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[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
357. 中川隆[-8404] koaQ7Jey 2021年1月11日 08:11:48 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[1]
2021.01.11 面白くない動き。
 悪材料はすぐ、好材料はゆっくり織り込むのが相場です。そこから生まれた相場格言が「始めは処女のごとく、後は脱兎のごとし」です。

上げる時はゆっくり、下がるときは一気に動くのが株価なので、エントリーは何回かに分け、利益確定はいっぺんにするのが、相場巧者と言われます。

これはもともと二千五百年前の「孫氏」から語り継がれている名言で、作戦開始時には処女のように神妙に外見を装って敵の油断を誘い、攻撃準備が出来たら一気に脱兎の勢いで敵陣を襲撃するという兵法です。今ではセクハラとも取られかねない名言ですが、昨今の相場はこの格言を完全に逸脱しています。

ずっと「空売りだけはしないように」と言って来たのは、悪材料はすぐ織り込むと思って空売りすると、買い戻せなくなるからです。

http://kasset.blog.fc2.com/blog-entry-2385.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c357

[リバイバル4] AI には客観的で公正な判断はできない 中川隆
8. 中川隆[-8403] koaQ7Jey 2021年1月11日 08:15:51 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[2]
次の10年でAIが生み出す「究極の企業体」とは?世界的エンジニアが超格差・大失業時代の到来を確信する理由
2021年1月10日
https://www.mag2.com/p/money/1006273


人工知能(AI)を搭載したロボットなどの登場で、私たちの生活はより豊かになっていくと言われています。しかしその一方で、現存する多くの仕事がAIに奪われてしまうとの懸念も。私たちはどのように人工知能と共存していけばよいのでしょうか。メルマガ『週刊 Life is beautiful』の著者で、「Windows 95を設計した日本人」として知られる世界的エンジニアの中島聡さんが、いま話題の新世代プレゼンツール『mmhmm(ンーフー)』の開発ウラ話も交えて解説。すぐそこまできている人工知能時代の人と社会のあるべき姿を考察します。


プロフィール:中島聡(なかじまさとし)
ブロガー、起業家、ソフトウェア・エンジニア、工学修士(早稲田大学)、MBA(ワシントン大学)。 NTT通信研究所、マイクロソフト日本法人、マイクロソフト本社勤務後、ソフトウェアベンチャーUIEvolution Inc.を米国シアトルで起業。現在は neu.Pen LLCでiPhone/iPadアプリの開発に携わっている。

“人間超え”を達成、人工知能の目覚ましい進歩

2021年を迎えるにあたり、これまでメルマガでも何度か書いてきた、人工知能の進化が社会にあたえるインパクトについて、私なりの見方・懸念をまとめて書いてみたいと思います。

人工知能に関する研究は、50年以上の歴史を持ちますが、実際にビジネスに使えるほどにまで進歩したのはごく最近のことです。

大きな転機となったのは、2012年にソフトウェアによる物体の認識率を競うILSVRCというコンテストにおいて、トロント大学のチームが、深層学習という手法を使って、従来の物体の認識率を劇的に(エラー率を26%から17%に)改善することに成功したことからです。

そこからわずか8年しか経っていませんが、その間に、

物体の認識率が人間よりも高くなる
映像や画像から個人を特定することが可能になる
コンピューターゲームを人間よりも上手にプレー出来るようになる
囲碁のような複雑なゲームで人間よりも強くなる
塩基配列からタンパク質の3次元構造を予想することが可能になる
翻訳精度が飛躍的に上昇する
文章の生成能力が格段に上昇する
音声認識・音声合成の能力が格段に上昇する
データ分析に人工知能が応用出来るようになる
無人コンビニが実用化される

などが実現され、その進化のスピードは、ソフトウェア業界の専門家たちをも驚かせています。

10年前は不可能だった車の自動運転も実用レベル
特に進歩が著しいのが、画像認識・物体認識の分野です。世界中の研究者たちの間で、さまざまなテクニックが研究・開発・共有された結果、顔・表情・体の動きなどをリアルタイムで把握する、走っている自動車のカメラで捉えた画像から、他の自動車・歩行者・自転車・車線・ガードレールなどの位置を正確に認識する、などが十分に実用的なレベルにまで達しています。

私自身、mmhmmという会社で、カメラで取り込んだ映像に映る人の手の動きを認識する機能を活用した「ビッグハンド」の実装を担当していますが、こんなことは10年前まではどんなコンピューターを使っても不可能だったことを考えると、近年の進歩のスピードがいかに早いかが分かります。


最近になって、Teslaが全自動運転機能のベータ版をリリースしましたが、これはTesla車に搭載された複数のカメラから取り込んだ映像だけを使って、人や物を認識し、安全な走行を可能にしています。

少し前までは、LIDARという高価なセンサーを搭載していなければ自動運転は実現できないと考えられてきましたが、人工知能を活用した物体認識機能の著しい向上により、LIDARが不要であることを証明してしまったのです。


汎用的な能力を持つ人工知能が人間を駆逐する

2016年に、囲碁の世界チャンピオンを破るほどの人工知能 AlphaGo を開発したのは、DeepMind という会社です(2014年にGoogleが買収)。その後、DeepMind はAlphaGo をはるかに上回る能力を持つ AlphaZero を発表(2018年)していますが、これは人工知能が一度人間の能力を越えてしまえば、あとは差がつく一方であることを示しています。

DeepMind は2020年になって、塩基配列からタンパク質の三次元構造を予測することに成功しましたが、これは医学の進歩にとって非常に画期的なことで、ノーベル医学賞を受賞して当然の発明です。今後、これを活用した、さまざまな新薬や治療法が作られることになるでしょう。

自然言語の認識に関しても、ここ数年で著しい進歩がありました。この分野ではGoogleやMicrosoftが最先端の研究をして業界をリードしてきましたが、2017年になって、DeepLというベンチャー企業が、Googleより自然な翻訳ができるサービスを公開し、注目されています。これはこの分野の伸び代がまだまだあり、ベンチャー企業が活躍できる余地があることを示しています。

そして、自然言語処理に関して、「相転移」と呼べるほどの画期的な進歩をもたらしたのは、OpenAI という会社です。OpenAI が2020年になって公開した GTP-3 は、インターネット上にあるさまざまな文章を教科書として、言葉を学んだ人工知能ですが、これまでの人工知能には無いひとつの特徴を持っています。

その特徴は、言語で表現できるあらゆる質問に答えることができる、という特徴です。

文章を要約する
途中まで書かれた文章を完成する
アマゾンで販売されている商品に対するフィードバックを書く
指定したトピックの記事を書く
ウェブサイトの生成に必要なプログラム(HTML)を書く
難しい法律用語で書かれた文章を普通の文章に変換する
数式を生成する

大量の文章を教育データとして与えただけで、これほどの汎用な能力を持つ人工知能が作れてしまうことは多くの人を驚かせました。GPT-3を「汎用人工知能」への第一歩だと考える人も多数います。

これまで作られて来た人工知能は、特定の作業をするために設計された「専用人工知能」で、人間のようにさまざまな問題を解決することはできません。

「汎用人工知能」とは、人間のような汎用的な能力を持った人工知能のことで、それが開発されれば、人間の知能を本当の意味で超えることが可能になると考えられています。

今後10年で、人間の仕事の大半を人工知能が奪う
この勢いで進歩が続けば、20年代の終わりごろには、少なくとも(創造性を必要としない)定型的な労働・作業は、人工知能の方が、より正確に、かつ、安価にこなすようになります。具体的な例としては、

自動車の運転
会計処理
(銀行の)与信作業
スーパーやコンビニのレジ業務
弁護士事務における判例検索
データ入力
翻訳
議事録作成
受付業務
窓口業務

などが挙げられますが、それらに限った話ではありません。

今後、あらゆる業界で、経営者は「人を使い続けるのか、人工知能で置き換えるのか」という選択を迫られるようになります。人工知能は毎年のように改善されていくので、コスト面、安全性、確実性などで、人工知能の方が人間よりも魅力的になるのは時間の問題でしかなく、その流れに乗れない企業は、競争力を失い、淘汰されていきます。

最近、日本ではデジタル・トランスフォーメーション(DX)という言葉が流行していますが、デジタル・トランスフォーメーションの仕上げは「人工知能やロボットによる人の置き換え」なのです。

その究極の姿は、経営者と一部のエリートだけが創造的な仕事をし、全ての定型業務を人工知能やロボットに任せることにより、「従業員一人当たりの生産性」を極端にまで高めた企業体です。

確実にやってくる大失業時代。格差拡大にどう対応?

この手の議論になると、「人工知能が奪うのは一部の単純作業だけだ」とか「人工知能を導入したとしても人を解雇する必要はない」などの主張をする人がいますが、それは人工知能の進化のスピードや、資本主義の原則を無視し、現実から目を背けた発言で、時間の無駄です。

ひとたび人工知能の方が人よりも正確に、安く仕事をするようになれば、人から職を奪うのは必然です。その結果、従業員一人当たりの生産性は上昇し、それがさらに貧富の差を広げるのです。

そろそろ現実を見据え、これまで人間がやっていた作業を人工知能やロボットに任せるということが、人間社会にとってどんな意味があるかを、真正面から捉えて議論し、来るべき世界(=人工知能より、大半の人が失業してしまう世界)に備える時期がきているのです――
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/122.html#c8

[近代史5] 「AI社会」で中間層が消える? アメリカでは高学歴のワーキングプアが増加 中川隆
1. 中川隆[-8402] koaQ7Jey 2021年1月11日 08:16:36 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[3]
次の10年でAIが生み出す「究極の企業体」とは?世界的エンジニアが超格差・大失業時代の到来を確信する理由
2021年1月10日
https://www.mag2.com/p/money/1006273


人工知能(AI)を搭載したロボットなどの登場で、私たちの生活はより豊かになっていくと言われています。しかしその一方で、現存する多くの仕事がAIに奪われてしまうとの懸念も。私たちはどのように人工知能と共存していけばよいのでしょうか。メルマガ『週刊 Life is beautiful』の著者で、「Windows 95を設計した日本人」として知られる世界的エンジニアの中島聡さんが、いま話題の新世代プレゼンツール『mmhmm(ンーフー)』の開発ウラ話も交えて解説。すぐそこまできている人工知能時代の人と社会のあるべき姿を考察します。


プロフィール:中島聡(なかじまさとし)
ブロガー、起業家、ソフトウェア・エンジニア、工学修士(早稲田大学)、MBA(ワシントン大学)。 NTT通信研究所、マイクロソフト日本法人、マイクロソフト本社勤務後、ソフトウェアベンチャーUIEvolution Inc.を米国シアトルで起業。現在は neu.Pen LLCでiPhone/iPadアプリの開発に携わっている。

“人間超え”を達成、人工知能の目覚ましい進歩

2021年を迎えるにあたり、これまでメルマガでも何度か書いてきた、人工知能の進化が社会にあたえるインパクトについて、私なりの見方・懸念をまとめて書いてみたいと思います。

人工知能に関する研究は、50年以上の歴史を持ちますが、実際にビジネスに使えるほどにまで進歩したのはごく最近のことです。

大きな転機となったのは、2012年にソフトウェアによる物体の認識率を競うILSVRCというコンテストにおいて、トロント大学のチームが、深層学習という手法を使って、従来の物体の認識率を劇的に(エラー率を26%から17%に)改善することに成功したことからです。

そこからわずか8年しか経っていませんが、その間に、

物体の認識率が人間よりも高くなる
映像や画像から個人を特定することが可能になる
コンピューターゲームを人間よりも上手にプレー出来るようになる
囲碁のような複雑なゲームで人間よりも強くなる
塩基配列からタンパク質の3次元構造を予想することが可能になる
翻訳精度が飛躍的に上昇する
文章の生成能力が格段に上昇する
音声認識・音声合成の能力が格段に上昇する
データ分析に人工知能が応用出来るようになる
無人コンビニが実用化される

などが実現され、その進化のスピードは、ソフトウェア業界の専門家たちをも驚かせています。

10年前は不可能だった車の自動運転も実用レベル
特に進歩が著しいのが、画像認識・物体認識の分野です。世界中の研究者たちの間で、さまざまなテクニックが研究・開発・共有された結果、顔・表情・体の動きなどをリアルタイムで把握する、走っている自動車のカメラで捉えた画像から、他の自動車・歩行者・自転車・車線・ガードレールなどの位置を正確に認識する、などが十分に実用的なレベルにまで達しています。

私自身、mmhmmという会社で、カメラで取り込んだ映像に映る人の手の動きを認識する機能を活用した「ビッグハンド」の実装を担当していますが、こんなことは10年前まではどんなコンピューターを使っても不可能だったことを考えると、近年の進歩のスピードがいかに早いかが分かります。


最近になって、Teslaが全自動運転機能のベータ版をリリースしましたが、これはTesla車に搭載された複数のカメラから取り込んだ映像だけを使って、人や物を認識し、安全な走行を可能にしています。

少し前までは、LIDARという高価なセンサーを搭載していなければ自動運転は実現できないと考えられてきましたが、人工知能を活用した物体認識機能の著しい向上により、LIDARが不要であることを証明してしまったのです。


汎用的な能力を持つ人工知能が人間を駆逐する

2016年に、囲碁の世界チャンピオンを破るほどの人工知能 AlphaGo を開発したのは、DeepMind という会社です(2014年にGoogleが買収)。その後、DeepMind はAlphaGo をはるかに上回る能力を持つ AlphaZero を発表(2018年)していますが、これは人工知能が一度人間の能力を越えてしまえば、あとは差がつく一方であることを示しています。

DeepMind は2020年になって、塩基配列からタンパク質の三次元構造を予測することに成功しましたが、これは医学の進歩にとって非常に画期的なことで、ノーベル医学賞を受賞して当然の発明です。今後、これを活用した、さまざまな新薬や治療法が作られることになるでしょう。

自然言語の認識に関しても、ここ数年で著しい進歩がありました。この分野ではGoogleやMicrosoftが最先端の研究をして業界をリードしてきましたが、2017年になって、DeepLというベンチャー企業が、Googleより自然な翻訳ができるサービスを公開し、注目されています。これはこの分野の伸び代がまだまだあり、ベンチャー企業が活躍できる余地があることを示しています。

そして、自然言語処理に関して、「相転移」と呼べるほどの画期的な進歩をもたらしたのは、OpenAI という会社です。OpenAI が2020年になって公開した GTP-3 は、インターネット上にあるさまざまな文章を教科書として、言葉を学んだ人工知能ですが、これまでの人工知能には無いひとつの特徴を持っています。

その特徴は、言語で表現できるあらゆる質問に答えることができる、という特徴です。

文章を要約する
途中まで書かれた文章を完成する
アマゾンで販売されている商品に対するフィードバックを書く
指定したトピックの記事を書く
ウェブサイトの生成に必要なプログラム(HTML)を書く
難しい法律用語で書かれた文章を普通の文章に変換する
数式を生成する

大量の文章を教育データとして与えただけで、これほどの汎用な能力を持つ人工知能が作れてしまうことは多くの人を驚かせました。GPT-3を「汎用人工知能」への第一歩だと考える人も多数います。

これまで作られて来た人工知能は、特定の作業をするために設計された「専用人工知能」で、人間のようにさまざまな問題を解決することはできません。

「汎用人工知能」とは、人間のような汎用的な能力を持った人工知能のことで、それが開発されれば、人間の知能を本当の意味で超えることが可能になると考えられています。

今後10年で、人間の仕事の大半を人工知能が奪う
この勢いで進歩が続けば、20年代の終わりごろには、少なくとも(創造性を必要としない)定型的な労働・作業は、人工知能の方が、より正確に、かつ、安価にこなすようになります。具体的な例としては、

自動車の運転
会計処理
(銀行の)与信作業
スーパーやコンビニのレジ業務
弁護士事務における判例検索
データ入力
翻訳
議事録作成
受付業務
窓口業務

などが挙げられますが、それらに限った話ではありません。

今後、あらゆる業界で、経営者は「人を使い続けるのか、人工知能で置き換えるのか」という選択を迫られるようになります。人工知能は毎年のように改善されていくので、コスト面、安全性、確実性などで、人工知能の方が人間よりも魅力的になるのは時間の問題でしかなく、その流れに乗れない企業は、競争力を失い、淘汰されていきます。

最近、日本ではデジタル・トランスフォーメーション(DX)という言葉が流行していますが、デジタル・トランスフォーメーションの仕上げは「人工知能やロボットによる人の置き換え」なのです。

その究極の姿は、経営者と一部のエリートだけが創造的な仕事をし、全ての定型業務を人工知能やロボットに任せることにより、「従業員一人当たりの生産性」を極端にまで高めた企業体です。

確実にやってくる大失業時代。格差拡大にどう対応?

この手の議論になると、「人工知能が奪うのは一部の単純作業だけだ」とか「人工知能を導入したとしても人を解雇する必要はない」などの主張をする人がいますが、それは人工知能の進化のスピードや、資本主義の原則を無視し、現実から目を背けた発言で、時間の無駄です。

ひとたび人工知能の方が人よりも正確に、安く仕事をするようになれば、人から職を奪うのは必然です。その結果、従業員一人当たりの生産性は上昇し、それがさらに貧富の差を広げるのです。

そろそろ現実を見据え、これまで人間がやっていた作業を人工知能やロボットに任せるということが、人間社会にとってどんな意味があるかを、真正面から捉えて議論し、来るべき世界(=人工知能より、大半の人が失業してしまう世界)に備える時期がきているのです――
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/328.html#c1

[近代史5] アメリカを中心とする資本主義体制が行き詰まって、支配システムの中心にいる人びとは体制のリセットを始めた 中川隆
26. 中川隆[-8401] koaQ7Jey 2021年1月11日 08:17:19 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[4]
次の10年でAIが生み出す「究極の企業体」とは?世界的エンジニアが超格差・大失業時代の到来を確信する理由
2021年1月10日
https://www.mag2.com/p/money/1006273


人工知能(AI)を搭載したロボットなどの登場で、私たちの生活はより豊かになっていくと言われています。しかしその一方で、現存する多くの仕事がAIに奪われてしまうとの懸念も。私たちはどのように人工知能と共存していけばよいのでしょうか。メルマガ『週刊 Life is beautiful』の著者で、「Windows 95を設計した日本人」として知られる世界的エンジニアの中島聡さんが、いま話題の新世代プレゼンツール『mmhmm(ンーフー)』の開発ウラ話も交えて解説。すぐそこまできている人工知能時代の人と社会のあるべき姿を考察します。


プロフィール:中島聡(なかじまさとし)
ブロガー、起業家、ソフトウェア・エンジニア、工学修士(早稲田大学)、MBA(ワシントン大学)。 NTT通信研究所、マイクロソフト日本法人、マイクロソフト本社勤務後、ソフトウェアベンチャーUIEvolution Inc.を米国シアトルで起業。現在は neu.Pen LLCでiPhone/iPadアプリの開発に携わっている。

“人間超え”を達成、人工知能の目覚ましい進歩

2021年を迎えるにあたり、これまでメルマガでも何度か書いてきた、人工知能の進化が社会にあたえるインパクトについて、私なりの見方・懸念をまとめて書いてみたいと思います。

人工知能に関する研究は、50年以上の歴史を持ちますが、実際にビジネスに使えるほどにまで進歩したのはごく最近のことです。

大きな転機となったのは、2012年にソフトウェアによる物体の認識率を競うILSVRCというコンテストにおいて、トロント大学のチームが、深層学習という手法を使って、従来の物体の認識率を劇的に(エラー率を26%から17%に)改善することに成功したことからです。

そこからわずか8年しか経っていませんが、その間に、

物体の認識率が人間よりも高くなる
映像や画像から個人を特定することが可能になる
コンピューターゲームを人間よりも上手にプレー出来るようになる
囲碁のような複雑なゲームで人間よりも強くなる
塩基配列からタンパク質の3次元構造を予想することが可能になる
翻訳精度が飛躍的に上昇する
文章の生成能力が格段に上昇する
音声認識・音声合成の能力が格段に上昇する
データ分析に人工知能が応用出来るようになる
無人コンビニが実用化される

などが実現され、その進化のスピードは、ソフトウェア業界の専門家たちをも驚かせています。

10年前は不可能だった車の自動運転も実用レベル
特に進歩が著しいのが、画像認識・物体認識の分野です。世界中の研究者たちの間で、さまざまなテクニックが研究・開発・共有された結果、顔・表情・体の動きなどをリアルタイムで把握する、走っている自動車のカメラで捉えた画像から、他の自動車・歩行者・自転車・車線・ガードレールなどの位置を正確に認識する、などが十分に実用的なレベルにまで達しています。

私自身、mmhmmという会社で、カメラで取り込んだ映像に映る人の手の動きを認識する機能を活用した「ビッグハンド」の実装を担当していますが、こんなことは10年前まではどんなコンピューターを使っても不可能だったことを考えると、近年の進歩のスピードがいかに早いかが分かります。


最近になって、Teslaが全自動運転機能のベータ版をリリースしましたが、これはTesla車に搭載された複数のカメラから取り込んだ映像だけを使って、人や物を認識し、安全な走行を可能にしています。

少し前までは、LIDARという高価なセンサーを搭載していなければ自動運転は実現できないと考えられてきましたが、人工知能を活用した物体認識機能の著しい向上により、LIDARが不要であることを証明してしまったのです。


汎用的な能力を持つ人工知能が人間を駆逐する

2016年に、囲碁の世界チャンピオンを破るほどの人工知能 AlphaGo を開発したのは、DeepMind という会社です(2014年にGoogleが買収)。その後、DeepMind はAlphaGo をはるかに上回る能力を持つ AlphaZero を発表(2018年)していますが、これは人工知能が一度人間の能力を越えてしまえば、あとは差がつく一方であることを示しています。

DeepMind は2020年になって、塩基配列からタンパク質の三次元構造を予測することに成功しましたが、これは医学の進歩にとって非常に画期的なことで、ノーベル医学賞を受賞して当然の発明です。今後、これを活用した、さまざまな新薬や治療法が作られることになるでしょう。

自然言語の認識に関しても、ここ数年で著しい進歩がありました。この分野ではGoogleやMicrosoftが最先端の研究をして業界をリードしてきましたが、2017年になって、DeepLというベンチャー企業が、Googleより自然な翻訳ができるサービスを公開し、注目されています。これはこの分野の伸び代がまだまだあり、ベンチャー企業が活躍できる余地があることを示しています。

そして、自然言語処理に関して、「相転移」と呼べるほどの画期的な進歩をもたらしたのは、OpenAI という会社です。OpenAI が2020年になって公開した GTP-3 は、インターネット上にあるさまざまな文章を教科書として、言葉を学んだ人工知能ですが、これまでの人工知能には無いひとつの特徴を持っています。

その特徴は、言語で表現できるあらゆる質問に答えることができる、という特徴です。

文章を要約する
途中まで書かれた文章を完成する
アマゾンで販売されている商品に対するフィードバックを書く
指定したトピックの記事を書く
ウェブサイトの生成に必要なプログラム(HTML)を書く
難しい法律用語で書かれた文章を普通の文章に変換する
数式を生成する

大量の文章を教育データとして与えただけで、これほどの汎用な能力を持つ人工知能が作れてしまうことは多くの人を驚かせました。GPT-3を「汎用人工知能」への第一歩だと考える人も多数います。

これまで作られて来た人工知能は、特定の作業をするために設計された「専用人工知能」で、人間のようにさまざまな問題を解決することはできません。

「汎用人工知能」とは、人間のような汎用的な能力を持った人工知能のことで、それが開発されれば、人間の知能を本当の意味で超えることが可能になると考えられています。

今後10年で、人間の仕事の大半を人工知能が奪う
この勢いで進歩が続けば、20年代の終わりごろには、少なくとも(創造性を必要としない)定型的な労働・作業は、人工知能の方が、より正確に、かつ、安価にこなすようになります。具体的な例としては、

自動車の運転
会計処理
(銀行の)与信作業
スーパーやコンビニのレジ業務
弁護士事務における判例検索
データ入力
翻訳
議事録作成
受付業務
窓口業務

などが挙げられますが、それらに限った話ではありません。

今後、あらゆる業界で、経営者は「人を使い続けるのか、人工知能で置き換えるのか」という選択を迫られるようになります。人工知能は毎年のように改善されていくので、コスト面、安全性、確実性などで、人工知能の方が人間よりも魅力的になるのは時間の問題でしかなく、その流れに乗れない企業は、競争力を失い、淘汰されていきます。

最近、日本ではデジタル・トランスフォーメーション(DX)という言葉が流行していますが、デジタル・トランスフォーメーションの仕上げは「人工知能やロボットによる人の置き換え」なのです。

その究極の姿は、経営者と一部のエリートだけが創造的な仕事をし、全ての定型業務を人工知能やロボットに任せることにより、「従業員一人当たりの生産性」を極端にまで高めた企業体です。

確実にやってくる大失業時代。格差拡大にどう対応?

この手の議論になると、「人工知能が奪うのは一部の単純作業だけだ」とか「人工知能を導入したとしても人を解雇する必要はない」などの主張をする人がいますが、それは人工知能の進化のスピードや、資本主義の原則を無視し、現実から目を背けた発言で、時間の無駄です。

ひとたび人工知能の方が人よりも正確に、安く仕事をするようになれば、人から職を奪うのは必然です。その結果、従業員一人当たりの生産性は上昇し、それがさらに貧富の差を広げるのです。

そろそろ現実を見据え、これまで人間がやっていた作業を人工知能やロボットに任せるということが、人間社会にとってどんな意味があるかを、真正面から捉えて議論し、来るべき世界(=人工知能より、大半の人が失業してしまう世界)に備える時期がきているのです――
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/156.html#c26

[近代史4] 英米はドイツ軍がソ連に勝てないとわかる迄は、ウォール街のエージェントのヒトラーと戦う気は全く無かった 中川隆
10. 中川隆[-8400] koaQ7Jey 2021年1月11日 08:27:14 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[5]
2021.01.11XML
人びとを恐怖させて操ってきた米英支配者は今、ウイルスの幻影を使っている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202101110000/

 ドイツ内務省のウエブサイトに機密が解除されたひとつの文書が昨年5月にアップロードされた。3月中旬に作成されたコロナウイルス対策会議の議事録には「恐怖で国民をコントロールすることが、流行を管理するための公式のアジェンダ」だと書かれているという。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)に死のイメージをかぶせ、人びとにショックを与えることを重要な目的だというのだ。(スチャリット・バクディ、カリーナ・ライス著、鄭基成訳、大橋眞監修『コロナパンデミックは、本当か?』日曜社、2020年)

 被支配者である大多数の人びとが望まない政策を実現するため、支配者はショックを使うことが少なくない。さらに進んで人びとを恐怖させることも戦術として使われてきた。

 第2次世界大戦後、アメリカとイギリスの情報機関がNATO加盟国に秘密部隊を作ったことは本ブログでも繰り返し書いてきた。拙著『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』(三一書房、2005年)でもこの問題に触れている。

 秘密部隊を生み出したのは大戦中に米英がレジスタンス対策として組織したジェドバラ。1941年6月にドイツ軍は西部戦線に約90万人を残して約300万人をソ連への軍事侵攻、バルバロッサ作戦に投入した。西側は圧倒的に手薄な状態になったのだが、ドイツ軍と戦ったのはレジスタンスだけだった。

 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するのだが、11月になって戦況が一変。ソ連軍の反撃でドイツ軍25万人は完全包囲され、1943年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名はソ連軍に降伏する。それまでアメリカやイギリスはソ連とドイツの戦いを傍観していた。

 この展開を見てアメリカとイギリスは慌て、1943年5月にワシントンDCで会談、7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸した。ハスキー計画である。その時に米英軍はコミュニスト対策としてマフィアと手を組んだ。西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたレジスタンスの中にはシャルル・ド・ゴールも含まれていたが、主力はコミュニスト。そのコミュニストに対抗させるため、ジェドバラというゲリラ戦用の組織をアメリカとイギリスの情報機関は編成したのである。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。

 ジェドバラの人脈は戦後も生き続け、アメリカ国内では軍の特殊部隊やCIAの秘密工作部門で核になる。西ヨーロッパではNATO参加国の内部で秘密部隊を作り、そのネットワークはCCWU(西側連合秘密委員会)、後にCPC(秘密計画委員会)が指揮。その下部組織として1957年に設置されたのがACC(連合軍秘密委員会)だ。その下でNATOの秘密ネットワークが活動してきたのである。

 そうした秘密部隊の中で最も有名なイタリアのグラディオは1960年代から80年代にかけ、極左を装って爆弾テロを繰り返し、クーデターも計画した。左翼に対する恐怖心を人びとに植えつけ、安全を求めさせ、左翼勢力を弱体化させると同時に監視システムを強化していった。これが「緊張戦略」だ。この時は恐怖を作り出すためにテロが使われたが、今はウイルスが使われている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202101110000/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/615.html#c10

[近代史4] 西側で第二次大戦を戦ったのはレジスタンスだが、その主力はコミュニスト 中川隆
1. 中川隆[-8399] koaQ7Jey 2021年1月11日 08:27:36 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[6]
2021.01.11XML
人びとを恐怖させて操ってきた米英支配者は今、ウイルスの幻影を使っている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202101110000/

 ドイツ内務省のウエブサイトに機密が解除されたひとつの文書が昨年5月にアップロードされた。3月中旬に作成されたコロナウイルス対策会議の議事録には「恐怖で国民をコントロールすることが、流行を管理するための公式のアジェンダ」だと書かれているという。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)に死のイメージをかぶせ、人びとにショックを与えることを重要な目的だというのだ。(スチャリット・バクディ、カリーナ・ライス著、鄭基成訳、大橋眞監修『コロナパンデミックは、本当か?』日曜社、2020年)

 被支配者である大多数の人びとが望まない政策を実現するため、支配者はショックを使うことが少なくない。さらに進んで人びとを恐怖させることも戦術として使われてきた。

 第2次世界大戦後、アメリカとイギリスの情報機関がNATO加盟国に秘密部隊を作ったことは本ブログでも繰り返し書いてきた。拙著『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』(三一書房、2005年)でもこの問題に触れている。

 秘密部隊を生み出したのは大戦中に米英がレジスタンス対策として組織したジェドバラ。1941年6月にドイツ軍は西部戦線に約90万人を残して約300万人をソ連への軍事侵攻、バルバロッサ作戦に投入した。西側は圧倒的に手薄な状態になったのだが、ドイツ軍と戦ったのはレジスタンスだけだった。

 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するのだが、11月になって戦況が一変。ソ連軍の反撃でドイツ軍25万人は完全包囲され、1943年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名はソ連軍に降伏する。それまでアメリカやイギリスはソ連とドイツの戦いを傍観していた。

 この展開を見てアメリカとイギリスは慌て、1943年5月にワシントンDCで会談、7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸した。ハスキー計画である。その時に米英軍はコミュニスト対策としてマフィアと手を組んだ。西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたレジスタンスの中にはシャルル・ド・ゴールも含まれていたが、主力はコミュニスト。そのコミュニストに対抗させるため、ジェドバラというゲリラ戦用の組織をアメリカとイギリスの情報機関は編成したのである。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。

 ジェドバラの人脈は戦後も生き続け、アメリカ国内では軍の特殊部隊やCIAの秘密工作部門で核になる。西ヨーロッパではNATO参加国の内部で秘密部隊を作り、そのネットワークはCCWU(西側連合秘密委員会)、後にCPC(秘密計画委員会)が指揮。その下部組織として1957年に設置されたのがACC(連合軍秘密委員会)だ。その下でNATOの秘密ネットワークが活動してきたのである。

 そうした秘密部隊の中で最も有名なイタリアのグラディオは1960年代から80年代にかけ、極左を装って爆弾テロを繰り返し、クーデターも計画した。左翼に対する恐怖心を人びとに植えつけ、安全を求めさせ、左翼勢力を弱体化させると同時に監視システムを強化していった。これが「緊張戦略」だ。この時は恐怖を作り出すためにテロが使われたが、今はウイルスが使われている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202101110000/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1195.html#c1

[近代史5] アメリカ合衆国の歴史と現代史 中川隆
36. 中川隆[-8398] koaQ7Jey 2021年1月11日 08:39:09 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[7]

アメリカの発明家

驚異の音質を誇ったエジソン式蓄音器が滅びた理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/495.html

ブリティッシュサウンドとは HMV蓄音機とロンドンウェスタンの音の事
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/477.html

北関東蓄音機倶楽部 Sogaphon _ SP録音の CD復刻盤 は Sogaphon を取り付けた蓄音機で聴こう
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/473.html

ウェスタンエレクトリック伝説
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208

ジェームス・B・ランシング(James Bullough Lansing、1902〜1949) が設計したスピーカー
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1103.html

スピーカーの歴史 _ 何故、過去に遡る程 スピーカーもアンプも音が良くなるのか?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/858.html


▲△▽▼


天才が老害になるまで ヘンリー・フォードの場合
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/743.html

原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html

シリコンバレーは軍事技術の研究拠点 起業精神ではなく軍事予算が作った
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/751.html


▲△▽▼

アメリカの大富豪は毎日何を食べているのか? _ アメリカ人には料理の味も文学も芸術も全く理解できなかった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/436.html

ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの正体
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/727.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/485.html#c36

[近代史5] アメリカ合衆国の歴史と現代史 中川隆
37. 中川隆[-8397] koaQ7Jey 2021年1月11日 08:41:58 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[8]
>>36 リンク訂正


ウェスタンエレクトリック伝説
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html

情熱のオーディオ ウエスタンエレクトリック病棟
http://mikami.a.la9.jp/audio/western_electric.htm
http://mikami.a.la9.jp/audio/audio.htm

オールド マランツ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/635.html


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/485.html#c37

[近代史4] イヌの起源 中川隆
1. 中川隆[-8396] koaQ7Jey 2021年1月11日 08:49:00 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[9]
2021年01月11日
イヌの家畜化の初期段階
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_15.html

 イヌの家畜化の初期段階に関する研究(Lahtinen et al., 2021)が公表されました。イヌ(Canis familiaris)はヒトにより家畜化された最初の動物で、遊動性の狩猟採集民により家畜化された唯一の動物です。イヌの家畜化への関心は高く、その起源地と年代と家畜化過程、さらには単一起源なのか複数起源なのかをめぐって、長く議論が続いています。近年では、イヌの古代DNA研究も進展しており、イヌの進化史における包括的な研究では、完新世の始まりまでに少なくとも5系統が存在していた、と指摘されています(関連記事)。以下、旧石器時代におけるイヌ遺骸の場所を示した本論文の図1です。

画像
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41598-020-78214-4/MediaObjects/41598_2020_78214_Fig1_HTML.png

 イヌの起源がオオカミ(Canis lupus)であることはほぼ確実ですが、その家畜化過程に関しては議論が続いています。ヒトとオオカミのどちらも、執拗に大型動物を集団で狩る分類群です。ヒトとオオカミの生態的地位は部分的に重なっていた可能性があり、一定以上競合関係にあったかもしれません。本論文は、そのような関係のヒトとオオカミがどのように関わり、ヒトがオオカミを家畜化していったのか、という問題を肉の消費の観点から検証しています。

