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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100241
http://www.asyura2.com/acpn/k/ko/koa/koaQ7Jey/100241.html
[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
142. 中川隆[-12847] koaQ7Jey 2019年1月20日 14:18:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

集団無視、ごみ出し禁止…「村八分で転居」提訴へ 大分の家族「自治区側 人権侵害」
1/20 西日本新聞

 大分県中部の山間部にある集落に移住した男性(73)ら家族3人が、集団無視や生活用水の取水妨害など「村八分」扱いを受け、転居を余儀なくされたとして、自治区の2人やため池を管理する地元土地改良区に約3千万円の損害賠償を求める訴訟を21日、大分地裁に起こすことが分かった。

 訴状などによると、男性は2008年2月、集落に新居を建て大分市から転居。障害のある長男(46)を施設から呼び寄せて親子3人で暮らし始めた。16年8月、自治区費の決定方法などに疑問を抱き、自治区から退会。この後、自治区からごみ集積所への搬入を禁止され、行政広報誌の配布もなくなり、集団無視が始まったという。

 男性は洗濯などの生活用水のため、自治区の同意や土地改良区の許可を受け、農業用ため池から取水していたが、自治区は17年1月、同意取り下げ書を提出。男性は「同年7〜8月、池の水が抜かれ取水できなくなった。土地改良区も適切な管理を怠った」と主張する。男性の代理人弁護士は「家族を締め出す自治区側の意図は明白。重大な人権侵害だ」と訴えている。

 男性は現在、妻(72)と県内のアパートに住み、長男は施設に入所している。

 自治区の男性(70)は「村八分などしていない。(池の水を抜いたのは)雨が少なく農業用水として使ったため」と主張。土地改良区は「取水できなくても異議を申し立てないという誓約書を男性は提出している。法的責任はない」と反論している。

 同県では宇佐市にUターンした男性(70)に「村八分」のような扱いをしたとして、県弁護士会が17年、自治区に是正を勧告。男性は昨年11月、歴代自治区長らに330万円の損害賠償を求める訴訟を大分地裁中津支部に起こした。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c142

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
509. 中川隆[-12846] koaQ7Jey 2019年1月20日 14:18:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

集団無視、ごみ出し禁止…「村八分で転居」提訴へ 大分の家族「自治区側 人権侵害」
1/20 西日本新聞

 大分県中部の山間部にある集落に移住した男性(73)ら家族3人が、集団無視や生活用水の取水妨害など「村八分」扱いを受け、転居を余儀なくされたとして、自治区の2人やため池を管理する地元土地改良区に約3千万円の損害賠償を求める訴訟を21日、大分地裁に起こすことが分かった。

 訴状などによると、男性は2008年2月、集落に新居を建て大分市から転居。障害のある長男(46)を施設から呼び寄せて親子3人で暮らし始めた。16年8月、自治区費の決定方法などに疑問を抱き、自治区から退会。この後、自治区からごみ集積所への搬入を禁止され、行政広報誌の配布もなくなり、集団無視が始まったという。

 男性は洗濯などの生活用水のため、自治区の同意や土地改良区の許可を受け、農業用ため池から取水していたが、自治区は17年1月、同意取り下げ書を提出。男性は「同年7〜8月、池の水が抜かれ取水できなくなった。土地改良区も適切な管理を怠った」と主張する。男性の代理人弁護士は「家族を締め出す自治区側の意図は明白。重大な人権侵害だ」と訴えている。

 男性は現在、妻(72)と県内のアパートに住み、長男は施設に入所している。

 自治区の男性(70)は「村八分などしていない。(池の水を抜いたのは)雨が少なく農業用水として使ったため」と主張。土地改良区は「取水できなくても異議を申し立てないという誓約書を男性は提出している。法的責任はない」と反論している。

 同県では宇佐市にUターンした男性(70)に「村八分」のような扱いをしたとして、県弁護士会が17年、自治区に是正を勧告。男性は昨年11月、歴代自治区長らに330万円の損害賠償を求める訴訟を大分地裁中津支部に起こした。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c509

[近代史3] 音楽の時代は終わった _ 音楽大学卒業生の悲惨な就職事情…オーケストラ、1名の求人に200名以上殺到も 中川隆
2. 中川隆[-12845] koaQ7Jey 2019年1月20日 15:07:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

641: 名無しの笛の踊り [sage] 2012/04/22(日) 13:55:58.48ID:6VuIaPoj

有名な外来オケやソリストでもない限り、ホールを聴衆で一杯にするなんて不可能です。 それこそ音大の学生は、先輩のジョイントコンサートのチケットを1人30枚とか強制的に買わされて、それを、絶対ホールに足を運んでくれる人に配らないといけない、という過酷な日常があるんです。

だから、(言い方は悪いですが)、評論家でも何でも、利用できる人はできるだけ利用してホールを満席にする→あわよくばCDの売り上げにも貢献して貰えたら、どんなお世辞でも言っちゃいますよ、くらい厚顔な人で無いと、クラシックなんてマイナー音楽の世界で生き残るのは難しいんです。

まあ、音大出た女子だとお金持ちの伴侶を得て、そのスポンサー兼配偶者の懐に頼って年に1回のコンサートを開ければ良いかなってレベルの人が大半。

642 : 名無しの笛の踊り [] 2012/04/22(日) 14:19:46.90ID:wl6A03VC

ホテルのラウンジとかでピアノを弾いたりしているのを見ると憐れに思う。

643 : 名無しの笛の踊り [sage] 2012/04/22(日) 15:01:23.51ID:6VuIaPoj
>>642
音大出るまでに何千万円も掛けた結果がそれじゃ辛いっすよね
地方に住んでる音大志望の高校生だと、東京の大先生のところへ毎週末飛行機で習いに行ってホテルに1泊。女子だと母親同伴でしょ。その経費が月謝も含めて月40万円、年間480万円也。

並のサラリーマンの子供ではとても無理。日本のクラシック音楽教育界の悪しき伝統だね。
http://archive.2ch-ranking.net/classical/1320727400.html
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/classical/1342928242/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/176.html#c2

[近代史3] 音楽の時代は終わった _ 音楽大学卒業生の悲惨な就職事情…オーケストラ、1名の求人に200名以上殺到も 中川隆
3. 中川隆[-12844] koaQ7Jey 2019年1月20日 15:15:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

鈴木と北川の二人組 その4 2015/08/22


Phile-webコミュニティでの二人組の「釣果」について、次のような追加情報が入ってきました。


Phile-webコミュニティ
GRFのある部屋 - お気に入りユーザー一覧
http://community.phileweb.com/mypage/f_user/3735/0/


(もうひとつは、「K&K」さん。)
ここは二度目の訪問でした。

オーディオ部屋の横にグランドピアノ(STEINWAY)が置いてあります。
奥さんがピアノを弾くと言っても単に「ピアノが弾ける」程度でへたくそです。

自分の家でほんもののピアノの音を聴いているのにもかかわらず、ご本人はその音の深さというものがいまだに分かっていないんです。

システムから出てくるピアノの音はおもちゃの音です。
しかも定位が悪いので鍵盤の位置が床上30pのところにあります。

サラウンド再生ですので、後方からも音楽が鳴るのには本当に参ります。
それにセンター・ウーファ(サーロジック製)が左SPの横にあり、低音域が左からのみ出る不自然さ、それもボワーン、ボワーンですよ。

今回は延々と夜6時までつきあわされましたが、最悪でした。
http://27415664.at.webry.info/201509/article_2.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/176.html#c3

[近代史3] 音楽の時代は終わった _ 音楽大学卒業生の悲惨な就職事情…オーケストラ、1名の求人に200名以上殺到も 中川隆
4. 中川隆[-12843] koaQ7Jey 2019年1月20日 15:21:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

シャンソンのピアニストといえば、先日亡くなられた菅野沖彦さんが録音された「La Vie」という名アルバムがあります。

帝国ホテルのレストランで弾いていたピエール・ブゾンというフランスのピアニストと一緒作ったアルバムで、そのピアニストが気になった菅野さんが、ピアニストの宮沢明子さんを伴っていって、確認したというエピソードが語られています。

その時弾いていたピアノがスタインウェイといわれたのですが、
彼は、ベーゼンドルファーからその響きを出していたのです。

このアルバムもピアノはベーゼンドルファーで、陰りはあるけど、秋の日に輝く枯葉の陽の当たる部分も引き出しています。

評論家の菅野さんより、このような名アルバムを作る彼のセンスに想いをはせるべきでしょう。
東京では、本格的な秋になる11月に似合うアルバムです。

そういえば、このアルバムの裏側の写真は菅野さんが撮られたモンマルトルの道でした。
私も、それを思い出して撮ったのが、この写真でした。
https://tannoy.exblog.jp/30141246/


PIERRE BUZON - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=PIERRE+BUZON+


「La Vie」PIERRE BUZON
レーベル: オーディオ・ラボ

ピエール・ブゾンの映画音楽集。

ハリウッドの銀幕から流れていたヒット曲の数々がピエール・ブゾンの手にかかると宝石をちりばめたような世界に変貌してしまう。
フランスのボルドー生まれの彼のエレガントな感性は日本の聴衆のそれとフィットする。(雑誌「CDジャーナル」データベースより)      

*トラックリスト:
01私の心はヴァイオリン,02ララのテーマ,03クロパン・クロパン,04バラ色の人生,
05セ・シ・ボン,06愛の讃歌,07聞かせてよ愛の言葉を,08ラ・メール,
09ムーラン・ルージュの歌,10さらば夏の日,11君の輝,12シラキュース,
13そして今は,14マリー・マリー,15マイ・ウエイ. 
     
*演奏:ピエール・ビュゾン(p).
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89VOl-2-%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%BE%E3%83%B3/dp/B00FO0601E


シャンソンのピアニストといえば、先日亡くなられた菅野沖彦さんが録音された「La Vie」という名アルバムがあります。

帝国ホテルのレストランで弾いていたピエール・ブゾンというフランスのピアニストと一緒作ったアルバムで、そのピアニストが気になった菅野さんが、ピアニストの宮沢明子さんを伴っていって、確認したというエピソードが語られています。

その時弾いていたピアノがスタインウェイといわれたのですが、
彼は、ベーゼンドルファーからその響きを出していたのです。

このアルバムもピアノはベーゼンドルファーで、陰りはあるけど、秋の日に輝く枯葉の陽の当たる部分も引き出しています。
評論家の菅野さんより、このような名アルバムを作る彼のセンスに想いをはせるべきでしょう。
東京では、本格的な秋になる11月に似合うアルバムです。

そういえば、このアルバムの裏側の写真は菅野さんが撮られたモンマルトルの道でした。
私も、それを思い出して撮ったのが、この写真でした。
https://tannoy.exblog.jp/30141246/


PIERRE BUZON - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=PIERRE+BUZON+


ある音楽プロデューサーの軌跡 #46「録音プロデューサー菅野沖彦さんの思い出」 – JazzTokyo
http://jazztokyo.org/column/inaoka/post-32958/


昔は、アコースティック楽器を録音するだけですので、録音エンジニアとミキサーが音のほとんどを決めて、それをレコードのカッティングエンジニアが忠実に再現できるように努力していました。

ですから、音楽家は、アルバムの音作りに無関係でした。
この時代は、音楽家でアルバムの音の質を気に留める人は皆無でした。
それでも、アルバムの質を大切にした人はいます。そうした場合には、録音エンジニアを指名していました。

そうした人で、忘れられないのは、宮沢明子と菅野沖彦の関係です。


若き日の宮沢明子
今では、アルバム数が100を超えます

菅野沖彦 1998年に撮影録音したアルバムは
今も販売されています

今では、それぞれ、音楽界の重鎮と、オーディオ界の重鎮ですが、今から30年ほど前は、どちらも新進気鋭でした。

当時の宮沢明子は、アルバムをちょっと出してはレコード会社を変えてしまうことで有名だったのですが、
菅野沖彦のオーディオ・ラボでアルバムを作ってからは、ずっとオーディオ・ラボでアルバムを作っていました。
宮沢明子は、納得できるアルバムを作れる人を探していたのです。

菅野沖彦はジャズのアルバムが多く、クラシックは宮沢明子が中心でした。
菅野沖彦も、納得できるアーティストのものしかアルバムを作る気はなかったのでした。
オーディオ・ラボは菅野沖彦が好きでやっていた会社で、やがて閉じてしまい、
また宮沢明子はさまざまなアルバムを各社から出すようになるのですが、
菅野沖彦との親交は続いていると思います。

だって、宮沢明子のコンサートに行くと、ちゃんといい席に菅野沖彦がいて、
舞台に握手に行ったりしますから・・・。
宮沢明子の繊細で大胆な演奏は、菅野沖彦の録音により残され、今も素晴らしいアルバムとして、再発売が続けられています。


当時の宮沢明子は。音に厳しい人でした。

日本に2台しかなかったboesendorfer Imperial/ベーゼンドルファー・インペリアル
(世界最大級のグランドピアノで雄大な低音とppppまで演奏できる繊細さで有名、
ベーゼンドルファーは創立以来180年弱でピアノを4万台しか製造していません)
のオーナーであり、自宅ではステレオにjblのスタジオモニターを使用しているという、
音に妥協が無い、当時としては信じがたい、時代を超えた音楽家でした。

その感性は、菅野沖彦を選ぶことで、アルバムのもつ「芸術性」という問題を解決したのでした。

宮沢明子の当時の演奏スタイルは正確さよりも音楽性を重視するもので、
そうした点では、今の浜崎あゆみに通じるものを感じますね。

菅野沖彦は演奏ミスを修正することはしませんでした。それは、アコースティック録音の基本でもあります。
でも、今では考えられないことでもあります。


当時の宮沢明子と菅野沖彦の収録風景

現代の収録ではピアノにマイクを突っ込む録音エンジニアが多いそうです(アルバムを多く出しているピアニストが言っていました)。
ピアノの音がどのように楽器から作られるかを、今はもう、理解していないからですね。

音楽も、楽器もわからない録音エンジニアも、今はいます。
音がわからない音楽家と好対照を成しているわけですね。
https://www.calvadoshof.com/Advocate/2004No07.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/176.html#c4

[近代史3] まともな人間は音楽家になれない 中川隆
1. 中川隆[-12842] koaQ7Jey 2019年1月20日 15:24:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

ピアニストにはゲイが多いと聞きます。なぜですか?

ホロヴィッツは、

「世の中には3種類のピアニストがいる。

ユダヤのピアニスト、ゲイのピアニスト、下手くそなピアニストだ。」

と言ったくらいです。

ゲイのどういった感性がピアノ演奏に活きるのでしょうか?

ベストアンサーに選ばれた回答


menuettmillieさん

確かにクラシックのピアニストにはゲイが多いですよね。私の昔のピアノの先生もゲイでしたし、学校でもかなりの確率で男子生徒はゲイでした(今思えば)。別にそれが変だとか思っていなかったから不思議ですよね。

私の勝手な想像ですが、ピアニスト(学生も含める)のゲイの人たちって最近でいう「萌える」という感覚を作曲家やピアノに対して持っているような気がしています。

ショパンを練習しながらショパン自身に想いを寄せていて、私などがショパンを練習する感覚とはまた違う次元で「萌える」想いを込めて演奏しているように思います。

そしてそれに陶酔しているとやはり女などは生臭いだけで魅力など感じないのではないでしょうか。男子の方がよほど綺麗で、彼らの恍惚の表情を見たくてセックスしたいと思うようになるのかな・・・と。

彼らがチャイコフスキーやバッハについて語り合っているような時に気分的に「好きなんだよね」って感じではなくて本当に尊敬を抱いて「萌え」ているように思います。

クラシックマニアとも違った感じです。うまく表現できませんが彼らは独特の美意識を持っているように思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1434836444


ホロヴィッツは

「女と東洋人にはピアノは弾けない」

とも言ったそうです。(もちろん黒人は考えに入っていない。)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/177.html#c1

[近代史3] まともな人間は音楽家になれない 中川隆
2. 中川隆[-12841] koaQ7Jey 2019年1月20日 15:29:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

アンニュイな魅力のエレーヌ・グリモー 
http://akira-nonaka.blog.so-net.ne.jp/2016-02-04


エレーヌ・グリモーというピアニストは、昔からCDをずっと聴いていて馴染みのあるピアニストではあった。

今年2月に久しぶりの新作を発表し、「ウォーター」というタイトルでDGから発売される。それに伴い、じつに5年振りの日本でのリサイタルも開いてくれるようで、楽しみ。

彼女の容貌や、その全体像から香りでるような、なんともいえないアンニュイなフンイキ......
(以下掲載する写真は、FBでの彼女の公式ページからお借りしております。)

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彼女の生い立ち、そして彼女の人となり、人生観・価値観みたいなものが、いわゆる普通の可愛い女性とは少し違うというか、一線を画した、少し表現が悪いけれど、「ちょっと変わった女性」的な摩訶不思議なところに妙に惹かれるものがある。

そういう意味も含めて、彼女の生い立ち、人となりを本で読んでみたいと、ずっと捜していた。

去年、フィルハーモニー・ド・パリでのCDショップで購入したグリモーの本。


もちろんフランス語で書かれているので読めないので、記念として買った意味合いが多かった。

でも彼女のことをもっと知りたい.....そんなことから日本での書籍がないか調べた。


野生のしらべ
エレーヌ・グリモー
北代美代子 訳
https://www.amazon.co.jp/%E9%87%8E%E7%94%9F%E3%81%AE%E3%81%97%E3%82%89%E3%81%B9-%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8C-%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%A2%E3%83%BC/dp/4270000163


内容はグリモーが自分の人生を振り返るもので2003年に書き上げた自叙伝、それを北代美代子さんが和訳されてランダムハウス社から和書として発売されている。彼女の生い立ち、人生観が書かれていて、とても自分にはタイムリーな本に思えた。

これを読了して、彼女の人生を知ったとき、なぜあのような独特のフンイキがあるのかが、理解できたように思えた。偶然ではないのだ。やはり、それ相応の試練の人生を歩んできているからこそ醸し出されるオーラなのだ、ということがわかった。

だが、和訳本にありがちなのだが、1冊丸々読んでみたところ、正直大変読みづらく、わかりにくい。日本語の文章がスムーズでなくて頭に入ってこないのだ。何回も読み返さないと全体が掴めなかった。

彼女のことをもっと、もっと知ってほしい、という一念から、この本の所々の抜粋をして、自分のコメントを少々入れて、パブリックドメインにするにはギリギリいいかな、というレベルの自己判断の元、日記にしてみることにした。


目的は、全体の流れがわかりやすいように、彼女の人生がキャプチャーできるようにまとめること。
そして、この本に興味を持ってもらって一人でも多くの方に読んでもらいたいように誘うこと。

(読んでみて問題あるようでしたらコメント示唆ください。)

彼女のCDも昔から、いろいろ持っていたが、今回のこの日記を書く上でさらに買い増して、このような布陣で臨む。

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グリモーは、フランスのエクス=アン=プロヴァンスの生まれ。

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小さいころから、言うことを聞かない、「ひとりの友達もつくらず」「人と違って」いた。左右対称性に異常にこだわる、という病気でもあって、自傷行為まで見せるようになって、心配した母親がその有り余るエネルギーをピアノに向かわせたところから、彼女とピアノとの出会いが始まる。

左右対称性の異常は、体の一部に傷がついた場合は、必ずその反対側にも傷をつけたいという欲望を感じるようになるし、自分の領土も同じように左右対称に整理されている必要があった。

勉強机の上では本の両側に同じ数の鉛筆がなければならず、本はノートの周りに同じ距離をとって並べなければならなかった。片方の靴ひもが反対側ときっちり同じになるまで結んでは、ほどきを繰り返したり.....

この対称性への強迫観念は自傷行為にまで到り、両親を悲しませ、音楽学校、ピアノに向かわせようとする。

もうこの頃からふつうではない、彼女独自の「人と違った」世界が広がっていた。

「人と違う」ことを生きることは、たとえばグリモーにとって小学校に通うこと自体、耐えがたい苦痛であって、それを救ったのが彼女が音楽的才能に恵まれていたということ。

ピアノを通じて、自己実現の手段、自分のありうる場所を見つけるようになれた、ということだった。

1982年13歳でパリ国立高等音楽院に入学して、その才能を開花させるものの、必ずしも順調ではなかったようだ。

入学試験はショパンのピアノソナタ第2番&第3番の第1楽章。この頃からグリモーは、ショパンに対して自然と通じ合うものを感じていたようだ。大いなるエレガンスと究極の洗練を持つ、そしてなによりも自分の感性に溶け込んでくる、と言っている。

そうして、もう一人尊敬している音楽家、ピアニストとして彼女が挙げているのがコルトー。その創意と音楽性、そしてある意味での完璧さの欠如。〜ダンディの襟元でほどけたネクタイのように〜とつねに称賛していた。コルトー版での指使いとペダルがきわめて錯誤的とも......

15歳になったときに録音、つまりCDを出すチャンスに恵まれる。彼女自身が望み選んだ作曲家がラフマニノフ。


グリモーは、もともとラフマニノフの音楽が、そしてそのピアノ協奏曲のなかではとりわけ一番身近に感じた「第二番」が好きだったようだ。たとえば、初めのフレーズですべてが語られてしまう「第三番」とは正反対に、「第二番」には冗長さという欠点がまったくない、と言い切っている。

自分は「第二番」より圧倒的に「第三番」派なので(笑)、そういう嗜好、考え方もあるんだな、と考えさせられた。自分は、第三番のあの初めのフレーズが全体を貫く共通主題になっていて、全体の統一感・様式美を決めている......そういう部分が特に好きなので、グリモーの考え方とは全く逆なのである。


ラフマニノフの音楽は当時の音楽語法に逆行していて、さまざまな分野で「革命」そのものが時代の流れであったとき、同時代のラヴェルやバルトークが組み込まれることになる動きが誕生していた、まさに、そういうご時世に、ラフマニノフは変わることなくロシア・ロマン主義に執着し、チャイコフスキーがその名を高らしめた音楽形式に忠実だった。

彼女は、このピアノ協奏曲「第二番」について、もう巷では有名なラフマニノフが交響曲第1番で大失敗してノイローゼになって、この曲で復活するまでの経緯を事細かく説明して、その感動をこの本で我々に伝えようとしていた。彼女のこの曲に対する情熱と言うのがひしひしと伝わってくる。

彼女の最初のCDはアムステルダムで録音された。

16歳以降になってから、ブラームスに傾倒。周囲からはイメージに似合わないと随分反対されたみたいだが、彼女のブラームス愛は相当のもので、どうしてもレパートリーとして加えたいと願うようになる。


ブラームスのどのような作品を聴いても、彼女にとって「知っている」という感覚を持つらしく、なにか自分のために書かれているように感じる....自分の感動の揺らぎに正確に対応しているという感覚.....そういう信じられないような親近感を持つらしい。

この本に書いてあるグリモーの「ブラームス讃」は、もう本当にとりとめもないくらい、何ページも費やして、そして限りなく熱く語れているのだ。

ブラームスのピアノ協奏曲第1番、第2番もすばらしい作品としてCDとして完成させている。こうしてみると彼女は、15歳にしてはじめてCD録音をしてからおよそ20作品ほどの録音を世に送ってきているのだが、自分の想いのたけの作品を着実に録音という形で世に送ってきているのだということが実感できる。(このあたりの作品の解析は、次回の日記で試みます。)

このように自分の存在感、自己表現として音楽、ピアノの道を歩むものの、「自分の音を見つけ出す」ために悩み、フランスの伝統的な音楽界が自分に課してくるステレオタイプのイメージに随分苦しめられたようで、このままここにいても、という閉塞感から、パリ音楽院を離脱して、アメリカ移住を決心する。

でもその前に、1980年代の終わりごろに、マネージャーとの出会いも含め、国外でリサイタルを開けるようになったころの話を書かないといけない。ドイツ、スイス、日本、ロンドンなどなど。グリモーは空港が持つあの独特の雰囲気が大好きのようだった。

これは私もそう。毎年、海外音楽鑑賞旅行に出かけるときの、出発するときの羽田や成田のあの雰囲気、とてつもなくワクワクして、これから始まるちょっとした冒険に心踊るような子供のような感覚....とりとめもなく大好きである。

グリモーは、この時期に人生を決定する大事な出会いをする。

マルタ・アルゲリッチ。

マルタは、その通り道ですべてを押しつぶして進む力であり、絶対的に君臨する生の躍動である。
内面のできごとを全的に感じ取る。風のような女性だ。

彼女とのパートナーでもあったギドン・クレーメルとも大きなパートナーになってもらい、彼女がパリを離れるときにマンションを貸してくれたりしている。

マルタは、まわりに集まる若い音楽家の群れを、考えられないような寛大さで養っていたという。(笑)

そういう中間の過渡期を経て、グリモーはアメリカでのコンサート・ツアーの話を持ちかけられる。
このときは彼女は英語はまだ話せなかったようだ。

このアメリカツアーのときに、もう自分は帰らない、という決心をする。

パリで扉に鍵をかけ、ジーンズを二本ばかりと洗面用具入れ、旅費の代わりに数冊の本をスーツケースに投げ込み、そうしたあと、すぐにフロリダ州の州都タラハシーの住民になっていた。

森林におおわれた平らな田園地帯にある恐ろしく退屈な町。

そこでグリモーが引っ越してきたことに町の人は気づき、自然の外でホームパーティを開いてくれた。

そのとき、「気をつけたほうがいい。あそこには男が住んでいる。ベトナムの帰還兵だ。頭がちょっとおかしい。危険なやつだと思われている。」と言われる。

そして数日後に深夜に眠れなくて譜読みとかするとますます目が冴える、そして深夜の闇の中に散歩に出かける。

その瞬間、グリモーは、初めてそれを見た。

犬の姿をしている。でも瞬間的に犬ではないとわかる。
闇の中でその動物は鋭い眼光で、グリモーを見た。彼女の全身に震えが走った。

その後方に男が立っていた。町の人に教えてもらっていた危険な男、ベトナムの帰還兵だった。

2人は立ち話をして、その男はおもむろに自己紹介をする。グリモーがクラシックの音楽家であることを告白すると、自分もクラシック音楽が大好きで、レコードをたくさん持っている。好きな時に聴きにこればいい。

グリモーは、この誘いをちょっと荒っぽいと思ったらしいが(笑)、その動物は?と聞き返す。

これは狼だ。これがグリモーの狼とのはじめての対面。

狼は、柔らかな足取りで、彼女に近づいてきて、左手の臭いを嗅ぐ。
すると狼は、自分のほうからグリモーの手のひらに頭を、そのあと、肩をこすりつけた。
その瞬間は彼女は全身に電流が走る、電光のような火花を感じる。

そうすると狼は、仰向けになって横たわると、グリモーにお腹を見せた。

男は、「こんなのははじめて見た。自分に対してもこんな姿を見せることは滅多にない。」

最初の初対面で、グリモーは狼との運命の結びつきを感じ取る。

狼の社会〜群れ〜は人間社会と奇妙に似ている。それは体育会系の民主主義で、他の個体からリーダーと認められたものは、力、速さ、狩りの腕前だけで支配するのでなく、大きな部分を心理的影響力に依存している、と言われている。

この男との出会いから、グリモーはこの狼と恋に落ちてしまった。
この狼と会いたいがために、何回も訪れて、何時間もいっしょに過ごした。
狼からの愛情の交換は強烈で豊かだった。

不意に襲い掛かってくることもある。

狼のほうから愛情表現をされ通じるものを、狼は彼女の中に見出したのだ、と思う。双方にとって運命の出会いですね。

狼といっしょに過ごすことで、お互いどんどん相通じるものを感じ合う。
それからというもののグリモーは、狼に会いたいがためにしょっちゅうその男の家を訪ねる。

愛情という点について、狼はグリモーの人生の中でもっとも重要な存在になる。

これをきっかけにグリモーは動物行動学の勉強を始める。
さまざまな講演に出席する。アメリカ国内を歩き回り、専門家が狼の生態と行動を研究している保護区を訪ねたりした。

音楽、ピアノの割く時間は当然減らすことになる。レパートリーの幅を広げず、同じ曲の追及。注意を室内楽に集中した。

グリモーは、狼の行動学、研究そして自然復帰とだけを目的とする財団と公園を創設したかった。
狼の群れを住まわせる土地を買うために、コンサート出演料のすべてを貯金した。

そこでまず目的を達するために、いったんこの男と狼と分かれ、ひとりニューヨークに出る。ひとりゼロからの出発。五番街にバッグを下ろす。

目的の資本金に手をつけないがために、厳しい食生活、貧困の生活の一途。
電話帳を片手に政府機関を訪ね、コンサート用のステージ衣装のほかは、たった一枚しかなかった着替えを洗濯をするためのコインランドリーを探したりした。

3年。ようやく落ち着いてきたのが1997年。

自ら望んだ不安定な生活を両親に知らせることもなく、極秘に暮らした。
まさにバヴァロッティとヨーヨーマくらいしかクラシックの音楽家は知られていないクラシック不毛の土地。

ピアノの練習の条件がこれほど厳しいことはなかった。
まず、自分のピアノがなかった。


練習したいときは、五十七番街のスタンウェイ社にいくか、お金を払って2,3時間ピアノを借りた。

ようやく2001年にはじめてコンサート・ピアノ、スタインウェイDの所有者となった。

でもグリモーには狼たちがいて、音楽があった。

来る日も来る日も狼の囲い用の土地を探すために懸命になった。そんなある日、不動産屋から連絡があって、ついにグリモーにとっての天国の土地を見つけてくれた。

地元当局との果てしない交渉の結果、「ニューヨーク・ウルフ・センター」を設立。

30名ほどの従業員を雇用。(現在はわかりませんが。)最初の狼数匹を収容した。
センター設立後は、1999年に750名の子供が、2002年には8500人が訪れるようになった。

グリモーの最大の楽しみにしていることのひとつは、夜、囲いの狼たちのそばで音楽の研究をすること。

そして、コンサートの出演料はすべて、この施設の運営費、狼の養育費に充てられ、それが尽きてくると、またコンサート遠征に出かける、という毎日。


なんと野性的なんだろう!彼女の野性的で摩訶不思議なオーラがいっぱいなのは、このような人生を歩んできているからなのだ。

表面的な生き方をするだけでは絶対得られない、修羅場の人生を歩んできたからこそ得られる”本物”の凄み。

この彼女の人生を書き綴った(彼女自身の独白本)、この「野生のしらべ」という本は、もっともっと詳しく内省的に彼女の心情描写を綿密に描いています。


自分は、それを何回も読んで全体のシナリオが見えるレベルで掻い摘んでいるに過ぎなくて(パブリックにできるギリギリのレベルという自己判断ですが.....)、5月の彼女のリサイタルの前に、ぜひ読んでもらいたい本と思ってこの日記にしました。この本を読み終わったとき、ほんとうに感動してしまい、ぜひこの感動を伝えたいとただそれだけを思っただけ。

またこういう人生の変遷の歴史を知りつつ、一連の彼女のCDを聴き込むと、よりエレーヌ・グリモーというピアニストの真髄がわかるような気がしました。

自分もグリモーのことは、プロフィール欄に書かれている表向きのことくらいしか見識がなかったので、この本を読んで、彼女の数奇な人生に本当に感動した次第なのです。

海外への音楽鑑賞旅行も、なにもヨーロッパだけに限ったことではなくて、アメリカもぜひ訪問したい夢があります。(ヨーロッパには、数えきれないくらい、何回も行っているのだが、アメリカには、なぜか縁がなく、生涯にかけて1回も訪れたことがないのです。)

そのときコンサートホールやオペラハウスだけでなく、番外編として、このグリモーの「ニューヨーク・ウルフ・センター」をぜひ訪問してみたい!

次回の日記では、彼女のディスコグラフィーを聴きこんでの試聴記を予定しています。ここで説明してきた彼女の作曲家の嗜好をそのまま録音として作品化してきた、その変遷の歴史、彼女の音楽観を理解しつつ聴き込む訳です。

つくづく思うのは、クラシック録音の王道のDGレーベルのピアノの録音がじつに美しいと感じることです!!!


コメント

ま〜さん
グリモーの稿、じっくりと読みたいと思います。話は変わりますが、児玉麻里さんのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集をこのところ聴きこんでいますが、まあ素晴らしい演奏であり高品位な録音ですね。いつも聴き終わって感じるのは、ベートーヴェンの音楽の素晴らしさです。壮大な交響曲の世界もいいですが、もっと身近に置いておきたい世界、ベートーヴェンのピアノ・ソナタにはそんな魅力が満ちています。このディスクを紹介していただいたノンノンさんに改めて感謝!

by ま〜さん (2016-02-07 08:53)

ノンノン
ま〜さん、

まさにおっしゃる通りですね。自分も大編成ものも好きなのですが、室内楽も音楽的、そしてオーディオ的の両方において好きです。室内楽というと隙間の美学というか、演奏者の息遣いやフレージングの生々しい表現が、目の前で展開される感覚が、とてつもなく好きだったりします。生演奏だけでなく、オーディオ的にも。またお恥ずかしい限りですが、オーディオの再生環境からすると深夜の時間帯や騒音を考えると、大音量のオケよりも室内楽のほうが、より接しやすいメリットもありますね。

児玉麻里さんのSACD、気に入っていただいて光栄です。今年の11月には、児玉麻里・児玉桃姉妹によるPENTATONEからの新譜もあるようで、期待しています。もちろん日記で取り上げますよ!(笑)
by ノンノン (2016-02-07 18:58)

Judy
野生の調べは確かに読みにくくて、私も何度か読み返しました。訳が悪いというよりHeleneの思考がとても深くてしかも超スピードで動くので、平均的な人にとっては一度読みでは理解し難いのでしょう。私はカリフォルニアに住んでいる上、彼女の弾いたBeethovenのTempestによって救われたことがご縁で、もう狼センターには3回、Helene自身との晩餐会というのにも2回行く機会に恵まれました。実物はさらに優雅で美しく、どんな人の話もあの目でじーっと相手を見ながら熱心に聞くので誰もが惹かれてしまいます。もしものんのんさんが狼センター並びにHeleneとのFound Raising Dinnerに興味がお有りなら、3回目が2017年の4月から6月にはあると思いますのでお知らせすることが出来ます。

Heleneがきっかけでしたが、のんのんさんのBlogは「親切」に満ち満ちていてとても読み甲斐があります。人のためにこれだけの時間を割いて写真も満載してBlogを書いてくださってありがとう。
by Judy (2016-10-28 15:33)

ノンノン
Judyさん、コメントありがとうございました。そして、とても暖かいメッセージありがとうございました。いたく感動いたしました。(笑)この自叙伝の複雑さというのが、グリモーさんの思考回路にある、というコメントは鋭いと思いました。確かにその通りですね。なんか俗的なものとは距離感があって、すごいピュアで、生き物の本能と通じ合うような、そんな才能の持ち主ですよね、彼女は。Judyさんが人生経験において、グリモーさんと深い関わりを持っていらっしゃたことに驚き、うらやましいのと、グリモーさんに関する私の拙文を読んでいただき、光栄だと思いました。ありがとうございます。

じつは、来年の海外旅行は、どこに行くのか決まっているので、グリモーさんのウルフセンターの創立祝賀ディナー(?)、ぜひぜひ参加してみたいのですが、なかなか日程が取れそうにありません。

その反面、その翌年の2018年に、生まれてはじめてアメリカに渡航する予定で、そのときの他人と違う旅行という位置づけで、最大のイヴェントとして捉えているのが、グリモーさんのウルフセンターへの訪問なのです。

旅行前になりましたら、自分のネットワークでウルフセンターへの住所、行き方など調査しようと思っていたのですが、もしよろしければ、ご教示願えると大変光栄なのですが、いかがでしょうか?
自分でも思ってもいない展開でした。(笑)

このコメント欄で公開など不都合がありましたら考慮します。

まだまだ先だなぁと思いながらも、早く行きたい、という気持ちも交差して、複雑だったんですが、Judyさんのコメントで、一気の気持ちがそちらに加速してしまいました。(笑)

私の拙ブログも読んでいただき、ありがとうございます。もともと海外旅行の現地情報を、お世話になっている旅行会社スタッフと共有したいと思い、始めたブログでしたが、どんどんテーマの枝葉が広がっていきました。今後とも、よろしくお付き合いいただけると光栄です。ありがとうございました。
by ノンノン (2016-10-29 01:49)

Judy
http://nywolf.org/
忘れない内にこのページを載せておきます。ここに行けばWolf Conservation Centerのことはほとんどわかりますし、Heleneがピアノと同等のPassionを持ってこのNYWCCを維持しているのがわかります。晩餐会もその寄付を募るためのものでした。私は犬は飼っていても、野生の動物とそれほど通じるものを持ち合わせていないので、HeleneやBartokのように特殊な感覚を持っている人は凄いな〜と感心するのみです。去年の4月に一度目のFund raising dinnerのお知らせを受けて一晩考えて決めたのですが、行って良かったです。

14人のゲストのうち私だけが帰る宿が別方向ということでなんとHeleneとボーイフレンドのMatが送ってくれるという幸運にも恵まれました。その日のお昼はBrhams Piano Concerto #1を弾いて、夜からの晩餐は知らないゲストたちと3時間もおしゃべりして、Heleneは相当疲れていたはずです。でも、私を完全にゲスト扱いで自分は車の後ろの席に座って私にどうしても助手席に座るようにいって譲らなかったのです。お陰様で宿につくまでの20分位3人で話が弾んで、「またね〜。」という感じでお別れしました。遅かったので宿の玄関の電気がついていなかったらHeleneは心配して車から降りて私が無事に中に入れるまで見ていてくれたのですよ。今年の6月の二度目の晩餐会で会った折にMatもHeleneもこちらのことを実によく記憶していてくれたので驚きました。だって、ゴマンといるファンの中のひとりですよ。それほど誠心誠意の人たちなので、あんなに世界中を回ってコンサートして、体は大丈夫かな、長生きしてほしいな、と祈るのみです。コンサートの後のリラックスの秘訣はなんとかなり緊張を強いられるTVドラマを観ることなんだそうです。そのことでは一年目に隣の席に座ったMatと意気投合して、お互いに好きなドラマ名を交換し合ったのでした:The Americans, Hannibal Lechter, The Fall, Happy Valley,
スパイ物、残酷な殺人、人間の奥底に隠された秘密が暴かれた時、、、などというトピックばかりです。日本でも見る機会があったら是非見てみて下さい。Heleneの音楽鑑賞にまた深みを与えてくれることでしょう。

長い間生きてきて、誰かのファンとしてこういうことに参加したのは初めてだったので、偉大なアーティストと生で触れ合う価値の凄さがわかりました。

のんのんさんもきめが細かく愛情深い人であることはBlogから疑う余地もありません。どうか忙しいときには休むことも考えて長生きしてくださいね。
by Judy (2016-10-30 12:27)

ノンノン
Judyさん、ありがとうございました!

なんと素敵なグリモーさんとの想い出なんでしょう!
詳細な描写まで教えていただき、なんかその場が頭の中に浮かんできそうです。

教えていただいたHPの中に、Donationがありましたので、自分の出来る範囲で、ぜひ寄付させていただこうと思います。自分の個人情報も送れるようなので、なにかグリモーさんと繋がるような感じで嬉しいですね。

NYWCCは、偶然なのかFBのほうで、登録していたりしました。(笑)じつはそこだったというのを知って驚きです。
FBのほうからの寄付できるようになっているんですね。

ぜひ2018年の旅では、NYWCC訪問を実現して、自分のブログにその報告をしたいと思っておりますので、そのときはぜひご覧になってください。

どうもありがとうございました。
by ノンノン (2016-11-01 22:41)

Haru maro goro
ノンノン様、初めまして。

グリモーがデビューした時は、演奏より長髪の美少女だった印象ばかりが強くて、でもどこか気になるピアニストでした。それからかなりの年月が経ち、テレビ放送で髪型が変わって大人になったグリモーの演奏会を聴きました。少女期のイメージが変わってびっくりしたのを覚えています。それから、彼女の演奏を聴いています。
先日、彼女の弾くバルトークのコンチェルトのCDを聴いて、グリモーの検索をしてこちらのブログに辿り着いたのです。
ノンノン様の素晴らしい文章のおかげでグリモーの歩んできた道を知りることができて嬉しく思いました。彼女の演奏に惹きこまれた理由の一部はこの事に関係していたかもしれません。ご紹介くださりどうもありがとうございました。
私はコンサートからかなり足が遠のいています。東京文化会館のバックヤードの記事、とても興味深く拝読しました。20年位前に行ったのが最後です。


by Haru maro goro (2016-11-24 19:23)

ノンノン
Haru maro goroさん

コメントありがとうございました。
グリモーさんは、ピアノ作品はさることながら、その容貌もなんか吸い込まれるような純粋なものを感じるので、とても魅力的で人を惹きつけるなにかをもったピアニストだと思います。

ボクもこの野生の調べを読んで、ずいぶんと、そのピュアな瞳に隠されている本能みたいなものの原因がわかり感動しました。

生演奏からずいぶん離れているとのことですが、ぜひ足を運んでみてください。生演奏独特のよさは、その感動、演奏家の息遣いが直に感じられることだと思っています。

ボクもオーディオで聴く良さもわかりつつ、生演奏のよさも認めるという両刀派だったりします。(笑)
by ノンノン (2016-11-27 08:39)
http://akira-nonaka.blog.so-net.ne.jp/2016-02-04

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/177.html#c2

[近代史3] まともな人間は音楽家になれない 中川隆
3. 中川隆[-12840] koaQ7Jey 2019年1月20日 15:30:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

野生のしらべ – 2004/5/11 エレーヌ グリモー (著)
https://www.amazon.co.jp/%E9%87%8E%E7%94%9F%E3%81%AE%E3%81%97%E3%82%89%E3%81%B9-%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8C-%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%A2%E3%83%BC/dp/4270000163


2007年06月28日 狼女=エレーヌ・グリモー


・性別: 女性。
・姓名: エレーヌ・グリモー Helene Grimaud。
・何人?: フランス人。
・何者?: クラシックのピアニスト。
・生年月日: 1969年11月7日生。
・備考: 美人ドキドキ


対称性の強迫


・子供の頃は奇行と奇癖の目立つ問題児。集団生活に馴染めず、いじめられっ子で友達もできなかった。


・幼少時からの対称性の強迫行為。勉強机の上で本の両側に同数の鉛筆が配され、本はノートから等距離に並べられなければならない。靴紐は両足とも同じようになるまで結んでは解いてを何時間も繰り返した(エレーヌ・グリモー『野生のしらべ』p.59)。


・コンサート・ピアニストになってからも強迫行為は暫く続いた。演奏旅行中に投宿したホテルの家具や備品を左右対称に並べ替えないと気が済まない。コンサート後は疲れているにもかかわらず、気を利かせたメイドが凝りに凝った強迫的ディスプレイを元に戻してしまったと確信して、恐れつつ電気も点けずに、ベッドルーム、バスルーム、洗面台と巡り、全てを並べ直して回った(同上。p.59-60)。


・しかし日本を演奏旅行中のある日、ホテルに帰り疲労の極致にあって猶、イルカのプリントされたセーターをその柄が上下左右対称になるよう物差し(!)を使って折り畳んでいた時に、発作的にセーターを窓から投げ捨て、以後強迫症状は止んだ(同上。p.60)。


・楽器の演奏やスポーツ等、完璧の追及が要求される営みには生得的な強迫的性格が必要、とエレーヌ・グリモーは主張する(同上。p.65)。


就眠の儀式


・眠る前にベッドの中で、教理問答で習った祈りを一定の規則で繰り返し声に出して唱える。そうして漸く眠りに就くことができた。言い間違えたり、発音やイントネーションが気に入らないと最初から唱え直し、満足するまで何時間でも続け、時には明け方に疲れ切って眠り込む、ということもあった(同上。p.51-52)。


・後、この儀式は音楽で役立つことになる。音楽学校の試験前夜、課題のシャルパンティエがどうにも退屈で憶える気が起こらず、諦めて床に就いたが、突然祈りの習慣が甦り、無意識的にスキャンされていたシャルパンティエの譜面を全て、かつて祈りを反復したようにリズムとアクセントに満足が行くまで飽くことなく繰り返してイメージ・トレーニングし、翌日試験ではその曲を完璧に弾きこなした(同上。p.52-53)。


自傷行為或いはエンドルフィン嗜癖(?)


・自傷行為が対称強迫の対象となる。6歳の時、母の故郷コルシカの海岸でかかとに傷を負い、麻酔無しで縫合の手術を受けたのだが、その最中に思わず笑みがこぼれるほどの至福感を体験する。たぶんエンドルフィン(*)が大量に分泌されたんだと思う。しかし心配する両親を尻目にめくるめく快感に浸っている自分に対して後ろめたさを感じてしまい、苦痛と涙を装ってことがこじれる。数分後に全ては忘却されたが、これを契機に全ての障害が始まった、とグリモー自身は記している(それが隠蔽記憶でなければね)(同上。p.40-44)。

(*)エンドルフィンについては ↓

「報酬系・ドーパミン・渇望:コルトレーン、ヘロインを断つ その16」
http://ameblo.jp/lm199781/entry-10017910374.html

「練習による依存の適正な代替:コルトレーン、ヘロインを断つ その28」 参照。
http://ameblo.jp/lm199781/entry-10025913975.html


・数年後、砂利道で偶然転んで膝に傷を負い、生を強く実感、エンドルフィン体験が甦る。自傷行為が勃発し、しまいには対称強迫と連動して右手に傷をつけると左手にも傷をつけないではいられなくなる。両手・両膝・両肘に絆創膏を貼った以前にも増して奇妙な子供とグリモーはなってしまう。(同上。p.57-59)。


[覚書: エンドルフィンは自傷行為が習慣化する理由の一つであるかもしれないが、事後的に(或いは発端として)生ずる自罰衝動はエンドルフィンでは説明できない? やはりエンドルフィンだけではタナトスを説明できない? そりゃそうか。]


・7歳の時、情操教育のため(まあ、問題児だったから)両親に音楽教室へ連れて行かれ、女性ピアノ教師が弾くシューマンを聴き、深く魅惑される。

自身の内奥から生ずる魔力、とグリモーは表現するが、それってやっぱエンドルフィンじゃないだろうか(音楽に感動するとエンドルフィンが出ます)。明らかに音楽はグリモーの性に合っていた。以後ピアノにのめり込み、自ら進んで練習する。両親はさらに偏った性格になるのではないかと心配するがもう遅い(*)。音楽という全く別種の刺激に触れて報酬系は新たに賦活され、グリモーを猛烈に駆り立てる。それかあらぬかパリ音楽院に入学した13歳の頃に自傷行為は自然に消えた(**)(強迫性プラス報酬系駆動、というのはコルトレーンの生涯を理解する上でもかなり参考になる)。


(*)この辺はグレン・グールドとちょっと似ている。手袋おやじも子供の頃はむちゃくちゃ練習大好きで、変人になることを危惧した両親から練習時間を日に4時間と制限されていた。そしてグールドもまたグリモー同様友達のできないいじめられっ子だった。しかし性格はちょっと(いやかなり)違う。グールドの場合は強迫じゃなくって分裂病質だとかアスペルガー症候群だとか言われたりしている。ミシェル・シュネデール『孤独のアリア』、宮澤淳一「グールドと精神医学」(KAWADE夢ムック文藝別冊『グレン・グールド』)参照。
(**)『野生のしらべ』p.64, p.59


・エンドルフィン仮説(ドーパミンでもいいけど)をさらに裏付けるのは、くたくたになるまで運動することを好んだ、というエピソード。延々と続く歩行や階段の駆け上り、バーベルや鉄アレイ、ランニング・マシーンを通じての肉体の酷使。この女、疲労を超越した快楽の味を占めているのが見え見えですぜ、ニセ医者の旦那(ちなみに歩行やジョギングといった反復運動はセロトニン神経を活性化する。セロトニンについては後で触れるかも)(同上。p.256-257)。


狼大好き


狼マニア。「狼女」たる由縁の症状。

アメリカ移住後、狼と運命的な出会いを経験、強く嵌り込む。

狼について大学で勉強し、果ては土地を買い込み放し飼いにして狼保護センターを設立するに至る。狼についての生物学的・博物学的な知識は『野生のしらべ』にも惜しみなく投入され、自伝的エピソードのカウンター・メロディを成す。気に入るととことん強迫的(いちず、とルビを振りたい)になるタイプみたいです。狼のために恋人も捨ててしまいました。
http://ameblo.jp/lm199781/entry-10038082588.html


youtube エレーヌ・グリモー 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/150.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/177.html#c3

[近代史3] まともな人間は音楽家になれない 中川隆
4. 中川隆[-12839] koaQ7Jey 2019年1月20日 15:35:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

音に色が見える共感覚

色聴と呼ばれ、日本にも専門の研究者が存在する。


共感覚者であると確証される現在の海外の人物

共感覚者であることを第三者が確証できるほどの極めて具体的な自らの共感覚の例を掲げた著作・芸術作品などの活動が確認できるほか、大学などの研究機関において被験者として検証実験を受けたり、研究者の著作・学術論文中にて引用・言及されており、共感覚者であると確証するに足る人物を挙げる。


エレーヌ・グリモー (ピアニスト)

アメリカ公共放送PBSとのインタビューで本人が語っている。


Helene Grimaud interviewed by Alexis Bloom for Quick Hits
https://www.youtube.com/watch?v=N_dw9-Bt_sM


いつもCは黒、Bは青、Fは赤、リストの曲は金色がかった色調に感じる。


また、11歳の時にバッハの平均律クラヴィーア曲集Fシャープメイジャー(嬰ヘ長調)のプレリュードを弾いている時に明るい暖かな赤とオレンジの間の色調を感じた。

数字にも色を感じる。2は黄色、4は赤、5は緑。

曲によってはいつも特殊な色の世界を感じる。時によって調性に影響される。

Cマイナー(ハ短調)は黒、Dマイナー(ニ短調)は青。

ベートーヴェンのテンペストソナタは黒、合唱幻想曲は黒、緑、赤、黄色のらせんを感じる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F%E8%A6%9A
http://eye-media.jp/entertainment/%e5%85%b1%e6%84%9f%e8%a6%9a%e3%81%ae%e4%b8%8d%e6%80%9d%e8%ad%b0/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/177.html#c4

[近代史3] まともな人間は音楽家になれない 中川隆
5. 中川隆[-12838] koaQ7Jey 2019年1月20日 15:46:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

前代未聞・空前絶後の大指揮者フルトヴェングラーが三流作曲家にもなれなかった訳


芸術というものは、「切れ目」があるもの。音はつながっていても、その流れの中に明確な「切れ目」がある。だって、そもそも芸術作品というものは、創作する人間に神の言葉が降り降りたから、永遠に残る作品になったわけでしょ?

その瞬間は、人間の発想の「流れ」は、切れますよ。

逆に言うと、だら〜とつながっている「流れ」を持つ作品は、たとえ音に切れ目があっても、人間の思考の範疇にあるわけ。

以前にマルグリット・デュラスの「インディア・ソング」を考えた際に触れましたが、「最適化とまり」の作品と言えるわけ。そんな作品は、「夜明け」に到達できないnormalな量産品ですよ。


最適化の作業を超えた神の声。そんな瞬間には、時間の流れが止まってしまうもの。

だから、「切れ目」が発生することになる。音がつながっていても、「流れ」が切れるわけ。


もちろん、音楽作品において、そんな「切れ目」があれば、音が一端切れることもありますし、音楽の音色の変化となるケースもありますし、テンポが変わるパターンもある。音楽の表情の変化には色々なパターンがあるもの。

しかし、音楽を聞いていて「ああ!この箇所で、単に音が変化したのではなく、世界が変わったなぁ・・・」と思うこともあるでしょ?

表現された「世界の切れ目」は、現実的には、音楽の流れにおいても切れ目となる。だから、音楽の切れ目に注目すれば、表現された「世界の変化」あるいは、その作品に現れた創造者の声も、見えてくる。日頃から創造的な日々を送っていれば、そんな「切れ目」に対する反応が鋭くなるわけですし、ルーティーンな日々を送っていれば、明確な切れ目があっても、見過ごしてしまう。


今回取り上げるのは、音楽映画「フルトヴェングラー その生涯の秘密」と言うもの。
芸術的な映画と言うより、記録映画に近い映画です。この映画を元に、フルトヴェングラーという人を考えて見たいと思っているわけ。

フルトヴェングラーと言う人は、第2次大戦を挟んでベルリン・フィルの指揮者だった人でした。1954年にお亡くなりになっています。没後50年以上経っているのに、今でも崇拝者はいたりしますよね?

フルトヴェングラーは当代随一の大指揮者であったとともに、作曲も、しました。

第2次大戦という困難な時代に、よりにもよって、ベルリン・フィルの指揮者だったため、ナチとの関係が色々と指摘されることになる。その映画でも、そんなシーンが出てきます。ナチとの関係は、後で考えてみます。とりあえず、ここで考えてみるのは、切れ目の問題です。


実は、このDVDの解説が、結構面白い。日本の音楽関係者さんが解説をなさっておられるようですが・・・

「切れ目」への反応が・・・何と言うか・・・うーん・・・と言わざるを得ないもの。

実は、このDVDの終わりの方に、第2次大戦の終結前にフルトヴェングラーがワーグナーの「マイスタージンガー」の前奏曲を指揮するシーンがあります。フルトヴェングラーとオーケストラはコンサート会場(と言っても体育館かな?)で演奏している。そこにはナチのカギ十字の旗が掛かっている。軍需工場の慰問の意味もあるのかな?

そして映画では聴衆が映っているわけです。フルトヴェングラーとオーケストラの演奏シーンがあって、聴衆が真剣に聞いている映像が流れて、そしてまた演奏シーンがあって、そして、聴衆のシーン・・・と繰り返される。映っている聴衆は、実に、真剣な、表情。

DVDの解説では、「スゴイ演奏だ!だから、聴衆がこんなにも真剣に聞いている!」なんて書かれていますが、読んだ私はその言葉にビックリ。

映像を見れば疑問に思うはずですが、フルトヴェングラーとオーケストラによる演奏シーンと、真剣に聞く聴衆のシーンって、同時に収録したものなの?

聴衆のシーンは別撮りじゃないの?
そして、後で編集したのでは?

同時収録の聴衆もいるでしょうが、全部が全部同時収録なの?

映っている聴衆に当たっている光の具合って、実際のコンサート会場ではありえない場合がある。それに聴衆と演奏家が一緒に映っているシーンがほとんどない。聴衆の映像に、音楽が流れるだけ。それに、フルトヴェングラーのコンサートなのに、それに特に正装している服装ではないのに、まあ、映っている聴衆の周囲がスカスカで、一人しか映っていない場合もある。安い席なら、もっと聴衆を詰め込むでしょ?ただでさえ希望者が多いんだから・・・


真剣な表情で音楽に聞き入っている聴衆の姿って・・・まあ、演技のプロなら当然ですよ。そもそも当時のドイツは純然たる独裁国家。そのイベントを収録した映像に映っている人物が、まるっきりのカタギと言うわけには行かないでしょ?

それこそ今だったら、北朝鮮政府が映した映像で映っている「一般国民」が、どんな素性の「一般国民」なのか?ちょっと考えればわかるはず。それに当然のこととして、当時のカメラは巨大なもの。ゴダールの「勝手にしやがれ」のように手持ちカメラでの撮影と言うわけにはいかない。自分の目の前にそんな巨大なカメラがあったら、落ち着いて演奏を聞くどころではないでしょ?

そして、当然のこととして、相当の光を当てないと、当時の感度の低いフィルムには収められませんよ。映っている「聴衆」にも、相当の光が当たっていたはず。それに、当時の政治体制を考えれば、聴衆だって「ミスは許されない」状態。こりゃ、「真剣」にもなりますよ。命が掛かっているもん。


「一般の聴衆が、こんなに真剣な表情で!」
・・・なんて・・・素直ないい子だねぇ・・・


何も私はその「解説」を失笑しているわけではありませんヨ。シーンの切れ目に対する反応の鈍さについて考えているだけです。

演奏シーンがあって、聴衆のシーンへと続く・・・

その「切れ目」に何があり、どんな意図があったのか?

