は、中国史料だ。
No.58、「日本書記」が、明日香ヤマトの歴史について「ウソ」をついているとすれば、明日香ヤマトの史実はどのように推測されるのか。藤原日本史による、538年蘇我稲目と物部尾輿、587年蘇我馬子と物部守屋との二度の神仏戦争とは、大阪湾に流れ込む淀川系水利の支配権を巡って、北九州から河内に侵攻した秦氏と、そして、日本海沿岸の東北→越前→琵琶湖まで侵攻した突厥帝国進駐軍との、20年間に及ぶ水利権戦争を消すための物語が示唆される。その淀川系水利権を支配すれば、内乱の中国北朝と朝鮮半島付け根を支配する高句麗を避けて、東ユーラシアと絹を生産する中国南朝との国際交易ルートが確保されるからだ。国際交易ルートの確保が必要なのは、秦氏も突厥帝国も、国際交易民族であるからだ。
No.59、秦氏が物部氏で、そして、突厥民族が蘇我氏(=継体天皇)であることは、北九州→吉備→河内への、秦氏と物部氏との侵攻ルートが、そして、突厥民族の明日香ヤマトへの侵攻が、越前→河内樟葉→山背筒城→山背弟国→大和磐余玉穂への、継体天皇(=蘇我氏)の侵攻ルートとダブルからだ。謎が多い継体天皇の存在は、「古事記」の継体天皇の年齢表示により否定できるのだ。「日本書記」では「57歳」で即位したとする継体天皇は、「古事記」の「享年47歳」で否定されるのだ。「古事記」は、「日本書記」の偽史を暴くために、平安時代初期、多人長が著した書籍なのだ。藤原氏による継体天皇の発明は、突厥民族の東北日本海沿岸から越前、そして、明日香ヤマトへの侵攻を歴史上消すためだった。
No.60、藤原日本史が述べる552年伝来とする仏教とは、突厥民族が、明日香ヤマトを支配した時にもたらした、漢訳仏教の敵である、神農神を祀る「道教」なのだ。つまり、藤原氏が述べる神仏戦争とは、秦氏により太陽を祀る「ミトラ教」(景教)と、突厥民族が祀る北極星(太一)を天神とする「道教」との戦いだったのだ。

第四章「消された明日香ヤマトの神々」
No.1、日本列島古代史を考察する時、考えなければならないことのひとつは、ユーラシア大陸を支配した騎馬民族の存在だ。その騎馬民族は、年がら年中戦争をしているわけではなく、平和時では、騎馬の輸送力を利用して、あらゆる困難を克服して国際交易をおこなう商業民族でもあるのだ。
No.2、藤原日本史が、「日本書記」で、552年仏教が飛鳥大和に伝来したとする時期に、中央ユーラシアに興った騎馬民族の突厥民族は、西はカスピ海沿岸から東は中国大陸北部の東ユーラシア全体までを支配する大帝国を、552年興しているのだ。そして、東ローマ帝国と絹馬交易をおこなっていたのだ。そのため、国際交易品の絹を求めて中国南朝との交易をおこなうための交易路の確保に躍起になっていたのだ。しかし、中国北朝では、535年北魏が分裂して内乱状態にあり、そして、東ユーラシアから朝鮮半島を経て日本列島への最短経路には、強国高句麗が存在していたのだ。
No.3、騎馬民族突厥は、その祖はバイカル湖沿岸に興った民族だったので、海のようなバイカル湖を渡る航海術に長けていた。だから、東ユーラシアの極東のウラジオストク、ナホトカから、日本海を渡海して、日本列島に至ることは、騎馬民族突厥には困難なことではなかった。6世紀半ば、ユーラシアを支配した騎馬民族突厥は、東ローマ帝国との絹馬交易のため、日本列島を回廊として、絹を産する中国南朝との国際交易を望んでいたのだ。
No.4、589年中国を統一した隋に、突厥の可汗は「天子・テングリ」として隋の皇帝に書を致した。その提出時期は、藤原日本史が述べる、聖徳太子が隋の皇帝に「国書」を出したとする少し前だ。

天より生まれたる大突厥の天下聖賢天子のイリキュルシャドバガ・イシュバラ可汗、書を大隋皇帝に致す。

その国書を出した後、582年突厥は、隋に侵攻したが破れ、翌年、突厥は東西に分裂した。藤原日本史によれば、その頃の日本列島の明日香ヤマトでは、蘇我馬子(突厥進駐軍王)が、大臣として飛鳥大和朝廷を支配していたとする。そして、592年蘇我馬子は、崇峻天皇を暗殺した、とするのだ。
No.5、藤原日本史では、607年遣隋使小野妹子は、隋の皇帝に「国書」を提出した。その「国書」とは、

日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや。

その返書はなく、その代わり、翌608年隋使裴清(裴世清)が倭国に派遣されたのは何故か。隋使裴清は、倭国の都で、女帝推古天皇ではなく、男王アマタリヒシコに謁見し、何を語ったのかは謎だ。そして、その年に隋使裴清は帰国した。
No.6、6世紀後半のユーラシア大陸を支配していた突厥帝国が、583年東西に分裂したことにより、突厥帝国軍団の一部が、日本列島に渡来した。そのことにより、明日香ヤマトは、隋帝国軍の侵入に備えて、軍事要塞化されたのだ。藤原日本史で述べる「聖徳太子の国書」とは、敗者復活を求める明日香ヤマトの突厥帝国残党による、隋皇帝に対する挑戦状であったのだ。しかし、その隋帝国は、高句麗侵攻の失敗により、618年滅んだ。
No.7、618年隋が滅ぶと、唐が興った。唐の国際都市長安には、各国の国際交易商人と供に、ゾロアスター教やネストリウス派キリスト教などの西域の僧侶が、571年ムハンマドにより興されたイスラム帝国から逃れるために、多数渡来していた。6世紀のユーラシアを支配した突厥帝国の国力が衰えたのは、中東に興ったイスラム帝国の商人が、東ローマ帝国との絹馬交易権を奪ったからだ。東ローマ帝国との国際交易ができなくなったため、突厥帝国の軍団の中には、進んで、唐軍団に走ったものも多くあった。その結果、東突厥は、630年唐帝国軍により散逸されてしまう。
No.8、母国東突厥を失った明日香ヤマトの支配者は、来るべき唐帝国軍の侵攻にそなえて、軍事施設の「ミヤケ」を畿内から瀬戸内海沿岸地域にかけて築き、北九州には大きな堀を築き「水城」とした。明日香ヤマトの防衛軍は、唐進駐軍は瀬戸内海からか、或いは、若狭湾からの侵攻を想定したので、軍事都市明日香ヤマトの備えは、北側と西側を強化した。南側は吉野山系により、唐軍団が侵攻しないと考えたわけだ。明日香ヤマトの南側を守るのは、多武峰の山城だけだ。しかし、唐進駐軍は意外なところから現れた。
No.9、645年この唐軍の明日香ヤマトへの侵攻の経緯は、「日本書記」の神武天皇東征物語に述べられている。その物語では、神武天皇軍が、九州から飛鳥大和を攻略するために、河内湾の西側から奈良盆地を攻めたが、ナガスネヒコの先住民族の抵抗に会い、撤退を余儀なくされ、紀ノ川河口まで逃れた。そこで、正攻法では勝利できないと悟った神武天皇軍は、飛鳥大和を護る宇陀のウカシ・オトウトカシ兄弟を仲違えさせ、オトウトカシに宇陀の情勢を密告させるのだ。そして、ウカシを殺害した後、神武軍は熊野の古道により、南側から明日香ヤマトに侵攻したのだ。この「日本書記」の神武天皇東征物語の登場人物を、神武天皇軍を「唐進駐軍」、宇陀のオトウトカシを「中臣氏」(藤原氏の祖)、ナガスネヒコを「新羅花郎騎士団」、ウカシを「突厥帝国軍」とすれば、645年明日香ヤマトがどのようにして壊滅したかを想像できる。
No.10、645年明日香ヤマトを追われた突厥帝国軍残党と新羅花郎騎士団残党は、秦氏が支配している、奈良盆地の北側の山背国に落ち延びるのだ。しかし、この明日香ヤマトの歴史は、645年の焚書で消されてしまった。この焚書事件を、藤原日本史では、645年蘇我蝦夷が天皇紀と国紀を焚書した、とするのだ。しかし、書物は焚書できるが、言葉や風俗・文化は、為政者により人為的に消すことは出来ない。遺跡も破壊から免れることにより、物言わぬ資料となる。
No.11、645年明日香ヤマトを唐進駐軍が支配すると、その配下の中臣氏は、籐氏(藤原氏は正式文章では「籐氏」)と名乗った。686年日本国初の天皇である、新羅系天武天皇が崩御すると、藤原不比等は、女帝持統天皇を傀儡として、偽書編纂にとりかかった。701年奈良盆地を完全支配した唐進駐軍は、日本列島住民を法律と罰で支配するために、唐制にならい、大宝律令を発した。名実ともに唐進駐軍の傀儡として実権を握った藤原不比等は、律令にもとずく地方からの収税体制を確立するために、山陰道は伯耆国、山陽道は備後国、南海道は讃岐国、東海道は相模国、東山道は信濃国、北陸道は越中国の諸国の国司(ミコトモチ)達に、任国の「土風の歌舞」や「風俗の歌舞」を奏上させた。それは、偽書「日本書記」を創作するための資料集めだ。
No.12、古墳時代に敷設された各国に通じる道とは、唯の道ではないのだ。側溝を持ち、何層にも土固められた道幅は、狭いところで12mもあるのだ。そして、谷は埋められ、峠は切り通された直線道路だったのだ。それは、正に、ローマ帝国軍の軍事道路と、その敷設思想は同じだ。そのひとつの東山道は、東北の秋田までつづくのだ。藤原日本史によれば、東北の秋田は、801年坂上田村麻呂にアテルイが騙されて支配されるまで、未開の地ではなかったのか。そして、更に、713年藤原不比等は、各国の国司に、風土記撰上の詔を発した。そして、同年「畿内七道の諸国郡郷の名は、好字を著けよ。」の好字令により、古来からの日本列島各地の郡名・郷名が、騎馬民族の歴史と供に消されたのだ。
No.13、藤原日本史の不思議のひとつは、時代的に古いほど、飛鳥大和から距離的に遠いほど、大和政権や律令制度との係わり合いが深く整合的に整えられていることだ。これはどういうことだ。それは、地方の異民族に強制的に提出させた古い史料を基に、藤原氏に都合よく、歴史物語が創作されているからだ。「日本書記」は、藤原不比等により、各国の被支配者から集められた史料を参考に、創作されていたからだ。
No.14、「日本書記」が藤原氏による偽書である根拠のひとつとして、646年「大化の改新」の詔がある。その詔では、人民を統治するために「郡制」を施行したとする。しかし、郡制の施行は、646年ではなく、701年大宝律令以降で、それ以前は、評制であったことは、藤原京跡出土の木簡により証明されているのだ。
No.15、藤原日本史では、4世紀に飛鳥大和に天皇家による王権が存在していたとする。その根拠として、三輪山麓の傾斜地に巨大前方後円墳が築かれているからとする。つまり、藤原日本史では、巨大前方後円墳は、天皇家の墓とするのだ。しかし、巨大古墳の築造の目的は、その地域を支配した者の墓だけではないようだ。
No.16、4世紀から5世紀前半にかけて、能登七尾市域に、南側に径67m高さ14.5mの円墳と北側に全長70mの前方後円墳が築かれている。この地域には、政治勢力の並存は考え難い。では、同時期に築造された円墳と前方後円墳は、唯、死者を埋葬するだけの墓なのか。古墳文化の民族は、死者は再生すると信じられているので、分断して埋葬することはない。だとすると、二つの異なる形式の古墳は、唯の墓ではなく、あることを目的にする記念的営造物と考えられる。
No.17、巨大古墳は、藤原日本史で主張するように天皇家の墓として発明されたのではなく、異民族が暮らす地域での共同体を形成するために、そして、その結果としての、地域的専制体制を意図して、高度土木建築技術を持つ渡来民族により、その時代時代の情勢に合わせて築かれたものだ。
No.18、巨大古墳出現時には、前方後円墳と同時に、前方後方墳も築かれていた。その二つの巨大古墳を分解すると、前方後円墳=方墳+円墳だ。そして、前方後方墳=方墳+方墳だ。円墳は、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の新羅慶州に多く発掘されている。方墳は、騎馬民族が、ユーラシア大陸から日本海を渡海して訪れた、日本海沿岸の出雲、北陸に多く発掘されている。そして、4世紀初期の前方後方墳は、近畿地域よりも、北陸諸地域に断然多く発掘されている。その同時期に築かれていた二つの巨大古墳は、やがて、前方後円墳に統一されていき、そして、古墳時代後期には、前方後方墳はほとんど発掘されない。
No.19、では、前方後円墳が、唯の墓ではなく、記念碑的営造物だとすると、その場でおこなわれた儀式とは、どのようなものか。藤原日本史では、二度の神仏戦争で、祭祀民族とする物部氏が廃仏派で、日本列島古来の神を祀らず、蕃神の仏を祀ると祟りがある、と述べている。そして、その神は、神道の神とするのだ。しかし、藤原日本史による、この説明は可笑しい。それは、神道は、死を穢れとしているからだ。
No.20、巨大古墳を破壊し、穢れ思想が蔓延していた平安時代では、危篤状態のひとは、息のあるうちに外に放り出されていたのだ。死者が、家内にいると、その家自体もその家族も全て「穢れ」てしまうからだ。その穢れを祓うために、その喪の日数も規定されていたのだ。平安時代と異なり、死者の復活を信ずる古墳時代に、死を「穢れ」とする神道の神が、古墳を築いた民族に受け入れられていたはずはないのだ。このことからも、死者の復活を信じる古墳時代(畿内4世紀〜645年・畿外4世紀〜8世紀半ば)に、穢れとして死者を燃やしてしまう漢訳仏教が、646年薄葬令が出るまで古墳を築いていた明日香ヤマトに、552年伝来していたはずはない。天皇で初めて火葬されたのは、697年女帝持統天皇だ。その前686年崩御の天武天皇は、土葬だった。
No.21、騎馬民族が多く渡来した日本海沿岸の越前国、能登国を中心に、日本海沿岸地域には、カラカミ(漢神)信仰が、奈良時代から平安時代まで残されていた。その神は、官製の神ではないため、大和朝廷の神祇統制や仏教統制にも把握されていなかった。では、そのカラカミと大和朝廷から云われた神は、どのような神であったのか。
No.22、唐進駐軍を後ろ盾にしていた藤原氏が、国璽を私邸に持ち込んだり、勝手に貨幣を鋳造したり、天皇家の権威を排除したり、唐進駐軍傀儡から独立するために起こした、764年恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱により、薩摩ハヤトを中心とした藤原軍団は壊滅され、それに替わり、亡命百済貴族末裔の光仁天皇の息子桓武天皇が、唐進駐軍の傀儡となった延暦年間、791年(延暦10年)、801年(延暦20年)、越前に詔が発せられた。それは、牛を殺してカラカミを祀ることの禁止だ。(「続日本紀」による。)この牛の屠殺禁止は、越前だけではなく、それ以前の、奈良時代741年にも牛の屠殺禁止が、朝廷から発せられていたのだ。
No.23、では、大和朝廷は、何故、牛の屠殺を禁止したのか。藤原日本史で述べる552年仏教伝来により、殺生禁止の思想が広がっていたから、という答えは、答えにならない。もし、全ての動物の屠殺禁止であれば、何故、牛の屠殺だけ詔を出してまで禁止したのかを説明できないからだ。牛の屠殺とは、食肉を取るためではなく、蕃神のミトラ教の宗教儀式だったのだ。古墳時代の民族は、仏教・神道が伝来する以前に、ミトラ教の儀式により、日照りを解消するために、古墳近くの斎場で牡牛を屠っていたのだ。
No.24、太陽を神として祀り、牡牛を太陽の化身とするミトラ教では、太陽が冬至に死に、そして、再び復活することを、牡牛の犠牲儀式により再現したのだ。この儀式は、紀元前14世紀イクナトン4世の宗教改革が失敗し、そのことにより古代エジプトから脱出した民族が、シナイ半島で遊牧民族と出会ったときに発明されたようだ。
No.25、では、そのミトラ教を日本列島に、いつ誰が持ち込んだのか。考えられるのは、ギリシャ・ローマ文化国新羅からだ。ギリシャ・ローマ文化の古代新羅は、漢語ではなく、漢字をアルファベットとして使用していたのだ。もちろん、中国皇帝と漢語でコミニュケーションが執れなかったので、漢訳仏教が伝来していた高句麗や百済の通訳を必要としていたのだ。そして、527年まで、古代新羅は、仏教国ではなかったのだ。それは、古代新羅は女王国であったので、血の禁忌により女性を蔑視する漢訳仏教など受け入れるはずはなかったのだ。この古代新羅の軍団は、ローマ帝国軍と同じに、、ミトラ神を軍神として祀っていたのだ。そのため、古代新羅の軍団は、花郎騎士団と呼ばれていた。「花」とは、「ミトラ」の借字だ。このミトラ教は、秦氏と供に、古代エジプトの埋葬思想と同じ横穴式石室・石棺を持つ古墳が出現した頃、日本列島に伝来したのだ。その石室・石棺の古墳時代には、ミトラ教の他に、騎馬民族と供に、道教が伝来していた。
No.26、藤原日本史では、日本列島には、神道と仏教のみが、朝廷で認められていたとし、ミトラ教や道教の存在を認めていない。その明日香ヤマトのミトラ教と道教を歴史上消すための仕掛けが、「日本書記」による、蘇我氏(=突厥軍団)と物部氏(=秦氏)が登場する二度の神仏戦争物語だ。しかし、現在の伊勢地域には、「太一」信仰がある。太一とは、北極星のことだ。平安時代、「日本書記」の偽書性を暴くために、多人長は812年「古事記」を創作し、古墳時代の明日香ヤマトでは、「仏」ではなく、「北極星」を祀っていたことを暗示するために、「天御中主命=北極星」を神話の最初の神としたのだ。その北極星は、道教では神であるのだ。その道教の神である北極星を護るのが、北斗七星で、それは、真人と呼ばれた。その真人は、天皇を護る高官名だ。天皇による人民支配システムは、騎馬民族の支配システムから発明されたものだ。再生を信じる騎馬民族は、不老不死の神仙思想の道教を信仰していたので、その騎馬民族の支配システムには、道教思想が取り込まれていたのだ。それに、騎馬民族にとって、天の中心で不動の北極星は、目標が定かではない大草原を移動するには、現在位置を示すナビゲータでもあったのだ。騎馬民族は、「夜」北極星を眺め、現在位置を確認していたのだ。
No.27、古墳時代の明日香ヤマトで、ミトラ教や道教が支配者により祀られていたが、645年唐進駐軍に、明日香ヤマトが占領されてしまったため、ミトラ教徒や道教士は、山奥に逃れたのだ。そして、それらの祭祀者は、侵攻して来た漢訳仏教により、「鬼」と呼ばれて行くのだ。
No.28、古代の政治とは、「マツリゴト」と言い、政治は祭祀儀式と密接な関係でおこなわれていた。その「マツリゴト」の最高祭祀者が、その民族の支配者ということだ。だから、支配者は、その民族の宗教シンボルを祀るのだ。秦氏は、太陽神ミトラを祀るので、「日・太陽」を祀り、突厥民族は、「北極星」(太一)を祀る。だから、秦氏の祀りがおこなわれるのは、太陽がある「昼間」だ。そして、突厥民族の祀りがおこなわれるのは、北極星がある「夜」だ。645年以前の明日香ヤマトでは、秦氏と突厥民族とが、それぞれ「昼」と「夜」に分かれて政(まつりごと)をおこなっていたのだ。その二つの異なる民族による二重政治を意味するのが、「明日香ヤマト」の地域名だ。奈良県の530年から645年までの「明日香ヤマト」とは、突厥民族の都の意味のアスカと、秦氏の北九州「秦王国」の山台国(大分宇佐地域の山は台型山が多く存在している。)を合体させたものだ。それを、藤原氏は、713年の好字令により、「飛鳥大和」として、前政権の突厥民族と秦氏の歴史を消していたのだ。
No.29、日本列島の明日香ヤマトの「マツリゴト」を示す史料がある。それは、藤原日本史が、隠蔽した、600年遣隋使と隋文帝との遣り取りを記した文章だ。その文章には、遣隋使による倭国の政治についての説明がある。

倭王は天を以って兄とし、日を以って弟と為す。天未だ明けざるとき、出て政を聴き、跏趺して座す。日出づれば便ち理務を停め、倭が弟に委ねんという。

明日香ヤマトの600年とは、藤原日本史では、女帝推古天皇(593年〜628年)と摂政聖徳太子が政をおこなっていた時代だ。しかし、隋の国書である「随書」には、遣隋使の報告のによれば、政治は「昼夜」の二重体制となっていたことが示されている。その600年遣隋使の記事は、「日本書記」にはないのだ。そして、その「隋書」の文章には、倭王は騎馬民族であることが示されている。それは、「跏趺して座す。」の文章だ。その座り方は、「アグラ」だ。騎馬民族の正式な座り方だ。現在では、「アグラ」は下品な座り方と言うが、正座は、漢訳仏教が広めた罪人の座り方なのだ。
No.30、藤原日本史で云う推古天皇の時代、奈良盆地には、北側の飛鳥と、南側の斑鳩とに都があったとする。北側の飛鳥では女帝推古天皇が政をおこない、聖徳太子は蘇我氏の横暴を避けるために、南側の斑鳩に引越し、毎日、その20kmほどの距離にある飛鳥まで、愛馬黒駒により通勤していた、とするのだ。だとすると、馬が疾走できるのは昼間であるから、飛鳥大和での政は、藤原日本史によれば、「昼間」におこなわれていたことになる。すると、「隋書」との整合性が合わないことになる。それでは、「日本書記」か「隋書」とのどちらかが「ウソ」をついていることになる。
No.31、藤原日本史では、その聖徳太子が住む斑鳩に、607年法隆寺を建立したことになっている。しかし、その法隆寺は、670年落雷により全焼してしまった、と言うのだ。昭和の中頃、その法隆寺境内で発掘がおこなわれた。そこで、遺構が発掘されたのだ。その遺構は不思議なことを示していた。その遺構は、仏教寺院建築基準に合わないのだ。仏教寺院建築基準は、南北軸だ。しかし、その遺構は、南北軸より西に約20度傾いているのだ。この南北軸から西に約20度傾いている遺構は、古墳時代には秦氏の棟梁秦河勝の支配地であった、太秦の広隆寺跡(弥勒菩薩=ミトラ神が祀られていた。)からも発掘されている。これはどういうことなのだ。
No.32、太陽神ミトラを祀るミトラ教では、冬至は聖なる特別な日だ。ミトラ教では、太陽が最も低い位置にある12月25日(キリスト教は、ミトラ教の聖なる日を「クリスマス」として取り込んだ。)に、太陽神再生のため、太陽神の化身である牡牛を屠るのだ。そのための祭祀施設は、冬至の太陽が当たる、南北軸から西に約20度傾けて建設されるのだ。このことから、法隆寺境内から発掘された遺構は、ミトラ教の宗教施設であることが示唆される。斑鳩は、秦氏の祭祀者が、「昼」に政をおこなう都だったのだ。だとすると、飛鳥は、突厥民族が政を「夜」おこなう都と推測される。
No.33、藤原日本史では、崇仏派の蘇我氏は、仏像を安置するために、私邸を仏寺とした、とする。そして、588年法興寺(飛鳥寺)の建設着工をし、596年完成した、とする。しかし、その法興寺跡を発掘すると、古墳の埋蔵物と同じものが出土したのだ。そこから考えられることは、法興寺は、古墳を破壊した跡に移築されたということだ。この推測が正しいとすれば、法興寺の移築時期は、588年ではなく、畿内の古墳時代が終焉した645年以降が考えられる。この推測を証明するように、この飛鳥地域からは、仏教文化では説明できない、オリエント文化を示すような遺構・遺物・石物などか沢山発掘され「つづけて」いる。
No.34、奈良盆地では、明日香ヤマトのオリエント文化色の強い石造物、大路、大運河の遺構・遺跡が、今も発掘されつづけている。藤原日本史信奉者は、それらの遺構・遺跡の説明として、「日本書記」にある斉明天皇の業績に結び付ける傾向がある。「日本書記」によれば、皇極天皇(641年〜645年)が斉明天皇(655年〜661年)となって、飛鳥大和に、大運河、石積みの丘、多武峰に宮を建設していた、とするからだ。しかし、藤原日本史で言うところの飛鳥時代、つまり、古墳時代に敷設された大路と言われる幅広の直線道路は、南北軸ではなかったのだ。その斑鳩から飛鳥につづく大路は、藤原日本史では、「太子道」と云われている。それは、聖徳太子が通勤のため、愛馬黒駒で疾走したからという。その大路は、南北軸から西に約20度傾いているのだ。それは、斑鳩の都が、南北軸から西に約20度傾いているからだ。斑鳩は、ミトラ教の都だったのだ。
No.35、645年唐進駐軍が、明日香ヤマトの支配者を奈良盆地北の山背国に散逸し、694年唐の都を真似た藤原京に遷都する時、奈良盆地に大路を敷設するのだが、その敷設基準は南北軸だ。その南北軸の大路の下から、「太子道」が発掘されていることは、「太子道」は、藤原京遷都時代よりも古いということだ。
No.36、「太子道」を斉明天皇が敷設したとするならば、斉明天皇は、ミトラ教信者だったのか。斉明天皇の「斉明」とは、「あまねく照らす。」の意味だから、太陽天皇ということになる。しかし、藤原日本史では、「太子道」で飛鳥まで通勤していた聖徳太子は、622年46歳で死去したことになっている。それでは、655年に即位した斉明天皇は、「太子道」である大路を、奈良盆地に敷設することは不可能だ。だとすると、古墳時代(飛鳥時代)に、奈良盆地に、南北軸から西に約20度傾いた大路を敷設したのは、誰なのか。
No.37、奈良盆地の大運河にも疑問がある。それは、608年小野妹子に伴って来朝した隋使は、難波津で川船に乗り換え、都に至っていたからだ。奈良盆地の大運河は、655年即位した斉明天皇以前の、608年には存在していたのだ。そして、斉明天皇が建てたと言う多武峰の両槻の宮も、その地には、4世紀から石組で麓を囲った朝鮮式山城があったのだ。すると、結果的には、斉明天皇が大土木事業により造ったとするものは、それ以前から明日香ヤマトに存在していたものばかりだ、と言うことだ。藤原氏は、斉明天皇の大土木事業物語を創作して、明日香ヤマトの「何」を消そうとしたのか。
No.38、現代の考古学研究によれば、その発掘物から分類すると、4世紀から6世紀中頃までの日本列島には、いくつかの文化の異なる地域国家があったようだ。地域国家としての条件は、王権の存在と支配組織、支配地域、独自の文化的特徴の三っだ。その条件を満たすのは、九州のツクシ、瀬戸内のキビ、近畿のヤマト、丹後のタニハ、日本海西部のイツモ、関東のケヌだ。中国の「梁書」によれば、九州の倭国、出雲の文身国、大阪の大漢国、東北の扶桑国だ。藤原日本史が述べるように、4世紀に興った飛鳥大和の朝廷が、日本列島の四方を支配していたとする、考古学的証拠などないのだ。それらの、日本列島に並存していた地域国家が、交渉や競合の結果、6世紀半ばから7世紀にかけて、明日香ヤマトを中心に統合されていったようだ。その時の明日香ヤマトの支配民族が突厥だったので、日本列島各地の異民族地域国家との統合時に使われた言葉が、ウラル語系の突厥語だった。だから、現在の日本語の語順が、中国語語順の主語+述語+目的語ではなく、突厥語の語順の主語+目的語+述語となったのだ。
No.39、では、どのような民族が、日本列島の地域国家を統合したのか。奈良盆地のある地域をアスカと呼ぶが、アスカは奈良盆地だけではないのだ。日本全国には分かっているだけで、アスカの地名があるところは、東は山形県最上川下流のアスカ神社から、西は長崎県まで30から40ヶ所もあるのだ。そして、アスカの地名のある地域には、「蘇我氏の文化」が認められるのだ。「蘇我氏の文化」とは、オリエント文化と騎馬民族文化だ。その蘇我氏(突厥民族)が、明日香ヤマトに現れた、6世紀中頃から、日本列島に大変化が起こっていたのだ。
No.40、5世紀後期、中央ユーラシアに興った、騎馬民族突厥は、6世紀半ばには、西はカスピ海沿岸から、東はユーラシアの極東までを支配し、突厥帝国を興していた。その突厥民族は、日本海を渡り→佐渡→越後→越前→敦賀→琵琶湖の石山津・塩津→木津川・淀川の津→明日香ヤマトへと侵攻した。そして、6世紀半ば、明日香ヤマトを支配すると、国際交易品である絹製品を求めて中国南朝に至るため、西への交易路を確保するために、吉備と出雲を攻めたのだ。吉備は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した秦氏の支配地だ。そして、出雲は、国際海洋民族の安曇族の支配地だ。
No.41、出雲と言うと、「日本書記」の出雲の国譲り物語を想像して、4世紀の大和朝廷に支配された、と信じているひとが多くいるようだ。しかし、その「日本書記」の出雲の国譲り物語は、日本初の天皇であり、一世一代の天命を受ける大嘗祭を発明した天武天皇が、686年崩御した後、藤原不比等により、鎮魂祭のための天磐戸物語と大嘗祭のための天孫降臨物語を繋ぐために創作されたものだ。出雲王国は、藤原日本史の神話時代で大和朝廷に国譲りしていたのとは異なり、考古学的に4世紀末から7世紀中期まで独自の文化により存在していたのだ。
No.42、出雲王国は、東南アジアから北上する黒潮、黒潮が北上し朝鮮半島と北九州に分流する対馬海流、シベリアから南下するリマン海流を利用して、九州や太平洋諸地域、朝鮮半島、中国東北部、シベリア東部と国際交易をおこなっていた。特に、九州とギリシャ・ローマ文化の新羅とは頻回に行き来していた。この出雲を支配できれば、中国東北部と朝鮮半島との交易路が確保できる。出雲王国が、突厥民族に支配されたことを示す史料はない。しかし、6世紀後半から、出雲西部には、今までは方墳か前方後方墳であったものが、前方後円墳に替わっていくのだ。前方後円墳は、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の新羅円墳文化と騎馬民族の方墳文化の融合を示す。これは、今までの支配体制の変化を示唆する。そして、明日香ヤマトでは、大陸との交易が盛んになっていくのだ。その国際交易のために、河内湖を塞ぐ上町台地に大運河を通し、そして、その浪速津(ローラン)からの荷を明日香ヤマトに運ぶために、奈良盆地に、大運河と大路が造られたのだ。そして、国際交易民族でもある突厥民族は、明日香ヤマトの都で、国際交易のためにオリエントから渡来した貴賓をもてなすために、噴水のある庭園を造り、そして、中国諸国に売り込むための交易品のガラス製品、金属製品、医薬品を作る工場を建設していたのだ。これにより、東ユーラシアからの荷が、東北の秋田酒田津から、東山道を通り、明日香ヤマトに至り、そこから出雲或いは浪速津まで運ばれ、中国東北部・朝鮮半島へ運ばれたのだ。645年まで騎馬民族突厥が支配した明日香ヤマトには、藤原日本史が述べる、継体天皇も聖徳太子もいなかったのだ。 完

明日香ヤマトは国際都市だった。
オレは、田辺さんのレポートを読み終わると、体内のエネルギーが過剰放電したように感じられた。ボーッとして、意識が感じられなかったのだ。それは、田辺さんの日本列島古代史ストーリが、学校で学習した日本古代史を全て否定しているからだ。継体天皇の存在を否定するのは、まぁ、理解できる。が、聖徳太子の存在否定は疑問だ。聖徳太子が歴史上存在していないとすれば、仏教の伝来も、日本国初の大和朝廷の法律も一緒に否定されるからだ。つまり、聖徳太子の存在を否定することは、日本国の黎明期の飛鳥時代の存在も、否定することになるからだ。その飛鳥時代を、田辺さんは、古墳時代と言う。
学校で使用する歴史教科書は、偉い歴史学者が執筆したものだ。その歴史教科書は、官の検閲を受けているのだ。その日本国政府公認の歴史教科書には、「ウソ」など存在しない「はず」だ。それなのに、田辺さんは、教科書歴史を藤原日本史として否定している。何故、そんなことが言えるのか、オレには理解できなかった。でも、読み物としては面白かった。オレは、熱い紅茶を一杯飲み干すと、暗室に入った。
暗室に入っても、オレはタイマーのスイッチを素直に押せなかった。それは、田辺さんのレポートにより、以前から気になっていたことの糸口が掴めたように感じたからだ。ある本で、偽史作りの作家は、前政権の歴史を消すためのトリックとして、前政権の王族に蔑称を付ける、との文章を読んだことがあったからだ。
漢字は表意文字なので、同じ発音でも、貴賎の差別を付けることが可能だ。そして、蔑称を付けられた者は、賎民とされる。一度賎民とされた者は、感染魔術により、再び貴人にはなれないのだ。
オレが気になっていたのは、何故、蘇我氏一族の名前が蔑称で、稲目、馬子、蝦夷、入鹿なのかということだ。592年崇峻天皇を暗殺したとする「馬子」と、女帝皇極天皇の命令に逆らっていたとする「入鹿」との一文字を足すと、「馬鹿」になる。「馬鹿」とは、騎馬民族を侮辱するために発明された言葉だと云われている。
田辺さんのレポートにより、530年蘇我稲目が大和朝廷の大臣として突然明日香ヤマトに現れた時から、645年「大化の改新」で滅ぼされた蝦夷・入鹿親子までの学校で学習した歴史は、実際には違うのではないかと思えてきたのだ。
学校で学習した飛鳥時代の645年「大化の改新」で、蘇我氏一族が滅亡した原因として、

1.642年越の蝦夷(えぞ)が入朝した時、蘇我蝦夷が勝手に自分の家に蝦夷(えぞ)を呼んで宴会を開催した。
2.蝦夷・入鹿親子は、葛城に祖廟を造り、寿造の稜(天皇の墓)と呼んだ。
3.蝦夷は、天皇でしか舞うことの出来ないヤツラの舞を催した。
4.644年蝦夷・入鹿親子は、甘ヶ丘に並べて館を作り、蝦夷の館を上の宮門(みかど)、入鹿の館を谷の宮門(みかど)と呼んだ。
5.蝦夷は、病気を理由に朝廷に出ない。
6.蝦夷は、勝手に大臣のしるしの紫の冠を入鹿にさずけ、大臣の地位を与えた。
7.蝦夷は、息子や娘を王子と呼んだ。

蝦夷・入鹿親子は、それらの横暴の数々により、女帝皇極天皇(後に斉明天皇となる)の側近により、入鹿は暗殺され、蝦夷は自殺し、蘇我一族は、645年に滅んだ、と「日本書記」は述べている。
しかし、田辺さんの言うように、蘇我氏とは、実際は、突厥民族軍団の王で、明日香ヤマトの支配者であったとすると、それらの「日本書記」で述べる「横暴」の数々は、明日香ヤマトの王として当然の行為のはずと思われるのだ。
学校で学習した古代史を疑い始めると、「日本書記」では、継体天皇、欽明天皇、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇が、奈良盆地の北側の広々とした桜井市に宮都を営んでいたというのに、何故、女帝推古天皇から舒明天皇、女帝皇極天皇が、東西約800m、南北約2kmで、北側を開け、三方を山に囲まれ、中央に飛鳥川が流れる狭い土地に宮都を営んだのか、の疑問が湧く。そして、更に、その地は蘇我氏の支配地なのだ。明日香ヤマトでの発掘調査では、「日本書記」が述べるように、甘ヶ丘には、二つの館跡が発掘されている。しかし、その発掘調査によれば、その館跡は、石組みで防御され軍事要塞化されていて、その近くには武器庫らしき遺構も発掘された、との記事が最近の新聞に出ていた。
幻視を可能にするには、物語にのめり込まなければならない。今現在のオレには、田辺さんのレポートを全て信じるわけにはいかない。それは、あまりにも、日本古代史の「常識」からかけ離れているからだ。特に、645年の「大化の改新」が、唐進駐軍と突厥帝国軍+新羅花郎騎士団との戦いである、などは信じることができないのだ。オレは、幻視をする前に、直接田辺さんに疑問をぶつけることにし、夜を待つことにした。

「ナベさん、申し訳ない。まだ、幻視していません。幻視の前に確認したいことがあるのです。」
「レポート理解するのが難しかったですか。」
「ストーリとしては全て理解できました。しかし、どうしても納得できないことがあるのです。」
「それは、どこの箇所ですか。」
「二度の神仏戦争が、蘇我氏と物部氏との戦いではないことは理解できます。そして、蘇我氏が突厥帝国進駐軍で、物部氏が秦氏だとすることも理解出来ます。しかし、645年飛鳥大和が、唐進駐軍に侵攻され、そして、支配された、とするところが今一理解できません。」
「唐進駐軍のことが理解できないのは、無理ありません。藤原日本史では、唐の律令に支配され、唐の都をまねた藤原京、平城京、そして、唐と同じ暦を使っていた奈良時代を、唐に侵略されたとするのではなく、大和朝廷が、遣唐使により唐の文化を取り入れていた、と説明しているからです。しかし、一寸考えれば分かると思いますが、それらのことは、唐侵略軍の仕業です。」
「奈良時代の法律や文化が唐のものに替わったのは、その当時、唐の文化が高度だったからでは、」
「では、701年大宝律令により、何故、前政権の宗教形態を全て否定したのでしょう。その大宝律令の神祇令と僧尼令には、明日香ヤマトでの祭祀者についての規定があります。神祇令では、「凡そ天神地祇は、神祇官、皆、常の典に依り祭れ」とし、天つ神と国つ神とを初めて区別したのです。そして、僧尼令では、僧尼の活動を制限し、罰則を規定しているのです。」
「ちょっと待ってください。ナベさん、飛鳥時代に、仏教が伝来していたのですよね。仏教史によれば、その伝来仏教は、中国の高度文化文明を未開の日本列島にもたらしたのですよね。だったら、どうして大宝律令の僧尼令で、僧尼の活動を制限し、罰則を規定したのですか。僧尼は、飛鳥時代に悪事をしていたとでも言うのですか。」
「カメさん、鑑真を知っていますよね。」
「五度の遭難をおかして、やっと日本に渡来した時は、目が潰れていたと聞いています。それが、何か、」
「その鑑真の渡来について、720年「日本書記」に続く797年「続日本紀」には、鑑真の渡来についての記述がないのです。そればかりか、遣唐使の記述もほとんどないのです。そして、奈良時代のハイライトである、752年(天平勝宝4年)東大寺大仏開眼供養では、聖武天皇の姿はなかったのです。水銀中毒で病に臥せっていたのです。」
「それって、変ですよね。遣唐使は、唐の文化輸入のため何年か毎に唐に行っていたし、大仏開眼供養では、インド僧の指揮の下、聖武天皇や娘の孝徳天皇も参列して、宇佐八幡の民の御輿が繰り出され、盛大に開催された、と歴史書で読んだことがあります。」
「遣唐使についての多くの史料は、奈良時代ではなく、平安時代に書かれたものです。そして、カメさんが知っている天平文化のハイライトは、井上清の小説「天平の甍」の受け売りです。藤原氏が運営していた遣唐船については、藤原氏が唐の傀儡として支配していた奈良の王朝には、後のひとに知られたくないことがあったようです。そのひとつが、大宝律令の税制で、全国から集められた、干しアワビ、フカヒレ、昆布などの海産品、絹糸、綿製品、マムシ・ロクジョウなどの漢方薬原料、真珠、毛皮などを、遣唐使船で、唐へ運んでいたのです。つまり、遣唐使船とは、唐から高度文化を輸入するためだけではなく、唐の支配地の日本列島の物品を税として集めた物を、唐本国に貢ための船でもあったのです。これは、奈良時代の日本を独立国と偽る者にとって、後のひとには知られたくないことです。そして、天平文化のハイライトがなかったことは、「続日本紀」を読めばわかります。鑑真の渡来については、奈良仏教が隠蔽したのです。」
「何故、藤原日本史は、日本の仏教に多大な貢献をした鑑真の渡来について隠蔽したのですか。」
「その答えのヒントが、大宝律令の僧尼令です。645年唐進駐軍と供に渡来した漢訳仏教は、唐でおこなっていた「事」を飛鳥大和でもおこなっていたのです。」
「漢訳仏教徒が、寺でどんなことをしていたのですか。」
「それは、大宝律令の僧尼令で、罰則を規定しなければ、禁止できなかったことです。」
「それって、何ですか。」
「博打、売春、高利貸し、です。中国の戦乱時代、漢訳仏教組織は、自ら武装し、治外法権の仏閣を砦として、仏教ビジネスをおこなっていたのです。その仏教ビジネスに参加するために、得度も受けない私僧が、多く現れたため、唐の風紀は乱れたのです。その私僧が、飛鳥大和に現れて、風紀を乱したのです。反藤原氏の聖武天皇は、藤原氏が支配する興福寺の勢力を削ぐために、唐の高僧鑑真を招聘して、戒律に従わない飛鳥大和の仏教僧を正そうとしたのです。しかし、鑑真のもたらした戒律は、「南伝仏教」だったのです。藤原氏にとって、この「南伝仏教」は抹殺しなければならなかったのです。それは、藤原氏は、前政権の騎馬民族を貶めるために、漢訳仏教を思想武器として利用していたからです。その思想武器とは、「血の禁忌」と「肉食の禁止」です。その思想武器が「南伝仏教」により否定されてしまうのです。それは、南伝仏教では仏僧になるには、在家制度などなく、出家だけなので、信者から布施された食物は何でも食べなくてはならなかったので、「肉食の禁止」など明文化されていなかったからです。」
「それって本当ですか。仏教は、全て肉食禁止だと思っていました。」
「そのように、鑑真が渡来する前まで、出家者集団の形成がなかったのです。」
「では、鑑真の渡来前は、治外法権の寺で「悪行」をするために、庶民が勝手に在家僧になっていたのですか。」
「そうではないようです。祭祀氏族の藤原氏が、興福寺により、それらの正式な得度を受けず仏教戒律に従わない僧尼を支配していたのです。藤原氏の不思議は、中臣神道の神を祀る春日大社も運営していたのです。そして、興福寺の僧侶は、春日大社の支配を受けていたのです。祭祀権を乱用する藤原氏を排除するために、反藤原氏の聖武天皇は、「南伝仏教」僧の鑑真を招聘したのです。聖武天皇は、古代エジプトで、多神教の神々を創作して王権を犯す神官を排除するために、ヒッタイト帝国の太陽神ミトラから、唯一神アトンを発明したイクナトン4世のようです。そして、その鑑真の五度の遭難は、藤原氏の意図が感じられるのです。」
「そう言われれば、藤原氏の行動は不思議ですよね。藤原仲麻呂は、天皇が保管する国璽を私邸に持ち込み、私貨幣を作り、私邸を朝廷のようにしていたようですね。それだったら、飛鳥時代に天皇のように振舞った蘇我一族が天皇家側近により壊滅されたように、藤原氏一族が天皇家側近に抹殺されなかったのは、何故ですか。」
「645年突然現れた藤原氏とは、その出自が謎で、実態が分からないのです。日本列島史を「日本書記」で改竄した藤原不比等は、危機管理に長けていたようで、その息子達を、南家武智麿、北家房前、式家宇合、京家麻呂の四家に分けていたのです。家とは、現在の「家」ではなく、「公的な役所」のことです。この藤原氏の危機管理システムは、日本列島には存在していません。このことから、藤原氏は、同族が敵・味方に別れて戦うユダヤ民族の危機管理を学んでいたことが示唆されます。」
「それって、飛躍しすぎでは、」
「藤原氏が、遣唐使と大いに関係があったことは、万葉集巻19に、春日に神を祭る日に、藤原太后の作らす歌一首  「大船に ま梶しじ貫き この我子を 唐国へ遣る 斎へ神たち」、の歌があり、これは、遣唐使の無事を祈って藤原光明子が、遣唐使として選ばれた藤原清河の無事を祈った時の歌と言われています。ここで注意してもらいたいことは、「春日社での祈願」ではなく、「春日に神を祭る日」とする題詞です。この天平勝宝2年(750年)頃には、三笠山、春日山付近には、春日大社が建立されていなかったのです。それを証明するように、天平勝宝8年(756年)の正倉院「東大寺山堺四至図」には、春日大社が建立する前の地は、「神地」と書かれた空地となっていたのです。これって、カメさん、どう思う。」
「中臣神道の神を祀る春日大社が、710年山背国から山階寺を奈良に移築して興福寺と改称した後の、756年以降、「神地」に建立されたのですね。不思議ですね。「日本書記」では、200年も前の飛鳥時代での神仏戦争の時、物部氏の神側は、蕃神の仏を祀ると、祟りがある、と言っていましたよね。だとすると、神仏戦争物語のその神とは何者ですか。」
「カメさん、「日本書記」の記述には、不可思議なことが多くあるでしょ。神道の神が宿る処が「社」とするならば、「社」が無い時代には、神道の「神」は存在しませんよね。」
「そうだと思います。だったら、やはり、ナベさんのレポートのように、神道の神が出現する前には、ミトラ神と道教の神が存在したことになりますね。」
「神道の神の出現には多くの謎がありますが、「仏」にも多くの謎があるのです。「仏」には、二つの読み方があります。ひとつは、中国語読みの「ブツ」で、もうひとつは、日本列島読みの「ホトケ」です。仏は、仏陀のことで、インド語のブッダを漢訳した語です。そのブッタの意味とは、覚者で、仏教の真理を悟った人のことです。それに対して、「ホトケ」とは、先祖とか死者の霊を意味しているのです。中国から伝来した仏教での「仏」は、正反対の意味である「ブツ」と「ホトケ」と、日本列島では読んでいます。これって変だと思いません。」
「ナベさんの言うとおり、変ですね。「仏」を「ブツ」と読む人には「覚者」がイメージされますが、「ホトケ」と読む人には「先祖・死霊」がイメージされますよね。だとすると、仏教伝来の時、日本列島の先住民は、当然「ホトケ」と読んだわけだから、仏教の真理など理解できるはずはないですよね。」
「「仏」には、ブツとホトケと読むと異なる意味があるように、「寺」も、中国語読みの「ジ」と、日本列島読みの「テラ」があります。その「ジ」とは、中国での外国人渡来者を取り調べる「宿泊できる役所」の意味です。「テラ」とは、「死者が眠る処」です。すると、「仏寺」を、中国語読みで「ブツ・ジ」と読めば、その意味は、「覚者のいる役所」となり、日本列島読みで「ホトケ・テラ」と読めば、その意味は、「死霊が眠る処」となるのです。本来の「仏寺」とは、仏像を安置する施設ではなかったようですね。これも変ですよね。」
「確かに。」
「仏教の不思議は、何故、先住民が理解できない、或いは、意味が分からない「梵語」でお経を読むのでしょう。先住民への布教が第一ならば、仏典を現地語に訳すのが普通ですよね。」
「仏教伝来時期が謎のように、仏教自体も謎だらけのようですね。唐進駐軍の存在は、少し理解できました。もうひとつ聞きたいのは、ミトラ教も道教も、漢訳仏教と中臣神道により、歴史上消されてしまった、とナベさんは考えていますよね。具体的に、説明できますか。」
「史料としては、説明できません。日本列島を支配した藤原氏や亡命百済貴族により、それらの民族に不都合な書物は、焚書されて、ほとんど存在していないからです。唯一、「古事記」は、「旧約聖書」の偽書性を、「666の謎」の暗号で暴いたパモス島のヨハネのように、秦氏末裔の多人長の知恵により、焚書を免れたのです。が、その多人長の暗号を解くには、知恵が必要です。ですから、消された歴史を復元するには、史料ではなく、遺跡や遺物によりおこなうしか方法はないようです。そのひとつが、地蔵です。地蔵は、古くはインドのバラモン教の大地の神だったようです。その地蔵が、バラモン僧が漢訳した仏教と供に、中国に伝来すると、土着の冥界信仰と結びつき、地獄の救世主となったようです。しかし、その地獄の救世主となった地蔵は、中国に根付くかなかったようです。その地蔵は、漢訳仏教と供に日本列島に伝来し、873年広隆寺に祀られたようです。」
「広隆寺の祖は、蜂丘寺で、秦氏の神である太陽神ミトラを祀る寺だったのでは。何故、バラモン教の地蔵が、秦氏の寺にあったのですか。」
「カメさん、それは良い質問です。ヒッタイト帝国からの秦氏の祖が、産鉄民族として馬具の轡を鉄で作る技術者として、騎馬民族とユーラシア大陸の大草原を彷徨っていた頃、チュルク系の騎馬民族は、大地母神として石人を、野原に祀っていたのです。その大草原の石人は、広域移動する騎馬民族にとっては、道標にもなっていたのです。つまり、チュルク系騎馬民族にとって石人は、道祖神でもあったのです。ですから、ユーラシア大陸から朝鮮半島を経由して、日本列島に渡来した秦氏は、支配地に、道祖神として石人を設置していたのです。」
「そう言えば、ナベさんが、527年ギリシャ・ローマ文化の新羅が、高句麗の南下により、漢訳仏教側勢力に押されて、朝鮮半島から北九州に亡命した時、戦い敗れた新羅武将の古墳には、埴輪の替わりに、石人・石馬が飾られた、と言っていましたよね。」
「そうですね。その秦氏の石人が、後に道祖神となり、そして、平安時代、秦氏のミトラ神を祀っていた蜂丘寺を、仏寺の広隆寺と改竄した時、藤原良房が摂政として権勢を振るっていた時、日本初の地蔵が京都に現れたのです。そして、秦氏の支配地であった山背国が、山城国となり、亡命百済貴族により、京都が支配されてしまった時、京の都への七街道にあった道祖神は、塞の神と貶められて、それに替わり、地蔵に置き換えられたのです。その地蔵が、王権側の神ではないことは、その設置場所により分かるのです。つまり、地蔵の歴史は、地蔵(平安時代)←道祖神(奈良時代)←石人(古墳時代・飛鳥時代)←石人(4世紀ユーラシア大陸)、となるのです。」
「石人を削って、地蔵に変身させたわけですね。」
「そうです。藤原氏や亡命百済貴族に擦り寄る仏教組織により、秦氏の神である石人が変身させられ、地蔵として、秦氏を排除するために、利用されていたのです。」
「その証拠でもあるのですか。」
「証拠はありません。でも、根拠はあります。1568年織田信長は、足利義昭を奉じて入京する前、京の荒れ果てた二条御所を改装した時、近隣の地蔵を集めさせ、それを砕いて基礎石としていたのです。そして、1868年神仏分離令により、廃仏毀釈運動が全国的に起こった時、役座は、地蔵の首を刎ねていたのです。この二つの行動の意味は、仏教による地蔵のまやかしの歴史を、賎民として貶められていた織田信長と役座は知っていたからです。」
「何故、そんなことが言えるのですか。」
「カメさんは、プロカメラマンでしたよね。風景の中に、地蔵を被写体として撮影をしたことがありますか。」
「昔、何度かありました。」
「その時を思い出してください。地蔵は、どのようなところにありましたか。」
「大抵は、村はずれの、ひとけのないさびしい処です。」
「その地蔵の近くに大きな木がありませんでしたか。」
「確かにありました。」
「その大きな木には、注連縄がありませんでしたか。」
「あったような気がします。その注連縄に何か意味があるのですか。」
「注連縄は、異民族を排除するための道具です。役座の縄張りは、その流れにあります。この世と異界との堺を示す道具が、本来の注連縄の意味です。その注連縄を張られた大木の下にある地蔵は、多くは、村はずれにあります。村はずれにあるのは、地蔵だけではありません。鍛冶屋も、大抵、村はずれにあります。何故だと思いますか。」
「槌音が五月蝿いから、ですか。」
「それもありますが、その二つには共通点があります。それは、異界との交通です。鍛冶屋の祖は、産鉄民族で、産鉄製鉄はタタラ製鉄と言われるように、ユーラシア大陸のタタールから渡来した民族を祖としていたのです。そのタタラ製鉄は、主に、中国地域の石見・出雲を中心におこなわれていたのです。「日本書記」が述べるような神話時代ではなく、8世紀の亡命百済貴族が支配した平安王朝に従順した産鉄民族は、村はずれの鍛冶屋となったのですが、山に逃げ込んだ者は、山伏となって「火治り・ヒジリ」と言われたのです。その山伏が祀る「山の神」は、平安時代の王権により、塞の神と言われ、忌み嫌われていたのです。それは、山伏の祖は、京を支配した亡命百済貴族の祖国百済を滅ぼした、新羅の流れにあったからです。その山伏が、平安時代に、錬金術師空海の山岳軍団に敗れると、山岳修験者となり、錬金術師軍団の支配下となり「火治り」から「聖・ヒジリ」となるのです。しかし、その支配は表面だけで、地獄の救世主としての地蔵信仰を広めるのです。その修験者は、仏教的な階層による冥界思想を破壊するために、地獄を極楽に替えてしまうのです。漢訳仏教思想では、ひとは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六道の内にあり、輪廻する存在であり、仏の真理を覚った者だけが、極楽へ行ける、と説いたのです。漢訳仏教は、徳を積めば極楽へ行けると、多大のお布施を信者に要求していたのです。その仏教組織の集金システムを破壊するために、修験道者は、仏教修行をしなくても、地獄から極楽へ行けると言う特製の経帷子を販売していたのです。それは、仏教組織により、日本初の地獄と喧伝された処が、越中富山の立山だったからです。その富山は、古墳時代に騎馬民族が支配していたところで、騎馬民族の産業のひとつである、薬草からの創薬業が盛んな地であったのです。その修験道者は、立山で採取した薬草を持ち歩いて、病人を癒していたのです。これが、「藪医者」の祖であったのです。ヤブ医者の本来の意味は、治療がヘタな医者の意味ではなく、煌びやかな都に対峙するヤブ(草原)である、反体制側の野医者のことです。この薬による治療行為は、念仏・祈祷で病気を治せるとする漢訳仏教には、商売敵であったのです。後に、その山伏(山武士)が、高市でのバザールで、野武士を祖とする香具師(ヤシ)により、馬油を止血軟膏としたガマの油売りとなるのです。そのガマの油売りの祖である「火治り」が、反体制者であったことは、平安仏教の砦である比叡山や高野山の近くに住まわされた、毛坊主の「聖」の居住地は、「別所」と呼ばれていたのです。別所とは、湯浅、散所、海渡と平安王権から呼ばれた、陸奥国の蝦夷の捕虜収容所だった処です。その捕虜収容所は、やがて、捕虜である落ち武者の武民が集う処ということで、「武落→部落」と呼ばれていくわけです。」
「すると、ナベさんは、530年から645年までの明日香ヤマトの祭祀者であった、ミトラ教や道教の思想や祭祀物は、奈良時代から平安時代にかけて、漢訳仏教に取り込まれて消されてしまった、という訳ですね。」
「漢訳仏教に取り込まれなくて、生き延びたものもあります。それは、道教思想を、仏教思想にアレンジした陰陽道です。しかし、オリエントの神は、ミトラ神が弥勒菩薩又は魔多羅神、そして、太陽神アトンが阿弥陀仏と変身させられてしまうのです。」
「すると、神社や仏寺にある牛像は、ミトラ教での太陽神の化身の牡牛だった訳ですね。神社で思い出したのですが、多くの神社には、丸石や奇岩があるのは何故ですか。」
「以前、カメさんは、信濃のわさび農園の八面大王の古墳を訪れていた、と言っていましたよね。そこには、直径50cm程の球体の石が、大石で造られた小山の上に祀られていませんでしたか。」
「確かに記憶しています。石室の隣の石山の頂上に石の球体が。あまりにも不思議なオブジェでしたから。その石の球体は、何を意味しているのですか。」
「古墳近くで、球体の石が発掘されるのは、日本海沿岸、それも、出雲地域に多いようです。はっきりとした球体石でなくとも、古墳近くからは大丸石が発掘されるようです。カメさんの質問は、神社には、丸石や奇岩があるのは何故か、ということでしたよね。藤原日本史での説明では、その石は、神や死霊が宿るシンボルとしたり、又は、荒れ狂う霊や悪霊を封じ込めるため、としています。しかし、その答えは、答えになっていません。藤原日本史では、神社は、神を祀る処であるはずです。しかし、王権側の説明で、神道の神を祀る領域の境内に、死霊や悪霊が居ると、白状しているのです。」
「その説明、ちょっと理解不能です。」
「もし、神社が神を祀る処であるのなら、死霊や悪霊を封じ込めるとする石は、死霊や悪霊の居る処に置かなくてはならないはずです。その石が、神社にあることは、神社は死霊や悪霊の棲家だということです。レポートにも書きましたが、神社(モリ)は、古墳を破壊した跡に、建立されたのです。」
「神社(もり)は、古墳時代が終わった時期に建てられたのですね。では、「シンジャ」と「モリ」は違うのですか。」
「ジンジャは、明治革命で国家神道のシンボルとして、明治天皇の神(藤原氏の神=ユダヤ教の神ヤハヴェ?)を祭るために建てられたのです。しかし、モリは、古墳時代の王族の神を封じ込めるために建てられたのです。神社には、読み方が二つあるのは、そのためです。明治革命以前には、神道の神を祭る「ジンジャ」など存在していなかったのです。」
「今一理解不能ですが、何故、神社に石があるのですか。」
「石には神が宿っていたのです。その神は、太陽神ミトラです。紀元前14世紀ヒッタイト帝国にあった契約の神、太陽神ミトラは、東の山から誕生すると信じられていたのです。その太陽神ミトラの誕生場所である東の山の頂上は、ミトラ教徒の聖地だったのです。そのミトラ教信者達は、シナイ半島からユーラシア大陸を東に進んだのです。その東の山の頂上のミトラ神の聖地が、やがて、岩山の洞窟となり、その洞窟が、やがて、大岩となり、鉄器の発達により、太陽を真似た石の球体が造られるようになったのです。そして、その石の球体にミトラ神が宿っていると信じたのです。そのミトラ神が誕生するという石の球体は、太陽神アトンを発明した古代エジプトの魂の再生装置の石室・石棺思想と供に、5世紀の日本列島にもたらされ、信濃のわさび農園にある八面大王の古墳のように、横穴式石室のある古墳近くに埋葬されたのです。645年明日香ヤマトの古墳時代が終わり、そして、古墳を破壊した跡に、710年平城京が遷都されると、三笠山のミトラ教の牡牛を屠る祭祀場は、破壊され、空き地とされるのです。奈良盆地から秦氏軍団である花郎騎士団や突厥帝国軍団を、奈良盆地の北側に駆逐すると、藤原氏は、ミトラ教祭祀場跡に、中臣神道の神を祀るために春日大社を建立したのです。しかし、中臣神道では、死霊や怨霊を信じていたため、前政権の神=悪霊を封じ込めるために、ミトラ神が宿る丸石に注連縄をかけるのです。注連縄は、神を祀る道具ではなく、その正反対の、悪霊を封じ込める、或いは、結界からの出没を阻止するための道具であるのです。つまり、神社にある、注連縄をかけられた丸石や奇岩とは、ミトラ神を死霊や悪霊として封じ込めるためであったのです。注連縄がある丸石や奇岩のある神社は、古墳跡に建てられたことを示唆します。」
「その説明、なんとなく理解できます。オレは、ヒネクレ者で、以前から、神社の建物よりも、境内にある丸石や奇岩に惹かれていたのは、もしかしたら、オレの血の流れに、騎馬民族の血が流れているのかもしれませんね。」
「カメさんが騎馬民族末裔か分かりませんが、多くの日本人が、普段は神道の神を信仰しているわけではないのに、特定の日だけ神社を訪れるのは、その意味かもしれませんね。」
「古代の歴史を知ることは、現在を知ることでもあるのですね。」
「そうですね。現在使われている「ホトケ」や「テラ」などの言葉の歴史背景が分からない場合、古代日本列島で使われていた、ポリネシア語、アイヌ語、タミル語、古代朝鮮語の高句麗語・百済語・ギリシャ・ローマ文化の古代新羅語、そして、突厥語など、645年以降に仏教専門用語により消される以前の、万葉言葉の語源を調べると、分かるかもしれません。ところで、カメさん、テレビの刑事物ドラマで、刑事が、死者を「ホトケ」と、何故、言うか分かりますか。」
「ホトケの言葉は、日本列島では、仏教が伝来する以前から、「死霊・死者」の意味で使われていたから、刑事さんが死者の成仏を願ってのことですか。」
「そうかもしれませんね。では、その「ホトケ」の言葉は、仏教伝来以前、どのような民族が使っていたのでしょうか。その民族を特定するには、日本列島の警察実務は、どのような民族がおこなっていたのかを調べれば、分かる訳です。現在の警察実務は、江戸時代の警察権を奪った明治革命から始まったのですが、実は、現在の刑事隠語と役座隠語とは、共通隠語が多くあるのです。」
「それって、どういう意味ですか。」
「源氏末裔の徳川家康の威光があった江戸時代から平氏末裔の北条鎌倉時代まで、役座が警察実務をおこなっていたからです。日本列島での公安・治安警察業務担当者の歴史をたどれば、公安・治安刑事(現在)←明治警察官(秦氏末裔の島津氏が支配する薩摩藩が、長州藩を排除して警察権を独占。薩摩藩を支配した島津氏と、北関東を支配した穢多頭(長吏頭)弾左衛門家の家紋は、丸に十の字のミトラ教の太陽のシンボルであるマルタクロス)←岡引(第三百済王朝の三代目将軍徳川家光時代より「目明し」からの蔑称)←目明し(騎馬民族末裔徳川家康が、同族の役座に、宿場の警察権を与えた役座の手下)←役座(第二百済王朝の平氏の北条鎌倉時代に神社(モリ)のバザール(座)を仕切る顔役)←放免(平安時代、京都を護る令外官である検非違使の支配下となった陸奥国蝦夷の捕虜。古墳を破壊した跡に建てられた神社(もり)で怨霊(古墳時代の神)を鎮めることも業務)で、その陸奥国の蝦夷とは、645年唐進駐軍に敗れるまで、奈良県の明日香ヤマト武人で、6世紀ユーラシアから渡来の騎馬民族の突厥軍団と、527年朝鮮半島から渡来の秦氏の新羅花郎騎士団の末裔だったのです。平安時代の公安警察実務は、今起こった事件を鎮圧する治安警察ではなく、事件を未然に防ぐのが任務ですから、反権力側勢力の情報を得るには、敵陸奥国の捕虜である元反権力側の者であった放免を使っていたのです。平安時代、放免は闇の警察業務をおこなっていたのです。そして、役座も、闇の警察業務をおこなっていたのです。「場所・バショ」を「所場・ショバ」のように言う役座の逆語は、平安時代の呪術として放免が使用したものを伝承していたのです。そのことから、役座隠語・刑事隠語の「ホトケ・死霊」の言葉は、オリエントから朝鮮半島を経由して渡来の秦氏か、ユーラシアから日本海を渡海して日本海沿岸の北陸・越・出羽に渡来の騎馬民族である突厥民族のものであったようです。」
「現在使われている言葉で、語源が不明な言葉の歴史を万葉言葉に辿るのも面白いですね。ところで、ナベさんは、明日香ヤマトは、国際都市だったと述べているけど、その根拠はあるのですか。」
「根拠はありますが、史料はありません。日本語の語源が多国語で構成されているのは理解できますよね。そして、日本語語順が、中国語語順ではなく、ユーラシア大陸の遊牧・騎馬民族の言葉であるウラル語系語順であることは理解できますよね。」
「理解できますが。」
「では、飛鳥大和への渡来文字が全て中国からのもので、その中国漢字の伝達者が漢訳仏教僧であるとすると、現在の日本語語順が、中国語順ではなく、遊牧・騎馬民族のウラル語系語順であるのは、何故ですか。」
「中国文化よりも影響力が強い文化を持った民族が、先住民として日本列島を実効支配していたからだと思います。」
「では、その民族とは。」
「ウラル語を話す民族です。」
「そう考えられますよね。そのウラル語系の言語を話す民族とは、騎馬民族の突厥です。そして、その突厥民族は、552年から630年、そして、682年から744年までユーラシア大陸に突厥帝国を興していて、北周、北齊、隋、唐と対峙して、交易や戦争を繰り返していたのです。その突厥民族が隆盛の二つの期間、日本列島での出来事を見てみると、

☆552年仏教伝来。ユーラシア大陸で突厥帝国興る。
587年蘇我馬子、物部守屋を滅ぼす。
592年蘇我馬子、崇峻天皇を謀殺。
593年聖徳太子、摂政となる。
594年仏教興隆の詔。
603年冠位十二階を制定。
604年憲法17条を制定。
607年国ごとに屯倉を置く。
622年聖徳太子死去。
626年蘇我馬子死去。蘇我蝦夷が大臣となる。
☆630年遣唐使犬上御田鍬、唐に渡る。唐帝国軍により、突厥帝国散逸する。

645年蘇我一族滅亡。大化の改新始まる。仏教興隆の詔。そして、

☆663年百済、唐・新羅連合軍により滅ぶ。
671年亡命百済王朝、琵琶湖湖畔の近江に亡命政権を興す。
672年壬申の乱。日本初の天皇、天武天皇即位。
676年新羅王子入貢する。
☆682年東突厥が復興する。
683年浄御原令の撰修始まる。
686年天武天皇崩御。
689年新羅使の無礼を責める。
694年藤原京遷都。
☆698年渤海興る。
701年大宝律令制定。
710年古墳跡に平城京遷都。
712年出羽国を置く。
718年養老律令、藤原不比等により制定。
719年新羅、騾馬を献ず。
720年藤原不比等死去。「日本書記」完成。
727年渤海使、出羽国に着き、入京する。
729年天武天皇の孫左大臣長屋王、藤原氏により謀殺される。
738年新羅使を放還。
740年藤原広嗣の乱。
741年牛馬を殺すことを禁ず。
741年反藤原氏の聖武天皇、山背恭仁京に遷都。
742年新羅使を放還。
743年新羅使の無礼を責め放還。
☆744年聖武天皇、難波京に遷都。東突厥滅亡。

この簡略年表から推測すると、ユーラシアに帝国を興した突厥軍団は、552年明日香ヤマトに侵攻し、明日香ヤマトを支配したと思われます。しかし、明日香ヤマトを軍事支援していたユーラシア大陸の母国突厥帝国が、630年唐帝国により散逸されたため、645年奈良の明日香ヤマトも唐進駐軍により一時壊滅されたのですが、しかし、ユーラシア大陸で復活し始めた突厥軍団により軍事支援された、突厥帝国残党軍と新羅花郎騎士団残党軍連合は、672年亡命百済貴族により樹立された近江王朝を倒したことにより、突厥帝国進駐軍の後ろ盾を得た大海人皇子が、672年天武天皇として即位し、再び、旧明日香ヤマトに都を築いたのです。そして、突厥民族は、東ユーラシア大陸で、682年再び突厥帝国を興したのです。これが、東突厥帝国です。この東突厥帝国と唐帝国との、日本列島での戦いの時代が、古墳を破壊し始めた奈良時代ということです。近畿一帯での東突厥帝国進駐軍と唐帝国進駐軍との戦いは、744年東突厥帝国が滅んだことにより、唐進駐軍が有利となるのです。聖武天皇(724年〜749年)による、数多くの謎の遷都や奈良の巨像築造(大仏ではない)は、そのような東アジアの情勢を反映していたのです。」
「日本国の国史である「日本書記」の歴史とほとんど異なりますね。ナベさん説が、「日本書記」を否定する根拠は何ですか。」
「「日本書記」には歴史改竄の作為が多くあるからです。そのひとつが、厩戸王子(平安時代に聖徳太子となる)の存在です。厩戸王子の存在を否定すると、藤原日本史での、日本国の黎明期である、飛鳥時代全てが否定されるのです。カメさん、「日本書記」は、後の多くのひとにより改竄されているのですよ。」
「どこがですか。」
「「日本書記」は、720年完成ですよね。」
「そうです。」
「現在使われている「万世一系の歴代の天皇号」は、中世・近世では「○○院」と呼んでいたものを、過去の天皇を全て「○○天皇」と呼び変えたのは、1925年からです。その720年完成の「日本書記」には、和風諡号と漢風諡号とがあります。その本文で使われていない漢風諡号は、淡海三船が発明したのです。その淡海三船の生まれは、722年なのです。カメさん、これどう思う。」
「不思議ですね。722年生まれのひとが、720年完成の「日本書記」で、漢字アルファベット書かれた天皇の名前を、漢風諡号で著すことができるはずはないですね。すると、ナベさんの言うように、「日本書記」は偽書ですか。」
「「日本書記」の謎は、まだあるのです。797年完成の「続日本紀」には、「日本書記」は、全巻30、系図一巻とあるのです。しかし、その系図一巻がないのです。」
「紛失ですか。国史がそう簡単に紛失するものですか。」
「桓武天皇の797年までは、確かに系図一巻はあったことは「続日本紀」が証明しています。すると、平安時代に誰かが、その系図一巻を故意に紛失したことが考えられます。そのひとりとして、亡命百済貴族であった桓武天皇が疑われます。それは、反藤原氏であった聖武天皇の遺品を納めた、奈良の東大寺にあった正倉院にあった文・絵・史料を焚書していたからです。現在に残るのは、聖武天皇の遺品のほんの一握りです。」
「何故、桓武天皇は、前政権の奈良時代の貴重な史料を焚書したのですか。」
「それは、後のひとに知られたくない遣唐使の歴史、東大寺の大仏の歴史、そして、亡命百済貴族の悲惨な歴史を消したかったからです。それらの奈良時代の遣唐使や大仏の今日に伝わる歴史は、平安時代に創作されたものです。東大寺の「大仏」と言っていますが、その像は当初「遍照鬼」(太陽神→ミトラ神)と言われ、インド人を思わす巻き毛など像の頭になかったのです。その遍照鬼像の頭が、855年落ちてしまい、861年修復されたのです。ですから、当初の東大寺の像が「仏」であったかどうかを確かめることは出来ないのです。更に、東大寺の不思議は、初期の東大寺は、山の民(645年唐進駐軍により明日香ヤマトを追われた民族)が集う処であったのです。その奈良時代の東大寺の不思議は、東大寺を頂点に、741年聖武天皇が全国に国分寺を造らせ、仏像を祀った、と藤原日本史では述べるのですが、その各国の国分寺に安置されていたはずの仏像が一体も現存していないのです。歴史上存在していない神仏戦争物語で、難波の堀江に捨てられていたとする仏像が、長野の善光寺に安置されているというのに、国分寺に安置されていたとする「仏像」が、現在一体もないということは、藤原日本史は、「何」を消したのでしょうか。その国分寺の「仏像」の謎は、1180年源氏棟梁として、「平氏」(亡命百済貴族の子息)の北条氏により担ぎ出された源頼朝が、石橋山の戦いで、「平家」(アラブ系海洋民族末裔。織田信長はその子孫)に破れ、千葉の上総に逃れ、再起を期して、下総、そして、武蔵を周り、北関東の山奥に篭っていた源氏武将を集めた場所は、廃墟となっていた「国分寺」であったのです。北関東の国分寺は、古来源氏(祖は秦氏)の集う処であったのです。その源氏の祖は、明日香ヤマトの秦氏の軍団であった新羅花郎騎士団だったのです。その新羅花郎騎士団の神は、太陽神ミトラであったのです。このことにより、反藤原氏の聖武天皇により造られた奈良の仏像と云われる像は、太陽神ミトラであったことが示唆されます。藤原日本史の基礎史料は、奈良時代の淡海三船の「日本書記」改竄に加えて、平安時代にも、「日本書記」は改竄されていたのです。それは、神武天皇の発明です。」
「神武天皇って、「日本書記」では、紀元前660年即位の、日本初の天皇ですよね。」
「実際の日本初の天皇は、672年即位の天武天皇です。720年度版「日本書記」では、崇神天皇が、ハツクニシラススメラミコトと呼ばれていることから、藤原日本史の初期では、日本初の天皇としたのでしょう。それを、平安時代版「日本書記」に、神武天皇物語を挿入したのです。その神武天皇物語の創作作家が、手を抜いたのか、神武天皇の和風諡号は、ハツクニシラススメラミコトで、その九州から大和東征物語が、ハツクニシラススメラミコトである崇神天皇の大和東征物語ソックリなのです。更に、神武天皇稜は、江戸時代では見る影もなかったのです。その意味は、明治初期に創作されたからです。「日本書記」を否定する「古事記」では、神武天皇稜の位置を、「日本書記」の位置と異なる処としているのです。その神武天皇の享年は、「日本書記」127歳、「古事記」137歳となっているのです。そして、平安時代版「日本書記」の「神武紀」では、神武天皇を畝傍山の東北稜に葬ったのは、死亡の翌年となっていますが、「綏靖即位前紀」によると、紀元前585年崩御し、神武天皇を山稜に葬り終えたのは、紀元前582年となっているのです。古墳時代から150年後の平安時代ともなると、巨大前方後円墳の築造期間が分からなかったようで、神武天皇死亡後の翌年葬った、としてしまったようです。明治時代初期に創作された神武天皇稜もその完成には、数年の期間を必要としていたのです。「日本書記」とは、そのような書物であるのです。平安時代の系図一巻紛失の謎は、亡命百済貴族による神武天皇物語を、720年度版「日本書記」に挿入するためだったのです。」
「すると、現存する「日本書記」が偽書だとすると、聖徳太子の飛鳥時代はナシということですか。」
「そうです。ナシです。」
「では、飛鳥時代とは、誰が支配民族なのですか。やはり、突厥民族と秦氏ですか。「日本書記」の飛鳥大和時代を否定できる、納得できる資料はないのですか。」
「藤原日本史では、飛鳥時代としますが、それは古墳時代を消すためのに発明されたものです。その古墳時代の古墳は、ただ闇雲に築かれていたわけではないのです。地図上の古墳や遺跡、古来からある神社仏閣を結ぶと不思議な線が現れるのです。その線は、30度、45度、60度を示すのです。」
「その角度は、三角定規の角度ですよね。」
「そうです。しかし、明日香ヤマトの前政権の存在を示す古墳は、奈良時代から平安時代にかけて破壊され、歴史上抹殺されているものもあるから、現存した古墳や遺跡を全て発掘しているわけではないので、確かなことは言えません。それに、法隆寺や広隆寺のようにミトラ教施設遺跡が偶然発掘されているもの以外に、神社(もり)や仏閣が全て古墳破壊跡に建てられたことは確認できませんが、その30度、45度、60度の線が地図上に現れるのは確かなとこなのです。」
「古墳時代に、そのような三角定規の角度を知っていた民族が、日本列島に渡来していたのですか。」
「土地の測量法と幾何学とは大いに関係があるのです。幾何学の語源のゲオメトリーとは、ゲオ=土地+メトリー=測量を表しているからです。その土地の測量法は、古代エジプトで発達していたのです。それは、定期的に氾濫するナイル河沿岸の土地を、氾濫後、元の土地所有者のものとするためです。その古代エジプトでは、紐に結び目を付けての測量法がおこなわれていたのです。この紐による測量法は、結び目を調節することで相似形のものを造るには便利なものなのです。」
「すると、日本列島全国にある大小の相似形の前方後円墳は、古代エジプトの紐測量法により築かれたのですか。」
「それは分かりません。紐は、地中で腐るため、発掘することは困難だからです。しかし、民族言葉は、その民族の血が絶えることがなければ、永遠に続きます。日本語の語順について以前、6世紀に渡来した騎馬民族の突厥語がそのルーツであると話しましたよね。その突厥語が渡来した以前にも、日本語語順のルーツがあるのです。それが、ヒッタイト語です。」
「ヒッタイトと言えば、秦氏の遠い祖先が、紀元前14世紀に古代エジプトの新都アケトアテンの造営の建築技術者として、鉄器を発明したヒッタイト帝国から出稼ぎに行っていましたよね。そのヒッタイトですか。」
「そうです。そのヒッタイト帝国で使用の言葉の語順が、主語+目的語+動詞なのです。そして、ヒッタイト語の楔形文字には、万葉集時代の表記法と同じに、仮名的な音節文字と漢字的な表意文字から構成されていたのです。これは正に、ヒッタイト版「漢字仮名まじり文」です。」
「するとナベさんは、そのヒッタイト帝国から、古代エジプトで測量技術、巨石建築技術、大運河を掘削する技術を習得した民族が、3世紀後半に日本列島に渡来して、巨大前方後円墳を築いた、と言うのですね。」
「断言はできませんが、基本的にはそのように考えています。巨大前方後円墳が、日本列島の岩手県以南から九州まで築かれていたのに、その史料はひとつもないのです。唯一つの史料の「日本書記」では、天皇の墓としているのです。しかし、それが「ウソ」であることは、宮内庁が知っているのです。それは、宮内庁が指定する「天皇陵」は、いずれも「日本書記」成立後に、「日本書記」に合わせて、国威発揚のために造られたものだからです。」
「だから、宮内庁は、巨大古墳の発掘許可を出さない訳ですね。何が出てくるか分かりませんからね。」
「実は、日本語語順のルーツと思われるのがもうひとつあるのです。それは、タミル語を含むトラヴィダ語です。」
「トラヴィダと言えば、以前、ナベさんが仏教について話した時、インドのバラモン教に、不可触賎民チャンダラーとして貶められた民族ですか。」
「そうです。インドの先住民で、遊牧民族です。そのトラヴィダ語の「DED」の略称の辞典には、a・i・u・e・o、ka・ki・ku・ke・koの語順に並べられているのです。それは、日本語の五十音図と同じです。」
「何故、トラヴィダ語が「あいうえおかきくけこ」の順に並べられているのですか。」
「それは、平安時代初期、錬金術師空海が発明した真言宗の教えで、サンスクリット語の音韻論を広めたからです。その音韻を、成就とか吉祥の意味で、悉曇(しったん)と呼んで、その音の並べ方に倣って、日本の五十音図が作られたのです。仏教史により、錬金術師空海の「功」は広く知られていますが、「罪」については沈黙です。その罪のひとつに、インドの民族差別思想を日本列島に持ち込んだことです。その差別言葉が、チャンダラーの漢訳語の「施陀羅」と、ハンセン氏病を表す「カッタイ」です。カッタイは、中国語ではなく、トラヴィダ語系のタミル語の「kott−ai」からです。空海が、唐から持ち込んだこの二つの「言葉」は、後に、民族差別の思想武器となっていくのです。」
「空海は、真言宗を開発して、民衆を救済したのではないですか。何故、そのような民族差別語を、中国に居住していたインド僧に教わり、日本列島に持ち込んだのですか。」
「それは、空海のスポンサーである、藤原氏のためです。藤原氏は、古来の史料を集めて、それらの史実を改竄して「日本書記」を創作して、秦氏や突厥民族の歴史を消したかったのです。しかし、それらの民族は、農耕民族ではなく、秦氏は技術者集団で、突厥民族は「風の民族」であるので、土地により縛りつけ、支配することができなかったのです。そこで、藤原氏は、民族差別思想の武器により、それらの肉食民族を異界の民族として、常民から隔離することを図ったのです。そのための思想武器が、「施陀羅」と「カッタイ」です。この民族差別の歴史は、「中世篇」で述べますので、「古代」に話を戻します。そのトラヴィダ語系タミル語の語順も、主語+目的語+動詞なのです。そのタミル語は、水田稲作言葉として日本語となっているのです。」
「例えば。」
「ウネ、アゼ、カユなどです。そのタミル語を話す民族は、弥生時代に日本列島に渡来し、水田稲作技術を伝播したのです。」
「何故、南インドから日本列島まで渡来したのですか。その目的は何ですか。」
「南インドのタミル語圏の墓からは、多くローマ帝国の貨幣が出土するのです。それは、紀元前10世紀から南インドの西海岸マラバルの港コーチンから、国際海洋民族フェニキアの商人により、真珠、香辛料、孔雀、猿などを輸出していたのです。紀元一世紀になると、ローマ帝国では、絹の需要が起こるのです。その頃、絹は、南中国の特産品であったのです。日本列島の弥生時代には、タミル語を話す民族は、真珠を求めて、そして、古墳時代には、絹を求めて渡来していたのです。」
「その説の根拠はあるのですか。」
「古代から、日本列島は真珠の産地であったのです。「万葉集」には、真珠の産地として、珠洲の海(石川県)、奈呉の海(富山県)、伊勢の海(三重県)、近江の海(琵琶湖)、阿胡根の浦(和歌山県)、筑紫(九州)が記載されています。真珠は、縄文時代から、朱砂と同じに、国際交易品であったのです。そして、絹は、中国三国時代の魏は、北九州を絹生産地としていたのです。その絹生産地の女王が卑弥呼というわけです。弥生時代の遺跡から絹製品が出土するのは、北九州の古墳からだけです。」
「なるほど。では、タミル語を話す民族の渡来の証拠はあるのですか。」
「南インドの埋葬法は、甕棺に屈葬です。その甕棺は、佐賀平野、筑後平野、福岡平野が多く出土します。そして、その甕棺が納められた時期は、弥生時代から始まり、古墳時代には消えているのです。このことから、北九州では、タミル語を話す民族が、古墳を築く民族に取って代わったことが示唆されます。その民族移動のルートの推測として、濁音語のズーズー弁を話す民族の流れには、北九州→出雲→東北のルートがあるのです。」
「ズーズー弁にはそのような歴史があったのですか。ところで、ナベさんの説では、日本語の語順は、ヒッタイト語、タミル語、突厥語のどれなのですか。」
「最終的には、突厥語だと思いますが、その三つの言語を話す民族には、共通点があるのです。」
「その共通点とは。」
「それは、産鉄民族であることです。そして、石を切る技術を習得していることです。石を切るには、鋼鉄が必要です。」
「すると、その三つの民族の祖は同じということですか。」
「それは考えられますね。ヒッタイト帝国が滅亡したのが、紀元前1190年です。南インドでの製鉄の始まりは、紀元前10世紀です。突厥民族は、騎馬民族で、その騎馬民族の祖スキタイ民族が、ヒッタイト帝国があった東方のカスピ海沿岸に興るのは、紀元前8世紀です。産鉄技術は、ヒッタイト帝国が滅亡したことにより、南インドとユーラシア大陸に広がったようです。それとともに、石切りの技術も、産鉄民族と供に世界に広がっていったのです。」
「産鉄民族と石切りとは、共生関係にあったのですね。」
「そうです。江戸時代、秦氏の末裔である、関八州の闇の世界を支配していた弾佐衛門は、鎌倉時代からの特権を、江戸幕府に認めさせるために、源頼公の御朱印の史料を提出するのですが、その支配下に、鋳物師と石切があるのです。」
「その弾佐衛門配下の鋳物師と石切は、古墳時代に前方後円墳を築いた民族の末裔ということですか。」
「そのように考えています。日本語には、ヒッタイト語、タミル語、突厥語だけでは解けないことがあるのです。それは、日本語の単語が母音で終わることです。母音で単語が終わる言語は、東アジア地域にはないのです。」
「東アジア地域ではないということは、では、どこですか。」
「考えられるのは、環太平洋の海流を利用していた南方系海洋民族です。それらの民族の共通語は、ポリネシア語です。ポリネシア語では、単語は母音で終わるのです。現在でも、知多半島の伊良子岬には、南方からヤシの実が流れ着くように、日本列島の太平洋沿岸は、古来からポリネシア語を話す民族が渡来していたのです。その民族は、「ヤ・8」の言葉の愛用があったようです。日本神話と言われている物語にも、やわたのおろち、やたのかがみ、とか「や」のつく言葉が多くあるのは、先住民族としてポリネシア語を話す民族が、日本列島に渡来していたからです。戦国時代、織田信長は、出自不詳の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を「やの者」と蔑称していたのは、「や」を「南方民族」として理解していたので、「南方から来た者」の意味で使っていたのです。」
「すると、ポリネシア語民族、ヒッタイト語民族、タミル語民族、突厥語民族が、日本列島に渡来して、それらの民族の言葉を日本列島に残したのですね。」
「そう考えられます。しかし、藤原日本史では、日本列島は世界から隔離した孤島とし、渡来民族の元を中国と朝鮮半島だけとし、それ以外の世界を語らず、神代の世界から降臨した天皇の世界へと物語を創作して「日本古代史」を構成していたのです。そして、漢字伝来以前のそれらの飛鳥大和の人々により話されていたとする「言語」を、「万葉語」としてごまかしていたのです。万葉語とは、万国語で国際移民族の言葉のことなのです。「やまとことば」とは、単一民族とする大和民族の言葉のことではないのです。藤原日本史では、日本最古からあるとする「神」の言葉のルーツを辿れば、中臣神道で述べる、「かむから」(可牟加羅良/神の品格)、かむなから(可武奈何良/神そのままに)、かむさび(可武佐備/神々しく)などのように、古来の「神」は、「かむ」と言われていたのです。その「かむ」のルーツは、アイヌ語の「カムイ」です。因みに、古墳を破壊した跡に建てられた施設を、「モリ・神社」と呼ばれたのは、「モリ」とはアイヌ語で、こんもり盛り上がった地、つまり、古墳の小山のことだからです。漢語に対する「やまとことば」、と云われている「言葉」の多くは、藤原氏が創作した「日本書記」により「消された民族の言葉」を祖としていたのです。」
「「日本書記」により消された民族の言葉は、どのようにして生き残ったのですか。」
「民族言葉の根幹は、3歳位までに確立されるようです。」
「三つ子の魂百までも、ですか。」
「そうかもしれません。子供は、主に母親から民族言葉の根幹を学習するようです。その民族言葉は、永遠ではなく武力的、経済的、文化的、思想的に優位な民族の言葉が、劣位民族により取り込まれていくようです。しかし、優位の異民族の言葉が、劣位民族にとりこまれて、その異民族言葉により、思考するには、最低でも三代百年以上の期間を要するのです。」
「どのようなプロセスによるのですか。」
「例えば、第一世代の民族の国に、武力的、経済的、文化的、思想的優位な異民族が侵攻したとします。すると、先住民は、それらの侵攻民族の優位なものを手に入れようとして、身振り手振りによりコンタクトします。そして、カタコトの侵攻民族語を習得します。実例として、1945年日本国が連合国に破れ、連合国軍最高司令官のマッカーサーが厚木基地に到着し、日本国がアメリカ軍に占領されると、日本の子供達が最初に覚えた英語が、「ギブミーチョコレイト」だったのです。これが、第一混成語となります。その混成語を話す母親から生まれた子供は、先住民族語と混成語を話すことが出来ます。それが、第二混成語となります。その第二混成語を話す母親から生まれた子供は、侵攻民族の言葉を理解できます。そして、その第二混成語を話すことが出来る子供は、侵攻民族の文化、思想を習得し、新しい文化や思想を開発することにより、侵攻民族の言葉が定着するわけです。しかし、その侵略国における侵攻民族の言葉がそのまま生き残ることはないのです。ジャパニーズ・イングリッシュのように先住民族の音韻を引きずることがあるからです。」
「それでは、漢字を読むのに、呉音、漢音、唐音があるのは、中国三国時代の呉(222年〜280年)、五胡十六国時代を統一した中国の北朝を支配した北魏(430年〜534年)、隋を倒した唐(618年〜907年)の商人達か侵攻軍団が、日本列島に渡来していた可能性があるわけですね。」
「そう考えなければ、藤原日本史では、唐文化を輸入しいてたとする遣唐使はあっても、遣呉使も、遣北魏使も「日本書記」には記述がありませんから、それらの呉音、漢音は、呉・北魏のそれらの民族音韻を話す商人か軍団が渡来して、百年近く日本列島に存在していたことが示唆されます。因みに、呉音は、揚子江下流地域を支配していた呉の南方系発音で、行(ギャウ)、経(キャウ)と読んでいたのです。漢音は、中国の長安で話されていた北方系発音で、行(カウ)、経(ケイ)と読んでいたのです。唐音は、645年明日香ヤマトに侵攻した唐進駐軍が使った発音で、794年唐の傀儡である桓武天皇が、秦氏の山背国を乗っ取り、山城国とし、平安京を遷都すると、京の都は、唐音で話されて行くのです。しかし、平安時代、唐進駐軍が支配したのは、京を中心に、西国の近畿一帯だったので、唐音は、ズーズー弁の濁音を話す東国には伝わらなかったのです。唐音の特徴は、濁音が少ないのです。ですから、唐文化一色の平安時代に発明された初期の「ひらがな」には、古墳時代は漢字を使ったアルフアベットの万葉語には濁音が存在していたのに、濁音を表す文字がなかったのです。唐音では、行(アン)、経(キン)と発音していたのです。」
「中国といっても、時代によっては異なる民族が支配していたのですね。すると、藤原日本史では、552年仏教伝来以降、百済から医・易・暦など伝来し、593年聖徳太子が摂政となり、603年官位十二階を制定し、604年憲法十七条を制定していたならば、何故、日本語の語順は、当時先進文化国であった中国式の主語+動詞+目的語とはならなかったのですか。何故、仏教言葉が、「やまとことば」にはないのですか。飛鳥大和を詠っているとする万葉歌には、飛鳥大和を仏教文化とする「仏」についての歌がないのは何故ですか。ナベさんの説では、優位民族の言葉は、先住民により取り込まれることにより、劣位民族の言葉を駆逐する、ということですよね。」
「良い質問です。そこで、藤原日本史で述べる、大臣の蘇我稲目が突然登場した530年から、蘇我氏滅亡の645年までを、漢訳仏教僧による仏教文化の飛鳥大和と考えるのではなく、突厥民族が支配したオリエント文化と騎馬民族文化の時期と考えると、何故、日本語の語順が、突厥語の語順と同じ、北方遊牧民族のウラル語系の膠着語であるのかを、うまく説明できるのです。」
「その明日香ヤマトの115年間で、突厥語が、日本列島に伝播したというのですね。でしたら、どのようにして、南北に長い日本列島に伝播していくことができたのですか。」
「それは、前方後円墳を築造するときに併設された大路によるのです。日本列島に張り巡らされた大路は、藤原日本史では、五畿七道といわれていますが、それは、奈良時代ではなく、古墳時代に、飛鳥大和を中心にしてではなく、東北の日本海沿岸から西の九州に向けて敷設されていったのです。それは、対隋・唐との軍事目的と国際交易が目的です。この五畿七道により、ユーラシア大陸から、日本海を渡り秋田に上陸し、日本列島を縦断して、九州にたどり着くことができたのです。つまり、古墳時代に、日本列島に敷設された五畿七道とは、ユーラシア大陸と南中国とを結ぶ、国際交易の回廊であったのです。」
「すると、その五畿七道により、突厥語が、日本列島全域に伝播したことにより、突厥語が、日本列島語化したという訳ですか。」
「そうです。この推論からも、古墳時代には、先進国唐で流行っていた漢訳仏教など伝来していなかったことを示唆するのです。古墳時代に敷設された、幅12m以上もある大路が、古墳時代に渡来した民族により敷設されたのですが、唐進駐軍により、秦氏や突厥民族が畿内から東国へ駆逐された平安時代になると、その幅12mの大路は埋められて、幅6mにされてしまうのです。」
「そのことをもう少し詳しく説明してもらえませんか。」
「奈良時代末期、山背国(後に山城国)を防衛していた秦氏の花郎騎士団や突厥進駐軍団は、744年突厥進駐軍団の東ユーラシアの母国が、唐軍により壊滅されたため、奈良盆地に駐屯していた唐進駐軍が北上したことにより、山背国を追われるのです。山背国を侵略した唐進駐軍は、788年秦氏のミトラ神の祭祀場があった比叡山を乗っ取ると、砦としての延暦寺を建立するのです。そして、794年唐の傀儡である桓武天皇により、秦氏のミトラ神を祀る蜂丘寺(破壊跡に仏寺の広隆寺を建立)を破壊した跡に、平安京の都を築いたのです。桓武天皇が、何故、唐の傀儡かとの根拠は、781年唐服で、唐の儀式により、奈良時代は呉音であったものを、漢音の祝詞により即位をうけていたからです。そして、奈良時代では、藤原氏が発明したアマテラスオオミカミを皇神としていたものを、なんと、実父の光仁天皇を皇神として、即位儀式をおこなっていたのです。そして、桓武天皇の息子の代から、奈良時代は中臣神道であったものが、唐に居住していたインド僧から仕入れた思想を元に錬金術師空海が発明した真言密教のダキニの呪法で、平安時代から「○○院」と呼ばれていた百済系天皇は江戸末期まで祀られていくのです。そして、桓武天皇は、畿内から花郎騎士団残党と突厥進駐軍残党を、東国に追いやると、越前の愛発(あらち)、美濃の不破、伊勢の鈴鹿に関所を設けて、ユーラシア大陸と南中国とを結ぶ日本列島回廊網を閉鎖し、亡命百済王朝が支配する関西と、騎馬民族系軍団が支配する関東に分断したのです。そして、三関の東側で亡命百済貴族が支配する軍団に抵抗する東国の軍団を、蝦(えび)のようにヒゲをはやしている夷の意味で、「蝦夷」と蔑称したのです。そして、桓武天皇は、その騎馬民族軍団の機動力と、国際交易のための馬を利用した騎馬民族の物流権を奪う目的で、路幅12mを6mに狭めさせたのです。その三関所の東側が、亡命百済王朝と異なる民族であることは、平安時代初期に著された「東大寺諷誦文稿」に、東国には、「毛人方言」、「飛騨方言」、「東国方言」があると記されているからです。」
「蝦夷は、アイヌ民族ではないのですか。」
「蝦夷は、アイヌ民族ではなく、騎馬民族です。その根拠は、アイヌ民族は、騎射ができません。そして、蝦夷の武器は、動物の腸から作った弦を張った騎射用の短弓と、ユーラシアの騎馬民族と同型の蕨手刀です。」
「てっきり、蝦夷はアイヌ民族だと思っていました。」
「それは、蝦夷の歴史を知られたくない、藤原氏の陰謀によるのです。東国の武人である蝦夷の発生は、平安時代からです。それ以前には、日本列島には武人の蝦夷はいません。武人の蝦夷の祖とは、古墳時代の明日香ヤマトを支配していた秦氏の花郎騎士団と突厥民族の武人であったからです。藤原氏は、明日香ヤマトの「武人=蝦夷」の歴史を消すために、「日本書記」の「神武紀」で、「蝦夷を一人、百な人、人はいへども抵抗もせず。」と久米歌を記載して、紀元前から武人の蝦夷が日本列島に存在していた、とのトリックを仕掛けていたのです。更に、「景行紀40年」には、「蝦夷は是尤だ強し。」「撃てば草に隠る。追えば山に入る。故、往古より以来、未だ王化に染はず。」と記しているのです。神武天皇も景行天皇も、藤原氏が創作した架空の天皇です。すると、それらの東国武人の蝦夷の形態を正確に述べた文章は、平安時代初期のものです。それが、720年に完成したとする「日本書記」に記されていることは、謎です。」
「では、藤原日本史で述べる、飛鳥大和の朝廷で天皇のように振舞っていたとする大臣の蘇我蝦夷の「蝦夷」は、どのように説明が出来るのですか。」
「蝦夷は、ヒゲのある夷の意味の蔑称です。突厥とは、騎馬民族の「チュルク」(トルコ)を漢訳したものです。チュルク系民族は、ヒゲが濃いのです。チュルクとは、トルコのことで、現在のトルコ民族の男は、濃いヒゲを生やしているひとが多く見かけます。そのチュルク系民族を蔑称する言葉が、「蝦夷」であるのです。藤原日本史では、飛鳥大和時代の蘇我氏歴代の名前を、稲目、馬子、蝦夷、入鹿の蔑称で呼んだ意味を考えてください。そして、平安時代では、東国の武人を「蝦夷」と蔑称していたのです。」
「ナベさんの古代史説の概要は、大分理解できました。少し整理してから、幻視をします。」
「よろしくお願いします。では、もう遅いのでこれでoffにします。お休みなさい。」
「お休みなさい。」

オレは、今日のチャットをもう一度、読むことにした。それは、田辺さんの古代史は、学校で学習したものと、ほとんど違うからだ。一度刷り込まれた情報を改めるには、オレの嫌いな「努力」が必要なようだ。
田辺さんによる数回のチャット古代日本史講義を「読んだ」おかげで、オレの古代史の認識が変わた。それは、学校で学んだ古代日本史は改竄されているということだ。そのひとつに、祭祀思想がある。民族の中心は「祭祀」だ。その古代の「祀り」が、明治時代になると「祭り」となって行く。何故、犠牲を伴う「祀り」が、明治時代に唄と踊りの「祭り」に替わったのか。
しかし、藤原日本史では、日本国は世界でも珍しい、天磐船から降臨した万世一系の天皇家による「祀り」が、神代の昔からおこなわれてきた、と述べているのだ。藤原日本史では、「祭り」には変更がない、と述べている。しかし、「祭り」に変更があったことは史実だ。「祭り」には、藤原日本史により消された歴史の謎があったのだ。
その謎解きには、「祭」の文字にヒントがある。「祭」の文字を分解すると、三つの文字から構成されていることが分かる。左上の文字は、肉を表す。右上の文字は、人間が手でする何かの動作を表す。下の文字は、神に物を捧げる台を表す。
すると「祭」の古来の意味は、明治時代以降の唄と踊りで神を楽しませるのではなく、肉を手に持って神聖な台に捧げることなのだ。明治時代に、この「祭」から、何故、犠牲が取り除かれたのか。その犠牲とは、神に捧げるため、動物を屠り捧げることなのだ。
このことから、古墳時代が終わった奈良時代から、犠牲の祭祀場であった古墳を破壊した跡に建てられて行く神社(モリ)が、明治時代に建てられて行く神社(ジンジャ)ではないことが分かる。神社(モリ)に、何故、結界を示す注連縄が張られているのか。何故、神社(ジンジャ)境内のジメジメした処に、みすぼらしい小さな祠があるのか。
現在では、「モリ」は、「森」と認識され、木がまばらな「林」に比べて、木が多く茂っている処と思われている。しかし、古代の「モリ」は、禁断の地の葬送地とされていた。その「モリ」を、漢字の「杜」にあてたのは、その意味には「ふさぐ」があったからだ。では、古墳を破壊した跡に建てられた「もり・杜→神社」では、「何を塞いでいた」のか。そのように、藤原氏は、漢字の「森」で、「杜」の本来の意味を消していたのだ。
それは、古墳時代以降の神社(モリ)と、藤原氏(近衛家)が復活した明治時代に発明された神社(ジンジャ)が、異なる目的で、645年突然日本列島に現れた中臣(ナーガ→へび)の神を祀る、祭祀氏族の藤原氏により企画されていたからだ。
田辺さんの古代日本史説を読んで、納得した。やはり、仏教が伝来する前には、「死」を穢れとし、祝詞の祓いによる神道儀式ではなく、犠牲による儀式により「祭り」がおこなわれていたのだ。
だとすると、最後の牛屠殺禁止の御触れが出た平安時代の804年までは、旱魃の解消を神に祈るための犠牲による「祭り儀式」がおこなわれていたのだ。その「祭り儀式」は、藤原日本史が述べる神道儀式の祝詞によるお祓い儀式ではなく、牡牛を屠ることだ。すると、その牡牛を屠る祭祀儀式を、日本列島に持ち込んだ民族は、誰だ。死の穢れ・血を禁忌とするお祓い儀式による中臣神道や、殺生禁止のお経を唱える仏教僧ではないことだけは確かだ。
しかし、藤原日本史では、飛鳥大和は、552年(一説には538年)に仏教が伝来する以前は、神道の神が祀られていた、とするのだ。そして、二度の神仏戦争により、最終的に、崇仏派の蘇我馬子が、廃仏派の物部守屋を滅ぼして、594年には聖徳太子により仏教興隆の詔が発せらた、とするのだ。
藤原日本史によると、594年以降、日本列島は仏教文化となっていった、と言うのだ。しかし、牛屠殺禁止の御触れが出た804年までは、牡牛の犠牲による「祭り儀式」は、バラモン教やヒンズー教の儀式を取り込んだ真言密教を鎮護宗教とする平安王朝の目を逃れて、山の民の間では公におこなわれ続けていたのだ。
古代日本史を復元するためには、「祭祀」は民族を結束するための中心的儀式であるから、牡牛を屠る儀式をおこなっていた民族を特定することが必要だ。その牡牛を屠るには、鋭利な刃物が必要だ。とすると、その二つを持った民族が特定される。それは、ヒッタイト民族だ。
太陽神ミトラを信仰し、ヒッタイト帝国から移住した古代エジプトでは、その時代、太陽の道である黄道は「牡牛の時代」だったので、ヒッタイト帝国からの移民達には、牡牛が太陽神の化身となった。そして、反宗教革命の神官の迫害から逃れるために、古代エジプトから逃れたシナイ半島では、メソポタミア出自の遊牧民族に出会い、そこで牡牛を屠る犠牲の儀式を学んだ。牡牛を屠る儀式と産鉄技術を持つ民族は、やがて、カナンの地でしばらく暮らしたが、隣国アッシリア帝国に、紀元前722年その民族の国は滅ぼされ、その民族はアッシリアの砂漠に消え、二度と歴史上に現れなかった、と言うのが田辺さんの説だ。
そのアッシリア帝国は、紀元前612年に滅んでいる。そして、その地は、はるか遠い西アジアだ。時代的にも、地理的にも、そのような遠大な時間・距離を経て、田辺さんが説くように、極東の中国大陸から離れた島国の日本列島に渡来できるのか。
そこで、田辺さんのレポートを再び読んでみると、少しの疑問は残るが、おおむね理解できる。やはり、ヒッタイト帝国で発明された鉄器を持った民族が、移住先のそれぞれの地域の文化を引きずって、南からの南海ルート、中央からの砂漠ルート、北からの草原ルートの三つにより、太陽神ミトラが誕生すると信じられた東方の山の聖地を求めて、弥生時代に日本列島に渡来したようだ。
日本列島には、古墳や古墳を破壊した跡に建てられた古神社(モリ)や古仏寺に、地図上で線を引くと、太陽の道が現れるのは、ミトラ教信者が、日本列島に太陽神の誕生地を求めたからのようだ。
その鉄器と牡牛を屠る儀式を持った先住民族と、645年侵攻してきた民族との興亡が、古代日本史の根幹だと、田辺さんは述べていたのだ。
そして、645年突然日本列島に現れて、仏教思想を支配武器とした民族が、日本列島の先住民を支配するために、その出自を隠すために、天磐船により降臨したなどの神話を創り、「日本書記」で、朝鮮半島の政変である「ヒドンの乱」を参考に、645年の「大化の改新」物語を創作して、先住民を洗脳していたのが藤原日本史なのだ。
だからと言って藤原日本史は、デタラメを記しているのではない。藤原氏は、唐進駐軍が奈良盆地から秦氏軍団である花郎騎士団と突厥進駐軍連合軍の残党を山背国へ駆逐すると、701年唐の律令制度ソックリの大宝律令を発して、支配下に置いた国々に国司を派遣して、その地域の歴史書を提出させて、古代日本の歴史を調べ上げていたのだ。そして、各国から提出された歴史書の史実を、713年以前には存在しない「物部氏」・「蘇我氏」など架空の氏族を創作して脚色したり、大和朝廷の出雲の侵略は7世紀以降であるのに神話時代として年代をずらして、藤原氏に都合よく、前政権の秦氏・突厥民族の歴史を消していたのだ。だから、各地で発掘される遺構・遺跡は、「日本書記」と符合するのだ。
この歴史改竄の手法は、一神教のユダヤ民族による、多神教のイスラエル民族の歴史乗っ取りと同じだ。だから、「日本書記」と「旧約聖書」の構成が似ているのは、そのためだ。
そして、奈良王朝は、713年各国に風土記撰上の詔を発し、そして、地名・人名を漢字二文字で表記させる好字令を発し、前政権の歴史を消していくのだ。このことにより、オリエント文化色のある地名・人名が消されてしまった。物部、蘇我、大伴、葛城、磯城、平群などの地名・氏名は、713年以降のもので、それ以前のものは消されていたのだ。そのような下地において、720年「日本書記」が完成するのだ。
701年以降、明日香ヤマトの前政権の文化遺産は徹底的に破壊され、その跡に、仏寺が北九州から移築され、その結果、明日香ヤマトに存在していたミトラ教の寺や道教の観を歴史上消すことができたのだ。が、しかし、巨大石造物、大運河、幅12mを超える大路、石垣を麓に張り巡らした吉野山の朝鮮式山城などは、完全に破壊できなかった。そこで、藤原氏は「日本書記」で、女帝斉明天皇(655年〜661年。皇極天皇の一人二役)の「たわぶれ心」により、それらの大土木事業がおこなわれた、としたのだ。
しかし、明日香ヤマト時代(古墳時代)の大土木事業は、藤原日本史が述べるように飛鳥大和近辺だけではなく、日本列島全島でおこなわれていたのだ。藤原日本史では、前方後円墳が、大和政権の権力を地方に示すための象徴だとするが、それは違う。巨大古墳築造は、古墳時代版ニューディル政策だったのだ。
「旧約聖書」では、モーセ率いるヨセフ民族は、古代エジプトで奴隷としてピラミッド築造のために鞭打たれ酷使されていた、とする。そして、その奴隷状態からの脱出が、「出エジプト記」とするのだ。しかし、奴隷の居住地とされていた処から子供の玩具が発掘されたのだ。古代の奴隷は結婚など出来ない。ましてや、子供など持てない。そして、「出エジプト記」では、奴隷が日干しレンガを作っていたとの描写がある。これらのことにより、「出エジプト記」が偽書ではないかと疑われている。それは、日干しレンガは、古代エジプトではなく、メソポタミアの文化なのだ。古代エジプトは、日干しレンガ文化ではなく、石の文化だったのだ。
古代エジプトのピラミッドは、雨季で農耕が出来ない民のためのエジプト版ニューディール政策により、築かれていたのだ。仕事ができない時期に、ピラミッド築造の仕事を与えることにより、王権は民生をコントロールしていたのだ。
そのような目で、4世紀から始まる日本列島の古墳分布を見てみると、岩手県以北には古墳が発掘されていない。何故か。それは、5世紀、ユーラシアの極東のウラジオストックから日本海沿岸に渡来した民族が、同族の騎馬民族が漢化した北朝を避け、絹製品を求め中国南朝の東晉との国際交易のため、ユーラシアと中国大陸との回廊である日本列島の東北の酒田津に上陸し、北ではなく、西を目指したからだ。
古墳が、日本列島に現れたのは、三世紀末からと云われている。そのころの東アジアの社会情勢は、北の騎馬民族鮮卑の南下により、ローマ帝国と絹馬交易で栄えた後漢が、220年滅んだ。
そして、後漢は分裂し、三国時代になり、魏・蜀・呉が中国の覇権を競っていたのだ。その呉の南方系音韻が、日本列島にもたらされていることは、呉の商人か軍団が、日本列島に、三代100年以上の長期滞在をしていたことを示唆する。そして、南方系の呉と覇権を争そう北方系の魏は、247年北九州の邪馬台国と狗奴国との戦争に、軍事顧問の張政を派遣していたのだ。
それは、邪馬台国は、魏に絹製品を貢いでいた「親魏倭王」を奉じられた属国だったからだ。そして、249年卑弥呼が死ぬと、「魏志倭人伝」によれば、巨大古墳に埋葬されたのだ。
そして、4世紀から始まる、チベット族とチュルク民族が支配者となっていた五胡十六国の内乱時代(317年頃〜439年頃)に、日本列島の奈良盆地に、巨大前方後円墳が出現するのだ。しかし、その前方後円墳は奈良盆地だけではなく、その相似形が、岩手県以南から九州まで、七世紀末まで築かれていくのだ。
この4世紀に、藤原日本史では、大和朝廷が存在していたとするのだ。その根拠のひとつが、大和盆地の三輪山麓の傾斜地に、巨大前方後円墳を築造できるほどの権力を掌握していたから、とするのだ。
しかし、巨大前方後円墳は、大和朝廷の指導のもと、先住民の奴隷により築造されていたのではない。古墳は、侵略民族が先住民に仕事を与えることにより、仲間として懐柔するための手段だったのだ。それは、前方後円墳が、異なる埋葬法による方墳民族と円墳民族の合体古墳であるからだ。
その前方後円墳築造のルーツは、2世紀の騎馬民族国の高句麗、5世紀の朝鮮半島南端から発掘されていることから、北方系騎馬民族による、被侵略国の異民族融合のためのアイデアであるようだ。
では、全国各地の古墳地域に併設された、幅広の大路は、どのような民族によるのか。それは、田辺さんのレポートによれば、ローマ帝国軍団によるようだ。ローマ帝国軍は、年がら年中戦争をしていたわけではなく、平和時には、ローマ帝国軍は、建物を建設したり、幅広の直線道路を世界各地に敷設していたのだ。
そのローマ帝国軍団は、紀元一世紀から始まる、ローマ帝国と中国との絹馬交易のために、度々中国と行き来していたのだ。166年には後漢に、568年には突厥帝国を訪れていた。
ローマ帝国軍は、392年以前まで、戦場に降臨するというミトラ神をローマ帝国軍の軍神として崇拝していたのだ。しかし、テオドシウス1世が、敵対するユダヤ教ヨシュア派が「ヨシュアはメシア」と唱えていたのを、「ヨシュアはメシア」のギリシャ語読みで「イエス・キリスト」とし、そのキリスト教を、392年ローマ帝国の国教としてしまったのだ。そして、テオドシウス1世が死去すると、ローマ帝国は、395年東西に分裂したのだ。
そして、東ローマ帝国では、キリスト教徒により、ミトラ教の抹殺が起こり、ミトラ教地下神殿が破壊され、その跡に、キリスト教の教会が建てられていくのだ。その動乱時期に、ローマ帝国軍の軍神ミトラを棄て、キリストの神を祀ることを拒否した一部のローマ帝国軍団は、東ローマ帝国を去り、どこともなく消えていったのだ。
更に、キリストを人間から神にしたい東ローマ帝国は、431年エフェソスの公会議で、キリストは人間だとするキリスト教ネストリウス派を異端として、東ローマ帝国から追放するのだ。そのキリスト教ネストリウス派は、絹馬交易路を辿り、635年唐帝国に現れたのだ。
568年東ローマ帝国軍のゼマルクスが、635年キリスト教ネストリウス派が、東ローマ帝国から中国へ渡来していたことから、395年東ローマ帝国から去った軍神ミトラを崇拝する元ローマ帝国軍団が、東アジアの国へ渡来したことが示唆される。
その国のひとつと考えられるのが、356年碧眼から異邦人とされる奈勿王に興された古代新羅(356年〜527年。528年から仏教文化国)だ。この古代新羅の文化は、東アジアでは異質だ。まず、東アジアでは、唐の女帝則天武后を除けば、ありえない女王国であり、高句麗や百済は漢字を使用しているのに、漢字を使用しない。その代わり、漢字文字をアルフアベットとして表記する、郷札(ヒヤンチャル)だ。この郷札は、藤原日本史が云う「万葉語」と同じだ。更に、372年高句麗が、384年百済が、仏教文化を受け入れていたのに、古代新羅では528年まで仏教文化を受け入れていなかったのだ。仏教文化を拒否していた古代新羅が祀る神は、その軍団が、花郎騎士団と呼ばれていたことから、ミトラ神が示唆される。それは、花は、ミトラの借字であるからだ。
古代新羅の異質性は、その都であった慶州の古墳から発掘された遺品により証明される。そられは、ギリシャ式三樹の金製の女帝用王冠、ローマ帝国軍と同型の冑や脛当て、カスピ海沿岸で作られたガラス製トンボ玉、金製ネックレス・腕輪、角杯、ガラス製品などなど、ギリシャ文化やローマ文化色のある遺品が多数発掘されているからだ。
その古代新羅が支配した朝鮮半島南端では、馬冑が発掘され、それと同型の馬冑が、和歌山県大谷古墳から、そして、さいたま県将軍山古墳からも発掘されているのだ。
以上のことから、日本列島には、4世紀以降にギリシャ・ローマ文化の古代新羅から、太陽神ミトラを祀る元ローマ帝国軍(=花郎騎士団)が渡来して、幅広の大路を敷設していたことが示唆される。
田辺さんのレポートを基に、オレの考えをまとめると、古代日本史は、そのようになる。後は、幻視をするだけだ。

古代日本列島にタイムトリップだ。
雲間からパラグライダーで下降するよに見えた映像が、その地形が北九州と認識できるまでにはそれほど時間がかからなかった。朝日を浴びて金色に輝く波が打ち寄せる岸辺の向こうには、無数の武装船が浮かんでいる。浜には槍と弓を構えている無数の兵士が確認できる。武装船は、大きな帆が付いた30人ほど乗船できる、艪の付いた大型外洋軍艦だ。長らく遠洋航海をしたのか、帆はボロボロだ。やがて、一艘の船が浜に着くと、船の側面から、上陸用の幅広の板状のものが浜に下ろされた。
武装船から見たこともないものが現れた。浜の兵士達は、一瞬退いた。キンピカの全面を覆う冑と、鎖で編まれた鎧、そして、手には鉄製の長槍だ。馬に装備された弓は短く曲がっている。それだけでも、長棒の先に青銅鉾を付け、長い竹製の弓で、木製の盾で武装して、全身に刺青をして、頭を保護するために布を巻いている浜の兵士を驚かすには十分だが、馬にもキンピカの冑と全身を覆う甲が装備されていた。
その武装船から下りた単騎の重武装騎士が、身構える浜の兵士達にゆっくり向かって行く。浜の兵士の大将と思われる者が、槍を天に向けて振ると、無数の兵士達は、重武装騎士を取り囲み威圧した。重武装騎士は、その威圧にたじろぎもせず、槍を天に向けて振っている大将に向けて、ゆっくり歩を進める。
大将が槍を重武装騎士に向けると、同時に、兵士達が槍で騎馬兵士を突き、矢を放った。しかし、槍も矢も騎士の鎧や馬の甲を通さなかった。激しく攻撃するが、それでも重武装騎士の歩みを止めることが出来ない。やがて、重武装騎士は、敵将の前まで進むと、鉄製の槍を馬上から敵将に突きつけた。それを払いのけようとした敵将の木製柄の長槍は、中ほどから折れた。それと同時に、重武装騎士を囲んでいた輪が崩れた。
それを船から観戦していた鎧冑で武装した兵士は、5mもの長槍を振り回しながら浜へ続々と上陸を開始した。もう、浜の兵士には抵抗する者はひとりもいない。やがて、その浜から、青銅の武器を持った集団が、帆の付いた船で出雲へ向けて脱出した。

「すると、この映像は、弥生時代から古墳時代に移る頃か。船から下船したのは、ロンギヌスの槍で武装したローマ帝国軍重騎兵で、木製の盾と青銅器で武装した浜の兵士は南方系アズミ族という訳か。では、その頃の飛鳥大和はどうなっているのか。」

広大な湿地帯を俯瞰して眺めると、小山の頂点を結ぶと三角形となる、湿地帯に浮かぶ三つの山が見えてきた。その三つ山の北側の小山の右手の台地に、無数の人たちが何かを商っている。
地上すれすれに行くと、それらの人達の風体がそれぞれ異なっているのが分かる。商人達は言葉が通じないのか、身振り手振りで商っているようだ。その市場も、夕暮れになると誰もいなくなるのか、常設の建物らしきものは何ひとつ見えない。その大湿地帯の東側の山と山の間を流れる川を掘削している一団が見える。そして、国際市場の北側の山の麓には、巨大前方後円墳が、大湿地帯に運河を造るために掘削した残土で築かれている。指揮者の指示により、集団がいっせいに動く。鞭打たれる者などひとりもいない。この奈良盆地の大湿地帯は、先住民族の支配地ではないので、その前方後円墳は、先住民と紛争している他の地域に比べて、特に巨大に設計されたようだ。
更に、海に向かって西に行くと、湖の西側の台地の中ほどを削って、大運河を完成させた大群衆がいた。その大運河へ湖の水が流れ出し、海に注がれたことにより、その湖の周辺は、湿地帯から平地へと変わっていった。その台地の先端には津を造り、砦が築かれ、その周辺に国際交易用の倉庫群が築かれていった。

「奈良盆地は、三世紀頃までは湿地帯だったようだ。その大湿地帯を平地に変えるために、湿地の水捌けをよくするために大運河を掘削し、その残土で前方後円墳を築いていたのか。でも、何故、そのような山に囲まれた大湿地帯にあるほんのわずかな台地に、国際交易商人が集まっていたのか。オレはその答えを見てみたい。」

高度を上げていくと、日本列島が眼下に見える。目を凝らすと、緑に塗られた日本列島の北九州から四国、そして、紀伊半島を縦断して伊勢までの「一本の筋」が見える。その筋を目がけて急下降すると、地表に転がっている栗のような赤い石を拾い集める集団がいた。その集団は、その筋道を通り、紀伊半島の中頃から北上している。そのたどり着いた先が、先ほどの国際交易場だ。
海外から国際交易商人が持ち込んだ布製品や鉄製品、鏡などの銅製品と交換に、その赤土と繭が求められている。国際交易商人達は、その赤土と繭を求めて、はるばる日本列島の盆地まで、紀ノ川を遡り、或いは、伊勢湾に流れ込む櫛田川を遡り渡来していたのだ。その大阪湾側の紀ノ川と、伊勢湾側の櫛田川との川筋は、和歌山街道となって、縄文時代から開発されていたのだ。

「紀元一世紀、ローマ帝国と後漢が始めた絹馬交易が盛んになると、国際交易商人は、絹を求めて西アジアから東アジアへ多数渡来していたのだ。それは、絹は、金と同量の価値がある高価な国際交易品であったからだ。その絹製品の素が、弥生時代に南中国から日本列島に持ち込まれた「繭」だ。
縄文時代の国際交易商人は、北九州から伊勢につながる中央構造線に転がる「朱砂」を手に入れるために、奈良盆地まで渡来していた。それは、医療技術が発達していない古代では、朱砂は「赤チン」として、消毒薬として呪術に使われた貴重品だったからだ。そして、「繭」を求める弥生時代の国際交易路は、縄文時代からあったようだ。では、北九州を侵略した重武装騎馬軍団のその後はどうなったのか。」

北九州の浜に上陸した騎馬軍団は、馬を動力として、先住民の支配地となっていない湿地帯に運河を掘り、幅広の大路を築いて行く。そして、整地された広大な地に、紐を使って測量すると、地上に円と四角を組み合わせた図形を描いた。その図形に沿って、土が盛られ、突き固められ、また土が盛られ、それを突き固める作業が繰り返されると、巨大な小山ができた。その小山は、石で被われた。太陽のまばゆい光を反射して、白く輝くその人工山は、形こそ異なるが、それは東洋のピラミッドだ。
近隣の山々から、先住民達が、その白く輝くピラミッドに、怖いもの見たさに恐る恐る近づいてくる。古墳築造の指導者とおぼしき者が、古墳を眺めている先住民に手招きをすると、ひとりの男がおずおずと近づいてきた。指導者は、手振りで隣の地区での作業への参加をうながし、鉄製の鍬を渡し古墳築造作業の中に入れた。夕方になると作業は終わる。先住民が鍬を指揮者に返すと、替わりに、布を与えた。男は、喜んで山に帰った。
翌日、男は仲間を大勢連れて、指揮者の前に立った。指揮者は、男達に作業道具を渡すと、作業仲間の所へ連れて行き、それぞれに作業指示を与えた。
その巨大前方後円墳が完成する頃になると、建設作業に加わった先住民達は、指揮者の命令言葉を多少認識するようになった。その指揮者の命令言葉に従う先住民に、前方後円墳が完成すると、鋤や鍬の作業道具に替わり、槍や弓の武器を渡した。こうして、前方後円墳を築く過程で、先住民は、指揮者の号令に従う侵略者の傭兵となっていった。
北九州で、かなりの傭兵を集めた軍団は、九州と本州を隔てる穴門から、瀬戸内海を抜けて、吉備に上陸した。ここには、上質な山砂鉄が産出される。しかし、ここにも青銅器を武器とする先住民がいた。その先住民は、侵略者のキンピカ装備の軍団と多数の傭兵軍を見て戦わずして、吉備の地から出雲に逃れた。
軍団は、吉備の加夜に砦を築くと、また古墳を築き始めて、傭兵を集めた。そして、その軍団は、陸路と海路から東を目指した。向かう先は、国際交易地のある奈良盆地の三輪山麓だ。ここを抑えれば、日本列島の産物が手に入るからだ。しかし、この軍団には別の行動法則があるようだ。それは、北九州から吉備、そして、河内へと東を目指していることだ。

「4世紀、奈良盆地に巨大前方後円墳が築かれ、その古墳から、東海、出雲、九州製の土器に混じって、多くの吉備製の土器が発掘されているのは、吉備が中心となって、古墳を築造していたことが示唆される。
藤原日本史では、何もかも飛鳥大和を中心に、日本列島物語を語っているが、こうして日本列島を俯瞰して見てみると、日本列島史の流れは、ひとつではないことが分かる。そして、4世紀の奈良盆地には、国際交易商人の存在は確認されたが、常設の建物など存在していなく、奈良盆地を支配した強力な大和政権など存在していないことが分かった。
藤原日本史では、紀元前660年神武天皇は大和の橿原で即位し、万世一系の天皇家が日本列島を支配した、と述べているが、その縄文時代の奈良盆地は、ひとも住めぬ大沼だった。では、明日香ヤマトは、どのような民族により支配されたのか。次は、日本国建国の黎明期を見てみよう。日本列島の明日香ヤマトを、初めて支配したのは騎馬民族のようだ。ではどのようにして、明日香ヤマトを支配した騎馬民族は日本列島に渡来したのだろう。」

日本列島から目を4世紀の東アジアに向けると、中国大陸は動乱の始まりの時だった。中国西方のチベット方面からはチベット民族軍団が押し寄せ、そして、北のユーラシア大陸からはチュルク系騎馬民族軍団が押し寄せて、魏・蜀・呉の三国を統一した晉を攻めて、316年滅ぼしている。
それらの二方向からの異民族軍団は、317年南方を支配した東晉を避けて、北方の漢民族などの先住民を支配し、それぞれの国を興している。中国北方のそれらのチベットやチュルクの異民族が支配する国々は興亡を繰り返し、130年間で16国を数えた。
その中国での異民族による騒乱は、朝鮮半島にも押し寄せている。朝鮮半島の付け根を支配している遊牧・騎馬民族の高句麗は南下を始めた。その中国五胡十六国の騒乱時に、高句麗の一部が独立して、346年朝鮮半島南側に百済、356年北側に新羅が興った。朝鮮半島南端の伽耶は、北九州と小船で行き来している南方系の倭族と同族の支配地のようだ。
五胡の北朝の前秦は、372年高句麗に北伝仏教を伝える。そして、百済には、384年南朝の東晉から南伝仏教が伝わる。東晉は、三国時代の呉の後裔だから、「呉音」を話す。その「呉音」が、南伝仏教と供に百済に伝播したようだ。古代新羅を除き、高句麗、百済に仏寺が、砦のように、軍事拠点に無数建てられて行く。
日本列島への最短ルートだった朝鮮半島の交易路は、軍事要塞化され、今や高句麗、百済、古代新羅による三つ巴の騒乱状態のため、行き交う国際交易商人の数もめっきり減っているのが分かる。
その中国大陸での絹馬交易権を巡る異民族による騒乱は、西アジアにも影響を与えている。異民族による紛争により中央の砂漠ルートの治安の悪化から、西アジアの国際交易商人達は、南インドのマラバル沿岸に集結し、外洋船による南海ルートにより中国を目指し始めている。そして、ユーラシア大陸では、騎馬民族の興隆により、草原ルートにより中国を目指す商隊が現れた。

「4世紀から5世紀にかけての日本列島の歴史が空白なのは、中国大陸がチベット遊牧民族やチュルク系騎馬民族の台頭により、騒乱状態であったからのようだ。それは、遊牧民族のチベット族やチュルク系騎馬民族は、基本的に、定着民族ではなく、放浪の「風の王国」を築くため、歴史書を持たないから、その頃の日本列島の客観的情報がないからだ。
そのことを良いことに、藤原日本史では、朝鮮半島南端と北九州を支配していた倭族(イゾク=韓族)の歴史を取り込んで、4〜5世紀を「倭の五王時代」とした。つまり、讃(仁徳天皇か履中天皇)、珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)、武(雄略天皇)とするのだ。
「宋書」で倭王武が皇帝に述べる内容には、倭の北側には、海がある。しかし、飛鳥大和の北側には、山はあっても、海はない。すると、4〜5世紀の飛鳥大和には、倭の五王が居なかったことになる。では、明日香ヤマトには、どのような民族が居たのか。
漢字の発音が時代順に、南方系「呉音」→北方系「漢音」→「唐音」と変化していくことから、日本列島に初めて漢字を持ち込んだのは、「呉音」を話す、三国時代の呉か、その後裔の東晉か、その東晉から南伝仏教を押し付けられた百済の商人か軍団が考えられる。
日本列島は、弥生時代から、東ローマ帝国が欲しがる絹製品の原料である「繭」の産地でもあるのだ。そして、「絹」生産本場の中国大陸は、4〜5世紀の騒乱状態のため、「繭」の供給に支障があったのだ。この状態は、中国清帝国時代、太平天国の乱で絹製品の生産が出来ないため、その代替として日本列島の絹を求めて企画された明治革命前夜の状態と同じだ。イギリスなどの諸外国の軍艦は、日本列島の絹を求めて渡来していたのだ。
南の外洋船による南海ルート、そして、北の馬による草原ルートから西アジアの国際交易商人が、軍団と供に日本列島に押し寄せてくるのが、五世紀からだ。この時期から、日本列島に分布する古墳の埋葬品が、祭祀道具から、実戦用の馬具や刀剣類となっていくのだ。そこには、日本列島での絹交易を巡って、先住民と異民族とにより騎馬戦がおこなわれていたことが示唆される。
それでは、日本列島の古墳に馬具が埋葬される時代、動乱の東アジアはどのようになっていたのか見てみよう。」

遊牧民族と騎馬民族が支配する五胡十六国のうちの北方の小国北魏に、東ユーラシアの草原から騎馬民族鮮卑が集結してくる。その結果、その北魏の勢いは強くなり、隣国を次々に倒して行く。そして、430年には中国北部を統一して、鮮卑族の太武帝が支配する北朝の北魏が興った。
その10年前の420年には南部は宋が統一していた。その南北朝の北側のユーラシアには、北方の鮮卑族を南に追い遣った、騎馬民族の柔然が東ユーラシアを支配して対峙していた。
北魏の太武帝が、431年夏を滅ぼし、長安に入城し、仏寺を調べると、そこに夥しい武器を発見した。五胡十六国の騒乱時代の治外法権の仏教寺院では、仏像を安置するだけではなく、武器も安置していたのだ。
その仏教組織の軍事力に脅威を持った、鮮卑族の太武帝は、北魏の全ての仏寺を破壊していき、全仏教僧を国外追放をした。その数200万人。その夥しい仏教僧は、北伝仏教が伝わっていた朝鮮半島の高句麗を目指した。その北魏での仏教弾圧は、騎馬民族文化を蔑視する漢訳仏教の敵である道教を保護した太武帝が暗殺されるまで、446年から452年までの6年間続いていた。
その北魏から亡命渡来して高句麗から朝鮮半島を南下した仏教軍団が、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅に、527年押し寄せて来たために、古代新羅の女王族は花郎騎士団と供に、玄界灘を船で渡り、北九州に大挙して渡来し、先住民と1年間に及ぶ戦争の末、国東半島の付け根に砦を構えた。秦王国の始まりだ。そして、戦死した武将の古墳に、ユーラシア大陸でのモニュメントとしての石人・石馬を飾り、弔っていた。
目を北九州から中央ユーラシアに向けると、その南朝の宋、北朝の北魏、東ユーラシアの柔然が対峙していた5世紀半ばに、中央ユーラシアにあるバイカル湖沿岸に、鼻が高くヒゲの濃いチュルク系騎馬民族の突厥が集結していた。突厥は、騎馬民族でありながら、バイカル湖を船で行き来できる航海術も持っている。馬と船により、瞬く間にその勢力を広げて行く。
その突厥は、始めは高車の傘下にあって轡や武器を作る技術部族としていたが、やがて高車を飲み込んで肥大化し、東西に勢力を伸ばして、東ローマ帝国との絹馬交易路である草原ルートの支配者となっていく。その東ローマ帝国と中国との絹馬交易路の西側に国際商業国エフタルが興り、北魏と交易を始めたので、西に勢力を伸ばしていた突厥と度々紛争を起こしていた。
国際商業国エフタルは、東ローマ帝国にも突厥にも、その存在が許されなかった。そこで、東ローマ帝国と突厥は協力して、エフタルを挟み撃ちをして攻撃をしたことにより、567年エフタルは滅んだ。そして、その突厥帝国の庭(朝廷)に、568年東ローマ帝国の返使ゼマルクスが入っていた。
552年ユーラシア大陸を支配した突厥帝国は、534年北魏が滅び翌年東西に分裂して騒乱の北朝を避け、そして、朝鮮半島の付け根の強国高句麗を避け、絹織物の生産地である南朝と交易をおこなう目的で、ユーラシア大陸の極東港ウラジオストックから、日本海を渡り、日本列島の野代(能代)、酒田津(秋田)、佐渡、珠洲(能登)、佐利翼津(越前)、松原(若狭)など、日本列島沿岸を目指した。6世紀の日本海には、夥しい軍船や商船が、中国大陸東北から日本海を渡り日本列島沿岸の東北の港を目指している。
何故、突厥軍団は、縄文時代からの日本海沿岸の国際中継港である出雲ではなく、越前や東北の東国を目指したのか。それは、西国には、朝鮮半島の高句麗、百済、古代新羅のコロニーが無数あり、そして、出雲・石見などの沿岸の斜面は棚田としてタミル語を話す南方系民族の支配地であるからだ。
この頃の日本列島を俯瞰して見てみると、東北から九州までつながる国際交易のための陸路や海路に沿うように大小の前方後円墳が築かれていき、出羽国、越王国、河内王国、明日香王国、出雲王国、吉備王国、九州の秦王国などの黎明期であることが分かる。まだ、6世紀の日本列島を統一できるほどの権力集団の存在を、飛鳥大和にも見ることができなかった。

「藤原日本史によれば、4世紀から5世紀にかけての大和朝廷は、朝鮮半島の紛争に積極的に介入し、そして、南朝の宋(420年〜479年)には、「飛鳥大和の倭国?」の五王が朝貢をしていた、とする。そして、大和朝廷がその朝鮮半島へ派遣した兵隊数も万単位だ。しかし、そのような大軍団を、船団を組んで派遣できるような軍事力が、奈良盆地の大湿地帯を大溝や巨大古墳築造工事により平地に変えたばかりの「飛鳥大和の朝廷?」にあったのか。
南朝の梁(502年〜557年)の国書「梁書」によれば、日本列島には、倭国(九州)、文身国(出雲)、大漢国(大阪)、扶桑国(東北)の四国がある、と書かれている。倭国が飛鳥大和にあるとは書かれてはいない。「梁書」によれば、その当時の日本列島には、飛鳥大和朝廷による統一王朝などなかったようだ。
そこで、藤原日本古代史の基礎資料「日本書記」の物語と遺跡・遺物とを照合してみると、そこには、「日本書記」のウソが現れてくる。そのひとつが、「出雲の国譲り物語」だ。
出雲の古墳は、不思議な遍歴を示している。それは、出雲の初期古墳は、方墳と四隅突出型方墳であったものが、6世紀から7世紀にかけて前方後方墳から前方後円墳に替わっていた。そして、日本列島各地での前方後円墳築造が終了しても、出雲地域では築き続けられていたのだ。
藤原日本史の「日本書記」での出雲神話物語では、神代の昔に、悪役スサノウの息子大国主命はアマテラスオオミカミの息子に国を譲ったことになっている。すると、大和朝廷の祖の支配地に、誰によりそのような方墳→四隅突出型方墳→前方後方墳→前方後円墳への古墳遍歴が指示されたのか。古墳は、それぞれの民族のシンボルを現している。だとすると、出雲には、4世紀から7世紀にかけて、異なる民族が渡来していたことになる。
そして、藤原日本史の神話物語の時空が狂っているのは、女神アマテラスオオミカミの弟とされるスサノウが、「新羅」を訪れていることだ。「新羅」の建国は、356年なのだ。それ以前に、「新羅」と言う国はない。これらのことにより、「日本書記」の出雲神話物語は、「旧約聖書」の創世記が後から挿入されたように、前方後円墳を作り続けた出雲王国が7世紀まで存続していたことを抹殺するために、出雲王国を歴史上消すために、「日本書記」の神話物語の始めに「出雲神話」が挿入されたようだ。
日本列島の古代では、ウラル語系の突厥語を話す騎馬民族が6世紀以降渡来する前に、藤原日本史が述べるように「万葉語」を話す紀元前660年に即位した神武天皇が支配していたのではなく、日本語の言葉の歴史的構成から、ポリネシア語を話す民族、アイヌ語を話す民族、タミル語を話す民族、朝鮮半島の高句麗語・百済語・古代新羅語を話す民族、中国語の「呉音」で話す民族が、日本列島の各地に存在していたのだ。
その騎馬民族の突厥語を話す民族により支配されていた明日香ヤマトの古墳時代は645年に終わり、奈良時代から平安時代にかけて破壊され、その跡に前政権の霊を封じ込めるために神社(モリ)が設置されていたことは、奈良時代以降は古墳時代と異なる民族が支配者となったからだ。では、古墳時代を支配した民族が、どのようにして明日香ヤマトの支配者となったかを見てみよう。」

6世紀に入り、高句麗から南下してきた漢訳仏教軍団により、527年朝鮮半島を追われたギリシャ・ローマ文化の古代新羅からの亡命民は、北九州の国東半島付け根に秦王国を築ずいていた。
この秦王国は、先遣部隊が築いていた吉備砦、紀ノ川河口砦、吉野砦と連絡を取りながら、淀川河口の大治水工事を計画していた。それは、淀川を支配できれば、山背国の物流の拠点である樟葉津を攻略でき、その結果、その先の宇治川を押さえることにより、琵琶湖に到達でき、琵琶湖から若狭湾に至り越前から海を渡り、中国大陸の北朝と国際交易できるからだ。騎馬民族の「シノギ」は、交易か戦争なのだ。
更に、淀川上流の樟葉から木津川を遡れば、縄文時代から日本列島の国際交易地である奈良盆地のツバキ市に平底の河船で到達できる。そうすれば、今までの紀ノ川河口から遡り、吉野の山道から危険を冒して奈良盆地に行くこともない。それに、その吉野のルートにおいての、三輪山後方の宇陀の山奥に棲息する先住民との交戦もない。
淀川河口から上昇して俯瞰して見ると、秦王国の先遣部隊が上町台地に大運河を通していたことにより、もう、河内湖は干上がり大湿地帯となっており、周辺では大運河を奈良盆地に向けて掘削中だった。
海岸からそれほど遠くない平地には、大路に沿って巨大な前方後円墳が数基築かれていた。その周辺では、水田稲作がおこなわれている。
日本列島への亡命を意図していたのは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅王族だけではなかった。535年北魏が東西に分裂し、その騒乱に乗じて、突厥が東魏を攻撃することにより、550年東魏は滅び、西魏も557年滅んでいた。西魏を倒した北周は、北朝の北魏を興した太武帝のように漢訳仏教を弾圧していた。北周を追われた漢訳仏教軍団は、高句麗に押し寄せていた。高句麗は山岳国家なので、国際交易には不向きであり、そして、砦としての仏寺を建てる平地がそれほどない。仏の道を広めるだけではなく国際交易もおこなう漢訳仏教軍団は、砦である仏寺の拠点を移しながら、更に、朝鮮半島からの南下を目指していた。
視野を河内平野から日本海沿岸に向けると、東北沿岸の酒田津、新潟、能登に、軍馬と供に上陸した突厥進駐軍団は、布や食料を「労働対価」に先住民を道路建設労働者として取り込みながら、縄文時代からの路を、騎馬軍団が疾走できるほどに広げながら、谷は埋め、峠は切り通して西を目指して行く。そして、突厥民族のユーラシア大陸の故国にあるバイカル湖に似た湖に広がる大平原に、馬を放ち「牧」とした。そして、絹馬交易のために馬を繁殖させる牧場を、会津盆地→諏訪盆地へと西に向けて広げていった。
渡来した突厥進駐軍団には、東ローマ帝国軍団が参加しているのが、鎧兜と長槍の装備で分かる。その東ローマ帝国軍の指揮の元、大路は西に向けて造られていく。日本海沿岸から西への大路は二つ。山道を行く東山道と日本海沿岸に沿って行く北陸道だ。
その東北沿岸に沿って秋田から琵琶湖に続く北陸道の越前に、30騎ほどの軍団が見える。ズームアップすると、その騎兵は、スボンのベルトには柄先が蕨のように丸くなった短刀を差し、筒袖服の背には短弓と数十本の矢があった。鎧兜で武装してはいない。偵察部隊のようだ。
その偵察部隊が、琵琶湖の西岸に沿って南下していくと、北上して来る騎士に遭遇した。騎士は、突厥偵察隊の数を見届けると、急いでその場を南に去った。偵察部隊は、後を追ったが追いつけなかった。逃げ去った馬はアラブ種のように大きく、偵察部隊の馬はロバのように小さかったからだ。
偵察部隊が一昼夜南下していくと、湖にたどり着いた。その湖の対岸に津があった。津とは船が係留できる港のことだ。津には大勢の人影が見える。偵察部隊は引き返した。
やがて、その湖の岸に突厥進駐軍団が現れた。その数100騎。もちろん、東ローマ帝国軍騎士も10騎いる。先住民により組織された歩兵は500程だ。対岸の津にも無数の兵隊の影が見える。
騎馬民族は、商業民族でもあるので、いきなり戦争はしない。戦闘の前に交渉事をおこなう。しかし、交渉は決裂したようで、この地での戦いは20年も続いた。決着は単騎戦だ。淀川河口を支配する民族からは、元東ローマ帝国軍末裔の花郎騎士で、越前からの突厥進駐軍からは、現役の東ローマ帝国騎士だ。キンピカのメッキが少し剥げた冑に鉄線で編まれた鎧で武装した騎士と馬冑と全身を鉄網の甲で武装した馬の動きは、軽装備で武装した騎士の動きにはついていけない。長槍で胸を突かれたキンビカ騎士が落馬したことにより、突厥進駐軍の勝利となった。
秦王国の花郎騎士団は、突厥進駐軍の配下となり、供に樟葉から木津川を遡り、奈良盆地を囲む山々にある高句麗や百済進駐軍の砦を壊滅しながら奈良盆地に入った。6世紀の日本列島は東アジアや朝鮮半島のように異民族の紛争地であった。
明日香ヤマトの支配者となった突厥進駐軍は、奈良盆地に入ると南端の、突厥語で「連なる山々」の意味である「タフノミネ」の麓の、北側に開口した東西約800m南北2kmの真ん中に川が流れる地に砦を設けた。
それに対して、秦王国軍団は、奈良盆地の北端に砦を築き、南北軸から西に約20度傾いた建物を建てた。そして、その地から突厥進駐軍の砦の地まで、南北軸から西に約20度傾いた幅12mの直線道路を敷設した。そして、大阪湾に注ぐ大和川の川幅を河船が通れるように広げ、更に、奈良盆地に突厥進駐軍の砦まで大溝を作っていく。
秦帝国の民族は高度土木建築技術を持つ、そして、突厥民族は製鉄技術を持つ。この両民族の協力により、明日香ヤマトには、輸出用製品の鉄製品、ガラス製品、医薬品を製造する工場が建設されていく。
それは、カスピ海沿岸から輸入するガラス製品が、西アジアにユダヤ・キリスト教から派生した新宗教を信じる遊牧民族によりサラセン帝国が興ったため、極東に届かなくなっていたからだ。
突厥帝国の経済基盤は国際交易による収入だ。西アジアから仕入れたガラス製品、金装飾品、工芸品を、中国南朝にもたらし、その交易の帰りに、中国南朝で絹製品を仕入れ、西アジアで売り捌く。明日香ヤマトは、西アジアと中国南朝との国際交易の中継基地だけではなく、生産基地として期待されていた。そして、その明日香ヤマトに、国際交易商人が訪れた時、歓待するために、噴水のある庭園や、異民族との交易で不正がないように神の下でおこなうための交易施設であるミトラ教や道教の宗教施設を建設していた。古代の宗教施設は、交易所も兼ねていたのだ。勿論、騎馬民族を蔑視する思想を持つ漢訳仏教施設や神社・宮などはなかった。
そして、明日香ヤマトの奈良盆地には、支配者としての騎馬民族の墓制である死者の再生を信じて埋葬する方墳や八角墳が築かれていき、6世紀半ば頃まで秦王国の先遣隊により築かれていた前方後円墳は、奈良盆地以外で築かれてく。その前方後円墳には、九州阿蘇の石で造られた石棺が、古代エジプトの埋葬思想と同じ横穴式石室に収められていく。
死者を穢れとし、燃やしてしまう漢訳仏教も、死を穢れとし息のあるうちに家から排除してしまう中臣神道の存在の欠片も、6世紀の明日香ヤマトにはなかった。
こうして、明日香ヤマトの石文化が拓かれていき、それと同時に、ユーラシア大陸と中国南朝との、中国北朝と朝鮮半島を避けて、日本列島を回廊とした国際交易路が完成した。
ユーラシアを支配した突厥帝国が、日本列島を回廊として南朝の陳や西梁との交易を望んでいたが、589年隋が中国を統一してしまっていた。隋の文帝は、漢民族化した騎馬民族だった。突厥帝国は、交易を求めて隋の文帝に、突厥帝国の「天子・テングリ」からの国書を送ったが、色よい返事はなかった。
そこで、600年日本列島の明日香ヤマトのコロニーから隋の文帝に遣隋使を派遣した。そして、607年には、「日の昇る地の天子から、日没の地の天子に挨拶をする。つつがなきや。」の国書を隋の文帝に提出して交易を依頼した。その返答に、608年偵察として隋使裴世清が渡来した。その時隋使裴世清は、北九州で中国文化ソックリの秦王国を目撃していたのだ。隋使一行は、船で浪速に到着すると、河舟に乗り換え、その河舟は人馬に引かれて、明日香ヤマトに到着し、男王アマタリヒシコに謁見し、その翌年隋に帰っていった。
その隋帝国は、高句麗攻撃の失敗により、618年滅び、唐帝国が興った。唐帝国の高祖も、漢民族化した騎馬民族だ。騎馬民族出自を皇帝とする唐帝国は、630年東突厥を散逸させた。この突厥進駐軍の母国が散逸してしまったことにより、明日香ヤマトの情勢も変化していく。それは、明日香ヤマトの軍事要塞化と、各軍事道路に設けられた軍事施設のミヤケの要塞化だ。北九州には、大堀に水をためた水城を造り防衛体制を整えた。瀬戸内海の防衛も、ミヤケの要塞化により完璧だった。
時間を6世紀に戻し、西アジアを眺めると、そこにイスラム教のサラセン帝国が、571年に興り、たちまち周辺諸国に、その勢力を広げていった。イスラム教を信じる遊牧民も、騎馬民族と同じに、商業民族でもある。そのことにより、西アジアの非イスラム教徒の国際交易商人は、陸路ではなく、海路で中国を目指して行く。
その海路で中国を目指す船団の中に、南インドのマラバル沿岸から、南九州の坊津にたどり着いた商船があった。その船には、トラヴダ語(タミル語の仲間)を話す兵隊がいた。その兵隊は、南九州を支配していたとする熊襲で、薩摩ハヤトの祖だ。その国際商人は、南九州の坊津から、瀬戸内海ではなく、四国を太平洋側に回り、紀伊半島から北上して、紀ノ川河口から、和歌山街道を吉野に抜け、或いは、熊野古道を抜けて奈良盆地に渡来して、交易をおこなっていた。この南インドからの商業民族の渡来が、明日香ヤマト滅亡の始まりだった。

「藤原日本史によれば、6世紀から7世紀にかけて日本列島は、飛鳥大和朝廷により、仏教文化による日本国の黎明期、とされている。では、何故、日本神話から飛鳥時代まで続いているとされる出雲大社が幻視できなかったのか。それは、田辺さんの古代史の講義により、オレは藤原日本史の呪縛から解放されていたからのようだ。
そこで、出雲の歴史を語る720年「日本書記」、733年「出雲国風土記」、812年「古事記」を調べると、不可解なことが分かった。それは、733年完成の、各国の風土記の完本が現存していないのに、唯一完本が現存する「出雲国風土記」には、「日本書記」、「古事記」に登場の大国主神ではなく、大穴持命が登場する。そして、出雲大社ではなく、杵築大社(キズキタイシャ)なのだ。
「キズキ」とは、社(ヤシロ)を建築する際、地盤を杵で突き固めることを指す。そして、藤原日本史によれば、その「キズキ」の始まりは、天照大神に出雲の国土を譲られた大国主神のために天日隅宮(杵築大社)を建てたことによる、と云う。
「古事記」では、国譲りのための相談が、最初の八百万の神々を集いて、天安河の「河原」でなされた、と言う。「河原」とは、この世ではなく、「異界」を表す処だ。これは、何かおかしい。
そこで、宮の造営の歴史を「日本書記」と「古事記」で調べると、全国に無数ある古代神社の中で唯一、その造営の経緯が述べられているのは「出雲大社」だけなのだ。その造営の経緯も、「日本書記」と「古事記」とは逆だ。「日本書記」では大社造営の申し出は高天原側からなのに、「古事記」では大国主神からの申し出だ。どちらかが「ウソ」をついていることになる。
そこで、「古事記」は、「日本書紀」の「ウソを暴く」ために、奈良時代ではなく、平安時代に秦氏末裔、「日本書記」の講釈師の多人長により著されたものであることを思い出せば、「古事記」の方が正しいことが分かる。
一般的常識では、「古事記」は、舎人の稗田阿礼の暗誦をもとに太安万侶が撰述し、和銅5年(712年)に女帝元明天皇に献じたもの、とされる。しかし、その内容が不可解だ。
「古事記」は、女帝元明天皇に献じた「帝紀」で「先代の旧辞」であるとするならば、先代の天皇についての内容でなければならないのに、上中下の全三巻の上巻は、天皇が登場せず、ほとんどが神話の世界だ。そして、その神話が語る地域は、朝廷があるはずなのに、大和などの畿内が10%にも満たないのに、僻地の九州と出雲を中心とする山陰がほとんどだ。多人長は、「古事記」の暗号で、何かを訴えかけているようだ。
その「暗号」のひとつが、「キズキ」の言葉だ。この「キズキ」による行為は、ある「モノ」を地下に封じ込めるための動作の意味でもあるのだ。そこで、出雲大社での特徴を調べると、出雲大社には、他の社には見られない、高橋、浮橋、打橋の橋が三つもあるのだ。
古代では、「橋」は、異なる世界を結ぶ堺の空間を呈し、霊のこもる空間、特殊な開放された聖空間とみなされていた。そのことは、穢れ思想がはびこっていた平安時代では、「橋に禁忌なし」、とされていたように、「異界」を結んでいたため、死穢には無関係な空間だった、ことで分かる。
更に、出雲大社の不可解は、「心の御柱」が、床、天井板を突きぬけ、梁まで達していることだ。藤原日本史では、神代の昔から皇神を祀っているとされる伊勢神宮の「心の御柱」は、床まで達していない。何故だ。
「柱」とは、ハシ(橋)、ハシタテ(梯子)、ハシラ(柱)などが同義語であるように、異界の二点を繋ぐ媒介物という意味がある。つまり、「柱」は、地下の異界と地上を繋ぐモノでもあるのだ。そのように「心の御柱」は、社殿自体の構造には不要なものであるのだ。
更に、出雲大社の不思議は、その本殿内の「心の御柱」の許には、牛飼神像と伝わる、大国主神の御子とする和加布都奴志命(ワカフツヌシ)が牛を引き鎮座しているのだ。「牛」は、太陽を祀るミトラ教では太陽神の化身で、犠牲の聖獣だ。その牛を引く和加布都奴志命の「布都・フツ」とは、邪悪なるものを退ける剣や横刀を振るときに発する擬音のことだ。そのような「牛」を屠る時に横刀が発する擬音を持った和加布都奴志命と牛が、何故、「心の御柱」の許にあるのか。
一寸史料を調べただけでも、出雲の不思議がこれだけでてくる。更に、不思議は続く。
出雲は、「古事記」の神話では「黄泉の国」とされている。その出雲から出土する遺跡や遺物が、日本神話の年代に合わないのだ。例えば、神武天皇が即位する紀元前660年以前の神話物語に登場するスサノウは、356年建国の新羅を訪れているのだ。そのスサノウの娘婿の大国主神の時代に、天照大神の息子に国譲りがあり、出雲大社が建てられたと、藤原日本史では説明しているのだ。これでは、出雲地方の古代史についての史実が、ほとんど分からない。
そこで、資料に載る出雲大社の造営時期について調べると、「日本書記」に、神武天皇から11第目の垂仁天皇23年に「兎上王をして宮造営させる。」とある。そして、970年「口遊」(くちずさみ)に第一の大厦が出雲大社とある。そして、1110年藤原家保の日記「寄木の造営」で、漂着した巨木で本殿を造営した、とある。1190年寂蓮法師の歌で出雲大社が詠まれている。つまり、奈良時代から平安時代初期まで、出雲大社造営の史料は空白なのだ。そこで考えられるのは、出雲大社は、平安時代初期以降に、前政権の宗教施設を破壊した跡に、前政権の霊を、祀るのではなく、封じ込めるために建てられた施設なのではないか、ということだ。
古墳時代初期の出雲地域は、飛鳥大和地域と異なる文化圏であったようだ。出雲地域の古墳形態は方墳か四隅突出型墳であるのに対して、飛鳥大和では丸墳か前方後円墳だ。そして、6世紀半ばから飛鳥大和では、前方後円墳に替わり方墳や八角墳になっていたのに、出雲地域では、前方後方墳から前方後円墳が築かれて行くのだ。このことからも、古墳時代初期では、飛鳥大和の文化は、出雲地域に伝播していなかったことが示唆される。
その前方後円墳が出雲地域に出現する6世紀から7世紀に、山砂鉄を精錬するタタラ製鉄が出現するのだ。タタラ製鉄とは、騎馬民族が支配するユーラシア大陸のタタールでおこなわれていた製鉄技法のことだ。
実は、出雲地域は、縄文時代から、その地理的形状から、九州→出雲→北陸→東北への日本海沿岸航路の大きな結節点であり、情報の集散地でもあったのだ。その根拠のひとつは、出雲地域では、勾玉、管玉、切子玉の加工地で、遠く九州を経て中国まで出荷していたのだ。その玉の材料は、新潟県糸魚川付近で産出する翡翠だ。遠方地を繋ぐとするもうひとつの根拠は、出雲大社の東方の巨石下から、北部九州と係わり合いのある銅戈と、新潟県糸魚川から産出する翡翠で造られた勾玉が出土していることだ。ミトラ教思想では、巨石には、太陽神ミトラが宿っているとされていたのだ。
そのようなことから推測できるのは、西国で最後まで飛鳥大和朝廷に抵抗していた国が、出雲地域で、7世紀まで存続していたようだ。
飛鳥大和朝廷に追われた出雲民族の逃避先が、「古事記」には記されてある。それは、ユーラシア大陸のバイカル湖沿岸に似た大草原から突厥民族により「トルファン」と呼ばれていた、信濃の諏訪だ。
諏訪にも、出雲にも増して、不思議が多くある。それらは、巨木を立てるだけの御柱祭り、拝殿から神山が見えなくて拝めない本殿がない空き地のある社、鹿の断首を祀る祭壇などなどだ。そして、その諏訪(トルファン)の地は、北九州から渡来していた海洋民族安曇族と、ユーラシア大陸から渡来した騎馬民族突厥の合同支配地だった。
平安時代、桓武天皇軍団の坂上田村麻呂と戦ったあの八面大王の古墳もその近くにある。同族は、移住先でも同じ祀りをする。このことにより、出雲から諏訪に逃避した信濃安曇族の祖は、逃避元の出雲の古墳の近くで、「諏訪の祀り」をおこなっていたことが示唆される。つまり、古代出雲では、古墳近くで牛を屠り「祭」をおこなっていたのだ。
その7世紀の日本列島の出雲の史実を消すためのトリックが、「日本書記」の出雲神話物語で、その「日本書記」の「ウソ」を暴くためのヒントを述べたものが、平安時代初期に著された、上中下の全三巻のうち上巻のほとんどを使って、藤原氏に覚られないように、ギリシャ神話を素材として、暗号を駆使して出雲の歴史を述べたのが「古事記」の上巻だ。だから、7世紀以前に存在しない出雲大社(杵築大社=怨霊を封じ込めた大社)を、オレは幻視できなかったのだ。
それでは、「日本書記」では継体天皇が飛鳥大和に入京し、聖徳太子が仏教文化の華を飛鳥大和(6世紀南インドから南九州坊津に渡来した商業民族のシンジケートにより奈良時代に創作された架空の都。)に咲かせていたとするが、石文化とオリエント文化の明日香ヤマト(6世紀中頃ユーラシアから東北の日本海沿岸に渡来の騎馬民族の突厥進駐軍と、527年古代新羅から日本列島に亡命渡来したギリシャ・ローマ文化の秦王国の花郎騎士団が支配した都)を約100年間(530年〜645年)支配していたことにより日本語の語順を確立した騎馬民族の突厥進駐軍と、平安時代の遊芸者の祖であるギリシャ・ローマ文化の秦王国の花郎騎士団が支配していた明日香ヤマトが、どのようにして壊滅したのかを見てみよう。」

紫色の闇が天と地に別れ、山の稜線がかすかに見える頃、山の麓に点在する小さなかがり火が見えた。やがて、冬至の太陽が、霞がかる東の山頂から弱弱しく昇ると、大きな石の祭壇の上に牡牛を曳いた男達が見えた。その中のひとりが白い一息を吐き、太刀を振り下ろすと、牡牛は膝から崩れ落ち、牛首が湯気を立てて転がった。
その牛首が石壇に捧げられると、松明を持った多くの男達の歓声が上がった。そして、男達は、角杯に注がれた牛の生血を回し飲みし、切取られた生肉を食べた。この不思議な儀式は、ヤマト国では飛鳥、三輪山、春日野だけではなく、奈良盆地の北側にある山背国の鹿背山でも見られた。
やがて、太陽が山の頂から完全に上りきると、その祭祀場の西側近くには、巨大な石葺きの前方後円墳が確認できた。朝日を浴びた前方後円墳は金色に輝き、その後方墳の上では祭祀者が、石の祭壇に牛首を捧げ、大声で何かを唱えた。前方後円墳を囲む多くのひとたちは、その祭祀者の行動を畏怖を持って見守っていた。
太陽が金色から白色に変わると、その地域の全貌が確認できた。盆地にある多くの巨大前方後円墳は、幅広の直線路に沿って築かれている。その大路は、盆地から大阪湾の津まで続いている。そして、その大路に沿うように、河船が行き来できる大運河も、盆地にはある。その大路と運河とにより、盆地南側の都と北側の都が繋がり、馬車や河船により多くのひとや荷物が行き来している。行き交うひとの風体は、白人、黄色人、黒人と様々だ。
三方を小山に囲まれた南側の都には、中央に川が流れていて、その北側入口には厳重に造られた柵があり、ズホンと筒袖の兵隊が槍を掲げて守備をしている。その柵の内側には、巨大な丸石が多くあり、緊急時には、その川を丸石で塞ぐことにより、その盆地全体が「水城」になるように設計されていた。そして、2kmほど奥まった傾斜地には、鉄製品、ガラス製品、薬品を作る工場群や銅銭製造工場の建物もあった。中央の狭い平地には、噴水のある池が作られ、石を敷き詰めた公園もあった。
この狭い盆地内には、無数の建物があり、その建物内で異国の国際商人達が商いをしている。異国からもたらされる交易品は、金装飾品、ガラス製品、螺鈿工芸品などで、ヤマトから出荷されるものは水銀、朱砂、繭、真珠、宝石、薬品、鹿・熊皮、フカヒレ、アワビ、昆布などだ。
この国際交易都市も、630年母国東突厥帝国が、唐軍団により散逸させられると、軍事都市に変貌して行くのだ。盆地の北側が、3世紀末から始まった大運河掘削工事や巨大前方後円墳築造により、大湿地帯から平地に改良されていたため、自然の要塞であった盆地へは容易に侵攻できるようになってしまっていた。
弥生時代までは、盆地北側は大湿地帯だったので、護りは南側の吉野だけでよかったが、古墳時代後期になると、盆地の護りは、南側よりも北側に重点が置かれた。東アジアでの唐の勢力が東突厥帝国を散逸させた結果、盆地の南側である、紀ノ川河口から伊勢に続く街道の拠点である吉野の山城の護りがうすれていた。
東アジアの情勢の影響で、盆地の山の麓のイワレやツバキの国際交易場は廃れて行く。そこに、南インドから南九州坊津へ渡来した国際商業民族が紀ノ川河口に現れ、その吉野の朝鮮式山城を国際交易所としてしまったのだ。

「古代日本史の謎のひとつは、「アスカ・ヤマト」の語源が分からないことだ。この「アスカ・ヤマト」の語源が分かれば、古代日本史の謎は解明できる。しかし、今もって言語学者にも分からないのだ。
その原因のひとつに、713年藤原不比等による好字令の漢字二文字により、信濃の騎馬民族の地「トルファン」を「諏訪」としたように、近畿地域への先住渡来民族の突厥騎馬軍団を蘇我氏、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した土木建築民族を物部氏(=秦氏)としたように、アスカ・ヤマトの前政権の地名・人名の隠蔽・抹殺がある。
「アスカ」という地名は、東北から九州まで分かっているだけで30程ある。その全国にある「アスカ」には、騎馬民族文化のニオイが今でも微かに残っている。「アスカ」の意味は分からないが、騎馬民族の突厥語のようだ。そこで、「アスカ」の地に、古代では渡来騎馬民族が暮らしていたことが示唆される。
それでは、「ヤマト」とは何か。その「ヤマト」の語源のヒントが、「古事記」にある。それは、自分の出身地の家を見たいと詠った、仁徳天皇の磐姫皇后の歌だ。

つぎねふや 山城川を宮上り 我が上れば 青土よし 奈良を過ぎ 小盾 大和を過ぎ 我が見欲し 国は葛城 高宮 我家のあたり

この歌に詠まれた地域を辿れば、大和は狭い範囲だったことが分かる。そして、小盾から葛城の間に大和の地があることが分かる。その地には、黒塚古墳や箸墓古墳などの巨大前方後円墳のある地で、その大和の地を南下すると三輪山の山麓に突き進む傾斜地である。
このことから、「ヤマト」とは、「河辺」、「海辺」と同じように、「山のへり」の意味であることが分かる。つまり、古代の「アスカ・ヤマト」とは、「騎馬民族が暮らす山の傾斜地」という意味だった。初期の「ヤマト」とは、三輪山の麓に興った弥生後期の大規模集落の地に築かれた巨大前方後円墳遺跡を中心とした傾斜地域であったようだ。
この「アスカ・ヤマト」が、奈良時代になると藤原氏により、「日本書記」で、4世紀から奈良盆地を大和朝廷が支配したとする、意味不明の「飛鳥大和」に改竄されていくのだ。
藤原日本史により創作された飛鳥大和の謎解明は、また「古事記」に記載してある。「古事記」の暗号によれば、603年初めて飛鳥に小墾田宮を営んだのは、女帝推古天皇だと述べる。それ以前は、天皇家の宮は、奈良盆地を転々としていた、と述べる。そして、「古事記」の物語は、天武天皇のお言葉が序にあるのに、突然女帝推古天皇を最後に終わってしまう。この意味は、女帝推古天皇までの「日本書記」の歴史物語を否定せよ、という「古事記」のサイファー式暗号だ。
しかし、「日本書記」では、その後、100年間飛鳥が天皇家の宮となっていたと述べている。では、その奈良盆地では、どのような民族により「祭」がおこなわれていたのか。「日本書記」では、漢訳仏教が552年伝来する以前は、死を穢れとする中臣神道により、「神」が祀られていたとする。その「日本書記」の記述は本当なのか。
古代、カミの居る処は、「カムナビ」と云われていた。そして、カミが来臨する場所を、「ミモロ」と云っていた。しかし、その「ミモロ」は、元来ある種の建物や洞穴であったものが、奈良時代なると「社・モリ」へと変換してしまっていた。
カミの居る処の「カムナビ」は、奈良時代には「モリ」となってしまう。そこで、古代の飛鳥大和時代の歌を詠っているとされる「万葉集」で調べると、「飛鳥のカムナビ」はあっても、「飛鳥のモリ」はない。その「万葉集」での「カムナビ」の用例は、大和では飛鳥、三輪山、春日野とあり、山背国では鹿背山とある。古墳時代、それらの処が、「カミ」の居るところだった。
しかし、古墳時代が終わり奈良時代になると、その「万葉集」にある「カムナビ」の地がどこであったかの定説がなくなってしまう。だが、平安時代になると、「飛鳥のカムナビ」が、鳥形山に遷したとし、その処を飛鳥坐神社(アスカニイマスモリ)とするのだ。これは不可思議だ。考えられることは、古墳時代の「カムナビ」は、奈良時代に、巨大古墳と同時に「消されて」いたようだ。では、どのようにして消されたのか。
「万葉集」の「カムナビ」の地として、飛鳥、三輪山、春日野、鹿背山とあるが、それらの「カムナビ」の地には、奈良時代になると、平城京、三輪山麓の神地である空地、春日大社、恭仁京となっている。
4世紀以降、キリスト教国となったローマ帝国では、前政権のミトラ教を歴史的に抹殺するために、ミトラ教地下神殿を徹底的に破壊して、その跡に、キリスト教の教会を建設していた。このため、後世のひと達には、ミトラ教は歴史的に存在していない、空想上の宗教として認識されてしまった。
このキリスト教の戦術が、645年以降の明日香ヤマトでも、南インドから南九州坊津に渡来した民族により、実行されていたのだ。だから、明日香ヤマトに、ミトラ教や道教の宗教施設が存在していたことを知るひともいないし、その存在を肯定するひともいない。しかし、中臣神道を発明した藤原氏が暗躍する奈良時代になると、それらのミトラ教や道教の宗教施設は徹底的に破壊され、その跡に、平城京、三輪山麓の神地である空地、春日大社、恭仁京が建設されていくのだ。
では、ミトラ教や道教が信仰されていた明日香ヤマトは、どのようであったのか。その奈良盆地の風景は、「日本書記」の斉明天皇(655年〜661年)の土木工事の記述により窺い知ることができる。この土木事業は、斉明天皇が在位したとする年代より、125年前の530年頃の明日香ヤマトの土木工事を描写したものだ。

時に、事を興すことを好みたまひ、廼ち水工をして渠を穿らしめ、香山の西より石上山に至る。舟二百隻を以って、石上山の石を載みて、流の順に宮の東の山に控引き、石を累ねて垣とす。時人謗りて曰く、「狂心の渠、損費すこと功夫三万余。造垣功夫七万余。宮材爛れたり。山椒埋れたり」といふ。又謗りて曰く、「石の山丘を作り、作る随に自ずからに破れてなむ」といふ。又、吉野宮を作る。

「日本書記」によれば、明日香ヤマトの土木事業は、舟を二百隻使ったり、溝の功夫三万人、石垣の功夫七万人を使った、大規模土木工事であったことが分かる。しかし、それらの高度土木工事は、飛鳥大和の朝廷ではなく、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅からの民族や、ユーラシア大陸から渡来した騎馬民族の突厥民族の技術者達によりおこなわれていたのだ。
そして、明日香ヤマトでは、太陽神を祀るミトラ教では、冬至の日、牡牛を屠る儀式を巨大前方後円墳近くでおこない、又、北極星(太一)を祀る道教では、天文台を設けた道観で、星祭をおこなっていたのだ。そして、どちらの宗教も犠牲の「祭」をおこなっていたため、その聖獣の肉を食していたのだ。
肉食が公に禁止されていくのは、古墳を破壊していた奈良時代の天平宝字2年(758年)、藤原氏の傀儡淳仁天皇からのようだ。「続日本紀」には、

天下の諸国をして、今日より始めて今年12月30日に迄るまで、殺生を禁断せむべし。また、猪、鹿の類を永く進御ることを得ざらしむ。

とあるように、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅系の天武天皇系最後の天皇である、東大寺の遍照鬼像(平安時代に大日如来と改竄)を鋳造した聖武天皇の娘女帝孝謙天皇までは、猪、鹿の肉を食していたようだ。その藤原氏の傀儡淳仁天皇を追い落とし、女帝孝謙天皇は女帝称徳天皇として復活するのだ。そのように、藤原氏が朝廷で暗躍できたのも、645年明日香ヤマトを、唐進駐軍と供に滅ぼしていたからだ。その布石は、吉野にあった。
吉野の山は、縄文時代から、宇陀の朱砂を交易するための道筋にある交易中継地であった。弥生時代になると、紀ノ川河口を遡りその吉野を経たタミル語を話す民族により、奈良盆地の湿地帯に水田稲作と桑の栽培技術がもたらされていた。古墳時代になると、その吉野の山に朝鮮式山城が築かれ、奈良盆地の山裾には古代エジプトの土木技術により巨大前方後円墳が築かれ、湿地帯には大溝が造られていく。この時代を「日本書記」では、斉明天皇の狂心の土木事業として描いたのだ。
その前方後円墳が築かれていた奈良盆地に、530年突厥進駐軍が侵攻し、支配者となっていく。奈良盆地の北側は、河内を支配した民族と奈良盆地を支配した民族により開拓され、大阪湾へ至る大路や大溝が築かれて行く。それに伴い、南側の要所であった吉野の山城の存在がうすれていった。しかし、南インドから南九州坊津に渡来した商業民族により、その吉野の山は、明日香ヤマトから独立したクニとなっていた。このことは、「万葉集」の高市黒人の持統太上天皇の吉野行従駕歌には、

大和には 鳴きてか来らむ 呼子鳥 象(さき)の中山 呼びそ越ゆなる」

とあるように、吉野から大和に行くと表現されている。更に、柿本人麻呂の吉野讃歌には、「御心を吉野の国」とあり、吉野をクニと呼んでいる。古代のクニとは、独立した小地域をさす言葉だ。
645年以前には、坊津から渡来の民族は、紀の川を遡り、吉野のクニの支配者となっていたのだ。そして、吉野は、南インドから渡来の国際交易商人による、一大国際交易地となっていたのだ。その吉野は、山をひとつ越えれば、明日香ヤマトへ侵攻できる地でもあるのだ。
藤原日本史では、大和朝廷で横暴を極めた蘇我蝦夷・入鹿親子は、中大兄皇子と中臣鎌足により滅ぼされ、その結果、蘇我一族が壊滅したと言う。それでは、藤原日本史で云うところの「大化の改新」がどのようなものかを見てみよう。」

6世紀末、西アジアに興ったサラセン帝国の急速な勢いにより、その支配地が東西に拡大しているのが見える。その結果、ヨーロッパと中国を繋ぐ砂漠ルートが、サラセン帝国の管理下となっていた。
その影響で、中央アジアを布教地として求めていた、拝火のゾロアスター教徒や、キリストの神聖を認めないネストリウス派・キリスト教徒が東を目指し、唐に亡命してきたため、唐の長安や洛陽は、儒教、道教、漢訳仏教に加え、ゾロアスター教寺院やキリスト教教会が林立する国際宗教都市となっていた。
そして、ヨーロッパから唐への陸路がサラセン帝国に抑えられているため、ヨーロッパ諸国の国際交易商人も、南インドを中継港としての南海ルートにより、唐を目指していた。この南海ルートにより、インドのカースト制度を広めるバラモン教やヒンズー教が、国際交易商人と供に、唐に伝来した。
海運は陸運よりも多量の物品を安全に運べる。その結果、唐の交易経済が拡大し、国力も増していた。その結果、唐は、周辺諸国への侵略を始める。
それに対して、ユーラシア大陸を、東西に分断して支配していた突厥帝国は、ヨーロッパと中国との交易陸路を、サラセン帝国に支配されてしまったため、交易経済が衰退することにより国力も衰退し、軍事力も衰えていった。その国力の衰えた東突厥帝国を、唐が攻撃することにより、630年東突厥帝国は、散逸してしまっていた。
その唐の軍事力により、北方の雄であった東突厥帝国の脅威が取り除かれたため、隋帝国を疲弊さ、滅亡させた原因であった高句麗に攻撃目標を定めた。それに対して、高句麗は、唐軍団の侵攻を阻止するために、631年から16年もかけて、長城の建設をおこなっていた。
この唐の高句麗への侵攻は、朝鮮半島三国の情勢を混乱させる。高句麗が南下することにより、防衛上、百済、新羅も南下した。その結果、朝鮮半島の軍事情勢は、玄界灘を超えて日本列島にも及んでいた。
中国の動乱を避けて朝鮮半島へ避難していた漢訳仏教も、玄界灘を超えて、北九州に渡来していた。そして、宇佐の秦王国中枢が、吉備、河内へ移動したため、北九州には無数の仏寺が朝鮮半島から移築されていた。しかし、明日香ヤマトには、仏寺の存在は確認できなかった。
630年母国東突厥帝国が散逸してしまったので、同年の630年明日香ヤマトを支配していた突厥進駐軍は、唐に使節を送る。それに対して、632年唐は、高表仁を唐使として明日香ヤマトに派遣した。唐は、東ユーラシアに残存する東突厥帝国残党軍の殲滅を目指していたのだ。当然、東突厥帝国のコロニーのある、日本列島にも目を向けていたのだ。
散逸した東突厥帝国軍の一部は、壊滅したのではなく、唐の西隣の吐蕃(トボット)に亡命していた。641年その吐蕃に、唐軍団は侵攻し、突厥残党軍を攻めた。唐軍団は、その国力の増大を背景に、天敵の東突厥軍団の逃避先の周辺諸国と思われる、高句麗、日本列島の平定も意図していた。
そして、644年唐軍団は、吐蕃の他に、高句麗にも遠征を始めた。しかし、山岳国の高句麗は、631年から築いていた長城の他に、北側は高い山々が連なる自然の要塞になっているので、大軍団の唐遠征軍の攻撃も思うようにならないでいた。そこで、唐軍団は、南側からの攻撃準備のために、高句麗の武器・食料の補給基地がある日本列島にも目を向けるのだ。
日本列島には北から南まで、ヨーロッパ→ユーラシア大陸→中国大陸→朝鮮半島→北九州へと交易路がつながっていたため、古来から高句麗、百済、古代新羅の商人達のコロニーが無数存在していたのだ。その日本列島に散在する朝鮮半島のコロニーを、6世紀半ばから7世紀にかけて支配したのが、東北日本海沿岸に渡来し、ローマ帝国軍式幅広の直線道路を敷設しながら西進し、越前→琵琶湖→樟葉→奈良盆地へと侵攻し、530年明日香ヤマトを軍事支配した突厥進駐軍だった。
644年唐軍団が、高句麗を攻撃したことは、北九州から明日香ヤマトへつながる大路により、疾走する伝令馬が伝えていた。その大路には、30kmごとに、軍事施設である「ミヤケ」が設けられている。そこで、伝令馬は交換されるため、突厥進駐軍の司令部がある明日香ヤマトへは、海外情報が短期間で伝えることが出来る。
日本海沿岸に目を向けると、国際海路の中継港のある出雲地域には、方墳に替わり、前方後円墳が築かれている。巨木により組み上げられた灯台には、狼煙台があり、その煙は、越から能登、そして、東北へと緊急事態を知らせる。日本海には、無数の舟が、中国大陸と日本列島を行き来しているのが見える。
明日香ヤマトの南側の都では、その狭い盆地を流れる川を、北口の柵に設置していた無数の巨大丸石を川中に移動させると、川の流れが堰き止められ、その狭い盆地にある建物群が、徐々に水に沈んで行く。岡の上には、巨大建物が、石垣で囲まれている。武器庫からは、槍や弓矢が搬出され、兵隊が武装準備を始めている。
早朝、奈良盆地を防衛する明日香ヤマトの司令部に、河内軍司令部から伝令馬が着くと、多くの騎馬軍団や歩兵が、河内に向けて急速に移動した。緊急事態が発生したようだ。
河内平野にある多くの巨大前方後円墳の彼方の海原には、唐の軍旗をなびかせた、多くの軍船を確認できる。中国の唐から、日本列島の大阪湾に至るには、瀬戸内海ルートが最短だ。そこで、唐の侵攻を阻止するため、明日香ヤマトの司令部では、山陽道の「ミヤケ」には、屈強な騎馬軍団を常備させ、そして、瀬戸内海に浮かぶ島々の要所には、アズミの海洋民族に組織された水軍で防衛線を引いていた。
632年唐使高表仁が来朝し、帰国すると直ぐに、明日香ヤマトでは、陸海の瀬戸内海ルートに完全なる防衛線を引いたのだ。この防衛線は、明日香ヤマトに気付かれず、唐軍でも簡単には突破することは不可能だ。では、唐水軍船団は、何処のルートから渡来したのか。
時代を戦国時代に合わせた。南インドを発った、日本列島に産出する「銀」を狙うイエズス会の船団は、中国沿岸を北上し、台湾海峡を東に抜け、南九州坊津に至り、種子島から四国沖を通り、紀伊半島を北上して紀の川河口の根来寺に渡来していた。更に、時代を江戸末期に合わせる。南インドを発った、日本列島の「絹製品」を狙うイギリス東インド会社の艦隊は、香港・マカオを経由して、南九州坊津に至り、四国沖から紀伊半島に至り、北上して堺の港に渡来していた。これらの映像により、中国大陸から船で、大阪湾に至るコースは、瀬戸内海ルートの他にあることが分かる。
河内平野の沿岸は広い。ここを防衛するには、淀川河口を支配する秦王国の花郎騎士団だけでは無理だ。そこで、明日香ヤマトの突厥軍団の応援を、伝令馬で頼んだのだ。
沖に浮かぶ唐水軍船団は、小隊が上陸のそぶりを見せて小競り合いがあっても、本隊は半月しても動かない。沿岸を防衛する花郎騎士団や突厥軍団の兵士達にも疲労が増す。沿岸の防衛軍司令部が、これはおかしいと思った時には遅かった。
太陽が西の峰に沈みかけた時、「水城」で完璧に護られていた、明日香ヤマトの軍事都市は、南側の山奥から射られる弩の矢の攻撃を受けた。唐軍の弩の矢は、突厥軍の矢よりも数倍太く長い。明日香ヤマト軍が、防戦のために矢を放っても、南側の山頂に陣を引く唐進駐軍には届かない。やがて、水城も岡も区別が付かなくなった頃、南側の山奥から岡に侵攻した軍団により、火の付いた矢が一斉に射られると、岡の北側端にある石垣に護られている砦や倉庫群に炎が上がった。
その炎は、逃げ惑う突厥軍団の影を写した。翌朝、日が昇ると、水城に護られていた砦が焼け爛れて、唐軍の矢を受けた多くの兵士が横たわっていた。南側の山奥から、唐軍旗を掲げて、多くの兵士が、明日香ヤマトに入った。そして、明日香ヤマトの砦にあった燃え残った突厥軍旗に替わり、唐軍旗が掲げられた。