 本論文は単純なエネルギー含有量の計算を行ない、最終氷期の終わり頃(29000〜14000年前頃)にヒトが狩猟対象にしていたと考えられ、オオカミの典型的な被食種でもあった動物(ウマやヘラジカやシカなど)の肉のうち、ヒトが食べ残した分のエネルギー量を推計しました。本論文は、もしオオカミとヒトが厳しい冬に同じ動物を狩っていたとのであれば、ヒトはオオカミを家畜化するのではなく、競争を減らすために殺していただろう、という仮説を立てました。

 計算の結果、ヒトが捕食していた全ての動物種(イタチなどのイタチ科動物を除きます)によりもたらされるタンパク質量は、ヒトが消費可能な量を上回ることが明らかだったので、ヒトが余り物の赤身肉をオオカミに与えていた可能性があり、それによって獲物を巡る争いが減った、と本論文は推測しています。ヒトは肉食に完全には適応しておらず、肉の摂取量は、タンパク質を代謝する肝臓の能力により制約を受けます。一方、オオカミは何ヶ月も赤身の肉で生きていけます。

 ヒトは植物性の食物が少なくなる冬に動物性の食餌に頼っていたかもしれませんが、タンパク質だけの食餌に完全には適応していなかったので、油脂分が少なくタンパク質の多い肉よりも油脂分の多い肉を好んでいた可能性があり、余った赤身肉をオオカミに与えたことが、イヌの家畜化の初期段階にあったのではないか、というわけです。ヒトが余った肉を餌としてオオカミに与えることで、捕獲したオオカミと共同生活をしやすくなった可能性があり、オオカミを狩猟に同行させ、狩猟の護衛にすることで、家畜化過程がさらに促進され、最終的にはイヌの完全家畜化につながった可能性がある、と本論文は指摘します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:ヒトが食べ残しの肉をオオカミに与えたことがイヌの家畜化の初期段階に寄与したかもしれない

 最終氷期の終わり頃(2万9000〜1万4000年前)、厳しい冬の間に、ヒトが食べ残しの赤身肉をオオカミに与えたことが、イヌの家畜化の初期段階に関係していた可能性のあることを示した論文が、Scientific Reports に掲載される。

 今回、Maria Lahtinenたちの研究チームは、単純なエネルギー含有量の計算を行い、2万9000〜1万4000年前に人間が狩猟対象にしていたと考えられていて、オオカミの典型的な被食種でもあった動物(ウマ、ヘラジカ、シカなど)の肉のうち、ヒトが食べ残した分のエネルギー量を推計した。Lahtinenたちは、もしオオカミとヒトが厳しい冬に同じ動物の狩猟を行っていたのであれば、ヒトは、オオカミを家畜化するのではなく、競争を減らすために殺していただろうという仮説を立てた。計算の結果、ヒトが捕食していた全ての動物種(ただしイタチなどのイタチ科動物を除く)によってもたらされるタンパク質量はヒトが消費可能な量を上回ることが明らかになり、Lahtinenたちは、ヒトが余り物の赤身肉をオオカミに与えていた可能性があり、それによって獲物を巡る争いが減ったと考えている。

 今回の論文によれば、ヒトは、植物性の食物が少なくなる冬に、動物性の食餌に頼っていたかもしれないが、タンパク質だけの食餌に適応していなかった可能性が非常に高く、油脂分が少なくタンパク質の多い肉よりも油脂分の多い肉を好んでいた可能性がある。オオカミはタンパク質だけの食餌で何か月も生き延びることができるので、ヒトは、飼っていたオオカミに余った赤身肉を与えていた可能性があり、それによって過酷な冬期においてもヒトとオオカミの交わりが可能だったと考えられる。余った肉を餌としてオオカミに与えることで、捕獲したオオカミと共同生活をしやすくなった可能性があり、オオカミを狩猟に同行させ、狩猟の護衛にすることで、家畜化過程がさらに促進され、最終的にはイヌの完全家畜化につながった可能性がある。


参考文献:
Lahtinen M. et al.(2021): Excess protein enabled dog domestication during severe Ice Age winters. Scientific Reports, 11, 7.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-78214-4

https://sicambre.at.webry.info/202101/article_15.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1146.html#c1

[近代史5] 新型コロナウイルス対策による経済の麻痺は富豪への資産集中を促進する 中川隆
16. 2021年1月11日 08:57:06 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[10]
世界では富裕層と貧困層の「分離」は見て分かるほど明確。日本もそうなるか?
2021.01.11
https://blackasia.net/?p=22045


今の日本は確かに経済格差は広がっているが、まだ経済格差による「分離」は極端ではない。だから、たとえば金持ちが住む地域の住民がそうでない地区に行かないということはない。その逆もまた然りだ。しかし問題はこれからだ。日本は、今のような混成社会を維持できるのだろうか。(鈴木傾城)


コロナは、経済格差をブーストする社会現象だった

コロナ禍は人々の健康を破壊するだけでなく、経済面でも人々を脅かす存在となる。コロナ禍で真っ先に解雇されるのは非正規雇用者で、何とか守られるのは正社員である。そのため、非正規雇用者の立場はコロナ禍で修羅場と化す。

正社員は「何とか」会社にしがみついていられれば、賃金の落ち込みやボーナスの削減はあったとしても、会社が何とか経営できていればコロナ禍でもほどほどに生き残ることができるだろう。

一方で、コロナ禍でも大きく資産を増やすのが株式等の金融資産を保有する富裕層である。政府はコロナで悪化する経済を下支えするために、大がかりな金融緩和や財政出動をしたので、これらの金がすべて金融市場に回って株価を押し上げた。だから、株式市場はどこもコロナ前よりも高値を保っているのである。

つまりコロナは、経済格差をブーストする社会現象だったのである。

コロナ禍以前から、経済格差はどんどん広がっていた。最初は少しの差であった格差は、やがては1000倍も2000倍も、いや1万倍も2万倍も開いて、もはや貧困層がどうあがこうが克服できない。

この極度なまでの経済格差が定着すると、その後に何が来るのか。それは、「経済による社会の分離」である。

世界の多くの国では、ひとつの国家が見えない層(レイヤー)で「分離」されている。そのレイヤーとは経済格差のレイヤーである。この経済格差の上と下とでは生活も文化も考え方も違う。場合によっては話す言葉までもが違ってくる。

メキシコでも、ブラジルでも、アメリカでも、イギリスでも、安全な地域と危険な地域は明確に「分離」して存在している。

分かりやすく言えば、金持ちたちが集う地域は安全だ。そして貧困層が集う地域は治安が悪い。だから金持ちは貧困層がいる地区には決して足を踏み入れないし、逆に貧困層が金持ち地区に行っても警備員や警察に追い出される。

それが定着すると、世界中どこでも貧困層と富裕層は自然に、明確に、完全に「分離」し、長い年月を経て同じ民族でも違う文化や生活になってしまうのだ。

世界では富裕層と貧困層の「分離」は見て分かるほど明確

一億総中流の意識がまだ多少でも残っている日本人から見ると、これは階級・身分・差別があるという認識になる。その通りだ。凄まじい経済格差が定着すると、自然に階級が生まれて上と下で「分離」するのだ。

世界では富裕層と貧困層の「分離」は見て分かるほど明確だ。

今の日本は確かに経済格差は広がっているが、まだ経済格差による「分離」は極端ではない。だから、たとえば金持ちが住む地域の住民がそうでない地区に行かないということはない。その逆もまた然りだ。

しかし問題はこれからだ。日本は、今のような混成社会を維持できるのだろうか。経済格差が広がるだけ広がって、それが社会に定着してしまった場合、日本もまた地域の「分離」になってもおかしくない。

経済格差の広がりは確実に、経済レイヤーによる「地域の分離」を作り出す。それは間違いない。時間の問題なのだ。だから、このまま経済格差が広がると、将来の日本は今までと違う世界になる可能性がある。

日本人も富裕層と貧困層で、世界が「分離」する。

富裕層と貧困層で分離するというのは、住むところも、通う学校も、付き合う人間も、行きつけの店も、持ち物も、食べる物も、やがては話し方も、すべてが違っていくということだ。

何もかもが「分離」し、お互いに接点が極端になくなっていく。

教育で言うと、貧困層は親の資金面から安い学校にしか通えなくなり、ここで富裕層と貧困層の子供たちが「分離」される。富裕層の子供たちは質の良い教育を行う私学に通い、教育に理解のある親と熟練した教師に守られて学力を伸ばす。

一方で貧困層の子供たちは親の理解もなく、給料が安くてやる気のない教師の教育を受けて、教育の質が落ちて学力も低下していくことになる。塾にも通う経済的余裕もない。

公立校ではどんなにやる気のない生徒、問題生徒、非行生徒がいても学校から放逐できないので、しばしば学級崩壊も起きて授業がストップしたりする。

だから、富裕層の子供たちが学力を上げる環境の中で貧困層の子供たちは学力を落とし、名門校にはなかなか入れない構造的な問題が発生する。気が付けば、学歴で大きなハンディが生まれていく。

それは、容易に越えられない「見えない壁」となっていく

さらに地域で見ると、ある地域に貧困層が多くなっていくと、地価が下がってますます貧困層が流れ込んでいく。そうすると、不動産価格の下落や環境の悪化を嫌って、富裕層が少しずつ、しかし確実に抜けていく。

そうすると、ますます貧困層がその地区を埋め尽くすようになっていく。一方で、富裕層が集まるところは地価が上がって貧困層が住めなくなる。これで人々が経済レイヤーによって「完全分離」される。

職業でも同様の「分離」が起こる。富裕層の子弟が卒業する大学卒の勤める職種と、貧困層の勤める職種も違っていく。入れる企業も違い、同じ企業でもエリートクラスと労働者クラスに分かれてこのふたつは交差しなくなる。

この「分離」は、容易に越えられない「見えない壁」となっていく。

今のままであるならば、日本も遅かれ早かれそのような「見えない壁」で区分けされる社会になる。これについては、多くの社会学者、経済学者、政治家たちが警鐘を鳴らし、危険を訴えている。

誰のせいでこんなことになったのか。全世界がこのようになっているのだとすれば、誰のせいでもなく、現在の社会構造が生み出しているというのが分かるはずだ。

弱肉強食の資本主義が、このような社会現象をどんどん増長させて止まらないのである。強いて言えば、グローバル化を無批判に取り入れた政治家や大企業が悪いということになる。

しかし、日本はもうとっくの前にグローバル化を完全に受け入れた。これからも、どんどん受け入れていくことになる。それがさらなる経済格差と「分離」を生み出すことになるのは、目に見えている。

もはや、格差が日本国民を「分離」してしまうのは避けられない事態だ。私たちはどちらかに分けられてしまうのだ。そして、同じ日本人でも、まったく交わらない文化断絶ができあがる。

同じ民族なのに、別々に違う世界で「分離」して生きることになる。

国家はない袖を振れない。企業も終身雇用を捨てた

問題は貧困層に落ちた人は、もはやその子供もまた貧困層になってしまうことだ。個人の努力云々の話ではない。子供たちはスタート時点から極端な差を付けられて貧困から抜け出せない。

日本がそんな社会になることは、高齢層よりも若年層の方が切実に感じ取れるかもしれない。

日本は若者の自殺が多い国だが、それは就職活動を行っている段階から、多くの企業に断られ続け、自分たちが社会から必要とされていないことを悟ってしまうこともひとつの要因として挙げられている。

就職できても、生活していくことができないほどの薄給だったり、非正規雇用や契約社員のような、不安定な身分だったりすることも多い。正社員と「分離」されているのである。そんな中で必死で働いても、身体を壊して使い捨てされる。

彼らの多くは、自分たちが貧困に生きるしかない現実を突きつけられている。当然、無理して結婚して子供を作っても、子供が貧困で暮らすことになることくらいは容易に想像がつく。

だから、結婚して子供を作るということすらも逡巡する社会と化している。日本は超少子高齢化となっており、減り続ける子供と増え続ける高齢者のアンバランスが社会のゆがみとして現れるようになっている。

これから日本は、過酷な増税、削られる医療費、延長される年金受給年齢などがすべて同時並行で起きて、国民が痩せ細っていく。

国家はない袖を振れない。企業も終身雇用を捨てた。そのため、ごく普通の人が、年々転がり落ちるように貧困化する。

周辺国との軋轢、憎悪の連鎖、グローバル化の加速、格差の定着、若者の貧困化、超少子高齢化……。すべては、弱肉強食の資本主義が生み出したものであり根は一緒なのだ。

これらの問題が最後まで暴走していく中で、日本でも経済格差が「分離」を生み出して、それぞれがまったく違う文化の中で生きることになる。

格差で騒いでいる段階は終わった。格差社会の次は分離社会だ。日本社会は資産で分離していくのだ。

同じ日本人なのに交わることのない共同体で明確に「分離」し、互いに相手に「違う世界の人だから」と関心を失うようになっていく。それが日本の未来だと思うと悲しくないだろうか?

野良犬の女たち
『野良犬の女たち ジャパン・ディープナイト(鈴木 傾城)』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B08B4358CC/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=asyuracom-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=B08B4358CC&linkId=bdf8967e8f2c80c8901a34333c3ad219


https://blackasia.net/?p=22045
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/228.html#c16

[近代史5] なぜ株価だけ「V字回復」? 実体経済は恐慌さながら… 猛烈な金融緩和に浮き立つ市場 中川隆
7. 中川隆[-8395] koaQ7Jey 2021年1月11日 08:58:17 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[11]
世界では富裕層と貧困層の「分離」は見て分かるほど明確。日本もそうなるか?
2021.01.11
https://blackasia.net/?p=22045


今の日本は確かに経済格差は広がっているが、まだ経済格差による「分離」は極端ではない。だから、たとえば金持ちが住む地域の住民がそうでない地区に行かないということはない。その逆もまた然りだ。しかし問題はこれからだ。日本は、今のような混成社会を維持できるのだろうか。(鈴木傾城)


コロナは、経済格差をブーストする社会現象だった

コロナ禍は人々の健康を破壊するだけでなく、経済面でも人々を脅かす存在となる。コロナ禍で真っ先に解雇されるのは非正規雇用者で、何とか守られるのは正社員である。そのため、非正規雇用者の立場はコロナ禍で修羅場と化す。

正社員は「何とか」会社にしがみついていられれば、賃金の落ち込みやボーナスの削減はあったとしても、会社が何とか経営できていればコロナ禍でもほどほどに生き残ることができるだろう。

一方で、コロナ禍でも大きく資産を増やすのが株式等の金融資産を保有する富裕層である。政府はコロナで悪化する経済を下支えするために、大がかりな金融緩和や財政出動をしたので、これらの金がすべて金融市場に回って株価を押し上げた。だから、株式市場はどこもコロナ前よりも高値を保っているのである。

つまりコロナは、経済格差をブーストする社会現象だったのである。

コロナ禍以前から、経済格差はどんどん広がっていた。最初は少しの差であった格差は、やがては1000倍も2000倍も、いや1万倍も2万倍も開いて、もはや貧困層がどうあがこうが克服できない。

この極度なまでの経済格差が定着すると、その後に何が来るのか。それは、「経済による社会の分離」である。

世界の多くの国では、ひとつの国家が見えない層(レイヤー)で「分離」されている。そのレイヤーとは経済格差のレイヤーである。この経済格差の上と下とでは生活も文化も考え方も違う。場合によっては話す言葉までもが違ってくる。

メキシコでも、ブラジルでも、アメリカでも、イギリスでも、安全な地域と危険な地域は明確に「分離」して存在している。

分かりやすく言えば、金持ちたちが集う地域は安全だ。そして貧困層が集う地域は治安が悪い。だから金持ちは貧困層がいる地区には決して足を踏み入れないし、逆に貧困層が金持ち地区に行っても警備員や警察に追い出される。

それが定着すると、世界中どこでも貧困層と富裕層は自然に、明確に、完全に「分離」し、長い年月を経て同じ民族でも違う文化や生活になってしまうのだ。

世界では富裕層と貧困層の「分離」は見て分かるほど明確

一億総中流の意識がまだ多少でも残っている日本人から見ると、これは階級・身分・差別があるという認識になる。その通りだ。凄まじい経済格差が定着すると、自然に階級が生まれて上と下で「分離」するのだ。

世界では富裕層と貧困層の「分離」は見て分かるほど明確だ。

今の日本は確かに経済格差は広がっているが、まだ経済格差による「分離」は極端ではない。だから、たとえば金持ちが住む地域の住民がそうでない地区に行かないということはない。その逆もまた然りだ。

しかし問題はこれからだ。日本は、今のような混成社会を維持できるのだろうか。経済格差が広がるだけ広がって、それが社会に定着してしまった場合、日本もまた地域の「分離」になってもおかしくない。

経済格差の広がりは確実に、経済レイヤーによる「地域の分離」を作り出す。それは間違いない。時間の問題なのだ。だから、このまま経済格差が広がると、将来の日本は今までと違う世界になる可能性がある。

日本人も富裕層と貧困層で、世界が「分離」する。

富裕層と貧困層で分離するというのは、住むところも、通う学校も、付き合う人間も、行きつけの店も、持ち物も、食べる物も、やがては話し方も、すべてが違っていくということだ。

何もかもが「分離」し、お互いに接点が極端になくなっていく。

教育で言うと、貧困層は親の資金面から安い学校にしか通えなくなり、ここで富裕層と貧困層の子供たちが「分離」される。富裕層の子供たちは質の良い教育を行う私学に通い、教育に理解のある親と熟練した教師に守られて学力を伸ばす。

一方で貧困層の子供たちは親の理解もなく、給料が安くてやる気のない教師の教育を受けて、教育の質が落ちて学力も低下していくことになる。塾にも通う経済的余裕もない。

公立校ではどんなにやる気のない生徒、問題生徒、非行生徒がいても学校から放逐できないので、しばしば学級崩壊も起きて授業がストップしたりする。

だから、富裕層の子供たちが学力を上げる環境の中で貧困層の子供たちは学力を落とし、名門校にはなかなか入れない構造的な問題が発生する。気が付けば、学歴で大きなハンディが生まれていく。

それは、容易に越えられない「見えない壁」となっていく

さらに地域で見ると、ある地域に貧困層が多くなっていくと、地価が下がってますます貧困層が流れ込んでいく。そうすると、不動産価格の下落や環境の悪化を嫌って、富裕層が少しずつ、しかし確実に抜けていく。

そうすると、ますます貧困層がその地区を埋め尽くすようになっていく。一方で、富裕層が集まるところは地価が上がって貧困層が住めなくなる。これで人々が経済レイヤーによって「完全分離」される。

職業でも同様の「分離」が起こる。富裕層の子弟が卒業する大学卒の勤める職種と、貧困層の勤める職種も違っていく。入れる企業も違い、同じ企業でもエリートクラスと労働者クラスに分かれてこのふたつは交差しなくなる。

この「分離」は、容易に越えられない「見えない壁」となっていく。

今のままであるならば、日本も遅かれ早かれそのような「見えない壁」で区分けされる社会になる。これについては、多くの社会学者、経済学者、政治家たちが警鐘を鳴らし、危険を訴えている。

誰のせいでこんなことになったのか。全世界がこのようになっているのだとすれば、誰のせいでもなく、現在の社会構造が生み出しているというのが分かるはずだ。

弱肉強食の資本主義が、このような社会現象をどんどん増長させて止まらないのである。強いて言えば、グローバル化を無批判に取り入れた政治家や大企業が悪いということになる。

しかし、日本はもうとっくの前にグローバル化を完全に受け入れた。これからも、どんどん受け入れていくことになる。それがさらなる経済格差と「分離」を生み出すことになるのは、目に見えている。

もはや、格差が日本国民を「分離」してしまうのは避けられない事態だ。私たちはどちらかに分けられてしまうのだ。そして、同じ日本人でも、まったく交わらない文化断絶ができあがる。

同じ民族なのに、別々に違う世界で「分離」して生きることになる。

国家はない袖を振れない。企業も終身雇用を捨てた

問題は貧困層に落ちた人は、もはやその子供もまた貧困層になってしまうことだ。個人の努力云々の話ではない。子供たちはスタート時点から極端な差を付けられて貧困から抜け出せない。

日本がそんな社会になることは、高齢層よりも若年層の方が切実に感じ取れるかもしれない。

日本は若者の自殺が多い国だが、それは就職活動を行っている段階から、多くの企業に断られ続け、自分たちが社会から必要とされていないことを悟ってしまうこともひとつの要因として挙げられている。

就職できても、生活していくことができないほどの薄給だったり、非正規雇用や契約社員のような、不安定な身分だったりすることも多い。正社員と「分離」されているのである。そんな中で必死で働いても、身体を壊して使い捨てされる。

彼らの多くは、自分たちが貧困に生きるしかない現実を突きつけられている。当然、無理して結婚して子供を作っても、子供が貧困で暮らすことになることくらいは容易に想像がつく。

だから、結婚して子供を作るということすらも逡巡する社会と化している。日本は超少子高齢化となっており、減り続ける子供と増え続ける高齢者のアンバランスが社会のゆがみとして現れるようになっている。

これから日本は、過酷な増税、削られる医療費、延長される年金受給年齢などがすべて同時並行で起きて、国民が痩せ細っていく。

国家はない袖を振れない。企業も終身雇用を捨てた。そのため、ごく普通の人が、年々転がり落ちるように貧困化する。

周辺国との軋轢、憎悪の連鎖、グローバル化の加速、格差の定着、若者の貧困化、超少子高齢化……。すべては、弱肉強食の資本主義が生み出したものであり根は一緒なのだ。

これらの問題が最後まで暴走していく中で、日本でも経済格差が「分離」を生み出して、それぞれがまったく違う文化の中で生きることになる。

格差で騒いでいる段階は終わった。格差社会の次は分離社会だ。日本社会は資産で分離していくのだ。

同じ日本人なのに交わることのない共同体で明確に「分離」し、互いに相手に「違う世界の人だから」と関心を失うようになっていく。それが日本の未来だと思うと悲しくないだろうか?

野良犬の女たち
『野良犬の女たち ジャパン・ディープナイト(鈴木 傾城)』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B08B4358CC/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=asyuracom-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=B08B4358CC&linkId=bdf8967e8f2c80c8901a34333c3ad219


https://blackasia.net/?p=22045
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/270.html#c7

[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
64. 中川隆[-8394] koaQ7Jey 2021年1月11日 09:01:52 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[12]
世界では富裕層と貧困層の「分離」は見て分かるほど明確。日本もそうなるか?
2021.01.11
https://blackasia.net/?p=22045


今の日本は確かに経済格差は広がっているが、まだ経済格差による「分離」は極端ではない。だから、たとえば金持ちが住む地域の住民がそうでない地区に行かないということはない。その逆もまた然りだ。しかし問題はこれからだ。日本は、今のような混成社会を維持できるのだろうか。(鈴木傾城)


コロナは、経済格差をブーストする社会現象だった

コロナ禍は人々の健康を破壊するだけでなく、経済面でも人々を脅かす存在となる。コロナ禍で真っ先に解雇されるのは非正規雇用者で、何とか守られるのは正社員である。そのため、非正規雇用者の立場はコロナ禍で修羅場と化す。

正社員は「何とか」会社にしがみついていられれば、賃金の落ち込みやボーナスの削減はあったとしても、会社が何とか経営できていればコロナ禍でもほどほどに生き残ることができるだろう。

一方で、コロナ禍でも大きく資産を増やすのが株式等の金融資産を保有する富裕層である。政府はコロナで悪化する経済を下支えするために、大がかりな金融緩和や財政出動をしたので、これらの金がすべて金融市場に回って株価を押し上げた。だから、株式市場はどこもコロナ前よりも高値を保っているのである。

つまりコロナは、経済格差をブーストする社会現象だったのである。

コロナ禍以前から、経済格差はどんどん広がっていた。最初は少しの差であった格差は、やがては1000倍も2000倍も、いや1万倍も2万倍も開いて、もはや貧困層がどうあがこうが克服できない。

この極度なまでの経済格差が定着すると、その後に何が来るのか。それは、「経済による社会の分離」である。

世界の多くの国では、ひとつの国家が見えない層(レイヤー)で「分離」されている。そのレイヤーとは経済格差のレイヤーである。この経済格差の上と下とでは生活も文化も考え方も違う。場合によっては話す言葉までもが違ってくる。

メキシコでも、ブラジルでも、アメリカでも、イギリスでも、安全な地域と危険な地域は明確に「分離」して存在している。

分かりやすく言えば、金持ちたちが集う地域は安全だ。そして貧困層が集う地域は治安が悪い。だから金持ちは貧困層がいる地区には決して足を踏み入れないし、逆に貧困層が金持ち地区に行っても警備員や警察に追い出される。

それが定着すると、世界中どこでも貧困層と富裕層は自然に、明確に、完全に「分離」し、長い年月を経て同じ民族でも違う文化や生活になってしまうのだ。

世界では富裕層と貧困層の「分離」は見て分かるほど明確

一億総中流の意識がまだ多少でも残っている日本人から見ると、これは階級・身分・差別があるという認識になる。その通りだ。凄まじい経済格差が定着すると、自然に階級が生まれて上と下で「分離」するのだ。

世界では富裕層と貧困層の「分離」は見て分かるほど明確だ。

今の日本は確かに経済格差は広がっているが、まだ経済格差による「分離」は極端ではない。だから、たとえば金持ちが住む地域の住民がそうでない地区に行かないということはない。その逆もまた然りだ。

しかし問題はこれからだ。日本は、今のような混成社会を維持できるのだろうか。経済格差が広がるだけ広がって、それが社会に定着してしまった場合、日本もまた地域の「分離」になってもおかしくない。

経済格差の広がりは確実に、経済レイヤーによる「地域の分離」を作り出す。それは間違いない。時間の問題なのだ。だから、このまま経済格差が広がると、将来の日本は今までと違う世界になる可能性がある。

日本人も富裕層と貧困層で、世界が「分離」する。

富裕層と貧困層で分離するというのは、住むところも、通う学校も、付き合う人間も、行きつけの店も、持ち物も、食べる物も、やがては話し方も、すべてが違っていくということだ。

何もかもが「分離」し、お互いに接点が極端になくなっていく。

教育で言うと、貧困層は親の資金面から安い学校にしか通えなくなり、ここで富裕層と貧困層の子供たちが「分離」される。富裕層の子供たちは質の良い教育を行う私学に通い、教育に理解のある親と熟練した教師に守られて学力を伸ばす。

一方で貧困層の子供たちは親の理解もなく、給料が安くてやる気のない教師の教育を受けて、教育の質が落ちて学力も低下していくことになる。塾にも通う経済的余裕もない。

公立校ではどんなにやる気のない生徒、問題生徒、非行生徒がいても学校から放逐できないので、しばしば学級崩壊も起きて授業がストップしたりする。

だから、富裕層の子供たちが学力を上げる環境の中で貧困層の子供たちは学力を落とし、名門校にはなかなか入れない構造的な問題が発生する。気が付けば、学歴で大きなハンディが生まれていく。

それは、容易に越えられない「見えない壁」となっていく

さらに地域で見ると、ある地域に貧困層が多くなっていくと、地価が下がってますます貧困層が流れ込んでいく。そうすると、不動産価格の下落や環境の悪化を嫌って、富裕層が少しずつ、しかし確実に抜けていく。

そうすると、ますます貧困層がその地区を埋め尽くすようになっていく。一方で、富裕層が集まるところは地価が上がって貧困層が住めなくなる。これで人々が経済レイヤーによって「完全分離」される。

職業でも同様の「分離」が起こる。富裕層の子弟が卒業する大学卒の勤める職種と、貧困層の勤める職種も違っていく。入れる企業も違い、同じ企業でもエリートクラスと労働者クラスに分かれてこのふたつは交差しなくなる。

この「分離」は、容易に越えられない「見えない壁」となっていく。

今のままであるならば、日本も遅かれ早かれそのような「見えない壁」で区分けされる社会になる。これについては、多くの社会学者、経済学者、政治家たちが警鐘を鳴らし、危険を訴えている。

誰のせいでこんなことになったのか。全世界がこのようになっているのだとすれば、誰のせいでもなく、現在の社会構造が生み出しているというのが分かるはずだ。

弱肉強食の資本主義が、このような社会現象をどんどん増長させて止まらないのである。強いて言えば、グローバル化を無批判に取り入れた政治家や大企業が悪いということになる。

しかし、日本はもうとっくの前にグローバル化を完全に受け入れた。これからも、どんどん受け入れていくことになる。それがさらなる経済格差と「分離」を生み出すことになるのは、目に見えている。

もはや、格差が日本国民を「分離」してしまうのは避けられない事態だ。私たちはどちらかに分けられてしまうのだ。そして、同じ日本人でも、まったく交わらない文化断絶ができあがる。

同じ民族なのに、別々に違う世界で「分離」して生きることになる。

国家はない袖を振れない。企業も終身雇用を捨てた

問題は貧困層に落ちた人は、もはやその子供もまた貧困層になってしまうことだ。個人の努力云々の話ではない。子供たちはスタート時点から極端な差を付けられて貧困から抜け出せない。

日本がそんな社会になることは、高齢層よりも若年層の方が切実に感じ取れるかもしれない。

日本は若者の自殺が多い国だが、それは就職活動を行っている段階から、多くの企業に断られ続け、自分たちが社会から必要とされていないことを悟ってしまうこともひとつの要因として挙げられている。

就職できても、生活していくことができないほどの薄給だったり、非正規雇用や契約社員のような、不安定な身分だったりすることも多い。正社員と「分離」されているのである。そんな中で必死で働いても、身体を壊して使い捨てされる。

彼らの多くは、自分たちが貧困に生きるしかない現実を突きつけられている。当然、無理して結婚して子供を作っても、子供が貧困で暮らすことになることくらいは容易に想像がつく。

だから、結婚して子供を作るということすらも逡巡する社会と化している。日本は超少子高齢化となっており、減り続ける子供と増え続ける高齢者のアンバランスが社会のゆがみとして現れるようになっている。

これから日本は、過酷な増税、削られる医療費、延長される年金受給年齢などがすべて同時並行で起きて、国民が痩せ細っていく。

国家はない袖を振れない。企業も終身雇用を捨てた。そのため、ごく普通の人が、年々転がり落ちるように貧困化する。

周辺国との軋轢、憎悪の連鎖、グローバル化の加速、格差の定着、若者の貧困化、超少子高齢化……。すべては、弱肉強食の資本主義が生み出したものであり根は一緒なのだ。

これらの問題が最後まで暴走していく中で、日本でも経済格差が「分離」を生み出して、それぞれがまったく違う文化の中で生きることになる。

格差で騒いでいる段階は終わった。格差社会の次は分離社会だ。日本社会は資産で分離していくのだ。

同じ日本人なのに交わることのない共同体で明確に「分離」し、互いに相手に「違う世界の人だから」と関心を失うようになっていく。それが日本の未来だと思うと悲しくないだろうか?