日頃から創造的なことをやっている人だったら、そんな切れ目を見逃すはずはないんですね。逆に言うとルーティーンな日々を送っている人は、そのような「切れ目」に反応することは難しいんでしょう。これはしょうがない。日本の音楽現場と言うものは創造現場とは距離があるんでしょうね。

創造的な瞬間、人間の思考が途切れる絶対的な瞬間・・・

そんな瞬間とは無縁なんでしょう。申し分のない立派な市民と言えるんでしょうが、芸術家とは言えませんね。まあ、その「解説」は切れ目への反応の鈍さの実例。逆に、切れ目への反応の鋭さの実例というと、実は、このDVDで典型的な箇所があります。

映画に登場しているドイツの音楽研究者さんがフルトヴェングラーが演奏したバッハのブランデンブルク協奏曲の第5番について考えている箇所。その演奏が持つ切れ目がすばらしい。

フルトヴェングラー指揮による、バッハのブランデンブルク協奏曲・・・そんな組み合わせの方に、21世紀に生きる我々は失笑してしまう・・・そんなものでは?

フルトヴェングラーが活動していた時代から、バッハの演奏スタイルは大きく変わってしまいましたからね。実際に、この演奏でもチェンバロではなくピアノが鳴り響く。現代的と言うか、古いというか・・・

しかし、これがまたビックリするくらいに面白い。単に、古楽器による演奏に馴れた我々の耳に、逆に新鮮に響く、と言うものではなく、音楽の「切れ目」が生きている。

音楽の切れ目から、神からの霊感そのものが、鮮やかに浮かび上がる。

「ああ!ここでバッハに、神から霊感があったんだなぁ・・・」って、誰だってわかるのでは?

私はその「切れ目」の部分で、魂が身体からスーと抜けて行く感じがしたくらい。演奏スタイルが古いとか正統的とかの議論よりも、創作者に降り降りた神の言葉を再現することの方が重要でしょ?

フルトヴェングラーの演奏を聞いていると、その切れ目から、まさに「神の言葉」が聞こえてくる。創造的な音楽は、音楽の流れの中に、たまたま切れ目があるのではなく、切れ目をつなぐために、メロディーがある、むしろそっちのスタイルに近いもの。

それこそフルトヴェングラー指揮の有名なバイロイトでのベートーヴェンの第9交響曲の演奏ですが、あの「歓喜に寄す」のメロディーが、「入ってくる」その切れ目のすばらしさ・・・

それは誰だって認めるでしょ?全体が問題ではなく、切れ目が問題と言えるのでは?

神は切れ目に宿るわけ。切れ目への鋭い反応。そしてそれを再現する技量。フルトヴェングラーが、確かに、当代随一の指揮者であったのも、よくわかりますよ。

さて、前にも書きましたが、このフルトヴェングラーは、ナチとの関係が色々と指摘されたりします。多くの芸術家がドイツを後にしたのに、ドイツ国内に留まった。もちろん、彼もナチに対して抗議の声を上げたのだけど、どうも「あいまい」な態度。あるいは、このDVDに登場する画家のココシュカの言い方をすると、「とまどう」態度。

駆け出しの演奏家ならいざ知らず、指揮者としては当代随一の人だったんだから、生活の問題はないはず。心情的にはナチにシンパシーを持っていたのでは?

そんな指摘が、ナチの蛮行が本格化する前から、フルトヴェングラーに寄せられていたわけ。それに対し、

「音楽は政治とは関係ない!」

「私はドイツ音楽に忠誠を誓っているのであって、ナチに忠誠を誓っているのではないんだ!」

「ドイツ音楽を守るためにも、ドイツに残る。」


彼はそのような発言をしたわけ。「芸術と政治は関係ない!」という主張は、別の言い方をすると、「政治と芸術の間には切れ目がある。」と言う主張とも言えるでしょう。

その主張はともかく、もっと明確な態度でもよかっただろうし、取ることもできたのでは?

政治と関係ないと積極的に思うのなら、政治的な場所から切れて、積極的に距離を置けばいいだけ。ただ、その動乱の時代の当事者でない部外者が、もっともらしくコメントしても意味がない。

ただ、ナチとの関係が「あいまい」であったとは言えるでしょう。だって、他の多くの音楽家は、もっと明確な態度で臨んだわけですし、そのような断固とした態度をフルトヴェングラーに勧めた人も大勢いた。つまりフルトヴェングラーには他の選択肢を知っていて、その選択の可能性もあったわけ。

いっそのこと、ナチに忠誠を誓っても、それは個人の政治信条の問題。ナチに反対して、さっさと亡命して、他の国から「ナチからの解放」を呼びかけるのも、立派な態度。フルトヴェングラーは、「あいまい」なんですね。

しかし、フルトヴェングラーの「あいまいさ」って、ナチとの関係だけではない。音楽家にとって、もっと重要な問題においても、実にあいまい。

音楽家であることはいいとして、演奏家なのか?作曲家なのか?

その問題と真摯に向き合ったりはしない。

「ボクは本当は作曲家なんだ!」

なんて言うのはいいとして、実際に作曲をするわけではない。作曲する時間があっても、何とかして逃げ出そうとする。第1次大戦において、それこそ若いフルトヴェングラーは率先して兵役に付こうとしたらしい・・・

せっかく、徴兵検査で不合格になったのに・・・志願するなんて・・・

愛するドイツのため・・・は、いいとして、そのドイツの芸術を発展させることの方が、創作活動をする者の重要な仕事でしょ?

「ベートーヴェンやブラームスを産んだ祖国を守る!」

なんてお題目はいいとして、だったら、なおのこと自分が作曲することでベートーヴェンやブラームス以上の作品を残した方が祖国ドイツにとっても価値があるのでは?


フルトヴェングラーは、作曲の時間ができると、何かに首を突っ込んで、その作曲できる時間をつぶしてしまう。そんなことの繰り返し。その点は、ナチとの「あいまい」な関係で非難された作曲家のR.シュトラウスとは全然違っている。

シュトラウスは、要は自分が作曲できて、自分の作品が上演されれば、それでいい・・・と、割り切っている。ナチに対しても、いつの時代にも存在する、単なる「よくある障害物」くらいの認識。気に入らないヤツらだけど、明確には敵にする必要はない・・・それよりも、アイツらを、うまく使ってやれ!

シュトラウスはナチとはあいまいであっても、音楽活動に対しては、実に明確なんですね。シュトラウスが取ったこのような態度は、分野は違っていますが、ロケット開発のフォン・ブラウンとも共通しています。

自分が本当にやりたいことがわかっているものの発想。これこそが天才というものですよ。それに対しフルトヴェングラーは、「あいまい」な態度ということでは首尾一貫している。ナチともあいまい。作曲活動もあいまい。

あるいは、フルトヴェングラーのライヴァル関係であったトスカニーニとの関係もあいまい。トスカニーニを嫌いなら嫌いでいいわけですが、「敵にしたくない!」「嫌われたくない!」あるいは、「嫌ってはいけない!」なんて心情が見えてくる。

いつだって誰に対してだって判断保留の状態。

トスカニーニにして見れば、フルトヴェングラーは、指揮者としては偉大。政治的には無能。友人とはいえない。と明確。トスカニーニだって他の指揮者についての評価や関係についてウジウジ考えているヒマなんてありませんよ。どうせ共演するわけでもないし・・・割り切って前に進むしかないでしょ?

フルトヴェングラーの行動なり発言を読んでいると、「で、アンタ・・・いったいどうしたいの?」なんて思ってしまう。

フルトヴェングラーに対するトスカニーニなり、F.ブッシュの怒りも、そのあたりなのでは?

もちろん、「芸術と政治は関係ない!」という正論は正論。現実は、そんなものじゃないけど・・・

しかし、「芸術は政治とは関係ない」と言う理屈はいいとして、そうなると、芸術作品に対する理解ってどうなるの?

そう思いませんか?

だって、ナチの活動なんて、共感できないのはいいとして、考える価値のあるものですよ。たとえば、ナチの活動を見ながら、「愛を断念することによって、世界の支配をもくろむ」アルベリヒを連想しなかったのかな?

復讐だけがそのアイデンティティとなったハーゲンを連想しないのかな?

好人物であるがゆえに利用されたグンターと、ヒンデンブルク大統領の相似性を考えなかったのかな?

というか、悪企みの「弾除け」にされた好人物グンターの役回りを、フルトヴェングラーはどう思ったのだろう?

ヒンデンブルク大統領とは別に、この役回りを見事に演じた人が、まさに、いたわけでしょ?

フルトヴェングラーはグンターのことを「自分の背景で悪企みが進行しているのに気がつかないなんて・・・バッカだなぁ・・・コイツ!」なんて思ったのかな?

ナチは自分たちのことをジークフリートに例えていたのでしょうが、むしろアルベリヒやハーゲンにそっくりですよ。そして、最後のカタストロフも、オペラのまま。


ヒトラーと初めて会って話をしたフルトヴェングラーは、ヒトラーのことを「取るに足らない人物」と評したそう。そんな単純な見解って、人に対する洞察力が、いちじるしく劣ると言うことでしょ?

だって、その直前に、フルトヴェングラーは、ジークフリート・ワーグナーの未亡人でありバイロイトでの覇権を目指すヴィニフレート・ワーグナーと衝突しました。

ヴィニフレートは音楽について、明確な知識もない人間なのに、指揮者に色々と指図して、フルトヴェングラーは「もう、やっとれんわいっ!」とブチ切れたわけ。

バイロイトの主人として、バイロイトを盛り立てる・・・その意欲は意欲としていいのですが、音楽面でフルトヴェングラーに指図してもしょうがないでしょ?


しかし、コンプレックスの強い人間ほど、そんな無用な指図をやりたがるもの。それだけ自分を実態以上に「大きく」みせようとするわけ。そして自分自身から逃避したいわけ。そんなヴィニフレードとの衝突の後で、ヒトラーと会談して、ヒトラーとヴィニフレートとのメンタル的な共通性を感じなかったのかな?


芸術の分野も、政治の分野も、その主体は人間でしょ?

その間には明確な「切れ目」なんて無いんですね。芸術作品に登場する人物の心理を理解できても、実際の人間のキャラクターはまったく理解できないって、やっぱりヘン。
実際の人間も、オペラなどでの描かれている人間も、似たキャラクターの場合って多いものでしょ?


この点について、実に笑える話があります。第2次大戦の終結の後、ナチとの関係を理由に裁判にかけられるフルトヴェングラー。その証人として、とあるオペラ歌手が出てきたそう。そのオペラ歌手は、フルトヴェングラーとナチとの関係について、ウソ八百ならべて、フルトヴェングラーを陥れようとしたらしい・・・

しかし、そのオペラ歌手には、フルトヴェングラーとの間に過去に個人的な「いさかい」があり、その個人的な感情で、フルトヴェングラーに嫌がらせをしたんだそう。それは「マイスタージンガー」のベックメッサーの役をやりたくて応募したけど、フルトヴェングラーがその歌手を採用しなかったので、その「恨み」を持っていて、それを裁判という場違いな場でぶつけたわけ。

いやぁ!ベックメッサーになれなかった歌手の、見事なベックメッサー振り。芸術作品を理解するのに、最良の資料は、自分たちの目の前にあるものなんですね。

あるいは、教養人とされるフルトヴェングラーですが、ヒトラー,ゲッペルス,ゲーリングのナチの3巨頭のキャラを、フランス革命のロベルピエール,マラー,ダントンの3巨頭とのキャラとの関連で、見るようなことはなかったのかな?

禁欲主義者,マスコミ対応,享楽家と、組み合わせもちょうど合っている。教養人フルトヴェングラーの教養って何だろう?


書かれた楽譜なり、本での記述は理解していても、実際の人間を洞察するのには、何もできない。フルトヴェングラーって「ブンカジン」だなぁ・・・と思ってしまう。

まあ、そんな実際の人間に対する洞察力が著しく劣っていても、演奏家としては何とかなるんでしょう。それこそブルッックナーのような作品を演奏するのだったら、それでもいいのかも?

しかし、そんな人が、作曲などの新しい作品を作ることができるの?

ゼロから創作することができるの?

現実を見る目がそんなにない状態から、ゼロから創作するインスピレーションなんて、沸き起こって来るの?

フルトヴェングラーは、楽譜から「神の言葉」を読む取る能力はすばらしいけど、神の言葉を直接聞ける人間なのかな?

R.シュトラウスが要領よく立ち回ったのは、それだけ「人を見る目」があったからでしょ?

逆に言うと、そんな目がないとオペラなんて書けませんよ。フルトヴェングラーが言う


「時間がなくて、作曲できない・・・」

は、理由としてポピュラーですが、作曲なんて基本的にはアタマの中でやるものでしょ?

電車で移動している最中にもできるじゃないの?

あるいは、アルキメデスのようにお風呂に入った時にすばらしいアイデアなんて浮かばなかったの?

そのようなアイデアをしっかりコンポーズするには、まとまった時間も必要でしょうが、アタマの中でラフスケッチくらいはできますよ。それなのに、どうして20年以上も作曲に手をつけないの?

それって、「どうしても曲にまとめ上げたい!」という霊感やアイデアがなかったからでしょ?

だって、目の前にいる実際の人間に対する洞察力が、これだけ劣る人なんだから、霊感なんて来ませんよ。もし霊感があったら、とりあえずは、小さな作品からでも、作曲するでしょ?

まずは小さい規模の作品を制作しながら、自分自身の本当の霊感なり、作品にする問題点を自覚できるわけでしょ?

その後、大規模な作品に進んでいけばいいじゃないの?

作曲活動それ自体が、そして自分が作った「小さな作品」それ自体が、自分自身がやりたい作曲活動の方向性を教えてくれることがあるわけ。いきなり大規模な作品を制作って、ヘンですよ。


彼の作曲した作品ですが・・・

DVDの映像では、カイルベルトとバレンボイムが、肯定的な評価をしています。しかし、どうしてコメントがカイルベルトとバレンボイムによるものなの?
実は、この映画には、もっと適役が登場しています。それは、テオドール・アドルノ。

シェーンベルクに作曲を習い、マーラー以降のドイツ音楽について一家言以上のものを持つフランクフルト学派の哲学者アドルノが、フルトヴェングラーが作曲した音楽を、「理詰め」で絶賛すれば、この私などは「ははぁ!わかりました!わかりました!もうわかったから勘弁してよ!」って泣きを入れますよ。


ところがアドルノは、フルトヴェングラーの指揮を絶賛しても、作曲した作品には何も語らない。当然のこととして、この映画を制作した人は、アドルノに対して、作曲家としてのフルトヴェングラーについて聞いたはずです。カイルベルトやバレンボイムにも聞いたくらいなんですから、当然でしょ?

アドルノは、まあ、その話題を避けたんでしょうね。ウソは言えないし、故人を冒涜するようなことはしたくないし・・・

まあ、アドルノが言いたくないレヴェルの作品というわけなんでしょう。技術的な問題はともかく、「どうしてもこれを表現したい!」という気持ちが入っていないと、それ以前の問題ですよ。彼の作曲した音楽からは「どうしてもこれを表現したい!」「これだけでもわかってほしい!」という強い意志が感じ取れない。

しかし、彼の「指揮した」演奏を聞いて、「どうしてもこれを表現したい!」という強い意志が聞きとれない人はいないでしょう?

そして、演奏には、明確な「切れ目」もある。その切れ目が、人間の発想から、神の発想への「切れ目」となっている。そして、その「切れ目」を通ることによって、音楽の高みが、「より」高みへと通じ、深みが「より」深みへとなっていく。彼が指揮した音楽が作り出す「切れ目」を、彼と一緒にくぐることによって、我々聞き手も「より」深淵へと、到達できる。


『ここで作曲者に神の言葉が降り降りたんだ!』

って、フルトヴェングラーの指揮した音楽からは明確にわかる。彼は演奏家としては、あいまいさからは無縁。彼としては、演奏している時だけが、自分になれた・・・というより、完全なオコチャマになれた・・・のでは?

それ以外の時は、周囲に配慮しすぎですよ。


完全なオコチャマになり、幼児のように心を虚しくしているので、まさに天国の門は開かれる。


「オレは本当は指揮者ではなく作曲家なんだ!」

「本当は指揮などをしている場合じゃないんだ!」

「作曲をしないと行けない!」


と思っているので、指揮そのものは一期一会になる。フルトヴェングラーにしてみれば指揮は禁忌のものなんですね。禁忌のものだからこそ、なおのこと惹かれるって、人間誰しもそんなもの。おまけにそっちの才能は人並み外れているんだし・・・やってはいけないものだからこそ、火事場のバカ力も出たりする。

だからますますやっていて楽しい。火事場のバカ力なので、精神的に落ち着くと、周囲に配慮した「いい子」になってしまう。自分に自信がない人は人から誉められることを渇望するもの。それだけ自分自身が本当にしたいことがわからないので、人からの評価に依存してしまうわけ。

しかし、「いい子」では、逆に神の言葉は聞けないでしょ?

だって、「心を虚しくしている」幼児は、決して「いい子」ではないでしょ?

「いい子」って、それだけ外面的なことにこだわっているということ。人の評価に依存しているということ。それだけ神からは遠いわけ。


フルトヴェングラーの父親は、なんとアドルフという名前らしい・・・考古学の教授をなさっておられました。そのアドルフさんは、息子の才能を認め、サポートした・・・のはいいとして、息子の意見を聞いたの?フランクな会話があったの?

どうも、そのアドルフさんは厳格な人だったらしい。厳格と言っても様々なヴァリエーションがあります。自分に厳しいというパターンから、問答無用で強圧的というパターンまで。息子のウィルヘルム・フルトヴェングラーが極端なまでに「いい子」でいようとしたことからみて、まあ、問答無用の父親のパターンでしょうね。

そうなると、一般的に子供は抑圧的になってしまう。自分で自分を抑圧するようになるわけ。まさに「いい子」でいなきゃ!って強迫的に思ってしまう。

彼も、自分の父親アドルフの問題を真剣に考えればいいのでしょうが、どうもそこから逃げている。父親アドルフの問題から逃げていれば、総統アドルフの問題を考えることからも逃げるようになりますよ。だから眼前にどんな事件があっても、鈍い反応しか示せない。

自分が一番よく知っている人物の問題から逃避する人は、眼前にある具体的な人物や事例から考えることを逃避してしまうものなんですね。それこそ、フェミニズム運動をなさっておられる女性たちは、自分の父親の問題については絶対に言及しないものでしょ?

一番よく知っている男性の問題を考えなくて、男女の問題云々もないじゃないの?


同じように、フルトヴェングラーは、一番よく知っている人間の問題から逃避して、具体的な現実の人間の問題から次々と逃避しだす。そして、最後には指揮台に追い込まれ、もう逃げようがないとなると、爆発してトランス状態になり火事場のバカ力が出る・・・


普段は逃げ回っている作曲家フルトヴェングラーなり、人間フルトヴェングラーも、指揮台に上るという「切れ目」を経ると、「あいまいさ」から解き放たれ、神懸かりとなって、神の言葉が聞けてしまう。指揮台に上るという「切れ目」を経ることによって、「切れ目」を作り出すことができる芸術家になる。

指揮台に上る前は、アドルフから逃げ、アドルフの言葉を聞く状態。

指揮台に上ったら、神の言葉が聞こえる。


そういう意味で、作曲から逃げ出すこと自体が、神懸かり的な演奏をするエネルギーになる。しかし、そんな彼は、本当に、「作曲をしなくてはならない。」という状況になったら、どこに逃げるんだろう?

フルトヴェングラーにとっては、演奏は、仕事でもなく使命でもなく、いわば治療とか療法に近いもの。しかし、だからこそ、彼にとっては必然でもある。作曲では彼は救済されないわけ。

個人的なことですが、私が彼の演奏のレコードを聞いたのはシューベルトの長いハ長調の交響曲の録音。オケはベルリン・フィル。その演奏を聞いて、まずは最初のホルンにビックリしたものです。

「これが20年後に、パリのオーケストラよりもラヴェルらしいラヴェルがやれると自慢されてしまうオケの姿なのか?」

最初もビックリですが、第1楽章の最後の部分にもビックリ。オケのメンバーが、気が狂ったように演奏しているのがよくわかる。


オーケストラのメンバーや聴衆に「感動」を与えられる指揮者は結構いるでしょうが、オーケストラのメンバーや聴衆を「発狂」させるのは、ハンパじゃありませんよ。とてもじゃないけど、人間業ではできないこと。


そして、そのシューベルトの演奏を聞いていると、この演奏家が、死に場所を探して暴走していることがスグにわかる。彼は逃げて、逃げて、死に場所を探して暴走し、その暴走がオーケストラや聴衆に伝わる・・・


死に場所を探すエネルギーが、演奏のエネルギーになり、生きるエネルギーになる・・・って、矛盾しているようですが、まあ、芸術・・・特にドイツ芸術って、そんな傾向があったりするでしょ?


ドイツ精神主義なんて言葉もありますが、フルトヴェングラーの音楽を聞いていると、そんな主義主張よりも、彼岸にあこがれる心情の方が強いのでは?

しかし、彼岸に憧れ続ける心情が何をもたらすか?

そんな一期一会の絶妙な均衡が、彼の音楽をかけがえのないものにしている・・・

演奏専従だったら、演奏だってルーティーンなものになってしまって、一期一会にはならないわけですからね。この点は、他の演奏家にはないこと。彼は演奏家になりきれなかったから、偉大な演奏家になった・・・

あるいは、職業としての演奏家としては不十分であったために、一期一会の演奏は達成できた。相変わらずの、反語的な言い回しですが、偉大な表現者って、反語的な存在なんですね。

http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-11/07-11-01.htm

「作曲家としてのフルトヴェングラー」


彼は、ある意味において、実に面白い人物。私ごときが指揮者としての彼の能力を語ることはできるわけがない。天才の発想なんて読めませんよ。

しかし、指揮台に上がっていない彼の、普段の行動なり作曲家としての彼のスタイルは、意外なほどに「読みやすい」もの。よく、彼の行動を評して

「どうしてナチに対してあいまいであったのか?」とか

「どうして大した才能もないのに、作曲家であることにこだわったのか?

そもそも大作曲家の作品に親しんでいる彼なんだから、自分の作品のデキについてわからないわけがなかろう?」


どうしてなんだろう?そんな疑問が提示されたりするものでしょ?


ナチや自分の作品の価値についても、ちょっとでも自分で判断すれば、結論を出すことは難しくはない。しかし、世の中には判断することから逃避するような人間もいたりするもの。フルトヴェングラーがその典型だとすると、彼の行動も、簡単に理解できてしまう。

判断を間違ったのではなく、判断することから逃避する人間のタイプなんですね。


以前にエルフリーデ・イェリネクさん原作の「ピアニスト」と言う作品を考えた際に、抑圧と言う言葉を多く用いました。表現者としては、「自分がやりたいこと」、あるいは「表現者として人々に伝えたいことは何だろうか?」その問題意識が重要でしょ?


自分自身を抑圧すると、そのようなことを考えることから逃避するようになってしまう。そんな人は、「何を伝えるのか?」と言う問題から逃避して、「どうやって伝えるのか?」と言う問題にすり替えてしまうんですね。

自分がどうしてもやりたいこと、あるいは自分がどうしても伝えたいこと・・・それはいわばWHATの問題。

どうやって伝えるのかの問題は、いわばHOWの問題。

自分自身に抑圧を課す、それなりに知性のある人間は、自分自身のWHATの問題から逃避して、あらゆることをHOWの問題にしてしまう。なまじっか、それなりに知識があり、HOWの問題について語ることができるので、WHATの問題から逃避していることが、自分でも気が付かない。自分からの逃避と言う状態においても、それなりに洗練されてしまうわけ。

さて、フルトヴェングラーの逃避の問題ですが、この映画で実に典型的なシーンが出てきます。青年時代のフルトヴェングラーが、家庭教師と一緒にイタリアのフィレンツェに旅行をした。ミケランジェロの作品に圧倒的な印象を受けた青年フルトヴェングラーは、その場から離れ、一人でその印象を楽譜にしたためていたらしい・・・

映画においても、その「圧倒的な印象から逃げて・・・」なんて言われちゃっています。もうこの頃から、逃避傾向があるわけです。と言っても、皆さんは思うかもしれません。

「せっかく、ミケランジェロの彫刻からすばらしい印象を受けたのだから、それを音楽作品にまとめようとするのは、作曲家志望の青年としては当然のことではないのか?」

その感想は、ある意味において、正しいでしょう。しかし、圧倒的な印象を受けたのなら、それをその場で楽譜に残す必要はないんですね。だって、圧倒的な印象だったら、いつまで経っても忘れませんよ。何もその場で音楽作品にする必要なんてない。むしろ、アタマの中で寝かせておいて、その印象が充実してくるようにした方が、適切な方法。アタマの中でその時の印象と別の機会での体験を組み合わせたり、他の経験と共通性を考えたり、当然のこととして、その表現方法だって色々と考えられる。

素材をどう広げるのか?
あるいはまとめるのか?
どのようにコンポーズするのか?

それを考えるのが作曲家でしょ?

その時点で音楽にして楽譜に書いてしまうと、もう考えなくてもよくなってしまう。ただ、アタマの中での試行錯誤は、結構シンドイもの。常に考えなくてはならないわけですから、精神的に負担になるんですね。

それこそ、コンピュターのメモリーで常にアクセスできる状態のようなもの。引き出しやすいけど、電力は常に使う状態なのでスウィッチは切れない。

それに比べて、ハードディスクに保存すると、保存性はよくなるけど、アクセスは出来にくい。だから加工は難しい。これが紙にプリントアウトしてしまうと、もういじれない。しかし、だからこそ精神的にはラクと言える。


フルトヴェングラーだって、本当に作品を作れる人間だったら、そんな強い印象を受けたのなら、スグに楽譜にまとめることなんてしないはず。スグに楽譜にメモしなくてはならないのは、むしろ小ネタの方。だってちょっとしたネタだったら、それこそスグにメモならないと忘れちゃうでしょ?


「あの部分の切り返しのところは、このような方法にしよう!」とか、「ちょっとしたエピソードとして、こんなネタを挟もう!」なんて、ちょっとしたアイデアも、作品を作る上では必要ですよ。そんな小ネタだったら忘れないようにメモらないとね。

よく「引き出し」なんて言い方がありますが、そんな小ネタもやっぱり必要なもの。
それこそ引き出しにしまっておかないと。しかし、自分にとって最重要な問題、いわば大ネタは、忘れるわけがないから、メモる必要もない。

スグにまとめちゃうということは、アタマの中で寝かして試行錯誤し続ける精神的な負担に耐え切れない心の弱さを表しているものなんですね。ミケランジェロからの印象を、さっさと楽譜にまとめてしまう態度では、「強い」作品にはならないわけ。

こんなことを書くと、いまだに現存するフルトヴェングラーの崇拝者の方はご立腹なさるでしょうが、今ここで私が考えているのは、作曲家としてのフルトヴェングラーであって、指揮者としてのフルトヴェングラーではありません。


指揮者としては、あれほど圧倒的な音楽を作れるのに、どうして作曲家としては「いい子」、あるいは規格品とまりなの?と言うか、それこそ、作曲なんて止めてしまって指揮者専業でも何も問題ないはず。作曲をすること自体を楽しむことができる人間だったら、それこそミケランジェロから受けた強い印象をアタマの中で色々といじって、長く検討して行くものでしょ?

スグに作品にまとめるって、「イヤなことは、早く忘れたい!」「つらいことから、早く逃げ出したい!」そんな心情が、無意識的にあるということ。

自己への抑圧と言うものは、そのような自己からの逃避というスタイルになることが多いんですね。自分自身のWHATから逃避するわけ。

自分が何をしたいのか?

何を人に伝えたいのか?

それについて考えないようになってしまう。

そのような傾向は、強圧的な父親の元で育ったアダルトチルドレンに典型的なもの。問答無用の環境だったので、自分がしたいことを抑圧するようになるわけ。

実は、フルトヴェングラーの行動も、抑圧的なアダルトチルドレンの習性がわかっていると、簡単に予想できてしまう。発想が常に減点法。人から嫌われてはいけない。よい子でいないといけない。もちろん、親に迷惑が掛かってはいけない。そんなことを常に考えている。減点を意識しているので、自分で判断できない。

彼の場合は、それが特に深刻で、共依存状態にある。「共依存」とは、相手に依存「させる関係」に依存すると言うもの。「共依存」と言う考え方は、夫婦間でドメスティック・ヴァイオレンスに陥ったり、あるいは若い人たちがボランティアに入れ込むようになる心理を説明する際におなじみのものです。

あるいは、「ウチの子はいつまでも経っても甘えんぼうで・・・ずっと、ワタシがついていないとダメだわ!」なんて言うバカ親の心理もこれですよね。

あるいは、もっと深刻だとストーカーの心理もこれです。ストーカーは「オレにはアイツが必要だ!」と自分で『認識』しているのではなく、「アイツにはオレが必要だ!」と勝手に『認定』しているわけ。

自分自身の精神状況の自覚ではなく、相手の幸福のスタイルを勝手に認定しているわけ。だからタチが悪い。当人としては善意で相手に付きまとっている。だから周囲が何を言ってもダメ。バカ親の心理もそうですが、基本的にはアダルトチルドレンに典型的な症状です。それだけ、自分自身が何をしたいのか?自分でもわかっていない。そしてわかろうとしないし、自分から逃避しようとする。精神的に自立していない。だから他者との関係性に依存せざるを得ない。

こんな心理を持っていたら、たとえナチスに共感がなくても、ドイツから離れられませんよ。だって、共依存症状にある人にしてみれば、ナチス支配下のドイツなんて天国ですよ。だって、自分を頼ってくる人がいっぱいいるわけですからね。

つまり自分の役割について自分で考えなくてもいいわけ。簡単に自己逃避できるわけでしょ?

何もフルトヴェングラーの人格に対し攻撃しようなんて思っているわけではありませんよ。芸術家なんて、その作品がすべてですよ。それこそ画家のカラヴァッジョや作曲家のジェズアルドや劇作家カルデロンのように人殺しまで居るのがアーティストの業界。

たかがアダルトチルドレンくらい・・・まだまだ甘いよ。いや!「あいまい」ですよ。


前回でフルトヴェングラーは首尾一貫して「あいまい」という点を書きました。「あいまい」であると言うことについては、実に「あいまい」ではないわけ。

この点は、彼の作曲した音楽にも明確に見えてくるでしょ?

彼の交響曲第2番はCDになっていて、まさしく彼の演奏で聞くことができます。
これが、また、「あいまい」な音楽。

何も、時代に合わせてモダンな12音技法でないとダメとか、ショスタコーヴィッチばりのポストモダンな引用技法が展開されていないといけないとか・・・そう言うことを申し上げているわけではありません。

「これだけはどうしてもわかってほしい!」とか、

「消しようがないほどに明確な音響イメージがあって、それを表現したい!」

なんて強い意志なり、覚悟がある音楽なの?

と言うことなんですね。

自己表現が目的と言うより、自己弁護の音楽。

えーとぉ・・・ボクはこんな事情があって・・・

色々と面倒なことがあったから、作曲できなくて・・・

まあ、ちゃんと作曲もやっているでしょ?

サボっているわけじゃあないよ。そんな弁解がましい表情が延々と続く音楽。


音響的にはフランクやショーソンの交響曲のような感じで、ブルックナーの交響曲から「聞いたことがある」音響が出てくる。なんともまぁ・・・

フルトヴェングラーが作曲した作品は聞き手に真摯な緊張を要求する・・・
そんな音楽なんだから、だからオマエはその価値や内容がわからないんだよ!
そうとも言えるでしょうが・・・

どんな小難しい音楽でも、後世まで残る作品には「これっ!」という瞬間があって、その決定的な瞬間から、全体の理解もだんだんと深まっていくモノ。

ところが、フルトヴェングラーの交響曲には、「これっ!」と言う「切れ目」がない。これは楽章の切れ目云々ではなく、音楽の流れに切れ目がないため、神の言葉が降り降りた瞬間が出てこないんですね。

演奏においてなら、「切れ目」の大家と言えるフルトヴェングラーなのに、作曲した作品には「切れ目」がない。つまり神の言葉ではなく、人間の言葉が支配している「音楽」といえるわけ。自分の存在証明ではなく、自分の正当性の証明に近い。

しかし、正当性を証明しようとするほど、芸術家としての存在証明から遠くなる。なぜなら人間の言葉で正当性を証明するほど、神の言葉から遠くなるもの。

幼児のように、心を虚しくして、神の言葉を受け入れたときに、芸術家としての存在証明になる・・・芸術作品とはそんなものでしょ?

神の言葉を伝えるのが、芸術家の使命でしょ?

天才は自分の正当性などと言った弁解のための仕事などはしないもの。

弁解が通用しない世界・・・それが修羅場でしょ?

フルトヴェングラーにとって指揮台こそが、その修羅場。だから指揮においては、弁解のための仕事はせずに、神の言葉を直接聞くことができて、それを伝えることができる。しかし、作曲をしている時には、精神的に余裕があって、修羅場ではない・・・だから弁解ばかり。


フルトヴェングラーが作曲した作品は、実に人間的な音楽とも言えますが、逆に言うと人間とまり。あるいは、まさしく最適化止まり。これでは作曲していても、面白くないでしょう。たしかに、25年以上も作曲から遠ざかることを、事実上選択するわけですよ。


しかし、作曲の才能がなくても、創作の霊感が訪れなくても、何も問題はないはずでしょ?

当代随一の指揮者と言う称号があるんだから、それでいいんじゃないの?

そもそも、フルトヴェングラーさんよ!アンタは作曲が好きなの?

そんな根本的な疑問をもってしまう。

作曲を好きなのに才能がないのか?

そもそも好きでないのに、自分を押し殺して作曲したのか?

「ボクは本当は作曲家なんだ!」と言うのはいいとして、25年以上も作曲から遠ざかり、やっと作曲したら、自己弁護に終始。使命感を持って作曲している人がやることではありませんし、そんな音楽ではありませんよ。

逆に言うと、特に才能があるわけでもないし、使命感があるわけでもないし、好きでもないし、実際の作曲活動はしないのに、どうして「ボクは本当は作曲家なんだ!」なんて言うの?

フルトヴェングラーは、子供の頃から音楽の才能を発揮して、周囲から、「将来は偉大な作曲家に!」なんて言われたそう。これはDVDに出てきます。家族も、その才能に惜しみない援助を与え、教育の機会を与えた・・・


そう言う点では、「作曲家」フルトヴェングラーは実に恵まれている。作曲家になるに当たって、こんなに周囲から物心両面からのサポートを受けることなんて滅多にありませんよ。一般的には、「ボクは作曲家になりたいんだ!」なんて言おうとしたら、「何を、夢みたいなことを言っているんだ!カタギの仕事をしろ!」と言われるのがオチ。

しかし、少年フルトヴェングラーは家族から励まされる環境。それこそ、父親との間にこんなシーンがあったのでは?


少年フルトヴェングラーと、父親アドルフが、冬の夜に空を見上げる。


「おい!ウィルヘルム!
北の空にひときわ大きく輝く星があるだろう!
あの星はドイツ作曲家の星だ!
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー・・・

オマエも将来、あの星になるんだ!」


「父さん!わかったよ!
ボクはドイツ音楽の星になるんだ!ボクはやるよ!」

・ ・・拳を握りしめ、瞳から炎がメラメラと・・・このシーンのBGMは当然・・・


輝くドイツ音楽の星。それもバッハやベートーヴェンやワーグナーなどに並ぶ地位に。


「さあ!これが、ドイツ音楽作曲家養成ギブスだ!」

「これをつけて親子一緒にガンバロウ!」


そんな感じで言われちゃったら、子供の頃はともかく、実際に作曲するにあたってはプレッシャーになるんじゃないの?

しかし、フルトヴェングラーが音楽活動を始めた頃は、その星々につながる意志を持っていたのは明白。彼が1906年の指揮者としてのデビューで取り上げた曲は、後に交響曲第1番の第1楽章となった自作の「ラルゴ ロ短調」と、ブルックナーの第9交響曲の組み合わせでした。ブルックナー最後の未完の交響曲なんて・・・デビューの曲目にしては荷が重いだろう・・・と思うのは誰でもでしょうが、この「組み合わせ」・・・あるいは、以前書いた言い方でモンタージュは、簡単にその意図が読めますよね?


それはこれ。

「ブルックナーが完成させられなかったドイツ音楽の系譜を、このボクが完成させるんだ!」

まあ、その心意気や良し!・・・なんですが・・・

系譜につながることは結果であって、目的ではないでしょ?

それこそブルックナーだって、先輩作曲家ベートーヴェンを尊敬していたでしょうが、その列につながるために作曲をしたわけではないでしょ?

自分自身の霊感を永遠に残すために作曲したわけでしょ?

曲のまとめ方などに当たって、当然のこととして先輩の方法を参考にする・・・
だから、結果としてドイツ音楽の作曲家の系譜になる。

そんなものでしょ?

まずは、自分がどうしても表現したいものは何なのか?
その自問自答の方が先でしょ?

しかし、フルトヴェングラーは、ドイツ音楽の作曲家の系譜が強く意識されてしまっているので、

「ボクもそのレヴェルでないと行けない!」
「巨匠たちの名誉を汚さぬように!」
「あんな音楽を書かなきゃ!」

なんて強迫的に思ってしまう。いわば、形から入る状態。形から入っているので、フルトヴェングラーが作曲した作品って、交響曲とかの立派なジャンルばかりですよね?

そして長さも結構ある。まさに立派な外観をもっている。しかし、外観はいいとして、中身はどうなの?

そもそも芸術作品にとってジャンルとか外観は、二の次でしょ?

マーラーの交響曲が、交響曲なのか?歌曲でしかないのか?そんなことを議論する人もいますが、それ以前に中身の問題が重要でしょ?

マーラーの音楽は中身で勝負できる。しかし、フルトヴェングラーの作品の中身っていったい何?

逆に言うと、中身で勝負できないから、ますます外観にこだわらざるをえない。それでは自分なりの作曲なんてできないでしょ?

作曲家フルトヴェングラーは伝統的な芸術の系譜を意識するあまり、芸術の伝統の系譜からは外れてしまった。「伝統的な芸術の系譜」と「芸術の伝統の系譜」なんて、言葉としては似ていますが、中身は全然違うモノ。

それこそベートーヴェンだって、彼自身は「伝統的な芸術の系譜」ではなく、「芸術の伝統の系譜」の一員と言えるでしょ?

まあ、作曲の才能が「全く」ないのなら、まだ、「しょうがない」で済みますが、フルトヴェングラーの場合は、最初は神童扱いだったわけですし、周囲からのサポートを受け期待もされた。作曲から逃げる理由がないわけ。しかし、逃げる理由がないからこそ、懸命になって逃げざるをえない。


そもそも、やっぱり作曲家という存在は、音楽家の中では最高位でしょ?

だからこそ、作曲家であることをあきらめることは、序列的に下に安住することを意味しますよね?

「父さん!ボクは作曲なんてしたくはないんだ!指揮の方が好きなんだ!」

なんて言っても、心の中にいる父親がこう言うでしょう。


「どうしてオマエは、そんなに自分に甘いんだ!

自分は才能が無いなんて言葉は、努力放棄の言い訳に過ぎない!バカモノ!」

そして「北の空を見よ!ひときわ輝く星がオマエの目指すべきドイツ音楽の星だ!」

とお説教の声。そんな父親の言葉が心の中で響いてしまう。だから周囲には「ボクは本当は作曲家なんだ!」と、言い訳をしなくてはいけない。

フルトヴェングラーはなまじ指揮者なんだから、タチが悪い。彼がピアニストとかヴァイオリニストだったら、作曲活動にも、距離を取りやすい。作曲をしなくても、誰も不思議に思わない。しかし、指揮なんて、そもそもが作曲家の仕事の一部だったわけでしょ?

しかし、才能はないし・・・それだけでなく、ドイツ音楽の星としての要求される「基準」もある。あのレヴェルの曲を書かないといけない!

これでは、自分なりに作曲するなんてことはできないわけ。

さあ!どうする?

と言うことで、作曲しなくてもいいように、余計なことに首を突っ込むわけ。

「あそこに困っている人がいるから・・・」
「ボクが助けないとダメだ!」
「あの人たちを助けられるのはボクだけ・・・」

と言うことで、ますます共依存症状が進行することになる。そもそも指揮者フルトヴェングラーが作品に向き合う際には、「作曲された音楽が作曲される前の状態まで考え、それを再構成する」のがフルトヴェングラー。

そんな発想は、まあ、私には実に親近感がある。だからそんな態度を、フルトヴェングラーの「作品」に適用しているだけです。創作者の発想を読みながら演奏したフルトヴェングラー自身の発想を、この私が読んでいるだけです。

重要なことは作品を評価することではなく、その前の霊感を考えることでしょ?


逆に、ナチスは「芸術家にとって作品などは、どうでもいい!人格が問題なんだ!」と言ったそう。

その人格と言ってもナチスに対する忠誠となるんでしょう。人格で作品を否定するなんて、それこそがナチスですよ。しかし、その人格重視のナチスがワーグナーを賞賛ってのも、また矛盾なんですが。そもそもアーティストなんてオコチャマなのがデフォルト。その瞬間に充足し、次には、その充足を破壊していく・・・

「わあ!これって、おもしろいなぁ!」それがすべて。そんなオコチャマこそが芸術家のメンタリティ。

逆に言うと、フルトヴェングラーは、アダルトチルドレンだけあって、ある意味オトナ。この面でもあいまい。あまりに周囲に配慮しすぎ。発想が減点法。


別の言い方をすると、「いい子」。彼の行動も、作曲した作品も、まさに「いい子」がやりそうなものですよ。

自己の確立していないアダルトチルドレンは、往々にして権威主義。その価値を自分自身で説明することができないので、人々が「権威ある」と認めるものに乗っかろうとするわけ。

実は、このような点で、フルトヴェングラーとゲッペルスは、腹の底では共感しあっていたようです。フルトヴェングラーは何か相談事があると、まずゲッペルスを訪ねたようです。ゲッペルスもフルトヴェングラーのことは、気にかけていたそう。いわばカウンターパートナーの間柄。フルトヴェングラーもゲッペルスも、「何を言うのか?」と言うWHATの問題よりも、「どう伝えるのか?」つまりHOWの問題の大家ですよね?

それに、権威ある思想に乗りかかって自己を表現するスタイルも共通。序列思考が強く、族長的な存在に盲目的に従おうとする。彼らは、いわば隷従することが好きなタイプ。以前に取り上げたエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」を考えた際に用いた言い方をすると、「犬」のタイプ。

ゲッペルスに対して、

「アナタはヒトラーの犬じゃないか?」なんて言っても、

「ああ!そうだよ!何か文句でもあるかい?」

なんて言われるだけでしょ?

ゲッペルスは、ヒトラーに最後まで付き従いましたよね?

その点ではゲーリングやヒムラーよりも忠犬。たぶん、ゲッペルスの父親も強圧的な人だったのでは?

同じように、フルトヴェングラーに対して「アンタはベートーヴェンの犬じゃないか?」なんて言ったらフルトヴェングラーはどう答えるのでしょうか?

やっぱりゲッペルスと同じじゃないの?「ああ!そうだよ!何か文句でもあるかい?」

ゲッペルスは、信念を持って、アドルフに隷従していたわけ。フルトヴェングラーも深層心理的にアドルフに隷従していたわけですが、彼の場合はアドルフと言っても、ヒトラーではありませんが。ベート−ヴェンの犬なんて言葉はともかく、フルトヴェングラーはそれでいいと思っていたでしょう。立派なベートーヴェンの音楽を人々に伝えるのが、自分の使命だ!

そう考えることは、立派なこと。しかし、作曲家志望だったら、そんな崇め奉るだけではダメでしょ?

立派な権威としてベートーヴェンを見るのではなく、すばらしい業績を残した先輩として見る必要もあるのでは?

第2次大戦が終結した後で、フルトヴェングラーはR.シュトラウスを訪ねた。R.シュトラウスは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の楽譜を見ながら、「ファゴットの使い方がすばらしいねぇ!」と言ったそう。

こんな言葉から、R.シュトラウスは、ワーグナーをすばらしい業績を上げた先輩と見ていることがわかりますよね?

作品を受けてのリアクションにおいて、意味ある細部を指摘できるのは、全体がわかっている証拠。そして自分自身についてもわかっているからできること。シュトラウスとしては同じ作曲家仲間として、ワーグナーの作品を参考にする・・・そんな態度が見えてくるわけ。他の人の作品を見るにあたっても、普段からの自分の問題意識が反映されることになる。だから具体的な細部の各論を中心に見ることになる。

「自分だったら、どうするのか?」

「今、自分は、ちょっと壁にぶち当たっているけど、この人はどんな解決をしたんだろう?」

そんな発想が常に存在しているわけ。フルトヴェングラーの場合は、尊敬すべき先輩というより、ひれ伏さざるを得ない権威としてベートーヴェンやワーグナーを見ているのでは?

あるいは、規範として見ている。そうとも言えるでしょう。つまり作曲家としての問題意識がない状態で、他の作曲家の作品を見ている。そのような見方は、指揮者としては問題なくても、作曲家としては問題でしょ?

規範として見るような発想は、「それ以外を認めない」と言うことになり、ある意味、自分で考えることから逃避できる。これはエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」でのエリカもそうでした。音楽を聞く際においても、ベートーヴェンを規範としてみたり、あるいは演奏家としてのフルトヴェングラーを規範として見ることは、聞き手の自己逃避の一種なんですね。規範を重視と言うか、形から入る・・・いわば、「形と中身の乖離」となると、ブラームスがいます。

フルトヴェングラーも、そのような観点において、ブラームスを同類と認識していた面もあるようです。しかし、ブラームスは、中身と形式の乖離の問題はありますが、逆に言うと中身がある。しかし、フルトヴェングラーの作品には中身があるの?

乖離云々以前に中身がないのでは?

伝えたいと思う中身と、伝えるに際し用いた形式の間に乖離があると言うより、彼が伝えたいという中身って何?

抑圧状況に陥ると、まさにその問題を自問自答することから逃避するようになってしまう。以前取り上げたギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」の冒頭に掲げられたプラトンの言葉は

「魂でさえ、自らを知るために、魂を覗き込む。」と言うもの。

「魂を覗き込む」ことから逃避している人間が、創造なんてできるわけがない。

そのようなアンゲロプロスの問題意識が、あの作品にあったわけですし、そのもっとも典型的な実例が作曲家フルトヴェングラーなのでは?

自分自身を見つめることができる人だからこそ、自分の魂を覗き込むことができる人だからこそ、そんな人には「世界の声」「神の声」が集まってくる。つまり自分自身の魂の声を聞くことによって、結果的に世界の声が聞ける。ユングの言う「元型」に近いものが見えるわけ。

自分から逃避している人には、世界の声も降り降りてこない・・・
だから、結局は「世界の声」も表現できない

フルトヴェングラーは「他人の魂は覗きこめるけど、自分の魂は覗きこめない。」

これでは創作なんてできませんよ。

「ベートーヴェンの気持ちが理解できるのはオレだけ!
ブルックナーの創造性が理解できるのは自分だけ!」

そう思うのはいいとして、じゃあ、自分自身の気持ちや創造性をどのように理解していたの?

自らの魂の中にあるWHATから逃避していくので、どんどんと「どのように伝えるのか?」というHOWの問題に逃げ込んでしまうわけ。しかし、「何を伝えるのか?」という問題意識から逃避してしまっているので、作曲することで作品を制作しても「じゃあ、結果として伝わったのか?」と聞かれると返答ができない。だって受け手は何をわかればいいの?

そもそも伝えたいものが、自分でもわかっていないから、結局は伝わらない。本来なら、「この点は誤解されたけど、最重要なこの点は伝わったようだから、まあ、とりあえずよしとしようか・・・」なんて考えることができるはずですよね?

あるいは伝わらなくても「まっ、そもそもアイツにはどうせわからないよ!」なんて言えるでしょ?

それは、自分が伝えたいWHATがわかっているからできること。しかし、そのWHATが自分でもわかっていなくて、発想が加点法ではなく減点法なんだから、そのようには考えられない。結果的に思うような結果が得られないので、そんな抑圧傾向の人は、「上手く行かない理由」「減点の原因となったもの」としての犯人を捜すようになるわけ。それに抑圧傾向の人は、日頃から発想が加点法ではなく減点法なので、減点への反応はそれなりに鋭いものがある。だからスグに逆上する傾向が強い。

「アイツのせいで、ダメだったんだ!」

あるいは

「あの施設がないせいで、上手く行かなかったんだ!」
「これが足りないせいで、失敗した!」
「政治が悪い!時代が悪い!」

そんな言葉を聞かされると、「じゃあ、何をわかればいいの?」「そもそもアンタは何をしたいの?」と思ってしまうものでしょ?

アンゲロプロス監督の描くギリシャの人たちもそんな感じでしたよね?

というか、そもそも当時のドイツがそんな感じでしょ?

あるいは実に顕著に見られるのが、韓国人の発言ですよね?
韓国人の発言は、自分で自分を抑圧しているものの典型なんですね。日本人の我々としては、韓国人の言動を聞いても「で、アンタたちは結局は何をしたいの?何を言いたいの?」そう思うことって多いでしょ?

あるいは、上記の言い訳と犯人探しのスタイルは、音楽関係者の発言にも典型的に見られるでしょ?

「どう伝えるのか?」の問題に拘ることは、「何を伝えるのか?」という問題からの逃避のケースが多いわけ。「何を伝えるのか?」が自分でも明確ではないので、そんな人はコミュニケーション能力がヘタ。だからコミュニケーションが対等の会話ではなく、命令と服従の上下関係しかなくなってしまう。だから常に「どっちが上か?下か?」という序列を基に考えるようになる。韓国人がまさにそうですし、いわゆる音楽批評の世界でもおなじみの文言でしょ?

本来なら表現と言うものは、対象となるもの、と言うか、表現したいWHATに、「どこから光を当てるのか?」そして「どのような視点から表現するのか?」そのような問題が重要でしょ?

しかし、抑圧が進んでしまうと、個々の多彩な思考を理解する意欲もなくなるので、「どっちが上か?下か?」の序列問題ですべて解決しようとするわけ。ベストワンとか、最高傑作などの文言が登場してしまう。表現におけるWHATが消失してしまうわけ。そして減点部分だけに目が行って、反論されると逆上。

他人による様々な表現を通じて自分自身の問題を考えていく・・・表現を受けても、そんな発想にならないわけ。他者の作品から自分自身を逆照射することはできない。むしろ様々な作品を順番にならべて、「どっちが上か?下か?」と決定してオシマイとなる。他者の順番だけの問題にしてしまうことは、要は自己逃避なんですね。


以前に、イェリネクさんの「ピアニスト」という作品を考えるに当たって、演奏家という存在と精神的抑圧の強い相関関係について考えて見ました。特に中間領域の演奏家からは抑圧された精神が明確に見えて取れることが多い。人々に伝えたいものが明確に自覚できているのなら、何も演奏というスタイルではなくても、作曲という手段で伝えてもいいわけですし、素人的でも文章を書いたり、美術作品を制作すると言う方法だってあるでしょ?

伝えたいこと、やりたいことが自覚できないがゆえに、権威あるものに隷従し、HOWの問題だけに逃避する。そして上手く行かなくなると犯人さがし。抑圧的な人間はそんな行動をするものです。ナチスがそうですし、韓国人もそんなパターンですし、音楽批評もそんなパターンでしょ?

いわば抑圧状況の典型なんですね。ナチスが台頭する背景として、ドイツ全体のそんな精神状況もあったわけ。ナチスはいいところを突いているんですね。その抑圧的な状況の中での知的エリートがゲッペルスであり、フルトヴェングラーなのでは?

フルトヴェングラーだって、自分自身の抑圧を客体化することができれば、それを作品にすることもできたでしょう。それこそイェリネクさんが小説としてまとめあげたように。あるいは、共依存症状によるストーカー行為だって、それを客体化できれば、ベルリオーズのように交響曲にできる。しかし彼は抑圧された人間そのものとして生きた。

「自分は何をしたいのか?」と言う問題から逃避しているので、自分の目の前の状況が判断できない。常に『いい子』願望があって、人から否定されることを極端に怖がる。

「いい子」って、要は減点法でしょ?

いい子が成し得た成果って、歴史上ないでしょ?


フルトヴェングラーに関する本などを読んでいると、私などは忸怩たる思いに陥ってしまいます。

「どうしてゲシュタボの連中はフルトヴェングラーを追い込まなかったのだろう?」

「私に任してくれたら1年以内に必ず自殺させることができるのに・・・」

まあ、ゲシュタボも真正面からは追い込んだようですが、フルトヴェングラーのような共依存症状の人間に、真正面からプレッシャーを掛けて、困難な状況を作っても、むしろ「生きる張合い」になるだけ。それこそ人助けがいっぱいできるわけだから、喜んでそっちに逃避してしまう。ストーカーに対して、正面から力による解決を図ってもますます善意を持ってストーキングするだけでしょ?

「こんな困難な状況の中でアイツを救ってやれるのはオレだけ!」そのように、より強く思い込むだけ。そして当人の『善意』が、より熱くなるだけ。

まあ、ゲシュタボも所詮はドイツ人なんでしょうね。素朴で人がいいよ。人を精神的に追い込むことに関しては、むしろフランス人の方が上でしょう。あるいはロシア人とか・・・

まあ、ゲシュタボがフランス人の著作から拷問のノウハウを学ぶ必要があったのもよくわかりますよ。フルトヴェングラーを追い込むのは実に簡単なんですね。

彼のような頭がよくて、プライドがある人は言葉で追い込めるから、追い込むのもラク。オバカさんのように逆上することもできないのだから、あっという間に追い込めますよ。たとえば作品を委嘱すれば、それでOK。

「ドイツ音楽の栄光を表現する立派な交響曲を作曲してくれ!」

「時間は十分に上げるから・・・」

「キミは本当は、それをしたかったんだろう?」

なんて言えば、自分で勝手に追い込まれていきますよ。何と言っても作曲は自分自身と真摯に向き合わないとできないことでしょ?

フルトヴェングラーはそれが出来ない人なんですからね。もし、それこそ交響曲第2番のような作品が出てきたとしたら、

「ふんっ、なにこれ?」

「アンタは、本当にこれをドイツ音楽の栄光だと思ってるの?」

「へぇ・・・これがドイツ音楽の栄光の成れの果てなんだねぇ・・・」

なんて薄目を開けて鼻の先で笑えば済む話。あるいは、

「アナタのおかげで、アウシュビッツで多くのユダヤ人を殺すことができました!ありがとう!」

なんて感謝してみなさいな。アウシュビッツの写真などを一枚一枚見せながらね。そして、最後に決めセリフ。

「君の父上もさぞよろこんでいるだろうよ!」。

もうこうなると、ドイツ芸術の守護者としての彼のアイデンティティが崩壊して、あっという間にドッカーンですよ。まあ、1週間以内でことが終了するでしょうね。

あるいは、前回言及した「ニーベルングの指環」のグンターのバカぶりを、描写してもいいわけでしょ?

「グンターってバカだよな!
だって、こんなこともわからないだからさっ。
君もそう思うだろ?グンター君!」

といって、指で額でもつついて上げればどうなるかな?

いずれにせよ、1週間あれば十分ですよ。相手の一番弱いところはどこなのか?

