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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100032
http://www.asyura2.com/acpn/k/ko/koa/koaQ7Jey/100032.html
[番外地6] 経済破綻したベネズエラの状況 富裕国から最貧国へ 中川隆
3. 中川隆[-7617] koaQ7Jey 2017年6月01日 17:41:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

南米の産油国ベネズエラは原油価格値下がりで破綻寸前、というより既に破産しているのだが、面倒なので国際社会は存続させて放置している。

国家破産を認めたら日米欧や中国の損失が表面化するし、色々と不都合だから「もっと破綻するまで見なかった事にしよう」という事です。

インフレ率は500%とも1000%ともいわれ、暴動が起きて武力鎮圧しているが、面倒だからと先進国は関わりを避けている。


その破産国家の国民は通貨の価値がなくなったので輸入が出来なくなり、輸入食料はむろんの事、医療品の輸入もできなくなっている。

このベネズエラで金儲けをしていると批判されているのが「金男」ことゴールドマンサックスと、野村證券です。

報道によると野村証券は先週、約1億ドル相当のベネズエラ国債を約3000万ドルで購入した。


満期に償還してくれるなら3倍以上になるわけで、これ自体は異常ではない。

日本国債も額面より安い価格で販売し、満期に買い取る事で投資家は儲かるので、同じ事だからです。

額面と販売価格の差が金利で、信用が高い国ほど差が小さく、信用が低い国ほど差が大きく投資家は儲かる。


だが信用の低い国は破綻する確率が高いので、購入した国債が紙切れになる場合があります。

ゴールドマンサックスは28億ドル相当のベネズエラ国債を、やはり額面の3分の1以下で購入したと報道されています。

これが非難される理由は一つには、破綻国家につけいる「ハゲタカ」や「ハイエナ」的行為というのと、ベネズエラの現政権を助けている事です。


ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領は自分の失策で経済破綻させたが退陣する気はなく、抗議には武力鎮圧で対応している。

いっそのこと退陣して政権交代すれば良いのに、GSと野村が金を貸して助けているという批判です。

国債を買うのはその国を助けているが、大統領が独裁者で問題ある人物だった。
http://www.thutmosev.com/archives/71166996.html

http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/780.html#c3

[政治・選挙・NHK226] ハニートラップによる「愛国者潰し」は国内でも起こり得る (ダークネス) TORA
3. 中川隆[-7616] koaQ7Jey 2017年6月01日 18:21:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

中国美女も日本男性が大好き
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/290.html
http://www.asyura2.com/17/senkyo226/msg/620.html#c3
[リバイバル3] 北海道の最低市町村ランキング 中川隆
70. 中川隆[-7615] koaQ7Jey 2017年6月01日 18:27:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
>>35, >>36, >>37,>>38,>>39 に追記

北海道が中国の“北海省”になる日も遠くない? 事態は逼迫
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170601-00000016-pseven-soci
週刊ポスト2017年6月9日号


 昨年1年間で外国資本に買われた森林は実に“東京ディズニーランド15個分”──4月28日、農林水産省が発表した調査結果が永田町や霞が関に衝撃を走らせている。

 同省が森林法に基づく市町村等への届け出情報などから全国の森林の土地所有者を調査したところ、昨年1年間で202ヘクタールもの土地が所在地を海外に構える外国資本によって買収されたことが判明したのだ。

 前年の同67ヘクタールと比べると3倍もの伸びを示し、調査を始めてから最大となった。かねて取り沙汰されてきた海外からの土地買収攻勢が、急激に拡大していることを窺わせる。

 国内に拠点を持つ外資系企業による買収事例も含めると、外国資本による買収面積は777ヘクタールに及ぶ。東京ディズニーランド(51ヘクタール)15個分にも相当する広大な土地が、わずか1年の間に外国資本に買い占められていたのだ。

 注目すべきは買収された森林のほとんどが北海道にあること、そして香港・台湾を含む中国系の土地取得者による買収面積が81%にものぼる点だ。中国資本が日本の土地を易々と手に入れることができる背景として「法制度の不備」を指摘するのは丸山穂高・衆院議員(日本維新の会)だ。

「海外資本から国土を守る法制度は事実上ないに等しいのが現状です。だからこそ、今の森林法を改正して山林などの売買を事前届け出制にすることを求め、改正案の提出準備を進めている最中です。

 農地、水源地など広大な土地を外国資本が買う動きを見せた際にきちんと審査に掛けて、場合によっては取引を規制できるようにするべきです。仮に問題のある取引であることが判明すれば、既に買われてしまった土地でも国が収用できるようにもすべきと考えます。国土を守ることと安全保障は密接にリンクするため、早急に国会での議論を始めたい」

 が、なかには中国との繋がりが一見すると分からない企業もあり、自治体側も対応に手を焼いている。北海道沙流郡の自治体関係者の話だ。

「地元で数百ヘクタール以上の農地がある企業に買われた後、2年以上更地になったままの土地があります。買収企業の経営者は日本人ですが、中国企業との取引だけで成り立っているような会社。実質、中国企業による農地買収だったと見られていますが、規制を掛ける根拠もなければ、自治体側に当該企業の経営実態を調べる能力もない。目の前で広大な土地が右から左に売り渡されるのを見るほかないのが現実です」

 中国資本による道内の土地買収等の動きを長年調査している元北海道議の小野寺秀氏がこう憂慮する。

「このまま道内の農地や水源地が中国資本に押さえられれば『食の安全保障』は崩壊します。万が一、世界的な食糧危機に見舞われた際、中国資本の土地で作られた“北海道産”の農産物が日本を飛び越え、中国に直接輸出される可能性もあります。

 それを阻止する法制度はなく、中国による侵食が続けば、北海道が中国の“北海省”になる日も遠くないかもしれない。それほど事態は逼迫していると考えています」

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/588.html#c70

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
86. 中川隆[-7614] koaQ7Jey 2017年6月01日 18:46:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

川端康成「反橋」



あなたはどこにおいでなのでせうか。

仏は常にいませども現ならぬぞ哀れなる、人の音せぬ暁にほのかに夢に見え給ふ。

この春大阪へ行きましたとき住吉の宿で、梁塵秘抄のこの歌を書いてゐる友人須山の色紙を見ました。須山がなくなる前の年にあたるやうであります。

なくなつた友人が書いたのとおなじ色紙がまだ残つてをりまして、私にもなにか書くやうに頼まれましたから、その一枚には、

夜や寒き衣やうすきかささぎのゆきあひのまより霜や置くらむ

と住吉の歌を、もう一枚には、

住吉の神はあはれと思ふらむ空しき舟をさして来たれば

の古歌を書いてみました。

後三条天皇の空しき舟とはどういふおつもりだつたのでありませうか。

私自身にとりましてはこの空しき舟は私の心にほかならないやうに、私の生にほかならないやうに思へてしかたがないのであります。

私が五つの時に住吉神社の反橋を渡つたことがあるかないか、それが私には夢やうつつや夢とわかぬかなであります。

五つの私は母に手を引かれて住吉へ参りました。反橋はのぼつてみると案外こわくありませんでした。その橋の上で母はおそろしい話を聞かせました。

母の言葉ははっきりおぼえてをりません。母は私のほんたうの母ではないと言つたのでありました。私は母の姉の子で、その私のほんたうの母はこのあひだ死んだと言つたのでありました。

私の生みの母の家も育ての母の家も住吉からさう遠くない土地にありましたけれども、私は五つの時から二度と住吉へ行つたことがありませんでした。

それがもはや生にやぶれ果て死も近いと思はれる今、もう一度だけ住吉の反橋を見たいといふ心に追ひ立てられるやうに来たのでありましたが、その住吉の宿ではからずも須山が書きのこした色紙にめぐりあひましたのはなにかの因縁でありませうか。

仏は常にいませどもうつつならぬぞあはれなるとつぶやきながら私はあくる朝住吉神社へ行つてみますと、遠くから見る反橋は意外に大きくて、五つの弱虫の私が渡れさうには見えませんでしたが、近づいてみて笑ひ出してしまひました。

橋の両側に足をかける穴がいくつもあけてありました。

もちろん五十年前の橋板が今もそのままなのか、私にはわかりませんけれども、しかし欄干につかまりながらその穴を足だよりにのぼつてみますと、穴から穴は少し遠くて五つの子供の足ではとどきさうにもありません。

反橋をおりきつたところで私は深いためいきを吐いて、私の生涯にもこの穴のやうな足場はあつたのかしらと思ひましたが、遠いかなしみとおとろへとで目先が暗くなりさうなのをどうするこいとも出来ませんでした。

あなたはどこにおいでなのでせうか。
http://nature.boy.jp/sayonarad01/sorihasi.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c86

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
87. 中川隆[-7613] koaQ7Jey 2017年6月01日 18:52:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

川端康成の魔界 少女を幾人か犯す…「反橋」 夢うつつ行きつつ連作


「住吉」連作の舞台となった反橋。渡るだけで「おはらい」になるという信仰がある=大阪市住吉区の住吉大社(門井聡撮影)
http://www.sankei.com/west/photos/150128/wst1501280045-p1.html



 「反橋」(そりはし)は大阪市住吉区にある住吉大社の橋が舞台となっている短編だ。

昭和23(1948)年10月、「手紙」と題して「風雪別冊」に発表された。以後、「しぐれ」(「文芸往来」昭和24年1月)、「住吉」(「個性」昭和24年4月、原題は「住吉物語」)と3カ月ごとに書き継がれ連作の形をとっている。


 「あなたはどこにおいでなのでせうか」

 いずれの作品にも、この問いかけ文が、作品の冒頭と文末に置かれている。夢うつつを行き交うような文体で、その後の川端文学の魔界に誘うような独特の世界を作り上げている。

 「反橋」連作、あるいは「住吉」連作と呼ばれる。

 「反橋」は神社正面の池にかけられた大きなアーチ形の橋。太鼓橋とも呼ばれ住吉大社の象徴ともなっている。石づくりの橋脚は豊臣秀吉の側室、淀君が奉納したといわれる由緒ある場所だ。

 ここで、主人公の「私」は5歳のとき母親に手を引かれて橋を渡りつつ、衝撃の事実を告げられる。

 「この橋を渡れたら、いいお話を聞かせてあげるわね」

 「どんなお話?」

 「大事な大事なお話」

 「可哀想なお話?」

 「ええ、可哀想な、悲しい悲しいお話」

 なんと母は本当の母でなく、私は母の姉の子で、その本当の母はついこの間死んでしまったという話だった。

 「私の生涯はこの時に狂ったのでありました」

 そして、「私」は自分の出生が尋常のものではなかろうと疑い、育ての母へのゆがんだ愛に苦しみ、「悪行」の果て、50代を迎えたいま、死期を迎えもんもんと自分の人生を自問自答している。

 「悪行」とは何か。それが「しぐれ」「住吉」と続く連作の中で切れ切れに明らかにされていく。

育ての母に「悪心」を募らせ無理難題を言っては困らせたこと。その母が17歳で嫁入りしたと知って早い結婚によこしまな嫉妬を覚え、「十七より下の少女を幾人か犯すようなこと」をしたこと。青年期には友人・須山とともに女を買いあさり、双子の娼婦を相手に官能が麻痺する経験を重ねたこと。

 「私」は尾形乾山のすずりや池大雅の書画、あるいは吉川霊華の絵などを手元に置き、古美術と対話するような生活環境にありながら、過去の「悪行」に苦しんでいる。それは育ての母と、そっくりだったという産みの母との周りをめぐって堂々めぐりを繰り返す。

 「あなたはどこにおいでなのでせうか」

 この問いかけの「あなた」とは誰なのか。生母か、継母か、あるいは2人を合わせた永遠の母なるものか、それとも普遍的な存在としての仏なのか。

 いかようにも読めるが、いずれにしても生死のわからぬ相手に、苦悩と絶望の底から救いを求めるかのように呼びかける様子が哀歓を呼ぶ。また、随所に過去の名品や物語(ここでは中世の継母物語である「住吉物語」)がはさみこまれ、ストーリーに深みを与えている。

 「美術品、ことに古美術を見てをりますと、これを見てゐる時の自分だけがこの生につながってゐるやうな思ひがいたします。さうでない時の自分は汚辱と傷枯の生涯の果て、死の中から微かに死にさからってゐたに過ぎなかったやうな思ひもいたします」(「反橋」)

 実は川端康成は22年後の昭和46年11月、突如この「あなたはどこにおいでなのでしょうか」を冒頭に置いた「隅田川」を「新潮」に発表した。登場人物も物語の展開も前の3作と連動しており、「住吉」連作の最終章と読める。この作品は川端康成が生前に発表した最後のものともなった。その意味でも、この連作は作家にとって重要な位置を占めていたと想像される。

「戦争中から戦後へかけ、氏は日本の古典の世界に深く沈潜するようになった。源氏物語に没入し、物語のあわれが自分のなかに強く存在していることを思うようになった。伝統の自覚であるが、伝統主義ではない。日本古来の悲しみのなかに帰ってゆくという決意、選択だ。そのような転換期を代表する作品の一つが反橋連作である」

 と山本健吉は書いている(昭和34年・近代文学鑑賞講座)。

 同時に「ここから、康成の魔界は覚醒した」と川端文学研究者の森本穫さんは昨年まとめた大著「魔界の住人川端康成」で断言した。

 『住吉』連作を嗤矢とし、『山の音』『千羽鶴』を経て『みづうみ』『眠れる美女』へと続く川端文学最高の連峰。魔界文学。

 戦争中の川端康成に何があったのか。
http://www.sankei.com/west/news/150128/wst1501280045-n1.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c87

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
88. 中川隆[-7612] koaQ7Jey 2017年6月01日 22:09:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

母の損失という語り  川端康成の『住吉』連作における転移と反復

            メベッド・シェリフ
                                     

 本研究は川端康成による四つの短編一「反橋』(1948)、「しぐれ』(1949)、「住吉』(1949)、「隅田川』(1971)一に焦点を当てたものである。

最初の三作品は第二次世界大戦回数年間に書かれた。最後の作品は川端の自殺の数ヶ月前に完成した。これらの短編の一つひとつは、同じグループの登場人物によって構成されており、ひとつの作品の四つの部分であると考えられるべきであ
る。

これらの短編を精神分析的視点から考察した。「反橋』の分析において、主人公の行平は、住吉神社の反橋の上で聞いた母の告白によってトラウマを受ける。

このトラウマは、主人公にとってエディプス・コンプレックスの終結であると分析する。

次に、「しぐれ』における夢の描写と、その中における川端の「転移」の使用を考察する。

ついで、「住吉』で描写される幼年時代のトラウマと、成人になってからの性的倒錯の関係を、反復の役割に注目しつつ取り上げる。

最後に、「隅田川』におけるエディプスの主題の描写を考察する。

その結果、川端は主人公の描写においてフロイトのテーマを援用し、フロイトの概念がこれら四つの作品の中心概念になっていることを結論としている。

はUめに

 住吉連作と呼ばれる作晶は第二次世界大戦が終わってから間もなく発表された三作「反橋』(1948)、「しぐれ』(1949)、「住吉』(1949)、川端が死ぬ直前に書かかれた一作「隅田川』(1971)という合計四作品で構成されている。

四編を通して同じ人物(行平、須山、行平の継母と実母、双子の売春婦)が登場する。

それに、「あなたはどこにおいでなのでせうか」という言葉が四編とも書き出しにある。

また、主人公の生い立ちから老後までの一生が描かれている。

それぞれの作品は「です・ます」体で書かれており、一作目の「反橋』は発表当時に「手紙』という表題であり、したがって、この小説全体は一つの手紙であると見なすべきであろう。

1920年代に発表された「青い海、黒い海』に出てくる「遺書」と同様、この書簡の宛先は不明である。

また、「隅田澗』は澗端の自殺直前に書かれており、規端の生涯で最後の勢門に当たり、また主人公は自殺を灰めかしているため、ここに川端自身の自殺の意味が隠されているとして、注目されてきた作晶でもある。

川端自身の自殺の意味はともかく.川端がわざわざ20年前に書いた三部作に生涯最後の作品としてもう一編を付け加えたことには大きな意味があると考えられる。

 本稿の目的は.従来の研究で取り上げられることがなかったフロイト思想の規端平均における役目を明らかにすることである。

特に、エディプス・コンプレックスと、「快感原則の彼岸』(1920)に出てくる「反復衝動」、「転移」、「死の本能」という三つのテーマに注目する。

「快感原則の彼岸』はフロイト思想の発展の中での大きな曲がり角であった。

フロイトによると、「快感原則」とは人間の殆どの行動を動機付けるとされる本能である(快感を求めて.不快なことを避けることである)。

しかし、例えば、自らの腕に繰り返して傷を付けるというような人間の行動は「快感原則」では説明できない。そこで、フロイトは「快感原則の彼岸』で初めて自分の理論の大きな修正を試みた。

フロイトは、このような自傷行動は、神経症の患者が抑圧されたトラウマを現在の生活の中で繰り返して再現しようとすることであると見なしていた。

無意識に潜むトラウマの傷跡や衝撃的な体験の記憶を思い出せないまま、それによって不快な行動を繰り返すことがその特徴である。

しかしながら、トラウマをそのまま繰り返すのではなく、それとなく別の対象に精神のエネルギーを注ぐという。

このように、元の感情の対象とは別の対象に感情をぐことは「転移」と呼ばれる。
 
また、フロイトの思想において、原型的なトラウマとは.母親との(想像の上の)恋愛関係の終わりを意味する。つまり、エディプス期の結末である。

母を独占できないと分ってしまう時に、恋人としての母の喪失による傷が心に残るとフロイトは論じている。

「住吉』連作の主人公である行平は、上で触れた反復衝動を性格の重要な特徴として持っている。

また彼のエディプス期の結末に関する思い出が作晶に登場する。

同じ「快感原則の彼岸』で初めて紹介された「死の本能」もこの作品に著しく現われている。

そのため本稿では、川端はフロイトの思想を「住吉』連作の主人公の心理描写に取り入れていたのではないかという点を論じる。


作晶の概要

 「反橋』で、行平という初老の主人公は五歳の頃の体験の記憶について語る。

主人公は何年かぶりに「反橋」のある住吉神社へと旅して、旅館に泊まる。
そこで、様々な記憶が甦る。

記憶の中で、母親は住吉神社の険しい反橋の頂点まで五歳の行平を一人で登らせ、その頂点で行平の母は、自分は行平の本当の母ではないと言う。

これまで実の母だと思っていた母は継母であり、実はその姉が生みの母であると言われる。

五歳の主人公はそれを初めて知る。

更に継母は、実の母が近頃死んだということも幼い行平に説明する。

川端はこの全てを主人公の思い出の中で描き出す。

 「住吉』連作の第二作は「しぐれ』であり、この作品は住吉神社での体験から数十年の後 老いはじめた行平の孤独の生活を描いている。

行平は夢を見て、眼を覚ましてから、夢の意味を理解するためにその内容について連想し、亡き友人の須山を思い出す。

さらに、須山と一緒に交際していた双子の売春婦とのエピソードが彼の記憶の中で描かれる。

 「住吉』連作の第三作は「住吉』である。この作平は、育ての母が「住吉物語』をよく読んでくれたという行平の思い出を中心に展開する。

「住吉物語』の中には、父親にいじめられて住吉神社に逃げる少女の話がある。

やがて、「住吉物語』に関する思い出が終わって、行平は養母の琴の稽古のことを思い出す。

養母が盲目の琴の師匠を嫌っていること、また行平が稽古の最中に乱入し、母に足の霜焼けと背中を琴の爪で引っ掻いてもらったという思い出が描かれている。

 連作の:最後の一編「隅田川』で、行平は能楽の「隅田川」の話を思い出す。

能楽の「隅田川』は、子供が誘拐された話である。

一年経っても子供は戻って来ないので、子供を失った母親は発狂して、隅田川のお寺に子供を捜しに行く。そこで、母親は亡くなった子供の幽霊に出会う。

その思い出の後、主人公は双子の娼婦について考え、「住吉物語』で母がしてくれたように娼婦に背中を掻いてもらうように頼む。


「反橋』における痛ましい原風景とその反復

 さて、各作晶の分析に移る。

すでに触れたように、フロイトによると、子供は自分の母親を恋人と考えていて、父親はその理想の関係を妨げる存在である。

男の子にとって、自分の母と結婚することを約束したり、父親が死んだらいいと思ったりすることはごく普通であるとフロイトは論じている。

しかし、成長と共に、母親と結婚することも、父親の死を望むことも良くないと
知り、少しずつエディプス的な感情を抑圧し、それらを意識から追い出すのであるとフロイトは説明している。この過程が、健康な人間のエディプス期の結末である。

フロイトによると、神経症の患者の多くは.このエディプスの終結(つまり五,六歳のころに異性の親が自分の恋人であるという観念をあきらめる時)において、何らかのトラブルを経験しているという。

多くの神経症の患者を悩ませる罪悪感がエディプス・コンプレックスに由来することは疑いの余地がないとまでフロイトは主張している。

後で見るように、「住吉』連作の主人公は「しぐれ』で自分の手が「罪深い」と述べており、四作を通して恋愛の対象は不適切な相手(名前まで同じである双子の娼婦と、未成年の少女、それに自分の母親)に限られている。

主人公によると、この事実は反橋の上で母から聞いた話と関わりがあるということである。

その体験は次のように描かれている。

 五つの私は母に手をひかれて住吉へ参りました。手をひかれてといふのが決して形容ではなく、私は手をひかれなければおもてに出られないやうな子供でありました。

私と私の母とは反橋の前に長いこと立ってるたやうに思ひます
私には反橋がおそろしく高くまたその反りがくうつとふくらんで迫って来たやうにおぼえてゐます。

母はいつもよりもっとやさしく私をいたはりながら、行平も強くなったからこの橋が渡れるでせうと言ひました。

私は泣きさうなのをこらへてうなづきました。母はじっと私の顔を見てゐました。

 「この橋を渡れたら、いいお話を聞かせてあげるわね。」

 「どんなお話?」

 「大事な大事なお話。」

 「可愛想なお話?」

 「ええ、可愛想な、悲しい悲しいお話。」

 そのころ大人は可哀想で悲しいお話を好んで、子供に聞かせたものであったやうです。

 反橋はのぼってみると案外こはくありませんでした。…(省略)…

その橋の上で母はおそろしい話を聞かせました。

 母の言葉ははっきりおぼえてをりません。

母は私のほんたうの母ではないと言ったのであります。
私は母の姉の子で、その私のほんたうの母はこのあひだ死んだと言ったのでありま
した。


母の損失という語り
 
 姉の死といふ衝撃で真実を明かさずにゐられなかった母を私は憎しみはしませんし、それが反橋の上であったかなかったかはとにかく母の白いあごに涙の流れたのをおぼえてゐますけれども、私の生涯はこの時に狂ったのでありました

 この幼児期の原風景について.主人公は「生涯を狂」わせたと示している。

この母親の告白によって、現実による不安や心配とは無関係な行平の理想的幼児生活が一転する。

母は母ではなく他人であり、本当の母は死んでいる。
そして自分は捨てられた子供であると知らされる。

主人公は「手をひかれなければ、おもてにでられない」と書かれているところがら考えて、行平は家庭の中にいるのを居心地よいと思われる。

彼は外の大人の世界には行こうとしない。
ここには、お母さん子という、母と子の親しい関係が思い浮かぶ。

そういう行平が唐突に母から自分の本当の母ではないと聞かされ、自分は誰なのかというよう自己認識の危機に晒されたのであろう。

また、母は別であっても父は実際の父親である。
従って、父は姉妹の一人置子供を産ませ、もう一人と結婚して、その子供を育てさせたのだ。

行平は

「私の出生が尋常なものではあるまい、生みの母の死が自然なものではあるまいと、やがて疑ひ出すやうになりましたのもしかたのないことでありました」

とも述べている。


 作品の中で想定されている現在の時点から見ると、上記の引用に出てくる橋での体験は五十年前にあったことである。

「反橋』の最後で、行平はその経験のあった場所に戻り、そこを自分の目で確かめようとする。しかし、なぜ行平は自分の人生を狂わせた事件の現場に戻る必要があったのだろうか。ただ不愉快なことを思い出すためだけであったのだろうか。

いや、そこで行平が経験したことは彼の人生の中で大きな意味を持っていたはずである。初老の行平は、自分の人生の堕落の始まりである橋の上に戻ることによって何かを取り戻そうとするというよりも、自分にも理由が分からないままに不思議な衝動によって、つまり無意識的な心理的動機によって原点に戻らずにいられなかったようである。

 痛ましい体験をした人は、何らかの形でそれをコントロールしょうとして、自らその経験を繰り返すとフロイトは「快感原則の彼岸』で述べている。

行平はその体験によって悩まされていたからこそ、反橋に戻ってもう一度登ってみたのである。

このように、精神分析の理論が主人公の行動の背景にあると考えられる。

また、このような精神分析的な要素は「住吉』連作の別の作品にも現われているのである。


「しぐれ』の夢分析と感情転移

「住吉』連作の第二の作品「しぐれ』の中心には夢があり、川端の他の作品(「母国語の祈祷』(1928)や「弱き器』(1924))と同様、「しぐれ』に出てくる主人公は夢を見た後、その連想の中で分析しようとする。

まずここでの大きなテーマは「感情転移」である。
フロイトは、感情転移は一人の人物に対する感情をそれとなく別の人に向けることであると解いている。

感情転移は「しぐれ』「住吉』「隅田川』の三作に著しく現われている。

 「しぐれ』は、主に三つの部分に分けることができる。

最初の一部で主人公は五一歳で亡くなった芭蕉と八二歳まで生きた宗祇という二人の歌詠みについて連想する。

老人となった自分と若死にしてしまった友人の須山とこの二人に比較する。

その直後、短い夢を見る。その夢の部分を以下に引用する。


…私は乱離の世を古典とともに長生きした平野がなつかしまれるところもありまして、駿河の宗門の庵にも二三度行ったことのあるのなどを思ひ出しながら浅い眠りにはいりますと夢を見ました。

 私は手のデッサンを二枚見てをります。

その一枚は明治天皇のお手のデッサンで黒田清輝が描いたものであります。

もう一枚は大正天皇のお手のデッサンで、目がさめてからは画人の名を忘れましたが大正時代の洋画家が描いたものであります。

一つはきびしい絵、一つはやはらかい絵、この二つの手のデッサンを見くらべながら私は明治と大正との時代の象徴のやうに感じる胸の痛さで夢はやぶれました

 主人公は夢を見てから目を覚まし、夢の意味を自分で探るように、自由連想をする。

次々と彼の頭に浮かぶ想念が作品に描かれている。その連想をここで引用する。


目がさめて考へますと、私は黒田清輝の手だけのデッサンなど見たためしはありませんし、またそのきびしさは黒田の画風とは似つかぬものでありまして、実はアルブレヒト・デユウラアの手のデッサンのやうに思へました。

明治の画家といふことで黒田の名が夢に浮かんだに過ぎなかったのでせう。

デユウラアの手のデッサンは画集でいくつも見て頭に残ってをりませうが、私の夢のデッサンは千五百八年作の使徒の手のやうであります。

使徒の手は合掌して上向いてをりますが、夢の手は片手で下向いて甲の方が描かれてをりました。しかしあの使徒の手にまちがひはありません。目ざめた後にもその手の絵は消え残ってをりました。

もう一つの手ははっきりおぼえられませんでした

 この夢は「しぐれ』のプロットを展開させる役割を担うより、主人公の心理を描くために登場すると思われる。ここで、行平自身の夢分析を考察する。

最初、天皇の手として夢に登場したデッサンは、実は明治天皇の手ではなく、デュウラア(Albrecht Dorer,14714528)の使徒の手であると行平は思いつく。

複数の念が一つのイメージとして夢に現われることがこの場面の特徴で母の損失という語りである。

二枚のデッサンの中で、それぞれの時代とそれぞれの天皇が一つのイメージに圧縮されている。

夢の意味を求めて、行平は次のように連想を繰り広げる。

 起き上がったついでに明かりをつけてデユウラアの絵集を持って寝床にもどりました。

使徒の手を見ながら同じやうな形に合掌してみました。

しかし私の手は似てゐません。甲は幅広く指は短く、そんなことよりも羅人の手としか思えない醜さなのです。

私はふと友人須山の手を思ひ出しました。さうでした、この使徒の手は須山の手に似てをります

 デュウラアが描いた手は亡くなった須山と同じような美しい手であると行平は述べる。逆に自分の手は犯罪者の手であると考える。これは主人公の心理を解く鍵の一つと考えるべきであろう。

ここで二つの糸が見られる。

一つの糸は、旅の詩人宗祇から大正天皇を経て、自分の犯羅者のような手まで通るものである。

もう一つの糸は、芭蕉から明治天皇を経て、友人の須山の美しい手まで通る。

この二本の糸に、主人公の無意識における自己評価が見られる。

主人公は孤児で、友人に死なれ、旅人のように人と繋がりのない人間である。
これは哀れな「しぐれ」(秋の冷たい雨一生命の終わり)と呼ばれる詩人宗祇と共通することであるように考えられる。

次のイメージは、夢で言及される病弱な大正天皇である。

不眠症で苦しむ行平は健康でなかった大正天皇と自分とを比較する。
(「しぐれ』の結末で、同じ主人公は「生まれる時から」ずっと堕落していると述べる)。

最後にデュウラアが書いた手のデッサンと自分の手を見比べて、自分の劣等感が明
らかになる。

それと同時に、行平は世界的に最も有名な俳人の一人である松尾芭蕉と須山を比較
する。
芭蕉と須山との共通点は.両者とも旅人であることと、若死にしたということの二つであろう。

 明治天皇は明治時代を代表する人物であり、明治時代は華やかで、封建制度を脱ぎ捨てた明るい時代であり、近代化をやり遂げ、日本を植民地化から守った時代である。そして、合掌をしている明治天皇の綺麗な手は須山に似ているというように描かれている。

このようにして、主人公の無意識に存在する自己意識が表に現われる。

自分は劣る人間であり、友人の須山は優れた人間であるというテーマが行平の心理の中に存在していることは明確である。

この例でも主人公は見た夢と夢の前後に考えていることと重要な繋がりがある。

川端はこのような主人公の自由連想を用いて主観的な心理描写を可能にしている。主人公の心理を描き出そうとしているのだと考えられる。

 行平は手のデッサンのことを思い出してから、さらに須山のことを連想する。
そこで、「住吉』連作のもう一つのテーマが現われる。

主人公と須山は浅草で双生児の売春婦を「買いなじんでいた」と書かれている。

双子の娼婦は見分けつかないほど互いに似ていると行平はいう。
二人の売春婦が作品に現われるのは特別な理由があると思われる。

後で論じるように、主人公の無意識に姉妹の娼婦は主人公の母とその姉の記憶に通じている。

双子の魅力は主人公の二人の母に対する愛や思い出を娼婦らに転移できるということに由来する。

双子の娼婦と二人の母をつなぐもう一つのイメージが後に現われる。

「しぐれ』では、主人公の思い出の中に出てくる須山との会話をここで引用する。

とっさに私は須山が昏倒するのかと思って背を支へてるました。
私自身が怯えて須山に抱きついたのであったかもしれません。

「おい、離せ。いそがう。」

と須山は女の手を振りはらひ私の手も放しました。
この時が須山の手を見た最後でありました。

須山は双生児の娼婦の家の帰りにときどきこんな風に言ふことがありました。

「君は今日のやうに堕落したことがあるかい。」

「あるさ。生まれる時からだ。」と私は横を向いてしまひます。

「あいつらがふた子なのがいけない。しかもそのふた子は、造化の妙をつくしたやうによく出来きてみる。君はあの二人の存在について真剣に考へたことがあるかい。」

 須山にとって、双子の売春婦との付き合いによる堕落はその夜に限るものである。
しかし、行平にとって、その堕落は生まれつきのものである。

これは一種の原罪であるが、その原罪とはキリスト教のそれではなく、彼が自分の父から受け継いだ原罪である。

それは、「二人で一人、一人で二人」の女性との性を楽しむことである。

彼は「私の出生が尋常なものではあるまい…」と考えている一方で、自分も父親と同じ関係を持っている。

自分の尋常でない出生をもたらした関係を自分自身が繰り返しているという意味で、行平は自分が「生まれた時から」堕落していると言っているように思える。

『住吉』における感情転移

次に、主人公の母に対する意識を考察して見る。

…昔では早婚といふわけではありませんし、幼い私は母が若いとも思はなかったのですが、ものこころついて後には母の早い結婚によこしまな嫉妬をおぼえました。

私が十七より下の少女を幾人かをかすやうなことになりましたのも、この嫉妬のなせるわざであったかとも疑はれます。

 思ひ出してみますと、幼いころに母の若さを気づいたことがないでもありません。


母の損失という語り

私は母の琴の師匠を憎んでをりました。
母の琴の稽古を滅多にのぞきませんでした。

琴の師匠を憎む心があるので近づきにくかったと言った方がよいでせう(強調は引用者による)

 上記の引用文のように、行平は母が早婚したことに対する嫉妬を感じた。

結婚はもちろんセックスと深くつながっており、主人公に母の性生活を支配しようとする願望が現われている。また、嫉妬の対象は言うまでもなく父親であるはずだが、父の姿は作品に現れない。

森本穫は、「住吉』連作の全四品への注釈で、「よこしまな」という言葉を次のように説明する。

「本来、主人公と継母が通常の恋愛をするはずはないのだから、嫉妬の生じる余地はない」

 フロイトのエディプス・コンプレックスでは、すべての男の心の奥に母を支配しようとする願望があるという。その観点から見て、森のいう「嫉妬の生じる余地はない」とは言えないと思う。

つまりこれは普遍的な現象であるとフロイトは精神分析入門で論じている。
この願望によって嫉妬を感じるだろうが、その嫉妬と十七歳以下の少女を犯すという行為との関わりはまったく説明されていない。

川端はこの点において、主人公のエディプス期の結末と大人になった主人公の性行為が繋がっていることを言及している。

行平にとってエディプス期は反橋の上での衝撃的な体験によって幕が下りた。

フロイトは、小学校に上がる前に、男の子は自分の母が父の妻であり、自分の恋人ではないということを理解すると説明している。

そして、父親の真似をして、いつか自分も母ではないが、母のような女性を妻にできると考えて母との想像上の恋人関係をあきらめる。

しかし、行平は住吉神社の反橋の上での経験によって、突然にエディプス期の終結を迎えており、ここには問題がある。

まず、母は本当の母ではないので、ある程度までは、その恋人関係をやめる必要はないと考えられる。また、父親の真似をするならば.姉妹との性的関係を繰り返
す必要がある。

 そこで.行平が大人になってから.二つの問題を引き起した。

一つは、未成年との強制的な性の関係を繰り返すことである。

行平は犯罪的な性関係を繰り返しているという点に注目する必要がある。

行平の相手が十五、十六歳位であり、これは母が結婚した年齢である。
すなわち、母が未成年のまま結婚したという事実が、行平が未成年と性的関係を持とうとする原因であると考えられる。

ここで行平は母に対する性的感情を十七より下の少女に転移している。
転移する相手の選択は母の若さとの共通点を持つことによるものだろう。

これと同様に、行平が双子の売春婦との関係を選んだことも、彼の両方の母親に対する感情がこの二人の娼婦に転移されているからである。

 エディプス・コンプレックスには.母に対する恋に加えて、父に対する嫌悪が必要条件である。

無意識に抑圧された母への恋は犯罪の原因であるように描かれているが、父親に対する嫌悪は直接作品の中に現われない。 

そこで、上記の引用の中で

「思い出してみますと、幼いころに母の若さを気づいたことがないではありません」

と言っているところと、

「私は、母の琴の師匠を憎んでをりました」

というところの関係を考える。この二つの文は、その直前の

「私が十七より下の少女を幾人かをかすやうなことになりましたのも、この嫉妬のなせるわざであったかとも疑はれます」

と殆ど論理的な関係がないのだが、川端は改行せず、続けて書いている。

さらに、「思ひ出してみますと」というように、この二つの念がつなげられている。

このことから.この「自由連想」的な表現は、母が早婚したこと、自分が未成年の女たちを犯したこと、そして自分が琴の師匠を嫌ったことの三つが、行平の心の中で密接な関係を持っていると考えられる。

 母が早婚したことに行平が嫉妬しているのだとすれば、その嫉妬の対象は父親に他ならない。

しかし行平がここで父ではなく.年寄りで目の見えない琴の師匠を思い出すことの意味は何だろうか。

行平の無意識の父親に対する嫌悪は、意識に登場する際には琴の師匠に向けられている。
琴の師匠を嫌う他の理出は一つもない。

フロイトの思想で、転移の的には元の嫌悪の対象者と類似する特徴があるとされる。
父と師匠とは共に男性で、母よりかなり年上である。

琴の師匠に対する行平の不合理な嫌悪は、無意識に抑圧された彼のエディプス・コンプレックスによる父に対する嫌悪の転移であるというように川端は書いているのではないかと思われる。

 子供の行平は琴の稽古を邪魔し、背中が痒くて母に掻いてもらおうとする。
そして、母親に琴爪で背中を掻いてもらう。

同じ琴爪は行平の実の母の形見である。
生みの母の爪で養母に背中を掻いてもらうと行平は興奮する。

背中を掻いてもらうことは、性行為とどこかに似通っているように思える。

その後、行平は足袋を脱いで足の裏を掻いて欲しいというが、母はそれを断る。
これは.母が性的関係を拒んでいるようにも考えられる。

また、「住吉』連作の第四作「隅田川』の中で、行平は双子の娼婦の一人に足の爪で背中を掻いてもらったことを思い出す。

母が拒んだことを数年後、娼婦にしてもらうというように解釈できる。

その場で行平は母が綺麗だったことを思い出し、母の姉(行平の実の母)は養母にそっくりだったのだろうと語る。

このように主人公は、そっくりの養母と実の母というモチーフを、瓜二つの双子の娼婦によって反復している。

二人の母に対する愛情を双子の娼婦に転移することによって、行平は死によって失われた母の愛を取りもどそうとし、再現しようとしていることを考えられる。

川端はこの二組の女性の相対的関係によって無意識に存在する内容を表現している。

 ここで、川端康成の中にエディプス・コンプレックスを見つけ出すことが、本稿の目的ではない。

例えば、稲村博は「川端康成芸術と病理』で、「住吉』連作に出てくる夢において

「作者はフロイドなどに親しみ.夢やその解釈にも深い関心を持っていたらしい…」

と指摘している。

川端はフロイトの思想に興味を寄せており、主人公の意識下の世界まで描こうとしていたということをここで特に強調しておきたい。

本章で見たように.母に対する感情は娼婦や十七歳以下の少女に向けられ、父親の嫌悪が琴の師匠に向けられた。

また、川端は主人公の反復衝動を描き出すことによって、意識下の世界を描写している。

今節では、「住吉』連作の最後の作品「隅田川』に、フロイトが「快感原則の彼岸』に紹介した諸概念をさらに見ることができることを論じる。

「下野鋼』におけるタナトス 

行平の行動の背景には二種類の本能があるように川端は描いている。

一方で、エロス的な衝動、つまり、生きるための行動であり、より大きなものになるための行動、人や物とのつながりを持とうとする行動が多く見られる。

これは、養母との触れ合いの記憶や娼婦との交際、十七歳以下の少女との不純な性的関係、友人との交流などを持とうとすることで見ることができる。

それに加えて、行平には「死の本能(タナトス)」も見られる。

既に「水晶幻想』(1930)には「死の本能」という言葉が現われており、これは川端自身が知悉していた概念であると考えられる。

 従来の研究では、「隅田川』に描かれているのは、タナトスではなく、「子宮回帰」であると説明されている。

例えば、栗原雅直と原善は川端の作品に出てくる母の胎内への回帰願望について
論じており、特に原善は、川端の作品に美しい少女への愛情を媒介として母への回帰を実現しようとする描写があると指摘している。

また、原は「川端康成の魔界』で、「住吉』の主人公の最終行き先は母親の子宮であると説明している。

原によれは、母の子宮への旅は己の過去を遡行する形で己の出生の秘密を発見しようとするものである。しかしながら、隅田川にはその到達点(母の子宮)ないし到達点を象徴する空間が現われてこない。

さらに、原は主人公が子宮へと帰ろうとする動機も明確にしていない。

「住吉』に描かれているのは、原がいう子宮回帰とは別のものである。

ここで川端が描いているのは、主人公の心に芽生える「生きる本能(エロス)」
と「死の本能(タナトス)」の結合である。以下、それをさらに説明する。


 「快感原則の彼岸』で、フロイトは全ての生命はその生態の選ぶ死に方で死のうとすると書いている。

「快感の原則の彼岸』は、「住吉』連作の最後の作晶「隅田川』(1972)で大きな影響を及ぼしていると思われる。

例えば、「隅田川』が始まる時、二人の母と親友の須山は何年前かに亡くなっており、行平は孤独な老人である。

子供の頃、継母が謡曲の「隅田川』をよく詠んでくれた記憶が行平の頭に浮かぶ。

能楽の「隅田川』(観世十郎、13944432)は、誘拐され、殺された子供の母の話である。

謡曲の中で、子供が誘拐されてから一年が経ち、隅田川のお寺まで母親は子供を捜しに行くが、悲しみに耐えられなく、狂ってしまう。そして、母親が隅田川でその子の幽霊を見て、話が終わる。

原善は「川端の魔界』の中で、「隅田川』について、

「実母は死んでおらず、五歳のときの反橋での打ち明けは、実母の発狂故かとすら考えられる…」

と説明している。また、森本穫の「魔界遊行』では、

「隅田川』の切ない終結は、離された母と子が「めぐりあっても、生者と死者の違いは超えることができない。その絶望的な出会いこそ、「隅田川』の真の主題なのである」

と説明されている。この二つの解釈の共通点は、主人公が母(養母も実母も)との再会を望んでいるということであり、それが死によって不可能となっているということである。

 上記の二つの解釈と精神分析の思想を踏まえて、次のように解釈ができる。

行平の心的苦痛は実の母に愛されていないから捨てられたのではないかと思うところにあるようである。

行平には「住吉物語』や「隅田川』という空想世界に逃げる傾向があると描かれている。

それによって、彼は捨て子であることの悲しみ、母を失った悲しみを和らげようとするのである。

最終作品「隅田川』では、行平は能楽の「隅田川』の中に描かれているような捨て子ではなく、誘拐された子である。

さらに五歳の時に知らされた母の死は、実は謡曲と同じように、愛していた大事な息子を失ったために母が狂って死んだという空想である。

そのために、謡曲の「隅田川』の話が「住吉』連作に出てくるのではないかと考えられる。

 老人の主人公は生みの母の死因が狂気であると考えるところで、唐突にその前の日の出来事を思い出す。

 今日の今、渡部の海辺の宿に来てゐますが、きのふ、東京駅の通路で不意にマイクロホンを突きつけられました。ラヂオ放送のための街頭録音のやうでした。

 「季節の感じを、ひとことふたことで言って下さい。」

 「若い子と心中したいです。」

 「心中?女と死ぬことですね。老人の秋のさびしさですか。」

 「咳をしても一人。」

 上記には、不透明な部分がある。

一つは、なぜ行平は死にたいのかということである。
またもう一つは、彼が若い女性と死ぬことを望む理由は何だろうかということである。

まず、「咳をしても一人」という尾崎放哉の自由律俳句が出てくるのは、行平の孤独感である。行平の人生では、孤独が中心的な問題である。

若い時、彼は孤独をしのぐためにエロスを極めて、双生児の娼婦と遊んでおり、未成年の女性との乱れた行為を繰り返していた。

老人となった行平は孤独で、一生涯続けて女性と健康的な関係を築くことができなかった。

唯一の友人が早死にし、娼婦の魅力は薄れた。

そこで、行平の生きる衝動と死ぬ衝動の緊張感はバランスを崩し、死への衝動(タナトス)の方が強くなった。

しかし、若い女性を媒介とし、継母や実母の思い出を楽しむ行平は、若い女性を求めざるを得ない。このように、行平はタナトスの中で母への再会を望んでいる。

「若い子と心中したい」の中に出てくる「若い子」とは、作品の他の部分が示すとおり、早婚した継母と十代で行平を出産した実母の象徴であろう。

しかし、これが示すのは「子宮回帰」ではない。

なぜなら、例えば川端の他の作品の「みつうみ』(1955)の中では母の故郷の湖が子宮の象徴であり、また、「眠れる美女』(1961)では夢で見る母の家が子宮を象徴する空間であるのに対して、「住吉』連作には母の子宮を象徴する空間が存在しないからである。

母という原点に戻りたいというのは、「反橋』で見た原風景に戻る衝動や、母とのスキンシップを娼婦で再現しようとするという場面、あるいは.昔の思い出に耽ることのように、以前の状況に戻る衝動の現われであるように描かれている。

行平は若返りしょうとしているのではなく、自分の孤独から逃げるように、生と死の境界を越えるという死の本能と同時に、若い人から生きるエネルギーをもらおうとするエロス的な本能を同時に感じているというように読めるのではないか。

川端はこのように複雑な主人公の心理を描いているのである。


結論
 
「住吉』連作の主人公と川端自身とは幾つかの共通点を持っていた。

行平と同様、川端自身も孤児で住吉神社の近くで親戚に育てられた。
また.自分の生みの母は元々父親の兄と結婚していたという複雑な家族関係があった。

「住吉』連作の主人公と同様、川端は芸術品を収集しており、古典に親しかったこともある。

「住吉』の主人公は自殺を灰めかしたが、川端は「隅田川』を書いてしばらくしてから、自ら命を絶った。

つまりフロイトのいう「自分が決めた死に方によって死のうとする生物の本能」通りに川端は死んだ。

主人公との共通点や、自殺の仄めかし、出版のタイミングから考えて、この小説の中に川端の死生観が映し出されているということは充分に考えられる。

特に、空晶に描かれた人間の心理に関する川端の思想に注目すべきである。

本論文で論じたように、そこには、感情転移、圧縮、反復の衝動、死の本能、そしてエディプス・コンプレックスなど.フロイトの思想の大きな影響を見ることができる。

これらのフロイトの思想を視野に入れて、川端作品を分析すると作品の形成の過程の理解を深めると思える。
repository.tokaigakuen-u.ac.jp/dspace/bitstream/11334/295/1/kiyo_hw015_20.pdf
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c88

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
89. 中川隆[-7628] koaQ7Jey 2017年6月02日 07:36:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「反橋」における〈橋〉  ――象徴と解釈―― ダニエル・ストラック
http://www.dcstrack.com/sorihashikenkyu.htm

川端康成の「反橋」は彼の代表的な連作の一部を構成するが、本作品における〈橋〉の象徴的機能を探求することは今までの研究において十分になされていないので、〈橋〉に焦点をあてた解釈を行いたい。

〈橋〉は多様な象徴性を持ちうるシンボルであるからこそ、その登場によって様々なニュアンスが物語に付加されるのである。

ドイツの哲学者・評論家ゲオルグ・ジンメルは、〈橋〉は芸術作品において実用的意義を象徴すると同時に、直感的に認識される形式も持つからこそ、他の自然の風物よりも緻密な表現力を持ち、橋への理解が偶然に左右される可能性も遥かに少ないため、特徴的な象徴であると指摘している。

 「偶然性」によって左右されることの少ない〈橋〉は古代から文学作品における象徴として多くの作品に貢献してきたが、川端の「反橋」はまさにその一例である。〈橋〉の多義性を伴った象徴性は作品に心理的余韻を付加することを確認した上で、作品における〈橋〉は中心的イメージであるのみならず、作品を支配するメタファーでもあることも明確ににしたい。併せて「反橋」の橋が持っている象徴性と類似した象徴性を持つ〈橋〉が日本文学や世界文学に登場している例を考察したい。

 

「反橋」の構成とプロット展開

 「反橋」という短編は「住吉」連作の一部とみなされている。その他の作品は少なくとも「しぐれ」と「住吉」を含んでいるが、「隅田川」も連作に属すると考える研究者もいる。「反橋」と同時代に書かれた「しぐれ」と「住吉」との間には、注目すべき共通点があり、各作品の冒頭と末尾に共通して見られる呼びかけは以下の通りである。

  「あなたはどこにおいでなのでせうか。」

連作の各作品間には他にも多数の共通点があるかもしれないが、中心的プロットに議論を限定したい。連作の最も重要な共通点が死者の思い出を語ることであるのは周知の事実である。

しかし「反橋」においては、母と「私」の旧友の須山に関する思い出が描かれていて、「住吉」には再び母に関する思い出、さらに「しぐれ」にはもう一度須山の思い出の描写が登場する。各作品には、〈死〉を表現する歌、絵画、物語などの芸術が登場し、〈死〉というテーマが中心となっているのは確実である。登場人物とテーマが共通であるのみならず、住吉という場所は舞台として登場し、連作中の風景描写に大きく貢献しているのである。

とりわけ「反橋」において、行平という少年が母と思っていた女性に住吉大社に行かされ、神社の有名な反橋の上で、実母が既に亡くなっており、今の母は彼女の妹、つまり継母であることを教えられる。その時点から「私」の人生は「狂って」しまい、橋の上で初めて感じ取った「あはれ」の感情は、死に直面している現在に至るまで継続している。

しかし、作者はなぜ三つの作品すべてにおいて、冒頭と末尾に、「あなた」の呼びかけを繰り返し使用しているのだろうか。各作品において繰り返されている〈枠〉としてのその言葉は使用されているからこそ、重要であると考えられるのだろうが、この箇所に関しては、従来から様々な解釈がなされている。山本健吉は以下の通り述べている。


「『あなた』とは、生母とも義母とも、あるいは『 ならぬ』仏とも思われる。」
)

「反橋」が書かれた一九四八年の一年前に横光利一が死去したことに注目した保昌正夫氏は、「あなた」が横光である可能性以外にも、「亡き肉親」、「僚友」、「自身の文学」、あるいは「心根のありか」である可能性にも注目し、解釈の幅を大きく認める形でこの個所を理解している。石浜恒夫の指摘によって、作者の「反橋」執筆の動機が明らかになるだろう。


「それによると、昭和二十一、二年ごろ川端は、当時石浜の家の離れを借りていた藤沢恒夫をたずねた。家は住吉にある。そのとき藤沢は以前菊池寛にもらった色紙二枚を見せた。一枚は梁塵秘抄の「仏は常にいませども……」で、他の一枚は「只看花之開落、不信人之是非」であるが、川端は「菊池さんはいい字ですね」「菊池先生はこんな文句が好きなんですね」とつぶやいたという。

また川端は石浜の案内で近くの住吉神社に行き、石橋を見、大鳥居の前の露店に足をとめて、桃色の半エリを手にとってじっと見ているという。」

現実の住吉大社の反橋は石橋ではなく、石柱に板を敷いたものであるという点以外には、この指摘に疑問の余地はない。しかし作者は読者の理解を容易にするために、現実に完全に基づいた物語を書く必要はなく、逆に作者の実体験を取捨選択せずに書くことは傑作を生み出すことにはつながらないと考えられる。

このため、「あなた」の身分に関して様々な解釈が存在することは当然かもしれない。その上、川端自身が「あなた」という曖昧な表現を意図的に使用したからこそ、複数の解釈が同時に成立すると考えることができる。逆に一つの解釈に限定することによって、呼びかけの神秘的響きが失われてしまう可能性もあるに違いない。

この点に関しては石川巧氏は「「あなた」とは誰なのかという議論は、その問題設定自体が不毛である」と述べているが、この指摘に筆者は同意する。それが死者、或いは死そのものへの呼びかけである可能性は高いが、結局「あなた」の身分に関して結論を述べるべきではないだろう。


住吉大社と反橋に関して

大阪市の住吉大社にある「反橋」は、中国大陸のモデルが日本に移入され、〈呉橋〉(くれはし)と呼ばれていたものが日本風にアレンジされた橋である。

路子工(みちのこのたくみ)という百済からの帰化人は中国風の石橋を約1400年前に日本に紹介したと推定される。しかし、現在の日本に見られる反橋は呉橋と違って、石のみによって作られた建築物ではなく、何本かの石脚の上に木造の床面を敷いたものである。

「反橋」の様子は中国の反橋に類似しているかもしれないが、それとは本質的に異なっていることは注目に値する。この相違に関して上田氏は以下の通り述べている。


「地下水位の高い、したがって河川水位の高い南中国のクリーク地帯にかかる橋であるから、舟の航行をかんがえれば自然にそうなるのだろう。それが南中国の橋一般であるば、路子工が橋脚の何本もあるような日本の反橋に似た橋を大陸からもってきたとはとうていおもわれないからである。」

実用性が要求する以上にアーチの傾斜が急な反橋は非実用的であるが、実用性と密着していない橋は日本のみに存在するのではない。アルバニアの代表的作家イスマイル・カダレの小説『三つのアーチの橋』の中に、庭の風景をより美しく見せるための単なる装飾にしか過ぎない橋が登場する。

この様な橋は、川などを渡る目的のためではなく、実用性を重視する橋梁設計士にとっての悪夢を体現する「死んだ橋」として登場する。

普段、橋の目的は川などの物理的障害を越えることであるのに対して、「死んだ橋」は実用的な用途がないため、本来の橋としての存在価値を持つ必要はない。

住吉大社の神池は人造と考えられるので、そのような池を渡るための反橋も「死んだ橋」であると考えられる。

以下に「反橋」に登場する多義性を伴った橋の象徴性を考察したい。

比較的自明な象徴性の考察から微妙なニュアンスの考察へと進みたい。各セクションにおいて三項目に分けて説明するが、「反橋」の解釈と同時に日本文学、世界文学における〈橋〉も併せて考察の対象とすることにより、〈橋〉の多義的象徴性を探求したい。

 

反橋は逆転の橋

多くの研究者は川端自身の生涯と、「反橋」の主人公の間に共通点が多いことに注目している。とりわけ川端は「私」と同様に継母によって育てられたことを考慮すれば、「反橋」のみならず連作中の他の作品においても登場する〈継母と子の関係〉というテーマに、川端自身の心理的状況が多大に反映していると解釈できる。

しかも、「反橋」にはこのテーマが緻密に描かれているがゆえに、他の川端の名作に光を当てるロゼッタ石のような存在であることを主張したい。

川端は幼少時に実母を亡くしたため、母の妹に育てられたことは羽鳥氏の研究によって明白であるが、川端自身はこの事実を家族から教えられていなかった。

林氏は川端の実体験が作品に対して及ぼした影響に関して以下の通り述べている。


「次に、おそらく中学入学時に康成は戸籍謄本を見て衝撃を受け、母に疑いをもったという事情を推察し、初期作品「白い満月」等から康成にこの疑惑を主題とした作の多くあることを例証する。」


「反橋」において作者の心理的状況がある程度描かれている点には疑問の余地がない。しかし、川端が実際に「母の秘密」を教えられていなかったとすれば、川端の母が彼に秘密を橋の上で明かした過去がないと判断する以外にはなく、反橋上での母と子の会話場面は作品を心理的に強調するための方策であることが分かる。

反橋での告白がなされる場面が短編の中核を占める以上、〈反橋〉の設定なくしては、物語は成立しないといっても過言ではないだろう。

母の発言に対する「私」の反応は大きく誇張された言葉によって描かれていて、自分が「不幸な人生」を送っていた事実がその際に初めて判明したということを表現している。

「私」によると、反橋を昇る前は母の実子だった彼が、降りる際にはもはやそうではなくなっている。

母は「実母ではない」と伝えた際に泣いていたが、その後も今まで通りに彼の世話することを止める気配はなく、具体的な二人の関係は変わらないが、母は重要な何かが変化したことを伝えようとしている。

継母の愛が純粋であったのならば、橋の上の残酷とも映る行為は必要だったのだろうか。しかし、それが残酷に見えようとも、真実を誰からも伝えられずに、実母のことを偶然に学校の書類で知って衝撃を受けた川端自身は、「反橋」の中の描写と同様の〈哀れみ深い〉経過によって真実を知ることを希望していたのではないかと思われる。

作中に反橋が使用され、真実に直面する母子に共通する苦痛に対する思耐力が強調されるばかりであるが、作者自身の実体験においては作品に見られるような率直さはなかっただろうと推察できる。この推測が妥当であれば、川端は〈反橋〉の象徴性によって、単純な感情と片付けてしまうことができないような後悔を喚起する事件を自分が納得できる心理的形態に整理したい要求を表現しているといえるだろう。

「反橋」の重要な場面での背景をなす〈反橋〉の代わりに他のアーチ型の橋を描くことは不可能ではないが、「反」(そる)という意味が包含されているからこそ、反橋は完璧なシンボルであるといえるだろう。

橋の上で起きた事件によって、主人公の生涯が取り返しのつかない変化をこうむる点が、橋の名前の象徴性と合致していることに注目する林氏は、

「その頃から先、悪逆の未来への進行が、高度の絶対値において同時に過去の生の根源への進行でもある、主人公行平の生の軌跡の構図」が反橋の象徴性によって提示されている

と述べている。住吉大社にある「反橋」は「太鼓橋」とも呼ばれているが、この名前が持つイメージは短編の内容と一致していないため、「太鼓橋」という名称は当然ながら一度も作品に登場しない。逆に、「太鼓橋」という名称を使用したとすれば、作者が意識的に込めた象徴性は稀薄になっていたに違いない。

日本文学の中に登場する橋は〈宿命に満ちた場所〉である事実に関して、保田與重郎氏や他の研究者は注目しているが日本古典文学において〈橋〉は運命が逆転する場として多く使用されてきたにもかかわらず、〈逆転の場〉を象徴する橋の存在が殆ど明らかにされていない。

この〈橋〉の象徴性の登場は明治以降の作品には少ないが、とりわけ浄瑠璃家の近松門左衛門は多義性を伴う〈橋〉の特徴を有効に作品中で活用した。

『槍の権三重帷子』において、橋は逃亡しようとする恋人達にとって唯一の救いの道であると映るが、結局二人共、橋の上で女性の夫に殺される。

また『国性爺合戦』においては、敵軍が攻撃に際して橋を利用するが、橋が本物の橋でなく相手を惑わすための雲の橋であったため、万軍の敵はすべて高い崖から落ちて死んでしまう。

勝つはずの強敵が負け、あと一歩で救われるはずの恋人を穴に落とすなど、浄瑠璃においては逆転を起こす橋の機能が綿密に繰り返し描かれているのである。

世界文学において、運命の逆転の場を表現する橋は数多く見られるが、本稿においては詳述する余地がないため、一例のみを取り上げよう。アメリカ人作家アーネスト・ヘミングウェイの第一次世界大戦を描いた『武器よさらば』における橋は、拡張したドイツ軍占領地に残された兵隊に脱出の余地を与えるが、木橋の周辺にいる主人公が洪水状態の川に飛び込み、その後、兵隊から脱走することを考えると、橋は物語の主筋を形成する運命の逆転を起こす存在として登場していることが分かる。

 

反橋は透視力を与えられる場所

反橋のアーチの上で「得意」になっている「私」に、母は彼の出生に関する真実を教えた。

橋は透視力が機能する場所として、文学によく登場するが、作家達のこの傾向を考慮すると、やはり人生の神秘を看破できる所として川端も橋を認識していたことが分かる。

広辞苑を引くと という言葉は見つかるが、その定義は以下の通りである。


「はし−うら【橋占】橋のほとりに立って往来の人の言葉を聞き、それによって吉凶をうらなうこと。」

「反橋」は、橋占といえるものではないだろうが、そのようなニュアンスに満ちた作品であるに違いない。〈橋〉は人生の裏面を見極める場所として、文学、民話、伝説などに頻繁に登場する。

「反橋」においても橋は作者が人生を抽象的観点に立って見極める所として登場し、実際に彼は橋の上において自分の出生に関する真実を知ったため、この個所においても両方の機能が働いていることが分かる。

この橋占が登場する作品における、もう一つの橋の象徴的役割は異なった時間帯を結ぶ橋の機能である。

橋が人生を見極める場所で、同時に川を渡る場所であるのならば、川は人生の象徴として登場し、上流が〈生まれ〉を意味し、下流には海、つまり〈死〉が待っているといえる。

橋から全人生が俯瞰できるというこの不思議なシンボリズムもよく描かれている。
住吉連作の全作品が人生を回顧するテーマを持つ。

川端は自分の過去、遠い昔に亡くなった詩人の詩、つい最近亡くなった須山のこと、母のこと、そして未来に必ず訪れる自分の死に関して思いを巡らす。

そこで住吉の反橋は過去、現在、未来に相互の関連性を持たせ、連作の時代の違いを超越した統一性を作り出すシンボルとして不可欠な存在となっている。

 〈橋姫伝説〉は日本中に普及しており、とりわけ文学と伝統に関する知識が豊富だった川端の場合、橋と神々の関係を物語に織り込むのが当然だろう。しかも、源氏物語に橋姫が実際には登場しなくても「宇治十帖」の「橋姫」巻があるが、作者は源氏物語に関する主人公の述懐を「住吉」に取り入れ、森本氏は川端と源氏の注目すべき共通点に関して以下の通り述べている。


「孤児であるが故に生涯を漂泊しなければならぬ源氏の運命に、川端は自分の生のありようを見出したのである。」

〈橋姫伝説〉との関連性が少ないとはいえ、「反橋」において「私」の人生が〈橋の女〉が伝えた真実によって損なわれたことを考慮するのが、無視できない共通点である。作者が意図的にこのニュアンスを取り入れたか否かに関しては判断を下す余地がないが、「反橋」の背景描写の詳細を見ると、僅かとはいえ、この関連性ゆえに興味深い余韻を形成していることが分かる。

 

反橋が生と死の境界として(仏教)

物語が始まると間もなく作品に「もののあはれ」が溢れてくる。ヨーロッパの絵画と日本の詩という美術的なバランスを保った組み合わせによって極めて緻密に構成された雰囲気が作品を支配することとなる。

作品はこの芸術的枠組に支えられ、作者が無常や死に関するより深い理解に到達する予感を読者に喚起する。藤原定家、西行法師、三条西実隆、住吉法楽百首等を巡ってから、主人公は住吉の宿に残した自ら書いた色紙について語る。その色紙の内容は以下の通りである。

『住吉の神はあはれと思ふらむ空(むな)しき舟をさして来れば』

言及されている舟は仏教用語であり、死後における彼岸への移動が抽象的に描かれていると思われる。

不安定な川が多く存在するインドから伝来した宗教においては橋があまり登場しないため、仏教においては橋ではなく、舟によって人間が救われるが、橋は直観に訴える象徴性を持っているため、この舟が持つ人間を救済する能力の描写は仏教の影響を強く受けている日本の文学にも見られる。

「私」は自分が住吉に「行ってはならない人間」であることを告白し、反橋の事件が語られることによって、その意味は読者に明確に伝わる。

五歳の時、母に連れられて住吉大社の反橋を登ろうとした際、彼はその急な坂を恐れた。登り切ったところで登るのが思った以上に容易だったことに気づき、その直後に継母が彼の実母について事実を伝える。

主人公が伝える反橋事件、亡くなった須山の色紙、死んだ詩人の「もののあはれ」に満ちた感想の、各々の要点を比較すると、全てが、未知の世界や死に対する恐怖というテーマを含んでいる。

母が橋上で伝えた「悲しい話」は、須山の色紙の〈悲しい話〉と、亡くなった詩人の〈悲しい話〉と重なることによって、作品全体の基調である無常への方向性に弾みを付ける。「反橋」の設定は複雑で図式で完全に説明することは困難だが、以下の図によって、この積み重なった〈悲しい話の伝達〉という面に限定して詳しく図示したい。


http://www.dcstrack.com/sorihashikenkyu.htm

橋によって彼岸に到達できないという教義を持つ仏教であるが、この事実にもかからわず日本の作家は橋を来世への道として描写することが多い。

古典においては近松門左衛門の先に引用した作品の他に『名残の橋づくし』が例としてあげられる。

その作品の最後で恋人たちは嫉妬に燃える夫から逃げ、橋のたもとで二人が自殺するシーンで二人の道行は終わる。

現代文学においては宮本輝の『泥の河』において、馬が過重状態で坂を登り切れず、馬車ひきの男性が橋の上で馬車に轢かれて死ぬ。

日本文学は舟を利用する仏教的な傾向が強いといえども、橋の直観的象徴性がそれを超越している事実は数々の例によって明白となるだろう。


橋は死に至る道という象徴性を世界文学の中において最も多く持っているが、この全世界共通の傾向を考慮すれば、仏教文学の影響を受けている日本においても、橋がこの象徴性を反映していることは不思議ではないと考えられるのである。

 

反橋は人間と神の境界である (神道)

天地創造の伝説を伝える『古事記』のイザナギとイザナミは天(あま)の浮橋(うきはし)から日本を創造したことをふまえると、現代に至るまで橋の宗教的意義に関しては仏教的な解釈以外のものも可能であると認めざるをえない。

住吉大社に限らず、福岡県の太宰府天満宮、和歌山県の丹生都比売(にうつひめ)神社や、他の神社にも見られる(「太鼓橋」・「輪橋」ともいう)反橋は日本の他の神社にも存在する。〈反橋〉は大通りに至る橋とは異なって、その実用性よりも装飾性に重点がおかれている。

しかし、神社にある橋の最大の役割は宗教概念に基づいている。

筆者は住吉大社の住職と実際に会話を交わしたが、彼は反橋の目的は鳥居と同様に俗世界から神聖な領域に入ることを意識させることであると述べた。

橋を渡るのと同様に、神社の聖なる領域に入る際に昔から禊(みそぎ)で手を洗う習慣も見られるが、水を越えることはその禊に代わる行為と思われる。

日本にある反橋はもとから反橋と呼ばれていたのではなく、呉橋と名乗っていたのである。呉橋の歴史に関して、上田氏は

「呉橋はその須弥山にむけてかけられた「聖なる橋」だった」ため、「その橋をわたるのは、人間でなく神様なのである」

と述べている。

能の世界においても「橋懸り」(はしがかり)は楽屋と舞台をつなぐ、役者の登場と退場の際の通路として用いられているが、「この橋は、はるかなる異次元の世界と現世を結ぶ橋である」。

住吉大社にある反橋と同様に、「反橋」に登場する橋は、人が川を渡るという日常的役割のみを果たしているわけではないだろう。おそらく、その橋は作品に装飾として登場しているが、「反橋」の持つ神道的ニュアンスにより、神々が定める、避けられない運命の元におかれた人間の無力さを表現している。

住吉大社の反橋は「神池」を越えるために設けられているが、その池も神社内の人造池であるので、ある意味でカダレ氏が説明した〈死んだ橋〉に属するのではないかと思われる。作品においても装飾的な〈死んだ橋〉として機能するのが、「反橋」の背景である神社においてであることを考慮に入れれば、橋の神道的意味が作品に端を発していることは偶然とはいえないだろう。

 

反橋は人間関係を表す

芸術作品において橋には登場人物の間の距離感を縮める効果がある。恋愛小説において橋は恋人たちの関係を意味し、新聞を見ると政治的次元における国同志の信用と協力のシンボルともなっている。しかし、橋は一方通行ではなく、相互交流を可能にする存在であるため、相手への接近が生じる一方で、逆に相手から離れて行く方向性も生じ得る。

「反橋」における橋は母と息子の関係を表すシンボルであると同時に、その関係の破綻の象徴としても有効に機能することは、作者の橋の選択によって成立しているのである。短編を支配するシンボル〈反橋〉はこの両義性を通して、母と息子の関係の心理的破綻を巧みに表現している。この微妙な両義性が維持されなかったとすれば、「反橋」は強い印象を与えなかったに違いない。

宮本輝の『泥の河』においては大阪の川が舞台となっており、子供たちが相手の所に行く際、必ずと言っていいほど橋を渡らなければならない。二人の子供と互いの家族が〈橋を渡る〉ことによって親近感を強めていくが、やがて橋がないため、その関係に破綻が生じる。

古典文学においては恋愛関係を象徴する橋を数多く指摘できるが、保田與重郎は『万葉集』、『枕草子』などに見られる橋を人間関係の象徴と解釈している。 現代文学においては永井荷風の『すみだ川』や樋口一葉の「にごりえ」にも類似した象徴性を持つ橋を見出せる。

人間関係を象徴する橋が登場する代表的な小説は、前述したアメリカ人作家ウィラ・キャザーの『アレクサンダーの橋』である。この作品において、ある有名な橋梁設計者の人間関係全てが〈橋〉を媒介として成り立っている。

橋梁を架す際、妻となる女性と会い、三角関係に陥る恋人ともやはり橋を通して知り合う。主人公はそれらの女性二人から一人を選択しないといけないまさにその時に、橋の建設現場における事故で亡くなり、強度のバランスが取れなかった巨大な橋が一瞬にして崩壊すると同時に、人間関係の限度を越えた橋梁設計者は自分が犯した過ちの犠牲となる劇的な結末となっている。

ところで、この作品においても以前に本稿で論じた〈生から死へ〉という方向性を象徴する橋が見られる。

川端の「反橋」を『アレクサンダーの橋』と比較した際に注目すべき事実は、「反橋」においては人間関係の破綻が橋の崩壊を用いないで表現されている点にある。〈反橋〉という特徴を持つ橋の存在を通して登場人物の心理的破綻のみが描かれ、物語の全体的風景に合致しない事故の描写などは省略されている。〈橋〉が登場する他作品と比較して、「反橋」は川端の独創的な〈控えめの美学〉が反橋の特徴を利用して生かされていることが分かる。

 

心理的障害を克服する〈橋〉の象徴性

橋の最も基本的な象徴性は物理障害を超越する機能に関連している。昔から人間と動物は自然に橋を利用している。人間は結局橋を作ることになったが、橋を作ることよりも、橋を渡る意識の方が人間の橋に対する感覚の原点といえるだろう。橋は川、谷、海などを越えるための単なる道具であるが、ジンメル氏はこの橋という道具の哲学的、心理的本質に関してこう述べている。


「この障害を克服することによって、橋はわれわれの意志の領域が空間へと拡張されてゆく姿を象徴している。」

橋の心理的障害を克服する側面も「反橋」に貢献している。

橋に向かう「私」は母に「強くなった」時に反橋を自分で登ることができると言われたので、彼には「未知へと渡る勇気」があるだろうと母は判断する。 子供時分の「私」はこの質問の背後の意味を理解できなかったが、母は息子が反橋を登り切ることができるとしたら、彼は既に人生の苦難に直面できる年齢に達していると判断した。

母は何故そのような恐ろしい真実を子供に明かしたのだろうか。

作者はこれに関して、継母は嘘を付く人生に耐えられなくなったためと答えている。
この反橋事件の設定を考慮すると、二人共に障害を越えなければならない状態にあった。主人公は彼の人生に隠されていた不幸と取り組まなければならない。

母はそれを彼に伝えるのが恐ろしかったので、伝えるためには勇気が必要であった。主人公が勇気を出して登った際、母も彼に〈悲しい話〉を伝えるのに必要な勇気を持つことができた。

短編の最終場面において年老いた主人公が再び反橋を眺める際、つい最近亡くなった友人須山の死のことを考えている。死は誰にとっても恐ろしいものであろうが、子供のころに「悲しい話」を聞いた場所である反橋を見て、これから自らの人生においても死に直面する勇気を持たなければならないことを実感する。

反橋には「足たどり」があると主人公はいうが、この足たどりは何を象徴しているのだろうか。絵画が内容と枠の組み合わせによって人々を魅了するのと同様に、この物語を支配しているイメージとしての反橋とそれに囲まれるような美学的随想は無関係とは思われない。

既に亡くなった他の詩人の詩は(死人の死は)反橋の足たどりに相当するものである。紹介される様々な芸術作品によって、須山が亡くなったことに伴う恐怖のみならず、語り手自身もいつかは迎える死という〈悲しい話〉に伴う恐怖も和らぎ、「私」はそれを認めることになるだろう。

羽鳥徹哉もこれと同様な解釈を行っている上に、「育ての母は一種の足場の如きものである」とも言っている。最後に「私」が反橋を眺めつつ回顧する際、自分の死はそう遠くはないだろうと思っている描写を考慮すれば、やはり以上の解釈は妥当と思われる。 

 

まとめ

「反橋」に関する論文を読むと、「反橋」に登場する橋は、〈石橋〉或いは〈木橋〉と呼ばれているが、実際に住吉大社にある実物は木と石が合体したものであることが分かる。〈反橋〉建設に必要な技術は複雑であるのと同様に、〈橋〉の多義的描写が存在しなければ、「反橋」の世界は成り立たないといっても過言ではない。

逆に「反橋」においては川端の洗練された美学と彼の言葉のイメージに関する優れた感受性を再確認することができる。シンボルとしての〈橋〉は世界中の文学に当然ながら存在するが、川端は〈橋〉が持ちうる象徴性を十分に理解した上で、世界中に見られる普遍的な象徴性と日本独自のニュアンスとを巧みに作品中に併存させることによって、「反橋」という傑作を生んだのである。
http://www.dcstrack.com/sorihashikenkyu.htm
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c89

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
90. 中川隆[-7627] koaQ7Jey 2017年6月02日 08:03:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

住吉大社 反橋 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BD%8F%E5%90%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE+%E5%8F%8D%E6%A9%8B

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c90
[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
80. 中川隆[-7626] koaQ7Jey 2017年6月02日 08:51:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

水稲は約1万年に長江下流域で栽培開始―中国研究グループ
http://www.recordchina.co.jp/b179785-s0-c30.html
2017年6月1日(木) 5時50分


2017年5月30日、中国国営新華社通信によると、水稲の栽培が約1万年前に長江下流域で始まったとする中国の研究グループによる研究成果がこのほど、米国科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences、PNAS)に掲載された。これは、世界の農業の起源における中国の早期稲作の地位をより確かなものにするものだ。

稲の栽培の起源については定説がなく、インドや中国などが挙げられている。中国国内においても華南起源説と長江中・下流域起源説が存在する。

中国科学院地質・地球物理研究所の呂厚遠(リュー・ホウユエン)研究員とそのグループによると、世界で最も古い水稲化石は長江中・下流域の少数の遺跡だけで確認されており、浙江省浦江県の上山遺跡がその一つだ。だがその年代測定の多くは、陶器の破片から取り出した有機物を放射性炭素年代測定にかけて調べられるが、呂氏らは年代推定の精度を上げるため、プラントオパール中の炭素14を利用した放射年代測定により、9400年前以前のものと推定している。

呂氏は「この方法で測定された上山遺跡の層位と最下層からの距離、およびイネの栽培化の速度の遅さを考慮すると、栽培が開始された年代は約1万年前の完新世の開始期におおむね一致する」と説明している

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c80

[リバイバル3] 国立の真空管音楽喫茶 イースト サイド (East Side)

国立の真空管音楽喫茶 イースト サイド (East Side)
http://www.eastside-k.com/
https://blogs.yahoo.co.jp/rchpp904
https://twitter.com/kunieastside
https://tabelog.com/tokyo/A1325/A132503/13117384/


東京都 国立市 東 2-5-28

TEL
042−573−3082
090−9968−4130

アクセス
JR中央本線(東京-塩尻)国立駅南口から徒歩9分

京王線府中駅から国立行バスで坂下下車 徒歩1分。

ウエスト・セリーズの1階に EAST SIDEがあります。
http://www.eastside-k.com/access1.html

地図
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https://www.mapion.co.jp/m2/35.69523083,139.45042838,16

営業日 毎週木曜日〜日曜日

営業時間 PM2時〜7時半 (6時半までにご来店ください)


木曜*50〜70年代歌謡曲・和製POP

金曜*50〜70年代 洋モノPOPS・ロック

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平日は がら空き状態なので、試聴用CDなどお持ち込みの上、ゆっくり聴き比べてください。

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毎月例会を開き、真空管アンプの情報交換・試聴・アンプ修理を行っています。
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マランツ7・8b
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300B
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<プレーヤー>
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<蓄音機>
ビクトリア・I−90


スピーカーは以下の8機種の聞き比べが可能です。

@ TELEFUNKEN  1935年ドイツ製17.4cmフィールドコイル型スピーカー
A RCA LC1  1950年代アメリカRCA製の放送局用モニタースピーカー
B EMI DLS529 1965年イギリスEMI製 通称アービーロード モニター
C JBL L77 Lancer 1967年 米国JBL製 25CMパッシブラジエター
D ALTEC LANSING 846AValencia 1970年 米ALTEC製 A7と同一ユニット
E TANNOYRectangular York 1970年 英国TANNOY社製
F HARBETH HL Compact 1985年 英国HARBETH製 BBCモニター 
G Sonus faber Concerto  2000年  イタリア  ソナス製 小型スピーカー

A〜Eは、アルニコマグネット、FGはフェライト、⓵は励磁型です。


中古オーディオ屋さんでない限り、これだけのスピーカーを聴き比べられる喫茶店はないかと思います。
平日は がら空き状態なので、試聴用CDなどお持ち込みの上、ゆっくり聴き比べてください。
夫々に良さがあり、設置される環境に応じて楽しむのがヴィンテージ・。オーディオではないかと思います。
https://blogs.yahoo.co.jp/rchpp904/36795858.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/712.html

[リバイバル3] 中川隆 _ オーディオ関係投稿リンク 中川隆
99. 中川隆[-7632] koaQ7Jey 2017年6月02日 11:29:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

国立の真空管音楽喫茶 イースト サイド (East Side)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/712.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/451.html#c99
[リバイバル3] ハーベスで初代 HLコンパクト唯一つだけ人気が出た理由 中川隆
9. 中川隆[-7631] koaQ7Jey 2017年6月02日 12:14:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

初代 HLコンパクトが聴ける店


国立の真空管音楽喫茶 イースト サイド (East Side)
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営業日 毎週木曜日〜日曜日

営業時間 PM2時〜7時半 (6時半までにご来店ください)

平日は がら空き状態なので、試聴用CDなどお持ち込みの上、ゆっくり聴き比べてください。

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@ TELEFUNKEN  1935年ドイツ製17.4cmフィールドコイル型スピーカー
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詳細は

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HARBETH HL-Compact 2015/10/1
https://blogs.yahoo.co.jp/rchpp904/35404511.html


30年近く恋い焦がれていたHARBETH HL-Compact。

十分エージングはできているので、今さら慣らし運転する手間もない。いわばよそ様でしこたま修行した出戻り娘?と言っちゃあ失礼だがまだ30前の花盛り。ご丁重に扱わねば礼を失する。それで、恐れ多くもタンノイRヨークを台座に据えたのである。

https://blogs.yahoo.co.jp/rchpp904/GALLERY/show_image.html?id=35404511&no=0



音を出しても、試聴位置からではタンノイが鳴っているのか、ハーベスが鳴っているのか、耳を近づけねばわからない。と言うことは?・・・指向性がそれほど鋭くなく、適度に部屋の空間に音が拡散し、馴染んでいる証拠である。だからと言って、ステレオ感が損なわれることはなく、左右の音の分離もしっかりしている。



昨夜は、据え付けも終わったので、ジュクリとハーベスを聴きこんでみた。

イギリスの音に浸るには、スコッチが一番。最近はニッカのブラック8年物ばかり飲んでいるが、古い革袋に新しい酒とばかり、バレンタイン12年の封を切ってオンザロックにする。17年物は秀一だが、高くって年金生活者の飲む酒ではない。がんばって12年物で十分である。ニッカのスモーキーフレーバーもなかなかと気にいっていたが、バレンタインのふくよかで芳醇なスモーキーの香りは別格である。比較してはいけないのだ。店ではシーバース12年を常備しているが、バレンタインの香りに魅せられたら・・・でもこれでは600円では採算が取れない。店主ご愛用で店には出せない代物だ。



試聴は、イギリスのスピーカーだからと、クラッシックから始めた。小型のスピーカーなので大編成の交響曲より、室内楽の方が合うのではないか?

イギリスの室内楽と言えば、ボクのお気に入りは、Academy of St.Martin-in-the-Fieldsである。Sir NevilleMarrinerが1959年に初演した比較的新しい楽団である。バロックの新解釈を主体に演奏を行い、それまでヴィバルディーの四季と言えば、イタリアのイムジチが定番だったが、、セントマーチンの明るく躍動感あふれる演奏は、イムジチを凌いで一躍トップの座に躍り出た。

その中から、Argo〈デッカの1部門〉が録音したバッハのバイオリンとオーボエとフルートのためのコンチェルトを掛けてみた。

カートリッジはSUMIKOのEVOV、MC型なのでパートリッジの昇圧トランスを介し、マランツ7・8bの真空管アンプで増幅して試聴した。



ところで、肝心の音である、多くの評判通り、明るく躍動感ある癖のない素直な音色である。バイオリンの弦の音色も艶やかで、オーボエやフルートの音色もさわやかだ。

それで、台座に据えたタンノイ・Rヨークに切り替えてみた。・・・明らかに違う。ホールに響く重低音がタンノイは再現するが、ハーベスでは出来ない。しかし、これはないものねだりで、タンノイと比べて10分の1の容量の小型スピーカーに求めるのが無理なのだ。



中小型スピーカーやトールボーイ型のスピーカーでは自ずとエンクロジャー(箱)の限界がある。だからと言って、大型スピーカーを置ける家も少ないだろう。ハーベスしか置けない環境では、聴き疲れせず、朗々と鳴る優秀なスピーカーだと思った。



参考までに、アルテック・バレンシアと比較すると、ハーベスはタンノイと音色を同じくするスピーカーである。アルテックは音が前に出てくるライブ感が特徴だが、イギリスのスピーカーは、優しく包み込むホールの間接音を大切にする。ヴォーカルやPOPS、小編成の室内楽に向くスピーカーではないか。

大音量が出せない環境なら、当時の半値で購入できるから、お勧めのスピーカーである。半値で比べたら、現行スピーカーで太刀打ちできるものはない。
https://blogs.yahoo.co.jp/rchpp904/35404511.html




http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/687.html#c9

[不安と不健康18] 癌とは臓器の上皮細胞において局所的な同化の亢進が起きることを言う! BRIAN ENO
1. 中川隆[-7630] koaQ7Jey 2017年6月02日 12:37:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
また嘘八百並べてる


>癌になる人のほとんどが、 大の糖質好きであったり


アジアでコメばかり食べてる民族は癌になってないよ

肉を食べると癌になるんだ

http://www.asyura2.com/16/health18/msg/521.html#c1

[近代史02] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 中川隆
393. 中川隆[-7629] koaQ7Jey 2017年6月02日 13:34:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年 06月 2日 米株でヒンデンブルグオーメン点灯か


[東京 2日 ロイター] - 前場の東京株式市場で、日経平均株価は前営業日比279円28銭高の2万0139円31銭となり、大幅続伸した。前日の米国市場では主要株価3指数がそろって最高値を更新。良好な外部環境を好感した買いが入り、節目の2万円台を回復した。取引時間中としては「チャイナ・ショック」で株価が急落した2015年8月20日以来、1年9カ月ぶりの高値を付けた。

米経済指標が堅調な内容となる中、米5月雇用統計の発表を今晩に控えながらも、日本株は上値追いの展開となった。節目突破を受け、リンク債による先物のヘッジ売りの圧力が外れたことも、上昇に拍車を掛けたとみられている。

業種別では証券が上昇率トップ。鉄鋼、銀行、石油関連が値上がり率で上位にランクインした。半面、食料品や情報・通信、水産・農林の3業種は下落。午前中の東証1部の売買代金は1.44兆円超に膨らんだ。

岩井コスモ証券・投資情報センター長の林卓郎氏は「予想以上に良好な国内企業業績を評価した投資家の資金がここに来て流入している印象。米6月利上げの意識も高まっている。6─7月中では日経平均で2万1000円、TOPIXで1700ポイントが上値のめどとなる」と話している。

東証1部騰落数は、値上がり1437銘柄に対し、値下がりが465銘柄、変わらずが114銘柄だった。


米株で「ヒンデンブルグオーメン」点灯か

また、eワラント証券によると、米国で株価急落を予兆するシグナルとなる「ヒンデンブルグオーメン」が6月1日に点灯した。直近では3月13日に点灯。同月21日にはダウが昨年11月の米大統領選後で最大の下げ幅を記録している。日経平均は同月13日から4月17日までの間、終値ベースで1300円近く下落した。

「米国市場では新安値をとる銘柄が増え始めている。欧米や日本の中央銀行のイベントを控える中、金融引き締めの議論が深掘りされれば、株価が調整する警戒感もある」(小野田慎・投資情報室長)との見方が出ている。

同社の定義によるヒンデンブルグオーメンは、52週高値更新銘柄と52週安値更新銘柄の数が、いずれも当日の値上がり銘柄数と値下がり銘柄数の合計の22%以上に上ることを含め、4種類の条件をクリアした際に点灯する。

ヒンデンブルグ・オーメンは、1937年5月に米国で発生したドイツの飛行船「ヒンデンブルク号」の爆発・炎上事故に由来する。一度発生すれば30営業日は有効だが、マクラレン・オシレーターがプラスとなれば無効となる。過去のデータによれば、ヒンデンブルグ・オーメンが確認された後、77%の確率で株価が5%以上、下落するという。

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近づく「官製ブラックマンデー」約束された急落のベストシナリオ=藤井まり子
2017年5月25日
http://www.mag2.com/p/money/233096


利上げによる米国株式市場の大幅調整は免れないでしょう。


押し目かトレンド転換か。アメリカ株式市場の来る大幅調整を読む

2018年春にリセッション入りの恐れ

4月にアメリカの失業率が10年ぶりに4.4ポイントもの低さを記録したこと、さらには、4月のアメリカ市場のVIX恐怖指数がこちらも同じく10年ぶりに10ポイント台を割り込んで9ポイント台をマークしたこと。この2つが、内外のマーケット関係者の間でかなり話題をさらっています。

結論から言えば、近いうちにイエレンFRBが金融緩和へと転換しない限りは、2017年秋にはアメリカの株式市場がピークアウト(=暴落)して、2018年春にはアメリカの実態経済の方もピークアウト、リセッション入りする可能性があります。

ただし、ここが重要なところですが、「イエレンFRBが金融緩和へ転換すれば」この限りではありません。「トランプノミックスの中間選挙までの成長戦略は、金融緩和にあり」と言われるゆえんは、ここらあたりにあります。


「失業率4.4%」の衝撃

4月の米雇用統計で、失業率が4.4ポイントを記録した「知らせ」を受けて、内外のマーケット関係者の間には衝撃が走りました。

「失業率4.4%」というのは、経験則的に、「景気循環的には、1年後あたりにアメリカ経済がピークアウトするかもしれない。すると、半年後あたりにはアメリカ株式市場は大幅調整か暴落を覚悟しなければならない?」ということです。

さらに、1年後の景気のピークアウトが本当ならば、イエレンFRBは「2016年12月の政策金利の引き上げ」を最後にすべきだったのではないか。3月と6月の利上げは、やはり余計だったのではないか。そう感じたのは、私だけではありませんでした。

年初にお伝えしておりますが、今年2017年は「7」の付く年です。「7」の付く年は、ブラックマンデーの起きた1987年、アジア通貨危機の起きた1997年、リーマンショックの前哨戦が始まった2007年と、暴落や危機の起きやすい年です。

そして、この「暴落」「危機」は、どういうわけか夏から秋にかけて起きています。

さらに、アメリカ経済は「金融立国(=資産立国、バブル立国)」を目指し始めた1990年代後半から、「ほぼ10年に1度のサイクルでバブルをつくっては消滅」させています。

私のブログの創刊時や「アベノミックスのロケットスタート」時にも、「景気循環的には、今の株高が続くのは、2017年から2018年あたりまでだろう」というざっくり予測は、皆様にくり返しお知らせしております。

http://www.mag2.com/p/money/233096


上記グラフに示したように、景気循環的には、「イエレンFRBが金融緩和へと転じない」限りにおいては、「そろそろ1年後あたりに米国経済はピークアウトし始めて、株価はそれに半年先行して天井を打つ」かもしれないのです。

(もちろん、イエレンFRBが近いうちに金融緩和へ転じれば、この限りではありません。繰り返しになりますが、クリントン政権時代の景気回復期が極めて長かったのは、当時のグリーンスパンFRB議長が1998年のロシア通貨危機をきっかけにアメリカの金融政策を緩和へと転換したからです)

もうちょっと詳しく解説すると、「失業率4.4%」というのは、前回サブプライムバブル期の最低水準です。この最低水準は、景気拡大期の頂点で出現しやすいのです。この「失業率4.4%」あたりが記録されると、およそ1年後には実体経済はピークアウト、その後リセッション入りすることが多いのです。

すると、今回の「失業率4.4%」が、今回の「サブプライム危機後の景気回復の最低水準」とするならば、「アメリカの実体経済は(イエレンFRBが金融緩和へと転換しなければ)、だいたいは2018年4月頃にはピークアウトして、その後リセッション入りする」と、ざっくりと予測されます。

株価は実体経済よりも半年早く反応しますから、「アメリカ株がピークアウトするのは、(イエレンFRBが金融緩和へ転換しなければ)、だいたい2017年10月〜11月頃」と、ざっくり予測できます。

そして、平たく言えば、セオリー通りの「秋の株価暴落、2018年のリセッション入り」が嫌だったから、トランプ政権が登場したわけです。


根拠無き楽観に支配されたアメリカ株式市場

「4月のアメリカVIX指数」は、4月後半からの朝鮮半島での地政学リスクの後退を受けて、一時期10ポイントを割り込みました。こちらも、なんと10年ぶりの低水準でした。このこともやはり、内外マーケット関係者には衝撃でした。

4月のアメリカ株式市場は、「ITバブル期同様の根拠無き熱狂」とまで言わなくても、まさしく10年ぶりの「根拠無き楽観」「シュガーハイ状態」の極みだったのかもしれないのです。

「VIX恐怖指数」が10ポイントを割り込んだのは、2006年12月〜2007年1月以来(10年ぶり)のことです。

サブプライムバブル時代の頂点にあった2006年〜2007年を振り帰ると、VIX恐怖指数が10ポイントを割り込んだ「2006年12月〜2007年1月」に遅れること2カ月の3月には、上海株式市場が暴落しています。そして、7月と10月にはアメリカ株が2度のピーク(ダブルトップ)を打って、その後続落していきます。

2006年12月〜2007年1月は、VIX恐怖指数は「シュガーハイの極み」である「9ポイント台」を記録してから、およそ半年後あたりに株式市場がピークアウトしたわけです。実体経済の方も、株式市場におよそ半年遅れて、2007年12月にはピークをつけ、2008年1月からリセッション入りしていきます。2008年にはサブプライム危機が起きたのは、皆様ご記憶の通り。

少なくとも、サブプライムバブルとその崩壊の過程の2007年前後では、「VIX恐怖指数」がシュガーハイの極みである9ポイント台を付けると、およそその半年後の7月に株価がピークを付けて、さらにその半年後の12月に、実体経済がピークアウトしてリセッション入りするという「サイクル」でした。

そして、時代は巡り巡って10年後の2017年。2017年4月に「VIX恐怖指数がシュガーハイの極みであるかもしれない9ポイント台」を記録しました。同時並行的に4月には、上海株式市場の10%下落が起きました。

これを「10年前のサブプライムバブル時のサイクル」で予測すれば、イエレンFRBが金融緩和へ転換しなければ、「半年後の2017年11月には株式市場がピークアウト、その半年後の2018年5月には実体経済のピークアウト」という予測が可能になります。

この予測は、「失業率4.4%」から予測した「2017年〜2018年の米国経済とアメリカ株式市場のざっくり予測」と、ぴたっと一致します。なにやらとても不気味です。


が、上述の「失業率:4.4%」から眺めても、「VIX恐怖指数:10ポイント割れ」から眺めても、イエレンFRBが金融緩和へと転換しなければ、「半年後の2017年10月から11月には株式市場がピークアウト、その半年後の2018年4月には実体経済のピークアウト」という「ざっくり予測」が成り立つことは、大いに注意すべき事柄でしょう。

そして、「そんなのは嫌だぁああああ〜!」「株価の暴落も景気のピークアウトも嫌だぁああああ〜!」「低金利が好きだぁああああ〜!」「2%成長なんて嫌だあああああ!バブルをつくって3%成長がした〜い!」と登場したのが、トランプ大統領だったのです!
http://www.mag2.com/p/money/233096


5月第2週は「海外の買い越しvs個人、投信、自己、信託の売り越し」であった。

海外の買いの多くは持たざるリスクを感じての買いであり、ショートカバーも一部にはあった。株価が上がったことが最大の理由ではあるが、ファンダメンタルズの改善も忘れてはならない買いの背景である。

国内はほとんど総売りに近い状況であった。

何度も繰り返し書いているが、戻れば売りというのはヒステリシスである。

28年間右肩上がりでない相場が続いている。

こうした環境下では、株価が上昇した時に持たざるリスクを恐れて買うような投資家は、とっくの昔に大損して株式市場から退出ないしは追放されている。

国内投資家はごく一部の特殊な投資家を除けば、戻れば売るしか生き残る方法が存在しなかったのである。

5月第2週も過去と同じパターンで週間の日経平均株価は438円上昇して終えた。
http://stockbondcurrency.blog.fc2.com/

投資主体別売買動向日本株
http://www.traders.co.jp/domestic_stocks/stocks_data/investment_3/investment_3.asp
http://stockbondcurrency.blog.fc2.com/blog-entry-109.html
http://karauri.net/kaigaidoukou/

4月第4週は「海外の買い越しvs個人、投信、信託の売り越し」であった。

5月第1週は「海外の買い越しvs個人、投信の売り越し」であった。

5月第2週は「海外の買い越しvs個人、投信、自己、信託の売り越し」であった。

5月第3週は「自己、事法、個人の買い越しvs投信、海外の売り越し」であった。
http://stockbondcurrency.blog.fc2.com/

一般則として

外人投資家が買って、個人投資家が売っている → 株価は上昇中
外人投資家が売って、個人投資家が買っている → 株価は下降中

外国人が買って、日本人が売っていたら上昇トレンド

日本人が売りから買いに変わったらピーク

外国人が売って、日本人が買っていたら下降トレンド

日本人が買いから売りに変わったらボトム

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さすがに売り越しを続けていた個人投資家の皆さんも、5月第3週の信用取引は1006億円の買い越しと、中小型株中心に買いに転じたようです。しかし、現物の売りは止まっていません。

先高観が見えないから、デフレなのでキャッシュ化のリスクが無いから、高齢化で終活の売りだ、などといろいろ言われていますが、筆者も考えて見ました。その結果有る事に気づきました。

 日経500種と言う株価指数をご存じだと思いますが、単純平均の日経平均以外は、TOPIXはもちろんの事JQやマザーズまで時価総額加重平均で計算されています。

ところがこの日経500種(225プラス275銘柄)は日経平均と同じ単純平均です。

日経平均の今は、史上最高値38915円に対してマイナス49.44%の位置にいますが、日経500の史上最高値(1989年12月)2406円47銭に対して今は1881円96銭でマイナス21.8%の位置です。

日経平均のマイナス21.8%の位置は3万431円です。つまり古くからの投資家でバブル崩壊以降長期塩漬けにしていた株が日経平均が3万円(2万円ではありません)に乗せたのでやれやれ売りを出していると言う感覚ではないかと思っています。
http://kasset.blog.fc2.com/


2016年 12月 22日 4度目のバフェット指数1倍超え


株価は楽観的な見通しを織り込んだことで、すでにバブルの領域との見方も出ている。

著名投資家のウォーレン・バフェット氏は

その国の株式市場の時価総額が名目GDPを超えると危険サイン

ととらえ、持ち高調整を検討することで知られている。

名目GDPに対する株式市場の時価総額の倍率をバフェット指数と呼ぶが、

日本の2015年度名目GDP532兆円に対し、22日時点で東証上場の株式時価総額は580兆円強。バフェット指数は約1.1倍になっている。


日本で同指数が1倍を超えたのは、1980年代後半のバブル期、2007年リーマンショック前の米住宅バブル、2015年8月前後のアベノミクス期待のピークに続き、トランプラリーの今回は4度目になる。

変動の大きい期間利益をもとに算出されるPERと異なり、同指数は比較的ブレが少なく行き過ぎた株高を警告するサインとみられているが、今のところ市場で懸念する見方は少ない。


バブルは予測不能な面もあり、市場のコンセンサス通りなら短期の調整を交えて、少なくとも米新大統領就任後の蜜月期間が終わる来年5月頃まで株高が続くことになる。
http://jp.reuters.com/article/vix-stock-idJPKBN14B0IY?sp=true



http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/430.html#c393

[不安と不健康18] 癌とは臓器の上皮細胞において局所的な同化の亢進が起きることを言う! BRIAN ENO
2. 中川隆[-7628] koaQ7Jey 2017年6月02日 14:12:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
>すでに、
1万2千年前に
中東のあたりで
小麦のような
穀物生産を開始し
社会的には
>飢餓社会を脱している。


またデマ流してる

そもそも狩猟民族の食べ物の 80%は果物、根菜、木の実で、労働時間は1日2時間程度
狩猟民族には飢えた人間なんか存在しなかったんだよ
http://www.asyura2.com/16/health18/msg/521.html#c2

[リバイバル3] 北海道の最低市町村ランキング 中川隆
71. 中川隆[-7627] koaQ7Jey 2017年6月02日 14:46:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

低所得世帯の子供、授業「わからない」4割 北大など調査
北海道新聞 6/2(金) 10:50配信


学校でわからないことがある子供の割合


進学、3割が「高校まで」

 道が、北大と共同で行った子どもの貧困に関する全道実態調査の最終報告の概要が1日、判明した。年収100万円以上200万円未満の世帯では4割近くの子どもが学校の授業について「わからない」と答え、3割が進学について「高校まで」と回答。いずれも全世帯平均を上回り、親の経済状況が子どもの学習の習熟度や進学に影響している傾向が浮かび上がった。

 道は今回の調査結果を踏まえ、一人親への就労支援や子どもの居場所づくりなど総合的な子どもの貧困対策を進める。

 学校の授業について「ほとんどわからない」「わからないことが多い」「あまりわからない」と答えた子どもは全世帯平均で31・1%。これに対し、年収100万円以上200万円未満の世帯で38・3%、200万円以上300万円未満の世帯で36・3%に上った。

 高校2年生と保護者に進学について尋ねたところ、100万円以上200万円未満の世帯では「高校まで」と答えた高2が30・7%、保護者が31・7%、200万円以上300万円未満の世帯では高2が29・9%、保護者が35・7%で、それぞれ全世帯平均の22・8%、24・1%を上回

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食料困窮 子育て世帯2割 道調査結果 受診断念は17%経験 04/06 08:00


 道は5日、北大と共同で行った子どもの貧困に関する全道実態調査の集計結果を発表した。過去1年間に経済的理由で家族が必要とする食料を買えなかった経験があると答えた世帯が20・5%に上るなど、子育て世帯の厳しい経済状況が浮き彫りになった。道は今回の結果を、過去の調査結果や世帯収入などを踏まえて詳しく分析し、近く最終報告をまとめる。

 調査は旭川、釧路など、札幌を含まない道内の計13市町で、小2〜高2の児童・生徒と保護者に実施した。道は2月に、家計が「赤字」と回答した世帯が2割超などの速報値を公表。今回は調査した約230項目の数値を示し、一部では年収が少ないなどで住民税が非課税の世帯に限った結果も明らかにした。

 過去1年間に経済的理由でできなかった経験を聞く質問では「家族が必要とする食料を買えなかった」と答えた世帯が「よくあった」「ときどきあった」「まれにあった」を合わせ20・5%。非課税世帯では41・1%と倍増した。「冬に暖房が使えなかった」は8・7%、非課税世帯では20・8%と倍以上だった。

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子育て「経済的不安」54% 道内の20、30代 04/13 07:00


 道内の20、30代の男女を対象にした道の「結婚や子育てに関するアンケート」で、子育てへの不安について複数回答で聞いたところ、「経済的にやっていけるか」と答えた人が54・3%で最も多く、「仕事をしながら子育てすることが難しそう」が45・4%と続いた。道内の若い世代に、育児の経済的な負担や仕事との両立に関する不安感が広がっている実態が浮かび上がった。

 道は昨年度行った「子どもの貧困に関する全道実態調査」で、子育て世帯の2割超が「赤字」とする結果を公表。道は今回の調査結果も踏まえ、少子化には経済的な問題が大きく影響しているとして、子育て世代の支援策の検討を進める。

 未婚化・晩婚化の対策を考えようと、道は昨年8、9月、札幌市を除く道内25市町村の20、30代の男女3千人を対象に結婚と子育てに関する意識調査を実施。約20%の613人(約半数が既婚者)から回答を得た。


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/588.html#c71

[昼休み53] (伊藤貫) 米中衝突は起こらない! アメリカが日本を守らない理由 中川隆
5. 中川隆[-7626] koaQ7Jey 2017年6月02日 16:06:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年06月02日
トランプと中国の黒い関係、中国に買収された娘夫婦

娘夫婦は揃って金にだらしがなく、モラルを持ち合わせていない。
中国がエサをぶら下げたら、簡単にかぶりついた。
引用:http://bloseum.com/wp-content/uploads/2016/11/trump11.jpg


トランプの娘婿の人格

トランプ大統領陣営が大統領選で、ロシアに選挙妨害を依頼していたという疑いは、今やアメリカで確信に変わっている。

トランプ米大統領の娘婿、クシュナー上級顧問は選挙後の2016年12月に、秘密の通信回線を設置をロシアの駐米大使に依頼していた。

この情報はロシアの駐米大使がロシア政府に報告した内容を、米国の諜報機関(FBIと思われる)が傍受したという。

      

クシュナーは大統領選期間中の2016年夏ごろにも、駐米ロシア大使と面会し、何事かを話し合ったのが分かっている。

トランプの娘の夫のクシュナー家は、トランプ一家と同じく不動産事業で資産を形成した跡継ぎで、資産家同士の結婚だった。

クシュナーは大統領当選後に駐米中国大使や中国要人とも面会し、非常に不可解な行動をしていた。


これにはニクソン政権のキッシンジャー元国務長官が深く関わっていて、キッシンジャーは北京で習近平と合った後でクシュナーとも会い、両者を仲介した。

訪米した中国の楊潔チ・国務委員と崔天凱・駐米中国大使がクシュナーと会い、両者は何らかの取引をしたと報道されている。

クシュナーと中国人が話し合う前、トランプは強硬な反中国路線を主張していて、「中国と台湾は別々の国」と決定的な発言もしていた。


「中国と台湾は別々の国」というのは大陸の中国人にとっては「毛沢東は火星人だった」と同じくらいの言葉である。

キッシンジャーはニクソン政権が中国を承認し、国連常任理事国にするという重要な役割を果たしていて、平たく言えば中国のスパイである。

もっと穏やかに言うと中国と米国の仲介者であり、明確に中国よりで、中国に利益誘導したがる人物です。

トランプは中国から資金提供を受けた

クシュナーは大統領上級顧問でありながら、クシュナー家の長男としてグループを率いているリーダーでもある。

クシュナーのグループは中国に進出したがっているが、クシュナーと楊潔チ・国務委員の会談で中国側は魅力的な条件を出したとされている。

2017年になるとクシュナーは中国を訪問し、クシュナー・カンパニーズの総帥として、北京で投資説明会に出席した。

クシュナーは自分が大統領顧問である事をひけらかしながら、中国の資産家や事業家達に、自分に投資するよう呼びかけた。


この説明会はクシュナーカンパニーが米国に中国資金で不動産事業をする為に行われ、1億ドル以上を集めたとされている。

さらに不可解なのは「50万ドルを投資すれば米国の永住権を買えます」と宣伝していた事で、職権乱用や利益相反との批判が強まっている。

これらの報道や噂を見ると、トランプの娘婿は金に目が無くモラルにはルーズで、自分や義父の地位を金儲けに利用するような人物です。


そしてこのニュースを見て連想したのは、トランプのライバルだったヒラリークリントン一家の事でした。

ヒラリーとビルのクリントン夫婦は「クリントン財団」を設立して慈善事業をしていたが、これがとんでもない代物だった。

敵国である中国やロシアから募金を受け、ヒラリーは国務長官時代に「アメリカと外交関係を築きたければ財団に寄付しなさい」と露骨に要求していた。

アメリカの悪夢は続く

アメリカの慈善財団は営利事業を行って、発生した余剰金の一部を寄付するもので、営利企業より大幅に減税される。

オマケに慈善財団の相続には相続税がかからないので、アメリカの金持ちの殆どがこの「脱税財団」を利用している。

ヒラリーは国務長官の地位を悪用してアメリカ外交を「販売」し、売上げをクリントン財団に集金していた。


財団に多額の寄付をするとアメリカと親密になれるが、民主党時代に中国に対して異常に甘かったのと関係があるとも言われている。

ヒラリーが大統領にならなくてアメリカの危機は去ったかと思いきや、今度はトランプの娘夫婦がアメリカ外交を「販売」し始めた。

クシュナー夫婦の会社に便宜を図れば大統領の「資金源」になり、アメリカの外交政策が変更されるのである。


トランプ大統領は同じ人間とは思えないほど中国政策を180度転換させ、「中国は素晴らしい国だ」と褒め称えている。

中国は娘婿が金にだらしないのを素早く見抜き、この娘婿の取り込みにかかり、キッシンジャー元国務長官を利用した。

中国共産党の金がトランプ一家に流れているという事実は、トランプの対中政策に大きな影響を与えるでしょう。


事実上の「トランプカンパニー」であるクシュナー・カンパニーズは、中国国営企業と数千億円もの取引をしようとしている。

このところ中国系企業による米国進出や米国投資が相次いでいて、その一部にクシュナー・カンパニーズが関与しているようです。

婿の妻(トランプの娘)であるイバンカ・トランプ大統領顧問も、同じように金にだらしなく、買収されやすい。


イバンカのブランドである「イヴァンカ・トランプ」は習近平とトランプが首脳会談した当日に、中国で商標登録について仮承認を受け、現在中国で売上げ急増している。

娘夫婦の関心は世界情勢でもアメリカの国益でもなく、自分たちの金儲けだけだというのが明白になっている。

そしてトランプ大統領には敵が多く、信頼できるのは娘夫婦だけなので、アメリカ外交が間違った方向に誘導される可能性が高い。
http://www.thutmosev.com/archives/71173214.html
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/524.html#c5

[近代史02] 竹中平蔵物語 中川隆
74. 中川隆[-7625] koaQ7Jey 2017年6月02日 16:14:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

パソナグループ取締役会長の竹中平蔵氏 2017-06-02

 本日は、ザ・レントシーカー、政商の中の政商、偉大なる竹中平蔵氏のお話。


 財務省という組織を除くと、竹中氏ほど日本のデフレ長期化に「貢献」した人物はいません。


 特に、決定的だったのは、竹中氏が、小泉政権期に、

● プライマリーバランス黒字化
● 平均概念の潜在GDP
● 発展途上国型マクロ経済モデル(IMFモデル)

 と、デフレを長期化させざるを得ない三つの「指標変更」を行ったことです。


 そもそも、財政健全化の定義は「政府の負債対GDP比率の引き下げ」であるにも関わらず、政府の負債対GDP比率の決定要因の一つに過ぎないPBを目標に設定。結果、我が国は、

「(国債関係費以外の)歳出を増やすためには、他の予算を削るか、増税するしかない」

 という状況に追い込まれ、デフレ脱却の財政出動が不可能になってしまいます。


 さらに、高齢化で社会保障支出が増えることを受け、そもそもデフレ化を引き起こした元凶である消費税増税を、2014年に再び断行。


 案の定、2016年以降、日本は再デフレ化の道をたどっています。


 また、最大概念の潜在GDPを平均概念に変えたことで、デフレギャップが「小さく見える」状況になりました。加えて、インフレギャップが「視える」という奇妙な状況になります。


【日本の需給ギャップの推移(対GDP比%)】

http://mtdata.jp/data_56.html#GDP


 図の通り、バブル期やリーマンショック前など、日本の需給ギャップがプラス化しています。インフレギャップが数値で測定できる。つまりは、

「日本経済は潜在GDPを超す生産を行い、需要された」

 という話になってしまうのです。潜在GDPは、「日本経済に可能な最大の生産」ですから、インフレギャップが視えるということは、「生産されないものが、需要された」ことを意味します。

 
 生産されないモノやサービスに、消費や投資として支出がされるとは、これいかに?


 要するに、平均概念の潜在GDPは、実際には「潜在」GDPでも何でもないという話です。


 潜在GDPの定義が最大概念から平均概念に変えられたことで、需給ギャップのマイナス(デフレギャップ)が小さく見えるようになり、デフレ対策が打たれにくくなりました。


 ついでに、完全雇用の失業率も上昇。日銀の定義では、完全雇用失業率は何と3.5%。今は、完全雇用を超える完全雇用という話になってしまいます。なんのこっちゃ。


 PB目標、平均概念潜在GDPに加え、マクロ経済モデルを需要牽引型ではなく、発展途上国向けのIMFモデルに変更され、我が国のデフレは長期化することになりました。


 デフレ経済下では、竹中氏のような政商の「ビジネス」は拡大しやすいです。企業の人件費削減需要をつかみ、派遣労働の拡大。財政悪化を受け、インフラ整備をコンセッション方式に。デフレでルサンチマンが溜まった国民を煽り、「既得権益の農協を潰せ!」などと叫び、農協改革に代表される構造改革を断行。公務員ルサンチマンを煽り、行政窓口の派遣社員化。


 結果、竹中氏に代表されるレント・シーカーたちのビジネスが拡大し、国民が貧困化する反対側で、彼らは儲かる。


『民間議員・竹中平蔵氏に“退場勧告” 戦略特区に利益誘導批判
https://dot.asahi.com/wa/2017053100019.html

 「加計(かけ)学園」(岡山市)の獣医学部新設計画で、実現までに中心的な役割を果たした「国家戦略特区諮問会議」。特区の認定に「総理のご意向」があったとされることから野党は追及を強めている。

 実は、会議を巡って、特定企業の利益になるように議論が誘導されているのではないかとの疑惑が、以前からあった。

「昨年7月、神奈川県の特区で規制緩和された家事支援外国人受入事業について、大手人材派遣会社のパソナが事業者として認定された。諮問会議の民間議員の一人である竹中平蔵氏(東洋大教授)はパソナグループの会長。審査する側が仕事を受注したわけだから、審議の公平性が保てない」(野党議員)

 これだけではない。農業分野で特区に指定された兵庫県養父(やぶ)市では、竹中氏が社外取締役を務めるオリックスの子会社「オリックス農業」が参入した。自民党議員からも「学者の肩書を使って特区でビジネスをしている」と批判の声がある。

 農林水産委員会などに所属する宮崎岳志衆院議員(民進党)は、竹中氏が主張する農業分野での外国人労働者の受け入れが、人材派遣業界の利益につながりかねないと指摘する。

「民間議員はインサイダー情報に接することができるのに、資産公開の義務はなく、業界との利害関係が不透明だ」

 批判が相次いだことで、国会も異例の対応を迫られる事態となった。(後略)』


 5月16日の衆院地方創生特別委員会で採択された国家戦略特区法改正案では、付帯決議として、

「民間議員等が私的な利益の実現を図って議論を誘導し、又は利益相反行為に当たる発言を行うことを防止する」

 と明記されました。もっとも、付帯決議ですので、どれほど効力があるか未定ですが。


 そもそも、「民間議員」ではなく、単なる民間人です。単なる民間人が、自社の利益最大化を狙い、○○会議に「民間議員で〜す」と言って入り込み、政策を決定し、総理に提言。○○会議の提言が閣議決定され、国会を通るという、民主主義を無視する連中が暗躍しているのが(暗躍、ではないかも知れませんが)、現在の安倍政権です。


 日本国が真の民主主義国であるならば、竹中氏に代表されるレント・シーカーたちを退場させなければなりません。全ての国会議員には、「民主主義とは何なのか?」を改めて自らに問いなおして欲しいのです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/301.html#cbtm
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/301.html#c74

[環境・自然・天文板6] 気候寒冷化の可能性を火山噴火の頻発から検討するべきでは? taked4700
6. 中川隆[-7624] koaQ7Jey 2017年6月02日 16:33:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

来週辺り、太陽が爆発して太陽系が無くなるという噂も有りますね
http://www.asyura2.com/15/nature6/msg/547.html#c6
[経世済民121] 日本の人手不足倒産を防げ 外国人との共生に向けた議論を バブル期並みの人手不足(WEDGE) 赤かぶ
1. 中川隆[-7623] koaQ7Jey 2017年6月02日 19:03:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

中国の兵器は移民爆弾
中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無い


漢民族は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。


秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。


ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。


清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。


今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。


戦争に勝てなくても領土を増やす方法

そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。


漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。


チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。


このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
http://thutmose.blog.jp/archives/66023396.html


50年後の日本地図 (日本人は放射能汚染された東日本に押し込められる)
http://blog.goo.ne.jp/hps777/e/ee6e8a91af4cf1c9b0adb452f1667b7e

http://www.asyura2.com/17/hasan121/msg/871.html#c1

[近代史02] 株で損した理由教えてあげる 中川隆
479. 中川隆[-7622] koaQ7Jey 2017年6月02日 19:48:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「株式上手」の黒田日銀総裁 =児島康孝 2017年6月1日

日本銀行が2017年3月期決算を発表しました。

保有株式が2倍に値上がりするなど株式は運用上手です。


そこそこ順調? 気になる黒田日銀の「成績表」をチェックする


保有株式は「2倍以上」値上がり

日本銀行の2017年3月期決算は、税引き前の利益剰余金が7074億円(1億円以下切り捨て)でした。法人税・住民税などを差し引いた当期剰余金は5066億円。日銀が国庫に納付したのは4813億円でした。

この決算は、2016年4月1日から2017年3月31日まで(=2016年度)のものです。この決算にあわせて日銀が発表した「保有有価証券の時価情報」では、日銀の資産運用上手な様子がみてとれます。

株式は、1兆1655億円分の購入して保有したものがあり、それらの時価は2兆4923億円となっています。平たく言いますと、買った株式が2倍以上に値上がりしているということです。ごくアバウトに単純化しますと、1兆1655億円分の株式を買って、2兆4923億円になっている!という話です。

評価損益(含み益)は、1兆3268億円。これは、景気の悪い時に株式を買って、株式の保有を続ければ、おおむね儲かるという典型例です。

日銀の2017年3月期決算で、株式の運用損益(=実現損益)はプラス2175億円です。このうち売却損益がプラス1695億円ですから、日銀は2016年4月から2017年3月の間に、うまく売却して利益を出しているのです。

このメルマガでは、日銀は「日経平均2万円に近い水準では、日銀保有株式を流動性を供給して売るべき」と書いてきました。つまり、「大幅上昇するような日には、日銀は売る側にまわるべき」と書いてきましたが、それに近いような運用に成功しているようです。

これだけ買い値が低くて時価の半値以下ということですと、ほとんど今後の株式の運用では、日銀が失敗することはないと言えます。

上場投信(ETF)はややリスクも

同じく、日銀が発表した「保有有価証券の時価情報」では、上場投信=ETFの保有情報も出ています。

こちらは、価額13兆1611億円に対して、時価は、15兆9303億円。評価損益は、プラス2兆7692億円です。単純化しますと、「13兆円あまりで買ったものが、16兆円弱になっている」ということです。

良いように思えますが…。しかし、こちらは2016年4月1日から2017年3月31日までの間に、かなり急激に買い増したようです。

日銀のデータで、

2016年3月末(価額)7兆5676億円
2017年3月末(価額)13兆1611億円

というように急増しています。

昨年度で一挙に2倍近く(2倍弱)の量になるまで買ったということです。

評価損益(含み益)は、プラスではありますが、日銀保有の株式のように買値は、低くはありません。つまり、それほど安く買ってはいないということです。ですから、危険というほどではないにしても、上下変動リスクはある程度あるという状況です。

相場の急落状態で買えばある程度の下値では買えますが、さすがにリーマーンショックの頃のように、株価の水準自体(ETFの水準)が安くはありません。ですから、日銀の上場投信ETFの方は、一定のリスクはある普通の保有状態です。
http://www.mag2.com/p/money/236321

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/428.html#c479

[リバイバル3] 日本一の音楽喫茶 阿蘇 オーディオ道場

オーディオ道場
http://starfleet.if.tv/tomokoworld/doujyou.htm
https://ameblo.jp/audioniravana/theme-10040038346.html

オーディオ道場 - カフェ、アートギャラリー Facebook
https://www.facebook.com/pages/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E9%81%93%E5%A0%B4/208589542530622


オーディオ道場 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E9%81%93%E5%A0%B4


熊本県 阿蘇郡 西原村桑鶴 オーディオ道場
TEL : 096−279−4196

営業時間 11:00〜日暮れ(19:00頃)まで

店休日 無休

駐車場 30台

席数 50席

収容人数 約50人

オーディオ道場は、祖父が使っていた剣道場を利用して音楽愛好家の皆さんに、良い音楽を、良い音で聴いていただくために父の片山昇がオーディオ装置を設置いたしました。

現在では、熊本県内、外から多くのお客様が CD や LP を持って音楽を聴きにこられます。

オーディオ道場では、コーヒー、抹茶、「アンジェミチコ」のケーキなどの喫茶、そして、自家製のカレーなどの軽食もございます。

オーディオ道場の中には、海外の有名なスピーカーや、熊本県内のオーディオメーカーのバクーンプロダクツのアンプで素晴らしい音で、音楽を楽しむ事が出来ます。

皆さんも是非お好きな CD や LP を持ってお出かけください。
http://starfleet.if.tv/tomokoworld/newpage18.htm

喫茶メニュー
飲み物 すべて ¥500
http://starfleet.if.tv/tomokoworld/newpage20.htm


アクセス

熊本市内からでは空港線で空港に着く前に右に曲がり西原村へ向かう。(県道206号線)
約20分真っすぐ道なりに進むと山の斜面が芝生の綺麗な場所に行き着く、進行方向右手に萌えの里という看板が見える。

萌えの里に着いたら進行方向左を見ると鳥居が見える。
その右横にアカ枠で囲んだ看板がある。

よく看板を見るとオーディオ道場の文字が!

車で鳥居に続く道を進んでしばらくすると交差点がある。
ここを右に進む。

真っすぐ進むと看板が集合している所に来る。
ここにもオーディオ道場の看板があるのでこのまま直進だろうと進むと迷うことになる。料亭や右手に見えるパン屋さんまで行くと行き過ぎだ。

先ほどの看板が集合している所でもう少し顔を左に向けると上に上る道が見える。ここがオーディオ道場の入り口。

少し急な坂道を上ると道場が見えて左奥に入り口がある。
道場の中から音楽が聴こえてくると営業しているのが分かる。
http://kikuon.com/sb2/log/dojyo01.html


俵山に「萌えの里」と云う道の駅みたいなのが有ります。

「萌えの里」の反対側に「御池神社」の鳥居が有ります。
この鳥居をくぐって1本道を行くと、開けた場所でT字路になっています。
そこを右に曲がってそのまま道なりに進んで、突き当たると元ゴルフ場が有ります。その T字路を左に10m程すると道場の入り口が有ります。
http://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/5966c3ac8d1321c83e6e25dce8d21e90

地図
https://www.bing.com/maps/default.aspx?v=2&pc=FACEBK&mid=8100&rtp=%7Epos.32.85375631466_130.94071551185_%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E9%81%93%E5%A0%B4&cp=32.85375631466%7E130.94071551185&lvl=16&sty=r&rtop=0%7E0%7E0%7E&mode=D&FORM=FBKPL6&mkt=ja-JP
https://www.google.co.jp/maps/dir/''/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E9%81%93%E5%A0%B4/@32.8536611,130.9062696,13z/data=!3m1!4b1!4m8!4m7!1m0!1m5!1m1!1s0x3540e76c8ee8aac1:0x59e13c218529f648!2m2!1d130.9406024!2d32.8536658?hl=ja
http://starfleet.if.tv/tomokoworld/newpage19.htm
https://www.facebook.com/1511387552508532/photos/gm.228969960913216/1775033439477274/?type=3&theater


「オーディオ道場」は元剣道場を利用した音楽喫茶店ということになる。

○○ラインとも呼べそうな快適なドライブコースの脇のわかりにくい場所に鳥居があり、そこをくぐった後曲がりくねった細い道を不安と期待に駆られながら進み最後に凄い急坂を上ったあとやっと目的地に着いた。

ここは芸術村でもあるらしい。入り口からただならぬ雰囲気があった。

入っていきなり圧倒されました。


オーナーに聞くと公家の血を引いてこのあたりの山も全部持っていて蔵もたくさんあったから、これもそのうちのひとつで、こういうのが相当あったけど大分割れてしまって・・・って、

やはり育ちも並のヒトでは無いようで。

これらの資産がこの膨大なコレクションに化けたってことは・・・ウーン。
http://marantz777.blog113.fc2.com/?m&no=72

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/713.html

[リバイバル3] 中川隆 _ オーディオ関係投稿リンク 中川隆
100. 中川隆[-7621] koaQ7Jey 2017年6月02日 20:06:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本一の音楽喫茶 阿蘇 オーディオ道場
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/713.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/451.html#c100
[経世済民121] カップ麺やインスタント麺は人体に危害…食用ではない工業用の粗悪な塩を大量含有(Business Journal) 赤かぶ
3. 中川隆[-7620] koaQ7Jey 2017年6月02日 22:39:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

塩は硫黄入りヒマラヤ岩塩(黒い色をしている)以外はNG

先日、南港の癒しフェアーに行きました。

そこで、ヒマラヤ岩塩を置いているコーナーに ふと止まりました。

別にたいしたことないものだろうと思っていたら目の前で、ORPメーターで酸化還元電位を測定しだしました。水道水はプラス300mVくらいです。

岩塩を一さじくらい入れて、混ぜて、

ちょっとしか溶けていない段階で 何とマイナス200mV

みな溶けたら、マイナス300mVくらいになるそうな。

これには驚き。 思わずちょっと購入してしまった。購入したのは、入浴用でしたが、 食用もあり、 これは硫黄の味がする。 何となくおいしい。
ヒマラヤ岩塩、見直しました。
http://plaza.rakuten.co.jp/prunelle/diary/200703150000/


ブラック岩塩(ブラックソルト)はお風呂に入れると、温泉特有の硫黄の香りがたちこめ、硫黄泉・アルカリイオン泉・食塩泉の3つの温泉気分が楽しめます。まるで温泉地に来たかのような気分になりリラックスさせてくれます。 硫黄成分以外にも各種ミネラルを豊富に含有しています。食用としてもご賞味いただけますが硫黄成分が多いためワイルドな味となります。硫黄の香りが強い場合はピンク岩塩とブレンドしてご賞味下さい。


ブラック岩塩3-6cmにて酸化還元電位測定実験


一般の水道水は600mv前後になります

ブラック岩塩3-6cmタイプ1個投入 約1分-315mv計

約20分後-568mv計測

http://ganen.chu.jp/2.html


酸化還元電位(ORP) と硫黄の匂いの関係


硫黄泉は独特の匂いや乳白色の濁り湯で人気が高いのにくらべて、おおむね無色無臭でつかみどころのない硫酸塩泉はどうも不人気です。(筆者は隠れ硫酸塩泉ファンですが・・・)。

硫黄泉をつくるのは「硫化水素」、硫酸塩泉をつくるのは「硫酸イオン」で、どちらにも「硫」の字が入っていますから、硫黄(S)を含む成分だということは容易に想像できます。同じ硫黄の成分なのにどうして2つに分かれているのでしょう? また、温泉のできかたには何か大きな違いがあるのでしょうか?