野良犬の女たち
『野良犬の女たち ジャパン・ディープナイト(鈴木 傾城)』
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[リバイバル3] マルクスはやはり正しかった _ もうすぐ共産革命の嵐が吹き荒れる時代がやって来る 中川隆
271. 中川隆[-8393] koaQ7Jey 2021年1月11日 09:04:25 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[13]
世界では富裕層と貧困層の「分離」は見て分かるほど明確。日本もそうなるか?
2021.01.11
https://blackasia.net/?p=22045


今の日本は確かに経済格差は広がっているが、まだ経済格差による「分離」は極端ではない。だから、たとえば金持ちが住む地域の住民がそうでない地区に行かないということはない。その逆もまた然りだ。しかし問題はこれからだ。日本は、今のような混成社会を維持できるのだろうか。(鈴木傾城)


コロナは、経済格差をブーストする社会現象だった

コロナ禍は人々の健康を破壊するだけでなく、経済面でも人々を脅かす存在となる。コロナ禍で真っ先に解雇されるのは非正規雇用者で、何とか守られるのは正社員である。そのため、非正規雇用者の立場はコロナ禍で修羅場と化す。

正社員は「何とか」会社にしがみついていられれば、賃金の落ち込みやボーナスの削減はあったとしても、会社が何とか経営できていればコロナ禍でもほどほどに生き残ることができるだろう。

一方で、コロナ禍でも大きく資産を増やすのが株式等の金融資産を保有する富裕層である。政府はコロナで悪化する経済を下支えするために、大がかりな金融緩和や財政出動をしたので、これらの金がすべて金融市場に回って株価を押し上げた。だから、株式市場はどこもコロナ前よりも高値を保っているのである。

つまりコロナは、経済格差をブーストする社会現象だったのである。

コロナ禍以前から、経済格差はどんどん広がっていた。最初は少しの差であった格差は、やがては1000倍も2000倍も、いや1万倍も2万倍も開いて、もはや貧困層がどうあがこうが克服できない。

この極度なまでの経済格差が定着すると、その後に何が来るのか。それは、「経済による社会の分離」である。

世界の多くの国では、ひとつの国家が見えない層(レイヤー)で「分離」されている。そのレイヤーとは経済格差のレイヤーである。この経済格差の上と下とでは生活も文化も考え方も違う。場合によっては話す言葉までもが違ってくる。

メキシコでも、ブラジルでも、アメリカでも、イギリスでも、安全な地域と危険な地域は明確に「分離」して存在している。

分かりやすく言えば、金持ちたちが集う地域は安全だ。そして貧困層が集う地域は治安が悪い。だから金持ちは貧困層がいる地区には決して足を踏み入れないし、逆に貧困層が金持ち地区に行っても警備員や警察に追い出される。

それが定着すると、世界中どこでも貧困層と富裕層は自然に、明確に、完全に「分離」し、長い年月を経て同じ民族でも違う文化や生活になってしまうのだ。

世界では富裕層と貧困層の「分離」は見て分かるほど明確

一億総中流の意識がまだ多少でも残っている日本人から見ると、これは階級・身分・差別があるという認識になる。その通りだ。凄まじい経済格差が定着すると、自然に階級が生まれて上と下で「分離」するのだ。

世界では富裕層と貧困層の「分離」は見て分かるほど明確だ。

今の日本は確かに経済格差は広がっているが、まだ経済格差による「分離」は極端ではない。だから、たとえば金持ちが住む地域の住民がそうでない地区に行かないということはない。その逆もまた然りだ。

しかし問題はこれからだ。日本は、今のような混成社会を維持できるのだろうか。経済格差が広がるだけ広がって、それが社会に定着してしまった場合、日本もまた地域の「分離」になってもおかしくない。

経済格差の広がりは確実に、経済レイヤーによる「地域の分離」を作り出す。それは間違いない。時間の問題なのだ。だから、このまま経済格差が広がると、将来の日本は今までと違う世界になる可能性がある。

日本人も富裕層と貧困層で、世界が「分離」する。

富裕層と貧困層で分離するというのは、住むところも、通う学校も、付き合う人間も、行きつけの店も、持ち物も、食べる物も、やがては話し方も、すべてが違っていくということだ。

何もかもが「分離」し、お互いに接点が極端になくなっていく。

教育で言うと、貧困層は親の資金面から安い学校にしか通えなくなり、ここで富裕層と貧困層の子供たちが「分離」される。富裕層の子供たちは質の良い教育を行う私学に通い、教育に理解のある親と熟練した教師に守られて学力を伸ばす。

一方で貧困層の子供たちは親の理解もなく、給料が安くてやる気のない教師の教育を受けて、教育の質が落ちて学力も低下していくことになる。塾にも通う経済的余裕もない。

公立校ではどんなにやる気のない生徒、問題生徒、非行生徒がいても学校から放逐できないので、しばしば学級崩壊も起きて授業がストップしたりする。

だから、富裕層の子供たちが学力を上げる環境の中で貧困層の子供たちは学力を落とし、名門校にはなかなか入れない構造的な問題が発生する。気が付けば、学歴で大きなハンディが生まれていく。

それは、容易に越えられない「見えない壁」となっていく

さらに地域で見ると、ある地域に貧困層が多くなっていくと、地価が下がってますます貧困層が流れ込んでいく。そうすると、不動産価格の下落や環境の悪化を嫌って、富裕層が少しずつ、しかし確実に抜けていく。

そうすると、ますます貧困層がその地区を埋め尽くすようになっていく。一方で、富裕層が集まるところは地価が上がって貧困層が住めなくなる。これで人々が経済レイヤーによって「完全分離」される。

職業でも同様の「分離」が起こる。富裕層の子弟が卒業する大学卒の勤める職種と、貧困層の勤める職種も違っていく。入れる企業も違い、同じ企業でもエリートクラスと労働者クラスに分かれてこのふたつは交差しなくなる。

この「分離」は、容易に越えられない「見えない壁」となっていく。

今のままであるならば、日本も遅かれ早かれそのような「見えない壁」で区分けされる社会になる。これについては、多くの社会学者、経済学者、政治家たちが警鐘を鳴らし、危険を訴えている。

誰のせいでこんなことになったのか。全世界がこのようになっているのだとすれば、誰のせいでもなく、現在の社会構造が生み出しているというのが分かるはずだ。

弱肉強食の資本主義が、このような社会現象をどんどん増長させて止まらないのである。強いて言えば、グローバル化を無批判に取り入れた政治家や大企業が悪いということになる。

しかし、日本はもうとっくの前にグローバル化を完全に受け入れた。これからも、どんどん受け入れていくことになる。それがさらなる経済格差と「分離」を生み出すことになるのは、目に見えている。

もはや、格差が日本国民を「分離」してしまうのは避けられない事態だ。私たちはどちらかに分けられてしまうのだ。そして、同じ日本人でも、まったく交わらない文化断絶ができあがる。

同じ民族なのに、別々に違う世界で「分離」して生きることになる。

国家はない袖を振れない。企業も終身雇用を捨てた

問題は貧困層に落ちた人は、もはやその子供もまた貧困層になってしまうことだ。個人の努力云々の話ではない。子供たちはスタート時点から極端な差を付けられて貧困から抜け出せない。

日本がそんな社会になることは、高齢層よりも若年層の方が切実に感じ取れるかもしれない。

日本は若者の自殺が多い国だが、それは就職活動を行っている段階から、多くの企業に断られ続け、自分たちが社会から必要とされていないことを悟ってしまうこともひとつの要因として挙げられている。

就職できても、生活していくことができないほどの薄給だったり、非正規雇用や契約社員のような、不安定な身分だったりすることも多い。正社員と「分離」されているのである。そんな中で必死で働いても、身体を壊して使い捨てされる。

彼らの多くは、自分たちが貧困に生きるしかない現実を突きつけられている。当然、無理して結婚して子供を作っても、子供が貧困で暮らすことになることくらいは容易に想像がつく。

だから、結婚して子供を作るということすらも逡巡する社会と化している。日本は超少子高齢化となっており、減り続ける子供と増え続ける高齢者のアンバランスが社会のゆがみとして現れるようになっている。

これから日本は、過酷な増税、削られる医療費、延長される年金受給年齢などがすべて同時並行で起きて、国民が痩せ細っていく。

国家はない袖を振れない。企業も終身雇用を捨てた。そのため、ごく普通の人が、年々転がり落ちるように貧困化する。

周辺国との軋轢、憎悪の連鎖、グローバル化の加速、格差の定着、若者の貧困化、超少子高齢化……。すべては、弱肉強食の資本主義が生み出したものであり根は一緒なのだ。

これらの問題が最後まで暴走していく中で、日本でも経済格差が「分離」を生み出して、それぞれがまったく違う文化の中で生きることになる。

格差で騒いでいる段階は終わった。格差社会の次は分離社会だ。日本社会は資産で分離していくのだ。

同じ日本人なのに交わることのない共同体で明確に「分離」し、互いに相手に「違う世界の人だから」と関心を失うようになっていく。それが日本の未来だと思うと悲しくないだろうか?

野良犬の女たち
『野良犬の女たち ジャパン・ディープナイト(鈴木 傾城)』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B08B4358CC/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=asyuracom-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=B08B4358CC&linkId=bdf8967e8f2c80c8901a34333c3ad219


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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/704.html#c271

[近代史5] アメリカ合衆国の歴史と現代史 中川隆
38. 中川隆[-8392] koaQ7Jey 2021年1月11日 10:18:18 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[14]

Google は CIA や NSA のIT部門 _ シリコンバレーが人々に知られたくない本当の姿
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/560.html

youtube は偏向している
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/555.html

YouTube の言論弾圧について
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/386.html

シリコンヴァレーで加速する「カースト制度」の真実
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/609.html

マイクロソフトとビル・ゲイツは悪い
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/320.html

ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの正体
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/727.html

アマゾンのジェフ・ベゾスCEOの個人資産が人類史上最大になった
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/310.html

体制側に都合が悪い本はアマゾンから排除される
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/428.html

中国人がアマゾンで日本人に粗悪品を売りまくって荒稼ぎ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/620.html

金持ちの習慣を真似しても金持ちにはならない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/918.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/385.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/485.html#c38

[近代史5] クラシック音楽 _ 伝説の名演奏家 中川隆
26. 中川隆[-8391] koaQ7Jey 2021年1月11日 10:20:17 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[15]
アメリカの演奏家

アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/437.html

アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html


アメリカの指揮者

レオポルド・ストコフスキー(1882年4月18日 - 1977年9月13日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/694.html

バッハ : ストコフスキー編曲集
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/925.html

レナード・バーンスタイン (1918年8月25日 - 1990年10月14日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/199.html

▲△▽▼

アメリカのヴァイオリニスト

ルイス・クラスナー (1903年6月21日 - 1995年5月4日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/200.html

アメリカ人には音楽は理解できない _ 神童メニューインは何故只の人になったのか
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/439.html

天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか?
神童メニューインは何故只の人になったのか
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/430.html#c14

天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか?
アメリカ生まれの天才演奏家はギラ・ブスタボ(Guila Bustabo, 1916年 2月25日 - 2002年 4月27日)一人だけでしょうか:
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/430.html#c26

ギラ・ブスタボ 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/170.html

ナージャ・ソネンバーグ (1961年1月10日 - )名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/229.html

▲△▽▼

アメリカのヴィオリスト
キム・カシュカシャン (1952年8月31日 - ) 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/166.html


アメリカのクラリネット奏者
デイヴィッド・シフリン 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/193.html

▲△▽▼

カナダのピアニスト
グレン・グールド (1932年9月25日 - 1982年10月4日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/186.html


アメリカのピアニスト

アメリカ人には音楽は理解できない _ 天才ピアニスト ヴァン・クライバーン(1934年7月12日 - 2013年2月27日)とは何だったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/438.html

天才ピアニスト ヴァン・クライバーン(1934年7月12日 - 2013年2月27日) とは何だったのか? _ アメリカ人には音楽は理解できない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/430.html

リチャード・グード (1943年6月1日 - )名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/909.html

マレイ・ペライア (1947年4月19日 - )名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/908.html

▲△▽▼

アメリカの歌手

レリ・グリスト (1932年2月29日 - ) 名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/927.html

シルヴィア・マクネアー (1956年6月23日 - )名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/228.html


▲△▽▼
▲△▽▼


アメリカのジャズ・ロック奏者

チャーリー・パーカー の世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1026.html

ジョン・コルトレーン 名演集
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/443.html

カウント・ベイシー 名演集
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/444.html

エルヴィス・プレスリー 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/263.html

ボブ・ディラン 名曲集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/262.html

▲△▽▼


アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html

クラシックの作曲家はアル中、 ジャズ・ロックのミュージシャンは全員麻薬中毒
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/917.html

まともな人間は音楽家になれない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/177.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/401.html#c26

[近代史5] クラシック音楽 _ 伝説の名演奏家 中川隆
27. 中川隆[-8390] koaQ7Jey 2021年1月11日 10:23:15 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[16]
イギリスの演奏家
イギリスの指揮者

トーマス・ビーチャム(1879年4月29日 - 1961年3月8日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/951.html

エイドリアン・ボールト(1889年4月8日 - 1983年2月22日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/952.html

ジョン・バルビローリ (1899年12月2日 - 1970年7月29日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/950.html

ジョン・エリオット・ガーディナー (1943年4月20日 - )名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/181.html

▲△▽▼

イギリスのチェリスト
ジャクリーヌ・デュ・プレ (1945年1月26日 - 1987年10月19日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/929.html

イギリスのクラリネット奏者
チャールズ・ドレーパー (23 October 1869 – 21 October 1952)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/196.html

イギリスのホルン奏者
デニス・ブレイン (1921年5月17日 - 1957年9月1日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/932.html

▲△▽▼

イギリスの歌手

キャスリーン・フェリア (1912年4月22日 - 1953年10月8日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/223.html

マーガレット・プライス (1941年4月13日 - 2011年1月28日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/227.html

イアン・ボストリッジ (1964年12月25日 - )名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/939.html


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イギリスのポピュラー音楽

ビ−トルズ

イリーナ・スルツカヤ _ Let it be _ ジョン・レノンを殺した組織とは
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/551.html

ポール・マッカートニー 名曲集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/259.html

メリー・ホプキン 『Those Were The Days』
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/469.html

メリー・ホプキン 『サン・エティエンヌの草原』
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/470.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/401.html#c27

[近代史5] クラシック音楽 _ 伝説の名演奏家 中川隆
28. 中川隆[-8389] koaQ7Jey 2021年1月11日 10:26:29 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[17]
ドイツ・オーストリアの演奏家


ドイツ・オーストリアの指揮者

フランツ・シャルク (1863 – 1931)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/684.html

フェリックス・ワインガルトナー(1863年6月2日 - 1942年5月7日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/685.html

宇野功芳 ブルーノ・ワルター(1876年9月15日 - 1962年2月17日)と我が音楽人生
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/529.html

宇野功芳の音盤棚 unauの無能日記
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1080.html

ブルーノ・ワルター _ モーツァルトの名盤
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/832.html

ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html

ブルーノ・ワルター オペラ名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/295.html

カール・シューリヒト(1880年7月3日 - 1967年1月7日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/690.html

ヘルマン・アーベントロート(1883年1月19日 - 1956年5月29日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/689.html

オットー・クレンペラー(1885年5月14日 - 1973年7月6日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/691.html

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー (1886年1月25日 - 1954年11月30日) 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/118.html

フルトヴェングラー (1886年1月25日 - 1954年11月30日) _ ベートーヴェン名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/162.html

作曲家フルトヴェングラーとは何であったのか?_宇野功芳 樂に寄す
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/482.html

ナチス時代のフルトヴェングラーは一体何を考えていたのか?
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/639.html

Wilhelm Furtwängler site by shin-p
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/

Kenichi Yamagishi's Web Site
http://classic.music.coocan.jp/index.htm

ハンス・クナッパーツブッシュ (1888年3月12日 - 1965年10月25日)研究
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/644.html

syuzo's Homepage,Kna-Club, ハンス・クナッパーツブッシュ研究
http://www.kna-club.com/

Hans Knappertsbusch Concert Records(English)Until 1940New!
http://kna-club.com/knawiki-en/

クナッパーツブッシュ (1888年3月12日 - 1965年10月25日)の生涯
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/

クレメンス・クラウス(1893年3月31日 - 1954年5月16日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/692.html

カール・ベーム (1894年8月28日 - 1981年8月14日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/197.html

隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム(1894年8月28日 - 1981年8月14日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html

ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908年4月5日 - 1989年7月16日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/198.html
 
巨匠神話 だれがカラヤン (1908年4月5日 - 1989年7月16日)を帝王にしたのか
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/645.html

ギュンター・ヴァント (1912年1月7日 - 2002年2月14日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/217.html

クルト・ザンデルリング (1912年9月19日 - 2011年9月18日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/283.html

カルロス・クライバー (1930年7月3日 - 2004年7月13日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/234.html

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オランダの指揮者

ウィレム・メンゲルベルク(1871年3月28日 - 1951年3月22日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/687.html


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/401.html#c28

[近代史5] クラシック音楽 _ 伝説の名演奏家 中川隆
29. 中川隆[-8388] koaQ7Jey 2021年1月11日 10:27:10 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[18]

ドイツ・オーストリアの室内管弦楽団

アドルフ・ブッシュ (1891年8月8日 - 1952年6月9日)室内管弦楽団
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/679.html

カール・ミュンヒンガー (1915年5月29日 - 1990年3月13日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/179.html

カール・リヒター(1926年10月15日 - 1981年2月15日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/178.html

ニコラウス・アーノンクール (1929年12月6日 - 2016年3月5日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/949.html

ウィーン八重奏団 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/231.html

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オランダの室内管弦楽団
トン・コープマン (1944年10月12日 - )名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/239.html


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ドイツ・オーストリアのヴァイオリニスト

フリッツ・クライスラー(1875年2月2日 - 1962年1月29日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/667.html

アドルフ・ブッシュ (1891年8月8日 - 1952年6月9日) (協奏曲)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/680.html

アドルフ・ブッシュ (独奏曲)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/659.html

アドルフ・ブッシュ (室内楽)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/677.html

アンネ=ゾフィ・ムター (1963年6月29日 - )名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/151.html


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ドイツ・オーストリアの弦楽四重奏団

クリングラー弦楽四重奏団
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/662.html

ロゼ弦楽四重奏団
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/663.html

ブッシュ弦楽四重奏団
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/664.html

バリリ弦楽四重奏団名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/212.html

ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/211.html

アルバン・ベルク弦楽四重奏団名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/213.html

ハーゲン弦楽四重奏団名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/216.html


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/401.html#c29

[近代史5] クラシック音楽 _ 伝説の名演奏家 中川隆
30. 中川隆[-8387] koaQ7Jey 2021年1月11日 10:27:49 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[19]
ドイツ・オーストリアのピアニスト


ブラームス (1833年5月7日 - 1897年4月3日)自作自演 幻のピアノ録音 ノイズを取り除き現代に蘇る ♪
https://www.youtube.com/watch?v=yo6lY_ctavU&feature=emb_err_woyt
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/164.html#c1

マーラー(1860年7月7日 - 1911年5月18日) ピアノロールで自作自演
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/699.html

アルトゥル・シュナーベル (1882年4月17日- 1951年8月15日) 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/184.html

エリー・ナイ (1882年9月27日 - 1968年3月31日) 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/299.html

ベーゼンドルファーを弾くヴィルヘルム・バックハウス(1884年3月26日 - 1969年7月5日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/706.html

エトヴィン・フィッシャー (1886年10月6日 - 1960年1月24日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/240.html

ヴァルター・ギーゼキング (1895年11月5日 - 1956年10月26日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/241.html

ヴィルヘルム・ケンプ (1895年11月25日 - 1991年5月23日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/242.html

ヴィルヘルム・ケンプは本当にベヒシュタインを弾いていたのか?
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/707.html

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ドイツのオルガニスト

アルベルト・シュヴァイツァー (1875年1月14日 - 1965年9月4日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/953.html

ヘルムート・ヴァルヒャ(1907年10月27日 – 1991年8月11日) 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/180.html

カール・リヒター (1926年10月15日 - 1981年2月15日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/237.html


オランダのチェンバリスト
グスタフ・レオンハルト (1928年5月30日 - 2012年1月16日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/235.html


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オーストリアのクラリネット奏者
レオポルト・ウラッハ (1902年2月17日 - 1956年5月7日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/167.html

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/401.html#c30

[近代史5] クラシック音楽 _ 伝説の名演奏家 中川隆
31. 中川隆[-8386] koaQ7Jey 2021年1月11日 10:28:15 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[20]
ドイツ・オーストリアの女性歌手

ロッテ・レーマン (1888年2月27日 - 1976年8月26日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/232.html

エリーザベト・シューマン (1888年6月13日 - 1952年4月23日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/919.html

エルナ・ベルガー (1900年10月19日 - 1990年6月14日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/918.html

エリーザベト・シュヴァルツコップ (1915年12月9日 - 2006年8月3日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/920.html

クリスタ・ルートヴィヒ (1928年3月16日 - )名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/928.html

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ドイツ・オーストリアの男性歌手

レオ・スレザーク (1873-1946) 名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/911.html

ハインリヒ・シュルスヌス (1888年8月6日 - 1952年6月18日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/912.html

ゲルハルト・ヒュッシュ (1901年2月2日 - 1984年11月21日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/913.html

ハンス・ホッター (1909年1月19日 - 2003年12月6日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/189.html

フィッシャー=ディースカウ (1925年5月28日 - 2012年5月18日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/914.html

ペーター・シュライアー (1935年7月29日 - 2019年12月25日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/940.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/401.html#c31

[近代史5] クラシック音楽 _ 伝説の名演奏家 中川隆
32. 中川隆[-8385] koaQ7Jey 2021年1月11日 10:30:12 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[21]
フランスの演奏家


20世紀初めにはヴァイオリンも今とは比較にならない上品、甘美、哀切な音色で鳴っていた
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/652.html

19世紀のピアノの音色は今より美しかった、ピアノは大きな音が出せればいいという物じゃない
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/683.html

清貧の音楽ファンには音楽はわからない _ フランス人だけがヤマハから美しい音色が出せる理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/435.html

仏オペラ歌手、業界セクハラ「沈黙のおきて」破る 本番中の被害告発
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1018.html


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フランスの指揮者


ピエール・モントゥー(1875年4月4日 - 1964年7月1日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/693.html

デジレ=エミール・アンゲルブレシュト(1880年9月17日 - 1965年2月14日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/695.html

シャルル・ミュンシュ(1891年9月26日 - 1968年11月6日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/697.html

ピエール・ブーレーズ(1925年3月26日 - 2016年1月5日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/177.html

▲△▽▼

ベルギーの指揮者
アンドレ・クリュイタンス (1905年3月26日 - 1967年6月3日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/944.html

スイスの指揮者

エルネスト・アンセルメ(1883年11月11日 - 1969年2月20日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/696.html

シャルル・エドゥアール・デュトワ(1936年10月7日 - ) 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/192.html

▲△▽▼

フランスの室内管弦楽団

ジャン=フランソワ・パイヤール (1928年4月12日 - 2013年4月15日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/226.html

ベルギーの室内管弦楽団
ルネ・ヤーコプス (1946年10月30日 - )名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/182.html

スイスの室内管弦楽団
ミシェル・コルボ (1934年2月14日 - )名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/238.html



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フランスのヴァイオリニスト


現代の人にはほとんど忘れられたフランス楽派の巨匠ブーシュリ (29 March 1877 – 1 April 1962)
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/544.html

ジャック・ティボー (1880年9月27日 - 1953年9月1日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/675.html

カザルス・トリオ (コルトー・カザルス・チボー)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/665.html

ジネット・ヌヴー (1919年8月11日 - 1949年10月28日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/169.html

クリスチャン・フェラス (1933年6月17日 - 1982年9月14日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/203.html

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ベルギーのヴァイオリニスト
ウジェーヌ・イザイ(1858年7月16日 - 1931年5月12日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/672.html


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フランスのチェリスト
ピエール・フルニエ (1906年6月24日 - 1986年1月8日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/946.html

フランスのハープ奏者
リリー・ラスキーヌ (1893年8月31日 - 1988年1月4日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/948.html

フランスのクラリネット奏者
フランソワ・エティエンヌ (1901 - 1970) 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/194.html

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フランスのフルート奏者

マルセル・モイーズ (1889年5月17日 - 1984年11月1日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/245.html

ジャン=ピエール・ランパル (1922年1月7日 - 2000年5月20日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/246.html

スイスのフルート奏者
オーレル・ニコレ (1926年1月22日 - 2016年1月29日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/930.html

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スイスのオーボエ奏者
ハインツ・ホリガー (1939年5月21日 - )名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/931.html


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スイスの歌手
シャルル・パンゼラ (1896年2月16日 – 1976年6月6日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/917.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/401.html#c32

[近代史5] クラシック音楽 _ 伝説の名演奏家 中川隆
33. 中川隆[-8384] koaQ7Jey 2021年1月11日 10:30:50 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[22]
フランスのピアニスト


クロード・ドビュッシー(1862年8月22日 - 1918年3月25日)自作自演
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/160.html#c2

ラヴェル (1875年3月7日 - 1937年12月28日)自作自演
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/703.html

アルフレッド・コルトー(1877年9月26日 - 1962年6月15日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/183.html

清貧の音楽ファンには音楽はわからない _ フランス人だけがヤマハから美しい音色が出せる理由 _ コルトー名演集
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/435.html#c8
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/435.html#c34

ヨウラ・ギュラー (1895 - 1980) を発見 _ 運命の出会い? それとも…
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/433.html

サンソン・フランソワ (1924年5月18日 - 1970年10月22日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/937.html

エリック・ハイドシェック (1936年8月21日 - )名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/154.html

エレーヌ・グリモー (1969年11月7日 - )名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/150.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/401.html#c33

[近代史5] クラシック音楽 _ 伝説の名演奏家 中川隆
34. 中川隆[-8383] koaQ7Jey 2021年1月11日 10:33:53 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[23]

ルーマニアの演奏家

ルーマニアのヴァイオリニスト

ジョルジェ・エネスク (1881年8月19日 - 1955年5月4日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/670.html

ジョルジェ・エネスク 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/202.html

ローラ・ボベスコ (1921年 8月 9日 - 2003年 9月 4日) 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/171.html

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ルーマニアのピアニスト

クララ・ハスキル (1895年1月7日 - 1960年12月7日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/935.html

ディヌ・リパッティ (1917年3月19日 - 1950年12月2日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/933.html

▲△▽▼

ルーマニアの歌手
イレアナ・コトルバシュ (1939年6月9日 - )名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/923.html


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ポーランドの演奏家

ポーランドのヴァイオリニスト

ブロニスラフ・フーベルマン(1882年12月19日 - 1947年6月15日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/666.html

ヘンリク・シェリング (1918年9月22日 - 1988年3月3日 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/204.html

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ポーランドのピアニスト

イグナツィ・ヤン・パデレフスキ (1860年11月18日 - 1941年6月29日) _ 才能はともかくオーラだけは凄い
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/432.html

クリスティアン・ツィマーマン名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/907.html

▲△▽▼

ポーランドのチェンバロ奏者
ワンダ・ランドフスカ名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/947.html


▲△▽▼


ハンガリーの演奏家

ハンガリーの指揮者
ニキシュ (1855年10月12日 - 1922年1月23日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/688.html

▲△▽▼

ハンガリーのヴァイオリニスト

ヨーゼフ・ヨアヒム(1831年6月28日 - 1907年8月15日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/674.html

ヨーゼフ・シゲティ(1892年9月5日 - 1973年2月19日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/669.html

ヨーゼフ・シゲティ 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/201.html

▲△▽▼

ハンガリーの弦楽四重奏団

レナー弦楽四重奏団
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/660.html

レナー弦楽四重奏団名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/120.html

タカーチ弦楽四重奏団名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/215.html

▲△▽▼

ハンガリーのピアニスト

バルトーク(1881年3月25日 - 1945年9月26日)自作自演
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/154.html#c1

リリー・クラウス (1903年4月3日 - 1986年11月6日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/934.html

アンダ・ゲーザ (1921年11月19日 - 1976年6月14日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/152.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/401.html#c34

[近代史5] クラシック音楽 _ 伝説の名演奏家 中川隆
35. 中川隆[-8382] koaQ7Jey 2021年1月11日 10:36:29 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[24]
ロシア・ウクライナの演奏家


イーゴリ・ストラヴィンスキー (1882年6月17日 - 1971年4月6日)自作自演
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/701.html

エフゲニー・ムラヴィンスキー (1903年6月4日 - 1988年1月19日)世紀の名盤
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/399.html

エフゲニー・ムラヴィンスキー 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/176.html

ヴァレリー・ゲルギエフ (1953年5月2日 - )名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/195.html

キリル・ペトレンコ (1972年2月11日 - )名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/294.html

ミッシャ・エルマン(1891年1月20日 - 1967年4月5日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/668.html

ミッシャ・エルマン 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/301.html

ヤッシャ・ハイフェッツ (1901年2月2日 - 1987年12月10日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/671.html

ボロディン弦楽四重奏団名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/214.html

ミッシャ・マイスキー (1948年1月10日 - )名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/187.html

ウラディーミル・ソフロニツキー (1901年4月25日 – 1961年8月26日)
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/421.html

ニューヨーク・スタインウェイを弾くウラディミール・ホロヴィッツ(1903年10月1日 – 1989年11月5日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/705.html

ベーゼンドルファーを弾くスヴャトスラフ・リヒテル (1915年3月20日 - 1997年8月1日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/774.html

アナトリー・ヴェデルニコフ 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/222.html

夭折の女流ピアニスト ローザ・タマルキナ の評価は?
http://amezor-iv.net/shisou/140223211008.html

アンドレイ・ガヴリーロフ名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/906.html

ダニール・トリフォノフ名演集(?)
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/602.html

シャリャピン名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/148.html


▲△▽▼

イリーナ・スルツカヤ _ Let it be _ ヤク中のビートルズを背後から操っていた黒幕とは…
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/551.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/401.html#c35

[近代史5] クラシック音楽 _ 伝説の名演奏家 中川隆
36. 中川隆[-8381] koaQ7Jey 2021年1月11日 10:38:01 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[25]
デンマークの歌手

ラウリッツ・メルヒオール (1890年3月20日 - 1973年3月19日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/926.html


▲△▽▼

北欧の演奏家

パーヴォ・ベルグルンド (1929年4月14日 - 2012年1月25日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/221.html

グリーグ自作自演 (1843年6月15日 - 1907年9月4日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/458.html#c2

オッリ・ムストネン 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/149.html

キルステン・フラグスタート 名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/233.html

ビルギット・ニルソン名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/910.html

シセル・シルシェブー (1969年6月24日 - )名唱集
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/478.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/401.html#c36

[近代史5] クラシック音楽 _ 伝説の名演奏家 中川隆
37. 中川隆[-8380] koaQ7Jey 2021年1月11日 10:39:55 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[26]
スペイン・ポルトガルの演奏家


スペインのヴァイオリニスト
パブロ・デ・サラサーテ (1844年3月10日 - 1908年9月20日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/673.html

▲△▽▼

スペインのチェリスト

カザルス (1876年12月29日 - 1973年10月22日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/676.html

パブロ・カザルス カタルーニャ民謡 『鳥の歌』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/927.html

カザルス・トリオ (コルトー・カザルス・チボー)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/665.html

▲△▽▼

スペインのギタリスト

アンドレス・セゴビア (1893年2月21日 - 1987年6月2日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/247.html

ナルシソ・イエペス (1927年11月14日 - 1997年5月3日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/248.html

▲△▽▼

スペインの歌手

ロス・アンヘレス (1923年11月1日 – 2005年1月15日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/938.html

プラシド・ドミンゴ (1941年1月21日 - )名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/941.html

ホセ・カレーラス (1946年12月5日 - )名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/942.html


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/401.html#c37

[近代史5] クラシック音楽 _ 伝説の名演奏家 中川隆
38. 中川隆[-8379] koaQ7Jey 2021年1月11日 10:40:57 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[27]
ギリシャ・イタリアの演奏家

イタリアの指揮者
アルトゥーロ・トスカニーニ(1867年3月25日 - 1957年1月16日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/686.html


イタリアのヴァイオリニスト
ジョコンダ・デ・ヴィート (1907年7月26日 - 1994年10月14日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/205.html


▲△▽▼


イタリアのピアニスト

フェルッチョ・ブゾーニ (1866年4月1日 - 1924年7月27日) 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/333.html

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ (1920年1月5日 – 1995年6月12日 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/244.html


▲△▽▼


イタリアの歌手

エンリコ・カルーソー (1873年2月25日 - 1921年8月2日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/916.html

レナータ・テバルディ (1922年2月1日 - 2004年12月19日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/925.html

チェーザレ・シエピ (1923年2月10日-2010年7月5日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/915.html

ミレッラ・フレーニ (1935年2月27日 - 2020年2月9日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/922.html

ルチアーノ・パヴァロッティ (1935年10月12日 - 2007年9月6日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/943.html


▲△▽▼


ギリシャの歌手

マリア・カラス (1923年12月2日 - 1977年9月16日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/924.html

アグネス・バルツァ (1944年11月19日 - )名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/921.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/401.html#c38

[近代史4] 「ロシア革命」を実行したユダヤ人とそれを支援したユダヤ人 中川隆
2. 中川隆[-8378] koaQ7Jey 2021年1月11日 11:11:10 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[28]
ユダヤ民族とその「不愉快な事実」
  編集局  2014/4/19(土)  ウィーン発コンフィデンシャル|コラム 
https://vpoint.jp/column/16017.html


 1917年のロシア革命は人類史上初の社会主義革命だった。その革命の主導者、ウラジーミル・レーニン自身はロシア人だったが、彼の側近にはユダヤ系出身者が多数を占めていた。

 レーニンも厳密にいえば、母親がドイツユダヤ系だからユダヤ系ロシア人だ、ともいわれている。カール・マルクスもユダヤ系出身者だったことは良く知られている。すなわち、マルクス・レーニン主義と呼ばれる社会主義思想はユダヤ系出身者によって構築されたわけだ。スターリンがその後、多くのユダヤ人指導者を粛清したのはユダヤ人の影響を抹殺する狙いがあったという。

 興味深い点は、ユダヤ民族はロシア革命にユダヤ人が関与したという事実を否定してきたことだ。ノーベル文学賞受賞者のソルジェニーツィンは「200年生きて」という歴史書の中でボリシュヴィキ革命におけるユダヤ人の役割について書いている(200年とは1795年から1995年の間)。

 ソルジェニーツィン氏は「ユダヤ人は1917年革命の関与について否定し、『彼らは本当のユダヤ人ではなく、背教者(otshchepentsy)だった』と弁明する。ユダヤ人の主張を認めるなら、同じ論理でボリシュヴィキ革命を主導したロシア人は本当のロシア人ではなかったと主張できるはずだ」と書いている。
     
 冷戦後のロシアでもユダヤ系ロシア人の影響は少なくない。ソ連解体後、新興財団のオリガルヒ関係者にはユダヤ系が少なくない。代表的な人物はプーチン大統領の政敵だったミハイル・ホドルコフスキー氏だ。同氏は石油会社ユコス社元社長で昨年末、プーチン大統領から恩赦で釈放されたばかりだ。英国サッカーのプレミアリーグの「チェルシー」のオーナー、ロシアの大富豪ロマン・アブラモヴィッチ氏もユダヤ系だ(ホドルコフスキー氏の場合、父親がユダヤ人だが、母親はロシア人だ。母親がユダヤ系でない場合、正式にはユダヤ人とはいわず、ユダヤ人の父親を持っているロシア人ということになる)。

 ロシア革命とユダヤ民族の関係についてで当方の見解を少し述べる。

 ユダヤ人のイエスは2000年前、ユダヤ社会で指導的立場にあった聖職者や指導者から迫害され、十字架に処刑された。「復活のイエス」からキリスト教が誕生し、その教えは多くの殉教の歴史を経ながら古代ローマ帝国で公認宗教となった。しかし1054年にキリスト教は東西両教会に分裂(大シスマ)。現在のロシアには東方教会が伝達され、ロシア正教会が広がっていった。
 そして1917年、ロシアで唯物思想の無神論国家を目指す社会主義革命が発生した。その背後に、2000年前イエスを殺害したユダヤ民族の末裔たちの影響があった。

 イエスを殺害したユダヤ民族は“メシア殺害民族”という追及から逃れるためロシアで革命を支援し、無神論社会を構築していった。そしてロシア革命への関与を追及されると、「彼らは決して本当のユダヤ人ではなく、ユダヤの背教者だった」(ソルジェニーツィン)と突っぱねてきたわけだ。

(ウィーン在住)
https://vpoint.jp/column/16017.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1025.html#c2

[近代史4] ロシア革命を支援したユダヤ金融資本 中川隆
3. 中川隆[-8377] koaQ7Jey 2021年1月11日 11:12:08 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[29]
ユダヤ民族とその「不愉快な事実」
  編集局  2014/4/19(土)  ウィーン発コンフィデンシャル|コラム 
https://vpoint.jp/column/16017.html

 1917年のロシア革命は人類史上初の社会主義革命だった。その革命の主導者、ウラジーミル・レーニン自身はロシア人だったが、彼の側近にはユダヤ系出身者が多数を占めていた。

 レーニンも厳密にいえば、母親がドイツユダヤ系だからユダヤ系ロシア人だ、ともいわれている。カール・マルクスもユダヤ系出身者だったことは良く知られている。すなわち、マルクス・レーニン主義と呼ばれる社会主義思想はユダヤ系出身者によって構築されたわけだ。スターリンがその後、多くのユダヤ人指導者を粛清したのはユダヤ人の影響を抹殺する狙いがあったという。

 興味深い点は、ユダヤ民族はロシア革命にユダヤ人が関与したという事実を否定してきたことだ。ノーベル文学賞受賞者のソルジェニーツィンは「200年生きて」という歴史書の中でボリシュヴィキ革命におけるユダヤ人の役割について書いている(200年とは1795年から1995年の間)。

 ソルジェニーツィン氏は「ユダヤ人は1917年革命の関与について否定し、『彼らは本当のユダヤ人ではなく、背教者(otshchepentsy)だった』と弁明する。ユダヤ人の主張を認めるなら、同じ論理でボリシュヴィキ革命を主導したロシア人は本当のロシア人ではなかったと主張できるはずだ」と書いている。
     