「オレの今までの古代日本史の知識では、7世紀の飛鳥大和のイメージは、各地に仏教寺院が立ち並ぶ、平和でのどかな田園風景を思い浮かべただろう。でも、田辺さんの東アジアを含む古代史の講義により、イメージが一変していた。
7世紀の明日香ヤマトは、仏教文化の花が咲くのどかな地域などではなく、東アジアの動乱に巻き込まれていて、南海交易により国力が膨張する唐帝国からの侵略を免れるために、国際交易都市から軍事都市へと変貌していたのだ。
その騒乱の明日香ヤマトの歴史は、藤原日本史によれば、645年飛鳥大和で横暴を極めていた蘇我蝦夷・入鹿父子は、中大兄皇子と中臣鎌足のクーデターにより滅ぼされたとし、皇極天皇が退位し、孝徳天皇が即位し、646年改新の詔が発せられ、公地公民、薄葬令により古墳築造が禁止させられたとする。
そして、4世紀から始まる天皇家が支配していた大和朝廷が、明日香ヤマトに存続していたと述べる。しかし、天皇が日本列島に現れるのは、672年天武天皇からなのだ。では、実際の、7世紀の明日香ヤマトの支配者は、誰なのだ。
一般的に、7世紀の明日香ヤマトを知るには、「日本書記」、「万葉集」、「古事記」、「風土記」が参考書として使用される。その中でも、国史とされる「日本書記」の信頼度は抜群のようだ。その「日本書記」では、6世紀から7世紀の飛鳥大和について色々述べている。
その藤原日本史での飛鳥大和時代のハイライトは、「日本書記」で述べる、552年仏教伝来物語だ。その仏教伝来物語では、崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部尾興が争そう神仏戦争についての経緯が詳しく述べられている。しかし、その「日本書記」の仏教伝来物語で語る経緯は、中国の「高僧伝」巻九の仏図澄伝の後趙王の石虎と中書の王度との対話を引用して創作されたのだ。
藤原日本史での、仏教伝来物語の主人公である聖徳太子(厩戸皇子)の実在性はどうだろう。藤原日本史では、聖徳太子が、622年死去すると、その往生した天寿国の様子を、王妃橘大郎女が描かせたとする、「天寿国繍帳」がある。これを証拠に、聖徳太子は、飛鳥大和時代に実存した人物だ、とされている。しかし、そこに記されている干支が、儀鳳暦によっているのだ。儀鳳暦とは、中国の唐で、665年から728年まで使われていた太陰太陽暦だ。何故、「天寿国繍帳」が完成した43年後の、665年から中国唐で使われて暦が、「天寿国繍帳」にあるのか不思議だ。
更に、「日本書記」での、百済の聖明王の「是の法は諸の法の中に、最も殊勝れている。解り難く入り難し、云々。」との表文は、「金光明最王経」の如来寿量品の文からの租借だ。その「金光明最王経」が漢訳されたのは、「日本書記」で仏教が日本列島に伝来したとする552年から「151年後」の703年だ。703年に唐で漢訳された表文が、何故、「日本書記」での、552年仏教伝来物語にあるのか不思議だ。
そして、645年中大兄皇子と中臣鎌足による「大化の改新」のクーデター物語は、朝鮮半島の648年「ヒドンの乱」を基に創作されている。これらのことから、「日本書記」が述べる飛鳥時代が始まる531年欽明天皇から、飛鳥時代が終わる645年「大化の改新」までの明日香ヤマトの歴史物語は、南インドから南九州坊津に渡来した「死を穢れとする」宗教思想を持った民族により、中国と朝鮮半島の史料を基に、720年に創作されたことが示唆される。
7世紀初期、中国を統一した唐帝国は、南朝の外洋軍船による海軍力と、北朝の騎馬軍団と弩(いしゆみ・古代の大砲)による陸軍力により、海外も含めた周辺諸国を圧倒していた。
その海陸の軍事力増大の影には、国を治めるための法律を整備していたからだ。それは、624年に定めた均田法と租庸調の税法だ。これらの法律で、軍事力により侵略した蕃国の人民から税を搾り取ることにより、唐帝国の国力と軍事力が増大して行ったのだ。それらの海外を含めた遠方の支配地からの租庸調の税は、武力を持った役人により厳しく取り立てられ、陸は馬車で、海外は外洋船により、遥々長安に運ばれていたのだ。
藤原日本史で、唐文化を輸入するために大和朝廷から発していた、とする「遣唐使船」の任務も、日本列島の人民から、唐帝国の税制である租庸調で取り立てられた産物を、唐帝国の長安へ定期的に運ぶための船だった。
このことは、奈良時代の歴史を述べた「続日本紀」に、遣唐使の記述が見られないことからでも推測できる。遣唐使船の「真の任務」は、唐に支配されていた奈良朝廷には知られたくないことだったのだ。一般的に知られる、大和朝廷が唐文化を輸入していたとする「遣唐使船物語」は、唐進駐軍の傀儡である桓武天皇から始まる平安時代に創作されたものだ。
では、奈良時代、唐帝国の租庸調の税制により日本列島の近畿一帯が支配される過程を、明日香ヤマト壊滅後の日本列島の歴史から見てみよう。」

645年の唐進駐軍団による動乱は、明日香ヤマトだけではなかった。唐帝国軍団が、644年の高句麗一次攻撃が失敗したため、二次三次と何度も波状攻撃する度に、朝鮮半島からの多くの亡命民が、日本列島各地にある高句麗、百済、新羅のコロニーを目指し、玄界灘を船で渡り、北九州沿岸や日本海沿岸に渡来している。
527年朝鮮半島の古代新羅から渡来し、北九州の宇佐に秦王国を興していた王族や貴族達は、度重なる唐帝国軍団の攻撃により朝鮮半島の高句麗の南下の影響により、玄界灘を渡り朝鮮半島からの亡命民が大勢渡来して来たため、治安が日々悪化する北九州の地を避け、日本列島本島にある衛星国の吉備や河内に、そして、九州を南下して大隈半島へ大移動を始めている。
その秦王国の一団が移動している大隈半島は、南九州の東側にある。南九州の西側には、灰色の噴煙をたなびかせる桜島を挟み、坊津がある。その坊津は、南インドから渡来した「死を穢れ」とする思想を持った商業民族の支配下にある、犬の遠吠えを真似て遠隔地とのコミニュケーションを取る、トラヴイダ語を話す軍団により支配された地だ。
その坊津には、南インドから渡来していた商業民族により、中国大陸から先導された唐帝国海軍の多くの軍船が係留されている。
インドネシアから北上する黒潮が沿岸を洗う南九州坊津は、縄文時代から江戸時代末期まで、南方諸国からの渡来民族の漂着地となっていた。
北魏の太武帝の仏教弾圧を避けるために朝鮮半島に渡来していた仏教教団とその軍団も、北九州の秦王国が放棄した宇佐の地に、朝鮮半島から持ち込んだ仏寺を移築している。仏寺は、移動を可能にするために、クギで木材を固定するのではなく、組み立て式となっている。漢訳仏教教団は、国際交易民族と供に、異国にその布教先(侵略先)を求めていた。
古代の仏寺は、仏像を安置するだけではなく武器も安置する、異民族との国際交易のための砦なのだ。その仏寺は、中国製武器である長刀と甲冑で武装する僧兵により護られている。その僧兵の武力により、太陽神を祀っていたミトラ教徒の宇佐は、今や、無数の仏寺が建つ、仏教文化の地となってしまっている。
北九州宇佐からの秦王国の移民により、瀬戸内海沿岸を支配していた吉備の国力も軍事力も増した。そして、ユーラシア諸国と中国唐との国際交易施設のある河内平野を支配する秦王国を護るため、日本海沿岸側から侵攻を意図する唐進駐軍を阻止するために、吉備と河内の「ミヤケ」から、国際港のある出雲国に向けて、花郎騎士団と突厥進駐軍との合同軍団を侵攻させた。
6世紀半ば、ユーラシア大陸から東北日本海沿岸に渡来し、越前から侵攻して来た突厥進駐軍との20年間に渡る抗争の結果、突厥進駐軍の指揮下に入った、河内平野を支配していた秦王国の花郎騎士団は、吉備から中国山脈を越えて出雲に侵攻し、その地を支配した。
その結果、古代エジプトから伝わる高度土木建築技術や石切技術を駆使して、秦王国の民族の指導により日本列島全土に築いていた前方後円墳が、古来からの出雲の方墳に替わり、築かれていく。
その出雲にある巨木で組み上げられた灯台の見晴台からは、沿岸に押し寄せて来る、唐帝国海軍の船団が見えてきた。日本列島西国を支配する明日香ヤマトの突厥進駐軍司令部が、瀬戸内海突破と想定していた唐帝国の侵攻経路は、意外な方面から押し寄せて来た。
唐帝国軍が、出雲から若狭湾へと攻略するには、それほど時間が掛からなかった。それは、日本列島の西国に点在していた、高句麗や百済民のコロニーが、全国に張り巡らされた大路の情報網により、唐進駐軍により明日香ヤマトが壊滅したことを知って、吉備や河内の秦王国や突厥進駐軍に対して反乱を起こしていたからだ。日本列島の西国は、縄文時代から、騎馬民族ではなく、中国や朝鮮半島からの農耕渡来民族が多く住む地であったのだ。
日本列島の東国は、突厥進駐軍による万全な支配体制により、高句麗や百済民のコロニーの反乱は起こらなかった。それは、6世紀半ばから西国の近畿一帯の支配地に対して、5世紀初期にユーラシア大陸から東北日本海沿岸に渡来した騎馬民族は、5世紀末北関東のシキの宮に支配者としてワカタケル大王が存在していたように、ユーラシア大陸に似た気候と湖を囲んだ広い草原がある北関東や東北に、その本拠を築いていたからだ。
若狭湾に上陸した唐帝国進駐軍は、琵琶湖に点在する百済コロニーの民による先導により、琵琶湖の西側に砦を築いた。そこに日本列島に散在していた百済民を集めた。
西国を護る突厥進駐軍と花郎騎士団は、琵琶湖南端にある百済のコロニーにより、越に至る琵琶湖ルートを遮断されてしまったため、突厥進駐軍の本拠がある東国と分断されてしまった。が、しかし、日本海沿岸から侵攻する唐帝国進駐軍は、花郎騎士団の砦である比叡山の山城と山科の山城により、京都盆地への侵攻を阻止されている。
目を、日本列島から、東アジアに向けてみよう。
唐帝国軍は、645年第二次高句麗攻撃を行って、高句麗の山城である安山城を囲んだが、その強固な高句麗軍の守りにより陥落させることができなかった。そこで、唐帝国軍は、高句麗の武器・食料の補給路を分断するために、高句麗に南接する弱小国の新羅に目をつけた。
新羅は、527年仏教教団とその軍団が高句麗から南下してきたのに対して、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の軍団である花郎騎士団が、仏教文化受け入れを拒否し、玄界灘を船で渡り、北九州へ移住していたため、高句麗軍や百済軍に対抗するだけの軍事力がなかった。
そのため、新羅は、唐帝国軍による同盟の威圧に対して、648年「日本書記」の645年大化の改新物語の素材の「ヒドンの乱」が起こり、王権が転覆し、649年新羅の王族や貴族は、唐服を着用し、臣下となり、650年には唐の年号を用いた。
新羅が唐帝国の支配下となった結果、659年唐帝国・新羅連合軍は、高句麗の横山砦を、660年には、百済の扶餘も陥落させた。朝鮮半島は、唐進駐軍と新羅軍とにより完全制覇される寸前となっていた。
朝鮮半島からは、日本列島の北九州、出雲、若狭湾、越前、能登などへ、亡命民を乗せた無数の船が渡来していた。明日香ヤマトが唐進駐軍により陥落していたため、西国を支配していた突厥進駐軍や花郎騎士団には、最早、それらの亡命民の渡来を阻止する勢いはない。
それらの高句麗や百済からの亡命民は、各国のコロニーに受け入れられた。その結果、日本列島の高句麗や百済のコロニーの勢力が増した。そのひとつ、琵琶湖の南端の百済のコロニーは、正に、亡命百済王朝となっていた。663年その近江の亡命百済王朝は、本国百済の復活を目指して、越前の若狭湾や北九州の博多湾から救援軍船を派遣した。
その当時の明日香ヤマトを見てみよう。
明日香ヤマトは、645年唐進駐軍の急撃により壊滅し、水城に護られた軍事都市として要塞化された甘樫岡の砦は、今や、唐進駐軍により占領されていた。明日香ヤマトを放棄した突厥進駐軍は北側に撤退し、防衛線を北側の香具山、畝傍山、耳成山に設けた。
最早、国際交易商人が渡来した、オリエント文化を誇っていた明日香ヤマトと、水田稲作の耕作地となっていた奈良盆地は、南側に吉野の山城を本陣とし布陣する唐進駐軍と、北側に斑鳩を本陣とし布陣する突厥進駐軍と花郎騎士団との連合軍が対峙する戦場と化していた。
縄文時代から国際交易地であった三輪山麓のイワレやツバキが、戦場地となってしまい、更に、淀川系から琵琶湖を繋ぐ河川が、京都盆地を防衛する秦王国の花郎騎士団と、琵琶湖南端に砦を構える亡命百済王朝とが対峙する地となってしまっていたため、日本列島の西国と東国との交易地は、紀ノ川と伊勢湾を結ぶ街道の中継地の吉野が国際交易地として繁栄していった。その吉野を仕切るのが、南インドから南九州坊津に渡来していた商業民族だった。
663年日本列島の百済のコロニーから発進した百済援軍の船団は、唐帝国の圧倒的な海軍力により壊滅された。その結果、百済の豊璋は高句麗に亡命した。ここに百済は歴史上消滅した。しかし、その百済の王族や貴族の多くは、日本列島の琵琶湖南端の近江に集結していた。664年百済を壊滅させた唐帝国軍の劉仁願将軍は、次の標的である日本列島の状況を知るために、明日香ヤマトを占拠していた唐進駐軍に使者を送った。
670年唐帝国軍と新羅連合軍は、高句麗を壊滅すると、平壌に安東都護符を置いて、支配した。しかし、高句麗は、古代新羅と同じ騎馬民族国であった。騎馬民族は、土地を護るためだけでは、命を賭してまで徹底的には戦わない。戦況が不利だと、支配地から一時撤退する傾向がある。高句麗残党軍の一部は、騎馬民族が多く居る新羅軍団の指揮下に入った。
唐帝国の天敵は、ユーラシア大陸を支配していた突厥騎馬民族だった。唐帝国軍は、その東ユーラシアを支配していた東突厥帝国を、630年に散逸させ、645年には、その日本列島のコロニーである明日香ヤマトを陥落させた。そこで、朝鮮半島を支配下にした次の征服地は、絹、水銀、銀、、金、琥珀、翡翠、真珠、毛皮、フカヒレ、昆布などを産出する資源大国の日本列島の東国だ。その東国には、突厥帝国進駐軍の本拠地が健在している。
明日香ヤマトと琵琶湖畔に駐留する唐進駐軍の動きがおかしい。一部の部隊を残し、撤退を始めている。
視点を、日本列島から中国大陸に向ける。東ユーラシアには、騎馬民族が再び集結を始めている。周辺諸国に散逸していた突厥軍団残党が、再集結を始めていたのだ。それに対して、唐帝国軍は、各地から兵力を集め、ユーラシア北側の防衛線の強化を図っている。
その唐進駐軍が支配する明日香ヤマトと琵琶湖畔の軍事力が弱まった状況を読んで、山背国を護る突厥進駐軍と花郎騎士団合同軍は、百済亡命民の渡来により琵琶湖畔の亡命百済の支配地が膨張していき、それにより、近江の亡命百済王朝の勢力が増大となるのを封じ込めるために、近江朝への攻撃を意図した。
672年秦王国の斑鳩の砦から突厥進駐軍と花郎騎士団合同軍が出撃すると、まず、吉野の山城を攻めた。そして、そこを占拠すると、和歌山街道から伊勢湾に抜け、伊勢から北上して、琵琶湖を軍船で渡り西側沿岸にある近江の亡命百済王朝の本陣を攻撃した。ユーラシアのバイカル湖沿岸に興った突厥民族は、騎馬民族なのに、渡海の技術も持っていたのだ。
亡命百済王朝軍団は、京都盆地方面からの攻撃を想定して布陣していたため、背後の琵琶湖側からの攻撃に対しての防衛が手薄であったため、簡単に壊滅した。
近江の亡命百済王朝を壊滅させると、突厥進駐軍と花郎騎士団は、新羅の皇子を日本列島の王とし、突厥進駐軍の支配地であった明日香ヤマトに、再び砦を築き、騎馬民族の王号である「天子・テングリ」を、「天皇」号とし、国号を「日本」とし、古墳時代に騎馬民族突厥が支配していた明日香ヤマトの地に、672年日本初の天皇、天武天皇が出現した。
一方、朝鮮半島を見ると、日本列島から唐進駐軍が一部撤退していたように、東ユーラシアに再集結している突厥軍団からの攻撃を防衛するために、朝鮮半島全土を統一寸前の状態で、撤退を始めている。
それに対して、高句麗軍残党を支配下に置いて軍事力が増した新羅軍は、朝鮮半島に残留する唐帝国進駐軍を全て、朝鮮半島から駆逐した。676年唐帝国は、朝鮮半島の支配を放棄したため、新羅が朝鮮半島を統一した。統一新羅王朝は、同族の明日香ヤマトに王権を樹立した天武天皇王朝に、統一新羅の王子を派遣した。日本と統一新羅は、ほぼ同時に、唐帝国のクビキから解放され、独立を果たした。
東ユーラシアでは、682年東突厥帝国が復活した。その東突厥帝国の度重なる攻撃により、ヨーロッパとの国際交易経済が停滞したため、唐帝国内部に混乱が生じていた。そのような唐帝国内が混乱していた時、684年高宗皇帝が死去すると、その皇后の武氏が、漢訳仏教組織を動員して政権を乗っ取り、国号の唐を「周」とし、690年女帝則天武后として実権を握った。
前政権の貴族全てを残酷な刑で謀殺し、傍若無人の則天武后は、漢訳仏教を篤く保護したため、治外法権の仏寺の「内道場」を経営するために、金儲けを考えた商人達が、金を使って私度僧となることで、「周」の風紀の乱れが始まって行く。
中国大陸での内乱を治めた「周」は、騎馬民族を「施陀羅」として蔑視する思想を多く含む漢訳仏教を思想武器として、再び周辺諸国への侵略を始めていく。
672年唐進駐軍を駆逐し明日香ヤマトを再び都として、突厥進駐軍と花郎騎士団合同軍の奮闘により、近畿一帯を支配した天武天皇は、騎馬民族が崇拝する道教と、花郎騎士団が崇拝するミトラ教を取り入れて、支配体制をかためていく。
その制度のひとつとして、日本列島に土着した高句麗、百済、古代新羅、突厥などからの渡来民の各部族の族性を改めるために、684年八色の姓の制度を採用した。その八色の姓とは、真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置だ。
真人とは、北極星(太一=天皇)を護る北斗七星のことで、そして、道師とは、道教の指導者のことだ。天武天皇は、漢訳仏教ではなく、北魏の時代から漢訳仏教と敵対していた道教思想を取り入れていたのだ。
そして、近江の亡命百済王朝を壊滅した戦争の時、古来から騎馬民族が支配していた越前と交易のあった伊勢湾沿岸のアラブ系海洋民族の支配地に、685年天命を知るための天文台と、神仙思想の道教の神を祀る観を建てた。その地には、伊勢神宮などまだ存在していない。
そして、ミトラ教の太陽神の復活日である冬至に、天武天皇は、天神(北極星)と地神(天皇)とが一世一代において交流するための儀式、大嘗祭を発明した。
そのように、日本列島を再び支配した突厥進駐軍が、ユーラシアに復活した東突厥帝国からの軍事支援を受けているので、唐帝国はうかつに明日香ヤマトを、645年のように奇襲攻撃することが出来ない。
そこで暗躍したのが、明日香ヤマトの裏山の吉野の国際交易地を支配する、南インドから渡来していた商業民族だ。明日香ヤマトでは、死者が眠る古墳で犠牲による「祭」をおこなっていたのに、その商業民族は、死を穢れとし、「お祓い」という不可思議な宗教儀式をおこなっていた。
唐帝国は、その商業民族の祭祀氏族を傀儡として、武力ではなく、騎馬民族を「施陀羅」として民族差別をする漢訳仏教思想と租庸調の唐の税制により、道教とミトラ教により騎馬民族が支配する明日香ヤマトを乗っ取ることを意図した。
再興した明日香ヤマトは、国際交易を標榜していたので、奈良盆地には再び諸外国からの国際交易商人が訪れていた。その中には、漢訳仏教徒もいた。漢訳仏教は、騎馬民族が好む金をメッキした仏像を、明日香ヤマトに持ち込んだ。そして、そのキンピカ仏像を安置する仏寺を、奈良盆地に建てるのだ。しかし、奈良盆地には、道教の観とミトラ教の寺がある。中国大陸では、北魏の時代から漢訳仏教と道教とは犬猿の仲だった。
天武天皇が健在の時には、動かなかった祭祀氏族は、686年天武天皇が死去すると、百済の血が流れる皇后を女帝持統天皇とし、そして、祭祀氏族の傀儡として、都を、明日香ヤマトから、藤原京へと遷都する。
新羅系天武天皇が、686年死去すると、689年女帝持統天皇は、統一新羅使の無礼を責めて、放逐した。唐進駐軍は、統一新羅と明日香ヤマトとの交流の分断を図っていたのだ。これ以降、統一新羅の使者は、唐進駐軍に間接支配された奈良王朝から排除されていく。
天武天皇の時代、明日香ヤマトには漢訳仏教が未だ根付いていない。それは、天武天皇の葬儀で遺体を燃やされることなく、騎馬民族の墓墳である八角墳に葬られたからだ。漢訳仏教が、明日香ヤマトの貴族に受け入れられていたならば、葬儀は、仏式でおこなわれていたはずだ。
日本初の火葬の天皇は、697年の持統天皇からだ。天武天皇が統治する以前には、死者を燃やす仏教も、死を穢れとする神道も、天武天皇の明日香ヤマトには存在していなかった。
唐帝国進駐軍の傀儡となった祭祀氏族である民族により、漢訳仏教の寺は、貴族達の文化・娯楽施設として奈良盆地に建てられていくのだ。日本歴史上で最初に賭博をおこなった天皇は、天武天皇だ。
唐帝国から渡来した漢訳仏教の私度僧は、ユーラシア大陸の騎馬民族の遊戯であった「駒」を使った双六を、賭博ゲームとして日本列島に持ち込み、治外法権の仏寺で双六ゲームを開催し、奈良盆地の貴族を取り込んだ。賭博は、古来から、未来を予測する、神殿で行う神事であった。
そして、漢訳仏教と結託した奈良王朝は、騎馬民族軍団を奈良盆地から山背国に排除した奈良時代になると、日本列島宗教史を改竄し、古墳を破壊し、その跡に都を建設し、そして、明日香ヤマトの道教の観とミトラ教の寺を破壊し、その跡に、北九州から仏寺を移築し、騎馬民族によるオリエント文化の「明日香ヤマト」を、仏教文化の「飛鳥大和」と改竄して、歴史上抹殺していくのだ。

オレの幻視は、ここで終わった。オレは、今見た映像をレポートするために、暗室を出た。時計を見ると、10分も経っていなかった。パソコンの前に座ると、キーボードを叩いた。かなり長いレポートになってしまった。オレは、添付ファイルで、田辺さんに送った。後は、田辺さんからのリターンを待つだけだ。


古墳時代に騎馬民族は渡来していた。
長文レポートを送信してから5日目に、田辺さんとコンタクトできた。
「カメさんゴメンなさい。学会で出張していて、忙しくてメール読んでいませんでした。今読み終わりました。明日香ヤマトの歴史が手に取るように理解できました。ご苦労様でした。」
「お礼を言うのはこちらの方です。ナベさんの古代日本史の講義がなければ、一生、藤原日本史に騙されるところでした。そして、書店で「偽書」を買い込んで、無駄な時間を費やすところでした。」
「それは言い過ぎですよ。歴史には、「正解」はありませんから。歴史とは、あくまでも、個人の歴史観による推理を交えた物語ですから、百人いれば、百の歴史物語があるわけです。」
「それにしても、藤原日本史はひどすぎますよね。考古学資料と藤原日本史を照らし合わせれば、藤原日本史の「ウソ」が簡単に見破れるのに、何故、藤原日本史を疑うひとが多くないのでしょうか。」
「それは、批判能力のない子供の頃から学校で、藤原日本史を教えているからです。一度刷り込まれた情報を換えることは、非常なエネルギーを必要とするからです。」
「明日香ヤマトの前方後円墳が、歴代の天皇の墓で、その巨大古墳が現れる4世紀に、大和朝廷が存在していたという物語は、傑作ですよね。」
「そうですね。藤原日本史信奉者は、自分で自分の首を絞めてしまっていますからね。」
「それって、どういうことですか。」
「藤原日本史の基本史料である「日本書記」によれば、河内平野の百舌鳥の地には、年代順に、仁徳天皇→履中天皇→反正天皇の3巨大古墳が築かれた、としています。しかし、それらの古墳や近くから出土した遺物や遺構からの年代測定では、履中天皇(5世紀前半)→仁徳天皇(5世紀後半。須恵器出土)→反正天皇の順となるのです。これは、「日本書記」か、「遺物か遺構」のどちらかが「ウソ」をついていることになります。でも、今更、「日本書記」を改竄できませんよね。」
「そうですね。」
「その仁徳天皇稜とされる、墓域面積が世界最大の巨大前方後円墳にも不思議があるのです。藤原日本史では、その巨大古墳が、仁徳天皇を葬った墓であるとするのです。その発掘された円筒埴輪や須恵器は5世紀前半だと考えられています。しかし、その巨大古墳の前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後半のものと考えられています。カメさん、これって変ですよね。」
「そうですよね。築造から副葬品が埋葬されるまで、約50年もの間があるわけですから。すると、その巨大古墳は、オーダーメイドではなく、既製品と言うわけですか。」
「既製品とは、面白い表現ですね。私も、巨大前方後円墳は「既製品」だと思っていました。前方後円墳は、オーダーメイドの「墓」ではなく、「ある目的」を持って築かれていたのです。」
「ある目的とは。」
「それは、カメさんのレポートにありますよ。」
「土地改良と傭兵軍集めですね。」
「そうです。歴史を眺める角度を固定されてしまうと、河内や奈良盆地の巨大古墳は「天皇家の墓」だと信じてしまうのです。しかし、角度を変えて古墳を眺めると、違う「見方」があるのが分かるのです。巨大前方後円墳を天皇の墓だと信じるのは、藤原日本史により、眺める角度を固定されてしまっているからです。つまり、呪縛です。」
「呪縛ですか。でも、何故、藤原氏は、騎馬民族文化の歴史を消すことが出来たのでしょうか。」
「それは、漢訳仏教徒の活躍があったからです。」
「その活躍って何ですか。」
「漢訳仏教は、日本列島に渡来する前に、唐で「仏教経典」を道具として国を乗っ取る技術を習得していたのです。649年唐帝国の太宗が死去すると、皇后は、太宗の息子の高宗の皇后となったのです。唐帝国は、漢化した騎馬民族が支配した国であっので、騎馬民族は、父の未亡人を息子が妻とする習慣があったからです。そして、684年唐帝国の高宗が死去すると、皇后武氏は、騎馬民族文化を蔑視する漢訳仏教と接近するのです。それは、漢訳仏教の経典「大雲経」に、「浄光天女が南天竺の王位に即く」、とあるからです。その「大雲経」を漢訳仏教徒に命じて、唐帝国全土の仏寺に備えさせるのです。そして、その「大雲経」の教えを民衆に広めさせ、皇后武氏を女帝とする請願運動を起こさせるのです。そして、漢訳仏教徒のさまざまな祥瑞を利用して、690年皇后武氏は唐帝国の女帝として即位するのです。そして、女帝として即位すると、国号を「唐」から「周」に替えたのです。この仏教経典を利用して漢訳仏教徒が活躍した、国乗っ取りを「武周革命」というのです。この中国大陸での「武周革命」から約50年後、日本列島では藤原氏の暗躍により聖武天皇の皇后となった光明皇后が、則天武后の戦略にならって、唐から渡来した漢訳仏教徒の暗躍により、道教を信仰していた天武天皇系王朝の乗っ取りを進めるのが、奈良時代のハイライトです。そのひとつが、漢訳仏教徒の力を借りて、720年漢語により編まれた、南インドから渡来していた祭祀氏族の藤原氏による「日本書記」です。」
「ナベさんの古代日本史説では、「大化の改新」などは史実ではなく架空の物語で、645年突厥進駐軍の軍事都市の明日香ヤマトを倒したのは、唐進駐軍ですよね。そして、その唐進駐軍団は、中国大陸から南九州坊津を経て四国沖を通り、紀伊半島に上陸し、熊野古道を抜け、吉野から明日香ヤマトを奇襲した、と推測するのですよね。」
「そうです。その進軍経路は、「日本書記」の神武東征記の道筋と同じです。大阪湾から生駒山を攻撃したが、防衛線が堅いので撤退し、紀ノ川から船で熊野へ行き、熊野古道から吉野へ抜け、飛鳥大和の地へ奇襲した、とするのです。神武東征記は、唐進駐軍の侵攻経路を素材として創作されたようです。」
「疑問に思うのは、明日香ヤマトを壊滅させるだけの軍団を、中国大陸から日本列島の紀伊半島まで輸送する軍船が、漢族化した騎馬民族が支配する唐帝国にあったのか、ということです。実際、奈良時代の遣唐使船は、4隻に2隻は沈没していますよね。」
「藤原日本史での「遣唐使物語」は、奈良時代ではなく、平安時代に創作されたフィクションです。奈良時代の遣唐使船の役割については、藤原日本史では先進国の唐から文化を日本列島に輸入するためと述べていますが、実は謎だらけなのです。その遣唐使船の謎の解明は、次の「中世篇」で行う予定です。ところで、カメさんの幻視では、南九州坊津沖に唐帝国の軍船を見た、とレポートしていますね。その幻視は正しいのです。」
「それがですね、オレが幻視した唐帝国の軍船は、全長120mもあり、大型投石器をいくつも装備して、船の側面は毛皮で覆っていたのです。あまりにもその船が異様だったので、レポートには書きませんでしたけど。」
「その描写は、唐帝国海軍の「楼船」そのものです。船体を覆う毛皮は、海水を含ませて、敵からの火矢を防ぐための工夫です。唐帝国は、「南船北馬」の海洋王国の南朝を併合したことにより、南朝の海軍力により、諸外国を侵略できるほどの軍船を多く保持できたのです。唐帝国の軍船は、動く砦で、甲板を馬で疾走できるほど大きかったのです。ですから、東シナ海を渡航することは訳のないことだったのです。」
「すると、ユーラシアに突厥騎馬民族が再集結し始めて、北方から、そして西側からは遊牧民族の吐蕃が、唐帝国の国境を攻撃していなかったら、645年明日香ヤマトに侵攻した唐帝国海軍により、日本列島全土が侵略されていたかもしれなかった訳ですね。」
「そうかもしれません。それに、649年太宗皇帝が死去し、帝国内に混乱が生じ、明日香ヤマトを占領した唐進駐軍の本体が本国に撤退したこともありますね。そして、唐帝国の侵略順序が、日本列島よりも、朝鮮半島の高句麗、百済、新羅が先であったこともラッキーだったようです。なにしろ、固定した国境ができたのは、1776年アメリカ合衆国の独立宣言以降からです。固定した国境など無い時代、軍事力のある国は、無限に国境を広げ、無い国は、百済や高句麗のように、滅亡するだけです。藤原日本史で述べるように、四海に囲まれている日本列島は世界から孤立していて「海外の影響」など受けていないとするのは「ウソ」で、島国ほど遠方の異民族が外洋船で容易く渡来することができるため、古代の日本列島も例外ではなかったのです。奈良時代、藤原氏は、自民族が南インドから渡来していた史実を隠すため、天磐船で「九州の山奥」に降臨したとの神話物語を「日本書記」で創作し、そして、縄文時代以降、諸外国から日本列島に渡来していたポリネシア語やタミル語を話す海洋民族を賎民「余部」としてイジメ、その文化・歴史を抹殺していたのです。」
「ところで、藤原日本史では、4世紀の奈良盆地に大和朝廷が存在していた、としていますね。では、天皇は、大和朝廷で何語を話していたのですか。」
「藤原日本史では、「やまと言葉」の万葉語としていますね。しかし、その万葉語は、平安時代には解読できなかったのです。古墳時代に使われていた万葉語には、二つの異なる音声の母音と、子音に硬子音と軟子音があったからです。そして、平安時代初期には、濁音が使われていなかったのに、古墳時代の万葉語には、濁音が使われていたからです。現在に繋がる「万葉集」ができたのは、鎌倉時代に仙覚というひとが、「色々な言葉」で綴られた「万葉集」を参考に整理し直したからです。」
「古墳時代の万葉語と、平安時代以降の万葉語は、異なっていたのですね。」
「そうです。ですから、「古事記」が、奈良時代の712年ではなく、平安時代の812年完成という根拠のひとつとして、「古事記」に載る「万葉歌」が古墳時代の万葉語ではなく、平安時代の万葉語で著されているからです。」
「すると、古墳時代と平安時代とでは、異なる言語を話していたため、支配民族が替っていたということですね。」
「そうです。言葉は、民族を構成するための基本要素です。」
「だったら、古墳時代の万葉語を話した民族は、どのような民族が考えられるのですか。」
「その古墳時代の万葉語に当て嵌まる言語を使う民族は、突厥民族です。突厥民族は、中国史では、丁零、勅勒、鉄勒などの漢字で表現さていますが、チュルクの音声を漢字にあてはめたものです。この突厥語が、日本列島に定着するためには、少なくとも、三代百年の年月を必要とします。」
「すると、蘇我稲目が明日香ヤマトに登場した530年から、645年蘇我蝦夷・入鹿父子が滅んだ、115年間に、突厥語が日本列島に定着したことが考えられますよね。」
「そうです。」
「だったら、何故、突厥語が、日本語とならなかったのですか。」
「突厥民族が、明日香ヤマトの支配者となったのは、530年以降です。それ以前に、ポリネシア語、アイヌ語、タミル語、朝鮮半島の高句麗、百済、新羅語、中国の呉音を発音する民族が、日本列島に存在していたからです。特に、紀元一世紀以降、中国王朝の繭生産地として九州が植民地化されていたので、漢語が呉音により使われていたのです。言葉は、生活に密着しています。ですから、6世紀半ばに支配者として君臨した突厥民族も、漢語を抹殺できなかったので、漢語を突厥語で読むために、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅のヒャンチャル(郷札)を真似て、漢字をアルファベットとして「訓読」を発明したのです。」
「訓読とは、「やまと言葉」読みではないのですか。」
「「やまと言葉」とは、古墳時代の万葉語です。万葉語とは、奈良盆地固有の言葉ではなく、あらゆる民族の言葉の意味です。「やまと」とは、岸辺、川辺の意味と同じに、山の近辺のことです。「あすか」とは、騎馬民族が暮らす地で、「あすかやまと」とは、三輪山麓の騎馬民族が暮らす地、という意味です。そのことからすると、「やまと言葉」とは、「騎馬民族の言葉」とも言えるかもしれませんね。」
「では、呉音発音の漢語が、何故、日本語にならなかったのですか。」
「漢語の呉音を話す民族、呉の興りは、ローマ帝国と絹馬交易で栄えた後漢が、北方騎馬民族鮮卑や烏桓の攻撃により、220年滅び、魏、蜀、呉に分裂した三国時代からです。この呉の文化が、明日香ヤマトに伝来していたのですが、280年に呉が、西晋により滅ぼされてしまったのです。三代百年の条件を満たしていなかったので、呉の漢語が、日本語として定着しなかったのです。」
「呉の文化が、明日香ヤマトに伝来していた証拠でもあるのですか。」
「後漢は、ローマ帝国との交易のために、青銅鏡を製作していたようです。その鏡は、そのデザインが花びらを内向き(内向)に連なれていたために、内向花文鏡と呼ばれています。その後漢の内向花文鏡が、220年後漢が滅んだことにより、三国時代になると、北方の黄河流域を支配した魏と、揚子江流域を支配した呉とでは、デザインが異なっていくのです。北方の魏の鏡デザインは、コウモリのツマミがあるため、蝙蝠鈕座内行花文鏡とよばれています。そして、南方の呉の鏡のデザインは、神獣がデザインされているため、三角縁神獣鏡、画文帯神獣鏡とよばれています。この魏鏡と呉鏡との、日本列島での出土分布が異なっているのです。」
「古代中国の鏡に、魏と呉により、そのようにデザインが異なる鏡が存在していたのですか。」
「魏鏡は、北九州から出土しています。それに対して、呉鏡は、明日香ヤマトから出土しています。このことは、中国大陸で覇権を争そう魏と呉との、日本列島の植民地が異なっていたことを示唆します。」
「そういえば、239年魏は、邪馬台国の卑弥呼を親魏倭王に封じ、金印紫綬を授けていましたよね。」
「そうです。魏は、北九州の邪馬台国に軍事支援をして、邪馬台国を繭生産地としていたのです。247年邪馬台国と狗奴国との戦争では、魏は邪馬台国に軍事顧問の張政を派遣したほどです。」
「北朝の魏は、朝鮮半島を経て、玄界灘を渡れば、北九州には直ぐに渡来できますよね。それに比べて、南朝の呉は、東シナ海を渡らなければならなかったわけですよね。」
「中国南朝は、紀元前の呉越時代から、中近東や南インドとの大型外洋船による国際海洋交易国だったのです。ですから、東シナ海を渡ることは、それほど困難なことではなかったのです。」
「すると、ナベさんは、呉が西晋に滅ぼされた、280年以降、呉の民族が、呉鏡と供に、魏の植民地がある北九州を避け、明日香ヤマトに渡来していた、と言うわけですね。」
「そう考えています。奈良盆地の南方の三輪山麓にある4世紀に築かれたとするホケノ山古墳からは、その呉鏡の神獣鏡が出土しているのです。だからと言って、呉から渡来した民族が、奈良盆地の巨大前方後円墳を築いていたわけではありません。その根拠として、農耕民族の中国南朝には、前方後円墳の遺跡が、未だ発掘されていないからです。日本列島の前方後円墳のルーツは、朝鮮半島の高句麗からと考えています。高句麗は北方系遊牧・騎馬民族の国家だったのです。南方系の埋葬は、甕棺による屈葬です。そのホケノ山古墳がある地域は、纏向遺跡と言われ、4世紀以降、甕棺の墓ではなく、北方系の巨大古墳群が築かれていたのです。」
「纏向遺跡と言えば、邪馬台国畿内説の根拠地ですよね。テレビや新聞マスコミなどには、纏向遺跡から遺構や遺跡が発掘されると、「卑弥呼」の文字が踊りますよね。」
「纏向遺跡にある遺跡・遺構の出土により、卑弥呼の邪馬台国が畿内にあった、とすることは疑問です。その根拠のひとつとして、魏志倭人伝によれば、卑弥呼は親魏倭王に封じられ、金印紫綬を授けられていたとするならば、ホケノ山古墳からは、魏鏡の蝙蝠鈕座内行花文鏡が出土しなければならないのです。しかし、出土したのは、北朝の魏と敵対している、南朝の呉の鏡の三角縁神獣鏡です。更に、纏向遺跡に搬入された土器が、日本列島各地からもたらされていることです。このことは、色々と推測できます。ひとつは、奈良盆地は、日本列島各地からひとを集める魅力があったことで、もうひとつは、支配者が存在していない未開拓地であったことです。」
「4世紀に奈良盆地に巨大前方後円墳が出現したのは、強力な権力が存在していたからではないのですか。」
「そうとも考えられますが、その搬入土器の比率をみると、東海49%、山陰・北陸17%、河内10%、吉備7%、関東5%、近江5%、西部瀬戸内3%、播磨3%、紀伊1%、となるのです。単純には言えませんが、搬入土器の比率が大きければ、それだけ人口の流入が多かったことが示唆されます。すると、一番多いい比率は、49%の東海ですから、東海からの民族が、纏向遺跡に居住していたことが示唆されます。」
「そのことから、何が分かるのですか。」
「その比率によれば、その纏向遺跡への道筋は、瀬戸内海と伊勢湾を結ぶ和歌山街道が、メインルートだったことが示唆されます。つまり、河内からのルートでは、奈良盆地が大湿地帯であったので、困難な行程を強いられたことが、その搬入土器の比率から読み取れます。」
「それでは、漢字を呉音で話す民族は、どのようになったのですか。」
「恐らく、畿内に定着して、呉鏡を製作していたのでしょう。その根拠として、魏鏡とも呉鏡ともつかない「踏み返し鏡」が、日本列島各地の古墳から出土しているからです。そして、呉音は「踏み返し鏡」と供に日本列島に残存したわけです。」
「では、漢音はどのようにして伝来したのでしょうか。」
「漢音は、魏などの中国北方系の発音です。そこで考えられるのが、北伝の漢訳仏教です。南伝の仏教は、漢訳仏教から、小乗仏教と蔑視され中国南朝で布教されていました。それに対して北伝仏教は、372年北朝の前秦(351年〜384年)から高句麗に伝来したのです。当然、前秦は、北朝ですから、漢字を漢音で発音したわけです。6世紀初期に北魏で内乱が起こると、東アジアの動乱を避けるため、高句麗の仏教徒が南下するのです。その高句麗の仏教徒の南下により、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の王族が、527年北九州に亡命し、宇佐に秦王国を興すのです。新羅に伝来した漢訳仏教は、その勢力を北九州に広げるのです。」
「その流れは、645年突厥進駐軍と花郎騎士団連合軍の軍事都市明日香ヤマトが、唐進駐軍により壊滅することに繋がるわけですね。」
「そうです。中国本土からの唐進駐軍の防衛のため、北九州の宇佐の秦王国の中枢が、吉備に移動すると、その跡に、朝鮮半島から漢訳仏教が侵攻してくるのです。そして、漢訳仏教は、その北九州福岡県朝倉郡を中心に、多くの仏寺を建設していくのです。そして、突厥進駐軍と花郎騎士団を奈良盆地から山背国に追い遣っていた奈良時代になると、その北九州の仏教施設を地名ごと、飛鳥大和に移築して、明日香ヤマトのオリエント文化を抹殺してしまったのです。その北九州から伝来した漢訳仏教により、漢音が近畿に伝来したのです。」
「その話、飛躍しすぎていませんか。」
「藤原日本史の基本史料である「日本書記」を否定する「古事記」に、出雲の国譲りで、大和朝廷のアマテラスオオミカミの使者による国譲りの交渉の時、出雲の神々は「天安河」の河原で合議する物語があるのです。この「国譲り物語」で、秦氏末裔の多人長は「古事記」の暗号で、明日香ヤマトが、仏教文化に乗っ取られたことを知らせていたのです。」
「ちょっと理解できないのですが。」
「その「古事記」の国譲り物語の「天安河」とは、福岡県朝倉郡の安川村を探れとの暗号なのです。」
「北九州の安川村に、何かあったのですか。」
「この北九州の安川村と、畿内の飛鳥大和との24地区の地名が、ほとんど重なるのです。
北九州安川村を中心に、時計と逆回りに、笠置山→春日→御笠山→住吉→平群→池田→三井→小田→三輪→雲堤(うなで)→筑前高田→長谷山→加美→朝倉→久留米→三潴(みづま)→香山→鷹取山→天瀬→玖珠(くす)→鳥屋山→上山田→山田市→田原→笠置山、とあります。
畿内の大和郷を中心に、笠置山→春日→三笠山→住吉→平郡→池田→三井→織田→三輪→雲梯(うなで)→大和高田→長谷山→加美→朝倉→久米→水間(みづま)→天の香山→高取山→天ヶ瀬→国樔(くず)→鳥見山→上山田→山田→田原→笠置山、とあります。
カメさん、これってどう思います。」
「北九州の地名と、畿内大和の地名が、ほぼ一致しますよね。そのことを英語で「コピー」って言いますね。ナベさんが、以前言っていた、北九州から仏寺を移築して、オリエント文化の明日香ヤマトを、仏教テーマパーク飛鳥大和とした、という説の真実性が証明されますよね。」
「歴史上、日本列島の地名と、そして、人名が、漢字二文字で表記されるのが、藤原不比等による713年好字令からです。713年以前の諸外国から渡来していた民族が付けた地名・人名は、その好字令による漢字二文字により消されてしまったのです。つまり、「日本書記」にある飛鳥大和の地名が、漢字二文字で表記されたのは、古墳時代ではなく、奈良時代からなのです。
平安時代、桓武天皇が、騎馬民族の流れにある天武天皇系王朝の歴史を、百済仏教物語を「日本書記」に挿入するために「厩戸皇子を聖徳太子」などとして抹殺・改竄していたのを憂いた秦氏末裔、万葉語学者の多人長は、その改竄「平安時代版日本書記」を否定するために、812年「古事記」を著したのです。そこで、「古事記」が、直接「日本書記」の物語を否定してしまえば、桓武王朝により焚書されてしまうため、「暗号」を用いたのです。その暗号のひとつが、奥付の「和銅5年」(712年)です。」
「何故、「和銅5年」(712年)が暗号となるのですか。」
「日本列島で、漢字二文字により地名・人名が著されたのは、713年好字令からです。しかし、「古事記」では、712年以前には存在していなかった漢字二文字の地名・人名が多く登場するのです。「日本書紀」に登場する出雲大社は、733年完成の「出雲国風土記」には登場しないのです。その「イズモタイシャ」は、「出雲国風土記」では、「キズキタイシャ」なのです。その「日本書記」を否定する「古事記」の出雲国譲り物語では、イズモ民族は、大和朝廷に武力で「イズモ国」を奪われたことにより、「科野の国の洲羽海」まで逃げた、と記しているのです。騎馬民族と海洋民族アズミの支配地は、713年以前は「トルファン」とよばれていたのですが、藤原氏が活躍する713年以降、「トルファン」は、「信濃の諏訪」に改竄されて、「科野のトルファン」の騎馬民族や海洋民族の歴史が消されていたのです。」
「と言うことは、古墳時代の飛鳥時代に「日本書記」の物語で活躍した、蘇我氏や物部氏なども存在していなかったのですね。」
「古墳時代、つまり、飛鳥時代には、蘇我氏も物部氏も、そして、女帝推古天皇も聖徳太子も存在していなかったのです。それらの藤原日本史で活躍する登場人物は、713年以降に、中国大陸から渡来した漢訳仏教徒と藤原不比等により創作されたのです。」
「すると、「日本書記」は古代日本列島史を改竄して「ウソ」を述べていたのですか。」
「そうではありません。「日本書記」は、中国史料、朝鮮半島史料、そして、古墳時代の日本列島史料を集め、綿密に精査し、藤原氏に都合よく創作され、突厥進駐軍と花郎騎士団の軍団を保持して、明日香ヤマトを支配していた騎馬民族を消していたのです。」
「だから、明日香ヤマトから出土の遺跡や遺構が、「日本書記」の物語と整合性があるわけですね。それって、「旧約聖書」と同じですね。「旧約聖書」もユダヤ民族が、イスラエル民族の歴史を消すために、中近東の周辺諸国の歴史やフォーククロアを精査して創作されていますからね。」
「「日本書記」と「旧約聖書」との共通点は、昔から言われていましたね。藤原氏の出自を辿れば、その中臣神道の儀式がユダヤ教儀式に酷似していることなどから、8世紀にユダヤ教に改宗した、カスピ海沿岸を支配していたカザール王国の白系チュルクの民族が疑われていますね。その東西の国際交易立国カザール王国の民族は、ユーラシア大陸を支配していたチュルク系突厥民族と、国際交易で度々紛争を起こしていたのです。」
「藤原氏が活躍する日本列島の8世紀も謎だらけですよね。百済系桓武天皇の即位では、古墳時代から使われていた南朝系呉音ではなく、北朝系漢音で儀式が行われていたのです。藤原日本史で言う、天皇家は万世一系であるならば、何故、桓武天皇の即位で、呉音から漢音に変える必要があったのか。やはり、古墳時代も謎だらけですけれども、奈良時代にも多くの謎があるようです。」
「桓武天皇の即位では、皇祖を、アマテラスオオミカミではなく、父光仁天皇としていたのですよね。藤原日本史では、天皇家の皇祖は、アマテラスオオミカミとなっていますよね。すると、日本初である天武天皇と、桓武天皇とは、血筋が異なっていることになりますね。」
「そうですね。そして、桓武天皇が遷都した平安京では、唐音で漢字を読んでいたのです。漢字の読み方だけでも、呉音→漢音→唐音と時代と供に替わっているのがわかります。それは、日本列島には、古来から、色々な言葉を話す民族が渡来していたからです。」
「では、何故、そのような色々な言葉が日本列島にあったのに、騎馬民族の突厥語が、日本語の語順、主語(私は)+目的語(本を)+述語(読む)、となったのですか。」
「突厥民族は、騎馬民族ですが、国際交易民族でもあったからです。6世紀半ば、日本列島の東北沿岸に渡来して、そこを拠点に日本列島全土に幅広の直線道路を敷設して、30kmごとに、軍事・交易施設である、「ミヤケ」を設けて、先住民族と交易をおこなっていたからです。530年から645年までの115年間にも及ぶ先住民族との交易で、先住民の各民族言葉を消すことが出来なかったけれども、突厥語の語順だけは定着していったのです。」
「奈良時代に君臨したさすがの藤原氏も、古墳時代の日本列島各地に広がっていた騎馬民族が残した突厥語の語順までは改竄できなかったのですね。」
「ところで、カメさんの明日香ヤマトのレポートには、仏寺の描写がありませんでしたね。」
「ええ、仏寺などありませんでしたから。明日香ヤマトの入り口にあったのは、仏寺などではなく、巨大な砦でした。その砦は、岡の上にある山城とにより、川を挟んで明日香ヤマトの都市を防衛する施設のようでした。」
「藤原日本史では、その明日香ヤマトの入り口近くに、推古天皇4年(596年)、蘇我馬子により法興寺が建てられた、とするのです。それが、通称飛鳥寺です。法興寺とは、仏法が興った寺という意味で、日本最古の寺と云われているのです。しかし、この飛鳥寺には、多くの謎があるのです。」
「ナベさんの説では、古墳時代の飛鳥時代には、蘇我氏などいなかった、とするのですよね。すると、その仏寺とおぼしき建物は、誰により建てられたのですか。」
「530年明日香ヤマトに侵攻して来た突厥進駐軍が考えられます。」
「その根拠は何ですか。」
「勿論、突厥進駐軍側の史料などありません。しかし、「日本書記」のトリックが、その飛鳥寺の謎解きのヒントを与えてくれたのです。」
「飛鳥寺は、710年平城京遷都で移築され、元興寺となっていたのですよね。」
「そうです。藤原氏の歴史改竄のテクニックのひとつは、「移築」です。移築により、前政権の歴史を消してしまうのです。しかし、その移築には不思議があって、大仏だけは飛鳥大和に残されていた、と云うのです。これって不思議ですよね。」
「仏像を安置するのが仏寺であるのに、仏像を飛鳥大和に置いて、奈良盆地の平城京に建物だけを移築するのは、何か他の目的があったのですか。」
「考えられることは二つあります。ひとつは、元々明日香ヤマトには法興寺などなかった、もうひとつは、奈良時代の寺は、仏像を安置する施設などではなく、砦として機能していた、と言うことです。」
「でも、「日本書記」推古天皇元年(593年)には、「法興寺の刹柱の礎の中に仏舎利を置く」との記事がありますよね。」
「そうですね。1957年その飛鳥寺遺跡を発掘調査した時、塔跡の地下に埋まっていた仏舎利容器が埋蔵されていたのが確認されたのです。」
「すると、記述通り仏舎利容器が出土したことにより、「日本書記」は史実を述べていたことになりますよね。」
「出土したのが仏舎利容器だけであったならば、「日本書記」の記述は史実を伝えていたことになります。しかし、仏舎利容器と供に出土したものは、古墳に埋蔵される勾玉、菅玉、ガラス玉などもあったのです。その飛鳥寺跡の古層には、古墳が築かれていたことが示唆されるのです。」
「古墳を破壊した跡に、砦か、若しくは飛鳥寺が築かれていたのですか。」
「奈良盆地では、6世紀半ばから、古代エジプトの埋葬思想に通じる石室・石棺を納める前方後円墳に替わって、騎馬民族系の方墳や八角墳が築かれていくのです。しかし、奈良盆地以外では、依然前方後円墳が築かれていたのです。そこで考えられることは、530年明日香ヤマトに進駐した突厥軍団は、先住民が築いた前方後円墳を破壊して、その跡に、軍事施設や方墳など築いていた、と言うことです。」
「すると、オレが見た明日香ヤマトの入り口にあった巨大建物は、突厥進駐軍の砦であった可能性がありますよね。」
「そうです。藤原日本史では、日本列島には諸外国の軍団が進駐していない、としています。でしたら、5世紀から古墳に埋葬されていた馬具や鉄器は、どのようにして日本列島にもたらされたのでしょうか。3世紀の日本列島を記述する魏志倭人伝には、馬牛などいない、とするのです。その記述が伝聞ではないことは、247年魏の軍事顧問の張政が邪馬台国を軍事支援に渡来し、265年魏が滅ぶと帰還していたからです。」
「そうですよね。藤原日本史では、藤原氏が近衛家として復活する明治革命は、薩長を支援するイギリス・フリーメーソン組織対、江戸幕府を支援するフランス・フリーメーソン組織の軍事援助により行われていたのに、外国人軍事顧問が出演しませんよね。」
「古代日本列島では、「突厥進駐軍+花郎騎士団(秦氏)」対「唐進駐軍+藤原氏」、ということですかね。いづれにしても、藤原日本史では、アマテラスオオミカミを祀る大和民族が中心となっているのです。しかし、藤原日本史で述べる大和民族のルーツは、騎馬民族なのです。この騎馬民族の歴史が、奈良時代から、「日本書記」の国史により消されて行くのです。」
「ナベさんの説では、古代とは、古墳時代までとするのですか。」
「そうです。」
「すると、奈良時代は中世ですか。」
「そう考えています。カメさん、中世篇もお付き合いしていただけますか。」
「喜んで。」
「では、中世篇を整理したら、史料をメール致します。それでは、お休みなさい。」
「お休みなさい。」
オレの古代史観は、田辺さんとのチャットにより、大変化を起こしてしまったようだ。藤原日本史に呪縛されているひとに、オレの古代歴史物語を語って、その反応を見たいと思ったが、変人扱いされるのが落ちだから、暫くは、黙っていることにした。
でも、田辺さんが言っていた、騎馬民族研究会とは、何を目的に、藤原日本史の欺瞞性を暴いているのか興味を持った。
オレは、パソコン環境に馴染んでいないのか、チャットが終わると、暫く虚脱状態に陥る。今が、正にそうだった。深いため息を付くと、睡魔が襲ってきた。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/767.html

コメント [原発・フッ素33] ここまで書くカナダの新聞。 東京の大気には大量の放射能が含まれている。ホテルではエアコンのフィフィルターは新品に。 gataro
31. 2013年9月12日 15:37:42 : DEVBAZA8AM
〉07
〉「おしまい」「破滅」でも生きなければ〉ならない人は少なからずいるはず。
生き方を問われてるってことでしょう。福島県民にとっては最大試練。生きるために小さい子を先頭に犠牲がでても、われさきに生きようとしているってことか。どうしても汚染はない、安全ってことにしたいらしい。今までどんなにいいことをしてきたかは知らないが、死ぬ間際に大量殺人じゃ地獄行き。だって国が、御用学者が安全だと言ったと言い訳してもアウトだ。
コメント [マスコミ・電通批評14] セクハラ&二男逮捕 みのもんた「朝ズバッ!」降板必至 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
01. 2013年9月12日 15:38:40 : bK3ozBYuCN
みのもんたの『夏休み』に合わせ逮捕?次男「窃盗未遂」で羽鳥慎一「遅い!」
2013/9/12 14:58

「モーニングバード!」のライバル番組、TBS系「朝ズバッ!」司会のみのもんたの次男・御法川雄斗容疑者(31)が窃盗未遂で11日(2013年9月)に逮捕された。次男は日本テレビ社員で、1か月前の8月13日午前1時10分ごろ、会社近くの東京・新橋のコンビニのATMで他人のキャッシュカードで現金を引き出そうとした疑い。暗証番号が分からず、現金引き出しに失敗する姿が防犯カメラに残っていた。

この直前、近くの歩道で40代男性が泥酔し寝ているのを道路反対側の交番にいた警察官が保護しようと近づいた際に、Tシャツ、ハーフパンツ姿の男が逃げ去るのを目撃した。寝ていた男性のカバンがなくなっていたため逃げた男の行方を捜したところ、よく似た服装の御法川を発見、任意同行を求め調べたが、このときは持ち去られたカバンなどを持ってなかったため帰宅させた。

ところが、その後の捜査でコンビニの防犯カメラの映像が判明、別の防犯カメラにもカバンが盗まれた現場から移動する御法川が写っていた。本人は「弁護士がきたら話す」といっているという。

容疑は「酔っ払いのカバン持ち去り」でなく「ATM現金引き出し失敗」

元日テレ社員の羽鳥慎一は「現場はよく知っていますよ。それにしても、交番の近くで、しかも勤めている会社のすぐ近くでやりますかね。あれだけ時間をかけて逮捕というのは、警察はどんな考えなんでしょうか」と元検事の大澤孝征弁護士に聞く。

「窃盗現場を見ていないで捕まえるのは非常に難しいんです。泥酔した人から財布を抜き取るの見て現行犯逮捕するのが原則です。おそらく、警察は財布を一生懸命捜したでしょう。財布から指紋が出てくれば確実ですから。しかし見つからなかった。男性に対する窃盗は立件は難しいとなって、銀行に対する窃盗未遂になったのではないでしょうか」「逮捕に1か月もかかったのは、慎重に捜査したのと、影響が大きいことを配慮し、(みのの)夏休みに合わせて執行したのではないですかね」

現在、夏休み中のみのがテレビ朝日に次のような手書きのコメントを送ってきた。「次男が世間をお騒がせしていることについて、父親として申し訳ない気持でおります。今後も捜査の推移を見守ってまいりたいと思います」

「朝ズバッ!」の司会、これからは辛口でやりにくいよなあ。

http://www.j-cast.com/tv/2013/09/12183648.html

記事 [原発・フッ素33] 仏週刊紙に「3本腕」の風刺画=五輪招致絡め原発事故やゆ
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2013091200140
仏週刊紙に「3本腕」の風刺画=五輪招致絡め原発事故やゆ

【パリ時事】11日付のフランス週刊紙カナール・アンシェネは、東京電力福島第1原発の汚染水問題を報じる記事で、手や脚が3本ある人物を描いた風刺画を掲載した。2020年夏季五輪の東京開催と絡めやゆする内容で、日本関係者の反発を招きそうだ。
<IMG SRC="http://img.asyura2.com/us/bigdata/up1/source/16302.gif">

 掲載されたのは、手や脚が3本ある力士の格好をしたやせた男2人が土俵上で向かい合う風刺画。審判席には防護服を着た人物が座り、リポーターが「素晴らしい。福島のおかげで相撲が五輪競技になった」と実況している。
 別の風刺画では、放射線量測定器のような機器を持った防護服姿の2人がプールサイドに立ち、「20年五輪開催地の日本、プールはもう福島に建設済み」などと説明書きがある。
 フランスでは東日本大震災後の11年3月、有料テレビが、被災した仙台と原爆投下直後の広島の映像を並べ「日本は50年間、復興の努力をしていない」とちゃかす番組を放映。12年10月には国営テレビ「フランス2」が、サッカー日本代表GK川島永嗣選手に腕が4本ある合成映像を流し「福島(原発事故)の影響か」とコメントし、いずれも日本大使館が厳重抗議した。(2013/09/12-09:01)


http://www.asyura2.com/13/genpatu33/msg/523.html

コメント [政治・選挙・NHK153] 大阪のセクハラ更迭校長、研修後復職へ  読売新聞 ダイナモ
02. OVNI43free 2013年9月12日 15:39:00 : IhyfVrYJsi8bA : Q7yF03GWXg
 この現行のシステム自体がひどいね。
人を見る目の無い人間が審査をして選べばこういう人物が選ばれる。それの繰り返しだ。赦免した理由は、任命者に責任が及んでこないようにするため。
コメント [原発・フッ素33] 「凍土壁」などの事業者募集 経産省、汚染水対策で (日本経済新聞) 公募 凍土壁』開発135億円 除去設備70億 蓄電
02. 2013年9月12日 15:39:08 : SfdqPyminE
パナソニックと京都大学は、水をはじく特殊な処理をした砂を使い、
雨が少ない乾燥地帯でも農業ができる世界初の技術を開発した。
炊飯器の内釜などを表面加工する技術を応用し、水は通さずに
空気だけを通す砂の層を作ることに成功した。
地面に染みこんだ雨水を回収して再利用できるほか、塩分を含んだ
地下水の土壌への浸入も防げるという。

農業関連のノウハウを持つ商社などと連携し、アフリカや中東、
中央アジアなど、農作物の栽培が難しい乾燥地域での
農園造成サービスなどを提供する計画で、2016年度の事業化を
目指す。

炊飯器の内釜は、焦げや汚れがこびりつかないよう、はっ水性物質で
コーティングしている。これをヒントに砂粒の表面を数ナノ・メートル
(ナノは10億分の1)の厚さのはっ水性物質で均等に包むことで、
砂の層(約5センチ)にはじかれた水は染みこまず、浮き上がる仕組みを
開発した。

炊飯器の技術…世界初、砂漠で農業「魔法の砂」
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20130718-OYT1T00657.htm

パナソニック http://panasonic.co.jp/index3.html


【化学】水も油もはじきます=新素材を開発―京大
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1378795583/

京都大は10日までに、水と油の両方をよくはじく素材の開発に成功した。
表面に付いた水や油が球状になって転がる「超はっ水・超はつ油」素材は汚れを防ぐ効果が
注目されているが、両方を併せ持つ素材を作ることは難しかった。汚れを寄せ付けないため、
クリーニング不要の素材の開発などに役立つと期待される。

研究成果は、独化学誌アンゲバンテ・ケミー電子版に掲載された。

京都大理学研究科の中西和樹准教授らのチームは、微細な穴を多数持つ超はっ水性素材
「マシュマロゲル」(MG1)を開発。さらに、MG1の表面に油をはじく「フッ化アルキル鎖」を
結合させ、超はっ水性と超はつ油性を兼ね備えたマシュマロゲル(MG2)を完成させた。

MG1は、水をはじきつつスポンジのように油を吸うため、水と油の混じった液体から油だけを分離できる。
また、両素材とも高温、高圧の反応過程や複雑な装置が不要で、比較的簡単に作れる。

時事通信 9月10日(火)6時4分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130910-00000009-jij-sctch

京都大学 プレスリリース
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/news6/2013/130906_2.htm

Angewandte Chemie International Edition/Impact Factor 13.734 (2012)
A Superamphiphobic Macroporous Silicone Monolith with Marshmallow-like Flexibility†
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/anie.201304169/abstract;jsessionid=81BE9EF341985538620627A580FF3065.d02t04

コメント [政治・選挙・NHK123] パックイン・ジャーナルを存続させろ フクイタカノリ
8617. 2013年9月12日 15:40:28 : HppyiJ0996
TBS,テレ朝、フジは昼間から相変わらずオリンピック狂騒垂れ流し
テレ朝は大好きな猪瀬をスタジオまで呼んで「ヨイショ」
テレ朝(六本木)朝日(汐留)再開発で資産倍増?
過去にも旨味をたっぷり食った。なんやかんだで大手マスコミは潰れない 泣
記事 [近代史02] たそがれのプロカメラマン物語  第二章 奈良時代へタイムトリップ
http://www.kitanet.ne.jp/~aash/tasogare.html#1-18

第二章 奈良時代へタイムトリップ


謎だらけの奈良時代

オレは溜まっていた「仕事」をし終わり、紅茶など飲みながら午後の一服をしていると、管理人さんから宅急便が届いたとの連絡を受けた。田辺さんからのものだ。紙バックの形からすぐに書籍と分かった。部屋に戻り、封を開けると、二冊の本と、レポート一枚があった。そのレポートには、簡単なあいさつ文に続き、「チャットでは詳しく説明できなかったと思いますので、騎馬民族についての参考資料として下さい。」、とあった。
一冊目は、杉山正明著「遊牧民から見た世界史」で、もう一冊は、東 巌夫著「騎馬民族がもたらした日本のことば」、だった。一冊目の書籍を手にとって、パラパラ捲ると、91頁に付箋があり、マークがしてあった。

「スキタイは、その格好の反証となる。ようするに、「国家」としての名称だから、「ギリシャ系スキタイ人」もありえるのである。スキタイは、遊牧民が中核となった「国家」でありえても、スキタイという「民族」単位の遊牧民族国家ではありえない。また、その「遊牧国家」とはいっても、世界史上、単一の遊牧民集団によって「国家」と呼べるものが形成されることはまれであり、その嚆矢となったスキタイがそうであるように、さまざまな雑多の人間集団の連合体、つまり限りなく「コンフェデレイション」であることにこそ、存在の要諦があることも、ここによく示されている。
そうであるからこそ、結束・連合のかなめが揺るげば、こうした連合体はたちまち雲散霧消しかねない。史上の遊牧国家が形成されやすく、瓦解しやすいのは、そのためである。遊牧国家の強さも弱さも、ここにある。強さともろさは、背中あわせのものである。その宿命を、はじめから濃密に帯びている。この点を、是非、頭にとどめておいていただきたい。これからの叙述には、このことが時代や事例をこえたテーマのひとつとして伏在するかたちで流れている。」

オレは、田辺さんがマークした文章の意図を考えた。スキタイは、紀元前8世紀に鉄製の轡を発明したことにより、乗馬を始めた民族で、騎射により黒海周辺諸国を支配した騎馬民族国家の租であることは分かる。その騎馬民族の「かなめが揺るげば、連合体の遊牧国家は雲散霧消する。」、とは、「645年唐進駐軍の奇襲により、明日香ヤマトを防衛していた突厥進駐軍があっけなく崩壊した。」、ことの説明となる。
オレは、二冊目の書籍を捲ってみた。オレの苦手な文法の解説書のように丁寧にテュルク語と日本語との対比を述べている。やはり、最終章の扉に付箋があった。タイトルは、「古代テュルク語から日本語への流れの深層」とある。内容は、田辺さんがチャットで述べたことのネタ元のようだ。この書籍により、日本語にも、チュルク(テュルク)の言葉が多く残っているのが分かる。やはり、突厥民族は、古墳時代の日本列島に渡来していたのだ。
書籍をパラパラしているうちに、田辺さんが、「次は奈良時代」、と言ったことを、オレは急に思い出した。奈良時代を復習するために、以前、古本屋で手に入れていた中学校の歴史教科書を開き、奈良時代の主な出来事の年表を作成した。教科書によれば、奈良時代とは、710年平城京遷都から、794年平安京遷都との間のことを云うようだ。

701年大宝律令成る
704年諸国に国印を造らしむ
710年平城京に遷都。山階寺を奈良に移し興福寺と改称
712年「古事記」
713年風土記撰上の詔。漢字二文字による地名・人名表記の好字令
714年国史撰上の詔
☆717年遣唐使、吉備真備、僧玄ムら留学、翌年県守帰朝
718年養老律令なる。薬師寺を奈良に移す
720年「日本書記」
724年聖武天皇即位
727年渤海使出羽に渡来し、入京
729年左大臣長屋王の事件
☆733年遣唐使大使多冶比広成出発
☆735年遣唐使多冶比広成、吉備真備、僧玄ムら帰朝
738年新羅使を放還
740年藤原広嗣の乱
741年山背国恭仁京に遷都。牛馬を殺すを禁ず
744年難波京に遷都
749年女帝孝謙天皇即位。「三宝の奴」と称す
751年「懐風藻」
☆752年東大寺大仏開眼供養。遣唐使、藤原清河、吉備真備出発
758年淳仁天皇即位
☆759年新羅東征の議起こる。遣唐使、藤原清河を迎えに行くが、安禄山の乱により果たさず。「万葉集」
☆762年遣唐使を任命するが、出発を中止
764年孝謙上皇が、称徳天皇として即位
765年道鏡太政大臣禅師となる
769年道鏡事件。和気清麻呂大隈に配流。
770年光仁天皇即位。道鏡を配流。和気清麻呂を召還
☆777年遣唐使、副使小野石根出発
☆779年唐使来朝
780年百姓より徴兵し、練達の者に武を習わす
781年桓武天皇即位
784年山背国長岡京に遷都
792年軍団を廃し、健児(こんでん)を置く
794年平安京に遷都

年表作りは意外と早くできた。眺めている限り、何も不思議はないように思えるが、遣唐使が出発するか、帰朝した時に、奈良の都に異変が常に起こるようだ。復習はこんなところで止めにして、田辺さんが送ってくれた書籍の続きを読むことにした。
騎馬民族の歴史本など正面切って読んだことがなかったので、意外なことが分かった。中国語で、匈奴、鮮卑などと蔑称を付けられていたため、騎馬民族は無文化の蛮族のように思っていたが、スキタイなどは、ギリシャと接触していたために、高度な芸術文化を保持していたようだ。それに、中国は、漢民族が支配者だと思っていたが、田辺さんが言っていたように、漢族化した騎馬民族が、漢民族を官僚として使役し、長らく中国を支配していたようだ。
頁が進むと、200頁から209頁までが、何度も読まれていたことが、頁が「よれて」いることで分かる。中見出しは、「中華王朝史観からの脱却」とある。そして、206頁にマークがあった。

「これらの正史群は、すべて太宗から次の高宗の唐朝初期に、集中してつくられた。くわしくは、太宗期にまず「梁書」「陳書」「北斉書」「周書」「隋書」のいわゆる「五代史」が、646年には「晋書」が(以上の李世民時代につくられたものを「六史」と総称する)、ついで高宗期に「南史」「北史」が、それぞれ完成した。中国正史とされる「史記」から「明史」までの二十四史のうち、三分の一にあたる八つの正史が、このときにつくられている。」

そのマーク文章の「六史」に、オレの前頭葉が素早く反応した。藤原氏が編纂に携わっていたのが、「日本書記」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」の「六国史」だ。それも、全て漢語で記述され、唐帝国が907年に滅ぶ、6年前の、901年を最後として、それ以降、漢語による「国史」は日本列島では著されてはいない。そして、唐帝国が滅ぶと、平安王朝は、唐文化一色だったものが、国風文化となり、天皇は「天子・テングリ」又は「院」と呼ばれていく。奈良時代から平安時代初期までは、唐文化一色だった。何故だ。
そう言えば、その李世民である唐帝国二代目の太宗が六国史を編纂していた時代、布教を始めた、天台宗、律宗、禅宗、法相宗、浄土宗、唯識宗、などの漢訳仏教が、649年唐帝国三代目の高宗が王位に付くと、興隆となっていたのだ。その太宗・高宗父子の皇后であった武氏は、690年女帝則天武后となると、騎馬民族を蔑視する漢訳仏教を厚遇した。騎馬民族は、死者を燃やし殺生禁止・肉食禁止の仏教ではなく、永遠の「生」を約束する神仙思想の道教を崇拝していたのに、則天武后は仏教を厚遇していた。何故だ。
その690年則天武后が中国大陸を「周」として支配した時の暦、儀鳳暦が、天武天皇の次に即位した藤原不比等の傀儡女帝持統天皇690年に、日本列島に導入(?)されていたが、763年藤原氏の傀儡淳仁天皇の時代に廃止されたのだ。その翌年、764年淳仁天皇をコントロールしていた藤原仲麻呂(恵美押勝)は、反乱を起こし滅亡した。何故だ。
聖武天皇は、6年間に都を、恭仁京→紫香楽宮→難波京→平城京と替えた。740年九州で起こった藤原広嗣の乱の時には、400騎の軍団に護られて平城京を脱出した。それを、藤原日本史では、伊勢に行幸と言う。行幸に400騎の軍団は必要ない。そして、平城京に戻らず、木津川沿いの地に、恭仁京を遷都した。何故だ。
平城京は、唐の長安を参考に造られた都だと云う。しかし、正方形か長方形が、中国の都の基本形なのに、平城京は、東側に飛び出た一角がある。そこには、藤原氏の氏寺の興福寺と、そして、飛鳥大和から仏像だけを残してきた飛鳥寺を移築した元興寺がある。常識的には、正方形、又は、長方形の都の中に、仏寺が在るはずなのに、平城京では、そうではない。何故だ。
藤原日本史では、神道は、552年(538年?)仏教伝来以前から存在していたように記述している。が、しかし、奈良の盆地には、669年藤原鎌足が山城国に山階寺を創建し、710年その山階寺を奈良に移築し、仏寺の興福寺とされるのに、奈良盆地の東側の御笠山の麓には、神道の「ヤシロ」である春日大社など存在していない。そこには空き地が「神地」としてあるだけだ。神道の「神」を祀る「ヤシロ」である春日大社は、その「神地」にいつ建てられたのか。そもそも、平城京には「神社・もり」の存在がない。何故だ。
そして、奈良時代の最大の謎は、何故、日本国の国書とする「日本書記」が、720年漢語で記述されたのか。この謎解きのヒントは、日本列島ではなく、中国大陸にあるようだ。オレには、その謎解きのヒントに心当たりはあるが、田辺さんの「説」を聞いてみたいと思い、連絡を待った。

山背国(突厥+花郎騎士団)対奈良盆地(周対藤原氏)の奈良時代

オレは現像の仕事を終えて、パソコンを開くと、田辺さんからメールが届いていた。あれから二週間ほど経っていたのだ。学会の準備などでレポートが遅れたことを詫びた文章の次に、添付資料を読む前の注意事項があった。古代篇の時と同じように、学校で学んだ日本史は忘れてください、ということと、勝者ではなく、敗者の目線で奈良時代を書いている、と言うことだ。
オレは添付ファイルを開き、コピー用紙を装備し、プリントアウトした。前回よりも頁数が多かった。分厚いレポートをパラパラ捲り、拾い読みしてみると、藤原日本史と全く異なる史観で、奈良時代が綴られているのが分かる。でも、その内容が面白いので、集中して読めそうだった。
しかし、レポートを読破するのに一週間ほどかかってしまった。あまりにも内容が、藤原日本史と違っているので、理解するのが困難だったからだ。一度刷り込まれた情報を否定するには、非常な努力が必要だと言うことが分かった。レポートの要点を述べると次のようだ。

No.1 奈良時代とは、東アジアでの民族紛争時代の縮小版だ。東アジアでは、北の騎馬民族国と南の農耕民族国とが対峙していた。それと同じに、奈良時代の近畿では、北の山背国を支配する騎馬民族と、奈良盆地を支配する農耕民族とが対峙していた。
No.2 山背国を支配していたのは、645年明日香ヤマトを追われた突厥帝国進駐軍と、古代新羅から渡来した花郎騎士団残党だ。
No.3 奈良盆地を支配していたのは、645年から690年までが唐帝国進駐軍で、690年から705年までは周の進駐軍だった。そして、705年以降は再び唐帝国の進駐軍だ。その支配方法は、直接支配ではなく、アメリカ合衆国のエージェントによる「年次要望書」などで間接支配されている現在の日本国のように、エージェント(代理人)による間接支配だ。唐帝国の税制(租庸調)である「大宝律令」で日本列島住民を支配したのが、唐帝国(周)の代理人である藤原氏だ。
No.4 藤原京や平城京は、北の山背国を支配する騎馬民族からの攻撃を防ぐための砦都市だ。その根拠は、その防衛都市は、大垣により囲まれていたからだ。
No.5 唐から周に国名を替えた則天武后一派による中国大陸の内乱により、唐・周進駐軍による奈良盆地での支配力の衰えに乗じて、藤原氏は奈良王朝の乗っ取りを企画し、実行していた。そのためのひとつが、720年「日本書紀」だ。「日本書記」が、唐帝国向けに漢語で著されたのは、藤原氏が日本列島古来からの民族であることを、日本人に示すためではなく、唐帝国(周)に示すためだ。藤原氏の祖先が、古来から日本列島の祭祀者としての支配層であったことにするためには、前政権を支配していた民族の存在を消す必要があった。「日本書記」は、713年好字令により、日本列島にあった先住民の土地名・人名を消した後、明日香ヤマトを支配していた突厥帝国軍を「蘇我氏」とし、河内から山背国を支配していた花郎騎士団を「物部氏」として、古墳時代の歴史から消すために創作された歴史物語だ。
No.6 奈良王朝を支配した藤原氏は、古墳時代を消すために、ミトラ教の寺や道教の観を徹底的に破壊した跡に、仏寺を北九州から移築し、そして、前政権の支配者が眠っていた古墳を破壊した跡に、怨霊を恐れて、それを封じ込めるために神社(モリ)や社(ヤシロ)を築いた。出雲大社を初めとして、神社や社は、古代からあったのではなく、古墳時代終焉以降に築かれていたのだ。藤原氏は、その古墳時代を歴史上消すために、仏教文化が芽生えた「飛鳥時代」を発明し、北九州から仏寺を飛鳥大和に移築していた時期を、朝鮮半島で使われていた年号を租借して、仏教文化溢れる「白鳳時代」としたのだ。
No.7 藤原氏は、騎馬民族の血を引く天武天皇の孫、長屋王一家を「道教」(鬼道。鬼は仏敵)の儀式を行ったとして謀殺し、天武天皇家の乗っ取りを企画、実行した。
No.8 藤原氏は、奈良貴族を支配するために、唐帝国進駐軍が持ち込んだ漢訳仏教ではなく、中臣神道を発明し、新嘗祭や五節舞など色々な宮廷儀式を発明していた。藤原氏が発明した神社や宮廷儀式や舞が、東南アジアやインド色が強く感じられるのは、藤原氏の出自が、南インドだからだ。藤原氏の私兵であった隼人の租は、トラヴィダ語を話す民族だった。
No.9 中臣神道が、古来から存在していたことを庶民に認知させるために、「日本書記」に、神話物語を挿入した。そして、世界中の太陽神が「男神」であるのに、女神アマテラスオオミカミを発明し、伊勢の道教の観を破壊した跡に、伊勢神宮を建立した。そして、神話物語に真実性を見せるために、イズモにあった古墳を破壊し、その跡に、出雲大社を建立し、オオクニヌシの国譲り物語を「日本書記」に挿入した。
No.10 藤原氏のロボットであった聖武天皇は、反旗を翻し、反藤原氏となり、唐進駐軍により、明日香ヤマトの都から追放され、山奥に暮らす山の民の側に立った。藤原日本史では、山の民の指導者であった行基を、仏教僧として描いているが、そうではない。山の民は、645年以降より唐進駐軍に、明日香ヤマトの都から追われた民族だ。その唐進駐軍は、漢訳仏教を思想武器として、先住民を支配していたのだ。だから、山の民が、仏教信者であるはずはないのだ。
NO.11 聖武天皇は、奈良王朝を支配する藤原氏の氏寺の興福寺を威圧する目的で、興福寺を見下ろす岡の上に、仏教の敵である遍照鬼の巨大像を鋳造した。太陽神のミトラの化身である「遍照鬼」は、平安時代に、仏像の「大日如来」に変身させられた。
No.12 藤原日本史での、奈良時代のハイライトのひとつ、遣唐使には不思議が沢山ある。そのひとつが、遣唐使派遣の回数だ。現在の学会でも、12回から20回までの6通りの考え方がある。そして、遣隋使にも同様な不思議がある。
No.13 遣隋使や遣唐使の史実については、ウソがつけない。それは、中国側の史料があるからだ。藤原日本史が遣隋使物語や遣唐使物語でウソをついても、中国側史料を照会すれば、分かってしまうからだ。遣隋使は、日本側史料では、607年小野妹子、608年小野妹子、614年犬上御田鍬となっているが、中国側の史料では、600年(倭国伝)、607年(倭国伝)、608年(「煬帝紀」)、610年(「煬帝紀」)となっている。不思議なことに、中国側の史料では、608年隋使は、倭国の「男王」に謁見したとするのに、藤原日本史では、女帝推古天皇の時代なのだ。更に、614年犬上御田鍬の記録は、中国側にはない。
No.14 遣唐使にも不思議は沢山ある。そのひとつは、遣唐使派遣回数を、630年(古墳時代)から838年(平安時代)までの15回とすると、702年第7回遣唐使からは、朝鮮半島沿岸を通る北路から、東シナ海を直接横断する南路(南島路)に変更されている。そのひとつとして考えられるのは、676年統一新羅の存在だ。そして、もうひとつが、則天武后一派による、「唐」の国号を、690年「周」に変更したことだ。その第7回遣唐使派遣の前年、701年唐の税制を真似た大宝律令が発令されていた。
No.15 15回の遣唐使の記録を、「日本書記」「続日本紀」と中国側史料と比較しながら見ると、藤原日本史では分からなかった、「古墳時代(飛鳥時代)」と「奈良時代」の影(藤原日本史のウソ)が浮かび上がってくる。
No.16 第1回遣唐使(630年〜632年)「日本書記」巻23、「大仁犬上御田鍬、大仁薬師恵日を大唐に遣わす。」とある。藤原日本史では、飛鳥王朝が唐の文化を輸入するために、「大和朝廷主体」で遣唐使を組織した、とする。しかし、中国側の史料を見ると、遣唐使のイメージが変わる。「旧・新唐書」には、「大宗の貞観5年(631年)、倭国は使者を遣わして入朝してきた。帝は倭国からの道程が遠いことを矜れにおもい、所轄官庁に詔して年毎の朝貢を強制しないように命じた。そして、帰国に当たっては新州刺史の高表仁を遣わし、倭国に行って論教させた。」、とある。遣唐使は、朝貢していたようだ。そして、倭国が独立国として唐に看做されていなかったことは、「帰国に当たっては新州刺史の高表仁を遣わし、倭国に行って論教させた。」、の文章で分かる。
No.17 「日本書記」の第1回遣唐使の帰国記事には、632年唐使高表仁の倭国到着状況は記されているが、その倭国での動静については、全く記されておらず、633年に帰国した、との記事だけだ。しかし、「新唐書・倭国伝」には、「高表仁は、倭国の王と礼節を争そって穏やかではなく、天子の命を伝えることを承知せず、帰国した。」、とある。そして、高表仁を、対馬まで送って還った、と記されている。この頃、明日香ヤマトを支配していたのは、藤原日本史で云う舒明天皇ではなく、唐との国際交易を望んでいた突厥帝国進駐軍だ。「争そって穏やかではなく、天子の命を伝えることを承知せず、帰国した。」で分かることは、唐使と突厥帝国進駐軍との交易交渉が決裂したようだ。
No.18 第1回遣唐使とする630年には、東アジアで唐帝国と戦っていた東突厥帝国が、唐帝国軍により散逸させられていた。東突厥帝国のコロニーである日本列島の明日香ヤマトでは、母国東突厥帝国が唐帝国に敗れたため、中国大陸との国際交易の拠点を日本列島の明日香ヤマトに置いていた。その唐帝国との交易のための突厥帝国進駐軍の使節を、藤原日本史では第1回遣唐使としていた。その唐使高表仁が帰国した12年後、645年明日香ヤマトは、唐進駐軍の奇襲により壊滅していた。
No.19 第2回遣唐使(653年〜654年)「日本書記」巻25には、吉士長丹を大使として遣わしたとの簡単な記事があるだけだ。しかし、二船で出発したが、第二船は薩摩半島の先端で沈没し、百人以上の犠牲者をだしていた。第7回遣唐使以前は、南路ではなく、北路であったのに、何故、南九州の薩摩半島沖で沈没したのか。その謎解きのヒントは、その南九州には、藤原氏の支配港の坊津があることだ。そこで考えられることは、645年明日香ヤマトを攻略した唐帝国進駐軍の戦利品を唐帝国に運ぶための二船を、藤原日本史では第2回遣唐使としていた。藤原氏の租は、古墳時代から、南インドと南九州坊津との南海路を支配してたほどの、海洋国際交易民族だからだ。
No.20 第3回遣唐使(654年〜655年)「日本書記」巻25、「二船分かれて乗り、留連すること数月、新羅道を取りてライ州に泊つ」、と唐への到着を記している。そして、高向玄理の死について記してある。高向玄理は、608年小野妹子(中国名ソインコウ)の二度目の遣隋使に留学生として随伴し、640年帰朝し、654年押使として再度遣唐使となったが、唐滞在中に病死していた。高向玄理は、高向漢人玄理と言われていた通り、その出自は、中国の支配部族である騎馬民族の拓跋氏ではなく、漢民族だった。その第3回遣唐使について、「唐録」には、「高宗の永徽5年(654年)、倭国の使、琥珀、瑪瑙を献ず。」、とある。日本列島では、縄文時代から、岩手県久慈の琥珀、糸魚川の翡翠などを、中国へ輸出していた。
No.21 第4回遣唐使(659年〜661年)「日本書記」巻26、道奥の蝦夷男女二名を連れて行った、という以外は不明。この遣唐使船の航路には不思議があった。それは、8月11日筑紫の大津浦を発し、それから1ヶ月以上経った9月13日に百済の南畔の島に至った、とされているからだ。15回の遣唐使船の博多から中国大陸までの平均航海日数は、7.1日だ。玄界灘の対岸の百済であったならば、数日で着くはずだ。第4回遣唐使船は、博多を出発してから百済に着くまで、32日間も、何処で何をしていたのか。
No.22 この第4回遣唐使船が出発する翌年、660年百済の首都扶餘は、唐進駐軍により陥落していた。そして、663年百済の日本列島のコロニーから組織された百済救済軍は、白村江で唐帝国と新羅連合軍により壊滅し、ここに百済が歴史上消えた。
No.23 第5回遣唐使(665年〜667年)「日本書記」巻27、「是の歳に小錦守君大石等を大唐に遣す。」、とある。この年11月唐使劉徳高、カクムソウが、254人を率いて九州筑紫に渡来した。664年には、唐の百済鎮将劉仁願は、部下のカクムソウを倭国に派遣し、表函と献物を進上し、年末に帰国した。665年カクムソウは、朝散大夫の劉徳高とともに254人の軍団を率いて再来した。「日本書記」には、「是月(12月)劉徳高等罷り帰る。」、とある。その送使は、667年筑紫に帰国するが、唐の百済鎮将劉仁願と百済の占領長官である県令司馬法聡らに送られていた。
No.24 第6回遣唐使(669年〜671年?)「日本書記」巻27、「是の歳に小錦中河内直鯨等を大唐に遣す。」、とし、そして、「又、大唐、カクムソウ等2000余人を遣す。」とあるが、帰国の記事はない。「新唐書」では、「高麗(高句麗)の平定を慶賀する使節が到来し、唐の高宗に謁見を賜った。」、とある。670年高句麗が滅んだ前後の、669年と671年に、唐の百済占領軍の将軍カクムソウが、日本列島に渡来していたのは、何故だ。
No.25 671年カクムソウは、2000名の軍団を、47隻の船団により九州に上陸させ、半年間に渡って駐留していた。このことについて、「日本書紀」では、渡来についての記事はなく、5月30日「カクムソウ等罷り帰る。」、としている。しかし、その前の記述には、カクムソウらに、甲冑、弓矢、布などを与えている。カクムソウは、日本列島に存在する軍団との戦闘を準備していた。そして、その翌年、672年吉野の山奥に隠棲していた明日香ヤマト残党軍が、伊勢の軍勢と合同して、近江の百済亡命王朝を攻撃して、672年亡命百済近江王朝を壊滅させ、明日香ヤマトに、突厥民族による騎馬民族の復活政権を樹立し、日本国初代の天皇、天武天皇を擁立した。
No.26 この明日香ヤマト再興の時期は、東アジアでも動乱の時代だった。676年統一新羅興る、682年東突厥帝国復興、690年唐から周に国号変更、となっていた。そして、漢訳仏教組織を利用して中国大陸を支配した則天武后一派は、日本列島の資源を求めて、侵略を開始する。そして、その手助けをしたのが、南九州坊津を支配する藤原氏だ。明日香ヤマトが、仏教文化となったのが、古墳時代(飛鳥時代)からではなく、この奈良時代からだ。
No.27 日本列島に唐(周)文化が侵攻(伝来?)していた根拠は、唐(周)の暦号が使われているからだ。唐では、676年から679年までが儀鳳暦が使われていた。その儀鳳暦が、倭国では、690年女帝持統天皇の時代に使われ始めた。そして、764年(天平宝字8年)からは、唐と同じ、大衍暦(だいえんれき)に改暦された。暦が同じということは、経済的基盤が同じことになったことが示唆される。つまり、日本国は、唐帝国の経済的支配下に入ったことだ。
No.28 更に、日本国が、唐帝国の強い影響下にあったことは、藤原氏に送り込まれた、聖武天皇の光明皇后は、奈良王朝を乗っ取る戦略を、唐帝国(周)の則天武后の戦略を手本にしていたからだ。
No.29 則天武后は、皇后になる前、武氏と名乗る芸妓であった。14歳の時、第二代唐帝国の皇帝大宗の後宮に入り、649年皇帝大宗が死去すると、皇后は尼となったが、皇帝大宗の息子高宗に見出され、再び後宮に入り、姦計を用いて高宗の皇后王氏や淑妃を卑劣な手段で陥れ、第三代唐帝国皇帝高宗の皇后となった。武氏は、父子二代に渡って皇后となった。
No.30 684年夫の皇帝高宗が病死すると、漢訳仏教を重んじた。それは、信仰心からではなく、漢訳仏教経典「大雲経」に、「浄光天女が南天竺の王位に即く。」、とあったからだ。その「大雲経」を全国の寺にそなえさせ、皇后の皇帝即位への請願運動のプロパガンダとした。そして、様々な吉祥を策謀して、690年皇后は、唐帝国の皇帝となり、国号を「周」に替えた。女帝の誕生である。
No.31 この690年倭国では、女帝持統天皇の時代、唐の暦法である儀鳳暦が使われ始めた。この女帝持統天皇には謎が多い。そのひとつに、吉野の行幸がある。吉野には、藤原氏の国際交易センターがある。その藤原氏は、唐帝国(周)のエージェントなのだ。女帝持統天皇は、その吉野を度重ねて訪れていた。その女帝持統天皇8年(694年)藤原京に遷都した。そして、697年女帝持統天皇が死去すると、日本国初の仏教式の火葬が行われた。日本初の天皇である天武天皇は、騎馬民族系埋葬法である土葬であった。この埋葬方の違いは、何を意味するのか。それは、女帝持統天皇の時代に、漢訳仏教の影響力が、朝廷の葬儀儀式まで及んでいたことだ。天武天皇の皇后を、女帝持統天皇としたのは、藤原不比等だ。
No.32 漢訳仏教は、どのようにして、女帝持統天皇の時代に宮廷に入り込んだのか。その謎解きのヒントは、「続日本紀」にあった。その「続日本紀」には、「僧玄ム」の死についての記事がある。僧玄ムは、第8回遣唐使(717年)に随行し、天平7年(763年)大使多冶比真人広成に伴って帰還していた。その紫袈裟を奈良王朝から賜っていた僧玄ムについて、「尊んで僧正となして内道場に安置された。これから以後栄寵日に盛んにして稍沙門(ややぼうさん)の行に違犯したので、時の人はそれを悪んだ。そのため徒所(ながされところ)で死んだ。」、とある。僧玄ムは、何故、追放されたのか。そして、内道場で何を犯したのか。
No.33 内道場とは、風紀が乱れたとして446年から7年間仏教弾圧のあった北魏の時代に始まった、宮中に造った仏教道場のことだ。その内道場で、宮中の皇后、采女の仏教修行の場とするが、その実態は、有髪の女性と僧侶との密室で行う修行であった。古代の神殿は、神との「まぐわい」の場所でもあった。その内道場が、「周」の不道徳な則天武后の時代に盛んであったことは、その内道場で不道徳な行為が行われていたことが示唆される。つまり、内道場は、不道徳の温床でもあった。この内道場は、奈良時代から、漢訳仏教の私度僧により「周」から日本列島にもたらされ、盛んに貴族の館内に造られていた。しかし、今に残る日本仏教史料には、勿論その内道場の記述はない。後に、唐僧の鑑真が、藤原氏の数度にわたる渡海の妨害を乗り越えて、渡来して「南伝仏教戒律」を、反藤原氏の聖武天皇に伝えたのは、漢訳仏教の私度僧経営による内道場での風紀の乱れが原因のひとつだ。
No.34 第7回遣唐使(702年〜704年)「続日本紀」巻2、「遣唐使等去年筑紫より海に入るに、風浪冒険にして渡海すること得ざりき。是に至りて乃ち発す。」、とある。この第7回遣唐使からは、第6回以前と比べて、規模も、船も、目的も、航路も違っていた。そして、中国側史料では、「倭国」ではなく、「日本国」と国号が表記されていく。この第7回遣唐使からは、北路ではなく、南路(南島路)となっていた。この遣唐使にも不思議がある。二船で出港したのに、第一船が帰国後、その記事がないのに、出発後5年も経って、「遣唐副使巨勢朝臣邑冶等唐国より至る。」、とあるだけだ。第二船は、5年間も、何処で何をしていたのか。「続日本紀」には、遣唐使についての記述が極めて乏しいのは何故だ。更に、大使坂合部大分が、唐に留まって帰国していない。藤原日本史で説明する遣唐使は、唐から高度文化を取り入れるための使節ではなかったのか。遣唐使が、唐に行ったまま帰らないのなら、何のための遣唐使か。この第7回遣唐使が出発する前年、701年唐(周)の税制である租庸調が、大宝律令として発せられていた。そして、翌年、702年、その唐の税制により庶民から税を取り立てるため、諸国司にその国の印鑑と府庫の鍵を頒布し、「日本国」で初めて度量(物サシと枡)を天下諸国に頒った。この第7回遣唐使の任務を推測すると、唐(周)進駐軍に支配された近畿一帯の、突厥進駐軍と花郎騎士団残党が支配する山岳部を除く、平野を、唐の支配制度を真似て、中央集権の王朝国家を律令制度によって、いかに運営していくかの日本国経営の学習のためのようだ。
No.35 第8回遣唐使(717年〜718年)「続日本紀」巻7・8、元正天皇により任命されたとし、「大宰府申す、遣唐使多冶比真人県守来帰すと。」、と簡単な記述があるだけだ。しかし、この第8回遣唐使からは、派遣人数が倍増し、557人となっていた。そして、船も、従来の二船から、四船となっていく。そして、後日、内道場で事件を起こした僧玄ムが、留学僧として乗船していた。
「続日本紀」には記述はないが、「旧唐書」には、「この使節の一人朝臣仲満は、唐の風を慕って留まり帰国せず、姓名を改めて朝衡とし、左補闕、儀王友を歴任、京師に五十年も留まり、書籍に親しんでいた。郷に帰ることを許したが、逗留して離れなかった。」、とあり、73歳で長安で死没した。朝臣仲満とは、藤原日本史での遣唐使物語で登場する阿倍仲麻呂のことだ。前第7回遣唐使でも、逗留して帰国していない遣唐使がいた。これでは、遣唐使とは、何を目的にしていたのか分からない。
この第8回遣唐使が出発する7年前、710年三笠山の麓にあった巨大古墳が破壊され、その跡に、藤原京から平城京へ遷都された。そして、藤原氏の氏寺である興福寺の元である山階寺が、突厥進駐軍と花郎騎士団が支配していた山背国から移築された。更に、巨大古墳を見下ろしていた三笠山のミトラ教の祭祀場も破壊され、空き地となった場所を禁足地の「神地」とした。このことは、奈良盆地が唐進駐軍に完全支配され、山背国を支配していた元明日香ヤマト連合軍の突厥進駐軍と花郎騎士団残党の壊滅を示唆する。
そして、中国大陸では、690年から国号を周と替えていたが、705年女帝則天武后が死去すると、710年から再び、国号を「周」から「唐」に替えた。そして、日本列島では、713年好字令の漢字革命により、前明日香ヤマト政権時代で使われていた地名・人名が漢字二文字で表記されていく。そして、遣唐使が帰国した年、718年藤原不比等により養老律令が発せられ、720年藤原不比等による、漢語による「日本書記」が完成した。この「日本書記」により、明日香ヤマトを支配していた突厥進駐軍や、河内を支配していた花郎騎士団の歴史が、「蘇我氏」(=突厥民族)と「物部氏」(=古代新羅花郎騎士団)の登場する歴史物語により消されてしまった。
No.36 この第8回遣唐使派遣後から、つまり、710年新生の「唐」から帰国後の718年から、日本列島古代史の改竄がおこなわれていく。その歴史改竄の見本が、唐帝国第二代皇帝太宗にあった。李世民である皇帝太宗は、漢族文化にどっぷり漬かっているが、その出自は騎馬民族の鮮卑拓跋系だ。その鮮卑拓跋系の出自を消すために、六つの国史を編纂した。それらは、「梁書」「陳書」「北齊書」「周書」「隋書」そして、「晋書」だ。その六つの国史で、中国国家での騎馬民族の歴史を消そうとしたが、北魏から唐までは、非漢民族政権だ。
No.37 386年拓跋珪が、遊牧民族鮮卑から自立して北魏を興した。その弱小国の北魏が、騎馬民族柔然に敗れた鮮卑族を取り込んで強大化すると、439年華北を統一し、統一北魏を興した。その統一北魏の拓跋の太武帝は、まだ騎馬民族の誇りを持っていた。そのため、風紀を乱す、騎馬民族を蔑視する思想を保持する漢訳仏教を弾圧し、血の禁忌や肉食禁止などしない神仙思想の道教を保護した。しかし、465年道教を保護した太武帝が暗殺されると、再び、漢訳仏教が復活した。その復活の原因のひとつは、仏教思想が道教思想より優れていたからではなく、風紀を乱す内道場によるようだ。その統一北魏も、535年東西に分裂した。更に、東魏は、550年に北齊に、そして、西魏は、557年北周に国号を替えた。その北周が、581年隋に、その隋が、618年唐になったが、その各国の支配者は、騎馬民族拓跋部であった。
No.38 中国史から騎馬民族の歴史を消そうとした第二代皇帝太宗の息子、第三代皇帝高宗も、父に比べ劣らず、中国国史の「編纂」に励んだ。高宗は、中国の歴史を、「南史」「北史」に分けて歴史書を編纂して、中国王朝での騎馬民族の歴史を消していた。更に、高宗の皇后は、漢訳仏教経典と組織を利用して、唐帝国を乗っ取り「周」とした。藤原不比等は、この唐帝国での騎馬民族の歴史を消すための国書編纂としての歴史改竄と、そして、仏教経典と仏教寺から発するプロパガンダによる国乗っ取りのノウハウを応用して、日本列島を乗っ取ることを企画し、実行した。
No.39 藤原氏は、唐進駐軍の手先で納まるような民族ではなかった。唐進駐軍は、魅力ある内道場を経営する漢訳仏教を日本列島に持ち込んで、日本列島の豪族・貴族を取り込み、日本列島民を支配しようと企んだ。その手先に藤原氏を使ったのだが、藤原氏は、その租が中臣と言うように、中→ナーガ(ヘビ)を信仰する民族だった。そして、ナーガ族は、仏教の仏ではない神を信仰していた。そのナーガ族の神により、仏を支配下に置き、日本列島を支配することを考えていた。そのための布石が、685年天武天皇が伊勢の地に建てた道教の観の歴史を利用することだ。そのために、その道教の観を破壊した跡に、伊勢神宮を建てた。そして、その伊勢神宮で祀る神の名を、ミトラ教が祀る太陽神の歴史を取り入れて、女神アマテラスオオミカミとした。しかし、唐進駐軍の監視下に奈良盆地があるため、ナーガ族の神を祀る「社」を建てることができなかった。藤原氏の神を祀る春日大社が奈良の地に建てられるのは、もう少し後のことだ。そして、この時期、7世紀末に古墳時代が終わる前には、社も神社(モリ)も日本列島には存在していなかった。
No.39 第9回遣唐使(733年〜735年)「続日本紀」巻11・12、今回の派遣人数は、594人で記録上最大。この遣唐使が出発する4年前、729年藤原氏の最大のライバル、日本初の天皇である天武天皇の孫長屋王が、藤原氏の陰謀により謀殺されていた。これにより、奈良王朝で藤原氏に対抗できる貴族がいなくなった。
次期王と目されていた長屋王の一族郎党を謀殺後、藤原氏は、「唐」を乗っ取り「周」とした女帝則天武后の戦術を用いるために、藤原不比等の娘、光明子を聖武天皇の皇后とした。これは、皇族の血が流れていない娘が、皇后となった日本初だ。そして、藤原宇合は参議となり、藤原氏の奈良王朝の支配が始まる。その背景は、奈良の唐進駐軍の支配力が、サラセン帝国図版の拡大により、ササン朝ペルシャが衰退し、その王族や貴族、そして、ネストリウス派キリスト教などの宗教者などが、多く唐の長安に亡命してきて、唐帝国の国内が混乱していたため、奈良王朝で弱まっていたからだ。
このような藤原氏の勢力が増して行く時の遣唐使には、多くの謎がある。この遣唐使についての記述は、国史「続日本史」には多くないが、「扶桑略記」に、7月6日博多那の津を出帆して唐に旅立ったと記しているが、その航海期間が1ヶ月近くかかっている。遣唐使15回の平均値7.1日に比べて非常に長い航海だ。博多を出発してから何処に向かったのか。
唐に到着した遣唐使は、長安には行かず、洛陽で玄宗に朝見し、美濃あしぎぬ、水織あしぎぬを献上していた。この遣唐使には、秦忌寸が乗船していたが、その父は第7回遣唐使の留学僧弁正だ。僧弁正は、還俗して唐女と結婚し、朝慶と朝元の二男子をもうけた。その次男朝元が、唐の宮史に取り入れられ、唐から秦忌寸の氏姓を与えられた。秦忌寸は、日本側の者ではなく、唐の宮史だった。
そして、この第9回遣唐使の帰路では、唐人、唐僧、バラモン僧、ペルシャ人などが同乗していた。この4船の帰路には不思議がある。
第一船は、種子島に着いた。種子島は、藤原氏が支配する南インドからの国際交易港の坊津と同じに、藤原氏の南海交易港としての支配地だ。
第二船は、筑紫に帰着した。その帰着について「続日本紀」にはないが、唐皇帝玄宗が日本国に発した勅書に、「入唐副使中臣朝臣名代等、唐人三人、波斯人一人を率いて朝を拝す。」、とある。この勅書について、「続日本紀」にないのは、この唐皇帝玄宗の勅書によれば、日本国が唐の属国であることがバレてしまうからだ。
第三船は、「悪しき風忽ち起こりて彼此相失う。」との状態で、南海に漂流し、崑崙国(ベトナム)に漂着。90人余りは病死(?)し、平群広成等4人が生き残り、唐国の役人により救出され唐国に戻り、渤海国の船で帰国した。
第4船は、「又一船在る所を知らず。」と、唐帝国玄宗の日本国王への書にあるように、行方不明だ。
この第9回遣唐使の帰路で、唐帝国が、藤原氏により支配されてしまった奈良王朝の経営改革をするために官使を送り込んだようだ。推測すれば、ベトナムまで漂流した第三船、行方不明の第四船には、唐帝国の官僚や唐軍団が乗船していたはずだ。しかし、第一船は種子島、第二船は筑紫に、無事到着していた。藤原氏にとって、邪魔な者が日本列島に到着してしまったようだ。この唐帝国により送り込まれた官使により、藤原氏の勢力が排除されることに抵抗した争いが、740年藤原広嗣の乱となった。この藤原氏の武装蜂起に、反藤原氏の聖武天皇は、400騎の軍団と供に、平城京から、明日香ヤマト残党軍が支配する伊勢の山奥に向けて、脱出した。
No.40 第9回遣唐使からは、藤原氏の勢力が奈良朝廷の奥まで及んでいた。それは、720年藤原不比等が死去すると、日本列島を「日本書記」と仏教組織とにより乗っ取るという藤原不比等の戦略は、参議となった藤原宇合に託されていたからだ。ライバルの長屋王を密告により謀殺すると、奈良朝廷は、伊勢国鈴鹿、越前国愛発、美濃国不破の三関を閉じる処置を迅速におこなった。この三関は、東北を支配する突厥進駐軍の本拠地から西国へ騎馬軍団が疾走できる軍事道路である、北陸道、東山道、東海道の要所だ。この三関を閉じれば、東北の突厥進駐軍は、陸路では西国に侵攻できない。このことにより、近畿一帯の山岳地帯、そして、山背国を防衛していた明日香ヤマト残党軍の補給路が断たれてしまったことを意味した。
No.41 唐帝国は、藤原不比等の戦略を見抜いていたようだ。それは、701年大宝律令に僧尼令があるからだ。645年明日香ヤマトが唐進駐軍に壊滅された以降、漢訳仏教僧は僧兵軍団と供に、唐帝国から明日香ヤマトに進駐していた。僧尼令とは、その僧尼を統制するための規定だ。その内容とは、僧が甲冑を帯びて民衆を脅してはいけない。僧が民衆から武器・馬などを調達してはいけない。僧は民衆に接してはいけない。僧は民衆に、魔除け、まじない、吉祥を説いてはいけない。俗人に経巻や仏像を授けてはいけない。民衆の門ごとに訪ねて教化したら処罰する。寺の外に道場(内道場)を建てるのを禁ずる。等等を法律で規定していることは、それらのことが奈良の都で実際におこなわれていたからだ。その奈良の仏教組織の中心に藤原氏が、興福寺を建てて君臨していた。その藤原氏の氏寺の興福寺にも、不思議がある。
No.41 藤原氏の氏寺の興福寺は不思議な寺だ。それは、その歴史にウソがあるからだ。藤原日本史によれば、669年山背国(後の山城国)に山階寺が創建された。その山階寺が、大和国厩坂に移築され厩坂寺となった。その厩坂寺が、710年平城京に移築され興福寺となった、と説明している。しかし、その興福寺は、平城京の下京にある。中国伝来の都は、正方形か長方形だ。しかし、平城京は、正方形でも、長方形でもない。東側に藤原氏の都が隣接されている。更に、興福寺には不思議がある。
No.42 興福寺は、春日大社に支配されている。その春日大社は、興福寺の東側にある三笠山に存在するが、興福寺が移築されたとする時期には、その場所は、空き地で、禁足の「神地」であった。不思議にも、春日大社の奈良での出現は、興福寺出現の後だ。その春日大社は、藤原日本史によれば、藤原不比等が常陸の鹿島神宮の神を春日御蓋山に勧請し、祀ったことが始まり、と云う。その頃、三笠山には春日大社は存在していない。春日大社が奈良に出現するのは、藤原不比等の死後、約40年後だ。藤原不比等が生存していた720年以前、東国は、騎馬民族の支配地だった。騎馬民族が祀る神は、北極星(太一)だ。鹿島神宮に、北極星(太一)が祀られていたか。春日大社は、星の北極星ではなく、太陽を模した「カガミ」が祀られている。東国が、唐進駐軍の傀儡王朝に支配されて行くのは、平安時代からだ。それに、神宮、社(もり)、神社(もり)が、日本列島に創建されていくのは、古墳時代終焉の7世紀末からだ。常陸の鹿島神宮も、出雲大社と同じに、それほど歴史は古くはない。
No.43 藤原不比等の、日本列島乗っ取りの戦略は、唐帝国を乗っ取った女帝則天武后を手本としていた。そのために仏教組織を支配するため手段としての興福寺を手にした。そして、日本列島版則天武后は、藤原不比等と橘三千代との間に生まれた安宿媛だ。藤原不比等は、女帝元正天皇の次の聖武天皇の皇后を、安宿媛とするための戦術を企画した。それが、ミトラ教の神の太陽を祀る冬至に行われた、天武天皇が発明した一世一代の大嘗祭を改竄して、収穫祭の新嘗祭とした後におこなわれる五節の舞だ。五節の舞は、インドのバラモン教の祭祀儀式を真似て、透けるような衣装をまとった娘が貴族の前で舞い踊る儀式だ。この舞の儀式では、何ヶ月前からの振り付けからリハーサルまで、天皇や貴族は同席できる。この間に見初められた舞妓は、天皇や貴族の側室とされる。その五節の舞を仕切るのが、藤原氏だ。こうして、藤原の女を、皇室に送り込む。
No.44 神亀元年(724年)皇太子首皇子は、平城京の大極殿で即位した。聖武天皇の誕生だ。729年8月藤原不比等の娘、安宿媛であった光明子は、聖武天皇の皇后となった。その7ヶ月前、天武天皇の孫、次期王とされた長屋王が謀殺されていた。ライバルが謀殺された奈良王朝では、皇族の血が流れていない者が、皇后となったことに対して不満を表立って言える者がいなかった。それをよいことに、藤原不比等が創作した「日本書記」の仁徳天皇の皇后の磐之媛が、皇族ではない葛城曾豆彦の娘であったと云う物語を前例として押し通した。このようにして藤原氏の傀儡皇后となった光明皇后は、唐の女帝則天武后の戦略に倣って、法華寺、新薬師寺、海竜王寺など多くの仏寺を建立した。その多くの寺の建立発願が信仰心だけではないことは、海竜王寺は藤原不比等の邸宅で、後に「内道場」事件を起こす入唐僧の玄ムが住したことで分かる。
No.45 藤原氏に一大事が起こった。それは、聖武天皇と夫人県犬養広刀自との間に、安積親王が生まれたからだ。そこで、光明皇后は、安積親王の即位を阻止するために、聖武天皇と光明皇后との間に生まれた安倍内親王を皇太子とした。この、皇女を立太子とするのは異例だ。しかし、長屋王亡き後では、誰も藤原氏の不正をとがめる者はいない。しかし、藤原氏のロボットであった聖武天皇は、737年から変心した。反藤原氏となったのだ。
No.46 737年聖武天皇は、長らく施設に幽閉されていた母藤原宮子と面会した。藤原宮子は、聖武天皇が生まれると、精神的な病に冒されたとし、藤原不比等により幽閉されていたが、僧玄ムによる「内道場」での修行(?)により心の病が治ったとされる。この治療のことにより、745年僧玄ムは、藤原氏により破戒僧との烙印を押され、左遷される。反藤原氏となった聖武天皇は、藤原氏からの攻撃をかわすために都を、恭仁京、紫香楽京、難波京、平城京と、7年間に替えた。そして、仏教の敵、鬼の巨大像を、藤原氏の氏寺の興福寺を見下ろす岡の上に鋳造した。そして、聖武天皇は、藤原氏の支配下にある仏教徒の横暴を阻止するために、戒律が奈良の北伝仏教よりも厳格な、南伝仏教(北伝の大乗仏教により、小乗仏教と蔑称されていた。)の戒律を持ち込むことを考えた。それが唐僧鑑真の日本国への招聘となる。
No.47 藤原氏は、鑑真の渡来を阻止するために、第10回遣唐使に藤原清河を乗船させた。藤原清河の鑑真渡来阻止の工作が失敗したため、藤原清河は二度と日本の土を踏めなかった。こうして、鑑真は、遣唐使船を運営する藤原氏の目を逃れるため、密航と言うかたちで渡来した。この鑑真渡来の経緯は、「続日本紀」にはない。
No.48 756年聖武天皇が死去すると、光明皇太后となった光明皇后は、藤原氏の本領を発揮する。それは、唐帝国の制度である中書省を改称した紫微省と、尚書省を改称した中台にならって、正式の官制ではない令外の官である紫微中台を創設した。紫微中台は、光明皇太后の命令を伝える、非公式の機関だ。そして、その長官を甥の藤原仲麻呂とした。このことにより、反藤原氏の聖武天皇の娘である孝謙天皇と、藤原氏の傀儡光明皇太后との、国家の指揮系統が二つとなった。このような時代背景下で、第10回遣唐使がおこなわれた。
No.48 第10回遣唐使(750年〜754年)「続日本紀」巻18・19、光明皇后は、甥の藤原清河の無事を、「大船に ま楫しじ貫き 此の我子を 唐国へ遣る 斎へ神たち」、と春日の山に祈っていた。この三笠山での遣唐使渡海の安全祈願は、「続日本紀」によれば、第8回遣唐使の時(717年)にもおこなわれていたようだ。それは、「二月壬申の朔、遣唐使、神祇を蓋山の南に祀る。」、とあるからだ。この「続日本紀」の遣唐使安全祈願の文により、藤原日本史での春日大社建立時期の謎が解ける。それは、その安全祈願の時に読まれた歌の解説文に、「春日祭神之日」(春日に神を祭る日)とあるからだ。この時点では、三笠山には、春日大社の神殿がなく、祭りのために社に神を招く方式がとられていたようだ。その根拠として、756年完成の正倉院「東大寺山堺四至図」によれば、春日山の西に「神地」とあり、春日大社が建立されている処が空き地となっているからだ。このことから、春日大社が建立された時期は、第10回遣唐使が帰国後、756年以降ということが示唆される。因みに、禁足地の空き地である「神地」とは、古墳や前政権の祭祀場が破壊され、その跡が整地された処だ。後に、前政権の怨霊を封じ込めるため「神社」(モリ)が建立される。旧勢力が温存する地では、怨霊封じの本殿が建立できないため、空き地のままとなる。
741年牛屠殺禁止令が発令されていた。それは、ミトラ教の儀式禁止を意味する。645年明日香ヤマトを唐進駐軍により追われ山の民となった、太陽を祀るミトラ教徒は、旱を解消するために牡牛を屠っていたのだ。その儀式の意味は、ミトラ教では、牡牛は太陽神の化身だったからだ。牡牛を屠り犠牲とすることで、太陽神に旱解消の願い事をしたのだ。奈良盆地が唐進駐軍に完全に支配された後、三笠山のミトラ教の祭祀場が、破壊されて「空き地」となっていた。
No.49 第10回遣唐使が送られる前、749年聖武天皇が、東大寺の遍照鬼の巨大像の前で額ずき、自らを「三宝の奴」と宣言し、皇位を娘の孝謙天皇に譲った頃、東アジアでは、744年唐帝国と長年戦っていた東突厥帝国が滅んで、唐帝国も不安定な情勢となっていた。
この東突厥帝国が滅んだことにより、日本列島の東国と近畿一帯の山岳地帯を支配していた突厥進駐軍のユーラシア大陸からの補給路が断たれていた。そのような東アジアと日本列島の情勢を見た藤原氏は、反藤原氏の聖武天皇の政治を無視して、奈良王朝で権勢を欲しいままとしていく。聖武天皇が、「三宝の奴」と言ったのは、奈良の仏教組織を利用している藤原氏の言動により、身動きが出来ない自分を揶揄したからだ。
No.50 744年東突厥帝国が滅んだのは、西アジアを支配したサラセン帝国によりヨーロッパとの交易権を奪われたからだ。このことは、唐帝国も同様だ。サラセン帝国の商人により交易権を奪われた唐帝国は、財政を立て直すために塩に税金をかけた。この税制により、唐帝国内の庶民の生活は一層苦しくなっていた。そこに、塩闇商人の安禄山による内乱の芽が発芽していた。
No.51 このような情勢時期に渡海した、第10回遣唐使についての記述は、「続日本紀」には多くない。「新唐書・日本伝」に、「新羅が海路を塞いだので、明州、越州を経て朝貢した。」、とあるだけだ。しかし、この第10回遣唐使には、奈良王朝を支配する藤原氏からの密命が、藤原清河に与えられていた。それは、南伝仏教の戒律をもたらす鑑真の渡海を阻止せよ、と言うことだ。反藤原氏の聖武天皇は、奈良仏教組織を支配する藤原氏の横暴を抑えるために、戒律の厳しい南伝仏教僧の鑑真を招聘していたのだ。
No.52 唐帝国の皇帝に朝貢を済ませ、帰路の準備をしていた第一船に、5度の渡海を阻止されていた鑑真和上は、崑崙人、胡国人、波斯人など24人を従え乗船した。日本に南伝仏教の戒律を伝えるためだ。しかし、出港前、鑑真一行は、難癖を付けられ下船させられた。その第一船の指揮者は、藤原清河だった。
No.53 この藤原清河の鑑真に対する処置に義憤を感じた副使大伴古麻呂は、鑑真一行を密かに、指揮する第二船に匿った。鑑真一行は、日本国に密航者として渡来したのだ。この鑑真渡来阻止の藤原氏の密命を果たせなかった藤原清河は、二度と日本の土を踏めなかった。こうして渡来した鑑真は、病気で臥せっていた聖武法皇と女帝孝謙天皇に、南伝仏教の戒律を正式に授けることができた。
この第10回遣唐使の帰路での4船の航海にも不思議がある。第1船、第2船、第3船は、沖縄に漂着したが、第4船は沖縄に立ち寄った記録がない。しかし、その第4船は、「続日本紀」では、「帰航途上炎上」とあるが、754年薩摩国に着いたとの報告がある。では、中国の蘇州出帆から151日間も、何処で何をしていたのか。
第2船は、薩摩国坊津に漂着、第3船は、屋久島に漂着したが、藤原清河が乗船していた第1船は、沖縄を出発後、進路を南に向け、ベトナム北部驩州(かんしゅう)に漂着した。そして、乗員180余名は現地人に殺害されたとしたが、藤原清河ら10余名が生き残り、唐に舞い戻れたのは何故か。
No.53 第11回遣唐使(759年〜761年)「続日本紀」巻22、23。この遣唐使の高元度一行99名は、渤海国を経由して、第10回遣唐使の藤原清河を迎えに行くのを使命としていた。しかし、唐帝国では、塩闇商人の安禄山による武装蜂起により、混乱していた。安禄山の姓は康、漢姓康とはサマルカンドの音写で、突厥貴族の母が、安氏に嫁いで、安禄山が生まれた。安とは、アルサケス朝パルティアの音写だ。安禄山の禄山とは、ソグド語の「ロクシャン」(光・光明)の音写だ。その非漢民族の安禄山が、756年から763年にかけて、唐帝国を撹乱していた。そのため、99名の使者は、11名で入唐した。
唐帝国の長安の都に入った高元度一行11名は、唐の官使と藤原清河の帰還を交渉したが、特進秘書監となっていて、妻子のいる藤原清河の帰国請願は受け入れられなかった。その43年後、藤原清河は唐で死去した。その高元度に対して、唐皇帝粛宗は、「禄山が乱離に属びて兵器多く亡せり。今弓を造らんとして牛の角を要む。聞くならく本国に牛の角多く有りと。卿(なんじ)、国に帰らば為に求めて使の次にて相贈れ。」、との命令を高元度に言い渡した。
唐朝は、長さ八丈(約24m)の船を造らせ、唐使沈推岳が指揮する船に乗って、760年高元度一行10名は、日本に到着し、761年平城京へ帰還し、唐皇帝粛宗の牛の角を贈れとの命令を伝えた。では、その命令に、奈良王朝は従ったのか。
No.54 奈良王朝は、東海、東山、北陸、山陽、南海の各道諸国に牛の角7800隻(本)の貢納を命じていたことは、この頃には、騎馬民族の支配地であったそれらの平野が、奈良王朝の支配下となっていたことを示唆する。
No.55 奈良王朝は、牛の角を唐帝国に贈るための船4隻の建造を安芸国に命じた。しかし、完成した4隻が、難波の江口に至るに及んで、灘に着いて浮かばずの状態で、一隻は船尾が破裂してしまった。そして、残る3隻も難癖を付けることにより唐に向けて出帆することはなかった。これらの唐皇帝粛宗の命令に逆らう奈良王朝の行動の背景には、761年藤原仲麻呂が、正一位となっていたことが考えられる。それ以前、藤原仲麻呂は、756年反藤原氏の聖武天皇が崩御すると、日本列島支配を目論む藤原氏の傀儡光明皇后は、皇太后となり、私設の紫微中台を作り、その長官に任命された為、奈良王朝で権勢を誇っていた。正一位となった藤原仲麻呂は、恵美押勝を名乗り、淳仁天皇を傀儡として、私邸に国璽を持ち込み、私幣を作り、唐から押し付けられていた儀鳳歴を、763年廃止して、大衍歴とした。これはもう、藤原王朝そのままだ。
No.55 この恵美押勝(藤原仲麻呂)の横暴に対して、反藤原氏の尼僧となった孝謙上皇は、764年淳仁天皇を廃して、重祚して、称徳天皇として即位した。この措置に対して恵美押勝(藤原仲麻呂)は、私兵6000名を集め、称徳天皇軍を攻撃した。しかし、伊勢や北陸の山奥に隠棲していた、突厥進駐軍や花郎騎士団の明日香ヤマト軍残党が蜂起したことにより、藤原氏南家の恵美押勝(藤原仲麻呂)軍団はあっけなく壊滅した。しかし、藤原氏本体が壊滅したわけではない。藤原氏の創始である藤原不比等は、氏族温存の危機管理のため、藤原氏を、南家、北家、式家、京家の4家に分散して、敵味方として互いに戦わせていた。このことにより、藤原氏一族の全滅はない。
藤原氏は、ユーラシア大陸を支配していた騎馬民族の王称である「天子」(テングリ)を「天皇」とし、そして、騎馬民族を統治する「天子制」を「天皇制」とし、その天皇制を支える天皇や貴族達に藤原の女を送り込み、天皇家や皇族の姻戚として寄生し、ユダヤ教儀式に酷似した多くの朝廷儀式を発明し、その祭祀者となり平成の現在まで生き延びている。(注:名前の「藤原さん」と、氏姓の「藤原氏」とは、歴史的に無関係。)
No.56 第12回遣唐使(775年〜778年)「続日本紀」巻33、34、35。この第12回遣唐使と、前回第11回遣唐使との間の、23年間には、天皇家の血筋が、新羅系から百済系に替わっていた。天皇家は、万世一系ではなかった。
No.57 764年称徳天皇の出現と供に、河内国生まれの道鏡が、「内道場」での称徳天皇の修行(?)指導者として急速に朝廷に進出し、765年道鏡は太政大臣禅師となる。この称徳天皇の道鏡優遇に対して、奈良の貴族は反発した。奈良朝廷の儀式は、藤原氏の発明した神道儀式で行われていたからだ。称徳天皇も出家したので尼僧の身であった。藤原不比等により建立された伊勢神宮は、すでに神仏習合がすすんでいたが、仏僧を近づけなかった。それに対して、称徳天皇は、仏典に「仏の御法を護りまつり尊びまつるは諸の神たちにいましけり。」、とあるのを根拠として、神々と仏とは離れてはいない、との理屈を述べて、僧尼が、神事をなすことを忌むべきではない、とした。そして、天平神護2年(766年)7月、称徳天皇は、使を伊勢大神宮寺におくり、丈六(1丈6尺)の仏像を造らせ、安置させた。奈良時代の伊勢神宮内には、仏教思想による神護寺や宮寺が建てられていた。
766年道鏡が法皇となった年、大宰府の主神(かむつかさ)が、宇佐八幡神が、「道鏡を皇位に即かしめば、天下太平ならむ。」、との神託を上奏してきた。769年奈良朝廷は、称徳天皇の側近尼法均の弟和気清麻呂を宇佐に派遣した。持ち帰った神託は、「天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。」、だった。この神託を聞き、称徳天皇は、和気清麻呂を「別部穢麻呂」として大隈に、そして、姉の法均を備後国に流罪とした。神託を聞きに行った処が、伊勢神宮ではなく、宇佐八幡宮であったことは、伊勢神宮は藤原氏が創建した宮だったからだ。因みに、宇佐八幡宮は、花郎騎士団に護られた古代新羅王族が明日香ヤマトの斑鳩へ移動する前、宇佐の秦王国にあったミトラ教の宗教施設を破壊した跡に建立されていた。
No.58 769年称徳天皇が謎の死をむかえると、道鏡は配流された。しかし、下野に配流といっても、下野薬師寺の造営長官の高位の身分のままだった。この道鏡の処置から、称徳天皇の謎の死と、道鏡の配流処分の軽さが疑われる。そして、和気清麻呂は召還された。これらの処置には、奈良朝廷を裏からコントロールする藤原永手と藤原百川があった。
No.59 亡命百済下級貴族の白壁王が、62歳で皇太子となり、770年光仁天皇として即位した。この即位劇にも藤原氏が暗躍した。62歳皇太子も前例がないが、皇族でもない下級貴族出の天皇も前例がない。それを覆す理由として、藤原氏は白壁王の妻の血筋が、聖武天皇の娘であったから、と言う。白壁王が光仁天皇となったため、妻は井上皇后となり、その子は他戸皇太子となった。他戸親王は、聖武天皇の血が流れているため、次期天皇候補だった。しかし、反藤原氏の聖武天皇の血が流れる他戸天皇を望まない藤原氏は、他戸皇太子の天皇即位を避けるようと策略した。
No.60 光仁天皇には、百済の血が流れる高野新笠との間に、山辺親王が生まれた。藤原氏は、781年山辺親王を桓武天皇として即位させた。この前年、井上皇后と他戸皇太子は、わずか1年余で廃されていた。そして、桓武天皇が即位した年に、「井上内親王、他戸王、並に卒しぬ。」、との謎の死を遂げていた。
No.61 このような奈良王朝での謎の事件が多く起こった歴史の流れの中で、第12回遣唐使が企画されていた。この遣唐使は、初めから謎に満ちていた。それは、776年5月筑紫から五島まで航海したが、9月となり、「逆風日に扇けり」、ということで、本年の渡海を諦めていた。それに対して、奈良朝廷もあっさり許容した。そして、翌年、777年肥前国松浦郡桶浦から出帆し、唐に8月到着した。
No.62 この第12回遣唐使の帰路でも、第1船が遭難している。その遭難には不思議がある。その第1船は、舳と艫とに二分された、と言うのだ。そして、艫の方は薩摩国に漂着し、舳の方は肥後国天草郡西仲島に漂着した、とするのだ。更に不思議は、その艫には56人、舳には41人が乗船していた、と言うのだ。この遭難事故があったのは、12月の真冬だ。しかし、唐大使趙宝英一行25人は水没死していた。この唐使25人の死と生存者97人との説明がつかない。
No.63 この第12回遣唐使の帰路の4船には、多くの唐帝国の宮使が乗船していた。第1船の25名は、水没死をしていたが、第2船、第3船、第4船には、多くの唐使が乗船していたことが、光仁天皇の奈良王朝の動きで分かる。それらの唐使を平城京へ迎える準備のために、779年左右京に命じて六位以下の子や孫から騎兵の任務に堪える者800人を徴発させた。唐使節を平城京に迎えるのに備えて儀衛兵を編成するためだ。更に、東国の経営がうまくいっていることを、唐使節に見せるために、陸奥、出羽に命じて、蝦夷20名を召し出した。
No.64 779年5月唐使節一行は、平城京の門外の騎兵200騎、蝦夷20名の出迎えを受けて、平城京に入った。そして、光仁天皇に謁見した、と日本側史料では述べる。日本側史料には、この唐使節についての詳しい記述がないのは何故か。しかし、この唐使節一行は、6月に平城京を出て帰国した、と日本側史料では述べている。しかし、第4船で、遅れて入京した唐使高鶴林については、帰国の記述はない。この第12回遣唐使の帰路に同船して渡来した唐使節は、唯の返礼使などではなく、光仁天皇を裏から操る藤原氏と奈良仏教僧の朝廷からの排除にあったようだ。それは、780年官史を減員し、政治刷新が、奈良王朝でおこなわれたからだ。
No.65 第13回遣唐使(780年〜781年)「続日本紀」巻35、36。第13回遣唐使は、第12回遣唐使の帰還に同乗した唐使を、唐に送還するために企画された。しかし、12月には担当者が任命されていたのに、出発の記事はどこにもない。ところが、781年7月に都に帰着して節刀を返上したとの記述がある。この781年には、桓武天皇が、天神に父光仁を配祀して、即位した。藤原日本史が、伊勢神宮が祀るアマテラスオオミカミが皇神であるとするのに、何故、桓武天皇は、父光仁を皇神として即位したのか。更に、それ以前では、儀式で呉音で読むところを、桓武天皇の儀式では漢音を使った。
桓武天皇即位の前年、780年光仁天皇は、百姓より徴兵し、練達の者に武を習わし、軍団づくりを始めていた。それは、反藤原氏であった聖武天皇の血が流れていた井上皇后と他戸皇太子を謀殺したことに対して、東国の突厥進駐軍と花郎騎士団残党が動き出したからだ。
唐帝国は、サラセン帝国の商人と交易をするために、銀を必要としていた。銀は、国際貨幣であったからだ。銀は、朱砂が産出する地で採掘される。日本列島は、縄文時代から朱砂を中国大陸に輸出していた。唐帝国は、陸奥で金が産出したのを知っていたので、その陸奥を征服することを企んだ。
唐進駐軍は、645年明日香ヤマトを攻略すると、694年藤原京、710年平城京と北進した。そして、784年山背国長岡京に遷都した。山背国は、古墳時代に花郎騎士団と突厥進駐軍が支配していた地だ。母国東突厥帝国が、744年に滅んでしまったため、最後の補給路である淀川系を唐進駐軍に支配されてしまった明日香ヤマト残党軍は、比叡山の砦で応戦するしか手立てはなかった。
785年唐進駐軍に支援された桓武天皇は、地位を盤石にするために、実弟早良親王を無実の罪を着せて謀殺した。この早良親王、井上皇后、他戸皇太子の謀殺による結果が、桓武天皇をして、平安時代の都で、怨霊に苦しめられて行く。
ここに、怨霊に苦しめられる桓武天皇により、長岡京から平安京へ遷都されることにより、藤原氏の謀略の数々により翻弄された奈良時代が終焉した。

オレは、田辺説の奈良時代のレポートを読み終わると、虚脱状態に陥っていた。それは、あまりにも、学校で習った奈良時代、奈良の大仏建立による仏教文化華やかな天平文化と、進取の気性に燃えた若き遣唐使達の歴史、と異なっていたからだ。学校歴史を刷り込まれている前頭葉が、混乱を起こしている。納得いくまで、田辺さんに質問しようと夜を待った。

国史「続日本紀」は本当のことを語らない

「カメです。こんばんわ」
「ナベです。こんばんわ。仕事忙しくて連絡できなくてすみませんでした。レポート読んでくれました。」
「ええ。読みましたけど。内容が「今市」理解できないところがあります。」
「どこのところ、ですか。」
「奈良時代のハイライトは二つあると思うのですが。ひとつは遣唐使で、もうひとつは、孝謙天皇、聖武太上天皇、光明皇后列席の、鑑真による大仏開眼の華やかなセレモニーの歴史が書かれてなかったのは、何故ですか。」
「そのような華やかなセレモニーは、史実として確認できないからです。」
「歴史教科書には記述があるのは何故ですか。」
「歴史教科書の記述が常に正しいとは限りません。六国史のひとつ、「続日本紀」があります。「続日本紀」は、文武天皇元年(697年)から延暦10年(791年)まで、95年間にわたり、40巻に収められた記録です。ほぼ奈良時代をカバーする記録書です。この記録書は、2部に分かれて編纂されました。前半20巻は、天平宝字元年(757年)までに纏められ、藤原氏に担がれた光仁天皇に奏上され、後半20巻は桓武天皇の命により編纂され、前半20巻を合わせて40巻として、延暦16年(797年)に完成したのです。つまり、「日本書記」が藤原不比等の意向が反映されているのに対して、「続日本紀」には、亡命百済貴族出自の桓武天皇の意向が反映されているのです。その「続日本紀」によれば、天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼供養には、聖武太上天皇は列席していなかったのです。」
「何故ですか。」
「聖武太上天皇は、銅・水銀鉱毒により重い病で臥せっていたのです。開眼供養の4年後、756年崩御しています。」
「何故、聖武太上天皇が鉱毒中毒なのですか。」
「それは、東大寺の大像鋳造で、銅の精錬と、アマルガム鍍金(金メッキ)で水銀を使ったからです。」
「その東大寺の大像とは、ナベさんが、奈良の大仏ではなく、太陽を祀るミトラ教の化身遍照鬼といっていたヤツですね。」
「そうです。その大像が、仏像となったのは、855年遍照鬼像の頭を落とされ、仏頭に挿げ替えた、平安時代からです。その興福寺を見下ろす岡の上で、遍照鬼を鋳造していたことにより、その鋳造を頻繁に視察していた聖武天皇は、銅鉱毒、水銀中毒を患っていたのです。」
「岡の上が鉱毒で汚染されていることは、その下にある平城京も鉱毒に汚染されていたのですか。」
「勿論、汚染されていたと考えられます。平城京において多くの鉱毒中毒者の存在が考えられます。その根拠として、平安時代中期、985年僧源信が、仏教宣伝書の「往生要集」を著すのです。その内容は、ひとが死に至る過程をリアルに描いていたのです。そのため、「地獄世界」を説く仏教界で評判となり、宋国にも「往生要集」が輸出されたのです。」
「鉱毒中毒は、200年以上も前の奈良時代の出来事ですよね。」
「それほど、奈良の平城京の鉱毒中毒の惨状がひどかったのです。その背景には、奈良時代初期に、藤原氏が日本列島に持ち込んだ、中臣神道の思想があります。その思想によると、「死」は「穢れ」で、伝染すると言うのです。ですから、「穢れ」の伝染を避けるため、死寸前のひとを、家の外に放り出していたのです。死に行くひとの観察は、周囲のひと達のリアルな体験となり、子孫に伝えられていったのです。」
「「死」が穢れですか。すると、やはり、中臣神道は、古墳時代には存在していなかったことになりますよね。」
「そうですね。古墳は、死者の再生を願ってか、あの世でも「生きる」ことを前提に造られていたのです。ですから、古墳には、死者が「穢れ」として燃やされることもなく、生前のまま埋葬され、生前の生活用品や武器も死者の傍らに埋葬されたのです。」
「そのように考えると、藤原日本史で云う、奈良の巨大前方後円墳が、天皇の墓であるということの根拠が薄れてしまいますよね。」
「そうですね。藤原日本史では、天皇家はアマテラスオオミカミを皇神としていたわけですからね。アマテラスオオミカミは、中臣神道の神でもあるわけですから、古墳には、死者など埋葬するはずはない、と言うことです。」
「すると、アマテラスオオミカミを祀る伊勢神宮なども、古墳時代には存在していなかったことになりますね。と言う事は、藤原日本史の神話も飛鳥時代も、「ウソ」と言う事ですか。」
「そうなります。それらの日本神話や飛鳥時代の歴史は、奈良時代に、藤原不比等により創作されていたのです。藤原日本史が語る、4世紀「倭の五王」を仁徳(履中)・反正・允恭・安康・雄略天皇とする、507年越前から進駐したとする継体天皇の即位、欽明天皇13年(552年)の仏教公伝、604年聖徳太子の憲法17条、645年中大兄皇子と中臣鎌足が出演する「大化の改新」、などは、歴史ではなく、創作物語なのです。藤原不比等は、前政権の歴史を国史を編纂することで消すことや、仏教組織を使って国を乗っ取るノウハウを、唐帝国から学んでいたのです。」
「それって本当なのですか。」
「「日本書記」の構成は、神話物語は「旧約聖書」で、その後は、中国史と朝鮮半島史を参考に創作されたのです。日本国での政治の始まりとする「大化の改新」は、朝鮮半島での「ヒドンの乱」のコピーです。ネットで調べてみてください。カメさんも、きっと驚くはずです。あまりにも「大化の改新」物語と同じストーリですから。」
「後でネットで調べてみます。それにしても、教科書歴史での大仏開眼供養の描写はリアルですが。」
「それは、平安末期に著された「東大寺要録」を基に創作された、小説家による「天平の甍」が、史実として伝わってしまったからです。エンターテイメントの歴史小説と、歴史書との区切りを付ける必要がありますね。」
「ナベさんの説では、「日本書紀」もエンターテイメントのように取れますよ。」
「「日本書記」が、古代日本列島の歴史書ではなく、創作物語だと言っても、無価値というわけではないのです。「日本書記」や「続日本紀」を権力者が、創作するには、それなりの訳があるのです。その訳を知ることにより、闇に葬られた歴史が現れるのです。」
「具体的に、どういうことですか。」
「例えば、「続日本紀」があります。「続日本紀」は、文武天皇の即位前紀に続いて、即位の詔があるのです。その詔が、漢文ではないのです。」
「何故、ですか。」
「その詔の文には、「止・と」「尓・に」「乎・を」などの文字があるのです。カメさん、これから何を想像できますか。」
「突厥語の格語尾です。日本語の「テニオハ」の格助詞ですね。」
「送った本、読んでくれたのですね。中国語には、格語尾も格助詞もないのです。その詔は、宣命体と言って、天皇の詔を宣言する文体です。つまり、奈良王朝でも、口語では、明日香ヤマトを支配していた突厥進駐軍が使用していた突厥語の文体を使っていたことが、「続日本紀」の詔の文章により示唆されるのです。」
「ナベさんの説では、藤原氏が「日本書記」を創作した目的のひとつは、明日香ヤマトと河内を支配していた、ユーラシアからソグド国際商人を伴って渡来した突厥進駐軍と、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した花郎騎士団の歴史を消すために、突厥進駐軍将軍家を蘇我氏とし、花郎騎士団を物部氏とした、とするのですよね。すると、桓武天皇は、「続日本紀」で、奈良時代の何を消そうとしたのですか。」
「遣唐使についての、日本側史料と唐帝国側史料との「ズレ」に、桓武天皇が消そうとした、奈良時代の歴史があるのです。遣唐使は、日本側史料では、奈良朝廷の自発的な使節で、文化先進国の唐文化を取り入れるために組織され、送られた、とするのです。しかし、唐帝国側史料では、遣唐使は、日本列島各地から中央に納める、「庸調」の唐帝国の税制で集められた貢物を持って朝貢していたとするのです。朝貢とは、属国が母国の皇帝に貢物を持って挨拶に行くことです。そして、その遣唐使の帰国には、唐帝国の官史や軍団も同船していたのです。」
「確かに、ナベさんのレポートを読めば、そのように理解できます。奈良王朝は、唐帝国の属国だったようですね。唐帝国側史料を読めば、自虐的日本史となってしまいますね。」
「一般的に、藤原日本史を正しいとし、その藤原日本史を否定する史観を、自虐的日本史と言うひともいるようですが、客観的に歴史を見ることが、何故、自虐的日本史になるのでしょう。そこには、現在も勢力を温存する藤原氏の存在が見て取れます。藤原氏、亡命百済貴族により消された、騎馬民族の歴史を復元することは、自虐的日本史を述べることになりません。」
「ナベさんの言うこと理解できます。でも、何故、ナベさんは、世間的に「トンデモ歴史」と思われる、明日香ヤマト騎馬民族征服史を調べているのですか。」
「血の流れだと思います。私には、騎馬民族の血が流れているようです。私の家系は、江戸時代から代々漢方医だったようです。」
「エリートだったんですね。」
「明治革命で、イギリス東インド会社の手先として活躍した蘭学医は、エリートとなりましたが。江戸時代では漢方医はエリートではありません。漢方医は、賎業者と思われていたのです。」
「漢方医が賎民ですか。」
「漢方医は、薬草学の神である神農様を祀っていたのです。その神農様は、ヤクザの的屋(テキヤ)の神でもあったのです。」
「すると、漢方医とヤクザは、同族ということですか。」
「そうです。漢方医もヤクザも、その租は騎馬民族だったようです。ヤクザと言っても、現在のような私的利益だけを求める暴力団ではありません。ヤクザは、役座と書かれるように、禁足地の神社(モリ)での賎民によるバザールでの商いを、権力側の暴力から賎民を武力で護り、座を仕切る顔役だったのです。古く、鎌倉時代に発生した、武力集団です。唯の暴力団と違うところは、「任侠」の思想において暴力を振るったのです。」
「任侠ですか。懐かしいですね。東映ヤクザ映画を思い出しますね。」
「任侠とは、弱い立場のひと達の関係を狭める、つまり、弱者擁護のことです。」
「役座の任侠思想は、何か、中世ヨーロッパの騎士道精神に通じますね。」
「「根」が同じだからです。」
「「根」が同じとは、どういう意味ですか。」
「役座の租は、唐進駐軍に明日香ヤマトの都を追われた、花郎騎士団だったからです。その花郎騎士団の租は、ローマ帝国軍です。」
「役座の租が、ローマ帝国軍ですか。一寸理解不能です。」
「古代新羅は、356年に朝鮮半島に興ったのですが、その王は、外来者の意味がある「奈勿王」と呼ばれ、その古代新羅の文化は、ギリシャ・ローマ文化だったのです。この根拠は、古代新羅文字と慶州の遺跡・遺物が証明します。古代新羅は、高句麗や百済が仏教を取り入れ、それに伴い漢字文化を取り入れていたのに、漢字をアルファベットの文字として使っていたのです。」
「それって、古代日本の万葉仮名と同じでは。」
「古代新羅の郷札という漢字アルファベット方式と、古代日本の漢字をアルファベットとする万葉仮名は、そのルーツは同じようです。アルファベットから派生した表音文字を使う民族が、日本列島に渡来して、漢字文化国との交易をするために発明した文字だからです。その古代新羅の軍団が、花郎騎士団です。」
「花郎騎士団って、オカマ軍団ですか。」
「漢字は、その文字自体に意味とイメージがありますから、「花」には、「オンナ」の弱弱しい、やさしい意味がありますが、この場合、「花」は、太陽神ミトラ教の「ミトラ」の借字なのです。つまり、花郎騎士団とは、ミトラ神を信仰する騎士団という意味です。」
「そういえば、古代ローマ帝国軍団は、ギリシャ文化を崇拝していて、アレクサンドル大王が征服した地で流行っていたミトラ神を、ローマ帝国軍の軍神として祀っていましたよね。」
「そうです。ローマ帝国が、392年ユダヤ教ヨシュア派をキリスト教として国教とし、そのキリスト教を国教としたテオドシウス大帝が395年死去すると、ローマ帝国は東西に分裂したのです。その東ローマ帝国で、キリスト教を利用して政治や商売を有利にすることを考えた一派が、人間キリストを神にすることを考えたのです。そのことに反対するネストリウス派は、431年エフェソスの公会議で、異端とされ、435年東ローマ帝国から追放されたのです。この時、キリスト教を信じない、軍神ミトラを祀る、異端者の東ローマ帝国軍の一部も、東ローマ帝国を後にしたのです。」
「すると、ナベさんの説では、その軍神ミトラを信じる東ローマ帝国軍が、花郎騎士団として古代新羅に現れた、と言うのですね。」
「軍神ミトラを信じる東ローマ帝国軍団は、ガンダーラを目指したと思われます。そのガンダーラの地は、アレクサンドル大王領の東端で、紀元前250年ギリシャ文化を継承したバクトリアが興っていたからです。そのバクトリアは、東征するために弱小国秦を軍事支援して、紀元前221年秦帝国を興したのです。」
「すると、秦帝国は、ギリシャ文化継承国のバクトリアの衛星国というわけですね。」
「そうです。古代新羅から日本列島に渡来した「秦氏」が、秦帝国の末裔と言っていたことは、「ウソ」ではなかったのです。秦氏の渡来の背景は、北魏から弾圧で追われた仏教教団は高句麗から南下して、新羅に侵攻するのです。仏教組織は北魏時代から武装していたようです。その仏教教団が軍団を伴って南下したため、古代新羅から追われたギリシャ・ローマ文化の古代新羅の王族が、花郎騎士団を伴って、527年北九州に渡来したのです。藤原日本史では、この歴史を「筑紫国磐井の反乱」として隠蔽するのです。北九州に渡来した秦氏は、宇佐に秦王国を興すのです。この秦王国は、608年隋使裴世清が唐皇帝煬帝への報告に登場しています。その秦王国が、吉備、明日香イカルガへと東進したのです。その朝鮮半島→北九州→河内へと移動した秦氏の歴史を、藤原日本史では、「物部氏」として、587年の神仏戦争物語で抹殺したのです。その古代新羅の民族(秦氏)が、ギリシャ・ローマ文化を継承して日本列島に渡来していたことは、以上のことで説明されます。」
「役座の租が、ローマ帝国軍を租とする、花郎騎士団だということは理解できましたが、何故、役座は薬草神の神農様を祀るのですか。そもそも神農様は何処から来たのですか。」
「神農様は、中国土着の神で、不老長寿の神仙思想の道教に取り入れられたのです。道教は、不老長寿を目指し、仙術のひとつとして、薬草学を研究していたのです。その薬草学の神様が、神農様というわけです。」
「でも、藤原日本史では、日本列島には神道と仏教しか出てきません。歴史書などにも、道教は日本列島に上陸しなかった。その証拠に道教関係の施設が建てられた形跡が認められない、とあるのですが。」
「それは、日本列島騎馬民族征服説を否定するひと達と、同じ理論です。騎馬民族征服説を否定するひとは、騎馬民族が朝鮮半島から渡来したと信じているのです。ですから、それらの騎馬民族征服説否定者は、九州や中国地方の遺跡に、その騎馬民族を示す遺跡・遺物が発掘されていないから、日本列島に騎馬民族が渡来していなかったと、主張するのです。しかし、6世紀のユーラシア大陸をソグドの国際商人と供に支配していた突厥騎馬軍団は、日本海を渡海して、北九州ではなく、東北・北陸越前に渡来していたのです。その歴史を消すために、藤原不比等は、「日本書記」で、越前から侵攻した継体天皇物語を創作して、騎馬民族の渡来ルートを隠蔽していたのです。」
「すると、道教の歴史は、どのようにして隠蔽したのですか。」
「それは、「日本書記」の斉明2年の条にある物語です。」
「どのような物語ですか。」
「その物語は、「田身の嶺に周れる垣を冠らしめ「田身は山の名なり」また嶺の上に両つの槻の辺に観を起て、号けて両槻宮とす。亦天つ宮と曰う。」、とあることです。この両槻宮を、「日本書記」では、「ふたつきのみや」と読ませていますが、この宮の観こそ、道教寺院だったのです。その他にも、斉明天皇物語では、明日香ヤマトの歴史を隠蔽しています。それは、4世紀から奈良盆地が古代新羅から渡来していた技術者により、古代エジプト土木建築技術での巨大前方後円墳、石組建築物、大運河、花郎騎士団がいるイカルガと突厥進駐軍のいる明日香を結ぶ南北軸から西に約20度傾いた幅12mの直線道路などを開発していたことです。」
「「田身」とは、「トウノミネ」で、騎馬民族の突厥語で、「連なる山々」の意味ですよね。」
「そうです。その連なる山々の意味の突厥語のトウノミネを、「日本書記」では、わざわざ注をつけて、「田身は山の名なり」、としているのです。広域に移動する騎馬民族は、いちいち山に名前などつける習慣はないのです。その渡来した騎馬民族と供に、道教が、日本列島にもたらされたのです。中国大陸では、騎馬民族は、血の禁忌や肉食禁止の仏教ではなく、犠牲の儀式を持つ道教を保護していたのです。それは、道教の神は太一の北極星で、広域を移動する騎馬民族も、真北にあり移動しない北極星を旅の目印として祀っていたからです。
遊牧民族鮮卑出自の北魏の太武帝は、仏教を弾圧して、道教を保護していたほどです。古代日本列島には、漢訳仏教と中臣神道が伝来する前に、古代新羅から花郎騎士団によるミトラ教と、騎馬民族突厥による道教が存在していたのです。645年以前の奈良盆地では、南側を支配地とした突厥軍団は、トウノミネに道観を建て、北側のイカルガには花郎騎士団により、太陽神の再生日である冬至の太陽光があたるように南北軸より西に約20度傾いたミトラ教の寺が建てられていたのです。その花郎騎士団の支配地であったイカルガのミトラ教寺を、藤原氏が破壊した跡に、奈良時代の黎明期に、法隆寺が北九州から移築されたのです。古代日本列島史が、奈良時代に藤原氏により創作された、との根拠は以上のことからなのです。」
「645年その奈良盆地から、唐進駐軍に、近畿一帯の山奥に追われた北極星を祀る突厥軍団と太陽を祀る花郎騎士団の明日香ヤマト軍残党が、役座の租というわけですね。そのミトラ教と道教の歴史を、奈良時代に藤原氏が、仏教と中臣神道で隠蔽していたというのですね。」
「藤原氏が、古代日本列島史を改竄していた奈良時代の歴史を、今度は、平安時代初期に、亡命百済貴族出自の桓武天皇が、奈良時代の歴史を改竄していたのです。」
「何か、その証拠でもあるのですか。」
「桓武天皇の焚書は有名ですが、反藤原氏の聖武天皇の遺品が納められていた正倉院から、絵画や像や文書を持ち出して、処分していたのです。奈良時代を表す絵画類がないのは、そのためです。常識での奈良時代は、桓武天皇が監修した「続日本紀」を基に復元されたのです。このことが、奈良時代は闇の時代だという根拠です。」
「そうですか。すると、奈良時代の歴史には、東大寺大仏開眼供養も遣唐使にも、亡命百済貴族の桓武天皇が、後世のひとに知られたくない闇の歴史があるわけですね。」
「藤原氏にも、知られたくない奈良時代であったようです。それは、1309年高階隆兼により「春日権現験記絵」が描かれたのです。この絵は、14世紀に奈良春日社に奉納されたものですが、中世の興福寺僧の生活を知ることが出来るのです。その絵巻の中のひとつに、興福寺僧の紀伊寺主(事務担当僧)が寝て夢を見ている絵があるのです。その絵には、寝ている僧の横に女性と思しきひとが描かれているのです。そして、枕元には刀が立てかけてあるのです。カメさん、これってどう思いますか。」
「仏教では女犯禁止で、そして、殺生禁止だから、701年大宝律令の僧尼令でも武装禁止としていましたよね。14世紀の絵だとしても、大宝律令の禁を犯していますよね。」
「奈良時代の絵は、桓武天皇により処分されていたので存在しません。その絵が奈良時代の興福寺の僧の生活を描いているとは言えませんが、その女性と思しきひとは、稚児です。14世紀の寺では男色があったと、その絵師は描いているのです。肛門の疾患を「ジ」と言いますが、その「ジ」は、「痔」と表されるのは、それは「寺」で多く見られる疾患だからです。」
「その絵、歴史書で見たことがあります。しかし、そこまでは気がつきませんでした。すると、奈良時代に興隆した仏教軍団が壊滅するのは、1571年織田信長による比叡山の焼き討ちと、石山合戦、そして、1585年関白豊臣秀吉による紀伊根来・雑賀の一揆を平定してからですよね。それまでは、仏教教団には、武装した僧兵による軍団があったようですね。その絵の事務担当の僧は、刀で武装する警備員も兼ねていたようですね。」
「そのようですね。藤原日本史は、藤原氏、亡命百済貴族、そして、仏教関係者達の史料により構成されていますから、それらの組織に都合が悪い歴史は、隠蔽または削除されていますから、本当の歴史があるとするならば、気をつけてそれらの史料を読む必要があるようです。その奈良時代の、藤原氏の氏寺である興福寺が支配する奈良仏教にも、謎があるのです。それは、鑑真の渡来です。藤原日本史では、鑑真は、奈良仏教の援助者のように描かれていますが、実際は、興福寺にとっての鑑真は、疫病神ではなく、厄病僧であったようです。」
「厄病僧とは、どのような意味でですか。」
「藤原日本史では、「日本書記」により仏教伝来552年とするのです。そして、飛鳥時代の聖徳太子により、仏教が興隆して行くとするのです。そして、朝鮮半島の白鳳年号を取り入れ、仏教文化が花咲く白鳳時代とし、仏教文化が完成する天平時代と、仏教史を綴るのですが、その仏教史で活躍するとする仏僧は、どのような資格を持っていたのでしょうか。」
「仏教僧に資格などあるのですか。」
「僧侶が一人前になるには、仏説を学び、剃髪や法名を得度し、戒律を受ける受戒の必要があります。戒律の戒とは、サンスクリット語でシーラで、自分を律する内面的な道徳規範を意味します。そして、戒律の律とは、サンスクリット語でヴイヤナで、教団で守るべき集団規則のことです。そして、出家者には、戒師の前で10戒、不殺生、不偸盗、不淫、不妄語、不飲酒、不塗飾香鬘、不歌舞観聴、不坐高広大牀、不食非時食、不蓄金銀宝、の護持を誓うことにより、沙弥という雛僧となれたのです。」
「仏教の10戒ですか。キリスト教の「モーセの10戒」を連想させますね。」
「紀元一世紀、突然現れた大乗仏教とキリスト教(ユダヤ教ヨシュア派)との共通点は多く指摘されています。その話は、後程します。その10戒の中での4戒、不淫、不盗、不殺、不妄語、を破ることは教団からの追放となり、破戒僧と呼ばれるのです。先ほど述べた、鎌倉時代の絵に描かれていた興福寺の僧は、その絵から二つの戒を破っていることが示唆されます。」
「興福寺の僧が、何故、戒を破れるのですか。」
「興福寺は、それほど権力があったからです。日本での戒律を授ける授戒制を確立したのは、奈良時代の鑑真によるのです。8世紀前半までの日本では、唐帝国が認める正式な戒壇がなかったのです。戒壇とは、10人の有資格者の戒師から、完全にそろった戒である具足戒を受けるための施設です。その施設が日本国になかったため、奈良王朝で勝手な振る舞いをする、藤原氏の氏寺の興福寺の僧を抑えるため、反藤原氏の聖武天皇は、戒律に精通した唐僧を日本への招聘を考えたのです。」
「仏の名において勝手な振る舞いをする僧とは、古代エジプトの神官に通じますね。その神官の勝手な振る前を封じるために、ヒッタイト帝国の契約の太陽神ミトラを導入して、唯一神アトンを、エジプト王のアメンホテプ4世(イクナトン)が発明したのでしたよね。その古代エジプトの唯一神アトンから、ユダヤ教の神ヤハヴェが生まれるわけですね。」
「神や仏を出されれば、誰も抵抗ができないからです。奈良仏教の宗教改革を望む反藤原氏の聖武天皇は、栄叡と普照の二人の僧に、唐僧の鑑真に頼み、鑑真の弟子を日本に送るよう密命を与えたのです。それに対して、唐帝国のエージェントの藤原氏は、唐帝国と謀議を図っていたのです。鑑真の弟子は、誰も日本へ行くことを承諾しなかったので、鑑真自身が渡海を決意したのです。鑑真の渡海は、5度も唐側の妨害にあったのです。6度目の渡海では、藤原氏により鑑真渡海阻止の密命を受けた藤原清河は、鑑真一行を第1船に乗船させた後、難癖を付けて下船させてしまうのです。」
「藤原日本史では、鑑真は船出して、5度も難破したように描写していますが、出帆の前に阻止されていたのですか。」
「一度だけ出帆した記録がありますが、5度の難破の唐帝国側の記録はありません。藤原清河の陰謀により下船させられた鑑真一行は、第2船の指揮者の副使大伴古麻呂の義侠心により匿われ、密航者として、藤原氏が古来から支配していた南九州坊津に上陸するのです。その坊津が、古来から中国大陸と交通があったことは、中国の航海の神「娘媽」(ろうめ)が祀られていたからです。その「娘媽」とは、中国では「媽租」と言って、道教の神であったのです。この坊津の近くには、中国との恒常的な海洋交易があったため、中国人町があったのです。この坊津は、南海から北上する黒潮が海岸を洗うので、古来から南海交易が盛んであった港だったのです。」
「鑑真の坊津渡来には、藤原氏も驚いたことでしょうね。」
「鑑真は、南伝仏教が盛んな揚州江陽県の出身で、14歳で出家し、18歳で南山律宗の菩薩戒を受け、21歳で具足戒を受けた、唐帝国中部での律僧としての第一人者であったのです。渡来した鑑真は、754年聖武太上天皇、孝謙天皇、光明皇后らに菩薩戒を東大寺の戒壇で授けたのです。菩薩戒とは、自己のみならず、他者の救済をめざす大乗仏教の大乗戒のことです。鑑真は、南伝仏教僧であったのですが、菩薩戒を護持していたのです。」
「鑑真の渡来まで、日本には戒壇がなかったのですか。すると、それ以前の女犯(男色)し、武装する興福寺の僧は、私度僧ということですか。」
「この鑑真による授戒がなかったため、日本から遣唐使と供に渡唐した僧は、唐帝国から一人前の僧とは認められていなかったのです。この東大寺の戒壇での授戒制の創始により、日本国僧は、唐帝国から沙弥扱いされなくなったのです。」
「藤原日本史での、遣唐使に随伴していた僧は、一人前の僧として認めてもらえなかったのですね。」
「そうです。だから、日本からの留学僧は、20年間の修行が義務付けられていたのです。このことは、平安時代初期の空海渡唐の謎となるのです。錬金術師空海は、留学僧として渡唐したのに、2年足らずで帰朝していたのです。この話は、「平安時代篇」で述べます。天平勝宝7年(755年)東大寺に戒壇院が完成し、761年筑前(福岡県)観世音寺と下野(栃木県)薬師寺にも、鑑真により、国立戒壇が樹立されるのです。九州は、大宰府があり、唐帝国との国際交易の地であることから戒壇が樹立されたのは理解できます。しかし、東国の蝦夷の支配地だった下野の薬師寺に戒壇が樹立されたこと、カメさん、理解できますか。」
「藤原日本史の北関東の歴史にも、多くの謎がありますね。5世紀埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土の剣に記されたワカタケルを、藤原日本史では、雄略天皇としていますよね。そして、倭の五王のひとり、武を雄略天皇としていますよね。5世紀からの古墳には、全国的に実戦用の馬具や武器が埋葬されていきますよね。実戦用の馬具は、農耕民族のものではなく、騎馬民族のものですよね。ナベさんの説では、騎馬民族は、朝鮮半島から北九州へではなく、東北・北陸越前に渡来した、のですよね。すると、5世紀の北関東にも騎馬民族が渡来していたと考えてもおかしくはありませんね。」
「倭の五王とは、5世紀に朝鮮半島南端と北九州を支配していた民族の王です。奈良県の王ではありません。720年「日本書記」に登場する雄略天皇は、713年藤原氏の命令により、唐進駐軍により侵略した地の豪族達に、奈良王朝に提出させた地方史の王を基に合成された人物です。ですから、関東からワカタケルと銘がある剣が発掘されたのは、奈良の王・雄略天皇の実存を証明することにはなりません。その剣は、奈良の王から与えられたのではなく、関東のシキの宮を支配したワカタケル王に仕えた王の剣だったからです。5世紀の関東地域には、騎馬民族の都シキがあったのです。」
「奈良の三笠山にある春日大社の神も、常陸鹿島神宮から、藤原不比等が勧請したと、藤原日本史にありますね。神宮が建てられたのは、古墳時代が終焉した後で、それ程古くはないですね。その謎の多い関東の下野に、鑑真は、国立戒壇を樹立したのですね。」
「その謎を解く鍵は、国分寺にあるようです。反藤原氏の聖武天皇は、741年国分寺を全国に造らせていました。関東にも国分寺が造られていました。もし、国分寺が、仏像を安置する仏寺だとしたら、聖武天皇が発案した国分寺に安置された仏像は、後世までも存続しているはずです。しかし、国分寺は、平安時代末期には廃墟となり、そこに安置されていたはずの仏像も、全国で一体もないのです。カメさん、これって変だと思いません。」
「そう言われれば、確かに変ですね。江戸時代末期、九州に漂着したリーフデ号の船首像を、ある仏寺では、カテキ様として祀るほど、何でもかんでも仏像にして仏寺に祀る習慣があるのが、日本の仏教ですからね。」
「もしも、その国分寺に安置された仏像が、実際は、仏像ではなかったらどうでしょう。国分寺造営を発案したのは、興福寺を支配する藤原氏に対抗する聖武天皇です。聖武天皇が発案した奈良の大像は、最初は仏像ではなく、仏敵の遍照鬼だったのです。関東で、勝手な振る舞いをする興福寺の僧を抑えるために、反藤原氏の聖武天皇は、鑑真をして、関東の下野に国立戒壇を樹立した、と考えられます。その下野の国立戒壇は、平安時代に、摂関政治により藤原氏が台頭する時期になると、機能停止となるのです。」
「5世紀からの関東が、騎馬民族の支配地であって、そして、645年以降、唐進駐軍と藤原氏の僧兵軍団が関東に侵攻していたとするならば、それ以前の東国の歴史はどのようになっていたのですか。」
「それについては、「古事記」の暗号が答えてくれます。出雲の国譲り物語では、イズモ地域を支配していたアズミ族は、飛鳥大和王朝(唐進駐軍+藤原氏)に脅され、出雲国を乗っ取られると、信濃の諏訪に逃げ込むのです。カメさん、出雲物語の年代を何時頃だと思いますか。」
「神話だから、紀元前というのは、答えになりませんよね。」
「出雲神話では、オオクニヌシの妻の父親、悪役のスサノウが新羅に行ったとありますから、356年以降です。」
「そうですか。出雲物語は、それほど古い物語ではなかったのですね。「古事記」の国譲り物語は、「日本書記」の国譲り物語と違いますよね。「日本書記」では、話合いの上、オオクニヌシが国を譲る替わりに、大和朝廷が出雲大社を建て、租神を祀るように願った、となっていますよね。どちらが史実として正しいのですか。」
「歴史が正しかどうかを判断するのは、その歴史を読んだひとの史観によります。そもそも、歴史には、正しいとか、正しくない、との客観的判断はできないのです。コインには、表と裏があります。コインの実態を知るには、表と裏を見る必要があります。それと同じです。歴史も、表と裏を知ることにより、より史実に近づけます。
その「古事記」の物語により、アズミ族は信濃に移動したことが分かるのです。この信濃と天武天皇との関係が、大津皇子事件により分かるのです。」
「大津皇子事件とは、686年日本初の天皇である天武天皇が崩御後、後を継いだ百済系の女帝持統天皇が、自分の息子草壁皇子を天皇にすることを図って、持統天皇の姉の子大津皇子を、河島皇子に密告させ、謀反の罪により謀殺した事件のことですか。」
「そうです。その事件では、30余名が連座したことになっているのですが、二名を除いた残りのひと達は、罰せられるどころか、昇進した者が多くいたのです。」
「その大津皇子事件は、何か、謎めいていますね。」
「その流罪となった二人とは、礪杵道作(ときのみちつくり)と新羅沙門行心です。この礪杵道作とは、美濃国土岐郡の出身で、当時では、漢字アルファベットで三野国刀支評(みのくにときのこおり)と記す行政地域で、信濃との国境を接する広大な国だったのです。この刀支評には、軍馬の休憩所である土岐駅が設置されていたように、ユーラシア大陸からの騎馬民族の渡来港である秋田県酒井津と、突厥進駐軍の都の明日香ヤマトを結ぶ、騎馬民族の軍事道路の東山道が、東西に貫通する重要地域だったのです。
その名である礪杵道作とは、東山道の軍事道路建設に携わっていたことを暗示します。そして、その刀支評では、天武天皇が支配する明日香ヤマトに米を大量に送っていたのです。その三野国刀支評に接する信濃に、天武13年(684年)天武天皇は、信濃に宮都をつくる計画をたて、三野王以下の使者が信濃まで派遣されていたのです。しかし、その2年後、天武天皇は崩御するのです。」
「その話の信濃と出雲国譲りの信濃の話と、何か関係があるのですか。」
「藤原日本史では、「壬申の乱」を、天智天皇と天武天皇との兄弟の内乱のように描いていますが、それは違います。天智天皇と天武天皇とは、兄弟どころか、その二人は、百済皇子と新羅皇子の敵対関係にあったのです。その根拠は、兄と言われる天智天皇は、天武天皇より4歳も年下だったのです。更に、その二人のそれぞれの娘は、それぞれの皇子の側室となっていたのです。4歳年下の兄などはこの世にいないし、実兄弟の娘をそれぞれ側室にすることは、常識的にはありえないことです。「壬申の乱」の実態は、663年百済が、唐・新羅連合軍により壊滅されると、一部は中国山東半島へ、そして、一部は日本列島の近江に亡命してきたのです。そして、667年近江に百済亡命王朝を興すのです。それに対して、645年明日香ヤマトが、唐進駐軍により壊滅し、近畿一帯の山奥に逃れていた明日香ヤマト残党軍が、672年新羅の皇子をかかげて蜂起して、近江の百済亡命王朝を倒した、朝鮮半島からの百済・新羅戦争の続きだったのです。その戦争に勝利した新羅の皇子が、日本初の天皇である天武天皇です。天武天皇は、突厥進駐軍と花郎騎士団による明日香ヤマト残党軍に支援されていたので、672年、再び、明日香ヤマトの浄御原宮に都を興したのです。しかし、近畿一帯は、東アジアの影響を受けていて政情不安であったのです。それは、サラセン帝国の台頭により、642年ササン朝ペルシャが滅亡し、ペルシャの王族や貴族達が、大挙して唐帝国に亡命してきていたからです。」
「ナベさんの説では、645年唐進駐軍が、明日香ヤマトを滅ぼした、と言うのですよね。その唐進駐軍は、その後どうなっていたのですか。」
「その当時、唐帝国の国内が混乱していたのです。そのため、遠方の日本列島の経営を一時棚上げして、軍団を唐帝国に呼び戻していたのです。」
「そのタイミングを見て、明日香ヤマト残党軍が蜂起したわけですね。」
「そのような情勢の明日香ヤマトの天武天皇は、唐進駐軍が再び攻撃してくるのを予測して、684年天武天皇は、都を、明日香ヤマトから信濃に移動する計画を立てていたのです。」
「何故、信濃なのですか。」
「信濃の都は、諏訪です。その諏訪は、713年以降の地名です。それ以前の地名は、トルファンで、騎馬民族が暮らしていたのです。」
「そう言えば、以前、ナベさんと、信濃のわさび農園にある八面大王の古墳の話をしましたよね。」
「その八面大王が、797年鎮守府将軍となった坂上田村麻呂に敗れるのが、平安時代初期です。それまでは、信濃の諏訪には、騎馬民族とアズミ族が暮らしていたと推測されます。その諏訪から北上すると、糸魚川にたどり着きます。その糸魚川流域では、翡翠が産出され、縄文時代から海洋民族により中国に輸出されていたのです。」
「そう言えば、諏訪神社には、不思議が多くありましたよね。神社に、本殿がなく、そこには空き地があり、神山を拝する拝殿所から、神山が見えなかったり、そして、古代では鹿の生首を奉納していたのですよね。更に、アズミ族の日本海沿岸巨木文化を伝える御柱祭りもありますね。」
「鹿は、騎馬民族スキタイの聖獣です。その鹿の生首を神に捧げることは、騎馬民族の儀式で、農耕民族の儀式ではありません。」
「すると、信濃の諏訪には、古代から平安時代初期まで、海洋民族と騎馬民族が暮らしていたと言えるわけですね。」
「そのような歴史背景のある信濃に、天武天皇が、明日香ヤマトから都を移そうと考えたのは、そこはまだ、騎馬民族の支配地だったことが示唆されます。」
「すると、百済系女帝持統天皇により、大津皇子事件で処罰された二人のうちの、もう一方の新羅沙門行心にも、流罪にする訳があったのですね。」
「新羅沙門行心とは、その名が示すように、新羅から渡来した者です。その本名は、新羅王姓と同じ金姓です。礪杵道作が道路建設技術関係者だったのに対して、新羅沙門行心は地形測量技師であったのです。その頃の地形測量技師とは、算歴術、天文術、方位術などがごちゃ混ぜの呪術師であったのです。」
「すると、その二人は、天武天皇が計画していた、明日香ヤマトから信濃への遷都に大いに関係しますよね。と言うことは、信濃遷都を可能にする技術者である礪杵道作と新羅沙門行心を、新羅系大津皇子と供に抹殺してしまえば、百済系女帝持統天皇の天下となるわけですね。」
「百済系女帝持統天皇は、頻繁に吉野行幸をおこなっていたことは、よく知られています。その吉野には、藤原氏の南海国際交易センターがあったところです。その女帝持統天皇の大津皇子事件での行動の裏には、藤原不比等の存在があったのです。」
「その藤原不比等は、唐帝国のエージェントであった、のですよね。」
「近畿一帯で、百済・新羅戦争があった4年後、676年朝鮮半島では、新羅軍団が唐進駐軍を朝鮮半島から追い出し、統一新羅を興したのです。新羅の皇子であった天武天皇の王朝設立と、統一新羅の建国は、ほぼ同時であったのです。このように東アジアの警察国としていた唐帝国が、朝鮮半島や日本列島で軍事的に劣勢になっていたのは、唐帝国の西隣の吐蕃や北辺の騎馬民族が、西アジアの図版を広げるサラセン帝国の膨張により、唐帝国の両方向の国境を侵していたため、その防衛のために、朝鮮半島や日本列島から唐軍団を引き上げていたからです。そのように唐帝国の国内が混乱していた時期、第三代皇帝高宗の皇后武氏が、漢訳仏教組織と結託して勢力を伸ばしていたのです。」
「漢訳仏教は、仏の道を広める組織ですよね。何故、皇后武氏は、漢訳仏教と結託したのですか。」
「古代の宗教施設は、現代のテレビ会社や新聞社のような機能を果たしていたのです。つまり、プロパガンダの道具です。」
「漢訳仏教組織がプロパガンですか。プロパガンタって、1517年神聖ローマ帝国での宗教改革で、カトリック側から発せられた「ヤジ言葉」ですよね。プロテスタントのマルチンルターが、ローマ・カトリックの腐敗に対して、95か条の質問状を出して、民衆による宗教改革の布教行動に対して、ローマ・カトリックが、「プロパガンダ」、つまり、「プロテスタントによるウソの布教」、と言ったことが語源ですよね。」
「そうです。皇后武氏を女帝にするため、漢訳仏教組織は、吉祥を利用したのです。」
「吉祥って、何ですか。」
「喜ばしい出来事のことです。漢訳仏教でのプロパガンダとしては、珍しいカメとかネズミ、コウモリなどが利用されます。その喜ばしい動物は、大抵、白い動物です。」
「白い動物と言えば、アルビノですね。」
「そうです。染色体異常により、色素が脱落している動物です。自然界では、珍しい動物です。そのアルビノの動物を、漢訳仏教は吉祥として、唐帝国の皇后武氏を女帝則天武后にするために、プロパガンダとして利用したのです。そして、このアルビノ動物を使うブロパガンタ戦術が、日本国の天武天皇の皇后を、女帝持統天皇にするために応用されていたのです。同じようなプロパガンタ戦術が、唐帝国と日本国で、ほぼ同時に行われていたことを、カメさん、どう思いますか。」
「そのアルビノ、日本ではどのように使われたのですか。」
「694年飛騨国から、白いコウモリが女帝持統天皇に献上されるのです。そのことにより、この年12月に女帝持統天皇は、藤原京に遷都するのです。この女帝持統天皇の時代、唐帝国を乗っ取った女帝則天武后との連動が示唆されるのです。」
「どのようなことですか。」
「唐帝国には、儒教、仏教、道教などが勢力を張っていたのです。皇后武氏は、その内の仏教と接近したのです。騎馬民族出自の唐帝国貴族は、仏教を避け、儒教や道教を保護していたのです。しかし、皇后武氏は、仏教寺院を全国に建てさせ、仏教組織のプロパガンダを使い、多くの吉祥により、女帝誕生を画策させたのです。その結果、690年皇后武氏は、女帝則天武后となり、唐の国号を周に替えてしまうのです。その当時の暦は、儀鳳暦だったのです。この女帝則天武后が支配する周帝国の暦が、日本国の女帝持統天皇の、690年から、中国南朝で445年から509年まで使われていた元嘉暦と平行して、儀鳳暦が使われ始まるのです。」
「日本の暦の始まりが、中国の暦と同じなのですか。先ほどの、ナベさんの質問と合わて考えると、女帝持統天皇は、女帝則天武后のコピーのように感じますが。」
「コピーですか、おもしろい表現ですね。女帝則天武后が出現した8年前、682年騎馬民族の東突厥帝国が復興したのです。その結果、唐帝国の北の国境では、再び、唐帝国軍と東突厥帝国軍との戦闘が始まっていたのです。この影響は、当然、騎馬民族系天武天皇が支配している明日香ヤマトにも波及していたのです。そのような時期、明日香ヤマトを支配していた天武天皇は、唐軍団が日本列島に再び侵攻して来ると考え、明日香ヤマトから信濃への遷都を計画していたのです。しかし、その計画の2年後、686年天武天皇は死去し、百済系女帝持統天皇が即位したのです。その女帝持統天皇を、裏でコントロールしていたのが、唐帝国(周)のエージェントの藤原氏であったのです。女帝則天武后は、女帝持統天皇をコピーとして、日本経営を計画していたのです。」
「そのような史観で、奈良時代を見てみると、藤原日本史の闇の歴史が現れてくる予感がします。特に、遣唐使の意味が、藤原日本史と異なる解釈となりますよね。」
「藤原日本史では、遣唐使は、日本から唐への留学僧を送り込み、その帰りに唐文化を輸入した、と述べています。しかし、それだけではないのです。718年遣唐使帰国船で帰朝した留学僧道慈は、完成まじかの「日本書記」に細工を施すのです。その細工とは、仏教が公伝したことを、552年とするため、義浄新訳「金光明最勝王経」にある文章を利用して、蘇我稲目と欽明天皇との会話物語を創作して、「日本書記」に挿入するのです。この会話の素材が飛鳥時代のものではないことは、新羅にも「金光明最勝王経」がもたらされたのは、704年だからです。」
「すると、藤原日本史で云う、仏教公伝552年は、ウソですか。」
「勿論、ウソです。日本列島に仏教が伝来した時期は不明です。それは、儒教、仏教、道教が、それぞれの宗教的有利点を取り入れたことにより思想や儀式が重層し、それぞれの宗教思想や儀式が分離されるのは、それほど古くはなかったからです。古代では、それらの宗教の違いを知ることは非常に困難だったのです。道教が、経典を持って独立するのは、女帝則天武后が死去してからです。」
「では、仏教が日本に公伝したことはないのですか。」
「仏教が、日本で勢力を増すのは、729年道教である鬼道をする長屋王が、藤原氏により謀殺されてからです。つまり、「日本仏教史」は、その長屋王の死から始まったと考えています。それと同時に、伊勢神宮と神祇官人の中臣朝臣氏との結びつきが深められていったのです。」
「それって、どういう意味ですか。仏教と中臣神道とは、異なる宗教ですよね。」
「伊勢神宮は、それ以前は、中臣朝臣氏ではないひと達に、異なる神が祀られていた、ということです。外宮と内宮の始まりです。そして、日本仏教も、ここから始まったようです。女帝持統天皇を傀儡として日本列島を経営することを画策した、女帝則天武后は、705年死去してしまうのです。その結果、女帝則天武后に寵愛を受けていた、儒教・道教の敵、仏教はその立場を失い、日本列島に亡命したことが推測されます。」
「ナベさんは、仏教が日本に伝来したのは、552年ではなく、奈良時代初期だというのですか。」
「そのように考えています。女帝則天武后の周帝国で権勢を張っていた仏教は、その後ろ盾を失って、北魏の仏教弾圧の時と同じように、国外に新天地を求めたと考えられます。そのひとつが、日本列島で、その唐(周)のエージェントであった藤原氏と結託したと考えています。道教の神太一(北極星)を伊勢の道観で祀った祖父天武天皇と同じに、神仙思想の道教を崇める長屋王の謀殺後、藤原氏に支配された国司は、各国の天神・地祇を祀る責任を担い、それに伴い、古来から先住民により祀られていた山川の神も必要に応じて、その枠内に取り込まれていったのです。そして、藤原氏が支配する中臣朝臣氏を中心として、皇祖神を祀る伊勢神宮を頂点として日本の神々の帳簿である「神帳」が作成されることにより、ここに「日本神社史」の基が築かれていくのです。」
「すると、伊勢神宮が、藤原氏により支配されたのは、奈良時代ということですね。それで、道鏡事件の時、神託を、伊勢神宮ではなく、宇佐八幡宮に聞きに行った意味が分かりました。藤原日本史では、神代の昔から伊勢神宮が存在していたように描写していますが、史実は、飛鳥時代の歴史は、藤原氏により奈良時代に創作されていたのですね。」
「そうです。カメさん、私のレポート読んでくれましたよね。そのような史観で、レポートを、再び読んでみて下さい。奈良時代の闇の日本史が現れると思います。」
「ナベさんから奈良時代の講義をうけたので、レポートの全ての疑問が解消しました。奈良時代を幻視してみます。幻視レポートお送りします。今夜もありがとうございました。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」

パソコンを閉じた。チャットに夢中になっていたので、急にのどの渇きを感じた。オレは、冷えきった紅茶を飲みながら、再びパソコンを開き、チャットの履歴をたどっていた。今日は、とうぶん眠れそうもない。

消え行く明日香ヤマトの奈良時代


オレは、パソコンの前で眠りこけていたようだ。窓の外がうっすらと白じんでいた。窓を開けると、東の空が薄紫色に弧を描いていた。久しぶりに、日の出の太陽でも拝もうと、外に出た。夏の夜明け前、ひんやりとした川風を受けながら荒川の土手を少し歩くと、赤水門に到着した。
東の空は、ある一点を中心に弧を描いて、空の色が紫色からオレンジ色へと刻々と変化していった。やがて、その一点が照り輝くと、強い光が目を射した。オレは、仏教徒でもないのに、思わず手を合わせていた。手を合わせる動作が、いつの時代から仏教作法と言われるようになったのか。仏教では、太陽ではなく、仏を祀るのに、オレは仏教作法と言われる合掌をしている。不思議だ。
朝陽を浴びたオレは、ふと考えた。
太陽は、万人の神として、古来から祀られていたことは、朝陽を浴びれば理解できる。貴賎・老若男女・民族を問わず、宗教者という介在者も必要なく直接、あまねく光の祝福を与えるからだ。そして、万人の身心を活性化させるからだ。太陽光線の温かさが、身体だけではなく、こころにも到達する。その朝陽は、力強さを感じる。だから、世界的に、太陽は父のイメージで、男神となる。しかし、藤原日本史で登場する、太陽神のアマテラスオオミカミは、女神だ。これはどうしたことだ。女神であることは、奈良時代に藤原氏が創作した「日本書記」の神話物語で、アマテラスオオミカミは、スサノウの姉となっているからだ。
その「日本書記」の神話物語で疑問がある。アマテラスオオミカミが天磐屋に隠れた時、その天磐戸の前で、女の裸踊りでおびき出す場面がある。女神は、男神と同じに、女の裸踊りに興味を持つのか。睡眠不足の前頭葉は、その疑問の答えを探しているようだが、思考は空回りだ。急に空腹を感じた。家に戻って朝食したら、その答えを探すため、田辺さんの昨夜の奈良時代の講義の復習だ。そして、奈良時代を幻視だ。