そこを瞬時に見つけ出し、そこをチクチクとニヤニヤと突いていく楽しみをドイツ人はわかっていないねぇ・・・

「いい子」と言う存在は、一番追い込みやすいもの。結局は、「人から自分はどう見られるのか?」という面にこだわってしまって、自分自身が本当にしたいことが自分でもわかっていないわけ。と言うか、そこから逃避している。

前も書きましたが、そんな精神状況では、作曲はできませんよ。それこそR.シュトラウスはナチとの関係で、戦争終結後になってモメましたが、シュトラウス自身は実に明確。自分がやりたいことが自分でもわかっている。

ナチから頼まれると、ナチの役職には就いたり、あるいは手紙にも「ハイル!ヒトラー!」なんて平気で書いたりしていますが、彼自身はナチに対して協力的ではない。

というか、戦争が終結する直前に、負傷した人たちがシュトラウスの山荘に逃げてきたそう。そんな命からがら逃げてきた人たちに対しシュトラウスは、

「おい!アンタたち、作曲のジャマだから出て行ってくれよ!」

なんて言ったそう。そんな対応をナチから怒られたシュトラウスは、

「いやぁ・・・オレが戦争を始めたわけじゃないんだから・・・そんなこと知るかよ!」

なんて言ったらしい。いやぁ・・・外道だねぇ・・・

シュトラウスの発想は、ナチを支持するしない以前に、人間的に外れていますよね?

まあ、「猫」的と言えるのかも?「アンタはアンタ、ワタシはワタシ」の精神。しかし、そんなシュトラウスだからこそ、あの混じり気なしのオーボエ協奏曲が書けるわけでしょ?

傲岸不遜で周囲の人間の犠牲を踏み越えて、自分の創作を推し進めるR.シュトラウスと、人助けに逃げ込んで、自分では創作しないフルトヴェングラーの関係は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ルードヴィッヒ」におけるリヒャルト・ワーグナーとルードヴィッヒの関係と同じ。


ルードヴィッヒだって、芸術家をサポートして喜んでいるよりも、ヘタはヘタなりにオペラの台本でも書けばいいじゃないの?

彼も、「立派な作品でないといけない!」なんて思っていたのでしょうね。だからとりあえず手をつけてみると言うことができない。しかし、だからこそ、自分を表現することができず、ますます自分から逃避してしまう。ルードヴィッヒもフルトヴェングラーもプライドが高い人ですが、逆に言うと、腰を曲げても実現したいものがないと言うことでしょ?

その点、リヒャルトは、手段を選ばず、周囲のことなどお構いなしに、どんどんと創作活動。フルトヴェングラーだったら逆立ちしても出来ませんよ。共依存症状のフルトヴェングラーだったら、シュトラウスのような事態になったら、喜んで人助けしますよ。

他者から依存される関係に依存する、この共依存状態では、自分単独で作曲することなんて出来ませんよ。しかし、この症状は、作曲には不適でも、演奏にはフィットしていますよね?

「アイツにはオレが必要なんだ!」「アイツのことを理解できるのはオレだけ!」なんて勝手に思ってストーキングするのは大迷惑ですが、

「ブルックナーにはオレが必要なんだ!」
「ベートーヴェンのことを理解できるのは、このオレだけ!」

そう思うくらいの思い込みはいいのでは?

それが演奏することの使命感につながるわけでしょ?

そんな使命感があるのなら、本来なら、指揮者専業で行けばよかったのでしょうが、そんな判断から逃げるのが抑圧的なアダルトチルドレン。だから自分が何をしたいのかわからずに、他者との関係性に依存するようになる。こんな態度ではプロの演奏家というか、職業としての演奏家としては失格ですよ。

しかし、逆に言うと、それくらいの「思い込み」がないと、芸術的な演奏にはならないでしょ?

そんな依存があるがゆえに、他人である作曲家との緊密な関係が築けたともいえるんでしょうね。抑圧が創造性につながった稀有な例と言えるのかも?

抑圧も極限まで進行し、ブレークスルーを経ることによって、ある種、突き抜けた境地になってしまう。この点は、フルトヴェングラーだけでなく、ゲッペルスもそのパターンなのでは?

自己を徹底的に抑圧することによって、自己解放を実現する。それが、フルトヴェングラーにとっての演奏。それは幸運な成果なの?

確かにその「成果」を、聴衆である我々は楽しむことができた。しかし、それって、まさにホフマンスタールの言う「私のこの苦しみから甘い汁を、吸おうとしたっただめだよ!」そのものでしょ?

もしかしたら、フルトヴェングラーは、そのセリフの意味を、R.シュトラウス以上にわかっていたのかも?

しかし、「だったら、それを作品にしなよ!」ってやっぱり思ってしまうのは無理なことなのかな?
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-11/07-11-08.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/177.html#c5

[番外地6] 牧野田 彩(AYA)が AV に出演させられた理由とは 中川隆
162. 中川隆[-12837] koaQ7Jey 2019年1月20日 20:42:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
秋元康は芸能界を引退せよ 少女たちの人権を蹂躙する元凶 
http://www.asyura2.com/16/hihyo15/msg/474.html



 最近、NGTの問題が大騒動となり、海外メディア(ビルボード、米誌TIME、米国CNN、英紙ガーディアンなど)で大々的に報道された。NGTのメンバーが襲われたことも大きな問題だが、このことが起こった原因とその後の運営の対応が大きな問題で、日本の芸能界の闇が落としたものとも言える。一アイドルグループの問題で終わらせてはいけない問題であり、国際問題でもある。

 まず、事件を起こした人物が不起処分となったために、正確な情報の把握には困難となっている。インターネット上では虚偽の情報が入り交ざっているが、正しいと思われる情報も暴露されている。このところは極めて慎重に扱わなければ冤罪を生んでしまうが以下の点ははっきりとしている。

 被害に遭われた山口真帆さんが1月8日にライブ配信アプリ「SHOWROOM」で涙ながらに「悪いことしているヤツを解雇すると言ったくせに何も対処してくれない」と運営側を批判し、翌日早朝に自身のツイッターから「私は先月公演終わり帰宅時に男2人に襲われました」と告発したことからはじまる。

 人気アイドルが襲われるということは、本来ならすぐさまニュース報道される案件であり、本人の言から犯行グループの行動は命の危険を感じさせる凶暴なものであった。このような、レイプ未遂あるいは暴行殺人未遂事件の告白ということは、その後のタレント活動に影響を及ぼすため、非常に勇気がいる告発であった。しかし、運営側は事件から1か月以上も何も手を打たず、また対処しようとすらしなかった。事件が明るみに出てはじめて、グループを統括していた劇場支配人・今村悦朗の異動が決まった。

 運営側の説明やマスコミの報道がところどころ山口真帆さんとの告白証言と矛盾しており、これがかえって女性タレントの人権と生命を第一に考えておらず、自分たちの金儲けのための商品としてしか見ていないことが明らかになった。不幸なのは、勇気を振り絞って告発した山口真帆さんであろう。

今回の事件は、山口真帆さんのような若い女性が勇気ある行動を取って明るみに出たが、実際にはこのような類の事件は相当な数が闇から闇に葬られていると推定される。全ては秋元康を代表人、番頭とした芸能界の仕組みに原因がある。

 おニャン子クラブ以来、落ち目になっていた秋元康が、AKBをプロデュースしてから破竹の勢いで芸能界を席巻した。タレントたちは歌やダンスが抜群に上手いわけでもない。歌のメロディーは特に感動するようなものはなく、歌詞にいたっては児戯にも等しい。しかし、日本のギネス記録級のミリオンセラーを連発したのは驚異的である。その商法の特徴は次の通りだ。

 
@ タレントをテレビ局、出版社、広告代理店、スポンサーとなりえる企業、官界、政界、裏社会に売り飛ばして巨大な利権を手にする。そして、日本のマスコミを手中に収める。

A 商品価値のなくなったタレントは卒業させ、タレントの応募を常にして、日本中から少女を集める。研修生として従順な少女を選りすぐり、正規グループに採用する。そして、@に枕営業を行わせ、猛烈にプッシュさせる。

B マスコミの猛烈なプッシュにより、Aのタレントが日本中に存在が知れ渡り、多くのファンを獲得する。そして、巨大コンサート会場でのライブや握手会などのイベントにより、リピーターを作り出し、金を貢がせる。

@→A→B→@の繰り返しにより、現在巨大な売春組織が誕生してしまった。

 NGTの問題で、ともすればBの問題が批判されるが、オタクどもは無知で騙されて金をむしり取られる存在でしかない。タレントへのファンの暴走は美空ひばりや岡田奈々の頃から無数にあり、また、コンサートや握手会を実施している無数の他のアイドルグループがAKB系のように巨大になりえず、次々と解散していることを考えるとBに問題を帰すのは責任転嫁である。問題の本質をそらさせないように私たちは注意すべき必要がある。

 最大の問題は@である。そして今回の問題は@とBが癒着して、Aが犠牲になったという問題である。犯行者たちがグループを形成しているのは間違いないが、例えば、「週刊文春」2019年1月24日号で犯行グループの無職であるファンの一人が、一回のイベントで数十万円の金を使い込むことが書かれている。無職であるにもかかわらず、自身の生活費をはじめこれらの莫大な遊興費がどこからでてくるのか。資金源については全く追及されていないが、間違いなく半グレ・裏社会、もしくは相当な資産家の息子であることには間違いない。

(許平和氏によれば、支配人の今村悦朗はこの犯行者グループと繋がっており、犯行者グループの中心人物がバーニング事務所の幹部の息子であるという 
https://www.youtube.com/watch?v=3ZkqJtKQWA0 )

 このような人物が@と結託すると、Aのタレントたちの性や人権は蹂躙され放題となる。

 今、ネットユーザーなどから大きな批判が出ているのは、@を巧みに利用している裏社会勢力のことである。このことについては、近年では「大日本新政會」の総裁である笠岡和雄が、芸能界のドンである周防郁雄・バーニング事務所社長の悪事を次々に暴露したことで有名である。ブログは現在見ることができないが下に簡潔にまとめてある。

http://www.asyura2.com/16/hihyo15/msg/203.html

 真偽のほどは分からないが、インターネットの掲示板に関係者と思われるタレコミには、東京オリンピックが開催中には世界中の国の主要人物が来日するが、その時の性接待に口の堅いAKB系を総動員するとの噂がある。これには、確たるソースがない。しかし、全くの虚偽とも思えない。なぜなら、これまでこのようなことを積み重ねてきて、これだけ巨大になったからである。世界の大富豪・権力者の弱みを握れば、莫大な富と権力を易々と手にできるのは自明であり、そのようなことを計画していても不思議ではなかろう。

 「週刊新潮」は秋元康、窪田康志と一緒にAKB48立ち上げた芝幸太郎(「office48」の代表取締役)が山口組幹部と親密な仲である証拠写真をスクープした。

 何かと批判も多く、改善すべき点も多々ある「週刊文春」だが、AKB系の@のゴシップを明らかにしてきた一面もある。(エステート24ホールディングス株式会社社長、集英社編集者、AKS窪田社長、電通AKB担当、ソニーミュージックエンタテインメント取締役など)

 芸能なんて昔からそんなものと考えている人がいるとしたら、それは時代錯誤も甚だしく、人権侵害(セクハラやパワハラ)を容認している非市民、非民主主義的人権迫害主義者である。Me Tooなどの女性の人権擁護運動によりアメリカではハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが追放された。世界の流れに反している人権のない国が日本であり、後進国なのだ。

 秋元康はこれらの悪徳商法の代表者であり、番頭人である。しかしながらマスメディアを手中に収めており、このカリスマ的な存在に、日本中の多くの少女たちが騙される。日常生活で目に触れることの多い華やかな芸能界という道に憧れる少女たちにとって、秋元康は絶対的な存在であり、芸能界で活躍させてくれるプロデューサーだ。しかし、一皮むけば人間の欲望を一所に集めた人物である。その人物が、東京オリンピックの理事である。日本人の誰が望んだ?安倍総理は、口とは裏腹に、自身の権力を保つために、利用している。汚い国、日本はいらない。

 秋元康は即刻、東京オリンピックの理事を辞任し、多くの若者を地獄に突き落としてきた罪で芸能界を引退するように弾劾する。この勢力をこのままのさばらせれば、権力者たちの下の乱れによって国民生活が困窮することは、歴史上明らかである。私たち市民はこれからの新しい時代に、このような芸能界のあり方に批判の声をあげるべきである
 

http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/190.html#c162

[リバイバル3] 苗場スキー場 中川隆
64. 中川隆[-12836] koaQ7Jey 2019年1月20日 22:04:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

687名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/20(日) 21:40:42.40>>688

苗場は子供無料な上に、大人のリフト券が安く手に入るのもいい。
とある方法を使えば1日券が1600〜1700円だからね。

688名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/20(日) 21:43:29.73>
>>687
どうやるの?


689名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/20(日) 21:47:24.23
>>688
みんながやりだすと道がふさがれるから教えないが、
苗場かぐら共通1日券が3000円ならヤフオクで買える。

少なくとも早割を買うよりこっちのほうがお得。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/775.html#c64

[リバイバル3] 幽玄の世界 _ モナリザは何故書き換えられたのか? 中川隆
8. 中川隆[-12835] koaQ7Jey 2019年1月20日 22:20:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

モナリザの下に3つの肖像画あった、モデルの真の姿か
2015.12.09 Wed posted at 12:06 JST
https://www.cnn.co.jp/showbiz/35074669.html


「モナリザ」をフランスの科学者が分析


(CNN) レオナルド・ダビンチの名画「モナリザ」を研究していたフランスの科学者が、モナリザの微笑の下に3つの肖像画が隠されていたことが分かったと発表した。

この研究を行ったのはフランスの科学者パスカル・コット氏。モナリザの下に描かれていた3つの肖像画のうち1つは、モナリザのモデルになったと言われる女性リザ・デル・ジョコンドの実際の姿と思われるという。

この女性は遠くに視線を向けていて、モナリザのような微笑は浮かべていない。コット氏はこれこそがジョコンドの真の姿だと確信したといい、この発見について「多くの神話を打ち砕き、ダビンチの名作に対する私たちの見方を一変させかねない」と位置付ける。

リザの別名はリザ・ゲラルディーニ。フィレンツェの商人の妻だった。

コット氏は多重スペクトルカメラでモナリザの表面に強い光を当てて反射を測定し、絵の具の層と層の間に描かれた内容を浮かび上がらせることに成功した。

美術史の専門家マーティン・ケンプ氏によると、モナリザも含めてダビンチの作品は、制作の過程で何度も手を入れているのが特徴だという。同氏はコット氏の説に疑問を投げかけながらも、研究に用いた技術は高く評価した。

BBCのドキュメンタリー番組を制作した美術史専門家のアンドルー・グレアムディクソン氏は、歴史を一変させる驚くべき発見だと評価している。





http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/199.html#c8

[近代史3] 怪異伝承 鬼殻村 _ ホラー映画を作っている人間の頭の中はどうなっているのか?

ホラー映画を作っている人間の頭の中はどうなっているのか?


怪異伝承 鬼殻村 〜THE ONI-GARA〜(DVD)

監督: 松村仁史
プロデューサー: 田中靖人
脚本: 松村仁史
撮影: 松野健彦 松井喜雄
特殊メイク: 仲谷進
特殊造型: 西村美希
主題歌: SNIF
制作協力: 浅尾典彦
総指揮: 仲谷進
助監督: 松平哲郎

製作年:2009

動画
https://www.youtube.com/watch?v=cU_bTyC6tKw

出演:

木島さやか 勝山笙子
村上翔悟 駒田健二
やまおきあや 松前睦子
高寺裕司 山田武士
渡辺真理 君田亜矢
みぶ真也 浅沼教授
ひがきえり 加奈子
浅尾典彦 小泉典彦

特別出演: 池田駿介


•洋画のカルト作品を販売する専門メーカーWHDジャパンが製作したオリジナルビデオ第二弾。

•実際には監督の松村仁史が着手段階で病気で降板。事実上の監督は阿見松ノ介だったと松村仁史自身が語っている。

•前作『サイコ・イコール』に引き続き、仲谷進が特殊メイクと総指揮を担当した。

•特別ゲストとして『キカイダー01』でおなじみの池田駿介が珍しくオリジナルビデオに出演した。なお、池田は翌年、逝去したため、当作品が遺作になった。

•同年に公開された洋画『デビル・ハザード』(トルネード・フィルム配給)が憑依型ゾンビや遺跡を探す設定等、類似箇所が多い為 参考にしたという説がある。しかし本作の方が公開も製作時期も先で、両者には何の接点もなく 単なる偶発的に似たものだと言える。製作サイドも盗作説を根拠のない噂と否定している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%AA%E7%95%B0%E4%BC%9D%E6%89%BF_%E9%AC%BC%E6%AE%BB%E6%9D%91


怪異伝承 鬼殻村(劇場未公開)

B級映画発掘メーカーのWHDジャパン。
円盤リリース以外にも自主製作作品も発表している。
現場底上げの貢献は素晴らしい。
カンパのつもりで買って観た。

浅沼教授をリーダーにした男女6人の民俗学研究隊チームが、
研究調査のため、兵庫のある山に向かい登山を開始した。
だが現地に着いてほどなく1人が突然、発狂し、仲間に襲いかかってくる。
下山を決断、すぐ撤退を始めるものの、残りのメンバーも、
次々と発狂し、仲間を喰い始める・・・。

ダメじゃん(笑)。
虚構の世界に誘うには、騙すためのリアリティが必要。
コレには端から、それが微塵もない。
祠の意味。
考古学研究の基本的手法。
そこへ到達するための山行きの基本知識・・・。

祠とは神仏を覆う舎のことだが、コレは石仏。
民俗学と歴史学、考古学は違う。
伝承を紐解くのが民俗学なのに、
この教授は文化財をガリガリと削りやがった(笑)。

道のないブッシュを行くなら、それなりの服装が必要。
枝を折るとか、タオルを結ぶとか訳分からん(笑)。
そもそも全部、ちゃんと山道があったやん・・・。
というわけで、虚構に招待していただけなかった。
ミステリー仕立てにしたければ、リアリティが不可欠だ。


で、やっぱり商品として流通させるなら、
最低限、基本的技術は確立させて欲しい。

随行カメラマンをオチに使うということを免罪符にしたのか(笑)、
音声もカラーバランスもグチャグチャ。
一応、随行カメラマンと随行幽霊の2段オチ。

だけど、倒れた時、のほほんとよくある急性アルコールだと、
教授が呑気に構えていたのに、死んじゃっていたのかよ(爆)。
オチよりそっちに驚いてしまった・・・。

エンドロールの後、なぜか教授のひとり語り。
ここも音声をきっちり採っていない。
アフレコを知らないのだろうか。
なんだか怪談話のようだったが、ゴニョゴニョが眠気を誘い、
知らない間に寝てしまった。

本編と関係あったかも知れないけど、もういいよね(笑)。
WHDジャパン、B級映画発掘に注力してください・・・。
https://fuuuutaro.exblog.jp/17051858/


【レビュー】★★★(★3つ)

久しぶりの邦画です。

確か。


予想にたがわぬ、アレな出来でした。(>▽<)b

B級好きな方にはお勧めしときます。 σ゚ロ゚)σ


最初に、多分、キタイダー01をやった人が、

本編には出てこないけど、解説者として、

怖いですね〜恐ろしいですね〜と、

エドウッド的なアングルでやります。


これでもう、だめだめな感じが、

よりいっそう高まってきました。(○`ε´○)ノ

さあ、始まりましたよ。


予想にたがわぬグダグダな導入部分が展開されます。


まず、マイク壊れてんなら直せよといいたくなるというか、

つい、画面に向かって突っ込んでしまったくらい、

セリフがほとんど聞き取れません。(-ω- )o<


画質も、PS3のアップコンを使用してさえ、ざらざらです。( (ミ´ω`ミ))


なので、かすかに聞き取れる単語と、

服装とジェスチャーで判断しました。


かねてからやりたかった現地調査について、

ようやく地元の同意を得ることが出来たので、

喫茶店でそのお祝いをやっている場面のようでした。

こんなところでも白衣を着ているおっさん、

女子は商売女のような格好していて、

昼間っから酒を飲んでるんで、

皆さん、どこかの大学の学生と、

指導教授のようです。


現地に赴きます。

山に登って、

祠を探すらしいです。


なぜにそれを探すのかは、

さっぱり分かりません。播(≧▽≦*)

セリフが聞き取れないんで。


先ほどの喫茶店ではもりもりと学生がいたんですが、

ここでは4−5人になってます。

さらに、一人、キャバ嬢の格好、

ヒールで来てるふざけた女がいます。
キャバ

ここまで来て、

痴話げんか始めたり、

氏ねデブとか言い始めたり、

なぜ、ここで?というやり取りを、

グダグダとやって、頂上にたどり着きます。


さあ、ついたぞ、ここが頂上だ。( ̄^ ̄)


どう見ても、原っぱなんですけど。(≧▼≦;)

頂上なのに、向こうにさらに斜面があるんですけど。


さらに、どこに目指すものがあるかも皆さん分からないようで、

しばらーく、うろちょろしてます。


教授、ありました!


大きい声だしたんで、

久しぶりにまともに聞き取れました。拝|゚Д゚|p


30センチほどの高さの石に、

紙垂(神社によくある和紙で作った飾り)がついていて、

その周りを細いしめ縄で囲ってあります。


祠というより、御神体そのもののような気がしますが、

まあ、この周りの空間を含めて祠ということで納得しときましょう。


しかし、気に入らない点は、

誰もまず来ないらしいのに、

紙垂が新品なことです。

ここはやっぱり、

黄ばんで古くなってないとだめでしょう。(`(エ)´)ノ_彡☆


まずは、調査です。


ここに来る前に、

祠には絶対に触るなといわれてたのに、

教授、早速、カリカリと削って、

標本採取です。


いいかね、我々は研究者だ。

これくらいは当然許される範囲だ。

だから、先生と呼ばれる人は、

常識に欠けるとか言われちゃうんですが、

それをやらないと先に進まないんで良しとします。


女子学生が男の亡霊を見ます。

そしたら、口裂け女になって、!!!(゚ロ゚!(゚ペ?)???

教授ののどに噛み付きます。

止めに入った連中にも噛み付きます。

ウキャーとか言いながら、≡≡≡ヘ(*゚∇゚)ノ

山の中に消えてく、口裂け女。


報いを受けた教授は息絶えるんですが、

何をどうしたんだが、

遺体を下までもって降りるぞとなります。

普通に死んだんならとにかく、

異常事態なんですから、

後にしましょうよ。(゚ー゚)(。_。)ウンウン


管理人もよく言われるんですが、

こいつらも状況判断が出来ないようです。


えっちらおっちら運んでると、

ウッキャーと口裂け女が戻ってきます。*゚o゚)ノ*゚o゚)ノ*゚o゚)ノ

キャバ嬢を除いて皆さん噛み付かれます。

3人ほどですが。


致命傷に至る前に、

こんなこともあろうかと作っておいた杭で、

口裂け女の頭をでんびから貫いて倒します。

工事現場で使うような、

真四角な杭をどこでどうやって作ったんだかは、

不問に付してやりました。

ふーやれやれと思ったら、

今度は教授です。

顔が、いつも同じ比喩ですみませんが、

クリンゴンみたいにごつごつした顔での復活です。


たたりじゃ〜、なんとか様のたたりじゃ〜、

という、昔の角川映画のCMを思い出しました。


同じく、皆さんをかじろうとします。

スコップで、がっしんがっしんして、

スウィートホームにします。

切断部分をなめるように映してくれて、

いいものおがませてもらいました。

ここらあたりから、

狂気が充満してきた感じで、

わくわくしてきました。((o(^∇^)o))


スコップでがっしんがっしんした奴は、

皆さんには見えないものが見えるようになったみたいで、

お前は誰だ!σ゚ロ゚)σとか言いながら、

山の中に突進していきました。


しゃあ無いんで、

残った人たち、キャバ嬢込み3人、

だけで下山することにします。
3人

たたりであることを表現するために、

だと思うんですけど、

道がループして何回も同じところをぐるぐると回ります。


画面上は真昼間なんですけど、

日が暮れてきた、大変だどこかで休まないと、

と騒ぎ始めます。


山小屋を見つけて、入り込みます。

1979年に同じようなことが起きた、

ということが山小屋の中で明らかになります。


キャバ嬢がここに来る前に、

地元の新聞を丹念に調査した結果、

事前に分かってたそうです。

なら、さっさと、みんなに言えよ!ヾ(。`Д´。)ノ彡☆

それはそれとして、

疲れたんで、寝ることにします。


大変です、

さっきいなくなった、がっしんがっしんが、

クリンゴンになって山小屋に突入してきました。
(; ゚ ロ゚)ナン!( ; ロ゚)゚ デス!!( ; ロ)゚ ゚トー!!!
くりんごん


鍵がかかってるドアから入ってきました。

壊したわけでもないし、

どうやってあけたのかは不明です。

大丈夫です。

こんなこともあろうかと用意しておいた、

鉈で腕を切り落としてやると、

退散しました。

山小屋ならまあ、鉈くらいあるでしょうから、

突っ込まないでおいてやります。


ふーやれやれと寝なおします。


ふと目を覚ますキャバ嬢。

あとの二人のうち一人がクリンゴンになって、

もう一人の臓物を食らってます。

キャバ嬢、逃げます。

さっきは、がっしんがっしんが出入りできたドアですが、

キャバ嬢がやるとびくともしません。


大変だ、最初に山小屋に来たときに使った、

裏口から出るしかない!


いつの間にか、まったく開く気配の無かったドアから、

うまいこと逃げ出しました。(@゜Д゜@;)あら・・・?


途中でがっしんがっしんにも会って、

半狂乱で逃げます。


さっきはループしてたのに、

今度はちゃんと道路まで出れました。

え〜、今回の調査に際して、

地元と教授を仲介してくれた人がいまして、

なかなか下山してこないみんなを心配して、

迎えに来てくれてました。


ダッシュかけてくるキャバ嬢、

ともう一人男がいます。(・・?..)?アレェ 


あ〜、そういえば思い出しました。

今回の調査に当たり、

記録係として、プロにビデオ撮影をお願いして、

同行していたんでした。(´Д`)


最初のころは映ってたんですが、

途中からさっぱり出てこなくなったんで、

無かったことになってたんだと思ってました。


道理で、途中でブレアウィッチ風のビデオカメラ視点になったり、

第三者視点に戻ったりしてたんですね。


二人の後をえらい勢いで追いかけてくる、

クリンゴン×2。


ようやく車に乗り込み、

クリンゴン×2を振り切って逃げることに成功します。


いったい、何があったんだ!?


カメラマンが説明します。

あーで、こーで、

それに、ここに来る前に死んだキャバ嬢が、

いるかのようにみんな振舞ってたんですよ。(゚口゚;)


そういえば、冒頭のお祝い会で、

アル中で倒れた女がいたんですが、

あれがキャバ嬢だったんですね。


もう、日本人でさえ、

顔の判別が難しくなってます。(;^ω^A

で、キャバ嬢が実は幽霊?だったことが、

主題、あったとしたらですが、と、

どう絡んでくるかというと、

理解の外にありますので、

そこは頭の良い方が考えてください。


ここで終わります。

と思ったら、スタッフロールが少し流れたら、

また、始まりました。


冒頭の喫茶店です。

教授がみんなに何かを語ってます。

例によって、ほとんど聞き取れませんので、

聞き取れたところをつなげると、

僕って頭いいんだよね、ということのようでした。

で、またスタッフロールが始まります。

教授の自分語りの位置づけは不明です。o(´^`)o


この前、ミクシィでB級映画のレビューをされてる方の日記を見たら、

特典映像にたいそう良いものがあったとありまして、

それ以来、特典映像は欠かさないぞと誓いまして、

特典映像がありましたんで、見ました。


総監督だか、特技監督だかを勤めた人が、

主催する専門学校の宣伝でした。(/≧◇≦\)アチャー!!

やられました。

こりゃあ、どう見ても、

特典映像がメインでしょう。

製作者からすると。


だへんで、本編があんなんになるんだべな。(゚ー゚)(。_。)ウンウン
http://bclassmovie.blog38.fc2.com/blog-entry-257.html


製作費が無いので手を抜いただけなのか?

統合失調症なのか?

IQ低いだけなのか?

映画解説はネタバレを恐れて粗筋を最後まで書かないものが殆どですね。

しかし、映画を最後まで全部見ても、どういう落ちなのか理解不能なのが殆どだから
きちんと最後まで書いて欲しいですね。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/178.html

[近代史3] 皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭出身者 


皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭出身者 

雅子さまの汚い顔
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20070417234132.jpg

歯も直せばいいのに
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1302962362281.jpg


雅子さまの顔の歴史
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1259050484285.jpg
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1226318725943.jpg
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1313668578492.jpg

▲△▽▼

ダメダメ家庭とは:

ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html

ダメダメ家庭 カテゴリー分類総目次
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/mokuji/sougoumokuji.htm

映画とクラシック音楽の周囲集
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/index.html  


音楽・映画関係の超有名ブログでしたが、東北大震災後に更新が途絶え、リンク切れになり、ミラーサイトでだけ読める様になってしまいました。

消えない内に早くコピーを取って残しておいた方がいいです

▲△▽▼

ダメダメ家庭の見分け方 歯並びが悪い

歯並びの矯正は確かにお金がかかるものですが、何かの臓器移植手術とはケタ違いに安くできるものですしね。

勿論、ダメダメ家庭でも歯並びがいい場合もあるでしょうが、逆に歯並びの悪さを放置する親は確実にダメダメ家庭といえます。
そもそも、歯並びの矯正もできない経済力では、子供を作ってはダメでしょ?
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/04-01/04-01-28.htm


▲△▽▼

私たち日本人にとって、ロイヤルファミリーは特別の存在です。しかし当時、このロイヤルウエディングについて、海外ではちょっとした疑問があったようです。
私たち歯科医療関係者に聞こえてきた海外の声は、

「なぜ彼女がプリンセスに?」

というものでした。・・・この理由は?・・・
残念ながら、雅子様の笑顔を支える「歯並び」にあったのです。

プリンセスには、その家柄、知性、容姿すべてにおいて一流であることが期待されます。
そして、その象徴として扱われるのが「健康な口」と「美しい歯並び」です。なぜなら、これらは、基本的な教養と経済的余裕により、確実に得られるものだからです。

雅子様の出身家庭には経済的な問題があるのか?
口の健康に対する意識を持たない、教養の欠如した家庭出身なのか?
と一部の海外には映ったのです。

実情はおそらく、お父様の仕事上、ひとところに長期滞在することが不可能で、成長過程の必要な時期に、歯並びを治す機会を逃してしまっただけのことだとは思いますが。

表現一つをとっても、価値観の違いは明白です。唇から飛び出る犬歯を日本では「八重歯」と穏やかに表現し、“かわいい”と言われることもあるようですが、欧米では「ドラキュラの歯」と表現し、“悪魔の落とし子”言われ、強く嫌います。

私の診療所に、有名ホテルのフロント担当の方が、歯並びを整える「矯正治療」を希望して来院されました。
日本では、見た目の不愉快さを理由に、矯正装置を着けることを嫌う人が多いようです。この方の場合は、接客業のため、逐一上司の許可を得ることも必要でした。
しかし、矯正装置を着けていると、接遇する海外のビジネスマン達から「素晴らしい」「いいことだ」と賞賛されるそうです。文化によって、見方も随分違うものです。

日本人が、グローバルスタンダードの中で活躍するには、単に経済的に裕福なだけでなく、人格をどう受け止められるかが重要になります。お口のケアも、自分自身が気付いていないところで、重要な意味を持っていたりするのです。
歯の矯正は、ケースによっては年単位での期間が必要な場合もあります。今後、外資系の企業や海外での就労、留学、エアラインなどをご予定の方は、早めのご相談をお勧めいたします。
 http://ado.pr-business.net/colum3.htm   

                                      
▲△▽▼

美智子妃、紀子妃と比較されて雅子様はアトピーによる?肌質の汚さや歯並びの悪さからでしょうか、各国のメディアからも”醜妃”扱いです。。。

同じ女性として、持って生まれた資質の違いでどうしようもないことで、このように評価されてしまうのは本当に辛いことだと思います。残酷です。。

雅子様が必要以上に「キャリアキャリア」と謳われるのは、「それしか世間が認めてくれない」といった生々しい哀しさが見え隠れしていて、見てる方が痛いです。人間臭いですよね。

ダイアナ妃は美しかった。その美しさだけでも世界を魅了しました。
そして、「境界性人格障害」と診断されながら、心の病に苦しみながらも世界的慈善活動をご自分の責務と考え、積極的に行動されていました。

雅子様のように、心の病を理由に公務をサポっていらっしゃいませんよ?
どんなに苦しくても、マスコミやパパラッチに苦しみながらも(世界中から注視され雅子様の比でなかったと想像しますが)公の席はきちんとこなしていらっしゃいました。
ダイアナ妃がしてこられた事に比較することもダイアナ妃に非礼だと思うほど、雅子様は何もしていらっしゃらないでしょう・・・

雅子様の治療に必要なことは「全肯定」であり「認めて差し上げること」だと思いますがおそらくそれは困難です。
今後、露出される度に否定=バッシッグされることの方が多いでしょう。。


私、皇室マニアではないですが、拝見して「美しいもの」には、単純に癒されます。

紀宮様には、清々しい清涼感とこの上ないマナーの美しさに。
高円宮憲仁親王妃久子妃には、聡明な笑顔に。
美智子妃、紀子様には見目の美しさや家庭円満の愛情の指針に。

雅子様の「美しさ」が何処にあるのか???
私には見当たりません。。。
http://d.hatena.ne.jp/sleepflower/20080921/p1

▲△▽▼

ダメダメ家庭の顔 歯並びの問題


ダメダメ家庭出身者の全員が歯並びが悪いというものではありませんが、歯並びの悪い人間は、ダメダメ家庭出身者である・・・そう言えるものです。

こんなことを書くと、説教オヤジや正論オバンが反論したりするものですよね?
「人間にとって、歯並びなんて重要な問題ではない!中身が重要なんだ!」
おっしゃることはごもっとも。

「中身が重要なのは当然として、じゃあ、歯並びの悪さと、人間の中身の間には相関関係はないの?」
そのような疑問も出てきますよね?

あの文章を書いて以来、人の歯並びに、以前よりも注目するようになりました。
あの文章でも書きましたが、歯並びの悪い人が多い例は、深夜テレビに出演しているお笑い芸人さん。
その他では、たとえば、新聞の勧誘の人も、歯並びが悪い人が多い。
あと、携帯電話の販売店のスタッフも、どうも、歯並びの悪い人が多い。ただし、ドコモやAUのショップような正規の販売店のスタッフの歯並びは、マトモ。独立系の販売店のスタッフの歯並びは悪いことが多い。
地域的には大阪に歯並びの悪い人が多い。

あと、予想がついたので実際に見てみたのですが、いわゆる「アダルトヴィデオ」の女優さんも、やっぱり歯並びが悪い人が実に多い。それもその作品?がアングラになればなるほど、出演している女優さんの歯並びが悪い。多くのアダルトヴィデオを調査したわけではなく、サンプルを見ただけなので、確たることは申し上げられませんが、この手の女優さんに歯並びの悪い人が多いことは確かなようです。
誰か「好きな人?」が調べてくれないかなぁ・・・あんなモン、歯並びチェックのために見るもんじゃあ、ありませんからね。

「人間にとって、歯並びなんてどうでもいい。中身が重要なんだ!」という正論は正論でいいとして、現実問題は「明確な」傾向が出ているものなんですね。

そもそも、そんな正論をぶつオヤジやオバンが、自分の子供と会話するとき、自分の子供の歯並びがメチャクチャだったらどう思うの?
「ああ!コイツの歯並びはメチャクチャだなぁ・・・」と思って、それでオシマイにするの?
「オマエは歯並びが悪いのだから、人よりもハンディを背負っている!だから人よりも多くの努力をする必要があるぞ!」って励ますの?
そんな励ましをするよりも、歯並びの矯正をした方がマトモでしょ?
一般社会の正論は正論でいいとして、せめて自分の子供くらいは、マトモな歯並びにしようとするものでしょ?

「人間にとって、歯並びなんてどうでもいい。中身が重要なんだ!」
確かにそうですが、じゃあ、歯並びの矯正に使う費用で、代わりにその親は子供に対して何をするの?
中身を持った人間にすべく、教養を付けさせようとするの?
会話の能力を付けさせようと、いつも一緒に会話するの?
あるいは、いい結婚相手の選択ができるように、色々と相談にのったりするの?

そもそもダメダメ家庭では、子供と会話すること自体が少ないわけ。
だから子供の歯並びなんて知らなかったりするんですね。

経済的な問題も、確かにあるでしょう。しかし、歯並びの矯正もできないような経済力で、自分の子供に教養を付けさせることができるとでも言うの?
将来の進学費用はどうするつもりだったの?
そもそも、そんな経済力でどうして子供なんか作ったの?

「自分の娘を、将来は立派なAV女優にしたい!」
と思っているのかもしれませんが、それってねぇ・・・

それに、その手の女優さんのことはよく知りませんが、その手の女優さんだって長く活躍するためには、責任感とか向上心も必要でしょ?
ひたすらグチばかり言っているようでは、一発屋で終わっちゃうでしょ?
そんな作品ですら、やるからには「イヤイヤ」やっているようではダメでしょ?
やるからには、主体性を持って気合を入れないとね。
どんな分野でも、長く活躍できるためには、向上心や責任感や会話の能力も必要なんですね。お笑い芸人だって、歯並びの悪い人は、芸人としての寿命が短いことが多いでしょ?

歯並びの悪い人と話をした記憶を、実際に思い出していただければわかるでしょうが、歯並びの悪い人は、人の話を聞けない人が多いものでしょ?

「人間にとって、歯並びなんてどうでもいい。中身が重要なんだ!」
確かにそうなんですが、「じゃあ、歯並び以外のその他の面はどうなのか?」
それについて考えることも重要なんですね。

「ワタシの亭主は子育てに非協力的だ!」とグチる妻と同じ。
そんな亭主は、子育て以外にも、すべての面において非協力的でしょ?
歯並びが悪い人は、歯並び以外の面も「上手く行かない」ケースが多いわけ。

「歯並びは、その人の人格とは関係ない。」という論理は論理でいいとして、歯並びが悪いということは、実際には、自分の子供の歯並びの悪さを放置するような親によって育てられた人間ということでしょ?

だから、歯並びの悪さそのものというよりも、歯並びの悪さを放置するという点から、親の問題が見えてくるわけ。

歯並びのDNAの問題ではなく、親としての意識の問題なんですね。

そんな親は、子供の他の問題も放置しますよ。それこそ、歯並びの悪い人は、お箸の使い方もヘタだったりする。それだけ、親からの指導を受けていないわけ。つまり、子供の人格と歯並びとは大きな関係があるわけです。

「歯並びと、その人の人格は関係ない。」という言葉は、親の育て方と子供の人格とは関係ないと言うくらいの暴論なんですね。

ダメダメ家庭の親は被害者意識が強く、それこそ子育てすら「親である自分が背負わされた被害」として認識している。だからこそ、加害者たる子供のサポートなどはする発想そのものがないわけ。

しかし、子育てを被害を認識し、自分の子供の歯並びを放置するような人間ができるのは子作りくらいなのは現実。そして、そんな親の相手をしてくれるのは自分の子供くらい。その子供に対し、「子育てによる被害」を語り続け、グチを聞かされ続けた子供の側も、そのようなことを「ふつう」としてしまい、結局は、そんな「穏やかな」ネグレクトが連鎖してしまうことになる。

子供の歯並びを放置する親なので、周辺環境も違ってしまう。
歯並びの悪い子供の親が、

「自分の子供の歯並びの矯正をするのに適した歯科医はどこか?」

そのような点について情報交換するコミュニティと、

「歯並びなんて、どーでもいいじゃないの?」
「そんなことにお金を使うなんて、バッカじゃないの?」

という言葉で盛り上がったり、
「歯並びの矯正をしなくてもいいための言い訳」を情報交換するコミュニティでは、環境として子供への影響はまるで違うもの。

ダメダメな親は、自分で考えることから逃避し、周囲に合わせるだけの「ふつう」を金科玉条としている。逆に言うと、自分のダメダメさが「ふつう」でいられるダメダメな環境を求めるわけ。自分の周囲の人たちが歯並びの矯正の話題をしていたら、それに合わせなければならなくなってしまう。そんなことはダメダメな親はしたくない。だからこそ、子供のことに関心がない人間が集まっているコミュニティに吸い寄せられてしまうわけ。
子供の歯並びの悪さが放置され、それが「ふつう」とされてしまっている地域では、歯並び以外の面でも、穏やかなネグレクト状態になっているもの。

そんなことだから、子供も不満を持ち、問題行動を起こしたりするのも当然でしょ?

子供が自分の歯並びの矯正の費用を捻出できるわけがありません。
だから子供としては、どうしようもないわけ。
そんな場合には、自分の親がダメダメ家庭であることを早めに自覚する必要があるわけです。

ダメダメ家庭出身の子供にとって、歯並びの矯正はできなくても、精神的な面では、自分で改善していくことが可能でしょ?
それには、まずは自分の家庭がダメダメ家庭であることの自覚が必要なんですね。
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/06-02/06-02-08.htm

138 :名無しさん@Before→After:2012/03/21(水) 14:22:02.42 ID:kwsdwGOy

雅子さまは歯並びめちゃめちゃ悪いからね。
ちゃんとした家庭出身とは思えない歯だよ。昔って矯正する風潮なかったのかな?


141 :名無しさん@Before→After:2012/03/21(水) 14:27:48.46 ID:1ikEMLug
>>138
いや、普通のお家の子だって歯列矯正してたよ


142 :名無しさん@Before→After:2012/03/21(水) 14:32:51.40 ID:kwsdwGOy
>>141
そうなんだ、じゃあ親の意識が低かったからあの歯なんだ。
今からでもいいから、顔よりまず歯を治すべきだよね。あの歯はないわ。


252 :名無しさん@12周年:2012/04/17(火) 00:05:04.44 ID:tCSKq5mB

歯さえ直せば完璧なのにな
また税金でって言われるのが嫌なのかなぁ


255 :名無しさん@Before→After:2012/04/21(土) 08:57:45.55 ID:TpybP/+M

歯を直して、肌を白くして、目の下のタルミ取って、団子鼻直して、変なメイクやめて、首を長くして、いかり肩直して、姿勢正して、変な髪型やめて、20キロ痩せて
キチ丸出しの表情やめて、下品な笑い方をやめれば確かに完璧かも!

257 :名無しさん@Before→After:2012/04/22(日) 00:17:13.66 ID:8552rNoy
>>255
目が笑っていないあのニタニタ笑いもやめてほしい

253 :名無しさん@Before→After:2012/04/17(火) 05:49:56.86 ID:19SKIDh8

歯医者嫌いなんじゃないの?汚い歯を見られるのが嫌だとかさ。
皆に指摘されて、ムカつくから意地でも治さないとか。
人格障害なんてそんなもん。


259 :名無しさん@Before→After:2012/04/23(月) 03:08:22.86 ID:Z8Z3BwSh

あの両親が歯磨きチェックとかしてやるとも思えないし。
基本、子供に興味なさそう。学歴とか面子には拘りそうだけど。
そういう意味では毒親の娘で可哀想な部分もあるかも。
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/seikei/1330882024/

▲△▽▼


ダメダメ家庭が子供に与えない体験,境遇 それなりの容姿

イギリス社会には隠然たる階級問題がありますよね?
貴族階級と労働者階級の間の格差の問題です。
イギリスを舞台にした映画には、このような階級問題を扱った映画が結構あります。ジョゼフ・ロージー監督の「恋」(原題は確か「GO BETWEEN」・・・まさに「行ったり来たり」)とか、有名なオードリー・ヘップバーン主演の「マイ・フェア・レイディ」とか・・・

そのような階級問題を扱った映画には「いかにも下層階級」と、一目で分かるような人たちが登場したりいたします。
いかにも、しまりのないダレた顔立ちの人たち。
映画を見ていると、
「よくまあ、あんな典型的なまでに下層階級の顔立ちの人を集めたものだ!」
と感心してしまいます。

映画「マイ・フェア・レイディ」においては、主人公のイライザがそのような下層階級の顔が並んでいるのを見つめて「このままではダメだ!」とヒギンズ教授の門を叩くことになるわけです。

このような典型的な「下層階級」の顔立ちは、遺伝的なものも若干はあるでしょう。しかし、普段から精神的な緊張とは無縁の生活をしていることから、どうしても顔も緩んできてしまうんでしょうね。

本人にとっては、遺伝はしょうがない。「親の因果が子に報い・・・」なんだから。
精神的な問題については、話が大きすぎますので、今回は割愛。

このような典型的な下層階級の顔だと、どうしても本人に能力があっても可能性が制限されますよね?別に俳優になるとかの問題だけではありません。
いかにも知性がなさそうな顔だったら、そのような人の話は、やっぱり信頼できないでしょ?
不満いっぱいの顔だったら、そもそもそんな人には近づいていかないでしょ?
その職業にはその職業にふさわしい顔があったりしますよね?

たとえば暴力団の方。
暴力団の皆さんは、若いうちから、スゴミのある顔をしていらっしゃいます。まあ、そうでないと仕事に差し支えるでしょうからね。

ジャニーズ系の顔で
「さあ、さあ、皆さん!お金払って〜♪」
と、恐喝に行っても、払ってはくれないでしょう。

怖い顔で
「こら!金払わんかい!」
とやらないとね。

まあ、それぞれの職業にフィットした顔があるわけ。遺伝のファクターもあるでしょうし、時間をかけて顔が変わっていくのもあります。まあ、整形というのは一般的ではありませんよね?

しかし、整形はともかく矯正はポピュラーですよね?
特に多いのが「歯並びの矯正」。
悪い歯並びを直す処置です。

歯並びの悪さは健康に直結するだけではありません。
歯並びが悪い人はどうしても貧乏臭く見える。
まあ、実際に貧乏だったんでしょう。歯の矯正をケチるくらいに。

たとえば、もし皆様が、銀行に行って、窓口の職員が歯並びの悪い人が多かったら、そのような銀行と取引しますか?
下層階級出身者が集まっている銀行なんて不安ですよね?
多少ヘチャムクレの顔だったら問題はないし、色黒な人が多くても問題はないわけです。だって、その面においては、矯正のしようがないわけですし、まあ、整形手術は一般的とはいえない。しかし歯並びの矯正はお金をかければできる話だし、ありきたりのことでしょ?
銀行という場では、歯並びが悪い人をあまり見ませんよね?
多分そのあたりをチェックしているんでしょうが。

では、歯並びの悪い人をよく見るところってどこでしょうか?

色々とあるでしょうが、私が真っ先に思い浮かぶのは「お笑い」の業界です。
お笑い関係のテレビを見ていると、出ている人の歯並びが悪い場合が多い。

「笑い」というのは、「くだらない」話というものとは違っています。
人の気がつかなかったことを指摘したりして、笑いを取る。そのためには、新鮮な視点や考え方が要求される世界だと言えるでしょう。
だからこそ下層階級出身者が活躍しやすい。社会の「非主流」である下層階級ならではの視点で、「主流」の人間の「おかしさ」を指摘する。
「笑い」はこのような時に出てきますよね?

しかし、この手の笑いはちょっと難しい。その下層階級出身の芸人さんが「売れて」リッチになってしまうと、そのような「主流」の「おかしさ」を指摘することができなくなります。「主流」に埋没しちゃうんですね。そんな例が多いでしょ?

歯並びの悪さは下層階級出身と同義なんですね。
たとえ、経済的にはリッチであっても、メンタル的には共通しているわけ。
はっきり言って、チャームポイントには絶対にならないわけ。
お金があれば、矯正するのがマトモな親ですよ。
歯並びが悪くないと就けない職業なんて、この世にはありませんよね?

しかし、歯並びが悪かったら就けない職業はいっぱいあるわけです。
単なる容姿の美醜の問題だけでなく、出身階級そして、出身家庭の力量がわかってしまうという点で。

身長が低いような場合には、お金をかけても背が伸びるものではありませんよね?
しかし、歯並びは親の「気持ち」次第ですよね?

そのように「歯並びの矯正」をせずに、そのまま放置しておくような家庭だったら、もし当人が困った時に、周囲の家族は何かサポートをするでしょうか?
金銭的にも精神的にも「あて」にならないわけです。
今現在は単なる容姿の美醜の問題でも、将来的にもっと困難な課題に対応できないことがスグわかってしまうんですね。

ここでは例として「歯並びの矯正」を取り上げましたが、他にも色々とあると思います。
多少のお金で子供の将来へのハンディキャップを取り除けるのなら、それを取り除くのがマトモな親。ダメダメ家庭とマトモ家庭の差は、このようなところでスグにわかってしまうんですね。

マトモ家庭は子供の将来のためにお金を使いますが、ダメダメ家庭は現在のことしか考えていないんですね。
あるいは、言葉としては「子供の将来」などと立派な言葉を語ったりすることもありますが、それが「自分の子供の将来」という具体性を持たず、抽象的で一般論的な場合もあったりする。

それこそ、今回の文章のテーマといえる容姿の問題でも、今回の文章のように、歯並びのような具体的な視点を提示すると、市民運動の人たちなどが、「容姿と人格とは関係ない!」などと大騒ぎをしたりするもの。
そして、「正しい考え方を、社会に対して訴えていこう!」「容姿と人格の正しい知識を学ぶべきだ!」と言い出す。
しかし、そんな運動はしても、自分の子供の歯並びの矯正はしないわけ。

自分の子供の幸福ではなく、一般論的な子供の幸福に関係した運動なので、逆にいうと、自分の子供と会話をしなくてもいいし、自分の子供の意向を聞かなくてもよくなる。
教科書指定の大義を連呼していればいいだけ。

対抗心が強いダメダメな人間にしてみれば、自分の子供と会話するよりも、社会に対して、一般論的なクレームをつけることの方が心理的にラクなんですね。

そんなスタイルで、一般論的な大義ばかりを語り、そして

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と対抗心で心をいっぱいにしてしまう。そんなことばかりしているから、同類が寄ってきて、ますます対抗心で盛り上がり、恨みの心を増大させる。

そんなことばかりしていたら、ちょっと鏡でも見てみなさいな。
とんでもない顔が映っているものですよ。
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/04-01/04-01-23.htm

▲△▽▼

皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭の顔 生気のない顔

なんでも、とあるオーストラリア人のジャーナリストが「プリンセス・マサコ」という本を出版したそうです。宮内庁が皇太子妃の雅子さんをいじめているという話らしい。


生気のない顔というと、日本で一番身分の高い女性が、その典型と言えるでしょう。まあ、あの方も随分と大変なんでしょうね。

あの女性は、好き好んで、あの家庭に嫁に行ったわけですから、それは本人の選択の結果と言えるでしょう。しかし、そんな状態を放置するから、次なる新参者が病気になっちゃうんでしょ?

まあ、いとやんごとない家庭は、一般人には関係ない話といえます。しかし、そこに見えるダメダメ家庭の特質は一般人にも結構参考になるわけです。ダメダメ家庭というものは、内科的な方法では改善できません。だって、問題が起こっても、その問題の原因を、自分たちとは「もっとも薄い」関係にある新参者に原因を押し付けてしまうので、本質的なものは何も変わらないんですね。

その家庭に生気のない顔の人がいたら、その人が、その家庭の問題の原因を一手に背負わされていると見ることができます。そんな家庭に新たに入ったりすると、次に生気のない顔になるのは、新しく入ってしまった当人なんですね。

ちなみに、なんでも、とあるオーストラリア人のジャーナリストが「プリンセス・マサコ」という本を出版したそうです。宮内庁が皇太子妃の雅子さんをいじめているという話らしい。

このメールマガジンでは、以前に皇后の美智子さんが宮内庁からイジメられているシーンを書いています。この私がコンサートホールで目撃しました。目の前で肉眼で見たんだから、議論の余地なしですよ。

皇后さんもあんなにイジメられているんだから、皇太子妃も当然のこととしてイジメられていますよ。というか、あんなに生気のない顔だったり、鬱病になって「ワタシは幸せよ!」も何もないでしょ?

しかし、宮内庁も、オーストラリアのジャーナリストから問題を指摘されると、「そんなことはないっ!」と逆上するって・・・イジメ自殺が起こった学校の関係者と全く同じ対応というか、私のメールマガジンに対し逆上メールを送ってくるダメダメ人間と同じというか・・・まあ、ダメダメのお約束なんでしょうね。

つまりダメダメと言うものは、どんなところでも起こっているわけですし、ある意味において、共通性も多いわけです。

まあ、皇室に関係のある購読者さんは、たぶん、いないでしょうが、あの手の封建的な家庭が近くにある方はいらっしゃるでしょ?そのような封建的な家庭の、お嫁さんなり、女の子って、あんな生気のない顔のケースが多いですよね?

往々にして、そんな封建的な家庭のジジババは、ボランティア活動などをやっていたりするもの。だから、そんな家庭は、いわゆる「立派な家庭」と評価されたりする。
しかし、ボランティア活動をやっても、自分のもっとも身近な人間の生気はない・・・封建的なダメダメ家庭って、身分の差はあれど、そんなところがあるでしょ?

そうして

「ワタシたちはこんなに立派なのに、あの人が来たせいで・・・」

と周囲にグチることになる。ダメダメ家庭の周囲には、同じような被害者意識が強いダメダメ家庭の連中が多いので、そんな被害話に大いに盛り上がってしまう。そして

『まったく・・・アナタも大変ねぇ・・・あの人には困ったものだわ!』

とグチの共鳴。周囲がこれでは、ますます生気がなくなりますよ。

ちなみに、私は、制度としての皇室問題を議論するつもりはありませんヨ。
一人の人間としての、あるいは一人の女性としての幸福について考えているだけです。
幸福な人は、幸福な顔をしていますよ。そのオーストラリア人ジャーナリストの著作がトンチンカンだというのなら、宮内庁の反論よりも、幸福そうな表情が何よりも雄弁な反論になるものでしょ?

「プリンセス・マサコ」という本に関わる問題は、ダメダメ家庭を考えるに際し典型的な事例と言えますね。

ダメダメ家庭なり、ダメダメな集団と言うものは、自分自身の問題と真剣に向き合ったりしない。何か不都合なことがあると、新参者にその問題の原因を押し付けて、「自分たちはアイツが来たことによる被害者だ!」と被害者意識に浸ってしまう・・・

この新参者は、何も人間とは限らず、たとえば、インターネットとか、その前は音楽のロックだったりと、とりあえず目立つものが選定されることになる。
そもそも、現実としっかり向き合うことから逃避したり、問題点について考察することからの逃避としての犯人認定行為なんだから、とにもかくにもスケープゴートがほしいだけなんですね。

犯人探しに明け暮れるようなダメダメ家庭において、問題の原因としての役割を押し付けられてしまう新参者は、それが人間となってしまう場合には、往々にして「嫁」だったり、「子供」だったりするもの。この手のダメダメ家庭は封建的な面を強く持っているので、男尊女卑の雰囲気があったりして、女性が犯人として認定されやすい。だから、同じ子供でも女の子が狙われてしまう。

それに、犯人認定行為をする人は、「どうしてその人が犯人と言えるのか?」という点について説明するのができないので、「自分に対して反論してこない存在」を犯人認定しようとする。まあ、男性よりも、女性の方が反論してこないことが多い。

あるいは、よく虐待事件で出てきたりするシチュエーションである、同居している「相手」の連れ子なんて、この理屈からすると、ドンピシャでしょ?

いったん、犯人認定されてしまうと、普段から、「この家庭が上手く行かない犯人」とされてしまい、まさに諸悪の根源扱いとなってしまう。ちょっとのことで、
「また、オマエのせいで、迷惑を受けた!」
と怒られることになる。だから、犯人とされてしまっている人間は、日頃から周囲に対して気をつける必要がある。
それこそ、楽しそうな表情をしていたら、家族からどう言われちゃうの?