イオウ化学種の変化

イオウの化学種はとても多様で40種以上も知られていますが、温泉に関係するおもな9種は酸化数の違いとして以下のように分けられます。

硫黄泉をつくる「硫化水素」は酸化数のいちばんマイナス側、

硫酸塩泉をつくる「硫酸イオン」は最もプラス側にあります。


  酸化数 : 化合物・イオン(*は温泉分析の項目には含まれない)

  -2 : 硫化水素(H2S)、 硫化水素イオン(HS-)、 硫化物イオン(S2-)
   0 : 単体イオウ(S)*
  +2 : チオ硫酸イオン(S2O32-) 
  +4 : 亜硫酸ガス(SO2)* 
  +6 : 硫酸(H2SO4)、 硫酸水素イオン(HSO4-)、 硫酸イオン(SO42-)


酸化数とはひとことでいうと原子のなかの電荷の過不足です。イオウ原子核のまわりには通常で16個の電子(マイナス電荷)がまわっていて、最外殻には6個の電子が含まれます。ところがこの電子の数はあんまり安定な状態ではないので、周囲の環境(酸化還元状態)によって出たり入ったりします。電子(e-)が1個加わるとマイナス電荷が1増えて原子全体の電荷は(-1)になります。反対に電子が1個出ていくとマイナス電荷が1減って原子全体では(+1)になります。

最外殻電子の数は0か8個がいちばん安定した状態なので、イオウの場合は酸化数(-2)か(+6)の範囲をとります。とはいえ、水溶液中ではあまりに電荷が正負に偏るのは許されないので、水素(H)や酸素(O)がくっついた化合物や分子イオンとして電子を融通しあい、総電荷が極端にならないようにして存在します。

同じ酸化数でのイオウ化学種の変化は以下のようになります。これは水素との結びつき具合が変わるだけなので、pHに依存しています。酸性では式の左辺が出やすく、アルカリ性では右辺が出やすいことになります。下図にはpHが変わるときにそれぞれの量比(mol比)がどのようになるか示してします。


  酸化数(-2)のとき 硫化水素系列     H2S    HS- + H+    S2- + H+   ・・・(1)

  酸化数(+6)のとき 硫酸系列      H2SO4    HSO4- + H+    SO42- + H+  ・・・(2)


図5-7-1-1 pHが変わるときの各成分の量比  左:硫酸系列  右:硫化水素系列


それでは異なる酸化数のあいだの関係はどうなるでしょう。酸化数(-2)の硫化水素系列と、酸化数(+6)の硫酸系列は次のような反応になります。電子(e-)の出入りを伴ってくることが(1)(2)との大きな違いですので、水溶液の酸化還元電位によって状態が変わってきます。酸化環境であるほど反応は右に進みます。


  H2S + 4・H2O    HSO4- + 9・H+ + 8・e-  ・・・(3)

  HS- + 4・H2O    SO42- + 9・H+ + 8・e-  ・・・(4)


さて、これまでのような関係を一枚の図にまとめると下のようになります。横軸にはpH、縦軸には酸化還元電位(Eh)をとってあります。各成分の境界ライン(青線)は、それぞれの濃度(mol濃度)が等しくなるところです。ラインをまたぐといきなり全部がぱっと変わってしまうわけではありません。

硫化水素系列の存在できる範囲は意外に狭く、反対に硫酸イオンの存在範囲がとても広いことがわかります。また、図中には単体イオウ(S)が固体として共存できる範囲も示していますが、硫化水素が酸化をうけて硫酸イオンに変わる途中で出てくることがわかります。実際には硫化水素と硫酸イオンの間には、酸化数の異なるさまざまな物質が中間的にできてくるので、これが硫黄泉の多様な色や匂いのバリエーションに関係してくるのかもしれません。


図5-7-1-2 イオウ化学種の pH - 酸化還元電位 安定関係


酸化還元電位(ORP)についてもちょっと説明しておきましょう。

古典的な化学では、物質が酸素と結びつくことを酸化(oxidation)といい、反対に酸素が奪われることを還元(reduction)と解釈していました。たとえば

金属マグネシウムが空気中で燃焼すること(A)は典型的な酸化の反応で、

酸化銅が水素ガスに触れて金属銅になること(B)は典型的な還元の反応

とされました。どちらも理科の実験でおなじみですね。


  2・Mg + O2 → 2・MgO ・・・(A) 

  CuO + H2 → Cu + H2O ・・・(B)


我々の生活環境では酸素がたくさんあるので、こういう解釈でも実用的にはまったく問題ないのですが、幅広い環境条件を扱うようになるとこれではいささか不都合になります。そこで現代の化学では、

物質が電子を失うことを酸化、

電子が獲得することを還元

というようになりました。上の(A)式の反応では、左辺の金属マグネシウムは単体なので酸化数は(0)ですが、右辺では酸素と結ばれたので酸化数は(+2)になり電子を2個ぶんだけ失っています。その電子はどこにいったかというと、結ばれた酸素原子が単体(0)から酸化数(-2)のO2-になることに使われたのです。酸素の側から見ると電子を獲得したことになるので、(A)式は酸素の還元反応といいかえることもできます。


さて、水溶液に含まれる物質のあいだで酸化還元反応がおこるときには、水じたいも電子のやりとりに加わって次のような状態変化を起こしていきます。

(C)は甚だしい酸化環境のとき水分子か電子を失って気体酸素が遊離する反応(酸化分解)で、(D)は甚だしい還元環境のとき水素イオンが電子を獲得して水素ガスが遊離する反応(還元分解)です。


  2・H2O → O2 + 4・H+ + 4・e- ・・・・(C) 

  2・H+ + 2・e- → H2 ・・・・(D) 


どちらの状態になっても水はもはや液体として存在できませんから、我々の周囲にある水は(C)(D)の中間のどこかにあります。

ここでは電子(e-)の活発さが決め手ですから、水溶液中で遊んでいる電子の量(電位)を測ってやれば、水の酸化還元状態を示すことができます。

これが酸化還元電位(ORP)で、標準水素電極をゼロ基準とした電位(Eh)の正負で表します(単位はmV)。


ORPの数値がプラス側ほど水溶液は酸化状態、マイナス側ほど還元状態になります。


温泉水の酸化還元電位(ORP)


温泉水が通常の水とかなり異なる酸化還元状態にあることはなんとなく予想されていましたが、実際の測定例は少なく、実態はよくわかりませんでした。最近になって温泉の療養効果と関係があるかもしれないという観点からの研究が行われるようになり、大河内(2002)などの論文にまとめられています。

下図ではその論文の挿入図から源泉湧出直後と貯湯直後の値をリライトしてのせてみました(青点)。赤線は大気下の通常水(水道や飲料水)のラインで、温泉は通常水よりも還元性を示すものが多いことがよくわかります。

なかには極端に還元性の値を示すものがあり、上の図と比較してみると、こういう温泉水には硫化水素が存在できて硫黄泉になっているものと思われます。

大河内の本論では温泉水の老化(エージング)について言及しており、源泉を放置した後のORP測定値は通常水とほとんど同じになってしまうことが明らかです。
このような状態だと硫化水素は存在できないので、単体硫黄(湯の花)として析出沈殿してしまうか、硫酸イオンに変わってしまうものと考えられます。多くても数10mg/kgくらいの硫化水素がまるごと硫酸イオンに変わってしまえば、それは普通の水とたいした違いはなくなってしまいますね。


図5-7-1-3 温泉水の pH – ORP の測定例 大河内(2002)より


最近は「マイナスイオン水」と称するものがヒット商品になっていて、ORPの数値がかくもマイナスであるという表示がされています。図の水の酸化・還元分解領域のライン(緑線)がpHによって傾いていることで明らかなように、ORPの数値だけでは還元性の程度を表現できないのでこれは無意味です。

http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/special/sience_of_hotspring/sience_of_hotspring_5-7-1.htm


要するにヒマラヤ岩塩なら何でも良い訳ではなく、硫黄入りヒマラヤ岩塩(黒い色をしている)だけが酸化還元電位を低下させるという事みたいですね。

なお、この事を伏せて、自分の会社で特別な方法で精製したヒマラヤ岩塩だけが酸化還元電位を低下させると宣伝しているボッタクリ業者が多いので気を付けましょう


ここは良心的ですね。

ヒマラヤ岩塩専門店ブラック岩塩
http://ganen.chu.jp/
http://ganen.chu.jp/2.html


ヒマラヤ岩塩はパウダーで買うと直ぐに劣化してしまうので、塊になったものを買って、使う度におろした方がいいです:

ヒマラヤ岩塩おろし金 販売価格 320円
http://ganen.chu.jp/10.html

http://www.asyura2.com/17/hasan121/msg/875.html#c3

[不安と不健康15] コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ)  赤かぶ
197. 中川隆[-7619] koaQ7Jey 2017年6月02日 22:41:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
>>170 に追記


カップ麺やインスタント麺は人体に危害…食用ではない工業用の粗悪な塩を大量含有
2017.06.02 構成=編集部、協力=南清貴/フードプロデューサー、一般社団法人日本オーガニックレストラン協会代表理事 Business Journal
http://www.asyura2.com/17/hasan121/msg/875.html?c3#c3


 1位がカップ麺で、2位はインスタントラーメン――。

 これは、日本人が塩分を多く摂取している食品のランキングだ。5月17日、国立研究開発法人の医薬基盤・健康・栄養研究所は、厚生労働省の国民健康・栄養調査(2012年)のデータを活用して同ランキングを発表した。

 1位のカップ麺では1日当たり5.5gの食塩を摂取しており、2位のインスタントラーメンでは同5.4g(いずれもスープを飲み干した場合)。3位は梅干し、4位は高菜の漬物、5位はきゅうりの漬物となっており、現代人がいかに“コンビニ飯”に依存しているかがわかる。

 厚労省発表の「日本人の食事摂取基準」では、食塩摂取量の目標値として、男性は1日当たり8g未満、女性は同7g未満となっている。塩分の過剰摂取は高血圧につながる恐れがあるため、同所の研究担当者は「上位の食品を食べすぎないよう、ランキングを活用してほしい」とコメントしているが、実際にカップ麺やインスタントラーメンに頼る生活を続けると、人体にどのような影響が出てどんな弊害が生まれるのか。

 以下、フードプロデューサーで一般社団法人日本オーガニックレストラン協会代表理事の南清貴氏が解説する。

■カップ麺に入っているのは「偏った塩」

 いつの間にか、5月17日は「高血圧の日」と定められています。365日のうち、「この日だけ注意していれば、高血圧にはならない」というのであれば造作ないのですが、そうはいきません。この日を制定した日本高血圧学会も、まさかそんなつもりではないと思いますが……。

 塩分の問題でいえるのは、単純に「摂りすぎ云々」ではなく「どんな塩を摂っているか」が大事ということです。つまり、摂っている塩の質に問題があるわけで、そこに言及しないで塩分摂取について語っても、なんの意味もありません。

 医薬基盤・健康・栄養研究所は、カップ麺やインスタントラーメンを頻繁に食べると塩分を過剰摂取することになり、それが高血圧につながるために食べすぎないように注意を促しています。

「どのくらいの量の塩を摂るのが適正か」については正解がなく、人によって違う上に、同じ人でもその日によって変わります。暑い日にたくさん汗をかけば水を飲みたくなるし、塩分もほしくなるのは当たり前のことです。1日の塩分摂取量を定めたところで、そんなものを守れる人はめったにいないでしょう。

 大事なのは、そんなことを気にするよりも「いい塩を摂るように心がける」ことです。では、「いい塩」とはどういう塩か。もっともいいのは、海水からつくられる自然塩です。なぜなら、ミネラル分が豊富に含まれているからです。

 物質を細かいレベルまで分けていくと、元素になります。それが、ミネラルと呼ばれるものです。ミネラルは地球上に存在するもっとも細かい分子で、それ以上は分解することができません。地球上のすべての物体は、そのミネラルの組み合わせでできています。もちろん、人体も例外ではありません。

 地球上には92種類の元素が存在すると考えられており、そのうち約30種類で地球上の生物はできているといわれています。人間が生きていくために体の外側から内側に取り込まなければならないミネラルは16種類あり、それらは「必須ミネラル」と呼ばれます。

 海水には、その必須ミネラルがすべて含まれています。そして、その組成は驚くほど人体のそれと似ているのです。しかし、カップ麺やインスタントラーメンに使われている塩は、純度99%の「塩化ナトリウム」です。ほかの重要なミネラルはほとんど含まれておらず、「偏った塩」ということになります。

 それを日常的に摂り続けていると、体にも偏りが表れます。その一例が「高血圧」というわけです。

■食塩摂取量と死亡率は関係ない?

 私たちの体が必要とするミネラル分をたっぷり含んでいる塩は、それだけで“うまみ”を感じます。しかし、偏った塩ではそれを感じることができず、したがって何かを足さなければならなくなります。

 そこで足されるのは、グルタミン酸ナトリウムやイノシン酸ナトリウムなどの化学調味料と呼ばれる物質です。偏った塩も化学調味料も、体内で分離して、大量のナトリウムイオンになります。実は、この大量のナトリウム分が血圧を上げるのです。

 イギリスの医学誌「ランセット」には、食塩の摂取量と死亡率の関係を調査した論文が発表されています。それによれば、食塩摂取量のもっとも多いグループの死亡率がもっとも低く、食塩摂取量のもっとも少ないグループの死亡率がもっとも高いという結果が出ています。

 これは、約21万人を対象としたアメリカの「国民栄養調査」から得たデータで、25〜75歳の健康な成人を対象とした調査であることから、信頼度の高いものと考えられます。要は、盲目的に「塩が高血圧の原因だ」というのではなく、「いい塩を適量摂りましょう」ということです。

■カップ麺には工業用原料の塩が入っている?

 日本の塩の自給率は15%程度と推定されており、残りの85%は輸入されている「原塩」と呼ばれるものです。本来は工業用原料として使用されるもので、オーストラリアやメキシコから輸入されています。

 日本で1年間に消費される塩は約900万tといわれていますが、そのうち食用は約12%で、残りの約88%は工業用として食用以外の用途に使われています。しかし、原塩は1kg当たり30円以下と安価なため、一般に市販されている醤油、味噌、漬物、梅干、魚の加工品など、さまざまな加工食品にも使われているのが実情です。

 もちろん、カップ麺やインスタントラーメンに使われているのも、この原塩です。言うまでもありませんが、原塩には体に必要なミネラル分はほとんど含まれていません。カップ麺やインスタントラーメンを買うときに、わざわざ「どんな塩を使っているか」まで確認するのは難しいと思います。そんな面倒なことをするより、最初から「カップ麺やインスタントラーメンは食べない」という選択をするほうが、あらゆる意味で賢明だと思います。

 私たちにとって、正しい食生活とは「塩分の摂取量だけを控える」という単純かつ低レベルなものではなく、必要な栄養素を過不足なく摂取できるものでなければならないのです。

 その方法を、具体的な食事に照らし合わせて表現したのが「オプティマルフードピラミッド」です。「オプティマル」は「最適な」という意味。つまり、私たち人間にとって最適な食事のあり方をピラミッド型に表した食事の方法論がオプティマルフードピラミッドです。

       


 これを実践することができれば、私たちの健康に関しての問題はかなりの部分を解決することができます。カップ麺やインスタントラーメンを食べすぎる食生活は、「偏った塩」の摂りすぎばかりではなく、全般的な栄養不足に陥ることにもなりかねません。その状態で、長きにわたって健康を維持することなど不可能だということは、簡単に理解できるのではないでしょうか。


http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html#c197

[近代史02] LPの音をSPの音に変える魔法のスピーカ タンノイ オートグラフ _ 2流オケの音もウイーン・フィルの響きに変える奇跡 中川隆
109. 中川隆[-7618] koaQ7Jey 2017年6月03日 06:57:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

モニターレッド入りタンノイ オートグラフを聴ける店


タンノイ博物館
http://www.forest-energy.com/tannoy/
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/matikado/da/detail?kan_id=835614


三重県 津市 白山町伊勢見 150-195 青山高原保健休養地

電話
090-2685-1673
059-264-2223


館長 松橋 健(まつはし けん)

開館時間 10:00〜17:00

土曜・日曜・祝日開館

要予約(平日希望の場合も)


アクセス

国道165号線青山高原入口から車で5分

駐車場 9台

地図
https://www.google.com/maps/place/34%C2%B039'14.2%22N+136%C2%B015'58.3%22E/@34.65395,136.266193,14z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d34.653942!4d136.266201?hl=ja-JP

入館料
一人 2,000円 (2時間以内) 2時間超えの場合、一律 3、000円。
※日本茶/紅茶/珈琲の内一品付

※2時間超えの場合、終了迄時間の制限はありませんので充分お楽しみ下さい。
※近くに食事する処がありません。ご希望でしたら館長オリジナル料理(スパゲッティー等500円/人)で可能。


現在の視聴可能 Loudspeaker


Tannoy Autograph 15 ‘’Monitor Red Tannoy社承認箱

VLZ origina110’’MonitorGold・Lockwood Major HPD385 Small Autograph 12"Monitor Gold(U-topia箱)

Quad  ESL63

JBL Everest DD-55000

50年前の名機ですが柔らかくて力強い音質は最近の高級機器にも負けません。

Autograph 15" MR は断突に素晴らしいですが、Small Autograph 12"MG も魅力的。箱がオリジナルと同じ構造のバックロード・ホーン採用。更に10"MG の入った VLZ が光り輝きます。ヴァイオリンの再生では、これに優るSPは無いのでは?JAZZも聴かれる方はLockwood Major(GB)の力強よい響きの虜になるかも?ESL63は、他とは違うコンデンサーSPの響きが味わい深い。

Everest は JBL の旗艦(Flag Ship)SP。眼前で JAZZ の Live が炸裂。意外と Classicも聴かせます。


MARATS #7 Original

AIR TIGHT ATM-2 KT-88×4本


現在 AIR・TIGHT 社の ATM-2・ KT-88×4 アンプで再生中。
MC275 は故障中で、近日修理予定。

LPプレイヤーはEMT-948(DD)・カートリッジTSD-15導入。
LPの魅力を再認識させてくれます。

タンノイ博物館 Museum of TANNOY
能楽堂の構造及びヨーロッパの音楽Hall
http://www.forest-energy.com/tannoy/

故五味康祐氏が生前に「わがタンノイオートグラフ」で「貴婦人(Autograph)の為に理想のリスニング・ルームを造らねばならない。」と計画されていましたたが残念ながら実現する事はありませんでした。無念だったと思います。そこで、「日本の伝統木構造」・「能舞台の構造」・「ヨーロッパの音楽Hallの構造」等を研究して、当館は青山高原に「理想のリスニング・ルーム(Hall)」を完成させました。

Hallの概要は、間口7.25M・奥行8.5M、天井高さSP設置側4.5M・客席最深部7.5Mを確保し、容積は余裕の450M3です。当初、左右SPユニット中心間が6.3Mもありましたので、音の中抜けを心配していましたが杞憂に終わりました。

其の道の専門家の方・音楽マニアの方の一致した評価は

「素晴らしい!!」
「Autographからこんな凄い音が!?」
「CDには無限の音楽が入っている事を実感。
「自分の弾く楽器の響きに驚いた。」
「CD録音の為に調整が不必要で、Hallはどのようにして設計されたのですか?」

等の有り難いお言葉を頂戴しています。

もし、当館Hallより響きが良いと自慢のリスニングルームを所有の方は是非、当館へお越し下さい。

データがどんなに良くても、ヒアリング(聴感)がポイントですから。

※ホールのレンタルも承っております

皆様の眼前で演奏家が歌い・弾き・語ります。演奏会の成功は演奏者と皆様が一体になって創り出されます。

スタジオ録音よりライブ録音の方に名演が多い事はその事を証明しています。

タンノイ博物館内 Shoko Hall 概要


床面積
62u(18.7坪・37.5帖)
間口7.25m×奥行8.5m
空間容積 450㎥

天井高さ
ステージ側4.5m(最低)
客席側7.5m(最高)

仕上材&下地材&
防音断熱材
-

床材
東紀州産ヒノキ無垢板30mm
壁・材・竹小舞下地 土壁厚さ80mm

柱材
ヒノキ(東紀州産)7寸(21cm)・5寸(15cm)・4寸(12cm)
杉(吉野産) 5寸(15cm)・4寸(12cm)

梁材
杉(東紀州産) 背 1尺3寸(40cm)〜8寸(24cm)・(吉野産)
背1尺(30cm)

天井材
杉(東紀州産) 厚さ30mm ニュージーランド産ウール断熱材70mm

野地板
ヒノキ(東紀州産) 厚さ30mm(瓦下地板)

響きの素晴らしいShoko-Hall 62u(18.7坪・37.5帖)お貸しします

写真のように上部吹き抜けの設計で、響き(音質)の素晴らしさが最大の売りで、

「自分のピアノの音がこんなに綺麗に響いたのは初めて。」
「ここで、CD録音をしてみたい。」

等の評価を頂戴しています。 100席(一階65席・二階35席)の収容が可能です。

音楽仲間の定期演奏会等に最適です。

青山高原保健休養地管理事務所が隣接.駐車場は50台以上OKです。

演奏会(半日) \30,000円

練習(半日) \10,000 Piano(ヤマハC5)使用料込み
http://www.forest-energy.com/tannoy/

キット屋コラム「私のオーディオ人生」第14回 by Y下
第14回 これがタンノイだ!
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-014.html


オーディオマニアのみならずタンノイマニア、タンノイファンの憧れであるタンノイ、このタンノイに拘った「ヴィンテージ・タンノイ博物館」をご紹介します。

日本でこのような歴代のタンノイスピーカーを展示してあるタンノイ博物館を私は今まで見たことも聞いたこともありません、今回は沢山写真を撮らせていただきましたのでここで聴くタンノイとホールの作りの良さを皆さんに見て頂きたいためにコラムでご紹介させて頂きます。では早速ご案内しましょう、


ヴィンテージタンノイ博物館

 このタンノイ博物館の建物は総ヒノキ作りの注文住宅のモデルルームになっており外観は日本建築の良さを余すところなく作られております。建物は最近出上がったばかりなのか室内に入りますとヒノキの匂いがプンプン漂ってきます。「これぞ木の香りだ!」

 一般的な試聴室とは違う一軒の建物の中が一つのホールになっており部屋の広さがビックな36畳で天井高が何と7メートルもある吹き抜けになっています。オーナーの松橋氏はここを「ヴィンテージ・タンノイ博物館」と言っています。では写真を見ながらご紹介させて頂きます。

タンノイ博物館の試聴の部屋


 先ほども書きました広さは36畳で左右にタンノイのオートグラフが鎮座しています。部屋が広すぎるのでオートグラフが小さく見えてきます。オートグラフの横にはジャズファンが聴くためのJBLのエベレストが置いてあります。

 オートグラフの左右の間隔は約6メートルで音楽を聴く最適ポジションはスピーカーから約8メートル離れた場所になります。左側には生演奏用のグランドピアノがあり此処のホールで月に1〜2回はクラッシックの定期演奏会が行われておりこのホールを別名でSHOKO−HALLとも呼びます。またこのホールは2階もあり1階、2階を合わせて70名程の客席がご用意できるそうです。


 このスピーカーはタンノイのオートグラフで実装していますユニットはモニターレッドになります。タンノイのモニターレッドとマッキントッシュMC−275の組み合わせは有名な剣豪作家の五味氏も愛用していました。オートグラフの横はJBLのエベレストですが何となく存在感が薄れてくるほどオートグラフの偉大さを痛感させられます。「何時かはオートグラフ」オーディオマニア、音楽マニアの夢ですね、


JBLのエベレストが小さく見えるほどオートグラフの偉大さを痛感させられます。


ホールの左右にオートグラフの小型版のオートグラフミニです。このエンクロージャーはユートピア製ですが一般家庭で聴くのならこれで十分、その横にはオートグラフの後継機と評価の高かったウェストミンスターが展示してあります。ウェストミンスターの上には10インチのモニターレッドが入ったVLZがさり気なく置いてあります。

ホールの2階から下を見下ろす写真になります。ここのホールは2階席もあり2階からもタンノイを見下ろしながら聴けるようになっています。この2階席で美味しいコーヒーを飲みながらオートグラフを聴けば加山雄三の歌のセリフで「僕は幸せだなぁ〜」の心境にもなる。

別室の2階の12畳の試聴室には有名なタンノイGRFメモリーが整然と置かれている。


同じ部屋にはタンノイランカスターとゴールドが入ったVLZも置いてある。隣の写真はタンノイのプロ用のロックウッド・メジャーになります。このスピーカーは放送局用のモニタースピーカーで移動がしやすいようにボックスの横に取手が付いているのとキャスターも付いています。

ランカスターの内部写真です。ボックスの周りに吸音材がびっしりと貼ってあります。ユニットはゴールドになります。


左側のスピーカーはタンノイでも非常に珍しい無指向性のスピーカーシステムで名前は忘れました。右の写真はユートピア製のタンノイGRFになります。

2階の廊下にこれまた有名なレキュタングラーヨークがさり気なく展示してありました。

2階から客席側の写真になります。試聴させて頂いた翌日はここでコンサートが予定されているので補助椅子が沢山並べられていました。

1階の右後方からのホールの全景です。オートグラフがホールを引き締めているのが手に取るように分かります。


タンノイを鳴らす真空管アンプ、マッキントッシュのMC−275とプリアンプはマランツ#7の組み合わせです。音源はレコードではなくCDになります。


一階ホールから見上げた天井で高さ7メートルの吹き抜けですが光熱費がかかりそうのような気がしますがこれだけの空間があればオートグラフが芳醇な響きで謳歌するのが良くわかりますね、

ここのタンノイ博物館の館長で松橋氏です。非常に温和な優しい方で初対面でも気さくな人柄で人情味の厚い好感の持てる方で年齢は団塊の世代で私より一つ若い館長です。この松橋館長は昔からスピーカーの浮気もせずにタンノイ一筋の超が付くタンノイマニア、いやタンノイコレクターと呼ぶのが相応しいかな?同じ英国党でも私とは正反対の性格「もっと見習わなければ」、タンノイを使っているマニアは本当に優しい方ばかりです。その点私は浮気者でひねくれ男ですから・・・・
 

タンノイ博物館のオートグラフの音

 これだけの広さがあればオートグラフも水を得た鯉のような気がしてくる。事実その音は想像を遥かに超えた素晴らしい音で館長の人柄が反映された雄大かつ緻密な響きです。このホールの木の香りと木造りのコンサートホールはベストマッチングではなかろうか、私が持参したコジェナーが歌うヘンデルのアリア集は雄大かつ緻密な音で「これがタンノイだ!」と唸らせた音楽性の高い音であった、クラッシックファンがタンノイを望むのは理解できる。その後に館長のお気に入りでワーグナーの歌劇を聞かさせて頂いたが大編成にも関わらず音に圧迫感がありません。家庭で聴くタンノイとは世界が違っていた、
 


あとがき

 タンノイを写真付きでご紹介させて頂きましたが、このタンノイ博物館は最近オープンしたばかりで4月からは入場料として一人1,000円だそうですがコーヒーとお茶菓子付きですから音楽喫茶に行くよりも安いのではないでしょうか、

 松橋館長と音楽談義、オーディオ談義に華を咲かせるのも良いのではないか、いつかはオーディオ雑誌などに取り上げられるのではないかと思います。是非一度、日本では此処にしかないヴィンテージタンノイ博物館を見学して下さい。場所は三重県になります、キット屋のコラムを見たと言えば暖かく迎えてくれますから気楽に訪問して下さい。
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-014.html


TANNOY博物館(三重)に行ってきました。2012年03月27日
http://blog.goo.ne.jp/4g1g4g0/e/ae352e804e93568bf674a08d390695a4

TANNOYというと、現在はエソテリックが輸入をしているイメージですが、
この博物館で扱っているのは1950年代〜80年代のものです。

故五味康祐氏が愛用したことでも有名な名機
「オートグラフ」を聴くことができるということで、行ってきました!


場所は、三重県の津市。

電車で行く場合は「西青山」が最寄り駅になり、大阪から1時間半、名古屋から2時間程で行ける場所になります。

ちなみに、駅舎はこんな感じ。


Wikipediaによると、乗降人員は 11人/日程度。
ハイキングコースがあるのですが、その看板も…

なお、電車は30分に一本あるので、アクセスは容易です。


館長の松橋さんに相談したところ、駅まで車で迎えに来てくださいました。
松橋さんは、この博物館以外のお仕事もお忙しいようで、来館時は事前に電話をしておくと良いでしょう。


自動車で来る場合は、この看板が目印ですね。


TANNOY博物館に到着すると、意外にも普通の住宅っぽい外観です。
住宅設計工房の展示場を兼ねているとのことでした。

中に入ると、あっと驚く大空間。
オートグラフに、JBL DD-55000に、グランドピアノが余裕で納まっています。

そして、圧巻の二階吹き抜け構造。

この二階にも椅子が多数あり、
ここに演奏家を招いて行う音楽コンサートでは、ここも満席になるとか。

西洋の某ホールを思い出す作りですねw

お伺いした時は、KT88を使った真空管アンプが修理中で、
代わりにEL34を使ったAIR・TIGHTの真空管アンプで「オートグラフ」を聞かせて頂きました。

↑間近で見ると、ド迫力の巨漢スピーカー。


広大なリスニングルーム全体が楽器のように鳴り響き、
「音楽の波の中にいる」といった感じの不思議な感覚でした。

床板も盛大に振動しているなど、従来のオーディオルームと違うイメージでしたが、それがこの音に結びついているのでしょう。欠点を探し出す聴き方ではなく、音楽に浸る感覚で聴くと満足度が高いと感じるはずです。

天井の高さも非常に効果的なようで、
コンサートホールで体感する「管楽器が斜め上方から聞こえてくる」が見事に再現できていました。

お目当ての「オートグラフ」ですが、この部屋に溶け込んでいるようで、
以前、秋葉原の「ヒノオーディオ」で聴いた復刻版とはちょっと違う感じでした。

ヒノオーディオverの方は、雄大で重厚な感じで、いかにもクラッシック専用な雰囲気だったのに対し、こちらの TANNOY博物館で聴いた音は、小気味良く張り出してくる感じでした。JAZZにもマッチする感じですが、金属的な硬さは皆無です。ユニットが「Monitor-Red」だったのもポイントかもしれません。


松橋さんの陽気な人柄もあって、滞在していた二時間があっという間に過ぎてしまいました。オートグラフ以外の大型SPも5機種程度(視聴可能かは不明)あるようでしたし、特にクラッシック好きな方であれば、3時間以上の長居をしたくなるでしょう!

この博物館は高台にあり、平地より気温が7℃程度低いとのこと。
これからの季節、日帰りの避暑気分で訪れても良さそうですね!
http://blog.goo.ne.jp/4g1g4g0/e/ae352e804e93568bf674a08d390695a4
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/494.html#c109

[リバイバル3] 三重県 青山高原 タンノイ博物館

モニターレッド入りタンノイ オートグラフを聴ける店

タンノイ博物館
http://www.forest-energy.com/tannoy/
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/matikado/da/detail?kan_id=835614


三重県 津市 白山町伊勢見 150-195 青山高原保健休養地

電話
090-2685-1673
059-264-2223

館長 松橋 健(まつはし けん)

開館時間 10:00〜17:00

土曜・日曜・祝日開館

要予約(平日希望の場合も)


アクセス

国道165号線青山高原入口から車で5分

駐車場 9台


地図
https://www.google.com/maps/place/34%C2%B039'14.2%22N+136%C2%B015'58.3%22E/@34.65395,136.266193,14z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d34.653942!4d136.266201?hl=ja-JP

入館料
一人 2,000円 (2時間以内) 2時間超えの場合、一律 3、000円。
※日本茶/紅茶/珈琲の内一品付

※2時間超えの場合、終了迄時間の制限はありませんので充分お楽しみ下さい。
※近くに食事する処がありません。ご希望でしたら館長オリジナル料理(スパゲッティー等500円/人)で可能。

現在の視聴可能 Loudspeaker


Tannoy Autograph 15 ‘’Monitor Red Tannoy社承認箱

VLZ origina110’’MonitorGold・Lockwood Major HPD385 Small Autograph 12"Monitor Gold(U-topia箱)

Quad  ESL63

JBL Everest DD-55000


50年前の名機ですが柔らかくて力強い音質は最近の高級機器にも負けません。

Autograph 15" MR は断突に素晴らしいですが、Small Autograph 12"MG も魅力的。箱がオリジナルと同じ構造のバックロード・ホーン採用。更に10"MG の入った VLZ が光り輝きます。ヴァイオリンの再生では、これに優るSPは無いのでは?JAZZも聴かれる方はLockwood Major(GB)の力強よい響きの虜になるかも?ESL63は、他とは違うコンデンサーSPの響きが味わい深い。

Everest は JBL の旗艦(Flag Ship)SP。眼前で JAZZ の Live が炸裂。意外と Classicも聴かせます。

MARATS #7 Original

AIR TIGHT ATM-2 KT-88×4本


現在 AIR・TIGHT 社の ATM-2・ KT-88×4 アンプで再生中。
MC275 は故障中で、近日修理予定。

LPプレイヤーはEMT-948(DD)・カートリッジTSD-15導入。
LPの魅力を再認識させてくれます。
http://www.forest-energy.com/tannoy/


タンノイ博物館 Museum of TANNOY
能楽堂の構造及びヨーロッパの音楽Hall
http://www.forest-energy.com/tannoy/

故五味康祐氏が生前に「わがタンノイオートグラフ」で「貴婦人(Autograph)の為に理想のリスニング・ルームを造らねばならない。」と計画されていましたたが残念ながら実現する事はありませんでした。無念だったと思います。そこで、「日本の伝統木構造」・「能舞台の構造」・「ヨーロッパの音楽Hallの構造」等を研究して、当館は青山高原に「理想のリスニング・ルーム(Hall)」を完成させました。

Hallの概要は、間口7.25M・奥行8.5M、天井高さSP設置側4.5M・客席最深部7.5Mを確保し、容積は余裕の450M3です。当初、左右SPユニット中心間が6.3Mもありましたので、音の中抜けを心配していましたが杞憂に終わりました。

其の道の専門家の方・音楽マニアの方の一致した評価は

「素晴らしい!!」
「Autographからこんな凄い音が!?」
「CDには無限の音楽が入っている事を実感。
「自分の弾く楽器の響きに驚いた。」
「CD録音の為に調整が不必要で、Hallはどのようにして設計されたのですか?」

等の有り難いお言葉を頂戴しています。

もし、当館Hallより響きが良いと自慢のリスニングルームを所有の方は是非、当館へお越し下さい。

データがどんなに良くても、ヒアリング(聴感)がポイントですから。


※ホールのレンタルも承っております

皆様の眼前で演奏家が歌い・弾き・語ります。演奏会の成功は演奏者と皆様が一体になって創り出されます。

スタジオ録音よりライブ録音の方に名演が多い事はその事を証明しています。

タンノイ博物館内 Shoko Hall 概要


床面積
62u(18.7坪・37.5帖)
間口7.25m×奥行8.5m
空間容積 450㎥

天井高さ
ステージ側4.5m(最低)
客席側7.5m(最高)

仕上材&下地材&
防音断熱材
-

床材
東紀州産ヒノキ無垢板30mm
壁・材・竹小舞下地 土壁厚さ80mm

柱材
ヒノキ(東紀州産)7寸(21cm)・5寸(15cm)・4寸(12cm)
杉(吉野産) 5寸(15cm)・4寸(12cm)

梁材
杉(東紀州産) 背 1尺3寸(40cm)〜8寸(24cm)・(吉野産)
背1尺(30cm)

天井材
杉(東紀州産) 厚さ30mm ニュージーランド産ウール断熱材70mm

野地板
ヒノキ(東紀州産) 厚さ30mm(瓦下地板)

響きの素晴らしいShoko-Hall 62u(18.7坪・37.5帖)お貸しします

写真のように上部吹き抜けの設計で、響き(音質)の素晴らしさが最大の売りで、

「自分のピアノの音がこんなに綺麗に響いたのは初めて。」
「ここで、CD録音をしてみたい。」

等の評価を頂戴しています。 100席(一階65席・二階35席)の収容が可能です。

音楽仲間の定期演奏会等に最適です。

青山高原保健休養地管理事務所が隣接.駐車場は50台以上OKです。


演奏会(半日) \30,000円

練習(半日) \10,000 Piano(ヤマハC5)使用料込み
http://www.forest-energy.com/tannoy/

キット屋コラム「私のオーディオ人生」第14回 by Y下
第14回 これがタンノイだ!
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-014.html


オーディオマニアのみならずタンノイマニア、タンノイファンの憧れであるタンノイ、このタンノイに拘った「ヴィンテージ・タンノイ博物館」をご紹介します。

日本でこのような歴代のタンノイスピーカーを展示してあるタンノイ博物館を私は今まで見たことも聞いたこともありません、今回は沢山写真を撮らせていただきましたのでここで聴くタンノイとホールの作りの良さを皆さんに見て頂きたいためにコラムでご紹介させて頂きます。では早速ご案内しましょう、


ヴィンテージタンノイ博物館

 このタンノイ博物館の建物は総ヒノキ作りの注文住宅のモデルルームになっており外観は日本建築の良さを余すところなく作られております。建物は最近出上がったばかりなのか室内に入りますとヒノキの匂いがプンプン漂ってきます。「これぞ木の香りだ!」

 一般的な試聴室とは違う一軒の建物の中が一つのホールになっており部屋の広さがビックな36畳で天井高が何と7メートルもある吹き抜けになっています。オーナーの松橋氏はここを「ヴィンテージ・タンノイ博物館」と言っています。では写真を見ながらご紹介させて頂きます。


タンノイ博物館の試聴の部屋


 先ほども書きました広さは36畳で左右にタンノイのオートグラフが鎮座しています。部屋が広すぎるのでオートグラフが小さく見えてきます。オートグラフの横にはジャズファンが聴くためのJBLのエベレストが置いてあります。

 オートグラフの左右の間隔は約6メートルで音楽を聴く最適ポジションはスピーカーから約8メートル離れた場所になります。左側には生演奏用のグランドピアノがあり此処のホールで月に1〜2回はクラッシックの定期演奏会が行われておりこのホールを別名でSHOKO−HALLとも呼びます。またこのホールは2階もあり1階、2階を合わせて70名程の客席がご用意できるそうです。


 このスピーカーはタンノイのオートグラフで実装していますユニットはモニターレッドになります。タンノイのモニターレッドとマッキントッシュMC−275の組み合わせは有名な剣豪作家の五味氏も愛用していました。オートグラフの横はJBLのエベレストですが何となく存在感が薄れてくるほどオートグラフの偉大さを痛感させられます。「何時かはオートグラフ」オーディオマニア、音楽マニアの夢ですね、


JBLのエベレストが小さく見えるほどオートグラフの偉大さを痛感させられます。


ホールの左右にオートグラフの小型版のオートグラフミニです。このエンクロージャーはユートピア製ですが一般家庭で聴くのならこれで十分、その横にはオートグラフの後継機と評価の高かったウェストミンスターが展示してあります。ウェストミンスターの上には10インチのモニターレッドが入ったVLZがさり気なく置いてあります。

ホールの2階から下を見下ろす写真になります。ここのホールは2階席もあり2階からもタンノイを見下ろしながら聴けるようになっています。この2階席で美味しいコーヒーを飲みながらオートグラフを聴けば加山雄三の歌のセリフで「僕は幸せだなぁ〜」の心境にもなる。

別室の2階の12畳の試聴室には有名なタンノイGRFメモリーが整然と置かれている。


同じ部屋にはタンノイランカスターとゴールドが入ったVLZも置いてある。隣の写真はタンノイのプロ用のロックウッド・メジャーになります。このスピーカーは放送局用のモニタースピーカーで移動がしやすいようにボックスの横に取手が付いているのとキャスターも付いています。

ランカスターの内部写真です。ボックスの周りに吸音材がびっしりと貼ってあります。ユニットはゴールドになります。


左側のスピーカーはタンノイでも非常に珍しい無指向性のスピーカーシステムで名前は忘れました。右の写真はユートピア製のタンノイGRFになります。

2階の廊下にこれまた有名なレキュタングラーヨークがさり気なく展示してありました。

2階から客席側の写真になります。試聴させて頂いた翌日はここでコンサートが予定されているので補助椅子が沢山並べられていました。

1階の右後方からのホールの全景です。オートグラフがホールを引き締めているのが手に取るように分かります。


タンノイを鳴らす真空管アンプ、マッキントッシュのMC−275とプリアンプはマランツ#7の組み合わせです。音源はレコードではなくCDになります。


一階ホールから見上げた天井で高さ7メートルの吹き抜けですが光熱費がかかりそうのような気がしますがこれだけの空間があればオートグラフが芳醇な響きで謳歌するのが良くわかりますね、

ここのタンノイ博物館の館長で松橋氏です。非常に温和な優しい方で初対面でも気さくな人柄で人情味の厚い好感の持てる方で年齢は団塊の世代で私より一つ若い館長です。この松橋館長は昔からスピーカーの浮気もせずにタンノイ一筋の超が付くタンノイマニア、いやタンノイコレクターと呼ぶのが相応しいかな?同じ英国党でも私とは正反対の性格「もっと見習わなければ」、タンノイを使っているマニアは本当に優しい方ばかりです。その点私は浮気者でひねくれ男ですから・・・・
 

タンノイ博物館のオートグラフの音

 これだけの広さがあればオートグラフも水を得た鯉のような気がしてくる。事実その音は想像を遥かに超えた素晴らしい音で館長の人柄が反映された雄大かつ緻密な響きです。このホールの木の香りと木造りのコンサートホールはベストマッチングではなかろうか、私が持参したコジェナーが歌うヘンデルのアリア集は雄大かつ緻密な音で「これがタンノイだ!」と唸らせた音楽性の高い音であった、クラッシックファンがタンノイを望むのは理解できる。その後に館長のお気に入りでワーグナーの歌劇を聞かさせて頂いたが大編成にも関わらず音に圧迫感がありません。家庭で聴くタンノイとは世界が違っていた、
 


あとがき

 タンノイを写真付きでご紹介させて頂きましたが、このタンノイ博物館は最近オープンしたばかりで4月からは入場料として一人1,000円だそうですがコーヒーとお茶菓子付きですから音楽喫茶に行くよりも安いのではないでしょうか、

 松橋館長と音楽談義、オーディオ談義に華を咲かせるのも良いのではないか、いつかはオーディオ雑誌などに取り上げられるのではないかと思います。是非一度、日本では此処にしかないヴィンテージタンノイ博物館を見学して下さい。場所は三重県になります、キット屋のコラムを見たと言えば暖かく迎えてくれますから気楽に訪問して下さい。
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-014.html

TANNOY博物館(三重)に行ってきました。2012年03月27日
http://blog.goo.ne.jp/4g1g4g0/e/ae352e804e93568bf674a08d390695a4


TANNOYというと、現在はエソテリックが輸入をしているイメージですが、
この博物館で扱っているのは1950年代〜80年代のものです。

故五味康祐氏が愛用したことでも有名な名機
「オートグラフ」を聴くことができるということで、行ってきました!


場所は、三重県の津市。


電車で行く場合は「西青山」が最寄り駅になり、大阪から1時間半、名古屋から2時間程で行ける場所になります。

ちなみに、駅舎はこんな感じ。

Wikipediaによると、乗降人員は 11人/日程度。
ハイキングコースがあるのですが、その看板も…


なお、電車は30分に一本あるので、アクセスは容易です。


館長の松橋さんに相談したところ、駅まで車で迎えに来てくださいました。
松橋さんは、この博物館以外のお仕事もお忙しいようで、来館時は事前に電話をしておくと良いでしょう。


自動車で来る場合は、この看板が目印ですね。

TANNOY博物館に到着すると、意外にも普通の住宅っぽい外観です。
住宅設計工房の展示場を兼ねているとのことでした。


中に入ると、あっと驚く大空間。
オートグラフに、JBL DD-55000に、グランドピアノが余裕で納まっています。


そして、圧巻の二階吹き抜け構造。


この二階にも椅子が多数あり、
ここに演奏家を招いて行う音楽コンサートでは、ここも満席になるとか。


西洋の某ホールを思い出す作りですねw

お伺いした時は、KT88を使った真空管アンプが修理中で、
代わりにEL34を使ったAIR・TIGHTの真空管アンプで「オートグラフ」を聞かせて頂きました。


↑間近で見ると、ド迫力の巨漢スピーカー。


広大なリスニングルーム全体が楽器のように鳴り響き、
「音楽の波の中にいる」といった感じの不思議な感覚でした。

床板も盛大に振動しているなど、従来のオーディオルームと違うイメージでしたが、それがこの音に結びついているのでしょう。欠点を探し出す聴き方ではなく、音楽に浸る感覚で聴くと満足度が高いと感じるはずです。

天井の高さも非常に効果的なようで、
コンサートホールで体感する「管楽器が斜め上方から聞こえてくる」が見事に再現できていました。


お目当ての「オートグラフ」ですが、この部屋に溶け込んでいるようで、
以前、秋葉原の「ヒノオーディオ」で聴いた復刻版とはちょっと違う感じでした。

ヒノオーディオverの方は、雄大で重厚な感じで、いかにもクラッシック専用な雰囲気だったのに対し、こちらの TANNOY博物館で聴いた音は、小気味良く張り出してくる感じでした。JAZZにもマッチする感じですが、金属的な硬さは皆無です。ユニットが「Monitor-Red」だったのもポイントかもしれません。


松橋さんの陽気な人柄もあって、滞在していた二時間があっという間に過ぎてしまいました。オートグラフ以外の大型SPも5機種程度(視聴可能かは不明)あるようでしたし、特にクラッシック好きな方であれば、3時間以上の長居をしたくなるでしょう!

この博物館は高台にあり、平地より気温が7℃程度低いとのこと。
これからの季節、日帰りの避暑気分で訪れても良さそうですね!
http://blog.goo.ne.jp/4g1g4g0/e/ae352e804e93568bf674a08d390695a4

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/714.html

[リバイバル3] 中川隆 _ オーディオ関係投稿リンク 中川隆
101. 中川隆[-7617] koaQ7Jey 2017年6月03日 07:04:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

三重県 青山高原 タンノイ博物館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/714.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/451.html#c101
[不安と不健康15] コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ)  赤かぶ
198. 中川隆[-7616] koaQ7Jey 2017年6月03日 07:24:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

カップ麺やインスタント麺に使われている工業塩というのは中国で使われている亜硝酸塩や工業塩化ナトリウムのことだ。食塩のことではない。

確かに食塩として売られている塩化ナトリウムのカタマリが健康被害の原因となっておりそれが今でも伏せられているのは事実だが、これを工業塩と言えば誤解を招くではないか。

海水塩は今となっては福島垂れ流し原発のせいで選びにくい。南半球産塩をわざわざ日本近海の海水に溶かして再結晶を作るようなことをしている。

無難なところで岩塩がおすすめだ。
これから暑くなって熱中症の危険が高まるから、とくに老人は塩をよく摂ったほうがいい。
http://www.asyura2.com/17/hasan121/msg/875.html#c4

http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html#c198

[リバイバル3] 新潟のリゾートマンション「ツインタワー石打」 管理組合前理事長が11億円着服 中川隆
7. 中川隆[-7630] koaQ7Jey 2017年6月03日 15:23:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

マンション購入初心者は知っておきたい、マンション購入時に知っておくべきこと
https://hbol.jp/141764
2017年06月03日 HARBOR BUSINESS Online


 不動産を購入する前に必ず知っておきたいことは多数あります。しかし、売買仲介する営業担当が懇切丁寧に解説してくれるのは、ほんの僅かです。将来的なリスクや予見される事案を仲介担当がきちんとお客様に誠意をもって、事前に説明しておく。そんな当たり前のことが確約されない今、購入者自身で確認すべきポイントをどれだけ知っているかが良き不動産選びにおいて大変重要な要素になっていると感じています。この記事を読んでいる皆様には、私が経験した仲介600件以上の成約実績をもとに、不動産購入前に何を知っておけば良いのかを解説していきたいと思います。

マンションごとに管理費・修繕積立金が大きく違う理由

 管理費とは、マンションの共用部分を維持するために必要な経費を賄う目的で使われます。具体的には、管理会社に支払う管理委託手数料やエレベーター定期点検費、消防点検費、清掃費、給水ポンプ清掃費、共用部電気代、共用部水道代、火災保険料などがあります。

 修繕積立金とは、将来マンション全体で外壁補修やバルコニー防水、給排水設備更新、機械式駐車場更新、エレベーターリニューアルなどの工事をするために区分所有者全員で積み立てるお金です。

 管理費や修繕積立金のマネジメントは管理会社に全部委託しているマンションが多いのが現状です。そのため、コスト削減に積極的な管理会社と無関心な管理会社とでは区分所有者が負担すべきランニングコストが全然違っています。販売されているマンションごとに管理費・修繕積立金を比べてみると金額差が歴然となります。私は現在、自分が所有しているマンションの管理組合の理事長をしていますし、過去にも理事長の経験がありますが、コスト削減を提案し、年間100万円近く管理費を削減できたことがあります。

修繕積立金の値上がりを加味して資金計画を

 マンションを買う前に皆さんに知っておいていただきたいことは、修繕積立金は必ず値上がりするということです。今は比較的安い金額設定になっているかもしれませんが、長期修繕計画を立てるとマンションの修繕工事費用が資金不足となる可能性があり、修繕積立金を値上げしなくてはいけないことが多々あります。だからこそ、10年、20年経過した不動産は、どのくらいまで修繕積立金が上がっているのかを把握する必要があります。同エリアにある複数のマンションを見て、修繕積立金のおおよそ金額帯を把握してください。そこで、築年数が10年経過するごとにどのくらいの差が出ているかをご自身で確かめてみてください。そうしておくと、購入したい不動産が出てきた際に、どのくらいまで修繕積立金が上がる可能性があるかを予見することができます。

 住宅ローンを組む場合に、管理費・修繕積立金などが上昇するリスクを踏まえて購入を検討する必要があります。

 今回学んだことを活かして、不動産の売買仲介担当から、「本マンションはランニングコストが安いからオススメです!」なんて営業トークがあったときに、冷静な判断をすることにお役立ていただければ幸いです。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/611.html#c7

[国際19] ヴァン・クライバーン:アメリカで最も偉大な外交官(マスコミに載らない海外記事) 赤かぶ
1. 中川隆[-7629] koaQ7Jey 2017年6月03日 15:58:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか? _ アメリカ人には音楽は理解できない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/430.html

http://www.asyura2.com/17/kokusai19/msg/583.html#c1
[リバイバル3] チェ・ゲバラ  世界を変えようとした男

チェ・ゲバラ  世界を変えようとした男 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ErkVFI_HTDE


チェ・ゲバラ - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%90%E3%83%A9

キューバ革命を勝利に導いた英雄たちの引き裂かれた友情――ゲバラ・カストロ 1/2
http://blogos.com/article/226557/

2人の革命家の圧倒的な存在感

 結末をあえて書えてしまおう。最後にこの作品ではチェ・ゲバラの遺体の映像が出てくる。キューバ革命をカストロと共に先導したが、ある事でキューバを半ば追われて、アフリカ・コンゴ動乱に加わり、39才で南米・ボリビアの大統領命令で銃殺された。横たわるゲバラの映像は世界に配信された。

 それは世界的革命家の栄光のかげもなく、目を見開いた髭面の哀れな反逆者の末路を物語っている様にも見える。共産主義革命を恐れるアメリカ・CIAの手によるものと言われているが、事の真相は闇の中だ。

『ザ・ライバル』カストロVSゲバラ 〜革命に引き裂かれた友情〜より


 しかし、この作品は一見ただキューバ革命の歴史を追っている作品の様に見えながら、何か胸を熱くするものがある。それはやはり個性の異なる二人の革命家ゲバラとカストロの圧倒的な存在感にある。

 たとえ、CIAによる策略やイメージ操作があったとしても大国アメリカ合衆国を相手に、その軍門に下らない為に闘う小国キューバの二人の姿は神々しくすら見えるのである。

 もしかしたら、この1時間弱と言うこの作品の長さは短か過ぎるとも言える。二人の革命闘争は2時間以上あっても良い程、様々な起伏に富んでいる。

『ザ・ライバル』カストロVSゲバラ 〜革命に引き裂かれた友情〜より


植民地の様相を呈していた革命前のキューバ

 この作品では冒頭のナレーションで「カストロは権力を、ゲバラは革命を欲した。」としている。まるで二人に終始確執があったかの様に。

 だが、最初にメキシコで二人が出会った時、キューバの弁護士だったカストロはアルゼンチンから来た革命について熱く語る青年医師ゲバラに一目ぼれするのである。

 革命前のキューバはあたかもアメリカの植民地の様相を呈していた。キューバは砂糖の原産地として重大な拠点だった。たかが「砂糖」と言うなかれ、「砂糖の歴史」を調べてみるとわかるが、欧米諸国は17世紀ころからカリブ海・南太平洋・南米・西インド諸島等に彼らの嗜好品である砂糖のプランテーションを作るために、アフリカから黒人奴隷などを労働力として入れるなどして、半ば植民地化していたのである。

 キューバは革命前、米国の傀儡(かいらい)だったバティスタ政権、アメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアにほとんどの利益が吸い取られる様な仕組みになっていた。

『ザ・ライバル』カストロVSゲバラ 〜革命に引き裂かれた友情〜より


 最初はほんの小さな武装蜂起に過ぎなかったカストロとゲバラによる動乱が、やがて革命へと転じて行くには、ゲバラのカリスマ性と武装能力、カストロの政治力と戦略性が必要だった。

 1959年バティスタ政権を転覆する。アメリカはこの新政権をただちに承認するが、キューバによるアメリカ企業の財産没収と国有化により、アメリカとの関係が即時に悪化する。カストロはソビエト連邦に接近しキューバの「砂糖」とソ連の「石油」を交換し両国の蜜月が続く。
http://blogos.com/article/226557/


キューバ革命を勝利に導いた英雄たちの引き裂かれた友情――ゲバラ・カストロ 2/2
http://blogos.com/article/226557/?p=2


英雄は最後まで優遇されるとは限らない

 この作品では1960年の貴重なカストロによるニューヨーク・国連総会におけるカストロの4時間半に渡る演説の一部も出てくる。「我々は共産主義者ではない。」と言いながらアメリカのど真ん中でアメリカの横暴をカストロは非難したのだ。

 生涯、カストロは「資本主義最大の敵」として50年間で638回もの暗殺計画の対象となった。これは「世界で最も暗殺計画の対象になりながらも生き延びた人物」としてギネスブックにも登録された。

『ザ・ライバル』マンデラVSデクラーク 〜平和へのライバル〜より


 1962年。ソ連の最高指導者フルシチョフが休暇中にとんでもない事を思い付く。

 「そうだ、アメリカに対する抑止力の為にキューバに核ミサイルを置こう。」

 アメリカの鼻先のキューバにである。間もなくアメリカのU-2偵察機がこれを発見し、米ソ入り乱れての核戦争の可能性を含むいわゆる「キューバ危機」が訪れる。あわや世界戦争という直前、どうにかフルシチョフとケネディが交渉の場に立ち危機を回避したが、キューバとアメリカの関係は最悪になる。

 米国と敵対するキューバはソ連に様々な援助を頼るしかなかったが、あろうことか純粋革命家チェ・ゲバラは外遊中の北アフリカのアルジェリアでソ連を非難、「帝国主義的搾取の共犯者」と呼ぶ。ソ連が東欧諸国等に対して搾取的であると言い放ったのだ。

 ソ連首脳陣は激怒。キューバに「ゲバラを追放しなければ援助を削減する」と通告。ゲバラはその事を知り妻と子供を置いて自らキューバを離れる。

 「カストロは権力者」とこの作品では言っているが、これは日本でも海外でも、よくある事だろうと思う。「創業者」「英雄」は必ずしも最後まで優遇されるとは限らないし、この半ば追放に近い出来ごとはひとつの悲劇でもあるし、ゲバラの出国を止めることすらしなかったカストロによる国や組織を守る者の「苦渋の決断」とでも言うのだろうか。

 そしてゲバラはアフリカのコンゴ、南米のボリビアと渡り死去。彼は生前「第二第三のベトナムを作るべきである。」との言葉を発し、大国の支配から小国はいち早く離脱すべきだと説いていたので、当時のソ連の横暴をどこかで感じていたのかも知れない。

『ザ・ライバル』カストロVSゲバラ 〜革命に引き裂かれた友情〜より


 南米諸国はラテンアメリカで、まるで宗主国の様に振舞い続るアメリカ合衆国に対抗するカストロの姿に主義主張を問わず共感した。政治家・カストロは同じ共産圏である中華人民共和国にも接近し一時、友好関係を結ぶが、ソビエト連邦と中国の間で対立が起り、キューバ・中国間の関係は悪化する。

 しかし、毛沢東死去後、経済成長を遂げた中国はキューバにとって重要な援助国になっている。2008年5月「四川大地震」が発生したとき、即座に多くのキューバの医療チームがカストロの指示によって送られる。

 両国の絆はさらに深まる。カストロの政治的感覚は晩年になっても衰えていなかったのだ。そして2016年11月25日死去。

ゲバラが受けた「ヒロシマでの衝撃」

 一方、最後にこんな逸話も紹介しておこう。

 1959年7月15日、革命からわずか半年後、チェ・ゲバラは日本にキューバ使節団の団長として訪問している。戦後、奇跡の経済成長を成し遂げつつある日本にやって来た。自動車工場などを見学し、その時「ヒロシマ訪問」を望んだ。

 しかし、革命を成し遂げたゲバラの重要性をあまり認知していなかった日本政府はそれを望まなかった。そこでゲバラは秘密裏にヒロシマ入りし、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪問した。大きな衝撃を受けたゲバラはその時、中国新聞の記者・林立雄氏にこう語っている。

「なぜ日本人はアメリカに対し、原爆投下の責任を問わないのか。」

また、宿泊先で故国に即手紙を書き

「全ての人はここに来なくてはならない。」

と伝えた。

 ゲバラはキューバに帰国後「ヒロシマでの衝撃」を報告し、キューバではそれ以来、初等教育から広島・長崎への原爆投下の経緯とその結果がかなり丁寧に教育されていると言う。

 それは「キューバ政府とゲバラによる反米教育」だったのか? 「純粋革命家ゲバラの感じた無抵抗な市民への大国アメリカの攻撃に対する怒りの表現」であったのか?

 キューバで育ち、後に小児科医になったチェ・ゲバラの娘、1960年生まれのアレイダさんは2011年の東日本大震災後、福島と宮城を訪れ

「キューバなら国家が先頭にたって復興させる」

と語った。

 そして、現代。米国トランプ大統領はメキシコからの不法移民を一掃すると言った。

 しかし、メキシコを通過してアメリカに入って来るのはメキシコ人だけでなく、国情不安定で国を脱出せざる負えない南米諸国からの移民も多いと聞く。それは歴史的にアメリカや欧州諸国の半ば植民地化され搾取・蹂躙され、過去の清算ができないまま独立したとしても、なかなか安定出来ない貧しい国から脱出してきた人たちである。

『ザ・ライバル』カストロVSゲバラ 〜革命に引き裂かれた友情〜より


 今は亡きゲバラとカストロが生きていたら、このトランプ発言に対しどう反応したのであろうか? 我々はこのカリブ海の小国「キューバと革命家」についてもっと知るべきではないのだろうか。
http://blogos.com/article/226557/?p=2
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/715.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 欧米文化関係投稿リンク 中川隆
15. 中川隆[-7628] koaQ7Jey 2017年6月03日 19:51:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

チェ・ゲバラ  世界を変えようとした男
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/715.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/464.html#c15
[近代史02] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 中川隆
394. 中川隆[-7627] koaQ7Jey 2017年6月03日 20:06:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年05月30日
5人の名高い金融専門家がもうじき金融市場は崩壊すると警告。


毎日のように多くの金融専門家が金融市場が崩壊することを警告しています。

FRB、中央銀行による市場操作により株価は高値を維持してきました。
しかしはっきりと10月12日に崩壊が始まると言っている専門家もいます。

早くそこから足を洗った方がよさそうです!


http://investmentwatchblog.com/5-highly-respected-financial-experts-that-are-warning-that-a-market-crash-is-imminent/
(概要)
5月29日付け


By Michael Snyder

多くの金融専門家が金融メルトダウンが差し迫っていると警告しています。
そして株価が暴落するとトランプにその責任をなすりつけようとするでしょう。

しかし実際はトランプのせいではないのです。
この責任は、金融バブルを創り出したFRBや他の中央銀行にあります。
金融危機が起きた時には彼等こそ責任を追及されるべきなのです。

以下の5人の名高い金融専門家が差し迫る金融危機について警告しています

1.オーストラリアのAltairAsset Managementの最高投資責任者、フィリップ・パーカー氏:

オーストラリアでも金融市場は絶対に崩壊します。自分が関わってきたヘッジファンドは必ず崩壊することが分かっているためファンドを清算しクライアントに数百万ドルを返却しました。


1.米最大のヘッジファンド(300億ドルの資金を管理)のトップ、セス・クラーマン氏:


アメリカの投資家は、今の金融市場がどれほど危険な状況であるかを正しく認識していません。株価が2008年秋から2009年と同じように低価格であるなら、実際のリスクは予想したほど大きくないはずです。一方、証券の価格が今のように高いならリスクは低いと考えられがちですが、投資家にとってのリスクは高まります。

3)Mint Partnersのブレイン、ビル・ブレイン氏:

金融市場の崩壊が始まるのは10月12日からでしょう。この夏は、今の株式市場がいつまで維持できるかを考えているでしょう。今のところ、10月12日が私の予測です。今、あちこちで矛盾した流れがあります。

消費者負債の急増、厳しい信用力格差、学生ローン、自動車ローン、住宅ローン、ローン担保証券市場の危機、

中国、トランプ、政治、ブラジル及び他の新興国市場など不安材料が山ほどあります。消費者マインドの冷え込みリスクもあります。


4)デービッド・ストックマン氏:

金融崩壊がこの秋に起きる可能性があります。今、株式市場バブルは史上最大に膨らみました。

市場価格がめちゃくちゃ高く設定されています。彼等は、ロボットとデイトレーダーをタグし、2400をS&P500にタグしようとしていました。最終値は2399でした。これは2016年の過去十二ヶ月間の実績収益の25倍です。

経済の回復期と呼ばれる期間が96ヵ月も続いているのです。これは史上最長です。つまり、永遠に完全雇用が続いていることになります。これは不況も経済危機も経済的転換も起こらないというようなものです。市場が、完璧な状態を永遠に維持するために勝手に価格を決めているのです。この状態は常軌を逸しています。しかし今後、株価は一気に1600から1300まで暴落すると思います。最終的には40%以上暴落するでしょう。

5)デービッド・クランツラー氏:

株式市場のバブルは崩壊寸前です。複数の市場コメンテーターは、ビットコインはバブル状態だがファンダメンタルズが悪化しているのに株価が割高な状態が続いているため株式市場の専門家はそのことを見逃していると言っています。株式市場のバブルは崩壊寸前です。

ウォール街のアナリストらは、現在の株価を決めているのは中央銀行であり、資産価値はFRBが押し上げています。

金融市場は最も危機的な段階に来ています。いつ抜け出したらよいのか分からない一般投資家が巻き込まれることになります。FRBが金融市場のコントロールを失うと何百万人もの人々が経済的苦境に陥ります。

投資家のエデルマン氏は、今は株式市場に関わりたくないと言っています。
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52008713.html




http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/430.html#c394

[番外地6] トムラウシ遭難事故 中川隆
7. 中川隆[-7626] koaQ7Jey 2017年6月03日 22:06:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

トムラウシ山遭難事故は結局どうすりゃ良かったの? [無断転載禁止]©2ch.net


1 : 底名無し沼さん 2017/02/22(水) 23:35:50.84 ID:7jOiNOY3

2日目に下山が正解だったのかな?


2 : 底名無し沼さん 2017/02/23(木) 07:09:08.97 ID:CQyPn9Vt

当日小屋に留まれば良かったんやで
ツアーが日程的に回らなくなるから強行したのが敗因や


11 : 底名無し沼さん 2017/03/09(木) 09:01:24.38 ID:4kt9v+lf

結局どの日も停滞を決断するには微妙な天気なんだよね。初夏だったし。
しかし体力に不安のあるメンバーを考慮するとどこかで停滞すべきだったかと。
メンバーの体力格差があると本当に判断は困難になる。

12 : 底名無し沼さん 2017/03/28(火) 21:56:37.10 ID:GXxA/QJV

当日小屋泊まりやろね


13 : 底名無し沼さん 2017/03/28(火) 23:37:23.61 ID:c3Mi+qUk

停滞かもしくは最初から中止
天気予報を確認しないのはね

15 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 00:08:30.75 ID:UiG8Mt7v

参加者がガイドよりベテラン揃いだったのがむしろ留まれなかった要因なのだと思いますね。

客商売である以上、お客を悪くは言えないのでやんわり会社から圧力があった風に説明していますが、顔ぶれを見る限り実際には違うのだろうなと思います。

山好きの爺さん婆さんなんてどれも一癖も二癖もあるのは分かり切っていて、
オッサン一人、アンチャン二人のガイドで御しきれるわけがないんですよ。

ケロっと生還したオバチャンはその辺り強かで、前のめりなムードと見るや
自身は後方待機策で極力体力を温存して先行勢が自滅した後を悠々と差し切り勝ち。

きっと「私はミスターシービーなのよ」などと想像しながら歩いていたのは間違いないところだ。

16 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 07:56:36.43 ID:EVeJaBlu

私は登山した経験はないが、昨年釧路の方を旅行した時、現地の登山家と話をする
機会があった。あの遭難事故の時、どんな感想を持ちましたか、と聞いたら、彼は
しばらくしてから、

北海道の山は内地の山と違って山小屋・避難小屋の間隔が非常に大きい、このことを頭に入れて判断するべきだった、と言っていたな。


17 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 08:20:19.66 ID:cSYZeAC2

ヒサゴ沼避難小屋でもう一泊しておけばOKだった。


18 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 10:10:21.49 ID:8oKpYwFj

停滞せずに動くのなら、ヒサゴ沼から天人峡へ向かうべきだった気がします。

北沼近くに、雨によって川のような水の流れが発生していたことが事故のかなり大きな要因だと思います。
もし、これが大量の雨のときにしばしば発生する現象なのだとしたら、 渡渉で決定的ダメージ受けるリスクが高いことも予見できたのでは。

19 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 10:34:52.51 ID:cVc1KUU/

北沼からの越水ルートを徒渉するずいぶん前に低体温症起こしてたのいたから。
天人峡へエスケープは条件次第では悪くないとは思うけど行動自体がビミョーだったと思うなあ。

21 : 底名無し沼さん2017/03/29(水) 17:07:57.05 ID:w7I8jWP9
>>18
ヒサゴ沼から稜線に出たら物凄い風だった
本来1時間位の工程のはずが数時間費やした(通常の状態で8時間かけて下山する計画にもかかわらず テントも人数分なかったんだっけ ヒサゴ沼に次のツアーにために置いて行った)
この時点で遭難確定だよ
停滞以外ない 

22 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 21:58:04.02 ID:UiG8Mt7v
>>21
しかし、こうベテラン揃いの顔ぶれではガイドも留まるとは言えなかったのだと思いますね。
その後の商売に影響しないようツアー会社が泥を被りましたが、実際には予定どおり帰宅できるよう圧力を掛けたのは参加者側なのだと思います。

どう見たってツアー会社が計画変更(下山延期)を提案したところで言うことを聞くような面子じゃない。

23 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 22:25:45.93 ID:E9Tcdr4A

停滞を決断するには微妙な天気だったってマジ?
北海道全域が荒れ狂ってたような印象もってたが


24 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 23:21:34.34 ID:UiG8Mt7v
>>23
年寄りの集団自殺にガイドが巻き込まれた側面もあったのだと思います。


25 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 23:45:52.18 ID:J6ttih3M
>>23
実際に遭難した4日目は午後から天気回復する予報だった

26 : 底名無し沼さん2017/03/30(木) 01:38:26.71 ID:eWoUiI2Y
>>11
>>15
を見て分かる通り 参加者が自分で気づかなくて他人が気づいてあげないといけないのは無理
結論は無理かどうか自分で気づきましょう・・・だ

27 : 底名無し沼さん 2017/03/30(木) 01:41:38.15 ID:eWoUiI2Y

無理かどうかは自分で気づきましょう
石巻の大川小学校も結局は
子供が危ないと気づいたのを教師が邪魔したかどうかで争っている

28 : 底名無し沼さん 2017/03/30(木) 02:17:32.25 ID:/RPeaZm4

無理言うなよ
無理かどうかは無理になるまで判らない


29 : 底名無し沼さん 2017/03/30(木) 04:05:31.67 ID:KGrsdxw7

ツアー客がベテラン・バイアスがかかってたのも確かだね。
でもって、オッサンガイドはルートの経験がなく、アンチャンガイドが経験あるといういびつな構造で進言しにくかったかもしれない。

しかし、自分の経験を考えてもヒサゴ沼〜 短縮路駐車場(もしくは東大雪荘)は結構たいへん。


31 : 底名無し沼さん 2017/03/30(木) 07:12:08.09 ID:uMfJgK/r
>>22
報告書を読むとガイドも問題ありすぎただったけどね
参加者もその日にどのくらい歩くかも把握してない人も多かったらしい
ミーティングも適当だったんだろうな


32 : 底名無し沼さん2017/03/30(木) 12:55:58.51 ID:NYyXeX1y

このようなツアー登山で、リーダーが出発する決定をしてるのに、自分は小屋に残るって言い張るのは許される?

33 : 底名無し沼さん 2017/03/30(木) 13:41:07.56 ID:uMfJgK/r
>>32
わからない
だからツアー登山なんてよほどしっかりした所じゃないと危険


34 : 底名無し沼さん 2017/03/30(木) 23:53:40.54 ID:DglHnEjf
>>32
離団届けを一筆書いて以後の安全確保は求めません、と宣言させる会社もある。

35 : 底名無し沼さん2017/03/31(金) 21:25:37.93 ID:r89CRoJT

モンベルの青いゴアジャケ着とけば全員助かったかもしれない

36 : 底名無し沼さん 2017/04/01(土) 17:16:01.19 ID:csxLgHzh

私がこの事故を追いかけて得た教訓
装備は(下着も含め)最高のものを身に着けましょう
寒くなったらとにかく何か食べましょう


37 : 底名無し沼さん 2017/04/01(土) 18:49:55.49 ID:T1MoHh9J

食べてたらしいよ

だからさ、判断ミスの最大の理由は

1危険な時期ではないはず
2皆がいるから大丈夫なはず

の2つのバイアスでしょ
とくに2がヤバい


38 : 底名無し沼さん 2017/04/01(土) 18:56:28.20 ID:T1MoHh9J

2の皆がいるから、はいろんな意味を含むね

皆が行けそうな空気を作る
自分は無理だ、が言えない
お前ら無理だ、も言えない
ガイドもいて誰かがきちんとリードしてくれてる気がしてる
とか

俺はこれが苦手で単独行が多い

39 : 底名無し沼さん 2017/04/02(日) 08:49:29.94 ID:CFyFfQ+v

早くからこれは遭難だから連絡とってくれと言ってたお客がいたのに無視してたな
その時に連絡をとっていたら山に詳しい人のアドバイスをうけられて多少犠牲は減らせたかも


40 : 底名無し沼さん 2017/04/02(日) 10:16:33.52 ID:YKLcwpX6
>>39
いや、遭難じゃない、と希望的観測を持って強行したか強行しようとする圧力で正しい判断を否定した
つまり適切な判断を鈍らせる圧力がツアーにはある

対処法は
ヤバい時は民主主義!だな
それか本当に全責任を背負う船長的な心構えのリーダーを要請する事


41 : 底名無し沼さん 2017/04/02(日) 10:21:08.71 ID:YKLcwpX6

一応の責任者、ではなく責任を伴った本当のリーダーをツアーガイドにも作る事だね
ガイド長とか上級資格を作り危険な時の命令権を付与する


42 : 底名無し沼さん 2017/04/02(日) 13:45:16.39 ID:jr86v1qP
>>38
ツアーだから遭難はあり得ないみつぃなもんだね


43 : 底名無し沼さん 2017/04/02(日) 21:34:53.05 ID:SFTgy7UK

まぁ単独山行だったら普通に撤退しただろうな
集団心理が働くと悲劇、今回の集団訓練中の雪崩事故も同じ
責任の所在が自分で無くなる事の怖さから単独行しかしない

45 : 底名無し沼さん 2017/04/02(日) 22:14:26.13 ID:CFyFfQ+v

確かに現場以外に決断権の強いリーダー長がいれば違ってたかな
ガイドが寄せ集めのメンバーだった事や一番年長者のガイドが早くに低体温症で判断力を失っていた事が原因の一つになってるし


46 : 底名無し沼さん 2017/04/03(月) 00:33:49.54 ID:+/3nS4y5

60代の年寄りの集まりが1日十時間も歩くって時点でリスク激高じゃないか
歩けなくなった老人を背負えるわけでもないのに
企業の責任もあって、気軽に救助を求める訳にもいかない

気温10度で台風のような暴風雨が吹いてたら1歩歩くのも大変そう
誰が登山してても遭難者多数発生の悪天候なんだろうなあ

登山経験ほとんどない素人だからきその目線で書いてるけど
真夏の富士山8号目で夕方、気温7度、強風でもないのに山小屋の外の焚き火に当たりながらブルってたなあ
あれで暴風雨だったら死ねるわ

この客たちは60代だもんなあ
今まで日本の経済成長で順調に生きてきた世代だから、なんでも挑戦して成功してやろう、成せばなる!って世代なのかな


47 : 底名無し沼さん 2017/04/03(月) 00:42:42.52 ID:9DFkArxg

登山ツアーっていいなあって思ってたけど こういうのを知ると怖いな
悪天候だからここに留まりたいと希望しても、自己責任で行動しますって一筆書かされるなんて行くも地獄、留まるも地獄という状況になってしまう

ツアーだから旅行日程に天候が悪くなっても旅行代金を考えたら、そうそう捨てられるもんじゃない
悪天候でキャンセルしても、別のツアーにチェンジ出来るようなら個人の判断で危機回避できていいのに

集団行動にありがちな「他人に迷惑をかけるな」「足を引っ張るな」の連帯責任、軍隊行動みたいでキツいわ

48 : 底名無し沼さん 2017/04/03(月) 08:30:31.72 ID:89cPqE7Y

雨漏りのする避難小屋で濡れた寝袋で寝て、疲れが取れないまま雨の中出発するのは辛いな。

ヒサゴ沼避難小屋の説明:

  「ヒサゴ沼避難小屋」は、化雲岳の南、約2kmのヒサゴ沼湖畔に設置されています。

  この建物は、山小屋ではなく、悪天候時など緊急を要する際に、避難するための小屋 として造られておりますので、登山で現地に宿泊したい場合に、利用するための施設ではありません。

 ですので、現地に宿泊される場合は、宿泊用テントを持参し、防寒対策をとった上で、野外の野営場でテントを設営し、宿泊 をって下さい。

 現地で「避難小屋を利用される場合」 に、常時開放されていますので、利用者みなさんで協力して、ご利用願います。


50 : 底名無し沼さん2017/04/03(月) 13:15:15.51 ID:3SXJ8z/X

各自ツェルト持ってれば良かったろうな。
雨具と同様にすぐ出せる位置にしまっとく。

51 : 底名無し沼さん2017/04/03(月) 20:12:07.49 ID:+6Ur5X+c

吸汗速乾なんていう化繊のペースを着ているから冷えて死んでしまうだよ
ベースは夏でもウールだよ

52 : 底名無し沼さん 2017/04/03(月) 20:42:54.79 ID:lPXlL+cJ
>>50
ツェルトに入って残ったガイドと女性客も亡くなってる。
渡渉でずぶ濡れになったのが致命的だったと思う。


53 : 底名無し沼さん 2017/04/03(月) 21:41:02.82 ID:objMQ9C8

自転車で30分のイオンに行こうといつもの堤防道路を走ってたら その日は強風で1m走るのにもペダルが重くて重くて前に進まない時があったけど
真下に見える草をじっと眺めながらひたすら自転車をこいだわ
何十年も自転車に乗ってるのに、川沿いは走ったこと少なかったから初めて経験する強風
常に風圧がかかって全然、前に進めないからなあ
あれがトムラウシ登山での寒風だったら、低体温症で遭難するわな


55 : 底名無し沼さん 2017/04/03(月) 23:24:42.84 ID:G5aBY1Sp
>>47
ツアーの特徴って「安さ」と「楽さ」だと思うんだ
単なる観光なら良いけど登山でそれらを求めるのはどうかと思う
なんていうか自分の命を自ら安売りしてるような・・そんな感じ


56 : 底名無し沼さん 2017/04/04(火) 01:46:29.94 ID:DaGYlCv+

とっとと下山が正解だけど、雨具や防寒具や乾いた着替えを余分に用意しておくことと、全速力で踏破する体力をつけておくことかな。
寒くて死にそうになったとき、引き返して高度が下がるにつれて温かくなって元気を取り戻したのを思い出した。


58 : 底名無し沼さん2017/04/04(火) 07:44:20.20 ID:XX4GrTo5

げんに、このトムラウシのアミューズツアーのメインガイドで死んじゃった広島から来たKガイドがヒサゴを出るときに

「今日の私の役目は皆さんを安全に下ろすこと、よって山頂は巻きますからご了承ください」

といったと報告書にある。
いうだけなら言えるんだよ。実行できるかは別。


62 : 底名無し沼さん 2017/04/05(水) 17:43:18.20 ID:YbiPQLOb

北沼付近まで無理にでも歩を進めてしまった時点で詰んでるっしょ
その時点で>>47の言う通り進むも地獄、退くも地獄ですわ
出発段階で小屋にとどまるか、
出発後でも早い段階で小屋に引き返すしかなかった

悪天候でも、平地の予報見て回復するだろうと甘い判断で強行した結果がコレ

その背景にツアー登山の日程遵守、交通機関手配、経験不足のガイド、避難小屋の私物化トコロテン方式とか色々あるけど遭難事故起こしたらなんにもならんわな


64 : 底名無し沼さん 2017/04/06(木) 01:19:48.48 ID:Trj4ctVO

みんな経験があると思うが集団になると自分の意見を抑える
結局参加者のほぼ全員でそれをやってしまったんだ

だからさ、ガイドの中にガイド長を作って絶対権力を作らないとだよ
航海並みのリスクがあるんだから


65 : 底名無し沼さん 2017/04/06(木) 16:07:17.74 ID:H/s63Ebl

ツアー主催会社は現場ガイドに強力な中止権限を与えないとアミューズみたいに事故起こして潰れるぞ


66 : 底名無し沼さん 2017/04/06(木) 22:13:57.63 ID:z8GGI9sl

みんななんか勘違いしてるけど、ヒサゴ沼まで来ちゃったら引くも地獄、進むも地獄だぞ

化雲岳から天人峡も長いし、五色岳まで戻って沼ノ原も長い。

一番キツいのは間違いなくトムラウシにむかって、東大雪荘方面に下ることだけど、出なきゃならないなら、選択肢3つの中からトムラウシに向かったのは分からないではない。

だから、ヒサゴ沼避難小屋の状態も悪かったが、停滞以外に正解はなかった。

67 : 底名無し沼さん 2017/04/06(木) 22:22:26.77 ID:G1PVmXKu

また今日も雨漏りのする小屋で過ごすのかと考えたら、出発したくなる気持ちはわかる。

69 : 底名無し沼さん 2017/04/06(木) 23:08:07.76 ID:1lW887r+

この時はツアー客以外に単独の人も死んでるんだよね

70 : 底名無し沼さん 2017/04/07(金) 20:35:16.70 ID:D1eX1+E/

ガイドの1人は 4-5人用のテントも持ってたんだよな。
こんな時使わないでいつ使うんだ?


71 : 底名無し沼さん 2017/04/08(土) 08:12:41.49 ID:WiZz0O57

救助された時ガイドは使ってたよ


72 : 底名無し沼さん 2017/04/08(土) 10:19:49.36 ID:045Kww2z

客もベテランと言っても人の計画した山行に後ろから付いて行くだけの登山をしてきた人達だろ
そんなのは何百回登山をしようとベテランとは言わない


75 : 底名無し沼さん 2017/04/16(日) 17:18:32.61 ID:f0Wj9YDR

谷川でプチ低体温症なったからやばさはわかる。判断力なくなるし。
とにかく着替えてなにか食べて飲んで冷えないようになるたけすぐ動くこと。
あの時は信じられん強風だったわ


77 : 底名無し沼さん 2017/04/16(日) 22:44:25.62 ID:nhgiCen6

ヒサゴ沼小屋でもう一泊が一番だったろうね
ただツアーガイドにそんな選択の余地は無かっただろうな
ツアーを日程どおりにとか、本来なら命に代えられないものなのに、そういうので誤った選択してしまう

80 : 底名無し沼さん 2017/04/17(月) 22:39:20.74 ID:+OL59aOA

夏山といっても防寒具なしでは...ってのがこのトムラウシでの事例かなあ
ジジババの体力の限界もあるけど、
最低限ツェルトやレインウェア、あとは衣服が濡れた時用に替えの下着とかな


82 : 底名無し沼さん 2017/04/18(火) 06:52:07.55 ID:qLABVu3R
>>77
次の日に五色沼からあがってくるアミューズツアーがいて、天気が回復する見込みで避難小屋も混雑が予想されていたことも判断を狂わせたんだろうね

85 : 底名無し沼さん2017/04/19(水) 22:06:50.77 ID:ZCD9rwia

別物だけどそれを気づいても言えない状況だったんだろ
自分独りなら正しい決定をできる人が集団の中で正しい決定を出来なくなってたはず

特にガイドが複数の時はガイド長を作って船長みたいな責任者にすべきだ


87 : 底名無し沼さん2017/04/20(木) 21:18:15.83 ID:BQJInYFd

ヤマケイ出版の本読んだけど、
初日から超マイペース行動や準備不足で他のメンバーたちを苛立たせてた人たちはなんだかんだで生還してんだよね
最初に北沼で行動不能になって亡くなったのはそれとは別の女性

自分も単独参加なら多少体調が悪くても誰にも言わずに我慢したと思う
ギリギリまで黙っていきなり倒れるのはやったらいかんと心に刻んだ

88 : 底名無し沼さん 2017/04/21(金) 21:08:40.64 ID:JNLjavz/
>>87
1回でもCLやったら、んなことわかるだろ。
余裕があるうちにヤバいっていってくれないとにっちもさっちも行かなくなってパーティー全滅という。

90 : 底名無し沼さん 2017/04/26(水) 21:20:05.84 ID:WtJYeSow

雨降ったら避難考えないとね。
今の時期も大量に汗かくほどだけど、霧雨食らって休憩入れたら歯がガタガタ言うよ。
多少寒くても、なんて考えてたらアッというまに体が動かなくなるからな。
意識がハッキリしているだけに怖いよ。


92 : 底名無し沼さん 2017/05/05(金) 08:16:35.34 ID:XkKfINRN

ヒサゴ沼非難小屋って今でも雨漏りガンガンのボロ小屋なのか
この小屋がちゃんとした雨漏りのしない小屋だったら結構生き残ってたかも
もっと頑丈な小屋作っとけよ北海道はそんなのばっかりなのかよ
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1487774150/


http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/583.html#c7

[近代史02] 白人はなぜ白人か _ 白人が人間性を失っていった過程 中川隆
100. 中川隆[-7625] koaQ7Jey 2017年6月03日 22:19:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

欧米植民地主義の凄まじい実態─学校が教えてくれない戦争の真実 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MOwj5i7jlu8

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html#c100
[近代史02] 竹中平蔵物語 中川隆
75. 中川隆[-7624] koaQ7Jey 2017年6月03日 22:26:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

民間議員・竹中平蔵氏に“退場勧告” 戦略特区に利益誘導批判 2017/6/ 1




5月22日の国家戦略特区諮問会議に出席した竹中氏 (c)朝日新聞社



「加計(かけ)学園」(岡山市)の獣医学部新設計画で、実現までに中心的な役割を果たした「国家戦略特区諮問会議」。特区の認定に「総理のご意向」があったとされることから野党は追及を強めている。

 実は、会議を巡って、特定企業の利益になるように議論が誘導されているのではないかとの疑惑が、以前からあった。

「昨年7月、神奈川県の特区で規制緩和された家事支援外国人受入事業について、大手人材派遣会社のパソナが事業者として認定された。諮問会議の民間議員の一人である竹中平蔵氏(東洋大教授)はパソナグループの会長。審査する側が仕事を受注したわけだから、審議の公平性が保てない」(野党議員)

 これだけではない。農業分野で特区に指定された兵庫県養父(やぶ)市では、竹中氏が社外取締役を務めるオリックスの子会社「オリックス農業」が参入した。自民党議員からも「学者の肩書を使って特区でビジネスをしている」と批判の声がある。

 農林水産委員会などに所属する宮崎岳志衆院議員(民進党)は、竹中氏が主張する農業分野での外国人労働者の受け入れが、人材派遣業界の利益につながりかねないと指摘する。

「民間議員はインサイダー情報に接することができるのに、資産公開の義務はなく、業界との利害関係が不透明だ」

 批判が相次いだことで、国会も異例の対応を迫られる事態となった。

5月16日に衆院地方創生特別委員会で採択された国家戦略特区法改正案の付帯決議では、会議の中立性を保つために「民間議員等が私的な利益の実現を図って議論を誘導し、又は利益相反行為に当たる発言を行うことを防止する」と明記。さらに、特定企業の役員や大株主が審議の主導権を握ることを防ぐため「直接の利害関係を有するときは、審議及び議決に参加させないことができる」とした。

 採択の背景について前出の野党議員は「竹中氏を外すため。与党側からもウラで依頼があった」と明かす。与野党議員による事実上の“退場勧告”だ。

 小泉政権に続き、竹中氏は安倍政権でも影響力を持つようになった。ジャーナリストの佐々木実氏は言う。

「会議では一部の政治家と民間議員だけで政策を決めることができる。省庁が反対しても、思い通りに規制緩和が進められる。行政や国会のチェックが利きにくく、『加計学園問題』の背景にもなった。竹中氏はいまの特区の制度を安倍政権に提案し、自ら民間議員にもなっている」

 竹中氏にはパソナグループを通じて見解を求めたが、回答は得られなかった。

※週刊朝日  2017年6月9日号

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/301.html#c75

[リバイバル3] 超絶人気の名曲喫茶ネルケンのマダム _ クラシック・ファンが本当に求めているのは… 中川隆
18. 中川隆[-7623] koaQ7Jey 2017年6月03日 23:33:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

祇園円山公園 長楽館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/623.html

国立の真空管音楽喫茶 イースト サイド (East Side)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/712.html

日本一の音楽喫茶 阿蘇 オーディオ道場
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/713.html

三重県 青山高原 タンノイ博物館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/714.html



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/281.html#c18

[リバイバル3] そして5人は帰らなかった 吾妻連峰・雪山遭難を辿る 中川隆
1. 中川隆[-7622] koaQ7Jey 2017年6月04日 01:25:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

吾妻連峰雪山遭難事故再考 [無断転載禁止]©2ch.net


1 : 底名無し沼さん 2017/01/13(金) 10:48:01.86 ID:aXK0Y2Cc

やはり撤退する勇気とパーティーの規律が大事。

3 : 底名無し沼さん 2017/01/15(日) 09:51:53.39 ID:mX7MXqCu

タクシーにスキー積めなかったからマイクロバスチャーターして時間ロスって、最初から無計画っぽい。


4 : 底名無し沼さん 2017/01/24(火) 08:07:59.82 ID:M6ore58i

新幹線の指定席も押さえてなかったしな。


6 : 底名無し沼さん 2017/01/25(水) 08:56:28.39 ID:rW5HQQe3
>>10
ポイントはラジオで天気予報を聴かなかった事だな。翌日の一時的好天に騙された。

-----------------------
家形山避難小屋到着

他に宿泊客のいない、避難小屋での宴会がはじまる。
避難小屋備え付けのスコップで焼くステーキがメインメニュー

ラジオの天気予報を聞く事はなかった。

22:00 宴会終了

2/12(土)
晴間もみえる。小雪がちらつく程度。風ほぼなし。


7 : 底名無し沼さん 2017/01/25(水) 20:24:36.34 ID:kP1gfrd+

スコップを、粗末に扱ったので肝心な時に雪洞が掘れずパーティーほぼ全滅した話ですよね?


11 : 底名無し沼さん 2017/01/27(金) 12:36:27.39 ID:7VC6Fy83

リーダーが思い出の小屋(ボロ)でスコップ焼き肉したくて山小屋(宿泊施設有)とか全スルー&強行

ビバークは恥ずかしいのかツエルトもラジオも不携帯


12 : 底名無し沼さん2017/01/27(金) 22:09:13.82 ID:i9d4k2ja

スコップで焼肉って恐くない?
衛生的な意味で


48 : 底名無し沼さん2017/02/04(土) 11:45:35.14 ID:EQWoavgR
>>12
うんこ埋めるのに使ったかもしれんよな


49 : 底名無し沼さん2017/02/04(土) 14:08:36.69 ID:wQrj/tl9

だよね〜よくやるよね。


13 : 底名無し沼さん 2017/01/30(月) 00:35:11.25 ID:rE3dV86e

8時出発が失敗、ラジオ不所持も失敗、遅れてるのに強行が失敗、目印探してずっとうろうろも失敗、ビバークしなかったのも失敗


14 : 底名無し沼さん 2017/01/30(月) 07:50:31.81 ID:P5g6uGNg

かなり不運な偶然が重なったんだな

15 : 底名無し沼さん 2017/01/30(月) 16:05:48.87 ID:7lIAXHeU

自分たちで潰せる不運を潰さなかったからこうなった的な


16 : 底名無し沼さん2017/01/30(月) 16:45:48.77 ID:aVhcLYNV

慣れてくると保険的な装備を削りがちかも
荷物重いけど持っていきます

17 : 底名無し沼さん 2017/01/30(月) 21:34:02.43 ID:ItNUdsaU

ラジオ、GPS、ツェルトが有れば助かったかな。


18 : 底名無し沼さん 2017/01/31(火) 06:26:53.12 ID:MfmZl2Rg

コンパクトに収納できる軽合スコップとか掌サイズのツエルトとかまだ出てなかったのかな
ハンディGPSなんか影も形もなかっただろうし携帯電話もほぼ皆無な時代だよね。

19 : 底名無し沼さん 2017/01/31(火) 06:32:30.91 ID:MfmZl2Rg

でも、GPS云々ではなくて、やっぱり慣れや慢心からくる杜撰な計画が一番の原因なんだろうな。
仮にいい装備があったとしても雪崩や滑落で遅かれ早かれ痛い目にあってたんじゃないかな。

20 : 底名無し沼さん 2017/01/31(火) 08:10:36.82 ID:woT6MXMw

トウラムシと同じで体力がない人間と一緒に行動するとこうなる
おっさん2人なら多少アクシデントあっても帰ってこれただろう


21 : 底名無し沼さん 2017/01/31(火) 10:21:48.90 ID:pVhzoWZ0

悪天候時は中止しますって言えなかった
プランBは考えてなかったのかな
行けるかもしれないときに中止して引き返す判断って単独より勇気要るだろうね

22 : 底名無し沼さん 2017/01/31(火) 10:56:54.29 ID:+tmGzNOI

新幹線→予定の便に乗れませんでした

タクシー→スキーが積めませんでした

マイクロバス→坂が登れませんでした

リフト→強風で動いてませんでした→待てば動きました

山小屋→宴会したいから泊まりませんでした

前半だけであかんわ


23 : 底名無し沼さん 2017/01/31(火) 12:50:56.23 ID:dmZjWB3h

マイクロバスはさらに
運転手が凍結で登れないかもしれないからリフト口から行くといいと言われたのに登山口強行→坂の途中で降りるが登れず結局歩いて下ってリフト口へ

大幅な無駄。


24 : 底名無し沼さん 2017/01/31(火) 20:57:49.98 ID:m/iS/tV9
>>25
1日目のグダグダは普通にあるレベルだろ。
あの程度でじゃ予定変更ねってはなかなかならんしょ。
遭難した事によって強調されてるけど。

25 : 底名無し沼さん 2017/01/31(火) 21:30:35.81 ID:2brwAT0h
>>24
えーっ、新幹線の指定席は押さえる、現地の足は予約する、それくらいはできるでしょう。

26 : 底名無し沼さん 2017/01/31(火) 21:55:05.21 ID:Ag9qzJYw

そうだけどさ。避難小屋に到着したのが午後4時だから、そんなに遅くなったわけじゃない。天気予報を聴かなかったのを含めた、2日目の判断ミスが原因。

27 : 底名無し沼さん 2017/01/31(火) 21:56:20.24 ID:MfmZl2Rg

冬山やる人は、大事に至らないまでも小さな失敗や痛い思いをいくつも経験して一人前になっていくと誰かが言ってたのを覚えてる。

たまたま失敗しないで山行回数だけ積み重ねていったのがこの人達だったのではないかと。


28 : 底名無し沼さん2017/01/31(火) 22:33:25.58 ID:Ag9qzJYw

と書いてる自分が、2日目の朝の天候で避難小屋に留まる決断が出来たかと言うと、全く自信ない。ていうか多分同じ方に動いたと思う。

29 : 底名無し沼さん 2017/02/01(水) 08:27:05.86 ID:G0dwPaxj

立山中高年大量遭難に似てるね。
知っていただろうに。
教訓が生かされなかった。

30 : 底名無し沼さん 2017/02/01(水) 11:00:03.62 ID:ddIgWKpY

2日目の夜、ビバークしてるのにその後なぜ強行したのか。


31 : 底名無し沼さん 2017/02/01(水) 11:47:17.09 ID:6yFnkFWY

連続ビバークも辛そうな感じで、それぐらいなら無理してでも避難小屋まで戻りたいと考えたのでしょう。結果的には判断ミスだけど、実際留まるという決断は難しいと思う。


32 : 底名無し沼さん 2017/02/01(水) 12:03:35.87 ID:ddIgWKpY

客観的に自分たちが遭難している認識が甘かった。
ラジオ持ってたら冷静になれたかもしれない。

33 : 底名無し沼さん 2017/02/01(水) 12:19:16.85 ID:0psdPyBi

連続ビバークは明日は仕事だからでしょうね。社畜魂が黄泉に誘ったのでしょう。二日目(一回目の)のビバーク点はそれなりに適していた所ですし。

燃料と食料には余裕がまだあったみたいですからね。ないときは一か八かもありだとは思いますが何より仕事に穴を開けたくなく避難小屋まで行ければあとはなんとかなると思ったのでしょうね

34 : 底名無し沼さん 2017/02/01(水) 13:10:54.51 ID:G0dwPaxj

仕事抜きにしても、もし自分だったら適切な判断が出来たかどうか?甚だ疑問だ。現状が辛い状況だったらどうしてもその場を動きたくなる。メンバーも色々言うだろうし。


35 : 底名無し沼さん 2017/02/01(水) 13:52:39.68 ID:aD5Ff/fr

年取ると謝るとか失敗認めるとか恥をかきたくないとか変なプライドが


36 : 底名無し沼さん 2017/02/01(水) 15:40:20.77 ID:TyDGmYgp

慣れゆえの慢心、リーダーがいることでの依存
やはり登山は1人がええな


37 : 底名無し沼さん 2017/02/01(水) 22:52:35.46 ID:G0dwPaxj
>>35
リーダーが新聞記者で登山ガイドだったのが大きかったかも知れない。
自分が遭難記事に出ることをリアルに想像してしまったのかも。

38 : 底名無し沼さん 2017/02/02(木) 03:54:01.62 ID:nmNlc2rl

小屋に備え付けのシャベルですき焼きって不衛生だし鉄の味がしそうだな。
なんか通ぶった中年がムリしてやってるみたいであんましかっこいいモノではないな。
そんな形だけで装備や事前の準備がなってないから起こるべくして起きた事故なんだろうという気がする。

厳しいようだけどコッヘルで雪洞掘らなきゃならないような奴らは雪山に行く資格ないだろ。

39 : 底名無し沼さん 2017/02/02(木) 07:19:50.45 ID:iX4LUfnx

>山岳ガイドのリーダーは遭難防止百戒というものを作ってて視界不良の場合は動かずに待つべきという信念があった

そこまでやっていながら何故生かされなかった

40 : 底名無し沼さん 2017/02/02(木) 07:58:27.24 ID:yd9Kk4Dm
>>39
「百」戒って作り過ぎ、作ることが目的になってたんじゃね?


41 : 底名無し沼さん 2017/02/02(木) 08:18:45.58 ID:fuRewJnW

不備だった装備

・ツェルト
・ラジオ
・携帯ショベル
・GPS携帯(現在だったら)

あと何かある?


42 : 底名無し沼さん 2017/02/02(木) 10:55:54.74 ID:nmNlc2rl
>>41
きちんとした判断ができる脳味噌

43 : 底名無し沼さん 2017/02/02(木) 11:00:32.84 ID:6LwJssGF
>>41
・予備日


44 : 底名無し沼さん 2017/02/02(木) 14:35:38.99 ID:klAL9K3D

エスケープルート、中止する気象条件、登山計画書を家族や所轄警察に提出
緊急でなくとも雪洞ほって風よけ休憩を前提か

こないだ雪山で一緒になったグループがスコップとノコギリ持参してて山小屋までの途中雪洞ほって昼めし休憩の場所を作ってたの見てなるほどと思った
緊急時以外でも風が強いと停滞時に体が冷えるからね


45 : 底名無し沼さん 2017/02/02(木) 18:33:52.96 ID:g31VIgjy

雪洞を作る訓練にもなりますね

47 : 底名無し沼さん 2017/02/03(金) 09:14:24.67 ID:LMWPz5V9

3日目の朝の判断って難しいよな。
下山強行して助かった可能性も、停滞して凍死する可能性も両方あり得たわけだし。


50 : 底名無し沼さん 2017/02/04(土) 23:27:01.97 ID:2j5iWhKf

冬山で天気予報聞かないってどんなベテラン山岳ガイドよ


51 : 底名無し沼さん 2017/02/05(日) 08:51:41.14 ID:ZDClcW/y

ラヂヲは「聴かなかつた」といふだけで「持つていかなかつた」のでは無いのだらうか?
何れにせよ、慢心と言ふのは怖ろしきこと哉。

54 : 底名無し沼さん 2017/02/05(日) 14:53:51.89 ID:QKeq8Lgl

不思議に思うんだけど、なんでツエルトとスコップ持ってかなかったんだろうね?

自分なんて雪山が怖い+ガイド含め他人を信用しない性質だから、
雪山講習会やガイド登山の時ですら、ビバーク用にツエルト+スリーピングマット+薄手のシュラフと予備のヴィヴィサック持ってってるよ。 だから、日帰りでもザックはパンパン(笑
 
よくグループで行動していて、団体装備で山岳テント持って行ってるからツエルト不要とかいう人いるけど、テント担いでいるメンバーが滑落してテントが遥か彼方へとかホワイトアウトで自分だけ、道迷いするとか考えないのかなと思う。


55 : 底名無し沼さん 2017/02/05(日) 15:40:04.80 ID:IF4ffAsD

遭難時パーティー分離して助かろうとか言う奴の発想
テント持った奴助けに行くに決まってるだろ
いかにもパーティで登山した事ないことを物語る


56 : 底名無し沼さん 2017/02/05(日) 15:43:13.75 ID:XPtb98uS

基本的に他人に頼らない。どんなに慎重になっても遭難する時はする。
そしていざ遭難した時は普段の心掛けが生死を分けるんだろうね。

59 : 底名無し沼さん2017/02/05(日) 16:17:52.58 ID:ZDClcW/y

個人的には
共同装備にテントあるからツエルト持たないとか、地形図は GPS やスマホあるから不要とか、そんなんとは冬山に一緒に行きたくないな。

60 : 底名無し沼さん 2017/02/05(日) 17:25:07.38 ID:IF4ffAsD

テントベースにして頂上アタックとかならツエルトは持つ
そうでないなら要らない
これを装備の軽量化という
マンパワーの最適配分としておこう、遭難防止に大変役立つ


62 : 底名無し沼さん2017/02/05(日) 18:43:42.56 ID:XPtb98uS

でもこの遭難事故でツェルトあったら助かったか?と言ったら疑問だな。
そもそもこの暴風雪下で役に立つのかな?


63 : 底名無し沼さん 2017/02/06(月) 22:36:07.53 ID:f7CLuYlu
>>62
シャベルとツエルトあれば助かったんじゃないの?
食い物はあったらしいし


64 : 底名無し沼さん2017/02/07(火) 08:54:31.67 ID:T1BOQWky

あっても下山強行してたと思う。

65 : 底名無し沼さん 2017/02/07(火) 11:45:32.03 ID:Fq0BRdvn

翌日仕事あるから…
これが致命的な判断ミスを招いてると思う
日本人のいい面でもあるが悪い面でもある


67 : 底名無し沼さん 2017/02/07(火) 13:02:39.72 ID:T1BOQWky

新聞社、看護師、公務員、専門学校講師
割と固い職業の人が多かったんですよね。


68 : 底名無し沼さん 2017/02/07(火) 13:58:28.47 ID:aPkW0eNg

雪山に行くのに天気を気にせずに行ける時点で狂ってるとしか。

69 : 底名無し沼さん 2017/02/08(水) 01:28:35.25 ID:t5KdlwBZ

仕事に穴あけらんないからって強行するなら
何故もっと装備や計画をしっかりしなかったのかとは思う。
永遠の水かけ論だけど。

73 : 底名無し沼さん 2017/02/09(木) 22:05:25.57 ID:EKJf4xwo
>>69
仕事に穴が開けられないと強行したが、そもそも仕事に追われ装備や計画の十分な検討ができてなかった。とも語られてる


74 : 底名無し沼さん 2017/02/10(金) 09:00:09.52 ID:OozSuV9f

計画はともかく、個々で装備は用意するだろ

78 : 底名無し沼さん 2017/02/10(金) 22:15:15.66 ID:UPh0NP+T

1週間くらい有給まとめて取っても周りから白い目で見られないような環境なら死なずに済んだだろうなあ。

80 : 底名無し沼さん 2017/02/12(日) 10:23:29.70 ID:RsPpOIQi

今日は避難小屋に泊まった翌日。
朝8時半避難小屋出発って遅すぎ。
5時には出発すべき。


81 : 底名無し沼さん 2017/02/12(日) 13:32:23.06 ID:RsPpOIQi

その一点だけでも間違えなければ、遭難することすら無かったかも知れない。
基本中の基本


82 : 底名無し沼さん 2017/02/12(日) 16:36:27.95 ID:qRv7VG/r

夜も遅くまで宴会しとるからや。


83 : 底名無し沼さん 2017/02/12(日) 22:33:12.88 ID:TfhkhfjN

さまよったあげく、ハイマツ帯でビバークを決意する頃ですね。
焚き火もできたみたいですし燃料もあったみたいですね。


84 : 底名無し沼さん 2017/02/12(日) 22:39:58.20 ID:RsPpOIQi

しかし気持ち的にはまだ深刻な状態では無かった。

86 : 底名無し沼さん 2017/02/13(月) 08:48:50.75 ID:95XQ5AKu

2日目の行程予定ってすごく短いんだよね。順調に行けば 1時間ぐらい。
温泉に早くつきすぎてもあれだし、明るく暖かくなってからの出発にしたのも仕方ないよな。自分だったら昼まで寝てたかも。


87 : 底名無し沼さん 2017/02/13(月) 09:20:05.36 ID:TtGPbfWr

遭難状態かどうか自分では気がつくのが遅いんだろうね
ゆでガエルみたいなものです


88 : 底名無し沼さん 2017/02/13(月) 10:32:24.03 ID:XEIPXqc1

ビバークしたら遭難でしょー
「みんなには黙っておこうね」とか危機感なさすぎ。


89 : 底名無し沼さん 2017/02/13(月) 12:41:38.77 ID:95XQ5AKu

今日は猛吹雪で下山強行した日か。

2月13日(日) - 猛吹雪となったが、翌日の出勤を考え下山を強行。家形山避難小屋まで移動しようとしたが、白浜で暴風のため低体温症で動けなくなるメンバーが出る。

寝袋に入れて引っ張ろうとしたが暴風のため途中で断念し、パーティー全員がその場にとどまり、スコップがなかったため食器などで雪洞を掘り[注釈 6]、夜を迎える(この時さらに2人の意識が薄れていた)。

この時、リーダーが疲労のためか変調をきたしていたのを生還した男性が目撃している。


2月14日(月) - 強い西風が吹き続く。朝の時点で低体温症からリーダーを含む4人が意識不明か死亡。

意識のあった3人(男性1人と女性2人)は下山を決意するが、うち女性1人が力尽きたため男女2人で9時に白浜を離れ、雪崩の危険がある西側を下りていくが力尽き、結局ビバークする。

一方、リーダーの山仲間が福島県警察本部に捜索願とともに覚えていた6人の情報を通報したが、ルートの詳細が不明のままだったため当初警察は動けず、他の登山者たちの目撃情報を元に6人の情報を割出し、捜索の準備に入る。

地元のラジオ福島でも呼びかけが行われたが彼らはラジオを持っていなかった。
その後、夜に1人の家族が警察に捜索願を出したことから、ようやく7人全員の身元が判明。


2月15日(火) - 前日とは一転して晴れ間が広がっていた。13時過ぎ、2人はひどい凍傷になりながらも自力で滑川温泉にたどりついた。彼らの通報による捜索の結果、15時過ぎに白浜で5人の遺体が発見された。


92 : 底名無し沼さん 2017/03/05(日) 10:17:35.67 ID:kFHPo/py

天気予報さえ聴いていたらな〜
山岳ガイドだったら登山中止にしてたと思う。
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1484272081/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/716.html#c1

[リバイバル3] そして5人は帰らなかった 吾妻連峰・雪山遭難を辿る 中川隆
2. 中川隆[-7621] koaQ7Jey 2017年6月04日 01:30:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

[吾妻連峰・雪山遭難をたどる〜そして5人は帰らなかった〜]
(NHK教育TV・平成6年5月__初回放送)
http://www010.upp.so-net.ne.jp/teppen/so-azuma.htm


パーティ構成

男性2人、女性5人(60代〜40代)

「リーダー」は登山歴30年、ガイド資格もある男性。吾妻連峰は13回目の登山。

霧の平分岐点の杭は過去3度確認している。

「サブリーダー」的存在のもう1人の男性も、登山歴こそリーダーより少ないもの
の、吾妻連峰へは何度か来ている。

女性5人も山は一通り経験済みで、いわばベテランの登山パーティである。


H6 行動 捜索その他

2/11祝日

07:16 上野発東北新幹線あおば
予定では、やまびこに乗り、30分早い福島駅着のはずだったが、空席なし

09:19 福島駅着
スキーキャリア付きの車を手配するのに30分程予定外に費やす。
道路凍結の為、登山口までは車で行けず、途中車を降りた。
結局、運転手さんの薦めていたスキー場のリフトを利用する為、戻る。
強風の為、リフト4本中、2本目と4本目は動いていなかった。

しかたなくリフトを傍にみながら登るが、途中4本目のリフトが動き出した。
4本目のリフト乗り場で登山計画書の提出を受付けていた為、それに気づかなかった。

13:00 登山口着

15:00 慶応吾妻山荘入口(山荘まで340m)に先頭メンバー到着
大分遅れるメンバーもいた。
予定を変更し、「慶応吾妻山荘に泊ろうか?」というやりとりがあったが、
家形山避難小屋をめざす。

16:00 家形山避難小屋到着
他に宿泊客のいない、避難小屋での宴会がはじまる。
避難小屋備え付けのスコップで焼くステーキがメインメニュー
ラジオの天気予報を聞く事はなかった。
慶応山荘では気象状況から、明日は下山するよう宿泊客にすすめていた。
2組下山。1組早朝出発

22:00 宴会終了


2/12(土)

晴間もみえる。小雪がちらつく程度。風ほぼなし。
(気圧配置の偶然による一時的好天)

「天気が悪ければ帰ろう」と考えていたが、この偶然により何の不安
も持たずに出発。 東京は朝から25年ぶりの大雪

08:35 小屋を出発。 山のガイド本では冬以外は1時間で滑川温泉着のコース

12:00 白浜の尾根着。2km先の霧の平をめざす。
メンバーのスキーの滑り止め用シールがはがれるなど、足止めをくう。
分岐点の杭がみつからない。

18:00 ビバーク決意。
雪のくぼみに銀マットを敷き、ビバーク。(−10℃以下)
メンバーに疲れはあるが、この時点ではまだ余裕があった

2/13

(日) 猛烈な吹雪(日本中で30人が一時的行方不明)

白浜の尾根まで引き返す。
身体ごと風にとばされ、前進できないので、比較的風の弱い東側を行く
雪が深く、男性2人でラッセルしてもほとんど進めなくなった。
再び尾根に戻り、スキーを外し、這って進む。

6人がやっと尾根を通過したが、1人止まっている。
リーダーが救出に向かい、ザックを受け取り、尾根を渡る。
まだ、動けないでいるため、再度救出に向かう。

意識を失ったので、シュラフに入れ、全員で引っ張る。
しかし、どうしても尾根を渡りきれない。
コッヘルで雪堂を掘る。


22:00、3つの雪堂をやっと掘り終える。
リーダー、疲労の為か、目が見えなった様子で、雪堂をくずしてしまった。
もう1人の男性が4つ目の雪堂を掘った。
東京の山仲間から捜索願いが出される。
7人の登山ルートが特定できず、捜索開始が遅れる

夜、捜索活動開始
ラジオ福島は放送で一晩中呼びかけた


2/14(月)

まだ吹雪は続いている。
4人意識不明。
残り3人(男性1人、女性2人)で出発しようとするが、女性1人は動けない
為、残る。

尾根すじをあきらめ、滑川温泉をめざす。
途中、力つき、3度目のビバーク。

東京は晴れ
本来ならば7人は、おのおのの職場へ出勤していた


2/15(火)

12:00 晴れ
2人は自力で温泉にたどり着く。重度の凍傷。

15:00 捜索隊、温泉にたどり着いた2人の証言からヘリコプターで5人の遺体を発見・回収

後日、7人の所属している山岳グループから報告書が自費出版されている。

報告書は、装備品の不備として「ツェルト」「ラジオ」を上げています。
http://www010.upp.so-net.ne.jp/teppen/so-azuma.htm
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/716.html#c2

[リバイバル3] そして5人は帰らなかった 吾妻連峰・雪山遭難を辿る 中川隆
3. 中川隆[-7620] koaQ7Jey 2017年6月04日 01:35:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

norihirotanakaaanさん 2014/7/21 20:16:42
平成6年吾妻連峰雪山遭難について質問です。

この事故では7人中5人が死亡したようですが、雪山登山に詳しい方から見て、下記の行動をとった場合に生存者が何名になったか項目ごとに見解を教えてください。

1、初日の夜に避難小屋ではなく慶応吾妻山荘に宿泊していたとしたら

2、2日目に朝、擬似好天に気がついて下山していたとしたら

3、霧の平が見つからないときに、早々に避難小屋に引き返していたとしたら

4、3日目の朝(初回のビバーク後の朝)に、天気が良くなるまでビバークした場所にとどまっていたとしたら

5、避難小屋に戻る途中に白浜の尾根で強風地獄に見舞われて、風が弱いところに移動したようだが、そのまま風が弱いところでビバークしていたとしたら

6、白浜の尾根の上で動けなくなった人をみんなで引っ張ろうとしたようだが、その時点で動けなくなった人を見捨てて避難小屋に向かっていたとしたら

7、3日目の夜(2回目のビバークのとき)にツェルトやテントがあったとしたら


補足
登山計画書を提出していたら結果は違ったと思いますか?



maxtockdvdrさん 2014/7/21 21:22:34

この遭難ですか、疑似好天とかじゃ無く論外の天気です。
3連休家でゴロゴロしていたら母親から心配する電話が有りました。
「こんな天気で山には行かない」当たり前でしょう。

KO 山荘に泊まったら小屋番が戻らせたでしょう。
その後泊まった時に小屋番色々言っていました。


家型の避難小屋出たのが9時、何を考えているんだ、遅くとも6時には出ろ

さっさとスキーで下れば板谷に降りる。

別に滑川温泉に直行しなくても良い。

ツェルトも持たないスキーツアーとか度素人の集まりです。

大沢の櫻井さんとかよく知っています。
画像はKO山荘泊まって谷地平小屋に来た所です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12132202677
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/716.html#c3

[リバイバル3] トムラウシ山遭難事故 中川隆
1. 中川隆[-7619] koaQ7Jey 2017年6月04日 03:35:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

トムラウシ山遭難事故は結局どうすりゃ良かったの? [無断転載禁止]©2ch.net

1 : 底名無し沼さん 2017/02/22(水) 23:35:50.84 ID:7jOiNOY3

2日目に下山が正解だったのかな?


2 : 底名無し沼さん 2017/02/23(木) 07:09:08.97 ID:CQyPn9Vt

当日小屋に留まれば良かったんやで
ツアーが日程的に回らなくなるから強行したのが敗因や

11 : 底名無し沼さん 2017/03/09(木) 09:01:24.38 ID:4kt9v+lf

結局どの日も停滞を決断するには微妙な天気なんだよね。初夏だったし。
しかし体力に不安のあるメンバーを考慮するとどこかで停滞すべきだったかと。
メンバーの体力格差があると本当に判断は困難になる。


12 : 底名無し沼さん 2017/03/28(火) 21:56:37.10 ID:GXxA/QJV

当日小屋泊まりやろね


13 : 底名無し沼さん 2017/03/28(火) 23:37:23.61 ID:c3Mi+qUk

停滞かもしくは最初から中止
天気予報を確認しないのはね


15 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 00:08:30.75 ID:UiG8Mt7v

参加者がガイドよりベテラン揃いだったのがむしろ留まれなかった要因なのだと思いますね。

客商売である以上、お客を悪くは言えないのでやんわり会社から圧力があった風に説明していますが、顔ぶれを見る限り実際には違うのだろうなと思います。

山好きの爺さん婆さんなんてどれも一癖も二癖もあるのは分かり切っていて、
オッサン一人、アンチャン二人のガイドで御しきれるわけがないんですよ。

ケロっと生還したオバチャンはその辺り強かで、前のめりなムードと見るや
自身は後方待機策で極力体力を温存して先行勢が自滅した後を悠々と差し切り勝ち。

きっと「私はミスターシービーなのよ」などと想像しながら歩いていたのは間違いないところだ。


16 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 07:56:36.43 ID:EVeJaBlu

私は登山した経験はないが、昨年釧路の方を旅行した時、現地の登山家と話をする
機会があった。あの遭難事故の時、どんな感想を持ちましたか、と聞いたら、彼は
しばらくしてから、

北海道の山は内地の山と違って山小屋・避難小屋の間隔が非常に大きい、このことを頭に入れて判断するべきだった、と言っていたな。


17 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 08:20:19.66 ID:cSYZeAC2

ヒサゴ沼避難小屋でもう一泊しておけばOKだった。


18 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 10:10:21.49 ID:8oKpYwFj

停滞せずに動くのなら、ヒサゴ沼から天人峡へ向かうべきだった気がします。

北沼近くに、雨によって川のような水の流れが発生していたことが事故のかなり大きな要因だと思います。
もし、これが大量の雨のときにしばしば発生する現象なのだとしたら、 渡渉で決定的ダメージ受けるリスクが高いことも予見できたのでは。


19 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 10:34:52.51 ID:cVc1KUU/

北沼からの越水ルートを徒渉するずいぶん前に低体温症起こしてたのいたから。
天人峡へエスケープは条件次第では悪くないとは思うけど行動自体がビミョーだったと思うなあ。


21 : 底名無し沼さん2017/03/29(水) 17:07:57.05 ID:w7I8jWP9
>>18
ヒサゴ沼から稜線に出たら物凄い風だった
本来1時間位の工程のはずが数時間費やした(通常の状態で8時間かけて下山する計画にもかかわらず テントも人数分なかったんだっけ ヒサゴ沼に次のツアーにために置いて行った)
この時点で遭難確定だよ
停滞以外ない 


22 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 21:58:04.02 ID:UiG8Mt7v
>>21
しかし、こうベテラン揃いの顔ぶれではガイドも留まるとは言えなかったのだと思いますね。
その後の商売に影響しないようツアー会社が泥を被りましたが、実際には予定どおり帰宅できるよう圧力を掛けたのは参加者側なのだと思います。

どう見たってツアー会社が計画変更(下山延期)を提案したところで言うことを聞くような面子じゃない。


23 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 22:25:45.93 ID:E9Tcdr4A

停滞を決断するには微妙な天気だったってマジ?
北海道全域が荒れ狂ってたような印象もってたが


24 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 23:21:34.34 ID:UiG8Mt7v
>>23
年寄りの集団自殺にガイドが巻き込まれた側面もあったのだと思います。


25 : 底名無し沼さん 2017/03/29(水) 23:45:52.18 ID:J6ttih3M
>>23
実際に遭難した4日目は午後から天気回復する予報だった


26 : 底名無し沼さん2017/03/30(木) 01:38:26.71 ID:eWoUiI2Y
>>11
>>15
を見て分かる通り 参加者が自分で気づかなくて他人が気づいてあげないといけないのは無理
結論は無理かどうか自分で気づきましょう・・・だ


27 : 底名無し沼さん 2017/03/30(木) 01:41:38.15 ID:eWoUiI2Y

無理かどうかは自分で気づきましょう
石巻の大川小学校も結局は
子供が危ないと気づいたのを教師が邪魔したかどうかで争っている


28 : 底名無し沼さん 2017/03/30(木) 02:17:32.25 ID:/RPeaZm4

無理言うなよ
無理かどうかは無理になるまで判らない


29 : 底名無し沼さん 2017/03/30(木) 04:05:31.67 ID:KGrsdxw7

ツアー客がベテラン・バイアスがかかってたのも確かだね。
でもって、オッサンガイドはルートの経験がなく、アンチャンガイドが経験あるといういびつな構造で進言しにくかったかもしれない。

しかし、自分の経験を考えてもヒサゴ沼〜 短縮路駐車場(もしくは東大雪荘)は結構たいへん。


31 : 底名無し沼さん 2017/03/30(木) 07:12:08.09 ID:uMfJgK/r
>>22
報告書を読むとガイドも問題ありすぎただったけどね
参加者もその日にどのくらい歩くかも把握してない人も多かったらしい
ミーティングも適当だったんだろうな


32 : 底名無し沼さん2017/03/30(木) 12:55:58.51 ID:NYyXeX1y

このようなツアー登山で、リーダーが出発する決定をしてるのに、自分は小屋に残るって言い張るのは許される?