ここは東ユーラシアのようだ。騎馬民族が集結している。630年ユーラシアを支配していた東突厥帝国は、唐帝国軍団により散逸されていた。その40年後、朝鮮半島で百済、高句麗を壊滅後、軍事力が消耗した唐帝国の軍事力をみた、ユーラシアの草原に散逸していた騎馬民族は、再び、集結しているのだ。
その東ユーラシアに再集結した騎馬民族の一団が、日本海を渡海して、唐進駐軍から明日香ヤマトを奪回するため、日本列島の秋田や越前に上陸している。日本列島でも、本国に主力部隊を引き上げていた唐進駐軍の軍事力をみた、645年明日香ヤマトを追われ、近隣の山奥に逃れていた明日香ヤマト残党も、再び、吉野の山奥に集結していた。
663年百済が唐・新羅連合軍により壊滅したため、亡命百済貴族により、琵琶湖南端に砦が築かれていた。亡命百済王朝も、日本列島に基盤を築くために、古来からあった日本列島各地の百済コロニーからひとを集めている。
朝鮮半島を支配した唐帝国軍団の一部は、その近江に集結した亡命百済王朝を倒すべく、2、000名の軍団を北九州に上陸させいてる。しかし、吉野を中心に、再集結していた明日香ヤマト残党軍により、北九州からの東進を阻止され身動きできないでいる。
吉野の山奥に集結していた軍団は、三方に分かれて出陣している。それらは、難波、山前(やまさき)、尾張方面だ。更に、ユーラシア大陸から東北に渡来した突厥軍団は、北陸道、東山道、東海道の古墳時代に築いた軍事道路からも近江を目指して進撃している。
亡命百済王朝の支配地である近江の砦も、難波の砦も、突厥軍団に軍事支援された明日香ヤマト残党軍団により、瞬く間に壊滅された。その亡命百済王朝の皇子は、明日香ヤマト残党軍の前で、斬首され、敗残兵は奴隷として、突厥軍団の支配地に連行されて行く。亡命百済貴族は、百済が仏教文化だったため、漢字に熟達していたからだ。中国大陸との国際交易を望む騎馬民族突厥は、海洋国際交易民族のフェニキアが発明したアルファベットから派生した突厥語を使っていたので、漢字に熟達した者を必要としていた。
明日香ヤマト残党軍の本隊は、元の都である明日香ヤマトに到着すると、新羅の皇子を、騎馬民族の王の意味である天子(テングリ)とし、呼称を「天皇」とした。
その明日香ヤマトの都は、唐進駐軍により廃墟となっていた。丘の上の突厥進駐軍の司令部は焼け爛れ、明日香川を挟んで、都の入り口に立てられていた砦も破壊されていた。しかし、南側の丘陵にある巨大方墳は健在だった。そして、奈良盆地の北側にあった花郎騎士団の拠点、イカルガの太陽神を祀ったミトラの都も廃墟となっていた。その奈良盆地には、仏寺も神社(モリ)の存在も認められなかった。
676年統一新羅は、統一新羅の王子等を明日香ヤマトに派遣してきた。明日香ヤマト軍団の花郎騎士団は、元古代新羅の部族で、統一新羅と同族であったからだ。明日香ヤマト王朝は、統一新羅からの情報により、唐帝国が日本列島の資源の略奪を計画していることを知り、九州に駐留する唐帝国2000の軍団が、明日香ヤマトに進撃してくることを予測し、都を、ユーラシア大陸との交易中継地である信濃に移動する計画を立てていた。
この頃、唐帝国は、三代目皇帝高宗の健康がすぐれず、皇后武氏の暗躍により、国内が混乱していた。その虚を着いて、ユーラシアに集結していた騎馬民族突厥は、682年東突厥帝国を復興していた。その2年後、皇帝高宗が死去したため、唐帝国を乗っ取ることを策謀していた皇后武氏は、騎馬民族出自の貴族達に保護を受けていた儒教、道教に対し、騎馬民族出自の貴族達に避けられていた仏教を保護した。
皇后武氏は、仏教寺院を唐帝国の全土に建てさせ、各地の仏寺をプロパガンダの拠点とし、皇后武氏を、唐帝国の女帝とする運動を起こすため、各地に命令し、アルビノ(白色)の動物を集めさせていた。そのアルビノ動物を吉祥とし、仏寺で広告・宣伝をした結果、690年皇后武氏は、唐帝国の女帝則天武后として即位すると、国号を「唐」から「周」に替えてしまう。
686年明日香ヤマトの天皇が崩御した。騎馬民族の統治制度は、実力者が天命により天子(テングリ)となる。実力は武闘により決まる。明日香ヤマトは、天子を決めるために混乱を生じる手前だ。しかし、騎馬民族では、夫人が王の後を継ぐ。それが、百済の血が流れる女帝だ。
祭祀者として、吉野を拠点として、南インドからの国際交易をおこなっていたナーガ族は、その明日香ヤマトの女帝に接近した。ナーガ族の日本列島の拠点は、南九州坊津だ。その坊津には、中国人町があるように、唐帝国との繋がりがあった。ナーガ族は、唐帝国から周帝国となった女帝則天武后のエージェントとして、明日香ヤマトの女帝を傀儡として、明日香ヤマト王朝に溶け込んで行く。
明日香ヤマトの男王が崩御してしまったが、近畿一帯を支配する騎馬民族軍団は健在だ。その軍団は、ユーラシアを支配する東突厥帝国に軍事支援されている。女帝則天武后の周帝国は、北辺を侵略する東突厥帝国の壊滅を目指しているので、日本列島まで、大軍団を送り込む余裕がない。そのために、祭祀者のナーガ族をエージェントとし、明日香ヤマトの女帝を傀儡として、間接支配を計画した。その手始めが、周帝国と同じ暦である儀鳳暦を明日香ヤマト朝廷に採用させることだ。そして、軍事要塞化している明日香ヤマトから、軍事力と統治機能を移すために、周帝国の女帝則天武后はナーガ族の祭祀者を通し、都の遷都を明日香ヤマトの女帝に命じた。

オレが幻視したのは、唐・新羅連合軍が、663年百済、668年高句麗を滅ぼした頃から、694年藤原京遷都前年までのようだ。
田辺さんの史観では、明日香ヤマトと飛鳥大和を地域・年代で区別していた。明日香ヤマトとは、「突厥進駐軍と花郎騎士団」が支配する地域・時代だ。それに対して、飛鳥大和とは、「唐進駐軍と藤原氏」が支配する地域・時代だ。
645年以降、672年までは、近畿一帯は飛鳥大和王朝が支配していた。しかし、飛鳥大和の母国唐帝国が、遊牧民族吐蕃などの周辺諸国からの侵略を受けていたため、日本列島の経営から一時、唐進駐軍の本隊を母国に引き上げたため、近畿一帯の飛鳥大和の軍事統治が緩んだ。その間隙を縫って、近畿一帯の山奥に潜んでいた明日香ヤマト残党軍が、ユーラシアの母国突厥軍団の軍事支援を得て、近江の亡命百済王朝を倒し、そして、飛鳥大和の唐残留軍を壊滅し、飛鳥大和の地を奪還し、再び、明日香ヤマトとした。
しかし、その530年から645年以前の明日香ヤマト時代の、オリエント文化が花咲いていた地は、荒れ果てていた。都の南端にあったガラス工場、鉄器製造工場、鏡製造工場、製薬工場、富本銭製造工場など、そして、都の中央にあった噴水のある石組み庭園も徹底的に破壊されていた。わずかに、石像や破壊し切れなかった巨大石塊が残っていた。
唐帝国が間接支配する奈良時代に、それらのオリエント文化の明日香ヤマト時代を歴史的に隠蔽するために、唐(周)帝国のエージェントの藤原不比等は、720年「日本書記」を創作し、オリエント文化の噴水を仏教の須弥山とし、そして、都の入り口の突厥進駐軍の砦跡に588年飛鳥寺(法興寺)、河内のローラン港(浪速→難波)の交易施設跡に593年難波四天王寺、山背国(後に山城国)の太陽神ミトラを祀る景教寺の跡に603年蜂岡寺、イカルガの花郎騎士団の神ミトラを祀る景教寺の跡に607年法隆寺、山背国の秦氏の神ミトラを祀る景教寺の跡に669年山階寺などの仏寺を建立した、とする物語を創作した。
奈良時代になってからの、それらの藤原不比等による明日香ヤマトの隠ぺい工作は、その後の施設の動向で分かる。
藤原日本史で云う飛鳥時代、つまり、古墳時代には仏教は伝来していない。552年仏教伝来は、歴史的に不明だからだ。よって、古墳時代に須弥山などの仏教思想による噴水など、石組み庭園に造ることはない。
飛鳥寺は、蘇我氏の氏寺で、仏像を飛鳥に置いたまま、建物だけが平城京に移築され元興寺となった、と日本仏教史は云う。仏寺は、仏像を安置する施設ではなかったのか。
難波の四天王寺は、聖徳太子が建立したことになっているが、聖徳太子は平安時代に「聖書」に登場するモーセ、ダビデ、キリスト像を合成した架空の人物。
蜂岡寺は、弥勒菩薩を安置する広隆寺となった。しかし、弥勒とは、太陽神ミトラを仏に改竄したもの。
法隆寺は、607年聖徳太子が建立したことになっている。その法隆寺は、670年炎上してしまった。しかし、その法隆寺境内から発掘された遺跡は、太陽神を祀るミトラ教寺院を示す、南北軸から西に約20度傾いている。イカルガの都は、ミトラ神の都を示す軸により建設されていた。イカルガとは、日の光の都(景)の意味だ。
山階寺は、厩坂寺となった後、平城京に移築され、藤原氏の氏寺である興福寺となった。
藤原氏が、建物の出自や歴史を隠蔽・改竄するテクニックは、移転だ。何回かの移転により、マネーロンダリングと同じに、前歴史を隠蔽・改竄する。藤原氏の神を祀る春日大社も、この移転テクニックにより、古墳時代ではなく、奈良時代に出現した。以上のことを考えれば、古墳時代の明日香ヤマトが、仏教文化の花が咲いていた地、であったはずはない。
当時の明日香ヤマトの一帯は、湿地帯だった。大建築物を建てられる平地は、限られていた。「万葉集」に壬申の乱(672年)が平定されたあとの歌がある。その歌とは、「大君は神にし座せば赤駒の匍匐ふ田井を都となしつ」、「大君は神にし座せば水鳥の多集く水沼を都となしつ」、とある。その歌の内容から推測すれば、赤駒の馬が腹這う湿地帯や水鳥が多く集まる沼があったのが、日本初の天皇が都とした明日香ヤマト一帯の地だった。
その地に、騎馬民族に支援された天子(テングリ)が、近江の亡命百済王朝を壊滅後、都を定めた。騎馬民族は、中国大陸でも、儒教や道教は保護しても、仏教を保護するどころか弾圧をしていた時代もあった。それは、農耕民族が多く暮らす中国で発明された漢訳仏教思想には、騎馬民族の肉食の風習を否定する、血の禁忌・殺生禁止があるからだ。では、漢訳仏教は、どのようにして、騎馬民族の突厥語を日本語文法とする日本列島に浸透していったのか。
再興明日香ヤマトの時代は短かった。日本初の天皇が、686年崩御したからだ。その日本初の天皇は、日本初の賭博をおこなった天皇でもある。この賭博により、漢訳仏教の布教手段が示唆される。
「日本書記」天武天皇14年条に、「天皇が大安殿に王卿たちをよびあつめて双六のような博戯をさせた。」、そして、「天皇が大安殿に出て諸王卿を召して宴をした。」、とある。大安殿は、「おおあんどの」と呼ばれる殿舎で、公的な業務をおこなう大極殿とは異なる。
公的業務をおこなう大極殿とは、「史記」によれば「信宮を極廟と改名したが、それは天極にかたどってつくられたからだ。」とあるように、北極星である太一を祀る廟だ。日本初の天武天皇は、突厥の騎馬民族により担がれていたので、当然、騎馬民族が祀る北極星(太一)を崇拝していた。その騎馬民族の神を祀る大極殿と、賭博や宴会をおこなう大安殿とが、同じ施設ではないことは分かる。では、賭博や宴会をおこなう大安殿とは何か。
考えられるのが、女帝則天武后の周帝国で流行っていた内道場だ。内道場は、北魏の時代に発明された、漢訳仏教の特殊修行場のことだ。僧が修行する仏寺と違うところは、外出が出来ない皇后や貴婦人が私邸内で仏教修行ができる、邸内の施設から隔離された密封された私的空間だ。そこで有髪の皇后や貴夫人が、僧侶と仏教修行をすると言うわけだ。
唐帝国では、この内道場が、多くの貴族の邸内に建てられていた。皇后武氏は、この内道場に入り浸りだったようだ。
686年天武天皇が崩御すると、皇后は、称制の時代から女帝の時代の間に、吉野に31回も行幸していると、「日本書記」にはあるが、「吉野宮に幸す」とあるだけで、その理由が述べられていない。明日香ヤマトの都から吉野までの距離は約20kmで、1日で行ける距離だ。その吉野宮での女帝の滞在は、7日から10日だ。そこで女帝は、「何」をしていたのか。女帝持統天皇の吉野行きは、謎の行動だった。
女帝持統天皇は、祭祀者藤原氏にコントロールされた、周帝国の女帝則天武后のコピーだ。その品性が卑しい女帝則天武后が足繁く通う内道場が、女性に魅力的な施設であったことは、未婚の年増の女帝孝謙天皇が、内道場で道鏡により仏教個人修業をうけていたことにより理解できる。更に、聖武天皇の実母が長い間こころの病であったのが、僧玄ムによる内道場での仏教修行により全快したことでも、内道場が、身もこころも寂しい貴婦人に魅力的な施設であったことがわかる。
これらのことから、漢訳仏教は、この内道場を足がかりに、貴族社会に受け入れられていったことが示唆される。その内道場を仕切るのが、祭祀者藤原氏だ。女帝持統天皇は、都を移す命令を受けた。その都の名は、藤原京。

明日香ヤマトの男王が崩御すると、朝廷軍団は二分したように、一部の軍団が東国に向けて出発している。信濃を目指しているようだ。それは、北九州に駐留していた2000名の唐帝国軍団が、巨大軍艦の楼船により、移動を始めた情報が、駅令により明日香ヤマトに伝達されてきたからだ。
645年唐進駐軍は、河内に上陸ではなく、紀伊半島南端に上陸して、熊野古道を北進して、明日香ヤマトの軍事都市を南側から攻撃した。その明日香ヤマトの守備は、北側の岡の砦と、明日香川を挟んだ砦とで防御する計画であった。南側は、山々により防御され敵軍は攻撃してこないと考えていたからだ。しかし、南側の岡が唐進駐軍に制圧された。南北約2km東西800mの要塞都市は、唐進駐軍団の弩(おおゆみ)の射程範囲内だった。
騎馬民族の戦い方は、広い草原では有効であるが、狭い盆地では不利だ。ヒッテンドランの騎射ができないからだ。騎馬民族が、日本列島の西国に拠点を設けなかったのは、東国と異なり、騎馬の戦いが有利な広い草原がないからだ。
生前の天武天皇は、北九州に駐留する唐帝国軍の明日香ヤマトへの進撃を予想して、都を信濃に移す計画を立て、三野王達を視察に行かせていた。そして、天武天皇崩御後、騎馬民族の武将に人気のあった息子の大津皇子も、信濃に移動することを計画していたが、藤原氏の暗躍により、無実の罪を負わされて、謀殺されていた。明日香ヤマト王朝は、百済の血が流れる皇后を支配者とした。その皇后は、藤原氏の国際交易センターがある吉野の内道場のある宮に足繁く通っている。
新しい都は、明日香ヤマトの軍事都市を北側から塞ぐように、北側の耳成山、東側の天香具山、西側の畝傍山に囲まれた三角地の中心に宮を置くように設計されいる。そして、中心の宮は、高さ5mの土塁で囲まれている。これは、どう考えても軍事都市だ。この都が、唐帝国の指令を全て受けいれて計画されていないことは、宮が、北側ではなく、中央に置かれていることで分かる。この新都市のモデルは、新羅の都市だ。
この新しい未完成の都には、何かに急かされるように、多くの者が移動をおこなっている。この移動には、騎馬民族系と藤原氏の傀儡女帝持統天皇系の二派に分かれているようだ。この二つに分かれた流れの意味を知るには、時間を少し前に戻る必要があるようだ。

明日香ヤマトの男王、日本初の天武天皇は、同族が、676年朝鮮半島の支配者となると、明日香ヤマトと朝鮮半島との交易を始めていた。しかし、統一新羅と唐帝国は戦闘状態であった。当然、明日香ヤマトも、唐帝国とは敵対状態だった。そのため、唐軍団は、北九州と南九州坊津に駐留して、天武天皇の死を待っていた。唐帝国軍には、ある計画があった。
天武天皇が死去した。天皇には10人の皇子がいた。皇子達の没年は、687年大津皇子、689年草壁皇子、696年高市皇子、699年弓削皇子、705年刑部皇子、715年長皇子、715年穂積皇子、735年舎人皇子、735年新田部皇子、磯城皇子だ。この中で、没年が分からない皇子がいる。それは、磯城皇子。何故、没年が分からないのか。それは、「磯城」に謎がある。磯城皇子の「磯城」とは、「新羅」のことだ。つまり、磯城皇子とは、新羅皇子ということになる。
713年好字令が発令された以降、新羅は、天武天皇朝では遣新羅使を送っていたほど親新羅であったが、天武天皇の皇子が次々と消されて、唐帝国に貢物を贈る遣唐使が送られる平城京王朝では嫌新羅となっていた。そのため、奈良の都に百済寺はあっても、新羅寺はない。そして、日本列島に散在していた新羅コロニーの民は生き延びるため、その地名を、設楽、白木、白国、白子、白、志木、白髭、磯城などに替えていた。

690年突然歴史上に現れた人物がいる。その690年に周帝国の暦が、天武天皇死去の4年後に、女帝持統天皇の明日香ヤマトで使われている。その人物が、女帝持統天皇の前にいる。その男は朝廷で、女帝持統天皇の横に立ち、大群衆に向かって、突厥語、アラム語、ソグド語、ギリシャ語など、ユーラシア大陸で使われている言葉で、女帝が発する言葉を訳している。死去した天武天皇は、ユーラシア大陸から渡来した騎馬民族により支えられていた。騎馬民族は、他民族とは融合せず、同族同士で部族連合を形成する。そのため、部族連合国の騎馬民族王国では、末端の民族が使う言葉を統一することが困難だからだ。
女帝持統天皇の詔を聞いた群集は、新都に移ることに対して、明日香ヤマトに残る者もいれば、部族一団で去る者もいる。その後、女帝持統天皇は、その通訳の男と供に、伊勢、伊賀、尾張、美濃、参河に行幸している。それらの国は、新女帝持統天皇を受け入れたのだ。しかし、それ以外の東国は、東突厥帝国と敵対する周帝国の暦を採用した女帝持統天皇の明日香ヤマト朝廷と敵対状態になった。

このことを、720年に藤原氏により創作された「日本書記」のヤマトタケルの東征伝経路を「古事記」と、「日本書記」とで比べてみよう。
「日本書記」大和→伊勢→駿河→焼津→相模→上総→陸奥→日高見→常陸→甲斐→武蔵→上野→碓氷→信濃→尾張→近江→尾張→伊勢→能褒野で没。
「古事記」大和→伊勢→尾張→駿河→相模→足柄→甲斐→信濃→尾張→美濃→伊勢→能褒野で没。
二つの経路で気になるのは、「日高見」と「武蔵」だ。このヤマトタケルの東征は、4世紀から5世紀のことのようだ。それは、「日高見」とは、延喜式の祝詞に「四方の国中と大倭日高見国」とあるように、古代では筑波、茨城の郡地域のことだ。「日本書記」のヤマトタケルの東征経路では、日高見と常陸とは、別の地としている。何故だ。
そして、5世紀の武蔵は、さきたま古墳群の稲荷山古墳の剣に記されているように、シキ宮の王ワカタケルが支配していた。女帝持統天皇の時代では、平安時代に万葉語学者の秦氏末裔の多人長が、「日本書記」のウソ物語を否定するために著した「古事記」のヤマトタケル東征伝経路には記されていない、陸奥、常陸、武蔵、上野、碓氷までは、飛鳥大和朝廷の支配地ではなかったようだ。

明日香ヤマトから藤原京に都が移って6年後、唐の税制に倣った律令が発令される。その律令には、女帝持統天皇に寄り添うあの男の意図が含まれている。それは、唐の律令にはない、「神祗令」の挿入だ。その神祗令一に、「凡そ天神、地祗は神祗官、常の典によって祭れ」とし、「前件の諸祭、百官を神祗官に集め、中臣、祝詞を宣し、忌部、幣帛を班」、とする。その男は、その神祗令で何を企んでいるのか。
その男は、神祗令により、日本列島を乗っ取ることを考たようだ。それは、日本列島の人民を支配するために、最高権威である「現御神天皇」(あきつみかみ)を創り出そうとしている。
日本初の天武天皇は、「神」ではない。天武天皇は、「神」である北極星(太一)の命を訊いて、政をする。あくまでも、天武天皇は、北極星の命を地上で実現するための代理人だ。しかし、あの男が創り出す「現御神天皇」は、神そのものだ。その「現御神天皇」が、日本列島の諸国に散在する神々を支配するために、律令の中に唐令にもない「神祗令」を創設し、その地位を太政官に並べた。この奈良時代に発明された神が、千数百年後の明治革命での藤原氏の復活と供に「現人神」となって登場する。
あの男は、侵略した土地にある古墳を破壊し、その跡に神社(モリ)を建てている。そして、その神社(モリ)に、朝廷より勲位を授けている。世界のどのような国でも、ひとから、神に位を授けることはない。しかし、奈良時代から、日本国では、神の序列が発生した。勲位を授けるということは、授ける者と授けられる者との上下関係を生む。つまり、支配・被支配の関係だ。あの男とは、何者だ。

藤原日本史によれば、あの男藤原不比等は、内大臣藤原鎌足の次男で、659年(斉明5年)に生まれ、山科の田辺史大隈等に養われたため、「史」(ふひと)の名が付けられた、と云う。しかし、「大化改新」物語で突然登場する中臣鎌足(後に藤原鎌足)は、その「大化改新」物語が朝鮮半島の革命物語のコピーであるように、架空の人物なのだ。架空の人物の次男とするには、何かの謎が潜んでいるようだ。
藤原不比等は、幼少の頃、田辺史やその他の者に養われていたようだ。では、その田辺史とは、何者か。「新撰姓氏録」によれば、田辺史は左京諸蕃上、漢王の後、知惣より出づ、とあるように渡来人で、「史」とは通訳のことだ。藤原不比等が、女帝持統天皇の詔を各国語に翻訳することは、通訳家に養われていたことにより理解できる。では、その通訳一家は、何処から日本列島に渡来したのか。

オレの視界が藤原京から急速にズームアウトして行く。視界が急に異国の地を写した。ここは何処だ。丸い地球からズームインしていく時、記憶情報からそこがカスピ海であることが認識できたのは数秒もかからなかった。
そのカスピ海沿岸で戦闘がおこなわれている。東ローマ帝国軍とイスラム帝国軍が、対峙している。その戦闘地域には、国際交易国のハザール王国がある。ハザール王国の実態は不明だが、6世紀頃から中国と東ローマ帝国との絹馬交易の中継地として栄えていたようだ。国際交易商人は、国力を増すためには必要な者だ。東ローマ帝国もイスラム帝国も、無宗教のハザール王に自国の宗教に改宗することを強要していた。
国際交易をおこなうには、異宗教国に入り込むためには、強烈な個性がある宗教は不利だ。そこで、ハザール王は、キリスト教でもイスラームでもない、弱小宗教のユダヤ教に目を付けた。「旧約聖書」では、ユダヤ民族は、メソポタミヤのウルが発祥地とするように、セム族の有色人種だ。しかし、ハザール王国の民は、白系チュルク民族だ。ここに、白色系ユダヤ民族が誕生した。
ユダヤ教の民は、ローマ帝国に痛めつけられたため、その軍団も壊滅され、経典のみをこころのよりどころとして平和に暮らしていた。ただ、土地を所有することは制限されていたため、国際交易で生計を立てていたのは、ハザール王国の民と同じだ。ハザール王国の民は、異教徒の国々で交易をおこなうために、各国語を幼少の頃から学習させられていたため、何ヶ国語も話すことが出来た。
一世紀、ユダヤ教の民は、ローマ帝国に虐げられていたため、ユダヤ教ヨシュア派は、南インドに拠点を設けていた。その南インドでは、古来からギリシャやエジプトへ、孔雀の羽、猿、香料、染料のベンガル、真珠などを輸出していた。真珠は、東南アジアや日本列島の伊勢、志摩で採取されて、南インドへ国際交易商人により、外洋帆船で運ばれていた。その南インドから、東シナ海の黒潮に乗り、南九州坊津までに海路が、古来から開発されていた。
古来から、その南九州坊津には南インドから渡来した褐色の民族が多く暮らしていたが、7世紀になる頃、南インドから渡来した異民族の部落が坊津に出来ていた。その異民族部落の住民は、白色系だった。その白色系渡来民族の母国ハザール王国が、イスラム帝国に飲み込まれるのは時間の問題だった。そこで、ハザール王国の民が移住できる地を探す先遣隊が、「旧約聖書」を持って、南九州坊津に侵略拠点を構えた。その「旧約聖書」には、どのようにして異民族の歴史を乗っ取るかの方法が記されていた。その部落長のひとりが、あの男・藤原不比等だった。

新しい都・藤原京に遷都してから6年後、唐令を真似た大宝律令が発令された年、250人を乗せた二隻の船が周帝国(唐)に向けて出帆をしている。しかし、瀬戸内海までは順調だったが、九州沖で船にトラブルがあり、次の年に出帆した。この間に、大使の高橋朝臣笠間に替わり、副使の坂合部大分が大使に昇格している。
この二隻の船は、33年前と、規模も、船も、目的も、航路も異なっているようだ。今までは、朝鮮半島経由で唐帝国まで行っていたものが、今回は、南九州に南下して、島づたいで沖縄まで行き、そこから東シナ海を横断している。
その船には、日本列島の住民から大宝律令の税制で集めた、絹、米、海産物、翡翠、真珠などが満載されている。遣唐使とは、大和朝廷が文化国唐から、書籍など高度文化を摂取するための使節ではなかったのか。
不思議なのは、副使から昇格した大使坂合大分は、周帝国(唐)に留まって帰国船で帰らず、出帆から16年後の718年に帰国している。大使坂合大分は、周帝国(唐)の人質だったのか。
日本側の史料では、今回の遣唐使の意味が分からないので、周帝国(唐)側の史料「旧唐書・日本国伝」をみてみよう。そこには、「703年周の長安で、唐の冠を被った粟田朝臣真人を遣わして土地の産物を女帝則天武后に献上し、それに対して、女帝則天武后は粟田朝臣真人を麟徳殿に招いて宴し、司膳卿の官位を授けて本国に帰らせた。」、とある。この周帝国側の史料では、日本国の使者は周帝国の臣下となり、女帝則天武后に朝貢していたようだ。
この遣唐使船が、周帝国(唐)の文化を日本国の民のために輸入することを第一の目的としていないことは、第一船が、書籍を満載して704年に帰国していることで分かる。その当時、日本国の民は、漢文が読めたのか。「万葉集」の歌でも分かるように、万葉語と言われる漢字アルファベットを使用していたのではないか。では、その周帝国(唐)から輸入された漢文の書籍は、誰を対象に輸入されたのか。それは、日本列島に渡来した漢字文化の民族のためのものだ。唐進駐軍と供に渡来した、日本国の民を「租庸調の唐令」(大宝律令)で管理するための唐の官人のためだった。
遣唐使船の主目的が、周文化の輸入ではないことは、帰国船の第二船が、707年4月に帰国していることで分かる。日本側の史料では、第二船の帰国が遅れた原因を、暴風雨に遭遇し、ベトナムまで漂流したと説明しているが、こうして東南アジアを俯瞰して眺めると、その第二船は、マカオに到着し、そこで、乗船していた周帝国の官人や武人を下船させ、替わりに、南インドからの香木などの荷や白色系民族を乗せている。
マカオは、南インドと南九州坊津を結ぶ南海交易路の中継港だ。このことは、第七回遣唐使船の帰国船が「ベトナムに漂着した」ように、その後の遣唐使船の帰国船が「ベトナム」(マカオ)に度々「漂着」して、南九州に到着していることで分かる。この遣唐使船を管理・運営しているのは、藤原氏だ。

オレには見える、690年唐の暦である儀鳳暦と供に、明日香ヤマトの政界に現れた藤原不比等の計画が。

赤髪、碧眼、高鼻、背高、白肌で白衣を身に着けた祭祀者は、天武天皇が崩御すると、南インドから渡来した民族の国際交易センターがある吉野へ度々訪問していた皇后が、喪の儀式を2年間もおこない時間稼ぎをしている間に、皇后の前に現れた。
絹生産地として日本列島の経営を企む周帝国のエージェントであったが、その祭祀者には別の計画があった。それは、日本列島を乗っ取り、遥か彼方の母国ハザールの同胞を移住させることだ。そのための戦略と戦術は、「旧約聖書」の中に述べてある。
「旧約聖書」では、太陽神を祀る先住民族の歴史を乗っ取るために、その先住民族の父としてヤコブなる人物を創作して、先住民族をその息子ヨセフとしている。そして、周辺民族の歴史を調べ上げ、その史料を基に神話物語「創世記」を創作して、その物語に登場する創作人物達の出自を消す。そして、絶対神ヤハヴェを古代エジプトの太陽神アトンを租借して創造し、その唯一神の代理人モーセ(アマテラスオオミカミ)の僕となり、祭祀者ザドク一派(藤原氏)が、「神」(現御神天皇)の言葉を「不改常典」の呪文とし、臣民(日本列島先住民)を呪縛することだ。
この人間を神にする戦術は、5世紀の東ローマ帝国で、「人間キリスト」を「神の子キリスト」に変身させていた。その神の子キリストにより語られたとする言葉は、すべてのひとを、一部の祭祀者を除いて、呪縛した。その神の出現により、平和も戦争も、神の思し召しとなってしまった。

その日本列島支配を企む祭祀者は、朝鮮半島の革命物語を基に「大化改新」物語を創作し、祭祀者の父である中臣鎌足(後に藤原鎌足)を創造した。そして、高天原の神話物語を創作して、先住民が祀る太陽神ミトラを、女神アマテラスオオミカミとして登場させた。その女神アマテラスオオミカミの再来として、皇后を絶対神「現御神」(明治革命で現人神となる)の位置まで高めた。そして、神となった女帝から、「不改常典」の詔を発せさせることにより、日本列島の政をコントロールすることを考えた。
そこで、アマテラスオオミカミの別名をオオヒルメムチとし、皇后から女帝となった和名を、高天原広野姫とした。「ヒルメ」と「広野」とは同じ「言葉」だ。アマテラスオオミカミと女帝をオーバーラップさせる戦術は、藤原の女を天皇に娶らさせ、その孫を天皇として即位させ、コントロールすることを考えていたからだ。
そこで、その祭祀者は、神話物語を創作し、アマテラスオオミカミが孫であるニニギノ命に譲位する物語を神話物語に挿入した。そして、「不改常典」の呪文により、女帝は、孫に譲位した。つまり、高天原→アマテラスオオミカミ→ニニギノ命(孫)の神話物語の流れが、高天原広野姫である女帝持統天皇→文武天皇(孫)となって実現した。女帝の息子草壁皇子を抜かしたのは、道教の神である北極星(太一)の命を受けて日本国初の天皇となった、新羅系天武天皇の血の流れを絶つことを考えたからだ。それは、天帝(太一・北極星)により皇族となった天武天皇の10人の皇子を抹殺しなければ、古墳時代に祀られていた道教の神を抹殺することができないからだ。

絶対神を創るには、先住民の神、道教とミトラ教の神を、抹殺か、改竄する必要がある。7世紀後期まで、日本列島は古墳で死者を祀る民族の時代だったからだ。日本列島乗っ取りを図る祭祀者が祀る神は、死者を「ケガレ」とし、御祓いによりケガレを清める、古墳埋葬思想と正反対の思想を持つ。
そのため、日本列島を乗っ取ることを考えているその祭祀者は、東ローマ帝国でキリスト教が、ミトラ教を歴史上から抹殺した戦術を採用した。それは、日本列島全土にある古墳や道教の観を徹底的に破壊して、その跡に、新しい宗教施設「神社」(モリ)を建てることだ。しかし、先住民の神を祀る古墳や観を破壊することは、先住民の抵抗が予想され、武力で先住民を駆逐できない場合もある。そこで、時を待つ戦術をおこなう。それは、三代、百年もすると風俗習慣が消滅する、「待ち」の戦術だ。
しかし、その祭祀者には、時間がなかった。イスラム帝国は、ユダヤ教に改宗したハザール王国への侵略を始めていたからだ。急いで、同胞の移住地を確保しなければならない。

遣唐使帰国船の第二船に乗船していた周帝国の官人や武人は、マカオで下船させたため、日本列島には上陸できなかった。しかし、704年帰朝した第一船には、周帝国の命令を受け、日本列島経営のための官人や武人が乗船していた。藤原京の砦に入ると、それらの周帝国の官人や武人は、東北侵略のために準備を始めた。
近畿一帯の平野は、藤原京の砦からの出陣で、明日香ヤマト残党軍の多くは駆逐されて、周帝国進駐軍の支配地となり、唐令を真似た大宝律令により、その人民は隷属していた。その支配にまつろわぬ者の多くは、突厥進駐軍の本管がある陸奥国を目指した。

690年唐帝国を漢訳仏教組織と連帯して乗っ取り、周帝国の女帝則天武后となった武氏は、絹を多く産出する日本列島を周の支配下で経営するために、女帝持統天皇の朝廷に、唐暦の儀鳳暦を押し付けた。そして、女帝則天武后は、遣唐使船で朝貢してきた粟田朝臣真人に周帝国の司膳卿の官位を授けて、周帝国の官人や武人と供に日本列島に送り込んだのだ。しかし、705年女帝則天武后が死去してしまった。そのため、陸奥国侵略は、709年まで待たなければならなかった。
本国周帝国は、女帝則天武后が死去したため、712年玄宗が立ち、唐帝国を復活させるまで、無政府状態だった。その時期、女帝則天武后に寵愛されていた漢訳仏教組織は、儒教や道教の徒の反撃を受け、その多くは日本列島に亡命してきた。北九州に、仏寺跡が多く残るのは、周→北九州→飛鳥大和への仏寺の移築があったからだ。

709年3月、女帝則天武后に日本列島征服の命を受けて渡来した周帝国武人は、遠江、駿河、上野、越前、越中など、飛鳥大和朝廷の支配下となった地域から兵を徴し、兵力両道合わせて約1万の軍団を、陸奥国や越後の突厥帝国進駐軍が死守する地に進駐させた。
大和朝廷軍団が、短期間で北関東から南東北まで侵略できたのは、古墳時代にギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した花郎騎士団が、ローマ帝国軍式の騎馬軍団が疾走できるほどの幅広の直線道路、北陸道、東山道、東海道を、東北の日本海沿岸まで敷設していたからだ。
周帝国進駐軍が支配する奈良時代に、この古墳時代の高速道路を、唐製武器の弩(おおゆみ・古代の大砲)で武装した歩兵大軍団が北上し、東北の平地を瞬く間に支配地とし、その地を柵で囲み桑畑にして養蚕に励んだ。しかし、騎馬戦法で組織化された陸奥国軍団は、それらの俄作りの飛鳥大和侵略軍団を蹴散らしていた。
大和朝廷侵略軍司令官は、中国大陸の東突厥帝国本国から陸奥国への軍事物資補給路を断つために、709年7月軍船百隻に、軍人兵器を乗せ、越前、越後、佐渡の港を封鎖させ、出羽柵の進駐軍基地に送り込んだ。しかし、攻めれば引き、引けば攻撃してくる騎馬軍団の戦術に翻弄された飛鳥大和軍団は、その後も、武力で陸奥国を完全平定することはできなかった。そこで、飛鳥大和朝廷は、戦術を替えた。その戦術とは、「夷を以って、夷を制す。」だった。

705年周帝国の女帝則天武后が死去したことにより、中国大陸が混乱していたのと同様、日本列島の藤原京も混乱していた。それは、周帝国の王族が、反則天武后派の粛清を恐れて、日本列島に、漢訳仏教と供に亡命してきたからだ。そのため、広大な藤原京の治安や環境が乱れていた。
この藤原京のこの混乱は、祭祀者の藤原不比等にはチャンスとなった。それは、周帝国の大宝律令による官僚支配から解放されるからだ。その戦術は、周帝国王族と新政権を対立させることにより、その二つの勢力をコントロールすることだ。そのためには、周帝国の官人が多く住む藤原京から、新しい都へ遷都することで、その周帝国の支配機構を替えることが可能だ。更に、奈良盆地にある前政権の宗教施設である、巨大古墳や道教の観も、同時に破壊でき、その跡に、都を建設すれば、明日香ヤマトの歴史も抹殺できる。
女帝持統天皇の孫文武天皇が死去し、その母が女帝元明天皇として即位した翌年、和銅元年(708年)奈良盆地北辺のミトラ教の祭事場がある、三笠山の麓に広がる平野に点在する巨大古墳や道教の観の破壊が開始された。

この平城京遷都の理由として、藤原日本史では、「最近、諸司の容儀、多く礼儀を失う。その上男女の別なく、夜昼かまわず密会している、聞くところによると京城の内外不潔で腐臭多く。」と述べている。この描写は、周帝国から亡命してきた王族達がもたらした「内道場」が男女の風紀を乱したことを述べているようだ。周帝国では、品性が卑しい女帝則天武后が好んだ、漢訳仏教の私的修行施設である「内道場」での修行が盛んだった。
710年平城京の謎の遷都は、東アジアの情勢を眺めれば理解できる。
中国大陸は、705年女帝則天武后の死去から、712年玄宗による唐帝国復活までの間、無政府状態だった。そのため、日本列島の統治も混乱していた。このチャンスを藤原不比等は逃さなかった。
708年平城京遷都計画が実行され、都が完成していない710年に、藤原京から平城京に遷都された。この遷都が、藤原氏のためにおこなわれたことは、その都の形で分かる。
藤原京は、新羅の都をモデルに造られた。しかし、今度の都は唐帝国の都をモデルに造られた訳ではないのは、その都の東側に藤原氏の都が造られているからだ。その平城京に併設された藤原氏の都には、砦としての興福寺と元興寺の大寺がある。しかし、藤原氏の神を祀る春日大社は、まだない。それは、周帝国の女帝則天武后が唐帝国を乗っ取るために漢訳仏教の寺を利用したように、日本列島を経営する手段として漢訳仏教の寺を、政府のプロパガンダ機関として、飛鳥大和を中心に近畿一帯に、周帝国や北九州から移築させていたからだ。

この平城京遷都の混乱振りは、「続日本記」和銅4年(711年)9月「勅りして、この頃聞く、諸国の役民、造都に労して逃亡なお多く禁じても止まなかった。今、宮垣がまだできていないので防守不備のため仮に軍営を建てて兵庫を守らせた。」、と描写されている。まだ、山背国を実効支配する明日香ヤマト残党軍による、飛鳥大和朝廷への攻撃は、終わっていなかったのだ。
こうして平城京を眺めると、平城京の砦を中心として、奈良盆地以南は飛鳥大和朝廷の支配下となっているが、比叡山や鞍馬山に挟まれた湿地帯は、未だ、明日香ヤマト残党軍の支配下にある。しかし、東北日本海沿岸に続く、北陸道、東山道、東海道の騎馬民族のための軍事道路は、飛鳥大和側が設置した愛発関、不破関、鈴鹿関の三関により、突厥進駐軍が支配する陸奥国との連絡網が、遮断されている。

藤原不比等は、周帝国進駐軍の「夷」を以って、古墳時代まで日本列島を支配していた騎馬民族の「夷」を制することで、同胞の移住先を着々と確保している。
701年唐令の大宝律令により、土着豪族の土地を取り上げたが、それは周帝国の官人が支配する地で、藤原氏の私有地ではない。そのため、藤原不比等は、その唐令である大宝律令を骨抜きとする、藤原氏のための養老律令を、718年に完成していた。しかし、その実施は、安禄山の内乱で唐帝国が衰退する奈良時代中期まで待たなければならなかった。

その藤原氏のための養老律令は、藤原氏が橘一族を飛鳥大和朝廷から抹殺した757年から、1945年日本国敗戦の昭和の時代まで有効だった。
日本列島史を、藤原日本史という根拠のひとつに、養老律令の存在がある。天皇の地位、性格は、大宝律令(実は養老律令)の成立まで、具体的に規定した成文がなかった。律令公式令により、天帝である北極星(太一)から命を受ける天皇ではなく、絶対神である「現神」(あきつかみ)と大八州国しろしめす天皇が、歴史上出現した。
奈良時代に創られた成文法により、祭祀者の藤原氏がコントロールする天皇の勅がなければ、鎌倉時代からの武士の政権となっても、将軍にはなれなかった。それは、武士の棟梁である将軍の任命は、藤原氏の手を経ずには、天皇に将軍申請を遡上できないシステムを、藤原氏が奈良時代に創っていたからだ。
そのように日本列島住民を支配する天皇を「現神」とするシステムを考え出した藤原不比等が存命中に、近江国12郡94郷が藤原氏の私有地となった。そして、平安時代に摂政となった藤原良房の時代には、美濃国18郡121郷、その孫藤原忠平の時代には、信濃国10郡66郷が封じられ、合わせて藤原氏の支配地は337郷となり、平安時代中期での全国郷数の12分1が、藤原氏が支配することになる。その支配地に、南インドから南九州坊津へ上陸した異形の民族が、移住することになる。
しかし、この藤原氏の支配地は直接支配地で、藤原氏の支配下にある興福寺や春日大社の寺社領を含めれば、その支配地は、百済の血が流れる桓武天皇の時代から平成の時代までの百済系天皇家の支配地を遥かに超えていることが示唆される。

710年明日香ヤマトの発祥地に、平城京の都に隣接した藤原氏の都を建設した藤原不比等は、道教やミトラ教の明日香ヤマトで祀られていた神々を、歴史上抹殺する手段を計画していた。
「ヤマト」の語源とは、海辺や川辺と同じように、山辺のことだ。奈良盆地の南側の三輪山が騎馬民族の突厥進駐軍の「明日香ヤマト」の神山とすれば、奈良盆地の北側の三笠山は花郎騎士団の「イカルガ」の神山だ。その三笠山には、花郎騎士団の神である太陽神ミトラの祭事場がある。その三笠山のミトラ教の祭事場を、平城京造営時に破壊していたが、その跡に、藤原氏の神を祀る春日大社を建立するには時期が早いことを知る藤原不比等は、そこを空き地とし、禁足の「神地」とした。
705年周帝国の女帝則天武后が死去したために、中国大陸が混乱していたが、712年には玄宗が中国大陸を統一して唐帝国が復活していた。当然、唐令の大宝律令の税制で、突厥進駐軍が支配する陸奥国以外の、日本列島各地から集められた貢物を復活した唐帝国に納めなければならなくなった。それが、714年「遣唐使?」の復活だ。
復活した唐帝国は、藤原不比等には好都合だった。それは、女帝則天武后が、儒教や道教を弾圧し、漢訳仏教を寵愛していた反動で、唐帝国を復活させた玄宗は漢訳仏教を避け、儒教を保護していたからだ。
このことは、「旧唐書」に、「開元の初めに、日本は再び使を遣わし来朝した。そして儒士について儒学の教えを受けたいと要請した。そこで玄宗は詔を下して、四門の助教の趙玄黙に鴻臚寺において教えさせた。」、とある。今回の「遣唐使」の僧は、仏教を学びに行ったのではなかった。その中には、後に反藤原氏となる、吉備真備と僧玄ムがいた。
藤原日本史では、「寺」を「仏教寺」と錯覚を起こすように記述するが、古代の「寺」とは、仏教寺だけではなく、特殊な「役所」を意味していた。そこで、古代の日本列島でも太陽を神として祀るミトラ教の施設も景教寺と言われていた。
女帝則天武后により周帝国から送り込まれた漢訳仏教の日本列島での支配力を削ぐためには、漢訳仏教と敵対する儒教を日本列島に取り入れることで、「夷を以って、夷を制す。」ことができる。
藤原不比等は、周帝国残党の漢訳仏教の衰退を期待して、明日香ヤマトで祀られていた道教とミトラ教の神を歴史上抹殺する呪文を考え出した。それが、高天原から降臨したとする絶対神の天皇家の神と、日本列島土着の神だ。その二神を、「天津神」と「国津神」とした。この「天津神・国津神」が歴史上、その後、「天神・地祇」となり、嘉祥元年(848年)「五畿内七道諸国の天神地祇」と記されたのが最後となり、それ以降は、「諸社」、「諸国名神」となり、「天神・地祇」の差別的表記がなくなった。つまり、「国津神」が「天津神」と習合して、藤原氏の神となり歴史上消されてしまったことになる。では、日本列島の土着神とする「国津神」とは何んだったのか。
藤原不比等により歴史上消されてしまった国津神を推測するには、国津神を集合した天津神の実体を知ることが必要だ。それは、藤原不比等が、古墳時代を飛鳥時代とし、その時代の神仏戦争物語で、552年仏教が伝来する前に、廃仏派が祀る八百万の国津神が存在していたとするからだ。では、その神仏戦争物語で仏を排除する八百万の国津神とは、どのような神だったのか。
藤原不比等が創作した天津神の租神は、紀元前660年神武天皇が奈良盆地で日本初の天皇として即位したとする以前の、神代の昔に高天原に存在していたとする。そして、イザナギとイナザミの二神が降臨して、日本列島の島々を創造したという。その高天原から降臨した天皇家が祀る皇神の流れが、中臣神道の神となったとする。しかし、その中臣神道の儀式は、ユダヤ教の儀式と酷似しているのだ。
中臣神道とユダヤ教との宗教思想の基本的共通点は、禊の儀式、鳥居の由来、神殿の構造と桧材使用、獅子飾と獅子舞、榊としめ縄、石を立て神を祀る、神は雲の上に座す、白色を貴ぶ、塩を蒔く儀式、手洗盤と賽銭箱、神酒と初穂、拍手と低頭礼拝、祭典と神輿、神楽舞の儀式等々だ。これらの中臣神道とユダヤ教との宗教思想の共通点は、単なる偶然の一致なのか。
この中臣神道の神を祀る春日大社は、神仏戦争があったとする飛鳥時代ではなく、その後の奈良時代中期に、突然、奈良盆地北側の三笠山のミトラ教祭事場跡の空き地の「神地」に現れた。すると、552年神仏戦争での「神」とは、中臣神道の神ではありえない、と考えられる。その藤原不比等の神仏戦争物語の神が、中臣神道の神ではないことは、中臣神道では、死者をケガレとするからだ。飛鳥時代とは、中臣神道のように死者をケガレとし「穢れ祓い」をするのではなく、再生を信じて死者を古墳に埋葬する、古墳時代だったからだ。
藤原日本史では、紀元前660年以前に天津神が、日本列島に存在していたように記述している。では、八百万の国津神は、その天津神が日本列島に降臨する前に存在していたというのであろうか。しかし、それはない。何故ならば、藤原日本史では、天津神が降臨する前には日本列島はなく、天津神の租がドロドロの液体をすくい上げ、その滴で日本列島を創造したことになっているからだ。

藤原不比等は、前政権の明日香ヤマトで祀られていた景教の太陽神ミトラと道教の北極星(太一)を、「国津神」として歴史上消す物語を考えたが、そのトリックを暴かれないように、その前政権の神々を知る者を抹殺しなれければならない。それらが、天武天皇の10皇子だ。687年大津皇子、689年草壁皇子、696年高市皇子、699年弓削皇子、705年刑部皇子、715年長皇子、715年穂積皇子、と抹殺してきたが、磯城皇子は行方不明、残るは、新田部皇子と舎人皇子だ。
舎人皇子は、高市皇子の息子長屋王を補佐して、平城京に広大な敷地に砦を構えていた。さすがの藤原不比等も、その舎人皇子と長屋王には手出しできなかった。それは、新羅系天武天皇と同族の統一新羅王族が、舎人皇子と長屋王のバックにいたからだ。
藤原日本史で言う、壬申の乱は、兄天智天皇系と弟大海人皇子との兄弟による内乱などではなく、朝鮮半島での百済と新羅との国際戦争の続きだった。
663年百済が朝鮮半島で完全に滅亡したため、朝鮮半島から亡命してきた百済王族が、日本列島の百済のコロニーがあった近江に、671年亡命百済王朝を興した。672年その近江百済王朝を、朝鮮半島を支配した新羅軍団が軍事支援する明日香ヤマト残党軍が攻撃したのだ。その百済と新羅との国際戦争に勝利した明日香ヤマト残党軍は、新羅の皇子を天子(テングリ)とした。672年日本初の天武天皇の誕生だ。
その4年後、676年朝鮮半島では、新羅軍団が、唐帝国進駐軍を朝鮮半島から追い出し、統一新羅を興した。明日香ヤマトに再興した天武王朝の日本国と、統一新羅とは同族の兄弟国だった。この明日香ヤマトを引き継いだ、女帝孝謙天皇まで続く天武王朝の日本国と、統一新羅の二国は、東アジアでは珍しい、女王国だった。それは、その二国の支配層が、騎馬民族の流れにあったからだ。周帝国で、女帝則天武后が即位できたのも、唐帝国の支配層が、騎馬・遊牧民族の鮮卑拓跋部だったからだ。
明日香ヤマトに砦を築いた天武天皇は、朝鮮半島から統一新羅軍団に追われて北九州に進駐してきた唐将軍と軍団2000名の侵攻を想定して、明日香ヤマトから都を突厥進駐軍の支配地の信濃に移すことを計画していた。それは、645年唐進駐軍の弩の攻撃により、小山に挟まれた狭い地にある明日香ヤマトの砦は、あっけなく陥落していたことを、天武天皇は知っていたからだ。しかし、686年天武天皇は、10人の皇子を残して死去してしまった。
天武天皇が死去すると、その息子大津皇子は、天武天皇の意思を継いで、明日香ヤマトから信濃へ都を移す行動を起こしたが、その実行途中、百済の血が流れる女帝持統天皇により、687年謀反の罪により謀殺されてしまった。そして、女帝持統天皇は、奈良盆地北側の三山に囲まれた湿地帯に、藤原京遷都を実行した。
抹殺しなければならない皇子は、9人。次々に天武天皇の皇子を、女帝持統天皇は藤原不比等との連携で抹殺してきたが、新田部皇子、舎人皇子と高市皇子の息子長屋王は、平城京遷都まで生き延びていた。それは、統一新羅の使者が、度々、舎人親王と長屋王邸を訪れていたからだ。
藤原不比等は、朝鮮半島から唐進駐軍を追い出した統一新羅軍団の強さを知っていた。そこで、藤原不比等は、統一新羅からの使者を丁寧に平城京の都に迎え入れていた。藤原不比等が統一新羅使者を厚遇していたことは、平城京に統一新羅の使者を向かい入れる準備のために、畿内七道に命じて騎兵990騎を集めていたことでも分かる。
統一新羅の使者を冷遇するのは、729年長屋王を謀殺し、舎人親王を平城京内で無視し始めた以降、720年藤原不比等が死去し、その息子藤原宇合が奈良朝廷で暗躍し始めた頃からだ。

720年藤原不比等は死去したが、死去する前に、オリエント文化の明日香ヤマトの前政権の歴史を消すための偽書「日本書記」を創作した他に、ハザール王国の同胞を移住させるために、蝦夷の支配地の陸奥国を手に入れるための仕掛けも考えていた。奈良時代に藤原不比等が考えた仕掛けにより、鎌倉時代になると、奥州藤原三代の時代となるのだ。
伝承によれば、東北に「ヘライ村」があり、その村には「キリストの墓」があると云う。その伝承の裏には、奈良時代に藤原不比等が考え出した仕掛けにより、ユダヤ教に改宗したハザール王国の民が南インドから南九州坊津に渡来し、そして、藤原不比等が考え出した仕掛けにより藤原氏末裔が蝦夷の陸奥国を乗っ取り奥州とした地に、移住していたからだ。

藤原不比等が創作した仕掛けは、スケールが大きいので、その仕掛けに気付くひとはそれほど多くはない。オレだって、田辺さんのレポートと「古事記」の暗号がなければ、今の今まで、藤原不比等の仕掛けを見抜くことは出来なかった。
その仕掛けのひとつが、騎馬民族の支配機構の頂点に立つテングリから派生した「天皇」を、「旧約聖書」の唯一神ヤハヴェを真似て絶対神の「現御神」を発明し、その「現御神」を習合して「現御神天皇」とした。そして、前政権の神々を封印するために、その神を祀っていた宗教施設を破壊して、その跡に、神社(モリ)を建てた。その前政権の神を封じ込めるための「神社」(モリ)を、1167年後の明治革命で復活した藤原氏は、神を祀る神社(ジンジャ)として改竄した。
そして、もうひとつの仕掛けが、按察使の令外官だ。この按察使を設置したのが、藤原不比等だ。この按察使を設置したことにより、東北は、1868年明治革命前夜までの約1000年間も、藤原氏の支配が及ぶ地となっていた。では、その按察使とは、どのような使節であったのか。
和銅5年(712年)「法を制してから大分時も経ったが、まだ律令に熟せず過失が多い。今より令に違えれば、その犯す所に準じて律に依って科断する。」、との提案が右大臣藤原不比等から朝廷に出された。
その藤原不比等の提案が出される3年前、和銅2年(709年)「陸奥・越後の二国の蝦夷、野心馴れ難くしばしば良民を害す。」、という理由で、律令軍が陸奥・越後に侵略を始めた。これ以降、元慶2年(878年)まで、169年間の蝦夷殲滅戦争がおこなわれていく。この第一回征夷戦を始めた時、藤原不比等は、右大臣であり、奈良王朝の実質的指導者だった。
蝦夷とは、何か。藤原日本史では、「日本書記」で、「巣に棲み、穴に住む。」、「東夷の中に日高見の国あり、これを蝦夷という。また土地肥えて広し、撃ちて取るべし。」、「東夷の中に蝦夷という者がいて頗る強し。男女、父子の別なく、冬は穴に住み、夏は樹に樔む。毛を敷いて血を飲み、兄弟互に疑う。山に登ること飛ぶ鳥のようで、原野を走ること獣のようだ。」、とある。「日本書記」の記述では、東北の蝦夷は無文化の野蛮人のように記述している。
しかし、東北は、709年律令軍が侵略を開始する以前から、高度文化の国であったことは、東北地方から発掘された遺跡が証明する。仙台平野には、紀元1世紀から2世紀にかけての広大な南小泉遺跡の水田跡が発掘されている。4世紀から5世紀にかけて、仙台市所在の全長110m遠見塚古墳、名取市に全長170mの雷神山古墳がある。そして、岩手県胆沢町に全長45m角塚古墳があり、会津地方にも、全長90mの古墳がある。つまり、日本列島の古代東北は、古代エジプト・オリエントの高度土木建築技術で造られた巨大古墳築造の、古墳文化圏にあった。
では、蝦夷とは、何か。「日本書記」では、東夷と蝦夷を区別して、東夷の支配地の中に蝦夷が暮らしていた、と述べている。東夷とは、中華思想により蔑称された、中国王城から北方の僻地に住む蛮族のことだ。645年日本列島に侵攻してきた唐進駐軍は、畿内を制圧すると、東北に続く古代高速道路の北陸道、東山道、東海道に、愛発(あらち)、不破、鈴鹿の三関を設け、以東を化外国(げかいのくに)と蔑称していた。その東夷の地に住む蝦夷とは、エビのような髭がある夷の意味で、チュルク系騎馬民族の突厥の蔑称だ。東北には、645年唐進駐軍に、明日香ヤマトを追われた、突厥進駐軍や花郎騎士団残党が暮らしていたのだ。
その東夷、蝦夷が暮らす陸奥、越後の支配地に、藤原氏の同胞のハザール王国の白いユダヤ人を移住させるために、東北の地を奪うことを考えた藤原不比等は、その仕掛けを考え出した。それが、按察使の設置だ。その目的は、「国郡司の不正糾弾、農桑の奨励、そして、人口の増殖」だ。「人口の増殖」とは、移民政策のことだ。そして、それらの目的を完遂するために、按察使は、国司の罷免、抜擢を判断決定する権限を与えられた。その結果、東北地方には、ユダヤ・キリスト教思想を持つ民族の部落、ヘブライ村が作られていく。
国司、郡司の不正、放任、怠慢を監視する行政監察使の設置は、按察使だけではなかった。時代と供に、その令下官は、巡察使、按察使、鎮撫使、節度使、検税使、問民苦使、勘解由使、検非違使などと名前を変えていくが、大同元年(806年)六道観察使を最後に大方は廃されていた。しかし、陸奥出羽按察使だけは、明治元年(1868年)まで続いていた。何故なのか。
藤原不比等が考えた按察使による東北地方の侵略の考えの中には、同胞の移民の他に、もうひとつの目的があった。それは、陸奥国から産出される砂金の強奪だ。この藤原不比等が考えた砂金強奪戦略の仕掛けにより、四百年後の鎌倉時代に、奥州藤原三代の時代となる。では、その仕掛けとは何か。
藤原不比等は、720年死去する前に、4人の息子に、按察使の特権としてひとつの事項を追加させることを命じていた。その事項は、養老5年(721年)太政官符となって、按察使の特権としての追加事項となった。その追加事項とは、「風土出づる所に随って通融相折り今より永く恒例となす。」とあり、東北から産出する物は、按察使が融通(手に入れること)できることにしたのだ。どうも、藤原不比等は、東北には砂金が産出されること知っていたようだ。
縄文時代の古代から、東北に貴重鉱物が産出されることは、ユーラシア大陸の西方には知られていたようだ。それは、岩手県久慈から琥珀が産出されていたからだ。その岩手県久慈と、バルト海沿岸とは、古代から琥珀ロードが拓かれていた。古代では、琥珀は貨幣として、東西の国際商人の間では通用していたほど貴重鉱物だった。
6世紀に、ユーラシア大陸から騎馬民族突厥が進駐してくる、ずっと以前から、日本列島の東北には、西アジアの諸民族が渡来していたのだ。大陸からの日本列島への文化渡来ルートは、藤原日本史が述べるように朝鮮半島からだけではない。
当然、ユーラシア大陸の黒海、カスピ海沿岸に暮らしていた、中国と東ローマ帝国との絹馬交易の中継交易国のハザール王国の民には、その日本列島東北から産出される鉱物のことは知っていた、と推測できる。
藤原不比等の仕掛けを太政官符として追加した28年後、天平勝宝元年(749年)陸奥国から砂金が発見された。この砂金は、当然、按察使が融通できることになる。この陸奥出羽按察使には、藤原氏が任命されることが、他氏に比べると圧倒的に多く、明治革命までの藤原氏と他氏との比率は、75%にも及ぶ。
奈良時代に、藤原不比等が仕掛けた按察使の設置により、その後の東北の経営は、藤原氏の思いのままで、産出する砂金を、南九州坊津から南インドに輸出することにより、奈良時代、平安時代と藤原氏の財力が増していった。こうして、鎌倉時代になると、奥州藤原三代の平泉黄金文化の花が咲いたのだ。しかし、何故、天平勝宝元年(749年)に、「陸奥国で砂金が発見された。」、と陸奥出羽按察使は朝廷に報告したのか。そこには、藤原氏の陰謀があった。

藤原日本史では、645年大化改新で、日本列島の土地制度は、氏族私有地制度から公地公民となったとする。そして、652年班田収授法施行、723年三世一身法を定め、743年墾田永世私財法となり、貴族や寺社が私有地を経営できるようになったとする。しかし、645年大化改新などは架空の物語で、日本列島での公地公民の宣言などは史実ではない。その根拠は、日本列島の土地を公地公民とするには、強力な中央集権により、地方の豪族を武力で支配する前提が必要だからだ。
701年唐令の大宝律令を発しても、東北はもとより、近畿一帯の土着豪族は、中央集権により、奈良王朝の支配下になったわけではない。奈良王朝は、地方豪族による連合国家だった。その根拠は、文武天皇元年(697年)女帝持統天皇の孫が天皇として即位した時の詔が、「続日本紀」には、宣命体の文体で記されているからだ。
「続日本紀」は、誰に読ませるのか漢文で書かれている。しかし、天皇の詔の部分だけは、漢文では記されていない。天皇は、朝廷で臣下の者達に、詔を読み上げなければならない。その朝廷で読み上げられた詔が、「続日本紀」に宣命体で記されている。宣命体とは、話言葉を綴った文章だ。その宣命体には、漢文にはない、「止」(と)、「尓」(に)、「乎」(を)などの格助詞がある。この格助詞のある文体は、ウラル語系突厥語だ。
このことから、奈良王朝は、二重構造と考えられる。それは、藤原京や平城京の都内では漢文が使われ、都外と地方ではウラル語系突厥文が使われ、漢文民族と非漢文民族とが日本列島に暮らしていた、と考えられるからだ。だからと言って、突厥語が日本語のルーツではない。日本語の言葉の中には、ポリネシア語、タミル語、アイヌ語、朝鮮半島の高句麗・百済・古代新羅語、呉音・漢音・唐音の中国語などの言葉があるからだ。藤原日本史では、それらの多民族の言葉を、「万葉語」と言って誤魔化す。
言葉は、民族の基盤だ。それらの言葉が日本列島にあることは、日本列島には、それらの言葉を話す民族が暮らしていたことを示唆する。つまり、日本列島は、多民族が暮らす地であった。
それらの多民族の文法をウラル語系文法に統一したのが、6世紀に日本列島に渡来し、奈良盆地の湿地帯の明日香ヤマトを支配し、3世紀後期に渡来して巨大前方後円墳や幅広直線道路を日本列島に築いていた民族を融合した、突厥民族と考えられる。
6世紀半ばから、その突厥進駐軍が支配していた明日香ヤマトを、645年壊滅したのが、唐進駐軍だ。しかし、672年新羅系天武天皇が、明日香ヤマトを復活していたように、日本列島は政治的に不安定だった。それは、日本列島には、古来から渡来民族により、各地に異文化の小国家が存在していたからだ。
日本列島の大部分は山岳で、平野が少ない。このような地形の地を支配するには、武力だけでは不可能だ。それには、各地区の支配者である豪族を武力で滅ぼすより、何らかの方法で傘下とする方が得策だ。その武力ではなく、土着豪族を味方に取り入れるには「知恵」が必要だ。その「知恵」は、「旧約聖書」にある。藤原不比等は、その「知恵」を使って、各地の豪族を、奈良王朝の傘下とした。
その「知恵」の戦術とは、ひとの「欲」を満たしてあげることだ。多くのひとには、欲がある。その欲は、物欲、名誉欲、性欲の三つだ。藤原不比等は、その三欲を満たすことにより、地方豪族を支配した。
藤原不比等の仕掛けのトリックが、多くの人に見えないのは、そのトリックのスケールが、一般人のフレーム(常識)を超えるほど、非常に大きいからだ。藤原不比等は、地方豪族を直接支配するのではなく、その豪族の神を支配することで、間接的に豪族を支配した。その方法が、班幣・叙位制度だ。
班幣とは、天皇権威の名の下に地方豪族の神に幣を班って祀ることだ。つまり、神話物語を創作して、日本列島を創りだしたとする天津神の子孫である現御神天皇が、地方豪族の氏神のために珍しい舶来の供物を提供することだ。この物欲を満たす仕掛けにより、代々の各氏族の風習により氏族古来の供物を神前に掲げていた物が、奈良王朝からの舶来鏡や剣などの供物に替えられた。
そして、絶対神である現御神天皇から地方神に、名誉欲を満たすために、位を授けるのだ。この「ひとから神に」位を授ける、前代未聞の神をも恐れぬ、ことが奈良時代におこなわれていたのだ。その奈良王朝から与えられた叙位を、各地の社では旗等に記して、誇らしげに掲げられた。
これらの藤原不比等が考え出した班幣・叙位の仕掛けにより、地方豪族の神を、現御神天皇の支配下とし、そして、その天皇から叙位を受けた神を祀る豪族は、必然的に奈良王朝の現御神天皇の傘下になった。このことにより、地方豪族が奈良王朝の臣下に列された。そして、地方豪族の性欲は、藤原の女が満たした。しかし、地方豪族の土地を取り上げることは出来なかった。豪族の土地を取り上げるには、更なる仕掛けが必要だ。
その班幣・叙位制度に権威を付けるためのトリックとして、奈良時代初期に、奈良王朝の支配地となった、秦王国のあった九州宇佐には「宇佐八幡宮」、国際海洋民族アズミ族の出雲には「出雲大社」、道教の神・太一(北極星)を祀っていた伊勢には「伊勢神宮」、太陽神ミトラを祀っていた鹿島には「鹿島神宮」を、先住民の宗教施設を徹底的に破壊した跡に創設した。それらの藤原氏が支配する宗教施設は、藤原日本史が述べるように古代から存在していたのではなく、古墳時代後の、奈良時代に現れたものだ。
不思議なことに、藤原京にも平城京にも、神社(もり)が建設されてはいない。藤原氏の神を祀る春日大社も、平城京の都の外に建設されている。何故だ。それは、奈良時代に出現した神社(モリ)は、藤原日本史が述べるように租神を祀る宗教施設などではなく、死者が眠る古墳を破壊した跡に、前政権の神を怨霊として封じるために建設された宗教施設だからだ。
それらの宗教施設を管理運営するために、698年藤原不比等は、「藤原朝臣の賜った姓はその子、不比等がこれを継承する。但し、意美麻呂は神事に仕えるので旧姓の中臣に復することにする。」、としていたのだ。つまり、政敵を奈良王朝から排除するために、政治と神事とを分け、政治は藤原氏、神事は中臣氏がおなうことにしていたのだ。この藤原不比等の命により、奈良王朝での神事は中臣氏による、ユダヤ教儀式に酷似した中臣神道が独占していく。
では、奈良王朝以前の古墳時代に、前政権の宗教施設で活動していた祭祀者はどうなっていたのか。藤原日本史では、ミトラ教(景教)や道教は日本列島に伝来していないことになっているので、史料により調べることは出来ないが、「続日本紀」には、不思議な宗教者の記述がある。それらの宗教者とは、山奥に暮らし呪術や土木事業をおこなったようだ。
「続日本紀」には、文武天皇3年(699年)「呪術で人々を惑わすので伊豆に流罪」とした、役小角の記述がある。そして、天武天皇の孫長屋王が存命中の、養老5年(721年)「この頃、百姓は法に背き、勝手に僧侶の身なりをし、」とあり、その私度僧(?)の指導者を、「小僧行基」と記述している。では、役小角や行基は、仏教僧なのか。仏教僧でないのならば、神道の宮司であるのか。
役小角は、空中を飛行できる仙人であるので、神仙思想の道教の師であるようだ。そして、行基は、橋を造り運河を築くなど高度土木事業を行ったことにより、仏教僧でないことが分かる。それは、仏教では、不殺生の戒律により、地中の生き物も殺してはいけないことにより、地面を掘ることは、破戒となるからだ。すると、高度土木事業を行った行基は、どのような組織の宗教者なのか。考えられるのは、ミトラ教(景教)僧だ。
太陽神を祀るミトラ教僧は、古代新羅から花郎騎士団と供に、日本列島の古墳時代に渡来した。太陽神ミトラ(ミトラは借字で「花」)を祀る花郎騎士団は、ローマ帝国軍の流れにある。ミトラ神を軍神とするローマ帝国軍は、道路敷設や土木建築が得意だった。ミトラ教僧が渡来した古墳時代とは、日本列島がピラミッドのように石葺された巨大前方後円墳、河船が航行できる運河、騎馬で疾走できる幅広の古代高速道路網などが築かれる、日本列島改造時代だった。
ミトラ教僧は、奈良盆地北側のイカルガに、太陽神を祀るために、冬至の太陽の日の出の角度に合わせて、南北軸から西に約20度を建設基準として、太陽の都(景)を築いていた。しかし、645年唐進駐軍により、ミトラ教と道教の施設は、徹底的に破壊されていた。その明日香ヤマトを追われた宗教者は、山奥に逃れた。そして、ミトラ教僧は、その山で、太陽神に犠牲を捧げるために、太陽神の化身の牡牛を屠る儀式を行っていた。そのミトラ教の儀式が行われた祭祀場のひとつが、後の奈良時代に春日大社が建立される、三笠山だった。

オレの幻視と思考がオーバーラップしてきた。幻視と思考とが合致していれば、前頭葉での混乱は生じない。しかし、前頭葉と後頭部にある視覚域の細胞がヒートアップしてきたのを感じた。日本史を思考する基礎情報は、学校で歴史教育として刷り込まれた情報だ。田辺さんの古代史の講義で、藤原日本史のトリックを教えてもらい、藤原日本史が述べる情報を否定したつもりでいたが、学校での歴史教育で刷り込まれた、「仏教文化が花咲く天平文化の奈良時代」の情報が時々幻視に介入してくる。先ほどから、幻視と思考を交互に繰り返していたのはそのためだ。そこで、藤原日本史のトリックを幻視により暴くために、藤原日本史の古代史を創作した、藤原不比等について、もう一度学習してみよう。

藤原不比等は、持統3年(689年)「従五位下藤原朝臣史を判事(ことわりのつかさ)となす。」、と突然、歴史上に現れた。そして、持統10年(696年)朝廷の執行機関である廟堂の最下位の直広弐の位となった。それ以前の客観的史料は、「日本書記」以外にはない。
藤原不比等が、奈良時代の720年に創作した「日本書記」以前の、藤原氏出自についての史料がないのは、「日本書記」以前の史料は、藤原日本史では、645年蘇我蝦夷が天皇紀・国紀を焚書してしまったから、と述べている。
藤原日本史の基本史料である「日本書記」では、藤原鎌足の次男などとしているが、藤原鎌足は、奈良時代に藤原不比等により「日本書記」での「大化改新」物語で創作された架空の人物だ。では、藤原不比等とは、何者か。
藤原不比等の思考能力は、一般人を遥かに超えているようだ。それは、何年、何十年、何百年もの先を読むことができたようだ。奈良時代に起こった出来事や、平成の現在の支配体制の基礎は、全て、藤原不比等が撒いた種による。日本国の支配体制の基盤を創ったのは、藤原不比等が創作した数々の物語による、と言っても過言ではない。
藤原不比等は、「日本書記」で、万世一系の天皇家の物語を創作し、その天皇家を乗っ取った。その方法は、日本初の天皇である天武天皇崩御後、その皇后を女帝持統天皇とし、天武天皇の皇子草壁を謀殺し、草壁皇子の子を文武天皇として即位させ、天武天皇の血が薄くなった文武天皇に、藤原不比等の娘宮子を嫁がせた。そして、文武天皇と宮子とに生まれた首皇子(後の聖武天皇)に、藤原不比等の娘安宿媛(後の光明皇后)を嫁がせた。このことにより、天武天皇家は文武天皇を以って終わり、藤原氏の血が濃く流れる聖武天皇が即位して、新しく藤原天皇家の創立となった。天皇家の謎は、藤原氏の謎と言うのは、このことによる。
更に、藤原不比等は、周帝国の女帝則天武后から、日本列島を経営するために押し付けられた唐令の大宝律令を骨抜きにするために、718年養老律令を草案していた。しかし、唐進駐軍の日本列島での統治能力が衰える、757年まで、その養老律令の実施を留め置いていた。
周帝国が705年に壊滅し、そして、712年玄宗が唐帝国を復活させ、その後の時期の唐帝国内では、塩の闇商人である安祿山が、755年から大規模な内乱を起こしていた。そのため、唐帝国の玄宗は、日本列島の奈良王朝に、安祿山の内乱軍と戦うために、遣唐使船により武器の素材である牛の角を運ぶようにと要請するほど、唐帝国による日本列島の経営を管理する余裕がなくなっていた。その時期に、藤原不比等の孫は、養老律令を実施し、その後、昭和の太平洋戦争敗戦まで、藤原不比等が立案した養老律令が、日本列島では実施されていた。
そして、藤原不比等は、東アジアの情勢も的確に把握していた。藤原不比等が、右大臣として奈良王朝を支配していた時期、唐帝国に軍事的対抗が出来るほど統一新羅には国力があった。それは、藤原京が新羅の都をモデルとしていたことからも分かる。統一新羅軍団は、朝鮮半島だけではなく、明日香ヤマトからも唐進駐軍を駆逐していた。
そして、藤原不比等が存命中、統一新羅の軍団が、情勢不安な近畿一帯の国境を警備していたことは、神亀3年(726年)聖武天皇が、奈良王朝を訪れた統一新羅使に述べた、「金順貞はどうしているのか。順貞は彼此の国境を安全にし、我が国に忠事してくれた人だ。」、ということから分かる。
統一新羅の使者が聖武天皇に謁見できて、そして、聖武天皇が、近畿一帯の国境を警備していた金順貞の安否を聞くほど、統一新羅と奈良王朝とが友好関係を結んでいた頃の廟堂の構成員は、知太政官事舎人親王、左大臣長屋王、大納言多治比池守、中納言大伴旅人、同藤原武智麻呂、参議藤原房前、同安倍広庭、非参議藤原宇合であった。天武天皇の皇子が、奈良王朝を支配していた時期は、天武天皇と同族が支配する統一新羅とは友好関係であった。
藤原不比等が、奈良王朝の廟堂から天武天皇の皇子勢力を完全に排除できないまでは、統一新羅の使節を平城京に歓迎するために、近隣国から騎馬990騎を集めるほどまでしていたのは、まだその頃、統一新羅の国力が、唐帝国に対抗できるほど、強かったからだ。
しかし、天平7年(735年)舎人親王、新田部親王が死去することで、天武天皇10皇子が完全にいなくなると、廟堂の構成員は、右大臣従二位藤原武智麻呂、大納言欠、中納言正三位多治比県守、参議正三位藤原房前、同正三位藤原宇合、同従三位藤原麻呂、同従三位鈴鹿王、同従三位橘諸兄、同正四位下大伴道足となっていた。この廟堂の構成は、藤原不比等の四兄弟の南家、北家、式家、京家が、奈良王朝を乗っ取ったことを意味する。これにより、天皇家はもとより、奈良王朝の執行権も、完全に藤原氏により乗っ取られた。
天武天皇の皇子である舎人親王や孫の長屋王が存命中は、統一新羅の使者を歓待していたが、天平7年(735年)「新羅の使金相真入京、中納言多治比県守をして新羅使に入朝の旨を問う。」とあり、新羅から国名を「玉城国」と称したとして、新羅使を追い返していた。この後、統一新羅は、奈良王朝の仮想敵国となった。
平安時代初期、母国百済を滅ぼした新羅を憎しとする百済系桓武天皇の時代、30巻・系図1巻の「日本書記」を、系図を焚書し、そして、藤原不比等が創作した「日本書記」の物語を、新羅不利に、そして、百済有利にして改竄し、更に、神武天皇東征物語や神功皇后新羅征伐物語を挿入した。
今に残る「日本書記」は、奈良時代に創作された藤原不比等のオリジナルではない、平安時代に改竄された「日本書記」だ。更に、藤原氏を排除するため、唐進駐軍の支援を受けた桓武天皇は、反藤原氏となった聖武天皇の、正倉院に納められていた絵画・像・書籍の一部を処分することで、奈良時代の亡命百済貴族が、漢文が理解できたため、唐進駐軍の下級官人として「平城京」で使役させられていたことを、歴史上抹殺した。
「日本書記」での神功皇后の新羅征伐の物語がフィクションだとする根拠は、神功皇后の統治していたとする、201年から269年には、新羅などの国は、馬韓・弁韓・辰韓の三韓時代の朝鮮半島に存在していないからだ。それは、ギリシャ・ローマ文化の新羅の建国は、356年だからだ。因みに、藤原日本史の神話物語で、悪役スサノウは新羅に行くし、出雲物語でも新羅が登場しているのは、藤原神話が、神代の物語ではないからだ。
その奈良王朝の執行機関である廟堂を乗っ取った藤原四兄弟は、天平元年(729年)宿敵長屋王を左道(北極星を祀る道教)をしたとの嫌疑で謀殺した後、聖武天皇の正三位藤原夫人を光明皇后としていたが、更に、唐帝国の命令を無視して勝手なことを行い始めた。
これに対して、唐帝国玄宗は、藤原四兄弟を滅する使者を、735年日本列島に送り込んだ。それが、遣唐使として唐に渡って、唐制を学んだ、下道真備(後に吉備真備)と僧玄ムだ。帰国した下道真備は、後宮の禁苑で皇后、中宮、女御の在所である中宮亮に任ぜられ、そして、僧玄ムは僧正に任命された。この二人の唐皇帝からの命は、後宮の皇后、中宮、女御への藤原四兄弟を抹殺するための情報操作だ。
中宮亮の下道真備は、後宮を管理する業務上で、後宮にある「内道場」で僧玄ムも、聖武天皇の実母宮子に急接近した。その後宮の内道場での僧玄ムの修行(?)により、こころを病んでいた宮子に験があった。宮子は、下道真備と僧玄ムとの仲介により、藤原氏の傀儡ロボットとなっていた聖武天皇に謁見した。宮子は、首皇子を産むと、後宮に長期間幽閉されていたので、聖武天皇となった我が子と会うのは始めてであった。この後、聖武天皇の行動に大変化が現れた。
下道真備と僧玄ムとが入唐中は、玄宗皇帝の最盛期で、周帝国の女帝則天武后が漢訳仏教寺を全国に建立して人民を支配していたのを真似て、開元寺を諸国に設置していた時期であった。仏寺は、貴族の文化・娯楽施設のほかに、人民を支配するため、プロパカンダ(情報操作)のための施設でもあった。この仏寺を全国に設置して、人民操作を日本列島でも行うことも、下道真備と僧玄ムへの玄宗皇帝からの命令であった。
701年近畿一帯を支配するために唐令の大宝律令と供に、周帝国の女帝則天武后は、唐帝国を乗っ取った手法、仏寺により人民を情報操作することを、日本列島でも行うために、周帝国や北九州にあった仏寺を、近畿一帯の巨大古墳、景教寺、道観などの宗教施設を破壊した跡に、移築していた。しかし、705年女帝則天武后が死去してまったため、その仏寺戦略が頓挫したため、近畿一帯に移築されていた仏寺は、霊亀2年(716年)「諸国の寺家、多く法(律令僧尼令)を無視して門庭荒れ果て、尊像は塵埃、風雨にさらされていた。」状態になっていた。
再び、唐帝国に都合の良いように、仏寺により日本列島の人民を統治するためには、奈良王朝の執行権を支配する、中臣神道を祀る藤原四兄弟を抹殺する必要がある。そして、下道真備と僧玄ムの行動に都合のよい執行部をつくる必要がある。このことにより、下道真備と僧玄ムの使命が達成される。
天平9年(737年)九州に上陸した流行り病が、奈良の都にも伝染したことにより、藤原四兄弟が死去した、と藤原日本史は述べる。しかし、その説明には不思議がある。それは、5ヶ月以内に、藤原四兄弟が死去しただけではなく、廟堂の構成員の知太政官事鈴鹿王を残し、全て死去しているからだ。ただ一人生存したその鈴鹿王とは、反藤原氏の天武天皇の皇子高市の子であった。
天平10年(738年)反藤原氏の橘諸兄は、右大臣となった。そして、藤原四兄弟が謎の死により廟堂から排除されたため、廟堂に入った藤原氏は、藤原豊成ただひとりであった。藤原氏の子孫が廟堂で生き残ったのは、藤原不比等による、藤原氏を四家に分けた危機管理が機能していたからだ。
奈良時代の右大臣は、左大臣より位は低いが、実力では、左大臣より上だ。左大臣は、云わば、名誉職であった。天武天皇存命中では、左大臣が活躍していた。それは、騎馬民族の社会では、右より左が上位だった。それは、ユーラシア大陸での異民族との戦闘で、南側の農耕民族国への進撃は、鳥が羽を広げるように布陣して、中央に司令部を置き、太陽が昇る東側(左翼)からの左翼軍団が先陣を切るからだ。その騎馬民族による戦闘布陣形式から、先陣を切る左翼軍団が、右翼軍団よりも上位となった。しかし、非騎馬民族社会になると、左より右が優位となってしまった。
藤原四兄弟を抹殺した下道真備と僧玄ムにより、右大臣橘諸兄を裏で操ることで、奈良朝廷が藤原氏の支配から完全に脱却させられることを恐れた、式家藤原宇合の子藤原広嗣は、天平12年大宰府に転出されていた。そこで、太宰少弐従五位下藤原広嗣は、藤原氏が再び朝廷を支配できるように、下道真備と僧玄ムとを朝廷から除くことを理由に、兵を起こした。これが、藤原日本史で述べる、藤原広嗣の乱だ。
藤原広嗣の反乱軍は、律令軍により鎮圧され、藤原広嗣は斬首されたが、奈良の都では混乱を起こしていた。それは、672年近江の亡命百済王朝が、新羅・明日香ヤマト残党連合軍により壊滅していたが、その亡命百済王朝の貴族達は、漢文が読めるために下級官人として、平城京に多く暮らしていたからだ。その亡命百済貴族達が、藤原広嗣残党軍と結託するとすれば、奈良の律令軍の多くは鎮圧軍として九州に出払っているため、都に残っている兵力だけでは、都を護ることが出来ないと、実母宮子に会って反藤原氏となった聖武天皇は考えた。
藤原広嗣の乱が都に伝えられた翌月10月、聖武天皇は、「朕、思う所あって今月の末、しばらく関東に往こうと思っている。」、と言って、騎兵大将軍、御前、御後の長官など、400名の部隊が、関東に向かって出発した。
何故、関東なのかと言うと、天武天皇もその息子大津皇子も、唐進駐軍や亡命百済王朝残党兵の攻撃からの防御に、狭い土地の明日香ヤマトでは不安があるので、突厥進駐軍の前線基地がある信濃に都を移す計画を立てていたように、聖武天皇も関東を目指したが、時既に関東には、騎馬民族が支配する地はなく、藤原氏や亡命百済貴族が豪族として暮らしていた。
古墳時代の明日香ヤマトまでは、ユーラシアを支配していた東突厥帝国も健在であった。しかし、8世紀半ばの東突厥帝国は、イスラム帝国に東ローマ帝国との交易権を奪われたため国力が衰え、そして、国力を増した唐帝国軍団の攻撃により、744年には東突厥帝国は滅ぶ。それにより、日本列島の東北を支配していた突厥進駐軍(蝦夷)は、多賀城を前線基地とする律令軍により、陸奥国内に城輪柵、玉造柵、桃生柵を築かれ、それらの柵以北に追い遣られていた。
関東を目指していた聖武天皇一行400名は、関東への移動を諦め、不破関から折り返し、橘諸兄の別荘がある恭仁の地に、宮を建てた。この恭仁宮への逃避行には、藤原不比等の孫藤原仲麻呂が、前騎兵大将軍正五位下の官位で陪従していた。
天平13年(741年)恭仁宮に遷都した聖武天皇は、国分寺建立の勅を発した。この国分寺建立の勅には、下道真備と僧玄ムの思惑があった。
藤原日本史では、国分寺建立の理由として、凶作や飢餓に苦しむ人民のために建立を計画した、としている。しかし、その下道真備と僧玄ムの本音は、藤原氏が祭祀者として支配する仏寺(756年以前には春日大社は存在していない。)を、国分寺により制御することだ。それは、741年太政官符に、「国分寺は、金光明四天王護国の寺と名づけ、法華滅罪の寺となすとした様に、悪臣邪臣、此の願を犯し破る者を滅するためだ。」、とあることからも、人民の困難を助けるために、国分寺が建立されたわけではない。
藤原氏や藤原氏が支配する仏寺は、仏教思想を日常生活に苦しむ人民に布教するのではなく、その宗教力で土地の私有化を狙っていたのだ。そのための戦術は、藤原不比等が考えていた。それが、墾田永世私財法だ。この法を実行するために、藤原不比等の孫藤原仲麻呂は、ある計画を立てていた。しかし、藤原仲麻呂は、正五位下の官位で、廟堂に上がれない。
この国分寺創建の時点での恭仁宮の廟堂員は、右大臣橘諸兄、知太政官事鈴鹿王、参議大野東人、同巨勢奈弖麻呂、同大伴道足、同藤原豊成、同大伴牛養、同県犬養石次、散位藤原弟貞(長屋王の子)、同百済王南典で、藤原氏は藤原豊成ひとりだけだ。
天平15年(743年)聖武天皇は、紫香楽宮に行きたいと言い出し、その3ヶ月後に大仏鋳造の勅が出された、と藤原日本史は述べている。しかし、その大像が、仏像であったかを、藤原氏側の史料以外で知ることは出来ない。そして、その大像が、仏像であったかを確かめることは出来ない。それは、その大像の首が、855年に落とされてしまっているからだ。現在に残る大仏は、江戸時代製だ。
この大像鋳造の発案は、藤原仲麻呂だ。それには、藤原氏の企みがある。しかし、反藤原氏の聖武天皇にも企みがあった。藤原日本史では、大像鋳造の発案を聖武天皇だとするために、「続日本紀」勝宝元年(749年)に、「去る辰の年(天平12年)河内国大県郡の知識寺にある盧舎那大仏を見て朕も造りたかったができなかった。」、とわざわざ記述しているのは何故か。それは、大像鋳造の発案を聖武天皇にしたかったからだ。史実では、聖武天皇は、河内の知識寺には行ってはいない。
藤原仲麻呂の企みは、地方豪族の土地をタダで取り上げることだ。つまり、豪族の土地の喜捨。知識とは喜捨のことだ。つまり、知識寺とは、喜捨により造られた寺のことだ。
天平15年(743年)聖武天皇は、紫香楽の宮を造るので、橘諸兄の別荘地での恭仁宮の造作を停めた。それは、橘諸兄の後ろにいる下道真備と僧玄ムに、唐帝国玄宗の影を見たからだ。そして、聖武天皇は、左大臣従一位橘諸兄を兼太宰師として降格させた。太宰師とは、従三位相当の官位だ。その後、勝宝2年(750年)橘諸兄のブレーンであった下道真備は、左降し筑前守とされ、左遷された。
反藤原氏の聖武天皇は、藤原仲麻呂による大像鋳造の発案に乗った。藤原仲麻呂の大像鋳造の資金集めは、地方豪族達の土地を喜捨させることで賄うことだ。地方豪族は、欲が深いからタダでは、大像鋳造のためだけには喜捨しない。そこで、723年に発令された三世一身法を緩和して、大像鋳造に土地を喜捨した二倍の開墾を許し、その開墾地を永世に私財としてよいとの、墾田永世私財法を、天平15年(743年)大像鋳造の勅と一緒に発令した。
このことにより、大像鋳造の資金が地方豪族より集まった。その影で、地方に散っていた藤原氏が、私有地にするために、開墾に狂奔した。このことにより、藤原氏の広大な私有地や藤原氏が支配する寺社領が全国に現れた。この法の実施により、唐税制の基本である、公地公民制が崩れ去った。
しかし、反藤原氏となった聖武天皇にも企みがあった。その企みとは、平城京に隣接する藤原氏の都を見下ろす丘の上に、仏教の敵である鬼像を鋳造することだ。
聖武天皇には、光明皇后の他に、広刀自夫人がいた。その広刀自夫人との間に安積王がいたが、16歳の時、突然死去した。それは、藤原氏による暗殺だとされていた。その根拠は、光明皇后との間に基王が生まれたが、一歳で夭折してしまっていた。そこで、安積王が次期天皇候補だった。しかし、安積王が、天皇として即位してしまうと、藤原天皇家の血が絶えてしまうからだ。
安積王は、三笠山に葬られた。その安積王が眠る三笠山に、聖武天皇は、仏教の敵である遍照鬼像を鋳造することを考えた。藤原日本史では、この大像をビルシャナブツとしているが、実態は、遍照鬼で、「遍照」とは、太陽のことだ。つまり、遍照鬼とは、太陽神ミトラのことだ。この太陽神ミトラ像は、平安時代に錬金術師空海により、大仏の大日如来像として改名されてしまう。
その遍照鬼鋳造に協力したのが、藤原氏が支配する奈良王朝から敵視されていた小僧行基だ。小僧とは蔑称で、行基は、高度土木建築技術をもっていた。その訳は、行基の本貫地が、河内と摂津だからだ。それらの地は、明日香ヤマト時代に、秦王国があった。河内平野にあった秦王国は、古墳時代にギリシャ・ローマ文化の古代新羅から、日本列島に渡来してきた漢字アルフアベット(藤原日本史では「万葉語」)を使う民族により興された都市国家だ。河内・摂津が、平安時代に武士源氏発祥の地とするのは、古墳時代に、古代新羅から、太陽神ミトラを祀る花郎騎士団が、その地に渡来していたからだ。その花郎騎士団には、幅広の道路を敷設したり、大運河を造る技術があった。
奈良の大像が、仏像ではなかったことは、その大像鋳造に協力した行基一門が、仏教徒でなかったことでも分かる。行基一門は、近畿一帯で土木事業をおこなっていた。仏教の戒律では、不殺生のため、土中の生き物を殺してはいけないことで、土木事業は破戒となるからだ。奈良朝廷から、小僧と蔑称されていた破戒僧行基は、仏像など造らない。
奈良時代、朝廷に逆らうことを「ケガレ」と言っていた。そのケガレ思想が、平安時代になると、藤原氏に援助されて唐に渡った錬金術師空海が、唐より民族差別のインド思想「施陀羅」を日本列島に持ち込み、中央構造線上にある鉱脈地の高野山から、その差別思想を広めたことにより、奈良時代の「ケガレ」の意味が、汚いの意味の「ケガレ」となり、肉食の騎馬民族を「ケガレ者」として貶めて行くことになる。
752年大像開眼供養の時、宇佐から御輿を担いでお祝いに神官が来ていたのは何故か。宇佐は、古墳時代に秦王国があった地だ。608年明日香ヤマトでアマタリヒシコ男王に謁見した隋使裴世清は、北九州で秦王国を見たと隋帝に報告していた。
行基の住む河内・摂津にあった秦王国のルーツを辿れば、河内秦王国←吉備秦王国←北九州宇佐秦王国←軍神ミトラを祀る花郎騎士団の古代新羅←秦帝国←バクトリア←軍神ミトラを祀るアレクサンドル大王領←太陽神バアルを祀るカナン・イスラエル王国←太陽神の絶対神アトンを祀る古代エジプト←契約の神として太陽神ミトラを祀るヒッタイト帝国、となる。そのヒッタイト帝国では、鉄器の発明があった。その歴史の流れにある民族には、鉄器製造技術があった。その鉄器は、高度土木建築作業には必須道具だ。645年明日香ヤマトを追われた民族は、山奥に逃れた。その頃から、仏敵の鬼が山奥に現れる。その鬼達の武器は、金棒だ。近畿一帯で高度土木建築をおこなっていた行基一行は、鬼だった。
藤原不比等が仕掛けた戦略の目的は、絶対神の天皇を発明し、その現御神天皇の下に、同胞の移民のために土地を先住民から奪うことだ。そのためには、周帝国女帝則天武后から押し付けられた唐令の大宝律令を骨抜きにするために、養老律令を発明し、太政官と同じ権力を持つ神祇官の設置をした。
そして、奈良王朝の支配地管理者を監視する按察使が、その土地の産物を融通できるようにした。そして、日本列島各地にある先住民の神を国津神として、藤原氏の神を天津神としてそこに習合し、その藤原氏の習合神を祀る祭祀者を、藤原氏から派生した中臣氏とした。そして、前政権の神を祀る古墳や宗教施設を破壊し、その跡に、神社(モリ)を建立した。しかし、その藤原不比等が仕掛けた計画が完了するのは、藤原不比等の孫藤原仲麻呂の時代まで待たなければならなかった。
藤原仲麻呂は、聖武天皇に大像鋳造を提案した。そのための資金集めとして、土地制度の改革を提案した。それが、大像鋳造の勅と同時に発令された、墾田永世私財法だ。その法により、豪族の土地を喜捨させることで、豪族の土地は合法的に奈良王朝の土地となる。そして、その奈良王朝を藤原氏が支配することで、日本列島の土地が、藤原氏の支配地となるわけだ。
しかし、藤原氏のロボットであった聖武天皇は、下道真備と僧玄ムの謀略により、反藤原氏となってしまった。そこで、藤原仲麻呂は、天平勝宝元年(749年)正三位大納言となると、藤原不比等の娘光明皇后と図って、翌月、紫微令の令外官を設置した。そして、藤原仲麻呂は、その紫微長官となった。紫微とは、光明皇后直属の機関だ。その権限により、京・畿内および諸国の兵を一元的に統括した。このことにより、反藤原氏の聖武天皇と、藤原氏の光明皇后との、二元的支配体制が奈良王朝に確立された。
光明皇后をバックに紫微長官となり、奈良王朝の軍隊を掌握した藤原仲麻呂に、その年、陸奥国から砂金が発見されたとの報告があった。藤原日本史では、その陸奥国での砂金発見により、大仏の鍍金が可能になった、と述べている。
しかし、日本列島には、縄文時代から、翡翠、琥珀、朱砂などの鉱物を採掘する民族が海外から渡来していて、貴重鉱物が日本列島各地に産出されることは広く知られていた。朱砂は、水銀化合物で、朱砂が産出される場所には、水銀、銀、銅、金などが埋蔵されている可能性がある。縄文時代から、貴重鉱物が採鉱されていたのに、何故、砂金発見の報告が、天平勝宝元年(749年)なのか。
何故、天平勝宝元年(749年)に、陸奥国から金が発見されたと、「続日本紀」に記したのか。それは、藤原不比等の仕掛けの流れを逆にたどれば、その謎が解ける。その流れとは、陸奥国砂金の発見←藤原仲麻呂が軍団を支配する←藤原仲麻呂が紫微長官となる←紫微令←墾田永世私財法←大仏鋳造←陸奥出羽按察使の土地産物融通令←藤原氏を陸奥出羽按察使とする、となる。
天平勝宝元年(749年)に、「陸奥国から金が発見された。」、とした時期は、再び、奈良王朝が、光明皇后と紫微長官藤原仲麻呂により、藤原氏の支配下になったからだ。これにより、陸奥国の豪族達により喜捨された土地も砂金も、藤原氏のものとなった。
しかし、反藤原氏の聖武天皇は、反撃に出た。それは、平城京に隣接した藤原氏の都を見下ろす地に、漢訳仏教の敵、遍照鬼を鋳造し、天皇の位を貶めるため、聖武天皇は、その遍照鬼像の下に、自ら「三宝の奴」と称した。
藤原日本史では、この聖武天皇の言動を以って、聖武天皇が仏教の臣下となり、飛鳥大和に仏教国家が誕生したとしている。しかし、聖武天皇の行動の意図は、その正反対だ。聖武天皇は、藤原不比等が仕掛けた計略を阻止するために、「三宝の奴」となったのだ。
741年藤原氏のロボットであった聖武天皇は、牡牛屠殺禁止の御触れを出した。それは、山奥に逃れていた民が行う、太陽神ミトラを祀る祭祀儀式を禁止するためだ。山奥に逃れたミトラ教徒は、祭祀者の下、旱や凶作を回避するため、三笠山などの山々で、太陽神に太陽の化身である牡牛を屠ることで、犠牲を捧げ太陽神に願をかけていたのだ。奈良王朝では、太陽神や太一(北極星)を祀ることを「左道」と蔑称していた。
しかし、下道真備や僧玄肪と知り合い、反藤原氏となった聖武天皇は、河内出自の反体制の山の民行基一派と知り合うことにより、反仏教にもなった。それらの反体制の民を知ることで、聖武天皇は、藤原不比等が、天皇を現御神天皇とし、そして、仏教を手先として、日本列島を乗っ取る計画を知った。
藤原不比等は、大宝律令に付随して、僧尼令を発して、私度僧が民衆に吉祥を説いてはならないと規制した。それは、周帝国女帝則天武后の戦術を真似るためだ。その戦術とは、漢訳仏寺での情報操作をするため、アルビノ動物(白色動物)の発見を吉祥の前兆として、民衆をコントロールするためだ。つまり、アルビノ動物が発見されたのは、何かの吉祥の前兆だと、漢訳仏寺から情報を発信して、情報操作をするのだ。その戦術を用いて、唐帝国の皇后武氏は、唐帝国を乗っ取ることが出来たため、周帝国女帝則天武后となれた。藤原不比等は、この女帝則天武后の戦術を行い、娘の光明皇后を女帝とするために、僧尼令を発していたのだ。そして、藤原不比等は、娘光明皇后に、女帝則天武后の吉祥戦術を実行するために、仏寺を建立することを指示していた。
光明皇后は、その藤原不比等の戦術を成功させるため、法華寺、海竜王寺、新薬師寺の発願をした。しかし、法華寺、海竜王寺も、もともとは、藤原不比等の私邸の一部を利用して建立したものだ。そして、橘諸兄の発願した国分寺・国分尼寺の構想を壊滅するために、その法華寺を、大和の国分尼寺とした。

オレは、以前から不思議に思っていたことがあった。それは日本国の年号のことだ。日本国の年号は、大宝元年(701年)が最初だ。その日本国初の年号は、漢字二文字で表示されている。しかし、女帝孝謙天皇、淳仁天皇、女帝称徳天皇(=孝謙天皇)の時代、749年から770年までは、漢字四文字となっている。何故だ。
この疑問は、田辺さんのレポートで解消した。その漢字四文字の年号の時代は、近畿一帯は、藤原王国だったからだ。
天平勝宝元年(749年)聖武天皇は、某王を皇太子に立てたが一歳で没したため、娘の安倍皇太子を、女帝孝謙天皇として即位させ、自身は太上天皇となった。このため、皇族出自でもない藤原不比等の娘の光明皇后は、皇太后として、聖武太上天皇と同等の権力を掌握した。それには、藤原仲麻呂が、光明皇后直属の紫微長官として律令軍団を支配していたことも作用した。
漢字四文字の天平勝宝の年号は、光明皇太后が、女帝孝謙天皇の藤原王国誕生を祝い、周帝国女帝則天武后が「天冊万歳」などの年号を用いたのを真似て、創作したものだ。
藤原不比等は、娘の光明子を、周帝国女帝則天武后のように、女帝にすることを計画していた。しかし、藤原氏のロボットだった聖武天皇が、玄宗皇帝の密使である下道真備や僧玄ムらの陰謀により、反藤原氏となってしまった。
そこで、藤原不比等の死後、光明皇后は自分が女帝になることを諦め、娘の安倍皇太子を女帝にすることにした。この計画は、藤原不比等が撒いた種により成功した。それが、「蔭位制」だ。蔭位制とは、三位以上の貴族の子、孫、五位以上の子に、成人すると自動的に高い位階を授ける制度だ。その蔭位制は、氏族社会の母子制を破壊するために考え出されたものだ。騎馬民族の氏族社会では、母子制で、血の流れは母による。だから、女王国が成立する。蔭位制は、騎馬民族の氏族社会を否定するための、父子関係を基本とした。藤原不比等が仕掛けたこの蔭位制により、奈良王朝には、藤原氏の多くの子息が貴族となって入り込んでいた。
更に、藤原不比等は、三位以上の貴族に公的な「家」を設けた。「家」とは、現在の「家」の認識とは異なり、広義の官庁のひとつで、「家令」などその職員は、政府の官人であった。この官庁の「家」を、藤原不比等の子供四人に与え、南家、北家、式家、京家として、奈良王朝の行政に忍び込ませた。このことにより、藤原王国を築く光明皇太后の陰謀を、側面から支援できた。
しかし、天平勝宝6年(754年)「皇太后崩ず。」となるが、光明皇太后と紫微長官藤原仲麻呂との陰謀の数々により、橘氏や大伴氏などの反仲麻呂勢力を屈服させていたので、奈良王朝での政敵はいなくなっていた。このため、重石の光明皇太后がいなくなったので、藤原仲麻呂の暴走が始まる。
天平勝宝8年(756年)聖武太上天皇が崩御する前、聖武太上天皇は次期天皇候補として、天武天皇の孫新田部親王の子である道租王を考えていた。しかし、聖武太上天皇が崩御すると、藤原仲麻呂の陰謀により、道租王は淫縦であるということで、廃太子となってしまった。
天平宝字元年(757年)橘諸兄の子橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂の陰謀により惨殺された。このことにより、奈良王朝には、藤原仲麻呂の政敵が完全に存在しない状態になった。藤原仲麻呂は、藤原不比等の日本国乗っ取りの陰謀計画を実施した。それが、「養老中に朕が外祖父、故太政大臣(不比等)勅を奉じて律令を刊修した。よろしく所司に告げて早く施行するようにせよ。」、と養老律令を実施した。藤原王国の成立だ。そして、藤原仲麻呂は、藤原部を久須波良部(くずはらべ)とし、藤原氏の氏名を独占した。
藤原日本史では、この養老律令の実施により、大宝律令が破棄されたと述べるが、その大宝律令の完全成文が、まったく残っていないのは何故か。それは、大宝律令とは、周帝国女帝則天武后により、周帝国コロニーとなった飛鳥大和を支配するために、押し付けられた、唐令そのものだったからだ。
藤原不比等は、その唐令の大宝律令を養老律令に摩り替える仕掛けを考えていたのだ。しかし、藤原不比等は、天武天皇系豪族の勢力があるうちは、騎馬民族の氏族社会制度を否定して、全て藤原氏に都合よく書き換えられた養老律令の実施をひかえていた。やっと、孫の藤原仲麻呂の時代に、天武天皇系勢力を抹殺できた。そこで、養老律令の実施となった。
唐令の重圧から脱却した藤原仲麻呂は、奈良王朝を間接支配する唐帝国が安禄山の内乱で混乱しているのをよいことに、唐帝国の玄宗皇帝を真似て、大宝律令で定められていた官名を、太政官を乾政官、太政大臣を大師、左大臣を大傅、右大臣を大保、大納言を御史大夫、など唐風名に変えて、日本国の「玄宗皇帝」のつもりとなっていた。
藤原仲麻呂は、藤原不比等の日本国乗っ取りの計画を着々と実施した。藤原仲麻呂は、大炊王に息子真従の後家粟田諸姉を娶すために私第に呼んでいた。そして、藤原仲麻呂の弟で、大炊王を立太子させていた。
天平宝字2年(758年)藤原仲麻呂のロボットである女帝孝謙天皇と藤原仲麻呂が図って、大炊王を淳仁天皇として即位させ、孝謙天皇は太上天皇となった。即位した淳仁天皇は、紫微内相の藤原仲麻呂を大保(右大臣)に任じ、恵美を姓に加え、藤原恵美朝臣押勝とした。
藤原仲麻呂(恵美押勝)は、今度は、淳仁天皇をロボットとして、藤原不比等が描いた世界を、近畿一帯に実現させた。そのひとつが、ミトラ教の儀式で牡牛を屠っていた三笠山の祭祀場跡の空き地の「神地」に、藤原氏の神を祀るための春日大社の建立だ。ここに、藤原不比等が国津神としたミトラ教の三笠山の歴史が、天津神とする藤原氏の神により、歴史上消された。
「続日本紀」養老元年「遣唐使が御蓋山で神祇をまつった。」とあるが、そこには「空き地」があるだけで、春日大社はない。藤原日本史では、「藤原不比等が常陸の鹿島神宮の神を春日御蓋山の頂上にまつったのが春日大社のはじまり。」、と述べている、が、鹿島神宮は、太陽神を祀る祭祀場を破壊した跡に建てられた宮だ。鹿島神宮の建立は、古墳時代後で、伊勢神宮、宇佐八幡宮、出雲大社と同じに、藤原日本史が述べるように紀元前の神代時代の建立などではなく、奈良時代初期で、その歴史はそれほど古くはない。
藤原仲麻呂は、701年大宝律令による唐帝国の間接支配から、藤原王国を独立させることを画策した。それは、貨幣の発行だ。唐帝国は、建国直後の621年「開元通宝」を発行した。この貨幣は、唐帝国との通商を行う国々により、周辺諸国に流通した。この唐の貨幣が国際交易で使われたため、高句麗、百済、統一新羅、吐蕃、南方の南詔などは、唐帝国滅亡まで、貨幣を鋳造していなかった。日本列島だけが、例外的に、古墳時代の明日香ヤマトで「富本銭」が鋳造され、そして、708年「和同開珎」を鋳造していた。
貨幣や為替は、異民族と広域交易を行う、物々交換経済の農耕民族ではなく、交易商業民族でもある騎馬民族が発明したものだ。唐帝国も明日香ヤマトも、その支配者が騎馬民族出自であったため、国際広域交易を行うため、貨幣を鋳造していた。
天平宝字4年(760年)藤原仲麻呂は、国璽(国の印鑑)を私邸に持ち込み、貨幣発行の特権を、藤原氏のロボット淳仁天皇から得た。そして、藤原仲麻呂は、唐帝国の貨幣「開元通宝」が金銭、銀銭、銅銭の三種であるのを真似て、金銭の「開基勝宝」、銀銭の「太平元宝」、銅銭の「万年通宝」を鋳造した。何故、藤原仲麻呂は、私幣を鋳造したのか。それは、藤原氏の出自をみれば分かる。
藤原氏の租は、国際交易国ハザール王国から、南インドを経由して、南九州坊津に渡来していた。藤原氏は、祭祀者の他に、南蛮国際交易者の顔を持っているのだ。藤原氏の租が渡来した南九州坊津は、戦国時代のイエズス会、江戸時代末期のイギリス東インド会社の外洋船が停泊した国際港なのだ。
藤原氏が運営管理した遣唐使船が、往路ではベトナム方面に漂流しないで、帰路の遣唐使船4船組の一隻だけが、何回かの渡唐で、何回もベトナムに漂流していた謎は、ベトナムの手前に、南インドと唐帝国との中継港のマカオがあることで解明できる。唐令の大宝律令の税制で日本列島の民から集めた奈良王朝から唐帝国への貢物の返礼として、唐帝国からの贈り物を満載した遣唐使船が、ベトナムに漂流したのは、唐帝国の物品を、日本列島に運ぶのではなく、マカオに運んでいたからだ。
唐帝国と国際交易をおこなっていたのは、周辺諸国だけではなく、サラセン帝国と対峙していたササン朝ペルシャや東ローマ帝国もそうだ。ササン朝ペルシャは銀銭で、東ローマ帝国は金銭だ。藤原王国を興し、藤原氏を陸奥出羽按察使に指名して東北の砂金や絹製品を合法的に簒奪した、藤原氏国際シンジケート(藤原王国)を支配する藤原仲麻呂が、金銭、銀銭、銅銭を鋳造したのは、唐帝国だけではなく、それらのペルシャ、サラセン、東ローマ帝国などの西域諸国との国際交易を視野に入れていたからだ。因みに、ヨーロッパ→南インド→マカオの藤原氏の南蛮交易ルートで日本列島に渡来した、イエズス会は日本列島石見の銀を、イギリス東インド会社は日本列島の絹製品の強奪を目的に渡来したのだ。
藤原仲麻呂が行ってきたことは、官名を唐帝国の官名に替えたり、唐帝国と同じに三種の貨幣を鋳造したりしたことは、明らかに、唐帝国からの独立を意識したものだ。この藤原王国の唐帝国からの独立を画策した藤原仲麻呂の行動を、唐帝国は手をこまねいて見ていたわけではない。

712年女帝則天武后の残存勢力を一掃した玄宗は、唐帝国を復興させた。玄宗皇帝は、女帝則天武后の日本国経営を復活させるため、717年遣唐使船に、留学生として下道真備(後に吉備真備)と、留学僧として僧玄ムを乗船させることを命じた。735年吉備真備と僧玄ムは、玄宗皇帝の命を受けて帰国した。その命とは、藤原不比等が計画した藤原王国樹立の阻止だ。その第一歩が、聖武天皇の実母宮子の懐柔だ。そのことにより、聖武天皇は、藤原氏のロボットから反藤原氏となった。
反藤原氏となった聖武天皇は、藤原王国設立を目指す光明皇太后と藤原仲麻呂の行動を阻止する行動に出た。それは、藤原氏の手先として振舞う興福寺の壊滅だ。興福寺の僧だけではなく、奈良仏教の僧は、唐帝国では、一人前の僧とは認めてもらえていたわけではない。遣唐使船で入唐した日本国の僧は、雛僧と呼ばれていた。それは、唐帝国で認められた戒壇で得度を受けていなかったからだ。鑑真が渡来する754年以前に、日本国には正式な戒壇で得度を受けた仏僧は存在していなかった。
吉備真備と僧玄ムに支援された聖武天皇は、留学僧として栄叡と普照に密命を授けた。それは、仏法の戒律を伝える僧を探して、日本国に招致することだ。そのことにより、奈良王朝を支配する藤原氏の手先として、治外法権を悪用して寺社内で女犯・男色や賭博などを行い、我が物顔に振舞う興福寺の雛僧を一掃することで、藤原氏の行動を封じることができる。
しかし、遣唐使船を運営管理する藤原氏のため、日本国に戒壇を設け、戒律を授けることに情熱を燃やす唐僧鑑真の渡海は、5回も妨害された。そこで、752年聖武太上天皇は、遣唐使船に吉備真備を乗船させた。この遣唐使船の大使は、藤原王国設立を画策する光明皇太后の後ろ盾により紫微長官として律令軍団の掌握を計画していた藤原仲麻呂の従兄弟、藤原朝臣清河だ。吉備真備の渡唐の目的は、鑑真の招聘だ。それに対して、藤原清河の目的は、鑑真渡来の阻止だ。
玄宗皇帝に謁見した日本国の使節は、帰路についた。天宝12年(日本国では天平勝宝5年/753年)鑑真和上は、弟子僧14人、崑崙人、胡国人、波斯人など都合24人を従え、帰国船第一船に乗船した。しかし、出帆寸前になって、鑑真一行は下船させられてしまった。その謎は、その第一船を指揮するのが、藤原朝臣清河だった。藤原朝臣清河は、奈良王朝(藤原王国)を支配する藤原仲麻呂の密命を遂行したのだ。
しかし、第二船を指揮する副使大伴古麻呂が、鑑真一行を乗船させ、匿った。大伴氏は、古来の豪族で、新興の藤原氏の我が物顔の行動に義憤を感じていたのだ。第三船には、吉備真備が乗船した。すると、前回の遣唐使船で聖武天皇からの密命を受けて鑑真招聘に動いた普照も、第三船に同乗した。鑑真招聘の吉備真備の行動には、聖武天皇の密命を受けた普照の支援があった。
しかし、第一船の藤原朝臣清河の船は、沖縄にたどり着き、そして、沖縄を出港すると、例のごとく、遭難しベトナムに漂着した。不思議なことに、藤原朝臣清河や阿倍仲麻呂など数人を除いて、百数十名の同乗者は、現地人に殺されてしまった、と藤原日本史は述べる。そして、藤原朝臣清河と阿倍仲麻呂は、どうしたことか、唐帝国に舞い戻っていた。

この遣唐使船の第二・三船が帰国する2年前、天平勝宝4年(752年)東大寺の大像の開眼供養がおこなわれた。しかし、藤原日本史が述べるように、聖武太上天皇、光明皇太后、女帝孝謙天皇、文武百官列席の、僧一万人を集めた華やかな奈良の大仏開眼供養式典はなかった。その描写は、平安末期に編まれた「東大寺要録」の記録を素材に、昭和時代の小説家により創作された物語だ。その頃、聖武太上天皇は、銅・水銀中毒により病に臥せっていた。
749年反藤原氏の聖武天皇の権勢が衰えたのを見た、光明皇后と藤原仲麻呂は、謀略を用いて、聖武天皇の娘安倍内親王を即位させた。女帝孝謙天皇の誕生だ。聖武天皇は太上天皇となり、光明皇后は、皇太后となった。そして、光明皇太后と藤原仲麻呂は、女帝則天武后が唐帝国を乗っ取り、周帝国とし、四文字年号を使っていたのを真似て、女帝孝謙天皇による藤原王国誕生を祝して、「天平勝宝」を年号とした。
そして、749年女帝になりそこねた光明皇太后は、聖武太上天皇から律令軍団の指揮権を奪うため、光明皇太后直属の機関、紫微を設置して、その長官に藤原仲麻呂を任命した。このことにより、律令軍団は、藤原王国の指揮下に入った。
そして、翌年の750年紫微長官の藤原仲麻呂は、橘諸兄の影で暗躍する吉備真備を、従四位上から筑前守に左降させ、都から遠ざけた。勿論、藤原氏の政敵である左大臣従一位の橘諸兄は、それ以前の743年に、従三位相当官の兼太宰師とされていた。
この筑前守に左遷させられた吉備真備は、聖武太上天皇に頼み、752年遣唐使に追加遣唐副使として乗船して、鑑真を招聘するために唐に渡った。それに対して、藤原仲麻呂は、従兄弟の藤原朝臣清河を遣唐大使として、鑑真渡来阻止を命じた。

藤原仲麻呂は、女帝孝謙天皇を私弟に行幸させ、そこを御在所とした。そして、子飼いの大炊王を、758年即位させ淳仁天皇とし、女帝孝謙天皇を太上天皇として、藤原王国を支配した。
しかし、藤原仲麻呂の絶頂期は、長くは続かなかった。

天平勝宝6年(754年)入唐副使の大伴古麻呂が、唐僧鑑真とその弟子をつれて帰京した。しかし、鑑真の戒壇設立により興福寺を解体することを計画していた聖武太上天皇は、重い病に臥せっていた。鑑真は、聖武太上天皇の病気平癒を願ったが、756年死去してしまった。ここに、吉備真備の計画が挫折した。
聖武太上天皇の看病に熱心だった鑑真は、大僧都に任命されたが、女帝孝謙天皇が、758年大炊王を淳仁天皇として譲位した時、「鑑真は老齢なので、大和上と呼んで敬い、政事に老い身を労しないように。」、という名目で、僧尼を監督する網(ごう)の任を解かれてしまった。そして、天平宝字7年(763年)この世から去ってしまった。鑑真の「天平の甍」の活躍も、後世の人の物語による。
この鑑真が去った同年、孝謙太上天皇は、「少僧都慈訓は政を行うこと理に背き、綱(ごう)として不適格であるのでその任を解き、衆の議する所、道鏡法師を少僧都にした。」、と述べた。この勅は、孝謙太上天皇の、藤原仲麻呂に対する反乱だ。
何故、孝謙太上天皇は、藤原仲麻呂に反乱したのか。それには、吉備真備の影が見える。吉備真備は、聖武天皇の実母宮子を、僧玄肪が「内道場」の修行により歓楽させ、藤原氏のロボットであった聖武天皇を、反藤原氏にした実績がある。
今回の孝謙太上天皇の反乱にも、僧道鏡がいた。僧道鏡は、「内道場」での孝謙太上天皇との修行を行っていた。その「内道場」での修行(?)に対して、淳仁天皇が孝謙太上天皇を諌めたところ、孝謙太上天皇は激怒して、淳仁天皇を廃して、出家の身でありながら、自ら、764年再び天皇に返り咲いた。女帝称徳天皇の誕生だ。
何故、奈良王朝の律令軍を掌握する藤原仲麻呂を敵にして、出家した孝謙太上天皇が、藤原仲麻呂のロボットである淳仁天皇を、廃することができたのか。その謎は、東アジアの情勢を知ることで解ける。

唐帝国の玄宗皇帝は、744年東突厥帝国を滅ぼした。しかし、度重なる騎馬軍団との戦闘で、国内経済が疲弊した。そこで、玄宗皇帝は、塩に重税をかけた。この処置に対して、塩の闇商人安禄山は、東突厥帝国敗残兵などを取り込み勢力を伸ばしていた。そして、755年安禄山は、公然と唐帝国に武力闘争を挑んだ。この唐帝国全土での内乱を鎮圧できなかった玄宗皇帝は、756年西南に敗走した。その後を、太子の享が即位した。粛宗皇帝の誕生だ。
天平宝字4年(760年)唐帝国粛宗皇帝は、長さ八丈(約24m)の船建造を命じて、唐使沈椎岳に指揮を執らせて、遣唐使高元度一行10名を乗船させ、日本国に向かわせた。そして、一行は、翌年天平宝字5年(761年)平城京に入った。
唐帝国が安禄山軍団との闘争で、日本国経営に手が回らなこいことを好機と見た藤原仲麻呂は、平城京で、701年唐令の大宝律令ではなく、藤原不比等が定めた養老律令が実施した。このことにより、757年から、平城京の都は、藤原王国となっていた。

何故、唐帝国の船が、遣唐使高元度一行10名を乗せて、唐使沈椎岳に指揮されて渡来したのか。そのことを知るには、3年前に遡らなければならない。

698年建国の渤海国の使者楊承慶が、天平宝字2年(758年)「藤原清河らは生きて長安に戻れり。」、との情報を奈良朝廷に伝えた。このことを知った藤原仲麻呂は、自ら、鑑真渡来阻止の密命を授けて唐に渡らせた、従兄弟の藤原清河の迎えを出すことに決めた。そこで、高元度を迎入唐大使使とした。
しかし、藤原仲麻呂は、唐令を廃して、藤原不比等が制定した藤原氏のための養老律令を実施して、実質的に唐帝国から独立した藤原王国としていたので、直接、唐に渡ることが出来なかった。
そこで、天平宝字3年(759年)高元度は、渤海国使の楊承慶と供に、渤海国に渡り、藤原清河救出の要請を、渤海政府に要請した。そこで、高元度一行11名は、渤海国から唐に派遣される賀正使の楊承慶に随伴して唐に向かった。
しかし、高元度は、鑑真渡来阻止の密命を達成できなかった藤原清河を、帰国させることが出来なかった。その高元度に対して、唐帝国粛宗皇帝は、「禄山が乱離に属びて兵器多く亡せり。今弓を造らんとして牛の角を要む。聞くならく本国に牛の角多く有りと。卿、国に帰らば為に求めて使の次にて相贈れ。」、との命令を高元度に下した。その唐帝国粛宗皇帝の命令を受けた唐使沈椎岳一行が、天平宝字5年(761年)平城京に入った。
天平宝字5年(761年)唐帝国粛宗皇帝から命令された、兵器としての牛の角を集め、唐帝国に運ぶために、遣唐使が企画された。そのために、奈良王朝(藤原王国)は、安芸国に遣唐使船4隻の建造を命じ、東海、東山、北陸などの突厥進駐軍の支配地だった国や、秦王国があった山陽、南海の各道諸国に、牛の角7800本の貢納を命じた。それらの諸国は、古墳時代では騎馬民族の支配地であったので、牧畜が盛んであった。
天平宝字6年(762年)安芸国で建造された船が、難波津まで回航された。しかし、不思議なことに、難波の江口に至るに及んで、浅瀬に座標、舵も動かせなくなり、船尾が破裂してしまった。このことにより、唐帝国に牛の角を運ぶための遣唐使が中止された。残る三隻が健在なのに、何故、中止なのか。その謎は、その事件の一ヶ月前にあった。
その一ヶ月前、藤原仲麻呂が、正一位となり、奈良王朝の最高位に就いていたのだ。そして、正一位となった藤原仲麻呂は、遣唐大使石上宅嗣を突然罷免して、従五位上藤原朝臣田麻呂に替えた。この人事変更から、一挙に、遣唐使廃止の流れになった。その過程に、難波江口での難破(?)があった。
唐使沈椎岳が指揮して渡来した約24mの船には、高元度一行10名の他に、誰が乗っていたのか。同長の遣唐使船には、120名から150名が乗船していた。そのことから推測すると、百数十名の唐軍人が乗船していたことが示唆される。
「続日本紀」には、遣唐使についての詳しい情報がない。遣唐使が、唐から書籍など唐文化をもたらしていたとするのは、平安時代の書籍・史料による。実際は、遣唐使船は、唐文化輸入業務もしていたが、唐帝国が日本国経営のために、唐軍人や軍事物資を日本列島に運ぶ手段でもあった。

藤原仲麻呂は、平城京を改修したり、琵琶湖の南端に保良宮を造営したりして、孝謙太上天皇を喜ばしていたが、吉備真備の暗躍で、孝謙太上天皇は僧道鏡の「内道場」での術に陥落して、反藤原仲麻呂となっていた。
そして、762年孝謙太上天皇が親裁を行えたのは、761年平城京に入っていた唐使沈椎岳一行の軍団の存在があった。その2年後、764年孝謙太上天皇は、淳仁天皇を廃した。その孝謙太上天皇の行動に対して、藤原仲麻呂は兵を挙げた。
藤原仲麻呂の反乱軍は、唐使沈椎岳が指揮する唐進駐軍や、山奥に逃れていた明日香ヤマト残党兵により、壊滅された。この乱により、藤原仲麻呂による藤原王国は壊滅したが、藤原氏が消滅したわけではない。それは、藤原不比等により藤原氏を四家に分けた危機管理機構が機能していたからだ。

その藤原氏四家は、状況により結束したり、対立したりして、千年もの時の流れに順応した。その藤原氏は、徳川幕府崩壊直後、明治元年(1868年)左大臣従一位藤原道孝、右大臣正二位藤原家信、同従一位藤原実美などなど、藤原氏が内閣最高幹部として復活できたのは、奈良時代に藤原不比等が創作した「日本書記」と、藤原氏の神を利用して日本国人民を支配するための神祇官を設置した「養老律令」による。明治革命で、藤原不比等が仕掛けた701年設置の神祇官が復活し、そして、奈良時代の「現御神天皇」が、「現人神天皇」として復活した。

その藤原王国も、770年女帝称徳天皇の毒殺により終焉したが、藤原仲麻呂軍団を壊滅した唐進駐軍は、絹製品や金・銀を唐帝国にもたらす日本国経営のため、新羅系の天武天皇系豪族に代わる、新しい傀儡氏族を探した。それが、藤原王国で下級官人として働いていた、母国百済を滅ぼした新羅系の天武天皇系豪族に敵意を燃やす、亡命百済貴族末裔だ。

オレの幻視は、ここで終わった。

奈良時代は藤原氏の時代だった。

オレが、田辺さんに奈良時代幻視レポートをメールしてから10日後に、田辺さんとコンタクトできた。
「カメさん、レポートありがとう。奈良時代という70年間ほどの短い期間なのに、色々な事が幻視できたようですね。」
「結構複雑な時代でした。仏教文化花咲く「天平の甍」のイメージが、オレの幻視に介入するからです。」
「奈良の大仏と遣唐使の奈良時代ですね。その奈良時代のイメージ作りは、学校での歴史教育の成果ですね。それで、カメさんの幻視では、鑑真が平城京で活躍していましたか。」
「それがレポートにも書いたように、全然ナシです。よぼよぼの貴賓のある老僧が現れました。鑑真の弟子は、東大寺の戒壇設立で活躍していましたけどね。でも、藤原日本史では、鑑真は奈良仏教復興で大活躍ですよね。」
「遣唐使はどうでした。」
「それが、藤原日本史では、遣唐使は日本側からの行動としているようですが、唐帝国製の船で、唐の軍人や軍事物資を日本国に送り込み、その帰りに、日本列島の人民から税として集めた絹製品や鉱物などの産物を積み込んでいるのが幻視できました。」
「遣唐使については、「続日本紀」以外の奈良時代の史料がないのです。その「続日本紀」にも、遣唐使について、その目的や渡航の詳しい記述がないのです。最も、遣唐使は、15回程ですが、遣新羅使や遣渤海使は、遣唐使以上の行き来が有るにもかかわらず、「続日本紀」には、ほとんどその記述がないのはどうしてでしょう。遣唐使、遣新羅使、遣渤海使については、奈良王朝には知られたくない歴史があったようです。」
「でも、遣唐使についての「歴史」が、多くの書籍に記述されていますよね。」
「それは、平安時代に創作された史料を基に、創作された歴史です。「続日本紀」も、平安時代初期に、桓武天皇が監修して、内容の一部を改竄しているのです。」
「すると、現在に伝わる1286年平安王朝以来の御用史家の卜部家が写本したと云われる「弘安本」の「日本書記」と同じに、「続日本紀」も偽書ということですか。」
「そこまでは言えませんが。公に著された歴史書は、敗者ではなく、勝者の歴史です。「日本書記」も「続日本紀」も、そいう観点から言えば、勝者の歴史書です。しかし、敗者の歴史書は、公には現れません。ですから、敗者の歴史を推測するには、勝者の歴史書の行間を「読む」必要があるのです。」
「行間ですか。難しいですね。」
「そこで、敗者の歴史を知るために、カメさんの幻視が必要なのです。」
「でも、幻視は、あくまでもイメージで、史実ではありませんよ。」
「歴史に完全な史実などありません。歴史は、個人の史観により、客観性を装う物語です。百人いれば、百の歴史があっていいのです。」
「すると、私小説みたいですね。」
「私小説と、一寸違うのは、客観性ということです。その歴史物語が、多くの人に認められる証拠を示す必要があることが、私小説と異なるところです。ところで、藤原不比等を幻視できましたか。」
「オレの幻視に突然現れたのが、35・6歳ぐらいの壮年です。それ以前の藤原不比等は、日本列島では幻視できませんでした。」
「風体はどうでした。」
「それが、背が高く、鼻高で、顔に真っ白に白粉を塗っていました。金髪で碧眼です。どうみても白人です。何故、白粉を塗っているのか理解できません。あまりにも異様なので、レポートには書きませんでしたが。」
「顔に白粉を塗ったのは、二つ理由があると考えます。ひとつは、周帝国女帝則天武后は、アルビノ動物は吉祥の前兆で、縁起が良いと漢訳仏教僧から人民に宣伝していたからです。その漢訳仏教僧によるプロパガンダのアルビノ動物戦術により、唐帝国の皇后武氏は、唐帝国を乗っ取れたのです。女帝則天武后により、日本国経営のエージェントとして送り込まれた藤原不比等は、通訳兼祭祀者として、顔に白粉を塗ってアルビノ人間に変身することで、被支配者となった明日香ヤマトの豪族や日本列島先住民を惑わせたのでしょう。そして、もうひとつは、白人種の特徴を、白粉を塗り、眉を額に書くことにより、目立たなくしたのでしょう。」
「すると、白粉を顔に塗っていた平安時代の貴族は、白人種ということですか。」
「全部が全部ではないでしょう。亡命百済貴族は、ツングース系の黄色人種でノッペリ顔ですから、白人種ではないようです。白人種は、藤原氏系です。」
「その藤原氏白人説の根拠でもあるのですか。」
「東北には、白色・碧眼の人が今でも見受けられます。色白の新潟美人などもいます。」
「新潟美人は、雪が影響した、と巷では云われていますが。」
「雪は、雪焼けして色黒になりますから、答えになりません。やはり、新潟や東北には、白人種が渡来していたようです。」
「そういえば、岩手県にヘライ村があって、キリストの墓があると云われていますよね。」
「キリストが渡来していたかは確証がありませんが、ユダヤ教に改宗した白人種民族が、東北に渡来していたことは推測できます。朝廷を支配していた藤原氏は、奈良時代に藤原不比等が、同胞を日本列島に移民させるために、東北の地を支配する手段として、令外官の陸奥出羽按察使を設置して、藤原氏をその職に任じて、平安末期陸奥国の蝦夷を平定して職務がなくなっているのに、明治革命までその職にいましたからね。」
「その流れに、黄金の奥州藤原三代の時代があるわけですね。」
「そです。それに、戦国時代から江戸時代にかけて、仙台湾にはイスパニア王国の貿易船が、火薬原料のチリ硝石を満載して入港していたほど、国際交易人の顔がある藤原氏の影が、東北にはあるのです。」
「藤原日本史では、平安時代まで、東北は、未文化で未開の地と述べていますよね。」
「東北の岩手以南には、巨大前方後円墳が築かれていたように、古墳文化圏であったので、平安時代まで、東北が未開地であったわけではないのです。相似形の古墳を東北の各地に築くには、測量法や幾何学を知っていないとできません。それに、秋田の日本海沿岸から明日香ヤマトまで、谷を埋め、峠を切り通し、幅広の路を築くには、高度土木技術が必要です。それらの遺跡を残した民族が、未文化であるはずはないのです。奈良時代と同じに、東北の歴史も、藤原氏にとって、公に知られたくない歴史があったようです。」
「そう言えば、藤原日本史では、奈良時代から律令軍が、陸奥国の蝦夷と戦うわけですよね。オレの幻視では、その蝦夷ですが、アイヌ民族と異なる風体で、騎射を得意としているのです。ユーラシア大陸の、短弓と反って片刃の腰刀で武装した騎馬民族そのものです。」
「藤原日本史では、蝦夷を野蛮人として描写していますね。しかし、陸奥国の蝦夷は、百数十年間も、中国製武器の弩(おおゆみ)や太刀で武装した律令軍何万と戦っていたのです。その蝦夷の戦闘術は、ユーラシア大陸での戦いで学習したものです。陸奥国の蝦夷には、ユーラシア大陸から流れる歴史があるのです。その蝦夷の歴史を知れば、騎馬民族が支配した明日香ヤマトの歴史が現れてしまうので、藤原日本史では、蝦夷については触れたくないようです。」
「明日香ヤマト時代の蝦夷と言えば、大臣の蘇我蝦夷がいますよね。藤原日本史では、645年「大化改新」により蘇我氏が滅び、その時、天皇紀と国紀を燃やしたのは蘇我蝦夷ということになっていますよね。何故、大和朝廷の大臣の名前が、藤原日本史では野蛮人とする「蝦夷」なんですか。」
「日本列島の古代史に登場する地名・人名の多くは、漢字二文字で表されています。しかし、その漢字二文字での表記法は、奈良時代の713年好字令以前には、存在していなかったのです。ですから、古墳時代に活躍した蘇我蝦夷が、その当時、蘇我蝦夷であったわけはないのです。蘇我蝦夷の表記は、713年好字令によるからです。」
「すると、蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿は、飛鳥大和には存在していなかったのですか。因みに、稲目、馬子、蝦夷、入鹿の名は、「蔑称」と言われていますね。」
「そうです。それらの名は、蔑称です。その飛鳥大和の地名表記も、713年好字令以降からです。」
「誰が、何の為に、好字令を考え出したのですか。」
「藤原不比等が、考えられます。それは、古墳時代の騎馬民族の「蘇我氏?」が支配した歴史を消すためです。藤原日本史で述べる飛鳥時代(=古墳時代)の歴史物語は、奈良時代に、藤原不比等の指導の下に創作されたのです。奈良時代に、藤原不比等により、日本古代史が創作され、その影響により、1300年後の明治革命で、「現人神」が現れたのです。「現人神」の原型は、奈良時代にあるのです。奈良時代の藤原氏の歴史を知ることにより、万世一系の「天皇家」が、神代の古来から日本列島を支配したとする物語の謎が解けるのです。」
「そのナベさんの説に、何か裏付けでもあるのですか。」
「それは、天武天皇以前に、日本列島には「天皇号」などなかったからです。樹木の「藤」は、幼木の時、支柱になる大木に絡みつき成長していくのです。そして、徐々に成長し、やがて、その支柱の大木を絡め執って、「藤の大木」となっていくのです。」
「その喩え、どういう意味ですか。」
「藤の木が「藤原氏」で、支柱が「天武天皇家」と言うことです。」
「それは言えますね。オレの幻視では、天武天皇の10皇子は、藤原氏により次々と消されていましたからね。その天武天皇の皇子に、藤原の娘を「接木」していることは、正に、藤の木の成長物語ソックリですね。」
「その「接木」戦略に平行して、藤原不比等の仕掛けたトリックは、平成の現在まで見破られていないほど、完璧だったようです。」
「それって、何ですか。」
「天津神と国津神の創作です。そして、その二神を習合して、ユダヤ教の神ヤハヴェのような唯一神・絶対神「現御神」とするのです。そして、その「現御神」と「天皇」を習合して「現御神天皇」とし、その「現御神天皇」から勅を発して、藤原氏の思うように政事を行うことにより、日本国の歴史を乗っ取ったのです。」
「そのこと、もっと分かり易く説明願います。」
「藤原氏の神を天津神とするのです。そして、被征服民族の神を国津神とするのです。そして、その二神を習合して絶対神「現御神」として、その「現御神」から国津神に、供物と叙位・叙勲を与え、その「国津神」を「現御神」の支配下の神としたのです。」
「その藤原不比等の戦術は、成功したのですか。」
「簡単にはいきませんでした。しかし、神には「物欲・名誉欲・性欲」はありませんが、生身のひとには、その三欲があります。藤原氏は、諸国3134座の神社(モリ)に班幣を授けるのに、701年(大宝元年)から881年(元慶元年)まで、180年間をかけたのです。」
「しかし、オレの幻視には、平城京には神社(モリ)が全く見えませんでしたけど。」
「平城京遷都の710年は、周帝国女帝則天武后が死去してから5年しか経っていません。まだ、周帝国進駐軍の残存勢力が飛鳥大和に残っていました。周帝国は、唐帝国を乗っ取った戦略を日本列島に持ち込み、仏寺を侵略拠点として日本列島を経営することを計画していたのです。そのため、藤原不比等は、藤原氏の神を祀る施設の建設時期を先延ばしにしていたのです。」
「その代わりに建てたのが、仏寺の興福寺と言うわけですね。平城京遷都の頃には、藤原氏の勢力は、かなりのものだったようですね。」
「そうです。残る天武天皇の皇子は、舎人皇子と新田部皇子、そして、高市皇子の子長屋王です。抵抗勢力を一掃した藤原不比等は、平城京の東側に隣接する、藤原氏の都を築いていましたからね。その藤原氏の寺の歴史には、何かを隠蔽する仕掛けがあったようです。」
「どんな仕掛けですか。」
「興福寺は、移築されたとするのですが、その移築年度が分かりません。「続日本紀」には、「養老4年10月17日に造興福寺仏殿の司をおいた。」、とあるだけです。その移築の流れは、天智天皇8年(669年)山城国に山階寺を創建、その寺が大和国厩坂に移り厩坂寺となり、その寺が興福寺として移築された、とするのです。カメさん、この移築の説明どう思いますか。」
「たしかに臭いますね。まず、天智天皇8年が気にかかります。弟の天武天皇より「4歳年下」の兄である天智天皇は、実在の天皇ではありませんよね。それに、山城国は、645年以前は、山背国で、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した秦氏の支配地でしたよね。そして、大和(ヤマト)の語源は、海辺や川辺と同じで、山辺の意味で、「厩坂」は、山裾に広がる地で「馬の牧草地」を連想させますよね。このことから、騎馬民族の明日香ヤマトの支配地を占領した、軍団の砦(仏寺)の移転の流れが考えられますね。」
「そのようにも考えられますね。北魏の時代から、護りに堅牢な仏寺は、仏像安置の他に、武器安置の砦でもあったのです。このことを知った北魏太武帝は、446年から452年に暗殺されるまで、仏教弾圧をしていたほどです。時代が飛びますが、戦国時代、織田信長が爆殺された深堀を廻らした本能寺は、藤原氏が南蛮から仕入れた武器・弾薬を戦国大名に売るための保管庫でもあったのです。」
「では、砦である興福寺は、いつ頃移築されたのですか。」
「「続日本紀」には、藤原不比等の一周忌に、女帝元明天皇が八角堂をつくり、弥勒仏を安置した、とあるからその前と考えられます。藤原氏の氏寺の歴史に不思議があるように、藤原氏の神を祀る春日大社にも不思議があるのです。」
「どんな不思議ですか。」
「興福寺の移築年度が分からないように、春日大社の創建年度も分からないのです。春日大社が創建された地は、天平勝宝8年(756年)に著された「東大寺山堺四至図」には、空き地の「神地」となっていたので、春日大社の創建は、その756年以前ではないはずです。「社」は、氏神を祀る施設です。その藤原氏の神を祀る春日大社の祭神に、不思議があるのです。通常でしたら、藤原氏の租神はアメノコヤネノミコトですから、その神を第一に祀るはずです。しかし、春日大社では、そうではないのです。春日大社の祭神は4柱です。その第1柱は、白い鹿に乗って鹿島神宮から遣って来たタケミカツチノオオカミです。そして、第2柱は下総国香取神宮の神フツヌシノミコト、第3柱は河内国牧岡神社のアメノコヤネノミコト、第4柱は河内国牧岡神社のヒメガミ、とするのです。カメさん、これどう思いますか。」
「不思議ですね。藤原日本史では、藤原氏の租は、アメノコヤネノミコトになっていますよね。その藤原氏の租神アメノコヤネノミコトが、どうして、野蛮人の蝦夷が棲む未開地とされる関東の神よりも位が低い、第三殿に祀られているのですか。それと、鹿島の神は、何故、白い鹿に乗って飛鳥大和に渡来したのですか。オレには、理解できません。」
「藤原氏には、謎が多くあるように、その祀る仏や神にも不思議があるのです。そもそも、藤原日本史によれば、仏と神は、飛鳥時代には神仏戦争をしていた間柄です。それが、奈良時代になると、藤原氏は、仏も神も同時に祀るのは何故でしょうか。」
「春日大社の鹿島と香取の神も蝦夷の国の関東から「転勤」(?)させたのは、興福寺の移築物語と同じに、前政権の明日香ヤマトで祀られた神を消すためかも。」
「そう考えられますね。鹿島神宮の神が、白い鹿に乗って飛鳥大和に現れた、とするのは、関東の騎馬民族の支配者が壊滅されたことを意味していることが示唆されます。」
「どう言う理由ですか。」
「鹿は、騎馬民族スキタイの聖獣で、シンボルです。騎馬民族末裔の武士が被る冑の角は、牛と鹿の角をイメージして付けられていたのです。」
「牛と鹿の角が、冑の飾りのルーツですか。」
「牛の角は太陽神ミトラを祀る花郎騎士団末裔で、鹿の角は北極星を祀る騎馬民族突厥進駐軍末裔と言うことです。奈良時代に、騎馬民族の神を、春日大社の神とすることで、関東の騎馬民族敗残兵を従属させたと考えます。しかし、陸奥国の騎馬民族・蝦夷は、平安時代まで健在でした。」
「同族の天武天皇の皇子末裔を守るための統一新羅軍団の九州への侵攻を防衛するために送られた防人が、全て、東国人であったことは、ナベさんのその説明で納得できますね。では、藤原氏の租神よりも、鹿島の神を上位にしたのは、何故ですか。」
「藤原氏には、本当の神がいるからです。アメノコヤネノミコトは、真の藤原氏の神ではないからです。日本神話物語は、奈良時代に、藤原不比等により、日本列島の神を支配するために創作されたものです。ですから、それらの、興福寺や春日大社で祀られる仏や神は、藤原氏にとっては、どうでもよいものです。」
「藤原氏か祀る本当の神とは、何ですか。」
「私には、断定できませんが、藤原氏の支配下の祭祀者の中臣氏が神を祀る儀式が、ユダヤ教の儀式と酷似していることが、ヒントになると思います。」
「誰も口に出してはいけないとする、唯一神ヤハヴェですか。」
「そうとも言えますね。」
「そうだとすると、藤原氏が、敵対していたとする仏と神を同時に祀る意味が分かりますね。仏と神を習合して支配するテクニックは、天津神と国津神を習合して「現御神」を創造したことに繋がりますね。」
「奈良時代に、神が仏の化身として現れたとする「本地垂迹説」が発明されたことは、藤原氏による、そのような戦略だったかもしれませんね。藤原氏の陰謀が優れていることは、その仕掛けのスケールが大きいことと、その陰謀を実施する前に、綿密な仕込みをおこなうことです。」
「仕込みって、どういうことですか。」
「藤原氏の神を祀る春日大社を創建する前に、神宮寺を建てていたのです。」
「その神宮寺って、何んですか。」
「仏と神を祀る施設です。」
「何故、そんなもの造るのですか。」
「神宮寺が歴史上現れたのは、「籐氏家伝」によれば、霊亀(715年〜716年)の頃、藤原不比等の息子南家の藤原武智麻呂が、「神が、どうか私のために寺を造り、私の願いを助けてください。」、との夢を見たからとするのです。」
「それって、変ですよね。神が、何故、神宮ではなく、神宮寺を願ったのですか。仏寺は、神の敵の仏が安置されている処でしょ。藤原日本史では、飛鳥時代に、蕃神(あたしくにのかみ)の仏を祀ると、従来からの国津神が怒る、と言っていましたよね。では、飛鳥時代の神は、どんな所に居たのですか。」
「そう言われれば、藤原武智麻呂の夢は不思議ですね。そこで、「籐氏家伝」では、「私は宿業によって長い間神となっています。今仏道に帰依し、福業を修行しようと思うのです。」、と説明するのです。」
「すると、その当時、神は、仏より下の存在なんですか。」
「奈良時代初期、女帝則天武后により日本列島に送り込まれた漢訳仏教の思想では、前政権の明日香ヤマトの神は「天」の範疇に位置づけられていたのです。その漢訳仏教の思想によれば、この世は、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天、の六道に別れていて、仏教の修行により、その六道の輪廻する苦しみから解放される、とするのです。周帝国進駐軍が存在していた奈良時代初期では、神も「天」での六道の苦しみの世界にいたとするのです。その六道の苦しみから、「神身離脱」するには、仏教による供養が必要だ、と漢訳仏教では宣伝していたのです。」
「神が、苦しみが輪廻する六道にいたのですか。だったら、藤原日本史の、廃仏派の物部氏が仏寺を燃やし、仏像を難波の堀江に投棄したとする神仏戦争物語の意味が分からなくなりますね。この飛鳥時代では、仏寺が燃やされ、祟りをする仏像は捨てられる存在だった、のですよね。」
「その飛鳥時代とする神仏の謎は、645年以前の「神」は藤原氏の神ではなかった、とすることで解けます。それらの神は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した景教の太陽神ミトラと、ユーラシア大陸から騎馬民族突厥進駐軍と供に渡来した道教の北極星(太一)であったのです。」
「そう考えれば、漢訳仏教の言っていた、苦しみの世界にいる「神」の意味が分かります。被征服民の神は、征服側の漢訳仏教にとって、「鬼」ですからね。」
「その鬼が、日本列島の歴史上に現れるのが、漢訳仏教が進駐してきた奈良時代です。」
「山奥に棲む鬼が、仏教の敵ということは、ナベさんの言うように、645年以降に漢訳仏教と供に侵攻して来た唐進駐軍により、山奥に追われた明日香ヤマトの神だったのですね。」
「私は、そのように考えています。」
「すると、山奥で多くの人を集めて、近畿一帯で高度土木作業をしていた行基が、反藤原氏となった聖武天皇の命を受けて、平城京に隣接する藤原氏の都を見下す丘の上に、仏教の敵である遍照鬼鋳造に協力した意味が分かりました。古墳時代に秦王国があった河内を本拠地とする行基は、仏教僧などではなく、太陽神ミトラを祀る景教徒だったわけですよね。」
「しかし、平安時代になると、その太陽神の遍照鬼は、藤原氏をスポンサーとする錬金術師空海により、太陽神の大日如来に改竄されてしまったのです。」
「でも、藤原日本史では、行基は、最初は小僧行基と言われていたのに、死の直前には、仏教の高僧である大僧正となって、ひとびとから行基菩薩と慕われていたのですよね。」
「それは、藤原日本史得意の、敵の歴史を取り込んで敵の歴史を抹殺する、敵対者の歴史を消すためのテクニックです。絶対神である「現御神天皇」の聖武天皇は、自ら、遍照鬼に額ずいて「三宝の奴」と宣言していたのです。その反仏教の聖武天皇の命を受けた行基が、仏教僧であるはずはないのです。公の歴史書は、全て勝者のものです。奈良時代の出来事を記した「続日本紀」は、平安時代初期に、百済系桓武天皇により、明日香ヤマトの祭祀者の歴史を消すために、改竄されていたのです。」
「でも、藤原日本史では、聖武天皇は、東大寺を拠点として、全国に国分寺と国分尼寺を建立して、庶民の幸福を祈願した、と述べていますよね。東大寺の大像が、反仏教の遍照鬼だとすると、矛盾しませんか。」
「その答えは、もし、国分寺や国分尼寺に仏像を安置して庶民の幸福を願ったとするならば、全国各地に造られたとするそれらの寺に安置されていたとする仏像が、一体でも現存していてもよいはずです。しかし、一体も現存していないのです。」
「インドの鬼でも、何でもかんでも仏像としてしまう仏教寺にしては、それは不思議ですね。」
「時代が飛びますが、平安時代末期、「平氏」の北条氏に担がれた「源氏」の源頼朝は石橋山の戦いで「平家」に敗れ、千葉に逃げるのですが、ペルシャ系海洋民族「平家一族」に敗れ、山奥に追われ隠れ棲む「源氏残党」を集めるために、仏像(?)も安置されていない廃墟となった国分寺を拠点としていたのです。仏教文化花咲くと云われる平安時代に、仏寺が廃墟になっているのは何故でしょうか。その答えのひとつとして、その国分寺は、仏像を安置する仏寺ではなかったということです。」
「源氏と言えば、その租は、太陽神ミトラを祀る花郎騎士団ですよね。」
「そうです。古墳時代、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した騎士団です。その国分寺の聖武天皇への発願者は、仏寺の興福寺を支配していた藤原氏に敵対していた、橘諸兄です。その国分寺に、どのような像が安置されていたかは分かりませんが、仏像でないことは確かだと考えています。」
「こうして、ナベさんとチャットしていると、「天平の甍」の奈良時代のイメージが、だんだん崩れていきますね。奈良時代って、本当は、どんな時代だったのですか。」
「ひとは、本当の歴史など、知ることはできません。それは、歴史は、史料や遺跡・遺物により復元されるからです。その遺跡や遺物は、自ら歴史を語れません。その遺跡・遺物や史料を基に、ひとが物語りを創るのが歴史です。文字や言葉は、ひとの意識を介して、ひとに伝わります。その時、発信者と受信者とのイメージ変換が、同等と言うことは稀です。更に、受信されたイメージは、受信者の情報倉庫にある過去の情報を動員して、再構築されることにより、「意識」されます。こうやって、カメさんとチャットしていても、私のイメージそのものが、カメさんに到達しているかは疑問です。」
「何か、難しい話になってしまいましたね。では、ナベさんは、奈良時代をどのように認識しているのですか。」
「私のイメージでは、奈良時代は、藤原氏の時代だと思います。」
「藤原氏の時代とは?」
「藤原氏が、日本列島に現れて、これから日本列島を乗っ取るための基礎作りをしていたのが、奈良時代だと考えています。」
「具体的に、基礎作りとは何を指しているのですか。」
「日本列島民を支配する「法律」と、それに従わせる「仕組み」です。その「法律」とは「養老律令」で、そして、「仕組み」とは「現御神天皇」に「藤原の女」を側室として召しだす「五節の舞」などの儀式と、人民の精神を呪縛するための「神社」(モリ)による宗教ネットワークです。」
「その基礎作りの「養老律令」は理解できますが、奈良の平城京には「神社」(モリ)がなかったはずですが。」
「藤原不比等は、目先のことを考えていなかったのです。その基礎作りの結果が、明治革命で実現するのです。明治革命後、前政権の神(怨霊)を鳥居と注連縄で封じ込める「神社」(モリ)は、「ひと」を「神」として祭る「神社」(ジンジャ)として変身して、日本国人民を思想的に支配して行くのです。そして、奈良時代の「現御神天皇」が、「現人神天皇」となって、日本国を統治していくのです。この明治時代の世は、1300年前の奈良時代に、藤原不比等がイメージしていた世だったのです。」
「では、「五節の舞」が、どうして天皇に藤原の女を側室として召しだすシステムとなるのですか。」
「藤原不比等は、天武天皇が、天皇として即位する儀式の大嘗祭から派生させて新嘗祭の儀式を発明するのです。その新嘗祭の儀式の中に「五節の舞」を挿入したのです。」
「大嘗祭って、天皇が即位するための一世一代限りの儀式ですよね。そして、新嘗祭は毎年行う収穫祭ですよね。その収穫祭の時に行う儀式が、「五節の舞」ですね。」
「そうです。藤原不比等は、明日香ヤマト残党軍に支援された天武天皇が考え出した大嘗祭の儀式を、新嘗祭の儀式により、その歴史を消すことを考えたのです。」
「どういうことですか。」
「大嘗祭の儀式は、花郎騎士団と突厥進駐軍との宗教儀式を折衷したものです。大嘗祭を行う祭日は、冬至です。この日は、太陽神ミトラが再生する、ミトラ教の聖日です。そのミトラ教の祭日の冬至に、騎馬民族突厥が祀る北極星(太一)から天皇としての「命」を授けられるのです。天武天皇は、北極星の天帝から、地上の支配権を授けられた者であったのです。天武天皇は、決して、ユダヤ教の唯一神ヤハヴェのように、絶対神の「現御神」などてはなかったのです。」
「新嘗祭が「冬至の祭り」とは、キリスト教の「クリスマスの日」を思いだしますね。」
「その「クリスマスの日」は、ローマ帝国の国教となったキリスト教徒が、ローマ帝国軍団が祀っていた軍神ミトラの歴史を消すために、キリスト教のイエス・キリストの誕生日としたのです。そのキリスト教の戦術を、藤原不比等が真似て、大嘗祭の日に、農耕民族の祭りの収穫祭としての新嘗祭を被せて、ミトラ教と道教との大嘗祭儀式の歴史を消したのです。藤原日本史では、日本民族を単一の農耕民族としていますが、古墳時代以降の日本列島には、アズミ族の海洋民族も、チュルク系突厥の騎馬民族も暮らしていたのです。」
「そう言えば、11月下旬に行う新嘗祭は、太陽暦ではなく、太陰暦では12月下旬ですよね。通常、農耕民族の収穫祭は「秋」ですよね、それが、冬至の「真冬」に収穫祭は不思議ですね。」
「その真冬に行われる新嘗祭の時、藤原の娘が、天皇の前で、羽衣のような透き通る衣を着て舞うわけです。その舞の日夜行う練習を何ヶ月も前から、天皇は側で見学できるのです。そして、その「五節の舞」の儀式で舞う気に入った舞姫は、天皇の側室となるのです。」
「そのシステムは、いつまで続いていたのですか。」
「戦国・江戸の武士の時代には廃れていたのが、明治革命で藤原氏が復活して、昭和の時代まで「五節の舞」により藤原の娘を天皇の側室として贈り続けていたと聞いています。近代までの詳しいことは、「不敬罪」の法律と「明治天皇のかぶら」の暗躍により闇のベールの中です。藤原不比等は、天皇家の祭祀業務を藤原氏から切り離し、中臣氏に専属させていましたから、時代の流れで藤原政権ではない時でも、天皇家の儀式は、藤原氏が支配する中臣氏が独占できたのです。」
「恐るべし藤原不比等ですね。」
「如何に優秀な藤原不比等でも、山奥に逃れた民族により受け継がれていくミトラ教や道教の宗教儀式や、それらを祀る民族の言葉や風習を消すことは困難です。そこで考え出されたのが、「ケガレ」思想です。」
「ケガレって、汚いことの意味ですか。」
「違います。奈良時代の「ケガレ」とは、王権に逆らう行為のことです。「ケガレ者」とは、平城京を支配した藤原王国に逆らう「反体制者」のことだったのです。その奈良時代の「ケガレ」思想が、流浪する芸能民が現れる平安時代になると、現在に通じる、血の禁忌と肉食を悪とする意味の「穢れ」となっていくのです。」
「そうなんですか。知りたいですね、その「ケガレ」から「穢れ」への変革を。」
「今日は、ここまでにしましょう。又、レポート送ります。次は「平安時代」です。」
「レポート、楽しみにしています。お休みなさい。」
「では、お休みなさい。」

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/768.html

記事 [経世済民82] シャープ、最大1500億円増資 来月実施へ最終調整(産経新聞) 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130912-00000115-san-bus_all
産経新聞 9月12日(木)15時26分配信


 シャープが、1200億〜1500億円の増資を10月中に行う方向で最終調整していることが12日、分かった。1千億円程度の公募増資と、デンソーなどを引受先とした第三者割当増資を組み合わせて調達。来週にも発表し、財務基盤の立て直しを図る。

 シャープの自己資本比率は6月末時点で6%まで低下している。今回の大規模な増資により、大手家電メーカーの標準的な水準に近い10%程度まで改善する見通しだ。増資をめぐっては、当初は8月中に発表し9月下旬に払い込むスケジュールが検討された。しかし、韓国サムスン電子との複写機事業の共同事業交渉が白紙となったことなどから、延期された。

 一方で米アップルが20日に発売するスマートフォン(高機能携帯電話)「iPhone(アイフォーン)」新モデル用の液晶パネルを受注した夏以降は工場の稼働率が向上。2020年の東京五輪の開催が決まって株式市況が安定していることなどから、資金調達は可能と判断した。また、シャープはデンソーと建材大手のLIXIL(リクシル)グループ、電動工具大手のマキタとの間で数十億〜100億円程度の第三者割当増資の交渉を進めている。

                  ◇ 

 12日の東京株式市場でシャープ株に売り注文が殺到し、一時、前日終値比26円安の360円まで値下がりした。巨額の公募増資による株式の希薄化の見通しが嫌気された。


http://www.asyura2.com/13/hasan82/msg/405.html

コメント [政治・選挙・NHK153] さらば、「小沢信者」どもよ。私は、なかば冗談のつもりで、言い換えると半分は本気で、「元祖小沢信者」を… (山崎行太郎)  笑坊
05. 2013年9月12日 15:44:16 : BMyVEm5F4Q
>>04


⬆お前ほどじゃねーだろう?

コメント [原発・フッ素33] 安倍首相「完全にブロック」は嘘/小出裕章さん「こんな軽々しい発言をする人を一国の首長に持っていることが、大変恥ずかしい」 gataro
63. 2013年9月12日 15:45:04 : N51XAyPDfk
「人間の屑」「ゴキブリ」「ウジ虫」「糞」などといった言葉に心底うんざりしている。
小出氏擁護も批判も結構だが、反原発を掲げるなら、京大原子炉の休廃炉問題についても深く考えてほしい。
京都大学原子炉実験所は、反原発派にとっては熊取六人衆が所属する(した)場所として知られているが、主流はあくまで推進派である。
近隣住民の反対を弾圧するかたちで造られたものだ。
「火力発電の事故ほどの費用で良い」などと言った発言をみると、むしろ推進派の回し者かと思う。住民が被る被害など、どうでもよいという考えがあるのではないか。
「医療目的とか代替が利かない重要性」に到っては意味不明。
大阪の水道水は、福一事故以前から核汚染されていて、京大の老朽液体放射性廃棄物処理施設からの排水である可能性が高い。
百歩譲って実験炉が必要だとしても、やたらに高い研究費をぼったくるくせに設備には金を掛けず老朽化するままに放置しているのが問題でなくて何だというのか。

因果関係は不明だが、瓦礫焼却期間中に、健康被害が多数報告されている。特に呼吸器系疾患が増えている。
北港処分場は放射性物質に対応していないことは周知のことだが、大阪湾に核が漏れ出すのは間違いない。
舞洲工場のメンテナンスや解体時には、放射性廃棄物が出るが、おそらく、しらばっくれて産廃として処分されるだろう。
大阪瓦礫焼却で小出氏が果たした役割は、瓦礫焼却反対運動に対してマイナスに働いた。
氏自身が 重視する自責の念と自己責任を持って、事後の対応を期待する。
小出氏が誠実な人物であれば、期待は外れることはないだろう。

「京大原子炉の休廃炉問題」
http://homepage3.nifty.com/ksueda/kumatori.html

コメント [原発・フッ素33] 「安倍は狂っている。本当にこんなことを言ったんだ!とんでもない事態になった:藤原直哉氏」(晴耕雨読)  赤かぶ
69. 2013年9月12日 15:46:15 : 4BzJ3h1uyY
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51899061.html

コメント [原発・フッ素33] 福島原発告訴団は菅さんを告訴していない (あつし@草莽 日記) ハニーBee
30. 次郎 2013年9月12日 15:47:10 : FV0BoL10KVXeM : 5GFBiaNZBE
右翼と言うより犯罪集団でしょう。日本には本当の右翼がいた。今もいるかもしれないが何故か出てこない。あきれているのかも。原発事故の責任は歴代の内閣であり政府である。つまり自民党が一番の責任政党である。それに現在でも原発を推進しようとしているじゃありませんか。1>なんて恥ずかしく思わないのか。
コメント [政治・選挙・NHK153] 原発マフィアが安倍の発言を公然と批判 (陽光堂主人の読書日記)  笑坊
25. 2013年9月12日 15:47:51 : oSrMprFwsw
国民は浮かれ、企業は捕らぬ狸の皮算用をしています。しかし、その陰で国益が甚だ損じられていることに気付いていません。7年間バブルに踊った後、この国は終焉を迎えることになるのでしょうか?


浮かれている国民などいるのだろうか?
日々の生活に不安を抱いている人が大半ではないか?
円安で景気が上向いたのは事実だが、そもそもバブルと言うほどのものではない。
上から目線で自分は何から何までお見通しのように論じるが、民衆を見下す視点は批判している権力者と変わらない。

 

コメント [政治・選挙・NHK153] 小沢代表、小選挙区制度と政権交代、二大政党政治の未来について語る 共同通信インタビュー要旨  赤かぶ
24. 2013年9月12日 15:47:59 : hozlxYkHEs
小選挙区は政権交代を実現するために必要だけど2大政党が小政党より良くなる保障は無いという理論はよくわかった。
学生向けの公民の授業で使えば100点満点に近い回答だな。

自分が思うのは民主党を駄目にしたのは民主党の政治家だけでなくて
間違った方向に誘導したマスコミ
党首選で間違った党首を選んだ国民
どちらにも大きな責任を負っているということです。

コメント [政治・選挙・NHK153] 日本:死刑執行に対する抗議声明  アムネスティ・インターナショナル日本 ダイナモ
02. 2013年9月12日 15:48:47 : 0J4wTtThac

    >>アムネスティは、あらゆる死刑に例外なく反対する。死刑は生きる権利の侵害であり、残虐で非人道的かつ品位を傷つける刑罰である。
          2013年9月12日アムネスティ・インターナショナル日本
 
     
    要するに次のような社会的取り決めをしたいわけだな。
 
    「彼は残虐な殺人を犯して人の尊厳を傷つけ、他人の『生きる権利』を奪った。しかし、どれほど多くの死者を出し、犯行がどんなに残虐で非人道的なものであっても、どんな場合でも彼の『生きる権利』を奪ってはならない。」

    あるいは、殺人犯の立場からすれば「俺が残虐で非人道的な殺人を犯して他人の『生きる権利』を奪うことがあっても、お前たちは俺の『生きる権利』を奪わないと約束してくれ」ということだな。

    そんな社会的な取り決めが正当なものだとは、とても思えんな。




コメント [政治・選挙・NHK153] ついに「安倍総理が嘘をついていたこと」を政府が認めた! (simatyan2のブログ)  赤かぶ
03. 2013年9月12日 15:48:58 : KO4C9oEhYU
安倍がIOCでスピーチをして菅が日本で確認をしたことを改めたのですか。つまり国が嘘をついたともう認めたのですか。前代未聞の事件ですね。だが国民はアホノミクスとオリンピック誘致に目の前が真っ白で何も感じていないのではと想像します。しかし、海外からは責められるでしょうね。特にお隣の国など平生の仕返しとばかり真っ先に日本は嘘つきだと言うでしょうね。産経は逆に安倍のスピーチ海外が絶賛と言っていましたが何が何だか分からなくなりそうです。今後どうなることか。
コメント [政治・選挙・NHK153] 誰かをさらし者にすれば成績が上がるとでも思っているのか、最低だ。知事による教育現場イジメ、恐怖支配。 gataro
05. 2013年9月12日 15:49:39 : W7CuBdZI4k
04さんに同意。
 大人だねえ。  こうした考えができるようでなければ「人の上に立つこと能わず」。じゃ。
 川勝の平ちゃん、心を洗い直しなさい。  原発も然り、だよ。  冷静に沈着に 為政者として人を育てるとはどういうことか、世のため人のために尽くすとは何を成すべきか胸に手を当ててよっく考えてみなされ。  
 静岡にはなかなかの御仁がおられるではないか。
コメント [カルト12] 米国議会採決先送りはオバカの完敗という意味である、日中がロシア提案支持、米英時代が終わり日中露時代の幕開けである。 ポスト米英時代
23. 次郎 2013年9月12日 15:49:55 : FV0BoL10KVXeM : 5GFBiaNZBE
オバマさんはもっと賢いと思っていたが大統領になると戦争が好きになるのかな。化学兵器も怖いが核兵器はもっと怖い。大量破壊兵器だ。自分は大量に所持して他国を脅す材料にしている大国の言うこと聞きたくない。
コメント [経世済民82] 黒田日銀総裁が予定通りの消費増税を政府に迫る 権限外への「口出し」、さすが「財務省DNA」の声(J-CAST)  赤かぶ
02. 2013年9月12日 15:50:21 : ArLVW38Mhw
アメリカが無傷での金融緩和脱出が不可能になっているように、日本も出口のない泥沼へと足を踏み入れたということ。
コメント [政治・選挙・NHK153] みのもんたの恐るべき報復 (simatyan2のブログ)  赤かぶ
176. オサマ・ビン・ビール 2013年9月12日 15:51:12 : nuLMrPYdw6XLk : Sgh0k1knxM
セクハラやて?
冗談ゆーたらあかへん
これは立派な痴漢の現行犯やでw
見せしめにも逮捕しとくべきやで
コメント [経世済民82] シャープ、最大1500億円増資 来月実施へ最終調整(産経新聞)  かさっこ地蔵
01. 2013年9月12日 15:51:22 : 8NcqzHYN5c
あやふやな記憶で申し訳ないが、シャープの増資はこれで3回目かな?