 冷戦後のロシアでもユダヤ系ロシア人の影響は少なくない。ソ連解体後、新興財団のオリガルヒ関係者にはユダヤ系が少なくない。代表的な人物はプーチン大統領の政敵だったミハイル・ホドルコフスキー氏だ。同氏は石油会社ユコス社元社長で昨年末、プーチン大統領から恩赦で釈放されたばかりだ。英国サッカーのプレミアリーグの「チェルシー」のオーナー、ロシアの大富豪ロマン・アブラモヴィッチ氏もユダヤ系だ(ホドルコフスキー氏の場合、父親がユダヤ人だが、母親はロシア人だ。母親がユダヤ系でない場合、正式にはユダヤ人とはいわず、ユダヤ人の父親を持っているロシア人ということになる)。

 ロシア革命とユダヤ民族の関係についてで当方の見解を少し述べる。

 ユダヤ人のイエスは2000年前、ユダヤ社会で指導的立場にあった聖職者や指導者から迫害され、十字架に処刑された。「復活のイエス」からキリスト教が誕生し、その教えは多くの殉教の歴史を経ながら古代ローマ帝国で公認宗教となった。しかし1054年にキリスト教は東西両教会に分裂(大シスマ)。現在のロシアには東方教会が伝達され、ロシア正教会が広がっていった。
 そして1917年、ロシアで唯物思想の無神論国家を目指す社会主義革命が発生した。その背後に、2000年前イエスを殺害したユダヤ民族の末裔たちの影響があった。

 イエスを殺害したユダヤ民族は“メシア殺害民族”という追及から逃れるためロシアで革命を支援し、無神論社会を構築していった。そしてロシア革命への関与を追及されると、「彼らは決して本当のユダヤ人ではなく、ユダヤの背教者だった」(ソルジェニーツィン)と突っぱねてきたわけだ。

(ウィーン在住)
https://vpoint.jp/column/16017.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1110.html#c3

[近代史4] 帝政ロシアから大量のユダヤ移民がアメリカに逃げてきて共産主義者になっていった 中川隆
1. 中川隆[-8376] koaQ7Jey 2021年1月11日 11:12:49 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[30]
ユダヤ民族とその「不愉快な事実」
  編集局  2014/4/19(土)  ウィーン発コンフィデンシャル|コラム 
https://vpoint.jp/column/16017.html

 1917年のロシア革命は人類史上初の社会主義革命だった。その革命の主導者、ウラジーミル・レーニン自身はロシア人だったが、彼の側近にはユダヤ系出身者が多数を占めていた。

 レーニンも厳密にいえば、母親がドイツユダヤ系だからユダヤ系ロシア人だ、ともいわれている。カール・マルクスもユダヤ系出身者だったことは良く知られている。すなわち、マルクス・レーニン主義と呼ばれる社会主義思想はユダヤ系出身者によって構築されたわけだ。スターリンがその後、多くのユダヤ人指導者を粛清したのはユダヤ人の影響を抹殺する狙いがあったという。

 興味深い点は、ユダヤ民族はロシア革命にユダヤ人が関与したという事実を否定してきたことだ。ノーベル文学賞受賞者のソルジェニーツィンは「200年生きて」という歴史書の中でボリシュヴィキ革命におけるユダヤ人の役割について書いている(200年とは1795年から1995年の間)。

 ソルジェニーツィン氏は「ユダヤ人は1917年革命の関与について否定し、『彼らは本当のユダヤ人ではなく、背教者(otshchepentsy)だった』と弁明する。ユダヤ人の主張を認めるなら、同じ論理でボリシュヴィキ革命を主導したロシア人は本当のロシア人ではなかったと主張できるはずだ」と書いている。
     
 冷戦後のロシアでもユダヤ系ロシア人の影響は少なくない。ソ連解体後、新興財団のオリガルヒ関係者にはユダヤ系が少なくない。代表的な人物はプーチン大統領の政敵だったミハイル・ホドルコフスキー氏だ。同氏は石油会社ユコス社元社長で昨年末、プーチン大統領から恩赦で釈放されたばかりだ。英国サッカーのプレミアリーグの「チェルシー」のオーナー、ロシアの大富豪ロマン・アブラモヴィッチ氏もユダヤ系だ(ホドルコフスキー氏の場合、父親がユダヤ人だが、母親はロシア人だ。母親がユダヤ系でない場合、正式にはユダヤ人とはいわず、ユダヤ人の父親を持っているロシア人ということになる)。

 ロシア革命とユダヤ民族の関係についてで当方の見解を少し述べる。

 ユダヤ人のイエスは2000年前、ユダヤ社会で指導的立場にあった聖職者や指導者から迫害され、十字架に処刑された。「復活のイエス」からキリスト教が誕生し、その教えは多くの殉教の歴史を経ながら古代ローマ帝国で公認宗教となった。しかし1054年にキリスト教は東西両教会に分裂(大シスマ)。現在のロシアには東方教会が伝達され、ロシア正教会が広がっていった。
 そして1917年、ロシアで唯物思想の無神論国家を目指す社会主義革命が発生した。その背後に、2000年前イエスを殺害したユダヤ民族の末裔たちの影響があった。

 イエスを殺害したユダヤ民族は“メシア殺害民族”という追及から逃れるためロシアで革命を支援し、無神論社会を構築していった。そしてロシア革命への関与を追及されると、「彼らは決して本当のユダヤ人ではなく、ユダヤの背教者だった」(ソルジェニーツィン)と突っぱねてきたわけだ。

(ウィーン在住)
https://vpoint.jp/column/16017.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1214.html#c1

[近代史5] アメリカの共産主義者の実態はユダヤ移民 中川隆
2. 中川隆[-8375] koaQ7Jey 2021年1月11日 11:13:30 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[31]
ユダヤ民族とその「不愉快な事実」
  編集局  2014/4/19(土)  ウィーン発コンフィデンシャル|コラム 
https://vpoint.jp/column/16017.html

 1917年のロシア革命は人類史上初の社会主義革命だった。その革命の主導者、ウラジーミル・レーニン自身はロシア人だったが、彼の側近にはユダヤ系出身者が多数を占めていた。

 レーニンも厳密にいえば、母親がドイツユダヤ系だからユダヤ系ロシア人だ、ともいわれている。カール・マルクスもユダヤ系出身者だったことは良く知られている。すなわち、マルクス・レーニン主義と呼ばれる社会主義思想はユダヤ系出身者によって構築されたわけだ。スターリンがその後、多くのユダヤ人指導者を粛清したのはユダヤ人の影響を抹殺する狙いがあったという。

 興味深い点は、ユダヤ民族はロシア革命にユダヤ人が関与したという事実を否定してきたことだ。ノーベル文学賞受賞者のソルジェニーツィンは「200年生きて」という歴史書の中でボリシュヴィキ革命におけるユダヤ人の役割について書いている(200年とは1795年から1995年の間)。

 ソルジェニーツィン氏は「ユダヤ人は1917年革命の関与について否定し、『彼らは本当のユダヤ人ではなく、背教者(otshchepentsy)だった』と弁明する。ユダヤ人の主張を認めるなら、同じ論理でボリシュヴィキ革命を主導したロシア人は本当のロシア人ではなかったと主張できるはずだ」と書いている。
     
 冷戦後のロシアでもユダヤ系ロシア人の影響は少なくない。ソ連解体後、新興財団のオリガルヒ関係者にはユダヤ系が少なくない。代表的な人物はプーチン大統領の政敵だったミハイル・ホドルコフスキー氏だ。同氏は石油会社ユコス社元社長で昨年末、プーチン大統領から恩赦で釈放されたばかりだ。英国サッカーのプレミアリーグの「チェルシー」のオーナー、ロシアの大富豪ロマン・アブラモヴィッチ氏もユダヤ系だ(ホドルコフスキー氏の場合、父親がユダヤ人だが、母親はロシア人だ。母親がユダヤ系でない場合、正式にはユダヤ人とはいわず、ユダヤ人の父親を持っているロシア人ということになる)。

 ロシア革命とユダヤ民族の関係についてで当方の見解を少し述べる。

 ユダヤ人のイエスは2000年前、ユダヤ社会で指導的立場にあった聖職者や指導者から迫害され、十字架に処刑された。「復活のイエス」からキリスト教が誕生し、その教えは多くの殉教の歴史を経ながら古代ローマ帝国で公認宗教となった。しかし1054年にキリスト教は東西両教会に分裂(大シスマ)。現在のロシアには東方教会が伝達され、ロシア正教会が広がっていった。
 そして1917年、ロシアで唯物思想の無神論国家を目指す社会主義革命が発生した。その背後に、2000年前イエスを殺害したユダヤ民族の末裔たちの影響があった。

 イエスを殺害したユダヤ民族は“メシア殺害民族”という追及から逃れるためロシアで革命を支援し、無神論社会を構築していった。そしてロシア革命への関与を追及されると、「彼らは決して本当のユダヤ人ではなく、ユダヤの背教者だった」(ソルジェニーツィン)と突っぱねてきたわけだ。

(ウィーン在住)
https://vpoint.jp/column/16017.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/366.html#c2

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
31. 中川隆[-8374] koaQ7Jey 2021年1月11日 11:13:48 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[32]
ユダヤ民族とその「不愉快な事実」
  編集局  2014/4/19(土)  ウィーン発コンフィデンシャル|コラム 
https://vpoint.jp/column/16017.html

 1917年のロシア革命は人類史上初の社会主義革命だった。その革命の主導者、ウラジーミル・レーニン自身はロシア人だったが、彼の側近にはユダヤ系出身者が多数を占めていた。

 レーニンも厳密にいえば、母親がドイツユダヤ系だからユダヤ系ロシア人だ、ともいわれている。カール・マルクスもユダヤ系出身者だったことは良く知られている。すなわち、マルクス・レーニン主義と呼ばれる社会主義思想はユダヤ系出身者によって構築されたわけだ。スターリンがその後、多くのユダヤ人指導者を粛清したのはユダヤ人の影響を抹殺する狙いがあったという。

 興味深い点は、ユダヤ民族はロシア革命にユダヤ人が関与したという事実を否定してきたことだ。ノーベル文学賞受賞者のソルジェニーツィンは「200年生きて」という歴史書の中でボリシュヴィキ革命におけるユダヤ人の役割について書いている(200年とは1795年から1995年の間)。

 ソルジェニーツィン氏は「ユダヤ人は1917年革命の関与について否定し、『彼らは本当のユダヤ人ではなく、背教者(otshchepentsy)だった』と弁明する。ユダヤ人の主張を認めるなら、同じ論理でボリシュヴィキ革命を主導したロシア人は本当のロシア人ではなかったと主張できるはずだ」と書いている。
     
 冷戦後のロシアでもユダヤ系ロシア人の影響は少なくない。ソ連解体後、新興財団のオリガルヒ関係者にはユダヤ系が少なくない。代表的な人物はプーチン大統領の政敵だったミハイル・ホドルコフスキー氏だ。同氏は石油会社ユコス社元社長で昨年末、プーチン大統領から恩赦で釈放されたばかりだ。英国サッカーのプレミアリーグの「チェルシー」のオーナー、ロシアの大富豪ロマン・アブラモヴィッチ氏もユダヤ系だ(ホドルコフスキー氏の場合、父親がユダヤ人だが、母親はロシア人だ。母親がユダヤ系でない場合、正式にはユダヤ人とはいわず、ユダヤ人の父親を持っているロシア人ということになる)。

 ロシア革命とユダヤ民族の関係についてで当方の見解を少し述べる。

 ユダヤ人のイエスは2000年前、ユダヤ社会で指導的立場にあった聖職者や指導者から迫害され、十字架に処刑された。「復活のイエス」からキリスト教が誕生し、その教えは多くの殉教の歴史を経ながら古代ローマ帝国で公認宗教となった。しかし1054年にキリスト教は東西両教会に分裂(大シスマ)。現在のロシアには東方教会が伝達され、ロシア正教会が広がっていった。
 そして1917年、ロシアで唯物思想の無神論国家を目指す社会主義革命が発生した。その背後に、2000年前イエスを殺害したユダヤ民族の末裔たちの影響があった。

 イエスを殺害したユダヤ民族は“メシア殺害民族”という追及から逃れるためロシアで革命を支援し、無神論社会を構築していった。そしてロシア革命への関与を追及されると、「彼らは決して本当のユダヤ人ではなく、ユダヤの背教者だった」(ソルジェニーツィン)と突っぱねてきたわけだ。

(ウィーン在住)
https://vpoint.jp/column/16017.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c31

[近代史5] ロシア・ウクライナの歴史と現代史 中川隆
9. 中川隆[-8373] koaQ7Jey 2021年1月11日 11:14:18 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[33]
ユダヤ民族とその「不愉快な事実」
  編集局  2014/4/19(土)  ウィーン発コンフィデンシャル|コラム 
https://vpoint.jp/column/16017.html

 1917年のロシア革命は人類史上初の社会主義革命だった。その革命の主導者、ウラジーミル・レーニン自身はロシア人だったが、彼の側近にはユダヤ系出身者が多数を占めていた。

 レーニンも厳密にいえば、母親がドイツユダヤ系だからユダヤ系ロシア人だ、ともいわれている。カール・マルクスもユダヤ系出身者だったことは良く知られている。すなわち、マルクス・レーニン主義と呼ばれる社会主義思想はユダヤ系出身者によって構築されたわけだ。スターリンがその後、多くのユダヤ人指導者を粛清したのはユダヤ人の影響を抹殺する狙いがあったという。

 興味深い点は、ユダヤ民族はロシア革命にユダヤ人が関与したという事実を否定してきたことだ。ノーベル文学賞受賞者のソルジェニーツィンは「200年生きて」という歴史書の中でボリシュヴィキ革命におけるユダヤ人の役割について書いている(200年とは1795年から1995年の間)。

 ソルジェニーツィン氏は「ユダヤ人は1917年革命の関与について否定し、『彼らは本当のユダヤ人ではなく、背教者(otshchepentsy)だった』と弁明する。ユダヤ人の主張を認めるなら、同じ論理でボリシュヴィキ革命を主導したロシア人は本当のロシア人ではなかったと主張できるはずだ」と書いている。
     
 冷戦後のロシアでもユダヤ系ロシア人の影響は少なくない。ソ連解体後、新興財団のオリガルヒ関係者にはユダヤ系が少なくない。代表的な人物はプーチン大統領の政敵だったミハイル・ホドルコフスキー氏だ。同氏は石油会社ユコス社元社長で昨年末、プーチン大統領から恩赦で釈放されたばかりだ。英国サッカーのプレミアリーグの「チェルシー」のオーナー、ロシアの大富豪ロマン・アブラモヴィッチ氏もユダヤ系だ(ホドルコフスキー氏の場合、父親がユダヤ人だが、母親はロシア人だ。母親がユダヤ系でない場合、正式にはユダヤ人とはいわず、ユダヤ人の父親を持っているロシア人ということになる)。

 ロシア革命とユダヤ民族の関係についてで当方の見解を少し述べる。

 ユダヤ人のイエスは2000年前、ユダヤ社会で指導的立場にあった聖職者や指導者から迫害され、十字架に処刑された。「復活のイエス」からキリスト教が誕生し、その教えは多くの殉教の歴史を経ながら古代ローマ帝国で公認宗教となった。しかし1054年にキリスト教は東西両教会に分裂(大シスマ)。現在のロシアには東方教会が伝達され、ロシア正教会が広がっていった。
 そして1917年、ロシアで唯物思想の無神論国家を目指す社会主義革命が発生した。その背後に、2000年前イエスを殺害したユダヤ民族の末裔たちの影響があった。

 イエスを殺害したユダヤ民族は“メシア殺害民族”という追及から逃れるためロシアで革命を支援し、無神論社会を構築していった。そしてロシア革命への関与を追及されると、「彼らは決して本当のユダヤ人ではなく、ユダヤの背教者だった」(ソルジェニーツィン)と突っぱねてきたわけだ。

(ウィーン在住)
https://vpoint.jp/column/16017.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/472.html#c9

[近代史5] ロシア・ウクライナの歴史と現代史 中川隆
10. 中川隆[-8372] koaQ7Jey 2021年1月11日 11:15:23 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[34]
【英文資料】ソルジェニーツィン氏が、最新歴史研究書のなかでロシア革命におけるユダヤ人の役割を総括
http://www.asyura.com/0304/bd25/msg/753.html
投稿者 佐藤雅彦 日時 2003 年 4 月 26 日 22:15:26:

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/472.html#c10
[近代史4] ソルジェニーツィンの世界 中川隆
1. 中川隆[-8371] koaQ7Jey 2021年1月11日 11:27:13 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[35]
ユダヤ民族とその「不愉快な事実」
  編集局  2014/4/19(土)  ウィーン発コンフィデンシャル|コラム 
https://vpoint.jp/column/16017.html

 1917年のロシア革命は人類史上初の社会主義革命だった。その革命の主導者、ウラジーミル・レーニン自身はロシア人だったが、彼の側近にはユダヤ系出身者が多数を占めていた。

 レーニンも厳密にいえば、母親がドイツユダヤ系だからユダヤ系ロシア人だ、ともいわれている。カール・マルクスもユダヤ系出身者だったことは良く知られている。すなわち、マルクス・レーニン主義と呼ばれる社会主義思想はユダヤ系出身者によって構築されたわけだ。スターリンがその後、多くのユダヤ人指導者を粛清したのはユダヤ人の影響を抹殺する狙いがあったという。

 興味深い点は、ユダヤ民族はロシア革命にユダヤ人が関与したという事実を否定してきたことだ。ノーベル文学賞受賞者のソルジェニーツィンは「200年生きて」という歴史書の中でボリシュヴィキ革命におけるユダヤ人の役割について書いている(200年とは1795年から1995年の間)。

 ソルジェニーツィン氏は「ユダヤ人は1917年革命の関与について否定し、『彼らは本当のユダヤ人ではなく、背教者(otshchepentsy)だった』と弁明する。ユダヤ人の主張を認めるなら、同じ論理でボリシュヴィキ革命を主導したロシア人は本当のロシア人ではなかったと主張できるはずだ」と書いている。
     
 冷戦後のロシアでもユダヤ系ロシア人の影響は少なくない。ソ連解体後、新興財団のオリガルヒ関係者にはユダヤ系が少なくない。代表的な人物はプーチン大統領の政敵だったミハイル・ホドルコフスキー氏だ。同氏は石油会社ユコス社元社長で昨年末、プーチン大統領から恩赦で釈放されたばかりだ。英国サッカーのプレミアリーグの「チェルシー」のオーナー、ロシアの大富豪ロマン・アブラモヴィッチ氏もユダヤ系だ(ホドルコフスキー氏の場合、父親がユダヤ人だが、母親はロシア人だ。母親がユダヤ系でない場合、正式にはユダヤ人とはいわず、ユダヤ人の父親を持っているロシア人ということになる)。

 ロシア革命とユダヤ民族の関係についてで当方の見解を少し述べる。

 ユダヤ人のイエスは2000年前、ユダヤ社会で指導的立場にあった聖職者や指導者から迫害され、十字架に処刑された。「復活のイエス」からキリスト教が誕生し、その教えは多くの殉教の歴史を経ながら古代ローマ帝国で公認宗教となった。しかし1054年にキリスト教は東西両教会に分裂(大シスマ)。現在のロシアには東方教会が伝達され、ロシア正教会が広がっていった。
 そして1917年、ロシアで唯物思想の無神論国家を目指す社会主義革命が発生した。その背後に、2000年前イエスを殺害したユダヤ民族の末裔たちの影響があった。

 イエスを殺害したユダヤ民族は“メシア殺害民族”という追及から逃れるためロシアで革命を支援し、無神論社会を構築していった。そしてロシア革命への関与を追及されると、「彼らは決して本当のユダヤ人ではなく、ユダヤの背教者だった」(ソルジェニーツィン)と突っぱねてきたわけだ。

(ウィーン在住)
https://vpoint.jp/column/16017.html


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【英文資料】ソルジェニーツィン氏が、最新歴史研究書のなかでロシア革命におけるユダヤ人の役割を総括
http://www.asyura.com/0304/bd25/msg/753.html
投稿者 佐藤雅彦 日時 2003 年 4 月 26 日 22:15:26:
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1236.html#c1

[近代史5] ロシア・ウクライナの歴史と現代史 中川隆
11. 中川隆[-8370] koaQ7Jey 2021年1月11日 11:27:43 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[36]
ソルジェニーツィンの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1236.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/472.html#c11
[近代史4] ソルジェニーツィンの世界 中川隆
2. 中川隆[-8368] koaQ7Jey 2021年1月11日 11:43:20 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[38]
アレクサンドル・ソルジェニーツィン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3


アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィン(ロシア語:Александр Исаевич Солженицынアリクサーンドル・イサーイェヴィチュ・サルジニーツィン;ラテン文字転写の例:Alexandr Isaevich Solzhenitsyn、1918年12月11日 - 2008年8月3日[2])は、ソビエト連邦の作家、劇作家、歴史家。

1990年代ロシア再生の国外からの提言者である。

ロシア文字からそのままローマ字にするとAleksandr〜だが、英文ではAlexander〜と表記されることが多い。ソビエト連邦時代の強制収容所・グラグを世界に知らせた『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表し、1970年にノーベル文学賞を受賞。1974年にソ連を追放されるも、1994年に帰国した。

ソルジェニーツィンの生涯は、彼の人生を左右した二つの価値観、つまり父譲りの愛国心と、母譲りのキリストへの信仰心に彩られている。愛国者として彼は大祖国戦争に従軍し、国外追放の身であってもロシアの再生を提言した。

信仰者としての彼は、ロシアが愛国心の方向を誤った時、断固神の基準に立って幾多の人生の試練に神の信仰によって立ち向かった。彼はノーベル文学賞よりも、宗教界のノーベル賞とされるテンプルトン賞が嬉しかったという。また国外追放後にソ連市民権が回復すると彼は喜んでロシアに帰還した。


生涯

アレクサンドル・ソルジェニーツィンは1918年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、北カフカースのキスロヴォツク(現在のロシア、スタヴロポリ地方)で生まれる。

母親のタイシャ・ソルジェニーツィナ(旧姓シチェルバク)はウクライナ人で[3]、敬虔なクリスチャンであった。彼女の父親は卑賤の身から努力して成功を成し遂げ、コーカサス山脈北部の麓、クバン地域に大きな屋敷を構えた。第一次世界大戦の間、タイシャはモスクワで学んだ。彼女はそこでコサック出の帝政ロシア軍士官、イサーイ・ソルジェニーツィンと出会い結婚した。ソルジェニーツィンの両親や家族関係、家庭環境は『一九一四年八月』の第一章、『赤い車輪』などに描写されている。

1918年にタイシャはアレクサンドルを身ごもる。イサーイは義勇兵の砲兵士官としてドイツ戦線で戦ったが、妻の妊娠を確認してまもなく猟銃による事故のため死亡した。アレクサンドルは貧しい環境の中、未亡人となった母親とおばによって育てられた。その幼年期はロシア内戦によって占められた。1930年までに一家の家産はコルホーズとなった。後年ソルジェニーツィンは、母親は生き残るために夫が帝政ロシア軍士官であったことを秘密にしていたことを述懐している。母親は再婚せず、タイピスト兼速記者として働きながらソルジェニーツィンを教育し、その文学的、科学的な学識を励ました。彼女は敬虔なクリスチャンとしてソルジェニーツィンを育て上げ[4]、1944年に死去した[5]。

1936年初め頃までにソルジェニーツィンは第一次世界大戦およびロシア革命に関しての作品のコンセプトやキャラクターを考案していた。これらは結局『一九一四年八月』の幾つかの章に結実している。文学を学びたかったが地元には適当な大学が無く、倹しい家計も理由になりソルジェニーツィンはロストフ州立大学(en/ru))で数学を学び、同時期にモスクワ哲学・文学・歴史研究所(ru)の通信教育課程を修了している。また、後のモスクワ演劇界の大御所ザワツキー(ru)の下で俳優修行を始めたが、発声の問題で断念した。後年収容所の中で俳優を志願したが、それも実現しなかった。

大学在学中の1940年4月7日にソルジェニーツィンは化学専攻の学生であったナタリヤ・レシェトフスカヤと結婚した[6]。二人はソルジェニーツィンがグラグから釈放される前年の1952年に離婚したが、1957年に再婚[7]、そして1972年に再び離婚した。翌1973年にソルジェニーツィンは2番目の妻、数学者であったナタリヤ・スベトローバ(1939年生)と再婚した。二人の間には結婚前に息子がいた[8]。スベトローバとの間には3人の息子、ヤーモライ(1970年生)、イグナット(1972年生)、ステファン(1973年生)がいた[9]。大学卒業後はロストフの中学校で教員として数学を教えたが、1941年6月に大祖国戦争が開戦すると召集される。最初は輜重隊(しちょうたい)に編入されたが、数学のおかげで砲兵学校に転属し、誕生の半年前に戦死した父と同じ砲兵大尉として音源測距(英語版)を担当した[10]。彼はその戦功で勲章を二度受章している。

後年の一連の著作では第二次世界大戦における彼の年代記と共に、ソビエト体制の道徳的な基礎に対して募っていく疑念が記されることとなった[11]。

逮捕と収容

1945年2月、東プロイセンの前線でソルジェニーツィンは小学校時代の友人ニコライ・ヴィトケヴィッチ[12]へ送った手紙の中で、スターリンのことを「ホジャイン」(主人の意)「バラボス」(ヘブライ語で家の主人を意味するbaal ha-bayiθをイディッシュ語で表した物)と表し、暗にスターリン批判をしたとして逮捕された[13]。彼はソ連の刑法58条第10章「反ソプロパガンダ」および第11章「敵対的組織の設立」の容疑で起訴され[14]、モスクワのルビャンカ収容所に連行され査問を受けた。同年7月7日、ケーニヒスベルクでの欠席裁判で懲役8年を宣告された。これは当時刑法第58条に反した者に下されるごく一般的な判決であった[15]。

刑期の初めは幾つかの労働収容所での労働を強いられる。後に彼が「中期」と語った時期は囚人数学者としてシャラシュカと呼ばれる内務省国家保安局特殊研究所に収容され、ここでレフ・コペレフと出会う。コペレフは『煉獄のなかで』に登場するレフ・ルービンのモデルとなった人物であった。1950年にはカザフスタンのエキバストスに新設された政治犯専用の特別収容所に送られ、雑役工、石工、鋳工として3年間を送る。エキバストスでの経験は『イワン・デニーソヴィチの一日』執筆の基礎となった。仲間の政治犯の一人、イオン・モラルはソルジェニーツィンがエキバストスで自らの時間を執筆に費やしていたことを語っている[16]。エキバストス収容時に腫瘍を患い手術を受けたものの完治しなかった。

1953年3月、8年の刑期を終え1箇月が経ったとき、釈放されずにカザフスタン北東部への永久流刑が決定。当時の政治犯にとっては一般的な刑罰だった。同年末までに診断未確定であった癌が進行し死線を彷徨うが、翌年タシケントの癌病棟での治療が許可され、腫瘍の進行は小康状態となった。そこでの経験は『ガン病棟』の執筆の基礎となり、短編『右手』にも影響を与えている。投獄と追放の十年間でソルジェニーツィンはマルクス主義を放棄し、後年の人生に於ける哲学的、宗教的な立場を確立した。この転向は、100年前にフョードル・ドストエフスキーがシベリアでの流刑に於いて思想的変化を経験したのと幾つかの興味深い類似点が存在する。ソルジェニーツィンは獄中生活および強制労働の結果、徐々に哲学的志向のクリスチャンへと変化した[17][18]。彼は赤軍士官としての幾つかの行動を後悔し、強制収容所の囚人と自らを比較した。「私は大尉としての肩章と、炎に包まれた東プロイセンを進軍する私の中隊を覚えています。そして言いました『それで、我々はいくらか良かったか?』」彼の変化は『収容所群島』第4章の中に描写されている。また、この流刑の時期に紙やペンも無い状況で書かれた28の詩はソルジェニーツィンの知的、精神的な長期の旅を理解するための貴重な資料である。これら初期の未発表作品は1999年にロシア語で初めて発表され、2006年に英語で抜粋して発表された[19][20]。


出獄後

1956年、第20回共産党大会の秘密会議においてフルシチョフがスターリン批判の演説を行い、いわゆる「雪解け」時代に入る。国内では非スターリン化が推進され、粛清の犠牲者の名誉回復、言論他の取締り緩和により空気が一変した。ソルジェニーツィンは7月に流刑から解放され、無罪となった。リャザンに住み昼は中学校の物理・数学の教師として子どもたちに教え、夜は秘密裏に文筆活動に従事した。ノーベル文学賞受賞時の演説で彼は「1961年までの数年間ずっと、私は私の生涯が一行でも出版されないだろうと確信しただけでなく、これが明らかになることを恐れたため、親しい知人に私の作品を読ませる勇気もほとんどありませんでした。」と記した[1]。

1960年代、ソルジェニーツィンが『ガン病棟』を執筆していたのは公に知られていたが、同時に『収容所群島』も執筆していた。KGBはこのことを察知していた。最終的に42歳のときに彼はノーブイ・ミール誌の主幹であったアレクサンドル・トワルドフスキーと、『イワン・デニーソヴィチの一日』の原稿を持って連絡を取った。同作は編集され、ニキータ・フルシチョフ首相とトワルドフスキーの尽力で1962年に発表された。同作の出版を許可すべきかどうかについて、政治局の最高会議幹部会で聴取が行われたが、フルシチョフは出版を擁護し、露骨な承認を行なった。そしてフルシチョフは「スターリン主義者はあなた達各々にいる。私でさえスターリン主義者だ。我々はこの悪を根絶やしにしなければならない。」と語った[21]。本はすぐにベストセラーとなり、至る所で売り切れとなった。フルシチョフの在任中、『イワン・デニーソヴィチの一日』は他のソルジェニーツィンの短編3本と共にソ連の学校で教材として使用された。

『イワン・デニーソヴィチの一日』の発表により、ソ連の強制収容所に対する西側の関心が高まった。それは西側に与えたのと同じくらいの衝撃をソ連国内に与えた。その衝撃的なリアリズムと率直さだけで無く、1920年代からのソビエト文学に要求された政治的テーマの最大の一コマが、指導者に対する中傷のため「シベリア送り」になった非党員によって書かれたことと、その出版が公式に許可されたことで。その意味で、ソルジェニーツィンの本作の公表は「雪解け」の代表的な例であった。多くのソ連国民はそのことを実感したが、1964年にフルシチョフが失脚するとソ連における文化的雪解けは大きく後退し、「停滞の時代」と呼ばれたブレジネフの暗い時代が始まった。

迫害
ソルジェニーツィンは『ガン病棟』のソ連国内における公表のためトワルドフスキーの助けを得ようとしたが、失敗に終わった。公表のためには作家同盟の許可を得なければならなかった。作家同盟の何人かは作品を評価したものの、疑惑の声明と反体制的な皮肉が修正されない限り、公表は許可されなかった。(このエピソードは『仔牛が樫の木に角突いた』で詳述されている。)

彼の作品は直ちに発行停止となり、1965年までにKGBは彼の作品を押収した。その中には『煉獄のなかで』の原稿も含まれた。1966年1月に「新世界」誌に発表された短編『胴巻のザハール』が最後の作品となり、ソ連文学界から完全に締め出された。

KGBがモスクワでソルジェニーツィンの原稿を押収した後、1965年から67年の間に『収容所群島』の草稿はエストニアの友人宅で密かにタイプされた。ソルジェニーツィンはルビャンカの中で元エストニア文部大臣および弁護士のアーノルド・スージと親しくなった。タイプの完成後、ソルジェニーツィンのオリジナルの手書き原稿はソ連の崩壊までエストニアでスージの娘、エリ・スージの元で保管された[22][23]。

1967年5月、第4回作家同盟大会へ公開状を送付し、ソ連当局の検閲の廃止を公然と訴えた。当局は公開状を黙殺。以来、彼はことある毎に公開状を発表して当局と激しく対立した。翌1968年には国内で発表できなかった長編『ガン病棟』『煉獄の中で』等を海外で発表した。

1969年10月にソルジェニーツィンは反ソ的イデオロギー活動を理由として作家同盟から追放された。1970年にはノーベル文学賞を受賞するも、海外に出て市民権を剥奪されることを恐れたため授与式には出席できなかった。代わりにモスクワのスウェーデン大使館で授与式を実施するという提案がなされたが、スウェーデン政府はソ連との関係が悪化するのを懸念し、この提案を拒否した。ソルジェニーツィンは1974年に国外追放された後、賞を受け取った。

1973年3月、ロシア正教会のピーメン総主教に公開状を送り、無神論者に支配された正教会の体質を批判した。8月中旬には「ル・モンド」紙、「AP通信」記者との会見で「私が急死したと聞いたら、国家保安委員会の仕業だ」と衝撃的な発言を行う。

9月5日、『クレムリンへの手紙』で祖国の運命について全面的に論じたが、反響は梨のつぶてに終わった。翌6日、記者会見で国家保安委員会に『収容所群島』の草稿が押収され、尋問されていたエリザベータ・ヴォロニャンスカヤが釈放後首吊り自殺を遂げた旨を発表。この時点で西側への発表が決まる。

1973年暮 パリでソ連70年の国家的テロの歴史を明らかにした『収容所群島』第1巻を出版した為、ソ連当局から激しい非難を浴びた。『収容所群島』は1958年から67年の間にかけて執筆された。本作は3巻に分かれ、7つの章でソ連の捕虜収容所システムが描写されている。『収容所群島』は35カ国語で3000万部以上が発行された。ソルジェニーツィン自身の体験と、256名の元囚人[24]による証言、そして自身の調査による刑罰システムの歴史が元となっている。

1974年1月14日、「プラウダ」紙上に「裏切りへの道」と題するソルジェニーツィン批判の論文が発表される。これ以降ソ連のマスコミは一斉に非難攻撃を開始した。2月8日、ソ連検事局の出頭命令を拒否する。11日、「いかなる刑事裁判であろうとも、ロシア文学に対しても、そのただ一冊の書物に対しても、いかなるロシアの作家に対しても、権限を持たぬことを、あらかじめ声明する・・・・」とソ連当局を糾弾し、再度の出頭命令も拒否する。

この期間、ソルジェニーツィンはチェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチによって保護されたが、ロストロボーヴィチはそれにより苦境に陥り、結局自身も亡命することとなった。


西側での生活

1974年2月12日にソルジェニーツィンは逮捕され、レフォルトヴォ監獄に拘留される。翌13日、ソ連刑法第64条「国家反逆罪」でソ連市民権を剥奪後、8名の国家保安委員会職員の護送で行き先も告げられず飛行機に乗せられ、西ドイツのフランクフルトに国外追放され、ソ連の市民権を剥奪された。これは1929年のレフ・トロツキー以来のことであった。KGBは『収容所群島』の最初の部分の原稿を発見した。一週間足らずの間にエフゲニー・エフトゥシェンコはソルジェニーツィンを擁護したことへの報復に苦しむこととなった。アメリカの大使館付武官ウィリアム・オドムはソルジェニーツィンの著作や資料の大半をどうにかして入手したが、その中には作家同盟の会員証や、第二次世界大戦での功労章なども含まれた。ソルジェニーツィンは自身の伝記『Invisible Allies』(1995年)の中でオドムの働きに敬意を表した[25]。