33 : 底名無し沼さん 2017/03/30(木) 13:41:07.56 ID:uMfJgK/r
>>32
わからない
だからツアー登山なんてよほどしっかりした所じゃないと危険


34 : 底名無し沼さん 2017/03/30(木) 23:53:40.54 ID:DglHnEjf
>>32
離団届けを一筆書いて以後の安全確保は求めません、と宣言させる会社もある。


35 : 底名無し沼さん2017/03/31(金) 21:25:37.93 ID:r89CRoJT

モンベルの青いゴアジャケ着とけば全員助かったかもしれない


36 : 底名無し沼さん 2017/04/01(土) 17:16:01.19 ID:csxLgHzh

私がこの事故を追いかけて得た教訓
装備は(下着も含め)最高のものを身に着けましょう
寒くなったらとにかく何か食べましょう


37 : 底名無し沼さん 2017/04/01(土) 18:49:55.49 ID:T1MoHh9J

食べてたらしいよ

だからさ、判断ミスの最大の理由は

1危険な時期ではないはず
2皆がいるから大丈夫なはず

の2つのバイアスでしょ
とくに2がヤバい


38 : 底名無し沼さん 2017/04/01(土) 18:56:28.20 ID:T1MoHh9J

2の皆がいるから、はいろんな意味を含むね

皆が行けそうな空気を作る
自分は無理だ、が言えない
お前ら無理だ、も言えない
ガイドもいて誰かがきちんとリードしてくれてる気がしてる
とか

俺はこれが苦手で単独行が多い


39 : 底名無し沼さん 2017/04/02(日) 08:49:29.94 ID:CFyFfQ+v

早くからこれは遭難だから連絡とってくれと言ってたお客がいたのに無視してたな
その時に連絡をとっていたら山に詳しい人のアドバイスをうけられて多少犠牲は減らせたかも

40 : 底名無し沼さん 2017/04/02(日) 10:16:33.52 ID:YKLcwpX6
>>39
いや、遭難じゃない、と希望的観測を持って強行したか強行しようとする圧力で正しい判断を否定した
つまり適切な判断を鈍らせる圧力がツアーにはある

対処法は
ヤバい時は民主主義!だな
それか本当に全責任を背負う船長的な心構えのリーダーを要請する事


41 : 底名無し沼さん 2017/04/02(日) 10:21:08.71 ID:YKLcwpX6

一応の責任者、ではなく責任を伴った本当のリーダーをツアーガイドにも作る事だね
ガイド長とか上級資格を作り危険な時の命令権を付与する


42 : 底名無し沼さん 2017/04/02(日) 13:45:16.39 ID:jr86v1qP
>>38
ツアーだから遭難はあり得ないみつぃなもんだね


43 : 底名無し沼さん 2017/04/02(日) 21:34:53.05 ID:SFTgy7UK

まぁ単独山行だったら普通に撤退しただろうな
集団心理が働くと悲劇、今回の集団訓練中の雪崩事故も同じ
責任の所在が自分で無くなる事の怖さから単独行しかしない


45 : 底名無し沼さん 2017/04/02(日) 22:14:26.13 ID:CFyFfQ+v

確かに現場以外に決断権の強いリーダー長がいれば違ってたかな
ガイドが寄せ集めのメンバーだった事や一番年長者のガイドが早くに低体温症で判断力を失っていた事が原因の一つになってるし


46 : 底名無し沼さん 2017/04/03(月) 00:33:49.54 ID:+/3nS4y5

60代の年寄りの集まりが1日十時間も歩くって時点でリスク激高じゃないか
歩けなくなった老人を背負えるわけでもないのに
企業の責任もあって、気軽に救助を求める訳にもいかない

気温10度で台風のような暴風雨が吹いてたら1歩歩くのも大変そう
誰が登山してても遭難者多数発生の悪天候なんだろうなあ

登山経験ほとんどない素人だからきその目線で書いてるけど
真夏の富士山8号目で夕方、気温7度、強風でもないのに山小屋の外の焚き火に当たりながらブルってたなあ
あれで暴風雨だったら死ねるわ

この客たちは60代だもんなあ
今まで日本の経済成長で順調に生きてきた世代だから、なんでも挑戦して成功してやろう、成せばなる!って世代なのかな


47 : 底名無し沼さん 2017/04/03(月) 00:42:42.52 ID:9DFkArxg

登山ツアーっていいなあって思ってたけど こういうのを知ると怖いな
悪天候だからここに留まりたいと希望しても、自己責任で行動しますって一筆書かされるなんて行くも地獄、留まるも地獄という状況になってしまう

ツアーだから旅行日程に天候が悪くなっても旅行代金を考えたら、そうそう捨てられるもんじゃない
悪天候でキャンセルしても、別のツアーにチェンジ出来るようなら個人の判断で危機回避できていいのに

集団行動にありがちな「他人に迷惑をかけるな」「足を引っ張るな」の連帯責任、軍隊行動みたいでキツいわ


48 : 底名無し沼さん 2017/04/03(月) 08:30:31.72 ID:89cPqE7Y

雨漏りのする避難小屋で濡れた寝袋で寝て、疲れが取れないまま雨の中出発するのは辛いな。

ヒサゴ沼避難小屋の説明:

  「ヒサゴ沼避難小屋」は、化雲岳の南、約2kmのヒサゴ沼湖畔に設置されています。

  この建物は、山小屋ではなく、悪天候時など緊急を要する際に、避難するための小屋 として造られておりますので、登山で現地に宿泊したい場合に、利用するための施設ではありません。

 ですので、現地に宿泊される場合は、宿泊用テントを持参し、防寒対策をとった上で、野外の野営場でテントを設営し、宿泊 をって下さい。

 現地で「避難小屋を利用される場合」 に、常時開放されていますので、利用者みなさんで協力して、ご利用願います。


50 : 底名無し沼さん2017/04/03(月) 13:15:15.51 ID:3SXJ8z/X

各自ツェルト持ってれば良かったろうな。
雨具と同様にすぐ出せる位置にしまっとく。


51 : 底名無し沼さん2017/04/03(月) 20:12:07.49 ID:+6Ur5X+c

吸汗速乾なんていう化繊のペースを着ているから冷えて死んでしまうだよ
ベースは夏でもウールだよ


52 : 底名無し沼さん 2017/04/03(月) 20:42:54.79 ID:lPXlL+cJ
>>50
ツェルトに入って残ったガイドと女性客も亡くなってる。
渡渉でずぶ濡れになったのが致命的だったと思う。


53 : 底名無し沼さん 2017/04/03(月) 21:41:02.82 ID:objMQ9C8

自転車で30分のイオンに行こうといつもの堤防道路を走ってたら その日は強風で1m走るのにもペダルが重くて重くて前に進まない時があったけど
真下に見える草をじっと眺めながらひたすら自転車をこいだわ
何十年も自転車に乗ってるのに、川沿いは走ったこと少なかったから初めて経験する強風
常に風圧がかかって全然、前に進めないからなあ
あれがトムラウシ登山での寒風だったら、低体温症で遭難するわな

55 : 底名無し沼さん 2017/04/03(月) 23:24:42.84 ID:G5aBY1Sp
>>47
ツアーの特徴って「安さ」と「楽さ」だと思うんだ
単なる観光なら良いけど登山でそれらを求めるのはどうかと思う
なんていうか自分の命を自ら安売りしてるような・・そんな感じ


56 : 底名無し沼さん 2017/04/04(火) 01:46:29.94 ID:DaGYlCv+

とっとと下山が正解だけど、雨具や防寒具や乾いた着替えを余分に用意しておくことと、全速力で踏破する体力をつけておくことかな。
寒くて死にそうになったとき、引き返して高度が下がるにつれて温かくなって元気を取り戻したのを思い出した。

58 : 底名無し沼さん2017/04/04(火) 07:44:20.20 ID:XX4GrTo5

げんに、このトムラウシのアミューズツアーのメインガイドで死んじゃった広島から来たKガイドがヒサゴを出るときに

「今日の私の役目は皆さんを安全に下ろすこと、よって山頂は巻きますからご了承ください」

といったと報告書にある。
いうだけなら言えるんだよ。実行できるかは別。


62 : 底名無し沼さん 2017/04/05(水) 17:43:18.20 ID:YbiPQLOb

北沼付近まで無理にでも歩を進めてしまった時点で詰んでるっしょ
その時点で>>47の言う通り進むも地獄、退くも地獄ですわ
出発段階で小屋にとどまるか、
出発後でも早い段階で小屋に引き返すしかなかった

悪天候でも、平地の予報見て回復するだろうと甘い判断で強行した結果がコレ

その背景にツアー登山の日程遵守、交通機関手配、経験不足のガイド、避難小屋の私物化トコロテン方式とか色々あるけど遭難事故起こしたらなんにもならんわな

64 : 底名無し沼さん 2017/04/06(木) 01:19:48.48 ID:Trj4ctVO

みんな経験があると思うが集団になると自分の意見を抑える
結局参加者のほぼ全員でそれをやってしまったんだ

だからさ、ガイドの中にガイド長を作って絶対権力を作らないとだよ
航海並みのリスクがあるんだから


65 : 底名無し沼さん 2017/04/06(木) 16:07:17.74 ID:H/s63Ebl

ツアー主催会社は現場ガイドに強力な中止権限を与えないとアミューズみたいに事故起こして潰れるぞ


66 : 底名無し沼さん 2017/04/06(木) 22:13:57.63 ID:z8GGI9sl

みんななんか勘違いしてるけど、ヒサゴ沼まで来ちゃったら引くも地獄、進むも地獄だぞ

化雲岳から天人峡も長いし、五色岳まで戻って沼ノ原も長い。

一番キツいのは間違いなくトムラウシにむかって、東大雪荘方面に下ることだけど、出なきゃならないなら、選択肢3つの中からトムラウシに向かったのは分からないではない。

だから、ヒサゴ沼避難小屋の状態も悪かったが、停滞以外に正解はなかった。


67 : 底名無し沼さん 2017/04/06(木) 22:22:26.77 ID:G1PVmXKu

また今日も雨漏りのする小屋で過ごすのかと考えたら、出発したくなる気持ちはわかる。


69 : 底名無し沼さん 2017/04/06(木) 23:08:07.76 ID:1lW887r+

この時はツアー客以外に単独の人も死んでるんだよね


70 : 底名無し沼さん 2017/04/07(金) 20:35:16.70 ID:D1eX1+E/

ガイドの1人は 4-5人用のテントも持ってたんだよな。
こんな時使わないでいつ使うんだ?


71 : 底名無し沼さん 2017/04/08(土) 08:12:41.49 ID:WiZz0O57

救助された時ガイドは使ってたよ


72 : 底名無し沼さん 2017/04/08(土) 10:19:49.36 ID:045Kww2z

客もベテランと言っても人の計画した山行に後ろから付いて行くだけの登山をしてきた人達だろ
そんなのは何百回登山をしようとベテランとは言わない

75 : 底名無し沼さん 2017/04/16(日) 17:18:32.61 ID:f0Wj9YDR

谷川でプチ低体温症なったからやばさはわかる。判断力なくなるし。
とにかく着替えてなにか食べて飲んで冷えないようになるたけすぐ動くこと。
あの時は信じられん強風だったわ


77 : 底名無し沼さん 2017/04/16(日) 22:44:25.62 ID:nhgiCen6

ヒサゴ沼小屋でもう一泊が一番だったろうね
ただツアーガイドにそんな選択の余地は無かっただろうな
ツアーを日程どおりにとか、本来なら命に代えられないものなのに、そういうので誤った選択してしまう

80 : 底名無し沼さん 2017/04/17(月) 22:39:20.74 ID:+OL59aOA

夏山といっても防寒具なしでは...ってのがこのトムラウシでの事例かなあ
ジジババの体力の限界もあるけど、
最低限ツェルトやレインウェア、あとは衣服が濡れた時用に替えの下着とかな

82 : 底名無し沼さん 2017/04/18(火) 06:52:07.55 ID:qLABVu3R
>>77
次の日に五色沼からあがってくるアミューズツアーがいて、天気が回復する見込みで避難小屋も混雑が予想されていたことも判断を狂わせたんだろうね


85 : 底名無し沼さん2017/04/19(水) 22:06:50.77 ID:ZCD9rwia

別物だけどそれを気づいても言えない状況だったんだろ
自分独りなら正しい決定をできる人が集団の中で正しい決定を出来なくなってたはず

特にガイドが複数の時はガイド長を作って船長みたいな責任者にすべきだ

87 : 底名無し沼さん2017/04/20(木) 21:18:15.83 ID:BQJInYFd

ヤマケイ出版の本読んだけど、
初日から超マイペース行動や準備不足で他のメンバーたちを苛立たせてた人たちはなんだかんだで生還してんだよね
最初に北沼で行動不能になって亡くなったのはそれとは別の女性

自分も単独参加なら多少体調が悪くても誰にも言わずに我慢したと思う
ギリギリまで黙っていきなり倒れるのはやったらいかんと心に刻んだ


88 : 底名無し沼さん 2017/04/21(金) 21:08:40.64 ID:JNLjavz/
>>87
1回でもCLやったら、んなことわかるだろ。
余裕があるうちにヤバいっていってくれないとにっちもさっちも行かなくなってパーティー全滅という。


90 : 底名無し沼さん 2017/04/26(水) 21:20:05.84 ID:WtJYeSow

雨降ったら避難考えないとね。
今の時期も大量に汗かくほどだけど、霧雨食らって休憩入れたら歯がガタガタ言うよ。
多少寒くても、なんて考えてたらアッというまに体が動かなくなるからな。
意識がハッキリしているだけに怖いよ。

92 : 底名無し沼さん 2017/05/05(金) 08:16:35.34 ID:XkKfINRN

ヒサゴ沼非難小屋って今でも雨漏りガンガンのボロ小屋なのか
この小屋がちゃんとした雨漏りのしない小屋だったら結構生き残ってたかも
もっと頑丈な小屋作っとけよ北海道はそんなのばっかりなのかよ
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1487774150/

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/717.html#c1

[リバイバル3] トムラウシ山遭難事故 中川隆
2. 中川隆[-7618] koaQ7Jey 2017年6月04日 08:48:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

トムラウシ山遭難事故 調査報告書 −日本山岳ガイド協会
http://www.jfmga.com/pdf/tomuraushiyamareport.pdf


トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか (ヤマケイ文庫) 2012/7/23
羽根田治 (著), 飯田肇 (著), 金田正樹 (著), 山本正嘉 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4635047466/asyuracom-22/

2009年7月16日、大雪山系・トムラウシ山で18人のツアー登山者のうち8人が死亡するという夏山登山史上最悪の遭難事故が起きた。

暴風雨に打たれ、力尽きて次々と倒れていく登山者、統制がとれず必死の下山を試みる登山者で、現場は修羅の様相を呈していた。

1年の時を経て、同行ガイドの1人が初めて事故について証言。夏山でも発症する低体温症の恐怖が明らかにされ、世間を騒然とさせたトムラウシ山遭難の真相に迫る。

『HONZ』で紹介されていたのを読んで購入。

ああ、この遭難事故のこと、なんとなく記憶にあるなあ、などと思いながら、読み始めました。

最近、妻がアウトドアとか山登りにハマっていて、ちゃんと「アウトドア講座」とかも受講しつつ息子と日帰りで山に登っているんですよね。

僕自身は、相変わらずインドア派で、なんで休みの日にネットもできないところに行かなければならないのだ……などとボヤキつつ、ときどき付き合って一緒に行く、という感じなんですけど。

僕は「人がなぜ山に登るのか?」って、この年齢までよくわからなかったんです。

景色はいいかもしれないけれど、身体はきついし、トイレも行きたいときに行けるわけじゃないし、ヘビとか熊に遭遇するかもしれないし、遭難するかもしれないし……

でも、実際に行ってみると、なんだか「程よい孤独感」と「自分の身体への信頼感」が少し回復するような気もするので、ハマる人の気持ちも、わからなくはないなあ、と。

ただ、仕事のことを考えると、携帯電話の電波が届かなかったり、病院から遠く離れてしまう場所にいることそのものに、けっこう不安もあるんですよね。

まあ、「基本的に、大好きにはなれない」のだろうな、と。


前置きが長くなりましたが、このトムラウシ山の遭難事故、ニュースで聞いたときには「真夏に遭難するのか……登っていたのは60歳代くらいの人が多かったし、山を甘くみすぎていて、ピクニック気分だったのでは……」などと勝手に想像していたのです。

「やっぱり山は怖いな」とも。

でも、事故を詳しく検証したこの本を読むと、このグループの装備が極端に軽装だったということもなく、当時のトムラウシ山の気候も、7月としては寒く、雨と強風がみられていたものの、この山では年に何度かはみられる程度の、それほど異常とはいえない天候だったそうです。

 東京都千代田区に本社を置くツアー登山の専門会社・アミューズトラベル株式会社(以下アミューズ社)のパンフレットに、その商品は次のように紹介されていた。


 北海道最高峰の旭岳から歩き始め、大スケールの景観が広がる縦走路を「遥かなる山」トムラウシ山へ、無人小屋に泊まりながら縦走します。縦走ならではの魅力が凝縮された例年満席の大人気コースです。お申し込みはお早めに!

 期日は2009年7月13日(月)から17日(金)までの四泊五日で、料金は15万2000円。「魅力の大縦走 大雪山系縦断の満喫コース」と銘打たれたこのツアー登山に、最終的に15人のツアー客が参加した。

 大雪山系の旭岳からトムラウシ山へと縦走するプランは、ツアー登山を扱う会社にとって、募集すればすぐに定員一杯となってしまう人気商品だという、その一方で、避難小屋を利用する長丁場のコースであることから、旅程および安全管理が難しく、またコストや人員配備の問題もあり、やむなく商品化を中止したり、日程やコースを変えるなど工夫して催行しているツアー会社もある。


この本を読んでいると、このツアーに参加していた人たちは、みんなそれなりに登山の経験があったようです。

もちろん、ヒマラヤの8000m級の高山に登るような「山のエキスパート」ではないのですが、「日本百名山」を休みの日には巡っているような人たちばかりです。

このトムラウシ山のツアーも、天候が良ければ、彼らの数多くの山での経験のうちのひとつ、でしかなかったはず。

むしろ、3人のガイドたちが、このトムラウシ山にあまり詳しいとはいえず、参加者のスキルをあまり把握できておらず、意思の疎通もとれていなかったことが大きかったようです。

そして、出発時から天候が悪かったにもかかわらず(天候は回復する、と予想していたらしいのですが)、山小屋に留まらず、出発してしまったことが、最大の失敗だったと著者のひとりは指摘しています。


これだけの大きな犠牲が出てしまった理由には、身体が濡れてしまったことや、防寒対策、栄養摂取不足、低体温症への知識不足などが原因としてあげられていますが、やはり、いちばんの問題は「なぜ、悪天候にもかかわらず、出発してしまったのか」なんですよね。

一日、たった一日、天候が回復するまで山小屋で待っていれば、こんな形で、命を落とさずに済んだのに……

結末を知っている僕は、そう思わずにはいられないのですが、生還することができた参加者たちは、こう語っています。


 いずれにしても、悪天候のなかを出発するべきか停滞したほうがいいのかについて、参加者の見解は必ずしも一致していない。

「今回でトムラウシは二度目だったので、上の吹きさらしになるところはよく知っている。ヒサゴ沼避難小屋の建っている窪地でそうとう風が吹いていたのだから、上はもっと凄いだろうということは容易に想像できた。前の晩の状況から考えたら、出発すること自体に無理があると感じた。いちばん望ましいのは、出発しないことだと思う。もしガイドから参加者に対して『どうしましょうか』という問いかけがあったら、おそらくスタートするのは難しかったのではないだろうか」(寺井)

「こんな日には行きたくないなあと思っていたけど、ガイドさんたちが相談して『行く』と決めたのだから行くしかない。もしヒサゴ沼避難小屋で一日停滞していたら、ほんとに快適なトムラウシ登山が楽しめたと思う。でも、自分は一日ずらしてほしいと思っても、ほかの人の予定を考えたら、そんなに簡単にずらせるものではないのだろう」(平戸)

「私の場合、どの山に行ったときでも天気の悪い日の朝は『行きたくないなあ。でもみんなが行くんだから行こう』と思ってしまう。今回も同じ。『あ、行くんだ。しょうがないなあ』と思った。逆に停滞して行程が一日ずれたとしても、それはそれで『しょうがないなあ』と思っていただろう。ただ、もしあのとき『予定どおり帰りたいですか』と聞かれたら、私は『帰りたい』と言っていたと思う」(星野)

 だが、自分たちの不安や要望を誰も口に出してはいない。

 五時半の出発間近になって、西原ガイドが参加者にこう伝えた(トイレに行くなどして話を聞いていなかった参加者も何人かいる)。

「今回の僕たちの仕事は、皆さんを無事に下ろすことです。なのでトムラウシ山には登らず迂回ルートを通るので、了承しておいてください」

 ガイドも含めてみんな、「これは危ないのではないか」と思っていたのです。

 でも、結果的に「止めること」を決断できないまま出発してしまい、引き返そうと思ったときには、もう、引き返せないところにまで来てしまっていた。

 こういうのって、ありますよね……このツアーだけが「異常」だったわけじゃない。

 旅行だと「予定どおりに帰らないと、用事がある」という人だっていますし、同じようにリスクを受け入れて出発しても、途中で天候が回復したり、無事に到着できたりすることもあります。

 というか、多少無理をしても、結果的には何も起きないことのほうがはるかに多いはず。

 引き返したり、延期したりしたら、雇われガイドとしては会社からの評価が下がったり、ツアー客からのクレームが来たりすることもある。

「行けたんじゃないか?」って。

 

「無理をしない勇気」って、本当に大事なのだけれど、いざというときにそれを口に出すのは、けっこう難しい。

 とりかえしがつかなくなってから、後悔しても遅いのに。


 登山をする人は知っておくべき、「低体温症」についての知識が、この本では紹介されています。


 登山中の低体温症は、濡れ、低温、強風などを防ぐことが不十分の場合、行動してから5〜6時間で発症し、早ければ2時間で死亡する、とJ.A.ウィルカースンが述べている。

 低体温の症状が発症し、震えがくる34度の段階でなんらかの回復措置をとらないと、この症状は進行して死に至る。条件によっては、体温低下が急激に進行するために時間的な猶予はない。

 34度の段階で震えが激しくなったことには、すでに脳における酸素不足で判断能力が鈍くなっている。そのため本人または周囲の仲間に低体温症の知識がなければ、何が起こっているのかわからないままにその回復を遅らせてしまうことになる。

 したがって、この34度の症状がポイントとなる。

 しかし、この本で、実際に遭難してしまった人たちの生々しい体験談を読んでいくと、現場では、一緒に行動している人も同じように低体温症を発症していることが多いのです。

 自らも危険な状態なのに、他の人に対して最適な対応をしていくのは難しいですよね。


 この本を読んでいて、僕がいちばん驚いたのは、生還した人たちの「その後」でした。


 もっとも、「自分が行きたい山へのツアーがあれば、これからもアミューズ社を利用する」と寺井は言う。平戸も、「地方には東京のようにツアー会社がたくさんあるわけではなく、選択肢が少ない。かといってひとりで未知の山に行くのは不安だから、自分の目的と都合に合えば、今後アミューズのツアーに参加することもあると思う」と言っていた。事故直後からマスコミやインターネットを通じてアミューズ社とガイドへの批判を繰り広げていた久保は別にして、清水も里見も星野も、事故後もアミューズ社のツアーを利用し続けている。

 多数の死者を出す大量遭難事故の当事者になりながら、その後も事故を起こした会社のツアー登山に参加し続けるのはどうしてなのだろう?

「アミューズ社に対してはなにも思わない。天気がよければ、なにも起こらなかった。だからアミューズ社の責任でもガイドさんの責任でもないと思う」(里見)

「信頼の置けるガイドだったけど、たまたま多数の悪条件が重なり事故が起きた。そのことについて、素人の私が『ガイドが悪い』『あれが悪い』『これが悪い』と言える立場ではない。それよりも、トラブルを最小限に抑えるには、ツアー客一人ひとりがしっかりしろということ」(清水)

 生還した人たちのほとんどが、また、山に登っているのです。

 というか、登り続けている。しかも、同じツアー会社を利用している人もいる。

 僕だったら、もし山でそんな目に遭ったら、もう二度と登らないと思います。

 一度山の魅力にとらわれてしまうと、遭難を経験しても、やめられなくなってしまうのですね……

 いや、僕は正直、これを読んで、「正気か?」と思ってしまいました。

 車の運転とかなら、イヤでもやらないと生きていけないという事情もあるでしょう。

 でも、「登山」は、自分からやろうとしなければ、たぶん、一生やらなくても困らないだろうに。


 とりあえず、「登山が趣味」という人は、一度は読んでおいたほうが良い本だと思います。

 一枚多く防寒着を着ていたかどうか? 一個飴を食べていたかどうか?

 そんな些細なことが、生死を分けることもあるのが、山という場所だから。
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20140704

トムラウシは北海道でいえば、普通の山です。

もちろん、アルプスなどと同じ山という意味ではありません。

あきらかに本州の山とは何もかもが違います。

同じように捉えていることで危険になるというわけです。

私も2年前にトムラウシ温泉〜黒岳縦走しました。

何が危険かといったら、北海道の登山ではテント持ち登山がデフォルトであるため、
管理人がいる山小屋は季節限定で少しありはするが、飯や布団などはないし、
多くが避難小屋。その避難小屋も5時間くらい歩かないと次の小屋が見えません。

山に入り込むとエスケープルートを取っても丸2日かかる。

水源はあるが、動物がいるため煮沸しないと飲めない。

よって、食糧、水、コンロ、シュラフ、テントなどを日数+α分持っていくことになり大変な重量になります。

私の時は、2人で50kg超えました(テントの重量は含まず)。

ちなみに、テント持参せずに管理人のいる小屋に泊まろうとすると怒られます。

学生の山岳部の連中だったら暴風雨でもない限りは追い出されます。

重量過多により何か減らそうとすると、服が減ることになります。

しかし、湿度も高く、小屋ではまず乾かないので、やっぱり重量が多くなるか、
或いは、濡れた服のまま縦走することになり、体調を壊しやすいです。


重量が多くなれば、それだけ疲労も蓄積することになります。

考えてみてください。20kgのリュック背負って毎日10時間歩くんです。

さすがにこれだけの重量があるとコースタイムより大幅にかかります。

アルプスの登山道のようにわかりやすい道はあまりありません。

だだっ広い岩と草原の中、地図とコンパスを頼りに進まざるを得ません。

ましてや、事故当時のように大量の雨により、コースが水浸しになり、
池となってしまっていたら、道を見失うのは必然とも言えます。


誰が池の中が本来のコースだと思えるでしょうか?

そこにはマークもロープも無いんですよ?


私はその現場に行ったから状況がよくわかります。

人災だのガイドの責任だの平然と非難する人たちは登ったことすらないでしょうね。


トムラウシは毎年何人も帰らぬ人となっています。毎年何人も遭難しています。

トムラウシでの遭難事故は単独、複数問わず毎年起きています。

2009年のトムラウシ遭難事故の前にも、2002年にツアーでない遭難事故が起きています。

2009年のトムラウシ遭難事故になる当日に出発したヒサゴ沼避難小屋は、
遭難者の関係者の寄付によって立った避難小屋です。

避難小屋が立つほど恒久的に遭難事故が起きているんです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1093858495


山の恐怖 〜トムラウシ山遭難事故〜 2016/08/11
http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/160811_1.html

今日、8月11日は、今年から新たに制定された「山の日」。 登山ブームなどにより、山に親しむ機会が増えた一方、昨今では山での死亡事故も増加の一途をたどっている。

 夏山史上最悪と言われる、8名の犠牲者を出した『北海道・トムラウシ山遭難事故』を詳細な事故調査報告書、事故の真相に迫った書籍、その作成に関わった関係者への取材…そして、生還した人々の証言から検証する。 そこから見えてきたのは…人間が次々に正気を失っていく恐怖の現象だった。


今から7年前の7月14日。 この日、18名のパーティが北海道中央部にそびえるトムラウシ山を目指して出発した。 まずは北海道の最高峰・旭岳の5合目までをロープウェイで上がり、そこから登頂したあと、山々の稜線を伝って最終的にトムラウシ山へと登頂するルート。 途中、無人の山小屋に宿泊しながら2泊3日で踏破する、本格的なツアー登山だ。

 北海道とはいえ、真夏なら気温は10℃前後になり比較的穏やか。 景色も美しく、登山愛好家にとっては憧れの地だった。


東京の旅行会社が企画したこのツアーは、50代〜60代の登山客15名に経験が豊富なプロのガイド3名が同行。 万全の態勢で挑んでいた。 さらに、ツアー参加者は、一番経験の短い人でも6年の登山歴があり、皆、登山装備はしっかりした物を準備していたという。

 初日は天気もよく、参加者たちは意気揚々と登山を開始した。 その日は順調にルートを消化し、山小屋に宿泊。


2日目も早朝5時に小屋を発ったのだが…出発時から降っていた雨が次第に強まり、山道はぬかるんでいた。 それでも15時前には、予定通り2日目の宿泊地となる山小屋に到着。 だがそこでは、すでに他のパーティが宿泊していたため、十分なスペースが確保できず、濡れた装備が乾かせない状況だった。


そのあとは、思い思いに夜を過ごした参加者たち。 旅の話で盛り上がり、遅くまで起きていた者もいれば、喧騒を避け早々に床に着いた者もいた。

 深夜3時、雨脚は強まり暴風雨と化していた。 雨が小屋の中に染み込んで満足に眠れない者も多数いた。 そして、この状況こそが、のちの悲劇に大きな影響を及ぼすことになったのだ。


翌朝。 ガイドは天候の回復を考慮して、予定より30分遅い朝5時半に出発することにした。 さらに、トムラウシ山への登頂は諦め、迂回ルートを通って下山することを決定した。

 参加者たちは、登山経験豊富とはいえ、ほとんどが素人。 台風のような天気の中、歩くことに不安はあったが…山のプロであるガイドの決定に従うのは当たり前のことだった。 さらに…ツアー登山だったため日程を延ばすと、飛行機・旅館など予約しなおさねばならず、それ以上の出発延期はためらわれた。


 結局、5時30分、パーティは山小屋を出発。 途中、木道を通り、岩場のロックガーデンへ。 まっすぐ進むとトムラウシ山にぶつかるが、この日は頂上には登らず、反時計回りで迂回し、麓へ下山していくルートだ。

 だが、山の稜線に出て木道に差し掛かった頃だった。 パーティをものすごい強風と激しい雨が襲った。 ガイドたちが予想した天気の回復は遅れていた。 しかも、風を遮るものがない稜線に出た時に、風雨は最も激しくなってしまったのだ!


さらに、出発して1時間も経たない頃だった。 男性が、足がもつれ上手く歩けなくなっていた。 参加者の1人である前田さんが声をかけ、名前を聞いたものの…明らかに様子がおかしかった。 だがこれは、のちに彼らを襲う恐怖の現象の序章に過ぎなかった。


まともに歩けないほどの強風の中、前進を続けるパーティ。 北沼と呼ばれるトムラウシ山の見所の1つまで到達したのだが… 氾濫した水が幅2メートルほどの流れとなって、行く手を遮っていた。

 それでも、ひざ下くらいまでの水量だったため、2人のガイドが川に入り、参加者たちが渡るのを必死に介助した。 だが…山崎ガイドが転倒し、ずぶ濡れになってしまった。


一方で、先に渡った参加者も全員が渡りきるまで待機。 強風が吹きつける岩場で、1時間から1時間半もの間、待たされることに…。 すると、1人が突然奇声を上げだした。 さらに…他の参加者たちも、けいれんを起こすなど、次々に異変を起こしていた。 中には意識を失う者もいた。 さらに、ガイドリーダーである西原の様子もおかしい…。


判断が出来ない西原に代わり、2人のガイドが相談した結果、行動不能になった参加者は、その場で救援を待つことになった。 雨が弱まる中、山崎ガイドはその時点で行動可能だった10名を引き連れ、下山を始めた。

 前田さんは、知り合いの阿部さんに体力をつけるために飴を舐めることを勧めたのだが…阿部さんは無表情に振り返りかえっただけだった。

 一方その後方では…歩くことが困難になった者が現れ…さらに、倒れてしまう者もいた。 そばにいた参加者が「誰か手を貸して」と叫んだのだが…その声に応える者は誰もいなかったのだ。

 先を行く参加者にも異変が現れていた。 突然、歩くのを止めて…意味不明な言葉を発したかと思えば、その場に倒れてしまった。


次々に不可解な行動をとりだす参加者たち。 だが、彼らの下山を先導するはずの山崎ガイドは…後ろを振り返ることなく進んでいた。

 山崎ガイドに必死に追いついた前田さんが「みんなを待たなくても良いんですか?」と質問したのだが… 「救助を呼びに行かなきゃいけないから早く行くんです。」と言い、歩き出してしまった。 だが、…山崎ガイドにまで異変が起こり、座り込んで動けなくなってしまったのだ!


すると、その時…前田さんの携帯が鳴った! これまではずっと圏外だったが、ようやく電波の入るエリアに差し掛かっていたのだ。 電話をかけてきたのは夫だった。 前田さんは遭難しかけていると伝えたのだが、夫は遭難を冗談としか捉えてくれなかった。

 すると…山崎ガイドがその携帯で110番するように指示をした。 しかし…警察に場所を聞かれるものの、山崎ガイドは呂律が回らず伝わらない… 途中、何度も電波が途絶えたりしたこともあり、結局、居場所を伝えられぬまま、バッテリーは切れてしまった。


すると、山崎ガイドが自分の携帯を出すと言いだした。 前田さんはこの時、『自分の携帯を持っているなら、自分で110番すればいいのに』と思ったという。 しかし…山崎ガイドは携帯を出したものの、でたらめにボタンを押すばかりで電話がかけられない状態だった。 統率するはずのガイドまでもが、完全に正気を失っていたのだ!

 楽しいはずの夏山でパーティを襲った恐怖の異変。 経験豊富なガイドさえも正気を失っていた。 そこへ、山崎ガイドの先導で下山していた参加者の1人が合流。 遅れてはいたが正気を保っていたので、救助要請を急ぐため、山崎ガイドを残して2人で下山することにした。


そして、2人はなんとか麓にたどり着き、警察に救援を要請。 その日は日が落ちていたため、翌朝から捜索が開始された。 陸上自衛隊からも約30名が投入され、ヘリコプターによる懸命な救助活動が展開された。 だが、参加者7名に加え、途中で異変を起こしたガイドリーダー西原、合計8名が命を落とす大惨事となった。

 パーティを襲った謎の異変の正体。 それは…『凍死』。 当時の報道によれば、8名全員が真夏に凍死していたという。


事故調査に携わった金田正樹医師によると、これらは典型的な低体温症だという。 低体温症とは、体温の低下に伴って体に異変が生じ、最後には死に至る恐るべき症状である。 症例に個人差はあるが、通常なら36°C台の体温が1°C下がると寒気に襲われる。

 35°Cになると、皮膚感覚が麻痺したようになり、次第に体が震え出し、歩行が遅れがちになる。 参加者の多くの歩行が遅くなったのは、この症状だ。

 34°Cになると口ごもるような話し方で、意味不明な言葉を発するようになる。 無関心な表情をしたり、軽度の錯乱状態になることで判断力が鈍ったりする。


 34〜32°Cになると、もはやまっすぐに歩くことは困難。 感情がなくなり、不整脈を起こす。
 32〜30°Cでは、立つことさえ不可能に。
思考が停止し、筋肉が硬直。 意識を失う者も出てくる。
 30〜28°C。
半昏睡状態となり脈が弱くなる。 呼吸数も半減。
 28〜26°Cでは昏睡状態。
心臓が停止し、死に至ることが多い。


だがなぜ、真夏に低体温症になってしまったのか? 事故が起こった日、トムラウシ山の気温は、いつもなら10°C前後のところ、午前中は約6℃。 午後はさらに低下し、3、8℃を記録。

 確かに寒い、だがこの時期のトムラウシ山では想定内の気温。 特別寒かったわけではないという。 参加者たちも十分な防寒具を持っていたと報告されている。 では、彼らの体温を奪った原因とは?


低体温症に至る要素は、すでに前日の山小屋から始まっていた。 雨で濡れた装備を完全に乾かすことができなかったため、湿った服が徐々に体温を奪ったという。

 その後、風速20メートルを超える強風に体温を急激に奪われた。 風速が1メートル増すごとに、体温は1℃下がるという。 湿った服と強風で、当時マイナス10数℃くらいの体感温度になっていたと推測される。

 亡くなった人たちは、ザックの中にダウンジャケットなど防寒具を入れたまま、着用せずに倒れていた。 これは、低体温症により思考が鈍っていたためだと推測される。


参加者たちは、氾濫した沼を渡る時、暴雨風の中に長時間さらされていた。 この時に体温は34℃を下回り、低体温症になった人が多かったと思われる。 その時点で行動可能だった10名が、のちに次々と異変を起こしたのは、歩き出したことで冷やされた血液が全身に回り、低体温症が急速に悪化したためだと考えられている。

 登山中の低体温症は対策が不十分の場合、行動してから5〜6時間で現れる。 その後、早ければ2時間で死亡すると言われる。 低体温症を発症し、判断力が鈍り始める34℃の段階でなんらかの回復措置をとらないと、症状は進行して死に至るケースが多いという。

だが、同じ環境下にも関わらず、助かった人もいた。 生死を分けたものとは一体何だったのか?


『理由1 十分な睡眠休息』
 亡くなった参加者たちは、前日の山小屋で十分な睡眠をとっていなかった。 疲労が蓄積すると、体温をあげるためのエネルギーも不足してしまう。


『理由2 防水・防寒対策』
 助かった人たちの多くは、防寒具の隙間に雨が入り込まないように、タオルなどで水の浸入を防いでいた。 自力で下山し、救助要請をした前田さんは…タオルに穴をあけた簡易防寒具を首から被り、なるべく体が濡れないように細心の注意を払っていたという。

 また、低体温症が進行する前に、フリースなどの防寒具を着用した者もいた。 低体温症が進行し、判断力が鈍くなってからでは遅い。 現に亡くなった方は、防寒具を持っていたにも関わらず、ザックから出すことすらできなかったという。


『理由3 カロリー摂取量』
 自力で下山した前田さんは、ポケットにすぐ口にできる飴やチョコレートを入れ、時々食べていた。 一度、正気を失ったにも関わらず、チョコレートを摂取したことにより回復、正気を取り戻した参加者もいた。

 だが、亡くなった人の多くは、ザックの中に食料をしまっていた。 思考が低下していたこともあって取り出さず、また食べる量も少なかったという。 つまり、熱を生み出すカロリーを多く摂取していた人の生存率が高かったのだ。


トムラウシ山遭難事故の原因は1つではない。 ツアー会社の管理責任、ガイドの見通しの甘さ、参加客の山に対する認識不足など…複合的なものだったとされている。 だが何より、1番の原因は…低体温症という、死に至る恐るべき現象が、未だ世間に正しく認知されていないことに尽きるのではないだろうか?

 生還者の前田さんは、この経験からこう警笛を鳴らしている。
「夜は絶対ぐっすり眠ることですね。」
http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/160811_1.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/717.html#c2

[リバイバル3] 自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか 中川隆
56. 中川隆[-7617] koaQ7Jey 2017年6月04日 09:45:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

あなたも、その世界で覚えた生き方や考え方から逃れられない

人はその世界に長く居すぎると、そこに自分の考え方や生活のリズムや習慣が積み重なって、徐々にそれを変えることができなくなる。

そして、気が付けばそれが人生を貫く生き方になる。

たとえば、サラリーマンを10年も続けた人は、その生き方に最適化した人ほどサラリーマンという仕事を止めることができなくなる。

真面目に、そして律儀に、サラリーマンという生き方に馴染む努力をした人は、そうすることで厳しい世の中で生きていくことができた。そのため、いくら「違う生き方もある」と言われても変えられない。

どこの世界でもルールがある。そのルールが無意識にまで染み込んで自分の習性になり、その習性が自分の行動ばかりか無意識の考え方にまで影響を及ぼすのである。

サラリーマンの世界でも、上司にはどのように従うのかとか、どのような挨拶をするとか、顧客対応はどのようにするのかとか、服装はどうするとか、言葉遣いはどうするとか、そういった暗黙知に近いルールが存在する。

それに馴染まないとサラリーマンとして生きていけないというルールが夥しくあって、それに自分を最適化すればするほど生き方や考え方が固定化されて変えられなくなる。

「馴染んだ水からは逃れられない」という意味

「その世界に自分を最適化する」というのは、悪い話ではない。悪いどころか、絶対に必要であり、重要なことでもある。

最適化できないと「まだ未熟だ」と思われる。そしていつまで経ってもその社会のルールに馴染めないと、そこから排除される可能性もある。

たとえば、決められた時間に出勤せず、上司の方針には従わず、挨拶もできないような人がサラリーマンをやっても、評価されることはないし、その世界で生きていくこともできない。いずれ放逐されるからである。

その世界に長くいるためには、できるだけ早くその世界に順応し、その世界のルールを覚え、自分の考え方をその世界に合わせなければならない。

自分がその世界でうまく生きていけるように自分自身を最適化するのだ。

もちろん、それは簡単な話ではない。しかし、だいたい3年もすればその世界に馴染み、さらに長く続ければやがてそれが自分の生き方になる。

10年もその世界にいれば、もはや他の世界には移れないほど順応することになる。その世界のルールが、自分の絶対的な常識と化す。

常識は疑わない。だから、それが自分の生き方になるのである。自分の決断や考え方は、自分が最適化したルールの中で行われるようになり、それ以外の考え方は馴染めなくなる。

いったん自分の生きている世界に馴染むと、ほとんどの場合はそれが自分の人生を貫いて変えられないことの方が多い。

絶対に変えられないわけではないが、「身に付いた生き方」というのは変えるよりも続ける方が馴染むので、それは延々と続いていく。

だから、サラリーマンの世界で生きていた人は、失職しても次の仕事はサラリーマンを探す。そこに最適化されているので、その世界以外では生きていけないように思うからだ。

「馴染んだ水からは逃れられない」というのは、このあたりの事情を指している。その世界に自分の人生が最適化されたら、そこにいくら不満や嫌悪があっても抜けられない。


サラリーマンの世界で生きていた人は、失職しても次の仕事はサラリーマンを探す。そこに最適化されているので、その世界以外では生きていけないように思うからだ。


自分がどこの世界に最適化されたのかを把握する

それと同じで、長く水商売や風俗の世界を生きていた女性も、自らをその世界に最適化させている。

その世界の独自の考え方、習慣、生活スタイル、ルールを自分の潜在意識にまで到達するほど強く自分に課す。そして、その女性はそこから逃れられなくなる。

話し方、しぐさ、相手の見方、接客、セックスの方法、道徳の概念、金の使い方、金に対する考え方のすべてが自分のいた世界に最適化されていく。

だから、いったんその世界にうまく最適化された女性であればあるほど、その世界から抜け出せない。もはや生き方そのものがそこに馴染みすぎて、他の生き方をする自分を想像することすらもできなくなる。

そう考えると、「自分がどこの世界に最適化されたのか」というのを把握しておくのは、非常に重要なことであるということに気付く。

何しろ、あまりにも長くその世界にいて、そこに最適化されてしまっていると、もう「馴染んだ水からは逃れられない」可能性の方が高いからだ。

サラリーマンとして生きてきた人はずっとサラリーマンの発想をするし、事業家として生きてきた人はずっと事業家の発想から抜け出せない。

詐欺師として生きてきた人はずっと「うまくいく詐欺」の発想を考えるし、ギャンブラーとして生きてきた人はずっとギャンブラーの生き方や発想をするし、暴力団として生きた人はずっと暴力団の生き方や発想をする。

たとえ、その生き方が自分の不利益になると分かっていても、すでに潜在意識の域まで生き方や発想や生活習慣が染みついてしまっているので、いったんゼロに戻してイチから自分を構築するというのがなかなかできないのである。


いったんその世界にうまく最適化された女性であればあるほど、その世界から抜け出せない。もはや生き方そのものがそこに馴染みすぎて、他の生き方をする自分を想像することすらもできなくなる。


表にも裏にも属していない完全なる孤独者

自分はいったいどこの世界に最適化されたのか……。

最近、私がそれをよく考えるようになったのは、私自身が売春地帯に最適化された人間で、何をどうしても「馴染んだ水からは逃れられない」という事実を痛感しているからだ。

私は常に他人を信じながらも裏切られることを考えて生きているし、裏切られても絶対に自分が破滅しないように何重ものバリアを張り巡らせている。さらに、国家も政治も組織も他人の意見も何も信じていない。

なぜこんな人間になったのかというと、私の人生の大半は「目の前の人を信じない方がうまくいった」からに他ならない。

真夜中の世界というのはあまりにも海千山千の人間が跳梁跋扈としてうごめいている。そんなところで無防備に他人を信じたら馬鹿を見る。

一緒に過ごして愛を交わした女性ですらも、裏切るし、盗むし、騙してくる。

真夜中の世界では、相手の約束をまともに信じる方が馬鹿を見る。時間さえも守られない。交わした約束は常に破られる。相手の性別すらも分からない。

そんなところに何十年も関わっていたら、「他人を信じないことで自分を守る」という方向に自分が最適化されたとしても不思議ではない。

決して人間不信になっているわけではない。私自身は人間が好きだし、誰かを愛したいし、誰かに愛されたい。しかし、自分の考え方が夜の世界の流儀に最適化されてしまっている。

私はもはや旅人であることを止め、売春地帯に長く沈没することもなくなった。

相変わらず真夜中の世界に生きている女性しか関心がないというのは事実だが、今の私自身は裏側の世界に属しているわけではない。

かと言って表社会で他人に雇われているわけでもないし、表社会の誰かと付き合うわけでもないので、必然的に表にも裏にも属していない完全なる孤独者となってしまったが、少なくともアンダーグラウンドには生きていない。

とすれば、もうそろそろ表側の世界に最適化されてもいい頃だと思うのだが、私は一向に考え方や生き方が変わらない。

夜の世界で出会ったわけではない人は、別に私を裏切ったり騙したり脅したりするわけではないと分かっているのだが、あまりにも他人を信じないで生きてきた期間が長すぎたのか、信じない方が私には落ち着くのである。

いや、正確に言えば「裏切られる前提で信じるのが落ち着く」というべきか……。

これは夜の世界では正しい人間関係の接し方だが、この接し方をすべてに当てはめるのは重大な誤りであり、愚かであるというのは分かっている。ところが、無意識が働く。

私もまた「馴染んだ水からは逃れられない」のだろうか。どうやら、そのようだ。

もっとも「馴染んだ水から逃れられない」というのは、私だけではないはずだ。すべての人は自分が生きてきた環境に馴染んで、その世界で覚えた生き方や考え方から逃れられなくなっているはずだ。

あなたは、どうだろうか?


馴染んだ水からは逃れられない。長くいた世界に自分の人生が最適化されたら、そこにいくら不満や嫌悪があっても抜けられない。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170604T0421350900.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/564.html#c56

[政治・選挙・NHK226] 「共謀罪は市民の自由と安全を危険にさらす戦後最悪の治安立法」 松宮孝明立命館大教授  赤かぶ
4. 中川隆[-7616] koaQ7Jey 2017年6月04日 10:16:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

共謀罪を批判しているのは中国の工作員だけだった

英国は、これ以上テロが続くようなら、人権を今より多少軽視してもより有効な対応を採るよう迫られるであろう。考えられる対策として、リストアップされた者への監視と対応を一段と厳しくすることが挙げられる。例えば一定の条件を満たせば、裁判所の令状なしで随時強制捜査が出来るようにすることなどが考えられる。今回の自爆テロのケースに当てはめた場合、もし強制捜査によって爆弾製造現場を押さえていれば未然にテロは防げた可能性はある。


もし英国がここまで厳しい対策を行うとなれば、当然、国際的な「人」の移動への対応も一段と厳しくなる。今回のケースでも、犯人はリビアから帰国してからまもなくマンチェスターで自爆テロを実行している。英国と同様にテロ防止を最重要政策として掲げる各国にとって、監視リストに載っている者の国際的な移動に関する情報交換はより重要になる。

これからの時代、テロに関する適切な情報を相手国に渡せない国の人々は、他国への入国を拒否されるか制限を受けるケースが増えると筆者は考える。つまり国によってはパスポートを持っていても入国を拒否されるのである。今のところ日本のパスポートは国際的に極めて信用が高い。日本のパスポートなら173ヶ国にビザ無しで入国できる(ちなみに中国はビザ無しで渡航できるのが50ヶ国)。しかしもし日本がテロ対策に甘い国と見なされると、今後、日本のパスホート持っていても他国への入国が難しくなることが考えられる。たしかに今日の日本人はテロと無縁と思われがちである。しかし昔、実際にイスラエルのテルアビブで日本赤軍がテロを起こしているのである。


80人もの左翼が首相官邸に自由に出入り

今日、国会でテロ等準備罪(共謀罪)新設法案が参議院で審議されている。この法律は、国際社会の一員としてテロを含む組織犯罪を未然に防止し、これと戦うための枠組みである国際組織犯罪防止条約(TOC条約)を締結することを目的としている。日本はこれに関して必要な法律を整えていないのでこの条約に未加盟である。

たしかに一般の国民にとって、この新設法案がなくても日常生活に困ることはない。しかしテロの脅威が現実のものとして捉えられている欧州各国のテロ対策は、確実に強化されている。前段で述べたように、テロが起ると直に犯人が特定されるのもこれらの対策の成果と言える。


テロが続いた英国などは、昔からテロ対策の先進国であった。英国では町中に監視カメラが設置されるなど、筆者なども大変だなあと思って来た。しかし今回のような自爆テロが起っているのを見ると、これもやむを得ない措置だったと思える。前段で述べた通り、おそらく欧州各国は、今後、人権を多少犠牲にしてもテロ防止を優先する方向に一段と進むと筆者は予想する。

今日、日本でも至る所に防犯カメラが設置されるようになった。またこれが実際の事件の捜査に使われている。このように日本は英国などを後追いをしている。新設法案が成立すると日本はプライバシーが守れない監視社会になると野党の政治家は言うが、現実に日本は既に相当の監視社会になっているのである。


日本の国会でのテロ等準備罪(共謀罪)の議論が極めて低次元なので筆者も驚いている。「居酒屋での発言が新設法案の対象になるのでは」と言った訳の分らない質問が出ている。民進党の中には「この法案が成立し日本が監視社会になるのなら外国に逃げる」と言った間抜けなことを言う議員がいる。

諸外国は欧米と同様、日本より厳しい監視社会になっている国が多い。アジアでもシンガポールなどが監視を一段と厳しくしている。おそらくテロが続くインドネシアやフィリピンなどの監視体制は、今後一層強化されると思われる。米国はビザ申請に過去15年間の渡航歴や職歴を記すよう手続を改正するという。反対に日本は外国からの観光客を増やすために観光ビザの発行条件を緩和しているが、これは世界の流れに逆行していると言える。


テロ等準備罪(共謀罪)はTOC条約加盟に必要である。これによって国境を越え移動する人々の情報をより多くの国と交換できるようになる。仮にこの情報が完璧でなくとも、多少なりともテロの抑止に役立つと思われる。各社の世論調査を見ても分るように、意外と新設法案への賛成が多い。これも一般国民レベルがテロへの警戒を強めているからと筆者は見ている。実際、深夜に多くの外国人労働者(おそらく工場などのシフトワーカー)が自転車で走り回っているのを見て、誰しもが不安を感じているであろう。

筆者がテロ等準備罪(共謀罪)審議で気になるのが、民進党の抵抗が異常で異様なことである。反対理由は「日本が監視社会になる」「安倍一強体制への反発」「家計学園問題の解明が先」などになっている。しかしこれはあくまでも表向きであり本当は違うのではないかという見方がある。ひょっとすると民進党の強力な支援者の中に、新設法案の対象となる者がかなりいるからではと思われるのである。

以前、飯島内閣官房参与がテレビに出演し「民主党政権時代、80人もの左翼が首相官邸に自由に出入りしていた(入館パスを持っていた)」と爆弾発言を行っている(これは故たかじん氏の番組、東京では放送していない・・ネットで探せば内容は分る)。当然、この左翼80人の中には昔の過激派活動家や公安にマークされている者も含まれていたと見られる。旧社会党が民主党に合流したのだから、民進党がこの手の勢力と繋がりがあっても当然と筆者は考える。
http://www.adpweb.com/eco/
http://www.asyura2.com/17/senkyo226/msg/731.html#c4

[リバイバル3] 共謀罪批判は中国・朝鮮工作員が扇動していた 中川隆
1. 中川隆[-7615] koaQ7Jey 2017年6月04日 10:18:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017/6/5(941号)テロ等準備罪(共謀罪)の話


英国マンチェスターのテロ

英国マンチェスターでISによる自爆テロが起り犠牲者が出ている。ISなどによる自爆テロのターゲットは、世界各国に広がっている。しかし残念ながらこの自爆テロは防ぎようがないと思われている。

たしかに未然にテロを防ぐことが難しいことは分かっている。ところが不思議なことに、実際に自爆テロが起ると意外なほど早く犯人が判明する。マンチェスターのケースでは、数時間後に犯人が特定された。それどころか10名を越えるテロに関わった共犯者が、数日のうちに特定され拘束された。同様にパリやブリュッセルのテロの場合も、比較的短期間のうちに犯人や周辺の共犯者は特定された。


つまりほとんどのテロを起こしそうな者は、前もって危険者リストに載せられているのである。英国の場合、1,000名ぐらいがリストアップされているという話である(どの国もこのようなリストを作成している)。マンチェスターの犯人の名もこのリストの中にあった。また今日のテロ事件で迷宮入りしたものはほとんどない。

しかしテロの被害者から見ると複雑な思いがあるに違いない。犯人がそれほど短期間のうちに見つかるくらいなら、何故、事前に対策が講じられなかったかと無念に思うであろう。テロが起ってからでは本当に「後の祭り」である。


これに対し当局にも言い分がある。リストアップされている1,000人のテロ予備軍を日頃から厳しく監視することが仮に出来たとしても、それには莫大なコストが必要となる。1人のテロ予備軍をフルタイムで監視するには10人の監視員が必要と言う。

また仮に完璧な監視が出来たとしても、完全にはテロを防ぐことはできない。もしより完全にテロを防ぐつもりなら、リストアップされた者を全員拘束しておく必要がある。もちろんこの究極の対策は人権上で大問題となる。

しかし英国は、これ以上テロが続くようなら、人権を今より多少軽視してもより有効な対応を採るよう迫られるであろう。考えられる対策として、リストアップされた者への監視と対応を一段と厳しくすることが挙げられる。例えば一定の条件を満たせば、裁判所の令状なしで随時強制捜査が出来るようにすることなどが考えられる。今回の自爆テロのケースに当てはめた場合、もし強制捜査によって爆弾製造現場を押さえていれば未然にテロは防げた可能性はある。


もし英国がここまで厳しい対策を行うとなれば、当然、国際的な「人」の移動への対応も一段と厳しくなる。今回のケースでも、犯人はリビアから帰国してからまもなくマンチェスターで自爆テロを実行している。英国と同様にテロ防止を最重要政策として掲げる各国にとって、監視リストに載っている者の国際的な移動に関する情報交換はより重要になる。

これからの時代、テロに関する適切な情報を相手国に渡せない国の人々は、他国への入国を拒否されるか制限を受けるケースが増えると筆者は考える。つまり国によってはパスポートを持っていても入国を拒否されるのである。今のところ日本のパスポートは国際的に極めて信用が高い。日本のパスポートなら173ヶ国にビザ無しで入国できる(ちなみに中国はビザ無しで渡航できるのが50ヶ国)。しかしもし日本がテロ対策に甘い国と見なされると、今後、日本のパスホート持っていても他国への入国が難しくなることが考えられる。たしかに今日の日本人はテロと無縁と思われがちである。しかし昔、実際にイスラエルのテルアビブで日本赤軍がテロを起こしているのである。


80人もの左翼が首相官邸に自由に出入り

今日、国会でテロ等準備罪(共謀罪)新設法案が参議院で審議されている。この法律は、国際社会の一員としてテロを含む組織犯罪を未然に防止し、これと戦うための枠組みである国際組織犯罪防止条約(TOC条約)を締結することを目的としている。日本はこれに関して必要な法律を整えていないのでこの条約に未加盟である。

たしかに一般の国民にとって、この新設法案がなくても日常生活に困ることはない。しかしテロの脅威が現実のものとして捉えられている欧州各国のテロ対策は、確実に強化されている。前段で述べたように、テロが起ると直に犯人が特定されるのもこれらの対策の成果と言える。


テロが続いた英国などは、昔からテロ対策の先進国であった。英国では町中に監視カメラが設置されるなど、筆者なども大変だなあと思って来た。しかし今回のような自爆テロが起っているのを見ると、これもやむを得ない措置だったと思える。前段で述べた通り、おそらく欧州各国は、今後、人権を多少犠牲にしてもテロ防止を優先する方向に一段と進むと筆者は予想する。

今日、日本でも至る所に防犯カメラが設置されるようになった。またこれが実際の事件の捜査に使われている。このように日本は英国などを後追いをしている。新設法案が成立すると日本はプライバシーが守れない監視社会になると野党の政治家は言うが、現実に日本は既に相当の監視社会になっているのである。


日本の国会でのテロ等準備罪(共謀罪)の議論が極めて低次元なので筆者も驚いている。「居酒屋での発言が新設法案の対象になるのでは」と言った訳の分らない質問が出ている。民進党の中には「この法案が成立し日本が監視社会になるのなら外国に逃げる」と言った間抜けなことを言う議員がいる。

諸外国は欧米と同様、日本より厳しい監視社会になっている国が多い。アジアでもシンガポールなどが監視を一段と厳しくしている。おそらくテロが続くインドネシアやフィリピンなどの監視体制は、今後一層強化されると思われる。米国はビザ申請に過去15年間の渡航歴や職歴を記すよう手続を改正するという。反対に日本は外国からの観光客を増やすために観光ビザの発行条件を緩和しているが、これは世界の流れに逆行していると言える。


テロ等準備罪(共謀罪)はTOC条約加盟に必要である。これによって国境を越え移動する人々の情報をより多くの国と交換できるようになる。仮にこの情報が完璧でなくとも、多少なりともテロの抑止に役立つと思われる。各社の世論調査を見ても分るように、意外と新設法案への賛成が多い。これも一般国民レベルがテロへの警戒を強めているからと筆者は見ている。実際、深夜に多くの外国人労働者(おそらく工場などのシフトワーカー)が自転車で走り回っているのを見て、誰しもが不安を感じているであろう。

筆者がテロ等準備罪(共謀罪)審議で気になるのが、民進党の抵抗が異常で異様なことである。反対理由は「日本が監視社会になる」「安倍一強体制への反発」「家計学園問題の解明が先」などになっている。しかしこれはあくまでも表向きであり本当は違うのではないかという見方がある。ひょっとすると民進党の強力な支援者の中に、新設法案の対象となる者がかなりいるからではと思われるのである。

以前、飯島内閣官房参与がテレビに出演し「民主党政権時代、80人もの左翼が首相官邸に自由に出入りしていた(入館パスを持っていた)」と爆弾発言を行っている(これは故たかじん氏の番組、東京では放送していない・・ネットで探せば内容は分る)。当然、この左翼80人の中には昔の過激派活動家や公安にマークされている者も含まれていたと見られる。旧社会党が民主党に合流したのだから、民進党がこの手の勢力と繋がりがあっても当然と筆者は考える。
http://www.adpweb.com/eco/

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/711.html#c1

[政治・選挙・NHK226] <加計学園>前川氏の「醜聞リーク」でわかった共謀罪の危険度 新恭(まぐまぐニュース) 赤かぶ
4. 中川隆[-7614] koaQ7Jey 2017年6月04日 10:21:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
共謀罪を批判しているのは中国の工作員だけだった

英国は、これ以上テロが続くようなら、人権を今より多少軽視してもより有効な対応を採るよう迫られるであろう。考えられる対策として、リストアップされた者への監視と対応を一段と厳しくすることが挙げられる。例えば一定の条件を満たせば、裁判所の令状なしで随時強制捜査が出来るようにすることなどが考えられる。今回の自爆テロのケースに当てはめた場合、もし強制捜査によって爆弾製造現場を押さえていれば未然にテロは防げた可能性はある。


もし英国がここまで厳しい対策を行うとなれば、当然、国際的な「人」の移動への対応も一段と厳しくなる。今回のケースでも、犯人はリビアから帰国してからまもなくマンチェスターで自爆テロを実行している。英国と同様にテロ防止を最重要政策として掲げる各国にとって、監視リストに載っている者の国際的な移動に関する情報交換はより重要になる。

これからの時代、テロに関する適切な情報を相手国に渡せない国の人々は、他国への入国を拒否されるか制限を受けるケースが増えると筆者は考える。つまり国によってはパスポートを持っていても入国を拒否されるのである。今のところ日本のパスポートは国際的に極めて信用が高い。日本のパスポートなら173ヶ国にビザ無しで入国できる(ちなみに中国はビザ無しで渡航できるのが50ヶ国)。しかしもし日本がテロ対策に甘い国と見なされると、今後、日本のパスホート持っていても他国への入国が難しくなることが考えられる。たしかに今日の日本人はテロと無縁と思われがちである。しかし昔、実際にイスラエルのテルアビブで日本赤軍がテロを起こしているのである。


80人もの左翼が首相官邸に自由に出入り

今日、国会でテロ等準備罪(共謀罪)新設法案が参議院で審議されている。この法律は、国際社会の一員としてテロを含む組織犯罪を未然に防止し、これと戦うための枠組みである国際組織犯罪防止条約(TOC条約)を締結することを目的としている。日本はこれに関して必要な法律を整えていないのでこの条約に未加盟である。

たしかに一般の国民にとって、この新設法案がなくても日常生活に困ることはない。しかしテロの脅威が現実のものとして捉えられている欧州各国のテロ対策は、確実に強化されている。前段で述べたように、テロが起ると直に犯人が特定されるのもこれらの対策の成果と言える。


テロが続いた英国などは、昔からテロ対策の先進国であった。英国では町中に監視カメラが設置されるなど、筆者なども大変だなあと思って来た。しかし今回のような自爆テロが起っているのを見ると、これもやむを得ない措置だったと思える。前段で述べた通り、おそらく欧州各国は、今後、人権を多少犠牲にしてもテロ防止を優先する方向に一段と進むと筆者は予想する。

今日、日本でも至る所に防犯カメラが設置されるようになった。またこれが実際の事件の捜査に使われている。このように日本は英国などを後追いをしている。新設法案が成立すると日本はプライバシーが守れない監視社会になると野党の政治家は言うが、現実に日本は既に相当の監視社会になっているのである。


日本の国会でのテロ等準備罪(共謀罪)の議論が極めて低次元なので筆者も驚いている。「居酒屋での発言が新設法案の対象になるのでは」と言った訳の分らない質問が出ている。民進党の中には「この法案が成立し日本が監視社会になるのなら外国に逃げる」と言った間抜けなことを言う議員がいる。

諸外国は欧米と同様、日本より厳しい監視社会になっている国が多い。アジアでもシンガポールなどが監視を一段と厳しくしている。おそらくテロが続くインドネシアやフィリピンなどの監視体制は、今後一層強化されると思われる。米国はビザ申請に過去15年間の渡航歴や職歴を記すよう手続を改正するという。反対に日本は外国からの観光客を増やすために観光ビザの発行条件を緩和しているが、これは世界の流れに逆行していると言える。


テロ等準備罪(共謀罪)はTOC条約加盟に必要である。これによって国境を越え移動する人々の情報をより多くの国と交換できるようになる。仮にこの情報が完璧でなくとも、多少なりともテロの抑止に役立つと思われる。各社の世論調査を見ても分るように、意外と新設法案への賛成が多い。これも一般国民レベルがテロへの警戒を強めているからと筆者は見ている。実際、深夜に多くの外国人労働者(おそらく工場などのシフトワーカー)が自転車で走り回っているのを見て、誰しもが不安を感じているであろう。

筆者がテロ等準備罪(共謀罪)審議で気になるのが、民進党の抵抗が異常で異様なことである。反対理由は「日本が監視社会になる」「安倍一強体制への反発」「家計学園問題の解明が先」などになっている。しかしこれはあくまでも表向きであり本当は違うのではないかという見方がある。ひょっとすると民進党の強力な支援者の中に、新設法案の対象となる者がかなりいるからではと思われるのである。

以前、飯島内閣官房参与がテレビに出演し「民主党政権時代、80人もの左翼が首相官邸に自由に出入りしていた(入館パスを持っていた)」と爆弾発言を行っている(これは故たかじん氏の番組、東京では放送していない・・ネットで探せば内容は分る)。当然、この左翼80人の中には昔の過激派活動家や公安にマークされている者も含まれていたと見られる。旧社会党が民主党に合流したのだから、民進党がこの手の勢力と繋がりがあっても当然と筆者は考える。
http://www.adpweb.com/eco/

http://www.asyura2.com/17/senkyo226/msg/737.html#c4

[リバイバル3] 2015年 かぐらスキー場スノボ遭難 雪洞に2晩ビバークして奇跡の帰還 _ 練子広寿は只者ではない

2015年 かぐらスキー場スノボ遭難 雪洞に2晩ビバークして奇跡の帰還

遭難お騒がせ男「練子広寿さんの髪型」がヤバイ
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%B7%B4%E5%AD%90%E5%BA%83%E5%AF%BF

かぐらスキー場で遭難した三人を救助 _ 人気の「練子広寿」動画 - ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/tag/%E7%B7%B4%E5%AD%90%E5%BA%83%E5%AF%BF


2015年 1月4日 18時07分
救助の3人 登山届け出さずコース外エリアに

新潟県湯沢町のスキー場にスノーボードをしに来て連絡が取れなくなっていた東京の40代の男女3人は、全員無事ヘリコプターで救助されました。

3人は「バックカントリー」と呼ばれるスキー場のコースから外れたエリアに登山届けを出さずに入り、遭難したということです。

無事救助されたのは、東京・世田谷区のデザイナー、練子広寿さん(45)と妻の真美さん(44)、知人で杉並区の会社員、山本亜紀さん(40)の3人です。

3人は大みそかから新潟県湯沢町の「かぐらスキー場」にスノーボードをしに訪れていましたが、2日宿泊していたふもとのロッジを出たまま戻らず、行方が分からなくなりました。

警察や消防が4日朝、ヘリコプターなどで捜索したところ、午前9時前、スキー場がある山の頂上から北側に2キロほどのコース外の斜面で3人が手を振っているのを警察のヘリコプターが見つけ、無事救助されました。

3人は手と足に軽い凍傷のような症状があるということですが、命に別状はないということです。

3人は「バックカントリー」と呼ばれるスキー場のコース外のエリアに登山届けを出したとうそをついて入り、 遭難したということで、雪洞を掘って寒さをしのぎ、天候がよくなった4日になって尾根に向かって歩いていたところを発見されたということです。

「大変申し訳ありません」と謝罪

救助された3人は南魚沼市の南魚沼警察署で記者会見し、「ご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでした」と謝罪しました。

そして、東京・世田谷区の練子広寿さんが遭難した当日を振り返り、「当初、2日に帰宅する予定だったが、今シーズン初めて山頂近くまで行くリフトが動くことになったことを知り、急きょ滑ることを決めた」と述べました。

そのうえで、「滑ろうとした所は、リフトの先のコース外の場所だった。登山届を出したとスキー場の従業員にうそをついてコース外に出た」と話していました。

また、遭難した原因について「積雪が多く、胸の高さまで積もっていたため滑る道が分からなかった。

先行するスキー客についていったが、自分たちの予定とは違う場所に来たので、自分たちだけコースを変えたら道に迷ってしまった。この場所を滑るのは今回で5回目になるが考えが甘かった」と話していました。

夜間は2日間とも雪洞を掘って中に入り、寒さをしのいでいたということです。
そして、「助かって本当にほっとしている。

冬の雪山の恐ろしさをまざまざと知った。

身の丈にあった行動をしなければならないと痛感した」と涙を見せて話していました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150104/k10014422961000.html

▲遭難から救助までの経緯

3人は2日の午前11時ごろ、リフトの先にあるゲートから、スキー場のコースの外になるバックカントリーのエリアに入りました。

このあと、登山道を登るなどして「小湿原」と呼ばれる場所まで、たどり着きました。
到着したのは午後2時ごろでした。ここで、本来は「中尾根」と呼ばれる方向に進み、その先にあるスキー場へ下っていくはずでした。しかし、ここで道に迷い、逆側の谷を下ってしまったのです。

ただこの時点で、遭難した認識はなく、「予定したところを滑っていると思った」といいます。

午後6時の時点で「怪しい」と思いましたが、携帯電話の電波は通じず、位置情報の機能も間違っているかもしれないと考えこれまでの経験から「沢を見つけよう」と移動を続けます。

結局1日目に寒さを防ぐための雪洞を掘り終えたのは午後11時半ごろだったということです。

2日目は昼ごろに遭難したことを実感しましたが、深い雪で長い移動はできず、近くに雪洞を掘り、また一夜を明かしました。

そして3日目に山頂から北西に2キロほどの斜面を尾根に向かって登っているところを警察のヘリコプターに発見され、救助されました。

相次ぐ「バックカントリー」での遭難

スキー場のゲレンデから入ることができる自然の山はスキーやスノーボードを楽しむ人の間では「バックカントリー」と呼ばれ、ふかふかの新雪を滑ることができるとあって近年、人気を集めています。

今回3人が遭難したのもこの「バックカントリー」と呼ばれるエリアで、夏場の登山道をつたって尾根を滑り、ゲレンデに戻ってくる道順は「かぐらスキー場」では山スキーを楽しめる場所として多い日でおよそ60人が訪れるということです。

コース外の危険を伴う場所のため、スキー場ではエリアの入り口に従業員を自主的に配置して、中に入る人たちに登山届けの提出を求めています。

警察によりますと昨シーズンまでの5年間で、今回の3人と同じ「中尾根」を目指す道順で道に迷い、遭難したケースが8件と後を絶たないということです。

警察はスキー場に対し、登山道がどこにあるか分かるよう高さ3メートルほどの竹ざおに赤い旗を付けて登山道に沿って目印を設置するよう呼びかけていましたが、
天候不良のため、今シーズンは山頂まで行くリフトが2日、初めて稼働したこともあり、目印はまだ設置されていませんでした。

かぐらスキー場では早急に目印の設置を行うほか、登山届けの確認を徹底するなど、対策を行いたいとしています。
 


____


かぐらスキー場での遭難から生還できた装備と判断・実行力、その生還に絞った教訓などあげてみた。 2015年1月6日
http://koshikuwa.info/?p=598


外に出てみたい、安全な囲いを破って危険な自由へと身をさらす。
冒険家とまでいかなくてもある程度手軽に自然の中に冒険に入ることができる時代になりました。

美しくて刺激的な自然は時には極めて危険なものになるのでした。

今回の新潟県湯沢町のかぐらスキー場外で起きた遭難事故は様々な教訓に満ちていました。

個人的には「無謀な遭難事故」ではなく、「神楽ケ峰山域でバックカントリースノーボードというスポーツでの事故」だという認識です。甘い判断も幾分かはあったけど、それは未知を開く、冒険する人には欠かせない要素でもありますし、装備やその他の判断力・実行力はむしろ素晴らしく、同行の女性2名を無事に生還させました。

遭難は判断が甘かったとしか言えませんが、生還は別です。このまとめは生還に重しをかけたものです。

謝罪会見も引き受け、恥ずかしい姿、泣き言を全国に晒す、その勇気とその判断力にも脱帽です。私がこういうまとめをしているのもそれに心が動いたからです。


横道にそれました、何よりも「2晩も行方不明で3人全員が無事大きなけがもなく生還したこと」がこの遭難事故の大きな特徴です。

今回の事故の概要を調べ、遭難した過程・助かった要因を見て様々な危機管理に役立てればと思います。


1、今回の事故のあらまし

スポニチアネックス:「バックカントリースノボ」遭難3人救助 「届け提出」とウソ

引用:

 2日午前中にスキー場のコース外に出て、天然の斜面を滑る「バックカントリースノーボード」を楽しんでいたが、夕方ごろ道に迷った。コース外のこの場所を滑るのは5回目だったが、普段より雪が深く景色が違ったという。

 夜間は持参していたスコップで雪に横穴を掘って3人で座り、深く眠らないよう声を掛け合いながら防寒用マットで体をくるんで過ごした。

同新聞のその他の情報も含め整理すると


•1月2日の午前中スキー場のコース外に出て、天然の斜面を滑った。

•それはバックカントリースノーボードといわれている。

•その場所は5回目だが雪が深く景色が違った。

•・・コース外に出る際、登山届の提出を呼び掛けているが出していない

•・・コース外へ出るゲートでスキー場の係員に「提出した」とうそを言った

•持参したスコップで雪洞を掘り深く眠らないように声かけあい防寒用マットで体をくるんで過ごした。

•(1夜明けた)3日は吹雪のため下山できず

•2晩目もも雪に穴を掘った

•あめやチョコレートで空腹をしのいだ

•4日早朝から山の尾根を歩いていた

•午前8時50分に県警のヘリが発見した


2、バックカントリーとは


Wikipedia:バックカントリースノーボード
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC&es_sm=122&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=4JarVIiHNcbYmAXklYCYDA&ved=0CDcQsAQ#tbm=isch&q=%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89


• 一部引用: 徒歩あるいはリフトや車両、ヘリコプターを利用して雪山を登り、リゾートエリア外(オフピステ)を滑る。リゾートのように管理された範囲外での滑走となるため、より高度な滑走技術だけでなく、雪崩のリスクマネジメント、応急手当など、安全に関わる知識を学ぶことや、専用の装備が必要である。

コースを外れたとか、新雪を求めてコース外に出たとかではない、初めからバックカントリースノーボードをするつもりだったようである。

4,遭難の過程 判断ミス

最初の 1にあることから推論も含めてあげてみます。でも、これはこの3人の方だけで無く、普通に冒険心を持っている多くの人に言えることだと思います。私も少ないながら冒険心がありまして登山やスキーやMTBをやっていましたので少し解ります。

目の前に美しいフィールドがあって、状況を見てマイナス要素が少なければ、決定的な危険が見えなければそこに乗り出すだろうと。


•可能な状況だったらバックカントリースノーボードをやるつもりだったようだ。

•このコースは5回目で有り、できると判断したが、実際は積雪で景色が違うくらいの状況だった。・・・ここに最初の判断ミスがあるように思いますが、入り口がいつもと同じ感じだったら判断を誤りそうです。でも前日1月1日のアメダスを見ると50cm弱の積雪があったことが解ります。新雪が楽しみなスポーツなので何とも言えませんが判断材料にはならなかったのか(多すぎるとか)

•・・コース外に出る際、登山届の提出を呼び掛けているが出していない・・・登山届け、個人的には紙を見つけて記入し提出も解りますが、そろそろスマホでできるようにしても良いように思います。心配性がメンバーに一人いればそれでOK,入力も簡単だろうし。(紙と電子のどちらでも提出できるのが一番いいように思えます。ICT技術でいろいろできそうなんですが・・・これ御嶽山の時も感じましが、どうか本気で検討(利用者負担で)してほしいです。)

•・・コース外へ出るゲートでスキー場の係員に「提出した」とうそを言った・・・これはかなりまずいですが、気持ちはわかります。私はこういう場でウソは言えませんが「提出した」と言う人もそこそこいると思います。 係員との間に「まるまる自己責任ですよ、いいですね」ということが成立した瞬間ですね。

•ほかにもバックカントリースノーボードをやっていた人がいたかどうかは不明ですがコースの状況判断・登山届け未提出の点に油断があったものと思いますが、この2点はおそらく日常茶飯事のものと思います。


5,装備・救助に至る 判断力

で、遭難してしまうわけですが、そのとき準備していた装備を見てみます。


•折りたたみスコップ
•防寒用マット
•食料


個人的感想

•バックカントリースノーボードというスポーツの装備が上記2のWikipediaにあります。そこには装備として「スノーシュー、輪かんじき、ストック、ウェア、バックパック、ビーコン、プローブ、シャベル」があります。その多くが揃えられていた感があります。 雪洞を掘って防寒用マットにくるまって二晩を過ごす。すばらしいです。

•雪洞を掘る判断、吹雪の日に丸1日動かなかった判断、救助に目立つように、安全なように尾根を登る判断、実際にその尾根ルートで発見されるわけです。

•今回の装備・判断について、是非お話をされるか書いてもらって真実を広く伝えていただきたいところです。

 何を使われていたかは不明ですが、気になる人はチェック


 Hopkins 【組み立て式軽量アルミショベル2本セット】(amazon)
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6,togetterまとめ「かぐらスキー場遭難生還「二晩生き延びた」に教訓を見た人のツイート」

今回の生還に関して素晴らしいことだと思う人がやはり多くいました。

かぐらスキー場遭難生還「二晩生き延びた」に教訓を見た人のツイート

慣れ・軽はずみ・知識不足とかで人は様々な失敗をします。
今回の遭難からの生還、邪魔になる非常時用装備を持っていたり、適切なタイミングでの雪洞とか、この人たちの判断・行動から学べるものはあります。
届けを出さなかったとかの反面教師部分も含めて。

kosikuwa  2015-01-04 17:38:02
遭難して救出されたスノーボーダー、会見することになったのはなんでだろう。
しかし、食料やアルミシートを持っていたのは、遭難も前提にしてたからかな?
いずれにしても、雪洞を掘って寒さをしのいでいたらしいし、只者ではない感じ。

樋口 裕乗 のコメント: 2015年1月7日 11:19 AM

助かってよかった!雪洞に2晩ビバークして助かるなんて奇蹟だ。

県警も悪天候の中でよく救助したものだ。

だけど以前私もウインドサーフィンやっていたけど「流されて板にしがみついていれば助かるなんて甘く考えるなよ。スキー場と違い海ではすぐにスノーボードがきてレスキュウされるもんじゃないんだぞ。」とベテランに脅かされたことを思い出しまた。

今回の捜索費、ヘリの油代は誰がはらうのしょうか?
http://koshikuwa.info/?p=598

231 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2016/10/15(土) 12:51:03.57
今年もネリコは悪例として会見映像をNHKで晒してほしいな


232 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2016/10/15(土) 15:00:03.18

リフト券売り場あたりで大画面テレビか窓口脇に ipad 置いて
ループ再生させとけば真似するバカいなくなるだろ


233 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2016/10/15(土) 16:24:24.00

つっても入山届出してなかったことと変な方落ちた以外は装備しっかりしてたし非難される程じゃないんだけどね


241 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2016/10/15(土) 18:19:51.59

おまいらが不親切だから調べてきたが
呪術師みたいなおっさんやないか
3日も生き延びたんだからただ者じゃないと思うが


246 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2016/10/16(日) 04:22:45.47
>>241
雪洞掘って食料やエマージェンシーシートも持ってて、単独行動せず明るくなったら尾根に登ってと、遭難者の行動としては教科書みたいな行動取ってる

というか調べたら大半が中尾根方面いって方向間違えて津南方面行っちゃってんだよな
天候が悪い、ガスが出てなどあるけど

いっそかぐらは尾根にロープ貼っちゃえよw


244 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2016/10/15(土) 23:34:29.16

ネリコくんのおかげ、じゃなくて、のせいで、
5ロマがしばらくお昼12時閉店にされたんだぞ

たしかに迷惑かかった
しかし連れの女子2名も助かってよかったじゃまいか。


ネリコ事件のあと、昨シーズンだったけ?一昨年っだったけ?
ひとりボダ遭難事件は、あっさり数日で捜索打ち切りやったな


春以降でご遺体は上がったのかね


245 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2016/10/16(日) 03:50:19.95

あれスキーヤーじゃなかったけ
あの後行ったけど駐車場にぽつんと1台車があるのがこわかったな

やっぱ一人でBCいくなら、奥の方入ったらだめだな
沢も埋まってても万が一に対処できないから避けないとな
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/ski/1470623074/


373 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2017/01/13(金) 00:49:25.14

北アルプスで遭難してもあーそうだよなだけど
かぐらでそう言う事あるとふざけんな
けしからんってなるよな
エリア外行く人間のスキルが絶対的に違うんだろけど

375 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2017/01/13(金) 00:54:24.01

トレッドヘアーの人はなんだかんだ言って無傷で帰ってきてるから素直に凄いと思う
非難承知で記者会見を受ける勇気もね
登山届けを出せば完璧だったのにな〜


382 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2017/01/13(金) 03:25:09.93
>>375
登山届けは1日に出していたらしい
しかし悪天候で5ロマ動かず中止に

翌日2日に快晴になり決行して遭難に

登山届けの用紙を余分に持ってなかったのか面倒くさくて出さなかったのかは不明

376 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2017/01/13(金) 00:57:52.99

記者会見は無理やり引っ張り出されてると思ってる。
これだけ迷惑かけたんだからとか今回のことを世間に伝えるのが責務だとか
色々言われて断れない状況に追い込むんじゃないかと。
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/ski/1483793807/


井上 馨 @Colopl1629321 2015-01-04 17:43:18

雪掻きが必要な位の雪国に住んでない人は雪の怖さは理解できない と思う。

かぐらスキー場の遭難は、無謀な行動をしないで雪洞で退避したのが生還できたと思う。

吹雪で周囲が見えなくなると玄関先でも凍死する危険性は、雪国の人でないと理解できないだろう

こたつ猫@SHIP6 @kotatsuneco68 2015-01-04 19:07:28

スノボー遭難事故、助かった最大の要因は体力的に余力がある段階で雪洞を掘った事だろうな。

桑名 健太 @t1940 2015-01-05 09:15:11

新潟・湯沢のスキー場で遭難した男女ら 救助後に号泣会見

擁護の積りはないが此の男適切な措置をしました

冬山遭難したらやたら動くな沢下るな雪洞作り交代で眠る。

外に目印を付けている必ず捜索隊が来ると信じ生きる努力しています。


sm0k3(すもうく) @sm0k3_3000 2015-01-04 17:38:02

遭難して救出されたスノーボーダー、会見することになったのはなんでだろう。

しかし、食料やアルミシートを持っていたのは、遭難も前提にしてたからかな?

いずれにしても、雪洞を掘って寒さをしのいでいたらしいし、只者ではない感じ。

池 正 @IKE_SYO 2015-01-05 10:18:52

湯沢かぐらスキー場で遭難した練子さん達は、2晩雪洞ほって無事助かるとは、

「八甲田山雪中行軍」で当時の軍隊さえほぼ全員遭難したのに、迷惑とは言え賛辞にあたいする対応行動だろう。

冬山遭難対応のみごとな手本。


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DJ タイニー冷奴 @byc2009 2015-01-05 10:45:00

スノボ遭難の人が話題だけど、実は彼らは比較的ちゃんと遭難してるんよね。

雪洞で風を凌いで、暗い時は動かず吹雪がやんだら尾根に向かって登る

補給食も持ってて助かるべくして助かったんだと思うわ。

俺ならちゃんとできんだろな。冬山いかんけど。
https://togetter.com/li/766807


makiguso_taroさん 2015/1/5


かぐらスキー場の遭難って毎年恒例ですが何故今回だけこんなに大事になってるんでしょうか?
めちゃめちゃ監視が甘いゲレンデだと言うのは有名ですよね。
暗黙の了解的な風潮があってそこがルール

守らない人のメリットになってるゲレンデ。

届の有無関係なく救助されると大金を払うはめになるんですか?

ベストアンサーに選ばれた回答 yao77さん 2015/1/7

新潟県警の見せしめ的要素が大きいと思います。

会見のセッティングの他、救助中の映像の提供もしていますので。

警察はたまにこういったことをやります。
最近では、3Dプリンターで銃を作った男性の逮捕時の映像を撮らせましたね。
あれも見せしめですね。

去年から集客の為に厳冬期に頂上リフト(5ロマ)の稼働を始めた
かぐらスキー場のせいで遭難者が激増していますので、
県警も頭にきてるし、歯止めをかけたいんでしょうね。

それに今回は、ドレッドヘアの人が号泣した事でマスコミの興味を引き
扱いが大きくなったこともあるでしょう。
インパクト大ですもんね(笑)

登山届の提出は、本来、義務ではありません。

(最近では一部地域で義務化されていますが…)
提出の有無で救助費用の請求は変わりません。

県警ヘリの場合は費用はかかりません。

捜索に山岳会などのボランティアのチカラを借りた場合、 一人当たり数万円の日当を請求されるでしょうね。

また県警ヘリなどが出払っていて、民間ヘリを使う場合は、個人負担が生じます。
家族の了承をとってから飛ぶようです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14140269829

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/718.html

[リバイバル3] 2015年 かぐらスキー場スノボ遭難 雪洞に2晩ビバークして奇跡の帰還 _ 練子広寿は只者ではない 中川隆
1. 中川隆[-7613] koaQ7Jey 2017年6月04日 11:13:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

かぐらスキー場 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%89%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%A0%B4+

かぐらスキー場 田代エリア - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%94%B0%E4%BB%A3%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2


かぐらスキー場
http://www.princehotels.co.jp/ski/kagura/
https://www.facebook.com/snowkagura

かぐら・みつまた観光協会
http://www.kagura-mitsumata.ne.jp/

アクセス かぐらスキー場
http://www.princehotels.co.jp/ski/kagura/access/

コースマップ かぐらスキー場
http://www.princehotels.co.jp/ski/kagura/coursemap/

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%89%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%A0%B4/@36.859852,138.726501,13z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0x85a816657dbc031e


かぐらスキー場は新潟県南魚沼郡湯沢町にあるスキー場で、日本屈指の広さを誇る。株式会社プリンスホテルが運営している。


もともと、かぐら・みつまた・田代スキー場という名称だったが2006年度シーズンにかぐらスキー場に変更された。また、これらの名称は、各エリアの名称として現在も使われている。

田代エリアから苗場・田代ゴンドラ(ドラゴンドラ)で苗場スキー場と結ばれている。

かぐらエリアを中心に5月最終週まで営業される年が多く、志賀高原上部と並び関東近県で一番遅くまでリフトを営業しているスキー場として名高い。

かぐらエリア
かぐらスキー場のメインゲレンデで、中・上級者向けのコースが多い。3つのエリアの中で最も標高が高く、雪質も良いとされている。
毎年2月になるとかぐら第5ロマンスリフトが運転され、林間エキスパートコースが滑走可能となる。


田代エリア
苗場スキー場からの玄関口。初級者向けコースが多い。


みつまたゲレンデ
山麓の駐車場からロープウェイでつながっている、かぐらスキー場の正真正銘の玄関口。初・中級コースが多い、いわば「ファミリー向け」ゲレンデ。また、パークはこのエリアにある。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/718.html#c1

[リバイバル3] 中川隆 _ 日本文化関係投稿リンク 中川隆
38. 中川隆[-7612] koaQ7Jey 2017年6月04日 11:14:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2015年 かぐらスキー場スノボ遭難 雪洞に2晩ビバークして奇跡の帰還 _ 練子広寿は只者ではない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/718.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/466.html#c38
[政治・選挙・NHK226] 民進党・辻元清美「天皇の存在が気持ち悪くて許せない 同じ空気を吸ってると思うと吐き気がする」 何て骨体
1. 中川隆[-7611] koaQ7Jey 2017年6月04日 12:33:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

確かに昭和天皇はアメリカのスパイで売国奴だから気持ち悪くて許せないよな:


21、マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。

@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。

ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。
http://www.snsi-j.jp/boards/sirogane/152.html


April 29, 2017

天皇メッセージ発見者・進藤栄一氏に聞く 「苛烈な現実 今も」 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ift.tt/2oRPQmn

「天皇メッセージは、1947年9月に宮内庁御用掛の寺崎英成が米国側に伝えたものを米本国に送った報告電文で、昭和天皇がすすんで沖縄を米国に差し出すという内容だった。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の日記でも裏付けられた。昭和天皇実録でも確認されている」

―当時の背景は。

「まだ占領軍内で沖縄をどうするか意見が分かれていた。軍事化を進めて共産主義の対抗基地に使うというタカ派と、日本の民主化を進めることが平和構築につながるとするハト派が拮抗(きっこう)していた。そこへ天皇メッセージが出て来て、それを軸に占領軍内での沖縄の位置付けが反共拠点として要塞(ようさい)化すべきだというものへと明確化していった。それが天皇メッセージの歴史的意義だ」

「さらに翌48年2月に寺崎が2度目の天皇メッセージを届ける。その中で『南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を含め』て反共防衛線をつくるべきだと提言する。最も恐るべきは日本の共産主義化だと。これは戦前以来の発想だった」

―沖縄は日本から切り離され米施政権下を経て72年に日本に復帰した。だが米軍基地の集中は変わらず、基地の自由使用など“軍事占領”ともいえる実態は今も続いている。

「沖縄が日本に復帰した後も米軍基地は残り、逆に強化されている。これは天皇メッセージに始まる沖縄の苛烈な現実の帰結だ」
https://kuantan.me/2017/04/29/april-29-2017-at-0501am/


「天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」GHQシーボルト外交局長

「屈辱の日」と天皇メッセージ 沖縄切り捨て、差別の原点 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ift.tt/2pi9jiJ

ソ連侵攻の防衛線に 昭和天皇 48年、2度目のメッセージ

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効してから28日で65年となった。敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。その原点は昭和天皇が米側に対し「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した天皇メッセージだ。

米政府側が終戦直後に日本の占領政策を策定するさなかの1947年9月、沖縄の米軍占領継続の希望を伝えた昭和天皇の沖縄メッセージに加えて、翌48年2月に2度目の“天皇メッセージ”といえる考えが天皇側から米軍側に伝えられていた。皇室と連合国軍総司令部(GHQ)との連絡係を務めた宮内府御用掛の寺崎英成氏が、ソ連の侵攻に備え「琉球」を含む日本列島からフィリピンを防衛前線とする考えを米側に伝達していた。

共産主義国家による侵攻を懸念し、反共の観点から「日本」を守るとりでとして沖縄の軍事基地化を提案し、さらに「日本」の防衛を米軍に委ねるという施策を積極的に展開していた「天皇外交」の姿が浮かび上がる。

寺崎氏は、GHQのウィリアム・シーボルト外交局長に対し「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、そして可能ならば台湾を米国の最前線地域として選ぶ」のが現実的施策だとする考えを米側に伝えた。

寺崎氏の提案を受けシーボルト氏は、米本国への電文で「寺崎氏の個人的見解を示しているにとどまらず、天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」と説明し、天皇側の意向を反映したものだとの認識を示した。
https://kuantan.me/2017/04/30/april-30-2017-at-1210pm/

http://www.asyura2.com/17/senkyo226/msg/746.html#c1

[政治・選挙・NHK226] 民進党・辻元清美「天皇の存在が気持ち悪くて許せない 同じ空気を吸ってると思うと吐き気がする」 何て骨体
5. 中川隆[-7610] koaQ7Jey 2017年6月04日 13:00:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
阿修羅はCIA直営掲示板で魑魅魍魎氏が監督者だからね

体制側に都合がいいコメントしか認めないのさ
http://www.asyura2.com/17/senkyo226/msg/746.html#c5

[リバイバル3] トムラウシ山遭難事故 中川隆
3. 中川隆[-7609] koaQ7Jey 2017年6月04日 13:18:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2009年07月17日 山の安全全体に公開
トムラウシ山遭難事故。低体温症と、ツアー登山。2つの問題
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3691



 16日、北海道のトムラウシで18人パーティー(内ガイド、付き添い役3人)が遭難し、17日午前9時現在で8人死亡、1人行方不明。同じく美瑛岳で6人パーティー(うちガイド3人)のうち1人が死亡しました。
 山で亡くなられた方々に深く哀悼の意を表します。

 遭難のことでは、私はこのトムラウシで、残雪のため道に迷って、沢を滑落してなくなられた父子のパーティーと行き違ったこともありました。この時期のトムラウシは雪とガレ場でルートを見失う場合も多く、小屋から先はふもとまで人工の退避場所はありませんから、みなさんかなりの苦労をされたように思います。

 7月の道内の山はこれまでも同じ性格の遭難が続き、犠牲者を生んできました。今回のとくにトムラウシ山遭難事故は、道内の山岳遭難としては、かつての北大山岳部の日高山脈での雪崩遭難(6人死亡)の規模を超える、道内登山史上最大の遭難事故になりつつあります。それが夏山の一般コースで起こり、繰り返されていることが、近年の特徴です。

 最近は報道関係者に山の経験がない記者が多いため、どの山域の遭難事故でも、状況や原因が最後まで的確に伝えられない場合があります。今度の問題も気象条件にポイントが当てられた報道になっていますが、私は、とくにトムラウシの大量遭難は、2002年の多重遭難と同様に、ツアー登山がもつ独自の危険性と、低体温症への無警戒が生んだ事故と思います。

 山の遭難では、しばしば気象が原因にされます。今回もその無謀さはあった様子です。そして「気象」と対になって「疲労凍死」という不明確な死因が伝えられることもあります。

 実際には、少し前まで元気で行動してきた登山者が、急に動く意志をなくしたり、状況判断ができなくなったり、その場に倒れこんでしまう。介抱にあたった同行者も、同じ事態に陥る。低体温症特有のこうした事態で不幸を招いてしまう場合が多いのです。

 疲労との違いは、事態が突然、始まること。そして、疲労は徐々にくるし、自覚もできる。また休めば回復するものですが、低体温症は、休憩のあいだも危険ライン(直腸温で30度)へと事態はすすみます。行動できるなら、ゆっくりでも歩いて体温を維持する。動けないなら、風をよけ、濡れた衣服を替えるか、カイロを使うなど、その人の体温を保全し、上げる手立てがすぐとられないと、ほぼ確実に死に至ってしまうことです。

 付近で風を避けビバークし発症者を介護するか、歩行できるならより安全地帯に動けるなら休まず行動するか、的確な判断がいります。吹きさらしで行動も判断も停止するのは最悪です。

 (09年12月18日補足――今度のように強風・雨・低温下で行動中に発症者が出た場合は、発熱量よりも、失う熱の方が上回っている状況です。個人差あり。そのまま行動を続けること自身が危険という段階にあります。北沼で相当数の発症が始まっていたことについては下記を参照。北沼の渡渉は、最後の一線をこえてしまうことになり、ビバークの用意がないままガイドらも低体温症、判断不能に追い込まれた。)

 トムラウシ山遭難。山岳ガイド協の中間報告にみる「低体温症」の実際
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-5521

 「疲労凍死」という呼称は、低体温症という真の原因から見ると、次の問題があります。

 1)こうした危機を感じたら、(歩行できるのならば)休むのではなく安全地帯へ向けてゆっくり行動し体温を保持することが、一番の予防策となるし、安全地帯を得てビバークへも移れます。悪条件下で休むというのは、「疲労」という「偽りの原因」のために、もっとも危険な道へすすんでしまうものです。

 2)休んでいる最中にもどんどん体温が下がる現実、体を早く的確に温める措置の必要性を認識しない点でも、「疲労凍死」という概念は、登山者にとって非常に有害と思います。

 そして3)疲労一般ではなく、低体温症の危険への認識があれば、天候判断やパーティーの行動力の見極めにこれが入ってくるし、体を濡らさず、保温するという装備と服装のうえでの対応、とくに下着対策、ビバークの用意が、出発前に視野に入ることになります。

 新田次郎の「八甲田山」で吹雪のビバークのなか最初に気がふれて、暴れ、衣服を脱いで裸になり、気を失う若い兵士がいました。あれが、低体温症の典型的すぎる始まりです。

 判断力、行動の意欲そのものが急激に失われるのが、もっとも怖い。リーダーが同じ装備、条件にあるパーティーに一気に事態が広がるという認識がなく、暴風をよける地形への退避、テントへの退避と保温の措置、他のメンバーにあらゆる服装を身につけさせる、温かい飲み物をとるなどの可能な限りの機敏な処置をとらないと、低体温症は急速に全体に広がりだします。

 何よりも、その日の出発時に濡れと保温を考慮した服装・装備を身につける指示が決定的です。備えがなければ、そういう天候での行動はやめることです。

 この遭難の特徴は、同じ山で同じ気象条件のもとで行動・入山した他のパーティーがいたのに、そのなかで風雨よけの対策の不備やパーティ全体の行動力の低さなどから、特定のパーティーに犠牲者が出ること。発症はしばしば、突然の判断停止、行動不能として現われ、全体の行動をその場で制約すること、そして、1人の行動不能者が出ると悪条件で救護するメンバーに次々と犠牲者が広がること、そのためある地点でパーティーの相当な割合の人が倒れること、などだと思います。犠牲者の拡大は、リーダーが低体温症の脅威を認識しているか、無防備かという問題が、大きく効いてきていると思います。

 10数年前の立山・真砂岳での、新雪のもとでの8人の遭難もそうでした。

 参考になる良いサイトがあります。

 http://www5.ocn.ne.jp/~yoshi515/teitaion.html

 その場に至れば対応が困難ですから、リーダーは、まず何よりも悪天候下の遭難は低体温症から引きこされることがあること、それは突然に行動不能になる危険をもつことを認識する。そのうえで、行動の判断をすることが求められると思います。全員が退避できるツェルトの用意なども必須になります。

 5年前の同じ時期に、十勝岳で同じ条件、同じツアー登山で犠牲者が出ています。このときは、犠牲になった人の雨具が不備で、症状が出てからも体温保全の処置が尽されないなど、低体温症の認識の点で問題がありました。犠牲者は、濡れた服を着替えることもされず、避難小屋に置かれたまま、パーティーは山頂をめざしました。

 もう一つの問題は、ツアー登山という形式です。

 もしかしたら、今回も、下山後の宿の予約や航空便の予約などで、予備日のない、ぎりぎりの日程だったのではないでしょうか。下山口でツアー客を待っていたマイクロバスが象徴的でした。

 ガイドには、形の上では現地での判断の権限を任される場合もあります。しかし、めざす百名山に登れてなんぼのお客さんと、ツアー会社です。ツアー会社からの評価をふくめ、実際にどこまで中止の判断の権限や条件があったのかと思います。

 天候は16日に悪化していますから、せめてヒサゴ沼から天人峡へ向かえば、トムラウシに着く時刻には森林限界以下に入ることができたと思います。旭岳とトムラウシ。百名山の2つの縦走が売りだったのですね。困難なトムラを後にもってきていますが、週の予想天気の不安定さからいえば、逆ルートを個人の山行なら選択したでしょう。旭岳は、いったん下山してからでも、簡単に登れます。

 行動中の対応もツアー登山は至難です。初対面の同行者の体調判断をしなければならないし、行動できない人が出たあとの指揮系統やチームワークの維持の問題もあります。今回、現地を知るガイドがほんとに1人?だったら、これは会社側にも責任が出てきます。

 NHKニュースでは会社は「すべてはガイドにまかせている」と言っています。
 ではそのガイドの方がどういう地位と権限に、実際におかれていたのかが。気になります。日本の山岳ガイドの全体の地位向上ともかかわる問題と思ってきました。

 ツアー登山問題は、私の下記のページもご覧ください。
http://trace.kinokoyama.net/mt-journal/journal-porosiri2003.htm

 (17日昼すぎの書き込み。写真は、右がトムラウシのカウンナイ川。左が、トムラウシの俯瞰図で、ランドサット衛星画像をカシミール3Dで描画したもの。)

 下記のリンクを追加しました。

低体温症の対策) 予防的なウエア、装備
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3787

トムラウシ山遭難。山岳ガイド協の中間報告にみる「低体温症」の実際
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-5521

2009/7/17 16:52

RE: 低体温症と、ツアー登山。追加情報
 追加の情報です。

 トムラウシの遭難ですが、同行した山のガイドは何人で、現地の経験者はうち何人だったかは、まだ確認できるニュースがありません。

 ツアー登山の一端について、現地ガイドの立場からの、情感こもった怒りの告発は、下記にあります。
http://homepage.mac.com/hirosis/watching/watch031022.html

 今回、主催したツアー会社の、旅行規定(契約)の要点を下記に貼り付けておきます。それによれば、

1)ツアー・リーダーの指示に従わねば、契約解除。つまり旅行代金は返ってこないし、自己責任と読めます。
 「この天気では、避難小屋に残る」といっても、実際上、むずかしいですね。

2)遭難にかかわるあらゆる負担は、個人もちです。
 この規定は、リンクしていた幌尻岳のツアー会社と同じです。

(以下に規定)

添乗員の業務

(17)
@当社は旅行の内容によってツアーリーダー又は添乗員を同行させて、お客様が旅行中サービスを受けることができない恐れがあると認められる時は、旅行契約内容に従った旅行サービスの提供を確実に受けられるために必要な措置を講じます。

A登山旅行はツアーの特殊性から添乗員ではなくツアーリーダーやガイドが同行いたします。添乗員は表記されたコースを除き同行しません。

Bお客様がツアーリーダーの指示に従わず、団体行動の規律を乱し、旅行の安全かつ円滑な実施を妨げた場合は、旅行の途中であっても、そのお客様の事後の旅行契約を解除することがあります。

Cツアーリーダーは、経由地や現地での合流解散になる場合があります。


当社の責任

(18)当社は当社または手配代行者がお客さまに損害を与えたときは損害を賠償いたします。また次のような場合は原則として責任を負いません。お客様が天災地変、戦乱、暴動、運送、宿泊機関等の旅行サービス提供の中止、官公署の命令その他の当社または手配代行者の関与し得ない事由により損害を被ったとき。


特別補償

(19)当社はお客様が当旅行参加中に、急激かつ偶然な外来の事故により生命、身体または手荷物に被った一定の損害について、あらかじめ定める額の補償金及び見舞金を支払います。当社が前項の規定に基づく責任を負うときは、その責任に基づいて支払うべき損害賠償金の額の限度において、当社が支払うべき前項の補償金は、当該損害賠償金とみなします。・・・

旅行傷害保険(任意保険)について

(23)旅行中に被られた一定の損害は、特別補償規定(19)によりお支払いしますが、規定以外一切当社は責任を負いません。万一、事故・疾病等が発生した場合に要する費用はお客様の負担となります。特に山岳事故や海外での疾病の場合は、治療費、移送費、その他救援・捜索など多額の費用がかかることがありますので、お客様ご自身で十分な額の旅行傷害保険に加入することをお勧めします。


 
2009/7/17 20:06

RE: 低体温症と、ツアー登山。2つの問題
ぶっきらぼうなコメント失礼します。

1.10名以上の年寄り中心のクラブツーリズム的なツアーは登山の邪魔です。

2.天気が悪くても私は登りますが、遭難しないように、またしても自力下山できるよう、あらゆる準備(体力、GPS、食料等)をします。


tanigawa

2009/7/17 22:24
RE: 低体温症と、ツアー登山。2つの問題

>10名以上の年寄り中心のクラブツーリズム的なツアーは登山の邪魔です。

 北海道の場合は、山の地形、山そのものの拡散具合なんかもあって、夏場でも本州の山ほどの人ごみは感じません。

 ただ、今回は平日とはいえ、19人パーティーで避難小屋をはしごするという、計画なんですね。非常識です。もう一組と鉢合わせしたり、悪天で停滞が重なったら、にっちもさっちもいかない。ツアー外の登山者からみて、この計画自体がマナー違反の膨張主義、儲け主義と思います。

 将来的には、一定の公的機関や民間の専門機関で認定を受けたガイドが、会社から独立して、ガイドの専門的な仕事にあたる体制があってもいいと思います。営利的なツアーは、こうした独自の権限があるガイド抜きではツアーを組めないようにする。規模も常識程度に抑える。一例ですが、こんなこともあってもいいと思います。

 
>2.天気が悪くても私は登りますが、遭難しないように、またしても自力下山できるよう、あらゆる準備(体力、GPS、食料等)をします。

 私も、そのためにも、遭難事例から大事な問題を学ぶことも必要と思っています。

 今回、ずっとひかかっているのが、ゴアテックスの雨具の保温性です。冬に使うとわかるのですが、こいつはとても寒く、風が抜けます。冬用のジャケットとえらい違います。

 「オールウェザー対応」みたいな宣伝もされたりしてきましたが、実は、低山以外では、気温、風速などをよく考えて、弱みがあることも考えて使うべきではないかなと。

 今度の件で情報はないのですが、一般には本州の山では薄着の上にゴアテックスという着方でないと不快です。普通は本州ではそうする。

 しかし、今度のケースでリーダーが過去のこの山での低体温症による遭難事例をよく把握していてくれれば、もう1,2枚、中に温かいものを着用して雨具を使えと、指示もできたかもしれない。
 ここらへんの、先例から学ぶ対応がどうだったんだろうと思います。

 冬山では、今度のトムラウシの体感温度(たぶんマイナス10度とか)よりずっと悪い気温と風の中で行動する場合もあります。それでも動けるのは、ちゃんと着ているからです。

 そういう意外な盲点、危険が、夏の山にはあると思いました。

 それから、悪天にもいろいろ地域差があります。

 今の季節、本州で低気圧が爆発的に発達することはまずありません。台風は別にして。

 ところが北海道ではこの時期もまだ起こりうるし、風もまるで違う。同じ台風にしても、北海道は発達の程度がまるでちがいます。

 テレビでは「北海道の2000メートルは、本州の3000メートル級」なんて繰り返し言ってますが、これは「掛け声」ぐらいにしか問題をわかっていない。
 たとえば気象という点でも、気をつけるポイントが違うのです。

 また小屋はない。登山者もほとんどいない。自分たちしか頼れない。有名な山でも踏み跡も条件はさまざま。同じ気象条件でも本州とはかなり違うと思います。

 ここらへんも、どこまで現地についての認識があったのかなと思います。

 さて、今回の経過はだんだん明らかになりつつあります。

 6時前、出発の判断だけでなく、
 北沼までのとても遅いペース(すでに相当の問題があった)、
 10時30分、北沼(一番のふきさらし)で最初に行動できない人が出た時の対応、
 結果的に5人以上が落後して、散り散りになり始めて、やっと15時40分に救助要請、その要請を誰がしたかも不確定、

 ・・・出発時の判断と装備が一番の問題ですが、北沼にいたる時点で、あるいはせめて北沼で、低体温症が一気に広がる恐れを、過去の遭難事例からリーダー役が認識できていれば、これほどの事態にはならなかったのではと思います。

 北沼の手前なら小屋にも戻れるし、一時風をよけられるハイ松帯や岩かげがありますから。

RE: 低体温症と、ツアー登山。2つの問題

この手の遭難が発生するたびに 繰り返されるのが会社側の 「登山の決行、中止等の判断は ツアーガイドに任せてある・・」の発言。

旅行会社との雇用関係はわかりませんが 常識的には 旅行会社の意向を超えて
中止、撤退などを決断するのは 難しいと思うので会社側の責任転嫁の発言には 憤りを感じます。

tanigawaさんの言う通りで 一般的に避難小屋は規模が小さいのに 19人もの人が入ってきたらどういう状態になるのかと思うと ゾッとします。

ツアー登山
tanigawaさん

こんばんは。ツアー登山。最近多いようですねぇ。tanigawaさんが指摘されたように、日時に限りがあり、ガイドはできる限り「目標達成(山の場合は山頂を目指す)」ことに専念すると思います。さらに僕が思うには「ツアー」という言葉から来る、容易な、「絶対安全」というイメージもあるのではないでしょうか。「ガイドさんがいる。絶対大丈夫。」そんな極度な他人依存の山登りは危ないと思います。しかも多数で。

インターネットの動画ニュースで見ただけですので、詳しい状況は分かりませんが、自力で下山した方(単独行)が「天候がかなり荒れてたから、山頂に行かずに下山してきた」という事をおっしゃっておりました。日時も余裕があり、「絶対に登頂する」などという会社からのプレッシャーもない、この方の判断は正解だと思いました。しかもこの方、かなりの厚手のジャケットを着ておりましたので、北海道の夏山を知っておられる方だとお思います。


RE: 低体温症と、ツアー登山。2つの問題
 
 刑事犯罪に問われるのは、これまでいつもガイドの方たちでした。
 問題がここまで大きくなった時点で、今回の捜査は会社側を翌日
から「捜索」したりしています。

 ツアー登山に改善、社会的ルールが必要なことは、これまで繰り返し
強調されてきたのに、今回まで何もしないできた行政、司法の問題が
問われると思います。

 私は、今回のように、年齢、体力、装備、経験等々、見知らぬ人が
全国から参加して、20人近いパーティーを組むこと自体に、登山とは
すでに異質の危険、不自然さを感じます。これでは、登山が成り立た
ないし、パーティーとしての行動は無理です。

 今回、そのうち自力下山者は5人でした。
 避難小屋をはしごする計画も問題です。
 登山計画書はどういうふうに出されていたのかと思います。
 
 この改善と合わせて、ガイドの問題があります。

 ガイドの権限や地位、もちろん収入がきちんと守られ、力が生かされ
る体制が、日本でも必要と思います。

 そのうえで、ガイドが行った判断には全面的な社会的責任が問われる
べきだと思います。

 道路工事でも、船乗りでも、バスの運行でも、個人ではなく不特定
多数の人を相手になんらかの営業をする場合は、ふつうは必ず、資格
が必要です。そして重い責任が課されます。
 ツアーという営業をするのなら、その責任役は、会社はもちろんガイド
も、地位の保全と責任あるしくみが必要です。

 以上のことはいっぺんには行きませんが、今回は行政が何もしなかった
というわけにはいかないと思います。

 その後のニュースですが、次の事情が伝えられています。

*ガイド役は3人。うち現地のコースの経験者は1人。
 権限をもつツアー・リーダー役と、経験者のガイドが同一か否かは、
まだ報道されていません。

*小屋を出発するさいに、ガイドにためらう意見を言った参加者がいた。

*参加者の中には、ゴアテックスなどの通常の雨具でなく、薄手の軽雨具
を使って、亡くなった人もいた。
 また、ほとんどの人が服装は軽装だった。

RE: 低体温症と、ツアー登山。2つの問題
深い考察、考えさせられるものがあります。
今回の件は様々な問題をはらんでいますね。

ツアー登山問題については

個人の体力や、それ以上に山に対する覚悟を度外視してのツアー企画自体登山には適さないと思います。

が・・・
自分の知り合いのクラブツーリズム企画担当の話では、やはり孤独な年寄りは、おりからの登山ブームによるニーズと何より「カネ」をもっているためターゲットから外すことは考えられないそうです。

そこに規制をかけると、今度は自由な商業活動の阻害ということになってしまいます。

危険な際の判断や責任だけ規制すべきだという外野からの無責任な批評はありますが、会社の社員(ガイドなど)に対する処遇は会社に権利と責任があります。

結局みんな(会社もマスコミもそして今回亡くなった登山者本人も全員)の「責任転嫁」の結果の惨事ですよね


RE: 低体温症と、ツアー登山。2つの問題

>日時に限りがあり、ガイドはできる限り「目標達成(山の場合は山頂を目指す)」ことに専念すると思います。

 ツアー登山は一つの形と私は思いますが、企業はできる限り営利と低コストを求めますから、そこになんらかの社会のルールが必要になってくると思います。

 それからこの種のガイドの方は、実際のところ、どのくらいの日給になっているのでしょうね。また、下山してすぐ別の山で別のパーティーをガイドするようなスケジュールを会社が組むケースもありうると思います。

 事例は違いますが、去年でしたか、大阪の高速バス会社で運転手を連続勤務させて、過労・居眠りで大事故にいたったケースがありました。会社の責任が追及されました。

 大勢の人の命を預かる場合、そこを無秩序にしてはおけないと思います。
 これは個人の登山とおのずから区別して、ルールや制度が必要です。現に事故にいたれば、後始末でしかないですが、社会的責任を問われます。

>さらに僕が思うには「ツアー」という言葉から来る、容易な、「絶対安全」というイメージもあるのではないでしょうか。「ガイドさんがいる。絶対大丈夫。」そんな極度な他人依存の山登りは危ないと思います。しかも多数で。

 そう思います。登山者としては、いったい山登りの何を楽しみにするのか、目的にするのかという中身が問われると思います。

 今回の縦走コースは、天気が悪いとたとえ無事であっても、ただただ悲惨なルートです。花と景色が楽しめない条件では、長いだけでいい思い出にもならない。大雪のすばらしさを体験できる登山形態や自由度がある山登りをしてほしかったですね。

 一日、停滞するだけでも、青空が待っていたのに。

 トムラウシは、私が一番、心に残っている良い山です。日本の他の場所にない自然の庭園と雪渓、そして日本のどこにもない景観の沢があります。
http://trace.kinokoyama.net/hokkaido/kaunnai83.8.htm
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-1173

 テレビで、マイクロバスまでが、林道のかなり上部まで上がっているのを見て、びっくりしました。地元からは日帰りができるようになった分、この山らしさは変わりつつあるようですね。


RE: その後の情報など
 その後の情報から。

1)自力下山した男性によると、遭難前日の15日、白雲小屋(無人)からヒサゴ沼避難小屋まで、このパーティーは風雨のなか13時間もかかってたどり着いたとのことです。

(2009年10月11日訂正。この時間は、コメントをアップした時点での新聞報道をもとにしたものです。その後、このパーティーは前日、ほぼ予定通りにヒサゴ沼避難小屋へ到着したことが、報じられています。ただし、1人がひどく体調を壊したことは、事実。以下、最初のコメントのままを修正せず残して記しておきます。)

 通常の行動タイムの倍。この時点で、トムラウシ越えは天候が同程度でも無理なパーティー編成だったように思います。通常ならば、予定を変更して、忠別小屋泊まりにし、天人峡へ下山するところです。
 そこまでして予定通り十勝側へ下山しなければならなかったことになります。

2)最初に動けなくなった人が出た北沼付近で、参加者からガイド役に、救助要請をした方がよい、との意見がだされたとのことです。
 実際の要請は、16時前。

3)2組が落後した段階で、3人のガイドのうち、残った1人が動ける参加者の下山誘導を担当。ところが、動ける人を引率するはずのこの1人が速すぎて、参加者はついていけず、パーティーは散り散りになったとのことです。旧道へ下山したり、沢に入ってしまったり、ビバークする参加者も出ました。

 後方羊蹄山の遭難事故の際のガイドと同じ状況でした。

 参加者は、その先にまだ前トム平の吹きさらしがある条件で、はぐれることになります。自力下山ができたというのは、すごいことだったと思います。

4)日本山岳ガイド協会は、独自の試験、実技を含む講習をふまえた認定制度を設けています。しかし、行政側の要請・法規定により、自分たちは公的機関でないと宣言しています。この団体はツアー登山のガイドがおかれた状況やレベルにも、心を痛めている様子です。

 この団体のことはHPにあること以外、私はくわしく知りません。ツアーのガイドはこの資格のない人が多いそうです。しかし、ガイドの立場からも、ガイド全体の質の向上とあわせて、改善の意向は出ている様子です。

 
>そこに規制をかけると、今度は自由な商業活動の阻害ということになってしまいます。

 登山は自己責任ですが、事業として営利目的で、人の命を危険にさらす行為には、対策が必要です。事故後の処罰では、何も対策になりません。

 それから、ルールや制度は、必要なもの、野放しにできないものがあると思います。法人には、現に経済的法的なたくさんの法の規定があります。規制=阻害なんて、小泉さんのせりふになってしまいます。そして、こういう問題のように、対策が抜けている分野もある。
むしろ、ルールを設けることで、着実な発展をすすむ場合が多いと思います。

 今度の件にかかわって、下記のニュースはちょっと気になりました。
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20090718/CK2009071802000021.html?ref=related

 今回もそうでしたが、こういう無謀な登山隊と、一般の個人の登山パーティーが、生々しい形で行き違う場合もあるんですね。記事にある救助隊ならなおさらです。

 救援を求められれば、登山パーティー同士は助け合って当然ですが・・・。しかし、こんな大人数のカリナリ登山隊に助けを求められては、どんなパーティーでも身がもたない。今回のようなケースは考えてしまいます。


RE: 1週間。その後の情報
 遭難の日から今日7月23日で一週間です。
 その後の情報を記録しておきます。

*トムラウシで遭難した18人パーティー(他にガイド1人がヒサゴ沼避難小屋にとどまった)のうち、8人が亡くなられましたが、そのうちツアー客7人は、防寒・防水のジャケットではなく全員軽装のものだったと伝えられています。ヤッケのようなジャケットの参加者もいたとのこと。ガイドで亡くなった1人は、防寒性もあるジャケットを着ていたとのことです。(「朝日」23日付)

 この記事は、ゴアテックス製や、保温材などには言及していないため、登山者が読んでとてもわかりにくい記事になっています。山用のジャケットは、保温材の有無やパネルが二重かどうかなどから、夏冬が基本的に区分けされていますが、そこが記事では不明。山の経験者が読み手を意識して書いた記事とは思えません。防寒の冬ジャケットを着て夏の大雪に入ったというのも、奇異です。夏山のこのケースではジャケットはともかく、下着なんです。より問題は。

(訂正。「山と渓谷」2010年3月号は、上の新聞報道を証言にもとづき訂正しています。全員がゴアテックス雨具とのこと。そうすると、今度のような低温風雨の条件では、ゴアテックスだけでは低体温症から守れないことが、いよいよはっきりします。2010年2月2日記)


*ヒサゴ沼避難小屋を出発する時点で、ガイドに出発を思いとどまるよう発言した男性の参加者が2人いたとのこと。この2人は、生還しています。(「毎日」23日付)

*北沼まで登ったところで、沼からあふれた水が川になって流れだすところを「渡渉」したとのこと。そのときに男性の参加者は、「川が波しぶきを上げて流れていた」。ますます強くなる流れを見て、「バックするならもっと手前だった」、「もう引き返せない」と思ったそうです。(「毎日」同)

 北沼は直径100メートル前後、通常、沼の東側の尾根(登山ルート)から見て、水面は8〜10メートルぐらい下にあります。もっと水位が低いこともあります。沼の西側には、より高い稜線があるため、雨水がたまって登山ルート側の尾根を乗り越えて、雨水が流下し、縦走路を寸断していたことになります。異常な雨量ですし、リーダーとしては十勝側の下山路の他の沢の状況も心配になるところです。

 ここを越えてしまったことが、すぐ先で最初の犠牲者が出たあとも、前へすすむ選択を強いたことが想像されます。

 また、この渡渉では下半身をぬらした参加者も多かったし、山靴の中も全員、濡らしたと想像されます。北沼はこの時期、湖面の半分は雪田に埋まっており、沼の水温は当然にも零度前後です。

*山頂と迂回路の分岐で最初に女性が動けなくなったとき、一行は1時間30分もこの地に留まりました。別の女性が奇声を発したとあります。「救助要請を」「ガイドは行動の指示を出せ」と、参加者から声があがりました。(「毎日」同)

 ガイドには、この段階でも低体温症への警戒や認識がなかったこと、またすでにリーダーとしての統率が失われかけていたことが、見て取れます。

 証言はないのですが、この1時間30分のなかで、会社と携帯で連絡をとらなかったことは、大変不思議です。12時に出発したあとも、南沼の側に回りこんだところからは、少なくとも携帯が通じたことが確認されています。

*主催したツアー会社の社長の発言が伝えられています。防寒の用意はあらかじめお知らせしている。各自の責任で用意したはず。小屋からの出発を含め現地の判断はガイドに任せている、等々。

 すでに書いてきましたが、この説明のいちばんの矛盾は、参加者に配った規則では「ツアー・リーダーに従え」と規定しているのに、そのリーダーの判断どおり行動した犠牲者にたいしては、結果とあらゆる費用は参加者がもて、とこれも規則で規定していることです。規則と指示どおりに行動して起きた結果に、会社は責任を負わない定めを「私的」に設けていることです。

 参加者の側から見れば、このしくみは自分の判断も入れることもできない、現場での声も通らない、つまり、「自己責任」ですらないことになります。

 


RE: トムラウシ遭難。1週間後の情報追加

 昨晩(23日)、NHKクローズアップ現代がトムラウシの遭難を取り上げました。30分番組ですので、新しい解明があるかと期待したのですが、残念な内容でした。

 唯一の新しいニュースは、ツアー会社がNHKの取材に「会社にも責任がある」と認めた、とキャスターが話していたことでした。なぜ、それを通常のニュースで流さないんだと逆に不思議に思いました。

 もう一つあえて挙げると、下山後に登山口のトムラウシ温泉に宿泊を予約していたことでしょうか。

 生還者のうちガイドを除く4人が証言していましたが、内容は新聞が取り上げてきた内容より、部分的でした。番組内容も、山岳遭難にくわしいとされた解説役の方も、行動の判断、装備、低体温症の認識、この山の条件からくる独自の困難など、どの問題もつっこんだ問題意識が希薄で、ツアー登山一般の問題を話すだけでした。

 解説役は「トムラウシでは2002年に遭難があり、ツアーの危険な面も事前に知らせるべきだった」と話していました。しかし、低体温症にふれず、ただ遭難をいっても、参加者には何が危険か、どう備えるかはわかりません。

 ガイドの不安定な地位について紹介がありましたが、旅行の規定などにそくして、具体論でやってほしかった。ガイドが客の機嫌をとることまでやらされてることと、肝心の判断の権限とは、次元が違います。今回は後者が問われているのですから。

 今後の展開で、結局、会社とガイドの刑事責任、そして犠牲者の民事賠償責任だけが問われて、終わりになるような気がしてきました。

 こういう営業形態をそのままにする制度が変わらなければ、参加者のいっそうの高齢化という事情もよりすすみますから、山の現場での悲惨な事故はなお広がると予想します。

 私は次のことだけでも、改善してほしいと思っています。将来的なこともふくめてですが。

1)ツアー登山で、会社とガイドの指示と判断のもとで引き起こされた遭難の責任は、会社にあることを明確にする。

2)ガイドには、計画(予定日と予備日をふくむ)、パーティー構成(装備・体力に不安がある者の参加を事前に断ることをふくむ)をはじめ、登山中の行動のすべての判断をみずから行える地位を保障する。ガイド自身の判断を保障する制度、その地位や収入が脅かされない制度をつくる。(具体的には、公認ガイドを参加者の人数割りで一定数、同行することを義務付ける。)そして、ガイドは自らの指揮と判断にもとづく遭難に会社とともに責任を負う。

3)制度ではなく、常識的なマナーの問題ですが、ルートが限られ、登山道が細く、避難小屋しかないような山域に、大人数で押し掛ける等々のツアー登山は、事前の登山届による自治体の承認を必要とする。もし許可するときは事前に十分な周知期間をもって、「○日、○○ツアー一行により、ヒサゴ沼避難小屋は満杯です」などの掲示を自治体のサイトにおこなう。

 制度が当面、できなくとも、こういう性格の登山ツアーをであれば、安心して参加できるという人たちも、いるのではないでしょうか。参加費は倍?