トータルで5〜6,000億円になるんじゃないかな。

もう企業生命が終わっていると思うんだが、金融緩和で行き場のない金がジャブジャブの銀行が引き受けるのかな。

コメント [政治・選挙・NHK153] 在日朝鮮人が大活躍!国内で行われる政治デモの正体 会員番号4153番
04. 2013年9月12日 15:51:37 : Q7yF03GWXg
日本人を救うには最低でも政治家の大部分を生粋の日本人にし、外国人に対する厳しい規制を設けなければならないのだが・・・もう手遅れかな・・・
コメント [カルト12] 白色偽ユダヤを追い出したロシアは、議員団を米国に大挙させるという手法で米国議会を逆転させてオバカを封じたのである。 ポスト米英時代
09. 2013年9月12日 15:52:07 : 7nGnKE65mQ
そう、アメリカ議会から、来るなと声明がだされ、
ロシア議員団の派遣は中止になった。
オバマ閣下とプーチン閣下の作戦勝ちだよ。
議員団の派遣の前にG20で化学兵器を国際的な管理下に置く事の
提案をプーチン閣下は、オバマ閣下にしたとマスコミに昨日ねたばらししちゃったけど
それでオバマ閣下は、ケリー国務長官に直ぐ様ロシアのラブロフ外相と緊密に話し合いを
持つ事で合意した。
つまり、議員団の派遣はロシア議員が発案し、プーチン閣下は了解したけど
その時には既に化学兵器を国際的な管理下に置く事はロシア、アメリカとも
合意していたと言う事。

今、この状況でアメリカが攻撃などもう不可能になった。
プーチン閣下、オバマ閣下、アサド閣下の見事な連携としか言いようがない。
間違いなく、オバマ大統領の支持率は上がるだろうね。

今後は、ジュネーブ2でのトップ会談が行われ、シリア内戦は終結、
それと平行してオバマ閣下は、ケリー国務長官、アサド大統領とともに
中東和平交渉に挑む。

コメント [経世済民82] CIAのデータで鮮明になった韓国経済成長率の凋落 あわててTPPに名乗りも…(ZAKZAK)  かさっこ地蔵
09. 母系社会 2013年9月12日 15:52:14 : Xfgr7Fh//h.LU : Glr035Y1Ww

★経済のイロハがわからない与太記事。

韓国は既に、2010年の時点で、一人当たりの国民所得が、
ほぼ日本と同じになったから、急激な経済成長が止まったのだ。

世界通貨国であり、覇権国家の米国は別だが、それ以外はどの国
でも国民所得が300万〜400万を超えたら、急激な経済成長
はストップする。
(ルクセンブルグとか、特殊事情がある小さな国は別だが)

瑛・仏・独など、ヨーロッパも同じ。

つまり、日本が再び急激な経済成長をすることは有り得ない
ということ。

少子高齢化と放射能を浴びた日本は、良くて現状維持が精一杯。

これからは、厳しい賃上げ闘争をしないと、給料は上がらない
ということ。

★要するに日本は、40〜60%程度の低い労働分配率が問題。

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1人当たりの購買力評価が3万ドル「日本と対等の水準!」―韓国メディア

Y! 【経済ニュース】 2010/10/12(火) 13:52

国際通貨基金(IMF)が12日、最新の韓国経済見通しを発表した。今年の韓国の1人当たりの国内総生産(GDP)は、購買力平価(PPP)基準で2万9790ドルとなり、昨年の2万7938ドルより1852ドル増加し、3万ドルに迫ることが明らかとなった。

  PPP基準は、GDPを人口で割った1人当たりの名目所得とは異なり、全世界の物価と為替レートが同等であると仮定したときの購買力を意味し、実質的な生活のレベルを示す数値。

  韓国のメデイアは「購買力評価は3万ドルで世界22位」「日本とほぼ同じ水準」と題し、今年の韓国の1人当たりの国民所得は、名目所得で2万ドルをやっと超えるものの、実質的な消費可能レベルを示すPPP基準は3万ドル近くに達していると紹介。

  今年の韓国の1人当たりの名目所得は、2万164ドルに対して、日本の名目所得は4万2325ドルで、韓国よりも2万ドル以上も多く、大きくリードしている。しかしPPP基準では、日本のは3万3828ドルで、韓国はそれに続く22位となっており、韓国メディアは、日本と対等なレベルであるとの見方を示した。
  
  また、韓国のPPP基準は、2015年までに3万8767ドルに達し、4万ドルに迫るものとの予想もあり、世界22位の座を維持しながら、日本との格差をさらに縮小するとの展望を伝えた韓国のメディアもみられた。(編集担当:李信恵・山口幸治)

コメント [原発・フッ素33] 「東京五輪決定」の背後であがる「フクシマ」の悲痛な叫び (フォーサイト)  赤かぶ
01. 2013年9月12日 15:52:49 : bK3ozBYuCN
「被害者放置の国に異議」 原発事故 南相馬から避難の村田さん
2013年9月12日

 「一言で言うと悔しい。このままだと、国に見捨てられるという危機意識がある。避難者の実情を訴えたい。頼れるのは司法しかない。追い詰められた気持ちです」

 東京電力福島第一原発事故で福島県からの避難を強いられ、神奈川県などで暮らす人たち四十四人が十一日、東電と国に総額約十一億円の損害賠償を求める訴訟を横浜地裁に起こした。

 福島県南相馬市から横浜市旭区に避難した村田弘(ひろむ)さん(70)は、原告の一人として出席した記者会見で、国の姿勢を批判し、ハンカチで何度も目元をぬぐった。

 元全国紙記者の村田さんは二〇〇二年末に定年退職した後、故郷の南相馬市に戻り、空き家になっていた妻の実家を退職金でリフォーム。畑を開墾し、桃やリンゴの無農薬栽培に挑戦していた。

 しかし、家と畑が福島第一原発から二十キロ圏内だったため、原発事故で避難を余儀なくされた。現在は一時帰宅できるようになったが、退職金をつぎ込んだ「ついのすみか」には住めないままだ。事故前から横浜に住む娘夫婦とともに一戸建て住宅を借り、二世帯同居を続ける。

 村田さんは、原発事故当時の東電幹部や政府関係者らを、業務上過失致死傷容疑などで告訴・告発した「福島原発告訴団」にも名を連ねる。東京地検は九日、告訴・告発された東電幹部ら四十二人を「刑事責任を問うのは困難」などとして全員不起訴にした。

 しかし、翌日の朝刊各紙は、八日早朝に決定した二〇二〇年夏季五輪の東京開催を報じるニュースで紙面が埋まり、全員不起訴のニュースは、相対的に扱いが小さくなった。九日は新聞休刊日明けで朝刊が発行されなかったこともあった。

 「休刊日明けの五輪ニュースで紙面が一杯の日を狙って、検察が意図的に発表したとしか思えない。被災者を愚弄(ぐろう)する邪悪な試みだ」と、元新聞記者の視点から分析した村田さんは、怒りを隠さない。

 しかも、東京開催を決めた国際オリンピック委員会の総会では、安倍晋三首相が福島第一原発の汚染水漏れ事故について「状況はコントロールされている」と断言した。

 「安倍さんはまず私たちに向かって『安全だ』と言ってほしい。外国に言ってもしょうがない。一体どこの国の首相なのか」と、村田さんは嘆く。

 一方、自身が被災者になったことで、記者としての歩みを反省した面もある。

 「記者は事件や事故を客観的に取材して伝える立場。でも、自分が被害者になると痛みが全然違う。私の書いてきた記事は、どれだけ被害者の実態を分かっていたのか」

 当事者意識の不足に対する反省と怒りは、十一日の提訴に込めた思いとも共通する。

 「これだけ原発事故の被害者がいるのに、国は率先して対応せず、ほったらかしにしている。賠償金を求めるだけではなく、被害者を放置する国への異議を、きちんと申し立てたい」

  (新開浩)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20130912/CK2013091202000136.html

コメント [経世済民82] 住宅ローンバブル サブプライムの教訓を忘れたか(週刊文春)  かさっこ地蔵
01. 2013年9月12日 15:53:31 : nJF6kGWndY

>住宅ローン市場で空前のバブル

まだまだ価格的にはバブルとは程遠いが、金融機関の金利リスクがあることは確かだから
金融政策も、当然、それを考慮する

つまり、デフレが脱却しても、すぐに金利が5%、7%になることは、まずないし

国債暴落で金利上昇が起こったとしても一時的である可能性が高いということだ


ただし、超少子高齢化などによる、国内産業の衰退や、低生産性の問題が解決しなければ、

今後の、さらなる円安コストプッシュインフレは避けられず、

国民生活自体は低下していくことになるし

当然、多くの弱小地銀も無事ではいられないだろう



コメント [経世済民82] ガタガタになってきている日本製品質 (NEVADAブログ)  赤かぶ
23. ヤフコメは工作人の集まりか? 2013年9月12日 15:54:07 : cHsfqXTeXelxw : Lhn3KSXN9k
これだけコストダウン強要すれば品質が悪くて当然でしょう。
昔に比べて車の部品の劣化が早いのは、車に詳しい人が一番感じているのではないでしょうか。
日頃から入念なメンテナンスを心がけないと、乗っている者の命に関わりますね。

気になることは、部品の品質が悪いのが原因で起きたトラブルをユーザーのせいにする向きを三菱はじめ日産でも見受けられることです。

アメリカは品質をもっと下げろと強要しているそうなので、TPP加入後が末恐ろしく感じます。

記事 [リバイバル3] 中川隆 _ 日本の習俗関係投稿リンク


              /##二二__ヽ、      
                /##/    、 ヽ ヽ
             ,'## / /_/」_ハ `、 `、    
               |ヘ、#_lノ ;≠、'ノ 刈 l  l!
               { (( ッ'ト-リ ゙   ,、リソハ |'   ああ・・・
               ヽヽ o゚ ´   /ソ}'ノ ノノ
               Y ° - ' `゚イイ´     今週中に必ずお金を作りますから・・・
               /⌒ ( Y)` ;‐‐ ' ゚( i )
            |:::::::::::〉i/^^ゝ-、 (y )       もう少しだけ
             l++::::(/\ ,ミ}::ハ:ヽ〉i(
            l+┘ /::::::::::ソ:::::}:( y)       もう少しだけ待ってください・・・
                l::::::/:::::::::::/::::::/::::)i〈
             l:::::;++、::/:::::::::!::::{l|ll}       
             ハ(___ ノ:::::;++:|l::::::::ハ
            / ̄キ:::::::::メ メ::|ヽ、:::::::::ゝ、     
           ,'+++':::::::::::++'::::::\ヽ、::::::キ ヽ
            l::::::::::::::::::::::::_rァ⌒`ヽ、:::└++ヽ__
           l:::::::::::::::_/ヽノ     ヽ::::::::/_っー’
           ノ_へ∧/    `、__    \     
            (_    \        `、  `丶、   `;    
           `‐‐--\      `、      ノ    
     , '⌒ヽ._____\     `、─---‐'
    /             ̄`ヽ    ;
   ノ   , ‐- ...... _          ノ
  /  /        ` - ...__ ノ   

TPP賛歌 _ TPPに加入するとこんな甘美な世界が待っている。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/204.html

相場に失敗すると奥さんとお嬢さんはこういう運命が待っている
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/818.html

小泉先生は真性のS? (“削除コメント表示切り替え” を押して下さい)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/305.html

ミラーマンの世界 _ 植草先生は何故 ピンサロ、性感マッサージ、ヘルス、イメクラ、ソープランドの中からイメクラを選んだのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/299.html

松下金融相が愛人を怒らせた理由は? _ 女性の相場はこんなもの
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/421.html

            ____
         __,,/  _, ----`ヽ  :.
     :.  / _     ___   、\
       / /   i      \   \\ :.
     :. ,'./       i  ヽ:.   ヽ:.:.. ヽ.ヽ
      ,'/    / .ハ ヽ ヽ:.:.:.:. ヽ::.. ヽヽ :.
     :. |i .i i  .i /  ヽ ト 、 \、:.:.:. ',:.',:.:.lヽ}
       |i .i l  :N_, -弋 \弌弋ナ:}:.:}
    :. |i∧ ', :{ ,ィjモト \  イjミトイイV :.  な…
       .|  :メヽ.', `ozZ}      izN。ハ::{     なんなんですか?
      :. |  :ヾ_! ゝ "゙゙    '  `゙ ハ.:', :.   ここ、どこですか?
      |  :.:_イ .:.ヽ.   (二フ , イ :.:.:!:.ヽ     なんであたし
   :.  / rィイ | :.:.ヽ: >r/`(ノ .:.::.}ヽ、\:.   ここに居るんですか?
      / ∧l;l ! :.:.:.://{二 ̄ .} ..:..::リ//ハ.:\
 :.  / .{. ',ヾ、ヽi .:.:.{ /(^`  |.:.:.:.//: : :.}: . ヽ.:.
   / /  ) ヽ ヾ、ヽ:.ハ ヤ{   ∧/.-‐'": : |:.:. i ',
  ./ .,イ .:..} : :\ヾレ'ハ ∧__ノノハヾ、  : : : l:.:.: .ハ ',
  { /| .:.:ハ : : :i Y {ヾ`Yヽニン'ノ}: : } : : : :/:.:.:/ }:.}
  V | .:.:/:.:|_,ィ' ̄  ヽ三{ `ー-ノ : イ : : :/:.:i.:{  リ
    ヽ:.:{、.:.V     : : ヘ     : : {: : :/:.::∧|
     ヽ! )人    : : :人      : : : / \! :.
      "  ヽ : : : : :/イ{     :.ノ: : : :.\ :.
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  {.  /;/; ; ; ; ;ヽ 厂 ヽハ ,  . : _: . lヽ:. :. :. \:ゝ           :,       /: . |:./:. :..ム イ:| //    レ
  ∧ /; ;./; ; ; ; ; ; ; ; ̄;ヽヽハ ヽ  : . : . : . : \: . : ヽ           .〉   ,イ:|: . l!/:. :/:/ . : .| |〃
 ,:. :.V; ; ;, ; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;r‐ ' __\ヽ  /: | \: トヽ:._: ゝ   r―- zォ     . イ-| | : /:./: .―:‐ | |
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':. :. :l ; ; ; | ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;ハ  r― 、',ヽ     . !   > .   .  (   ,斗-}; ;.| |': .       j ,
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:. :. :.| ; ; ; ! ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;ヽ ; ; ; ; ; ;l!  }ヽ     |  \  /         {、__/; ; ; ;.N           | |


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 i            / 、,- l、, ','、_,-'´>- 、 _               i三三l    ヽ -         ///
 i          /三`´三三.,' /     `` ‐、 _         ,イl三三l             ,r'//
  ' ,    ,-‐∠二、三三, - 、_ ', /          `‐=ー、___/=7∨三=l           , '´/
  `〈 ̄/´      ヽ /   , _〉l             `\三三三=/ ∨三=l  ,      _, ‐ ´,〈
   `く        /  , r .'´  〉、              .\/  )'´  ∨三∧, '     ,_イ´   // \

朝鮮人の見た日本人の姿
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/405.html

この人を見よ _ 人間の屑 福沢諭吉のした事
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/485.html

ニューギニアで旧日本兵が行った残虐
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/799.html

戦争に行ったら こんな事もしてみたい あんな事もやってみたい__わくわく どきどき
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/313.html

悪質な嘘は止めようね _ 慰安婦強制連行 _ 吉田清治証言は虚構じゃない
http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html

白人崇拝がタイ人を猿にした _ なぜタイ山岳民族の少女が伊香保温泉にいるのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/396.html

あの名画の舞台となった伊香保温泉は今 2 _ 伊香保は温泉もある風俗街
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/356.html

サルはなぜサルか 1 _ 白人崇拝がタイ人を猿にした
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/396.html

               ヾミア<三三三三三三三三三三三三∨ハ.'//ヽ     , ', ̄‐ ´  ̄ ̄ ` ` ‐ - 、
                `ヾミア<、三三三三三三三三三三V´.// ,イVハ、  , ' ´         , - ‐ 、=、―`ー,
                  `ヾミア<、三三三三三三三三∨//.,イ三三三、,','   , '    ,r '´ , - ‐'  ` 、, ' `,ー-、
                    `ヾミ<、三三三三三三V´//.,イ三三三三 ,'    ,'   , '´ , r '´        ,',   i
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                 ,ィ圭ア'/ィ圭ィ圭ア l l`くミ<三三三三三= ,' ,' i ,'  ,',' ,'   '//     , r ', ∨´, ','     '
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 _, .- ‐ ' ´  ̄  ̄     ̄ ` ‐,、-,-弋 _ ハ_ /,'          ヾミ>三'  ,'',i i三≡、- , - ― -, ' ´,' , ', r 7','=,'/、'
 `、 `,               ,'   , ' ,' , '`-,'            ヾミ', ', 'ヽ三', 三三三三,r'_,- ' ,', ' ,' , r'´,','='//,>、
   `、. ',             /   , ' ,' ,-`ー'             ', ,r' , ', 'く三`三三三三= , '´,' ,' ,'   ,',' ,'//,イVハ、
    l ∧            ,'ヽ, '´,'_i ,'´  ,' _             ,'、__二ヾミ>`三三三=, '=´','  , '   ,' ,' ,'//,イ三三ミ、
    l  l          ,'  i   ̄ i   ,〈、::ヽ         , '´ .,'´    ヾミ>三三=, ' -´ ,. ' ,'   ,' ,' ,','/,イ三三三三=,
    l  l         ,'   i、    i  _,r'='ー='、_ _ _ _ _, - ' ´  ,'       ヾミ>、三,'三'´ ,イ  , ',', ' /,イ三三三三三/
   / /         .i   i ヽ. _ ,.r.'´   `、   ,‐ ',、三三,-‐'´,'         ヾミ>、'三三= , r ', '/ /,イ三三三三三=/
   / /.         ',   レ' .`Y`‐、   _,-`,´,‐'´      _l           ヾミ> ' ´, '―'´/ /,イ三三三三三三/
  /  /..         ,'  、' -、ヽ/  _L三=‐'´   _  , ' _<i           ,'´ヾミ>三三/ /,イ三三三三三三=/
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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/462.html

コメント [政治・選挙・NHK123] パックイン・ジャーナルを存続させろ フクイタカノリ
8618. 2013年9月12日 15:56:26 : HppyiJ0996
あ、そうそう。TBS・・・放送もしていると揶揄される不動産会社。赤坂サカス
フジ・・お台場再開発 カジノ用に37万ヘクタール?の土地確保・・福一タンクを此処で3000〜5000基保管可能? 永久保存。展示室も併設可能。

日経、、産経、読売・・経団連の隣り、銀座・有楽町にも近く立地条件最高、容積率300%でテナント収入で稼ぐ?
NHK:国立競技場、神宮、JOC至近距離。地価高騰、関連会社200社で土地高騰で超優良企業。時価総額;JT,JP、電電公社を上回る。

コメント [原発・フッ素33] 安倍首相「完全にブロック」は嘘/小出裕章さん「こんな軽々しい発言をする人を一国の首長に持っていることが、大変恥ずかしい」 gataro
64. 2013年9月12日 15:56:27 : 7PYlDMB3jU
63に追記。
大阪瓦礫焼却については、極悪は、新日鉄であり、環境省であり、橋下氏であり、維新であるのは言うまでもない。
記事 [近代史02] たそがれのプロカメラマン物語  第三章 平安時代へタイムトリップ
http://www.kitanet.ne.jp/~aash/tasogare.html#1-18

第三章 平安時代へタイムトリップ


怨霊渦巻く平安時代

オレは、真夏のギラギラの太陽を浴びて、さきたま古墳公園の稲荷山古墳の上にいる。何かの霊に惹かれたかのように、愛用バイクのトモスに乗って、荒川大橋から産業道路へ抜け、国道17号線を法定速度30kmで北上して来たのだ。
全長120m程と言われる稲荷山古墳は、公園の北側にあった。高さ10m程の古墳の上から公園を眺めると、一瞬、5世紀の古墳時代に迷い込んだ錯覚が起きた。
史料によれば、この稲荷山古墳は、以前古墳の上に小さな稲荷社があったため、稲荷山古墳と命名されたようだ。このことも、田辺さんからの歴史講義がなければ、ただ読みすごしてしまうが、その古墳の上に社・神社(モリ)を設置したのは、古墳時代後に渡来した埋葬思想の異なる民族が、古墳に眠る霊を怨霊として、封じ込めたためだ。
社(モリ・ヤシロ)に封じ込められた霊は、古墳から出土した金錯銘鉄剣にある115文字により、ワカタケル大王に仕えたヲワケと推定されている。この出土した剣の遺物も、藤原日本史によれば、5世紀の飛鳥大和を支配したとする雄略天皇から、ヲワケに賜った剣としている。つまり、藤原日本史では、古代の東国は未開地なので、大王など存在していなかったので、ワカタケル大王を、雄略天皇とするのだ。そして、先進国の飛鳥大和の大王から、全国の支配下の者に剣を与えた、とするのだ。
この古墳群のある行田市は、荒川と利根川に挟まれた地に位置している。古代日本地図によれば、日本海側の酒田津から明日香ヤマトまで続く東山道の白河を越えた群馬と、そして、国際海洋民族アズミ族により古代中国へ翡翠を供給していた地域を流れる糸魚川を遡って、イズモから渡来した国際海洋民族アズミ族とユーラシアから渡来した騎馬民族との支配地のトルファン(諏訪)の上田から碓氷峠を越えた群馬から、利根川が太平洋に注ぐ河口へ下る途中にある。
行田市は、古墳時代に、ユーラシア大陸から日本海を渡海して、日本海沿岸に渡来した騎馬民族が、その二方向から上陸して出会った大湿地帯だったようだ。そのさきたま古墳群の地に繋がるトルファン(諏訪)地域には、8世紀末、陸奥国を支配した蝦夷(明日香ヤマト残党軍)の棟梁アテルイをだまし討ちにした、律令軍の鎮守府将軍である金髪の坂上田村麻呂と戦った、八面大王の砦であった古墳の大王窟がある。
関東から東北の各地にかけて存在した相似形の巨大前方後円墳のある地域は、陸奥国の砂金・琥珀・鉄・絹製品の簒奪を目論む飛鳥大和朝廷から派遣された律令軍に抵抗するために、道幅12mを超える直線道路の東山道により各地域の反律令軍とのネットワークを形成していたのだ。
その大湿地帯に、エジプトの測量技術と高度土木建築技術を持った渡来民族が、巨大前方後円墳を築造することにより、湿地帯を居住地に改良すると供に、先住民を建設労働者として雇い入れ、建設工事での号令作業を習得させ、前方後円墳を完成後、鍬を武器に換えれば、指揮者の号令により動く軍団となる。前方後円墳築造の目的は、唯の墓を築くためだけではなかった。
この関東の稲荷山古墳と、近畿の明日香ヤマトの前方後円墳の築造年度は、それほどの隔たりがないことは、古墳時代の築造技術者は、藤原日本史が述べるように飛鳥大和中心に各地に伝播したのではなく、全国に張り巡らされた道幅12mの直線道路を騎馬が疾走し、全国一斉に活動していたことが示唆される。
ここでも、藤原日本史の「日本書記」による歴史改竄のトリックが暴かれる。「日本書記」は、713年好字令と供に、唐令の大宝律令により支配された奈良朝廷から、全国の国司を通して、強制的に被支配者から地名・人名・地理・歴史などの資料を提出させ、その全国各地から集められた資料と、そして、聖書・ギリシャ神話・朝鮮半島史・中国資料を素材として、藤原不比等により720年完成されたものだ。
だから、「日本書記」にある記述は、全国から発掘される遺構・遺物と整合性があることになる。「日本書記」にある、新しい年代より、古い年代の方の歴史物語が詳しく記述されているのは、誰も知ることが出来ない古い年代の方が改竄し易いからだ。
「日本書記」の偽書性は、その記述する暦で分かる。「日本書記」に表れる暦は、元嘉暦と儀鳳暦だ。元嘉暦は中国南朝の宋が443年から施行し、そして、儀鳳暦は唐が665年から施行したものだ。この二つの暦は、「日本書記」では、604年以降からは元嘉暦であったものが、604年以前では儀鳳暦で記述しているのだ。その訳は、「日本書記」の創作中の暦が、周帝国女帝則天武后から、唐令の大宝律令と一緒に押し付けられた儀鳳暦だからだ。このことからも、ワカタケル大王の雄略天皇が存在していたとする、5世紀の日本列島の「日本書記」の歴史記述には疑問がある。
このことからも、稲荷山古墳から出土の剣は、関東のシキの宮を治めたワカタケル大王と、「日本書記」で述べる飛鳥大和朝廷を支配したとする雄略天皇とはリンクしないことが示唆される。藤原日本史では、飛鳥大和時代として、色々な天皇が発明されているが、その飛鳥時代とは、古墳時代のことだ。
その飛鳥時代後期に、奈良盆地の古墳地帯を破壊して築かれた都が、奈良の平城京だ。その平城京の中心的建物である大極殿は、巨大前方後円墳を破壊した跡に建てられた。さきたま古墳群は、奈良時代には、まだ、古墳を築いていた明日香ヤマト残党軍(蝦夷)の勢力が残存していたので、平城京の敷地や三笠山のミトラ教祭事場と異なり、権力者の藤原氏と祭祀者の中臣氏による完璧なる歴史的抹殺から免れた。
古墳時代から奈良時代の歴史の流れを簡略して述べれば、4世紀前後、朝鮮半島の辰韓(秦の国)からエジプトの土木建築技術者が渡来し日本列島各地に相似形の前方後円墳築造→6世紀半ば、花郎騎士団と供に古代新羅(秦の国)王族が北九州に渡来→6世紀半ば、越前から明日香ヤマトへ騎馬民族突厥進駐軍が侵攻→花郎騎士団と突厥進駐軍の連合軍により高句麗・百済進駐軍勢力を一掃し近畿一帯を支配→645年唐進駐軍が明日香ヤマト占領→672年新羅と明日香ヤマト残党軍が近江亡命百済王朝を倒す→694年統一新羅の援助により新羅系皇子・女帝持統天皇が藤原京に遷都→701年周帝国女帝則天武后による日本列島経営のため唐令の大宝律令施行→710年藤原不比等により平城京へ遷都→763年女帝則天武后により押し付けられた儀鳳暦を廃止して大衍暦を施行→藤原王国の完成なる→764年藤原仲麻呂が斬首されたため藤原王国崩壊(藤原氏の滅亡ではない。)→770年女帝称徳天皇毒殺→新羅系天武天皇王朝崩壊→亡命百済貴族の台頭、となり平安時代に続く。

こうやって古墳の上から、古墳時代人となったつもりで遠方を眺めると、古代日本列島の色々な歴史的場面が去来する。オレは、角の革が擦られて毛羽立ってしまっているマスミのカメラマンバックから、ペンタックスSPブラックを取り出し、スーパーマルチコーテッドタクマー28mmF2.8、をネジって装着した。広角レンズによりデフォルメされた古墳群の映像は、オレを日常世界から遊離させる。レンズフードから洩れる太陽光が、レンズにフレアーを起こした一瞬、オレの視界に、砂煙を上げて疾走する騎馬軍団の勇姿が現れた。

オレは、さきたま古墳公園から自宅に戻ると、早速、田辺さんに稲荷山古墳での雑感をメールした。一週間ほどはメールをチェックしたが、返事はなかった。田辺さんも何かと忙しいのかと思って、その後はメールチェックをしなかったが、忘れた頃に返信メールが届いた。
「返事おくれてすみません。学会で出張などしていましたので。もう一寸で「平安時代」のレポートがアップの予定です。
稲荷山古墳上に稲荷社があったように、信州わさび農園の八面大王の砦であった古墳の大王窟の上にも小さな祠がありましたね。稲荷社は、農耕民族の社などと、藤原日本史では述べていますが、「稲荷」は、本来は農耕民族の神ではなかったようです。何故、騎馬民族の墓の上に、農耕民族の社とする「稲荷社」を設置するのか、今執筆中のレポートで解明する予定です。」、とのメールがあった。
それから一週間後、添付ファイル付きのメールが、田辺さんから届いた。オレは、即座にプリントアウトした。今回は、前回よりも情報が多かった。レポートの本題に入る前に、但し書きがあった。

「平安時代の歴史を知るには、藤原日本史のトリックに引っかからないように注意する必要があります。そのひとつに、「日本国は農耕民族国だ。」、というのがあります。藤原氏が発明した「現御神天皇」による万世一系のトリックは、「奈良時代」の歴史を解明したことにより、もう引っかからないと思いますが、この「日本国は農耕民族国だ。」、のトリックを暴くことは難解です。
先日のメールでも述べましたように、稲荷社を農耕民族の社と思っているひとは大勢います。その影響のひとつに、柳田国男氏による「常民」の布教があります。柳田国男氏の民俗学での「常民」は、「農民」の意味が濃厚に込められているからです。
この「常民」の言葉自体は、元をたどると、朝鮮半島での「普通の人々」を意味する「常民」(サンミン)からのようです。大陸から時代時代の戦火を逃れて流入した異民族の坩堝である朝鮮半島では、歴史上の勝組の特権的官僚階級の「両班」(ヤンパン)や、負組の白丁などの被差別民以外の人々は、「常民」(サンミン)と呼ばれています。
日本国では、騎馬民族が勃興した源氏鎌倉時代以降に南九州に隠棲していた藤原氏が、明治革命後復活し、奈良時代に藤原不比等が発明した養老律令により神祇官が復活設置され、、奈良時代の藤原王国の「神国ニッポン」の支配体制を復活するため、明治2年(1869年)に、華族、士族、平民の身分制が作られました。しかし、その平民には、「平民」と「新平民」との二種類があったのです。日本列島には、藤原日本史が述べるように、単一民族の「大和民族」などは、存在していなかったのです。これから述べる「平安時代」のレポートにより、古墳時代の日本列島を支配していた、その「新平民」の租である「明日香ヤマト民族」のルーツを解明します。」

オレの「平安時代」のイメージは、貴族文化の華やかな時代だ。しかし、田辺さんのレポートの但し書きにより、オレのイメージが壊される予感がした。
その予感は的中した。田辺さんの「平安時代」レポートの出だしから、藤原日本史の歴史物語と異なっていた。以下に、藤原日本史と「田辺説」の違いの概略を述べる。
藤原日本史では、宝亀元年(770年)女帝称徳天皇が崩ずると、光仁天皇が即位して、延暦元年(781年)には、光仁天皇の息子の桓武天皇が即位し、そして、延暦13年(794年)平安京に遷都することにより、貴族により唐文化華やかな平安時代を迎えることになっている。
しかし、田辺さんのレポートでは、称徳天皇が崩じた後に、光仁天皇は即位してはいない。即位したのは、白壁王(光仁天皇の前身)の井上内親王で、皇太子は、山辺皇子ではなく、その井上内親王の息子他戸親王だった。そして、その女帝井上天皇とは、天武天皇の孫筋にあたる。
奈良時代は、「天武天皇の10人の皇子」対「出自不明の藤原氏」の戦いの時代だった。そこに、何故、母国百済を滅ぼした新羅を敵国とする亡命百済貴族の白壁王が、天武王朝を引き継ぐ天皇として即位できるのか。
藤原日本史では、称徳天皇が正殿で崩ずると、吉備真備が天武天皇の孫長皇子の子智努王を推したが否定され、式家藤原宇合の子藤原百川等の策により、62歳の白壁王が立太子し、同年光仁天皇として即位したことになっている。そして、聖武天皇の娘井上内親王と他戸親王は、光仁天皇を呪詛したことにより謀殺された、とする。藤原日本史では、井上内親王が、何故、光仁天皇を呪詛したかの理由が述べられていない。
しかし、その藤原日本史での説明では理解できないことがある。それは、光仁天皇が、近江大津宮を治めたとする天智天皇の孫、施基皇子の追尊称である田原天皇の第六皇子であるとすると、何故、光仁天皇即位の宣命文に、天智天皇が皇子達に残したとする呪文である「改めてはならない常の典(不改常典)により」即位すると記さなかったのか。それに対して光仁天皇は、即位の理由として、「奈良の宮に天下を治めた称徳天皇が天下の業を拙く劣無き朕に賜れり」、であると述べている。
その光仁天皇の父とする施基皇子の「施基」とは、さきたま古墳群の稲荷山古墳から出土の剣にあった文字「シキの宮」と同じで、「新羅」のことだ。何故、亡命百済貴族の白壁王の父親が、「新羅」の皇子なのか。
この光仁天皇による天武王朝簒奪物語には、藤原不比等の戦略が見え隠れする。それは、藤原氏のハザール王国に居る同族を日本列島に移民させること、そして、東北の蝦夷の国から産出する砂金を簒奪する戦略だ。
その蝦夷が支配する砂金を産出する陸奥国は、天武天皇家と親交があった。それは、天武天皇が、近江の亡命百済王朝を倒す時に軍事援助をしたのが、東北に本拠を設置していた突厥進駐軍だったからだ。その突厥進駐軍は、古墳時代(藤原日本史では飛鳥時代)に古代新羅から渡来した花郎騎士団との軍事同盟により、明日香ヤマトを支配していた。
藤原不比等は、当時、唐進駐軍の軍事力を利用して陸奥国の侵略を考えていた。しかし、パルチア王国を租とする塩の闇商人安禄山により、755年以降唐帝国の国力が衰え、唐帝国玄宗皇帝が、奈良王朝に遣唐使船で武器の素材である牛の角を送るように命令していたほど、唐帝国内が混乱していた。その虚を突いて、藤原仲麻呂は、国璽を私邸に持ち込み、私幣を鋳造したりして、「藤原王国」を樹立したが、翌年、吉備真備等の暗躍で、藤原仲麻呂のロボットであった孝謙太上天皇が反藤原氏となり、764年藤原仲麻呂は斬首された。しかし、藤原不比等が計画した戦略は、残る藤原四家により続行されていた。
藤原不比等が計画した、同胞移民と資源簒奪のための東北経営の布石の歴史を辿ると、

和銅2年(709年)従五位下藤原房前を東海東山の二道に遣わして関を検察し風俗をみてまわらせた。
養老3年(719年)令外官としての按察使は、陸奥国にも陸奥按察使として設置した。
養老5年(721年)出羽国を陸奥按察使の管下に隷し、東北地方全域を管轄下に入れ、軍事機能を付加した。
神亀元年(724年)海道の蝦夷を征せんが為なり、との理由で、式部卿正四位上藤原宇合を以って持節大将軍となし、多賀城を築く。
天平9年(737年)持節大使従三位藤原麻呂は、大野東人の上奏した陸羽直路により、出羽国府を庄内から一挙100kmも北進させ、秋田に設置した。

このように、藤原氏は、東北を藤原氏の支配下に置くために、着々と布石を打っていた。天武天皇系女帝称徳天皇が在位の時、陸奥国の蝦夷は、奈良王朝に従う者も多くいた。天武天皇の血が流れる女帝称徳天皇は、蝦夷と友好関係を持っていたからだ。
神護景雲3年(769年)藤原仲麻呂の息朝猟が修造した礎石造り瓦葺の豪壮な多賀城から北上した地に、伊治城が一ヶ月たらずで完成したのは、蝦夷の抵抗がなかったからだ。
しかし、女帝称徳天皇が毒殺された翌年、宝亀元年(770年)天武天皇系女帝井上天皇と他戸皇太子が毒殺され、亡命百済下級貴族の白壁王が、62歳で立太子すると、俘囚のウカメノキミウクツハウが、今度は必ず一二の同族を率いて伊治城の城柵を侵してやる、といって蝦夷の本拠地に逃げ帰った。
俘囚とは、東国の住民が帰服し、あるいは、軍事作戦で捕虜や降人となった騎馬民族を、近畿一帯を支配した律令軍が卑しめるために使う言葉だ。そして、城柵とは、律令軍が蝦夷の支配地を侵略し、そこに養蚕のための桑畑や稲田を作る農耕民族を入植させるための柵を廻らせた安全地帯だ。しかし、蝦夷軍との戦闘時には、蝦夷軍団に対する最前線の軍事基地となる。
701年から始まる唐令の大宝律令の庸調の税制は、西国では米などが主であったが、東国では絹が主だった。その東国から税として集められた絹は、遣唐使船で唐帝国に朝貢品として運ばれていた。そのように、近畿一帯を支配した律令軍にとっては、蝦夷の国・陸奥出羽を侵略する理由があった。
藤原百川は、老人の光仁天皇をロボットとして、東北侵略のために、伊治城の他に、太平洋側に桃生柵、そして、出羽の内陸に雄勝柵を設置した。この三柵の造営は、俘囚側の律令国家体制への反発を助長させた。
藤原氏は、強硬手段と懐柔手段とを使い分けて、「夷を以って、夷を制す。」戦略を実行した。懐柔手段として、俘囚達の中で、その主だった者に「公姓」を与え、そして、外位官に任じられた者には「夷爵」を与えた。しかし、騎馬民族である異民族の蝦夷には、律令制の爵位は与えず、差別をおこなっていた。
明日香ヤマトに流れていた騎馬民族の血が、百済の血が流れる光仁天皇により断絶されたため、陸奥国への侵略を阻止する蝦夷軍団は、宝亀5年(774年)律令軍が支配する桃生城の一角を崩壊した。そして、宝亀11年(780年)光仁天皇の母橡姫の従兄弟である陸奥出羽按察使従四位下紀広純が、上治郡の郡司外従五位下伊治公呰麻呂(蝦夷)に殺された。
延暦元年(781年)唐の儀式により即位した、光仁天皇の息子桓武天皇は、同族の紀広純を殺した郡司外従五位下伊治公呰麻呂を撃つべく、征夷軍団を陸奥国に送り込んだが、戦意のない律令軍団は、少数精鋭の蝦夷騎馬軍団に蹴散らされ、大敗しただけではなく、藤原仲麻呂の息朝猟が修造した、藤原王国の東北経営のための豪壮な多賀城は襲われ、収納されていた武器や食料全部を略奪され、多賀城は火に包まれた。
桓武天皇は、光仁天皇が次の皇太子とした実弟早良親王を、実子平城を皇太子にするために謀殺するほど、謀略・智略に長けていた。亡命百済貴族の血が流れる桓武天皇は、藤原不比等と同じことを考えていた。それは、663年母国百済が滅ぼされたため中国山東半島などに暮らす同胞の日本列島への移民と、そして、陸奥国の砂金の簒奪だ。
日本列島から金が産出されることは、日本列島各地から朱砂が採取されていたことで、縄文時代から分かっていた。朱砂がある処には、水銀が産出される。朱砂は、水銀と硫黄との化合物だからだ。金は、単体で採取できるのは、川床からだけだ。石に含まれている金を取り出す方法が、日本列島では、当時はまだ知られていなかった。
しかし、水銀薬を瞑想剤として古くから使用していたバラモン教の一部の者は、水銀を利用して鉱物に混じっている金の産出方法を昔から知っていた。そのバラモン僧は、イスラム帝国の膨張により、インドを逃れ、唐帝国に移住していた。
桓武天皇は、延暦20年(801年)遣唐使を企画した。唐の山東半島から亡命百済民を平安京に移民させるためと、鉱物から金を抽出する技法を習得するためだ。その任務が、大陸人を租とする最澄に命じられた。藤原氏は、桓武天皇に対抗するために、最澄に匹敵する人物を探し出した。それが、四国の鉱山で活躍していた錬金術師空海だ。しかし、蝦夷を租とする佐伯氏の流れにある錬金術師空海には、僧籍がない。
そこで、遣唐使船を運営する藤原氏は、遣唐使船の出港を「例の」難破策略を用いて、一年遅らせた。その一年間で、錬金術師空海は、留学僧の資格を得て、遣唐使船に乗り込んだ。

藤原日本史では、最澄も空海も、新しい仏教を求めるために唐に渡ったと述べる。しかし、最澄は、804年遣唐使の請益僧として渡唐する16年前、788年に比叡山延暦寺を創建している。そして、空海は、遣唐使船に乗船するために僧籍を得る前には、水銀薬を用いて不老長寿を標榜する道教を学んでいた。これらのことを考えると、801年遣唐使を企画した桓武天皇には、同族の移民と金精錬法の修得だけではなく、何か別の目的があったことが推測される。
延暦2年(783年)桓武天皇は、山背国の長岡京に遷都する前年、「いま京内の諸寺は利潤を貪り求め、家を質に取ったり、利子を元本に繰り入れたりしている。三綱(管理僧)が法規を無視するだけではなく、宮司もまたへつらって容認している。どうしてこの官吏の道がたやすく国法に違反し、出家したはずの僧侶の輩が再び俗世間と結びつこうとしているのか。」、と平城京での僧侶の行動を批判している。
645年明日香ヤマトが、唐進駐軍により壊滅すると、仏寺や貴族の屋敷内に「内道場」が設置された。唐帝国が、女帝則天武后により乗っ取られ、周帝国と国号が替わると、周帝国から正式な得度を得ない私度僧が、今まで以上に飛鳥大和に渡来した。その私度僧により、治外法権の仏寺や「内道場」では、仏教修行ではなく、俗世間の悪事が行われていた。日本初の博打を行ったのは、天武天皇だ。
その治外法権の宗教施設で行われた博打を禁止するために、持統天皇3年(689年)「双六禁止令」が出され、そして、文武2年(698年)博打や賭けごとをして遊び暮らしている者を取り締まりるために、その場所を提供した者も同罪として、仏寺での博打を禁止していた。
何故、神聖な宗教施設で、悪事の博打が行われたのか。それは、古代では、博打は神事で神聖な儀式の一部だったからだ。ひとは、一秒先も知ることは出来ない。そこで、未来を占う行為が、物(金)を未来に賭ける博打に変化した。
天平勝宝6年(754年)には、博打禁止に違反した場合、六位以下の者は100回の鞭打ち刑とし、それ以上の者は現職を解任し、土地を取り上げる、と罰則を強化した。そのように博打禁止の罰則を強化しなければならないほど、平城京では仏寺で博打が行われていた。そして、桓武天皇が、「平城京の諸寺が利潤を貪り求めている。」、と言っているのは、仏寺では、博打の他に「高利貸し」も行っていたのだ。
宝亀10年(779年)「続日本紀」には、「近年、人民は競って利潤を求め、わずかな銭を出挙して多くの利息をむさぼり得たり、重い負担のある契約を交わして、無理に質材を責め取ったりしている。」、とある。この質屋を営むには、金利の計算や契約書を作成するには漢字習得が必要なため、当時のインテリ層である僧侶が、渡唐してそのビジネスを学び導入した。
何故、仏寺が「高利貸し」を行ったのかは、出挙の制度があったからだ。唐の律令制度が日本列島に持ち込まれると、人民は税を負担する義務が生じた。その税を取り立てるため、朝廷は、春に種籾を貸し出し、秋の米の収穫に返済させた。これは、公出挙であったので、利子はそれほど多くはなかった。しかし、朝廷に替わって、仏寺がこのビジネスシステムを導入した。それが、私出挙だ。仏寺では、始めは米貸しを行っていたが、貨幣が流通すると、米の替わりに銭を出挙するようになった。
藤原不比等が統治していたまでは、養老4年(720年)「負債の稲が長年経過しているとしても、利息は半倍を超過してはならぬ。」、との規定を設けていた。しかし、奈良時代末期には、漢訳仏教組織は、仏教思想を悪用して、高利で返済が滞る者に対して、「生前に悪行する者は、来世に畜生となる。」、と脅し、桓武天皇が嘆くほど、平城京の奈良仏教の倫理は荒廃していた。

奈良時代を舞台とした仏教物語本である「日本霊異記」には、借金を返済しないと、地獄に落ちるとする物語が多く掲載されている。仏寺で高利貸しを営む漢訳仏教僧により、その「日本霊異記」の物語が広く庶民に布教されたことにより、「生前に悪行を行った者は、来世は畜生として生まれ変わる。」、とする仏教思想が平安時代に広まっていった。
奈良時代から、唐令の税制による納税で苦しむ農民には、旱(ひでり)が最大の関心ごとになった。そのため、旱をコントロールする技術者が求められた。藤原日本史では、道教では効力が少なかったが、神仏に祈ったら雨が降ったとする物語がある。しかし、奈良仏教は、鎮護国家のためのもので、庶民を苦しみから救うためのものではなかった。そこで、古墳時代に行われていたミトラ教の儀式が、庶民から求められていた。それは、ミトラ教の儀式は、旱の源である太陽を神として祀る宗教であるからだ。そのミトラ教の儀式では、牡牛が犠牲となる。
延暦10年(791年)桓武天皇は、伊勢、尾張、近江、美濃、若狭、越前、紀伊などの百姓に対して、牛馬を殺すことを禁じた。それらの国は、古墳時代までは、肉食する騎馬民族が支配者として統治していた。突厥民族は道教の北極星を祀るが、同盟する花郎騎士団は、ミトラ教の太陽を祀っていた。当然、それらの国では、牡牛を犠牲として、太陽神を祀っていた。牛馬屠殺禁止の意味は、桓武天皇にまつろわせるために、そのミトラ教の儀式を禁止させたのだ。しかし、民族を構成する言葉と宗教儀式は、征服者により、強制的に変革はできない。
延暦13年(794年)遷都した平安京は、ミトラ教を祀る秦氏(ギリシャ・ローマ文化の古代新羅からの渡来民族)の根拠地だった。そして、比叡山は、平城京の近隣にある三笠山と同じに、ミトラ教の祭祀場だった。
桓武天皇は、平城京にある興福寺・春日大社を支配する藤原氏と、平安京周辺の山奥に隠棲するミトラ教を祀る秦氏一族(鬼)を、歴史的に抹殺する戦略を考えなければならなかった。そのひとつが、「日本書記」と「続日本紀」の改竄と、もうひとつが、中国山東半島から、藤原氏の中臣神道の神に対抗する、シャンワン神(山王神)の導入だった。
その中国土着の神シャンワンを、山背国を山城国として支配した亡命百済貴族が、ミトラ神の祭祀場であった比叡山に勧請し、比叡山の山王神として、比叡山に祀られていたミトラ神を魔多羅神として貶め、藤原氏が奈良時代に発明した神アマテラスオオミカミに対抗させた。
奈良時代後期の756年以降、藤原氏は、平城京の東側の丘の上のミトラ教の祭祀場を破壊して、空き地の「神地」とし、その空き地に、中臣神道の神を祀るために春日大社を創建して、藤原氏の奈良王朝に反抗する、山の民となった明日香ヤマト残党軍等を「ケガレ者」として、災いを祓う儀式を奈良王朝で行っていた。
現在の神道の儀式で詠まれる「祝詞」は、10世紀の始めに編纂されたものだが、その中の「六月晦大祓」は、藤原不比等のロボットであった女帝持統天皇の時代に、藤原氏の支配下にある中臣氏が作文したものだ。その儀式の趣旨は、国内に起こる災難や不幸や疫病などは、人民どもが犯した罪悪の所業が原因だ。そこで、それらの罪悪を拭い取れば、平穏安息が得られるとする。
その祓うべき罪事には二種類ある。天津罪と国津罪だ。これは、藤原不比等が発明した、天津神と国津神とに対比する。天津罪として、畔放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、生剥、逆剥、屎戸の8つの所業がある。そして、国津罪として、生膚絶、死膚絶、白人、胡久美、おのが母犯す罪、おのが子を犯す罪、母と子を犯す罪、子と母と犯す罪、蓄犯せる罪、昆ふ虫の災、高つ神の罪、蓄仆し・蠱物する罪、の13の所業がある。この奈良時代の「ケガレ」思想には、平安時代に発生した「穢れ」思想の「血の禁忌」も「肉食の禁忌」もなかった。
藤原氏は、奈良王朝を支配するために、祭祀儀式は中臣氏に独占させ、そして、政治は朝廷の執行機関である廟堂を独占することにより可能としていた。
桓武天皇が即位する前の廟堂は、天武天皇系皇子と藤原氏により構成されていた。そして、桓武天皇が即位した、延暦元年(781年)から延暦16年(794年)までの廟堂の構成は、右大臣藤原氏、大納言藤原氏72%、中納言藤原氏27%だった。この時期の桓武天皇は、藤原氏のロボットだった。
しかし、桓武天皇側の勢力が増した延暦17年(798年)から延暦25年(806年・大同元年)までの廟堂の構成は、左大臣なし、右大臣神王(みわおう・天智天皇系)、大納言壱志濃王(いしのおう・天智天皇系)、中納言和氏、紀氏、坂上氏、参議紀氏、石川氏、渡来系坂上氏、渡来系菅野氏、渡来系秋篠氏、となっていた。
このことから、桓武天皇が、藤原氏のロボットではなく、権力者として在位していた時期に、廟堂から藤原氏が排斥されていたことが分かる。桓武天皇は、桓武天皇の政治を行うため、奈良王朝を政治と祭祀で独占支配していた藤原氏を排斥することにより、藤原不比等が計画していた移民と東北の砂金簒奪を、我が計画として実行できたのだ。
桓武天皇が唐の儀式により即位し、その儀式で祀る租神を、藤原不比等が発明した皇祖神とするアマテラスオオミカミではなく、父光仁天皇としたことは、奈良王朝を支配した藤原氏との決別を意味していた。そして、桓武天皇は、藤原氏の軍事力に対抗するために、百姓から練達の者を徴兵し、792年には、藤原氏に支配されていた軍団を解散させ、健児(こんでい)を設置した。その健児の軍団を指揮するのは、渡来系坂上氏などの唐帝国の将軍だ。唐帝国では、722年から傭兵制度を開始したため、中国大陸土着の黄色人種だけではなく、遥か西域から渡来した白人、黒人など、異人種の軍団が都を警備していた。蝦夷棟梁アテルイを騙まし討ちにした金髪の坂上田村麻呂の租も、その中のひとりだった。
桓武天皇の平安時代から、濁音の少ない唐音(京都弁の租)が平安朝廷で使われ、平安京が唐文化一色になるのは、唐帝国の軍団が日本列島に進駐してきたことと、中国山東半島から、遣唐使の請益僧最澄の導きで、亡命百済民が大挙して平安京に移民して来たからだ。
桓武天皇が、平安京から藤原氏の勢力の隔離を意図したことは、廟堂から藤原氏を排斥したり、藤原氏の神アマテラスオオミカミに対抗して中国山東半島土着の神シャンワンを山王神としたりしていたことからでも分かる。更に、桓武天皇は、奈良仏教も平安京から隔離した。
奈良には三論、成実、華厳、倶舎、法相、律の南都六宗があり、東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の七寺がある。その南都六宗派七寺の末寺が、大和の外には無い。何故なのか。教祖の教えを広く知らしめるには、各地の布教地に支店である末寺を建てることにより活動できる。しかし、南都六宗派七寺の末寺が、平安京はもとより、他の地にもないのだ。
桓武天皇は、それらの奈良時代を支配していた宗教的権威を排斥することで、平安京を、奈良の「藤原王国」に対する、「百済王国」とすることを意図していたのだ。そのために、桓武天皇は、最澄を遣唐使船に乗せた。その表向きの使命は二つ。ひとつは、中国山東半島から亡命百済民の日本列島への移民手配。そして、藤原氏が支配する南都仏教に対抗するために、中国天台宗の比叡山への勧請だ。密命としては、金精錬法の修得だ。
しかし、藤原三家は、桓武天皇の行動を黙って見ていたわけではない。そのひとつが、錬金術師空海を、唐に留学僧として送り込み、桓武天皇の命を受けた最澄の動向を探らせた。そして、藤原三家は、「藤原の女」を使う伝統的戦術により、桓武天皇を篭絡することを考え、実行した。
藤原南家は是公の娘吉子、式家は良継の娘乙牟漏、式家の百川は娘旅子、そして、北家には娘がいなかったので、内麻呂は自分の妻永継を、桓武天皇の後宮として送り込んだ。
それぞれの娘と元妻には、桓武天皇の子が宿された。式家の乙牟漏には安殿親王(後の平城天皇)と賀美能親王(後の嵯峨天皇)、式家の旅子には大伴親王(後の淳和天皇)、そして、北家の永継には安世が生まれた。藤原三家にとって、後は、桓武天皇の崩御を待つだけだ。その桓武天皇の在位は、それほど長くはなかった。桓武天皇は、祟られていたからだ。
百済系桓武天皇は、藤原氏による多くの陰謀と謀殺により誕生した。藤原氏は、桓武天皇の父、亡命百済下級貴族で、62歳の白壁王を天皇にするために、白壁王の妻である天武天皇の孫筋にあたる女帝井上天皇とその子他戸皇太子を無実の罪を着せて謀殺。そして、桓武天皇は、光仁天皇から次期皇太子とされた実弟早良親王を無実の罪を着せて謀殺していた。
桓武天皇は、平安京での度重なる不審火や落雷、そして、実母や側近が次々に死んでいったのは、それらの怨霊が、自分を祟った為だと考えた。それは、桓武天皇は、「続日本紀」を改竄していた過程で、奈良時代に藤原氏が、天武天皇10皇子を次々に無実の罪で謀殺し、その結果、「藤原王朝」の奈良の都が、反藤原氏となった聖武天皇により鋳造された遍照鬼により祟られていた実態を知っていたからだ。
729年天武天皇の孫長屋王を無実の罪で謀殺した藤原不比等の四人の息子は、五ヶ月以内に次々と奇病で死去した。そして、聖武天皇を光明皇后によりコントロールできなくなると、藤原広嗣は九州で兵を挙げた。それに対して、反藤原氏となった聖武天皇は、山の民である行基一行と結託し、藤原氏の都を見下ろす丘に、藤原氏が支配する仏教の敵、遍照鬼を鋳造した。聖武天皇が崩御した後、その大像の遍照鬼が完成すると、藤原氏の都「平城京」に奇妙な病が蔓延した。それは、都に住む多くのひとが、生きながら奇形して死に至る病だ。
桓武天皇は、「続日本紀」を改竄する過程で、奈良時代のそれらの怨霊により祟られた藤原氏と「平城京」の実態を知ったことにより、自分の犯した罪の意識を増幅させていた。更に、新しい都を造営する過程でも、山背国で秦氏の神を祀っていた巨大古墳を破壊して、律令軍にまつろわぬ先住民を抹殺していたのだ。平安京近隣の山奥に逃れた先住民の秦氏は、鬼となって、百済系天皇家が支配する平安時代を、祟る存在となっていた。


錬金術師空海と鬼

オレは、ここまで一気に読んだが、田辺さんのレポートの五分の一ほどまでだ。オレの貧弱な前頭葉を酷使し過ぎたので、脳が糖分を要求している。砂糖を多めに入れた温めの紅茶を一気に飲み干すと、レポートの続きを読んだ。その概要は以下のようだ。

藤原日本史では、稲荷社を農耕民族の「社」(やしろ・モリ)とするようだ。しかし、稲荷社については、多くの謎があるようだ。
藤原日本史のトリックに引っかかってしまったひとは、日本列島には古代から稲荷神社(いなりじんじゃ)が存在していた、と信じているようだが、神社(じんじゃ)は、明治革命後に発明されたものだ。「万葉集」には、「神社」の文字が存在するが、読みは「モリ」だ。だから、明治時代以前を記述する文章内に、○○神社(じんじゃ)とする歴史書物は、その記述内容に気おつけたほうがよい。
稲荷社についての史料では、892年菅原道真が編集したとする「類聚国史」がある。それによると、空海が東寺建立の為に稲荷山の木を切ったため、嵯峨天皇の後、淳和天皇が病気になり、淳和天皇が慌てて稲荷社に五位の位を授けたところ、病気が治ったとある。
更に、空海は、朝廷が力を入れて建設しようとしていた東寺がなかなか完成しなかったものを、京都稲荷山の木を切って建築木材として、わずか半年で完成させ、そして、東寺の守護神として稲荷神を勧請した、との史料もある。この二つの物語に出てくる稲荷社と稲荷山とには、何かを隠蔽していることが推測される。

藤原日本史では、空海は、最澄と供に、平安仏教を開祖した人物だ、とする。しかし、そのふたりの遣唐使船での渡唐による、仏教勉学の軌跡を辿ると、疑問符がつく。
804年7月五島列島田之浦から四隻の遣唐使船が出帆した。しかし、20年間の勉学を強いられる留学僧空海の乗船する第一船と、短期留学の請益僧最澄の乗船する第二船は唐に向けて出帆したが、第三船と第四船は何かのトラブルにより筑紫に舞い戻ってしまった。
空海の乗船する第一船は、804年8月福州長渓県に到着した。長安から存問使が来たのが10月頃で、11月に長安へ向かって旅立った。そして、長安には、12月到着した。
最澄が乗船していた第二船は、明州に着いたが、到着日は不明だが、804年9月に長安に向かい、11月に長安に到着した。しかし、そこには最澄はいなかった。明州に上陸した最澄は、9月12日付の台州行きの通行証を発行してもらい、中国天台宗がある台州の国清寺に向かった。
空海一行が、年賀の朝貢を済ませた後、天子徳宗が崩御した。そのことにより、順宗と憲宗との継嗣争いや節度使らの反乱、更に、隣国の吐蕃軍の侵略などで、唐帝国内の混乱に遭遇した。
そのような混乱した長安の都から、805年2月一行は出発し、3月越州永寧県に到着、4月明州郭下に到り、出帆する5月まで43日間滞在した。そこには、空海はいなかった。長安に留まっていたからだ。
天台山へ赴いていた最澄は、4月頃皆のいる明州に戻ったが、5月出発までの間、書物の入手と密教の受法を志して越州の龍興寺に向かった。そして、鏡湖の峯山道場で不空三蔵の弟子阿闇梨順暁から灌頂と曼陀羅などの尊様と印契を受けたとする。そして、5月最澄は、一行が待つ明州に戻った。
805年6月第一船と第二船は、明州を発ち、第一船は、7月対馬島に着いた。最澄が乗船した第二船も、7月に肥前国松浦郡血鹿島に着いた。
第一船、第二船が帰国した翌年、806年9月空海は、第四船で帰国した。しかし、この判官高階遠成が指揮した第四船の出港日も帰着日も帰着した場所も不明なのは、何故だ。
以上が、数少ない史料から割り出した空海と最澄の唐留学の旅程だ。航行日数と中国大陸での移動日を引くと、ふたりの唐での学習日数が、それほど多くないことが分かる。更に不思議は、留学僧の学習期間は20年だ。それなのに、留学僧の空海は、航海日数と中国内の移動日数を加えても、20ヶ月足らずだ。これには、何かのトリックがあったはずだ。
「新唐書」に、学生橘逸勢、僧空海は滞留して学業を修めることを願い、20余年の歳月がたった。使者高階真人がやって来て逸勢等と倶に帰国することを奏請した。皇帝はこれを許した、とある。空海は、20ヶ月を20余年と偽って奏請したのだ。これは、明らかに違法だ。
空海は、このことを気にしていたのか、「本国の使に与えて共に帰らんと請う啓」に、「長安において中天竺国の般若三蔵及び恵果阿闇梨に会うことができ、その直接の教えを受けて寝食を忘れて勉強した結果、10年かかる学業を1年で成し遂げて、密教の真髄に到達することができた。」、と述べている。しかし、その恵果阿闇梨は、805年に死去している。
空海が数ヶ月滞在していた長安は、皇帝が死去したための後継者争いと、それにつけ込んで隣国の吐蕃軍が侵攻したほど、内乱状態だった。そのような時期に、いくら天才ともいえ、恵果阿闇梨がいない長安での数ヶ月で、密教の真髄を極める修行ができるものなのか。
広い意味でインド密教は、タントラと呼ばれているが、その扱うテーマはには、秘教的ヨーガ、賛歌、祭式、儀礼、教義、法律、医学、天文学、占星術、魔術(科学・化学)まで含まれる。そして、それらを習得するには、書物を読むのではなく、師からの実践が要求される。そのように多義に渡る密教の真髄の何を、数ヶ月で空海が習得したというのか。
806年9月空海は、藤原氏の指示により勉学の途中で、急遽、判官高階遠成が指揮した第四船で帰朝した。そして、10月朝廷に「御請来目録」を提出した。その内容に、密教の技法を、「昔、金剛サッタが親しく遍照如来から伝授され、数百歳ののちに龍猛菩薩に授け、龍猛菩薩が龍知阿闇梨に授け、龍知阿闇梨が金剛阿闇梨に授けた。」、と密教伝授の遍歴を書き、更に、「龍知和尚は八百歳にして老いず。」、とも書いている。この提出文から、とざされた島国にいる平安朝廷には、唐の密教など何も分かりはしない、知っているのは自分だけだという空海のこころが読み取れる。
しかし、帰朝した空海は、桓武天皇より遠ざけられ、平安京の都には上れなかった。それは、藤原氏の勢力を奈良の都に封じ込めることを意図していた桓武天皇には、不正な手段で渡唐し、そして、不正な手段で帰朝した錬金術師空海に、藤原氏の影が見えたからだ。桓武天皇に避けられた空海は、北九州で好機を待つことにした。その好機は、意外に早く訪れた。

桓武天皇は、坂上田村麻呂による蝦夷棟梁アテルイを騙し打ちにしたことにより、青森以南の蝦夷を平定した。そして、最澄の渡唐での活躍で、中国山東半島から平安京に、多くの亡命百済民を移民させた。移民中で貴族以外のものは、平安京ではなく、関東の沿岸部に移民させた。
それは、関東の内陸部には、古墳時代に高句麗からの移民が高麗や国領の民として暮らし、そして、ワカタケル大王が治めた「シキの宮」などの古代新羅のコロニーがあったからだ。その中国山東半島から関東や伊豆の沿岸部に移民してきた者が、後の桓武平氏の租となった。
806年桓武天皇が崩御すると、平城が即位した。桓武天皇の崩御を待っていたかのように藤原三家が動き出した。その平城天皇に、藤原薬子が再び接近した。桓武天皇が存命中は、藤原薬子の品性を知っていたので、安殿親王(後の平城天皇)に言い寄る藤原薬子を遠ざけていた。
平城が即位した時には、藤原薬子は、藤原縄主の妻だった。その桓武天皇が崩御したことにより、側室となった藤原薬子の娘が平城天皇とに子が誕生しなかったので、娘を押しのけて藤原薬子自ら平城天皇に再接近した。
大同4年(809年)平城天皇は、病気を理由に、弟の神野親王に位を譲った。それが、嵯峨天皇だ。退位した平城太上天皇の後宮に入った藤原薬子は、平城太上天皇をして奈良の平城に遷都させた。藤原薬子は、藤原王国復活を目論んでいた。しかし、平城太上天皇は、この藤原薬子の陰謀を知らなかった。
この藤原薬子の陰謀を知った嵯峨天皇は、810年天皇個人を護る蔵人所を設置して、藤原薬子を宮外に退けた。この嵯峨天皇の処置に怒った平城太上天皇は、畿内と紀伊の兵を発して藤原薬子と、中国山東半島から移民してきた亡命百済民が多く住む東国に逃れようとした。
この乱は、平城・薬子側の兵の多くが逃亡したことにより、平城太上天皇は剃髪入道、藤原薬子は服毒自殺、兄の藤原仲成は射殺により終わった。そして、この藤原薬子の乱により、錬金術師空海が、嵯峨天皇に接近できた。
この藤原薬子の乱は、奈良時代の藤原広嗣の乱により藤原氏のロボットであった聖武天皇が、反藤原氏となったように、嵯峨天皇を反藤原氏とした。その乱以前に、嵯峨天皇には反藤原氏の芽があった。それは、天武天皇家や父桓武天皇は藤原の娘を后・後宮としていたのが、嵯峨天皇は藤原氏から娶らず、藤原不比等が計画した「藤原王国」を確立した藤原仲麻呂に反抗した、橘奈良麻呂の流れにある嘉智子を后としていたからだ。
しかし、嵯峨天皇の朝廷の執行機関である廟堂は、左大臣欠、右大臣北家藤原内麻呂、同藤原園人、同藤原冬嗣、大納言南家藤原縄主(藤原薬子の元夫)、北家藤原葛野麻呂、式家藤原諸嗣、坂上田村麻呂、巨勢野足、とあり、桓武天皇が避けていた藤原三家に支配されていた。
橘氏勢力と結んでいる嵯峨天皇は、藤原氏や旧桓武天皇官僚から離れて独自の政治を行うために、桓武天皇が最澄をして比叡山に中国天台宗の支店を構えた宗教勢力と、奈良の興福寺を中心とした藤原氏が支配する宗教勢力とに対抗する新しい宗教組織を求めた。それは、政治は「まつりごと」と言われるように、宗教的権威を利用することなくして人民を統制することができないからだ。そして、戦国時代に織田信長が比叡山延暦寺の仏教軍団を壊滅させる前まで、寺社には僧兵軍団がいたからだ。そこに現れたのが、唐から密教経典をもたらし新しい宗教「日本版密教」を発明し、そして、唐から仏具だとする金剛製の武器をもたらした錬金術師空海だ。

密教は、6世紀末から7世紀にかけてインドで発明されたと云う。そのインド密教(タントラ)が唐中期に、本格的・組織的に伝えられたのは、「大日教」を漢訳したシュバカラシンハと、「金剛頂」系の経を漢訳したウマジュラボーディと云われている。その「大日経」には、いろいろな願望を成就するための呪法や儀軌作法が述べられている、とする。
「大日経」や「金剛頂経」に基づく密教を、一般に正純密教と呼び、それ以前の除災や守護などを内容とする体系化されていない断片的な密教を雑部密教などと呼ぶ風習が日本にはあるようだ。その雑部密教の方には、「科学的・化学的」内容が多く語られている。空海は、「付法伝」に神妙の薬が大石に落ちるとすべて金になった、と述べているように、仏法説よりも、錬金術(ケミストリー)に興味があったようだ。
密教の呪法の経典を拾ってみると、医学や科学に関する経典が多くある。それらは、請雨呪経、止雨呪経、呪水経、薬呪経、呪毒経、呪時気病経、呪小児経、呪歯経、呪牙痛経、呪眼病経、義足経などだ。
藤原日本史によれば、入唐した空海は、密教を習得して日本に持ち帰り、高雄山寺、高野山、東寺を中心として真言宗を開いた、と述べる。しかし、空海が入唐していた当時の中国密教は、呪術的密教(科学的・化学的密教)ではなく、鎮護国家的色彩を強く色づけされていた。それに、インド密教を最後に引き継いだとされる恵果阿闇梨は、空海が入唐時には病の床にあり、805年に死去した。
科学的・化学的密教を唐に学びに行った空海には、インド密教(タントラ)の修行をするどころか、混乱する長安から密教経典を運び出すことしかできなかった。しかし、九州での滞在中に読破した密教経典から、次なる目標を見つけた。それが、水銀薬による、長生術、蘇生術、回春法だ。
それは、密教がタントラと呼ばれていたインドでは、医術において水銀や金属を調合して治療する技術が確立され、持ち帰った経典に記述されていた。更に、そのタントラ(密教)に付随する実践が、それらの経典から読み取れた。それらは、ダーラニー(力あることば・呪文)、ヤントラ(護符)、カヴァチャ(お守り)、ムドラー(手印)だ。これらの技法は、奈良朝廷の宗教儀式を支配していた奈良仏教にはない、新しいものだ。
そして空海は、水銀薬の知識、密教(タントラ)に付随する実践、漢訳仏教理論、そして、インドの神鬼をごちゃ混ぜにして、新しい宗教を発明した。それが、空海の密教だ。その密教を、真言密教と呼んだ。その真言とは、サンスクリット語でマントラと言い、仏が説かれた真実という意味だ。
その空海が開いた真言宗の本尊には、大日如来、薬師如来、阿弥陀如来、観世音菩薩、文殊菩薩、地蔵菩薩、不動明王、その他の諸仏で多枝にわたるが、その本尊群の頂点には大日如来が君臨する。
大日如来のサンスクリット語は、ヴァイローチャナで、密教僧ゼンムイは「大日」と字訳した。音写では、摩訶毘慮遮那とし、その意味から、昼間だけではなく夜も遍く照らすとする「大遍照如来」と漢訳した。そして、錬金術師空海は、反藤原氏の聖武天皇が鋳造した奈良の遍照鬼を、「大日如来」と命名した。それは、遍照鬼も「大日如来」も、太陽神であるからだ。空海は、明日香ヤマトで祀られていたミトラ教の神を、大日如来像と命名したことで、歴史上消してしまった。今日では、「奈良の大仏」と呼ばれているのはそのためによる。
その空海の密教の教えには二体系がある。ひとつは、「大日経」の「仏の慈悲はあたかも母の胎内に大悲をもって胎児の生育を計るごとし。」とし、もうひとつは、「金剛頂経」の説教にあるように、堅固なること金剛石のごとく、「武器の金剛」のごとく修行者の金剛不退の求道心とした。空海は、右手に「母なる慈悲」、そして、左手には「父なる武器」を持って、怨霊が跋扈する平安京の嵯峨天皇の前に現れた。子づくりに励む嵯峨天皇は、空海が調合する水銀薬を創製する真言密教に大変興味を示した。

嵯峨天皇の時代の平安京では、桓武天皇時代の怨霊の祟りが引き継いで起こっていた。その原因のひとつは、陸奥国・出羽国から捕虜として蝦夷が、近畿一帯の捕虜収容所に連れてこられていたからだ。それらの捕虜収容所は、別所、散所、湯浅、垣内、海渡などと呼ばれていたが、それらの地は、元産鉄民族が居住していた処だ。
征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、蝦夷棟梁アテルイを騙し、京まで連れて来た。その京で、赤毛のアテルイは首を刎ねられた。その結果、801年以降、蝦夷が支配していた陸奥国と出羽国とは、青森以南が、桓武天皇の支配下となった。
桓武天皇は、藤原不比等と同じに、陸奥国の金を狙っていたのだ。そのために、最澄を唐に渡らせ、金精錬法を学ばせに行かせた。しかし、唐帝国は、805年徳宗皇帝が崩御したため、長安の都が大混乱となっていた。そのため、亡命百済移民や中国天台宗の導入活動で密教を勉強していなかった最澄は、後に、年下の錬金術師空海の弟子となり、密教・金精錬法を学ぼうとした。しかし、錬金術師空海は、厳しい言葉でこれを拒否した。
桓武天皇は、陸奥国と出羽国を軍事管理する陸奥出羽按察使を独占する藤原氏を排斥するため、796年以降、廟堂の構成員から藤原氏を排斥した。そして、790年から陸奥出羽按察使であった多治比浜成に替えて、796年に坂上田村麻呂を陸奥出羽按察使とした。しかし、桓武天皇に継ぐ平城天皇を藤原薬子によるコントロールに失敗したが、809年嵯峨天皇が即位すると、再び、廟堂は藤原三家が支配することになった。すると、その翌年、810年薬子の反乱では平城太上天皇側に従って兵を挙げた文室綿麻呂は、禁固されていたが許され、同年810年文室綿麻呂は陸奥出羽按察使に任命された。
弘仁2年(811年)陸奥出羽按察使となった文室綿麻呂は、平安朝廷に俘囚軍一千人を以って、岩手県北部の幣伊村の夷を討ちたい、と奏上してきた。この陸奥国での軍事行動は、平安朝廷側ではなく、文室綿麻呂を影でコントロールする藤原氏によるものだ。これ以降、陸奥出羽按察使は、藤原冬嗣、歴史上初の摂政となった藤原良房など藤原氏一族により、明治革命前夜まで、藤原氏が独占して任命されて行く。
その文室綿麻呂の軍事行動は、何のためだったのか。それは、混乱する唐帝国で需要のある軍事奴隷を確保するためだった。アメリカ合衆国の奴隷貿易は、1808年に禁止されたが、日本国では、明治革命前夜まで、奴隷は売買されていた。
陸奥国や出羽国から連行された奴隷の蝦夷は、古墳時代は明日香ヤマトで活躍していた突厥進駐軍と花郎騎士団末裔だった。それらの奴隷軍人達は、それぞれの捕虜収容所に入れられていたが、桓武天皇軍に山背国を追われ、鬼となった山の民に助けられ、近畿一帯の山奥に逃れた者も多くいた。そのため、平安京の治安が乱れていた。この鬼達が、平安京の都で暴れまわらないように、嵯峨天皇は、令外官として、816年検非違使を設置した。
桓武天皇は、平城京が藤原京から仏寺を多く移築して建設されたのとは異なり、穢れた平城京の仏寺を平安京に移築することを禁止しただけではなく、奈良の僧侶の平安京への移動も禁止した。そのため、794年遷都した平安京には、荘厳な仏寺が少なかった。
桓武天皇は、平安京の東側に東寺の建立を計画し、実行したが、近隣の山に棲む鬼達の妨害により完成することがなかった。それは、その平安京の地は、元々は秦氏の支配地だったからだ。古墳や宗教施設を破壊され、山背国から追われて、山奥に暮らす鬼達は、平安京での仏寺の建設を妨害していたのだ。
嵯峨天皇の時代、その東寺建築に名乗りを上げたのが、錬金術師空海だ。錬金術師空海は、稲荷山の木を材料として、半年で東寺を完成さ、そして、稲荷神を祭ったと云う。これは、何を意味しているのか。それは、金剛杖で武装する錬金術師空海の仏教軍団が、夜な夜な平安京を跋扈する鬼達が住む山奥の棲家を壊滅したことを意味している。

京の東寺には、突厥ビシャモンが祀られている。その像は、かって平安京を鎮護するため羅生門の楼上に安置されていたものだ。ビシャモンは、北方を守護する神だ。平安京の北方には鞍馬山がある。その鞍馬山には、牛若丸の物語にあるように、ひとびとから恐れられている天狗が住んでいる、と云われていた。
「鞍馬蓋寺縁起」に、寛平年間(889年〜898年)には、鞍馬山には三尺の舌を持つ大蛇や髪を夜叉のように振り乱す鬼がいた、との記述がある。そして、その魔の山に、ビシャモンを祀り、鞍馬寺を創始したとする。では、ビシャモンに退治されたとする、その大蛇や鬼とは、何なのか。
ビシャモンとは、ヒンズー教の魔族クベーラで、金属や宝石を地上界にもたらし、地下の洞窟に住むとする、金属神のことだ。その鞍馬寺では、創始当時、ビシャモンを太陽の精霊として、又は、光の象徴として崇める信仰があったと云う。ビシャモンの属性が、太陽や光、そして、金属神とはどういうことだ。
京都には、京都三大奇祭がある。それらは、今宮神社の「やすらい祭り」、広隆寺の「牛祭り」、そして、鞍馬の「火祭り」だ。やすらい祭りとは、鬼による厄病退治らしい。広隆寺の牛祭りも、牛頭天皇による厄病退治らしい。そして、鞍馬の火祭りは、鬼による拝火をルーツにしているらしい。「らしい。」、とするのは、祭りには勝者側による、敗者の神を隠蔽する演出があるからだ。祭りの表面の演出により、裏の史実が隠蔽・改竄されていることが多い。だから、それらの祭礼の儀式には、微かな敗者の歴史の「ニオイ」がする。
ビシャモンのルーツを辿ると、延暦15年(796年)造東寺長官の藤原伊勢人の説話に突き当たった。その説話には、「伊勢人が、ある日夢を見た。その夢で、白髪の老翁が、観音像を祀るお堂を建てるに相応しい霊山があると教えた。夢から覚めた伊勢人がその霊山に行くと、そこには方丈の草堂があり、ビシャモン像が祀られていた。伊勢人は、自分が祀りたいのは観音像であるが、その霊山にはビシャモン像があったと不思議がった。するとその夜の夢に、童子が現れ、「因果の理からいえば、ビシャモンは観音である。おなじ仏教真理を説く経典にも般若経と法華経とがあるように、ビシャモンも観音も呼び名が違うだけで、もともとは一つのものである。」、と述べたと云う。これを聞いた伊勢人は、草堂をこわし、精舎を造営し、そこに千手観音とビシャモン像を祀った。」、とある。
では、ビシャモンと同じとする観音とは、何か。観音とは、サンスクリット語でアヴァローキタ・スヴァラで、竺法護は漢訳して「光世音」とし、鳩摩羅什は「観世音」と訳した。「光世音」も「観世音」も、共に太陽神の神格を表す。その後、バラモン教からヒンズー教への変遷に伴い、観音のインドにおけるサスクリット語名が、アヴァローキタ・イーシュヴァラとなった。これを玄奘は「観自在」と訳した。意味としては、色々な姿に変身できるからだ。
その観音信仰は、日本に入ると、「法華経」の普及とともにひろまった。それは、観音菩薩は、「観世音菩薩不門第二十五」の物語によれば、自由自在に人々の苦悩を観じ、三十三にも変現し、人々を救済する、と述べている。この観音信仰が、真言宗修験道と習合して、薬師如来信仰において、観音色が強くなっていく。
修験道は、山岳信仰と仏教とが習合してできたものとする。では、その山岳信仰とは、何なのか。修験道の聖地は、山形県出羽三山と云われている。その三山とは、羽黒山、月山、湯殿山と云われている。しかし、室町時代末期までは、湯殿山ではなく、葉山であった。では、その葉山とは、何か。全国にある葉山には、産鉄民族の歴史の「ニオイ」がある。
錬金術師空海が、真言密教の修行場とする寺や山には、「産鉄民族」と「太陽信仰民族」の「ニオイ」が残る。その葉山(湯殿山)に詣でて、即身成仏を果たすことが、羽黒修験道の修行目的だ。そして、その葉山(湯殿山)は、大日如来の密厳浄土だ。
以上のことから推測すると、錬金術師空海は、産鉄民族と太陽信仰民族の歴史を消すために、山岳に真言密教の修行所を建設していたようだ。それは、それらの民族は、錬金術師空海のビジネスとダブルからだ。そのビジネスとは、鉄・水銀・銀・金の採取と、創薬による治療だ。
藤原日本史では、蘇我氏とするが、その実態はユーラシア大陸から渡来した突厥民族である騎馬民族は、道教思想により、水銀薬、薬草、動物薬により不老長生を目指していた。そして、馬を乗りこなす鐙を作るために、鉄器製作に長けていた。その鉄器製作のための鉄作りを、タタラ製鉄と言う。タタラは、ユーラシア大陸でのタタールからのものだ。
日本列島に騎馬民族と供に渡来した産鉄民族は、日本列島には鉄鉱石が産出されなかったので、浜砂鉄を原料に、タタラ製鉄で鉄を手にしていた。しかし、侵攻して来た仏教信仰民族との戦いに敗れると、山奥に逃れ、山砂鉄を原料に鉄を作っていた。そして、産鉄民族は、仏教信仰民族により、金棒を武器とする「鬼」にされてしまった。
鬼の頭に角が生えているのは、鬼は元々は、太陽信仰のミトラ教徒で、太陽の化身である牛の頭を、捧げて太陽神を祀る儀式をもっていたからだ。その儀式のための牛頭が、鬼頭としてデホルメされたのだ。
一方、ミトラ神を祀る太陽信仰民族は、ミトラ神が誕生するとする山を崇拝していた。そこで、産鉄民族と太陽信仰民族は、融合して、山の民となった。
その山の民の太陽神や産鉄民族の風習を抹殺・隠蔽するために、錬金術師空海は、真言密教の神々を発明した。その神々の素性を知ると、錬金術師空海が、太陽神の隠蔽を意図していたことが示唆される。
真言密教では、大日如来が憤怒した姿が、不動明王とする。その大日如来の租は、バラモン教のヴァルナ神で、その租は光の神である太陽神アフラ・マズダだ。
阿弥陀仏→バラモン教のヴィシュヌ神→エジプトの太陽神アトン
観音菩薩→バラモン教のヴィシュヌ神→光世音→太陽神
薬師如来→バラモン教のヴァルナ神→瑠璃光
弥勒菩薩→ヒンズー教のマイトレーヤ→太陽神ミトラ
奈良仏教は官営だが、私営経営をしなければならない錬金術師空海は、山奥で水銀を採取し水銀薬販売や加持祈祷・手印・護符・お守りにより密教ビジネスをしなければならない経済的事情のために、同業を営む山の民を「鬼」として歴史上抹殺しなければならなかった。
このことは、江戸時代のエド(穢土→江戸)では、「稲荷」は「伊勢屋稲荷に犬のクソ」と蔑まされて言われていたが、大阪では、「病弘法、欲稲荷」と言われていた。民族差別が激しい西国では、「稲荷」は尊称ではなく、蔑称だったのだ。それは、「稲荷」は「夷なり」だからだ。この童子歌により、錬金術師空海が、平安時代から西国で水銀薬・加持祈祷により民間治療ビジネスをしていたことが分かる。
そして、「鬼の歴史」を消すための真言(?)が、「稲荷」だ。稲荷→イナリ→夷なり。稲荷→ジュガ→ツカ→塚→土の家→古墳、となる。だから、古墳に眠る霊を怨霊として封じ込めるために、モリ(古墳)の上に稲荷社を建てた。日本列島各地にある神社(モリ)が、こんもり茂った森の小山の上に多くあるのは、そのためだ。それは、さきたま古墳群の稲荷山古墳名の由来からも分かる。
空海が、東寺を建てるため、稲荷山の木を切ったとは、鞍馬山に棲む山の民を根絶やしにした、ということだ。稲荷神を祀ったということは、山の民の神を、真言密教の神々に習合したということだ。このことから、稲荷社は、山の民の社で、農耕民族の社などではないことが示唆される。
犠牲により神を祀る山々に棲む「鬼」が、加持祈祷による錬金術師空海の真言密教により「退治」されると、平安京の都に、一風変わった民族が集団で現れた。それが「芸能民」だ。


奈良の藤原王国対京都の百済王国

オレは、一休みした時、ふと思いついた。
田辺説によれば、奈良時代とは「天武天皇の10皇子」対「藤原氏」の闘争の時代とするようだ。そして、平安時代とは「藤原氏」対「亡命百済貴族」の闘争時代と位置づけているように、オレには読み取れた。
7世紀末期に、突然明日香ヤマトに現れた藤原不比等とは何者だったのか。そして、日本列島の歴史を改竄し、明日香ヤマト時代には漢字アルファベットを使っていたのに、奈良時代に漢語による「日本書記」を創作し、日本列島史を乗っ取った技術は、どこからもたらされたものなのか。
藤原日本史では、陸奥国・出羽国は、平安時代まで未開の地とするようだが、田辺説を読むと、藤原日本史に平安末期に奥州藤原三代の記述が突然現れる意味が理解できた。
藤原氏は、奈良時代から明治革命まで、陸奥出羽按察使の軍事・行政権限を最大限に利用した、東北の間接的支配者だったのだ。その東北支配の目的は、ハザール王国の同胞の移民と、鉱物資源と絹生産地の奪取だ。その藤原氏の国際性と遣唐使船の南方への遭難の謎は、ハザール王国→南インドのマラバル沿岸→中国マカオ→南九州坊津→紀伊半島熊野→東北仙台の南海路ルートで解明できるようだ。
日本列島史を古代から現代までを俯瞰してみると、藤原氏が政権を支配する時期に、日本国の軍隊は、異民族の地を軍事侵略する傾向があるようだ。そのような目で日本の歴史を調べてみると、奈良時代からの東北支配の延長線上に、戦国末期に藤原氏と姻戚関係を結び、藤原氏のロボットになった関白豊臣秀吉の朝鮮出兵による清国侵略計画と、そして、明治維新で復活した藤原氏の明治新政府による「神国ニッポン軍」による、イギリス東インド会社の流れにある国際金融組織にコントロールされた日清・日露戦争の流れの先に、満州国樹立があったようだ。
それらの海外侵略戦争には、奈良時代の陸奥国・出羽国の侵略と同じ意図があったようだ。それは、663年以降の亡命百済貴族と同じように、イスラム帝国により国を失ったハザール王国末裔の「白いユダヤ人」の同胞の移民地を求めた戦争だったことが示唆される。

田辺さんのレポートを読んだことにより、仏教伝来年が、538年説と552年説のふたつがあるのが理解できた。それは、奈良時代に藤原不比等が創作した、552年厩戸皇子による仏教伝来物語で仏教文化が芽生えたとする飛鳥時代を記述する「日本書記」を、平安時代に百済の血が流れる桓武天皇家が、538年百済から伝来した仏教が聖徳太子により興隆したとする飛鳥大和の仏教興隆物語として改竄したからだ。
その平安時代における、「藤原氏」対「亡命百済貴族」の戦いによる日本列島史の田辺説は、以下のようだ。

天応元年(781年)唐の儀式で桓武天皇が、奈良時代に呉音で読まれた漢語を漢音に替え、藤原不比等が発明した皇祖神アマテラスオオミカミに替え父光仁太上天皇を祀り、即位すると、延暦元年(782年)散楽戸が廃止された。
散楽とは、奈良時代まで近衛の官人の多くが教習に参加していた神を祭る芸能だ。その散楽は、平安時代になると「猿楽」と貶められていく。そして、秦氏は、姓名を惟宗氏に替えた。何故だ。
奈良時代までは、明日香ヤマト時代に広く認められていた騎馬民族とギリシャ・ローマ文化の古代新羅の文化・芸能がまだ残っていた。その散楽から派生した猿楽は、騎馬民族末裔が再び支配する室町時代になると、「能」として武家社会に現れた。
その能を完成させたとする世阿弥著「風姿花伝」の序によれば、「聖徳太子、秦河勝に仰せて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号せしより以来、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。」、と述べている。古代の「遊び」とは、神を祀る意味だ。その世阿弥は、申楽(猿楽)の租は、秦河勝だと述べている。
秦河勝は、その猿楽者の租神として「大荒大明神」(おほさけ大明神)と名付けられ、本地は「ビシャモン」と意味付けられていく。ビシャモンとは、太陽神の神格を持った鬼で、錬金術師空海がインド密教思想から導入したものだ。
では、猿楽の「猿」とは、どのような歴史的意味があるのか。猿は、古くから「山神」の使者としてはばかられていた。その猿の名前を付けられた者が、「日本書記」にいた。猿田彦だ。その猿田彦の「彦」とは、「日の男」の意味で、太陽信仰民族の「男」を表す言葉だ。因みに、「女」は、「ヒメ」若しくは「ヒルメ」だ。では、その猿田彦の素性は、何か。
平安時代初期に「日本書記」の偽書性を暴くために著された「古事記」によると、「天孫降臨」の条に、「私は国津神で、名は猿田彦と申します。」、とある。猿田彦は、国津神だったのだ。
国津神とは、藤原不比等が、明日香ヤマトで祀られいた道教の神である北極星と、ミトラ教の神である太陽とを歴史上抹殺するために発明された神のことだ。因みに、天津神とは、藤原氏の神のことだ。
645年仏教が組織的に伝来する以前、日本列島にある古墳近くの祭事場では、血による祭儀が行われていた。ミトラ教の太陽神化身である、牡牛を屠る儀式のことだ。その「血の儀式」は、仏教軍団との戦いでミトラ教徒軍が敗れると、仏教儀式の読経により否定されていく。そして、平安時代になると、錬金術師空海の発明した加持祈祷の「火の儀式」により否定された。そして、その国津神は、宿神として貶められていった。
その宿神には、障礙(しょうげ)と守護との性格を持つ。障礙とは、祟りのことだ。その宿神は、平安時代には、魔多羅神、大避大明神、秦河勝、翁、守宮神、鏡、猿楽の宮、星宿神などと呼ばれていく。
祟りは、怨霊が原因と云われている。怨霊は、無念の死を迎え、消滅できずにこの世に漂う敗者の魂だ。その怨霊は、この世で恨みを晴らそうとして漂う「さまよえる傷ついた魂」だ。天津神に抹殺された国津神は、宿神となって平安京を彷徨っていた。その国津神の怒りは、国津神の神によってのみ鎮めることが出来る。
怨霊は、国津神側からすれば、「さまよえる傷ついた魂」であるが、天津神側からすれば「ケガレた魂」だ。奈良時代の「ケガレ」は、国家反逆を行う行為のことだが、平安時代の「ケガレ」には「汚い」の意味が付加されて行く。この変革の意味は、どのようにして起こったのか。

高野山真言宗のある寺で、お札を配布していた。その内容に「栴多羅屠者のたぐいの穢れたる人を見たならば、このしんごんをとなうべし。」、とあった。その栴多羅(せだら)とは、何者なのか。錬金術師空海は、入唐で、インド密教経典と供に、インドのバラモン教の民族差別思想も日本列島にもたらした。そのインドの経典には、「チャンダーラに触れたとき、彼らと言葉をかわしたとき、彼らを見たときには、穢れをうける。そのさいには浄化儀礼をせねばならない。」、とある。
平安時代、唐帝国により押し付けられた律令制が解体していき、荘園公領制が確立していく中で、官営ではない新しい宗教は政治に協力することで生き延びていった。人民は、新しい宗教に経済的に支援することができないほど、貧しかったからだ。
そこで、錬金術師空海は、自身の宗教を目指すための経済的理由のために、陸奥国・出羽国の蝦夷を平定した桓武天皇の時代から続く、平安京での怨霊に苦しむ嵯峨天皇に近づいていった。
錬金術師空海は、インド密教の民族差別思想と供に、民族差別用語も日本列島にもたらした。それらは、栴多羅と非人だ。非人とは、騎馬民族の流れにあるシャキャ族の元王子であった釈尊が、民族差別をするバラモン教の永遠に輪廻する思想から解脱するために、この世とあの世との中間に暮らすことにより、バラモン教が唱えるカルマから逃れられるとした。それが、人でもなく、死人でもない「非人」となることだ。
その釈尊の唱えた「非人」の意味を、835年錬金術師空海は、「遍照発揮性霊集」で、「蝦夷は非人のともがらなり。」、と述べた。蝦夷とは、明日香ヤマト時代の突厥進駐軍と古代新羅から渡来した花郎騎士団を租としている武人だ。更に、「我および仏弟子にあらずば、いわゆる栴多羅悪人なり。」、とも述べている。
日本最古の仏教説話集「日本霊異記」にも、「七人の非人ありき。牛頭にして人身なり。」、とある。平安時代になると、錬金術師空海が発明した真言密教の布教により、釈尊の唱えた「非人」の意味が、百八十度回転して、全く別の意味となってしまった。
804年桓武天皇は、牛屠殺の禁止令をだした。その3年前の天応元年(781年)桓武天皇が即位した年、北九州の八幡神は、「護国霊験威力神通大菩薩」の称号を賜り、八幡大菩薩となった。この時の廟堂は、藤原氏に占められていたので、桓武天皇は藤原氏のロボットだった。
その宇佐八幡宮の最大の神事のひとつに、「方生会」(ほうじょうえ)がある。その方生会の最初は、天平16年(744年)秦氏の支配地である山背国の恭仁京から難波京への遷都の時期だ。その九州での、律令軍による先住民の殺戮は、藤原日本史では、740年藤原広嗣の乱としているが、その乱を知った反藤原氏となった聖武天皇が、翌年741年都を平城京から、秦氏の支配地である山背国の恭仁京に遷都したほど、おぞましい殺戮であったと示唆される。
藤原日本史が述べる藤原広嗣の乱とは、秦王国残党狩りであったのだ。そして、藤原氏が、奈良の三笠山にあったミトラ教の祭祀場を徹底的に破壊した跡に、春日社を創建したように、宇佐にあったミトラ教の宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、宇佐八幡宮を創建したのだ。そして、明日香ヤマトを飛鳥大和として騎馬民族の歴史を抹殺したように、宇佐の秦氏の支配地を豊国として、ギリシャ・ローマ文化の秦王国の歴史を抹殺したのだ。
天応元年(781年)北九州の八幡神が、「護国霊験威力神通大菩薩」の称号を賜り、八幡大菩薩となったことの意味は、秦王国残党が、奈良の藤原王国の支配下に強いられた、ということだ。
このことから、752年聖武天皇が奈良の遍照鬼鋳造を完成した時、宇佐の神人が訪れたことの意味が分かる。それは、遍照鬼は、太陽神ミトラだったので、太陽神ミトラを祀っていた秦王国末裔が、聖武天皇が発案した遍照鬼の鋳造を援助したのだ。そして、道鏡事件での宇佐八幡宮の神託も、その延長線上にあった。769年和気清麻呂に「道鏡を朝廷から排除せよ。」との神託を与えたのは、藤原氏の傀儡神官だった。
その方生会とは、律令軍が殲滅した新羅人と隼人の国家反逆者の怨霊鎮めのための仏法行事だ。つまり、国津神系軍人の怨霊を鎮めるための仏教行事だ。その裏の目的は、「血の儀式」を放棄させる証として被支配者に行わせた。
では、方生会を行った宇佐八幡宮とは、何か。宇佐八幡宮とは、土豪の宇佐氏と新羅系渡来人の辛島氏、そして、藤原氏が支配する奈良朝廷が派遣した大神氏による三氏により営まれた。何故、民族が異なる三氏により、宇佐八幡宮が営まれたのか。
藤原日本史によれば、宇佐八幡宮の八幡神は、571年欽明天皇の時代に、初めて大神比義(おおがのひぎ)によって祀られた、と述べる。では、その八幡神とは、何か。
現在では、全国の八幡神社(はちまんじんじゃ)の主祭神は、藤原不比等が日本初の天皇として発明した応神天皇である。(平安時代、桓武天皇は、応神天皇を15代とし、初代天皇を神武天皇として「日本書記」を改竄した。)しかし、地域によっては、相殿神は異なる。宇佐八幡宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮は、比売神(ひめのかみ)と神功皇后だ。比売神の「比売」(ヒメ)とは、太陽信仰民族の「女」という意味だ。
しかし、欽明天皇や神功皇后などは、奈良時代に藤原不比等が発明した歴史上の架空人物だ。すると、宇佐・石清水・鶴岡八幡宮の祭神から、架空の人物である神功皇后を取り去ると、残るのは比売神(ひめのかみ)だけとなる。つまり、元来の八幡神とは、太陽信仰民族の神であったのだ。それを、藤原氏が、架空の神功皇后などで太陽信仰民族の神を隠蔽したのだ。
では、八幡神の本当の姿は、何なのか。その謎解明のヒントが、宇佐八幡宮の祭礼儀式にある。宇佐八幡宮の御遷宮、行幸会、方生会などの祭礼では、王権に敗れ部落に暮らす者が、「清め役」として、奈良時代末期から近世まで、神事に奉仕していた。その宇佐方生会の行事から、八幡神の素性が推察できる。
宇佐方生会には、古宮八幡宮で造った銅鏡を宇佐八幡宮に奉納する神事がある。この神事の流れは、香春岳から採取した銅鉱により銅鏡を作り、香春岳の麓にある古宮八幡宮から宇佐八幡宮に、御神体として奉納される。
その古宮八幡宮には、新羅神である豊比売を祭っている。その古宮八幡宮の新宮は、香春社だ。その香春社の宮司は、赤染氏だ。その赤染氏は、新羅系渡来人だ。このことから、八幡神とは、新羅系の神であることが分かる。その宇佐とは、古墳時代に、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族により興された、秦王国が存在した地だった。その秦王国は、藤原日本史により、豊国(トヨクニ)と改竄される。

奈良時代、藤原氏は、明日香ヤマトの各地拠点であった地に、奈良三笠山には春日社、伊勢には伊勢神宮、イズモには出雲大社、常陸には鹿島神宮、九州には宇佐八幡宮などを創建して、前政権の歴史を抹殺していたが、藤原仲麻呂の時代、唐帝国と内通する吉備真備の暗躍により、藤原仲麻呂のロボットであった女帝称徳天皇は、反藤原氏となり、藤原仲麻呂軍団を壊滅してしまった。
このことにより、反藤原勢力に対抗するために、藤原四家は、唐令の大宝律令を養老律令に替え藤原王国を樹立していたため唐帝国に軍事援助を頼むことが出来ないため、新しい協力者を探さねばならなかった。それが、平城京で下級官僚として働いていた亡命百済貴族一族であった。
亡命百済貴族は、672年新羅・明日香ヤマト残党連合軍団により壊滅されるまでは、近江に百済亡命王朝を築いていた。更に、古墳時代には、日本列島に渡来した百済民は、各地に百済コロニーを築いていた。その亡命百済貴族の勢力を利用することで、反藤原勢力と対抗することを考えた。
しかし、62歳の光仁天皇を即位させたのはまだしも、光仁天皇が、息子山辺皇子を桓武天皇としたことから、藤原氏の日本列島乗っ取りの計画が狂いだした。桓武天皇は、藤原不比等に匹敵するほど、知略・謀略に長けていたからだ。
即位してまもなくは藤原氏のロボットであった桓武天皇は、唐帝国の支援を受けると豹変した。794年平安京に遷都すると、奈良の仏寺の移築はもとより、末社の平安京での設置と奈良僧侶の移動を禁止して、平城京の藤原氏の権勢を封じてしまった。そして、中国山東半島から亡命百済民を平安京に移民させ、奈良仏教に対抗するために、中国天台宗を比叡山に勧請した。更に、藤原氏の中臣神道の神アマテラスオオミカミに対抗するために、中国土着の神シャンワンを導入して山王神として、比叡山に祀った。
そして、桓武天皇は、前政権の歴史を改竄・抹殺した。聖武天皇の遺品が保管されていた正倉院の絵画、像、史料の内で、亡命百済貴族に関する物を焚書・破壊した。そして、「日本書記」と「続日本紀」の内容を、母国百済を滅ぼした新羅憎しの感情により、敵国新羅とし、飛鳥大和時代の仏教文化は全て百済から伝来したと改竄した。そして、近江の百済亡命王朝を、飛鳥大和朝廷の政権とし、そして、年下の百済系中大兄皇子を、新羅系大海人皇子の兄として、天智天皇とした。そして、「不改常典」の呪文により、百済天皇家を万世一系とするために、紀元前660年即位の初代神武天皇を創作した。しかし、神武天皇が即位したとする奈良盆地は、周囲の山々から流れ込む川により、人も住めぬ大湿地帯だった。
勿論、藤原不比等が創作した日本神話も改竄した。平安時代に中国から導入した山王神の出自を、藤原神話の「天孫降臨」の時代とするために、「本朝食鑑」で、「山王は猿田彦神に天孫降臨のとき、ニニギノミコトの道案内をさせた。そこで山王は猿を神使いにしたのだ。」、と述べさせた。
奈良時代、729年藤原氏は、天武天皇の孫長屋王を無実の罪で謀殺すると、東北からの騎馬民族の軍事道路であった北陸道に愛発関、東山道に不破関、東海道に鈴鹿関を設けて、西国の防衛線とした。このため、西国の騎馬民族は孤立した。平安時代初期、孤立した騎馬民族軍団は、唐帝国から招かれた坂上氏などの軍事顧問に指揮された百済系健児軍団の攻撃により壊滅し、山奥に逃れ、山の民となった。
その山の民を、錬金術師空海は、金剛杖の武器により平伏させた。そのため、平安京には騎馬民族末裔の集団が現れた。それが、芸能民だ。西国の平安京近隣の平地は、亡命百済民の土地となっていたため、山から追われた芸能民は、神が住むと信じられていた聖地の河原や橋の下を居住地とした。河原は、神が見守る地とされていたために、古来から交易地とされていた。橋は、この世とあの世との架け橋と信じられていたため、橋の下は聖地であったのだ。
それらの芸能民の「芸」とは、神に奉仕するための各種の高度技術を表す。その芸能民の出自は、古墳時代から奈良時代までは、天武天皇家の「まつりごと」を支えていた各種技術者達だった。
平安時代初期、桓武天皇家は、陸奥国・出羽国の新羅末裔の蝦夷壊滅に没頭していたため、それらの芸能民を賎民として貶める行動をおこさなかった。しかし、青森以南の東北の蝦夷が平定された嵯峨天皇の時代、芸能民は、民族差別思想により賎民として貶められていく。その原因のひとつに、錬金術師空海の平安朝廷での登場がある。
平城京での藤原氏の朝廷儀式に対抗するために、平安京で新しい朝廷儀式を求めていた嵯峨天皇は、錬金術師空海が発明した真言密教のダキニの呪法による儀式を導入した。この真言密教の朝廷での儀式は、江戸時代末期孝明天皇が暗殺されるまで続いた。
藤原氏の色の付いた錬金術師空海の真言密教の儀式が、百済系桓武天皇家の儀式として採用されたのは、それは、桓武天皇が期待した最澄は、唐での仏教儀式の勉学をおこなっていなかったからだ。そのため最澄は、年下の錬金術師空海の弟子となって、インド密教の教えを求めていたほど、密教儀式に習熟していなかった。
錬金術師空海のもたらした密教思想の基は、インドのバラモン教だ。インド侵略者のバラモン教は、先住の遊牧民族トラヴィダをチャンダーラとして、不可蝕賎民として社会から排除していた。そのチャンダーラを錬金術師空海は、自著内で栴多羅とし、悪人とした。
そして、密教ビジネスの加持祈祷、護符・お守りを西国の貴族・庶民に販売するために、「栴多羅屠者のたぐいの穢れたる人を見たならば、このしんごんをとなうべし。」、と宣伝販売に励んだ。
しかし、錬金術師空海は、佐伯氏の流れにある。その佐伯氏とは、夷である蝦夷の流れにある。錬金術師空海の蝦夷を社会から排除する行動の裏には、「夷を以って、夷を制す。」の藤原氏得意の戦術があった。錬金術師空海の影に藤原氏があることは、山奥で儒教や道教を学んでいた空海を、一年で仏籍に入れ、留学僧として唐に送り込んだのは、藤原氏であったことで分かる。
反藤原氏の嵯峨天皇は、亡命百済貴族の品格を高めるために、814年「新撰姓氏録」を著し、亡命百済貴族を「皇族」、藤原氏を「神族」、そして秦氏などを「蕃族」の渡来人として身分差別をおこなった。しかし、平安京近隣の河原で営業する芸能民は、元は天武天皇家に仕えた秦氏達であった。その古代新羅(秦の国)から渡来した秦氏の租である紀氏は、古墳時代に辰韓(秦の国)から日本列島に現れた、百済民よりも、最も古い氏族だ。それが蕃族の渡来民族であるはずがない。すると、新羅系天武天皇の兄とする、百済皇子の中大兄皇子を天智天皇としたトリックが、後のひとにバレでしまう。そこで、明日香ヤマトを支配していた秦氏末裔の芸能民を、社会から隔離する戦略を考えた。
河原で営業する芸能民を疎ましく思っていたのは桓武天皇家だけではなかった。それは、寺社領から税として集めた米を酒造して、般若湯として販売していた比叡山延暦寺や水銀薬を販売していた高野山真言宗も同じだった。芸能民は、歌や踊りだけではなく、簡単な外科手術・抜歯、ロクジョウなどの動物薬や薬草などを使用した治療、神との交流を行うための性技などを河原で営業していたのだ。
その芸能民を社会的に隔離する手段として利用されたのが、「法華経」の布教だ。「法華経」には、法華経を疎んじる者は皮膚病となるとの一文があった。その「法華経」は天台宗の聖書だ。その仏敵が皮膚病を罹患するとの「法華経」の布教が、ハンセン氏病者を仏罰者としてしまった。平安王朝や平安仏教は、このハンセン氏病者の保護・看護を、その河原に住む芸能民に押し付けたのだ。
ハンセン氏病が仏罰であるということは、平安京の貴族や庶民にはリアルに訴求した。それは、ほんの数十年前、奈良時代の大像鋳造後、平城京では、人体が変形して死に到る銅・水銀鉱毒患者の実態が平安京でも伝聞されていたからだ。この伝聞は、後に、源信により、985年「往生要集」として著され、ひとの死に到る描写があまりにもリアルであったので、宋国に輸出されたほどだった。
このハンセン氏病の仏罰戦術により、国家反逆行為である「ケガレ」が、仏罰者のハンセン氏病の「ケガレ」として広まって行った。やがて、国家反逆の「ケガレ」と仏罰の「ケガレ」とが習合して、仏罰者の国家反逆者の「ケガレ」を扱う機関として、816年令外官として検非違使庁が設置された。
奈良時代の律令制下では、国家反逆者にたいするケガレの「清め」は、僧兵軍団を擁する鎮護国家仏教の寺社が、国家の代行として行っていた。しかし、律令制度が崩れ荘園制度となった平安時代では、ハンセン氏病者の仏罰者である国家反逆者のケガレの「清め」は、「非人宿」の長吏がその役割を担がされた。
長吏とは、中国では高級官人の呼称であるが、錬金術師空海が「非人」の意味を変えて布教してしまった結果、ハンセン氏病者を保護・看護する部落の「長」(おさ)の意味として貶められてしまった。

桓武天皇家は、朝鮮半島からの百済民族を租としているのに、「新撰姓氏録」により、日本国古来の「皇族」と自称したが、その平安京の地は、蕃族とする秦氏の支配地だった。そこで、桓武天皇家は、秦氏の歴史を消すために山背国の歴史を改竄した。その改竄素材が、「秦河勝」だ。
藤原日本史によれば、秦河勝は、聖徳太子の忠臣で、聖徳太子の命により、弥勒菩薩を安置するために広隆寺を創建したと述べる。しかし、その広隆寺は、平安時代に創建されたもので、それ以前は数回寺名を変え、秦氏が支配していた山背国では、蜂丘寺と言って、ミトラ教の神を祀る景教(ミトラ教)の寺だった。因みに、広隆寺に安置した弥勒菩薩とは、ミトラ神のことで、そして、飛鳥時代に聖徳太子が実存していたとする確定史料は今のところ皆無だ。聖徳太子が登場する現存史料のほとんどは、平安時代に創作されたものだ。
山背国でのミトラ教の儀式では、太陽神を祀るため太陽神の化身である牡牛を屠る「血の儀式」が行われていた。804年桓武天皇は、その牡牛を屠る「血の儀式」を禁止した。そして、その「血の儀式」の歴史を改竄するために、平安時代に、広隆寺による、厄除け祭事の「牛祭り」とされてしまった。更に、山背国の歴史を改竄するために、秦河勝が平安京の土地造成をおこなった、とする。
藤原日本史が、秦河勝が聖徳太子の忠臣で、広隆寺を創建したとするならば、そして、平安京の土地造成を行ったとするならば、そのような平安京に所縁のある秦河勝の墓は、広隆寺境内か、それがかなわないのならば、せめても平安京近辺にあってもよさそうだ。しかし、秦河勝が没したのは、赤穂の坂越で、その墓は大阪府寝屋川だ。これには、何かを隠しているニオイがする。
平安京を含む京都盆地一帯は、元は山背国と言って、秦氏の支配地だった。平安時代に、その山背国が、山城国になると、前政権の歴史を消すために「山城国風土記」が著された。その文中に、稲荷の由来が、「伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等が遠つ租、伊呂具の秦公、稲染を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用いて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利生ひき。遂に社の名と為しき。」、としている。
桓武天皇家では、「山城国風土記」により、伊奈利(稲荷)を、稲霊としている。そして、927年「延喜式」でも、大殿祭の祝詞に、「是れ稲霊なり。俗の詞に宇賀能美多麻(ウカノミタマ)」、としている。その稲霊を祀るのが、稲荷社とするのだ。そのように、桓武天皇家が編纂した史料に、度重ねて、「稲荷を稲霊」としていることには、何かの謎があるはずだ。
現在、全国の稲荷神社(いなりじんじゃ)の頂点に立つのは、稲荷信仰の総本山である伏見稲荷大社だ。その伏見稲荷大社は、京都市の南端、伏見区深草の地に鎮座する。その社の背後には、稲荷山の峯峯がつづき、峯一帯には「塚」(ツカ→ジュカ→稲荷→いなり)と呼ばれる約一万の磐座や、七ヶ所の聖石がある。磐座とは、ミトラ神が誕生するとする石のことだ。古墳の多くには、丸石があるのは、そのためだ。
そして、伏見稲荷大社には、朱色に塗られた御本殿の脇から峯に向かってつづく参道があり、それに沿って「千本鳥居」がある。その意味は、何か。
鳥居の歴史は謎である。朝鮮半島から魔除けとして伝来した、とか、二本の木に張った縄に鳥が止まった縁起による、とかの説明が「神社本」にはあるが、説得力がない。しかし、鳥居と朱とは、関連がある。中には、朱色ではなく、白木の鳥居もあるが、稲荷社の鳥居は、朱色だ。
朱は、別名「丹」と言う。その「丹」を木で造ると、鳥居の原型となる。「丹」は、古来から魔除けの呪術として利用されていた。その鳥居は、どうも丹(水銀)と関係があるようだ。すると、錬金術師空海が、思い浮かぶ。
錬金術師空海は、水銀薬を創薬するために、山奥の水銀鉱脈を探索し、その山の民を金剛杖で平伏させ寺奴隷の「聖」(ひじり)とし、そして、そこを聖地の禁足地とし、そこに宗教施設とする水銀採掘工場を建設していた。
京都の東寺を建設するのに、稲荷山の木を材料としていたのも、錬金術師空海だ。錬金術師空海の足跡と、稲荷社の設置との関連が示唆される。それは、稲荷社は、錬金術師空海の足跡と供に、日本列島全国に広がっていったからだ。
その稲荷山を背にした伏見稲荷大社の祭神は、ウカノミタマ(稲霊)、四大神、田中大神、そして、佐田彦大神だ。その佐田彦大神の実態は、猿田彦神のことだ。猿田彦神とは、猿→申→シン→秦となり、秦氏の神のことだ。
その秦氏の神を祀る稲荷山の頂上の峯には、数基の前方後円墳と円墳がある。そして、その周辺の峯にも、五基の円墳がある。その古墳のある稲荷山に、伏見稲荷大社があるとは、どのように説明されるのか。
藤原日本史では、伏見稲荷の創建は、和銅年間(708年)元明天皇の時代とする。すると、畿内で古墳時代が終わるのは、七世紀半ばとされている。すると、古墳時代終焉後に、稲荷社が創建されたことになる。
稲荷社の歴史は、その神事により推測できるようだ。伏見稲荷大社の神事のひとつに、毎年1月5日に「注連張神事」がある。その神事は、三つの峯の渓谷が集まる御膳谷で、「御饌石」(みけいし)という神石がある祭祀場で、新しく注連縄を張る神事だ。
その注連縄とは、「神社本」の解説にあるように、神を祀る神具などではなく、怨霊を封じるための縄だ。その注連縄が、毎年秦氏の神とする神石のある祭祀場で、新たに張られると言うことは、怨霊封じの儀式だ。
更に、鳥居は、神を祀る神具などではなく、怨霊を結界に封じ込める道具だ。それも、伏見稲荷大社では、千本の鳥居で結界を封じている。その意味は、稲荷山とは、「夷なり山」で、古墳のことだ。だから、稲荷社は、こんもり茂った木々のある丘の上にあったり、古墳を破壊した跡である藪の中にあることが多いのは、そのためだ。その古墳を祭祀場とする秦氏末裔を、その聖地に近づけなくするのが、鳥居であり、注連縄の仕事だ。
怨霊が跋扈する平安時代、桓武天皇家の命により、中国山東半島から移民してきた亡命百済民達の居住地を確保するために、その秦氏の神を祀る古墳(夷なり山)を破壊して、その跡に、怨霊封じとして稲荷社が建てられた。さきたま古墳群にある、稲荷山古墳もその例のひとつだ。
稲荷社とは、秦氏の神を、怨霊(ケガレ)として封じ込めるための装置だった。しかし、平安王権が、そのような注連縄や鳥居を稲荷社に設置して「夷なり山」を結界地としても、錬金術師空海の密教軍団に平伏され鬼となった秦氏末裔は、再び、稲荷山(古墳)に集まっていた。それに対して、桓武天皇家は、策を講じた。それは、国津神の怒りは、国津神の神によって鎮めることができる、とする策だ。
その策のひとつは、892年イズモ族の流れにある反藤原氏の菅原道真が編纂した「類聚国史」に、「空海が東寺建立のために稲荷山の木を切ったため、嵯峨天皇の後の淳和天皇が病気になり、淳和天皇が慌てて稲荷神に五位の位を授けたところ病気が治った。」、と記述にあることだ。
「淳和天皇が病気になり」とは、錬金術師空海に稲荷山を追われた鬼達が、桓武天皇家に対して蜂起したことの比喩だ。それに対して、桓武天皇家が「稲荷神に五位の位を授けた」ため、鬼達の蜂起が収まったのだ。平安時代初期には、稲荷山だけではなく、平安京周辺の山々には、桓武天皇軍に山背国を追われた「鬼」が多く棲んでいたのだ。

芸能民から武士への流れの平安京

今回の田辺さんのレポートは、オレの歴史知識では、理解不能、納得できないことが多い。そのひとつが、藤原日本史では古来から存在していたとする稲荷社が、平安時代に空海によって設立され、古墳の上か、古墳が破壊された地に設置されたとする、田辺説には、全面的には、納得することができない。
しかし、よく考えてみると、日本人の多くは、正月元旦の祭日や困難が生じた時など、祭神の名前も知らない神社(じんじゃ)にお参りに行く意味が少し理解できた。その神社境内には、古墳時代には騎馬民族の租霊が祀られていた古墳があった地だったからだ。だから、少しでも騎馬民族の血が流れる末裔達には、何かの困難が生じた時とか年が替わり人身を改める時など、騎馬民族の租霊に導かれて神社(モリ)にお参りに出掛けるのだ。
しかし、明治革命後に、古墳の上や古墳が破壊された跡に建てられていない神社(じんじゃ)は、何も霊気を感じることはないことがある。明治神宮も、オレが何度か訪れるうちに霊気を感じなくなったのは、古墳跡ではなく、ただの平地に人工森を作り、藤原氏が復活した明治時代に、その地に建てられているからだろう。
しかし、伊勢神宮は、オレが何度も訪れても霊気を感じるのは、古墳時代には、騎馬民族の霊が祀られていたからだろう。騎馬民族の流れにある、日本初代天皇である新羅系天武天皇が、672年近江の亡命百済王朝を壊滅した後に、685年道教の神である北極星(太一)を祀る道教の観(寺)を創建した。が、しかし、奈良時代になると、藤原不比等が、太陽神である皇租女神アマテラスオオミカミを発明し、その藤原氏の神を祀るために、伊勢の道観を徹底的に破壊した跡に、伊勢神宮を創建したからだ、と思う。伊勢には、古来、騎馬民族の歴史があったのだ。では、明治時代に創建された、藤原日本史では日本初の天皇とする神武天皇稜に、オレは霊気を感じるか、ふと思った。

オレは、そのようなことを考え、一息つくと、再び、田辺さんのレポートを読んだ。以下が、その要旨だ。

藤原日本史では、平安時代に芸能民が歴史上現れた、と述べる。そして、その芸能民達は、各種の技術を持ち、定住地を持たず遊行営業する、とする。そして、河原で各種芸能を営業するため、芸能民は、河原者と呼ばれていた、と述べる。更に、芸能民は、貧しい賎民だったように描写している。果たして、芸能民は、貧しい賎民だったのだろうか。しかし、平安時代末期、後白河院は、芸能民の流れにある遊女(後に丹波局)を寵愛して、子供までもうけていたのは、何故か。
その謎を解く鍵が「神社」だ。「神社」を「じんじゃ」と読むのは、明治革命後だ。それ以前は、「モリ」と読んだ。その「じんじゃ・神社」と「モリ・神社」とは、その意味が百八十度異なる。「じんじゃ・神社」は、神を祭る施設だ。それに対して、「モリ・神社」は、怨霊(前政権の霊)を封じ込める施設だ。
何故、「神社」が明治革命後に、その「仕事」が百八十度変わってしまったのか。それは、1868年(明治元年)神仏分離令が発令されると、全国で廃仏毀釈運動が起こり、全国の神宮寺が破壊され、その跡に「じんじゃ・神社」が創建されていったからだ。
神宮寺は、奈良時代に藤原氏が、明日香ヤマトで祀られていたミトラ教や道教などの神を国津神とし、そして、その国津神を天津神と集合させ、国津神の歴史を消した後、それらの神々を仏の支配下として祀るために発明された、宗教施設だ。だから、神宮寺には、仏像が安置されていた。
明治革命後の廃仏毀釈運動の流れは、伊勢神宮にも押し寄せた。伊勢神宮境内には、300余の神宮寺が存在していた。勿論、その神宮寺には、仏像が安置されていたのだ。それらの神宮寺は、明日香ヤマトの宗教施設の破壊と同じように、徹底的に破壊され、安置されていた仏像も破戒された。その跡に、内宮と外宮とが分離され創建された。その内宮と外宮とは、一神教徒のユダヤ民族と多神教徒のイスラエル民族が、唯一神ヤハヴェと太陽神バアルとの異なる神を祀っていたように、祀る神が異なっていた。
内宮は、藤原氏の皇祖女神アマテラスオオミカミだ。外宮は、トヨウケノオオカミだ。その内宮と外宮との立地も異なっている。内宮は、木々が立ち並ぶ、太陽光がよく通る小高い丘の平地にある。しかし、外宮は、こんもり茂った木々の中だ。これには、何か訳がありそうだ。
外宮がある森は、船岡山と呼ばれる船形に延びる小山を覆う森を指す。その森にある外宮の境内からは、須恵器や土師器が出土していた。それらの土器は、鉄器を造るのに必要な温度1200℃で焼かれて造られたものだ。その高温を得るには、鹿革製のフイゴを「替わりバンコ」でタタラ踏みして人工風を起こさなければならない。
そして、その付近には、荒神塚古墳、大明神塚古墳、そして、古代エジプトの埋葬思想の流れにある横穴式石室を持つ城山古墳などがある。これらのことから、外宮の前身は、怨霊封じの施設であったと推測される。
この藤原氏の神を祀る伊勢の森には、古墳を築造した古代新羅の歴史が隠蔽されているようだ。その根拠のひとつとして、内宮と外宮との間に、猿田彦神社(モリ)が鎮座しているからだ。その猿田彦とは、古代新羅から渡来した秦氏を貶めるために、藤原氏が藤原日本神話で発明した蔑称だからだ。更に、その伊勢の地が、平安時代となるとケガレ地とされていく。
百済系桓武天皇は、即位すると、奈良時代の藤原仲麻呂による藤原王国の、天平勝宝、天平宝字、天平神護、神護景雲の四文字年号ではなく、二文字の「延暦」とした。桓武天皇は、即位式も唐制ならば、その元号「延暦」も、唐帝国の二代目大宗皇帝が編纂を命じた「群書治要」の一節、「庶民が徳政を喜べば、王の治世は延び、歴(暦)がすぎていく。」からのものだ。
唐文化一色の平安王朝から江戸時代末期まで、桓武天皇家は、大和百済王国初代光仁天皇から121代孝明天皇まで、公式に伊勢神宮に行幸してはいない。桓武天皇家では、122代明治天皇(天皇すり替え説あり)が、1869年(明治2年)初めて伊勢神宮を参拝した。
何故、百済系桓武天皇家は、伊勢神宮を避けたのか。それは、伊勢の地は、古墳時代秦氏の租である紀氏が、前方後円墳を築いた聖地だからだ。その新羅は、亡命百済貴族には母国を滅ぼした「憎き国」であったのだ。
平安時代、桓武天皇家は、その「憎き国」の末裔を貶める戦術を行使した。それが、ハンセン氏病を利用して、古代新羅から渡来した秦氏末裔の芸能民を「ケガレ」思想で貶める戦術だ。日本国での民族差別思想は、平安時代の京都から始まったのだ。
そのために利用したのが、錬金術師空海が、唐からもたらしたインドのバラモン教による、肉食民族を「チャンダーラ」とする民族差別思想だ。このことにより、平成の現在まで、そのケガレ思想を日本国にもたらした錬金術師空海の呪縛から、多くのひとが解かれないでいる。

錬金術師空海の密教軍団により、鞍馬山や稲荷山から追われた山の民は、生活の場を求めて、誰の土地でもない聖地の河原に集まってきた。そのひとつに、加茂川の河原があった。加茂川は、元は京都盆地の中央を流れていたが、古墳時代に秦氏の土木建設技術により、高野川に合流させ、京都盆地の東側を北から南に流れるようにした。
現在では、仏教が葬儀を専門に営業しているから、平安時代も仏教は葬儀を行っていたと思いがちだが、仏教が庶民の葬儀をおこなったのは、織田信長に仏教軍団が壊滅されて、寺社の各種権利を剥奪され、そして、楽市楽座により交通税や場所代を庶民から徴収できなくなった後からだ。
平安時代、漢訳仏教は死者を「ケガレ」として避けていたので、庶民は仏教式葬儀をおこなうことなく、死者を河に投げ捨てていた。京都の東側を流れる加茂川も、その例外ではなく、上流から流れ着く死者が、川辺に溜まるところができた。その状況から、京都の加茂川の東側は、いつしか「ドクロ河原」と呼ばれるようになった。このドクロ河原が、平安末期に、アラブ系国際海洋民族を租とする「平家」の拠点となると、ドクロハラ→ロクハラ→六波羅となっていく。
亡命百済貴族が支配する平安京では、最澄が中国から導入した天台宗と、錬金術師空海の真言宗が布教されていた。しかし、藤原氏が支配する奈良仏教は、桓武天皇により奈良に封印されていた。
奈良仏教は、鎮護国家を仕事とする官営であったが、律令制から荘園制に移行する平安時代には、租庸調の税制が崩れ庶民からの税が減少していたので、仏寺の経営が疲弊していた。ここに、新興宗教の平安仏教と旧宗教の奈良仏教との、潜在顧客としての平安貴族争奪の仏教ビジネス戦争が勃発した。
桓武天皇、平城天皇が平安京の東側の防御のための東寺を建設していたが、稲荷山に棲む山の民の妨害で完成することがなかった。しかし、嵯峨天皇の時代、錬金術師空海により、6ヶ月で東寺が完成した。更に、嵯峨天皇は、錬金術師空海に、平安京の北側の高雄山寺を与え、山の民の北側からの攻撃から平安京を護る神護寺とした。
これらの業績により、嵯峨天皇は錬金術師空海に、真言宗の寺創建を許した。それが、816年高野山金剛峰寺の創建となった。その高野山金剛峰寺は、中央構造線の伊勢→紀伊半島→四国→北九州の鉱脈上に位置していた。錬金術師空海は、その中央構造線にそって、真言密教の宗教施設を付設していくのは、真言密教の布教目的だけではないことが分かる。
嵯峨天皇の時代、平安京は混乱の最中だった。その混乱から嵯峨天皇は身を護るために、810年令外官として蔵人所を設置した。蔵人所とは、別名「男房」と言って、王の側近として王宮に宿直(とのい)して、王の身の回りの世話をする武装した貴族集団のことだ。この蔵人所が、後に、「王の侍」(さむらい)と呼ばれていく。
この嵯峨天皇の危機管理は、同年の藤原薬子の乱で発揮された。蔵人所の活躍により、藤原薬子の乱はすぐに鎮圧された。しかし、平安京の混乱は続いていた。その平安京の治安を護るために、嵯峨天皇は、816年令外官として検非違使庁を設置した。
検非違使とは、近衛以下の衛府の官人から選抜された天皇の親衛隊だ。その令外官の天皇の親衛隊は、徐々に藤原氏によりコントロールされていた刑部省や弾正台の機能を吸収していく。そして、遂に、京都の役所である京職の役割である、都市警察機能を担い、宮城内部と首都の治安を護る強力な組織としてい機能していった。
しかし、平安京の治安は保たれなかった。それは、鬼の存在だ。鬼とは、漢訳仏教が発明した、山奥に追われた明日香ヤマト残党軍末裔のことだ。その鬼は、夜な夜な平安京を跋扈し、ゲリラ戦により不審火を起こしていた。そこで、嵯峨天皇から淳和天皇の時代になると、鬼の懐柔策に出た。そのひとつに、稲荷山の神に従五位の位を授けた。
しかし、それでも鬼のゲリラ戦は続いた。そこで、淳和天皇は、「国津神の怒りは、国津神の祀りにより鎮まる。」とする戦術にでた。それが、検非違使の配下に、陸奥・出羽から連行した蝦夷の捕虜を付けた。蝦夷とは、古墳時代の明日香ヤマトの武人を租としている。つまり、鬼と蝦夷とは、同族なのだ。
平安京を彷徨う怨霊は、亡命百済貴族側からすれば、「ものの怪」ではあるが、鬼や蝦夷側からすれば、「恨みを持った彷徨える魂」だ。そこで、検非違使の配下となった蝦夷は、ある演出を考えた。それが、藤原氏が支配する中臣神道が発明した「ケガレ祓い」に対抗する、「清め」だ。その「清め」により、彷徨える魂を鎮めることだ。そのために開発されたものが、武芸だ。芸とは、神を楽しませる技術だ。そして、武芸とは、武人の剣舞により神を楽しませる技術だ。
そこで開発された武芸のための衣装や祭祀道具が、牛・鹿の角を付けた冑と派手な鎧だ。しかし、蝦夷の武芸者は、捕虜の身なので、実戦用の武具は法度だ。そこで、騎馬民族の技術のひとつである革製品製造技術により、総革製の鎧兜を製作した。そして、武芸の剣舞を華々しくするために、チュルク系騎馬民族の武器の蕨手刀を改良して、長刃の反りの片刃の武具を製作した。それが、後に、「日本刀」と呼ばれていく。
騎馬民族は、タタラ製鉄と鍛造法により鉄器の製作に長けていたから、それらの刀を製作することは容易いことだった。しかし、武芸者は、捕虜の身であったので、その長刀は、実戦に堪えられない刃幅だった。しかし、刃が薄いため、風を切る時、絶妙な音をだして、剣舞の効果を演出した。
この武芸者が、後に、武士となる。武士を、別名、「もののふ」と言い、日本刀を「武士の魂」というのは、武士の租は、祭祀者であったからだ。「もののふ」とは、「ものの怪」から王や貴人を護る者のことで、「物部」と言っていた。古墳時代、物部は、ものの怪を退治したり、処刑する者を意味していた。
平安時代、サムライと武士とが発生したが、その仕事により全く別ものであることが分かる。武装はしているがサムライは、王や貴人の側にいて近習・奉仕を本管とする。しかし、武士は、祭祀者を租とし、武装し実戦において、騎馬で貴人を護衛し、そして、捕えた賊の刑吏を職能とする。そして、その民族の違いがある。サムライは、亡命百済貴族の子弟から登用されたのに対し、武士は、明日香ヤマトの武人末裔の蝦夷を租としていることだ。


源氏、平氏、平家と奥州藤原氏の陰謀

オレは、今まで日本史の何を勉強してきたのか。日本列島史の史実を学んでいないのは、学校での歴史教育が、年号の丸暗記で、縄文と弥生時代は遺跡や遺物の羅列で、歴史時代になると架空の天皇である神武天皇や女帝推古天皇などの在位年の丸暗記だからだ。
藤原日本史では神武天皇としているが、史実は、日本列島での初代天皇は、騎馬民族系天武天皇だ。そして、天武天皇時代以前には、日本列島には、「日本人」は存在していない。勿論、「大和民族」なども存在していない。それは、「日本」と言う国号が歴史上に現れたのが、7世紀末期の天武天皇以後だからだ。
因みに、「大和」(ヤマト)の言葉が発明されたのは、奈良時代の713年藤原不比等による好字令以降で、そして、「大和民族」の言葉が発明されたのは、明治革命以降だ。
それらの藤原日本史に基づいた学校歴史については、田辺さんのレポートにより、別の角度から眺めることができた。そのことにより、奈良時代に藤原氏と、そして、平安時代に亡命百済貴族とにより隠蔽・抹殺・改竄された日本列島史を知ることができた。
その例のひとつとして、「百済語で分かる古代日本史」とか、「飛鳥大和の歴史は百済語で分かる。」などの歴史本が多く出版されるのは、平安時代に亡命百済貴族が、藤原日本史の基本史料である「日本書記」を改竄して、藤原日本史での初代天皇応神の事績をコピーして、神武天皇を初代天皇とし、そして、藤原日本史では仏教伝来が552年なのに、百済から538年伝来したとし、架空の聖徳太子と秦河勝の弥勒菩薩を安置する広隆寺創建物語を創作したからだ。漢訳仏教が、明日香ヤマトに組織的に現れたのは、645年以降だ。
そして、田辺さんのレポートにより新たに認識できたのは、「平氏」と「平家」の歴史の違いだ。中世を述べた歴史本の中には、「平氏」と「平家」をゴチャ混ぜにしている歴史本もある。それは、ユダヤ民族は唯一神ヤハヴェを祀る一神教徒で、そして、イスラエル民族は太陽神バールを祀り、そして、太陽の化身である牡牛を屠る多神教徒であるのに、その異民族のユダヤ民族とイスラエル民族とゴチャ混ぜにしていることと同じに、明らかに歴史的に間違いだ。
「平氏」は、天皇から賜姓されたものだ。しかし、「平家」は、私的な呼称だ。それに、「平氏」は、「桓武平氏」と言われるように、平安京を支配する亡命百済貴族の子息を租としているのに対し、海洋民族を租とする「平家」の京都での拠点は、加茂川の東側のドクロ河原だ。後に、平清盛の「平家」が王権を握ると、そのドクロハラが「六波羅」となる。
平安時代では、そのドクロ河原では、漢訳仏教により築かれた砦である「山寺」により、鞍馬山や稲荷山の居住地から追われた、明日香ヤマトでの祭祀者や技術者を租とする芸能民(鬼)が営業していた、亡命「百済王国」の平安王朝側からすれば、反体制側の「ケガレ地」だ。そして、アラブ方面から渡来した「平家」の日本列島での本拠地は、伊勢だ。桓武天皇家が「ケガレ地」として避ける伊勢の地を本拠地とする「平家」とは、何者なのか。
以下が、平安時代末期までの田辺レポートの要旨だ。

「平氏」と「平家」が同じであるならば、1243年完成の「平家物語」は、何故、唯の私名である「平家」ではなく、天皇から賜姓された格上の姓である「平氏物語」とならなかったのだろう。それは、「平氏」と「平家」とは、鎌倉時代の百済系北条氏が、源氏三代の頼朝・頼家・実朝を抹殺して、そして、北条政子による第二百済王国の北条鎌倉幕府成立以前には、「平氏」と「平家」とは出自も民族も異なっていたことを、「平家物語」の著者も読者も知っていたからだ。
数々の謀略で源氏三代を抹殺した北条政子は、「平家」が祀る厳島神社(モリ)を、「平氏」の氏神の祀り処として取り込み、アラブ系海洋民族の「平家」の歴史を、奈良時代に藤原氏が騎馬民族文化の明日香ヤマトを仏教文化の飛鳥大和としていたように、百済出自の「平氏」の歴史に取り込んだのだ。だから、北条鎌倉幕府以降の史料では、「平家」と「平氏」とがゴチャ混ぜとなってしまった。
「平家」には氏名はないが、「平氏」には「秩父氏」、「大掾氏」、「千葉氏」、「上総氏」、「三浦氏」、そして、「北条氏」など氏名がある。そして、それらの「平氏」の支配地は関東近辺で、地方の豪族に過ぎない。が、しかし、平安末期の「平家一門」は、「平家物語」には、「すべて、一門の公卿16人、殿上人30余人、諸国の受領・衛府・諸司、都合60余人なり、世には又人なくぞ見えられける、日本秋津島はわづか66カ国、平家知行の国30余カ国、既に半国に越えたり、その外、庄園田畠幾らと云ふ数を知らず。」、とあるように日本列島の支配者だった。その「平家」が、藤原日本史によれば、1185年壇ノ浦の戦いで、源氏軍団により滅んだとする。
その「平家」と「源氏」との戦いの源平合戦の初戦は、1180年伊豆の石橋山合戦からで、その時の源頼朝は、「平氏」の北条時政に担がれていただけだ。その戦いは、伊豆(イズ→夷住)の北条氏の支配地が、「平家」に侵略されたことに対しての反撃だった。しかし、軍事力に勝る「平家」軍団に蹴散らされた「源氏」源頼朝と「平氏」の北条時政は、上総に落ち延びた。
その「源氏」と「平氏」の合同軍団の劣勢は、陸奥国からの源義経軍団の進撃により挽回した。「平家」軍団は、富士川→一の谷→屋島→壇ノ浦へと追い詰められて、8歳の安徳天皇が入水したことにより、1185年「平家」が滅亡したと、藤原日本史は述べる。では、「平家」軍団を蹴散らせた源義経とは、何者なのか。
藤原日本史によれば、源義経は、源頼朝の異母弟で、父源義朝が平清盛により討たれたため、鞍馬山の寺に預けられ幼年を過ごしたとされる。そして、成長すると奥州藤原氏を頼り陸奥国の平泉に行った、とする。しかし、源義経の出自や経歴は謎で、藤原日本史で述べる源義経の資料は、1254年「源平盛衰記」、1266年「吾妻鏡」、1424年「義経記」などの物語による。その源義経と奥州藤原氏との関係には、何かの謎が潜んでいるようだ。
奥州藤原氏は、藤原日本史では、平安時代末期の源平合戦の源義経が陸奥国から進撃する時に突然現れるが、奈良時代から藤原氏は、令外官である陸奥按察使を設置して、そして、その任を独占して、陸奥国の砂金を狙って支配者となっていた。
奈良時代、陸奥国の蝦夷を平定するための前線基地の多賀城は、陸奥国按察使となった藤原氏により建設されていた。そして、藤原日本史では、平安時代に奥州藤原氏は三代で滅んだように述べているが、それはウソで、明治革命時まで、陸奥出羽按察使は、藤原氏により独占されていた。それは、藤原氏が、陸奥国の砂金などの貴重鉱物を独占するためだ。その砂金は、藤原氏の古代からの支配地である九州坊津から、南海航路により、南インドへ運ばれていた。
907年唐帝国が滅ぶと、アラブの海洋交易民族は、遣唐使船により唐帝国への絹、金、銀、水銀、真珠などの資源物資を、奈良時代から唐令の庸調税制により貢いでいた日本列島に現れた。アラブ海洋民族は、紀元前10世紀には、南インドから孔雀、猿、真珠、染料ベンガル、香料などを手に入れ、エジプトやアッシリア王国と交易を行っていた。
9世紀のサラセン帝国で著されたアラビアンナイトの「千夜一夜物語」は、8世紀頃のアラブ海洋交易商人が、南インドや唐帝国の中国沿岸で海賊交易をしていた事績を素材として創作された物語だ。
そして、10世紀、アラブの海洋交易民族は南九州の先にある種子島を侵略基地とすると、志摩半島の真珠と伊勢の水銀を求めて伊勢湾から上陸し、そこを支配した。そして、平安京に加茂川を挟んで隣接するドクロハラを支配した「平家」軍団は、当然、藤原氏が独占していた陸奥国の砂金の強奪を考えていた。
そこで、藤原氏と対立し孤立した百済系白河法皇に取り入って百済王国の平安王朝を乗っ取った「平家」軍団は、その軍事力により日本列島各地を次々と支配すると、陸奥出羽按察使の藤原氏の支配下となった蝦夷末裔の安倍氏軍団の守りの堅い陸奥国を避け、隣接する出羽国の蝦夷末裔の清原氏の支配地を占領した。東北を支配する安倍氏も清原氏もその租は、騎馬民族が支配した明日香ヤマトの武人を租とする蝦夷末裔だ。
それらの軍事行動により、「平家」は、日本列島の約半分を支配するまでになっていた。これは、奈良時代から現御神の天皇をロボットとして日本列島を支配していた藤原氏にとって、「平家」の存在は脅威となっていた。
更に、「平家」三代目の平清盛は、藤原氏の南海交易に介入するだけではなく、南宋との国際交易の為に、福原に大和田泊の国際港を建設した。そして、平清盛は、1180年福原に遷都した。この「平家」の遷都に対して行われたのが、「平氏」北条時政が「源氏」軍団を利用するために、源頼朝を源氏棟梁として担ぎ出した、伊豆石橋山の挙兵だった。
「平家」の存在を疎ましく思っていたのは、藤原氏だけではない。平安京の百済王国を祀るために、亡命百済王家の宝刀「大刀契」(だいとけい)を天皇位を象徴する宝物とした、百済系桓武天皇は、奈良の仏教を支配する藤原氏に対抗するために、秦氏のミトラ教の神を祀る比叡山の祭祀場を破壊して、その跡に、788年延暦寺を創建させた。そして、唐帝国から天台宗と中国土着神シャンワンを導入した。そのシャンワンを、山王神とすると、ミトラ神を宿神の魔多羅神として貶めた。
平安京を鎮護国家として祀る比叡山延暦寺は、奈良の仏教が官営であるのに対して、民営のため経済的に自立を求められていた。延暦寺の経営は、寺社領からの税の他に、「借上」という金融業と、唐帝国との交易で賄われていた。しかし、907年唐帝国が滅ぶと、中国国内は、大混乱となった。その頃、日本列島に現れたのがアラブの海洋交易民族だった。
唐帝国の五台山の天台宗は、その交易組織を日本国の比叡山に移すと、907年建国の呉越国を交易国として、中国の書画骨董や錦織の絹製品を日本国に輸入した。比叡山延暦寺の僧侶寛建や日延などは、中国天台山の招請を受け、呉越国の商人蒋承勲の貿易船に乗って、呉越国に行ったのは、仏教の修行だけではなかった。
935年朝鮮半島に興った高麗が新羅を滅ぼすと、呉越国の商人蒋承勲は、何度も、比叡山延暦寺を訪れた。新羅は、唐帝国と日本国との仲介交易により経済の基盤としていたのだ。その中国と日本国との仲介交易権を、呉越国が奪った。
しかし、978年呉越国は、宋により吸収されてしまった。比叡山延暦寺は、その宋との交易を盛んにした。そして、九州で借上の金融業を拡大する目的で、延暦寺僧侶の法薬禅師は、宋の商人から大宰府役人への賄賂の融資を受けて、大宰府の大山寺の支配を目論んだ。それは、その大山寺を、北九州での借上活動の拠点とするためだ。
宋の商人と結んだ延暦寺は、中世において最大の借上集団を抱え込む基礎は、この時期に形成されたのだ。しかし、宋は、遊牧騎馬民族を支配者とする金により、1126年北宋は滅ぼされ、南朝の南宋と北朝の金とに分裂した。
その南宋と、日本列島の約半分を支配した「平家」は、国際交易を始めた。そして、横暴を極めた「平家」は、興福寺や延暦寺の強訴の道具である「御輿」に矢を射掛けたり、平清盛の息子平重衡などは、1180年東大寺に火を放って、遍照鬼を大日如来とした大仏を炎上させたのだ。これには、藤原氏と同じに、南宋と交易を行っていた比叡山延暦寺も、奈良の興福寺も黙って見ているわけには行かなかった。その「平家」撲滅に動いたのは、源氏軍団を裏から操る藤原氏だった。
「平家」に支配された出羽国と隣接する陸奥国の砂金産地を死守するには、源氏の源頼朝や平氏の北条時政の軍団では荷が重すぎる。そこで藤原氏は、得意の戦術「夷を以って、夷を制す。」を実行した。海洋民族の「平家」は、陸上戦には弱い。そこで、陸上戦に強い騎馬軍団を雇った。
その騎馬軍団は、陸奥国の砂金を独占する奥州藤原秀衡により雇われ、「平家」を滅ぼした後、藤原泰衡により衣川館で抹殺されたため、その出自を知られることもなかった。しかし、その藤原氏により雇われた騎馬軍団が、日本列島在住の軍団ではないことは、当時、武家には家紋などまだなかったのに、笹竜胆を旗印としていたことで分かる。
この笹竜胆の家紋は、ユーラシア大陸の騎馬軍団が使っていたものだ。特に、元帝国を興したテムジン軍団の紋は、その笹竜胆だ。そこから、源義経ジンギスハーン説が唱えられている。実は、「元」と「源」とは、意味は同じ「みなもと」なのだ。
では、814年嵯峨天皇により賜姓された「源氏」とは、何処からもたらされたものか。その「源氏」の姓は、北魏時代に現れ、そして、唐帝国から日本国にもたらされたのだ。
北魏から唐帝国におよぶのは、拓跋国家である。北魏は、拓跋部を主体とする遊牧騎馬民族の鮮卑系36部の諸部族連合により構成されていた。遊牧騎馬民族である拓跋国家は、単一王家をいただくピラミッド構造ではなく、複数の家系が「王権」を分かち合うかたちで並存する、車座の「談合」による輪構造により構成されていた。
因みに、胡坐(あぐら)は、騎馬民族の正式な座法であるのに、日本国に伝来した仏教文化では下品な作法とされる。しかし、日本では、上品な作法とされる正座は、騎馬民族文化では罪人の座法だった。
北魏の支配地が拡大するにつれ、支配者の拓跋氏やその部族である政府官僚たちが横並びでいることは、政府を運営するためには不都合となった。そこで、36部の旧族長たちの序列化をはかるために漢姓の導入となった。
そこで、36部の拓跋部の族長である、拓跋連合体の盟主である拓跋氏は、「元」(もと)という漢姓を名乗った。その北魏の拓跋氏の漢姓「元」を、後世のフビライ以後のモンゴル帝国が、「元」を国号として採用した。
414年騎馬民族の禿髪氏の河西王国が滅亡すると、禿髪破羌は、北魏の太武帝のもとに奔った。そこで、太武帝は、騎馬遊牧民族で同族の禿髪破羌に、「卿は、朕と源(みなもと)を同じくす。事に因りて姓を分つ。源氏と為す可し。」、と言った。これより、禿髪破羌は、姓一字、名一字の源賀と名乗ることになった。
日本国での皇族賜姓の姓は、公姓、真人姓で、8世紀初頭になると橘姓、在原姓となり、平安時代になると源、平の漢風の単姓となる。その平姓は、桓武天皇、仁明天皇、文徳天皇、光孝天皇など、平安時代初期の天皇の子孫のみに集中している。
814年嵯峨天皇は、財政負担軽減を理由に、皇子、皇女に、一字姓一字名で、源朝臣をあたえ、臣籍降下させた。では、嵯峨天皇は、兄である平城天皇は在原姓としているのに、何故、騎馬民族禿髪氏の「源氏」を賜姓として採用したのだろう。
平安王朝は、その構成員である貴族の多くは、中国山東半島から移民してきた亡命百済貴族であったので、中国大陸の文化によく通じていて、宮廷や政府を含めて中華風の教養が定着していた。だから、源氏の姓の歴史的意味も、平安王朝では良く知られていた。
騎馬民族出自の北魏王室の分族としての源氏は、北斉においては秦州刺吏となり、隋にあっては刑部侍郎となり、更に、唐帝国においては宰相にまでも登りつめ、名流中の名流として知られていた。
嵯峨天皇は、ある目的をもって、その北魏王室の分族の姓の「源氏」を、臣籍降下の皇子・皇女に賜姓した。その目的は、ひとつは経済的に、そして、もうひとつは政治的であった。
亡命百済王国を樹立した桓武天皇も、その政治的実態は藤原氏により支配されていた。それは、奈良時代に、藤原不比等により仕込まれた蔭位制により、藤原氏の子息が自動的に貴族身分となれるため、朝廷での藤原氏の占有率が突出していたからだ。そのため、藤原氏の貴族がいなければ、政治の実務ができないのだ。更に、朝廷の執行機関である廟堂の、実務最高責任者である右大臣を、藤原氏が独占していた。
この藤原不比等が仕組んだ政治構造を破壊するために、北魏の騎馬民族の姓「源氏」を、嵯峨天皇は採用したのだ。その証拠は、北魏の源氏は、一字姓一字名だ。嵯峨源氏も、713年藤原不比等により制定された漢字二文字で地名・人名を表す決まりを無視して、源信(まこと)、源融(とおる)、源拳(こぞる)、源順(したごう)、などの一字姓一字名だ。そして、藤原氏の女を近づけなかった嵯峨天皇は、妻を反藤原氏の橘氏から娶り、数多くの側室は、反藤原氏の土着豪族の娘だ。
嵯峨天皇は、藤原氏の支配から独立するために、嵯峨王国樹立を考えた。そのひとつが、藤原氏四家の中で勢力のある式家との決別だ。しかし、藤原氏の貴族の働きがなければ政治を実行できないため、式家に替わり北家を取り込むため、嵯峨天皇の娘潔姫を北家藤原良房に下賜した。
そして、廟堂から藤原氏を排除するために、左大臣源信、同源常、同源融、大納言源弘、同源定、同源昇、同源湛とし、「源氏」一族で固めた。しかし、反藤原氏の嵯峨天皇の失策は、右大臣を娘婿藤原良房としたことだ。
左大臣は、位としては右大臣より上位であるが、政治上の実務権は右大臣にあった。嵯峨天皇は、源氏一族で廟堂を固めたつもりでいたが、政治上の実務権は、藤原良房に握られた。
左大臣は、単なる名誉職的職掌なのだ。つまり、嵯峨天皇の源姓皇子は、奈良時代に天武天皇の10皇子を懐柔するために創られた、実権のない名誉職である、令にもない「知太政官事」を設置して実務から排除したように、名誉職のような左大臣に任じられ平安王朝の政治から排除された。
この藤原良房は、嵯峨天皇が崩御すると、藤原不比等のように、藤原氏に有利に政治機構を改編していく。
天安元年(857年)藤原良房は、太政大臣に任ぜられると、右大臣を弟の藤原良相とした。太政大臣も、左大臣と同じに、名誉職的な職掌だった。しかし、太政大臣となった藤原良房は、律令官位令にある管掌する職能の無い太政大臣を、「凡てを統括する最高官」としてしまった。
この藤原兄弟の太政大臣と右大臣とにより、百済王国は、藤原氏により乗っ取られてしまったのだ。この藤原良房が太政大臣となった平安時代の850年文徳天皇から、1926年昭和天皇に到る80代の天皇家外戚占有率は、藤原氏が75%を占めていた。
天安2年(858年)藤原良房は、惟仁親王を清和天皇として即位させ、9歳の清和天皇の代役として「摂政」となった。日本列島史において、初代の「摂政」は、架空の女帝推古天皇の摂政となった架空の聖徳太子などではなく、藤原良房だ。
藤原良房は、反藤原氏の源氏皇子を廟堂から徐々に排除していた。清和天皇即位の廟堂の構成は、摂政兼太政大臣藤原良房、左大臣源信、右大臣藤原良相、大納言安倍安仁、中納言源定、同源弘、同橘峰継という顔ぶれだ。
実質的に天皇となった摂政の藤原良房は、奈良時代に藤原不比等が仕掛けたトリックの仕上げにかかった。それは、天皇を、現御神と祀り挙げる「中臣神道」を全国的に広めるために、日本列島にある土着の神を藤原氏の神である天津神に取り込むことだ。
大宝元年(701年)藤原不比等は、藤原氏の神により日本列島を支配するために、律令の中に神祇官が太政大臣に並ぶ官制を設置した。その神祇官をして「天皇権威」の名の下に、地方の神々に、幣を班って懐柔する手段とした。しかし、明日香ヤマトを支配していた秦氏や突厥帝国進駐軍は、それぞれの神、太陽神ミトラと北極星の太一信仰を捨てなかった。
奈良時代に明日香ヤマトを追われた秦氏や突厥帝国進駐軍末裔は、近畿地方の山の民となり、それぞれの神を祀っていた。だから、大宝元年(701年)から天長11年(834年)までは、取り込んだ土着神は年30社に過ぎなかったが、平安王朝に逆らう秦氏や突厥帝国進駐軍末裔が近畿一帯から排除された藤原良房の時代になると、近畿一帯では藤原氏に取り込まれた土着神は、爆発的に増えた。
その取り込まれた神々の増え方は、藤原良房が官位を昇って行くのと比例するように、官位勲等を授けられた「神々」が激増した。
「お稲荷さん」の赤い鳥居のそばに、「正一位稲荷大明神」の幟を見たことがあるひとは多くいることでしょう。何故、「人間」ではない、「神」に位があるのでしょう。それは、ひとには名誉欲があるからで、土着の神を祀るひとを懐柔する目的で、王権は官位や勲等を土着神に授ける。その官位や勲等を授けられた神は、授ける神の支配下となる。劃して、明日香ヤマトで信仰されていたミトラ教も道教も、ローマ帝国のミトラ教がキリスト教徒により歴史的に抹殺されたように、歴史的に抹殺されてしまった。
そして、元慶元年(877年)延喜式祝詞は、「中臣、斎部の両氏人を五畿七道諸国に分遣、国内の天神・地祇3134座の神に幣を班ち、大嘗祭に供奉させるため。」に発明された。そのように摂政兼太政大臣となった藤原良房の活躍により、7世紀末に突然日本列島の歴史に現れた藤原不比等が発明した、「日本古来の神」アマテラスオオミカミを祀る稲荷社のトリックが完成した。
国際金融組織が経営するイギリス東インド会社により軍事的・資金的に援助された明治革命戦争後、明治新政府の内閣最高幹部の廟堂に、左大臣従一位藤原道孝、右大臣正二位藤原家信、同従一位藤原実美、内大臣正二位源忠礼権大納言正二位藤原実徳、同正二位藤原資宗、同正二位藤原雅典、同正二位藤原光愛、同正二位藤原胤保、同正二位藤原重胤として復活した。
藤原日本史では、明治革命後の藤原氏一族の復活を隠す目的で、武器商人グラバーと勝海舟の手先であった坂本竜馬なる人物の英雄物語を創作し、宣伝に励んだ。その結果、明治革命の「本当の歴史」が隠蔽されてしまっている。「坂本竜馬」の英雄物語創作により、明治革命の謎を隠蔽する藤原氏のトリックは、平成の現在まで暴かれないでいるようだ。
そして復活した藤原氏一族は、1868年(明治元年)奈良時代の藤原不比等の統治戦術を真似て、明治新政府内に神祇官を設置し、そして、神仏分離令により全国の神宮寺を破壊させ、その跡に、鎮守の「社」(もり)として「神社」(じんじゃ)を設置させ、「現人神」天皇による「神国ニッポン」を宣言した。
それにより、平安時代に藤原良房が全国に設置した稲荷社は、古来は騎馬民族の神を封じた「夷なり」の施設だったのに、農耕神を祀る稲荷神社(いなりじんじゃ)となった。
明治革命後に、「社」を「神社」(じんじゃ)に摩り替えたトリックにより、後世のひとの多くは、明治革命後に現れた神社(じんじゃ)を、日本古来の神を祀る神代の昔から存在していた「社」と誤解してお参りしている。

オレは、田辺さんの平安時代のレポート読み終えると、幻視のために暗室に入った。そして、幻視した「体験」をレポートにして、メールで田辺さんに送った。


国風文化って何ですか?

オレが田辺さんに幻視レポートを送ってから2日後、バソコンにメール着信のサインがあった。返信を送ると、早速返事が返ってきた。

「カメさんこんばんわ。レポート読ませていただきました。」
「こんばんわ。ナベさんからこんなに早く返事があるとは思いませんでした。」
「カメさんの幻視レポートで、私の説が「トンデモ説」ではないことが確信できました。源義経は、海洋民族の平家壊滅のため奥州藤原氏に雇われた、ユーラシア大陸のチュルク系騎馬民族の傭兵軍の将軍だ、というのが私の説です。カメさんの源義経の武装の描写で確信しました。」
「オレが幻視した源義経の軍団は、歴史絵本にあるように、角のある冑など被っていませんでした。鞍のない裸馬に乗り、ズボンと筒袖服に、鎌倉武士の流鏑馬で使うような長弓ではなく短弓を背負い、腰の革製ベルトには柄の先が丸くなった反りのある短剣を差していました。」
「平安時代初期まで、東北の陸奥国を支配した蝦夷の武装が、カメさんが幻視した源義経の武装描写と重なります。しかし、801年坂上田村麻呂が、蝦夷棟梁アテルイをだまし討ちしたため、陸奥国の蝦夷は、律令侵略軍に平定され、主力部隊は青森津刈に後退したのです。しかし、蝦夷は、平安時代末期まで、渡島に津軽津を設け船によりユーラシア大陸との交通路は確保していたのです。」
「すると、「平家」が百済王国の平安王朝を支配していた時期には、東北には、日本列島の半分を支配していた「平家軍団」に対抗できる「源氏軍団」は存在していなかったのですね。」
「1051年前九年の役、1083後三年の役により、蝦夷の流れにある安倍軍団と清原軍団の主力部隊が「源氏」により壊滅し、そして、その「源氏」も、1156年保元の乱、1159年平治の乱により「平家」により、主力部隊が壊滅していたのです。源頼朝は、その戦乱の時の捕虜の子息で、「平氏」の北条氏が支配する、京都からすれば辺境の地である伊豆に流されていたのです。」
「その東北を支配していた清和源氏が、「平家」により壊滅した結果、藤原氏が東北を実質的に支配したわけですね。」
「そうです。蝦夷、源氏の武装集団が存在しない東北は、奈良時代が第一藤原王国とすれば、第二藤原王国となっていたのです。」
「その藤原王国の存在を脅かすのが「平家」というわけですね。」
「そうです。しかし、日本列島には、「平家」に軍事的対抗できる軍団が存在しない。そこで、ユーラシア大陸で傭兵軍を、奥州藤原氏が雇った、というわけです。」
「それが源義経軍団というわけですね。」
「藤原日本史は、その歴史の流れの中心が政治の頂点である天皇の交代にあります。しかし、政治は、経済基盤の上で成り立つのです。経済が健全でなくては、政治は行えません。しかし、藤原日本史では、時代時代の経済史を述べることは稀です。その理由のひとつとして、日本経済史を述べることは、奈良時代の遣唐使船の謎が解かれ、藤原氏の南インドとの南海交易を暴いてしまうからです。「源平合戦」もその背景には、天皇家と平家との紛争などではなく、その裏には経済紛争があったのです。」
「経済紛争って、藤原氏によりロボット化された天皇家は、経済にタッチしていませんよね。」
「それは、「平家」と藤原氏との経済戦争です。藤原氏は、古代から南インドと日本列島との南海交易を行っていたのです。そこに、10世紀にアラブ系海洋交易民族が、日本列島に渡来して、南海交易権を藤原氏より奪った背景が、「源平合戦」にあるのです。」
「その説の根拠はあるのですか。」
「「平家」の知行地を見れば分かります。日本列島の約半分を支配した「平家」の知行地は、日本列島の港を含む沿岸地です。勿論、藤原氏の南海交易の拠点である南九州坊津も、「平家」の知行地となっていたのです。平安末期には、藤原氏の交易支配地は、奥州藤原氏が支配する仙台湾となっていたのです。その陸奥国も、隣接の清原氏が支配していた出羽国が「平家」の知行地となっていたため、何かの手を打たない限り、「平家」に乗っ取られる寸前であったのです。」
「そのように平安末期の歴史を眺めると、「源義経チュルク系騎馬民族説」も納得できますね。」
「源義経の進撃ルートを辿ると、更に、日本の「源氏」の民族ルーツが分かります。」
「「源氏」は、5世紀頃の北魏で発生した姓ですよね。」
「そうです。その北魏の「源氏」の姓が、平安時代初期に反藤原氏の嵯峨天皇により採用されたのです。」
「その「源氏」に一字姓一字名と、一字姓二字名があるのは、何故ですか。」
「嵯峨天皇が、「源氏」の姓を採用したのは、騎馬民族拓跋部の流れにある北魏「源氏」です。そのため、嵯峨源氏は、一字姓一字名です。しかし、その後に発生した、清和源氏は、二字名です。その清和源氏は、藤原氏により支配されていたのです。9歳で即位した清和天皇は、完全に摂政藤原良房のロボットだったからです。反藤原氏の嵯峨天皇は、ユーラシア大陸を支配していた拓跋部を誇りに思い、北魏「源氏」により、奈良時代から朝廷を天皇をロボット化して裏から支配した藤原氏に対抗したのです。」
「それと、源義経の進撃ルートと何か関係があるのですか。」
「京都に攻め上った源義経軍団は、四国屋島に逃れた「平家」軍団を壊滅するため、進撃するのですが、その進撃地が渡辺であるのです。」
「渡辺って、あの渡辺さんの名前ですか。」
「渡辺は、嵯峨源氏の源綱の母の生地だったのです。そこには、津があったのです。渡辺津と呼ばれていました。津とは、大きな船が停泊できる港のことです。」
「その渡辺と源義経とは、何か関係が有るのですか。」
「渡辺津と言われたのは、713年藤原不比等による漢字二文字で地名・人名を表す好字令以降です。それ以前は、難波←浪速←ローランと言われていたシルクロード交易の国際港だったのです。渡辺も、それ以前のエジプトの埋葬思想による横穴式石室・石棺の古墳時代では、小山の麓にある津であったのです。古代エジプト語では、ワタは「波」で、ナーベは「小山」を意味していて、「ワータ・ナーベ」は、波の打ち寄せる小山で、「岬」を意味していたのです。」
「その説明、一寸納得できません。大方の氏名辞典などでは、「渡辺」の地名は、渡し守の職名からとなっていますが。」
「「渡辺」の地名と渡し守との説明は、定説ではありません。しかし、渡辺と水軍とは、大いに関係があったのです。「源平合戦」で源義経に加勢して活躍した「松浦水軍」は、「渡辺党」から派生していたのです。」
「松浦水軍って、室町時代に「倭寇」として東シナ海を暴れ回っていましたよね。」
「そうですね。松浦氏の租は源正で、松浦氏(源正)←源直←源久←渡辺党の棟梁源綱(渡辺綱)、と繋がるのです。」
「摂津の渡辺党と北九州の松浦水軍とは、歴史的に関係があったのですか。」
「摂津がローランと呼ばれていた6世紀頃、河内には秦王国があったのです。その頃の大阪城辺りは、上町台地に繋がる湿地帯だったのです。」
「古代地図で知ったのですが、縄文時代の大阪地域の一部は、河内湾を囲む岬だったようですね。」
「弥生時代頃には、河内湾は、川上からの土砂により、岬が形成されたのです。その結果、河内湾は、河内湖となったのです。その河内湖を形成する岬は、4世紀末に渡来してきた古代エジプトの埋葬思想を持つ民族により「ワタ・ナーベ」と言われていくのです。その岬は、後に、上町台地と呼ばれていくわけですが、その河内湖の水を抜くために、古代エジプトの高度土木建設技術により、その台地に大運河が掘削されたため、河内湖は、河内平野となっていくのが、4世紀の古墳時代の始まりです。」
「古代エジプトの土木技術で掘削された大運河が、奈良時代に藤原氏が創作した仏教伝来物語に登場する物部尾輿と物部守屋親子が、災厄を招く蕃神とする仏像を二度も投棄したとする「難波の堀江」のことですね。」
「そうです。」
「すると、藤原日本史では廃仏派の物部氏の支配地とした、河内の歴史との整合性はどうなるのですか。ナベさんの説では、その6世紀頃には、物部氏の拠点に秦王国があったわけですよね。物部氏と秦氏との関係はどのように説明できるのですか。」
「藤原日本史の奈良時代以前の歴史は、藤原不比等による創作物語です。「旧約聖書」、朝鮮半島史、日本列島先住民史を基に、藤原日本史の飛鳥時代は創作されたのです。物部氏や蘇我氏などは、明日香ヤマトに歴史的上存在していなかったのです。」
「それって、本当ですか。」
「漢字二文字で表記される地名・人名は713年以降で、それ以前の地名・人名表記は漢字アルフアベットであることが分かれば、それ以上の説明は必要ないでしょう。カメさん、物部氏や蘇我氏のルーツを調べてみてください。納得できる説明が存在していないことが分かると思います。」
「そういえば、前から気になっていたことがあります。藤原日本史によれば、物部氏の先祖は、饒速日命(にぎはやひのみこと)となっていますよね。そして、蘇我氏の先祖は、武内宿禰となっていますよね。」
「そうなっていますね。」
「するとおかしなことになるのです。それは、饒速日命は、神武東征に先立ち、アマテラスオオミカミから神宝を授かり、天磐船に乗って河内国に天降り、その後、大和国に移った、と藤原日本史では述べていますよね。」
「そうです。」
「そうだとすると、物部氏の祖先饒速日命の存在が疑われます。それは、神武天皇の大和での即位が、紀元前660年と藤原日本史ではされているからです。それ以前に、饒速日命が河内国に天降ることは不可能だからです。紀元前660年とは、日本列島では縄文時代末期で、饒速日命が天降った処は河内湾となっていたので、その当時には河内国など存在していないからです。更に、アマテラスオオミカミから神宝を授かった、としていることは、饒速日命の歴史的存在の否定を決定付けます。それは、アマテラスオオミカミは、奈良時代に、藤原不比等により発明された神だからです。物部氏の祖先が、饒速日命とするのは、時系列的に否定されます。先祖が架空の人物であるのならば、その子孫物部氏も架空の人物であることが示唆されますよね。」
「カメさんのその説、面白いですね。では、蘇我氏の歴史的存在の否定は、どのように説明できるのですか。」
「藤原日本史によれば、蘇我氏は河内の石川を本拠にした土着豪族としているようです。しかし、蘇我氏の出自は不明で、日本列島史上に、6世紀中頃に突然現れるのが蘇我稲目です。その蘇我稲目の出現の不自然さを取り繕うために、蘇我氏の祖を、竹内宿禰→蘇我石川麿→満智→韓子→高麗→蘇我稲目→蘇我馬子→蘇我蝦夷→蘇我入鹿とし、645年「大化の改新」で、蘇我氏が滅んだことになっているのです。その蘇我氏の租竹内宿禰も、物部氏の租饒速日命と同じように、実在性が疑われるのです。それは竹内宿禰の末裔は、蘇我氏だけではなく、巨勢氏、平群氏、葛城氏、そして、紀氏となっているからです。」
「カメさんも、蘇我氏の租竹内宿禰は架空の人物だと思っているのですね。」
「当然です。藤原日本史によれば、竹内宿禰は、神功皇后の三韓征伐で活躍したとしています。しかし、3世紀に活躍していたとする仲哀天皇の皇后、応神天皇の母、神功皇后の実在性は、三韓征伐物語での新羅の記述描写が4世紀以降のものであることから、否定されているのです。古代新羅の建国は、356年です。そして、奈勿王により建国された古代新羅は、ギリシャ・ローマ文化国で、漢字アルフアベットによる表記の郷札(ヒャンチャル)で歌を詠んでいたのです。この古代新羅の郷札と騎馬民族のウラル語系突厥語の文法により、万葉歌が、日本列島の明日香ヤマトで詠まれていたわけです。」
「カメさん、論点がズレているようですが。」
「蘇我氏の実在性が疑われるのは、竹内宿禰の末裔に、紀氏が、蘇我氏と同列でいるからです。漢字二文字で地名・人名を表記するのは、713年以降です。では、何故、紀氏は、漢字一文字なのでしょうか。平安時代に、嵯峨天皇は、藤原氏に逆らって、嵯峨源氏を一文字姓一文字名としていたように、古来から紀氏は、藤原氏の支配下にいなかったことが示唆されます。」
「カメさんの説では、6世紀の明日香ヤマトに実在していたのは、紀氏だけで、巨勢氏、平群氏、葛城氏、そして、蘇我氏は、713年以降に藤原不比等により発明された氏名で、明日香ヤマトでは実在していなかったというのですか。」
「ピンポン、当りです。紀氏は、4世紀頃から朝鮮半島の辰韓(秦の国)から日本列島に渡来して、紀伊半島の紀ノ川一帯を支配していたようです。その根拠は、紀ノ川河口に騎馬民族を表す埋葬品が納められた古墳群が多く点在しているからです。」
「何故、紀ノ川なのですか。」
「それは、4世頃の河内一帯は、平野ではなく、河内湖が存在していて、そして、奈良盆地は大湿地帯で、縄文時代から続く三輪山麓のイワレやツバキ市の国際交易地へ行くには、紀ノ川を遡り、吉野から北上して奈良盆地へ入るルートがあったからです。」
「紀氏が、朝鮮半島の辰韓から渡来したとの根拠は何ですか。」
「ユーラシアの騎馬民族は、鞍など付けず、裸馬を乗りこなすことができます。それにより、振り向きざまの騎射が可能となるのです。しかし、ギリシャ文化を尊敬するローマ軍は、ロンギヌスの槍の歩兵と、馬冑と馬鎧で武装した重騎馬軍団がいたのです。」
「ローマ軍の戦記映画に出てきますね。」
「その馬冑と馬鎧が、朝鮮半島南端と日本列島の紀ノ川河口の5世紀頃の古墳から出土しているのです。東アジアでは、今のところ、それ以外では出土が確認されていません。このことにより、朝鮮半島から日本列島に、馬冑・馬鎧で武装した重騎馬軍団の渡来が示唆されます。」
「朝鮮半島南端というと、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の花郎騎士団が考えられますね。」
「ナベさんも、そう考えますか。オレも、以前から、河内の嵯峨源氏の祖は、古代新羅の花郎騎士団だと思っていたのです。花郎騎士団の租は、ローマ軍ですよね。その根拠は、花郎騎士団の「花」とは、太陽神ミトラの借字で、392年ローマ帝国でキリスト教を国教としたことで、軍神ミトラを崇拝していたローマ軍の一部が、キリスト教に帰依することを拒否して、ローマ帝国を去って東進したわけです。」
「ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者は、それ以前の2世紀後漢の時代にも中国に来ています。その太陽神ミトラを軍神とするローマ軍の一部がたどり着いたのが、辰韓と新羅の時代というわけですね。日本列島に最初に伝来した仏像が、新羅の弥勒菩薩というのも、藤原氏による歴史改竄を示唆します。日本列島に伝来した弥勒とは、弥勒(中国)←マイトレーヤ(インド)←ミトラ(ヒッタイト帝国)の流れですから。」
「紀氏は、秦王国の先遣隊として紀ノ川一帯を支配すると、河内湖に進出し、そこを古代エジプトの土木建築技術で干拓し、前方後円墳を築くことで河内湖や奈良盆地の大湿地帯を開拓していくわけです。」
「カメさん、秦王国をもう少し説明願います。」
「秦王国とは、ギリシャ文化を継承したバクトリアの衛星国秦帝国の末裔が支配した都市国家を意味しています。この秦王国の都市国家は、ギリシャ文化の秦帝国が、紀元前206年滅ぶと、各国に移住して興るのです。秦とは、西方の国を表し、中国では、ローマ帝国を大秦国と呼んでいたのです。」
「バクトリアとは、紀元前4世紀ギリシャのアレクサンドル大王領の東端に、紀元前250年に興った国ですね。そのバクトリアの地が、中国では大月氏と言われるわけですね。」
「そうです。814年「新撰姓氏録」では、秦氏の租は融通王(弓月君)とされていますが、月氏とは、中央アジアに興った騎馬民族のことです。その秦王国は、朝鮮半島の辰韓(秦の国)→新羅(秦の国)→北九州秦王国(608年隋使が見聞している。)→吉備秦王国(藤原日本昔話では「鬼が島」。)→河内秦王国(藤原日本史では物部氏の支配地)→斑鳩秦王国(藤原日本史では聖徳太子の法隆寺の町)、と移動しています。その河内秦王国が、嵯峨源氏の本拠地で、藤原氏と亡命百済貴族が支配する平安時代では、河内の民は三等民族に落としこめられていたのです。それは、新羅は、平安貴族となった亡命百済貴族の母国百済を滅ぼした憎むべき民族であったからです。」
「その河内秦王国のあった渡辺津に、源義経が、屋島の平家を攻撃するために訪れたわけですね。」
「そうです。ユーラシアからのチュルク系源義経傭兵軍団には、近畿一帯の武人が集まらなかったからです。しかし、その渡辺津には、明日香ヤマトを軍事的に支配していた騎馬民族突厥の末裔が秦氏末裔に混じって同居していたのです。645年唐帝国進駐軍に明日香ヤマトが乗っ取られると、斑鳩秦王国の防衛軍団は、河内秦王国に後退したのです。しかし、唐進駐軍に支援された律令軍が、その都市砦を、藤原京→平城京→長岡京→平安京と北進するたびに、河内の秦王国は徐々に壊滅していったのです。そして、平安時代末期には、秦王国の軍団は完全に壊滅していたのです。しかし、明日香ヤマトを支配していた民族末裔は、河内に現存していたのです。それが、秦氏と突厥民族末裔です。騎馬民族拓跋氏が支配した北魏で「北魏源氏」となった禿髪氏は、突厥と同族の騎馬民族であったのです。拓跋、禿髪、突厥、鉄勒、丁零とは、それらの民族が「チュルク」(トルコ)と自称した発音を、中国人がチュルクの音声を漢字に当てはめたものです。因みに、突厥は日本語読みでは「とっけつ」ですが、中国語読みでは「トゥージュエ」です。ナベさん、オレが源義経と河内との関係を調べたことは、これまでです。ネタは古書からです。ナベさんの日本史の講義を受けてから、藤原日本史が信じられなくなり、古書もナナメ読みするようになりました。」
「よくここまで調べましたね。源義経は謎だらけです。突然平安末期に現れ、わずか5年しか「源平合戦」で活躍しなかった源義経の史料や資料が、あまりにも沢山ありすぎることにより、その源義経の出自の謎が解けないからです。しかし、敗将の源義経が、今日までも語り継がれているのは、藤原日本史により日本列島に存在していた騎馬民族の歴史・文化が抹殺・隠蔽されてしまっていても、日本人の多くに、源義経と同じ騎馬民族の血が流れているからでしょう。」
「ナベさん、オレは、前から気になっているのが、奈良時代では馬に乗っていた貴族が、平安時代になると、馬が疾走していた道幅12mの畿内七道の幹線道路が埋められ、牛車に乗る平安貴族の男は、何故、顔に白粉を塗り始めたのか、です。」
「モノの本によりますと、平安時代の家屋は、日光が入らないので薄暗いため、顔の表情が良く見えるように白粉を塗っていた、との説明があります。しかし、その説明は、説明になっていないようです。それは、下々の者は、絶対に貴人の顔を直接見てはいけないことになっていました。それに、貴人は、簾越しに接見していたことを考えれば、平安貴族の男が、白粉を顔に塗ることの意味は、外の理由が考えられます。」
「どんな理由ですか。」
「考えられるのが、藤原氏の存在です。686年女帝持統天皇が即位すると、689年(持統3年)藤原不比等は、「従五位下藤原朝臣史を判事(ことわりのつかさ)となす。」、として、突然歴史上に現れたのです。この女帝持統天皇は、唐帝国の影響を直接受けていて、690年暦を唐帝国で使用している儀鳳暦としたのです。」
「奈良以前の藤原不比等と平安貴族の白粉化粧に、何か関係があるのですか。」
「騎馬民族系天武天皇が、686年(朱鳥元年)崩御する2年前、684年唐帝国では三代目皇帝高宗が死去し、皇后武氏が政権を握ったのです。唐帝国は、朱砂、水銀、銀、金、真珠、絹を産する日本列島を殖民経営する目的で、645年明日香ヤマトを攻略したのですが、その後、新羅と突厥進駐軍に軍事支援された大海人軍は、672年亡命百済王朝の近江を壊滅すると、明日香ヤマトに進駐し、飛鳥浄御原宮に遷都し、天武天皇として即位するのです。これが、日本初の天皇です。」
「飛鳥大和の歴史と平安貴族の白粉化粧との関係は、何ですか。」
「唐帝国の政権を握った皇后武氏は、唐帝国の女帝となるための仕掛けを考えたのです。それが、アルビノ動物(白色動物)の発見を吉祥の前触れとして、漢訳仏教組織を利用して、皇后武氏を女帝則天武后とする宣伝を実行したのです。このアルビノ戦術は、見事に成功し、中国の歴史上で唯一人の女帝則天武后が、690年誕生したのです。」
「ナベさんのその説明で、平安貴族の白粉化粧の理由となるのですか。」
「684年唐帝国の政権を握った皇后武氏は、再び、日本列島を経営するために、689年一人の男を、女帝持統天皇の通訳として送り込んだのです。それが、東西のシルクロード交易の中継国であるハザール王国の白人種を租とする、藤原不比等です。藤原不比等は、皇后武氏が唐帝国を乗っ取った戦術を、明日香ヤマトに持ち込むのです。白色貴種信仰を、日本列島で宣伝するために、近畿一帯や明日香ヤマトにあった、秦氏のミトラ教の寺院や突厥進駐軍の道教の観の宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、法興寺、四天王寺、広隆寺、法隆寺、大安寺などを、北九州から移築して、オリエント文化の明日香ヤマトを、仏教文化の飛鳥大和に改竄したのです。そして、則天武后が入り浸りとなった、「内道場」の施設も、飛鳥大和に持ち込まれたのです。この「内道場」は、後に、女帝称徳天皇と道鏡との密会場となっていくのです。」
「ナベさんの説では、藤原不比等が白人種で、仏教施設を明日香ヤマトに持ち込んで、白色貴種信仰を、漢訳仏教徒により宣伝したことにより、白粉化粧が平安時代の貴族に広まった、と言うのですか。それだったら、白人種の貴族は、元々顔が白いから、白粉化粧などする必要はないわけですよね。」
「そうです。白人種が高貴で、元々白人種であれば、平安貴族は白粉化粧の必要はないわけです。しかし、奈良時代の貴族の多くは、騎馬民族系の天武天皇系皇子と白色系の藤原氏だったのですが、781年桓武天皇が即位すると、平安京には、中国山東半島から亡命百済貴族が移民してくるわけです。亡命百済貴族は、白人種ではなく、モンゴロイドの黄色人種です。桓武天皇の出自は、百済貴族の流れにあり、白人種の藤原氏を平城京に封殺し、平安京には藤原氏の貴族を入れなかったのです。勿論、藤原氏が支配していた奈良仏教も、平安京には入れなかったのです。しかし、奈良時代に、白色貴種信仰を漢訳仏教組織が宣伝していたため、黄色のモンゴロイドの平安貴族は、そのコンプレックスを隠す戦術を考えたわけです。」
「それれが、平安貴族が白粉化粧する理由だというわけですね。」
「平安時代末期、貴族のほかに武士も化粧を始めたのです。それが、「平家」です。アラブ系海洋民族を租とする「平家」は、白河法皇の私兵となりその武力で、敵対する藤原氏の支配下にある清和源氏の勢力を制すると、鳥羽上皇の1132年平忠盛は内昇殿を許されたのです。アラブ系の褐色の肌の「平家」は、白い肌が高貴で、褐色肌は地下であるとされていた時代、武士であるのに自ら白粉化粧で昇殿していたのです。しかし、チュルク系騎馬民族の傭兵軍に壇ノ浦で敗れた「平家」は、最初で最後の白粉化粧をした武士であったのです。「平家」が、平安末期に急速に勢力を拡大できたのは、伊勢の真珠だけではなく、伊勢の水銀鉱を支配していたからです。「日本書記」には、692年元興寺の僧観成が日本で始めて「鉛白粉」を作り、持統天皇に献上した、とありますが、「はやら」と言われる水銀系白粉は、伊勢の特産品であったのです。伊勢は、中央構造線上にあるため、縄文時代から朱砂の採取地として広く知られていたのです。朱砂のある処には、水銀が眠っていることは、広く知られていた知識です。アラブ系海洋民族の「平家」は、南宋に真珠や水銀を輸出することにより、宋銭を日本にもたらし、その宋銭により、短期間に日本列島の二分の一を支配できたのです。」
「化粧の歴史を知ることにより、色々な歴史を知ることになるのですね。ところで、平安時代の歴史本を読むと、平安時代中期に「国風文化」が興ったとありますが、その「国風文化」って何ですか。」
「藤原日本史によれば、894年菅原道真により遣唐使が廃止され、唐の文化が途絶えると、日本列島の文化が変化し、平安貴族の宮廷生活において変化した文化を「国風文化」と呼んだ、となっています。」
「ナベさん、その説明って変ですね。日本文化には、奈良時代に完成した、万葉仮名による「万葉集」ってのがあったはずですよね。だったら、何故、平安時代に「国風文化」が興った、としているのですか。」
「カメさん、よいことを指摘しますね。「万葉集」が、一般庶民に知られたのは、奈良時代や平安時代ではなく、近代に入ってからです。1908年(明治41年)伊藤左千夫氏を中心に集まった短歌結社の言説が大きく関わって、「万葉集」は一般人に知れ渡ったのです。それ以前は、「万葉集」は、一般人にとって縁もゆかりもない存在だったのです。」
「それって、本当ですか。学校では、「万葉集」は、「日本書記」、「古事記」に並んで重要暗記ものでしたよね。何故、「万葉集」が、明治時代に短歌結社により広められたのですか。」
「その短歌結社は、ナショナリズム色が強かったから、明治軍部に利用されたのです。日本列島の歴史の流れを読むと、奈良時代の陸奥国侵略、戦国時代の朝鮮侵略、明治時代の中国侵略など、藤原氏が政権を握ると異民族の地への侵略を始める傾向があるのです。明治革命で、藤原氏が復活したことは以前述べましたよね。その「万葉集」の元となる歌集の編纂が始まったのは、藤原不比等のロボットである女帝持統天皇の時代からです。しかし、「万葉集」が完成したのは、天平宝字3年(759年)と云われています。」
「四文字暦年は、「藤原王国」の時代ですね。「万葉集」の編纂には、藤原氏による多くの謎があるようですね。」
「大ありです。現在の研究では、「万葉集」の歌は、その成立が四期に分けられます。第一期は、629年即位の舒明天皇から672年壬申の乱まで。第二期は、672年から710年平城京遷都まで。第三期は、710年から山部赤人の活動が終わる737年まで。そして、第四期は、737年から大伴家持の万葉終焉歌が詠われた759年までです。」
「それって、変ですよ。学校で教わった「万葉集」の始めの歌は、456年即位した雄略天皇からです。」
「そこです、藤原不比等が「万葉集」の歌集編纂を始めた意図は。藤原不比等は、713年日本列島各国に派遣した国司に命じて、各地区の地名・人名の詳しい歴史を提出させ、日本列島各地の歴史を精査し、「日本書記」創作の基礎資料としたのです。そして、同時に、各国の歴史を消すために、各地区の地名・人名を漢字二文字で表記する命令を発したのです。」
「それと、「万葉集」との関係は何ですか。」
「「万葉集」は、20巻、概数で4500首あまりの歌が収められています。その巻第一の巻頭の歌が、雄略天皇の歌なのです。」
「その歌知っています。籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この国に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ告れ しきなべて 我こそいませ 我こそは 告らめ 家をも名をも、ですよね。」
「よく覚えていますね。藤原不比等が喜びますね。この歌は、雄略天皇の歌と云われていますが、実際は、毎年若菜摘みで詠われるもので、新春の儀礼の役割を果たす歌なのです。その歌を、何故、雄略天皇の歌としたのかが、謎ですね。」
「何故ですか。」
「藤原日本史によれば、雄略天皇は、「倭の五王」の中の倭王武で、和名オホハツセ・ワカタケノ・スメラミコトとしています。その雄略天皇の実在性を示す史料として、さいたま県稲荷山古墳から出土した剣にある「ワカタケル大王」を根拠として、5世紀には大和朝廷の勢力は、北関東まで及んでいたと主張するのです。しかし、雄略天皇の実在性は、稲荷山古墳の剣では証明できません。「日本書記」は、藤原不比等により、各国の歴史を精査した後に創作されていたからです。つまり、「ドロナワ」式歴史改竄テクニックを、藤原不比等が使ったのです。」
「では、二番目の歌は、雄略天皇の次に即位した、清寧天皇の歌ですか。」
「それが違うのです。二番目の歌は、628年即位した舒明天皇の歌です。カメさんが歌う前に、私が舒明天皇の歌を詠います。大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は。」
「パチパチパチ。拍手です。不思議ですね。巻頭歌が456年即位の雄略天皇で、二番目の歌が628年即位の舒明天皇の歌ですね。その248年間には、誰も歌わなかったのですか。」
「それは分かりません。しかし、舒明天皇以降は、途切れることなく即位した天皇の歌が掲載されているのです。」
「その舒明天皇の時代は、終末古墳時代ですよね。すると、清寧天皇から女帝推古天皇までの歌が「万葉集」に無いことは、何か意味があるのですか。」
「その時代が、藤原日本史で述べるところの、日本国の黎明時代で、飛鳥時代と言われているのです。しかし、その飛鳥時代とは、古墳時代でもあったのです。」
「そう言えば、「古事記」は、女帝推古天皇の時代を40文字ほどで記述していましたよね。そして、最後は、後に、舒明天皇となる田村皇子の即位記事でしたよね。」
「「古事記」を平安時代に著した多人長は、万葉語学者であったのです。当然、藤原不比等が仕掛けた歴史改竄のトリックは見破っていたのです。そこで、「古事記」を女帝推古天皇で終わらせていたのです。藤原日本史によれば、603年飛鳥小墾田宮に都を営んだのは、女帝推古天皇としているのです。その後、百年間が飛鳥に都があったとするのです。でしたら、当然、「万葉集」にも女帝推古天皇の歌があってもよいと思いませんか。」
「そうですね。やはり、仏教文化が興った飛鳥時代は、ナシですか。」
「「万葉集」には、神を詠った歌はあるのですが、仏を詠った歌はないのも不思議ですね。」
「やはり、仏教伝来は、飛鳥時代ではなくて、古墳時代にはなかったのですね。ナベさん、「国風文化」に話を戻してくれませんか。」
「平安時代に「国風文化」が興ったとするならば、それ以前は何かというと、唐風文化であったのです。桓武天皇は、その即位式を、唐制下で、唐服を着て、奈良時代の呉音ではなく、唐で使われていた漢音でおこなっていたほど、オール唐文化一色であったのです。」
「では、桓武天皇以前は、何文化だったのですか。」
「「万葉集」で作品年代が分かっている新しい歌は、天平宝字3年(759年)大伴家持の歌です。そして、その「万葉集」が完成したとされるのは、その序文により延喜5年(905年)と云われています。この約150年間の「国風暗黒時代」には、ほとんど和歌が残っていないのです。その「国風暗黒時代」では、唐風文化の漢詩文が重要視されていたのです。貴族は、漢詩が詠めなければ、一人前として扱われなかったのです。」
「オレ、奈良時代に生まれなくってよかった。学校の古文の時間で、漢詩を読むのがアレルギーだったからね。でも不思議ですね。藤原日本史では、飛鳥大和時代には、万葉仮名により歌を詠んでいたのではないですか。その万葉仮名は、何処に消えたのですか。」
「藤原日本史では、万葉仮名を下地にして、平安時代に、漢字の偏から「カタカナ」、そして、漢字の草書体から「ひらかな」が発明されたと述べています。しかし、古墳時代に使われていた万葉仮名と、平安時代に発明されたとする「かな文字」は、連続しないのです。」
「それって、どういう意味ですか。」
「万葉仮名は、漢字の音や訓を利用して、漢字アルフアベットとして、日本列島で使われていた言葉を書き表したものです。万葉仮名と、平安時代に発明された「かな文字」とには連続性が無いと言ったのは、「ひらかな」には、長らく濁音を表す文字がなかったのです。しかし、万葉仮名には、濁音を表す専門文字が使われていただけではなく、平安貴族が聞き取れない、母音の一部には二種類の発音があり、単語ごとに明確に使い分けられていたのです。」
「古墳時代の言葉が、平安時代のひとに通じないとすると、平安時代の人は、新しく渡来してきた民族で、古墳時代の末裔ではないと言うことですね。」
「そのように考えられます。」
「すると、古墳時代には、どのような民族がいたのですか。」
「考えられるのが、騎馬民族の突厥です。唐が日本列島を完全に制圧していたとしたら、当然、日本語は、中国語を基本に構築されていたはずです。しかし、日本語の語順と、中国語の語順とは異なるのです。日本語語順は、主語+目的語+述語です。しかし、中国語語順は、主語+述語+目的語です。」
「その日本語のルーツが、北周、隋帝国、唐帝国とシルクロード交易権をめぐって長い間戦っていた、ユーラシア大陸を支配していた騎馬民族の突厥が使用していた、ウラル語系の突厥語というわけですね。」
「そう考えています。平安時代の京都は、唐文化一色で、唐人も多く渡来していたのです。その平安時代のひとが、先住民の言葉を聞き取れないほどの発音とは、中国語には「て」「に」「を」「は」に相当する格助詞はありません。しかし、突厥語は、「て」「に」「を」「は」を表す「格語尾」があるのです。言葉の語尾が微妙に変化することにより、格助詞と同じ働きをするのが突厥語です。」
「すると、ナベさんは、突厥語の文法が、日本語の文法のルーツと考えているのですね。」
「そうです。突厥民族が、530年明日香ヤマトに現れて、645年壊滅するまでの約100年間に、突厥語が日本語文法の基礎となったと考えています。」
「530年と言えば、大臣の蘇我稲目が突然歴史上に現れた時期ですね。そして、藤原日本史では、欽明天皇の時代ですね。」
「日本列島での天皇の始まりが、672年天武天皇であることが分かれば、藤原日本史が述べる欽明天皇の時代などなかったことは、カメさん理解できますよね。当然、大臣の蘇我稲目など実在しなかったのです。」
「分かりますよ、ナベさんの説。すると、オリエント文化の明日香時代から、どのようにして、平安時代に「国風文化」が興り、「ひらかな」により、清少納言の「枕草子」や紫式部の「源氏物語」などの女流作品が著わされたことが繋がるのですか。」
「清少納言や紫式部の高い教養を持った女官が、平安王朝の半ばに現れたのは、唐進駐軍の京都の支配力が、907年唐帝国が滅んだため衰え、それに替わって、藤原氏の勢力が復活したからです。唐帝国が滅んだため、日本列島に進駐していた唐帝国軍が日本列島から引き上げたため、935年瀬戸内海では藤原純友、そして、関東では平将門が、それぞれ唐帝国からの独立を目指し兵を起こしたのです。しかし、蝦夷末裔の武芸者軍団により、それらの独立運動が壊滅されたのです。藤原日本史では、これを天慶の乱と呼んでいます。この乱での功績により、怨霊を鎮めるために神社(モリ)で武芸をおこなっていた「もののふ」は、公に「武士」となったのです。その武士の清和源氏の武力を背景に、摂政関白を独占した藤原氏が、再び、平安朝廷を支配したのです。」
「その話、以前聞きましたけど。平安女流はどうしたのですか。」
「唐進駐軍が、唐令の大宝律令を、701年明日香ヤマトに持ち込む前、日本列島では、政治は、「まつりごと」と言っていたのです。王は、「まつりごと」をおこなうため、カミの啓示を受けなければならなかったのです。日本初の天武天皇も、天文台を造り、天帝である太一(北極星)を観察して、「まつりごと」を行っていたのです。それ以前にも、人々は、異界からカミを迎えてその威力を授けてもらうために、「カミまつり」を行っていたのです。その「まつり」では、カミのこころを慰めるため、飲食や歌舞がおこなわれ、その締めくくりに、カミと一体になるために「まぐわい」をおこなったのです。これを「カミあそび」と言うのです。しかし、カミは、空想上の架空の存在ですから、王はカミと「まぐわい」を行えません。そこで、巫女が、カミの代行で王とまぐわったのです。」
「ナベさん、その儀式を取り込んだのが、天武天皇が発明した、天帝と地帝が一体となる、、一世一代の大嘗祭の儀式ですね。」
「天武天皇が発明した大嘗祭も、天武天皇が崩御すると、大嘗祭の本来の意味を変形するために、毎年行う収穫祭の新嘗祭を、藤原不比等が発明したのです。そして、701年大宝律令により、律令国家が成立すると、「まつりごと」が「政」となり、政治的な儀式の場から女性が排除されて行くのです。その「まつりごと」で行われていたことは、後宮での宴席として制度化されていくのです。その後宮では、貴族の宴席に侍ってもひけをとらない知識と教養を持った女官が必要だったのです。しかし、奈良時代の都では、それ程の教養のある女官はいなかったのと、女性蔑視思想を持つ漢訳仏教が唐より伝来し、僧侶が勢力を伸ばした結果、女性の地位が低くなっていたのです。桓武天皇が、女性蔑視の奈良仏教を平城京に封印したため、平安京では、新興仏教の真言宗などは、後に真言立川流などの流派が興るほど、平城京ほと女性蔑視ではなかったのです。」
「「国風文化」と女流作家との関係が説明されていないようですが。」
「唐進駐軍の勢力がなくなった平安王朝では、漢詩を詠むことが遺棄されていくのです。それに替わって発明されたのが「和歌」です。しかし、貴族の宴席に侍って「和歌」を詠むほどの教養のある女性を雇うには、それ相当の財力が無くては出来ません。そこで登場したのが、遊行女婦(うかれめ)です。」
「「うかれめ」って、遊女のことでは。」
「「うかれめ」が、売春専門の「遊女」と言われるのは、鎌倉時代からです。平安時代では、「うかれめ」は、貴族に引けをとらない教養と知識がなければ勤まらない職業だったのです。しかし、宴の後には、「まぐわい」をおこなっていたことは普通です。それは、宴会は、「カミまつり」から派生したものだからです。現在でも、宴会の変形の重要人物の「接待」では、締めくくりに「おんな」が登場するのはそのためです。」
「ナベさん、話がそれてしまったようですが。「和歌」と「万葉歌」とは、関係あるのですか。」
「カメさん、古墳時代に詠まれていた万葉歌が、平安時代に詠まれていたと思いますか。平安時代、万葉歌が詠まれたのは、天暦5年(951年)です。平安時代に万葉歌が、史上初めて訓読されたのは、天暦5年勅撰和歌集「後撰集」の編纂の時です。その訓読結果を、「古点」と言っているのは、そのままの形で現在に伝わったわけではないからです。現在に伝わる訓読は、「新点」と言い、鎌倉時代の仙覚によるのです。」
「万葉歌が訓読されたのが、鎌倉時代ですか。万葉歌が訓読されていたのは、飛鳥時代ではなかったのですね。」
「平安時代、万葉歌の詠み方が分からなかったのです。ですから、951年「古点」で解読された歌は、万葉仮名の本文とは別の行を立てて「ひらかな」で歌の読みを書き記していたのです。」
「平安時代の万葉歌は、まるで、オレの英語読解と同じですね。英語の下にカタカナ書きしていました。平安時代の貴族にとって、万葉仮名は、外国語だったわけですね。」
「そのようにも言えます。「万葉歌」の訓読は、ひらかなが成立して、万葉仮名がわからなくなってきた時代に、特に、女性達を中心とした和歌を詠むひとたちのために始められたのです。」
「日本の古典作品のほとんどの原本が残っていないといわれているのに、「万葉集」も入るわけですね。」
「「万葉集」は謎だらけって、以前言いましたよね。現在出版されている「万葉集」は、鎌倉時代に仙覚が整えた、20巻本を基本としている、と言いましたよね。それが、平安時代には、20巻もなかったようです。」
「それって、どういうことですか。」
「現在に伝わる「万葉歌」は、平安時代では、「万葉集」に全て収められていなかった、ということです。905年醍醐天皇は、紀貫之などに「万葉集」に入っていない古い歌と彼ら自身の歌とを提出せよ、とおっしゃって、日本初の勅撰和歌集「古今集」が著わされたのです。この序文の条件からすれば、「古今集」には、「万葉集」に集録された歌が入っていないはずです。それは、勅撰集の基本的編纂方針は、別の歌集にある歌は、採用しないからです。しかし、実際には、「万葉集」の歌が、「古今集」には、15首もあり、そして、巻7の歌が、まったく同じで「古今集」にあるのです。更に、951年「後撰和歌集」にも、「万葉集」の歌が、23首もあるのです。カメさん、これってどう思います。」
「不思議ですね。オレの考えでは、平安当時詠まれていた「万葉集」は、現在のような20巻などではなく、もっと巻数が少なかったのでは。誰かが、「万葉集」を政治的に利用するために、例えば、「日本書記」の天武天皇以前の架空の天皇物語の欺瞞性を隠蔽する目的に、後の時代に、平安時代に詠まれていた「万葉集」とは別の歌を、「万葉集」に挿入して20巻にして創った、との考えはどうですか。」
「面白い発想ですね。万葉仮名で詠まれた歌が、万葉歌なら、平安時代の「国風文化」時代に発明された、「和歌」に万葉仮名で詠まれた歌があるのです。その万葉仮名で詠まれた和歌は、奈良県斑鳩町の法隆寺五重塔の落書きであったのです。その天井板の落書きは、8世紀頃と言われています。」
「斑鳩と言えば、ナベさんの説では、河内秦王国から進出し、6世紀に太陽神ミトラを祀るため、冬至の太陽光を浴びるため、建築基準を東西軸より西に約20度傾けた斑鳩秦王国があった処ですね。」
「その落書きは、「奈尓波ツ尓作久矢己乃波奈」と読めたのです。」
「その漢字アルファベットの万葉仮名の和歌、もしかして、「古今集」の仮名序にある、「難波津に 咲くやこの花 冬篭り 今は春べと 咲くやこの花、ではないですか。」
「そうです。その歌の名は。」
「「難波津の歌」だと思います。」
「ピンポン。カメさんの真似です。」
「ナベさんの説では、難波は、難波←浪速←ローランで、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の民族が渡来して、河内秦王国を築いた地ですよね。そして、古代新羅は、漢字アルフアベットで歌を詠っていた。それが、郷札(ヒャンチャル)でしたよね。やはり、古墳時代のオリエント文化の明日香ヤマトで詠われていた、万葉歌と古代新羅の歌とは関係があったのですか。」
「関係はあると思われます。両歌は、漢字アルフアベットで詠われていますからね。」
「すると、明日香ヤマト時代の漢字アルフアベットによる万葉歌を読めない、そして、明日香ヤマトでは濁音や二重母音や格助詞を使っていたのに、701年大宝律令が制定されると、宮廷では万葉歌に替わって漢詩が詠まれていたのに、唐進駐軍の勢力が一掃された平安時代中期となると、漢詩に替わって和歌が詠まれ、「国風文化」が興ったとするその「国風文化」とは、史実的には「百済文化」ではなかったのですか。」
「カメさんは面白い発想をしますね。国文学者が聞いたら目をむいて怒り出しますよ。」
「だってそうでしょ。百済語には濁音がありませんよね。濁音のないひらがな、そして、平安初期からの唐服が、国風文化となると、女官の衣装が、朝鮮半島のチマ・チョゴリ風になりますよね。それらを総合して考えると、国風文化とは、百済文化以外に考えられないと思いますが。平安女官が、チマ・チョゴリを着て、方膝立てて、貴人にマッコリをお酌している図、なんてどうですか。ナベさん、どう思う。」
「その考えはありえますね。高松塚古墳の石室にある女官の衣装は、明らかにチマ・チョゴリ風ですからね。その古墳は、高句麗の文化を色濃く伝えています。唐進駐軍が、645年明日香ヤマトに進駐してくる前の奈良盆地の各地には、それぞれ、朝鮮半島三国の高句麗、百済、新羅のコロニーがあったことが示唆されます。河内が古代新羅のコロニーであった地とすれば、淀川中流の長岡は百済のコロニーがあった地だったのです。」
「それで、百済系桓武天皇は、長岡に遷都したわけですね。そして、山背秦王国を乗っ取ると、そこを平安京としたわけですね。すると、平安京を支配した民族は、百済系となるわけですね。」
「そのように考えられます。ですから、カメさんの「国風文化=百済文化」説も、あながちハズレではないと考えられます。平安時代は、藤原日本史が述べるように、日本文化の基礎が起こった時代とするには、謎が多すぎるのです。」
「ナベさんの講義を基に、もう少し平安時代を調べてみます。オレが疑問に思っていたことは、ナベさんの説明で解消しました。」
「そうですか。では、次に、鎌倉時代を付き合っていただけますか。」
「勿論です。」
「鎌倉時代も、平安時代以上に謎が多くあるのです。」
「どんな謎ですか。」
「そのことは、レポートで述べますが、ヒントとして二つだけ述べます。それは、鎌倉宗教の謎と元寇の謎です。平安時代の女流が方膝立てて、そして、僧侶が胡坐をしていたのが、日本伝統文化といわれるものが発生する室町時代、華道、茶道などは、その座り方の基本が、正座となっていくのです。」
「正座は、罪人の座り方ですよね。何故ですか。」
「その謎解きのヒントが、鎌倉時代にあるのです。カメさん、鎌倉時代も、平安時代以上に謎だらけですよ。」
「その謎解き、楽しみにしています。本日は、ありがとうございました。おやすみなさい。」
「お休みなさい。」
オレは、パソンコのスイッチをOFFにしたが、おれの前頭葉はONのままだった。今日も眠れそうもない。このまま寝てしまうのは、モッタイナイ!
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/769.html

コメント [マスコミ・電通批評14] みのもんたさんの次男、日テレ社員を逮捕 窃盗未遂容疑 (産経新聞)  赤かぶ
13. 次郎 2013年9月12日 15:57:16 : FV0BoL10KVXeM : 5GFBiaNZBE
みのもんたは流石に原発事故の批判をせざるを得なくなって原発の汚染水を厳しく批判したそうだが日本テレビとしては彼を首にするつもりかも。やり方が汚いからマスメディアは信用できない。息子の窃盗をかばうつもりはないが原発村に注目しよう。事件の結末を国民は厳しく見守らなければならない。
コメント [Ψ空耳の丘Ψ61] 聖書とモンサントとバイエルとどこか 初心に帰るお天道様に恥じない生き方
02. CオCオ 2013年9月12日 15:58:40 : FYMI8v89Iiu36 : FAa34xPHXM
龍雲さん、

遺伝子が対応できない理由は、近代化にともない、遺伝子組み換えを行った作物を食べたり、社会のストレスなどによって、私たちの遺伝子が劣化したからでしょうか?