「ヘラヘラと笑っていて・・・全く・・・アンタは気楽でいいねぇ・・・コッチはアンタのために苦労ばかり!」
「いったい、誰のためにこんな苦労をしているのか、分かっているのかしら?」

そう言われちゃうでしょ?
とてもじゃないけど、朗らかな表情をしているわけにはいきませんよ。
かと言って、困った表情をしていると、どう言われちゃうのでしょうか?

「全く・・・辛気臭い顔して!コッチまで気が滅入って来るじゃないの!」
「ちょっとは、周りのことも考えてほしいものだわ!」
「いったい、誰のためにワタシたちがこんな苦労をしているのか、分かっているの?!」

と、やっぱりイヤミを言われるだけ。

結局のところ、どうすればいいの?
朗らかな表情でも、文句を言われ、苦虫を噛み潰した表情でも、文句を言われるわけでしょ?

もうこうなると、表情が判らない・・・生気そのものが抜けたような顔になるしかないでしょ?

逆に言うと、「あの人・・・どうも生気がない顔をしているなぁ・・・」と思われる人は、その家庭において、自己表現が閉ざされていることが推測できるわけです。
ちょっとでも自己表現をすると、叩かれる。

ちょっとでも感情を見せると、文句を言われる。
いわば「出る杭は、打たれる」状態となっているんですね。

子供の表情を見るだけで、どんな役割を子供に対して「要求している」家庭なのか分かったりするもの。生気のない顔をしているということは、感情を抑圧することを求めている家庭ということなんですね。

ダメダメ家庭の、特に女の子において、このような生気のない顔になってしまう例があったりします。それだけ、子供の頃から周囲に気を配っているわけです。自分の周囲に波風が立たないように配慮する。そして自分の感情を読まれないように配慮する。そして自分の感情そのものを抑圧する。そんな習慣だったわけです。

そんなことをしていると、精神的に疲れちゃうでしょ?
だから、ますます顔から生気が抜けてしまうことになる。

このような生気のない顔の周囲には、以前に書いた「不満いっぱいの顔」がいるもの。
日頃から不平不満を語っていて、「アイツのせいでうまくいかない!」と誰かを恨んでいる。

そんな人の身近にいる子供は、その不満を一身に浴びて生気が抜けてしまったわけです。
逆に言うと、生気のない顔の子供と、不満いっぱいの顔の親の組み合わせだったら、もはやダメダメ家庭のレヴェルを超えて、フィジカルな虐待の可能性も見えてくるわけです。

それこそ、以前に、秋田県で、自分の息子や、近所の子供を殺害した女性がいましたが、あの女性の顔は不満いっぱいの顔だったでしょ?
そして、たぶん、殺された息子さんは、生気のない顔だったのでは?
個人の顔だけでなく、顔の組み合わせからも、その家庭について見えてくるものなんですね。

あるいは、前に書いている封建的なジジババがいる家庭だと、まさにそのジジババが不満いっぱいの顔だったりするでしょ?
そして、その不満いっぱいの顔のジジババの周囲には、そんなジジババに媚びを売るようなボランティア顔の人がいたりするもの。
つまり、「おべっか」や「おべんちゃら」を求め、真実と向き合っていない状況も見えてくるわけです。

そんな顔の組み合わせだと、まさに威張っている人間が、不満を語り、周囲のおべんちゃら人間がそれに同調し、結局は、新参者への締め付けがますます強くなってしまい、カタストロフに至ることになってしまう。
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/07-02/07-02-20.htm

▲△▽▼

皇太子妃雅子

1 :名無しさん@Before→After:2012/03/05(月) 02:27:04.93 ID:lFjUkdsr

http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1330694600218.jpg
鼻の形が変わりすぎw 整形疑惑がww

まさか?
いくらなんでも。と私も思ったんですけど。
この画像↓でも、鼻が今と全然違うんですよね…。
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20070717102139.jpg


93 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2012/03/03(土) 13:12:22.06 ID:f0doZE4z0
これもだ。
鼻も目も、今と違いすぎ…。
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1245212861446.jpg


2 :名無しさん@Before→After:2012/03/05(月) 02:36:13.99 ID:lFjUkdsr
目元の変化、どこでやってるのか知りたい。
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20071102175252.jpg


3 :名無しさん@Before→After:2012/03/05(月) 02:38:12.02 ID:OD5Kdg3o
うわっ 大蒜のように丸くこんもりした鼻だったのに
鼻先がツンと尖ってる!
まさか皇太子妃が二重整形、鼻整形とはww


4 :名無しさん@Before→After:2012/03/05(月) 02:49:46.64 ID:5f414wBz

お約束だけど
いちばん恥ずかしい歯は直さないんだねw
ガチャ歯にこだわりでもあるのかと
思ってしまうわ


80 :名無しさん@Before→After:2012/03/14(水) 10:55:11.97 ID:uZGx+V95

イロイロいじってみても、ダメなものはダメなんだなあ…と痛感。


81 :名無しさん@Before→After:2012/03/14(水) 12:05:21.13 ID:les7S81j

元が元なんでねw
こんな人がプリンセスか〜。もっと美人で気立ての良い人を貰えば良かったのにね。


204 :名無しさん@Before→After:2012/04/01(日) 04:13:44.54 ID:doN1qobj
>>81
皇太子様がチビブサオヤジだから雅子様以上の美人なんて無理w
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/seikei/1330882024/


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/179.html

[昼休み54] ユダヤ人は悪い 中川隆
28. 中川隆[-12834] koaQ7Jey 2019年1月21日 09:29:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

2019年01月20日
ユダヤ人からの献金 / 政治家に金銭を渡す人々(後編)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68750064.html


気前の良いユダヤ人
Jews 2Fagin (Ron Moody)


  普通の日本人あがリカの民衆党と聞けば、庶民の味方をする政党と勘違いしてしまうが、その実態を探ってみると、大富豪が代議士を買収し、愚劣な平民を利用する連中と判る。確かに、個々の法案ではマイノリティーを助けたりするが、そんなのはチョコレートの“おまけ”みたいなもので、取るに足らぬ「ご褒美」である。低賃金に甘んじる黒人やヒスパニックの有権者にとって、複雑怪奇な金融とか外政は木星の嵐と同じで、彼らの日常生活には関係無い。というより、理解の範囲を超えているので、議会で何が討論されているのかさえ分からないのだ。たとえ教えてもらっても専門用語がズラリとならんでいるからチンプンカンプン。まさしく馬の耳に念仏といったところだ。1分もすれば飽きてしまう。

  デモクラシーでは「数が力」となっているが、その前に「金銭は実弾」となっている。どんなに固い「理想」を纏っていても、黄金の銃弾はその鎧(よろい)を貫く。でも、大抵の政治家は発射前に平伏すから、無傷のまま大喜び。額に値札を附けた議員なんて本当に情けない。ところで、献金額もさることながら、「誰がお金を渡しているのか?」ということも重要だ。淫乱キャバレー(sleazy joint)の踊り子になら20ドルや30ドルくらい投げ与えても大した意味は無いが、政治家に100万ドル単位の寄付となれば話は違ってくる。(ただし、表に出せない「袖の下」もある。まさか、裏金を証拠が残る小切手で払う馬鹿はいないだろう。でも、これは「いくら」なのか判らないから、ここでは除外するしかない。) ということで、誰が“なんぼ”渡したのかを知ることは、アメリカ政治を理解するうえで役に立つはずだ。

  2018年を振り返って、その献金者リストに目を通すと、「えっ!」と驚くような事実があった。なんと、上位リストの中に多くのユダヤ人が含まれていたからだ。(Open Secretsが掲載したリストを参考にしてみる。)

  まづ、第1位となったのは、共和党にジャブジャブと資金を流し込むカジノ王シェルドン・アデルソン(Sheldon Adelson)とミリアム(Miriam)夫人だ。「ラスヴェガス・サンズ」を運営するアデルソンについては、以前、当ブログでも紹介したので、ここでは詳しく述べない。(記事1と記事2を参照。) このユダヤ人大富豪は、大統領候補にもなったミット・ロムニー元知事などを支援していたが、共和党の保守派を支持している訳じゃない。アデルソンが最も大切にしているのはイスラエルで、彼は「心の祖国」が安全になるようアメリカ兵を活用しろ、と述べていたのだ。

Sheldon Adelson 0001Tom Steyer 001Richard Uihlein 1


(左: シェルドン・アデルソン / 中央: トマス・スタイヤー / 右: リチャード・ユーライン)

  第2位は、これまたユダヤ人のトマス・スタイヤー(Thomas Steyer)である。日本ではほとんど知られていないが、彼は投資会社「ファラロン・キャピタル・マネイジメント(Farallon Capital Management)」の創業者で、大統領選に出馬したいとの願望を抱いている。彼の母親はエピスコパル教会のキリスト信徒だが、父親は非宗教的なユダヤ人であるという。彼の経歴は眩しく、幼い頃はニューヨークの名門校「バックリー(Buckley)」に通っていた。かつて、この学校にはデイヴィッド・ロックフェラー・ジュニアやフランクリン・D・ローズヴェルトが通っており、トランプ大統領の長男、ドナルド・ジュニアも卒業生だ。そして、ジュニアの子供達、つまり大統領の孫になるドナルド3世、トリスタン、スペンサーも通ったそうだ。「バックリー」を卒業したスタイヤーは、これまた名門私立の寄宿学校「フィリップス・エクスター・アカデミー」に進学し、そこからイェール大学に入り、卒業後は二年間ほど「モルガン・スタンレー」に勤めた。彼は更に学歴を積むため、ハーヴァード大学ならびにスタンフォード大学のビジネス・スクールに入ったというから何とも凄い。

Robert Rubin 1(左 / ロバート・ルービン元財務長官)
  スタイヤーはスタンフォードに在籍していたものの、並立して「ゴールドマン・サツクス」に勤め、後に財務長官となるロバート・ルービン(Robert Rubin)のもとで働いたという。(ユダヤ人はユダヤ人と馬が合う、という典型例だ。) 1983年、スタイヤーはルービンの紹介で、大統領選に出馬したウォルター・モンデールを手伝ったそうだ。そして、二年間の勤務でゴールドマン・サックスを去ったスタイヤーは、自分の投資会社をカルフォルニアに設立する。充分な資産を築いたスタイヤーは徐々に政治的野心に目覚め、大統領を目指すようになった。スタイヤーは民衆党のリベラル派らしく、気候変動とか地球温暖化を看板にして環境左翼の票を当てにしているが、その過去はドス黒い油に塗れていた。このユダヤ人左翼は、排出ガスによる環境破壊を危惧する善人を装っているが、個人的にはカナダのエネルギー会社に多大な投資をしていた。つまり、「オイル・サンド」に目を附けたスタイヤーは、黒い砂で大儲けしようと企んでいたのだ。

Al Gore 2Al Gore house in Montecito

(左: アル・ゴア元副大統領 / 右: モンテチトにあるゴア氏の豪邸)

  お金持ちのリベラル派というのは、「やること」と「言うこと」が違っている。こうした矛盾を「矛盾」と感じないのはスタイヤーだけではなく、アル・ゴア元副大統領も同じで、他人に対しては二酸化炭素の大量排出を警告しながら、自分の邸宅では“たっぷり”と電気を使っていた。アメリカの一般有権者はゴア氏の月額使用料を見てびっくり。一般家庭の何倍もの電気を消費しており、その言動と行動の違いに呆れてしまったそうだ。まぁ、彼の豪邸(マンション)を見れば、六畳二間のアパート暮らしじゃないことくらい直ぐ分かる。だいたい、上院議員のを父に持つお坊ちゃんが、日本人のように「節約グッズ」なんて使うのか?

Al Gore house in MalibuAl Gore mansion $9 Millon in CA


(左: マリブにあるゴア氏の別荘 / 右: ゴア氏がカルフォルニアで購入した邸宅 )

  アメリカには偽善的環境保護派が多く、有名俳優にも「意識の高い」人物が多いらしい。例えば、メリル・ストリープとかロバート・レッドフォード、レオナルド・ディカプリオ、ベン・アフレック、オリヴィア・ワイルド、アレック・ボールドウィン、ナタリー・ポートマン、ベット・ミドラーなどが挙げられる。でも、彼らは映画撮影で散々エネルギーを浪費し、豪華なリムジンで移動していたじゃないか。そんなに排出ガスが嫌なら、走って撮影所まで行くべきだ。そう言えば、“ナチュラル”派のロバート・レッドフォードは昔、目を見張るようなプライベート・ジェット機で日本にやって来たが、どれくらい燃料を使っていたのか、ぜひ教えてもらいたい。

  話しを戻す。第3位は前回紹介したリチャード・ユーランイ。第4位は、ニューヨーク市長を務めたマイケル・ブルーンバーグ(Michael Bloomberg)で、彼は言わずと知れたユダヤ人ビジネスマン。第5位も、これまた裕福なユダヤ人ビジネスマンのドナルド・サスマン(Selwyn Donald Sussman)ときている。彼は投資顧問会社「パロマ・パートナーズ(Paloma Parters)」の会長で、最初の妻ローリー・ティッシュ(Laurie Tisch)と離婚したあと、メイン州選出の下院議員シェリー・ピングリー(Chellie Pingree)と再婚した。(ローリーはレーガン政権で郵政長官を務めたプレストン・ロバート・ティッシュの娘。) しかし、この結婚も長続きせず、二人は2016年に別れている。

Michael Bloomberg 1Donald Sussman 1James Simons 2George Soros 7


(左: マイケル・ブルームバーグ / ドナルド・サスマン / ジェイムズ・シモンズ / 右: ジョージ・ソロス )


  第6位はヘッジ・ファンドの「ルネサンス・テクノロジー」を率いるジェイムズ・シモンズ(James Harris Simons)で、ヒラリー・クリントンの支持者である。金融業界でのし上がったシモンズではあるが、元々はマネー・ゲームとは程遠い数学者であった。大学で数学の博士号を取得したシモンズは、研究員として防衛分析所(Institute for Defense Analysis)のリサーチ部門に勤め、MITやハーヴァード大学で数学を教えたこともあるそうだ。こうした経歴を経た後、彼は自分のヘッジ・ファンド会社を創設し、現在では現役を退き名誉会長に納まっている。第7位は紹介する必要も無い、ヘッジファンド業界の巨人、ジョージ・ソロス。第8位も、これまたユダヤ人。スティーヴン・シュワルツマン(Stephen A. Schwarzman)は共和党の大口献金者。彼は元「リーマン・ブラザース」のCEOで商務長官を務めたピーター・ピータソン(Peter George Peterson)と一緒に、かの有名な投資会社「ブラックストーン・グループ(The Blackstone Group)」を創設した。

Stephen Schwarzman 2Fred Eychaner 1Kenneth Griffin 1Anne Dias Griffin 2


(左: スティーヴン・シュワルツマン / フレッド・アイチュナー / ケネス・グリフィン / 右: アン・ディアス・グリフィン )

 第9位は「ニューズウェッブ社(Newsweb Corp.)」の会長を務めるフレッド・アイチュナー(Fred Eychaner)で、これまた民衆党を支持するユダヤ人。創設者のアイチュナーは新聞、ラジオ、テレビ局を傘下に納めるメディア業界の大御所。第10位はケネス・グリフィン(Kenneth C. Griffin)で、彼はレーガン大統領に共感し共和党の支持者になった。グリフィンは「シタデル投資グループ(Citadel Investment Group)」というヘッジファンドを設立し、若手の投資家として知られている。彼の妻アン・ディアス(Anne Dias-Griffin)も投資家で、「タイガー・マネージメント社(Tiger Management Corp.)」のジュリアン・ロバートソン(Julian Hart Robertson, Jr.)と共に「アラゴン・グローバル・マネージメント(Aragon Global Management)」社を設立した凄腕だ。大学の頃から優秀だったアンは、「ゴールドマン・サックス」や「フィデリティー・インヴェストメント」のアナリストを務めていた。いつまでも他人の会社に勤めていないで、さっさと自分のヘッジファンド会社を設立するくらいだから、相当な遣り手だ。

   支持政党         献金総額

1 シェルドン・アデルソン (ユダヤ人)       共和党 $113,036,500 
2 トマス・スタイヤー (ユダヤ人)           民衆党  $50,773,518
3 リチャード・ユーライン         共和党 $39,095,229
4 マイケル・ブルームバーグ (ユダヤ人)        民衆党 $38,229,487
5 ドナルド・サスマン(ユダヤ人)            民衆党 $22,876,300
6 ジェイムズ・シモンズ(ユダヤ人)          民衆党 $18,918,210
7 ジョージ・ソロス(ユダヤ人)             民衆党 $17,365,586
8 スティーヴン・シュワルツマン(ユダヤ人)     共和党 $12,814,000
9 フレッド・アイチュナー(ユダヤ人)          民衆党 $12,173,500
10 ケネス・グリフィン           共和党 $11,070,100

  こうして献金者リストのトップを見てみると、10人中8名がユダヤ人と判る。まともな精神を持つ西歐系アメリカ人なら、何となく嫌な気分になって眉を顰めるはずだ。もし、日本で献金者の上位10名が朝鮮系だったら、一般の日本人はどう思うのか? 政治に関心の無い国民でも、一瞬「えっ!」と言葉を詰まらせ、率直な感想を述べてはならないと察知するだろう。本当に呆れるくらい、アメリカの政界はユダヤ・マネーで溢れている。例えば、46歳の若さで亡くなったスティーヴ・モスティン(Steve Mostyn)は、ユダヤ人弁護士で、民衆党の資金管理団体「プライオリティーズ(Priorities) USA」に何百万ドルも注ぎ込んでいた。通信技術の設計・開発で有名な「クアルコム(Qualcomm)」の会長アーウィン・ジェイコブス(Irwin Mark Jacobs)も民衆党支持のユダヤ人。ハリウッドの大物プロデューサー、ジェフリー・カッツェンバーグ(Jeffrey Katzenberg)も民衆党を支援するユダヤ人なんだから、「アメリカは一体どうなっているんだ?」と言いたくなる。ちなみに、ジェイコブズもカッツェンバーグも、民衆党のドル箱たる「プライオリティーズUSA」に献金する常連であった。

Steve Mostyn 1Irwin Jacobs 2Jeffrey Katzenberg 2

(左: スティーヴ・モスティン / 中央: アーウィン・ジェイコブス / 右: ジェフリー・カッツェンバーグ)

  一般の日本人は歐米の歴史や政治を学んでも、不思議とユダヤ人については調べない。日本の出版界は儲け主義を優先しているので、ユダヤ人に関する書籍は宗教を絡めた陰謀論や荒唐無稽なオカルト本が主流となっている。確かに、太田龍や宇野正美、赤間剛の本は娯楽的要素が多いから面白い。でも、真面目な日本人には耐えられない程の俗論である。日本の知識人はもっと現実的な視点からユダヤ人を研究すべきだ。イルミナティーとかユダヤ教徒の陰謀といったものではなく、政治家を買収する億万長者とか、国境を破壊するグローバリスト、経済の枠組みや社会のルールを変える者、金融制度を“合法的”にいじくる者などに焦点を当て、現実主義で論じるべきだ。訳の解らぬ宗教的黙示録よりも、100万ドル献金して1億ドル儲けようとするユダヤ人の方が、よっぽどリアルじゃないか。(アメリカ議会は向こう10年間で330億ドルの支援をイスラエルに与えようと画策しているそうだ。ユダヤ人のポケットにはいっているのかどうか知らないけど、マルコ・ルビオ上院議員たちは、「どんな」目的で国民の税金をイスラエルのユダヤ人に“献上”しようとしているのか? ちなみに、一般のアメリカ国民はこの「贈与」については全く知らない。それも当然で、主流メディアが一切触れないからだ。)

  そもそも、「中東でのハルマゲドン」を妄想するくらいなら、ワシントンで暗躍するイスラエルの工作員やアメリカ国籍を持つユダヤ人協力者を洗う方が遙かに有益である。彼らはムスリム・テロリストよりも遙かに危険だ。爆弾を抱えたアラブ人なら直ぐ「敵」と分かるが、高級なスーツを着てウォール街を闊歩する金融業者とか、連邦議会で財政・軍事政策を決めてしまう上院・下院議員だと、“いかがわしい”ユダヤ人と判っていても排除することはできない。歐米の保守派は「内なる敵(Enemies Within)」に敏感だが、国内にタカる異人種を攻撃するにしても人数的に劣勢だし、肝心のお金にも困っているから、場外で吠えるだけの負け犬となっている。これじゃあ、保険屋の謳い文句じゃないけど、「お金は大事だよぉ〜」と唄いたくなるよねぇ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68750064.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/102.html#c28

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
13. 中川隆[-12833] koaQ7Jey 2019年1月21日 09:39:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
2019.01.21
不正行為で潤う支配層は内部告発を嫌い、報復する


 CIAによるクーデター、要人暗殺、住民皆殺し作戦、電子情報機関の存在などがアメリカ議会で明らかにされたのは1970年代だった。政府機関による犯罪的な行為が明るみに出る過程で内部告発が果たした役割は小さくない。そこで1970年代の後半から内部告発を難しくするようにシステムは変更され、「民営化」も進められた。そして、メディアの内部からは気骨あるジャーナリストが排除されていく。

 それでも抵抗は消えず、内部告発を支援するウィキリークスも作られた。創設者のひとりであるジュリアン・アッサンジはアメリカの支配層に狙われ、2010年にスウェーデン当局が逮捕令状を発行したことからロンドンにあるエクアドル大使館から外へ出られなくなった。

 話はふたりの女性がスウェーデンの警察でアッサンジにHIVの検査を受けさせられるかと相談したことから始まる。この訴えで逮捕令状が出され、スウェーデンのタブロイド紙が警察のリーク情報に基づいて「事件」を報道して騒動が始まるのだが、翌日には主任検事が令状を取り消す。レイプした疑いがあるとは認めなかったからだ。

 しかし、その決定を検事局長が翻して捜査の再開を決める。その直後にアッサンジはスウェーデンを離れた。逮捕令状の請求はその2カ月後のこと。

 2017年にスウェーデン当局は捜査を中止、逮捕令状を取り消すのだが、​11年にアメリカは秘密裏にアッサンジを起訴していた​。これは裁判所へ提出された文書の中に記載されている。

 アッサンジに逮捕令状が出る半年ほど前、ウィキリークスはブラドレー・マニング(現在はチェルシー・マニングと名乗っている)特技兵から提供された映像を公開している。

 その中には2007年7月、バグダッドでロイターの特派員2名を含む非武装の十数名をアメリカ軍のヘリコプターが銃撃、殺害する場面を撮影したものも含まれていた。ヘリコプターの兵士は口頭で戦闘員を攻撃しているように報告しているが、映像を見れば非武装の人間だとわかる。

 だからこそマニングは内部告発したのだろうが、彼は2010年5月、アメリカ陸軍のCID(犯罪捜査部)に逮捕され、17年5月まで収監された。

 マニング以外にも政府機関の不正行為を告発した人たちはいる。例えば電磁情報機関NSAの不正を明らかにしたウィリアム・ビーニーやエドワード・スノーデン、イランへ核兵器に関する資料を渡してイラン侵略の口実を作るというCIAの危険な作戦を組織内部で警告したジェフリー・スターリング、そしてCIAなどによる拷問を告発したジャニス・カルピンスキーやジョン・キリアクだ。

 カルピンスキーはイラクのアブ・グレイブ刑務所で所長を務めていたが、所内での拷問が明らかになった後、2004年1月に停職となる。それに対して彼女はその年の6月、BBCに対して刑務所内で拷問が行われていたセクションを管理していたのは軍の情報部であり、彼女は実態を把握していなかったと主張した。

 刑務所内で撮影された写真については、兵士が独断で撮影することはありえないとも指摘した。カルピンスキー本人も命令していない。

 彼女によると、グアンタナモから来ていたジェオフリー・ミラー少将は拘束されている人々を犬のようなものだと表現、そうした人々が自分を犬以下の存在だと信じさせることでコントロールが容易になると主張していたという。2004年7月には、刑務所にイスラエル人の尋問官がいたとも話している。

 後にカルピンスキーは准将から大佐へ降格になった。

 キリアクはCIAの元分析官。2007年12月にABCニュースのインタビューで、CIAの同僚から聞いた話として、ウォーターボーディングと呼ばれる拷問が行われていると語っている。それが問題になり、結局、2013年に懲役30カ月の判決を受けた。

 スノーデンはロシアへ逃げ込む形になった。

 権力者は庶民に知られたくない情報を隠す。その口実として安全保障がしばしば使われるが、実態は犯罪的な行為の隠蔽。日本で成立した特定秘密保護法の目的もそこにある。権力者が内部告発を厳しく取り締まるのは自らの悪事が露見することを防ぐためにほかならない。そこで、「一罰百戒」ということで内部告発者を痛い目に遭わせるわけだ。

 かつて雪印食品の牛肉偽装を内部告発した西宮冷蔵の社長は事業の継続が困難な状況になったというが、その理由は不正を告発するような会社とは取り引きできないという会社が多かったからだ。AKSだけでなく、マスコミ、警察、検察の闇に光を当てることになった女性も厳しい状況に陥っている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901200000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c13

[リバイバル3] ラジカセでクラシックを聴いている清貧の音楽ファンには音楽はわからない 富山誠
67. 中川隆[-12832] koaQ7Jey 2019年1月21日 10:35:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
フランス音楽の世界 GRFのある部屋 2019年 01月 20日
https://tannoy.exblog.jp/30371863/



長い間、クラシック音楽を聞いてきたつもりですが、やはりドイツ・オーストリアの音楽を中心に聞いてきたのだと思います。ここに来て、パグ太郎さんとOrisukeさんの影響で、フランス音楽やフランスの演奏家の盤が増えてきました。


レコードの世界では、ドイツ盤や英国盤のレコードと比べると、フランス盤は、レコード自体の盤質も硬く、総じて硬い音の印象があります。ヨーロッパを旅するとき、その国の空港でレンタカーを良く借ります。


運転中は、ライトクラシックの番組ををよく聞いています。音楽の時はそれほど感じないのですが、アナウンスの声や宣伝の時になると、音質が国によって随分違うのに気がつきます。そうじてドンシャリなのですが、それでも高域の明確なカーブと、子音が良く聞こえる音と、低域中心の音に別れます。


これはオーディオでもいえるようで、ドイツ人の好む音と、フランス人の好む音はまるで違っています。日本人お好みは、英国の放送に似ていると思います。フランスの車は、サスペンションも椅子のクッションもゆったり柔らか目なのですが、流れてくる音は、カチカチの音なのに驚かされます。

f0108399_09550270.jpg


今回のKenYoshida氏の録音問題も、きわめてフランス的な音だと思うと、凄く納得するのですが、問題のアルファレコードではなく、たとえば、ディリカのピアノ曲や同じくアーベンと演奏しているベートーヴェンのチェロソナタなどは、とても落ち着いた録音です。MIRAREというレーベルで、ジャケットもとても凝っていて、一枚一枚が美術品のようなつくりです。


Ken Yoshida氏の革新的な音作りとは違って、MIRAREレーベルの音は、ジャケットのように落ち着いて聞いていられます。そこで、MIRAREのカタログを見ていたら美しいジャケットばかりで、知らない曲が多いので、ひさしぶりにジャケット買いをしました。そして、そのCDが昨日、ヨーロッパから届きました。美しいジャケットばかりで、見ているだけで楽しくなります。


f0108399_18450587.jpg


中でも、ピアノの前で憂い顔で首を傾げている女性と、パリのカフェで、誰かを待っているような女性の姿のジャケットです。よく見ると、ドイツ兵の軍服姿もあり、どうやら占領下のパリの絵のようです。そして、雨に煙るセーヌの橋と、アルプスの山間の風景でしょうか?ジャケットを見ているだけで、中の音楽が聞こえてくるようです。

この演奏をしているのが、フランスの女流ピアニストのアンヌ・ケフェッレックです。ベテランのピアニストで、調べてみたら、同期生でした。非常に味わい深い演奏を行っています。バッハやフランスのサティなどを得意にしています。滋味深い音にとても落ち着きます。


Anne Queffélec - Bach & Händel - Live Concert - HD - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=ZTRdbqxTa6M

同じフランスのレーベルでも、arufaレーベルとは正反対の音作りで面白いと思いました。
https://tannoy.exblog.jp/30371863/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/435.html#c67

[リバイバル3] フランスの音を聴く 中川隆
4. 中川隆[-12831] koaQ7Jey 2019年1月21日 10:36:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

フランス音楽の世界 GRFのある部屋 2019年 01月 20日
https://tannoy.exblog.jp/30371863/



長い間、クラシック音楽を聞いてきたつもりですが、やはりドイツ・オーストリアの音楽を中心に聞いてきたのだと思います。ここに来て、パグ太郎さんとOrisukeさんの影響で、フランス音楽やフランスの演奏家の盤が増えてきました。


レコードの世界では、ドイツ盤や英国盤のレコードと比べると、フランス盤は、レコード自体の盤質も硬く、総じて硬い音の印象があります。ヨーロッパを旅するとき、その国の空港でレンタカーを良く借ります。


運転中は、ライトクラシックの番組ををよく聞いています。音楽の時はそれほど感じないのですが、アナウンスの声や宣伝の時になると、音質が国によって随分違うのに気がつきます。そうじてドンシャリなのですが、それでも高域の明確なカーブと、子音が良く聞こえる音と、低域中心の音に別れます。


これはオーディオでもいえるようで、ドイツ人の好む音と、フランス人の好む音はまるで違っています。日本人お好みは、英国の放送に似ていると思います。フランスの車は、サスペンションも椅子のクッションもゆったり柔らか目なのですが、流れてくる音は、カチカチの音なのに驚かされます。

f0108399_09550270.jpg


今回のKenYoshida氏の録音問題も、きわめてフランス的な音だと思うと、凄く納得するのですが、問題のアルファレコードではなく、たとえば、ディリカのピアノ曲や同じくアーベンと演奏しているベートーヴェンのチェロソナタなどは、とても落ち着いた録音です。MIRAREというレーベルで、ジャケットもとても凝っていて、一枚一枚が美術品のようなつくりです。


Ken Yoshida氏の革新的な音作りとは違って、MIRAREレーベルの音は、ジャケットのように落ち着いて聞いていられます。そこで、MIRAREのカタログを見ていたら美しいジャケットばかりで、知らない曲が多いので、ひさしぶりにジャケット買いをしました。そして、そのCDが昨日、ヨーロッパから届きました。美しいジャケットばかりで、見ているだけで楽しくなります。


f0108399_18450587.jpg


中でも、ピアノの前で憂い顔で首を傾げている女性と、パリのカフェで、誰かを待っているような女性の姿のジャケットです。よく見ると、ドイツ兵の軍服姿もあり、どうやら占領下のパリの絵のようです。そして、雨に煙るセーヌの橋と、アルプスの山間の風景でしょうか?ジャケットを見ているだけで、中の音楽が聞こえてくるようです。

この演奏をしているのが、フランスの女流ピアニストのアンヌ・ケフェッレックです。ベテランのピアニストで、調べてみたら、同期生でした。非常に味わい深い演奏を行っています。バッハやフランスのサティなどを得意にしています。滋味深い音にとても落ち着きます。


Anne Queffélec - Bach & Händel - Live Concert - HD - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=ZTRdbqxTa6M

同じフランスのレーベルでも、arufaレーベルとは正反対の音作りで面白いと思いました。
https://tannoy.exblog.jp/30371863/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/863.html#c4

[昼休み54] 中野剛志 「没落について」 グローバル資本主義を超えてII 中川隆
6. 中川隆[-12830] koaQ7Jey 2019年1月21日 11:18:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

【中野剛志】橋下徹、小池百合子が推める道州制がヤバい理由【JPN保守チャンネル】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8W0nCVC3pvY

2019/01/09 に公開
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/338.html#c6

[昼休み54] 日本のリベラル派政治家は悪い 中川隆
35. 中川隆[-12829] koaQ7Jey 2019年1月21日 11:21:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
 



ゴーン事件が特捜部にとって組織の存亡をかけた戦いになる理由
https://diamond.jp/articles/-/191338
2019.1.21 村山 治:司法ジャーナリスト ダイヤモンド・オンライン


写真:ユニフォトプレス

 カルロス・ゴーン日産自動車前会長をめぐる一連の捜査で東京地検特捜部は11日までに、これまでの逮捕容疑をすべて起訴した。事件の舞台は今後は法廷に移る。

 著名な「カリスマ経営者」摘発は世界的にも反響を呼んだが、同時に、検察自身の大きな転換をも象徴する事件となった。

 ひとつは政官界の汚職摘発を最高の勲章とする「贈収賄」中心主義から、政治資金規正法や金融商品取引法の「情報開示義務違反」摘発を強化する事件モデルへの転換。

 もうひとつは、密室での脅しすかしで被疑者から自白を得るスタイルから「司法取引」で核心の供述を得る捜査手法への転換だ。

 平成の終わりにその2つを体現したのが、ゴーン事件だった。

政策買収型事件の摘発が始まり
贈収賄はぴったりの犯罪だった

 特捜検察は、国家や経済社会の基本構造にかかわる不正の摘発を国民から期待されてきた。その不正の中身は時代によって変わる。

 特捜検察が誕生した敗戦後のどさくさ時代は、政策買収の摘発が時代の要請だった。

 占領軍統治下での昭電疑獄(1948年)や、自民党一党支配の55年体制が完成する前夜に起きた造船疑獄(1954年)が代表的な事件だ。

 政官業もたれ合いによる護送船団型・利益配分型のシステムが完成した高度成長期には、業界の依頼を受けて船団の中核を占める大蔵省など官僚システムにちょっかいを出す「金権政治家」の監視と摘発が検察の主要な仕事になった。

 言い方を換えれば、護送船団体制を守るためのガス抜きが特捜検察の重要な役割だったともいえる。

 鉄道の路線認可をめぐり運輸相らが収賄罪に問われた武州鉄道事件(1961年)や共和製糖事件(1967年)、日通事件(1968年)などだ。そして、それらの事件にぴったりの摘発モデルが贈収賄だった。

 贈収賄事件は、事件の構造が単純で関係者も背任や粉飾決算などの経済事件に比べて少ない。小世帯の特捜検察にはもってこいの犯罪類型だった。

 当時は、贈賄側から金品の提供と賄賂の趣旨について供述をがっちり固め、一定の裏付けがあれば、収賄側が否認しても、裁判所はほぼ検察に軍配を上げてくれる、ありがたい環境もあった。

 このころには、検察の捜査も緻密になった。政策買収摘発の時代に多発した、職務権限の立証が不十分などの理由で、政治家被告らが無罪になるというような事態はほとんどなくなった。

金字塔のロッキード事件
政治家収賄摘発が“呪縛”にも

 そして、特捜部の摘発モデルの金字塔とされたのが、ロッキード事件(1976年)だった。

「日本の政府高官」が米大手航空機メーカーに買収され、航空機選定で便宜を図った疑いがあるとする国際的大スキャンダル。田中角栄元首相の盟友とされた政商や右翼の大物の存在も浮かび、世論は沸騰した。

 検察は国民から真相解明を求められ、苦労の末に、米司法省などから核心の資料を入手。田中元首相を、ロ社の代理店の丸紅側から、全日空の旅客機選定をめぐる請託を受け、5億円を受領したとする受託収賄罪で訴追するのに成功した。

 訴追容疑は、米国の調査で判明した事実を贈賄側の丸紅関係者の供述などでなぞり、がっちり固めたものだった。田中元首相は無実を訴えたが、裁判所は一、二審とも実刑判決を言い渡した。それに国民は喝采した。

 その「成功体験」が、検察をして、政治家に対する収賄罪摘発が、脱税、背任、横領などの経済事件より価値がある、と位置付けさせることになった。

 だがそれは、逆に特捜検察の呪縛にもなった。

政治家側の「進化」で形骸化
「収賄立件の壁」に苦しむ

 一方、度重なる検察の政界汚職摘発に、政治家側も学習する。

 有力議員は、贈収賄摘発モデルに対応して、職務権限の立証が容易な大臣ポストに就いている間はまず、業者からカネをもらわなくなった。その代わり、職務権限のない政党幹部として業者側の意に沿う政策決定にかかわり、また公共事業の個所付けなどで権力を振るって献金を受けるようになった。

 贈収賄での摘発は次第に困難になった。それでも、特捜部は「贈収賄」摘発にこだわった。ロッキード事件摘発の余韻が残っていた70年代後半に特捜部入りした検事(現弁護士)から、こんな話を聞いたこともあった。

 この検事が、有力国会議員に業界から莫大な裏金が流れていることをつかんで、「すごい事件です」と副部長に報告すると、「(賄賂の)趣旨はつくのか。つかないカネは捨てろ」と一蹴されたという。

 この議員は大臣ポストに就いておらず、国会質問などもしていなかった。カネの授受は明白だったが、収賄摘発に必須の職務権限がなかったのだ。

 結果的に自民党一党支配を終わらせることになった東京佐川急便事件(1992年)の捜査でも特捜部は、「収賄摘発の壁」に苦しんだ。

 政界のドンと呼ばれた金丸信自民党元副総裁が同社社長から5億円の闇献金を受けていたが、カネの受領当時、金丸氏は職務権限のある公職に就いていなかった。

 職務権限の壁を破り、金権政治に迫るもうひとつの武器として、政治資金規正法が用意されていたが、検察にとって当時の同法は「使えないザル法」だった。

 検察の予想に反して金丸氏は、マスコミ報道を受けた会見で「自らが5億円を受領した」とあっさり認めたため、検察は同法違反を適用した。最高刑は罰金20万円という軽罪ゆえ正式起訴にはいたらず、金丸氏は20万円を支払って事件は終結した。

 5億円もらって罰金20万円。法律の不備が生んだ処罰のアンバランスだったが、世論の怒りは検察に向かった。検察庁の看板には黄色いペンキがぶっかけられた。

 特捜部は、その後、国税当局の協力で金丸氏をゼネコンからの定期献金などを蓄財したとする脱税容疑で逮捕。ようやく世論の検察不信は収まった。

護送船団にとどめを刺した大蔵汚職
検察も市場化対応へ転換

 話は前後するが、バブル景気に浮かれた平成の最初の頃からは、市場を舞台にした企業の不正が目立ち始める。

 平成の最初の特捜事件であるリクルート事件(1989年)は、未公開株が政官業界に幅広くばらまかれ、利益提供の趣旨の特定が難しい事件だった。

 未公開株譲渡自体は合法だったが、マスコミの「濡れ手にアワ」とのキャンペーンで世論に火がついた。特捜部は渋々、重い腰を上げ、リクルートと取引があり賄賂の趣旨を立証しやすいNTT幹部や、就職協定に関する職務権限があると見込んだ藤波孝生元官房長官らを収賄罪で摘発した。

 NTTが米国から購入したスーパーコンピューターのリクルート社への転売に、中曽根康弘元首相の疑惑も取りざたされたが、摘発にはいたらなかった。

 リクルート事件と金丸事件を受けて政治資金規正法は強化改正され、さらに政党助成法の施行に伴い、政治家個人向けの企業・団体献金は廃止された。

 やがてバブル崩壊。その後始末が山場を迎えた90年代後半、住宅金融専門会社から都銀、長信銀まで金融機関の不良債権処理に税金が投入される事態に、国民の怒りはピークに達した。

 特捜部は、借り手貸し手の刑事責任追及に駆り出される。いわゆる「国策捜査」である。

 その最中、証券取引等監視委員会が掘り起こした証券大手や第一勧銀の総会屋への利益供与事件(1997年)の捜査で、大蔵官僚に対する金融機関の過剰接待が発覚する。

 バブルに浮かれた時代だった。「民・官」から「官・官」まで日本中で接待が蔓延していた。

 法務省は、金品でなく接待を賄賂とする収賄容疑での大蔵官僚摘発に消極的だったが、特捜部は、突き進んだ。

 この大蔵汚職事件(1998年)は、護送船団の中核を担った大蔵省に対する国民の信頼を失墜させ、名実ともに護送船団にとどめを刺すことになった。

 冷戦後の米国の市場開放圧力と経済社会の成熟で、日本は、「護送船団型」から「市場化対応型」へと変わることを余儀なくされた。

 それに伴い、検察に対する摘発ニーズは変わった。そして、それが検察の摘発モデルを変える転機にもなった。

 護送船団システムのミソは、官僚の情報独占と行政裁量権だった。それを解消すれば、業界が政治家に賄賂を贈って官僚から情報をとってもらったり、許認可に口をきいてもらったりする必要はなくなる――と考えられた。

 事実、このころから、政官業の利権を調整するフィクサーや、それと結んだ大物政治家は姿を消した。

政治資金規正法を積極活用
コンプライアンス強化を側面支援

 その潮流を強く意識していた法務省は、バブル崩壊後の企業再生のため「使いやすい司法制度」を求めた経済界の要望を受け、90年代末から2000年代初めにかけ、裁判員裁判や法科大学院設置などを柱とする司法制度改革を進めるとともに、検察運営でも大きくかじを切った。

 法務・検察当局は、市場経済がうまく回るよう、企業のガバナンス、コンプライアンス強化を側面支援するのも特捜検察の重要な仕事と位置付け、企業がからむ経済事件の摘発に力を入れ始めたのだ。

 柱は、産業界の自由競争を促進する独占禁止法と証券・金融市場の透明化と公正さを担保する証券取引法(その後金融商品取引法)に抵触する事件の摘発だった。

 そのため、それぞれの法律を所管する公正取引委員会、金融庁・証券取引等監視委員会との連携を強化した。

 鋼鉄製橋梁工事をめぐる道路公団の官製談合事件(2005年)や、ライブドアの風説の流布、粉飾決算事件、村上ファンドのインサイダー取引事件(いずれも2006年)は、その流れに沿って摘発された事件だった。

 もちろん、経済事件の摘発強化を打ち出したとしても、法務・検察が政官界の贈収賄事件を捨てたわけではない。ただこのころには、検察に寄せられる贈収賄の端緒情報も枯渇していた。

 検察幹部らは、大企業がからむ経済事件に対する行政の調査、検察の捜査で、企業の裏金やその支出先を解明し、政官界の腐敗に切り込む端緒とすることを期待したのだ。

 さらに政治とカネをめぐる不正に直接、切り込む武器として、政治資金規正法を積極活用する方向へと転換を図った。

 収支報告書への寄付金の過少記載を問われた坂井隆憲代議士の事件(2003年)などがそれにあたる。

 政治資金収支報告書への虚偽記入の罰則が「5年以下の禁錮または100万円以下の罰金」であるのに対して、収賄罪は「5年以下の懲役(受託収賄は7年以下)」。禁固と懲役の違いはあっても、刑務所で服役する期間は同じだ。

「腐敗政治家を政界から退場させる現実的効果と予防的効果、その両面から見て、贈収賄と政治資金規正法違反での摘発効力は変わらない」(当時の特捜幹部)という考え方が、転換の背景にあった。

 西松建設からの献金を同社が設立したダミーの政治団体からの寄付と偽って収支報告書に記載した容疑で、小沢一郎元民主党代表の秘書を逮捕した事件(2009年)の摘発もその発想の延長線上にあった。

固執した自白獲得捜査モデル
裁判所の「仲間意識」は助長

 こうして検察の「事件摘発モデル」は転換したが、一方で犯罪の証拠を収拾する検察の捜査の手法はまったく変わらなかった。

検察には、裁判所とのコラボで成立した「供述調書」という強力な武器があったからだ。

 先にも触れたが、戦後長い間、裁判所は、検事が作成した自白調書と、それを裏付ける一定の証拠があれば、有罪判決をほぼ言い渡してくれた。

 裁判所、検察庁は、戦前はともに司法省の傘下にあった官僚法曹(法曹資格を持つ公務員)だ。その「仲間内での信頼」が、「最強の捜査手法」を支えてきたともいえる。

「割ってなんぼ」が、特捜検事に対する評価基準になった。「割る」とは、捜査当局のストーリーに合う自白を得ることをいう。検察では、次第に、自白をとるためには手段を選ばない、供述調書至上主義ともいうべき状況が生まれた。

 被疑者らに対する利益誘導や恫喝が横行した。ゼネコン事件では、検察のストーリーに同意しない参考人を取り調べ検事が暴行して大けがをさせ、逮捕される事件まで起きたが、検察幹部らは「個人の資質の問題」と矮小(わいしょう)化し、抜本的な捜査手法の改革には取り組まなかった。

裁判員裁判導入で裁判官が豹変
供述に頼る捜査モデルは限界に

 だが、この「捜査モデル」も2000年代以降になると、転換を余儀なくされる。

 司法制度改革の目玉として2004年に成立し、2009年から施行された裁判員裁判の導入が状況を一変させたのだ。

 もともと裁判所は、検察と被告側を対等に扱うのが本来の姿だ。それまで検察と仲間内の意識が強かった裁判官たちの多くが、国民から選ばれた裁判員と一緒に事件を審理することになるのを機に、弁護側の主張に熱心に耳を傾け、検察の供述調書を疑いの目で見始めたのだ。

 検事と同じ川岸にいた裁判官が川の中州に移動し、そこから検察をじっくり観察する形だ。すると、それまで見えなかった検察側のアラがよく見えてきた。検察側が証拠採用を求めた供述調書などを裁判所が袖にするケースが目立ち始めた。

 しかし、検察の幹部らは相変わらず、取り調べ検事に対し、検察のストーリーを「裁判官が事実と認定しやすい」調書の作成を求めた。その行き着いた先が、大阪地検による村木厚子元厚労省局長の無罪事件であり、主任検事が無理筋の調書に沿うよう押収証拠に手を加えた証拠改ざん事件(ともに2010年)だった。

 改ざん事件では、主任検事だけでなく特捜部長らも逮捕され、検察に対する国民の信頼は吹き飛んだ。供述調書に頼る検察の捜査モデルは完全に壊れた。

 小沢一郎議員が政治資金規正法違反で強制起訴された事件(2011年)の公判で明らかになった東京地検特捜部の検事の事実に反する捜査報告書も、同じ構造で生み出されたものだった。

シュリンクした検察
日本版の司法取引導入に動く

 弁護士会はかねて、被疑者の取り調べを録音録画の下で行うよう求めていた。検察はそれを受け入れ、特捜事件で逮捕した容疑者の取り調べは、原則として、録音録画の下で行うことになった。

 十分な物証があれば、誘導、恫喝まがいの取り調べで無理筋の供述を得る必要はなく、犯罪立証はできる。しかし、従来の捜査手法に慣れ親しんだ検事たちは、カメラを意識して萎縮した。

 明らかに過剰反応だった。政界事件や大企業の背任など構造的な犯罪摘発は姿を消した。

 監視委、公取委、国税当局が金融商品取引法、税法、独禁法違反での告発を求めても、特捜部は受理に消極的になった。特捜検事から「どうしても起訴してほしいなら、割って(供述させて)持ってきてよ」と言われた、という話も一時流れた。

 法務・検察は、組織を挙げて捜査手続きの改革=新たな捜査手法の構築に向けて動きだす。

 目指したのは、検察に対し他人の犯罪を供述する代わりに、刑事責任の追及を免れたり、裁判で通常より軽い求刑を受けられたりする日本版の司法取引の導入だった。

 この時、法務・検察のリーダーになっていたのは、90年代初めに特捜部に在籍して調書中心の捜査の限界を自覚した検事たちだった。司法取引導入は彼らの悲願だった。

 2016年5月、録音録画と司法取引導入を柱とする刑事改革法が成立。司法取引は2018年6月から施行された。

 ゴーン事件は、こうして法務・検察が平成の時代に転換した検察の「事件摘発モデル」と「捜査手法モデル」にぴたりとはまる事件だった。

そして、「ゴーン事件」
組織の存亡をかけた戦いに

 特捜部は、ゴーン氏をまず、金融商品取引法違反で逮捕・起訴したが、有価証券報告書の報酬の過少記載を問うのは初めてだった。これまで、大企業の粉飾は、財務諸表の虚偽記載で摘発することが多かった。

 法曹界の一部からは、「形式犯」での逮捕であり、やり過ぎではないか、との声も出ているが、検察は、役員報酬の適時開示は企業のガバナンスにゆがみがないか、投資家が判断する上で重要なポイントであり、これこそが市場の公正を実現する本丸との位置付けだ。

 そしてその摘発の切り札になったのが、ゴーン氏の側近で経理実務を担当した秘書室幹部ら2人と特捜部が結んだ司法取引だった。

 2人は、虚偽記載の罪を減免してもらう代わりに、関係資料を提出しゴーン氏の容疑を裏付ける詳細な供述を行った。特捜部は、ゴーン氏側が気づかない間に、圧倒的な情報量で内偵捜査を進めることが可能となった。

 特捜部は、ゴーン氏による会社の私物化疑惑について会社法違反(特別背任)でもメスを入れた。

 日産と同様、経営トップの「闇」を抱えた企業はゼロではないだろう。ゴーン事件を機に、企業から検察に対し司法取引希望が続出する可能性もある。

 ただ、それは、あくまでゴーン氏らが裁判で有罪になった場合だ。

 無罪になれば、検察は内外から厳しい批判を受ける。特に、司法取引で供述を得た金商法違反が無罪になると、日本版司法取引は、事実上、「使えない捜査手法」としてお蔵入りになる恐れもある。

 ゴーン氏側は、起訴事実をすべて否認し、無罪を主張して徹底的に争う方針とみられる。公判での検察側の犯罪立証は容易ではない。特に、特別背任事件の成否は、特捜部の手が及びにくい海外での証拠収集がカギを握る。検察の捜査は今後も続くとみられる。

 検察の新たな武器となった司法取引についても、導入前から、罪のない共犯者を仕立てて検察と取引する「巻き込み」の危険が指摘されてきた。

「司法取引先進国」の米国では、有罪確定後のDNA鑑定によって冤罪(えんざい)が判明した250人について冤罪の理由を調べたところ、情報提供者が無実の人に対して不利な証言をしたケースが52件あり、うち28件が囚人の情報提供者だったとの調査結果もある。

 同調査では、「被告人が(同房の囚人に対して)罪を認める供述をした」と供述する検察への協力型証人証言が15件。検察官は証言と引き換えに囚人を軽い刑にしていたという。

 ゴーン事件でも、検察と司法取引した秘書室幹部らの供述の信用性、取引の動機などが公判の争点となることが予想される。

 捜査モデルチェンジをした特捜部にとっては、組織の存亡をかけた戦いになるのは必至だ。

(司法ジャーナリスト 村山 治)

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/107.html#c35

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない 

北方領土をロシア領と認めることが・・・ ロシア外相(18-12-18) - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=wd10h3bCtdk

ロシアのラブロフ外相は、日本側が北方領土は第2次大戦の結果、ロシア領になったと認めなければ平和条約締結交渉は進展しないという認識を示しました。


ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない 北方領土交渉の経緯からみる 1/20
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190120-00010000-wordleaf-pol



 北方領土交渉の進展が期待される1月22日の日露首脳会談ですが、北方領土をめぐっては、歯舞群島(はぼまいぐんとう)と色丹島(しこたんとう)の返還を軸とした「2島返還プラスアルファ」論も報じられるようになってきました。しかし、軍事ジャーナリストの黒井文太郎氏は「ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない」と指摘します。それはどういうことなのか。これまでの北方領土交渉の経緯を振り返りながら、黒井氏が解説します。


【地図】突然の北方領土占拠 “千島”がほしいソ連に口実を与えた「ヤルタの密約」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161205-00000006-wordleaf-pol.view-001

[地図]北方領土周辺の地図
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190120-00010000-wordleaf-pol.view-001

[表]北方領土4島の比較
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190120-00010000-wordleaf-pol.view-002


ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない 北方領土交渉の経緯からみる



返還を期待させる日本メディアの報道は「不思議」

「なぜ日本政府はいつも島のことばかり言うのですか? ロシアの領土を私たちが渡すわけがないじゃないですか。形だけでも交渉してくれと日本の外務省が頼んでくるので、何も約束しない範囲で付き合っていますけど、これいつまで続けるつもりなのですかね」

 これは1990年代のエリツィン政権時代に、プライベートで交流があったロシア外務省の日本担当者が私に言った言葉です。

 私はかつてモスクワに2年ほど住んだことがあり、北方領土問題についてロシア側を取材していたことがあります。日本では1991年4月のゴルバチョフ初来日の前あたりから、日本の経済協力と引き換えにロシア(ソ連)が北方領土を返還する可能性があると度々報じられてきました。日露交渉はエリツィン時代も続き、「交渉進展か」との観測記事も頻繁に報じられてきました。それはプーチン政権になっても同様で、今日まで続いています。

 ところがこの28年間、1ミリたりとも領土は返ってきていません。つまり、繰り返されてきた領土返還を期待させる報道は、すべて「誤報」だったわけです。

 この日本メディアの報道を私は不思議に思っています。というのも、ロシア側からは28年間、領土返還への取り組みを示す情報が一切、出てきていなかったからです。ロシア側の政官界を取材して私が最初にこの問題の記事を書いたのは、前述したゴルバチョフ初来日の直前で、「最弱の支配者ゴルバチョフでは北方領土は還らない」という週刊誌記事でした。その後、エリツィン時代も同様の記事を発表してきました。

 プーチン政権になってからはこの問題で現地取材はしていませんが、特にロシア側の情報を細かくチェックしています。日本メディアが「交渉進展か」と報じる度、その根拠が「日本側の関係者がそう言った」以外にファクトが一切存在していないことを確認しています。

2001年に日ソ共同宣言を法的文書と確認したが……

 では、実際にどのような動きがあったのでしょうか? リアルな交渉の経緯を列記してみます。(肩書き等はいずれも当時)

1991年3月
 ソ連経済が崩壊し「カネで領土が買える」論が日本で浮上。特に同年4月のゴルバチョフ初来日の前に期待値は最大になります。日本では自民党執行部に怪しい領土返還話が持ち込まれ、大蔵省に資金支出も根回しをした上で、3月に小沢一郎幹事長が訪ソしてゴルバチョフ大統領と会談しました。が、まったく相手にされずに終了。

1992年3月
 コズイレフ外相と渡辺美智雄外相の会談の際、同席していたクナーゼ外務次官が非公式に「平和条約締結と2島引き渡し」に言及しました。ただし、ロシア政府が承認した公式提案ではなく、あくまでクナーゼ次官個人の行動でした。ロシア側では一切検討もされていません。

1993年10月
 東京宣言。初めて領土問題の存在が確認されました。日本側では「交渉進展」と盛り上がりましたが、返還への文言は一切盛り込まれていません。

1997年11月
 クラスノヤルスク合意。「2000年までに平和条約締結を目指す」と合意され、日本側でだけ「交渉進展」と盛り上がりました。

1998年4月
 川奈提案(※)。国境を4島の北に定めるかわりに、施政権をロシア側に残すことを日本側が提案。日本側関係者からは「エリツィン大統領は乗り気だったように見えた」との証言がありますが、実際にはロシア側は拒否しています。検討していたという情報も一切ありません。(※川奈は首脳会談が行われた静岡県伊東市の地名)

2001年3月
 イルクーツク声明。1956年の日ソ共同宣言を「交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書」とすることが確認されます。この共同宣言には、平和条約締結後に2島を引き渡すことが明記されています。このため、日本側では「プーチン大統領は2島返還で決着したがっている」との憶測が定説化しました。しかし、プーチン大統領本人もプーチン政権当局者も「2島なら引き渡してもいい」とはこの時も、それ以降現在に至るまでも、1度も発言していません。

 ロシア側からすれば、共同宣言が「交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書」だとしても、あくまで出発点であり、プーチン政権としてその通りに進めると約束したことにはならないという考え方です。同声明にはまた、両国の交渉で目指すべき目的を「相互に受け入れ可能な解決」とする文言もあり、意図的に過去経緯に縛られない曖昧さが織り込まれています。

2012年3月
 プーチン首相が各国メディア幹部との会見の席で「引き分け」発言。これを日本側は「2島返還で決着したがっている」と受け取っていますが、ロシア側は一切、そんな説明はしていません。

2013年4月
 首脳会談で、経済協力を進めて平和条約交渉を加速することが合意されます。しかし、領土返還には一切触れられていません。日本メディアは「交渉進展」と大々的に報道しています。

2016年12月
 首脳会談で領土返還については一切進展がありませんでしたが、日本側の巨額投資を中心とする経済協力を進めることが合意されます。

2019年1月14日
 外相会談でラブロフ外相が「日本は4島がロシア領土だと認めよ」「北方領土という用語を使うな」と要求します。

ロシア側は「返還する」と一度も明言していない

 以上のように過去の経緯を俯瞰して見れば、「1島たりとも」ロシア側が返還するなどと一度も明言していないことが明白です。明言しないということは、言質をとられないように注意していることを意味します。つまり、2島返還で決着「したがっている」わけではないことが証明されていることになります。

 この点、日本側には自らの願望によって相手の意図を誤認識する傾向が強くみられます。特に2001年のイルクーツク声明では日本政府もほとんどの日本メディアも「2島返還で決着したがっている」と誤認識しました。しかし、仮にそうであれば、これまでロシア側が一度もその意思に言及してこなかったことの説明がつきませんし、さらに今回のように、わざわざラブロフ外相が「まず4島のロシア領を認めよ」などと発言して交渉のハードルを上げ、2島返還決着の機運に水を差すこともないでしょう。

 さすがに最近は日本側でも「2島すら返す気はないのではないか」とのメディア解説が増えてきましたが、別に最近になって急にロシア側の態度が硬化した、ということではなく、ロシア側には最初から返還の意思はなかったといえます。

 今回、ラブロフ外相は平和条約締結を進めたいとすると同時に、日本側の事情が1956年の共同宣言時とは、60年の日米安保条約改定で大きく変化していることを指摘しています。つまり、現行の日米安保条約による日米同盟の現状、あるいは在日米軍の存在などを口実に、今後も2島引き渡しを拒否していくことを、事実上、宣言したようなものです。日本が現行の日米安保条約を解消する可能性は考えられませんから、ロシアは仮に平和条約が締結されても、2島引き渡しにはすんなり応じないと見るべきです。

 結局、ロシア側は1島すら返還する気はないと考えざるを得ません。1月22日には安倍首相とプーチン大統領の首脳会談が行われますが、北方領土返還に道が開ける可能性は、残念ながらまったく見えません。
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■黒井文太郎(くろい・ぶんたろう) 1963年生まれ。月刊『軍事研究』記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長等を経て軍事ジャーナリスト。著書・編書に『イスラム国の正体』(KKベストセラーズ)『イスラムのテロリスト』『日本の情報機関』『北朝鮮に備える軍事学』(いずれも講談社)『アルカイダの全貌』(三修社)『ビンラディン抹殺指令』(洋泉社)等がある


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
1. 中川隆[-12828] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:24:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

2015年9月7日
じつは日本でもロシアのものでもなかった?江戸期の北方領土
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:whiqw9WQ9-4J:www.kigyoujitsumu.jp/business/topics/8287/+&cd=3&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


[ 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター)]

水産資源に恵まれ、豊かな自然が残る千島列島。日本とロシアが互いに領有権を主張して譲らないこの島々に、いちばん最初に暮らしていたのは誰だったのか。北方領土問題をその原点の江戸時代にまでさかのぼってみると…。

じつは日本でもロシアのものでもなかった?江戸期の北方領土
画像提供:「露天風呂マニアの温泉探索記」

最初に暮らしていたのはアイヌ民族

 1643年、オランダのド・フリーズを船長とする東インド会社探検船が国後島、択捉島、得撫(うるっぷ)島を発見した。ときに徳川3代将軍家光の時代。このときフリースは得撫島に上陸して領有を宣言し、コンパニーランド(会社の島)と命名した。

 この歴史的事実を尊重すれば、オランダ人も「返せ!北方領土」である。

 その6年後、ロシアのコサック太平洋遠征隊が、千島を発見した。

 日本人も千島列島を知らなかったわけではない。それは松前藩が幕府に差し出した地図に、「くなしり(国後)」、「えとろほ(択捉)」、「うるふ(得撫)」など千島列島の名が記されていたことからもわかる。

 北方領土はもともとオランダのものなのか、ロシアか、それとも日本のものなのか?