RE: トムラウシ遭難。地元自治体がガイドの国家資格制度を要望
 7月23日の「北海道新聞」から

トムラウシ避難小屋新設を新得町が要請へ (07/23 07:06)

 【新得】十勝管内新得町のトムラウシ山で本州の登山ツアー客ら9人が死亡した事故を受け、同町の浜田正利町長は22日、同山への避難小屋新設やガイドの国家資格制度創設など再発防止策を、国や道の関係機関に要請することを検討する考えを明らかにした。

 トムラウシ山には、今回事故が起きたヒサゴ沼から短縮登山口まで、通常で8〜9時間かかるとされるルート間に避難小屋がなく、以前から天候悪化や負傷などのため日暮れまでに下山できないケースがある。浜田町長は「避難小屋新設は環境への影響などを考える必要があるが地元として要請を検討する。ガイドについては登山者の命を守るために、より厳格な資格制度が必要だ」と話している。

 感想) ガイドの資格制度と配置の義務付けは、根本的解決の第一歩と思います。

 しかし、避難小屋建設は、ちょっと待ってほしい。付近には、「原生的自然環境保全地域」があります。すでにオーバーユースなのに、より入山しやすくしたら、結果的に遭難を増やす恐れもあります。

 どこも一律に観光地的な山にしちゃうのは、いただけません。

 今度の遭難にしても、ハードの問題でなく、ソフト(人と運営)の問題です。じゃあ、十勝側に小屋を作ったら、助かったのかという問題になります。ソフトの問題をそのままにしたら、もっと気軽な登山者がおしかけるでしょう。


トムラウシ山遭難。生還した戸田さんの証言 1)ガイドの体制と実情
トムラウシ遭難で生還した戸田新介さん(65歳)の証言が下記サイトに膨大な分量で掲載されています。
http://subeight.wordpress.com/

7月31日から8月7日にかけて、質問に戸田さんがメールで答えたものです。

 とても大事な現場の証言ですので、テーマごとに区分けして、発言の抜粋を順に紹介します。

 ○印で表示。

 文章はそのまま、補正はしていません。

 まず、(1)ガイドの体制について

吉川ガイド(61歳、死亡)、
多田ガイド(32歳、正ガイド、現地ビバーク)
松本ガイド(38歳、救護担当、動ける10人の下山の引率役)

 戸田さんの証言によると、38歳のガイドは「夏休み」としてこのツアーに参加していたとのこと。

 また、落伍者が出たあと、誰が残るか、下山する10人を引率するかが問題になった際に、正ガイドの32歳のガイドの指示と、38歳ガイドの意思に食い違いがあり、38歳ガイドの希望が通って、正ガイドが山頂下に残ることになった経過が見てとれます。

 ガイドは、北沼の沢でみな体をひどく濡らしています。この時点で、亡くなった吉川ガイドの体調や判断力も、気になります。

 以下は、戸田さんの証言から・・・。

○32歳ガイドがすべてを決めていたと思います。北海道がはじめてで、気候やコースについて何も知らない人になんの決定権がありましょう。38歳ガイドとは行きの飛行機で相席となり、彼が「夏休みの代わりとして会社があたえてくれた」といっているのをきいています。つまり責任の軽いもので、お手伝いをすればよいとかんがえていたようです。吉川ガイドのことは分からないが、「雨は気にしないで歩けばよい」といったことをいう人です。

○最大の問題はあの2人がガイドになったことです。北海道が初めてで、下見もしないガイド・・・。

○先頭は今回を通じて32歳ガイドがつとめました,正ガイドの務めだそうです。最後は添乗員たる吉川ガイドがつとめ、サブガイドの38歳ガイドは中間に位置すると決めていたようです。

○(山頂の分岐から再出発するとき)38歳ガイドは「この中で一番元気なのはお前だ」と32歳ガイドにいました。彼がなぜそんなことを言ったかが問題です。自分の聞いていないやり取りがその前にあったようですが、それは何かがわからない。たぶん38歳ガイドにのこってほしいとたのんだのだとおもいます。38歳は断ったのだと思います。推測しかありません。


トムラウシ山遭難。戸田さんの証言 2)前日の様子
(2)前日の様子

○前日は朝から終日雨でした。風速は5mぐらいです。山の雨ですからはじめはそれほどには気にならなかったのですが、そのうちからだの芯からぬれたようにかんじました。・・・ただ着衣は上は春夏ようのジャッケトとゴアのカッパで十分でした。下着まで全部ずぶぬれです。靴はズクズクで靴下は絞れるほどです。自分は全部着替えましたが着干しの人もいました。

○なおこの日は一時間早く小屋につきました。けっこう急がされたという感じです。

○最初の日にすでに一人の女客が旭岳から白雲岳へ行く途中でうつむいてゲロをはくこと、ゲイゲイとやっていた。体調をくずしていたようです、ガイドに連絡しなにかやっていたようですが、自分の視界からきえました。その日にもう一度目撃し、次の日に一度目撃しました。彼女が延期を言ったのかもしれませんが、彼女が最初の故障者(歩けない人)だとおもいます。

(訂正。その後の事故調査と証言では、最初に行動不能になった方は別の2人であることが判明しました。「山と渓谷」2010年3月号などを参照。2010年2月2日記。)


トムラウシ山遭難。戸田さんの証言 3) 天候判断
(3)天候と出発の判断

 この問題では、低体温症にかかわって、たいへん大事な実相が浮かび上がってきたと思います。

 強い雨の時間、強風の時間は、午後の早い段階で終わり、風雨は午後には順次、回復したことが見てとれます。

 そして、稜線で行動した5、6時間のうちに1人、2人と犠牲者が広がっています。

 気温の低下と強い風雨。それに対する備えがない登山者に順次、症状が出て行ったこと、ガイドや登山者に低体温症への認識と事前の用意があれば、かなり対応できた遭難だったことがわかります。

 この条件からいえば、問題は天候判断という問題だけではなかったことが浮き彫りになったと思います。
 
 1)天気は予報通り、回復に向かっていますが、ガイドには知床沖で低気圧が猛烈に発達し、稜線は強い風が吹く。上空に冷たい空気が入ってきていることへの警戒が弱かった。

 2)強い踏破力と備えをもったパーティーならば、この強風下でもこの稜線の一番危ない部分を4時間程度で抜けられたと思います。休息やカロリー補給も理にかなった場所と用意でおこないながら。現に抜けた登山グループはいました。しかし、遭難したパーティーは、装備・体調・体力がまちまちで、これを統率するガイドの判断力・力量が耐えられなかったという状況だった、ことになります。原因は、平均的な水準で見るのではなく、このパーティーの実情に即して、見えてくると思います。
 
 3)最初に倒れた女性が、前日からひどく体調を崩していたことを紹介しました。お腹をこわしていたこの女性は、小屋を出る前に食事をとれたのかどうか? 衣服は濡らしていなかったのか? 何を着用したのか? どういう判断で山頂を越えて10数時間の行動に耐えられると判断したのか? 天気が好条件でも行動の判断を大きく左右する件です。

 この段階から、通常の登山と違う異様な心理状態のなかで出発が判断された可能性もあります。そして判断の基礎情報・認識も欠けていたのかもしれません。そもそもルートを知らない人たちが、出発を判断したのかも知れません。

 以下は戸田さんの証言。

○(小屋を出発する判断について)トイレに行っていて、帰ったら何もなかったから議論などなかったのでしょう。数人が中止をもうしでたというがこれもきいていません。

○だれかが中止を言い出したと報道にありますがそれは女客だとおもいます。だれが言い出したか知りたいのにいまだに分かりません、たぶん亡くなられたのだと思います。

○停滞について、さきにすすむコースがどういう風なのかしらないので前日のように行けれると思っていました。ロックガーデンでこんなコースと分かっていれば自分なら止めるのにとおもいました。

○(山頂下の分岐付近で停滞してから、出発したときの天候)始めより弱くなったと思います。雨はばらばらと降る感じです。風はむしろ乾くので心地よいにですが、のちに体が冷えると肌についた下着のあせでたえられなくなってくる。

○(午後の天候、前トム平の下降時点)下りでは風のことは忘れました。既におさまりつつあったと思います。

 以下は、新聞報道から。

◆別のパーティーで、同じ山小屋に宿泊した静岡県函南町の男性は16日早朝、遭難したパーティーから5分ほど遅れて山小屋を出発した。「横殴りの雨が降り、突風にあおられて倒れた仲間もいた。遭難したパーティーはとてもペースが遅く、バラバラになった人たち全員を追い越してしまったが、『この人たちは大丈夫だろうか』と心配していた」と話す。


トムラウシ山遭難。戸田さんの証言 4) 引き返しと一時退避
引き返しの判断、およびビバーク。

 カウンナイ川の源頭の鞍部で、強烈な風に一行は見舞われます。短時間で体温を低下させられる条件。冬山なら一時、風除けして身を守る場面ですし、落後者も出かけていました。せめて、模様眺めをすべきところ。

 あの一帯ならまだ大岩や深いハイ松があります。

 しかし、テントは4人用1張りしかない。行動続行。

 そのうえガイドは衣服をもっと着ける指示もせず、このまま最悪の北沼へと上がっていきました。

 戸田さんの証言。

○天沼からロックガーデンにかけてに木道があるとおもいますが、そこが一番風が強かったと思います。体とザックにたいする風の圧力で木道から飛び出すことになります。

○(その風の強さを山で体験したことは)ありません。町で台風にあった時がそれです。


トムラウシ山遭難。戸田さんの証言 5) 北沼と分岐点
 ここで、低体温症は動けなくなった2人だけでなく、パーティーの半数近い人に、影響を及ぼしました。

 事態を悪化させたのは、沢を渡って、冷水を浴びたことでした。
 18人のうち8人が、この現場付近に残ることになります。

 戸田さんの証言。

北沼での濡れ、風、様子
○(北沼からの増水の水流の渡渉)かれ(松本ガイド)は北沼の小川で客のサポートに回っていて背を水につけたと聞きました。待機中は自分の前で顔をしかめジッとしていました。

○小川を渡るときも彼女(最初の行動不能者)だけ渡れず、32歳ガイドが別のところを探してきて手を伸ばしていました。この時38歳ガイドが水に入ったのだと思います。

○吉川氏。彼も小川で客を渡すさい水没したといいます。それで自分が見たことと合致します。それで亡くなったんでしょう。

○(山頂下の)トムラウシ分岐が10時30分とされていますが自分は11時〜11時30分と思います。小屋から5時間でなく6時間(コースタイムは2時間30分)です、2倍ではなく3倍に近い時間を食ったと思います。そして分岐の下で停滞したのが1時間半とされていますが、2時間と思います。

○(山頂下の分岐付近での停滞時間)出発が12じでは、コマドリ沢分岐で110番したのが4時と確定しているから4時間もかかったことになり(地図では2時間5分)おかしい。出発は1時半ごろではないか、あの時自分は空腹を覚え時計を見て1時20何分だったと記憶しています。

○1時半に出発しようとしたら立てない人が一人出ました。低体温症が停滞中に発症したと思います。市川さんです。

○(訴えたとき)自分が叫ぼうとした時か、さけんでるとちゅか、突然このままでは危ない、かれらには故障者は手に負えないのだ、助けを呼ぶのが一番良いとおもいました。・・・ガイドたちは遭難と言われてびっくりしたのかもしれません。このまま続けるのはできないとおもったようで、はじけるようにすぐ「あるけるひとはしゅぱつします」というので妙な気がしました。

○(同地点を出発時の順序)亀田   前田   真鍋  市川  岡  味田 竹内 長田   戸田  植垣 松本 第一故障者 植垣  斐品   野首  木村 女救出者 吉川
男生還 女生還 女生還  女亡 女亡 女亡 女亡 女生還 男生還 女亡 男生還 女亡     女亡 男生還 男生還  男亡 女生還  男亡

○(下山を始めて)下山がとにかく長く、全員に故障者がなくても無事下山できたとは思えなかった。ガイドは知っていたはずでなにをかんがえていたのだろうと。下山はできないということははじめからわかっていたのにと。距離の長さにあぜんとしました。


トムラウシ山遭難。戸田さんの証言 6)低体温症の認識
 次に、時系列ではなく、低体温症の認識と備えについて、場面場面での現われを抜き出してみました。

 戸田さんの証言

○(ヒサゴ沼避難小屋の出発時に)重ね着の指示はありません、誰も聞かなっかたからだとおもいます。

○(ロックガーデン付近で強い雨のあと)以後休憩するとか、食事を取れとか、フリースを着なさいなどの指示はなくなりました。だれも何も言いません。自分はみんなは食事をきちんととったのだるうか、これが生死の分かれ目になったのではと思っています。

○(非常食として食べたもの)アミノバイタル3袋、これは天沼から日本庭園の間に立て続けに食べました。カロリーメイト2箱、全部たべました。

○(山頂下の分岐で最初に行動不能者が出てパーティー全員への連絡)それは32歳ガイドがしました。添乗員の仕事とおもいますが、吉川さんはすでに低体温症にかかってていたのではとおもいます。32歳ガイドがふれ回ったと思います。理由の説明は一切ありません。

○(救護の内容)彼は背中をさすり、大声で「元気を出せ」と叫んでいました。吉川さんがやってきてテルモスの湯を与えていました。ただそれだけです。もうしませんでした。

○(テントは)4にんようテントが1つですから。とにかく歩き続けるしかない。

○テントについて。川角、市川、植草のほか野首、石原も不調を訴えて残ったといいます。吉川も入れて6人では4人用テントは狭いので、多田が南沼キャンプ場まで探しに行き、5人用の空きテントを見つけてきたといいます。これが写真に写ってるものです。4人用テントは使わなかったそうです。

○自分はガイドたちに低体温症の知識があったとは絶対思いません。そして自分に低体温症の知識があれば、もっと早く対策を要求したのにとおもいます。

○(低体温症と認識したのは?)誰も低体温症と知らなかったと思います。救急隊によって、マスコミの発表によって救助の時にというのが自分の回答です。

 以下、明日にまたアップします。


トムラウシ山遭難。戸田さんの証言 7)低体温症に備える服装
 低体温症に備える服装の実態は、今回は戸田さんについては詳細がわかりました。

 戸田さんは、木綿製品は着ておらず、中間着としてフリースを北沼の手前、カウンナイ川源頭付近で着用しています。

 商品名が出ていてありがたいのですが、「ジオライン」は夏用の薄手のポリエステル100%の下着・Tシャツです。戸田さんのはその長袖タイプ。これだけでは、この天候のなか生還は微妙だったでしょう。逆にいえば、小屋の出発時、ガイドが服装面でもパーティーに何も気を配っていなかったことが見て取れます。

 登山パーティーとして見ると、これは初歩の初歩のことです。

そもそも下着や防寒対策は事前の打ち合わせの事項だし、その日も小屋出発時にフリースや余分な下着の重ね着を指示する場面です。

 証言1)にあるように、ゴアテックス雨具は着用したものの、前日も、雨の中の行動で下着もかなり濡れています。16日は、冷たい風雨のなか、その経験と寒さとから、戸田さんが自分の判断でフリースを着用したことが、体温保全に役立った模様です。

 今回の条件では、雨具だけでは、低体温症になるメンバーが出るのを防ぎきれないと想像します。そして1人でも症状が出れば、危険の認識のないこの状態のパーティーでは対応できなかったのだと思います。

 この件では、私が再三指摘してきた、今回の遭難報道の大きな「穴」の問題があります。

 報道で、パーティーの雨具が不備とされている件たいして、戸田さんは自分が知った範囲で異論をのべています。なぜ、いまだに外見でわかる雨具の素材についてさえ、事実がおさえられていないのかというと、そもそも取材する側に、装備についての必要な知識がない。雨具と下着を調査する必要がわからない。その基礎になる低体温症への認識がなかったのです。依然として下着が全数調査されていない問題と理由は同じです。

 これは長年の遭難報道の歴史からいっても、未曾有! のことです。
 その背景も私は指摘してきました。登山をする記者が激減しているからです。

 この件、次の私のページを参照。
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3787

 以下、戸田さんの証言。

○(北沼の手前で)自分はそのまえに隊列から抜け、そのためにあらかじめ前に出ておいてフリースを着ました。雨があり雨宿りもないところでカッパを脱ぐと、肌についているシャツが濡れるのでイヤだったが強引に着ました。

○(雨具)モンベルのゴアテックスでひとつ前のタイプと思います。北海道警察が死んだ人の雨具は全部ウィンドブレーカー等防水の弱いもので、生還者は本格的な防水透湿のものだったと発表した。歪曲です。竹内さんはゴアテックスをきていました。

○(戸田氏の服装)上半身  モンべルジオライン3d長袖、モンベル薄フリース、雨具
下半身  ブリーフ(廉価品)、ワコールタイツスタビライクス、ズボン、雨具
帽子なしでカッパのフード、手袋なし 反省しています。


トムラウシ山遭難。戸田さんの証言 8) 救助要請
 救助要請をめぐる事情も、リアルにわかってきました。

 今回、犠牲者を拡大してしまったもう一つの要因です。そして、その背景には、出発時の判断とあわせて、「ツアー登山」とそのなかでのガイドの実質の権限という問題があります。

 以下、戸田さんの証言。

○(山頂下の分岐で)自分がどなったときの10分前に、吉川さんのところへ出向き「どうしますか」ときくと、「ようすをみる」とだけこたえました。妙な答えです。自分はもとの位置にもどり10分まちましたが何も動きはありません。その時自分はこのままではみんな死を待つことになると突然思いました。それで遭難と認めてどうしたらよいか指示を出せといったのです。

○(山頂下の分岐で救援要請しなかった経過)さらに言えば、かれ(ガイド)は頂上付近で電波が通ることを知っていたのです。4時30分に会社にメールをいれているのが証拠です。風雨が強かったからという説もありますが風雨はおさまってきています。かれは携帯を出して連絡しようともしていない。

○なぜその時110番をしなかったのか謎です。4時30分まで連絡をいれなかったのか。電波が届くとわかったいまはそれが最大の謎です。このとき110番していれば多くの人が救われたのに。

○(32歳のガイドによる救援要請)かれはコマドリ沢分岐の上の草付きでねていて長田さんが見つけ目の前で電話しなさいといわれ5時に会社にメールを入れたのです。長田さんが自分にいったことです。

○16時の110番が23時45分の知事の自衛隊への出動ようせいまでがおくれたのはサブガイドがきちんと電話しないからである。亀田、前田の2人が降りて事情が分かるまで知事の要請が行われなかったのである。自衛隊の能力からはあるいはこの7時間余のロスがなかったならばと考えてしまう。

○彼(32歳のガイド)はサバイバルのため先を急いだのです。曲がり角で10人を確認するようにと言われ、20m下でおーいおーいと叫び、自分がおーいおーいと答えると一目算に下って行ったのです。

○自分はガイドが出発を決行した判断ミスを弁護はしませんが、それと同等のものとして危機に直面して彼らが何をしたかという点で重大な問題があったと思います。彼らは何もしなっかった。ただちに110番をすればたすっかたのに、いつまでも何かにしがみついて何もしなかった。この点で自分は怒っています。判断ミスは避けられない、もちろんその責任は負うべきですが、それでも危機に直面して適切な行動をとれば信頼は回復したでしょう、多くの登山者の深いところでの共感もえられたとおもう。

トムラウシ山遭難。3人の女性の頑張りに感動
 別の方の日記にコメントした内容ですが、パーティーの様子がわかる内容のため、こちらにもアップしておきます。

 遭難したパーティーのうち、様子が証言から報道されている方がいます、そのうち、とくに3人の女性の頑張りに、私はとても感動しました。

 広島から参加したM子さん(64歳)。
 動ける10人をまとめて下山する役目のガイド(38歳)が、先に行ってしまったあと、そのガイドが途中で動けなくなっていたのを発見し、「起きて歩きなさい。あなた、子どももいるんでしょ!」と激励。このガイドは翌朝、発見・救助。
 携帯から110番に救助要請したのも、このM子さん。別の男性ととともに夜11時すぎに自力下山した。

 仙台市のN子さん(69歳)。
 10人とガイドがばらばらになった後、動けない女性に手を貸し、あとから来た男性が眠るというと、「こんな場所でビバークしたら死ぬ。いっしょにがんばろう」と激励。この男性とははぐれたが、別の男性と、もっとも長い旧道を使って、午前1時前にトムラウシ温泉まで下山した。
 N子さんに励まされた男性も、標高を下げた場所で仮眠をとって、生還。

 浜松市のMKさん(55歳)
 前トム平で、下山中に歩けなくなった女性を介抱。あとから来た男性に手伝って、と頼む。MKさんはそのまま介抱していた女性とビバークし、その女性は亡くなったが、MKさんは翌朝5時すぎに救助された。

 あれだけの条件で、朝5時過ぎから行動して、最後までパーティーの一員として頑張りぬいて生還したことに、本当に驚きました。
 そして、亡くなった他の方々のなかにも、同行者らを介抱したり、気遣ったりしつつ、ついに自分も命を落とすことになった方がおられたのだと思います。

 個々にはこういう方々もおられたわけです。


RE: トムラウシ山遭難。低体温症と、ツアー登山。2つの問題
本州以南の平地で、10月の台風の最中に3時間、4時間と濡れたまま歩くのは、10代だとか中高年とかの区別無く「疲労」するでしょうね。この際、ツアー参加者の年齢は考慮から外していいと思います。

ラジオで当日の天気予報を確認していなかったことを非難めかして報道しているメディアもありますが、旭岳ゴンドラの運行も全然OK(揺れもしない)で、旭岳山頂も微風、だけど、間宮岳までの僅か百メートルの間に何箇所かガスで視界10m・暴風域あり、なんて経験をしました。

台風は接近しておりませんでしたし、前日までは山中も快晴そのもの。ところが当日のその風たるや、ジェット流のように途切れ無く吹くのです。裾合平をゆっくり散策する予定でしたが、帰りのゴンドラが運休になると困るので慌てて来た道を戻りましたが、姿見の池付近はハイキング日和。「狐につままれたよう」とは、このこと。下界の天気予報、北海道の山上の一部区域では無意味です。

冷静に考えて、強いと思っても風速20〜25mは吹いていないのです。せいぜい、10〜15m。衣類やテントなど軽くて風を孕む幅のある ものは吹っ飛びます。でも、実質は、重量僅か数グラム小石さえ吹き飛ばせない強さ。でなければ、大雪山系は、這松さえ生えていない大岩ごろごろ裸山のはず。

心理的恐怖と、ゴアテックスへの過剰信頼と、雨に濡れたのではなく汗で内側から濡れて冷えたこと、それなりのリーダーシップとそれなりの統率の取れた従順な集団であったことが原因でしょう。

一度、天気のいい時にその縦走路を歩いた経験があれば、風雨に負けず、いっそ荷物を捨てて空身で小走りで簡単に下山できただろうにと思ってしまいます。気温8度なら、雨でも絶好調のはず。

ツアーも3日目なのだから、気心も知れてきていた筈で、頻繁な声掛けと口伝え式の伝令で20名ぐらい何とかなったのではないかと思ってしまいます。早い段階で、元気な客が代理リーダーの責任を半分肩代わりするぐらい強硬に出しゃばってもよかったかと。

何を言っても後の祭り。我知らず、関係者や心ある方の神経を逆なでするような記述になっていたら、ご免なさい。


RE: トムラウシ山遭難。低体温症と、ツアー登山。2つの問題
 nonatamaさんへ。
 札幌へ法事で行っていたため、返事が遅れてすみません。

>この際、ツアー参加者の年齢は考慮から外していいと思います。

 今度のことで登山者が一番認識してほしいことは、なんといっても低体温症の独特の現れ方と、危険性です。それにどう対応するかという点で、今回はツアー登山(ガイドと企画会社と、参加者の問題)の独特の危険があったように思います。
 年齢に関係なく様々な経験や知識、技量、体力の人がいるのが登山者の実態と思いますので、私も最重要の要因とは思いません。

 ただ、

>10月の台風の最中に3時間、4時間と濡れたまま歩くのは、10代だとか中高年とかの区別無く「疲労」するでしょうね。

 という点は、そうは思いません。

 今回の場合も、装備や技量、とくに低体温症の認識と備えの如何で、結果は大きく違ったと思います。同じ天気のもとで行動しても、踏破するパーティーはいます。

 当日の小屋の出発は、今回のパーティーの前日来の実情からはNO ですが、どのパーティーもそうとはいえません。

 それから、私が問題にしているのは、「疲労」一般ではありません。
 疲労と低体温症は、症状も対処もまったく違います。

 低体温症は、「疲労」という角度から見ていると、怖さがわかりませんし、備えができません。

 今回も疲労は、二次的か三次的な要因だったと思います。疲れて行動不能になったのではなく、北沼の冷水の沢を渡った直後に、事態は急展開しています。

 停滞で2時間前後、動かないでいた間に、症状は一気に広がりました。

 例とするにはちょっと度合いが違ってきますが、冬山では、マイナス10度以下は普通ですし、風もあって当然です。それでなぜ、低体温症にならないかといえば、ちゃんと着て、食べて、体の熱を保持しつつ必要な装備を使って休んでいるからです。

 それよりずっと「好条件」の夏山や秋山で、なぜ特定の問題をかかえるパーティーが大量遭難を繰り返すのか? なぜ同じパーティー内でも服装や装備の差異で生死のこれだけの違いがでるのか? ここに一番の焦点があります。

 それとまだ多くの登山者は、問題を明瞭にとらえていないと思う。だから、nonatamaさんにとっては、ご存じのことかもしれませんが、敢えて強く言わせていただきました。

>一度、天気のいい時にその縦走路を歩いた経験があれば、風雨に負けず、いっそ荷物を捨てて空身で小走りで簡単に下山できただろうにと思ってしまいます。気温8度なら、雨でも絶好調のはず。

 これは長い行程のトムラウシでは、そういうふうにはできないと思います。むしろ非常露営が相当な割合であると思って、備えて登るべき山と思います。トムラウシは、ツアー登山という形に依存して参加するような登り方も、もっとも危うさがある山の一つと思います。晴天でも縦走ならば相当なアルバイトと距離を行動しなければありません。生還した男性が行程の長さ、厳しさを語っていた通りです。

 それから昨晩、十勝の山好きの方々にその日のことを聞きました。帯広市内でも「特に寒い」と感じるような日だったそうです。つまり、低体温症の条件は、そろっていたことになります。

 踏破するには、この条件をよく認識し、備えたパーティーでないとむずかしかったでしょう。

 北アの薬師岳に、もし薬師岳山荘がなければ、スゴ乗越から太郎兵衛平まで縦走する人には、悪天候下でどういう困難な山になるか。ただ薬師岳はまだ道が明瞭ですし、多数の登山者が入っています。助けてくれたり、急報してくれる登山者があいる。

 そういう対比ができると思います。

>ツアーも3日目なのだから、気心も知れてきていた筈で、頻繁な声掛けと口伝え式の伝令で20名ぐらい何とかなったのではないかと思ってしまいます。早い段階で、元気な客が代理リーダーの責任を半分肩代わりするぐらい強硬に出しゃばってもよかったかと。

 このご意見にも、同感できません。
 そもそもあのパーティーで、ガイドをふくめ、ルートを歩いた経験者は1人しかいなかったのです。パーティーとして成立しないような構成です。

 それから再度、いいますが、統率をする人がだれであろうとも、低体温症の怖さや症状を知らなければ、今回の経過の要所で的確な判断は困難だったように思います。

 天候の判断は、今度のケースでどのパーティーにとっても100パーセント行動は無理とはならない。けれど、あのパーティーは動くべきではなかったし、入山自体が無理だった。

 また、低体温症の怖さを知り、服装を出発前や当日朝の念を入れてチェックし、それを行動の判断に入れるするリーダーであれば、天候や稜線の風も勘案して、的確な対応が時々にとれるように思います。

 ともかく、ツアー登山のガイドのような立場にあったり、またツアー会社の社長のような立場にある人でも、低体温症についての認識がないというのが、いまの日本の登山の世界の現状なのです。これは、今回の美瑛岳遭難のガイド、前回のトムラウシ遭難のガイド、4年前の十勝岳遭難のガイド、みなに共通するのです。

 夏山で大量遭難で死ぬとしたら、原因は過去の教訓からいって低体温症と落雷くらいしかないのに、問題がそれほど知られていないということでしょう。

 山岳雑誌も9月号は手が回らなかったようですが、ちょっと扱いが軽すぎます。

 その現状に私は一番の立ち遅れがあると思い、今回の事件の翌日、まだ低体温症に報道機関も触れていない段階から、書いてきました。はたして結果はまさにそうだったと思っています。


RE: 岩崎元郎氏、ツアー会社の資質、ガイドとしての特性
 「登山不適格者」などの本があり、ガイドでもある岩崎元郎さんが、9月号の「文春」に、今回のアミューズ・・社の件を書いていました。

 私はずっと上のコメント(事故翌日)でこう書きました。

>ただ、今回は平日とはいえ、19人パーティーで避難小屋をはしごするという、計画なんですね。非常識です。もう一組と鉢合わせしたり、悪天で停滞が重なったら、にっちもさっちもいかない。ツアー外の登山者からみて、この計画自体がマナー違反の膨張主義、儲け主義と思います。

 岩崎さんによると、この会社は、大雪山系や屋久島などの避難小屋で、ガイドによる「場所取り」を常態化させていたそうです。

 ガイドが1人、パーティーを離れてはるかに先行してしまい、避難小屋にシートを敷き詰めるなどして、他のパーティーが泊まれないような「場所取り」と続けてきたのだそうです。だから岩崎さんは、今度の事故のあと、あの会社なら、と、ぴんときたそうです。

 今回の事故では、ガイドの判断や資質の異例さが話題になっていますが、それが個人に属するものならそのガイドの問題になります。

 しかし、今回は、
日程も、
こうした非常識な人と装備の節約も、
夏休みをかねた偽りのガイドが1人いたことも、
ルートの経験者が1人だったことも、
「遭難」になってからの会社側の情報・判断の遅れと救助活動の開始の遅れも、
ガイドが遭難と判断したくなかったことも、

 もろもろの問題はみな組織的に起こったように見えます。

 もう一つ、岩崎さんは、山頂下で2時間前後も待機したことを中心に、ガイドの資質、能力の欠如を指摘しています。確かに「低体温症」についての適切な認識がなくとも、この状態が危ういか否かは、登山者であれば本能的にも自覚できることです。

 この解決には、制度が必要と思います。

 またこれはしかし、参加者の側にもふりかかってくる問題ではあります。
 現に、「私なら、あの状態で、ガイドの判断停止は無視して行動する」という登山者も相当な割合でいるでしょう。

 いずれにしても、今回、現行法にもとづく処罰だけでは、問題は解決しません。

 *公認資格のガイド制を設けて、営利登山には参加者数に応じて、必ず一定数を配置。

 *公認ガイドの判断が、日程変更、ルート変更、等々にまで行え、そのことで会社から不利益を被らない態勢の保障。

 *遭難を起こした会社の一定期間の資格取り消しなど、ツアー会社そのものにも資格制度をつくる。

 2番目は、岩崎さんも言っていました。


久しぶりに、日記とか読ませてもらいました。
日航機の事故現場行ってたんですね。
報道関係の仕事をしてたとのこと、ちょっと、tanigawaさんへの理解が深まりました。

ところで、『トムラウシ山遭難。3人の女性の頑張りに感動』の出典元はどこですか?

はじめの広島の方は、道新の記事だと思うのですが、他の2人の証言についても、ネット上に元記事があるならURL教えてください。
ネット上になかったら、何日付の何新聞かとかでも教えてくれると嬉しいです。

また、死亡したベテランガイドは、自分の衣服を衰弱している人に貸し与えていたという話も聞いたのですが、出典・元記事ご存じですか?良かったら合わせて教えてください。


2009/8/31 10:52

RE: トムラウシ山遭難。低体温症と、ツアー登山。2つの問題
 ihara1990さんへ

 その件で資料に使ったものは、次の3点です。

 毎日新聞 2009年7月23日付 24面
 「大雪山遭難 疲労蓄積 ツアー強行」

 産経新聞
 http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/090723/dst0907231350013-n1.htm

 週刊文春 7月30日号
 「大雪山系 死の行軍  生存者 衝撃の証言」


RE: トムラウシ山遭難。低体温症と、ツアー登山。2つの問題
tanigawaさん

回答ありがとうございます。図書館で探して文春の記事読んでみようと思います。

近年、子育てしていて思うのですが、女性の協調性・思いやり・忍耐力ってすごいですね。僕なんて全然余裕ないです。

ところで、ツアー登山利用する人って、女性の方が多いんですかねぇ。それとも今回はたまたまだったのかしら。


「貴様なにさま」の反応に驚いています

私のハンドル名をよくご存知の方々から、「貴様なにさまのつもり」と叱責を受けました。書いてはいけない場所に書いてはいけない事を書いて、tanigawa さんのみならず、他の閲覧者まで過剰に不快にしたと指摘を受けました。

ここ2ヶ月間、連日、「お前、山登るな」「仕事干すぞ」「お前にだけは絶対にツアーに参加してもらいたくない」などの脅しに耐えております。

真夏にガーゼのおくるみだけで赤ん坊を寝かせ、扇風機を連続運転すると低体温症で死ぬ、などという知識は一般的で、雨風に打たれれば真夏でも高山は危険というのは、山の初心者でも常識中の常識であると思っておりました。

RE: トムラウシ山遭難。低体温症と、ツアー登山。2つの問題

 そういう出来事があったことは、私にとっても驚きです。

 私は今回の件は、現在の登山における遭難の、とても典型的な特徴が現われていると感じてきました。ですから、さまざまな経験や見方をもつ方が、今回の出来事と正確な情報をもとに、討論をおこない認識を深める必要があると考えてきました。

 公の場でない場面で、nonatamaさんにきびしい意見があったのだとしたら、その方の見方をふくめて、ぜひみなさんがわかる、公正な形で論議すべきと思います。

 nonatamaさんのコメントについては、私は、今度の書き込みと以前のものとに、段差を感じます。また、扇風機の例をあげていますが、大事なことは、家庭では気をつけるような扇風機の扱いのようなことが、登山の低体温症の場合には認識されているのかどうか、ということだと思います。

 「風雨に打たれれば危険」ということだけでは、低体温症を知ったことにはなりません。そんなことなら、今回の遭難パーティーも全員「危険」と答えるでしょう。ところがその全員が、登山者にとって低体温症の危険とは何か、それはどう現われるかを誰も知らなかった。生存者がいみじくも語っています。

 そこを私は言っているのです。


避難小屋の利用について、十勝支庁が注意
 ヒサゴ沼避難小屋を管理している十勝支庁が、HP上で、場所取り禁止の告示を出しました。

 私は、大きなパーティーが予定計画的に避難小屋を使うこと、そのものを原則禁止にしてほしいと書いてきました。学校行事等でどうしても使う場合は、混雑する時期や曜日を避けて、特別に許可し、そのことを事前にHP等で登山者に知らせることも提案してきました。

 今度の処置は、一歩前進ですが、一方でツアー会社側をこのモラルで縛る措置も、併せて必要と思います。

 支庁のこの掲示を素直に読めば、一定規模の人数のツアー登山が、混雑期に避難小屋を使うこと自体が、成り立たないと思います。ところが、事が営利目的ですすむと、歯止めが利かなくなる。避難小屋が本来の役割を果たせるように、自治体として、その措置が講じられるべきです。

 しかし、結局のところ、この掲示の精神をほんとうに実施するなら、大雪ではツアー登山は、テント縦走でやるしかないことになります。つまり自分の装備と食料を担げる人だけが、これに参加できる。このことは、冷静に考えれば、こういう結論にしかならないのですから、それにふさわしい対応を関係機関に求めます。

 百名山のなかに、いくつかはそういう山があって良いのではないでしょうか?

 テント利用となると、これまたヒサゴ沼をはじめとして、受け入れ容量の問題が出てきます。むずかしい問題です。


http://www.tokachi.pref.hokkaido.lg.jp/ts/kks/sizen/yama/hisago/Shelter
http://www.tokachi.pref.hokkaido.lg.jp/ts/kks/sizen/yama/hisago/hinanngoyaryuuijikou.htm


北海道新聞8月20日
【新得】大雪山系トムラウシ山(2141メートル)で7月、8人が死亡した登山ツアーの一行が、最後に宿泊したヒサゴ沼避難小屋(定員30人)を訪れた。同小屋では、道外ツアー会社による「場所取り」が横行、小屋を管理する十勝支庁に一般登山者から苦情が寄せられている。同支庁は「悪天候時の緊急避難という小屋の利用目的に反する」として、ホームページで禁止を周知する方針だ。


RE: トムラウシ山遭難。低体温症と、ツアー登山。2つの問題
(10月号の山雑誌の特集について、yamarecoでのある方の書き込みに私がコメントしたものです。
 このツリーに関係するので、コピーしておきます。)

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 私は「岳人」の同じ特集をとりあえず立ち読みしました。

 低体温症の件では、生還し、証言している方のうち服装がわかる3人の方が、そろって山ズボンの下にポリエステル性のサポート・タイツを着用していたことに注目しました。

 ズボンと重ねては、夏の本州では暑い服装ですが、今度の条件では体温保護にある程度は役立ったのでしょう。とくに、北沼で下半身に冷水を浴びたことにたいして、その後の下半身の濡れと風からの保温で効果があった可能性があります。

 医師による寄稿では、ポリプロピレンなどより保温性の高い下着の用意を強調していました。このサイトでは私はとりあげてきましたが、新聞では出てなかった論点です。

低体温症の対策) 予防的なウエア、装備
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3787

 一番、注目したのは、なぜ出発をしたのか? ということにかかわって、あの日に同じアミューズ社の別のパーティーが避難小屋に向かっていたことでした。20人ほどが入れ替わりで入ってくるため、空けるしかなかったのだそうです。

 7月22、23、24日にも連続で、この会社が避難小屋を占拠して、予定を組んでいたそうです。

 場所取りは、最初聞いたときは、ルール違反と思ってきましたが、ここまで徹底していたとは、愕然としてしまいます。

 ツアー登山がルールなしで進んでゆくと、ただ収益性・効率だけの観点から、ここまで落ちてしまうのだと思いました。

 「岳人」では、ツアーは、施設が不備の北海道には不適としていました。一挙にそこまで結論づけるのはどうかと思います。まずまっとうなルールをと思います。避難小屋を大人数で予定計画的に連日組み込むのは、他の登山者まで危険にさらすものと思います。


ガイドの面からの改善の具体的な提案
 以下は、「毎日」に載った記者の論説です。

 遭難の背景となったうち、ガイドの問題についてより詳しい事情と改善を書いています。

 大半は、私も賛成です。

 このツリーでは、低体温症の認識の問題(疲労凍死という言葉の危険性)、避難小屋の使用の問題、ガイドの問題など様々書いてきましたが、いろいろな部面から同様の声が出てきているのは、議論の始まりとして大事なことと思います。

 以下は引用。

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毎日新聞 2009年10月22日
記者の目:トムラウシ遭難に見たツアーの課題=田中裕之

・・・ところが、国内ではガイド資格の取得者が圧倒的に少なく、無資格者がツアーを引率するケースが目立つという。今回の場合、ガイド3人のうち61歳ガイドは日本山岳ガイド協会認定の資格を持っていたが、他の2人は無資格。しかも、61歳ガイドが今回のルートを案内するのは初めてで、結果的にガイドの知識を十分に生かせなかった。

 日本旅行業協会によると、近年のツアー登山参加者は年間約30万人。ツアー数は数千に上るとみられる。だが、日本山岳ガイド協会認定のガイド資格取得者は、現在の内容に改正された04年以降わずか約130人。試験では危機対応力を問われるなど難易度が高く、合格率は2割前後に過ぎない

山岳の多い北海道が独自に設ける資格の取得者は約130人、長野県認定の資格者は約500人しかおらず、日本トレッキング協会の越谷英雄理事は「現状ではガイドをすべてのツアー登山に同行させるのは困難」と言う。現在のツアー登山は、資質のあるガイドが確実に引率しているとはいえず、トムラウシのような「本州の3500メートル級に相当する」(越谷理事)とされる山では一つのミスが致命的な結果につながる。

 こうした状況を打開する一案として、ガイドのレベルをランク分けし、山の難易度に合わせて適材適所に配置するのはどうだろう。難しい山にはレベルの高い資格を持つガイドを充てるよう旅行業者に義務付け、比較的簡単な山についてはワンランク下のガイド資格を新設して対応する。そうすればガイド不足を解消でき、危険性の高い山には優秀なガイドを集中して投入できるかもしれない。北海道の担当者も「山の特性を制度に取り込んでいく議論が必要かもしれない」と指摘している。

(引用終わり)

/////////////////////////////////////

 私がこの提案と別に考えているのは、ガイドの地位保全と雇用形態です。

 ツアー企画会社の意のままに扱われ、行動時の判断が事実上、失われている面も、資格の面と同時並行で改善が必要と思います。

 例えばの案では、私が述べてきたように資格者のガイドの同行・案内を義務づけるだけでなく、そのガイドが企画会社にたいして(雇用上も)独立した地位をもたせる仕組みです。

 ガイド団体が必要な権限をもつことも、方策としてあると思います。

 参加者から見れば、理想的には、誰がガイドするのか明確に紹介して、ツアーを募集するという方法もあると思います。

 先に私が必要項目として挙げたのは、次の点です。

*公認資格のガイド制を設けて、営利登山には参加者数に応じて、必ず一定数を配置。
 
*公認ガイドの判断が、日程変更、ルート変更、等々にまで行え、そのことで会社から不利益を被らない態勢の保障。
 
*遭難を起こした会社の一定期間の資格取り消しなど、ツアー会社そのものにも資格制度をつくる。

 それにしても思うのは、ツアーなら安全だと思って参加している、その実態は、深刻な実情にあるということです。ツアーは、現状ではもっとも危険な登山形態かもしれません。行き先次第では。

 また、危ないツアー会社ほど、危ないガイドの体制にある。判断の余裕がない日程や回転を強いている。

 しかも、登山の経験が浅かったり、他人のリードで登ってきた人には、この体制上の危険性を察知することは難しい。また場面に出遭っても、対応がむずかしいことも、今回、はっきりあらわれました。

 今回の遭難をほんとうに繰り返さないというならば、低体温症の認識、ツアー登山の実態など、徹底的に実情を知らせきる、とりくみが必要と思います。マスコミも、山の雑誌も、まだ遠慮や、事実の甘い押えがを感じます。

 まだ、そこには程遠い
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3691
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/717.html#c3

[リバイバル3] トムラウシ山遭難事故 中川隆
4. 中川隆[-7608] koaQ7Jey 2017年6月04日 13:35:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2010年07月02日 10:48山の安全全体に公開
09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-9921



 昨年7月16日のトムラウシ山遭難事故から、まもなく1年になります。

 あのとき私は、事故の救助活動の模様をつたえる翌17日朝のテレビで、この遭難を知りました。状況からすぐ思い浮かべたのは、この数年、北海道のツアー登山などで繰り返されてきた低体温症による遭難死でした。そこで、昼すぎに、次の内容をヤマレコ日記にアップしました。

 トムラウシ遭難――低体温症とツアー登山、2つの問題
 http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3691

 この事故の経過が明らかになるにつれて、低体温症の実態、その独特の怖さを私自身も再認識しました。「疲労凍死」「気象遭難」とされた過去の遭難死の、本当の原因について、多くの登山者が新しい認識をすすめる契機になった出来事でもありました。

 その後、日本山岳ガイド協会は、トムラウシ山遭難事故調査特別委員会を設け、昨年11月に「中間報告書」をまとめました。
 トムラウシ山遭難事故。山岳ガイド協会の中間報告書にみる「低体温症」の実際
 http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-5521

 私はこのスレッドの最後のところで、「中間報告書」の内容と構成にたいして2つ、意見を書きました。

 1つは、低体温症の脅威と対応を登山界全体が認識できる体系的な構成にしてほしい、ということです。

 報告書は、低体温症が、犠牲者の直接の死因であることを指摘しながら、このパーティーが低体温症にたいしてどう認識し、どう備え、どう現場で対応したのかについて、一貫した視点での記述と総括が不十分だったからです。そのために、この中間報告書はマスコミに、ガイドのスキル、力量不足一般に原因があったとして報道されてしまいました。中身はけっしてそういうものではなかったのに。

 この遭難の最大の原因は、ベテランの領域に入ったリーダー・ガイドをふくめ参加者の全員が、低体温症の脅威について認識がなく、無警戒だったことでした。ほんの数年前に、同じ山で同じ季節に、2つのパーティーが低体温症で死亡者を出していたことも、全員が知りませんでした。不幸だったのは、そのリーダーが遭難にいたる最初の段階で、低体温症の症状である判断不能に陥り、別のガイドも渡渉で転倒して低体温症に続いて陥り、パーティが瓦解したことでした。これではガイドのスキルの発揮どころではありません。

 中間報告書は、経過の記録や専門家の詳細な調査から、この原因が読みとれる内容があるのに、大事な問題が部分部分に埋もれてしまっていました。

 2つめは、原因の一端をガイドの力量に求めるのならば、ガイドの水準、認識を向上させ、ガイドが参加者の命にかかわる問題で的確な判断を保障しうる制度が必要ではないか、ということです。

 ガイドは人の命を預かるのですから、当然にも営利優先となる会社からは独立した立場で、安全の可否を判断しなければならない。ツアー登山には、専門的なガイドを配置することを義務付け、ガイドの判断によってその地位や生活が脅かされない立場を保障する、そういう制度を提言してほしいということです。

 実際上は、停滞、中止の判断が保障されていない不安定な地位にガイドはいます。停滞の予備日もないもとで、無理が先に立つ判断を強いられる。避難小屋を出発しないと、同社の次のツアー団体が、その小屋に入ってくる……。

 こういう抜本的な改善がなければ、事故のたびに個々のガイドが司法で裁かれてきただけという状況は、ちっとも変わらず、同じことが繰り返される。


 今年3月、「最終報告書」が出ました。
 http://www.jfmga.com/pdf/tomuraushiyamareport.pdf

 この間にいろいろなところから意見がよせられ、検討がすすめられたのだと思います。最終報告書では、私が思ってきた第1の点は、大幅と言っていいくらいに内容と構成が拡充されました。

 第2のガイドの地位の問題は、現状ではいけないという認識は反映されて旅行会社に管理運用上の改善策を提起しています。ガイド団体にもスキルアップの角度から提案しています。しかし、これだけでは運用上の範囲にとどまり、旅行会社の自由裁量になってしまう。制度問題と法的なルールに踏み込んだ内実が提言されないと、旅行会社は動かないと思います。もっと大胆に提起して、世論を喚起してほしかったと思います。

 しかし、そういうことはあっても、最終報告書は、多くの登山者がこの大量遭難事故のななから、低体温症の脅威と備え、リーダーが果たすべき役割、日本の登山界のなかでのガイドの地位と力量の向上を考えるうえで、他に替わるものがないほどの、大事な事実と探究、痛切な教訓がおさめられていると思います。登山者にとって、とても大事なレポートです。

 このスレッドでは、最終報告書のなかから、とくに低体温症への対応を中心に、事故にかかわる新しい事実、登山者として学んだ大事な点を、いくつか紹介していきます。
 
 形式上、最終報告書からの紹介と検討が順にすすみますが、みなさんとともに考えていきたい問題ですので、いろんな角度からのコメントをいただくのはもちろん歓迎します。

 (画像は、ランドサット衛星画像と国土地理院数値地図をもとに、カシミール3Dで描いたトムラウシ山西面、カウンナイ川)

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2010/7/2 17:22

RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応

たいへん参考になる書き込みを有り難うございます。「最終報告書」をじっくり読ませていただきました。

遭難被害を出さなかった伊豆ハイキングクラブのパーティも,危険な状況にあったのですね。

昨年7月16日のトムラウシ山での大量遭難が起きた日に,私は旭岳〜白雲岳避難小屋のコースを歩きました。

強い風雨の中,旭岳を目指して歩き出したものの,7合目を過ぎたところでかつて経験したことのないような猛烈な風に危険を感じ,一旦避難小屋まで退避。しかしながら,天候は回復するとの予報が出ていたことから,少し風が収まったところで無謀にも再度スタートし,強風に吹き飛ばされそうになりながらも,なんとか白雲岳避難小屋まで歩き通しました。

でも,本当は自重すべきだったと,今でも反省しています。
一歩間違えば,自分も遭難しかねない状況であったわけですから。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

私の山行記録はこちらをご覧ください。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-67545.html


RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応

 遭難事故から1日遅れの行動での山行記録、読ませていただきました。
 大雪から十勝にかけての稜線は、樹林帯がない吹きさらしなだけに、あの日、一帯を襲った猛烈な風のすごさを、記録からも感じとることができました。

 rikimaruさんの場合も、その日にトムラウシを越える長丁場の行程であれば、問題のパーティーや静岡県のパーティー、そして美瑛岳のパーティーと同じで、生死にかかわるような行動になった可能性がありますね。

 寒さをかなり感じていた様子ですから、紙一重で低体温症にいたらなかったように読めます。

 それは、行動を続けるだけの体力、筋力、カロリー補給と、行程の短さのせいだったように思います。ウエアは、できれば行動前にもっと着込む必要があったですね。

 トムラウシは、長丁場で、自力で我が身を守るしかない山です。ツアー登山のパーティーは、リーダー・ガイドがこのルートは初めてで、これは想像ですが少々の悪天候でも、2100メートルそこらの山なら、十分越えて行けると、当初は思ったのではないかと思います。

 本州の感覚なら、そうでしょう。

 しかし、実際には、北アの薬師岳並みのロングルートで、日中なのにその気温は同時期の北アでも記録的なほどの水準に低下していた。しかも山頂付近に小屋はない、途中に人はほとんどいない。他者の助けをえられないということが、どんなに深刻なことか、ツアー登山のパーティーと静岡のパーティーは厳しい状況に立たされました。

 最終報告書が指摘していますが、ツアー登山のパーティーは悪天候下でこの山を乗りこせる主体的な力量と認識が欠けていたのだと思います。

 このスレッドでこれから順次書いていきますが、低体温症の脅威について、どう対応するかについて、rikimaruさんは体験を通して、一つの到達点を示していただいているように受けとめました。

RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応
衝撃的な出来事からまもなく一年がたとうとしていますね。

まだこの頃は登山もほぼ中断中、ヤマレコを見ておらずにただ驚くばかりでした。
その後で登山再入門してこの遭難の詳細を知ることとなった立場です。
その際に大変tanigawaさん含めたヤマレコユーザーのご意見、検討が大変役に立ちました。感謝申し上げます。

そして、示唆に富んだ意見を頂けること、大変ありがたいことと存じます。


夏山シーズンを迎えるにあたって、今年こそは同じ轍を踏むようなことのないことを祈ります…。


この一年で低体温症の恐ろしさは本当に浸透したのでしょうか。
少なくとも、安全に普段から気を遣っている人にとってはそうであると信じます。

しかし、山岳情報に無頓着な観光気分の人はどうでしょうか。
はたして、山の雑誌もチェックせず、誰かに引率されて自分の行く先も現在地も正確に把握せず、装備も人の言うままの人達がどれだけの認識をもつようになったのか…。

そしてたとえ防寒着を持っていても面倒と思うことなく先手をうって使用していかないと効果的ではありません。その判断をできる人達がこのような人の中にどれだけいるのでしょうか。
そのようなことはガイドに任せている、では何ともならない事も浮き彫りにもなりました。

これらの人、また、この遭難を知らずに山を始められた方々にいかにうまく伝える事ができるかが今後の課題になるのではないかと思っています。


低体温症の恐ろしさは、その進行の早さと判断力の低下を来す点であることは間違いないでしょう。tanigawaさんのご指摘の通りと思います。

それが起こる前、震えの出現と停止の段階で処置しなければ発症は止められません。

そして、これすらも条件が悪いと一足飛びに進行していくということも生存者の証言から判明しました。

つまり、雨風の気象条件、どれだけの運動持続が可能か、体の濡れをどれだけ防ぎうるか、非常時の待避が可能な装備か、総合的な判断を下して発症するような条件にならないように行動をしていくしかないということになります。

私たちができる最大の対策は、勉強して備えることです。


遭難事件は悲劇ですが、そのなかで適切な処置によって意識障害を来した重症の方でも生還されました。

このことを一筋の光として認識したいと思います。
風をよけて体温を保持すること。乾いた衣服を身につけ、暖かいものと速やかに熱源となる糖分を摂取すること。

つまり、熱のロスを最小に、加熱を最大にするように心がけるというとてもシンプルな事。
いかにこれが大切なのか。


最後に…

1に体力(発症させない行動維持能力と耐寒能力)
2に知力(発症する条件を知り、状況を判断する能力)
3に装備(的確な処置を行うための装備と条件をよくするための着衣)

優劣つけがたいですが、低体温と戦うための武器はこれだと思っています。
といっても頭だけの初心者ですから、安全を確保しながら体験していくしかないだろうと思います。


RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応
あれから一年ですね。
ちょっと質問なんですが
例えば ツアー参加者が本能的に危険を感じてツアー全体の意向に反して停滞や撤退などを強行(ツアーパーティーを離脱)することは許されるの
でしょうか?

RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応

 komadoriさん、すごいです! 私がこれから紹介しようとしていることの大事な要点を、簡潔にみなまとめちゃってる。それに何と言っても、低体温症が新たにどうとらえられてきたのか? 1人1人が登山者としてどういう心構えや備えをすべきか?
 その新しい内容をしっかり押えられてますね。

 私が、中間報告書と、最終報告書で強く印象付けられたのは、

 「低体温症とは、登山者にとって、薄壁一枚の向こうにあるような、身近な脅威であること」

 「登山の様ざまな危険の一つとして絶えず意識して備えをとっておくべきことで、不意打ちでくらったら、自分には判断も、対応もしようがないこと」

 このことです。

 あの日、トムラウシで8人と1人、美瑛岳で1人、我が身に何が起こったのか、おそらく認識できないまま意識を失っていったのだと思います。低体温症が、代謝にも大きな攪乱を起こすことが今回、調べられました。ものすごく苦しいなかでのことでもあったように想像します。

 89年秋には、立山の大量遭難もありました。一人一人が事態を知ることで、登山の世界のきちんとした常識に、この問題をしていきたいと思っています。


RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応

 ほんとうにあれから1年という感じですよね。あのとき、miccyanさんからコメントをいただきましたが、あれが最初のmiccyanさんとの「会話」だったように思います。

>例えば ツアー参加者が
>本能的に危険を感じて
>ツアー全体の意向に反して停滞や撤退などを強行
>(ツアーパーティーを離脱)することは許されるの
>でしょうか?

 旅行の規定では、パーティーのメンバーはリーダーの指示に従ってもらう、従わない場合は、それにともなう経費と危険は自分持ち、というルールだったと思います。

 しかし最終報告書からは、一部に意見がでた程度でした。出発というときの個人の気持ちのなかで「停滞したい」という心境だったことを、あとで語った人がいました。

 でも、ガイドの決めたことに反する行動をとろうとしたということは、なかった様子です。

 人間には、危険にたいして、備え、回避する本能が確かにあるはずです。
 ところがそれは、表立っては発揮されなかった。

 その原因として、低体温症への認識以前のこととして、参加者の経験、技量の問題がやはりあります。生存者の男性は、「これほどの長丁場の行程だと知っていたら、絶対出発なんてしなかったのに」という趣旨の話をしています。ガイドを批判する内容ですが、客観的に見れば、自分でルートすらしっかり調べていなかったということです。リーダーの出発の判断も、ルートの長さ、厳しさを体験していないゆえのものではないでしょうか。

 つまり、危険にたいする本能的な認識を効かすには、この山でこの条件で、何が危険かを判断するだけの、また備えを考慮するだけの、的確な知識と二次的もいいから体験が必要ということではないかと、私は思います。

 一方、静岡県のパーティーの場合は、出発も、途中でも、前日にも、内部でさまざまな意見があり、それが持ち越された様子です。


その1)急性低体温症と、急激な意識障害、行動不能

 「最終報告書」で改めて裏付けられたのは、パーティーのなかで行動に支障を起こす人が、かなり早い段階で生まれたことです。

 この点では「山と渓谷」の今年3月号が、生存者の証言から、ヒサゴ沼避難小屋から縦走路にあがる雪渓、また縦走路に上がってすぐの地点で、2人が介助されなければ歩けなくなったと、していました。

 パーティーは、5時すぎに小屋を出発して1時間もたたずに行動に大きな支障が出ていたことになります。
 
 最終報告書は、「最初に体調を悪くした人が、疲労ではなく、低体温症の始まりであったことがその表われである。」としています。また、「低体温症の前兆はロックガーデンであったと思われる。」と記しています。時刻は8時30分頃。

 女性客Gさん(64 歳)の証言。
 「ロックガーデンの登りで、男性客M(66 歳)さんが脚を空踏みし出して、ふらふら歩いていた。支えて歩かせていたが、次第に登る気力が失せたのか、しばしば座り込むようになった。これでは自分の体力が持たないと考え、ガイドに任せた」(最終報告書)

 ロックガーデンでは、2,3人が低体温症の兆候を示していたとのことです。

 午前10時ごろ、北沼へ。ここまでコースタイムの2倍の5時間を費やしています。

低体温症の症状は、北沼に上がって、沼の増水のため渡渉したあと、意識を失う人を介護するため烈風のもとで行動をやめた段階で、パーティー全体に拡がります。

  女性客Gさん(64 歳)
「北沼は白く大きく波打っていた。小さな沼がこんなに、と怖かった。渡渉後、その先で皆休んでいたが、女性客K(62 歳)さんが嘔吐し(何も出ない)、奇声を発していた」(最終報告書)

 「聞き取り調査によると、北沼分岐の待機でほぼ全員が低体温症の徴候を示していた。」(最終報告書)

 パーティーにとって深刻だったのは、ガイド3人のうち、リーダー・ガイドをふくむ2人までが、低体温症に見舞われたことでした。

 ガイドの体制は、リーダーA(61 歳、北沼で死亡)、ガイドB(32 歳、唯一のルート経験者)、ガイドC(38 歳、渡渉時に冷水を浴び、発症。その後、意識を失う)、の3人。

 「全員、渡渉を終える。「どこか風を避けられる所はないか」というリーダーA のリクエストに応えるべく、ガイドB が出発しようとしている時、ガイドC(38 歳)から「ずっと肩を貸して歩いてきた女性客J(68 歳)の様子がおかしい」との指摘がある。スタッフ3 人は懸命に女性客J の体をさすったり、声を掛けて励ましたり、暖かい紅茶も飲ませたりしたが、しだいに意識が薄れていった。」(最終報告書)

 一行は、意識を失う人が出たためガレ場でそのまま約1時間停滞します。

 ガイドCの証言。
 「リーダーA(61 歳)が『俺が看るから』と言うので、『それじゃ、お願いします。私は本隊を追いかけますので』と言って別れた。彼は男性客D(69 歳)が貸してくれたツエルトで女性客J(68 歳)を包んでさすってあげていた。風が強いので、ツエルトを巻こうにも巻けない状態だった。そのころの彼の表情は、どこか虚ろだったように思う」

 女性客H(61 歳)の証言。
 「リーダーA(61 歳)さんは度々お世話になっているが、特別調子が悪そうには見えなかった。ただ、ザックカバーを飛ばされているので、体もザックも濡れて、寒いだろうな、と心配していた」

 現場は、「岩がゴロゴロした遮蔽物が何もない場所で、プロのガイドがビバーク・サイトとして選ぶ場所ではない」(最終報告書)ところ。

 *3人のガイドがいるのに、一度は移動を指示したものの、その場で介護としたこと、

 *以後もパーティー全体に風の弱い地帯への退避を指示しなかったこと、

 *ツエルトも満足に扱えない(風とガイドらの行動能力の低下)、リーダー自身が我が身さえ守ろうとしなかったこと、

 *動けるメンバーが退避行動に移った直後に、行動不能者が次々とあらわれたこと、

などから、「ほぼ全員が低体温症の徴候を示していた」ということは、現実のことだったと思われます。

 「そのような対応ができなかったということは、リーダーA自身に危急時対応の経験が少なかったか、あるいは体調不良であったか、はたまた本人も低体温症に罹っていて、判断能力が低下していたものと推測される。彼が亡くなっている今となっては、確かめる術がないのが残念である。」(最終報告書)

 この時点で、パーティーは構成員の多くが下山行動に耐えられたない、遭難段階におちいりました。
 
 最終報告書が指摘しているのは、低体温症の急激な進行です。

 生存者に聞き取り調査した医師のコメント。

 「体温下降時の症状は前述したとおりで、体温が下がる過程で体温下降を防御しようとする「震え」が、必ず35 ℃台でくるものと思っていた。

 しかし、その「震え」の過程を見ると、「震え」がほとんどなく意識障害にすぐに移行した例や、「震え」と同時に「眠気」に襲われた例、震えながら意識が飛んだという症状が見られたことは、体温下降の過程で同じ症状が段階的に進行していくのではない、ということが分かった。

 行動中のどこかの時点で「震え」があったものと思われるが、行動していれば低体温症にならないということではなく、体温を作り出す「熱量」がなくなれば、「震え」がこずに体温が低下すると思われた。

 「行動中に意識が飛んだ」「ストーンと落ちていくように意識がなくなった」という証言は、急激な意識喪失がきたものであるが、これは寒中の街で起こった低体温症の患者の例には見られない症状で、山で起こった偶発性低体温症の特徴的な症状とも思われる。」(最終報告書)

 今回の急激な発症を、この医師は登山の場合(偶発性低体温症)に起こる稀れな事例ではなく、「特徴的な症状」であると指摘しています。

 低体温症が、特定のメンバーにではなく、パーティー全体に一気に現れるというのは、昨年の最初のスレッドに書いたことであり、実は登山における低体温症の発症の、かなり基本的な現れ方ではないかと、私は思います。「疲労凍死」という「事件」名称は、この点でも一掃しなければなりません。

 1人が動けなくなると、その場で、介助者をふくめ何人もが行動不能に陥る。89年の真砂岳の大量遭難死も同じことが起こりました。1913年、長野県中箕輪高等小学校の木曽駒ヶ岳集団登山における遭難事故(11人死亡、「聖職の碑」)がありますし、私の郷里の吾妻連峰でも同種の遭難があります。

 常でない震えがきてから備える(退避、重ね着)のでは、次に来る意識障害や行動不能に、間に合わない場合がある。そして、それが登山の特徴的な現れであるからこそ、来るときは同じ状況にある登山者に(もちろん最初の兆候はあるにしても)一斉にくる。

 低体温症は、追い込まれてから対応することは困難である。登山の危険の基本要素として、気象や行程から予測事項に入れて、予防的に対応する、そういう相手である。このことを、トムラウシの犠牲者と生存者が身をもって登山界に訴えているように、私は受けとめています。

RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応
tanigawaさん

当日の私の状況について,少し説明をさせて下さい。

>寒さをかなり感じていた様子ですから、紙一重で低体温症にいたらなかったように読めます。

> それは、行動を続けるだけの体力、筋力、カロリー補給と、行程の短さのせいだったように思います。ウエアは、できれば行動前にもっと着込む必要があったですね。


この点についてですが,実は,私の場合,行動中はそれほど寒さは感じておりませんでした。

衣服の状況ですが,夏山用の薄手の長袖シャツと長ズボンの上にゴアテックスの雨具を着用していました。

最大瞬間風速30メートルを超えるような風に立ち向かって歩いていましたので,相当の熱量消費により,体温が維持されていたのではないかと思います。ゴアテックスのおかげで風による冷えを遮断できていたこともあると思います。一方,手先だけは,グローブをしていても凍え,とても冷たく感じました。

また,行動中は一度も震えを感じませんでした。ところが,避難小屋の中に入ってから2〜3分で体中が震え出しました。文字通り歯がガチガチと音をたてて震えました。

これは,行動が終了したことで発熱がなくなり,急激に体温が低下したためと考えています。

私が思うに,低体温症への最も有効な対策は,常に行動し続け,発熱を維持することではないかと思います。

そこで重要なのは,行動を継続できるだけの体力と,発熱を維持できる量のカロリーの摂取です。

私の場合,登山途中で避難小屋に戻り,十分なカロリー摂取ができていたことが,その後の行動維持に寄与したと思います。

トムラウシ山遭難事故では,ロックガーデンの登りで既に一部の方に低体温症の症状が出始めたということですが,あの暴風雨の中で行動を続けられなくなったために発熱を維持できず,体温低下に至ったのはないでしょうか。

今回の遭難では,ロックガーデンの先,北沼付近で長時間待たされ,発熱が止まってしまったたことが,低体温症発症の最大の原因ではないかと思います。

RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応
 rikimaruさんへ

>実は,私の場合,行動中はそれほど寒さは感じておりませんでした。

 とありますので、以下の私の記述のうち、寒さの点は削除いたします。

>>寒さをかなり感じていた様子ですから、紙一重で低体温症にいたらなかったように読めます。

 それは、行動を続けるだけの体力、筋力、カロリー補給と、行程の短さのせいだったように思います。ウエアは、できれば行動前にもっと着込む必要があったですね。

 それで、「紙一重」だったのかということですが、rikimaruさんはこのときの山行記録に、次のように書かれています。

>なんとか頑張ってここをやり過ごし,白雲岳避難小屋を目指しますが,徐々に体力が落ちていく感じがしました。手袋をしていても指がこごえて,うまく動きません。ゴアテックスの雨具を着ていても,霧状の雨が中の衣類を濡らします。
途中の岩陰で休憩をとり,ウェストバッグに入れておいたアメ玉を頬張ってエネルギー補給です。ザックを開けて食料を食べるような余裕はありませんでした。
小屋に入ってザックをおろした途端,寒さと安堵感で全身が震えました。

 白雲小屋は、先代くらいの時期の小屋の前を秋に通過したことがあります。いまのものもそうですが、きちんとした避難小屋で、風も避けられます。

 そこに行き着いて、間をおかず、猛烈な震えがきたということは、このときの体温が、「最終報告書」の目安でいえば、次のレベルだったことになります。

**たとえば、「全身的な震え」が始まったと思われる症状があった時を35 ℃、意味不明の言葉を発した時を34 ℃、意識不明になった時を32 ℃以下としたが、確定ではない。

 これが、私の「紙一重」の根拠です。

 行動を終了したことで、熱の産生が落ち、そのことで体温が下がることはありますが、小屋内で風のない条件で、一方で熱の喪失という点では、戸外にくらべて格段の違いがあります。

 この差引をどう見たらいいのか。


 A)微妙な状況にあったからこそ、35度水準の震えがすぐに来たといえるのか、あるいは、

 B)気持ちが落ち着いたところで、体の正常な反応が始まったのか。

 定かではありませんが、体温は警戒信号を発し始める水準ではなかったかと思います。

 このことと、手の冷たさ、インナーのウエアの濡れ、休憩しても食事をまもとに摂取できない状況について、rikimaruさんは、書かれています。

 もしも、あと1キロ、白雲小屋が遠ければ、rikimaruさんが現場で思案したビバークを実際に実行していたかもしれません。

 そこでわが身を守れるか否かは、低体温症の脅威の認識と、カロリー補給と、的確な保温対策にかかっていたと思います。
 
 なお、上記のAとBについては、最終報告書が、震えについて、必ずしも予兆として起こるとはいえず、起こらないまま進行する場合もあるとしていることに、私は注目しています。

 つまり可能性としては、小さいと状況にてらしていえますが、次の可能性もわずかにあります。震えがくる水準に体温が下がっていたが、なんらかの原因で震えのプロセスが飛び越えられていたのかもしれない、ということです。

 rikimaruさん以外にはその経過を体験していないので、rikimaruさんの記憶や確認がなにより有力です。

 rikimaruさんの記録でもう一つ重要なのは、ゴアテックス雨具の下のインナーウエアなどが雨の吹き込みで、小屋で着替えが必要な状態に濡れたと書かれていることです。

 これは、汗ということはなかったのでしょうか?
 雨にまちがいなく体表がひんやりしていたとすれば、トムラウシ遭難でもう一つ、問題になる、ゴアテックスの機能や雨具のつくり、そこから来るインナーのウエアの保温性の確保という問題が出てきます。

 この件で予防的にいえば、低体温症が心配される条件では、予防として、下着、中間着の保温性に気を配る必要があります。

 rikimaruさんに、もう一枚着るべきだったと書いたのは、その理由からです。

 なお、行動を続けることの可否については、最終報告書も新しい見解をのべています。別に1項をとって紹介します。
 

RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応
tanigawaさん

詳しい分析をしていただき,恐れ入ります。
私の状況について,若干補足させていただきます。

1 衣服の濡れについて
 行動を再開した午前11時頃以降,雨は小降りとなり,視界30メートル前後のガス状となったことは私のレポートに書いたとおりです。登山をされる方ならだれでも経験があると思いますが,濃いガスの中を歩行すると,かなり衣服が濡れます。雨具を着ていても,袖口や首周りの開口部周辺が濡れることがあります。当日は,大変強い風の影響で,細かい水の粒子が,開口部から進入したと考えています。

 避難小屋に到着した時,着替えたのは長袖シャツのみですが,全体が濡れたわけではなく,袖や首周りが濡れていて気持ちが悪かったので,着替えたわけです。下着やズボンは着替えていません。雨具の性能には問題なかったと思います。問題があるとすれば,それは,一眼レフカメラを首から下げたまま雨具の内側に入れて歩いたため,開口部の面積が広がったことが考えられます。

2 体の震えについて
 避難小屋に到着してから体の震えが起きるまでに,ある重要な状況変化があります。それは,小屋に入り,小屋番さんに宿泊の申し込みをしていた時に,小屋番さんから,ザックを降ろすよう促され,床にテント装備の大型ザックを降ろしたあとに,震えが来たという事実です。

 歩行中はずっとザックを背負っていましたが,ザックが保温材となって,背中の冷えを防いでくれていたのではないかと思います。それがザックを降ろしたことで,背中から体温が一気に放出された。と同時に,行動に伴う「熱の産生が落ち」たことで,震えが来たのではないかと。

 あのときの震えは,例えば真冬に暖房の効いたクルマから薄着のまま外に出たときに発する震えによく似ていました。外に出てすぐに震えが来るのではなく,少し時間が経過してから震えが来るというパターンです。震えていた時間もわずか数分だったと記憶しております。

3 遭難パーティとの差異について
私の歩行時間を昭文社の山と高原地図のコースタイム(CT)と比較するとこうなります。

(CT)旭岳石室(2:30)旭岳山頂(1:50)北海岳(1:40)白雲岳避難小屋 計6時間
(実際)旭岳石室(1:50)旭岳山頂(1:40)北海岳(1:10)白雲岳避難小屋 計4時間40分

あれだけの厳しい気象条件でも,ザック重量20キロをかついでCTを1時間20分短縮しています。
(ちなみに快晴となった翌日は,写真撮影に熱中してCTを大幅に上回りました。)

 一方,遭難したパーティの行動記録では,ヒサゴ沼から北沼までCT2時間半のところを倍の5時間かけています。

歩行に相当な困難が伴い,遭難パーティが北沼に到着したときには,皆,疲労困憊ではなかったでしょうか。

 私が岩陰でビバークを考えながら休憩したのは,丸4時間,休憩らしい休憩をとらずに歩きつづけ疲れがたまったためです。4時間も行動をしていれば,誰でも,疲れを感じると思います。しかし,疲労困憊していた訳ではありません。思考も冷静でした。あの厳しい状況下でも,ポイントごとに記録写真を撮っていますし,地図とGPSで現在位置を確認するという余裕もありました。

 したがって,「紙一重で低体温症にいたらなかった」状況と指摘されると,正直,違和感があります。

RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応
rikimaruさんへ

 状況のご説明、よく納得しました。

>したがって,「紙一重で低体温症にいたらなかった」状況と指摘されると,正直,違和感があります。

 この件も了解いたしました。
 限られた情報のなかでの私の書き込みのために、ご説明のお手数をおかけして、申し訳ありませんでした。

 rikimaruさんのケースは、GPSの積極的な利用によって、状況を打開していった、たいへん典型的な事例だと思いました。北海平は、残雪が多いこの時期には、年によってはルート判断がたいへんなところですね。

 また、rikimaruさんの経験が冷静な位置確認と判断を生みだされていたように思います。


その2)ガイドは低体温症を認識していたのか? そもそも認識とは?

 今回の遭難死の直接の死因は低体温症でした。

 最終報告書は、この件で、そもそも旅行会社のガイドの研修でも、また日本山岳ガイド協会の研修でも、低体温症がほとんど位置付けられてこなかったと述べています。

 登山のなかでは、事故・遭難にいたる危険について、通常の場合、登山者は地形や積雪などから、あらかじめその危険を予測し、回避する対応をしています。

 ところが低体温症の場合は、これまで「疲労凍死」という誤解を生む名称が通ってきたために、実際には「疲労」そのものとは異なったしくみで、そして「凍死」とは言えないような気温の条件と季節に起こることが、十分認識されず、登山者に伝えられてきませんでした。
 
 今度のパーティーはどうだったのか?

 「生存者ほぼ全員が低体温症について知らなかった、と答えた。また、2002 年に同山域で、低体温症で亡くなった事例があることも知らなかった。

 2 名のガイドは低体温症については知っていたが、その詳細については知らなかった、と述べた。」

 「ツアー会社、ガイド、ツアー客に低体温症の知識がなかった」

 「今回の遭難の直接的な原因は、低体温症である。近年、低体温症に対する注意がたびたび喚起されており、活字にもなっているが、スタッフはそれほど深刻には認識していなかったのではないか。」

 亡くなったリーダー・ガイドがどこまで低体温症について認識していたのかについては、本人の証言が得られません。しかし、最終報告書がいうように、実際の言動に移すまでの認識はなかったと見るほかありません。

1)遭難のすべての過程で、とくに発症者が出た後でも、3人のガイドも、参加者も誰一人、「低体温症」と言葉で話したものはいなかった。

2)出発の判断から、最初の発症者が出たロックガーデンでも、本人が行動不能におちいるまでの過程で、低体温症からパーティーを予防し、発症者が出たあとは拡大を防ぐ対応がない。

 何が起こったのか、次にどういう危険がくるのか、認識していた形跡がない。

 こうしたなかで、パーティーは低体温症に無防備でさらされ、遭難におちいってもなを、認識がないまま個々に対応することになります。


 男性客F(61 歳)
「引き返してみると、M(66 歳)さんが直立不動で立ち止まっているのが見えた。岩場の通過ではM さんを抱えて歩かせ、ほかの女性たちを先に行かせた。さらにM さんをなんとか歩かせようとするが、脚を出せと言っても、左右の区別ができない。平らな場所でもしゃがみ込んで、立ち上がれない。なぜ歩けないのか、自分には分からなかった」

 男性客D(69 歳)
「低体温症で疲労し、意識が朦朧としている人を担いでテントに入れる場面は、いくら考えても何が原因か、摩訶不思議だった。」

 「女性客H(61 歳)
 「とにかく寒くて気がついたら、テントの中で女性2 人と並んで寝かされていた。夕方だったから19 時ごろか? ガスコンロが一晩中、燃えていた。それでも寒いのでダウンを着て、さらにガイドB(32 歳)さんがレスキューシートを貸してくれた。それでもなお、自分は低体温症だとは思っていなかった」

 ガイドC(38 歳)
「低体温症の知識は、文字の上では知っていた。しかし、実際に自分がなってみて、こんなにあっけなくなるんだと感じた。この分岐に着いた辺りから『あぁ、俺はもう死ぬんだ』と思い始めていた」

 今回の最終報告書のなかで私が気付かされたのは、そもそも、研究の分野からも、登山時の低体温症がどのように進行するのかさえ、まだ調べが途上だというのが、現状だということです。

 ロックガーデンでの明瞭な発症から、2時間で、最初の犠牲者が出たことにも、研究者は驚きをのべています。

 35度前後で始まる体の震えも、自覚できなかった人がいます。

 詳細に血液等の検査がおこなわれたガイドCの検査結果からは、熱の産生や思考機能にもかかわるようないくつかの異常値が見つかっています。

 低体温症については、今後、さらにその脅威が明らかにされていくのではないか?

 その途上にある今の段階では、カロリー補給でも、着衣でも、行動時間の限度の問題でも、低体温症の危険がある条件では、気付かないうちに敷居をまたいでしまうことがないように、十分な対応が必要。こんなことを、現時点では考えています。


その3)静岡県のパーティーはなぜ生還できたか? 行動続行の当否

 最終報告書には、静岡県の別の6人パーティーが、同じ日の同じルートを行動し、1人が低体温症となったなか、回復の措置をとって、全員下山したケースを検討しています。

 まず、パーティーが低体温症に見舞われた状況は次のようなものでした。(いずれも最終報告書から)

 「ヒサゴ沼分岐に到着して、風の強さに驚く。天沼の木道を8 時ごろ通過。ロックガーデン付近で風雨が強く、寒いと思った。しだいに震えがきて、盛んに眠気がして転倒した。このロックガーデンでアミューズPを追い越したのが9 時30 分過ぎ。彼らはあまりにも遅すぎるという印象だった。」
 (注、転倒した人、震えや眠気が来た人は、1人のよう)

 北沼で。「立ち止まると寒いので、休憩は取らずに歩き続けた。」

 「トムラウシ分岐付近よりメンバーのA(67 歳、女性)さんがよろよろし出し、足がふらついてまっすぐ歩けず、仲間の問いに対する返答が覚束なくなった。仲間に荷物を持ってもらってトムラウシ公園付近の岩陰で休憩し、仲間が差し出したお湯を5 杯飲んだ。この時、ザックからダウンジャケットを出して雨具の下に重ね着した。」

 「トムラウシ公園には12 時ごろに着いた(出発から6 時間経過)。ここでパーティを2 つに分け、Aさんは男性2 人に挟まれた格好で後方を歩いた。前トム平付近で風が止んだ。コマドリ沢への下りにある雪渓付近で体調が戻り、しっかり歩けるようになった。」

「ヒサゴ沼避難小屋を出発して13 時間後にトムラウシ温泉に着き、アミューズPの遭難を知った。たびたび転んだため雨具にたくさん穴が開いて、下半身には打撲痕があった。」

 A さんの証言。「自分が低体温症だったとは知らなかった。仲間には「夢遊病者のような歩きだった」と言われた。低体温症から脱することができたのは,仲間が助けてくれたためと思っている。昼ごろ、休憩した時にお湯を5 杯飲んだのと、ダウンジャケットを重ね着したことが、体温を回復させてくれたと思っている、と語った。」

 次は、この状況を調査し、分析した医師のコメントから。

 「しかし、トムラウシ分岐に差し掛かると、メンバーの一人が低体温症を発症した。

 まっすぐに歩けない、転倒する、会話がしどろもどろになった、などの症状から体温は34 ℃、もしくはそれ以下に下がっていたと推定できる。34 ℃という体温は山中で回復可能なぎりぎりの温度で、条件が悪ければ、そこからどんどん下降することがある。」

 「立ち止まることなく歩き続けたことは、結果的には良い結果に結びついたと思われる。しかし、それはあくまでも結果論的なことで、場合によっては低体温症が悪化して、アミューズPと同じ遭難が起こったかもしれない。低体温症の症状が悪化し出した時に風がやんだこと、お湯を飲んだことで熱源? と水分の補給ができたこと、ダウンジャケットを重ね着して、体温の放射を防ぐ空気の層ができたことが、体温の回復に繋がったと言えるだろう。」

 「このパーティがアミューズPと同じ時間、同じコース、同じ気象条件下でありながら無事下山できた理由は、周到な準備、仲間意識、前日の短い行程による体力の温存、長時間の停滞がなかったこと、などが挙げられる。

 しかし、天候の予測とパーティの行動決定については、意見をまとめることに苦慮していた。行動に不安を感じたら、やはり安全策を優先させるべきだろう。結果的に無事下山できたとはいえ、あの悪天候の中、ヒサゴ沼の避難小屋を出発すべきではなかったと思う。」(以上、最終報告書から)

 このパーティーの場合は、トムラウシに次のような準備、訓練、装備をもって、望んでいました。

 「リーダーは6 年前にトムラウシ登山の経験があった。6 名が参加することになり、出発までにそれぞれ役割分担を決めて計画を練った。メンバーは女性4 名、男性2 名で、平均年齢が65 .8 歳。

 1 日の行程は年齢を考慮して5 〜6 時間とし、山中3 泊4 日で、1 日予備日的に余裕を持たせた。テント2 張を持参、食料計画も立てた。防寒対策としてフリース、ダウンジャケットを持参し、荷物は一人13 Kg 以上になった。出発までに4 回のミーティングを重ね、ボッカ訓練は15 kg 以上の荷物を背負って1 人3 回のノルマで山行を行ない、また、北海道は雨も予測されるので、雨天の訓練山行も行なった。」(最終報告書)


 私がこの経験と記録から学んだことは、次の点です。

1)まず食糧計画が、両パーティーで根本的に異なる。

 アミューズ社のトムラウシツアーパンフレットは、「背負える最大荷重の目安」として女性の場合、「50歳では12キログラム、60歳では8キログラム」としてきた。

 参加者は自前のコンロをもたず、調理はガイドのお湯の配給に頼っていた。メニューと量は制限された。

 「生還者が食べていた内容を大まかに言うと、朝食としては、インスタント・ラーメン、アルファ米(前夜の残りの半分という人もいた)、スープなどの回答が多かった。行動食については、カロリーメイト、ソイジョイ、ゼリー飲料、バナナ、チョコレート、アメなどを食べていた。また夕食では、アルファ米とカレー、調理済みのアルファ米(半分だけ食べるという人もいた)、スープ、野菜といった内容だった。

 これらのエネルギーの総和は、多めに見積もったとしても1000kcal台の前半から後半にしかならず2000kcalを超えている人はほとんどいないように思われた。」(中間報告書)

 これは日常生活で摂取しなければならない必要カロリーをも下回っている。

 ヒサゴ沼の出発の是非が一時、検討されたときの、参加者の証言。

 女性客A(68 歳)
「・・・私個人としては1 日停滞しても、キャンセル費用は掛かるが、命には代えられないと思った。

ただ、私は用心のため8 食持ってきたが、ほかの方は6 食ぎりぎりではないか。最悪、皆でシェアすることになるな、と思った」

 このカロリー摂取の大きな違いが、冷たい風雨のなかでも静岡県のパーティーの行動の継続をささえ、低体温症におちいる仲間を最小限に抑える基盤になったと思われる。

2)静岡パーティーは、出発の判断については大きな意見の違いがあったにしても、最初の発症者が出たあと、ついに行動に支障が出た時点では、体温保持、お湯の摂取などの対応を組織的にとったこと。

 これによって、発症したメンバーは体温と判断、行動の力を回復した。フォローしあえる体制があった。

 ここで大事なのは、静岡県のパーティーには低体温症の症状や介助について、明確な認識がなかったように思われること。なぜなら、発症したAさんの証言にあるように、歩けなくなった理由について、本人も低体温症と認識していない。

 おそらく現場の会話の中にも低体温症の言葉はなかったのではないか? 認識があれば、最初に兆候があらわれたロック・ガーデンの時点で、なんらかの対応と会話が残ってきたはず。

 寒いこと、消耗したことなどから、ある時点で危機は認識され、トムラウシ公園まで下降を始めたところで、行動不能になり、ダウンジャケットを着たり、カロリー補給の手立てがとられた。

3)低体温症の脅威にさらされる気象条件と行程のもとで、このパーティーの場合はコースタイムから3時間ほど遅れたものの、行動を継続することで、体温低下を防ぎ、危険な標高から脱することもできた。

 医師が述べているように、「それはあくまでも結果論的なことで、場合によっては低体温症が悪化して、アミューズPと同じ遭難が起こったかもしれない。」 また、この経験は、誰にでも、どのパーティーにも、あてはまるものとはいえない。
 
 食糧計画がずさんで、カロリーを行動中もふくめて補給できない場合、

 長い行程を強風下で、なんども転倒しながら行動を継続する、その基礎体力が欠けている場合、

 気温・強風の度合いや防寒服装などの不足から、行動中にも、発熱量が喪失する熱量に負けている場合、

 こうした場合は、行動を続けることは不可で、一刻も早くより安全な場所でビバーク態勢に入る必要が出てくる。しかも、上記の状況は事前には予測しがたく、他のメンバーの体調を的確に把握する必要が出てくる。低体温症へのしっかりした知識もいる。

 その点では、このパーティーの場合も、認識・判断もふくめて適切だったといえない面を残している。

 最初の自覚症状としては全身の震え、足のもつれ、指先が使えないほどの冷たさなど。パーティーメンバーに発症者が出る場合も、危険信号。このパーティーでは、ロック・ガーデンからがその始まりだった。

 本来ならここで、保温用の衣類を重ね着する、即効性のある行動食をとるなどしてもよかった。以後の経過はかなり変わったはず。

 そして、なお歩行に支障が出る状況が改善しないのなら、北沼にいたる前に、引き返すか、天人峡へ下山の判断もあった。

 私の意見では、静岡パーティーの場合は、発症者の症状が行動を続けられる範囲だったことが幸いしたとしか言えない。1人完全に動けなくなれば、どういう結果になっていたか。

 これほどの準備をしたパーティーにとっても、この日は過酷な気象条件と長い行程だった。

 もう一つ、行動継続に幸いしたのは、発症者が歩行が困難になり、介助を受けた場所が、行程が下降に入った十勝側の下山への分岐付近だったこと。

 もしも北沼で「カロリー切れ」が起こっていたら、行動を続けることには、困難が大きくなる。十勝側は、よく踏まれており、地形も穏やか、あとはどんどん下降するだけで、主稜線をはずれ風も弱くなっていく場所だ。

 現に、アミューズ社のパーティーが北沼からトムラウシ公園一帯で風にさらされていた時刻に、静岡県のパーティーは前ト平へいたり、風が弱まったことを証言している。

 行動の継続か、とりあえず風をよけられる場所を選んででビバークするかは、状況と体調、残されたルートの難度次第。今度の件から一面的な教訓化はできない。動けるうちに、時機を逃さずその判断をすることが必要になる。

4)では、静岡パーティーの出発の判断はどうだったのか? 遭難事故後のいまの段階で低体温症への認識がすすんだなかでふりかえるならば、医師がのべているように、出発の判断は正しくなかったと思う。

 これは静岡の同クラブの代表者が、事故の経過、教訓として、「経験がありそうに見えたガイドがいるアミューズ社パーティーが小屋を出発して行ってしまったので、自分たちも出発することにした」と十分な検討がなかったことを報告している通り。このパーティーの場合も、下山口の宿の予約と航空機の予約の制約があったと伝えられている。

 それならば、どうしても行動を起こすというなら、3時間以内で森林限界に降りられる天人峡をめざすべきだった。

 両パーティーはどこが違っていて、どこが同じだったのか? このような気象条件で登ることに、ふりかえって考えて何の意味があるのか? 答えを問い続ける意義はあると思う。

その4)その日のトムラウシの悪天候は、特別なものではなかった

 気象の検討からも、低体温症との関係で新しい情報や考え方が、最終報告書には盛り込まれています。(中間報告書と同趣旨のものです。)

 1つは、あの日のトムラウシの気候は、数十年に一度というような、特別の悪天候だったのか? という点です。

 いま1つは、北アなど本州の山岳では夏季に同じような気象条件になることはないのか? という点です。

 (1)7月16日の悪天候はめったに起こらないものだったのか?

最終報告書は、過去の観測データを検討して、こう記述しています。

(過去6年間の高層天気図と高層気象データからの検討)

「札幌の7 月午前9 時の800 hPa での月最低気温、月最大風速の極値を示す。月最低気温の極値を見ると、1 位が0 .5 ℃、10 位が4 .5 ℃で、遭難日16 日の気温8 .4 ℃は10 位の記録にもはるかに及ばない。また、月最大風速を見ると、1 位が31 m/sec、10 位が27 m/sec であり、16 日の記録20 m/sec よりもはるかに大きな値となっている。これらから、16 日は低温強風の悪条件下ではあったが、数十年に一度というような極端な気象条件下ではなかったということができる。」

 「7 月の最低気温を見ると、6 年間の平均で2 .8 ℃と低く、極値では0 .2 ℃(1993 年7 月)という氷点下に近い値が記録されている。これは、7 月16 日の最低気温3 .8 ℃と比較しても低い値である。これらより、遭難時と同様の低温は大雪山では7 月に毎年のように記録されていることが分かる。」

 (風の強さは、どの程度の水準だったのか)

「五色観測サイト(2015 m)での2009 年7 月の気象観測結果を図4 に示す。図より、遭難日の16 日に匹敵するような強風、低温の悪天候が7月8 日に見られる。平均風速が17 m/sec、最大瞬間風速が25 m/sec に達し、最低気温は6 .6 ℃を記録している。また、7 月10 日の悪天候では最低気温が4 .1 ℃となっている。これらより、2009 年7 月のわずか1 カ月間でも遭難時と同様の気象状況が起きていることから、遭難時の状況は大雪山として決して特異な状況ではなかったということができる。」

「これらより、7 月16 日のトムラウシ山の気象は、大雪山では例年起きている気象状況であり、決して特異な現象ではない。」

あの日のトムラウシの天候は、入山した登山者をあそこまで苦しめたものだったにしても、気象条件としては夏季に毎年のように起こっている範囲のものだったということになります。

なお、この項の筆者は、トムラウシの地形が風を強めるものだったことの検証は、それとして必要としています。

(2)北アなど本州の山岳では夏季に同じような気象条件になることはないのか? 

 (立山・内蔵助山荘と、大雪・白雲岳との比較)

 「平均気温を見ると観測年は異なるが白雲岳避難小屋、内蔵助山荘とも7 月が10 ℃前後、8 月は11 .5 ℃前後とほぼ同じ値であった。7月の月最低気温は、白雲岳避難小屋が平均2 .8 ℃、内蔵助山荘が平均4 .4 ℃と白雲岳避難小屋の方がやや低かったが、8 月の月最低気温は白雲岳避難小屋、内蔵助山荘とも平均で4 ℃前後とほぼ同じであった。また、白雲岳避難小屋では1993 年7 月に0 .2 ℃、内蔵助山荘では、2002 年8 月に0 .1 ℃と夏期にもかかわらず氷点下近くに達する低温が記録されていた。以上のことから白雲岳避難小屋と内蔵助山荘の7、8 月の気温状況は平均的に見るとほぼ同じであり、両山域とも夏でも気温が氷点下近くまで下がることがあることが分かった。」

 「2000 m 級の大雪山の稜線付近の気象状況は、3000 m 級の北アルプスの稜線付近の気象状況に匹敵するものであり、夏山といえども氷点下近くの低温下、風速20 m/sec 近くの強風下に曝されることがある」

「寒冷前線通過時には夏の北アルプスでもトムラウシ山で遭難が発生した7 月16 日に匹敵する強風、低温といった気象現象が発生している可能性が高い」

 ツアー会社は、事故後、事前の準備や用意の「想定を超える悪天候」という趣旨を連発していますが、実は過去の悪天候時の遭難例から、当然備えるべき範囲でした。ガイドの体制も十分な備えが本来必要でした。ここでも、2泊3日の強行軍で大雪・トムラウシを縦走するプランに比べての、必要な下調べの欠如が浮き彫りになります。

 北アでこの種の事故が登山者数の割合には少ないのは、おそらく小屋が多いためでしょう。一方では、それだけ様々な装備とレベルの登山者が入っていることになり、潜在的な危険性はつねにあることになります。

(3)低体温症の危険性が高まる気象条件を登山者はどのように察知、予測できるのか?

 3つめに、最終報告書の気象の検討に、過去の低体温症の遭難事例のデータと、勤労者山岳連盟などが実施したこの遭難事故のシンポジウムの報告資料なども基礎にして、危険な気象条件の察知・予測について書きます。
http://www.imsar-j.org/2009-04-23-09-38-06/2009-04-23-10-26-43/97-2010-03-04-08-13-46.html

 危険の予測という点では、まず第一に、この遭難事故は、北海道の低体温症による遭難では典型的といっていい気象条件のもとで起こりました。

 1999年9月
 後方羊蹄山で3人ビバーク、うち2人が低体温症により死亡。

 ツアー登山者がパーティーからはぐれる。台風が北海道を通過した直後の暴風雨のなかを登山。台風は、オホーツク海で猛烈に発達。

 2002年6月
 十勝岳でツアー登山のうち1人が低体温症により死亡。
 強風、冷雨が稜線ではみぞれになるなか登山。亡くなった方は雨具をバスに忘れ、上半身にアノラックを着ただけ。歩行不能になったなか、避難小屋に放置され、パーティーは山頂に立った。

 2002年7月
 トムラウシでガイド付き登山など2パーティーが遭難。2人が低体温症で死亡。
 本州に上陸した台風が岩手県沖へ抜け、この日釧路に再上陸するなかをトムラウシをめざす。台風は北海道沖で猛烈に発達。

 2009年7月(問題の遭難事故)
 発達した低気圧が宗谷海峡を抜けて、オホーツク海でさらに発達。低気圧にともなう前線が北海道を通過。大陸方面から寒気が強風とともに流れ込む。平地では雨は山を越したが、上空に雨雲が残り、大雪では暴風雨。

 遭難事故はいずれも、悪天候をもたらす低気圧(および台風)が襲来し、北海道の北東海上へ抜けて発達。そこへ北西から冷たい強風が吹きこむという条件のもとで起こっています。

 09年のトムラウシ遭難の場合、前日にくらべて16日は強い風と気温の低下が著しく、雨も残りました。低気圧の動きや風の強まりから発達の程度を予測すれば、少なくとも出発時に危険信号は察知できたし、とくに稜線に上がった時点では「2002年の遭難」を当然、連想できる条件でした。

 ところが、おそらく、ガイドも参加者もそもそも2002年の遭難を知らなかった! シンポジウムの報告では、最終報告書と同じ事情を記述しています。
 気象を読めなかった根本原因に、低体温症と遭難事故そのものの認識の欠如がありました。

 第二に、シンポジウムでの気象問題の報告者は、「ガイドが平地の気象予報を参考にしていた」ことを問題にしています。「昼に回復する」は平地の予報。北海道では低気圧が抜けた後に、風と寒気がやってくるのが通常であり、山岳部ではそのことを注目しなけらばならないという指摘です。

 この報告者は、高層天気図の情報(短波放送やインターネットで公表される)をなぜつかまなかったのか? 高層天気図には雨の予測も、寒気の入り込みも、読みとれるものだった、とも問題提起しています。

 避難小屋の現場でどこまで可能だったかということもありますが、大きなパーティーなのだから、社として専門会社と提携して情報を得られる体制もとっておくべきだったとの意見です。なるほど、翌日には同社の別パーティーが小屋に入ってくるくらいですから。衛星電話の携行(遭難時の連絡用も考慮)も問題提起されています。

 出発を遅らせるほど迷うのなら、事態を見極めるための情報をさらに集めるべきだった。

 平地と山岳の気象の違いに注意をはらう。少なくともこのことは現場で気象情報から目を向けることが可能です。しかし、この努力も、過去の遭難事例を知らないのでは、「魂」が入りません。ガイドのレベルアップが必須です。社としてのバックアップにしても、事故後も「参加者の自己責任」をいうA社にはこれは無理なお願いかも。

 テレビやラジオの一般気象ニュースにとどまらない情報を、どう登山者に提供するかは、全国の山小屋や公的な救助機関の問題にもかかわります。月に1,2度という悪天候が予想されるときの、警戒情報です。今後の安全確保の大事な問題です。

 第三に、本州の山でも、遭難事例を知ることは、低体温症の危険の予測につながります。

 とうのも、低体温症の遭難事故の気象条件は、北海道の場合と同様に、本州なりの共通性があるからです。

 1989年10月8日、立山の真砂岳の稜線で関西の登山者10人が猛吹雪に遭い、 8名が死亡(低体温症)。低気圧が台風並みに発達。強い冬型気圧配置。ザックから食糧や衣類を出した形跡もないまま、遺体はある場所にまとまって倒れていた。

2006年10月7日、九州の男女7人のパーティのうち、4人が死亡する事故が起きた。4人は白馬山荘や村営頂上宿舎から300mまでたどりついて死亡している。

 2つの台風が発生し、東北を北上、964hPaで完全な台風並みの勢力。8日にかけて北海道東岸まで移動している。7日からは西高東低の冬型。
 パーティは7日に雨の中、祖母谷温泉小屋を出発、途中で吹雪に。

 本州の北アなどでの低体温症による遭難も、秋の事故は冬型の気圧配置の烈風のもと、登山者が十分な耐寒装備などの備えを欠いたなかで起こっています。

 少なくともリーダー役やガイド役は、急な強風と低温に見舞われる典型的な気象条件(天気図)は頭に入れて、行動、ウエア、行動食を考える必要があります。


その5)保温に役立つものは、意外なものでも、何でも使う

 「最終報告書」と、シンポジウムの報告資料などから、18人のパーティー全体のウエアと結果についてリストを紹介します。

 亡くなられた方については、ウエアの空欄が多いのですが、これは当時、捜査にあたった警察以外にこのデータを入手、収集する条件がなく、公表もされていないためです。

 また、リーダーがウエアについて、必要な時点ごとに確認・指示することをほとんどしてこなかったことも、情報の少なさに影響しています。山岳会のパーティなどの場合には、そのとき、その場で何を着るかまで、かならずお互いで声を掛け合うところです。


メンバー,年齢,結果,発症地点,行動終了地点,*** 雨具,保温着ほか
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女・J,68,死亡(ビバーク態勢とれず),北沼渡渉点,北沼分岐,***ゴアなど,
ガイドA,61,死亡(ビバーク態勢とれず),北沼分岐,北沼分岐,***ゴアなど,ソフトシェルなし
女・N,62,死亡(ビバーク中),北沼分岐,迂回コース入口,*** ゴアなど,
女・I,59,死亡(ビバーク中),迂回コース入口,迂回コース入口,***ゴアなど,
男・M,66,死亡,ロックガーデン,迂回コース中間,*** ゴアなど,
女・K,62,死亡,北沼渡渉点,トムラウシ公園,*** ゴアなど,
女・L,69,死亡,迂回コース中間,トムラウシ公園,*** ゴアなど,
女・O,64,死亡(ビバーク中),迂回コース中間,トムラウシ公園,***ゴアなど,ビバークの際、シュラフを使用
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女・H,61,ビバーク、救助,北沼分岐,迂回コース入口,*** ゴアなど,サポートT、ビバーク時にダウンJ着る
ガイドB,32,ビバーク支援、救助,なし,迂回コース入口,*** ゴアなど,ソフトシェル
男・D,69,ビバーク支援、救助,なし,迂回コース入口,*** ゴアなど,(ツェルト携行)
女・B,55,ビバークでOを介助、救助,北沼分岐,トムラウシ公園,***ゴアなど,下着、長袖シャツ、Tシャツで行動。サポートT。これらはすべて着替えを携行・着用。フリースを北沼渡渉手前で着用。ビバークでマット、シュラフ使う。
ガイドC,38,救助,北沼分岐,前トム平下部,*** ゴアなど,ソフトシェル
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男E,64,自力下山,なし,,*** ゴアなど,ロックG手前でダウンJ着用
男・C,65,自力下山,なし,,*** ゴアなど,サポートT。ロックG手前でフリース着用
男・F,61,自力下山,なし,,*** ゴアなど,
女・G,64,自力下山,なし,,*** ゴアなど,ソフトシェルを着用。サポートT。(フリース携行)
女・A,68,自力下山,なし,,*** ゴアなど,北沼以後に、レスキューシートを体に巻いて雨具。寒くなくなった。


 補足事項を幾つか。

 シュラフはパーティー全員が携行していました。

 ビバークのためのテントは、ガイドCがザックに1張りのみ携行していましたが、最後まで使われませんでした。

 区分けのうえで、救助された方と、自力下山とを区分しています。しかし、救助された方には、自分でビバークを決めたり、あるいは他のメンバーの危急の介助をするためビバークをし、救命の活動を続けたメンバーが含まれています。

 そのことを前置きにして、低体温症の予防という面からのウエアや対応の検討をします。

 1)ガイドからは、ヒサゴ沼避難小屋の出発にあたって、低体温症の説明や前兆の症状への注意、雨具の中に何を着て、ザックから何を取り出しやすい場所に置くかなどの説明は、ありませんでした。

 2)生還者のなかで、出発時の備えとしてしっかりした用意をされた方々がいます。女Bさんは、着替えをすべて用意し、前日に濡れた着衣はサポートタイツを含めてすべて着替えて出発。寒さを感じた時点でフリースを着用しています。ビバークの時点でもシュラフ、マット等を介助したメンバーとともに使用しています。
 
 3)証言では、亡くなった方のうち少なくとも3人は、フリースをザックに用意していました。

 生還者の多くが、ある時点でそれぞれ防寒ウエアを着用していることから、ガイドの的確な指示があれば、状況は大きく変わったことが想像されます。

 4)代用品という限界はありますが、意外なものが、役だっています。

 1つは、生還した2人のガイドが、雨具の下に着用していた「ソフトシェル」。小さくたためポケットにも入る防風ジャケットですが、撥水機能もあり、ゴアテックス雨具の機能が落ちたり、風が抜けたりする条件で、濡れ防止と保温作用があったようです。

 いま1つは、レスキュー・シートを体に巻きつけ、その上から、雨具を着たら寒くなくなった事例です。

 5)このことは、ゴアの雨具は防寒性能や、風の抜けにたいしては、頼みにならないことを示しています。

 「ここで注意しておきたいこととして、雨具は防寒具ではないということも知っておくべきである。雨天時の行動では、下着のような薄い衣服を1枚だけ着た上に、直接雨具を着ている人がいる。これは無風の場合ならばあまり問題にならないが、今回のような強風時には、肌と外気との間に形成されるはずの空気による断熱層がほとんどなくなってしまう。つまり、裸体に近いような状態となり、急速に体温を奪われることになる。」(最終報告書)

 シンポジウムでは、「雨具の劣化<防水、撥水能力の実験が急がれる。アンケートではかなり濡れる報告が多い」とされました。

 6)私は、保温性の向上という点で、薄手の保温下着(ポリプロピレン製など)の着用が効果的と思っています。

 上下ともごく薄手のものがあり、併せても200グラムぐらいと軽量。肌に直接ふれる部分に、熱伝導性がない素材をつかうため、大げさにいえばセーターを1枚着たくらいの効果を感じます。

 強風、低温など不安を感じる日、あるいはビバークが予想される際など、「勝負下着」として使えます。

 夏用の汗抜けのみを考えた下着は、木綿よりは増しにせよ、保温性・断熱性とは逆の性能がもたされていたりします。

 7)ビバークの際に何が役立つかも、今回は教訓的でした。

 シュラフやマットレスは、使えうことができる体力と症状の人には、命の分かれ目でした。一方で、ザックの中身をほとんど何も使わず、倒れていったガイドやメンバーがいました。判断と行動がまずやられる低体温症に特有の事態だと思います。

 シュラフカバーだけでも、大きな助けになりそうです。
 ツェルトも、参加者が携行していたものが活躍しました。
 そして、ここでも、保温ウエアです。

 ガイドが、もっと早い段階でビバークの判断をし、連絡要員を派遣する一方で、現地調達を含めすべての装備・ウエアを利用していれば、天候は午後にはっきり回復したのですから、犠牲者はかなり減った可能性があります。

 個人的なレスキュー装備、非常食・行動食の大事さ、パッキングの際の心得など基本的な事柄を、今回の事故は教えくれたと私は受けとめています。
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-9921
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/717.html#c4

[政治・選挙・NHK226] 人権が退化して行く安倍政権〜国連の専門家がメディアへの圧力、共謀罪の人権侵害指摘(日本がアブナイ!) 笑坊
1. 中川隆[-7607] koaQ7Jey 2017年6月04日 13:38:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
2017年05月23日
共謀罪法案やっと成立 テロ防止への遠い道のり


連合赤軍を英雄だと言っていたような人間がマスコミに就職して、今は民主主義を説いている
引用:https://stat.ameba.jp/user_images/20170501/09/japangard/ab/c6/p/o0776060213926258649.png


共謀罪がようやく成立の見込み

組織犯罪を謀議した時点で立件できる共謀罪は、テロ等準備罪と名前を変えて5月19日の衆院法務委員会で可決しました。

野党側は強行採決は無効だと主張し、新聞とテレビは例によって「ナチスや戦前と同じだ」という主張を展開している。

野党やマスコミが「国会封鎖テロ」など妨害行為をしない限り、23日にも衆院本会議で採決し、可決する見通しになっている。

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伝統的に左派政治家が多い参議院では審議入りの目処が立っていないが、衆院可決後60日以内に参院で可決しないと、否決したものと見なされる。

その場合は衆院優越により差し戻され、衆議院で3分の2の賛成があれば法案は成立し、3分の2未満なら成立しない。

参議院は242議席中自民と公明の与党が151議席、維新が12、自民党だけでも参議院の過半数なので採決をすれば可決成立するでしょう。


後はマスコミの騒ぎ方を見ながら、なるべく批判されないように審議を始め、なるべく時間を掛けずに採決する流れになる。

安倍首相は安保法制の時にあくびが出るほど時間を掛けた挙句、憲法の条文論争になってしまい、まんまと野党とマスコミに主導権を握られた。

憲法の条文の一字一句を虫眼鏡で観察して、「このひと文字が違反している」と指摘するのが常套手段なので、時間を掛ければかけるほど本質の議論から離れていきます。


その共謀罪改めテロ等準備罪はどんな法案で誰にとって不利なのか、おさらいしてみます。

共謀罪は組織犯罪を謀議した時点で罪になるという概念で、90年代のオウム事件や70年代の赤軍事件などに端を発しました。

赤軍と言っても、ゴミに多くの種類があるように多くの種類があるのだが、ここでは共産主義革命を目指すテロリストとしておきます。

共謀罪と赤軍と中国

赤軍が誕生したのはソ連が世界共産主義革命を始めたからで、ソ連成立からすぐ、日本にも共産党が誕生しました。

ソ連の活動は実を結び、中国では共産党軍が国民党軍を倒して共産国家になり、中国も世界共産化計画を始めました。

中国の毛沢東は特に敗戦国日本に狙いを定め、日本人は洗脳しやすいと見て「日本赤化計画」を開始しました。


というのは敗戦後に日本を占領したGHQのマッカーサーは、右翼や愛国者に打撃を与えるため、共産主義者を優遇する政策を取りました。

GHQはX日新聞とかX売新聞、世界有数の自動車メーカー、巨大広告会社、戦前から存在する有名報道機関などに、共産主義者を優遇するよう強制しました。

共産主義者はGHQ統治下で出世できる、逆の言い方をすれば共産主義者にならないと出世できないという時代が日本にはあった。


毛沢東はここに狙いをつけ、大学を利用して共産主義を吹き込み、社会に無知な大学生を兵士に養成して、日本政府と武力闘争をするよう煽動しました。

当時の赤軍や学生運動をしていた人達は必ず「毛沢東語録」を持っていて、勉強はしなくても毛沢東語録を暗記し、毛沢東を「主席」中国を「祖国」と呼んでいました。

こういう連中が徒党を組んで70年代に次々にテロ事件を起こし、1972年にあさま山荘事件を引き起こしました。


あさま山荘事件を契機に日本の赤軍活動は国民の支持を完全に失い、活動家は新聞社やテレビ局に就職して「言論闘争」に切り替えました。

現在のマスコミ人の大半が「変な人」なのはGHQの共産主義者優遇と、活動場所をなくした赤軍活動家がマスコミに就職したからです。

国連報告者は芸人と同じ

70年代から組織犯罪を事前に防止するべきだという意見はあったものの、戦前回帰だ、軍国主義復活だという反対意見の方が強かった。

ここで重要な役割を果たしたのがまたアメリカで、やはり日本の「右翼」を叩くために中国や韓国、左翼マスコミを巧妙に利用しました。

慰安婦や過去の戦争が問題になる度に、アメリカは中韓に味方して「右翼」を叩き、悦に入っていました。


国連報告者の何とかがテロ等準備罪法案を批判する報告を出したが、この仕組みを見れば誰がやらせているのかは想像できます。

国際連合の委員会は国連に所属する機関ではなく、国連総会に助言的意見を述べる民間の集まりに過ぎない。

しかも原子力委員会などと違って人権委員会は任命過程や誰が任命したのか非公開で、特定の国や個人の代弁者になっている。


例えば国連事務総長に韓国人の潘基文が就任したら、人権委員会は春夏秋冬と恒例のように日本を非難する報告を連発するようになった。

委員会が任命した報告者に至っては、調査国で飲み食いの接待を受けた挙句、調査せずでたらめな報告書を出している。

2015年にブーア=ブキッキオという報告者が日本の女子生徒の13%が金銭を貰って「不適切な交際」をしていると報告しました。


日本批判が大好きなマスコミもこれには違和感を覚えたようで、調べるとこいつは全く調査せず、日本で観光旅行しただけだった。

この頃韓国の朴政権は「日本を軍事力で倒してやる」と鼻息が荒く、中国の習近平と組んで盛んに日本を批判していた。

推測では朴大統領が潘基文に依頼して、報告者にでたらめを書かせたのではないかと言われている。


このように国連の人権委員会は「ただの民間組織」で誰の代表でもないし、まして国連に所属して世界の意見を代表してもいない。

その報告者も民間人で、誰が任命したのか任命過程すらさっぱりわからず、しかも出身国では「テロリスト」「極左」とレッテルを貼られている人間が多い。

中国は自国への人権委員会の批判を受け入れず、勧告を文字通りゴミ箱に捨てているし、アメリカもそうしている。


世界の国で国連人権委員会をマトモに相手しているのは日本政府だけで、だから彼らはより一層、面白がって日本を叩くのです。
http://www.thutmosev.com/archives/71038217.html
 

http://www.asyura2.com/17/senkyo226/msg/748.html#c1

[政治・選挙・NHK226] 民進党・辻元清美「天皇の存在が気持ち悪くて許せない 同じ空気を吸ってると思うと吐き気がする」 何て骨体
13. 中川隆[-7606] koaQ7Jey 2017年6月04日 14:09:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
天皇一族は日本人じゃないんだから韓国に引き取ってもらうしかないんだよ


日本の大和朝廷は朝鮮に住んでいた漢民族が武器を持たない縄文人・弥生人を征服して作ったカースト制国家(氏姓制度というのはカ−スト制を定めたもの)

日本はカースト制の多民族国家だから下のカーストの人間は昔から お上には絶対に逆らえないんだ:


現代日本人は

縄文人の末裔
弥生人の末裔
朝鮮から渡来した漢民族
アイヌ人
在日朝鮮人

から構成される


日本を支配していた天皇家や武家は朝鮮から渡来した漢民族(Y染色体O2系統)で、
縄文人・弥生人系の日本の一般民とは殆ど混血していない。

現代の日本の政治家や資産家は殆どが渡来漢民族:Y染色体O2系統(旧 O3系統)
地主や自作農は 弥生系: Y染色体O1b系統(旧 O2系統)
貧農や小作人や部落民は 縄文系「D2」

太平洋戦争で最前線に送られて死んだのは縄文人・弥生人系の日本人だけ
これから中国人移民と競争させられて搾取され食っていけなくなるのも縄文人・弥生人系の日本人だけなんだな

縄文人・弥生人系の日本人の問題は羊より従順でかつ自分が搾取されて滅ぼされる劣等民族だという自覚が無い事だな
お上には絶対に逆らわないもんな
http://www.asyura2.com/17/senkyo226/msg/746.html#c13

[リバイバル3] トムラウシ山遭難事故 中川隆
5. 中川隆[-7605] koaQ7Jey 2017年6月04日 15:49:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2009年12月10日
トムラウシ山遭難事故。山岳ガイド協会の中間報告書にみる「低体温症」の実際
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-5521



 12月7日に発表されたこの中間報告書は、7月のトムラウシ遭難事故について多くの証言やデータをもとに専門家も参加して詳しい状況を報告・分析しています。

(日本山岳ガイド協会 トムラウシ山遭難事故調査特別委員会の「中間報告書」)

 これまでの遭難事故報告書に比べて、この中間報告の一番の特徴は、大量遭難事故の犠牲者の直接の死因を「低体温症」ととらえ、その様相と、そこに至った原因を多角的に検証しようとしていることです。

 そこには、これまで認識されてこなかった「低体温症」の脅威と進行の様子が、おそらく史上初めてのことと思いますが、多数の証言で明らかにされています。

 中間報告は、次のように書いています。

 「今回の生還者も、「疲労凍死」という言葉については多くの人が知っていたが、「低体温症」という言葉は、ほとんどの人が知らなかった。したがって、低体温症に関する正しい知識を啓蒙することは、今後の遭難防止にとって重要なことだろう。」

 ガイド協としてはこの報告書の全文をWEB上に掲示していませんが、ぜひ全文を読めるようにし、多くの登山者に読んでほしいと思っています。

 なお、この問題では、私の事故翌日昼の次の日記のスレッドも、比較検討していただくことを希望します。

 「トムラウシ山遭難――低体温症とツアー登山、2つの問題」
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3691

 以下、中間報告から、この角度での要点をツリー形式で紹介していきます。
 

 まず、低体温症の今回の現れ、です。
 報告書は次のように記述しています。

「北沼周辺で亡くなつた人の内2-3名は、北沼以前(ロックガーデン周辺)から発症していたと思われる徴候があった。ロックガーデンを登り終え北沼に降りる時点で、ほかの人の力を借りなければならないような歩行状態は、すでに症状が進んでいたと推定できた。発症は待機が始まった時間(北沼に到着した時間)の 10時30分にした。」

 「北沼分岐ですでに低体温症になった人たちが、待機から行動に移った瞬間から低体温症は急激かつ加速度的に進行し、症状が悪化する。これは静止状態から運動状態に移つたことで、冷たい血液が体内に一気に流れ出し、脳や筋肉の機能障害が急速にきたためと思われる。インタビューした多くの人が、この北沼分岐を出発したと同時に「意識が朦朧とした」「つまずいて歩けなかった」と証言したことで証明できる。」

 「北沼からトムラウシ分岐までの20分間という短い距離と時間の間に、低体温症で次々に倒れていった事実に注目しなければならない。

 発症から死亡するまでの時間(推定)は、

 2〜4時間以内:5名 、
 6〜10時間半以内:3名

 (6〜10時間半以内の死亡者の中には、テント内でビバーク
した2名を含む)

 死亡者の半数以上が2〜4時間以内で亡くなっていることは、低体温症が加速度的に進行、悪化したものと思われる。これは急性低体温症といえる。

 低体温症が始まると、前述したとおり、体温を上げるために全身的「震え」が35℃ 台で始まるのが特徴的であるが、今回の症例ではこの症状期間が短く、一気に意識障害に移行した例もある。あまりにも早い体温の下降で人間の防御反応が
抑制され、30℃ 以下に下がっていったと思われる。」

 今回の低体温症は、北沼のずっと手前で症状が現われたこと、そして、続いて報告しますが、参加者の全体に大なり小なり発症していたことが、一つの驚きでした。

(以下で、参加者への低体温症の現われを見ていきます。写真は9月下旬のトムラウシ)


2009/12/11 18:34

どんな気象条件だったのか?
 証言に入る前に、7月16日の遭難事故当日は、どういう気象条件だったのかというデータを、事故調査「中間報告」から紹介します。


○現地調査班のレポート

 「16日の山の天候は気温6℃、風速20m/secだった。」(新得
警察署)

○気象担当者のレポート

 「遭難日の7月16日について見てみると、15日に通過した低気圧は、16日未明に宗谷海峡を東進した。この低気圧は閉塞化が進み、閉塞前線が形成されているが、大雪山系では、当日未明から寒気とともに強い西風が吹きつける状況であった。
 この低気圧はゆつくりと東進したため、大陸から吹き出す寒気も強

い状況が維持された。札幌の高層観測によると、16日9時の1900m付近の気象は、気温が8.5℃ と急下降し、風速も19m/secを記録している。また、風向は西北西に変化している。」

 「大雪山・五色観測サイトにおける気象観測からの推測

 大雪山の高山帯では、北海道大学大学院地球環境科学研究院GCOEが無人気象観測装置を使って気温、風向風速、降水量などの気象観測を行っている。・・・今回の遭難現場の気象を推測するのに適したデータ
であるといえる。

【気圧】0時から8時にかけて780hPa前後と低い値が続くが、8時以降、上昇に転じた。気圧の変化から推測するとパーティが出発した5時30分は、まだ悪天候のピークの真っただ中であったと思われる。

【気温】パーティが出発した5時30分の時点で7℃ であった。その後、パーティが稜線に出た6時から14時頃にかけて6℃ 前後で推移し、14時になるとさらに低下し始めた。17時30分に日最低気温3.8℃ を記録、17時30分以降、気温は上昇に転じた。」

 「【風速】パーティが出発した5時30分から21時頃にかけての平均風速は15〜18m/secであった。このことからパーティ出発後、強風は夜中まで収まらなかつたことが分かる。特にパーティが稜線に出た6時頃から14時頃にかけて、最大風速が連続して20m/secを超えており、歩行困難に陥るほどの強い風が、持続的に吹いていたことが窺える。

【降水量】夜間の2時から3時にかけて、時間雨量が12mmに達するかなり強い雨が降っていた。しかし、3時以降雨は弱まり、8時になると止んだ。
パーティが強い雨に打たれたのは、出発直後から8時までの2〜 3時間程度であったと推測される。」


 「トムラウシ周辺の気象状況の推定

 ・・・主稜線に出てから8:30頃にロックガーデンを通過するまでの間、風速20m/sec以上の強風が吹き荒れていたことが窺える。最大瞬間風速は平均風速の1.5〜 2倍に達するといわれるので、この間の最大瞬問風速は30〜 40m/secにも達したと考えられる。台風の暴風圏の中を登山していたような状態である。

 一方、この間の雨に関する証言はあまり多くない。出発時くらいまでは降水量が多かったが、その後は風が主体で、降水量は減少していたと考えられる。

 10:00の北沼渡渉点でも強風が続いた。北沼が風で大きく波打っていて、これが水位上昇に関与したことも考えられる。12:00頃には、北沼分岐や南沼キャンプ場で風も弱まり、雨も止んでいた。これから午後にかけて天気は回復傾向にあった。

 トムラウシ山南斜面の前トム平では、16:00頃雨も上がり風も弱まっていた。そして19:00頃には、南沼キャンプ場付近でも月明かりが見えるほど天気は回復して、晴れとなる。」

○運動生理学の分野からの検討レポート

 「今回のトムラウシ山遭難の当日は、気温が終日10℃ 以下(最低では5〜 6℃ 程度)まで低下していることから、低体温症が起こる可能性は十分にあったことになる。

 以前は「低体温症」という用語が一般的ではなく、「疲労凍死」という言葉が使われていた。「凍死」というと、環境温が0℃以下の時に起とるというイメージを与えるが、そうではなく、低体温症は夏山でも起こり得ることを知る必要がある。」

低体温症で亡くなられた方についての、生存者の証言(1)
 

 この遭難で亡くなられた方は8人です。(他に単独行の男性が1
人死亡)

 亡くなられた地点ごとに分けて、同行して生還した参加者の証言
を掲示します。
 (以下、参加者の略記号などは「中間報告」の通り。文の頭に※印
は、tanigawaによる注記)


≪北沼渡渉点 第一ビバーク地点≫ 2名死亡

◆女性客J(61歳)さん
 ※北沼渡渉点の手前から、ガイドCが肩を貸して支えられて登
高。
 
※北沼渡渉のあと、ガイドCは、ガイドBに、女性客Jさんの様
子がおかしいことを告げる。

 「ガイドC(38歳)の呼び掛けに対する反応が薄く、体を動かそう
としない状況だった。」(ガイドB(32歳))

 「直前の渡渉地点では典型的な前兆がなく、空身とはいえ自分で
歩いて渡っていたので、本当に驚いた。あまりにも急激だった。」
(ガイドB)

 「スタッフ3人は懸命に女性客Jの体をさすったり、声を掛けて励
ましたり、暖かい紅茶も飲ませたりしたが、次第に意識が薄れて
いった。」(報告書)


◆リーダーA(61歳)
 
「リーダーAが『俺が看るから』と言うので、『それじゃ、お願い
します。私は本隊を追い掛けますので』と言って別れた。彼は男性
客D(69歳)が貸してくれたツェルトで女性客Jを包んでさすってあ
げていた。風が強いので、ツェルトを巻こうにも巻けない状態
だった。その頃の彼の表情は、どこか虚ろだったように思う」(ガ
イドC)

 ※翌朝4時。
「ガイドB(32歳)が第1ビバーク地点まで行く。リーダーA(61歳)は
うつ伏せで、雨具の上下を着たまま女性客」(61歳)と倒れていた。
ツェルトは風で飛ばされ、近くの岩に引っ掛かっていた。その場は
ツェル卜だけを回収して戻る。第2ビバーク地点からは、空身でわ
ずか5分ほどの距離だった。」(報告書)

 ※この「第一ビバーク地点」について、現地調査報告では、次の
ように記しています。

 「川を渡った所は大きな石がゴロゴロした地帯で、風を防げるよ
うな所ではない。・・・強風に対して無防備でここに滞在したら、低
体温症になることは想像できただろう。・・・岩がゴロゴロした遮
蔽物が何もない場所で、プロのガイドがビバーク・サイトとして選
ぶ場所ではない。」

 ※このビバーク地点選定の判断をみても、パーティーが相当なショック
と混乱、判断不能の状態におちいり出していたことが推測されます。
そのことは、すぐその先の第二ビバーク地点で、はっきり現れてきま
す。


低体温症で亡くなられた方についての、生存者の証言(2)
≪北沼分岐の先 第2ビバーク地点≫5人ビバーク、2名死亡

 同行して生還した参加者の証言を、続けて掲示します。
 (参加者の略記号などは「中間報告」の通り。文の頭に※印
は、tanigawaによる注記)

 ※ここは第1ビバーク地点から、通常なら5分のところで
す。頂上へ登らず、西面をトラバースするルート上。

 「北沼分岐ですでに低体温症になった人たちが、待機から行
動に移った瞬間から低体温症は急激かつ加速度的に進行し、症
状が悪化する。・・・インタビューした多くの人が、この
北沼分岐を出発したと同時に「意識が朦朧とした」「つまずい
て歩けなかった」と証言したことで証明できる。」(報告書)

 ※症状が広がったうち、歩行不能の女性客N、女性客H、女性
客I(59歳)が、動けなくなり、男性客D(独自にビバークを判断?)、
ガイドBが付き添って5人がビバークします。

 ※女性客N、女性客Iが亡くなりました。


◇女性客H(生還)
 ※第2ビバーク地点では、3人の女性が動けなくなり、残る。
「北沼渡渉点を過ぎて立ち上まった所で、体が一気に冷え込んで
きた。パーティの後方にいたので休むスペースがなく、少し離れ
たところでがたがた震えて座っていた。腕で押えても上められな
いほど全身が震え、歯ががちがら嗚った。その時一時、『あぁ、
これで私は死ぬんだろうか』と思った。(本人の証言)

 「とにかく寒くて気がついたら、テントの中で女性2人と並ん
で寝かされていた。夕方だったから19時頃か? ガスコンロが一晩
中、燃えていた。それでも寒いのでダウンを着て、さらにガイド
Bさんがレスキューシートを貸してくれた。それでもなお、自分
は低体温症だとは思っていなかった」(本人の証言)

◆女性客N(62歳)
 ※第2ビバーク地点。
「北沼分岐付近では、女性客Nさんの後ろを歩いていたが、彼女
は何ごとか叫びながら、四つん這いで歩いていた。私も同じよう
な状熊で、やがて記憶を失くした。どこで倒れたか記憶にない。
最初の停滞地点から5分くらいの場所だと思う」(女性客H)

 ※18時ごろ、ガイドBらによって収容されたテント内で。
「その時点で女性客Nが危険に見えたが、声を掛けたら反応があった
ので、急いでガスコンロに火を点けた。再度声を掛けたら反応が
ないので、心臓マッサージを20分くらい行ったが蘇生せず。」
(ガイドB)

◆女性客I(59歳)
 ※第2ビバーク地点。
 「持っていたツェルトでは5人は十分に入りきれないので、男
性客D(69歳)にも手伝ってもらってマットを敷いて、女性客I(59歳)、
女性客N(62歳)、女性客H(61歳)を寝かせ、ツェルトを被せるように
する。ガイドB(32歳)も一緒に入って、添い寝するようにして、体
をさすり保温に努める。泣き出したり、大声で叫んだりする女性
がいた」(ガイドB)

 ※女性客Nさんが亡くなられた後。
 「ガイドB(32歳)は、女性客2人(※IとH)にお湯を飲ませた
り、ガスコンロの火に手をかざしてあげたり、抱きかかえて保温
に努めたりした。やがて、2人の状態が落ち着いてきた」(報告
書)

 ※ガイドBは、救援の連絡を終え、夜7時すぎ、テントに戻
る。
「女性客I(59歳)が20時30分頃、意識不明になったという。10分ほ
ど心臓マッサージを施したが、蘇生せず。」(ガイドB)


 ※このビバークで使ったテントとガスコンロは、ガイドBが南沼のキャンプ指定地で見つけてきたものでした。この時点で、ツアーのテントは、下山を続行した参加者を引率する役目のガイドCがザックに担いだまま先行してしまい、最後まで使用されていません。

 ※ガイドBと、男性Dは、3人の女性の介抱のために大きな役目
を発揮しています。男性Dは、リーダー・ガイドらが第一ビバーク地点でとどまった際に、自分のツエルトを提供しています。また、ガイドBとともに、3人の行動不能の女性の、ツエルトへの退避、テント設営後の移動、テント内の保温などを協力してすすめています。資料では、装備していたザックの重量も17キロ近くと最大です。

 男性Dがかなりの余力を残しながら、なぜビバークを決め、ガイドBと協力したか、本人の証言は示されて
いません。登山経験年数だけをみると、50年以上の方ですが、この方も次のように証言しています。

 「低体温症で疲労し、意識が朦朧としている人を担いでテントに
入れる場面は、いくら考えても何が原因か、摩訶不思議だった。」(本人)

 ※結果論ですが、パーティー全体が2つのテントを使って、風をよけられる場所で早い段階でビバークしていれば、午後には風雨が落ち着きだしたこともあり、犠牲者はさらに減ったように思われます。

 しかし、実際にはガイドが携行したテントは使われず、ガスバーナーとテントのデポ品を発見して、初めてビバーク体制が本来の形になり、テント内の加温も開始されます。

 それは、北沼での最初の発症から8時間後の18時ごろのことでした。

ガイドが次々と低体温症にかかった

 ※ここで、以降の経過を把握しやすくするために、下山を引率する役
目のガイドCの状況を、中間報告から紹介します。その前に、全体を把
握しやすいように、ガイドの体制について、紹介します。

(文の頭に※印は、tanigawaによる注記です)

 ※第2ビバーク地点から下山を開始した10人の参加者のなかから、
次々と犠牲者が広がりました。なぜそうなったのか。そもそも引率役を
任されたガイドC自身が低体温症に襲われていたことが、全体を制約す
ることになったと見られます。

 ※第1ビバーク地点でリーダー・ガイドが残り、第2ビバーク地点
で元気だったガイドBが残るという、パーティーとしての統率・一体性
の崩壊が、さらにそのおおもとの問題としてあります。そうなったの
も、リーダー自身が北沼からの沢の渡渉と1時間の現場での介抱のなか
で、すでに低体温症にかかり、全体の指揮やビバーク地点の選定を含め
てあらゆる適切な判断ができなくなっていたことが、根本にある可能性
があります。

 ※中間報告は、ガイドの体制について、次の記述をしています。

 「ガイドの選び方に問題はなかったか。ガイドの選定方法としては、
参加者の多い支店からガイドを出すことがアミューズ社の方針になって
おり、今回、広島と名古屋からそれぞれリーダーとサブガイドを出して
いる。ただ、2人とも今回のコースは初めてで、しかもスタッフ3人とも
各々面識がなからたという。コース経験の有無は、ガイドの絶対的条件
ではないが、万が一を考えると不安な構成である。今回のようなロング
コースでは、接客力優先ではなく、危機対応能力を中心に、厳しく選定
する必要があったのではないか。」(事故要因の抽出と考察)


 「ガイドの力量に問題はなかったか

 *登山歴、ガイド歴はそれなりにあったと思うが、危急時における対応
経験はどこまであったのか、また、危険予知能力(参加者の状況把握、天
候変化予知、時間経過判断など)をどれほど持ち合わせていたか、疑問が
残る。今回、特にスタッフの判断の迷いや遅れによって対応が後手後手
に回り、パーテイ全体をどんどんピンチに追い込んでいったと思われるふ
しがある。

 *リーダー・シップとフォロアー・シップに関して認識が薄く、シビア
な状況下でのパーティ行動の経験が、不足していたのではないか。

 *夏山といえども危急の事態を想定し、その対応についてスタッフは事
前にどれだけ真剣に打ち合わせをし、緊張感を共有していたか。また、危
急時の連絡方法についての共通認識を持ち合わせていただろうか。」(事
故要因の抽出と考察)