コメント [政治・選挙・NHK153] 日本:死刑執行に対する抗議声明  アムネスティ・インターナショナル日本 ダイナモ
03. 2013年9月12日 15:59:11 : Q7yF03GWXg
ああ、そうか、そういうことか・・・やっとわかったぞ。

人権というのは、人を殺して始めて手に入る物なんだ・・・

だって殺された人は永遠に自分の人権を手に入れることが出来ないのだから・・・

コメント [政治・選挙・NHK153] 室井佑月 東京五輪決定も「世の中の雰囲気についていけない」〈週刊朝日〉  赤かぶ
32. 2013年9月12日 16:00:57 : QBrYpzDGwo
  戦時中も大本営が「激沈、豪沈、勝ってる勝ってる」と喧伝しているのにそれを疑うような発言をする者は非国民とされたようだが、それと同じで「東京にオリンピックが来るのが何が悪い、喜べ!」ということなのだろう。
  だが、「おもてなし」という言葉が前面に出ているように、いわゆるパーティーのホスト役に決まったわけだが、その家が問題を抱えていれば手離しで喜ぶわけにもいかない筈だ。奥の部屋がくすぶって火が着いているのに、「あれは暖炉の火ですよ、どうぞ上がって下さい、おいしい料理がありますよ」と言われても困るというものだ。
 第一、おもてなしには資金が必要である。結婚式ではないが、客がのし袋を持って来て計算するまではホストが全て資金を持たねばならないが、息子の貯金を喰ってしまっている親がどこから捻出するのか、という問題もある。
 また例えば選手村を晴海につくり、大会後はマンションとして売り出す、との算段のようだが、結局税金でつくり、それを民間マンションとして売るとすると国民の手に資金が倍増して戻るわけではない。しかも、晴海という埋立地は次の震災があれば液状化でとても耐えられないから飛ぶように売れるとも思えない。
 憂う者は水を差す者と言われても、実際にホストとしての条件は悪く、公共事業としてのオリンピックに資金を間接的に提供する一部主権者が憂うのは当然だろう。
 オリンピックは逃げないのだから、まずは自宅に点いたボヤを消してから客を呼ぶのでも遅くはないし、暖炉の火だから大丈夫、息子はまだ大分貯金を持っているらしいから使っても大丈夫、といいながらパーティーを開く必要はないと思う。
  それとも、客が来ることでようやくゴミ屋敷を何とかしようとしたり、先生が来るというので急に片づけたりする文化ゆえ、まずホスト役でもして気合を入れなければどうにも原発事故の後始末や除染、被爆者対策にも身が入らないということか。
コメント [原発・フッ素33] 藤島氏「汚染タンク漏れは偽装工作であり、本当は溶けた核燃料が地下水と反応して汚染水が劇的に増加した」「3号機の湯気で確信 赤かぶ
125. 2013年9月12日 16:01:10 : s1s0jQ1eWo
ハッピーさんtwitterより。
http://twilog.org/Happy11311/date-130911
>これがタンクから漏れた汚染かどうかわからないって東電は云ってる。その根拠としてボーリングコアの線量測定したら地上から1.5〜2m位は線量なくて、それより深い場所から4m位まで線量が確認されてるからみたい。オイラもこれはタンクから漏れた汚染水の影響じゃないって思うんだ。
コメント [政治・選挙・NHK153] 中・韓「反日」嘘つき国家に対して、日本政府は国際社会で適宜・適切な反論をすべきだ。(日々雑感)  笑坊
08. 2013年9月12日 16:01:26 : vuQpagMXxI
06 狂人さん
「ファシズム侵略国家」の定義を教えて下さい。
どういう定義で使われているのか興味があります。

コメント [政治・選挙・NHK153] 安倍首相が出席する怪しい結婚披露宴 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
09. 次郎 2013年9月12日 16:03:10 : FV0BoL10KVXeM : 5GFBiaNZBE
政治家の人脈は金と権力。恋愛なんて関係ありません。息子娘たちも知っているさ。同類だから。パチンコは金脈になるんだね。出席者を誰か分析してくれないかなあ。
記事 [近代史02] たそがれのプロカメラマン物語  第四章 鎌倉時代
http://www.kitanet.ne.jp/~aash/tasogare.html#1-18

源氏が抹殺された鎌倉時代

オレは、真夏の炎天下の由比ガ浜沿道の雑踏の中にいた。夜明け前に、岩淵赤門近くの家を発ち、環八を南行し、国道1号線をひたすら法定速度30kmの愛車トモスで走り続け、鎌倉街道に出て、由比ガ浜に来たのだ。
オレは、カメラマンバックから鎌倉古道マップを取り出し、これからの行動を確認した。本日の鎌倉訪問の目的は、鎌倉七口といわれる切通の観察だ。ルートは、極楽坂切通→大仏切通→化粧坂切通→亀谷坂切通→巨福呂坂切通→朝比奈切通→名越切通だ。
夏の鎌倉の街は車の洪水だ。しかし、超小型バイクのトモスは、ある時はエンジンを吹かし、ある時はペタル漕ぎにより、その渋滞を縫って目的地を次々と走破した。
再び、海岸通りに出ると、飲食店脇の小さな空き地にトモスを止めて、海岸に下りた。海岸は、ひとで埋め尽くされている。適当な空きを見つけると、レジャーシートを敷いて、カメラマンバックを枕に、ゴロッと横たわった。鎌倉までのツーリングは、50ccバイクでは辛い。疲れがドット出た。
ウトウトしていると、先日調べた源義経の謎と、七口の切通により護られていた鎌倉の異様な地形とが、ひとつの仮説として思い浮かんだ。
オレが知っていた、鞍馬山で天狗に剣術を習い、五条の橋で弁慶を負かせたという源義経の幼少の経歴の全ては、史実ではなかった。源義経の史料の多くは、「平家物語」「平治物語」「義経記」「弁慶物語」などの、歴史史料ではなく、物語からのものだ。その中でも必須史料とされる「平家物語」も、13世紀初期から14世紀後期までに、「延慶本」「長門本」「四部本」「南都本」「八坂本」「覚一本」など、内容が微妙に異なる様々な平家諸本が著わされていた。
その諸説ある「平家物語」が述べる不思議は、アラブ系海洋軍団の「平家」を日本列島から駆逐した最大の功労者である源義経が、鎌倉をたった一度だけしか訪れていない、と言うことだ。その一度とは、物語によれば、鶴岡八幡宮の造営に携わった大工への引物馬の手綱を引いたことだ。何故、源義経は、武将として鎌倉に凱旋していなかったのか。
藤原日本史によれば、鶴岡八幡宮の歴史は、1063年源義家が出羽守となり、清和源氏の基礎が固まり、京の石清水八幡宮を鎌倉由比ガ浜に鶴岡若宮として勧請し社殿を創建した。そして、1180年源頼朝が鎌倉小林郷北山に、鎌倉由比ガ浜から、その社殿を遷した、とする。そして、藤原日本史が得意とする前政権の施設を歴史的に抹殺する技術の例によって、その社殿は、1191年焼失し、そして、再建されたのが、石清水八幡宮護国寺とする。すると、源義経が、たった一度だけ鎌倉を、大工に授与する馬を引くためだけに、訪れたとするには、その1180年鶴岡若宮を、鎌倉由比ガ浜から鎌倉小林郷北山に遷した時以外には考えられない。
日本宗教史によれば、若宮とは、奈良時代に三笠山のミトラ教の牡牛を屠る祭事場を破壊して、その跡に、春日若宮(春日大社)を創建したように、前政権の宗教施設を破壊し、その跡に設置された施設であることが多い。そのような視点で鶴岡八幡宮の設置位置を見てみると、その若宮に隠蔽された、前政権の宗教施設が、仏教や道教のものではないことが分かる。
それは、鶴岡八幡宮は、仏教や道教の建築基準の南北軸ではなく、南北軸から東に約30度傾いているからだ。この鎌倉の地には、仏教徒ではない民族の先住者がいたようだ。そもそも鎌倉(かまくら)とは、何を意味した地だったのか。「かまくら」と言われる地は、東北に多くあるようだ。新潟では、雪で造られた祠を「かまくら」と言う。
オレが切通廻りをしていた時、道に迷い込むと、そこには分譲地や宅地などに遭遇した。ある文庫本の対談で、鎌倉の地に住んでいた思い出を語る場面で、鎌倉の地を少し掘ると、そこいらじゅうから人骨が出てきた、と言うのを思い出した。そして、歴史本でも、鎌倉の地は、地獄谷があり、そこは死者の墓場だった、との記述を思い出した。古代の鎌倉の地は、葬送地だったようだ。そう言えば、アラブ系海洋民族を租とする「平家」の京都での拠点も、加茂川東側の死体が流れ着く「ドクロが原」だった。
少し考えてみれば、腑に落ちないことがある。それは、何故、伊豆半島の付け根の石橋山の戦いで破れた清和源氏の源頼朝と桓武平氏の北条時政一行は、伊豆から上総に船で逃れ、そして、東京湾を一周して、北条氏と敵対していた桓武平氏の三浦氏が支配する、未だ切通もない、人も住めぬ葬送地の鎌倉の地に居を構えたのか。
平安末期の鎌倉の地は、三方を山に囲まれ、中央を滑川が流れる湿地帯で、切通がなければ、ひとの住める地ではないようだ。更に、井戸水は硬水で飲料に不向きだ。しかし、ある民族にとっては、鎌倉は適地だった。それは、由比ガ浜には、無限の磁鉄の粉があるからだ。タタラ製鉄を行う産鉄民族には、三方には炭の原料となる森がある鎌倉の地は天国だったようだ。
日本列島に産鉄民族が現れたのは、古墳時代のようだ。日本列島各地に、短期間のうちに相似形の巨大古墳を築くには、高度土木技術や測量技術と供に、土や石を掘り起こすための鉄器が必要だった。その鉄器を日本列島にもたらした民族の中に、騎馬民族がいたようだ。
その根拠として、5世紀後半、竪穴式埋葬に替わって、突然、古代エジプトの埋葬思想と酷似する横穴式石室が現れた。その横穴式石室を持つ前方後円墳に、北九州では、石人・石馬が設置されていく。古墳に、石馬が設置されることは、その被埋葬者が馬と関係が深かったことを示唆する。
そして、北九州の巨大古墳に、石人・石馬が設置されていく頃、近畿では河内湖の干拓が終わり、須恵器の生産が始まった。須恵器を造るには、自然火の800℃ではなく、鹿皮製のフイゴのタタラ踏みにより、人工的に風を送り1200℃の火力が必要だ。その須恵器の出現と同時に、曲刃鎌が現れた。鉄製鎌は、農耕民族が発明したものではなく、古代のユーラシア大陸を支配していた騎馬民族が、牧草を刈るために発明したものだ。
その鉄製鎌は、牧草を刈るためだけではなく、戦闘時には、騎馬民族の武器となる。騎馬民族フン族に荒らされた中世ヨーロッパでは、その鎌は死神の武器として恐れられていた。
更に、鉄製鎌は、武器の他に使い道があった。それは、硬い石を鉄製鎌に打ち付けると、火花が熾る。火を熾すには、木と木を擦りあわす方法もあるが、火打石を使うと、瞬時に火を熾すことが出来るし、雨の日でも火を熾すことが可能だ。鉄製鎌は、騎馬民族の日常生活を支えるための重要な道具だった。
鎌倉の地名と、古墳時代に騎馬民族が日本列島にもたらした鉄製鎌とには、何か関係があるのか。鎌倉は、古来から鍛冶の盛んな地であったようだ。そして、鎌倉時代には、日本刀を大量生産して、実戦武器としてではなく美術工芸品として、南宋に輸出していたと聞く。
火打石で、突然思い出したが、役座映画のワンシーンで、出入りなどの特別な時、役座は家を出る時に、火打石で火花をかけられるのは、何故か。
オレは、とりとめもなく、そんなことを夢想しているうちに、深い眠りに入ってしまったようだ。日の傾きかけた浜辺には、もう喧騒はなかった。

翌朝、パソコンをチェックすると、田辺さんからのメール着信が表示されていた。オレは、早速、プリントアウトした。今回のレポートも分厚かった。今回は、事前に鎌倉を実地検分していたので、田辺さんの説もかなり理解できた。
藤原日本史では、貴族政治の平安時代の次に、武家政治の鎌倉時代としているが、あのような交通に不便な、三方を山に囲まれた狭い土地で、日本列島を、1192年から1333年まで、源氏が支配していたとすることには、オレは納得できなかった。その謎は、田辺さんのレポートで解明された。その概要は、以下のようだ。

藤原日本史によれば、鎌倉時代は武家により支配されていた、とするようだ。すると、平安時代まで、政治の中心に存在していた院(天皇)は、中国大陸での政権転覆により前支配者一族が抹殺されていたように、武家により抹殺されてしまったのだろうか。
しかし、天皇家は、鎌倉時代にも存続していたどころか、明治革命まで生き延びていた。そして、鎌倉、室町、戦国、江戸時代まで、武家の支配者に官位を与え続けていたのだ。
1868年明治革命により、王政復古の大号令が発せられ、幕府の制度が廃止された。それと同時に、藤原氏が平安時代から支配していた摂政・関白も廃止された。その代わりとして、天皇が政治の表舞台に登場する「親政」が定められ、その補佐役として、総裁・議定・参与の三職が定められた。
明治政府の新体制と言われるものは、奈良時代に藤原不比等が発明した、太政官と神祇官とにより政治をおこなう、古代の律令制がモデルだった。
その奈良時代に藤原不比等が発明した律令制は、清和源氏三代が桓武平氏の北条氏により抹殺されて、取って代わった北条氏が、1232年制定した「御成敗式目」などの武家による法令により抹殺されたわけではない。鎌倉幕府を清和源氏から奪った桓武平氏の北条氏は、自ら将軍職に就くことなく、京都から藤原頼経を将軍として招いているほどで、鎌倉時代でも、官位制度は、奈良時代の律令制により執り行われていた。
しかし、明治の律令制は、奈良時代の律令制と異なるところは、二官八省が、二官六省となり、太政官と神祇官とが、明治天皇の政治を補佐していた。その神祇官は、明治天皇の直属機関として、祭政一致の国家を創るため、天皇陵などの陵墓を管理・運営していった。この明治時代に、藤原不比等が720年に創作した「日本書記」を、平安時代に亡命百済貴族が改竄し、初代天皇として神武天皇を発明し、その紀元前660年即位したとする神武天皇の稜が創作された。
そして、全国の「神宮寺」を破壊した跡に、奈良時代には禁足の地であった「神社」と書いて「モリ・ヤシロ」と呼んでいたものを、藤原氏の神である女神アマテラスオオミカミなどを祀る「神社」(じんじゃ)として創建した。そして、全国各地の「神社」(じんじゃ)で、江戸時代末期まで「新宮寺」で「僧侶」により行われていた祭りに替わり、仏教支配から独立した「神主」主催の「お祭り」が始まっていくのだ。
その明治革命後に創建された、神社(じんじゃ)での「お祭り」の神事を実質仕切っていたのは、農耕民族末裔の氏子ではなく、明治革命後に被差別民から「新平民」となった騎馬民族末裔と、平安時代に発生した「武士」から派生した「役座」であったのは、何故だ。藤原日本史では、その歴史を何も語らないし、語れない。
6世紀、日本列島の、北九州からではなく、東北から渡来した騎馬民族突厥の日本列島での歴史を述べるとすれば、日本の皇神アマテラスオオミカミを発明した南インドから渡来した民族を租とする藤原氏や、日本列島の皇族の租である亡命百済民族は、古墳時代末期以降の渡来人だとバレてしまうからだ。
藤原不比等は、6世紀半ばから7世紀半ばまでの明日香ヤマトが騎馬民族に支配されていた史実を抹殺するために、奈良時代に「日本書記」を創作した。そして、騎馬民族の王である天子(テングリ)から天皇となった、北極星(太一)を祀る天武天皇の子孫を抹殺し、天皇を神とする「現御神」の天皇を発明した。その「現御神」が、明治革命で、藤原氏と供に復活したのだ。
しかし、その明治の改革は行過ぎた。絶対権力者「現人神」の天皇直属の神祇官により、騎馬民族末裔徳川家康から王権を奪った亡命百済貴族末裔に支配されていた江戸幕府を支える、仏教支配体制を破壊するため、例えば、興福寺を破壊してその「僧侶」を春日大社の「神主」とした宗教革命の結果、崇仏派の農耕民族末裔と廃仏派の騎馬民族末裔とにより、日本列島に宗教的大混乱が生じ、日本列島各地で大暴動が起こった。そのため、神祇官から神祇省に格下げされていたものが、明治5年(1872年)神祇省は廃止された。廃仏派は敗れたのだ。そして、再び、奈良時代から日本列島を宗教的に支配していた仏教勢力が復活するのだ。
しかし、奈良時代に藤原不比等が、日本列島を支配し同族のハザール民族を移民させるために描いた、祭政一致国家の流れは止められたわけではない。奈良時代に藤原不比等が発明した、「現御神」が、「現人神」となって庶民の前に、白い馬に乗って現れたのだ。
そして、その「現人神」の明治天皇か治める「神国ニッポン」を証明するために、鎌倉時代に、日常会話が中国語の禅宗の僧侶により創作された「元寇来襲物語」での「神風」が、「神国ニッポン」のための宣伝に利用されて行くのだ。
そして、鎌倉時代に浄土真宗を拓いたとされる親鸞が、室町時代からの眠りから、明治の廃仏毀釈運動後の仏教復活と供に目覚めるのだ。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」で知られる「歎異抄」は、親鸞の著作ではない。親鸞の弟子唯円が著わしたものだ。その「歎異抄」は、戦国時代の蓮如により禁書とされ、明治時代まで庶民は読むことができなかった。何故だ。
その謎は、「悪人」の言葉の意味にあるようだ。その「歎異抄」で述べる「悪人」は、仏教側が使う「悪い人」の意味ではなく、別の意味があるようだ。それは、騎馬民族に関係があるらしい。それは、親鸞が、流刑後に宗教活動していたのは、崇仏派の農耕民族末裔が支配した仏教文化の百済語系ことばが多く使用されていた西国ではなく、廃仏派の騎馬民族末裔が多く暮らしていたギリシャ・ローマ文化の古代新羅語系ことばと、騎馬民族のウラル語系突厥語が多く使用されていた東国だったからだ。
鎌倉時代は、藤原日本史が述べているような武家源氏の時代ではなかったようだ。では、実際の鎌倉時代とは、どのような時代だったのか。

鎌倉時代と言えば、まず思い浮かぶのは、鎌倉幕府を拓いたとする源頼朝だ。藤原日本史では、その源頼朝は、源氏棟梁だとする。しかし、源頼朝は、1180年石橋山の挙兵で、「平家」配下に破れて以来、一度も戦場に赴いて陣頭指揮をしてはいない。が、しかし、源頼朝は、木曽義仲や源義経などの「源氏軍団」が、平家一門を壊滅すると、それらの源氏の忠臣を抹殺し、1192年後白河法皇より征夷大将軍に任ぜられる。
そして、関東の支配者となった源頼朝は、平安時代を生き延びるために「秦氏」から「惟宗氏」に氏名を替えていた民族に、古来から藤原氏が支配していた南九州の島津荘を与えているのは、何故だ。
この源頼朝の処置により、秦氏→惟宗氏忠久から、明治革命で暗躍する島津氏が興った。この惟宗氏は、関東の上野を支配していた比企氏の丹後局を通して繋がりがあった。それは、島津氏の租忠久は、惟宗氏広言と比企氏丹後局の子であったからだ。
更に不思議は、鎌倉時代に突然現れた島津氏の家紋「丸に十字」は、秦氏末裔の弾家の家紋と同じなのだ。その両家の家紋も、元は「十字」のミトラ教のシンボル太陽を表す「マルタクロス」だった。秦氏と島津氏との関係は、何処から続いていたのか。
何故、源氏棟梁とする源頼朝は、「平家」を倒した「源氏」を抹殺し、その代わりに、秦氏末裔の惟宗氏に、藤原氏の荘園を与えたのだろうか。その、源氏棟梁とする源頼朝と、惟宗氏(秦氏)とには、源平合戦において、何か関係があるのか。

1872年(明治5年)イギリス東インド会社の流れをくむ国際資本により、富岡製糸場が開業されると、「東京日日新聞」「日新真事誌」「郵便報知新聞」が創刊され、その翌年に、政府の公式の布告文を「婦女童幼」にまで知らすべく、「公文通誌」が創刊された。その「公文通誌」は、1874年「在野」をほのめかす「朝野」を新聞題名に選んだ。そして、「朝野新聞」は、もっぱら時事の風刺文を掲載していた。
順調に部数を伸ばしていた「朝野新聞」も、1877年に勃発した「西南の役」での各新聞社との報道合戦に敗れ、部数が激変した。そのため、1889年「朝野新聞」は、「大阪毎日新聞」社長渡辺治に譲渡された。この時から、「朝野新聞」に「徳川制度」の連載が始まった。その「徳川制度」の記事の中に、治承4年(1180年)源頼朝が初代弾左衛門(藤原頼兼?)に、「頼朝公の御朱印」を与えた、とする文がある。その「朝野新聞」の記事とは、以下だ。

浅草区亀岡町(往時は新町と云ふ)に住む弾直樹と云ふ人なん、往昔より穢多の君主と仰がれたる弾左衛門の後裔なりける。抑も弾家の祖先は鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼(弾左衛門を単名と思ふは誤りにて弾は氏、名は左衛門その姓は藤原なりとぞいふなる)にてその先は秦より帰化し世々秦を以て氏とせり。
抑も我国に於て秦の帰化人と称するものは始皇の子扶蘇の後なり。史を按ずるに秦皇の崩壊扶蘇逃れてかい貊に入り居ること五世にして韓に遷りしが、其の裔弓月君なるもの応神天皇の十四年を以て百二十七県の民を率ぬ、金銀玉帛を齎らして帰化し、大和国朝津沼腋上地を賜ひ、其民を諸郡に分置して養蚕織絹の事に従はしめしに、献る処の絹帛柔軟にしてよく肌膚にかなふを以て天皇特に波多君の姓を賜へりと。
是れ秦の字に「はだ」の訓を付したる所以也。其後この族より秦左衛門尉武虎といふもの出て武勇を以て平正盛に事へたりしが、適ま正盛の女の姿色艶麗いと藹丈けてたをやかなるに掛想し筆に想ひを匂はしてほのめかしけれども、翠帳のうち春なほ浅くて高嶺の花のえも折られず、いよいよ想ひ余りて寧ろ奪ひ去りてもと謀りけることの端なく漏れて正盛の怒りに触れ、日頃股肱としも頼む武虎にかかる不義の振舞あらんとは奇怪なり、いで物見せんとて討手を差向けたるよし。
武虎逸早くも聞きて夜に紛れて跡を暗まし関東は源氏の根拠なれば、屈竟の隠れ処なりとて鎌倉さして落ち延びぬ。此れより武虎は鎌倉長吏(穢多の古称)の頭領と成りて秦氏を弾氏と改め、自ら韜晦しけるとなん。其後治承年間頼朝兵を関東に拳るに及びて、弾左衛門尉頼兼事に預りて功あり左の御朱印を下されける。

「朝野新聞」の記事によれば、「平家」に睨まれて京から鎌倉へ逃れた秦氏は、源頼朝の石橋山の挙兵の時、功を挙げたことにより、「御朱印」を賜ったという。秦氏は、一体何を功したのか。
源義経には謎が多くあったと述べたが、源頼朝にも多くの謎がある。その謎のひとつが、源頼朝の氏である「清和源氏」の謎がある。藤原日本史によれば、源頼朝の祖は、源頼朝←義朝←為義←義親←義家←頼義←頼信←源賜姓満仲←経基王←清和天皇であると言う。しかし、別の系図では、「清和源氏」とは、「陽成源氏」である、と云う。
陽成天皇は、清和天皇と藤原基経の娘高子との間に生まれた子だ。では、何故、「陽成源氏」を「清和源氏」としたのか。その謎解きのヒントは、876年(貞観18年)藤原基経は、9歳の貞明親王を即位させ、陽成天皇としたことにある。
その陽成天皇は、883年(元慶7年)嵯峨源氏の従五位下源朝臣蔭の息子益が殿上に侍っている時、いきなり格殺(打ち殺す)していたのだ。陽成天皇は、お脳の病気で、狂躁性の性格であった。そのため、翌年884年(元慶8年)陽成天皇は退位させられ、陽成院と称された。何故、嵯峨源氏が、清和源氏棟梁源頼朝の祖とする陽成天皇に殺されたのか。それは、陽成天皇だけではなく、その父清和天皇を幼年で即位させた、藤原氏の、嵯峨源氏抹殺計画の流れがあったからだ。
武家を、一般的には、「平家」「源氏」「平氏」と分けているようだが、「源氏」にも、その構成民族により多種ある。例えば、「嵯峨源氏」と「清和源氏」とでは、その構成民族が異なる。嵯峨源氏は、反藤原氏の嵯峨天皇の皇子が賜姓されたものだ。それに対して、「清和源氏」(陽成源氏)は、藤原氏の私兵のような存在だ。
嵯峨天皇は、奈良時代に藤原仲麻呂に反旗を翻した橘奈良麻呂の孫娘清友の子嘉智子を娶った。そして、その側室を反藤原氏の地方豪族の娘とした。だから、嵯峨天皇から賜姓された嵯峨源氏は、その流れからすると、反藤原氏なのだ。
その嵯峨源氏の抹殺を、藤原氏が謀っていた。しかし、藤原氏は、自らの手を汚さない戦術を使い、奈良時代から敵民族を抹殺してきた。その戦術とは、敵の氏族の上が老死するのをずっと待つのだ。そして、その子孫を廟堂高位の座に任用しないことで、抹殺していく。その戦術を使えるのは、奈良時代に藤原不比等が仕掛けた律令制度にある。廟堂への最終任命権は天皇にあっても、その実権は蔭位制により奈良時代以降藤原氏が握っているからだ。
更に、藤原氏得意の「夷を以って、夷を制す。」の密告戦術がある。藤原氏の放った密偵により、相手の動静を事前に察知し、ふとした言葉尻を基に致仕に追い込み、自殺させるか、逆賊の汚名を着せて「法」による裁きの名の基に「死罪、流罪、左遷」とし、社会的に抹殺するのだ。その例は、反藤原氏の長屋王と橘奈良麻呂の抹殺に見られる。
藤原氏の敵が、民衆に紛れる平安朝になると、藤原氏が奈良時代に発明した中臣神道の「ケガレ思想」により、宗教的に、敵民族を抹殺にかかった。その藤原氏からの宗教的攻撃の「ケガレ」思想に対しての反撃が、「キヨメ」思想だった。
平安時代の「キヨメ」は、宗教的な儀式だった。しかし、清和源氏頼朝・頼家・実朝の三代が、桓武平氏の北条氏に抹殺された鎌倉時代になると、「キヨメ」は、「汚い物」を処理する行為となってしまう。何故、そのようになってしまったのか。それは、鎌倉時代に、嵯峨源氏(秦氏)が、清和源氏(藤原氏)に抹殺されたからだ。
嵯峨太上天皇が崩御すると、藤原良房は、幼年の皇太子を立てて、清和天皇として即位させ、国家権威と権力の頂点に立つと、反藤原氏の嵯峨源氏の皇子たちの追い落としにかかった。
866年(貞観8年)藤原良房は、応天門の変により、古墳時代からの大豪族大伴氏と佐伯氏と、そして、嵯峨源氏信を、密告戦術により抹殺した。このことにより、平安京では、藤原氏に軍事的に対抗できる豪族が一掃された。そのため、藤原氏の書いた宣命文や詔勅文は、「現御神」である天皇の「御名御璽」のハンコを押した途端に、その恐るべき権威と権力とが発生した。このことにより、奈良時代に天武天皇の皇子達が平城京を追われたように、嵯峨源氏の元皇子達は平安京を追われていった。
延喜19年(919年)大納言嵯峨源氏昇の没後、藤原氏により、嵯峨源氏は廟堂首脳、大納言以上の地位から追い落とされていく。
そして、平安京の都を追われた嵯峨源氏達は、それぞれの母方の地へ落ち延びていった。嵯峨天皇の多くの側室は、反藤原氏の民族末裔であった。その嵯峨天皇の皇子のひとり、源綱は、母方の生地の河内「ワタナベ」に居を構えた。その地は、古墳時代に、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した秦氏による秦王国があった地だ。そして、その地に、渡辺党を興した。その渡辺津は、平安時代末期の源平合戦の時、チュルク系騎馬民族の源義経が、平家の屋島砦を急撃するための前線基地となった処だ。
渡辺党が興って程なくして、その渡辺の地に隣接する摂津多田の地に、何処からともなく武装軍団が現れた。その頃、伊勢にも海洋民族軍団が上陸していた。それらの軍団の渡来元は何処か。

藤原日本史では、日本列島は四海に囲まれているため、中国大陸から孤立していた、とする。その証拠として、遣隋使・遣唐使は海難に遭いながらも、中国から高度文化を輸入していた、と述べる。しかし、記録上にある遣唐使は、奈良時代から平安初期までに15回ほどだが、遣新羅使は、935年統一新羅が滅ぶまで、毎年のように派遣されていたのだ。
676年新羅が朝鮮半島を統一すると、統一新羅の商人は、同族が古来から暮らす大阪難波津を出先拠点として、日本列島と唐帝国との中継交易を行っていたのだ。だから、日本国の遣唐使船が航海中に原因不明の遭難が起こった時、統一新羅の商船が、日本国の遣唐使を送迎していたのだ。それも、一度や二度ではない。その遣唐使も、894年菅原道真の奏上により中止となった。その理由として、菅原道真は、統一新羅の商人から唐帝国の腐敗した政情を聞き及んでいたからだ。
その菅原道真は、藤原時平の陰謀により、大宰府に左遷され、そこで没した。何故、菅原道真は、藤原氏により抹殺されたのか。それは、嵯峨源氏を格殺した陽成天皇と、次の光孝天皇が、あまりにも、天皇としてその存在が疑われたことにある。
887年(仁和3年)藤原良房の養子藤原基経が、関白となった。関白とは、「関わり白(もう)す。」からきたもので、天皇に替わって政治をおこなう職だ。これ以降、豊臣秀吉を除いて、1869年(慶応3年)まで、関白は藤原氏が独占していた。
関白藤原基経は、近親結婚のため血の流れが悪い光孝天皇の人格を疑い、887年光孝天皇を退位させ、藤原氏と血縁関係のない、宇多天皇を即位させた。その藤原基経が、891年(寛平3年)死去した。藤原氏の重圧から解放された宇多天皇は、廟堂から藤原氏の影響力を排除するため、反藤原氏の勢力を集めた。そのひとりに、菅原道真がいた。
宇多天皇は、藤原基経が没して2ヵ月後に、菅原道真を蔵人頭に抜擢した。そして、廟堂の構成を、左大臣嵯峨源氏融、右大臣藤原良世、大納言宇多源氏能有、中納言嵯峨源氏光、藤原諸葛、参議藤原時平、同嵯峨源氏直、同藤原国紀、同藤原保則とした。平均年齢60歳で、藤原基経の長男藤原時平だけが、32歳だった。
宇多天皇は、藤原氏の勢力を抑えるために、後に、菅原道真を参議とし、891年藤原基経没後から、929年までの39年間、太政大臣、摂政、関白を任命しなかった。それは、藤原氏の横暴を抑えるためだった。
寛平3年(891年)として、「類聚三代格」に、「最近、京に住んでいる庶民や王臣の子ども等、婚姻に名を借り、農商をするとか称して外国(畿外の国)に移住、そのすること土民と同じである。既にずる賢い輩は村里に横行、村役人に対抗して細民をおびやかす。」、とある。この描写は、平安時代の律令制度が緩んだため、多くの王臣の子等が、地方に下り、そこに土着し、高貴なるがため権力を握って荘園を開拓して土豪化し、私財の蓄積に狂奔した様だ。
その時代背景として、平安王朝を軍事支配していた唐帝国進駐軍が、本国が内乱状態のため、その日本列島の統治力が衰えたからだ。唐帝国では、722年から傭兵制度により軍団を組織していた。そのため、唐帝国の軍団は、国への忠誠心ではなく、給与の支払いに左右されていたのだ。
その唐帝国の弱体化を見越して、藤原氏は権勢を伸ばし、その権勢に比例して私財が増加していた。そして、天皇家の流れを汲む「源氏」「平氏」の亜流は、京の都にいてもうだつが上がらないため、そして、将来に望みが少ないその子や孫は、新たな新天地を求め地方の国司となり、蓄財の道を選んだ。平安時代末期に関東に勢力を張った、源頼朝を庇護した桓武平氏の北条氏などもその流れにあった。この頃では、「平家」は歴史的に存在していない。
その結果、唐帝国進駐軍の統治能力がなくなった平安時代中期には、日本列島の大荘園の持ち主は、天皇家、藤原氏、そして、僧兵を擁した大社寺であった。
藤原氏の土地私有は、奈良時代の藤原不比等の時代では近江国12郡94郷であったものが、平安時代の藤原良房の時代には美濃国18郡37郷となり、全国郷数の12分の1の337郷となっていた。
宇多天皇は、そのような藤原氏の私財蓄積に歯止めを掛けるため、菅原道真を中納言へ、そして、従三位とした。その菅原道真は、娘淑子を宇多天皇に女御として差し出した。これに対して、藤原時平は黙ってみていただけではない。
もし、菅原道真の娘が親王を生んだとしたら、外戚権は菅原氏のものだ。しかし、宇多天皇は、寛平9年(897年)皇太子敦仁親王に譲位して、法皇となってしまった。その裏には、中納言菅原道真の影があった。菅原道真には、何かの策があったようだ。それは、敦仁親王を「策を立てて皇太子となす。年9歳」、とあるからだ。
その敦仁親王は、醍醐天皇として即位した。その醍醐とは、古墳時代の明日香ヤマトでは、騎馬民族が好んで食べる「チーズ」のことだ。なぜ、「チーズ」(醍醐)天皇なのか。その謎は、醍醐天皇の母胤子にあるようだ。藤原日本史では、胤子は藤原高藤の娘としているようだが、実際は、藤原高藤が若い時、秦氏末裔が多く住む南山科へ狩りに行った時、雨宿りした時に泊まった郡司の娘の子であった。醍醐天皇の血には、秦氏の血が流れていたようだ。
しかし、醍醐天皇が即位して、899年藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣となると宇多法皇の後ろ盾を失った菅原道真は、統一新羅商人との関係など疑われ、延喜元年(901年)「右大臣菅原朝臣を大宰権師に任じ、道真の子息等それぞれ左降された。」、とあるように菅原道真一族は全て、都から追放された。
何故、一族が追放されたのか。その謎は、菅原氏の祖にある。菅原氏の祖は、土師氏だった。土師氏とは、古墳時代に古墳に祀る埴輪を作る技術集団だった。「続日本紀」には、天応元年として、「土師の先祖は、天穂日命より出ず、専ら凶像の仕事をしていたが、今はその意義もなくなったので、現在住んでいる地名にちなんで菅原と姓を改めたいと願い出て許可された。」、とある。菅原氏の祖は、古墳時代からの氏族だったのだ。
奈良時代直前に渡来した藤原氏にとって、古墳時代に居住していた氏族は、歴史的抹殺の対象だ。それは、それらの氏族末裔を生かしていたら、藤原氏のトリック「現御神」「中臣神道」「伊勢神宮」「女神アマテラスオオミカミ」など、「日本書記」での物語りが、古代からのものではなく、奈良時代に藤原不比等により発明されたものだと暴かれてしまうからだ。
藤原氏にとって、菅原氏一族を抹殺しても、安堵できなかった。それは、宇多天皇が残した勢力が現存していたからだ。それが、醍醐源氏高明だ。
939年から941年にかけて、中国大陸から渡来した傭兵軍団などと結託した、瀬戸内海の海賊藤原純友や、関東の土豪平将門が、その地に新王国樹立を画策して暴動を起こしていた。それらを鎮圧したのが、蝦夷末裔の武人だった。その武人は、功績を認められ、禁足地の神社(モリ)で武芸により怨霊を鎮めていた武芸者の「もののふ」から「武士」として公に認められた。それらの武士は、嵯峨源氏や醍醐源氏高明の下に集結した。が、しかし、まだ、清和源氏(陽成源氏)は、存在しない。清和源氏が歴史上に現れるのは、961年経基王が、清和源氏(陽成源氏)を賜姓されてからだ。
村上天皇の時代、天暦8年(954年)の廟堂は、大納言醍醐源氏高明、以下、源雅信、源重信、源時中と醍醐源氏が就任した。特に、醍醐源氏高明は、康保3年(966年)右大臣、康保4年(967年)左大臣に昇叙された。左大臣となった醍醐源氏高明は、娘を為平親王の妻とした。もし、為平親王が天皇となったとしたら、「外戚権」は醍醐源氏になる。
ここに不思議な「源氏」が現れる。清和源氏を祖とする、源満仲だ。系図だと、清和天皇→経基親王→源満仲(多田新発意)、となるが、生まれは、「父」とする経基親王よりも「子」とする満仲が、藤原日本史での「兄」天智天皇より「弟」天武天皇が4歳も年上と同じように、2年も前なのだ。この不自然さを、藤原日本史では満仲は、経基王の養子になったと説明している。更に、満仲の出自が不明だ。満仲は、突然どこから渡来してきたのか。
清和源氏とする源満仲なる者は、藤原氏に取り入りながら、反藤原氏の橘繁延や、北家の亜流の亜流藤原千晴らと、醍醐源氏高明を奉じて東国に下り、挙兵して藤原氏に対抗することを計画したが、仲間割れして、この秘策が漏れることを恐れ、右大臣藤原師尹に密告した。
安和2年(969年)右大臣藤原師尹は、この源満仲の密告を名目に、醍醐源氏高明を太宰員外師として左遷した。ここで再び、菅原道真を左遷した密告戦術が使われたのだ。この密告の功績により、清和源氏満仲は、969年叙位し、藤原氏の配下となった。
これ以降から鎌倉時代になると、嵯峨源氏、醍醐源氏は歴史上から消え、清和源氏が「源氏棟梁」となるのは、何故だ。
鎌倉時代、嵯峨源氏、醍醐源氏の末裔は、どこに消えたのか。その謎解きのヒントは、清和源氏義家が、「八幡」太郎と名乗ったり、清和源氏義光が、「新羅」三郎と名乗ったりしていることだ。それらの「八幡」や「新羅」は、反藤原氏の秦氏(嵯峨源氏)と大いに関係があるものだ。
何故、反藤原氏の秦氏に関係のある「八幡」(「ハチマン」ではなく「ヤ・ハタ・大秦」)や「新羅」(「シラギ」ではなく「シンラ・秦国」)を、藤原氏の傭兵である「清和源氏」(陽成源氏)が名乗るのか。そこに鎌倉時代の謎がある。

清和源氏とする源満仲は、突然、歴史上に現れ、藤原氏の傭兵となった。では、満仲は、どこから渡来してきたのか。考えられるのは、東アジアのようだ。

鎌倉時代に突然現れた武家家紋と武装集団「悪党」は何処から来たのか。

日本人の中には、鎌倉時代に日本列島に現れた「禅」を、日本古来の「術」と信じているひとがいるようだが、それは違う。禅は、インドのアクロバットのような瞑想術を簡略に改良して中国で発明され、中国人(漢民族の南宋人・インド人)の渡来人がもたらしたものだ。
その禅宗は、日本列島に産地当てのギヤンブルとしての「闘茶」の風習をもたらし、そして、雪隠禅師は、邸宅内に「便所」(せっちん)を設置した。質素な中国渡来の禅寺の造りから、武家屋敷が開発された。そして、床の間に「日本刀」を、そして、中国の山水画の掛け軸を飾る風習が武家に普及したという。鎌倉文化とは南宋文化だったようだ。更に、禅寺での日常会話は中国語だった。鎌倉時代に渡来した禅宗は、日本列島でどのような活動をしていたのか。
狭い鎌倉の地には、禅寺が5寺もある。その鎌倉にある禅寺とは、円覚寺、浄智寺、建長寺、寿福寺、浄妙寺だ。それらの建立位置が不思議だ。それらの禅寺は、山を背景に狭い切通に護られて建てられている。それはまさに、民衆の苦悩を和らげる施設などではなく、戦のための要塞砦のようだ。
南宋から、南宋人やインド人だけではなく、禅寺を護る僧兵軍団も渡来していたようだ。「ようだ。」、と言うのは、鎌倉時代の鎌倉幕府の公式史料が、現存していないため、史料で確認できないためだ。だから、鎌倉時代は、どのような文化・経済活動で、そして、税制で運営されていたのか分からない、謎が多くある時代だ。
1191年栄西は、南宋から帰朝し、京・鎌倉で禅宗の臨済宗を弘めた。その頃の南宋では、儒者が多く排出され、道学の誹議が禁ぜられていた。そして、南宋は、北方の金帝国を滅ぼした元により、1274年北方の都襄陽が陥落し、1297年滅ぼされた。
その頃、日本列島では、一夜にして「神風」により、1274年文永の役、1281年弘安の役と云われる「元寇」が壊滅されたとする。その「元寇」と云われるものは、禅宗側だけの史料により復元されている。元軍・高麗軍10万が来襲したとするには、対馬の隣国の高麗の史料に、「元寇」の記録がないのは何故か。
実は、日本の歴史は、1467年応仁の乱以前は、平安京も鎌倉も炎上壊滅していたため、朝廷や幕府の公式史料が現存していないため、知る由もない。あるのは、日本列島支配を企む藤原氏側の「日記」類や、そして、国際交易・高利貸し・ギャンブル・人身売買などを僧兵の軍事力を背景に行っていた寺社の記録記事だけだ。ましてや、敗者側の史料など何一つないのが現状だ。
だから、禅宗側が述べる「元寇」の「ウソ」を、史料で否定することは困難だ。しかし、禅宗の史料を、「漢民族」対「騎馬民族」との対立図式で眺めてみると、鎌倉時代の歴史の一端が見えるようだ。それでは、唐帝国壊滅時代から遡って、東アジアの歴史を眺めてみよう。

907年唐帝国が滅亡する前後に、モンゴル系のキタイ族とチュルク系の沙陀族が政局の表面に浮上した。唐帝国が滅亡すると、華北の統合の主役はチュルク系の沙陀族となった。その沙陀族は、西突厥の一部を構成した集団の流れにあった。
6世紀から7世紀のユーラシア大陸を支配した突厥は、その民族の体質から、「まとまりやすくこわれやすい」集団だった。日本列島の6世紀半ばから7世紀半ばまでの明日香ヤマトを支配していた突厥進駐軍の母国を、唐帝国により壊滅された突厥は、ペルシャ語で「トルキスタン」、つまり、「チュルクの地」とするような小国として存在していた。
傭兵軍団の沙陀族は、唐帝国の内乱を騎馬軍団の軍事力で鎮定し、その功で、唐帝国から唐朝の国姓「李」を賜り、李国昌と名乗っていた。その傭兵軍の「李」軍団は、黒装束で武装していたため、その騎馬軍団は、「烏軍」と呼ばれていた。そして、唐帝国末期では、もはや政権は、チュルク系沙陀族のものだった。
その頃、6世紀中頃の中東に興ったイスラームのサラセン帝国は、インド北部へその勢力を伸ばしていた。インドを逃れたヒンズー教徒は、唐帝国に救いを求めた。しかし、唐帝国内は、農民の暴動などにより治安が乱れていた。
菅原道真は、この頃の唐帝国内の情勢を、統一新羅の商人により入手していたようだ。
このような不安情勢の中、中国土着の宗教とヒンズー教の瞑想技術が合体して、「禅」が、臨済宗は臨濟義玄により、そして、曹洞宗は洞山良价により、発明された。
唐帝国が滅亡する頃、唐帝国の長城線の北側に、モンゴル系のキタイ族の耶律阿保機が現れた。907年唐帝国が滅ぶと、耶律阿保機は、みずから君主となり「大キタイ国」(契丹国→遼)を称した。そして、916年みすがらを天皇帝(テングリ・カガン)を称した。
その天皇帝の即位儀式は、チュルク・モンゴル系の伝統である天上の神である北極星(テングリ)にかけて、柴を燔き天を祀るものだった。それは、672年日本初の天武天皇の即位儀式と同じだ。
耶律阿保機は、926年渤海国を滅ぼし、東丹国とした。そして、947年後晋を叩き潰すと、中華風の国号として「大遼国」を称した。
遊牧国家の体質として、権力の所在地は、夏営地と冬営地との遊牧移動国の中に暮らす天幕群にあった。つまり、「幕府」である。遊牧国家は、部族結合を基礎単位とする連合体だ。だから、君主の一代ごとに政権や王朝が変動する。その流動性を固定化するために、血の繋がりがない有力者と、仮の父子関係を結ぶ。この義父子関係は、時には、実父子関係よりも強いことがある。その騎馬遊牧民族の義父子関係の流れは、「役座」の「親の血を引く兄弟よりもの。」の「血の杯」の儀式に現存している。
中国の北魏から唐帝国までは、拓跋部などの騎馬民族が漢民族を支配していた。しかし、北魏から続いていた、騎馬民族王朝と異なる国が、中国に誕生した。
960年漢族出身の太祖が、宋を興した。宋王朝は、二万を越える官僚と150万の軍隊を保持していた。しかし、軍事的には、遊牧民族の契丹国に押されていた。そのため、宋は、契丹国に巨額な金、絹の歳幣(年ごとの貢物)を貢いで、契丹国からの侵略を防いでいた。
宋は、その歳幣である金と絹を日本列島から手に入れるため、古来から南海交易を行っていた藤原氏やアラブ系海洋交易民族(後の平家)に、仲介を頼んだ。
弥生時代から、日本列島は、中国大陸への絹・朱砂・真珠の供給地だった。奈良時代に始まる遣唐使船などは、唐帝国の税制により日本列島から奪取された「貢物」を運ぶのが、主目的だった。だから、奈良時代を語る「続日本紀」には、中国の史料には武器の材料として牛角を遣唐使船で送れとの命令書があるが、遣唐使の記録記述が、日本から何を運んだのかが曖昧になっている。
そのため、藤原氏は、陸奥国の砂金を独占するために、蝦夷末裔清原氏と安倍氏の抹殺を企てた。奥州藤原氏への布石は、この時からだ。そのため、陸奥出羽按察使を、藤原氏が独占支配していた。
アラブ系海洋民族は、日本列島の伊勢の真珠や水銀を宋に輸出し、宋銭を大いに貯えた。出自不詳の平正盛が、白河上皇に接近できた理由のひとつが、その宋銭だ。その宋との交易により得た宋銭を、天皇や貴族への賄賂とすることにより、短期間のうちに日本列島の3分1を知行地とした。そのアラブ系海洋民族を祖とする「平家」を、藤原日本史では、「伊勢平氏」としてアラブ系民族の「平家」の歴史を隠蔽・改竄する。「平氏」は賜姓で、桓武平氏は、海洋民族などではなく、亡命百済民末裔だ。
その宋から契丹国に送られた多量の金や絹は、国際交易に転用された。契丹国との国際交易をおこなうために、1032年タングト族、漢族、ウイグル族、チベット族などの多種民族国家の西夏が興った。
1115年渤海国滅亡の地に、ツングース系女真族が、大金国を興した。その頃、契丹国では、権力闘争の内乱のため、女真族により首都が陥落しただけではなく、契丹帝国に従属していた宋も、1126年金帝国に滅ぼされた。その金帝国の実態は、騎馬民族特有の女真族とキタイ族との連合政権だった。
平安時代から鎌倉時代に代わる頃の東アジアの12世紀は、東に女真族の金帝国、中央アジアにキタイ族の西遼国、その中間に西夏、江南には南宋、西アジアには分立するセルジュク朝の諸国家が覇権を競っていた。
それらの国々には、武力を商売としての傭兵軍団が、金のニオイに釣られて、シンボルマークを付けた部族旗をたなびかせて行き来していた。勿論、宋に金、絹を供給していた日本列島も、その例外ではない。
遣唐使船の15回の渡海平均日は、4.1日だ。日本列島と中国大陸とは、藤原日本史の遣唐使船物語で述べているように何ヶ月もかかるものではなく、統一新羅の小型商船が大阪の難波と中国大陸を頻回に行き来していたように、困難な海路ではない。中国大陸の傭兵軍団は、中国大陸の動乱を避けるため、或いは、唐進駐軍が居なくなって強力な軍団が久しく存在しない、日本列島を目指していた。
藤原氏は、「現御神」の「天皇制」を利用して、日本列島を完全支配するために、明日香ヤマトを支配していた民族末裔の「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」の抹殺を実行するため、傭兵軍団を海外に求めていた。その時、藤原氏の前に現れたのが、難波津に渡来した「満仲」の軍団だ。
日本列島から、日本列島の3分の1を支配したアラブ系海洋民族「平家」を駆逐するために、藤原氏と桓武平氏の北条氏が結託して起こした、「源平合戦」が勃発した頃、東アジアのすべてを飲み込む、モンゴルが産声を上げた。
日本列島の東国を、嵯峨源氏末裔や醍醐源氏末裔を「源平合戦」のドサクサ中に抹殺し、百済系平氏の北条氏が支配するために、藤原氏の傭兵軍の「清和源氏」の抹殺を企てていた頃、1206年テムジン(チンギス・カン)は、チュルク・モンゴル系の雑多な集団からなる牧民戦士軍団を率いて外征の旅に出た。
雑多な軍団は、それぞれの部族を表すシンボルマークを軍旗に記していた。因みに、テムジン軍団のシンボルは、源義経と同じ、笹竜胆だ。平安時代末期の「源平合戦」では、「源氏の白旗」と「平家の赤旗」で、日本列島には、源義経の笹竜胆の家紋以外は、未だ武家家紋は登場していない。
騎馬民族は、農耕民族の歴史書により、「蛮族」「血塗られた文明の破壊者」などのレッテルが貼られている。その野蛮な遊牧民の代表が、「モンゴル」だ。しかし、「モンゴ゜ル」は、人種や民族の名前だったのではなく、一地方の集団の呼び名だった。その小集団のモンゴルを、テムジンが支配者となって、他部族を打倒・吸収するうちに、モンゴル共同体が、やがて、大集団を表す「モンゴル」となっていった。それは、1211年テムジンが、華北の金帝国への侵入を始めた頃だ。
モンゴル軍団は、騎馬軍団による怒涛の攻撃により、農家や田畑を荒地として壊滅させるイメージがある。しかし、モンゴル軍団は、戦わない軍団だった。モンゴル軍団が、地上の破壊軍団であったならば、短期間のうちに、西はキプチャク汗国、東は元までの大帝国を築けなかった。
モンゴル軍団の軍事行動は、敵国を壊滅することなくそのまま接収・吸収するために、示威行動だった。敵兵を残酷な刑で殺戮をしていたならば、モンゴル軍団の軍人は、減りこそすれ、増えることはないからだ。
モンゴル軍団が、金帝国や西夏を接収・吸収できたのは、ソグド商人、ペルシャ商人、イスラーム商人などの国際商人達が協力者として暗躍していたからだ。国際商人にとって、国々に分かれて、それぞれに関税を払うより、一国に関税を払うことが商売上有利だからだ。
モンゴル帝国は、1260年を境に、二分できる。それは、前期がモンゴル高原を政治基地として軍事中心に帝国が運営され、東は日本海から西はドナウ河河口、アナトリア、東地中海まで拡大をつづけた時期だ。そして、後期は、クビライによるユーラシア、北アフリカに到る「世界」を結びつける国際通商をおこなう時期だ。
1260年クビライが即位すると、アジア東方を直接の根拠地として世界帝国を建設する。それは、軍事と通商とが統合した、世界史上まれにみる帝国だった。クビライは、国家が主導する自由貿易、重商主義政策とにより、陸海をつうじた空前の「ユーラシア大交易圏」を出現させた。その前提として、クビライは、南中国の南宋を接取した。
南宋は、宋の時代以前、唐帝国の時代に、南インドとの国際交易により開発された海路を利用して、ヨーロッパ→エジプト→南インド→マカオ→中国沿岸→日本列島の国際海洋ルートを確保して、国際交易品の絹、金、銀、水銀、真珠などを交易していた。
その南宋の禅宗の臨済宗は、鎌倉の地に禅寺を設けて国際交易基地として、南宋から、南インドの香木や中国の書画骨董を輸入し、そして、鎌倉の浜砂鉄で造られた日本刀を美術品として輸出していた。寺は、古来から、仏像を安置する処でもあり、国際交易基地でもあった。それは、寺は、治外法権で、朝廷権力が及ばない、ナンデモアリの「聖地」であったからだ。
クビライは、騎馬民族帝国で、歴史上初めて、海への進出を果たした。そのために、クビライは、陸海を結ぶ物流ターミナルを造るために、内陸の大河を結ぶために、高低差数十mの閘門式運河を造った。それらの内陸運河により、中国大陸内部の都市と、高麗、日本、東南アジア、インド洋方面などの諸外国とに海路が直接結ばれた。
1274年、日本列島に文永の役の「元寇」が現れた頃、クビライは、南宋国境線の諸方から全面進行した。その結果、南宋軍の長江中流の要地、鄂州は戦わずして開場した。ここにも、モンゴル軍団の戦術、戦わずして接取する戦術がおこなわれた。
そして、1276年、1281年日本列島に弘安の役の「元寇」が現れる5年前、南宋王朝が壊滅し、南宋軍団は、大船団を組織して杭州から脱出して、東南沿岸を流亡した。その南宋の大船団が、東シナ海の黒潮に乗れば、行き着く先は、黒潮が沿岸を洗う北九州か南九州だ。
「元寇」と伝わる物語は、モンゴル軍団の来襲などではなく、南宋や高麗の大難民船団だった。その根拠のひとつとして、「元寇?」の難破船からは、大量の農具と種籾が詰まった壺が引き上げられているからだ。武器ではなく、農具や種籾を積む大船軍団などあるのか。
クビライが、南宋を攻めたのは、南宋の海洋交易システムを乗っ取ることが、目的のひとつだった。劃して、国際海上交易において、モンゴルは、南宋国の「後継国家」となった。
しかし、その亡国南宋から、日本列島に禅宗のインド僧と供に、騎馬民族差別思想が、鎌倉の地にもたらされた。平安時代の錬金術師空海がもたらした宗教理念の民族差別思想が、インドの禅僧の言葉から直接発せられるのが、鎌倉時代だ。それが、騎馬民族を差別する言葉、チャンダーラ(インド・バラモン教)→施陀羅(平安時代)→穢多(鎌倉時代)だ。
そして、野山に、シンボルマークの旗をなびかせた「悪党」と自称する軍団が現れたのも、鎌倉時代だ。「悪党」とは、「アク党」で、騎馬民族では「アク=勇者」の意味で、つまり、騎馬民族の「勇者党」だ。
日本語の「言葉」には、ポリネシア語、アイヌ語、タミル語、朝鮮半島語(高句麗語・百済語・新羅語)、古代エジプト語、突厥語、中国語(呉音・漢音・唐音)などで構成されている。例えば、「愛娘」(まなむすめ)の「まな」とは、古代エジプト語で、「愛しい」の意味だ。
それらの「万葉語=多民族語」を、漢字二文字の「仏教語」で隠蔽・改竄していたのが、藤原日本史だ。意味の分からない「日本語」にであったら、それらの語源をたどると、意外な歴史が現れることがある。
鎌倉時代は、藤原日本史が述べるように、貧民を救済する新仏教が興った民衆の時代などではなく、モンゴル帝国により南宋が壊滅したために新移民団が中国大陸から渡来した、混乱時代だったようだ。

何故、北条鎌倉幕府はインド僧が多く居る禅宗を保護したのか。

1568年、1560年イエズス会の軍事支援を受けた尾張のゲリラ隊長「藤原信長」は、織田信長として足利義昭を将軍に押し立てて京都に進軍した。そして、織田信長は、「余部」に対して「禁制」の文書を下した。このことにより、「余部」は、織田信長の支配下となった。
「余部」(アマベ)とは、「海部」のことで、海洋民族末裔の賎民のことだ。藤原信長と名乗っていた時代の織田信長の三代先信定の墓が垣内(カイト)にあったように、織田信長の先祖は、アラブ系海洋民族末裔の「平家」だった。垣内とは、別所、散所、湯浅などの地名と同じに、平安時代の百済王権(京都)・藤原王権(奈良)にまつろわぬ民族を押し込めた、神社(モリ)と同じに「結界地」だった。
1534年パリでイエズス会が創立された。イエズス会は、右手に「聖書」、左手に「武器」を持つ、戦闘的教団だった。
イエズス会は、1494年ローマ・キリスト教皇が、ポルトガルとイスパニア王国に与えたトルデシリャス条約で、日本列島はイスパニア王国の支配地として認められたことにより、イスパニアの軍団と供に、1549年藤原氏が隠棲する鹿児島に上陸した。
イスパニア軍団の手先となったイエズス会は、日本列島を支配するために、尾張のゲリラ隊長藤原信長に接近した。それは、藤原信長が、反仏教派だったからだ。藤原信長の祖は、日本列島を実行支配する仏教組織により、賎民に落とされていたからだ。
イエズス会は、藤原信長に最新式の武器・銃と傭兵軍を与え、仏教軍団の壊滅を計画した。それは、戦国時代の支配者は、天皇でもなければ、貴族でも武士でもなく、寺社であったからだ。その寺社勢力を壊滅しなければ、ローマ教皇から認められた支配地・日本列島は、イスパニア王国により支配することが出来ないからだ。
戦国時代の寺社内では、鉄砲製造、弓矢製作、石垣普請、築城などの建築技術など軍需産業を営んでいた。何故、そのような高度技術者が、仏を祀る寺社内に存在したのか。その謎を知るには、古墳時代から奈良時代に遡らなければならない。
巨大古墳を築造するには、鉄器製造技術、石切技術、物資運搬のための運河掘削技術などが必要だ。その技術は、4世紀の日本列島に持ち込まれていた。その古代エジプトで発生した技術は、藤原日本史では紀氏により、朝鮮半島を経由して持ち込まれていた。
6世紀半ば、日本列島の国際交易所のある奈良盆地に、北陸から突厥軍団が進駐し、高句麗・百済・古代新羅のコロニーを支配下に置いた。高句麗、百済は、4世紀から仏教国であったが、古代新羅は、ギリシャ・ローマ文化国だった。
突厥は、騎馬民族で、中国で変質した漢訳仏教を避けた。それは、北魏を興した太武帝も、騎馬民族の拓跋部で、騎馬民族の文化を蔑視する漢訳仏教を弾圧し、北極星(太一)を祀る道教を保護していた。明日香ヤマトを支配した突厥軍団は、高句麗、百済を避け、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅の軍団を支配下に置き、突厥は明日香に、古代新羅軍団の花郎騎士団はイカルガに砦を築き、近畿一帯を支配した。
日本列島は、ユーラシア大陸と中国大陸を結ぶ回廊として、東北から九州まで、道幅12m以上の直線道路が敷設され、各地に駅が設置され、物流の動脈となっていた。「駅」とは、馬偏でもわかるように、馬の中継地のことだ。騎馬民族とは、広域交易民族でもある、商業民族でもあった。
日本列島各地に馬により交易物資が行き来するため、各民族の言葉の文法が、騎馬民族の言葉・ウラル語文法として普及していった。しかし、文法は統一できても、60余カ国に分かれていた各地での民族言葉の統一は、明治革命後までされなかった。
645年唐進駐軍が、明日香ヤマトを攻めた。それは、ユーラシア大陸での、東ローマ帝国との絹馬交易権をめぐって抗争していた東突厥を、唐帝国軍団が、630年散逸させていたからだ。日本列島を支配していた突厥も、その余波を受けて散逸させられた。
672年近畿の山奥に撤退していた突厥と花郎騎士団残党軍に支援された大海人は、近江の亡命百済王朝を倒すと、道教の儀式により天武天皇として即位し、都をわざわざ突厥進駐軍の砦があった地、明日香に定めた。
しかし、686年日本初の天武天皇が崩御すると、684年唐帝国の政権を奪っていた皇后武氏は、再び日本列島支配のため、一人の男を送り込んだ。その名は、藤原不比等。694年藤原京遷都。710年平城京遷都と巨大古墳群を破壊して北上する要塞都市は、山背国を死守する突厥・花郎騎士団残党軍を壊滅するための砦だ。
701年唐帝国は、日本列島を支配するために、大宝律令を発した。それまでの明日香ヤマトは、騎馬民族文化色が強い、部族連合国家だった。各部族長が、血縁・地縁で集まった「部」を統制していた。しかし、大宝律令により、明日香ヤマトの先住民達は、法律と罰とにより、唐帝国皇帝に隷属する身分となってしまった。
この律令制にまつろわぬ先住民族から、唐帝国の法律に従わない「アウトロー」の発生となる。古代には、現在のような「国民国家」などなかった。古代の国家とは、皇帝の制定した法律の及ぶ範囲を国家と言っていた。だから、奈良時代の公務員である仏教僧侶の唱える「鎮護国家」の「国家」とは、「国民国家」などではなく、「天皇」を意味していた。つまり、天皇を鎮護するのが、奈良仏教であったのだ。
奈良王朝にまつろわぬアウトローは、山背国に集結していた。山背国は、中国への玄関である難波と、ユーラシア大陸への玄関である大津との交易路として栄えた国だ。その地は、藤原日本史では秦氏とする民族の支配地だった。
その山背国も、難波宮、長岡京と唐傀儡の奈良王朝の侵攻により、794年亡命百済貴族末裔の桓武天皇により占領されてしまった。平安京の内裏は、秦氏の古墳を破壊した跡に建設された。それは、平城京が、巨大古墳群を破壊した跡に建設されたことと同じに、古墳時代の歴史、古代新羅からの文化と騎馬民族突厥の文化を抹殺する行為であった。
奈良時代には、東北との物資交易のための高速道路であった北陸道、東山道、東海道が、平安時代になると、秦氏の祭祀場であった比叡山に砦を築いた桓武天皇は、北陸道には愛発関、東山道には不破関、そして、東海道には鈴鹿関を設けて、東北との交易を遮断してしまった。
このことにより、西国にいたアウトローは、桓武天皇の百済王朝に対抗する武力が削がれてしまった。アウトローは、その構成員は、古代エジプトの高度土木建築技術とヒッタイト帝国での産鉄技術を保持していた者が多くいた。そして、突厥の騎馬民族の文化も保持していた。騎馬民族は、その歴史から定着し農耕する民族ではなく、夏営地と冬営地を遊行する交易民族であった。
西国に押し込められたアウトローは、桓武王朝の権力が及ばない山地を遊行して生活を営んでいた。しかし、唐帝国での需要が多い銀を日本列島で産出するため、日本列島の山地には、錬金術師達の集団が、金剛杖の武器を携帯して暗躍した。その集団のひとつが、空海の錬金術師軍団だ。
空海は、藤原氏の援助により、1年で仏籍を得て、20年の勉学を義務付けられた学僧として渡唐したのにもかかわらず、わずか旅程を含めても2年たらずで帰朝して、中央構造線上にある高野山に砦を築いていた。それは、水銀鉱脈探索のためだ。
錬金術空海は、アウトローが暮らす山奥に入り込み、水銀鉱脈を探索し、その地を支配するために、秦氏の祭祀場に稲荷社(夷なりのモリ。モリとは古代朝鮮語で、神が降臨する聖地の意味。)を築き、水銀を表す漢字「丹」を木で築き「トリイ」とし、禁足の結界地として王権の介入を阻止していた。
そして、錬金術師軍団は、屈服したアウトローを「聖」として寺奴隷とした。アウトローには、産鉄民族が多くいたので、山奥でタタラ製鉄をおこなっていたため、「火を治める」者として、「聖」(ひじり)と呼ばれていた、有髪の寺奴隷のことだ。
平安時代に発明された、天台宗も真言宗も、奈良仏教の公務員として国(天皇)から経済援助を得られない、私企業であったので、自らの手で収益を得なければならなかった。そのために、天台宗は高利貸しを、真言宗は水銀薬の販売を収益の主としていた。
日本列島史の史料の多くは、寺社史料から復元されているので、寺社に不利な史料は隠蔽・改竄していることが多い。特に、寺経済については、そうだ。
奈良時代の寺院は、鎮護国家道場の国家(天皇)の安全祈願の場で、寺僧は奈良朝廷に奉仕する役人で、国家機構の一部だ。それは、唐帝国を乗っ取って皇后武氏から、則天武后と変身したのは、アルビノ(白色)動物を吉祥として仏教ネットワークを活用して、皇后武氏を女帝にする宣伝技術が成功を収めていた経緯があったからだ。
唐帝国の皇后武氏の指示を受けた藤原不比等は、騎馬民族に支えられていた天武天皇が崩御すると、そのアルビノ動物戦術を、日本列島でもおこなうため、明日香ヤマトにあった太陽を祀り、太陽の化身牡牛を屠るミトラ教の景教寺や、北極星(太一)を祀る道教の観を破壊した跡に、北九州にあった仏寺を移築し、オンリエント文化の明日香ヤマトを、仏教文化の飛鳥大和と改竄した。
そして、藤原不比等は、ミトラ教や道教の歴史を抹殺するために、それらの宗教施設を破壊した跡に、藤原氏の神を祀る中臣神道の宗教施設を創建した。それが、春日若宮だ。春日若宮は、古代からのものではなく、アマテラスオオミカミと同じに、奈良時代に発明されたものだ。
その古墳時代の日本列島史の隠蔽のためには、ミトラ教と道教を祀る民族を歴史上抹殺する必要が、藤原氏にはあった。そのための宗教的武器が、ケガレ思想だ。奈良時代の「ケガレ」とは、藤原王権に逆らうアウトローに対しての思想武器であった。
しかし、亡命百済王朝の平安時代になると、桓武天皇は、秦氏の歴史上の抹殺を謀った。それは、秦氏とは、古代新羅から渡来した民族を祖としているからだ。新羅は、桓武天皇の母国百済を滅ぼした憎き国だ。
日本列島の地図に、百済や高句麗(高麗)の文字が多く認められるが、新羅の文字はそれほど多くはない。何故か。それは、藤原日本史は、新羅抹殺の物語であるからだ。だからと言って、新羅末裔が抹殺されたわけではない。新羅は、白木、磯城、志木、志茂、白鳥など、変名して存続していたのだ。新羅から渡来の秦氏は、百済王朝からの圧力をかわす為に、秦氏から惟宗氏に変氏していた。
平安時代、桓武天皇は、藤原氏の奈良王朝を封印するために、奈良仏教の末寺はもとより僧侶の平安京への移住を禁止した。そして、788年比叡山に延暦寺を創建し、藤原氏の中臣神道に対抗するために、中国山東半島の土着神シャンワンを導入して「山王神」とした。そして、騎馬民族を蔑視する漢訳仏教の「法華経」を、延暦寺の思想武器とした。
「法華経」には、仏敵は皮膚病(ハンセン氏病)となると明記してある。平安京を支配した百済王朝は、アウトローが暮らす部落にハンセン氏病者の世話をさせた。これは、感染魔術だ。感染魔術とは、接触した者は感染するとする思想技術だ。このことにより、アウトローの暮らす地は、反政権の「ケガレ」から、観念的嫌悪の「ケガレ」と変換していった。
しかし、桓武天皇は、その王権簒奪において多くのひとを謀殺していた。そのため、桓武天皇は、怨霊に苦しめられていた。古代では、怨霊は、同族の者でなくては鎮静させることができないと信じられていた。ここにアウトローが、公に再登場する場面が設定された。それが、「ケガレ」に対する「キヨメ」だ。平安時代の「キヨメ」は、怨霊を鎮めるための技術だ。
平安京の内裏は、秦氏の古墳を破壊した跡に建てられた。そして、多くの古墳は、奈良時代から平安時代にかけて破壊されていた。その「キヨメ」を担ったのは、京の治安を護る令外官である検非違使の配下であった。816年反藤原氏の嵯峨天皇は、京の治安のために検非違使を設置した。その検非違使は、警察実行部隊として、蝦夷の捕虜を組織した。それは、蝦夷の祖は、古墳時代の近畿一帯を支配していた民族であったからだ。
平安京の治安は、目に見える盗賊などの他に、目に見えない怨霊からの攻撃を交わすことも要求されていた。古代では、疱瘡やはしかなどの感染症は、祟りだと信じられていた。その祟り神を鎮めるには、芸が必要だ。芸とは、今日の庶民を楽しませる芸事ではなく、神が降臨する「庭」で、神を楽しませる技術だ。それらは、踊り、歌、まぐわいなどである。
陸奥国を支配していた蝦夷は、元々は、明日香ヤマトでの武人であった。唐進駐軍により、愛発関、不破関、鈴鹿関により東国に押し込められた花郎騎士団と突厥軍団の末裔だ。その検非違使の配下となった蝦夷は、怨霊を鎮める芸の為に、祭祀道具を発明した。
それが、蝦夷の武器である蕨手刀を改良した、反りのある長刀だ。後に「日本刀」と呼ばれる。そして、牛・鹿の角を飾った冑に、派手な鎧だ。しかし、蝦夷は、捕虜の身であるので、実戦用の武器を製作できない。刀は、薄刃で曲がる・折れる。しかし、刃が薄いので、風を切るときの音が妖艶だ。鎧冑は、鉄製ではなく、総革製だ。
そのような祭祀道具で武装した「もののふ」は、禁足地である神社(モリ)で、怨霊の魂鎮めのために、剣舞をおこなった。これが、「武芸」だ。「武芸」とは、敵と戦う実戦技術ではなく、「もの=カミ」の僕(ふ)である者が行う、怨霊の魂鎮めのための技術だ。
この「もののふ」を含めたアウトロー達に、転機がおとずれた。それは、奈良時代から平安時代にかけて、日本列島を律令制度で隷属していた唐帝国が、907年滅びたからだ。
この転機に最初に動いたのが藤原氏だ。唐帝国のエージェントであった藤原氏は、律令制度を利用して私腹を肥やしていた。それは、701年唐帝国の律令を基本に作成された大宝律令を改竄して、718年養老律令として、藤原氏のための律令、藤原不比等が太政官と同権を持つ神祇官を設定し、北極星の天帝により地上の支配権を任された天皇を、ユダヤ教の神ヤハヴェのように、現御神の絶対神としたからだ。この養老律令は、明治革命まで施行された。そして、藤原氏と供に、再び、藤原氏が支配する神祇官が明治革命で復活する。
その藤原氏の支配する天皇に権威を与えるのが、仏教組織だ。その仏教組織も、唐帝国が崩壊したことにより、支配地の拡大に動いた。漢訳仏教寺院は、治外法権を利用して、その経済活動を護るために武装軍団を要していた。西国での仏教勢力は、奈良の興福寺と京都の延暦寺とで二分していた。
907年唐帝国が崩壊すると、960年漢民族の宋が興るまで、中国大陸は内乱状態となっていた。日本列島は、藤原日本史が述べるように、海に囲まれているために孤立しているのではなく、海に囲まれているために世界情勢に強く影響されていた。
中国大陸の混乱の影響を受けた日本列島も、王権から寺社が分離し、多くの寺社が武力を持ち治外法権をもって独立し、王権に従わなくなった。貴族も同様に、天皇や院に対する公然たる批判を、日記に記していた。
武力を持った寺社は、要求を満たすために神仏の威を背景に、僧兵が朝廷に押しかけ、王権を威圧する強訴を行っていた。その強訴を行う寺社に、百済王朝(桓武天皇家の平安王朝)により、結界地である河原や神社(モリ)に押し込められていたアウトローが集結し始めた。つまり、中世の寺社では、日本仏教史では黙殺しているが、学僧と賎民とが対等の立場により共生していたのだ。それは、河原の賎民には、学僧にない、経済力があったからだ。
寺社は、他の寺社との武力闘争に勝利するために、その出自を問わず武器を製造できる者や戦闘に優れた者により、僧兵軍団を組織した。このことにより、古代の寺院と異なる構成が、中世の寺院に現れた。それは、学侶、堂衆、聖、神人などの身分による構成だ。
学侶とは、世俗の貴族、武士、富裕民の出自で、寺内でも特権を主張する。堂衆は、雑役を勤める下級僧侶で、武士より下の身分を出自とした。聖は、定住地を持たないアウトローで、寺に定住せずに全国を遊行し、寺院の信仰と権威を背負って、寄付を募ったり、参詣の勧請をしていた。その聖の実状は、山伏と同じだ。
武士は、939年から941年までに起こった天慶の乱で、瀬戸内海の海賊藤原純友と関東の平将門の乱を鎮めた実績により、蝦夷武人を祖とする武芸を行っていた「もののふ」が、公にその騎馬による武力を認められ「武士」と呼ばれたことによる。「武士」は「もののふ」であるが、「サムライ」は「もののふ」ではなく、武装はしているが貴人に侍る秘書が役目だ。
アウトローを取り込んだ寺社は、京都で強訴を繰り返した。摂政関白制度で天皇のロボット化を謀っていた藤原氏に対抗して、1086年白河上皇は、院政を始めた。この院政により、藤原氏のロボットである天皇の権限が、白河上皇に移った。白河上皇は、藤原氏の横暴を阻止する行動をおこなうが、藤原氏は私兵として、出自不詳の満仲なる人物を雇って対抗した。これが、藤原日本史で云うところの「清和源氏」の祖だ。
更に、白河上皇を悩ます存在が、神輿を担ぎ強訴するアウトローを構成員とする僧兵だ。そこで、白河上皇は、加茂川東側のドクロガ原を武力で支配する海洋民族武装団を、私兵として雇った。その白河上皇の私兵を、「桓武平氏」に対抗して、「平家」と呼んだ。白河上皇は、「夷を以って、夷を制す」の戦術により、アウトローの僧兵軍団の強訴を阻止するために、アウトローの海洋民族軍団「平家」を利用した。
平安時代のアウトローとは、奈良時代に藤原不比等が発明した養老律令に従わない者だ。養老律令では、人民は租庸調の税を収めなければならない。そして、太政官と同等の権限のある神祇官が「神」の権威の下に政治に介入する仕掛けを、718年藤原不比等は養老律令に盛り込んでいた。その「神」とは、「現御神」の天皇だ。
百済系桓武天皇が、春日大社の神を支配する藤原氏から独立した平安時代初期、その「現御神」の桓武天皇を悩ましたのが怨霊だ。怨霊は疫病を撒き散らすと、平安貴族や庶民には信じられていた。それは、ほんの数十年前、巨大古墳群を破壊して築いた奈良の都での奇病の流行が、怨霊の存在を信じさせていたからだ。しかし、その奈良の都の奇病とは、遍照鬼(後に奈良の大仏様・大日如来となる。)の鋳造時での銅と水銀による鉱毒が原因であった。
平安時代になると、寺社で僧侶と共生するアウトロー達が、「現御神」の天皇や院を脅すための道具として、その怨霊を封じ込めた神輿を利用したのだ。平安時代の神輿は、「神」を祀るための祭祀道具などではなく、祟り神(前政権の神)を封じ込めた「脅しの道具」だった。だから、神輿には、開かれる窓や戸はない、羽目殺しの窓や戸だ。現在の、由緒正しい神輿も、羽目殺しの戸であるのは、そのためだ。
武士は、元々は「もののふ」で、武芸で怨霊の魂を鎮める(キヨメル)祭祀者であったので、神輿に対しては、表面上は無抵抗だ。サムライも、その祖は亡命百済貴族末裔なので、神輿に対しては恐れを感じていた。しかし、「平家」は、その神輿に矢を射掛けたり、打ち壊しを行っていた。更に、平清盛の子平重衡は、1180年東大寺に火を放って、遍照鬼(奈良の大仏様)を焼いてしまっていた。それは、「平家」は、根っからのアウトローだったからだ。アラブ系海洋民族を祖とする「平家」の末裔織田信長は、神仏の権威など無視して、高僧を火炙りで焼き殺したり、比叡山延暦寺の僧侶全員を打ち首にしたり、そして、高野聖の大虐殺など行っていた、言わば、アウトローの典型だ。
藤原日本史では、平安時代は王朝文化で、国風文化が生まれたとする。しかし、平安時代初期は、唐文化一色だった。しかし、唐帝国の国力が衰えるのと比例して、藤原氏の平安朝廷での権勢が増していた。それは、東アジアの警察国である唐帝国が、907年滅ぶと、中国大陸が小国家の乱立で混乱していたのと同じに、日本列島でも内乱状態になっていたからだ。
日本国の中世は、藤原日本史が述べるように武士の時代などではなく、アウトローが跋扈する大混乱の時代だった。そのアウトロー達は、自らの武装集団を「アク党」と呼ぶのは、「アク」とは、騎馬民族語では「勇者」の意味であるからだ。そのアク党は、寺社を砦として活躍していたのが、日本の中世だ。
そして、「悪僧」と自ら名乗る僧兵も現れるのも、鎌倉時代だ。悪僧の意味は、悪事を働く僧のことではなく、「アク=勇者」とする武闘派の「勇気ある僧」のことだ。
この鎌倉時代に派生した「アク」の意味を取り違うと、藤原日本史の「ワナ」に嵌ることになる。それは、藤原日本史では、日本列島には4世紀から大和朝廷が存在していて、古墳時代の6世紀から7世紀にかけて明日香ヤマトを支配した騎馬民族など、日本列島に存在していなかったとするからだ。
藤原日本史では、貴族文化の平安時代の次に、武家文化の鎌倉時代とする。その武家文化の特徴のひとつに、1232年制定の御成敗式目がある。では、御成敗式目が制定されたため、奈良時代に藤原不比等が制定した養老律令は破棄されたのか。
御成敗式目は、養老律令に従わない者達を取り締まるための法律だ。では、誰が、誰を取り締まったのか。それは、「武家」が、東国の「武士」を取り締まる法律が、御成敗式目だ。では、その「武家」とは何か。
「武士」は、平安時代末期に、古墳を破壊した跡の禁足地の「結界地」の「モリ・神社」で、前政権の怨霊の魂鎮めの「キヨメ」をおこなっていた、花郎騎士団や騎馬民族の突厥武人の蝦夷を祖とする「もののふ」の武芸者だ。では、「武士」ではない「武家」とは何か。それは、「サムライ」のことだ。鎌倉時代、その「サムライ」の頂点に、北条氏がいた。北条氏は、桓武平氏であることから分かるように、亡命百済貴族末裔だ。
つまり、御成敗式目とは、亡命百済貴族末裔の「サムライ」が、古代新羅から渡来した花郎騎士団末裔や騎馬民族の突厥武人末裔の「蝦夷」を祖とする、東国の「武士」を支配するための法律だった。
では、出自不明の「満仲」なる人物を祖とする「清和源氏」の源頼朝が拓いたとする鎌倉幕府は、京都の百済系桓武天皇家を支配下において、日本列島を支配していたのか。
藤原日本史では、歴史の流れを、平安時代から鎌倉時代とするから、日本列島の政権が、京都から関東の鎌倉に移っていたとの錯覚を起こすひともいるが、鎌倉幕府が支配したのは、東国だけだ。西国は、依然、奈良時代に藤原不比等が発明した養老律令が支配する地域だった。
その西国は、藤原氏が支配する奈良の興福寺、亡命百済貴族が支配する大津の比叡山延暦寺が、その宗教的呪縛により支配していたのだ。この宗教呪縛支配は、現在も続いている。
日本列島は、フォッサマグナにより、二分され、古来から異なる民族が暮らしていた。そのフォッサマグナから北側は、風土がユーラシア大陸と同じ草原地帯が多くある。草原地帯は、農耕民族より、遊牧騎馬民族が暮らすのに適した地だ。
6世紀、ユーラシア大陸から渡来した突厥民族が、東国の陸奥国を拠点としていたのは、東北の気候がユーラシア大陸と同じだからだ。当然、東国の文化は、騎馬民族色が濃い。それに対して、西国は、中国・朝鮮半島の影響を強く受けて漢訳仏教文化色が濃い。
ここにひとつの疑問が起こる。それは、鎌倉新仏教は、何故、西国ではなく、東国に興ったのか。そして、インド人の禅僧は、西国ではなく、北陸と鎌倉に渡来したのか、と言うことだ。
藤原日本史が解くように、鎌倉時代は「武家」の時代などではなく、西国の仏教文化と、東国の騎馬民族文化の二極時代だった。藤原日本史が語る鎌倉幕府の歴史に疑問が多くあるのは、源頼朝の肖像画が、室町時代の足利直義の肖像画で、鎌倉時代の「源頼朝のもの」ではないことからでも、分かる。鎌倉時代の幕府の史料が現存していないのも謎だ。
1180年から1266年まで記録した、幕府の記録書「吾妻鏡」があるではないか、といっても、それは、「信長公記」で織田信長と豊臣秀吉の歴史を調べることと同じで、史料としては価値が希薄だ。「吾妻鏡」は、関東の源氏抹殺を企む桓武平氏の北条氏の作文なのだ。
それに、鎌倉幕府の税制が分からないことからも、鎌倉時代が、藤原日本史の解くような時代でないことも示唆される。何故、鎌倉と北陸には、南宋から渡来した禅僧が、中国語で会話していたか。そして、北条鎌倉幕府の国際交易顧問が、中国語を話す禅僧だったのは何故だ。藤原日本史は、鎌倉時代の「歴史の何」を抹殺したのか。
鎌倉時代に始まる「平家落ち武者部落」とは何か。
「清和源氏」末裔の源頼朝、源頼家、源実朝の三代を謀殺した桓武平氏の北条氏が、北条政子を尼将軍とした背景には、東国は騎馬民族文化圏であったからだ。騎馬民族文化では、王であるテングリ(天子)が死去すると、その妻が部族を指揮する。西国の漢訳仏教文化圏では、女は男に生まれ変わってからでないと成仏できないと信じられていたほど、女性蔑視の文化であった。東国が、西国と同じ文化圏であったならば、源頼朝の妻政子は、尼将軍にはなれなかったはずだ。このことからも、鎌倉時代の東国と西国との民族・文化の違いが分かる。
1219年尼将軍となった北条政子は、1221年西国での源氏残党狩りの目的で、六波羅探題を設置した。その結果、日本列島各地に、「平家落ち武者部落」が発生した。しかし、そのアラブ系海洋民族末裔である「平家」の「落ち武者部落」は、沿岸地域ではなく、騎馬民族が暮らす山奥にあるのは何故だ。ここに、藤原日本史による鎌倉時代の歴史抹殺の謎を解明するためのヒントがある。
「源氏」の姓は、藤原薬子の反乱を平定した後、反藤原氏となった嵯峨天皇が、藤原氏の支配体制から独立して、嵯峨王国を築くために、814年嵯峨天皇の皇子の臣籍降下に伴い賜った姓だ。
その源氏姓は、日本国独自の姓ではない。ユーラシア大陸に起こった騎馬民族の拓跋部が、443年北魏を興し、拓跋部の連合の族長の拓跋氏が、部族連合を纏めるために、部族の序列化のために、漢姓導入した時に、「元・みなもと」とした。その拓跋部の同族の禿髪氏(トクハツは、拓跋・タクバツ、突厥・トッケツと同じに、「チュルク」の漢音字)が、拓跋氏の「元」の臣下となった時、拓跋氏から禿髪氏が「源・みなもと」と姓を賜ったことから始まる。嵯峨天皇が採用した「源氏」とは、ユーラシア大陸の騎馬民族の血筋であったのだ。
その「嵯峨源氏」は、一時は、平安王朝の廟堂を支配していたが、藤原氏の陰謀により、奈良時代に新羅系天武天皇の10皇子が抹殺されていったように、次々と廟堂から追放されていた。その「嵯峨源氏」のひとり、源綱は、母親の生地の渡辺津に移り、渡辺党を興していた。その渡辺津には、源平合戦の時、ユーラシアから渡来した、笹竜胆の紋章を付けた源義経の軍団が、「平家」が陣取る屋島に向けて出撃していた。
母親が藤原氏ではない醍醐天皇も、源姓を皇子達に賜った。それが、「醍醐源氏」だ。その「醍醐源氏」の左大臣源高明も、反藤原氏だった。その反藤原氏の源高明も、969年藤原氏の得意の戦術「密告」により、反藤原氏の菅原道真と同じに、太宰員外師に左遷された。その密告者が、「清和源氏」の祖となる、出自不詳の「満仲」だった。
源満仲は、この密告の報奨として藤原氏により叙位された。この満仲による源高明の密告の結果、反藤原氏の軍団「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」は、平安時代の廟堂から姿を消した。それに対して、「清和源氏」は、藤原氏の傭兵軍となり、奥州藤原王国を築くために活躍した。
では、ユーラシアの騎馬民族の流れにある「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」末裔は、日本列島の何処に消えたのか。

藤原日本史では、平安時代の貴族仏教に替わり、鎌倉時代になると庶民のための、浄土宗、時宗、真宗、日蓮宗などの鎌倉新仏教が興ったとされる。しかし、東国の栃木県日光の二荒(ふたら→ニッコウ→日光)や長野県信州の諏訪(スワ←トルファン)のモリ(神社)では、雨乞いの為に神仏に祈っても効果のない時、鹿(牛)の生首が滝壺に放り込まれる呪術が復活していた。この鹿の生首儀式の意味は何か。
4世紀に大和朝廷が興ったとされる藤原日本史で、6世紀から始まる騎馬民族の日本列島史を消したつもりでも、律令制度が行き届いていない地方、東国では、鎌倉時代になっても古墳時代からのミトラ教の儀式の片鱗が生き続けていた。
牛の生首を犠牲とする儀式は、唐帝国から渡来した漢訳仏教布教のため、奈良時代の741年、平安時代の804年に牛屠殺の禁止令が王権から発せられていた。それは、太陽信仰民族の儀式を禁止するためだ。
太陽神を祀るミトラ教では、牡牛は太陽の化身と信じられていたため、太陽が冬至に死に、そして、再生することから、冬至はミトラ教の神が復活再生する聖なる日と定められた。その祭日に、太陽神に捧げるため牡牛が犠牲となる。やがて、冬至に限らず、旱魃の雨乞いの為に、太陽神ミトラに願うために、牡牛の犠牲が捧げられるようになった。しかし、平安時代には、西国では、仏教勢力の地となってしまっていたため、比叡山を祭祀場としていたミトラ神は祟り神の魔多羅神として貶められ、ミトラ教の儀式はすたれてしまっていた。では、西国には、ミトラ教が存在していたとする痕跡はないのか。
新興宗教が、土着宗教を歴史的に消す例は、ローマ・キリスト教がミトラ教を消したことで示すことが出来る。392年ローマ帝国は、ユダヤ教ヨシュア派を国教として、ローマ・キリスト教とした。その目的は、ローマ帝国軍がミトラ教の神を軍神として信仰していたからだ。ミトラ軍神は、太陽神のため、万人を分け隔てなく祝福する。
ローマ帝国の独裁を目論む者には、ミトラ神は不適切だ。そのため、国教となったローマ・キリスト教は、ミトラ教の地下神殿を破壊して、その上に、キリスト教会を建設した。そして、ミトラ教の儀式をローマ・キリスト教に取り込んで、ミトラ教の痕跡を歴史的に消してしまった。
例えば、キリスト教の「クリスマスの日」は、ミトラ教の太陽神再生の日(12月25日)だ。キリスト教の十字架は、ミトラ教の太陽のシンボルであるマルタクロスだ。キリスト教の儀式である、種無しパンと赤ぶど酒は、ミトラ教での屠った牡牛の生肉を食べ、そして、生血を飲む儀式をアレンジしたものだ。キリスト教の儀式から、ミトラ教の儀式を探すのはそれほど困難ではないように、新興宗教(キリスト教)は、土着宗教(ミトラ教)の儀式をコピーすることで、土着宗教を歴史的に抹殺できるのだ。
では、日本列島の中世の西国では、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した花郎騎士団が信仰していたミトラ教をどのようにして歴史的に消したのか。
花郎騎士団の「花」とは、ミトラの借字だ。花郎騎士団は、軍神ミトラを信仰するローマ帝国軍の流れにあった。その花郎騎士団は、古墳時代、河内湾のローラン(浪速→難波)、奈良盆地のイカルガ、京都のウズマサを拠点としていた。
その根拠として、イカルガから発掘された、法隆寺境内の遺構は、南北軸から西に約20度傾いていた。そして、京都の蜂丘寺の遺構も同様だった。この傾きは、仏教の建築基準の南北軸にはあわない。その傾きは、冬至の太陽が射る角度だ。冬至は、ミトラ教の太陽神が復活する聖なる日だ。
奈良盆地の花郎騎士団の砦は、架空の人物である聖徳太子が建立したとする法隆寺により、そして、京都のミトラ教の蜂丘寺は、広隆寺として仏寺に改竄され、歴史的に消されてしまった。しかし、土着宗教を完全に消すことは、不可能のようだ。どこかに、ボロが出る。
その広隆寺の祭りに「牛祭り」がある。その祭りが不思議なのだ。夕闇迫る頃、牛に乗った魔多羅神が、意味不明の経文を小声で読み続け、突然、正面の建物に駆け込んで祭りが終わるのだ。
この広隆寺の牛祭りの神である魔多羅神は、円仁という僧が、838年最後の第15回遣唐使の短期留学僧の請益僧として遣唐使船で渡唐し、9年間不法滞在して仏法経典多数を、847年新羅商船に乗って日本国持ち帰ったとき、一緒に連れてきたものだ、との説明だ。つまり、魔多羅神は、比叡山のミトラ神が祖ではなく、中国の蕃神との説明だ。
この円仁の唐滞在中、845年会昌の仏教弾圧があった。その結果、漢訳仏教僧は、国外追放となった。そして、漢訳仏教僧に化けていたバラモン僧も、国外追放となった。漢訳仏教は、その民族差別思想の偏りにより、騎馬民族色が強い権力者から弾圧を受けることが、歴史上多い。源氏の祖、拓跋氏の北魏の時代、446年から452年にかけて、仏教弾圧があった。
では、その円仁とは、何者か。円仁は、後に、慈覚大師と尊称されたように、最澄が果たせなかった密教導入を完成させた。円仁は、唐に渡り不法滞在中に密教や浄土教信仰などにかかわる経典や法具を持ち帰り、天台宗を密教をも包含する総合的な仏教に改造した。つまり、円仁がいなければ、天台宗の中に密教が深く入り込むことはなかった。
ニッポン仏教は、不思議な宗教だ。仏教とは、釈尊の教えを説く宗教のはずだ。しかし、ニッポン仏教は、釈尊の教えとは異質な宗教となってしまっている。
釈尊の教えの根本は、階級差別のバラモン教思想の輪廻から逃れるため、人間をやめ、非人となることだ。そのためには、一切の経済活動をやめ、乞食として生きることを説いた。しかし、平安時代から鎌倉時代にかけて、現世利益、極楽浄土などの思想を、仏僧が説いているのだ。
その円仁が比叡山に導入した密教とは、現世利益の欲望獲得のための技法を説く、「秘密宗教」のことだ。その密教技法とは、拝火教のゾロアスター儀式から導入した護摩壇での大麻の焚き火、意味不明のアラム語の呪文、意思を伝える手印、インドのバラモン教やヒンズー教の鬼神を仏の守護神として描いた武器を携帯するおどろおどろしい神々の絵、そのような演出効果でのパホーマンスの最後に、マルタクロスの十字を切って密教の儀式が完結する。それは、インドのバラモン教やヒンズー教、ゾロアスター教、ミトラ教、道教、仏教など、各宗派の欲望獲得のための技法を基に、唐で発明されたものだ。
その密教が、「正統仏教僧?」から嫌われていることは、天台宗以外は宗教ではないとする「四箇格言」の「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と唱える日蓮が、比叡山に密教を導入した円仁を批判していることでも分かる。
では、円仁が、広隆寺の牛祭りで、歴史的に消そうとしたのは「何」か。
聖徳太子信仰は、鎌倉時代に一気に花開いた。その前提に、平安時代に「タイシ信仰」を画策した者がいた。平安時代の「タイシ信仰」の対象は、円仁の「慈覚ダイシ」と、空海の「弘法タイシ」だった。それは、供に、欲望成就の技術である「密教」を、日本列島にもたらしたからだ。このふたりの「タイシ」に、もうひとりが加わる。それが、「聖徳太子」だ。
その平安時代に発明された「聖徳太子」は、ミトラ教のミトラ神を祀る、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族の歴史を消すために発明された架空の人物だ。藤原日本史では、603年聖徳太子は、秦河勝に命じて、仏像を祀るために「広隆寺」を建立させた、とする。その仏像の名は、弥勒菩薩。
622年死去したとする聖徳太子が、架空の人物であることは、「隋書」が証明する。608年隋使裴世清は、明日香ヤマトで、藤原日本史が説くように女帝推古天皇ではなく、男王アマタリヒコに謁見していたからだ。
昔の歴史教科書には、その「アルカイック・スマイル」と説明された弥勒菩薩の像が掲載されていた。しかし、そのスマイル像は、ボロボロのアカマツ材で造られた像を、明治時代に改竄修復されたものだ。今では、その弥勒菩薩の元が、仏像であったのか知ることは出来ない。
そもそも、紀元前486年に没した釈尊は、バラモン教の偶像崇拝思想に染まることになる「仏像」の製作を遺言で禁止していたのだ。しかし、紀元一世紀、ギリシャ文化継承国のバクトリアがあった国際交易都市ガンダーラで作られた最初の仏像は、今に伝わる女の柔肌を持ったふくよかな仏像ではなく、ギリシャ形式の写実的なガリガリのブッタ像だった。ギリシャ仏像は、中国で不老不死を説く道教の神仙思想に対抗して、永遠の生を約束する女の肌の仏像へと変身していた。
その弥勒菩薩の「弥勒」とは、梵語で「マイトレーヤ」だ。光の神を表す「マイトレーヤ」は、その元は、太陽神「ミトラ」だ。
では、そのミトラ神の歴史を消した、聖徳太子建立七寺のひとつである広隆寺は、その後、どうなったのか。それは、古墳時代の奈良盆地にあったイカルガのミトラ教施設の歴史を消した、607年創建の法隆寺が、670年に炎上したように、603年創建の広隆寺(蜂丘寺)は、818年に全焼し、創建当時の建物か残ってはいない。かくして、古墳時代には西国で祀られていたミトラ教は、円仁が始めた広隆寺の牛祭りの魔多羅神により、歴史的に消されてしまった。

仏教支配の西国で、ミトラ教の太陽の化身である牡牛を祀る儀式を、歴史的に消した祭りが、広隆寺の牛祭りの他にある。それは、祇園会だ。今日では、祇園祭と言われている。その祇園会には、牛頭天皇が出演していた。今日では、牛頭天皇を牛頭大王としているが、何故、牛頭が祇園会に登場するのか。
古代日本列島の物流は、中国で「南船北馬」と云われていたように、唐文化のコピーであった平安時代の日本列島の西国では「船」を、東国では「馬」により物流を賄っていた。
その西国での祭りの道具に、山車がある。その山車のルーツは、船だ。京都の祇園祭りの山車は船が祖だ。当然、その祭りの主役は、農耕民族などではなく、海洋民族だ。
京都の都を南北に流れる加茂川の死体が流れ着く東岸に、海洋民族が居住し始めたのは、907年唐帝国が滅び、分裂国家を、960年に統一した宋が興ってからだ。藤原日本史では、数々の陰謀により、摂関政治を発明した藤原氏が、平安朝廷を支配しようとしていた頃だ。
960年五代十国と言われた中国の分裂時代を、宋が統一した。宋は、北魏から唐帝国までの騎馬民族支配の国ではなく、漢民族支配の国だ。宋軍団は歩兵120万と言えども、隣国の騎馬民族国契丹(遼)の騎馬軍団とは太刀打ちできない。そこで、軍事力に劣る宋は、騎馬民族国家の契丹に、金と絹を毎年献納することで、友好関係を結ぶことを考えた。
宋が、その金・絹を海外に求めた結果により、日宋私貿易が興った。金と絹を欲しがる宋は、その供給先のひとつに日本列島を選んだ。それは、古来から、日本列島の部族国家から中国の皇帝に、金や絹を朝貢していたからだ。この金・絹交易で潤ったのは、陸奥国を奈良時代から支配下に置いていた奥州藤原氏だけではなかった。
唐帝国が健在だった頃、陸路のシルクロードにより、東ローマ帝国と絹馬交易をおこなっていた。しかし、571年サラセン帝国が興ると、その勢いは瞬く間に東西に及んだ。その結果、9世紀中頃には陸路のシルクロードは、安全な交易路ではなくなってしまった。
その陸路のシルクロードに替わって、ヨーロッパとの国際交易は、南インドを中継港として、海路の交易が盛んになった。アラビアンナイトの千夜一夜物語の素材は、そのアラブから唐への海路を行き来した船員がもたらしたものだ。唐帝国末期には、長安や洛陽には、アラブ海洋商人達が闊歩していた。
宋は、唐帝国の海洋交易システムを継承していた。そこで、宋は、銅を金や絹に換える方法を考え出した。それが、宋銭だ。宋は、アラブ商人や日本列島に居住する商人に対して、宋銭による交易を始めた。
銭や為替は、騎馬民族が発明したものだ。広域交易をするには、現物交換では効率が悪い。そこで、物品と等価を保証する「銭」を発明した。更に、銭も量が増えれば運ぶのに困難だ。そこで、信用「札」としての為替を考えた。
日本列島は、西国と東国とでは、民族も異なれば文化も異なる。西国は、弥生時代から水田稲作が盛んだが、東国は直播だった。西国は、弥生からの農耕民が多く住むが、東国は水田稲作ではない、畠作の民族が住んでいた。租庸調の律令税制でも、西国は米を納めていたが、東国では絹・鉄・特産品などだ。
農耕民族は、物々交換が主で、銭による交易には慣れていない。西国では、987年検非違使をして銭貨通用を強制していたほどだ。平安時代の西国では、明らかに銭を嫌っていたのだ。平安末期、その銭を京都に持ち込んだ者がいた。それは、東国の伊勢湾を支配する、アラブ海洋交易民族だ。アラブ海洋交易商人は、宋との交易で得た宋銭を、日本列島に持ち込み、金や絹を買い漁った。
日本列島の経済を支配するには、京都を支配することだ。それは、平安時代から、京都は物流の拠点だからだ。それは、比叡山坂本の馬借や清水寺の車借などにより、近隣の物資が京都に運び込まれていたからだ。
アラブ海洋商人が、京都で住める場所は、ひとつしかない。それは、加茂川の中洲だ。中世の加茂川の中洲を想像するには、現在の加茂川のイメージを消すことだ。中世の加茂川の中洲は、想像する以上に広かった。
加茂川は、元々は、京都のど真ん中を流れていた。それを、高度土木技術を持つ秦氏が、高野川に合流させたのだ。その結果、小雨でも、加茂川下流は洪水を起こした。だから、その中州に住む住人は、唯のひとではなかった。それは、京都を支配する民族と異なる、異民族の河原者だ。
西国と東国とでは、民族が異なるとの根拠のひとつに、頭長幅指数(頭幅÷頭長×100)がある。それによると、日本人は、長頭、中頭、短頭の三群に分けることが出来る。騎馬文化の東国では、長頭が多い。仏教文化の西国では、短頭が多い。南方文化の九州では、中頭が多い。その短頭の比率が最も多いのが、西国でも、近畿だ。
しかし、短頭が多い近畿に、東国に多い長頭の比率が多い地区がある。その地区とは、被差別部落があった地区だ。京都、大阪、兵庫、三重、奈良、和歌山で、全国部落人口の40%を占める。これに続くのが、岡山、広島、福岡、愛媛、高知だ。このことは、何を意味するのか。ひとつの考えとして、秦氏の旧支配地が考えられる。秦氏は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族だ。
日本列島の隣国で短頭が多いのは、朝鮮半島だ。近畿に短頭の比率が多いのは、朝鮮半島からの渡来民が考えられる。朝鮮半島からの大量移民の実態は、663年百済国滅亡時期と、そして、794年亡命百済貴族末裔である桓武天皇が、秦氏の支配地の山背国を乗っ取り、平安京とした時期だ。桓武天皇は、中国山東半島で亡命生活をしていた百済民を、京都に大量移住させた。その結果、秦氏末裔は、山奥の僻地や河原に住むことになった。しかし、平安時代に惟宋氏と変氏した秦氏は、水田稲作の農耕民族ではなく、各種技術者集団だったので、農耕できる土地でなくても暮らす術を知っていた。そこが、中州の河原でも。
平安時代末期、河原者が住むその加茂川の中洲に、アラブ海洋交易商人が現れ、仏教文化の京都で、インドの仏教寺院の「ギオン」にちなんで、そのケガレ地を「ギオン」と名付けた。
古来から中州は、ひとが住めぬ荒地なのではなく、各種物品の交易地でもあったのだ。古代の交易は、神の見守る広場(庭)でおこなわれていた。紀元前14世紀のヒッタイト帝国では、太陽神ミトラは、異民族の交易を見守る「交易神」でもあった。
平安末期の加茂川の中洲も、交易をおこなう人々で人口密度が高かった。そこにアラブの商人が、大量の宋銭を持ち込んだため、加茂川の中洲は、大変な活況を呈していた。藤原日本史が述べるように、賎民として貶められた河原者は、ミジメな存在などではなかった。祇園会の山鉾のペルシャ絨毯で飾った山車を出すのには、相当の資金がいる。その資金を提供した「有徳人」の多くが、中州の交易で財を成した「賎民」だった。
日本各地にあるギオンでは、今でも祭りに山車がでるのは、その地名を付けた民族が、アラブからインドを経由して渡来した海洋民族だったからだ。
藤原日本史では、その海洋民族が名付けた「ギオン」を、「祇園」として、その渡来海洋民族の歴史を消したつもりだ。しかし、ギオン祭りを調べると、不思議なことが現れる。
祇園社の歴史は、11世紀から始まるとする。その祇園社の正式名は、感神院祇園社と言うそうだ。その感神院祇園社は、寺院かつ神社(モリ)だ。つまり、感神院祇園社は神仏習合なのだ。その加茂川東岸にある感神院祇園社の鳥居が、加茂川の西岸にあるのは何故だ。
鳥居は、神の地を印すものではない。鳥居は、「ケガレ」の結界地を示すものだ。つまり、鳥居の中は、ケガレている、禁足地なのだ。感神院祇園社の鳥居が、加茂川の西岸にあるのは、加茂川の東岸が「ケガレ」地であったからだ。
神を祀る中臣神道も仏を祀る仏教も、血の禁忌であるはずだ。つまり、仏教や神道思想では、血は「ケガレ」だ。それなのに、何故、僧侶が主催するとする祇園会では、牛頭が天皇として祀られるのか。
鹿頭は、東国の諏訪や二荒の神社(モリ)では、神の祭壇に掲げられる。それは、その地が、騎馬民族の地であるからだ。日本民族は単一で、騎馬民族や海洋民族など存在しないで、農耕民族であるとする藤原日本史では、その牛頭天皇が出演する祇園会を、疫病払いの祭りとする。
しかし、その祭りの説明が「ウソ」であることは、祇園会の日に、京都の天皇や貴族は、神輿方違(みこしたがえ)といって、京都の街から避難していたのだ。ありがたい神や仏による厄払いが祭りの趣旨であるのならば、この天皇や貴族の行動を、何と説明するのか。
平安時代末期、感神院祇園社は、比叡山延暦寺の支配下にあったが、それ以前は、興福寺の支配下にあった。延暦寺は、亡命百済貴族の寺だが、興福寺は藤原氏の寺だ。感神院祇園社は、神官ではなく、僧侶が神事をおこなう寺であり神社(もり)であった。しかし、長官代理の執行家は、古墳時代の豪族の紀氏の子孫だ。
紀氏は、4世紀に日本列島に突然現れた巨大古墳と大いに関係がある民族だ。紀氏の拠点の和歌山県を流れる紀ノ川河口には、古墳が多数あり、その古墳のひとつから、朝鮮半島南部から発掘されたと同型の馬冑が出土している。紀氏は、馬とも関係が深かった。
だからと言って、騎馬民族は、朝鮮半島から北九州に上陸して、東北に移動したわけではない。東北の騎馬民族は、ユーラシア大陸から、構造船により、日本列島の北陸や東北に直接渡来したのだ。5世紀からの古墳に、北は岩手県南部から南は九州まで、実戦用の馬具が埋葬されているのは、朝鮮半島からだけではなく、ユーラシア大陸から日本列島各地に、騎馬軍団が渡来していたことが示唆される。
実戦用の馬冑が、紀ノ川河口の古墳と関東の古墳からしか出土していないのは、ローマ帝国軍でも、馬冑・馬鎧で武装した重騎馬騎士の軍団比率は、それほど高くはないと考えられるからだ。重騎馬騎士は、云わば、実戦の兵士ではなく、敵を威圧する存在だ。
藤原日本史では、527年新羅と結んだ筑紫国造の磐井氏が反乱を起こしたと述べているが、その磐井氏の墓と言われているものには、石人・石馬が設置されている。3世紀の日本列島には、馬も牛もいなかったことは、中国の史料に記してある。では、その馬や牛は、自ら、玄界灘を泳いで日本列島に来たのか。
平安時代になると、平安貴族は、馬ではなく、牛車に乗って移動していた。聖武天皇の遺品を納めた、奈良の正倉院には、聖武天皇が使用したと考えられる4組の馬具があるのは、奈良時代までは、貴族だけではなく、天皇も乗馬の風習を持っていたことが示唆される。
感神院祇園社の祭事の執行が、馬と関係が深かった紀氏の子孫がおこなっていた意味は、何なのだろう。それは、祇園会の祭りの趣旨と関係があるようだ。
平安時代、疫病は祟りと信じられていた。祟りとは、理不尽な理由で死の旅にたった者が、その原因を作った者に、怨霊となって仕返しをすることだ。そのために、祟られる者は、祟りを封じるために、その怨霊の封印施設を造った。それが、社(モリ)・神社(モリ)だ。古代では、「宮」と異なり、社や神社(モリ)は、神を祀る施設などではなかった。
藤原氏は、出雲民族末裔の菅原道真を大宰府に左遷して抹殺したため、菅原道真の怨霊を恐れ、その菅原道真の怨霊を封じるために北野社を建立した。平安時代の菅原道真は、学問の神様などではなく、平安貴族を悩ます怨霊であったのだ。
怨霊は、同族の者により鎮められる、と信じられていたため、怨霊封じの祭事の執行は、怨霊の主と同じ民族がおこなっていた。紀氏は、秦氏と同族で、その歴史的流れは、朝鮮半島南部、辰韓に求められる。その辰韓の地に、356年奈勿王により、ギリシャ・ローマ文化の新羅が興った。新羅の国では、漢語を理解できなかったので、中国の皇帝との謁見では、百済の通訳を雇っていたほどだ。朝鮮半島で暮らす百済民と新羅民とは、民族も異なれば、文化も異なっていた。
日本列島でも、奈良時代を支配していた民族と、平安時代を支配していた民族とは、異なっていたようだ。それは、古墳時代から奈良時代初期まで詠まれていた「万葉歌」が、平安貴族には訓読できず、そのため理解できなかったからだ。
日本列島の住民が、単一民族であるとすれば、百年や二百年前の「ことば」が理解できないはずはない。このことから、平安時代の貴族は、奈良時代の貴族の末裔ではないことが示唆される。平安時代の貴族の多くは、亡命百済貴族末裔だ。それに対して、奈良時代の貴族は、新羅系天武天皇の末裔だ。
ギリシャ・ローマ文化の古代新羅では、漢語ではなく、漢字アルフアベットで、ヒャンチャル(郷札)という、漢字を表音文字として使っていた。つまり、万葉仮名だ。その古墳時代から奈良時代にかけての万葉歌の歌が読み解かれたのは、鎌倉時代になってからで、学僧である仙覚という人物がすべての歌の訓読を完成した。
奈良時代の万葉歌を理解できない平安王朝の実態は、百済王朝だった。この平安時代の百済王朝により、「日本書記」の仏教伝来552年を改竄するために、538年百済仏教伝来物語が創作された。実際の、組織的仏教伝来は、奈良時代だった。
その百済仏教伝来宣伝キャラクターが、庶民に普及していた「太子信仰」(慈覚大師・弘法大師)を利用した「聖徳太子」というわけだ。だから、奈良時代の史料には、「聖徳太子」の記述がない。そのための「言い訳」として、「聖徳太子」の生前が、「厩戸皇子」だったとしているのだ。
京都の地は、奈良時代までは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した秦氏の支配地だった。比叡山も、秦氏の祭祀場だった。奈良盆地の三笠山の秦氏の祭祀場が、奈良時代に藤原氏により春日社が建立されたことで、その秦氏が祀る太陽神ミトラの歴史が消されたように、亡命百済貴族は、平安時代の804年牛屠殺を禁じ、比叡山のミトラ神を宿神である魔多羅神として、その歴史を消してしまった。
しかし、加茂川の河原に住む民族は、その民族宗教の歴史の残像を後世に伝えるため、牛頭天皇を発明した。牛の頭が、祭りの主役であることは、不思議なことだ。しかし、ミトラ教の儀式を知る者には、京都の地は、亡命百済貴族が支配する前、秦氏の支配地であったことは、祇園会の祭事を執行する者が「牛頭を祀る」民族であったことにより理解される。
京都の加茂川の中洲で、交易により財を成すアラブ商人の末裔は、宋銭や買いあさった土地を白河上皇に寄進したため、次の鳥羽上皇の時代、そのアラブ商人の息子は、1132年内昇殿を許されるほど出世した。そのアラブ商人の末裔は、百済系「桓武平氏」に対抗して、一族を「平家」と名乗っていた。
この「平家」による宋交易を苦々しく思っていたのは、南インドから渡来していた藤原氏だけではない。藤原氏は、唐帝国が日本列島を漢訳仏教を思想武器として経営を始めた時期に、南インドを渡来元として現れ、南九州坊津を母港とする祭祀・交易民族だ。藤原氏は、その氏名を「籐氏」と言っていたように、唐帝国と密接な関係を持っていた。630年から始まる遣唐使船の運営は、その藤原氏が関係していた。
その遣唐使の記録が、奈良時代の歴史をカバーする、797年完成の「続日本紀」に完全に記載されていないのは、何故だ。そして、新羅商船は、渡唐で難破することが少ないのに、基本的には四隻で渡唐する遣唐使船は、何故、何隻かは難破するのか。そして、ベトナム沖に漂流した遣唐使船で、藤原氏の関係者だけ生き残って、唐に舞い戻ることが出来たのは何故か。それは、藤原氏は、古来から南インドと九州坊津との南海路を開発していたからだ。日本国の国史といわれる「続日本紀」にその詳しい記述が記録されていない遣唐使船の謎は、謎の多い藤原氏の歴史を知ることにより解明できるはずだ。
藤原氏が、平安中期から台頭したのは、907年に唐帝国が滅亡したからだ。東アジアの警察国家としての唐帝国の国力の衰えと比例して、朝廷での藤原氏の勢力が増大していた。
平安中期になると、唐帝国の軍事力の後ろ盾に護られていた百済系天皇家の土地は、廟堂を支配する藤原氏の策略で、荘園という私有地に侵食されていった。そして、天皇家の繁栄を祈る寺社も、その僧兵の軍事力を背景に、寺社領という私有地を拡大していた。
そこに、宋の商人だけではなく、アラブの商人も、金と絹を求めて日本列島に渡来した。中国との交易は、古来から藤原氏だけではなく、比叡山延暦寺の僧もおこなっていたのだ。延暦寺の僧源信が著わした「往生要集」も、その死に至る描写の生々しさの故、宋にも輸出されていた。
漢訳仏教の元である一世紀に発明された大乗仏教は、ガンダーラの国際交易商人と供に、中国に伝わった。仏教の施設の「寺」(ジ)の前身は、シルクロードから中国に渡来した国際交易商人や僧を取り調べるために造られた建物のことだ。
一般的に、「寺」と言うと、墓が隣接する仏教の施設と思われているようだが、本来は、入国関税事務所のイメージだ。やがて、その入国関税事務所が処理できないほどの国際交易商人や僧が渡来すると、その入国関税事務所に宿泊施設が伴なった。その「寺」(ジ)は、やがて、国際交易商人と渡来僧の宿泊施設となっていった。
国際交易商人と僧は、共生できる。それは、目的が一緒だからだ。未知の「市場」を開拓するため、そのふたりは、「寺」という「砦」を築いて、異民族の国に侵攻していく。
仏教の「寺」の建築物が、堅牢な土塀に囲まれて、更に、深堀を廻らせ、屋根を瓦で被い、境内に大きな鐘を設置し、高層の塔を建てるのは、何故か。平和を祈る仏像を安置するだけであるならば、神社(モリ)のように、木の皮で屋根を葺き、簡単な木の塀でよさそうなものだ。それは、「寺」は、仏像を安置するだけの建物ではなかったからだ。
戦国時代の城は、石組みの上に複数の仏閣を乗せて造られたものだ。瓦は、火矢からの防火となる。大きな鐘は、警報装置だ。高層の塔は、見張り台となる。見方を変えれは、「寺」は、砦なのだ。
中世のその砦には、勿論、国際交易商人がいた。比叡山にも、当然いた。国際交易商人は、中国との交易でもたらした珍しい物品を、寺の門前で販売した。それが、市だ。交易は、神(仏)の見守る処でおこなわれる。その門前の市と対抗するのが、被支配者の河原者が住む中洲の交易地だ。
平安中期以降、907年唐帝国が滅亡したため、京都の警察力も衰えていた。そこで復活登場したのが、賎民と貶められていた、タタラ製鉄、石切り、運河掘削などの高度技術や芸を持った秦氏末裔だ。藤原日本史では、賎民の芸能民の登場とするが、その高度の技術を持つ民族の歴史を語らないし、語れない。
その芸能民の歴史を語れば、騎馬民族が渡来した古墳時代を、仏教文化黎明期の飛鳥時代とし、北九州にあった秦王国の歴史を、奈良盆地の歴史にすり替え、そして、日本国の天皇の始めは672年新羅系天武天皇からなのに、紀元前660年即位の神武天皇から始まる架空の天皇物語を創作していたことが「バレ」てしまうからだ。紀元前660年は、日本列島では、縄文末期だ。そして、その頃の奈良盆地は、一雨降れば、湖となっていた。
その平安時代中期に現れた芸能民の祖とは、明日香ヤマトを支配していた騎馬民族の突厥民族と、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族だ。奈良時代を支配した藤原氏や平安時代を支配した亡命百済貴族が、日本列島の王権の簒奪者であり、賎民と言われた芸能民の祖が、実は、日本列島の王権の流れにあったのだ。だから、平安時代の芸能民は、平安貴族と対等以上の存在だった。その証拠に、芸能民の遊女である「うかれめ」が「局」となり、天皇の子を宿し、その子が、高僧となっていたことは、平安時代末期では珍しいことではなかった。
神社(モリ)は、支配者の王権からみれば、「ケガレ地」だ。しかし、被支配者からみれば、民族の氏神を祀った聖地だ。その「モリ」の語源は、古代朝鮮語で、神が住む処だ。
平安時代初期、その「モリ」では、角のある冑と派手な鎧で着飾った蝦夷末裔が、蕨手刀から改良した片刃の刀により武芸をおこない、怨霊(前政権の神)を鎮めていた。
平安時代初期、まだ唐帝国の警察力が日本列島の西国で健在だったので、武芸者の剣舞を見るために、山背国を追われた被支配者末裔は、聖地の「モリ」に集まることが出来なかった。しかし、唐帝国の警察力が日本列島に存在しない中世では、「モリ」は被支配者の集会所となり、やがて、バザールが開かれる処となっていった。バザールは、広域で暮らす騎馬民族が日をきめて、交易のために集まる祭りだ。この騎馬民族文化のバザールの歴史的流れに、役座が仕切る神社(じんじゃ・明治革命後の呼び名)の祭りの屋台がある。明治革命後、1868年神仏分離令により、怨霊を封じ込める神社(もり)は、氏神を祀る神社(じんじゃ)となった。その神社の祭りを仕切る役座の語源は、鎌倉時代、同業者が集まる「座」での交易を仕切る「顔役」のことだ。
後白河天皇の時代になると、京都の経済を仕切るまでになっていた「平家」は、藤原氏と寺社勢力の交易を脅かす存在となっていた。藤原氏は、その「平家」と、藤原氏の傭兵である「清和源氏」を戦わせることで、「平家」勢力の抹殺を謀った。
それが、1156年保元の乱と、1159年平治の乱だ。「平家」も「清和源氏」もその血族が互いに敵味方になった不可思議な戦いで、藤原氏の意に反して、平清盛に勢力が集中してしまった。武力の頂点に立った平清盛は、更に宋との交易を盛んにするため、福原に国際港を建設した。古来から南海交易をおこなっていた藤原氏は、その「平家」の宋交易独占を許すわけにはいかなかった。
ここでひとつの疑問が湧く。それは、三代先に、死体が流れ着く髑髏ヶ原と呼ばれていたケガレ地の加茂川東岸に勢力を張っていたアラブ系海洋民族の子孫である平清盛が、1167年太政大臣となり、廟堂を支配したことを誰も非難しなかったのか、と言うことだ。
祇園会を「ケガレ祭り」として避ける天皇や平安貴族が、その祇園に居を構えている「平家」の棟梁に対して、嫌悪の態度を示さなかったほど、平安貴族は寛容だったのか。貴族から、賎民の成り上がり者との避難をかわすために、平清盛側は、「平清盛は白河天皇の落胤」との噂を流し、更に、「清盛公のかぶら」を市中に放ち、平清盛の悪口を言った者の家に押しかけ、その家を打ち壊して、批判者の口を封じていた。この「清盛公のかぶら」の活躍により、誰も、平清盛の陰口を言うものがいなくなった。

この「清盛公のかぶら」作戦は、明治天皇誕生にも使われた。イギリス東インド会社のエージェントに画策された明治革命で、九州に隠棲していた藤原氏は復活した。復活した藤原氏は、奈良時代に藤原不比等が発明した「現御神」の天皇を、「現人神」として復活させた。
その「現人神」の天皇が、藤原氏が提出した書類に、天皇印を押した瞬間、藤原氏の作文は、誰も否定することができない「神の書類」に変身してしまうのだ。藤原不比等が発明した「現御神」の天皇は、日本国民の為に存在するのではなく、藤原氏一族のための武器なのだ。
1867年孝明天皇が暗殺される。その第二皇子が即位する。孝明天皇と藤原慶子とに生まれた明治天皇が、実は、長州藩により摩り替えられていた。このことを知っている人物の口封じのために、「清盛公のかぶら」として「役座」が利用された。
役座の無言の威圧により、歴史学者も誰も、明治天皇のすり替えを公に指摘できなかった。「明治天皇のかぶら」である役座は、明治時代初期、裏社会の治安警察として働いていたのだ。現在の刑事用語と役座用語とに、共通用語が多くあるのは、そのためだ。
明治が遠くなった平成では、用済みの役座は、暴力団のレッテルを貼られ、現代の賎民扱いとなってしまった。しかし、役座は、明治時代初期までは、日本国の治安を裏で支えていたのだ。
1868年神仏分離令後、神社(もり)を神社(じんじゃ)として、僧侶ではなく、神主によるお祭りが政府主導で開催された。それ以前の祭りは、神仏習合の神宮寺で、神主ではなく、僧侶により執り行われていた。
その明治革命以後の神社(じんじゃ)での祭りは、現人神天皇を「父」とし、国民を「子」として、日本列島を統治するための、藤原氏の戦略であった。全国一斉に、氏神を現人神天皇として、地域の住民を氏子としてお祭りが開催された。その神輿や山車のパレードでの警備責任者は、役座の親分だった。
江戸時代、相撲は勧進相撲と言われていたように、寺や道路を普請するために寄付を募るための興行だった。その地方興行を仕切ったのは、地方の役座の親分だった。江戸時代の相撲は、スポーツというよりも、芝居に近かった。プロレスにシナリオがあるように、その主催地の出身力士が勝つことにより、寄付金が多く集まるからだ。現在の相撲興行も、地方巡業主催者のことを、勧進元というのは、江戸時代からの興行システムが、現在でも生きているからだ。

「平家」の権力を経済的に支えていた宋交易は、1126年宋が、遊牧騎馬民族の女真族の金帝国により滅ぼされたことにより、一時中断となった。しかし、南に逃れた漢民族は、翌年の1127年南宋を復興した。この南宋には、遊牧騎馬民族を恐れて、漢訳仏教や律宗、禅宗の僧達が逃れてきた。それは、漢訳仏教の経典には、肉食する騎馬民族を蔑視する思想が溢れているからだ。
南宋は、宋の海洋交易システムを継承していた。その南宋の海洋交易システムを、金帝国は狙っていた。南宋の商人も、日本列島の金や絹を求めて渡来した。1133年南宋船が来着すると、鳥羽上皇をバックに内昇殿を許された平忠盛は、院宣と称してその南宋船の貨物を奪い取ってしまった。
「平家」の横暴は、平忠盛の子平清盛にも引き継がれていた。1170年平清盛は、国際港として開発した福原の港で、後白河法皇に宋使を引見させていた。「平家」は、ビジネスのためには、法皇も利用するほどの傲慢さを示す存在となっていた。
この南宋貿易には、禅宗の僧が活躍していた。禅は、インドのヨーガとの関係が深いように、禅宗にはインドの肉食禁止のバラモン僧が多くいた。その禅宗は、唐で発明された。インドと唐とは南海交易で結ばれていたので、アラブ商人と供に、インド商人やヨーガの行者も多く唐に渡来していたからだ。
その禅宗は、禅を広めるためだけではなく、カフェインを多く含む茶を交易品として海外交易に力を入れていた。茶は多量に飲むと、カフェインのため覚醒作用を生じる。この喫茶の風習は、禅宗により、日本列島に持ち込まれた。但し、闘茶という産地当ての「博打」としてだ。博打は、役座の「しのぎ」として発明されたのではない。それは、神事として仏寺で、博打がおこなわれていた。だから、博打でのチップのことを「寺銭」(てらせん)というのは、そのためだ。
金帝国は、南宋を支配下に置くほどの軍事力がなかった。そのため、金帝国は、南宋からの金の歳貢を送られることで、平和を保っていた。しかし、1234年モンゴルの二代目オゴダイが金帝国を滅ぼすと、南宋の国内は混乱した。モンゴル軍は、圧倒的な軍事力を見せ付ける威圧により、戦わずして、隣国を支配下におさめていた。
南宋の李全などは、モンゴル軍に寝返っていたほど、日増しに、モンゴル軍の威圧により南宋の国内が混乱していった。海外交易をおこなっていた禅宗は、その亡命先を求めていた。
その頃、日本列島では、「清和源氏」三代が北条氏の陰謀により抹殺され、尼将軍となった「桓武平氏」の北条政子が、関東の武士を焚き付けて、1221年承久の乱を制して、西国に残存する反藤原氏の「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」を抹殺するために六波羅探題を設置した。その六波羅探題による「源氏狩り」を避けるために、「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」の末裔は山奥に逃れ「平家落ち武者部落」で生き延び、或いは、騎馬民族文化が濃く残る東国を目指した。
その北条政子は、「平家」の厳島神社を接取して、「桓武平氏」の宮とした。このトリックにより、アラブ系海洋民族を祖とする「平家」は、「伊勢平氏」となって歴史的に消されてしまった。
「源氏」や「平氏」は天皇から賜った姓だ。だから、その氏を賜った天皇の名が記される。では、「平家」を「伊勢平氏」とするには、「伊勢天皇」が存在しなければならない。「伊勢平氏」が現れたとする鎌倉時代の歴史は、謎だらけなのだ。騎馬民族文化の濃い東国の史料が、桓武平氏の北条氏による史料や禅宗関連の史料以外に、ほとんどないのも、謎だ。
しかし、反仏教のアラブ系海洋民族の「平家」が、滅んだわけではない。「垣内」(かいと)の部落で賎民の「余部」として生き延び、戦国時代末期、その「平家」の子孫が、織田信長として登場するのだ。
そして、北条鎌倉幕府は、西国の律令制度に従わない東国の武士・百姓(鎌倉時代の百姓とは農耕民のことではない。)を治めるために、1232年御成敗式目を制定した。御成敗式目は、藤原不比等が発明した養老律令に従わない、騎馬民族文化の濃い東国の民を支配するための法律だ。東国の百姓文化が、西国と異なることが、御成敗式目の第42条から推測される。
純粋な農耕民族は、土地にしがみつく。それは、生きるための基盤が、土地にあるからだ。しかし、騎馬民族は違う。騎馬民族は、放牧のため、牧草を求めて、夏は北に、冬は南に移動する。土地に定着していては、騎馬民族は暮らせないのだ。その夏から冬にかけての移動時には、各地で交易をおこなう。云わば、騎馬民族は、遊行商業の民だ。
その東国の百姓の「逃亡した百姓の財産についての」御成敗式目の法律が、第42条だ。それによると、

「領内の百姓が逃亡したからと言って、その妻子をつかまえて家財をうばうことをしてはならない。未納の年貢があるときは、その不足分のみを払わせること。また、残った家族がどこに住むかは彼らの自由にまかせること。」

、とある。この御成敗式目の第42条の文章から、東国では、西国と異なり、百姓は東国を自由に移動していたことが推測される。
その東国では、養蚕が盛んだ。その東国で生産される絹は、南宋の商人が求めるものだ。
比叡山延暦寺は、仏教の顔と、国際交易商人の顔がある。延暦寺の僧は、南宋の禅宗の商人と交易をおこなっていた。それは、延暦寺の僧は、中国語に堪能だったからだ。九州には、南宋との交易のための支店まで設けていた。その南宋交易で得た宋銭を、高利で貴族に貸し付けることにより、日本列島中世での高利貸しの頂点に立った。
しかし、比叡山延暦寺の未開拓な市場があった。それが、東国だ。東国は、騎馬民族文化色が濃い。そのため、血の禁忌・肉食の禁止を説く漢訳仏教が受け入れられなかった。このことは、豚肉を常食する中国庶民に、漢訳仏教が受け入れられなかったことと共通する。
北条鎌倉幕府は、独立した機関ではなく、実態は、京都朝廷の東国支配の出先機関だ。それは、幕府の実質的運営は、京都の朝廷から派遣された中級貴族が執り行っていたからだ。そして、北条政子が1225年没すると、翌年には京都から藤原頼経を将軍として招いていたほどだ。
異民族の民を支配するには、武力よりも、思想武器のほうがよい。平安時代を支配した百済系桓武天皇家は、藤原氏が支配する南都仏教を廃して、唐から天台宗とシャンワン神(後の山王神)を招いて、西国の近畿一帯の先住民を思想的に支配した。しかし、東国では、律令制度の武器である仏教は受け入れられていなかった。
しかし、鎌倉時代でも、東国では天台宗の布教が成功していなかった。わずかに、亡命百済貴族末裔の「桓武平氏」の支配地だけだ。そこに、南宋の禅宗が、モンゴル帝国の攻撃を恐れて、鎌倉幕府に亡命を求めてきた。
これには布石があった。1199年父源頼朝の暗殺、1203年兄源頼家の幽閉による死が、北条氏の陰謀であることを知った源実朝は、鎌倉を脱出する目的で、1216年南宋の仏工陳和卿を引見し、渡宋を企て大船を建造させていたのだ。その3年後の1219年、源実朝は公暁により暗殺されたのも、その影には「桓武平氏」の北条氏がいたからだ。
民族差別思想を含んだ「法華経」を唯一の経典とする天台宗では、東国の民を思想支配できない。そこで目に付けたのが、経典を持たない禅宗だ。北条鎌倉幕府と比叡山延暦寺は、禅宗を日本列島に招いた。その地が、北陸と鎌倉と京都の洛外であったのは、意味があってのことだ。
北陸は、藤原日本史で創作した継体天皇の出身地だ。その北陸には、古墳時代には東北から延びる軍事・交易路としての東山道と同じに、北陸道が通る騎馬民族文化色が濃い地域だ。
6世紀半ば、この北陸に上陸した突厥騎馬軍団は、国際交易地のある奈良盆地の三輪山麓のツバキ市を目指して進軍した。その史実を隠すために、藤原日本史では、北陸出身の継体天皇を発明した。更に、その北陸が、騎馬民族の地であることは、薬草による創薬業が盛んであることで分かる。そして、外科手術に長けた藤内医者は、騎馬民族を祖とする。
鎌倉は、平安時代まで、地獄谷と言われていたように葬送地だった。葬送地は、京都の加茂川東岸と同じに、被征服者の住む地だ。
平安時代初期、桓武天皇の皇子や皇女は、経済的事情で臣籍降下させられ「桓武平氏」となった。その「桓武平氏」も次男や三男は、京では暮らしが立たないため、律令軍の未開拓の地である東国に活路を見出した。その「桓武平氏」の末裔が、千葉氏、上総氏、三浦氏、北条氏だ。その「桓武平氏」末裔が、騎馬民族文化色が濃い東国で支配したのは、常陸から千葉、鎌倉、伊豆にかけてだ。それ以外の地には、異民族の騎馬民族末裔が暮らしていた。
北条鎌倉幕府の地が、三面が山に囲まれ、人工的に掘削された曲がりくねった切通により護られていることには意味がある。それは、異民族である騎馬民族からの襲撃を撃退するためだ。その切通に沿って、砦のように円覚寺、浄智寺、建長寺、寿福寺、浄妙寺の禅寺があるのは、何故か。中国禅宗は、禅だけを修行するだけではなく、少林拳という武術も鍛錬していた。禅宗は、鎌倉の地を護るためには、最適だった。その鎌倉の禅寺では、中国語が日常語だった。鎌倉の町では、ちんぷんかんぷん(珍文漢文)の言葉が、禅僧により話されていた。
京都の洛外は、加茂川東岸の髑髏ヶ原を中心に、騎馬民族末裔と海洋民族末裔に、経済的支配されていた地だ。
南宋から渡来した禅宗が、活動拠点とした北陸、鎌倉、洛外は、どれも騎馬民族色が強い地域だった。
国際交易において、交易優位な国語が、劣位の国語を駆逐する。現在でも、英語で日本企業の会社が会議しているのも、日本の企業が劣位にいるからだ。
その南宋が、1279年モンゴル帝国により滅亡すると、南宋の商人は日本国の禅寺に亡命してきた。その結果、禅寺は、中国との交易センターとしての機能を伴っていった。禅宗が、現在でも、色々なビジネスをおこなっているのも、その流れにあるからだ。
北陸の禅宗が、庶民に広がったのは、禅の思想が受け入れられたわけではない。それは、北陸の禅宗は、騎馬民族が信仰する白山信仰思想を取り入れたからだ。それに対して、鎌倉の禅宗が、インドの民族差別思想を広めたのは、禅僧には、騎馬民族を見下すバラモン僧出身者が多くいたからだ。
平安時代初期に、空海が唐からもたらした、民族差別語のチャンダラー(施陀羅)が、鎌倉時代になると、インドのバラモン僧出身の禅僧により語られることになる。それは、新羅末裔の「武士」を敵民族とする、亡命百済貴族末裔の「サムライ」が望むところでもあった。
藤原日本史では、庶民を救済するために、鎌倉新仏教が広まったとする。しかし、その説明には納得できないことがある。それは、その鎌倉新仏教の開祖は、皆、「法華経」を信ずる比叡山延暦寺出身者であることだ。
中世の比叡山延暦寺は、中世最大の高利貸し組織で全国を支配していた。その支店が末寺だ。仏寺は、仏像を安置する処でもあり、金融機関でもあったのだ。戦国時代での、仏寺への戦勝祈願の実態は、武器の購入や傭兵を集めるための借金のためだった。
中世の金融業者は、返済金を滞納した者に対して、武力をもって対処していた。中世には、そのような暴力による返済方法を取り締まる法律などなかったからだ。堂衆組織の僧兵の主な仕事は、神輿を担ぐ強訴と武力による借金取立てだ。
822年「日本霊異記」が著わされたが、その内容は、借りたものを返さないと仏罰があるぞ、との脅し物語だ。仏教説話で、「ウソをつくな、正直であれ。」、とするのは、高利で貸した金を回収するためのセールストークとも考えられる。
仏教史によれば、その新興仏教の仏は、阿弥陀様だという。では、その阿弥陀様とは、何者だ。そして、王権(亡命百済貴族末裔)から、賎民と言われる芸能民の多くは、阿弥号を付けるのは、何故か。
阿弥号の賎民で有名なのは、1402年「風姿花伝」を著わした世阿弥がいる。その書籍によれば、能の祖は秦河勝だという。その秦河勝が、山背国で建立した寺が、太陽神ミトラを祀る蜂丘寺だ。すると、ミトラ神と阿弥陀様とには、何かの関係があるのだろうか。
阿弥陀の梵名は、アミターバだ。その意味は、無限の光を持つものだ。無限の光を持つものとは、太陽のことだ。つまり、阿弥陀様は、太陽神だ。すると、ミトラ神も太陽神であるので、阿弥陀様とミトラ神は、同じ属性を持ったものであることが分かる。
では、その阿弥陀様は、何処から来たのか。阿弥陀様は、西方にある極楽という仏国土を持つと言う。では、その西方とは、何処か。日本人の中には、仏教は中国で広まったから、その西方極楽とは、インドかチベットと想像しているようだ。しかし、阿弥陀様は、インドで発明されたのだ。
すると、インドの西方は、イランかエジプトだ。イランには、ゾロアスター教の闇の神と戦う光の神であるアフラ・マズダがいる。では、エジプトではどうだ。エジプトの宗教は多神教で、神官が勝手に神々を創作していたが、紀元前14世紀イクナトンは、多神教の神官の横暴を阻止するため、唯一神である太陽神アトンを発明していた。
このエジプトの太陽神アトンは、古代ヒッタイト帝国で信仰されていた、契約の神でもある、日の出の神、真昼の神、日没の神の三位一体の太陽神ミトラを祖としていた。西方にいる阿弥陀様とは、エジプトの太陽神アトンのことだ。アトン(古代エジプト)→アミターバ(インド)→阿弥陀(中国)→阿弥陀様(日本)。阿弥陀如来が、腋持二体を伴い、三神で祀られるのも、その祖が太陽神アトンで、アトンの祖が三位一体の太陽神ミトラであることで理解できる。
鎌倉新仏教の開祖達が、騎馬民族文化色の濃い東国で、阿弥陀様の教えを説いた意味は、東国の民の多くは、星(北極星)信仰民族と太陽神信仰民族とであったからだ。その両民族は、死者再生の思想を持っていた。騎馬民族が、敵の首を落とすのは、勇者(アク)は再生すると信じていたからだ。丸山古墳に、死者を生前の武具で着飾って葬るのは、再生を信じてのことだ。
ニッポン仏教が、釈尊の教えの通りのものならば、現世利益も西方浄土も極楽浄土もない。釈尊は、輪廻転生のカルマから逃れるために、人間をやめて、乞食により非人として生きよ、と教えたはずだ。なのに、鎌倉新仏教の開祖は、釈尊の教えと正反対の思想を広めていた。何が、目的だ。
時宗を拓いた一遍などは、騎馬民族スキタイのシンボル聖獣である鹿の角の杖をつき、鹿皮の服をまとっていたのは、何のためだ。日蓮が布教の時、自らを施陀羅の子だと吹聴したのは、何のためだ。親鸞が、肉食・妻帯したのは、何故だ。そして、東国の民に、「善人なほもて往生をとぐ、いわんやアク人(勇者)をや」、と、「騎馬民族の勇者は、再生復活する。」との騎馬民族のこころを揺さぶる呪文を唱えたのは、何故だ。それらの者が、皆、中世最大の金融業者である比叡山延暦寺の門をくぐっていたのは、何故だ。
ここにひとつの不思議がある。それは、法華経を経典とする天台宗以外の宗派は、すべて批判の対象としていた日蓮が、親鸞についてはまったく記述していないことだ。鎌倉新仏教を述べる多くのひとは、第一に親鸞について述べる。その親鸞は、浄土真宗の開祖といわれているのだ。
親鸞を調べると、多くの謎につきあたる。その謎は、親鸞の実名は、日野範宴で、藤原氏の流れにあることと関係があるのか。
親鸞と言えば、「歎異抄」だが、親鸞の著作ではなく、弟子の唯円が著わしたものだか、その「歎異抄」は禁書とされ中世から近世まで浄土真宗の信者たちも読むことが出来なかった。その禁書扱いにしたのは、蓮如だ。

「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。」

この文章は、浄土真宗の葬儀に参加したひとは、一度は聞いたことがあると思う。浄土真宗が親鸞により拓かれたのなら、その「白骨の御文」といわれる文章は、開祖親鸞のものでなくてはならないはずだ。しかし、その文章は、1262年親鸞が「京都」で死去してから約150年後、蓮如が著わしたものだ。
親鸞がなくなった後、浄土真宗は親鸞の血を受け継ぐ法主を中心に、主に騎馬民族文化の東国で勢力を伸ばしていた。が、しかし本願寺自体は、比叡山延暦寺の門跡寺院である青蓮院の支配下にあったのだ。浄土真宗が、金融業を営む比叡山延暦寺の影響下から独立したのは、本願寺8世の「白骨の御文」を著わした、そして、「歎異抄」を禁書とした蓮如の時だった。
中世最大の高利貸し組織を牛耳る比叡山延暦寺の配下として、親鸞は浄土真宗を騎馬民族に広めたのは、何が目的だったのか。それは、晩年を、騎馬民族文化の強い東国ではなく、比叡山延暦寺が支配する「京都」で過ごし、そこで死去したことが、親鸞が、騎馬民族を京都の仏教組織を牛耳る亡命百済貴族末裔の「民族差別」から救うために、宗教活動をしていたのではないことが示唆される。
東国は、平安時代末期からアラブ系海洋民族の「平家」が宋からもたらした宋銭により、貨幣経済が西国より発達していた。騎馬民族は、元々貨幣経済に慣れていたどころか、貨幣経済を発明したのが、騎馬民族だった。その東国に、南宋の商人が交易を求めて渡来していたのが、鎌倉時代だ。いつの時代でも、「権力」や「銭」に吸い寄せられるのが、生産的経済活動をしない「宗教者」の常だ。
鎌倉新仏教が、被差別民族を解放したように、日本仏教史は述べる。しかし、鎌倉新仏教の開祖は、誰ひとり、民族差別語の「施陀羅」を否定してはいないのだ。日蓮などは、自ら施陀羅の子だと言って、民族差別語を広めていた。それは、東国の民は、西国を支配する民族には、貶めなくてはならない、本国百済を滅亡させた憎き民族だったからだ。
民族差別の権威は、なんと言ってもインドのバラモン僧だ。そのバラモン僧出自の禅僧が、北条鎌倉幕府の要職を占めたのは、南宋交易のためだけではなかった。

田辺さんのレポートは、ここで終わっていた。オレには、田辺さんは他にも、もっと語りたいことがある様な終り方に感じた。

結局、鎌倉時代とは何だったのですか。

目に飛び込んでくる映像が、平安京を俯瞰したものであることが分かるまで、少しの間があった。それは、映像が高速度で展開していたからだ。
加茂川が流れる湿地帯に、巨大前方後円墳が築かれていく。そのための土は、湿地帯の東側を流れる高野川に、大湿地帯の中央を流れる加茂川を合流させ、川幅を広げるために掘削した残土だ。大小の前方後円墳が築かれ、大湿地帯は、瞬く間に居住地となっていた。
その前方後円墳が築かれていた居住地に、中国大陸から渡来した異民族が大阪湾から侵攻して、その巨大前方後円墳を破壊し、そこに大内裏を造営して都が築かれていく。しかし、その都も、現在の京都のように仏寺が都を囲んでいるわけではない。初期の平安京は、人家もまばらな都だった。そこに、中国大陸から大移民団が渡来して、賑やかになっていった。
しかし、唐帝国が滅亡すると、その都が、見る見るうちに荒廃し、大内裏は畑になっていった。都の西半分は、もう、人もまばらな農耕地となっている。東半分と、加茂川東岸が賑やかな居住地となっている。まもなくして、都の東半分も、西半分と同じに、人もまばらな農耕地となっていた。人が暮らすのは、加茂川東岸だ。中世の日本列島の都である京都は、荒廃していた。それに対して、東国は、中国大陸から北陸や鎌倉に国際交易商人達が渡来して、絹や金を求めたため、東国各地の物流が馬により賄われ、活況を呈していた。

今、田辺さんに鎌倉時代の幻視レポートをメールで送ったところだが、学校で教わった歴史と異なる映像を幻視した。その幻視の素は、田辺さんのレポートだ。田辺さんに質問したいことが沢山ある。
三日の後、田辺さんとコンタクトできた。