西ドイツでソルジェニーツィンは、ケルンのハインリヒ・ベル宅で生活した。その後スイスのチューリッヒに移り住み、続いてスタンフォード大学の招きに応じ、アメリカ合衆国に移住した。フーヴァー研究所内のフーヴァー・タワー11階に滞在し、その後1976年9月にバーモント州キャベンディッシュに移住する。1978年にハーバード大学の名誉文学位が与えられ、6月8日には現代の西側世界に於ける唯物論を非難する講演を行った。

続く17年間でソルジェニーツィンはロシア革命からの歴史を描いた『赤い車輪』に取り組んだ。1992年までに4章が完成し、そのほかにもいくつかの短編を発表した。

1982年9月、密かに短期来日。1ヵ月にわたり日本各地を旅行。その後、台湾(中華民国)を訪問し帰米。翌1983年5月、過酷な運命を耐え抜いた正教徒としての神への信仰で宗教界のノーベル賞とも言える1983年度テンプルトン賞を受賞する。ロンドンでの授賞式では「現代の悲劇の原因はすべて我々が神を忘れたことにある」とキリスト者の立場で現代文明を鋭く批判した。

1985年3月11日、ソ連ではゴルバチョフ政権が誕生した。ゴルバチョフはブレジネフ政権以来の内外政策の行き詰まりと社会的停滞からの脱却を目指す路線を打ち出す。レーニン主義のリバイバル路線と言われる。1988年夏頃にはソ連の一部報道機関が近い将来彼の作品を発表、と伝える。1989年、イーブイ・ミール誌第1号に『収容所群島』の一部が掲載予定となったが、上層部の命令で突如中止になる。同年7月、当局は『収容所群島』の全面解禁に踏み切る決定を下す。抜粋がミール誌に連載予定となる。

1990年8月、大統領令によってソルジェニーツィンのソ連における市民権は回復した。『甦れ、わがロシアよ〜私なりの改革への提言』は9月18日付「コムソモリスカヤ・プラウダ」(共産青年同盟機関紙)2200万部と19日付「文学新聞」450万部の付録として発表され、合計2650万部という膨大な冊数となってソ連国民の白熱の議論を呼んだ。モスクワのインターファックス通信の報道では、国立世論センターがソ連各地で行った調査の結果、本文をソ連国民の38%が読んでおり、その60%が共感を示し14%が批判的だったという。

9月25日にはソ連最高会議でゴルバチョフ大統領が『甦れ、わがロシアよ〜私なりの改革への提言』を2回読んだと告白し、内容を絶賛した。

ロシアへの帰還

ソルジェニーツィンは1994年5月27日、亡命先の米国から合衆国国民となった妻のナタリアと共にロシア連邦に帰国した。プライバシーが尊重される米国で大歓迎を受けていたのだが、母国以外では全く寛げなかったという。息子達は合衆国に留まった(後に長男のヤーモライはロシアに戻り、モスクワで管理コンサルタント会社に勤務した)。その後ソルジェニーツィンは死去するまで妻と共にモスクワ西部郊外のダーチャに居住した。彼らの暮らしたダーチャはミハイル・スースロフやコンスタンティン・チェルネンコがかつて使用した物であった。

ソルジェニーツィンはウラジオストクからシベリア鉄道を使ってロシア地方各地を視察。エリツィンの急激な経済自由化政策と新自由主義経済の導入により疲弊した農村や都市を見回った。エリツィン大統領と面会した際に自分が見聞した地方の窮状を伝え、急速な経済自由化に警鐘を鳴らしたが、この提言は聞き入れられずソルジェニーツィンはエリツィンに失望する。伝統的なロシア文化の忠実な信奉者であったソルジェニーツィンは、ソ連崩壊後のロシアに対する幻滅を表し、ロシアの君主制の回復を求めた[26]。

1997年5月からロシア科学アカデミーの正会員(芸術院)に選出され、同年ソルジェニーツィン文学賞(賞金2万5千ドル)を創設する。


2000年にはプーチン大統領と面会している。プーチンに対してロシアの文化、言語、宗教を保護するよう訴えた。2007年6月13日にロシア文化勲章を受章、このことはプーチン路線を事実上「追認」したものと報道された。それに止まらず12月の下院選を前にしてドイツ紙・シュピーゲルの取材に答え、エリツィン前大統領を酷評するとともにプーチン大統領への明確な支持を表明。「打ちのめされ、国民も意気消沈したロシアを引き継ぎながら、徐々に善実に復活させた」とプーチンを絶賛した。

1994年の帰国後、彼は8本の短編、一連の小品または散文詩、西側での生活を綴った文章や多くの作品を発表した。

ソルジェニーツィンの息子は皆合衆国国民となった。次男のイグナットはピアニストおよび指揮者として成功した。


ソルジェニーツィンは2008年8月3日にモスクワの自宅で心不全のため死去した[27][28]。89歳没。葬儀は2008年8月6日の水曜日にドンスコイ修道院で行われ[29]、同日埋葬された[30]。ロシアおよび世界の要人が彼の死に弔意を表した[31]。


日本との関わり

日本への関心は、非常に深かった。1960年代末の東京新聞のインタビューによれば、山鹿素行の哲学に共鳴していたという。また、新藤兼人監督の「裸の島」に強烈な印象を受けたと同インタビューの中で述べている。シベリア抑留の経験を持ち、自作の翻訳を手がけた内村剛介と親交を持ち、1970年代には、テレビ朝日の番組「対談ドキュメント」で内村と対談した際、内村に対して「私たちは他人じゃない」と語り掛けている。また、上述のように、1982年には亡命先のアメリカから、どうしても日本を訪れたいと希望し、密かに訪問したが、結局滞在が気付かれ、講演を行なっている。ロシアに帰国した後は、NHKの小林和男と接点を持ったが、小林によれば、晩年のソルジェニーツィンは、テレビ出演の出演料を気にするような所もあり、小林を失望させている[32]。

北方領土問題については、ロシア政府に対し、北方領土を日本へ返還するよう主張した[33]。


正教

正教徒である。幼児洗礼を受け幼い頃は信仰深い母親の影響で宗教的雰囲気の中で育ったが、成長するにつれ確信的なマルクス・レーニン主義者となった。

しかし政治犯として逮捕され強制収容所での苦難と内省を経て、正教信仰に回帰した。

強制収容所体験によって宗教に回帰した例はソルジェニーツィンに限られる訳ではない。たとえばヴィクトール・フランクルの例をあげることができるように、その回帰の仕方も一様ではない。

その信仰は冤罪、強制労働、流刑、業病、国外追放などの人生の試練にもかかわらず保たれた。キリスト教を含む宗教が禁止されたソ連にあって迫害を恐れず、1973年3月にはロシア正教会のピーメン総主教あてに公開質問状を送り、無神論国家に支配され、国家に妥協するロシア正教会の体質を批判した。

1983年5月にはテンプルトン賞を受けロンドンでの授賞式に出席、「現代の悲劇はすべて我々が神を忘れたことに原因がある」とクリスチャンの立場で現代文明を批判した。

ソビエト連邦の崩壊後は、ソ連時代にロシア正教会が革命政府に対して行った妥協を「媚を売った」として厳しく批判する一方で、ロシア正教会が激しい迫害によって何万人という殉教者・犠牲を出し、瓦解の時期、屈辱、貧窮、略奪を乗り越え、物質的な窮乏にも関わらずソ連崩壊後に復興してきていることに対しては「心から敬服する」として賞賛。現状の教会の物質面での窮状を鑑みれば、信者はただ教会を批判していればいいというものではなく、「われわれ自身の無力さや卑小さを省みるべきである」とした[34]。

正教会と社会の関係については、カトリック、プロテスタント、イスラームが社会において積極的に活動しているのと同様に、正教会もロシアの社会においてしかるべき位置を占め、問題の山積する社会に生きる人間に強力な精神的支援をする必要があるとする一方で、それはロシアにある他の伝統的な宗教との衝突を招いたり、多宗教、多民族国家の一体性に亀裂を生じさせたりするものであってはならないとしている[35]。

また、正教会に対するマスコミの偏向報道(ネガティブキャンペーン)を「厚顔無恥」と批判した[36]。

ロシア人の文化は「帝国の強大さではなく、ほかならぬ正教への信仰によって」形作られてきたとし、ロシア人の団結の源として「人種ではなく精神」、それを揺るぎないものとしているのはロシア人の「心や慣習、行動のうちに残っている正教」であると述べ、人口、領土、国家体制が喪失されても、ロシア人にいつまでも残るものは「正教の信仰」と「そこから生まれる崇高な感情」であるとし、堕落した今日のロシアにおける精神的な支えとして正教を位置付けている[37]。

物質面や教会教育の未回復といった教会内部の問題についても指摘し懸念する一方で、主教・神品 (正教会の聖職)を取り巻く厳しく困難な状況によって、教会制度はさらに発展と洗練を遂げるとの希望を持ってもいる。教会が革命以前の姿に戻ることは否定しつつ、伝統をあくまで忠実に守りながら、新たな活動のあり方を求める提言を行った[38]。


ロシア再生に与えた影響

ゴルバチョフは1990年9月25日のソ連最高会議の席上で、「アレクサンドル・イサーエヴィチ」と尊敬を込めて呼び『甦れ、わがロシアよ 〜私なりの改革への提言』を2回読んだことを告白し、「彼は疑いもなく偉大な人物であり、この作品には非常に多くの興味深い見解、思想が盛り込まれている」と語ったという。実際、ゴルバチョフが共感し、ペレストロイカ政策に影響を与えた提言は次のとおりである。

「ソ連共産党政治綱領」(1990年2月5日)で、民族問題については分離独立も含めた民族自決の権利をうたったレーニン主義を再確認する点。彼の主要な提言はこの点にあった。

「ソ連邦内の自治共和国の地位をソ連邦構成共和国と同等とする法律」(1990年4月10日)でロシア連邦共和国内の自治共和国が主権独立宣言した場合、ロシア共和国はその宣言を認証する決まりになっていた点。カフカス出身の彼は「少数民族への言葉」の章で「北カフカスの山岳民族も、連邦離脱の損得勘定をするかもしれない」と提言していた。

「ソビエト連邦離脱法」(1990年4月30日)で、ソ連邦構成共和国がソ連を離脱するための3つの要件を規定した点。

「主権ソビエト共和国連邦」創設合意(1991年9月1日)で従来のソ連を崩壊させ、主権ソ連邦として甦りかけた点。

「チェチェン共和国連邦離脱宣言」(1991年11月)で、彼の地元の北カフカスから離脱しようとする旧自治共和国が出た点。

主権ソ連邦は甦らず、1991年12月31日深夜にソ連は消滅した。代わりにロシア連邦共和国が消滅して再生したロシア連邦は、ソルジェニーツィンの提言どおりのロシアではなかった。ロシア連邦の中で再び民族が捕われている。彼の地元のチェチェン共和国はかつてエリツィンに、今はプーチンに独立を妨げられたままである。

彼は「それぞれの民族は、たとえ最も小さなものであっても、神の意志によってこの世に生まれてきて、それぞれ独自性をもっているのである。ウラジーミル・ソロヴィヨフは、キリスト教の戒めをもじって、こう書いている。『自分の民族と同様に、他の民族を愛せよ』[39]」と書いた。これは、ロシア人の民族自決権を認めるなら、他の民族の自決権も認めるロシア連邦になるようにと願ってのものであった。

チェチェン分離独立運動に与えた影響

ロシア併合、スターリン時代の強制移住と民族浄化などで400年にわたってロシアに苦しめられてきたチェチェンの歴史を振り返ると、チェチェンの人々にとって北カフカス出身のソルジェニーツィンの国外からの提言は福音となった。そのため、ソルジェニーツィンがゴルバチョフに高く評価されロシアに帰国するに及んでチェチェン分離独立運動は高揚した[40]。

著書

『イワン・デニーソヴィチの一日』 Один день Ивана Денисовича 1962年
木村浩訳、新潮文庫、1963
小笠原豊樹訳、河出書房新社、1963
江川卓訳 毎日新聞社、1963 のち講談社文庫 
稲田定雄訳 角川文庫、1968 
染谷茂訳、岩波文庫、1971

消された男 小笠原豊樹訳 河出書房新社、1963

クレチェトフカ駅の出来事
小笠原豊樹訳 「新しいソビエトの文学」勁草書房、1968 
江川卓訳「世界文学全集」講談社、1970
水野忠夫訳「ノーベル賞文学全集」主婦の友社、1971

マトリョーナの家
小笠原豊樹訳 「新しいソビエトの文学」勁草書房、1968 
江川卓訳「世界文学全集」講談社、1970 のち新潮文庫 
水野忠夫訳「ノーベル賞文学全集」主婦の友社、1971

胴巻のザハール・十五の断章(小笠原豊樹訳)
江川卓訳「世界文学全集」講談社、1970 

公共のためには(江川卓,水野忠夫訳) 「新しいソビエトの文学」勁草書房、1968 
江川卓訳「世界文学全集」講談社、1970 のち新潮文庫 
水野忠夫訳「ノーベル賞文学全集」主婦の友社、1971

『煉獄のなかで』 В круге первом 1968年。邦題は意訳で、原題は「第一圏にて」
木村浩,松永緑弥訳.タイムライフインターナショナル,1969 新潮文庫。

『ガン病棟』 Раковый корпус 1968年-1969年。
小笠原豊樹訳 新潮社、1969 のち文庫

鹿とラーゲリの女 染谷茂,内村剛介訳 河出書房新社,1970.

The Red Wheel Красное колесо
第一部『一九一四年八月』 江川卓訳.新潮社,1972年.
『チューリヒのレーニン』 江川卓訳 新潮社,1977.3.
第一部『一九一四年八月』(22章)
第二部『一九一六年十一月』(38, 44, 45, 47, 48, 49, 50章)
第三部『一九一七年三月』(1, 2, 3章)
第二部『一九一六年十一月』(1985年)
第三部『一九一七年三月』(1989年)
第四部『一九一七年四月』(1991年)

クレムリンへの手紙 江川卓訳 新潮社,1974年

『収容所群島』 Архипелаг ГУЛАГ 1973年-1975年
木村浩訳.新潮社 1974-77 のち文庫

『仔牛が樫の木に角突いた』 Бодался теленок с дубом 1975年
仔牛が樫の木に角突いた ソルジェニーツイン自伝 染谷茂,原卓也訳.新潮社,1976 

『自由への警告』アメリカでの講演やBBCのインタビューなどを収録。染谷茂訳 新潮社、1977

日本よ何処へ行く ソルジェニーツィン滞日全記録 RFラジオ日本編.原書房,1983.3.

ソルジェニーツィン短篇集 木村浩編訳 1987.6.岩波文庫
(マトリョーナの家.クレチェトフカ駅の出来事.公共のためには.胴巻のザハール)

『甦れ、わがロシアよ〜私なりの改革への提言』木村浩訳 1990年、日本放送出版協会

『廃墟のなかのロシア』井桁貞義,上野理恵,坂庭淳史訳. Россия в обвале. Москва 1998年、草思社

ソルジェニーツィン・アルバム 江川卓訳 新潮社,1977.4.

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1236.html#c2

[近代史4] ソルジェニーツィンの世界 中川隆
3. 中川隆[-8367] koaQ7Jey 2021年1月11日 12:02:52 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[39]
ソルジェニーツィン作「イワン・デニーソヴィッチの一日」木村浩訳
2010年01月04日
https://blog.goo.ne.jp/moritake123-2007/e/0470876a9f8f529a113b18453c4c3b41


 この作品「イワンデ二ーソヴィチの一日」はアレクサンドル・イサエヴィッチ・ソルジェニーツィンの作品であり、この作品で彼は1962年11月にソ連文壇にデビューする。その内容はスターリンの大粛清時代に題材をとり、「反逆者」として逮捕され、25年のシベリア流刑の処分を受けたイワン・デニソヴィッチ・ショーロフの獄中での一日の生活を描いたものであり、その極限状態を収容所(ラーゲリ)の内と外において表現する。この作品を掲載した「ノーヴイ・ミール(新世界)」誌は空前の発行部数を誇り、のちに発行された単行本は70万部という驚異的な発行部数を記録した。さらにこれに続く一連の作品(「ガン病棟」、「煉獄の中で」、「1916年10月」)によって彼はノーベル文学賞を受賞し世界的文豪の栄誉を担ったのである。

 私はこの作品の内容を紹介する前にこの作品の背景にあるソ連の状況を述べていこうと思う。

 1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、その年の暮にはルーマニアのチャウシェスク独裁体制が民衆の怨嗟の中で打倒されチャウシェスク夫妻は銃殺された。同年夏のポーランドにおける「連帯(ワルサ議長)」主導政権の成立、1990年の東西ドイツの資本主義的統一によって拍車のかかった東欧「労働者国家圏」の雪崩を打った崩壊はソヴェート政権には衝撃的事件であったにもかかわらず、何もなしえず、そのソヴェート政権もゴルバチョフ、エリツィンによる民主化が進展し、1991年には最終的に崩壊した。それはまさに歴史を画する「革命的」大変動でありスターリンなきあとのスターリン体制の破産と崩壊を意味していた。

 このようにソ連、東欧の社会主義化は世界中の労働者、民衆の希望の星であったにもかかわらず無残な結果に終わったのである。

 その原因はどこにあったのであろうか?

 トロッキーはその著「裏切られた革命」の中で革命後のソ連社会を「過度期社会」と名付けている。それは「資本論」に反する革命(グラムシ)だったからである。マルクスは社会主義革命を高度に発展した資本主義国から移行するものと考えていた。だからトロッキーは遅れた資本主義国から社会主義化したソ連は長期にわたる過度期を経験したのちでなければ、真の社会主義に移行できないと考えたのである。この過度期を真の社会主義に導いていくものをプロレタリア独裁に求めたのである。そしてこのことが重要なのだがこの過度期を特徴づけるものとして、その進む先を、社会主義への進化の道か、その逆に資本主義への後退の道かの二つの可能性を示した。トロッキーは真の社会主義の道を「高度の労働生産性」と「世界同時革命」の二つの柱に求めていた。そしてレーニンも考えていたように西欧の資本主義国の革命の成功により、そこからの資金及び技術の援助によって、ロシア革命は成功に導かれると考えたのである。しかし、トロッキーはレーニンの死後スターリンとの路線論争に敗れメキシコに亡命する。後にスターリンによって送り込まれた刺客(=ラモン・メヂカル=トロッキーの秘書の恋人=映画ではアランドロンが演じていた)によって頭にピッケルを打ちこまれ惨殺される。

 スターリンは西欧先進資本主義国での革命が夢となった段階で、世界同時革命を幻想と考え、一国社会主義革命の総和としての世界革命を考えた。スターリンは一国社会主義革命という困難な課題を、それ以上に困難な課題(内外での敵対勢力との対決)を解決しつつ実現していかねばならなかったのである。この為には強固な指導体制をを必要とした。スターリンによる独裁体制は必然だったといえるであろう。強固な中央集権国家が生まれ、個人崇拝のもと絶対的権力が彼に付与されたのである。この権力は大粛清時代を通じてさらに強化された。

 スターリンにとっての課題は社会主義建設であって、それ以外の発展の道は考えられなかった。資源と労働を一つ(国家)に集中(社会主義的原始的蓄積)し、これを必要な部分に計画的に配分していく。これによって社会主義的工業化と農業の集団化を達成していかなければならなかった。しかしそれは経験則のない史上初の試みであり、試行錯誤の連続であった。その結果としての非効率的運営は経済の停滞を生み出した。NEP(新経済政策:一時的な資本主義的経営の容認)によって生まれ、育ってきた私企業者に工業においても、農業においても勝ることが出来なかった。ネップマンと呼ばれる豊かな私企業者が生まれ、貧農を雇用する富農層が生まれてきた。ここに一つの可能性が芽生えていた。それはこの私的経営者が資本家に転じていく道である。NEPでは国家に供出した残りの生産物を市場で売ることが許されていた。個人的利益を保証する制度は、生産者の労働意欲を高め、その総生産高を増大させたのである。NEPは純経済的に見れば成功を収めていた。この状況は「イワン・デニソヴィッチの一日」の中でも述べられている。コルホーズの停滞、そこで働く人のネップマンのところでのアルバイトをする状況が叙述されている。

 この時ソヴェート政権には二つの道が考えられていた。一つはいわゆる修正主義的道で、それを主張する学者には修正主義の理論的創始者と云われるドイツのベルンシュタインがおり。ソ連国内にはブハーリンがいた。共に過激な政策を排し、資本主義の利点を生かし、否定面を修正していこうというものである。資本主義社会は自由競争の社会であり、優勝劣敗の社会である。その結果、敗者が生まれる。それは資本主義社会の抱える構造的矛盾であり、敗者を自己責任に帰することはできない。そこで修正主義を国是とする国にとって必要なことは、優勝劣敗を放置するのではなく、いかに敗者を救済するかにあった。その方法として国家のとる政策は勝者から多くの税金を取り立て、これを敗者に配分するという福祉政策であり、極端な金持も、貧乏人もいない中間層を中心とした社会を作り、自由と平等を同時に実現していこうというものである。しかしこれを実現するためには経済の発展を必要とする。福祉政策には多くの財源が必要だからである。これは現在、北欧諸国(デンマーク。フィンランド)で行われている政策であり、本来的社会主義(正当)に対し民主社会主義(異端)と呼ばれている。日本の共産党、社民党はこれを目指している政党である。管理された資本主義を目指すのである。

 この種の考えはスターリン統治下においてもブハーリンに見られるように当然生まれていた。これ以外にも多様な考えがあり、一つの考えによって統一されてはいなかった。ブハーリンたちはNEPの結果生まれてきた豊かな私的経営者(ネップマン、富農)を保護育成し、そこから生まれる利潤を税金として一部吸収し、それを社会主義工業やソホーズ、コルホーズに投資し、徐々に社会主義化をしていく漸進的な道を考えていたのである。しかしこのような漸進的な道はスターリンによって資本主義への後退への道と退けられた。そして第2の道である全面的な社会主義的工業化と農業の集団化の道が選択されたのである。ネップマンや富農層は当然これに反発した。当然大きな混乱が生じた。穀物の供出が拒否され、武力衝突も起こった。スターリンはこれに対して武力制圧を行った。富農は逮捕されシベリア送りとなる。その財産は没収された。このような高圧的な政策は政権内部にも反発が生じた。しかし権力の中枢を握ったスターリンはこれらの反権力者に対しては容赦をしなかった。ことごとく逮捕され処刑された。政権内部にいたブハーリンも逮捕され銃殺刑に合う。スターリンの盟友でありライバルでもあったキーロフは暗殺される(この事実は「イワン・デニーソヴィッチの一日」の中でも述べられている)。大粛清時代が始まった。スターリンは自分に反対するものは政権内部の幹部、軍関係者等々政権を担当するものでも容赦をしなかった。自身の指導体制を脅かすと思われる人間はゲーペーウー(総合国家政治保安部)の後を継いだエヌ・ケー・ヴィ・デー(内部人民保安部)を使い、ことごとく逮捕し、後には裁判もなしに処刑した。そこにあったものは派閥争いであり、権力闘争であり、スターリンに気に入られようとする者たちの闘争でもあった。この大粛清は、路線闘争などという単純なものではなく、まさに食うか食われるかの争いであり、相手を食わねば自分が食われるという凄まじさであった。この大粛清はスターリンによってはじめられたにもかかわらず、後には自動的に動き出しスターリンの手を離れた感があった。このような政権内部の粛清とは別に「普通」の人々=労働者、農民、教師、司祭、音楽家、軍人、年金生活者、バレリーナ、乞食等が処刑された。密告が奨励され、子が親を、恋人を友人を、それぞれがそれぞれを密告した。そうすることが自身の安全を保つ方法だったのである。「娑婆じゃーマッチがないといただけで逮捕されるそうだ」、と「イワンデニーソヴィッチの一日」の中で囚人は言う。告発者が逆に告発され処刑に合った事件も述べられている。ラーゲリ内で密告者が殺された事件も書かれている。密告者は極端に嫌われてはいたが、それが正義と考えられていた。お互いがお互いを疑心暗鬼の目で見てだれも信用することのできない不幸な事態が、この時代を特徴づけていた。政治的ヒステリーの嵐が吹き荒れていた。

スターリン自身「私はもうおしまいだ、誰も信用できない。自分自身さえも」という言葉をフルシチョフとミコヤンに云ったということが伝えられている。スターリン自身、絶えず政敵からの暗殺の危機にさらされていた。未遂事件も報告されている。それ故、彼は多くの影武者を用意し、絶えず数人のボデイガードとともに行動し、執務室も幾つも用意し、そこを渡り歩き、その居場所を決して明らかにしなかったという。このように彼の心は決して休まることはなかったのである。そこには独裁者の抱える孤独がある。恐れられてはいても決して親しまれることの無い寂しさ、悲しさがそこにはあったに違いない。その意味では不幸な人間であったと言えよう。天寿を全うできたのが不思議なぐらいである(1879〜1953年 74歳没)。古くはシーザーが最近ではフセインが悲惨な最期を遂げている。大体において独裁者の末路は哀れである。この時代に抹殺された人の数は正確な統計資料がないので、確かなことは言えないが諸説があり、500万人程度の人間が抹殺されたり流刑に処せられたといわれている。

 この時代に抹殺された人の中には多くの外国人も含まれているが、その数、略歴については省略するが、その数は膨大なものがあり、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員が処刑されたという資料もある。
 日本人に関して言えば、手に手を取り合って、ソ連に恋の逃避行を行った女優の岡田嘉子とその愛人演出家の杉本良吉は、不法入国ということもあり、当時の日本はソ連にとって潜在的な仮想敵国であったことから、スパイ容疑で逮捕され、岡田嘉子は10年にも及ぶ強制労働、杉本良吉は銃殺刑に合っている。そのほか共産党員の山本懸蔵、留学中の医師国崎定洞が処刑されている。ソ連社会主義に希望の光を見出しその社会で自らを生かしたいと望み、スパイなど考えたこともない純粋な人までもスターリンは抹殺したのである。そこにはスターリンの危機意識があり、その結果としての過剰反応があったといえよう。この時代はソ連の歴史に汚点を残す暗黒時代であった。この大粛清の時代の後社会的混乱と経済の停滞は長期にわたって続いた。さらに否定的要因として生まれたのがノーメンクラツーラという特権階層であり、彼らは官僚世界を生み出し労働者の上に君臨した。プロレタリア独裁ではなく、プロレタリアに対する独裁が生まれた。ソ連社会の崩壊は、上からのものであったが故に官僚社会は残った。しかしいずれにしてもロシア共和国(ソ連改め)はトロッキーが危惧し、ブハーリンが望んだ民主社会主義的道を選択したのである。今ロシア共和国はソ連時代を引き継ぎ、アメリカに次ぐ大国ではあるが、その内部には多くの矛盾を抱えており、安定していない。ロシアはどこへ行くのであろうか?

 ソルジェニーツィンはこの作品の中で宗教論、芸術論も展開している。社会主義ソ連においても宗教は人々の心に深く根付いていることを示し、さらに当時の芸術家が時の権力に迎合しているがこれは当時の状況下では仕方がなかったのだという元映画監督ツェーザリの意見に対して、「天才というのは、独裁者の趣味なんかで解釈を変えたりしない」とX-123番(収容所内では名前でなく番号で呼ばれていた)の口を借りてソルジェニーツィンは自身の意見を述べている。さらに「芸術とは何をではなくいかにじゃないですか?」という意見に対しては「いかにではなく何をだ」とX‐123は反論する。「如何に」は技術であって、「何を」はテーマである。これは当時の社会主義リアリズムにおける芸術論争を反映している。
 私は今までこの作品が成立した時代背景を中心に述べてきたが、これからはこの作品の内容を中心に述べていきたい。

 ソルジェニーツィン自身は、スターリンを批判した罪で逮捕され、8年間のシベリア流刑に処せられている。その流刑地は一つに限られておらず、その一つにカザフスタンのエキパストーゼにある政治犯のみを収容する特別収容所があった。ここでの実体験が「イワン・デニーソヴィッチの一日」に結実したのである。

 この作品「イワン・デニーソヴィッチの一日」はイワン・デニーソヴィッチ・ショーロフというロシア農民のシベリアでの収容所(ラーゲリ)での一日、その起床から始まって、員数検査、現場作業、食事風景、点呼、就寝を、マロース(極寒)という劣悪環境の中で描き、それを通して大粛清時代=1935〜1939年)のソ連社会主義の過酷な現実を描いている。

 この作品の主人公ショーロフはドイツ戦の時にドイツの捕虜になり、そこから命がけで脱走し、森の中で友軍に助けられたのだが、「反逆罪」で捕えられ25年間の流刑に処せられた。誰もが何故と問うであろう。「反逆者」と「捕虜」の因果関係が分からないからである。その答えは次の叙述で明らかになる。「書類によるとショーロフの罪は祖国への裏切りということになっている。いや彼はそう自白までしたのだ。つまり、自分は祖国を裏切るために捕虜になり、ドイツ諜報部の任務を遂行して、帰還が許されたものである」と。そこにはあるものは自白への強要であり、それを拒否すれば死が待っていたのである。スターリン語録の中には次の言葉がある。「赤軍には捕虜は存在しない。存在するのは「反逆者」のみである」。反逆者にならないためには死しかない。日本にも「死しても虜囚の辱めを受けず」という言葉がある。沖縄での米軍との戦いにおいて、多くの民間人が降伏せず死を選んだというのも共通性を感じその非人間性には怒りを感じる。

 この作品を読んで思い出すのはドストエフスキーによって書かれた「死の家の記録」である。これもドストエフスキーの実体験をもとに書かれたものである。共にシベリアでの過酷なラーゲリ内での生活を描いたものであるが、ドストエフスキーの描くラーゲリ内での生活には笞刑5000回等という過酷さがある反面その生活の中にはおおらかさもある。囚人と村人の間には交流があり手作りの芝居を披露したり看守の目を盗んで(目こぼしを受けて:勿論賄賂を必要とする)ではあるが街の女との接触も出来る。ペットの飼育も出来る。囚人の手創りの品を村人に売り、小遣い稼ぎも出来る。看守の囚人を見る目は優しい。共に虐げられた民という共通意識があるからであろう。しかしこの作品「イワン・デニーソヴィッチの一日」には、そんなおおらかさは一切ない。過酷な生活があるだけである。この作品を特徴づけているものの一つはマロース(極寒)である。ドストエフスキーの作品にはこの表現はない。気温はマイナス40度にもなる。「一本の木立ちもない荒野の上を風がヒューヒューと吹き荒れている。夏はからからに乾ききった風、冬は肌身を刺すマロースの風。この荒野には昔から一本の木立ちも生えたことはないのだ。まして、周りを鉄条網に囲まれた今はなおさらだ」要するに人間の住める環境ではないのだ。その作業とはどんなものだったのだろうか?「囚人は煉瓦を焼いたり、畑を耕したり、壁を塗ったり、家を建てたりさせられる」何のために?勿論工業化のためである。工業化のための資材は運ばれなければならない。だから、鉄道は敷設されねばならないし、トラック輸送のためには道路も作られねばならない。中継地には駅も必要であろう。管理者の住居も建設されねばならない。シベリアには森林がある。木材資源があり、その他の天然資源も豊富である。それらは切り出され、発掘され運ばれなければならない。これらの労働に囚人は動員されたのである。その苛酷さは十分に想像できる。その苛酷さをこの作品は余すことなく描いている。そこにあるのはまさに奴隷労働である。体を温める十分な暖房も無く、身なしの粥のために、一本の煙草のために右往左往する。強靭な肉体と精神なくしては刑期を全うできない。全うするためには生活の知恵を必要とする。仕事の場において、食事の場において、休憩の場においてすらそれを必要とする。管理者に対する袖の下はそのひとつである。そこには生存競争があり、勝ち抜いていかねばならない。それと同時に、そこには同胞愛があり、協調があり、協力がある。生活の知恵を持たない元海軍中佐のヴィノフスキーにはショーロフは手を差し伸べる。

 終戦を控え、日ソ不可侵条約を破り満州(当時)に侵攻したソ連軍はそこに住む日本人の住民、軍人を捕虜として、シベリアに拉致し、そこで強制労働に従事させたがその生活環境はもっと苛酷なものであったであろう。その奴隷労働に耐えきれず多くの日本人は死に至った。中国での残留孤児の問題も生じている。

 第2に特徴づけられるものは、囚人の性格である。ドストエフスキーの描く囚人は一般の囚人である。しかしこの作品で描かれる囚人はいわゆる政治犯である。元官僚で娑婆では自動車を乗り回し威張り散らしていたおエラ方のなれの果てのフェチコーワを除けば、すべて心の自由を求め劣悪の条件下でも毅然として生きる人たちである。囚人の持つ暗さはない。心のプライドを失わず、与えられた苛酷な労働を神から与えられた使命と考え、それを喜びと感じている。そこには本来的な労働がある。労働に精を出し、汗をかくことによって、マロースの寒さを忘れる。仕事終了の合図があっても、ショーロフは立ち去ることなく、しばし立ち止まり、仕事の出来栄えを確かめる。まだこの腕もおいぼれていないと自画自賛する。そこには労働の喜びがある。本来的な労働とは生産者と対象との間の物質代謝であり、それによって生産者は精神の高揚を体験する。利潤を求める疎外された部分労働ではない。バプテスト信者のアリョウシャはショーロフに云う「人間には素晴らし者でも神様のお眼には卑しいことなんですから!精神的なことをお祈りしなければいけないんですよ」と。本来の労働の精神性を考えると神につながるものを感じる。

 いわれなき攻撃には反撃する「この毒虫め、貴様らが勝手に刑期を伸ばせる時代は終わったんだ。 今日が娑婆の見納めになるぜ」と看守のデールに班長のチューリンは言う。うしろには副班長のパウロがシャベルを高く振り上げている。他の連中もデールを睨めつけている。デールは震え上がる。引き下がる以外にない。そこには囚人の持つ卑屈さはない。スターリンに対する批判も公然と行われる。「ひげの親爺(スターリンの愛称)がお前らを憐れんでくれるだと!あいつはな血をわけた兄弟でも信じようとはしなかった奴だぞ、お前らみたいなどこの馬の骨か判らない野郎を憐れんでたまるかい」。ここには言論の自由がある。密告があっても保安部は取り上げない。囚人は怖いし、手続きは面倒だ。過酷な生活に苦しみ、右往左往しながらも、彼らは大切なもの=高潔な心を失っていない。

 登場人物を紹介する。


 ヴィノフスキー元海軍中佐 エリート育ちであるが故に生活の知恵を持ち合わせていない。英国に協力し、戦後英国の提督から記念品を贈られたためにラーゲリ入りする。英国はソ連と同じ連合国の一員なのになぜ?