 ※ともかくガイド全体がこの時期の危機対応に低体温症を想定せず、
リーダーも最終引率役のガイドも低体温症になっては、パーティーとし
て存立できません。


10人を引率するガイドCが低体温症だった。本人と生存者の証言(3)
(文の頭に※印は、tanigawaによる注記です)

 ※ガイドC(38歳)についての調査委員の医師の報告(中間報告に
添付)の記述を紹介します。

 「北沼分岐を出発時に低体温症を発症」。

 「北沼分岐手前で渡渉中に転倒、全身ずぶ濡れになる。このことは後
に「最大のミス」だった、と証言している。」

 「出発した時から全身的震えが始まった(35℃ 台)。トムラウシ分岐まで
20分ぐらいで着いた。ここで参加者2名が遅れたが、捜すだけの気力はな
く、遭難の通報を入れることだけを考える。

 死を覚悟して早足で歩き、歩ける所まで歩こうとする。人を救う体力と
気力はなく、次第に足が棒のようになって膝が曲がらなくなり、転倒を
繰り返した。」

 「トムラウシ公園付近では意識が薄れ出した(34℃以下)。
 前トム平に就き、携帯で電話する。・・・このとき一緒だった女性客G
は、彼の返答は呂律がまわらなかった、と証言((33℃以下に下降し始め
る)。」

 「前トム平より巨石のあるトラバースぎみの下山路(当時はこの辺に雪
渓があった)を下り、ザックを降ろして携帯を出そうとして、そのまま前
のめりにハイマツの中に転倒、意識を失う。・・・その時の体温は33℃ 、
あるいはそれ以下だったと思われる。」

 「以後、救助隊に発見されるのが17日の10時44分、病院に収容された
のが11時35分で、意識が正常に戻ったのが12時50分頃になる。この間、
約21時間意識を消失していたことになる。帯広厚生病院の入院時の所見
によれば、・・・大声で呼びかけたり強く揺さぶると開眼する程度の意識
で、直腸温は34.7℃ であった。」

 ※前トム平。
 「彼が(※携帯で)なんとか答えたが、ほとんどもう呂律がまわらない
状態で、盛んに『ポーター、ポーター』と叫んでいた」(女性客G)

 「本人によるとストーンと下がるような状況で意識を失った、と証言し
ている。なお、低体温症は言葉では知っていたが、自分でもこんなに早く
意識障害がくるとは想像していなかった、とも述べている。」(調査した
医師の記述)

低体温症で亡くなられた方についての、生存者の証言(4)
≪南沼キャンプ場手前≫ 1名死亡

(文の頭に※印は、tanigawaによる注記)

 ※ガイドによる引率、パーティーとしてのまとまりが崩壊したもとで、低体温症を発症した参加者のあいだに、さらに犠牲が広がってゆきます。

◆男性客M(66歳)さん 死亡
 ※男性客M(66歳)さんは、もっとも早くから発症した人の1人。
  以下、時系列でMさんの状況。

 ※8時30分すぎ。
 「口ックガーデンの登りで、男性客M(66歳)さんが脚を空踏みし出
して、ふらふら歩いていた。支えて歩かせていたが、次第に登る気力
が失せたのか、しばしば座りこむようになった。これでは自分の体力
が持たないと考え、ガイドに任せた」(女性客G)

 ※第2ビバーク地点を出発。
 「ガイドCが引率して歩行可能と思われる10人を下山させること
に。」(行動概要)
 
 ※12時すぎ。南沼キャンプ地手前。男性客Mさんが遅れた。
 「引き返してみると、Mさんが直立不動で立ち上まっているのが見え
た。岩場の通過ではMさんを抱えて歩かせ、ほかの女性たらを先に行か
せた。さらにMさんをなんとか歩かせようとするが、脚を出せと言って
も、左右の区別ができない。平らな場所でもしゃがみこんで、立ち上が
れない。なぜ歩けないのか、自分には分からなかった」(男性客F)

 ※13時30分〜50分ごろ。

「男性客Fは男性客Mを歩かせようとするが動かせず、やむなく諦
める。」(行動概要)

 ※翌朝5時45分。

 「道警ヘリが南沼キャンプ場付近で意識不明の男性1人を収容する。」
(行動概要)


低体温症で亡くなられた方についての、生存者の証言(5)
≪第3ビバーク地点 トムラウシ公園上部≫ 
 4人が取り残され、3人死亡
(文の頭に※印は、tanigawaによる注記)

 ※現場は主稜線からトムラウシ温泉側へ下降しだした地点。ここまできて、取り残され、亡くなられた方の中には北沼付近ですでに低体温症を発症していた方もいました。

 ※中間報告は、便宜の上で「ビバーク地点」としていますが、テントは使われず(ガイドCが担いだまま)、2人はそのまま行動中に倒れ、残る2人は岩にもたれただけでした。

 ※発症した時点からの、証言を見て行きます。

◆女性客K(62歳) 死亡
 ※北沼で。
 「北沼渡渉後、その先で皆で休んでいたが、女性客K(62歳)さんが嘔吐し、奇声を発していた」(女性客G)

 ※南沼キャンプ場の手前で。
 「女性客K(62歳)さんが意味不明の言葉をしゃべり出した。そこで『Kさん、何か食べないと、歩いて下山できないわよ』と励ました。何か少し食べたようだ。ここで初めて死にたくない!と思った」(女性客G)

 「女性客Kさんはぐったりしていた」(男性客F)

◆女性客L(69歳) 死亡
 ※南沼キャンプ場の手前で。
  「衰弱していた女性客Kと女性客Lも歩行が覚束なくなる」(行動概要)

 ※南沼キャンプ場の先?
  「女性客Lさんは奇声を発していた」(男性客F)

 「トムラウシ分岐を過ぎると緩い下りのトラバース道となり、トムラウシ公園に続く。その公園の上部で、男性客Fに見守られながら、女性客Kの意識が次第になくなり、続いて女性客Lも静かになった。」(ガイドC)

 ※2人が倒れた場所のすぐ下では、女性客Oさんと、女性客Bさんが、ビバークを決めます。

◆女性客O (64歳) 死亡
 ※トムラウシ公園。

 「登山道の脇に草むらがあり、大きな岩もあって休めそうな感じだった。自分でなんとなく、とっさに判断して、女性客Oさんに『ここで救援を待った方がいいんじゃない?』と声を掛けたが、それまでしっかり歩いていたのに、何も反応がなかった」(女性客B)

「自分のシュラフを女性客○に掛けて介抱していたが、18時30分頃、冷たくなった」(女性客B)

◇女性客B(55歳)さん(生還)
 ※本人の証言。

 「北沼分岐の待機時間に寒さを感じた。立ち上がって歩き始めた時から意識
が朦朧とし始めた(35℃ 以下)。隊列を組んで歩いていたが、ほかの人がうまく
(真っ直ぐ)歩いていないなと思った。しかし、自分もよろよろと歩く状態だった。

 南沼の途中の雪渓で思わずつまずいてしまい、ハッとして体勢を整えた時に、
今まで朦朧としていた意識が「我に返った」ようになった。 トムラウシ分岐
付近の歩行はよろよろした状態で、ストックで支えながら歩いた(35℃ 台)。」

 ※18時30分すぎ。

 「自力下山を考える。しかし、もうすぐ暗くなって道に迷うことも考えられるので、ここで初めてビバークを決意する。・・・翌日早朝からの下山に備えて自分のシュラフとマットに横たわる。」(行動概要)

 ※翌午前3時40分。

 「女性客Bが・・・ビバーク地点から歩き出し、前トム平へ下降する。」(行動概要)


 ※午前5時16分。

  「道警ヘリが前トム平で自力歩行可能な女性客Bと、さらに意識不明の女性客1人(O)を収容する。」(行動概要)
 

低体温症からの生還。発症後の手立ての大事さ

 証言の紹介を終えて、ここからは通常の書き込み形式で、2、3の大事な問題を「中間報告」をもとに書いていきます。

 今回の遭難では18人パーティー(ガイド3人、参加者15人)のうち、10人が生還していますが、このうち少なくとも次の3人は、いったん低体温症の明確な症状が出たものの、助かりました。

 従来は、登山時に低体温症を発症すると、歩行・会話・意識障害などにまで症状が進んだ場合、あるいは自分で体温を上げられない段階にまで症状がすすんだ場合、山では「患者」にたいする積極的な加温の手立てがとれないため、回復はきわめて困難であるというのが、低体温症の怖さとして強調されてきました。

 今回は、この問題について、悪条件のもとでも可能な対応をすすめるなかで、新しい可能性が確認されてきたと思います。


◇女性客H(61歳)
 北沼で発症。第2ビバーク地点で、意識を失う。症状から推定体温は33度。岩陰に運ばれ風をよけ、次いで3人の意識不明の女性の1人として、テントに収容。このとき、ガイドBと男性Dは、3人を保温するように体を寄せ、また、ガスバーナーでテント内部を保温。19時過ぎに意識が戻る。ダウンの防寒具を着、スープなどを飲み、夜を明かし、救出。Hさんは、雨具の下は濡れはなかったと証言している。

 (同じテント内で女性2人が死亡しているが、うち1人はいったん夕方に意識をとりもどしたあと、急変、亡くなっている。)

◇女性客B(55歳)
 北沼の出発時点で、意識朦朧、よろよろと歩く(35度以下)。南沼でつまづき、我に返る。トムラウシ公園上部の岩のたもとでビバーク。このとき風は弱まりだし、雨があがっていた。マットレスを敷き、シュラフに入って、そのまま3時過ぎまで眠らず過ごす。自力で1時間下山し、救助ヘリに発見される。本人はどこで着用したか覚えていないが、雨具の下にフリースを着用していた。また、ガイドCと同じく、チョコを行動食として食べてきた。

 「自力判断でビバークした参加者は、この1名だけである」(医師の調査報告)

◇ガイドC(38歳)
 3人の中ではもっとも症状が重く、翌日昼前、意識をなくした状態で救出(前項に詳述)。自力生還ではないが、テント、ツェルトなしで一晩倒れたままで生存。体温は推定で33度かそれ以下まで低下。服装等に保温性があった可能性。また、倒れる前にチョコなどの行動食をとっていた。

 以上の内容から、低体温症の典型的な兆候、自覚症状などが出た場合も、リーダーがただちに、風よけのできる場所への退避、ビバーク、そのためのテント、ツエルトの用意とガスバーナーによる保温対策、重ね着の実施、温かい飲み物、など、可能な手立てを尽くすことが、一定程度の効果を発揮することが確かめらるように思います。

 この点で、中間報告が、症状が出る危険がある場合に、そのまま体温保持(熱産生維持)のために、緩やかに行動を続けるという対応が適切でない場合があることを指摘しているのは、とても大事だと思います。

 今度のような特別の悪条件下では、行動することで生まれる熱量よりも、体から奪われる熱量の方が、上回っている人が多かった。(着衣、食事内容、運動能力等により個人差あり。) そのような場合は、適切な場所でビバークし、保温・加温とカロリー補給に努めることが大事だということです。

 発症するメンバーが出たら、なおさらただちに、ということです。

 実際上は、突然の意識・運動障害、判断力の喪失を想定して、この対応は早めにすすめることが大事になります。

 同時に、何よりも登山者本人が、低体温症を想定した非常時の対策、保温性のある下着、重ね着の用意と着用をおこなうことが、重要だと思います。晴天・好条件用とは厳密に区別して。加えてツエルトの用意も。

 そして非常時にこそ、非常食・行動食の用意と行動中の摂取が決定的であることも、確認できるように思います。 あえて言えば、非常食は山で飢えないためだけにあるのではなく、非常事態で行動を支える用意として、備えるだけでなく、積極的に食べるためのものである、ということでしょうか。

 それにしても、Hさんは前日も体調不良(高山病)から吐いてばかりで、2日間十分な食事をとれていなかったのに、ここまで回復できたのは、周囲の救護の力の大事さを示しているように思います。


貧弱な食糧計画では低体温症を予防できない

 今回の「中間報告」は、驚きと発見が幾つもあり、登山者の1人として学ぶことが多いものでした。

 その1つに登山時の食事の問題がありました。

 本州の、施設が整った山小屋を使う登山の場合、ツアー登山も山小屋の、ある意味では多面的な保護の恩恵を受けます。食事では、北アや八ツでは、途中の山小屋で昼食やおやつを食べることもできます。

 ところがトムラウシ山の縦走の場合は、無人の避難小屋を使ったとしても、大きな制約があります。今回も、濡れたソックスや雨具は乾かないし、就寝中も風雨の吹き込みでシュラフが濡れたりする。何かほしいと思えば、その分、自助努力がいるし、総じて必要な装備は増えることになります。

 そのしわ寄せのなかで、非常時の服装や装備を、携行できない、という参加者もいました。

 そして、しわ寄せが、もう一つ及んだ分野が、食事だったということを、私は、中間報告の「運動生理学的見地から」の調査と考察を読んで、認識させられました。

 ツアー登山の場合、個人がそれぞれ参加するため、報告にあるようにアルファ米とレトルト食品のおかず(カレーなど)のように、かなり簡素な食事が続きます。

 またコンロも個人ではもたないことが、普通のようです。(第二ビバーク地点で使用できたコンロは、南沼の他人のデポ品でした。)

 コンロはシェルパ役の場所取りガイドが共同利用で用意しています。そして、ガイドが沸かしてくれたお湯を、参加者に配るという方式で、各自の食事の準備が進められます。

 自前のコンロなしの条件では、メニューが制限されます。

 また、濡れたものは乾かせません。初めて知る実情でした。

 私のこれまでの山の経験では、幕営などの際の食事はもっとも楽しく、好きな素材やメニューを用意しておなかいっぱい食べることに集中する、そういうイメージがありました。そこではコンロは大活躍します。家族の山行でも、同じ。食糧計画は、共同の準備と調理がその食事の基本条件になっています。

 施設が完備した山小屋を使えない山域に入る場合、ツアー登山では個々人が自分の体力と相談しながら、食事を制限するということが、起こっていたことになります。少なくとも、今回の会社の体制ではそうでした。

 この我慢と制限は、ツアー会社が参加者に示した荷物の目安にも、現れていました。パンフレットでは「山行に支障を来たさない範囲で背負える最大荷重の目安」として、女性の場合、「50歳では12キログラム、60歳では8キログラム」と、ほとんど非現実的な数値(日帰り登山並み!)を基準に示しています。

 これは、お手軽登山ツアーのお誘い以外の何物でもありません。

 しかし、3日間40キロの無人の行程を行く大雪山の縦走は、このような装備と食糧の携行で対応できるものではありませんでした。

 実際に参加者の食事はどうだったのか?
 中間報告によると、3日間のこのツアーの食事は次のようなものでした。

 「生還者が食べていた内容を大まかに言うと、朝食としては、インスタント・ラーメン、アルファ米(前夜の残りの半分という人もいた)、スープなどの回答が多かった。行動食については、カロリーメイト、ソイジョイ、ゼリー飲料、バナナ、チョコレート、アメなどを食べていた。また夕食では、アルファ米とカレー、調理済みのアルファ米(半分だけ食べるという人もいた)、スープ、野菜といった内容だった。

 これらのエネルギーの総和は、多めに見積もったとしても1000kcal台の前半から後半にしかならず2000kcalを超えている人はほとんどいないように思われた。」

 この考察の筆者は、本来必要な参加者の1日の必要カロリーは、女性で2500キロカロリー弱、男性で3500キロカロリー弱だったと算出しています。しかもこれは、気象条件が理想的に良い場合です。

 これに事故があった日のような低温、風雨のなかでは、必要カロリーは「この値の数割増し」と算出しています。

 つまり参加者のカロリーは、必要量から見て、「摂取量が大幅に少なかった」と書いています。前日の雨中の行動と含めて、半分のカロリー程度しかとれていません。

 熱源的に、カスカスの状態を続けて、低温・強風・雨の稜線にとりついていたことになります。

 「中間報告」のこの考察では、今回のように「風に逆らって歩く場合には莫大なエネルギーを使い、疲労を早める」と、述べています。

 そして、「今回の低体温症の発症が非常に急激だったことを考えると、寒さや風といった気象要因だけではなく、その前段階として、体力の非常な消耗が関係していた可能性がある。」としています。

 低体温症に抵抗するための熱の産生が、1)激しい行動でカロリーが早い段階で失われただけでなく、2)粗食3日目という条件で早々と補給源が尽きてしまった(個人差あり)という考察です。こうした場合、筋肉のたんぱく質を分解してカロリー源とする防御反応も、起こりうるという指摘も記述されています。

 関連は不明ですが、医師の報告では、精密な検査が行われたガイドCの場合、代謝面や、肝臓の異変を示唆する可能性をはらむ、幾つもの異常な数値が検知されています。

 多くの登山者は自己防衛的に、本能的にも、食事の量とともに、行動中のカロリー補給には気をつけています。

 しかし、低体温症という課題に向き合う形で、食事の面からのフォローを改めて見直す必要を感じさせられました。前コメントで書いた、非常食をこういう場合に積極的に食べることも、その1つです。


「中間報告書」への私の注文

 この遭難事故調査特別委員会の座長のS氏は、私も一度、少人数で食事をする機会があった方です。山へ入る修行僧を思わせる風貌をもつ、一本気な方という印象を持ちました。

 座長としての巻頭の文言では、今回の「中間報告書」は、登山者の目線で事故原因を明らかにする、という立場からまとめあげたと述べられています。私もこの位置づけには、賛成できますし、調査と考察の内容はその目的に応えるものがあると感じます。

 登山の愛好者と岳人のなかに、この「報告書」の中身が広く認識され、討論・交流されることが大事になると思います。

 私のここでの一連のコメントも、そういう趣旨でおこなってきたものでした。

 その立場から、最後に、「中間報告書」について、私の意見を述べることにします。


1、低体温症の脅威と対応を登山界全体が認識できる体系的な構成に。

 最初の私の書き込みにあるように、この「中間報告書」の一番の特徴、日本の登山・遭難の歴史のなかでの新しい特徴は、大量遭難の直接の死因を「低体温症」ととらえ、そこにいたった経過と原因を多くの生還者の証言をもとに多角的にとらえて教訓化しようとしていることにあります。

 調査に参加した複数の専門家の記述も、大量の犠牲者を出した直接の原因は低体温症だったことを的確に規定しています。パーティーが生死の際で直面したのは、まさに低体温症との戦いでした。

 ところが、この「中間報告書」を第一報したマスコミ報道は、「ガイドの力量不足、判断ミス」に焦点を置いた内容になっていました。ここには、書いた記者の認識の段階も反映していると思います。

 しかし、「中間報告書」の構成を見ると、全体を通して読み解けば低体温症の問題がくっきりするものの、たとえば事故にいたった原因の総括的な考察は、総ざらい的に問題を列挙するものになっています。先入見なしに、末尾までしっかり読みこまないと、何が起こったのかが体系的につかみにくい構成になっていることも、関係しているように思えます。

 この大量遭難は、8人の犠牲者が滑落や落雷で亡くなられた事故ではありません。ヒグマに襲われたわけでも、沢の鉄砲水に呑み込まれたわけでもありません。
 パーティー自身は「無自覚」だったけれど、彼らを襲ったのは報告書が指摘するように、低体温症でした。個々人の経験と技量、ガイドの力量はまさにその点で問われました。

 そして、低体温症の危険を予測し、予防し、出発前と行動開始後、さらに発症後のあらゆる局面でこれと闘いぬくためには、従来の登山者の認識の水準を超えるような、総合的な判断、認識が問われた事件でした。生死を分けた勘所も、気象、運動生理学、装備と食事、救護の在り方など、多面的に検討されるべきものだったことは、中間報告書が示す通りです。

 私が今回の事故でもっとも大事だと思ったのは、18人の全員が、低体温症に無警戒だっただけでなく、言葉として低体温症を現場で頭に思い浮かべた人もガイド1人だけで、かつその認識も現場の進行と対応させて考えるにいたらない、おぼろげな水準のものだったことです。

 現場では、3日間の全行程を通して、何より、症状が出てからさえも、「低体温症」という言葉そのものが、ガイドと参加者の誰からも発せられることはありませんでした。

 参加者には30年、50年という登山の経験者もいました。それだけの登山者が集まってもなお、低体温症は現実の脅威として現場で認識されることはなかったのです。介護を続けながら「摩訶不思議な出来事」と最後まで思っていたというベテランの参加者の証言が示すとおりです。

 これは、例えて言えば岩場に取り付いている登山者が、何が危険か、どう安全確保するか、予測も認識もしなかったようなものです。これでは、ガイドも参加者も対応・備え・回避のしようがありません。
 
 不幸なことに、低体温症は、人の判断力、行動力そのものを突然、奪うものでした。リーダーガイドが「力量不足」の焦点に立たされていますが、彼のパーティーを襲ったものが低体温症でなければ、彼は長年の経験と判断とを生かして、事に対処していた可能性もあります。低体温症の認識がなかったからこそ、ガイドと登山者側の対応も後手に、あるいはなすすべもないところに、追い込まれた可能性が強くあります。

 今回の大量遭難事故の最大の問題がここにあります。

 (関連して言えば、私が遭難直後のツリーで書いていたことですが、北沼の渡渉も、低体温症との関係でより力点をおいてほしいことです。雪渓に半ば埋まった北沼の水温はほぼ零度です。急激な発症者が直後に複数出たのは、この水に漬かったことと深い関連があります。そのうえ1時間、待機させられ、発症が拡大した。低体温症への無警戒の顕著な現われと思います。北沼は現場の判断の最終関門でした。「もう引き返せない」という証言の通りです。)

 そうした問題であることが把握しやすい構成、原因論の論じ方になっていれば、記者のみなさんもああいう記事の中身にはならなかったでしょうし、何よりも多くの登山者にとって、これは新しい、深刻な問題が提起されていることが、受けとめられることにもなります。

 私は、今度の遭難の最大の問題は、日本の登山界でその程度にしか低体温症の怖さが認識されてこなかったこと、そのことにあると思っています。そこを広く指摘し、その問題を根幹にすえて、体系だった報告書、とくに原因究明をすすめることが、事故報告書として大事ではないかと考えます。

 それこそが、広く登山者の目線で原因と教訓を明らかにする方向ではないかと思います。

2、ガイドの水準、認識を向上させ、ガイドが参加者の命にかかわる問題で的確な判断を保障しうる制度の提案。

 2つめの問題は、いま述べたことを本当に実行するには、解決策として何がかなめか、ということです。

 報道のようにガイドの力量不足がかなめだというならば、個々のツアー会社と個々のガイドの今後の努力に委ねるという策が基本になってしまいます。
 そのことで、解決がなしうるのでしょうか?

 パーティーがあの気象条件とパーティーの構成で、足の揃った静岡のパーティーでさえ夜7時半にようやく十勝側に下山できたような行程に出発せざるを得なかったのは、行くしか選択肢がない立場にあったからでした。

 麓の温泉は予約済み、バスも待っている、飛行機の便も団体で予約済み、当日は同社の別のパーティーが避難小屋に入ってくる、もしかしたら、下山後はすぐ次のガイド番にふりあてられていたのかもしれません。

 そして、3人のガイドの構成そのものが、ルートの未経験者が2人もいる、非力なものでした。中間報告書がいうように、ガイドの構成、予備日なし、出発の判断も自分の裁量が限られる、そういう条件で、この登山は始まったのです。

 小屋にサポート役と、テントとガスコンロを、その日に入れ替わりでやってくるパーティーのために残しておくという、無防備な体制でです。

 制度としては、ガイドが会社とは独立に安全最優先の判断をおこないうる、そうした体制・制度に改善されることが第一の問題です。それでこそ、ガイドの力量は発揮されます。

 そして、その制度化と併せて、ガイドの力量の向上が必要です。

 人の命を預かるのですから、会社から独立した立場でこうしたツアーに、専門的なガイドを配置することを義務付け、ガイドの判断によってその地位や生活が脅かされない立場を保障する。

 そのうえで、ガイドが行った判断には、ガイドは会社とともに、全面的なそれぞれ独自の責任を負う。もちろんガイドは、接客役とは区別して、有資格者でなければなりません。ガイド協会が雇用形態の面で、会社側と専門ガイドとの間を仲立ちする仕組みづくりも一案と思います。

 こうした制度が創設されないかぎり、コスト優先のガイド配置とツアーの運営が手つかずになり、事故はこれまで通り、繰り返されることになると思います。
 ガイドの力量・判断の問題は、いまに始まったことではなく、長年の野放しの結果、今があるということが大事と思います。
 

RE: 「山渓」3月号掲載の証言

 「山と渓谷」2010年3月号で、3たび、トムラウシ遭難事故の特集をおこなっており、そのなかで、ツアーに参加した方の新しい証言を載せています。

 経過の全体は、ここまでの「報告書」の分析で書いてきた通りです。

 今回の証言で新しくわかったことは、最初に行動に支障をきたす参加者が出たのは、ロックガーデンではなくて、ヒサゴ沼から縦走路に上がる雪渓、また縦走路に出てすぐの地点だったことです。2人が介助されなければ歩けなくなった。

 北沼までかなり長い時間がかかった理由は、すでにこの段階で、行動が困難な参加者が出たためだったことになります。

 先の行程の長さ、気象条件を考慮すれば、そのまま北沼へと進んだ「判断」が問題ですが、ガイドの間にはこの状況でも、相談・検討はなかったと、レポートされています。

 先への行動に駆り立てたものは、なんだったのか。ガイドをふくこの会社の状況が背景にあるとしか思えません。
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-5521
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/717.html#c5

[リバイバル3] トムラウシ山遭難事故 中川隆
6. 中川隆[-7604] koaQ7Jey 2017年6月04日 16:44:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2009年07月27日
低体温症の対策 予防的なウエア、装備
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3787



 今回(2009年7月16日)のトムラウシ山、美瑛岳の10人の死亡事故は、低体温症の怖さ、また、それが多くの登山者に知られていない現実を、まざまざと示しました。

 登山を続けてきた1人として、私が大事にしたいと思っているのは、自分、友人、そして多くの登山者の遭難や失敗の経験から、しっかり学ぶということです。今度の事故は、個人的にはもちろんですが、山登りをする多くの人に、衝撃的な印象を残しました。(私の日記・プロフィールへのこの9日間のアクセスは2800人に達しました。)

 その点で残念なことは、私はこの件の最初の「日記・ブログ」から書いてきたことですが、最近はマスコミ関係者に登山の経験が十分な記者がめっきり減ったため、原因にかかわる具体的な調査・取材がまだ不十分なことです。

 以前(1980年代ころまで)であれば、当時はまだ「疲労凍死」という原因が不十分な把握ではありましたが、生存者・死亡者のとくに服装を詳しく調べ、報道する記事がありました。とくに生死が分かれる遭難では「疲労凍死」の原因の一番のポイントとして、下着の問題が浮き彫りになりました。

 つまり「疲労凍死」は原因ではなく結果の外見的な状態であり、体温を奪われることによる低体温症こそ、生死を分けた直接の原因であることが明確になってきたわけでした。

 今回は、低体温症が直接の原因であることが早い段階から問題にされてきたにもかかわらず、ウエアを徹底的に調べた記事がありません。この件での報道は断片的で、なにより全体像がわかる比較検討の視点がありません。

 ある死亡者の下着が濡れていたことを伝えた記事はありました。しかし、肝心のその素材は示されていないし、遭難報道で大事になポイントである全数調査、その点での生存者と死亡者の比較もありません。おそらく、実物を見せられても素材に思いが及ばない登山経験での取材になっているのではと思います。

 とくに下着は、濡れた部位も今回は問題です。北沼があふれた沢渡渉がありましたし、下半身だけが濡れたのか、雨で袖口や首周りが濡れたのか、全体にわたって濡れたのか、その部位と個々人の雨具の関係など、どれも今後に生かす大事な注目点です。現行のゴアテックス雨具は、強い風雨にたいする性能そのものの見直し問題や、盲点もあるかもしれません。

 その雨具も、素材(材質)、雨天用か、冬の着用も考慮したウエアかなど、きちんと調べて比較した報道はありません。軽装というが、実態が不明。

 帽子と手袋も大事ですが、帽子の防水性や保温性にも全数調査的な報道はありません。

 山岳雑誌等の今後の報道、また自分でも山に登る記者の今後の報道に期待しているところです。
 
 低体温症に備える服装・装備は、特別なものではないと思います。

 登山用品店では、夏場は「通気性」や「汗抜け」をメインに宣伝してきます。

 ポイントはこれと区別して、下着などに非常用を用意し、状況に応じて着分けすることだと思います。

 一方、山行中ずっと着るズボンとシャツは、天候や目的地に応じて選び、必要な場合は通気性より保温を考えた用意をします。

 大雪・十勝連峰の夏は、北アなどの6月、9月など(盛夏を除く)の時期を想定した雨天・防寒対策で対応可能と思ってきました。現に北海道の登山者は、見かけ上、本州の登山者とあまり変わらない服装で登っています。晴天ではなおさらです。大事なのは、悪天候時の備えです。

 まず雨具は、撥水機能が落ちていないゴアテックス素材等の防水透湿のもの(構造はラミネートされた布地のシングル縫製)が、この時期は普通に使われています。

 問題は、寒いときにはこれだけでは不十分であり、アンダーウエアなどの対応がいることを、知って使うことがポイントと思います。

 服装では、これも本州の対策と基本的に共通で、加えて非常用がいります。風雨の稜線をどうしても歩かねばならないとき、あるいは幕営などの朝晩の冷え込み対策に、薄手のポリプロピレン、あるいはアクリル素材の上下肌着(登山用品店にある冬用下着の薄手タイプ)を状況に応じて着用し、その上に寒いときは夏用の下着(素材はポリエステルが多く保温性が弱い、綿が入った素材は危険)、山シャツ、山ズボンを着用します。

 この種の薄地の冬用肌着はとても小さくたため、軽量。非常用にじゃまになりません。断熱性が高く、濡れても体温を保持してくれ、濡れても乾きやすい。厚地のものは、夏は使えません。

 本州の山ではこの薄地の冬用下着の用意があれば、夏は朝晩のフリースはいらないくらいです。フリースは、北海道では雨具を暖かく着る(ゴアテックスでも中が濡れ、寒い場合)ため、薄手でもあった方がいいと思います。

 頭部は、帽子か頭をタオルで包むようにすると、雨具からの冷えこみから頭部を守れます。

 うちのカミさんは防水性のある帽子と、手袋をセットで使っています。

 スパッツは、夏のロングスパッツは、私はどうしても抵抗があり、過剰装備と思ってきました。あれは雪山用です。百名山ブーム以後に登山を始めた方が、なぜか夏の暑い時期にも、そして雪がまったくない山でも、使うようになりました。それまでは夏は持って行っても、短スパッツでした。

ロングスパッツは、山靴の7割ほどを覆い、靴の通気性を著しく阻害します。昔は登山靴の防水性が悪い時代があり、残雪や雪山でそれを補う目的もあって、スパッツは使われたのです。通気性を悪くすれば、夏場は足の皮膚をふやけさせるし、豆の原因にもなるでしょう。

ただ、今回の風雨と沢渡渉を見ると、枝沢を越えるたり、沢沿いルートの場合、短スパッツは携行したいと思いました。条件によって適切に適時に使用することで、足首からの濡れや風を遮断できます。

 次に、非常用の装備。稜線に小屋が連なる山でなければ、以下の用意がいります。

 パーティー人数分を収容するツエルト、テント等は必須。

私の友人は、ツエルトと別に、ホームセンターで特大のポリ袋(透明で長さ120センチほど)を求めて、1枚常時携行しています。ツエルトやポリ袋は、体をつつんで荷造りベルトで固定して、風除けの行動にも使うそうです。

ツエルトは、信じられないくらい小さな1人用もあり、日帰りでも低山でも持ち運ぶのをクセにしてしまうといいと思います。私は2人用をいつも携行しています。

 それから、ガイド役の場合は、行き先に応じて、携行用の手もみカイロをもって行くと、非常時にもっとも有効に脇の下から保温することができますね。脇の保温は、行動不能におちいりだしたメンバーをツエルトに収容して保温する方法としてもっとも有効です。個人山行ではカイロまではちょっとできません。

 いろいろ書きましたが、一番大事なことはこうした用意や装備の選定を通じての、低体温症にたいする警戒心だと思います。

 (写真左は9月下旬のトムラウシ、右は8月の熊野岳)

(今回の遭難についてのニュース、検討は引き続き下記に追加の記述をしています。)
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3691

トムラウシ山遭難。山岳ガイド協の中間報告にみる「低体温症」の実際
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-5521


2009/7/29
RE: 低体温症の対策) 下着、具体的事例

 具体的には、どのメーカーのどの商品? ということに、次になるわけですが、私は1つに絞って宣伝する立場にないのですが、しかし、山の装備は商品の経験を交流するのは普通のことなので、控えめな範囲で。

 夏用(3シーズン)の、非常用防寒下着は、ヘリーハンセンのこれを使っています。
http://goldwinwebstore.jp/shop/ProductDetail.aspx?sku=HY98807_N_L&CD=S0900515&WKCD=S0900508-S0900509

 ポロプロピレン(ポリ塩化ビニル)100%。購入は4年前でロングセラーもの。冬用の4分の1くらいの厚さしかなく、肌ざわりはドライです。通気性があり、真夏のアプローチなどでは死ぬほど暑いですが、稜線に出ればずっと着用可能。沢遡行や、真冬の低山でも使えます。

 ICIとかゴールドウィンで以前、白いやや厚めのTシャツタイプを同素材で出していて、これも家族用に2着ありますが、これは夏には暑い。肌あたりもちくちくします。完全に非常用。それにくらべ、ヘリーハンセンのは着やすい。

 タイツ(やはり超薄手)は、以前にノースフェイスが出していた同素材のグレーのものを、家族で2着、3シーズンに使っています。これも、履き心地が良いです。
 形は、下記に似てます。これも同素材。
http://goldwinwebstore.jp/shop/ProductDetail.aspx?sku=HY93807_N_L&CD=S0900515&WKCD=S0900508-S0900509

 カミさんは、タイツは下記と同じアクリル素材のもの(メーカーは別)を使っています。
http://www.greenlife.co.jp/item/under/mush-nukuitaitu-w.html

 これらはいずれも、とても小さく収納できるのがミソで、その分、フリースなどを薄地にできます。

 それから、ポリプロピレンは吸水性がゼロなので、すぐ乾くし、気温がほどほどなら絞って、ついで振り回し脱水をして、そのまま着ることができることです。

 大事なことは、汗抜け、通気性をうたった夏用素材には、化学繊維という点は同じでも、断熱性・保温性にひどく劣るもの、保温とは逆の目的をもたせたものが多いことです。

 中には、綿を混紡しているものもあります。

 店によっては、区別が甘い場合や、そもそも夏の薄地の保温用は念頭にない場合もありえますので、素材をしっかり把握して入手するのが大切と思います。

 そして、機能を良くおさえて、現場でそれぞれ着分けするのが大事と思います。

 本格的な純冬用の下着は厚手ですので、店でふれればわかります。あれは、寒い山でしか使えません。羊毛を使った製品(メリノ・ウールなど)も、冬ないし秋・春はいいですが、夏にもつかうのは条件が限られそうです。他にないときに何かの用意にはいいですね。

 夏や3シーズンに薄地の保温下着を現場で着分けする場合も、天候や条件を考えて、意識的に使うことになります。先日の南アではテントを張って夕刻を待って、着替え、翌日もそのままテントに下山するまで使いました。その分、フリースはカット。

 使用頻度でいうと、夏は非常用ですが、風や雨の稜線では力を発揮します。春・秋は常用になります。

 ネット上では、山用の保温下着として、ユニクロのヒートテックが注目されていますね。

「素材アクリル39%・ポリエステル33%・レーヨン20%・ポリウレタン8%」
 素材的にはいいですし、このなかでポリウレタンは伸縮性があり、断熱性が高い。

 問題は、登山用ではないので、山で汗をかく場合のドライ性能でしょうか。ヘリーハンセンのものは、ある程度快適です。

 ヒートテックも着やすければ、目的地に応じてこの季節に使えるかもしれません。

 なお、下着のことではないですが、今回の生存者のなかに雨具の下に軽羽毛服を着用した方がいたことから、テレビなどでこの角度の報道もされています。ちょっと違うんじゃないかなと思います。マスコミのみなさんには、今回の件についても、ウエア問題にしてももっと全貌をとりあげ、比較検討する態度がほしいと思います。ダウンジャケットは、みな持って北海道へ行くわけじゃないし、地元の定番でもない。吸水性もきわめて大きく、大雨のもとで着用するのは、是非論が出ると思います。うわっつらを見ずにこの方の服装全体をきちんと取材してほしいと思います。

 「下着は化繊なら大丈夫」という取り上げ方もネットに出回っていますが、こういう状況でいいのかと思います。

(低体温症についての関心ですが、この日記もさっそくGoogleで40位台に掲示されました。今回の遭難は痛苦な出来事でしたが、登山者の多くが強い関心をもち、情報を求めていることは大事なことだと感じています。)
 


RE: 登山家の野口さんが

 今日(8月3日)、夕方にカミさんいわく。

 「登山家の野口さんが、今日見た美容室の女性週刊誌に書いていたよ。みんな上着やジャケットのことばかり言ってるし、登山者もそこだけ気を配るけど、ほんとに生死を分けるのは下着もなんだって。
 ユニクロにだっていい下着があるって。」

 おお、さすが! と思いました。
 なんて週刊誌なのか? 誰か読まれた方はいませんか?

 それにしても、ちゃんとした記事が出ない。
 山の店も、新聞も、なかなか正確な情報が提供できない時代になりました。
 今度の事故は、あまり期間をおかずに、また同類のケースで繰り返すのではないか、と危惧してます。
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3787
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/717.html#c6

[番外地6] トムラウシ遭難事故 中川隆
8. 中川隆[-7603] koaQ7Jey 2017年6月04日 17:28:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

この続きは リバイバル板の

トムラウシ山遭難事故
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/717.html
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/583.html#c8

[政治・選挙・NHK226] 民進党・辻元清美「天皇の存在が気持ち悪くて許せない 同じ空気を吸ってると思うと吐き気がする」 何て骨体
26. 中川隆[-7602] koaQ7Jey 2017年6月04日 17:33:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
>>25
それはでっち上げの嘘

戦前も戦後もすべて昭和天皇ひとりで決定していた

御文庫といって天皇の宮殿の地下深くに御文庫を作り

そこに大本営を置いて天皇が参謀たちを集め図面を置いて

毎日毎日、今度はここ行けここ行けと指図をするわけ

それを指図ができると東条英機が受けてですねやるわけです

だから参謀たちが天皇を大参謀に、参謀たちが戦争計画を作り、それを東条に渡すわけです

東条英機は大文庫に、御文庫の中には入れないわけです

他の連中も

そういうシステムで戦争が進んでいく訳です
http://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes


昭和天皇の身代わりに死刑にされた松井岩根

キーナンは、自分が技巧的に追及してきたその判決を聞いた日の夜、
彼の切り札証言人、田中隆吉と一杯飲みに外出した。彼は酔いにかまけつつ、

「馬鹿げている、まったく馬鹿げた判決だ」と口にした。彼が最も反対してきた判決は、
松井――南京攻略の際、その命令が悪用された痛ましい小柄な大将――の死刑だった。

 公正は私に、被告に有罪を決定する際、天皇の免責について再考するよう、求めている。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。

責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。
それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、 自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、
との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、 噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。


http://www.asyura2.com/17/senkyo226/msg/746.html#c26

[政治・選挙・NHK226] 民進党・辻元清美「天皇の存在が気持ち悪くて許せない 同じ空気を吸ってると思うと吐き気がする」 何て骨体
30. 中川隆[-7616] koaQ7Jey 2017年6月04日 20:23:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
>.29
 山本五十六についての嘘に限らず、「昭和史全体の嘘漬け」を人生の生業とする作家といえば、誰しも半藤一利の名を思い出す。
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2014/09/11/150943
http://www.asyura2.com/17/senkyo226/msg/746.html#c30
[政治・選挙・NHK226] 民進党・辻元清美「天皇の存在が気持ち悪くて許せない 同じ空気を吸ってると思うと吐き気がする」 何て骨体
31. 中川隆[-7615] koaQ7Jey 2017年6月04日 20:26:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
>>29
2012年09月17日


売文家・半藤一利の卑劣


 毎日新聞9月15日付朝刊に似非知識人の半藤一利が、満州事変について語っている記事があった。
 半藤一利という元「文芸春秋」編集長、つまりアメリカの下僕売文家は、実に官許歴史の作り上げに加担してきた。そして勉強しない大衆を誤った思考へ導こうとする馬鹿者である。

 半藤は、1931年満州事変が起きたのは、「15年の大隈重信内閣による二十一カ条の要求だった。」と、まずここから勘違いを始める。日本が支那に対して出した「対華二十一カ条要求」がどれほど正当な外交上の“確認”だったかを検証もしないで、支那やアメリカのウソをそのまま日本人に洗脳しようとしている。

 第二次世界大戦は日本が支那や満州で悪いことをしたから起き、悪いこと、間違ったことをやったから原爆を落とされてもしょうがなかった、負けてアメリカ様の言うとおりの民主国家になって良かった、という流れである。

 「現在の尖閣諸島国有化への反日デモを見るにつけ、当時の反帝国主義の盛り上がりと根っこは同じだと思う。新興国ゆえの国を愛するというアイデンティティが、反日という感情に結びつきやすいのだ。
 昭和史はこのとき制御の軛を失って、あらぬ方への進みはじめる、と私(半藤)はしばしば記す。その心は、指導者と新聞と世論の強硬論への変節である。」

 こういうしたり顔のご託宣には、憤りを覚える。偉そうに売文業者が何をぬかす。支那に愛国者なんかいやしない。

 メルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」(2012年9月15日)にはこうある。
 「(米国ロスアンジェルスの)チャイナタウンに隣接した場所にウォルマートが進出許可を取得し、建築を始めた途端、「進出反対」「中華の文化を破壊する暴挙」などと叫んだ「住民」が反対運動を組織した。ところが市長候補の大半は在米華僑の政治団体から献金を受けていることも判明している。

 そこでニューヨークタイムズの記者が潜入し、調査したところ、99%の住民がウォルマートの進出に賛成しており、反対するのは「外人部隊」ということが判明した(同紙9月7日)。

 何を言いたいか。
 中国で騒いでいる「反日」活動家はプロか、公安のやらせである、ということである。胡錦涛訪問時(7月1日)に40万人が抗議した香港の「反日活動家」はわずか五名、昨日も北京の日本大使館前で騒いでいる反日活動家らの数はせいぜい五十名。89年の天安門広場は共産党を批判する百万人が埋め尽くした。」

 支那人のココロはそう変わらないのである。「対華二十一カ条要求」は、袁世凱が不当に支那の民衆を反日に焚き付けたものであった。悪いのは支那政府であった。その支那政府も軍閥跋扈して収拾がつかないようなざまだったからこそ、日本は外交上の取り決めを確認しましょうとしたのが、「対華二十一カ条要求」である。

 いまだに文科省の官許歴史教科書や最低のマスゴミどもは、何も勉強せずGHQが押し付けたウソ歴史を、大衆に垂れ流す。半藤もその卑劣な一味でしかない。

 現今の、支那の反日騒動は中共政府が使嗾している。
 14日の宮崎正弘氏のメルマガでは
「中国の各地を旅行して、実際に肌で感じることは、メディアが報ずるような『反日ムード』はゼロに近く、庶民は新聞を読まないし、ネット世論は人民日報の基調とは正反対。つまりは共産党が情報操作をしつつ、反日を武器に、深刻な事態のすり替えを狙っていることを智恵のある庶民と知識人は知っている。」

 さらに9月16日のメルマガでは、
 「昨日の反日デモは中国各地、およそ50都市で展開され、合計十万人が参加した。若者の暇をもてあます結果の、格好の娯楽である。
 北京の日本大使館でも数千規模に膨れあがって公安の制御が聞かなかった。

 暴徒化したのは湖南省長沙と山東省青島である。長沙では日系スーパーが襲撃され、略奪の対象となった。青島では日本の自動車販売店が焼き討ちにあったほか、中国に最初に進出し、天安門事件でも営業を続けて当時の李鵬首相にほめられたパナソニック工場が焼き討ちされた。これぞ忘恩の暴徒。

 今回は胡錦涛と温家宝の強硬発言に端を発する。日本の尖閣諸島国有化を「半歩の譲歩もしない」と大風呂敷を広げ続けた温家宝らは、「弱腰」と批判されてきたため、上海派への当てつけなのである。
 即ち、中国人は「五分間の熱狂」と「気死」で特質を抽出することができるが、その「大風呂敷を広げあう」特質はあっても、「(日本人が得意な)風呂敷を畳むことが出来ない」からである。」

「河北省喩州でも9月15日に反日抗議デモが組織化された。指導していたのは当地の交通警察支部隊の隊長だった」
 「チベット、ウィグル、内蒙古、寧夏回族自治区では反日デモが皆無」


 と、こうなのである。
 「暴徒」とは、「若者の暇をもてあます結果の、格好の娯楽」だと、言うではないか。そういう事実を検証もしないで、半藤一利なる売文家は、反日の支那大衆(?)が正しいのだ、間違っているのはいつも日本だと叫び、過ちをくり返すんじゃないと日本人に偉そうに叱っているのである。

 そえにつけても、「昭和史はこのとき制御の軛を失って、あらぬ方への進みはじめる、と私はしばしば記す。」とは、なんという傲慢。「私はしばしば記す」だって? 誰もテメエの本なんか読まないぞ、アホ。
 当時の日本は「制御の軛」(って日本語か?)を失って、大東亜戦争に突き進んだのではない。ユダヤ国際金融資本が仕掛け、個人レベルの陰謀としてはユダヤ人アヴェレル・ハリマンが仕組んで、アメリカ、ソ連、支那、英国、フランス、それに日本やドイツを戦争に引き込むために陰謀のかぎりを尽くしたのであった。

 日本もユダ金に「制御」されて戦争に引き込まれたのである。

 半藤は早く日本が支那に謝罪しないと、戦前の二の舞になるとでも言いたげだが、日本のマスゴミが「反日暴動が拡大!」などと騒ぐから事を拡大させるのである。
 奴らがどれだけ騒ごうと、放っておけばいい。宮崎氏がメルマガで言うように、中国政府は共産党内の派閥抗争のために、「反日」を損得勘定でやっているにすぎないからだ。

 「極論すれば、もっと反日デモが拡大していけば、全土に反政府、反共産党の大暴動となって、かくじつに社会擾乱へと到ります。元末の白蓮教徒の乱のように、秦末の紅巾党の乱のように。
 共産党が「反日デモ」を仕掛け、演出しながらも、適度なあたりで、そそくさと解散させるのはその為ですから。」

 と宮崎正弘氏は的確に見抜いている。日本のマスゴミは、ユダ金に命じられて日中の通貨スワップの全面停止措置を取らせるよう仕掛けているのかもしれない。だから反日デモを「大変だ、大変だ」と煽るのかもしれない。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/292873292.html
http://www.asyura2.com/17/senkyo226/msg/746.html#c31

[政治・選挙・NHK226] 民進党・辻元清美「天皇の存在が気持ち悪くて許せない 同じ空気を吸ってると思うと吐き気がする」 何て骨体
34. 中川隆[-7614] koaQ7Jey 2017年6月04日 20:53:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
>>33
資料も証拠も無しに自分の勝手な思い込みを書いても意味ないだろ
http://www.asyura2.com/17/senkyo226/msg/746.html#c34
[リバイバル3] マルクスはやはり正しかった _ もうすぐ共産革命の嵐が吹き荒れる時代がやって来る 中川隆
37. 中川隆[-7613] koaQ7Jey 2017年6月04日 23:19:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

リスクを取らなかった人間にはリターンが与えられない事実


現代は「資本主義」の世の中なのだが、基本的に資本主義の世界ではリスクを取った人間がリターンを手に入れる世界である。リスクを取らなかった人間にはリターンは与えられない。

そのような社会になっているという例は、サラリーマンを長くやっている人が一番よく知っているはずだ。

会社の業績が上がったら株価も上昇する。しかし、どれだけ業績が上がっても基本的に自分の給料はほとんど上がらない。業績が2倍になったから給料も2倍になったという話など聞いたことがないはずだ。

仮に会社の業績が2倍になって株価も2倍になったとしても、給料は絶対に2倍にならない。一生懸命に働き、真面目に努力しても、さして給料が上昇していくわけではない。

では、業績が上がって株価も連動して上がったら、いったい誰が得するのか。それは従業員ではなく、株主に他ならない。業績が上がって株価が2倍になれば、株主の資産も自動的に2倍になる。

株主は基本的にはその会社で働いていない。通勤などしないし、朝から晩までその会社に尽くしているわけではない。にも関わらず、最も利益を得るのは株主である。

一見、これは不公平極まりない事象のように見える。いったい、従業員と株主は何が違ったのか。

資本主義はすべてこの公式に則って成り立っている

株主は何をしたのか。株主は「リスクを取った」のである。

たとえ、その会社が減収になっても破産しても文句は言わないという契約で、自分の大切な資金を会社に提供した。その代わり、会社が儲けて株価が上がればその利ざやは全部まとめて自分のものにできるという契約をしている。

株式を買うというのは、その会社の存続に関してのリスクを負うということである。うまくいかなかったら資本を減らし、うまくいけば資本を増やす。

リスクを取ったからその儲けをがっぽりと手に入れることができる。その権利を与えられている。

資本主義とは、すべてこの公式に則って成り立っている。

「資本でリスクを取った者にリターン(利益)を与える」という社会なのである。逆に言えば、資本でリスクを負わないものはリターンも手に入らない。

一生懸命に労働したところで報われない世界が来ているのは、現代は資本主義がどんどん効率化されているからだ。労働よりも資本の方が上位に立っている。

だから「資本主義」という。

資本主義においては、労働というのは単なるコストである。コストは下がれば下がるほど得するので、労働の対価は削られていく可能性の方が高い。コストは常に削減されるものなのだ。

ちなみに会社側にとっての「コストの削減」という言葉は、労働者側から見ると「搾取」である。

「資本でリスクを取らないと報われない」ということに気付かないと、いつまで経っても資本主義でうまく生きていくことができない。資本主義の正体に気付かないと、どんなにもがいてもじり貧になる。

もし、自分の人生が資本主義の正体に気付かないまま「じり貧」に追い込まれているのであれば、資本主義から搾取された分を奪い返さなければならない。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/06/20170604T1705340900.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/704.html#c37

[昼休み53] 豊洲市場「空洞」騒動の真実 _ なぜ、デマやウソが阿修羅掲示板を席巻してしまうのか? 中川隆
15. 中川隆[-7612] koaQ7Jey 2017年6月04日 23:43:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年06月04日
小池知事と大手マスコミは癒着しているのか?

マスコミは小池知事をアイドルタレントのように扱い、疑惑があっても報じないようになった
引用:https://rpr.c.yimg.jp/im_siggdjzNqMU10BRTl31EGzkunA---x800-n1/amd/20170308-00068461-roupeiro-000-4-view.jpg

都議会選がスタート

東京都議選投票日の7月2日まで一ヶ月を切って、メディアを利用した事実上の選挙戦が始まっている。

小池知事が主催する都民ファーストの会は今まで、知事とは無関係を装っていたが、ようやく代表に就任した。

小池知事は6月1日に自民党に離党届を出して同日都民ファースト代表に就任したが、今まで表向きは小池知事の政党ではなかった。

        

最初は所属議員ゼロから始まって、既存政党からの移籍議員が数名参加したが、都議選の立候補者はいまだに確定していないようです。

小池側とすれば準備が整わないうちに代表に就任し、コケたら自分の責任が追求されるし、実際都民ファーストは不祥事を起こしている。

都民ファーストの会代表、野田数氏は公金着服で秘書をしていたアントニオ猪木議員から告発されている。


野田数氏は不適切な「豪遊」をスクープされ、その金は都民ファーストの運営資金を使い込んだのではないかと週刊誌やネットで噂されている。

野田氏のスキャンダルをテレビなどは大きく報道しなかったが、代表を交代してイメージ失墜を避ける必要があった。

不思議なのは大手メディア(特に地上波テレビと大新聞)ほど小池側のスキャンダルを報道しようとしない傾向がある事で、以前からあった。


最初に当選した東京都知事選で、大手パチンコ関連企業(=カジノ関連企業)から支援を受けたのではないかという疑惑が報じられたが、小池ブームでタブーになりかき消された。

次に2017年1月14日に突如として「環境基準の79倍の高濃度汚染が見つかった」と東京都が発表したが、この検査データは東京都から偽造を強要されたと検査業者が証言している。

地下水質検査では「たまり水」や「雨水」を除去するために一度水抜きしてから検査するが、これをパージと言います。

小池知事の犯罪を隠すマスコミ

正しい数値を得るにはパージからかなりの時間(通常は一晩)を空けてから水質検査を実施します。

もしバージから時間を空けずにすぐに水質検査したら、水の量が少ないわけだから「濃度」は濃くなります。

例えばコップの底のほうに塩がたまっている水があり、コップの水を捨ててかき混ぜて濃度を測ったら、水が少なくなった分高濃度になります。


本当は新たな地下水が十分に満たされてから水質検査をするべきなのに、東京都の職員から「すぐに水質検査をしろ」と指示されて1時間以内に数値を測定しました。

9回目の検査業者は、調査方法の変更や調査の延期、辞退を何度も要請したが、東京都が受け入れず調査を実施したと証言した。

8回目までの検査では一度も基準を超えなかったのに、9回目以降は必ず高濃度汚染が見つかっているのは、高い数値が出るように検査方法を変更させたと考えられます。


東京都議会の特別委員会は2017年3月4日、地下水モニタリング調査をした業者を参考人招致した結果、高い数値が出るよう検査方法を変更していたと公表した。

東京都議会自身が「その検査データは捏造です」と言っているのに、マスコミはこの事には一切触れようとしない。

東京都に偽データ作成を強要されたと証言した9回目の業者はその後検査を辞退し、別な業者に代わったようで、以降検査方法についての説明を一度も行っていない。


だがその後の検査でも9回目と同じ数値が出ている事からは、10回目以降も東京都が同じように、間違った検査方法で高濃度の数値が出るよう強要し続けていると考えられる。

地下水の汚染濃度を検査方法を変更させて偽造することは、犯罪行為ではないだろうか?

築地市場の汚染は隠し続ける

そして「79倍の高濃度汚染」なのだが飲料水としての基準から「79倍超」なのであって、「地下水の水質基準」には違反していません。

仮に貴方の家の地下水にこの「79倍の高濃度汚染水」が流れていても、役所が検査して「問題ありませんね」という数値なのでした。

日本の飲料水基準は毎日数リットル、一生涯飲み続けて少し体調が悪化するか、子供か孫の世代に健康被害が出るという数値です。


ここまで厳しいのは昭和40年代に数多くの公害病被害が発生したからなのだが、その79倍の水を毎日コップ1杯を一生飲んでも体調にはあまり影響がない。

福島原発が爆発したとき枝野幹事長は「ただちに健康に影響はない」と歴史に残る妄言を言ったが、実際6年経っても放射能そのものでの健康被害は出ていない。

豊洲の地下水を毎日飲み続けたり、福島原発の敷地内にずっと住んだらいずれ体調が悪くなるが、そういう人は居ないでしょう。


その一方で小池知事は、存続するべきだと主張していた築地市場の環境汚染を隠していたのが分かっています。

2017年2月23日に東京都は、築地市場の耐震性能不足とアスベスト残留物についての発表を行いました。

同年2月28日に東京都は、昭和20年代に進駐軍(GHQ)が残した地下残留物が存在すると発表しました。

なぜ小池知事は言葉を誤魔化すのか

同年2月5日には「小池知事vs自民党」とマスコミが煽っていた千代田区長選が実施され、小池陣営の石川雅己区長が圧勝しました。

2017年1月14日に東京都は豊洲で環境基準の79倍の高濃度汚染が見つかったと発表し、2月5日に豊洲移転を争点に千代田区長選が実施された。

水質検査業者が「嘘の水質検査を強要された」と証言したのが3月4日、築地の耐震性能不足とアスベスト発表は2月23日でした。


築地の進駐軍(GHQ)が残した地下残留物発表は2月28日だったが、これらは皆2月5日千代田区長選よりも前に分かっていた事でした。

5月になるとさらに詳細な築地市場の汚染状況が発表されたが、これらは舛添前都知事が命じたもので、舛添氏辞任によって公表されず隠されていた。

5月25日に東京都は築地市場の土壌調査で、基準を上回る六価クロムやヒ素などを発見したと公表しました。


豊洲の数値と見比べて欲しいのだが、豊洲は「飲料水の環境基準」79倍の汚染、築地は「土壌の環境基準」の数倍の数値が出ている。

なぜ豊洲は「飲料水の環境基準」、築地は「土壌の環境基準」でものを言うのか、環境基準の専門知識はないが、ここにも何か隠されている予感がします。

築地については汚染を隠して「問題がない」と言い、豊洲には汚染をでっち上げてまで「危険だ」と言い張るその理由は何なのかが知りたい。


都知事選の時にパチンコ企業(=カジノ企業)から支援され豊洲をカジノとして差し出す約束をしたという怪情報は、本当だったのではないかと考えざるを得ない。

そしてマスコミにとってパチンコ業界(=カジノ業界)は、重要なスポンサーでお客様なのです。
http://www.thutmosev.com/archives/71208337.html
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/541.html#c15

[お知らせ・管理20] これが阿修羅に巣食う電通工作員 中川隆
93. 中川隆[-7616] koaQ7Jey 2017年6月05日 06:23:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

利便性の陰で広がる監視網
国民の弾圧狙う共謀罪
               個人情報すべて米諜報機関へ    2017年5月31日付

 共謀罪法案の国会審議が参院入りするなか、同法案が国民生活にどのような影響を及ぼすのか注目を集めている。すでに日本国内では盗聴法や秘密保護法に加え、国民に12ケタの番号をつけて管理するマイナンバー法も始動した。「テロ対策」「防犯」のかけ声で生活空間の隅隅に多様な監視ツールが入り込んでいる。急速に利用者が増えたスマホやパソコンは個人情報の塊であり、メンバーズカードやポイントカードなどもその一つだ。「利便性」の陰に隠れてどのような監視ツールが陣地を広げ、そこで収集・蓄積した個人情報をだれがどのように使おうとしているのか? 監視体制強化とセットですすむ共謀罪法案の動向は決して他人事ではなくなっている。

 米国指揮下の戦時体制づくり

 どの都市でも子どもたちの通学路付近の街頭や電柱に監視カメラが目を光らせている。遠方の勤務先へ通うサラリーマンが車で高速道路に乗れば入場ゲートに監視カメラがあり、走行途中にはいくつもNシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)やオービス(自動速度違反取締り装置)に遭遇する。駐車場へ車を入れるときも、徒歩でコンビニに立ち寄っても監視カメラがある。郵便局や銀行のATM(現金自動預け払い機)、JRの自動券売機、官公庁や小中学校入り口、商店街や繁華街…あらゆる場所に監視カメラが溢れる。タクシーやバス、電車内まで監視カメラやドライブレコーダーが設置され、今年春には羽田空港などの保安検査で服内を透視するボディスキャナも導入している。

 こうした監視カメラは主としてオービス、Nシステム、防犯カメラの3つに分類される。オービスは全国に約600カ所あり、スピード超過車両があれば即座にナンバープレートと運転手の顔を撮影し、30日以内に警察が出頭通知を送付する。これと別に移動式オービスが約120台ある。物陰に隠れてスピード違反を摘発する「ネズミ獲り」が移動式オービスだ。

 Nシステムは警察に登録された犯罪容疑車両のナンバープレートと走行車両のナンバープレートを瞬時に照合し、一致すれば捕捉に動くシステムだ。スピード違反をとりしまる機能はないが、ターゲット車両を追跡する役割がある。これは全国に約一五〇〇カ所設置している。

 もっとも多いのは「防犯カメラ」だ。警察が設置する「防犯カメラ」(捜査用監視カメラ)は全国各地に330万台、JR駅等に5万6000台設置しているという。それ以外に全国に5万店あるというコンビニをはじめ、各地の自治体や自治会、企業などが設置した監視カメラが山ほどある。暴力団対策が動く北九州市内では市が設置した監視カメラが約200台あり、市が補助して自治会や町内会が設置したカメラが約150台あり、テロ対策で港湾設備に設置したソーラス条約対応の監視カメラ(場所も台数も非公表)がある。いずれも一定期間で映像を消去・更新していく方式だが、警察の依頼があれば即座に情報を提供する。無数にある監視カメラの全画像はみな警察が使うしくみになっている。

 この「防犯カメラ」の精度は年年高くなっている。街頭の会話を録音したり、急に動いたものを自動的に察知し警察署に送信するカメラもある。近年重視しているのは警察が保有する膨大な被疑者写真と、運転免許証写真のデータを監視カメラとつなぎ、新たな情報を得る体制だ。

 2011年3月以後、東京都内20カ所に設置した民間の防犯カメラと警視庁の写真データベースを結ぶ顔認証・照合システム(3次元画像識別システム)の試験運用を開始し、2014年には雑踏や群衆にビデオカメラを向けると瞬時に特定の人物を見つけ出すことができる「顔認証装置」を全国五都県(警視庁、茨城、群馬、岐阜、福岡)の警察に導入した。それは「10人以上の顔を同時に検知」「サングラスやマスク姿、正面でない場合も探知」「被写体の動きを追跡」「10万件のデータベースを一秒以内に照合できる」という。

 顔認証は映像から人の顔の部分を抽出し、目、耳、鼻などの位置やパーツを瞬時に数値化し自動的に照合するシステムだ。この技術は複雑なパスワードを打ち込んで入室しなければならない重要施設の入退去を容易にしたり、鍵を忘れやすい高齢者や幼児向けのオートロックキーに利用され、使い方によっては便利な機能となる。だが現在進行しているのは利便性を隠れ蓑にした住民監視の強化である。町中に溢れる監視カメラは、夜も昼もレーダーや赤外線で鮮明な画像を収集し、地域住民の動向を無条件で捜査機関へ提供するデジタル式多機能スパイ機器に変貌している。

 そして日本の警察が力を入れているのはDNA(デオキシリボ核酸)データの蓄積だ。DNA型鑑定は遺伝情報の継承と発現を担う高分子生体物質であるDNAを比較して個人を識別する。日本人でもっとも出現頻度が高いDNA型のくみあわせでも約4兆7000億人に1人の確率で識別できる。DNA型鑑定を実施した鑑定資料は増加し、2012年段階で警察庁は約30万人分を持っている。地域でなにか事件が起きれば現場近くの住人、家族、親戚、友人など少しでも関係がありそうな人のDNAデータをかき集める動きも露骨になっている。

 メールのやりとりまで 「監視の黄金時代」

 だが監視網構築の本命は目に見える監視ではなく、国民に気付かれないように監視するシステムの構築である。それはパソコンやスマートフォンに情報を送る軍事偵察衛星や基地局で情報を収集する体制だ。パソコンやスマートフォンをはじめとするコンピュータの普及が進むなか、この大本を米軍や米諜報機関が直接押さえ、日本国内の全情報を操作するしくみが強化されている。

 スマホをインターネットにつなげばすぐに個人情報が外部へ流出する。閲覧したウェブサイト、クリックした広告、入力した言語データはみな閲覧履歴として、グーグルなど大手通信会社のデータベースへ流れていく。無料のセキュリティソフトをインストールすれば、すぐ米マイクロソフトなどコンピュータ大手にも情報は流れる。家族や友人、知り合いと電子メールや、携帯メールでやりとりした内容、フェイスブックやツイッターなどSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)やメッセージアプリを使った通信はすべて通信データとして残り、アメリカに本社を置く通信大手やNSA(アメリカ国家安全保障局)に流れていくしくみだ。

 ただ町を出歩くだけでも、スマホを持っていれば携帯電話会社が常に最寄りの基地局を規準にして現在地を特定している。携帯電話を使えば、電話をかけたり受けたりした相手の電話番号、やりとりの内容、通話時間が履歴に残る。GPS(全地球測位システム)機能がついていれば基地局より詳細な位置情報が筒抜けになる。精度は基地局が600bで、GPSは半径5〜8bだ。米軍は軍事偵察衛星を使って北朝鮮のミサイル発射動向を克明に捕捉するが、日本国内でも個個人が持つスマホの発信情報で誰がどのような動きをしているかをリアルタイムで捕捉している。

 GPSは地図アプリのグーグル・マップ、タクシー配車サービスのウーバー、レストランなどのレビューサイトであるイェルプ、ゲームアプリのポケモンGOなど世代をこえて使われている。サン・マイクロシステムズ(現在オラクルに吸収)のスコット・マクネリーCEOは1999年段階で「どっちみちプライバシーはゼロだ。それを前提に行動するしかない」と豪語している。

 コンビニや店で物を買えば、その記録も自動的に残っていく。「200円買えば一ポイントつき、買い物に1円として使える」というポイントカードを提示して購入すれば、カードのデータにいつどこで何を購入したかが、日時場所とともに購買記録として残る。携帯電話で決済すればその記録も筒抜けだ。近年はそうした購買記録や顧客情報を匿名で販売する会社も増えている。

 車の運転も監視カメラの監視に加え、内蔵コンピュータにも運転記録という形で監視される。最近の自動車はみなコンピュータ制御で、どれだけスピードを出したか、どれだけペダルを踏んだか、どんなハンドル操作をしたかが、みな「ブラックボックス」に記録され事故解明の判断材料に使われる。フォード・モーターの幹部は「私たちは誰が法を犯したかを知っている。いつ違反したかもわかっている。私たちは皆さんの車にGPSを搭載しているので、皆さんの行動を把握している」と発言している。

 さらに新しい家電市場としてあらゆるものとネットをつなぐインターネット・オブ・シングス(IOT)という新技術も陣地を広げている。サムスンのIOT冷蔵庫はカメラを内蔵しドア表面は大型タッチスクリーンが付属し、ドアを閉めたままスマホで中身を確認しインターネットで食材の注文ができる。ネスレ日本のIOTコーヒーメーカーはスマホで好みのコーヒーの味を覚え込ませたり、遠隔操作で子どもや高齢者の見守りに使える「友だちリスト」の機能が付いている。auのIOT傘立てはスマホと連動し外出前に光で天気を知らせる。サンスターのIOT歯ブラシはスマホと連動し正しい磨き方をしているか確認できる機能がある。買うたびにスタンプがたまり、15スタンプで1本無料となるスマホ自販機もすでに実用化されている。

 こうしてあらゆるものにコンピュータが埋め込まれる動きに拍車がかかっている。現在地球上にあるインターネットと接続した機器は約100億台と推計されるが、IOT機器が増えれば、あらゆる物がインターネットと連動した監視ツールの目や耳となることを意味する。

 世界的な暗号研究者ブルース・シュナイアー氏(ハーバード大学法科大学院フェロー)は「NSAとイギリスの政府通信本部(GCHQ)も位置情報を監視の手段として用いている。NSAは携帯電話が接続する基地局、ログインするWi―Fiネットワーク、GPSデータを用いるアプリなど、さまざまな経路から携帯電話の位置情報を取得する。NSA内の二つのデーターベース“HAPPYFOO”と“FASCIA”には、世界中の端末の位置情報がごっそり記録されている。NSAはこれらのデータベースを使って対象者の居場所を追跡したり、誰と接点があるかを調べたり、ドローンで攻撃する場所を決めている。NSAは携帯電話の電源が切られていても居場所を特定できるといわれる。以上にあげたのは、あなたが持ち歩く携帯電話から取得される位置情報に関連した監視活動だけだ。これは今実行されている監視活動のごく一部にすぎない。あなたが日日使うコンピュータは、プライベートな個人データをひっきりなしに生成し続けている。例えばあなたが何を読み、何を観て、何を聴くかもそうだし、誰と話すかもそうだ。ネット検索で何を調べるかに反映される範囲では、あなたの頭の中も明らかになる。要するに私たちは監視の黄金時代に生きている」と指摘している。

 マイナンバーで紐付け 盗聴法改悪も

 こうした動きのなかで安倍政府は2015年10月、赤ちゃんを含む全国民と在日外国人に一生変わらない番号をつけて管理するマイナンバー(社会保障・税番号)制度を始動させた。すべての人に12ケタの個人番号、会社にも13ケタの法人番号をつけ、顔認証機能もついたマイナンバーカードを持たせる計画だったが、いまだに普及率は8・4%にとどまっている。

 「ワンカード化」に応じたら職歴、家族構成、所得、不動産などの資産情報、今までに受けた医療情報、失業保険、公営住宅を借りた記録、児童扶養手当など各種手当、生命保険、個人の銀行預貯金、住宅ローン、犯罪歴など国民一人一人の情報は丸裸になる。ポイントカードや図書館カードとも連動すれば「どこで何を買ったか」「どこへ旅行へ行ったか」「どんな本を読んだか」などの履歴が一目でわかるからだ。

 もともと国が想定しているのは、住所が変わり名前が変わっても同一番号で個人を特定し監視し続ける体制で、「公平公正な社会の実現」「国民の利便性の向上」「行政の効率化」の宣伝文句は方便でしかなかった。

 そのためマイナンバー法は、住基ネットで実現できなかった警察や公安機関のデータ利用を認め、「利用範囲」で「刑事事件の捜査」と「その他政令で定める公益上の必要があるとき」と明記した。「政令」では、独占禁止法の犯則調査、少年法の調査、破壊活動防止法の処分請求、国際捜索共助法の共助や協力、組織犯罪処罰法による共助、団体規制法に基づく調査などを列記している。最初から警察や国家権力が国民監視の強化を意図していたことは明白である。

 さらに安倍政府は昨年5月、複数ある刑事訴訟法改定案の一つに盗聴法改悪を潜りこませ、ほとんど国民的な論議がないまま成立させた。以前の盗聴法は強い批判世論を背景にして対象犯罪を典型的な組織犯罪である@薬物犯罪、A銃器犯罪、B集団密航、C組織的殺人の四類型限定だった。これも共謀罪審議と同様「一般人は関係ない」と主張し、盗聴方法も「第三者の立会人がいないと傍受できない」と規定していた。ところがほとぼりが冷めると改定を強行し、盗聴対象を窃盗、強盗、詐欺、恐喝、逮捕・監禁、略取・誘拐など組織犯罪と違う一般犯罪に広げた。全国警察が立会人なしでいつでも盗聴できるようにもした。携帯電話のGPS機能を使った警察の捜査も、当初は電話会社が利用者に事前に通知するとしていたが、2015年5月に改定し、いつのまにか利用者本人が知らないまま警察が位置情報を得ることを野放しにしている。

 米軍基地が監視拠点に 日本の法整備に圧力

 こうした住民監視体制の強化は戦時体制づくりと無関係ではない。戦前の日本では治安維持法に「共謀罪」に相当する「協議罪」があり、罪のない人が多数逮捕・投獄されたが、今は戦前の比ではない多様な監視ツールがとり囲んでいる。さらに今回の「共謀罪」はかつての治安維持法と異なり、アメリカの指図で具体化していること、国家権力や大企業に関連した犯罪を対象外にしていることが特徴である。

 「共謀罪」新設に先駆け、2013年に強行成立させた秘密保護法もアメリカが下案をつくったものである。アメリカ政府による情報収集活動にかかわった元CIA局員のスノーデン氏やジャーナリストは、米軍横田基地内にあるNSAの総合評議室には約100人の法律家が配置され、このグループが秘密保護法制定を妨げている国内法の縛りをどうやって解くか、機密情報をどうやって公衆の面前から隠すかなどを具体化していたことを暴露している。そこでは、アメリカが日本に「これが目指すべきことだ」「必ずすべきだ」と法案の内容まで提案していた。

 横田基地内の国防総省日本特別代表部(DSRJ)は日本のNSA本部にあたり、膨大な個人情報が集中する。「NSAが日本政府のVIP回線や経済産業大臣、財務省や日銀、三菱、三井系の企業を盗聴していた」とウィキリークスが2015年に暴露したが、盗聴で得た通信内容はすべてアメリカのスパイ機関へ流れていき、そこを日本の官僚や政治家が秘密裏に訪れて指図され、さまざまな法整備が進行していく対米従属構造が現在も続いている。

 スノーデンは日本でアメリカのスパイ機関のために信号諜報(シギント)、情報工作、インターネット監視などに携わる人員が総勢約1000人規模で配置され、主要拠点は横田基地、米空軍三沢基地、米海軍横須賀基地、米海兵隊キャンプ・ハンセン、米空軍嘉手納基地、アメリカ大使館の6カ所であることも明らかにしている。またNSAが外国との関係を3グループにわけ、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの英語圏を「ファイブ・アイズ」と呼んで情報共有対象にする一方、日本は大規模な諜報活動で利用しつくす格下扱いの限定的協力国であることも明らかになっている。

 アメリカは情報戦で常に日本より優位に立っており、そのもとで「テロの危険が迫っている」「日本が狙われている」などの情報で扇動しつつ、「法整備が進めばさらなる情報共有ができる」と圧力をかけ、日本国内で戦時立法や弾圧立法を整備させるのが常套手段である。

 日本国内では、すでに自衛隊や米軍による土地強制接収などを認めた有事法や国家権力の軍事機密情報などを守る秘密保護法が動き出している。「米軍再編」で米軍司令部を自衛隊の司令部と一体化させ「集団的自衛権」を認める安保関連法も整備している。いずれも「対テロ」「国防」を掲げて実行された法律だが、現実は日本がアメリカの指揮棒で戦争にかり出される危険、テロの報復を受ける危険が迫っている。

 ここまでくればなぜ秘密保護法をつくり、マイナンバー法をつくってきたのかは一目瞭然である。秘密保護法は軍事機密や国家権力の秘密を守る制度であり、マイナンバーは国民一人一人のビッグデータを権力側が素早く収集するためである。

 共謀罪法案はその延長線上にあり、国民の反抗を警戒し弾圧する意図を持っていることは歴然としている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/ribenseinokagedehirogarukansimou.html

阿修羅のコメントもすべてCIAに監視されているから気を付けてね

阿修羅管理人が魑魅魍魎氏に逆らえないのは、魑魅魍魎氏がCIA関係者だからだよ。
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c93

[地域13] 札幌はいつまでヒグマを放置し続けるのか? チベットよわー
60. 中川隆[-7615] koaQ7Jey 2017年6月05日 06:30:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

ヒグマよりツキノワグマの方が狂暴だった 2

クマ被害ことしも相次ぐ 県内、人間を恐れない世代も


 山菜採りシーズン本番を迎え、県内では今年もツキノワグマの被害が相次いでいる。人身被害は既に6件(5月27日現在)発生し、多発した昨年や一昨年と同様のペース。出没件数も高水準で推移しており、引き続き注意が必要だ。近年は「新世代グマ」と呼ばれる人を恐れないクマや、クマよけの鈴が効かないクマも出現しており、専門家は「従来のクマ対策の過信は禁物」と、入山自体を控えるよう警鐘を鳴らしている。


 一関市真柴の川原登さん(70)は4月28日、住宅密集地の自宅から約500メートルの山林に山菜採りに出掛け、クマの巣穴を発見。のぞくとクマが顔を出し、10秒間ほど対峙(たいじ)した。その後右膝や左ふくらはぎに爪を立てられたり、長靴の上からかまれたりしたが、必死で抵抗するとクマは巣穴脇の沢に逃げた。

 本年度の県内のクマ被害は、19人が重軽傷を負った昨年度と同様のペース。餌となるブナの実が2013、15年と豊作で栄養状態が良く、出産が増えて個体数が増えたとする声もある。

 また、近年は狩猟者が減少しわなによる捕獲が主流となったため、銃を持った人に追われたことがない新世代グマが出現している。

 岩手大の青井俊樹名誉教授は、人を襲ったクマは「人間は弱い」と認識し、クマよけ鈴が効かない恐れがあると指摘。「人身被害があった地域には絶対に入らないで」と警告する。


【写真=「ここから山に入った」。住宅地密集地から約500メートル南東の山林でクマに襲われた川原登さん=3日、一関市真柴】

http://www.asyura2.com/09/ishihara13/msg/658.html#c60

[リバイバル3] トムラウシ山遭難事故 中川隆
7. 中川隆[-7614] koaQ7Jey 2017年6月05日 06:50:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

トムラウシ山遭難事故を起こしたアミューズトラベル株式会社
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%AB


本社所在地
東京都千代田区神田駿河台2丁目8

設立1991年10月30日

事業内容 旅行業

資本金 5,000万円

従業員数 50名

旅行業登録番号(観光庁長官登録旅行業第1366号)

アミューズトラベル株式会社は、日本の元旅行会社である。本社は東京都千代田区にある。

1991年10月30日に福岡市博多区で設立され、主として登山やトレッキングを行うための旅行を企画していた第1種旅行業者であった。

大阪・名古屋・福岡・仙台・広島に支社や支店や営業所を構えていた。

登山に関する会や冒険のクラブを作るというやりかたで顧客を増やしたが、平成21年7月に同社が主催したトムラウシ山でのツアーでトムラウシ山遭難事故が起き、その後は売上げが縮小し、またその後、2012年11月に起こした遭難事故(後述)により同年12月、旅行業の取り消し処分を受けた。

トムラウシ山遭難事故

2009年7月、同社が主催した大雪山系を縦走する企画旅行において、トムラウシ山で悪天候により遭難し、ツアー参加者7人とガイド1人が低体温症により死亡する事故が発生した。

その後、トムラウシ山遭難事故を引き起こしたことに対する行政指導で51日間の営業停止処分になっていた期間中に、新規顧客10人と新たに契約してツアーに参加させていたとして厳重注意を受けた。

万里の長城遭難事故

2012年11月3日、同社が主催した万里の長城付近の山を巡るツアーにおいて、大雪のため5人が遭難し日本人客3人が低体温症で死亡(凍死)する事故が発生した。

会社として現地の確認をしておらず、現地のガイドにまかせっぱなしにしてろくに確認もしていなかった、と釈明したという。

また、このツアーは

入社1年目の新入社員に企画から任せていたこと、

現地の提携会社に一任し会社自身で現地の下見を行わなかったこと、

山間部に入るにもかかわらず添乗員に衛星電話を持たせず普通の携帯電話だけ持たせ、その電話での毎日の連絡を怠り、電話をかけたときにはその携帯電話はすでに圏外になっておりツアーグループ全体と連絡のとれない状態になっていたこと、

同社ではこのように社員に現地下見をさせずに催行しているツアーが全体の1割から2割に達すること

などが明らかとなった。


同年12月4日、同社は観光庁に対して、12月20日付で事業を廃止し旅行代理店業務から撤退する意向だといった内容の電子メールを送ったが、そうした同社側の動きに対して、観光庁のほうは同社の登録取消の手続に入り、18日に聴聞を行った上で(同社が廃業しようとしていた20日以前の)19日付で旅行業登録を取り消す処分を下した。

旅行業登録の取り消し処分を受けたことで、同社及び社長と役員は、5年間旅行業の再登録が出来なくなった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%AB
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/717.html#c7

[リバイバル3] 個性が「弱い」人とじゃないと結婚する意味がない

個性が「弱い」人とじゃないと結婚する意味がない
http://blogos.com/article/226941/

すっごい魅力的なタイトルが現れたので、がまんできずに書いちゃう。

いい結婚相手=アクが弱い人=自分をゆずってくれる人

「今の時代に女が結婚する意味って?」

「いい結婚相手と結婚できれば意味があるし、そうでなければ結婚しない方がいいこともある」と、私は思う。

この場合の「いい結婚相手」って?

女として死んでる私が、皆さまがそうならないよう、失敗経験から考えたことを書くよっ

「いい結婚相手」とは、容姿・学歴・経済力なんてどうでもいい。
ただ、「アクが弱い人」、それだけ。

いいかえると、「ひねくれてない人」「こじらせてない人」「素直な人」「個性が弱い人」。

理由は、自己愛が強くないから。

自己愛が強すぎる人は、

自己愛>パートナーへの愛

になってしまい、自分をゆずれないから。

長所と短所は表裏一体の「個性」

長所と短所は凸凹である、と考える人は多いかもしれない。
でも、長所と短所は、実は同じ凸なのでは?

たとえば、恋愛のはじめは「押しが強くてステキ」と思ってた面が、おわりには「うざい」に変わることってある。

それって、相手の「押しが強い」長所が「うざい」短所に変化したのではなく、「押しが強い」という個性(凸)に対する自分の見方が変わっただけだと思う。

つまり、個性(凸)はそのままなのに、見る人によって、長所にも短所にもなる、ということ。

イガイガこんぺいとう理論

凸は、みんなに同じだけあるんじゃなく、多い人と少ない人がいると思う。
そんで、ひとりの人の中でも、長い凸と短い凸がある。

個性(凸)は、人をひきつける魅力でもあるけど、アクでもある。

イガイガが多いコンペイトウはのどで引っかかる。
凸が多い(=個性が強い)人は人ざわりが悪く、凸が少ない人はまろやかなのでは、というのが私の仮説。

個性が弱い人の方が、自分をゆずってくれる

私は若いころ、頭がよくて(=学歴じゃない)才能を感じさせる人が好きだった。

ふつうの人と話すと、物足りなさを感じてた。

でも、ある時期を過ぎると、その才能(凸)が、カレーを何日も食べ続けたかのように、重く感じられてくる。
はじめは「話が面白い」と思ってたのに、おわりには「自分の話ばかりしてうざい」と思ってしまう。

対して、結婚相手についてのろける女性っているけど、その場合、相手は個性が弱い(=凸が少ない)ことが多いと気づいた。

たとえば、「私の作ったものは、どんなテキトーなものでも、おいしいって食べてくれる」旦那さんがいる。
これって、(奥さんが料理上手ってのもあるけど)旦那さんに食のこだわりが少ないんだと思う。

食にこだわりがある人は、たとえ奥さんが料理上手でも、テキトーなものを素直においしいって言ってくれることは少ない。
常に、「オレの基準」があって、愛しい相手が作った料理でも、その基準はゆるがない。

「オレの基準」への自己愛>パートナーへの愛

になってしまう。

個性が強い人は、自己愛やこだわりが強すぎて、自分をゆずれない。

結婚生活は共同作業で、お互いゆずりあうことが前提だから、そういう相手だとつらい。

だから私は、若いうちに、凸が少ない相手を物足りないとか思わないで、金のわらじ(古い)をはく気持ちで探しておけばよかったって後悔してる。

自己愛やこだわりが、攻撃に変わることがある

3年前くらいに、当時の職場の知り合い(Aさん)から告白されて、一瞬つきあった。

Aさんは30代後半だったが、つきあう人は私で2人目と言ってた。

それは、Aさんが110キロ超(って言ってた)で、ハゲてて、そのクールのアニメ全部を録画する人だったのも関係するかもしれない。

私は男性の容姿やオタク度(や学歴や年収)はどうでもいいので、Aさんが告白してくれたからOKした。

つきあって最初のデートで、出かけた先でごはんを食べていたとき、観光地の話になった。
何も考えずに、「そこ、大学生のときに彼氏と行ったことがあるけど、いいところだったよ〜」と言った。
(これは何度も思い返したのだが、それ以上よけいなことは言ってない)

そしたら、Aさんは黙りこんでしまった。

理由がわからなかったが、「何か気にさわることを言ってしまったならごめんなさい」と謝った。
それでもAさんは黙り続けて、帰りの電車の中でもそのままだったので、私はすっかり困ってしまった。

帰ってからメールがきた。

Aさんは、大学生のときに彼女がいなくて、とてもつらかったらしい。
だから二度と、昔つきあってた幸せを感じさせる話はしないでほしい、とのことだった。

私が好きだから嫉妬した、なら可愛いが、そうではなかった。
文面からは、Aさんを無視してきた女性全般への恨みが感じられた。

確かに、「大学生のときに彼氏と行った」という情報は必要なかった。
ふつうの話し方をしたつもりだが、Aさんの気にさわってしまったのかもしれない。
それに、そこまで思いつめてしまっているのも気の毒だ。

だけど、今この瞬間は(いちおう)私という彼女がいる。
望めば、今からいくらでも幸せになれるのに。

でもたぶん、大学生のときに若い彼女とつきあったんでなければ、今さらBBAの私とつきあって幸せになっても意味ないんだろうなとも思った。

Aさんの中では、女性全体への恨み(という自己愛)>>私への気持ち ということに気づいてしまった。

その後はギクシャクして、つきあいは終わってしまった。
(Aさんを傷つけたことは謝罪したけど、私はすぐ怒る男性はこわいので、その後は積極的になれなかった)

結婚する意味=私を大切にしてくれる人に出会えるか

最初に戻る。

「今の時代に女が結婚する意味って?」
「いい結婚相手と結婚できれば意味があるし、そうでなければ結婚しない方がいいこともある」

「いい結婚相手」というのは、つまり、「(私を)大切にしてくれる人」だと思う。

「大切にしてくれる人」=「お互いにゆずりあえる人」だと思う。

結婚は共同作業なので、常に自分がゆずるばかりではつらい。
できたら、お互いにゆずりあえる人でないとつらい。

そのためには、自己愛やこだわりは少ない方がうまくいきやすいのではと思う。
(自己愛が強くなければ、個性が強い人と結婚しても別に問題ない)

自分を大切にしてくれる相手に出会えないなら、結婚しない方がいいこともある。
たとえば、自己愛から常にモラハラしてくる夫なら、そんなんいない方がましである。

結婚する意味があるかないかって、結局、私を大切にしてくれる人に出会えるか出会えないか、ただそれだけだと思う。

……こう書くと、「お前はアクが強いけど、えらそうに人のこと言えるのか?」ってつっこまれるだろうな〜。
当然、上に書いたこと全て、自分にブーメランとして返ってくるから、結婚しない(できない)ことにしたんだよ〜。

あと、「自分が大切にされることばかり考えるな! 自分が相手を大切にしろ!」ってつっこみも来るだろうけど、やっぱ自分から働きかけるばっかじゃつらいんだよ〜(経験より)。

皆さまは、私を反面教師として、出会いの多い若いうちに、大切にしてくれる人を探してくらはい。

追記:
「お互いにゆずりあうことを大切だと思うなら、Aさんを見切るのは早かったのでは?」(まあ私が見切られたんだけど)というのは、全くその通りだと思う。
私のように「傷つきたくない」という自己愛が強い人は、もっと相手のことを思って努力しましょう、という、まさに反面教師ですにゃ〜。
http://blogos.com/article/226941/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/719.html

[近代史02] 中国人も日本人が大好き 中川隆
15. 中川隆[-7613] koaQ7Jey 2017年6月05日 10:04:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

中国の国防動員法


 我が国には、現在、中国移民が約七十万人暮らしており、しかも増え続けています。


『中国の国防動員法 「戦争法」は有事にヒト・モノ・カネすべて強制接収
http://www.sankei.com/premium/news/170527/prm1705270018-n1.html

(前略)世界に目を向ければホンモノの「戦争法」はなにも珍しくない。中国が2010年7月に施行している「国防動員法」は戦争に備え、国家の強権を保障する法律の典型だ。有事には民間のヒト・モノ・カネすべて“強制接収”できる民主国家ではあり得ない独善的な規定だが、日本ではさほど知られていない。

 例えば第31条。「召集された予備役人員が所属する単位(役所や企業など)は兵役機関の予備役人員の召集業務の遂行に協力しなければならない」とある。

 中国国籍の男性18〜60歳と女性18〜55歳はすべて国防義務の対象者。徴用される人員の場合、戦地に送られるよりも、兵站などの後方支援や情報収集任務が与えられる可能性が高い。

 日本企業が雇用している中国人の従業員が予備役に徴用された場合でも、企業は給与支給を続ける義務が生じるが、社内の機密がすべて当局に筒抜けとなっても阻止する手段はない。しかも、海外在住者を除外する規定は見当たらない。(後略)』


 国防動員法という、異常な法律を持つ共産党独裁国家から、喜んで移民の受け入れを続けている。イスラム過激思想に染まったホーム・グロウン・テロリストは「グループ」単位ですが、こちらは国家単位なのです。 


 中国国内で、習近平が「有事である」と判断すれば、途端に70万人!の在日中国人が、共産党の「戦時統制」の下に置かれる。


 その場合、我が国は「安全な国家」を永久に失うか、あるいは強権を発動し、「国民(及び移民)の自由」を制限していかざるを得ないでしょう。


 安倍政権が移民制限(最低でも中国からの移民制限)に舵を切らなければ、我々が将来「安全」か「自由」、もしくは双方を失う可能性は極めて高いと言わざるを得ません。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12280935889.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/291.html#c15

[政治・選挙・NHK226] ネトウヨに報酬が支払われなくなったようだ。安倍のラジオ出演のニュースから、一斉にネトウヨたちが姿を消す…これは、凄いこと 赤かぶ
38. 中川隆[-7613] koaQ7Jey 2017年6月06日 03:31:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
食べて行けなくなったから、これからは日本共産党の工作員になる事にした
http://www.asyura2.com/17/senkyo226/msg/775.html#c38
[近代史02] 株で損した理由教えてあげる 中川隆
480. 中川隆[-7613] koaQ7Jey 2017年6月06日 10:39:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年、ドル安が続く理由をアメリカの実体経済に沿って説明する2017年6月5日
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/6353

トランプ相場によるアメリカの長期金利高が収まり、金利高を頼りに進んでいたドル高も勢いが弱まっている。アメリカの政界の混乱がトランプ政権の経済政策を遅延させるとの見方が強まっており、投資家はドル買いを進めることを躊躇している。

ドル安の直接的な原因は、勿論長期金利である。アメリカ大統領選挙でトランプ氏が勝利した月に、ここでは長期金利の適正値を2.7%程度だと見積もった。


•トランプ相場: アメリカの長期金利は高いのか低いのか?(2016/11/26)
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/4848


トランプ氏勝利後の長期金利の適正値は2.7%程度ということになるだろう。

その後、投資家がトランプ政権の経済政策への期待を膨らませると、長期金利は急騰し、適正値である2.7%付近まで上昇したが、その後トランプ政権の政策実行能力が疑われるにつれてその勢いを弱めている。


http://www.globalmacroresearch.org/jp/wp-content/uploads/2017/06/2017-6-5-us-10-year-treasury-note-yield-chart.png


トランプ政権内の混乱については既に報じてあるので、過去の記事に任せるとする。しかし、この騒動がどうなるにしても、経済政策の実現まで多少の時間が掛かるということは、投資家が予想しておくべき事実だろう。


•ロシア大使との会話を巡ってフリン大統領補佐官が辞任に追い込まれる

•娘のイヴァンカ氏、トランプ大統領にシリア攻撃を指示、反対した「極右」バノン氏は左遷へ

•トランプ政権: ロシア疑惑対策で「極右」バノン氏復活か

トランプ政権初年度のアメリカ経済

さて、ではその間アメリカ経済がどうなるかである。

トランプ政権の経済政策のほとんどは、まだ議会を通ってもいない。しかしトランプ相場は昨年11月から始まっており、金融市場では金利が上がり、ドルが上がった。

その影響は既にアメリカの実体経済に暗い影を落とし始めており、そのことはこれまでも伝えてきた通りである。今回の記事ではその最新の情報を伝えたいと思う。

•トランプ政権で個人消費減速も企業活動は活発化、2017年第1四半期米国GDP
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/6130


先ず、長期金利が上がれば個人消費は鈍化する。長期金利は住宅ローンや自動車ローンの金利に影響し、金利が上がればアメリカ人はローンによって消費を増やすことが難しくなるからである。

GDP速報でも伝えていた個人消費の減速傾向は、最新の4月の統計でも続いていることが確認出来る。


http://www.globalmacroresearch.org/jp/wp-content/uploads/2017/06/2017-apr-us-personal-consumption-expenditures-chart.png


この傾向は長期金利が高止まりする限り続くだろう。そうなれば投資家はアメリカの経済成長率の鈍化を懸念し、金利は下がることになる。金利高自体が金利安の原因になり、結果としてドル安を招くということである。


•金利高 -> 個人消費鈍化 -> 金利安 -> ドル安

結論

つまり、トランプ政権の経済政策が実行されるまでは、ドル高はバネのように行っても戻ってくるものでしかないということである。

トランプ政権の経済政策が今後どのようになるかということに関しては、仮にトランプ政権が政界の混乱を素早く収めたとしても、先ず実行される経済政策は恐らく法人減税で、経済成長率を押し上げるインフラ投資は後回しになると想定している。

トランプ大統領はアメリカ共和党の大統領だが、共和党の理念はいわゆる「小さな政府」であり、減税と公共事業の縮小によって政府の干渉を最小限に抑えることである。よってトランプ大統領が共和党と先ず同意できるのは法人減税であり、むしろ民主党的なインフラ投資は、共和党の支配する議会の説得がより難航するものと思われる。

因みに法人減税に関しては米国株高には役に立つが、長期金利とドルの上昇にはあまり貢献しないだろう。法人減税は企業の純利益を増加させるが、利益が増加したからと言って、企業が投資を行うわけではない。そもそもリーマンショック以降の米国株高の大きな一因は米国企業の自社株買いなのであり、余剰資金を使って自社株買いを行うということ自体が、米国企業にとって他に投資先がないということを示している。

よって、金利高とドル高に貢献するトランプ政権のインフラ投資は、そもそも遅れている経済政策全体の中でも更に遅れると想定される政策であり、比較的早く実現する法人減税もドル高への貢献は限られる以上、2017年内のドル高シナリオは難しいものと想定している。

トランプ相場における長期金利の動向を当て続けている著名債券投資家のガントラック氏も似た意見を表明している。彼は予想の理由を詳しく説明してはいないが、わたしがここで説明したようなことが理由だろうと思う。

•ガントラック氏: 長期金利は2%以下まで下落する
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/6125


また、インフラ投資が行われた場合に長期金利が何処まで上がるかということは、昨年11月の時点で概算を済ませているので、そちらを参考にしてもらいたい。ドルの動向はアメリカの金利次第なのである。


•トランプ相場: アメリカの長期金利は高いのか低いのか?
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/4848


http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/6353
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/428.html#c480

[近代史02] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 中川隆
395. 中川隆[-7612] koaQ7Jey 2017年6月06日 11:11:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

バフェット指標


2017.06.06
日本株は日経平均2万円、東証1部時価総額600兆円乗せとなって来ました。

名目GDP546兆円を大きく抜いています。

日銀の異次元緩和による1300兆円のマネーストックM3と大きくかい離していましたが、2015年までの並走状態が戻りそうです。目先も重要ですが、大きな相場サイクルからから見ると、不安多数で安場面があれば歓迎です。また、昨日の日経平均はわずかなマイナスでしたが、JQやマザーズは強い動きを継続しています。やはり流れは変わっていません。
http://kasset.blog.fc2.com/

2016年 12月 22日 4度目のバフェット指数1倍超え


株価は楽観的な見通しを織り込んだことで、すでにバブルの領域との見方も出ている。

著名投資家のウォーレン・バフェット氏は

その国の株式市場の時価総額が名目GDPを超えると危険サイン

ととらえ、持ち高調整を検討することで知られている。

名目GDPに対する株式市場の時価総額の倍率をバフェット指数と呼ぶが、

日本の2015年度名目GDP532兆円に対し、22日時点で東証上場の株式時価総額は580兆円強。バフェット指数は約1.1倍になっている。


日本で同指数が1倍を超えたのは、1980年代後半のバブル期、2007年リーマンショック前の米住宅バブル、2015年8月前後のアベノミクス期待のピークに続き、トランプラリーの今回は4度目になる。

変動の大きい期間利益をもとに算出されるPERと異なり、同指数は比較的ブレが少なく行き過ぎた株高を警告するサインとみられているが、今のところ市場で懸念する見方は少ない。


バブルは予測不能な面もあり、市場のコンセンサス通りなら短期の調整を交えて、少なくとも米新大統領就任後の蜜月期間が終わる来年5月頃まで株高が続くことになる。

「レーガノミクスのように大きなレジームチェンジが起きると景気拡大は長くなる」(みずほ証券投資情報部長の倉持靖彦氏)との指摘もある。
http://jp.reuters.com/article/vix-stock-idJPKBN14B0IY?sp=true

バフェット指標は、投資の神様とも言われる、ウォーレン・バフェット氏が愛用しているとされる、ある国のGDPと上場株式の時価総額の総和を比べる指標をいいます。

これは、ある国の株式時価総額増加率と名目GDP成長率は長期的には収斂するとの主張に基づくもので、ある国の株式相場に急落の可能性は高まっていないか、あるいは逆に売り込まれすぎていないかを見る場合に使われます。

元々は、米国市場の動向を見るのに使われていましたが、今日では、証券市場が発達し、外国為替取引の規制がない他の先進国でも有効とされています。

また、GDPの比較対象となる株式時価総額については、

米国市場においては、Wilshire 5000が、

また日本市場においては、東証1部が使われることが多いです。

その他にも、統計上の問題があり信頼性は落ちますが、世界のGDP総額と世界の株式時価総額を比べることで、世界の株式市場の過熱感を見る場合にも使われることがあります。

これまで、バフェット指標は、米国のITバブル(1998-2000)やサブプライムバブル(2006-2007)で過熱気味(暴落シグナル)を示していたほか、日本の不動産バブル(1998-1989)でも過熱気味を示していました。

なお、本指標の使い方で難しいところは、割高とは言えても、いつ暴落するかが分らないことで、時として数年以上も割高であり続けることもあるのでご注意ください(指標の一つとして、他の指標と併せて使うのが良い)。
http://www.ifinance.ne.jp/glossary/index/ind193.html

バフェット指標で見る東証の7-10年おきのバブル崩壊
https://www.ewarrant.co.jp/images/posts/kiwameru/20160704-1.png

バフェット指標2017「チャートで確認する最新状況」 2017-04-03
https://ameblo.jp/snowballb/entry-12262199529.html

ウォーレン・バフェットはその国のGDPと上場株式の時価総額を比べて、株価が割高か割安かを判断しています。

「上場株式の時価総額÷GDP」で求められる指標は「バフェット指標」と呼ばれています。

一般的には100%を上回ると割高で、100%を下回ると割安だと呼ばれています。

2017年4月現在、S&P500は2,300ドルを超えていて、リーマンショック(2008年)から大きな調整がないままに推移してきました。


S&P500 2007年〜2017年(直近10年)
https://ameblo.jp/snowballb/entry-12262199529.html


バフェットが上場株式の時価総額とGDPを比べて判断する理由は、経済成長と企業の成長はリンクしていると捉えているためです。

経済というファンダメンタルズがまったく上向いていないのに、株価だけがどんどん上昇していく状態だと「バブル」だとわかります。

反対に経済が成長しているのに、株価の上場率が低い場合は「割安」となります。

米国のバフェット指標(チャート)

最新のバフェット指標をチャートで確認すると、次のように推移しています。


米国 株式時価総額とGDPの推移
https://ameblo.jp/snowballb/entry-12262199529.html


緑のラインがGDPで、青のラインが Wilshire Total Market(米国の普通株式をカバーしている代表的な指数)です。

リーマンショックの時は青のラインが緑のラインよりもかなり低くなっていました。

この時は明らかに割安なので、全力投球をした人は大きな利益を今頃、手にしているはずです。

バフェット指標 株式時価総額÷GDP(米国)(2017年4月最新チャート)
https://ameblo.jp/snowballb/entry-12262199529.html


現在、バフェット指標は130%に達しています。

2000年前後のITバブルの時は150%近くまで上昇していました。

現時点では明確に「バブル」とは言えませんが、「割高であること」は間違いありません。

バフェットは今後、米国のGDPが上昇することを確信している

現在の状況をウォーレン・バフェットはどう思っているのでしょうか?

2017年2月25日に公開したバークシャーの株主宛ての書簡では次のように述べています。

「240年前から米国は人々の創意工夫、市場制度、才能豊かで野心的な移民と法の支配が豊かさをもたらしてきた」

「過去何度も言ってきたが、この先もこう言うだろう。今日米国で生まれた子供は、歴史上でもっとも幸運だ」

また、2017年2月28日のロイターの記事の中で次のように述べています。

「米国株はバブルの領域でない」

「明日20%値下がりする可能性もある」

少なくともウォーレン・バフェットは長期的には米国のGDP上昇を確信しているのでしょう。

今の米国の株価は「将来のGDPの成長」を織り込んでいるのだと思います。

日本のバフェット指標

ついでに日本のバフェット指標も確認しておきます。


バフェット指標 株式時価総額÷GDP(日本)(2017年4月最新チャート)
https://ameblo.jp/snowballb/entry-12262199529.html


2017年4月現在で139%に達しています。

バフェット指標で確認すると、意外にも米国市場よりも日本市場の方が過熱気味です。

日本市場で特筆すべきことは1990年前後にバフェット指標が300%を超えていたことです。

これはもうビックリするレベルのバブルでした。

こういう過去の事例を確認すると、「米国株はバブルの領域でない」というバフェットの言葉は妙に説得力を持ちます。

長期投資家にとっては、目先の暴落は気にする必要はありません。

インデックス投資家は時間分散でリスクをヘッジするしかありません。

問題はこれから個別銘柄に対して新規に資金を投入しようと考えている人です。

個別銘柄での勝負では銘柄選択がとても重要になってきている局面だということは頭に入れておきましょう。
https://ameblo.jp/snowballb/entry-12262199529.html

2017/02/08「転換点は近い?折見式バフェット指標とは」
折見世記 三菱UFJモルガン・スタンレー証券

1990年代、ロンドンで6年間のセールス・ディーラーを経て、現在は地方金融機関中心に市況見通しや投資戦略をコンサルティングしている折見世記氏。株式が専門の同氏は、相場の転換点をどのような視点で分析しているのか。(聞き手:ZUU online編集部 菅野陽平)※インタビューは2017年1月11日に行われました。

相場の転換点を測る折見式「バフェット指標」

——2016年はボラティリティが高く、テールリスクと呼ばれることが頻発した年でした。今後、個人投資家はどのように立ち向かっていけばよいでしょうか。

リーマン・ショック後、米国株式を中心に株式資産は約8年に渡ってブル相場が続いていますが、上昇し続ける相場はありません。では、いつ崩れるか。ひとつ参考にしたいのは、時価総額を名目GDPで割った数値、いわゆる「バフェット指標」です。株価の適正水準をはかる際、長い目で見たら一国の株価は経済力に見合った水準に近づくと考えられるため、値が1を超えると過熱感があるといわれています。

私は少しアレンジを加えておりまして、分母に名目GDPではなく「名目GNI(国民総所得)」を持ってきて分析しています。昔はGNP(国民総生産)と呼ばれていたんですが、現在、内閣府はGNPを発表しておらず、概念も金額も同じであるGNIに統一しています。

これ(折見式バフェット指標)で日本株と米国株を分析すると、興味深いことにボトムが50%、だいたい上限が100%なんですよ(編集部注:時価総額を名目GNIで割り100を掛けてパーセント表記にしている)。そして今、日本は100%のところにいます。

——どれくらい前から取ったデータなのですか。

1980年代の半ばくらいからのデータですね。100%前後のピークをつけてから約3年くらいもみ合い、その後、50%前後まで落ち込む鋭角的な下落となる傾向があります。

アメリカの場合、分母はGNIではなくGNPですが、リーマン・ショック後の底値は、アメリカも日本もだいたい50%です。あくまで過去のデータによると、という前置きが必要ですが、50%になったときは、もう「買い」なんですよ。誰がなんと言っても「買い」です。だいたい3年後にイグジットするイメージで、買って買って買いまくる。

でもたぶん普通の人は買えないんです。怖くて(笑)。バブルが崩壊したあと、下がって下がって、もうどうしようもなくなって、みんなが「もう駄目だ」と思っているときに50%つけますので。ちなみに、このときに買って大儲けしたのがウォーレン・バフェットその人です。ゴールドマン・サックスへの出資をはじめ、世界同時金融危機の最中、果敢に買い向かいましたよね。

過去の事例に共通するのは「金融当局の引き締め」

——過去どのような例があったのですか。

1980年代半ばから少なくとも3回、歴史は繰り返されています。ひとつはご説明した通り2008年前後の信用バブル崩壊による世界同時金融危機(サブプライム・ショック)、次に2000年前後のITバブル、最後に1990年前後の平成不動産バブルです。

これらの3つにはある共通点があります。それはバブルのピークアウトの原因(遠因)は、財務省や中央銀行など「金融当局の引き締めが絡んでいる」ということです。

平成不動産バブルの場合は、当時の大蔵省がバブルつぶしに動いて、「総量規制」という金融引締めを行いました。これは金融機関に対して不動産融資の伸び率を「総貸出の伸び率以下に抑制しなさい」という行政指導です。当然、不動産融資は減る。不動産市場にお金が入らなくなりますから、不動産価格の高騰抑制には効果があったんですけど、1980年代後半は山手線内の地価で米国全土が買えるといった試算まで出る状況までバブルが膨張していたため、急激な信用収縮が起こりました。結果として、ご存知の通りまずは株式市場が、少しタイムラグを置いて不動産が暴落しました。

——日経平均は1989年につけた最高値3万8915円を未だに超えることができませんね。ITバブルの高値は2万833円です。

ITバブルに関しては「西暦2000年問題」が関係しています。西暦2000年問題によってコンピュータの誤作動が起こり、金融システム不安が起こるのではないかという懸念から、世界中の中央銀行が1999年の秋頃から年末にかけて流動性を一気に供給したんですね。過剰流動性相場がほんの短期間に起きて、行き場を失ったお金が一気に株式に流入したのです。

当時ハイテクと名のつく銘柄は強烈に上昇しました。そのときの最高値を更新できない銘柄もたくさんあります。ところが2000年の2月くらいになると、コンピュータの誤作動もあまり起こらず、金融システム不安も起きなかったということで、今度は世界中の中央銀行が一斉にマネーを引いたんです。これによって何が起きたかというと、やはりバブルの崩壊ですね。

——そして記憶に新しい世界同時金融危機ですね。

世界同時金融危機の発生原因は非常に複雑ですので簡潔に申し上げます。当時、サブプライムローン問題が燻っているなかで、保険の市場、いわゆるCDS取引が金融機関を中心に活況だったわけです。しかし当時、保険マーケットは決済機関がなく相対取引でした。

相対取引ということは、ある金融機関が万歳してしまうと、その先にどこが繋がっているか見えない。カウンターパーティー(取引相手)リスクが高まって、不安が連鎖してしまったわけです。言い換えると、保険取引を決済する機関がないのにも関わらず、リーマン・ブラザーズを潰したことによってカウンターパーティーリスクが広がってしまったわけです。

「中央銀行が資金供給の量を減らす」サインに注目

——非常に興味深いお話です。個人投資家としてはどう気をつければいいでしょうか。

結論から言うと、「中央銀行から資金供給の量を減らす」サインがでてきたら注意が必要です。もっと具体的に言えば、「FOMC議事録でFRBのバランスシートを縮小する議論」がでてきたら、さっき言った50%への大津波が来る可能性があるので、そのときはもう儲かっていようが損していようが、いったん株式を現金化した方がいいと考えています。

段階的な利上げよりも、流動性を絞るタイミングに相当影響があると思っています。FRBのバランスシートは、債券やMBSを大量に抱え膨張しています。現在は、満期がくると再投資するのでマネタリーベースは減らないのですが、これをいつ減額していくか。FOMCの3週間後にFOMC議事録が発表されるので、再投資に関する議論には注意を払いたいですね。議事録だけでは会議の全容は分からないのですが、ある程度はつかめます。

再投資を減らす議論が全くないうちは、徹底した「押し目買い&戻り売り」のスタンスを取りたいところです。ある程度、株を持ってないと寂しいというのであれば、短期売買を推奨する気は毛頭ないんですけど、長く持ち続けないのが鉄則ですね。安全性、流動性というのを念頭に置きながら投資をすることが重要です。

先ほど申し上げたように、基本的には50%のときに一気に買い、上昇局面では押し目買いして、100%ゾーンに達するまで持ち続ければいいんですよね。100%に到達したら、利益確定できるものは一旦売って、100%ゾーンのボックス相場で、押し目買いと戻り売りを行う。流動性収縮のシグナルを確認したら、儲かっていようが損していようがキャッシュに戻す。この動きを徹底したいですね。

——現在の状況も過去3回と似ているように感じます。各国がマネーを大量に供給して、ボックス入って数年経つ。もうそろそろ、なのでしょうか。

最近、市場関係者と話していて感じることなのですが、リーマン・ショック以降に入社した人たちが結構増えています。リアルで急落局面を体験していないので、その意味では、リスク管理にはやや不安が残ります。政策当局の人は、リーマン・ショック前から第一線でやってる人ばかりですから、その点は大丈夫だと思いますが、記憶は時間とともに薄れてしまうものです。

今年か来年か分かりませんが、少しずつ転換点に近づいていることは事実だと思います。ただボラティリティは収益の母でもありますので、過去の事例から危機対応の方法を学びたいですね。
https://zuuonline.com/archives/138930

【2017年6月更新】ウォーレン・バフェット指標。
米国株と日本株(東証1部)の時価総額を名目GDPと比較してみる
http://www.life-free.net/entry/2015/04/15/184506


今日は株式市場の割高割安を示す指標のひとつであるウォーレン・バフェット指標について書きたいと思います。

ウォーレン・バフェット指標とは、バフェット氏が愛用しているとされる指標で、「その国のGDPと上場株式の時価総額の総和を比べるもの」です。

下記リンクを参照して、グラフをいただきました。

バフェットはバブルを予測していた! 
http://moneyzine.jp/article/detail/211081

それでは、実際にグラフを見てみましょう。

過去の米国株と日本株のバフェット指標の推移

まずは、2013年までの米国のバフェット指標を見てみます。

図1 米国のバフェット指標(GDPと時価総額総和の推移)
http://www.life-free.net/entry/2015/04/15/184506

GDPがきれいな右肩上がりですね。株式時価総額もGDPに沿うように上下をしながら右肩上がりになっています。

目につくのは、1998年のITバブル。株式時価総額がGDPを大きく上回っています。ほかは、2007年のリーマンショック前でしょうか。そして、2013年。株式時価総額がGDPを大きく超えています。

次に、2013年までの日本株のバフェット指標を見てみましょう。

図2 日本のバフェット指標(GDPと時価総額総和の推移)
http://www.life-free.net/entry/2015/04/15/184506

1998年からGDPが減少しており、失われた20年を物語っています。

まず目につくのは、株式時価総額がGDPをぶち抜いている1988年ですね。これは私が生まれた直後、日本がバブルのときです。それ以外は、2006年〜2007年のリーマンショック前もわずかながら株式時価総額がGDPを上回っていることがわかります。

現在の米国株と日本株をバフェット指標で確認する

それでは、2014年1月〜2016年9月の期間で、米国株と日本株をバフェット指標で確認してみましょう(2016年のGDPはIMFの推定値を使用しています)。

まずは米国株からです。

http://www.life-free.net/entry/2015/04/15/184506

米国株時価総額:Wilshire 5000 Price Full Cap Index
https://ycharts.com/indicators/wilshire_5000_price_full_cap_index

名目GDP:アメリカのGDPの推移 - 世界経済のネタ帳
http://ecodb.net/country/US/imf_gdp.html

次に日本株です。


http://www.life-free.net/entry/2015/04/15/184506

東証1部時価総額:その他統計資料 | 日本取引所グループ
http://www.jpx.co.jp/markets/statistics-equities/misc/02.html

名目GDP:日本のGDPの推移 - 世界経済のネタ帳
http://ecodb.net/country/JP/imf_gdp.html

過去を見る限りでは、GDPよりも株式時価総額が上回ったときは、赤信号です。

注:以下は、2015年4月に書いたものです。

バフェット指標の意味について考察

ここで、バフェット指標について考えてみます。

株式時価総額と名目GDPを比べて、割高割安を判断する意味についてです。

企業の価値を、「その企業が存続する期間に生み出すキャッシュ・フローの総額を現在価値に割り引いたもの」として考えた場合、PER(時価総額を利益で割ったもの)で割高、割安は判断可能なんですよね。

ですから、日本株のForward PER(時価総額を予想利益で割ったもの)を見れば、株式市場の過熱感はわかります。

なぜわざわざ株式時価総額とGDPを比較するのでしょうか?

おそらく、結局のところその国全体の企業の利益はその国のGDPと強い相関を持つということでしょう。金は天下の回りものであり、名目GDPはお金の回り具合を表します。お金が回らないと経済は活性化しませんし、経済が活性化しないということは、企業が利益を生み出せないことを意味します。

私の100万円の支出は、だれかの100万円の収入なのです。

現在を見るに、名目GDPよりも遥かに高い増加率で、株式時価総額がどんどん増えています。ついには、割高域にすでに達しました。

そして重要なことですが、この指標は過去を見る限り正常に機能しているということです。

現状の認識と投資の選択肢

まず、現状の認識についてですが、株価は割高と判断します。それをふまえて、以下のような選択肢が考えられます。

リスクを限定してバブルに乗る

バブルは最後が一番おいしいと言われています。ですから、あえてそのバブルに乗る方法があります。もちろんリスクは限定しなければなりません。簡単な方法は、コールオプションを買うことでしょう。他に、単純にロスカットラインを決めて投資する選択肢もあると思います。

現金保有率を多くする(株式と相関値が低い資産を保有する)

現金や他の資産を保有して株価を見守るという選択肢です。

このままどんどん株価が上がれば、パフォーマンスは劣後して、惨めな気持ちになるでしょう。しかし、投資家としては受け入れるべき感情だと思います。投資から一歩身を引くという意味でも、これは精神的にラクな選択肢だと思います。

売りポジションを追加する

株価下落を見越して、利益を積極的に取りにいく選択肢です。ただし、売りはバブルで焼き尽くされる可能性はあります。特に、追加の金融緩和が発表されたら、株価はさらに上がるでしょう。ご利用は計画的に。

最後に

当たり前のことを言いますが、私はこれ以上株価が上がらないと言っているわけではありません。ただ、現在の株価は割安割高のどちらかと聞かれると、割高だと答えます。
http://www.life-free.net/entry/2015/04/15/184506



http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/430.html#c395

[近代史02] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 中川隆
396. 中川隆[-7611] koaQ7Jey 2017年6月06日 11:14:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


バフェット指標で見る日経平均株価の上限

東証1部時価総額:その他統計資料 | 日本取引所グループ
http://www.jpx.co.jp/markets/statistics-equities/misc/02.html

国内株式指標 :株式時価総額:日経電子版
http://www.nikkei.com/markets/kabu/japanidx/

日本 : 東証1部時価総額と日本の名目 GDP の推移 (1984-2016)
https://www.ewarrant.co.jp/images/posts/kiwameru/20160704-1.png

国内総生産(GDP) 経済指標ダッシュボード:日本経済新聞
https://vdata.nikkei.com/economicdashboard/macro/

名目GDP:日本のGDPの推移 - 世界経済のネタ帳
http://ecodb.net/country/JP/imf_gdp.html

国民経済計算(GDP統計) - 内閣府
http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/menu.html


___


米国株時価総額:Wilshire 5000 Price Full Cap Index
https://ycharts.com/indicators/wilshire_5000_price_full_cap_index

米国 :名目GDP
http://ecodb.net/country/US/imf_gdp.html

米国 : Wilshire 5000 total market index と米国の名目 GDP の推移 (1984-2016)
https://www.ewarrant.co.jp/images/posts/kiwameru/20160704-2.png
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/430.html#c396

[近代史02] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 中川隆
397. 中川隆[-7610] koaQ7Jey 2017年6月06日 14:28:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

危うい楽観。ITバブル以来の割高水準を示す「バフェット指標」=栫井駿介 2017年6月6日
http://www.mag2.com/p/money/238442

流れに乗れず悔しい思いをしても、今はじっと身を潜める時期

市場は楽観ムードだが…

日経平均株価は1年半ぶりに20,000円を突破し、米株式市場も史上最高値の更新を続けました。市場は楽観に包まれています。

このような状況の下、私は居心地の悪さを感じます。単に割安な銘柄を見つけられないからではありません。株価は上昇すればするほど、下落のリスクは大きくなります。

市場の指標面で見ると、日経平均の PER14倍、ダウ平均の18倍はそこまで割高ではないようにも見えますが、これは好調な業績が続いた場合の話です。景気が悪化すれば、純粋に業績が悪化するほか、日経平均は円高により見かけ上の利益も悪化します。額面通りに受け取るべきではありません。

市場の適正な水準を見極めるのにバフェットが使う指標が、市場全体の時価総額とその国のGDPの比較です。明確なロジックがあるわけではありませんが、時価総額がGDPを超えると割高感があると見られます。

米国はITバブル以来の高水準

現在、米国のGDP19兆ドルに対し、上場企業の時価総額は25兆ドルと、上記の目安を超過しています。同様に、日本のGDP530兆円に対し600兆円と、こちらも超過しています。時価総額/GDPで見れば、米国はITバブル以来の高水準です。


http://www.mag2.com/p/money/238442


株式市場は向こう見ずなので、短期的にはさらに上昇する可能性は否定しません。しかし、過去のバブルがそうであったように、下落はある日突然訪れます。勢いに乗ることばかりを考えていては、最終的に大きな痛手を被ることになるでしょう。

近い将来、現在の状況が「トランプ・バブル」とでも呼ばれるかもしれません。今この流れに乗れず悔しい思いをしたとしても、後々きっと良かったと思える局面が来るでしょう。バリュー投資家は、今はじっと身を潜めている時期です。
http://www.mag2.com/p/money/238442
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/430.html#c397

[昼休み52] 意図的な世論誘導報道で悪魔呼ばわりされているシリア アサド大統領 富山誠
26. 中川隆[-7609] koaQ7Jey 2017年6月06日 16:02:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017.06.05
50年前からイスラエルはゴラン高原を不法占領、その時にイスラエル軍は米海軍の艦船を攻撃


シリアのバシャール・アル・アサド政権を倒すという外国勢力の思惑は失敗に終わりそうだが、この国を侵略しようという目論見は何十年も前から続いている。ここで終わるということもないだろう。

トルコからシリアへ伸びていた侵略勢力の兵站ライン、ヨルダンの拠点化、イラクからの侵入、地中海からの攻撃、そしてゴラン高原でも戦闘は行われてきた。ゴラン高原ではシリア軍との戦闘で負傷した傭兵たちをイスラエル軍が救出、治療してきたことも知られている。

ゴラン高原はシリア領なのだが、西側3分の2はイスラエルが占領している。1967年6月5日から10日にかけて行われた第3次中東戦争から50年間、こうした状態が続いている。この侵略を「国際世論」、つまり西側の有力メディアは黙認してきた。

戦争の最中、6月8日にアメリカ海軍の情報収集船リバティーがイスラエル軍の攻撃され、乗組員のうち34名が死亡、171名が負傷している。リバティーはアメリカの船であることを示す旗を掲げ、攻撃の前にイスラエル軍は少なくとも8回にわたって偵察飛行を実施していることからアメリカの船であることを知った上で攻撃したことは間違いないだろう。

攻撃した目的は明確でないが、イスラエルのモシェ・ダヤン国防相はアメリカ政府の意向を無視してゴラン高原の占領を決めていることから、そうした動きを察知されたくなかったという見方は否定できない。戦争を始める数日前、イスラエルの外相はワシントンで攻撃計画を説明しているが、あくまでもエジプトが相手だとしていた。

逆に、アメリカ軍はイスラエルのために情報収集する目的でリバティーを派遣したと推測する人もいる。ところが、その時に約1000名のパレスチナ人とエジプト兵をイスラエル軍は処刑しているので、戦争犯罪に問われることを嫌った可能性はある。

実は、6月6日に統合参謀本部からジョン・シドニー・マケイン提督(ジョン・マケイン上院議員の父親)へリバティーをガザの海岸線から100マイル(約160キロメートル)以上離れるように緊急の指示が届いているのだが、これをマケインは艦船へ伝えなかった。

6月7日になるとアメリカの情報機関はイスラエルが8日にリバティーを攻撃するつもりだと言うことを知る。その攻撃はモシェ・ダヤン国防相が独断で決めたとされている。この人物はゴラン高原の占領も決めていた。

イスラエル軍はまず船の通信設備を破壊、さらにジャミングで交信を妨害している。戦闘機による攻撃ではロケット弾やナパーム弾が使われたが、ナパーム弾を使ったことから皆殺しにするつもりだったと見られている。

それでもリバティーの通信兵は何とか攻撃されていることを第6艦隊へ伝えることに成功した。攻撃開始から15分足らずの時点で空母サラトガはすぐ離陸できる状態のA1スカイホーク4機を艦長は離陸させている。

ところが、もう1隻の空母アメリカは戦闘機を発信させず、国防長官だったロバート・マクナマラは第6艦隊のローレンス・ガイズ少将に対し、ジョンソン大統領は一握りの水兵のためにアメリカの同盟国と戦争したり困らせたりしたくないと語ったことが明らかになった。

第6艦隊の第60任務部隊が空母サラトガと空母アメリカに対して8機をリバティ救援のために派遣、攻撃者を破壊するか追い払うように命令したのは攻撃開始から1時間11分後。それから二十数分後にイスラエルは最後の攻撃をしている。

この出来事の際の交信をNSAは傍受、記録していたはずだが、明らかにされることはなかった。交信を記録したテープは大量に廃棄したとされているが、複数の大統領へのブリーフィングを担当した経験を持つCIAの元分析官、レイ・マクガバンもこうした隠蔽工作があったとしている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201706040000/
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/816.html#c26

[近代史02] サルはなぜサルか 2 _ タイ人が微笑む理由 中川隆
11. 中川隆[-7608] koaQ7Jey 2017年6月06日 17:29:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年06月06日
タイは軍事政権で失われた10年になるか

2015年までのタイの人口増加率、すぐに減少し始めるのが分かる
引用:https://global-watch.asia/wp-content/uploads/2016/02/43a1aadd81fa08e3e21509d6ff49172f.png

アジアが人口減少期に突入

今後20年でアジアのほとんどの国は人口マイナス期に入り、経済も縮小し始めると考えられている。

人口最大だった中国に替わって現在はインドが世界一になり、どちらも13億人台と推定されている。

中国のほうが早く増え始めたので早く減少し始め、労働人口はすでに減少が始まっています。


日本の出生率は1.4から上昇しないが、中国は例によって信頼できる統計がなく、政府は出生率1.6を主張している。

だが民間研究者は1.1を主張し、「中国は人口を1億人水増ししている」と言っています。

人口が違うとその分GDPも減るので、中国政府はGDPを多く見せかけるために、出生率や人口も操作している疑いがある。


中国には日本の国勢調査に相当するものがなく、出生率も人口も、各省や市が報告したものを足し算している。

省や市は人口が減った(=GDPも減った)と報告すれば降格や左遷させられるので、人口を水増ししていると考えられる。

中国以外の東アジアも惨憺たるもので、出生率は韓国1.25人、台湾1.0、香港1.09、マカオ0.92、シンガポール1.24だった。(2014年頃)


かつてアジアのドラゴンと呼ばれた成長国は揃って人口減少し、従って経済もゼロ成長時代に突入します。

東南アジア諸国は子供を生みまくっている印象があるが、それは何十年も前の話で、タイ1.5、マレーシア1.9、ベトナム1.9など2.0を割り込んでいる。

人口世界一になったインドは2.4だが、インド政府は急激に増えた人口を押さえ込まざるを得ない。


タイ民主政権を支持する赤シャツは多数だが地位が低い
軍上層部や経済界、政府官僚は中国系が独占している
458737982-タイ兵-タイ軍-挑発-催涙ガス
引用:http://footage.framepool.com/shotimg/qf/458737982-%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%85%B5-%E3%82%BF%E3%82%A4%E8%BB%8D-%E6%8C%91%E7%99%BA-%E5%82%AC%E6%B6%99%E3%82%AC%E3%82%B9.jpg

タイは軍事政権で失われた10年に

タイの出生率1.5人は日本の1.4と変わらないほど低いので、数年後には人口減少が始まると予想されています。

タイは暴動やテロ、クーデターの末、2014年に軍事政権が発足したが、あまりうまく行っていない。

タイの軍事政権をおさらいすると、2013年ごろ「赤シャツ隊」「黄シャツ隊」「政府」の衝突があり国内は大混乱した。


赤シャツは民主選挙で選ばれた政権を支持し、黄シャツは民主選挙の廃止と軍事政権樹立を支持していた。

この赤シャツはタイ土着民族や少数民族で、数としては圧倒的に多いので、民主選挙をやると毎回必ず勝ちます。

黄シャツは華僑つまり中国系タイ人で、数は少ないがタイが貧困国家だった頃から全ての経済と公職を独占してきました。


タイ王家は土着民族だが、それ以外の政府や経済界、軍の上層部はすべて華僑が独占している。

つまり2014年の軍事クーデターは中国系タイ人による権力奪還だったわけで、民主選挙をやれば土着民族(元もとのタイ民族)が勝つのでやりたくない。

軍事政権は経済成長したいが民主主義を拒否する姿勢をとっていて、これが国内や経済に大きなゆがみを作っている。


タイのGDPの6割は輸出で、アメリカのオバマ政権からは「非民主的だ」として経済制裁するべきだといわれていた。

制裁発動は日本が説得して止めたようだが、軍事政権は「アメリカの代わりは中国だ。もうアメリカは要らない」と言って中国に接近した。

タイは中国が創設したAIIBに入り、新シルクロード構想にも参加し、南シナ海占拠も容認している。


タイの成長率は3%台を維持しているが、デフレ、少子高齢化、消費不況などが予想されていて、タイ版失われた10年が始まるのではないかと言われている。

日本経済の8割以上は内需だが、タイは逆に3分の2が輸出や観光産業なので、構造的に弱いといわれている。
http://www.thutmosev.com/archives/71237747.html.