 正解はどれでもない。千島列島の千島という名はアイヌ語のチェプカに由来する。ロシア語の呼び名クリルもアイヌ語の「人間」から派生している。
 その地には数千年前から千島アイヌが、漁撈をしながら、毛皮を周辺民族と交易して生活していた。

 北方領土を発見したのはアイヌ民族で、領有権は彼らのものだったのである。

ロシア人の南下を警戒し、田沼意次が北方に調査隊を派遣

 千島列島や樺太の領有権争いが日露の間で始まるのは、江戸時代も後期。ロシア人が毛皮を求めてカムチャツカ半島から千島列島を南下してからである。

 1761(宝暦3)年、ロシアのチョヌルイは、アイヌ人が捕獲したラッコなどの毛皮を武力で奪い、得撫島の女性たちを掠奪してハレムまで作った。毛皮を求めてロシア人が進出したカムチャツカ周辺では、19 世紀の間に原住民が 2 万人から 1,500 人に激減したというから、その激減ぶりは想像を絶する。

 こうしたロシア人の千島列島南下を深刻に受け止めたのは老中・田沼意次である。1784(天明5)年、初の調査隊を北方に送り込んだ。

 賄賂の問屋などといわれ評判の悪い田沼だが、外交問題には先見の明のある有能な政治家だった。

 調査隊の使命は、ロシア人の占領している島に最も近い島まで行くことで、一行中の最上徳内は国後島、択捉島を経て得撫島に渡り、そこにロシア人居住地を発見。これを皮切りに日本の北方領土への進出が始まる。

日本とロシアの領土争いの狭間で

 1800(寛政12)年、近藤重蔵の一行が小舟で択捉に渡り、その地に「大日本恵登呂府」と書いた柱を建てた。隣の得撫島にはロシア人が住んでいたので、択捉島を日本の最北端の領土としたのである。

 その前年には、国後島に南部藩の警備部隊が詰め、択捉島には南部藩と津軽藩の勤番所が設置されている。
 駐屯費用は南部藩だけで年間 1 万 4,000 両。米価換算で12億円以上になる。それに酷寒で病死者も続出したという。

 この多大な犠牲を払って、これより択捉島以南、樺太南部が日本の領土とされた。

 一帯は日本の商人によって漁場が開かれ、地元のアイヌと交易しながらの生活が始まったが、その地の生活ぶりはどうだったか?

 幕末に北方一帯を旅した松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』は択捉島について、こう証言する。

「日本の悪徳商人によってアイヌたちは昼夜の別なく酷使された。夫たちが仕事に出た後は、妻や娘たちが乱暴された。これを嫌がる者があれば氷雪の山に追いやるか、荒れ狂う海に船を出させて殺した。女は妊娠しても流産し、男は病にかかるとすぐ死んだ」

 日本の商人もロシアの毛皮商人と変わらず暴虐だった。わずか30年で択捉島のアイヌ人口は 2,000 人から 439 人に激減したという。

 領土争いでいつも被害者となるのは、そこに生活する人々である。

恐露病のもとを作った間宮林蔵

 最初の北方領土紛争は 1806(文化3)年、ロシアの樺太南部襲撃で始まった。ロシアの海軍士官フヴォストフ中尉率いる船が、樺太のクシュンコタンを襲い、放火と掠奪をし、その翌年の4月には択捉島に来襲した。

 このときの交戦の模様は南部藩士木村治五平が『私残記』に詳細に記録している。

 択捉島のシャナに2隻の船でやってきたフヴォストフの部隊は、まず艦砲射撃を加えた。迎え撃つのは幕吏戸田又太夫以下の南部・津軽両藩の部隊。すでに樺太襲撃の報を受けているので、南部・津軽両藩士は、さっそく攻撃をしようとするが、その場に居合わせた間宮林蔵がおしとどめた。
 ご存知、樺太を単独で探検し、間宮海峡を発見したあの間宮林蔵である。

 間宮によれば、

「ロシア側の大砲は上陸する際の礼法でござる」

 で、間宮の指示で白旗を揚げた使者が海岸に向かって歩いたが、使者はロシア兵の銃弾に内股を射抜かれてもんどりうった。それを見た日本の武士は蜘蛛の子を散らすように逃げた。完敗である。

「間宮殿が知ったかぶりの無駄口をいわなければ、水際でロシア人を攻撃して、追い返せたのに!」

 と木村治五平は悔しそうに書く。

 上陸してきたロシア人は20名程度、迎え撃つ日本側は 100 人以上だったから、間宮林蔵の知ったかぶりで出端を挫かれなければ撃退も可能だったかも知れない。以後、フヴォストフの一隊は1か月半も周辺を遊弋(ゆうよく)して、掠奪の限りを尽くした。

 歴史家は、この敗退が日本人の恐露病形成に大きな影響を与えたという。すると英雄・間宮林蔵は、その軽口で恐露病を生み出した人ということになるのである。

*本記事に掲載している択捉島の画像は、

「露天風呂マニアの温泉探索記」さま
https://blog.goo.ne.jp/akkii83/c/b6e7470b37abca10256ee6706b20ac22


のご厚意により使用させていただいております。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c1

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
2. 中川隆[-12827] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:27:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

アイヌが北方領土の先住民
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Naiyou/Senjuuminn.htm

 アイヌのガラス玉

 ガラス玉はアイヌ女性のネックレス(タマサイ)に使用された。樺太経由で伝来したもの、日本経由で伝来したものがある。大正時代に日本でアイヌブームが起こると、観光土産用に作られるなど、近年に作られた参考品も多い。
 


北海道ウタリ協会(アイヌの団体)

 アイヌは北方領土の先住民です。アイヌの団体である北海道ウタリ協会は、アイヌが千島・北海道の先住民であることを、日本政府は明確にすべきであるとしています。北海道ウタリ協会の決議を記載します。


「北方領土」問題に関する基本方針 (1983年総会において決議)       

 北海道ウタリ協会は、昭和57年度総会において、千島列島における先住民族としてのアイヌの権利を留保する旨決議したが、本日の総会において同問題に関する次の基本方針を確認する。

1.政府及び道は、徳川幕府による開発以前の全千島における先住者であるアイヌ民族の地位を再確認すること。

2.政府及び道は、「北方領土」に関連し、北海道についても先住者がアイヌであったという厳然たる歴史的事実を明確にすべきこと。

 北海道ウタリ協会は、アイヌが千島列島の先住者たることを、ここに資料を持って立証する。

日本政府の説明

 日本政府は、北方領土問題に於いて、アイヌの存在を無視する傾向が強い。たとえば、日本政府外務省発行「われらの北方領土」では、アイヌの言及は無い。また、アイヌの代表が北方領土交渉にはいることを容認していない。


(日本政府外務省発行 われらの北方領土 2005年版から)

 択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島からなる北方四島は、我が国民が父祖伝来の地として受け継いできたもので、いまだかつて一度も外国の領土となったことがない我が国固有の領土です。

 我が国はロシアより早く、北方四島、樺太及び千島列島の存在を知り、既に一六四四年には、「クナシリ(国後)」島、「エトホロ(択捉)」島等の地名を明記した地図(正保御国絵図)が編纂され、幾多の日本人がこの地域に渡航していました。我が国の松前藩は、十七世紀初頭より北方四島を自藩領と認識し、徐々に統治を確立していきました。


 政治家も、アイヌの存在を無視した発言をしている。


中曽根康弘首相「日本は単一民族だから高い教育水準を保つことが出来る(1986年10月)」

伊吹文明文部科学相「日本は大和民族が歴史的に統治してきた(2007年2月25日)」

麻生太郎総務大臣「(日本は)一国家、一文明、一言語、 一文化、一民族。ほかの国を探してもない(2005年10月15日)」

平沼赳夫経済産業相「小さな国土に、一億2600万人のレベルの高い単一民族できちんとしまっている国。日本が世界に冠たるもの(2001年7月2日)」

鈴木宗男衆議院議員「北海道にはアイヌ民族というのがおりまして、・・・、今はまったく同化されている(2001年7月2日)」

(肩書きは発言当時のもの)

ロシアの博物館展示

 現在、ロシアでは、北方四島の先住民について、博物館等で展示している。ロシアは多民族国家なので、先住民族の評価が日本と全く異なります。



択捉島 クリリスクの博物館展示 択捉島 クリリスクの博物館展示 国後島 ユジノクリリスクの博物館展示


サンクトペテルブルグのロシア民族博物館は、22コレクション2600点のアイヌ資料を収蔵している。この多くは、V.N.ヴァシーリエフが1912年に北海道や樺太で収集したもので、多くは収集地が判明している。

 平成17年これらの収蔵品の一部が札幌(4月22日〜6月19日)、川崎(7月2日〜8月28日)で展示された。左図は、このときの図録です。(クリックすると拡大します。)

 ロシアでは、北海道・樺太・千島の先住民は、日本民族とは異なるアイヌ民族であることが知られています。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Naiyou/Senjuuminn.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c2

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
3. 中川隆[-12826] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:32:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

アイヌ民族は「ロシアの先住民族」 プーチン大統領が認定方針 2018/12/19
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/259605


 【モスクワ小林宏彰】ロシアのプーチン大統領は、クリール諸島(北方領土を含む千島列島)などに住んでいたアイヌ民族をロシアの先住民族に認定する考えを示した。11日にモスクワで開かれた人権評議会で参加者から提案があり、プーチン氏は「同意する。正しいことだ」と述べた。

 評議会では、人権活動家のアンドレイ・バブシキン氏が「ロシアは多民族国家だが、国が認めていない民族もいる。その一つが極東の島々の最も古い民族であるアイヌ民族だ」と指摘。ロシアの先住民族として認めるよう提案し、プーチン氏は支持を表明した。バブシキン氏は、現在のロシアのアイヌ民族について「カムチャツカ地方に105人しかいない」と説明した。

 ロシアは旧ソ連時代を含め、アイヌ民族の存在を公式には認めてこなかった。一方、日本国内には、日本の先住民族であるアイヌ民族が北方四島に住んでいたことから、四島は歴史的にも日本固有の領土だとする考え方もある。

 プーチン氏がアイヌ民族をロシアの先住民族として認める考えを示した背景には、日本側のこうした主張をけん制する狙いがある可能性もある。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/259605
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c3

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
4. 中川隆[-12825] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:44:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

佐々木史郎「アイヌ文化と北方世界」
開催日:平成24年 10 月 6 日(日)/開催場所:東京国際フォーラムホール
https://www.frpac.or.jp/about/files/H24%E8%AC%9B%E6%BC%94%E4%BC%9A%E3%80%80%E8%AC%9B%E6%BC%94%E9%8C%B2%EF%BC%88%E6%9D%B1%E4%BA%AC%EF%BC%89%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%8F%B2%E9%83%8E%EF%BC%88%E5%9B%B3%E7%89%88%E7%84%A1%EF%BC%89.pdf

みなさん、こんにちは。国立民族学博物館の佐々木と申します。これから一時間ほど宜しくお願い致します。私の今日のお話は「アイヌ文化と北方世界」とタイトルを付けました。内容的には、アイヌ文化がどの程度北の世界に適応したものであるのか、それから、アイヌの人々が暮らした北の世界にはどういう歴史があったのかということを中心にお話していきたいと思います。私の専門はシベリアあるいは極北地方ですので、私の専門としている地域からみますと、アイヌの人々が暮らしている北海道というのは南の世界になってしまいます。ですから、アイヌの人たちの生活がどこまで北方的だったのかという疑問を抱いて研究してまいりました。そこで、今回のお話は次の三つの点についてお話していきたいと思います。


1)アイヌ民族文化のうち、北方的な要素に焦点を当てて、彼らの文化がどのように寒冷地に適応していったのかを明らかにする。

2)アイヌ民族が暮らしてきた地域と同じ気候帯(亜寒帯)にあり、同様の生態系の中で暮らしてきた周辺民族との交流を明らかにする。

3)近世以降アイヌの地に進出(侵略)した、日本、中国、ロシアの3国の動向をアイヌ民族の視点から見直してみる。


1つめのアイヌの人たちの文化がどういう面で北方的なのか、どういう面で北方的ではないのかということをお話ししたいと思います。アイヌの人たちは、孤立してアイヌの人たちだけで暮らしてきたわけではないし、南にいる日本人とだけ接触していたわけではありません。アイヌの人たちよりも北に住んでいる人たちとも、密接な接触関係を持ってきておりました。さらに、現在アイヌの人たちの大半がこの日本という国に住んでいますけれども、実は面積的には彼らが住んでいた土地の半分近くが、現在ロシア領になっています。そのために日本人と並んで、ロシア人とも頻繁に接触しています。また以前には中国とも関係を持っていました。そのような、我々日本人があまり知らない歴史についても触れていきたいと思います。

まず、アイヌの人たちの本来の居住地、つまり、日本、ロシア、中国などといった国が北海道の周りの土地を国境という線で切り刻んでいく前、具体的にいえば江戸時代より前の時代にアイヌの人たちはどういうところに住んでいたのでしょうか。今の研究では、アイヌ語でアイヌモシリとよばれたアイヌの人たちの住んでいた地域というのは、南は東北地方の一番北の端、つまり津軽・下北半島の先端が含まれます。そして北は、現在のサハリン、昔日本では樺太と呼ばれた大きな島の中ほどまで。西は北海道の渡島半島から東はカムチャツカ半島の先端まで。この範囲にアイヌの人々が暮らしていたというふうに考えられています。いつの時代からこれだけの範囲に住み始めたのかというのははっきりしませんが、少なくとも日本の江戸時代、1603年に徳川家康が征夷大将軍になってから1868年に江戸幕府が崩壊するまでの間、この範囲にアイヌの人々が住んでいたというのは確実視されています。

それで、みなさんすぐ気付かれたと思いますが、北海道アイヌの範囲がエトロフ島まで入っています。ここはいわゆる北方領土ですよね。何かの政治的な判断かと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、歴史的事実としてエトロフ島あるいはウルップ島もちょっと入っていたかもしれませんが、その辺りまでは北海道アイヌの人たちが住んでいたのです。もっと詳しくいえば、彼らは道東アイヌ、つまり北海道の東側、現在の釧路とか根室を中心とした道東のアイヌの人たちと同じグループに属する人たちでした。それに対して、いわゆる千島アイヌと呼ばれます、千島列島にいたアイヌの人々の本当の中心というのははるか北の、シュムシュ島、パラムシル島、オンネコタン島、そしてもう少し南のラショワ島、こういった島々にありました。エトロフ、ウルップというのは、大きい割には人が住みづらい島だったようで、住み着く人は少なく、道東のアイヌと北千島にいたアイヌのちょうど境目といいますか、狩りや漁労をする時の勢力圏の境目にあたっていたようです。それが大体今から200年から前、つまり18世紀末から19世紀初め頃の状況といわれています。1855年の日本とロシアとの間の国境交渉の時にウルップ島と択捉島の間で国境線がひかれますが、その国境線の背景にこういったアイヌの人たちの間の地域集団間の勢力分布が実は裏側にはあったようです(実はすでに18世紀末に幕府がクナシリ、エトロフのアイヌにウルップへの渡航を禁止していたために、このような住み分けが成立したという事情があります)。
ではアイヌモシリの周りにはどういう人たちが住んでいたのでしょうか。100年から150年位前の状況を想定していますが、まず、ツングース語とよばれる日本語に非常に近い言葉を話す人々が多数いました。現在彼らはウイルタ、ウリチ、ナーナイ、オロチ、ウデヘ、ネギダール、エヴェンキなどの諸民族に分類されています。また、樺太の北とアムール川の河口周辺にはニヴフ(旧称ギリヤーク)、カムチャツカ半島にはイテリメン(またはカムチャダール)と呼ばれる、言語系統がよくわからない独自の言葉を話す人々もいました。そして、多数派の民族、例えばロシア人、中国人、朝鮮人、それから日本人等が取り巻いていました。現在はこのような多数派民族の勢力争いの結果、かつてのアイヌモシリとその周辺地域は日本、ロシア、中国、韓国・朝鮮と国境で切られていますけれど、国境が確定する以前はこういった人たちが棲み分けをしたり共存したりしながら暮らしていたのです。つまり、アイヌモシリの北の地域にたくさんの多様な言語や文化をもつ人たちが住んでいた。そしてこの人たちはアイヌの人たちと直接接していましたし、文化的に大きな影響を与えあっていました。
第一点目のお話しに入りたいと思います。アイヌ文化とは本当に北方文化であったのか。北方文化であったということはどういうことかといいますと、北の寒い環境にどの程度適応していたのかということになります。この点に関しまして、二つの大きなポイントからお話したいと思います。一つは、一番寒い厳冬期での寒さへの対応。それは衣服の問題であるとか住居の問題になります。それからもう一点は北方の寒い地域では独特の生態系への適応。北方の生態系には比較的広い範囲で共通した特徴があります。そういった生態系にどこまでアイヌの文化が適応していたのかという点についてお話ししていきたいと思います。


まず、文化的な問題として、衣服の問題を考えていきたいと思います。こちらの会場でも二人の女性がアイヌ衣装の紹介をしていたと思いますけれども、みなさんどういう印象を持たれましたか。私などは「あれ、こんなに薄い布の服で北海道みたいな寒いところで暮らしていけるのかな」と思います。実はアイヌの人たちというのは、この東アジアにおいては糸から布を織りだす最北の民族です。アイヌモシリの周りには数々の民族が住んでいますが、この中で糸から布を織りだして衣服を作る人々というのは実はアイヌが最北です。それより北、例えばニヴフとかウリチと呼ばれる民族、イテリメンとかエヴェンキと呼ばれる民族がおりますが、彼らには布を織る文化、布を織る技術はありません。一方、南隣の日本、韓国・朝鮮、中国には布を織る技術があります。したがって、この点ではアイヌの人たちの文化というのは南方的であるといえます。ただし、使っている布に織る糸は、いわゆる樹皮の裏側の薄皮を細く裂いて作ったものです。これは靱皮(じんぴ)といいますが、この靱皮を割いて細い糸にします。それをつないで作った糸で織ります。そのような布で作られた衣服のことをアイヌ語でアットゥシといいます。それを織るための道具も入口に展示してありますので後でご覧になってください。このアットゥシという服は実はアイヌの人たちだけに愛用されたのではなくて、明治時代まで日本の船乗りや漁師たちにも愛用されていました。なぜかというと、靱皮は脂分を多く含んでいて水を弾くので、水をかぶるような仕事をしている人達にとっては非常に都合の良い防水衣になったからです。しかも織物ですから通気性があります。いわば自然素材のゴアテックスという感じの衣服として使えるのです。ということで、明治時代の初めには、アイヌの人たちが盛んに日本人用にアットゥシの着物を作っていた時代が、ほんの短い期間ではありました。その後、別の素材が開発されてアットゥシは日本人の防水着から廃れてしまうのですが、そうした時代があったくらい優れた性質を持った衣服だったのです。それから他には、草の繊維で作ったテタラペであるとか、日本や中国から輸入した木綿で作られたルウンペ、チカララカラペなどの衣服が着られてきました。

しかし、寒い冬はどうだったのでしょうか。これらの布製の衣服で十分寒さをしのげたのでしょうか。寒い季節にはやはり動物の皮で作られた衣服を着ました。
小さい島での海辺の生活に適応した千島アイヌの人々はアットゥシや木綿衣とともに、鳥の毛皮をつなぎ合わせて作った外套を着ました。素材はエトピリカのような海鳥で、それ海鳥の毛皮は防寒性と防水性に優れていたようです。

樺太に住んでいたアイヌの人たちは陸上の動物の毛皮(犬やアザラシなど)で作られた衣服を多用しました。また樺太アイヌの間では、アムール川流域の人たちの文化の影響なのですけれども、鮭の皮を乾かしてなめして作った衣服もよく使われました。樺太アイヌの人たちが鮭皮の衣服を使っていたことは、200年前にここを探検した間宮林蔵の記録に残されており、間宮林蔵が村上貞助という絵の上手い学者に頼んで描いてもらった絵が残っております(『北夷分界余話』国立公文書館所蔵)。その絵に描かれている子どもが鮭皮の衣服を着ています。また、アットゥシを着る男性が描かれており、ほかにはテタラペと呼ばれる、イラクサという植物の繊維を割いて作った糸をつなげて作った衣服を着た女性が描かれた絵もあります。

テタラペというのは「白い着物」という意味で「白くて美しいもの」と思われていたのですね。それから青い服も描かれています。これはおそらく中国から輸入された青色木綿で作られた服でしょう。アイヌの人たちの衣文化は実はこのように非常に多彩だったのです。樺太では厳冬期になると犬の毛皮で作られた外套を着ます。樺太は北海道よりもさらに冬が厳しいので。犬の毛皮の外套というのはアイヌの文化というより北樺太に住んでいたニヴフの文化なのですが、その文化を借用して厳しい樺太の冬をやり過ごしていたと考えられます。それから寒い季節には足元の防寒が大事になりますが、樺太アイヌはアザラシの毛皮を胴に使い、おそらく下の方は鮭の皮か鹿の皮を縫い合わせて作った長靴を履いていました。ちなみに、北方の民族は大体そうなのですが、乾燥させた草や苔をよく揉んで長靴の中に詰めて、靴下を着けずに裸足のまま履いていました。それで十分寒さをしのげたのです。
アイヌの人たちの衣服には特徴が三点あります。一つが「一部形式」といいまして、ワンピース状の衣服です。男性の衣服も日本の着物と同じ、つまり、上衣とズボンに分かれていません。こういった点は日本の伝統的な衣服と似ております。北の世界に入りますと「二部形式」といいまして、ズボンと上衣が分かれる傾向が強くなります。一部形式は寒さ暑さ双方に対応できる。つまり、冬の寒さだけでなく、夏の暑さを凌ぐためにも一部形式は使えるわけですけれども、アイヌの人たちの世界もおそらく夏は結構気温が上がっていたと考えられるので、それにも対応できるよう一部形式になっているのです。第二点は「もじり袖」です。これは袖が三角形になっていて袖口のところが、キューっとしまっていて、ある程度防寒性が高まります。日本の和服の場合には「袂」といって四角く開いていまして、通気性を良くしておりますが、アイヌの人たちの着物はここを絞って防寒性を高めています。第三点は「前開き」です。つまり、魚皮の着物も前が開いていますし、博物館に展示されているアットゥシやテタラペも前が開いています。当たり前じゃないかと思うかもしれませんが、本当に寒いところ、例えば、イヌイットやエスキモーが住んでいるような極北地域あるいはシベリアでも北極海に面しているような地域の人たちは「かぶり式」の外套を身に付けます。なぜかというと、彼らは寒風吹きすさぶブリザードの中をトナカイソリや犬ゾリで何時間もじっとしていなければなりません。そういう人たちにとっては前が開いていたら風が入って寒くてしょうがない。そのために風が入らないようにかぶる形式の外套を着ます。しかし、アイヌの人たちの間にはそういった外套はありません。厳冬期であっても獲物を追って山の中を走ると暑くなります。私にも経験がありますが、ダウンコートを着て山の中を走っていると暑くなって脱ぎたくなります。そういう時に前を開くことで体の熱を開放できる。そしてさっと閉めて体が冷えすぎないようにする。そういう体の熱の放出と遮断を手軽にできるようにするために前開きの方が有利なのです。ということで、アイヌの服というのは前開きなのですね。実はシベリアの中でも本当に寒い、北海道よりももっともっと寒い地域の猟師たちも前開きのコートを着ています。やはり狩りで活動的になる人たちはどうしても、熱をある程度放散する対策が大事になってくるのです。なぜかというと、中で汗をかいてしまうと活動を終えて冷えてきた時に汗が凍って体温を奪われて凍死する恐れがあるからです。ですから、本当に寒い所に行ったらなるべく汗をかかないというのが鉄則なのです。それをきちんと守るためにこういった衣服が必要になるのです。

それからこれは付け足しですが、絵にでてくる男性は裸足で、衣服をいわゆる左前で着用する姿、すなわち左衽(着用者に向かって左側が前になるように襟を合わせる着用の仕方、逆に右側が前になるように襟を合わせる着方を右衽という)で描かれています。その典型的な例は『夷酋列像』といいまして、松前藩の家老で絵師でもあった蠣崎波響が、クナシリ・メナシ戦いがあった翌年の寛政2年(1790年)に描いたアイヌの有力者たちの絵にあります。たとえば、そこに描かれているマウタラケ(麻烏太蠟潔)という人物はウリヤスベツというコタンの「総部酋長」と書かれていますからとても偉い人なのですが、裸足のうえに蝦夷錦の服を左衽で着用するように描かれています。このような描き方は『夷酋列像』に描かれた12人全員に共通です。左衽という着方は中国や東アジアでは死人この世の人ではない者、あるいは野蛮人のものとされています。アイヌの服は、魚皮衣、アットゥシ、テタラペともに左右対称ですから左衽でも右衽でも着用することはできます。しかし、ではなぜあえてこういう描き方をするのでしょうか。これをもってアイヌが左衽だったという人もおりますが、それは一般化することはできません。なぜならば、蝦夷錦の服は左衽で着用することができないように作られているからです。それは本来中国の官僚たちが着る制服でして、中国ではご存じのとおり必ず右衽になるように、つまり、左側の襟が前に出るようなスタイルで作られます。しかも、この蝦夷錦の服はモンゴル、満洲に共通のスタイルでして、着用者から見て右側の半身が短く、左側の半身で前を覆うように作られています。このようなスタイルの服を左衽で着ることは絶対に不可能なのです。それにもかかわらずあえてこういうふうに着せて描かせている。これには作為があると見なければなりません。ですからアイヌの服が写真や絵では左衽で描かれているものが多いのですが、実際にそう着ている人もいたのかもしれませんが、そのほとんどは「野蛮人」あるいは「異界の人」であることを示すための当時の絵画上の技法と考える方がよいと思います。写真の場合には左衽かと思ってよく見てみると裏焼きだったということもあります。絵画や写真であっても色々と手を加えることができますので、十分注意する必要があります。おそらくアイヌの人たちもこんな着方はしていなかったでしょう。

ちょっと衣服の話が長くなりましたけれども、アイヌの人たちにも防寒着があり、毛皮で作った靴やアザラシの毛皮で作った靴、防水着として魚皮の上衣がありましたけれども、アイヌ衣装の基本は繊維製品です。繊維製品といっても、靱皮の糸で作られたアットゥシやテタラペは防水性と通気性を兼ね備えた優れものでした。
次は同じ防寒性として家の話の方に移ります。アイヌの家は、間宮林蔵と村上貞助が編集した蝦夷生計図説に描かれているのが典型的なものです。現在、博物館で復元されている家はほとんどこのタイプになると思います。これは茅葺の住居で屋根や壁を茅で葺いたものです。

この姿で復元されているものが多いのですが、この蝦夷生計図説を見て驚いたのは、葦を使った家、クマザサで葺いた家、白樺の樹皮で葺いた家などがあることです。それぞれに特徴がありますが、これは地方による違いだともいわれています。このクマザサや白樺の樹皮で雨風を防げるのか。あるいは寒いのではないかと思われるのかもしれませんが、これらは非常に優れた素材で、クマザサも一本や二本飾っているわけではなくぎっしり束にして壁に埋め込んでいきます。ぎっちり縛って隙間なくつめていきますので、実際にとても断熱性の高い優れた壁材です。クマザサ葺きの家は旭川の「川村カ子ト記念館」に一軒建っています。それから樹皮葺きの住居。この家は現在見ることはできませんが、この白樺の樹皮も非常に優れた防水性、防寒性をもった素材で、白樺の樹皮はボートが作れるくらい防水性の高いものです。主に道東地方に多かったようですが、どういう場面で作られたのかについて林蔵は書いていないので、地域差によるものなのか住む場所や場面に応じて作られたのかは分りません。

そして、アイヌの家にはその骨組に大きな特徴があります。それは主に棟の支え方です。アイヌの家の棟は柱で支えているのではなく三脚構造で支えられています。日本の、特に神社建築に多いのは棟持柱のある住居です。今はこの棟持柱の代わりに束(つか)といいまして、梁の上に柱を一本乗せるように作ってしまうので、この棟持柱を床から立てるということはまずないのですが、日本の古代、古墳時代であるとか弥生時代にはこういった住居が登場しますし、これは日本だけではなく東南アジアからアムール川流域まで、非常に広い範囲で広がっています。それに対してアイヌの家は根本的に棟の構造が違う。だからこういうところは日本とは違います。実はこの三脚構造というのは北方的だといわれています。なぜかというと、北の狩猟民たち、エヴェンキであるとかエヴェンといった北の狩猟民たちは円錐形のテントで暮らします。円錐形のテントというのは文字通り柱を円錐形にぐるっと立て並べて、毛皮とか白樺の樹皮で覆ったような、本当に円錐形をしたテントですが、その骨組の基本が三脚構造です。すなわち、まず三脚を立て、その頂点に寄りかかるように、柱を立て並べていくのです。

この三脚構造を使って棟を支える、その棟によって屋根全体を支える構造は、もしかすると北方の影響ではないかといわれています。国立民族学博物館には、明治時代に作られたアイヌの家の模型が保管されています。この屋根をよく見ますと三脚構造が浮かび上がってきます。ちゃんと二つの三脚によって棟を支えているのです。この三脚で棟を支えることによって、その下にドームと同じで比較的大きな空間を、柱を立てずに確保することができます。棟持柱になってしまうと部屋のど真ん中に柱が立ってしまうのですが、三脚構造にするとそれを避けることができるので、なるべく広い空間を確保することができます。ではアイヌのこういった人たちの住居がどれだけ寒さに耐えられたのでしょうか。私は本当に寒い地域で−50°まで経験しましたが、さすがに真冬に−50°になるような地域では、こういった茅や笹で葺いたような住居はありません。そういったところにいくと固定家屋は必ず丸太小屋になっています。あるいは、基礎の周囲に土を盛ったり、壁に土を塗ったりして、土壁にしています。

やはり、木や土の断熱性能を使わないと−50°の寒さはしのげないようです。あるいはテントに住んでいる人達、円錐テントに住んでいる人達も冬になると白樺の樹皮ではなく分厚いトナカイの毛皮を巻きます。ですから、そういった面から考えるとアイヌの家というのは極寒に耐えられる構造ではなさそうです。ですが日本の冬を考えてみても、東北地方などでは雪囲いと称して藁や茅で壁を作り、雪を防ぎます。それを家全体にやっていると考えれば良いわけで、かなりの断熱効果はあったのではないかと考えられます。ですから、北海道の寒さであればこれで十分暮らしていける。じゃあそれより寒かった樺太はどうかといいますと、樺太は寒さをしのぐために比較的新しい時代まで竪穴住居を使っています。風が強く圧倒的に寒い、天候が悪い千島列島や樺太では竪穴住居を作って寒さをしのぎました。ですから、アイヌの住居はほどほどの寒さには十分対応できますが、シベリアの奥地のような極寒の地域では対応できなくなるくらいの耐寒性を持った住居だったといえるのではないかと思います。

それから、北方適応の三点目として、北の生態系にどの程度対応していたのかについて触れておきます。日本は春夏秋冬が非常にはっきりした気候条件だといわれています。東京などは温帯の中でも比較的暖かい暖温帯にあるといわれております。植生的には照葉樹林(ツバキ、お茶、シイなど葉の表面がてかてかした樹木が典型的)が卓越しています。ただし、ナラの木、クリの木など秋に葉が落ちてしまう樹木を落葉広葉樹といいますが、東京は落葉広葉樹と照葉樹の両方混ざった境界地域になるのではないかと思います。これが大阪や京都へ行きますと落葉樹が少なくなる。ドングリの木(ナラ)などもないことはないのですが、少なくなって逆に照葉樹が増えてきます。照葉樹林というのは年中青くて落葉せず、葉が常に茂っているので暗いです。対して落葉広葉樹というのは冬になると葉が落ちますから森が明るくなります。そういった大きな違いが、東の森と西の森にはあります。北海道はどうかといいますと、北海道の南半分、南西側は、東北地方からの続きで落葉広葉樹と針葉樹の混合といわれる林層になります。そして東北側は逆にシベリアに近く、針葉樹を中心としたタイガに近い森になっていきます。北海道やそれより北の地域、すなわちアイヌの人たちが住んでいる地域も春夏秋冬がはっきりしています。はっきりしているけれども全体的に気温が低い地域です。

春夏秋冬がはっきりしているということは、得られる食料資源に季節性が表れるということになります。ある資源が特定の季節にたくさん捕れるのですが他の季節になるとぱたっと捕れなくなる。例えば、アイヌの人たちの食料資源の基本だったサケやマスですね。特に秋鮭というのは遡上期間が8月の終わりから10月が最盛期です。その季節を外してしまうと、例えば冬の2月から5月あたりの季節になると、まったく捕れなくなる。こうした季節性のはっきりとした資源が食料資源の基本となっているわけです。これは北海道に限った話ではありません。実はシベリアから北アメリカまで、同じような亜寒帯、冷温帯地域の森林層を持った地域にはすべてに共通する生態系なのです。そういう中でアイヌの人たちは暮らしてきた。アイヌの人たちもしっかり捕れるものは捕れるだけ捕って、後はそれを保存食にして一年間食べつないでいくという食生活だったわけです。

ですから、アイヌの人たちの間では鮭を保存するための技術が発達しています。基本的には乾燥です。「鮭とば」ですね。水気をとばして腐らなくなるので乾燥させます。ただし、乾燥させただけで日持ちはしますけれども、さらに風味を良くするために囲炉裏の上に吊るして燻製にする。そうするとさらに美味しくなるし、日持ちがさらに延びる。そういったサケ類をいっぱい作って家の倉庫に保管して一年間食べつないだのです。こういった生活はシベリアから北アメリカまで共通にみられる、北の世界の人たちの生活です。それから肉類もそうです。シカは年中ある程度獲れるのですけれども獲りやすい期間があります。それは交尾期、発情期で、なぜなら雄は雌を追いかけて夢中になっていますから、他に注意が払えなくなってしまうのです。そういう雄を狙うわけです。シカ笛には色々なパターンがありますが、私が調査したのは大陸にいるアカシカというエゾジカよりもひとまわり大きなシカの例です。アカシカの場合は雄の鳴き声を出す笛を使います。白樺の樹皮を帯状に切って、くるくると丸め、中の方から引っ張り出してラッパ状の筒にして、形が崩れないように外側を留めます。音を鳴らすには細くなった部分を口の端に当てて、息を吸いながら唇を鳴らします。ラッパと同じ原理ですが、息を吸って唇をふるわす点が異なります。ちょうど発情した雄の鳴き声に近い音になります。猟師がこのシカ笛で雄の鳴き声をたてると、ライバルが現れたと思って本当の雄ジカが猟師の方に近づいてくるので、そこを仕留めるのです。そうやって獲るので発情期の今頃がシカ猟の真っ盛りになります。今頃(10月)私の友人のロシアの猟師たちはアカシカを探して森の中を走り回っているはずです。アイヌの世界でもおそらくそういった猟が行われて、シカ笛なども発達しています。ただ、アイヌの人々のシカ笛は、雌の鳴き声をまねて雄をおびき出すように使われたようです。

こうした具合なのでシカ肉のシーズンも限られています。それからクマですが、年中獲れないこともないのですが冬から春にかけての冬眠中に獲るのが一番良いのです。というのは冬眠中のクマは餌を食べていないので、肉に臭みがなくて美味しいのです。さらに、春先に穴から出てきたばかりの熊というのは胆嚢に胆汁が溜まっています。大きなクマの胆が手に入るということで、本当は春先に獲れる熊が一番良いのです。つまり、クマ猟にも季節性があるのです。こういった季節性のあるものを頻繁に使うわけですから、狩猟採集も年中獲物を求めて追いかけ回すのではなく、季節にあわせた獲物を追いかけていくのです。そういった、いつ、どこで何が獲れるかということは、知識がないとできませんから、アイヌの人たちを始め北方の人たちは動物、植物に関しては、動物学者や植物学者よりもはるかに詳しい知識を持っていたのです。そういったことも、アイヌの人たちが北の世界に適応している証拠になるわけです。ですからアイヌ文化に自然を学べということはよくいわれますけれども、そうした伝統をアイヌの人たちが積み上げてきたという背景があるからこその話なのですね。

それからもう一点、北方的なのは農業です。「アイヌって狩猟民族じゃないの」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、実は農耕をやっていたのです。その証拠に間宮林蔵と村上禎助が編集した『蝦夷生計図説』という本には、狩猟や漁労の話がなくて農耕の巻があるのです。

何を作ったのかといいますと、粟や稷といった雑穀やカブなどの野菜類です。収穫風景の絵がありますが、日本のように根本を刈るのではなくて、弥生時代さながらに穂刈りです。貝で作った鎌で穂を刈っていくやり方で粟や稷を収穫していたのです。その伝統は決して新しいものではなく、今から1500年ほど前から始まる擦文時代からの伝統として農耕がありました。ですから、アイヌ文化を現代のイメージだけでとらえてはいけません。どういうところが北に適応しているのか、どういうところが北に適応していないのか丹念に見ていきますと、今まで見落とされていた文化が見えてきますので、今後みなさんアイヌ文化に興味を持たれたら、細かいところまでよく観察してみてください。そうすると、思わぬところに新しい発見が出てくるのではないかと思います。

あと、北方的といわれる要素の中で言及しておかなければならないのが世界観です。アイヌの世界観を説明するとそれだけで何時間もかかってしまうので、詳しい説明はちょっとできませんけれども、一点だけ強調しておきますとクマに対する崇拝が特徴だといわれております。いわゆる「イオマンテ」とよばれるクマ送り儀礼です。これがアイヌの人たちのアイヌたる、アイヌ文化をアイヌ文化にしている一番重要な儀礼だといわれています。20世紀初めに樺太や北海道でアイヌの調査を行ったポーランドの民族学者B・ピウスツキという人が撮影した樺太アイヌのクマ送りの写真と昭和の初めに木下清三という写真家が撮影した白老でのクマ送りの写真があります。両者とも今日では見ることが難しくなった(樺太アイヌのものは見ることが不可能になった)貴重な儀式の写真です。樺太アイヌの場合は、巨大なイナウを立てるのが特徴的です。なんだか諏訪の御柱のようなとてつもない高さです。クマ送り儀礼が北方的だというのはどうしてかといいますと、こちらもシベリアから北アメリカまでの、いわゆる亜寒帯針葉樹林帯に広く帯状に分布しているからです。この地域の人々は、クマを崇拝しクマを獲ってその肉を食べる時には、それを森の特別な人や森の精霊と考え、敬いながらその肉をいただいて、そしてその魂には人間からのお土産(クマ以外の肉や魚、衣服、アイヌの場合にはイナウ)をたくさん持たせてあの世に帰ってもらう。そして、あの世に帰ったらまたそこからクマの服を着て人間世界にやってきて、肉を人間たちにプレゼントしてくださいと願う。この儀礼は実に北半球の北方の亜寒帯針葉樹林帯に広く分布しています。アイヌ文化はその中の一つになるわけです。

ただ、このクマ送り儀礼がアイヌ精神文化の中心を成しているといわれていますけれども、それがアイヌ文化の一部になった時代、アイヌ文化に入った時代というのは、それほど古くはないと推測されます。考古学的にはクマを崇拝する習慣はオホーツク文化にあったといわれています。オホーツク文化というのは、今から1500年ぐらい前、日本でいうと古墳時代の頃、ちょうど北海道の縄文文化が古墳文化の影響を受けて擦文文化へと変わっていく時期に北の樺太の方から南下して道北からオホーツク海沿岸、そして千島列島まで広がった文化だといわれています。担っていたのも縄文人とは形質的、遺伝的に違う人たちでした。

その人たちが熊を崇拝する習慣を持っていた。彼らの竪穴住居には、ある一定の場所から大量のクマの頭骨が出てくるのです。それは、今のアイヌの人たちがクマ送り儀礼が終わった後、頭骨を特別な場所に安置するのと同じようなものではないかといわれています。対して同じ時代にあった擦文文化には(擦文文化の遺跡、住居跡もたくさんあるのですが)その住居跡からはクマの骨は一切出てこない。クマ送り儀礼をやった跡が見つからないのです。それどころか、オホーツク文化の遺跡(礼文島の事例)から出土したクマの骨のDNA分析から、擦文文化人がオホーツク文化人にクマを提供していたのではないかと思われるような結果が、わずかではありますが、出ているのだそうです。おそらく前者が後者に、儀礼用にクマを売るなりプレゼントするなりしたのではないかと想像されています。アイヌ文化に直接つながって行くのは擦文文化の方です。アイヌ文化が成立する以前に、擦文文化がオホーツク文化を吸収していくのですけれども、その過程でクマ崇拝とクマ送り儀礼を取り込み、それからアイヌ文化に変貌していったのではないかという流れが、有力な仮説になりつつあります。オホーツク文化にはシャチのような大型海獣に対する崇拝などの習俗もあり、それもアイヌ文化に取り込まれています。したがって、オホーツク文化がアイヌ文化の形成に非常に大きな役割を果たしたということはいえるでしょう。このオホーツク文化と擦文文化の融合からアイヌ文化が生まれたという話から発展しまして、さらに近隣諸民族との関係、その近隣諸民族を超えて国家がどのようにこの北方世界に関わってきて、アイヌの人たちとどういう関係を結んだのかという話を最後にしたいと思います。

アイヌの周りにはたくさんの民族がひしめいていました。といっても実は人口密度が一平方キロメートル当たり0.1人以下の世界ですから、そんなにぎっしり人がひしめいていたわけではありません。ただ、多様な文化を持つ人々がアイヌの人々をとりまいていたということは事実です。実はアイヌの人たちと周辺民族との関係は、決して平和な関係だったわけではありません。それをちょっと紹介しますと、まず、擦文人とオホーツク文化人。先ほどいいましたように、アイヌ文化が成立する時にオホーツク文化を柱の一つに据えているという話をしましたけれども、この擦文文化人とオホーツク文化人との関係もいろいろ微妙なことがいわれています。結果からいいますと、結局オホーツク文化は擦文文化に吸収されてしまいます。時代的には9世紀から10世紀には、オホーツク文化は擦文文化に吸収されてしまったといわれています。その後、各地にオホーツク文化と擦文文化が融合した文化が生まれています。例えば、今の釧路、根室を中心とした地域にはトビニタイ文化という両方を折衷したような土器が出てきたりもしています。そうした融合文化もあるのですが、大勢としては、オホーツク文化は擦文文化に吸収されてしまうとされています。そこからどういう過程を経てアイヌ文化に至ったのか。
明らかにアイヌ文化であることがわかるような遺跡は、現在発見されているものでは15世紀くらいのものが最も古いようです。そして擦文文化の最も新しい時代の遺跡は12世紀ぐらいに相当します。そして、その間の時代の遺跡がなかなか見つからない。

12世紀から14世紀、日本でいうと平安末期から鎌倉時代、平清盛や源頼朝が活躍し、武家の世となり、鎌倉に幕府が成立し、その一方でモンゴルが西から攻め寄せてくる。そのような時代が、北海道以北では、考古学や歴史学の分野の空白時代となっています。しかし、その間が擦文文化からアイヌ文化へ移っていく一番大事な時代なのですから、まさに隔靴掻痒という感じです。

考古学的にこの時代が空白になってしまう最大の理由は、土器の製作が衰退することと、住居が竪穴住居から平地式住居(掘立柱住居)に変わることにあるようです。土器片は遺跡を見つけるときの一つの目印ですから、それが減ると、遺跡は見つけにくくなります。また、平地式住居は竪穴住居のように明確な痕跡を残しません。土器の衰退は鉄鍋の普及、鉄製の刃物の普及に伴う木器の普及、本州産、中国朝鮮産の陶磁器の普及などが関係しているようです。住居形式の変化も本州や大陸から影響による生活スタイルの変化を示しているのでしょう。この12世紀から14世紀という考古学上の空白時代は、北海道以北の地域、すなわち樺太、アムール川流域でも共通しているようです。ただし、現在ロシア領となっているこれらの地域の場合には、単に研究者に知識と関心がなく、出土している遺物や遺跡を見逃しているだけなのかもしれませんが。

この謎の時代の後半、すなわち13世紀の後半に中国の文献にアイヌと思しき人たちの姿が登場してきます。それが、クギとギレミという人たちの話なのです。この時代になると、東洋史学や考古学の研究で、骨嵬と書いてクギと呼ばれる人たちと、吉烈迷と書いてギレミと呼ばれる人が文献に登場し始めます。クギというのは、樺太の北に住んでいたニヴフがアイヌを指していう呼び名だといわれています。ですから、この骨嵬と書かれた人たちはアイヌの祖先を指すのだろうといわれています。それからこの吉烈迷というのは、ツングース系の人たちがニヴフに対して付けた名称だといわれています。ですから、この吉烈迷というのは今のニヴフの祖先だといわれています。このアイヌの祖先とニヴフの祖先が、樺太を舞台にして紛争を起こました。そして劣勢に立たされた吉烈迷が、当時中国を支配していたモンゴル(元王朝、元寇を起こした王朝です)に救いを求めたのです。それで元軍が松花江からアムール川を下って樺太まで渡り、南から押し寄せてきたアイヌの祖先たちを打ち破ったという記録が「元史」という元王朝の正史(次の明時代に編集)に出てきます。最初の紛争が1264年で、それから1300年代初頭まで軍を派遣した記録が散発的に残っています。元寇の文永の役が1274年、弘安の役が1281年ですから、ちょうど同じ時期にモンゴル軍は樺太でアイヌの祖先たちと干戈を交えていたわけです。元寇の時代に日蓮宗を作った日蓮上人が、北から蒙古(モンゴル)が来るぞということを著作で書いて警告しています。その解釈をめぐっては、歴史学者の間で論争があるのですけれども、北からの元寇というほど大げさなものではないだろうとはいわれています。どうやって日蓮上人が樺太におけるアイヌの祖先と元軍との直接接触に関する情報を得たのか謎は多いのですが、彼は当時の蝦夷地(北海道から東北北部の地域)についての情報をかなり持っていて、北からモンゴルが来ているということを知っていたようなのです。そして彼のいう北からの蒙古襲来というのが、実はアイヌの祖先とモンゴルの間の接触だったわけです。

これが尾を引いているのかどうか分かりませんが、江戸時代の文献によると、アイヌとニヴフ(江戸時代にはスメレンクルやニクブンと呼ばれていました)は仲が悪いということになっています。間宮林蔵が樺太を探検した時、彼はアイヌを先導役にするのですが、その先導役にされたアイヌの人たちが北に行くのをものすごく嫌がるのです。なぜかというと、北にはスメレンクルとか何とかという野蛮な連中がいて、「俺たちが行くと殺される」といって非常に怖がるのです。それを間宮林蔵が「俺がいるから大丈夫だ」とかいってなだめすかして行って、結果的には先導役のアイヌの人たちはみんな無事に帰ってはくるのですが、そんなに樺太の南にいたアイヌの人たちが北にいる住民を嫌がったという歴史があります。考古学者はこれをさらに敷衍しまして、実は骨嵬と吉烈迷の紛争は、擦文人がオホーツク文化を吸収して成立したアイヌの人たちが、その吸収した力を使って北へ進出していったための紛争ではないか、あるいは、擦文人対オホーツク人の対立が樺太にまで持ち越されたのが、この吉烈迷と骨嵬の対立だったのではないかというふうにいう人もいます。そこまでいえるかどうかはわかりませんけれども、13世紀、日本の鎌倉時代にアイヌの人たちが一定のパワーを持って自分たちの居住域を北に広げていったというのは事実だったようです。このアイヌの祖先とモンゴル軍との接触の顛末はどうなったかといいますと、結局アイヌの祖先はモンゴル軍の圧倒的な武力の前に一応恭順の意を示します。初めから戦争というような大げさなものではなかったという話もあるのですけれども、一応恭順の意を示して、元の支配下に入って、毎年毛皮を貢納しますということをいって収まるのです。それが1302年ですから、14世紀の初め、それ以降、このアイヌの祖先たちの話は元史から消えてしまいます。消えたということは平和になって、いつもどおりの話になってしまったので、あえて記録に登場させる必要がなくなったということなのです。おそらく従ったのは樺太に住みついたアイヌだけで、北海道のアイヌが含まれていたかどうかというのは分かりませんが、アイヌの一部が一時期モンゴルの支配下に伏したというのは事実です。

しかし、アイヌの人たちと大陸の人たち、北方の人たちというのは微妙な関係にありました。たとえば、アイヌの人たちと婚姻関係を結ぶような密接なつながりを持った民族というのがほとんどないのです。「サンタン」(山丹、山旦、山靼などとも記される)と呼ばれた人々がいます。現在のウリチと呼ばれる人々の祖先で、ツングース系の民族なのですが、このサンタン人との間にはアイヌ女性との結婚話というのがたくさんあります。それからウリチの中には「実は我々は樺太アイヌだった」という人たちが数多くいます。ですから、サンタンとアイヌとは一定の緊密な関係があったといわれています。ですが、それがいつも友好的であったかというと微妙です。江戸時代の文献には「サンタン人の横暴」という有名な話がしばしば見られます。サンタン人たちは江戸時代、サンタン交易といわれるアムール川と樺太から北海道をつなぐ交易路の中で主導権を握っていました。そのような状況の下で、彼らは樺太アイヌを借金で縛りつけて、傍若無人な振る舞いをしていたという話が最上徳内や松田伝十郎や間宮林蔵など当時の樺太探検者たちの著作の中に出てきます。

それに対して江戸幕府はアイヌの人たちに代わって借金をサンタン人に払って、彼らを借金から解放して、サンタン交易を幕府の公認交易にしてしまうのです。一応日本側の記録はアイヌの人たちを借金から解放したということになっているのですが、実はちょっといじわるな見方をすれば、アイヌの人たちは今まで続けてきた自分たちの独自の交易網から弾き飛ばされてしまったということにもなります。つまり、幕府がやってきて「サンタン人との交易は政府が直接やるからお前らは引っ込んでいろ」といわれて交易からのけものにされてしまったといえなくもないのです。そういう感じで、サンタンとアイヌとの間にはある程度の友好関係と緊張関係がありました。しかし、婚姻関係まであるのはこの人たちだけで、あとその周りの人たち、とくにニヴフの祖先、それから江戸時代にオロツコといわれた今のウイルタと呼ばれる、トナカイ飼育民の祖先とは戦争までしていまして、江戸時代の文献には「婚姻関係はない」とはっきり書かれています。ですから、かなり対立した関係になっていたようです。ただ江戸時代頃になると、こういった世界をロシアや日本や中国といった国がどんどん侵略していくようになります。江戸幕府や松前藩の「蝦夷地支配」はその支配体制が商場知行制から場所請負制に変わって、結果的にアイヌの人たちを不当に搾取していくようになります。明治政府はアイヌの人たちを商人の搾取から解放しますが、同時に、北海道と命名した土地を日本の植民地、つまり開拓地と定めて、農耕できる土地に日本人を植民させて、アイヌの人たちから土地を奪っていきます。そして文化を同化していくという政策がとられていきます。ただ、目を外に向けてみると、この時代には日本以外の国(つまりロシア)もアイヌモシリを植民地化しようとしていたとしていたことは事実です。