「カメさん、幻視レポートありがとう。私の史観が映像となって幻視される様は、史料による歴史物語より迫力がありますね。」
「ナベさんのレポートが、幻視の素材ですからね。幻視レポートにも書いたように、藤原日本史では近畿中心に物語っているようですが、西国と東国とは、異なる歴史があったようですね。中世の日本列島を幻視で見た限りでは、西国より、東国のほうが経済活動が活発のようですが。」
「平安時代中期までは、唐帝国の警察力が日本列島の西国に及んでいたので、瀬戸内海は比較的安全であったのが、唐帝国が滅んでからは、瀬戸内海は海賊の巣窟となって、危険極まりなかったのです。そこで、中国大陸の国際商人は、日本列島の東国の陸奥の砂金や東北の絹を求めて、瀬戸内海を避け、北陸や鎌倉を目指したわけです。その中世の国際交易は、主に、禅宗の僧侶が実権を握っていたのです。」
「そう言えば、北陸の若狭湾沖や能登半島沖には、南宋船の貿易船団が見えました。鎌倉沖にも沢山の南宋船団が見えたのも、瀬戸内海の航路を避けたわけですか。」
「そのように考えられます。中世期の平安京の衰退も、その結果だと思います。」
「平安京の衰退は、意外でした。京都は、平安時代から寺に囲まれていたと思っていましたから。」
「京都が、寺に囲まれたのは、1585年イエズス会から藤原氏に寝返って豊臣秀吉となった羽柴秀吉が、1587年荒れ果てていた京都に、聚楽第を建造した時からです。1568年織田信長が、足利義昭を奉じて上洛した時の京都は、寺はもとより、人家もまばらな、一面畑だったのです。」
「それって、本当ですか。歴史書には、入京のことを「上洛」と言っていますが、「上洛」って、どんな意味があるのですか。」
「平安時代初期は、唐文化のコピーだと述べましたよね。平安京に遷都した、亡命百済貴族末裔の桓武天皇は、781年即位する時、それまでは呉音により儀式をおこなっていたものを、唐の儀式により「漢音」によりおこなっていたのです。ですから、平安京も、朱雀大路を境に、西側を長安、東側を洛陽と呼んでいたのです。」
「唐帝国では、西の都京兆府を「長安」、東の都河南府を「洛陽」って呼んでいましたよね。」
「そうです。その日本列島の平安京の都の東側に行くことを、「上洛」と言ったのは、日本列島の「洛陽」に行くことを意味していたのです。」
「すると、賎民の住む「洛外」も、理解できます。しかし、中世では、「洛陽」よりも、「洛外」が隆盛していた意味は、どうしてですか。白河天皇も、「洛陽」ではなく、「洛外」に居を構えていましたよね。」
「平安京の大内裏が、唐帝国が滅んで、内乱時代の中世に突入すると、畑になってしまった意味は、怨霊と関係があると考えられます。」
「どういうことですか。」
「唐帝国は、日本列島を経営するために、前政権の宗教施設を破壊した跡に、都を築いていたのです。」
「694年藤原京、710年平城京、794年平安京は、宗教施設跡に築かれたと言うのですか。」
「そうです。前方後円墳を破壊した跡に、築かれた都が、藤原京、平城京、平安京だったのです。」
「それって、おかしいですね。藤原日本史によれば、四世紀に飛鳥大和朝廷が存在していた理由のひとつとして、奈良盆地に巨大前方後円墳が築かれたから、としていますよね。その前方後円墳を破壊することは、先祖の墓を破壊することになりますよね。矛盾しませんか。」
「確かに、四世紀に大和朝廷が存在していたなら、矛盾しますね。しかし、前方後円墳を開発した民族と、奈良時代を支配した民族とが、異なる民族であったならば、前政権に築かれた宗教施設である前方後円墳は、抹殺すべき対象となります。」
「すると、ナベさんは、奈良時代は、古墳時代を支配した民族とは異なる民族により侵略されていた、と考えているのですか。」
「そうです。古墳を築く民族は、奈良時代になる前に、近畿一帯から排除されていたのです。」
「その根拠はあるのですか。」
「史料としてはありません。しかし、奈良時代から、東国には「エミシ」(蝦夷)が登場し、陸奥国の北側の北上川河岸に、丸山古墳が築かれていくのです。」
「藤原日本史では、7世紀末には古墳築造が終わった、と述べていますが。」
「その北上川河岸の丸山古墳は、奈良時代から平安時代にかけて築かれていたのです。」
「藤原日本史では、前方後円墳の北限は、岩手県の丹沢町の「角塚古墳」の前方後円墳といわれていますが。」
「勿論、丸山古墳は、前方後円墳とは比較にならないほどの規模で、大きくても15m程です。しかし、埋葬品に特徴があるのです。」
「どんな埋葬品ですか。」
「蕨手刀は、当たり前ですが、「志波の蝦夷」の本拠地近くにある長沼古墳からは、ガラス玉1200個、翡翠の勾玉60個、ミカン玉1個が出土したのです。」
「丸山古墳のガラス玉って言えば、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の都慶州の古墳から、多く出土していますよね。古代のガラス器は、ギリシャと交易や戦闘をしていた騎馬民族スキタイが活躍していた、カスピ海沿岸で発明されていたようですね。ガラス玉が、中国大陸での墳墓からの出土がないのに、古代新羅の古墳から多く出土していることは不思議ですよね。」
「不思議と言えば、朝鮮半島の隣国の百済語と古代新羅語では、全く異なる言語であったのです。奈良時代後期の朝廷では、百済民は通訳なしにコミニュケーションがとれていたのに、古代新羅民は通訳を必要としていたのです。その古代新羅語と言えば、東北の言葉には、古代新羅語らしき言葉が多く残っているのです。「山のアスパラガス」と呼ばれる「しおで」は、東北方言では「ソデコ」です。若芽が「牛のオッポ」に似ているため「牛尾草」とも言われていました。では、何故、「しおで」が「ソデコ」と言われたのか。それは、古代新羅語では、「牛の頭」は、「ソ・デゴル」だったからです。」
「その説明では、いまひとつ納得できません。でも、奈良時代から平安時代まで、東北に丸山古墳が築かれて、埋葬品に、古代新羅時代の古墳から出土しているガラス玉があるということは、話が面白くなりそうですね。」
「平安時代の東北は、「みちのく」と言われていたのです。「みちのく」とは、「路の奥」の意味で、それは、近畿の京都からの視点です。平安時代に、北陸道に愛発関、東山道に不破関、東海道に鈴鹿関が設置されるまでは、道幅12mの直線道路が北陸、関東、東北から明日香ヤマトまで続いていて、ひとや物が馬により流通していたのです。」
「その東北の陸奥国を、律令軍が侵略したのが奈良時代から平安時代ですね。」
「藤原日本史では、724年多賀城を設置すると、北上川を侵略経路として、758年桃生柵、767年伊治城、780年覚瞥城、802年胆沢城、803年志波城を設置して、陸奥国を支配下に置いたように記述していますが、その北上川支流には、無数の丸山古墳が平安時代まで築かれていたのです。」
「すると、平安時代の律令軍は、陸奥国全土ではなく、北上川の点と線を支配した、ということですか。」
「藤原日本史の陸奥国征夷物語と、陸奥国の遺跡が示すものとが、大幅にズレでいるので、それが分からないのです。」
「どういうことですか。」
「奈良時代から平安時代にかけての陸奥国には、エミシ(蝦夷)の他に、異なる民族が存在していたらしいのです。」
「アイヌ民族ですか。」
「そうではないようです。蕨手刀やガラス製品が出土する丸山古墳を蝦夷塚古墳とすると、その南限は、岩手県花泉町と宮城県中田町にまたがる丘陵地帯に築かれた「杉山古墳群」です。その「杉山古墳群」を境として南側に、一名「百穴」と言われる「横穴式墓地群」が設置されているのです。その「横穴式墓地群」は、「杉山古墳群」以北には発掘されていません。」
「百穴と言われれば、関東では、東松山の「吉見百穴」が有名ですよね。学校の歴史では、コルボックル説として、小人のアパートなんて先生が説明していましたっけ。何ですか、その百穴とは。」
「その吉見百穴と稲荷山古墳のある「さきたま古墳群」は、それ程の距離がありません。その百穴は、石の小山に無数の穴をあけ、その中に死者を葬ったらしいのです。」
「その民族の祖は、石と砂漠の世界のひとですか。」
「考えられるのは、イランを拠点にして、紀元一世紀のシルクロード交易をおこなっていたソグド民族です。」
「するとナベさんは、イラン系ソグド民族が、古代の日本列島の陸奥国に渡来していたとでも言うのですか。」
「ソグド商人は、絹を求めていたのです。中国で入手した絹を、東ローマ帝国に持ち込むと、同量の金と交換できたからです。」
「紀元一世紀の日本列島に絹があったのですか。」
「日本列島の蚕は小さく、繭も小さいので国際商品としての価値がなかったのです。そこで、紀元2・3世紀の弥生時代末期の日本列島に、南方種の繭を持ち込んだ者がいたのです。藤原日本史では、水田稲作伝播の北九州からの北進を述べますが、養蚕の北進を語りません。養蚕も、水田稲作伝播と同じに、北進していたのです。」
「何故、藤原日本史では、絹の伝播を語らなかったのですか。」
「絹は、日本列島史の裏面を語るからです。シルクロードの東限は、中国ではなく、日本列島の北関東なのです。明治革命の原因のひとつは、日本列島の北関東の絹を、イギリス東インド会社が独占することだったのです。」
「急に時代が飛んでしまって、ついていけません。その根拠はあるのですか。」
「明治革命の総仕上げとして、1869年戊辰戦争が終わって3年後、1872年富岡製糸場と新橋・横浜間鉄道開通は、シルクロードの東限である北関東の絹を富岡製糸場で製品化し、その絹製品を八王子から新橋へ、そして、鉄道で横浜に運び、イギリスへ輸出するためだったのです。紀元一世紀から明治革命まで、日本列島の絹は、国際交易商人を惹きつける魅力的な国際交易商品だったのです。」
「するとナベさんは、奈良時代から平安時代にかけて、陸奥国ではエミシ(蝦夷)とソグド商人とは、住み分けをしていたと考えているわけですか。」
「北は北上川を北限として、九州までひっそりとして存在する「横穴式墓地群」は、国際交易商人のソグド人の存在を示唆するのです。」
「そういえば、6世紀のユーラシア大陸では、商業民族のソグド人は、騎馬民族である突厥の庇護の下、交易路に沿って殖民集落をつくり、通商網をひろげていましたっけ。エミシ(蝦夷)とは、古代新羅系花郎騎士団と突厥武人の末裔だから、奈良時代の陸奥国でも、ソグド商人は、エミシ(蝦夷)の庇護の下、日本列島に通商網を広げていたと考えることも出来ますね。」
「当然です。しかし、史料の大部分は、律令軍団の手先である漢訳仏教組織が作成したものですから、史料として、騎馬民族文化の陸奥国の歴史を語るものはないでしょう。今後の、陸奥国の古墳発掘により、藤原日本史の「ウソ」がバレる日も、そう遠くではないと思います。」
「そう言えば、藤原日本史で、「エミシ」を「蝦夷」とし、「アイヌ」をエゾ(蝦夷)としている理由も、騎馬民族文化の抹殺のためですか。」
「藤原不比等は、713年好字令を出して、日本列島の地名・人名を漢字二文字で表記するようにしたことは、藤原氏より先住していた民族の歴史抹殺手段だったのです。」
「そういえば、ナベさんの説によれば、藤原氏の祖は、ユダヤ教に改宗した、8世紀に滅んだ国際交易立国のハザール王国民ということでしたよね。すると、ソグド商人を配下に置くエミシ(蝦夷)とでは、交易での敵となりますよね。」
「日本列島史の謎と天皇の謎は、「藤原氏の謎」を解くことで解消できると思います。」
「どういうことですか。」
「例えば、奥州藤原氏の滅亡があります。1189年藤原泰衡は、源義経を衣川で殺害し、それに対して、源頼朝が自ら奥州に発向し、藤原泰衡一族を滅ぼしたため、奥州藤原氏は、ここに滅亡した、と藤原日本史は述べています。しかし、養老3年(719年)藤原不比等による陸奥出羽按察使(あぜち)は、明治元年(1868年)廃止まで、藤原氏の支配下にあったのです。」
「何ですか。その「あぜち」ってのは。」
「主な権限は、国郡司の不正糾弾、農桑の奨励、人口の増殖、そして、国司の罷免、抜擢を判断決定する権限、地方行政の監督などです。」
「桑畑の奨励ですか。やはり、絹がでてくるわけですね。すると、陸奥出羽按察使とは、京都が本社とすると、陸奥・出羽の支社長というわけですね。」
「面白い例えですね。そうです。本社に知られなければ、ナンデモ出来る存在です。その陸奥出羽按察使を、奈良時代から明治元年まで支配した藤原氏の意図は、どこにあったのか。」
「やはり、藤原氏による絹と金の独占ですか。」
「絹と砂金を産出する陸奥国、東北の歴史を抹殺・隠蔽する必要が、藤原氏にはあったようですね。」
「すると、陸奥国・出羽国の先住民を謀略により抹殺し、奥州藤原氏の勃興のための地ならしをした「清和源氏」の存在も、藤原氏の発明なのですか。」
「「清和源氏」の不思議は、その系図によれば、清和天皇→貞純親王→961年源氏賜姓経基→満仲(多田新発意)→頼光と続いていくわけですが、父である源氏賜姓経基が、子である満仲より、2歳年下であるのは、どうしてでしょう。」
「年の数え間違えか、養子縁組をしたのでは。」
「養子縁組としても、満仲の生誕や青年期の経歴が不明なのです。壮年期に、突然歴史上に現れたのです。カメさん、これってどう思いますか。」
「どこかの国から渡来してきた、とも考えられますね。」
「「清和源氏」賜姓の961年は、漢民族国家宋が興ってから1年後です。その宋は、強敵国契丹(遼)に、金と絹を貢物として献上する必要が生じたのです。そのため、宋の商人は、金と絹の主な供給先として、日本列島を目指したのです。国際商人には、用心棒として、武装集団の傭兵を雇うことが常識です。ですから、宋からは、商人と供に、武装集団も渡来していたのです。」
「すると、ナベさんは、大阪湾の多田に上陸した武装集団が、「清和源氏」の祖と考えるわけですか。」
「そうとも考えられますよね。しかし、鎌倉時代を表す系図は、応仁の乱後、或いは、江戸時代に発明された物が多いので、ハッキリとは言えません。そもそも、鎌倉時代の歴史の客観的な史料が存在していないのです。」
「でも、歴史本では、色々な史料を引用して物語を発表していますよね。」
「その史料の大部分は、反騎馬民族文化の藤原氏や亡命百済貴族や禅宗のものです。禅宗は、遊牧・騎馬民族のモンゴル帝国に、1279年母国南宋を滅ぼされたため、騎馬民族には敵意を持っていたのです。」
「すると、禅僧は、古代新羅に対する母国百済を滅ぼされた亡命百済貴族と、一脈通じますね。」
「鎌倉時代から、騎馬民族を標的として、賎民差別する運動が発生するのは、そのためとも考えられますね。鎌倉時代から始まるとする民族差別運動は手が込んでいて、各国ごとに蔑称が異なるのです。」
「騎馬民族を落とし込めるための差別語は、「士農工商穢多非人」の「穢多」だけではないのですか。」
「騎馬民族末裔で白山信仰民族が多く暮らす能登、加賀、越中では、「穢多」ではなく、「藤内」が蔑称です。古来から創薬業が盛んな富山があるように、北陸は騎馬民族文化の濃い地域です。そのような地域では、禅宗など反騎馬民族系組織は、騎馬民族が「穢れ多い」などとは、公に宣伝できなかったのでしょう。北陸に南宋から渡来した禅宗などは、布教拡大のために、騎馬民族が信仰する白山神思想を、禅宗に取り入れたほど、騎馬民族色が濃いのが北陸です。」
「国別民族差別語は、他にもあるのですか。」
「平安時代まで蝦夷が支配していた山形県や秋田県では、「らく」が差別語です。反藤原氏の出雲民族が支配していた山陰では、「はちや」です。更に、畿内や瀬戸内海沿岸地域では、「かわた」です。騎馬民族文化の濃い関東では、「長吏」です。」
「「長吏」って、古代中国では、高級官僚の呼称だったのですよね。それが何故、日本列島の関東では、民族差別語になってしまうのですか。」
「洗脳の賜物です。ひとは、一度刷り込まれた情報を換えることが困難な存在です。王権側が、「長吏」=「穢多頭」として「刷り込み」をおこなった結果です。」
「「穢多」の差別語の歴史上の登場は、いつごろだったのですか。」
「十三世紀末、南宋を滅ぼしたモンゴル帝国の国際商人が、日本列島に渡来して活躍していた頃です。」
「二度の「神風」による元寇壊滅により、国交断絶だったのですよね。そのモンゴル帝国の国際商人が、日本列島に渡来していたのですか。」
「1206年テムチンが、ナイマン部を滅ぼして、チンギス汗となれたのは、その影にイスラム、イラン、ソグドなどの国際商人の暗躍があったからです。更に、1260年フビライの時代になると、国際海洋商人の協力の下、ヨーロッパとの国際海洋交易立国を目指し、中国内陸部を巨大運河により、ヨーロッパの港に通じる南北路を築くのです。」
「モンゴル帝国は、遊牧・騎馬民族のため、航海には不慣れだと、学校で「洗脳」されましたけど。数十万の元寇船団は、神風により、二度とも壊滅していたのですよね。」
「1274年文永の役、1281年弘安の役が史実かどうかは分かりません。しかし、モンゴル帝国が、騎馬民族国家で、海洋国ではない、とすることは間違えです。フビライの時代から、モンゴル帝国は、陸路と海路とにより、世界交易をおこなっていたのです。勿論、日本列島にもモンゴル帝国から国際交易商人が、多く渡来していたのです。」
「モンゴル帝国とは、国交がなかったのでは。」
「国交がなくとも、民間交易はおこなえます。日本列島は、海に囲まれているため、どの地域でも、国際交易港となれたのです。」
「そのモンゴル帝国の国際交易商人の渡来を、快く思わなかったのが、南宋交易を独占していた禅宗ですね。騎馬民族により、母国を滅ぼされた恨みは深い。」
「「穢多」の文字が文献上に現れたのが、絵巻物の「天狗草紙」と云われています。絵巻物は、漢訳仏教僧が、その思想宣伝の「グッズ」として利用するものです。平安時代では、地獄の世界を「刷り込む」ために利用されました。その結果、平成の現代でも、地獄世界は平安時代のままです。その「天狗草紙」物語では、鳶の姿をした天狗が、穢多の仕組んだ針の肉片を噛み付いたため、針に刺され穢多に捕まり、首を捻られ殺されてしまうのです。天狗も穢多も、漢訳仏教側の敵なのです。」
「すると、その「天狗草紙」物語は、藤原氏の得意戦術の「夷を以って、夷を制す。」なわけですね。」
「天狗は、山に登った「河童」です。河童の元は、海洋民族の神です。その海洋民族の神が、騎馬民族の穢多に抹殺される物語が、「天狗草紙」のテーマと考えられます。絵物語は、視覚のイメージを伝達するため、文字情報より有力な「洗脳」手段となります。」
「確かに、画像は文字より、洗脳力がありますね。」
「蒙古襲来も、史実として信じられているのは、1293年土佐長隆作と伝わる「蒙古襲来絵詞」のイメージによるのです。」
「九州のナントカという武将が、一騎でモンゴル軍に突撃した絵ですよね。歴史教科書によく掲載されていますね。」
「その絵ですが、本当にモンゴル軍団の襲来の絵だったのか疑問です。モンゴル軍は、戦わない軍団です。武力威圧により、敵側を屈服させ、敵側の軍団を無傷で取り込み自軍に編入することにより、強大に成長してきた歴史があるのです。もし、日本列島に上陸するのなら、南方系弓矢で武装した軍人を少人数上陸させたことは、疑問です。それは、モンゴル軍の歩兵の武器は、弩(ど)という腰弓だからです。その二度の元寇襲来の実態は、一回目が朝鮮半島と中国山東半島からの亡命大船団で、二回目が南宋からの亡命大船団だったと考えています。」
「すると、その「蒙古襲来絵詞」も、源頼朝絵と同じに、鎌倉時代の作ではなく、室町時代の作とも考えられますね。ところで、民族差別語の話に戻りますが、何故、国別に差別語があるのですか。藤原日本史によれば、日本は、大和民族の単一民族のはずですが。」
「考えられることは、民族差別語が発明された鎌倉時代とは、唐帝国が壊滅した後、中国国内が十国に分裂したように、日本列島も各民族により分国されていたと考えられます。」
「藤原日本史では、平安時代末期に「平家」が滅亡し、「源氏」による武家社会の鎌倉時代ですよね。その鎌倉時代を武家が支配するために、1232年51か条の御成敗式目を制定したわけですよね。」
「藤原日本史では、鎌倉幕府の御成敗式目により、武家が日本列島を支配していたと物語っていますが、西国では、御成敗式目ではなく、依然、養老律令が施行されていたのです。御成敗式目は、養老律令の権限が及ばない東国を支配するための法律だったのです。因みに、奈良時代に藤原不比等が制定した養老律令は、明治革命まで施行されていたのです。」
「すると、ナベさんは、鎌倉時代は、養老律令の西国と御成敗式目の東国とでは、異なる法律で支配されていた、と言うわけですか。」
「極端に言えば、平安時代中期に京都の律令軍団が壊滅した結果、60余ヶ国に分裂していたのが、鎌倉時代と考えています。民族差別語が、地域ごとに異なっていたのは、日本列島には、古来から多くの異民族が渡来していたので、各地域ごとに異なる言語が使われていたのです。現在でも、地方に行き、現地の古老同士の会話を傍らで聞くと、何を言っているのか理解できないように、教育により書き文字は全国共通となっても、日常の話し言葉の多くは、古代から伝わったものです。」
「そう言えば、明治革命後の官軍の会議で、各藩の言葉が理解できないため、筆談で会議をしていたようですね。言葉が異なることは、文化も異なることで、それは、民族が異なると言うことですよね。」
「日本列島史の謎は、その「言葉」にあるのです。藤原日本史によれば、日本列島を最初に支配したのは、紀元前660年即位の神武天皇ということになっています。では、その神武天皇は、何語を使っていたのですか。」
「勿論、日本語というのは、間違えですよね。」
「そうですね。「日本」という国が歴史上に現れたのが、7世紀末の新羅系で騎馬民族系の天武天皇からです。もしも、神武天皇が実在していたとしたら、何語を話していたのか分からないほど、日本列島史は謎だらけなのです。日本語が、もし、古代の飛鳥時代から使用されていたのなら、720年「日本書記」、797年「続日本紀」、840年「日本後紀」、869年「続日本後紀」、879年「日本文徳天皇実録」、901「日本三代実録」の6国史といわれるものが、日本語ではなく、中国語で著わされていたのか。カメさん、どう思いますか。」
「そう言われれば、不思議ですね。」
「その国史が中国語だけで著されていたのなら、それなりの理由が考えられますが、更に不思議は、天皇の「おことば」の宣命文が「日本語」となっているのです。」
「どういうことですか。」
「民に語った文章(宣命文)が、中国語文法の主語+述語+目的語ではなく、日本語文法の主語+目的語+述語となっているのです。」
「その日本語文法って、確か、北方騎馬民族のウラル語と共通しているのですよね。」
「そうです。中国語には、「てにをは」の格助詞がないのに、日本語には「てにをは」の格助詞があります。その「てにをは」の格助詞は、ウラル語系の格語尾から変化したものと考えられています。」
「その話、以前、どこかの書籍で読んだ記憶があります。その時、何故、日本語文法が、北方騎馬民族語と共通していたのか理解できなかったが、ナベさんの騎馬民族説を聞いたことにより、今では、理解できます。日本列島の6世紀半ばから7世紀半ばにかけて、騎馬民族が、幅12mの直線道路網により日本列島の流通を支配したことにより、その騎馬民族語の文法が、日本列島に定着したわけですね。経済力の強い言葉が、経済力の弱い言葉を駆逐するわけですね。現在の企業が、日本語ではなく、英語で会議をしていることと似ていますね。」
「教科書の日本史は、その6国史を基礎史料として語られています。私が、教科書歴史を藤原日本史と呼ぶ理由は、その6国史の多くは、藤原氏により編纂されていたからです。「日本書記」は藤原不比等、「続日本紀」は菅野真道、「日本後紀」は藤原諸嗣、「続日本後紀」は藤原良房、「日本文徳天皇実録」は藤原基経、「日本三代実録」は藤原時平を中心に編纂されていたのです。」
「ナベさんの言う、日本史の謎は、藤原氏の謎という意味が少し理解できました。中国語で著わされた国史が、901年で中止となったのは、唐帝国が、907年に滅んだことと関係があるようですね。」
「私も、そう考えます。唐帝国に提出していたのが、藤原氏一族編纂の6国史だったのです。」
「6国史は、唐帝国のエージェントである藤原氏による、日本列島経営報告書とも考えられますね。」
「それは、一寸言い過ぎだと思います。しかし、唐帝国と藤原氏との関係は、大いに考えられることです。6国史に、遣唐使船関係の記述が極端にないのも、藤原氏に不都合な事績を削除していたことが考えられます。」
「遣唐使船は、唐帝国の文化を輸入するためではなく、唐帝国の税制である律令制度により、日本列島から税として集められた物品を、唐帝国に貢ぐのが任務だったとも考えられますよね。陸奥国の砂金や絹の簒奪侵攻を回避するため、その律令軍団に反逆したのが、東国を支配していた騎馬民族ですよね。」
「そうですね。」
「その騎馬民族であるエミシ(蝦夷)は、801年金髪の坂上田村麻呂が、赤毛のエミシ棟梁アテルイをだまし討ちにしたことにより、平定され、811年文屋綿麻呂が、エミシ(蝦夷)を討ったことにより、爾薩体や津刈以外は、律令軍の支配下と、藤原日本史は述べていますが、ナベさんの説では、平安時代まで、エミシ(蝦夷)は、丸山古墳を造り続けていたのですよね。」
「平安末期のエミシ(蝦夷)の支配地は、爾薩体や津刈だけではなかったのです。渡島も支配地だったのです。」
「歴史書では、渡島は「わたりしま」と読み、北海道の最南端のゾウの鼻のような地域ではないのですか。後に、江戸時代に松前藩が置かれた。」
「渡島の読みは、「おしま」で、渡島は当て字です。713年藤原不比等が画策した好字令の漢字二文字で、人名・地名を表わすことにより、前政権の歴史を消していたのです。その「おしま」(渡島)とは、下北半島のことです。その下北半島と津刈半島に囲まれた内海は、ユーラシア大陸との海路となっていたのです。」
「津刈の十三湊は、古代の国際港だったことは最近知りましたが、下北半島は、恐山のイタコしか知りませんでした。その下北半島は、平安時代末期、エミシ(蝦夷)の支配地であり、ユーラシア大陸との窓口でもあったわけですね。」
「藤原日本史では、東アジアからの窓口を、朝鮮半島から北九州、そして、瀬戸内海を経由して、大阪湾としているようですが、しかし、東北の民族も、古来からユーラシア大陸との海路を開発していたのです。リマン海流は、サハリンの南西から沿海州に沿うように南下して、朝鮮半島北東まで到達します。そこから、南下して、対馬海流に乗れば、出雲、北陸、佐渡、新潟、秋田、津刈の十三湊、そして、津軽海峡を通れば、下北半島に上陸できるわけです。東北からユーラシア大陸に行くには、十三湊から北海道西岸を北上すれば、対馬海流の分流に乗れて、サハリンまで行けるのです。サハリンからユーラシア大陸は目と鼻の先です。海流は、海のベルトコンベアですから、海流に乗れば、帆船でなくても、目的地に行き着けるのです。ズーズー弁が東北だけではなく、出雲もズーズー弁であることは、そのリマン海流+対馬海流ルートで解明できると思います。」
「それを聞いて、思い出しました。「騎馬民族征服説」では、騎馬民族が朝鮮半島から北九州に上陸して、大和を征服した、としているのですよね。」
「そうです。それに対しての反論が、北九州や中国地域に、騎馬民族文化の欠片も見られないし、馬産のための「牧」の遺構・遺跡が発掘されてない、です。」
「騎馬民族が、朝鮮半島からではなく、ユーラシア大陸から直接、東北にリマン海流と対馬海流を利用して渡来したならば、魏志倭人伝に、倭国(北九州)には馬牛が存在していなかったのに、6、7世紀の東国では、西国を凌ぐ馬産地となっていたことが説明できますね。」
「古代の馬産は、自然交配で、管理が容易な広々とした草原を必要としていたのです。適地としては、岬です。三十頭から五十頭の雌馬に、種馬として一頭の優秀な牡馬をあてがい、子馬を得ていたのです。そして、優秀な子馬を得るために、牧草の他に、雑穀を飼料として与えていたのです。雑穀は、焼畑農業により収穫していたのです。」
「すると、西国では、焼畑農業ではなく、水田稲作ですよね。馬の飼料など、作れませんよね。それに、東国に比べて、西国には広々とした草原は、多くはないですよね。」
「「日本書記」にも、和銅2年(709年)「出羽並びに渡島の蝦夷87人、馬一千疋を貢す」、とあるように、出羽やおしま(渡島)では、騎馬民族が馬産に励んでいたのです。」
「その東北の騎馬民族は、鎌倉時代には、どうなっていたのですか。」
「藤原日本史では、律令軍に屈服して、俘囚長として、清原氏、阿部氏となったが、「清和源氏」により滅ぼされたことになっています。」
「でも、その「清和源氏」の棟梁の源頼朝三代は、北条氏の陰謀により、抹殺されたのですよね。なんだか、話がうますぎますよね。藤原氏の邪魔者が、次々と消されていくみたいですね。」
「鎌倉時代のことは、客観的な史料が存在していないため、うかがい知ることはできないようですが、南北朝の動乱を描いた、1366年小島法師作と伝わる「太平記」には、野伏の言葉として、その野伏の素性をうかがい知ることができるようです。」
「どんなことですか。」
「その物語によれば、北朝の天皇らの一行を、野伏が襲うのです。そこで天皇の従者が、「この世にただお一人の天皇さまが、とおられるのに乱暴することは何事だ。」、と言うと、野伏らは、「どんな天子であれ、運がつきはてて逃げ出すのを、なにも通るなとは言わない。通りたければ、供の武士どもの馬や物具を身ぐるみおいて、安心して逃げればよかろう。」、と答えたのです。」
「その問答が、野伏の素性と関係があるのですか。」
「従者が「天皇さま」、と言っているのに、野伏は、「天子」と言っているからです。「天子」とは、「てんし」と読むのではなく、「テングリ」です。騎馬民族の王は、「テングリ」なのです。」
「すると、ナベさんは、その野伏は、騎馬民族の素性であると考えているのですね。」
「そうです。中世では、天皇は、院とか天子(テングリ)と呼ばれていたようです。更に、野伏の大将は、上皇や天皇を「院というかイヌとかいうか、イヌならば射て落とさん。」、と矢を放ったりしたようです。但し、「太平記」の物語の中ですけど。」
「野伏と言えば、鎌倉時代に、「悪党」という武装集団が現れていましたよね。その「悪党」とは、何者ですか。」
「「悪」も、「おしま」(渡島)と同じに、漢字による、異民族の歴史消しです。「悪党」は、「アク党」です。」
「どのように違うのですか。」
「アクは、仏教用語の「悪」ではなく、騎馬民族語の「勇者」の意味の「アク」です。その「アク党」は、「綾羅金繍」という派手な衣装に、照り輝くばかりの鎧兜で武装していたのです。そのアク党は、律令制が崩れた中世に、東北から関東に進出してきたエミシ(蝦夷)末裔と考えられます。」
「どういうことですか。」
「角の付いた冑や派手な鎧は、平安時代に神社(モリ)で、怨霊の魂鎮めを武芸によりおこなっていた、武芸者の衣装だからです。その武芸者の祖は、平安時代に陸奥国から捕虜となったエミシ(蝦夷)だったのです。その武芸での剣舞の「かたな」は、エミシ(蝦夷)の武器である、蕨手刀を改良したものです。因みに、「かたな」(片刃)とは、完全ではない「刀」と言う意味です。その武芸者が、唐帝国の滅亡で京都の律令軍が壊滅状態なのを見越して、939年から941年にかけて内乱を起こした武装集団を、騎射や騎馬戦術により殲滅した功績により、「武士」として公に認められたのです。武士の素性は、エミシ(蝦夷)末裔であったのです。」
「そのエミシ(蝦夷)の武士が、鎌倉時代に「野伏」となってしまったというのですね。」
「治安が不安定な中世で、アク党は、「平家」が宋からもたらした「宋銭」により、東国に貨幣信用経済が本格的に進展したため、新たな商工業者、交通運送業者、倉庫業者が広範囲に出現してきたため、その者達の用心棒として、派手な衣装により「勇者」を標榜して、仕事を得ていたのです。アク党の仕事は、何かの訴訟が起きると、それを請け負って、武力でそれを解決していたのです。」
「何か、ヤクザの仕事に似ていますね。」
「ヤクザの本来の意味は「役座」で、同業者組合である「座」を取り仕切る「顔役」のことです。「役座」が発生した鎌倉時代は、貨幣による経済活動が盛んになっていた時代だったのです。そして、平安時代末期から鎌倉時代にかけて始まる中世では、武力が正義だったのです。だから、武装集団は、自らを「勇者」という意味で、「アク党」を標榜していたのです。」
「すると、鎌倉時代に東国で唱えられていたとする「悪人正機説」も、藤原日本史で言うことと異なる解釈になりますよね。」
「「善人より悪人の方が成仏する。」、というノンロジカルな呪文ですね。」
「その文章、英語に訳せないようですね。」
「理論的に破綻していますからね。英語は、ロジカル語ですからね。「善人より、勇者(アク)の方が成仏する。」、ならば、意味が通じますね。英語にも訳せると思います。」
「もし、ナベさんの解説が正解であったら、その呪文は、騎馬民族を鼓舞することになりますね。「アク党は、善人より成仏する。」、ですからね。アク党は、命を賭して武力で訴訟を解決することに励めますね。」
「その呪文の掲載書籍は、浄土真宗の開祖である蓮如により、禁書とされていたのは、藤原氏の流れにある蓮如が、中世の経済活動で活躍する騎馬民族を賎民として貶めるためだったと考えられます。その禁書が、解禁されたのは、明治革命後だったのです。ですから、浄土真宗の信者でも、戦国時代から江戸時代にかけては、その書籍を読むことは出来なかったのです。親鸞の「歎異抄」として宣伝されたのは、明治36年雑誌「精神界」に、連載記事として発表されたからです。」
「明治ですか。「親鸞の歎異抄」宣伝は、藤原氏が復活した明治の軍国主義と関係がありそうですね。でも、浄土真宗の開祖は、親鸞ではないのですか。それ、どういうことですか。」
「親鸞が著わしたとされる書籍は、多く残っているようですが、親鸞が、浄土真宗の教えを東国で説いていたのかは、疑問だからです。」
「その根拠はあるのですか。」
「法華経以外は宗教ではないとする日蓮は、鎌倉時代に活躍した宗教者を誹謗中傷していたのです。法然だけではなく、その無名な弟子までも中傷していたのに、「親鸞」についてはまったく触れていないのです。」
「確か、藤原日本史によれば、親鸞は、法然の愛弟子でしたよね。」
「そうですが、現在の研究では、法然と供に流罪となった、とすることには「疑問符」が付いているのです。賎民を、「南無阿弥陀仏」の浄土真宗の教えにより救ったとされる「親鸞像」は、戦国時代の蓮如により「発明」されたようです。」
「そう言えば、浄土真宗って、ユダヤ教に似ていますね。」
「どういうとこですか。」
「ユダヤ教は、血縁関係者ザドク一派で支配していたように、浄土真宗も何代も続く血族支配ですよね。女犯禁止の仏教なのに、何か変ですねニッポン仏教は。そうそう、親鸞が唱えたとする「南無阿弥陀仏」って、「わたしは、アミ様を信じます。」の意味ですよね。浄土真宗って、仏教は多神教だと思っていたのに、まるで一神教ですね。すると、浄土真宗は、ユダヤ教より、ユダヤ教ヨシュア派の方かな。」
「すると、カメさんは、蓮如が「パウロ」とでも考えるわけですか。」
「大工のヨシュアが実在したかの史料はないのに、パウロが、ヨシュアの言動を民衆に宣伝したことにより、ヨシュアが実在の人物となってしまったのですね。更に、藤原日本史では親鸞の妻とする恵信尼が、マグダラのマリアというのはどうですか。」
「恵信尼の妹に宛てた手紙がなければ、親鸞の実在性が証明できないように、キリストの最後を看取ったのがマグダラのマリアと云われていますね。親鸞もヨシュアも架空の人物と言うのは、面白い発想ですね。そして、「ヨシュアはメシア」をギリシャ語訳して、「イエス・キリスト」ですか。中世の東国の民の多くは、亡命百済貴族が信仰する仏教徒でもなく、ユダヤ教に改宗したハザール民族末裔の藤原氏が支配する中臣神道信仰民族でもなく、「ミトラ神」の太陽神と「太一」の北極星を祀る民族であったのです。それに、中世の東国は騎馬民族末裔が多く暮らしていたため、馬による運送業が発達していたので、西国よりも物流が活発だったのです。それに、西国よりも、貨幣経済が発達していたのです。更に、東国は、新しい鎌倉宗教思想により、貧乏人の賎民を救う必要のある劣悪な環境だったとする、客観的な史料などないのです。」
「でも、部落問題を扱った書籍には、これでもかって程の賎民の絵が掲載されていますよね。その鎌倉時代に発生したとする中世の賎民を描いた絵も、やはり、源頼朝絵と同じに、室町時代以降に創作されたものですか。」
「1467年応仁の乱で、京都の街も鎌倉の街も焼失しまっていたので、鎌倉時代の客観的史料が存在しないので、何とも言えません。しかし、鎌倉時代に騎馬民族末裔の賎民「穢多」がいて、鎌倉新仏教の思想により救われていた、とする藤原日本史の物語は、私には信じられません。そもそも、御成敗式目は、奈良時代に藤原不比等により制定された養老律令に従わない、東国の百姓の活動を取り締まるための法律であったのです。その百姓とは、農耕民の意味の百姓ではなく、百の姓(かばね)である身分を持つ多様な民族の意味だったのです。百姓が、今につながる農耕民の意味となったのは、1588年藤原氏の傀儡である豊臣秀吉による刀狩令と、1591年豊臣秀吉による士農工商の身分法を定めた以降からです。鎌倉時代の百姓とは、武士もいれば、職能民もいれば、金融業者、運送業者など、多士済々、百の姓(かばね・身分)の総表だったのです。」
「すると、藤原日本史で説く、「鎌倉時代は御成敗式目により武士が支配していた時代」って言うのも「うそ」ですか。」
「藤原日本史の鎌倉時代物語が、「うそ」と断定するには、その根拠を示さなければなりません。しかし、藤原日本史の鎌倉時代物語を否定する史料が存在しないのです。」
「でも、歴史本では、鎌倉時代を物語るのに「吾妻鏡」をよく引用していますよね。」
「1180年から1266年までの鎌倉時代の正史としての記録書といわれているものですね。」
「そうですけど。」
「その「吾妻鏡」は、客観的史料ではなく、反騎馬民族思想を持つ亡命百済貴族末裔の桓武平氏の北条氏の作文であることは、ご存知ですか。」
「源頼朝以来の鎌倉幕府の正史ではないのですか。」
「不思議なことに、その鎌倉幕府の正史と云われる「吾妻鏡」には、西国の風俗記録の記述がスッポリ抜けているのです。」
「どのようなことですか。」
「西国の祇園会のことです。祇園会は、西国最大の祭りです。しかし、王権に逆らう賎民による賎民のための祭りですが。」
「鎌倉幕府は、東国だから、西国の文化を知らなかったのでは。」
「そんなことはありません。北条鎌倉幕府は、1221年寺社に拠点を構えた賎民に支配された西国を警察するために、六波羅探題を設置したのです。その六波羅探題に隣接する北上には、祇園会をおこなう民族の支配地だったのです。その洛外にある六波羅とは、平安時代では死体が流れ着く「髑髏ガ原」を語源としていたのです。」
「すると、「吾妻鏡」に祇園会の記述を掲載しなかったのは、何かの意図があると、ナベさんは考えるわけですか。」
「そうです。祇園会の歴史を説くと、古代新羅からの渡来民族の物語が現れるからです。これは、古代新羅からの渡来民族の支配地の「山背国」を乗っ取り「山城国」とし、平安京を支配した亡命百済貴族には、隠蔽しなくてはならない歴史です。」
「どう言うことですか。」
「カメさん、中世に、京の天皇が住まう大内裏が、何故、跡形もなく消えて、農地になっていたのか、考えたことがありますか。」
「ナベさんの鎌倉時代のレポートで、そのことを始めて知りました。オレの幻視レポートにも書いたように、平安京の大内裏の地には、それ以前に巨大前方後円墳があったようですね。」
「京都盆地は、丹後半島からつづく古墳群の流れにあったのです。近畿一帯の古墳発掘は盛んにおこなわれていますが、丹後半島には、未だ発掘されていない多くの古墳群が眠っているのです。藤原日本史では、奈良盆地の古墳を、大和朝廷の墓制としているようですが、丹後半島にも、奈良盆地に匹敵するような王国の存在が示唆されるのです。」
「それは、どうしてですか。」
「リマン海流+対馬海流の日本海の海流ルートが、日本列島に流れ着く先が、出雲と丹後半島だからです。方墳や丸山古墳、高句麗にルーツを持つ前方後円墳は、農耕民族の甕棺に葬る墓制ではなく、遊牧・騎馬民族のものです。ユーラシア大陸を活動拠点としていた民族が、船でリマン海流に乗り南下すると、朝鮮半島の東岸(高句麗・新羅)の地に流れ着きます。その朝鮮半島東岸から、更に船で南下すると、対馬海流に乗り、出雲そして丹後半島に流れ着きます。出雲や丹後半島は、ユーラシ大陸・朝鮮半島東岸との窓口であったのです。」
「それと、祇園会とが関係あるのですか。」
「藤原日本史では、祇園会を開催するのは、感神院祇園社の神仏混交の仏寺としています。しかし、殺生禁止の仏寺が、「牛頭」を「天皇」とする祭りを開催する訳はないのです。」
「そう言われれば、変ですね。やはり、祇園会には、隠された秘密がありそうですね。」
「その「牛頭」を、古代朝鮮語で、「ソ・シ・マル」と言います。」
「牛の頭が、「ソ・シ・マル」ですか。「出雲神話」の主人公の「スサノオの尊」が、確か、新羅の「ソシモリの岳」に天降ったことになっていますよね。古代朝鮮語の「モリ」とは、神が宿る「聖地」の意味ですよね。すると、スサノオは、「牛の聖地」に天降ったというわけですね。」
「そうです。古代日本列島では、「神社」と書いて、「モリ」と読ませたのはそのためです。しかし、奈良時代になると、その神社(もり)は、禁足地となってしまうのです。その「牛のモリ」に天降ったスサノオは、慶応4年(1868年)神仏分離令で、仏寺から神社(じんじゃ)となった八坂神社の祭神となっていたのです。つまり、「スサノオ」は、「牛頭天皇」なのです。」
「日本神話では、新羅出自のスサノオは、悪役として描かれていますよね。」
「六国史は、親百済、反新羅を基本としているようです。」
「どうしてですか。」
「日本初の天皇が、新羅系天武天皇であったからです。その新羅系王権を簒奪したのが、藤原氏と亡命百済貴族であったからです。」
「その根拠はあるのですか。」
「6世紀から日本列島の東国に渡来していた突厥軍団に支援された新羅皇子軍団は、近江に亡命王朝を開いた百済亡命軍団を、672年壊滅させると、その新羅皇子を、天武天皇として即位させるのです。そして、近畿一帯を治めるために、684年八色の姓を制定するのです。その八色の姓とは、真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置です。」
「それが、何を意味するのですか。」
「藤原日本史では、崇仏派の蘇我氏が廃仏派の物部氏を587年に滅ぼし、そして、593年摂政となった聖徳太子により、仏教が興隆したことになっています。つまり、朝廷は、「神」ではなく、「仏」を祀っていたことになります。」
「神軍団と仏軍団との戦争で、勝利した側が、天皇家を支えることになるわけですね。」
「すると、不思議なことになるのです。それは、天武天皇が制定した姓が、東アジアで死闘を繰り広げていた漢訳仏教の敵である、道教思想に則っているからです。「真人」とは、太一である北極星を守護する「北斗七星」のことです。宿禰(スクネ)とは、騎馬民族語で勇者の意味です。道師とは、道教の師の意味です。」
「すると、天武天皇は、仏教徒ではなく、道教徒であったと言いたいわけですね。でも、藤原日本史では、道教思想は、日本列島に伝来していないことになってるようですが。」
「藤原日本史では、歴史の改竄のための色々なトリックを使っています。そのひとつが、消すことが出来ない「モノ」は、違う「モノ」に摩り替ることです。道教は、「陰陽道」として摩り替えているのです。」
「陰陽道については、安倍晴明ぐらいしか思い当たりません。牛頭と言えば、オレの幻視では、古墳の近くの祭祀場で、屠られた牛頭を祭壇に掲げている祭祀集団が登場しましたが、祇園会と何か関係がありそうですね。」
「大有りです。怨霊に悩む百済系桓武天皇は、近畿一帯での牛屠殺の禁止を、804年に発令していたのです。」
「藤原日本史では、農耕に必要な牛を殺すことを禁止の理由としていますが、別の理由が考えられますね。」
「そうです。単なる、農耕のための禁止なら、農耕には牛と馬が使われていたのに、何故、牛だけを屠殺禁止とした意味が分かりません。それは、太陽神信仰民族の祭祀儀式の禁止のためです。太陽神を祀るミトラ教では、牡牛は太陽神の化身です。その化身である牡牛を屠ることにより、太陽神の再生復活を願うのです。そして、屠られた牛の頭は、太陽神に捧げられ、生き血を飲み、生肉を食べることにより、太陽神と一体になるのです。」
「すると、漢訳仏教思想の、「殺生禁止・血の禁忌・肉食の禁止」とは、ミトラ教の祭祀儀式を封じるための呪文だったとも考えられますね。」
「紀元前5世紀頃に、「仏の道」を説いたとする釈尊の思想には、「殺生禁止・血の禁忌・肉食の禁止」などありません。釈尊は、民族差別思想のバラモン教のカルマから逃れるために「非人」となり、「乞食」として生きることを説いていたのです。しかし、紀元一世紀にギリシャ文化が継承されていた国際都市ガンダーラで発明された大乗仏教は、遊牧・騎馬民族にも信仰されていた時期もあったのです。が、しかし、東アジアに伝来し、「ギリシャ語」から漢訳された時点で、反騎馬民族思想を取り入れていたようです。それは、仏教の敵である、道教が騎馬民族に信仰されていたからです。」
「仏教経典の原書は、ギリシャ語ではなく、サンクスクリット語ではないのですか。」
「大乗仏教の経典が、サンスクリット語で著わされたと言う根拠はないし、証明することは出来ないのです。」
「どうしてですか。」
「それは、東アジアで漢訳されると、原典は全て焚書されていたからです。」
「でも、サンスクリット語の仏典が存在していますよね。」
「それは、7世紀に漢訳仏典からサンスクリット語に復元されたものです。その反騎馬民族思想を持つ漢訳仏教僧侶が支配する感神院祇園社が、河原者が暮らす祇園での牛頭を祀る祭祀儀式を取り仕切るはずはないのです。平安時代に建立された、疫病や厄払いをおこなうとする感神院祇園社とは、牡牛を屠る民族の歴史を隠蔽・抹殺する仕掛けなのです。」
「すると、平安京の大内裏は、その昔、ミトラ教の儀式をおこなっていた祭祀場であったと考えてもいいわけですね。そのように考えると、平安京の大内裏が、中世には跡形もなく農地となっていたことは、奈良の平城京が百年も経たないうちに廃墟となったことと通じますね。」
「奈良の平城京も、巨大前方後円墳を破壊した跡に建設されていたのです。その平城京は、東大寺の遍照鬼を鋳造した時の銅と水銀の鉱毒により、奇病に侵されていたのです。鉱毒の症例を知らない古代人は、それを前政権の祭祀場を破壊したための祟りとして認識していたのです。」
「京都の平安京に遷都されたのは、奈良の平城京の奇病発生から、ほんの数十年後ですよね。平城京の祟りが現実物語として、古代新羅から渡来した民族の支配地を乗っ取った亡命百済貴族に、伝聞されていた可能性が大ですね。」
「そう考えてもよさそうです。奈良時代に始まる古墳を破壊して遷都の結果、平城京を見下ろす東大寺の遍照鬼から発生したとする、怨霊に対するひとびとの恐怖心は、江戸時代まで伝わっていましたからね。」
「どういうことですか。」
「奈良の大像を、藤原日本史ではビ・ルシャナブツとする大仏像と説いていますが、その大像が大仏像であるとする根拠はないのです。大仏であるならば、ひとびとは安心して拝観しますが、江戸時代の「奈良の大仏」は、手から怨霊を発生させると信じられていたのです。それは、平安時代初期に空海が発明した密教の手印呪術の結果です。空海は、その遍照鬼を、大日如来と摩り替えていましたが、庶民は江戸時代まで、その大像から発生する怨霊を恐れていたのです。」
「その根拠はあるのですか。」
「カメさん、東大寺の大きな門に四角い窓が開いているのは何故だと思いますか。」
「分かりません。」
「それは、江戸時代に観光資源目的に、「奈良の大仏」が「創作」されたのですが、誰も、大仏の手から発する怨霊を恐れて、訪れることがなかったのです。その怨霊手印対策として、大きな門に四角い窓を開けて、大仏の顔だけ拝観させていたのです。江戸時代のひとびとは、恐る恐るその大仏を、大門の四角い窓から拝観していたのです。」
「ナベさんは、「奈良の大仏」を「遍照鬼」と言っていますよね。遍照鬼とは、一体何なのですか。」
「「遍照」とは、「太陽」のことです。「鬼」とは、「仏教の敵神」のことです。」
「すると、遍照鬼とは、仏教の敵神の「太陽神」ということになりますね。」
「そうです。」
「すると、遍照鬼とは、奈良時代前の古墳時代に騎馬民族の突厥進駐軍が支配していた明日香ヤマト王権に従属していた、奈良盆地のイカルガを拠点にしていた古代新羅から渡来した花郎騎士団が信仰していたミトラ神とも考えられますね。ミトラ神は、藤原日本史では、新羅から伝来したとする弥勒菩薩に摩り替えられていますよね。」
「そうですね。古代新羅から渡来した民族は、河内湖を干拓して支配地としていたのです。藤原日本史では、その河内国にある「知識寺」に、740年(天平12年)聖武天皇が行幸して、東大寺のビ・シルャナブツを造像するきっかけとなった、としています。」
「でも、そのころの聖武天皇は、藤原氏のロボットから脱却して、都を転々と遷都して反藤原氏勢力となっていたのですよね。そして、聖武天皇が紫香楽宮の都で造像していたのを、藤原氏勢力が闇討ちして火を放って妨害していたのですよね。」
「そうです。その大像が、仏像ではないとの根拠のひとつとして、藤原氏により送り込まれた光明子が、騎馬民族に支援されていた天武天皇の子長屋王の反対を押し切り、藤原四兄弟による長屋王謀殺後、聖武天皇の皇后となり、そして、聖武天皇の鉱毒死の後、光明皇后は、756年聖武天皇の遺品を納めた正倉院から、陽宝剣と陰宝剣を持ち出し、その大像の近辺に埋めていたのです。」
「宝剣は、実戦で使う武器ではなく、敵の怨霊を封じるための王権が所有する祭祀道具ですよね。すると、やはり、奈良の大像は、鎮護国家のための仏像なのではなく、鬼像だった可能性が大ですね。」
「東大寺の「奈良の大仏」の謎は、奈良時代の出来事を記述した、797年完成の正史「続日本紀」には、その造像の制作過程の記述が抜けているのです。」
「でも、歴史本には、752年大仏開眼供養が行われ、聖武太上天皇、孝謙天皇、光明皇后が列席の下、インド僧菩提僊那ほか一万人の僧が招請され、五節の舞、久米舞、楯伏の舞、踏歌、袍袴などの歌舞が盛大におこなわれたとありますよね。」
「その描写は、歴史小説「天平の甍」によるもので、史実ではありません。その開眼供養が行われたとされる頃、聖武太上天皇は、鉱毒により病に臥せっていたのです。それに、その752年には、「奈良の大仏」は完成していなかったのです。「奈良の大仏」の謎は、その造像から修繕、再建を時系列にすると、解けると思います。」
「面白そうですね。」
「☆奈良時代
743年大仏造立の詔が聖武天皇により発せられる。近江国紫香楽宮で、造営準備が始まる。
744年紫香楽宮の甲賀寺に、大仏の骨柱を立てた。
745年大和国平城京で、新たに大仏造立を始める。
747年大仏の鋳造を始める。大仏殿の造営を始める。
749年大仏の鋳造が終わる。螺髪の鋳造を始める。
751年螺髪966個が完成。大仏殿の造営が終わる。(現在の大仏の螺髪は約500個)
752年大仏開眼供養。
755年大仏の鋳掛の完成。
757年大仏の塗金作業が終わる。
771年大仏の光背が完成。
☆平安時代
855年大仏の頭部が落下。
861年大仏の修理完成。
1117年仏師長円が大仏修理。
1180年平重衡が東大寺に放火。大仏が焼かれ、頭部と両手が焼け落ちる。
1181年僧重源が大仏修理を命ぜられる。
1184年大仏の補修が終わる。
☆鎌倉時代
1195年大仏殿完成式が行われた。
☆戦国時代
1567年三好と松永の戦闘により、大仏殿が焼失。大仏の頭部焼け落ちる。
1568年頭部がないので、表面に銅板を張った木製の頭部を設置した。
1569年大仏の損傷部の修理。
1580年藤原孫左衛門が右手を鋳造。
1589年大仏の鋳掛ほぼ完成。
☆江戸時代
1610年大仏殿の仮屋が倒れる。大仏の頭部傾く。露仏となる。
1686年大仏の鋳掛始まる。
1690年頭部の鋳造完成。(現在に至る。)
1692年大仏修理完成。
1709年大仏殿完成。
☆明治時代
1910年明治政府、大仏殿の修理補強をおこなう。
カメさん、この年表を見て、何かを感じませんか。」
「気になるのが、頭部のことです。何故、鋳造された頭部が、何度も落下するのでしょうか。それと、何度も焼け落ちる手も気になりますね。」
「カメさん、首の欠けた地蔵さんを見たことありませんか。」
「出版社カメラマン時代に、取材で山里を訪れた時、時々見かけました。セメントで修理したものもありましたね。それが、「奈良の大仏」と、何か関係があるのですか。」
「全国の地蔵の首が一斉に落とされたのは、1868年明治新政府による神仏分離令の結果、廃仏毀釈運動によるものです。古来から、博打打ちは、地蔵の鼻を賭け事のお守りとしていたのですが、その明治初期の廃仏毀釈運動では、江戸時代に幕府の手先として騎馬民族末裔の賎民をイジメていた仏教のシンボルのひとつとして、その賎民により地蔵の首が狙われたのです。このことは、戦国時代にもありました。「平家」の祖であるアラブ系海洋民族を賎民の「余部」としてイジメていた仏教組織に対して、イエズス会の軍事的支援を受けた、アラブ系海洋民族末裔の織田信長は、二条御所の修復の為に、その基礎石材として、近畿一帯の石像、地蔵を集め首を落とし、それらを利用していたのです。」
「首を落とすことに、何か意味があるのですか。」
「ひとは再生すると信じる民族にとって、首のない胴体は、再生不可能を意味するのです。それは、永遠の死を意味するのです。これは、再生を信じる民族にとって、最大の恐怖でもあり、最大の脅しでもあるのです。」
「すると、大仏の首が、何度も落ちたと言うことは、大仏を信仰する民族を抹殺したい意図があった、と考えることも出来ますよね。」
「カメさん、奈良時代の「奈良の大仏」が、本当に仏像だったとしたら、台風や落雷で、簡単に頭部が落下するような鋳造を、巨大像を鋳造することが出来る高度技術者が、おこなうと思いますか。しかし、もし、その奈良時代の大像が、仏教の敵神、ミトラ神像だったらどうでしょう。」
「でも、「奈良の大仏」は、仏像の特徴でもある、胡坐をかいていますよね。」
「力の弱い宗教組織は、色々な工夫をして信仰心を伝播していたのです。例えば、江戸時代の隠れキリシタンは、仏像の裏にキリストの文字を刻んだり、子を抱く聖母マリアを観音様像として製作して、弾圧者の目を逃れていたのです。」
「そう考えると、「奈良の大仏」の頭部と手が、何度も落下していたのは、江戸時代に創作されて、今日まで伝わる「奈良の大仏」とは異なる「頭部」と「手」があったと考えることも出来ますよね。」
「東大寺の大像鋳造の時期は、唐のエージェントで通訳師の藤原不比等の孫藤原仲麻呂が、政敵橘諸兄を太宰帥として左遷させ、正三位大納言となり、藤原四兄弟の不審死の後に衰退していた藤原王朝を復活させていたのです。そして、陸奥国の金を奪取する目的で、東北侵略を再び開始していたのです。藤原日本史によれば、746年(天平18年)藤原仲麻呂は、東山道鎮撫使を兼ねていて、息子を陸奥守兼陸奥按察使兼鎮守将軍として、「荒夷を教導して一戦も労せずに牡鹿郡に桃生城、坂東の騎兵、役夫、俘囚等を動員して小勝城を造った。」、としているのです。」
「746年に藤原王朝が陸奥国を侵略したのは、東大寺の大像鋳造の翌年ですね。」
「東北の侵略と、東大寺の大像とには、藤原日本史が隠蔽する奈良の歴史があるようです。大像が鋳造される前、741年藤原王朝は牛屠殺の禁止令を発しているのです。」
「それは、やはりミトラ教の儀式の禁止ですか。」
「確信はあるのですが、それを証明する史料がありません。しかし、藤原日本史では、日本国には神と仏が、古来から祀られていて、それ以外の神は八百万の神として説明されていますが、藤原氏の神を祀る春日大社の創建は、756年(天平勝宝8年)以前にはありえないのです。」
「その根拠は何ですか。」
「反藤原氏となった聖武天皇の遺品を納めた正倉院にある天平勝宝8年(756年)作製の「東大寺山堺四至図」には、その春日大社の建立する地は、「神地」とする空き地とあったのです。」
「すると、正倉院の遺品を調べれば、東大寺の大像がミトラ神像であったか分かるかもしれませんね。」
「カメさん、それが残念なことに、794年平安京に遷都した百済系桓武天皇により、正倉院の多くの遺品が焚書・破壊されていたのです。正倉院は、一棟ではなく、数棟あったようです。その正倉院の支倉造りとは、藤原日本史では湿気を防ぐための南方系建物として説明していますが、実際は、北方系の遊牧民族の越冬のための移動式建物構造であるのです。」
「学校では、支倉造りは南方系と教えていたように記憶しています。教育という洗脳は、一歩間違えば、恐ろしいものですね。ところで、桓武天皇の焚書は、何を目的ですか。」
「それは、騎馬民族末裔が多く暮らしていた奈良時代の歴史の隠蔽だと考えています。騎馬民族に支援されていた新羅系天武天皇の皇子長屋王が存命中、騎馬民族が支配する陸奥国の武人は、北極星を祀る長屋王の館を度々訪れていたのです。しかし、藤原四兄弟に長屋王が謀殺された後、陸奥国の武人は、エミシ(蝦夷)と蔑称されていくのです。蝦夷(エミシ)とは、ヒゲのある夷(野蛮人)という意味です。このエミシ(蝦夷)の歴史が理解できなければ、平安時代末期に発生した「武士」が活躍する、鎌倉時代、南北朝、室町時代、戦国時代に到る、天皇を院(「イン」ではなく「イヌ」)とか天子(テングリ)と呼んでいた無政府状態の中世の歴史を理解することが出来ないと考えています。」
「すると、聖武天皇の遺品が焚書されて、奈良時代のエミシ(蝦夷)の歴史が解明できないから、中世の歴史を知ることは無理ですか。」
「勝者の歴史は、前政権の歴史を抹殺・改竄して創作される傾向があります。しかし、遺品や遺構の改竄は、文字の改竄よりも困難が生じます。それは、ひとの手を後から加えると、不自然が現れるからです。視覚を誤魔化すのは困難な作業です。」
「東大寺の大像も、奈良時代の創造時のものは、胴体下部と台座だけですよね。奈良時代の胴体下部と江戸時代の上部の継ぎ目は、一目瞭然ですからね。」
「東大寺の大像製作の謎は、他にもあるのです。それは、どのようにして重量のある大像を鋳造したかと言うことです。藤原日本史では、木造の基礎構造に粘土などで像をつくり、その粘土像を原型として、型を造り、何度かの鋳造で「約2年」で完成させた、としているようです。しかし、ちょっと考えても分かると思いますが、現在の木造の建売住宅でも、基礎工事がシッカリしていないと、数年で家が傾くことは大いにありえることです。」
「そう言えば、「奈良の大仏」の鋳造に関しての書物は、多くありますが、その鋳造地の基礎工事のことを述べてはいませんね。何か、不都合でもあるのですかね。」
「江戸時代に創造された「奈良の大仏」の重量は約250tと言われています。そのような大像を支える台座を含めれば、相当の重量を支える基礎工事をしなければ、数年で大像は傾きます。しかし、奈良時代から、現在に到るまで、台座と胴体下部を含めた大像は、傾いていません。」
「ナベさんは、その謎を、どのように考えているのですか。」
「東大寺の大像は、約2年で鋳造が完成したようです。基礎工事に関しての史料は、何も残っていないことは、そこに、王権が隠蔽したい「歴史」があると考えています。」
「例えば、どんな歴史ですか。」
「その鋳造地には、以前、巨大な構造物が存在していたのではないか、と考えています。」
「具体的には。」
「巨大古墳です。」
「すると、ナベさんは、東大寺の大像は、巨大古墳を破壊した跡に、鋳造したと言うのですか。」
「古墳の破壊ではありません。太陽神の再生、誕生です。」
「その根拠はあるのですか。」
「史料として根拠はありません。しかし、藤原日本史で述べている、仏教僧とする行基の行動を調べると、そこには不自然さが現れるのです。」
「どんなことですか。」
「行基は、貴族以外に接触してはいけないとする僧尼令に違反したと言うことで、弾圧を受けていたのです。奈良時代の唐帝国に指導された仏教僧は、王権のプロパガンダの手段としての存在だったのです。現在で言えば、御用マスコミ記者ということです。そして、仏寺は、大衆を意図的に洗脳する御用放送局か御用出版社ということです。その反御用マスコミ記者として活躍していた行基は、都ではなく山野で活動し、治水や架橋など高度土木事業をおこなっていたのです。しかし、741年小僧行基が、反藤原氏となった聖武天皇と、恭仁京郊外の泉橋院で謁見すると、行基は、大像建立のために山野の民を集めるために奔走するのです。そして、小僧と言われた行基は、後に、法師となっていくのです。」
「何か不自然ですね。」
「その行基の本貫地が、古代新羅から渡来した民族の支配地、河内国であったのです。四世紀末から巨大古墳が築造されていた河内国は、古来から反藤原氏、反亡命百済貴族であったのです。」
「すると、行基は、本当の仏教僧ではなく、古墳時代に古墳を築造していた民族の末裔であった可能性がありますね。その古墳時代の末裔が、三笠山の古墳からミトラ神像を再生させたと考えることも出来ますよね。三笠山には、鶯塚古墳が現存していますよね。」
「そのように考えると、大像の制作の疑問が解けるのです。その疑問のひとつは、約2年で鋳造の完成をしたとする大像の粘土原型の露外での保存のことです。その疑問は、雨風と旱に晒されれば、その巨大粘土原型は型崩れをおこす必然性があるからです。仮小屋で囲うとしても、高さ約15mの粘土原型を囲うには、設置と解体に、それ相当の期日が必要です。」
「そう考えれば、藤原日本史による築像建設説明は納得できませんね。」
「ところが、巨大古墳をくり抜き、大像の原型を掘りぬけば、原型像は、風雨や旱から防ぐことが出来ます。基礎工事も、巨大古墳の重量で土地を圧縮していたため、必要がありません。」
「その説明、オレ納得します。東大寺の大像は、ミトラ神像の可能性は大ですね。」
「可能性は、あくまで可能性です。鎌倉時代の謎は、奈良時代から続いているのです。」
「どういうことですか。」
「平安時代に現れた、「夷語と日本刀」の謎です。」
「日本刀は、武士の武器ですよね。では、その夷語とは何ですか。」
「夷語とは、古代東北のエミシ(蝦夷)の言葉です。」
「古代東北の言葉と言えば、アイヌ語ではないのですか。」
「藤原日本史では、エミシ(蝦夷)をアイヌ民族と混同するように仕掛けている伏しがあるようですが、エミシ(蝦夷)とアイヌとは、全く別の民族です。エミシ(蝦夷)は、馬に乗り弓を射ることが得意です。しかし、アイヌ民族には、そのような戦闘乗馬技術はありません。更に、エミシ(蝦夷)の武器は、ユーラシア大陸の騎馬民族の武器と同型の蕨手刀です。しかし、アイヌ民族には、そのような武器はありません。」
「エミシ(蝦夷)と言えば、藤原日本史で述べる東北の民族は、「日本書記」和銅2年(709年)「出羽並びに渡島の蝦夷八十七人、馬一千疋を貢す。」、とあるように、大和の朝廷と交流があったことになっているようですね。」
「「日本書記」が史実を語っているとすれば、奈良時代の東北には馬を朝廷に一千疋も贈呈できるほどの、馬産が盛んだったと推定できます。」
「でも、藤原日本史によれば、その同年、709年巨勢麻呂がエミシ(蝦夷)を討伐しているのですよね。すると、その馬一千疋は、奈良時代に平定された出羽と渡島の蝦夷からの戦利品ですか。」
「それは違うと考えられます。その根拠として、出羽と渡島のエミシ(蝦夷)は、平安時代まで、古墳を築きながら、平安王朝の律令軍団と騎射戦術で戦っていたからです。しかし、律令軍団に敗れ、帰順したエミシ(蝦夷)は、「俘囚」と蔑称されていくのです。」
「「俘囚」とは、どんな意味ですか。」
「アイヌ語では、「ウシウ」は、「奴隷」の意味ですが、「ふしゅう」は、「捕虜」の意味です。」
「でも、奴隷も捕虜も、囚われの身であるのは同じですよね。」
「平安時代、その「俘囚」の末裔が、「武士」と言われるのです。」
「藤原日本史では、武士の発生は、律令制度が崩壊し、荘園などの私領が広がり、その私領を護るために武装した者が、武士となった、としていますよね。それが、何故、「武士」が俘囚の末裔となるのですか。」
「「武士」の武器は「日本刀」です。その「日本刀」は、平安時代に突如登場するのです。」
「「日本刀」と言うからには、日本の国号が発明された7世紀末頃からの登場ではないのですか。」
「奈良時代の刀剣は、聖武天皇の遺物から調べられます。数多くある正倉院の御物には、後世に紛れ込ました物が多くあるようです。55振りの刀剣類と、5振りの手鉾、72振りの刀子が保存されているようですが、信頼できる聖武天皇の御物は、金銀鈿荘唐太刀、呉竹杖刀、漆鞘杖刀の三点だけです。しかし、これらは、「日本刀」の特徴である湾曲がない、直刀です。」
「何故、奈良時代の直刀が、平安時代に湾曲刀になったのですか。」
「それは、その刀を作った民族が、異なっていたからです。」
「その根拠を教えてください。」
「日本刀の謎のひとつは、製作過程で使われる「言葉」です。文字と言葉とは、どちらが先であるかは、アイヌ民族のように「文字」を持たない民族がいるように、言葉が先で、後から文字が発明されたのです。その「日本刀」の製作過程で使われる「言葉」が、平安時代の都の言葉ではないのです。例えば、「のたれ」、「なかご」、「まち」などです。文字では、「湾れ」、「茎」、「区」です。そして、「日本刀」の素材の鋼は、「タタラ製鉄」により造られるのです。」
「タタラ製鉄の「タタラ」の語源って、古代から中世まで騎馬民族が活躍していた中央アジアの「タタール」のことですよね。」
「そう言われています。いづれにしても、「日本刀」は、平安王朝を構成する民族と異なる民族が開発したようです。」
「すると、考えられるのはエミシ(蝦夷)ですね。武士←俘囚の末裔←俘囚←エミシ(蝦夷)と繋がりますね。ナベさんの説によれば、エミシ(蝦夷)は、6世紀から7世紀の明日香ヤマトを支配していた、ユーラシア大陸から渡来した騎馬民族の突厥軍団とギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した花郎騎士団の末裔と言うことですよね。それに、エミシ(蝦夷)の武器である蕨手刀は、反りがありますよね。日本刀のルーツは、蕨手刀ですか。」
「そう考えています。その「日本刀」で現存する最古のものは、800年代伯耆国の安綱作の名物童子切と云われる長さ約80cmの湾刀です。」
「その日本刀、「清和源氏」の源頼光が、丹波国の大江山の酒呑童子を退治したものですね。」
「それは、あくまでも伝説です。カメさんは信じないかもしれませんが、日本最古の日本刀物語も、「清和源氏」も伝説なのです。」
「鎌倉幕府を拓いた源頼朝の「清和源氏」が伝説ですか。信じられませんね。」
「日本刀が、世界の武器が実用品であるのに、芸術的或いは美術品的であるのは何故でしょう。さらに、日本刀が、前政権の怨霊を封じ込めるための施設として開発された神社(モリ)に奉納されるのは何故でしょう。」
「そう言われれば、日本刀を武器にする武士は、「武芸者」とか「もののふ」とも言われていますよね。古代の「芸」とは、民衆ではなく、神を楽しませる技のことですよね。「もののふ」とは、「もの」とは「神」のことで、「神の僕」との意味ですよね。日本刀を「武士の魂」とする武士のルーツは、祭祀者だったのですか。」
「平安時代に突然現れた日本刀のルーツも、平安時代に登場して鎌倉時代に活躍したとする武士のルーツも謎なのです。」
「それってどういうことですか。」
「例えば、鎌倉時代に始まったと信じられて、武士が行っていたとする流鏑馬は、平安時代の896年宇多天皇が「文徳源氏」の源能有に命じて制定されたとする日本の伝統的な騎射とされていますが、現在テレビなどで知られている騎射技術は、江戸時代に八代将軍徳川吉宗が再興した流鏑馬の流れを汲むものです。平安時代に始まる「文徳源氏」の流鏑馬の技術は、中世後期には廃れていたのです。」
「その説明の意味分かりません。」
「現在に伝わる流鏑馬は、長弓を用い左横の的を射ます。カメさん、これって変だと思いませんか。」
「何処が変なのですか。」
「もしも、流鏑馬のルーツが武士の実戦騎射技術だとすれば、そして、現在に伝わる流鏑馬が、平安時代からの騎射技術だとすれば、何故、的を左横に限定しているのでしょうか。流鏑馬が実戦的騎射をルーツとするならば、的(敵)は左右前後でなければならないと思いませんか。実際に、平安時代まで東北を支配していたエミシ(蝦夷)は、パルティアン騎射と言われている後ろを向いての騎射を行っていたのです。そのためには、長弓ではなく、短弓でなければならないのです。」
「でも、武士の戦闘を描いた「合戦屏風」などには、騎乗の武士は、短弓ではなく、長弓ですけど。」
「カメさん、中世末期から近世の戦闘を描いた合戦屏風は、何時代に描かれたと思いますか。その多くは、室町時代以降に創作された合戦物語を資料として、江戸時代に創作されたものです。」
「すると、合戦屏風絵も、つい最近まで学校の歴史教科書に掲載されていた「源頼朝絵」と同じに「ウソ」なのですか。」
「カメさん、常識的に考えても、2mちかくもある弓で、パルティアン騎射ができると思いますか。」
「ナベさんの説では、武士はエミシ末裔で、その祖は5世紀頃の日本列島東北に渡来した騎馬民族の突厥軍団とギリシャ・ローマ文化国の古代新羅から渡来した花郎騎士団というわけですね。」
「古代合戦絵の信憑性が薄いのは、5五世紀頃の古墳から発掘される馬骨から推測すると、古代馬の体高は約121cmです。体高とは、馬の首の骨から前脚の蹄までの長さです。」
「121cmですか。合戦絵の馬は、どう見てもサラブレット種ですよね。その平均的体高は約160cmですね。古代馬が、サラブレッド種に変身するわけはありませんよね。すると、江戸時代に描かれた合戦屏風は、古代武士を描写しているわけではないということになりますね。」
「古墳から発掘された馬骨から推測すると、古代馬は、ユーラシア大陸の草原馬と考えられます。サラブレッドは、草原馬を新種改良した人工馬です。」
「すると、「魏志倭人伝」によれば、3世紀の日本列島には牛馬がいないと記されていることから、古代武士が騎射していた馬は、5世紀頃ユーラシア大陸から日本列島東北に、騎馬民族がもたらした馬が祖と考えてもよいですか。」
「古墳からサラブレッド種の馬骨が発掘されないかぎり、そのように考えてもよいと思います。」
「平安時代に登場し、鎌倉時代に活躍したとする武士の武器は、弓馬ですよね。では、武士が携帯していたとする日本刀は、何の目的で蕨手刀から開発されたのですか。」
「以前レポートにも書いたように、平安時代の陸奥国平定後に登場した日本刀は、実戦武器としてではなく、祭祀道具として開発されたと考えています。」
「その根拠は何ですか。」
「日本刀が、実戦の武器として使用されたのは、それほど古い時代ではないのです。」
「でも、平安時代を描写したとされる戦闘絵には、日本刀で戦っているものもありますよね。」
「日本刀は、時代が下がれば下がるほど刀の幅が細くなっているのです。現在の刀剣は、慶長年間(1596年〜1615年)を堺に、それ以前を古刀、それ以降を新刀、幕末以降のものを新々刀と分類しているようです。その古刀と新刀との分類は、江戸時代末期に著わされた「新刀弁疑」という書籍によります。」
「慶長年間と言えば、藤原氏の傀儡である豊臣秀吉が、中国の明国を支配する目的で、その進軍路として朝鮮半島を侵略した、第二次侵略戦争の「慶長の役」があった時代ですよね。そして、それ以前の文禄の役の2年前、1588年には刀狩り令が発令されていましたよね。」
「豊臣秀吉の刀狩り令は、名目として大仏建立のためとか喧伝れていますが、鉄製の大仏ではなく、木製の大仏が造られていたことから、実戦用の日本刀を鍛造するための材料集めにおこなわれたのではないかと考えています。」
「だから、慶長年間以降の日本刀は、実戦向きに刃が肉厚になったわけですね。すると、それ以前の古刀は祭祀道具ということですね。だから、日本刀は、怨霊封じ込めの施設である神社(もり)に奉納されたわけですね。」
「状況証拠はあっても、藤原日本史では日本刀のルーツを謎としているのは、日本刀のルーツを解明すると、そこに、鎌倉時代まで東北の一部を支配していたエミシ(蝦夷)が現れてしまうからです。日本刀の特徴のひとつは、湾刀ということです。しかし、初期の日本刀は、刃の中央からの湾曲ではなく、柄の部分の「なかご」と刃との分岐点である「はまち」から反っていたのです。勿論、刃は湾曲していなくて、直刃だったのです。」
「その刀の構造、蝦夷の蕨手刀と同じですね。」
「現在の日本刀の特徴である湾曲刃は、後に開発されたのです。」
「古代の武器について、もうひとつ質問していいですか。それは、現在につながる長弓は、竹製ですよね。蝦夷が、ユーラシア大陸から、五世紀に日本列島東北に渡来していたなら、当然、武器として弓矢を携帯していましたよね。ユーラシア大陸に「竹」は存在していたのですか。」
「竹の原産地は、湿潤な亜熱帯地方です。寒冷地には笹は生育していましたが、笹では、弓を製作できません。」
「すると、寒冷地に暮らしていた騎馬民族の弓は、何から作られていたのですか。」
「木です。北方系の木である梓(あずさ)、槻(つき)、檀(まゆみ)、拓(つみ)などのを原材料としていたのです。」
「木だと、竹と異なり、弓がしなりませんよね。」
「竹製の弓は、しなります。ですから、弦は、多年草である苧(からむし)や麻を松脂でかためたものです。しかし、木製の弓はしなりませんから、弦自体に弾力性が求められます。」
「小動物の腸をよって乾燥させたものですね。」
「カメさん、知っていたのですか。」
「藤原日本史で、中世の西国に現れた賎民を「つるめそ」と蔑称していたとあったので、その「つるめそ」の語源を調べて知ったのです。中世では、弓の弦は小動物の腸から作られていたのですね。その弓の弦を売り歩く者が、「弦を召せ」と連呼していたため、「つるをめせ」から、「つるめそ」となっていったとある本に記されていました。」
「よく調べましたね。私の出る幕がありませんね。」
「これで分かりました。中世初期に活躍していた武士の武器は、刀が蕨手刀から開発された日本刀、弓が、南方系の原材料ではなく、北方系の木と小動物の腸を原材料としていたのですね。馬に到っては、草原馬であれば、江戸時代に描かれた古代武士のイメージが、ガラリと変わりますね。そこに現れるのは、ユーラシア大陸で活躍していてた騎馬民族の武人、勇者の意味の「アク」ですね。すると、藤原日本史で、鎌倉時代から始まったとする武士による流鏑馬のイメージも変わりますね。」
「当然変ります。体高121cmの馬が、2mちかくもある長弓を引けるわけがありませんからね。」
「すると、源平合戦絵にあるように、サラブレッド種の馬にまたがる長弓を携帯していた「源氏武士像」もガラリと変わりますね。そうそう、ナベさんは、レポートで「清和源氏」出自の「ウソ」を述べていましたよね。その根拠は何ですか。源頼朝の肖像画が「ウソ」で、清和源氏の出自が「ウソ」であるならば、鎌倉時代とは、一体どのような時代だったのですか。」
「一言でいえば、桓武平氏の北条氏による第二百済王朝です。」
「では、第一百済王朝は、いつですか。」
「藤原日本史で云うところの第49代光仁天皇から第50代桓武天皇、そして、第51代平城天皇までです。」
「平城天皇の弟である第52代嵯峨天皇は、第一百済王朝ではないのですか。」
「確かに、嵯峨天皇は桓武天皇の皇子であったのですが、そのお妃から側室まで、「藤原の女」を一人も入れていないのです。これは、父親の桓武天皇が、北家の藤原内麻呂の妻永継を側室としたこと、そして、兄平城天皇が藤原薬子とその娘を側室としていたことに比べれば、嵯峨天皇は、藤原氏の影響力を排除したと考えられます。」
「その目的は、何ですか。」
「藤原氏から独立した、嵯峨王国の樹立です。」
「嵯峨天皇のお妃は、橘奈良麻呂の孫橘嘉智子ですよね。その橘奈良麻呂の父橘諸兄は、日本列島古代史を「日本書記」により改竄した藤原不比等の孫藤原仲麻呂により廟堂から排除されていましたよね。反藤原氏の橘氏が、嵯峨天皇の側近ですか。確か、嵯峨源氏賜姓は、814年でしたよね。その4年前の810年には藤原薬子の乱がありましたよね。「源氏」には、何か意味があるのですか。」
「源氏のルーツを辿ると、東アジアで活躍していた騎馬民族に辿りつくのです。」
「源氏って、日本民族のオリジナルではないのですか。」
「源氏のルーツは、5世紀の北魏まで辿りつけます。423年騎馬民族柔然を破った、騎馬民族拓跋部の連合部族は、北魏を興します。しかし、どんぐりの背比べのような部族連合では、広大な北魏の支配地を治められません。そこで、漢民族の支配構造を真似て、部族の序列化を図ったのです。北魏拓跋部の頂点に立つのが、漢姓の「元」(げん)だったのです。」
「日本のは「源」ですが、「元」と「源」は、同じ「げん」ですが、関係があるのですか。」
「414年騎馬民族の禿髪(とくはつ)氏の支配国、河西王国が滅亡すると、その最後の王子破羌が救いを求めたところ、騎馬民族の拓跋部の大武帝は、温かく迎えたのです。そこで、大武帝は、破羌に、「拓跋部と禿髪部は源(みなもと)を同じくす。」、と述べて、「源賀」と名乗るようにとしたのです。騎馬民族の拓跋(たくばつ)も禿髪(とくはつ)も突厥(とっけつ)も、漢民族が騎馬民族「チュルク」(トルコ)を漢語化した民族名です。拓跋部の「部」とは、同族の集団を意味します。」
「でも、その話、嵯峨天皇の時代より、四百年ほど前ですよね。」
「カメさん、桓武天皇は、唐帝国の儀式で、南朝の「呉音」ではなく、北朝の「漢音」で即位していたのです。日本列島の平安京の初期は、奈良時代の「呉音」文化ではなく、唐文化一色だったのです。現在でも、インテリは、日本の歴史よりも、欧米の歴史に詳しいように、当時の平安京では、東アジアの歴史は、支配層には広く知られていたのです。日本の六国史と言われるものが、「日本語」ではなく、「漢語」で著わされていることでも、そのことが理解できると思います。」
「そういえば、嵯峨源氏は、後からの源氏の名が二文字なのに、名が一文字ですよね。これは、禿髪氏の破羌が、姓を源、名を一文字の「賀」としたことと関係があるのですか。」
「私にも分かりませんが、確かに、日本初の嵯峨源氏の名は、一文字ですね。藤原日本史に登場する「清和源氏」は、名を二文字としていますね。」
「「嵯峨源氏」の祖は、拓跋部や禿髪部と同じに、ユーラシア大陸で「草原馬」を駆使して活躍していた騎馬民族なのですか。」
「漢字二文字で、ギリシャ・ローマ文化と騎馬民族文化の日本列島の明日香時代、つまり、古墳時代の古代史を、漢訳仏教文化興隆とする「飛鳥時代」を創作して消したのは、藤原不比等が、713年に発令した好字令です。それ以前の日本列島の地名・人名は、明日香(あすか)のように漢字二文字ではなかったのです。鎌倉時代に、反藤原氏の嵯峨源氏の歴史を消したのは、二文字を名乗る「清和源氏」です。「清和源氏」の発祥は、本は藤原氏の傭兵である、出自不詳の中年の満仲なる人物から始まるのです。」
「系図では、清和天皇→貞純親王→源経基→源満仲→源頼光、そして、陸奥国の砂金を略奪目的とする東北侵略戦争で藤原氏のために活躍したとする、蝦夷末裔の清原氏と阿部氏を謀略を用いて壊滅した源義家と源義光兄弟がいますよね。その兄義家が、「八幡太郎」を名乗り、弟義光が「新羅三郎」を名乗りますよね。これって、何か、歴史の隠蔽を感じるのですが。」
「やはり感じますか。昔から、何故、藤原氏の傭兵であった多田(天皇からの賜姓ではなく、ただの源氏)の「ただの源氏の満仲」の末裔が、反新羅の藤原氏と亡命百済貴族が遺棄する、「八幡」とか「新羅」を名乗るのか、謎とされていたのです。その意味は、嵯峨源氏の歴史乗っ取りと考えています。」
「その根拠は、何ですか。」
「「清和源氏」の「ウソ」の根拠のひとつとして、藤原日本史で「清和源氏」の祖である経基の孫源頼信が、石清水八幡宮に奉納した願文に、「先人は新発(満仲)、その先は経基、その先は元平親王、その先は陽成天皇」、とあるからです。」
「だったら、「清和源氏」ではなく、「陽成源氏」にすればよいはずですね。何か、深い意味がありそうですね。」
「大有りです。陽成天皇は、嵯峨源氏の「源澄」の子「源益」を、宮中で撲殺していたのです。陽成天皇は、狂躁性の持病があったのです。その陽成天皇を即位させたのが、藤原基経です。天皇は唯のロボットにすぎないので、無能であれば、藤原氏には都合がよいのです。しかし、殺人、それも、撲殺では、歴史改竄を得意とする厚顔の藤原氏も、即座に陽成天皇を退位させざろうえません。更に不思議は、「父」である「経基」よりも、「子」である「満仲」の方が「年上」なのです。歴史学会では、その年齢逆転の史実を「養子縁組」によるとしているようですが、私には「ウソ」に「ウソ」を重ねたように思われます。鎌倉時代の先触れの、平安時代末期から、鎌倉時代を支配したとする「清和源氏の出自」は謎だらけなのです。」
「そのナベさん説が史実だとすると、「清和源氏」の氏神が石清水八幡宮とするのも「ウソ」になりますよね。」
「それは、どういうことですか。」
「藤原日本史によれば、石清水八幡宮は、清和天皇の時代に創立されたため、清和源氏の子孫から臣籍降下した諸源氏が、石清水八幡宮を氏神に選んだ、としています。そして、「清和源氏」の源義家が、石清水八幡宮で元服したので、「八幡太郎義家」と名乗ったとしています。しかし、「清和源氏」が「ウソ」で、「陽成天皇」が史実とすれば、石清水八幡宮の創立は「誰」に因るのか、ナベさん分かりますか。」
「八幡の神は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の神です。「八幡」の元来の読みは、「はちまん」ではなく、「やはた」です。それは、漢字の読みによる歴史改竄テクニックと考えられます。」
「「やはた」とは、「や」は、「八で栄える」、そして、「はた」とは「秦」で、秦氏が栄えるための宗教施設ですね。その秦氏は、5世紀頃、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から河内湖畔への渡来ですね。その河内湖は、古墳時代以前、河内湾で、上町台地が岬として存在していたのですよね。ナベさんのレポートにありましたよね。」
「藤原日本史では、難波津としている地域です。その難波には、隠された歴史があるのです。」
「ナベさんのレポートでは、難波←浪速←ローラン、となるのですよね。すると、難波は、シルクロード交易の流れにあるわけですか。」
「その難波には、744年反藤原氏となった聖武天皇が、難波遷都の勅を下していたのです。難波(浪速・ローラン)は、古来から国際港であったのです。」
「ナベさんの説では、古墳時代、藤原日本史では飛鳥時代に、その河内は、藤原日本史では物部氏とする、秦氏の支配地であったのですよね。その河内地域で、嵯峨源氏の流れを汲む源綱が渡辺党を興したのは、古代に秦氏の支配地であったのと関係があるのですか。」
「藤原日本史によれば、「東大寺の大仏」鋳造のヒントは、聖武天皇が、難波の知識寺の仏像を知ったから、としています。しかし、その「東大寺の大仏」は、「遍照鬼」として庶民に密かに伝えられていて、江戸時代まで祟りをすると信じられていたのです。」
「その東大寺と嵯峨源氏とに、何か関係があるのですか。」
「その東大寺は、平安中期の藤原道長が支配していた時代のひとには、嵯峨源氏と関係があった、と知られていたようです。」
「その根拠は、どこにあるのですか。」
「鎌倉時代前の第二藤原王朝の1066年、古代歴史物語として著わされた「大鏡」に、平安時代に幼い藤原彰子が、藤原氏の氏神を祀る春日大社に参詣した際に、春日大社にお供えした供物が、辻風に吹かれて東大寺大仏殿の前まで飛んでいってしまった。この場面に居合わせたひとびとは、「かすがの御まへなる物の源氏の氏寺にとられたるはよからぬことにや」、と言ったとあるのです。」
「その物語から、何が分かるのですか。」
「藤原日本史によれば、「東大寺の大仏」は、難波の知識寺の仏像がヒントであって、その鋳造には河内を根拠地とする高度土木技術を持つ僧行基が協力し、そして、その大仏の開眼のお祝いに宇佐八幡の氏子が神輿を担いで駆けつけた、とあるのです。それらの地域の共通点は、古代新羅からの渡来民の支配地だったのです。つまり、藤原日本史が、秦氏とする民族です。その秦氏は、仏像ではなく、太陽神ミトラ(後に弥勒菩薩として歴史上抹殺)を祀っていたのです。藤原氏の氏神を祀るための春日大社は、三笠山のそのミトラ神を祀っていた「神地」を破壊した跡に、神代の時代ではなく、奈良時代の756年以降に創建されたのです。平安時代のひとびとは、嵯峨源氏の祖が、古代新羅から渡来した末裔であることを知っていたので、そのような言葉を発した、と推測されます。」
「そういえば、ナベさんの説では、漢字二文字での地名の表記は、713年藤原不比等が発明した好字令からで、それ以前の、嵯峨源氏の流れにある「源綱」、改めて「渡辺綱」とする、河内の渡辺津の「ワタナベ」の語源は、古代エジプト語で、ワタは「波」で、ナーベは「小山」を意味し、「岬」とするのですよね。すると、秦氏の渡来は、河内湖を形成する上町台地の先が、岬だった頃の古墳時代前期の時代ですか。その頃の古墳は前方後円墳で、古代エジプトの埋葬思想と同じに横穴式石室に石棺が現れたのですよね。そして、石棺の内寸法は、古代エジプトの長さ単位であるキュビットで割り切れるのですよね。岩手県以南の日本列島各地で造営された相似形の前方後円墳は、古代エジプトの紐による測量技術を駆使したものですよね。難波が、ローランの時代で、一世紀から始まるシルクロードの流れにあれば、当然、その中継地である中近東に伝播していた古代エジプトの土木建築技術も、ソグド商人などの、さいたま県吉見に百穴墓を築いた国際交易商人に伴って日本列島に伝播してくる可能性はありますよね。」
「当然です。古代エジプトの石切技術なくしては、明日香地域に点在する、侵略者の破壊からまぬかれた「謎の石」の説明がつけません。」
「その嵯峨源氏の流れにある、源綱が興した河内の「渡辺党」は、その後、どうなったのですか。」
「一般的な概説では、源綱は清和源氏の武士団を形成した源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国渡辺に居住し、渡辺綱と称した、とか、渡辺綱(935年〜1025年)は、義父の源敦の妻の兄である摂津源氏の源頼光の郎党となり、頼光四天王の筆頭とされた、などとあります。しかし、源氏登場から、源頼光の父とする源満仲の歴史をたどれば、そのような概説が「ウソ」であることがわかります。」
「それって、どういうことですか。ネットでは、そのような概説が多くありますが。」
「そもそも、嵯峨源氏はその登場から、反藤原氏です。「清和源氏」は、藤原氏が創作した、云わば「藤原源氏」です。反藤原氏の嵯峨源氏の渡辺綱が、「藤原源氏=清和源氏」の配下になるわけがありません。」
「そこの経緯の説明を願えませんか。」
「藤原氏からの独立を望んだ嵯峨天皇は、そのお妃から側室まで、橘氏、大原氏、飯高氏、上毛野氏、広幡氏などの「反藤原氏の女」としていたのです。そして、その多くの子供たちに、騎馬民族の漢姓である「源」を名乗らせたのです。嵯峨天皇は、823年淳和天皇、833年仁明天皇を即位させ、自ら太上天皇となり、その二天皇に君臨して、「嵯峨王国」を築いていたのです。因みに、仁明天皇の母は、反藤原氏の橘嘉智子です。嵯峨天皇が、藤原氏から独立するために、淳和天皇即位の宣命文で、「明神」(あきつみかみ)としたのです。嵯峨天皇即位の宣命までは、奈良時代に藤原不比等が発明した、誰も逆らうことが出来ないとする「現御神」か「現神」(あきつみかみ)だったのです。その「嵯峨王国」三代も、嵯峨天皇が、娘潔姫を北家藤原良房に下賜されたことから、滅亡してしまうのです。藤原良房は、仁明天皇と藤原順子とに生まれた子を、陰謀により、850年文徳天皇として即位させるのです。この文徳天皇から昭和天皇に至る80代の外戚占有率は、藤原氏出自の天皇は、75%なのです。」
「その説明で、「天皇の謎」は、「藤原氏の謎」の意味が分かりますね。」
「藤原良房は、更に、廟堂を藤原氏で支配するために、嵯峨源氏の追い落としを画策するのです。それが、858年9歳で即位した文徳天皇と藤原明子の子、清和天皇です。藤原良房は、廟堂を占める嵯峨源氏の左大臣源常、源信、源融を追い落とせないため、自ら摂政という職責を発明し、9歳の清和天皇に代わって、廟堂を支配したのです。」
「何故、藤原氏は、そのような自分勝手な振る舞いが出来るのですか。」
「それは、奈良時代に、藤原不比等が仕掛けた装置、五位以上の貴族の息子は自動的に貴族になれると言う制度(蔭位の制)があるからです。これにより、多くの官僚貴族として藤原氏一族が存在していたのです。そして、藤原氏に敵対する貴族は、藤原氏得意の密告戦術で、廟堂から排除していたのです。」
「すいません。話の途中で、変な質問をして。」
「清和天皇が、15歳で元服すると、藤原良房は、摂政に替わって、関白に就くのです。関白とは、「政治に関り白(もう)す。」の意味です。このように、藤原良房は、摂政・関白の制度を発明して、嵯峨源氏を次々と廟堂から追い出していたのです。」
「すると、追い出された嵯峨源氏は、何処へい行ったのですか。」
「それは、源綱のように、母方の支配地です。藤原良房は、後継者として北家藤原冬嗣の孫藤原長良の子藤原基経を養子としたのです。その藤原基経は、娘二人を清和天皇の女御としていたのです。しかし、嵯峨源氏の源融が、大納言の地位を占めていたのです。藤原基経により、清和天皇は、満28歳で、皇位を9歳の貞明親王に譲さられたのです。これが、例の嵯峨源氏の子息を宮中で殴り殺した陽成天皇です。陽成天皇の母は、藤原基経の同腹の妹藤原高子です。」
「すると、「清和源氏」か「陽成源氏」か分かりませんが、源満仲の流れは、藤原氏になりますよね。だったら、反藤原氏の嵯峨源氏の源綱が、藤原氏の流れにある源満仲の子とする源頼光の配下となることは、何かの作為を感じますね。」
「その「清和源氏」発明の作為のことがハッキリするのが、醍醐源氏抹殺の物語です。」
「醍醐源氏ですか。ナベさんのレポートでは、醍醐は、チーズの意味でしたよね。醍醐の文字は、何か、騎馬民族を想像させますね。」
「古代のチーズは、「ソ」(蘇)と言っていたのです。古代の明日香ヤマトでは、その「ソ」を食べていたようです。味は、砂糖なしの生キャラメルを乾燥したような、ほのかな甘みがあります。」
「ナベさん、まるで食べたことがあるような「ソ」の感想ですね。」
「ええ、ありますよ。現在でも、明日香の「飛鳥寺」の隣にある土産物屋さんで売っています。古代の明日香ヤマトには、牧場である「牧」が存在していたのです。」
「すると、古代の明日香には、遊牧民族が暮らしていたと考えられますね。だとすると、藤原日本史では、聖徳太子が、593年女帝推古天皇の摂政となり、翌年の594年仏教の興隆の詔をしていた、と云うことを、食文化から否定できますよね。仏教は、「獣」を食生活に取り入れる民族を、「畜生」として蔑視していますから。」
「古代明日香ヤマトの文化は、645年以降に、破壊から免れた遺跡や遺物から推測すると、藤原不比等が奈良時代に発明した「アマテラスオオミカミ」を祖神とする中臣神道文化ではなく、古代オリエントや古代西アジア文化でしか説明できない、と私は考えています。」
「そう言えば、出版社時代に取材で明日香を訪れた時、甘樫丘から眺めた「飛鳥大和」の地形の狭さには、少し驚いた記憶があります。あんなに狭い地域に、遺跡が点在していますよね。」
「カメさんが眺めた明日香の里は、古代の地形ではありません。その頃の奈良盆地は、湿地帯を、前方後円墳を築いたり、河船による運送をおこなうため運河を掘削により築いて、宅地化を図っていたのです。現在のような小川のような飛鳥川も、古代明日香では、平底の河船が河内の浪速(ローラン)より運航できるほど川幅が広く深かったのです。このことは、608年(藤原日本史では女帝推古天皇の時代)隋使裴世清が明日香の都まで河船により来訪し「男王」に謁見したとする、隋皇帝への報告書で証明されます。現在の地形は、奈良盆地を囲む山々から、雨降りにより運ばれた土砂で地形が上がったのです。更に、甘樫丘の北端の飛鳥川沿いの水落遺跡から推測すると、明日香の都市は、緊急時には水没するように意図されていたようです。」
「その装置は、明日香一帯を防衛するための、まさに水城ですね。それが史実だとすると、藤原日本史が述べる仏教黎明期とする「飛鳥時代」が薄れていきますね。」
「水城が、明日香を軍事都市と考える、根拠のひとつです。」
「すると、緊急時に短時間に水没する古代の明日香ヤマトの地形は、もっと狭かったのですね。だったら、何故、そのような狭い地域に、5世紀中頃にユーラシア大陸から日本列島の東北に渡来した突厥進駐軍は、6世紀中頃に、軍事都市を築いたのですか。」
「それは、明日香の裏山に通じる宇陀の「朱砂」の簒奪だと考えています。」
「「朱砂」は、古代の「赤チン」で、消毒剤として、祭祀者が呪術(医療)として使用したいたものですね。朱砂は、古代の国際交易では、大変貴重な交易物であったのですね。」
「「朱砂」は、防腐効果に優れていたので、古墳の埋葬者の棺などに塗られていたのです。国際交易民族でもある騎馬民族は、その明日香の「宇陀」の「朱砂」を、侵略者からの防衛のため、三方を山に囲まれた、狭い土地に軍事基地を建設した、と私は考えています。」
「チーズから、話を脱線させてすみません。嵯峨源氏に続いて、藤原氏による醍醐源氏抹殺の話をお願いします。」
「藤原日本史では、897年即位した醍醐天皇は、母を藤原高籐の娘胤子としているようですが、実際は、南山科の郡司の娘だったのです。」
「郡司って、土着豪族のことですよね。その郡司が王権に逆らわないように監視するのが、国司の仕事のひとつですよね。」
「そうです。645年明日香の突厥進駐軍とイカルガの新羅花郎騎士団を、奈良盆地から排除した、唐帝国進駐軍は、その後、騎馬民族に支援されて復活した旧勢力の、日本初の天武天皇が、686年崩御すると、地方豪族で逆らう者は抹殺し、従う者は「郡司」として配下としたのです。」
「すると、醍醐天皇の母には、騎馬民族の血が流れている可能性がありますね。」
「醍醐天皇は、その側室のひとりとして、嵯峨源氏の源唱の娘周子とし、子を成したのです。その子が、醍醐源氏の源高明です。その源高明は、967年左大臣に任命されたのです。騎馬民族の漢姓「源」を持つ嵯峨源氏末裔は、藤原氏の数々の陰謀により、大納言の源昇が延喜19年(919年)没した後、天暦元年(947年)までの約30年間、廟堂首脳、大納言以上の地位を占めていなかったのです。」
「チーズの名を持つ醍醐天皇即位で、騎馬民族末裔の復活ですか。醍醐源氏は、ユーラシア大陸で活躍していた「源」姓の騎馬民族禿髪部の流れにあるわけですね。醍醐源氏は、日本初の「源」姓を嵯峨天皇から賜った、嵯峨源氏の血を受けているわけですから。」
「醍醐源氏の源高明が、967年左大臣となれたのは、その布石があったからです。それは、唐帝国が907年滅亡したため日本国支配のための武力統治機構が崩壊したため、939年から941年にかけて起こった、西国の藤原純友と東国の平将門による「天慶の乱」によるのです。嵯峨天皇が、藤原氏の支配から独立するための令外官としての警察組織の検非違使の配下としての武芸者が、その「天慶の乱」を騎射の戦法で鎮圧したため、「武士」として公に認められたことです。その武芸者の祖は、東北を支配していた騎馬民族のエミシ(蝦夷)です。そして、そのエミシの祖は、古墳時代(藤原日本史では飛鳥時代)に明日香ヤマトを武力支配していたのです。これらのユーラシア大陸の騎馬民族末裔の「武士」の騎射による武力を背景に、醍醐源氏は廟堂で勢力を伸ばし、天暦8年(954年)醍醐源氏の源高明が大納言となり、源兼明、源雅信、源重信、源時中は大納言に就任したのです。以後、30年間は醍醐源氏が重職に就いていたのです。このことに脅威を感じたのは藤原氏だけではなく、平安時代初期に百済系天皇である桓武天皇により、中国山東半島から移民してきた日本皇族の祖とする亡命百済貴族末裔も同じだったのです。」
「醍醐源氏の源高明が左大臣となっても、藤原氏が外戚とする冷泉天皇が存在しているのでは。」
「文徳天皇以降の天皇は藤原氏のロボット天皇ですが、源高明の娘は、為平親王の妻となっていたのです。もし、子が生まれたら、源高明は天皇の「外戚」となります。つまり、藤原氏が得意の戦術により、天皇家が源高明により乗っ取られてしまうのです。」
「そこで、藤原氏得意の密告戦術ですか。」
「そのとおりです。ここに、「清和源氏」の祖となる満仲なる出自不詳の中年男が、突然歴史上に現れるのです。満仲なる者が、「源高明が謀反を起こそうとしている。」、と右大臣藤原師尹に密告するのです。すると、その藤原師尹は、その満仲の密告を名目に、安和2年(969年)左大臣兼左近衛大将源高明を太宰員外帥として、廟堂から左遷し追放したのです。」
「すると、藤原氏の密告戦術に嵌められた醍醐源氏一族郎党は、嵯峨源氏と同じに、騎馬民族末裔の母方の支配地に追放されるわけですね。でもその話おかしいですね。左大臣は、右大臣より格上ですよね。何故、左大臣の源高明が、格下である右大臣の藤原師尹に左遷されるのですか。」
「それは、奈良時代に藤原不比等が、左大臣を実権のない名誉職とし、政治の執行権を右大臣に移行していたからです。何故、「左」が「右」より上位かと言うと、ユーラシア大陸の北域を支配する騎馬民族軍団は、南域の農耕民族軍団と対峙した時、北域に位置する騎馬軍団は鳥の羽ばたきの布陣をしますから、中央が指揮軍団で、東側が左翼軍団、西側が右翼軍団となります。太陽は東から昇りますから、しんがりは左翼軍団となることから、騎馬民族軍団では、左翼が、右翼より格上となったのです。」
「では、騎馬民族が支配していた明日香ヤマトの古墳時代では、「左」が「右」より格上だったのですね。」
「時代は飛びますが、騎馬民族末裔の初代将軍徳川家康・二代目将軍徳川秀忠に替わり、百済系の徳川家光から始まる第三百済王朝となった江戸時代以降、江戸市中から岩槻などの北関東に移動させられた武具を製作する騎馬民族末裔集団は、その武具製作技術を駆使して雛人形を製作するわけですが、その江戸の雛人形の配置は、京都雛人形が「右上位」に対して、「左上位」であるのです。このことは、古墳時代から千数百年経っても、騎馬民族文化が今日まで継承されていたことが示唆されます。」
「ナベさん、窓を見てください。もうすぐ夜明けですね。時間だいじょうぶですか。」
「明日、いゃ、もう今日ですね。今日は自宅学習の日ですから大丈夫です。」
「もう少し質問してもいいですか。」
「どんなことですか。」
「鎌倉時代の芸能民と呼ばれる遊行する集団のことです。歴史本を読んでいても、芸能民の描写が、何か腑に落ちません。納得できないことが多すぎるのですが。特に、東国については。」
「カメさん、30分のコーヒーブレイクしませんか。」
「いいですよ。ハラも減ったことだし。では、30分後に。」
オレは、バソコンから離れ、熱い紅茶とビスケットをパソコンデスクに置くと、田辺さんとのチャットをもう一度見直した。
そして、田辺さんからの鎌倉時代レポートのマーカー箇所を見直した。それらの箇所は、あまりにも教科書歴史と異なっていたため、理解不能か納得できない箇所だ。今の田辺さんの説明で、鎌倉時代の謎が少し解けたように感じた。
そのひとつが、「清和源氏」の謎だ。
藤原日本史では、1219年源実朝が、公暁に殺されたことにより、源氏三代(頼朝・頼家・実朝)で源氏が滅亡した、と説明する。しかし、それは、古墳時代に明日香ヤマトを支配していた突厥進駐軍と新羅花郎騎士団を、明日香に陣取る突厥進駐軍を「蘇我氏」とし、そして、イカルガに陣取る新羅花郎騎士団を「物部氏」に置き換えて、「日本書記」で神仏戦争物語を創作して、歴史上から抹殺したように、反藤原氏の「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」を歴史上から抹殺するトリックだ。藤原氏の数々の陰謀により廟堂から追い出された、騎馬民族の流れにある嵯峨源氏と醍醐源氏の末裔は、鎌倉時代にも生きていたはずだ。
嵯峨源氏と醍醐源氏は、正当な天皇の血を受け継いで、廟堂(公卿会議)の左大臣まで登りつめていた。しかし、「清和源氏」は、その祖である源経基が正四位下左衛門佐で、その子とされる満仲から頼朝の父である源義朝に至る6代先まで、大臣・大納言・参議といった廟堂の構成員となった人物は、一人もいない。
「清和源氏」で初めて、権大納言となったのは、鎌倉幕府を拓いたとする源頼朝だった。それも、藤原日本史では、弟とする源義経が、奥州の衣川で藤原泰衡に殺された翌年、1190年(建久元年)だった。
このことから推測できるのは、田辺さんの説のように、「清和源氏」は、藤原氏により創作された「姓」で、その実態は、藤原氏の私兵だったようだ。その根拠として、969年「安和の変」で反藤原氏の醍醐源氏の源高明を密告した「清和源氏」の満仲、そして、1051年「前九年の役」でエミシ末裔の安倍頼時を抹殺した「清和源氏」の源頼義、更に、1083年「後三年の役」でエミシ末裔の清原家衡を抹殺した「清和源氏」の源義家らは、皆、結果として藤原氏のために働いていたのだ。
その「清和源氏」による陸奥・出羽国のエミシ末裔の抹殺での活躍の結果、奈良時代に藤原不比等が、719年に設置した陸奥・出羽国を支配するための陸奥出羽按察使が、明治元年(1868年)まで機能し、藤原氏により独占された陸奥出羽按察使により、藤原日本史では「清和源氏の」源頼朝により藤原泰衡が抹殺されたことにより奥州藤原は三代で滅亡したとするが、奥州藤原王国が明治元年まで存続していた。
藤原氏の私兵「清和源氏」の、花郎騎士団の古代新羅とは縁も所縁もない、源義家は「八幡太郎」、弟の源義光は「新羅三郎」を名乗っていたのは、「八幡」も「新羅」も、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅と関係があり、ニッポンの「武士」の祖である、古代新羅の花郎騎士団を意識したようだ。「清和源氏」の「八幡太郎」と「新羅三郎」が「ウソ」であることは、古代新羅からの渡来民族は、反藤原氏であるからだ。
そんなことを考えているうちに、もう30分が過ぎようとしていた。

鎌倉時代とは、騎馬民族文化の東国抹殺の時代だった。

オレは、パソコンのキーを急いで叩いた。「おはようございます。」への返事は直ぐにはなかった。田辺さんからの返事があったのは、それから二杯目の紅茶を飲み干した後だった。

「カメさん、返事か遅れてすみません。カメさんの鋭い質問に答えられるように、鎌倉時代の芸能民についての史料ノートを調べ直していたのです。」
「いままでは、オレのとんでもない質問にも瞬時に的確に答えていましたよね。今更、ナベさんほどのひとが調べ直すことなんか、ないと思いますが。」
「鎌倉時代は、奈良時代や平安時代にもまして、謎の多い時代なのです。特に、東国については、その歴史を史料を基に語ることは出来ないのです。」
「でも、歴史本には、鎌倉時代は律令国家の基である公地公民制が崩れて、私有領の荘園制度により、農業が貴族や寺社により経営され、守護・地頭が鎌倉幕府の手先として活躍していた、とありますよね。「泣く子と地頭には勝てない。」なんて歴史教科書で述べていましたよね。」
「鎌倉時代を説明する歴史用語が怪しいのです。その「泣く子と地頭には勝てない」相手とする「百姓」についても、現在の「百姓」の意味の概念では、理解できないのです。中世の「百姓」とは、農耕民だけを意味する言葉ではなく、百の姓(かばね)、つまり、多種多様の民の意味であるのです。」
「どういうことですか。」
「藤原日本史では、日本人の原型が紀元前660年から存在し、その原日本人が、朝鮮半島や中国からの渡来人により文化・技術を吸収し、現日本人となった、と述べているようですが、それは「ウソ」です。」
「なんで、そのように断定できるのですか。」
「カメさん、「日本」という国が、いつ頃出来たと思いますか。」
「七世紀末頃でしょ。確かその答えはナベさんのレポートにありましたよね。」
「そうです。「日本国」が成立したのは、7世紀末です。それ以前には、「日本国」がないわけですから、当然、日本列島には「日本人」が存在していないわけです。」
「そう言われれば、そうですね。それ以前の古墳時代、藤原日本史では飛鳥時代、には「日本人」が存在していないわけですよね。すると、飛鳥時代に活躍したとする架空の聖徳太子も、「日本人」ではないわけですね。」
「その七世紀末に成立した「日本国」も、近畿一帯の狭い地域を意味していたのです。当然、その頃の日本列島の東国は、「日本国」などではなかったのです。」
「その根拠は何ですか。」
「言葉です。7世紀末以降の「日本国」である西国の言葉と、東国の言葉には、はっきりとしたアクセントと助詞の区別があるのです。例えば、西国では、「見イ、○○ジャ、広ウ」、に対して、東国では、「見ロ、○○ダ、広ク」、となるのです。」
「どうして、そのような言葉の違いが生じたのですか。」
「それは、支配民族が、西国と東国では異なっていたからです。」
「ナベさんの説では、古代西国の支配層は中国・百済民族で、古代東国は古代新羅・突厥民族ですよね。」
「その言葉の境界線は、恐らく、6世紀には陸奥・出羽国から明日香ヤマトまでが東国アクセントだと思います。それが、686年天武天皇の崩御以降、唐帝国進駐軍による都が、藤原京、平城京、平安京と遷るほどに、西国言葉の境界線も北進し、現在では、新潟県、岐阜県、愛知県の西堺までが西国と東国アクセントの境界線となっています。」
「その説明納得できます。奈良時代、藤原氏に対抗していた、天武天皇の皇子長屋王邸跡から発掘された木簡からは、武蔵、上総、伊豆、美濃などの東国からの名産品が届けられていたと記されていましたよね。そして、長屋王が、父天武天皇が騎馬民族系であるように、邸内に牛を飼い、チーズ(ソ・蘇)を製造していたのですよね。その長屋王が、藤原不比等が唐帝国の則天武后の戦術を真似て、娘光明子を聖武天皇の皇后とすることに反対しているため、729年藤原四兄弟により、長屋王を無実の罪で自害に追い込んだ「長屋王の変」では、藤原氏が、直ちに、美濃(不破関)、伊勢(鈴鹿関)、越前(愛発関)を封鎖したことは、長屋王殺害に対しての東国からの騎馬民族軍団阻止が理由のひとつだったわけですね。」
「状況判断から、そのように解釈できます。古墳時代には、明日香ヤマトからではなく、東北から、北陸道、東山道、東海道の道幅12m級の古代高速道路が、奈良盆地まで敷設されていたのです。それは、軍事と交易の為に敷設されたのです。」
「奈良時代では、西国アクセントと東国アクセントの境界線は、その三関だったわけですね。」
「鎌倉時代でも、そのアクセント境界線は、その三関だったと思われます。その三関以東では、農業の形態も、生活の基盤である炊事の形態も異なっていたのです。藤原日本史では、弥生時代から稲作水田が東進していたように記述していますが、東国では、水田ではなく、直播の陸稲だったのです、つまり、水田作ではなく、畑作や畠作であったのです。律令制度の納税も、西国の「米」に対して、東国では「絹」であったのです。酒造業者が、西国に多いのは、納税で余った「米」の処分だったのです。そして、炊事形態も、西国の「かまど」に対して、東国では「いろり」です。西国では、罪人の家は打ち壊しの対象ですが、その家の基準は「かまど」の存在です。「かまど」のない家は、打ちこわしの対象外だったのです。」
「すると、歴史絵巻にある農作業風景も、西国と東国とでは異なるわけですよね。教科書には、浴衣のような着物を着た女性が、水田で農作業している絵がありますが、それは、日本全国の農作業絵ではなく、西国の農作業絵ですよね。東国では、どのような服装で農作業をしていたのですか。」
「それが、確定史料がないため、全く分からないのです。」
「では、東国では、生活の糧は、何に頼っていたのですか。」
「ヒントがひとつだけあります。先ほど、史料ノートから見つけ出しました。明治時代に発刊された「朝野新聞」の記事です。その記事によりますと、東国には、江戸時代末期まで、「秦王国」が存在していたのです。」
「「秦王国」ですか。ナベさんの説では、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族は、北九州宇佐に「秦王国」を築いていたとするわけですよね。その「秦王国」は、吉備→浪速(ローラン)→山背国→鎌倉→江戸と東進していた、とするわけですよね。その「秦王国」についての記事があるのですか。」
「長くなりますが、「朝野新聞」を引用します。

浅草区亀岡町(往時は新町と云ふ)に住む弾直樹と云ふ人なん、往昔より穢多の君主と仰がれる弾左衛門の後裔なりける。抑も弾家の祖先は鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼(弾左衛門を単名と思ふは誤りにて弾は氏、名は左衛門その姓は藤原なりとぞいふなる)にてその先は秦より帰化し世々秦を以て氏とせり。抑も我国に於て秦の帰化人と称するものは始皇の子扶蘇の後なり。史を按ずるに秦皇の崩後扶蘇逃れて「かいはく」に入り居ること五世にして韓に遷りしが、其の裔弓月君なるもの応神天皇の十四年を以って百二十七県の民を率い、金銀玉帛を齎らして帰化し、大和国朝津沼腋上地を賜ひ、其民を諸郡に分置して養蚕織絹の事に従はしめしに、献る処の絹帛柔軟にしてよく肌膚にかなふを以て天皇特に波多君の姓を賜へりと。是れ秦の字に「はだ」の訓を付したる所以也。」
「その記事から、何が分かるのですか。」
「秦氏の出自の記述により、秦氏には、ギリシャ・ローマ文化が継承されていたことが示唆されます。」
「どういうことですか。その論拠は。」
「その新聞記事によると秦氏の祖が、秦→扶蘇→かいはく→韓→日本列島の流れにあるからです。秦は、バクトリアの衛星国です。そのバクトリアは、ギリシャの都市国家から興ったマケドニア王国出自のアレクサンドル大王による、西は地中海から東はインド北部までのアレクサンドル大王領の継承国です。そのバクトリアの文化は、アレクサンドル大王領が、紀元前301年イプソスの戦いで分裂した後、雄弁家のプラトン一家の末裔が亡命していたように、ギリシャ文化国だったのです。そして、紀元前3世紀の中国戦国時代には弱小国だった秦が、紀元前221年、突然、中国を統一するのです。それが、秦帝国です。」
「その王が、秦の始皇帝ですね。西安の兵馬俑の秦帝国地下軍団は世界遺産ですよね。」
「その兵馬俑は、近年囁かれているのは、秦帝国とは関係がないようです。」
「その根拠は何ですか。」
「その兵馬俑の近隣は、現在でも発掘中ですが、何を理由かわかりませんが、発掘地域が埋め戻されているようです。」
「それは、秦帝国地下軍団の根拠を覆す遺品や遺構の出現ですか。」
「それは、分かりません。推測のひとつとして、中国史料には、秦帝国の軍隊は鉄製武器で武装していたと記述されているのに、兵馬俑の地下軍団は青銅製武器で武装しているからです。青銅器は、時代的に鉄器よりも歴史的に古いものです。その秦帝国は、中央集権的専制君主制を始め、度量衡制・貨幣制を定めたように、中国的ではなく、ギリシャ的であったのです。」
「でも、その秦帝国は、紀元前206年に滅ぶわけですよね。その秦帝国の末裔が、扶蘇→かいはく→韓→日本列島に流れて行くわけですか。」
「秦帝国の母国バクトリアは、紀元前139年滅び、その地に、紀元前140年に大月氏国が興るのです。その大月氏国も、紀元一世紀には滅び、その地にクシャナ朝が興るのです。そのクシャナ朝の都ガンダーラで、ギリシャ彫刻を彷彿させる写実的なガリガリの仏像を崇拝する大乗仏教が、「ブッダ」の教えとする無数のギリシャ語経典を伴って起こるのです。」
「初期の仏典は、サンスクリット語ではないのですか。」
「サンスクリット語は、ギリシャ語から派生した言語です。」
「初期仏典がギリシャ語ってのは、納得できませんね。初期の仏像って、女性肌のふくよかな像ではなかったのですね。」
「仏像が、しみや皺のないふくよかな女性肌になったのは、大乗仏教が中国にガンダーラの国際交易商人に伴って進出した時、不老長寿の神仙思想の道教に遭遇してからです。この道教が信仰されていた中国の地で、多くのギリシャ語大乗仏教経典は、反騎馬民族である農耕民族の中国人に漢訳されたことにより、漢訳仏教となり、ギリシャ文化を継承していたガンダーラで発明された初期の大乗仏教思想が、百八十度変換してしまうのです。」
「すみません、秦氏とは関係ない質問でナベさんの話の流れを変えてしまって。」
「扶蘇、かいはくの歴史は分かりませんが、韓は、紀元3世紀の三韓時代の辰韓(秦韓)の地に、356年奈勿王により新羅(秦羅・秦の国)が興るのです。奈勿には、外来者の意味があります。その新羅は、高句麗が372年、百済が384年に漢訳仏教を導入したのに、528年まで漢訳仏教を導入していなかったのです。」
「何故ですか。」
「その理由は、史料により提示できません。その新羅は、高句麗や百済と異なり、女王国だったのです。」
「女王国といえば、日本でも、新羅系天武天皇の皇子たちが存命中の奈良時代までは、女王国でしたよね。それが、亡命百済貴族支配の平安時代になると、男王国となってしまったのは、支配民族の交代ですか。」
「その新羅の都慶州の丸山古墳からは、夥しい遺品が発掘されるのですが、そのひとつに、金製の三樹の女王冠があるのです。三樹王冠は、ギリシャ文化の継承を示唆します。因みに、徳川三代将軍家光から始まる第三百済王朝の江戸時代に、騎馬民族末裔の初代将軍家康に寵愛されていた弾左衛門を頭とする秦王国の民は、江戸町の中心地の日本橋界隈から北関東に強制移動させられ、そこで雛人形を製作するのですが、そのお雛様の冠は「三樹」であるのです。そして、新羅の軍団は、花郎騎士団と言われています。「花」とは、太陽神ミトラの借字です。ローマ軍団は、キリスト教が392年ローマ帝国の国教になる以前、太陽神ミトラを軍神として崇拝していたのです。」
「それで理解できました。ナベさんが、675年の統一新羅と区別するために、356年の新羅を、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅と言っていた意味です。でも、その4世紀に渡来した秦王国が、明治初期まで関東に存在していたことは納得できません。藤原日本史にも、秦王国なんて登場しませんよね。」
「秦王国といっても、一般に言うところの王国ではありません。イメージとしては、ギリシャ都市国家です。」
「その都市国家としての秦王国って、どんな王国だったのですか。」
「「朝野新聞」によりますと、明治初期の弾左衛門が支配する勢力は、

関東の穢多無慮一万戸。之れを総轄したるものを弾左衛門といふ。弾左衛門は実に関東穢多の中央政府とも主権者ともいふべきものにて、今当時の実際に就て聞く所一として奇警ならざるはなし。試にそが生活の有様を問へば云く、少なくとも万石以上の一諸侯に比すべしと。その貨殖の有様を問へば云く殆んど東洋の「ロスチャイルド」とも謂ふべき財産ありしと。」
「穢多って、藤原日本史では、貧しい賎民として描いていますよね。賎民の頭が、世界の金融王「ロスチャイルド」の東洋版ですか。」
「その邸宅の有様を問へば云く中爵門大玄関構へにして門外幾百の家は挙げて皆その家来の居宅なりしと。」
「中爵門大玄関構って、格式の高い武家屋敷の門ですよね。それが、賎民の頭の家にあるのですか。弾左衛門って、何者ですか。」
「弾左衛門は、世襲ではなく、日本列島各地に棲息している秦王国の末裔から選出された代議員の談合により、推挙され決定するのです。」
「まるで、ギリシャ都市国家の選挙による党首選びですね。」
「その初代弾左衛門(集房)は、

家康公関東入国のとき乗馬の脚痛を起こせしことありけり。この時弾左を召して沓摺革を作らしめ、且つその支配下の猿引きをして祈祷を為さしめに馬の病頓に快復したりとて褒美の鳥目を賜まはりぬ。左れば、旧幕の頃毎年正月十一日大城の御厩に猿引来りて祈祷を行ひ御台所にて御膳並に鳥目を戴くことの恒例ありしも右の故事に基けりとなり。」
「家康公から弾左衛門に賜った、鳥目って何ですか。」
「お金のことです。」
「賎民の頭が、徳川家康の居城である江戸城に、正月に登城していたのですね。」
「その登城も、籠に乗り、羽織袴、腰には日本刀を携帯していたのです。」
「まるで、大名みたいですね。何故、徳川家康は、賎民の頭を寵愛したのですか。」
「徳川家康は、藤原日本史で述べているような武家松平の出自ではなく、北関東の世良田部落の出自であったからです。」
「その根拠はあるのですか。」
「文献史料では説明できません。でも、徳川家康は、薬草での創薬が得意で、部下が病に掛かると、家康自ら薬草を調合して与えていたのです。創薬は、4世紀から騎馬民族末裔が暮らす北陸でも盛んであるように、騎馬民族の技術なのです。更に、家康は、賎民出自の間者である諜報員から直接情報を聞いていたように、従来の武家とは異なり、賎民と蔑称されていた民とに垣根を設けては居なかったのです。」
「それは家康が、賎民と同族だからですね。その徳川家康は、藤原氏の傀儡関白となった豊臣秀吉により、関東の湿地帯である東京湾河口に、1590年に移封されたのですよね。」
「その河口の湿地帯を住宅地に変えたのは、東京湾に荒川と共に流れ込む利根川の流れを、古墳時代に活躍した秦氏末裔の高度土木技術により、太平洋に変えたことによるのです。」
「川の流れを変えた土地は、古代京都盆地もそうでしたよね。」
「古代の京都盆地は、秦氏の拠点のひとつで、その京都盆地の中央を流れる加茂川を、秦氏の高度土木技術により、東に流れる高野川に合流させることにより、湿地帯から住宅地に変わったのです。現在の北南に流れる加茂川は、人工川です。」
「それで納得しました。徳川家康と弾左衛門の関係が。徳川家康が移封される以前は、関東は秦王国の支配地であったのですね。」
「そのように考えるのが自然です。その都市国家である秦王国は、江戸幕府の行政から独立していて、秦王国独自の徴税権と司法権があったのです。

弾左の家は前にも記する如く、鎌倉時代より彼の二十八番の職業を手の下に属して、虚威を張り、実利を収め来りしが、時移りて世は徳川の代となり三代将軍家光公のとき、二十八番の中、多くはその手を離るることとなり、唯だ一銭職(髪結床のこと)、石切(石工のこと)、紺屋職の三業のみ依然弾左に属して月々冥加金を献納せしに、天明年間白河楽翁公の老中となるに及びて此の三業さへ亦た弾左の絆を離れて独立するに至りしかば、爾後弾左の制を受くるものは自家直轄の穢多社会と非人社会との二者あるのみとなり。」
「ナベさんが言っていた、徳川三代目家光から、初代家康に寵愛されていた弾左衛門が、徳川幕府から排斥されていくのですね。まるで、平安時代に、藤原氏により、廟堂から排斥された、騎馬民族末裔の嵯峨源氏や醍醐源氏と同じですね。」
「漢訳仏教を思想武器とする第三百済王朝の江戸時代から、江戸町の技術者を支配下から独立されてしまった反仏教徒の弾左衛門は、

弾左が其の部下の穢多非人に対する権力をば徴税権と司法権との二種に分つべし。即ち関東八州支配の穢多九千八百五戸より一ヵ年一俵宛の貢米を収納せしめ、此米額三千九百二十石を穫たるが如き非人頭善七より課役と称して毎月一千人の非人を無代価にて徴発使役するの権利を有し、

とし、藤原日本史で云うところの賎民を支配下としていたのです。そして、その司法権は、

弾左の邸宅用部屋の脇に白州の設けあり。弾左が邸第の向側に二千坪余の一構あり。是れ弾左一手の牢獄の所在とす。檻倉(牢獄)は三棟ありて二棟は穢多非人を入るべきものとし、一棟は町奉行所より預りの平民罪囚を入るべき所とせり。

とあるように、徳川家康が存命中に、弾左衛門が警察業務を行っていた流れが分かるのです。」
「弾左衛門は、藤原日本史では、穢多非人だけの頭として描いていますが、徳川家康が存命中は、関東の平民もその支配下に置いていたのですね。すると、古墳時代に、高度土木技術により、岩手以南各地の巨大前方後円墳、運河としての人工河、日本列島を貫く幅12m超の直線道路を建設していた秦氏末裔は、江戸時代初期まで、東国では支配者として活躍していたのに、藤原日本史では、穢多の賎民は、鎌倉時代に発生した、と述べていますが、何か変ですよね。」
「カメさんも、そう思いますか。実は、藤原日本史とは、鎌倉時代までは、日本列島西国史であるのです。日本列島は、西国と東国とでは、縄文時代の古来から、その支配民族の歴史も異なっていたのです。日本列島の歴史が、西国と東国とに融合していくのは、室町時代になってからです。その室町時代以前には、現在に伝わる日本独自の文化はなく、ポリネシア、インド、中国、朝鮮半島、ユーラシア大陸など各国から渡来した言語も異なる民族による、異国文化混交の時代だったのです。
カメさんが描いている鎌倉時代に発生したとする穢多の賎民のイメージは、日本列島全体のものではなく、漢訳仏教文化の西国のものです。穢多の賎民のイメージは、漢訳仏教僧と南宋から亡命してきた禅宗僧が発明したものです。鎌倉時代の東国は、漢訳仏教文化や禅宗文化(軍事都市鎌倉と北陸を除いて)ではなく、騎馬民族文化だったのです。ですから、鎌倉時代の騎馬民族文化の東国には、穢多の賎民が存在していたとは断言できないのです。」
「何故ですか。では、室町時代以前の東国の歴史は、どのように推測できるのですか。やはり、鎌倉時代の東国には謎が多くあるようですね。」
「藤原日本史の歴史改竄のテクニックのひとつは、歴史用語の発明です。そのひとつに、4世紀から7世紀までの騎馬民族による古墳文化時代を、架空の人物である聖徳太子による仏教黎明期の飛鳥時代を発明して、抹殺しているのです。」
「ナベさんのレポートにありましたよね。「日本書記」の552年仏教伝来はありえないということですよね。その根拠は、百済の聖明王の表文に「金光明最勝王経」が用いられているからですよね。」
「そうです。その「金光明最勝王経」が、中国の唐帝国で漢訳されたのが、703年だからです。」
「すると、「日本書記」の百済仏教伝来は、奈良時代の703年以降で、飛鳥時代の552年ではありえないわけですね。」
「普通に考えれは、当然そうなります。」
「奈良時代に藤原不比徒が発明した「日本書記」が、歴史的ウソをついているわけですね。でも、新聞の遺跡発掘記事では、「日本書記」の記述と対比して報道していますよね。それは、「日本書記」の記述に、歴史的信憑性が存在しているからですよね。」
「「日本書記」の記述が創作物語ではなく、先住民の史料を基に、歴史的改竄を行ったため、遺跡や遺構との整合性があるわけです。」
「その史料とは、「日本書記」で、645年蘇我氏が焚書したとする、「天皇紀」と「国紀」のことですか。」
「違います。日本列島での天皇の発明は、672年即位の天武天皇からです。それ以前に、「天皇紀」など存在してはいません。」
「では、その史料とは何んですか。」
「「続日本紀」の記事によりますと、唐進駐軍がもたらした「律令制度」に支配された各国に、「風土記」を作成する目的として、713年に命じた文章があるのです。それは、
郡内に産出する特産品や生息する動植物などは詳しくその種類を記せ。土地が肥沃か否かを記せ。山、川、原野の名称のいわれを記せ。古老の相伝する伝承は、史籍に記載して報告せよ。
とあるのです。しかし、完本として現存しているのは、「出雲国風土記」だけです。」
「713年と言えば、日本列島の人名・地名を漢字二文字で記せ、との好字令がありましたよね。その各国の歴史資料を基に、「日本書記物語」が創作されたというわけですね。それだったら、遺跡や遺構との整合性があるわけですね。では、藤原日本史ての鎌倉時代の歴史改竄はどうだったのですか。」
「それは、支配者としての、武家と公家の歴史用語の発明です。」
「武家とは、貴族階級の官職を持った軍事を主務とする家系のことですよね。そして、公家とは、朝廷に仕える上級官人のことですよね。その武家と公家が、鎌倉時代の歴史改竄のテクニックとなるのですか。」
「亡命百済貴族が支配していた平安時代には、皇族・神族・蕃族の身分がありました。当然、皇族は、亡命百済貴族です。そして、神職としての神族は、藤原氏で、渡来民を意味する蕃族は、秦氏でした。この平安時代の身分を隠蔽するのが「公家」の総称です。藤原氏は、神族から公家に変身したのです。」
「では、武家は、平安時代の何を隠蔽したのですか。」
「武家の初めは、鎌倉殿と呼ばれた、清和源氏の源頼朝です。そこで初めて、清和源氏の源頼朝は、公卿である正四位に任じられたのです。平安時代の武装集団は、源氏、平家、平氏が存在していたのです。しかし、藤原日本史では、1185年平家は、源氏により壇ノ浦の戦いで滅亡したことになっているのです。そして、源氏も、1219年源氏三代目将軍源実朝が、公暁に暗殺されたことにより滅亡したことになっているのです。武家で残るのは、平氏だけです。」
「すると、鎌倉時代の武家とは、平氏だけですね。でも、ナベさんの説では、清和源氏の存在は、ウソなのですよね。すると、鎌倉時代には、清和源氏ではない、「源氏」は生存していたのですね。」
「そう考えています。その鎌倉時代、武家が東国、そして、公家が西国を支配していた、とするのが藤原日本史です。」
「歴史本では、「平家」と「平氏」が区別されていないものがありますよね。極端なのは、平家を、伊勢平氏とするのもありますよね。そして、「平家物語」を「平氏物語」なんてのもありますよね。源氏や平氏は、天皇からの賜姓であるから、その天皇名を付けて、嵯峨源氏や醍醐源氏、そして、桓武平氏となるわけですよね。伊勢平氏を発明した歴史作家の歴史的良識を疑いますよね。でも、源氏は、それぞれの天皇名があるのに、何故、平氏は、全て「桓武平氏」なのですか。」
「その平氏には、出自の謎があるからです。」
「ナベさんの説によれば、源氏は、日本オリジナルな姓ではなく、5世紀に北魏を興した騎馬民族の拓跋部の太武帝が、漢姓の「元」を名乗り、その臣下になった禿髪氏が「源」を名乗ったことを、中国史の「史記」に詳しい嵯峨天皇が知り、「源姓」を騎馬民族の流れにある母をもった多くの皇女達に賜ったことによるのですよね。そして、平家は、唐帝国と国際交易をおこなっていたアラブ系海洋民族が伊勢湾一帯を支配し、宋銭を武器に勢力を京の加茂川一帯にまで伸ばし、白河上皇の私兵となった海洋系武装集団のことですよね。源氏や平家については、色々な情報があるのに、平氏については少ないですね。やはり、藤原氏の出自と同じに、平氏には知られたくない歴史があるのですか。」
「カメさんが知っている「平氏は全て桓武平氏」というのは、一部は正しいけれど、そうではないのです。桓武天皇の皇子達、葛原親王、賀陽親王、万多親王、仲野親王の皇女は、全て桓武平氏となっているのは史実です。しかし、仁明天皇、文徳天皇、光孝天皇の皇女には、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏が存在していたのです。」
「それって変ですよね。仁明天皇、文徳天皇、光孝天皇には、仁明源氏、文徳源氏、光孝源氏が存在しますよね。これって、ナベさんはどう説明するのですか。」
「日本源氏の初賜姓は、814年嵯峨源氏です。しかし、日本平氏の初賜姓は、825年です。この時代の天皇は、淳和天皇ですから、当然、淳和平氏となるはずですが、「桓武平氏」なのです。カメさん、これってどのように考えますか。」
「そう言われれば、変ですね。淳和天皇の次の天皇は、仁明天皇ですよね。その仁明天皇の皇女には、仁明源氏と仁明平氏が存在しますよね。ナベさんの質問には答えられません。ナベさんの考えはどうですか。」
「ひとつの考えとして、源氏の母方は騎馬民族系で、平氏の母方は亡命百済貴族系というのはどうですか。」
「それって、根拠があっての考えですよね。」
「根拠としては、嵯峨天皇は、藤原氏の女や亡命百済貴族の女を避けていたようです。それは、天皇をロボット化する藤原氏からの独立には、嵯峨王国を築かなければならなかったからです。その手段のひとつとして、反藤原氏、反亡命百済貴族の女を側室として子をもうけることです。そして、その子供達に、騎馬民族の漢姓である「源」を賜ることです。」
「そのナベさん説、説得力不足だと思います。」
「嵯峨天皇の皇后は、反藤原氏の橘嘉智子です。その橘嘉智子は、「風容はなはだ異なる。手は膝をすぎ、髪は地に委す。」と「日本後紀」にあるように、平安時代のノッペリとした公家顔の百済系とは異なる人種であったのです。」
「そういえば、嵯峨天皇の皇女は、全員「源姓」でしたよね。」
「そうです。桓武平氏や○○天皇平氏が、亡命百済貴族の流れにあることは、その祀る神から推測できます。そのひとつが、平野社です。平野社を平野神社と書いて、「ヒラノジンジャ」と読むのは、明治以降です。明治以前の平野神社は、「ヒラノモリ」と読むのです。「モリ」とは、古代朝鮮語で、神が宿る聖地です。しかし、藤原氏では、「モリ」は怨霊が隠棲する結界地であるのです。」
「何だか、話が難しくなってきましたね。」
「その平野社の御祭神は、今木神、久度神、古開神、比売神です。今木神は、桓武天皇の母である高野新笠の父方の祖神です。比売神は、高野新笠の母方の祖神です。高野新笠は、百済の王族の流れにあるのです。久度神と古開神は、百済系の渡来神です。」
「すると、平氏が祀る平野社の神は、オール百済系というわけですね。話が、だんだんややこしくなってきましたね。東国の鎌倉時代の賎民の話は、まだですか。」
「源氏、平家、平氏の歴史を知らなければ、藤原日本史の東国賎民の創作話を解明できないので、源氏・平家・平氏の「武家」の裏話を続けさせてください。」
「分かりました。」
「アラブ海洋民族末裔の「平家」の歴史は、鎌倉時代に、桓武平氏の北条氏により抹殺されたのです。そのひとつに、1152年平清盛により社殿を修復された「平家」の氏神を祀る安芸の、インド発祥のベンガラ(赤)染めの厳島神社(モリ)が、騎馬民族末裔の「源氏」の鎌倉幕府を乗っ取った北条氏により、亡命百済貴族の流れにある「桓武平氏」の氏神を祀る社としたことによるのです。そのことにより、源平合戦では赤旗を「平家」のシンボルカラーとしていたものが、鎌倉時代以降になると、赤旗が「平氏」のシンボルカラーとなってしまうのです。」
「そう言えば、「源氏」側の「桓武平氏」の北条氏は、源平合戦では、「白旗」組みでしたよね。」
「そうです。「桓武平氏」は、「白旗」を掲げて源平合戦を戦っていたのです。「桓武平氏」の北条氏は、藤原氏の私兵であった「清和源氏」の源頼朝を担ぎ出して、京を武力支配していた「平家」により山奥に追われた「源氏」一族を結集させて、天皇家を乗っ取った「平家」を日本列島からの武力排除を画策したのです。」
「その源平合戦で活躍したのが、奥州藤原氏により保護されていた源義経ですね。」
「藤原日本史では、源義経は源頼朝の弟となっているようですが、史実ではないようです。」
「それって本当ですか。歴史本には、源義経が、源頼朝の弟で、「平家」との戦いで苦戦する兄が支配する「清和源氏」を助けるために、奥州から数騎で出発したが、鎌倉に着く前には数千騎の軍団になっていた、と述べていますよね。」
「実は、鎌倉時代の歴史は、そのほとんどの鎌倉時代の史料とされるものは、「桓武平氏」の北条氏が鎌倉幕府を乗っ取った後に著わされた創作物語を資料としているのです。」
「1180年から1266年までの歴史を記述している「吾妻鏡」も、亡命百済貴族の流れにある北条氏による創作物語なのですか。」
「残念ながら、そうです。源義経と源頼朝とが、同腹の兄弟ではないという根拠のひとつとして、源義経の出自が不明なことです。」
「歴史本では、幼少の源義経(牛若丸)は、鞍馬山で剣術の修行をして、五条の橋で武蔵亡弁慶と果し合いをしたことになっていますよね。その後、奥州藤原氏に養われたことになっていますよね。」
「その牛若丸物語は、全て虚構のフィクションです。」
「では、ナベさんは、突然源義経が奥州に現れた理由をどう説明するのですか。」
「不思議なことのひとつは、源平合戦で活躍したとされる源義経は、一度も源頼朝が居住する軍事都市鎌倉に入京してはいないことです。そして、「源氏」は、太陽神のシンボルカラーである「白旗」なのに、源義経は、ユーラシア大陸の騎馬民族が用いる笹竜胆をシンボルマークとしていたことです。富士川の「平家」との対陣前に源義経が現れたとする1180年は、漢民族が支配する宋を武力で脅し、金と絹とを献納させていた、騎馬民族の契丹が、騎馬民族の女真(金帝国)により1125年滅ぼされ、更に、1126年北宋が金帝国により滅ぼされ、中国大陸が、農耕民族支配の南朝の南宋と、騎馬民族支配の北朝の金帝国により支配されていた時代背景があるのです。その騎馬民族支配の金帝国で、1155年モンゴル帝国の基礎を築いたテムチンが生まれていたのです。」
「源義経が歴史上に現れた1180年は、もし、源義経がテムチンだとすると25歳ですね。源義経テムチン説の根拠のひとつですよね。」
「もうひとつ加えるとすると、源義経もテムチンも、その戦闘部族のシンボルマークが笹竜胆だったのです。更に、北条氏の傀儡となった源頼朝に追われた源義経残党は、北陸道から奥州藤原氏の都を経て、津軽の十三湊を目指したことです。このルートは、北方騎馬民族のユーラシア大陸からリマン海流を利用しての国際交易ルートだったのです。」
「その源義経と鎌倉時代の賎民の歴史と何か関係があるのですか。」
「源義経は、草原馬軍団の騎射により、1184年「平家軍団」を一の谷の戦いで破ると、船団を組んで敗走し四国の屋島に陣を構える平家軍団を、奇襲するわけですが、近畿一帯の在住軍団で源義経軍団に援助したのは、渡辺津の「源氏」だけだったのです。」
「渡辺津の「源氏」とは、嵯峨源氏末裔のことですか。」
「そうです。平安時代、藤原氏の陰謀により、廟堂から排斥された嵯峨源氏です。その嵯峨源氏末裔の渡辺党は、その末裔から九州松浦党の海洋軍団が派生していたように、国際海洋交易港を支配していたのです。」
「藤原日本史によると、平安末期からの源氏は、「清和源氏」一色ですよね。反藤原氏、反亡命百済貴族の嵯峨源氏や醍醐源氏末裔のその後はどうなっていたのですか。」
「勿論、その末裔は生存していたのです。しかし、藤原日本史上では、抹殺されていたのです。そのトリックが、「公家源氏」と「武家源氏」の歴史造語です。平安時代中期までの廟堂を支配していた嵯峨源氏や醍醐源氏を「公家源氏」とし、そして、誰一人として廟堂の構成員となれなかった「清和源氏」を「武家源氏」としたのです。そして、鎌倉時代を、「公家」の支配から「武家」の支配時代とすることにより、嵯峨源氏や醍醐源氏を歴史上抹殺したのです。」
「でも、江戸末期まで存続していた「公家源氏」の「村上源氏」がありますよね。」
「村上源氏は、清和源氏と同じに、藤原氏の傀儡氏族です。村上天皇は、藤原氏の陰謀により誕生したことが分かれば、それ以上の説明は必要ないでしょう。」
「すると、ナベさんは、反藤原氏の嵯峨源氏や醍醐源氏末裔は、何処にどのようにして存続していたと考えているのですか。」
「その謎解きのヒントが、源義経です。漢姓の「源」は、日本の平安時代の武士からではなく、5世紀の北魏の時代、騎馬民族の禿髪氏が名乗ったのが始めです。禿髪とは、漢民族が発明したチュルクの漢訳です。中国歴代の歴史家により、騎馬民族のチュルクは、拓跋、突厥などと中国では表記していたのです。禿髪も拓跋も突厥も、騎馬民族チュルク(トルコ)であるのです。」
「ナベさんの説では、藤原日本史では飛鳥時代、古墳時代に明日香ヤマトを支配していたのが、奈良盆地の北辺のイカルガがギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した花郎騎士団で、そして、南辺の明日香を突厥進駐軍が645年まで支配していた、というわけですね。そのチュルクである突厥が、藤原日本史では、蘇我氏に改竄されて、歴史上抹殺されたというわけですね。」
「そして、花郎騎士団は、物部氏に改竄です。更に、藤原日本史では、古代新羅から渡来した民族を、「秦氏」として、そのギリシャ・ローマ文化を継承していた民族の歴史を消してしまったのです。」
「秦氏と言えば、先ほど述べた、江戸時代の賎民頭である弾左衛門も「秦氏」でしたよね。その弾左衛門は、江戸幕府と異なる行政機関により、関八州の秦氏末裔だけではなく、平民も支配していたのは、その嵯峨源氏や醍醐源氏と関係があるのですか。」
「源義経の裏面を調べると、何故、江戸時代の弾左衛門が、江戸幕府と異なる「秦王国」を支配していたのか分かると思います。」
「面白そうですね。」
「源義経の出自の資料としては、編纂記録の「吾妻鏡」「百練抄」、軍記物語の「平家物語」「平治物語」「源平盛衰記「義経記」、公家日記の「玉葉」「山槐記」「吉記」、そして、古文書として発給文書がありますが、どれもこれも信憑性に乏しいのです。それは、源義経が、1180年無位無官としての登場から、1189年奥州衣川での謀殺(?)までの9年間しか歴史上に登場していなかったからです。」
「すると、藤原日本史で述べている源義経が大活躍する源平合戦も、創作性が大ですね。」
「源義経は、ユーラシア騎馬民族の部族シンボルマークの笹竜胆を旗印とする草原馬軍団と供に、奥州平泉に突然登場するわけですが、その奥州平泉は、奈良時代から陸奥出羽按察使である藤原氏の傀儡である奥州藤原氏の秀衡が支配していたのです。その藤原秀衡の祖は、「エミシ」(蝦夷)だったのです。つまり、藤原秀衡は、俘囚長であったのです。」
「話がややこしいですね。」
「治承4年(1180年)8月「平家」打倒として「桓武平氏」の北条氏に担がれた源頼朝の挙兵に続いて、9月には騎馬民族国である信濃で木曽義仲が挙兵したのです。そのような状況で、京都を支配していた「平家」朝廷は、鎌倉と信濃を挟撃する作戦として、俘囚長の藤原秀衡に目を付け、藤原秀衡を、1170年に鎮守府将軍にしてから以来のこととして、1180年陸奥守に任命したのです。」
「ちょっと待ってください。話が変ですよ。藤原日本史では、藤原秀衡は、「平家」打倒の源頼朝軍の援軍として、源義経に佐藤継信と佐藤忠信の兄弟を付き添わせたことになっていますよね。」
「先ほども言いましたように、平安時代末期から鎌倉時代の歴史には、客観的史料が存在していないのです。物語や私人である日記を「史料」として復元したのが、藤原日本史の「武家による鎌倉時代」なのです。ですから、これから述べることも、あくまでも、私の「説」です。」
「分かりました。続けてください。」
「源義経が、源頼朝が居住する軍事都市鎌倉に入京できなかった理由が、そのことによりわかるのです。つまり、「平家」の陸奥守である藤原秀衡に雇われた源義経軍団は、当初は「平家」側であったのです。源頼朝は、元は藤原氏の私兵の末裔であったのですが、今や「桓武平氏」の北条氏の婿殿であったのです。」
「すると、ナベさんは、源義経軍団は、京都の「平家」軍団を追い出し、その京都を軍事支配していた木曽義仲軍団を壊滅するために、源頼朝が居住する鎌倉を素通りした、と考えるわけですか。」
「そのように考えています。同盟軍が、同じ釜の飯を食わないことありえません。入京しない、或いは、させない理由は、源義経と源頼朝は、同盟軍ではなかったからです。」
「でも、藤原日本史では、永寿3年源頼朝の御使として、数万騎を率いて宇治路より源義経を入洛させたことになっていますよね。」
「源頼朝が、源義経軍団に、「平家」打倒の命令をしていた、とするのは「吾妻鏡」を資料としているからです。「吾妻鏡」は、婿殿を支配する北条氏の創作物語です。」
「源頼朝と源義経とが主従関係ではない、とするその根拠はあるのですか。」
「文治元年(1185年)後白河法皇は、平家を壊滅させた源義経に、源頼朝を追討する宣旨を発しているのです。」
「それって、学校では教えられていませんよね。でも、結果的に、源義経は、朝廷からも、源頼朝からも追われる立場になりますよね。その背景は、何故だと考えますか。」
「それは、源義経が、元暦元年(1184年)8月から文治元年(1185年)11月まで、左衛門少尉と、検非違使に任じられていたからと考えています。」
「検非違使とは、確か、平安時代初期、反藤原氏の嵯峨天皇が、天皇をロボット化する藤原氏の支配から独立するために、令外官として、816年に設置したものですよね。」
「嵯峨天皇が検非違使を設置した背景には、810年藤原薬子の乱があります。嵯峨天皇は、平城太上天皇を懐柔する藤原兄妹が、藤原氏からの独立を画策する嵯峨天皇を追い落とすための乱を平定した後、嵯峨王国を築くために、814年嵯峨源氏を誕生させるわけです。その嵯峨王国樹立を阻止する者を排除するために、警察機関として、検非違使を設置したのです。」
「検非違使と嵯峨源氏とには、何か関係があるのですか。」
「検非違使の主な任務は、国家反逆に対する警察業務です。その国家反逆のことを、平安時代初期には、「ケガレ」と言っていたのです。」
「「ケガレ」って、「汚い」の意味ではないのですか。」
「確かに、現在では、「ケガレ」は、「汚い」の意味となっていますが、平安時代初期では、「国家反逆」の意味であったのです。その意味が百八十度変化するのが、鎌倉時代なのです。」
「その国家反逆に対する警察処置が、「キヨメ」ですよね。その「キヨメ」は、現在では、「お祓い」の意味に使われているようですね。平安時代では、そのキヨメの武力行使を行う警察業務は、源氏が従事したわけですね。「平家」を壊滅した後、源義経が、その検非違使左衛門少尉となれば、当然、その警察業務を行う組織も、平氏ではなく、源氏ですよね。」
「そうです。そのひとつとして、渡辺津の「嵯峨源氏」末裔が任命されたことが示唆されます。近畿一帯で孤立無援の源義経軍団は、屋島襲撃の基地として渡辺津に結集していたのです。渡辺とは、713年好字令による前政権の歴史を抹殺するための地名で、河内が湾であった頃、上町台地の突端の岬を、古代エジプト語で、ワタ(波)ナーベ(小山)と呼ばれた地域名だったのです。」
「江戸時代、その渡辺村と江戸浅草の弾左衛門とでは、姻戚関係があったようですね。」
「江戸時代まで、渡辺村は役人村と云われていたのは確かです。村と言うと、農村と連想してしまうようですが、第三百済王朝による漢訳仏教思想に支配されていなかった江戸初期までの村は、農村だけではなく、商業、金融業、工業などを生業とする集落であったのです。その渡辺村は、戦国時代末期、イエズス会を裏切り藤原氏に寝返った関白太政大臣豊臣秀吉により、その渡辺津の支配地を追われたことは、1590年徳川家康が江戸湾の湿地帯に追われたことと一脈を通じます。」
「その渡辺村は、どのような村だったのですか。」
「江戸浅草の弾左衛門の政府から類推できると思います。「朝野新聞」の記事によりますと、弾左衛門の政府機関として、

弾左の家従は上役十五人、下役六十五人、小物七十人にて何れも新町に居住し、毎日弾家に勤仕したり。上役は大名にて云えば布衣(御目見)以上の格式にも当りぬべし。しかして十五の内三人は御家老、三人は御用人、三人は公事方奉行、二人は御勘定奉行、二人は大目付、二人は御郡代とも云うべき役割にて関八州支配の政務に与かるべき重役とこそは知らるれ。さて又た下役六十五人は御目見以上の格式にて之を大名に譬ふれば御近習役、御目付、御祐筆、御用部屋、公事方、御勘定方、御郡代手附の類ならん。其の小者七十人は下役に附属して夫々勤め向あり武家に於る同心足軽にも比ぶべし。此の外非職にて革の製造に従事するもの七十五人あり総計二百二十人の家従なり。実に恐ろしき程なりけり。

とあるように、江戸時代の関八州の秦氏末裔を支配していた「秦王国」は、歴然とした都市国家の政府に匹敵する組織を、明治初期まで維持していたのです。」
「藤原日本史には、「秦王国」なんて登場しませんよね。明治時代に発刊されていた「朝野新聞」の連載記事がなければ、一般の人は、弾左衛門の政府なんて知ることはなかったですよね。」
「一般に知られる歴史は、勝者のものです。敗者の歴史は、偽書のレッテルを貼られて葬られてしまうのが現状です。しかし、歴然として、敗者の歴史が日本列島の古墳時代から存在していたのです。それが、騎馬民族の歴史です。」
「鎌倉時代に、平安時代では国家反逆の「ケガレ」や、その取締りの警察業務の「キヨメ」が、「汚い」とか「汚物の清め」や「お祓い」の意味となったのは、何故ですか。」
「それは、鎌倉新仏教の僧侶や、鎌倉時代初期に騎馬民族のモンゴル帝国に侵略された南宋から、日本列島の漢訳仏教王国の西国ではなく、騎馬民族末裔が多く暮らす東国の「北陸」や「鎌倉」に亡命してきた禅宗の僧侶達の漢訳仏教思想やバラモン教思想の庶民への布教の結果です。それらの思想は、肉食する騎馬民族の文化を否定するものだからです。」
「中国で漢訳仏教思想が庶民に浸透しなかったのは、中国庶民は豚肉を常食していたからですか。」
「それは分かりませんが、漢訳仏教は、北魏の騎馬民族である拓跋部の太武帝(漢姓元)の仏教弾圧を初めとして、何度となく弾圧されていたのは、その思想に肉食する民族を「施陀羅=悪」とする蔑視があったからだと思います。」
「するとナベさんの説では、藤原日本史で鎌倉時代に発生したとする賎民穢多の祖は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族の秦氏というわけですか。」
「基本的には、そのように考えていますが、秦氏末裔のすべてが賎民と、藤原氏や亡命百済貴族の漢訳仏教思想やバラモン教思想布教の策謀により貶められたわけではないのです。」
「秦氏は、秦氏ではないのですか。」
「平安時代、亡命百済貴族が支配する京都では、百済の母国を滅ぼした新羅から渡来した民族は、弾圧され、そのために秦氏の一部は惟宗氏に変氏したのです。その惟宗氏は、鎌倉時代になると、源平合戦で活躍したため、桓武平氏の北条氏の婿殿源頼朝が、南九州にある藤原氏の荘園である島津荘を取り上げて、その島津荘を惟宗氏に与えたのです。このことにより、秦氏末裔の惟宗氏は、島津氏となったのです。」
「島津氏といえば、戦国時代から明治革命まで、外国勢力と結託して暗躍していましたよね。」
「そうです。島津氏は、秦氏末裔ですが、藤原氏の戦術に篭絡され、藤原氏のおんなを娶らされることにより、島津氏は、公家源氏の村上源氏のように、藤原氏の流れとなってしまったのです。」
「その秦氏と島津氏が同族である証拠でもあるのですか。」
「「朝野新聞」によりますと、秦氏末裔の弾家と島津氏との関係を述べた記事があります。

華族中の大家として聞こえたる島津家は秦人帰化の後なりと云ふこと世人の知る所となるが、弾左の家系果して前に記せし如く秦人帰化の後ならんには弾左と島津家とは偶々その祖を同ふするものといふべきか。況して弾左の紋所は轡にて替文また五三の桐を用ふると云へば、或は多少の縁故もありしならんか。

とあるように、家紋が同じだとするのです。」
「家紋は、平安時代に貴族の一部が、自家牛車のマークとして使用していましたよね。」
「平安末期の源義経も、笹竜胆の家紋を使用していましたが、武家一般に使用されるのは、鎌倉時代以降からです。」
「島津家の家紋は、○に十の字ですよね。」
「弾家も○に十の字です。」
「家紋は、その祖の歴史をシンボルとしているわけですよね。轡紋は、馬と関係があるのですか。島津家も弾家も、その轡紋で何を表わしているのですか。」
「家紋関連の書籍には、島津家の家紋の意味を色々と述べていますが、そのひとつに、キリスト教の十字説があります。しかし、島津家の家紋は、鎌倉時代からです。ザビエルが、島津家が支配する鹿児島に渡来したのが、1549年ですので、それを根拠にキリスト教の十字説を否定しています。カメさんはキリスト教に詳しかったですね。」
「詳しいという程でもないです。」
「島津家の初期の家紋は、十字だけです。十字の家紋は、騎馬民族末裔の甲斐武田軍団も使用しているのです。」
「武田家紋は、割菱ですよね。どこに十字があるのですか。」
「絵には、地と図があります。地とは、バックの背景のことです。図とは、絵柄のことです。割菱の地と図を替えてみると、そこに、クロスの線が現れます。そのクロスを図とすれば、十字となります。」
「そう言われれば、騎馬軍団の武田家紋の割菱には、十字がありますね。十字は、キリスト教のシンボルでないのならば、何を意味しているのですか。」
「以前、レポートで述べたように、太陽神を祀るミトラ教は、その太陽のシンボルとして、マルタクロスを用いていたのです。しかし、392年ローマ帝国で、軍神として崇拝されていたミトラ教は、「ヨシュアはメシア」と唱える教団に乗っ取られたのです。ローマ帝国のエウゲニウスは、その「ヨシュアはメシア」をギリシャ語に替え「イエス・キリスト」とし、ローマ帝国の国教としたのです。」
「すると、ナベさんは、轡紋の十字は、ミトラ教の太陽神のシンボルマークのマルタクロスだというのですか。」
「現在では、その説をとっています。父と子と精霊の三位一体、そして、十字架やクリスマスの日や種無しパンと葡萄酒の儀式など、キリスト教の教義や儀式の多くは、太陽神を祀るミトラ教のものです。」
「ミトラ教の神は、漢字の「花」に借字して、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の花郎騎士団が崇拝していたのですよね。その古代新羅から日本列島に渡来したのが「秦氏」ですよね。」
「そうです。」
「その秦氏末裔が、賎民の頭である弾左衛門と、華族の中枢である島津家であるわけですね。だから、両家とも、轡紋を家紋としているわけですか。」
「そのように考えています。」
「では、その両家が別の道を歩んだ訳は、何によるのですか。」
「鎌倉時代に、秦氏末裔の惟宗氏は、亡命百済貴族の流れにある桓武平氏の北条氏の婿殿源頼朝より、藤原氏の荘園である島津荘を賜ったように、秦氏末裔の弾家も、源頼朝より書状を賜っていたのです。それが、頼朝公の御朱印です。」
「何ですか。その頼朝公の御朱印って。」
「免許書のようなものです。弾家が、鎌倉長吏として支配できる職種を述べたものです。」
「どんな職種があるのですか。」
「長吏、座頭、舞々、猿楽、陰陽師、壁塗、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋、などです。」
「鎌倉時代の弾家は、色々な職種を支配していたのですね。」
「そうですね。しかし、その書状に、湯屋風呂屋とあることにより、その信憑性が疑われているのです。」
「湯屋風呂屋の何が疑われているのですか。」
「以前、西国と東国の歴史文化が異なっていたと述べましたよね。西国では、お湯につかる湯ではなく、蒸し風呂が用いられていたのです。鎌倉時代、西国の文化である蒸し風呂は、東国の一般庶民のものではなかったのです。東国で、お湯につかる「湯屋」が「風呂屋」となるのは、第三百済王朝の第三代将軍徳川家光の江戸時代以降からです。」
「すると、その書状は偽書なのですか。」
「それは分かりません。鎌倉時代の史料の多くは、鎌倉時代の正史と云われる「吾妻鏡」のように、室町時代以降に改竄されているからです。しかし、その職種から、秦氏末裔の弾家が、古墳時代から続いていたことか示唆されるのです。」
「それって、どう言うことですか。」
「鋳物師、石切、土器師は、古墳時代からの技術だからです。これらの技術は、古墳時代に、日本列島に持ち込まれたのです。しかし、その古墳時代の歴史を抹殺するために、古墳時代末期に渡来した藤原不比等は、「日本書記」で「飛鳥時代」を捏造して、騎馬民族の古墳時代の歴史を、仏教文化黎明期の飛鳥時代としたのです。」
「それって、史観の飛躍しすぎではありませんか。その仏教文化の飛鳥時代はなかったとする根拠は、何ですか。」
「説明が長くなると思います。理解不能の時は、質問してください。」
「はい、分かりました。」
「さいたま県のさきたま古墳群にある稲荷山古墳から、馬具と供に、鉄器製作工具が出土しているのです。このことは、鉄器の輸送手段として、馬が利用されていたことを示唆されます。しかし、重量物である鉄器は、馬だけで運搬されていたわけではないのです。現在では、さきたま古墳群は、陸地の真ん中に存在していますが、古墳時代の稲荷山古墳の位置は、荒川と利根川の大川とに挟まれた洲であったのです。」
「利根川は、騎馬民族末裔の徳川家康が移住する江戸時代以前に、秦氏末裔により、京都盆地の中央を流れていた加茂川を東に流れる高野川に合流させたように、川筋を江戸湾から太平洋に変えられていたのですよね。」
「そうです。古墳や遺跡を調べる時、現在の地形を基にすることは、大変危険なことです。その鉄器の輸送ルートは、古墳初期、中期、後期により異なっていたのです。古墳時代初期、鉄器の材料は、朝鮮半島南部から日本列島にもたらされていたのです。」
「古墳時代初期って、4世紀からですよね。」
「そうです。4世紀頃、日本列島では、鉄資源の開発がなされていなかったので、その鉄素材は、朝鮮半島南部から船舶で輸送されていたのです。その船舶による鉄資源の輸送を補完したのが、馬です。古墳時代初期、馬具の出土分布をみると、東山道や東海道に集中域が形成されていることは、馬が陸地輸送の手段として利用されていたことが示唆されます。更に、船が着岸できる国際港である津や浦などの港湾施設の近くの古墳からも、馬具が多く出土していることは、荷揚げの為に、馬が利用されていたことが示唆されます。」
「日本列島に最初に馬が持ち込まれたのは、重い物品の輸送のためだったのですね。」
「古墳時代初期の出土品には、実用品の馬具が多くあるのは、戦闘用ではなく、輸送用としてしたことが示唆されます。しかし、古墳時代中期になると、その馬具の多くは、実戦用となるのは、馬は、輸送のためだけではなく、戦闘用に使用されたことが示唆されます。」
「古墳時代中期とは、5世紀頃ですよね。5世紀の日本列島は、藤原日本史では、南朝の宋に朝貢していた、倭の五王の時代ですよね。」
「藤原日本史では、倭人を、日本列島の住民だけと述べているようですが、倭人は、日本列島だけではなく、朝鮮半島や中国内陸にも居住していたのです。ですから、倭の五王と言っても、畿内の原住人とは断言できないのです。その古墳時代中期になると、朝鮮半島南部から鉄ていや鋳造鉄斧が大規模に流入し始めるのです。」
「鉄ていとは、何ですか。」
「鉄ていとは、肘骨の形をした鉄板です。その鉄ていは、4世紀中頃、古代新羅や伽耶などの朝鮮半島南部地域に出現したのです。そして、6世紀中頃まで朝鮮半島や日本列島で流通したのです。その鉄ていや斧状鉄板は、5世紀中期まで、朝鮮半島南部と日本列島では、同一の発達を遂げていたことは、朝鮮半島と日本列島には同一の流通ルートがあったことが示唆されます。」
「6世紀中期とは、藤原日本史では、527年筑紫国造磐井の反乱、552年仏教伝来と述べている頃ですよね。古墳の出土品によれば、古代新羅との関係が示唆されていますが、藤原日本史の「日本書記」では、古代新羅より、百済の記事が多くありますよね。」
「鉄の国際交易体制が大きく変化し、「鉄てい」などが大量に流通し始めた時期と、「馬」が大量に日本列島に導入された時期とは一致するのです。」
「でも、飛鳥時代、藤原日本史では、金ぴかに飾った馬は、権威を表象する財として、列島の支配者(大和朝廷?)の配下となった地方有力者に賜った「威信財」だと説明していますよね。古墳から多く出土する馬や馬具からすると、馬は威信財ではなく、陸路運送の実用品(?)ですよね。」
「その馬威信財説を覆すために発表されたのが、「騎馬民族日本征服説」です。しかし、その説が発表された太平洋戦争敗戦後の時期には、未だ、さきたま古墳群の発掘がおこなわれていなかったため、学界では否定的に受止められてしまったのです。鉄ていなどの鉄素材や馬具の出土は、北九州よりも、畿内に多くあったからです。」
「「騎馬民族日本征服説」は、朝鮮半島南下から北九州に上陸して、畿内大和を目指した、とするからですね。その北九州には、その痕跡がない、とするのですね。」
「そうです。しかし、馬具の出土する古墳は、長野県、静岡県などの中部東海地方に著しく分布しているのです。そして、群馬県高崎市の積石塚系の剣崎長瀞西古墳群からは、5世紀の朝鮮半島南部に類例が多い、鉄製の轡を装着したままの馬遺体が出土しているのです。更に、その出土品には、朝鮮半島南部製とみられる金製の垂飾付耳飾や韓式系土器があるのです。5世紀、朝鮮半島南部は、古代新羅の支配地だったところです。」
「藤原日本史によれば、朝鮮半島から渡来した秦氏は、絹織物の技術者で、肌になめらかな絹製品を織るから「はた」氏となった、などと説明していますよね。ナベさんの説では、古代新羅からの渡来者は、鉄素材の流通業者の国際交易商人のイメージですよね。でも、何故、4世紀の日本列島に国際交易商人として馬を導入したのに、5世紀の日本列島には、戦闘集団の馬が導入されたのですか。」
「ひとつの考えとして、渡来した異民族集団との、日本列島から産出する国際交易品をめぐっての戦闘が、5世紀からあったからだと考えています。東アジアでは、五胡十六国の戦乱時代から、南朝の宋と北朝の北魏が興った頃です。」
「藤原日本史では、日本列島には資源がないように記述していますが、渡来人は、日本列島の何を求めていたのですか。」
「日本列島に資源がない、などというのは「ウソ」です。縄文時代には、糸魚川沿いの谷間からは翡翠が産出し、中国皇帝の魔除けとされていたのです。更に、岩手県久慈では、琥珀が産出され、バルト海沿岸との国際交易ルートが開発されていたのです。弥生時代の1世紀となると、ローマ帝国が中国南方の絹を金と同価として求めたため、国家が存在していなかった日本列島には、絹生産地として進駐軍が渡来していたのです。中国南部から持ち込まれた繭(ポンピックス・モリ種)は、日本列島の風土に慣れ、日本列島は徐々に絹生産地となっていたのです。紀元一世紀、弥生時代の日本列島では、桑畑開墾のため、鉄器が求められていたのです。藤原日本史では、弥生時代の水田稲作伝来の歴史のなかに、桑畑の開墾の歴史が隠蔽されていたのです。」
「そこに鉄器交易商人として現れたのが、鉄器製作民族ですね。」
「そうです。4世紀の日本列島各地の集団にとって、もっとも重要な物資は、絹製品生産のための耕作に必要な鉄器と鉄素材であったのです。弥生時代から古墳時代にかけて、日本列島には鉄素材を供給できないため、朝鮮半島南部から供給を受けていたのです。そのため、日本列島の各地の津や浦の港湾施設から内陸の大川へ、そして、その大川の浦から更に内陸に輸送するために、馬による鉄物資流通のネットワークが形成されて行くのです。」
「その鉄物資流通のネットワークは、どのようにして広域に広がっていったのですか。」
「その広がり方は、古墳の形態から推測できます。古墳には、大きく分けて、円墳と方墳があります。世界共通の思想では、天は円で、地は方です。つまり、天は丸く、地は四角です。その古墳時代初期の形態は、その原初的物流ネットワークに沿って、前方後円墳型と四隅突出型の古墳が築かれていたのです。異なる型の古墳は、異なる埋葬思想をもった民族がその地に居住していたからです。その二つのルートとは、ひとつは、前方後円墳型の瀬戸内海ルートとして、北九州(秦王国を豊国と改竄)→吉備(秦王国を鬼が島と改竄)→畿内(山背国の秦王国)→東海(鎌倉時代の弾家の秦王国)→関東(浅草弾左衛門の秦王国)、そして、もうひとつは、前方後方墳型の日本海ルートとして、出雲(ズーズー弁言語国)→丹後→越前→諏訪→関東→東北(ズーズー弁言語国)です。」
「何故、二つのルートが存在したのですか。その根拠は何ですか。」
「古墳時代初期、日本列島には二つのグループが存在していたことは、古墳の形態で分かります。それが、「前方後方墳」と「前方後円墳」です。「前方後方墳」の築造は、四角の地を崇める民族同士の連合を意味します。「前方後円墳」の築造は、地と天を崇める異なった思想をもった民族の合意のもとでおこなわれたのです。この二つの異なる形態の古墳を築造していた民族は、武力が拮抗していた時期は、集団間の不可侵の社会システムが機能していましたが、武力の拮抗が崩れると、優が劣を飲み込むことになるのです。」
「古墳築造の流れからすると、前方後円墳側が、前方後方墳側を吸収したのですね。何故ですか。」
「前方後円墳側が、前方後方墳側より、武力に勝ったのは、畿内をそのルートに含んでいたからです。」
「畿内には、何があったのですか。」
「それは、奈良県三輪山奥の宇陀から産出する朱砂です。水銀の原料です。」
「朱砂って水銀化合物ですよね。何に使うのですか。」
「水銀は、道教などの宗教家は不死長生の仙薬として、そして、金銅仏像製作者はアマルガム法の金メッキの材料としていたのです。」
「その水銀素材の朱砂が、奈良の宇陀から産出されるわけですね。」
「そうです。藤原日本列島史の謎を解くには、その宇陀の朱砂と、日本列島で産出される絹の歴史を知ることです。」
「古代新羅から渡来した民族・秦氏は、馬を陸上輸送の手段として、日本列島を支配する各地の異民族と鉄器・鉄器素材を友好的に交易する目論みとして、日本列島各地に前方後円墳を築いていたのですね。その前方後円墳を築く技術が、鉄器製造の鋳物師、石室を造る石切、そして、その古墳を飾る土器師ですね。」
「源頼朝から鎌倉長吏に与えられた御朱印に、関守、山守、川守とあることから、鎌倉時代初期の東国の物流ネットワークは、秦氏末裔が支配していたことが示唆されます。」
「ナベさんのレポートには、古墳時代、幅12m超の古代高速道路が、日本列島に張り巡らされていた、とありましたよね。その古代高速道路では、絹増産を目的に桑畑開墾のための鉄物資などを積んだ馬が、疾走していたのですね。その鉄物資交易の為に、岩手県以南から九州にかけて相似形の前方後円墳が築かれていたのですね。でも、ちょっと気になることがあります。それは、6世紀前半頃の奈良盆地では、突然、前方後円墳が築かれなくなり、替わりに、方墳が築かれたことを、どのように説明付けるのですか。」
「6世紀前半の奈良盆地に前方後円墳が築かれなくなった時期を、藤原日本史では、継体天皇の出現時期とするのです。その突然歴史上に現れた継体天皇には、多くの謎があるのです。」
「「古事記」と「日本書記」とでは、その継体天皇の出自が異なっていることですか。」
「それも、そのひとつです。その謎は、北陸から出兵して、20数年間も「大和侵攻」を、何故行わなかったのか、ということです。」
「北陸は、出雲からの前方後方墳型の交易ルートですよね。前から疑問に思っていたことは、何故、出雲の日常言語が、東北のズーズー弁なのかということです。それは、先ほどのナベさんの説で理解できました。出雲と東北とは、古代交易ルートでつながっていたのですね。」
「出雲は、ユーーラシア大陸の東岸である沿海州沖から、南下するリマン海流を利用した、日本列島への最初の上陸地であったのです。南下するリマン海流は、朝鮮半島付け根で解消し、その朝鮮半島南部から、更に南下すると、北上する対馬海流に乗れるのです。更に、対馬海流に乗り北上すると、出雲、丹後、若狭、越前(北陸)に到達するのです。それらの日本海沿岸の地には、方墳が多く築かれていたのです。」
「大陸からの交易は、朝鮮半島から九州→瀬戸内海だけだと思っていましたが、何故、出雲ルートと北九州ルートがあったのですか。」
「それは、東アジアの歴史を調べれは分かります。東アジアでは、南方の農耕民族と北方の騎馬民族との戦いが、紀元前からおこなわれていたからです。」
「すると、出雲ルートは騎馬民族の交易ルートで、九州ルートは農耕民族の交易ルートというわけですか。」
「基本的には、そのように考えています。九州交易ルートは、東アジアの南方諸国との関係が深く、出雲交易ルートはユーラシア大陸諸国との関係が深かった、と考えています。」
「すると、6世紀前半の奈良盆地で、前方後円墳の築造が突然中止となり、方墳に替わったということは、出雲交易ルートの民族の出現と考えることが出来ますね。」
「前方後円墳は、地と天を崇める民族の象徴です。一方、方墳は、地を崇める民族の象徴です。騎馬民族の王は、テングリ(天子)と呼ばれ、天帝である北極星から、地上の支配権を与えられた(命)ものです。ですから、人民を支配することに失敗すると、天帝から改命されるのです。これが、地上の支配が交代する、つまり、「革命」ということです。」
「すると、6世紀前半の奈良盆地を支配した民族は、前方後円墳を象徴とする民族を、奈良盆地から駆逐したわけですね。」
「騎馬民族は、農耕民族出自の歴史家により、常に騎馬による武力で農耕民族の物品を強奪するように描かれていますが、実際の騎馬民族は、モンゴル帝国軍と同じように、武装威圧により敵国を懐柔し、取り込む戦術を多くおこなっていたのです。平時は、国際交易民族として暮らしていたのです。」
「すると、もし、継体天皇が騎馬民族だとすると、奈良盆地周辺を20年近くも流離っていたのは、奈良盆地と交易をおこなっていたのですか。」
「6世紀の奈良盆地は、生駒山と葛城山との間を流れる大和川が、何年かの間隔でおきる山の滑落で埋まり、奈良盆地を湖にしていたので、奈良盆地の中心地には恒常的な建築物が存在していなかったのです。ですから、大陸からの国際交易商人は、三輪山麓を通る山辺の小道を、水銀素材である朱砂交易路として利用していたのです。その奈良盆地の湿地帯を、住宅地や農耕地に改良するために、秦氏末裔により、運河や巨大前方後円墳が築かれていたのです。」
「すると、継体天皇は、巨大前方後円墳により、湿地帯を改良できるまで、待っていたわけですか。」
「それは分かりません。しかし、継体天皇が武力だけで奈良盆地を支配していなかったことは、奈良盆地の外では、依然として、前方後円墳が築かれていたからです。」
「なんだか、ややこしいですね。でも、ナベさんの説では、天皇は、672年即位の新羅系天武天皇からですよね。6世紀の日本列島には、天皇など存在していなかったのですよね。だとすると、藤原日本史で述べる継体天皇とは、何者ですか。」
「「日本書記」は、720年藤原不比等が、713年地方の郡司から集めた史料を基に、創作した歴史物語です。その歴史物語の「日本書記」に登場する継体天皇の事績は、郡司からの史料を基に創作されたわけですから、継体天皇の事績には、古墳時代の歴史が反映されていると考えることが出来ます。」
「そのヒントが、継体天皇が出立した北陸ですね。」
「古墳時代の北陸は、ユーラシア大陸と繋がっています。継体天皇が現れた時期の東アジアでは、北朝の騎馬民族の北魏が、騎馬民族鮮卑を倒した柔然により攻撃を受けて衰退の一歩手前の状態です。535年北魏は東西に分裂します。その柔然も、チュルク系高車人により衰退し、552年チュルク系突厥帝国が興るのです。」
「ナベさん、鮮卑とか、柔然とか、高車とか、突厥とか、民族の名前が覚えにくいのですが。」
「カメさんも、そのように思いますか。私も同感です。その騎馬民族の名前が覚えにくいのは、そして、騎馬民族の歴史にメリハリがないのは、騎馬民族は基本的には、「歴史書」を持たないからです。その騎馬民族の歴史は、農耕民族の歴史家の史料を基に復元されているので、スッキリした物語にならないのです。それに、騎馬民族は、農耕民族に比べて、離合集散が著しいのは、テングリ(天子)は、天帝により地上権を命じられているにすぎないため、テングリ(天子)の統治能力が衰えると武力抗争が多発するからです。」
「それでは、騎馬民族による騎馬民族の歴史を知ることが出来ないわけですね。ナベさんは、レポートで、6世紀半ばに日本の歴史上に突然登場した、藤原日本史で述べる蘇我稲目とは、ユーラシア大陸の騎馬民族の突厥進駐軍の将軍だとしていますよね。その蘇我稲目の子が崇仏派の蘇我馬子で、587年廃仏派の物部守屋を滅ぼしたことになっていますよね。では、その突厥の将軍とは、何者ですか。何を目的に、古墳時代の日本列島に渡来したのですか。」
「突厥とは、チュルク(トルコ)の漢訳語です。この突厥帝国は、東ローマ帝国と馬絹交易をおこなっていたのです。東ローマ帝国には、ユーラシア大陸の草原馬に比べて、人工種付けにより馬体の優れたアラブ種が存在していたのです。突厥帝国は、そのアラブ種の馬を手に入れるため、絹を求めて、日本列島に侵攻したのです。その交易ルートは、出雲ルートです。」
「ナベさん、その説明にはついていけません。突厥民族が、古墳時代の日本列島に渡来したという根拠は、何ですか。」
「それは、国際交易で使用する「ことば」です。カメさん、日本語の文法をご存知ですよね。主語+目的語+述語です。もし、古代日本列島の住民が、東アジア南方系諸国との交易だけをおこなっていたとすれば、それは、東アジア南方諸国を支配していた中国語の文法である、主語+述語+目的語となるはずです。」
「そうなると思いますが。でも、日本語の「ことば」には、ポリネシア語、タミル語、アイヌ語、朝鮮半島語(高句麗・百済・新羅)、唐語などがありますが。」
「カメさん、日本語の単語には、多くの他国語が存在しますが、日本語の文法は、ウラル語なのです。日本語の文法が、北方騎馬民族のウラル語文法であるのは、何故だと思いますか。」
「そのウラル語を話す民族が、絹を求める国際交易の為に、日本列島に渡来したからですか。」
「古墳時代の騎馬民族の文化は、藤原不比等が創作した「日本書記」の「仏教文化の飛鳥時代」により抹殺されていたのです。それと同様に、鎌倉時代の東国の騎馬民族の文化は、桓武平氏の北条氏が創作した「吾妻鏡」の「武家文化の鎌倉時代」により抹殺されていたのです。」
「ナベさんの歴史観と、学校で教わった歴史とには、相当の断絶がありますね。オレでさえも、ナベさんの史観にはついていけないところがあります。ましてや、一般の人には、ナベさん説は受け入れられないと思いますが。」
「物の見方により、丸が四角に見えたり、四角が丸に見えたりするものです。私の説が、藤原日本史と異なることは、見る角度が、世間と異なるからです。私は、敗者の立場から日本列島史を見ているのです。特に、藤原日本史が隠蔽している歴史には、特に注意して見ています。「仏教文化の飛鳥時代はなかった。」、との根拠のひとつとして、現在の奈良盆地の地名には、「明日香」はあっても、「飛鳥」はありません。何故だと思います。」
「飛鳥時代はなかったからですか。」
「奈良時代に中臣神道を発明した藤原氏により、長い間支配されていた奈良盆地の先住民は、本当のことが言えなくなっていたのです。興福寺を拠点に奈良盆地を侵略した藤原氏に抹殺されないための手段として、先住民は奈良盆地独自の物言いを発明したのです。それが、「○○でおま、」、で話を一瞬停めることです。そして、その一瞬のうちに、相手の顔色を伺い、「す。」にするか、「せん。」にするかを判断したのです。その「奈良盆地の本当の歴史を語れない」先住民末裔が選んだ地名が、「飛鳥」ではなく、「明日香」である意味を考えてください。」
「そう言われれば、現在の地名は、「飛鳥」ではなく、「明日香」ですね。すると、藤原日本史で述べる、「武家文化の鎌倉時代」も「ウソ」ですか。」
「カメさんが知りたがっている、鎌倉時代に発生したとする漂泊する貧乏な賎民という物語、そして、その賎民のこころを救済したとする鎌倉新仏教の布教物語も、疑う必要があります。」
「それって、どういうことですか。」
「室町時代以前では、西国と東国とでは、文化も言語も異なっていたからです。賎民の発生は、日本列島全国ではなかったのです。北海道と沖縄とには、現在に伝わる賎民思想は存在していなかったのです。」
「その原因は、何ですか。」
「その北海道と沖縄とには、歴史的に、漢訳仏教寺や禅寺がほとんど存在していなかったのです。」
「すると、鎌倉時代初期の東国には、真言宗や天台宗は勿論、禅宗の寺もほとんど存在していなかったから、賎民もいなかったわけですか。」
「騎馬民族は、本来、夏営地と冬営地を移動して暮らしていたのです。ですから、炊事のためには、定住を基にした「カマド」ではなく、テントの頂点から紐で吊るす取っ手付鍋による「イロリ」であったのです。西国では、農耕民族が多く暮らしていたため炊事道具は「カマド」で、それに対して、東国では、騎馬民族が多く暮らしていたため炊事道具は「イロリ」であったのです。「漂泊=貧乏」ではないのです。漂泊民は、土地からの収穫により生計を立てていたのではなく、交易により生計を立てていたのです。そのため、移動に便利なために、標準交換物としての「貨幣」を発明していたのです。平安時代、西国では、騎馬民族が経済活動に使用した貨幣を蔑視していたため、米を貨幣代わりにしていたのです。しかし、東国では貨幣が流通していただけではなく、信用取引の「為替」も利用されていたのです。貨幣や為替は、ユーラシア大陸の広域で国際交易をおこなっていた騎馬民族が、経済活動において発明したものです。」
「平安時代末期から鎌倉時代初期にかけた時代では、東アジアでは、漢民族が興した宋が、騎馬民族の契丹に、金と絹を貢ぐために、日本列島に宋銭を多量に持ち込まれていたのですよね。その宋銭により、アラブ系海洋民族末裔の「平家」が、日本列島の三分の一を知行国として支配したのですよね。」
「絹や金は、宋が契丹に貢ぐために求められたため、その対価としての宋銭が、日本列島の西国ではなく、東国に多く貯えられていたのです。つまり、西国の米経済に対する、東国の貨幣経済です。物流の手段も、西国と東国とでは異なっていたのです。」
「物流の手段は、古墳時代から、海外(船舶)→津→河路(河船)→浦→陸路(馬)ではなかったのですか。」
「それが、平安時代、亡命百済貴族が支配する京都では、輸送手段が、古墳時代の北方系生息の馬から、南方系生息の牛に替わるのです。それが、ひとを乗せる牛車(ぎつしや)と荷を運ぶ牛車(ぎゅうしゃ)です。それに伴い、古墳時代に築かれた幅12m超の古代高速道路は、幅6mに改造されてしまうのです。その古代高速道路は、田中角栄首相が唱えた日本列島改造論での高速道路網の建設で、再び現れたのですが、経済優先のため、発掘調査もなく、現在の高速道路建設により破壊されていたのです。古代の高速道路網は、現在の高速道路網と重なることは、古代も現代も、その道路敷設地域が建設地として最適であったからです。」
「西国では、牛車ですか。すると、東国では、馬車ですか。」
「それが、東国では、馬車ではなかったのです。馬に直接荷を乗せて運送していたのです。」
「馬借ですか。」
「その牛車(ぎつしや)の西国も、中世となると、武士が乗馬するようになるのです。」
「中世に、何か変化があったのですか。」
「日本列島の中世は、平安時代末期から始まります。その中世では、宋銭が巷に溢れていたのです。そして、中世に、牛車の西国で、乗馬が始まったのは、漢訳仏教文化の西国での騎馬民族の台頭が考えられます。」
「そういえば、オレ、京都の御所の大内裏が畑に変貌する幻視を見ました。そこは元、前方後円墳が築かれていました。中世に、京都が荒廃していたことと、騎馬が、牛車の西国で再興したこととには、何か関係があったのですか。」
「一般的な京都のイメージとして、平安時代から今日までの千数百年間、御所を中心として、仏寺に囲まれた空間を思い浮かべるようですが、中世の京都は、長安と呼ばれていた右京区は畑になっていたのです。」
「一寸待ってください。何故、右京区が「長安」なのですか。長安は、唐帝国の京兆府のことですよね。」
「では、カメさんに質問します。何故、京に上ることを「上洛」というのですか。」
「分かりません。」
「それは、右京区の長安に対して、左京区を洛陽と言っていたからです。」
「何故、平安京に、唐帝国の都の名前を付けていたのですか。」
「それは、新羅系天武天皇の血筋を抹殺した、百済系桓武天皇は、唐帝国の即位儀式をおこなっていたことで理解できると思います。その右京区と左京区の北辺中央にあった大内裏は、鎌倉時代には跡形もなく、畑に変貌していたのです。カメさんの幻視は、空想ではなく、史実です。」
「すると、中世の天皇や貴族は、大内裏が壊滅していたのならば、何処で暮らしていたのですか。」
「中世とは、平安時代中期まで機能していた律令制度が崩壊した結果の世界です。天皇や貴族は、奈良時代に唐帝国の異民族統治戦術である律令制度により、日本列島西国の先住民を農耕奴隷として、祖庸調の税を納めさせることにより、贅沢な暮らしをおこなっていたのです。日本列島の西国を間接支配していた、その唐帝国が、907年に滅ぶと、唐帝国のエージェントであった藤原氏が、反藤原氏の醍醐源氏を謀略により廟堂から追い落とすことにより、廟堂を独占するわけです。その頂点に、1017年太政大臣となった藤原道長が登場するわけです。」
「その藤原氏が、出自不詳の満仲なる中年男を、藤原氏の私兵として、前九年の役や後三年の役により、陸奥国や出羽国のエミシ末裔の安倍氏や清原氏を懐柔するわけですね。その満仲が、武家源氏とする「清和源氏」の祖となるわけですね。」
「そうです。その藤原氏の「清和源氏」の私兵の暴走を苦々しく思っていたのが、藤原氏と距離を置いていた後三条天皇です。」
「白河天皇の父ですね。」
「そうです。その白河天皇の住まいは、洛中ではなく、洛外であったのです。洛中・洛外とは、洛陽(左京区)の中・外の意味です。」
「洛外って、加茂川東岸のケガレ地ですよね。」
「カメさん、ケガレの意味は、二つあるのを知っていますよね。」
「確か、平安時代までは、王権に逆らうことですよね。鎌倉時代になると、汚いというイメージに変化するわけですよね。因みに、ケガレに対するキヨメは、王権に逆らう者を粛清する意味が、汚物を処理するイメージに変換するわけですよね。」
「白河天皇が洛外に居住していた中世、内裏も大内裏も荒廃した京都では、皇居も公家や武家の屋敷も、不安定に移転を繰り返していたのです。」
「律令制度が崩壊した中世、生活資金を得る手段を持たない天皇や貴族は、生活苦となっていたのですか。歴史本では、中世には貧民の遊行する芸能民の発生と述べていますが、天皇も貴族も生活苦であったのですか。」
「カメさん、一寸待ってください。遊行する芸能民が、貧民であったとする史料は、すべて藤原氏の「日記類」や漢訳仏教僧や禅宗僧の書き記した文章です。遊行するから貧民であるとする根拠はないのです。農耕民族は、土地が資本ですから、遊行=生活手段ナシ、となるわけです。しかし、騎馬民族は、交易民族でもあるわけですから、土地を所有しなくても、生活手段はあるのです。」
「すると、ナベさんは、遊行する芸能民は、騎馬民族末裔と考えているのですか。」
「中世の歴史本を読んでいると、中世寺社の奴隷のように描写する「犬神人」というのが登場するのです。しかし、その犬神人の実態は、武装した警備員のようなのです。その中世の寺社から、石垣普請、庭園築造、弓矢製作、鉄砲生産、築城などの軍需産業が興るのです。カメさん、これってどのように説明します。」
「そういえば、賎民とされる能の創始者である観阿弥・世阿弥は興福寺から、そして、生け花は、延暦寺末寺の池坊六角堂から始まったとされていますよね。興福寺は藤原氏の、そして、延暦寺は亡命百済貴族の寺ですよね。興福寺や延暦寺は、秦氏末裔や突厥民族末裔を「異民族」として民族差別をしていますよね。中世の寺社世界では、何かあったのですか。」
「中世以前の寺社は、国家鎮護を唱えるため朝廷からの資金援助が得られていたのですが、律令制度が崩壊した中世では、寺社は独自でシノギをしなければならなかったのです。古代に創建された東大寺、興福寺、延暦寺、高野山などは、中世になるとその内容が変質していたのです。寺社には、別当、学侶、衆徒と呼ばれる貴族・武家身分出身の僧侶がいたのですが、それらの者には生活力が乏しかったのです。騎馬民族と異なり、銭をケガレ物として認識していたからです。でも、その寺社の空間は、商業民族にはとっておきの場であったのです。それは、治外法権の場だからです。つまり、王権の警察権が及ばないからです。」
「その治外法権の場である寺社に、商業民族が入り込んだのが、中世ですか。その寺社を武装警備するのが、犬神人ですか。」
「犬神人と呼ばれていたから、平民から賎民として差別されていたとは言えないのです。それは、11世紀から13世紀までは、神人は、神人交名が作られ定員が定められていたのです。平民が、賄賂を贈って神人の身分を買っていたことから、神人は蔑視される存在ではなかったのです。それが、第二百済王朝の北条鎌倉時代以降、神人は賎民に貶められて行くのです。」
「鎌倉時代に、何かあったのですか。」
「鎌倉時代にも多くの謎があるのです。その謎を解くヒントとして、1180年から1266年までを記した「吾妻鏡」があるのです。その北条鎌倉幕府の正史とされる「吾妻鏡」には、京都最大の祭りである「祇園会」の記事が片言隻句もないのです。」
「祇園会って、祇園祭りのことですよね。確か、八坂神社ですよね。」
「神社(じんじゃ)の呼称は、明治時代からです。それ以前は、神社と書いて、「もり」とよんでいたのです。その八坂神社は、江戸時代までは感神院祇園社と呼ばれていたのです。そして、江戸時代までは、祇園会は、神主ではなく、僧侶が神事をおこなっていたのです。」
「伊勢神宮の境内には、無数の仏寺が、江戸時代まであったのですよね。」
「そうです。文化とは、すべて祭祀文化であり、王権が替わるとその祭祀儀式も替わるのです。「吾妻鏡」が、京都の祇園会の記事を無視したのは、その洛外の王権の存在を知られたくなかったからと考えています。」
「何です。その洛外の王権とは。」
「祇園会は、11世紀の加茂川東岸の河原から始まったとされています。その地は、死体が流れ着くことにより、「ドクロが原」と呼ばれていた地です。そのドクロが原が、鎌倉時代に「六波羅」と変名されるのですが、王権側からはケガレ地であったのです。」
「河原者とは、反王権側のひとですよね。」
「そうです。その祇園会は、王権側にとっては遺棄すべき祭りであったのです。その根拠として、その祇園会の日に限って、神輿方違(たがえ)といって、天皇や貴族は一時京都から避難していたのです。」
「歴史本では、祇園会は疫病除けの祭りと説明していますが。」
「疫病除け祭りだとしたら、京都に住む天皇や貴族が、その祭りの日に、京都から避難する必然性はないはずです。」
「では、その祭りの本質は何ですか。」
「それは、怨霊の魂鎮めの祭りだったのです。怨霊の祟りとは、政治的敗者が、仇敵個人だけではなく、その仇敵を含む社会に向けられ、その結果として、疫病を流行させると考えられていたのです。」
「何の怨霊ですか。」
「それは、京都御所の大内裏の下に封印されている先住民の神です。」
「先住民の神とは、何ですか。」
「秦氏の神です。大内裏は、巨大前方後円墳を破壊した跡に建設されていたのです。」
「藤原日本史では、秦氏が、桓武天皇の平安遷都のために、その地を寄進したと述べていますが。」
「史実は、秦氏の支配地である山背国を、唐帝国の武力をバックに、百済系桓武天皇が奪い取ったのです。その史実を隠蔽する物語が、聖徳太子の忠臣とする秦河勝の仏寺建立の物語です。秦河勝が、聖徳太子の忠臣でないことは、秦河勝の墓が、京都にはないことで理解できると思います。そして、仏像を安置するための広隆寺とは、秦氏の神である太陽神ミトラを祀る、景教寺の蜂岡寺を破壊した跡に建てられたものです。その秦氏の神であるミトラ神は、摩多羅神と貶められてしまうのです。」
「広隆寺といえば、京三大奇祭のひとつである、魔多羅神が登場する「牛祭り」がありますよね。その広隆寺に安置されていたのが、新羅渡来の弥勒菩薩ということになっていますよね。広隆寺の元が、景教の蜂岡寺であるとすると、やはり、亡命百済貴族による、秦氏の神であるミトラ神の歴史上抹殺が推測されますよね。」
「カメさんも、そのように思いますか。」
「だってそうでしょ。ギリシャ・ローマ文化の古代新羅は、高句麗や百済と異なり、仏教が伝来したのが、528年ですよね。藤原日本史によれば、その時代の527年から528年に、北九州では筑紫国造磐井の反乱があったのですよね。広隆寺の元の神が、太陽神を祀る民族の神ミトラであるとすると、牡牛の屠り儀式が考えられますよね。ミトラ教では、牡牛は太陽神の化身ですから。ミトラ神が弥勒菩薩に、牡牛の犠牲儀式が牛祭りに、百済系平安王権により変換されたと考えられませんか。」
「先ほども、文化とはすべて祭祀文化だと言いましたが、王権が替わればその祭祀も変換されてしまうのです。祇園会は、京都だけではなく、鎌倉、奈良、平泉、博多でおこなわれていたのです。その博多の祇園会は、後に、博多ドンタクとなっていたのです。」
「博多ドンタクの元は、怨霊鎮めの祇園会だったのですか。」
「そうです。その祇園会の祭りの特徴のひとつは、山車です。山車は、元は、船を荷車に積んで引き回していたのです。」
「山車の祖が、船ですか。」
「その祇園会が始まった地は、アラブ系海洋民族末裔の平家の知行地と重なるのです。980年宋の商人陳仁夾が、金と絹を求めて日本列島に来着するのです。それは、漢民族国の宋が、騎馬民族国の契丹(遼)に金と絹を貢ことにより、契丹が宋に侵略しない保障としたからです。」
「その交易に乗じて、アラブ系海洋民族が、大挙して日本列島に渡来したわけですね。」
「アラブ系海洋民族は、唐帝国時代から、伊勢湾の真珠を求めて渡来していたのです。宋に、日本列島の金と絹を持ち込むことにより、アラブ系海洋民族は、その見返りとして宋銭を日本列島に持ち込んだのです。この頃の日本列島の西国では、律令制度が崩壊していたので、税により賄われていた国家警察力が壊滅していたため、法律による正義ではなく、「武力が正義」となっていたのです。」
「藤原氏が、天皇の血筋がない「だだの源氏」を私兵として、陸奥の砂金を独占するため、前九年の役や後三年の役を起こしていた頃ですね。」
「そうです。藤原氏の横暴に対して、後三条天皇は、1072年白河天皇に譲位するのです。その白河天皇は、廟堂を独占する藤原氏を排除するために、1073年院の蔵人所を設置するのです。蔵人所は、秘書業務なので、秘密を藤原氏に漏らさないためです。それに対して、1075年関白に就任した藤原師実は、白河天皇に、摂関家代々の別荘だった洛外の地を献上するのです。1086年白河天皇は、その加茂川東岸の地に白河北殿と南殿の院御所を置き、院政を始めたのです。」
「中世の京都では、洛外が政治の中心だったのですね。」
「その院御所の南側には、10世紀半ばまでは、興福寺末社だった感神院祇園社があったのです。それを、戦争と言う手段で、比叡山延暦寺が強奪したのです。その祇園社の領有は、1070年には、東は東山、西は加茂川西岸の堤、南は五条末、北は三条末までだったのです。」
「中世の寺院には、軍団があったのですね。」
「現在の歴史本では、その軍事組織を持った寺社を、寺社勢力と言うそうですが、その軍事組織の構成員は、僧侶ではなく、神人と悪僧です。その神人や悪僧の出自は、平安王朝が健在だった頃、王朝の手先であった国司の悪政と戦った、先住民の流れを汲む郡司や百姓(農耕民ではない)だったのです。」
「悪僧って、悪事を働く悪者の僧侶のことですか。」
「歴史本では、鎌倉時代に発生した悪党を、そのように描写しているものがあるようですが、鎌倉時代の「アク」とは、仏教用語の悪いヤツの意味ではなく、騎馬民族語の「勇者」の意味です。」
「ナベさんのレポートにもありましたね。「悪人正機説」の説明で理解できました。「普通の人でも往生できるのなら、勇者(アク人)ならなおさらだ。」の意味ですよね。」
「そうです。神人は、神社(モリ)の儀式を司る人ではなく、武器を携行して、寺社の警備をおこなっていたのです。」
「警備と言えば、検非違使と神人は関係があったのですか。」
「大いに関係があったと思います。中世では、祇園社に属する鋳物師は、検非違使により、各種の税が赦免とされていたのです。白河上皇が院政を始めた頃、藤原氏は私兵である「ただの源氏」の武力を行使し、更に、寺社勢力も神人や悪僧の武装集団の武力を行使したため、白河上皇の政治が時として機能しなかったのです。そこで、1095年白河上皇は、それらの武装勢力に対抗するために、北面の武士を設置したのです。その北面の武士として採用されたのが、宋貿易で荒稼ぎをして伊勢湾一帯を支配地としていたアラブ系海洋民族です。そのアラブ系武装集団が、後の「平家」となるのです。ですから、「平家」は、「源氏」や「平氏」と異なり、天皇からの賜姓ではないのです。」
「すると、その白河上皇の私兵である「平家」の日本列島各地での台頭と、祇園会の各地開催が一致するわけですね。しかし、変ですね。祇園会の祭神は、確か、牛頭天皇でしたよね。」
「祇園会の始まりは11世紀です。藤原氏の政治独占から離れた白河上皇に対して、1093年藤原氏の氏寺である興福寺の僧侶が、榊に何枚もの鏡を付けた春日の神木を奉じて入洛したのです。それに対して、1095年亡命百済貴族の神を祀る日吉社の神輿による山僧の強訴がおこなわれていたのです。この頃、祇園会は、洛中を興奮の渦に巻き込んだのです。平安王朝に廟堂から排斥されて加茂川東岸のドクロが原に棲息していた、嵯峨源氏や醍醐源氏の流れにある秦氏や突厥民族末裔が復活したのです。それら民族のシンボルが牛頭天皇です。牛頭天皇は、「日本神話」で悪役のスサノウとリンクします。両者とも、古代新羅と関係が深いのです。」
「祇園社の支配者は、比叡山延暦寺ですよね。その延暦寺は、東国への東海道を行き来する大津馬の運送業者を支配していましたよね。」
「シルクロード東限の関東からの絹や陸奥国の砂金は、海路や陸路で京都に搬入されていたのです。京都は、ユーラシア大陸との日本海交易ルートと、中国大陸との瀬戸内海交易ルートの交差点だからです。この物流を支配していたのが、馬で物資を運ぶ延暦寺と、ベカ車で物資を運ぶ興福寺の末社の清水寺です。藤原氏が支配する中世の奈良は、未だ、馬借の騎馬民族末裔が入り込めなかったのです。」
「白河上皇の私兵である「平家」が、その宋銭の財力で洛外の院御所を支配し、それに対しての藤原氏の反撃が、「源平合戦」ですよね。」
「エミシ末裔の奥州藤原氏に雇われた、笹竜胆を部族印とする源義経は、京都を支配していた木曽義仲軍団を壊滅させると、京都警護の検非違使となるのです。」
「ナベさんのレポートでは、藤原日本史と全く異なる「源平合戦」ですよね。そもそも、源義経と源頼朝は、兄弟ではなく、敵同士というのですよね。平家に懐柔された奥州藤原氏に雇われた源義経は、反源氏ですよね。すると、義経は、何故、雇い主の奥州藤原氏の主人格である平家を滅亡させたのですか。」
「木曽義仲を討った源義経は、その後、検非違使として京都を警護していて、北条氏の傀儡源氏軍団と袂を分かっていたのです。検非違使の初めは、816年嵯峨天皇が、藤原氏や亡命百済貴族から政治的に独立するために創設した令外官です。その検非違使の任務は、嵯峨王朝に対抗する者を取り締まる警察業務です。その警察業務の実務を、放免に任せたのです。放免とは、陸奥国のエミシが捕虜として京都に連行された者です。エミシ武人の祖は、古墳時代の明日香ヤマトを支配していた突厥軍団と古代新羅から渡来の花郎騎士団末裔です。嵯峨源氏は、嵯峨天皇が存命中には、廟堂を独占するまでになっていたものが、嵯峨天皇が崩御すると、藤原氏が復活し、嵯峨源氏を廟堂から追い出すのです。その嵯峨源氏のひとり、源綱が母方の地に帰り、その地名を付けて「渡辺綱」を名乗るのです。」
「屋島襲撃のための基地に、源義経が渡辺津を選んだのは、同族の支配地だからですか。」
「源氏の発祥は、嵯峨天皇からではなく、439年華北を統一した北魏の太武帝(元姓)が、部下の禿髪部に「源姓」を賜った時からです。源姓は、日本列島ではなく、ユーラシア大陸での発祥です。日本海ルートから渡来した源義経軍団は、同族の「嵯峨源氏」と同盟を組んで、西国の支配を目論んだのかもしれません。河内一帯を支配していた渡辺党の配下に、北九州の海岸一帯を支配していた海洋軍団の松浦党が連帯して、平家を壊滅したわけです。」
「源義経は、京都の警察権を持った検非違使の長であったのですね。すると、その配下として、嵯峨源氏末裔の渡辺党を抜擢することになるわけですか。」
「そうなると困るのが、藤原氏と亡命百済貴族末裔の天皇家です。そこで、初めは、源頼朝を追補する院宣を源義経に出していたものを、1185年後白河院は、源頼朝を支配する北条時政が強要する守護・地頭設置を認めたのです。これにより、源頼朝は、謀反人から、全国の警察権を握る公的地位に立ったのです。」
「追う者と追われる者の立場が、逆になったのですね。」
「謀反人の取り締まりを行う惣追補使・総地頭となった源頼朝は、源義経逮捕に奔走しましたが、源義経は近畿地方を隠れ歩き、1187年までの約2年間も逃げ延びることが出来たのです。」
「何故ですか。」
「それは、寺社勢力が、源義経を匿っていたからです。寺社勢力とは、その実態が、元郡司や百姓の反王権側のひとであったからです。中世、王権から寺社が分離し、多くの寺社が武力を持ち、治外法権をもって独立し、王権には従わなかったのです。」
「藤原日本史では、西国を支配した公家の朝廷に対して、東国を支配した武家の鎌倉幕府と述べていますが、史実はそうではないのですね。」
「北条鎌倉幕府は、天皇内裏や京を守る義務と権利を持っていますが、その権力範囲は、旧平安京の部分である畑となってしまっている東京極大路以西に限られていたのです。洛外の祇園社や清水寺などは、北条鎌倉幕府の警察権が及ばない、異界の地であったのです。」
「その中世の寺社では、治外法権を下に、軍需物資を製作したり、高利貸しを行っていたのですね。その反権力勢力の中心が、天皇や貴族を震え上げる祇園会の怨霊祀りを行う地だったのですね。」
「その寺社勢力を壊滅するために、北条鎌倉幕府は、1221年六波羅探題を、祇園社に隣接する地に設置するわけです。」
「それで理解できました。亡命百済貴族の流れにある桓武平氏の北条氏は、母国百済を滅ぼした新羅末裔の嵯峨源氏と醍醐源氏末裔を抹殺するために、六波羅探題を設置して、「源氏狩り」をおこなうわけですね。その追求を逃れるために、嵯峨源氏や醍醐源氏末裔は、山奥に逃れ「平家部落」を創作するわけですね。平家は、海洋民族だから、山奥では漁ができませんよね。」
「藤原日本史による鎌倉時代物語は、疑う余地が大いにあります。「吾妻鏡」が、祇園会の記事を一切掲載しなかったことは、祇園会を開催した異民族の歴史を抹殺するためだったのです。祇園社は、祟り神を祀る処であるため、秦氏の支配地の山背国を乗っ取った百済系天皇家の行幸はなかったのですが、1071年反藤原氏の後三条天皇が、祇園社へ行幸したのです。その翌年、1072年白河天皇が即位したのです。」
「何故ですか。」
「一般的なイメージとして、寺や神社(モリ)を宗教空間、厭世空間、無常空間などの聖域として捉えられているようです。しかし、王権の権力が及ばない治外法権の地となった中世の寺社では、俗世間の経済拠点となっていたのです。そこで行われていた経済活動のひとつとして、高利貸しがあったのです。」
「寺社は、貧民を救うためのありがたい説法を聞く聖地ではなかったのですか。」
「国家警察権が存在しない、無法時代には、毎日の生活することが大切なことだったのです。カメさん、精進落しの意味を知っていますか。」
「菜食料理を食べることですか。」
「違いますね。どのような商売でも、お客様を引きつけるイベントが必要です。古代の仏寺では、在郷貴族を寺に招くために、双六などの博打をおこなっていたのです。中世の庶民が、寺社でありがたい説教を聴くことは「建前」で、「本音」は説法を聴聞した後に、傾城遊びをするためだったのです。」
「何です。その傾城遊びって。確か、弾左衛門の支配下に傾城ってありましたよね。」
「遊郭での「まぐわい」のことです。」
「神聖な宗教空間に、俗世間の悪所施設があったのですか。」
「古代仏寺にもありました。それは、内道場とよばれた、密封された空間です。奈良時代、女帝孝謙天皇は、その内道場で道鏡のありがたい説法を聴聞していたのです。神社(モリ)でも、そのような施設があったのです。巫女を、一般的には、女性と考えているようですが、巫女は、元は「神子」と書き、男神子と女神子がいて、芸能の座を結んでいたのです。その芸能の流れに、江戸時代に発祥した歌舞伎があり、その歌舞伎役者の女は、演劇の合間に「春」を売っていたのです。」
「中世の寺社内では、そんなことをおこなっていたのですか。」
「イエズス会の傀儡軍団長の織田信長が、1571年比叡山延暦寺を焼き討ちしたことにより、祇園社が「感神院は天台宗、本寺なし」、として比叡山延暦寺から独立することにより、寺社勢力が支配した日本列島西国の中世が終わるのですが、その傾城施設は、寺社の近隣に移設して、営業を江戸時代までおこなっていたのです。」
「そういえば、現在の遊郭地の近くには、仏寺や神社がありますよね。それは、そのような歴史があったからですか。」
「中世の寺社に参拝することは、ありがたい説教を聴聞するだけではなかったのです。中世の南都北嶺、高野山、吉野、熊野などの寺社は、大荘園領主で、武力を保持する大勢力で、北条鎌倉幕府と同様の地方権力であったのです。その熊野詣へは、代々の上皇がおこなっていたのです。白河上皇12度、鳥羽上皇23度、崇徳上皇1度、源平合戦の黒幕である後白河上皇は33度も熊野詣でをおこなっていたのです。」
「傾城遊びのためですか。」
「それもあったかもしれませんが、反権力勢力との談合か、生活費のための借金かもしれません。いずれにしても、中世の寺社は、鎮護国家のために存在していなかったのです。比叡山延暦寺の武装集団は、戦闘手柄を記録し、上司に報告し、そして、審査し論功行賞をおこなう軍奉行という役職を備えた武士団と同じ組織構成だったのです。」
「すると、中世の西国には、北条鎌倉幕府の及ばない地が多くあったのですね。」
「北条氏は、亡命百済貴族の流れにある桓武平氏です。平安京は、百済系桓武天皇の支配地だったのです。それが、唐帝国が滅亡すると、藤原氏が支配する地となり、その後、アラブ系海洋民族の「平家」の支配地となっていたのです。やっと「平家」を京都から追い出しても、その後、嵯峨源氏や醍醐源氏末裔が、悪僧や神人となって寺社を占拠していたのです。その悪僧や神人を寺社から追い出す手段が、「清和源氏」三代を暗殺した後に設置した六波羅探題だったのです。しかし、この警察組織もうまく機能しなかったのです。そこで考え出されたのが、騎馬民族国モンゴル帝国に滅ぼされた南宋から亡命して来た禅僧です。1271年元朝が始まると、かろうじて生き延びていた南宋から多くの亡命船団が逃亡を企てたのです。」
「藤原日本史で述べている、1274年文永の役と1281年弘安の役の元寇ですね。」
「その元寇物語が「ウソ」だと言うことは、私のレポートに書きましたので詳細は割愛しますが、それらは、モンゴル帝国海軍の大船団だったのではなく、一回目が高麗の大亡命船団で、二回目が南宋の大亡命船団が実際だったのです。清和源氏三代目将軍源実朝は、父源頼朝や兄源頼家が、北条氏の陰謀により暗殺されたことを知り、南宋に逃亡するために、1216年南宋の仏工陳和卿を引見して、大船製作を命令していたのです。その3年後、源実朝は、公暁に暗殺されてしまったのです。」
「北条氏と南宋の僧との関係は、何ですか。」
「それは、騎馬民族への怨念です。両国とも、騎馬民族に母国を滅ぼされていたからです。北条氏は、西国の寺社を占拠する騎馬民族末裔を排除するために、禅宗組織を利用するのです。」
「その根拠はあるのですか。」
「北条鎌倉幕府は、祟り神である牛頭天皇を祀る祇園社近隣に、中国語を日常会話とする大袈裟を着込んだ禅僧が闊歩する建仁寺の「禅寺」を建立したのです。これに対して、1286年比叡山延暦寺の天台座主尊助は、北条鎌倉幕府に対して、祇園社境内を山僧や神人が定住する聖地だと主張して、北条鎌倉幕府の手先となった禅宗や律宗の僧尼や念仏者の排除を要求したのです。」
「いよいよ鎌倉新仏教の話ですか。」
「カメさんには申し訳ありませんが、遊行する貧民を救済したとする鎌倉新仏教物語の多くは、室町時代以降に創作されたものです。「悪人正機説」で有名な、浄土真宗の開祖とする親鸞の実在性も、現在では、疑問なのです。」
「すると、東国の遊行する貧民を救済したとする鎌倉新仏教僧は、すべてウソ物語なのですか。」
「比叡山延暦寺から派遣された仏僧が、東国で布教(?)していたことは否定しません。しかし、東国の住民が、すべて貧民であったことは否定します。中世の鎌倉時代には、比叡山延暦寺の支配地は、北条鎌倉幕府領よりずっと多く、北海道と沖縄を除くすべての都府県にあったのです。騎馬民族文化国の東国で、騎馬民族の日常生活を「肉食禁止、屠殺禁止、血の禁忌」で否定する思想を保持する漢訳仏教が、すんなり庶民に受け入れられたと思いますか。」
「ナベさんのレポートには、賎民穢多の蔑称は、北海道と沖縄にはなかったのですよね。やはり、その穢多の蔑称と漢訳仏教思想の比叡山延暦寺とには、何か関係があったのですか。」
「比叡山延暦寺の最下層僧侶である「聖」には、鎌倉新仏教の時衆が多くいたことは確かです。」
「平安時代末期に興った浄土思想の仏は、阿弥陀様ですよね。その阿弥陀様って何者ですか。」
「阿弥陀様の前身は、インドではアミダーバと言われ、太陽神であったのです。その太陽神は、西方に浄土国を持っていたのです。」
「インドから西方というと、エジプトですか。」
「紀元前13世紀の古代エジプトには、アメンホテプ4世(イクナトン)の時代、アトン神という太陽神が存在していたのです。そのアトン神の前身は、鉄器を発明した古代ヒッタイト帝国の契約の神、太陽神ミトラだったのです。」
「すると、阿弥陀様は、太陽神ミトラですか。」
「私は、そのように考えています。騎馬民族文化国の東国で、浄土信仰が普及した下地には、太陽神ミトラの宗教思想が、西方浄土の阿弥陀思想に重なったからだと考えています。」
「すると、鎌倉新仏教思想の根源は、太陽神ミトラ崇拝思想だったのですね。」
「騎馬民族文化の東国で、その太陽神信仰思想を広めたのが「聖」です。聖とは、平安時代初期に、水銀を求めて山奥深く探索していた錬金術師空海の金剛杖を武器とする真言宗軍団に敗れた、山の神を祀る産鉄民族の者であったのです。聖の語源は、火治める者の意味で、ヒジリです。太陽神ミトラは、東の山の頂上から誕生すると考えられていたのです。聖は、元々は産鉄民族が祖で、古墳時代に活躍していたのですが、唐帝国進駐軍が、傀儡政府である女帝持統天皇王朝を明日香ヤマトに樹立すると、山奥に追い上げられてしまったのです。」
「何か飛躍しすぎではありませんか。女帝持統天皇って、日本列島で最初の天皇であった天武天皇の后ですよね。」
「その女帝持統天皇の時代に、明日香ヤマトで唐帝国の暦である「儀鳳暦」が始まるのです。そして、日本で初の火葬された天皇が、持統天皇だったのです。その火葬は、古墳埋葬思想を否定するものなのです。その女帝持統天皇統治時に現れたのが、唐の通訳→唐史(とうふひと)→唐不比等→籐不比等→藤原不比等なのです。」
「確か、藤原不比等の父は、藤原不比等が創作した物語である「日本書記」の「大化の改新」で活躍したとする藤原鎌足ですよね。」
「藤原鎌足の実在性も、現在では、否定されています。明日香ヤマトでの古墳時代は、その女帝持統天皇の時代に終わるのですが、東国の陸奥国では、鎌倉時代まで古墳は造られていたのです。」
「すると、聖の祖である産鉄民族は、鎌倉時代の東国では生き延びていたのですね。」
「平安時代初期、錬金術師空海に敗れ、産鉄民族の神を祀る古墳は破壊され、その跡に、みすぼらしい小さな神社(モリ)が建立されるのです。それが、古墳→土の家→塚→じゅか→稲荷です。稲荷社がある境内には、注連縄を捲らされた丸石が多くありますが、それは、古墳に備えてあった丸石です。」
「藤原日本史では、稲荷神社(ジンジャ)は「稲成り」(イネナリ)が語源で、農耕神を祭ると述べていますよね。でも、確かに、藤原氏が廟堂に復活した明治時代に創作された新設神社(ジンジャ)ではなく、古来からの神社(モリ)の境内には注連縄をかけた丸石がありますよね。何です、その丸石って。」
「太陽神ミトラは、初めは東山の頂上から誕生していたのですが、やがて、巌谷の洞窟→石へと誕生処が下界に降りていったのです。古墳に備えられていた丸石は、太陽神ミトラが宿る聖石であったのです。」
「稲荷社の祖が、古墳ですか。何か納得できませんね。古墳時代の日本列島に産鉄民族が現れたと言うと、古墳時代に活躍していた騎馬民族との関係はどのように説明するのですか。」
「それは、テツ(鉄)が、騎馬民族と産鉄民族との古来からの関係を証明します。」
「どういうことですか。」
「テツは、騎馬民族のチュルク語だからです。藤原日本史では、古代のすべての先進文化は、飛鳥時代から仏教僧が中国や百済から日本列島にもたらした、と説明しています。だとしたら、当然、「テツ」の語も、仏教僧が日常使っていた中国語の漢字か、もしくは、仏典の原著とされているサンスクリット語の言葉であるはずです。しかし、サンスクリット語では、鉄はカラ・ローハとかアヤスと言われていたのです。藤原不比等が創作した「日本書記」には、鉄を造る人のことを、天津麻羅と表わしているのです。その麻羅(マラ)は、サンスクリット語では、不浄とか汚物を指す言葉です。」
「その説明と、テツ(鉄)がチュルク語であるとの関係が分かりません。」
「産鉄民族の製鉄作業であるタタラでの作業長は、ムラゲ(マラゲ)と言います。「日本書記」の資料の多くは、713年唐進駐軍の配下となった現地豪族を郡司とし、その郡司から地方の歴史を報告させたものです。つまり、郡司が、唐進駐軍に提出した資料は、日本列島の古墳時代のものです。その資料を基に創作したものが「日本書記」ですから、当然、「日本書記」には、鉄を造る人を天津麻羅(アマツマラ)と記したのです。もし、その古墳時代に、漢訳仏教僧が活躍していたのならば、天津麻羅などの言葉は、「日本書記」には決して掲載されなかったでしょう。それは、マラとは、仏教界の隠語では、「男根」の意味だからです。」
「すると、古墳時代には、藤原日本史が飛鳥時代として述べているように、漢訳仏教僧は日本列島で活躍していなかったのですね。」
「日本列島に正式な仏教僧が誕生したのは、反藤原氏となった聖武太上天皇が支配していた奈良時代の、754年に来朝した唐僧鑑真からの授戒からです。それ以前の総ての僧は、正式な得度をしていない、言わば、私度僧なのです。」
「でも、藤原日本史では、まぎらわしく、552年仏教公伝としていますが、どういうことですか。」
「それは、藤原不比等が、騎馬民族が日本列島で活躍していた古墳時代を歴史的に抹殺するために、飛鳥時代を創作するためです。金メッキされたミニュチァ仏像は、それ以前に日本列島に持ち込まれています。中国の紀元2世紀以降の古墳からは、多くのミニュチァ金銅像が出土しています。日本列島の絹を求める僧形のシルクロードの国際交易商人は、長安や洛陽に多く暮らしていたから、それらの金銅像は僧形の国際交易商人と供に、日本列島に持ち込まれていたのです。」
「では、騎馬民族は、何故、古墳時代の日本列島に渡来したのですか。」
「絹と金メッキのための水銀を求めてです。古代から、奈良盆地の東方の宇陀の朱砂は、国際的に有名だったのです。その朱砂の産する地には、水銀が眠っているのです。大湿地帯である奈良盆地に、4世紀に巨大前方後円墳が築かれたのはそのためです。その三輪山麓のツバ市は、国際的交易所であったのです。」
「奈良盆地ですか。巨大前方後円墳ですか。水銀ですか。藤原日本史には、そのような説明はありませんよね。「宇陀(ウダ)宇陀(ウダ)言うな!」、の語源は、水銀産地の奈良の宇陀のことですか。」
「そのように私は考えています。」
「古墳時代に、宇陀の水銀が、騎馬民族に簒奪されたのですね。」
「アマルガム法金メッキは、騎馬民族が発明したものです。騎馬民族の馬具には、その金メッキされた物が多く出土するのはそのためです。」
「騎馬民族は、古墳時代に日本海を越えて来たわけですね。」
「日本列島には、元来馬が生息していなかったのです。その馬が、日本列島に現れるのが、4世紀からです。巨大古墳が現れた時期にリンクします。」
「その渡来は、日本列島征服のためですか。」
「違います。4世紀から5世紀の古墳からは、武力と直接結びつける材料が発掘されていないからです。このことから、日本列島に大量に持ち込まれた馬は、武力のためではなく、輸送手段のためであったと推測されます。しかし、6世紀からの古墳からは、実戦で使われたと思われる鉄製武器が発掘されるのです。」
「何故、6世紀の古墳から鉄製武器が発掘されるのですか。」
「それは、東アジアの南方の農耕民族と北方の騎馬民族との戦いが、日本列島に持ち込まれたからです。馬を制御するにも、武器を作るにも「テツ」が必要です。騎馬民族の誕生は、馬を制御するための轡の発明が必要だったのです。当初、轡は、青銅製だったのですが、青銅の硬直性のため馬の生体と合わないため、馬を制御するのが困難だったのです。しかし、テツは、青銅に比べて柔軟性があるため、馬の生体に合致したのです。紀元前7世紀に、遊牧民族のスキタイが、騎馬民族に変身できたのは、スキタイが製鉄技術を持っていたからです。その製鉄技術は、紀元前12世紀に、ヒッタイト帝国が、フェニキュアなどの海洋交易民族に滅ぼされたため、そのヒッタイト帝国の末裔が、製鉄技術を持って各地に移動していたのです。」
「ヒッタイト帝国と言えば、太陽神ミトラですよね。当然、スキタイにも、太陽神ミトラが持ち込まれたのですか。」
「それは分かりません。騎馬民族のスキタイの聖獣は、「鹿」です。鹿が、スキタイのシンボルなのです。そのシンボルを誇示する僧が、鎌倉時代の東国に現れたのです。」
「「私はアミ様(太陽神)を信じます」の意味である「南無阿弥陀仏」の呪文で、念仏衆を扇動する空也や一遍上人ですね。」
「鎌倉時代の東国の遊行僧の多くは、鹿の皮を纏ったり、鹿の杖を保持していたのです。カメさん、これってどういう意味か分かりますか。」
「仏教は、殺生禁止ですよね。それなのに仏教僧が、鹿の皮や杖を身につけていたのですね。オレには分かりません。」
「東国の住民の多くが、騎馬民族末裔だとしたら、何故、鎌倉時代最大の高利貸し組織を持つ比叡山延暦寺から派遣された念仏僧が、そのような漢訳仏教思想を否定するような行為をしたのか理解できると思います。」
「念仏僧が、鹿の皮や角を保持することにより、東国に多く暮らす騎馬民族の仲間だとアピールしていたのですね。だって、鹿は、騎馬民族の祖であるスキタイのシンボルだからですよね。」
「東国の遊行する貧民を「南無阿弥陀仏」の念仏で救済したとする鎌倉新仏教僧が、もしも、歴史本に書かれているように、存在していたのならば、その東国での目的のひとつは、モンゴル帝国との日本列島東国産の絹などの私貿易で銭を溜め込んだ、東国の騎馬民族末裔の懐の「銭」だったと推測されます。騎馬民族は、定住する農耕民族ではなく、元来、各地を遊行する商業民族であったからです。」
「藤原日本史で述べているように、鎌倉新仏教は、東国の貧民を救済するために発生したのではないのですね。」
「漢訳仏教思想を、真に布教するためだとしたら、何故、漢訳仏教思想で否定する殺生禁止である、鹿皮や鹿角を布教に利用したのですか。」
「そういわれれば、一遍上人の布教活動を3年間も護衛していたのが、金ピカの豪華絢爛な衣装で馬に乗る「悪党」でしたよね。悪党のシノギのひとつが、武力による不良済の取り立てですよね。現在のヤクザのシノギと似ていますよね。」
「鎌倉時代の東国では、武力が正義だったのです。悪党(アク党)とは、騎馬民族の「勇者」であれば、「悪党」が一遍上人を護衛していた意味が分かると思います。」
「その説明で、「目から鱗」ですよ。その悪党の説明で、北条鎌倉時代の東国は、藤原日本史が述べる、武家が支配していたのではなく、騎馬の悪党が活躍していたことが分かりました。」
「カメさん、その根拠は何ですか。」
「ナベさん、鎌倉に行ったことがありますよね。藤原日本史によれば、鎌倉武士は「御恩と俸公」により、「イザ鎌倉」の時、鎌倉街道を騎馬で疾走し鎌倉に馳せ参じたように描写していますよね。その鎌倉街道から鎌倉の都に入るには、四方に設置された切通しのため、騎馬は疾走できないようです。それは、鎌倉街道は、馬が疾走できるような幅はなく、曲がりくねっているからです。鎌倉街道が、鎌倉への武士の緊急集合のための道路だとするのならば、これって、変だと思いませんか。」
「そういえば、江戸時代初期、騎馬民族末裔の徳川家康は、江戸から小田原まで騎馬軍団が疾走できる幅広の直線軍事道路を設置していましたからね。軍事道路ならば、古墳時代の高速道路のように、幅広の一直線が基本です。」
「そのくねくねした道幅の狭い鎌倉街道のひとつは、府中から八王子に抜けて、桐生までつづいているのです。その桐生は、京都に匹敵する、東国の絹集積地のひとつですよね。」
「江戸時代末期に、明治革命の陰謀組織であったイギリス東インド会社のエージェントは、東国から群馬県に集まる絹の簒奪を目論み、1872年富岡に製糸場を建設していましたね。」
「北条鎌倉幕府の鎌倉は、東国を武家による軍事支配するための基地ではなく、南宋から亡命して来た禅僧により、東国の絹を鎌倉に集積し、由比ヶ浜からモンゴル帝国に輸出していたと考えられませんか。」
「それは大いに考えられます。モンゴル帝国の国際海洋交易システムは、滅ぼした南宋のシステムそのままですから。南宋語がモンゴル帝国の国際交易語だったのです。南宋語を日常会話とする曹洞宗は北陸に、臨済宗は鎌倉に、禅寺の拠点を築いたのは、古墳時代から続いていた北陸道と東海道の物流ルートを押さえるためだった、とも考えられますからね。禅僧の中には、座禅を組むより、国際交易船に乗り、モンゴル帝国に行き来していた者が多くいることも、国際交易のための北陸道と東海道の禅寺設置が考えられます。」
「そういえば、禅僧は、北条鎌倉時代に、日本列島に禅文化をもたらしましたよね。そのひとつが、武家屋敷ですよね。」
「そうです。藤原日本史では、平安貴族が暮らす寝殿造りからと説明しているようですが、簡素造りの禅寺から、武家屋敷が開発されたのです。その特徴のひとつは、平安時代には存在しなかった、室内便所の設置と床の間です。」
「便所は、平安時代の屋敷になかったのですよね。便所が「雪隠」と言われるのは、禅僧に関係があるからですよね。」
「南宋の禅文化により、北条鎌倉文化が拓かれたのは史実ですが、ひとつ不思議があるのです。それは、武家屋敷や侍屋敷はあっても、「武士屋敷」がないことです。」
「武家って、武士のことではないのですか。サムライの意味は、以前ナベさんのレポートで、武装した秘書兼警護使のサラリーマンと理解できましたが、何故、武士屋敷がないのですか。」
「武士は、桓武平氏の北条氏にとって、仇敵だからです。武士のルーツは、以前レポートにも書きましたように、武士(941年天慶の乱後)←武芸者(平安時代初期の検非違使支配下)←陸奥国エミシ捕虜(百済系桓武天皇時代)←明日香ヤマトの武人(645年以前・古墳時代)←突厥帝国進駐軍+ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の花郎騎士団(6世紀半ばから645年、明日香ヤマト時代)、となり、武士は、663年桓武平氏の母国百済を滅ぼした民族の末裔であるからです。平安時代までの武士の実態は、亡命百済貴族に仕えるサラリーマンのサムライ(侍)と異なり、巨大前方後円墳を破壊した跡に建設された平安京の廃墟となった大内裏の祀場で、怨霊の魂を鎮める武芸を行う祭祀者だったのです。」
「藤原日本史では、百済系桓武天皇は、新羅系天武天皇の血をひく井上皇后・他戸親王と実弟早良親王を謀殺したことにより、それらの怨霊を恐れた、と説明していますよね。それだったら、それらの怨霊を鎮めるには、同族の者であることが必然ですよね。だったら、何故に、嵯峨源氏の配下としてエミシ捕虜を放免として、怨霊鎮めの武芸者にしたのですか。早良親王は、百済系だから、嵯峨源氏ではなく、桓武平氏の武芸者でなければ、藤原日本史の説明は、説明になってませんよね。」
「長岡京から平安京に移った桓武天皇の近辺に不幸が連続したのは、それらの井上皇后・他戸親王と早良親王の謀殺が本当の原因ではないでしょう。歴代の天皇が住まう、或いは、政治を行う大内裏が、平安末期には農地となっていたこと、そして、その怨霊を鎮める者(武芸者)が、陸奥国のエミシ捕虜であったことを考えれば、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅から渡来した秦氏の支配地であった京都盆地の巨大前方後円墳を破壊した跡に、百済系桓武天皇が、大内裏を設置したことが原因と考えられます。律令制度が崩壊した時を同じくして、京都盆地で、加茂川東岸の髑髏ヶ原に住まう賎民による怨霊鎮めの祇園会が開催されたのは、律令制度内で「キヨメ」として怨霊鎮めを行っていた武芸者が、律令制度が崩壊したため、脅す相手(天皇を含め亡命百済貴族)が京都洛中にはいなくなったからでしょう。」
「やはり、平安貴族達には、奈良時代の平城京の祟りが信じられていたのですね。」
「平城京は、奈良盆地北辺の巨大前方後円墳を破壊した跡に建設されていたのです。そして、太陽信仰民族の秦氏の祭祀場であった三笠山に、反藤原氏となった聖武法皇崩御の756年以降に、藤原氏の神を祀る春日大社が創建され、三笠山は春日山となってしまったのです。その結果が、怨霊による祟りです。因みに、藤原氏が復活した明治革命後、漢訳仏教僧に支配された神仏習合の神宮寺が破壊され、その跡に、春日神社(かすがじんじゃ)が、日本列島各地に創建されていくのです。」
「その祟りとは、実際は、聖武法皇が発願した太陽神像(遍照像)の築造時での、銅と水銀の鉱毒ですよね。」
「古代では、目に見える皮膚病などが病気で、目に見えない感染症や中毒などは、怨霊が原因と信じられていたのです。遍照像(平安時代に空海が大日如来とネーミング)が聳え立つ三笠山の麓の平城京には、無数の鉱毒中毒者が発生していたのです。それは、まさに地獄絵となって語り継がれていたのです。794年平安京遷都ですから、ほんの30年程前の出来事です。」
「それで、オレが以前見た、平安京の大内裏が農地に変貌して行った幻視が理解できました。平安時代、その廃墟となった大内裏で、エミシの武器である蕨手刀から改良した「日本刀」と冑に鹿や牡牛の角を付け、総革製の派手な鎧で武装し、剣舞の武芸により怨霊の魂鎮めを行っていたのが武芸者で、後の武士ですよね。でも、それらの事は、日本列島西国史ですよね。西国の簒奪王権が、古墳を破壊したことにより、怨霊が発生したのなら、東国では、そのようなことがなかったのなら、東国には武士は発生しませんよね。」
「藤原日本史の説明では、律令制度が崩壊し、荘園経営が盛んとなり、その私有地の荘園を護るために、農民(百姓)が武装したことにより武士が発生した、と説明しているようですが、それは歴史の流れを無視した説明です。農民(百姓)が武装解除されたのは、1591年藤原氏の傀儡関白となった豊臣秀吉による、士農工商の身分制度の設置からです。それ以前は、兵農分離などしていなかったのです。」
「すると、鎌倉時代に武士屋敷がなかったのは、武士が武家になったからですか。」
「武士と武家とは異なります。武士は、祭祀者です。しかし、武家は、祭祀者ではなく、幕府の臣です。サムライも、祭祀者ではないため、武士と異なります。サムライは、貴人の秘書業務をこなすため漢字が読み書きできます。しかし、武士は、漢字を読み書きできません。武士は、カタカナを使用していたのです。」
「そういえば、日本語には、表意文字と表音文字がありますよね。カタカナは、表意文字ではなく、アルファベットと同じに、表音文字ですよね。何故、武士は、漢字の表意文字ではなく、表音文字を使用していたのですか。」
「カメさん、「万葉集」を知っていますよね。」
「学生時代「万葉集」には泣かされました。漢字の羅列ですからね。」
「「万葉集」の歌は、漢字をアルファベットとして、つまり、表音文字として詠われていたのです。最後の歌が、奈良時代といわれていますが、次の平安時代には、その「万葉集」の歌が読めなかったのです。「万葉集」が、現在のように読めるようになったのは、鎌倉時代の学僧仙覚の写本からなのです。それは、平安時代の言葉は、奈良時代の言葉と異なっていたからです。平安時代に成立した平仮名には、奈良時代に使用されていた、濁音が長らくなかったからです。」
「奈良時代には、新羅系天武天皇の血が流れる貴族が存在していたのですよね。しかし、平安時代には、百済系桓武天皇により、新羅系天武天皇の血が流れる貴族が抹殺されていたのですよね。すると、奈良時代に濁音文字を使用して歌を詠っていた「万葉集」は、古代新羅の言葉、ヒャンチャル(郷札)が考えられますよね。郷札は、万葉仮名と同じに、漢字を表音文字として利用しているからです。」
「その万葉仮名から、武士が、漢字ではなく、カタカナを使用していた意味が分かります。武士の祖国の古代新羅は、百済が384年仏教を受け入れたのと異なり、ギリシャ・ローマ文化で、女王国だったからです。仏教は、女性蔑視で、女は男に生まれ変わってから成仏できる、などと説いていたから、当然、女王国の古代新羅には、528年まで受け入れられなかったのです。」
「日本列島の明日香ヤマトでも、奈良時代までは、女王国だったのですよね。しかし、平安時代から現在まで、男王国となってしまっているのですね。」
「日本列島には、男王国ではなく、女王国が存在しています。それは、「カカア天下」と云われている地域です。群馬県などは、その例のひとつです。それらの「カカア天下」の国には、騎馬民族文化が多く残っているのです。」
「ナベさんは以前、文化はすべて祭祀文化だと言いましたよね。だとしたら、鎌倉時代に登場した浄土教の僧侶達が鹿の角や皮を身につけていたのも、祭祀文化の流れですか。」
「武士の祭祀道具として、冑に牛や鹿の角を付けていたのです。それが、後に、牛や鹿の角に替わり、色々な角形に変化していったのです。それは、武士の鎧兜が、祭祀道具だったからです。鹿は、以前述べたように、騎馬民族の祖スキタイの聖獣です。武士が、冑に鹿の角を付けた意味は、武士が、騎馬民族の流れにあるからです。鎌倉時代、北条鎌倉幕府と親密な禅宗は、北陸道と東海道に禅寺を設置しましたが、東国の三道である東山道には、長らく禅寺の設置ができなかったのです。」
「何故です。」
「それは、古墳時代から、東山道は、北陸道と東海道を結ぶ騎馬民族の重要な物流ルートだからです。つまり、日本海側と太平洋側を結ぶ道だからです。その中心が、トルファン(諏訪)です。」
「そういえば、明日香ヤマトの古墳時代最後の天皇である天武天皇は、一時、明日香ヤマトからトルファン(諏訪)に遷都するために、部下に下見に行かせましたよね。」
「733年完成の「出雲風土記」によると、大和王権(唐進駐軍)に国譲りされたオオクニヌシノ命の長男は諏訪に亡命しています。それは、諏訪は、騎馬民族の支配地であったからです。」
「しかし、平安時代初期には、桓武天皇に抜擢された坂上田村麻呂率いる律令軍により、諏訪は占領されたのですよね。」
「律令軍により諏訪の古墳は破壊され、その跡に神宮や神社(モリ)が創建されても、山に移り住んだ騎馬民族末裔により、諏訪大社の本殿は建立できなかったのです。それどころか、江戸時代末期まで、諏訪大社では、鹿の生首が奉納されていたのです。」
「神社(モリ)に鹿の生首の奉納ですか。」
「犠牲は、農耕民族にとっては残酷に映りますが、騎馬民族にとっては祭祀文化なのです。騎馬民族に受け入れられた道教は、北極星を神とするため、夜の終わりを告げる鶏を犠牲としていたのです。伊勢神宮創建前の建物は道教の神を祀る道観で、天武天皇が道教の神北極星(太一)を祀るために創建したものですから、伊勢の道観では犠牲として鶏を屠っていたのです。しかし、奈良時代に、藤原不比等が、その伊勢の道観を破壊した跡に、藤原氏の神である女神であるアマテラスオオミカミを祀り、ユダヤ教儀式に酷似した中臣神道儀式を行う伊勢神宮を創建し、道教の犠牲である鶏の屠り儀式を、「コケコッコー」の唱和儀式に替えてしまったのです。」
「それって、騎馬民族に対する、仏教思想の武器である「殺生禁止」ですね。」
「鎌倉時代はともかく、江戸時代まで、東国の東山道近辺の国には、騎馬民族文化が色濃く残っていたのです。」
「すると、鎌倉時代の東国には、藤原日本史が述べるのと異なる社会が存在していたということですか。」
「鎌倉時代の東国の歴史には、藤原日本史で述べているように遊行する貧民の芸能民が暮らしていたのではなく、騎馬民族文化が色濃く残っていたのです。勿論、騎馬民族の経済活動形態の貨幣経済により、馬による物流や高利貸しの金融が盛んであったと推測できます。鎌倉時代の東国は、西国に比べて経済的に豊かであったと推測できます。その鎌倉時代の東国の騎馬民族文化の歴史を隠蔽したのが、室町時代に創作された鎌倉新仏教物語です。」
「「南無阿弥陀仏」の呪文で東国の貧民を救済したとする浄土宗僧が活躍したとする鎌倉新仏教は「ウソ」なのですか。その根拠は、何ですか。」
「日本仏教史の浄土宗の流れの説明では、空也(平安時代)→親鸞(鎌倉時代)→一遍(鎌倉時代)→蓮如(室町時代)、としているようですが、もし、親鸞が、藤原日本史で飛鳥時代に活躍したとする聖徳太子と同じに、架空の人物だとしたらどうでしょう。」
「鎌倉時代に活躍した、専修念仏の浄土宗を唱えた法然の愛弟子の浄土真宗の開祖の肉食妻帯の親鸞が、架空の人物ですか。その説信じられません。」
「レポートにも書きましたように、以前から「親鸞上人架空説」は言われ続けられているのです。もう一度レポートを読み直してください。」
「では、鎌倉新仏教の星のひとりである親鸞は、室町時代に、誰により発明されたのですか。」
「それは、蓮如が疑われます。」
「何を目的に。」
「大阪難波と北陸の騎馬民族文化の抹殺です。」
「そのナベさん説、もう少し詳しく説明してください。」
「カメさん、鹿児島に行ったことがありますか。」
「出版社時代に、取材で何度も行きましたが。」
「鹿児島の街や近郊で、他県と異なることを感じませんでしたか。」
「桜島が、目の前で煙をあげていることですか。」
「そうではなくて、寺の数か極端に少ないと思いませんでしたか。」
「そういえば、寺を見た覚えがありません。薩摩藩は、江戸時代に第三百済王朝にイジメられていたから、寺は多くあったはずですね。1615年から始まったキリシタン弾圧から方向換えして、第三代将軍徳川家光から始まる第三百済王朝の江戸幕府になると、秦氏末裔の賎民穢多をイジメた寺受け制度がありましたよね。薩摩藩には、秦氏末裔が多く暮らしていたのですよね。秦氏は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅からの渡来者だったので、母国百済を新羅に滅ぼされた亡命百済貴族が支配した平安王朝からのイジメを避けるため、秦氏(古墳時代から)→惟宗氏(平安時代)→島津氏(鎌倉時代から)と変氏したのですよね。」
「江戸時代末期の薩摩藩の神宮寺や寺院の総数は、約1600と言われていました。しかし、明治元年から4年間の間に、すべての寺社は破壊されていたのです。」
「薩摩藩は、長年浄土真宗を禁圧していましたよね。」
「現在鹿児島に寺が少ないから、過去も寺が少なかった、と言えませんね。構造物は、破壊してしまえば、後の人は、その構造物のことを知る由もありません。藤原氏は、先住民の宗教施設を破壊した跡に、藤原氏の宗教施設を創建して、或いは、移築して、先住民の秦氏の歴史を消していたのです。このことが、一点。そして、もう一点は、「ウソ」物語を創作することにより、先住民の歴史を消すことができるのです。「日本書記」にある高天原や黄泉の国の神代物語は、紀元前の物語ではなく、713年に出雲郡司から藤原氏が暗躍した奈良王朝に提出された出雲の神話を基にして、藤原氏により、奈良時代に創作されたのです。藤原日本史を考察する時は、このことを肝に銘じておかなくては、史実の日本列島史を知ることは出来ません。藤原日本史の古代から鎌倉時代までの歴史には、そのような歴史改竄のテクニックを駆使した「ウソ」が多くあるのです。鎌倉時代の穢多が、遊行する貧民ではないことは、江戸時代の人は知っていたようです。カメさん、大塩平八郎って知っていますよね。」
「1837年大塩平八郎の乱、がありましたよね。幕府の圧政から貧民を救済するために立ち上がったひとですよね。その大塩平八郎が何か。」
「大塩平八郎が友人に語ったことを書きとめたものが、「咬菜秘記」にあるのです。その内容は、以下です。