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/398.html#c11

[リバイバル3] 2006年10月 白馬岳4人死亡 山岳ガイドに有罪判決 

2006年10月 白馬岳4人死亡 山岳ガイドに有罪判決 


山岳ガイドに有罪判決 白馬岳4人死亡「軽率な判断」
2015年4月20日 信濃毎日新聞
http://jack0904.blog.fc2.com/img/0420-IP150420MAC000001000.jpg/

山岳ガイド、二審も有罪=白馬岳遭難4人死亡―東京高裁
時事通信 2015年10月30日
http://www5d.biglobe.ne.jp/~mt_singo/hike/hakubasn.htm

北アルプスの遭難死、遺族が和解 ガイドが賠償6500万円支払い
2012/12/28-13:32 西日本新聞・夕刊
http://jack0904.blog.fc2.com/blog-entry-205.html

【遭難カルテ119】 白馬のガイド登山、2人死亡、2人安否不明 2006.10.08
http://yamayakenta.blog51.fc2.com/blog-entry-262.html


2006年10月7日午後5時半ごろ、北アルプス・白馬岳(2932メートル)で、登山中の福岡、熊本両県の男女計7人のパーティーが遭難し、ガイド田上和弘さん(48)=福岡県大牟田市=が約2700メートル付近の白馬山荘に「吹雪きが激しくなって、行動が取れなくなった」と、救助を求めた。

山小屋従業員3人が捜索したところ、小屋から数百メートルの稜線(りょうせん)上で女性4人が動けなくなっており、うち3人を近くの別の山小屋に収容した。

救助に向かった山小屋従業員によると、4人はツェルトをかぶってうずくまり、1人は声をかけても反応がなく、もう1人はうなっていたという。

また、近くのりょう線でも、別の女性1人が死亡しているのを同山荘関係者が発見した。
残る女性2人がビバークして救助を待っているという。

遭難したのは、助けを求めたガイドの男性と女性6人の計7人パーティーで、富山県の宇奈月温泉に宿泊後、7日朝に欅(けやき)平から白馬岳に向かった。

正午すぎから吹雪に見舞われ、白馬山荘の手前約400メートル、標高2700メートルの場所で動けなくなった。

7日は白馬山荘に泊まり、10日に下山予定だった。

ガイドのほか無事だったのは福岡県春日市の女性サブガイド(42)、同県宗像市の無職女性(67)。

熊本県大津町の無職女性(53)は救出中に死亡。

また熊本市の無職女性(61)は、稜線で死亡していた。

ビバーク中の2人は福岡市城南区の無職女性(66)とその妹の無職女性(61)で、連絡が取れず、安否は不明。現地の天候は荒れ模様で、8日も捜索活動は見送られた。

長野地方気象台によると、遭難時、白馬岳を含む周辺には大雨洪水警報が出ていた。


【考察】

ガイド男性(48)、サブガイド女性(42)、メンバーは全員無職女性で(67)(53)(61)(66)(61)。

なんだか昨今のガイド登山のあり方を表すような性別・年齢構成だと言ったら言いすぎでしょうか。

(67)が無事、(53)(61)が死亡、(66)(61)が安否不明です。

さて、今回のガイド、田上和弘氏は日本アルパインガイド協会の認定アルパインガイドで、日本山岳ガイド協会の会員で、アンナプルナ4峰(7525m)登頂者でもあります。

山岳ガイドとクライアントの関係から考えるとします。
クライアントがなぜガイドを必要とする(頼る?)かといえば、自力でその山に行けないからです。

行けるのなら、普通、わざわざお金を払ったりはしません。


代金の対価とは何か?

クライアント側の、知識や技術、経験などの足りないスキルを補うことです。
端的に言えば、安全確保とその場その場での判断が求められていると言えます。

結果論で言えば、今回はそこに何らかのミスがあったのではないでしょうか。
少なくとも「悪天候」であったことには間違いありません。
そこに判断の狂いはなかったのでしょうか。

小屋まであと400メートル。。。
好天ならあっという間の距離ですが、悪天候なら、とてつもない距離になります。

大日岳訴訟の遭難でも、国内の超一流ガイドと若く体力のある大学生のパーティーで事故が起きてしまいました。

国家賠償訴訟で、ガイドの責任が問われているわけではないんですが、争点はガイドの過失に絞られている観があります。

ですが、なんだかガイドの責任論、あまり盛り上がりません。
ガイドの責任に関するガイドラインのようなもの。
それこそガイド協会で原案をまとめ公表してもいいのでは…なんて思いますが…。

有料で山に客を連れて行くガイドの責任は、とりわけ重いものと思います。
割り勘で山に行き、メンバーの意見を集約して判断を下すリーダーとは、別の次元の話でしょう。

ガイド(有料の引率者)とリーダー(無料の同行者)では、まったく次元が違いますから。
訴訟では、ガイド側がほぼ敗訴しています。

またクライアント側にも問題が潜んでいる気がします。
ガイド登山を利用する人、リピーターが多いと聞いたことがあります。
言い換えると、安全確保と判断を他人に委ねた登山を重ねる、ということです。

これでは技術や知識、判断力は身につかないと思うのです。
これはツアー登山のリピーターにも同じことが言えます。
そういう人が増えること、なんだか危うい感じが消えません。

よく分からないのが、サブガイドの存在。
プロなのか違うのか…。

一部報道では「副ガイド」とありましたが、いずれにしても聞きなれない言葉でした。

ここまでの報道から分かるのは、4人と2人がそれぞれ別々の場所で動けなくなり、ガイドが救助要請。

サブガイドを含め、4人の方が救助され、2人は残された形になってしまいました。
ガイドが救助を求めに走るのは当然として、残された6人をなぜ2つに分けたのか、理解に苦しみます。

あるいは、6人は 1箇所にいたけれど、小屋から救助に向かった人数では4人しか運べなかったのかもしれません。

8日は悪天候で捜索が打ち切られ、9日に再開されるようです。
残された2人、無事であれば良いのですが、状況はかなり厳しいと言わざるを得ません。

個人的には、国内登山ではガイドに頼ることなく山に行きたいと思っています。

==========追記(2006.10.09)==========

9日朝、ビバークしていた2人も遺体で見つかり、結局3人救助、4人死亡、という残念な結果になりました。

女性6人全員が、以前から田上氏のガイドツアーに参加したことがあったそうです。

以下、信濃毎日新聞の記事から。

 北アルプス・白馬岳で7人パーティーが遭難した7日は、日本の東海上を発達した低気圧が進み、中国大陸から寒気が入り込む冬型の気圧配置となったため、山頂付近は吹雪となった。10月初旬の北アは、雨になるか雪になるか微妙な時期。関係者からは、天候が荒れる予報の中で登山を決行した判断を疑問視する声が上がっている。

 同日救助に向かった山小屋従業員によると、当時の現場周辺は、「あられ状の雪が横なぐりに降りつけ、視界がほとんどない状態」だった。近くの山小屋への避難にかかった時間は20―30分ほど。場所によっては10―15センチの積雪があり、「真っすぐ歩くことも難しかった」という。

 県内は、この低気圧の影響で、7日ころまでは雨が降るとの週間予報だった。長野地方気象台によると、低気圧は台風並みの勢力があり、「天気図から天候が荒れることは予見できた」と指摘する。

 同日午後9時の高層気象観測によると、日本の上空3、000メートル付近では風速25メートルの強風が吹いていた。北ア山頂付近の状況について同気象台は「7日の日中も山沿いでは風速20メートルを超える強風だったとみられ、相当強い吹雪になったと推測できる」とする。

 冬型は8日も続き、松本測候所は平年より15日早く常念岳の初冠雪を観測。南信州広域連合も同日、南ア・仙丈ケ岳で平年より13日早く、塩見岳でも17日早く観測した。

 6日にパーティーが泊まった富山県側の山小屋の従業員は、出発前、田上和弘さんに「雨ですけど大丈夫ですか」と声をかけている。その際、田上さんは2年前の同じ時期にも、雨の中、同じルートをツアーで登った経験を挙げ、「大丈夫」と答えて出掛けたという。

 登山計画書によると、パーティーは7日朝、富山県側の祖母谷(ばばだに)温泉を出発。尾根を登って稜線に至り、同日夜は白馬山荘に宿泊する予定だった。

 しかし、そのルートは「健脚コース」として知られ、10時間前後かかる。県山岳協会の柳沢昭夫会長(66)=北安曇郡池田町=は「この尾根を1日で登るのは、中高年にはきつい。雨でぬれて体力が低下したところに、稜線で強風にさらされたとしたら最悪のケース」と話している。

地元の関係者から、気象判断と行動続行の判断を疑問視する声が出ているようです。

また、パーティーが分かれたときの状況については次のとおり。

 大町署が田上さんから電話で聞いた話によると、7日は午後2時すぎから吹雪になり、着衣が凍り付いたような状態になった。福岡市の姉妹が、掛けていた眼鏡が曇って足元が見えなくなり遅れ気味に。田上さんがこの姉妹に付き、ほかの4人を先に行かせた。

 その後、ビバークするために、姉妹を横たわらせツェルト(簡易テント)をかぶせようとしたが、強風でツェルトが飛ばされた。そこで、3人のザックで姉妹の体を覆い、自らは救助要請へ。稜線に出てから約50メートル登った場所で、先行の4人グループと出会ったが、既に1人が倒れていたという。

ツエルトでビバークしていたのではなかったようです。

やれやれ…。
失ったものは、あまりにも大きかったようです。

亡くなった方のご冥福をお祈りします。

一方で、ガイドの田上氏の話も聞ければよいのですが…。

コメント

実況見分があったようです

その後のニュースがありました。
個人で背負うには重過ぎるようにも思いますね。


白馬岳で4人死亡遭難事故で大町署がガイド男性と実況見分 (信濃毎日新聞) 2007年10月4日(木)

 北アルプス白馬岳(2、932メートル)で昨年10月に九州からの7人パーティーが遭難し女性4人が死亡した事故で、大町署は2、3日、引率した福岡県大牟田市の登山ガイドの男性(49)を伴い、遭難現場を実況見分した。同署は、業務上過失致死容疑での立件も視野に調べを進めている。男性ガイドは3日、取材に対し「自分も、どうしてこうなった(遭難した)のか分からない」と述べた。

 2日、署員と男性ガイドの計7人が富山県の祖母谷(ばばだに)温泉から入山。遭難時のルートをたどり、パーティーが吹雪に遭った現場の状況などを確認、3日下山した。男性ガイドによると、「(署員に)聴かれたことを、ここがこうだったと思い出して話した」という。

 男性ガイドについて、山岳関係者などからは天候の悪化が予想される中で、登山を決行した判断を疑問視する声もある。大町署はこれまでに、生還したメンバーらから遭難時の様子など聴いており、さらに複数の関係者から話を聴き、ガイドの天候判断が妥当だったかなどを調べる。同署は「立件の判断は年明け以降になる」としている。

 男性ガイドが事故後に現場を訪れたのは初めて。3日の下山後、「(遭難のことは)毎日思い出しており、忘れられない。事故の原因は、自分でも分からない部分がたくさんある」と話した。




「疲労凍死傷」と「偶発性低体温症」

 あれからもう1年がたつのですね。

 標題を見て何やと思われた方も多いでしょうが、「疲労凍死傷」という用語は、長野県警の遭難統計資料の中で遭難の態様を表す言葉として用いられているもので、白馬で亡くなった4名の方もここに分類されています。

 一方「偶発性低体温症(Accidental Hypothermia)」や「低体温症(Hypothermia)」という用語が、医学用語として、ちょうど「熱中症(Hyperthermia)」とは逆の意味で用いられていることは、皆様ご存じと思います。

 マスコミは、山岳事故があった場合、警察の発表資料を基に記事を書きますので、世間一般には「疲労凍死」や「凍死」で知られていますが、言葉の意味する内容が曖昧でよくわかりません。

 「熱中症」や「熱射病」の方は、今年の夏が非常に暑く、亡くなる方が多かったことや、真夏に幼児が車に閉じこめられて亡くなる痛ましい事故(事件)が発生したりして、以前よりも随分と世間に認知されるようになりました。

 一方、「低体温症」の方は、一般の人にはなじみが薄く、冷え症と間違えられることも多いのではないかと思います。

 警察の方には、もうそろそろ、「疲労凍死傷」「疲労凍死」「凍死」でなくて「偶発性低体温症」「低体温症」という言葉をはっきりと用いてもらえるようにお願いしたいです。そうすれば、マスコミにも載りますし、もう少し世間に認知され、「低体温症」になる事故も防げるのではないかと思います。

 また、山岳ガイドのようなプロの方は、「低体温症」の怖さや発生条件、予防策等を当然認知されていてしかるべきです。
2007/10/06(土) 00:39:47 | URL | ちよ



Re:「疲労凍死傷」と「偶発性低体温症」

恥ずかしながら、全部「凍死」だと思っていました。
低体温症について、勉強しなければ・・・。

ただ、警察もどこまで分かっているのか。。。。
マスコミは短くてセンセーショナルな言葉に乗っかりますからね。。。。

>山岳ガイドのようなプロの方は、「低体温症」の怖さや発生条件、予防策等を当然認知されていてしかるべきです。

ですねぇ。。。
どの程度まで「プロ」の間に浸透しているのでしょうか。。。。
やっぱり疑問が残ります。

まだまだ知らないことが多いもんですねぇ。。。。
参考になりました。
2007/10/06(土) 15:17:51 | 管理人
http://yamayakenta.blog51.fc2.com/blog-entry-262.html



【日々是好日91】 ガイドの言葉

遭難カルテ119の関連です。

信濃毎日新聞より。

 「想像を絶するブリザードだった。気象判断のミスだと思っている」。北アルプス白馬岳で4人が凍死した九州の7人パーティーの1人で、登山ガイドの田上和弘さん(48)は9日、大町署で記者会見し沈痛な表情で遭難を振り返った。

 入山前日の6日夜、山小屋で見た天気予報からは「低気圧が台風並みに発達するとは判断できなかった」。ヤッケなども冬山に対応できるものではなかったという。

 7日午前5時10分、小雨の中、富山県の祖母谷(ばばだに)温泉を出発。白馬岳の白馬山荘まで約11時間とみた日程のうち、約9時間余で着いた清水(しょうず)岳まではほぼ予定通り。「余裕もあった」という。

 雨がみぞれに変わり、午後3時半ごろには猛吹雪に。7人は腕を組み横一列で歩いたが、「腕がちぎれそうだった」。

 Aさん、Bさん姉妹は眼鏡が曇り、歩みが遅れる。田上さんを含めた3人と、ほかの4人との距離が開いていった。Aさん姉妹が進めなくなった。「1人でも担いで小屋に駆け込もう」と、Aさんを抱き上げようとすると、Aさんは「妹を置いていけん」と拒んだ。

 取り出したツェルトは強風で飛ばされた。ハイマツのくぼ地に姉妹を入れ、ザックをかぶせた。救助要請のため午後4時半ごろ、その場を離れた。最後に聞いた言葉は「田上さん、ごめんね」だったという。

 田上さんは「皆さんに非常に迷惑をかけました。ご遺族の方につぐなっていなかいといけないと思っている」と話した。


ガイドの田上氏の記者会見の様子です。
生々しい状況が伝わってきて、ため息ばかりが出ました。

装備の不備、通常のパーティーであれば、メンバーの自己責任です。
が、ガイド山行であれば、ガイドの責任と考えます。

客の装備が危なっかしいものなら、止めなければならないからです。

午後3時半ごろ猛吹雪に。
その前に戻る、という判断はなされなかったようです。

根本的な部分は、ご本人が仰るとおり、「気象判断のミス」のようです。


さて、気になる記事がもう一本。
再び信濃毎日新聞より。

 ガイドの田上和弘さんは、日本アルパイン・ガイド協会(東京)の認定ガイドで、ヒマラヤの世界第2の高峰K2(8、611メートル)に挑んだこともある経験豊かな登山家。パーティーは田上さんが募集したツアーで、参加したサブガイドの女性やほかの女性5人も5年以上の登山歴があり、北アルプス縦走も経験していたという。

 田上さんは月に2、3回、福岡市内の登山用品専門店のスタッフとして常連客らに登山に関するアドバイスなどをしていた。同店によると、田上さんは、店内にツアー公告を掲示し、中級者を対象に参加者を募集。応募した6人は、これまでも何度か田上さんのツアーに参加したことがあるという。

 同店の浦一美代表(59)は「田上さんは、夏はほとんど北アルプスに行きっぱなし。経験も豊富で、無理はなかったと思う。予想外の積雪が原因としか考えられない」と話している。(後略)
(後略部分は、遭難した方のご家族のお話でした)

当ブログでは、プロガイドは実名を表記しています。
勤務先やその上司を実名表記するのはどうか、という議論もあろうかと思いますが、あえて表記します。

その理由は、田上氏が登山用品を販売する仕事をしていたことと装備の不備、無関係とはいえないと考えたのが勤務先を表記する理由。

勤務先の代表、浦氏が登山用品専門店代表というだけなら、表記はしません。
ですが、浦氏は「福岡市山岳協会会長、日本山岳ガイド協会会員、全九州アルパインガイドクラブ代表、日本山岳会会員」と、ご自分の店のHPで自己紹介なさっています。

そして、日本山岳ガイド協会役員名簿 (平成18年5月16日現在)にも、非常勤の理事として名を連ねています。

ガイド登山、というのが今回のポイントの一つ。

ガイド業界の中枢に近い人で九州のガイドの代表的存在ですので、あえて実名を表記する次第です。

また、店内にツアー広告の掲示を認めていた点からも、店が無関係だとは言えないと思います。

さて、前置きが長くなりましたが、本題へ。

後略した部分から推測すると、浦氏のコメントは全貌が判明する以前のもののようです。
ということで、詳細な情報がないままのコメントである、とします。

その後判明した内容、現地の関係者から出ている批判的コメント、そして田上氏の会見。
これが出揃った後に読み返してみると、なんだかむなしく思えてきます。

「予想外の積雪が原因としか考えられない」とは、旧知の田上氏をかばっての発言かもしれません。

まあ、後出しの結果論に勝てるものがないのは間違いありませんが。。。

ですが、ガイド界の重いポジションにいる人間としての発言ではないように思えます。
ただ田上氏をよく知っている人の発言、という風に見えてしまうのです。

おそらく取材に対してはもっと多くのことを語ったのでしょう。
そして、記事にするときに、その部分だけが書かれたのだと思います。

ですが、そうだとしても、むなしさが残るのはなんででしょうかね。。。。
ご本人もそう思っているかもしれませんが、歯がゆいかんじがしてなりません。

九州ガイド界の重鎮として、現在の浦氏の考えなど聞ければいいのですが…。

==========追記(2006.10.11)==========

朝日新聞から

 白馬村在住の日本山岳ガイド協会副会長、降籏義道さんは「清水尾根を一日で登る計画自体に無理がある。通常、下るのが精いっぱいだ。まして、7日は明らかに冬型気圧配置になるのが分かっているのに、計画を強行したことに問題がある」と指摘する。

 計画書によると、白馬岳を越え、朝日岳経由で日本海沿いの親不知に10日下山の予定で、予備日がない。福岡への帰りの飛行機便も決めていた。計画の中止や変更がしづらい理由があったのだろうか。

(前後は省略)

ガイド関係者からも、批判的な声が出ているようです。

ちなみに田上氏が所属する日本アルパイン・ガイド協は、日本山岳ガイド協の正会員団体。

日本山岳ガイド協は、降籏氏が副会長で浦氏が非常勤の理事を務めている、という関係になります。

両協会とも、故橋本龍太郎元首相が、亡くなるまで会長を務めていました。
両協会の関係、密接だったと考えるのが自然だと思います。


認定ガイドへの信頼、大きく揺らいだと思います。

ガイド登山のあり方、今回の件をきっかけに、ガイド協のほうで何らかの指針を示すべき時なのかもしれません。


コメント


ツァー登山=判断を委ねる
ツァー登山=経験を積めない
ツァー登山=ビジネス

ツァー登山の経験はありませんが気の合った友人とたまに山に入ることがあります。

先頭を歩けば周囲の景色、位置、ルート取り、と気を配ることが多いのですが、後からついていくときはどうしても「連れていってもらっている」と言う感じとなり、知らず知らずのうちに先行する人の背中を見ていることに陥り、気がつけば目的の山。

逆に単独となればリスクも多く、自己判断で対処しなければならず 下山後、反省材料にもなり色々な意味で経験を積んでいけます。

今回のメンバー、過去にどうようなトラブルに遭遇したのでしょうか?気になるところです。

危険回避の道 「引き返す勇気」と合わせて考えさせられる内容ですね。

九州からの遠征も判断を迷わした原因でしょうか。
2006/10/10(火) 22:40:58 | URL | 紫 雲


ツアー登山と単独行、確かに対極をなすものと言えそうですね。
なるほど!

>九州からの遠征も判断を迷わした原因でしょうか。

確かに北アと九州は遠い。。。

一部報道によると、予備日なしの行程で、帰りの飛行機まで予約してあったらしいです。
その辺に焦りの原因の一端があったのかもしれませんね。
2006/10/11(水) 00:43:08 | URL | 管理人


気が重い

> 入山前日の6日夜、山小屋で見た天気予報からは「低気圧が台風並みに発達するとは判断できなかった」。ヤッケなども冬山に対応できるものではなかったという。

本当に気が重いです。

まさか、山小屋でテレビの天気図を見たんじゃないか?と疑いたくなります。

当時の高層天気図を見れば、気象庁のきちんとした気象情報をラジオで聞いていれば、テレビでもラジオでも、当日の東日本の荒天の情報を知っていれば、地元の山小屋の意見を少しでも聞いていれば。。。「たられば」ではしょうがないですね。

しかも、装備自体に、風雨も、積雪も、考慮していなかったとは。あまりにも、無防備な様子に言葉がありません。

気象判断のミスというよりも、この時期の山を考慮していない無謀登山といった印象を受けます。
2006/10/11(水) 09:04:14 | URL | おーの



吹雪くのは当たり前

この時期の北ア北部は一気に冬山になります。

低気圧が太平洋側を抜けたようなとき、特に下から見上げて頂上付近が黒っぽい雲で覆われていたり、大町から先の谷が雪雲に覆われたら冬山の始まりです。

そうした山は必ず吹雪と思った方が良いでしょう。そうでなくても、急に秋山から冬山に変化します。表層雪崩がおきやすいなど、初心者でも歩ける山から冬山経験者しか入れない山に一気に変わるのですから、よほどの覚悟と装備がなければ入るのはやめた方がいいでしょう。

逆にそうした装備があれば、別になんてことのない積雪の少ない山であるのは確かです。

想像を絶するブリザードと言われていますが、それが当たり前の姿なのです。
それに立ち向かえるのは、きちんとした装備、体力、経験を兼ね備えた登山者だけだと思います。

報道されている装備を考えると、天気図の安定した9月用の計画だったように思います。もちろん、台風がうろうろしていれば、一気に雹が降るくらいは想定しておく必要はありますが。
2006/10/11(水) 10:25:52 | URL | おーの



高山の季節

と言いますか。
高山の季節は冬と夏しかないんです。^^;

下界の四季を基準に考えると危険なのは、秋という中間季節がないので、場合によっては昨日まで夏で今日から冬みたいなことが起きるんです。

だから、8月にいきなり、ブリザードが吹いたりするわけです。

これが、北海道や北アルプスの季節なんです。
北アルプス北部はそれが結構きつくて、冬が長いんです。長いと10月から7月頃まで冬ですもの。
2006/10/13(金) 13:34:08 | URL | おーの


だから

だから、一気に花が咲いて、お花畑がきれいなんです。


アバウトな季節感は

梅雨が長くて肌寒い7月は上はまだ冬。
天候が安定して暑くなったら上は夏。
台風がきたら上はブリザード。(雹か霰)涼しくなってきたらそろそろ冬。
寒くなったら絶対冬。

てな感じでしょう。(かなりアバウト)

近所に住んでいて、毎日、お山とにらめっこしていると、「ああ、上は雪だなあ」とか、「ああ、段々、夏になってきたなあ」とか、感じるわけです。それが、地元の人のお天気の感覚なんですね。

だから、小屋に聴け、というわけです。
2006/10/13(金) 15:01:39 | URL | おーの


お天気など、その場に住んでいる人のほうが遠来の客より詳しいのは明らかですね。
仰るとおりです。

「小屋に聴け」

まさにその場にいる人の言葉は、何よりも重いこと、分かります。
小屋の人の注意、聞かずに突っ走った人もいましたね。。。。
生の情報、大切にする事が大事ですね。
2006/10/13(金) 18:27:54 | URL | 管理人


そう言えば。。。いましたね^_^;

誰かさんは小屋からの忠告も聴かず、しっかりと Blog に記録されたまま、迷子になっていましたね。


朝、雨が降っていた時点で、上の小屋(白馬岳は珍しく電話完備ですから)へ電話して、その日の様子とこれからの天候の見込みなどについて意見交換するだけで、危険は少なくなったのに、と思うんですけどね。

いやあ、下の小屋の人間と話したときに、もうちょっと突っ込んでお天気の見込みについて意見交換しておけば、嵐に突っ込まなかったでしょうね。
地元の人間の忠告は聞くもんです。

まあ、そう小屋の人間は思っていても、忠告を無視して行く人はいて、運がよければ無事で、「俺は正しかった」などと思うわけです。

たまたま無事だっただけかもしれないのに。

まず、登山ガイドになりたい人は登山者だけではなく、最初に夏山の開店から閉店まで、山小屋で働くところから始めるといいと思いますね。

逆の立場から見ると、いかに無謀なことをする人たちが多いのかが良くわかるでしょうから。

それでも、ガイドをやりたければ、きちんとした技術を身につけてガイドになればいい。
と思います。
2006/10/16(月) 16:21:38 | URL | おーの



Re:そう言えば。。。いましたね^_^;

いましたいました(笑)
ま、それはさておき。

得られる情報は可能な限り入手する。
大事なことですね。

ガイド志望者の山小屋働き、なかなか面白い考えだと思います。
「今さらそんなことできるか!」なんていう人が多そうですが・・・。
2006/10/16(月) 19:16:28 | URL | 管理人



ガイドという職業

たった今、白馬の遭難を知り、びっくりしてます。
人の命をどう思っているのか、と言いたくなります。

ガイドにも殺人罪が立派に適応されるのではないかと思います。
亡くなった人の身内なら訴えたくなるのではないでしょうか。
知っている人が亡くなるというのはつらいものです。

ましてやガイドのミスリードが原因となると、「ごめんなさい」じゃすまないでしょう、と言いたいです。

ツァー登山のよしあしはともかくとして、預かった命はそのまま無事に下に下ろすのがガイドと言う職業です。

実際、数え切れないくらいのツァー登山が山をうろうろしている今、表に出ない事故はずいぶんあると聞きます。特に大手新聞社などがバックだとお互い協力して、載らないよう配慮するようです。

一人のガイドで15人、というのに9月の南の某小屋で遭遇しました。
あの人数で抜けるのにどちらに行っても二日かかるという稜線上です。
げんなりします。

といっても一人で行けない海外トレッキングなどは利用したことがある身としては、せめてなるべく少人数のを選んでくれ、と言うのみです。
2006/10/17(火) 00:14:21 | URL | JOE


Re:ガイドという職業

>殺人罪が立派に適応されるのではないかと思います。

現在の法律では、殺人罪の用件に殺意の有無がひとつのポイントとされています。
まさかこのガイド氏に「殺意」があったとは考えられません。

「殺意」がないならば、殺人罪は適用されない、ということになります。

法律的なことにはあまり詳しくないのですが、恐らく業務上過失致死罪が適用されるかどうか、と言ったところではないでしょうか。

>せめてなるべく少人数のを選んでくれ、と言うのみです。

長野県警のHPに、「安全なツアー登山のために」というページがあります。
http://www.pref.nagano.lg.jp/

また、日本旅行業協会の旅行業ツアー登山協議会がまとめたガイドラインのページもあります。
http://www.jata-net.or.jp/

ですが、その双方の基準とも満たしていないツアー・ガイド登山も、後を絶たないのが現状です。

少なくともこの2つの基準をクリアしているかどうか。

ツアー・ガイド登山を選ぶ上で、ひとつの物差しにはなると思います。
ガイドの質の問題などは残りますので、すべてをクリアしているわけではありませんが・・・・。
2006/10/17(火) 10:22:11 | URL | 管理人



ガイドの人柄

今回のガイドの人柄について知る人にあったという人のBlogに行き当たりました。

http://minminsroom.cocolog-nifty.com/webdiary/2006/10/post_d322.html

やはりというか、あまり、北アルプスの冬山には慣れていなかった様子。
2000年の講習でこの様子ですから、引率したガイドの実質的な冬山経験は数年というところでしょうか。

時間と金と少しの体力があれば、ヒマラヤでも、ヨーロッパアルプスでも海外の高山に行けてしまう時代。海外遠征の経歴だけでは信用できないというのは、最近の学習指導要領の未取得問題と根っこは一緒かもしれません。

悪い人ではないんでしょうが、いい人は必ずしも良いガイドにあらずということでしょうね。
2006/10/31(火) 15:54:18 | URL | おーの #rmbFb8ac



Re:ガイドの人柄

雪洞もまともに掘れないガイドなんて。。。
もし本当なら、かなりびっくりしますね。

ガイドって、人当たりのよさなんかよりも、技術や判断力が重要だと思うんですが。。。
まあ、ガイド登山好きな人たちは、人当たりのよい方にノコノコとついていくもんなんでしょうかね。

所詮、客商売ですからねぇ。。。
2006/10/31(火) 19:39:55 | URL | 管理人



そこが怖いんですよね

ある掲示板で、該当ガイドの方を擁護する「以前、そのガイドのツアーに参加したことがある人」の弁に、山頂で飲むビールを担いで登ってもらったとか、バテた同行者の荷物を持ってくれたなどというのがありました。

でも、それって、当たり前なんですね。

サービス業だから、参加者の飲むビールを持ってあがってくれる(ビールくらい飲みたいなら自分で持って登れ!と私は思いますが)でしょうし、登山のパーティならば、同行者がばてたらガイドじゃなくても荷物を持つでしょ!と私は思いますけど。

ガイドツアー参加者はそれがサービスだと思っているんでしょうね。

ガイドの人柄がいいのに越したことはないだけど、それよりも、登山の危険をきちんと担保できて、安全に家まで帰してくれるガイドであることが「いいガイド」の本当の条件だと思うんですけど。

人のいい、10月の北アルプスに詳しくないガイドだと困ってしまいますね。
どうりで、ガイドと思しき人が全然山域の知識に詳しくない、とんでも問答を客としているわけだ。
2006/10/31(火) 21:14:42 | URL | おーの



Re:そこが怖いんですよね

おーのさまへ。
この掲示板、見ました。

これを書いた人、他の発言でも相当とっちめられていたようで・・・。
見ていて可哀そうになるほどでした(笑)。

ガイドとリーダーをごっちゃにしていたり、まるで「オトモダチの中のいい人」というような錯覚にはまっているようですね。

何のためにお金を払っているのか、全くそこが分かっていないのだと思います。

ガイド登山、参加者の意識にも問題あり、というところでしょうかね。。。
2006/10/31(火) 21:58:52 | URL | 管理人



営業としては

何もないことを前提に考えると、人格的にも温和で、体力のある人の方で、フレンドリーなお友達感覚のガイドの方が営業としてはいいのだと思います。

ただ、経歴はベテランガイドのようになっていましたが、その実は、2000年くらいに促成栽培されたガイドもどきだったことが不幸の始まりなのかもしれません。

あの事故の天候判断は、同じような年齢の登山愛好家ならば絶対に腑に落ちない判断ですから。

やはり、登山ガイドと言う職業、かなり、胡散臭いように思います。(自然観察ガイドも参考書がおかしいですし)
2006/11/01(水) 00:48:12 | URL | おーの



Re:営業としては

各種ガイド団体の上にガイド協会があって、そこで資格認定。
各団体も、それぞれに資格認定。

資格の無法地帯という状態ですから、なんじゃこりゃな資格ではありますね。
また自称ガイドも数多いて・・・。

それでもガイドにくっついていく人もいるわけで・・・。

なんて言ったらいいんでしょうね。。。。
言葉を失います。。。。
2006/11/01(水) 16:20:12 | URL | 管理人



結局。。。

日本アルプスに遠い九州で、登山用品を売るためのサービスのひとつだったのかもしれません。

多くの中高年(自分も中年に腰まで浸かっているのでこの呼び方、気に入りませんが)の初心者、初級者たちは、今まで山に行っていない「道具を持たないが金を持っている」上等の客層なのだと思います。

しかし、山岳会に組織されていない未組織者はそれこそ、「山に行きたいが誰も連れて行ってくれない」初心者なんです。だから、店主催のハイキングツアーを企画し、それに飽き足らない客には、ガイド協会公認ガイドのガイドツアーをサービス商品として、販売促進策として活用する。

そんな構図があったのかもしれません。

しかし、悲しいかな、日本アルプスは結構ややこしい山域だったりします。

本来、40代の登山者であれば、通常20年以上、2000日以上の山行経験を持っているはずです。地元ならその何倍も山と付き合っていることでしょう。そういう経験の中から危険を予知する力をつけるはずですが、促成栽培ではそんな経験などある訳もなく、結果として、危険な領域にプロガイドが客を連れまわす結果になってしまったのかもしれません。

でなければ、10月の北アルプスに60代の女性を連れて、延々と長い登りルートを登ろうなどとは思うわけはないだろうと思います。もし、やるなら、きちんとした冬装備で計画を立てるべきだと思うからです。

しかし、気候の安定した時期ならともかく、9月終わりから10月、2月から5月、6月の日本アルプスはガイド山行には不向きな季節だと思いますけど。

登山の裾野を広げるというのは、用品を商売している立場からは至上命題です。

しかし、安易な販売促進策が結果として多くの登山者を危険な目にあわせているのなら、登山と言う文化に対して振興とは正反対の行為を行っていると言うべきでしょうね。

しかし、経歴の上げ底がされているとは思わなかった。
2006/11/01(水) 17:05:16 | URL | おーの



自然ガイド

自然ガイドも眉唾物で、試験さえ通れば誰でもできる。
というか、素人さんレベルで山歩きができれば「ガイド」の資格が取得できるんですね。


本来なら、里山、山域の自然の先生にならなければならないはずなんですが、どうやら、そういったことには全然配慮されていない。

うんちくが少しできればいいらしい。(はあ)

どうりで、トンチンカンなことを話す自然ガイドと思しき人種がいるはずだわ。

営利、利権のための資格とはいえ、なんかおかしいですね。
2006/11/01(水) 17:23:11 | URL | おーの



Re:結局。。。 & 自然ガイド

どうもこの日本山岳ガイド協会自体が、ずいぶん・・・な気がするのです。

ガイドやガイド登山のあり方に、もっとも適切な指針を示すべき存在のはずですが、現状では・・・。

首を傾げざるを得ません。

登山用品店関係のガイドにしてもなんにしても、お金が絡むとなぜかモヤモヤしたものが残ります。

認定資格の内容や意味。
このままでは危うい感じが消えませんね。
2006/11/01(水) 19:40:03 | URL | 管理人



たぶん

たぶん、彼ら、ガイドがプロになりきっていないからだと思います。

プロフェッショナリズムは、もっと、原理的で、プロとしての倫理はぶれないはずです。
しかし、現状としては、利権だの、営利だの、そういったものにぶれてしまう。

プロガイドなどと言いながら、いつまでも「ただの山好き」から脱却できないのが現状ではないかと。

ならば、真のプロではない者の団体は、「プロ」を名乗り、すべてのアマチュアに見本を見せる存在ではないのだろうと。

結局、ただの「士商法」の枠を出ておらず、個人のスキルを判定する基準にはなっていないように見えますね。


ああ。いやな世の中だこと。

私ならそんなガイドには頼りたくないです。単独行で十分です。

ただ、ストイックに自分を鍛えて、自らも遭難する危険を冒して救助に出て行く県警の常駐隊や山岳救助隊の方たちと比べると、「あまりにも」な感じはします。
2006/11/01(水) 20:15:56 | URL | おーの




誰かさんは山岳会に。。。

この件で、用品屋さんの掲示板で危ながられていた誰かさんは、福岡の社会人山岳会に入られたようです。奇しくも、この事故の副ガイドさんと同じ山岳会のようですよ。^_^;

きちんとした技術と判断を身につけられることを望みたいですね。
2006/11/07(火) 11:53:46 | URL | おーの



Re:誰かさんは山岳会に。。。

かわいそうなぐらい、いろいろと言われていましたからねぇ・・・。
ご本人も相当こたえたと思いますよ、多分。

勘違い(思い違い?)したまんまで山に入って、困ったことにならなければ、それでいいと思いますよ。
まあ、そのへんはご本人次第だと思いますが。。。

いずれにしても、学びはじめるのに、まだ遅くはないと思います。
ガイド一辺倒から抜け出られたとしたら、それはそれでいいのではないかと。2006/11/07(火) 20:31:33 | URL | 管理人

Re:引用ありがとう

ガイドの力量や気象判断の是非はおいといて。

「なぜ白馬山荘に行ったのか?」

他の方からもご指摘がありました。
本当に不可解な点ですね。

「シュラフカバーに突っ込んで・・・」

ザックが凍り付いて開けられなかったという報道がありました。
ナイフで切ればいいのに・・・。

いずれにしても???の消えない事故でした。
2006/11/08(水) 08:24:43 | URL | 管理人


やっぱ、リンクを置いておきましょう

どうしようかと迷いましたが、リンクを置いちゃいます。

ヒマラヤ遠征の記録
http://sanreiyamanokai.fc2web.com/kako/060419-0514.htm

想山会
http://souzan.fuyu.gs/index.htm


技術と体力的には問題がなかっただろうに。

と想ったら、こんな山行報告をみつけました。

http://souzan.fuyu.gs/kaihou/Web_Souzan_158-2.pdf#search='%E3%83%8B%E3%83%AC%E3%82%AB%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AF'

登った高山はヒマラヤだけ。

日本の高山は夏山、冬山ともに未経験。山岳会に入って1年足らずのサブガイドだったらしいです。

どうりで、役立たずだったわけだ。

なるべくしてなった遭難だったように思いますね。

こええ。。。!
2006/11/08(水) 15:50:41 | URL | おーの



Re:やっぱ、リンクを置いておきましょう

ヒマラヤ経験と言えばベテラン、という錯覚に陥りやすい面はあると思います。

シェルパやポーターに頼れば、ごく基本的なザイル操作とアイゼン歩行だけで登れるピークは、結構あるものです。

シェルパは、いまやかつての高所ポーターではなく、ルート工作までこなせる人が多数います。

金さえ払えば、頂上までフィックスロープの手すりが・・・なんてことも言われたりするのが現実ですからね。

本文中でも指摘したのですが、サブガイドの存在。
アヤシイとは思っていたのですが、やっぱり・・・という感じですね。

いろいろな意味で、日本の山とヒマラヤは別物と言える側面はあると思いますよ。2006/11/09(木) 15:29:24 | URL | 管理人



もはや

海外登山経験はベテラン、上級者の印とは言えないのですね。

海外登山ツアー会社のパンフレットでは、ニレカピークは初級者向けコースだそうです。
体力と高地適応さえできれば行けそうな気がします。


よっぽど、荒れた中間期の日本アルプスの方が危ないように思います。

たぶん、遭難の報告書はでませんね。
2006/11/09(木) 15:52:47 | URL | おーの



Re:もはや

>海外登山経験はベテラン、上級者の印とは言えないのですね。

必ずしもそうではない、ということだと思います。

>体力と高地適応さえできれば行けそうな気がします。

高地適応とお天気次第ではないでしょうか。

>よっぽど、荒れた中間期の日本アルプスの方が危ないように思います。

まあ、判断力が求められる場面が少ないので・・・。
仰るような面、確かにあると思います。

報告書は、このサブガイドの女性に求めるのはムリでしょう。
ただ、プロガイドの田上氏がどうするか、もう少し待ってみようと思います。
2006/11/09(木) 17:14:28 | URL | 管理人
http://yamayakenta.blog51.fc2.com/blog-entry-263.html


40年前と同じ

感想は表題の通りです。
40年前と変わらぬ気象遭難。

当時は、イケイケの大学生らが気象遭難をしましたが
今や、アルパインガイドが同レベルの事故とは驚きます。

認定しているアルパインガイド協会は事故を独自に調べ、処分を科すべきですが、
大日岳の事故を見ていると、どうなるのか。

山の世界は、人材がいない、と感じます。
2006/10/09(月) 11:06:13 | URL | ken50



Re:40年前と同じ

おっしゃるとおりです。

ただ40年前はイケイケの男子大学生でしたが、昨今は中高年女性なんでしょうかね。
ガイド登山、山ですれ違った数でいえば、女性のほうが多い印象を受けました。

今回も、女性ばかりでした。。。

山の世界、ガイドには甘いのかな・・・などと思っています。

一般人よりも、はるかに厳しい責任意識を持ってもらいたいものですが・・・。
実際に、そういう方も何人か知ってはいますが、そうでない方も知っています。

自称ガイドも山ほどいる現状ですから、協会が処分したところで、どれほどの効果があるのか、疑問が残ります。

ガイドの責任論、どこかではっきりさせる必要があると思います。
倫理的、法的な人材、山の世界には少ないのかもしれませんね。
2006/10/09(月) 12:39:16 | URL | 管理人

中高年登山真っ只中の者としては、「身の丈にあった山を」という言葉を胸に刻み込みたいと思います。

白馬と奥穂の件は紅葉目当ての人たちが悪天の中なぜ入山したのか本当に分からないところです。それにビバーグになっていなかったとは。

遭難カルテ113は当事者のHPのピースサインと『劇』という言葉にもう憤死。
救助にかかわった方の目に付かないことを願っています。
「引き返す勇気不要論」感じていた違和感の原因がわかり、すっきりしました。
2006/10/09(月) 12:54:07 | URL | ウミバト

パブリックな存在だからこそ

自称ガイドが多数いたとしても
パブリックな存在形態である協会は社会的に期待される責任があるわけですね。

よって、適切なる処分は、結果、ガイドという職種の信頼につながると思います。


ただ、ガイド業界、山業界でもいいのですが、インテリジェンスを感じる人がいない。
ミスと責任を切り分けて考えることができないのですから。

特区を作っておきたい人ばかりなのかも知れませんね。
2006/10/09(月) 18:18:00 | URL | ken50



Re:パブリックな存在だからこそ

パブリックな存在、確かにそう思います。

ですから、本文中で「ガイドライン」などについて、少し触れました。
あまりにこの部分には意識が低いように思います。

信頼される組織・資格。

技術や責任において、より厳しいワクをみずからはめることで、信頼や尊敬を得られるのではないでしょうか。

現状は、協会も含め、ほぼ野放しに近い状態だと思っています。
この、なんだかなぁ…な状態、どうにかなって欲しいとは思うのですが…。
2006/10/09(月) 20:49:03 | URL | 管理人



ガイドとしての見識を疑う

今から20年位前、ひと夏を林野庁のパトロールとして、県警の常駐隊と共に白馬山荘で暮らしました。

当時も、大衆登山のブームでしたが、その後の中高年のブームは当時よりも問題が大きそうだと感じています。私自身は、中高年が山に多くなり、巻き込まれ事故の危険が高いと感じ、この10年ばかりは山から遠ざかっております。

今回の事故のあった白馬岳の稜線は、晴れていれば下の村営宿舎から白馬山荘が見えてとても遭難するようには思えない場所ですが、荒天では一転して、稜線を遮るものもなく、しかも登山道が広いため、一転、遭難の危険地帯と化します。

夏場ですと、落雷事故の危険がありますし、台風シーズンですと横風と雨で遭難につながることも多いと聴きます。また、夏場でも場合によっては雹が降ることもめずらしくはありません。言わば、危険地帯なのです。

なぜ、荒天の中、無理をして村営宿舎ではなく白馬山荘まで行こうとしたのか?

そもそも、遠い低気圧でも影響を受けやすい地域であるにもかかわらず、なぜ、荒天を予想しなかったのか?

荒天になればもちろん厳冬期の山になる地域であるにも関わらず軽装備で登ったのか?

そんなことが不思議でなりません。
日本アルプスはヒマラヤやヨーロッパアルプスと比較しても難しい山であるということを認識して欲しいと思います。(私もひとりアルピニストの後輩を亡くしております)

たとえヒマラヤに行っていても、日本の山の厳しさを知らなければ、該当山岳のガイドは務まりません。また、何年の登山歴があっても、自分で判断せず、ヒトに連れて行ってもらっているのであれば、登山歴(経験)になりません。

今回も、荒天の危険を押して、山荘の従業員が収容に出ましたが、願わくばそういった機会ができる限り少なくなることを望みたいです。

ベテランも含めて、登山者は謙虚であるべきです。
2006/10/10(火) 10:02:35 | URL | おーの



Re:ガイドとしての見識を疑う

>たとえヒマラヤに行っていても、日本の山の厳しさを知らなければ、該当山岳のガイドは務まりません。また、何年の登山歴があっても、自分で判断せず、ヒトに連れて行ってもらっているのであれば、登山歴(経験)になりません。

>今回も、荒天の危険を押して、山荘の従業員が収容に出ましたが、願わくばそういった機会ができる限り少なくなることを望みたいです。
>ベテランも含めて、登山者は謙虚であるべきです。

まったくおっしゃるとおりです。

荒天は予想できた、とする向きが多いようですが、私もそう思います。
出発前に小屋の人から「大丈夫ですか」と言われた言葉を、このガイド氏はどう聞いたのでしょうか。

今回は、経験豊富なガイドが判断を誤るほど難しいケースだったのでしょうか。
もしそうだったとしたら、一般の登山者は、危なくて山には入れません。

クライアントの生命を預かるガイドとしてどうなのか、疑問は多々あります。
ですが、それ以前の、一登山者としてどうなのか、最大の疑問はそこにあります。
2006/10/10(火) 11:03:37 | URL | 管理人


思い出した

新田次郎の「聖職の礎」という小説を思い出しました。映画は「この子達は私の命だ!」という台詞に代表されるように過分に美化されていますが。

場所は北アルプスと中央アルプスと違いますし、季節も初夏と晩秋と異なりますが、低気圧が原因で季節はずれの風雪による遭難という点でよく似ていますね。

ただ、該当小説もすでに絶版ですから、こういった事例を使って学習する機会も、もうないですね。

私も白馬岳で8月の終わり頃に遠く太平洋を通り過ぎた台風の影響で、季節はずれの吹雪に遭遇したことがあります。当時、8月の吹雪に山の厳しさに驚いたものです。

清水岳からの合流地点から白馬山荘までは元気な方なら20分程度ですが、バテバテの状態だと2時間以上もかかって登られる方もいました。

Webで検索すると、今回のルートの手前から白馬の頂上小屋までルート時間10時間半のところ、14時間かかったという夏の山行報告もあります。やはり、中高年の方たちでこの長丁場は無謀だったのではないか、特に天候がよければ問題は少ないですが、荒天になる可能性を考えると無謀だったように思えます。
2006/10/10(火) 18:40:43 | URL | おーの

あの稜線、富山側はなだらかなんですよね。。。

白馬主稜を抜けたときの長野側とのギャップ、感動的ですらありました。

また、白馬岳山頂から北に少し行った稜線上で幕営していたとき、猛烈な地吹雪でテントをつぶされたことを思い出しました。

幸か不幸か、テントが平面になったのは、あの時だけです。

ウチのパーティーは、それでも熟睡していたおめでたい連中ばかりですが・・・。
あの稜線、吹雪くととんでもない風になるんですね。
雷が横に・・・オソロシイ・・・。

「聖職の碑」。
DVDは出ています。
本も中古ならamazonあたりで入手できるようです。

以下の拙文でも少々触れていますので、ご参考まで。
http://yamayakenta.blog51.fc2.com/blog-entry-168.html

なお、コースの解説、参考になります。
いずれにしても天候判断と計画に無理があったのかな、と考えています。
2006/10/10(火) 19:46:49 | URL | 管理人


同ルート昨年の夏歩きました

昨年の旧盆に、初めて、祖母谷温泉から清水岳を登りましたが、自分達の鈍足で、計画段階から清水岳避難小屋泊を念頭に行動しました。・・・結果、避難小屋泊、翌日大雪渓下山しましたが。

・・・いろいろ事情はあると思いますが、疲労が溜まった所で終盤の清水岳〜白馬肩の稜線はきついはずです。快晴でも午後の北ア稜線は相当冷えます。なんで、この計画を進めたのか???。今、帰宅して、この行程を聞き唖然としています・・・。
2006/10/12(木) 01:29:17 | URL | テントミータカ


今回の遭難事故で思う事

私自身、今回の遭難事故から学ぶ事がかなりありました。

今年で登山歴9年目を迎えるのですが、改めて自分の立場と、未熟さ、を感じました。
そして、今回の遭難事故非常に残念でありません。

遭難発生から今日まで新聞、ホームページ、ブログで様々な意見、感想等を読みあさっておりますが、どなたも今回の事故について、ガイドの経験、判断について疑問視される意見が多いみたいです。

実際に、最近になり、ガイド引率による事故が多いのも確かです。屋久島での沢登りでの死亡事故、文部省登山研修中での大日岳での事故、そして今回の事故。

私自身登山経験9年でありながら、初心者、初級者をつれて山に行く機会が増えるにつれ、状況判断の難しさを感じております。

少しでも危険を感じたら引き返すのは簡単ですが、引き返した直後に天候回復なんてことで悔しい思いをする事は数しれず。先日、奥穂に行った際は天気図、天気予報ともに大荒れが予想されていたにも関わらず涸沢についたら快晴ということもありました。
自然相手であるが故、判断が難しいのは皆さん周知の事実かと思います。

私自身の勝手な解釈をさせて頂きますと、今回の事故の原因、言い換えれば回避する方法は随所にあったかと思います。

ポイントは7人の内、亡くなった方から無傷の人までいるという事です。
通常の遭難事故はそのパーティー全員が少なからず被害を受けています。
という事は言い方は悪いですが、回避できるレベルの天候だったと思います。

装備、体力、精神力、経験、ルート、天候、ガイド登山、人員構成。すべての要因が相まって今回の事故が発生したと思います。どれか一つでも条件が良ければ防げたかもしれません。

ガイドの責任と一言で片付けるのは簡単ですが、山岳スポーツは他のアウトドアスポーツとは全く異なる事です。安全な状況が常にある訳ではありません。どんなに素晴らしいガイドであっても自然にはかないません。ただ、ある程度の危険を経験と技術で回避できるといった程度です。

私が一番怖いのはこういった事故が増えるにつれ、責任がガイドやリーダーに集中しすぎる事です。勿論、ガイドやリーダーに責任があるのは当たり前ですが、法的、金銭的にも責任が集中するという事です。ただでさえ、高齢化が進む登山業界、すべての責任がリーダーとなってしまうと今後、ますます登山人口が減少し、経験ある人間が育たなくなってしまいます。リーダー、ガイドがいるから初心者も山に足を運ぶ事ができるのですから。

もしも、自分がこのパーティーのガイドだったらと考えると、もっと悲惨な状況になっていた事と思います。前述のガイド、リーダーの方々は経験、登山歴も日本でも有数の方々です。このような方々でも事故は起こってしまうものです。ガイド登山であっても安全が100%保証されるものではありません。それだけ山岳スポーツは奥が深く、また、魅力の一つではないでしょうか。

亡くなられた人がいる以上、ガイドの責任は重いことは言うまでもありません。
ただ、今回の事故、登山を愛する身として、非常に悔しい思いで一杯です。亡くなった方々、御家族には心からご冥福を申し上げます。
2006/10/13(金) 11:37:54 | URL | 登山愛好者


そうなんですよね

登山愛好者さん、そうなんですよね。

調べれば調べるほど、初心者のガイド登山とは思えないですし、無傷、軽症から疲労凍死まである点がとても不思議ですね。

なにか、山で死なないためにフィードバックできるポイントがあるように私も思います。

それと、登山ガイドがついた登山がもっと安全でもいいように思います。そのためにプロの山屋のネットワークをきちんと整備してもらうことができないか、と私は思っています。天気図ではわからない気象予想や急な天候変化、地域外ガイドでも安心してツアーができる体制、緊急時の支援体制など、もっと充実させてもよいように思います。

そういった体制の充実は、きっと、ガイドを使わない登山者にも安全という形でフィードバックされるはずですから。
2006/10/13(金) 13:43:44 | URL | おーの



ガイドとリーダーとの違い

ガイドとリーダーとの違いとは一体何でしょうか?
私の周りでガイドをしている人が沢山いますし、私自身一度はガイドなんて考えた事も有ります。

自分の好きな山でお金が稼げるなんて魅力的だと今でもふと思う事が有ります。
僕が知っているガイドの人達は少なからず、ガイド以前は各会のリーダーで名を馳せてきた方々が多いです。では、ガイドになって何が異なるのでしょうか?

確かに、世の中プロと呼ばれている人達はお金をもらっている以上それなりの責任と実力が問われます。それは山の世界でも当然です。では、今回の様な事故を起こしたのはプロとしての実力が不足していたのでしょうか?中には実力が無い人がガイドをしている例もあるでしょうが、そうとも思えません。ましてや、ガイドがある一定のお金を払えばルートが易しくなったり、天気が良くなるなんて事はあり得ませんよね。

結局のところ、お金を払うガイド登山も、山岳会のリーダーも実力、責任、待遇は何も変わらないのが現状で、違うのは自分が行きたくない場所でも行かなくてはならない位がガイド登山でしょうか。

それを考えるとやはり、ガイド協会が担う役割は大きいのではないかと思います。ガイド個人ではできない部分をカバーし、個人レベル以上の安全対策を組織レベルで行う必要は有るかと思います。お客さんはそれだけの信用分お金は払っているかと思います。

とにかく少しでも危険軽減を追求する姿勢が必要ですよね。
2006/10/16(月) 11:02:48 | URL | 登山愛好者


ガイドとリーダーの違い

ガイドとリーダーの違いは、何かあった場合にリーダーは全体責任、ガイドはガイドの責任と言う点ではないでしょうか?

ガイドを雇う一般の登山者は、ガイドに対して、自分の持たない技術とリスク対策を求める代わりに対価を払うものだと考えています。

そうであれば、ガイドは顧客の安全とツアーの成功の両方を請け負っているのだと思います。ツアー中、顧客の安全を守ること、それがプロとしてのガイドの第一の義務ではないでしょうか。

参加者が自分で身を守ることを前提にツアーを組むことはプロとしてのガイドとして、やってはならない姿勢だと思います。参加者の力量、体調、経験を推測した上で無理なく、安全に、「よかった」と言って無事に帰ってもらうのがガイドの「仕事」のはずです。

今回、気になった発言として、アルペンガイドから「リーダーとして」というコメントが出たことです。もし、登山ガイドとしてではなく自らも費用を出したグループ登山であるならば問題のない発言ですが、もし、ガイドとしての対価をもらっているのであれば、そのスタンス自体が問題なのかもしれません。

海外旅行のツアコンの場合、現地調査し、行き先に事前に安全確認をし、トラブルがあれば中心になって解決を図り、家に無事に帰すのを使命にしています。

一方、登山ガイドの中には、地元の一般登山者から見ても問題のある計画を立てたり、その行動、見識に疑問を感じさせる方々が特に大都市や遠方の方の中に多くいらっしゃるように感じます。

日本アルプス、後立山連峰において、10月初旬の吹雪は当たり前です。常に吹雪くことを念頭に置いて装備、計画を立てる必要があると考えています。その部分はツアー参加者の準備も含めて、私はガイドが担保すべきだと思います。

一般登山家とガイドの間には、リスク対応の一方的な責任という大きな差があるように思います。


> ガイドがある一定のお金を払えばルートが易しくなったり、天気が良くなるなんと事はあり得ませんよね。

いいえ。ガイドに払った対価の分、ルートが安全になってもらわなければ困ります。難しいコースも安全に踏破できる経験と技術、悪天候でも安全に登山ができる経験と技術、そういったものを提供するのがプロガイドの使命ではないでしょうか?

ガイドだけが生き残ってしまうことは職場放棄と一緒のように思います。
2006/10/16(月) 11:30:18 | URL | おーの



Re:ガイドとリーダーの違い

ガイドとリーダーの違いについて、あくまで私見ですが・・・。

最大の違いは金銭の授受だと考えています。
プロフェッショナルとアマチュアの差と言い換えることもできます。

リーダーはパーティーの中心的存在ですが、対等な部分もあり、連帯責任をメンバー全員が負う部分もあります。

同好者の中で、信頼関係のみによって成り立っているからです。
メンバーはパーティー運営に際しては、リーダーを支え、時には意見を述べることもあります。

リーダーはその意見を集約し、決定する、と言う立場でしょうか。
パーティー運営に関して、メンバーはリーダーを中心に、全員で力を合わせる、と言うところだと思います。

「一緒に山をやる」と言えばいいでしょうか。

一報のガイドは、業務として人を連れて行っています。

登山愛好者さまのおっしゃるうち、待遇だけは金銭の問題がありますので、同じとはいえません。

また、客としては「連れてってもらう」と思って当然です。
高いお金を払っているわけですから・・・。
なぜ、その高いお金を払うか、です。

客のほうがその山に自力でいけるなら、お金を払うことは考えられません。
また、自分たちでパーティーを組んでいける場合にも同様だと思います。

と言うことからすれば、足りないスキルをガイドに補ってもらうためにお金を払う、と言うことになります。

この足りないスキル。

プロならではの、技術や状況判断、安全確保などです。
金銭の授受が絡む以上、請け負い業務なわけです。
その安心を得るためにお金を払っているのです。

趣味と仕事、その責任に差がなければ、かえっておかしいことになるのではないでしょうか。

山岳会のリーダークラスが全員ガイドなみではありません。
むしろそうでないほうが圧倒的に多いでしょう。

また、プロガイドは全員、山岳会のリーダークラス以上のレベルです。
(論外なガイドがいますが、今回は触れません)


同好者の集まりの中のリーダー=アマチュア。
お金をもらってガイドをする=プロフェッショナル。

やはり同列に論じるべきではないと思います。

「お金は頂きますが、万一の際の責任はリーダー並みです」
こんなガイド、とても信用できませんし、なんだか存在感がすごく軽いものに思えます。


「料金は高めです。でも、プロならではの安心、そして、プロなりの責任感をもって・・・」
こうあって欲しいと思っています。


ガイドは山のプロとして、やはり重い存在であってもらいたいと思います。
また、お金をもらう以上、より重い責任が求められることも、当然だと考えます。


プロとしての山の力、そして重い責任。
それを誇りとして欲しいのです。

責任問題が持ち上がったときだけ、アマチュアにまぎれるなんてことがない様に・・・。
信用と言うのは、そういうところから生まれていくと思います。

ガイド協会が動かなければ解決しない問題は多いと思います。
2006/10/16(月) 19:11:31 | URL | 管理人


今後の登山の行方は?

管理人様、おーの様。

少し、誤解を生む書き方をしているみたいですが、

お二人のガイドに対する考え方は当然の意見であり、世の中のすべてのビジネスの大原則であることは間違いありませんし、私自身そうあるべきだと考えています。
金銭が絡む以上、プロとしての責任は重大です。

ただ、私が思うに山というフィールドでも同じことが言えるのかと少し違和感を感じる所があります。これは決してガイドを養護する考えではなく、自分なりに客観的にとらえての考えです。

通常のビジネスとは異なり、責任が追求されるのは製品でもなく、サービスでもなく、人間の生死だと言うことです。ましてや、他のスポーツのように救急車を呼べば5分で到着なんてことは当然あり得ず、「本人が自力で下山する」ことが大前提となることです。そのかわり、ガイドが就いていても本人が自力で登頂できるのが醍醐味の一つですが。

近年、道具が進化し、山小屋や登山道等の環境も整い、さらには登山ブームが重なり、山に行きやすくなった反面、どことなく、何かあっても誰かが何とかしてくれるというような漠然とした根拠のない安心感があるように感じます。奥穂の山頂でも何でこんな人が?なんて感じることもあります。

いくらガイドがついても、ガイド協会がバックに就いていても、どんだけお金を払っても悪天候でヘリや救助隊を出すことはできません。

どんなに優秀なガイドであっても山に1歩踏み込む以上危険は必ず付いてきます。ガイド登山に参加する人であっても、この辺りは認識する必要があるのではないかと思います。
とは言ってもやはり、世論は異なるのが現実です。

山という分野をビジネスに組み込む以上、他のビジネスと同等に考えるのは当然です。それならば、ヨーロッパガイドのように、疑わしきは行かない、連れて行かない、行かせないとするしかないのでしょうか?

天気が怪しいなら全面入山禁止、連れて行くなら200%行ける程の体力と技術テストに合格した人のみを連れて行く。

それでも事故は発生しますが…。危険を回避する最大の方法は行かないことです。
でも、それではなんだか悲しいですよね。私が、山が好きな理由は、唯一、管理されていない分野だからです。でも、時代の流れか山という分野も管理される時代がそこまできているのかもしれません。
2006/10/17(火) 09:01:28 | URL | 登山愛好者



プロになりきっていないガイドと登山者になれないツアー客

登山愛好者様
おそらく、この問題、2面あると思います。

まず、ガイド自身がプロになりきれていないのではないでしょうか。
ガイド客を安全に連れて帰るのがガイドの基本的な使命だと思っています。
その部分で、個人山行の延長でガイドをしている人たちがいるように思います。

これは、やはり、プロとして許されるものではない。

一方で、年数ばかりかけても、登山者になりきれない登山者がいることが問題です。
こういった登山者は、ガイドツアーのみならず、グループにおける一般山行でも似たような行動をとります。

リスクを自分でとれない、自然も含めて、周りに対して配慮できない、大人になりきれない’いい歳した子供’がたくさん山に登っているように思います。
プロになりきれないガイドやリーダーの責務すらこなせないリーダーと一緒に登山と言うリスクの高い行為をするのですから、本来、残りの部分は自身でリスク管理するしかありません。しかし、平地の生活をそのまま持ち込んで、リスク管理を放棄する人たちが多くいます。

そういった登山者たちももちろん問題でしょうね。

ただ、私、思うんですが。
自分でリスク管理しない登山って、面白くないように思うんですね。

行く場所について調べ、天候を調査し、山行の性格に合わせて装備を準備する。
私はそういう準備自体がとっても好きだったりします。
2006/10/17(火) 09:23:56 | URL | おーの #rmbFb8ac


Re:今後の登山の行方は?&プロになりきっていないガイド…

ガイドとリーダーの違い、金銭授受の問題から明らかだと思います。
その部分の違いは認めていても、責任問題になると、無償のリーダーとごっちゃにしてしまう。

そうなることで、ガイドの責任があいまいにされてしまう。
そのことで、安易な「ガイド擁護」につながる…
こうなってしまうことを恐れているのです。

ガイドはお金をもらう代わりに、プロの技術や知識でもって、ひとつ上のレベルの安全を提供するわけです。

そこには「客の生命を預かっている」と言う自覚を、まず持っていただきたい、と思うのです。

それは当然ながら「登頂」よりもはるかに優先されなければならないと思います。


>山という分野をビジネスに組み込む以上、他のビジネスと同等に考えるのは当然です。

それを組み込んだのは、ほかでもないガイド自身です。
当然、金銭を受け取り、その責めをも負うべきだと考えます。

人命に関するものである以上、極めてハイリスクなビジネスと言わざるを得ません。
それが分かっていないガイド、社会人としてあまりに稚拙というほかありません。


>近年、道具が進化し、山小屋や登山道等の環境も整い、さらには登山ブームが重なり、山に行きやすくなった反面、どことなく、何かあっても誰かが何とかしてくれるというような漠然とした根拠のない安心感があるように感じます。

>年数ばかりかけても、登山者になりきれない登山者がいることが問題です。こういった登山者は、ガイドツアーのみならず、グループにおける一般山行でも似たような行動をとります。リスクを自分でとれない、自然も含めて、周りに対して配慮できない、大人になりきれない’いい歳した子供’がたくさん山に登っているように思います。

お二方の仰るとおりです。
特に、漫然とツアー・ガイド山行を重ねる人たちに多いとも思います。
こういった人たちの存在も、大きな問題のひとつでしょう。

ガイドやリーダーに頼りきりの山を重ねていても、数ばかりで質は伴いません。
ですが、そのことに気づいていない人も多いかと思います。

この「数」、まったく意味がないとまでは言いませんが、中身は薄い…。
そして、その「数」を自慢する人を見ると、げんなりしてしまいます。。。

また、ツアー・ガイド山行も客商売ですから、メジャーなところに集中することになります。

百名山ブームも無関係とはいえません。
有名でなくてもいい山は、それこそ山のようにあります。
私個人としては混みあう山は、それだけで魅力半減ですが。。。

個人的な考えですが、やはり山の楽しみ方は単独行に凝縮されていくと思います。
準備段階から現場での状況判断に至るまで、すべて自分にかかってくるからです。
おーのさまの仰る「自分でリスク管理する山」というのも、最終的にはここに行き着く気がします。

また、パーティーを組むと言うのも(公募ではありません)、これに準ずるものだと思います。

すべての登山者がこの楽しみに気づいたら、ガイドの商売は上がったり…になるかもしれません。


>ヨーロッパガイドのように、疑わしきは行かない、連れて行かない、行かせないとするしかないのでしょうか?

後段の部分はともかく、この一点については、ガイドはそうあるべきだと思います。
国内のガイドはヨーロッパほどの歴史はありません。

長い年月をかけて培われてきたヨーロッパのやり方、参考になると思います。


>危険を回避する最大の方法は行かないことです。でも、それではなんだか悲しいですよね。

まったくそのとおりです。
ですから、より安全に、というよりも無事帰ってくるために、何が必要かを考えたい、と言うわけです。


>山という分野も管理される時代がそこまできているのかもしれません。

と、いうよりも、すでに管理される時代に入っています。
登山条例やキャンプ指定地などもそうでしょう。

環境・安全面など、やむを得ない面もありますので、一概に管理自体を否定はできませんが…。

ただ、ガイド登山も「管理される」側に、参加者が自ら入っていっていると思います。
管理されていない中で自らリスク管理をするのではなく、他者(ガイド)のリスク管理下に入るということですから。


いずれにしても、根の深い問題だと思いますし、難しい問題だとも思います。
そして、色々な意見があるとも思います。
2006/10/17(火) 13:01:28 | URL | 管理人



もしかするとスタンスが違うのかもしれません

私の場合、ちょうど、山に入り始めた頃は学生として日本アルプスの麓に住んでいました。また、最初のひと夏は白馬岳に住み着いていました。ですから、どうしても、日本アルプスであっても生活圏の山という感覚が強くあります。まあ、ついでに、学んだ学科も山からは切り離せない学科でしたし、それこそ、学校の演習林にはハイマツが生えていましたし、生活していた寮の人間が変わりばんこで山小屋の管理をしていました。

なので、たまに遊びに行くところと言うよりも生活するところという気持ちが強いです。

生活していたので、無理をしようという気持ちもないですし、ことさら、自分の技術の及ばないことをしようという気もありません。生活をするというのは生き延びることですから、生死を分ける判断にはことさら気を使うのかもしれません。何年も見ていますから、たまに遊びに来る方たちよりも多くの山の姿を見ているということもあるのかもしれません。

今は都会に住んでいますので、始終、山に行くわけにはいきませんが、非日常を求めて山登りに行くと言うよりも、生活圏にのんびりさせてもらいに行くと言うのが正解なのかもしれません。

たぶん、山岳ガイドであっても、地元に住んでいる方たちはそんな気持ちが強いだろうと思います。山なんて、どこにも行きゃしないですから。
そのうえ、遭難者の捜索などに駆り出されているのですから、非日常を求めて無理をする人に「なんで?」という気持ちが強いように思います。

名誉の撤退なんて感覚はなくて、そんな危険を冒していっても面白くないから、戻って違うことしよ。という感じなんですよ。だって、冷たい中歩いたって面白くないでしょ。

非日常生活のままガイドになってしまうのって、とても危険な気がするんです。
私は’知らない山’のガイドなんて怖くてできない。

長野県警の、「安全なツアー登山のために」というページにある「場合によっては、地元のガイドを依頼する。」という項目って、そういう意味だと思っています。
2006/10/17(火) 14:55:51 | URL | おーの



Re:もしかするとスタンスが違うのかもしれません

あー、なるほどねぇ〜。
拝読した後の、最初に浮かんだ言葉です。

登山者としての出発点と、その後経てきた道。
そこでスタンスの違いが生まれるのかもしれません。

私自身、起点となったのは高校の山岳部でした。
それ以前は親に連れられてでしたので、家族旅行のようなものでした。
1年生の時には、ただついていくのに精一杯。
基礎的な訓練期間でした。

2年生になり山行(合宿)を、計画・運営するようになりました。
ワイワイガヤガヤと、計画を立て、買出しに行き、1年生の面倒を見て・・・。
これがとても楽しかったのです。
そして3年生になり、オブザーバー的な立場に。

2年生リーダーの足りない部分を補うことで、パーティー全体を見渡す目を養うことになりました。

大学に行ってからは、部山行のほかに、単独行の機会も増えました。
人数が少ない部でしたので、好き勝手にできた面もあります。
ですが、自らで運営する山行の楽しさは同じでした。
部外に新たな仲間もでき、充実していたと思います。

当然、リスク管理も自分たちの作業でした。
今考えると、危ないこともしてしまいました。
ですが、「所詮遊び場である」ということは、今でも変わりません。
ヤバかったなあ・・・というのは、そのたびに反省材料でした。

「遊び」ですが、お金のない学生のこと。
出費は極力抑えます。

そして、「計画&運営」という、ある意味で一番オイシイところを、味わいつくす、と言う意味も「遊び」のなかにありました。

ですから、お金を払ってこのオイシイところを人任せ・・・なんてことは、考えもしませんでした。

自分の(自分たちの)できることと、行けるルートや時期を考えることから始まり、決してそこから出ることはなかったわけです。
メジャーなルートや困難なルートよりも、ちょっとアヤシくてワクワクするようなルートを、地図とにらめっこして探していたりもしました。
これは今でも変わらない部分です。

一言で言えば、「ガイド登山」「ツアー登山」というものが存在しなくても、何も変わらない人種なんでしょうね。

ですが、そうでない人も大勢いらっしゃいます。
この出発点が違うところから見解の相違が発生するのかもしれません。
ただガイドをリーダー(=仲間)と考えるのには抵抗がありますが・・・。

ですが、不思議なこともあります。
おーのさまと私では、当然立ち位置が違うのですが、同じ結論になる場合があります。
(すべてではないと思います・・・)

立ち位置は人それぞれですし、意見が一致する場合もそうでない場合もあるんですね。

いろいろな人の意見や考えの中から、さらに考えを進められればいいのでしょう。
2006/10/17(火) 21:16:56 | URL | 管理人


Re:もしかするとスタンスが違うのかもしれません

私も、お二人と同じ環境で山を始めました。学生の頃は年間150日山に入っている年もありました。幸い、信州には遠く、長期休みになると18切符とザックを担ぎ電車に乗って信州へ向かったものです。

現在では日数は減ったものの、週末になると家を飛び出して山へ向かうのは変わっていません。ただ、信州へはなかなか行けませんが…。

今までの議論を読み返して思ったのですが、私と、お二人とではなんとなく立場が違うのかと感じました。

私は大学2年の時、山岳部の限界を感じ、社会人山岳会へ移り、海外遠征へ行ったりするうちに、山に行く仲間にガイドをしている人が多くいました。今まで事故を起こされたガイドの方々とも面識がある人もいましたし、実際文部省の登山研修にも参加したこともあります。

おのずと、ガイド側の意見に偏っていました。

ただ、ガイドとリーダー、個人が背負う責任は人命を背負っている以上、優劣は無いと思います。

しかし、ガイドに払ったお金の責任はそれ以外の部分、組織の充実化、安全対策等に費やされるべきではないかと思います。

確かにヨーロッパのガイド協会は歴史もあり、組織体制も充実されていますが、それ故に、その影響が、一般登山者へも及んでいることは言うまでもありません。

実際に私が行った際も、天候を理由に無条件に入山を拒否されました。
とは言えども何かあったときにお世話になるので当たり前かもしれませんが…。
どちらにしろ、今後のガイド協会の動きが気になるところです。
2006/10/18(水) 13:51:03 | URL | 登山愛好者


年寄の冷水

「プロガイド」について一例報告をさせてください。

環境省が来春から大台ヶ原(奈良)に利用調整地区を設けて入山規制をする計画ですが、地元は村民に簡単な座学によって「プロガイド」資格をあたえ、その「プロガイド」を帯同したエコツアーを義務化することを希望しています。

私は各地でプロガイドが惹起した無責任な事故の数々を披露して安易な「プロガイド養成」に反対し、「プロ」の名に値するガイドの養成を時間をかけて行うべきだと主張しています。

無法状態にあるプロガイド協会などに自浄自律能力を期待できるとは思えませんので、北海道、東京都、長野県、屋久島などで自治体が罰則規定を含む条例をつくって規制に乗り出した動きに注目しています。
2006/10/18(水) 16:20:58 | URL | HIKO


Re:年寄の冷水

大台の「プロ」ガイドのお話、以前にも少し出ていましたね。

地元にいて、地元の山やその気象などをよく知っていて、何よりも山自体がデキる人。
そういう人にガイドになってもらえるのなら、問題ないと思います。
その意味においては「地元」もひとつの要件かと思います。

ですが・・・。
地元に住んでいるけれど、山はさっぱり・・・。
(ただ地元に住んでいる人という意味です)

そんな人に

>簡単な座学によって「プロガイド」資格をあたえ、その「プロガイド」を帯同したエコツアーを義務化する

なんてことになると、困ったものですね・・・。
アクシデント発生時の対応もできず、責任論にはほど遠い存在になりそうです。

事故でもあった日にゃどうすんだろ・・・。
なんとなく本末転倒な気がしますね。

>北海道、東京都、長野県、屋久島などで自治体が罰則規定を含む条例をつくって規制に乗り出した動きに注目しています

これはある意味で、ガイド協会などが何もしないまま今日まで来たことと、無関係ではないのでしょうね。

今回の白馬の遭難をきっかけに、ガイド協会も(とてつもなく)重い腰を上げてくれればいいのですが・・・。
2006/10/18(水) 17:10:17 | URL | 管理人 #MAyMKToE


検定や罰則強化だけでうまくいくんですかねえ?
もっと根本的にシステム自体を見直すべきじゃないかと思うのですが。
2007/10/04(木) 11:11:26 | URL | おーの #rmbFb8ac
http://yamayakenta.blog51.fc2.com/blog-entry-262.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/720.html

[リバイバル3] 2006年10月 白馬岳4人死亡 山岳ガイドに有罪判決  中川隆
1. 中川隆[-7607] koaQ7Jey 2017年6月06日 18:53:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2006/11/01 白馬遭難とガイド山行
http://minminsroom.cocolog-nifty.com/webdiary/2006/11/post_d34e.html

10月の連休は大変に気象が厳しくて、多くの遭難事故が特に北アルプスを中心にして発生した。中でも悲劇的だったのが祖母谷から清水岳経由の白馬を目指しての九州の7名のガイド登山だろう。大変不幸にして4名もの方が亡くなられた。

今回の遭難事故は、私が現在学んでいる登山学校でも話題になった。S先生を中心にして、自分を含めての何人かの山屋さんが集まっての机上講習会の後でのお酒の席の話。では、ガイド登山ではどうすべきだったのか?を皆で話し合った。


コースタイムで初日が10時間を越すぐらい(11時間ぐらい?)で白馬山荘泊の予定。2日目が朝日小屋、3日目が犬ヶ岳の栂海山荘、4日目が日本海へというコースだったようだ。それをもとにすると、初日が天気が予め悪いことはわかっており、さらに最初から小雨がふもとでは降っていたという条件だ。

装備はTVで写っていたように普通の雨具(冬用ではない)で軽装だった。

このパーティーの田上ガイドは九州福岡のラリーグラスというショップをメインにそこでの顧客を中心的に集めていた方のようである。 九州在住ながら、しょっちゅう北アルプス界隈には出没していたという話ではある。また、去年ぐらい?に同じルートを歩いて成功していたという情報もどこかで読んだ記憶がある。

ただし、どの程度北アルプスの厳しい悪化した条件化を体験していたかというと?である。さらに、彼らはとにかく九州から北アルプスに来ているわけなので、恐らく飛行機でアプローチとかで、関東あたりの私などが来る気合とは格段の違いが有ると思う。たぶん1日前に出発してきて、麓まで入るのに一日がかりだろう。このあたりも悲劇に繋がった要素が高いと思う。(臨機応変には計画変更をしにくい。)


さて、そのような状況下において、一番S先生が問題にしていたのは、

「何故一番近くの村営宿舎に救助にかけこまなかったのだろうか?」

という疑問である。山では下る方が簡単なので、清水岳方面から登ってくれば、とにかく稜線にたどりつけば、村営宿舎ならば地形の関係で風がさえぎられる形になるはずだし、とにかく下れるので登らなければならない白馬山荘に比べると格段に楽である。それを、ガイドは地形はわかっているだろうに、何故村営宿舎に助けを呼びに行かなかったのだろうかという疑問である。S先生曰く、

「ツエルトを飛ばされたというが、もともと避難小屋のような寝袋持参の栂海山荘に泊まる予定ならばシュラフカバー(ないしはシュラフ)は持っている可能性が高いから、それに動けなくなった人を突っ込んで、ガイドは全ての装備をそこに捨てて空身になって一番近くの村営宿舎に助けを求めに行き、そこで小屋の若い衆を何人か来てもらって救助に行けばよかったのに!」

という説であった。さらに、この時期の北アルプスはどんなに荒れたとしても、シュラフカバーに突っ込んで、フリースを中に着込ませて雨具を着れば、助けが到着するまでの1,2時間ぐらいならば死ぬほどには至らなかったのではないだろうか。


冬山をやっている者ならば実感できると思うけど、標高差で2000m位を登るというのであれば、真冬でさえもなかなか分厚いフリースを着て登ることは少ないと思う。登っていると暑いのである。冬山用の分厚いジャケットを着て、あとは中は比較的薄着なんていう場合も多いと思う。最初から雨具を着ていたとして、まだ防寒具を1枚か2枚を足して着て、さらにツエルトなり、シュラフカバーなりをつければ死には至らなかったのではないだろうか?


さらに気になるのが、わざわざ遠い方の上にある小屋まで登って、どうやらガイドはそこで力尽きたのか?救助隊の方には加われなかったという情報がある。歩けなくなった姉妹と途中で倒れた女性と、村営宿舎に運ばれたもののその後亡くなった女性。助けに行けないガイドというのは、かなり情けないガイドである。(また、もし村営宿舎が冬季休業でやっていないと勘違いしていたならば、完全な事前情報収集不足である。)村営宿舎の場所と白馬山荘の位置関係さえも、パニック状態になってしまってわからなくなってしまったというのならば、完全なガイド失格であろう。


では、今回のような条件の場合、登山ガイドはどうすべきだったのだろうか?という話題になった。S先生は基本は登攀系のガイドなので、今回のような無雪の縦走はあまり行わない。それでも顧客の気持ちやガイドとしてのあり方では色々と思うところがあったようだ。S先生曰く、

「九州から4日間ぐらいの山の予定で来ているのならば、天気が4日間良いことも少ないので、この時期の2500m以上の北アルプスは荒れたら雪は常識なので、事前に色んな天気パターンの場合は想定して10個ぐらいのプランを作っておくべきだ」

という。それをいきなり現地に行ってから顧客に言うのでなく、飛行機に乗る前に同意を得ておくことがポイントだという。


参加者は、海外の山々にも登られている相当な健脚でベテランの方々。コース選択もわざわざ通向けの清水岳経由であるからして、かなりのこだわりがあるだろう。白馬岳から日本海に抜けるのは大変長いコースなので、このうちの白馬岳にこだわりのコースで登る前半をメインにすえるのか、それとも日本海に抜ける栂海新道をメインにするのかで、大きな二つの選択ができただろうという。

前半メインならば、途中の避難小屋で天候を見るべきだったろう。あるいは入山を1日遅らせるということもあっただろう。

後半メインならば、朝日岳に直接登る小川温泉の道ならば比較的標高も低くて多少の天候の悪い状態でも登れて、そこで天候を見極める等・・・・・。余った日程で、どこか近くの手軽な山で紅葉を楽しむとか、(そんな軟弱なコースではツワモノぞろいのこのパーティーは納得しないかもしれないけど、事前に根回しをすればよかったのでは) 


とにかく、ガイドというのは何よりもお客さんに安全に楽しんでもらうということが第一なので、プランはよりべりエーション広く、色々とアレンジできる引き出しの広さを持っておくべきだ・・・・という話だった。


※なお、今回お客さんの中で唯一助かった67歳の女性は、私のたまに拝見している北アルプスの船窪小屋の常連さんだったようです。船窪小屋と言えば、やっぱり一般的というよりも、ちょっと通っぽい所の印象ですね。(HPの日記に記載がありました。女主人が常連さんが無事に助かってよかった・・・と書いてありました)

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あの立山の遭難を知っているので、MINMINさんの記事は気になっていました。

立山で遭難があった時、私も友人と苗場山に行く予定で、熊谷までは行ったのですが中止しました。

記憶では谷川でも観光登山の男女が亡くなったと思います。

僅か20年経たずに同じような気象で、大きな遭難が起きた事が残念でなりません。

私には時期的にまた失礼ながら参加者の年齢を加味して、計画その物が無理に思えます。

その他は詳細が判らないので、何とも言えません。
知り合いのガイドも同じ協会ですが、話す機会も無く、あってもどこまで説明してくれるか判りません。

プロガイドの組織として、きちんと総括してくれる事を希望しています。
投稿: REI | 2006/11/04 17:44


有名な確か1989年の立山大量遭難のことですよね。
私もあまりにもインパクトが強くて覚えてます。

あの時もいかにも天気が悪くなりそうなのに、無理して夏山装備で突っ込んだって感じの話しでしたね。

遭難された方々は今回と違ってガイドさんはいなくて、夏山感覚の人しかいなかったと記憶してました。(ベテランさんはいなかった)

今回の遭難はあの時のことを覚えている人かどうか知りませんが。やっぱり幾らベテランでも、それなりの年齢なので無理はききませんよね。(残念ながら、天気が悪くなったような場合は若者の方の生存能力の方が良いようです)

私の習っているガイドは別の組織なのでこちらの協会の情報は入らないと思います。

ただ、メインとなったお店のホームページなどを見ても、全く今回の事故の件は触れておらず、誠意は感じられません。

さらに、そのお店の経営者はどうやら九州の山岳界の重鎮らしく、さらに全国的にみても組織の相当上の幹部らしくて、対応が苦慮されているようです。(どっかのネットで書いてましたので、裏付けまでの確認はしてませんのであしからず)

なかなか、このような話題はレスが書きにくいですが、山を歩くものとしては他山の石として、慎重に学びたいものです。
投稿: MINMIN | 2006/11/05 21:12


今回の場合、ガイドが付いての遭難でしたので今後のガイド登山のあり方や高齢者の登山に関する何か、指標や教訓のようなものが出てくるかと思っていましたが、残念ながら関係組織からはそういったものは一切出てこないようです。

村営宿舎に行かなかった件については私も当初から不思議に思っておりました。もし、パーティ全員が登ろうとせず、最初から村営宿舎を目指していたのなら、もしかするとあと何人か助かったのではないか、と思うと残念でなりません。

その後、ネットのニュースが落ち着いたので、いろいろと調べてみると、ガイド、サブガイドともに、本年の春に個人としてヒマラヤ遠征し、ルート工作なども手がけている登攀技術を持った方たちだったようです。ただ、体力があり、登攀技術があったとしても、相手の体力や技術を担保できないのであれば、単なる個人パーティのリーダでしかないように思えました。

サブガイドをされていた方は福岡の社会人山岳会に所属されており、どうやらその会では「報告とお礼」をされたようなので、その会にその報告の公開をお願いしようかとも思いましたが、まだ、踏み切っておりません。

ただ、地域としてあまり中部山岳に対して多くの経験が蓄積できるとも思えません(関東の登山者なら九州の山塊に詳しくないのと一緒です)ので、そういった遭難情報の共有は九州の登山界にとっても必要なように思いますが、現実は忘れたい過去なんでしょうね。
投稿: おーの | 2006/11/08 10:06


前言撤回します。

あれから、サブガイドの方のヒマラヤ遠征の報告書を読みました。
で、びっくり。

ヒマラヤに登頂するまで海外はおろか、日本の3000m級の登頂経験もなかったようです。しかも、ヒマラヤへ行った4月で山岳会に入会して半年。ということは、山岳会入会1年弱の日本アルプス初心者がガイドの補助として、5人もの60歳以上の団体を引っ張っていったらしい。

ならば、先行させて山小屋に連絡させることも、その場に残って疲労した人間の対応をすることもできないわけです。

さてさて、困ったぞ。
投稿: おーの | 2006/11/08 17:31

ほとんど実質素人レベルの女性でもいまやヒマラヤに登れる時代なのですね。うーん、なんとも言えないものですね。少なくともガイド補助としてはレベルに達していないのは間違いないですね。おそろしや、おそろしや〜〜〜。
投稿: MINMIN | 2006/11/09 00:16

福岡に住んでいるものです。

ラリーグラスさんが4月1日付の福岡市の市政だよりに初心者登山教室の募集を告知していました。

 講義:3日間(1回2時間)
 実技:3日間(午前9時から午後4時)、鬼ヶ鼻岩、雷山、宝満山にて実施
 対象者:18歳以上で最低40分以上続けて歩ける人
 料金:5000円
 定員:30名

私は、この春から登山を始めようと思っています。
(小学生の頃黒部ダムに行って以来、山は大好きです。)

最低40分以上歩ける人で、9時から4時までの登山はできるのでしょうか?っと・・・。ふと。

一応、私は縦走もしたいので、1日3時間〜7時間平地を歩いたり、ボルダリングしたりしてますが・・。

このお店の北アルプスのブログを見て、色々考えました。
投稿: なな | 2012/04/02 16:31

九州ではかなり大きな登山用品店ということや、後日談などもその後いろいろと聞き及んでおります。最初のうちは何らかの形で誰かにサポートしてもらわないと、なかなか山登りはできにくいので、そういう意味ではハイキングレベルならばこのお店も、そんなにおかしいことはないと思います。

ただ、本格的な登山となった場合、疑問点が残るのは事実です。

慎重にいろいろと考えてから行動すること、それと少しずつステップアップしながら実力つけてから大きい山を登ることが大切かと思います。
投稿: MINMIN | 2012/04/05 22:37



とりあえず、登った事ないので、云々言えないので、4月上旬に別のショップのイベントに参加し(ガイド付き)、近場で、初登山してきました。

九州大分の1789m(久住山)の山に登りました。(往復6時間ぐらいの日帰り。)

感想としては、石の階段が多く、カルスト台地なので、低木が多く、結構しんどかったです・・・

一応、雑誌やアドバイスで装備は見よう見まねで揃えましたが・・(雪山道具が少し使えました♪)。
スノーボードと登山使う筋肉が違いますね・・(当たり前か・・・)

本当に、上記の某R社の体力で大丈夫かな?と・・思いました。
どれぐらいみなさんトレーニングされていますか?

あと・・今、福岡のアウトドアショップは、山ガールブーム(ブームに当たってしまった・・・)でイベントが多いです。

アウトドアショップの引率メンバーは、20代前半で・・・。すごく不安です・・・。
うーん。九州だからOKなんですかね・・・・・。
投稿: なな | 2012/05/25 06:37

初登山、おめでとうございます。
いろんな感想があると思いますが、何回か簡単な所を言ってから、次を考えてはと思います。私も出張の合間に久住山には登ったことあります。本州とは違う景色で、とても新鮮に思いました。

6時間は最初の方にとってはシンドイと思います。

ショップの引率って、20代前半では、全然まだ経験豊富というレベルとはおそらく違うと思います。若い人の引率の場合はどうしても自分の体力をベースに考えてしまうので、私も正直心配です。

山は速く歩くのが偉いとか、高い山に登ったことが偉いとかでなく、ガイドとしてならば、いかにお客様のことを考えて歩けるかというのがポイント。若いとついつい突っ込んでしまいがち。(皆がそうとも限られませんが)本当はショップとかでなく、山に行っているお友達や職場の関係者とか、もっと親しい人と登れる方がいいとは思いますが。

ショップのツアーに行って、そこで意気投合して仲良くなった人同士と登る方が安全かもしれませんね。少しずつでもじっくり考えながら登ると、きっとできることが見えてくると思います。頑張ってね
投稿: MINMIN | 2012/05/27 22:53

先般、このコースに行ってまいりまして、この遭難のことを思い出しネットを見ていたところMINMINさんのページに辿り着きました。

ガイドが村営宿舎でなく白馬山荘に駆け込んだ理由について、私も疑問に思っていたのですが、次のようなことも考えられるかと思いコメントさせていただいた次第です。

当時と今とでは登山道の状況が変わっているとは思いますが、今は、村営宿舎へ行く道と白馬山荘へ行く道の分岐から、それぞれに行くのに所要時間は殆ど変わりません。もっとも天候を考慮しない場合の話ではありますが。

また、村営宿舎へ行く道は、分岐直後に雪田を通らねばならず、初夏は紅ガラ、この時期は露出した石に印されたペンキに頼る訳ですが、その上に雪が被さり視界も悪いとなれば結構迷いやすい所です。

一方、白馬山荘へ行く道は、分岐から植物保護のために登山道の両脇にコースロープが張られ、これに自然に誘導されます。もし当時も同じ状況であれば、意図したのかどうかは分かりませんが、白馬山荘に行くのもおかしくはないと感じました。
投稿: 鬼瓦三十郎 | 2012/09/16 14:44


清水岳コースを歩かれたのですね!

何度も白馬界隈にしょっちゅう行っている人ならば、あまり迷わない場所でしょうけど、確かに数回ぐらいしかガイド自身が白馬稜線に行っていないとなると・・・

遭難は秋の時期なので、雪渓は残っていないと思いますが。
確かに白馬山荘のロープはわかりやすいですね。

何度も来たことないならば、そのロープにすがりつく想いで登っていったのかもしれません。ガイドを使うならば、信頼できるガイドと山に行くべきと思う次第です。
http://minminsroom.cocolog-nifty.com/webdiary/2006/11/post_d34e.html

2006/10/16 遭難と山岳ガイド
http://minminsroom.cocolog-nifty.com/webdiary/2006/10/post_d322.html

今週末に参加したクライミングの講習会で、先日の白馬岳の遭難の時のガイドの田上さんを知る人と出合った。私は東京ということもあって、まさか九州をメインにしているガイドさんの情報を得るとは思わなかった。その方とはそのことで多くを語ったわけではないので、ごく概略の話を書くとする。


彼女の記憶によると、たぶん2000年前後頃に参加した日本アルパインガイド協会の講習会でお会いしたのだという。そのときは田上氏はガイド資格をとるためのテスト生のような身分だったそうだ。彼女が参加したのが谷川岳の冬山訓練で雪洞を掘るような内容の講習会とのこと。メインのガイドさんが講師で、田上氏はガイド資格を取る為にガイド助手のような形で皆に接しており、実質はそのときがガイド試験だったそうだ。

そのときの記憶では、あまり綺麗な雪洞はできなかったそうだ(ガイド助手の指導の仕方が悪かったのか、生徒さんのやり方が悪かったのか、はたまた、雪質が悪かったとか、雪が少なかった、多過ぎた等・・・・そのような詳細は教えていただけなかったが。)その後、そのテストには合格して後日田上氏はガイド資格を取得した・・というのが彼女の記憶であった。

彼女の印象では、田上氏は「とてもニコニコしていて、穏やかな性格の方のようでした。」という。だから「強くおばさま達から言われたりすると、言いなりになったり、強く断れないタイプの方ではないだろうか?」というものだ。

結果として、今回4名もの死者が出てしまった。報道では「予想できないほどの天気の急変」等と言っているようだが、自分の予想では北アルプスは荒れるだろう・・・と予想したのでパス。1989年の立山の大量遭難をどうしても必ず自分は連想するので、10月の山は絶対に無理をしてはいけないと思っている。

実際に7日の朝は天気は良くなかった。下界の雨は上では雪が常識。夏でもあんなにきついコースを登る人は稀で、下る人がたまにいるぐらいというコースだと思う。いくら静かなコースが好きでも、屈強な若者ならイザ知らず(若者はあんなところは登らないか? 苦笑)、この時期にはどうかと思う。

引き返す勇気(特に九州からはるばる来ているのだから、大変だとは思うけど)も大切だし、プロガイドならば、代替案の2つや3つぐらい準備してきなさいと思うものだ。

今回の遭難はガイドの天候の判断ミスということだけど、ガイドの性格がもっと厳しくて人をきちんと抑えて説得できることができる性格ならば恐らく今回の遭難は起きなかったのではないだろうか? と、彼女の話を聞いて思った。

凛として断る、厳しいことも言うという部分がないと、ぬくぬくモードのガイドではそれじゃあ、単なる道案内とかボッカ要員、あるいは旅の添乗員・・・・ってことになってしまうんじゃないでしょうか。ヨーロッパのガイドのように、お客を強制に降ろすぐらいの文化も必要かと思う。


【追加情報】
彼女の参加した山の講習会は、3月の谷川岳だったそうです。

その雪洞は、なんと途中で使用中に壊れてしまって、大変な状態になってしまったそうです。

私は実は雪洞を掘ったことがないので、なんともコメントできないのですが、その話を聞いた私の従事しているSガイドによると

「多少の不具合ならばあることだけど、潰れてしまうというのはよっぽど作り方が下手(場所の選定ミスなど)なんですね」

とのこと。3月は谷川は最も雪がある時期なので、確かに作りやすそうに思うのですが・・・・・。やっぱり、田上ガイドは雪との接し方などがイマイチだったのではないでしょうか? 少なくとも本州の雪山得意のガイドに比べるとイマイチなんでしょうかね。

コメント

私もこの事故は本当に「ガイドがついていながら・・」と怒り心頭でした。

3連休は私も当初は北アルプス(後立山)に行く予定でしたが、6〜7日と「台風並みの低気圧」が近づいてたので、諦めて転進しました。

なので、何故ガイドが撤退しなかったのか、不思議でした。

判断できなかった訳はなく、説得できなかったというMINMINさんの分析に、納得した所。

#私は実家が福岡で、母親が地元の山岳会(といってもハイキング程度なのてハイキングクラブか?)に入っているので、ヒトゴトではなく。福岡のガイドはそんなにレベルが低いのか、と愕然として母親に危ない所には行くなと釘を刺しました。(自分は行くけど)

#それにつけても、ヨーロッパのガイドの冷たさ(?)には悲しくなりましたが、あれはあれでプロの仕事なんだな、と少し見方を改めました。

#今年の夏に行ったマッターホルンのテストツアーのポリュックスも2回中止になりました。(2度目はクラインマッターホルンまでロープウェイで行きながら)

私はガイドに文句言う英語力がないので黙ってましたが、同じツアーの参加者のイギリス人は1週間待ちの後だったらしく、

「私は明日イギリスに帰らなければならない」、
「空は青いが引き返すのか」

とプレッシャーをかけていましたが、殆ど“無視”、“相手にせず”といった態度でした。強い。。。
投稿: Hirarin | 2006/10/17 23:18


Hirarinさん

九州出身の方でしたか。より身近に感じることでしょうね。

やはり本州まで飛行機で恐らく来て登る(白馬から栂海新道をへて日本海へのルート)となると、私のような関東勢とは思い入れのレベルは違うとは思います。でも、それが命取りになるのは残念なことですね。

ヨーロッパのガイドは、夏山でも実質は日本の雪山みたいなもんだから、やっぱり絶対に無理をさせないと思います。ホワイトアウトになったりしたら、半端じゃない厳しさだと思いますから。私のときもレポをみていただければわかると思うけど、ポリュックスに登れるまで何日もかかりましたから。
投稿: MINMIN | 2006/10/19 00:29


遭難が起きた日に餓鬼に行ってました。土曜日が悪いのは覚悟のうえ(下から登るだけなので)、日曜日は回復と踏んでいましたが、日曜日は更に悪かった(小屋で停滞)。湿雪と風で、稜線上で行動したら、即疲労凍死といった状況でした。

但し、月曜日は朝から最高の天気で、まさに三段染め、一年に一回あるかないかという好条件でした。

今回の遭難は、穂高の分も含めて、やはり気象遭難と呼ぶべきと思います。雪もそうですが、あの風で稜線で吹かれれば、体温は急激に奪われます。冬の完全装備ならばまた別でしょうが、秋山はやはり怖いというのが実感です。
投稿: Yuji | 2006/10/19 12:55


やっぱりYuji君は予定通り餓鬼岳に登りに行ったのですね。自分も実は候補の1つにはなっていたのですが。私は足の具合もイマイチだったので、行きませんでしたが。

予想は私も全く同じですね。土曜日は小屋までは樹林帯なので登れる・・・。日曜日は回復って私も思いました。

最高の三段染め、いいなあ。。。。あまりいつも秋の山は登っていないので、掲示板の方にでも写真を貼ってみてね。
投稿: MINMIN | 2006/10/19 20:49


ガイド登山、というと参加する方はすっかり安心しがちだと思いますが、ガイドが参加者の体力、耐寒能力などを把握している訳ではないので、難しい面はあるとは思います。が、しかし、ガイドのレベルの差がこれほどあるのも問題だと思います。

他の実力を備えたガイドのためにも、何とかならないのかとは思いました。。。(具体策は思いつきませんが)
投稿: Hirarin | 2006/10/22 19:49

ガイドのレベルの問題は深刻なようですね。最近でこそ、ガイドも登攀ガイドとか、上級登攀ガイドとか、マウンテニアリングガイドとか色々分かれているようですね。ガイド組織も幾つもあるから、どれを選ぶかもあります。

条件の良いときは誰でもいい部分もあるけど、いざという時には頼れる経験豊富な修羅場を潜り抜けてきたようなガイドが頼りになると思います。口コミ情報、ネット情報などをうまく利用して、ガイドさんを使うならば良いガイドと出会いたいですね。
投稿: MINMIN | 2006/10/22 23:55
http://minminsroom.cocolog-nifty.com/webdiary/2006/10/post_d322.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/720.html#c1

[リバイバル3] 2006年10月 白馬岳4人死亡 山岳ガイドに有罪判決  中川隆
2. 中川隆[-7606] koaQ7Jey 2017年6月06日 19:01:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


2006年10月7日の白馬岳遭難

(毎日新聞) - 10月11日12時1分更新

愛した山 悲劇なぜ 白馬岳遭難死 福岡市の古賀さん姉妹

 福岡、熊本両県の男女7人が北アルプス・白馬岳(2、932メートル)で遭難した事故は、両県の女性2人ずつが亡くなる惨事となった。犠牲になった福岡市城南区の古賀利枝さん(66)、純子さん(61)姉妹の知人や親類は、突然の悲報に「慎重に行動する人だったのに信じられない」と言葉を失った。


 「屋久島に行ったときも、富士山に登ったときも『天気が悪くなったから途中で引き返してきた』と話していた。そんな慎重な人が遭難するなんて」。利枝さんの高校の級友、吉田礼子さん(67)=福岡市早良区=は、肩を落とした。利枝さんは高校時代からよく山登りに出かけていたが「どんなときも冷静で、状況判断ができる人。心配したことはなかった」。

今回の出発前にも「今度はすごい装備を背負って長い時間歩くから」と、直前に福岡・佐賀県境の脊振山系で予行演習する念の入れようだったという。

 「山と結婚したような人だった。本人も『山で死んだって私泣かないよ』とよく口にしていたけど、実際そうなってしまうとつらい」と、吉田さんは何度も顔を覆った。

 利枝さんの電話友達という木下久美子さん(66)=同市博多区=は「体重40キロに満たない小柄な体だったから、さぞ寒かったでしょう」と涙で声を詰まらせた。

 また、純子さんが昨年まで勤務していた運送会社の同僚、三崎善文さん(50)=同市南区=は「総務も経理も何でもこなしたが、趣味は仕事ときちんと両立していた。『定年後はたくさん(山に)登れる』とうれしそうに話していて、それがこんなことに」とショックを隠さなかった。

 遭難時、利枝さんはいったんはガイドに抱えられたが、「妹を置いてはいけん」と振りほどき、純子さんの元に残ったという。

 姉妹の兄、博行さん(68)=佐賀県唐津市=は今年の夏、2人が帰省した際に山登りの話で盛り上がった思い出を振り返り、「山登りの暑さに耐えられるよう、夏でもエアコンを使わないで体を鍛えていた。2人とも本当に山が好きでした」と静かに語った。

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登山経験豊富な参加者「予想外の積雪が原因か

 ガイドの田上和弘さんは、日本アルパイン・ガイド協会(東京)の認定ガイドで、ヒマラヤの世界第2の高峰K2(8、611メートル)に挑んだこともある経験豊かな登山家。パーティーは田上さんが募集したツアーで、参加したサブガイドの女性やほかの女性5人も5年以上の登山歴があり、北アルプス縦走も経験していたという。

 田上さんは月に2、3回、福岡市内の登山用品専門店のスタッフとして常連客らに登山に関するアドバイスなどをしていた。同店によると、田上さんは、店内にツアー公告を掲示し、中級者を対象に参加者を募集。応募した6人は、これまでも何度か田上さんのツアーに参加したことがあるという。

 同店の浦一美代表(59)は「田上さんは、夏はほとんど北アルプスに行きっぱなし。経験も豊富で、無理はなかったと思う。予想外の積雪が原因としか考えられない」と話している。

 死亡したとみられる渡辺和江さんの長男の和郎さん(37)は8日午後、大町署に駆け付けた。「(母は)少なくとも4、5年前から山を登り始め、冬山に行くようになっていたし、山がおもしろいようだった。普段から山歩きのトレーニングはしていた。今は捜索を待つだけ。覚悟はできている」と、時折涙を浮かべ不安そうに話した。

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雨か雪か微妙な時期の北ア 荒天予報の中…

 北アルプス・白馬岳で7人パーティーが遭難した7日は、日本の東海上を発達した低気圧が進み、中国大陸から寒気が入り込む冬型の気圧配置となったため、山頂付近は吹雪となった。10月初旬の北アは、雨になるか雪になるか微妙な時期。関係者からは、天候が荒れる予報の中で登山を決行した判断を疑問視する声が上がっている。

 同日救助に向かった山小屋従業員によると、当時の現場周辺は、「あられ状の雪が横なぐりに降りつけ、視界がほとんどない状態」だった。近くの山小屋への避難にかかった時間は20―30分ほど。場所によっては10―15センチの積雪があり、「真っすぐ歩くことも難しかった」という。

 県内は、この低気圧の影響で、7日ころまでは雨が降るとの週間予報だった。長野地方気象台によると、低気圧は台風並みの勢力があり、「天気図から天候が荒れることは予見できた」と指摘する。

 同日午後9時の高層気象観測によると、日本の上空3、000メートル付近では風速25メートルの強風が吹いていた。北ア山頂付近の状況について同気象台は「7日の日中も山沿いでは風速20メートルを超える強風だったとみられ、相当強い吹雪になったと推測できる」とする。

 冬型は8日も続き、松本測候所は平年より15日早く常念岳の初冠雪を観測。南信州広域連合も同日、南ア・仙丈ケ岳で平年より13日早く、塩見岳でも17日早く観測した。

 6日にパーティーが泊まった富山県側の山小屋の従業員は、出発前、田上和弘さんに「雨ですけど大丈夫ですか」と声をかけている。その際、田上さんは2年前の同じ時期にも、雨の中、同じルートをツアーで登った経験を挙げ、「大丈夫」と答えて出掛けたという。

 登山計画書によると、パーティーは7日朝、富山県側の祖母谷(ばばだに)温泉を出発。尾根を登って稜線に至り、同日夜は白馬山荘に宿泊する予定だった。

 しかし、そのルートは「健脚コース」として知られ、10時間前後かかる。県山岳協会の柳沢昭夫会長(66)=北安曇郡池田町=は「この尾根を1日で登るのは、中高年にはきつい。雨でぬれて体力が低下したところに、稜線で強風にさらされたとしたら最悪のケース」と話している。


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「気象判断誤った」ガイドが会見、冬山装備なく

 「想像を絶するブリザードだった。気象判断のミスだと思っている」。北アルプス白馬岳で4人が凍死した九州の7人パーティーの1人で、登山ガイドの田上和弘さん(48)は9日、大町署で記者会見し沈痛な表情で遭難を振り返った。

 入山前日の6日夜、山小屋で見た天気予報からは「低気圧が台風並みに発達するとは判断できなかった」。ヤッケなども冬山に対応できるものではなかったという。

 7日午前5時10分、小雨の中、富山県の祖母谷(ばばだに)温泉を出発。白馬岳の白馬山荘まで約11時間とみた日程のうち、約9時間余で着いた清水(しょうず)岳まではほぼ予定通り。「余裕もあった」という。

 雨がみぞれに変わり、午後3時半ごろには猛吹雪に。7人は腕を組み横一列で歩いたが、「腕がちぎれそうだった」。

 古賀利枝さん、純子さん姉妹は眼鏡が曇り、歩みが遅れる。田上さんを含めた3人と、ほかの4人との距離が開いていった。古賀さん姉妹が進めなくなった。「1人でも担いで小屋に駆け込もう」と、利枝さんを抱き上げようとすると、利枝さんは「妹を置いていけん」と拒んだ。

 取り出したツェルトは強風で飛ばされた。ハイマツのくぼ地に姉妹を入れ、ザックをかぶせた。救助要請のため午後4時半ごろ、その場を離れた。最後に聞いた言葉は「田上さん、ごめんね」だったという。

 田上さんは「皆さんに非常に迷惑をかけました。ご遺族の方につぐなっていなかいといけないと思っている」と話した

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白馬岳遭難:姉妹、悲しみの凍死 想像絶するブリザード /長野

 ◇ガイドの田上さん「自分の天候判断ミス…」

 発達した低気圧の影響で北アルプスは大荒れの天候となり、白馬岳(2932メートル)で九州の7人パーティーが遭難して姉妹2人を含む4人が死亡するなど、県内各地で遭難事故が相次いだ。紅葉で色付き始めた山は突然の積雪で悲劇の現場に急変した。軽装で気軽に登山を楽しむ人が多い半面、寒暖の差が大きく危険性をはらむ山の怖さを改めて印象付けた。

 「妹は置いていけん」。宿泊予定の山荘の目前で亡くなった古賀利枝さん(66)は「とにかく1人でも」と利枝さんを担いで山荘を目指そうとした田上和弘さん(48)を制し、姉妹で残ることを伝えたという。「田上さん、ごめんね」が最後の言葉だったという。田上さんが9日、大町署内で会見し、遭難時を振り返った。
 7日は午後に雨が雪に変わるまで順調だったが、白馬岳から吹き下ろす風を直接受ける場所に差し掛かり、足が止まった。7人が横一列になり腕を組んで歩いたが、姉妹が徐々に遅れた。動けなくなった姉妹に簡易テントをかぶせようとしたが吹き飛ばされ、3人分のザックで風を遮るのが精いっぱいだった。

 好天時なら山荘までわずか15分程度の距離だった。「想像を絶するブリザードで、自分の天候の判断ミス。お客さんを亡くし一生償っていきたい」と憔悴(しょうすい)した。

 ヘリコプターで姉妹を捜索した県警山岳救助隊の小倉昌明さん(46)は、「2人は寄り添うように重なっていた」と発見時の様子を説明した。「湿った雪が吹きつけ、気温も低く厳しい状況だったと思う」と話した。

 7人が選んだ富山県の祖母谷温泉から清水尾根を通るコースは、長距離で10時間以上掛かる健脚者向けだ。展望が良い半面、雨でぬれて風を受けるという。北側の白馬岳や旭岳(2867メートル)から吹き下ろす風を直接受け、一気に体力を奪われたようだ。田上さんは「(参加者は登山の上級者で)登山歴から大丈夫と判断した。(立ち往生する)1時間前はみんな元気だった。真冬並みの装備ではなく、雨具やフリースなどは用意していたが、冬用のヤッケなどの装備はしていなかった。(低気圧が)急激に台風並みに発達するとは思わなかった」と話した。

 長野地方気象台によると、7日は日本海側からの寒気の影響で気温が下がり、標高の高い山では吹雪になった。9日に捜索・救助活動に当たった県警によると、付近の積雪は約10センチ。現場に残されたザックは凍り付いていた。

 県山岳協会の柳沢昭夫会長(66)は「雨でぬれた体が強風に吹き付けられると真冬より厳しい環境になるため、真冬用の装備が必要となる。10月上旬は天候が荒れやすい時期。天候の悪化程度を読み間違えた上に、装備も不十分だったのでは」と指摘した。
     ◇
 地元の北アルプス北部救助隊で隊長を務める降籏義道さん(58)=白馬村=によると、7人が取った富山県の祖母谷温泉から清水尾根を通り白馬岳を目指すルートは、主に下るルートとして利用されているという。ルートの中ほどの不帰岳(2053メートル)付近に不帰岳避難小屋があり、降籏さんは「この小屋を使うなら分かる。日程はあと1日は必要だったのでは」と指摘する。

 不帰岳付近を過ぎて清水尾根に差し掛かると風を遮る場所はないといい、「雨にぬれたまま長時間、風にさらされ、体力を奪われたのでは」と話した。【江連能弘、藤原章博】 (毎日新聞長野支局)

10月9日(月)
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遭難の4人死亡、3人救助 白馬岳のパーティー

 県警は9日朝、北アルプス・白馬岳(2、932メートル)で遭難した福岡、熊本両県の男女7人のうち3人をヘリコプターで救助、女性4人の遺体を収容した。

 大町署によると、死亡したのは熊本市の無職渡辺和江さん(61)と熊本県大津町の無職小場佐香代子さん(53)、山頂付近でビバークしていた福岡市城南区の無職古賀利枝さん(66)、同純子さん(61)の姉妹。同署が死因を調べている。

 山頂付近の山小屋に避難していた福岡県宗像市の無職埜村延子さん(67)と、サブガイドの無職山口千絵子さん(42)=同県春日市=が救助され、大町市内の病院に搬送された。ともに軽傷。

 山小屋で待機していた登山ガイドの田上和弘さん(48)=福岡県大牟田市=もヘリで下山し、同署が遭難の状況について話を聞いている。

 7人が遭難した7日午後の白馬岳は吹雪だった。8日も積雪や強風のため捜索が難航した。(10月09日09:55)

   ◇

 北アルプス・白馬岳(2、932メートル)で7日起きた7人パーティーの遭難で、大町署は8日、北安曇郡白馬村の登山口から県警山岳遭難救助隊員6人を山頂近くの現場に向かわせた。しかし、吹雪や白馬大雪渓での雪崩発生などのため、大雪渓下部の山小屋で待機。ヘリコプターも悪天候で飛ばせず、同日午後5時にこの日の捜索を打ち切った。9日朝から再開する。

 大町署によると、パーティーは、福岡県大牟田市、登山ガイド田上和弘さん(48)が福岡市内の登山用品専門店を通じて募集したツアー登山。同署の調べで、7日に死亡したとみられる2人は、山小屋に収容された女性が熊本県大津町の無職小場佐香代子さん(53)、稜線(りょうせん)上で倒れている女性が熊本市の無職渡辺和江さん(61)と判明した。

 渡辺さんから約100メートル離れた場所では、いずれも福岡市在住で無職の、66歳と61歳の姉妹がビバークしたままとなっているが、連絡が取れないでいる。

 山小屋に収容された3人のうち、パーティーのサブガイドを務めた福岡県春日市の女性(42)と同県宗像市の女性(67)は凍傷などの軽傷。救助要請した田上さんにけがはないという。

 大町署が田上さんから電話で聞いた話によると、7日は午後2時すぎから吹雪になり、着衣が凍り付いたような状態になった。福岡市の姉妹が、掛けていた眼鏡が曇って足元が見えなくなり遅れ気味に。田上さんがこの姉妹に付き、ほかの4人を先に行かせた。

 その後、ビバークするために、姉妹を横たわらせツェルト(簡易テント)をかぶせようとしたが、強風でツェルトが飛ばされた。そこで、3人のザックで姉妹の体を覆い、自らは救助要請へ。稜線に出てから約50メートル登った場所で、先行の4人グループと出会ったが、既に1人が倒れていたという。
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ガイドの二人については;

ネパールヒマラヤ ゴーキョピーク(5,360m)・ニレカピーク(6,159m)
福岡勤労者山岳連盟創立40周年記念海外登山 2006年4月19日〜5月14日(26日間)に8人で出かけて、田上和弘さん等3人だけがポーター二人と登頂成功の記録がある。

久留米山嶺山行報告ネパールヒマラヤ
http://sanreiyamanokai.fc2web.com/kako/060419-0514.htm

http://www5d.biglobe.ne.jp/~mt_singo/hike/hakubasn.htm

白馬岳遭難ガイド書類送検 06年の4人死亡 業務上過失致死疑い
信濃毎日新聞 平成25年12月21日
http://www.naganogakuren.net/scrap/2013/2013.12.21%83K%83C%83h%8F%91%97%DE%91%97%8C%9F.htm


 北アルプス白馬岳(標高2932b)で2006年に熊本県と福岡市のツアー客4人が死亡した遭難事故で、県警捜査1課と大町署は20日、業務上過失致死の疑いで、このツアーを企画し引率した福岡県大牟田市の田上和弘・山岳ガイド(56)の書類を地検松本支部に送った。

「天候悪化そこまでとは」供述

 県警によると、山岳遭難をめぐりガイドの刑事責任を問うのは異例。この事故をめぐっては、死亡した遭難者の1遺族が田上ガイドに損害賠償を求め提訴し、昨年12月、福岡高裁の控訴審で6500万円を田上ガイドが支払うことで和解が成立している。

 送検容疑は、田上ガイドは06年10月7日、悪天候となる中、・福岡市内の登山用品専門店を通じて募集したツアー客4人を引率し、富山県の祖母谷温泉を白馬岳山頂近くの白馬山荘に向かって出発。雨から吹雪となる悪天候下、途中で引き返さずに登山を続けた過失により、同山荘近くでツア一客4人を凍死させた疑い。

 田上ガイドは「そこまで天候が悪くなるとは思わなかった」と供述しているという。

 死亡した4人は熊本県大津町の無職小場佐香代子さん(53)、熊本市の無職渡辺和江さん(61)、ともに福岡市で無職の古賀利枝さん(66)と古賀純子さん(61)の姉妹=年齢はいずれも当時。ツアーにはほかに、サブガイドの女性とツアー客の女性計2人がいたがいずれも軽傷だった。田上ガイドにけがはなかった。

 県警は事故発生後まもなく実況見分などを実施。事故発生時の天候状況と変化などを確認するため、複数年にまたがって、同じ時期に実況見分を実施するなどしたため、立件に時間がかかったという。

妻亡くした夫「悔しい」憤り

 長野県警が20日、山岳ガイドを書類送検したのを受け、妻を亡くした熊本県大津町の小場佐正文さん(68)は「妻がいてくれれば良かったと思うことがたくさんある。悔しくてたまらない」と語った。

 亡くなったのは小場佐さんの妻香代子さん=当時(53)。1997年から、小場佐さんの趣味の山登りを一緒にするようになった。香代子さんは「山に咲く花が好きで次第に山に通い詰めるようになり、事故の3カ月前にはイタリア・スイス国境のマッターホルンに登るほど体力がついたという。事故の連絡を受け、長野まで車で駆け付け、遺体と対面した際は「言葉が出なかった」。

 「少しでも天候が悪くなったら山を下りるのが山登りの基本。なぜ引き返さなかったのかと聞きたい」。小場佐さんはガイドの男性に損害賠償を求める訴訟を起こし、一審熊本地裁で勝訴、二審福岡高裁で和解した。

 「民事裁判では謝罪も納得できる説明もなかった。検察は起訴して真実を明らかにしてほしい」と求めた。

 

悪天候.予見可能と判断 県警

 白馬岳付近で2006年10月にツアー客が4人死亡した遭難事故で、引率したガイドの刑事責任が問われることになった。専門家によると、自然相手の登山ガイドの刑事責任が認められた例は国内で少ない。登山ガイドの業界は、あらためて再発防止の徹底を図る機会と捉えてもいる。

 業務上過失致死容疑で書類送検された田上和弘ガイドは、日本アルパイン・ガイド協会(東京)の認定ガイドで、ヒマラヤの世界第2の高峰K2(8611b)の登山経験もあった。同協会によると、「田上ガイドは冬山の研修会などで審査を経て04年ごろにガイドの認定を受けたという。

 県警はこうした経歴がありながら遭難死が起きた点を重要視。登山の専門家の意見を聞く一方、白馬岳周辺の気象状況などを把握するため、複数年にわたり事故と同じ10月に実況見分の登山を実施した。田上ガイドや当時のツアー客を連れて同じ登山ルートをたどった。その結果、捜査関係者によると、この時期の白鳥岳での吹雪は「特別ではない」(捜査幹部)ことが裏付けられたという。

 県警はさらに、事故当時は雨から雪へと天候が変化し、田上ガイドが天候悪化を予見できたと判断。途中、避難小屋にも寄り、そこにとどまったり、引き返したりする判断は可能だったのに、それを怠ったと判断した。

 山岳遭難事故の訴訟に詳しい溝手康史弁護士(広島県)によると、近年、ガイドが引率した遭難事故の民事訴訟は増えている。ただ、刑事事件となると別だという。

北海道・羊蹄山でツアー客2人を死亡させたとして旅行会社の添乗員が業務上過失致死罪に問われた裁判では、04年に有罪判決が出た。

一方、青森県の八甲田山系で07年にツアー客2人が雪崩で死亡した事故では、ガイドが業務上過失致死傷容疑で書類送検されたが、起訴猶予処分となっている。

溝手弁護士は白馬岳の事故について、「吹雪の予見可能性を示さなくてはならず、検察が起訴の判断をするか注目される」とする。

 書類送検を受け、田上ガイドが所属する日本アルパイン・ガイド協会の勝野惇司専務理事は「同じことを繰り返さないようガイドの指導を徹底させていきたい」と話した。北安曇郡白馬村の白馬山案内人組合に所属する登山ガイドの田中要さん(64)は「登り続けたいと思う客の期待に応えたいというガイドの思いもあるが、プロとして命を預かっている以上、ガイドは引き返す判断をしっかりしないといけない」とし、あらためて責任の重さを感じていた。


 ツアー客4人死亡の白馬岳遭難事故 福岡県大牟田市の田上和弘・山岳ガイドが福岡市内の登山用品専門店を通じてツアーを募集し、ツアー客5人とサブガイドの女性計6人が参加。県警によると、登山ツアーは5泊6日の日程で計画。遭難した10月7日は、午前5時過ぎに白馬岳山頂近くの白馬山荘を目指して祖母谷温泉を出発。低気圧の接近に伴って当時の天気は小雨だった。白馬山荘に向かう清水(しょうず)尾根途中にある避難小屋に立ち寄った同10時ごろも天気は雨だったという。その後、雨はあられ、さらに雪へと変わり、白馬山荘手前では吹雪の状態だった。ここでツアー客4人が動けなくなり、凍死した。
http://www.naganogakuren.net/scrap/2013/2013.12.21%83K%83C%83h%8F%91%97%DE%91%97%8C%9F.htm

白馬岳の4人死亡遭難、福岡のガイドを書類送検 2013/12/24
http://lcymeeke.blog90.fc2.com/blog-entry-2133.html?sp

事故当日の状況について、中日新聞から、
関係者証言で「7年前」に迫る 白馬岳遭難

2006年10月、北アルプス白馬岳(2932メートル)で2006年、福岡・熊本両県の登山客の女性4人が死亡した事故は20日、ガイドを務めた福岡県大牟田市の男性(56)が悪天候の中、ツアーを強行したとして、業務上過失致死容疑で書類送検された。
なぜ、男性はツアーを決行する判断をしたのか。
関係者の証言から、7年前の事故当日の状況に迫った。

 ■出発
 06年10月7日午前5時ごろ。

ガイド率いる計7人のパーティーは、白馬岳に向けて、富山県側の欅平の山小屋を出発しようとしていた。

山小屋の管理人によると、この時点で天気は小雨。
高地へ行けば雪に変わる可能性が高かった。

 登山経験の豊かな宿泊客が「この様子だと上は風が強くて危険だよ」と注意を促し、管理人も「この天気で大丈夫?」と問い掛けた。

しかし、ガイドは、数年前に同じような天候の中、同じルートを登った経験があったことを明かし、「大丈夫」と答えた。

管理人は「過去の経験を過信したのかもしれない」と振り返る。


 ■厳しいルート

 山小屋を出発した一行が通ったルートは厳しいものだった。

傾斜のきつい上り坂が続き、目的地まで17.8キロと距離も長い。
山岳関係者は

「体力がある大学生の山岳部でも相当きついルート。
一概には言えないが、中高年層は体力的にも厳しいのではないか」

と指摘する。

亡くなった4人は53〜66歳でいずれも女性だった。


 ■遭難

 同日午後5時半ごろ、目的地だった白馬岳の山荘にガイドの男性が救助を求めて駆け込んだ。

山荘副支配人の井崎香生さん(55)によると、稜線上は20メートルの横なぐりの猛吹雪で、風下に顔を向けながら現場に駆けつけたという。

 死亡した4人は山荘から4百メートル以内の地点で見つかった。

井崎さんは

「どこかで引き返す判断があれば、避難小屋などで助かったかもしれない。
登山者はガイドを信頼して登るのに、本当に残念だ」

と肩を落とした。

 ■ガイドの責任
 日本山岳ガイド協会の武川俊二常務理事は

「天気予報では前日から天候が荒れることが分かっていた。
出発時の天気や山小屋からの警告などから、ガイドも危険性に気づけたはずだ」

と指摘する。

 北海道・大雪山系トムラウシ山で2009年、中高年の登山客ら8人が凍死した遭難事故など、ガイドの判断ミスで惨事につながるケースは後を絶たない。
武川理事は

「ガイドは登山者の体力や技量も見て適切な判断を下さないといけない。
ガイドの安全管理研修などに力を入れて能力を向上させたい」

と、事故の教訓を語った。

「登山者はガイドを信頼して登るのに、本当に残念だ」

まさにその通りで、ガイドを信じ、頼りにして付いていくものですが、
登山でよく言われる“自己責任”は自分の命は自分で守ると云うこと、
客側も、ガイドに盲目的に従っていては身を守ることはできません。

とは云え、仲間に迷惑をかけてしまうし、いまさら「引き返したい」などとは言い出しにくいものです。

けれど、一人がムリをしたため、全体の足を引っ張って移動速度が低下し、危険地帯に長く居続けてしまうような状況は、結果的に仲間を道連れにしてしまうような状況になりかねず、その方が最悪です。

団体登山は個個の集まりだと云うことも忘れてはいけません。
http://lcymeeke.blog90.fc2.com/blog-entry-2133.html?sp


白馬岳遭難を考える

 2006年10月7日(土)に福岡・熊本の男女7人のパーティのうち、4人が死亡する事故が起きた。

死亡したのは全て女性で年齢は53、61、61、66歳。

 この週の前半には太平洋上で台風16号と17号が発生し、5日から8日にかけて低気圧となって四国沖から東進し、関東南岸から北上して宮城県沖を経て、北海道東岸まで移動している。6日には宮城県沖と鹿島沖で船が座礁。7日は典型的な西高東低の冬型の気圧配置で宮城県沖での低気圧は964hPa(ヘクトパスカル)で完全な台風並みの勢力であった。

 このパーティは7日5時に白馬岳南西の祖母谷温泉小屋(標高約800m)を出発したらしい。距離にして約15km、標高差約2100m。地図を見ると分かるが、猿倉(標高1230m)から大雪渓を経由して白馬岳に至るコースが約6km位。この2倍以上のコースである。ヤマケイ登山地図帳で標準タイムを見ると、猿倉からの大雪渓コースが6時間20分。今回遭難した祖母谷温泉小屋からのコースは10時間50分。雨の中を出発したと言うから60代以上の高齢者には結構最初から厳しい状態であったと考えられる。

 一方、10月頃の山の天候は一旦荒れると雪になり、過去に凍死による遭難事故も発生している。

1989年10月8日には北アルプス立山三山を縦走中の中高年パーティ10人が悪天候で遭難し、吹雪の中で8人が凍死している。一行は悪天の接近を知りながら出発し、不調者が出ても行動を続け、稜線上で凍死したらしい。

また、1999年9月には羊蹄山で悪天候によりツアーからはぐれ、3人が頂上付近でビバークし、2人が凍死した。死亡した一人は京都の女性で百名山の百座目だったらしい。その時、女性の死亡を見取った男性は体感気温は−30℃位だったと証言していたと思う。

 標準タイム10時間以上のコースを60歳代の高齢者を連れて、それも雨の中を出発させた48歳の登山ガイド。メンバーはそれなりに山の経験もあり、訓練もしていたようであるが、やはり高齢であれば緊急時の余力が少ないのは当然であろう。気力が萎えた時が死ぬときになる。実際、今回死亡した4人は白馬山荘や村営頂上宿舎から200〜300mの範囲内で死亡している。

 白馬岳には1999年9月26〜27日に猿倉から登った。大体、私は標高2700m位を超えると空気が薄くなったと感じる。白馬山荘に泊まったら手が浮腫んでぽつぽつが生じた。元々、高所には向いていないような気がする。羊蹄山の頂上付近ではガスで方向が分からなくなり、30分以上うずくまって一瞬でもガスが晴れるのを待った。冷たい強風に吹かれると急激に心が萎えてくるのを感じる。このまま吹かれ続けると多分、死ぬんだろうと思うときがある。冷たい風には人間の気力を奪う強烈な力がある。

 1999年版ヤマケイJOY 秋号。白馬岳を紹介したp121に次のように書いている。「難所はほとんどないが稜線での天候判断は慎重に 暴風防寒対策はしっかりと。また稜線は、10月に入ればいつ降雪があってもめずらしくない。天候判断を慎重に」

 48歳の登山ガイドはヘリで下山後、メンバーについて「登山暦は豊富で、このルートを歩いた人もいる。体力面での心配はなかった」と言っているが、基本的に60代の高齢者の余力を考えていない。また、「過信があったわけではない。ただ、天候を見誤ったのは自分の判断ミスだ。」と言っているが、前日から荒れ狂った低気圧と中学生でも分かる完全な西高東低の冬型気圧配置なのに完全に山を舐めているか、過信しているとしか考えられない。

 北海道の斜里岳に登った時、この日は等圧線の間隔が広く、暑い日で天気予報も大気が不安定と予報していた。頂上では周囲が見渡せたが、曇り始めたので危険を感じて直ぐに下山を開始した。落雷を避けるために予定していた尾根コースではなく、登りに使った渓流コースを下った。途中で子供達を連れた家族連れが登ってきたので

「大気が不安定で雨になる可能性があるので下山した方が良いですよ。」

と忠告したが、その家族連れは昼食を採れる適当な場所まで登ると言って登っていった。その5分後位には足下で雷鳴。豪雨となり渓流はあっという間に濁流となった。

子供達を助けに他の登山者と登り返したが、こちらの身の方も危険になったのでやむを得ず下山した。幸い雨は比較的短時間で止んだので、暫く待っておれば渓流の水も減少したと思うが、下山後、登山口の山小屋の主人に「天候悪化は明らかなのに何故、子供連れの家族を登らせたのか」と詰め寄った。

「注意しても言うことを聞かない」との事であった。

 個人的には病院で死ぬよりは、山で死んだ方が良いとの気持ちを持っているが、山で死ねば人に迷惑を掛ける。特に今回のような遭難では2重遭難で他人を巻き添えにする可能性もある。既に個人の遊びの領域を超えているのである。プロの山岳ガイドがこのような初歩的な天候判断ミスをするのであれば、第3者が入山禁止の処置を取らせるしかないのかもしれない。

今回、死亡事故は白馬岳の他に奥穂高、大雪山系旭岳でも起きている。今回のような荒天が最初から分かっているような場合、山小屋や登山口で登山禁止処置を取らないと山を舐めた人間の後始末にどれだけの金を使い、他人を危険に晒せばよいのか。もう、そこまで考える必要があるのではないか。
http://judo.daa.jp/z%20sirouma%20sounan.htm

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/720.html#c2

[リバイバル3] 2006年10月 白馬岳4人死亡 山岳ガイドに有罪判決  中川隆
3. 中川隆[-7605] koaQ7Jey 2017年6月06日 19:26:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

北アルプス縦走 白馬岳〜清水岳〜祖母谷温泉 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%99%BD%E9%A6%AC%E5%B2%B3+%E7%A5%96%E6%AF%8D%E8%B0%B7%E6%B8%A9%E6%B3%89
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/720.html#c3
[リバイバル3] ジャズ喫茶「ベイシー」の選択 _ JBLの本当の音とは 富山誠
79. 中川隆[-7604] koaQ7Jey 2017年6月06日 20:41:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

自宅システムで中高域のユニットを替えて遊んでいる - Mr.トレイルのオーディオ回り道
http://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9a52a4adb51daf70d1fc1f62a447844c


ユニットが7個有りますので、ネットワーク方式では1台のアンプへの負担が大きすぎて、3〜4個のユニットを鳴らす様にしています。

基本形はD130の低域と#375の中域は固定です。
この2ウェイでも十分音楽は楽しめます。フラットな特性です。

しかしこれでは弦楽器に潤いが有りません。これにDECCAリボンツィーターを追加して3ウェイにして聴くと、弦楽器の艶やかさやヴォーカルの声の潤いが出て来ます。

これに、JBLの#2405を加えればJAZZもこなしてくれるようになります。
#2405を加えると「音のキレ」が上がります。

本当はプリアンプの出力を2系統準備していますので、パワーアンプを2台にして

@低域+中域(40Hz〜)A高域(7000〜100KHz)を持たせる様に予定しています。

使っているネットワークはN500(500Hz)と#3105(7000Hz)です。

#375は10000Hzくらいまでは出ています。
更にハイルドライバーを組み合わせると22000Hzくらいまで出せます。

低域は今まで通りの使い方で中域と高域のユニットの組み合わせで色々遊べるように作っています。それぞれにユニットにはSP端子を設け、ネットワークのSP端子も増やしてあります。

音楽部屋のサブシステムの音質レベルが下がる事を我慢すれば、ケーブル類を自宅システムに持って行けます。現在ケーブル不足ですね。ケーブル材料はストックが有るので、作ればよい事です。梅雨の雨の日に作ってしまいましょうね。

7つのユニットすべてをネットワーク方式で鳴らせれば、元の音質に復帰できます。ちなみに高域用のネットワーク#3150の内部配線は交換済。HF側だけ使って接続の予定です。
http://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9a52a4adb51daf70d1fc1f62a447844c
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/402.html#c79

[不安と不健康15] コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ)  赤かぶ
199. 中川隆[-7603] koaQ7Jey 2017年6月07日 05:17:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

recombinant bovine growth hormone- 遺伝子組換え牛成長ホルモン
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/414980465.html


カナダ、EUはじめ、欧米の圧力に屈して危険な添加物を使っている日本ですら禁止された超がつく曰く付きのものらしいですが、アメリカでは何故か使用が認められ、未だ恐ろしいミルクが販売されているようなんですね。

名前だけ聞くといまいちピンときませんでしたが、簡単いうと危険度満点の人工ホルモン注射を打って急成長させた乳牛のやばいミルク。みたいです。


「遺伝子組み換え牛成長ホルモン」投与牛のミルクはガンを誘発する より

http://www5.ocn.ne.jp/~kmatsu/kumikae508.htm


(引用開始)

これは、アメリカのモンサント社が製造しているもので、遺伝子組み換え牛成長ホルモンとしてアメリカで唯一認められている薬品である。アメリカの畜産農家の約15%(17000戸)がrBGHを使用しており、全米の牛の約30%が、月2回rGBHを注射されているといわれている。


このrBGHを子牛に注射すると、非常に早く成長するため、飼料の効率がとてもよくなる。また、乳牛に注射すると、通常よりも二週間も長く乳を出すため、1頭からとれるミルクの量が15%から20%も増加する。しかし、このrBGHにはさまざまな問題点が指摘されている。


まず、rBGHを投与された牛は乳腺炎にかかりやすくなるため、ミルクのなかに膿汁が混入する。また、乳腺の炎症を抑えるために抗生物質が投与されるため、それがミルクに残存することが懸念されている。さらに、イリノイ大学のエプスタイン教授は、1996年に発表した論文で、rBGHを投与された牛のミルクを飲んだ人に、乳ガンや大腸ガンが発生しやすくなる危険があることを指摘している。

(引用終了)


なぜここまで危険と言われているのにアメリカで売り続けられるのか原因がわかりました。このホルモン剤を製造販売しているのが米国モンサント社。ロックフェラー財団の支援を受けている会社でした。これらにかかったら何でもありですもんね。故にです。


日本では禁止されているから大丈夫だね〜と安心している方、驚くなかれ!ハーゲンダッツ、ブレイヤーズ、バスキン・ロビンス(31アイスクリーム)はばっちりrBGHのミルクを使っているみたいですよ。ハーゲンダッツなんか添加物がないような売りのアイスクリームなのにとんでもない裏がありましたね。うぅ、、結構食べてたよ〜 泣


この遺伝子組換え作物を作りまくっているモサント社の作物や種子が今後TPPにより堂々日本の農業に参入し市場に出回る可能性が大きいわけですねぇ・・震!