アイヌモシリ(アイヌの土地)と国家との関係に話を移しますと、このアイヌモシリの一部、特に樺太にまず領土権を主張したのは中国でした。中国というと現在の中華人民共和国と誤解する恐れがあるので、より正確を期せば、モンゴル人が作った元王朝が樺太のニヴフの祖先、アイヌの祖先を支配下に入れることで、樺太の領有権を得ます。領有といっても、現代的な意味の領有とは異なります。当時の中華王朝にとっては支配下にある住民が住んでいる土地がその勢力下にある領土となるので、現在の近代国家の領土とは一緒にしないでください(その住民が別の国に従えば、一瞬にしてその土地は失われてしまいます。無人の土地はそこに被支配民を入植させてはじめて領土とすることができます)。アイヌを含む樺太の住民に対する支配は、その後漢民族が作った明王朝、満洲人が作った清王朝に受け継がれていきます。しかしそれでも、樺太の南端までは支配が及んでいませんでした。そのために清の時代、中国の人々は樺太と北海道が狭い海峡を挟んで向かい合っているという事実を知らなかったのです。

元王朝と明王朝が樺太を支配する時に役所を置いたのがヌルガンというところで、明の時代にはそこに永寧寺というお寺が建立されました。そのことを記した石碑があります。樺太の住民に対して一番長期的で徹底した支配を行ったのは清王朝で、こちらは間宮林蔵がデレンというところに置かれた清王朝の出先機関を絵に残しています。しかし、清の支配も19世紀初頭には陰りを見せ、その隙を突いて江戸幕府がその支配圏を北上させ、19世紀半ばまでに樺太アイヌのほぼすべてを支配下に収めます。1858年には人口調査(人別)を行い、人口も割り出されています。

その後は1849年からこの地域に勢力を伸ばしてきたロシア(ロシアは17世紀に一度アムール川流域に進出したが、清王朝に敗れて排除されてしまった)と日本との間で国境交渉が行われます。その結果、住んでいるアイヌの人たちの意向を全く無視した状態でアイヌモシリが切り刻まれました。当初はエトロフ島とウルップ島の間に設けられた道東アイヌと千島アイヌの境界に沿って日ロの境界が設けられましたが(1855年の日魯通交条約)、1875年の樺太千島交換条約(サンクト・ペテルブルク条約)では宗谷海峡と千島海峡(カムチャツカ半島とシュムシュ島の間の海峡)に国境がひかれ、日本文化に親しんでいた樺太アイヌがロシア側に取り込まれました。そして逆にロシア文化に同化されつつあった千島アイヌが日本の支配下に入れられ、シコタン島に移住させられてしまいました。そして1905年に一度樺太アイヌの居住地も日本領に編入されましたが、第2世界大戦で日本が敗戦となった結果、樺太南部だけでなく、クナシリ島までの千島列島からシコタン島、ハボマイ諸島までソ連軍に占領され、そのままソ連、ロシアの実効支配が続いています。そして、ソ連に占領された土地からアイヌの人々の大半が脱出ないし追放されてしまいました。

この状況をアイヌモシリという観点に立ってみれば、江戸時代までのアイヌモシリのうち北海道以外の部分が事実上ロシア領になり、そこからアイヌの人々が消えてしまったことになります。つまり、近代国家である日本とロシアがアイヌモシリを舞台に争っている間に北海道以外からアイヌの人たちが消えてしまった。しかも、本来の住民であるアイヌの人々の意向とはまったく関係なく国境や占領地が定められ、本来の住民がその土地を離れざるをえなくなってしまったのです。

これは非常に大きな、深刻な問題ではないかと思います。では消えてしまったアイヌの人はどこへ行ったのか。実は樺太にいたアイヌの人たちと北方四島にいたアイヌの人たちは、ほとんどが北海道に移住しました。そしてその子孫の方々も北海道にいます。千島列島、とくに北千島のアイヌの人たちは、前述のように樺太千島交換条約の後にシコタン島に強制移住させられ、そこで環境不適応をおこして多くの方が命を落とし、独自の文化を持つ文化集団(アイヌの下位集団)としては事実上消滅してしまいます。しかし、その血を引く方々は戦後シコタン島から北海道に移住し、道東方面を中心に暮らしているようです。

ここまでアイヌ文化がどこまで北方世界に適応しているかを中心にお話してきましたが、彼らは北方世界の自然環境には見事に適応しました。

さらに江戸幕府や清王朝、あるいはロマノフ王朝のような前近代的な国家との関係においても見事に適応し、自分たち独自の文化を守り、育ててきました。彼らは前近代国家の支配に甘んじるだけではなく、国家にとって必要不可欠な物資を供給することで、逆にその支配体制に影響さえ及ぼしたのです。歴史研究や歴史小説などでは、江戸時代のアイヌの人々は一方的に収奪される惨めな人々と描かれることがしばしばありますが、それはアイヌの歴史の一面に過ぎません。衣服のところでも触れたように、オヒョウの樹皮の繊維で作られたアットゥシは、その撥水性と通気性がかわれて和人の船乗りや漁師の上着として重宝され、幕末明治期には手仕事でしたが、大量に生産され、本州以南にさかんに販売された時代がありました。アイヌの猟師が北海度や樺太で捕獲したクロテンやギンギツネなどの毛皮は、樺太アイヌやサンタン商人の手で中国に運ばれ、北京の宮廷文化を彩りました。千島でもアイヌたちが捕るラッコの毛皮が帝政ロシアの経済を支えた時代があったのです。アイヌ社会は決して悪徳商人たちの搾取のために崩壊の一途をたどったわけではなく、厳しい状況の中でもそれなりに適応しようとしたのです。

確かに近代国家との関係においては、強力な文化同化政策によって言語は消滅寸前に追い込まれ、狩猟や漁撈、雑穀栽培といった生産活動も自由にできなくなり、非常に厳しい状況におかれるようになったのは事実です。しかし、だからといってアイヌの伝統文化が消滅し、大正時代以後の調査研究は「落ち穂拾い」状況だったという認識は間違っていると思います。21世紀の今日、アイヌの人々の中には生活面で苦しい状況にある人々もいますが、それでも現代の自然環境と社会、経済的な環境に順応しつつ、祖先たちから受け継いできた文化を継承し、発展させています。ただ、今日の社会において、アイヌ文化の継承、発展の問題をアイヌの人々だけのものとして、それ以外の人々が無関心でいるという状況はよくありません。近代以後のアイヌ文化の状況は、実は日本文化の状況と共通する部分もあるのです。自分たちの日常生活を見回してください。「日本文化」なるもの、例えば自分たちの祖父や祖母の世代まで受け継がれてきたものを、私たちはどの程度きちんと保持しているでしょうか。明治以後の近代化の中で、日本文化もその多くが失われたのです。同じ現象は世界中で起きています。つまり、アイヌ伝統文化の継承、発展という課題は日本国民に共通の課題であり、さらにはちょっと大げさに言えば、全人類に共通の課題でもあるのです。自分たちの伝統文化を継承、発展させていくためのアイヌの人たちの活動について、北海道を領有している日本という国家の国民は、自分たちの問題として真剣に考えていかなければいけないと思います。

最後に一言触れておきますが、「北方領土問題」というものは日本とロシアだけの問題ではありません。国家間の問題ではあるのだけれど、その背後にはもう一つ、この地域の本来の住民だった先住民族アイヌという存在を忘れてはいけない。これだけはしっかり頭に入れておいていただければと思います。私の話はこれで終わりにしたいと思います。どうも長時間ありがとうございました。
https://www.frpac.or.jp/about/files/H24%E8%AC%9B%E6%BC%94%E4%BC%9A%E3%80%80%E8%AC%9B%E6%BC%94%E9%8C%B2%EF%BC%88%E6%9D%B1%E4%BA%AC%EF%BC%89%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%8F%B2%E9%83%8E%EF%BC%88%E5%9B%B3%E7%89%88%E7%84%A1%EF%BC%89.pdf
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c4

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
5. 中川隆[-12824] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:46:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

1789年クナシリ・メナシの戦い 更新日:2018年03月01日
https://www.city.nemuro.hokkaido.jp/lifeinfo/kakuka/kyoikuiinkai/kyoikushiryokan/siryoukann/rekishinitsuite/tatakai/4719.html

1912(明治45)年5月、納沙布岬に近い珸瑤瑁(ごようまい)の浜で、 砂に埋まっている石が発見されました。掘ってみると「横死七十一人之墓」と彫られていました。


■横死七十一人之墓

現在、この「横死七十一人の墓」は納沙布岬の傍らに建てられています。この碑の横面には「文化九年歳在壬申四月建之」と刻まれ、文化九年は西暦の1812年ですので、この年の4月に造られたことがわかります。裏には漢文で難しい文章が書かれていますが、現代語訳にすると

「寛政元年五月に、この地の非常に悪いアイヌが集まって、突然に侍(さむらい)や漁民を殺した。殺された人数は合計七十一人で、その名前を書いた記録は役所にある。あわせて供養し、石を建てる」

という意味になります。これだけ読むと「凶悪」なアイヌが、この地の侍や漁民を虐殺(殺害)したということだけしかわかりません。真実の歴史はどうであったのでしょうか。

横死71人の墓表   横死71の墓裏面

寛政の蜂起和人殉難墓碑(根室市指定史跡)

■ ノッカマップイチャルバ
1974年から毎年9月末に、根室半島のノッカマップというところで「イチ ャルパ」(アイヌ語で供養祭という意味)という催しが行われています。寛政元 (1789年)のクナシリ・メナシの戦いの犠牲者(アイヌ37人、和人71人 )の供養のために、アイヌの人たちが中心になって祭事が催されています。

イチャルパの様子

ノツカマップイチャルパの様子

■松前藩
江戸時代の北海道は、蝦夷地と呼ばれていました。蝦夷地は松前の殿様に植民のように支配されていました。当時の蝦夷地は米が獲れなく、本州のように年貢をとることができませんでした。しかし、松前は蝦夷地の交易による利益で、藩が成立していました。最初は、松前藩主や家臣が直接蝦夷地でアイヌの人々と交 易していましたが、しだいに商人にまかせるようになりました。交易品には、和人側からは米・酒・鉄製品、ガラス玉などの食糧や生活物資が、アイヌ側からは・毛皮・ワシの尾羽(矢の羽に使う)などの産物がありました。

鷲の羽 納沙布岬のラッコ

ワシ類の羽     納沙布岬のラッコ

コタンケシ遺跡出土のガラス玉

コタンケシ遺跡出土のガラス玉

■根室と飛騨屋
根室や厚岸、クナシリ島の交易を最初に行った商人は、飛騨国増田郡湯之島村(岐阜県下呂町)の飛騨屋の武川久兵衛(たけがわきゅうべえ)という人でした。飛騨屋はもともと材木商でしたが、松前藩に多額のお金を貸し、松前藩はこのお金を返す代わりに、根室などの交易の権利を飛騨屋に与えたのでした。しかし、根室やクナシリ地方には、強力なアイヌの勢力があって、飛騨屋の交易は順調に進みませんでした。

武川家の墓所

武川家の墓所(岐阜県下呂市)

■ロシアとの関係

このころ、ロシア人は高価な黒テンやラッコの毛皮をもとめて、シベリヤから アリューシャン列島・千島列島に進出していました。1778年にはロシア人が クナシリアイヌのツキノエの案内で、根室のノッカマップに交易をもてめて来航しました。ロシア人は千島列島のアイヌとも交易を行っていて、ツキノエは、ロ シア人商人との結びつきを松前藩や飛騨屋に誇示しました。

■老中田沼意次と蝦夷地
江戸時代の日本は、長崎での中国・朝鮮・オランダ、対馬での中国、琉球での中国貿易、そして松前での中国・ロシア貿易の他は、外国とは交易していませんでした。
当時の江戸幕府は財政的にいきずまっており、蝦夷地での交易の莫大な利益に目を付けたのが、老中田沼意次でした。幕府は蝦夷地に調査隊を派遣しました。ただこの調査で、飛騨屋の経営も調査され、帳簿にも記入しないどんぶり勘定であることがわかり、交易だけでなく、現地でアイヌを使ってかなり強制的に働かせていることも明らかになりました。しかし、途中で田沼が失脚していまい、幕府は蝦夷地に対して何の政策も行いませんでした。


■最初の蜂起
1789年(寛政元)5月はじめ、クナシリ島のアイヌが一斉に蜂起し、松前藩の足軽竹田勘平をはじめ、飛騨屋の現地支配人・通辞(アイヌ語と日本語の通訳)・番人らを次々に殺害しました。さらにチュウルイ(標津町忠類)沖にいた飛騨屋の大通丸を襲い、標津付近のアイヌも加わり、海岸沿いにいた支配人、番人らをも殺害しました。

クナシリ島で蜂起にしたのは、マメキリ、ホニシアイヌら5人が中心となって、合わせて41人が番人らを襲撃しました。彼らはクナシリ島の若きアイヌリー ダーたちで、フルカマップで4人、トウフツで2人、トマリで5人、チフカルベツで8人、ヘトカで3人の合計22人を殺害しました。さらにメナシ地方(標津 ・羅臼付近)では、49人を殺しました。結局クナシリ・メナシ地方合わせて130人が蜂起し、71人の和人を殺しました。このあたりにいた和人で生き残ったものは4人おりましたが、ほとんど全てが殺されました。

クナシリ・メナシの戦い関係地名図

クナシリ・メナシの戦い関係地名図


■蜂起の原因

この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧隊260人をノッカマップに派遣し、なぜ蜂起が起きたのか取り調べることになりました。取り調べの結果、飛騨屋の支配人、番人らの非道(暴力・脅迫・性的暴力・だまし・ツグナイ要求)の実態が明らかになりました。これらは、飛騨屋がアイヌを強制的に働かせるために行われました。また、アイヌの人々は非常に安い賃金(品物)で、自分たちが冬に食べ る食糧を確保する暇もないほど働かされ、餓死するものが出る状態でした。次第にアイヌたちは「このままでは生きていけない」と意識するようになり、飛騨屋の番人らが「アイヌを根絶やしにして、和人を連れて来る」という脅しが、現実味を帯びてきました。さらに、女性に対する性的暴力が続出し、それに対する抗議をしても認めるどころか、さらにひどい暴力を受けるという始末でした。


■直接の原因

このようにクナシリ・メナシ地方のアイヌたちは、過酷で強制的に働かされ続け、いつ何が起こっても不思議でない状況となっていました。

1789(寛政元)年になって、クナシリ島の惣長人(そうおとな=総首長)サンキチが病気になり、メナシ領ウェンベツの支配人勘兵衛がクナシリ島にきて持ってきた酒をサンキチが呑んだところ、そのまま死んでしまいました。また、同じくクナシリの長人(おとな=首長)マメキリの妻が和人からもらった飯を食べたところ、まもなく死んでしまいました。このような不審な死に方をしたサンキチやマメキリの妻は、普段から毒殺するといって脅かし続けた和人によって、本当に毒殺されたに違いないということになったのです。本当に毒殺であったかどうかは、今となっては真相は分かりませんが、たとえ偶然であったとしても、蜂起に至るのは時間の問題であったのです。


■鎮圧隊の松前出発

この蜂起の事実が松前城下に伝わったのは6月1日でした。すぐに260人の鎮圧隊が組織されました。鉄砲85丁・大砲3挺・馬20頭も準備され、6月11日から19日にかけて、根室のノッカマップに向けて出発しました。


■ノッカマップでの取リ調べ
鎮圧軍は7月8日にノッカマップに到着しました(この年は閏年で、6月が2 カ月ある)。蜂起に関係したアイヌたちをノッカマップに集め取り調べが始まり ました。最初は捕まって殺されるかもしれないという疑いからなかなか集まりま せんでしたが、7月16日までにメナシの183人とクナシリの131人のアイ ヌがノッカマップに到着しました。

アイヌに対する取り調べは、アッケシの首長イコトイ、ノッカマップの首長ションコ、クナシリの首長ツキノエに行わせました。その結果、クナシリでは41人が、メナシでは89人が、合わせて130人が蜂起し、殺害に加わったことが 判明しました。さらに、なぜ蜂起したかについても詳細に取り調べられました。この内、直接の加害者である37人が牢に入れられました。さらに彼らが持っていた弓などの武器が全て没収されました。

■37人の処刑

7月20日に取り調べが行われ、その日に直ちに37人に対して、重罪であるという理由で死罪が決定しました。

翌21日、本人たちに死罪が申し渡され、指導者であったマメキリから順番に牢から引きだし、首をはねていきました。次々と首をはね、5人目が終わり、6人目の時、牢内が騒がしくなり、大勢がペウタンケと呼ばれる呪いの叫びをあげ、牢を壊そうとしたので、鎮圧軍は牢に鉄砲を撃ち込み、逃げる者は槍で突き刺し、大半を殺した後、牢を引き倒し37人全てを処刑しました。その後、処刑した者全員の首をはね、洗って箱に塩詰めにし、胴体は一つずつむしろで包んで大きな穴を掘って埋めたのでした。

ノツカマップイチャルパのヌサ

ノツカマップイチャルパのヌサ(幣)場


7月24日には37人に胴体を埋めた塚に、太さ30センチメートル、長さ3.6メートルの角材の四面を赤く、四角を黒く塗り、ノッカマップ岬の四方から 見渡せるところに建てました。現在はこの場所がどこか不明です。7月27日 には、長老のアイヌたちに、今後二度とこのようなことがないように申し渡して、鎮圧軍はノッカマップを出発しました。37個の首は松前郊外の立石野で首あらためが行われました。

ノッカマップ岬

ノツカマップ岬(ノツカマフ1・2号チャシ跡が所在)

■アイヌと松前藩
この戦いの後、飛騨屋は交易の権利を没収されましたが、松前藩には何のお咎めもありませんでした。結局、幕府は特にこの戦いに後、新しい政策を打ち出せなく、蝦夷地を黙認したのでした。しかし、蝦夷地の経済的な価値やロシアの南下に対しては、再度強い関心を示し、幕府の目が北に向くきっかけになったのでした。

■アイヌの勢力
この戦いに敗北した、アイヌ社会は松前藩との力の差を知ることになり、さらに、本州から持ち込まれる生活物資無しには、生活できなくなっていて、アイヌ自身による独自の政治勢力が育つ可能性が、非常に弱くなるという道をたどることになります。

アイヌにとっては、蜂起前のように武力で立ち上がる力をつみ取られ、政治的にも経済的にも従属関係となり、和人支配下で働かされるということが、日常的になっていきました。


■おわりに

1789年はフランス革命が起こった年でもありました。蝦夷地でこのような戦いが起こったことも偶然ではなく、世界史の流れの中でとらえようとする考え方もあります。
この戦いは、決して楽しい歴史ではありませんが、北海道にとっても日本にとっても、そしてアイヌ民族の歴史にとっても、大変重要な出来事でした。そして根室市にとっても忘れてはならない歴史ですので、ここに掲載いたしました。

https://www.city.nemuro.hokkaido.jp/lifeinfo/kakuka/kyoikuiinkai/kyoikushiryokan/siryoukann/rekishinitsuite/tatakai/4719.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c5

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
6. 中川隆[-12823] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:48:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

北方領土を考える その一 北方諸島とアイヌ語の地名 2016年12月16日
http://naritas.jp/wp1/?p=4634


ウラジミール・プーチン (Vladimir Putin)大統領が来日しています。山口と東京における安倍総理との会談がどんな成果を生むかが注目されます。会談の一つに北方問題を取り上げられるようです。日ロの平和条約に関して安倍総理は「新しいアプローチに基づく交渉」とか「特別制度による共同経済活動」とやらで臨んでいるようです。経済協力先行を主張するロシアは領土問題を棚上げしたいのは目に見えています。

国家の主権の大事な要素は領土、そしてそこに住む民族です。領土の帰属を主張する根拠とは、誰が見つけて占有を宣言するかではなく、誰が先住していたかということが20世紀以降の国際通念です。北方領土問題は占有と先住を巡る解釈、そして力関係です。そうたやすく解決する問題ではなさそうです。100年はかかるかもしれません。樺太生まれの北海道育ちの私も日ロの平和条約と北方問題の解決には大いに関心を持っています。

北方領土における千島や樺太、そして北海道にはアイヌ語を語源とする地名などが沢山あります。私が生まれた樺太の真岡は、アイヌ語の「マオカ」で静かな場所、「マ・オカ」という呼び名もあり、これは「川口が入江になっている海岸」という意味だそうです。小さいとき育った美幌はアイヌ語の水多く、大いなる所を意味する、「ピ・ポロ」、稚内はアイヌ語の「冷たい飲み水の沢」を意味する「ヤム・ワッカ・ナイ」、名寄はアイヌ語の渓流に注ぐ口という意味の「ナイオロプト」、旭川はアイヌ語で忠別川を指す「チュプ・ペッ」と呼ばれていました。「チュプ」は「日」、「ペッ」は川の意味でやがて「旭川」となったという説です。
http://naritas.jp/wp1/?p=4634
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c6

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
7. 中川隆[-12822] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:52:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
北方領土の読み方は4島すべて何と言う?四島の語源も!
https://takenori.info/blog/northern-territories/


北方領土4島すべての読み方は何と言うか?

以下に一覧で。↓

•色丹島:Остров Шикотан:シコタン
•歯舞群島:諸島:Острова Хабомаи:ハボマイ
•国後島:Курильские острова:クナシリ
•択捉島:Итуруп:エトロフ

1956年の日ソ共同宣言から言われている
色丹( しこたん )島と、歯舞( はぼまい )
群島・諸島の2島と、国後( くなしり )島と
択捉( えとろふ )島が北方領土の四島である。

各島の語源は次章以降で詳しく解説する。


色丹島の語源はアイヌ語で「 大きな村 」

 ウィキペディアの記述に拠れば、色丹( シコタン )島
は、アイヌ民族が強制的に移住させられた歴史が有るという。

「 色丹島 」より引用↓


1884年( 明治17年 )に占守島や
幌筵島、及び中部千島の羅処和島に
居住していた千島アイヌの人々が
色丹島に強制移住させられた。

【 引用ここまで↑出典:Wikipedia 】

アイヌ語は北海道アイヌ語が消滅の危機に
瀕して居るとされるが、色丹島を含まない
千島列島アイヌ語は、すでに絶滅している。

そのアイヌ語で「 大きな村 」という
意味の語源がシ・コタンとなる。

Малокурильское, o.Шикотан.png


歯舞群島の語源は「 流氷が退くと現れる 」

 歯舞群島もしくは諸島の、ハボマイの由来は
アイヌ語の「 ハ・アプ・オマ・イ 」から来ている。

日本語に翻訳すると、「 流氷が退くと小島が現れる場所 」となる。


Часовня на острове Танфильева.png

ウィキ情報に拠れば、1956年の日ソ共同宣言で締結され
2018年11月14日の日露首脳会談で返還が
検討されている、色丹島と歯舞群島の
2島は千島列島には入らないとしながらも
便宜上、一部として記述するとしている。

ちなみに、歯舞島は群島もしくは諸島なので
その名の通り、大小13の島々で攻勢されている。


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国後島の語源は「 黒い草の島 」が有力?

 2島返還の対象に入っていない北方領土が
択捉( エトロフ )島と国後( クナシリ )島
の2島で、地理的には千島列島に属する。

しかしながら、国後島の語源に付いては
いくつかの諸説があり、明確な由来は不明だ。

「 国後島 」より引用↓


島の名前の由来は、アイヌ語の「クンネ・シリ
( 黒い・島→黒い島 )」または「キナ・シリ/
キナ・シル( 草の・島→草の島 )」からであるが、
どちらが本当の由来かは、はっきりとしていない。

この島に先住していたアイヌ人はアイヌ語で
「 クナシル 」と呼んでおり、日本語名も
ロシア語名も国際標記も、これに起源を持つ。

【 引用ここまで↑出典:Wikipedia 】

つまり、国後島の語源は「 黒い 」か
「 草 」の、どちらかであるという説である。

つまり両者を、かけ合わせると「 黒い草の島 」
か「 草の黒い島 」の、どちらかになる。

Tomari Village in Kunashiri Island.JPG


択捉島の語源はアイヌ語で「 岬の有る所 」

 北方領土の千島列島に属する択捉( エトロフ )島も、
2島返還には含まれていない島である。

択捉島の語源は、アイヌ語で「 エトゥ・ヲロ・プ 」
と発音し、意味は「 岬の有る場所 」だ。

では、その岬とは何か?と言えば択捉島の
最北端の岬である「 カモイワッカ岬 」を指す。↓


カモイワッカ岬.JPG


つまり、カモイワッカ岬の有る島が択捉島だ。

以上が、北方領土4島の「 読み方と語源 」になる。

北方領土の地図を4島すべての場所がどこ?かをGoogleマップで表示

 ロシア側からの色丹島および歯舞群島の2島返還が加速したと報じられている「 北方領土4島 」の場所と位置をGoogl...


つまり北方四島、全ての名前は先住民族である
アイヌ人が命名した、ということになる。

プーチン大統領は今回の2島返還に際し、
日本語で「 引き分け 」だと語った。

シコタン色丹島の人口と居住者数は2018年現在で何人いるのか?

 速報で2018年11月14日、シンガポールにて日露首脳会談が行われ、ロシアのウラジーミルプーチン大統領【 66 】は...


自身が柔道8段を有するプーチン大統領
らしい発言だが今後は、どうなっていくのか?

対する安倍首相は自身が、お得意の
アーチェリー( 洋弓 )で、狙い通りの的に
見事、命中させる事が出来るのかー!?
https://takenori.info/blog/northern-territories/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c7

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
8. 中川隆[-12821] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:58:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

0-0. 日本人の源流考 _ アイヌ人の起源
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1

日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」と「C」
  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、故地である地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」の古サン集団等やY-DNA「B」の古ピグミー集団等の支配階級として ネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

  これは重要なことで、Y-DNA「A」と「B」はネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない原ホモサピエンスだが、 ネアンデルタール人遺伝子を獲得したはずの現サピエンスのY-DNA「E」がアフリカ全土にもれなく拡大したため、Y-DNA「A」が主体のサン族も、 Y-DNA「B」が主体のピグミー族も支配階級はY-DNA「E」に代わっているようだ。 (余談だがアフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて 更に新しい支配階級として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部になっている。)
  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのだろう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至った。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのだろう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の 大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、そこから北上し現在の中国大陸に到達した。 その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として 絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。 Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。 日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えられる。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族やLani族などニューギニア高地人集団やオーストラリア・アボリジニ集団、つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っている。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていない。 どうやら途絶えてしまった可能性が高い。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」が そのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような 移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。 最も頻度が高いのはTanana族である、約40%もの頻度を持つ。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、 大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c8

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
9. 中川隆[-12820] koaQ7Jey 2019年1月21日 14:04:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

千島アイヌ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B3%B6%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C

千島アイヌ(ちしまアイヌ、アイヌ語: Ruru-tom-un-kuru、英語: Kuril Ainu)とは、かつてウルップ島以北の北千島に居住していたアイヌ系民族である。北海道アイヌや樺太アイヌとは異なる文化・伝統を有することで知られていたが、千島・樺太交換条約締結後の日露両国による強制移住政策によって人口が激減し、現在では千島アイヌの文化は断絶してしまっている。

欧米ではクリルアイヌ、あるいは単にクリル人とも呼称される。


千島列島

「千島アイヌ」あるいは「クリルアイヌ」の名前で知られているものの、厳密に言うと南千島(エトロフ島・クナシリ島等)のアイヌは北海道本島のアイヌと同系統とされ、通常「千島アイヌ」は、ウルップ島以北の北千島の島々にルーツを持つアイヌを指していることが多い。

エトロフ島–ウルップ島間の択捉水道(ロシア語: Пролив Фриза)を境にしてアイヌ民族の文化伝統が異なる事は古くから知られており、近藤重蔵は『辺要分界図考』(1804年)で以下のように述べている。


東海ウルップ島より前路、シモシリ島(新知島)よりカムサスカ(カムチャツカ)地方に至る迄凡十余島、世の所謂千島にして蝦夷人之を称してチュプカと云。チュプカとは日出処の義也。蛮書に之をクリル諸島と云。その島大なる者十六、小なる者無数……。
— 近藤重蔵『辺要分界図考』巻四

同様に、蝦夷通辞の上原熊次郎は以下のような記述を残している。


扠又、当所(静内)よりポロイヅミ(襟裳)辺までの蝦夷をまとめてメナシウンクルといふ。則、東のものといふ事。……ビロウ(広尾)より子モロ(根室)領辺迄の蝦夷をシメナシュンクルといふ。則、奥東のものといふ事。エトロフより奥の嶋のものをチウブカンクルといふ。則、日の方のものといふ事……。
— 上原熊次郎『蝦夷地名考并里程記』[1]

以上の記述をあわせると、北海道アイヌの間ではエトロフ島・シコタン島といった南千島のアイヌは道東一帯のアイヌと同じグループに分類されており、それ以北のグループがチュプカウンクル(アイヌ語:cupka-un-kur)と呼ばれていたという。ここで言う「チュプカ」とは、「日・の上(=太陽の上がる方向、東)」を意味するアイヌ語cup-kaのことである[2]。

また、1899年の鳥居龍蔵の調査によると、千島アイヌは自身のことを「ルートンモングル(ruton-mon-guru,「西に住まえる人」の意)」、北海道アイヌのことを「ヤムグル(yamu-guru,「南方の人」の意)」、カムチャダールのことを「チュプカウングル(cupka-an-guru,「東方の人」の意)」と呼称しており、ここでも「ルートン(ruton)」はウルップ島〜シュムシュ島の北千島のみを指すものとされている[3]。これらの呼称はより正確には「ルルトムンクル(アイヌ語: ruru-tom-un-kuru,「海中の人」の意)」あるいは「ルットムンクル(アイヌ語: ruttom-un-kuru,「島嶼の住人」の意)」、「ヤウンクル(アイヌ語: ya-un-kuru,「本土の人」の意)」を聞き取ったものと見られている[4]。

なお、カムチャツカ半島南部(ロパートカ岬一帯)にはアイヌ語地名がいくつか残っており、カムチャツカ半島南部も千島アイヌの居住圏であったと見られている[5]。

歴史

「アイヌの歴史」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2


千島アイヌの成立は北海道アイヌ・樺太アイヌと比較して遅く、15世紀以後のことと考えられている。これはアイヌ民族以前に千島列島に居住していたオホーツク文化人を漸次同化・征服していったためである。

千島アイヌの産出するラッコ皮は他の地域では得られない稀少品であり、古くから交易によって日本社会に輸入されていた。

一方、千島アイヌが直接和人と交易を行わなかったこともあって、江戸時代末期に至るまで千島アイヌに関して日本ではほとんど知られていなかった。16-17世紀頃の日本では千島方面を漠然と「クルミセ」あるいは「ラッコ島」と呼ぶのみで、千島に関する知識は主に北海道アイヌを介した伝聞に拠っていた。

17世紀末、カムチャッカ半島にまで進出していたロシア人は、18世紀初頭より千島列島に足を踏み入れるようになった。1711年、アンツィフェーロフ率いるコサックは始めて千島列島に進出し、これ以後千島アイヌはロシア人より毛皮税(ヤサーク)を取り立てられるようになった。

19世紀に入ると、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、千島方面における国境画定が問題化してきた。両国の国境確定は明治維新を経た後、1875年の千島・樺太交換条約によって一応の決着を見た。この結果、千島アイヌは3年以内に日露どちらかの国籍を選択することを迫られた。

日本政府は国策として、国防を理由に千島アイヌをシコタン島に強制移住させた。慣れない生活と風土のため、千島アイヌの人口は激減してしまった。更に、第二次世界大戦でソ連が南千島(北方領土)を占領すると、千島アイヌ及びその血縁者は日本各地に移住したため、千島アイヌ文化の伝統は途絶えてしまった。現在、千島アイヌとしての文化的アイデンティティを保持する者は既に存在しないと考えられている[6]。


千島アイヌの竪穴住居

千島アイヌ文化が北海道アイヌ文化と異なる点としてよく挙げられるのが、竪穴住居での生活である。竪穴住居を作る際には、まず長方形の穴を掘った後に柱を立て、板で囲い、急勾配の屋根をつくる。その後、煙出し用の穴を残して干し草・土・泥炭などで蔽い、窓や入り口を整えて完成させた。窓ガラス代わりに海獣の膀胱を広げたものを窓に貼っていたため、室内はとても暗かったという。

ロシア人の進出後、千島アイヌの住居で最も大きく変わったのは風呂を作るようになったことであった。この風呂はロシアの蒸し風呂(バーニャ)をまねたもので、熱した石に水をかけることで蒸気を出す、というものであった[7]。

衣服

作業中の千島アイヌ

近藤重蔵の記録によると、千島アイヌには羽毛(アイヌ語: rap-ur)、犬の皮(アイヌ語: seta-ur)、草を編んだもの(アイヌ語: kera)などを材料とした衣服が存在したという。また、ウシシルのアイヌは雁の羽にアザラシの皮で縁取った筒袖仕立ての衣服を着ていたという。keraはキナという草を用いて作るが、北海道アイヌの作るアットゥシ(attus)は材料となるオヒョウが北千島で育たないため、作られない[8]。

靴としては耐水性の高いトドあるいはアザラシの皮を用いて作った長靴を使っており、冬期には柳で作った樏をつけていたという。以上のような千島アイヌの衣服は18世紀以後かなりロシア化し、ロシア製のシャツや帽子、用いるようになったという[9]。


生活用具

北海道アイヌ・樺太アイヌには見られない千島アイヌ独自の特徴として、遅くとも19世紀前半まで土器作りの文化を保持していたことが挙げられる。しかし、このような文化はロシア人の進出とともに少しずつ廃れてゆき、ロシア製の用具を用いるようになっていった。

千島アイヌを代表する物質文化として、「テンキ」と呼ばれるバスケットが存在する。これはテンキ草(ハマニンニク)を材料に巻き上げ技法(コイリング技法)を用いて作成したもので、アメリカ北西海岸のネイティブアメリカンとも共通する文化である。また、千島アイヌは木製仮面を有していたことが知られているが、これもまたアラスカ・アリューシャン・カムチャッカの北方民族の影響を受けた文化であると考えられている[10]。

言語

「千島アイヌ語」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B3%B6%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E


千島アイヌ語についての資料は断片的なものしか残されておらず、その実態には未だ謎が多い。

しかし、クラシェニンニコフは「クナシリ[島]住民の言語は第2島ポロムシル島(幌筵島)で話される言語とほとんど何らの相違もない」というクリル人(アイヌ)の発言を記録しており、国後島を含むをアイヌ語南千島方言と類似した言語であった可能性がある[11]。

コロポックル伝説と千島アイヌ

コロポックルの木彫り人形

詳細は「コロポックル」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AB


アイヌ民族伝承の一つとして知られるコロポックル伝説のモチーフが千島アイヌであった、とする説が存在する。

一般的に「アイヌ民族の小人伝承」と言うと「蕗の葉の下の人(korpokkur)」が想像されるが、実は前近代の記録にはアイヌ民族の伝える小人を「トイチセコッチャカムイ(トイコイカムイ、トイチセウンクルとも。竪穴住居に住む人、の意)」或いは「クルムセ(千島の人、の意)」という名称でも記録していた[12]。

例えば、17世紀の『勢州船北海漂着記』には以下のように記録されている。


蝦夷人物語申し候は、小人島より蝦夷へたびたび土を盗み参り候、おどし候へば、そのまま隠れ、船共々見え申さず候由、蝦夷より小人島まで、船路百里も御座候由、右の土を盗みて鍋にいたし候由、もつともせいちいさくして、小人島には鷲多く御座候て、……。
— 松阪七郎兵衛ほか『勢州船北海漂着記』(1662年)[13]

この記述に見られるような、古い時代に記録された小人の特徴を列挙すると、

1.小人と北海道アイヌはコミュニケーションを欠く(=両者は沈黙交易を行う)
2.小人は土鍋製作用の土を取って帰る(=小人は土器製作を行う)
3.小人の島にはオオワシが多い
4.小人は島に住む、船でやってくる

となり、これらの特徴は全て千島アイヌの特徴と一致する[14]。

更に注目されるのは、樺太アイヌ・北海道アイヌ・南千島アイヌといったほぼ全ての地域で伝承される「小人伝説」が、唯一千島アイヌの間でのみ知られていないという点である[15]。

以上の点を踏まえて、瀬川拓郎はアイヌの小人伝説について「……十五世紀に北千島へ進出したアイヌは、その奇妙な習俗によって異人され、15〜16世紀には道東アイヌのあいだで小人として語られることになった」のであり、「19世紀ころには、様々なモティーフを取り込み、他の伝説とも融合して、もはや北千島アイヌの現実の習俗を反映した伝説であったとは思われないほど、小人伝説はアイヌ世界の物語として『成長』を遂げていた」と纏めている[16]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B3%B6%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c9

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
10. 中川隆[-12819] koaQ7Jey 2019年1月21日 14:09:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

ロシアにおけるアイヌ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C

樺太アイヌ(ブロニスワフ・ピウスツキによる撮影)
ロシアにおけるアイヌではロシア連邦の領内における先住民族としてのアイヌ民族の歴史及び現状について記す。

サハリン州、ハバロフスク地方、カムチャツカ地方に居住している。ロシア語ではアイヌ(Айны)、クリル(Куриль)、カムチャツカ・クリル(Камчатские Куриль)、カムチャツカ・アイヌ(Камчадальские Айны)、エイン(Ейны)などと呼ばれ、6つの集団に分けられる。2010年の国勢調査ではロシア国内で自らがアイヌであると回答した人数は100人程度であるが、少なくとも1,000人はアイヌを祖先に持つと考えられている。アイヌを名乗る人数が少ないのは、連邦政府に「現存する」民族集団としての承認を受けられていない結果であると考えられる。アイヌを祖先に持つ人が最も多いのはサハリン州であるにも関わらず、自らをアイヌと定義する人の大多数はカムチャツカ地方に居住している。

集団

ロシア領内に居住するアイヌは6つの集団に分けられ、うち4つは民族集団としては消滅している。

カムチャツカアイヌ

「カムチャツカ・クリル」として知られる。1706年にロシア帝国に敗北したことに加えて天然痘が流行した事により、現在では民族集団としては消滅している。現在では後述の北千島アイヌ、もしくはイテリメン族に同化している。18世紀のロシアの探検家の記録が最後である[1]。

北千島アイヌ


「クリル」として知られる。千島列島は1875年に樺太・千島交換条約が締結されるまではロシア帝国の統治下であった。大多数は占守島に、他は幌筵島に少数居住し、1860年段階で人口は221人であった。彼らはロシア式の名前を名乗り、流暢なロシア語を話し、ロシア正教を信仰していた。日本領になってからは100人以上のアイヌがロシア人と共にカムチャツカに移住した[2]。最近では100人近くがウスチ・ボリシェレツキー地区(英語版)に居住している。日本の統治下に留まった集団は第二次世界大戦後、最後の生存者だった田中キヌが1973年に北海道で亡くなり絶滅した[3]。

南千島アイヌ

詳細は「メナシクル」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%82%AF%E3%83%AB


18世紀時点では国後島、択捉島、得撫島を中心に約2,000人が居住していたが1884年には500人前後まで減少した。1941年には太平洋戦争開戦に伴い50人(大部分が混血)が北海道に避難した。現在は6人がロシアに居住している。

アムールアイヌ

ブロニスワフ・ピウスツキの調査によると、20世紀初頭に数人がロシア人もしくはウリチ人と結婚していた[4]。1926年のソ連の国勢調査ではニコラエフスキー地区に純血は26人しかおらず、多くはスラブ系民族の中に同化したと考えられる[5]。今日ではハバロフスク地方で自らをアイヌを定義する者は殆どいないが、ウリチ人の相当数がアイヌの血を引き継いでいる[6]。

北樺太アイヌ

1926年の国勢調査では北サハリン州に純血は5人だけであった。ブロニスワフ・ピウスツキの調査によると、大部分の樺太アイヌは1875年に北海道に移住させられ、樺太に留まったごく少数のアイヌはロシア人と結婚したものと考えられる。民族集団としては消滅したが、アイヌの血を引き継いだ人は現在もいると考えられる[7]。

南樺太アイヌ

詳細は「樺太アイヌ」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C


大部分の樺太アイヌがソ連対日参戦後に日本の当局により北海道に避難させられた。現在のサハリン州にも個人としてはアイヌが存在している可能性はある。1949年の時点では約100人のアイヌがサハリンに残っていた。ソ連当局はサハリンにおいて子供にアイヌを名乗らせないように圧力を掛けた。1980年代には3人の純血のアイヌが亡くなり、数百人ほどの混血者だけが現在も居住している。しかし彼らは先祖であるアイヌに関する知識は殆どない。

歴史

カムチャツカ半島のアイヌが最初にロシア人と接触したのは17世紀末である。18世紀にはアムールと北クリルのアイヌが制圧された。アイヌはモンゴロイドの日本人と異なるロシア人を友好関係の対象とみなし、18世紀半ばには1,500人以上のアイヌがロシアへの帰属を選んだ。アイヌ人はコーカソイド的な特徴も持ち合わせていることから、日本人にとってアイヌ人とロシア人の区別は困難であり、日本人が初めてロシア人と接触した時にはロシア人の事を「赤蝦夷」と呼んでいた。19世紀初頭にようやくロシア人はアイヌ人と異なる民族集団であることを認識したのである。その一方でロシア人はアイヌ人の事を「毛深い」「浅黒い」「髪と目が黒い」と記録していた。初期のロシア人探検家はアイヌ人の事を顎髭のあるロシアの貧農、もしくはロマに似ていると記していた。

アイヌ人、特に北千島のアイヌは19世紀の日露間の対立でロシア側を支持した。しかしながら、1905年に日露戦争でロシアが敗北してからは、ロシア人の間でアイヌ人との同盟意識は薄れていった。更に数百人のアイヌが処刑されたり、強制的に北海道に移住させられた。その結果、ロシア人は第二次世界大戦においてアイヌを味方に付ける事が出来ず、ソ連への残留を選択したアイヌは極少数に留まった。90%以上のアイヌは日本への帰属を受け入れた。

カムチャツカへの移住

樺太・千島交換条約の結果、千島列島は日本領となり、そこで暮らすアイヌ人も日本に帰属した。しかしながら、83人の北千島アイヌは1877年9月18日にペトロパブロフスク・カムチャツキーに渡り、ロシアの統治下で生活することを決断した。彼らはロシア当局によるコマンドル諸島への移住の提案は拒絶した。最終的には1881年にヤヴィン村に移ることになった。1881年3月にはペトロパブロフスクを離れ、ヤヴィンまでの徒歩で渡った。4ヶ月後になってようやく新たな居住地にたどり着いた。もう一つの村であるゴリヴィノ村は後から形成された。1884年には9人のアイヌが日本から移住した。1897年の調査では、ゴリヴィノに57人、ヤヴィンに33人のアイヌが居住していた[8]。ソ連体制下では両集落は再整理され、ロシア人が居住するウスト・ボルシェレツキー地区のザポロージエ集落に移住させられた[9]。異民族との通婚の結果、3つの部族はカムチャダールと同化した。

帝政ロシア時代のアイヌは自らを「アイヌ」と名乗ることは禁じられていた。大日本帝国側はアイヌ民族が居住している、もしくは過去に居住していた全ての地域は日本領であると主張していたためである。代わりに「クリル」や「カムチャツカ・クリル」などの表現が用いられた。ソ連時代にはアイヌの姓を名乗る者はしばしば日本人と間違われてグラグや労働キャンプに送られた。その結果、アイヌの大多数はスラブ式の姓に改姓した。 第二次世界大戦後の1953年2月7日には当局によりソ連国内に居住するアイヌに関するあらゆる情報を出版することを禁じられた。この指令は20年後になって取り消された。

最近の動向

北千島アイヌが居住するカムチャツカのザポロージエ集落は現在のロシアにおけるアイヌの部族では最大規模である。父方が南千島アイヌのナカムラ一族は6人であり、ペトロパブロフスク・カムチャツキーに住んでいる。サハリン島では数十人が自らをアイヌと名乗るが、大部分は片親が他民族であり、アイヌの伝統文化を習得していない。2010年調査では888人の「日本人」が居住しており、その大多数がアイヌとの混血であるが、彼らもまたアイヌの伝統文化を習得していない[10]。同様に、ハバロフスクには片親がアイヌの子孫が居住しているが、アムールアイヌは誰も自らをアイヌと名乗ることはない。なお、カムチャツカアイヌの生存者はいないと言われている。1979年にはソ連政府はロシアの領域から民族集団としてのアイヌが消滅したとして、現存する民族集団から「アイヌ」の項目を削除した。ソ連崩壊後の2002年の国勢調査では調査票に「アイヌ」と記載する者はいなかった[11][12][13]。

アイヌ民族自身は自らは千島列島の先住民であり、日本とロシアの両方が侵略者であると主張してきた[14]。2004年にはカムチャツカ地方の小規模なアイヌ人団体がウラジミール・プーチン大統領に日本との間での北方領土における一連の動きついて再考することを求める手紙を出した。その手紙では日本、帝政ロシア、ソビエト連邦の全てをアイヌ民族の殺害と同化政策を行なったとして糾弾していた[15]。しかしながら、その要請はプーチン大統領に拒否された。その団体はアイヌ民族をめぐる悲劇の規模と激しさはアメリカ先住民が直面したジェノサイドに匹敵すると主張している。2010年の国勢調査ではその集落の100人近くがアイヌ民族と申告したが、カムチャツカ地方議会はそれを拒否してイテリメン族として取り扱った[16]。2011年にはカムチャツカのアイヌ民族団体のリーダー、アレクセイ・ウラジミロヴィッチ・ナカムラがウラジミール・イリューヒン(カムチャツカ地方知事)とボリス・ネフゾロフ(連邦下院議員)に政府の北方・シベリア・極東地方少数先住民族のリストに加えるように要求した。 しかしながらこの提案も拒否された[17]。

サハリン州とハバロフスク地方のアイヌ人は政治的主張を行う団体を結成していない。アレクセイ・ナカムラは2012年時点でロシア領内にアイヌ人は205人しかいない、そのうち2008年段階で自らがアイヌ人であると主張していたのは12人であり、「千島列島のカムチャダール族」と共に少数民族としての認定のために活動していると主張している[18]。アイヌがロシア政府の少数民族の公式リストから外されて以来、彼らは無国籍人、ロシア人、カムチャダール人のいずれかに定義されている[19]。なお、2012年時点では北千島アイヌと千島列島のカムチャダールは共にロシア政府から北方少数先住民族としての漁業権・狩猟権は認められていない[20]。最近になってボリス・ヤラヴォイによってロシア極東アイヌ協会(RADA)が設立された[21]。

人口

2010年のロシア国勢調査では109人のアイヌ人が存在するとしている。このうち94人はカムチャツカ地方、 4人は沿海地方、3人はサハリン州、1人はハバロフスク地方、4人はモスクワ市、1人はサンクトペテルブルク市、1人はスヴェルドロフスク州、1人はロストフ州という内訳である。実際のアイヌ人口は更に多いと考えられるが、サハリンの数百人のアイヌは自らをアイヌと定義する事を否定している。

ロシア政府の見解

ロシア連邦当局の国勢調査ではアイヌ民族はロシア国内では既に絶滅した民族集団とされている。アイヌ民族を名乗る人もアイヌ語を話すことは出来ず、生活における民族の伝統文化の要素も失われている。社会的・風習的には古くから居住するカムチャツカのロシア人と殆ど同一である。それゆえ、イテリメン族に与えられているような少数民族としての権利はカムチャツカのアイヌ人には認められていない。アイヌ語はロシア国内では話し言葉としては既に消滅している。カムチャツカのアイヌは20世紀初頭にはアイヌ語を用いなくなった。1979年時点でわずか3人の流暢なアイヌ語話者がサハリン州にいたのみであり、1980年代には消滅した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c10

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
11. 中川隆[-12818] koaQ7Jey 2019年1月21日 14:12:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
第一章 ロシアの東方進出と千島アイヌ
第1節 クリル列島とクリル人
http://www.orthodox-jp.com/kushiro/bef/1_1.htm


 露領時代の千島列島はクリル列島と呼ばれ、カムチャツカの南端から蝦夷(北海道)の北岬に延長約1200q、小島を除いて弓状に22の島からなっている。クリルの語源は露語のクーリイチ(燻る)からなまったもので、これは露人が初めてカムチャツカの南端から遙かに千島最北のアライト島を望んだとき、その山頂から火焔が上がるのを見て名付けたためと言われている。しかし、クリルの名称はアイヌ語のクル(人間)に由来する説が今日有力である。日本でも古くは千島のことを「くるみせ」と呼んでいたと言うが、名称については、その地に住んでいた先住民をクリル人、または千島アイヌと呼ぶことにする。

 カムチャツカ・千島が露人の版図となる以前のクリル人については『千島アイヌ』の著者鳥居龍蔵氏、自ら占守島へ渡って千島アイヌを調査した我が正教会の伝教者フェオドル斎藤東吉師によれば次の通りである。

 クリル人は、露人が北千島へ進入する相当以前から首長制の一大部族(一時は300名以上もいた)を形成し、各島を移動する活動的な狩猟民族であった。占守(シュムシュ)・幌莚(パラムシル)・羅處和(ラショワ。現地ではラサワ)島を定住地としながらも、北千島列島間を南は新知(シンシリ)島辺まで移転往来して狩猟をしていたが、古くはカムチャツカ東岸ではほぼアワチンスカヤ湾、西岸ボルシャヤ河を結ぶ一線より南の地帯まで拡がっていたと言われる。

 クリル人は古くから蝦夷アイヌと交易して木綿・鍋釜・刀剣等の鉄器も手に入れて交易的な経済生活をしていた。松前から蝦夷アイヌを通して日本文化の片鱗に触れていたわけである。即ち、蝦夷のアイヌは日本人と交易したこれらの品物をラサワ島まで運び、クリル人の捕獲した物資である鷲の羽やラッコの毛皮などと交換していた。

 『新羅の記録』には、1615年(元和元年)にメナシ地方(今日の根室・目梨地方を中心とする道東の広い地域を指す)からアイヌが数十艘の舟で松前に来てラッコの皮を松前藩主に貢物として持参し、藩主はこれを徳川家康に献上したという記録もある。

 また、1623年(元和9年)、江戸で他の切支丹信徒とともに火刑にされたイエズス会のデ・アンジェリス(イタリア人で再度蝦夷に渡っている)神父の書いた『蝦夷国報告書』(千島列島に関する文献の最古のものである)について、北大教授児玉作左衛門氏は千島先住民に触れて興味ある解説をしている。

 「その当時の藩主は松前志摩守公廣であるが、デ・アンジェリスに語ったことは次のことであった。即ち<ラッコ>は蝦夷地には産しないので、先住民はその皮を買うために、蝦夷の近くにある三つの島へ行く。これらの島の先住民には髭が無く蝦夷人とは全く異なった言語を持っている《 中略 》蝦夷の近くにある三つの島とは、さしあたり国後(クナシリ)・択捉(エトロフ)・得撫(ウルップ)の三島が考えられるが、或いは国後・択捉は蝦夷地の一部と見なし、その先にある得撫・新知及び他の一島の三つを意味したのであるかも知れない《 後略 》」

氏が述べているように、蝦夷アイヌと異なった民族が既に千島列島の中・南部に進出し、それらの地が彼らの生活圏となっていたのであろう。

 クリル人はいずれの地方から渡来したか、その起源については、アイヌ民族の系統に属することは間違いないが、蝦夷アイヌとは形質上やや異なる千島独特の民族が古くから蝦夷アイヌと交易し、独自な生活環境を築いていたことがうかがわれる。

   


第2節 露人のカムチャツカ進出


 ロシア人の東方進出は天正9年(西暦1581年、以下西暦とする)イェルマークに率いられたコサック兵800人がウラル山脈を越えてシベリアに進出し、1632年にはヤクーツクに城塞を築き、政庁を置き、1646年にはオホーツク海に達し、僅々60余年間でシベリアの大平原を大西洋岸まで横断したのである。また、カムチャツカは1697年から99年にかけてアトラソフ(シベリア大陸の東端ベーリング海のアナジリ湾頭のアナジリ城塞の司令官)によって征服されている。

 当時、この地方には、千島から渡ってきた人々とカムチャダール(カムチャツカの先住民・イテルメン)が混血・雑居していた。アトラソフ自身はカムチャツカ半島の南端をきわめなかったが、南の遠くない会場に島々があることを先住民から聞いている。

 アトラソフは、この地で先住民の捕虜になっている一人の日本人を保護した。この男はアトラソフやコサックと2年間カムチャツカで生活を共にした後、ペテルブルク(現サンクト・ペテルブルク)に送られ、ピョートル大帝の命令でロシア語を習得すると共にロシア人の若者に日本語を教えることになった。彼の名は伝兵衛で、ロシア国籍を取得し、ガウリイルの聖名で洗礼を受け、帰国することなく彼の地で永眠している。彼こそ日本人として最初のハリストス正教信徒であろう。
ピョートル大帝は伝兵衛を招いて自ら彼の話を聞いている。大帝は1702年、勅令を発して日本との通商の可能性を探ることを命じている。その後、ロシア人によりカムチャツカへの航路が開拓され、北千島への進出、更に日本への接近となる。

  


第3節 露人の千島進出


 ロシア人が最初に千島列島に進出したのは、1711年(正徳元年)のことであると言われている。この年、ロシア人のアンツィフョーロフ、コズィレフスキーの両人が反乱を起こし上官を殺害した。彼らはその罪を償うために多くのコサック兵を率い、千島列島伝いに日本に接近することを計画した。カムチャツカのロバトカ岬からカムチャダールの首長を案内役として、小舟と革舟に乗って遂に危険な海峡を突破し、千島第一島の占守島に上陸、有力な火器によって千島アイヌを制圧し、次いで1712年、第二回探検で幌莚島も支配下においた。茲に、これらの島を根拠地として、北はカムチャダール、南方択捉、国後の蝦夷アイヌを制圧した千島アイヌは露国政府の支配下に置かれることになったのである。だが、首長制度は存続し、後には正教会の司祭によってその就任式が挙げられるようになった。

 この時、先にカムチャツカに漂着した日本人捕虜のなかの「サニマ」(三右衛門の訛りか)と名乗る若者を、案内兼通訳として連れてきている。たまたまこの島には、シャタノイという名のアイヌが択捉島から日本の物品を持って交易に来ており、彼からマツマエ島(北海道)に至る14の島とその順番を知ることが出来た。

 サニマはその後、ペテルブルクに送られ、この地で帰化し、ロシア婦人と結婚して男子をもうけた。彼は伝兵衛の助手として日本語を教えたと言われるが、これには確たる証拠がない。ロシア婦人と結婚した事は、当時のロシアでは敬虔な正教徒になった事になる。

 その後、第二次ベーリングの北方大探検隊で日本沿岸の調査を命じられたシュパンベルグは、1738年(元文3年)千島列島を南下し、得撫島まで31の島を数えてこれを海図に記入したが、これは霧のため実際より多い島数であった。この航海では一人の日本人にも出会わなかった。更に、彼は先住民から日本の支配はマツマエ島(北海道)だけであって、他の島々は日本に従属していない事も聞いている。また、彼は1739年の探検では日本の安房、伊豆下田附近にまで入っている。

 ロシアの東方経略の目的は、国家組織による貴重海獣猟であり、また先住民と獣皮等を交易することを基盤として殖民地を獲得することにあった。一方、日本は徳川幕府の鎖国政策下にあり、当時、未開の北の宝庫、蝦夷も南端の小藩松前に委ねられていたに過ぎない。

 ベーリングやシュパンベルグの探検が行なわれていた頃、特にシュパンベルグの第一回探検で、千島列島に日本の主権が及んでいない事実を知ったロシア人は、占守島を根拠地として幌莚島以南、中千島から南千島にも進出した。コサックの百人長イワン・チョールヌイはヤサーク(毛皮貢税)徴収のため1768年に択捉島まで南下した記録がある。