この処に候。穢多ども人間交わりの出来ぬという所が、彼らの第一残念に存する処にて、親鸞という智慧坊主、その処をよく呑み込んで、この方の宗門にては穢多にても少しも障りなし。信仰の者は今世こそ穢多なれ、後の世には極楽浄土の仏にしてやろうと言うを、ことのほか有り難く思い、本願寺へ金子を上げること穢多ほど多き者はなし。

大塩平八郎は、親鸞が実在の人物ととらえているようですが、穢多の経済状態を貧民とはとらえていなかったようです。私は、親鸞は、蓮如により発明されたと考えていますから、大塩平八郎の語ったことは、鎌倉時代ではなく、室町時代と考えています。では、穢多は、どのようにして、多くの金子を手にしていたのでしょうか。その経済活動のひとつに、海外交易が考えられます。蓮如が、宗教活動の拠点とした、北陸と大阪は、古来から秦氏の国際交易港があった処なのです。カメさん、大阪の本願寺を、何故、「石山」本願寺と言うのか知っていますか。」
「冗談ですが、石の山にあったからですか。」
「半分は当たっています。大阪本願寺は、巨大古墳を破壊した跡に創建されたからです。」
「大阪本願寺は、日本一の商業都市である難波を支配することを目論むイエズス会の傀儡軍の大将織田信長との10年戦争を戦っていたのですよね。」
「織田信長の、イエズス会から提供された最新式銃を装備した、鉄砲隊でも、大阪本願寺を10年間攻めても、落城できなかったのです。その訳は、大阪本願寺は、巨石の壁で守られていたからです。その巨石は、その付近の地を掘り起こして調達していたのです。」
「すると、大阪本願寺を破壊した跡に、イエズス会から藤原氏に寝返りをうった羽柴秀吉(1585年から太政大臣豊臣秀吉)が、1583年大阪城を築いたわけですから、大阪城や大阪本願寺も、巨大古墳の地にあったわけですね。」
「大阪城の地は、上町台地といわれ、縄文時代では、まだ大阪湾はなくて、河内湾の岬だったのです。その河内湾は、弥生時代になると、上流からの土砂などが堆積することにより、湾から湖となっていたのです。古墳時代になると、古代新羅から渡来した民族により、古代エジプトの高度土木技術を駆使することにより、その河内湖の水を抜くために、上町台地に運河を掘削したのです。その運河は、難波の堀江といわれるものです。」
「その難波の堀江って、藤原日本史では、蘇我氏と物部氏との親子二代にわたる神仏戦争で、廃仏派の物部氏が、仏像を投げ捨てたところですよね。」
「藤原日本史を考察する上で、注意しなければならないことを忘れていました。それは、地名や人名のことです。漢字二文字による、地名や人名は、古墳時代、藤原日本史では倭の五王時代からではなく、713年(奈良時代)以降に付けられたものです。ですから、古墳時代、藤原日本史では飛鳥時代には、蘇我氏や物部氏などの氏族は存在していなかったのです。その蘇我氏や物部氏の、漢字二文字の氏族名は、713年以降に発明されたものです。漢字二文字の地名や人名を記載する「日本書記」は、古墳時代の支配者を歴史上抹殺する意図で編纂されていたのです。」
「そういえば、ナベさん説では、飛鳥時代などは史実ではなく、奈良時代に藤原不比等が発明した年代としているのですよね。その飛鳥時代の中心人物の聖徳太子が、架空の人物だからですよね。聖徳太子の不実在性は、608年渡来の隋使裴世清が謁見した倭王は、女帝推古天皇ではなく、男王アマタリヒシコだったことにより、証明できますよね。」
「その架空人物の聖徳太子は、藤原日本史では、七寺を建立したことになっているのです。それらは、法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺(広隆寺)、池後寺、葛木寺、といわれているものです。これらの寺を調べると、何故、藤原不比等らが、厩戸皇子(聖徳太子)を発明したのか分かるのです。それは、ミトラ神を祀る太陽信仰民族、秦氏の宗教施設の歴史的抹殺です。」
「ナベさん、それは言いすぎではないのですか。歴史教科書には、そのように聖徳太子建立七寺とありますし、現在でも、それらの寺が存在していますよね。」
「607年創建の法隆寺境内から発掘された若草伽藍遺構は、仏教の建築基準から外れています。法隆寺は、太陽信仰民族の宗教施設を破壊した跡に、奈良時代初期に北九州から移築されたものです。603年創建の蜂丘寺(広隆寺)は、ミトラ教の景教寺です。その景教寺を破壊した跡に、広隆寺が創建されたのです。」
「すると、593年創建の大阪の難波四天王寺も、ミトラ教の宗教施設を破壊した跡に建立されたもですか。」
「現在の四天王寺は、大阪城から少し外れた地にありますが、本来は、大阪城の地にあったのです。その地は、難波と言われていますが、それは、713年以降の地名です。それ以前は、浪速←ローランです。そして、大阪城の地が、以前上町台地からの岬であった頃、その岬は、古代エジプト語で、ワタ(波)ナーベ(小山)といわれていたのです。その岬に造られた湊が、ワタナベ津(岬の湊の意味)です。津とは、大きな船が接岸できる湊のことです。ワタナベ津は、古墳時代から、朝鮮半島や中国大陸との国際交易港だったのです。」
「その上町台地は、古墳時代では、藤原日本史では飛鳥時代、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族の支配地だったわけですか。すると、物部氏は、秦氏ということですか。藤原日本史では、その上町台地一帯は、物部氏の支配地と述べていますからね。」
「先ほども述べましたように、蘇我氏や物部氏など、古墳時代には存在していなかったのです。カメさんは、藤原日本史のトリックに引っかかっていますね。飛鳥時代を外さないと、日本列島史の古代史実は見えません。奈良時代に建立された難波の四天王寺は、巨大古墳を破壊した跡に、建立されていたのです。」
「だから、大阪本願寺は、別名石山本願寺なのですね。藤原氏が、騎馬民族末裔の肉食する秦氏末裔を、チャンダラー(施陀羅)として遊牧民族差別をする菜食主義のバラモン教やヒンズー教思想を取り込んだ漢訳仏教思想で、賎民穢多として、平民から隔離する意図が見えてきました。鎌倉時代に南宋から亡命して来た禅僧の多くは、ヒンズー教の僧侶を先祖としていたのですよね。菜食主義の禅宗は、ヒンズー教やバラモン教と漢訳仏教が融合して発明された、「経典」も「御本尊」ももたないヨーガ修行を基に中国で発明されたのですよね。秦氏末裔を穢多の蔑称でイジメたのは、秦氏が活躍した、古墳時代の歴史を知られると、7世紀末に南インドから南九州坊津に渡来した藤原氏の出自の謎が解けてしまうからですよね。大阪難波の歴史については、理解できました。では、北陸の歴史改竄について、説明を願えませんか。」
「北陸の歴史を知るには、日本海側を「裏日本」、そして、太平洋側を「表日本」というイメージを消さなければなりません。このイメージが刷り込まれたのは、1853年米国使ペリーが、シーボルトが持ち出した伊能忠敬の日本列島図のコピーと供に、浦賀に来航して以来のことです。それ以前は、日本海側が「表日本」だったのです。カメさん、東アジアの地図を手元に置いてください。その地図を180度回転させると、アジア大陸が下に、日本列島が上になると思います。カメさん、その逆さ地図を眺めて、何か感じませんか。」
「不思議ですね。今まで、日本海は広い海だと思っていましたが、逆さ地図だと、日本海は湖に見えますね。そして、南北に無数に広がる日本列島が、東アジアの回廊に見えますね。」
「東アジアは、天山山脈、アルタイ山脈、コビ砂漠を堺として、南に農耕民族、そして、北に遊牧民族が暮らしていたのです。この南の民族と北の民族は、紀元前から交易をめぐって戦っていたのです。南の民族は、農耕地を広げるために北に進出するわけです。遊牧民族は、家畜の餌である牧草を求めて、南北に移動するわけです。そして、紀元一世紀ローマ帝国と後漢が、絹馬交易を始めると、東アジアの地に、ローマ帝国の国際商人が渡来するのです。それは、ローマ帝国では、絹は金と同じ重さの価値があったからです。人間の欲望は、恐怖や不安を打ち消します。ローマ帝国の国際商人は、天山山脈とタクラマカン砂漠との間に交易路を開発したのです。後に、このローマ帝国と中国とを結ぶ国際交易路をシルクロードと呼ぶことは、誰でも知っていることです。しかし、ローマ帝国と中国とを結ぶ国際交易路は、他にもあったのです。それは、黒海のヘラクレア→ヴォルガ川→サマラ→イルクーツク→バイカル湖→ウラジオストク→北京、へ繋がるステップロードです。しかし、ウラジオストクから北京へのルートの中間に、紀元前37年に興っていた高句麗が立ちはだかるのです。」
「ナベさん、これって、北陸の歴史と関係ある話ですか。」
「勿論です。高句麗は、このローマ帝国と後漢との絹馬交易ルートの中継基地として栄えて行くわけです。主な収入は、関税です。この高句麗に高い関税を払いたくないローマ帝国の国際商人は、ウラジオストックから高句麗の領土を通らないルートを開発したのです。それが、日本海の海流を利用した、リマン海流ルートです。日本海には、対馬から北上する対馬海流は知っていると思いますが、日本海には、もうひとつの海流があるのです。それが、沿海州に沿って南下するリマン海流です。ウラジオストクから船を漕ぎ出すと、船はリマン海流の流れに乗って南下し、朝鮮半島の東南に流れ着くのです。3世紀初め、そのリマン海流が流れ着く地に、辰韓(秦韓・秦の国)が興るのです。」
「その話、三韓時代に飛んでいるわけですね。藤原日本史では、卑弥呼の時代ですね。」
「しかし、その辰韓から、北京に向かうために、船を南下させると、対馬海流に乗って、出雲、丹波(たには・後の丹後)、角鹿(後の敦賀)、能登、佐渡、へと流れ着くのです。そして、ウラジオストクに戻るには、対馬海流で北上し、利尻・礼文から北上すると、リマン海流に乗って、行き着くことができたのです。」
「ナベさんの言いたいことは、日本海は時計回りの逆に海流が廻っているということですね。その二つのリマン海流と対馬海流を利用して、ローマ帝国の国際商人が日本列島の日本海側に渡来していたわけですか。その説の証拠でもあるのですか。」
「文献資料としてはありません。しかし、遺跡がこの説を証明します。その遺跡とは、古墳です。朝鮮半島の歴史は、その資料が14世紀に復元されたものですから、史実がどうか分かりません。しかし、地中に埋もれていた遺物は、埋葬された状態であれば、その埋葬されたままであるはずです。先ほどの、ウラジオストクからリマン海流ルートの話で、朝鮮半島南東がその中継地であると述べましたが、356年に興った古代新羅の都であった慶州の古墳から発掘された遺物は、朝鮮半島の高句麗や百済の物と異なる物なのです。それらは、ローマ帝国と同じデザインのアクセサリーや、ギリシャ発祥の三樹の王冠が出土していたのです。」
「例えばどんなものです。」
「ワインカップ、角杯、ローマン・グラス、ローマ帝国軍と同型の脛当、バックル、革ベルト、耳飾、首飾り、腕輪、指輪、武器はすべて鉄製、などです。特に、ローマン・グラスは、朝鮮半島三韓の高句麗や百済には出土していないようです。」
「それらの遺物から想像すると、その古墳に埋葬された人物は、中国文化とは異なるようですね。」
「そうです。古代新羅では、高句麗や百済と異なり、漢字が使用さていなかったのです。漢字を発音記号として利用したヒャンチャルはあったようですけど。」
「そのヒャンチャルって、藤原日本史で言うところの万葉語ですね。」
「そうです。万葉語とヒャンチャルには、共通点があります。どちらとも、漢字を発音記号として利用していることです。古代新羅が、高句麗や百済と異なる文化であったことは、死者を埋葬するための墳墓が異なることです。その築造法は、木槨を多くの小石で被う、「積石木槨」です。」
「そういえば、藤原日本史では、土木事業に狂奔した女帝斉明天皇が、「狂心の渠」っていう大運河を掘削し、その運河を利用して船200隻に小石を積んで、丘を造ったが、石を積むさきから石が崩れた、などと述べていますよね。これって、「積石木槨」の墳墓築造の描写に思えますよね。」
「確かに。藤原日本史の読み方として、672年即位の天武天皇が日本初の天皇であるので、それ以前の天皇の物語は、蘇我氏=突厥進駐軍や、物部氏=花郎騎士団長の物語であるかもしれないと考えてみるのも面白いと思います。」
「北陸の話はまだですか。」
「古代北陸は、ステップロードからの海路での漂着地であったのです。古代北陸は、「裏日本」などではなく、「表日本」であったのです。カメさん、先ほど古代新羅の古墳からの出土物に、角杯をあげました。角杯は、ローマ帝国では、ワインやビールを飲むための器です。その角杯の土器が、岐阜県、福井県、石川県など日本海沿岸の古墳から多く出土しているのです。」
「古代の日本列島にワインやビールなどありましたか。」
「カメさん、恵美押勝を知っていますよね。」
「藤原仲麻呂のことですよね。女帝孝謙天皇をロボット化して、国璽を内裏から持ち出して藤原仲麻呂の私邸を公邸として、藤原仲麻呂の私幣を発行したひとですよね。藤原氏のロボットであった、そして、藤原氏の女である光明子を妻にした、後に反藤原氏となつた父聖武天皇と同じに、道鏡勢力に寝返り打った孝謙太上天皇は、淳仁天皇を廃して、称徳天皇として返り咲いて、反藤原氏となり、藤原仲麻呂を討伐したのですよね。」
「そうです。その時、何故、藤原仲麻呂は北陸を目指したのでしょうか。」
「何故ですか。」
「北陸には、古墳時代に造られた明日香ヤマトから東北の酒田津までつづく北陸道があったからです。この北陸道は、ユーラシア大陸から渡来した騎馬民族の軍事道路でもあり交易道路でもあったのです。古墳時代に、ユーラシアの騎馬民族は、リマン・対馬海流を利用して日本海沿岸に渡来していたのです。そのため、古墳時代、日本海沿岸から上陸した騎馬民族は、東国には多く暮らしていたのです。東国から西国に至るには、北陸道の他に、東山道、東海道があったのです。しかし、645年唐進駐軍が西国に現れ、701年唐帝国の税制により、西国がその唐進駐軍の傀儡政権となると、その騎馬民族の軍事・交易路の三路には、北陸道には愛発関、東山道には不破関、東海道には鈴鹿関が設けられ、西国と東国の分岐となるのです。関西、関東とは、その三関を基準にしているのです。その愛発関の先に、日本海の国際港のひとつである敦賀があるのです。」
「そういえば、その三関は、764年藤原仲麻呂の乱だけではなく、756年反藤原氏の聖武法皇の謎の死去の時、そして、729年反藤原氏の長屋王謀殺の時も閉ざされていましたよね。これって、藤原日本史で述べる蝦夷、ナベさんの説では、突厥騎馬民族と花郎騎士団末裔が武装して、親騎馬民族の王(テングリ)の不審死に抗議するため、東国から西国に攻め上ってくるのを阻止するためだったのですか。」
「それは断定できませんが、考えられることです。その騎馬民族渡来地の日本海沿岸には、騎馬民族の産業のひとつである、創薬業が盛んであったのです。騎馬民族の祖スキタイは、鹿を聖獣としていましたが、その小鹿の角を乾燥して強壮剤としていたのです。この強壮剤は、今日ではロクジョウと言われ、高級ドリンクに添加されています。」
「そういえば、今日でも富山のくすりは有名ですよね。」
「奈良の律令時代、祖・調・庸の他に、北陸からは、黄連、独活、牛膝(強壮剤)、桔梗(せきどめ)、白朮(胃薬)、菖蒲、人参、僕奈、細辛、大黄(健胃剤)、升麻、夜干、黄精(とろろ)、榧子、薯蕷、桃仁、兎絲子(強壮剤)、蜀椒、などの「くすり」が、北陸道により平城京の宮内省の典楽寮に運ばれていたのです。」
「藤原日本史の古代歴史を読んでいると、文化花咲く西国に対して、東国は不毛の地のように描写しているように感じますが、東国では創薬業が古来から盛んであったとは意外です。」
「古代の日本海沿岸には、ステップロードにより、ローマ帝国の文化も伝播していたのです。そのステップロードの中継地である朝鮮半島の古代新羅から、日本海沿岸に渡来したとする根拠のひとつとして、古墳の埋葬品があるのです。それが、敦賀地域の向出山一号墳からの埋葬品です。朝鮮半島慶州の古墳埋葬品に類似した、金銅装武具が埋葬されていたのです。藤原日本史史観の学者は、さいたま県行田市のさきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣を大和朝廷からの下賜品と述べているように、それは5世紀代の畿内の大王権力との結びつきを示す、と述べているようです。しかし、この敦賀地域の4〜5世紀の古墳には、方墳や四隅突出型方墳などが多くあり、畿内と同型の前方後円墳が見られないと言うことです。」
「すると、4世紀〜5世紀の敦賀地域には、畿内と異なる民族の存在が示唆されますね。4世紀代の古墳には、実戦用武具の埋葬がなかったのに、5世紀になると古墳からは多くの実践用武具が埋葬されていったのは、方墳埋葬文化民族と前方後円墳埋葬文化民族との戦いがあったからですか。」
「埋葬品の種類から考えれば、そのような説には無理がないようです。そのような古代敦賀の歴史を、藤原氏は、反新羅を基準として創作された「日本書記」の物語で、隠蔽したようです。」
「どんな物語ですか。」
「敦賀は、713年以降の地域名ですが、それ以前は、「つぬが」(角鹿)と呼ばれていたのです。「日本書記」の物語によれば、敦賀の地名の起源は、ツヌガアラヒトの渡来があった地であるからとするのです。」
「知っていますよ。そのひと、額に角が生えていたのですよね。」
「第10代崇神天皇の時代、額に角がある人が船に乗って越国の笥飯浦(けいうら)に着いた。そのため、其処を角鹿というようになった。その人の名は、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)で、意富加羅国(オホカラ)の王子で、亦の名は干斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)といった、と述べています。この創作名から、「日本書記」物語の「ウソ」がバレるのです。」
「どういうことですか。」
「阿羅斯等と阿利叱智とは、古代新羅では、貴人を表わす意味です。では、都怒我とは何かと言えば、古代新羅の最高官位は、「角干」で、「スプルカン」と発音します。因みに、古代新羅の王は、マリツカン(麻立干)、キョセカン(居西干)、ニシキン(尼師今)、と言います。この「角干」(最高官位)が、日本列島に渡来すると、そのスプルカン「角干」を「ツノカン」と万葉語読みして、その発音を、ツヌガ「都怒我」としてしまったのです。そして、その渡来元の意富加羅国とは、金海の加羅であり、古代新羅の支配地となっていたのです。反新羅の藤原不比等は、古代新羅から、対馬海流により「ツヌガ」に古代新羅の最高官位者が渡来した史実を、「角がある人」の物語を創作して隠蔽していたのです。」
「オレ、てっきり敦賀の語源は、「角がある人」と思っていました。藤原日本史もナナメ読みすると、意外な史実が現れますね。ナベさん説を、初めはトンデモ説と思っていましたが、こうしてオレの疑問点を少しずつ解き明かしているうちに、信じられるようになりました。」
「カメさん、信じるのかってですが、私の説は、あくまでも推測の域をでないものです。それは、文字に残された史料のないことを、推測で述べているわけですから。」
「分かっていますよ。百人居れば、百の歴史があることぐらい。この話の初めは、鎌倉時代の遊行する貧しい賎民の話でしたよね。それが、ナベさん説では、鎌倉時代には、遊行する貧しい賎民など存在しなかった。それ故、東国のモンゴル帝国との国際交易による裕福な騎馬民族末裔に寄生する妻帯肉食する破戒僧はいても、貧民を救済したとする鎌倉新仏教など存在しなかった、と言うことですか。」
「そのように考えています。」
「すると、鎌倉時代はどんな時代だったと推測していますか。そして、室町時代に、藤原氏北家の流れにある日野氏の蓮如が、古代新羅から渡来した民族が住む、大阪難波と敦賀津があった北陸を拠点としていた意味は、やはり、銭集めと騎馬民族の歴史抹殺だったのですか。」
「結論から言えば、そのように考えられます。藤原日本史では、蓮如は、北陸や大阪の賎民を武装組織化して、一向一揆を起こした、と生活に逼迫する百姓の蜂起としているようですが、これは、単なる百姓一揆などではなく、民族戦争と宗教戦争だったのです。」
「一向一揆が民族・宗教戦争ですか。その説聞かせてください。」
「室町時代に頻発する一向一揆の下地は鎌倉時代に創られていたのです。鎌倉時代の日本列島は国際商人が多く渡来して、国際経済活動が盛んであったのです。それは、マルコポーロの「東方見聞録」にあるように、ジパングは黄金の国であったからです。マルコポーロは、1275年フビライに会見、1292年モンゴル帝国を去ったとされています。しかし、マルコポーロは、実際にはモンゴル帝国には行かず、イスラームの国際商人から日本列島の話を聞いたことを記述したものだ、という説もあるのです。」
「すると、黄金の国ジパングの物語もウソなのですか。」
「日本列島には、古代から国際商人が、日本列島が産出する朱砂、水銀、銀、金、銅、真珠、琥珀、翡翠、薬草、絹、などの資源を求めて渡来していたのです。」
「学校で、日本には資源がなく、だから、勤勉に働いて稼がないと、暮らしていけない、などど刷り込まれた覚えがありますが。」
「敦賀津が、ステップロードにより騎馬民族や国際商人達が渡来する地とすれば、難波津は、シルクロードにより国際商人が渡来する地といえます。その敦賀津と難波津は、敦賀→琵琶湖→淀川→難波、とステップロードとシルクロードとの交易路を繋いでいたのです。この敦賀と難波との中継地として、秦氏が支配した京都盆地があったのです。古墳時代以前の京都盆地は、中央に加茂川が流れていた湿地帯だったのです。4世紀から始まる古墳時代に、古代新羅から渡来した民族が、古代エジプトの高度土木技術を駆使することにより、その湿地帯中央を流れる加茂川を、盆地の東に流れる高野川に合流させ、そして、巨大前方後円墳を築くことにより、居住地に改良したのです。」
「平安時代、唐帝国を後ろ盾とする百済系桓武天皇は、その京都盆地にある巨大前方後円墳を破壊して、大内裏を建設したのですね。その結果、桓武天皇は怨霊に悩まされるわけですね。そして、平安時代末期には、その大内裏は農地となり、京野菜が栽培されていたのですね。藤原日本史では、鎌倉時代になると京都の御所である大内裏が農地になっていたなどとは述べていませんよね。唯、王権が天皇から院に移り、加茂川東岸の白河に政の中心が移った、などと苦しい説明をしていますよね。」
「藤原日本史の鎌倉時代の歴史は、桓武平氏の北条氏が作成した「吾妻鏡」を基本史料としています。その「吾妻鏡」は、鎌倉幕府の正史として、1180年から1266年までを記録していますが、京都の記録には、作為があるのです。それは、秦氏の祀りである「祇園会」について一切の記録がないのです。」
「「祇園会」の記録を掲載すると、百済系の北条氏が不利になるからですか。」
「「祇園会」は、ペルシャ絨毯を飾りとする山車や麻多羅神を乗せた牛が練り歩く祀りであるため、その祀りの歴史を知られると、京都盆地が、古墳時代から秦氏の支配地であって、桓武天皇家を「皇族」とし、秦氏を「蕃族」とする、814年「新撰姓氏録」の「ウソ」が、バレてしまうからです。」
「そういえば、北条鎌倉幕府は、京都の治安を護るために、1221年「六波羅探題」を設置したといっても、幕府の警察権は、桓武天皇が支配した、農地となってしまっていた大内裏一帯の「右京」と「左京」で、加茂川東岸のドクロヶ原(後の六波羅)には及ばなかったのですよね。その東岸に「祇園社」が存在していたのですよね。」
「京都の寺院や奈良の寺院や神宮寺にも、北条鎌倉幕府の警察権が及ばなかったのです。」
「すると、鎌倉時代の寺院や神宮寺は、仏を安置する処ではなく、ナンデモありの無法地帯ということですか。」
「藤原日本史では、東国の武士を統率するために、1232年「御成敗式目」を制定した、としているようですが、その掟で、東国の武士を統率できたかは疑問です。それは、高利貸しを、長槍と弓矢で武装した騎馬武者としてガードする「悪党」が、活躍していたからです。」
「ナベさん説では、「悪党」は、「わるい集団」の意味ではなく、「アク」は騎馬民族語で「勇者」の意味で、「勇者の集団」の意味ですよね。」
「そうです。鎌倉時代は、北条鎌倉幕府の警察権がひ弱なため、ガードマンを雇える裕福な高利貸しやステップロードやシルクロードから渡来した国際商人は、その「悪党」を護衛として利用していたのです。鎌倉時代の日本列島には、国際商人が溢れていたのです。それは、ユーラシア交易を可能にした、モンゴル帝国が興ったからです。」
「その説明の意味が、飲み込めません。」
「藤原日本史では、モンゴル帝国とは、政府間の交易は一切なかった、と述べています。その理由として、1274年文永の役で、モンゴル帝国軍が対馬・隠岐を侵し、肥前・筑前に上陸したが、一夜で去った、とし、そして、1281年弘安の役で、モンゴル軍と高麗軍10万が、筑前・長門を侵したが、台風により全滅した、とする「元寇」があったからとしています。つまり、モンゴル帝国は、日本国への侵略を計画、そして、二度も実行したからと述べているのです。」
「ナベさん説では、その二度の「元寇」は、日本列島の支配を目論むモンゴル帝国船団ではなく、モンゴル帝国に滅ぼされた南宋と高麗との王族や貴族の大亡命船団とするのですよね。その根拠のひとつとして、「元寇」の沈没船から、種籾の入った壺や農機具が引き上げられていたからですよね。」
「藤原日本史でのモンゴル帝国のイメージでは、武装した野蛮な騎馬軍団により他国へ侵攻し虐殺の限りを尽くす、というもののようです。しかし、1260年即位のフビライの時代になると、モンゴル帝国は、自由貿易と重商主義政策により、ユーラシア大交易圏を出現させていたのです。マルコポーロが、モンゴル帝国にいたとする1275年から1292年の時期が、そのフビライが統治していた頃だったのです。」
「すると、マルコポーロが見聞したとするジパングは、1274年文永の役と1281年弘安の役の頃ですね。」
「モンゴル帝国の国際交易の基本は、国を相手ではなく、自由貿易であるため、危険を冒してまで、他国を侵略することはなかったのです。その根拠として、イスラーム国を支配下においても、そのイスラーム人を虐殺するのではなく、財務・経済に詳しいイスラーム人を国家運営に参画させていたのです。」
「モンゴル帝国は、他民族でも優秀であれば、国家経営に参加させていたのですか。」
「フビライの時代、1279年南宋国を滅ぼしたのですが、その南宋国のヨーロッパから日本列島までを含む海洋交易システムは、そのままモンゴル帝国の海洋交易システムとして取り込まれ、このことにより、モンゴル帝国の海洋交易は、西はドナウ河口、アナトリア、東地中海から東は日本海沿岸まで広がっていたのです。この南宋滅亡の前に、南宋軍の一部が幼帝をかついで、東南沿岸部を流亡した一部が、黒潮に流されて、北九州に流れ着いた亡命大船団が、1281年弘安の役とする実態ではないか、と考えています。」
「その「元寇否定説」面白いですね。すると、鎌倉時代、南宋の海洋交易システムを利用して、モンゴル帝国の国際商人は、日本列島の日本海沿岸まで渡来していたのですね。それに対して、南宋から日本列島に亡命して来た禅僧が、国際交易船に乗り、モンゴル帝国と日本列島の北陸と鎌倉を行き来していた意味が分かりました。」
「そのモンゴル帝国からの国際商人の多くは、ペルシャ語を話すイスラームです。イスラームといっても、チュルク系です。つまり、古墳時代の日本列島を支配していた突厥の末裔です。」
「モンゴル帝国の国際自由貿易の説明を聞いて、今気付いたのですが、鎌倉時代に爆発的に、日本列島各地に「座」が拓かれましたよね。これって、モンゴル帝国から渡来したペルシャ語を話すイスラーム商人と関係があるのですか。それと、鎌倉時代に突然現れた武家家紋も、モンゴル帝国から渡来した国際商人と関係があるのですか。」
「「座」は、平安時代から、イエズス会傀儡の織田信長が、戦国時代の「座」の多くを統率していた比叡山延暦寺を焼き討ちして、その権力を剥ぎ取り、「楽市楽座」を始めるまで存在していました。座とは、商工業者や芸能民による排他的同業者組合のことです。藤原日本史の説明では、朝廷、貴族、寺社などに金銭などを払う替わりに、営業・販売の特権を認めてもらっていた、とするのです。」
「すると、座を構成するひとが、朝廷、貴族、寺社に金銭を払って特権を購入したわけですか。その説明、おかしいと思いません。鎌倉時代に、日本列島各地に座が爆発的に開かれたのですよね。しかし、その鎌倉時代の朝廷や貴族は、律令制度が崩壊してしまっていたので、税制による収入がないわけですよね。それに、律令軍が崩壊してしまっていたので、その政治権力もないわけですよね。その何もない朝廷や貴族に、金銭を払って営業や販売の特権を得るわけですか。誰ですか、その構成員って。」
「座の構成員は、供御人、寄人、神人です。」
「その人たちって、藤原日本史では、犬神人などと蔑称され、寺社の奴隷のように描写されているひとたちですよね。そのひとたちは、天武天皇の血が流れる他部親王が存命中の奈良時代までは、貴族階級であったのですよね。」
「そうです。新羅系天武天皇家の末裔は、百済系桓武天皇の平安時代になると、没落の一途を辿っていたのです。平安時代に発生する遊行する芸能民とは、祭事場を失った祭祀者の末裔だったのです。古墳時代、太陽信仰民族の祭祀場であったイカルガの宗教施設は破壊され、その跡に法隆寺が移築され、奈良盆地の巨大古墳は破壊され平城京となり、その平城京を見下ろす三笠山の祭祀場は破壊され、その跡に春日大社が創建され、三つの山があったから三笠山なのに、太陽信仰民族の祭祀場があった山は春日山となり、そして、上町台地にあった巨大前方後円墳は破壊され、その跡に四天王寺が、奈良時代に移築されたのです。その結果、古墳時代は「神」に対して行っていた「芸」を、平安時代には「ひと」に対して「芸」を行い、生活の糧として生き延びていたのが芸能民の実態です。」
「だから、平安時代の芸能民である遊女は、天皇の子まで産んでいたのですね。平安時代まで、遊女の子でいることを明らかにしていたのが、鎌倉時代になると、遊女は悪女のイメージに落とされたのは、やはり、北条鎌倉幕府が、反新羅の第二百済王朝だったからですか。」
「鎌倉時代、その芸能民も、座を構成していたのです。その座は、大都市や商工都市を中心として、仕入れの独占や、そして、芸能の独占興行をして、座以外の者を武力で排除していたのです。その仕切り者が、「役座」です。座の構成員の多くは、騎馬民族系であるので、騎馬が得意です。その騎馬により、物流の独占もおこなっていたのです。そして、その騎馬による物流ルートにより、生産地の座と消費地の座とを連携していたのです。室町時代の一揆で、馬借がその中心として活躍した、との下地は、鎌倉時代の座の日本列島ネットワークは、騎馬民族により創られていたからです。」
「すると、鎌倉時代、モンゴル帝国からもたらされた物品は、その座の販売ルートで、日本列島各地に騎馬で運ばれていたわけですか。」
「鎌倉時代の日本列島から、砂金、絹、日本刀などがそれらの国際商人により、モンゴル帝国に持ち出される見返りに、モンゴル帝国からは陶磁器や書画骨董が持ち込まれていたのです。多くのひとは、水墨画のことを「日本画」と言っているようですが、床の間を飾る掛軸の山水画は、宋文化で、日本文化ではないのです。鎌倉時代に南宋から亡命して来た禅僧が、床の間文化を日本列島にもたらしたのです。日本列島オリジナル文化は、室町時代を待たなければならなかったのです。」
「ナベさん、その説明おかしいのでは。藤原日本史では、唐帝国の税制により統治されていた奈良時代は、唐風文化であったが、894年遣唐使の廃止後は、唐帝国の文化から抜け出し、日本独自の文化が発展した。これを国風文化と言う、と述べていますよね。」
「藤原日本史の説明では、その国風文化の中心は、京都の平安京となっています。しかし、11世紀になると、加茂川東岸の賎民が暮らす河原で、河原者による「祇園会」が興ると同時に、京都の大内裏は廃墟となっていくのです。その平安時代中期に現れた国風文化と云われるものは、百済文化色の濃いものです。」
「どうして国風文化が百済文化なのですか。」
「それは、平安時代初期、桓武天皇が、奈良を独占支配する藤原氏に対抗するために、唐帝国の山東半島に亡命していた百済移民を、京都に移住させていたからです。ですから、京都の朝廷に侍る女官は、百済のおんな正座である、片膝立て座りをしていたのです。そして、京都の貴族の多くは、日本語をまだよく理解できない百済移民と通訳なしにコミニュケーションがとれていたのです。因みに、京都の貴族は、新羅からの来訪者とのコミニュケーションには、通訳を必要とてしていたのです。」
「そういえば、平安時代を描写した絵に、片膝座りの女官を見たことがありました。平安京は、亡命百済移民のコロニーとなっていたのですね。すると、やはり、日本文化は室町時代からですか。」
「そうです。日本文化が興るには、鎌倉時代での異民族文化の融合が必要だったのです。」
「日本列島のその異民族文化の融合に、騎馬民族末裔が運営した「座のネットワーク」が貢献したわけですか。それらのモンゴル帝国からの舶来品を販売していたのが神人で、その販売所が寺社というわけですか。まさに、「門前市をなす。」ですね。」
「しかし、その鎌倉時代に騎馬民族末裔の神人が独占運営していた座も、室町時代になると、地方の商工業者が武力を持つ地元領主と結びついて、神人が独占していた座の権威打破が図られていくのです。」
「鎌倉時代、その座の営業で繁栄していた東国の都市に、妻帯肉食する破戒僧が寄生のため、多く集まっていたのですね。では、イスラームの国際商人が多く渡来していた鎌倉時代に、突然現れた武家家紋には、とのような歴史があったのですか。」
「藤原日本史の説明では、鎌倉時代になると本格的な合戦が多くなり、武士にとって武勲を上げる機会が増えた、とするのです。そのため、敵味方を区別したり、自身の手柄を確認させるための手段として、武家家紋が現れた、とするのです。」
「公家の家紋は、平安時代の牛舎に貼り付けたのが始まり、と歴史本で読んだ記憶がありますけど、公家の家紋も鎌倉時代からですか。」
「各公家の家紋が現れるのは、武家家紋より後です。いずれにしても、武家家紋は、鎌倉時代に突然現れたのです。」
「やはり、その藤原日本史の説明もおかしいですね。武士の武勲は、敵将の首を持参することにより、恩賞を賜っていたのですよね。騎馬民族では、勇者(アク)は再生復活する、と信じられていたので、死者が復活できないように、落首していたのですよね。家紋を付けて戦場での活躍場面を査定してもらうことは、それなりの意味がありますが、それなら、何故、平安時代末期、アラブ系海洋民族とチュルク系騎馬民族との源平合戦では、赤旗と白旗だったのですか。笹竜胆のマークを付けていたのは、短弓で騎射する源義経ただひとりでしたよね。」
「その武家家紋のデザインに使われている動植物が、オリエント発祥のものであることは、武家家紋の出現の謎を解く鍵となるようです。」
「家紋の動植物は、日本列島古来のものではなかったのですか。」
「家紋本の説明では、例えば、渡辺氏の三ツ星に一文字を、オリオン座に一文字と説明しています。オリオン座は、オリエントでは狩人星といわれています。では、一文字とは何をデザインしたものでしょうか。」
「家紋本て、一番槍との説明を読んだ記憶がありますが。」
「武士の実戦武器は、1543年ポルトガルが種子島に鉄砲を伝えるまで、日本刀ではなく、弓矢と槍だったのです。日本刀は、平安時代に怨霊の魂鎮めをおこなう祭祀道具として発明されたものですから、合戦には使われていなかったのです。武士が、合戦で日本刀を使っていたとする誤解は、第三百済王朝の江戸時代、中国の京劇(梨園)をヒントに発明された歌舞伎(梨園)の荒事での戦闘場面で、武士の合戦は弓矢と槍であったのですが、狭い舞台では、弓と槍のたちまわりができないので、日本刀を合戦場面に使ったことから、歌舞伎を観劇したひとが、後に、平安時代に発生した武士は刀で合戦をしていた、と勘違いをしてしまったのです。刃が薄く、折れる、曲がる、刃こぼれする日本刀は、怨霊の魂鎮めのための「武芸」で使用するものであったのです。武士の嗜みは、弓術、槍術、そして、馬術であったのです。日本刀は「武芸者」の祭祀道具であるため、ひとの魂を絶つ斬首に使われていたのです。江戸時代までの斬首執行人は、武士の末裔でならなければならなかったのは、そのためです。その渡辺星の一文字は、槍との説明で正解です。では、その槍は、何と言う槍かと言えば、「ロンギヌスの槍」です。」
「何です、そのロンギヌスって。」
「ローマ帝国軍団の槍という意味です。」
「何故、渡辺氏の家紋に、ローマ帝国軍団の槍がデザインされているのですか。」
「その意味は、嵯峨源氏の流れにある渡辺党は、難波を拠点としていたのです。その難波は、古墳時代、ローランと呼ばれ、古代新羅から渡来した民族が支配した地です。古代新羅は、ギリシャ・ローマ文化継承国であったのです。その古代新羅の軍団は、花郎騎士団といわれ、ローマ帝国軍の流れにあったのです。ローマ帝国軍団は、長槍による集団戦法により敵と戦っていたのです。その長槍は、ロンギヌスの槍と呼ばれていたのです。」
「鎌倉時代に突然現れた家紋には、その氏族の日本列島渡来以前の歴史が表わされていたのですね。そういえば、島津家と弾家の家紋は、十字のマルタクロスですよね。マルタクロスは、元々はキリスト教のシンボルではなく、ミトラ神のシンボルですよね。」
「関東の東山道一帯を支配していた武田家の「四つ割菱」にも、マルタクロスが隠されています。」
「すると、武田の騎馬軍団も、古代新羅の花郎騎士団の流れにあるわけですか。太陽神をマルタクロスでシンボルとするミトラ神は、キリスト教がローマ帝国国教となる前、ローマ帝国軍の軍神だったから。」
「江戸時代になると、庶民も家紋を使い始めましたが、鎌倉時代の家紋は、武家に限られていたのは、氏族識別のためだったと考えています。」
「合戦での識別ですよね。」
「それもあるかもしれませんが、武士は合戦を好まなかったのです。争いごとは、にらみ合いの後、「談合」によりカタをつけていたのです。」
「その武士の紛争解決方は、まるで「役座」に似ていますね。」
「似ているはずですよ。役座は、武士の流れにあるからです。」
「鎌倉時代、幕府の警察力が、寺社を治外法権として存在させていたほど、ひ弱だったのです。国家警察が及ばないことは、何でも有りの無法地帯となります。そこでは、知識による法律ではなく、武力が正義となるのです。」
「それで、北条鎌倉幕府は、1232年御成敗式目を制定して、武士を統制したのですよね。」
「そのように述べているのは、藤原日本史で、北条鎌倉幕府が作成した「吾妻鏡」を史料としているからです。以前にも述べたと思いますが、鎌倉時代の日本列島の歴史は分からないのです。それは、客観的な史料がないからです。鎌倉幕府のあった鎌倉の地は、元は、死者を投げ捨てる地獄谷であったのです。三方を小山に囲まれ、前方は海である居住地の狭い鎌倉には、南宋から亡命して来た禅僧が、細く曲がりくねった切り通しの要所に、円覚寺、浄智寺、建長寺、寿福寺、浄妙寺の五禅寺を建設し、敵からの防衛施設としていたのです。戦国時代に織田信長が、比叡山延暦寺を焼き討ちする以前、寺社には僧兵軍団が存在していたのです。その禅寺での日常会話は、中国語だったのです。その禅僧は、北条鎌倉幕府の軍事顧問や貿易顧問をしていたのです。」
「すると、北条鎌倉幕府の経済も、警察力と同じに、脆弱だったのですね。」
「「泣くこと地頭には勝てない」と言うことは、荘園領主だけではなく、北条鎌倉幕府にもいえたのです。鎌倉時代は、荘園領主と地頭とのトラブル続きであったようです。その原因のひとつが、加徴米の徴収です。律令国家が存在した平安時代、正規の年貢のほかに徴収された付加米のことを、加徴米と言っていたのです。律令国家が崩壊していた鎌倉時代、その加徴米が、地頭得分に継承されていたからです。この地頭と荘園領主とのトラブルを解決するために、御成敗式目などの法律が制定されていた、とするのです。しかし、法律は、強力な警察力の後ろ盾がなければ、その施行は無理です。」
「すると、そのトラブル解決は、やはり武力となるわけですね。見えてきました。豪華な衣装で弓と槍で武装する騎馬武者の悪党の存在です。武家家紋は、その訴訟解決業の営業のために現れた、と考えることはできませんか。武家家紋は、現代での、販売促進のための企業のシンボルマークと同じ、と思えませんか。」
「藤原日本史の説明より、納得できますね。北条鎌倉時代は、院(天皇)も貴族も、住民から各種税を徴収する律令制度が崩壊していたので、経済的に困窮していたと考えられます。そのような院や貴族に、合戦で家紋でアピールしても、何の見返りもないことは確実です。私は、家紋の登場は、氏族から部族への、勢力拡大のためと考えています。」
「どういうことですか。」
「氏族とは、血縁・地縁により結ばれた小集団です。部族とは、ある思想の下に集まった大集団です。騎馬民族の組織を見ると分かりやすいと思います。古代新羅では、武力や策謀により勝手に王様になれなかったのです。古代新羅は、6村に分かれていたのです。村と言っても、農耕民族の村のイメージではありません。古代新羅の村は、独立した都市国家だったのです。その村は、血縁・地縁の氏族により経営されていたのです。その6村が談合して、部族の王様を選定していたのです。その古代新羅の初代王奈勿も、356年そのように6村の氏族長の談合により即位したのです。」
「話は飛びますが、その古代新羅の王選定の話、第三百済王朝の江戸幕府にイジメられていた弾家の部族長の選定と似ていますね。弾左衛門は、世襲名でも、生まれによる血統ではなく、日本列島各地に居住する秦氏末裔の代議員から推薦された者が、談合により選ばれていたのですよね。」
「その部族王を選定するシステムが、古代ギリシャの都市国家での党首選びの選挙と似ていることと、そして、古代新羅と弾家とは、似ているはずです。弾家←秦氏←古代新羅←秦←バクトリア←アレクサンドル大王領←ギリシャ、ですからね。」
「ナベさんの話、飛躍しすぎですよ。鎌倉時代からギリシャへ飛んじゃうだから。すると、家紋は、氏族から部族への人集めに使われた、と考えているのですか。」
「そうです。平安時代、唐帝国軍の後ろ盾により、百済系桓武天皇は、東国の突厥進駐軍や花郎騎士団が死守する東北を侵略し、陸奥・出羽まてを支配下としたのです。西国では、祭祀場を追われた秦氏末裔は、芸能民となり、誰の土地でもない、河原を居住地としていたのです。しかし、907年唐帝国が滅ぶと、その秦氏末裔は、11世紀になると京都の加茂川の東岸の死体が流れ着く、ドクロが原を中心に結集し、天皇や貴族を震え上がらせる祀り、「祇園会」を発明したのです。しかし、藤原氏の陰謀により、「夷を以って、夷を制す。」の戦術により、アラブ系海洋民族の平家と、チュルク系騎馬民族の源氏との源平合戦により、その両部族の勢力は壊滅状態となってしまったのです。しかし、1271年東アジアに、騎馬民族国家モンゴル帝国が興ると、日本列島の平家末裔も源氏末裔も、復活の兆しが現れるのです。それは、モンゴル帝国は、自由貿易を標榜していたからです。自由貿易とは、国家と国家との取り決めで行うのではなく、個人により貿易を行うことです。平家も源氏も、国家が平安時では、国際船を繰り出して国際交易民族として活躍していたのです。その平安末期から鎌倉初期まで衰退していた両部族は、鎌倉時代になると、そのモンゴル帝国との交易により、その勢力が復活し始めたのです。」
「その話の根拠はあるのですか。」
「史料としてはありません。ここに鎌倉と京都の大火の年表があるのです。その年表によると、

☆1206年騎馬民族王、チンギス干即位。
1208年京都大火。
1213年京都大火。
1218年京都大火。
1245年京都大火。
1247年鎌倉の浮浪人を追放。
1249年京都大火。
1251年鎌倉大火。
1254年鎌倉大火。
1260年鎌倉大火。
☆1271年フビライ、モンゴル帝国興す。
1280年鎌倉大火。鶴岡八幡宮炎上。
1302年鎌倉大火。
1310年鎌倉大火。
1315年鎌倉大火。
1333年足利尊氏六波羅探題を陥れる。北条鎌倉幕府滅ぶ。

カメさん、この記録を見て、何を感じますか。」
「火付けのゲリラ戦ですか。」
「それでは、京都や鎌倉の滅亡を望む勢力は、誰ですか。」
「京都と鎌倉は、亡命百済貴族末裔の支配地だから、平家か源氏の末裔ですか。」
「京都は、平家の平清盛が支配した地です。しかし、鎌倉は、源氏の支配地だった処です。そして、源氏は、秦氏末裔で、古墳時代、京都盆地を支配していたのです。」
「すると、ゲリラ戦を仕掛けたのは源氏ですか。でも、おかしいですね。源氏の棟梁である清和源氏三代は、1199年源頼朝暗殺、1204年源頼家幽閉後暗殺、1219年源実朝、公暁に殺された、となり、源氏将軍三代が、北条氏の陰謀により暗殺されていたので、源氏勢力は壊滅していたのでは。」
「ここに藤原日本史のトリックがあるのです。清和源氏には、謎が多くあるのです。その謎の清和源氏に、嵯峨源氏が歴史上消されているのです。」
「どういうことですか。」
「清和源氏の祖とされているのが、満仲なる人物です。しかし、満仲の出自が不明なのです。」
「藤原日本史では、摂津多田の生まれ、としていますよね。そして、父は経基、とされていますよね。」
「清和源氏の系図では、清和天皇→貞純親王→源経基→源満仲、となっています。しかし室町時代以降に大幅増補改訂されている「尊卑分派」によれば、父経基より、子満仲は5歳も年上なのです。」
「その出自不詳の満仲は、いつ歴史上に現れたのですか。」
「969年安和の変です。」
「反藤原氏の醍醐源氏の左大臣源高明を、密告により大宰員外帥にさせた事件ですね。」
「その密告者が、満仲です。その満仲は、密告をしたことにより、藤原氏の推薦で叙位されたのです。」
「すると、満仲なる人物は、藤原氏の手先とも考えられますよね。」
「そのように考えるのが自然です。というのは、その満仲なる人物の末裔軍団が、藤原氏が奈良時代から望んでいた砂金の産地、陸奥国を武力で奪うため、大活躍していたからです。」
「1051年前九年の役と1083年後三年の役ですね。」
「その陸奥国略奪戦争で活躍した、源義家と義光兄弟は、何故か、兄は八幡太郎、そして、弟は新羅三郎を名乗っているのです。」
「清和源氏の祖満仲は、出自不詳ではなかったのですか。その子孫が、八幡や新羅を名乗ることは、満仲も新羅と関係があったからですか。」
「ここに藤原日本史での、嵯峨源氏が清和源氏に吸収されていく物語があるのです。その話によると、嵯峨源氏の流れにある源綱は、摂津国多田に清和源氏を形成した源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国渡辺に居住し、渡辺綱と名乗り、渡辺氏の祖となった。そして、渡辺綱は、義父源敦の妻の兄である摂津源氏の源頼光の郎党となり、頼光四天王の筆頭となる、としているのです。源頼光は、清和源氏の系図では、清和天皇→貞純親王→源経基→源満仲→源頼光、となっているのです。」
「その話では、渡辺綱は、清和源氏の源頼光の配下ということですよね。でも、その話おかしいですよね。源氏は、天皇からの賜姓であるから、天皇の名が源氏の前に、例えば、嵯峨源氏や醍醐源氏のようにあるわけなのに、多田源氏や摂津源氏なんてアリですか。それに、反藤原氏の嵯峨源氏渡辺氏が、藤原氏の私兵であった満仲の末裔の源頼光の配下となるはずはありませんよね。その満仲は、反藤原氏の醍醐源氏の左大臣源高明を無実の密告で貶めていた人物ですよね。その源高明が、廟堂から無実の罪で失脚した後、藤原道長の栄華につながっていくのですよね。」
「そうです。藤原氏の邪魔者は、「藤原日本史」の物語により、歴史上から消されて行くのです。藤原日本史で、供御人、犬神人、寄人、悪党など説明の曖昧な人物や集団は、反藤原氏の者だと思って差し支えないようです。」
「すると、北条鎌倉幕府時代に活躍していた悪党とは、反藤原氏で、嵯峨源氏や醍醐源氏末裔と考えてもいいのですか。」
「「悪党」とは、固有名詞ではなく、「勇者の集団」という意味ですから、反藤原氏だから、「悪党」ということではありません。武装集団が、自ら「悪党」を名乗るのは、売り込みのための、広告世界でのキャッチコピーのようなものです。この「悪」は、個人の名前にも織り込まれていたほど、鎌倉時代ではポピュラーな言葉であったようです。」
「すると、親鸞という人物が唱えたとする「悪人正機説」の「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」も、ずいぶん違う解釈となりますね。」
「そうですね。悪人こそが阿弥陀仏の本願による救済の主正の相機である、と一般的に解釈されているようですが、私はそのようには考えていません。」
「何故ですか。歴史教科書にもあるし、有名作家が「親鸞」を小説で描いて、悪人正気説を説いていますよね。」
「そもそも、南無阿弥陀仏の呪文を唱える浄土宗の教えは、「釈尊の唱えた仏教の教えか。」、との疑問があるからです。」
「どういうことですか。」
「鎌倉時代、浄土宗の教えを受け入れた武士の中には、阿弥陀如来=軍神、と捉えていたようです。武士には、勇者は復活再生する、と信じられていたのです。その勇者復活思想の源は、ローマ帝国軍のものです。ローマ帝国の軍神ミトラは、戦闘場面で降臨し、勇者を復活させる、と信じられていたのです。浄土教の悪人(勇者)往生思想は、武士の思想とダブルのです。」
「阿弥陀如来は、インドでは「アミダーバ」で太陽神ですよね。以前述べた、ナベさんの説では、阿弥陀仏←アミダーバ←ミトラ神、で、全て太陽神である、とするのですよね。」
「カメさん、室町時代に、何故、一向一揆が浄土真宗の信者を中心に、全国で発生したと思いますか。」
「藤原日本史では、一向一揆は、民衆による自治を実現するための戦いであった、と述べていますよね。自治とは、国家に管掌されずに集団を自らの掟により統治する、という意味ですよね。つまり、自治都市とは、都市国家のようなものですか。」
「そうです。その一向一揆の中心に、馬借の存在があったのです。そのことから、一向一揆は、単なる貧民の農民による一揆などではなく、騎馬民族末裔による、室町幕府からの独立戦争と考えられませんか。」
「でも変ですよね。騎馬民族は、肉食するため、肉食禁忌、殺生禁忌思想の仏教信者になるわけないですよね。国際交易で繁栄する騎馬民族末裔の村に寄生した、架空の人物親鸞のような妻帯肉食の破戒僧が、比叡山延暦寺から出ていたのも不思議ですね。」
「その武士を浄土真宗信者にしたトリックが、平安時代に現れた浄土宗です。鎌倉時代には、比叡山延暦寺から独立していた浄土真宗など、存在していなかったのです。浄土真宗が、延暦寺から独立したのは、室町時代の蓮如の時代からです。」
「何だか、藤原日本史にない説なので、面白くなりそうですね。」
「鎌倉時代では、麻多羅神は、阿弥陀如来の守護神だったのです。」
「その証拠でもあるのですか。」
「平泉の毛越寺の常行堂の修正会は、現在に伝わるうちで最も古い形式を残している、と云われています。その毛起寺の本尊である阿弥陀仏の背後の後戸には、摩多羅神が祀られているのです。」
「その毛越寺は、何宗なのですか。」
「天台宗系です。」
「それで、その話の流れが分かりました。」
「どんな流れですか。」
「天台宗は、百済系桓武天皇の命で、遣唐使留学僧として渡海し、805年帰朝した最澄が創めた宗派ですよね。その天台宗の宗教施設は、比叡山に創建された延暦寺ですよね。その比叡山は、古墳時代、秦氏の宗教施設があった処ですよね。つまり、ミトラ神が祀られ、そして、殺牛祭の行われていた処ですよね。」
「そうです。藤原日本史では、殺牛祭の意味を述べていませんが、百済系桓武天皇は、延暦10年(791年)と延暦20年(801年)の二回、その殺牛祭の禁令を出しています。「日本書記」にも、皇極元年(641年)7月25日条に、雨乞いのため「村々の祝部の教えのままに、あるいは牛馬を殺してもろもろの社の神を祭る(いのる)。」、とあります。」
「その殺牛祭とは、ミトラ神の化身である牡牛を屠る、太陽神復活の儀式ですよね。」
「そうです。ミトラ神の牡牛屠り儀式は、古墳時代に終わったのではなく、平安時代にも行われていたのです。つまり、秦氏の祭祀者の存在が、その桓武天皇の禁令で証明されるのです。そのミトラ神を歴史上抹殺するため、京都盆地を乗っ取った亡命百済貴族は、ミトラ神を、摩多羅神としていたのです。そのミトラ神抹殺の物語に、慈覚大師円仁の登場となるのです。承和15年(848年)唐より帰朝した円仁は、「摩多羅神を崇拝しなければ、浄土往生はかなわない。」、と聞いたのです。そこで、円仁は、常行堂に摩多羅神を勧請した、とするのです。このことから、摩多羅神は、ミトラ神から、浄土往生の神となっていくのです。」
「すると、摩多羅神は、阿弥陀仏と同じですよね。だとすると、秦氏末裔の武士には、阿弥陀如来=軍神の式が理解できますね。だって、阿弥陀如来=摩多羅神=ミトラ神=ローマ帝国軍の軍神となるわけですから。」
「北条鎌倉時代、モンゴル帝国の商人と、自由貿易により栄えた騎馬民族の支配地である北陸や大阪難波では、阿弥陀仏信仰が広まるにつれ、その守護神摩多羅神も崇拝されていたのです。中世になると、その摩多羅神は、「玄旨帰命檀」とよばれる勧請の秘儀、つまり、殺牛祭、により阿弥陀信仰の本尊として祀られて行くのです。しかし、第三百済王朝の江戸時代、貞享4年(1687年)徳川綱吉による生類哀れみの令が発布されると、元禄2年(1689年)、沙門霊空が、摩多羅神を血の儀式を行う邪教だと極めつけたことにより、摩多羅神の血の儀式が禁止され、摩多羅神が歴史上抹殺されたのです。」
「ナベさん説を信じるかどうかは、今は分かりませんが、藤原日本史の鎌倉時代がかすんで行くようになってきました。」
「歴史は、その史観により、個人の立場により、色々変化していきますから、多くの人の説を知ることは、歴史世界が広がります。私が述べている歴史は、私個人の史観により構築されたものですから、押し付けることもしないし、また、信じろ、とは言いません。」
「もう一度、藤原日本史の鎌倉時代を読んでみます。」
「そうして下さい。藤原氏が、何を隠そうとしていたのか、分かると思います。カメさん、窓を見てください。太陽が沈みかけていますよ。」
「もうそんな時間だったのですね。」
「今日は、これで終わりにしませんか。」
「了解です。」
「近いうち、また、レポートをメールします。では、さようなら。」
「ありがとうございました。」

オレには、数十分のチャットだと思っていたが、数時間を優に超えていた。しかし、疲労感はない。パソコンをオフにすると、心地よいダルさが、オレを襲った。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/770.html

コメント [経世済民82] 国際問題化するブラック企業〜今後日本で解消どころか、ますます広がると“確信”する理由(Business Journl)  赤かぶ
04. 2013年9月12日 16:06:51 : niiL5nr8dQ
全員正社員!女子95%で成長する秘訣
クロスカンパニー 石川社長が語る女性活用
秦 卓弥:東洋経済 記者2013年9月12日
「アースミュージック&エコロジー」。
女優・宮崎あおいさんが異国で出会った人と、流暢な現地語でクールなやり取りを繰り広げる――。印象的なテレビCMに見覚えがある人も少なくないだろう。これを展開するレディスアパレルが、クロスカンパニーだ。基幹ブランド「アースミュージック&エコロジー」を中心に現在、国内で500店舗以上を展開し、今年度(2014年1月期)に売上高1000億円の大台を達成する見込みである。
実はクロスカンパニーは、創業時から「全員正社員」を掲げ、その95%が女性、しかも平均年齢25歳と“女子”が活躍する企業でもある。日本で初めて「4時間正社員」制度を導入するなど、積極的に働く女性の支援を行っている。
女子力を活かす経営とは、そして今後の成長戦略は?石川康晴社長に聞いた。

人は「調整弁」じゃない

――クロスカンパニーはなぜ「全員正社員」を掲げているのでしょうか。

僕は3年間大手紳士服チェーンで下積みをしたあと、23歳で小さなセレクトショップを開いて独立しました。身の丈をコンセプトにたった4坪の小さなテナントを借りて、1人で買い付けから接客までやっていましたが、2年目には事業が軌道に乗り始め、社員を雇う必要が出てきました。

当時、僕もまだ若造だったから、いろんな経営者のところへ「これから中長期的に大事な経営哲学や鉄則はないですか?」と、学びにいきました。その時、大先輩の経営者の10人中10人が言ったのが、「人は調整弁だ。いつでも切れるようにしておけ」、「特に小売業は上がり下がりが激しいから、固定費なんて抱えていたらすぐに会社はつぶれるぞ」という教えです。

それを聞いて、僕は「そんな考えを持つ経営者しかいないから、日本の小売業界というのはグローバルにならないし、シュリンクしていくんだ」と思ったんです。僕が決心したのは「正社員という概念を倒産する瞬間まで貫いていこう」という逆の考え。人に経営資源を向け、人に投資をしていこうと。

だからクロスカンパニーは創業2年目で初めて社員を雇って以来、全員を正社員で雇用して、気がつけば今期連結売上高1000億円まできました。約20年間、正社員という基盤を整えたことで、社員が安定して働いてくれたおかげだと思います。


石川 康晴 クロスカンパニー社長●1970年岡山市生まれ。94年クロスカンパニーを創業。99年に「earth music&ecology」を立ち上げ、現在では他ブランド含め、国内店舗数は約500店舗まで拡大。宮崎あおいを起用したテレビCMでも注目を集める。女性支援制度を中心とした社内制度の充実、環境活動や地域貢献活動へも積極的に取り組み、東日本大震災で被災者180人の雇用を行ったことでも話題となった。
――4時間や6時間の時短勤務制度を導入したのはなぜでしょうか。

最大のきっかけは、社員番号2番の女性社員(石川社長が1番)が結婚を機にやめてしまったことですね。彼女は創業メンバーで、いまでも彼女を超えるマネージメント能力がある人はいないぐらい優秀でしたが、「8時間労働の中で強い権限、意思決定を背負う仕事を両立できる自信がない」と言われ、引き止めることができませんでした。

その時、僕たちに制度がなくて社員に保証ができなかったために、彼女のノウハウが社内に蓄積できなかったわけです。クロスカンパニーは95%が女性社員です。しかも平均年齢は25歳とまだ若い。今後、彼女たちが結婚してママになっても会社に残ってもらうためにはどうしたらいいかと思いました。

それから同じような境遇の社員を、3人ほど会議室に呼んでヒアリングをしました。「どういう仕組みがあると仕事を辞めずに頑張れるか、今やっていけない背景には何があるのか」と聞いたら、「お姑さんが、『女は家で味噌汁を作って待っているもんだ。旦那より遅く帰るとは何事だ』と言う」なんて話が出てくるんですよ。それを覆すのはなかなかできない。

教科書どおりの制度ではダメ

だったら6時間勤務で朝9時に出勤して16時に帰れば、お姑さんが言うリクエスト、すなわち16時半にはスーパーに行って、17時半から味噌汁を炊いて、旦那さんが18時に帰ってくるのを待ち構えられるんじゃないのかと。そしたら「そんなことができたら、頑張れます」という返事をもらった。それで2011年8月からまず「6時間正社員」の制度を導入しました。

一番のポイントは、教科書に書いてある制度を持ってきたのではなくて、社員の声を繰り返し聞き続けたということです。各企業には様々な文化があるので、まずは内部に存在する不満を持っている社員を、何度も何度もインタビューするところから制度設計は始まります。これをしないかぎり、企業文化にマッチしない使用率の悪い制度になってしまいます。

――成長の過程で女性活用が必要だったわけですね。

いわゆる労働力確保の面でも経営戦略上必要でした。例えばイオンモールとかららぽーとが大型商業施設を開発しても、ただでさえ若者がいない上に、モールの中で人材獲得競争になって、その地域で完全に雇いきれない状態になります。私たちも実は中央で採用した人を「Uターンキャリア」で1年間だけ郊外に派遣して、なんとか大量出店の成長戦略を続けていましたが、とにかく苦労していました。


ところが、まず岡山県だけで4、6時間勤務の営業員募集を実験的にやってみたら、8時間の正社員募集を圧倒的に上回る3倍の履歴書が届きました。潜在的なニーズが強いと実証できたものですから、すぐに全国に求人募集を拡大すると、約4カ月で1000人を超える応募が来たのです。

全員が同じことを言います。「やりがいのある仕事をやりたかった」と。だけど、これまで彼女たちが活躍する労働市場がなかった。そこに「4時間正社員」という安定感と、ある程度の権限がある充足感、「安定」と「責任」の二つが目の前に降って湧いてきたら当然飛びついてきます。みんなすごくはつらつと頑張ってくれている、というのが現状です。

短時間勤務制度の利用者は現在165人。郊外型ショッピングセンター(SC)の店舗を中心に、2〜3店に1店の割合で4時間か6時間正社員が入っています。これを将来的には1店舗に2人入れて、1000人くらいを雇いたいと考えています。

短時間勤務でも生産性に問題なし

――現場に負担はありませんか。

これはやってみてから気が付いたのですが、逆に4時間正社員は1時間当たりの労働生産性が高いんです。彼女たちはローカル要員として配置していますので、保育園や幼稚園のママ友を連れてきてくれます。地域の行事の話ができたりもするので、顧客1人当たりの単価やリピート率がとにかく高く出ています。

もう1つ面白い事例は、「グリーンパークス」というブランドで意図的にほぼ女性だけの事業部を作ってみました。ターゲットはアラサー(30歳前後)のヤングママ、部署も顧客と同じにしようと30代女性を集めてみました。

女性目線のブランド構築が当たり、このブランドは20%成長を続けて、通期売上高は今期220億円ぐらいになる見込みです。営業利益率は15%とすでに基幹ブランドの「アースミュージック&エコロジー」を超える数字を叩き出しています。現在はグリーンパークスの出店が一番多いですから、この2〜3年でアースに並ぶブランドに成長するでしょう。

私たちはCSR(企業の社会的責任)という視点ではなくて、会社の利益になるから女性支援をしているということをいちばん言いたい。女性活用が企業の成長に必要だということを理解してやっているワケです。

――男性側の理解はどう進めたらよいでしょう?

11月からは男性社員向けの育児休暇制度も新たに導入します。ただ、普通の制度ではなくて、クロスカンパニー流の「強制イクメン休暇」(仮称)です。子どもがいる家庭において男性は月に1日公休をプラスするので、強制で取得してパートナーのために家事・育児を手伝わなければならないというものです。

当然、奥さんに「会社が作った制度はあなたが楽になるために作った制度だから、旦那さんをお迎えや買い物に行かせるのに使ってください」とコミットメントさせる。奥さんのサインをもらって、会社の目的を通達します。娯楽に使われたら困りますので(笑)。男性にも強制するというのがミソで女性の育休に抵抗をなくすのが狙いです。日本の事例になっていくのではないかと期待しています。

女性活用は「国よし、家族よし、企業よし」

――今後の成長のためにも女性活用は必要?

これ何回、取材で言ってもカットされちゃうんですけど、女性活用は「国よし、家族よし、企業よし」の三方よしなんですよ(笑)。国は所得税が増えて税収があがる、家庭も可処分が増えて豊かになる、企業も労働力を確保できるうえ生産性が高まります。


日本は少子化で市場もシュリンクして、優秀な人材を世界から調達しないといけない中で、欧米並みの女性活用の基準がない限り、人事面でもガラパゴス化していきます。日本は女性の中間管理職比率はわずか11%、欧米は30%を超えている。日本では男性がマーケティングや組織戦略を意思決定しますが、そこにガバナンスが効いていません。

日本企業がグローバル化に苦戦しているのも、女性活用の遅れが一つの要因なのは間違いありません。海外に打って出て行くためにも女性支援は不可欠です。女性の活用が会社に利益をもたらすことを、誰よりもトップが理解して制度化していかなければならないと思います。

――事業についても教えてください。2014年1月期は売上高1000億円の大台を突破する計画です。

昨年末に120億円投資をしてレディスアパレルの「キャン」を買収しました。役員総出で大型のM&A案件を抱え込みましたので、マーケティング戦略が弱まり、前年度は既存店が苦戦しました。ですが、足元では基幹ブランドのアースが回復し始めてきています。


――今後の目標は。

まずは2017年までにレディスアパレル第3位を目指します。ポイント(9月1日からアダストリアHD)さん、パルさんなどが当面の競合となってきます。われわれは中国で今期40店舗、来期60店舗と出店にアクセルをかけていきますので、今後はアジアの出店で差がついていくでしょう。

それ以降の成長戦略については、8月末から雑貨業態「メゾン・ド・フルール」を開始するほか、新規のグローバルブランドを来期に立ち上げ、多ブランド展開を進めていきます。柳井さんほど高い目標は掲げませんが、最終的には「ZARA」や「H&M」など現在のグローバルSPAと同じくらいの売上高1兆5000億円、純利益1000億円が目標です。M&Aもまだ模索しています。

株式公開の可能性は「否定しない」

――資金調達手段として、株式上場という選択肢はありませんか。

五分五分ですね。IPO(新規株式公開)の可能性も否定はしません。これまでは実質無借金のビジネスモデルでなんとかやってきました。ただ、これからは年間100店舗の出店を続けながら、グローバルで事業展開していかないといけません。そのためには人材と資金調達の両面で必要になってきます。

大型調達が必要であれば、近年中にIPOの可能性もあると思います。まあ、この1〜2年で、その判断をしなければならないと思います。監査法人も5〜6年前から入れているので粛々とどちらにも転べるように準備はしています。

(撮影:尾形 文繁)

コメント [政治・選挙・NHK153] みのもんたの恐るべき報復 (simatyan2のブログ)  赤かぶ
177. Adam Rawls 2013年9月12日 16:07:11 : WY6cnrI6WPjMk : E7MiuhXF7C
オザワンだとかモンタだとか敬老の日を前になに騒いでいるのですか?

お年よりは死なず、ただ、消え去るのみ!

コメント [政治・選挙・NHK153] 中・韓「反日」嘘つき国家に対して、日本政府は国際社会で適宜・適切な反論をすべきだ。(日々雑感)  笑坊
09. 2013年9月12日 16:08:09 : W7CuBdZI4k
 そのようなでかい口がきける今かい?  日本の国土領海はおろか全地球を破滅に陥れそうな爆弾を抱え、その処理もできない状態なんだぞ。 にもかかわらず大嘘をついて世界を欺き自己満足しているんだ。  中韓に何を言われても反論する資格はなし。
 反論する前に謝罪だ。
コメント [原発・フッ素33] 安倍首相「完全にブロック」は嘘/小出裕章さん「こんな軽々しい発言をする人を一国の首長に持っていることが、大変恥ずかしい」 gataro
65. 2013年9月12日 16:08:59 : 8fvRDAdblE
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原発の廃炉にしても技術が必要なのでは?
原発を無くすにしても、反原発の研究として、研究要員の確保として、大学の研究施設は必要だよね。
何も無いところに、高度な放射線防護技術などもありえないのだから、何でもかんでも反対とするのは可笑しいよね。

コメント [政治・選挙・NHK153] みのもんたのセクハラをこれ以上放置してはいけない (天木直人のブログ)  笑坊
62. 次郎 2013年9月12日 16:09:22 : FV0BoL10KVXeM : 5GFBiaNZBE
身内の不正は報道しない、とすればメディアとしては落第なのだが日本テレビは事件を無視している。彼等の番組が如何に偏向しているかの証だね。良識も使命感もゼロ。情けないエリートたちよ。
記事 [近代史02] たそがれのプロカメラマン物語  第五章 室町時代へタイムトリップ
http://www.kitanet.ne.jp/~aash/tasogare.html#1-18

第五章 室町時代へタイムトリップ


室町時代とは騎馬民族文化と南宋禅文化の激突時代だった。

オレは、ソファーに寝転んで、天井を眺めながら、藤原日本史と田辺日本史の違いを考えている。ここ二三日、写真撮影の依頼がなかったので、考える時間は、タップリあった。
田辺説によれば、清和源氏は存在しないという。もし、存在するとすれば、それは、藤原北家の藤原良房と藤原良相兄弟の陰謀により、1歳で立太子し、31歳で死去した清和天皇の子、生後3ヶ月で立太子し、9歳で譲位をうけた陽成天皇の「陽成源氏」でなければならないという。
そして、鎌倉幕府を拓いたとする、清和源氏の棟梁の源頼朝の肖像画が、本人ではなく、室町時代の足利直義像であることから、藤原日本史が描く源頼朝の人物像が謎だという。
すると、南北朝に突然歴史上に現れた、室町幕府を拓いた「足利氏」の出自も謎だ。それは、足利氏は、「清和源氏」出自とするからだ。
藤原日本史の鎌倉時代の謎は、それだけではなかった。幕府の警察力が、寺社に及ばないことだ。その治外法権の寺社には、供御人、寄人、神人など出自不詳の奴隷が存在していた、とする。しかし、田辺説では、その寺奴隷は、奴隷などではなく、同業者組合の構成員で、寺社を拠点てしてモンゴル帝国のイスラーム国際商人と国際交易をしていた騎馬民族末裔だ、とする。
鎌倉時代の貧民を、浄土思想で救済したとする鎌倉新仏教僧の存在も、田辺説では、ウソだと言う。その鎌倉新仏教僧は、貧民を救済していたのではなく、その逆で、モンゴル帝国のイスラーム国際商人との交易で潤う東国の騎馬民族末裔に「寄生」していた、とする。勿論、妻帯肉食の破戒僧、親鸞の存在も否定だ。
更に、藤原日本史では、鎌倉時代は、御恩と奉公の、武士ではなく、「武家の時代」だ、という。御恩とは、所領支配を保障すること、或いは、新たに土地給与を行うこと、とする。しかし、田辺説では、鎌倉幕府が存在した関東は、古墳時代から騎馬民族の支配地だったので、軍事・警察力の脆弱な鎌倉幕府に、所領を保障されても、何の保障にもならないとする。
その何の保障もない御恩に対しての奉公とは、鎌倉幕府の緊急時に、騎馬を疾走させて軍役・警備にあたることだ、とする。しかし、関東各地から鎌倉への騎馬が疾走できる軍事道路は、鎌倉時代には存在していない。現在に残る鎌倉街道は、細く曲がりくねっている。その鎌倉幕府の地に到達するには、要所を禅寺に警護された細く曲がりくねった切通しを通過しなければならない。
藤原日本史では、モンゴル帝国による元寇の来襲を述べている。しかし、田辺説では、その二度の「元寇」は、実際は、高麗と南宋国の王族・貴族の亡命大船団だという。この「元寇」以降、日本海沿岸には、多くの異民族が渡来していた。日本海沿岸の村では、隣村との会話が困難なほど、方言や文化が異なっているのは、各異民族船団の渡来によるからだ。
田辺説で、藤原日本史と百八十度異なることは、「悪党」の説明だ。悪党とは、悪い人の集団ではなく、勇者の集団だとする。そして、その悪党とは、現在での警備会社のように、警護を依頼されると、派手な衣装に弓と槍で武装した騎馬武者だとする。鎌倉時代は、国全体を武力で護る律令軍が崩壊していたため、治安が悪いため、金銭取立ての高利貸しの僧侶と、高価な物品をもたらすイスラームの国際商人が、警護依頼主だとする。
そういえば、南北朝で活躍した楠正成も、悪党と云われていた。すると、南北朝に突然現れた足利尊氏も新田義貞も、悪党だったのか。
そんなことを脈略もなく考えている時、パソコンのメール着信が鳴った。急いで、ソファアから飛び起きると、ハソコンを開いて、メールをプリントアウトした。
田辺さんのレポートの概要は、以下のようだ。

室町時代と云うのは、1378年第三代将軍足利義満が、幕府を、平安京大内裏跡の北上の花の御所、室町に移転したからだ。足利義満が、平安時代にかって大内裏があった広い畑の空間を避けたのは、足利氏は、古墳時代の秦氏の祭祀場であった、前方後円墳の跡地の歴史を知っていたからか。
その室町時代は、その花の御所の南下にある大内裏跡に、石仏像や地蔵を破壊して石材として、二条御所を再建した織田信長により、第十五代将軍足利義昭が京都から追放されることにより終焉した。賎民余部(海部)を祖にもつ織田信長は、反仏教派であり、反神道派であった。
花の御所に幕府を移転した足利義満は、明皇帝から「日本国王源道義」の封号を与えられ、日本国王に冊封されたのは、明皇帝は、足利氏を「源」つまり、チュルク系騎馬民族末裔と考えていたからか。中国では、漢姓「源」は、チュルク系騎馬民族拓跋部の支配民族であった禿髪氏を祖とするからだ。
室町時代を経済から眺めると、そこには鎌倉時代と異なる民族が現れる。経済活動の道具として、貨幣がある。平安時代から鎌倉時代中期まで、貨幣は銅銭の宋銭が使われていた。しかし、鎌倉時代中期になると、その銅銭と供に、銀が貨幣として使われていた。しかし、室町時代になると、銅銭の明銭が使われるのだ。何故、鎌倉時代中期から室町幕府が拓かれる前まで、銀が貨幣として使われていたのか。
世界歴史上、貨幣として使われていたのは、金、銀、銅だ。金本位制の流れは、紀元前1世紀ローマ帝国から1204年東ローマ帝国(ビザンチン帝国)までだ。銀本位制の流れは、紀元前6世紀古代ペルシャを端に発するイラン文明国からだ。その金本位制と銀本位制の流れは、紀元6世紀に興ったイスラーム中東世界で合流した。
では、中華地域では、何が貨幣として使用されていたのか。それは、円形、方孔の銅銭だ。中華地域では、金や銀は貨幣としてではなく、装飾用として使われていた。
日本列島の古墳時代初期には、鉄が貨幣として使われていた。
ユーラシア大陸では、騎馬民族は貨幣として銀使用を主体に、金・銅使用が付随した状態に置かれていた。
モンゴル帝国が、1271年興る前、ユーラシアと北アフリカを見渡すと、ほぼ銀が第一の交換手段か価値基準の算定基準となっていた。銀が、モンゴル帝国の基準通貨となったのは、その経済運営には、中華民族ではなく、国際商業勢力としてのウイグルとイスラームが参加していたからだ。
ウイグルとは、チュルク系東突厥を、744年滅ぼした国だが、その国民の多くにはチュルク系騎馬民族がいた。当然、ウイグルには、日本列島の明日香ヤマトを支配していたチュルク系騎馬民族である突厥の国際商人末裔がいた。
イスラームの商人は、ペルシャ語を話すイラン系で、古墳時代の国際交易商人であるソグド商人の伝統を引き継いでいた。
モンゴル帝国時代とは、日本列島では、鎌倉時代中期から南北朝時代までだ。この時代に、日本列島では、銅銭に加えて、銀が貨幣として使用されていた。このことは、銀を貨幣とするウイグルとイスラーム国際商人の、日本列島渡来が示唆される。
モンゴル帝国が興る以前、ウイグルとイスラームの国際商人とは、資金を出し合い、大型資金をつくり、団体で各種の経済活動をしていた。この経済活動を、チュルク語で、「オルトク」、と言う。そのオルトクの実態は、座、組合、会社、企業、と同じだ。このチュルク語のオルトクは、ペルシャ語にもなっていることから、チュルク系商人は、古くからオルトクを行っていたことを示唆する。
鎌倉時代に、寺社を中心に全国各地に短期間に、「座」ネットワークが拓かれていたのは、その陰には、モンゴル帝国から渡来した、ウイグルやイスラームの国際商人の存在が示唆される。鎌倉時代、その日本全国をネットワークした座の存在を、室町幕府では、禅宗文化と武力での壊滅を目指していた。
室町時代とは、騎馬民族文化を支援する足利氏と、藤原氏の流れにある「日野のおんな」を娶らされた禅文化を支援する足利氏との、激突の時代だった。足利氏とは、単一王族ではなく、騎馬民族と同じに、多くの足利氏による部族連合体であった。
鎌倉時代、猿楽として貶められていた秦氏の芸が、京都の前方後円墳跡を避け、花の御所を拓いた足利義満の時代になると、その芸能者の観阿弥・世阿弥親父子は、寵愛された。
猿楽とは、平安時代以前、秦氏が前方後円墳の祭祀場で行っていた、ギリシャ仮面劇を祖とする。秦氏の出自は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅であったので、その秦氏の文化には、ギリシャ文化が流れていた。奈良時代712年ではなく、平安時代812年「古事記」を著わした、万葉語学者の多人長も、秦氏末裔だった。
「古事記」の神話は、720年「日本書記」のウソ物語を否定するため創作した日本神話の素材も、ギリシャ神話であった。多くのひとは、「古事記」は、「日本書記」以前に編纂された、と信じているようだが、「古事記」の記述は、「日本書記」の「ある書に曰く」の文章になぞられている。一般的に、万葉語記述の「古事記」は国内向けで、漢語記述の「日本書記」は海外向けと云われているが、「日本書記」無くして、「古事記」は存在しない。
平安時代、百済系桓武天皇家により、秦氏の芸は、秦楽(しんがく)→申楽(しんがく=さるがく)→猿楽と蔑称されていた。
藤原氏の流れにある三条公忠は、その著書「後愚昧記」で、乞食の芸である猿楽を行う者が、将軍と一つ桟敷で盃を交わすとは、もってのほかだと述べている。この日記の背景は、世阿弥が、足利義満と、秦氏末裔の篤志家が金銭的に援助していた祇園会の鉾を見物していたからだ。
足利氏も、第三代将軍までは、親秦氏だった。しかし、1408年世阿弥の最大の庇護者であった第三代将軍足利義満が死去し、1428年第六代将軍足利義教の時代になると、反秦氏となり、世阿弥の醍醐流滝宮の楽頭職が奪われ、1434年には世阿弥は、佐渡に流されてしまった。
では、何故、乞食の芸をおこなう世阿弥が、1392年南北朝を統一した三代将軍足利義満と、天皇家や京の貴族がその祭りの日に京都を脱出する神輿違えをおこなう、祇園会の鉾を見物できたのだろうか。
その謎解きのヒントは、世阿弥の「阿弥」文字にある。世阿弥の実名は、元清。世阿弥は、通称だ。では、その阿弥とは何か。鎌倉時代から、○阿弥、○○阿弥と通称する人物が多く登場する。その阿弥号を持つ人物は、藤原氏や亡命百済貴族末裔から蔑視されていた。
阿弥とは、インドでは「アミダーバ」で、古代エジプトでは「アトン神」で、太陽神のことだ。藤原日本史では、阿弥陀仏として、「仏」としているが、騎馬民族や太陽信仰民族では、阿弥号は太陽信仰民族であることをアピールする手段だ。
モンゴル帝国は、フビライの時代、国と国との交易ではなく、民間による自由貿易を奨励していた。それは、イスラム系のムスリムとチュルク系騎馬民族のウイグル国際商人が、モンゴル帝国の経済活動を支配していたからだ。
そのモンゴル帝国の国際商人が、銀を基本通貨として、日本列島の資源、絹、砂金、銀、水銀、真珠、医薬品など等を買い入れ、そして、モンゴル帝国からの陶器や書画骨董を売りさばいていたのだ。
モンゴル帝国の税制は、農民から税を集める農本主義ではなく、商業活動に税をかける重商主義なので、他国の土地支配は本来の目的ではない。モンゴル帝国の経済政策は、中央政府の歳入の八割近くが「塩引」の塩の引き換え券の売却によるものだ。そして、一割が商税であった。つまり、モンゴル帝国の経済は、大型間接税により賄われていた。
その間接税を増大させるには、各国でおこなわれていた通過税を撤廃させて、国際交易商人が地の果てまで、交易をおこなうことが出来るようにすることだ。
フビライの時代、各国にあった通行税は撤廃され、ヨーロッパと中国大陸、ユーラシア大陸は、ひとつの市場となり、国際交易商人がモンゴル帝国軍に守られて、地の果てまで行き来した。勿論、鎌倉時代の日本列島にも、国際交易商人が訪れていた。
しかし、フビライの時代が過ぎると、莫大な利益を得ることが出来る「塩引」の引き換え券の他に、闇で塩取引が可能な「私塩」が盛んになってきた。
軍事力が強力な時代では、その闇業者を武力で制圧できたが、国力が衰え、軍事警察力が衰えると、闇商人達は結束して秘密結社により、モンゴル帝国政府に対抗した。そのひとつが、1351年紅巾賊の興隆だ。1368年秘密結社の支配者である朱元樟は、モンゴル帝国を壊滅し、明帝と称した。
1341年塩の闇商人達による、モンゴル帝国での反乱が起こると、モンゴル帝国から日本列島に亡命する禅僧が多くなった。それは、モンゴル帝国と日本列島との国際交易には、禅僧が多数参加していたからだ。その背景は、モンゴル帝国の海洋国際交易システムは、1279年モンゴル帝国に滅ぼされた南宋国の海洋国際交易システムそのものだったからだ。
その軍事警察力が衰えたモンゴル帝国は、アウトローの闇取引を武力で制圧することが困難となっていた。そのためのひとつの政策が、自由貿易の禁止だ。モンゴル帝国と日本列島を自由に行き来していた交易船団は、モンゴル帝国にも日本列島にも母港をもてなかった。この頃現れたのが、「倭寇」という海賊だ。倭寇は、モンゴル帝国の自由貿易から弾き飛ばされた国際海洋交易民だった。
北条鎌倉幕府の税制が、どのようなものであったかの史料が無いように、南北朝の税制も謎だった。それは、藤原氏末裔の「日記」に記載されていないからだ。
室町時代になると、その幕府財政がどのようなものであったか史料で推測できる。
1322年後醍醐天皇は、神人に課税する目的で、洛中の「神人公事停止令」の法を発した。公事とは、寺社が神人から取っていた運上金のことだ。しかし、寺社勢力により、この令は無視された。
鎌倉時代末期には、市場経済の主役は、貴族などではなく、藤原日本史では賎民といわれていた神人だったのだ。それは、盗賊団の中に、多くの貴族が属していたことからも分かる。貴族が経済的に疲弊していたのなら、天皇家も経済破綻状態だった。1352年北朝の後光厳天皇の即位式の費用は、高利貸しである酒屋からの借金で賄われていた。勿論、その借金は返済など無く、踏み倒しだ。
1371年その北朝の後光厳天皇の息子である後円融の即位式も、質素なものであった。奈良時代に、藤原不比等が、藤原の女を天皇に娶らさせる手段としての五節の舞の踊り子も、5名ではなく2名であった。
では、その後円融天皇と同年代生まれの、三代将軍足利義満の経済状態はどのようなものだったのか。
1397年足利義満は、金張りの鹿苑寺(金閣寺)を創建したのは有名であるが、賀茂川と高野川が合流する西側に、高さ約110mの大塔を建設していたことは、藤原日本史では述べてはいない。
更に、平安時代、百済系桓武天皇が、秦氏の支配地にあった巨大前方後円墳を破壊した跡に、大内裏を建設したが、秦氏の神の怨霊を恐れて、鎌倉時代には、その大内裏は跡形も無く、畑と化していた。足利義満は、その大内裏跡を避けるように、荒廃していた北側一帯を大土木建設事業により、花の御所を建設し、1378年足利義満は、室町新第に移った。
では、天皇家や貴族が経済的に破綻状態にある時代に、足利義満による、それらの大土木建設事業資金は、どのようにして調達していたのか。そこに現れるのが、藤原氏や亡命百済貴族末裔から乞食と称されていた「阿弥」号を持つ一団だ。
1368年モンゴル帝国は滅び、明帝国が興った。明帝国の洪武帝は、モンゴル帝国末期に行われた日本列島との自由貿易禁止を強化していく。
明帝国の洪武帝は、周辺諸国に対して、明帝国の冊封下に入り、倭寇禁圧を求める使者を度々発していた。日本列島では、その要請を受諾したのが、当時、足利氏の北朝と対立してした南朝方として九州を制圧していた、後醍醐天皇の息子、懐良親王だった。このことにより、懐良親王は、明帝国に対しての「日本国王」となった。
1372年明帝国から、日本国王冊封を認める使者が到来した時には、日明外交の博多津は、北朝側が制圧していた。足利義満は、明帝国の使者を送り返すとともに使者を派遣し、足利義満を「日本国王」に認めるように要請したが、明帝国はそれを認めなかった。あくまで、懐良親王を「日本国王」とした。
1380年足利義満は、「征夷将軍源義満」名義で日明通交を要請したが、明帝国はこれを認めなかった。1387年足利義満は、「日本国王懐良」名義で、明帝国との交易を図った。なりふりかまわずの足利義満の日明交易にたいする行動の背景には、モンゴル帝国時代の自由貿易では、日本列島で産出する絹製品は、中国大陸では莫大な富をもたらしていたからだ。足利氏の支配地である北関東は、シルクロードの東限であった。
この足利義満による、日明交易の開始に携わっていたのが、祖阿弥、相阿弥などの「阿弥」号を持つ民だった。この日明交易の貿易利潤については、阿弥号を持つ民により管理されていた。
1406年に明帝国から帰国した遣明船には金阿弥が乗船していた。その弟である式阿弥は、「北山殿ノ御倉預」と呼ばれていた。鎌倉時代中期から室町時代初期までの、阿弥号を持つ民は、藤原氏の「日記」にあるように、乞食などではなく、金持ちの国際交易民であった。このことから、モンゴル帝国の自由貿易時代、日本列島では鎌倉時代中期から、東国の遊行する貧民を「南無阿弥陀仏」の呪文で救っていたとする、鎌倉新仏教物語の信憑性が疑われる。
能の中興の祖とされる観阿弥・世阿弥が、足利義満に寵愛された理由が、その「阿弥」号にあることが分かる。足利義満の経済基盤を賄う阿弥号を持つ民は、国際海洋交易の民であったからだ。
では、その三代将軍足利義満の寵愛を受けた世阿弥が、六代将軍足利義教により、佐渡に島流しされたのは、何故か。その謎解きのヒントは、1402年世阿弥による「風姿花伝」にある。
世阿弥は、日本列島の歴史を改竄した藤原氏や亡命百済貴族末裔には、危険人物であった。それは、「風姿花伝」の序を読めば分かる。

それ、申楽延年のことわざ、その源を尋ぬるに、あるいは仏在所より起こり、あるいは神代より伝はるといへども、時移り、代隔たりぬれば、その風をまなぶ、力及びがたし、近比万人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝に仰せて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号せしより以来、代々の人、風月の景を仮つて、この遊びのなかだちとせり、その後、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。よつて和州・江州のともがら、両社の神事に随ふこと、今盛んなり。

世阿弥は、藤原日本史では、「猿楽」と述べているのに、「風姿花伝」では、「申楽」と述べている。世阿弥は、「申」の文字により、「しん楽=秦楽」と暗示した。更に、申楽の祖を、秦河勝としている。秦河勝は、古墳時代(藤原日本史では飛鳥時代)の山背国(平安時代に山城国に改竄)の祭祀者だった。その祭祀者が、秦楽の祖であると、「風姿花伝」で述べている。
この「風姿花伝」が、藤原氏や亡命百済貴族末裔から焚書されないために、推古天皇や聖徳太子などの、藤原氏や亡命百済貴族末裔が「仏教黎明期の飛鳥時代」を創作するために発明した、架空人物を登場させている。
更に、藤原氏の、ユダヤ教に酷似した儀式で神を祀る、奈良時代に創建された春日社や、平安時代に、亡命百済貴族が中国山東半島から導入したシャンワン(山王)神を祀る日吉社を登場させている。7世紀に、西国では終焉した古墳時代では、春日社の三笠山や、日吉社の比叡山の地は、牡牛を屠る儀式を持つ、太陽信仰民族である秦氏の祭祀場だった。
では、秦氏は、祭祀場で、どのような儀式をおこなっていたのか。雨乞いの儀式を歴史的に辿ると、その儀式の様子が、かすかに分かる。
旱魃は、農耕民だけではなく、家畜と暮らす遊牧民にも、最悪の事態だ。その雨乞いの手順を、室町時代から古墳時代まで遡ると、

1、室町時代。神道では、神前で能などの芸能を奉納し、神を楽しませて雨を呼ぶ。仏教では、護摩を焚き、加持祈祷を行う。
2、平安時代から鎌倉時代。それでも雨が降らなければ、山伏(漢訳仏教軍団により山へ追われた武士)が、雨乞いの祈祷を捧げる。武士の祖は、剣舞で怨霊を鎮める武芸者で、祭祀者だったからだ。
3、古墳時代。それでもだめだった場合、滝壺に牛頭を投げ込み、雨乞いをする。

741年の奈良時代から、804年の平安時代にかけて、牛屠殺禁止令がだされていた。それは、古墳時代から行われていた、太陽信仰民族の儀式を禁止するためだ。
その儀式の意味は、牡牛は、太陽神の化身であるからだ。太陽神は、冬至に死に、そこから再生する不死身の神だ。太陽の死(冬至)の日は、太陽神の復活の日である。そこで、太陽神の化身である牡牛を屠ることにより、人工的に太陽神の復活を願うのだ。牡牛の屠殺儀式は、太陽神の復活の儀式だった。
古墳時代の秦河勝の山背国の寺は、蜂丘寺と呼ばれ、太陽神ミトラを祀る景教の寺だ。それを、藤原日本史では、新羅から渡来した弥勒菩薩を安置し、そして、摩多羅神による牛祀りを開催する「広隆寺」と改竄している。ギリシャ・ローマ文化の古代新羅が、漢訳仏教を受け入れた(漢訳仏教軍団の進駐)のは、528年だ。527年から528年の北九州動乱、藤原日本史では筑紫国造磐井の反乱、とは古代新羅王朝の北九州亡命騒動のことだ。
藤原日本史の飛鳥時代のウソは、538年(552年説あり)百済の聖王が仏像及び経論を、欽明天皇に献じたとすることだ。そのウソは、その時代は、明日香ヤマトは、突厥進駐軍の騎馬民族が支配した、古墳時代だからだ。
古墳文化と漢訳仏教文化は、その埋葬方法で対立する。
古墳文化では、主役は死者だ。だから、死者は、騎馬民族文化では再生すると信じられていたため、生前の生活用品を古墳に納める。騎馬民族にとって、古墳は、死者の土の家だ。つまり、土+家=塚だ。
それに対して、紀元一世紀、ギリシャ文化を継承した、秦帝国の母国である元バクトリアの地、ガンダーラで発明されたギリシャ文化を基に発明された大乗仏教は、中国大陸へ東進するうちに、肉食する遊牧民族を蔑視する思想を持つ、菜食主義のバラモン教やヒンズー教の埋葬思想を取り入れ、藤原日本史ではサンスクリット経典と述べているが、ギリシャ語経典から漢訳経典に改竄し、そのギリシャ語の原典を焚書し、漢訳仏教へと変身した。因みに、現存するサンスクリット語経典は、7世紀に漢訳経典から復元されたものだ。
その漢訳仏教思想では、死者は穢れているとするのだ。そのため、死者の穢れを祓うため、死者を燃やしてしまう。つまり、死者は、火に浄化され、浄物(成仏)となるのだ。
すると、藤原日本史で述べているように、天皇家の神を祀るとする中臣神道も、死を穢れとするから、古墳時代には、まだ発明されてはいないことになる。これにより、藤原日本史の飛鳥時代、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との、父子の二度にわたる神仏戦争も、ウソとなる。
この蘇我氏対物部氏による神仏戦争物語は、6世紀、河内湖の水を上町台地を縦断する大運河を古代エジプトの高度土木技術で掘削し大阪湾に流し、河内平野として支配していた、太陽神信仰民族のギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来の、円墳墓制の「花郎騎士団」と、そして、ユーラシア大陸からリマン・対馬海流により北陸に上陸し、明日香ヤマトに進駐した、北極星を祀る道教思想を持つ、東ローマ帝国と絹馬交易をおこなっていた、方墳墓制の「突厥進駐軍」との戦いの史実を改竄するために、奈良時代に藤原不比等により創作されたものだ。
日本列島で、最初に火葬された天皇は、697年漢訳仏教文化の百済の血の流れにある女帝持統天皇だ。その前の天皇、日本列島初の天皇である、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の流れにある、天武天皇は、686年古墳に生前の姿のまま埋葬された。
「風姿花伝」を著わした世阿弥は、室町時代のひとだ。その著書で申楽の祖を秦河勝とするそのひとは、古墳時代だ。その間、奈良時代、平安時代、鎌倉時代の約700年間がある。その長期間、古墳時代のギリシャ仮面劇を継承していた秦楽は、誰により伝承されていたのか。
世阿弥の本名は、観世三郎元清だ。その父観阿弥は観世三郎清次だ。その父子に共通する「清」とは、「清め」を意味する。「清め」とは、現在では葬式の後に「塩」を振り撒く「キヨメ」を思いおこすが、古代日本列島では、「怨霊」の御霊鎮めのことだ。
その「清め」を意味する「清」は、世阿弥の子から消えて、観世流で「清」の字が復活するのは、江戸時代の11世重清の時だ。
佐渡に島流しにあった世阿弥の血の流れには、四代将軍足利義持が消さねばならないものがあったようだ。因みに、足利義持には、亡命百済貴族の庇護を受けていた天台宗の流れにある母がいた。
世阿弥が佐渡に流された後、世阿弥の後を継いだ次男元能は、伊勢安濃の津で急死したと伝わっているが、「伊賀観世の系図」によれば、禅宗を庇護する足利家の家来斯波兵衛三郎に殺された、とある。更に、この系図によれば、世阿弥の父観阿弥の母は、悪党の楠木正成の妹とある。
その観阿弥・世阿弥父子の猿楽は、奈良豆比古神社(モリ)の支配下にあった。この奈良豆比古神社(モリ)には、曰くがあるらしく、古代から近世を通じて、「春日社」と云うひともいれば、「八幡社」(「はちまん」ではなく「やはた」)と云うひともいた。
春日社とは、藤原氏の神アマテラスオオミカミを祀る社だ。そして、八幡社とは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の神を祀る社だ。どちらが古いかは、「春日社」は奈良時代の創建で、「八幡社」は古墳時代の神を祀るから、一目瞭然だ。
では、世阿弥が、申楽から開発した「能」とは、何なのか。現代に伝わる能楽堂でおこなわれる「能」は、世阿弥が開発したものではないようだ。
それは、観阿弥・世阿弥父子の活躍した時代を境にして、世阿弥が佐渡に流され、そして、次男が足利家に殺された時代を境にして、観世座、大和四座、近江・丹波猿楽等は、禅宗を庇護する足利家が支配する武家の後援を得て、士分化の道を歩んだ。
その士分化した能楽師は、能楽興行の独占でもって、声聞師の猿楽能を弾圧した。観阿弥・世阿弥父子の時代の猿楽は、声聞師の能面を着ける猿楽とそれほどの差はなかった。
では、士分化した能楽師に弾圧された声聞師とは、何者か。声聞師とは、千秋万歳、曲舞、金皷打ちといった呪術的な芸能に従事する者の名称だ。身分としては、寺社の寄人だ。
鎌倉時代中期の成立とされる「名語記」によれば、散所ノ乞食法師が正月に千秋万歳として様々ノ祝言を述べている、とある。散所者とは、声聞師のことだ。散所とは、亡命百済貴族が支配した平安時代、陸奥国の砂金を簒奪するための唐進駐軍に敗れた、古墳時代の明日香ヤマトを支配していた花郎騎士団と突厥進駐軍の捕虜が、陸奥国から西国に捕虜として連行され、そして、押し込めた捕虜収容所のことだ。
では、何故、捕虜収容所の乞食とされる者が、正月に様々な祝言など述べるのか。
藤原日本史によれば、日本列島古来の神は、国つ神と呼ばれる。そして、渡来の神は、天つ神と呼ばれている。その国つ神とは、天つ神を祀る大和朝廷に滅ぼされた民の神であるとする。
秦氏末裔の多人長が、平安時代に著わした「古事記」の「崇神天皇」の条に、三輪山に大物主神を祀らせただけではなく、坂の上をつかさどる神や川の瀬の神に至るまで祀らせた、とある。これらの神が、国つ神だ。
天つ神を祀る民族(藤原氏)の明日香ヤマトへの出現は、神代の高天原から降臨した天孫族の昔からではなく、645年だ。すると、この時代は西国では古墳時代だから、天つ神軍団に敗れた、国つ神軍団は、仏教徒でも中臣神道派でもないことになる。
そこで、この謎を解く鍵が、世阿弥が著わした「風姿花伝」の「序」にあることがわかる。それは、「かの河勝の遠孫、この芸を相次ぎて、春日、日吉の神職たり」、だ。天つ神を祀る春日も日吉も、古墳時代では国つ神の祭祀場だったからだ。
猿楽(秦楽)とは、怨霊に己の姿を知らせるために、ひとの世の栄枯盛衰の歴史を、無言仮面劇での舞踏と楽曲にて演じ、怨霊の御霊を鎮めることだ。つまり、理不尽にも、天つ神軍団に破れた国つ神の怒りを、国つ神の子孫の芸で鎮めたのだ。
国つ神を祀る、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅系天武天皇の子孫が存命中の奈良時代、国つ神の怒りを鎮める芸である散楽は、散楽戸を設けて散楽生を養成していたが、亡命百済貴族の流れにある桓武天皇の延暦元年(782年)散楽戸が廃止された。その結果、散楽者は名目上大寺社に属して、祭礼などのおり、貴族の援助の下、芸を演じていた。芸とは、神を喜ばすための舞踏や楽曲を奏でることだ。
反藤原氏の嵯峨源氏や醍醐源氏を廟堂から、数々の陰謀で排斥した藤原氏は、傀儡天皇である一条天皇の長保4年(1002年)、奈良時代に藤原不比等が発明した藤原氏の神アマテラスオオミカミを祀る御殿の神座、内侍所の前庭で12月吉日に奏せられる神前神楽を、御神楽と定めた。そして、奈良時代から伝わる神楽を、里神楽とした。御神楽は、神代の昔からのものではなく、平安時代に藤原氏により発明されたものだ。
その里神楽には、古墳時代の秦楽の名残があった。それらは、ギリシャ仮面劇を髣髴させるような、仮面を着けて黙劇風の神話や神社(モリ)の由来を舞うものや、牡牛を屠るミトラ教儀式を髣髴させるような、獅子頭を以って悪魔払いをする「芸」もあった。
律令制度が崩壊した平安時代後期になると、天皇家も貴族も経済的に破綻していたため、散楽者は、名目上属していた大寺社に隷属する立場となり、無料奉仕する代わりに課税の免除を得て、一般人に「芸」を売る者となっていった。このことにより、藤原氏は、芸能者を河原乞食と言っていた。
ヨーロッパとアジア全土を自由交易の場とする、騎馬民族が支配するモンゴル帝国の時代になると、鎌倉時代の日本列島にも、騎馬民族か発明した資本主義形態である「オルトク」が、「座」となつて、カルテルを組織して、同業者による排他的独占継体を樹立した。「芸」を売り物とする集団も、「座」の体制を確立していた。
モンゴル帝国が、1368年滅ぶと、世界的自由交易が終焉した。勿論、日本列島もその例外ではない。モンゴル帝国との自由交易で潤っていた、日本列島各地でカルテルを結んでいた「座」も、衰退していた。
三代将軍足利義満の時代、「阿弥」一族による、日明交易により復活した「座」も、1408年足利義満が死去し、四代将軍足利義持の時代になると、阿弥一族が活躍していた日明交易は廃止された。
「大乗院寺社雑事記」の寛正4年(1463年)の条に、五ヶ所十座の声聞師は、猿楽、アルキ白拍子、アルキ御子、金タタキ、鉢タタキ、アルキ横行、猿飼を支配する、とある。その猿楽には、観世座、大和四座猿楽も含まれる。
呪術者としての声聞師の姿は、六波羅密寺の空也像から偲ばれる。その空也像は、身に皮衣をまとい、鹿の角を付けた杖を持ち、金鼓を打って念仏をすすめて歩く姿を伝えている。
この姿は、何を意味しているのか。殺生禁止・血の禁忌を持つ仏教思想では、獣の皮は「穢れて」いるとする。その穢れている獣の衣を、空也が着ているのは、何故か。そして、杖に鹿の角を付けているのは、何を意味しているのか。空也は、藤原日本史で述べているように、本当の仏教僧なのか疑問が湧く。
騎馬民族は、馬や牛、そして、鹿の皮を利用して、武具や日常製品を作っている。すると、空也は、騎馬民族にその姿をアピールしていたようだ。その根拠のひとつとして、鹿は、騎馬民族の祖、スキタイの聖獣だからだ。
そして、その空也像の口から、「南無阿弥陀仏」の六字の名号が発せられている、とする。「わたしは、仏であるアミさまを信じます。」の意味だ。しかし、この呪文には、腑に落ちないものがある。
「阿弥」とは、太陽神アミダーバ(アトン神・ミトラ神)のことだ。すると、「南無阿弥陀仏」の呪文に、疑問が湧く。それは、「阿弥」とは、太陽神のことだからだ。
古墳時代末期に日本列島の明日香ヤマトに、唐進駐軍と供に侵攻してきた漢訳仏教軍団は、明日香ヤマトを支配していた肉食する騎馬民族、太陽神信仰民族を敵として、明日香ヤマトから駆逐した。
713年漢字二文字で地名・人名を表記させる「好字令」により、騎馬民族が支配していた「明日香」は、仏教文化の「飛鳥」に改名された。
明日香ヤマトを支配した唐進駐軍は、686年百済の血が流れる女帝持統天皇(日本初の仏教式火葬された天皇)の傀儡政権を樹立し、684年唐の皇后武氏が政権を乗っ取り、690年皇后武氏を漢訳仏教勢力が則天武后としたように、漢訳仏教を思想武器とした。この持統天皇誕生と前後して、唐の通訳(籐史・とうのふひと→藤原不比等)が、歴史上に登場した。
唐進駐軍の下、漢訳仏教勢力は、騎馬民族の文化・思想を抹殺するために、太陽神ミトラを弥勒菩薩と改竄したり、そして、反藤原氏となった聖武天皇が太陽神信仰民族の祭祀場である三笠山に鋳造した、太陽神のミトラ像(遍照鬼・鬼とは仏教の敵神)を、平安時代になると遣唐使船を運営していた藤原氏の陰謀により唐に留学した錬金術師空海が、その遍照鬼を「大日如来」の奈良大仏像として改竄した。
「仏」は、太陽神ではない。だから、その「南無阿弥陀仏」の呪文は矛盾をはらむ。その呪文「南無阿弥+陀仏」は、何かの意図を持って、室町時代に「創作」されたようだ。
平安時代、賎民に向かって「南無阿弥」を唱えて遊行していたとする空也の流れを汲む、鎌倉時代の僧形の肉食・妻帯する者達は、太陽神信仰民族にアピールするために、国際海洋交易を行っていた阿弥一族に向かって、「南無阿弥」とだけ唱えていたのだろう。
阿弥一族が国際交易で活躍していた鎌倉時代、そのような姿で、モンゴル帝国との自由交易で潤う、騎馬民族末裔の阿弥一族が支配していた「座」のある都市を訪ねていたのは、仏教思想を広めるためではないだろう。
室町三代将軍足利義満の死後、世阿弥が開発した「能」と同じく、110mを越える大塔や、金箔貼りの鹿苑寺の建立資金を足利義満に提供した阿弥一族の「座」も、抹殺されていた。
藤原日本史では、1571年織田信長が日本列島の金融や流通を支配していた比叡山延暦寺を焼き討ちしたことにより、「楽市楽座」となった、と述べている。しかし、鎌倉時代に発生した「座」は、実際は、室町時代には衰退していた。
では、何故、室町時代初期までは、あれほど盛況だった「座」を、足利義満の死後、どのような組織が、衰退させたのか。
座商人(神人)が、寺社に付属していたのは、寺社の権威をかりて課税免除を得て商売をするためだ。その寺社に付属していた座商人の多くは、天皇家の輿を担ぐ駕輿丁(かよちょう)となり、課税を免除され、身分を兼帯していた者もいた。つまり、座商人でもあり、駕輿丁でもあった。駕輿丁は、その特権を生かして、各種の商売をおこなっていた。
寺社に付属するのと、天皇家や公家に付属するのと比べれば、どちらが商売上有利かは、祇園社の綿座神人が、鎌倉時代初期に南インドとの南海貿易基地である北九州の島津荘を取り上げられ、そして、砂金の産地を代理支配していた奥州藤原氏を滅亡させられたことにより、鎌倉末期には衰退していた藤原氏が復活し、天皇家の祭祀儀式が復活し始めた15世紀初頭には、ひとりしか存在していなかったことで分かる。
室町時代、座が衰退したのは、駕輿丁の存在だけではない。
足利尊氏が、後醍醐天皇を吉野に追い遣り、武家の政権を京都に樹立すると、その後を継いだ、二代目将軍足利義詮が執政すると、畿内近国の守護在京が進んだ。
三代目将軍足利義満の時代、明国との交易を行っていた阿弥一族の資金提供により、廃墟となっていた平安京の大内裏北上に花の御所を建設したことにより、南北朝の動乱で荒れ果てていた京の街は、賑わいを取り戻した。
しかし、足利義満の死後、四代目将軍足利義持になると、日明交易も廃止され、高度土木建設時代に造られた花の御所も、政治の中心ではなくなっていく。そして、モンゴル帝国時代に日本とモンゴル帝国を国際交易のため行き来していた禅僧も、塩密売の秘密結社棟梁の洪武帝が明国を興すと、明国を追われた。
中国大陸の庶民には、豚肉を常食するため、肉食を蔑視する菜食主義のバラモン教やヒンズー教の影響を強く受けた漢訳仏教や禅宗の思想・生活は受け入れられない下地があったからだ。
皮肉にも、南宋を滅ぼした、騎馬民族が支配していたモンゴル帝国時代では、禅宗や儒教などが盛んとなっていた。しかし、モンゴル帝国を倒した明国が、禅宗を弾圧し、儒教を受け入れた結果、そして、自由貿易を禁止した結果、多くの禅僧が、室町時代初期に、日本列島に亡命して来た。中国大陸の禅僧は、鎌倉時代にその拠点を東国に築いていたからだ。
中国大陸で発明された、ヒンズー教のヨーガと漢訳仏教の要素を含む、菜食主義の禅宗は、不思議な宗教だ。中世の宗教には、その宗教の思想根源とする「経典」と、その宗教の象徴としての「本尊」が存在していた。しかし、禅宗には、「経典」も「本尊」も存在しない。只、座り、悟りを得ると証して、瞑想するのみだ。
江戸時代になると、「座禅」だけでは禅寺経営が成り立たないため、「阿弥陀経」や「阿弥陀如来」を導入していた「禅寺」も存在していたが、鎌倉時代から室町時代までの禅宗には、「経典」も「本尊」も存在していないのだ。
その禅寺が、三代将軍足利義満が没し、四代将軍足利義持の時代になると、在京守護の国に創建されて行く。すると、京都と在京守護の国との交通が盛んとなって行く。それは、禅僧の中には、「唐物」の陶器・書画骨董を商う者がいたからだ。
この守護と禅僧の交通路に、神人(座商人)と異なる商人集団が現れた。それが、大山崎油商人集団だ。
中世の商業活動の中心は、比叡山延暦寺だ。その商業活動の中心は、神人・寄人などと呼ばれていた有髪の下級僧侶(?)だ。鎌倉時代では、比叡山延暦寺に所属する、その下級僧侶達は、全国の自由交易を行う商業都市に派遣され、各地で高利貸しを行い、そして、悪党(騎馬武者・日本刀で武装していたガードマン)の武力背景による債権取立をおこなっていただけではなく、さまざまな地方商品を仕入れ、それらを各地に販売もしていた。
しかし、1392年南北朝合体後、比叡山延暦寺をしのぐ勢いで商業活動をおこなっていたのが、大山崎離宮八幡宮の神人集団だ。藤原日本史では、大山崎油座と述べている。
山崎の「サキ」には、特別の意味がある。「サキ」とは、河原、峠などの村はずれの境界の地をさす意味があるからだ。つまり、風俗習慣の異なる異民族の支配地を意味する。中国大陸からの玄関である大阪の難波津と、ユーラシア大陸からのリマン・対馬海流交易の拠点である琵琶湖の大津との中間に位置する、淀川べりの山崎の地は、モンゴル帝国の国際自由交易の時代、栄えていった。
その油商人の八幡宮に「離宮」の二文字を冠しているのは、本宮が淀川対岸に石清水八幡宮があったから、とする。その山崎神人は、鎌倉時代から、荏胡麻油を交易し、八幡神の神前の灯明にもちいれられていいため、権力者から認められる立場にあった、とする。
しかし、藤原日本史のこの説明には、腑に落ちないものがある。何故、油商人は、石清水八幡宮の目と鼻の先の対岸の離宮を、商業基地としたのか。元々、石清水八幡宮には、謎が多い。
藤原日本史では、石清水八幡宮の「石清水」の社名は、男山に鎮座していた石清水水山寺に由来する、とする。「石」の付く寺社には、注意が必要だ。その「石」には、巨大古墳を歴史的に抹殺するトリックがあるからだ。
戦国時代の終わりを告げる戦いの場であった「石山本願寺」の「石山」とは、巨大古墳の石室が多くあった山に建立されていたからだ。この石山本願寺は、藤原氏の流れにある日野氏の蓮如により建立された。では、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)ではどうか。
廟堂の支配を目論む藤原氏は、858年9歳の清和天皇を即位させた。その翌年、藤原氏の陰謀により唐に留学していた空海の弟子行教が、宇佐神宮に参拝した時、神託を受けて、男山に建立したのが石清水八幡宮だとする。この石清水八幡宮には、更に、「清和源氏」(=陽成源氏)の源義家が、御神前で元服したので「八幡太郎」と称した、との物語もある。
更に、「清和源氏」の源頼朝が、幕府を拓く際、石清水八幡宮を勧請して、鶴岡若宮を改め、鶴岡八幡宮とした、とある。因みに、若宮とは、前政権の祭祀場を破壊した跡に創建された「宮」のことだ。
その石清水八幡宮の本宮の宇佐八幡宮にも謎がある。藤原日本史では、宇佐神宮には、応神天皇、比売大神、神功皇后の三柱が祀られている、とする。しかし、応神天皇も神功皇后も、奈良時代に藤原不比等が発明した架空の人物だ。では、宇佐神宮は、何を隠蔽したのか。それは、古代新羅の神だ。
宇佐は、527年古代新羅から北九州に亡命した王族が支配した地だ。その宇佐に、秦王国が興された。608年隋使裴世清は、小野妹子を伴い来朝し、明日香ヤマトで男王アマタリヒコに謁見した旅での途中、北九州で中国と同じ高度の文明を持つ国(秦王国)を見たことを、隋帝に報告していた。その「秦王国」は、明治初期まで、太陽神を祀るミトラ教のシンボルであるマルタクロスを家紋とする、世襲名・弾左衛門を棟梁として関東八州に「風の王国」として存在していた。
奈良時代、藤原不比等は、その秦王国を「豊」の国と改竄したが、769年道鏡の神託事件の時、藤原氏が奈良時代に創建した伊勢神宮ではなく、宇佐八幡宮に和気清麻呂を派遣したほど、その秦氏神の神威が存在していた。
因みに、1586年羽柴秀吉が、織田信長の本能寺での爆殺後、イエズス会から藤原氏に寝返り、太政大臣となり、「豊臣」の姓を用いたのは、秀吉は、「豊」の国(秦王国)が、藤原氏の姓より格上で、日本列島初の王国であったことを知っていたからだ。
石清水八幡宮は、藤原氏の支配下にある。すると、大山崎の油商人は、藤原氏と敵対する存在か。
足利尊氏から足利義満までの時代、神人が経営する高利貸しである土倉酒屋には課税されていなかった。しかし、四代将軍足利義持の時代から、延暦寺・日吉の神人たちは、土倉酒屋役を賦課されていく。しかし、永和4年(1378年)山崎住京神人たちは、後円融天皇から、「紺、紫、薄打、酒麹等諸業商売」への課税の永久免除を認められた。
大山崎油商人は、三代将軍足利義満と後円融天皇との蜜月時代の永和2年(1376年)、経済的に窮乏していた後円融天皇から、山崎神人55人を、住京神人として認めさせていた。この山崎の住京神人は、伊予、阿波、備前、播磨、摂津、和泉、河内、丹波、山城、近江、美濃、尾張の12カ国から商品を集め、京都で売りさばいていた。
これらの12カ国は、古代では騎馬民族秦氏末裔の支配地だった。では、何故、山崎油商人が、それらの地を商業的に支配できたのか。
その謎解きは、山崎神人が行っていた割符(さいふ)にあるようだ。為替や手形などの遠隔地との交易決算の手段は、ユーラシア大陸を商業圏として広域活動していた騎馬民族が発明したものだ。騎馬民族が支配したモンゴル帝国時代、国際的自由交易により、日本列島にも商取引の運営手段のノウハウが持ち込まれていた。それらが、「座」であり「割符」だった。
鎌倉時代、北条氏の武力勢力が、寺社の家宅捜査など出来ないほど脆弱だったため、各地の治安が悪化していた。それを補うように、日本刀を携帯した騎馬武者の「悪党」(悪い集団の意味ではなく、「勇者の集団」の意味)が、ガードマンとして活躍していた。武力が正義の時代、金品の海外輸送を行う商業にも護衛が必要だった。
禅僧が海外交易で活躍していたモンゴル帝国時代、「唐物」が輸入されたと同時に、武装する護送集団も日本列島に「輸入」されたようだ。この頃、平安時代に祭祀道具として発明された、反りのある片刃の刃の薄い「日本刀」が、実戦用に改良され刃が厚くなっていく。何故だ。
この鎌倉時代に、日本列島に現れた武器があった。それは、槍だ。それ以前の長物武器は、薙刀だった。古代にも、長柄の先に金属を付けた槍形態の「矛」もあったが、槍と矛とは異なる武器だ。矛は、刃の部分をソケット状として長柄を差し込む。それに対して、槍には、刃の部分に茎(なかご)があり、長柄に差し込む形態だ。槍は、形態上、怨霊渦巻く平安時代の10世紀頃に登場した、日本刀に類似する。
戦国時代の武将として、斉藤道三がいる。斉藤道三は、下級僧侶から、山ア屋を称した油商人を経て、「槍」を武器として戦国大名に成り上がった人物だ。大山崎油商人集団には、武家の家紋が現れた鎌倉時代に、突然登場した「槍」での武装集団の護衛が存在していたのだ。
鎌倉時代から寺社を拠点に商業活動をしていた座商人(神人)たちは、室町幕府を構成する守護・禅寺・大山崎油商人らを結ぶ商業ネットワークにより、その活動拠点を奪われて行く。
カルテル形態の「座」と、コンツェルン形態の「大山崎油商人」との経済戦争では、談合による同業者組合の「座」は、全国的な「割符」を決済できる「大山崎油商人」に太刀打ちできなかった。
その大山崎油商人と結託した禅僧は、その交易により富を貯え、大袈裟を着て貴族化した。その結果、現代に伝わる能(世阿弥直系ではない能)・茶道(産地当ての博打の闘茶が祖)・華道・造園など日本伝統文化に多大の影響を与えた、肉食を蔑視する菜食主義の南宋禅宗文化の花が咲いたのが、室町時代だ。


室町時代の一揆は、騎馬民族末裔の独立戦争だった。


室町時代も、鎌倉時代と同じほど謎が多い。
藤原日本史では、武家の時代の鎌倉時代が、後醍醐天皇の倒幕により終焉し、そして、その後、後醍醐天皇を臣下の足利尊氏が京都から追い出し、足利氏の室町幕府が拓かれて行くが、後の足利家の内紛により応仁の乱の勃発となり、戦国時代に突入する、と述べている。
しかし、その戦国時代に活躍した、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の出自が謎だらけなのだ。織田信長の三代先の墓は垣内(賎民居住地)にあった。豊臣秀吉の出自(秀吉には姓も苗字もない。「木下」は婿入り先の苗字だ。苗字は生地名だ。秀吉に苗字が無かったのは、日本国生まれでないことが疑われる。)は不明だ。そして、徳川家康は、世良田部落の出自だ。しかし、藤原日本史では、それぞれの出自を取り繕う創作物語を述べている。
その戦国三武将の出自の謎は、どうやら室町時代にあるようだ。それは、源頼朝の肖像画が「ウソ」であったように、昭和時代の歴史教科書には掲載されていた、「清和源氏」とする足利尊氏の肖像画も「ウソ」であるからだ。
鎌倉時代から室町時代(騎馬民族支配国家であるモンゴル帝国国際自由交易時代)にかけての史実は、奈良時代に藤原不比等が「古墳時代」(騎馬民族がユーラシア大陸を支配し、東ローマ帝国と中国諸国、勿論、日本列島も含む、との国際交易をおこなっていた時代)を「飛鳥時代」(藤原日本史では仏教黎明期時代とする)を創作して抹殺したように、足利氏により消されたようだ。その史実抹殺手段のひとつが、琵琶法師が語る「平曲」だった。
南北朝合体11年前、弘和3年(1383年)足利義満は、久我具通から、源氏長者とその名誉職である奨学・淳和両院別当(校長)の地位を奪った。
奨学院は、平安時代の貴族の教育機関だった。しかし、12世紀頃、律令制度が崩壊した結果、貴族経済の疲弊と供に衰微してしまうが、奨学院別当は名誉職として残った。そして、どういう訳か、奨学院別当職は、源氏長者が兼務する慣例となり、藤原色の強い村上源氏が、淳和院別当職と供に世襲していた。
その足利義満の源氏長者としての時代を境として、平家座頭と中院流との関りを示す史料が姿を消し、足利将軍の関与を示す史料が現れる。足利義満は、久我具通から「何」を奪ったのか。
久我家を筆頭とする村上源氏中院流の諸家は、盲目人グループを配下として、「久我家門」と呼称していた。鎌倉時代、この盲目人は、座を構成して、琵琶を奏でて各地を放浪していた。所謂、琵琶法師だ。
琵琶法師と言っても、仏教徒ではない。それは、神人や寄人が、袈裟衣を着ていたから仏教徒と勘違いするのと同じだ。僧籍の者は、免税者で、各国の関所を無賃で通ることが出来る。その為、琵琶演奏者は、神人や寄人と同じに、寺社に金を払いその庇護下の者として、全国各地をまたにかけて商売をおこなっていた。
琵琶法師と言えば、「耳なし芳一」の物語を思い浮かべる。その芳一は、「平家物語」を語る琵琶法師だ。しかし、その「耳なし芳一」物語の普及には、謎があるようだ。それは、その話の舞台が、長門国の「阿弥陀寺」だからだ。
「阿弥陀」(ホトケ崇拝の漢訳仏教)と「阿弥」(太陽神崇拝のミトラ教)とは、平家(私称)と平氏(賜姓)が異なるように、全く別なモノであることが分かれば、琵琶法師が、何故に、「平家物語」を語るのか分かる。
盲僧、琵琶法師の集団は、南都の興福寺に古くから存在していた。その興福寺は、藤原氏の氏寺だ。そして、「久我家門」の村上源氏中院流の盲目人グループも、その流れは藤原氏の支配下にある。更に、真言宗の醍醐寺では、「平家物語」を人の求めにより貸し出していた。真言宗は、平安時代初期、藤原氏の陰謀により唐に渡った錬金術師空海が、開祖だ。
奈良時代から平安時代にかけて、藤原氏は琵琶を奏でる盲目人グループに「何」をさせていたのか。鎌倉時代の久我家は、琵琶法師に「何」をさせていたのか。そして、南北朝終焉前、足利義満の琵琶法師支配は「何」を目的としていたのか。その盲目人の琵琶演奏者は、いつ何処から渡来してきたのか。その謎解きのヒントは、琵琶にあるようだ。
琵琶と言えば、正倉院の五弦琵琶を思い出すが、琵琶には音階を作るための柱(じゅう)により、三種類に分けられる。それは、雅楽琵琶の4柱、平家琵琶の5柱、そして、その伝来が不明の6柱の琵琶だ。
雅楽琵琶は、平安時代、百済系桓武天皇により、藤原氏の影響下にあった奈良文化を否定するために、伎楽を廃止し、俗楽(伎楽)に対する雅楽の演奏の為に、遣唐使により唐から伝えられたものだ。
因みに、奈良時代の伎楽には、伎楽面を着けた無言劇があり、そのルーツは西域のギリシャ仮面劇の継承国バクトリア(後のガンダーラ)が考えられる。それに対して、雅楽のルーツは、日本列島神話時代の古来のものではなく、平安時代初期に、インド・東南アジアからの影響下により発明された楽曲舞だ。
5柱の平家琵琶は、村上源氏の中院流が、「当道座」と呼ばれる同業者組合を組織する平家座頭と関係を結んだ、鎌倉中期に発明されたものと考えられる。それは、「平家物語」のテキストが著わされたのが、1243年だからだ。しかし、現在に伝わる5柱の平家琵琶と異なり、鎌倉時代までの琵琶法師は、6柱の琵琶を使用していた。何故だ。その謎は、その鎌倉時代中期、久我通基が、村上源氏で最初の源氏長者の宣下を受けていたことと関係がある。5柱の平家琵琶と村上源氏による源氏長者の出現は、大いに関係がありそうだ。
では、伝来不詳の6柱琵琶は、いつ何処から誰により日本列島に持ち込まれたのか。
19世紀、ドイツ生まれの冒険家シュリーマンの伝記によると、シュリーマンは、ある酒場で吟遊詩人の語る「イーリアス」を聞くことにより、その物語が史実を語っていると考えた。そこで、「イーリアス」を読み込んだ結果、トロイア市はヒサルルクの丘にあると推定し、そこを発掘することにより、ギリシャ神話にでてくる伝説都市トロイアが実在したことを証明した。
小アジアのトロイアをミュケーナイの遠征軍が攻撃するトロイア戦争を歌った「イーリアス」、そして、その続編の「オデュッセイア」は、紀元前8世紀の古代ギリシャの吟遊詩人ホメーロスにより歌われていた、と伝わる。古代ギリシャでは、「イーリアス」と「オデュッセイア」はギリシャ神話と共に、知識あるギリシャ市民の教養とされていた。その吟遊詩人のホメーロスは、小型の弦楽器を奏で、古代史を語っていた盲目人だった。盲目人の吟遊詩人は、稗史(正史ではない秘史)を語る「語り部」だった。
古代ギリシャ文化は、紀元前4世紀には、アレクサンドルにより、西は地中海諸国から、北インドまでを領国としたアレクサンドル大王領により、中央アジアまで伝来した。
紀元前301年イプソスの戦いで、アレクサンドル大王領は分割され、そのギリシャ文化は、紀元前250年、北インドに興ったバクトリアに継承された。このギリシャ文化継承国バクトリアの衛星国としていた秦が、中国を統一して、紀元前221年秦帝国を興した。
藤原日本史では、蕃族の秦氏は朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来し、その出自を秦帝国末裔と述べる。では、その古代朝鮮半島には、盲目人の「語り部」は存在していたのか。
朝鮮半島の北部地方には、盲目の祈祷師「パンスー」が存在していた、と伝わる。パンスーは、仏教系ではなく、道教系の信仰を持つ宗教者であった。この盲目の語り部は、琵琶を使用していた、と伝わる。
東アジアで「漢訳仏教」と熾烈な戦いをしていた「道教」は、日本列島西国での古墳時代末期(東国の渡島(おしま・下北半島)では、小型円墳は鎌倉時代まで築造されていた。)、明日香ヤマトを支配した、日本初の天皇(天皇とは、道教思想による、天空を支配する北極星のこと。地上での支配者は、天子(テングリカガン→テングリ)。)である、古代新羅系の天武天皇が崇拝していた宗教だ。
天武天皇は、伊勢の地に道教の寺院である道観を建立した。そして、684年天武天皇は、八色の姓で、「真人」(天帝である北極星(太一)を護る北斗七星)、「道師」(道教の高僧)など道教思想により「姓」を発案していた。
唐進駐軍が、通訳兼唐帝国代理人の藤原氏(籐氏=唐氏)により、百済系女帝持統天皇の傀儡政権が樹立され、その女帝の孫が天皇になった奈良時代になると、720年に漢文で著わされた「日本書記」物語を創作した藤原不比等により、その伊勢にあった道教の道観は破壊され、その跡に、藤原氏の神であるアマテラスオオミカミを祀る伊勢神宮が創建され、道教の日本列島古墳時代の歴史は抹殺される。
北極星を祀る道教崇拝の突厥進駐軍の軍事都市アスカ(アスカの地名は奈良盆地に2箇所あり、日本列島には分かっているだけでも30余がある。それらの地は騎馬民族文化が残る。)は、明治革命後、藤原氏が廟堂に復活すると、伊勢の仏像を安置する無数の神宮寺が徹底的に破壊され、その跡に、仏教色を排除した神道の伊勢内宮と伊勢外宮が創建されたように、唐進駐軍の支援を受けた藤原氏の軍団により徹底的に破壊され、その跡に、飛鳥寺が移築され、そして、太陽神ミトラを祀る古代新羅から渡来した花郎騎士団の都市イカルガも、徹底的に破壊され、その跡に、法隆寺が移築され、騎馬民族文化の「明日香ヤマト」は、仏教文化黎明の「飛鳥大和」に改名され、犠牲(朝を告げる雄鶏を屠る)により神を祀る道教文化は、鎮護国家のための加持祈祷(釈尊の仏教にはないパフォーマンス。バラモン・ヒンズー教から導入)の漢訳仏教文化に摩り替えられた。
が、しかし、古墳時代に渡来した、盲目人の琵琶を奏でる道教思想を保持する「語り部」は、ユーラシア大陸交易ルートのウラジオストックから日本海沿岸の北陸、琵琶湖を経て、淀川系河川により、朝鮮半島・中国山東半島交易ルートの玄関である難波津(縄文時代・湾→古墳時代初期・湖→湖の岬→ワタ・ナーベ→ローラン→浪速(ナニハ)→奈良時代の713年以降・難波の根拠は、徳島市国府町の観音寺遺跡から、7世紀末ごろの木簡に、万葉仮名(=古代新羅のヒャンチャル+突厥語)で「奈尓波」(ナニハ)とあり、奈良県イカルガ町の法隆寺五重塔の天井板には、8世紀初めとされる落書きに、「奈尓波」とあるから。)への国際交易ルートを含む、山背国を死守していた秦氏の庇護下で生き延びた。
では、何故、奈良時代の藤原氏の氏寺、漢訳仏教の総本山の興福寺に、敵宗教である道教系の盲目人の琵琶演奏者が存在していたのか。その謎解きのヒントは、「地神経」にあるようだ。
「地神経」の「地神」とは、大地の神霊、すなわち地霊を意味する。その地霊の怒りを鎮める呪文が、「地神経」だ。勿論、敵対する漢訳仏教勢力側は、その「地神経」を偽書とする。
では、唐帝国の長安をコピーした平城京の東外側に位置する興福寺で、盲目人の琵琶演奏者が、何故、「地神経」を唱えていたのか。それは、平城京が、巨大古墳群を破壊した跡に建設されたように、藤原氏の氏寺も、藤原氏の神を祀る春日若宮も、巨大古墳を破壊した跡に創建されたことと関係がある。
興福寺には、謎があるようだ。それは、藤原日本史によれば、京都山科にあった山科寺が、飛鳥に移築され厩坂寺となり、それを、710年藤原不比等が、平城京に移築し、興福寺と改名した、と述べている。
明日香は、その出土する遺跡群から、仏教文化ではなく、オリエント文化色の濃い遺構・遺物が出土する。そして、飛鳥は、713年以降の改名だ。すると、その藤原日本史の説明に疑問が生ずる。藤原氏の宗教施設で、不思議なのは興福寺だけではない。春日若宮にも、多くの謎がある。
春日若宮は、興福寺の東の丘の上に建つ。その丘は、現在では春日山と呼ばれているが、平城京が建設される以前は、三笠山と呼ばれていた。それは、三つの古墳の形態を表したものだ。
古墳形態として現存するのは若草山だ。若草山を中心に、北側に東大寺、南側に春日若宮がある。その東大寺の歴史も謎だ。東大寺の前身は、藤原日本史では、8世紀前半の金鐘寺、とする。しかし、東大寺には、仏教の敵、修験者が出入りしていたのだ。反藤原氏となった聖武天皇は、752年太陽神である遍照像を鋳造したのは、その古墳跡だった。では、三笠山最後の古墳は、いつ破壊され、その跡に、春日若宮が創建されたのか。
「百人一首」の七番目に、阿倍仲麻呂の歌がある。阿倍仲麻呂は、717年吉備真備、僧玄ムと供に、遣唐使として唐帝国に渡った人物だ。しかし、735年吉備真備、僧玄ムらは帰朝したが、阿倍仲麻呂は、帰国を希望したが果たさず、宝亀元年(770年)唐で亡くなった。その阿倍仲麻呂が、唐帝国で詠んだ歌がある。

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも 

この有名な歌は、759年完成の「万葉集」にはない。この歌は、905年完成の「古今和歌集」に掲載され、今日に至っている。
717年三笠の山には、春日山も、春日若宮もない。
藤原不比等が、唐帝国の律令コピーの大宝律令を改竄して、藤原氏一族に有利な律令(養老律令・明治革命まで存続し、昭和20年日本国敗北でGHQにより廃止させられた。)を創作した前年、養老元年(717年)「続日本紀」2月の条には、

二月壬申の朔、遣唐使、神祗を蓋山(みかさやま)の南に祀る、

とある。やはり、717年には春日山も、春日若宮もなかった。
天平勝宝2年(750年)藤原清河は、遣唐使に任じられた。その時の「万葉集」の歌に、春日に神を祭る日に、藤原太后(光明子)の作らす歌一首
即ち入唐大使藤原朝臣清河に賜ふ

大船に ま梶しじ貫き この我子 唐国へ遣る 斉(いは)へ神たち 

大使藤原朝臣清河の歌一首

春日野に 斎(いつ)く三諸の 梅の花 栄えてあり待て 帰り来るまで 

、とある。750年三笠の山の二つ目の古墳は、破壊され平地となっていた。その平地には、三諸はあっても、春日若宮はない。では、三笠山の三諸とは何か。三諸は、「ミモロ」、「ミムロ」とも読める。しかし、そのふたつは異なる。
「ミモロ」とは、「ミ+モリ」で、神が来臨する聖なる場所で、多くは神を祀る「杜」(モリ→713年以降・神社→明治革命後・ジンジャ)のことだ。「ミムロ」とは、「ミ+ムロ」で、洞穴、つまり、古墳の石室のことだ。この「三諸」により、三笠山は、三基の古墳であったことが分かる。因みに、カムナビとは、「カムイ(神)+ナ(の)+ビ(小山)」で、古墳のことだ。
天平勝宝8歳(756年)正倉院の「東大寺山堺四至図」には、春日山の西に「神地」と書かれた空き地がある、と述べている。
「続日本紀」宝亀8年(777年)2月6日条には、
二月戊子、遣唐使、天神、地祗を春日山の下に拝む、
とある。777年には、三笠山の呼称が記載されなく、春日山となっていることから、春日若宮は、756年から777年の間に創建されたことが示唆される。
その間、平城京では、多くのひとびとが、もがき苦しみながら死んでいった。それは、三笠山の、つき固め日干し煉瓦のように硬い古墳の山を掘り下げて原型を造り、遍照像を鋳造した時の、水銀・銅の汚染によるものだ。しかし、当時のひとびとには、鉱毒の知識がない。それらの異変は、地霊の怒り(祟り)が原因と考えられた。
世の中に「怪異」がつづいたとき、祟られる原因持つ者(藤原氏)は、「地の祟り」を鎮めるため、古墳時代の被征服者側の祭祀者(盲目人の琵琶演奏者)に、被征服者の祖神の御霊の怒りを鎮めるために「地神経」の読誦を行わせた。
その根拠として、春日若宮では、春日神四座(藤原不比等は、天帝である北極星から地上の支配者への天命を授けた「テングリ」である「天皇」を、ユダヤ教の絶対神ヤハヴェのように「現御神」(あきつみかみ→明治革命後に「現人神」(あらひとがみ)となる。)とし、正一位勲一等などにより神に序列をつけていた。)が鎮座しているとするが、「日本書記」で藤原氏の祖神とする天児屋根尊が第一座ではなく、武甕槌命(たけみかつちのみこと)であることだ。この神の素性は、藤原日本史では物部氏とする、軍事部族の祖神で、建布都神であるとする。しかし、古墳時代に、物部氏など存在していない。軍事部族とする物部氏とは、713年以降の名で、それ以前は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した花郎騎士団のことだ。花郎騎士団は、イカルガの丘にある古墳で、牡牛を屠り太陽神ミトラを祀っていた。建布都神とは、ミトラ神を歴史的に抹殺するための改名神だ。
百済系桓武天皇の平安時代には、琵琶法師は、散楽の琵琶を弾いて、歌謡や物語を演奏する芸能民であると同時に、「地神経」を読誦する民間経典を奉じる宗教民となっていた。
平安時代も、奈良時代と同じに、「怪異」の時代だった。それは、桓武天皇が、数々の謀略により、権力奪取のために実弟だけではなく、前政権の新羅系天武天皇系の血を絶やしていたからだ。
桓武天皇が拓いた平安京も、平城京と同じに、巨大古墳を破壊した跡に建設された。更に、陸奥国の砂金などを略奪するために、奈良時代以上に、侵略軍団を送り込んだ。しかし、騎馬で後ろ向きに弓を射るパルティアンショットを得意とする突厥+花郎騎士団末裔軍団(蝦夷)を、軍事力で倒せないことを覚った侵略軍団は、敵将アテルイをだまし討ちにして、抵抗する陸奥国軍団(蝦夷)を平定させた。しかし、それに随わないツガルの者達は、鎌倉時代まで抵抗していた。
平安時代、桓武天皇は、奈良時代の文化を否定した。平安朝廷では、奈良時代の歌舞を蔑視して、散楽とし、インド・東南アジア系の雅楽をおこなった。更に、古墳時代、祭祀者であった秦氏を貶めるため、散楽を猿楽とした。
雅楽にも、琵琶(雅楽琵琶)が使用されたが、琵琶法師の琵琶と形態は似ていても、その音色は異なっていた。4柱の雅楽琵琶には、ノイズを発生させる装置がないし、玄を巻く頸が直だ。しかし、6柱の法師琵琶は曲がっている。起源も、雅楽琵琶がインドに対して、法師琵琶はペルシャだ。
その6柱の法師琵琶が、13世紀末の「一遍聖絵」には6柱であったものが、14世紀以降、「平家物語」が上流社会に広められる頃になると、5柱琵琶に改められて行く。何故だ。それは、琵琶法師の「座」を支配する者が、替わったからだ。
鎌倉時代、琵琶法師は、声聞師などと同類の下級の宗教芸能民として、各地の有力寺社に金を払い、納税や関所通過の免税者として各地で活動していた。その声聞師(しょうもんじ)とは、平安末期から始まる中世では、民間の宗教儀礼や芸能にたずさわった法師形の下級陰陽師(おんようじ)で、散所の乞食法師とも呼ばれていた。
声聞師が、琵琶法師と同類と思われた理由のひとつは、6柱琵琶を奏でて活動していたからだ。しかし、鎌倉時代末期の文保2年(1318年)から元徳2年(1330年)と推定される中院通顕の書状には、東寺配下の散所法師(声聞師)が、絵解きの伴奏に琵琶を使用したことに対しての、盲目人の抗議の申し立てが述べられている。
中院とは、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて、家業の単位である「家」成立の趨勢の中で、村上源氏が、唐橋、堀川、久我、六条、土御門、北畠、中院の7家に分かれたものだ。では、何故、村上源氏の中院通顕が、声聞師の琵琶使用を禁止したのか。
律令制度が健在の平安時代初期では、琵琶法師は平安貴族に対して「地神経」を読誦していたが、平安後期には律令制度が崩壊し、その結果、貴族の経済は破綻していたので、琵琶法師は庶民相手の活動となった。それらは、田畑を耕し、舎宅を建て、井戸や池を造り、かまどの土を塗り直すことなどは、大地を侵すことになる。その祟りを鎮めるために「地神経」を読誦していたのだ。しかし、琵琶法師のそれらの活動は表芸で、裏芸は、古代ギリシャの盲目の吟遊詩人ホメーロスのように、簒奪王権の勝者が抹殺及び隠蔽したい稗史を、敗者に語ることだ。
では、何故、1243年「平家物語」が完成しているのに、盲目人の琵琶演奏者が「平家物語」を語るのか。それも、6柱ではなく、5柱の平家琵琶で。
鎌倉時代に完成の「平家物語」は、南北朝では、琵琶法師覚一に伝授されていて、その原本は、惣検校慶一により、太陽信仰民族の「阿弥」一族に経済的に支援されていた足利義満に進上された。
では、盲目人の琵琶法師が、「平家物語」を読めるのか。そして、琵琶法師の「平家物語」は、足利義満以後の歴代の足利将軍によって管理されていく。何故だ。それは、室町幕府を拓いた足利氏の出自が、問題だからだ。
勝者の「正史」(720年「日本書記」から始まる藤原日本史)を語るのではなく、敗者の「稗史」(4世紀の古墳文化から始まる騎馬民族史)を語る盲目人の琵琶演奏者は、古墳時代から鎌倉時代までの稗史を伝承しているはずだ。正史を語る「平家物語」を、盲目人の琵琶法師が語るのは、何故だ。
系図では、足利氏の出自は、源頼朝の曾祖父源義親の弟源義国の後胤とされている。つまり、氏は、一族の名で、姓は天皇が与える一族の称号だ。すると、足利氏は、姓は「清和源氏」となる。
平安末期、源義国の子源義康が、下野国(栃木県)足利荘を領したことから、足利氏は、その先祖の住所の地名の足利を苗字としたようだ。
しかし、藤原日本史系の歴史教科書に掲載されていた、鎌倉幕府を倒した足利氏の中興の祖とされる足利尊氏の長弓を持つ騎馬武者姿の肖像画が、鎌倉幕府を拓いたとする源頼朝の肖像画が「ウソ」であったように、「ウソ」であったのは、何故だ。
系図は、警察隠語で詐欺師のことを「系図屋」というように、全面的に信用できるものではない。まして、歴史学者の一部では、日本列島史の神代の時代から鎌倉時代までの歴史は、応仁の乱で史料が焼失したため、「ウソ」が多いから、まともに論じることは難しい、とすることが言われているほどだ。
その足利氏の出自は、謎だらけの「清和源氏」を祖とする。
その足利氏が拓いた室町幕府では、式楽として「平家物語」が位置づけられていた。それは、群雄割拠する室町時代に、足利将軍が、全国に号令を発することができた根拠のひとつとして、当時の「武士・武官」たちに共有されていた「源平交替」の物語があったからだ。その物語が、琵琶法師により語られた「盛者必衰」がテーマの「平家物語」だ。
室町幕府は、足利氏の単一王家を戴く単核支配構造ではなく、武力が拮抗した多くの部族により構成されていた、寄り集まりの連合組織だ。だから、それらの部族を纏める「源平交替神話」が必要だった。
武士と武官とは全く別の存在だ。しかし、藤原日本史では、鎌倉時代を「武家の時代」とし、武士の歴史を隠蔽した。藤原日本史では、その「武家の時代」を引き継いだのが、室町幕府とする。
しかし、室町時代でも、武家の他に、短弓でパルティアンショットを得意とする「武士」が存在していた。
武士とは、武芸の家系の子孫で、騎射ができることが条件で、特に、先祖が平将門の承平の乱・藤原純友の天慶の乱で活躍した実績が重要であった。しかし、平安時代では、武士は「非職之輩」と呼ばれて、官職の武官と差別されていた。
武士の武芸とは、江戸時代末期に開発された剣道のことではなく、荒ぶる神の御霊を鎮めるためにおこなう宗教儀式の剣舞のことだ。その儀式のために開発されたのが、蝦夷(花郎騎士団+突厥進駐軍)の武器である蕨手刀を祖とする「日本刀」だ。そのことにより、「日本刀」が、武士の魂と言われる由縁だ。
もともとの「日本刀」は、実戦用武器などではなく、祭祀道具だった。その根拠として、現在の刀剣分類として、慶長年間(1596年〜1615年)を堺に、それ以前を古刀、それ以降のものを新刀、幕末以降のものを新々刀とする。古刀は刃が薄いので、折れる、曲がる、刃こぼれする、ので、敵将の首を落とす道具であっても、鎧兜の実戦では使われていなかった。戦国時代に鉄砲が伝来するまでの主力武器は、太刀などではなく、弓矢と槍だった。
そのような視点から、源平合戦を見直してみると、不可思議なことがあることが分かる。
藤原日本史では、源平合戦の発端は、以仁王の令旨により、源頼朝を頭として、治承4年(1180年)平家の目代山木兼隆への襲撃だ。しかし、その襲撃は、多くても30騎以下だった。石橋山の敗戦後、千葉に逃げ込んだ北条氏の婿殿・源頼朝の下には、関東の武士が万騎として集結した。しかし、平安時代の蝦夷が支配する陸奥国への侵略軍大将である征夷大将軍に源頼朝が就くのは、建久3年(1192年)だ。
藤原日本史では、日本列島軍団の棟梁として、征夷大将軍と述べている。しかし、平安時代から鎌倉時代までの征夷大将軍の即位の流れをみてみると、その説明に疑問を感じる。
延暦13年(794年)大伴弟麻呂
延暦16年(797年)坂上田村麻呂
弘仁2年(811年)文屋綿麻呂
天慶3年(940年)藤原忠文
★治承4年(1180年)平家の目代山木兼隆への襲撃・石橋山の敗戦
寿永3年(1184年)源義仲
☆建久3年(1192年)源頼朝
建仁2年(1202年)源頼家
建仁3年(1203年)源実朝
嘉禄2年(1226年)藤原頼経
寛元2年(1244年)藤原頼嗣
建長4年(1252年)宗尊親王
文永3年(1266年)惟康親王
正応2年(1289年)久明親王
徳治3年(1308年)守邦親王
元弘3年(1333年)護良親王
この即位の流れからして、誰が、日本列島の三分の一を知行国としていた「平家」打倒の為に、関東の武士を招集したのか。
鎌倉時代の承久の乱(1224年)にも、不思議なことがある。
承久3年(1221年)後鳥羽天皇が、北条義時追討の宣旨を発したことに対して、北条義時は、朝廷打倒を目指して鎌倉を出陣した。その数、18騎。しかし、北条義時軍への従軍は、北陸道、東山道、東海道の武士団により増員し、京にたどり着くまでに19万騎となっていた。その、北陸道、東山道、東海道の三道は、古墳時代では、明日香ヤマトにつづく道幅12m超の直線軍事道路だった。しかし、平安時代には、道幅を6m程に狭められていた。誰が、三道の武士団を召集したのか。
源頼朝が征夷大将軍に任命された時期、源氏長者の地位にあったのは、村上源氏の源通親だった。源氏長者とは、源氏一族の棟梁のことだ。この源氏長者の地位は、元々は、藤原氏に取り込まれた、公家源氏である村上源氏ではなく、反藤原氏である嵯峨源氏の源信であった。何故、反藤原氏の嵯峨源氏から、親藤原氏の村上源氏に、源氏一族の棟梁の地位が奪われていたのか。
藤原日本史では、源氏の姓は、平安時代の814年、嵯峨源氏が初めとされている。しかし、反藤原氏となった嵯峨源氏は、古墳時代の軍事部族の末裔の多くの女を母とし、嵯峨天皇が、その多くの皇女に「源姓」を与えたのは、藤原日本史で述べているように経済的問題ではなく、藤原王国に対しての、軍事王国である嵯峨王国の樹立を目指していたからだ。
その模範は、騎馬民族支配国家の北魏の拓跋部と禿髪氏の関係だ。支配部族の拓跋部は、漢姓の「元」を名乗った。それに対して、臣下の禿髪氏は、「源」を名乗った。拓跋も禿髪も、元は、チュルクの音訳漢字で、同じ流れにあった。そして、源となった禿髪氏の子孫は、名を漢字一字とした。古墳時代の突厥(チュルクの音訳漢字)の流れにある嵯峨源氏も、713年藤原不比等による古墳時代の人名・地名を抹殺するための「好字令」により、漢字二文字で表す掟を破り、名を漢字一字で表したのは、騎馬民族禿髪氏の歴史を踏まえてのことだ。鎌倉時代のモンゴル帝国のフビライも、その出自を拓跋部とし、「大元」という国号を採用した。
藤原氏により、古墳時代の豪族は、数々の謀略で抹殺されていた。その謀略のひとつが、「夷を以って、夷を制す。」の密告による戦略だ。
古墳時代からの豪族名は、713年の好字令により抹殺された。そして、古墳時代からの豪族は、藤原氏の戦略により、次々と抹殺されていた。
蘇我氏は、672年抹殺。
大神氏は、701年抹殺。
粟田氏は、718年抹殺。
物部氏は、781年抹殺。
石川氏は、798年抹殺。
巨勢氏は、810年抹殺。
多治比氏は、823年抹殺。
布施氏は、826年抹殺。
紀氏は、826年抹殺。
安倍氏は、856年抹殺。
そして、大伴氏は、奈良時代に藤原氏により「伴氏」と改名され、866年古墳時代の豪族大伴氏の末裔である伴善男は、藤原氏の謀略により抹殺された。
源氏一族を支配する源氏長者の規定は、醍醐源氏の源高明が「西宮記」で述べていた。それによると、「王卿の中、弘仁の御後(嵯峨天皇)に触るる人を以って長者と為す。重明親王、参議等は是れなり」、とある。
つまり、源氏一族の棟梁(テングリ)は、嵯峨天皇の末裔でなければならない、と醍醐源氏の源高明は、「西宮記」で述べるのだ。
その醍醐源氏で初めての源氏長者となった源高明は、重明親王と同じ醍醐天皇の皇子で、反藤原氏の嵯峨源氏の源唱(となう)の娘周子を母に持つ、嵯峨源氏の外孫だ。
その嵯峨源氏で、源氏長者の最初と考えられる、左大臣源信(まこと)は、貞観8年(866年)応天門の変での、伴大納言善男の密告により、放火の容疑をかけられて失脚した。後日、その密告が、「ウソ」で、真犯人が伴大納言善男であったことが分かり、ここに、、藤原氏の戦術、古墳時代の豪族大伴氏(夷を以って、)による、反藤原氏の源氏長者の左大臣源信(夷を制す。)の抹殺が完了した。
その嵯峨源氏の外孫である源氏長者の源高明も、969年安和の変で、出自不明の満仲(藤原日本史では摂津国多田荘の出自とする。)なる人物から、藤原氏への密告により、左大臣から太宰員外師に左遷され、失脚した。この満仲なる人物が、鎌倉時代につづく源頼朝の祖、「清和源氏」の源満仲だ。
源氏長者の初代とする嵯峨源氏の源信から、醍醐源氏の源高明を最後として、反藤原氏の源氏長者から、村上源氏の親藤原氏の源氏長者となっていく。南北朝を統一した足利義満以前の源氏長者は、堀川、久我、土御門、中院といった、藤原氏に支配された村上源氏の諸家が交替で、その地位に就いていた。
村上源氏の始祖である源師房は、幼くして父具平親王をうしない、藤原頼通に嫁いでいた姉隆姫に引き取られ、藤原頼通の養子となった。長じてからは、藤原道長の娘尊子と結婚し、摂関家の婿殿となっていた。そして、源師房に始まる村上源氏中院流は、その後8百数十年間、明治革命に至るまで、藤原氏が支配する公家社会に留まっていた。
このような源氏長者の遍歴を考えると、平安末期から鎌倉時代初期までを、5柱の平家琵琶で語る、「清盛流平氏」と「清和源氏」による「平家物語」のお話が、「ウソ」ではないかと示唆される。
禿髪氏(チュルク系騎馬民族)の源姓の祖である源賀の流れを汲む、古墳時代に渡来した突厥進駐軍(チュルク系騎馬民族)末裔の流れにある、平安時代の廟堂を構成していた貴族であった、「公家源氏の村上源氏」と「武家源氏の清和源氏」により歴史上抹殺された、反藤原氏の嵯峨源氏・醍醐源氏の末裔は、何処に消えたのか。
藤原日本史は、色々な物語を創作する。その「ウソ」物語を、日野氏(姓は藤原氏)のおんなを娶らされた室町幕府は、平家琵琶法師を使って宣伝していた。では、イエズス会の軍事支援による織田信長の登場で終焉する日本列島の中世では、「平家物語」から続くとする室町幕府物語ではなく、どのような歴史物語があったのか。
室町時代は、一揆の多発時代だった。藤原日本史では、生活に困窮した百姓達が、ムシロ旗を掲げて農具などを武器として、あるいは、一向衆などと言う狂信的な宗教集団が念仏を唱えながら、悪代官に抵抗したように描写している。が、しかし、日本列島各地で勃発した一揆は、各地の情報連絡が整い、室町幕府の軍事を司る完全武装の報公衆を撃破していたのだ。その一揆の中心に、声聞師と馬方がいた。藤原日本史では、声聞師とは、乞食法師の下級陰陽師ではなかったのか。何故、下級陰陽師と馬方は、各地の一揆を軍事指導できたのか。
鎌倉時代、下級陰陽師である声聞師は、鎌倉長吏弾左衛門頼兼の支配下であったことは、「頼朝公の御朱印」で分かる。その弾左衛門とは、日本列島各国に分散する「風の王国・秦王国」から推挙された人物への世襲名で、秦氏末裔集団の棟梁(長者)のことだ。
弾左衛門は、1590年衰退していたイエズス会を裏切り、藤原氏の傀儡関白となった豊臣秀吉により、世良多部落出自の徳川家康が関東の河口の湿地帯に移封された時、一族で迎入れた時から明治初期まで、関東の穢多一万戸の支配者(秦氏末裔の長者)だ。
では、馬方はどうなのか。
東北地方の北上山系の旧南部領では、近世末まで、律令制で定められた5町1里(約540m)ではなく、5町を小路1里とし、小路7里で大路1里とする、「57の法」を用いていた。
この北上山系は、藤原日本史では奈良時代に始めて陸奥国で金が産出されたと述べているが、古代からの砂金地帯で、唐帝国の傀儡である奈良朝廷の征夷開拓(侵略)以前から、渡来人が多く暮らす地であった。その北上山系で採取された砂金は、古代の運送業者により、道幅12mの古代高速道路により、古代の国際交易センターであった、奈良盆地のツバ市まで運ばれていた。その馬方衆が用いていた「57の法」は、古代朝鮮半島で用いられていたものだ。
古代の物資輸送は、徒歩か牛・馬によると、一般的に考えられるが、古代での遠隔地への物資輸送は、船が主だった。海路では、竜骨構造の外洋船で、河口の津に着くと、平底の河舟で、そして、河舟が航行不能の地では、荷は、馬か人により目的地まで運んでいた。
日本列島各地の川筋や峠には、「丸子」の地名が多く存在する。では、その「丸子」とは、何か。それは、「ワニコ」と「マルコ」の歴史を、713年好字令により、「丸子」の漢字で抹殺していたのだ。
「ワニコ」の「ワニ」とは、古代新羅語で「船」のことだ。そして、「マルコ」の「マル」とは、古代新羅語で「馬」のことだ。つまり、漢字で「丸子」と表示された地域は、「船」と「馬」を扱う運送部族民の居住地だった。この「ワニコ」と「マルコ」の本来の意味が分かれば、河童と天狗の意味が分かる。河童とは、船の民の長者だ。そして、天狗とは、馬の民の長者で、テングリからテング(天狗)となった訳だ。
下級陰陽師や馬方など、或いは、芸能民の非農耕民は、藤原日本史では、ノッペリ顔のモンゴル系民族から見て、鼻の高い、筒袖の服とズボンを衣類とする、チュルク系騎馬民族と比較して、異形異類の民と表現する。特に、肉食する馬・牛を飼育する民族に対しては、嫌悪の意味で、蔑称を付けていた。
6世紀から645年まで、明日香ヤマトを支配し、乳製品のチーズなど食していた突厥進駐軍末裔には、「日本書記」では、蘇我稲目・蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿などの蔑称を付けていた。
藤原日本史では、肉食する騎馬民族末裔を、「穢れ多し」の意味で「穢多」と蔑称していたが、その発生時期を、鎌倉時代の日記、書籍類を根拠としている。
しかし、それらの「天狗草紙」などの多くの史料は、藤原氏一族の日記や、母国百済を新羅に滅ぼされた亡命百済貴族末裔の書籍や、モンゴル帝国に滅ぼされた南宋からの亡命禅僧などの著作物なのだ。
藤原日本史が述べる、穢多の蔑称が発生したとする鎌倉時代は、騎馬民族や花郎騎士団の末裔(蝦夷)である「悪党」(勇者集団の意味。武装警備隊)が活躍していたのだ。「穢多」の蔑称が、世間一般に広まるのは、徳川三代将軍徳川家光から始まる、第3百済王朝の江戸時代からだ。
徳川家康ではなく、第3百済王朝が草案した「寺請制度」(藤原日本史では、キリシタン弾圧のためとするが、実際は、騎馬民族末裔の「山の民」を弾圧するためだった。)により、農民(常民)と騎馬民族末裔を線引きし、漢訳仏教や、阿弥陀仏や阿弥陀経を導入した、肉食民族を不可触民・チャンダラー(施陀羅→穢多)と民族差別思想の菜食主義のバラモン教の流れにある禅宗の僧侶達が宣伝員となり、寺を情報発信地にして、庶民に「穢多」の負イメージを布教したためだ。
このことにより、インドのバラモン教による身分差別の「カースト制度」が、釈尊の仏教と百八十度異なる「ニッポン仏教」により、日本版身分制度の「士農工商穢多非人」の呪文が、第3百済王朝の江戸時代に完成する。
その騎馬民族末裔からのしっぺ返しが、1868年の全国的な仏寺破壊の廃仏毀釈運動だ。その最も激しい地域が、薩摩藩の鹿児島だ。薩摩藩の支配者島津氏とは、秦氏末裔で、秦氏(古墳時代)→惟宗氏(平安時代)→島津氏(鎌倉時代から)で、関東の「風の王国」の長者である、弾左衛門とは、両家とも、太陽神信仰民族のシンボルであるマルタクロス、○に+を家紋とする、同族だ。
しかし、その騎馬民族蔑視の歴史に対しての、騎馬民族からの反論史料は、存在しない。
それは、遊牧民は、大抵、自らは民族の歴史・記録を残さないからだ。それに、遊牧民は、自由気ままに移動していると考えられているが、家畜の飼育の為に、決まった地の夏営地と冬営地を移動するため、最低限の生活用品しか携帯しないため、記録書など保持することはなかった。
そのため、遊牧民の記録は、おおむね農耕民や都市民がのこしたものだ。自らの記録を持たない遊牧民のイメージ、不潔、粗暴、凶暴、無知、略奪者などは、農耕民や都市民が残した記録によるものだ。
藤原日本史によく出てくる「山の民」とは、古墳時代、夏営地の「山」と、冬営地の「里」を放牧のため行き来していた遊牧民が、奈良時代、里の冬営地を律令軍に奪われたため、しかたなく、夏営地に常住させられた遊牧民のことだ。
では、遊牧民族の歴史は、分からないのか。
古代ギリシャの歴史家ヘロドトス(紀元前484年〜紀元前425年)は、「歴史」(ヒストリアイ)の全9巻を著わした。その中で、紀元前6世紀のすえ頃、黒海の北側にひろがる大草原に、ギリシャ語で「スキタイ」と呼ばれる集団が現れたことを述べている。そのギリシャ語で「スキタイ」と呼ばれたひとびとは、ペルシャ人達によって、「サカ」と一括して呼ばれていた。漢字では、「塞」(さく)だ。
スキタイ国の構成は、農耕、通商、航海をおこなう都市居住民、商業風の農業経営民、純粋農業民、遊牧民、そして、それらを支配する、天幕生活をする、遊牧民、と述べている。一般に、遊牧民族と思われるスキタイは、地域、生業、居住法をこえた集団であった、と述べている。その5種のひとびとを統合、支配する王族スキタイに因んで、その集団をスキタイと呼んでいる、と述べている。
騎馬民族支配国家の構成としては、現在の、情報力と資本力で傘下企業を支配する総合商社をイメージすると理解しやすい。総合商社と騎馬民族支配国家との違いは、資本力と武闘力とが異なるだけだ。
スキタイが、そのような異種の民を統合できたのは、移動性、集団性、機動性、戦闘性にとんだ、騎馬軍団を保持していたからだ。ただの遊牧民であったスキタイが、騎馬軍団を組織できたのは、ヒッタイト帝国で開発された鉄鍛造技術者末裔を、その集団に取り込んだからだ。
鉄製品の馬具や武器を造るには、「船」や「馬」の大輸送団が必要だ。それは、タタラ製鉄で、鋼1トン得るには、砂鉄12トン、木炭14トン、そして、薪では50トンを必要とするからだ。因みに、タタラ製鉄のタタラとは、古代新羅から日本列島の出雲に製鉄技術が伝わった古墳時代、製鉄民族は、中央アジアのタタールから渡来してきたと信じられていたからだ。
それまでの馬の制御器であった轡は、青銅製で硬いため、馬の生体に合わなかった。しかし、青銅より柔軟で加工が可能な鉄を利用して、轡が製作されたため、スキタイの騎馬軍団は、青銅製の轡で制御された騎馬軍団よりも、移動性、機動性が勝っていた。
しかし、向かうこと敵なしの騎馬軍団のスキタイも、結束連合の要が揺るげれば、連合体はたちまち雲散霧氷する。つまり、遊牧民族支配国は、固定した地域を支配するのではなく、移動を繰り返す「風の王国」なのだ。
紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンドロス大王が現れると、スキタイ連合国は衰退に向かった。そして、東方から進出するサルマタイという集団に押され、紀元前3世紀には、スキタイは、歴史上から消えた。
そのアレクサンドロス大王は、アケメネス朝ペルシャ帝国のダレイオスの政策の追随者だった。
ダレイオスは、世界をまるごと組織化するために、海への視野を広げるため、海軍を創設し、帝国全土にわたる統一税制と統一度量衡の施行をし、幅広の幹線道路と駅伝制の整備を行い、経済面における金銀貨幣の鋳造と貨幣経済の本格的導入を行い、そして、政府主導の通商・交易の活性化をおこなった。
ダレイオスから約300年後の、紀元前221年秦の始皇帝は、このダレイオスの国家運営の手法を取り入れたが、道半ばにして、紀元前206年秦帝国は倒れた。これ以後から現在までの、古今東西のあらゆる国家・政権は、このダレイオスの影響下にある。
西方の遊牧国家の原型が、スキタイとすれば、東方の遊牧国家の原型は、匈奴だ。
匈奴の蔑称も、自ら付けたものではなく、農耕民である漢族だ。しかし、その漢族の漢王朝の創始劉邦は、匈奴の始祖冒頓に敗れて以来、ほぼ半世紀間、漢は匈奴の属国として、金・銀・絹などを貢物として差し出して、平和をあがなっていた。
しかし、冒頓単于(ボクトツゼンウ)が現れる以前、匈奴は、モンゴル語で「天幕、宮帳、遊牧宮廷」の意味であるオルドの複数形、オルドス地方に細々と暮らす小集団にすぎなかった。それは、当初の匈奴は、騎乗技術と馬具を欠いていたため、足で歩く遊牧民にすぎなかった。
それが、紀元前4世紀の後半頃、北方から騎馬軍団が、東アジアに渡来すると、東アジアの遊牧民への騎馬技術が広がっていった。この騎馬技術の渡来により、足で歩く遊牧民の匈奴は、機動性、集団戦術を身につけて、急速に軍事化した。それが、騎馬軍団の匈奴だ。