世の中怖いことばりでございます〜 泣
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/414980465.html
http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html#c199

[不安と不健康16] 牛乳はカルシウムを奪い骨を弱める。毒素をだし、血液を汚す。タバコの害どころではない。政治的圧力や宣伝攻勢で洗脳 てんさい(い)
74. 中川隆[-7602] koaQ7Jey 2017年6月07日 05:17:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

recombinant bovine growth hormone- 遺伝子組換え牛成長ホルモン
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/414980465.html

カナダ、EUはじめ、欧米の圧力に屈して危険な添加物を使っている日本ですら禁止された超がつく曰く付きのものらしいですが、アメリカでは何故か使用が認められ、未だ恐ろしいミルクが販売されているようなんですね。

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「遺伝子組み換え牛成長ホルモン」投与牛のミルクはガンを誘発する より

http://www5.ocn.ne.jp/~kmatsu/kumikae508.htm


(引用開始)

これは、アメリカのモンサント社が製造しているもので、遺伝子組み換え牛成長ホルモンとしてアメリカで唯一認められている薬品である。アメリカの畜産農家の約15%(17000戸)がrBGHを使用しており、全米の牛の約30%が、月2回rGBHを注射されているといわれている。


このrBGHを子牛に注射すると、非常に早く成長するため、飼料の効率がとてもよくなる。また、乳牛に注射すると、通常よりも二週間も長く乳を出すため、1頭からとれるミルクの量が15%から20%も増加する。しかし、このrBGHにはさまざまな問題点が指摘されている。


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(引用終了)


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http://www.asyura2.com/13/health16/msg/629.html#c74

[不安と不健康16] 牛乳・チーズ・ヨーグルト、発がん性の危険 寿命短縮や骨折増加との調査結果も(Business Journal) 赤かぶ
7. 中川隆[-7601] koaQ7Jey 2017年6月07日 05:18:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

recombinant bovine growth hormone- 遺伝子組換え牛成長ホルモン
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/414980465.html

カナダ、EUはじめ、欧米の圧力に屈して危険な添加物を使っている日本ですら禁止された超がつく曰く付きのものらしいですが、アメリカでは何故か使用が認められ、未だ恐ろしいミルクが販売されているようなんですね。

名前だけ聞くといまいちピンときませんでしたが、簡単いうと危険度満点の人工ホルモン注射を打って急成長させた乳牛のやばいミルク。みたいです。


「遺伝子組み換え牛成長ホルモン」投与牛のミルクはガンを誘発する より

http://www5.ocn.ne.jp/~kmatsu/kumikae508.htm


(引用開始)

これは、アメリカのモンサント社が製造しているもので、遺伝子組み換え牛成長ホルモンとしてアメリカで唯一認められている薬品である。アメリカの畜産農家の約15%(17000戸)がrBGHを使用しており、全米の牛の約30%が、月2回rGBHを注射されているといわれている。


このrBGHを子牛に注射すると、非常に早く成長するため、飼料の効率がとてもよくなる。また、乳牛に注射すると、通常よりも二週間も長く乳を出すため、1頭からとれるミルクの量が15%から20%も増加する。しかし、このrBGHにはさまざまな問題点が指摘されている。


まず、rBGHを投与された牛は乳腺炎にかかりやすくなるため、ミルクのなかに膿汁が混入する。また、乳腺の炎症を抑えるために抗生物質が投与されるため、それがミルクに残存することが懸念されている。さらに、イリノイ大学のエプスタイン教授は、1996年に発表した論文で、rBGHを投与された牛のミルクを飲んだ人に、乳ガンや大腸ガンが発生しやすくなる危険があることを指摘している。

(引用終了)


なぜここまで危険と言われているのにアメリカで売り続けられるのか原因がわかりました。このホルモン剤を製造販売しているのが米国モンサント社。ロックフェラー財団の支援を受けている会社でした。これらにかかったら何でもありですもんね。故にです。


日本では禁止されているから大丈夫だね〜と安心している方、驚くなかれ!ハーゲンダッツ、ブレイヤーズ、バスキン・ロビンス(31アイスクリーム)はばっちりrBGHのミルクを使っているみたいですよ。ハーゲンダッツなんか添加物がないような売りのアイスクリームなのにとんでもない裏がありましたね。うぅ、、結構食べてたよ〜 泣


この遺伝子組換え作物を作りまくっているモサント社の作物や種子が今後TPPにより堂々日本の農業に参入し市場に出回る可能性が大きいわけですねぇ・・震!


世の中怖いことばりでございます〜 泣
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/414980465.html

http://www.asyura2.com/13/health16/msg/740.html#c7

[不安と不健康15] コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ)  赤かぶ
200. 中川隆[-7600] koaQ7Jey 2017年6月07日 05:22:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

Sodium Nitrate- 硝酸ナトリウム:防腐剤兼発色剤
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/414980465.html


これぞ発癌性物質の温床といっていい添加物のようです。食品添加物の中では、急性毒性が非常に強く、魚肉・魚卵・食肉などに含まれるアミンと胃の中で結合して、発がん性物質のニトロソアミンに変化するそうですよ。

添加しなくてもいいのに綺麗に見せることを主眼に置いた食品メーカーがこぞって使ってますね。大体この手の食品添加物漬けの食品はコンビニで気軽に買えますね。


(主に硝酸ナトリウムが多く使われているもの)

食肉製品(ハム・ベーコン・サラミ・ウインナーソーセージなど)、魚肉ソーセージ、魚肉ハム、イクラ、スジコ、タラコ(明太子を含む)
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/414980465.html

http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html#c200

[不安と不健康15] コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ)  赤かぶ
201. 中川隆[-7599] koaQ7Jey 2017年6月07日 05:34:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

危険野菜ダントツ第1位は ほうれん草 です!
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/427187711.html


ただでさえ葉物野菜には直接大量の窒素肥料を与えるのですが、ほうれん草は野菜の中でも加熱して食べる野菜なので口の中で悪魔の毒物(亜硝酸塩)に変身する量が特に増えるそうです。

更に!更に!前の記事
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/427187711.html

でも紹介しましたが、ほうれん草は追い打ちをかけ、2015年政府は農薬の量の規制緩和に踏み切り、今までより数百、数千倍に及ぶ基準値緩和で農薬たっぷりです。

しかもネオニコチノイド系農薬は植物の根っこから吸わせる水溶性農薬ですので、ほうれん草の中には農薬と硝酸塩がしこたま入った猛毒の野菜になってしまっているんです・・・(怖)

ほうれん草以外の危険葉物野菜は 小松菜、チンゲンサイ、水菜、春菊 などがあげられます。ちなみにこれらは規制緩和となったネオニコチノイド系農薬のかかっている野菜が多いのです。


知らないとマズイ!「化学肥料で作られた野菜」はとてつもなく危険!


一般的に農薬については意外と身近に害を感じていますが、この化学肥料栽培については、広く知られることなく議論されないのが現状です。しかし!これが、とてつもなく危険な野菜になってしまうこと知ってましたか?これはホントに驚くべき実態なんです。

野菜を作るのになぜ肥料を使うのかというと、簡単に枯れず、形も綺麗で大きく、早く大量に収穫できるようにするための成長促進剤なんですね。

なので、そうした消費者受けする野菜や果物を作るため近代農法によって品種改良を続けてきた結果、肥料も同時に人工的な化学肥料になっていったのです。

そういう意味で今の野菜は昔の人が食べていた元祖の野菜や果物とは似て非なるものなんですね。

さて、その肥料。植物の栄養主成分には「窒素」がないと育たないんですね。有機の場合は、アンモニア成分→土壌の細菌が活性化→植物の栄養素「硝酸態窒素」へと変化します。化学肥料の多くは、そんな面倒くさい事せずにはじめから「硝酸態窒素」が含まれてるんですね。

この硝酸態窒素は硝酸塩という物質で、これを含んだ野菜や果物を食べると唾液と反応して悪魔の「亜硝酸塩」に変身してしまうことが分かっています。

これは、有機肥料より野菜や果物に直接与える化学窒素肥料のほうが悪魔の毒物(亜硝酸塩)になる量が多くなるわけですが、亜硝酸塩を摂取する有害性は農薬の比にならないそうです。

この亜硝酸塩は超猛毒の為、乳幼児の大量の摂取は死亡したケースが過去にあったようです。

また、大人も胃に入ると、とにかく強力な発がん性物質「ニトロソアミン」が大量に発生することが分かっています。

食品添加物に含まれる硝酸塩はソーセージなどの加工食品の食品添加物に入っており超危険物質として問題になっています。

詳しくは「発表!食品添加物ワースト10(後半)〜まだ買う?コンビニ商品」
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/414980465.html

亜硝酸
http://shinhakken-blog.up.n.seesaa.net/shinhakken-blog/image/E4BA9CE7A19DE985B8.png?d=a1
↑これはWHOが規制している1日の摂取量は体重1kg で3.7mgですので、歳によって摂取許容量の上限が変わります。ところが、普通に野菜を摂取するとこの基準値を殆どの人が超えてしまうのです。

もともと国や機関が基準化する数値自体の安全性など眉唾なのにその基準を超えてしまう毒量を摂取していることになるのです。健康のために野菜をとっているつもりが、猛毒を飲んでいることになるという何とも皮肉な状況に陥っているんですね。
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/427187711.html
http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html#c201

[リバイバル3] マルクスはやはり正しかった _ もうすぐ共産革命の嵐が吹き荒れる時代がやって来る 中川隆
38. 中川隆[-7598] koaQ7Jey 2017年6月07日 05:42:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

バブル崩壊、就職氷河期、引きこもり、格差の次に何が来る?



金融広報中央委員会が実施した「家計の金融行動に関する世論調査(単身者)」の2016年版を見ると、ここ10年で金融資産を持たない世帯比率がどんどん上昇しており、今や48.1%にもなっていることが結果として記されている。

2007年は30%だったので10年経って「貯金がない層」が約18%も増えたということになる。

収入を得ることができない高齢層が人口比率で見ると増えているので「貯金がない」という層が増えるのも当然だと私たちは漠然と思う。

確かに金融資産を持たない高齢層は増えている。しかし、それだけが原因ではない。

「金融資産非保有世帯」を年齢別に分けて時系列で見てみると、ここ10年でどんどん比率を上げているのは高齢層ではなく、実は20代であることが分かる。

分かりやすく言うと、「ここ10年で20代の貯金がない層が増えた」ということだ。この10年は高齢層にとって苦しい時代だったというよりも、むしろ20代にとって苦しい時代だったということになる。

銀行等の預貯金口座を持っているのだが、「残高がない」が14.4%もある。実に切ない状況だ。

1993年、日本の社会でいったい何があったのか?

若年層が経済的に苦しむようになったのは、1993年からだと言われている。この時期に何があったのか。日本を覆い尽くしていたバブルの完全崩壊である。

1990年にバブルが崩壊し、1993年にもなると土地バブル、株式バブルに踊っていた企業のほとんどが業績を急激に悪化させていった。

バブルが崩壊したばかりの1990年から1992年までは、まだ「ここで踏みとどまれば再び日本の陽は昇る」と考える経営者も多く存在していた。

そのため、バブルが崩壊していく最中に、さらなる借り入れをして暴落した株式や土地を買い漁る強気な経営者もいた。ところが、崩壊したバブルは戻らなかった。

高値の不動産や株式をしこたま買い込んだ企業はたちまち莫大な負債に身動きが取れなくなり、経営が悪化していった。

会社の資産や業績が急激に悪化していく中で、ほとんどの企業は自衛のためにに支出を引き締め、求人を取りやめたり、人減らしをするようになっていった。

そこで起きたのが「就職氷河期」である。

就職したくても仕事が見付からない。働きたくても企業が求人しなくなる。企業はバブル期に大量の人間を採用したのだが、この人員が莫大なコストになって、もはや新規の求人どころではなくなったのだ。

さらに、悪いことが起きていた。この頃からグローバル化が本格的に始まって、日本企業は新興国との激しい価格競争に巻き込まれていき、賃金の高い日本人を雇う余裕が急激になくなっていった。

かくして、若年層は仕事を探しても見つからず親にパラサイト(寄生)しながら、アルバイトのような仕事で細々と生きていくしかなくなった。こうした若者を当時の社会はこのように罵った。

「負け組」……。


働かないで自室に引きこもる人は時代が生み出した

誰が彼らを「負け犬」と言っていたのか。それは、バブルが崩壊する以前に就職できた人間たちである。

1990年代は、まだ運良く会社に潜り込めた人間がいたので、就職氷河期によって仕事が見付からない人が社会の変化の犠牲になったという理解がなかった。

特にバブル期であった1986年から1989年までに、引く手あまたで就職できた人たちにとっては、「就職できない」というのは実感としてまったく理解できないことでもあった。

この世代は後に「バブル世代」と言われるようになるのだが、バブル世代は豊かな日本経済を享受できた最後の世代であったと言える。

もっとも2010年代に入ると、この世代がリストラの対象となって路頭に迷うことになる。

就職氷河期の若年層を「負け犬」と言っていたバブル世代も、また2010年代には「負け犬」になったというのは皮肉な巡り合わせだ。

「負け犬」と指をさされた就職氷河期の若年層は、バブル世代の若年層と何が違ったわけではない。違ったのは、就職する時期になって日本の経済環境が大きく激変して、その波をまともに食らったという部分だ。

彼らは翌年には状況が改善されているかもしれないと期待を寄せたが無駄だった。日本経済は回復せず、状況は後になればなるほど悪くなっていった。

莫大な不良債権を抱えた銀行は必死になって貸し剥がしに近い資金回収に走っていたのだが、それでもバブル崩壊に対処できなかったのだ。

その結果、1995年には兵庫銀行が破綻し、1997年以後は北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行が次々と破綻した。

株価崩壊で証券会社も立ちゆかなくなり、山一證券も三洋証券も吹き飛んでいった。結局、就職氷河期の若年層は助からなかったのだ。

引きこもりやニートは、2000年代に入ってから日本の社会問題となったのだが、働かないで自室に引きこもる人たちはこの世代から生まれている。

それは、時代が生み出していたのだ。


この「負のスパイラル」は何を生み出すのか?

もちろん、就職氷河期の若年層でも何とか就職活動に成功した人もいる。彼らは自分たちが幸運だったことを感謝し、給料が安かったり昇進しなかったりしても淡々と働いた。

就職に失敗したら、非正規雇用で働くか、引きこもりになるしかないのだが、実際に自分たちの回りを見回すと同年代の若者がそのようになっていた。

「雇ってもらう」というのがどれだけ厳しいことなのかを就職活動で骨身に染みた彼らは「正社員」という地位にしがみついた。

その結果、何が生まれたのか。格差である。

何とか就職できて地道に働いて賃金をもらえる人と、低賃金の非正規雇用者や無賃金の引きこもりやニートに、貯金や資産形成に差が生まれるのは当然のことである。

その差が埋めがたいものとして社会問題化するようになったのが2005年頃からである。

この頃になると、「就職できなかった若者たちは本人の責任ではなく社会にも問題があったのだ」という認識が浸透するようになっていた。

それまでは「働けない、食べていけないのは努力が足りないからだ、自己責任だ」という突き放した声も多かったのだが、やっと社会は「時代が働けない若者を生み出していた」ということに気付いた。

しかし、気付いた時はもうすでに遅く、若年層の人生は破壊されていた。

彼らはまともな仕事を得ることもできないまま、30代や40代になり、ますます仕事が見付からなくなっていたのだ。

一方でグローバル化はもはや完全に定着して、日本企業は終身雇用も年功序列も維持できなくなっている。さらにインターネット化も進んで効率化がより加速し、雇用は減らす方向に向かっている。

年によって波があるので、一時的に雇用が増える現象も見られるのだが、大きな波としては凄まじい技術革新と効率化によって雇用は消え去る方向に向かっている。

つまり、バブル崩壊、就職氷河期、引きこもり、格差……と続いてきた社会の動きはまだ終わっていない。この次に、この「負のスパイラル」は何を生み出すのか。

それは完全なる貧困層とスラムである。

仕事もない、努力しても這い上がれない、貯金どころか生活もできない層が社会の底辺で膨大に増え、彼らが増えるとスラムも生まれる。

このまま推移するなら、日本に極貧層と彼らが住むスラムが誕生したとしても不思議ではないと思わないだろうか。


仕事もない、努力しても這い上がれない、貯金どころか生活もできない層が社会の底辺で膨大に増え、彼らが増えるとスラムも生まれる。このまま推移するなら、日本に極貧層と彼らが住むスラムが誕生したとしても不思議ではないと思わないだろうか。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/06/20170606T1748550900.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/704.html#c38

[リバイバル3] 2015年 かぐらスキー場スノボ遭難 雪洞に2晩ビバークして奇跡の帰還 _ 練子広寿は只者ではない 中川隆
2. 中川隆[-7597] koaQ7Jey 2017年6月07日 06:55:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

自由の戦士 2012/06/17 10:35
彼らは誰からも拘束されない自由な意思決定を行い命を失うリスクを負ったのだ、

ミスを犯して命を失った者に死者に鞭打つようなバッシングはするべきでない。

なぜならば、人々はミスによるバッシングを恐れ、まわりを気にして、受け売りに徹するだろう。皆で間違えても叩かれないからだ。

ミスを恐れ、萎縮した社会では経済発展も望めないだろう。少数意見を評価しない社会では福島原発事故のような事故が再び起こる可能性があるだろう。

山岳地帯に死亡の可能性がある人がいる場合の警察の活動は治安維持活動が主である。

警察官は現地に行き、現場の状況を調査、写真をとり、死亡の可能性がある人をヘリで麓に運んで医師に検死させ、事件性がないか調査するためである。もし警察がこのような活動をしなければ、山岳地帯での殺人はバレないことになる。

警察は前記の治安維持活動のほか警察ヘリ等による救助活動も行なっている。一方、マリンレジャーでの遭難は海上保安庁の艦艇、ヘリ、航空機による捜索が行なわれ、公費が投入されている。山岳遭難だけがクローズアップされているのが現状であるが、登山に価値観を認める信条の人々をべっ視することは差別にあたる。日本国憲法は「すべての国民は法の下に平等であり信条で差別されない」また、「自由及び幸福追求に対する国民の権利については、最大の尊重を必要とする。」と規定している。

登山に価値観を認める信条に対する差別だとマスコミを訴えればいい。弁護士も余っている時代だ、海難の比べ差別的だとやればいい、マスコミ相手なら名を上げるため着手金なしでする弁護士はいくらでもいる。裁判所は差別を肯定するだろう。判例ができればマスコミもおとなしくなるに違いない。

山に登って幸福を得る人々に「山に登って何がおもろいあほか」と言わんばかりに価値観の違う者に村八分的発想を持つ人々が多い、日本人の横並び的意識は江戸時代から変わっていない。価値観が多様なグローバルな世界にはたして太刀打できるか疑問に感じる。


自由の戦士自由の戦士 2012/06/26 22:15

かって山岳事故が多発しマスコミが山岳遭難のたびに大々的に報道した結果、危険な山は登山を規制するべきだとの世論の動きに、県が登山に関する条例を制定したのです。

積雪期の劔岳西面や一の倉沢など、地元警察の裁量権を認め、単独はだめだとか登山禁止にできるとか、罰則もあり、登山の自由を規制したものとなっています。

「装備を持っていても使いこなせなければ無いのと同じ」

おっしゃるとおりです。

使いこなせなかった原因があったのかもしれませんが、彼らは小蓮華で撤退するべきだったと思います。

危険を嫌い、安全、安心な社会がキャッチフレーズになるような世論が主流になってきています、いつ危険なことは止めさせろと言い出し、積雪期の後立山連峰東面も登山を規制される可能性はあります。

マスコミの行き過ぎた遭難報道には異議を唱え、みんなで登山の自由を守るよう努力しようじゃありませんか

甲斐駒ファン甲斐駒ファン 2012/06/30 02:32

自由の戦士さんの論点はマスコミ批判ですかね。
私は何かに依存しすぎた登山者に問題有りと思っています。

剱や谷川で規制があるからといって登山の自由が侵されたとは思っていません。
何度か冬季も届けを出して山タン持って入山しましたが、山の中は自由です。

自由と身勝手は異なるものだと思います。山に入るのは誰でもできます。
でも己を知らず山を知らず、自由だというのは違うのではないですか。

ザイルを担いでいるとよく初心者に声を掛けられます。「(目的地まで)あとどれくらいですか」これはまあありがちです。

しかし「ここはどこですか」とか「高山病で動けません」とか地図もコンパスも持たず「道がわかりません」と金魚の糞のように私の後をゾロゾロ。
そんな経験が無数にあります。

「なんじゃ。こりゃ」これが登山の自由なのでしょうか。
メディアは騒ぎすぎですが遭難するのはへっぽこばかり。

誤解を恐れずに言えば同好の士と思えない連中ばかり。
これからハイシーズンですが極論すれば現在の日本の山岳遭難は99・9%登山者の責任です。

また衝立はじめ谷川も決して「危険な山」ではありません。
それなりに訓練を積めば「良い山」です。
事実一の倉や幽の沢で近年事故は聞きません。

岩場や雪山で自分の上に素人がいるのが判ったときほど恐怖感を覚えることはないですね。

山の評価を貶めるのは「危険な登山者」ではないでしょうか。

それを助長するのは胡散臭い山岳会、ガイド、(もちろんそうでない山岳会やガイドも沢山いるのは承知の上です)金儲けに走る山小屋、ツアー会社。

百名山、山ガールなど煽り、マッチポンプ式に落とすマスコミ。
重層的にことが入り組んでいますね。

世の中にリスクゼロなどあり得ず、主観である安心と客観である安全が両立することも稀なのに乱発する政府やマスコミの姿勢は無論反対ですが行き過ぎた遭難報道で登山の自由が侵されるというのはやはり飛躍しすぎです。

どのジャンルでもいかに規制を受けようと挑戦する人は絶えないし、大丈夫だと思います。白か黒か、敵か味方かという二分論はどうしても得心できませんね。山と海ってのも対立するものではないんじゃないですかね。


自由の戦士自由の戦士 2012/07/20 21:28

積雪期の劔岳西面、届けをして届済書を持参しなければいけない。
届済書を持参していなければ条例違反で罰金対象。

明日天気が良いから行こうという訳にはいかない、登山の自由が制限されているといえる。もっとも罰金覚悟で行く登山者は論外ですが。

百名山の大山、最高峰の剣が峰には行けません立入禁止です、地元大山町の問合せたところ回答だった。

さらになぜ立入禁止と続けると、稜線の崩壊が激しく危険だから。

だれが立入禁止にしたの、大山遭難防止協会。

どんな組織、地元警察が主体となり町などが構成員。


話が見えてきた、地元警察が山岳遭難事故の抑止のために動いた、法的根拠がないので直接すると国家権力による憲法違反だと突っ込まれるので、権利能力のない団体である大山遭難防止協会をクッションにマスコミを宣伝媒体に使って「危ないから立入禁止だ」と大衆誘導を行ない実質の立入禁止を実現させている。

もしこの立入禁止区域で遭難事故を起こしたら、地元マスコミは「立入禁止を無視した無謀登山者」と書き立てるだろう。
マスコミは基本的人権である言論の自由は主張するが、同じ基本的人権である登山者の意思決定の自由や行動の自由には目もくれないご都合主義といえる。

節電の夏、家庭の消費電力の約10%はテレビである(財団法人省エネルギーセンター)テレビを見なければ約10%の節電ができるのにテレビ局は「節電のためテレビを見ないようにしましょう」とは一切言わない、マスコミのご都合主義は明らかである。

マスコミは事件の特だね情報を警察から得たいという心理が働き、警察には協力的で山岳遭難は大騒ぎする。山は危険というイメージを国民に植え付け、山岳事故を抑止しようとする警察の意図が見え隠れする。一種のパターナリズムである。

マスコミが地元山岳遭難対策協議会などが危険なので立入禁止になりましたと報道すると、大多数の登山者は他人の目を気にして行こうとはしない。ごく一部の危険なルートに挑戦するのが大好きな特殊な登山者が他の登山者から白い目で見られながら、事故の場合は「立入禁止を無視した無謀登山者」とのレッテルを貼られるリスクを負いながら入山するのが現実である。

大山、剣が峰のような立入禁止は全国各地の山で見られる、地方自治体の財政事情が逼迫すれば山岳遭難救助対策費を抑えたいと動くだろう。事故の多い山はますます立入禁止や立入制限が増えるような方向に向かうだろう。

もっとも妙義山の鷹戻しルートでは地元警察の圧力を登山文化を守ろうと立ち上がったと登山愛好家によって登山の自由は守られた。


また、バックカントリースキーにおいても同様なことが言える、

スキー場のゴンドラなどを使い、さらに登って滑り降りる、

よく使う手法であるが、今年この手法で五竜遠見と野沢温泉スキー場の近郊で起こった 2 件の山岳事故、

スキー場管理者が「立入禁止のコース外を滑った」とマスコミの取材の答えると「立入禁止を無視した悪徳者」のレッテルを貼られている。

よく考えて見よう、

ゴンドラなどの乗車券の購入時にスキー場の規定の説明があり立入禁止を守ることに同意して購入した場合を除き、そのような契約は成立していないのでスキー場の管理区域内においてもどこを滑ろうが自由である。

スキー場はスキー場内での事故のおりに工作物管理責任を問われるのを恐れて保身にために言っているに過ぎない。

さらに 2 件ともスキー場管理区域外で起こっており、スキー場管理者がとやかく言うのは筋違いであるのに、思考力の欠落した記者が鵜呑みにして立入禁止を無視して滑ったとの報道をする。

登山者が基本的人権の理解することとマスコミの誤った山岳遭難報道が無くならないと登山の自由は守れないと思う。
http://d.hatena.ne.jp/futarinoyama/20120509/1336531819

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/718.html#c2

[] 「覚醒剤」
76. 中川隆[-7596] koaQ7Jey 2017年6月07日 07:17:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

小泉元首相一族の正体 オルタナティブ通信
http://blog.goo.ne.jp/beingtt/e/f4488eb2f9d5860177d5eb297706b992?fm=rss

 1843年、アヘン戦争の結果、南京条約で上海が開港されると、米国では、麻薬専売会社ラッセル&カンパニーが中国への麻薬輸出を開始する。

この時、ラッセル社は、スコットランドの麻薬専売会社ジャーディン・マセソンと連携、その支援を受ける。

 ラッセル社は、1823年、コネチカット州ミドルタウンのサミュエル・ラッセルがトルコのアヘンを米国等に輸入する目的で設立。1830年代には、ボストンの麻薬密売マフィア=トーマス・H・パーキンス・シンジケートと合体、米国最大のアヘン密売業者となる。

ラッセル社が中国への麻薬販売を開始すると、中国・広東にはルーズベルト大統領の祖父ウォーレン・デラノjrが、ラッセルの最高執行責任者として駐留し、その麻薬輸出を「仕切った」。

ルーズベルト一族の財産は、こうして形成された。

デラノは当時、アメリカ政府の副領事を兼任しており、ラッセルの麻薬販売が米国政府「公認」、米国政府自体の「事業」であった事が、ここから分かる。

 ラッセル社の幹部には歴代、コロンビア大学創立者のアビール・ロウ一族、雑誌「フォーブス」創立者のジョン・M・フォーブス一族、中南米での黒人奴隷農園を経営するUF=ユナイテッド・フルーツ社の創立者ジョセフ・クーリッジ一族(後に一族からクーリッジ大統領を輩出する)が就任して来た。UFの黒人奴隷監視組織が後にCIAに発展する。またラッセル社の監査役には、ブッシュ大統領一族の先祖=J・プレスコット・ブッシュが就任している。

ここに名前を挙げた一族は、麻薬販売によって財産と地位を形成する。

 1754年、キングズ・カレッジの名前で、英国による米国の植民地支配のための「ノウハウ・スクール、英国直結の米国監視・スパイ養成学校」として、英国国王ジョージ2世の特許状に基づき設立されたコロンビア大学は、アビール・ロウ一族の麻薬資金によって「大規模化」されてゆく。

米国が英国から「独立」するに従い、コロンビア大学は米国による「植民地支配国の管理ノウハウ・スクール」に転じる。

コロンビア大学が、米国の「植民地支配国に対する管理ノウハウの伝授スクール」である事は、第二次世界大戦中、日本語の堪能な人材が、この大学に集められ、当時、米国の敵国であった日本に対する「対日暗号解読部隊」が、この大学を舞台に結成された事でも分かる。この大学は、事実上、対日戦略情報部隊の中心地であった。

つまり「米国による日本の支配のための人材育成大学」が、この大学の正体である。

 小泉元首相が自分の後継者・進次郎を、コロンビア大学・大学院に「送り込んだ」所には、「米国による日本支配のための、アヤツリ人形」であった小泉の正体が「明確に出ている」。

小泉の後継者・進次郎は、コロンビア卒業後、CSISに入っている。

 ワシントンのジョージタウン大学内にある、CSIS=センター・フォー・ストラテジック・アンド・インターナショナル・スタディーズは、元々、エドマンド・ウォルシュ外交学院と言う名前で創立された。ウォルシュは、ナチス・ドイツ=アドルフ・ヒトラーの戦争戦略を作り上げたナチスの地政学者カール・ハウスホーファーの弟子であり、ナチス地政学を米国に「移植」するためにCSISを創立した。ウォルシュはイエズス会の神父でもあった。

 CSISは1964年、中国共産党諜報部の喬石長官との協力の下、中国国内の麻薬製造地帯のネットワークを「整備」し、世界各国に中国産麻薬の販売網を「形成」した。

この麻薬販売の利益で兵器を購入し、CSISは1972年から、南アフリカの黒人人種差別体制を維持するための軍備として提供し、またイスラエルが中東戦争を実行するための兵器として供給してきた。

CSISは、南アのスパイ組織=国家安全局BOSSと協力し、南アの金塊・ダイヤモンド・ウランと、中国製麻薬の利益=兵器と「バーター取引」を行う、諜報・スパイ組織であった。

またCSISは、イスラエルに兵器を供給し、中東戦争によって「石油価格を高騰させる」、石油王ロックフェラーのための「石油価格コントロール」センターであった。高騰した石油の利益で中国産麻薬が購入され、麻薬の販売利益で兵器が買われ、その兵器がイスラエルに渡り、中東戦争を起こす。そして石油が高騰する。

これが、米国=中国=イスラエルによる、「現在にまで続く」戦争経済の仕組み、戦争マシーンのシステムである。

 現在、CSISは、米陸軍・海軍直系の軍事戦略研究所でもあり、米軍の持つ膨大な数の生物化学兵器の管理センターともなっている。

CSISの顧問には、ヘンリー・キッシンジャー、その弟子でライス国務長官の師匠であるブレント・スコウクロフトが名前を連ね、ロックフェラー・ロスチャイルドの世界帝国建設のための軍事戦略を「描いた」ズビグニュー・ブレジンスキー(大統領候補バラク・オバマのブレーン)が、CSISの理事を務めている。(後継者はだ〜れ)

 小泉の「後継者」は、このスパイ組織の「対日エージェント」として「派遣されて来る」。

「文科省は官邸ににらまれたカエル」前川氏 毎日新聞2017年6月4日 02時35分(最終更新 6月4日 02時46分)
https://mainichi.jp/articles/20170604/k00/00m/040/144000c?inb=ys 

毎日新聞のインタビューに答える前川喜平・前文部科学事務次官=東京都千代田区で2017年6月3日、宮間俊樹撮影

 「権力を持っている人がお望みになっていることを、周りの人間が実現させる関係ができているのかもしれない」。学校法人加計(かけ)学園の獣医学部新設を巡り、3日に毎日新聞の取材に答えた文部科学省の前川喜平前事務次官(62)は、学部新設の動きが進んだ背景に、官邸の力が強まり与党や省庁とのパワーバランスが変わった問題があると強調。官邸をヘビに例え、「総理のご意向」と記された文書の存在を認めない文科省の立場を「ヘビににらまれたカエル」と表現した。【銭場裕司、田所柳子、平塚雄太】

<2カ月で急展開 前川氏「プロセス乱暴」>

 前川氏は東京都内で、約150分にわたりインタビューに答えた。獣医学部新設の国家戦略特区が認められた状況を「特例を満たす条件が十分に議論されないまま2カ月ぐらいで決まった。プロセスがあまりに乱暴だった」と振り返る。「側近の人たちがそんたくをしたかしなかったのかは私の立場では言えないが、無理が通れば道理が引っ込む事態があちこちで起きている気がする」と語った。

 政と官の関係は小泉政権時代から官邸の力が強まったものの、「当時は各省庁の自律性や専門性が保たれ、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論ができた。与党内の議論も活発だった」とし、自身も小泉政権の方針に抵抗したが人事面で報復は受けなかったという。ただ、現在は3年前に発足した内閣人事局が省庁の幹部人事を管理する状況にある。

 前川氏は「安倍1強」の政治状況を「首相秘書官や首相補佐官が各省の大臣より偉くなった」と表現。「柳沢吉保みたいな人が各大名よりも偉いような状況にある」。側用人から出世した江戸幕府の権力者に例えて現状を解説した。

 文科省は「確認できない」として「総理のご意向」「官邸の最高レベルが言っている」などと記された文書の存在をいまだに認めていない。一方で、加計学園を巡って省内で共有されたとみられる文書などが野党などに次々と提供されている。

 前川氏は「文科省が文書があったことをなかったことにしろと強いられ、締め付けに耐えられなくなった職員が流したのでは。そうした職員が複数いるように見えるが、今後も増えるかもしれない」と見る。

 文科省の立場は「官邸の目が光る中で、資料があったとは言えない。ヘビににらまれて動けないカエルをいじめないでほしい」と語った。

 獣医学部新設への対応を所管する高等教育局長に委ねていたことに触れ、「今から思えば、もっと積極的に関与した方が良かった」と後悔をにじませた。


加計問題追及の火の手が、誘致先の今治市にも! 市長の「総理が動いてくれている」発言の決定的証拠が明らかに リテラ 2017.06.04
http://lite-ra.com/2017/06/post-3219.html

「総理のご意向」と記された文書の信憑性を会見で断言した前川喜平・前文科省事務次官は、和泉洋人・首相補佐官が「総理は自分の口から言えないから私が代わって言う」と獣医学部新設を要請していたことも暴露したが、そんな中、工事が急ピッチで進む地元・今治市では、「総理・内閣主導」と明記した文書を市が作成していたことが分かった。

「前川氏の告発内容と一致する決定的文書」と話すのは、「今治加計獣医学部問題を考える会」の黒川敦彦・共同代表だ。

「昨年秋から菅市長は『安倍総理が動いているから大丈夫』ということを触れ回っていて、この総理主導発言は地元で広まり、私も聞いていました。が、市企画財政部が昨年11月10日に作成した議員協議会資料にも書いてあるのです」

 たしかに「国家戦略特区の制度を活用した取組の進捗状況について(企画課)」と銘打った資料を見ると、国家戦略特区を視覚的に説明するページに「『総理・内閣主導』の枠組み」と太文字で書かれていた。

 また進捗状況の説明では「今後のスケジュールについても内閣府の主導で進められる」「スピード感を持って進めようとしており、内閣府としても最速で平成30年4月開学を目指していることが伺える」とあり、「総理・内閣主導」で新学部設置が進んでいることを示していた。

 さらに「今後のスケジュール」を表にしたページには、「平成28年10月31日 事業者によるボーリング調査の申出を受理、承諾」や「平成29年3月上旬 3月定例市議会初日『財産(市有地)の無償譲渡決議案』の上程・議決」などから「平成30年4月 開学」に至るまでのタイトな日程が書き込まれていた。

「総理主導」「加計ありき」で計画が進んでいったことを示す証拠

「この資料は、今治市が『総理・内閣主導』と認識していたことを示すもので、地元で広まっている菅市長発言とも一致します。安倍総理主導で加計ありきのタイトな日程で進んでいたことは明らかなのです。とにかく市役所の担当課に聞いても『急げ』『急げ』と言われている。『平成30年開学をしないといけないから、このスケジュールなのです』というのは市役所のすべての担当課から言われます」

 加計学園側からのボーリング調査の申し入れに対する決済も異例のスピードだという。

「加計学園に市有地が無償譲渡される前にボーリング調査が行われました。加計孝太郎氏からボーリング調査の申入れ書が市役所にメールで送られてきましたが、同じ日付で承諾書を出している。その後、郵送で申入れ書が届いて決済しています。一日、二日すら待てないほど急いでいた」

 まさに「総理・内閣主導」で今治市が急き立てられたことを物語る話だが、最近になって菅市長は去年秋の発言を曖昧にし始めた。5月30日放送の『報道ステーション』(テレビ朝日)で、自らの“総理主導発言”について「記憶はない」とした上で「もし千歩譲って発言があったとしたら、安倍政権が安定していることが一番大事なことだった」という弁明をしたのだ。

 黒川氏は呆れてこう語る。

「番組では市長の選対関係者が、『それは国がやっていることだし、総理が全部やってくれていることなので、地元はどうこういう話ではなくなっている』という市長の発言を紹介してもいましたが、同等のことは僕もいろいろな所から聞くので、それだけの人が同時多発的にウソをつくことはないと思います。市長は全否定をするわけにいかないので、全く説得力のない言い逃れをしたのでしょう」

 総理主導発言を触れ回っていた理由も想像がつく。実は菅市長は、「総理のご意向」と発言したとされる藤原豊審議官(内閣府国家戦略特区担当)が、獣医学部新設に慎重な姿勢であった地方創生推進室次長時代に2回面会しているのだ。

内閣府の藤原審議官も消極的だったのが、一転…

 藤原氏が今治市を訪れて大学用地も視察した2015年8月6日と、広島県知事と面会した時に藤原氏も同席した16年1月8日であるが、当時の藤原氏の慎重な姿勢は、今治市議会に16年2月に提出された資料に明記されていた。市関係者との面会内容として次のように報告されていたのだ。

「(藤原氏より)新設大学への財政支援による今後の財政悪化や人口減少により学生が本当に集まるのか危惧されていた」

 構造改革特区申請を14回も出し続けたものの獣医学部新設が実現しなかった今治市関係者にしてみれば、16年2月の段階では、内閣府の消極姿勢を告げられて実現可能性に自信が持てなかったに違いない。しかし同年秋になると、一転して菅市長は総理主導発言を口にし始めた。「総理が全部やってくれていること」「安倍総理の強いリーダーシップをもってやるから安心して欲しい」といった楽観的見通しを語ることで、地元に横たわっていた悲観論的見通しを払拭しようとしたに違いない。安倍総理主導(直接指示)によって、獣医学部新設の実現可能性が一気に高まったとしか考えられないのだ。黒川氏はこう続けた。

「朝日新聞が『総理のご意向』という文書をスクープした17日から約2週間、菅市長はぶら下がりで少しコメントした程度で、ほとんど逃げ回っていましたが、市議会で国家戦略特区特別委員会が開かれた30日に直撃されて、ようやく発言をしました」

 実際、前川前事務次官が会見をした後、市役所の秘書課に聞いても「市長の会見を開く予定はない」と言っていた。5月25日に菅市長が海運関連の展示会「バリシップ2017」の歓迎会で挨拶、関係者との談笑を一通り終えた時に直撃、「加計学園疑惑についてどう思うか」と聞いたが、一言も発することなく、すぐに秘書課職員が間に入り、主催者から退出を命じられた。「昨年秋の総理主導発言については語りたくない」という菅市長の本音が透けてみえるのだ。

 しかし市長の発言だけでなく、市が作成した文書にも「総理・内閣主導」と記載記されていた。今治市長発言や作成文書が前川前事務次官の会見内容と一致したことで、安倍首相の犯罪的行為の疑いがさらに深まった。それは「国家戦略会議のトップ(座長)の安倍首相が天の声を発し、加計学園が選ばれるような条件を加えることで競合相手の京都産業大学を排除した」という官製談合の様相も呈してきた。「安倍首相は官製談合の仕切り屋ではないか」という疑惑だ。

安倍首相が国家戦略会議でやったことは、官製談合のやり口と同じ

「発注者の意向で本命業者を入札前に選ぶ官製談合事件に等しい」と指摘するのは、談合担当(受注調整)をしてきたあるゼネコン関係者だ。

「公共事業の発注者は、どういう入札条件を加えれば、どの業者が選ばれるのかのデータベースを持っています。そのため官製談合では、発注者の意向で入札前に本命業者(チャンピオン)を選ぶことが可能です。国家戦略会議のトップである安倍首相の“発注者意向”で、『広域的に獣医学部がない』という条件が付加されて、加計学園が選ばれたということでしょう」

 今治市や愛媛県が官製談合事件の“共犯者”となる可能性が出て来たということだ。韓国の前大統領と同じような最高権力者の疑獄事件の舞台になれば、県や市のイメージダウンは避けられない。中村時広愛媛県知事もこうしたイメージダウンについて懸念を表明した。24日の会見で内閣府から国家戦略特区申請の助言があったことを改めて認めた上で、決定プロセスをクリアにすることも国に求めたのだ。

 知事会見後、「安倍総理の天の声で決まったのではないか」「違法性があったのではないか」と聞くと、中村知事は「僕は分からない。過去の経緯から説明。県はあれ以上でもあれ以下でもありません」と答えた。しかし県として「加計学園選定に違法性があったのか」について徹底的にチェックしなければ、「談合や利権や癒着まみれの愛媛県」と見られる懸念は払しょく困難だろう。

 17日に現地視察をした民進党の「加計学園疑惑調査チーム」(共同座長は今井雅人衆院議員と桜井充参院議員)からは次のような声が出ていたからだ。

「官邸の意向が働いて内閣府主導で話が進んだ疑念がある」「森友は官僚の忖度だろうが、加計学園は首相の直接指示の可能性がある」(今井議員)

「京都産業大学が手をあげていたのに排除された経過が不可解。もともと『(獣医学部)空白区』という条件はなかったのに、(2016年)11月9日に突然『空白区』が条件になった。世界的な権威の研究者がいて提案内容もしっかりしていた京都産業大学ではなく、加計学園が選定されたのは、公正中立な決定とは言えないと思います」(木内孝胤衆院議員)

 官製談合の仕切り屋をしたようにみえる安倍首相の疑惑に対して、地方と中央の両サイドから徹底的な真相解明をする必要がある。

(横田 一)


昭和を裏で動かしていたのは麻薬の帝王
http://blog.goo.ne.jp/beingtt/e/ae38ba33efaa7b23f93d3c8364473309

http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-669.html
安倍総理の背後・勢力・・日本独立のための第16章 オルタナティブ通信より

第二次世界大戦中、中国大陸で満州帝国国務院に勤務する一方、里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」で、


吉田茂等と共にアヘン密売に従事し、満州帝国建設資金を調達していた岸信介は、戦後、戦争犯罪人として巣鴨拘置所に収監される。

巣鴨から釈放されると岸は、満州帝国の日本語新聞「大陸新報」の社長であった福家俊一と密談を重ね、日本に新しい政党を作る準備を始める。

福家は満州時代、アヘン密売を巡り里見の情報屋として、新聞「大陸新報」の情報ネットワークを駆使し他のアヘン密売組織を「摘発」し、里見は福家の情報の下、他の密売人を次々に殺害して行った。

福家は戦後、里見のアヘン資金を日本の政界に持ち込むエージェントとして、岸首相、福田赳夫首相、美濃部亮吉東京都知事の選挙資金を拠出する「政界仕掛け人」と呼ばれる事になる。

53年、自由党から出馬し国会議員となった岸は、54年、米国で「2大政党制」を強く主張するロックフェラーの民主党に習い、日本民主党を旗揚げし幹事長となる。

この日本民主党には社会党等の労働運動勢力も含まれていた。

岸のその行動は2007年現在の小沢一郎と極めて類似している。(小沢の著書には、ロックフェラーが推薦文を書いている)

岸の政界資金は福家を通し里見から出ていた。

52年4月25日付の日本統治軍GHQの「防諜レポート」には、里見と福家が密談し岸に政界工作資金を提供している点について、「要監視、注意」と報告を出している。

55年8月、日本ではまだ無名であった岸は、重光葵外相と共に訪米しダレス国務長官と会談し、雑誌「ニューズウィーク」の表紙を飾る。


重光外相は一切報道されず、無名の岸が「次期日本の総理大臣」と報道され、一躍米国で有名になったのである。

満州帝国に武器を納入していた武器商人ポール・ブルームは、OSS(CIA)の欧州責任者アレン・ダレスの部下であり、ブルームの納入する兵器代金は中国でのアヘン売買の利益で支払われ、実際に支払っていたのは里見であった。

この資金が欧州での米国スパイ組織ダレス機関の活動資金として役立っていた。岸はその里見の部下であった。

岸は訪米し満州時代からのビジネス・パートナー、ダレス兄弟の1人と会談しただけであった。


ニューズウィークはダレスのボス、ブッシュ大統領一族の経営するハリマン銀行会長エイブリル・ ハリマンが創立した雑誌であった。


ブッシュのボス、ロックフェラーが2大政党制度を強く主張し米国で民主党の絶大な支援者である事を、岸はボスの里見から教えられていた。

ロックフェラーのコピーを日本で行うよう、岸は里見から指示されていたとも言える。

岸は訪米中、ニューズウィークの編集長オットー・カーンの紹介で、戦後日本の政治家としては初めてロックフェラー三世と会談する。

岸はロックフェラーの「お墨付き」を貰って来たのである。

日本に帰国すると岸には24時間、ロックフェラーとブッシュの子分、ニューズウィーク日本支局長オンプトン・パケナムが「英語語学教師」として付き従う事になる。

岸は24時間、ロックフェラーとブッシュに監視される事になる。

57年、岸は里見のアヘン資金で首相となると、6月、即座に訪米しアイゼンハワー大統領、ロックフェラー三世と会談し、日本に永久的に米軍を駐留させる事で同意する。

ゴルフ好きであった岸を会談の合間にゴルフに誘い出し、一緒にゴルフコースを回ったのは、常に祖父プレスコット・ブッシュであった。


ブッシュと岸がゴルフをしている間に、ブッシュの経営する軍事産業専門の投資会社カーライルの子会社、デュロン銀行社長ダグラス・デュロン国務次官が、日本に米軍を常駐させる日米安保条約の素案をタイプし、また日本の自衛隊に売り付ける兵器の見積もりを計算していた。


65年、里見が亡くなると、岸は恩師の死に涙を流しながら達筆な毛筆で「里見甫」と大書する。

その文字がそのまま里見の墓標に刻印される事になる。

里見の資金を引き継ぐ後継者が、岸信介である事を遺族全員が認めていたからである。

その岸の人脈と金脈を引き継ぎ、首相となったのが現在の安倍総理である。
http://blog.goo.ne.jp/beingtt/e/f4488eb2f9d5860177d5eb297706b992?fm=rss
http://www.asyura2.com/0310/dispute13/msg/126.html#c76

[近代史02] 小泉先生が ○○○ になった理由 中川隆
12. 中川隆[-7595] koaQ7Jey 2017年6月07日 07:18:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

小泉元首相一族の正体 オルタナティブ通信
http://blog.goo.ne.jp/beingtt/e/f4488eb2f9d5860177d5eb297706b992?fm=rss


 1843年、アヘン戦争の結果、南京条約で上海が開港されると、米国では、麻薬専売会社ラッセル&カンパニーが中国への麻薬輸出を開始する。

この時、ラッセル社は、スコットランドの麻薬専売会社ジャーディン・マセソンと連携、その支援を受ける。

 ラッセル社は、1823年、コネチカット州ミドルタウンのサミュエル・ラッセルがトルコのアヘンを米国等に輸入する目的で設立。1830年代には、ボストンの麻薬密売マフィア=トーマス・H・パーキンス・シンジケートと合体、米国最大のアヘン密売業者となる。

ラッセル社が中国への麻薬販売を開始すると、中国・広東にはルーズベルト大統領の祖父ウォーレン・デラノjrが、ラッセルの最高執行責任者として駐留し、その麻薬輸出を「仕切った」。

ルーズベルト一族の財産は、こうして形成された。

デラノは当時、アメリカ政府の副領事を兼任しており、ラッセルの麻薬販売が米国政府「公認」、米国政府自体の「事業」であった事が、ここから分かる。

 ラッセル社の幹部には歴代、コロンビア大学創立者のアビール・ロウ一族、雑誌「フォーブス」創立者のジョン・M・フォーブス一族、中南米での黒人奴隷農園を経営するUF=ユナイテッド・フルーツ社の創立者ジョセフ・クーリッジ一族(後に一族からクーリッジ大統領を輩出する)が就任して来た。UFの黒人奴隷監視組織が後にCIAに発展する。またラッセル社の監査役には、ブッシュ大統領一族の先祖=J・プレスコット・ブッシュが就任している。

ここに名前を挙げた一族は、麻薬販売によって財産と地位を形成する。

 1754年、キングズ・カレッジの名前で、英国による米国の植民地支配のための「ノウハウ・スクール、英国直結の米国監視・スパイ養成学校」として、英国国王ジョージ2世の特許状に基づき設立されたコロンビア大学は、アビール・ロウ一族の麻薬資金によって「大規模化」されてゆく。

米国が英国から「独立」するに従い、コロンビア大学は米国による「植民地支配国の管理ノウハウ・スクール」に転じる。

コロンビア大学が、米国の「植民地支配国に対する管理ノウハウの伝授スクール」である事は、第二次世界大戦中、日本語の堪能な人材が、この大学に集められ、当時、米国の敵国であった日本に対する「対日暗号解読部隊」が、この大学を舞台に結成された事でも分かる。この大学は、事実上、対日戦略情報部隊の中心地であった。

つまり「米国による日本の支配のための人材育成大学」が、この大学の正体である。

 小泉元首相が自分の後継者・進次郎を、コロンビア大学・大学院に「送り込んだ」所には、「米国による日本支配のための、アヤツリ人形」であった小泉の正体が「明確に出ている」。

小泉の後継者・進次郎は、コロンビア卒業後、CSISに入っている。

 ワシントンのジョージタウン大学内にある、CSIS=センター・フォー・ストラテジック・アンド・インターナショナル・スタディーズは、元々、エドマンド・ウォルシュ外交学院と言う名前で創立された。ウォルシュは、ナチス・ドイツ=アドルフ・ヒトラーの戦争戦略を作り上げたナチスの地政学者カール・ハウスホーファーの弟子であり、ナチス地政学を米国に「移植」するためにCSISを創立した。ウォルシュはイエズス会の神父でもあった。

 CSISは1964年、中国共産党諜報部の喬石長官との協力の下、中国国内の麻薬製造地帯のネットワークを「整備」し、世界各国に中国産麻薬の販売網を「形成」した。

この麻薬販売の利益で兵器を購入し、CSISは1972年から、南アフリカの黒人人種差別体制を維持するための軍備として提供し、またイスラエルが中東戦争を実行するための兵器として供給してきた。

CSISは、南アのスパイ組織=国家安全局BOSSと協力し、南アの金塊・ダイヤモンド・ウランと、中国製麻薬の利益=兵器と「バーター取引」を行う、諜報・スパイ組織であった。

またCSISは、イスラエルに兵器を供給し、中東戦争によって「石油価格を高騰させる」、石油王ロックフェラーのための「石油価格コントロール」センターであった。高騰した石油の利益で中国産麻薬が購入され、麻薬の販売利益で兵器が買われ、その兵器がイスラエルに渡り、中東戦争を起こす。そして石油が高騰する。

これが、米国=中国=イスラエルによる、「現在にまで続く」戦争経済の仕組み、戦争マシーンのシステムである。

 現在、CSISは、米陸軍・海軍直系の軍事戦略研究所でもあり、米軍の持つ膨大な数の生物化学兵器の管理センターともなっている。

CSISの顧問には、ヘンリー・キッシンジャー、その弟子でライス国務長官の師匠であるブレント・スコウクロフトが名前を連ね、ロックフェラー・ロスチャイルドの世界帝国建設のための軍事戦略を「描いた」ズビグニュー・ブレジンスキー(大統領候補バラク・オバマのブレーン)が、CSISの理事を務めている。(後継者はだ〜れ)

 小泉の「後継者」は、このスパイ組織の「対日エージェント」として「派遣されて来る」。


「文科省は官邸ににらまれたカエル」前川氏 毎日新聞2017年6月4日 02時35分(最終更新 6月4日 02時46分)
https://mainichi.jp/articles/20170604/k00/00m/040/144000c?inb=ys 

毎日新聞のインタビューに答える前川喜平・前文部科学事務次官=東京都千代田区で2017年6月3日、宮間俊樹撮影

 「権力を持っている人がお望みになっていることを、周りの人間が実現させる関係ができているのかもしれない」。学校法人加計(かけ)学園の獣医学部新設を巡り、3日に毎日新聞の取材に答えた文部科学省の前川喜平前事務次官(62)は、学部新設の動きが進んだ背景に、官邸の力が強まり与党や省庁とのパワーバランスが変わった問題があると強調。官邸をヘビに例え、「総理のご意向」と記された文書の存在を認めない文科省の立場を「ヘビににらまれたカエル」と表現した。【銭場裕司、田所柳子、平塚雄太】

<2カ月で急展開 前川氏「プロセス乱暴」>

 前川氏は東京都内で、約150分にわたりインタビューに答えた。獣医学部新設の国家戦略特区が認められた状況を「特例を満たす条件が十分に議論されないまま2カ月ぐらいで決まった。プロセスがあまりに乱暴だった」と振り返る。「側近の人たちがそんたくをしたかしなかったのかは私の立場では言えないが、無理が通れば道理が引っ込む事態があちこちで起きている気がする」と語った。

 政と官の関係は小泉政権時代から官邸の力が強まったものの、「当時は各省庁の自律性や専門性が保たれ、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論ができた。与党内の議論も活発だった」とし、自身も小泉政権の方針に抵抗したが人事面で報復は受けなかったという。ただ、現在は3年前に発足した内閣人事局が省庁の幹部人事を管理する状況にある。

 前川氏は「安倍1強」の政治状況を「首相秘書官や首相補佐官が各省の大臣より偉くなった」と表現。「柳沢吉保みたいな人が各大名よりも偉いような状況にある」。側用人から出世した江戸幕府の権力者に例えて現状を解説した。

 文科省は「確認できない」として「総理のご意向」「官邸の最高レベルが言っている」などと記された文書の存在をいまだに認めていない。一方で、加計学園を巡って省内で共有されたとみられる文書などが野党などに次々と提供されている。

 前川氏は「文科省が文書があったことをなかったことにしろと強いられ、締め付けに耐えられなくなった職員が流したのでは。そうした職員が複数いるように見えるが、今後も増えるかもしれない」と見る。

 文科省の立場は「官邸の目が光る中で、資料があったとは言えない。ヘビににらまれて動けないカエルをいじめないでほしい」と語った。

 獣医学部新設への対応を所管する高等教育局長に委ねていたことに触れ、「今から思えば、もっと積極的に関与した方が良かった」と後悔をにじませた。


加計問題追及の火の手が、誘致先の今治市にも! 市長の「総理が動いてくれている」発言の決定的証拠が明らかに リテラ 2017.06.04
http://lite-ra.com/2017/06/post-3219.html

「総理のご意向」と記された文書の信憑性を会見で断言した前川喜平・前文科省事務次官は、和泉洋人・首相補佐官が「総理は自分の口から言えないから私が代わって言う」と獣医学部新設を要請していたことも暴露したが、そんな中、工事が急ピッチで進む地元・今治市では、「総理・内閣主導」と明記した文書を市が作成していたことが分かった。

「前川氏の告発内容と一致する決定的文書」と話すのは、「今治加計獣医学部問題を考える会」の黒川敦彦・共同代表だ。

「昨年秋から菅市長は『安倍総理が動いているから大丈夫』ということを触れ回っていて、この総理主導発言は地元で広まり、私も聞いていました。が、市企画財政部が昨年11月10日に作成した議員協議会資料にも書いてあるのです」

 たしかに「国家戦略特区の制度を活用した取組の進捗状況について(企画課)」と銘打った資料を見ると、国家戦略特区を視覚的に説明するページに「『総理・内閣主導』の枠組み」と太文字で書かれていた。

 また進捗状況の説明では「今後のスケジュールについても内閣府の主導で進められる」「スピード感を持って進めようとしており、内閣府としても最速で平成30年4月開学を目指していることが伺える」とあり、「総理・内閣主導」で新学部設置が進んでいることを示していた。

 さらに「今後のスケジュール」を表にしたページには、「平成28年10月31日 事業者によるボーリング調査の申出を受理、承諾」や「平成29年3月上旬 3月定例市議会初日『財産(市有地)の無償譲渡決議案』の上程・議決」などから「平成30年4月 開学」に至るまでのタイトな日程が書き込まれていた。

「総理主導」「加計ありき」で計画が進んでいったことを示す証拠

「この資料は、今治市が『総理・内閣主導』と認識していたことを示すもので、地元で広まっている菅市長発言とも一致します。安倍総理主導で加計ありきのタイトな日程で進んでいたことは明らかなのです。とにかく市役所の担当課に聞いても『急げ』『急げ』と言われている。『平成30年開学をしないといけないから、このスケジュールなのです』というのは市役所のすべての担当課から言われます」

 加計学園側からのボーリング調査の申し入れに対する決済も異例のスピードだという。

「加計学園に市有地が無償譲渡される前にボーリング調査が行われました。加計孝太郎氏からボーリング調査の申入れ書が市役所にメールで送られてきましたが、同じ日付で承諾書を出している。その後、郵送で申入れ書が届いて決済しています。一日、二日すら待てないほど急いでいた」

 まさに「総理・内閣主導」で今治市が急き立てられたことを物語る話だが、最近になって菅市長は去年秋の発言を曖昧にし始めた。5月30日放送の『報道ステーション』(テレビ朝日)で、自らの“総理主導発言”について「記憶はない」とした上で「もし千歩譲って発言があったとしたら、安倍政権が安定していることが一番大事なことだった」という弁明をしたのだ。

 黒川氏は呆れてこう語る。

「番組では市長の選対関係者が、『それは国がやっていることだし、総理が全部やってくれていることなので、地元はどうこういう話ではなくなっている』という市長の発言を紹介してもいましたが、同等のことは僕もいろいろな所から聞くので、それだけの人が同時多発的にウソをつくことはないと思います。市長は全否定をするわけにいかないので、全く説得力のない言い逃れをしたのでしょう」

 総理主導発言を触れ回っていた理由も想像がつく。実は菅市長は、「総理のご意向」と発言したとされる藤原豊審議官(内閣府国家戦略特区担当)が、獣医学部新設に慎重な姿勢であった地方創生推進室次長時代に2回面会しているのだ。

内閣府の藤原審議官も消極的だったのが、一転…

 藤原氏が今治市を訪れて大学用地も視察した2015年8月6日と、広島県知事と面会した時に藤原氏も同席した16年1月8日であるが、当時の藤原氏の慎重な姿勢は、今治市議会に16年2月に提出された資料に明記されていた。市関係者との面会内容として次のように報告されていたのだ。

「(藤原氏より)新設大学への財政支援による今後の財政悪化や人口減少により学生が本当に集まるのか危惧されていた」

 構造改革特区申請を14回も出し続けたものの獣医学部新設が実現しなかった今治市関係者にしてみれば、16年2月の段階では、内閣府の消極姿勢を告げられて実現可能性に自信が持てなかったに違いない。しかし同年秋になると、一転して菅市長は総理主導発言を口にし始めた。「総理が全部やってくれていること」「安倍総理の強いリーダーシップをもってやるから安心して欲しい」といった楽観的見通しを語ることで、地元に横たわっていた悲観論的見通しを払拭しようとしたに違いない。安倍総理主導(直接指示)によって、獣医学部新設の実現可能性が一気に高まったとしか考えられないのだ。黒川氏はこう続けた。

「朝日新聞が『総理のご意向』という文書をスクープした17日から約2週間、菅市長はぶら下がりで少しコメントした程度で、ほとんど逃げ回っていましたが、市議会で国家戦略特区特別委員会が開かれた30日に直撃されて、ようやく発言をしました」

 実際、前川前事務次官が会見をした後、市役所の秘書課に聞いても「市長の会見を開く予定はない」と言っていた。5月25日に菅市長が海運関連の展示会「バリシップ2017」の歓迎会で挨拶、関係者との談笑を一通り終えた時に直撃、「加計学園疑惑についてどう思うか」と聞いたが、一言も発することなく、すぐに秘書課職員が間に入り、主催者から退出を命じられた。「昨年秋の総理主導発言については語りたくない」という菅市長の本音が透けてみえるのだ。

 しかし市長の発言だけでなく、市が作成した文書にも「総理・内閣主導」と記載記されていた。今治市長発言や作成文書が前川前事務次官の会見内容と一致したことで、安倍首相の犯罪的行為の疑いがさらに深まった。それは「国家戦略会議のトップ(座長)の安倍首相が天の声を発し、加計学園が選ばれるような条件を加えることで競合相手の京都産業大学を排除した」という官製談合の様相も呈してきた。「安倍首相は官製談合の仕切り屋ではないか」という疑惑だ。

安倍首相が国家戦略会議でやったことは、官製談合のやり口と同じ

「発注者の意向で本命業者を入札前に選ぶ官製談合事件に等しい」と指摘するのは、談合担当(受注調整)をしてきたあるゼネコン関係者だ。

「公共事業の発注者は、どういう入札条件を加えれば、どの業者が選ばれるのかのデータベースを持っています。そのため官製談合では、発注者の意向で入札前に本命業者(チャンピオン)を選ぶことが可能です。国家戦略会議のトップである安倍首相の“発注者意向”で、『広域的に獣医学部がない』という条件が付加されて、加計学園が選ばれたということでしょう」

 今治市や愛媛県が官製談合事件の“共犯者”となる可能性が出て来たということだ。韓国の前大統領と同じような最高権力者の疑獄事件の舞台になれば、県や市のイメージダウンは避けられない。中村時広愛媛県知事もこうしたイメージダウンについて懸念を表明した。24日の会見で内閣府から国家戦略特区申請の助言があったことを改めて認めた上で、決定プロセスをクリアにすることも国に求めたのだ。

 知事会見後、「安倍総理の天の声で決まったのではないか」「違法性があったのではないか」と聞くと、中村知事は「僕は分からない。過去の経緯から説明。県はあれ以上でもあれ以下でもありません」と答えた。しかし県として「加計学園選定に違法性があったのか」について徹底的にチェックしなければ、「談合や利権や癒着まみれの愛媛県」と見られる懸念は払しょく困難だろう。

 17日に現地視察をした民進党の「加計学園疑惑調査チーム」(共同座長は今井雅人衆院議員と桜井充参院議員)からは次のような声が出ていたからだ。

「官邸の意向が働いて内閣府主導で話が進んだ疑念がある」「森友は官僚の忖度だろうが、加計学園は首相の直接指示の可能性がある」(今井議員)

「京都産業大学が手をあげていたのに排除された経過が不可解。もともと『(獣医学部)空白区』という条件はなかったのに、(2016年)11月9日に突然『空白区』が条件になった。世界的な権威の研究者がいて提案内容もしっかりしていた京都産業大学ではなく、加計学園が選定されたのは、公正中立な決定とは言えないと思います」(木内孝胤衆院議員)

 官製談合の仕切り屋をしたようにみえる安倍首相の疑惑に対して、地方と中央の両サイドから徹底的な真相解明をする必要がある。

(横田 一)


昭和を裏で動かしていたのは麻薬の帝王
http://blog.goo.ne.jp/beingtt/e/ae38ba33efaa7b23f93d3c8364473309

http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-669.html
安倍総理の背後・勢力・・日本独立のための第16章 オルタナティブ通信より

第二次世界大戦中、中国大陸で満州帝国国務院に勤務する一方、里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」で、

吉田茂等と共にアヘン密売に従事し、満州帝国建設資金を調達していた岸信介は、戦後、戦争犯罪人として巣鴨拘置所に収監される。

巣鴨から釈放されると岸は、満州帝国の日本語新聞「大陸新報」の社長であった福家俊一と密談を重ね、日本に新しい政党を作る準備を始める。

福家は満州時代、アヘン密売を巡り里見の情報屋として、新聞「大陸新報」の情報ネットワークを駆使し他のアヘン密売組織を「摘発」し、里見は福家の情報の下、他の密売人を次々に殺害して行った。

福家は戦後、里見のアヘン資金を日本の政界に持ち込むエージェントとして、岸首相、福田赳夫首相、美濃部亮吉東京都知事の選挙資金を拠出する「政界仕掛け人」と呼ばれる事になる。

53年、自由党から出馬し国会議員となった岸は、54年、米国で「2大政党制」を強く主張するロックフェラーの民主党に習い、日本民主党を旗揚げし幹事長となる。

この日本民主党には社会党等の労働運動勢力も含まれていた。

岸のその行動は2007年現在の小沢一郎と極めて類似している。(小沢の著書には、ロックフェラーが推薦文を書いている)

岸の政界資金は福家を通し里見から出ていた。

52年4月25日付の日本統治軍GHQの「防諜レポート」には、里見と福家が密談し岸に政界工作資金を提供している点について、「要監視、注意」と報告を出している。

55年8月、日本ではまだ無名であった岸は、重光葵外相と共に訪米しダレス国務長官と会談し、雑誌「ニューズウィーク」の表紙を飾る。

重光外相は一切報道されず、無名の岸が「次期日本の総理大臣」と報道され、一躍米国で有名になったのである。

満州帝国に武器を納入していた武器商人ポール・ブルームは、OSS(CIA)の欧州責任者アレン・ダレスの部下であり、ブルームの納入する兵器代金は中国でのアヘン売買の利益で支払われ、実際に支払っていたのは里見であった。

この資金が欧州での米国スパイ組織ダレス機関の活動資金として役立っていた。岸はその里見の部下であった。

岸は訪米し満州時代からのビジネス・パートナー、ダレス兄弟の1人と会談しただけであった。

ニューズウィークはダレスのボス、ブッシュ大統領一族の経営するハリマン銀行会長エイブリル・ ハリマンが創立した雑誌であった。


ブッシュのボス、ロックフェラーが2大政党制度を強く主張し米国で民主党の絶大な支援者である事を、岸はボスの里見から教えられていた。

ロックフェラーのコピーを日本で行うよう、岸は里見から指示されていたとも言える。

岸は訪米中、ニューズウィークの編集長オットー・カーンの紹介で、戦後日本の政治家としては初めてロックフェラー三世と会談する。

岸はロックフェラーの「お墨付き」を貰って来たのである。

日本に帰国すると岸には24時間、ロックフェラーとブッシュの子分、ニューズウィーク日本支局長オンプトン・パケナムが「英語語学教師」として付き従う事になる。

岸は24時間、ロックフェラーとブッシュに監視される事になる。

57年、岸は里見のアヘン資金で首相となると、6月、即座に訪米しアイゼンハワー大統領、ロックフェラー三世と会談し、日本に永久的に米軍を駐留させる事で同意する。

ゴルフ好きであった岸を会談の合間にゴルフに誘い出し、一緒にゴルフコースを回ったのは、常に祖父プレスコット・ブッシュであった。

ブッシュと岸がゴルフをしている間に、ブッシュの経営する軍事産業専門の投資会社カーライルの子会社、デュロン銀行社長ダグラス・デュロン国務次官が、日本に米軍を常駐させる日米安保条約の素案をタイプし、また日本の自衛隊に売り付ける兵器の見積もりを計算していた。

65年、里見が亡くなると、岸は恩師の死に涙を流しながら達筆な毛筆で「里見甫」と大書する。

その文字がそのまま里見の墓標に刻印される事になる。

里見の資金を引き継ぐ後継者が、岸信介である事を遺族全員が認めていたからである。

その岸の人脈と金脈を引き継ぎ、首相となったのが現在の安倍総理である。
http://blog.goo.ne.jp/beingtt/e/f4488eb2f9d5860177d5eb297706b992?fm=rss

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[リバイバル3] トムラウシ山遭難事故 中川隆
8. 中川隆[-7594] koaQ7Jey 2017年6月07日 09:40:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

(21.7.20) トムラウシは魔性の山
http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/21720-6bf2.html


http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2009/07/20/image0_3.jpg
 (一番奥のとんがった山がトムラウシ山)


 大雪山系で、私と同年齢の60歳代の人を中心とする10名に及ぶ大量遭難死亡事故については、驚きと共にそうしたことがあって不思議がないという気持ちを強くした。

 実は私自身も今回遭難者9名を出したトムラウシ山(他の1名の遭難者は美瑛岳)で同様の経験をしているからである。

私が同僚のタムさんと大雪山系の縦走をしたのは2000年の夏だから気象条件的にはまったく同じ頃といえる。

 今回8名の遭難者を出したパーティーとはちょうど反対のルートをたどって美瑛岳からトムラウシ山の稜線南沼キャンプ指定地でキャンプを張った。

南沼はとても水のきれいな直径70〜80m程度の沼で、二人で沼に入って身体を洗ったり泳いだものである。

 その日は快晴でこうして沼で泳ぐことができたのに、翌日の早朝から天候は大荒れになってしまった。横殴りの雨がテントに吹きつけ、雨で視界がさえぎられわれわれ二人は風の音がするたびにテントを押さえなければならなかったほどだ。

 とても歩けるような状態でなく、今回の遭難者の話しにあるような、気温10度程度、風速20m以上、体感温度マイナス5度以下という状況だった。
「こりゃ、動くのは無理だ。ここで天候の回復を待とう」

 私たちは動くことを断念し、ここに逗留することにしたのだが翌日も暴風雨は収まらず、2日間テントの中で寝ていた。さすがに3日目になるとあせってきた。

「これ以上いても、天候は回復しない。思い切って動こう」

 暴風雨のなかでテントをたたみ、タムさんは時間の関係でトムラウシ山からトムラウシ温泉に下山し、私は大雪山系の主峰旭岳にむかって縦走を開始した。
ちょうど今回遭難した8名と反対方向に動き始めたことになる。

 このとき私は大変不思議な経験をしている。暴風雨が荒れ狂っていたのはトムラウシ周辺だけであり、トムラウシを離れるに従って信じられないほど風雨が収まったのである。

トムラウシ山を見上げるとそこだけが雲がかかり、雲が恐ろしいスピードで流れていた。

「なんだ、荒れていたのはトムラウシだけか・・・・」

今回遭難者が泊まっていたヒサゴ沼分岐あたりまで来ると、風はかなり弱まっていたのを覚えている。

地図
http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2009/07/19/image01_2.jpg

  今回の集団登山の遭難者18名(うち8名死亡)はトムラウシから2時間程度の距離にあるヒサゴ沼避難小屋からトムラウシに向かって出発したのだが、客観的には無謀だったとしかいいようがない。

ヒサゴ沼周辺の気象条件より、トムラウシ山周辺の気象条件は比較にならないほど厳しく、嵐に向かって進んで行ったようなものだ。

 アイヌ語で「花の多い山」という意味のトムラウシは、一方で魔性の山といってよく、一旦荒れ始めると手がつけられない。

私たちはまったく動くことができず停滞し、2日間寝ていたため体力的には温存されていたが、私はトムラウシの下降路のロックガーデンでは岩にへばりつきながら歩いていた。

そうしないと身体が飛ばされそうだったからだが、持っていたマットがリュックから外れて1秒程度の間に30m程度飛ばされたのには驚いた。

 しかしトムラウシ山を離れるに従って風も雨も穏やかになる。今回の遭難者は私とは反対にその魔性の山が牙を剥いているトムラウシに向かって行動したのだから遭難するのは当然だ。

 実際はヒサゴ沼からの避難路は化雲岳から天人峡温泉に降りるルートか、トムラウシ山を経由してトムラウシ温泉に降りるルートしかない。どちらも同じくらいの時間がかかるが、今回のパーティーはおそらくトムラウシ温泉に宿の手配がしてあったために無理をしたのだと思う。

 トムラウシ山は魔性の山だ。普段はとてもおとなしいが一旦牙を剥くと手がつけられない。それもトムラウシに近づけば近づくほど牙を剥く。
そうしたことを今回のツアーを企画したガイドが知らなかったか、知っていても計画上無理をしたのか分からないが、いずれにしてもトムラウシ山を侮ったことだけは確かだ。 

 

 

コメント


私もこの山で危険な領域に踏み込みつつあったとブログを読み気付きました。
2002年7月8日は雨でした。トムラウシ温泉よりスタート。登山口の駐車場には数台の車です。

当時は沢沿いのコースで10回程渡河します。増水により飛び石は水の中でくるぶし位の深さでした。

流れも速くダブルストックのおかげで沢に落ちるのは免れました。
レインウエアの防水の劣化で雨がしみてきて体は冷えてきました。

こまどり沢入り口では水が滝のように流れ落ちています。ここで登るのを断念してUターンです。

風の事は当時全く気にしていませんでした。この2,3日後50代の女性が2人疲労凍死されています。

生死を分ける分岐点がこまどり沢入り口であったと思います。
投稿: jizan | 2009年7月22日 (水) 20時05分
http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/21720-6bf2.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/717.html#c8

[リバイバル3] トムラウシ山遭難事故 中川隆
9. 中川隆[-7593] koaQ7Jey 2017年6月07日 09:54:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

(24.11.7) またか アミューズトラベル 万里の長城周辺で3人の遭難死

 昨日田中真紀子氏を称して「人間にはどうしようもない性(さが)と言うものがある」と記載したが、企業にも同じくこの性(さが)があるようだ。

11月3日から4日にかけて、中国の万里の長城周辺の100kmトレッキングを行っていた日本人パーティー4名とガイド1名、それに添乗員1名の計6名が吹雪の中で遭難し、うち日本人3名が凍死した。

 このトレッキングは「グレート・ウォール100kmトレッキング」と命名されおり、万里の頂上付近のあまりメインでないコースを7日間かけて歩く企画になっていた。

日本の旅行会社アミューズトラベルが企画したもので、この会社は3年前に北海道大雪山系のトムラウシ山で8名の遭難死を出したあの旅行社である。

 たった3年の間に2回も大量の遭難死を出しており、これはこの会社の体質としか言いようがない。

トムラウシの遭難死のあと50日間程度の営業停止になっていたが、その後マニュアルの整備等を行い営業を再開していた。

しかしいくらマニュアルを整備しても体質は何も変っていなかったようだ。

 今回もそしてトムラウシ山のときもそうだったが、こうした企画に参加する人々は資金的に余裕があり、かつ時間的に余裕のある人々に限られるから中高年、はっきり言えば老人が中心になる。

今回遭難死した人の年齢は76歳、68歳、62歳で私と同年輩だ。

 トレッキングは7日間で辺鄙な万里の長城周辺を歩く企画で、一日あたりの歩行距離は20km以下、時間にして5時間から6時間だったと言う。

確かに通常であれば何と言うこともない距離だし、今回参加した人たちは登山やハイキングのベテランだったから気軽に参加したのだろう。

 しかしこの時期天候がどのように急変するか分からない。

トレッキング6日目の3日から4日にかけてこの周辺では52年ぶりという猛吹雪になり平地でも積雪が47cm程度積もっていた。

映像で見る限り遭難場所はかなりの山岳地帯であり、積雪は平地よりはるかに深く風も強かったと思われる。

 ガイドが救援を求めに下山したが、残った5名は簡易テントでビバークして、内3人が凍死をした。生存者は25歳の中国人添乗員と59歳の女性だったから、年齢の高い順に死亡したことになる。

雪の中を歩くのは屈強な若者でも往生するのだから、76歳の老人が動けないのは想像に難くない。

 私はこのアミューズトラベルの企画に基本的な問題点があると思っている。

トムラウシ山のときもそうだったが、無理にスケジュールどおり行動しようとしており、天候の急変の可能性を楽観的に判断している。

注)トムラウシ山のときは手前にエスケープできる道があるにもか変らずトムラウシ山を越えた反対側にある当初予定の宿に向かっていた。


 なぜスケジュールを強行するかと言えば、こうしたツアーは宿の手配とか自動車の手配とかを事前に済ませていて、一旦そのスケジュールが狂うとそのあとの手配に多大な苦労が伴うからだ。

そして思わぬ場所に宿泊することになればツアーの主催者側でその費用を見なければならない。

だから旅行社はガイドや添乗員に「必ずスケジュールどおりツアー客を案内するよう」に強要しており、天候に少々懸念があっても無理に登山やトレッキングを決行する。

 もしメンバーが20歳前後の若者であればこうした無理をしても自力でいかようにも生還できるが、実際は老人ばかりだ。老人は体力差が大きく、又昨年は元気であっても今年も元気である保障はない。

 
 薄い利幅の旅行社が無理を承知でスケジュールどおりのトレッキングや登山をさせて、老人を遭難死させている構図で、これがこのアミューズトラベルに遭難死が多発する原因だと私は思っている。
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-dc84.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/717.html#c9

[リバイバル3] トムラウシ山遭難事故 中川隆
10. 中川隆[-7606] koaQ7Jey 2017年6月07日 14:44:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

カロリー収支の角度から装備と行動食を見る
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35253

 低体温症は、究極のところ、カロリー収支の結果が、事態をおおもとから左右することになります。

 カロリーの「収入」の方は、食べて行動することによる熱の産生です。
 「引き算」されるのは、外界へ熱が奪われることです。

 体温の限度以下への低下(体幹部で35度未満)は、この熱の出入りと、登山者がその拮抗のレベルをどれだけの時間、耐えて行動し続けられるか、という継続時間の問題も加味されて、左右されてくると考えられます。

 たとえば、たとえ体熱を奪われやすい気象条件で行動し、そのうえ装備の一部に弱点があっても、登山者が対抗できるだけ食べ、また行動による発熱量が、失われるカロリーと同等レベルであれば、行程の長さ如何によっては、 生還が可能です。

 つまり、装備、あるいは天候という1つの角度だけから、○×式には、実際の問題を把握しがたいのが、低体温症の問題です。

 

過去の記録には、気象条件としては低体温症の発症の危険が大きくあるなかで、行動し生還した登山者の、関連するデータも、参考にできるものがあります。

 これらから、「カロリー収支」を定量的につかみことはできませんが、身を守る対応の様子と考え方は、見えてくる問題があるように思います。

 以上のようなアプローチで、ケーススタディとして考えながら、低体温症にどう対応したのかを、考えていきたいと思います。

 なお、設定する問題としては、

「始めから悪天候では行動しなければいい」
「入山しなければいい」

というご意見もあると思います。 これは私も通常は、そう努めたい単純明快な処方です。 でも、これを原則として固めてしまって済ませられないのも登山です。

 登山者は、悪天候の中で、あるいは装備が不足するなかで、生還を期して行動する局面に、ときには立たされます。引き返し覚悟の登山もある。大雨のもと翌日の晴天を確信して目的地に入る登山もある。悪天時には退避する用意をしながら、数日かけて目的を遂げる登山もあります。

 ヤマレコでも、雷雨や吹雪はもちろん、登山道からの転落、雪渓下の沢に転落、道迷いなど、所持してだけの装備と判断とで、予想外の災難に遭遇し、生還したケースが様ざま報告されてきました。とくに積雪期やエリアによっては、不測の怪我などが事態を悪化させる場合があります。
 なんでもない、一般ルートであっても。

 そのときに、用意した装備や食料を活かしながら、低体温症は、用心の大事な対象です。

 山には絶対的な安全圏はないのですから、私も、できるだけ多くの事例から、学んでいこうと思います。

コメント

低体温症に限らすカロリー収支の考査。

小生・登山はもちろんですが、冬季になるとハーフ・フルマラソン(時に駅伝等)を中心にやっておる市民ランナーでもあります。

行動規範のパターンこそ違うなれど、やはりランニングのレースの時にもこのカロリーコントロールは重要な要素であってその辺の摂取配分を見誤ると、即正直にタイムに影響をきたす事間違いないです。

ここでスレ主の方の言われている消耗カロリーと摂取カロリーのバランスの事を書かれておりました。

内容的には「全くもって」という感触なのですが、問題はその摂取した食料が吸収されてカロリーと変換するのに、若い20代で30分程。
私のような40代のシニア(マラソンの世界では40歳超はシニア部門)
2時間程というタイムラグがあるセオリーがございます。


要するに、そのような理想的カロリー摂取は自分の体にエネルギーとして変換されている状態にのタイムラグを考えて、事前に補っていかないと天候の急変等の憂い目に遭ってから摂取しても間に合わず、また時間経過を追うごとに体力的に吸収能力が衰えて、ますます悪循環に嵌ことになります。

(コレはマラソンレースでも同様。フルマラソンの時スタート5K・10Kの補給が一番重要であって、疲れた30K・35Kで補給しても今度は体が受け付けない。)

詰まりは、今回の場合、小屋でお弁当を受け取った時点で食しておれば結果はあるいは変わったかも知れません。燃焼系や即エネルギー系のアミノ酸粉末等も水と一緒に飲んでいれば尚良かったかも知れません。

どうしても年齢を追うごとに、心肺機能や吸収機能の劣化は避けられない生理的事実と、ココの処の天気図に載らない「上空の寒気団」の存在をマークするという、情報収集も欠かせなくなってきていると思います。

平たく記述するとお腹が減ってから食べては遅く、のどの渇きを感じた時に飲んでも遅いという、事はマラソンのコーチにも良く言われる程です。

RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る

 私も最近の山行で、行動中の計画的なカロリー補充と給水が、個人の能力を最大限に発揮する為にとても重要であることを実感しました。

 一方で、国際山岳連盟が推奨する十分なカロリーを摂取することは、比較的若い私でもなかなか困難です。たとえ、低山であっても行動が長時間に及ぶとカロリー収支をゼロに持っていくのは難しいでしょう。

 ”いわんや悪天候をや”

 行動食についての情報は不明ですが、二人前の弁当だけでは明らかに不十分でしょう。

 実は低体温でヒヤリとしたことがありますが、比較的早期にカロリー補充と給水を行い歩き続けることで切り抜けました。

 きちんとした装備により体温喪失を少しでも減らすことも大事なのですが、以前よりご指摘の通り、体温を維持するのは骨格筋の運動、そして運動するにはカロリーが必要。また末梢循環を維持するためにも脱水は避けなくてはいけない。これらは全て軽量化とは相反する事ですが、リスク回避の為には避けられないのではないかと考えます。


朝ごはんと昼ごはんの摂取と、行動経過

>問題はその摂取した食料が吸収されてカロリーに変換するのに、若い20代で30分程。
私のような40代のシニア(マラソンの世界では40歳超はシニア部門)
2時間程というタイムラグがある

 食べたばかりの食料は、カロリー変換までにタイムラグがあるということですが、その間は、糖分や脂肪分など体に蓄えてきた分を、順次カロリーに変換しながら運動を維持し、つないで行くと考えればいいのですね。

 しかも、高齢者ほど、この消化・変換は時間がかかる。

 普通の街の生活でも、朝食べても、4、5時間もすれば腹がへる。

 山登りでは、糖分、脂肪分などを行動食として随時、摂っていくことが大事になりますね。


>今回の場合、小屋でお弁当を受け取った時点で食しておれば結果はあるいは変わったかも知れません。燃焼系や即エネルギー系のアミノ酸粉末等も水と一緒に飲んでいれば尚良かったかも知れません。


 今回の天候のもとでは、行動中のカロリー、水分補給は、ほんとに大切だったと思います。


摂取すべき必要カロリーと、水の問題

>国際山岳連盟の推奨するだけのカロリーを摂取することは、比較的若い私でもなかなか困難であると思います。

 トムラウシ遭難の事故調査報告書でも、同じ見地で、この遭難パーティーが摂取すべきだった必要カロリーを、計算しています。

 体重76キロの男性Cさんの場合、3日目にトムラウシ温泉まで 8時間で歩ききるための行動時間(8時間)のエネルギー消費量は、2300〜2700キロカロリー。

 さらに残る16時間の安静時の代謝量が、 1040キロカロリー。

 必要カロリーは、合計3350〜3750キロカロリー程度。

 ところが、実際の食事を調べたところでは、1日分の食事で 1000キロカロリー台の半ばのメンバーが大半で、2000キロカロリーを超えている人はほとんどいないようだ、とのことでした。

 トムラウシのツアー・パーティーは粗食だったことが、小屋の同宿のパーティーにも目撃されていますが、そこまでいかなくとも、必要なカロリー摂取はなかなかたいへんですね。

 おにぎりだと、1個200キロカロリーにしかなりません。

 水分摂取は、寒さを感じている条件では、テルモスに特別の飲み物を用意するなどしないと、体に入りませんね。


RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る

 expedition(遠征登山)においては1日あたり 4000kcal + 3L の水の摂取を国際山岳連盟は奨めています。これだけのカロリーを歩きながら摂取するには”弁当”スタイルでは無理でしょう。

 私は経験も浅くまだ分からないことだらけではありますが、夏も冬も行動食の一部であるはずの食事を”弁当”スタイルで提供する小屋、受け取る登山者の双方が、”必要な熱源の確保”についてリスクを抱えているのかもしれません。

 条件の厳しい山域にある小屋では、登山者の年齢、性別、体格、予定コースから必要エネルギー量を推計した上で、

 ・そのカロリーに見合うチョコバー
 ・ビタミンやミネラル(+アミノ酸)などのサプリメントのセット

 上記セットを、弁当ではなく 1日分の行動食セットとして提供する、あるいは登山者にアドバイスするといった科学的なアプローチが必要な時代なのかもしれません。小屋番やガイドは登山者の食事量の観察も欠かせないことになります。また、テン泊であれば、日数に応じた必要カロリーを概算して、持ち歩くか現地調達できることがテン泊の条件になります。また、悪天候で停滞することは、エネルギー消費を抑えるという点でも有用です。トムラウシの場合は摂取カロリーの観点からも、停滞することが正しい、ということになりますね。

 大変質の良い食事を提供する山小屋の存在や、ヤマレコでも冬山の夕食で美味しそうな料理をガッツリ食べているレコを散見します。スタイルはどうあれ、”必要なエネルギー源の確保”という点でとても大事なことなのだと認識を新たにしました。


食料と摂取カロリーを検討することの大事さ

>1日あたり4000kcal + 3Lの水の摂取を国際山岳連盟は奨めています。これだけのカロリーを歩きながら摂取するには”弁当”スタイルでは無理でしょう。

 このデータは、海外のより本格的な登山と思われる方もおられると思います。とくに水分については、高度障害の対策が若干加味されている数値ですね。
しかし、トムラウシの遭難報告では、向かい風15m、登り、という条件では、通常の登山のさらに2倍近いカロリー摂取が必要(8時間の行動中の必要カロリーとして)、と検討しています。

 おにぎりに敢えて例えれば、10個ずつを朝、昼とっても、まだ足りない。
 ですから、

>トムラウシの場合は摂取カロリーの観点からも、停滞することが正しい、ということになりますね。

 まさにそうでした。

 しかし、あのパーティーは、あの日やってくる同じツアー会社の後続パーティーのために、避難小屋を空けるしかなかったのです。また、迎えのバスはトムラウシ温泉側へ、すでに回送中。

 ガイドに判断できる裁量は、実質的になかったといえます。


RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る


体の熱産生は主に筋肉で、単位時間当たりの熱産生量には限界があり、年と共に衰えます。みぞれで衣服が濡れ、そこに強風の吹雪が吹付け満足な防寒防風対策をとらなければ、奪われる熱の方が多くなり低体温症に至るでしょう。

私は、食事を摂ったかどうかはあまり関係ないと思います。元々グリコーゲンの体内備蓄は普通の生活レベルで数時間分しかありません。普通の人で脂肪だと1ヶ月分以上の備蓄があります。

ちなみに私はここ2年間、行動食は食べていません。登山前と登山後にアミノバイタル1袋づつ飲んで、行動中は水かお茶、夏は塩分補給をします。(岩塩/味噌/マヨネーズ)+きゅうりなど。下界でも朝晩の2食のみです。

判断する時間の余裕と、発症と

カロリー摂取は、予防・緩和役。着衣と相まってのもの

>私は、食事を摂ったかどうかはあまり関係ないと思います。元々グリコーゲンの体内備蓄は普通の生活レベルで数時間分しかありません。普通の人で脂肪だと1ヶ月分以上の備蓄があります。


 これまで議論されてきたことで、登山者が、急に大量のカロリーを要求される(奪われる)事態になっても、それを短時間に、あるいはリアルタイムで供給することは難しいことが、明らかになってきたと思います。

 一方で、悪天候のなかで、大量の熱を奪われる、そのハンディを知り、低体温症に備えるためにも、出発前の食事でのカロリー補給や、即効性のある行動食、水分の補給が、緩和に役立つことも。

 退却やビバーク、安全な小屋への逃げ込みの際は、重要な備えになると思います。

 さらに、ここまででまだ議論になってこなかった下着を含めた服装の問題があります。

 真冬の山で、このようなケースで低体温症になるのは、むしろ少ないように私は思う。

 それは、始めから−15度、−20度の気温と強い風とに備えて、着衣と食事が根本的に違うからだと、私は思います。

 GWや6月、そして秋の山での備えは、その応用問題でもあると思いますが、冬と異なるのは濡れですね。


補いきれないながらも、食べて生還したケース

 コメントでも、人間が用意でき、その場で使うことができるエネルギー源は、多くない、というご意見がありました。

 低体温症の実体験者でもある北海道の医師のサイトには、次のような解説もあります。

「人間が貯蔵できるグリコーゲン

􀂄 通常は摂取カロリーの 60% 2000kcal×0.6=1600kcal しか肝臓と筋肉に貯蔵できない。

⇒従って、繰り返し行動中に摂取することが必要。」


 しかし、予防には限度があるなかでも、そのときに懸命に食べ、あるいは少しでも食べる努力を重ねて、大事を回避したり、生還した事例があります。
 いくつか紹介していきます。


◇2009年 トムラウシ遭難の生還者の証言から。
 (同遭難調査報告書から)

○私は持参したカロリーメイトや魚肉ソーセージ、きな粉棒をたべたり、アミノバイタルやアリナミンV などを飲んだり、何分かおきに、何かを口に入れるようにしていました。

○「猛烈にお腹が空いたので食べた」「アメ玉1 個を食べただけで、こんなに違うのかと驚いた」

○「悪天時なので、身体を動かすために食べなければならないと判断して食べた」

○「(非常食として食べたもの)アミノバイタル3袋、これは天沼から日本庭園の間に立て続けに食べました。カロリーメイト2箱、全部たべました。」

○「トムラウシ公園の手前に来て、登山道脇の草むらに座り込んでビバークを覚悟した。生還した理由として、ビバーク地点にマットを敷いたことが断熱になり、体温を下げなかった、と語った。

 どこで着たのか特定できないが、雨具の下にフリースを重ね着したこと、時々チョコレートなどを食べていたこと、南沼を過ぎたころには雨風が止んでいたこと、ビバークで体力を温存できたこと、もともと体力があったこと、などが生還できた主な理由と思われる。」(これは報告書執筆メンバーの医師の記述)


◇トムラウシ遭難の同じ日に、旭岳から白雲小屋まで行動したヤマレコのユーザーの体験。

 「昨年7月16日のトムラウシ山での大量遭難が起きた日に,私は旭岳〜白雲岳避難小屋のコースを歩きました。

 強い風雨の中,旭岳を目指して歩き出したものの,7合目を過ぎたところでかつて経験したことのないような猛烈な風に危険を感じ,一旦避難小屋まで退避。しかしながら,天候は回復するとの予報が出ていたことから,少し風が収まったところで無謀にも再度スタートし,強風に吹き飛ばされそうになりながらも,なんとか白雲岳避難小屋まで歩き通しました。

 でも,本当は自重すべきだったと,今でも反省しています。・・・

・・・なんとか頑張ってここをやり過ごし, 白雲岳避難小屋を目指しますが, 徐々に体力が落ちていく感じがしました。手袋をしていても指がこごえて,うまく動きません。ゴアテックスの雨具を着ていても, 霧状の雨が中の衣類を濡らします。

 途中の岩陰で休憩をとり, ウェストバッグに入れておいたアメ玉を頬張ってエネルギー補給です。ザックを開けて食料を食べるような余裕はありませんでした。
小屋に入ってザックをおろした途端,寒さと安堵感で全身が震えました。

 また,行動中は一度も震えを感じませんでした。ところが,避難小屋の中に入ってから 2〜3分で体中が震え出しました。文字通り歯がガチガチと音をたてて震えました。

これは,行動が終了したことで発熱がなくなり,急激に体温が低下したためと考えています。

 私が思うに,低体温症への最も有効な対策は,常に行動し続け,発熱を維持することではないかと思います。

そこで重要なのは,行動を継続できるだけの体力と,発熱を維持できる量のカロリーの摂取です。

私の場合,登山途中で避難小屋に戻り,十分なカロリー摂取ができていたことが,その後の行動維持に寄与したと思います。」


RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る

 国際山岳連盟医療部会のガイドラインでは、行動中のカロリー摂取スケジュールについての記述も(やや曖昧ですが)あります。

体重 75kgの私ですと、最初の 30分に凡そ 400kcal、以後 4-6 時間の間はは 2時間ごとに(おそらく)400kcalの補給が必要です。

これは expedition における基準のようですが、素人が自身の限界にチャレンジするような場合にも参考にして良いかと思います。

>低体温症への最も有効な対策は,常に行動し続け,発熱を維持

 無事に生還した今だからこそ白状しますが、3月の雲取山で本当に危ない目に遭いました。

 芋の木ドッケの巻き道で息子が行動不能に陥いりかけたのですが、その後あめ玉程度ですが行動食を与え続け、白湯を飲ませ、暖かい乾燥した装備への交換を行ったところ、山荘までの 10時間余りを歩ききりました。新雪のラッセルであったために大人の歩行速度が落ちた結果、皮肉にも子どもには無理の無い移動速度となったことも大きかったと思います。

(冬も山行を継続していたので、歩いていれば寒くないことを息子は体で覚えていました。樹林帯であったことや 3月で気温も -5度程度であったことも幸運でした)
 息子の意思表示はいつもギリギリなので、その山行以後は以前にも増してよく観察し、しつこいくらいに声をかけるようにしています。

tanigawa様の結論に敢えて付け加えさせていただくならば

 ”無理の無い移動速度で” 行動を持続させる

こちらのほうが better かと考えますが、いかがでしょうか。

RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る

> ”無理の無い移動速度で” 行動を持続させる
こちらのほうがbetterかと考えますが、いかがでしょうか。

 おっしゃる通りと思いますが、大前提としては、生死にかかわる深刻な状況に遭遇しないように、また、それに準ずる場面でも、着衣やカロリー補給で、登山者が状況にたいして用意で負けない対応を先手先手ですすめることだと思います。

 気象条件の厳しさや登山者の側で基本的な防御体制が欠けているときは、行動をするのは事態を悪化させる場合があります。

 トムラウシがまさにそうでした。

ロックガーデンの手前でハイ松帯を生かしてビバークし、シェルパのいるヒサゴ沼に伝令を出していれば、犠牲者はかなり減ったと思います。

 しかし、彼らは人数分のテントがなかった。

 とくにパーティーを組んでいる場合は、この優位性がしばしば、個人差が出てきて、瓦解の糸口になる。

 その点で、紹介いただいた体験は、息子さんの体調との連携がうまくコントロールされていたケースと思います。

 


装備面のデータ 関連するもの
 関連するものを、上げておきます。

◇やはりスコップは役立つ

 同じ5月4日、白馬岳に別ルートで登って、ビバークした男性(61歳)がいました。(「読売」5月6日)

 テントのそばに、高さ1・5mの雪の防風壁を作って、一晩しのいだとのこと。
 「5日未明まで吹雪が強かった」と話しています。

 この時期の稜線を、不安定な天候で行動するなら、やはり軽量スコップはビバークの必須装備になります。
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35253

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/717.html#c10

[リバイバル3] 2012年5月4日 白馬岳 医師グループ _ 防寒着をリュックに入れたまま「Tシャツに合羽」で 6 名全員凍死

2012年5月4日 白馬岳 医師グループ _ 防寒着をリュックに入れたまま「Tシャツに合羽」で 6 名全員凍死

栂池 - 白馬岳 地図
http://f.hatena.ne.jp/futarinoyama/20120509114735

白馬岳〜栂池縦走 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%A0%82%E6%B1%A0++%E7%99%BD%E9%A6%AC%E5%B2%B3

2012年5月4日の白馬連峰 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=YHHP2jIqkmc

2012白馬岳2号雪渓 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=N4cQ9ulRwis

この日、天候が急変して、稜線では多数の登山者が遭難しました。
このビデオは、白馬ハ­イランドホテルの屋上に設置したライブカメラが捉えた当日の天候の推移です。


2012年ゴールデンウィークの遭難事故を検証する


 北アルプス・白馬岳を登山中の6人パーティと連絡がとれない、という家族からの届け出が大町警察署にあったのは、5月4日の午後5時40分ごろのことである。

6人は北九州市の医師ら 63〜78歳の男性で、前日3日に栂池高原スキー場からゴンドラリフトを利用して入山。

栂池ヒュッテに1泊し、この日は白馬乗鞍岳、小蓮華山、白馬岳を経て白馬山荘に宿泊する予定だった。ところが夕方になっても到着しないことから、山荘のスタッフが家族に連絡し、家族が大町署に届け出たのだった。

 6人が栂池ヒュッテを出発したのは朝5時ごろ。このときの天候は無風で青空ものぞいていたという。ところが、午後になって天候が急変した。この日、6人とほぼ同じコースをたどった単独行の登山者は、白馬山荘のスタッフに「船越ノ頭で稜線に出たとたん、みぞれ混じりの強烈な向かい風に見舞われた」と言っていたそうだ。彼が小蓮花山に着いたのは午後1時ごろで、振り返ってみると下のほうに6人パーティが見えたという。

 また、新聞報道によると、午後1時半ごろ、小蓮華山から白馬大池方面に10分ほど下った地点で6人とすれ違った10人パーティがおり、そのなかのひとりがすれ違う際に「先生、どうしましょうか」という話し声を聞いている。状況から推測するに、6人はこのまま前進するか引き返すかの相談をしていたものと思われる。

 届出を受けた大町署の署員は、6人全員が所持していた携帯電話に次々電話をかけてみたが、5人はつながらず、もうひとりは呼び出し音はするものの応答がなかったという。

 翌5日の朝5時40分、長野県警ヘリが松本空港を飛び立って6人の捜索に向かったが、場付近の稜線には雲がかかっており風もそうとう強かったため、接近できないままいったん帰投した。その後、午前8時ごろになって、白馬岳北方の三国境付近を通りかかった登山者が稜線で倒れている6人の登山者を発見、白馬山荘を通じて警察に通報した。

 天候が若干回復した8時20分、県警ヘリが再度、現場へ向かったところ、小蓮華山で滑落した別の登山者を発見。まずこの遭難者を救助したのち、再び現場へ引き返していき、9時41分、通報どおりの場所で6人が倒れているのを発見した。

 6人のうち5人はひとかたまりになっていて、2人は手袋をしていなかった。素手でなにか作業をしようとしたのだろうか、そばには脱いだ手袋が落ちていた。もうひとりはその場から滑落したもようで、100mほど下のところに倒れていた。

「何人かは生存しているものと思って早朝から無理して飛んだんですが……。まさか6人全員亡くなっているとは思っておらず、ショックでした」(長野県警航空隊・櫛引知弘隊員)

 遭難者の体の一部(風上側)は厚さ10cmほどの氷漬けとなっていて、地面に張り付いていた。このため、救助隊員は体を傷つけないようにピッケルで氷を割り、動かせるようにしてからヘリコプターに収容した。

「通常、吹雪だったら雪がエビのしっぽ状に着くはずなのに、つららが成長していくような感じで氷が付着していました。たぶんみぞれのような雪が猛烈な風によって氷化したのでしょう」(櫛引隊員)

 遭難者は2人ずつ3回に分けて搬送されたが、最後はガスがかかってきてしまい、間一髪の収容となった。遭難者といっしょにザックも回収するつもりだったが、そばにあった2つのザックを回収するのがやっとだった(ほかの荷物は、後日、白馬村山岳遭難防止対策協会の隊員が回収した)。6人の死因は、いずれも低体温症であった。

 4日午後になって猛吹雪が荒れ狂ったのは、後立山連峰だけではない。前日に上高地から入山した福岡県の56〜71歳の男女6人パーティは、4日朝、宿泊していた涸沢小屋を出発し、北穂高岳を経て穂高岳山荘を目指していた(6人が北穂高小屋に立ち寄ったかどうかは不明だが、立ち寄ったのを記憶している小屋のスタッフはいないという)。ところが、オダマキのコルまで来たところで、61歳の女性メンバーが悪天候による低体温症で行動不能者に陥ってしまった。時刻は午後3時〜4時の間だったそうだ。

 このため、リーダーともうひとりのメンバーが女性に付き添ってその場に留まり、ほかの3人が穂高岳山荘に救助を求めに向かったのだが、その3人も涸沢岳に登り着いたと同時に猛烈な風雪に見舞われ、身動きできなくなってしまう。3人はなんとか山荘へのルートを探そうとしたものの、猛吹雪のなかでは方向が定められず、午後5時ごろにはやむなくビバークの態勢に入ったという。

「涸沢岳の山頂から山荘まで、ふだんだったら10分かからないんですが、あのコンディションでは、どっちに行けばいいのか、方向がわからなかったと思います。たとえコンパスがあったとしても、風速20mもの猛吹雪のなか、風を避ける場所もないところなので、果たして動けたかどうか……」(穂高岳山荘スタッフ)

 穂高岳山荘に常駐していた岐阜県警山岳警備隊に救助要請の電話が入ってきたときは、すでに午後7時を回っていた。電話はオダマキのコルで女性に付き添っていたリーダーからのもので、「ああ、やっと通じた」という第一声から、それまで何度も連絡をとろうとしていたことがうかがえた。また、この通報により、先発隊の3人がまだ小屋に着いていないことも判明した。

 要請を受け、3人の警備隊員がただちに現場へと出動し、遅れて穂高岳山荘のスタッフ4人がそのあとを追った。吹雪は依然おさまっておらず、風速は15〜20m、視界は20〜30mほど。自分の庭のように周辺の地形を熟知しているはずの山荘スタッフが束の間、方向がわからなくなるほどの激しい風雪のなかでの出動であった。

 警備隊員が涸沢岳の山頂に上がってみると、そこにビバークしている3人の遭難者がいた。

「3人はひとかたまりになってツエルトを被っていました。この時点では3人ともわれわれの問いかけに応じられるくらい意識ははっきりしていて、なんとか自力で行動できそうに見えました」(岐阜県警山岳警備隊・佐々木拓磨隊員)

 この3人を救出すべく下降点の設置作業を行なっているところへ、後発の山荘スタッフ4人が合流した。そこで救助隊は二手に分かれ、3人が涸沢岳で救助作業を引き継ぎ、ほかの4人はその先のオダマキのコルへと向かった。

 ところが、下降点の設置を終え、3人を山荘に連れ帰ろうとしたときに、アクシデントが発生する。パーティのなかでいちばん高齢だった71歳の男性が、低体温症の進行によって意識朦朧となり、自力で行動できなくなってしまったのだ。悪天候・夜間・急峻な岩場という悪条件のもと、3人の遭難者を3人だけで救助するのは無理がある。やむなく山荘に応援を求め、新たに数人のスタッフらが駆けつけてきて救助活動に加わった。

 行動不能となった男性を背負ってどうにか山荘まで運び込んだのが午後9時過ぎ。男性はこの時点ですでに心肺停止状態に陥っており、警備隊員がただちに心肺蘇生を開始した。ほかの2人の遭難者は、スタッフらのサポートを受けながら自力で山荘にたどり着いた。

 一方、オダマキのコルに向かった4人が現場に到着してみると、最初に低体温症になった女性が意識朦朧とした状態でおり、そばに男性2人が成す術もない様子で付き添っていた。3人はいちおうツエルトを被っていたが、女性の半身は外に出ていて、あまり用を成していなかった。この行動不能の女性を警備隊員と山荘スタッフが交代で背負い、ほかの2人は自力で歩けるリーダーともうひとりのメンバーをフォローしながらあとに続いた。

 だが、涸沢岳まで来たところで、とうとうリーダーが力尽きて倒れてしまう。このリーダーを搬送するために、再び山荘から応援部隊が投入された。先行していた女性は10時前に山荘に運び込まれ、もうひとりの遭難者はなんとか自力でたどり着き、最後にリーダーが11時前後に収容された。

 現場で指揮に当たった岐阜県警山岳警備隊の川地昌秀隊員は、次々に遭難者が運び込まれてくる模様を、「まるで野戦病院のような状況だった」と形容した。6人の遭難者は全員が大なり小なり低体温症に陥っており、山荘のスタッフが総出で応急処置に当たった。この日、山荘の主泊客のなかに医師と看護師がおり、騒ぎを聞きつけて「なにかできることがあれば」と協力を申し出、夜を徹して治療に当たってくれた。

 いちばん最初に収容された男性は30分以上に渡って心肺蘇生を受けたが回復せず、医師によって死亡が確認された。意識朦朧としていた女性は加温措置によって持ち直し、約3時間後には正常な状態に回復しつつあった。その女性よりも重症だったリーダーは半ば錯乱状態に陥っていたが、医師やスタッフらの懸命な処置によって朝方には回復した。

 山荘スタッフのひとりが、このときのことを振り返ってこう言う。

「現場がオダマキのコルだったから救助できましたが、それより遠かったら救助は翌日以降になっていたでしょう。また、たとえ小屋に遭難者を運び込んでも、低体温症に対する処置ができていなければ、間違いなくあと2人は亡くなっていたはずです。そういう意味で、できることぎりぎりの状況下での、総力戦の救助活動でした」

 なお、この遭難事故の2日後の6日、新穂高から入山してジャンダルムの飛騨尾根を登攀した愛知の山岳会の男性3人パーティが、奥穂高岳から間違い尾根に入り込んで滑落するという事故が起きた。3人ののうちひとり(38歳)は自力で尾根に登り返して救助を要請したのだが(本人は長野側へ滑落したものと思い、110番通報してそう告げた。電話は岐阜県警から長野県警に転送され、最初は長野県警の救助隊が出動したのだが、のちに岐阜県側での案件であることが判明する。長野県警はそのまま救助を続行)。このとき現場に駆けつけていったのも穂高岳山荘のスタッフだった。

 奥穂高岳の山頂付近で確保された男性は、軽度の低体温症にかかっていたが自力で歩行できたため、スタッフが付いて山荘まで下山した。

 この救助活動中、吹雪のなかから男性登山者が突如「あの〜」と声をかけてきてスタッフを驚かせた。大阪市からやってきたその男性(55歳)は3日に単独で上高地より入山。北尾根から吊尾根経由で5日に奥穂高岳山頂に到達したが、悪天候のため下山できず、頂上付近に雪洞を掘ってビバークしていた。そこへたまたま穂高岳山荘のスタッフが現れたため、助けを求めたのであった。

 最初のうちは元気そうに見えた男性は、スタッフといっしょに山荘へ向かう途中、みるみるうちに弱ってきて、とうとう自力で歩けなくなってしまった。幸い涸沢に常駐していた長野県の山岳救助隊員がサポートに駆けつけてきてくれたため、どうにか担いで下ろすことができたのだが、低体温症の進行により昏睡状態と錯乱状態を夜中まで繰り返した。その後は徐々に容態が落ち着いてきて、朝にはすっかり回復していたという。

 間違い尾根から転落して行方不明になっていた愛知の男性2人(35歳と31歳)は、翌朝発見され、岐阜県警のヘリコプターで収容されたが、すでに亡くなっていた。死因はやはり低体温症であった。


 北アルプスで3件の事故が起きた5月4日、現場周辺の複数の山小屋関係者は、「朝の天気はそれほど悪くなかった」と口を揃える。

〈(前日からの)雨は大降りにはならず今朝まで霧雨程度で推移してきました。9時頃からはその雨も止み、時たま薄日が差して外は明るくなるものの、キリの中から抜け出せません。早くすっきり晴れて欲しいですね。気温は11時現在+5℃、今日はあまり気温が上がらず肌寒い感じです〉

 4日のブログにこう綴っているのは、白馬山荘スタッフだ。また、長野県警航空隊の櫛引隊員は、「ガスで稜線は見えず、風もそこそこ吹いていた」と言うが、朝方1時間ほど、槍・穂高連峰で行方不明になった単独行の登山者をヘリコプターで捜索している(後日、南岳の山頂付近で遺体が発見される。死因はやはり低体温症と見られている)。つまりヘリコプターを飛ばせないほどの悪天候ではなかったということだ。

 ところが、昼前後から天候が急変した。

「昼前から天候が崩れ出し、ぐんぐん気温が下がってきました。最初はみぞれ混じりの雨だったのが、午後になって吹雪に変わりました。警備隊員になって10年以上経ちますが、これほどいっきに風が強く吹き出したのは経験したことがありません。自分としては急変したな、という認識でした」(岐阜県警・川地隊員)

「いったんやんだ雨がしばらくしてまた振り出し、それが雪に変わりました。午後になって風が出はじめたかなと思ったら、瞬く間にブリザードのような吹雪になってました」(白馬山荘スタッフ)

 この日、小誌の前編集長も、猿倉から小日向のコルに向かう途中の午後3時ごろ、天候の「激変」に遭遇する。つい1時間前までは青空が見えて半袖で歩けるほどの暖かさだったのに、西からやってきた黒雲が天を覆ったのと同時に気温が一気に下がり、冷たい雨が落ち始めたのだ。それから10分もしないうちに雨は横殴りとなり、午後4時には完全な暴風雨に変わっていたという。標高2000mに満たない場所でこの状況だったのだから、3000mの稜線上は猛烈な吹雪になっていたことは想像に難くない。

「あの日の天候の変化はまさに突発的で、荒れ方も尋常ではありませんでした。たとえ装備が完全であったとしても、あの時間帯に吹きさらしの稜線にいたということだけで、生存の可能性は限りなくゼロに近かったと思います」

 ただ、急変したことはさておき、この日の天気が芳しくないのは事前に予想されていたことだった。「3、4、5日は天気が悪くなるという予報だったので、『予報どおりだな』という印象でした」と言うのは北穂高小屋のスタッフである。長野県警・櫛引隊員も、「一般登山者がどれだけ認識していたかわかりませんが、上空に寒気が入ってきて山が荒れるのは事前にわかっていたことでした」と言っている。

 また、気象予報士・猪熊隆之氏は、日本山岳会の春山天気予報配信にて、北アルプスにおける4日の荒天をぴたりと的中させている。

「4日の天候は冬山の気象の典型的な疑似好天パターンでああり、予想天気図をチェックしていれば天候の変化は予測できたはずです」(猪熊氏)


 さて、悪天候が予想されるとき、あるいは悪天候に遭遇してしまったときにまず考えなければならないのは、どの時点でどういう判断(計画を決行するか撤退するか)を下すか、だ。それを誤ると、悪天候につかまって命を落としてしまうことになる。

 白馬岳で遭難したパーティが事故当日にたどった栂池ヒュッテから白馬山荘までの行程上には、エスケープできるルートや山小屋はまったくない(白馬大池山荘は営業期間外)。しかもいったん主稜線に上がってしまったら最後、白馬山荘までは風雪を避けられるような場所も皆無といっていい(風下側に逃げようとしても滑落してしまう危険がある)。だとしたら、すでに天候が荒れはじめていたと思われる主稜線に上がった時点で、引き返すという判断を下せなかったのだろうか。穂高連峰でのケースでも、北穂高小屋に着いたときに予定を変更して停滞するという選択肢をなぜ選べなかったのか。

 この2つのパーティはどちらも6人メンバーで、九州からやってきているという点も共通している。6年前(2006年)の10月には、やはり九州から来たガイド登山の一行7人が祖母谷温泉から白馬岳へ向かう途中で悪天候につかまり、4人が低体温症で亡くなるという同様の事故も起きている。

これらの事例から想起されるのは、遠方から来ていることが計画の強行につながっていなかったか、そして6、7人という人数が悪天候下でのスピードダウンをもたらさなかったか(ほかの登山者の目撃談や救助要請した時間などから考えると、両パーティの行動ペースは明らかに遅い)、という疑問だ。それらが判断ミスの一因となった可能性は否定できない。

 今回の白馬岳と穂高連峰のパーティのメンバーは、決して初心者というわけでなく、経験の長い山慣れた人が多かったという。両パーティとも事前に登山計画書を提出しており、白馬岳のパーティの場合は所要時間を標準コースタイムの1・5倍で計算してあったそうだ。

そうしたことを考えると、当然、豊富な経験に基づき、さまざまな判断材料を考慮して決行を決めたのだと思うが、いずれにしても結果的にどこかで間違った判断を下してしまったと言わざるを得ない。

 もちろん、同じ日に同じコースをたどった登山者はほかにもいる。そのなかのあるパーティは途中で引き返してきて難を逃れ、またあるパーティはなんとか無事に歩き通している。彼らと、遭難したパーティとの差はどこにあるのか。それを詳しく検証することができれば、より明確な教訓が得られるはずである。


 ところで今回の白馬岳での遭難をめぐる報道では、関係者の当初の発言として、遭難者が全員軽装だったことが大きく報道された。曰く、

「Tシャツの上に夏用の雨がっぱを着ただけの軽装備だった」

「6人とも防寒用のダウンやフリースを身に着けていなかった」

「この時期、冬山装備が常識の北アルプス登山では考えられない軽装」などなど。

 しかし、長野県警が最終的に確認したところによると、後日回収されたザックの中にはダウンジャケットなどの防寒具は使われないまま入っていたというが、6人のなかにはダウンジャケットを着ていた人が2人いたし、最新のレイヤードを取り入れ上半身のウェアだけで7枚重ね着していた人もいた。いちばん薄着だった人でさえ、半袖と長袖のシャツにアウターのジャケットを着ていたのだ。

春山で行動するウェアとしては決して軽装ではないし、現場では使用した形跡のあるツエルトが発見されるなど、悪天候に対処しようとした工夫も見られる。

 それがなぜ「薄着だった」ということになってしまったのか、理解に苦しむ。

間違った情報は多くの人に誤解を招き、遭難者やその家族にいわれなき誹謗中傷が浴びせられることになる。自戒を込め、関係者やマスコミは正確な事実を発表・報道すべきである。

 なお、白馬岳で遭難したパーティについては、なぜひとかたまりになって亡くなっていたのかという疑問も残る。登山中に悪天候に遭遇して低体温症になる場合、パーティのメンバー全員が同じタイミングで同じように動けなくなることはまず考えられない。いちばん先に病状が進行した者がまず行動不能になり、まだ動ける者は救助を求めるための行動を起こすというのが、これまでの事例で見られたパターンだ。前述の6年前のガイド登山の遭難や、3年前のトムラウシ山でのツアー登山の遭難では、力尽きた順に倒れていったので、結果的にパーティはバラバラになっている。

 それがこのケースに限っては、なぜバラバラにならなかったのか。いちばん最初に倒れたメンバーを介抱しようとしているうちに、全員がその場で低体温症になってしまったのか。あるいは6人が寄り添って猛吹雪をやりすごそうとしたのか。その謎も残念ながら明かされることはないだろう。
http://www.sangakujro.com/column/201206.html

(24.5.7) 中高年登山の限界 白馬岳6人パーティーの遭難死


 今年も春山で中高年齢者の遭難が相次いでいる。特に白馬岳(2932m)に登ろうとして小蓮華岳(2766m)近くの稜線で遭難した医師のパーティー6名の遭難死は春山の恐ろしさを教えている。

 私も何回か春山登山をしており、この白馬岳にも今から40年ぐらい前の5月の連休期間中に登っている。

私が登ったルートは今回遭難した6人のパーテーのちょうど逆ルートで、白馬から栂池(つがいけ)高原に下りるルートだった。

私が登山したときは6人が遭難した辺りに春山特有のブロック雪崩(ダンプカー位の雪の塊が落ちていた)の跡があって、肝を冷やしたものである。

 今回の遭難の原因は天候の急変で4日の午後から白馬岳の稜線では吹雪になっていたと言うから冬山と変わりがない。

春山の登山の難しさは晴れていれば夏山とほとんど同じであり、一方吹雪くと冬山に一変することだ。

したがって春山に登るときは冬山の装備をしていくのが普通で、私も常に冬山装備で春山に登っていた。

 しかし冬山装備はなんと言っても重い。衣類など厚手のものが数枚ほしいし手袋も靴下も2枚履かなければならない。ズボンは厚手でしかも2枚必要だし、アイゼン、ピッケル、スパッツは必須だし、場合によってはテントや寝袋やコンロをしょっていかなくてはならない。

それに高齢者はグルメだから食料もうるさい。

 私が春山登山をしなくなったのはこの装備の重さに耐えられなくなったからで、年をとると20kgを越える荷物はそれだけで体力を消耗させてしまう(私は若い頃は25kg〜30kg程度の荷物を背負っていた)。

今回の医師のパーティーの年齢構成は78歳、、75歳、75歳、66歳、63歳、63歳だからどう見ても体力があるとは思われない。

特に75歳以上の人が3名いるが、こうした人が重い冬山の装備をして登ることは体が動かなくなってしまうので最初から無理なのだ。

 新聞記事によると防寒機能のない雨具とその下は夏山程度の薄着で、手袋をしていない人もいたと報道されている。

このため全員低体温症で死亡した。

どの記事を読んでも「軽装登山で軽率だ」との指摘がなされているが、老人になってみれば分かるが軽装登山以外できるはずがない。

本人にしてみれば天候は晴れると思い夏山登山感覚だったのが、急に冬山になってしまい遭難したと言うのが実態だろう。


注)一部になぜ雪洞を掘って避難しなかったかとの報道もあるが、これなどはほとんど冗談の世界だ。雪洞を掘るにはスコップが無ければ不可能だし、掘る作業そのものも大変な体力がいる。老人が雪洞など掘っていたらそれが原因で死んでしまう。

 今日本の山は中高年者のラッシュでどこに行っても今回のパーティーのような老人に出会う。

昔だったら70歳代になれば孫の面倒を見ていたのが普通だが、3000m級の山に登っているのだからなんとも元気だと思うが、これは夏山だけの話で冬山になったらまず無理だ。

春山は夏山と冬山の両方の顔を持っていて、後者の場合は死神に会ったようなものだ。

 
 今回の遭難死は老人登山の限界を教えてくれており、中高年者は今回の遭難を他山の石とすべきで春山を甘く見ないことだ。


(5月10日追加)
 その後の報道によると遭難者は防寒用のジャケットやズボンを保持していたという(ただし全員かどうかは分からない)。ただしそうした防寒着をつけることなく凍死をしており、急激な気温の低下に対応できなかったものと思われる。

せっかくの装備もつけられる体力が無ければ無駄でやはり老人登山の限界を示している。

コメント

続報によると荷物の中には防寒衣料も入れていたそうです。

予備的に着ておくのは暑くて体力を消耗することや、あまりの急変に着るのが間に合わなかったらしいことが、ピッケルか何かを取り出そうとして息絶えた様子、と記されています。

寒気団が予想以上に張り出してきているという変化もちょっと頭に入れておく必要がありそうです。


(山崎)続報を私も見ました。せっかく防寒具を持っていながら着れなかったのは体力が消耗したのと身体が寒さで硬直してもう何もできなくなっていたからでしょう。
投稿: 横田 | 2012年5月10日 (木) 15時36分


「全員が下着とシャツの上にジャンパーや雨がっぱの軽装」との報道に疑問を感じなければならない。

彼らは白馬岳山頂付近の山小屋泊まりの予定、山小屋には基本的に暖房はない、当然に防寒着は持っていたはず。リュックサックの容量や重量の報道がなされず見落とされているのは記者の思考力の欠如だろう。

登りでは体は発熱する、それゆえ着込まないのが基本、多量に発汗すると体力を消耗する、また、汗で衣服を濡らすと汗冷えの原因となる。

一定の行動を続けられれば―10度でも発汗する。しかし、何かの理由で行動不能となった。多分、強風で歩けなくなった人がいたのであろう。

行動不能になった途端、体の発熱は停止するので体温は急速に奪われる、特に雨がっぱを着ていたことから下着が汗で濡れていれば顕著である。それゆえ、彼らは低体温症に気付かないまま脳の機能が低下し防寒着を着ることも考えられないまま死に至った。

このことは北海道のトムラウシ山で起こった、低体温症遭難事故でもいえる。

ツアーリーダーの61歳のガイドはテントを持っていながら使おうとしないで死亡している。

彼らはミスを犯したことは間違いない。小蓮華山(2766m、白馬岳の手前のピーク)で進退を判断するべきだった。当時、西風が吹いていたと推定される、東側から小蓮華山に登るため山かげで風は比較的弱い、小蓮華山頂で風の強さが実感できたはずだ。

彼らは進むと判断した、ここから白馬岳との中間部分の三国境まで標高差で100m距離1.5キロの下りとなる、登りと違って発熱量は低下し徐々に体は冷えていく、その後の報道でリュックサックの容量は60L、防寒着も十分持っていたとある。進むのであれば小蓮華山頂付近で防寒着を着るべきであった、体が冷えてから着たのでは効果は薄い。

彼らは小蓮華山頂で誰からも拘束されない自由な意思決定を行い命を失うリスクを負ったのだ、ミスを犯して命を失った者に死者に鞭打つようなバッシングはするべきでない。

なぜならば、人々はミスによるバッシングを恐れ、まわりを気にして、受け売りに徹するだろう。皆で間違えても叩かれないからだ。
ミスを恐れ、萎縮した社会では経済発展も望めないだろう。少数意見を評価しない社会では福島原発事故のような事故が再び起こる可能性があるだろう。
投稿: 自由の戦士 | 2012年6月17日 (日) 18時10分
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-5924.html


2012年05月09日 資料から検証 
白馬岳の低体温症遭難 1)当日の目撃者の証言
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-34876


 現場がGWの北アだけに、ある程度の目撃証言があると見てきました。
報道と、ヤマレコの記録とから、貴重な内容と思われるものを紹介していきます。

 3年前のトムラウシ遭難で「疲労凍死」という誤った認識が、ようやく「低体温症」という正当な認識にあらためられ、その独特の進行過程なども登山者の間に初めて広く認識されてきたと、私自身は考えてきました。


トムラウシ山遭難事故。低体温症と、ツアー登山。2つの問題
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3691

09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-9921

 しかし、今度の遭難を見ると、それが依然として徹底されてこなかったことを痛感しています。

 現地の遭対協や警察発表にくわえて、独自の取材による調査報道も始まっています。

 低体温症の本当の怖さを知るには、実例をリアルに見ることが何より重要と思います。
今回は、生存者がいなかったために、トムラウシの事故にくらべて、リアルな過程を知ることには困難があります。しかしだからこそ、限りあるなかで得られてくるデータは貴重だと思います。

 今回、犠牲になられた方々の中には、ある時期までは判断力が機能していて、「無念さ」を思った方もおられたことでしょう。

 事実とそれにもとづく考察という形で、データと情報とから、何が起こったのかを考えていくことにします。

///////////////////

6人の足どり。天候の悪化と行動との時間表

 それぞれの証言と確認とから、天候の悪化と行動経過を時系列で表わしてみます。
 (この時間表の裏付けとしたデータ、証言は、コメント部分に提示しています。)

◇5月4日

5時30分ごろ。
 6人の遭難パーティーが栂池ヒュッテを出発。
 全員が弁当を2人前ずつ持って白馬岳へと向かった。

 (別の10人パーティーも前後して栂池を出発。このほかに、男女ペアパーティーも先行していた。)

 気象庁の高層気象観測点の石川県輪島市の上空約3千メートルで観測された気温は、4日午前9時時点で0度。

 「午前中晴れ」。(白馬岳主稜を登攀中のヤマレコ・ユーザーの記録)
 「午前中は青空が見えていた」(雪倉岳東面のヤマレコ・ユーザーの記録)

 「栂池ヒュッテから天狗原、乗鞍、大池方面へはバッチリ踏み跡があり最高に登りやすかった。」(同時刻に蓮華温泉へむけて行動していたヤマレコ・ユーザーの記録)

10時50分。
 「10:50頃よりガスと雨、でも晴れている変な天気。」(八方尾根のヤマレコ・ユーザー)

 このころ、先行した男女ペアパーティーは、小蓮華岳にとりついたあと、天候の変化を考え、引き返し、6人パーティーと大池付近で会話する。6人パーティーは、「白馬へ行く」と話す。(蓮華温泉へむけて行動していたヤマレコ・ユーザーの記録)


11時すぎ。
 6人パーティーが大池を発つ。
 (コースタイムから2時間20分遅れ。)

11時ごろ?
 「白馬岳方面に、すごい高山が見えたと思ったら、雲が山の形を作っていた。」(雪倉岳東面のヤマレコ・ユーザーの記録)

 *上空に局地的に現われた小さなレンズ雲か?