 元映画監督ツェザリ・マルコーヴィチ しばしば芸術談義を戦わす不思議なインテリ。映画監督と云っても1本しか映画は撮っていない。反権力映画であろう。

 バプテスト信者のアリョーシャ:全てを神のおぼしめしと信じ現実を肯定している。「されどもしキリスト教徒としてならば、恥ずることなかれ、かえって、かかる運命(さだめ)の故に神をたたえよ」という福音書の言葉を絶えず唱えている。

 班長のチューリン:父親が富農であったため赤軍を追放され、後にラーゲリ入りする。囚人たちの信望は厚い。白髪の老人

 副班長パウロ:ドイツ戦での英雄

 官僚のなれの果て:フェチコーワ

等々ここでは紹介を省略した囚人たちを含めてソヴェート社会のあらゆる階層(農民、軍人、インテリ、オールドボリシェヴィキ、バプテスト信者、元富農、元官僚等など)を代表する人物が織りなす人間模様がこの作品を彩っている。ソ連(当時)を代表する文芸誌「ノーブイミール(新世界)」の編集長トワルドフスキーは、この作品の「序にかえて」で次のように述べている。「作者は登場人物たちの運命に対して読者の心に哀傷と痛み引き起さざるを得ないが、その哀傷と痛みが、絶望的な打ちひしがれた感情とは少しも共通点がないという点に芸術家としての疑う余地のない勝利がある」と。ソルジェニーツィンは、この作品の中に登場する囚人たちの中に、いや、これらの人と同じ心を持つ人々の中にロシアの未来を託したのである。これらの何に対してもめげることのないロシアの大地に深く根を下した人々に栄光あれと叫びたい。これらの人がいる限りロシアの未来は明るいと信じたい。

ソルジェニーツィン作「イワン・デニーソヴィッチの一日」木村浩訳 新潮文庫
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%81%AE%E4%B8%80%E6%97%A5-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3/dp/4102132015

https://blog.goo.ne.jp/moritake123-2007/e/0470876a9f8f529a113b18453c4c3b41
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1236.html#c3

[近代史4] ソルジェニーツィンの世界 中川隆
4. 中川隆[-8366] koaQ7Jey 2021年1月11日 12:12:49 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[40]

One Day in the Life of Ivan Denisovich (1963)


イワン・デニーソヴィッチの一日


One Day in the Life of Ivan Denisovich (1970)








One Day in the Life of Ivan Denisovich






http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1236.html#c4
[近代史4] 共産主義の時代 中川隆
34. 中川隆[-8365] koaQ7Jey 2021年1月11日 12:32:27 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[41]
ソルジェニーツィン作「イワン・デニーソヴィッチの一日」木村浩訳
2010年01月04日
https://blog.goo.ne.jp/moritake123-2007/e/0470876a9f8f529a113b18453c4c3b41

 この作品「イワンデ二ーソヴィチの一日」はアレクサンドル・イサエヴィッチ・ソルジェニーツィンの作品であり、この作品で彼は1962年11月にソ連文壇にデビューする。その内容はスターリンの大粛清時代に題材をとり、「反逆者」として逮捕され、25年のシベリア流刑の処分を受けたイワン・デニソヴィッチ・ショーロフの獄中での一日の生活を描いたものであり、その極限状態を収容所(ラーゲリ)の内と外において表現する。この作品を掲載した「ノーヴイ・ミール(新世界)」誌は空前の発行部数を誇り、のちに発行された単行本は70万部という驚異的な発行部数を記録した。さらにこれに続く一連の作品(「ガン病棟」、「煉獄の中で」、「1916年10月」)によって彼はノーベル文学賞を受賞し世界的文豪の栄誉を担ったのである。

 私はこの作品の内容を紹介する前にこの作品の背景にあるソ連の状況を述べていこうと思う。

 1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、その年の暮にはルーマニアのチャウシェスク独裁体制が民衆の怨嗟の中で打倒されチャウシェスク夫妻は銃殺された。同年夏のポーランドにおける「連帯(ワルサ議長)」主導政権の成立、1990年の東西ドイツの資本主義的統一によって拍車のかかった東欧「労働者国家圏」の雪崩を打った崩壊はソヴェート政権には衝撃的事件であったにもかかわらず、何もなしえず、そのソヴェート政権もゴルバチョフ、エリツィンによる民主化が進展し、1991年には最終的に崩壊した。それはまさに歴史を画する「革命的」大変動でありスターリンなきあとのスターリン体制の破産と崩壊を意味していた。

 このようにソ連、東欧の社会主義化は世界中の労働者、民衆の希望の星であったにもかかわらず無残な結果に終わったのである。

 その原因はどこにあったのであろうか?

 トロッキーはその著「裏切られた革命」の中で革命後のソ連社会を「過度期社会」と名付けている。それは「資本論」に反する革命(グラムシ)だったからである。マルクスは社会主義革命を高度に発展した資本主義国から移行するものと考えていた。だからトロッキーは遅れた資本主義国から社会主義化したソ連は長期にわたる過度期を経験したのちでなければ、真の社会主義に移行できないと考えたのである。この過度期を真の社会主義に導いていくものをプロレタリア独裁に求めたのである。そしてこのことが重要なのだがこの過度期を特徴づけるものとして、その進む先を、社会主義への進化の道か、その逆に資本主義への後退の道かの二つの可能性を示した。トロッキーは真の社会主義の道を「高度の労働生産性」と「世界同時革命」の二つの柱に求めていた。そしてレーニンも考えていたように西欧の資本主義国の革命の成功により、そこからの資金及び技術の援助によって、ロシア革命は成功に導かれると考えたのである。しかし、トロッキーはレーニンの死後スターリンとの路線論争に敗れメキシコに亡命する。後にスターリンによって送り込まれた刺客(=ラモン・メヂカル=トロッキーの秘書の恋人=映画ではアランドロンが演じていた)によって頭にピッケルを打ちこまれ惨殺される。

 スターリンは西欧先進資本主義国での革命が夢となった段階で、世界同時革命を幻想と考え、一国社会主義革命の総和としての世界革命を考えた。スターリンは一国社会主義革命という困難な課題を、それ以上に困難な課題(内外での敵対勢力との対決)を解決しつつ実現していかねばならなかったのである。この為には強固な指導体制をを必要とした。スターリンによる独裁体制は必然だったといえるであろう。強固な中央集権国家が生まれ、個人崇拝のもと絶対的権力が彼に付与されたのである。この権力は大粛清時代を通じてさらに強化された。

 スターリンにとっての課題は社会主義建設であって、それ以外の発展の道は考えられなかった。資源と労働を一つ(国家)に集中(社会主義的原始的蓄積)し、これを必要な部分に計画的に配分していく。これによって社会主義的工業化と農業の集団化を達成していかなければならなかった。しかしそれは経験則のない史上初の試みであり、試行錯誤の連続であった。その結果としての非効率的運営は経済の停滞を生み出した。NEP(新経済政策:一時的な資本主義的経営の容認)によって生まれ、育ってきた私企業者に工業においても、農業においても勝ることが出来なかった。ネップマンと呼ばれる豊かな私企業者が生まれ、貧農を雇用する富農層が生まれてきた。ここに一つの可能性が芽生えていた。それはこの私的経営者が資本家に転じていく道である。NEPでは国家に供出した残りの生産物を市場で売ることが許されていた。個人的利益を保証する制度は、生産者の労働意欲を高め、その総生産高を増大させたのである。NEPは純経済的に見れば成功を収めていた。この状況は「イワン・デニソヴィッチの一日」の中でも述べられている。コルホーズの停滞、そこで働く人のネップマンのところでのアルバイトをする状況が叙述されている。

 この時ソヴェート政権には二つの道が考えられていた。一つはいわゆる修正主義的道で、それを主張する学者には修正主義の理論的創始者と云われるドイツのベルンシュタインがおり。ソ連国内にはブハーリンがいた。共に過激な政策を排し、資本主義の利点を生かし、否定面を修正していこうというものである。資本主義社会は自由競争の社会であり、優勝劣敗の社会である。その結果、敗者が生まれる。それは資本主義社会の抱える構造的矛盾であり、敗者を自己責任に帰することはできない。そこで修正主義を国是とする国にとって必要なことは、優勝劣敗を放置するのではなく、いかに敗者を救済するかにあった。その方法として国家のとる政策は勝者から多くの税金を取り立て、これを敗者に配分するという福祉政策であり、極端な金持も、貧乏人もいない中間層を中心とした社会を作り、自由と平等を同時に実現していこうというものである。しかしこれを実現するためには経済の発展を必要とする。福祉政策には多くの財源が必要だからである。これは現在、北欧諸国(デンマーク。フィンランド)で行われている政策であり、本来的社会主義(正当)に対し民主社会主義(異端)と呼ばれている。日本の共産党、社民党はこれを目指している政党である。管理された資本主義を目指すのである。

 この種の考えはスターリン統治下においてもブハーリンに見られるように当然生まれていた。これ以外にも多様な考えがあり、一つの考えによって統一されてはいなかった。ブハーリンたちはNEPの結果生まれてきた豊かな私的経営者(ネップマン、富農)を保護育成し、そこから生まれる利潤を税金として一部吸収し、それを社会主義工業やソホーズ、コルホーズに投資し、徐々に社会主義化をしていく漸進的な道を考えていたのである。しかしこのような漸進的な道はスターリンによって資本主義への後退への道と退けられた。そして第2の道である全面的な社会主義的工業化と農業の集団化の道が選択されたのである。ネップマンや富農層は当然これに反発した。当然大きな混乱が生じた。穀物の供出が拒否され、武力衝突も起こった。スターリンはこれに対して武力制圧を行った。富農は逮捕されシベリア送りとなる。その財産は没収された。このような高圧的な政策は政権内部にも反発が生じた。しかし権力の中枢を握ったスターリンはこれらの反権力者に対しては容赦をしなかった。ことごとく逮捕され処刑された。政権内部にいたブハーリンも逮捕され銃殺刑に合う。スターリンの盟友でありライバルでもあったキーロフは暗殺される(この事実は「イワン・デニーソヴィッチの一日」の中でも述べられている)。大粛清時代が始まった。スターリンは自分に反対するものは政権内部の幹部、軍関係者等々政権を担当するものでも容赦をしなかった。自身の指導体制を脅かすと思われる人間はゲーペーウー(総合国家政治保安部)の後を継いだエヌ・ケー・ヴィ・デー(内部人民保安部)を使い、ことごとく逮捕し、後には裁判もなしに処刑した。そこにあったものは派閥争いであり、権力闘争であり、スターリンに気に入られようとする者たちの闘争でもあった。この大粛清は、路線闘争などという単純なものではなく、まさに食うか食われるかの争いであり、相手を食わねば自分が食われるという凄まじさであった。この大粛清はスターリンによってはじめられたにもかかわらず、後には自動的に動き出しスターリンの手を離れた感があった。このような政権内部の粛清とは別に「普通」の人々=労働者、農民、教師、司祭、音楽家、軍人、年金生活者、バレリーナ、乞食等が処刑された。密告が奨励され、子が親を、恋人を友人を、それぞれがそれぞれを密告した。そうすることが自身の安全を保つ方法だったのである。「娑婆じゃーマッチがないといただけで逮捕されるそうだ」、と「イワンデニーソヴィッチの一日」の中で囚人は言う。告発者が逆に告発され処刑に合った事件も述べられている。ラーゲリ内で密告者が殺された事件も書かれている。密告者は極端に嫌われてはいたが、それが正義と考えられていた。お互いがお互いを疑心暗鬼の目で見てだれも信用することのできない不幸な事態が、この時代を特徴づけていた。政治的ヒステリーの嵐が吹き荒れていた。

スターリン自身「私はもうおしまいだ、誰も信用できない。自分自身さえも」という言葉をフルシチョフとミコヤンに云ったということが伝えられている。スターリン自身、絶えず政敵からの暗殺の危機にさらされていた。未遂事件も報告されている。それ故、彼は多くの影武者を用意し、絶えず数人のボデイガードとともに行動し、執務室も幾つも用意し、そこを渡り歩き、その居場所を決して明らかにしなかったという。このように彼の心は決して休まることはなかったのである。そこには独裁者の抱える孤独がある。恐れられてはいても決して親しまれることの無い寂しさ、悲しさがそこにはあったに違いない。その意味では不幸な人間であったと言えよう。天寿を全うできたのが不思議なぐらいである(1879〜1953年 74歳没)。古くはシーザーが最近ではフセインが悲惨な最期を遂げている。大体において独裁者の末路は哀れである。この時代に抹殺された人の数は正確な統計資料がないので、確かなことは言えないが諸説があり、500万人程度の人間が抹殺されたり流刑に処せられたといわれている。

 この時代に抹殺された人の中には多くの外国人も含まれているが、その数、略歴については省略するが、その数は膨大なものがあり、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員が処刑されたという資料もある。
 日本人に関して言えば、手に手を取り合って、ソ連に恋の逃避行を行った女優の岡田嘉子とその愛人演出家の杉本良吉は、不法入国ということもあり、当時の日本はソ連にとって潜在的な仮想敵国であったことから、スパイ容疑で逮捕され、岡田嘉子は10年にも及ぶ強制労働、杉本良吉は銃殺刑に合っている。そのほか共産党員の山本懸蔵、留学中の医師国崎定洞が処刑されている。ソ連社会主義に希望の光を見出しその社会で自らを生かしたいと望み、スパイなど考えたこともない純粋な人までもスターリンは抹殺したのである。そこにはスターリンの危機意識があり、その結果としての過剰反応があったといえよう。この時代はソ連の歴史に汚点を残す暗黒時代であった。この大粛清の時代の後社会的混乱と経済の停滞は長期にわたって続いた。さらに否定的要因として生まれたのがノーメンクラツーラという特権階層であり、彼らは官僚世界を生み出し労働者の上に君臨した。プロレタリア独裁ではなく、プロレタリアに対する独裁が生まれた。ソ連社会の崩壊は、上からのものであったが故に官僚社会は残った。しかしいずれにしてもロシア共和国(ソ連改め)はトロッキーが危惧し、ブハーリンが望んだ民主社会主義的道を選択したのである。今ロシア共和国はソ連時代を引き継ぎ、アメリカに次ぐ大国ではあるが、その内部には多くの矛盾を抱えており、安定していない。ロシアはどこへ行くのであろうか?

 ソルジェニーツィンはこの作品の中で宗教論、芸術論も展開している。社会主義ソ連においても宗教は人々の心に深く根付いていることを示し、さらに当時の芸術家が時の権力に迎合しているがこれは当時の状況下では仕方がなかったのだという元映画監督ツェーザリの意見に対して、「天才というのは、独裁者の趣味なんかで解釈を変えたりしない」とX-123番(収容所内では名前でなく番号で呼ばれていた)の口を借りてソルジェニーツィンは自身の意見を述べている。さらに「芸術とは何をではなくいかにじゃないですか?」という意見に対しては「いかにではなく何をだ」とX‐123は反論する。「如何に」は技術であって、「何を」はテーマである。これは当時の社会主義リアリズムにおける芸術論争を反映している。
 私は今までこの作品が成立した時代背景を中心に述べてきたが、これからはこの作品の内容を中心に述べていきたい。

 ソルジェニーツィン自身は、スターリンを批判した罪で逮捕され、8年間のシベリア流刑に処せられている。その流刑地は一つに限られておらず、その一つにカザフスタンのエキパストーゼにある政治犯のみを収容する特別収容所があった。ここでの実体験が「イワン・デニーソヴィッチの一日」に結実したのである。

 この作品「イワン・デニーソヴィッチの一日」はイワン・デニーソヴィッチ・ショーロフというロシア農民のシベリアでの収容所(ラーゲリ)での一日、その起床から始まって、員数検査、現場作業、食事風景、点呼、就寝を、マロース(極寒)という劣悪環境の中で描き、それを通して大粛清時代=1935〜1939年)のソ連社会主義の過酷な現実を描いている。

 この作品の主人公ショーロフはドイツ戦の時にドイツの捕虜になり、そこから命がけで脱走し、森の中で友軍に助けられたのだが、「反逆罪」で捕えられ25年間の流刑に処せられた。誰もが何故と問うであろう。「反逆者」と「捕虜」の因果関係が分からないからである。その答えは次の叙述で明らかになる。「書類によるとショーロフの罪は祖国への裏切りということになっている。いや彼はそう自白までしたのだ。つまり、自分は祖国を裏切るために捕虜になり、ドイツ諜報部の任務を遂行して、帰還が許されたものである」と。そこにはあるものは自白への強要であり、それを拒否すれば死が待っていたのである。スターリン語録の中には次の言葉がある。「赤軍には捕虜は存在しない。存在するのは「反逆者」のみである」。反逆者にならないためには死しかない。日本にも「死しても虜囚の辱めを受けず」という言葉がある。沖縄での米軍との戦いにおいて、多くの民間人が降伏せず死を選んだというのも共通性を感じその非人間性には怒りを感じる。

 この作品を読んで思い出すのはドストエフスキーによって書かれた「死の家の記録」である。これもドストエフスキーの実体験をもとに書かれたものである。共にシベリアでの過酷なラーゲリ内での生活を描いたものであるが、ドストエフスキーの描くラーゲリ内での生活には笞刑5000回等という過酷さがある反面その生活の中にはおおらかさもある。囚人と村人の間には交流があり手作りの芝居を披露したり看守の目を盗んで(目こぼしを受けて:勿論賄賂を必要とする)ではあるが街の女との接触も出来る。ペットの飼育も出来る。囚人の手創りの品を村人に売り、小遣い稼ぎも出来る。看守の囚人を見る目は優しい。共に虐げられた民という共通意識があるからであろう。しかしこの作品「イワン・デニーソヴィッチの一日」には、そんなおおらかさは一切ない。過酷な生活があるだけである。この作品を特徴づけているものの一つはマロース(極寒)である。ドストエフスキーの作品にはこの表現はない。気温はマイナス40度にもなる。「一本の木立ちもない荒野の上を風がヒューヒューと吹き荒れている。夏はからからに乾ききった風、冬は肌身を刺すマロースの風。この荒野には昔から一本の木立ちも生えたことはないのだ。まして、周りを鉄条網に囲まれた今はなおさらだ」要するに人間の住める環境ではないのだ。その作業とはどんなものだったのだろうか?「囚人は煉瓦を焼いたり、畑を耕したり、壁を塗ったり、家を建てたりさせられる」何のために?勿論工業化のためである。工業化のための資材は運ばれなければならない。だから、鉄道は敷設されねばならないし、トラック輸送のためには道路も作られねばならない。中継地には駅も必要であろう。管理者の住居も建設されねばならない。シベリアには森林がある。木材資源があり、その他の天然資源も豊富である。それらは切り出され、発掘され運ばれなければならない。これらの労働に囚人は動員されたのである。その苛酷さは十分に想像できる。その苛酷さをこの作品は余すことなく描いている。そこにあるのはまさに奴隷労働である。体を温める十分な暖房も無く、身なしの粥のために、一本の煙草のために右往左往する。強靭な肉体と精神なくしては刑期を全うできない。全うするためには生活の知恵を必要とする。仕事の場において、食事の場において、休憩の場においてすらそれを必要とする。管理者に対する袖の下はそのひとつである。そこには生存競争があり、勝ち抜いていかねばならない。それと同時に、そこには同胞愛があり、協調があり、協力がある。生活の知恵を持たない元海軍中佐のヴィノフスキーにはショーロフは手を差し伸べる。

 終戦を控え、日ソ不可侵条約を破り満州(当時)に侵攻したソ連軍はそこに住む日本人の住民、軍人を捕虜として、シベリアに拉致し、そこで強制労働に従事させたがその生活環境はもっと苛酷なものであったであろう。その奴隷労働に耐えきれず多くの日本人は死に至った。中国での残留孤児の問題も生じている。

 第2に特徴づけられるものは、囚人の性格である。ドストエフスキーの描く囚人は一般の囚人である。しかしこの作品で描かれる囚人はいわゆる政治犯である。元官僚で娑婆では自動車を乗り回し威張り散らしていたおエラ方のなれの果てのフェチコーワを除けば、すべて心の自由を求め劣悪の条件下でも毅然として生きる人たちである。囚人の持つ暗さはない。心のプライドを失わず、与えられた苛酷な労働を神から与えられた使命と考え、それを喜びと感じている。そこには本来的な労働がある。労働に精を出し、汗をかくことによって、マロースの寒さを忘れる。仕事終了の合図があっても、ショーロフは立ち去ることなく、しばし立ち止まり、仕事の出来栄えを確かめる。まだこの腕もおいぼれていないと自画自賛する。そこには労働の喜びがある。本来的な労働とは生産者と対象との間の物質代謝であり、それによって生産者は精神の高揚を体験する。利潤を求める疎外された部分労働ではない。バプテスト信者のアリョウシャはショーロフに云う「人間には素晴らし者でも神様のお眼には卑しいことなんですから!精神的なことをお祈りしなければいけないんですよ」と。本来の労働の精神性を考えると神につながるものを感じる。

 いわれなき攻撃には反撃する「この毒虫め、貴様らが勝手に刑期を伸ばせる時代は終わったんだ。 今日が娑婆の見納めになるぜ」と看守のデールに班長のチューリンは言う。うしろには副班長のパウロがシャベルを高く振り上げている。他の連中もデールを睨めつけている。デールは震え上がる。引き下がる以外にない。そこには囚人の持つ卑屈さはない。スターリンに対する批判も公然と行われる。「ひげの親爺(スターリンの愛称)がお前らを憐れんでくれるだと!あいつはな血をわけた兄弟でも信じようとはしなかった奴だぞ、お前らみたいなどこの馬の骨か判らない野郎を憐れんでたまるかい」。ここには言論の自由がある。密告があっても保安部は取り上げない。囚人は怖いし、手続きは面倒だ。過酷な生活に苦しみ、右往左往しながらも、彼らは大切なもの=高潔な心を失っていない。

 登場人物を紹介する。


 ヴィノフスキー元海軍中佐 エリート育ちであるが故に生活の知恵を持ち合わせていない。英国に協力し、戦後英国の提督から記念品を贈られたためにラーゲリ入りする。英国はソ連と同じ連合国の一員なのになぜ?

 元映画監督ツェザリ・マルコーヴィチ しばしば芸術談義を戦わす不思議なインテリ。映画監督と云っても1本しか映画は撮っていない。反権力映画であろう。

 バプテスト信者のアリョーシャ:全てを神のおぼしめしと信じ現実を肯定している。「されどもしキリスト教徒としてならば、恥ずることなかれ、かえって、かかる運命(さだめ)の故に神をたたえよ」という福音書の言葉を絶えず唱えている。

 班長のチューリン:父親が富農であったため赤軍を追放され、後にラーゲリ入りする。囚人たちの信望は厚い。白髪の老人

 副班長パウロ:ドイツ戦での英雄

 官僚のなれの果て:フェチコーワ

等々ここでは紹介を省略した囚人たちを含めてソヴェート社会のあらゆる階層(農民、軍人、インテリ、オールドボリシェヴィキ、バプテスト信者、元富農、元官僚等など)を代表する人物が織りなす人間模様がこの作品を彩っている。ソ連(当時)を代表する文芸誌「ノーブイミール(新世界)」の編集長トワルドフスキーは、この作品の「序にかえて」で次のように述べている。「作者は登場人物たちの運命に対して読者の心に哀傷と痛み引き起さざるを得ないが、その哀傷と痛みが、絶望的な打ちひしがれた感情とは少しも共通点がないという点に芸術家としての疑う余地のない勝利がある」と。ソルジェニーツィンは、この作品の中に登場する囚人たちの中に、いや、これらの人と同じ心を持つ人々の中にロシアの未来を託したのである。これらの何に対してもめげることのないロシアの大地に深く根を下した人々に栄光あれと叫びたい。これらの人がいる限りロシアの未来は明るいと信じたい。

ソルジェニーツィン作「イワン・デニーソヴィッチの一日」木村浩訳 新潮文庫
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%81%AE%E4%B8%80%E6%97%A5-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3/dp/4102132015

https://blog.goo.ne.jp/moritake123-2007/e/0470876a9f8f529a113b18453c4c3b41


詳細は

ソルジェニーツィンの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1236.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/613.html#c34

[近代史3] ロシア革命とは何だったのか? 中川隆
8. 中川隆[-8364] koaQ7Jey 2021年1月11日 12:32:54 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[42]
ソルジェニーツィン作「イワン・デニーソヴィッチの一日」木村浩訳
2010年01月04日
https://blog.goo.ne.jp/moritake123-2007/e/0470876a9f8f529a113b18453c4c3b41

 この作品「イワンデ二ーソヴィチの一日」はアレクサンドル・イサエヴィッチ・ソルジェニーツィンの作品であり、この作品で彼は1962年11月にソ連文壇にデビューする。その内容はスターリンの大粛清時代に題材をとり、「反逆者」として逮捕され、25年のシベリア流刑の処分を受けたイワン・デニソヴィッチ・ショーロフの獄中での一日の生活を描いたものであり、その極限状態を収容所(ラーゲリ)の内と外において表現する。この作品を掲載した「ノーヴイ・ミール(新世界)」誌は空前の発行部数を誇り、のちに発行された単行本は70万部という驚異的な発行部数を記録した。さらにこれに続く一連の作品(「ガン病棟」、「煉獄の中で」、「1916年10月」)によって彼はノーベル文学賞を受賞し世界的文豪の栄誉を担ったのである。

 私はこの作品の内容を紹介する前にこの作品の背景にあるソ連の状況を述べていこうと思う。

 1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、その年の暮にはルーマニアのチャウシェスク独裁体制が民衆の怨嗟の中で打倒されチャウシェスク夫妻は銃殺された。同年夏のポーランドにおける「連帯(ワルサ議長)」主導政権の成立、1990年の東西ドイツの資本主義的統一によって拍車のかかった東欧「労働者国家圏」の雪崩を打った崩壊はソヴェート政権には衝撃的事件であったにもかかわらず、何もなしえず、そのソヴェート政権もゴルバチョフ、エリツィンによる民主化が進展し、1991年には最終的に崩壊した。それはまさに歴史を画する「革命的」大変動でありスターリンなきあとのスターリン体制の破産と崩壊を意味していた。

 このようにソ連、東欧の社会主義化は世界中の労働者、民衆の希望の星であったにもかかわらず無残な結果に終わったのである。

 その原因はどこにあったのであろうか?

 トロッキーはその著「裏切られた革命」の中で革命後のソ連社会を「過度期社会」と名付けている。それは「資本論」に反する革命(グラムシ)だったからである。マルクスは社会主義革命を高度に発展した資本主義国から移行するものと考えていた。だからトロッキーは遅れた資本主義国から社会主義化したソ連は長期にわたる過度期を経験したのちでなければ、真の社会主義に移行できないと考えたのである。この過度期を真の社会主義に導いていくものをプロレタリア独裁に求めたのである。そしてこのことが重要なのだがこの過度期を特徴づけるものとして、その進む先を、社会主義への進化の道か、その逆に資本主義への後退の道かの二つの可能性を示した。トロッキーは真の社会主義の道を「高度の労働生産性」と「世界同時革命」の二つの柱に求めていた。そしてレーニンも考えていたように西欧の資本主義国の革命の成功により、そこからの資金及び技術の援助によって、ロシア革命は成功に導かれると考えたのである。しかし、トロッキーはレーニンの死後スターリンとの路線論争に敗れメキシコに亡命する。後にスターリンによって送り込まれた刺客(=ラモン・メヂカル=トロッキーの秘書の恋人=映画ではアランドロンが演じていた)によって頭にピッケルを打ちこまれ惨殺される。

 スターリンは西欧先進資本主義国での革命が夢となった段階で、世界同時革命を幻想と考え、一国社会主義革命の総和としての世界革命を考えた。スターリンは一国社会主義革命という困難な課題を、それ以上に困難な課題(内外での敵対勢力との対決)を解決しつつ実現していかねばならなかったのである。この為には強固な指導体制をを必要とした。スターリンによる独裁体制は必然だったといえるであろう。強固な中央集権国家が生まれ、個人崇拝のもと絶対的権力が彼に付与されたのである。この権力は大粛清時代を通じてさらに強化された。

 スターリンにとっての課題は社会主義建設であって、それ以外の発展の道は考えられなかった。資源と労働を一つ(国家)に集中(社会主義的原始的蓄積)し、これを必要な部分に計画的に配分していく。これによって社会主義的工業化と農業の集団化を達成していかなければならなかった。しかしそれは経験則のない史上初の試みであり、試行錯誤の連続であった。その結果としての非効率的運営は経済の停滞を生み出した。NEP(新経済政策:一時的な資本主義的経営の容認)によって生まれ、育ってきた私企業者に工業においても、農業においても勝ることが出来なかった。ネップマンと呼ばれる豊かな私企業者が生まれ、貧農を雇用する富農層が生まれてきた。ここに一つの可能性が芽生えていた。それはこの私的経営者が資本家に転じていく道である。NEPでは国家に供出した残りの生産物を市場で売ることが許されていた。個人的利益を保証する制度は、生産者の労働意欲を高め、その総生産高を増大させたのである。NEPは純経済的に見れば成功を収めていた。この状況は「イワン・デニソヴィッチの一日」の中でも述べられている。コルホーズの停滞、そこで働く人のネップマンのところでのアルバイトをする状況が叙述されている。

 この時ソヴェート政権には二つの道が考えられていた。一つはいわゆる修正主義的道で、それを主張する学者には修正主義の理論的創始者と云われるドイツのベルンシュタインがおり。ソ連国内にはブハーリンがいた。共に過激な政策を排し、資本主義の利点を生かし、否定面を修正していこうというものである。資本主義社会は自由競争の社会であり、優勝劣敗の社会である。その結果、敗者が生まれる。それは資本主義社会の抱える構造的矛盾であり、敗者を自己責任に帰することはできない。そこで修正主義を国是とする国にとって必要なことは、優勝劣敗を放置するのではなく、いかに敗者を救済するかにあった。その方法として国家のとる政策は勝者から多くの税金を取り立て、これを敗者に配分するという福祉政策であり、極端な金持も、貧乏人もいない中間層を中心とした社会を作り、自由と平等を同時に実現していこうというものである。しかしこれを実現するためには経済の発展を必要とする。福祉政策には多くの財源が必要だからである。これは現在、北欧諸国(デンマーク。フィンランド)で行われている政策であり、本来的社会主義(正当)に対し民主社会主義(異端)と呼ばれている。日本の共産党、社民党はこれを目指している政党である。管理された資本主義を目指すのである。

 この種の考えはスターリン統治下においてもブハーリンに見られるように当然生まれていた。これ以外にも多様な考えがあり、一つの考えによって統一されてはいなかった。ブハーリンたちはNEPの結果生まれてきた豊かな私的経営者(ネップマン、富農)を保護育成し、そこから生まれる利潤を税金として一部吸収し、それを社会主義工業やソホーズ、コルホーズに投資し、徐々に社会主義化をしていく漸進的な道を考えていたのである。しかしこのような漸進的な道はスターリンによって資本主義への後退への道と退けられた。そして第2の道である全面的な社会主義的工業化と農業の集団化の道が選択されたのである。ネップマンや富農層は当然これに反発した。当然大きな混乱が生じた。穀物の供出が拒否され、武力衝突も起こった。スターリンはこれに対して武力制圧を行った。富農は逮捕されシベリア送りとなる。その財産は没収された。このような高圧的な政策は政権内部にも反発が生じた。しかし権力の中枢を握ったスターリンはこれらの反権力者に対しては容赦をしなかった。ことごとく逮捕され処刑された。政権内部にいたブハーリンも逮捕され銃殺刑に合う。スターリンの盟友でありライバルでもあったキーロフは暗殺される(この事実は「イワン・デニーソヴィッチの一日」の中でも述べられている)。大粛清時代が始まった。スターリンは自分に反対するものは政権内部の幹部、軍関係者等々政権を担当するものでも容赦をしなかった。自身の指導体制を脅かすと思われる人間はゲーペーウー(総合国家政治保安部)の後を継いだエヌ・ケー・ヴィ・デー(内部人民保安部)を使い、ことごとく逮捕し、後には裁判もなしに処刑した。そこにあったものは派閥争いであり、権力闘争であり、スターリンに気に入られようとする者たちの闘争でもあった。この大粛清は、路線闘争などという単純なものではなく、まさに食うか食われるかの争いであり、相手を食わねば自分が食われるという凄まじさであった。この大粛清はスターリンによってはじめられたにもかかわらず、後には自動的に動き出しスターリンの手を離れた感があった。このような政権内部の粛清とは別に「普通」の人々=労働者、農民、教師、司祭、音楽家、軍人、年金生活者、バレリーナ、乞食等が処刑された。密告が奨励され、子が親を、恋人を友人を、それぞれがそれぞれを密告した。そうすることが自身の安全を保つ方法だったのである。「娑婆じゃーマッチがないといただけで逮捕されるそうだ」、と「イワンデニーソヴィッチの一日」の中で囚人は言う。告発者が逆に告発され処刑に合った事件も述べられている。ラーゲリ内で密告者が殺された事件も書かれている。密告者は極端に嫌われてはいたが、それが正義と考えられていた。お互いがお互いを疑心暗鬼の目で見てだれも信用することのできない不幸な事態が、この時代を特徴づけていた。政治的ヒステリーの嵐が吹き荒れていた。

スターリン自身「私はもうおしまいだ、誰も信用できない。自分自身さえも」という言葉をフルシチョフとミコヤンに云ったということが伝えられている。スターリン自身、絶えず政敵からの暗殺の危機にさらされていた。未遂事件も報告されている。それ故、彼は多くの影武者を用意し、絶えず数人のボデイガードとともに行動し、執務室も幾つも用意し、そこを渡り歩き、その居場所を決して明らかにしなかったという。このように彼の心は決して休まることはなかったのである。そこには独裁者の抱える孤独がある。恐れられてはいても決して親しまれることの無い寂しさ、悲しさがそこにはあったに違いない。その意味では不幸な人間であったと言えよう。天寿を全うできたのが不思議なぐらいである(1879〜1953年 74歳没)。古くはシーザーが最近ではフセインが悲惨な最期を遂げている。大体において独裁者の末路は哀れである。この時代に抹殺された人の数は正確な統計資料がないので、確かなことは言えないが諸説があり、500万人程度の人間が抹殺されたり流刑に処せられたといわれている。

 この時代に抹殺された人の中には多くの外国人も含まれているが、その数、略歴については省略するが、その数は膨大なものがあり、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員が処刑されたという資料もある。
 日本人に関して言えば、手に手を取り合って、ソ連に恋の逃避行を行った女優の岡田嘉子とその愛人演出家の杉本良吉は、不法入国ということもあり、当時の日本はソ連にとって潜在的な仮想敵国であったことから、スパイ容疑で逮捕され、岡田嘉子は10年にも及ぶ強制労働、杉本良吉は銃殺刑に合っている。そのほか共産党員の山本懸蔵、留学中の医師国崎定洞が処刑されている。ソ連社会主義に希望の光を見出しその社会で自らを生かしたいと望み、スパイなど考えたこともない純粋な人までもスターリンは抹殺したのである。そこにはスターリンの危機意識があり、その結果としての過剰反応があったといえよう。この時代はソ連の歴史に汚点を残す暗黒時代であった。この大粛清の時代の後社会的混乱と経済の停滞は長期にわたって続いた。さらに否定的要因として生まれたのがノーメンクラツーラという特権階層であり、彼らは官僚世界を生み出し労働者の上に君臨した。プロレタリア独裁ではなく、プロレタリアに対する独裁が生まれた。ソ連社会の崩壊は、上からのものであったが故に官僚社会は残った。しかしいずれにしてもロシア共和国(ソ連改め)はトロッキーが危惧し、ブハーリンが望んだ民主社会主義的道を選択したのである。今ロシア共和国はソ連時代を引き継ぎ、アメリカに次ぐ大国ではあるが、その内部には多くの矛盾を抱えており、安定していない。ロシアはどこへ行くのであろうか?