この時期、日本列島は、藤原日本史では、紀元前660年即位した神武天皇からつづくとする神国日本など存在せず、まだ、弥生時代中期の頃だ。この頃、神武天皇が即位したとする奈良盆地一帯は、呪術の重要素材であった、古代の「消毒剤アカチン」としての朱砂の国際的交易センターのツバ市があった三輪山麓(山の麓→騎馬民族語でヤマト)を除いて、耳成山、天香久山、畝傍山の大和三山の「小山」が「小島」となる、一雨降ると湖と化す湿地帯だった。因みに、現在に伝わる神武天皇陵は、「君が代」を国歌と制定した前年、明治20年(1887年)に創造したものだ。

匈奴国家の生活様式は、遊牧文化、戦闘技術の多くは、スキタイの影響を強く受けていた。その騎馬軍団は、「胡服」つまり、筒袖の短い上着とズボンをはき、皮製のベルトをしめ、皮製のブーツの服装スタイルだった。そして、発射器つきの弩弓(いしゆみ)の強力武器を保持していた。
その匈奴軍団の構成は、十進法により、万騎の長が24人いて、24個の万人隊は、所謂漢族国家に対して南面し、左・中・右の3大部隊に分かれていた。その3大部隊は、それぞれ領民と分地を持ち、その3分割された匈奴国家は、多元・多種の人種により構成されていた。因みに、左(東)の指揮官である左賢王は、朝鮮半島北部までもを支配していた。
この匈奴軍団の左・中・右の構成は、遊牧民支配国家に継承され、13世紀の初め、チンギス・カンによるモンゴル高原の国家も、中央(コル)・左翼(ジェウン・ガル)・右翼(バラウン・ガル)で構成されていた。

因みに、古墳時代の7世紀末、日本列島初の天皇(テングリ・カガン→テングリ→天子)である天武天皇による道教思想による「八色の姓」で、明日香ヤマトに出現した「日本国」が、701年漢訳仏教思想による唐進駐軍(史実は、690年から705年までは、漢訳仏教組織を利用し、則天武后が実権を握り、国号を「唐」から「周」と称した。)による傀儡律令国家(=大和朝廷は、690年から周の暦「儀鳳暦」を使用する。)となり、唐帝国の租・庸・調の税制と、法律と罰による政治形態を運営する廟堂が、左大臣・太政大臣・右大臣により構成されていたのは、その律令政治組織の基が、遊牧民族支配国家の「唐帝国」だったからだ。
唐帝国は、その文化から漢民族支配と思われているようだが、北魏(漢姓「元氏」・「源氏」の初め。423年〜534年)から始まり、東魏(534年〜550年)、西魏(535年〜557年)、北斉(550年〜574年)、北周(557年〜579年)、隋(589年〜618年)、唐(618年〜907年)までの支配者は、漢民族ではなく、騎馬民族の拓跋部で、拓跋国家だった。その拓跋とは、騎馬民族「チュルク」の音訳漢字だ。
拓跋部の「部」とは、騎馬民族の血縁、地縁による集団の単位だ。部落とは、それらの部が暮らす集落のことだ。この部落の意味が、肉食を「悪」とする漢訳仏教思想を武器とする王権により、蔑称とするのが、4世紀日本列島の古墳時代から始まる、騎馬民族文化の歴史を抹殺する、720年「周」(唐)の通訳であった藤原不比等(唐の通訳→唐史→籐不比等。姓は籐氏)により創作された「日本書記」を正史とする、藤原日本史の流れだ。

農耕民族や都市生活民の史料の記述からは、遊牧民族は略奪民族のように描写されているが、遊牧民族は、生活必需品や用具・資材など不足する物質は、通常は交易で買い入れていた。しかし、軍事力に裏打ちされた政治力を持つ遊牧民は、みずからすすんで、その牧地内の要所に、集落や都市を営んでいた。
治安の悪い時代では、特に、その遊牧民族の軍事力の庇護を仰ぐため、農耕民、商業民、工業民などは自ら進んで、それらの遊牧民族が営む集落や都市に暮らしていた。
スキタイ国家が、農・工・商業地域を包み込んだように、匈奴帝国も、その支配地に囲郭をそなえた農業地や手工業都市、そして、タクラマカン砂漠に点在するオアシス地域の都市国家をも包み込んでいた。
国家と言うと、広大な領土を持つ組織と思われがちだが、国の正字「國」は、口=囲郭、口=人口、一=土地、戈=武力の合成語で、国とは、城壁や柵で囲われ、武装組織を持つ都市国家を指していた。
13世紀、モンゴル帝国による国際自由交易時代、国家警察力の存在も、庶民からの税取立てをも史料で確認出来ない鎌倉時代(果たして、鎌倉幕府は、東国の民を実効支配していたのか、疑問がわく。)の東国の各地に、城壁や柵で囲われた村(鎌倉時代の村とは、農村ではなく、武芸者末裔の証明としての日本刀を携帯し、部族のシンボルを図案化した「家紋」を付けた金メッキの鎧兜と派手な衣装で着飾る武装騎馬警備員(「役座」の租)の「悪党」が護る都市国家。)が出現していたのは、この匈奴の経営形態が、鎌倉時代の日本列島にも継承されていたからだ。
紀元前3世紀、足で歩く遊牧民の匈奴が、突然、騎馬民族に変身できたのは、スキタイの軍事様式を引き継いだのと、そのオアシス都市を支配下に置いたからだ。
そのオアシス都市は、古代ペルシャ帝国のアケメネス朝(紀元前359年〜紀元前330年)の東辺にコロニーを建設していた「ソグド」(ソグド語の祖語は、アラム語。アラム語は、紀元前722年イスラエル王国が、アッシリア帝国により壊滅された頃のカナンの地を含むシリア地域一帯の国際交易語。鉄器を発明した古代ヒッタイト帝国を祖国とする、チグリス河とユーフラテス河の河口の地ウルから流離う放浪民族であった絶対神ヤハヴェを祀るユダヤ民族ではなく、紀元前13世紀、古代ヒッタイトの契約神(紀元2世紀、ローマ帝国軍に取り入れられ「軍神ミトラ」→紀元4世紀、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅では、ミトラの借字「花」により「花郎騎士団の軍神」となる。)の「太陽神ミトラ」を祀るイスラエル民族末裔(「旧約聖書」では、太陽神バアルと金の牡牛を祀ると描写。)。)と呼ばれる国際交易民の、東西との国際交易の拠点となっていた。
オアシス都市国家を拠点とするソクドの国際商人は、その後、遊牧民族国家と共生し、6世紀には、東西ユーラシアをまたがり支配したチュルク帝国の突厥(6世紀、古墳時代の日本列島をも支配した。)の経済、政治、外交、諜報の協力者として活躍する。
匈奴がオアシス都市国家を支配下に置き始めた頃、谷ごとに分散して居住し、小集団を営む牧畜民、その集団を漢民族は「羌」(きょう・えびす)と蔑称していた。「西戎」(にしえびす)の変種ぐらいにしか見なされていなかった弱小国の「羌」の秦は、ギリシャ文化を引き継いだバクトリアからのソグド商人の渡来で、アケメネス朝ペルシャ帝国のダレイオスの政策を真似た軍事国家に変身し、紀元前221年秦は列国を併合して、モンゴル系ではなく西洋系の碧眼の秦王・政は、始皇帝と称した。
王家という私権を公権にするには、宗教性、神秘性、カリスマ性が必要だ。その神聖視された私権である王家が、近現代の国家が生まれるまで、臣民を支配していた。
では、秦帝国ではどうなのか。秦帝国は、焚書抗儒をおこなっていたので、その頃、東アジアで崇拝されていたと伝わる「儒教」ではないようだ。ましてや、「漢訳仏教」でもない。肉食する騎馬民族を「施陀羅」と蔑称する漢訳仏教が、菜食主義のバラモン僧のナーガルジュナにより「発明」されたのが、紀元3世紀だからだ。
徐福伝説によれば、長生不老の霊薬(水銀薬:水銀は、液体→気体→固体→液体、と変性するため再生(不老不死)し、更に、消毒・防腐の効能のため、霊薬と信じられていた。縄文時代から日本列島の奈良の宇陀は、朱砂(水銀化合物)の産地として広く知られていた。16世紀、ポルトガル国の尖兵イエズス会は、高山ジュスト右近に命じて、宇陀の山奥に教会を建設させていたのは、キリスト教の布教のためだけではなかった。スペイン国によりメキシコで銀鉱脈が発見されるまでは、石見銀山は世界一の銀産出地だった。)を求めた始皇帝は、徐福に童男童女3、000名と百工の技術者を与え、東方の蓬莱山へ船出させたと伝わる。
その蓬莱山とは、日本列島(国号「日本」(イル・ポン→ニッ・ポン→ニホン)が、歴史上に現れるのは、7世紀末)の中央にある山と信じられていた。その徐福は、呪術者の方士と言われているが、道教の士ではないようだ。それは、道教が成立したのは、北魏の時代、漢訳仏教が農耕民族の漢貴族に取り入るために「内道場」を建設し「風紀」を乱したり、そして、深堀や柵を廻らして仏閣を砦として「武器」の保管庫としたことに対抗して、騎馬民族の拓跋部の太武帝が、華北の犠牲を行う土着宗教(道教の租)を保護して、漢訳仏教を弾圧した紀元5世紀だからだ。
この道教を保護する北魏の漢訳仏教弾圧(446年〜452年)から、「日本書記」物語で仏教伝来552年(一説では538年)は「ウソ」で、7世紀、古墳時代の日本列島の明日香ヤマトに、唐進駐軍と共に侵攻して来た漢訳仏教(農耕民族)と、騎馬民族の古墳文化において祭祀を行っていた道教(騎馬民族)との熾烈な戦いが、華北で始まっていた。
私権により東アジアを短期間に統一した秦帝国が、王権を維持するために、儒教でもない、漢訳仏教でもない、道教でもない、どのような宗教を「利用」していたのかは、現在も不明なのだ。
更に、世界遺産の兵馬俑が、秦始皇帝の遺跡と言われているが、秦帝国軍団は、「鉄」の武器で武装していたのに、兵馬俑の地下軍団は「青銅」の武器で武装している。金属史によれば、鉄(溶解度1、200℃)は、青銅(溶解度800℃)より新しい精錬技術だ。これにより、兵馬俑が、秦始皇帝の遺跡ということが疑われる。日本列島の古墳時代に活躍していた、太陽神を祀り牡牛を犠牲とする「秦氏」の祖国と伝わる秦帝国は、未だ、謎の帝国なのだ。
しかし、秦帝国は、紀元前210年始皇帝が急死のため、秦の統一は、紀元前206年で崩れた。これにより、北に逃れていた匈奴の勢力が復活した。その後、匈奴はボクトツゼンウの支配時代となり、漢民族国家の漢から金、銀、絹を貢がせて、その騎馬軍団の軍事力でひれ伏せていたが、漢の第7代目の武帝、劉徹の時、匈奴帝国に対して反撃に出た。この匈奴・漢戦争は、50年近くもつづいた。
匈奴軍団との初戦では苦戦していた武帝の漢帝国軍団も、遊牧国家の弱点を知ることにより、匈奴軍団と互角に戦うことができた。その弱点とは、遊牧民族の軍事権力とオアシス民族の経済力との相互補完の共生関係だ。紀元48年、匈奴帝国が、東西に分裂し、その西匈奴が、紀元1世紀末に消滅したのは、騎馬民族と共生していたタリム盆地方面のオアシス都市国家群を、後漢帝国が支配したからだ。
ボクトツゼンウの支配時代から、漢帝国から匈奴帝国への貢物の金、銀、絹は、オアシス都市国家に持ち込まれ、騎馬民族の生活用品や武器素材と交換されていた。そして、オアシス都市国家のソグトなどの国際商人は、それらの騎馬民族が持ち込んだ金、銀、絹を、シリア王国やパルチア王国のペルシャ諸国家に持ち込んで、その差益を儲けとしていた。因みに、ペルシャとは他称で、ペルシャの住民は、自称イランとしていた。
漢の第7代目の武帝になると、匈奴帝国への金、銀、絹の貢物を中止し、それらの物資をオアシス都市国家に持ち込んで、匈奴帝国の騎馬軍団と互角に戦うために、アラブ種の馬との交換交易をおこなった。
紀元前4世紀、騎馬民族スキタイの軽装備の騎馬軍団と戦っていたアケメネス朝ペルシャ騎馬軍団は、アラブ種馬に鉄製の鎧と冑で武装させていた。その重装備の軍馬の武装形態は、紀元前1世紀に興った、ギリシャ文化を継承したローマ帝国軍にも採用された。そして、そのローマ帝国騎馬軍団の鉄製の馬鎧と馬冑は、紀元356年よりギリシャ・ローマ文化の古代新羅の都市であった慶州の古墳から出土していた。更に、慶州出土と同型の馬冑は、和歌山を流れる紀ノ川河口の古墳からも出土した。
匈奴騎馬軍団の草原馬の体高(蹄から肩骨までの高さ)は約120cm(平安時代末期に陸奥国に突然出現した、アラブ系海洋民族末裔の「平家」が「赤旗」、ユーラシアを支配していたチュルク系騎馬民族末裔の「嵯峨源氏・醍醐源氏」(藤原日本史が述べる「清和源氏」は「ウソ」で、実在しない。清和源氏とは、藤原氏の私兵である陽成源氏を改竄。)が「白旗」を部族シンボルとしていた時期に、ユーラシアから渡来の笹竜胆の「モンゴル部族紋」を旗指しに印す、源義経軍団の馬は、アラブ種馬ではなく、草原馬だった。)に対して、アラブ種馬の体高は約160cmだ。その結果、草原馬を主体とする匈奴帝国の騎馬軍団の優位性が崩れ、モンゴル系とチュルク系の騎馬民族部族連合体は、分裂することになる。
しかし、漢政府も、長期戦争のため国家財政が破綻したため、極度の重税のほかに、貨幣の改鋳、塩・鉄・酒を専売にし、均輸・平準などの物価調節策をとった。これ以降、専売制は、中華国家に引き継がれて行く。
国家財政が破綻した漢帝国は、紀元前87年武帝が死ぬと、その後継者となった昭帝は、漢帝国からの申し出により、匈奴帝国との講和がなされた。このことにより、モンゴル・チュルク系の遊牧世界の匈奴と、農耕世界の漢との二大帝国が、対等の立場で平和共存する時代となった。
しかし、紀元8年、漢帝国の外戚である王莽が、王朝名を「漢」から「新」(しん)と変えると、遊牧民族文化を蔑視する農本主義の儒教思想により国家改革を行い、対匈奴強硬政策に転じた。王莽は、匈奴体制下の烏丸(うがん)や鮮卑(せんぴ)をそそのかし、20万騎の大軍で、匈奴帝国を攻めたが、失敗に終わった。その結果、「新」が滅び、劉氏末流をいただく「後漢」が再興された。
紀元25年、後漢の光武帝は、曲折の後、匈奴帝国との関係を、旧に復し、両国は和親した。その流れにより、匈奴王家と漢王朝との王家どうしの共存、通婚関係により、ひさしい平和共存関係が続いた。
紀元1世紀半ば、匈奴帝国は東西に割れた。東匈奴は、漢帝国との同盟を保持した。その東匈奴と漢帝国は、西匈奴をカザフ草原あたりで撃破した。その後、西匈奴は、歴史上から消え、そして、4世紀後半、フン族となってヨーロッパに現れた。
その東匈奴も、いったん消滅した「漢」が、「後漢」となって再生した紀元1世紀半ばごろ、南北に割れた。その結果、東匈奴の支配下にあったパミール以東のオアシス都市国家は、後漢の支配下となった。
南ヨーロッパでは、紀元前27年アウグスツスが、初代ローマ皇帝となり、ローマ帝国が興った。ローマ帝国では、ソグドなどの国際交易商人が東アジアからもたらす「絹」の需要が高まり、金と同量で取引されるようになったローマ帝国では、東アジアは、憧れの地となっていく。
絹が欲しい「ローマ帝国」と、アラブ種馬がほしい「後漢」との、オアシス都市国家が結ぶ「シルクロード」は、紀元1世紀からと思われているようだが、それ以前、紀元前3世紀から、騎馬民族により続いていた。オアシス都市国家による国際交易は、匈奴から後漢へと、その支配者が替わったのだ。
このローマ帝国と後漢との国際交易時代の紀元1世紀、ギリシャ文化継承国のバクトリアの地であった、北インドの国際交易都市ガンダーラに、突然、数多くのギリシャ語経典(仏教史では、サンスクリット語経典とする。現存するサンスクリット語経典は、7世紀、漢訳経典から復元したものだ。サンスクリット語の租語は、ギリシャ語。)が出現した。これが、所謂、大乗仏教経典と伝わるものだ。初期の大乗仏教は、ガリガリの仏像がギリシャ彫刻の影響を強く受け写実的であったように、多分に、ギリシャ文化色が強かった。
この大乗仏教が発明された紀元1世紀の東西の帝国は、東の後漢も西のローマ帝国も、被支配者の異民族が度々武装蜂起していたように、軍事的に不安定な時期だった。
被征服民の異民族を支配するには、二つの統治方法がある。ひとつは、「武力」で、もうひとつは「思想」だ。その思想統治のひとつとして、「宗教」が最も有効だ。しかし、後漢にもローマ帝国にも、被征服民の異民族を纏められるほどの強力な宗教が存在していなかった。
ロンギヌスの長槍で武装する歩兵軍団を擁するローマ帝国では、谷を埋め峠を切り通し直線道路(昭和時代、田中首相が唱えた日本列島改造論により、日本列島に高速道路を敷設した時発掘された「古代の高速道路」は、谷は埋められ、峠は切り通されていた。更に、路面は版築法(紀元前3世紀に秦帝国が築いた万里の長城も、紀元3世紀の前方後円墳も、この工法で、搗き固められ日干しレンガのようになっていた。)で固められ、側溝も整備されていた。)を敷設する技術や高度土木建築技術はあっても、独自の宗教がなく、その文化の多くをギリシャ文化から引き継いでいた。
紀元1世紀、国際都市となったローマ市には、ユーラシア大陸の東西を結ぶ国際交易商人達が、いろいろな宗教をもたらしていた。そのひとつに、紀元前13世紀、鉄器を発明した古代ヒッタイト帝国における国際交易での「契約の神」、太陽神ミトラがあった。
「契約の神」ミトラは、交易地である広場の「庭」での交易の不正を見守る太陽神だ。このミトラ神が、ローマ帝国時代、敵と対峙する戦場で、ローマ帝国軍団の兵士を見護り、不正なく勇敢に戦って死んだ兵士を、再生させる「軍神ミトラ」へと変身した。それは、太陽神ミトラは、日の出の神、天中の神、日没の神の3神で、太陽神は日没で死ぬが、翌日、再び日の出となって現れるため、「再生の神」として古くから信じられていたからだ。
では、西のローマ帝国から、ソグドなどの国際交易民が渡来していた東の後漢では、どのような宗教が存在していたのか。
紀元1世紀、農本主義の儒教の存在は分かるが、漢訳仏教(3世紀成立)も道教(5世紀成立)の存在は、未だない。それ以前の紀元前3世紀、中国本土を短期間に統一した、ギリシャ文化継承国バクトリアの衛星国の秦帝国での宗教も、分からない。
宗教史では、紀元1世紀のガンダーラで、在家庶民の苦を救うため、サンスクリット語の大乗仏教経典が、釈尊の教えを基に著わされた、と述べている。しかし、近代国家が成立するまで、最も苦しんでいたのは、庶民よりも奴隷だ。
紀元1世紀、大乗仏教が突然現れる以前、北インドでは、アーリア系のバラモン僧により、バラモン(司祭者)、クシャトリア(王族・戦士)、ヴァイシャ(庶民)、シュードラ(奴隷)の身分制度を確立していた。しかし、そのカースト制度から外れる、遊牧民族の不可触賎民チャンダーラも存在していた。
紀元前5世紀、仏教を発明したと伝わる釈尊は、そのバラモン教が発明した輪廻のカルマから逃れるため、人間と死者との中間の「非人」となり、経済活動を放棄して「乞食」することを説いていたのだ。それは、バラモン教では、バラモンは死んでもバラモンとして生まれ変わり、シュードラは死んでも、バラモンには生まれ変われることはなく、シュードラとして生まれ変わる、としていたからだ。この時代では、他のものに生まれ変わるとする「輪廻転生」ではなく、永遠に替わらない「輪廻」だ。
大乗仏教が苦しむひとびとを救う宗教とするならば、そして、釈尊の教えを引き継いだと主張するならば、シュードラよりも、チャンダーラを救済対象とするはずだ。しかし、紀元1世紀、ガンダーラで発明された大乗仏教経典の原典で、そのことを調べることは出来ない。
それは、紀元3世紀、東アジアで、バラモン僧のナガールジュナが、匈奴騎馬民族の勢いがなくなり、漢族の農耕民族が勢いを増した頃合を見はかり、騎馬民族を貶めるために、肉食するチャンダーラを「施陀羅」(平安時代初期、錬金術師空海は、「施陀羅悪人ナリ」と著書で述べていた。)と訳し漢訳仏教経典に挿入し、ギリシャ語経典から漢訳仏教経典を創作し終わると、全てのギリシャ語原典を焚書していたからだ。
では、紀元1世紀の大乗仏教が、今に伝わる大乗仏教かを、知ることが出来ないのか。それは、般若湯を飲み妻帯を許可する、ニッポン仏教の歴史から推測できるようだ。
仏教史によれば、鎌倉時代に、堕落した貴族仏教に対して、庶民救済のための「鎌倉新仏教」が登場した、と述べている。その中で、最も庶民を救ったのが浄土宗と浄土真宗だと述べている。しかし、この浄土宗は、不思議な宗教だ。そして、その浄土宗から派生したとする浄土真宗は、更に、不思議な宗教なのだ。これらの宗教は、果たして、釈尊の教えとする仏教と言えるのか。そして、鎌倉時代の庶民を苦悩から救ったとする浄土真宗(?)は、鎌倉時代には、独立していなくて、浄土宗と思想上敵対する、亡命百済貴族を加持する天台宗の傘下にあった。
藤原日本史では、浄土思想の流れは、空也→法然→親鸞(イエス・キリストと同じに、架空の人物。その根拠は、両名とも、大活躍したとする同年代の史料に、その名の掲載がない。親鸞の場合、決定的なのは、敵宗教を誹謗中傷する日蓮の書に、法然の弟子達の名前の記載があるのに、浄土真宗開祖物語では、法然の第一弟子とする親鸞の名前の記載は、ない。両名の思想や著述物は、本人が著述したものではなく、その弟子達が「伝え聞いたとする」伝聞を記述したとする。そして、両名の実在の証拠としては、イエス・キリストの場合は、マグダラのマリアがイエスの死と復活を見届けたとする。親鸞の場合は、大正10年(1921年)西本願寺の宝物庫から妻であったとされる覚信尼の「恵信尼消息」という書状が発見され、その内容が伝聞と一致するから、とする。更に、「パウロ」と「蓮如」(苗字は日野、姓は藤原氏)の言動の一致には、偶然とは思えないある種の作為を感じる。)、と述べる。そして、その思想の基は、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、極楽浄土が約束されるとする。その「南無阿弥陀仏」の意味は、「私はアミ様を信じます。」、だ。
では、その阿弥陀とは、何なのだ。そして、その阿弥陀は、仏教史で述べられているように、鎌倉新仏教時代より今日まで、全ての庶民から慕われていたのか。
昭和50年(1975年)、京都市の地下鉄工事で、二条御所付近から発掘された、頭などを破壊されていた無数の石仏の多くは、阿弥陀仏だった。
この仕業は、永禄12年(1569年)イエズス会の傀儡将軍織田信長が、足利義昭に進呈する二条御所の建築の際に、近畿一帯から基礎石として阿弥陀仏の石像を集めさせ、それを破壊したものだった。何故、織田信長は、多くの阿弥陀の石仏を破壊したのか。それは、織田信長の三代先の墓が、垣内(賎民居住地)にあったからだ。
太陽神アミダーバを、漢訳仏教の阿弥陀仏として改竄し、思想武器として利用した王権は、税を搾取し易い農耕民族を「常民」とし、人工神ではなく太陽や星などの自然神を祀り、移動を常とする騎馬民族や海洋民族を異民族として貶めていたからだ。その織田信長は、アラブ系海洋民族の「平家」末裔の「余部」(海部の蔑称)だった。
宗教に興味がないひとでも、「アミダくじ」のことは知っているし、いちどは行った経験があるはずだ。それは、縦線に任意の横棒を引き、縦線を階段状に末端まで辿って行く「くじ」だ。しかし、「アミダくじ」の租は、放射状の線に、切れ切れの同心円を書き込んでいた。それは、「太陽光線」を表した「くじ」だった。
その太陽神とは、世界共通で、すべてのひと平等に恩恵を与える(遍照)、再生の神だ。つまり、死後の浄土を約束する神だ。しかし、釈尊の教え(仏教)には、浄土など存在しない。それは、釈尊は、肉食する民族をチャンダーラ(不可蝕賎民)とし、輪廻のカルマで苦しめるバラモン僧が発明したカースト制度思想から逃れるため、「乞食」し、「非人」として生きることを説いていたからだ。
3世紀、後漢の時代に現れた漢訳仏教での「阿弥陀」と漢訳される前は、「アミダーバ」で、「太陽神」のことだ。それは、国際交易民がもたらした「契約神」の太陽神ミトラが、弥勒菩薩と漢訳されたのと同じだ。
バラモン僧ナガールジュナが、漢訳仏教経典を「翻訳」(創作)する以前、紀元166年後漢には、ローマ帝国の皇帝マルクス=アウレリウスの使者が渡来していた。西のローマ帝国と東の後漢には、ソグドなどの国際交易商人の他に、ローマ帝国の軍人も渡来していた。とすると、ローマ帝国の軍神のミトラの伝来も考えられるはずだ。
紀元184年後漢に黄巾の乱が起こる。その後、中華本土の各地に割拠した豪族、軍閥たちの中から、曹操、孫権、劉備が浮上した。これらの武将の軍団には、匈奴残党軍も組み込まれていた。
そして、中華での戦いに敗れた軍団の中には、新天地を求めた騎馬軍団もいた。その中には、日本海を渡った騎馬民族も存在した。日本列島は、縄文時代から国際交易をおこなっていたほど資源があることが、東アジアの諸国に広く知られていたからだ。
騎馬民族集団に組み込まれていた、タタラ製鉄をおこなう産鉄民族には、「馬」だけではなく、「船」による広域物流をおこなう民族もいたから、ユーラシア大陸の極東の内海(日本海)など、わけなく渡海できた。
曹操の子曹丕は、後漢王朝の献帝よりゆずられて、華北に魏(220年〜265年)を興した。この魏の史書「魏志倭人伝」によれば、239年邪馬台国女王卑弥呼が、帯方郡に使者を送ったとする。
魏は、ローマ帝国と絹馬交易をおこなっていた後漢の後継国だから、当然、ローマ帝国との交易のため、絹の増産を目指していた。この頃の日本列島の一部は、魏の武将が度々渡来していたほど、中国大陸諸国で絹製品を織るための繭生産の殖民地となっていた。
孫権は、江南に呉(222年〜280年)を興した。
劉備は、四川に蜀(221年〜263年)を興した。
これらの三国が、魏・呉・蜀の三国時代とされるものだ。しかし、その三国の統治年代を比べると、数十年の歴史の一駒だった。
魏は、蜀を併合し、その魏を、武将の司馬氏が奪って、晋(265年〜316年)と称し、呉を倒して、統一王朝となった。しかし、司馬氏の諸王の内乱が、300年に起こると、南匈奴の後裔の劉淵(りゆえん)という王子が浮上した。
南匈奴の王族たちは、匈奴語で「ランテイ氏」で、漢姓では劉氏だった。つまり、劉淵は、匈奴と漢の血を受け継いでいたのだ。その劉淵は、騎馬戦力を保持する山西匈奴王国と連携し、304年匈奴による漢王朝を興したが、310年晋朝打倒作戦のさなか他界した。しかし、311年晋の首都洛陽は、漢王朝の匈奴軍のまえに陥落し、かっての呉の地に、晋とは異なる、東晋が興った。
東アジアの騎馬民族軍団は、匈奴だけではなかった。
紀元1世紀なかば、匈奴国家が南北に分裂した後、モンゴル高原では、ふたつの騎馬集団が浮上した。それらは、匈奴国家成立期に、敵性勢力の東胡の系譜を引く、鮮卑と烏丸だ。
匈奴軍団が、チュルク系とモンゴル系のハイブリッドに対して、東胡とは、ユーラシア大陸の東方に居住するペルシャ系のことだ。漢民族は、西域の民族を総称して、「胡族」としていた。
156年、いくつもの集団にわかれていた「部」の鮮卑に、檀石槐という英雄が現れ、北匈奴の一部も吸収し、東はマンチュリアから西はジュンガリアまでを版図として、鮮卑王国を興した。しかし、181年檀石槐が死ぬと、騎馬遊牧民族国家の宿命どおり、「風の王国」である鮮卑帝国は一気に瓦解した。
東胡の系譜を引く、もう一方の烏丸は、曹操権力に組み込まれ、「烏桓突騎」の機動部隊に変身し、歴史の表舞台から消えていった。
その鮮卑帝国の瓦解直後に、後漢が崩壊すると、魏・蜀・呉の三国が中華再編の争いを繰り広げていた頃、モンゴル高原でも、鮮卑族のそれぞれの「部」が、争いを繰り広げていた。更に、匈奴帝国時代、その支配下に位置していた朝鮮半島でも、魏・呉・蜀の三国時代、馬韓・弁韓・辰韓の三韓時代となり、三つ巴の戦いを繰り広げていた。この頃、日本列島には、魏志倭人伝に記述されていた、卑弥呼の邪馬台国の存在だけが歴史上知られていた。
争いを繰り広げていたそれぞれの鮮卑の「部」とは、拓跋(たくばつ)、宇文(うぶん)、慕容(ぼうよう)、段(だん)、乞伏(きつふく)、などだ。それらの部族名は、漢字音写で、チュルク語かモンゴル語かは分からない。それは、1271年モンゴル帝国が興る以前には、チュルク語とモンゴル語との線引きができないほど似通っていたからだ。
東アジアの歴史は、匈奴・漢の2大帝国時代から、鮮卑・魏晋のまとまりを経て、更に巨大な分裂・再編・統合へと、モンゴル草原と中華とで同時に起こっていく。
東洋史では、4世紀から5世紀のなかばまでを、中華分裂時代の五胡十六国時代と云う。
五胡とは、チュルク・モンゴル系の匈奴、羯(けつ)、チベット系の「てい」、羌(きよう)、そして、鮮卑のことだ。それらの5部族が、前趙、前蜀、後趙、前燕、前涼、前秦、後燕、後秦、西秦、後涼、南涼、北涼、南燕、西涼、夏、北燕の合計16の国家を興し、亡んだから、東洋史では、五胡十六国とするようだ。
漢族ではなく、胡族(ペルシャ系)・チュルク系・モンゴル系が中華を支配していた時代、朝鮮半島では、高句麗、百済、古代新羅が三つ巴の戦いをおこなっていた。そして、372年高句麗には、前秦から漢訳仏教が伝来し、384年百済には、東晋より漢訳仏教が伝来していた。しかし、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅には、528年まで仏教が伝来していなかった。
藤原日本史では、4世紀、日本人の租である倭人が、奈良盆地に大和王朝を樹立し、369年朝鮮半島南端に「任那日本府」を設置していた、とする。しかし、その倭人とは、漢民族からの蔑称で、日本列島住民を示す名称ではなく、「小さくて醜いひと」の意味だ。南方系の文化を保持する倭人は、当時の日本列島だけではなく、朝鮮半島や中華にも「小都市国家」の集落を形成していた。
439年五胡十六国を北魏が統一し、華北に北魏以下の「北朝」、江南に東晋の後を受け継いだ宋朝以下の「南朝」が連続する、南北朝時代とする、中華歴史には、疑問がある。
それは、北魏は、439年より以前から存在していたからだ。北魏は、310年代国(だいこく)と称し、山西北辺、長城地帯にささやかな集団とした、鮮卑拓跋部が結成した国だ。
鮮卑拓跋部の興した代国は、北魏→東魏と西魏に分裂→北斉・北周→隋→唐へと国名が変化するが、それらの国は、すべてチュルク・モンゴル系の鮮卑拓跋系集団が、国家の中核となっていた。中華国家の中で、純粋な漢族王朝と言えそうなのは、漢・宋・明ぐらいだ。
では、何故、それらの国々の支配者が、騎馬遊牧民族の血が流れているとの指摘を嫌がっていたのか。
それは、漢民族が創作した「漢字」(表意文字である漢字には、字自体に華夷の差別思想が内在している。蘇我氏の名前と同じに、騎馬民族名の漢字は、全て蔑称漢字で記述されている。)による歴史物語や、血・肉食禁忌の漢訳仏教思想などで、肉食する騎馬遊牧民族を劣等民族として貶めていたからだ。しかし、それに反論する騎馬民族の文化・歴史を示す書籍はない。
鮮卑拓跋部連合体出身の唐朝は、漢族の出自ではなく、異族である騎馬遊牧民族の出を指摘されるのを嫌がっていた。
南北朝という括り方をした「南史」と「北史」、更には、「隋書」もすべて唐朝で国家編纂されていた。その「隋書」倭国伝には、「日のいづるところの天子、日の没するところの天子に書をいたす。つつがなきや。」、の文面に煬帝は激怒した、とある。
藤原日本史では、この文書は、飛鳥時代に聖徳太子が書かれたもので、隋と対等交易をおこなっていた証拠だ、としていた。しかし、天子を「テングリ」と読めば、その文章が、明日香ヤマトの騎馬民族の王様から、隋帝国の騎馬民族の王様へのご挨拶文であることが分かる。
この文書は、明日香ヤマトを支配した突厥軍団の王から、煬帝は漢族を装っているが、実際は、鮮卑拓跋部の出自であることを知っている、とほのめかしたものであることが分かる。
煬帝が激怒したのは、「日の没するところ」ではなく、「天子・テングリ」(騎馬民族王の呼称)の文字に激怒したのだ。それは、煬帝は、漢族ではなく、異族の出自を指摘されるのを嫌がっていたからだ。
唐朝初期、父太宗(李世民)から息子高宗の支配時代に、南北朝については、王朝ごとに南朝の「梁書」、「陳書」、北朝の「北斉書」、「周書」、「隋書」も編纂された。
太宗期には、「梁書」、「陳書」、「北斉書」、「周書」、「隋書」の五代史が編纂された。そして、646年には、「晋書」が編纂された。
高宗期には、「南史」と「北史」が完成した。
中国正史とされる「史記」から「明史」までの24史のうち、8の正史が、この唐朝初期の太宗・高宗父子によって編纂されていた。
因みに、この父太宗の皇后武氏は、649年太宗が死去すると、息子高宗の皇后となった。そして、684年高宗が死去すると、皇后武氏は、漢訳仏教組織を利用して、政権を乗っ取った。そして、実権を握った皇后武氏は、唐の通訳(藤原不比等)を使者として、唐の律令制度と租庸調の税制、唐帝国と傀儡女帝持統天皇王朝と日時を連動させるための儀鳳暦、そして、漢訳仏教思想により、日本列島の陸奥国砂金の奪取経営に乗り出した。この時代を、藤原日本史では、奈良時代と述べる。
奈良時代に、奈良盆地に点在する巨大前方後円墳を破壊した跡に、平城京が造営されたが、その設計は唐の長安のコピーだ。奈良を訪れる中国旅行者は、点在する仏寺の奈良の都を見学した印象を、まるで西安に来たようだ、との感想を述べるようだ。それは、当然だ。唐から渡来した鑑真が築いたとする唐招提寺とは、「唐の寺」の意味だからだ。
3世紀半ばから6世紀までの騎馬遊牧民族が活躍していたアジア東方の歴史について、唐朝、とりわけ李世民の作為と述作のなかにいる、と言っても過言ではない。
この流れを引き継ぐように、李世民の皇后武氏が、690年則天武后となり、日本列島の騎馬民族が、5世紀半ばから7世紀半ばまでを支配していた古墳時代の歴史を改竄するために、藤原不比等に著せたのが、720年完成の漢字・漢文による「日本書記」だ。その「日本書記」の物語を否定するために、奈良時代の712年ではなく、平安時代の812年完成の「古事記」は、漢字・和文(北方騎馬民族語であるウラル語文法)だ。
キリストと同じに厩で生まれたとする、厩戸皇子(聖徳太子ほか多数の偽名がある。)が活躍していたとする飛鳥時代の物語のウソを知る一部の覚醒したひとを除いて、死者は再生すると信じる4世紀から7世紀末までの古墳時代に、死者を穢れとして燃やしてしまう漢訳仏教が552年(一説538年・日本初の火葬された天皇は、697年女帝持統天皇)に伝来したと信じる多くの日本人は、未だ、7世紀末に30代の壮年として、突然、日本の歴史上に現れた、カスピ海沿岸を支配していた国際交易立国のハザール王国(8世紀、ほとんどの国民は、ユダヤ教に改宗。白いユダヤ人の登場。「旧約聖書」よりも「タルムード」を熟読する。)を租国とする、藤原不比等(藤原日本史で、645年「大化改新」物語で活躍した不比等の父とする中臣鎌足は、架空の人物。その根拠は、「大化改新」は、朝鮮半島の「ヒドンの乱」のコピーだからだ。)の作為と述作(マインドコントロール)のなかにいる、と言っても過言ではないようだ。
藤原氏一族が、日本列島の先住民であった騎馬民族の歴史を抹殺するために創作したものには、「旧約聖書」と「日本書記」の天地創造物語、ユダヤ教の神ヤハヴェと騎馬民族の王テングリの天皇から現御神(明治革命後、現人神に変身)に改竄された天皇は共に絶対神、ユダヤ教儀式と中臣神道儀式、苦しむ民を救うキリスト物語を語るパウロと親鸞物語を語る蓮如などのように、ユダヤ教やユダヤ・キリスト教の思想や物語と酷似するものが多くあるのは、そのためだ。
唐帝国の李世民が、東アジアの歴史を述作した3世紀半ばから6世紀までとは、日本列島では、騎馬遊牧民族が活躍していた古墳時代だ。
その5世紀からの古墳の埋葬物は、鏡や土器製食器などの日常生活物から実戦用鉄製武器・馬具類に替わっていく。そして、日本海沿岸の東北各地の湊を起点として、道幅12mの直線道路の北陸道、東山道、東海道が、近畿一帯で合流し、そこから更に、山陽道、山陰道を経由して、北九州まで延びている。何故なのか。それは、ユーラシア大陸で、新たな騎馬遊牧民族の勃興と関係があったからだ。
藤原日本史では、中国史料にある「倭の五王」の、漢語名の讃、珍、済、興、武が大和朝廷を支配していたとする、そして、奈良時代の713年好字令以降による「倭の五王」の漢字二文字の日本名の仁徳天皇から、反正天皇、充恭天皇、安康天皇、雄略天皇までの4世紀から5世紀にかけて、東ユーラシアでは、鮮卑諸族の南下でがらあきとなったモンゴル高原では、ペルシャ系の東胡の苗裔であったと伝わる柔然(じゅうぜん)という遊牧集団が浮上した。
柔然は、勿論、漢字音写であるが、蠕蠕(ぜんぜん)、茹茹(じょじょ)などとも称されていたが、それらは漢民族による蔑称だ。
402年、社崙(しゃろん)という遊牧民の族長が、外モンゴリアに進出した。社崙は、西はカラ・シャフルから、東は朝鮮半島、北はバイカル湖、南は甘粛の北までの草原統一に成功した。そして、社崙は、それまでの遊牧集団を、匈奴遊牧国家以来の伝統となっていた十進法体系の軍事、行政、社会組織に再編した。
このことにより、モンゴル草原を統一し、遊牧民国家となった柔然の王となった社崙は、みずから、丘豆伐可汗(きゅうとうばつかかん)と名乗った。これが、後のカガン・カンの称号の初出だ。カガン・カンとは、漢民族文化と融合していた、騎馬民族拓跋部が支配する北魏での皇帝を意味した。
この後、カガン・カンの称号は、チュルク・モンゴル系を初めとする中央ユーラシアの騎馬遊牧民族国家において、君主、王侯、首長、領袖を表わすタイトルとなっていく。
柔然国家も、匈奴国家と同じように、タリム盆地のオアシス諸都市を接取した。それは、東ローマ帝国との絹馬交易を見据えての行動だ。
華北の分立国家を、439年北魏がほぼ統一すると、華北上の草原地帯を支配する柔然は、東ローマ帝国との絹馬交易をおこなっていた北魏とは宿敵関係となった。
絹の主な生産地は華南だ。柔然が、絹を求めて華南へ到達するには、宿敵国の北魏の支配地である華北を通過しなければならない。そこで、柔然は、絹を求めるため、中央アジア、チベット、モンゴリア、華北に囲まれた青海地方を経由するルートで、華南と連絡をとることさえしていた。しかし、青海地方に到達するには、広大な砂漠や高峰山脈を越えなければならなかった。そこで、柔然は、華南に至る別ルートを開拓しなければならなかった。
軍事力を持つ遊牧民と経済力を持つオアシス通商民との共生関係は、紀元前2世紀、突然、東ユーラシアを短期間のうちに統一した、騎馬遊牧民族国家の匈奴からあった。その匈奴国家の経済を裏から支えていたのは、紀元前6世紀ダリオスが支配するペルシャ帝国領地に居住していた、アラム語を祖語とするソグド語を話すソクド国際商人が存在していた。国際商人は、取引先を求めて地の果てまでも旅する民族だ。
馬を乗りこなす騎馬民族には、鉄製の轡を製造する産鉄民族が従属していた。その産鉄民族の配下には、鉄製造のための大量の資材を広域から輸送するための、「船」と「馬」による大輸送集団が存在していた。産鉄民族は、鉄資源と燃料である木を求めて、はるか彼方の諸国まで、「船」と「馬」により移動していた。
バイカル湖を船で航行する技術を持つ「船」による物流輸送民族には、極東の、時計の逆周りの海流がある内海(日本海)を航行することは可能だ。ユーラシア大陸の極東の湊ウラジオストックから、日本列島に向けて多くの船団が、日本列島の出雲から東北地方までの湊に渡来していた。
サハリン、北海道、本土、九州、沖縄諸島、台湾などの島々は、柔然の経済を支えるソグド国際商人にとっては、絹生産地の華南に到達するための、ユーラシア大陸と華南を結ぶ、「船」と「馬」の輸送集団の回廊だったのだ。
出雲以北から日本海の東北沿岸には、巨木文化の遺物・遺跡が多く発掘される。出雲では、三本柱を束ねた巨木遺物が発掘された。マスコミでは、それは古代の神殿の柱だと報道していたが、年代的には鎌倉時代のものだった。
その鎌倉時代とは、藤原日本史では、モンゴル帝国の国書を焚書したり、国使を惨殺して国交断絶したように描写しているが、史実は、モンゴル帝国による国際的自由交易の時代で、日本に南宋から亡命して来た禅僧が、国際交易に活躍していた時代だった。禅僧が、モンゴル帝国との国際交易で活躍できたのは、モンゴル帝国の国際海洋交易システムは、ヨーロッパやインドとの国際交易をおこなっていた南宋国の海洋交易シスタムをそのままそっくりモンゴル帝国が受け継いでいたからだ。
因みに、神社(もり)や神殿は、神話時代からのものではなく、古墳時代が終わった、奈良時代に発明されたものだ。その根拠は、由緒ある神社や神殿の下には、古墳の石室が眠っているからだ。一例として、近江の白鬚神社の岩戸社の下には、今でも、古墳の石室が眠っている。白鬚神社の岩戸社は、古墳を破壊した跡に建てられたものだからだ。
その出雲の巨木遺物は、無批判に「日本書記」を日本列島史の基礎資料とするマスコミが述べるように古代神殿の構造物などではなく、古代の灯台の構造物の一部だ。昼は狼煙、夜はかがり火を焚いて、航海の安全を目的に築造されたものだ。日本海沿岸の出雲から東北に向けて、ウラジオストックから渡来する船舶は、それらの古代の灯台を目指して航行していたのだ。
紀元前3世紀、秦帝国の始皇帝を騙して、蓬莱国(日本列島)に3000名の童女や多種の技術者を乗せた竜骨を持つ外洋船により渡航した、徐福が存在していたように、外洋を航海する集団は、紀元前13世紀フェニキアの海洋民族がペルシャ湾から南インドまで航行していたタルシシ船が存在していたように、古来から存在していた。
柔然国家が成長・発展していた頃、5世紀から6世紀なかば、中央アジアでは、エフタル、漢語文献では悒怛(ゆうたん)と通称される、イラン系の言語を使う遊牧民の軍事集団が強大となっていた。
エフタルの本拠地は、アフガン・トルキスタンであったが、更に、インド要地ガンダーラ(古代名アレキサンドリア・紀元1世紀、大乗仏教の無数のギリシャ語経典が、ガンダーラ(アレキサンドリア)で発明されたように、ギリシャ語の「新約聖書」も、エジプトのアレキサンドリアではなく、ガンダーラ(アレキサンドリア)で発明された。ブッダ物語とキリスト物語が酷似しているのは、共に、ガンダーラ(アレキサンドリア)で発明されていたからだ。)には、チュルク語で王子、諸王などの意味のテギンを付けた、エフタル・テギンと呼ばれる王子が率いる軍団が駐留していた。
なお、この頃の、大乗仏教の盛地であったガンダーラは、衰退していた。それは、エフタルによる破壊が原因ではなく、国際交易ルートの変化によるものだった。
こうした状況に、5世紀の末、もうひとつの勢力が浮上した。東の柔然と西のエフタルとの間、アルタイから天山にかけての地域に、高車族による独立の遊牧国家が出現した。
高車族とは、他称で、高々とした車輪の馬車を使用していたからだ。その高車族の中核集団は、チュルク系で、匈奴統一以前の丁零(ていれい)に遡るとされる。高車族は、柔然という遊牧連合体が成立した時、いったん服属されられたが、阿伏至羅(あふくしら)を指導者に西方に移動し、柔然と戦闘状態の北魏と連絡をとりつつ、柔然とエフタルの間隙に独立建国をしたのだ。高車国は、純チュルク系の遊牧民としての最初の国家だった。
5世紀の草原世界は、東のチュルク・モンゴル系の連合体の柔然、チュルク系の高車、イラン系のエフタルの三種の遊牧国家が鼎立していた。
その三国を、東には拓跋国家の北魏、そして、西には重装備騎兵を主要な軍事力としたササン朝ペルシャとが挟み込んでいた。更に、南中国の南朝と、東地中海地域の東ローマ帝国も、その五カ国と角逐しあっていた。

この東アジアと東地中海地域との「絹馬」の国際交易がおこなわれていた5世紀、日本列島では、藤原日本史の基本史料の「日本書記」では、氏とその社会的地位を表わす姓(かばね)が、一定の職務を持って大王に奉仕する親族集団として成立していた、とする。その氏姓の呼称の定着は、まず倭王権力を構成する畿内豪族から始まった、とする。そして、5世紀のトモ(伴)から、6世紀には、部民制が倭国に導入された、とする。
では、その部民制の「部」とは、何か。そして、それはどこから導入されたのか。この問いの答えは、「日本書記」にはない。それは、「日本書記」に書けないのではなく、書かないのだ。書けば、5世紀の東アジアと日本列島とが、騎馬民族を媒介として連動していることが、バレルからだ。
藤原日本史の5世紀の国際的できごとのハイライトは、「倭の五王」の活躍だ。
413年倭王讃、東晋に遣使。
421年倭王讃、宋の武帝より除授。
425年司馬曹達、宋に入貢。
430年宋に朝貢。
438年倭王珍、宋に朝貢。安東将軍の号を得る。
443年倭王斉、宋に遣使。
460年倭王興、宋に遣使。
462年倭王斉死、その子興、宋に遣使。
478年倭王武、宋に遣使。
この年表を見て、何か不思議を感じることはないか。
5世紀の東アジアの歴史図を見てみよう。すると、北方の草原地帯に「柔然」、その下の華北に「北魏」、そして、その下の華南に「宋」が位置していることが分かる。倭の五王は、何故、「柔然」や「北魏」に朝貢しなかったのか。そもそも、倭の五王は、何故、華南の「東晋」や「宋」に度々朝貢していたのか。
華南といえば、「柔然」が絹の交易を望んだ国だ。「柔然」は、華南との交易の為に青海地域の交易ルートを開発するほど、絹の入手を望んでいた。勿論、東ローマ帝国と絹馬交易をおこなっている「北魏」も、そうだ。しかし、「宋」と「北魏」は度々紛争を起こしている。
その「柔然」も「北魏」も騎馬民族の支配国だ。騎馬民族は、ピラミッド型の組織ではなく、小さな集団の連合体だ。その集団のひとつが、血縁・地縁で結ばれた「部」だ。「部」とは、騎馬民族の構成集団の単位のことだ。因みに、「北魏」は、騎馬民族の拓跋部(漢姓元氏。禿髪氏の漢姓源氏の主人格。)が支配者だ。では、「宋」はどうなのか。「宋」は農本主義の国なので、「部」の存在はないに等しい。
藤原日本史で、日本列島の5世紀から6世紀にかけて、部民制が導入されたとの記述は、5世紀から6世紀にかけて、「柔然」の騎馬民族が、シルクロードを行き来するソグドの国際交易商人と伴に、「部族」を引きつれ、日本列島の日本海沿岸の各地へ渡来した史実を、捻じ曲げた物語だ。
その5世紀の日本列島各地では、「北魏」と「柔然」とが覇権を争そっていた東アジアと連動するように、「北魏」の進駐騎馬軍団と「柔然」の進駐騎馬軍団との熾烈な戦いが繰り広げられていた。勿論、朝鮮半島三国の「高句麗」、「百済」、「古代新羅」も、進駐軍により、日本列島各地にコロニーを築いていた。しかし、「日本国の軍団」は、5世紀には存在しない。それは、「日本国」は、7世紀末に創られたからだ。
これらの戦いの結果が、4世紀の祭祀道具が埋葬された古墳から、5世紀から実戦用鉄製武器と実戦用馬具が埋葬される古墳が出現した理由だ。
日本列島は、紀元1世紀以前より、南方系の民族が、水田稲作と養蚕のために渡来していた。その根拠は、水田稲作の技術用語の多くはタミル語で、そして、日本列島に持ち込まれたポンピックス・モリ種の蚕の原産地は、北方ではなく、南方だからだ。
紀元1世紀、東ローマ帝国が絹を金と等価交換で求めたため、日本列島は、東アジアの国々の養蚕の植民地となっていた。温暖な気候で、桑の育成が容易な日本列島では、何処の地域でも、養蚕は可能だ。その結果、東ローマ帝国と東アジアを結ぶシルクロードは、日本列島まで延びていた。その日本列島のシルクロードの終着点は、京都ではなく、群馬県だ。
群馬県は、1872年富岡製糸場が、明治革命の黒幕であるイギリス東インド会社のフリーメーソン組織により開業されたが、古代より絹の集散地として栄えていたからだ。それは、群馬県は、ひとつ山を越えれば、新潟県だ。日本海沿岸の各湊からのユーラシア大陸への海上ルートは、糸魚川の翡翠が中国皇帝へ献上されていたように、縄文の古代から開発されていた。
群馬県が古代から栄えていたとするその根拠は、畿内では標準とされる葺石された古墳が、関東で一番多く存在しているからだ。栃木県24基、埼玉県16基、茨城県8基、東京都3基、千葉県2基、神奈川県0基、しかし、群馬県は、131基だ。
騎馬民族が活躍した古墳時代、高原地帯の群馬県は、騎馬遊牧民族にとって、格好の夏営地だった。そして、冬営地は、群馬県の高原地帯の麓である荒川と利根川(藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉により、1590年源氏長者(源氏一族の棟梁。北魏の騎馬民族である禿髪氏を租とする源氏の漢姓は、平安時代に日本列島に導入され、814年嵯峨天皇の皇子達を源氏と賜姓した。嵯峨源氏・醍醐源氏が廟堂を支配していた時代、「表の軍団」の棟梁であった。しかし、藤原氏の陰謀により、嵯峨源氏・醍醐源氏一族が廟堂を追われると、「影の軍団」(野に下った武士→野武士。藤原日本史では山賊とする。)の棟梁となる。藤原氏は、日本列島各地の夏営地の山々に分散した「影の軍団」を支配するために、村上源氏、清和源氏(藤原氏の私兵、969年出自不明の満仲なる人物の密告により、源氏長者の醍醐源氏源高明が廟堂を追放され、ここに、嵯峨源氏・醍醐源氏一族は滅亡し、藤原日本史から姿を消す。清和源氏は、その密告者満仲を租とする。が、史実は、清和源氏とは、清和天皇の皇子、宮中で醍醐源氏の子息を殴り殺した陽成天皇の皇子に「陽成源氏」を賜姓したものを、「清和源氏」と改竄したもの。)などの「公家源氏」と「武家源氏」を発明し、「公家源氏」を源氏長者とした。藤原日本史では、奈良時代より東北の侵略軍団の征夷大将軍を日本国の軍団長とするが、古墳時代から江戸時代まで、日本列島の真の軍団長は、騎馬民族軍団長の「源氏長者」だった。)となる、関東の世良田部落出自の徳川家康が、多くの大河が流れ込む人も住めぬ関東の湿地帯に移封される以前、利根川は、太平洋に流れ込むのではなく、荒川と平行して江戸湾に流れ込んでいた。関八州を支配する「風の王国」である秦王国の秦氏長者である、弾左衛門により、利根川の川筋が変えられた。)とに挟まれた、辛亥年(471年)と銘記ある鉄剣(藤原日本史では、大和朝廷の雄略天皇から杖刀人首のヲワケに下賜された、とする。)が発掘された埼玉古墳群のある地帯だ。
騎馬遊牧民族は、夏営地と冬営地を行き来するため、恒常的建築物を築かない。だから、食生活の基本は、定着民族の炊事場であるカマドではなく、遊牧民族のイロリだ。カマド文化の西国に対して、東国がイロリ文化であるのは、古墳時代から東国が、騎馬遊牧民族の国であったからだ。
藤原日本史で述べる、5世紀の日本列島で活躍していたとする「倭の五王」とは、仁徳天皇、反正天皇、充恭天皇、安康天皇、雄略天皇など713年以降に、藤原不比等により発明された天皇などではなく、騎馬民族史から述べれば、華南の絹を求めた「柔然」の日本列島進駐騎馬軍団の、中世の「悪党」(悪い人達ではなく、勇者達の意味)を思わせる金メッキの馬具と派手な鎧兜で着飾った将軍達のことだった。

そのユーラシア大陸をまたぐ7カ国の角逐状況も、せいぜい半世紀のことで、6世紀のなかば、ほとんど突如として出現したのが、突厥だった。
突厥とは、チュルクの音訳だ。突厥は、アルタイ山の一帯で柔然連合体に臣属していた。しかし、突厥には、「船」と「馬」による広域物流技術を持った民族を随えた産鉄民族を保持していたため、鉄資源の開発を特徴として、広く他の騎馬民族には知られていた。
6世紀なかば、阿史那氏の土門(万人隊長)が中心となって結束を固め、産鉄技術により、柔然と高車との争いの間で浮上した。
その突厥は、まず、柔然とエフタルに挟まれて、弱体化した純チュルク民族の高車を、546年撃破し、併合した。そして、高車や北魏との長期戦で、連合体としてのたががゆるんだ柔然カガンの阿那壊をも、552年撃破し、モンゴル高原からジュンガル盆地一帯を掌中にした。563年、日本列島を含む東ユーラシア大陸を支配した突厥は、西に向かい、重装備騎兵を主要な軍事力とするササン朝ペルシャとむすび、中央アジアを支配していたエフタルを撃破した。
突厥は、ほんの20年にも満たないうちに、東はマンチュリアから西はビザンツ帝国の北、南はヒンドゥークシュにいたる大図版を実現した。
その要因は二つある。ひとつは、突厥は遊牧民だからこそ、そして、人種、宗教などにこだわらない融通無碍の構造だからこそ、短期間で世界帝国を樹立できた。もうひとつは、シル河とアム河の間を本拠地とする、東ローマ帝国と東アジアとの国際交易を行っていたソグド商人達との密接不可分の関係があったからだ。軍事力を持つ遊牧民と経済力を持つオアシス通商民との共生関係は、以前より存在していたが、突厥とソグドの提携関係は、ユーラシア規模で展開されていたからだ。
535年東西に分裂した北魏は、ふたつの拓跋国家となった。それらが、北斉と北周だ。552年突厥帝国を樹立すると、その二つの拓跋国家北斉と北周は、事実上、突厥の属国となった。
突厥は騎馬民族であるので、柔然と同様、連合体であった。チュルク語で、こうした連合体の政治、社会組織の全体を「イル」と言う。「イル」とは、国家とも言えるが、それは、固定した国家ではなく、ひとびとの塊が移動することにより、国家も移動する、言わば、「風の王国」なのだ。
13・14世紀のモンゴル帝国時代、モンゴル語で国家を表わす「ウルス」は、チュルク語の「イル」と同義語だ。
突厥帝国の君候たちが寄り集まった集合体の国家は、単一統制ではなく、それぞれの領袖たちのひとりひとりが、大小規模の属民と領域をもっていた。その属民は、遊牧民族だけとは限らず、オアシスなどの定住地域の都市民、農民、商人、手工業者などさまざまな人々をつつみこんでいた。
しかし、突厥帝国が、ユーラシア大陸の東西をひとつにまとめていたのは、せいぜい30年ほどのことだった。583年突厥帝国は、東西に分裂した。草原世界は、東突厥がモンゴル高原を本拠地とし、西突厥は、中央アジアと西北ユーラシアをおさえていた。
この突厥帝国の東西分裂は、拓跋国家の北斉と北周に幸いをもたらした。568年北周は、突厥王族阿史那氏を皇后に迎えた。突厥の影響下での北斉と北周との攻防戦は、再三の北周側の攻勢が実り、577年北斉の首都は陥落した。
華北統一をなしとげた北周の武帝は、578年突如他界した。そして、その実権は、581年、外戚の楊堅に移った。楊堅は、帝位に就くと、世伝の爵位である随国公に因んで、随朝と称した。
不正な手段で、随の文帝となった楊堅は、北周王室の復活を恐れて、宇文一族を殺害しまくった。対外政策では、強大な突厥と直接事をかまえるのを避け、突厥帝国のひび割れを誘導した。583年突厥帝国が、東西に分裂したのは、随の文帝の離間策の結果だった。突厥帝国の東西分裂騒ぎで動きの取れない間隙を利して、文帝は、南伐に打って出た。その結果、589年中華本土は、政治統一された。
突厥と拓跋国家との関係は、一方が順調な時は、他方が不調になる、ということだった。
随朝は、2代目の煬帝(ようだい)の時、東ローマ帝国と東アジアとの西方交易を掌握する青海地方の吐谷渾(とよくこん)をおさえ、更に、東へ向かい、マンチュリアから朝鮮半島北部の高句麗を討とうとした。しかし、3度におよぶ高句麗遠征の失敗から、618年、随朝は崩壊した。かくして、最後で、最長の騎馬民族が支配する拓跋国家が、618年唐朝として興った。
618年李淵、李世民父子が、駐留地の山西の大原から、随の帝都長安に入り、政権を奪取した時、東突厥の騎馬軍団に支えられていたのは、事実だった。つまり、成立当初の唐朝は、ふたたび強力となっていた東突厥の属国だった。
この史実は、漢民族文化に染まった騎馬民族末裔、唐帝国の太宗となった李世民には知られたくない歴史だった。そのために、李世民と高宗父子は、東アジア、特に、騎馬民族が支配者となって活躍した歴史を改竄した。
南北朝については、王朝ごとに南朝の「梁書」、「陳書」、北朝の「北斉書」、「周書」、「隋書」を編纂した。
太宗期には、「梁書」、「陳書」、「北斉書」、「周書」、「隋書」の五代史を編纂した。そして、646年には、「晋書」を編纂した。
高宗期には、「南史」と「北史」が完成した。
中国正史とされる「史記」から「明史」までの24史のうち、8の正史が、この唐朝初期の太宗・高宗父子によって編纂されていた。

この日本列島をも含む東アジアだけではなく、ユーラシア大陸を支配した突厥帝国と、東アジアの華北を支配していた拓跋国家の北斉、北周、随朝、唐朝との歴史関係から、藤原日本史を覗いて見ると、そこには、物部氏、蘇我氏、聖徳太子、推古天皇などが活躍する、奈良時代に藤原不比等が作述した、飛鳥時代物語の「ウソ」が分かるようだ。藤原日本史で述べる飛鳥時代、つまり、騎馬民族史では、古墳時代後期とは、東ローマ帝国との国際交易の舞台であるユーラシア大陸を支配していた突厥軍が、日本列島で活躍していた時代だった。
突厥が、西魏と通交したと歴史上に現れた545年から、東突厥が、唐帝国軍団に蹴散らされた630年後まで、藤原日本史ではどのような事績があったのか。

552年、百済の聖王、仏像及び経論を献ず。★ユーラシア大陸を支配下に置いた突厥帝国興る。
★568年、東ローマ帝国の返使ゼマルクス、突厥庭(草原の幕屋→幕府。騎馬民族の司令部)に入る。
★581年、楊堅、随朝を興す。
★582年、突厥、随朝に侵入。
★583年、楊堅の作術により、突厥が東西に分裂。
★584年、随朝、突厥を攻撃し勝つ。
585年、崇仏派の蘇我氏との神仏論争の結果、廃仏派の物部守屋、仏寺を焼き仏像を投棄。
587年、蘇我氏、神仏戦争で物部氏を滅ぼす。
588年、蘇我馬子、法興寺(飛鳥寺)着工、596年完成。
★589年、随朝、中国を統一。
592年、蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺。
593年、女帝推古天皇即位。聖徳太子、摂政となる。四天王寺創建。
600年、随に使を出す。(「隋書」では、倭国の男王アマタリヒコが、隋帝の煬帝に国書を出したことになっている。)
603年、官位十二階を制定。
604年、憲法十七条を制定。初めて、暦日を用いる。
607年、敬神の詔。国ごとに屯倉を置く。小野妹子を随に遣わす。法隆寺創建。
608年、隋使裴世清、小野妹子を伴い来朝。(「隋書」によれば、「隋使裴世(藤原日本史では、裴世清)は倭国の男王に謁見した、と煬帝に報告した。」、とある。)小野妹子再び入随。
609年、小野妹子帰朝。
★618年、随亡び、唐興る。
620年、天皇記、国記などの撰。
621年、新羅初めて朝貢。
622年、聖徳太子逝去。
626年、蘇我馬子死去。子蝦夷大臣となる。
628年、女帝推古天皇崩御。(812年、多人長(太安万侶は多臣の租)が作成した、奥付に和銅5年(712年)とある、720年完成の「日本書記」の引用文の「一書、一曰、旧本、一本、別本、或本、一伝」にいちいち反論する「古事記」は、女帝推古天皇物語で、わずか40文字程度の記述で終わる。)
★630年、唐帝国軍により東突厥散ず。犬上御田鍬を唐に派遣。遣唐使の初め。
643年、蘇我入鹿、山背大兄王とその一族を滅ぼす。
645年、中大兄皇子、中臣鎌足(藤原不比等の父?)の策謀により蘇我氏滅ぶ。大化の改新始まる。天皇記、国記を蘇我蝦夷が焼く。

藤原日本史の「日本書記」での飛鳥時代のハイライトは以上記したものだ。この藤原日本史を、他の史料で否定することは出来ない。それは、645年蘇我蝦夷が、天皇記と国記を焚書してしまったからだ、とする。
しかし、仏教の黎明期とする飛鳥時代以前の遺跡・遺構から、その藤原日本史の飛鳥時代物語に疑問を投げかけるものが、二箇所で出土していた。
ひとつは、596年完成とする法興寺の遺構だ。昭和31年から翌年にかけて発掘された塔の心礎から、硬玉、碧玉、瑪瑙、水晶、金、銀、ガラス玉(トンボ玉)、金の耳飾などが出土していた。これらの物品は、ギリシャ・ローマ文化継承の古代新羅の都慶州の丸山古墳(円墳)から多く出土するものだ。つまり、日本初の仏寺とされる法興寺(飛鳥寺)は、古墳を破壊した跡に、北九州から移築されたものだ。
そして、もうひとつは、626年死去したとされる蘇我馬子の墓、とされる石舞台古墳だ。昭和8年から2年にわたって発掘調査が行われた結果、石舞台古墳は、周濠を備えた一辺50mの「方墳」であることが判明した。
何故、石舞台古墳は、奈良盆地で多く造られていた前方後円墳ではなく、出雲地域から北陸にかけての日本海沿岸に多く造られていた、「方墳」なのか。発掘調査の結果、石舞台古墳は、6世紀後半から末頃に造られた7つの小円墳を壊して、7世紀前半の造営と推定された。
つまり、これらのことにより、6世紀末期まで明日香ヤマトを支配していた円墳墓制の北九州・瀬戸内海沿岸支配民族が、7世紀前半には、方墳墓制の出雲・北陸支配民族に敗れていた、ということが示唆される。
因みに、「円墳」は、3世紀末から、朝鮮半島南端、北九州、瀬戸内海沿岸を経由して、畿内に多く造られていた。藤原日本史では、古墳時代が終わったとされる奈良時代でも、東国の陸奥国の北上川一帯では、ユーラシアの騎馬民族の武器と同型の蕨手刀(日本刀の租)、ガラス玉や金製品の腕輪・耳飾りなどを埋葬した、多くの小型円墳が造られ続いていた。
藤原日本史の基本史料である「日本書記」によれば、飛鳥大和では、4世紀には、「大和朝廷」により天皇家の墓として巨大前方後円墳が造られていたのではないか。では、7世紀前半に、方墳を築いていた民族は、一体、何者なのか。しかし、「日本書記」は、古墳時代後期の史実を語らない。
この二つの遺跡・遺構から推測できることは、藤原日本史では蘇我氏とされる部族長が、飛鳥大和(騎馬民族史では、明日香ヤマト)地域を支配する以前、古代新羅と通ずる部族が暮らしていた、ということだ。
しかし、古代新羅が、「日本書記」では、621年新羅初めて朝貢、とあるように、それ以前まで国交のない憎き敵国として描かれているのは何故か。
現在の「日本書記」の研究では、「日本書記」は、巻1「神代上」から巻30「持統紀」まで、年代順に書き上げられたものでないことが分かった。「日本書記」は、巻14「雄略紀」と巻24「皇極紀」から書き始められていたのだ。
何故、「雄略紀」と「皇極紀」から書き始められたのかは、藤原日本史での「雄略天皇」の統治時代とは、5世紀、「騎馬民族征服説」が説くように朝鮮半島から北九州へではなく、ユーラシア大陸から日本海沿岸の出雲・北陸を経て日本列島各地への騎馬民族軍団が出現し東国を支配し、そして、「皇極天皇」の統治時代の7世紀半ば(645年)では、明日香ヤマトを支配していた騎馬民族の突厥が散逸されていたからだ。つまり、「日本書記」の企画意図のひとつは、柔然や突厥などの騎馬民族軍団の日本列島渡来の史実を隠蔽することだった。
そのためには、騎馬民族を歴史上から抹殺するトリックが必要だった。それが、騎馬民族突厥を蘇我氏として抹殺する「大化の改新」物語だ。「大化の改新」で幕を開ける孝徳朝の成立を説明するために、始めに「皇極紀」は書かれたのだ。「大化の改新」は、皇極朝の蘇我入鹿の暗殺が契機となっているので、「大化の改新」の経緯は、巻24「皇極紀」から記述されなければならなかった。
その根拠のひとつとして、「暦」がある。「日本書記」には、604年始めて暦日を用いた、とある。そして、持統4年(690年)初めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う、とある。
しかし、元嘉暦は、柔然の騎馬軍団とソグド国際交易商人とが日本列島を交易回廊として、「船」と「馬」で往来していた宋の元嘉22年(445年)に施行されていた。そして、その華南の宋の元嘉暦は、まもなく、東ローマ帝国と宋の間を行き来していたソグド国際交易商人などにより、倭国各地にも伝わっていた。
一方、儀鳳暦は、「麟徳暦」と呼び、唐の麟徳2年(665年)に施行され、儀鳳年間(676年〜679年)に「統一新羅」へも伝わり、次いで、初めて「日本国」が明日香ヤマトに生まれ、日本初の天皇である天武朝へも伝来したものだ。それは、つまり、「統一新羅」と天武朝の「日本国」とは、兄弟国だったからだ。
この古い元嘉暦ではなく、新しい儀鳳暦により、巻3「神武紀」から巻13「安康即位前紀」までは暦が推算されている。しかし、巻14「雄略紀」の前史となる康元年以降は、古い元嘉暦を用いている。それは、何故か。
「日本書記」の参考史料は、漢籍の「史記」「漢書」「後漢書」「三国志」「梁書」「随書」「芸文類聚」「文選」「金光明最勝王経」「淮南子」と、唐進駐軍の支配下となった郡司から提出された「墓記」、そして、「日本書記」の文注に引用された「百済記」「百済新撰」「百済本記」などだ。反新羅に絡む百済関連の記事が、平安時代の百済系桓武朝に挿入されていたことは、他の文体に比べて、字音仮名が古色を帯びて異なっていることから分かる。
「日本書記」創作時の参考書籍である、古墳時代の歴史を記した「墓記」は、古墳時代中期の4世紀から5世紀の歴史が書かれていたようだ。それは、丁度、元嘉暦が、ソグド国際商人などにより、日本列島各地で使用されていた時代だ。この頃の日本列島は、戦国の時代でもあったことは、古墳からの出土品により説明される。
この時代の古墳のひとつである、さきたま古墳群にある、前方後円墳の稲荷山古墳から出土の、辛亥年(471年)とある鉄剣銘の一部の漢字アルファベットの表記「獲加多支鹵」(ワカタケル・大王の名)「獲居」(ワケ)「足尼」(スクネ・騎馬民族語で勇者の意味)は、古代新羅語音(郷札・漢字アルファベット)の声調によって、倭国語(ウラル語系突厥語+多国語)のアクセントで表記されている。
この元嘉暦が使用されていた日本列島の諸国が、華南の宋と交易があったことは、その漢字アルファベット(万葉仮名)の発音で分かる。
漢字の発音は、大きく分けると呉音と漢音とがある。呉音は、4世紀〜6世紀の南朝音を母胎としている。それに対して、漢音は、7世紀〜9世紀頃の唐代北方音を母胎としている。それらは、同じ漢字でも、発音が全く別だ。例えば、

呉音:会(エ)人間(ニンゲン)兄弟(キョウダイ)和尚(ワジョウ)
漢音:会(カイ)人間(ジンカン)兄弟(ケイテイ)和尚(カショウ)

などだ。因みに、和尚を、現代では(オショウ)と発音するのは、13世紀、モンゴル帝国に敗れた南宋の禅僧が、鎌倉時代の日本国に亡命し、国際商人となりモンゴル帝国から輸入の書画骨董の売り捌き先の武家社会に、杭州音を伝えたからだ。
呉音と漢音との発音の違いは、呉音の全濁音の有声要素が、漢音では「無声音化」したことだ。そして、呉音の鼻濁音が、「非鼻音化」で濁音となったことだ。このことは、鼻濁音のヅーヅー弁の東北弁と、鼻濁音のない京都弁で説明できる。
日本列島への渡来民族の順序は、鼻濁音民族(出雲民族・東北民族)が先で、非鼻濁音民族(京都民族=亡命百済民族)が、後から渡来したことがわかる。このことは、奈良時代末期までの儀式は呉音でおこなわれていたのに、漢音で即位儀式を行った百済系桓武天皇は、延暦年間(782年〜806年)に、学生や僧侶たちに正音(漢音)奨励の詔勅を下したが、ついに、和音(呉音)を駆逐できなかった。平安時代、高名な学者でも、正音で漢字を読めたとは限らなかった。
平安時代が、民族的にも、それまでの古墳文化と異なっていたことが、発音だけではなく、文字でも分かる。
奈良時代までは、漢字アルフアベット(万葉仮名)に上代特殊仮名遣いの書き分けがあった。87種類の書き分けがあったのが、平安時代になると、50音図の枠組みとなってしまった。平安時代中期になると、47文字とその濁音の合計67音となるが、87音には届かない。だから、平安時代の貴族は、「万葉集」が読めなかった。
その平安時代初期の貴族は、桓武天皇により、唐の山東半島に亡命していた百済貴族を京都に移住させた者達だった。更に、その「万葉集」は、呉音系であったので、平安貴族には外国語の詩のようだった。
因みに、「日本書記」は漢音系で、「古事記」は呉音系だ。その「古事記」の太安万侶の序文は、和文(北方騎馬民族語のウラル語文法)ではなく、倭習の少ない立派な漢文だ。そして、「古事記」が、奈良時代ではなく、平安時代に著された根拠のひとつは、奈良時代にはない、「も」の文字の書き分けがあることだ。812年「古事記」を著わした、太安万侶ではなく、多人長は、平安時代の万葉語学者だったからだ。
このように、「日本書記」を別の角度から見ると、その騎馬民族史隠蔽のカラクリが分かる。
もともと、神ではなく、ひとが創作したもの全てには、少なからずの誤りがある。「日本書記」にもある。それが、日本列島の北陸に渡来した騎馬民族軍団が、明日香ヤマトを目指した歴史を、継体天皇などという天皇を発明して、その隠蔽物語を「日本書記」に挿入したことだ。
その根拠は、「継体紀」の、男大迹天皇曰、「大臣大連・将相諸臣、咸推寡人。寡人敢不乖。」乃受璽符。、の文章だ。この継体天皇が、即位を受諾する様子を描いた文章は、「不敢乖」と記さなければ、即位を拒否する意味となってしまう。
何故、このようなミスを著者は行ってしまったのか。それは、後人により、「漢書」文帝紀の即位記事「寡人敢不承受璽符」を引用したが、挿入著者が、漢文法を良く知らなかったためだ。
しかし、もうひとつの考え方もある。それは、「継体紀」を担当した著者が、「日本書記」のウソ物語を、後人に知らせるために、「継体天皇は即位を拒否した。」、と言うことだ。
では、「日本書記」の飛鳥時代物語がウソならば、古墳時代後期の日本列島では、騎馬民族はどのようにして、臣民を支配していたのか。そのヒントは、「日本書記」にある、「607年国毎に屯倉を置く。」、の記述だ。
藤原日本史によれば、屯倉とは、元々は蘇我氏の経営であったものが、その理由を述べてはいないが、天皇家に進呈され、天皇家の直轄領となった、との説明だ。しかし、この説明は、オカシイ。
騎馬民族史では、日本国の天皇の初は、672年新羅系天武天皇だ。607年には、日本列島の何処にも、天皇など存在していない。更に、約100年間飛鳥大和を、大臣として支配していた蘇我氏などという部族の存在もない。では、ミヤケ(屯倉)とは、天皇家でないとしたら、誰が経営していたのか。そして、それは何んであったのか。
藤原日本史での飛鳥時代の主役のひとり、蘇我氏とは何者だったのか。「日本書記」では、そのルーツを知ることは出来ない。
藤原日本史での蘇我(ソガ)の姓を名乗る最初の人物は、巻12「履中・反正紀」の蘇賀満知宿禰で、次には、巻14「雄略紀」の蘇我韓子宿禰で、その次が、巻18「安閑・宣化紀」の大臣就任を伝える蘇我稲目だ。しかし、その3名のソガの系譜関係について、「日本書記」は、何も語らない。
藤原日本史では、雄略朝に、蘇我氏が3種類の斎倉(祭祀用)・内倉(朝鮮半島からの貢物用)・大倉(国内用)の管理を任された、とある。しかし、この3倉は、屯倉とは、異なるようだ。それは、屯倉の説明では、屯倉とは、大和政権の直轄地のことで、耕作地もあれば、政治的、軍事的拠点でもある、とあるからだ。
その屯倉は、「日本書記」には、全部で60余の名前が記されて、全国的にひろがっているものだ。その全国に屯倉が設置された時期は、前方後方墳が前方後円墳に統一される時期と一致している。何故だ。
藤原日本史の説明では、各地の国造(唐進駐軍の配下となった古墳時代の有力地方豪族)の支配領域を割り取るかたちで、大和王権は、屯倉を全国に拡大していった、と云う。
そして、この全国に屯倉が拡大されて行く以前、大和王権に従属する中央・地方の土着豪族が、大和王権の承認のもとに一定範囲の人民を所有し、それを前提として大和王権に対して各種の奉仕義務を負ったと云う部民制が整備されていた、と云う。
藤原日本史では、飛鳥時代に蘇我氏が頭角を現したのは、その天皇家の経済的基盤である屯倉経営に対する貢献において良く現れている、と云う。
その蘇我氏が関与した主な屯倉とは、白猪屯倉(吉備国)、児島屯倉(吉備国)、韓人大身狭屯倉(大和国高市郡)、高麗人小身狭屯倉(大和国高市郡)、海部屯倉(紀伊国)などだ。その吉備国にある白猪屯倉の設置には、蘇我稲目は何度も訪れていた、と云う。
そして、屯倉では、戸籍が作られ、農地と農民一人一人を正確に把握した農業経営が行われていた、と云う。その屯倉の直接の運営は、白猪史(ふひと=通訳)などに代表される渡来人だった。そして、その渡来人の運営による屯倉では、飛鳥戸○○、春日戸○○のような名前をもつ渡来人が多く暮らしていた、と云う。
その屯倉設置の代表者である蘇我氏には、軍事、高度土木事業、高度建設事業を行う、倭漢氏などの渡来民族が配下として存在していた、と云う。
これらの藤原日本史が述べる屯倉の描写を、騎馬民族史から眺めると、そこには、天皇家の直轄地ではない、遊牧民族が支配する「国」(都市国家)が現れるようだ。
遊牧民族国家は、紀元前7世紀のスキタイに始まる。遊牧民国家は、全て遊牧民族で構成されていたわけではない。草原で暮らす遊牧民族が、その騎馬による武力と情報力とにより、農耕民族、漁労民族、商業民族、手工業民族、祭祀民族(芸能民族)を取りまとめていた集団の塊だ。
この遊牧騎馬民族による国運営の流れに、明治初期まで存在していた、弾左衛門を秦氏長者とする、鎌倉時代まで、長吏、座頭、舞々、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋、などの遊行する芸能民を支配下に置いていた、北関東の「風の王国」がある。
国家警察が存在していない古代、中世では、各個人の武力が正義だった。だから、そのより強力な武力の庇護を求めて、多くの民族が騎馬民族の下に集まってきた。古代、中世から鉄砲が発明される14世紀まで、地上最強の武力は騎馬民族が保持していた。
騎馬民族が支配する草原では、それらの民族を武力で護るために、その集落地に土壁(城)を巡らせた。これが、漢字の「國」の意味だ。國の文字は、土地+人+囲い+武力で構成されている。集落に囲いはあっても、それを護る武力が存在しなければ、それは、国ではなく、村(近世の農村ではない。)や都市だ。
その騎馬民族スキタイの国家運営法は、東アジアの匈奴、柔然、突厥などの騎馬遊牧民族に受け継がれていった。そして、日本海沿岸の出雲や北陸・東北に渡来した柔然や突厥が、古墳時代の日本列島に、軍事・交易路である北陸道、東山道、東海道を敷設し、華南交易の中継地である九州を目指し西進し、その要所要所に都市国家のミヤケを設置していった。古墳時代の日本列島各地にあった、ミヤケとは、騎馬民族が支配した都市国家だった。
騎馬民族国家の歴史が分かりにくいのは、騎馬民族としての歴史書を持たないことと、塊の集団が移動するごとに、その「風の王国」も移動するからだ。更に、単一王朝を戴くピラミッド型ではなく、状況に応じて離合集散する小さな塊の「部」の連合体であることも、騎馬民族の歴史的存在を証明するのに困難が生ずる。その存在を証明できるものは、史料や地上の建築物ではなく、地下の古墳だけだからだ。
だから、藤原日本史のように、ミヤケを屯倉として天皇の直轄領と「日本書記」で記述してしまえば、それで、騎馬民族の支配国ミヤケが抹殺できるわけだ。いまでも、多くの人は、ミヤケを屯倉として、天皇家の直轄地として理解していることからも、このことが分かる。
しかし、藤原日本史も、デタラメニ歴史上の人物を創作していたわけではない。郡司など支配下においた古墳時代の豪族から、その土地の支配者の歴史や「墓史」などを史料として提出させ、それらの史料を基に、藤原日本史を創作していたのだ。だから、その創作人物を、史実の人物に置き換えることにより、その時代の歴史が復元できるわけだ。
蘇我氏を「突厥」に、物部氏を「古代新羅の花郎騎士団」に置き換えると、以下の藤原日本史の物語の史実をあぶりだせる。
全国に分布している蘇我氏の所有する領有地である蘇我部と、物部氏が所有する領有民の物部が、同一国の同一郡内に重複して存在する例が多いいことは、古代新羅の花郎騎士団が、突厥の支配下に下ったことを物語っている。
その花郎騎士団の根拠地のひとつは、鬼が島で有名な、吉備国だ。この吉備国に、蘇我稲目が、屯倉設置のために度々訪れていた、とする「日本書記」の記述は、突厥が、吉備国にあった古代新羅の花郎騎士団の複数の砦を壊滅して、そこに、突厥が経営するミヤケを設置した、と言うことだ。
古墳時代後期の日本列島各地には、藤原日本史が述べる天皇が統治する大和国家など存在せず、騎馬民族が支配する都市国家が存在していたのだ。

630年第二代唐帝となった太宗李世民は、東突厥支配下の鉄勒(てつろく)、薛延陀(せつえんだ)などのチュルク系諸部族が独立運動を起こしたことに漬け込んで、東突厥の旧属民も、独立を志向した諸部も、ひとしく軍事力と経済力で唐朝のもとに懐柔し、唐朝皇帝をカガンとして臣従するよう求めた。
吐蕃とも和親した唐朝は、アジア東方全体を覆うまでに広がり、太宗李世民は、「天可汗」(テンカカン)(チュルク・モンゴル語のテングリ・カガン)との称号を奉られた。テングリとは、天もしくは天神への崇拝により、遊牧民の王に冠されていた。
このテングリが、7世紀末の明日香ヤマトで、天子(テングリ)から天皇(テンノウ)が発明されたのだ。
642年ササン朝ペルシャは、イスラーム・アラブ軍に敗れ、帝国は解体に向かい、ササン朝ペルシャの遺民たちは、唐朝の庇護を求め、唐朝本国に移住した。
唐朝三代目高宗の時代、657年混乱する西突厥にむけて、多種族からなる西征軍により、西突厥は解体した。この結果、唐朝の勢威はパミールの西にまで達することになった。日本の正倉院にもみられるペルシャ文化の香りは、これに起因する。
657年西突厥の制圧、663年百済を滅ぼし、668年統一新羅と連合して高句麗を滅ぼし、674年ササン朝ペルシャの亡命王子ペーローズが唐にやってきた頃を、唐朝の最盛期とする。
しかし、682年東突厥の旧民たちが、唐より独立し、モンゴル高原を中心に、第二次東突厥を再興させた。旧西突厥領の中央アジアでも、トラルギシュ(突騎施)などが、独自の国家形成をとげた。
したがって、唐の世界帝国状態は、25年ほどだった。30年間の突厥の世界帝国のあと、25年間が唐朝の世界帝国時代だった。つまり、唐朝の300年間が、すべて唐帝国であったわけではない。
アラブの言葉は、「遊牧民」の意味だ。7世紀初め、そのアラブが、イスラームと言う狭い意味の宗教を越えて、政治、経済、文化などを引き連れた「文明形態」を取り入れたことにより、アラブ帝国が、中央アジアに出現した。
7世紀末の世界は、東方の中華帝国の性格を深める唐、中央に離合集散を繰り返すチュルク、西方にイスラームの中東、そして、西陲にささやかなビザンツとフランクが連なっていた。

この唐朝が、ユーラシア一帯で世界帝国として活躍する頃、日本列島では、亡命百済王朝の近江軍と、645年明日香ヤマトを追われていた突厥軍と花郎騎士団との連合軍が、美濃で再結集し、内乱が起こっていた。これが、藤原日本史で述べるところの、672年壬申の乱だ。
藤原日本史では、この壬申の乱を兄天智天皇の子大友皇子と、弟大海人皇子との兄弟闘争のように述べているが、天智と大海人皇子とは、血が繋がっているどころか、天智は百済系で、大海人皇子は新羅系で、異民族だった。
更に、天智は、大海人皇子より4歳年下の「兄?」であった。では、藤原日本史は、「壬申の乱物語」で、騎馬民族史の何を隠そうとしたのか。
その答えは、大海人皇子が、少ない手勢で「美濃」を目指したことで分かる。「日本書記」にも、そのヒントが書かれている。
「日本書記」によれば、吉野に逃れていた大海人皇子は、少ない手勢と供に、馬にも乗らずに美濃に向けて脱出した。一行は、出発してその日のうちに、「ウダノコオリミヤケ」で、米を輸送していた伊勢の駄馬50頭と遭遇し、従者の騎馬のために徴発した、とある。
672年騎馬民族の都市国家である宇陀の「ミヤケ」には、伊勢の馬50頭の大輸送集団が存在していたのだ。その大輸送集団は、米を運んでいたと言うが、何処から何処へ米を運ぶのか。伊勢には、東海道が通過する。その東海道を伊勢から西に進むと、美濃国を通過する東山道にぶつかる。その東山道を東に進むと、諏訪(トルファン)に着く、その諏訪から南下すると甲府に行き着くことができる。これらの諏訪や甲府は、ユーラシア大陸を思わせる広大な草原のある盆地だ。
この東山道につながる木曽には、平安時代末期には、源氏の木曽義仲の騎馬軍団、そして、戦国時代には、諏訪や甲府には、源氏の武田の騎馬軍団が存在していた。
その源氏のルーツは、814年嵯峨天皇から賜姓の嵯峨源氏からではなく、423年北魏を興した、騎馬民族拓跋部の太武帝から、同族の禿髪氏へ賜姓された源氏が初だ。禿髪氏あらため源氏は、北魏王室の分族として、拓跋国家の有力家門に変身し、初代源氏の源賀の孫源彪(ひょう)は、北斉において秦州刺史となり、その子源師民は隋にあって刑部侍郎となり、更に、その孫源乾曜は唐朝の宰相まで登りつめていた。嵯峨源氏は、その禿髪氏の源賀をルーツとし、名前を、源信、源融、源綱のように漢字一字としていた。
そんな山奥の沿道に騎馬軍団が存在していたのは、何故だ。
この謎は、古墳が解明する。
古墳時代の実用的馬具の変遷を分析する過程で、長野県や静岡県などの中部・東海地方に、馬具副葬古墳の分布が著しく偏って集中することが分かった。そして、その分布をみると、後の東海道や東山道に当たるルートに、その集中域が形成されていた。
これは、古墳時代の東国には、藤原日本史が述べるように平安時代まで東国は未開の地ではなく、馬が通交できるほどの、版築され整備された広い路があり、そして、中継地には馬が休息するための「駅」があり、古くから、陸上交通に馬が活用されていた状況が示される。
しかし、4世紀から5世紀初期といわれる古墳時代前期の古墳からは、馬具は出土するが、戦闘用武器の出土はない。4世紀後半には、被葬者に馬の頭を供える殺馬供犠がおこなわれていたことは、山梨県甲府市の方形周溝墓から馬一頭分の歯が発掘されていることから分かる。(諏訪では、明治初期まで鹿の頭が神に捧げられていた。)そして、5世紀初期、長野県茶柄山古墳群からは、30頭分余の馬の遺体が出土している。
これらのことから、長野県、山梨県などの一部では、4世紀から5世紀初期には、馬は日常生活のなかで、当たり前に使役されていた、と考えられる。しかし、この時期の古墳群の被葬者集団は、いずれも武力と直接結びつける材料を欠いている。
しかし、古墳時代中期と言われる、5世紀も中頃を過ぎると、従来の甲冑は、短甲であったものが、470年頃からは、可動式の小札(コザネ)からなる桂甲(ケイコウ)が古墳から出土する。これは、本格的な騎馬戦用甲冑で、日本列島各地で騎馬戦がおこなわれていたことが示唆される。
では、桂甲で身を護る騎馬軍団は、何処から渡来して、誰と戦ったのか。
この珪甲は、ユーラシア大陸の騎馬軍団の装備品であった。470年ユーラシア大陸で活躍していたのは、華南との絹交易を求めていた柔然の騎馬軍団だ。すると、日本列島へ渡来した柔然騎馬軍団と戦ったのは、誰だ。
古墳時代前期の古墳からの出土品から、朝鮮半島南部との関わりが認められる。その朝鮮半島南部から渡来の民族は、九州に上陸すると、今までにない古墳を築く。それが、前方後円墳だ。前方後円墳の東進は、吉備→畿内→東海→関東へと広がった。前方後円墳の北限は、岩手県角塚古墳、46mだ。この前方後円墳の東進は、物流ネットワークとして形成されていた。
しかし、その前方後円墳ネットワークと対峙するものが出現した。それが、前方後方墳ネットワークだ。
前方後方墳のルーツは、出雲・北陸の方墳だ。この出雲では、製鉄に欠かせない砂鉄を原料とするタタラ炉の遺跡が発掘されている。一方、前方後円墳ルートでは、製鉄した塊や鉄製の斧が大量に出土している。兵庫県行者塚古墳からは馬具と供に大型の鉄の塊が出土している。大阪府野中古墳からは、縄で束ねた痕跡がある鉄の塊が出土している。
ユーラシア大陸では、古来から、産鉄民族は、鉄製の轡を作るために騎馬民族に従属していた。
古墳時代中期には、産鉄民族が、「船」と「馬」により、砂鉄や燃料となる薪を求めて、日本列島の山々に馬が通交できる幅広の路を切り開き行き来していたのだ。この「船」と「馬」による物流システムは、港湾施設の近くにも、馬具の出土が集中していることで分かる。重い物資の陸揚げなど、水上交通にも馬が活用されていたのだ。
この前方後円墳ネットワークと前方後方墳ネットワークは、暫くは、共存していたが、前方後円墳の民族と前方後方墳の民族は、戦いの末、古墳時代中期になると、前方後円墳ネットワークに統一されていった。
古墳は何も語らない。が、しかし、「日本書記」の歴史とは異なる歴史を示す。古墳時代の、騎馬民族の都市国家ミヤケは、「日本書記」の「屯倉」により歴史上抹殺された。しかし、ミヤケに隣接する山々には、戦闘時の避難先としての、石垣で山裾を取り囲んだ山城の遺跡が、日本列島各地で発掘されている。
室町時代末期、船方や馬方で生活していた騎馬民族末裔は、古墳時代のミヤケ(都市国家)を再興するために、各地の山々で暮らしていた「風の王国」の武士末裔と、古墳時代から続いていた日本列島に張り巡らされていた物流システムのルートを利用して情報を交換しながら武装蜂起を計画した。それが、1485年山城国一揆、1488年加賀一向一揆と、藤原日本史が述べる実態だ。
室町時代、声聞師や馬方が目指したミヤケ(都市国家)とは、騎馬民族国の礎を築いたササン朝ペルシャのダレイオスが描き、秦王国、匈奴、柔然(古墳時代中期)、突厥(古墳時代後期)へと継承されていた王国だ。
それは、国境を越えて世界をまるごと組織化するために、そして、海への視野を広げるため海軍を創設し、国全土にわたる統一税制と統一度量衡の施行をし、馬による物流のため幅広の幹線道路と駅伝制の整備を行い、広域経済を活性化するために金銀貨幣の鋳造と貨幣経済の本格的導入を行い、そして、国境を撤廃するため政府主導で通商・交易の活性化をおこなう、藤原不比等が創作した「絶対神の天皇」により統治する農本主義国家などではなく、遊牧騎馬民族の部族連合による談合支配の「風の王国」だ。
声聞師や馬方は、日本列島で400年間も続いていた古墳時代からの武人末裔だからこそ、最新式鉄砲で武装するイエズス会傀儡軍の長である織田信長が登場するまで、室町時代末期の東国各地では、100年間も続く「風の王国」を維持できたのだ。
因みに、奈良時代約80年間、平安時代約400年間、鎌倉時代約250年間、室町時代約170年間、江戸時代約270年間だ。
藤原日本史の「日本書紀」による4世紀に飛鳥大和を支配していたとする大和朝廷と、713年以降に古墳時代の人名や地名を、「蘇我馬子」(アマタリヒコ)や「諏訪」(トルファン)など漢字二文字で隠蔽した、藤原不比等のトリックに惑わされることなしに、日本語文法(=北方騎馬民族語文法)の基礎を形成し、そして、「たそがれ」などの突厥語を日本語(ヤマト言葉)として定着させた、ユーラシア大陸から渡来した騎馬民族が活躍していた、古墳時代400年間の歴史を知ることなしに、日本列島の歴史を語ることは出来ないのではないか。

田辺さんのレポートは、ここで終わっていた。オレの頭は、その内容が教科書歴史と全く異なることで、理解不能の箇所が多くあり、大分混乱した。一息つくと、幻視をおこない、そのレポートを田辺さんにメールした。


室町時代、足利氏は、日本列島を統治していたのですか?


田辺さんとは、メールを送ってから7日後にコンタクトできた。

「ナベさん、支離滅裂な幻視レポートで、ゴメンです。」
「室町時代の幻視レポートが支離滅裂なのは、想定内です。室町時代も、鎌倉時代と同じように、謎の多い時代ですから。」
「どういうことですか。」
「藤原日本史では、室町時代は、足利尊氏から足利義昭まで、足利氏が日本列島を統治していたよう描写しています。が、しかし、史実はそうではないようです。」
「鎌倉時代には荒れ果てていた京都の室町に、三代将軍足利義満が幕府を拓いたから、足利氏が、室町時代を支配していたということになりますよね。」
「足利権力は、足利嫡統家のみに絞り込まれた単層支配ではないのです。関東公方家はもとより、斯波氏、畠山氏、細川氏、今川氏、吉良氏、仁木氏、渋川氏、一色氏などの一門、分族のほか、姻族の上杉氏、準足利氏と化した山名氏、佐々木氏、赤松氏、土岐氏などの部族の寄り集まりの連合体が、室町幕府の実態だったのです。」
「それって、騎馬民族の匈奴、柔然、突厥の部族連合の特徴ですよね。すると、足利連合軍の構成員は、古墳時代からの騎馬民族末裔なのですか。」
「そうとも言えるし、そうではないとも言えます。」
「どう言うことですか。」
「それは、室町時代の前、モンゴル帝国による国際交易時代、日本列島では鎌倉時代、東国の歴史が全く分からないからです。後鳥羽上皇の宣旨に対抗した北条鎌倉幕府には、朝廷軍に対抗できるほどの軍事力はなかったのです。しかし、鎌倉から出陣した、たった18騎の北条鎌倉軍団へは、古墳時代の軍事・交易路であった、北陸道、東山道、東海道から数万騎が集まり、京到着前には、19万騎となっていたようです。」
「1221年承久の乱ですね。」
「そうです。この東国からの謎の騎馬軍団は、誰により指揮されていたのか分からないのです。」
「藤原日本史では、日本列島を軍事支配した律令軍団の長は、征夷大将軍ですよね。征夷大将軍が、承久の乱を指揮したのでは。」
「それは違います。1221年には、征夷大将軍は存在しなかったからです。「清和源氏」の第三代将軍源実朝は、1219年公暁に暗殺されていたからです。」
「すると、次の征夷大将軍では。」
「源実朝の次の征夷大将軍は、1226年8歳1ヶ月で就任した藤原頼経です。」
「チビッコ征夷大将軍ですか。北条鎌倉幕府は、軍事をマジメに考えてのことですか。」
「その次の征夷大将軍は、藤原頼経の息子で、つぎは、4代続いて親王将軍となるのです。北条鎌倉時代、幕府により、日本列島での軍事支配が本当におこなわれていたのかは疑問です。」
「すると、ナベさんが言うように、1221年承久の乱では、征夷大将軍が存在しないことになりますね。では、誰が東国の謎の大騎馬軍団を指揮していたのですか。尼将軍の北条政子ですか。」
「藤原日本史では、北条政子の尼将軍が東国武士を前に、涙ながらに大演説をし、東国武士団を奮い立たせたように述べています。しかし、平氏の北条鎌倉一族は、上野、信濃を支配していた、源頼朝を取り込んでいた源氏の比企一族など、北条鎌倉幕府に反抗する東国の武士団を、策謀を用いて次々に壊滅していたのです。」
「それでは、東国の源氏武士団は、命を賭してまで、平氏の尼将軍には従いませんよね。すると、征夷大将軍でも尼将軍でもないとすれば、東国の謎の騎馬軍団は、誰が指揮していたのですか。」
「征夷大将軍の意味は、野蛮人を攻撃する軍団の最高司令官のことです。その征夷大将軍よりも、東国の謎の大騎馬軍団を指揮するタイトルがあるのです。それが、「源氏長者」です。」
「「長者」って、昔話に出てくる金持ちのことですか。」
「そうではないです。この場合の「長者」とは、部族連合の棟梁の意味です。「源氏長者」とは、源氏部族連合の棟梁のことです。」
「ナベさんのレポートでは、源氏のルーツは、華北の北魏の時代、チュルク系の騎馬民族禿髪部の源賀ですよね。すると、「源氏長者」とは、源氏一族の「テングリ」と言うことですね。」
「そのように考えられます。その「源氏長者」になるために、「征夷大将軍」を子に譲った武将が、歴史上ふたりいたのです。それは、ひとりは足利義満で、もうひとりが徳川家康です。このふたりには、共通した出来事があるのです。そのふたりが「源氏長者」となる前後して、その支配地では大土木建設事業がおこなわれていたのです。」
「それって、室町時代初期の相国寺の110mの七重の塔と、そして、江戸時代前に、江戸湾に流れ込む利根川を太平洋に流れを変えた大土木事業のことですね。」
「そうです。その室町時代初期の足利義満を、日明交易で、経済的に支えていたのは、謎の阿弥一族です。そして、江戸時代初期の徳川家康を影から支えていたのは、謎の弾左衛門一族です。」
「その謎の阿弥一族には、能の租である観阿弥・世阿弥父子がいますよね。でも、藤原日本史では、阿弥一族も弾一族も、貧乏な賎民のように描写していますよね。」
「貧乏な賎民が、足利義満や徳川家康に経済的援助などできるはずはありません。」
「では、何故、阿弥一族や弾一族は、賎民に落とし込まれてしまったのですか。」
「室町時代初期、阿弥一族は、明国との国際交易の利潤により、足利義満を経済的に支えていたのです。しかし、日野氏(姓は藤原氏)に取り込まれてしまった足利義満の子足利義持は、父足利義満が急死すると、室町幕府政治の中心である室町から去り、日明交易も中止させていたのです。このことにより、阿弥一族は没落していったのです。勿論、阿弥一族の世阿弥もその運命にありました。世阿弥直系の血は、日野の女に取り込まれてしまった足利家により抹殺されたのです。ですから、今日の能は、世阿弥の能とは直接関係がないのです。」
「阿弥一族って、藤原日本史には登場しませんよね。何者ですか。」
「古文書を調べても、阿弥一族のことは分からないでしょう。それは、藤原日本史により、阿弥一族の歴史は、阿弥陀仏の仏教物語で、歴史上消されてしまっているからです。藤原日本史では、色々な歴史物語を創作して、藤原氏に敵対する民族の歴史を消しているのです。」
「それって、どういう意味ですか。」
「阿弥とは、太陽のことです。その太陽信仰民族の阿弥一族を、輪廻転生思想の浄土教の阿弥陀仏の信者として取り込んで、歴史上消していたのは、アラブ海洋民族末裔の「平家」を、「伊勢平氏」として取り込んで、異民族の「平家」を、亡命百済系民族の「平氏」の傍流として歴史上消しているのと同じトリックです。」
「ますます分かりません。」
「カメさん、「平氏」と「平家」の違いが分かりますよね。」
「「平氏」は、天皇から賜ったタイトルで、「平家」は私称ですよね。」
「そうです。平氏は、天皇から賜姓であるので、天皇名ではなく、地域名+平氏、つまり、伊勢平氏などのタイトルは、歴史上ありえません。」
「そう言えば、著名な歴史学者の書物に、「平家物語」ではなく、「平氏物語」と掲載されていましたっけ。誤字と思っていましたが、案外、「平氏」と「平家」の違いが分からないひとも多くいるのでは。」
「相当いると思えます。それほど、藤原日本史のトリックは絶妙なのです。では、武士とサムライの違い、分かりますよね。」
「それは、ナベさんのレポートで理解しました。武士は、日本刀の剣舞により怨霊の魂を鎮める武芸者末裔で、サムライは、貴人を警護する秘書的存在ですよね。例えれば、武士は一匹狼の武芸の職人で、サムライは、サラリーマン武人ですよね。」
「その武士とサムライの違いを、藤原日本史では、鎌倉時代は「武家の時代」、ということで、「武家」の言葉により、武士とサムライとをごちゃまぜにしてしまったのです。」
「そう言えば、「お武家さま」、「おサムライさま」はあっても、「お武士さま」はありませんよね。そして、武家屋敷、侍屋敷はあっても、武士屋敷はありませんね。」
「武士の住処は、屋形というのです。屋形とは、藤原日本史では、室町時代初期に、武家の当主に付けられた敬称、とあります。しかし、本当の意味は、仮住まいの形ばかりの小屋のことです。武士の生活の基本は、遊牧騎馬民族の末裔ですから、カマドの定住者ではなく、イロリの放浪者です。」
「どういうことですか。」
「カメさん、私の室町時代レポートを読んでくれましたよね。ユーラシア大陸の騎馬民族は、各種の民族を束ねていて、被支配者民族は定住しているのですが、その支配者である騎馬民族は、遊牧のためテント暮らしをしていたのです。その支配者のテントが、部族連合の政治を取り仕切る、「幕府」ということです。」
「すると、鎌倉幕府も室町幕府も、その政治形態は、騎馬民族国なのですね。」
「騎馬民族軍事国家の形態は、スキタイがルーツですが、恐らく、古墳時代の日本列島も、スキタイの軍事形態を継承していたと思いますが、その古墳時代の歴史は、藤原不比等が創作した、4世紀に存在していたとする大和朝廷や、そして、聖徳太子による仏教文化黎明期の飛鳥時代により抹殺されているため、断定は出来ません。」
「推測でもいいですから、ナベさんの考えが知りたいです。」
「日本列島での軍事行動を調べてみると、戦国時代の三代先が賎民の織田信長、出自不詳の豊臣秀吉、部落出自の徳川家康の三武将が現れた、伊勢湾近郊の美濃、三河が現れるのです。藤原日本史で述べる、壬申の乱でも、大海人皇子は兵を集めるために吉野から美濃へ赴いたのです。この軍事部族が居住していたと思われる美濃は、古墳時代の高速道路である東山道が通っているのです。」
「東山道って、古墳時代の古代高速道路だったもので、近江←美濃←飛騨←信濃←諏訪←上野←下野←出羽←陸奥、をつなぐ、前方後円墳ネットワークを結ぶ路(幅広の道路)ですよね。そういえば、新羅系の大海人皇子が、672年日本初の天皇に即位すると、明日香ヤマトの防衛が不安であると、部下に、都を移すために諏訪への調査を命じていたのですよね。それに、その孫の長屋王も、藤原のおんなである光明子が皇后となるのに猛反対したため、藤原氏からの陰謀から逃れるため、諏訪への移住を考えていたようですね。」
「733年「出雲風土記」では、大和朝廷により出雲の地を簒奪された出雲族は、その逃亡先に諏訪を択んでいます。東山道は、北陸道や東海道のように、平坦ではなく、山奥の路であるため、その東山道はひなびた村をつなぐ路と思われがちですが、この東山道には、古墳時代では、多くの部族が通交していた証拠に、多くの古墳群が発掘されているのです。」
「でも、それを証明する史料はないのですよね。」
「騎馬民族は、基本的には、歴史書を持たない民族ですが、その部族の伝承は、口承や唄により伝えていたのです。」
「盲目人の琵琶法師ですね。」
「その琵琶法師の座は、鎌倉時代には、藤原氏の配下となった村上源氏の久我家により支配され、そして、室町時代には、日野のおんなを娶らされた足利氏の支配下となっていたのです。鎌倉時代から室町時代まで、琵琶法師は、平氏の北条氏が監修した「平家物語」を語ることは出来ても、騎馬民族の歴史を、公に語ることはできなかったのです。」
「ナベさんのレポートでは、鎌倉時代、久我家に支配される前、琵琶法師と声聞師とは、同じような語り部の営業をしていたようですね。」
「そうです。声聞師とは、道教から派生した陰陽師の流れにあったが、百済系桓武天皇の平安時代には、没落して、庶民相手の芸能者となっていたのです。」
「その声聞師は、乞食坊主の下級陰陽師とも、放下師とも言われていた、賎民ですよね。」
「カメさん、飛騨に行ったことありますか。」
「取材で何度か行っていますが。」
「筑子(こきりこ)って知っていますか。」
「知っています。越中五箇山で、その唄聴いたことがあります。そのコキリコが何か。」
「ユーラシア大陸からの騎馬民族渡来の玄関口である出雲国は、7世紀末には大和王権に侵略され、その渡来住民のタタラ製鉄の産鉄民族は、卑猥な「どじょうすくい」踊りの民に落としこまれているのです。「どじょうすくい」の本来の意味は、産鉄の材料である砂鉄を採取するため、川底の砂鉄を含む土壌(どじょう)をすくうことです。更に、その産鉄を行う「火男」は、「ヒョットコ」にされ、そして、古墳時代の祭祀儀式をおこなう女の「うかれめ」は、「おかめ」にされ、「おかめ・ヒョットコ」の卑猥なおどりの、「農耕民族」の里神楽舞とされてしまったのです。しかし、筑子は、その越中五箇山を通る東山道の馬が通交できるほどの幅広の路が、奈良時代には不破の関所が築かれ、そして、百済系の平安王朝時代には破壊されてしまっていたので、飛騨国は孤立し、その歌詞は、時の権力により改竄されることがなく、現在まで伝わっているのです。その唄の歌詞に、「月見て歌ふ放下のコキリコ 竹の夜声の澄みわたる。」、「烏帽子狩衣脱ぎ棄てて 今は越路の杣刀(そまかたな)」、とあるのです。」
「放下と杣刀に引っかかるものがありますね。放下は、分かりますけど、杣刀って何ですか。」
「薪をとるための、山で使う、刃先がない鉈のような刀のことです。この越中五箇山の住民は、平家の落ち武者などではなく、もっと昔の、平安時代がルーツのようです。」
「その根拠は、何ですか。」
「放下とは、平安時代の律令軍が、陸奥の砂金や東北の絹を簒奪するために侵略し、801年坂上田村麻呂が、東山道を北上して、陸奥国の棟梁(テングリ)であったアテルイを騙して、京都で斬首したことにより、蝦夷の捕虜となった者が、律令軍のために働くことで、捕虜の身分を解放された者のことです。」
「すると、「烏帽子狩衣脱ぎ棄てて 今は越路の杣刀(そまかたな)」、とは、その陸奥国での勇姿から、木こりの身分になってしまったことを描写している、とも考えられますね。」
「そのようにも考えられます。しかし、気になるのは、「烏帽子狩衣脱ぎ捨てて」、の烏帽子です。」
「烏帽子って、平安貴族が被るものですよね。藤原日本史では、武家の鎌倉時代、平安時代から宮中の階位を持つ貴族が冠を着用することに対して、武家が烏帽子を持ち出したのが由来、とありますよね。」
「烏帽子の由来は、もっと古いのです。日本の烏帽子に似たものが、古代新羅の天馬塚古墳から出土しているのです。それは白樺樹皮製です。その材質から、南ロシアやステップルートから、朝鮮半島を経由して日本列島に、烏帽子の原型がもたらされた、と推測できます。」
「日本列島の古墳時代、古代新羅から渡来した民族は、秦氏や花郎騎士団ですよね。」
「そうです。そのルートも考えられます。」
「その白樺樹皮製冠の烏帽子は、何に使ったのですか。」
「冠や冑を被る時、髪の毛を束ねるためと考えられます。」
「ヘルメットのインナーですか。」
「面白い発想ですね。実用性としては、硬い金属性の冠や冑から頭部を護る緩衝具です。」
「それが、武人を表わす烏帽子となったわけですね。」
「鎌倉時代、武家の元服の儀式で新成人の後見人を「烏帽子親」と呼ぶのは、烏帽子は、平安貴族由来のものではなく、古墳時代からの騎馬民族由来のものだからでしょう。」
「烏帽子の原型は、騎馬民族のものですか。コキリコでは、「烏帽子狩衣」と対になっていますよね。藤原日本史によると、狩衣は、平安時代の貴族の平服とありますが。」
「藤原日本史での説明では、狩衣は平安時代以降の公家の普段着とありますが、そのルーツは、騎馬民族の騎馬装束にあります。スキタイから始まる騎馬装束は、筒袖の上着と皮ベルト付きズボンに皮製のブーツだったのです。古墳から出土の武人の埴輪の姿も、筒袖でズボンです。」
「では、平安時代に、その古墳時代の狩衣が、どうして現在の神主が着ている形になったのですか。」
「平安時代、古墳時代の武人末裔が、貴族として存在していたからです。」
「誰です。それは。」
「嵯峨源氏です。」
「嵯峨源氏って、源信の初代テングリを輩出していましたよね。」
「嵯峨天皇は、810年藤原薬子の乱後、藤原氏の支配から独立するため、反藤原氏の地方豪族の娘をむかい入れ、多くの子をもうけたのです。その多くの皇女達に、騎馬民族支配国家である北魏の漢姓に習って、814年「源姓」を賜ったのです。嵯峨太上天皇は、淳和・仁明天皇期に、廟堂独占を目論んでいた藤原氏一族を廟堂から追い出すため、反藤原氏の橘氏、広幡氏、上毛野氏などの娘に生ませた子を、嵯峨源氏として、大納言、左大臣などに就かせていたのです。」
「すると、平安時代、狩衣を着ていた貴族とは、嵯峨源氏一族だったのですか。」
「その狩衣では、参内が一切認められないことから、平安時代中期以降、狩衣には特別な意味があったはずです。」
「狩衣も、烏帽子と同じに、騎馬民族由来というわけですね。ちょっと疑問に思うのですが、平安貴族って、藤原日本史では、馬ではなく、牛車に乗っていたのですよね。狩などしていたのですか。」
「藤原日本史には、平安貴族の狩について、鷹狩はありますが、騎馬による狩の説明はありません。」
「では、鎌倉時代に突然現れた、犬追物や笠懸、そして流鏑馬のルーツはどこからですか。」
「一般的なイメージでは、鎌倉武士は、狩衣に長弓で流鏑馬を行っていたと信じているようです。しかし、テレビなどで放映されている流鏑馬のルーツは、江戸時代、征夷大将軍と源氏長者となった、三代将軍徳川家光から始まる第三百済王朝の江戸時代、騎馬民族末裔を寺請制度により賎民穢多としてイジメていた、享保9年(1724年)倹約令を発した八代将軍徳川吉宗が、小笠原貞政に命じて流鏑馬を制定したことが始めです。その後、将軍家の厄除け奉納の儀式となったものです。」
「現在行われている流鏑馬って、鎌倉時代ではなく、江戸時代がルーツですか。」
「鎌倉時代では、犬追物や笠懸など、実戦的な弓術がおこなわれていたのです。」
「そういえば、流鏑馬で不思議に思っていたのですが、騎射で長弓はないと思うのですが。」
「そうですね。武者絵や合戦絵では、騎馬武者は長弓を携えています。しかし、犬追物や笠懸では、速射を要求されるわけですから、流鏑馬のように、長弓で弦を絞り込む余裕はないのです。」
「すると、ユーラシア大陸の騎馬民族の武器である、小動物の腸を弦とする、木製の短弓ですか。」
「白旗赤旗の源平合戦時に、突然陸奥国に、日本列島には未だ武家家紋が存在していないのに、騎馬民族チンギス汗部族の旗印と同じ笹竜胆の旗印をなびかせて現れた源義経の弓は、短弓だったのです。源平合戦絵には、長弓はあっても、短弓は描かれていません。しかし、短弓でなけれは、素早く移動する獲物を騎射する犬追物、小笠懸などできるはずはありません。」
「その小笠懸って、何ですか。」
「鎌倉時代、北条時宗が10歳の誕生日直前、将軍御覧の小笠懸をおこなっていたのです。小笠懸とは、馬場を右から左に逆送して、馬を走らせたまま身体をひねって、弓矢を右下に向け、近距離に低く立てた的を狙う、武士の射芸訓練の一種です。」
「それって、パルティアン・ショットですよね。古墳時代の陸奥国を支配していた蝦夷が、侵略してくる律令軍団相手に、騎射していたものですよね。」
「烏帽子狩衣を着ていた嵯峨源氏の源氏長者(テングリ)の貴族末裔は、藤原氏の密告陰謀により、866年応天門の変で廟堂を追われ、そして、その嵯峨源氏の流れにある醍醐源氏の貴族末裔も、969年安和の変で廟堂を追われていたのです。」
「すると、ナベさんは、コキリコを唄う飛騨の住人は、その嵯峨源氏、醍醐源氏末裔と考えているのですか。」
「そのように考えています。嵯峨源氏、醍醐源氏で、思い起こすことがあるのです。それは、北条鎌倉時代、パルティアン・ショットを行っていた北条時宗の時代、1219年源実朝が暗殺され、清和源氏三代が滅亡しているのですが、源氏が復活しているのです。それが、後嵯峨源氏です。そして、北条鎌倉幕府を倒したのが、後醍醐天皇です。」
「後嵯峨源氏と後醍醐天皇ですか。嵯峨と醍醐に、何か引っかかりますね。」
「後醍醐天皇には、楠木正成など、多くの悪党(勇者集団)が随ったのです。その悪党の砦は、里ではなく、山地にあったのです。」
「すると、その悪党も、嵯峨源氏や醍醐源氏末裔ですか。」
「そうとは断定できません。それは、鎌倉時代、藤原日本史では、モンゴル帝国と鎖国状態で、国交がないように描写していますが、史実は、南宋から日本列島に亡命して来た禅宗組織がモンゴル帝国で、その勢力を広げ、それにより、多くの禅僧がモンゴル帝国と日本列島との国際交易をおこなっていたのです。因みに、日本の禅寺での日常会話は、日本語ではなく、和尚(ワショウ)を「オショウ」と発音する杭州訛りの中国語です。それは、モンゴル帝国の国際海洋交易システムは、南宋が開発したそのものだからです。そのため、北条鎌倉幕府には、国軍もなく警察力もないので、日本列島は治安が悪いため、日本列島に渡来するモンゴル帝国からの国際交易商人を護衛するため、多くの傭兵軍団も渡来していたからです。この頃、日本列島に現れた最新武器が、長槍です。この後、武士の武器が、弓矢と長槍となっていくわけです。武士の武器と思われる日本刀は、この頃までは、祭祀具であり、実戦武器ではなかったのです。それは、鎌倉期の日本刀の刃が、薄いため、鎧兜には太刀打ちできないことで分かると思います。治安の悪い北条鎌倉時代、悪党とは、それら短弓と長槍で武装する私設武装騎馬警備隊のことだったのです。この頃、現れたのが武家家紋で、それは言わば、武装騎馬警備会社のシンボルマークだったのです。」
「藤原日本史では、北条時宗の時代、モンゴル帝国の国使を追放したり、斬首したため、1274年文永の役、1281年弘安の役の元寇があったと述べていますよね。」
「その元寇物語のウソは、後嵯峨源氏誕生が解き明かします。」
「ナベさんのレポートでは、二度の元寇の史実は、一回目が高麗亡命船団で、二回目が南宋亡命船団ということですね。何故、後嵯峨源氏の誕生が、元寇物語のウソを暴くのですか。」
「後嵯峨源氏となったのは、惟康王です。この惟康王についての史料が絶無なのです。北条鎌倉幕府には、惟康王の記録がないのです。」
「北条鎌倉時代の史料なら、「吾妻鏡」があるはずですが。」
「それが不思議にも、「吾妻鏡」は、1266年(文永3年)で、25歳の6代将軍の宗尊親王が将軍職を追われ、京都の北条時茂の六波羅邸に入ったところで終わっているのです。」
「その何が、不思議なのですか。」
「1266年、惟康王に7代将軍職を受け渡した宗尊親王の辞職の理由が、「新抄」によれば、宗尊親王の正室「藤原宰子」と僧侶松殿僧正良基との「不倫の噂」だったのです。」
「その話、「藤原のおんな」が登場することに、何か引っかかりますね。」
「このような状況で誕生したのが、惟康王の後嵯峨源氏です。惟康王は、1264年鎌倉に生まれ、3歳で従4位下に叙し、同時に、征夷大将軍に任官したのです。そして、7歳の時、後嵯峨源氏賜姓を受けたのです。しかし、24歳で右近衛大将を辞し、親王宣下を受け、二品親王となり、26歳で7代将軍を辞し、上洛し、その後、出家を遂げて、63歳で薨じた、と伝わっています。」
「3歳の、チビッコ征夷大将軍ですか。北条鎌倉幕府は、何を考えいてたのですかね。」
「惟康王は、惟康王→後嵯峨源氏朝臣惟康→惟康親王と変身しているのです。その惟康の将軍在任期間は、文永3年(1266年)3歳から、正応2年(1289年)26歳までの23年間だったのです。」
「ナベさん、その惟康が、将軍在任期間に、例の「二度の元寇」があったのですね。」
「そうです。カメさん、歴史年表を後で見てください。その二度の元寇があったとされる時期に、惟康と北条時宗は、北条鎌倉幕府の中枢に位置していたのです。それは、北条時宗政権は、この惟康を、後嵯峨源氏の将軍として推戴し続けた理由のひとつが、対モンゴル帝国対策だったのです。」
「そのナベさん説の根拠は。」
「モンゴル帝国の国号は、「元」です。このヒントで、カメさんは分かるでしょ。」
「漢姓の「元」の初めは、北魏を興した騎馬民族拓跋部の支配者拓跋氏ですよね。その臣下の禿髪氏が、同族として、「源」の漢姓を名乗ったのですよね。」
「そうです。王族の「元」に対して、臣下の「源」です。藤原日本史は、「源氏」は、日本列島古来の姓と説明しているようですが、「源氏」のルーツは、華北の騎馬民族禿髪氏であるのです。」
「すると、源平合戦の時、源義経が、鞍馬山から奥州ではなく、ユーラシア大陸から奥州へ渡来した、との説もうなずけますね。」
「藤原日本史によれば、宗尊親王が上洛の1年後、文永5年(1269年)大宰府を管轄する筑前守護少弐資能によって、モンゴル帝国の国書が鎌倉にもたらされた、と述べています。そして、このモンゴル帝国の国書は、北条鎌倉幕府により無視され、モンゴル帝国の高麗の使者は帰国した、と述べています。国書は、当然、日本国王である朝廷を司る天皇に届けられるはずです。しかし、当時の王朝は、1221年承久の乱で、後鳥羽上皇は隠岐に、土御門上皇は阿波に、順徳上皇は佐渡に、そして、六条宮雅成親王は但馬に、令泉宮頼仁親王は備前に配流されていたので、承久の乱後、独自の軍事力を事実上喪失していたのです。そこで、藤原日本史では、北条鎌倉幕府は、鎌倉幕府追加法436条で、西国各国の守護に対して、菅国御家人を動員して侵攻に備えることを命じた、と述べています。この、モンゴル帝国の国書と伝わるものが、鎌倉到来から2ヵ月後、前代未聞の執権連交替がおこなわれ、10歳前にパルティアンショットをおこなっていた、18歳の北条時宗が執権、北条政村が連署となっているのです。」
「モンゴル帝国の使者と云われる者が渡来すると、国軍のない朝廷は何も出来ず、北条鎌倉幕府の中枢が、前代未聞の執行部の交替ですか。それも、子供のとき、騎馬民族の騎射をおこなっていた北条時宗が執権ですか。そして、7歳の惟康が、後嵯峨源氏賜姓となるわけですね。何か、おかしいですね。」
「その後嵯峨天皇誕生物語にも、不思議があるのです。藤原日本史によれば、後嵯峨天皇の前の四条天皇は、1242年(仁治3年)内裏の廊下に女官を転ばせようと石の粉を塗ったところ、それに四条天皇の自分が転んで頭を打って12歳で夭折した、と述べています。かくして、23歳まで親王宣下すら受けず、ボロ屋に住まう、阿波に配流された土御門上皇の皇子邦仁王を皇位に就け、1242年後嵯峨天皇が即位した、と述べているのです。」
「後嵯峨天皇誕生物語も、何かありそうですね。ナベさん、話の途中ですが、質問してもいいですか。」
「どうぞ。」
「話は飛びますが、藤原日本史によれば、北条鎌倉幕府を倒し、室町幕府を拓いた足利氏は、後嵯峨源氏ではなく、清和源氏ですよね。清和源氏は、三代で滅んだはずですが。」
「足利氏の系図によれば、足利氏のルーツは、経基→「清和源氏満仲」→頼信→頼義→義家(八幡太郎)→義国→「足利義康」→義兼→義氏→秦氏→頼氏→家時→貞氏→尊氏→義詮→義満、となっていますが、義国から足利義康までの系図が無いのです。」
「それでは、足利氏が、清和源氏の流れにあるとの証明ができませんよね。」
「鎌倉時代から室町時代に興ったとされる、足利氏を含めて、武家の多くは、そのルーツが謎なのです。そして、それらの多くの武家は、そのルーツを清和源氏としているのです。」
「でも、ナベさん説では、清和源氏など歴史上存在していないのでしょ。」
「そうです。その足利氏の系図にもある、経基の孫に当たる源頼信が、永承元年(1046年)石清水八幡宮に奉納した願文には、「先人は新発(満仲)、その先は経基、その先は元平親王、その先は陽成天皇」、とあるのです。」
「藤原日本史では、清和天皇→貞純親王→経基→源満仲→源頼信、となっていますよね。どちらがかが「ウソ」をついているわけですね。オレが以前に見た幻視によれば、ナベさんにはレポートしませんでしたが、源義経の行動が、藤原日本史と異なっていたのです。」
「どのようにですか。」
「藤原日本史では、源義経は、源頼朝の弟ですから、当然、「清和源氏」ですよね。」
「そのようになっていますね。」
「笹竜胆の旗印をなびかせた源義経軍団が、草原馬に乗って奥州から京を目指すのですが、兄の軍事拠点である鎌倉を素通りしているのです。「清和源氏」の同族で、兄弟であれば、援軍として参戦しているのに、素通りはないですよね。更に、源義経は、一度も、源頼朝に謁見していないのです。京での軍事行動では、難波の渡辺党の支配地から、屋島に出陣しているのです。渡辺党は、その租が、反藤原氏の嵯峨源氏の源綱ですね。「嵯峨源氏」の流れにある「醍醐源氏」を密告の陰謀で滅ぼした張本人の満仲が、「清和源氏」の租です。源義経は、「清和源氏」の源頼朝と一度も接触がないのに、敵である「嵯峨源氏」の渡辺党と軍事行動をしているのは、変だと思いませんか。」
「それは、「清和源氏」など、歴史上存在していないことで、そして、源頼朝は、藤原氏の私兵である「陽成源氏」で、それに対して、源義経は北魏の源賀の流れにあるユーラシア大陸の「源氏」で、反藤原氏の渡辺党は、そのユーラシア大陸の流れにある嵯峨源氏の同族であると考えれば、カメさんの幻視が理解できるとおもいます。」
「すると、源頼朝の肖像画が「ウソ」であったように、源頼朝の「清和源氏」も「ウソ」ということですか。すると、その「清和源氏」の流れとする、室町幕府を拓いた足利氏の出自も「ウソ」ということですか。」
「そう考えられます。話を元に戻してもよいですか。」
「どうぞ。」
「藤原日本史では、1274年の文永の役は、モンゴル帝国の国使がもたらした通商要望の国書を無視して、その回答をしないで高麗使者を帰国させたから、モンゴル帝国は、日本列島を攻撃した、と述べています。」
「そのように学校で教わりました。」
「しかし、その物語はウソです。」
「その根拠はあるのですか。」
「史料としてはありません。状況証拠だけです。文永の役といわれる第一回元寇の15年前、1259年高麗は、蒙古により服属されたのです。1260年皇位継承戦争により、第五代モンゴル大カアンの地位をもぎとったフビライは、世界帝国を目指して領土拡張政策を進めるのです。それに対して、服属していた高麗の元宗は、1270年から1273年まで、モンゴル帝国に反旗を翻したのです。これが、三別抄の乱といわれるものです。この乱に敗れた高麗軍の一部が、モンゴル帝国の国書ではなく、高麗の国書を携えて、日本列島に亡命を求めたのが、第一回元寇物語の真相です。」
「なんとなく納得できますすが、教科書歴史では、竹崎季長という武士が、文永の役での恩賞に不満をもち直接北条鎌倉幕府に訴えた、とありますね。その文永の役での活躍を示すため「蒙古襲来絵詞」を絵師に描かせましたよね。」
「そうですね。その絵に描かれているモンゴル軍兵士にしては、その装備が貧弱で、敵を威圧するための武器が、モンゴル軍団が使用している弩(いしゆみ)ではなく、貧弱な弓ですね。そして、その絵で描かれている炸裂弾の「てつぱう」は、モンゴル帝国軍ではなく、南宋軍が開発した武器なのです。その戦闘絵を携えての訴えに対して、後嵯峨源氏の惟康を推戴する北条時宗は、その竹崎季長には恩賞を与えていません。それは、北条時宗は、「元寇」の実態を知っていたからです。」
「でも、元寇は、対馬に上陸し、住民を連行したのですよね。」
「その対馬住民連行物語でも、元寇物語のソウが証明できます。」
「どういうことですか。」
「その元寇の対馬強略物語では、多くの住民は、手に穴をあけられて、綱を通され連行された、と述べています。しかし、この物語は、ありえない設定です。古代から近世まで、国際交易商品のひとつは「奴隷」です。戦争をする原因のひとつに、奴隷獲得がありました。モンゴル帝国は、国際自由交易立国です。そのモンゴル帝国の軍団が、国際交易商品である「奴隷」の体に傷をつけるはずはありえないからです。」
「そういわれれば、第一回元寇には、おかしな話がありますよね。博多湾を襲った元寇大船団は、翌日早朝には、台風のシーズンでもないのに、「神風」のおかげで撤退した、と藤原日本史にはありますよね。」
「第二回元寇物語のウソに話を進めます。藤原日本史では、文永の役の半年後、長門国(山口県)室津に、杜世忠を正使とするモンゴル帝国使者一行が来着し、この一行は、鎌倉へ護送され、滝ノ口の刑場で斬首された、と述べています。そして、北条鎌倉幕府は、第二回元寇に備えるため、博多湾沿岸での石築地築造を命じた、と述べています。これが、今に残る、「元寇防塁」と言われるものです。そして、1279年(弘安2年)、周福らモンゴル帝国使が、またも対馬に到着したが、博多でその一行は斬首された、と述べています。弘安3年(1280年)翌4月に、再来襲があるとの情報を得た北条鎌倉幕府は、守護、御家人に防衛に努めるように厳命した、と述べています。そして、弘安4年(1281年)、モンゴル帝国軍が、博多湾に再来襲し、戦闘2ヵ月後、台風により大打撃を受けて撤退した、と述べています。」
「そのように教わりましたが、何がウソなのですか。」
「それは、モンゴル帝国軍団の戦略・戦術を知れば分かります。その戦略・戦術の基本は、不戦・不殺です。モンゴル帝国軍は、戦わない軍団なのです。」
「でも、実際は、他国を侵略して、世界帝国になるまで領土を広げましたよね。」
「その戦略・戦術は、圧倒的軍団と最新式武器を見せ付けることで、敵側の中枢軍団を寝返りさすことです。モンゴル帝国の戦闘は、言わば、デモンストレーションなのです。」
「その証拠でもあるのですか。」
「モンゴル帝国のフビライは、1267年から、アラブ・インドとの国際交易をおこなっていた南宋国への侵攻作戦を開始したのです。モンゴル帝国軍は、圧倒的な軍事力を見せ付けることで、投降者を歓迎し、しかも、その投降者をほとんど現職にとどめたため、南宋国の精鋭部隊の多くが、モンゴル帝国軍に寝返ったため、南宋国は地崩れをおこして解体したのです。その結果、1276年杭州の南宋政府は、モンゴル帝国に全面降伏したのです。しかし、杭州開城に反対した南宋軍団の一部が、幼帝兄弟を担いで、多くの船で東南沿岸部へ脱出したのです。」
「その南宋国から脱出した大船団が、第二回元寇の実態ということですか。」
「そのように考えています。もし、その大船団が元寇の軍団だったとしたら、当然、難破した船から、多くの最新式武器、投石機、弩(いしゆみ)などが引き上げられるはずです。でも、今のところ引き上げられたのは、陶器類、農機具、種籾の入った壺などです。」
「その二回の元寇物語が語られた時期が、後嵯峨源氏を推戴する北条時宗の統治時代だったのですね。すると、その時期の鎌倉時代の歴史は、藤原日本史が述べているものと異なりますよね。」
「そうです。北条時宗は、文永元年(1264年)14歳で連署に就任し、弘安4年(1284年)34歳で没するまで、執権に在職していたのです。この北条時宗の執権在職期間を覆って、惟康の将軍在職期間があったのです。従来の北条鎌倉幕府の政治は、多くの武家集団による合議制だったのに、この北条時宗期の鎌倉幕府は、得宗である北条時宗による完全な個人独裁体制だったのです。27歳の北条時宗は、鎌倉郊外の山内殿の別荘でほとんど生活し、そこで、寄合と呼ばれる5名、安達泰盛、平頼綱、諏訪盛経、太田康有、佐藤業連による秘密会議で政治をおこなっていたのです。本来は、将軍が承認する本領安堵も、北条時宗が「将軍権力代行者」となっておこなっていたのです。」
「北条時宗は、まるで、騎馬民族を支配する「テングリ」だったのですね。」
「そうです。モンゴル帝国の時代の鎌倉時代は、古墳時代を、日本列島に道幅12mの古代高速道路網をはりめぐらせた初代国際自由交易の時代とすれば、第二次国際自由交易時代だったのです。モンゴル帝国の第5代皇帝フビライは、国際自由交易を目指して、陸海を結ぶ物流ターミナルとして、新都市の大都を造営したのです。その大都には、内懐に港をかかえこんでいたのです。この都の港は、閘門式運河により、中国大陸の各河川とつながり、海港を経て、渤海湾を経由して東は附康国の高麗、更に、日本へ、そして、南は南中国の杭州から更に、東アジア、インド洋方面に海船が航行していたのです。南北中国が、北京、天津、上海の通商都市により、海路でむすばれたのは、このモンゴル帝国時代からなのです。」
「すると、鎌倉時代には、藤原日本史が述べているようにモンゴル帝国と鎖国状態ではなく、多くの商船がモンゴル帝国から来航していたのですね。北条鎌倉幕府の正史とされる「吾妻鏡」が、1266年で記述が突然終わっているのは、北条鎌倉幕府がモンゴル帝国の配下となり、「元」の臣下「源」となった後嵯峨源氏将軍を推戴する北条時宗が、源氏長者(テングリ)となって政治をおこなっていたからですよね。」
「古墳時代後期の日本列島を支配した突厥が、その軍事力と経済力、そして、世界的情報網により、アラム語から派生したソグド語を話す国際交易商人に支えられたように、モンゴル帝国も、イスラームのムスリムと、ソグド商人の末裔であるウイグル国際商人の資金や国際情報提供の支援を受けていたのです。フビライのモンゴル帝国は、単なる軍事国家などではなく、外洋船が西洋と東洋を結ぶ国際海路を行き来する、国際通商経済立国だったのです。」
「すると、鎌倉時代中期も、古墳時代と同じに、船や馬での物流をおこなう国際交易民族でもある騎馬民族が活躍する、国際交易時代にあったわけですね。」
「平安時代末期から鎌倉時代の歴史は、室町時代に改竄されたのではないか、と考えています。」
「どのようにですか。」
「それは、歴史上存在しない「清和源氏」を出自とする足利氏による、「平家物語」と「吾妻鏡」の改竄です。改竄以前の史実は、平安時代末期から、鎌倉時代を経て、室町時代までを、カメさんが幻視した、騎馬民族が活躍していた世界です。国際交易商人の顔を持つ禅宗が、その拠点に、京都、北陸、鎌倉、そして、高崎を選んだのは、何故かを考えれば、カメさんの支離滅裂と思われる幻視の意味が分かると思います。」
「それらは、鎌倉を除いて、古墳時代から絹の国際交易都市だったのですよね。でも、大阪が抜けていますよね。」
「大阪の地史は、縄文時代は河内湾の上町台地の岬で、弥生時代では河内湖の岬で、古墳時代に上町台地に大運河を掘削(藤原日本史の神仏戦争物語では、難波の堀江とする。)したことにより河内湖の水を大阪湾に流したとで河内平野の台地(古墳時代この地は、岬の意味、ワタ・ナーベと呼ばれていた。)となり、巨大古墳群が造られたのです。モンゴル帝国による国際自由交易の鎌倉時代、大阪(難波←浪速←ローラン)は、古墳時代から太陽信仰民族の大陸との交易拠点だったから、新来者の禅宗を受け付けなかったのです。」
「藤原日本史では、飛鳥時代の難波(大阪)に、聖徳太子の七寺のひとつ、四天王寺が建立されていましたよね。太陽信仰民族は、漢訳仏教の布教を許したのですか。ナベさん説では、漢訳仏教公伝は奈良時代からですよね。藤原日本史は、この聖徳太子七寺の創作物語で、何を隠蔽しようとしたのですか。」
「聖徳太子は、架空の人物であるので、その質問には答えられませんが、大阪が、太陽信仰民族=ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来の秦氏の拠点ですから、秦氏の歴史の抹殺だと考えています。藤原日本史の神仏戦争物語では、難波(大阪)を架空の軍事部族の物部氏の拠点としています。それらの、飛鳥時代ではなく、奈良時代に建立された七寺は、古墳時代の太陽信仰民族の宗教施設を破壊した跡に、建立されたと考えられます。」
「そういえば、古墳時代に活躍した秦氏は、中世ではどのようになっていたのですか。」
「カメさん、日本列島の地名や宗教施設名に、百済や高麗(高句麗)が多くあるのに、新羅の名がほとんどないのは、何故だと思いますか。」
「消されたのですか。」
「そうです。古墳時代では、秦氏は前方後円墳ネットワークにより、絹の交易のため、北は岩手県以南から九州まで、船や馬により、ユーラシア大陸と華南との交易回廊としての日本列島を行き来していたのです。この古墳時代の国際交易時期、秦氏はユーラシア大陸から渡来した騎馬民族と交流したことにより、そのネットワークにより北方騎馬民族の言語文法・ウラル語文法が、日本列島に定着したと考えられます。そして、華南との交易で、漢字アルファベットが開発され、漢字は、華南の発音である呉音が使用されたと考えられます。しかし、唐進駐軍と供に藤原氏により、奈良盆地を制圧された奈良時代、その交易回路としての幅広の北陸道、東山道、東海道には、愛発、不破、鈴鹿の関を設置されることにより、農耕主体の定着民族としてのカマド文化の西国と、遊牧・交易主体の遊行民族としてのイロリ文化の東国に分断されたのです。」
「その奈良時代に、唐帝国のエージェントの藤原氏により、中臣神道が発明されたのですね。そして、奈良盆地の秦氏の宗教施設が徹底的に破壊され、その跡に、仏教施設が設置されたのですね。」
「そうです。そして、藤原仲麻呂の独裁政治の失敗により、藤原氏の勢力が衰退すると、下級貴族として隷属していた亡命百済貴族が台頭して、秦氏の支配地であった山背国の京都盆地を簒奪したのです。」
「それが平安京ですね。」
「そうです。そして、平安時代になると、唐進駐軍に軍事的に支援された亡命百済貴族は、京都盆地の東嶺比叡山の秦氏の宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、亡命百済貴族王朝を鎮護する天台宗の宗教施設を設置したのです。」
「天台宗の僧が、秦氏の神、太陽神のミトラ神を摩多羅神としたのですよね。」
「そうです。日本の神は、藤原日本史が述べているのとは異なり、一系ではないのです。古墳時代の秦氏の神、ミトラ神。奈良時代の藤原氏の神、アマテラスオオミカミ。そして、平安時代の亡命百済貴族の神、山王(シャンワン)神です。その平安時代に平野神社(モリ)が造られるのですが、その神社(モリ)に祀られている神は、オール百済の神なのです。その四柱は、今木神、久度神、古開神、比売神ですが、今木神は百済系桓武天皇の母高野新笠の父方の租神で、比売神は高野新笠の母方の租神で、久度神と古開神は朝鮮系の渡来神であるのです。古墳時代からの秦氏の宗教施設が、奈良時代、平安時代に破壊され、そのミトラ神も、弥勒菩薩や摩多羅神に改竄され、抹殺されていたのです。当然、秦氏支配地の各地も簒奪されたのです。それにより、新羅の地名や宗教施設名が消されたのです。秦氏は、亡命百済貴族が支配した平安時代、惟宗氏を名乗っていたのです。そして、新羅の名は、白鬚、磯城、志木、白木、白鳥などに改竄されて、歴史的に抹殺されていたのです。ところで、カメさん、新羅をなんと読みますか。」
「シラギ、ではないのですか。」
「そうではないのです。秦氏は、新羅をシンラと読みます。シラギとは、新羅のヤツラとの意味を持つ蔑称なのです。漢字は、象形文字で、その文字自体で華卑のイメージを表わします。武力的に弱者であった、漢字を発明した漢民族は、武力的に優位にあった騎馬民族に対して、この漢字の特徴を利用して、騎馬民族を凶暴な野蛮人として貶めたのです。紀元前97年司馬遷は「史記」を著わしたのですが、そのなかで、漢帝国から絹、金、銀を貢がせて隷属していた騎馬民族支配国を、蔑称の「匈奴」としたのです。」
「そういえば、中国古代史にでてくる騎馬民族国家名には、変な漢字が使われていますよね。鮮卑、禿髪、烏桓、柔然、突厥などですが。」
「日本列島でも、漢民族の手法が使われていたのです。それが、奈良時代に現われる、陸奥国を支配した蝦夷です。蝦夷とは、鬚のはえた夷、つまり、鬚のある野蛮人の意味です。」
「そういえば、藤原日本史では、蘇我氏(騎馬民族突厥)を悪者とするため、645年蘇我蝦夷が、天皇紀と国紀を焚書したから、それ以前の歴史が抹殺された、だから、720年「日本書記」を著わした、としていますよね。」
「そうです。この漢字による騎馬民族を貶める手法が、鎌倉時代に再び現われたのです。それが、秦氏や騎馬民族末裔を貶めるための、穢多の蔑称です。」
「藤原日本史だけではなく、賎民側からの目線で著わされた「部落史」でも、穢多のイメージは悪いですよね。でも、オレの鎌倉時代の幻視では、部落史が述べているのとは異なり、貧民など存在していなかったんですけどね。多くの遊行民を幻視しましたが、それは貧民などではなく、丁度、昭和時代のバブルに浮かれるひとびとの様子だったのですが。」
「「平家物語」や「吾妻鏡」、そして、藤原氏や亡命百済貴族による「日記」類、禅宗僧の著述物などを史料として復元した、平安時代末期から鎌倉時代にかけての「歴史」は、史実なのか疑問です。カメさんの幻視が、支離滅裂だったのは、教科書歴史で刷り込まれた「歴史」と「史実」とがオーバーラップされたからと考えられます。秦氏は、モンゴル帝国による国際自由交易時代の鎌倉時代に、阿弥一族の国際商人として復活していたのです。」「阿弥一族って、室町時代初期、資金不足の足利義満政権を経済的に援助した一族ですよね。」
「鎌倉時代の天皇家や貴族達は、その経済的基盤である荘園が、武家や武士により簒奪されていたため、貧民のように経済的に困窮していたのです。北条鎌倉時代、藤原氏の経済的基盤であった南九州の島津荘が、秦氏末裔の惟宗氏により簒奪されたため、天皇家の祭祀儀式を執り行っていた藤原氏が没落していたのです。しかし、1368年モンゴル帝国が滅び、儒教国家の明が興る室町時代中期になると、藤原氏が復活したのです。その藤原氏が復活するまで、資金不足の天皇家では皇位継承の正式儀式や後七日、祈年祭、釈奠、加茂祭、月・神、例幣、鎮魂祭、新嘗祭、追儺などの儀式がおこなうことができなかったほど、経済的に困窮していたのです。生活に困窮した、経済基盤のない貴族や公家が、生き延びるため強盗団に参加していたのが、中世の実態だったのです。」
「すると、秦氏末裔の阿弥一族は、平安時代末期から室町時代まで、どのように活動していたのですか。中世の史実は、どのような世界だったのですか。」
「北条鎌倉時代に活躍していた阿弥一族は、穢多の蔑称の発明により歴史的に抹殺されたのです。穢多といわれる太陽信仰民族や騎馬民族が、実質的にイジメられるのは、イエズス会を裏切り藤原氏の傀儡関白となった豊臣秀吉が、1591年士農工商の身分法を定め、農民とそれ以外の民を分離し、全国の戸口調査をさせ、66カ国から太陽信仰民族や騎馬民族末裔を追放した時期からなのです。」
「身分制は、江戸時代からではないのですか。」
「それは違います。農民を権力側の民としたのは、出自不詳の豊臣秀吉の統治時代からです。」
「では、中世の太陽信仰民族、騎馬民族はどうなっていたのですか。」
「それは、カメさんの幻視レポートにあるとおりです。伊勢平氏の平家と清和源氏の源頼朝との源平合戦物語と、鎌倉時代の元寇物語の部分を取り除くと、そこに太陽信仰民族や騎馬民族末裔が活躍した、中世の歴史が現われます。それは、カメさんの幻視レポートにあります。」
「どういうことですか。」
「カメさんの幻視レポートでは、北条鎌倉時代の城の多くは、山にありましたよね。それが、室町時代になると平地に築かれていきましたよね。特に、東国には平地に多く築かれていくのが室町時代でしたよね。」
「そのように幻視しましたが。でも、現在の城とは異なっていました。」
「現在の城のイメージは、石垣の上に天守閣がそびえる建築物です。しかし、その城の出現は、イエズス会の傀儡軍団長の織田信長が、ヨーロッパの城造り思想を取り入れて築城した安土城が初めです。今では天守閣とするのですが、織田信長の城では、自らの居場所を「天主閣」とし、自らを「神」として臣下だけではなく、庶民にも崇めさしたのです。その結果として、「ゼウス」を唯一の神とするイエズス会と、本能寺(←根来寺←種子島←坊津←マカオ←南インド・イエズス会の征服作戦拠点)を拠点として火薬や銃を各地の大名達に密売していた藤原氏との共謀による、本能寺での織田信長爆殺となったのです。」
「織田信長は、明智光秀により殺害されたのではなく、爆殺されたのですか。」
「城の歴史は、その字の如く、土から成る、土壁で囲まれた地が始まりです。ユーラシア大陸での騎馬民族は、被支配者の住民を外敵から護るために、その平原の居住地を高い土壁で囲んだのです。それが、城の始まりです。その平地の城が、山の居住地を護るため、山裾に石垣や土塁、空掘りなどで防御施設を設けたのが、山城です。」
「すると、室町時代には、現在のような城は存在していなかったのですね。」
「そうです。藤原日本史では、鎌倉時代になると、「村」が出現したと述べています。しかし、その「村」のイメージは、現在の「村」とは異なります。現在の「村」のイメージは、豊臣秀吉の兵農分離政策により、農耕民だけの集団地が作られたのが始まりです。それ以前の「村」とは、城で囲まれた「都市国家」のイメージです。」
「國ですね。すると、武装集団が、城を護っていたのですね。」
「北条鎌倉時代は、その税収の史料がないほど、国家警察の存在が疑われるのです。藤原日本史では、西国は、朝廷が支配し、鎌倉幕府の出先機関の六波羅探題が存在し、そして、東国は鎌倉幕府の御恩と俸公により、東国武士団により、全国的に統治されていたように述べています。しかし、織田信長が、イエズス会の入れ智慧により「天下布武」を唱える以前、鎌倉幕府も室町幕府も、国家警察が日本列島を統一する天下国家思想など持ち合わせていなかったのです。そのような国家警察不在の時代に、元寇と言われる、高麗亡命大船団が、対馬海流に乗って日本列島の沿岸各地に流れ着いただけではなく、その4年後には、南宋時代、鎌倉幕府と交易のあった鎌倉に、南宋亡命大船団が押し寄せてきたのです。これらのことが、カメさんの幻視レポートが混乱した原因のひとつです。」
「あの幻視は、元寇ではなかったのですね。すると、治安悪化のため、各地に防衛施設としての「村」の都市国家が出現するわけですね。」
「そうです。この時代、モンゴル帝国の国際自由交易であったので、日本列島にもモンゴル帝国のムスリム商人やウイグル商人が、日本列島が産出する絹、金、銀の交易のため渡来したのです。ウイグルは、チュルク民族を主体としたので、古墳時代に国際交易で活躍していた太陽信仰民族に溶け込んでいた突厥(チュルクの漢音字)末裔とは共通文化を保持していたのです。それらの国際商人が、騎馬護衛隊を引き連れて、日本各地の「村」を、交易のため訪れていたのが、鎌倉時代だったのです。」
「それらの騎馬の護衛隊は、藤原日本史では、「悪党」としたわけですね。」
「そうです。鎌倉時代、その悪党に護衛されていた阿弥号を持つ一族が現われた理由として考えられるのは、そのウイグル商人のモンゴル帝国からの渡来です。」
「どういうことですか。」
「ウイグルは、仏教国だったからです。」
「それって変ではないのですか。ウイグルの主体は、騎馬民族のチュルク系ですよね。仏教は、その肉食する騎馬民族を、施陀羅として蔑視していたのですよね。」
「それは、漢訳仏教のことです。漢訳仏教は、バラモン僧のナガルージュナが、ギリシャ語仏典を漢訳する時、肉食する遊牧騎馬民族を不可触賎民として貶めるため、カースト制度のアウトカーストであるチャンダーラを施陀羅と漢訳したのです。そして、騎馬民族匈奴に隷属されていた漢民族国に取り入れられるために、漢訳仏典に挿入したものです。ギリシャ文化を継承していたガンダーラで発明された大乗仏教には、初期の仏像が、マトゥーラの仏像と異なり、写実的なギリシャ彫刻系であったように、民族を蔑視する思想はなかったのです。その大乗仏教では、無数のギリシャ語経典が発明されるのですが、その中に、再生復活の太陽神を、アミダーバとする経典があったのです。」
「そのアミダーバが、再生復活、つまり、浄土思想の阿弥陀に漢訳されたわけですね。」
「太陽神は、貴賎に関係なく、誰にでも光を与えるため、遍照と漢訳されたのです。阿弥陀とは、漢訳仏教での肉食する民族を蔑視する狭い意味の仏ではなく、民族・貴賎に関係なく恩恵を与える、再生復活の神である太陽神のことだったのです。」
「すると、古墳時代からの太陽神信仰民族である秦氏は、そのウイグル商人と共通の神を崇拝したわけですね。だから、実名の他に、阿弥号を称していたのですね。そういえば、奈良の大仏が、遍照鬼と呼ばれていましたよね。それを、平安時代、藤原氏の影響下にあった錬金術師空海が、大日如来と改竄したのですよね。」
「日本列島の奈良時代に渡来した漢訳仏教は、古墳時代からの宗教関係名を、漢字で隠蔽・改竄していたのです。」
「その説明で、阿弥号を持つ一族の登場が理解できました。では、織田信長が、二条御所を造る時、近隣から石仏を集めさせ、それを破壊して基礎材としていましたよね。その石仏が、阿弥陀仏ということですが、何故、鎌倉時代に石仏が登場したのですか。」
「それは、富は山から産出されていたからです。平安時代、錬金術師空海は、高野山を拠点に、四国に多くの霊場を建設しました。それらの建設地点は、中央構造線上にあったのです。」
「中央構造線とは、伊勢湾から紀伊半島の宇陀、高野山をぬけて、四国を横断し、北九州までのびている断層のことですよね。縄文時代から、その中央構造線上では、呪術の材料として、朱砂の塊が採取できたのですよね。」
「そうです。朱砂は、水銀の化合物です。錬金術師空海は、唐留学で、死の床にあった恵果から密教の経典と法具を買い取り、日本にもたらしたのです。その密教とは、バラモン教の流れにあるヒンズー教と漢訳仏教とを基に、中国で発明された宗教です。密教では、呪文と手印の他、薬物を利用していたのです。」
「薬物って何ですか。」
「それは、水銀と大麻です。それらは、幻覚を起こす薬効があるのです。」
「四国は、古墳時代から大麻の自生地でしたよね。」
「その四国の空海が開設した霊場の近くには、銀鉱山、銅鉱山があるのです。空海の一味は、全国にその足跡がありますが、それらの地には、石清水が湧き出た、との弘法大師の伝説が多くあるのは、鉱脈探索跡から湧き出た水のことです。」
「富が山にあるとの意味が分かりましたが、でも、絹は、山からではなく、桑畑のある平地から産出されるはずですが。」
「絹織物が、蚕の繭を素材としていることが、公に分かるのは、唐帝国の時代からと言われています。絹の製法は、公に知られることを恐れて秘密裏に華南の山奥で産出されていたのです。その絹が、紀元一世紀、ローマ帝国で、金の重さと同等価値として取引されたことにより、華南の商人は、絹製品増産のため、その原料の秘密産地として、山の深い場所が多くある日本列島を目指したのです。」
「そういえば、卑弥呼は、魏に絹を貢いでいましたよね。」
「そうですね。蚕が、華南からもたらされたと考えられるのは、日本列島にも蚕は存在していたのですが、日本列島の蚕とは別種が存在しているからです。それが、華南種のポンピックス・モリ種です。ところでカメさん、「山寺の和尚さん」は、何故、「ワショウさん」ではなく、「オショウさん」なのか考えたことありますか。」
「たしか、呉音では「和尚さん」は、「ワショウさん」ですよね。そして、杭州音では、「オショウさん」ですよね。それが、石仏と関係があるのですか。」
「その山城の機能を持つ山寺と阿弥陀の石仏が、鎌倉時代の中期に突然現われるのです。そして、その山寺のオショウさんが、地蔵信仰を山の民に布教するのです。」
「それっておかしいですよ。杭州は、南宋の海洋通商都市ですよね。だとすると、そのオショウさんは、禅宗ですよね。禅宗は、地蔵などの偶像を崇拝することはないはずですが。」
「歴史的に、日本列島に渡来した宗教は、全て、その思想が変質するのです。禅宗も、その例外ではありません。鎌倉時代、奈良の宇陀地域に、石仏と供に突然現われたものに、磨崖仏があるのです。」
「磨崖仏って何ですか。」
「岸壁に線で描かれた阿弥陀の仏絵です。」
「何のために、宇陀に突然磨崖仏が現われたのですか。」
「移動可能な仏像が石仏だとすれば、磨崖仏は不動の仏像画です。その宇陀の磨崖仏が描かれた地域の近隣には、水銀鉱脈があるのです。水銀鉱脈の近くには、銀鉱脈が存在するのです。」
「磨崖仏の存在は、平安時代の空海の霊場と同じ意味ですか。」
「そうです。その磨崖仏を岸壁に描くことで、その地域一帯を聖地として、禁足地とし、一般人の立ち入りを禁止するわけです。」
「すると、石仏は移動可能な聖地を形成するわけですか。」
「鎌倉時代に石仏が作られた意味は、他にあるようです。」
「石像といえば、藤原日本史で磐井の反乱で有名な磐井氏(騎馬民族史では、古代新羅の花郎騎士団長)の墓といわれる古墳には、石の人像や馬像が飾られていましたよね。それと同じ意味ですか。」
「禅僧は、地蔵思想を広めるのですが、その地蔵は、武士(蝦夷末裔の武芸者)が戦っている時、その武士を見護ってくれる、と説いていたのです。」
「それって、まるで、秦氏の神である、戦場に現われて正義の戦いで敗れた勇者は再生すると伝わる、ローマ帝国軍団(花郎騎士団の「花」は、ミトラの借字)の軍神となったミトラ神と同じですね。」
「そして、禅僧は、山の民に向かって、「善人は往生できる、ましてや、悪人(勇者)ならなおさらだ。」、と説いていたのです。」
「その文句、親鸞が「歎異抄」で唱えた、悪人正機説と同じですよね。」
「カメさん、親鸞は、室町時代に蓮如(苗字日野氏、姓藤原氏・武家の武家屋敷ではなく、武士の屋形や馬借の宿を主な布教地としたのは何故か。)により創作された、架空の人物です。その呪文は、禅宗が、山の民である、太陽信仰民族世界に入り込むために発明した呪文なのです。」
「ナベさん説では、確かに、親鸞は架空の人物であると、鎌倉時代のレポートにありましたが、一般的常識では、親鸞は、浄土真宗の開祖となっていますよね。」
「浄土真宗は、鎌倉時代には存在していなかったのです。カメさん、「浄土真宗」と「親鸞」の文字で、何か感じませんか。」
「何も感じませんけど。」
「その漢字を、カタカナで表示してみてください。」
「ジョウドシンシュウとシンランですよね。」
「そうです。その二つには、共通のものがありますね。」
「シンですか。」
「そうです。秦氏の別称は、シン氏です。秦氏は、シンの始皇帝の末裔です。朝鮮半島に渡来すると、その支配国名は、シン韓(辰韓)、シン羅(新羅)となるのです。そして、シン氏(秦氏)の祭祀は、シン楽(シン→申楽→猿楽)です。」
「すると、蓮如は、秦氏末裔をターゲットとして、浄土シン宗、シン鸞のネーミングを発明したわけですか。そういえば、シンラン(親鸞)とシンラ(新羅)にも共通音がありますよね。」
「浄土シン宗の実際の開祖である蓮如は、その書籍や手紙には、漢字を使用しないで、全て、ひらがなで著わしていたのです。浄土シン宗が、賎民のための宗教ではなかったことは、三代将軍徳川家光から始まる第三百済王朝の江戸時代、秦氏・騎馬民族末裔を差別支配するための寺請制度で、浄土真宗は、その末寺として、民族差別するために専用の穢多寺を造っていたからです。」
「すると、シン氏末裔の山の民は、肉食妻帯するシン鸞が拓いた、「ナムアミダ」(私は太陽神を信じます。)を唱える浄土シン宗を、シン民族のための宗教として受け入れてしまうわけですね。」
「そうです。鎌倉時代中期から室町時代初期にかけて、禅宗は、山の民の抱きこみのために、悪人正機説を唱え、阿弥陀の石仏を山の民の支配地に設置していたのです。しかし、このことは、西国のことで、東国での禅宗の活動は不明です。西国は、民族差別が始まる平安時代から、亡命百済貴族末裔が、比叡山を山城として、京都を支配し、そして、藤原氏は、春日山の麓の興福寺を砦として奈良を支配していたのです。そして、その京都と奈良の地を奪われ山の民となった、秦氏末裔は、淀川河口の上町台地の一角の湿地帯(都市国家渡辺村・世良多部落出自の源氏長者となった徳川家康も、江戸川河口の湿地帯を大土木事業により居住地に変て江戸の町を造成した。)を拠点としていたのです。秦氏は、古墳時代から、治水のための高度土木技術を保持していたのです。だから、淀川河口の湿地帯を居住地とすることができたのです。」
「東国ではそれほど強くない民族差別が、西国で強いのは、そのような三つ巴(三民族)の戦いの歴史があったのですね。」
「平安時代、亡命百済貴族により、賎民に落とされた秦氏末裔は、鎌倉時代中期のモンゴル帝国による国際自由交易により、阿弥一族として復活したのです。それは、富を産出する山と国際交易港の難波(大阪)を支配していたからです。」
「その富を狙って、石仏を作り、禅宗や藤原氏が暗躍したわけですね。でも、室町時代になると、京都の北辺で相国寺の110mの大塔などの大建設事業を行っていた三代将軍、源氏長者の足利義満が存命中は、阿弥一族は活躍していたのに、足利義満が没すると、阿弥一族も没落したのは、何故ですか。」
「古墳時代、前方後円墳ネットワークで日本列島の物流を支配していた交易拠点は、「ミヤケ」です。奈良時代、唐進駐軍の律令国家が古墳を破壊し、その跡に、怨霊封じ込めのための社(神社・モリ)を建てたのです。鎌倉時代から室町時代初期まで、阿弥一族の商業活動の全国ネットワークを支えたのは、各国にある、その結界としての禁足地「モリ」を拠点として、全国的に組織された同業組合としての「座」です。室町時代、その組織を壊滅する組織が、淀川の京都と難波の中間点の山崎に現われたのです。それが、油座です。」
「油座って、油行商の同業者組合のことですか。」
「違います。従来の「座」を、談合による排他的同業者の集まりであるカルテルとすれば、山崎の油座は、各種の座を統合して支配するコンツエルンのような組織です。その油座は、油の他に米や各種製品を行商するだけではなく、為替の決済をおこなう割符のサービス業務もおこなっていたのです。淀川沿いの山崎の大山崎離宮八幡宮を拠点とする油座は、1368年突然その勢力を増大させるのです。」
「油座は、まるで、現在の総合商社のようですね。で、何で、1368年突然その勢力を増大させたのですか。」
「1368年は、国際自由交易を行っていたモンゴル帝国が、朱元璋の軍団に破れ、明が興った年です。そして、同年足利義満が三代目将軍として就任した年です。そして、明は、モンゴル帝国が宗教の自由を認めていたのに対し、儒教を国教とするのです。」
「すると、禅宗は、中国大陸から追い出されるわけですね。」
「モンゴル帝国で、禅宗は国際交易に携わる一方、禅寺を各地に建立して、そこを国際商人達向けに宿坊としていたのです。坊とは、居留地の意味もあるのです。」
「すると、ナベさんは、その油座の商人は、1368年モンゴル帝国から亡命して来た、と考えているのですか。」
「そのように考えています。油座の商人達の商業活動は、モンゴル帝国で行われていた「オルトク」を基本としているからです。」
「オルトクって、金を出し合って企業を興す、資本主義のことですよね。」
「そうです。室町時代、その油座が、従来の同業者組合の座を世間から駆逐して行くわけです。」
「ナベさん、それって変ですよ。藤原日本史では、織田信長が楽市楽座を行うまで、座が存続していたように述べていますが。」
「従来の座は、室町時代中期には壊滅していたのです。」
「でも、座には、座を管理運営していた、祭祀具である日本刀を保持する武装勢力の「役座」や、紛争解決請負業としての武装騎馬警備隊の「悪党」もいましたよね。無武装の油商人により、そんなに簡単に、座が壊滅されたのですか。」
「その役座の日本刀が、室町時代から刃幅が厚くなっていくのは、祭祀具から戦闘具への変化が示唆されます。その油座には、僧侶から油商人、そして、後に武人となる斉藤道三のような、槍の使い手の油座護衛隊が存在していたのです。」
「すると、油座の最新式武器である槍を持つ護衛隊も、モンゴル帝国からの渡来者ですか。」
「鎌倉時代末期から室町時代に現われた武将の多くは、何故、歴史的に存在しない「清和源氏」を出自としていたのかの答えが、そこにあるようです。」
「それって、どういうことですか。」
「足利連合軍の中に、斯波氏がいます。その斯波氏のことを、「老松堂日本録」では、斯波氏の振る舞いは、「ほとんど倭風なく、我が国の謹厚の人と異なり」、とあります。「斯波」を「波斯」と逆に綴れば、ペルシャの漢訳字です。唐帝国の時代、638年波斯寺(大秦寺)が建立されています。674年には、イスラームのサラセン帝国に敗れた、ササン朝ペルシャの王子ペローズは、唐帝国に亡命しています。そのように、中国大陸には、ペルシャ人が多く暮らしていたのです。」
「すると、足利氏を含めて、細川氏、仁木氏、二本松氏、畠山氏、吉良氏、今川氏、渋川氏、石塔氏、一色氏など、「清和源氏」を租とする武家は、モンゴル帝国からの渡来者なのですか。」
「鎌倉時代に渡来した武人には、高麗亡命軍、南宋亡命軍がいますから、断定は出来ません。鎌倉時代末期から室町時代に現われた武人の出自を「清和源氏」としたことは、古墳時代の騎馬民族武人の出自を隠蔽するため、藤原日本史では、蘇我氏、物部氏、大伴氏、安倍氏、巨勢氏、紀氏、多治比氏、大神氏などの氏名を発明し、その租を武内宿禰としたトリックと同じだと考えます。」
「ナベさん、その話の流れから、異民族の地を簒奪する戦略が読み取れますね。異民族の支配地である山へ、魅力ある思想を持って僧侶が現われる。そして、その僧侶住居の寺に魅力ある物品をもたらす商人が現われる。そして、ころあいを見計らって武装勢力が寺に集結し、その異民族の地を簒奪する、ということです。オレが見た幻視では、山奥の砦は、山寺だった。山寺の多くは、石垣に護られていますよね。」
「山寺が、仏教史で述べているように、僧侶の修行の地であるとすれば、神社(モリ)が藪垣や板塀で囲まれているように、石垣や堀などの堅牢な防御施設などなくてもよいわけです。しかし、山寺には、防御施設があるのは、外敵の侵入を阻止する前提で建立されているのです。その山崎の油商人は、阿弥一族の経済援助に支えられている足利義満からの経済的援助を受けられない後円融天皇に近づき、伊予、阿波、備前、播磨、摂津、和泉、河内、丹波、山城、近江、美濃、尾張に商売の許可を得て行くのです。」
「それらの国は、後に、民族差別が激しくなって行くのですよね。」
「そうです。それらの国の山々は、秦氏・騎馬民族の支配地だった処です。禅宗・油座商人・渡来武人連合に簒奪された国の奪還が、藤原日本史で述べる、日本列島西国各地で起こった百姓一揆の実態です。」
「藤原日本史では、百姓一揆は、馬借や声聞師に指導されていた、とするのは、秦氏や騎馬民族末裔の武士に指導されていたことを隠蔽するためだったのですね。」
「藤原氏にとって、秦氏や騎馬民族の歴史的存在は、許すことの出来ないことなのです。それは、その秦氏や騎馬民族の歴史が、公に知れると、聖徳太子の飛鳥時代物語の虚構がバレることにより、カスピ海沿岸のハザール王国の民を租とする藤原氏の出自が暴かれ、それと同時に、日本列島の統治装置としての、藤原氏のための藤原氏による天皇制の秘密が暴かれてしまうからです。目障りな民族を、歴史的、世間的に抹殺するには、その民族を不可蝕賎民、穢多として落としこめるのが最も効率的な方法なのです。」
「藤原氏は、秦氏や騎馬民族を歴史的に抹殺するため、古墳時代の日本列島を支配していた秦氏・騎馬民族と他民族との隔離政策のひとつとして、穢多の蔑称を発明するわけですね。その歴史隠蔽のトリックとしての、藤原日本史の中世に賎民として登場する、芸能民、神人、犬神人、寄人、供御人、河原者、声聞師、馬借などを、秦氏末裔や騎馬民族末裔に置き換えると、中世の実態が浮かび上がるわけですね。鎌倉時代から室町時代初期まで、それらの賎視されていたとする人々は、実際は、国際交易などで経済的に自立していて、決して、放浪・遊行する貧民などではなかったのですね。」
「日本列島の中世は、それらの賎民といわれるひと達が、中世最大の高利貸し組織である比叡山延暦寺出身の破戒僧に随って全国を遊行・放浪していたのではなく、祭祀儀式の費用が捻出できない天皇家や、荘園からの収入が途絶えた公家などの貴族が、貧民の経済レベルで生活していた時代なのです。暗黒の中世とは、天皇家、藤原氏一族、亡命百済貴族末裔にとって、暗黒の時代だったのです。」
「ナベさんの説明で、藤原日本史が述べる室町時代の一揆と下克上の歴史的バックグランドが分かりました。室町時代は、古墳時代からの旧武装勢力と、足利氏などの新興武装勢力との支配権をめぐる激突・拮抗の時代だったのですね。」
「そうです。室町時代は、藤原日本史が述べるように、足利氏が単独で、日本列島を武力で統治していたのではないのです。日本列島史を調べるには、古墳時代から調べなくてはならないというのは、藤原氏や亡命百済貴族や武家が歴史上に登場する以前、7世紀の西国における古墳時代終焉まで、日本列島は、秦氏や騎馬民族により統治されていたからです。しかし、東国の歴史は、鎌倉時代までは分かりません。」
「古墳時代を調べるって言っても、古墳時代の史料がありません。」
「史料がなければ、遺跡や遺物があります。カメさんは、赤羽の岩淵が住まいですよね。」
「そうですが。」
「王子の飛鳥山に行ったことありますか。」
「桜を見に、何度かありますけど。巨石が、無造作にあちこちにあるのを記憶していますけど。」
「飛鳥山は、明日香山で、古墳群の山なのです。1720年(享保5年)長弓による流鏑馬を開発させた、八代将軍徳川吉宗は、明日香山に桜の苗を植えて、庶民のために桜の名所を仕立てた、と述べています。しかし、それは表向きで、桜の植林は、明日香山の古墳群を破壊するためだったのです。」
「だから、飛鳥山には、多くの石室を破壊したため、巨石がゴロゴロとあるのですね。オレの身近にも、古墳時代の遺跡が存在していたのですね。」
「明日香山だけではないのです。赤羽の星美学園は、古墳群の上に存在しているのです。それは、赤羽台古墳群と呼ばれ、6世紀から7世紀の古墳時代後期に築かれていたのです。現在15基の円墳が発掘されていますが、更に多くの古墳が眠っていると推測されています。」
「古墳は、遠い昔のものではなく、オレの身近に存在しているわけですね。」
「カメさん、そろそろ夜明けです。チャットはこれくらいで終わりにしませんか。」
「オレも、なんだか眠くなりました。」
「今、戦国時代の史料を集めています。レポート出来ましたらメールします。」
「よろこんで。」
「では、おやすみなさい。」

オレは、パソコンを閉じるとそのまま寝てしまったようだ。窓の強い日差しに、オレは起こされた。時計を見ると、12時前だった。軽い朝食兼昼食をとると、愛車のトモスで、飛鳥山を目指した。
飛鳥山の駐車場にトモスを止めると、渋沢資料館の立派な建物が目に入った。飛鳥山には、桜の見学で何度か訪れていたが、こんな立派な資料館があるとは知らなかった。遊園地の奥に鉄柵で囲まれたこんもりした地があった。恐らく、それが古墳だ。
やはりそうだった。標識には、飛鳥山1号墳とあった。古墳は、埋め戻されていたので、こんもりとした、盛り土のようだった。
標識によれば、古墳時代後期で、全長31m、3.8mの周溝が発掘され、切石で築かれた横穴式石室には、太刀、刀子の破片、鉄鏃、耳環、菅玉、切小玉、ガラス小玉が出土した、と写真付きで説明されていた。
オレは、石段をゆっくり登った。下から眺めると、盛り土のようだったが、登ると視界が開けた。カメラマンバックから、ペンタックスを取り出し、王子駅方向にレンズを向けた。
晩秋の木漏れ日が、広角レンズを通してオレの目に飛び込んだ。
一瞬、ファインダーに、広い草原を流れる荒川が、幻視として現われた。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/771.html

コメント [政治・選挙・NHK153] みのもんたの恐るべき報復 (simatyan2のブログ)  赤かぶ
178. リメンバー・ディモナ原発 2013年9月12日 16:10:37 : V3DKZA4cHE65Q : E7MiuhXF7C
また、simatyan2→赤かぶなのか!

おごれる者(赤かぶ)は久しからず!

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