11時30分すぎ。
 「急に天候が悪化し始め、やがて大粒の雨と強風が吹き出し」た。(雪倉岳東面のヤマレコ・ユーザーの記録)

12時10分。
 「稜線(2150m)に出たところで風雨により撤退決定」(雪倉岳のヤマレコ・ユーザーの記録)

 「不帰の嶮側から強風、雨も強くなる体感温度もかなり下がる。ハイマツ帯の切れ目に退避して冬パンツ重ねばき、フリースにアルパインジャケット、ビーニー・・・しかし濡らしてしまった袖口と膝付近がかなり冷たい、行動中は良いが休むと冷えが襲う。」(八方尾根のヤマレコ・ユーザー)

12時30分。
 雪倉岳をめざしていたヤマレコ・ユーザーのパーティーが撤退を開始。

13時ごろ。
 三国境まで到達した10人パーティーが、天候悪化のため引き返す。

13時30分。
 小蓮華岳の10分ほど下の位置で、10人パーティーが、6人パーティーに会い、挨拶しあう。
 
「全員が疲れた様子で別の人のザックを担いでいる人もいた」(「毎日」9日付)。
「1人が疲れた様子で、その人のザックを別の人が担いでいた」(「毎日」6日付)

14時前。
 「天候はすれ違って20分もしないうちに急変。」(10人パーティーによる)

14時ごろ。
 「急に雲が出始め、風の強さが増す。」(白馬岳主稜を登攀中のヤマレコ・ユーザーの記録)

15時ごろ。
 「標高 2,500m では風速 15-20m (推測)、みぞれ混じりから、雪に天候が変化。」(白馬岳主稜を登攀中のヤマレコ・ユーザーの記録)


15時すぎ?。
 遭難パーティーが、三国境の手前まで到達し、行動を停止。

 午後には「目が開いていられないような猛吹雪だった」(爺ヶ岳 種池山荘の小屋主、「日経」5月6日付)

17時40分。
 遭難パーティーの1人から携帯電話でSOSが家族(福岡県)に入る。
家族は大町署に救助を願い出る。

 「夕食のころテントを張っていた方も撤収して、小屋へ。寒くておられないとのこと 」(唐松山荘のヤマレコ・ユーザー)

18時
 白馬山荘では、気温が零下2・5度。

20時。
 「午後8時頃からさらに風速が強まり、深夜1時に突風。 
テントは半分がひしゃげ、フライを支えるポールが曲がる。」
(白馬3峰で幕営した、ヤマレコ・ユーザーの記録)


21時。
気象庁の高層気象観測点の石川県輪島市の上空約3千メートルで観測された気温は、4日午後9時に氷点下0・7度。

◇5月5日。

4時20分ごろ。
 「本来なら御来光の時刻 外は全く氷の世界 アイゼンバリバリに効く」。(唐松山荘のヤマレコ・ユーザー)

7時40分。
 白馬岳から大池へ下山中の愛知県の登山者が、6人の遺体を発見。110番通報。
「6人のまわりにテントのようなナイロンが散らばっていた。風で飛ばされたような状態だった。」

8時。
 現場を通った埼玉県の登山者が、6人を目撃。

「5〜6人が倒れているのが見えた。
2〜3mおきに倒れていたり、体育すわりのような姿で集まっていた。」
 
「6人の手袋やネックウォーマーなどが落ちていた」。

 
「雨具の中に夏山用のシャツなどを着ただけの軽装だった。」(「毎日」5月6日付」
 
「6人は断熱材のない雨具に、綿のズボン、ウールのシャツの軽装だった。」(「読売」同)

「遭難時に避難のために掘る雪洞を作った形跡は付近になかった。」(白馬村遭難防止対策協議会のH救助隊長の証言)


コメント

「先生 どうしましょう」。すれ違った登山者の証言。
 
「毎日」5月9日付夕刊が、遭難パーティーと小蓮華岳で行き違った登山者の証言を伝えています。
 
10人パーティーのこのグループは、遭難した6人パーティーに先行して小蓮華岳を越え、主稜線の三国境まで達したのちに、13時前後、天候悪化で引き返しを決定。小蓮華岳より10分ほど下で、遭難パーティーに出会いました。


 13時30分ごろ。

 10人パーティーのリーダーは、遭難パーティーについて「全員が疲れた様子で別の人のザックを担いでいる人もいた」と証言。
また、「1人が、『先生どうしましょう』というのを聞いた」とも証言しています。

 リーダーは、「天気が崩れて、疲れているようなので、引き返すかどうか、相談していたのだと思う」と述べています。

 記事では、「天候はすれ違って20分もしないうちに急変。」
「ひょうのようなものも降ってきて痛かった」と書いています。


 5月5日夕のNHKテレビでは、小蓮華岳の上部で15時ごろ、下山中に遭難パーティーと行き違った登山者の証言を報道していました。

 疲れた様子で、手袋をしていない人がいた、 この時期の北アにしてはあまりに装備が少なかった、と、この登山者は語っていました。

 **以下、私の補足コメント**

 遭難した6人パーティーは、小蓮華の下の地点で、栂池ヒュッテを出てから、すでに8時間も行動していました。

 しかもこの地点で、すでにザックを担げないメンバーが出ていたことになります。

 しかし、目撃されたこの場所から、6人はさらに登り、小蓮華のピークを越え、三国境の手前で、亡くなっています。

 行程などから見て、目撃された場所から、遭難地点までは、1時間余りはかかっていたと推測されます。

行動時間の大幅な遅れの疑問

 6人の遭難パーティーは、栂池ヒュッテから白馬乗鞍岳をへて白馬大池を経由し、白馬岳を目標にして行動し、白馬山荘へ4日午後の到達をめざしていました。

 通常の夏タイムで、白馬大池まで2時間40分、そこから小蓮華岳をへて主稜線の三国境まで2時間10分。
 栂池ヒュッテの出発は朝5時半でした。

 大池には、夏タイムならば9時すぎには着けた可能性がありました。

 ヤマレコの次の記録に、目撃証言があります。
 *印の見出しのみ、tanigawaによる。


///////////////////////////////

衝撃:白馬遭難パーティーのトレースを歩いていた。(栂池テント→乗鞍→大池→蓮華温泉テント→振子沢→栂池)
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-187612.html


5/4:6:30栂池-8:30天狗原-10:15白馬乗鞍岳-11:30白馬大池-13:00天狗の庭-14:30蓮華温泉(テン泊)

 *大池までのルート。

「栂池ヒュッテから天狗原、乗鞍、大池方面へはバッチリ踏み跡があり最高に登りやすかった。」

 *乗鞍から大池
「乗鞍山頂で休憩中、少し風が強くなってきた。大池への下り途中、男女ペアの方とすれ違い、

「どちらから?」
「小蓮華で天気が悪くなったので引き返してきた。どちらまで?」
「蓮華温泉です」
「下るのなら大丈夫かな」
「5, 6人パーティーとすれ違いませんでした? あの方たちも蓮華温泉?」
「白馬岳までと言っていました」

ここでお礼を言うのは諦め、すごいなぁ、などど思ったのだったが、まさか、あんな事になるとは。

 
 *大池で11時34分撮影の写真の記述

「大池で乗鞍ピークでお会いした男性が大池の南側に下りて小蓮華への稜線へ直登していきました。
 凄い、頑張れ!
と思っているうちにガスに包まれていました。」

 「先ほどのパーティー。小蓮華方面へ登っていきます。
この時は「いやぁー頑張るなー」などと思っていました。」

 *連続して撮影した写真には、小蓮華岳へむかう6人が写っています。

///////////////////////////////

* 遭難パーティーは、11時少しすぎに大池を発っていたことになります。

 ここまで出発から5時間経過。コースタイムから2時間20分遅れ)

 雪が歩きやすく、先行の10人パーティーなどのトレースもありました。この遅れの問題は、ヤマレコ・ユーザーも5時間かかっているため、湿り雪の条件もあったのかもしれません。

 先行の10人パーティーは出発時刻が不明のため比較できません。しかし、やはり夏タイムより条件が悪かったことが、三国境までの到達時刻から、推測されます。

 前コメントの目撃証言では、退却して生還した10人パーティーが小蓮華岳の下で遭難パーティーに遭遇したのは、13時30分です。

 6人パーティーは、大池から、2時間30分。(コースタイムからさらに1時間余り遅れ)

 ここまで栂池から、8時間。この時点で、時間的に白馬岳を越えて白馬山荘に到達することは、晴天でも困難が出てきました。

 そのうえに、10人パーティーに目撃された時点で、自分のザックを担げないメンバーがすでに生まれていました。

 天候の本格的な悪化の時間帯が迫り、少なくとも2つの他のパーティーがUターンをするなか、終始大きく遅れる行動時間のまま、6人は主稜線へ、さらに進んだことになります。


貴重な現場周辺の当日の気象変化の記録

 ヤマレコと、そこに記録をアップする登山者の威力を見せているのが、5月4日、遭難当日の現場周辺の気象観察の記録です。

 その行動ぶり、果敢な挑戦と判断などとあわせ、どなたのものも、現場のそのときの様相を示し出してくれています。

 アドレスを示していますので、ぜひ現物の記録を訪問されてください。

 *印のみ、tanigawaのコメント。


@白馬岳主稜の登攀記録

白馬岳主稜:吹雪と雷とみぞれと強風と。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-188710.html

5/3:猿倉→白馬尻
5/4:白馬尻→3峰付近
5/5:3峰付近→白馬岳山頂→白馬尻
5/6:白馬尻→猿倉

この GW は、天候が非常に悪く、

・3日:雨のち晴れ

・4日:午前中晴れ、午後2時頃から急に雲が出始め、風の強さが増す。
東側には前線の影響と思われる積雲が立ち込め、動かない。

午後 3時頃から、標高 2,500mでは風速 15-20m(推測)、みぞれ混じりから、雪に天候が変化。

午後 8時頃からさらに風速が強まり、深夜 1時に突風。
テントは半分がひしゃげ、フライを支えるポールが曲がる。


・5日:午前中霧。もなか雪。気温は 0度程度(推測)。
風速は弱まるが、午前中いっぱいは霧が晴れず、11時頃から次第に霧が晴れる。


*この記録は、遭難現場から1キロ弱のもの。
現場の天気の変化をほぼそのまま再現していると思われます。

天候は14時に崩れ出し、15時ごろからみぞれまじりの風雪となっています。
風速については、主稜線ではさらに強かったと思われます。
しかし、風が現場より弱いこの記録の位置でも、夜半に冬用テントが倒されかけていました。


A雪倉岳周辺

雨の雪倉岳 敗退、山スキー
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-188087.html


5/4 曇りのち雨

06:40 ロッジ出発(シールなし) 
    途中でシールをセットして、兵馬ノ平南側をトラバース
08:20 瀬戸川通過ポイントを探してスノーブリッジ通過
    沢コース(一般コース)をシール登行
12:10 稜線(2150m)に出たところで風雨により撤退決定、シール解除、スキー滑降準備
12:30 撤退開始
    シール登行した同じコースをスキー滑降
13:00 瀬戸川スノーブリッジ通過点、シールセット -13:15
    兵馬ノ平南側のトラバース
    ロッジの前庭?のミズバショウ観賞   
15:10 ロッジ着

*ロッジとあるのは、蓮華温泉ロッジです。
*以下は、写真の説明。

今日(5/4)は予報では、天気が回復方向であり、実際に午前中は青空が見えていたが。。。

標高 1900mあたりの尾根越えポイントで休憩する。まだまだ青空が出ていて気持ちがいい。しかし、のちの調査によると、これは『擬似好天』だったらしい。

白馬岳方面に、すごい高山が見えたと思ったら、雲が山の形を作っていた。もしかしたら、これが遭難を引起した悪魔なのか?

11時半をすぎてから、急に天候が悪化し始め、やがて大粒の雨と強風が吹き出し、我々は、標高 2150m地点で撤退を決めた。

*現場から1キロ北のこの場所では、昼前から悪天の兆候が出始めていました。12:30 撤退。
 

B八方尾根から唐松山荘

唐松岳 晴天を待って計画したはずが 束の間の晴れ、雨と烈風(こんな言葉はないと思いますが!)、氷の世界へ
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-188776.html


*5/4の行動記録 
9:15八方池山荘〜10:10第3ケルン12:15丸山ケルン(途中ダケカンバのところで大休憩


10:50頃よりガスと雨、でも晴れている変な天気)

丸山ケルン出ると完全な雨と北西(右側)からの強烈な風 
ハイマツ帯で風除け・冬装備に転換・・・
しかし濡れた袖口と膝のあたりが寒い、
行動を停止すると冷えて凍傷になりそう。

キックステップで登る急登よりもだらだらと長いゆるい尾根筋で風にふかれ、雨で腐った雪は本当に疲れる、また遮るものは何もない。
   

13:50唐松岳頂上山荘17:00夕食 

*感想から
 4日午前中快晴、第3ケルンあたりからぽつぽつ、でも空は真っ青ですぐ止みそうな具合。
 ドライの長袖シャツに合物パンツ・ゴアのスパッツ、アイゼンは登り使用せず。

 丸山ケルンすぎ不帰の嶮側から強風、雨も強くなる体感温度もかなり下がる。ハイマツ帯の切れ目に退避して冬パンツ重ねばき、フリースにアルパインジャケット、ビーニー・・・しかし濡らしてしまった袖口と膝付近がかなり冷たい、行動中は良いが休むと冷えが襲う、また急登はキックステップで登りやすいが、雨でじゅくじゅくになった雪は歩きにくく、また何も遮るものがない尾根筋でうける風はつらい。20k超の荷物も苦になってきた。

 小屋着後 強風と雨はやむ気配なく、夜中に飛ばされるかもと(設営もままならない)思い小屋泊に変更

5日 4時20分 本来なら御来光の時刻 外は全く氷の世界 アイゼンバリバリに効く

*写真のキャプション

 テント泊予定でしたが、この風雨では夜中に飛ばされます。
 変更して山荘へ直行 
 同じ時間帯の単独行の方 2名も 小屋へ
 夕食のころテントを張っていた方も撤収して、小屋へ 
 寒くておられないとのこと

 本来なら御来光の時刻 小屋の玄関内部もこの通り 外は吹雪

*この記録は、現場からは10キロ近く離れた場所ですが、天候悪化と、機敏な着衣の着こみの描写がすばらしく、紹介しました。 夜半にテントを飛ばさかねないほどの強風、そして5日朝には一気に氷の世界に変じる様子も記録されています。


*ここでは各ユーザーの今度の事態への思いや体験がなかなましく綴られているため、私のコメントは遠慮して、別のコメントに書きます。

 低体温症に懸命に挑み、あるいはこれを未然に防止する措置をとりながら、どれもずばらしい敢闘の記録と思います。

 同時にあの日の午後と夜半とに、遭難者らを襲った悪天候の厳しさがリアルに伝わってきます。
 

6人の足どり。天候の悪化と行動との時間表
 それぞれの証言と確認とから、天候の悪化と行動経過を時系列で表わしてみます。

◇5月4日

5時30分ごろ。
 6人の遭難パーティーが栂池ヒュッテを出発。
 全員が弁当を2人前ずつ持って白馬岳へと向かった。

 (別の10人パーティーも前後して栂池を出発。このほかに、男女ペアパーティーも先行していた。)

 気象庁の高層気象観測点の石川県輪島市の上空約3千メートルで観測された気温は、4日午前9時時点で0度。

 「午前中晴れ」。(白馬岳主稜を登攀中のヤマレコ・ユーザーの記録)
 「午前中は青空が見えていた」(雪倉岳東面のヤマレコ・ユーザーの記録)

 「栂池ヒュッテから天狗原、乗鞍、大池方面へはバッチリ踏み跡があり最高に登りやすかった。」
(同時刻に蓮華温泉へむけて行動していたヤマレコ・ユーザーの記録)


10時50分。
 「10:50頃よりガスと雨、でも晴れている変な天気。」(八方尾根のヤマレコ・ユーザー)

 このころ、先行した男女ペアパーティーは、小蓮華岳にとりついたあと、天候の変化を考え、引き返し、6人パーティーと大池付近で会話する。

6人パーティーは、「白馬へ行く」と話す。
(蓮華温泉へむけて行動していたヤマレコ・ユーザーの記録)


11時すぎ。
 6人パーティーが大池を発つ。
 (コースタイムから2時間20分遅れ。)

11時ごろ?
 「白馬岳方面に、すごい高山が見えたと思ったら、雲が山の形を作っていた。」(雪倉岳東面のヤマレコ・ユーザーの記録)

 *上空に局地的に現われた小さなレンズ雲か?

11時30分すぎ。
 「急に天候が悪化し始め、やがて大粒の雨と強風が吹き出し」た。(雪倉岳東面のヤマレコ・ユーザーの記録)

12時10分。
 「稜線(2150m)に出たところで風雨により撤退決定」(雪倉岳のヤマレコ・ユーザーの記録)

 「不帰の嶮側から強風、雨も強くなる体感温度もかなり下がる。ハイマツ帯の切れ目に退避して冬パンツ重ねばき、フリースにアルパインジャケット、ビーニー・・・しかし濡らしてしまった袖口と膝付近がかなり冷たい、行動中は良いが休むと冷えが襲う。」(八方尾根のヤマレコ・ユーザー)

12時30分。
 雪倉岳をめざしていたヤマレコ・ユーザーのパーティーが撤退を開始。

13時ごろ。
 三国境まで到達した10人パーティーが、天候悪化のため引き返す。

13時30分。
 小蓮華岳の10分ほど下の位置で、10人パーティーが、6人パーティーに会い、挨拶しあう。
 「全員が疲れた様子で別の人のザックを担いでいる人もいた」(「毎日」9日付)。
「1人が疲れた様子で、その人のザックを別の人が担いでいた」(「毎日」6日付)

14時前。
 「天候はすれ違って20分もしないうちに急変。」(10人パーティーによる)

14時ごろ。
 「急に雲が出始め、風の強さが増す。」(白馬岳主稜を登攀中のヤマレコ・ユーザーの記録)

15時ごろ。
 「標高2,500mでは風速15-20m(推測)、みぞれ混じりから、雪に天候が変化。」(白馬岳主稜を登攀中のヤマレコ・ユーザーの記録)


15時すぎ?。
 遭難パーティーが、三国境の手前まで到達し、行動を停止。

 午後には「目が開いていられないような猛吹雪だった」(爺ヶ岳 種池山荘の小屋主、「日経」5月6日付)

17時40分。
 遭難パーティーの1人から携帯電話でSOSが家族(福岡県)に入る。家族は大町署に救助を願い出る。

 「夕食のころテントを張っていた方も撤収して、小屋へ。寒くておられないとのこと 」(唐松山荘のヤマレコ・ユーザー)

18時
 白馬山荘では、気温が零下2・5度。

20時。
 「午後8時頃からさらに風速が強まり、深夜1時に突風。 テントは半分がひしゃげ、フライを支えるポールが曲がる。」(白馬3峰で幕営した、ヤマレコ・ユーザーの記録)


21時。
気象庁の高層気象観測点の石川県輪島市の上空約3千メートルで観測された気温は、4日午後9時に氷点下0・7度。

◇5月5日。

4時20分ごろ。
 「本来なら御来光の時刻 外は全く氷の世界 アイゼンバリバリに効く」。(唐松山荘のヤマレコ・ユーザー)

7時40分。
 白馬岳から大池へ下山中の愛知県の登山者が、6人の遺体を発見。110番通報。
「6人のまわりにテントのようなナイロンが散らばっていた。風で飛ばされたような状態だった。」

8時。
 現場を通った埼玉県の登山者が、6人を目撃。

「5〜6人が倒れているのが見えた。
2〜3mおきに倒れていたり、体育すわりのような姿で集まっていた。」
 
「6人の手袋やネックウォーマーなどが落ちていた」。

 
「雨具の中に夏山用のシャツなどを着ただけの軽装だった。」(「毎日」5月6日付」
 
「6人は断熱材のない雨具に、綿のズボン、ウールのシャツの軽装だった。」(「読売」同)

「遭難時に避難のために掘る雪洞を作った形跡は付近になかった。」(白馬村遭難防止対策協議会のH救助隊長の証言)
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-34876


2012年05月18日 検証 白馬岳低体温症遭難2)
カロリー収支の角度から装備と行動食を見る
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35253


 今度は、白馬岳の6人パーティーを含め、幾つかの経験、事例から装備と食糧の面を検討したいと思います。

 低体温症は、究極のところ、カロリー収支の結果が、事態をおおもとから左右することになります。

 カロリーの「収入」の方は、食べて行動することによる熱の産生です。
 「引き算」されるのは、外界へ熱が奪われることです。

 体温の限度以下への低下(体幹部で35度未満)は、この熱の出入りと、登山者がその拮抗のレベルをどれだけの時間、耐えて行動し続けられるか、という継続時間の問題も加味されて、左右されてくると考えられます。

 たとえば、たとえ体熱を奪われやすい気象条件で行動し、そのうえ装備の一部に弱点があっても、登山者が対抗できるだけ食べ、また行動による発熱量が、失われるカロリーと同等レベルであれば、行程の長さ如何によっては、 生還が可能です。

 つまり、装備、あるいは天候という1つの角度だけから、○×式には、実際の問題を把握しがたいのが、低体温症の問題です。

 今回の白馬岳の遭難では、着衣と装備については限られた範囲ですが、一定のデータがあります。発見時の着衣については、警察と遭対協の発表はほぼ一貫しています。

 食事については、栂池ヒュッテの出発時に、2食分の「弁当」をもらったという情報があります。

 これらに加えて、ほぼ同じ気象条件のもとで行動した登山者が、それぞれどう行動し、どのように身を守ろうとしたかの一定の情報もあります。

また、過去の記録には、気象条件としては低体温症の発症の危険が大きくあるなかで、行動し生還した登山者の、関連するデータも、参考にできるものがあります。

 これらから、「カロリー収支」を定量的につかみことはできませんが、身を守る対応の様子と考え方は、見えてくる問題があるように思います。

 以上のようなアプローチで、ケーススタディとして考えながら、低体温症にどう対応したのかを、考えていきたいと思います。

 なお、設定する問題としては、

「始めから悪天候では行動しなければいい」
「入山しなければいい」

というご意見もあると思います。 これは私も通常は、そう努めたい単純明快な処方です。 でも、これを原則として固めてしまって済ませられないのも登山です。

 登山者は、悪天候の中で、あるいは装備が不足するなかで、生還を期して行動する局面に、ときには立たされます。引き返し覚悟の登山もある。大雨のもと翌日の晴天を確信して目的地に入る登山もある。悪天時には退避する用意をしながら、数日かけて目的を遂げる登山もあります。

 ヤマレコでも、雷雨や吹雪はもちろん、登山道からの転落、雪渓下の沢に転落、道迷いなど、所持してだけの装備と判断とで、予想外の災難に遭遇し、生還したケースが様ざま報告されてきました。とくに積雪期やエリアによっては、不測の怪我などが事態を悪化させる場合があります。
 なんでもない、一般ルートであっても。

 そのときに、用意した装備や食料を活かしながら、低体温症は、用心の大事な対象です。

 山には絶対的な安全圏はないのですから、私も、できるだけ多くの事例から、学んでいこうと思います。


コメント

低体温症に限らすカロリー収支の考査。

小生・登山はもちろんですが、冬季になるとハーフ・フルマラソン(時に駅伝等)を中心にやっておる市民ランナーでもあります。

行動規範のパターンこそ違うなれど、やはりランニングのレースの時にもこのカロリーコントロールは重要な要素であってその辺の摂取配分を見誤ると、即正直にタイムに影響をきたす事間違いないです。

ここでスレ主の方の言われている消耗カロリーと摂取カロリーのバランスの事を書かれておりました。

内容的には「全くもって」という感触なのですが、問題はその摂取した食料が吸収されてカロリーと変換するのに、若い20代で30分程。
私のような40代のシニア(マラソンの世界では40歳超はシニア部門)
2時間程というタイムラグがあるセオリーがございます。


要するに、そのような理想的カロリー摂取は自分の体にエネルギーとして変換されている状態にのタイムラグを考えて、事前に補っていかないと天候の急変等の憂い目に遭ってから摂取しても間に合わず、また時間経過を追うごとに体力的に吸収能力が衰えて、ますます悪循環に嵌ことになります。

(コレはマラソンレースでも同様。フルマラソンの時スタート5K・10Kの補給が一番重要であって、疲れた30K・35Kで補給しても今度は体が受け付けない。)

詰まりは、今回の場合、小屋でお弁当を受け取った時点で食しておれば結果はあるいは変わったかも知れません。燃焼系や即エネルギー系のアミノ酸粉末等も水と一緒に飲んでいれば尚良かったかも知れません。

どうしても年齢を追うごとに、心肺機能や吸収機能の劣化は避けられない生理的事実と、ココの処の天気図に載らない「上空の寒気団」の存在をマークするという、情報収集も欠かせなくなってきていると思います。

平たく記述するとお腹が減ってから食べては遅く、のどの渇きを感じた時に飲んでも遅いという、事はマラソンのコーチにも良く言われる程です。


RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る


 私も最近の山行で、行動中の計画的なカロリー補充と給水が、個人の能力を最大限に発揮する為にとても重要であることを実感しました。

 一方で、国際山岳連盟が推奨する十分なカロリーを摂取することは、比較的若い私でもなかなか困難です。たとえ、低山であっても行動が長時間に及ぶとカロリー収支をゼロに持っていくのは難しいでしょう。

 ”いわんや悪天候をや”

 行動食についての情報は不明ですが、二人前の弁当だけでは明らかに不十分でしょう。

 実は低体温でヒヤリとしたことがありますが、比較的早期にカロリー補充と給水を行い歩き続けることで切り抜けました。

 きちんとした装備により体温喪失を少しでも減らすことも大事なのですが、以前よりご指摘の通り、体温を維持するのは骨格筋の運動、そして運動するにはカロリーが必要。また末梢循環を維持するためにも脱水は避けなくてはいけない。これらは全て軽量化とは相反する事ですが、リスク回避の為には避けられないのではないかと考えます。


朝ごはんと昼ごはんの摂取と、行動経過

>問題はその摂取した食料が吸収されてカロリーに変換するのに、若い20代で30分程。
私のような40代のシニア(マラソンの世界では40歳超はシニア部門)
2時間程というタイムラグがある

 食べたばかりの食料は、カロリー変換までにタイムラグがあるということですが、その間は、糖分や脂肪分など体に蓄えてきた分を、順次カロリーに変換しながら運動を維持し、つないで行くと考えればいいのですね。

 しかも、高齢者ほど、この消化・変換は時間がかかる。

 普通の街の生活でも、朝食べても、4、5時間もすれば腹がへる。

 山登りでは、糖分、脂肪分などを行動食として随時、摂っていくことが大事になりますね。


>今回の場合、小屋でお弁当を受け取った時点で食しておれば結果はあるいは変わったかも知れません。燃焼系や即エネルギー系のアミノ酸粉末等も水と一緒に飲んでいれば尚良かったかも知れません。


 今回の天候のもとでは、行動中のカロリー、水分補給は、ほんとに大切だったと思います。

 6人全員が摂れてないとは、想像できない。
 しかし、行動食についての発表はありません。

 今回の6人が、ヒュッテを5時半ごろに発つときに、受け取った2食分のお弁当は、おそらく朝と昼ではないかと思います。15時台に白馬山荘に到達する予定でしたから。

 この件、行動食とあわせ、全体は見えていません。

 夏タイム・プラス2時間なら、確かに15時台には山荘に達することができたはずでした。

 しかし、取り付きの大池まで約5時間かかった。(大池出発が11時ごろ)
 朝食休憩と、加えて何事かが、あったからかもしれません。

 小蓮華の登りで撮影された写真を見ると、山スキーでもないのに、6人の間隔がそれぞれ離れすぎているように見えるのも、気にかかっていました。


衝撃:白馬遭難パーティーのトレースを歩いていた。(栂池テント→乗鞍→大池→蓮華温泉テント→振子沢→栂池)
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-187612.html


 この写真が写されたところから、行程にして2キロほどの小蓮華岳のすぐ下で、すでにザックを担げないメンバーが 1人出ています。
 時刻も13時30分。

 ここまでで、問題がすでに顕在化していたことになります。


摂取すべき必要カロリーと、水の問題

>国際山岳連盟の推奨するだけのカロリーを摂取することは、比較的若い私でもなかなか困難であると思います。

 トムラウシ遭難の事故調査報告書でも、同じ見地で、この遭難パーティーが摂取すべきだった必要カロリーを、計算しています。

 体重76キロの男性Cさんの場合、3日目にトムラウシ温泉まで 8時間で歩ききるための行動時間(8時間)のエネルギー消費量は、2300〜2700キロカロリー。

 さらに残る16時間の安静時の代謝量が、1040キロカロリー。

 必要カロリーは、合計3350〜3750キロカロリー程度。

 ところが、実際の食事を調べたところでは、1日分の食事で 1000キロカロリー台の半ばのメンバーが大半で、2000キロカロリーを超えている人はほとんどいないようだ、とのことでした。

 トムラウシのツアー・パーティーは粗食だったことが、小屋の同宿のパーティーにも目撃されていますが、そこまでいかなくとも、必要なカロリー摂取はなかなかたいへんですね。

 おにぎりだと、1個200キロカロリーにしかなりません。

 水分摂取は、寒さを感じている条件では、テルモスに特別の飲み物を用意するなどしないと、体に入りませんね。


RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る

 expedition(遠征登山)においては1日あたり 4000kcal + 3L の水の摂取を国際山岳連盟は奨めています。これだけのカロリーを歩きながら摂取するには”弁当”スタイルでは無理でしょう。

 私は経験も浅くまだ分からないことだらけではありますが、夏も冬も行動食の一部であるはずの食事を”弁当”スタイルで提供する小屋、受け取る登山者の双方が、”必要な熱源の確保”についてリスクを抱えているのかもしれません。

 条件の厳しい山域にある小屋では、登山者の年齢、性別、体格、予定コースから必要エネルギー量を推計した上で、

 ・そのカロリーに見合うチョコバー
 ・ビタミンやミネラル(+アミノ酸)などのサプリメントのセット

 上記セットを、弁当ではなく 1日分の行動食セットとして提供する、あるいは登山者にアドバイスするといった科学的なアプローチが必要な時代なのかもしれません。小屋番やガイドは登山者の食事量の観察も欠かせないことになります。また、テン泊であれば、日数に応じた必要カロリーを概算して、持ち歩くか現地調達できることがテン泊の条件になります。また、悪天候で停滞することは、エネルギー消費を抑えるという点でも有用です。トムラウシの場合は摂取カロリーの観点からも、停滞することが正しい、ということになりますね。

 大変質の良い食事を提供する山小屋の存在や、ヤマレコでも冬山の夕食で美味しそうな料理をガッツリ食べているレコを散見します。スタイルはどうあれ、”必要なエネルギー源の確保”という点でとても大事なことなのだと認識を新たにしました。


食料と摂取カロリーを検討することの大事さ

>1日あたり4000kcal + 3Lの水の摂取を国際山岳連盟は奨めています。これだけのカロリーを歩きながら摂取するには”弁当”スタイルでは無理でしょう。

 このデータは、海外のより本格的な登山と思われる方もおられると思います。とくに水分については、高度障害の対策が若干加味されている数値ですね。

しかし、トムラウシの遭難報告では、向かい風15m、登り、という条件では、通常の登山のさらに2倍近いカロリー摂取が必要(8時間の行動中の必要カロリーとして)、と検討しています。

 おにぎりに敢えて例えれば、10個ずつを朝、昼とっても、まだ足りない。
 ですから、

>トムラウシの場合は摂取カロリーの観点からも、停滞することが正しい、ということになりますね。

 まさにそうでした。

 しかし、あのパーティーは、あの日やってくる同じツアー会社の後続パーティーのために、避難小屋を空けるしかなかったのです。また、迎えのバスはトムラウシ温泉側へ、すでに回送中。

 ガイドに判断できる裁量は、実質的になかったといえます。

 今回のパーティーの場合、自前の行動食をどれだけ用意したかのデータはありません。

 しかし、パーティーとして、予測される天候、トムラウシを越える標高差のある行程などを考えた場合、不測の事態にそなえるカロリーは大丈夫なのか、という検討がリーダーには必要だったように思います。

 また、不足していることを確認したうえで、天候が悪化したり、行程が大きく遅れた場合には、あらかじめ大池までで引き返す確認なども、ミーティングしておくことも、あったかもしれません。

 これらは、検討の有無もふくめて、実情は推し量れません。

遭難パーティーの装備のデータ

 以下に、遭難した6人パーティーの装備のデータをあげておきます。

 まず、装備全体の状況。


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北ア白馬岳遭難:回収ザックの中から冬山用ズボンなど発見
毎日新聞 2012年05月08日 20時19分

 長野県の北アルプス・白馬(しろうま)岳(2932メートル)近くで、北九州市の男性医師ら6人が死亡した遭難事故で、回収されたザックの中に薄手の羽毛ジャケットと防風機能のある冬山用ズボンが入っていたことが8日分かった。

回収した白馬村山岳遭難防止対策協会(遭対協)の降籏義道隊長は「冬山に耐えられる羽毛ジャケットではないが、自覚症状のないまま低体温症に陥り、吹雪に見舞われた時にはザックから取り出す余裕がなかったのでは」と推測している。

 遺留品は、遭難した当日の目的地・白馬(はくば)山荘の手前約2キロの地点にまとまってあり、遭対協の隊員2人が7日、4人分のザックと、下着などが詰まった大型のナイロン袋などを回収した。

 降籏隊長によると、四つのザックは50〜65リットルの容量で、それぞれに薄手の羽毛ジャケット、冬山用ズボン、保温機能のある登山用下着、予備の手袋、500ミリリットル入りの水3本などが入っていた。

 一番重いもので12キロ前後という。簡易コンロ二つのほか、6人がかぶっていたとみられるツェルト(簡易テント)1点と未使用のツェルトも回収した。

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NHK
白馬岳遭難 荷物の中に防寒着
5月8日 9時0分

北アルプスの白馬岳で、北九州市の男性6人のグループが死亡した事故で、現場から防寒着や簡易型のテントなどが回収されていたことが分かりました。

北アルプスの白馬岳で4日、北九州市から訪れた医師など63歳から78歳の男性6人のグループが行方不明となり、翌日見つかりましたが、全員が低体温症で死亡していました。

地元の白馬村山岳遭難防止対策協会は、7日、遺族の依頼を受けて現場の尾根から6人の荷物を回収しました。

搬送されたとき、6人の服装は、いずれもTシャツにジャンパー程度の軽装でしたが、山岳遭難防止対策協会によりますと、回収された荷物には薄手のダウンジャケットや簡易型のテント、それに手袋や毛糸の帽子なども含まれていました。

ダウンジャケットは、いずれもリュックサックの中に入っていましたが、簡易型テントは使った形跡があり、手袋や帽子は周辺に散らばっていたということです。
山岳遭難防止対策協会は「急な天候の変化で防寒着を着るタイミングを失い、簡易型テントも強風のためうまく使えなかったのではないか」と話しています。

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 ザックにはこのほかに、冬用下着や、冬用山ズボンを用意していたメンバーもいたとのこと。

 発見時の着衣の件は、下着は冬用ではなく、山シャツを着用。ベストを着ていたメンバーも確認されています。

 荷物の重量についてですが、トムラウシの遭難パーティーの場合、避難小屋泊まりで各自2泊3日分の食料をいれて、10〜14キロでした。

 今回は、食事付きの小屋泊まりで、最大で12キロ。
 

低カロリーも問題ですが…?

 遭難パーティーの装備を見ると防寒の物もあったことを知り、遭難者らは動けなくなる瞬間まで危険性を感じていなかったのかな。それにしてもみんながみんな同程度の体力で、一人も危険を感じなかったのだろうか?

 自分のことに置き換えてみると行動中に呼び掛けに応えないとか、反応の鈍化が見えたら、何らかの異常を考えないと、パーティーを組んで登る意味がないように思うけど 、基本的に登山では、行動食が当然だと思うけど。

 ちなみに仲間と登る場合は、休憩のたびに飴玉を配ったり、ビスケットを勧めたり、おかげで昼食という感覚で休憩を取るということはほとんどありません。

RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る


体の熱産生は主に筋肉で、単位時間当たりの熱産生量には限界があり、年と共に衰えます。みぞれで衣服が濡れ、そこに強風の吹雪が吹付け満足な防寒防風対策をとらなければ、奪われる熱の方が多くなり低体温症に至るでしょう。

私は、食事を摂ったかどうかはあまり関係ないと思います。元々グリコーゲンの体内備蓄は普通の生活レベルで数時間分しかありません。普通の人で脂肪だと1ヶ月分以上の備蓄があります。

ちなみに私はここ2年間、行動食は食べていません。登山前と登山後にアミノバイタル1袋づつ飲んで、行動中は水かお茶、夏は塩分補給をします。(岩塩/味噌/マヨネーズ)+きゅうりなど。下界でも朝晩の2食のみです。

判断する時間の余裕と、発症と

>遭難者らは動けなくなる瞬間まで危険性を感じていなかったのかな。それにしてもみんながみんな同程度の体力で、一人も危険を感じなかったのだろうか?


 今度の白馬岳では、生存者がいないため情報がありませんが、福岡の家族への最後のSOSの連絡が17時30分少し前に行われています。

 おそらく、判断力や知覚がなくなる低体温症の進行は、かなりの時間差があったものと思われます。

 このシリーズの 1) に、目撃証言等から時系列を再現しています。

 一気に気象条件が急変したというのも、事実と違う。
 早いパーティーは、正午までに引き返しを行動に移しています。

 いっぺんに、手の打ちようがないスピードで、症状が全員に広がったというのも、またかなり違うと思います。

 13時台にすでに症状?が出たメンバーがいたことが、目撃されています。

 問題は、徐々に広がっていた危機にたいして、経験があるリーダー役(複数?)が、予防や注意をふくめて、どうであったかだと思います。

 警戒心と備えがどうだったか?

 雨具に山シャツだけで、ザックの装備を生かせなかったことも、様々考えさせられます。

 行動に困難を来たしだしてから(10人パーティーによる目撃)、さらに数百mを登り、最後のSOSまで、4時間があります。


カロリー摂取は、予防・緩和役。着衣と相まってのもの

>私は、食事を摂ったかどうかはあまり関係ないと思います。元々グリコーゲンの体内備蓄は普通の生活レベルで数時間分しかありません。普通の人で脂肪だと1ヶ月分以上の備蓄があります。


 これまで議論されてきたことで、登山者が、急に大量のカロリーを要求される(奪われる)事態になっても、それを短時間に、あるいはリアルタイムで供給することは難しいことが、明らかになってきたと思います。

 一方で、悪天候のなかで、大量の熱を奪われる、そのハンディを知り、低体温症に備えるためにも、出発前の食事でのカロリー補給や、即効性のある行動食、水分の補給が、緩和に役立つことも。

 退却やビバーク、安全な小屋への逃げ込みの際は、重要な備えになると思います。

 さらに、ここまででまだ議論になってこなかった下着を含めた服装の問題があります。

 真冬の山で、このようなケースで低体温症になるのは、むしろ少ないように私は思う。
 それは、始めから−15度、−20度の気温と強い風とに備えて、着衣と食事が根本的に違うからだと、私は思います。

 GWや6月、そして秋の山での備えは、その応用問題でもあると思いますが、冬と異なるのは濡れですね。


補いきれないながらも、食べて生還したケース

 コメントでも、人間が用意でき、その場で使うことができるエネルギー源は、多くない、というご意見がありました。

 低体温症の実体験者でもある北海道の医師のサイトには、次のような解説もあります。

「人間が貯蔵できるグリコーゲン

􀂄 通常は摂取カロリーの 60% 2000kcal×0.6=1600kcal しか肝臓と筋肉に貯蔵できない。

⇒従って、繰り返し行動中に摂取することが必要。」


 しかし、予防には限度があるなかでも、そのときに懸命に食べ、あるいは少しでも食べる努力を重ねて、大事を回避したり、生還した事例があります。

 いくつか紹介していきます。


◇2009年 トムラウシ遭難の生還者の証言から。
 (同遭難調査報告書から)

○私は持参したカロリーメイトや魚肉ソーセージ、きな粉棒をたべたり、アミノバイタルやアリナミンV などを飲んだり、何分かおきに、何かを口に入れるようにしていました。

○「猛烈にお腹が空いたので食べた」「アメ玉1 個を食べただけで、こんなに違うのかと驚いた」

○「悪天時なので、身体を動かすために食べなければならないと判断して食べた」

○「(非常食として食べたもの)アミノバイタル3袋、これは天沼から日本庭園の間に立て続けに食べました。カロリーメイト2箱、全部たべました。」

○「トムラウシ公園の手前に来て、登山道脇の草むらに座り込んでビバークを覚悟した。生還した理由として、ビバーク地点にマットを敷いたことが断熱になり、体温を下げなかった、と語った。

 どこで着たのか特定できないが、雨具の下にフリースを重ね着したこと、時々チョコレートなどを食べていたこと、南沼を過ぎたころには雨風が止んでいたこと、ビバークで体力を温存できたこと、もともと体力があったこと、などが生還できた主な理由と思われる。」(これは報告書執筆メンバーの医師の記述)


◇トムラウシ遭難の同じ日に、旭岳から白雲小屋まで行動したヤマレコのユーザーの体験。

 「昨年7月16日のトムラウシ山での大量遭難が起きた日に,私は旭岳〜白雲岳避難小屋のコースを歩きました。

 強い風雨の中,旭岳を目指して歩き出したものの,7合目を過ぎたところでかつて経験したことのないような猛烈な風に危険を感じ,一旦避難小屋まで退避。しかしながら,天候は回復するとの予報が出ていたことから,少し風が収まったところで無謀にも再度スタートし,強風に吹き飛ばされそうになりながらも,なんとか白雲岳避難小屋まで歩き通しました。

 でも,本当は自重すべきだったと,今でも反省しています。・・・

・・・なんとか頑張ってここをやり過ごし, 白雲岳避難小屋を目指しますが, 徐々に体力が落ちていく感じがしました。手袋をしていても指がこごえて,うまく動きません。ゴアテックスの雨具を着ていても, 霧状の雨が中の衣類を濡らします。

 途中の岩陰で休憩をとり, ウェストバッグに入れておいたアメ玉を頬張ってエネルギー補給です。ザックを開けて食料を食べるような余裕はありませんでした。
小屋に入ってザックをおろした途端,寒さと安堵感で全身が震えました。

 また,行動中は一度も震えを感じませんでした。ところが,避難小屋の中に入ってから 2〜3分で体中が震え出しました。文字通り歯がガチガチと音をたてて震えました。
これは,行動が終了したことで発熱がなくなり,急激に体温が低下したためと考えています。

 私が思うに,低体温症への最も有効な対策は,常に行動し続け,発熱を維持することではないかと思います。

そこで重要なのは,行動を継続できるだけの体力と,発熱を維持できる量のカロリーの摂取です。

私の場合,登山途中で避難小屋に戻り,十分なカロリー摂取ができていたことが,その後の行動維持に寄与したと思います。」


RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る


 国際山岳連盟医療部会のガイドラインでは、行動中のカロリー摂取スケジュールについての記述も(やや曖昧ですが)あります。体重 75kgの私ですと、最初の 30分に凡そ 400kcal、以後 4-6 時間の間はは 2時間ごとに(おそらく)400kcalの補給が必要です。

これは expedition における基準のようですが、素人が自身の限界にチャレンジするような場合にも参考にして良いかと思います。

>低体温症への最も有効な対策は,常に行動し続け,発熱を維持

 無事に生還した今だからこそ白状しますが、3月の雲取山で本当に危ない目に遭いました。

 芋の木ドッケの巻き道で息子が行動不能に陥いりかけたのですが、その後あめ玉程度ですが行動食を与え続け、白湯を飲ませ、暖かい乾燥した装備への交換を行ったところ、山荘までの 10時間余りを歩ききりました。新雪のラッセルであったために大人の歩行速度が落ちた結果、皮肉にも子どもには無理の無い移動速度となったことも大きかったと思います。

(冬も山行を継続していたので、歩いていれば寒くないことを息子は体で覚えていました。樹林帯であったことや 3月で気温も -5度程度であったことも幸運でした)

 息子の意思表示はいつもギリギリなので、その山行以後は以前にも増してよく観察し、しつこいくらいに声をかけるようにしています。

tanigawa様の結論に敢えて付け加えさせていただくならば

 ”無理の無い移動速度で” 行動を持続させる

こちらのほうがbetterかと考えますが、いかがでしょうか。

RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る


> ”無理の無い移動速度で” 行動を持続させる
こちらのほうがbetterかと考えますが、いかがでしょうか。

 おっしゃる通りと思いますが、大前提としては、生死にかかわる深刻な状況に遭遇しないように、また、それに準ずる場面でも、着衣やカロリー補給で、登山者が状況にたいして用意で負けない対応を先手先手ですすめることだと思います。

 気象条件の厳しさや登山者の側で基本的な防御体制が欠けているときは、行動をするのは事態を悪化させる場合があります。

 トムラウシがまさにそうでした。

ロックガーデンの手前でハイ松帯を生かしてビバークし、シェルパのいるヒサゴ沼に伝令を出していれば、犠牲者はかなり減ったと思います。

 しかし、彼らは人数分のテントがなかった。

 とくにパーティーを組んでいる場合は、この優位性がしばしば、個人差が出てきて、瓦解の糸口になる。

 その点で、紹介いただいた体験は、息子さんの体調との連携がうまくコントロールされていたケースと思います。

 


装備面のデータ 関連するもの
 関連するものを、上げておきます。


◇やはりスコップは役立つ

 同じ5月4日、白馬岳に別ルートで登って、ビバークした男性(61歳)がいました。(「読売」5月6日)

 テントのそばに、高さ1・5mの雪の防風壁を作って、一晩しのいだとのこと。
 「5日未明まで吹雪が強かった」と話しています。

 この時期の稜線を、不安定な天候で行動するなら、やはり軽量スコップはビバークの必須装備になります。
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35253

2012年05月22日 検証 白馬岳 低体温症 遭難 3)
持参した保温衣料はなぜ使われなかったのか?
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35495

 ここまで見てきてどうしても不可解なのは、6人は全員が軽ダウンジャケットをザックに用意していながら、なぜ、それを着込むことができないまま、低体温症にすすんだのか? ということです。

 「日経」5月9日付夕刊は、こう伝えていました。

 見出しは、「防寒具は持参 身守れず」。
 4個のザックは、記事に写真があります。

 「遭対協によると、7日現場から回収されたリュックは4個で、容量はいずれも60リットル程度。全てに薄いダウンジャケットが入っていた。現場にはツェルトと呼ばれる簡易テントが残っていた。回収した山岳関係者は「全然軽装じゃない」と言い切った。」

 ここには、低体温症の遭難に特徴的な状況が、はっきりと現れています。
 なぜ、用意した装備を使うことなく、亡くなっていったのか?

 9人が亡くなった2009年のトムラウシ遭難では、その調査報告書に次のような記述があります。

 「生還者のコメントを見ると、自主的にフリースやダウンのジャケットを着たり、レスキューシートを身に着けた人が何人かいる。このような人では、それをしなかった人よりも体温の低下を防ぐことができ、生死を分ける要因となったことも考えられる。」

 このトムラウシの遭難の場合は、過度な軽量化によって、出発時に小屋で着込もうにも、その用意のない参加者が多かった点で、今回とは異なる状況がありました。

 一方、8人が亡くなった1989年10月の立山遭難では、現場の発見者が次のように証言しています。

 「8人は翌朝、発見。男女1人ずつは発見時に息が あり、男性は「救助隊の方ですか?」としゃべった。

 死亡したうち他の6人のザックにはセーターがあったが、いずれも使われていなかった。」

 この立山遭難は、ザックの防寒装備が役立てられなかったという点で、今回の白馬岳と共通点があります。

 以下、この問題を検討しながら、低体温症の進行の独特の様相を考えていきます。


体感温度の問題。保温性能と濡れの有無とが、むしろ影響大

 本論に入る前に、幾つか基本データと情報を掲げておきます。
 まず、低体温症の角度から見た「体感温度」について、書いておきます。

 登山者の体の熱の奪われ方には、大きく分けて、「乾性寒冷」(冬山)と、「湿性寒冷」(3季の風雨)とがあります。

 風速が1m増すごとに1度ずつ体感温度が下がる、という「算出法」でいえば、冬山では、「体感温度マイナス30度」は、ごく普通の条件。

 それよりも「体感温度」がはるかに高い春や秋山などで、低体温症の遭難事故が起こるのか、数字のうえでの疑問が出るところです。

 トムラウシ遭難調査報告書で、調査チームの医師は、「乾性寒冷」よりも「湿性寒冷」の方が、実は熱を奪われやすいと述べています。

 これは、水の気化熱が1ccあたり約350カロリーもあることから、濡れた衣類と体からは大量の熱が逃げていくため。

 さらに

「風が強ければ、体温の下がる速度は加速度的で、低体温症の悪化が早い。」、

「体温の放射を防ぐには、乾いた衣服を重ね着して、肌との間に空気層をつくることが重要。」

としています。

 また、この報告書では、従来言われてきた「体感温度」は、裸の人体の条件でのもので、保温衣料を用いることで大きく条件は緩和されるとしています。

 低体温症の危険がありうる条件では、保温用の衣類をタイムリーに用いることが、死活的になってきます。自分は、この衣類で保温するということで、しっかり用意し、臨機に使う。

 この際に、セーターやフリースとともに、肌に接する下着がかなり肝心であることを強調したいです。

 またゴアテックスなどの雨具や冬用ジャケットなどの防水性能をしっかり確認して、濡れに備えることが必要になると思います。

 下着については、私の下記の日記に。

低体温症の対策) 予防的なウエア、装備
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3787 


3つの遭難の、気象条件と行動―立山の場合

 検討する前提として、まず低体温症による3つの遭難の、気象条件と経過を掲げておきます。

 白馬岳については、このシリーズの1)目撃者の証言から、のスレッド末尾に、天候の推移と行動経過を記しています。

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○1989年10月8日 立山・真砂岳

 遭難場所の真砂岳付近では、風速10メートル、気温はマイナス10度。猛吹雪。
 10人パーティー。8人死亡、2人救助。

 40歳から60歳代。
 一行のほとんどは、冬山経験はなかった。 

 室堂出発時、天気は快晴。気温はマイナス6度。風はほとんど無し。
 冬型の気圧配置となり、一ノ越から雪が降りだす。

 全員が雨具を着用。

 12時ごろ、雄山山頂で1人が足を痙攣。風雪。

 14時ごろ、富士の折立手前で追い抜いた2人組の登山者が、このパーティーを目撃する。男性1人が抱えられ、女性2人が立っていられずに座りだしたりする。
 パーティーは2つに分かれる。

 16時ごろ、真砂岳付近で、10人がいったん合流。
 風速10メートル、気温はマイナス10度。猛吹雪。

 男性2人が内蔵助山荘へ救助へ向かうが、視界がなく雪で道わからず、剣御前小屋へ向かい、途中の別山付近でビバーク。翌朝、登山客に発見される。

 8人は翌朝、発見。
 男女1人ずつは発見時に息があった。

 他の6人のザックにはセーターがあり、使われていなかった。
 付近には、コンロや食糧が散らばっていた。


3つの遭難の、気象条件と行動―トムラウシ山の場合

○2009年7月16日 トムラウシ山
    (データは、同遭難事故調査報告書による)

 ツアー登山。
 一行はガイド・スタッフ3人、メンバー15人の計18人。
 ガイド1人をふくむ9人が低体温症で死亡。
 自力下山は5人。

 前日に低気圧が通過して、北海道東方で発達。
 16日の山の天候は気温 6℃、風速 20m/secだった。(新得警察署 遭難対策本部)

 入山3日目、5時30分、ヒサゴ沼避難小屋出発。
 雨は出発時、弱くなった。
 6時10分、稜線のヒサゴ沼分岐。
 風強まる。ガイドが耐風姿勢を教え、風の弱まる瞬間を狙って前進するほどに。

 8時30分、大岩を上がるロックガーデン。
 男性客 M(66歳)さんが、しばしば座り込むようになる。
まっすぐに立って歩けない風になる。

「札幌管区気象台の高層観測によると、16日 9 時の 1900m 付近の気象は、気温が8.5℃と急下降し、風速も 19m/secを記録している。

また、風向は西北西に変化している。12時の天気図では、従来の低気圧の隣にもう一つ小さな低気圧が発生して、この低気圧の発達が大雪山の天気回復を遅らせたことも考えられる。」

 北沼周辺で亡くなった人の内 2〜3名は、北沼以前(ロックガーデン周辺)から発症していたと思われる徴候があった。

 10時00分ごろ、北沼渡渉点。 
 渡渉後、動けない人が出て待機。

 女性客K(62 歳)さんが嘔吐し(何も出ない)、奇声を発していた。
 女性客J(68 歳)の意識が薄れる。

 行動の指示がないままでの強風下の待機。
 メンバーは小さな岩陰に三々五々座り込んでいたが、風に曝されていた。

 10時30分ごろ。
北沼分岐ですでに低体温症になった人たちが、待機から行動に移った。
 以後、パーティーはばらばらになる。

 リーダーA(61歳)は渡渉地点近くで、動けなくなる。(第一ビバーク地点)

 11時30分ごろ。
 ガイドB(32歳)とともに歩行不能な女性客 3人と付き添いで男性客D(69 歳)1人は、第二ビバーク地点でテントに収容。 

 ガイドC(38 歳)が引率して歩行可能と思われるメンバー 10人の引率役で下山再開。

 13時30分、南沼キャンプ場。
 パーティーはばらばらになり、さらに行動不能のメンバーが出る。
 
 15時5分。
前トム平で、女性客G(64歳)が携帯電話で自宅を通じて、110番通報。

17日、
9人の遺体が収容。生存者が救助される。

 「多くの遺体が下腿に打撲痕があった(転倒したためだろう)。」

・・・・・・・・・・・・・・


体温の低下と、症状の現れ

 もう1つ、低体温症による体温の低下と、症状の段階的な進展についての目安を上げておきます。


 「IKAR (国際山岳救助協議会)による低体温症の現場での治療勧告 1998, 2001編」によると、低体温症の症状は、体温の低下と症状の進行ごとに、次のように規定されています。
(一部訳文あり。http://www.sangakui.jp/medical/ikar/

段階
HT1 35−32度。 震えあり。意識清明。
HT2 32−28度。 震えなし。意識障害。
HT3 28−24度。 意識なし。
HT4 24−15度。 生命兆候なし。
HT5 15度以下。  死亡。

 それから、トムラウシの遭難事故調査報告書でも、体温と症状を、次のように示しています。

36 ℃
 寒さを感じる。寒けがする。

35 ℃
 手の細かい動きができない。皮膚感覚が麻痺したようになる。しだいに震えが始まってくる。歩行が遅れがちになる。

35 〜 34 ℃
 歩行は遅く、よろめくようになる。筋力の低下を感じる。震えが激しくなる。
 口ごもるような会話になり、時に意味不明の言葉を発する。無関心な表情をする。眠そうにする。軽度の錯乱状態になることがある。判断力が鈍る。

 *山ではここまで。これ以前に回復処置を取らなければ死に至ることあり。

 * 34 ℃近くで判断力がなくなり、自分が低体温症
になっているかどうか、分からなくなっていること
が多い。この判断力の低下は致命的。


34 〜 32 ℃
 手が使えない。転倒するようになる。
 まっすぐに歩けない。感情がなくなる。
 しどろもどろな会話。意識が薄れる。
 歩けない。心房細動を起こす。

32 〜 30 ℃
 起立不能。思考ができない。錯乱状態になる。震えが止まる。筋肉が硬直する。不整脈が現れる。意識を失う。

30 〜 28 ℃
 半昏睡状態。瞳孔が大きくなる。脈が弱い。呼吸数が半減。筋肉の硬直が著しくなる。

28 〜 26 ℃
 昏睡状態。心臓が停止することが多い。

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上のデータに、実際の遭難での経過にそくして、

「6人がザックの防寒具を役立てられずに亡くなっていったのは、なぜなのか?」、

私の見方を以下に述べてみます。

低体温症の危険信号は、本人には自覚しにくいことも?

 「何故、ザックの中のダウンジャケットを生かすことができなかったのか?」

 それは、これまで言われてきたよりも早いピッチで、体温低下が進行し、危険認識や防衛本能などを麻痺させる次のフェイズに進んでいるからではないか?

 低体温症による遭難事故の経過を見ていて、こんなことを思っています。

 そう思う根拠は、単純なことです。

 体温低下は、低体温症の症状を一段一段、時間的余裕をもってゆっくり下がっていくわけではない。

 とくに薄い防備で強風にさらされた場合は、症状の各段階を短時間で駆け抜けてしまうからです。

 だから、自分や周囲が「危うい」と自覚できる瞬間は、実際にはしばしば見逃されてしまう。


 例えば、体温の低下が進みだしたとき、低体温症の危険を本人が察知できるのは、激しい寒さの感覚と猛烈な震えです。

 この猛烈な震えは、自分で低体温症におちいりかけていることに気づく、最初で、そして最後の関門になっています。

 ここを過ぎると、寒さの感覚や震えによる熱の産生という自己防衛反応はなくなる。

 救助にあたっても、

 「活発な震えは熱産生に最も重要な手段である。糖分を含む飲物でカロリーを補給し、震えを促進する(糖分を含む事は温かい飲料より重要)」(アラスカ州寒冷障害へのガイドライン2003(2005改訂))
http://www.sangakui.jp/medical/alaska/alaska02.html

 とされるほど、大事な指標になっています。

 ところが、その大切な局面で、保温が不備だったり、パーティーの事情があって行動を停止・あるいは制限するなどして、熱の産生が負けていると、体温の降下は、「激しい寒さの感覚と猛烈な震え」の体温水準を、短時間で通り過ぎて、より下がってしまう。

 トムラウシ山遭難事故では、15分当たりコア体温1度低下という、猛烈な体温低下も検証されています。

 その体温降下の途中の段階で、「激しい寒さの感覚と猛烈な震え」という段階は短時間で突破され、寒さを感じなくなり、危険に無関心になる無防備な段階にいたってしまう。

 こうして、登山者は、本人らは大丈夫だと思っているうちに、もはや自分一人では後戻りできない感覚や意識障害の段階に入って行ってしまう。

 つまり、低体温症の一連の症状の中には、ここが、地獄の三丁目! という「震え」のフェイズが多くの場合にあるのですが、

 ところが、防寒が不備で気象条件が激烈なときは、そこを本人が自覚しないうちに通りすぎてしまうのではないか、ということです。

 「震え」のフェイズがかならずあるかといえば、これには個人差があります。ない場合もある。

 しかし1つのパーティーのなかで、1人にこの関門のスルーがあると、パーティーは行動不能になるメンバーを、次の段階でかかえることになる。

 また、同じ条件で行動してきたメンバーは、やはり体温低下の過程に入り込んでおり、ここからも行動不能が広がる条件が生まれてしまう。

 今回の白馬岳の6人パーティーの場合、少なくとも、11時に白馬大池を出発する前の、大池到達時点あたりまでは、体温低下は始まっていなかったと思われます。

 コースタイムからすでに2時間20分遅れですから、大池での長い休憩などがあれば、そこから体温低下が始まっていた可能性を残します。

 大きなカロリーの喪失は、天候急変で周辺の山岳にとりついていたヤマレコ・ユーザーらが撤退を開始した、12時前後から。

 13時30分、小蓮華岳の手前で、「1人が疲れた様子で、その人のザックを別の人が担いでいた」様子が目撃されています。

 この時刻が、パーティーのメンバーに「最初の関門」越えが始まった段階と思います。


○HT1 35−32度。 震えあり。意識清明。

○35 ℃
  手の細かい動きができない。皮膚感覚が麻
 痺したようになる。しだいに震えが始まって
 くる。歩行が遅れがちになる。


 しかし、「先生どうしましょうか?」という相談の結果は、さらなる前進でした。
 ここで、「震え」のフェイズの突破があったのかもしれません。症状はもっと進んでいた可能性があります。

 いずれにしても、低体温症のシグナルは見すごされました。

 白馬のパーティーは、さらに1キロほど登って、稜線の三国境の手前で行動を停止しています。

 ペースから見て、さらに1時間以上、吹きさらしの向かい風のなかを行動。

 この時点では、体温低下はメンバーにさらに広がり、複数の行動不可能者が出た可能性があります。

 ザックを開けてテントを取り出し、みんなにかぶせようと努めた、それだけの体力と危機の判断力とを残していたメンバーもいました。

 「周囲は踏み固められ、ツェルトをリュックから出して使おうとした形跡があった。」(「日経」5月9日付夕刊)

 しかし、稜線の吹きさらし、強風・吹雪のもと、体温低下が進むなかでは、それが最後の防衛行動だったのかもしれません。

体温の急激な低下についてのデータ

◇体温の急激な低下のデータとしては、トムラウシの事故調査報告書に記述があります。

 「低体温症が始まると、前述したとおり、体温を上げるために「全身的な震え」が 35 ℃台で始まるのが特徴的であるが、今回の症例ではこの症状期間が短く、一気に意識障害に移行した例もある。あまりにも早い体温の下降で人間の防御反応が抑制され、30 ℃以下に下がっていったと思われる。」
 
 「マイクル・ウォードは『高所医学』という本の中で、

「低体温症になると 2 時間以内に死を来すことがある」

と述べている。この遭難事故でも、発症から死亡まで 2 時間と思われる症例がある。条件が揃えば、人体の核心温が一気に下がり、死に至る温度の 30 ℃以下に、急激に下がるのに 2 時間とかからない、ということになる。

 なぜ急激な体温低下を来したのかは、体力、気象条件、服装を含めた装備、エネルギー源としての食料摂取などを、総合的に検討してみる必要がある。」
 
 「体温の下降は 1 時間に約 1 ℃ の割合で下がった計算になるが、本人によるとストーンと下がるような状況で意識を失った、と証言している。」

 「小屋を出発した時の体温が 37 ℃に近い温度だとして、心停止の温度が 28 ℃以下だとすれば、体温が 9 ℃下がるのに 2 時間と要していなかったことになる。これは単純に計算すると 15 分で 1 ℃下がったことになり、この急激な下がり方であれば、「震え」で体温を上げることはとても間に合わないことになる。」


◇別の資料から

「震え(shivering)を唯一のT°の指標とすべきでない。」
(IKAR (国際山岳救助協議会)による低体温症の現場での治療勧告 1998, 2001編)


RE: 検証 白馬岳 低体温症 遭難 3)持参した保温衣料はなぜ使われなかったのか?

 以下は、ヤマレコ日記であるにコメントしたものです。
 ここにも張り付けておきます。

//////////////////////////////////////

Gさん、予兆から軽度の低体温症の発症までを範囲とする「予防」の段階を超えて、登山者の備えや対応をテーマにすると、なかなか微妙な問題がありますね。

 以下、提起されている問題に即して、ちょっと長めになりますが、コメントします。

(1)中度より重い低体温症の現場での対応、搬送されて以後の医療の対応は、かなり基本的な処置の点で、医学的にも探究途上だったり、不一致の面があります。症状によってもかなり違う。そもそも、そこまでの問題になると、医師にも知識がない方が大勢です。

 具体的には、同じ中度の患者の場合でも、種々の検査をして症状とどこが危ういかをつかまないと、その処置が良く出ることもあれば、致命的になってしまうこともある。

 例えば、加温による心房細動の誘発があります。これは、どこまでが急加温かが、むずかしい。実際には、意識を失うまでに体温が下がった場合に、山という条件では、あらゆる加温措置が動員されても、まだ足りない場面が予想されます。

 逆に、低体温症の患者が低体温になることで、脳の活動を抑え、血液と酸素供給が少なくとも、命だけは守り、搬送後に的確な措置で蘇生する事例が幾つもあります。この場合は、穏やかな加温であっても、脳の活動を再開させてしまって、それによって脳が酸欠となり、死亡してしまう場合がある。

 雪崩に長時間埋まっていたり、低体温症にかかって体温が大きく低下した人を救護する場合は、脳を守るために、加温せず保温(保温材やシートなどによるラッピング)だけで搬送されることもあります。

 できるだけ早くその場から安全なエリア移送して、専門医師の処置を受けるしかありません。

 これは、救助隊なども、実際にルールとしているのではないかと思います。

 低体温症の場合、心臓も、低いレベルで活動を続けている場合がありますから、脈拍を短時間見ただけで、心臓マッサージをすることなども、医師の判断なしには避けたいところです。

 登山者が何ができるかは、中度以上(意識喪失以下)にまで進行してしまった低体温症では、他の怪我などにくらべて、むずかしい問題があります。


(2)その一方で、蘇生の手立てが限られる山の条件でも、患者の様子によっては、心房細動の危険を度外視して加温する場合も、判断としてはあります。多くは、そのことまで考えないで、とにかく必死で加温されて助かる例があります。

 実際に、トムラウシ山遭難では「第2ビバーク地点」で、助かった女性への処置がそうでした。彼女は、意識を喪失していました。男性の参加者が懸命の保温と加温の措置をとって助けました。

 新田次郎の「芙蓉の人」(基本は実話)では、富士山山頂の観測小屋から瀕死の容態で退却して、八合目の小屋に担ぎ込まれた男性主人公が、必死の加温と摩擦によって命をつないでいます。

 いずれの場合も、意識喪失とはいえ、まだ中度の症状の入り口あたりだったから、生還できたとも言えます。


(3)私たちとって大事なことは、意識喪失以下にまで進行した段階のことではなくて、やはり予防だと思います。

その一線にいたる前に予防する。

 低体温症では、1人でも症状が進んだら、パーティー全体の行動が困難になりますから。

 具体的には、震えの時期を通り越してしまう前に対応する。つまり、体温がさらに低下し、当人が保温に無関心になる、足がふらつきだすような段階の前に、震えの段階までに先手で手立てをとってしまう。

 震えの段階までに、着込み、カロリー補給、天候判断と退却などの対応を、すすめることです。

 その前提として、震えには個人差があり、進行速度にも個人差があることを、知る。
これはリーダーと当人が、低体温症の独特の進行の怖さを認識していないと、手遅れもありえます。

 そして、予防の根本は、天候と行動のそもそもの判断、下着や濡れ対策、食糧計画など、出発時の用意と判断だと思います。

 
 私は、予防の上では、「低体温症」という言葉を要所でパーティー内で口にして、互いに注意し合い、観察し合うことも、大事なことだと思います。

 トムラウシの遭難では、出発時も行動中にも、遭難に至ってからも、誰一人、「低体温症」という言葉を発しなかったことが、生存者全員の聞き取りと証言から判明しています。

 言葉が発せられなかっただけでなく、ガイド1人を除いて、そもそも知らなかった。

 その気象条件で最大の脅威であったはずの対象が、最後までノーマークだったのです。(これも証言から)

 雪崩の危険個所や岩場などでは、パーティーは必ず相互に声をかけあいますが、低体温症については、意識的に努めないと、そこまでマークがいかない。
ここにこの難題に特有の「穴」があります。
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35495

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/721.html

[リバイバル3] トムラウシ山遭難事故 中川隆
11. 中川隆[-7605] koaQ7Jey 2017年6月07日 16:19:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2012年05月22日 検証 白馬岳 低体温症 遭難 3)
持参した保温衣料はなぜ使われなかったのか?
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35495

 ここまで見てきてどうしても不可解なのは、6人は全員が軽ダウンジャケットをザックに用意していながら、なぜ、それを着込むことができないまま、低体温症にすすんだのか? ということです。

 「日経」5月9日付夕刊は、こう伝えていました。

 見出しは、「防寒具は持参 身守れず」。
 4個のザックは、記事に写真があります。

 「遭対協によると、7日現場から回収されたリュックは4個で、容量はいずれも60リットル程度。全てに薄いダウンジャケットが入っていた。現場にはツェルトと呼ばれる簡易テントが残っていた。回収した山岳関係者は「全然軽装じゃない」と言い切った。」

 ここには、低体温症の遭難に特徴的な状況が、はっきりと現れています。
 なぜ、用意した装備を使うことなく、亡くなっていったのか?

 9人が亡くなった2009年のトムラウシ遭難では、その調査報告書に次のような記述があります。

 「生還者のコメントを見ると、自主的にフリースやダウンのジャケットを着たり、レスキューシートを身に着けた人が何人かいる。このような人では、それをしなかった人よりも体温の低下を防ぐことができ、生死を分ける要因となったことも考えられる。」

 このトムラウシの遭難の場合は、過度な軽量化によって、出発時に小屋で着込もうにも、その用意のない参加者が多かった点で、今回とは異なる状況がありました。

 一方、8人が亡くなった1989年10月の立山遭難では、現場の発見者が次のように証言しています。

 「8人は翌朝、発見。男女1人ずつは発見時に息が あり、男性は「救助隊の方ですか?」としゃべった。

 死亡したうち他の6人のザックにはセーターがあったが、いずれも使われていなかった。」

 この立山遭難は、ザックの防寒装備が役立てられなかったという点で、今回の白馬岳と共通点があります。

 以下、この問題を検討しながら、低体温症の進行の独特の様相を考えていきます。


体感温度の問題。保温性能と濡れの有無とが、むしろ影響大

 本論に入る前に、幾つか基本データと情報を掲げておきます。
 まず、低体温症の角度から見た「体感温度」について、書いておきます。

 登山者の体の熱の奪われ方には、大きく分けて、「乾性寒冷」(冬山)と、「湿性寒冷」(3季の風雨)とがあります。

 風速が1m増すごとに1度ずつ体感温度が下がる、という「算出法」でいえば、冬山では、「体感温度マイナス30度」は、ごく普通の条件。

 それよりも「体感温度」がはるかに高い春や秋山などで、低体温症の遭難事故が起こるのか、数字のうえでの疑問が出るところです。

 トムラウシ遭難調査報告書で、調査チームの医師は、「乾性寒冷」よりも「湿性寒冷」の方が、実は熱を奪われやすいと述べています。

 これは、水の気化熱が1ccあたり約350カロリーもあることから、濡れた衣類と体からは大量の熱が逃げていくため。

 さらに

「風が強ければ、体温の下がる速度は加速度的で、低体温症の悪化が早い。」、

「体温の放射を防ぐには、乾いた衣服を重ね着して、肌との間に空気層をつくることが重要。」

としています。

 また、この報告書では、従来言われてきた「体感温度」は、裸の人体の条件でのもので、保温衣料を用いることで大きく条件は緩和されるとしています。

 低体温症の危険がありうる条件では、保温用の衣類をタイムリーに用いることが、死活的になってきます。自分は、この衣類で保温するということで、しっかり用意し、臨機に使う。

 この際に、セーターやフリースとともに、肌に接する下着がかなり肝心であることを強調したいです。

 またゴアテックスなどの雨具や冬用ジャケットなどの防水性能をしっかり確認して、濡れに備えることが必要になると思います。

 下着については、私の下記の日記に。

低体温症の対策) 予防的なウエア、装備
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3787 


3つの遭難の、気象条件と行動―立山の場合

 検討する前提として、まず低体温症による3つの遭難の、気象条件と経過を掲げておきます。

 白馬岳については、このシリーズの1)目撃者の証言から、のスレッド末尾に、天候の推移と行動経過を記しています。

/////////////////////////////

○1989年10月8日 立山・真砂岳

 遭難場所の真砂岳付近では、風速10メートル、気温はマイナス10度。猛吹雪。
 10人パーティー。8人死亡、2人救助。

 40歳から60歳代。
 一行のほとんどは、冬山経験はなかった。 

 室堂出発時、天気は快晴。気温はマイナス6度。風はほとんど無し。
 冬型の気圧配置となり、一ノ越から雪が降りだす。

 全員が雨具を着用。

 12時ごろ、雄山山頂で1人が足を痙攣。風雪。

 14時ごろ、富士の折立手前で追い抜いた2人組の登山者が、このパーティーを目撃する。男性1人が抱えられ、女性2人が立っていられずに座りだしたりする。
 パーティーは2つに分かれる。

 16時ごろ、真砂岳付近で、10人がいったん合流。
 風速10メートル、気温はマイナス10度。猛吹雪。

 男性2人が内蔵助山荘へ救助へ向かうが、視界がなく雪で道わからず、剣御前小屋へ向かい、途中の別山付近でビバーク。翌朝、登山客に発見される。

 8人は翌朝、発見。
 男女1人ずつは発見時に息があった。

 他の6人のザックにはセーターがあり、使われていなかった。
 付近には、コンロや食糧が散らばっていた。


3つの遭難の、気象条件と行動―トムラウシ山の場合

○2009年7月16日 トムラウシ山
    (データは、同遭難事故調査報告書による)

 ツアー登山。
 一行はガイド・スタッフ3人、メンバー15人の計18人。
 ガイド1人をふくむ9人が低体温症で死亡。
 自力下山は5人。

 前日に低気圧が通過して、北海道東方で発達。
 16日の山の天候は気温 6℃、風速 20m/secだった。(新得警察署 遭難対策本部)

 入山3日目、5時30分、ヒサゴ沼避難小屋出発。
 雨は出発時、弱くなった。
 6時10分、稜線のヒサゴ沼分岐。
 風強まる。ガイドが耐風姿勢を教え、風の弱まる瞬間を狙って前進するほどに。

 8時30分、大岩を上がるロックガーデン。
 男性客 M(66歳)さんが、しばしば座り込むようになる。
まっすぐに立って歩けない風になる。

「札幌管区気象台の高層観測によると、16日 9 時の 1900m 付近の気象は、気温が8.5℃と急下降し、風速も 19m/secを記録している。

また、風向は西北西に変化している。12時の天気図では、従来の低気圧の隣にもう一つ小さな低気圧が発生して、この低気圧の発達が大雪山の天気回復を遅らせたことも考えられる。」

 北沼周辺で亡くなった人の内 2〜3名は、北沼以前(ロックガーデン周辺)から発症していたと思われる徴候があった。

 10時00分ごろ、北沼渡渉点。 
 渡渉後、動けない人が出て待機。

 女性客K(62 歳)さんが嘔吐し(何も出ない)、奇声を発していた。
 女性客J(68 歳)の意識が薄れる。

 行動の指示がないままでの強風下の待機。
 メンバーは小さな岩陰に三々五々座り込んでいたが、風に曝されていた。

 10時30分ごろ。
北沼分岐ですでに低体温症になった人たちが、待機から行動に移った。
 以後、パーティーはばらばらになる。

 リーダーA(61歳)は渡渉地点近くで、動けなくなる。(第一ビバーク地点)

 11時30分ごろ。
 ガイドB(32歳)とともに歩行不能な女性客 3人と付き添いで男性客D(69 歳)1人は、第二ビバーク地点でテントに収容。 

 ガイドC(38 歳)が引率して歩行可能と思われるメンバー 10人の引率役で下山再開。

 13時30分、南沼キャンプ場。
 パーティーはばらばらになり、さらに行動不能のメンバーが出る。
 
 15時5分。
前トム平で、女性客G(64歳)が携帯電話で自宅を通じて、110番通報。

17日、
9人の遺体が収容。生存者が救助される。

 「多くの遺体が下腿に打撲痕があった(転倒したためだろう)。」

・・・・・・・・・・・・・・


体温の低下と、症状の現れ

 もう1つ、低体温症による体温の低下と、症状の段階的な進展についての目安を上げておきます。


 「IKAR (国際山岳救助協議会)による低体温症の現場での治療勧告 1998, 2001編」によると、低体温症の症状は、体温の低下と症状の進行ごとに、次のように規定されています。
(一部訳文あり。http://www.sangakui.jp/medical/ikar/

段階
HT1 35−32度。 震えあり。意識清明。
HT2 32−28度。 震えなし。意識障害。
HT3 28−24度。 意識なし。
HT4 24−15度。 生命兆候なし。
HT5 15度以下。  死亡。

 それから、トムラウシの遭難事故調査報告書でも、体温と症状を、次のように示しています。

36 ℃
 寒さを感じる。寒けがする。

35 ℃
 手の細かい動きができない。皮膚感覚が麻痺したようになる。しだいに震えが始まってくる。歩行が遅れがちになる。

35 〜 34 ℃
 歩行は遅く、よろめくようになる。筋力の低下を感じる。震えが激しくなる。
 口ごもるような会話になり、時に意味不明の言葉を発する。無関心な表情をする。眠そうにする。軽度の錯乱状態になることがある。判断力が鈍る。

 *山ではここまで。これ以前に回復処置を取らなければ死に至ることあり。

 * 34 ℃近くで判断力がなくなり、自分が低体温症
になっているかどうか、分からなくなっていること
が多い。この判断力の低下は致命的。


34 〜 32 ℃
 手が使えない。転倒するようになる。
 まっすぐに歩けない。感情がなくなる。
 しどろもどろな会話。意識が薄れる。
 歩けない。心房細動を起こす。

32 〜 30 ℃
 起立不能。思考ができない。錯乱状態になる。震えが止まる。筋肉が硬直する。不整脈が現れる。意識を失う。

30 〜 28 ℃
 半昏睡状態。瞳孔が大きくなる。脈が弱い。呼吸数が半減。筋肉の硬直が著しくなる。

28 〜 26 ℃
 昏睡状態。心臓が停止することが多い。

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上のデータに、実際の遭難での経過にそくして、

「6人がザックの防寒具を役立てられずに亡くなっていったのは、なぜなのか?」、

私の見方を以下に述べてみます。

低体温症の危険信号は、本人には自覚しにくいことも?

 「何故、ザックの中のダウンジャケットを生かすことができなかったのか?」

 それは、これまで言われてきたよりも早いピッチで、体温低下が進行し、危険認識や防衛本能などを麻痺させる次のフェイズに進んでいるからではないか?

 低体温症による遭難事故の経過を見ていて、こんなことを思っています。

 そう思う根拠は、単純なことです。

 体温低下は、低体温症の症状を一段一段、時間的余裕をもってゆっくり下がっていくわけではない。

 とくに薄い防備で強風にさらされた場合は、症状の各段階を短時間で駆け抜けてしまうからです。

 だから、自分や周囲が「危うい」と自覚できる瞬間は、実際にはしばしば見逃されてしまう。


 例えば、体温の低下が進みだしたとき、低体温症の危険を本人が察知できるのは、激しい寒さの感覚と猛烈な震えです。

 この猛烈な震えは、自分で低体温症におちいりかけていることに気づく、最初で、そして最後の関門になっています。

 ここを過ぎると、寒さの感覚や震えによる熱の産生という自己防衛反応はなくなる。

 救助にあたっても、

 「活発な震えは熱産生に最も重要な手段である。糖分を含む飲物でカロリーを補給し、震えを促進する(糖分を含む事は温かい飲料より重要)」(アラスカ州寒冷障害へのガイドライン2003(2005改訂))
http://www.sangakui.jp/medical/alaska/alaska02.html

 とされるほど、大事な指標になっています。

 ところが、その大切な局面で、保温が不備だったり、パーティーの事情があって行動を停止・あるいは制限するなどして、熱の産生が負けていると、体温の降下は、「激しい寒さの感覚と猛烈な震え」の体温水準を、短時間で通り過ぎて、より下がってしまう。

 トムラウシ山遭難事故では、15分当たりコア体温1度低下という、猛烈な体温低下も検証されています。

 その体温降下の途中の段階で、「激しい寒さの感覚と猛烈な震え」という段階は短時間で突破され、寒さを感じなくなり、危険に無関心になる無防備な段階にいたってしまう。

 こうして、登山者は、本人らは大丈夫だと思っているうちに、もはや自分一人では後戻りできない感覚や意識障害の段階に入って行ってしまう。

 つまり、低体温症の一連の症状の中には、ここが、地獄の三丁目! という「震え」のフェイズが多くの場合にあるのですが、

 ところが、防寒が不備で気象条件が激烈なときは、そこを本人が自覚しないうちに通りすぎてしまうのではないか、ということです。

 「震え」のフェイズがかならずあるかといえば、これには個人差があります。ない場合もある。

 しかし1つのパーティーのなかで、1人にこの関門のスルーがあると、パーティーは行動不能になるメンバーを、次の段階でかかえることになる。

 また、同じ条件で行動してきたメンバーは、やはり体温低下の過程に入り込んでおり、ここからも行動不能が広がる条件が生まれてしまう。

 今回の白馬岳の6人パーティーの場合、少なくとも、11時に白馬大池を出発する前の、大池到達時点あたりまでは、体温低下は始まっていなかったと思われます。

 コースタイムからすでに2時間20分遅れですから、大池での長い休憩などがあれば、そこから体温低下が始まっていた可能性を残します。

 大きなカロリーの喪失は、天候急変で周辺の山岳にとりついていたヤマレコ・ユーザーらが撤退を開始した、12時前後から。

 13時30分、小蓮華岳の手前で、「1人が疲れた様子で、その人のザックを別の人が担いでいた」様子が目撃されています。

 この時刻が、パーティーのメンバーに「最初の関門」越えが始まった段階と思います。


○HT1 35−32度。 震えあり。意識清明。

○35 ℃
  手の細かい動きができない。皮膚感覚が麻
 痺したようになる。しだいに震えが始まって
 くる。歩行が遅れがちになる。


 しかし、「先生どうしましょうか?」という相談の結果は、さらなる前進でした。
 ここで、「震え」のフェイズの突破があったのかもしれません。症状はもっと進んでいた可能性があります。

 いずれにしても、低体温症のシグナルは見すごされました。

 白馬のパーティーは、さらに1キロほど登って、稜線の三国境の手前で行動を停止しています。

 ペースから見て、さらに1時間以上、吹きさらしの向かい風のなかを行動。

 この時点では、体温低下はメンバーにさらに広がり、複数の行動不可能者が出た可能性があります。

 ザックを開けてテントを取り出し、みんなにかぶせようと努めた、それだけの体力と危機の判断力とを残していたメンバーもいました。

 「周囲は踏み固められ、ツェルトをリュックから出して使おうとした形跡があった。」(「日経」5月9日付夕刊)

 しかし、稜線の吹きさらし、強風・吹雪のもと、体温低下が進むなかでは、それが最後の防衛行動だったのかもしれません。

体温の急激な低下についてのデータ

◇体温の急激な低下のデータとしては、トムラウシの事故調査報告書に記述があります。

 「低体温症が始まると、前述したとおり、体温を上げるために「全身的な震え」が 35 ℃台で始まるのが特徴的であるが、今回の症例ではこの症状期間が短く、一気に意識障害に移行した例もある。あまりにも早い体温の下降で人間の防御反応が抑制され、30 ℃以下に下がっていったと思われる。」
 
 「マイクル・ウォードは『高所医学』という本の中で、

「低体温症になると 2 時間以内に死を来すことがある」

と述べている。この遭難事故でも、発症から死亡まで 2 時間と思われる症例がある。条件が揃えば、人体の核心温が一気に下がり、死に至る温度の 30 ℃以下に、急激に下がるのに 2 時間とかからない、ということになる。

 なぜ急激な体温低下を来したのかは、体力、気象条件、服装を含めた装備、エネルギー源としての食料摂取などを、総合的に検討してみる必要がある。」
 
 「体温の下降は 1 時間に約 1 ℃ の割合で下がった計算になるが、本人によるとストーンと下がるような状況で意識を失った、と証言している。」

 「小屋を出発した時の体温が 37 ℃に近い温度だとして、心停止の温度が 28 ℃以下だとすれば、体温が 9 ℃下がるのに 2 時間と要していなかったことになる。これは単純に計算すると 15 分で 1 ℃下がったことになり、この急激な下がり方であれば、「震え」で体温を上げることはとても間に合わないことになる。」


◇別の資料から

「震え(shivering)を唯一のT°の指標とすべきでない。」
(IKAR (国際山岳救助協議会)による低体温症の現場での治療勧告 1998, 2001編)


RE: 検証 白馬岳 低体温症 遭難 3)持参した保温衣料はなぜ使われなかったのか?

 以下は、ヤマレコ日記であるにコメントしたものです。
 ここにも張り付けておきます。

//////////////////////////////////////

Gさん、予兆から軽度の低体温症の発症までを範囲とする「予防」の段階を超えて、登山者の備えや対応をテーマにすると、なかなか微妙な問題がありますね。

 以下、提起されている問題に即して、ちょっと長めになりますが、コメントします。

(1)中度より重い低体温症の現場での対応、搬送されて以後の医療の対応は、かなり基本的な処置の点で、医学的にも探究途上だったり、不一致の面があります。症状によってもかなり違う。そもそも、そこまでの問題になると、医師にも知識がない方が大勢です。

 具体的には、同じ中度の患者の場合でも、種々の検査をして症状とどこが危ういかをつかまないと、その処置が良く出ることもあれば、致命的になってしまうこともある。

 例えば、加温による心房細動の誘発があります。これは、どこまでが急加温かが、むずかしい。実際には、意識を失うまでに体温が下がった場合に、山という条件では、あらゆる加温措置が動員されても、まだ足りない場面が予想されます。

 逆に、低体温症の患者が低体温になることで、脳の活動を抑え、血液と酸素供給が少なくとも、命だけは守り、搬送後に的確な措置で蘇生する事例が幾つもあります。この場合は、穏やかな加温であっても、脳の活動を再開させてしまって、それによって脳が酸欠となり、死亡してしまう場合がある。

 雪崩に長時間埋まっていたり、低体温症にかかって体温が大きく低下した人を救護する場合は、脳を守るために、加温せず保温(保温材やシートなどによるラッピング)だけで搬送されることもあります。

 できるだけ早くその場から安全なエリア移送して、専門医師の処置を受けるしかありません。

 これは、救助隊なども、実際にルールとしているのではないかと思います。

 低体温症の場合、心臓も、低いレベルで活動を続けている場合がありますから、脈拍を短時間見ただけで、心臓マッサージをすることなども、医師の判断なしには避けたいところです。

 登山者が何ができるかは、中度以上(意識喪失以下)にまで進行してしまった低体温症では、他の怪我などにくらべて、むずかしい問題があります。


(2)その一方で、蘇生の手立てが限られる山の条件でも、患者の様子によっては、心房細動の危険を度外視して加温する場合も、判断としてはあります。多くは、そのことまで考えないで、とにかく必死で加温されて助かる例があります。

 実際に、トムラウシ山遭難では「第2ビバーク地点」で、助かった女性への処置がそうでした。彼女は、意識を喪失していました。男性の参加者が懸命の保温と加温の措置をとって助けました。

 新田次郎の「芙蓉の人」(基本は実話)では、富士山山頂の観測小屋から瀕死の容態で退却して、八合目の小屋に担ぎ込まれた男性主人公が、必死の加温と摩擦によって命をつないでいます。

 いずれの場合も、意識喪失とはいえ、まだ中度の症状の入り口あたりだったから、生還できたとも言えます。


(3)私たちとって大事なことは、意識喪失以下にまで進行した段階のことではなくて、やはり予防だと思います。

その一線にいたる前に予防する。

 低体温症では、1人でも症状が進んだら、パーティー全体の行動が困難になりますから。

 具体的には、震えの時期を通り越してしまう前に対応する。つまり、体温がさらに低下し、当人が保温に無関心になる、足がふらつきだすような段階の前に、震えの段階までに先手で手立てをとってしまう。

 震えの段階までに、着込み、カロリー補給、天候判断と退却などの対応を、すすめることです。

 その前提として、震えには個人差があり、進行速度にも個人差があることを、知る。
これはリーダーと当人が、低体温症の独特の進行の怖さを認識していないと、手遅れもありえます。

 そして、予防の根本は、天候と行動のそもそもの判断、下着や濡れ対策、食糧計画など、出発時の用意と判断だと思います。

 
 私は、予防の上では、「低体温症」という言葉を要所でパーティー内で口にして、互いに注意し合い、観察し合うことも、大事なことだと思います。

 トムラウシの遭難では、出発時も行動中にも、遭難に至ってからも、誰一人、「低体温症」という言葉を発しなかったことが、生存者全員の聞き取りと証言から判明しています。

 言葉が発せられなかっただけでなく、ガイド1人を除いて、そもそも知らなかった。

 その気象条件で最大の脅威であったはずの対象が、最後までノーマークだったのです。(これも証言から)

 雪崩の危険個所や岩場などでは、パーティーは必ず相互に声をかけあいますが、低体温症については、意識的に努めないと、そこまでマークがいかない。
ここにこの難題に特有の「穴」があります。
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35495
 

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/717.html#c11

[リバイバル3] 2012年5月4日 白馬岳 医師グループ _ 防寒着をリュックに入れたまま「Tシャツに合羽」で 6 名全員凍死 中川隆
1. 中川隆[-7604] koaQ7Jey 2017年6月07日 16:24:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


僕らも現場にいた・連休の白馬岳遭難について考える  by やじろう 2012-05-09

5月5日深夜をもってついに稼働ゼロとなった日本の原発の今後なども気になるのだけれど、とり急ぎこのゴールデンウイークに多発した山岳遭難の話題。なかでも、白馬岳で北九州市の医師ら6人パーティの全員が死亡した事故は他人事とは思えない。弥次郎たち5人パーティは彼らと全く同一のルートを一日遅れで登る計画だった。

 もともとは連休前日の2日夜に和歌山を発ち、翌3日栂池スキー場のリフトやロープウエイを頼って標高1840mの栂池ヒュッテに宿泊。翌4日夜明けと同時に同ヒュッテを出て、天狗原(2204m)、乗鞍岳(2437m)、白馬大池(2370m)、小蓮華山(2769m)、三国境(2751m)を経由して白馬岳(2933m)に登頂、その直下の白馬山荘に達する予定だった。

http://f.hatena.ne.jp/futarinoyama/20120509114735

 この目論見は出発地が和歌山市だったことと、我々がつぼ足ではなくスキーでの登高だった点を除けば遭難パーティと全く同じだ。登頂の翌日5日がこの山行のクライマックスで、白馬大雪渓から標高差1700mをテレマークで一気呵成に滑降して猿倉(1340m)に下山というプラン。悪天への対応を考慮し連休最終日の6日を予備日に充てていた。

 だが、事務所の引っ越しやらなにやらでリーダーの弥次郎自身がめちゃ忙しくて、栂池ヒュッテに予約の電話を掛けるわずかな時間も取れず、ようやく4月も末になって電話をしたらもう満室で宿泊不能とのつれない返事。予備日が平日の7日になってしまうが、やむを得ず計画を丸一日順延して、まだ空きがあった4日に宿泊の予約を入れたのだった。もし3日に予約が取れていたら、恐らく遭難パーティと同時刻に出発し、前後しながら登っていたはずだ。

 先に書いた栂池から白馬山荘まで夏なら約7時間のルートだが、残雪期はその3割増を見ておきたい。とすると所要約9時間。夜明けの5時にスタートしても白馬山荘着は午後2時になる。よほどの健脚であれば別だが、平均的な登山者の力量でこれより遅い時刻の出発になって少しでもトラブルに見舞われれば、日のあるうちに安全な山荘にたどり着ける保障はない。そして、栂池高原をこの時間に出発するには、そこにあるこの時期唯一の宿、栂池ヒュッテへの前泊が必須であり、同ヒュッテに泊まれなければ我々のように日延べするしかない。

 かくして我がパーティが1日遅れの行程で栂池に入り、スキー場でトレーニングしていた4日午前、ガスが山稜を包み展望は終始きかなかったものの、次第に雲の切れ間から青空が覗く時間帯もあって、その後の回復が期待されたのだが正午頃から再び日は陰り、やがて雨も落ちてきた。そこで我々は早々にチェックインして部屋でくつろいだのだったが、報道された目撃証言によればちょうどその頃、遭難した一行は小蓮華山への登りの途上にあって、リュックを他のメンバーに担いでもらっている人もいたという。

 5時の出発から8時間を経由してなお小蓮華山に到達しないのは余りに遅い。天候は悪化の一途だったはずで、すでに落伍者が出て遭難寸前ではなかったか。目撃証言の主がこの困窮パーティにどう接したかは報道になく腑に落ちない所もあるのだが、ただ、小蓮華山からさらに前進して白馬山荘をめざすか、それとも栂池ヒュッテに引き返すかの判断は微妙だ。

 夏道時間で比較すれば白馬山荘まであとわずか2時間だが、まともに風を受けての厳しい雪稜の登りになる。一方、栂池ヒュッテへは4時間と時間は倍かかるが下りで体力的には楽だ。それに1時間半耐えて下れば主稜線から外れて風圧も緩むだろう。ここはやはり引き返すべき所だったのではないか…

 その夜は猛烈な風になった。間欠的にうなりを上げて吹き付ける風の音で眠れないほどだ。遭難パーティは雪洞を掘るスコップも悪天から身を守るツエルト(簡易テント)も持参していなかったという。翌朝8時頃、6人は小蓮華山から白馬方面へさらに進んだ三国境付近で全員、遺体となって発見された。低体温は思考力も奪っていたのか、漫然と無防備に暴風雪の中を進み無抵抗のまま力尽きた姿だった。

 一方、我々は予定通り4時に起床して出発準備を始めたが強風が弱まるのを待つこととして8時までヒュッテ内で待機、その結果の時間切れで、乗鞍岳までシール登高して来たルートを滑降するのみに止めてこの山行を終わらせた。息を切らせながら雪の斜面をシール登高している間、しばしば上空をかすめたヘリは遺体を運んでいたのかもしれない。 

 さて、メディアは例によって、装備の不十分さ、判断の誤りなどを次々にあげて、この遭難の原因を論じている。だが、装備について言えば、たとえば彼らが夏用の雨合羽を着用していたことをやり玉に挙げて非難しているが、我々だって雨合羽だった。冬山用のヤッケは暖かいが防水機能はない。この時期、怖いのは雪より雨で、下着まで濡れて冷えればたちまち致命的になる。

 両方持参すれば良さそうなものだが、冬用ヤッケはかさばるし重い。荷物が増えればそのぶん確実に行動は遅くなる。速度が死命を制する場合もあるのだ。コトは山の素人の記者が考えるほど単純ではない。雪が降ったときに重ね着する軽いダウンをリュックに忍ばせて雨合羽を着用するなど、安全と軽量化を考えればごく普通の選択ではないか。

 とはいっても、間違いがなければ防げた遭難であったことも事実だ。6人パーティにツエルトひと張りもないというのはやはり論外だし、悪天下で落伍者が出て行動が遅延したときの判断も適切だったとは思えない。だが、山岳遭難が起きるたび、原因をいつもこうしてすべて自己責任に還元してしまうのはいささか問題なのではないか。

 例えば、釣りや海水浴で溺れた事件で同様の自己責任が問われるか。警察などの救助ヘリが出動するたび、税金がいくら係ったなどとイヤミたっぷりに報じられるのは山岳遭難事故だけであって、溺れた人の捜索でヘリが飛ぼうが飛行機が飛ぼうが船が出ようが、それを問題視する報道にはお目にかかったことがない。同じレジャーでの事故、山と海とで一体何ゆえにこれほど扱いが違うのか、明確な理由があれば教えてもらいたい。

 登山が文化的に生きる権利として認められているヨーロッパアルプスなどでは、登山者をトレーニングする公的な機関とプログラムがあり、厳しい山に登る際には事前に登山者の力量や装備のチェックが入念になされるシステムもある。また、いざ遭難となれば救助隊がヘリで直ちに急行する体制も公的に確立されている。山岳遭難事故が起きるたび、全マスコミを挙げてことさらに自己責任を言い募る我がニッポンの風潮には、本来国などが果たすべき責務を免罪する意図が隠されているように思われてならないのだ。


 【5月11日追記】 

5月8日に書いた以下のブログについて、一部訂正します。

白馬岳で遭難した北九州の医師ら6人パーティについて、本日付の朝日は現場から回収した4つのリュックから、ダウンジャケット類や下着、ツエルト2張りが回収されたと伝えています。うちツエルトひと張りは使おうとした形跡もあったそうです。従って、前のブログに書いた

「悪天から身を守るツエルト(簡易テント)も持参していなかったという」

さらに

「6人パーティにツエルトひと張りもないというのはやはり論外だし」

の部分はいずれも誤りで、訂正ないし削除しなければなりません。

 そこで追記として2点。

まず、せっかく持っていた装備を使う余裕もないほど天候の悪化が急激であったか、そうした最低限の身を守る対応にも難渋するほど疲労困憊してパーティの力が落ちていたか、ないしはその両方が相まってこの事態に立ち至ったことが想定されます。そうなると、ますます気になるのがこのような状況に至るまでのリーダーの判断で、ここから先は結果から推定した懸念と断っておきますが、そもそもこのパーティにはリーダーと呼べる人がいたのかどうか。

 リーダーも曖昧な仲良しグループや寄せ集めグループの登山は珍しくありませんが、その大半が無事に済んでいるのは、実は運が良かったおかげという面もあります。もし、今回のような天候急変など深刻なトラブルに遭遇すれば、強力なリーダーシップを持たないグループはたちまち烏合の衆と化し、撤退などの意志決定ができないまま漫然と機会と時間を喪失、挽回不能な窮地に陥ってしまうケースがままあります。今回の遭難パーティがそうだったと決めつけるわけではありませんが・・・

 次いでもう一点、この国のマスコミはこれほどまでにデタラメだということです。当初の報道でツエルトを持参していないなどを挙げて装備不足を盛んに非難したのは、いったい何を根拠にしていたのか。誰かが憶測で流した情報に、すべてのマスコミが裏付けも取らずに飛びついたのではないか。「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」は巷間に流される噂や伝聞の正体を暴いた名言ですが、これが真実の報道を看板に掲げるメディアの現実の姿なのです。

 今回の遭難報道においてまたも馬脚を現したマスコミのこの無惨なほどの無能さ。原発報道でも見たこの国におけるジャーナリズムの不在は、国民にとり本当に不幸なことだと思います。ともあれ、このいい加減な報道に頼り(実際、アクセスできる情報はそれしかないのですが・・・)、自分もまた間違った内容を書いてしまった点については、前記の通り訂正削除の上、お詫びします。


コメント

千石岩千石岩 2012/05/11 09:01

メデイアは彼等の服装についてTシャツと合羽と報道してますよ。
肌の上にTシャツ、合羽だけなら低体温は当然なので
そこのところがメジャーなNEWSではよく判らないんですが。


futarinoyamafutarinoyama 2012/05/11 11:03

「Tシャツに合羽」は、あの日の午前中の気象条件からはあり得たと思います。

正午近くまでは異様に気温が高く、私たちはテレマークでゲレンデ遊びをしていただけですが、それでも汗ばみました。つぼ足で雪の斜面を登っていればなおさらでしょう。ただ、天気が崩れるときには、いくら山でも必ず予兆はあるものですから、それをキャッチすれば汗に濡れたTシャツを脱いで、ザックの中の乾いた衣類等を着込むこともできたはずなのですが・・

自由の戦士 2012/06/17 10:35

彼らは小蓮華山頂で誰からも拘束されない自由な意思決定を行い命を失うリスクを負ったのだ、ミスを犯して命を失った者に死者に鞭打つようなバッシングはするべきでない。

なぜならば、人々はミスによるバッシングを恐れ、まわりを気にして、受け売りに徹するだろう。皆で間違えても叩かれないからだ。

ミスを恐れ、萎縮した社会では経済発展も望めないだろう。少数意見を評価しない社会では福島原発事故のような事故が再び起こる可能性があるだろう。

山岳地帯に死亡の可能性がある人がいる場合の警察の活動は治安維持活動が主である。

警察官は現地に行き、現場の状況を調査、写真をとり、死亡の可能性がある人をヘリで麓に運んで医師に検死させ、事件性がないか調査するためである。もし警察がこのような活動をしなければ、山岳地帯での殺人はバレないことになる。

警察は前記の治安維持活動のほか警察ヘリ等による救助活動も行なっている。一方、マリンレジャーでの遭難は海上保安庁の艦艇、ヘリ、航空機による捜索が行なわれ、公費が投入されている。山岳遭難だけがクローズアップされているのが現状であるが、登山に価値観を認める信条の人々をべっ視することは差別にあたる。日本国憲法は「すべての国民は法の下に平等であり信条で差別されない」また、「自由及び幸福追求に対する国民の権利については、最大の尊重を必要とする。」と規定している。

登山に価値観を認める信条に対する差別だとマスコミを訴えればいい。弁護士も余っている時代だ、海難の比べ差別的だとやればいい、マスコミ相手なら名を上げるため着手金なしでする弁護士はいくらでもいる。裁判所は差別を肯定するだろう。判例ができればマスコミもおとなしくなるに違いない。

山に登って幸福を得る人々に「山に登って何がおもろいあほか」と言わんばかりに価値観の違う者に村八分的発想を持つ人々が多い、日本人の横並び的意識は江戸時代から変わっていない。価値観が多様なグローバルな世界にはたして太刀打できるか疑問に感じる。


甲斐駒ファン甲斐駒ファン 2012/06/23

私も GW に単独で白馬岳主稜と双子尾根の二本を登り、双子尾根樺平で幕営中、夜半にヘリが暴風の中飛んでいるのを聞き事故を悟りました。

当日の天気ですが午後1時ごろまでは曇り、それからパラパラと雨が降り始め、午後3時ごろには本降りに変わりました。風は午後6時ごろから強風が吹き始め、樺平で幕営中の私のテントのポールが折れたので30m以上はあったと思われます。天候の急変というには考える時間は十分にありました。

小蓮華尾根は残雪期白馬の一般登山ルートで GW 中相当数のパーティーがバリエーション中心に入山して無事故だったのにもかかわらず、そこで大量遭難したのはやはり登山者の力量不足と言わざるをえません。

マスコミは確かにデタラメですがそれとこれは同一に論じてよいものでしょうか。あの日の天候はごく想定の範囲でした。

また冬用ヤッケは防水性はないと書かれていますが、最近のウエアはハード、ソフトシェルでも十分な防水性能があり十分軽量です。

当時私は幕営装備、登攀用具など含めて35?を担いでいました。見落とされがちな点ですが、やはり高齢で体力を過信しすぎた暴走だったと思います。
またいくら道具を持っていたとしてもそれらを十分に使いこなせることができなければ単なる飾りに過ぎず、実質的に T シャツと合羽だけで装備不足と書かれても仕方のないことです。

見落とされがちなことですが登山では目指す山に合った体力があるかどうか、これは技術以前に大切です。また積雪期の登山を軽く見すぎるのも如何なものかと思います。

ヨーロッパと比較されていますが向こうは観光登山とアルパインは厳密に区別されています。山の違いもありますが日本は山菜採りからクライミングまで判然としません。

私も長年山に入っていますが不用意な登山者には注意を促します。マスコミに文句を言っても仕方ありません。また海と比べて差別だといっても自ら貶めるようなものです。各自が志を持って良い登山ができるように微力ながら努力しませんか


自由の戦士自由の戦士 2012/06/26 22:15

かって山岳事故が多発しマスコミが山岳遭難のたびに大々的に報道した結果、危険な山は登山を規制するべきだとの世論の動きに、県が登山に関する条例を制定したのです。

積雪期の劔岳西面や一の倉沢など、地元警察の裁量権を認め、単独はだめだとか登山禁止にできるとか、罰則もあり、登山の自由を規制したものとなっています。

「装備を持っていても使いこなせなければ無いのと同じ」

おっしゃるとおりです。

使いこなせなかった原因があったのかもしれませんが、彼らは小蓮華で撤退するべきだったと思います。

危険を嫌い、安全、安心な社会がキャッチフレーズになるような世論が主流になってきています、いつ危険なことは止めさせろと言い出し、積雪期の後立山連峰東面も登山を規制される可能性はあります。

マスコミの行き過ぎた遭難報道には異議を唱え、みんなで登山の自由を守るよう努力しようじゃありませんか

甲斐駒ファン甲斐駒ファン 2012/06/30 02:32

自由の戦士さんの論点はマスコミ批判ですかね。
私は何かに依存しすぎた登山者に問題有りと思っています。

剱や谷川で規制があるからといって登山の自由が侵されたとは思っていません。
何度か冬季も届けを出して山タン持って入山しましたが、山の中は自由です。

自由と身勝手は異なるものだと思います。山に入るのは誰でもできます。
でも己を知らず山を知らず、自由だというのは違うのではないですか。

ザイルを担いでいるとよく初心者に声を掛けられます。「(目的地まで)あとどれくらいですか」これはまあありがちです。

しかし「ここはどこですか」とか「高山病で動けません」とか地図もコンパスも持たず「道がわかりません」と金魚の糞のように私の後をゾロゾロ。
そんな経験が無数にあります。

「なんじゃ。こりゃ」これが登山の自由なのでしょうか。
メディアは騒ぎすぎですが遭難するのはへっぽこばかり。

誤解を恐れずに言えば同好の士と思えない連中ばかり。
これからハイシーズンですが極論すれば現在の日本の山岳遭難は99・9%登山者の責任です。

また衝立はじめ谷川も決して「危険な山」ではありません。
それなりに訓練を積めば「良い山」です。
事実一の倉や幽の沢で近年事故は聞きません。

岩場や雪山で自分の上に素人がいるのが判ったときほど恐怖感を覚えることはないですね。

山の評価を貶めるのは「危険な登山者」ではないでしょうか。

それを助長するのは胡散臭い山岳会、ガイド、(もちろんそうでない山岳会やガイドも沢山いるのは承知の上です)金儲けに走る山小屋、ツアー会社。

百名山、山ガールなど煽り、マッチポンプ式に落とすマスコミ。
重層的にことが入り組んでいますね。

世の中にリスクゼロなどあり得ず、主観である安心と客観である安全が両立することも稀なのに乱発する政府やマスコミの姿勢は無論反対ですが行き過ぎた遭難報道で登山の自由が侵されるというのはやはり飛躍しすぎです。

どのジャンルでもいかに規制を受けようと挑戦する人は絶えないし、大丈夫だと思います。白か黒か、敵か味方かという二分論はどうしても得心できませんね。山と海ってのも対立するものではないんじゃないですかね。

自由の戦士自由の戦士 2012/07/20 21:28

積雪期の劔岳西面、届けをして届済書を持参しなければいけない。
届済書を持参していなければ条例違反で罰金対象。

明日天気が良いから行こうという訳にはいかない、登山の自由が制限されているといえる。もっとも罰金覚悟で行く登山者は論外ですが。

百名山の大山、最高峰の剣が峰には行けません立入禁止です、地元大山町の問合せたところ回答だった。

さらになぜ立入禁止と続けると、稜線の崩壊が激しく危険だから。

だれが立入禁止にしたの、大山遭難防止協会。

どんな組織、地元警察が主体となり町などが構成員。

話が見えてきた、地元警察が山岳遭難事故の抑止のために動いた、法的根拠がないので直接すると国家権力による憲法違反だと突っ込まれるので、権利能力のない団体である大山遭難防止協会をクッションにマスコミを宣伝媒体に使って「危ないから立入禁止だ」と大衆誘導を行ない実質の立入禁止を実現させている。

もしこの立入禁止区域で遭難事故を起こしたら、地元マスコミは「立入禁止を無視した無謀登山者」と書き立てるだろう。

マスコミは基本的人権である言論の自由は主張するが、同じ基本的人権である登山者の意思決定の自由や行動の自由には目もくれないご都合主義といえる。

節電の夏、家庭の消費電力の約10%はテレビである(財団法人省エネルギーセンター)テレビを見なければ約10%の節電ができるのにテレビ局は「節電のためテレビを見ないようにしましょう」とは一切言わない、マスコミのご都合主義は明らかである。

マスコミは事件の特だね情報を警察から得たいという心理が働き、警察には協力的で山岳遭難は大騒ぎする。山は危険というイメージを国民に植え付け、山岳事故を抑止しようとする警察の意図が見え隠れする。一種のパターナリズムである。

マスコミが地元山岳遭難対策協議会などが危険なので立入禁止になりましたと報道すると、大多数の登山者は他人の目を気にして行こうとはしない。ごく一部の危険なルートに挑戦するのが大好きな特殊な登山者が他の登山者から白い目で見られながら、事故の場合は「立入禁止を無視した無謀登山者」とのレッテルを貼られるリスクを負いながら入山するのが現実である。

大山、剣が峰のような立入禁止は全国各地の山で見られる、地方自治体の財政事情が逼迫すれば山岳遭難救助対策費を抑えたいと動くだろう。事故の多い山はますます立入禁止や立入制限が増えるような方向に向かうだろう。

もっとも妙義山の鷹戻しルートでは地元警察の圧力を登山文化を守ろうと立ち上がったと登山愛好家によって登山の自由は守られた。


また、バックカントリースキーにおいても同様なことが言える、

スキー場のゴンドラなどを使い、さらに登って滑り降りる、
よく使う手法であるが、今年この手法で五竜遠見と野沢温泉スキー場の近郊で起こった 2 件の山岳事故、

スキー場管理者が「立入禁止のコース外を滑った」とマスコミの取材の答えると「立入禁止を無視した悪徳者」のレッテルを貼られている。

よく考えて見よう、

ゴンドラなどの乗車券の購入時にスキー場の規定の説明があり立入禁止を守ることに同意して購入した場合を除き、そのような契約は成立していないのでスキー場の管理区域内においてもどこを滑ろうが自由である。

スキー場はスキー場内での事故のおりに工作物管理責任を問われるのを恐れて保身にために言っているに過ぎない。

さらに 2 件ともスキー場管理区域外で起こっており、スキー場管理者がとやかく言うのは筋違いであるのに、思考力の欠落した記者が鵜呑みにして立入禁止を無視して滑ったとの報道をする。

登山者が基本的人権の理解することとマスコミの誤った山岳遭難報道が無くならないと登山の自由は守れないと思う。


rageyragey 2013/01/01 22:45

9月に開催された立山黒部アルペンフェスティバルにおける登山医学の座学で当遭難事故を取り上げ,

「天気図を見ていればふもとがいかに好天であっても山の頂は荒天であることが予想できたはずだ」

と登山医学の専門家が言っていました.

「単なる天気予報でなく,天気図を山小屋で入手する方法あれかし」とも.

ネットが繋がらずテレビもなければ,NHK AM 第1の気象通報しかないですが,深夜23時に寝静まった山小屋でラジオを聞きながら天気図を書くのは非現実的ですし・・・・・
http://d.hatena.ne.jp/futarinoyama/20120509/1336531819
 

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/721.html#c1

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