 当時、ロシア人の多くは目前の利益のみ追い、永遠の大計をはからず先住民を虐待し、ために先住民の反感を高め、1770年、1772年、得撫島に出稼したロシア人が千島アイヌや蝦夷アイヌの襲撃を受けて、一時一掃されるような事件も起きている。

 その後、ロシア側は態度を改め、再び来航した時以来、千島アイヌに物品を与えて隔意のないことを示し、ロシア人と彼らとの間に交易が開始され、着々と経営を進め、得撫島に基地の建設を始めた。1820年から30年にかけて露米会社(産業家シェリコフが1798年にロシア=アメリカ会社をシットカを根拠地として設立し、毛皮貿易に大きな役割を果たし、1830年には北・中千島の権益をロシア政府が露米会社に渡した)が新知島と得撫島にアレウト人(アリューシャン列島先住民)を送り込んでラッコの狩猟に当たらせた。

 その後、この北辺で日本とロシア両国間に種々と紆余曲折が生じたが、1855年(安政元年)に伊豆下田に於いて日露通好条約が締結され、択捉・得撫間を両国の国境と定めた。得撫島に露米会社が進出する以前は、古くから得撫島が千島・蝦夷アイヌの自然の境界地であり、共通の狩猟場であったようである。

  


第4節 クリル人と正教


 1747年、カムチャツカの掌院ホコウンチェウスキー師は、修道司祭イオアサフを千島に派遣し、先住民教化に当たらせたと、鳥居龍蔵氏の『千島アイヌ』にある。それによると当時、占守・幌莚島に住んでいた千島アイヌは253名であり、その内、56人に洗礼を授けている。その時、イオアサフ師の持参した金装の聖書は、後の斜古丹聖三者教会の宝物として保管されたと伝えられている。その後、少年子女の為に学校を開設して彼らを教化し、正教の布教も着々と進められていく。

 イオアサフ師はその後、1794年、シノド(聖務会院)からアラスカ正教団の責任者として派遣され、大いに布教効果をあげ、カジャク島(アラスカ、アリューシャンの布教基地)の主教に叙聖されたが(1799年4月、於イルクーツク)、同年5月帰任のためオホーツク海を航行中、その乗船フエニクス号と共に行方不明になった。イオアサフ主教はロシア領時代のアラスカの初代主教となったが、現在、アメリカ正教会ではアメリカの初代主教として記憶されている。

 古来、千島アイヌは各島を移動する活動的な狩猟民族であり、占守・幌莚・羅處和の三島を定住地としていたのであるが、彼らは、この島より彼の島へと妻子と共に海獣を求めて移り歩いていたので、神父もまた彼らの後を追って転々として散在する島々を巡回しなければならず、決して容易な事ではなかったであろう。初期の伝道では言葉の違いをどう克服したのであろうか。神父達が千島アイヌの教化に努力した熱心さには驚かざるを得ない。『千島アイヌ』より引用すると

「1766年(明和3年)ツヱイ氏の調査によれば、一番島(占守)・二番島(幌莚)・十四番島(宇志知。ウシシリ)には男子(男女の誤りであろう)262人の千島アイヌが居り(内121名は貢納す)、1800年には正教を信仰する者は男77名、女87名、合計164人を数えた」

とあり、1800年代には千島アイヌ全員が正教徒となり、尚、択捉島の蝦夷アイヌにも正教を信仰する者が出たと思われる。それは、幕府が1799年、北辺の防備を痛感して千島の直轄に着手した時、島民の持っていた聖像を取り上げ、蝦夷地に施行された最初の成文である三条の法の第一に、

「一 邪宗門にしたがうもの、外国人にしたがうもの、其の罪重かるべし」

と規定したことを見ても、その辺の事情を窺い知る事が出来る。

 かくして、千島アイヌ固有の風俗が失われて、言語・姓名・生活様式も著しくスラブニック化し、深く正教を信仰する北辺の「ハリスティアニン」と変貌していく。1801年、占守島のモヨロップ(片岡)湾頭のコタンヌイの丘に正教の聖堂が完成する。

 明治27年の『正教新報』に1867年、大主教に昇叙され、モスクワの府主教に選立されたインノケンティ師が主教に叙聖される以前、司祭イオアン・ヴェニアミンノフとしてアリューシャン列島・アラスカ・カムチャツカを巡回していた頃、幌莚・占守島に千島アイヌを訪ねた記事が載っている。北川氏寄稿となっている。1830年前後の事であろうが、千島アイヌの性格、篤い信仰をよく表しているので紹介する。

 「イ師が、シベリヤ、アリューシャン列島、アラスカの地方を管轄していた頃、しばしば千島を巡回されたことがあった。《 中略 》千島の土民は夏期に至れば海辺に繁茂する青草の上に天幕を張って住居とし、冬期になれば其の天幕は不潔悪臭に満たされ、イ師が大祭日に諸部落を巡回した時、その悪臭不潔には大いに閉口なさったそうである。島民は殊に信仰厚く、会堂(祈祷所)に参拝して欠席すること無く、又よく家業に励んでいる。土民は一般に外国人に対して何事も隠し立てする。これは生まれつきの卑怯によるものか、また野蛮的な恐怖心によるものか、また狡猾心より出ているものか分からぬが、イ師の語るところによると、生まれつきの臆病から生ずるものであると言う。そのために彼らは痛悔の時にも罪を打ち明けず、神父らもこれにはほとほと困り果てたようである。しかしながら、彼らは朝夕の祈祷・スボタ(土曜日)・日曜日・大祭日の祈祷は欠かしたことが無い。大斎の初週及び終週には魚油を使用しないで、ただ海草或は野菜のみを食べて精進し、仕事に出る時は必ず祝福を受け、また夏期は毎朝夕一箇所に集まって祝福を受け《 中略 》。イ師は或る年に幌莚に行った際、冬期を其処で過ごした。大祭日には雪と雪との中間の凹所に布を張って、雪の上で潔白なツェレラ(千島に産する草の名)及び柏の枝を敷いて奉神礼を執行した。ハリストス復活祭後の一週間は、島民は順番に各自の家に他人を招いて供応するのであった。《 中略 》イ師はその年の5月中旬、土人用のバイダルカ(海獣の皮で作った舟)に乗って占守島へ渡った。この島の土民は巧みに露語を語り、露語を読み、彼らは魚の多く繁殖する川辺に住み、夏期になると隣邦のカムチャツカに行き交易を行なっていた。」


鋳銅製十字架

これは、斜古丹聖三者教会秘蔵の縦26.5p、横12pの鋳銅製の聖十字架である。イグナティ加藤神父がそれに次のような注釈を加えている。
「今を去ること凡そ250年前、現首長ヤコフ師の祖先イオアン・ストロゾフ氏の妻ペラギヤ姉が、偶々ラサワ島山中で発見したもので、累代相伝え秘蔵してきたが、会堂新築の際に聖三者教会に献納し、永く救贖を祈願するものである」

イグナティ加藤神父が根室に在住したのは、西暦1897年(明治30年)から1901年までである。鋳銅製十字架が発見されたのは、1898年を起点とするとそれより250年前、即ち1630年頃となるが、露人の北千島進出は18世紀初期である。正教の弘布の年代から推測すれば、聖十字架は18世紀中期以後のものであろう。聖十字架は推測の域を出ないが、奉神礼用の神父の携帯品でなかろうか。神父がそれを落とすとは考えられない。或は、神父が巡回中に不慮の災難に遭い、十字架を手放す羽目に遭遇したのかも知れない。とすれば、それ自体に宣教の苦闘の汗と血が滲み出ていると思われる。

 近世の植民史上、その初期には目先の利益のみに走り、先住民を酷使虐待し、彼らからすべてを収奪してやまなかった山師や、いかがわしい者が出没、暗躍したことは明らかである。そのために、大きな人類愛によって彼らを庇い、神の恩寵に浴させて彼らを抱擁し、それが為、身の危険を顧みず、殉教致命さえ厭わなかったハリストス正教の神父達の存在も忘れることは出来ない。

 かの鋳銅製の十字架には、これら正教の神父らの熾烈なまでの宣教の歴史が秘められているのではなかろうか。

 これらの正教の神父は、フェオドル、ロマン、アレクセイ、イーゴリ、フィルス、ニコライ、グリゴリイ、セルギイ、マクシム、チレフワシリイ、フェオクティリスト、パウエル、ハララムピイ等の諸神父の方々である。

 以上の神父名は、明治18年にティト小松神父に随行して先住民との通訳に当たったアレクセイ澤邊師の記録で、氏名でなく聖名の呼称である。明治17年にヤコフ首長の住宅(仮会堂であった)が焼失しているので、おそらく先住民からの口碑によるものであろう。

 これらの神父名は、明治39年、40年に色丹に在島した我が正教会の伝教者である斎藤東吉師著の『日本最古の正教島』に詳細に記されているが、前記の神父名とは大分異なっている。


  


第5節 クリル人の色丹島移住


 1875年(明治8年)日本とロシア間に樺太・千島交換条約が締結された。この条約によって日本が樺太の領有権をロシアに譲る代わりに、ロシアは占守島から得撫島に至る18の島を日本に引き渡すことが明記され、日露の国境をカムチャツカのロバトカ岬と占守島間の海峡に画定された。この条約の附属公文には、この地域に住む先住民は、三カ年以内に日露何れかの“臣民”になることを選定しなければならぬと規定されている。そこで、条約の結ばれた年の8月、明治政府は五等出仕時任為基を北千島へ派遣し、この旨を先住民に伝えた。

 当時、北千島には100人を越す先住民が住んでいたが、彼らは既に一世紀以上にわたってロシアの支配下にあり、言語・衣服・宗教などの面でもかなりロシア化されており、その去就とともに数奇な運命に弄ばれることになる。

 ロシア人並びに得撫・新知島に居住していたアレウト人は、条約に定められた期間、即ち3年後の11月までには悉くロシアに引き揚げた。千島アイヌも風俗・宗教等から、ロシアにと願いながらも、丁度、明治9年に出猟した半数の者が帰島しないためその態度を決することが出来ず、やむなく我が国に属することになった。

 占守島にいた首長キプリアンは、条約成立の年、島司インノケンティ・カララウィッチと12人の同族と共に9月15日、当時、他島への出猟中であったアレキサンドル以下22人の同族を置き去りにしてカムチャツカに向かった。日本国籍に入ったのは、このアレキサンドル組と副首長ヤコフ組のラサワ島の千島アイヌである。

 奇しくも、平成4年5月21日付北海道新聞に、ポーランドに子孫がいた!!という見出しで、首長キプリアンと共にカムチャツカにわたった同族の末裔が、現在ポーランドに住んでいる事が報じられている。シャールド・クリルチク氏他三家族である。シャールド氏によると、

「祖先はシュムシュ島に住んでおり、そこが日本領になるとロシア側に行く事を選んだ。大祖父のアドルフ・クリルチクさんら12人は、カムチャツカのシエログラツキに移され《 後略 》。」

とある。アドルフ氏は数奇な運命をたどり、二代、三代目の祖父、父はそれぞれポーランド婦人と結婚し、父は第二次大戦直後、リトアニアよりポーランドに脱出、現在、ポーランドのスープスク市に在住している。

 『フェオドル斎藤東吉自伝』によれば、首長キプリアンとカムチャツカに逃れた同族12人は、ペトロパブロフスク(首都)より「ヤウイン」に移住させられている。明治10年の春、首長アレキサンドルは日用品欠乏のため、獣皮を携え、交換の目的をもって露領「ヤウイン」に渡り、偶然にも前首長キプリアン氏に奇遇し、故山を慕うキプリアン氏ら7名の同族をシュムシュ島に連れ帰っている。フェオドル師は、「キプリアン氏の組は、露領に移りてより殆ど半数は不帰の客となり、残れるは僅々7名のみ」と自伝の中で記している。ロシア国籍を選んで露領へ渡ったクリル人の数は、北海道新聞とフェオドル斎藤師の記事で共に12人と符節を合わせたように一致している。そうであれば、東吉師の言う「殆ど半数は不帰の客となり」「キプリアン氏ら7名の同族をシュムシュ島に連れ帰っている」の点については疑問が生ずる。翌日の北海道新聞には「……だが、当時の日本政府の公文書ではシュムシュ島に戻ったのは二家族だけとされており、数家族がロシア側の国籍をとり、残った可能性が大きい」という記事が載っている。

 我が国では明治9年、更に官吏を派遣してその状態を調査し、救育費として三カ年に一回、5000円の政府別途交付金を給付、食料品等の生活必需品の購入に充て、汽船に搭載、彼らにこれを提供し、生活を保障するとともに捕獲した毛皮を集めた。

 しかし、毛皮は年とともに少なくなり、したがって著しい失費を伴い、その上、根室から1200qも離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与えるおそれもあった。また、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、同化が困難であるばかりでなく、国境を正すことにならないばかりか、むしろ危険にさえ感じられ、日本政府としてもクリル人に対して早急な処置を講じる必要があった。

 彼らをより交通の便利な箇所に移そうとする計画は、既に明治9年以来の計画であり、その度ごとに移住を勧誘してきたが、彼らは永年住み慣れた地を離れ難く、口実を作っては日本政府の勧誘に応じようともしなかった。

 明治15年に開拓使が廃止され、函館・札幌・根室に三県が置かれる。千島は根室県に属し、湯地定基が根室県令に任ぜられた。明治17年、三年ごとの撫育船を派遣する年にあたり、湯地県令は千島アイヌを色丹島に移す計画のもとに、要路の大官と共に占守島に向かい島状を調査した。丁度、その年に出稼に行っていた仲間も悉く同島に集まっていたので一同を諭し、男女97人をその船に乗せ、ただちに色丹島に移住させた。

 同道した参事院議官安場保和の『北海道巡回日記』に往時の状況が詳細に記述されている。

「五日晴。県令着島より船に還らず、懸々接待遂に全島移住の運びとなる。開拓使以来再三の説諭にも頑として服さず、今日此の挙ある時至れるものなりと雖も、県令懇諭(こんゆ)の誠(まこと)切なるを感ずる所ありと言うべし。全村移住に決し家財をまとめ、牛・犬を殺し、日没に至り全員乗船せり」

 即ち、湯地県令は7月1日の占守島に上陸してから約5日間、本船には一度も帰らず、彼らと起居を共にして懇々と移住を勧告したのである。勿論、彼らのうちには絶海の孤島とは言え、長い間住み慣れた故郷を離れ難く幾多の逡巡をみせた者もいたが、日本領になってからは、日本政府に頼るより外に生活の途がたたず、遂に意を決し、20戸97人、そろって移住することに決したのである。一行は7月6日に全員乗船して11日朝、色丹島に到着した。

 ここに、色丹島の北方オホーツク海に面した斜古丹湾頭に斜古丹村が出現し、信仰篤い彼らによって斜古丹聖三者教会が創設され、この後、永く日本正教の一肢体となるのである。首長は、斎藤東吉師によるとアレキサンドル・プリチンとなっているが、明治17年8月の旧戸籍(鳥居龍蔵氏の『千島アイヌ』)によればアレキサンドル・チェルヌイでなかろうか。副首長はヤコフ・ストロゾフである。

 色丹島は根室半島ノサップ岬より73.3qの地点に在り、東南は太平洋に面し、西北は国後島に相対し、南西より北東に至る長さ28キロメートル、幅およそ9qの長方形をなし、面積は約255平方qの島で、当時、色丹島は文化5年以来居住する者が無く、その後、しばしば出稼漁なども試みられたが長続きせず、空しく千島で活躍する外国密猟船の寄港地となっていた。


  


第6節 色丹島移住後のクリル人


 移住の年より漁船や漁網を与えて漁業に従事せしめ、また北千島時代に露人の指導に依って既に試みられていた牧牛と、新たに緬羊・豚・鶏の飼養が相当の計画のもとに始められ、農耕も指導奨励されたが、これらの組織化は彼らにとって未だ経験したことのない急速な生活上の変化であったため、適応は困難であった。農耕についてはやや望みがあるとみられたが、明治27年8月の水害による耕土の流失を機として殆ど廃止され、自家用の野菜を収穫する程度にとどまり、各種漁業も細々ながら唯一の生業として期待されたが、移住後の生活の安定した拠り所とするには至らなかった。

 この間、明治18年より27年まで10カ年間撫育費が計上され、その後も更に期間が延長されて32年まで継続された。また、同年3月より新たに保護法が制定され、その中に特別科目が設けられて救恤事業(救済)が続行された。


強制移住による人口の減少

 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。

 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、

「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす−云々」

故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。

 根室から指呼の間にあるこの島に閉じ込められた彼らクリル人にとって、人口の減少は、この後も重い十字架として背負い続けなければならなかった。
http://www.orthodox-jp.com/kushiro/bef/1_1.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c11

[リバイバル3] マルクスはやはり正しかった _ もうすぐ共産革命の嵐が吹き荒れる時代がやって来る 中川隆
231. 中川隆[-12817] koaQ7Jey 2019年1月21日 15:47:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

世界の超富裕層26人、世界人口の半分の総資産と同額の富を独占
2019年1月21日 14:19 発信地:ダボス/スイス
  

【1月21日 AFP】世界で最も裕福な26人が、世界人口のうち所得の低い半数に当たる38億人の総資産と同額の富を握っているとの報告書を、国際NGO「オックスファム(Oxfam)」が21日に発表した。拡大する一方の貧富の差を是正するため、裕福層への増税が必要だと各国政府に強く求めている。

 スイス・ダボス(Davos)で開かれる世界経済フォーラム(WEF)の年次総会(ダボス会議)を前に発表された最新報告によると、資産額10億ドル(約1100億円)以上の裕福層の人々が世界各地に保有する資産の総額は2018年、毎日25億ドル(約2700億円)ずつ増加した。

 世界一の富豪である米アマゾン・ドットコム(Amazon.com)の創業者ジェフ・ベゾス(Jeff Bezos)氏の資産は昨年、1120億ドル(約12兆2800億円)に増えた。オックスファムによればベゾス氏の総資産のわずか1%が、人口1億500万人のエチオピアの保健医療予算全額に匹敵するという。

 一方、世界人口のうち経済的に恵まれない半数に相当する38億人の資産総額は昨年、11%減少した。

 オックスファムは、拡大する格差によって貧困対策の効果が損なわれ、経済は打撃を受け、人々の怒りをあおる結果になっていると強調。各国政府が保健医療や教育といった公共サービスに割く予算を削減する一方で、富裕層に対する税制優遇を続け、経済格差をさらに深刻化させていると警告した。

 報告書は、富裕層や大企業に課税して「底辺への競争」をやめるよう各国に強く要求。最富裕層がたった0.5%多く税金を払えば、「現在教育を受けられずにいる子どもたち2億6200万人に教育を授け、330万人の命を救えるだけの保健医療を提供しても、余りある資金を確保できる」と指摘している。(c)AFP

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/704.html#c231

[リバイバル3] 西山温泉 慶雲館は悪い 中川隆
1. 中川隆[-12816] koaQ7Jey 2019年1月21日 19:02:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

(株)湯島(旧:(株)西山温泉慶雲館)


〜ギネス認定の世界最古の温泉旅館〜

 (株)湯島(旧:(株)西山温泉慶雲館、TSR企業コード:340107081、法人番号:5090002015009、山梨県南巨摩郡早川町湯島825、登記上:東京都中央区八重洲2−8−7、設立昭和26年1月8日、資本金1000万円、代表清算人:深沢雄二氏)は1月8日、東京地裁から特別清算開始決定を受けた。

 負債は現在調査中。


 ギネスブックに世界最古の宿と認定されている飛鳥時代の慶雲2年(西暦705年)創業の山梨県西山温泉の「慶雲館」の元運営会社。甲斐国主の武田信玄や日本統一のさなかに徳川家康も二度にわたり入湯したと伝えられ、705年の開湯から源泉は一度も枯れていないとされる。高級温泉旅館としての地盤を固め、平成12年3月期の売上高は約9億9600万円をあげていた。

 平成17年には全室掛け流しの露天風呂を設置したが、ここ数年は消費低迷や価格競争などで売上が伸び悩み、過去の投資負担が利益を圧迫。28年3月期の売上高は5億9600万円にとどまり、赤字に転落していた。

 このため29年6月1日、会社分割で新設した(株)西山温泉慶雲館(TSR企業コード:023826657、法人番号:4090001015027、山梨県南巨摩郡)に旅館事業を譲渡。当社は、29年12月7日、東京都に本社登記を移転し同月7日、(株)西山温泉慶雲館から現商号に変更。30年6月30日、株主総会の決議により解散した。
 なお、世界最古の宿「慶雲館」は譲り受けた西山温泉慶雲館が事業を継続。第53代目の当主、川野健治郎社長は「世の中の動向にまどわされず、温泉一本で経営を続けていくという教えを守り、歴史を継承していきたい」とコメントした。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/598.html#c1

[リバイバル3] 西山温泉 慶雲館は悪い 中川隆
2. 中川隆[-12815] koaQ7Jey 2019年1月21日 19:06:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

消費低迷や価格競争の激化により売上が低迷したことに加え過去に行った設備投資の負担などが重荷となり、

2017年(平成29年)6月に旅館の運営を会社分割にて新設の新会社「(株)西山温泉慶雲館」へ譲渡し、

旧会社の(株)西山温泉慶雲館は「(株)湯島」へ商号を変更した後、東京地裁より2019年(平成31年)1月8日付で特別清算の開始決定を受けた。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/598.html#c2

[昼休み54] 日本の官僚は悪い 中川隆
63. 中川隆[-12814] koaQ7Jey 2019年1月21日 22:46:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
古賀茂明「安倍政権の屋台骨を揺るがす毎勤統計不正 二度目の予算案修正か?」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190120-00000011-sasahi-pol
AERA dot. 1/21(月) 7:00配信


著者:古賀茂明(こが・しげあき)/1955年、長崎県生まれ。東京大学法学部卒業後、旧通産省(経済産業省)入省。国家公務員制度改革推進本部審議官、中小企業庁経営支援部長などを経て2011年退官、改革派官僚で「改革はするが戦争はしない」フォーラム4提唱者...


 厚生労働省による「毎月勤労統計」(毎勤統計)の不正調査問題が安倍政権の屋台骨を揺るがす騒ぎになってきた。

 毎勤統計は統計法という法律で、政府の「基幹統計」に位置付けられ、賃金や労働時間などの動きを示す重要な指標だ。中でも、国民の暮らしが豊かになったかどうかという観点から、労働者1人当たりの現金給与総額や前年同月と比べた変化率の指標は注目度が高く、発表されるとすぐに大きく報道されている。

 対象は全国で約3万超の事業所だが、このうち、比較的小規模な従業員5〜499人の事業所は約2万4千人と数が非常に多いので、一部の事業所を抽出して実施するが、従業員500人以上の事業所約6千については全数調査を行うことに決まっている。

 今回問題になったのは、東京都の調査分だ。都内には、全数調査の対象となる大規模事業所は約1400あるのだが、実際には、このうちの約3分の1しか調査していなかった。しかも、その際、数値の補正をせず、残りの3分の2の大規模事業所が存在しないかのような処理をしてしまったため、その分賃金の水準が低くなってしまった。この不正が始まったのは2004年で、17年まで続いていたが、厚労省は、その事実を昨年末まで公表していなかった。

 毎勤統計の数字は、雇用保険、労災保険、船員保険などの各種給付金の算定の前提として用いられる。ところが、この統計が、実態よりも低い給与水準となっていたため、給付金の額も、本来あるべき水準よりも低くなってしまった。

 1月18日の政府の発表によれば、この不正により、給付金の給付額が少なくなってしまった人は、のべ2015万人、過少給付分は、総額約600億円に上る。そして、これを支払うための事務的コストは195億円だ。このため、19年度予算案をそれに合わせて修正して閣議決定し直すという事態になった。もちろん、前代未聞のことだ。

■組織的不正・隠ぺいだけでなく、今も証拠隠滅が行われている可能性大

 今、一番問題とされているのは、まず、この不正が組織的なものだったのかどうか、もしそうであれば、どのレベルまで(大臣も関与したのか、次官までか、局長までかという話)関与したのか、いつから幹部はこの話を知っていたのかという点だ。

 結論から言えば、最初の段階から組織的な不正だった疑いが極めて高い。

 例えば、当時、全数調査に近く見せかけるための事務的処理の自動化ソフトが作成されたというが、何故、それが必要なのかを詳しく説明しない限り、予算担当部局の了承は取れない。その過程で、幹部にもこの話が報告された可能性は極めて高いと考えられる。

 また、04年時点では、東京都では全数調査ではなく抽出調査にしても良いというマニュアルが作成されていたこと、そのマニュアルの表記が、15年からは削除されていたこと、さらに、それとは逆に19年から抽出調査を神奈川、愛知、大阪の3府県に対して認める通知を管理職レベルで出していたことなどがわかっているが、これらは、単に一部職員のミスというようなものではなく、組織的な手続きを経たうえでの措置だったと言わざるを得ない。

 したがって、この不正が組織的な不正であり、しかも、組織的に隠ぺいされたことは確実だと言って良いだろう。

 あとは、それがいつ、どのレベルまで認識されていたかの問題になるが、これは、関係者のヒアリングやメールのやり取りの調査などで明らかにする必要がある。そのための証拠保全の措置が取られているのかどうか。おそらく、関係者は今頃、必死にメールや文書などを廃棄しているに違いない。安倍晋三総理は、全てのメールなどの保存を指示すべきだ。

■安倍政権忖度で「賃金上昇」を演出した幹部は内心「ドキドキ」

 この問題では、もう一つ論点がある。18年から調査結果に補正(事業所数を約3倍に膨らませる作業)を加えて発表し始めた時に、その旨を公表していなかったということだ。17年までの統計が実態よりも低く出ていたのに対して、18年からは実態に近い数字が発表されるようになったことから、当然の帰結として、18年の前年同月比伸び率が高くなった。

 実際、18年6月には、名目賃金の指数が前年比3.3%増という驚異的な伸びを示し、安倍政権を忖度するメディアもこれを大きく報じていた。実際には、18年から行われたサンプル替えの影響も大きく、その影響を除くと伸び率は1.3%に過ぎないが、さらに、統計不正の影響を加味すると、もしかすると「驚異的な賃金増」は全くの嘘で、ほぼ横ばいだった可能性が出て来る。

 この点から、野党などは、アベノミクスの成果を強調したいという安倍総理の意向を忖度して、不正の事実とその不正の補正を始めたことを組織的に隠したのではないかという疑惑を指摘しているわけだ。

 おそらく、幹部たちは、不正を言い出す勇気がなく、結果的に安倍政権をよいしょすることになったというのが実態のような気がするが、彼らは、内心ドキドキだったのではないか。何とか自分たちの任期が無事過ぎてくれればいいなと祈っていたが、残念ながら捕まってしまったというところだろう。

■「第二の消えた年金」はオーバーではない

 以上がこれまでの経緯だが、実は、この問題は時間、地域、省庁、三つの側面から拡大する可能性が高い。

 まず、「時間」軸について考えてみよう。

 大規模事業所の方が平均的に見れば、中小規模の事業所に比べて給与は高い。04年に大規模事業所の数を3分の1に減らして、何も補正せずに計算すれば、大規模事業所の数字がその分反映されなくなり、平均の数字は下がる。誰でもわかる簡単な話だ。それにもかかわらず、厚労省は、補正を行わないで、低めに出た数字を公表し続けた。

 これについては、数字を低くすれば、失業保険などの給付額を少なくして歳出を抑制することができると考えたのではないかという指摘がある。しかし、31年間官僚をやった経験から言うと、厚労省の役人にとって、そんなことをやっても何の意味もない。不正をしていたとわかれば、自分が捕まる可能性がある。予算を削減したと言っても、その理由が不正なのだから、与党政治家に自慢することはできないし、財政当局を喜ばせることもできない。もちろん、天下り先が増えるわけでもない。したがって、犯罪者となるリスクを冒してまで不正を行うことは考えられない。

 ここで、03年以前の調査でも、実は3分の1程度の大規模事業者の調査しかできていなかったと考えると、この疑問は氷解する。つまり、04年から不正が始まったのではなく、03年以前も事実上の不正状態だったということだ。

 私の官僚時代、直接統計を担当したことはなかったが、経済政策を担当していたので、統計については、ずいぶん悩まされることが多かった。一番困ったのは、統計の数値に不自然なことを発見した時に、それについて各省庁の統計部局に問い合わせても、徹底的な秘密主義で、ほとんどまともに答えてもらえなかったことだ。その理由は、実は、多くの統計が、実態は「ボロボロ」で、答えるとそれがバレるからだった。

 今も同じだが、まず、総理はもちろん経済担当の大臣たちに統計のことがわかる人はいない。官僚も似たようなもので、次官や局長クラスで統計を重視している人は滅多にいない。そんな中で、行政改革という号令のもとに、役所の人員や予算を削れと言われると、統計部局の予算や人員がどんどん削減されることになった。

 一方、お上の言うことに民間企業は黙って協力するという時代はとっくの昔に終わっていた。役所以上に効率化を求められる民間企業にとって、統計調査には協力したくないという雰囲気が広がった。統計の調査票が回収できないケースが年々増えたのは当然だ。

 本来は、IT化を進めて企業の負担を減らしたり、より新しい手法を開発したりすれば良いのだが、そんなことをやる予算も認められず、また、優秀な人材も配置してもらえずということで、統計部局はボロボロになっていったのである。

 それは、国だけに限ったことではない。都道府県でも同じことが起きていた。その結果、東京都では全数調査すれば1400もある大規模事業所に調査票を配っても、03年までには、回収できる数は500くらいまで減っていた可能性が高い。もしそうだとすると、04年から500事業所の抽出調査に正式に切り替えても、何も変わらないということになる。現に、04年前後の賃金指数の伸び率を見ると、02年 −1.7、03年 −0.4 、04年 −0.4、05年 +0.3、06年 0.0と、04年前後で特に不自然な動きは見えない。もし、04年から補正を行ったなら、04年の数字が本来の水準に戻って、急に跳ね上がるように見えたはずだ。その説明を求められたら、03年までいい加減な調査をやっていたと認めざるを得なくなり、事実上の不正ではないかと怒られるので、補正は行わないことにした。

 そう考えると、辻褄が合う。これは役人の心理から見ても自然な行動だ。なぜなら、役人は新しいことをするのは苦手だが、逆に、前例踏襲は得意。03年までと同じだと自分に言い聞かせれば、心の平安が得られるのである。

 つまり、03年以前も毎勤統計の賃金の数値は、実態よりも小さくなっていた可能性が高く、そうであれば、03年以前の雇用保険などの給付金は過少だったということになる。しかし、既に厚労省は、11年以前のデータは紛失・廃棄してしまって残っていないと言っている。そうなると、「消えた年金」と全く同じ構図になる。「過少給付分を取り戻すために失われたデータを何とかして探せ」ということが04年以降だけでなく、03年以前についても政治のテーマとなってくるのだ。

■日本中で不正が横行 予算修正は必至

 次の視点、「地域」を加えると、さらに新たな問題が出てくる。

 それは、厚労省が、18年6月に、神奈川、愛知、大阪3府県に対し、19年から抽出調査に切り替えると連絡していたことに関連する。厚労省は、抽出調査は法律違反だということを十分認識していたはずだ。

 それにもかかわらず、3府県に抽出調査を認めるとしたのはなぜかと言えば、これらの府県でも、実際には、大規模事業所調査でかなりの調査漏れが生じていたからだと考えた方が良いだろう。もし、全数調査が行われていたのに、わざわざそれを抽出調査にするというのは、役人としてはハードルが高すぎる。自分の責任で法律違反を行うというリスクを負うからである。

 一方、元々調査漏れが多く、事実上の法律違反の状況になっていたのであれば、その実態を追認するだけだから、心理的ハードルはかなり下がる。例えば、実際には4分の1しか回答が得られなくなっていたのに、それが放置されていたような場合、抽出調査にするから、何とか半分の事業所の調査を実施してくれと府県に頼むということであれば、以前よりも事態は改善する。さらに、過去には抽出調査とされていなかったので補正もできなかったが、抽出調査と正式に決めれば、補正も実施できて、統計の精度は上がるから、その意味でも前進だ。したがって、この通知を出した担当管理職は、事態を改善しようと考えていたと主張するだろう。

 しかし、これは大きな問題になる。3府県で抽出調査に切り替えざるを得ないくらい調査漏れがあったのだとすれば、ここでも、賃金の統計が実態よりも低くなっていたということになるからだ。現時点では東京都の分だけで保険給付金が過少だったという話になっているが、3府県の分を入れると、もっと給付額が増えるということになる。さらに、3府県以外でも程度は小さくてもやはり、調査漏れがかなりあるとすれば、その分の統計の上方修正が必要となり、さらに過少給付額は拡大する。東京都以外の大規模事業所は4500程度あると見られるから、もしかすると今わかっているのと同規模かそれ以上の過少給付につながる可能性もある。

 そうなれば、再度の予算案の修正が必要になるということになり、国民の怒りはさらに高まり、国会でも大問題となるだろう。

 第3の視点、「省庁」についてはどうか。厚労省は、昨年来、いくつものデータ不祥事を起こしているので、厚労省という特にダメな役所だからこんな問題が起きたという印象が広まっているかもしれない。

 しかし、似たような事例は他にもたくさんあるはずだ。

 例えば、2016年末に発覚した経済産業省の事例は、今回の厚労省の不正とほとんど同じかそれ以上と言っても良いものだった。繊維製品の在庫量などを調べる「繊維流通統計調査」で、40超の品目ほぼ全てで改ざんを行い、「10年以上前の数値がそのまま記載され続け」、「実際の数値と最大で10倍程度の差が生じた」(16年12月26日日本経済新聞電子版)というのだ。厚労省よりもひどいのではないだろうか。これもやはり、回答数が減り続けたのが原因だった。16年9月分は有効回答数258社だったのに、調査票を配った733社の95%以上が回答したことにし、各項目の数値も昔の数値を"横置き"してそのまま使い続けていた。結局この不正を受けて、同省はこの統計を廃止した。

 さらに、これとは少し性格は違うが、今年1月18日、やはり経産省が「貴金属流通統計調査」で、08年以降、金地金などの「年末在庫数量」の数値を担当者が誤って計算していたことを発表した。「間違い」が10年以上継続していたそうだ。昨年11月には事業者に指摘されていたのに、今まで隠していた。おそらく毎勤統計不正問題が大きく取り上げられたので慌てて公表し、厚労省たたきが盛り上がっている陰で批判を逃れようと考えているのではないかと思われる。

 これらの事例は、安倍政権を支える最強官庁として、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの経産省でも、その統計については、全く信用できないということを示している。厚労省だけが「ドジな」役所というわけではないのだ。前に解説したとおり、政府の統計部門はどの役所でも疲弊しきっていて、とてもまともな調査などできないというのが、霞が関のエコノミストの間ではもはや常識となっていると言っても良い。

 安倍政権は、現在56指定されている「基幹統計」だけについて、各省庁に点検を指示したそうだが、それは、何とか問題の拡大を最小限にしたいという思惑があってのことだろう。政府の統計は、基幹統計以外の統計の方が圧倒的に多い。政府の統計の総合窓口である「e‐Stat」で検索すると600近いファイルが見つかる。それらすべてを調べると大変なことになりそうだから、その部分には蓋をしておこうということだ。

 しかし、今後は、国会での追及で、全ての統計について、調査手法の開示を求められ、特に調査票の回収状況などについて質問されると、立ち往生したり、思わぬ不正が発覚する可能性はかなり高いと見ておいた方が良いだろう。場合によっては、予算や政策の見直しにつながるものが出てくる可能性もある。

■18年の賃金伸び率の下方修正で「アベノミクス失敗」の烙印か

 今後は、上述の問題以外にも、今回の不正発覚を受けて、17年までの賃金水準を上方修正する結果、18年の賃金の伸び率がどの程度下方修正されるのかが焦点となる。例年なら、2月上旬には18年の暦年の統計速報が発表される。賃金水準と伸び率の下方修正の幅によっては、アベノミクスが「失敗」の烙印を押されるかもしれない。予算委員会の最中だから、当然大きな論争を生むことになるだろう。それを心配して、厚労省が安倍政権忖度で、またおかしなことをしないか。しっかりと監視しなければならない。

 いずれにしても、この問題は国会で徹底的に議論されることになるだろう。その際、単に党利党略で政府と与野党が入り乱れて叩き合いを行うというのではなく、どうしてこんな問題が起きたのか、それは単に厚労省、あるいは官僚だけの問題なのか、もっと構造的問題があるのではないかという点にまで遡って議論してもらいたい。

 統計がデタラメでは政府は政策目標を定められない。国民も、安倍政権の政策評価をしようにも、間違ったデータで誤った判断に誘導され、正しい投票の選択ができない。つまり、民主主義の基盤が崩れてしまうということだ。

 最近は、ビッグデータ利用の国家間競争という視点で、「統計の整備を」という議論がなされることが多いが、より深い問題意識での議論が求められている。

 ちなみに、私がちょっと考えてみただけでも、いくつかの改善法が思いつく。

 まず、経済担当の大臣には経済のことが本当にわかる人を置くこと。省庁の統計部門をより高いレベルに位置付けること。もちろん、そのトップと幹部には民間人などの統計のプロを置くこと。そして、極めて重要なのが、統計手法について全面的な情報公開を行い、世界中の専門家からの批判やアドバイスをオープンに受ける体制を作ること。デジタル化など世界の最新の潮流に合わせた改革を行うために必要な予算と人員を確保すること、などだ。

 今回の不祥事を機に、「統計ルネッサンス」と言うべき大改革を推進することが求められている。安倍総理は、それをよくよく肝に銘じ、間違っても、自分に都合の良い統計を作るのが優秀な官僚だという考えを持ち続けることだけは止めてもらいたい。
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/103.html#c63

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
140. 中川隆[-12813] koaQ7Jey 2019年1月22日 09:12:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

ゴーン前会長は「ウソばかり」 日産側、13億円送金に
1/22(火) 5:06配信 朝日新聞デジタル

ゴーン前会長と中東日産関係者の主張


 日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告(64)がサウジアラビアの実業家に約13億円を不正送金したとされる特別背任事件で、前会長が送金の正当性を裏づける実業家の「業務」として挙げた「地元代理店との紛争解決」や「サウジ当局との面談設定」について、日産関係者が東京地検特捜部の調べに対し、「いずれも事実ではない」と証言していることが、関係者への取材でわかった。

 前会長の2回目の保釈請求に対し、東京地裁は実業家らと口裏を合わせて証拠隠滅する恐れを改めて考慮して判断するとみられる。

 前会長は今月8日に開かれた勾留理由の開示手続きで、実業家ハリド・ジュファリ氏との関係を説明。日産子会社「中東日産」(アラブ首長国連邦)からジュファリ氏の会社に2009〜12年に送金した約13億円は「極めて重要な業務を推進してくれた相応の対価」だと正当性を主張した。具体的な業務として、サウジの販売代理店との紛争解決の支援▽サウジ当局との面談の設定▽サウジに自動車工場を建設する支援――などを挙げた。

 一方、中東日産の関係者らは特捜部の調べに「ウソばかりだ」と反論しているという。サウジの販売代理店は、経営不振を理由に契約解除されたことを不服とし、損害賠償を求めて日産を訴え、シンガポールで係争中だという。中東日産関係者は「解決していないし、ジュファリ氏は何もしていない」と証言。代理店は2万台以上の在庫を抱え、「解決どころか大被害を被った」とも訴えているという。

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c140

[お知らせ・管理21] 2019年01月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
56. 中川隆[-12812] koaQ7Jey 2019年1月22日 09:58:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

地域板の昔のスレが上手く表示されませんがどうなっているのでしょうか?


アイヌ儀式:「イヨマンテ」禁止通達を52年ぶりに撤廃(毎日新聞) 茶々 - 阿修羅掲示板
www.asyura2.com/0601/ishihara10/msg/478.html



http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/544.html#c56

[お知らせ・管理21] 2019年01月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
57. 中川隆[-12811] koaQ7Jey 2019年1月22日 10:00:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
>>56
すいません、表示されました。
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/544.html#c57
[近代史3] アイヌのシャーマニズム

アイヌのシャーマニズム

アイヌのシャーマンの治療分野として大きく以下のジャンルがある。

1.ウェインカラ(透視・千里眼)
霊的障害(サイキック・アタックなど)、心的要因、具体的要因を透視して呪術を施したり、その障害の具体的な治療方法で対応するもの。「空」の境地に入るといわれる。

2.トゥス
治療師のトレンカムイ(憑き神)や患者の先祖などを降ろし、トゥスクル(トゥスする人)の肉体をそれらに支配させ、病因や治療の方法を託宣いただくもの。 いわゆる「トランス状態」に持っていくため、トゥスクルの神憑りの間の記憶はないらしい。

3.ウェポタラ
祈祷師による呪術に準すると考えられる。魔実的要素が濃い。

4.フッサラ
悪霊の嫌う薬草や植物などをを用いて祈りと共に病人に憑く悪霊を追い払うもの。 ウェンカムイ(悪霊)払い。

6.薬物療法(単品・複数のアレンジの治療法)
多くは、民間伝承によるが、霊的なアドバイスにより薬草は個別性に応じて配合するらしい。 筋骨格系、神経系に働きかけ、歪みの矯正、身体のバランス保持やリラクセーションをはかる。 カイロ、整体、指圧、マッサージなどのボディワークの概念を含むとされる。

9.テクマウ(手当て療法)
カムイへ祈り、行う手当て療法。外気功に対応するらしい。

これらの秘儀の継承は家系的に受け継がれるのもと、臨死体験し、魂が持っている要素を引き出し秘儀を授かることが多い。


REF034 二風谷アイヌのウェポタラ 1     Ainu
Exorcism Rites Uepotara in Nibutani, Hokkaido: 1         N.G.Munro D-2
13'00" 1933 白黒サイレント
94011001 (ORG・RETAKE)(Hi8), 92090202 93052603 (AGFA版・字幕無・チセノミと混)(Hi8), 96030801 (非復元版・日本語字幕・チセノミ混)(β-CAM)     

帰化スコットランド人医師N.G.マンローは、第二次大戦前、二風谷アイヌへの医療と健康改善につくしながらアイヌ研究を続けた。その中で撮影され、生前未完成に終った悪霊払いの儀礼の記録、オリジナル版その1(原版16mm)。エカシの祈祷(アッツシ、イナウ)、儀礼(庭先、家の脇:樹の枝)、治療(庭先・川岸、数種類のイナウ)、樹に祈祷(刀、着物を治療に使用)、火のついた草束を患者がくぐる、エカシの踊り(イナウ、刀の使用)、女性の踊り


REF048 二風谷アイヌのウェポタラ 2      Ainu
Exorcism Rites Uepotara in Nibutani, Hokkaido: 2     N.G.Munro D-2
15'00" 1934 白黒 サイレント
92090202 93052603 (チセノミと混じっている)(Hi8)     

N.G.マンローの悪霊払いの儀礼の記録、オリジナル版その2(原版35mm)   

川辺での治療、家の脇での呪い・治療、織物(糸紡ぎ、アットゥシを織る)、揺り篭の子供をあやす、赤ん坊を背負う、頭にのせたものを運ぶ、炉端の周りに集まり食事をする、女性の踊り、輪舞(男女)

http://tokyocinema.net/far-eastlist.htm


不思議なアイヌの超能力


アイヌの霊の世界 (小学館創造選書 56)を取り上げたいと思います。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%AE%E9%9C%8A%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E5%89%B5%E9%80%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-56-%E8%97%A4%E6%9D%91-%E4%B9%85%E5%92%8C/dp/4098200562


著者の藤村さんは、アイヌ研究の第一人者で、
現在は北海学園大学の名誉教授ですが、
以前、開拓記念館の研究員をなさっていたときに
主に道東各地のアイヌ文化に関してフィールドワークを実施し、
さまざまな長老の方々と語り合う中で徐々に受け入れられ、
その本質に触れていくことができるようになったということでした。

この本の中で「憑き神」について述べられているところを要約しますと、


・誰にでも憑き神は憑いている。

・憑き神は人が生まれるとともにこの世にやってきて、
 その人が死ぬとその霊共々あの世に返っていく。

・先天的に憑いて来る霊には2種類あり、1人から最大3人で-ある。

・後天的に憑く霊は4種類ある。
 非常事態(たとえば病気)などのときに助けに来たりする霊もいれば、わるさする霊もいる。

・個人以外に人間の集団に憑く神もある。家系や村などの集団組織ごとにいる。

・同じ憑き神が複数の人を渡り歩くことはない。

・その人の動きやしぐさを観察すると、その人の憑き神がわかったりする。

・憑き神を知るためには「トゥス(シャーマン)」のところへ言ってみてもらうと判明する。

・その個人が成長するとともに憑き神も成長し、老化する。


…などなど、という感じですね。

現代スピリチュアリズムで言うところ「守護霊」とは同じ雰囲気のところもあれば、
そうでないところもありますが、大きな差異が見られるわけではない、とも思います。
「わるさする神もいる」、ということですから、それは「憑依霊」として分類されますね。

「守護霊」というと、なんでもかんでも守ってくれるもの、と勘違いしそうですが、
「その人(集団)の成長を助けてくれる見えない存在・神さま」と考えるほうがあっているようですね。


そして、それらの憑き神などの存在を、
普段は意識できないように、この世界もできているわけですが、
どうもこれはちゃんといるんだなーと感じる体験ができるのが、
上記にもあったシャーマン的な特異能力を発揮するような人に出会ったときですね。

http://www.donavi.com/contents/column/spiritual_nonaka/023/


本の中に「不思議なアイヌの超能力」という章があり、
そこには巫術行為(トゥス)の系統について述べられています。


 ・トゥスは世代世襲制である。家系をはずれてトゥスができるようになる人はいない。

 ・母親がトゥスをする人であって、子供が誰もできない場合、
  母方の兄弟の子供にできる人が現れたりする。

 ・例えば、姉がトゥスをよくする人で、その姉が急死した場合、
  ぜんぜんできなかった弟が代行する場合などもある。


ということで、霊能力には家系が非常に大切と言うことも分かります。

そういえば有名な霊能者さんのお話を聞くと、ご先祖様が霊能者をやっていた方もいらっしゃいますし、
そのままでなくても、お医者さんだったり神主さんお坊さんだったり、という方が多いような気も致します。

そうするとその方の拝む対象や、浄化の仕方なども自然とその系統を受け継いでいくようです。


また「ノイポロイクシ」と呼ばれる能力もあるそうで、
著者の藤村さんがご存知でそれができるという方はお二人いて、まずある古老の方は、


 ・あるときに「頭痛」がして、そうすると五分以内に来客が来ることがわかる。

 ・その来客も遠方から来る見知らぬ人に限って起こる。

 ・必ず頭痛する部位が、頭の右か左に偏り、
  左の場合は位の高いような大切なお客であるし、右の場合は並の人である。

 ・「はげしい頭痛」がある場合は、とてつもなく偉い人の来客である。


ということであり、もう一人のおばあさんの場合は、


 ・来客する1時間か30分くらい前に頭痛が走る。

 ・荒々しい頭痛の場合は女性の来客で、緩やかなときは男性の来客である。

 ・訪問理由の概略と来客の年齢まで分かる。


という感じで、来客に関して分かるという共通点はあるものの、
細部の情報の伝わり方はそれぞれ違うようなのですね。


それで、「どうして分かり方がちがうのか?」というのは、
私の考えでは、おそらく頭痛が走るようなやり方で、その方々の「憑き神」、
つまり「守護霊」さんたちが教えているのからなのではー?と思うわけですね。
つまり、憑き神さんたちとその受け取る人の能力差によって、
サインの受け渡し方法が違うのだろうと思うのです。

ですから、いろいろ便利そうだからと
若い人などが興味本位で超能力を伸ばそうとしてもそうならないのは、
きちんとそれぞれの憑き神さんが受け取る人の能力や人格を配慮して、
受け取る準備ができている人のみに、お知らせを送っているためと思われます。


ちなみに後のおばあさんの場合は、嫁いだ先のお姑さんがそういう能力があった方で、
離婚した後、自分の故郷に帰ってからご自分にも能力が出てきた、ということですから、
霊能力には実際の血のつながりだけでなく、さまざまなご縁も非常に大切なのかもしれませんね。


そのほか、この本にはカラスの鳴き方でもって来客や死別、
向かいの家でご馳走がある、それが自分の家に回ってくるか、こないか(笑)、
天気のよしあし、豊漁の有無などもわかる、ということですから、
カラスさんもいろいろ考えておしゃべりしているものなのだなーとも思いますが、
今ではすっかり忘れられている以心伝心的なコミュニケーションがあったおかげで、
昔の人々も厳しい自然の中で生き延びて来られたのかもしれないと思いましたね。
http://www.donavi.com/contents/column/spiritual_nonaka/024/


アイヌ文化の中のスピリチュアル的な行為の代表としては、
ツス(降霊現象)とウエインカラクル(観自在・千里眼能力)が挙げられるかと思います。

要するに、恐山のイタコさんのような力のある方が村の中にいて、
何か問題が起こるとお伺いを立ててことなきをえた、ということですね、
いわゆる「シャーマン」がいたわけです。

具体的にはどのような感じだったかということで、
今でも活躍中の方がいらっしゃればよいのですが、
なかなか「アイヌ式」などと謳っておやりになっていらっしゃる方は居ないようなので、参考文献として


『アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ―伝承の知恵の記録』
 青木愛子 述 長井博 記録
   樹心社 1983年 新版2001年 ¥2000+税

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4795224803/reborn0a-22/250-1298541-7861852

の記述をお借りしますね。

『ウエインカラをするためのカムイノミ等の儀式形式は何もない。
対座する相手と話をしながら、相手の過去や未来のことが見えてしまうのである。

これは目の前にいる相手でなければならないということはなく、
電話に出ている1千キロ離れた相手であってもかまわないし、
今どこに居るかわからない人のことであってもかまわない。
想うと見えてしまうのである。

…病人が来て愛子の治療を受ける。
治療の謝礼として金子(きんす)を包みに入れて差し出す。

開封せずに中の金額がわかる。その金子を借金してきたこともわかる。
貧しい家庭の様子まで見える。財布の金額もわかってしまう。
こうなると貧しい人からは謝礼を受け取れないということになる。

牧場主が1〜2ヶ月後に出産予定の子馬の性別を知りたがる。
生まれる時の様子が見えるので、雄か雌かわかる。

商売の運勢を見てもらいに人が来る。
その商売で動くおかねの様子が見える。
ついでにその人の浮気の様子まで見えてしまう。』


…ということで、この本に出て来る青木さんも、
なかなかお見通しな方だったようですねー。
見たくなくても見えてきてしまう、とのことですから、
とても霊感がおありの方だったようです。

それで、そのような能力というのも、
青木さんの場合は、若い頃に死の淵を彷徨ったことから始まったようですね。

臨死体験をして、あちらの世界へ行きかけたのだが、
「お前はまだやりのこしたことがある!」とかなんとか
守護天使さんのような方に言われて舞い戻ってきたら、
いつのまにかそのような能力が付いていた、という体験談も良く聞きますよね。

また強制的に臨死体験をするようなことをして霊感を高める修行は、
各地の伝統宗教などにも良く見られますね。

ネイティブアメリカンの方などでは
呪術師見習いがひとりで少しだけの食糧を持って荒野をさまよい、
精霊の声の導きを待つ、といういわゆる「ヴィジョンクエスト」などもあり、
ほんとに命がけで行なったようです。

ただ共通しているのは、「見える」ようになるということは、
自分ひとりの力で行なっているわけではないと言うことですね。
ただ、聴きに来る方は「その人自体がエライ先生」と言う風に祭り上げやすくなってしまうので、
霊能者自身も勘違いしやすい、道を誤りやすい、という弱点もあるようです。

そのような能力があっても青木さんのようにずっと謙虚な姿勢を保つというのは
霊能者自身にとっても難しいでしょうから、様々な人にできるだけ救いの手を差し伸べると言う事と共に、人間的にバランスを保つというのは、この世に学びにきている大きなテーマかもしれません。
http://www.donavi.com/contents/column/spiritual_nonaka/020/


アイヌ最後のシャーマン_青木愛子フチは「ウエインカラ」ができたそうです。

それは何かというと「千里眼」ですね。

「陰部まで見える」って書いてありましたから、よっぽど見えたそうです、でも見たくない人のも見えて困ったと思いますが。それはがんばってようやっと女湯覗けたらおばあちゃんだらけだった(小6の修学旅行にて)、という感じでしょうか?(^^;)

まぁつまり彼女は数少ない本物のアイヌ霊能者「ウエインカラクル」だったのですね。


たとえばある方が見てもらいに来て、封筒にお金をいただく、そうするとあける前に金額がわかる、そしてそのお金は借金したものだということが見える、だとするとなかなか受け取れない、というような感じだったそうです。

この方は10年位前までご存命だったそうですから、なかなか現代の神人のようだったんだなぁーって思いますね。

あとは「ツス」といって神がかりになることですね、イタコさんのようになることがおできになったようです。

それでその「イタコ」という言葉の語源もアイヌ語にあるようで「イタック(言葉)オイナ(宣託)」の変化だそうです。

それでははー出てきました、アイヌ語で「守護霊さん」というのは「トレンペヘ」って言ったそうです、「憑き神」っていうことですね。

だいたいどんなに凡人でも3人くらい憑いていて、守っているようです。自分の子供の憑き神は大体見ていれば親がわかったそうですが、わからん場合はこういう人に頼んでみてもらったそうです。ご先祖様がどうとかもですね、沖縄ではユタさんがそうですね。

そして書いてあります。


『一人ひとりが持っている光(注:オーラ?)が見える。

明るい人、非常に明るい人はごく少なく、暗く見える人が多い。

何も見えないほど暗い人もある。

暗い人の過去現在をウエインカラしてみると、詐欺、泥棒、異性関係の乱れている様子、売春や覚せい剤、物欲の強い様子等が見える。


ウテキアニ(愛)の精神で生きようとしている人は明るく、無慈悲な人、愛のない人は暗く見えると解釈している。

現在財宝をたくさん所有しているかどうかということとは関係なく、その光の量が見えてしまう。』


ということですね。自分なんかは細かいことは見えないですが、おそらくこの光の量というのは良くわかるんだと思うんですね、ですから、自分が遠くから見ていてもそれは結構良くわかるので占いができるんだと思いますし、あまりはずさないのかな?って思うんです。でももっとはっきりわからないとあかんなぁーっては思いますね(^^)。
http://blogs.yahoo.co.jp/fy3on3/6770078.html


ウテキアニ(育みわかちあう愛) 青木愛子ババの一周忌に思う

1989年の秋、日本列島の「気の文化」を考える上で、また日本人の生き方を見つめ直す上でも国内の先住民族・アイヌの伝統文化を学ぶことが最も重要なことだと考えた津村喬さんから、「アイヌ自然医学を訪ねて」という研修名で私と連れ合いにコーディネートをしてほしいという要請があった。 

その前年、私は一年近くアイヌの人達と仕事をしたおかげで、道内のかなりの数のアイヌの人達と知り合っていた。とりわけアイヌ語でカムイノミ(神事)のできるエカシ(長老)や伝統的な女の手仕事を身に付けているフチ(おばあさんの尊敬語)との出会いは強烈で、北海道で生まれ育ってはいたものの今まで実際には知る機会がなかった目に見えない世界・魂の領域を私が意識するようになれたのもこの頃からだった。

 ぜひ年内に第一回目を実施したいという津村さんからの要請を引き受けてはみたものの具体的な提案はなく、全てこちらにおまかせ方式。これは大変な課題を背負ってしまったと悩みつつも、自分が出会い感動したアイヌのコスモロジーをなんとか他の人達にも伝えたいという気持ちがいわば私のエネルギーになっていた。