 ソルジェニーツィンはこの作品の中で宗教論、芸術論も展開している。社会主義ソ連においても宗教は人々の心に深く根付いていることを示し、さらに当時の芸術家が時の権力に迎合しているがこれは当時の状況下では仕方がなかったのだという元映画監督ツェーザリの意見に対して、「天才というのは、独裁者の趣味なんかで解釈を変えたりしない」とX-123番(収容所内では名前でなく番号で呼ばれていた)の口を借りてソルジェニーツィンは自身の意見を述べている。さらに「芸術とは何をではなくいかにじゃないですか?」という意見に対しては「いかにではなく何をだ」とX‐123は反論する。「如何に」は技術であって、「何を」はテーマである。これは当時の社会主義リアリズムにおける芸術論争を反映している。
 私は今までこの作品が成立した時代背景を中心に述べてきたが、これからはこの作品の内容を中心に述べていきたい。

 ソルジェニーツィン自身は、スターリンを批判した罪で逮捕され、8年間のシベリア流刑に処せられている。その流刑地は一つに限られておらず、その一つにカザフスタンのエキパストーゼにある政治犯のみを収容する特別収容所があった。ここでの実体験が「イワン・デニーソヴィッチの一日」に結実したのである。

 この作品「イワン・デニーソヴィッチの一日」はイワン・デニーソヴィッチ・ショーロフというロシア農民のシベリアでの収容所(ラーゲリ)での一日、その起床から始まって、員数検査、現場作業、食事風景、点呼、就寝を、マロース(極寒)という劣悪環境の中で描き、それを通して大粛清時代=1935〜1939年)のソ連社会主義の過酷な現実を描いている。

 この作品の主人公ショーロフはドイツ戦の時にドイツの捕虜になり、そこから命がけで脱走し、森の中で友軍に助けられたのだが、「反逆罪」で捕えられ25年間の流刑に処せられた。誰もが何故と問うであろう。「反逆者」と「捕虜」の因果関係が分からないからである。その答えは次の叙述で明らかになる。「書類によるとショーロフの罪は祖国への裏切りということになっている。いや彼はそう自白までしたのだ。つまり、自分は祖国を裏切るために捕虜になり、ドイツ諜報部の任務を遂行して、帰還が許されたものである」と。そこにはあるものは自白への強要であり、それを拒否すれば死が待っていたのである。スターリン語録の中には次の言葉がある。「赤軍には捕虜は存在しない。存在するのは「反逆者」のみである」。反逆者にならないためには死しかない。日本にも「死しても虜囚の辱めを受けず」という言葉がある。沖縄での米軍との戦いにおいて、多くの民間人が降伏せず死を選んだというのも共通性を感じその非人間性には怒りを感じる。

 この作品を読んで思い出すのはドストエフスキーによって書かれた「死の家の記録」である。これもドストエフスキーの実体験をもとに書かれたものである。共にシベリアでの過酷なラーゲリ内での生活を描いたものであるが、ドストエフスキーの描くラーゲリ内での生活には笞刑5000回等という過酷さがある反面その生活の中にはおおらかさもある。囚人と村人の間には交流があり手作りの芝居を披露したり看守の目を盗んで(目こぼしを受けて:勿論賄賂を必要とする)ではあるが街の女との接触も出来る。ペットの飼育も出来る。囚人の手創りの品を村人に売り、小遣い稼ぎも出来る。看守の囚人を見る目は優しい。共に虐げられた民という共通意識があるからであろう。しかしこの作品「イワン・デニーソヴィッチの一日」には、そんなおおらかさは一切ない。過酷な生活があるだけである。この作品を特徴づけているものの一つはマロース(極寒)である。ドストエフスキーの作品にはこの表現はない。気温はマイナス40度にもなる。「一本の木立ちもない荒野の上を風がヒューヒューと吹き荒れている。夏はからからに乾ききった風、冬は肌身を刺すマロースの風。この荒野には昔から一本の木立ちも生えたことはないのだ。まして、周りを鉄条網に囲まれた今はなおさらだ」要するに人間の住める環境ではないのだ。その作業とはどんなものだったのだろうか?「囚人は煉瓦を焼いたり、畑を耕したり、壁を塗ったり、家を建てたりさせられる」何のために?勿論工業化のためである。工業化のための資材は運ばれなければならない。だから、鉄道は敷設されねばならないし、トラック輸送のためには道路も作られねばならない。中継地には駅も必要であろう。管理者の住居も建設されねばならない。シベリアには森林がある。木材資源があり、その他の天然資源も豊富である。それらは切り出され、発掘され運ばれなければならない。これらの労働に囚人は動員されたのである。その苛酷さは十分に想像できる。その苛酷さをこの作品は余すことなく描いている。そこにあるのはまさに奴隷労働である。体を温める十分な暖房も無く、身なしの粥のために、一本の煙草のために右往左往する。強靭な肉体と精神なくしては刑期を全うできない。全うするためには生活の知恵を必要とする。仕事の場において、食事の場において、休憩の場においてすらそれを必要とする。管理者に対する袖の下はそのひとつである。そこには生存競争があり、勝ち抜いていかねばならない。それと同時に、そこには同胞愛があり、協調があり、協力がある。生活の知恵を持たない元海軍中佐のヴィノフスキーにはショーロフは手を差し伸べる。

 終戦を控え、日ソ不可侵条約を破り満州(当時)に侵攻したソ連軍はそこに住む日本人の住民、軍人を捕虜として、シベリアに拉致し、そこで強制労働に従事させたがその生活環境はもっと苛酷なものであったであろう。その奴隷労働に耐えきれず多くの日本人は死に至った。中国での残留孤児の問題も生じている。

 第2に特徴づけられるものは、囚人の性格である。ドストエフスキーの描く囚人は一般の囚人である。しかしこの作品で描かれる囚人はいわゆる政治犯である。元官僚で娑婆では自動車を乗り回し威張り散らしていたおエラ方のなれの果てのフェチコーワを除けば、すべて心の自由を求め劣悪の条件下でも毅然として生きる人たちである。囚人の持つ暗さはない。心のプライドを失わず、与えられた苛酷な労働を神から与えられた使命と考え、それを喜びと感じている。そこには本来的な労働がある。労働に精を出し、汗をかくことによって、マロースの寒さを忘れる。仕事終了の合図があっても、ショーロフは立ち去ることなく、しばし立ち止まり、仕事の出来栄えを確かめる。まだこの腕もおいぼれていないと自画自賛する。そこには労働の喜びがある。本来的な労働とは生産者と対象との間の物質代謝であり、それによって生産者は精神の高揚を体験する。利潤を求める疎外された部分労働ではない。バプテスト信者のアリョウシャはショーロフに云う「人間には素晴らし者でも神様のお眼には卑しいことなんですから!精神的なことをお祈りしなければいけないんですよ」と。本来の労働の精神性を考えると神につながるものを感じる。

 いわれなき攻撃には反撃する「この毒虫め、貴様らが勝手に刑期を伸ばせる時代は終わったんだ。 今日が娑婆の見納めになるぜ」と看守のデールに班長のチューリンは言う。うしろには副班長のパウロがシャベルを高く振り上げている。他の連中もデールを睨めつけている。デールは震え上がる。引き下がる以外にない。そこには囚人の持つ卑屈さはない。スターリンに対する批判も公然と行われる。「ひげの親爺(スターリンの愛称)がお前らを憐れんでくれるだと!あいつはな血をわけた兄弟でも信じようとはしなかった奴だぞ、お前らみたいなどこの馬の骨か判らない野郎を憐れんでたまるかい」。ここには言論の自由がある。密告があっても保安部は取り上げない。囚人は怖いし、手続きは面倒だ。過酷な生活に苦しみ、右往左往しながらも、彼らは大切なもの=高潔な心を失っていない。

 登場人物を紹介する。


 ヴィノフスキー元海軍中佐 エリート育ちであるが故に生活の知恵を持ち合わせていない。英国に協力し、戦後英国の提督から記念品を贈られたためにラーゲリ入りする。英国はソ連と同じ連合国の一員なのになぜ?

 元映画監督ツェザリ・マルコーヴィチ しばしば芸術談義を戦わす不思議なインテリ。映画監督と云っても1本しか映画は撮っていない。反権力映画であろう。

 バプテスト信者のアリョーシャ:全てを神のおぼしめしと信じ現実を肯定している。「されどもしキリスト教徒としてならば、恥ずることなかれ、かえって、かかる運命(さだめ)の故に神をたたえよ」という福音書の言葉を絶えず唱えている。

 班長のチューリン:父親が富農であったため赤軍を追放され、後にラーゲリ入りする。囚人たちの信望は厚い。白髪の老人

 副班長パウロ:ドイツ戦での英雄

 官僚のなれの果て:フェチコーワ

等々ここでは紹介を省略した囚人たちを含めてソヴェート社会のあらゆる階層(農民、軍人、インテリ、オールドボリシェヴィキ、バプテスト信者、元富農、元官僚等など)を代表する人物が織りなす人間模様がこの作品を彩っている。ソ連(当時)を代表する文芸誌「ノーブイミール(新世界)」の編集長トワルドフスキーは、この作品の「序にかえて」で次のように述べている。「作者は登場人物たちの運命に対して読者の心に哀傷と痛み引き起さざるを得ないが、その哀傷と痛みが、絶望的な打ちひしがれた感情とは少しも共通点がないという点に芸術家としての疑う余地のない勝利がある」と。ソルジェニーツィンは、この作品の中に登場する囚人たちの中に、いや、これらの人と同じ心を持つ人々の中にロシアの未来を託したのである。これらの何に対してもめげることのないロシアの大地に深く根を下した人々に栄光あれと叫びたい。これらの人がいる限りロシアの未来は明るいと信じたい。

ソルジェニーツィン作「イワン・デニーソヴィッチの一日」木村浩訳 新潮文庫
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%81%AE%E4%B8%80%E6%97%A5-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3/dp/4102132015

https://blog.goo.ne.jp/moritake123-2007/e/0470876a9f8f529a113b18453c4c3b41


詳細は

ソルジェニーツィンの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1236.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/795.html#c8

[近代史5] 20世紀の自称共産主義とは一体何だったのか? 中川隆
3. 中川隆[-8363] koaQ7Jey 2021年1月11日 12:33:20 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[43]
ソルジェニーツィン作「イワン・デニーソヴィッチの一日」木村浩訳
2010年01月04日
https://blog.goo.ne.jp/moritake123-2007/e/0470876a9f8f529a113b18453c4c3b41

 この作品「イワンデ二ーソヴィチの一日」はアレクサンドル・イサエヴィッチ・ソルジェニーツィンの作品であり、この作品で彼は1962年11月にソ連文壇にデビューする。その内容はスターリンの大粛清時代に題材をとり、「反逆者」として逮捕され、25年のシベリア流刑の処分を受けたイワン・デニソヴィッチ・ショーロフの獄中での一日の生活を描いたものであり、その極限状態を収容所(ラーゲリ)の内と外において表現する。この作品を掲載した「ノーヴイ・ミール(新世界)」誌は空前の発行部数を誇り、のちに発行された単行本は70万部という驚異的な発行部数を記録した。さらにこれに続く一連の作品(「ガン病棟」、「煉獄の中で」、「1916年10月」)によって彼はノーベル文学賞を受賞し世界的文豪の栄誉を担ったのである。

 私はこの作品の内容を紹介する前にこの作品の背景にあるソ連の状況を述べていこうと思う。

 1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、その年の暮にはルーマニアのチャウシェスク独裁体制が民衆の怨嗟の中で打倒されチャウシェスク夫妻は銃殺された。同年夏のポーランドにおける「連帯(ワルサ議長)」主導政権の成立、1990年の東西ドイツの資本主義的統一によって拍車のかかった東欧「労働者国家圏」の雪崩を打った崩壊はソヴェート政権には衝撃的事件であったにもかかわらず、何もなしえず、そのソヴェート政権もゴルバチョフ、エリツィンによる民主化が進展し、1991年には最終的に崩壊した。それはまさに歴史を画する「革命的」大変動でありスターリンなきあとのスターリン体制の破産と崩壊を意味していた。

 このようにソ連、東欧の社会主義化は世界中の労働者、民衆の希望の星であったにもかかわらず無残な結果に終わったのである。

 その原因はどこにあったのであろうか?

 トロッキーはその著「裏切られた革命」の中で革命後のソ連社会を「過度期社会」と名付けている。それは「資本論」に反する革命(グラムシ)だったからである。マルクスは社会主義革命を高度に発展した資本主義国から移行するものと考えていた。だからトロッキーは遅れた資本主義国から社会主義化したソ連は長期にわたる過度期を経験したのちでなければ、真の社会主義に移行できないと考えたのである。この過度期を真の社会主義に導いていくものをプロレタリア独裁に求めたのである。そしてこのことが重要なのだがこの過度期を特徴づけるものとして、その進む先を、社会主義への進化の道か、その逆に資本主義への後退の道かの二つの可能性を示した。トロッキーは真の社会主義の道を「高度の労働生産性」と「世界同時革命」の二つの柱に求めていた。そしてレーニンも考えていたように西欧の資本主義国の革命の成功により、そこからの資金及び技術の援助によって、ロシア革命は成功に導かれると考えたのである。しかし、トロッキーはレーニンの死後スターリンとの路線論争に敗れメキシコに亡命する。後にスターリンによって送り込まれた刺客(=ラモン・メヂカル=トロッキーの秘書の恋人=映画ではアランドロンが演じていた)によって頭にピッケルを打ちこまれ惨殺される。

 スターリンは西欧先進資本主義国での革命が夢となった段階で、世界同時革命を幻想と考え、一国社会主義革命の総和としての世界革命を考えた。スターリンは一国社会主義革命という困難な課題を、それ以上に困難な課題(内外での敵対勢力との対決)を解決しつつ実現していかねばならなかったのである。この為には強固な指導体制をを必要とした。スターリンによる独裁体制は必然だったといえるであろう。強固な中央集権国家が生まれ、個人崇拝のもと絶対的権力が彼に付与されたのである。この権力は大粛清時代を通じてさらに強化された。

 スターリンにとっての課題は社会主義建設であって、それ以外の発展の道は考えられなかった。資源と労働を一つ(国家)に集中(社会主義的原始的蓄積)し、これを必要な部分に計画的に配分していく。これによって社会主義的工業化と農業の集団化を達成していかなければならなかった。しかしそれは経験則のない史上初の試みであり、試行錯誤の連続であった。その結果としての非効率的運営は経済の停滞を生み出した。NEP(新経済政策:一時的な資本主義的経営の容認)によって生まれ、育ってきた私企業者に工業においても、農業においても勝ることが出来なかった。ネップマンと呼ばれる豊かな私企業者が生まれ、貧農を雇用する富農層が生まれてきた。ここに一つの可能性が芽生えていた。それはこの私的経営者が資本家に転じていく道である。NEPでは国家に供出した残りの生産物を市場で売ることが許されていた。個人的利益を保証する制度は、生産者の労働意欲を高め、その総生産高を増大させたのである。NEPは純経済的に見れば成功を収めていた。この状況は「イワン・デニソヴィッチの一日」の中でも述べられている。コルホーズの停滞、そこで働く人のネップマンのところでのアルバイトをする状況が叙述されている。

 この時ソヴェート政権には二つの道が考えられていた。一つはいわゆる修正主義的道で、それを主張する学者には修正主義の理論的創始者と云われるドイツのベルンシュタインがおり。ソ連国内にはブハーリンがいた。共に過激な政策を排し、資本主義の利点を生かし、否定面を修正していこうというものである。資本主義社会は自由競争の社会であり、優勝劣敗の社会である。その結果、敗者が生まれる。それは資本主義社会の抱える構造的矛盾であり、敗者を自己責任に帰することはできない。そこで修正主義を国是とする国にとって必要なことは、優勝劣敗を放置するのではなく、いかに敗者を救済するかにあった。その方法として国家のとる政策は勝者から多くの税金を取り立て、これを敗者に配分するという福祉政策であり、極端な金持も、貧乏人もいない中間層を中心とした社会を作り、自由と平等を同時に実現していこうというものである。しかしこれを実現するためには経済の発展を必要とする。福祉政策には多くの財源が必要だからである。これは現在、北欧諸国(デンマーク。フィンランド)で行われている政策であり、本来的社会主義(正当)に対し民主社会主義(異端)と呼ばれている。日本の共産党、社民党はこれを目指している政党である。管理された資本主義を目指すのである。

 この種の考えはスターリン統治下においてもブハーリンに見られるように当然生まれていた。これ以外にも多様な考えがあり、一つの考えによって統一されてはいなかった。ブハーリンたちはNEPの結果生まれてきた豊かな私的経営者(ネップマン、富農)を保護育成し、そこから生まれる利潤を税金として一部吸収し、それを社会主義工業やソホーズ、コルホーズに投資し、徐々に社会主義化をしていく漸進的な道を考えていたのである。しかしこのような漸進的な道はスターリンによって資本主義への後退への道と退けられた。そして第2の道である全面的な社会主義的工業化と農業の集団化の道が選択されたのである。ネップマンや富農層は当然これに反発した。当然大きな混乱が生じた。穀物の供出が拒否され、武力衝突も起こった。スターリンはこれに対して武力制圧を行った。富農は逮捕されシベリア送りとなる。その財産は没収された。このような高圧的な政策は政権内部にも反発が生じた。しかし権力の中枢を握ったスターリンはこれらの反権力者に対しては容赦をしなかった。ことごとく逮捕され処刑された。政権内部にいたブハーリンも逮捕され銃殺刑に合う。スターリンの盟友でありライバルでもあったキーロフは暗殺される(この事実は「イワン・デニーソヴィッチの一日」の中でも述べられている)。大粛清時代が始まった。スターリンは自分に反対するものは政権内部の幹部、軍関係者等々政権を担当するものでも容赦をしなかった。自身の指導体制を脅かすと思われる人間はゲーペーウー(総合国家政治保安部)の後を継いだエヌ・ケー・ヴィ・デー(内部人民保安部)を使い、ことごとく逮捕し、後には裁判もなしに処刑した。そこにあったものは派閥争いであり、権力闘争であり、スターリンに気に入られようとする者たちの闘争でもあった。この大粛清は、路線闘争などという単純なものではなく、まさに食うか食われるかの争いであり、相手を食わねば自分が食われるという凄まじさであった。この大粛清はスターリンによってはじめられたにもかかわらず、後には自動的に動き出しスターリンの手を離れた感があった。このような政権内部の粛清とは別に「普通」の人々=労働者、農民、教師、司祭、音楽家、軍人、年金生活者、バレリーナ、乞食等が処刑された。密告が奨励され、子が親を、恋人を友人を、それぞれがそれぞれを密告した。そうすることが自身の安全を保つ方法だったのである。「娑婆じゃーマッチがないといただけで逮捕されるそうだ」、と「イワンデニーソヴィッチの一日」の中で囚人は言う。告発者が逆に告発され処刑に合った事件も述べられている。ラーゲリ内で密告者が殺された事件も書かれている。密告者は極端に嫌われてはいたが、それが正義と考えられていた。お互いがお互いを疑心暗鬼の目で見てだれも信用することのできない不幸な事態が、この時代を特徴づけていた。政治的ヒステリーの嵐が吹き荒れていた。

スターリン自身「私はもうおしまいだ、誰も信用できない。自分自身さえも」という言葉をフルシチョフとミコヤンに云ったということが伝えられている。スターリン自身、絶えず政敵からの暗殺の危機にさらされていた。未遂事件も報告されている。それ故、彼は多くの影武者を用意し、絶えず数人のボデイガードとともに行動し、執務室も幾つも用意し、そこを渡り歩き、その居場所を決して明らかにしなかったという。このように彼の心は決して休まることはなかったのである。そこには独裁者の抱える孤独がある。恐れられてはいても決して親しまれることの無い寂しさ、悲しさがそこにはあったに違いない。その意味では不幸な人間であったと言えよう。天寿を全うできたのが不思議なぐらいである(1879〜1953年 74歳没)。古くはシーザーが最近ではフセインが悲惨な最期を遂げている。大体において独裁者の末路は哀れである。この時代に抹殺された人の数は正確な統計資料がないので、確かなことは言えないが諸説があり、500万人程度の人間が抹殺されたり流刑に処せられたといわれている。

 この時代に抹殺された人の中には多くの外国人も含まれているが、その数、略歴については省略するが、その数は膨大なものがあり、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員が処刑されたという資料もある。
 日本人に関して言えば、手に手を取り合って、ソ連に恋の逃避行を行った女優の岡田嘉子とその愛人演出家の杉本良吉は、不法入国ということもあり、当時の日本はソ連にとって潜在的な仮想敵国であったことから、スパイ容疑で逮捕され、岡田嘉子は10年にも及ぶ強制労働、杉本良吉は銃殺刑に合っている。そのほか共産党員の山本懸蔵、留学中の医師国崎定洞が処刑されている。ソ連社会主義に希望の光を見出しその社会で自らを生かしたいと望み、スパイなど考えたこともない純粋な人までもスターリンは抹殺したのである。そこにはスターリンの危機意識があり、その結果としての過剰反応があったといえよう。この時代はソ連の歴史に汚点を残す暗黒時代であった。この大粛清の時代の後社会的混乱と経済の停滞は長期にわたって続いた。さらに否定的要因として生まれたのがノーメンクラツーラという特権階層であり、彼らは官僚世界を生み出し労働者の上に君臨した。プロレタリア独裁ではなく、プロレタリアに対する独裁が生まれた。ソ連社会の崩壊は、上からのものであったが故に官僚社会は残った。しかしいずれにしてもロシア共和国(ソ連改め)はトロッキーが危惧し、ブハーリンが望んだ民主社会主義的道を選択したのである。今ロシア共和国はソ連時代を引き継ぎ、アメリカに次ぐ大国ではあるが、その内部には多くの矛盾を抱えており、安定していない。ロシアはどこへ行くのであろうか?

 ソルジェニーツィンはこの作品の中で宗教論、芸術論も展開している。社会主義ソ連においても宗教は人々の心に深く根付いていることを示し、さらに当時の芸術家が時の権力に迎合しているがこれは当時の状況下では仕方がなかったのだという元映画監督ツェーザリの意見に対して、「天才というのは、独裁者の趣味なんかで解釈を変えたりしない」とX-123番(収容所内では名前でなく番号で呼ばれていた)の口を借りてソルジェニーツィンは自身の意見を述べている。さらに「芸術とは何をではなくいかにじゃないですか?」という意見に対しては「いかにではなく何をだ」とX‐123は反論する。「如何に」は技術であって、「何を」はテーマである。これは当時の社会主義リアリズムにおける芸術論争を反映している。
 私は今までこの作品が成立した時代背景を中心に述べてきたが、これからはこの作品の内容を中心に述べていきたい。

 ソルジェニーツィン自身は、スターリンを批判した罪で逮捕され、8年間のシベリア流刑に処せられている。その流刑地は一つに限られておらず、その一つにカザフスタンのエキパストーゼにある政治犯のみを収容する特別収容所があった。ここでの実体験が「イワン・デニーソヴィッチの一日」に結実したのである。

 この作品「イワン・デニーソヴィッチの一日」はイワン・デニーソヴィッチ・ショーロフというロシア農民のシベリアでの収容所(ラーゲリ)での一日、その起床から始まって、員数検査、現場作業、食事風景、点呼、就寝を、マロース(極寒)という劣悪環境の中で描き、それを通して大粛清時代=1935〜1939年)のソ連社会主義の過酷な現実を描いている。

 この作品の主人公ショーロフはドイツ戦の時にドイツの捕虜になり、そこから命がけで脱走し、森の中で友軍に助けられたのだが、「反逆罪」で捕えられ25年間の流刑に処せられた。誰もが何故と問うであろう。「反逆者」と「捕虜」の因果関係が分からないからである。その答えは次の叙述で明らかになる。「書類によるとショーロフの罪は祖国への裏切りということになっている。いや彼はそう自白までしたのだ。つまり、自分は祖国を裏切るために捕虜になり、ドイツ諜報部の任務を遂行して、帰還が許されたものである」と。そこにはあるものは自白への強要であり、それを拒否すれば死が待っていたのである。スターリン語録の中には次の言葉がある。「赤軍には捕虜は存在しない。存在するのは「反逆者」のみである」。反逆者にならないためには死しかない。日本にも「死しても虜囚の辱めを受けず」という言葉がある。沖縄での米軍との戦いにおいて、多くの民間人が降伏せず死を選んだというのも共通性を感じその非人間性には怒りを感じる。

 この作品を読んで思い出すのはドストエフスキーによって書かれた「死の家の記録」である。これもドストエフスキーの実体験をもとに書かれたものである。共にシベリアでの過酷なラーゲリ内での生活を描いたものであるが、ドストエフスキーの描くラーゲリ内での生活には笞刑5000回等という過酷さがある反面その生活の中にはおおらかさもある。囚人と村人の間には交流があり手作りの芝居を披露したり看守の目を盗んで(目こぼしを受けて:勿論賄賂を必要とする)ではあるが街の女との接触も出来る。ペットの飼育も出来る。囚人の手創りの品を村人に売り、小遣い稼ぎも出来る。看守の囚人を見る目は優しい。共に虐げられた民という共通意識があるからであろう。しかしこの作品「イワン・デニーソヴィッチの一日」には、そんなおおらかさは一切ない。過酷な生活があるだけである。この作品を特徴づけているものの一つはマロース(極寒)である。ドストエフスキーの作品にはこの表現はない。気温はマイナス40度にもなる。「一本の木立ちもない荒野の上を風がヒューヒューと吹き荒れている。夏はからからに乾ききった風、冬は肌身を刺すマロースの風。この荒野には昔から一本の木立ちも生えたことはないのだ。まして、周りを鉄条網に囲まれた今はなおさらだ」要するに人間の住める環境ではないのだ。その作業とはどんなものだったのだろうか?「囚人は煉瓦を焼いたり、畑を耕したり、壁を塗ったり、家を建てたりさせられる」何のために?勿論工業化のためである。工業化のための資材は運ばれなければならない。だから、鉄道は敷設されねばならないし、トラック輸送のためには道路も作られねばならない。中継地には駅も必要であろう。管理者の住居も建設されねばならない。シベリアには森林がある。木材資源があり、その他の天然資源も豊富である。それらは切り出され、発掘され運ばれなければならない。これらの労働に囚人は動員されたのである。その苛酷さは十分に想像できる。その苛酷さをこの作品は余すことなく描いている。そこにあるのはまさに奴隷労働である。体を温める十分な暖房も無く、身なしの粥のために、一本の煙草のために右往左往する。強靭な肉体と精神なくしては刑期を全うできない。全うするためには生活の知恵を必要とする。仕事の場において、食事の場において、休憩の場においてすらそれを必要とする。管理者に対する袖の下はそのひとつである。そこには生存競争があり、勝ち抜いていかねばならない。それと同時に、そこには同胞愛があり、協調があり、協力がある。生活の知恵を持たない元海軍中佐のヴィノフスキーにはショーロフは手を差し伸べる。

 終戦を控え、日ソ不可侵条約を破り満州(当時)に侵攻したソ連軍はそこに住む日本人の住民、軍人を捕虜として、シベリアに拉致し、そこで強制労働に従事させたがその生活環境はもっと苛酷なものであったであろう。その奴隷労働に耐えきれず多くの日本人は死に至った。中国での残留孤児の問題も生じている。

 第2に特徴づけられるものは、囚人の性格である。ドストエフスキーの描く囚人は一般の囚人である。しかしこの作品で描かれる囚人はいわゆる政治犯である。元官僚で娑婆では自動車を乗り回し威張り散らしていたおエラ方のなれの果てのフェチコーワを除けば、すべて心の自由を求め劣悪の条件下でも毅然として生きる人たちである。囚人の持つ暗さはない。心のプライドを失わず、与えられた苛酷な労働を神から与えられた使命と考え、それを喜びと感じている。そこには本来的な労働がある。労働に精を出し、汗をかくことによって、マロースの寒さを忘れる。仕事終了の合図があっても、ショーロフは立ち去ることなく、しばし立ち止まり、仕事の出来栄えを確かめる。まだこの腕もおいぼれていないと自画自賛する。そこには労働の喜びがある。本来的な労働とは生産者と対象との間の物質代謝であり、それによって生産者は精神の高揚を体験する。利潤を求める疎外された部分労働ではない。バプテスト信者のアリョウシャはショーロフに云う「人間には素晴らし者でも神様のお眼には卑しいことなんですから!精神的なことをお祈りしなければいけないんですよ」と。本来の労働の精神性を考えると神につながるものを感じる。

 いわれなき攻撃には反撃する「この毒虫め、貴様らが勝手に刑期を伸ばせる時代は終わったんだ。 今日が娑婆の見納めになるぜ」と看守のデールに班長のチューリンは言う。うしろには副班長のパウロがシャベルを高く振り上げている。他の連中もデールを睨めつけている。デールは震え上がる。引き下がる以外にない。そこには囚人の持つ卑屈さはない。スターリンに対する批判も公然と行われる。「ひげの親爺(スターリンの愛称)がお前らを憐れんでくれるだと!あいつはな血をわけた兄弟でも信じようとはしなかった奴だぞ、お前らみたいなどこの馬の骨か判らない野郎を憐れんでたまるかい」。ここには言論の自由がある。密告があっても保安部は取り上げない。囚人は怖いし、手続きは面倒だ。過酷な生活に苦しみ、右往左往しながらも、彼らは大切なもの=高潔な心を失っていない。

 登場人物を紹介する。


 ヴィノフスキー元海軍中佐 エリート育ちであるが故に生活の知恵を持ち合わせていない。英国に協力し、戦後英国の提督から記念品を贈られたためにラーゲリ入りする。英国はソ連と同じ連合国の一員なのになぜ?

 元映画監督ツェザリ・マルコーヴィチ しばしば芸術談義を戦わす不思議なインテリ。映画監督と云っても1本しか映画は撮っていない。反権力映画であろう。

 バプテスト信者のアリョーシャ:全てを神のおぼしめしと信じ現実を肯定している。「されどもしキリスト教徒としてならば、恥ずることなかれ、かえって、かかる運命(さだめ)の故に神をたたえよ」という福音書の言葉を絶えず唱えている。

 班長のチューリン:父親が富農であったため赤軍を追放され、後にラーゲリ入りする。囚人たちの信望は厚い。白髪の老人

 副班長パウロ:ドイツ戦での英雄

 官僚のなれの果て:フェチコーワ

等々ここでは紹介を省略した囚人たちを含めてソヴェート社会のあらゆる階層(農民、軍人、インテリ、オールドボリシェヴィキ、バプテスト信者、元富農、元官僚等など)を代表する人物が織りなす人間模様がこの作品を彩っている。ソ連(当時)を代表する文芸誌「ノーブイミール(新世界)」の編集長トワルドフスキーは、この作品の「序にかえて」で次のように述べている。「作者は登場人物たちの運命に対して読者の心に哀傷と痛み引き起さざるを得ないが、その哀傷と痛みが、絶望的な打ちひしがれた感情とは少しも共通点がないという点に芸術家としての疑う余地のない勝利がある」と。ソルジェニーツィンは、この作品の中に登場する囚人たちの中に、いや、これらの人と同じ心を持つ人々の中にロシアの未来を託したのである。これらの何に対してもめげることのないロシアの大地に深く根を下した人々に栄光あれと叫びたい。これらの人がいる限りロシアの未来は明るいと信じたい。

ソルジェニーツィン作「イワン・デニーソヴィッチの一日」木村浩訳 新潮文庫
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%81%AE%E4%B8%80%E6%97%A5-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3/dp/4102132015

https://blog.goo.ne.jp/moritake123-2007/e/0470876a9f8f529a113b18453c4c3b41


詳細は

ソルジェニーツィンの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1236.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/116.html#c3

[経世済民72] ロシアの若者の間でスターリンがじわじわ人気上昇中 中川隆
7. 中川隆[-8362] koaQ7Jey 2021年1月11日 12:34:11 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[44]
ソルジェニーツィン作「イワン・デニーソヴィッチの一日」木村浩訳
2010年01月04日
https://blog.goo.ne.jp/moritake123-2007/e/0470876a9f8f529a113b18453c4c3b41

 この作品「イワンデ二ーソヴィチの一日」はアレクサンドル・イサエヴィッチ・ソルジェニーツィンの作品であり、この作品で彼は1962年11月にソ連文壇にデビューする。その内容はスターリンの大粛清時代に題材をとり、「反逆者」として逮捕され、25年のシベリア流刑の処分を受けたイワン・デニソヴィッチ・ショーロフの獄中での一日の生活を描いたものであり、その極限状態を収容所(ラーゲリ)の内と外において表現する。この作品を掲載した「ノーヴイ・ミール(新世界)」誌は空前の発行部数を誇り、のちに発行された単行本は70万部という驚異的な発行部数を記録した。さらにこれに続く一連の作品(「ガン病棟」、「煉獄の中で」、「1916年10月」)によって彼はノーベル文学賞を受賞し世界的文豪の栄誉を担ったのである。

 私はこの作品の内容を紹介する前にこの作品の背景にあるソ連の状況を述べていこうと思う。

 1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、その年の暮にはルーマニアのチャウシェスク独裁体制が民衆の怨嗟の中で打倒されチャウシェスク夫妻は銃殺された。同年夏のポーランドにおける「連帯(ワルサ議長)」主導政権の成立、1990年の東西ドイツの資本主義的統一によって拍車のかかった東欧「労働者国家圏」の雪崩を打った崩壊はソヴェート政権には衝撃的事件であったにもかかわらず、何もなしえず、そのソヴェート政権もゴルバチョフ、エリツィンによる民主化が進展し、1991年には最終的に崩壊した。それはまさに歴史を画する「革命的」大変動でありスターリンなきあとのスターリン体制の破産と崩壊を意味していた。

 このようにソ連、東欧の社会主義化は世界中の労働者、民衆の希望の星であったにもかかわらず無残な結果に終わったのである。

 その原因はどこにあったのであろうか?

 トロッキーはその著「裏切られた革命」の中で革命後のソ連社会を「過度期社会」と名付けている。それは「資本論」に反する革命(グラムシ)だったからである。マルクスは社会主義革命を高度に発展した資本主義国から移行するものと考えていた。だからトロッキーは遅れた資本主義国から社会主義化したソ連は長期にわたる過度期を経験したのちでなければ、真の社会主義に移行できないと考えたのである。この過度期を真の社会主義に導いていくものをプロレタリア独裁に求めたのである。そしてこのことが重要なのだがこの過度期を特徴づけるものとして、その進む先を、社会主義への進化の道か、その逆に資本主義への後退の道かの二つの可能性を示した。トロッキーは真の社会主義の道を「高度の労働生産性」と「世界同時革命」の二つの柱に求めていた。そしてレーニンも考えていたように西欧の資本主義国の革命の成功により、そこからの資金及び技術の援助によって、ロシア革命は成功に導かれると考えたのである。しかし、トロッキーはレーニンの死後スターリンとの路線論争に敗れメキシコに亡命する。後にスターリンによって送り込まれた刺客(=ラモン・メヂカル=トロッキーの秘書の恋人=映画ではアランドロンが演じていた)によって頭にピッケルを打ちこまれ惨殺される。

 スターリンは西欧先進資本主義国での革命が夢となった段階で、世界同時革命を幻想と考え、一国社会主義革命の総和としての世界革命を考えた。スターリンは一国社会主義革命という困難な課題を、それ以上に困難な課題(内外での敵対勢力との対決)を解決しつつ実現していかねばならなかったのである。この為には強固な指導体制をを必要とした。スターリンによる独裁体制は必然だったといえるであろう。強固な中央集権国家が生まれ、個人崇拝のもと絶対的権力が彼に付与されたのである。この権力は大粛清時代を通じてさらに強化された。

 スターリンにとっての課題は社会主義建設であって、それ以外の発展の道は考えられなかった。資源と労働を一つ(国家)に集中(社会主義的原始的蓄積)し、これを必要な部分に計画的に配分していく。これによって社会主義的工業化と農業の集団化を達成していかなければならなかった。しかしそれは経験則のない史上初の試みであり、試行錯誤の連続であった。その結果としての非効率的運営は経済の停滞を生み出した。NEP(新経済政策:一時的な資本主義的経営の容認)によって生まれ、育ってきた私企業者に工業においても、農業においても勝ることが出来なかった。ネップマンと呼ばれる豊かな私企業者が生まれ、貧農を雇用する富農層が生まれてきた。ここに一つの可能性が芽生えていた。それはこの私的経営者が資本家に転じていく道である。NEPでは国家に供出した残りの生産物を市場で売ることが許されていた。個人的利益を保証する制度は、生産者の労働意欲を高め、その総生産高を増大させたのである。NEPは純経済的に見れば成功を収めていた。この状況は「イワン・デニソヴィッチの一日」の中でも述べられている。コルホーズの停滞、そこで働く人のネップマンのところでのアルバイトをする状況が叙述されている。

 この時ソヴェート政権には二つの道が考えられていた。一つはいわゆる修正主義的道で、それを主張する学者には修正主義の理論的創始者と云われるドイツのベルンシュタインがおり。ソ連国内にはブハーリンがいた。共に過激な政策を排し、資本主義の利点を生かし、否定面を修正していこうというものである。資本主義社会は自由競争の社会であり、優勝劣敗の社会である。その結果、敗者が生まれる。それは資本主義社会の抱える構造的矛盾であり、敗者を自己責任に帰することはできない。そこで修正主義を国是とする国にとって必要なことは、優勝劣敗を放置するのではなく、いかに敗者を救済するかにあった。その方法として国家のとる政策は勝者から多くの税金を取り立て、これを敗者に配分するという福祉政策であり、極端な金持も、貧乏人もいない中間層を中心とした社会を作り、自由と平等を同時に実現していこうというものである。しかしこれを実現するためには経済の発展を必要とする。福祉政策には多くの財源が必要だからである。これは現在、北欧諸国(デンマーク。フィンランド)で行われている政策であり、本来的社会主義(正当)に対し民主社会主義(異端)と呼ばれている。日本の共産党、社民党はこれを目指している政党である。管理された資本主義を目指すのである。

 この種の考えはスターリン統治下においてもブハーリンに見られるように当然生まれていた。これ以外にも多様な考えがあり、一つの考えによって統一されてはいなかった。ブハーリンたちはNEPの結果生まれてきた豊かな私的経営者(ネップマン、富農)を保護育成し、そこから生まれる利潤を税金として一部吸収し、それを社会主義工業やソホーズ、コルホーズに投資し、徐々に社会主義化をしていく漸進的な道を考えていたのである。しかしこのような漸進的な道はスターリンによって資本主義への後退への道と退けられた。そして第2の道である全面的な社会主義的工業化と農業の集団化の道が選択されたのである。ネップマンや富農層は当然これに反発した。当然大きな混乱が生じた。穀物の供出が拒否され、武力衝突も起こった。スターリンはこれに対して武力制圧を行った。富農は逮捕されシベリア送りとなる。その財産は没収された。このような高圧的な政策は政権内部にも反発が生じた。しかし権力の中枢を握ったスターリンはこれらの反権力者に対しては容赦をしなかった。ことごとく逮捕され処刑された。政権内部にいたブハーリンも逮捕され銃殺刑に合う。スターリンの盟友でありライバルでもあったキーロフは暗殺される(この事実は「イワン・デニーソヴィッチの一日」の中でも述べられている)。大粛清時代が始まった。スターリンは自分に反対するものは政権内部の幹部、軍関係者等々政権を担当するものでも容赦をしなかった。自身の指導体制を脅かすと思われる人間はゲーペーウー(総合国家政治保安部)の後を継いだエヌ・ケー・ヴィ・デー(内部人民保安部)を使い、ことごとく逮捕し、後には裁判もなしに処刑した。そこにあったものは派閥争いであり、権力闘争であり、スターリンに気に入られようとする者たちの闘争でもあった。この大粛清は、路線闘争などという単純なものではなく、まさに食うか食われるかの争いであり、相手を食わねば自分が食われるという凄まじさであった。この大粛清はスターリンによってはじめられたにもかかわらず、後には自動的に動き出しスターリンの手を離れた感があった。このような政権内部の粛清とは別に「普通」の人々=労働者、農民、教師、司祭、音楽家、軍人、年金生活者、バレリーナ、乞食等が処刑された。密告が奨励され、子が親を、恋人を友人を、それぞれがそれぞれを密告した。そうすることが自身の安全を保つ方法だったのである。「娑婆じゃーマッチがないといただけで逮捕されるそうだ」、と「イワンデニーソヴィッチの一日」の中で囚人は言う。告発者が逆に告発され処刑に合った事件も述べられている。ラーゲリ内で密告者が殺された事件も書かれている。密告者は極端に嫌われてはいたが、それが正義と考えられていた。お互いがお互いを疑心暗鬼の目で見てだれも信用することのできない不幸な事態が、この時代を特徴づけていた。政治的ヒステリーの嵐が吹き荒れていた。

スターリン自身「私はもうおしまいだ、誰も信用できない。自分自身さえも」という言葉をフルシチョフとミコヤンに云ったということが伝えられている。スターリン自身、絶えず政敵からの暗殺の危機にさらされていた。未遂事件も報告されている。それ故、彼は多くの影武者を用意し、絶えず数人のボデイガードとともに行動し、執務室も幾つも用意し、そこを渡り歩き、その居場所を決して明らかにしなかったという。このように彼の心は決して休まることはなかったのである。そこには独裁者の抱える孤独がある。恐れられてはいても決して親しまれることの無い寂しさ、悲しさがそこにはあったに違いない。その意味では不幸な人間であったと言えよう。天寿を全うできたのが不思議なぐらいである(1879〜1953年 74歳没)。古くはシーザーが最近ではフセインが悲惨な最期を遂げている。大体において独裁者の末路は哀れである。この時代に抹殺された人の数は正確な統計資料がないので、確かなことは言えないが諸説があり、500万人程度の人間が抹殺されたり流刑に処せられたといわれている。

 この時代に抹殺された人の中には多くの外国人も含まれているが、その数、略歴については省略するが、その数は膨大なものがあり、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員が処刑されたという資料もある。
 日本人に関して言えば、手に手を取り合って、ソ連に恋の逃避行を行った女優の岡田嘉子とその愛人演出家の杉本良吉は、不法入国ということもあり、当時の日本はソ連にとって潜在的な仮想敵国であったことから、スパイ容疑で逮捕され、岡田嘉子は10年にも及ぶ強制労働、杉本良吉は銃殺刑に合っている。そのほか共産党員の山本懸蔵、留学中の医師国崎定洞が処刑されている。ソ連社会主義に希望の光を見出しその社会で自らを生かしたいと望み、スパイなど考えたこともない純粋な人までもスターリンは抹殺したのである。そこにはスターリンの危機意識があり、その結果としての過剰反応があったといえよう。この時代はソ連の歴史に汚点を残す暗黒時代であった。この大粛清の時代の後社会的混乱と経済の停滞は長期にわたって続いた。さらに否定的要因として生まれたのがノーメンクラツーラという特権階層であり、彼らは官僚世界を生み出し労働者の上に君臨した。プロレタリア独裁ではなく、プロレタリアに対する独裁が生まれた。ソ連社会の崩壊は、上からのものであったが故に官僚社会は残った。しかしいずれにしてもロシア共和国(ソ連改め)はトロッキーが危惧し、ブハーリンが望んだ民主社会主義的道を選択したのである。今ロシア共和国はソ連時代を引き継ぎ、アメリカに次ぐ大国ではあるが、その内部には多くの矛盾を抱えており、安定していない。ロシアはどこへ行くのであろうか?

 ソルジェニーツィンはこの作品の中で宗教論、芸術論も展開している。社会主義ソ連においても宗教は人々の心に深く根付いていることを示し、さらに当時の芸術家が時の権力に迎合しているがこれは当時の状況下では仕方がなかったのだという元映画監督ツェーザリの意見に対して、「天才というのは、独裁者の趣味なんかで解釈を変えたりしない」とX-123番(収容所内では名前でなく番号で呼ばれていた)の口を借りてソルジェニーツィンは自身の意見を述べている。さらに「芸術とは何をではなくいかにじゃないですか?」という意見に対しては「いかにではなく何をだ」とX‐123は反論する。「如何に」は技術であって、「何を」はテーマである。これは当時の社会主義リアリズムにおける芸術論争を反映している。
 私は今までこの作品が成立した時代背景を中心に述べてきたが、これからはこの作品の内容を中心に述べていきたい。

 ソルジェニーツィン自身は、スターリンを批判した罪で逮捕され、8年間のシベリア流刑に処せられている。その流刑地は一つに限られておらず、その一つにカザフスタンのエキパストーゼにある政治犯のみを収容する特別収容所があった。ここでの実体験が「イワン・デニーソヴィッチの一日」に結実したのである。

 この作品「イワン・デニーソヴィッチの一日」はイワン・デニーソヴィッチ・ショーロフというロシア農民のシベリアでの収容所(ラーゲリ)での一日、その起床から始まって、員数検査、現場作業、食事風景、点呼、就寝を、マロース(極寒)という劣悪環境の中で描き、それを通して大粛清時代=1935〜1939年)のソ連社会主義の過酷な現実を描いている。

 この作品の主人公ショーロフはドイツ戦の時にドイツの捕虜になり、そこから命がけで脱走し、森の中で友軍に助けられたのだが、「反逆罪」で捕えられ25年間の流刑に処せられた。誰もが何故と問うであろう。「反逆者」と「捕虜」の因果関係が分からないからである。その答えは次の叙述で明らかになる。「書類によるとショーロフの罪は祖国への裏切りということになっている。いや彼はそう自白までしたのだ。つまり、自分は祖国を裏切るために捕虜になり、ドイツ諜報部の任務を遂行して、帰還が許されたものである」と。そこにはあるものは自白への強要であり、それを拒否すれば死が待っていたのである。スターリン語録の中には次の言葉がある。「赤軍には捕虜は存在しない。存在するのは「反逆者」のみである」。反逆者にならないためには死しかない。日本にも「死しても虜囚の辱めを受けず」という言葉がある。沖縄での米軍との戦いにおいて、多くの民間人が降伏せず死を選んだというのも共通性を感じその非人間性には怒りを感じる。

 この作品を読んで思い出すのはドストエフスキーによって書かれた「死の家の記録」である。これもドストエフスキーの実体験をもとに書かれたものである。共にシベリアでの過酷なラーゲリ内での生活を描いたものであるが、ドストエフスキーの描くラーゲリ内での生活には笞刑5000回等という過酷さがある反面その生活の中にはおおらかさもある。囚人と村人の間には交流があり手作りの芝居を披露したり看守の目を盗んで(目こぼしを受けて:勿論賄賂を必要とする)ではあるが街の女との接触も出来る。ペットの飼育も出来る。囚人の手創りの品を村人に売り、小遣い稼ぎも出来る。看守の囚人を見る目は優しい。共に虐げられた民という共通意識があるからであろう。しかしこの作品「イワン・デニーソヴィッチの一日」には、そんなおおらかさは一切ない。過酷な生活があるだけである。この作品を特徴づけているものの一つはマロース(極寒)である。ドストエフスキーの作品にはこの表現はない。気温はマイナス40度にもなる。「一本の木立ちもない荒野の上を風がヒューヒューと吹き荒れている。夏はからからに乾ききった風、冬は肌身を刺すマロースの風。この荒野には昔から一本の木立ちも生えたことはないのだ。まして、周りを鉄条網に囲まれた今はなおさらだ」要するに人間の住める環境ではないのだ。その作業とはどんなものだったのだろうか?「囚人は煉瓦を焼いたり、畑を耕したり、壁を塗ったり、家を建てたりさせられる」何のために?勿論工業化のためである。工業化のための資材は運ばれなければならない。だから、鉄道は敷設されねばならないし、トラック輸送のためには道路も作られねばならない。中継地には駅も必要であろう。管理者の住居も建設されねばならない。シベリアには森林がある。木材資源があり、その他の天然資源も豊富である。それらは切り出され、発掘され運ばれなければならない。これらの労働に囚人は動員されたのである。その苛酷さは十分に想像できる。その苛酷さをこの作品は余すことなく描いている。そこにあるのはまさに奴隷労働である。体を温める十分な暖房も無く、身なしの粥のために、一本の煙草のために右往左往する。強靭な肉体と精神なくしては刑期を全うできない。全うするためには生活の知恵を必要とする。仕事の場において、食事の場において、休憩の場においてすらそれを必要とする。管理者に対する袖の下はそのひとつである。そこには生存競争があり、勝ち抜いていかねばならない。それと同時に、そこには同胞愛があり、協調があり、協力がある。生活の知恵を持たない元海軍中佐のヴィノフスキーにはショーロフは手を差し伸べる。

 終戦を控え、日ソ不可侵条約を破り満州(当時)に侵攻したソ連軍はそこに住む日本人の住民、軍人を捕虜として、シベリアに拉致し、そこで強制労働に従事させたがその生活環境はもっと苛酷なものであったであろう。その奴隷労働に耐えきれず多くの日本人は死に至った。中国での残留孤児の問題も生じている。

 第2に特徴づけられるものは、囚人の性格である。ドストエフスキーの描く囚人は一般の囚人である。しかしこの作品で描かれる囚人はいわゆる政治犯である。元官僚で娑婆では自動車を乗り回し威張り散らしていたおエラ方のなれの果てのフェチコーワを除けば、すべて心の自由を求め劣悪の条件下でも毅然として生きる人たちである。囚人の持つ暗さはない。心のプライドを失わず、与えられた苛酷な労働を神から与えられた使命と考え、それを喜びと感じている。そこには本来的な労働がある。労働に精を出し、汗をかくことによって、マロースの寒さを忘れる。仕事終了の合図があっても、ショーロフは立ち去ることなく、しばし立ち止まり、仕事の出来栄えを確かめる。まだこの腕もおいぼれていないと自画自賛する。そこには労働の喜びがある。本来的な労働とは生産者と対象との間の物質代謝であり、それによって生産者は精神の高揚を体験する。利潤を求める疎外された部分労働ではない。バプテスト信者のアリョウシャはショーロフに云う「人間には素晴らし者でも神様のお眼には卑しいことなんですから!精神的なことをお祈りしなければいけないんですよ」と。本来の労働の精神性を考えると神につながるものを感じる。

 いわれなき攻撃には反撃する「この毒虫め、貴様らが勝手に刑期を伸ばせる時代は終わったんだ。 今日が娑婆の見納めになるぜ」と看守のデールに班長のチューリンは言う。うしろには副班長のパウロがシャベルを高く振り上げている。他の連中もデールを睨めつけている。デールは震え上がる。引き下がる以外にない。そこには囚人の持つ卑屈さはない。スターリンに対する批判も公然と行われる。「ひげの親爺(スターリンの愛称)がお前らを憐れんでくれるだと!あいつはな血をわけた兄弟でも信じようとはしなかった奴だぞ、お前らみたいなどこの馬の骨か判らない野郎を憐れんでたまるかい」。ここには言論の自由がある。密告があっても保安部は取り上げない。囚人は怖いし、手続きは面倒だ。過酷な生活に苦しみ、右往左往しながらも、彼らは大切なもの=高潔な心を失っていない。

 登場人物を紹介する。


 ヴィノフスキー元海軍中佐 エリート育ちであるが故に生活の知恵を持ち合わせていない。英国に協力し、戦後英国の提督から記念品を贈られたためにラーゲリ入りする。英国はソ連と同じ連合国の一員なのになぜ?

 元映画監督ツェザリ・マルコーヴィチ しばしば芸術談義を戦わす不思議なインテリ。映画監督と云っても1本しか映画は撮っていない。反権力映画であろう。

 バプテスト信者のアリョーシャ:全てを神のおぼしめしと信じ現実を肯定している。「されどもしキリスト教徒としてならば、恥ずることなかれ、かえって、かかる運命(さだめ)の故に神をたたえよ」という福音書の言葉を絶えず唱えている。

 班長のチューリン:父親が富農であったため赤軍を追放され、後にラーゲリ入りする。囚人たちの信望は厚い。白髪の老人

 副班長パウロ:ドイツ戦での英雄

 官僚のなれの果て:フェチコーワ

等々ここでは紹介を省略した囚人たちを含めてソヴェート社会のあらゆる階層(農民、軍人、インテリ、オールドボリシェヴィキ、バプテスト信者、元富農、元官僚等など)を代表する人物が織りなす人間模様がこの作品を彩っている。ソ連(当時)を代表する文芸誌「ノーブイミール(新世界)」の編集長トワルドフスキーは、この作品の「序にかえて」で次のように述べている。「作者は登場人物たちの運命に対して読者の心に哀傷と痛み引き起さざるを得ないが、その哀傷と痛みが、絶望的な打ちひしがれた感情とは少しも共通点がないという点に芸術家としての疑う余地のない勝利がある」と。ソルジェニーツィンは、この作品の中に登場する囚人たちの中に、いや、これらの人と同じ心を持つ人々の中にロシアの未来を託したのである。これらの何に対してもめげることのないロシアの大地に深く根を下した人々に栄光あれと叫びたい。これらの人がいる限りロシアの未来は明るいと信じたい。

ソルジェニーツィン作「イワン・デニーソヴィッチの一日」木村浩訳 新潮文庫
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%81%AE%E4%B8%80%E6%97%A5-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3/dp/4102132015

https://blog.goo.ne.jp/moritake123-2007/e/0470876a9f8f529a113b18453c4c3b41


詳細は

ソルジェニーツィンの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1236.html
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/757.html#c7

[近代史4] 中国政府はコロナ発生原因の調査を必死に拒んでいる 中川隆
1. 中川隆[-8361] koaQ7Jey 2021年1月11日 15:23:30 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[45]
河添恵子 : 習政権が必死に隠している武漢コロナ・ウイルスの発生源
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/602.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1237.html#c1
[近代史4] 河添恵子 : 習政権が必死に隠している武漢コロナ・ウイルスの発生源 中川隆
34. 中川隆[-8360] koaQ7Jey 2021年1月11日 15:24:53 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[46]

01-11 「中国一人勝ち」報道してたマスコミは何だったの?
2021/01/11




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/602.html#c34
[近代史5] CSIS _ 背景はヤバい奴らのガチバトル 中川隆
5. 中川隆[-8359] koaQ7Jey 2021年1月11日 16:17:51 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[47]
2018.06.05
最強のペンタゴン一族=ファルネーゼ一族 ジョージタウン大学とCSISの由来
https://golden-tamatama.com/blog-entry-farnese-family.html


さて、先日書いた続きです。

ところで地図をみたらバチカン市国ってやっぱり小っこいですね。
東京ディズニーランドか!

さて、以下、最近、シェアされてきた情報です。
なんでもあの白法王。フランシスコさんがタイーホされてしまうとか。
これ本当でしょうか?

6月21日フランシス法王が逮捕される
http://beforeitsnews.com/celebrities/2018/05/pope-francis-to-be-arrested-for-child-trafficking-homicide-2475400.html

イェーイ!6月21日にタイーホされるってよ。みんな元気してる?

って、愛嬌振りまいてる場合か!
まぁ、ガセネタかも知りませんが。

さて、バチカンの裏にいる貴族達の話の続きですが、
ちなみにこういう話はワタスの趣味で書いてるので気にしないように。

くほほ。
面白いですね~。
ワタスは面白楽しく書いてるのですが気分が悪くなる人は読まないように。

だいたいこういう奴らの話は、
職場の嫌な野郎とかクラスのいけ好かない野郎に目を向けるのと同じです。

そんな連中のことを色々調べたってなんの得にもなりません。
不愉快な野郎は放置。

悪魔の倒し方は実はひじょーーに単純です。
人に悪意を放つ人間は、放置すれば悪意が巡り戻って自滅してしまうのです。

これはネットにあった秀逸な漫画。


まさに量子力学ですね。
目を向けないと消え去ってしまうのです。

悪を怖がる必要はない。
そして倒そうとする必要もない。
ただ関わり合いにならなければ良いだけです。

こういうおバカな人達がいるんだな〜と知ってれば悪の釣りに引っかからなくて済むのです。

さて、日本人がバチカン、ローマカトリックで思い出すのがフランシスコザビエルさんですね。

ご存知の通り、ザビエルさんはイエズス会の宣教師ですた。

その昔、布教と言いつつ日本にやってきましたね。
でも、布教とは口先だけで、本当は日本を植民地化する先兵だったのでした。
教会と牧師ネットワークは最強の諜報組織サンタアリアンザなのでした。

日本は秀吉や家康がいち早く気づいて、キリスト教を全面禁止にして助かったのです。
あのままカトリック教徒が増えてればスペイン国王の命令で反乱を起こす兵隊に育っていたことでしょう。

ちなみに皆様はアメリカのジョージタウン大学はご存知でしょうか。

ジョージタウン大学
http://www.georgetown.edu/


学生数は、15,318人。
ワシントンD.C.の近郊、ジョージタウンに位置する。

1634年に起源を持ち、1789年1月23日ジョン・キャロル大司教によって創設された。アメリカ合衆国におけるカトリック教会及び、イエズス会創設の大学としては、最古の歴史を持つ。

この大学は、ローマカトリック、イエズス会が作ったのです。

なぜかアメリカの外交官、軍人のトップはこのジョージタウン大卒ばかりです。
以下、ジョージタウン大学卒の官僚リスト。大物ばかりです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Georgetown_University

ジョージ・テネット(911の時にCIA長官)ジョージタウン大学卒
デヴィッド・ペトレイアス(CIA長官)ジョージタウン大学で軍事奨学生プログラム履行
マイケル・モレル(CIA長官)ジョージタウン大学院生。
ジョン・オーウェン・ブレナン(CIA長官)ジョージタウン大学卒

ドナルド・ラムズフェルド(国防長官)一時期ジョージタウン大で学ぶ
ロバート・ゲーツ(国防長官) ジョージタウン大でPh.D
チャック・ヘーゲル(国防長官)ジョージタウン大で教授

フィリップビルデン (海軍長官) ジョージタウン大学卒
ジェーン・ホール・リュート (国土安全保障省副長官、サイバーセキュリティ評議会CEO) ジョージタウン大学卒
スティーヴン・マル (米国国務省長官) ジョージタウン大学卒
アン・E.ロンダーウ (国防大学代表) ジョージタウン大学卒
ウィリアム・D・サリヴァン (NATO米軍代表) ジョージタウン大学卒
ジェームズH.ウェッブ (米海軍長官) ジョージタウン大学卒

つぉぉ。海軍とか国防長官とか。NATO代表とか。
なんでジョージタウン大学卒ばっかなんだ?

そりゃ、この大学がイエズス会が作ったのだから当たり前です。

そしてジョージタウン大学の中に作られた最強のシンクタンクと言えばCSIS(戦略国際問題研究所)。
Wikipediaにちゃんと載ってますよね。

戦略国際問題研究所
http://ja.wikipedia.org/wiki/戦略国際問題研究所
戦略国際問題研究所(せんりゃくこくさいもんだいけんきゅうじょ、Center for Strategic and International Studies, CSIS)は、1962年に設立された超党派のシンクタンクである。アメリカ合衆国のワシントンD.C.に位置する。
・・全世界のシンクタンクをランク付けしたペンシルベニア大学によるレポートによれば、CSISは防衛・国家安全保障で世界第1位にランクされており・・

沿革
元々はイエズス会神父、エドマンド・アロイシウス・ウォルシュ(Edmund Aloysius Walsh、1885年10月10日 – 1956年10月31日)によって、1919年にジョージタウン大学内に、「エドマンド A. ウォルシュ外交学院」(Edmund A. Walsh School of Foreign Service、略称SFS)として創設された組織が改組されたものである。エドマンド・ウォルシュは地政学者カール・ハウスホーファーの弟子であり、その学問をアメリカに移植することを目的とした組織であった。

CSISについては、もう書くまでもないでしょう。
もうネットで調べれば散々書かれてるのでここでは詳しく書きません。

とにかく、アメリカを支配するジョージタウン大学とCSIS。
それはイエズス会が作ったのです。

さて、ではそのイエズス会を作ったのはどこのどいつでしょうか?

そう。それこそファルネーゼ一族なのですた。
イエズス会はイタリアのローマ時代から続く古い貴族ファルネーゼ一族によって作られたのですた。
16世紀頃のことです。
これはあまり知られてない事実です。

これはイタリア ローマ近くのカプラローラ地方のファルネーゼ宮殿です。Farnese.jpg
はりゃ?なんかどっかで見たような。。
d0123476_5175713.jpg
そう。
アメリカの国防総省は現代のファルネーゼの居城なのですた。

そこの兵隊を自分の大学で教育する。
そりゃ当たり前のことでしょう。

イエズス会というのは宗教組織ではなく元々軍事諜報組織なのです。
創設者で初代総長のイグナチオ・ロヨラさんは軍人です。

ファルネーゼ一族というのは最盛期は、パルマ公国という国を作っていました。
イタリア北部。そしてスイスの下にありました。

ファルネーゼ一族の紋章。



ファルネーゼ一族は古くはローマ教皇パウルス3世を輩出し、
その後は、スペイン・ブルボン王家になります。
つまりローマ教皇とスペイン国王の家系なのです。

以下は、美貌の誉れ高いクレーリア・ファルネーゼの肖像画
20091105054646.jpg
パラティーノの丘に残るファルネーゼ庭園 ( Horti Farnesiani )
20091105052006.jpg
カプラローラのファルネーゼ宮の螺旋階段
20090514000812.jpg
以下は最近のニュースです。

http://blogos.com/article/297471/

欧州の王室で受け継がれたダイヤ、予想上回る約7.4億円で落札
[ジュネーブ 15日 ロイター] – スイスのジュネーブで15日、欧州のロイヤルファミリーで約300年にわたり受け継がれてきた「ファルネーゼ・ブルー」と呼ばれるダイヤモンドが競売に掛けられ、予想落札価格を上回る670万スイスフラン(約7億4000万円)の値が付いた。
競売会社サザビーズは350万─500万フランで落札されると予想していた。

出品されたのは6.16カラットのダーク・グレーブルーのダイヤ。インド原産で、パルマ公の娘エリザベッタ・ファルネーゼがスペイン王フェリペ5世と結婚した際に贈られたもの。その後、7世代以上にわたり、スペイン、フランス、イタリア、オーストリアの王室で受け継がれた。

ファルネーゼ最盛期で有名なのがこのパルマ公です。

アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)

20091105051810.jpg
アレッサンドロ・ファルネーゼ(Alessandro Farnese, 1545年8月27日 – 1592年12月3日)は、スペインの軍人、第3代パルマ公およびピアチェンツァ公(在位:1586年 – 1592年)。

その後、母がスペイン・ハプスブルク家の出身であることから、スペイン軍に就いて軍事的才能を発揮した。

ファルネーゼとは、ローマ教皇とスペイン国王一族。

ちなみに現代では、こういう上院議員がシレっと存在してます。

SenatorLarryFarnese
上院議員ラリー・ファルネーゼ。
2008年にペンシルベニア州上院に最初に選出され、第一次上院議員地区を代表するために2016年に第三期に再選されました。

という訳で、ロックフェラーやロスチャイルドが世界を牛耳ってるとかなんとか。
アホか。。

単なる金貸しとペンタゴンのどっちが上と思ってるんだ。

ロックふぇら、ロス茶などチンカス。
ペンタゴン=ファルネーゼがその気になれば一瞬で吹き飛ぶ単なる御用聞きなのです。

皆様はダミー情報に引っかかってるのですた。

ふー。
という訳で、一昔前ならおっかなくて書けなかった記事も書けるようになって良かった良かった。
https://golden-tamatama.com/blog-entry-farnese-family.html

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/253.html#c5

[お知らせ・管理21] 2021年01月 困った時、意見、提案、相談などなんでも。管理人が24時間以内に必ず見るスレ 管理人さん
22. 2021年1月11日 16:50:01 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[48]

原発板の投稿もすべてそうですが、こういう投稿はカルト板に投稿した方がいいのではないですか?

バイデン前副大統領、ペロシ下院議長らによる「クーデター」はあえなく失敗に終わった。関係者は「国家反逆罪」に問われて逮捕され、軍規に従って全員銃殺刑に処せられ(板垣 英憲)
http://www.asyura2.com/20/kokusai29/msg/892.html
投稿者 笑坊 日時 2021 年 1 月 11 日 14:52:23: EaaOcpw/cGfrA j86WVg
 

https://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/79e7079d5c621f7c9d48b1d230969497
2021年01月11日 板垣 英憲(いたがき えいけん)「マスコミに出ない政治経済の裏話」

◆〔特別情報1〕
 米軍、米CIAに深く関係している軍事専門家からのトップ情報によると、「米軍最高司令官であるトランプ大統領は戒厳令を敷いた。国家反逆罪で逮捕されることを恐れていたペロシ下院議長は、自宅で隠れていたところを特殊部隊に逮捕された。それに続いて、デルタフォースが不正選挙に関与していたイタリアを襲撃、ジュゼッペ・コンテ首相がやられているとの一報。バイデン前副大統領は実は、新年早々に自宅を襲撃されており、地下からは手錠のついた肉片がたくさんみつかり、その地下からはトンネルが四方八方に広がっていたという。そのときにバイデン前副大統領は足にGPSをつけられた。ここまでしなければならないかったわけだが、トランプ大統領は、6日の下院議会の混乱の後は、テキサスの空軍基地に移動して、軍部に指揮を出していた。そして戒厳令となったようだ。今回の不正選挙によるクーデターは国家反逆罪であり、中国、イタリア、そしてスイスが絡んでいたとみられる。スイスからは遠隔操作で大統領選の票の入れ替えをやっていたことが判明したという。しかもドイツで押さえたはずの証拠のサーバーのデーターが、誰のもとに渡っていたかが不明になっていた。しかも、そのデーターもほんの一部であったようだが、ここへきてわかったことは、大半のデーターはスイスで保管されていたという。この結果、バイデン前副大統領、ペロシ下院議長らによる「クーデター」はあえなく失敗に終わった。関係者は全員、「国家反逆罪」に問われて逮捕される。その結果、有罪判決が確定すれば、軍規に従って全員銃殺刑に処せられる。
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/616.html#c22

[近代史5] 1985年8月12日 日本航空123便墜落事故は自衛隊がミサイルで撃墜した? 中川隆
3. 2021年1月11日 17:36:11 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[49]
ビルゲイツがウインドウズで世界にコンピュータを普及させた功労者という嘘を信じてはいけない。1985年当時、ウインドウズより、はるかに性能の素晴らしいOS=トロンというシステムを日本人が開発していた。

 松下電器がトロンプロジェクトを結成して、ウインドウズより早く世に送り出すはずだったが、世界のミステリー、不可解な123便墜落事故に、開発陣全員が乗っていたことでトロンOSは失われた。現在は家電用チップのOSとして世界を完全に席巻しているが。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1369.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/311.html#c3

[近代史5] 儒教 中川隆
1. 2021年1月11日 17:38:33 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[50]
新自由主義に至る「利己主義」は、鎌倉時代から連綿と受け継がれてきたもので、これは中国からもたらされた「儒教思想」から来ている。

 江戸時代はじめに家康が、朱子学を国学として導入してから、それは確乎とした「支配の思想」として民衆に君臨するようになった。

 儒教思想の根源的な柱は、「メンツと序列」とでもいうべきか?
 儒教は、人間には侵すべからざる「序列」があって、下の者は上の者を敬い服従することで社会の安定が保たれるという考え方である。
 これは、春秋時代に孔子が体系化したもので、当時の国家による支配を正当化するための屁理屈であった。

 この思想は、国家による民衆支配に、頗る都合の良いものだったので、国家は争って、儒教を政治支配に導入した。
 近隣諸国でも、朝鮮や越(ベトナム)に圧倒的な影響を与え、それが日本にも入ってきた。儒教が東アジアを席巻したのは鎌倉時代から江戸時代のことだ。

 儒教がもたらした最大の害悪は、序列主義と男尊女卑の封建主義である。もちろん、儒教が犯人というよりは、封建主義の土台の上に、それを正当化する体系的屁理屈として持ち込まれたのだが、朝鮮では、独自の発展を遂げて、社会全体を束縛する序列主義の弊害が現在に至るまで深刻に続いている。

 日本に対する「反日姿勢」も、序列意識から「朝鮮の方が日本より上」という強固な自意識=プライドを守るために、国家経済崩壊を目前に控えても、日本排斥を通すことの方がメンツを守るために重要だと思い込んでいる。

 自民党に韓中の代理人である二階派と安倍晋三がいなければ、とっくに韓国は滅亡しているはずだ。韓国は、統一教会の飼犬である安倍晋三に守られている。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1369.html

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/440.html#c1

   

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