 アイヌの伝統文化の根幹に学ぼうとするならばシャーマニズムは不可欠なものだが、沢山出会ったアイヌの人達から今もシャーマンがいるという話は一度も聞いたことがなかった。よく考えてみれば、和人がいっきにおしよせた明治以降、厳しい同化政策が一方的に進む中でアイヌの信仰やシャーマニズムの世界は特に差別の対象にされてきたのだから、私が知り合ったアイヌの年輩者達がそれらの事を今でもそう簡単に口にすることはできなかったのだろう。

はたして薬草や呪術的な世界に精通したシャーマンは今も存在しているのだろうか。

どういう組み立て方にしようかと考えあぐねた私は、「アイヌ自然医学」というテーマの研修をするならばやはりこの本しかないと思ったのが『アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ(樹心社)』だった。

これは札幌在住の写真家で伝承医学研究家の長井博さんが記録した本で、アイヌの伝統医術の世界、とりわけ人間の誕生・出産に関するコスモロジーが青木愛子ババを通して驚くほど豊かに語られていた。

アイヌに関する書籍は次々出版されていたが、この本のように一人の実在するシャーマンの口から伝承医術が具体的に語られている内容のものは当時これ一冊といってよかった。

 表紙の言葉をそのまま紹介すると

「青木愛子はアイヌコタンに代々続いた産婆の家に生まれ、古代から継承されて来た産婆術(イコインカル)、診察・治療のための特殊な掌(テケイヌ)、薬草(クスリ)、整体手技、あるいはシャーマンとしての技量をも駆使して(ウエインカラ ツス ウエポタラ)、地域住民の心身健康の守り役、相談役として活躍している。

本書は十年にわたって愛子の施療の実際を見、その言葉の一つ一つを丹念に記録して、アイヌの信仰と文化の実態に迫った伝承の知恵の書。」

と書かれていた。

 研修の核となりうる存在はこの人だと思ったもののいっさいの噂を耳にしたことがなかった当時の私は、もしかしたら亡くなっているのではという不安をいだきながら大急ぎで愛子ババ探しを始めた。しかし、意外にも出会いは短距離で実現した。ババは二風谷に健在で、親しくしていた樺さんの母方の叔母さんにあたるというのだ。

「連れては行くが、それから先の話は自力でやるように。」と樺さんに念をおされながら私達が訪ねて行ったのは研修実施一ヶ月前の事だった。

初めて訪ねて行った時の愛子ババは、すでに産婆としての現役時代を終えてはいたものの、鋭い眼光でいきなり「アイヌのモンキー見物に来たのか!」と煙草をふかしながら言った。

参ったなあと思うほどこちらを見透かすような強い眼力と迫力で、こういう人には素直にしなくてはと思った途端、

「なしてそんな青っちょろい顔してる。」とババは連れ合いに向かって言いながら自分の近くに手招きした。

私達がそばににじりよるとババはポイと煙草をほおってよこした。

「いいから二回吸ったらババさよこせ。」。

連れ合いが言われるままに煙草を吸いババに戻すと、今度はババがまたその煙草を一口大きく吸い、薪ストーブの焚き口を開けて火の神様にアイヌ語でなにやら祈りはじめた。私達にはアイヌ語は解からなかったが、何か連れ合いのために神々にお願いしてくれているということはよく伝わりありがたい気持ちになった。


 この時、愛子ババは私達と初めて会ったのにもかかわらず、連れ合いが帝王切開かつ仮死状態で生まれ、決して丈夫とはいえない体で育ち、一ヶ月前に母親を癌で亡くしたせいで身も心も疲れており、父親も病弱で心配の種であることなどを瞬時にして感じとっていた。

質問などいっさいなしで、ババの心の中には連れ合いのことが色々観えてしまっていた。ババはこういうふうにいろいろ観えてしまうことを“胸の知らせ”と言っていたが、初対面で私達はいきなりシャーマンが持つウエインカラ(千里眼)の力を思い知らされた。

 祈り終わるとババはすぐに

「ババのこと信じるか。」

とたずね、私達が信じますと心からそう思って答えると、

「ババのことを信じてこの薬草がなくなるまで煎じて飲めば丈夫になる。間違いないから。」

と言いながら部屋中にぶら下がっている薬草の中から連れ合いに必要なものを選び、無造作に渡してよこした。そして何度も

「あんたのためにやる薬だから他の人には絶対やるんじゃないよ。信じて飲めば効くんだから。」

と言った。

その時ババが連れ合いのために選んだ薬草は、ヤマニンジンとシケレベ(きはだの木の実)、キトピロ(行者ニンニク)だった。

この日、私達はアイヌのシャーマンがウエインカラ(千里眼)と薬草術によって人を癒やすことを身をもって体験した。そしてババは一ヶ月後に研修で訪ねて来る人達にも会うことを約束してくれた。

 再び二風谷を訪れるまでの間、連れ合いはババの薬草を毎日煎じて飲み、どのくらいからか記憶はさだかではないが一ヶ月後には慢性的な下痢が止まり、血色の良い顔になっていた。

生まれつき胃腸が弱いせいか下痢状態の便があたりまえだった彼にとってこれは画期的なことで、どんなに沢山食べても痩せていた体に少しづつ肉がつきはじめていた。


■89年12月、慌ただしい師走の隙間をぬうようにして「アイヌ自然医学を訪ねて」の第一回研修ツアーは実施され、冬〜夏〜秋〜春と季節を変えながら4年続き、5年目は京都気功会の企画として、さらに翌年は春なお寒い道北の白樺樹液採集の森を訪ねつつ通算6年間行なわれ、延べ120人余りの人達が参加した。

 研修内容は毎回かならず二風谷を訪ねて愛子ババと歓談することをはじめ、大長老の葛野エカシや亡くなった織田フチ、木幡エカシ、当時まだ国会議員ではなかった萱野茂さん、杉村京子フチ、千歳コタンのフチ達、その他多くのアイヌの人達の様々な協力に支えられた。チプサンケ(舟おろしの祭り)やラォマップ・カムイノミ(伝統漁法による鮭迎えの儀式)にも参列させてもらった。

また、不治の病いを愛子ババに助けられ、それ以後伝承医学の研究をライフワークにされている長井博さんには、ほとんど毎回お話を聞かせていただいた。


しかしなんといってもこの研修の核となったのは愛子ババである。回を重ねるごとに急速に体調を崩していったババは、入退院を繰り返し、こんどは無理かなと思っていても不思議に研修ツアーの時は自宅に戻っていて皆に会い続けてくれ、毎回参加者とババとの間にはなにかしらのドラマが生まれた。

 ババはウエインカラでその人の不幸や心の傷を観てとると、「かぁわいそうにぃ〜。」と独特の言い方と眼差しでその人を包んだ。いきなりとも言えるその愛の癒しに沢山涙を流した人達がいた。

「いつまでも空家(独身)にしとかないで、もっと素直になれ。幸せになんないばだめだ。」と言われた人。

「真っ直ぐいけ。真っ直ぐいってどんとぶつかれ。」と言われた人。

「あとはここ(胸のチャクラを指差して)、ここの窓を開けばいいだけ。すぐそこまできてるんだから。」と言われた人。

「今のこの人と一緒になれば幸せになるから。」と言われて翌朝すぐに相手の所に行って結婚を決めた人。


ババは終始一貫して皆に最愛の人を見つけ、結婚して幸せな家庭を育むようにと言っていたが、大宇宙の法則からしてそれが自然な営みなのだから自然に逆らわずに生きることが一番だと説いていた。

 また、ババは参加者の何人かの手を握り、ほんの少し手相を観てはその人の不幸や具合の悪さをいったん自分に引き受けその人を癒した。

「なんともない。だいじょうぶだから頑張って。」とババに言われた人は、手を握られている間に悪い手相が消えていた。不思議な話だが本当だ。

ババの説明によるとその人を癒そうとする時、その人の病いや悩みをババはいったん我身に引き受け、その後自力あるいは自分の憑き神様達の力で、引き受けた悪いものを自分の外に祓い落とすのだそうだ。 

皆と歓談しているうちにフゥーフゥーと肩で大きく息を吐きながら、水をがぶがぶ飲むこともしばしばで、

「憑いてた悪いもん引き受けてやったしょ。したから火照って、火照ってどうもなんないしょ。」

と私に耳打ちしながら着ている物を次々脱いで肌着一枚になったこともあった。


こうした“いったん我身に引き受ける癒し”の行為にはものすごいエネルギーを必要とし、歳をとり体が弱ってきたババにはだんだんそれがしんどくなっていた。それにもかかわらずババは自分に助けを求める人が傍らにいれば、たとえ相手が無意識でもつい手を差し伸べ悪いものを引き受けてしまっていた。

 愛子ババは、優れたイコインカラクル(助産婦)であり、ツスクル(降霊能力者)であり、ウエインカラクル(観自在者)であり、薬草や整体を含める各種療術師であった。カムイノミ(神儀)やウエポタラ(まじない)も行ない、さらにはウェプンキネ(看取り)も行なっていた。その人がさわやかにあの世へと旅立つことができるようにその人のトゥレンペヘ(憑き神)と話し合ったりしながら臨終に立ち会うこともしていた。

 これについては昨年9月に出版された『女と男の時空: /ヒメとヒコの時代(藤原書店)』という本の中で、旭川医科大学助教授の松岡悦子さんが「魂を見守る人」というタイトルで愛子ババのことを書いている。84年から88年までの4年間に松岡さんが愛子ババのもとに通って話を聞いたもので、これを読むと愛子ババを通して知るアイヌのシャーマンの役割とは、総じて「魂を見守る」ということなのがよく解る。

助産を意味するイコインカルは見守るという意味であり、臨終を看取るウェプンキネということばも見守るという意味なのだそうだ。

つまり愛子ババは直接的には生まれてくる赤ちゃんや死にゆく人を見守りながら、この世とあの世とを行き来する魂を見守る役目をはたしてきた。そしてこれまでアイヌのコタン(共同体)には、愛子ババのようなシャーマンがかならずいて人々の健康と生と死を見守ってきたのだ。


■私達が「アイヌ自然医学を訪ねて」という研修ツアーをきっかけにして愛子ババと出会った時、ババはすでに現役時代を終えて少しづつあの世へ旅立つ準備を始めていたともいえる。八人の子宝に恵まれ、皆無事に成人してはいたものの私と同じくらい歳の末の娘さんは不治の病いで病院生活が長く、どんなに他人を癒すことができても我が子にその力は効かないのだとババは時々シャーマンの運命を悲しそうに語った。

 私達は6年間、ババと一緒に食事をし、歓談し、研究者のような質問をさけ、ただただ一年に一度皆でババに会うのを楽しみとした。「たまげたなあ。皆、心のきれいな人ばっかしでないの。」とババは大きな目を見開いて言い、かならず皆のためにアイヌ語で祈ってくれた。津村さんが愉気をしてあげるととても気持ちが良いと喜び、「先生こんどいつ来る?。ババの生きてるうちにもう来ないっしょっ。」とわざとだだっ子のように言うのが口癖だった。

 そんなババが第4回目春の時には一緒に山に入り、子供の時よく遊んだというカンカンの沢まで行った。途中茂みの中に生まれてまもなく亡くなったお父さんの霊が姿を現わし、ババはうわさ通りの立派な風貌だとすごく喜んだ。その日の夕方、ババは今まで自分が祝い事の儀式の際、神々と交信するために用いてきたトゥキ(お椀)とトゥキパスイ(捧酒箸)を参加者全員の前で津村さんに贈った。

唐突にお祈りを始め「このトゥキをシサムのツムラに贈るのでカムイよどうかそれを許して祝ってください。」というような内容の祈りが終わると、なんの説明もなしにいきなり津村さんにあげるから持って帰れと言った。津村さんが驚いて「こんな大事なものはいただけない。」と断わると、「甥っこや娘らが持つよりも先生んとこさいくほうが生きる(トゥキが)から。祝い事にしか使ってこなかったんだよ。なしてさっさとしまわない。」とババは相変わらず乱暴な口のききかたをし、隣りにいる私になぜ津村は受け取らないのかと目で言った。ババは津村さんを代表にこうして自分のもとに集い、自分からの一方的な愛だけでなくお互いに癒し合う交わりを本当に喜んでくれていたのだ。

そしてこれから先も手渡した神器が愛と幸せを祝う働きをなしていくようにとババは願っていた。恐縮している津村さんをうながしてババからの贈り物を受け取ってもらいながら、私は全員がこの神器と共に大事な心をババから託されたという実感を抱いた。


■ババがあの世へ旅立ってからも、時々私にはあの独特な話し声が聞こえてくる。

「自分が今までこうして生きてこれたのも、愛のおかげさ。こんな田舎の、それもうんと昔に、なしてババに愛子なんて名前ついたのさ。“愛”でしょ。愛のために生きる人になれって、愛をみんなさ伝える人になれって、どっか上の方(神様)でババの親にそういう名前をつけさせたのさ。

アイヌもシャモ(和人)も全国世界中、神の道は一つなんだよ。“ウテキアニ(註:ウ・互いに テク・手 イ・それを アニ・執る)”さ。解かるかい。

こうやって(自分の両脇にすわった人の手を握り)あんたもあんたも(目で一同に手をつなぎ合うよううながす)ほらこうすれば伝わってくるっしょ。これがウテキアニ。これが愛でしょ。」。研修ツアーで遠くから訪ねて来た皆にババが一番伝えたかった話だ。

 癒しにおいて大切なのは超能力や技術よりもむしろ愛だということは、愛子ババだけでなく多くのヒーラーが語っていることで、気功でもそれは同じことだろう。世界が健康でなければ個人の健康もないという立場も愛を基にしてこそ成り立つものだ。

自分では何も書き残すことのなかった愛子ババは直接触れ合った私達に、大切なものの伝え方、遺し方を教えてくれた。ババの愛に包まれた者は、また自分が出会った人にその愛を手渡していけば良いのだと思う。今は神戸で暮らすババの神器が、協会のこれからの活動の中で、津村さんのそして私達の人生の中で、愛と幸せを祝うことができるようにと祈りたい。
http://www2.comco.ne.jp/~micabox/grugru/aiko1.html


青木愛子の人となりを簡単に紹介するならば、収入になるかどうかの問題は置くとして、アイヌ世界のプロフェッショナルとしてのイコインカルクル(助産婦)であり、ツスクル(降霊能力者)であり、ウエインカラクル(観自在者)であり、クスリや生体を含める各種療術師であるといえよう。

…巫女の側面としては、ツス(降霊現象)とウエインカラ(千里眼)がある。ツスは昭和二十一年五月(三十二歳)に始まり、ウエインカラは章は三十年(四十一歳)、癌の手術で死にかけた時から始まっている。

例えば人生相談のものが来て、すでに他界している先祖の霊にお伺いしたいというようなことで、愛子の肉体に死者の霊を降ろして語らせる現象をツスと呼ぶ。

ウエインカラ、いわゆる千里眼で何でも見えるようになると、人生相談の者が来てもツスをする必要がなくなり、もっぱらウエインカラして見るようになる。巫女として、他の種々のカムイノミ(神儀)やウエポタラ(まじない)等も行う。


というわけで、愛子さんも小さいころから能力があってということではなく、途中からよくわかるようになって来た方のようですね、さらに、女系の方は代々そのような能力をお持ちの方のようです。

では実際にはどのような感じでわかったかというと、

距離と時間を越えて見える

ウエインカラをするためのカムイノミ等の儀式形式は何もない。対座する相手と話をしながら、相手の過去や未来のことが見えてしまうのである。

これは目の前に居る相手ではなければならないということはなく、電話に出ている一千キロ離れた相手であってもかまわないし、今どこに居るかわからないある人のことであってもかまわない。想うと見えてしまうのである。

…病人が来て愛子の治療を受ける。治療の謝礼として金子(きんす)を包みに入れて差し出す。開封せずに中の金額がわかる。その金子を借金してきたこともわかる。貧しい家庭の様子まで見える。財布の金額もわかってしまう。こうなると貧しい人からは謝礼を受け取れないということになる。

牧場主が1〜2ヵ月後に出産予定の子馬の性別を知りたがる。生まれるときの様子が見えるのでオスかメスかわかる。
商売の運勢を見てもらいに人が来る。その商売で動くお金の様子が見える。ついでにその人の浮気の様子まで見えてしまう。

…例えば、一緒に居る人たちには見えないのだが、愛子にだけは大蛇が沼に居るのが見える。

死者の霊が見える。例えば愛子の親しい友人が交通事故で死亡した。死亡してから四十九日目の間は、その友人の例が愛子のところに遊びに来るのが見えて、対話する。愛子にとっては日常的なことなので恐ろしいという気持ちは起きない。

四十九日が来ると、すでに死亡しているその友人の親族の霊が友人の霊と一緒に現われて歌をうたったりする様子が見え、その声も聞こえる。これは四十九日で終わる場合である。


またオーラはこのように見えていたようで、大変興味深いですねー。


一人一人が持っている光が見える。明るい人、非常に明るい人はごく少なく、暗く見える人が多い。何も見えないほど暗い人もある。

暗い人の過去現在をウエインカラしてみると、詐欺、泥棒、異性関係の乱れている様子、売春や覚醒剤、物欲の強い様子等が見える。

明るく見える人をウエインカラしてみると、他人に対して尽くしている様子が見える。ウテキアニ(愛)の精神で生きようとしている人は明るく、無慈悲な人、愛のない人は暗く見えると解釈している。現在財宝をたくさん所有しているかどうかということとは関係なく、その光の量が見えてしまう。


と、なるほど、私も光の量が違うということは良くわかるようで、くすみが内ない人ほど良い人ですよね、しかし、もともと心が温かい人でも、さまざまなストレスがたまっているとその周りにくすみがたまっていってしまって、そのストレスを発散できていない状態が長い間続くと、もともと明るい朗らかな方もふさぎ込むようになってしまったり、ガンコになってお酒に走ったりというわけで、オーラの明るさというのはまず非常に重要かつわかり易いその方の性格、状況の指標になったりしますよねー(^-^)。

ですので、まずスピリチュアルなこと学び、またそれを人生上で活用していくときに、オーラがわかるのとわからないのでは結構差がつくような感じも、実は致しますね。

「そんなオーラなんて普通の人がわかるようになるはずがな〜い!レインボーブリッジも封鎖できませ〜ん!」

とあきらめてしまうのは簡単なのですが、まぁ自分としては自分が一応わかるようになったということは、もっと霊感体質で、かつ慈善的な活動なさっているような人はたくさんいらっしゃるわけですから、そのような方もうまくその能力を特に難しいことを学ばなくても活用できるようになる時代が来ると思うのですね。
http://www.uranaiblog.net/user/fy3on3/fy3on3/62550.html


歴代継承者について 本書より引用


この本の原稿締めきり間近になって、愛子からこれまでになかった伝承記憶を思い出して語られ、また筆者が再度フィリピンを訪れて確認した事実により、これまでの原稿をそのままにした上で、更に歴代継承者の項を設けたい。この部分を加えることによって歴代の輪郭がよりはっきりしてくるかと思う。


初代の産婆は1756年(宝暦6年)頃、現在のフィリピン共和国・バギオシティー、ラクナムの地、ルソン島北部山岳地方を支配したイゴロット族の聖地アシュラムで生を享けている。

この初代に産婆や薬草等の治療の技術、及び信仰について授けたのは、アシュラムの開祖である

ティエンチンイー(天静一)という名前の男性であった。ツスの中で初代の霊が名乗っている

天静一の名は、実は初代その人の名前ではないことがはっきりした。初代は降霊現象(ツス)の中で、自分の名前を名乗っていないというのが事実である。


天静一は、中国人名のようだが、現在までの筆者の調査によっても、その出身地は不明のままになっている。現在までに判明していることは、船でルソン島に渡りついた異国人である。

薬草その他の治療の技術にすぐれた男で、彼が瞑想の地と定めて住みついた場所が、後にアシュラムと呼ばれるようになったようだ。この地方はイゴロット族の居住域で、天静一はイゴロット族を中心にして周辺の少数民族の畏敬を集めた人物であったようだ。


初代の産婆はそのアシュラムから北海道まで渡って、シトシというアイヌレヘ(アイヌ語名)のシャモと結婚している。シトシはコタン(村)の人々をトバットミ(強盗集団)から護る役目等を持ち、初代の方は産婆や子育ての技術、薬草等の治療術を生かしながら、夫婦で北海道各地のアイヌコタン(村)を巡回した。


初代81歳の時に訪れたヤマモンベツコタン(現・沙流郡門別町庫富)が最後の地となる。初代は、アトイサムという名のシャモの老婦人のチセ(家)に身を寄せている内に急に容体が変化し、おせわになったその老婦人にテケイヌ(診療・治療のための特殊な能力を持つ掌)を継承して他界した。

この時、初代を追って来ることになっていた夫のシトシは、まだコタンに到着していな
かった。この時の老婦人、シャモの女性が二代目継承者になるのであるが、初代との間には血縁関係のないことを、念を押しておきたい。


この二代目アトイサムは出生地不明、1775年頃に生を享け、1855年頃に他界したようだ。

初代からの教育的伝承はほとんど受けておらず、カムイノミ(神儀)の儀式的な継承のみであった。アトイサムは自分の子供に継承せずに、1851年頃に生れたまだ幼ない孫に三代目するカムイノミを行ない、他界している。やはり実践教育的な継承の期間が、ほぼなかったといえる。

三代目ハイネレの夫はアイヌ語名・門別アンリケチュウという名で、比較的若くて他界したと伝えられている。シャモであったようだ。

四代目は、三代目ハイネレの第二子長女・ウコチャテクが継承して、20歳頃に13歳年上の貝沢ウトレントクと結婚している。ウトレントクの父親はウカリクン、母親はシュトラン、祖母カシテクン、二風谷地方の古いニシバの家系であったようだ。


五代目継承者の愛子は父ウトレントク、母ウコチャテクの第七子四女である。以上を簡単に整理すると、青木愛子に伝わるアイヌイコインカル(助産術)やテケイヌ等は、ルソン島のイゴロット族のアシュラム(聖地)から運ばれていることになる。

アシュラムの方にはヒーリング(心霊技術)が歴代継承され、既に他界したが、トニー・アグパオアが現れて、その手術の真偽が世界的な話題になったようだ。

真偽の問題を論ずる趣味は筆者にはないが、聴診器も注射もメスも使わずに手当てを
行なう特殊な掌をアイヌ語でテケイヌと呼ぶことを報告しておきたい。


二代目、三代目はヤマモンベツコタンに、四代目、五代目は二風谷に定住した。初代以降五代目まで、アイヌの信仰と文化の中で人生を送っている。

しかし、アイヌと結婚した者は、現在までの調査では四代目ウコチャテク一人が判明しているだけである。

http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeWorld/Books/Upashikuma.html


青木愛子さんについては

アイヌ民族 (朝日文庫) (文庫)
本多 勝一 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%B0%91%E6%97%8F-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/4022613572

でも詳細に紹介されています。




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/181.html

[近代史3] アイヌのシャーマニズム 中川隆
1. 中川隆[-12810] koaQ7Jey 2019年1月22日 10:04:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

アイヌの宗教

アイヌの人々が考える宇宙は、この世とあの世とからなる。人間は死ぬとあの世へ旅立つが、そこではあの世での新しい生活がある。そこで一生を終えるのと、またこの世に戻ってくる。この世とあの世とは、同じ生活が営まれているが、季節や昼夜は反対である。

 霊魂 この行き来するものが霊魂であるが、この世にあるすべてのものに霊魂が宿っているとされている。

 アイヌにとってのカミ観念 そうした霊魂のうち、火や雷、地震、津波などの自然現象、クマやオオカミ、トリカブトなどの強い力を持った動植物など人間の意のままにならないもの、力を持ったもの、不思議もの、役に立つもの、あるいは恐ろしいものが、神として崇められ、畏れられた。神は崇められるだけではない。神として崇められた霊魂は、人間世界へなんらかの恩恵をもたらすことで、返礼する。


__________


アイヌとカムイ

アイヌ民族の伝統的な世界観では、カムイは動植物や自然現象、あるいは人工物など、あらゆるものにカムイが宿っているとされる。一般にカムイと呼ばれる条件としては、「ある固有の能力を有しているもの」、特に人間のできない事を行い様々な恩恵や災厄をもたらすものである事が挙げられる。そして、そういった能力の保持者或いは付与者としてそのものに内在する霊的知性体がカムイであると考えられている。

カムイは、本来神々の世界であるカムイ・モシリ (kamuy mosir) に所属しており、その本来の姿は人間と同じだという。例えば下記のアペ・フチ・カムイ (ape huci kamuy, 火の老婆のカムイ) なら赤い小袖を着たおばあさんなど、そのものを連想させる姿と考えられている。そしてある一定の使命を帯びて人間の世界であるアイヌ・モシリ (aynu mosir) にやってくる際、その使命に応じた衣服を身にまとうという。例えばキムン・カムイ (kim un kamuy, 山にいるカムイ)が人間の世界にやってくる時にはヒグマの衣服(肉体)をまとってくる。言い換えれば我々が目にするヒグマはすべて、人間の世界におけるカムイの仮の姿ということになる。

名称ではキムン・カムイ、コタン・コロ・カムイ (kotan kor kamuy, 集落を護るカムイ、シマフクロウ) 、レプン・カムイ (rep un kamuy, 沖にいるカムイ、シャチ) のように、「ーカムイ」などのように用いられる。

また、カムイの有する「固有の能力」は人間に都合の良い物ばかりとは限らない。例えば熱病をもたらす疫病神なども、人智の及ばぬ力を振るう存在としてカムイと呼ばれる。このように、人間に災厄をもたらすカムイはウェン・カムイ (wen kamuy, 悪しきカムイ) と呼ばれ、人間に恩恵をもたらすピリカ・カムイ (pirka kamuy, 善きカムイ) と同様に畏怖される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%82%A4


原始宗教


1) アニミズムとアニマティズム


山崎
「アニミズムとは、動植物から、山や川や海といった無生物、 雨や風や雷などといった自然現象に至る万物に、霊的存在〔霊魂・神霊・精霊・妖精など〕を認める信仰だ」。


ルナ
「つまり自然の万物、万象を生命化するのがアニミズムなのね」。


山崎
「そうだね。もっとも原始的な宗教で、神の観念はこのアニミズムから生じたとされるよ」。


ルナ
「やがて、太陽、山、海、風などが が神格化されて多神教の神になったのね」。


山崎
『アニミズムより以前に、アニマティズム(プレ・アニミズム)が存在したという説もある。

アニマティズムとは、万物に内在する生命力や活力に対する信仰で、ここから神の観念が生じたとも言われている。山や海や太陽などといった人間の力を超える存在に対し、おそれかしこむ心情を抱くこと。火や水の浄化力を信じて禊(みそぎ)したり火祭を行うこと。鏡や剣に霊力がそなわるという考え。これらはアニマティズムに通じていると言えるんじゃないかな。

なお、呪術さらには宗教そのものが、超自然的存在を動かすことを目的としていて、アニマティズムの発展と考えられるよ』。


ルナ
「いずれにしても、かつて人間は、人智を超えた自然神秘や驚異を神と見なしたということね」。
「最初にアニミズム説を唱えた人は?」。


山崎
『エドワード・バーネット・タイラー(1832〜1917・オックスホード大学初代人類学教授)というイギリスの人類学者だ。タイラーは主著「原始文化」で、神や霊魂の観念、呪術、祖霊崇拝などといった宗教現象となっている人間の意識をアニミズム〔ラテン語のアニマ(霊魂・生命・気息の意)から〕と定義し、これこそが最も原始的な宗教の形で、ここから死霊崇拝などを経て多神教へと発展し、さらに一神教へと進化したと述べたそうだ』。


ルナ
「当然、一神教の立場の人たちから激しい批判を受けたでしょうね」。山崎「そのとおりだ」。


山崎
『なお、タイラーは最初に「文化」の概念を明らかにした人としても知られている。彼は、文化や文明は、人間が獲得した知識、信仰、芸術、慣わしなどといった能力や習慣の複合体であるとしている。また、世界各地に同じような神話が見られることから、文化は伝播すると主張したようだね。のちには、世界の諸文化を、野蛮、未開、文明の3つに分け、文化の進化主義をとったというよ』。


ルナ
「アニマティズムを主張した人は?」。


山崎
『タイラーの弟子の マット〔1866〜1943・イギリスの人類学者。オックスフォード大学学長〕だ。彼によると、人類が霊魂や精霊の観念をもったのは、智恵がかなり発達してからだという。例えば「雨よ。やんでくれ」と雨に呼びかけるのは、雨に霊魂が存在していると見ているのではなく、雨を生命そのものとみなしているというのがマットの主張だ』


ルナ
「なるほど」。


山崎
『それからマットは、メラネシアやポリネシアといったオセアニアの島々の原住民が持つ「マナ」の観念を自説の裏付けとしていて、アニマティズムは、マナイズムともいうよね』。


B、マ ナ

ルナ
「マナって?」。

山崎
「自然、人工物、人間、神、祖霊、死霊などあらゆる存在が持つと考えられている超自然的な力だ。広く太平洋諸島にみられる観念だという」。


山崎
『例えば「彼が勇士なのは、マナを有する槍を持っているからだ」とか「彼の土地に作物がよく育つのは、マナを有する石を持っているからだ」とか「マナを持てば家畜が増える」とか「酋長は多くのマナを所有している」などと言われるものだね。

マナの特徴は、その人やそのものに固有な力ではなく、付け加えたり、取り除くことができるということ、また勝手に他のものに伝わっていくということにある。だから、槍や網などの道具類、また病人や疲労した人に、マナを注入することで、望ましい状態にすることができると考えられている。

マナを得ることが利益ももたらすので、人々は強力なマナを得ようと様々な努力をするというよ。
マナの観念は、イギリスの人類学者・カトリックの宣教師 コドリントン(1830〜1922)の著書「メラネシア人」によって世界に紹介されている。彼は、マナとは“転移性を有する超自然力”と定義している。このマナが学会の注目を集めたのは、マナのような超自然力こそが、宗教の原初であり、あらゆる宗教の本質であると考えられたことからなんだ』。


ルナ
「“超自然力を獲得するための努力”なら、修験道では、山岳を霊力が強い場所とみなし、そこで修行すれば霊験(れいげん)を得るとしている。この霊験という超自然力を得て、加持祈祷を行なう人が修験者だわ」。


山崎
『修験道には“転移性を有する超自然力”の観念もみられるよね。
密教では、宇宙の根本仏の大日如来と合一することで即身成仏を目指す。これも超自然力を手にするための努力だ。
護摩木や供物を火の中に投じ、煩悩を焼き尽くす「護摩」という修法には、火を超自然的な浄化力とみなす観念がみられるね。
また日蓮系においては、日蓮の著した曼荼羅にはすごい功力(くりき)があるとされていて、これを拝み題目(南無妙法蓮華経)を唱えることで、自己の仏性が顕現され、大変な功徳が得られると信じられている。

古神道では「禊」(みそぎ)は、身削ぎ(心身の浄化)だけでなく、霊注ぎ(みそぎ)の意味もあるなんて言われる。水の持つ超自然的な浄化力やエネルギーを信じるものだね。
「神籬」(ひもろぎ・巨木)や「磐座」(いわくら・巨岩石)に、神が依りつくという考えは、超自然力の転移だ。
神道では、巫女(みこ)や神輿(みこし)に神霊が宿ったり(転移)するし、お祓(はら)いなんていうのは、まさに超自然的な力で災いを除く呪術だよ』。


ルナ
「一神教の神も超自然力をそなえた全知全能の神だわ」。


山崎
『一神教においては、人間が神の力を獲得することは説かれないけど、生前に奇跡をなした人を「聖人」という称号を与えて崇めるカトリックの「聖人崇拝」なんてのは、特定な人間に超自然的な力を認めるものだし、
「教会には神より聖霊が与えられていて、秘蹟(サクラメント)の効果は、聖職者に聖霊が宿るから可能である」なんていうカトリックの教義にもマナ的観念がみられる』。


ルナ「カリスマ(ギリシャ語。神の賜物の意)という語も、本来、キリスト教の言葉で、神から与えられた奇跡、呪術、予言などを行なう力をさすというわ」。


山崎『イスラム教神秘主義のスーフィズムでは、すぐれたスーフィー(神秘主義者)は、人々の願望をかなえるバラカという特別な呪力を得ていて、聖者として崇拝の対象となる。


バラカは死後も存続し、ムハンマドや聖者たちの遺体、遺品、墓石などにバラカがあり、これらを拝んだりすると様々な功徳があるとされている』。


ルナ『スーフィズムの聖者崇拝は、カトリックの「守護聖人」(特定の職業や地域などを守護すると崇められる聖人や天使)に対する信仰と近いわね』。


山崎『こうした宗教の源となったアニマティズムというのは、おそらく人類が超自然的な力を恐れ、危害を避けたいと願うと同時に「その力を味方にしたい」と考えたことから生まれたのかもしれないよね』。ルナ「はい」。


C、呪 術


ルナ『「呪術」も超自然的な力を動かすことで目的を達成しようとするものでしょ』。


山崎『呪術は、雨乞いのように人や社会に有益なことを目的とする「白呪術」と、人や社会に災いが起きることを目的とする「黒呪術」に分けられ、黒呪術には、密教の「調伏」〔ちょうぶく・明王などを本尊として、怨敵や魔障を降伏(ごうぶく)させる修法〕や「丑(うし)の時参り」なんかがよく知られている』。


ルナ『丑三つの刻(午前2時半頃)、社寺の樹に、呪う相手のわら人形を取り付けて、呪文を唱えながら五寸釘を打ち込むのが「丑の時参り」ね。よく白衣に身をまとった女性が、わら人形に釘を打つ姿が漫画に描かれたりするわ。


釘を人形の頭に打てば、相手の頭を痛めつけ、手足に打てば手足を痛めつけられる。満願の日までに人に見られると効果がないとか、目撃されたらその者を殺さないと自分が死ぬとか言われているわよね』。


山崎「黒呪術には、この他、写真に針を刺したり、相手の名前を書いた板に釘を打って海に流したり、足跡に釘を打ったり、相手の髪の毛を手に入れて呪うなどの方法があるようだね」。


ルナ『「お百度参り」は、白呪術になるのかしら?』。


山崎『そうだね。百度参りは、平安時代にはじまり、中世以降に一般に浸透したそうだ。特定の社寺に100回参詣し祈願するものが、のちに1日に100度参詣する形式となったそうだよ。


拝殿で祈願すると、そこからお百度石に戻り、そこからまた拝殿に行き祈願することを100回繰り返す。これを、お百度を踏むと言うんだけど、数を間違えないように、小石や小枝や竹べらが用意されていたり、お百度石の壁面にそろばんのようなものが備え付けられていたりするよね』。


ルナ「宗教がどちらかというと、超自然的な存在への帰依や服従であるのに対して、呪術は人間の力によって超自然的な力を動かそうという意識が強いようね」。


D、シャーマニズム T


ルナ「シャーマンが、トランス(恍惚)状態、神がかり状態となって、神や霊といった超自然的存在の言葉を語るシャーマニズムも古いタイプの宗教でしょ。邪馬台国の女王 卑弥呼もシャーマンだったというし」。


山崎『シャーマンは、ツングース語(シベリア東部・中国東北部に住むツングース系諸民族の言語)のシャマン(霊媒師)に由来するという。


日本のシャーマンの代表が、民間巫女(みこ)の「イタコ」(東北)と「ユタ」(沖縄)だね。巫女は、神社で神に仕える神社巫女〔かつては処女をあてた〕と、民間巫女に大別されるんだけど、民間巫女は、口寄せをするところに特徴がある』。


ルナ「巫女の語源は?」。山崎「不明だが、神の子を意味するみかんこの転、貴人の子を敬って称したものなどと言われているよね」。


ルナ「口寄せって、死霊を招いて神がかり状態となり霊の意志を語るのよね」。


山崎『口寄せには、ルナの言った「死口」(しにくち)の他、神霊を寄せる「神口」(かみくち)、生霊を寄せる「生口」(いきくち)があるそうだ。個人によってどれを得意とするかがあるみたいだね』。


ルナ『神や死者・さらには未来人・宇宙人など交信する「チャネリング」は、現代版の口寄せといったところね』。


山崎『シャーマンは、口寄せ(霊との交信)ばかりでなく、とり憑いた悪い霊を除く「除霊」。さまよっている霊を浄化(成仏)させる「浄霊」。またそれらにより、病気を治したり、災いを除くこと。


さらには、予言、占い、前世や過去世をいいあてること。悩み事相談なんかもするよね。悩み事相談の答えは「現在の不幸は、○代目前の先祖への供養が足りないために、その先祖が苦しんでいるのが原因です」とかいうものだ』。


ルナ「最近では、スピリチュアルカウンセラーなんていう連中が登場したど、彼らのしていることは、民間巫女と基本変わらないわね」。


山崎『それから未開社会では、青年期に夢や幻覚で見た鷲や熊などの動物霊を、個人の精霊(守護霊)としたり、日本のように祖霊信仰を持つ社会では、先祖の霊が子孫を加護するという思想があるようだけど、シャーマンは、守護霊と関係が深いようだ。


世界的に見てシャーマンになるには三つの型があるとされるよ。1つは、代々シャーマンの家系で守護霊が継承される世襲型。


1つは、召命型。これは、守護霊に選ばれた者が、巫病(ふびょう)にかかり、夢や幻覚で守護霊を見たり、幻聴で守護霊の声を聞くなど心身に異常をきたす。選ばれてしまったら本人の意志で拒絶することは困難で、拒否すると異常が激しくなり死ぬこともある。先輩シャーマンの指導によりシャーマンになると異常は消え、守護霊に守られるというもの。


もう一つは、修行型といって自分の意志や親族などのすすめにより師のシャーマンのもと修行し、呪文やトランス状態になることなどを学び、最後に守護霊を依り憑かせる儀式をうけてシャーマンになるというもので、このとき陶酔や幻覚のなかに現れた霊体が守護霊となるというものだ。


守護霊は、神霊であったり、先祖の霊であったり、精霊(鷲や熊などの動物霊)であったりするらしい。シャーマンと守護霊が夫婦や主従の関係とされたり、守護霊に眷属(けんぞく・家来)がいて、シャーマンは守護霊の力により眷属を使うことができるとされている場合もあるというよね』。


E、シャーマニズムU〔イタコ〕


山崎「イタコは、東北の津軽、南部〔岩手県と青森県下北半島と北秋田にまたがる地域。狭義には盛岡をさす〕の民間巫女だ。語源は、アイヌ語のイタク(語る)に愛称のコが付いたという説や、戒名を板に書いて祀るので板コである等の説がある。下北半島の恐山〔おそれざん・879mの火山。宇曾利山(うそりざん)ともいう〕を聖地とするよね」。


ルナ「恐山?」。


山崎『恐山は、862年に 慈覚大師 円仁(延暦寺3代座主。天台宗山門派の祖)が地蔵尊を祀ったことに始まると伝承される。菩提寺(円通寺地蔵堂)があり、比叡山、高野山とともに日本三大霊場とされるよ。


菩提寺は1536年に 聚覚(じゅかく)が再建して以来、山腹の円通寺〔曹洞宗。1522年、宏智聚覚(こうちじゅかく)の開山。南部氏の開基(資金的な開山)。本尊 釈迦如来〕の管理となっている。


宇曾利湖というカルデラ湖を中心に、周囲に朝比奈岳、円山、大尽山、釜臥山などの山々がある。周囲の山々は、八葉(はちよう・8つの花弁)蓮華の花弁をあらわしているとされる。いたるところに硫気孔があり、音を立てて硫気を吹き出していて、三途の川、賽の河原、八大地獄などもあり、死霊信仰と地蔵信仰が習合した霊場だ。


死者の集まる山として7/20〜24日の大祭には、参詣や観光でにぎわい、数珠を手にしたイタコによる口寄せが境内のいたるところで行われる。こ2恐山の大祭や、津軽半島 金木町川倉の地蔵盆には、沢山のいたこが集まるという』。


ルナ「イタコには盲目の女性が多いと聞くけど?」。


山崎『天台宗の寺院でも養成しているところがあるそうだが、普通、盲目の女性が少女のときに師のもとに弟子入りし、経文、祈祷、筮竹(ぜいちく)による占いなどを学ぶことが多いというよね。


独立のときにカミ憑(つ)けという神婚式を行い自分を守護する神や仏をもらうらしい。彼岸や盆に死者の供養として口寄せをする他、病気治しのオッパライ(お祓い。猫や馬や蛇などが描かれているイタコ絵馬を用いて病気の原因を占ってオッパライの祈祷を行う)をしたり、オシラサマを祀ったりするというよ』。


【 オシラサマ… 東北地方の民間信仰の神様。多くは30pほどの桑の木2本に男女や馬の顔などを彫ったり書いたりして、おせんたくと呼ぶ布を着せ、家の神、農耕神、養蚕神としたもの。神棚の祠におさめる。春秋の祭の日には祠から出しておせんたくを着せ替えたり、本家の老婆が祭文(さいもん・祭のときに神にささげる祈願や賛嘆の心を表したことば)を唱えるという。


イタコが行う土地も多くオシラサマを両手で持って舞わせながら祭文を唱える。イタコがオシラサマを舞わせたり、少女がオシラサマを背負って遊ばせることをオシラアソバセという。】


F、シャーマニズム V〔ユタ・御杖代〕


ルナ「ユタというのは、聞いたことがないけど…」。


山崎『ユタは、沖縄本島を中心に南西諸島で活動する民間巫女で、女性がほとんどだが男性もいるというよ。語源は不明だが、左右にゆためくことからとか、あらぬことを口ばしるので、ゆた口やゆたゆん(よくしゃべる意)からきたなどと考えられている。


ノロ〔祝女。地域の祭祀を取りしきり、御嶽(うたき)を管理する女性神官。世襲制で、かつては琉球王国より任命された〕が神官であるのに対し、ユタはシャーマン(霊媒師)だ』。


ルナ「沖縄では、女性が祭祀の中心なのね」。山崎「そうだ」。


山崎「ユタは、多くは幼少から病弱で霊能力を持つ者がなる。宿命によってなるのであり一般人はなれないとされるよ」。


ルナ「イタコが修行型であるのに対し、ユタは召命型なのね」。


山崎『幼児期に不思議な精神体験をし、その後、神ダーリ(巫病・神よりユタになるよう与えられる病気)にかかり、精神的に不安定な状態となり、死者と交信したり、予言を語ったり、異常な行動をするという。神の指示に従うことで精神が安定し、異常行動はなくなり、ユタとしての能力が現れてくるというよ。


その後、御嶽(うたき)を巡り、自分の守護神を見つけこれをのり移りさせて、最終的には弟子入りして学ぶという』。


【 御嶽… うたき・おたけ・沖縄県において、神社および鎮守の森に相当する聖地。多くは森の空間。山そのものや島そのものであることもある。


宮古(宮古島など)や八重山地方(石垣島・西表島・竹富島など)では、過去に実在したノロの墓が御嶽となっているものも多く。そのノロは地域の守護神として祀られているという。


社殿はなく、本殿にあたる最も神聖な場所をイベ、イビ、ウブ等と呼び、イベ石という自然石を祀る。イベ石は、古神道の磐座(いわくら)にあたり、神が降臨する場である。


イベには、香炉、線香、ロウソクなどが置かれ、酒や供物が供えられる。琉球王国時代、御嶽は完全に男子禁制で、現在でも、イベには、ノロ(祝女)・ニーガン(根神)・ツカサ(司)等の女性神役しか近づくことはできないという御嶽も多い。


≪ ニーガン… 村の草分け的な家を ニーヤ(根屋)と呼び、その主人(村の長)が ニーンチュ(根人)、主人の姉妹が ニーガン(根神)である。ニーガンは ノロの支配下にあり、村の祭祀を行った。


ツカサ… 宮古、八重山地域には ノロの名称はなく、ノロに代わって村落の祭祀を司る神女。≫


また、大きな御嶽では、人々が御嶽の神を歓待して歌ったり踊ったりするための「神あしゃぎ」(神が足をあげる場=腰を下ろす場の意味という)と呼ばれる四方が吹き抜けの建物が設けられていることもある。


鳥居がある御嶽も見られるが、これは明治の「皇民化政策」による結果。明治初期には、宗教政策の一環として御嶽を神社化する動きもあったが、影響は一部にとどまっている。


御嶽に祀る神は、村落共同体の祖霊神、太陽神、土地神、水神、火の神、農耕神、鍛冶の神、航海神、竜宮神、英雄神など様々。普通、それぞれの御嶽には、これを崇拝する集団がいて、代表者の女性神役を中心に定期的に豊作祈願や悪霊払い等がなされている。


現在でも新しい御嶽が出来たり、逆に統合されたり、放置されるなどしているという。なお、村落や地域の人々が、加護や繁栄を祈願する場所を「うがんじゅ」(拝所)と総称する。うがんじゅの多くは御嶽であるが、他に霊石や洞穴などの場合もある。】


ユタを守護する神(守護霊)は、多くは何代か前の先祖が多いが、観音菩薩などとする者もいるらしい。ユタは、自分の守護神が他人のそれより霊力が強いことを誇りとするそうだ。


ユタによる死霊の口寄せを「マブイワカシ」(マブは霊魂の意。本来は守護する意)という。人により、琉球王朝時代の死霊を呼び出すのを得意としたり、死んで間もない者の霊を得意とするなどの違いがあるらしい。この他、身体から抜け出した生霊を戻して病気を治す「マブイグミ」なんかを行うそうだ。


また、教義も戒律もないことから、ユタの祭壇には、仏教、神道、キリスト教などの偶像なんかが一緒に並べられているそうだ。また、副業としてユタを行なっている者も多いというよね。


また沖縄には、沖縄県には「医者半分、ユタ半分」ということわざがあり、ユタが千〜2千人(5千人とも)いて、多くの人たちがユタと関わりを持ち、結婚相手、結婚の日取り、運勢、転居、ノロなどの神役の選定、家庭の不和などの悩み事について占ってもらうそうだ。


さらに明治以後、移民によりブラジル、アルゼンチン、ペルーなどにも広がり、当地のユタの判示(占いの答え)を受け、沖縄に祈願にくる人もいるというよ。


しかし、不安を煽るような事を言っては、お金を騙し取るユタも多く、社会問題になることも多い。


また、中央集権化や近代化を目指す支配者層は、ユタの存在は、脅威や障害とみなされ、琉球王国以来「世間を惑わす」として、幾度も弾圧、摘発を受けている。近代以降も、明治期のユタの禁止令、大正期のユタ征伐運動、昭和10年代(戦時体制下)のユタ弾圧といった迫害を受けている』。


ルナ「日本初の統一王朝とされる邪馬台国〔初代神武天皇が創始した大和朝廷以前に存在。3世紀半ば頃〕の女王 卑弥呼(ひみこ)は、鬼道(幻術、妖術)に通じた巫女(シャーマン)であったとされるでしょ」。


山崎「飲食を給し、用件を伝えるただ一人の男子と婢(ひ・女の奴隷)千人が仕えていたとされ、弟が卑弥呼の神託に従って政治や軍事を担当していたというよ」。


ルナ「古代の祭祀って女性が中心だったのかしら?」。


山崎『古代の祭祀では、未婚の女性(処女)を神聖視したそうだ。神の妻とされた女性が神がかりして、神の言葉を伝えてきたようだね。例えば、斎宮〔さいぐう・斎王(さいおう・いつきのみこ)〕は、天皇の代わりに伊勢神宮に入り、天照大神に仕えた内親王(未婚の皇女)や 女王(じょおう・天皇の2世(孫)以下の女子)で、天皇即位のさいに選ばれたという。10代 崇神(すじん)天皇のときにはじまり96代 後醍醐天皇(在位・1318〜1339)のときまで続いたとされる。


〔崇神の年代についてはよく分かっていない。3〜4世紀とする説もある。また、崇神天皇を初代天皇とする説や、神武(初代)=崇神とする説、神武=応神(10代)=崇神とする説もある〕


皇祖神の天照大神(あまてらすおおみかみ・太陽の女神)の御神体である「八咫鏡」〔やたのかがみ・「天の岩戸開き」の神話に由来する鏡〕は、天皇のもとにあったが、崇神天皇のとき、恐れ多いとして、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に移して、皇女 豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が仕えた。


しかし、その後も天照の霊魂(みたま)が荒ぶったことから、姫が「御杖代」(みつえしろ・自らが天照の霊魂が宿る者)となり、丹波(京都中部)、大和(奈良)、木乃国(和歌山)、吉備国(岡山)を21年間巡っている。


さらに11代垂仁天皇のとき、年老いた豊鍬入姫命に代わり、垂仁の皇女 倭姫命(やまとひめのみこと)が、御杖代となり、新たな鎮座の地を求め、伊賀、淡海(おうみ)、美濃、尾張を巡り、伊勢の五十鈴(いすず)川のほとりに来たとき、天照が「常世(とこよ)の浪(なみ)が重浪(しきなみ)帰(き)する国なり」といたく気に入ったとして神殿が建てられた。これが伊勢神宮だよ。


天照の霊魂が皇居を出て、最終的に伊勢神宮に鎮座するまでに、25ヶ所もの社(宮)に祀られたとされ、これらの場所は「元伊勢」と呼ばれているよ。〔1つの元伊勢に、現在あるいくつかの神社が候補地としてあげられていたりする〕


また、日本武尊〔やまとたけるのみこと・12代景行天皇の第3皇子。14代仲哀天皇の父。小碓命(おうすのみこと)〕は、東北征討の途中、伊勢神宮に立ち寄り、おばで斎宮の倭姫命より、草薙剣を授かっているよ』。


【 草薙剣… 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)ともいう。八咫鏡、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)とともに、歴代天皇の三種の神器、皇位継承の証とされる。天照の弟の須佐之男命(すさのおのみこと)が、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに、大蛇のしっぽから出てきた剣。】


このような女性中心の祭祀形態は、神の言葉を伝えるという巫女の役割が形骸化されてゆき、巫女が男性神職の補助的存在になって失われていったと考えられているよね。だから沖縄の祭祀は、古代日本の宗教形態を最もとどめていると言えるかもしれないね』。


G、フェチニズム


山崎『マナの観念と似るものに「フェチニズム」というのがある。アニミズムやアニマティズムとともに宗教の原初形態の1つとされている。現在では、自然崇拝やアニミズムが宗教の原初であるという説が有力だが、かつては、フェチニズムから、アニミズム、多神教へと発展したという説も唱えられたそうだよ』。


ルナ『「フェチ」と言うと、異性全体ではなく、髪の毛とか、足とか、耳とかいった身体の一部や、靴下とか、下着とかといった所持品に、愛着を示すことでしょ』。山崎「そうだね。下着どろぼうや、毛皮(異性の象徴となるモノ)を着ていない女性とは、性交できないなんてのがいい例だ」。


山崎「フェチニズムは、もともとは特定の自然物や人工物に神秘的な力、超自然的な力が内在すると信じ、崇拝するものだよ。アフリカの未開社会をはじめ各地でみられるというよ。物神(フェティシュ)崇拝とか、呪物崇拝と訳される。


語源は、フェチコに由来する。15世紀後半、西アフリカと交易をしたポルトガルの航海者たちが、西アフリカの海岸地域で、原住民が、歯や爪、木片や貝殻や石などを、髪の毛に包んでお守りにして身に付けていたり、剣や鏡や玉、首飾り、臼などを崇拝しているのを見て、


カトリック信者が、聖者たちの遺物や護符をフェチコ(呪符や護符の意)として崇拝しているのと同じとみたところからきているそうだ。


フェチニズムの語を最初に使ったのは、フランスの比較民俗学者で思想家(ヒューマニスト)の シャルル・ド・ブロス(1709〜77)の著書「フェティシュ諸神の崇拝」だとされるよ』。


ルナ「偶像(仏像やキリストの画像)や十字架、曼荼羅、御札やお守り…。これらは広い意味で、フェチニズムと言えるわね」。


H、トーテミズム


山崎「ルナは、トーテムポールを知っているかな?」。ルナ「学校の校庭にあったわ。公園にもみられるわよね。鳥とか動物とか、人間の顔などが彫刻されている柱でしょ」。


山崎『トーテムポールは、カナダ西海岸部から北西アメリカのネイティブ(インディアン)諸族が製作するもので、トーテム〔家系をあらわす紋章。動植物など〕や、彼らのもつ伝説や物語の登場人物を表現したものというよ。


家屋から独立して建てられる独立柱、家屋の正面に建てられる入り口柱、家を支える柱また家の内部の飾りとして建てられる家柱、墓地に特定の個人を記念するために建てる墓標柱、特別な出来事(戦いなど)を記念して建てられる記念柱などがあるようだ。但し、これらは、崇拝の対象ではないというね』。


ルナ「トーテムって何?」。


山崎『氏族の先祖として崇拝する特定の動植物だね。動植物ばかりでなく、自然物、人工物、自然現象などの場合もあるようだ。


トーテムという語は、オジブワ族〔アメリカおよびカナダのネイティブの部族。アメリカでは3番、北米全体でも4番の人口〕の「彼は私の一族の者だ」という言葉に由来する アルバート・ギャラティン〔1761〜1849・アメリカの民俗学者。言語学者。政治家(財務長官を務めた)。アメリカ民族学会の設立者〕の造語だと言われているよ。


トーテミズムは、トーテムを崇拝する信仰だ。この信仰は、はじめネイティブアメリカン(アメリカインディアン)で発見され、のちに世界各地、とくにオーストラリア、オセアニア諸島、アフリカ、インドなどにも見られることが明らかになったそうだ。


オーストラリアには、各氏族のトーテムをあわせると、その数4千にもなる部族があったり、日、月、雲、雪、雨、火、水、季節などもトーテムとなっている部族があったり、安眠、下痢、嘔吐、性交などがトーテムとなっている部族があったり、男がコウモリで、女がキツツキというように、氏族でなく性によるトーテムを持つ例がみられたりするそうだ。


また、メラネシアには、各氏族が、鳥1種、樹木1種、動物1種というように複数のトーテムを持つ部族があったり、インドには、短刀、割れた瓶、トゲの付いた棒、腕輪、パン切れなどもトーテムとなっている部族があったり、


アフリカには、トーテムは牛だけで、各氏族のそれは、赤牛とか乳牛といった牛の種類や、舌、腸、心臓といった身体の部位で区別する部族があったり、アメリカ北西部には、個人が特定のトーテムを持つ例(但しこれは守護霊であるとする考えもある)もみられるというよ。


ほとんどの場合、トーテムとトーテム集団との結びつきの由来を物語る神話が存在するそうだ。また、トーテムは部族や氏族の先祖として畏敬され、殺したり食べたりしてはいけないとされていて、触れたり、見たりすることもタブー(禁忌)とする例もあるという。


一方で、禁忌をともなわない例も多く、トーテム動物は、トーテム集団の者に好意を持っていて、撃たれて食べられることを望んでいるとする例もあるそうだ。トーテム集団の人たちの姿や性格は、トーテム動物に似ているなどとも言われるらしい。


また、同じトーテムを持つ氏族の者同士の結婚は許されないというよね』。


I、アニミズムと神道


ルナ「日本の神道って、アニミズム的要素を割合と濃くとどめていると言えるような気がするけど…」。


山崎『そうだね。経済先進国において、純粋にアニミズム的要素を濃く残している宗教は、日本の神道以外にないかもしれないよ。


アニミズムとは自然の万物に、精霊や霊魂(みたま)が宿るという信仰だね。巨樹、森、山、太陽、月、あるいは、雨や風などの自然現象に精霊が宿るといった信仰だ。


前述したとおり、山、太陽、月、雨、風、雷などが神格化されて、神道のような多神教の神になったとされる。


インドのヒンズー教も多神教ではあるけど、仏教同様、輪廻や解脱を説き哲学性が強いうえ、カースト制度をも包含し、社会への影響は計り知れない。また中国の道教も多神教であるけど、まじない的要素が強いし、人間神も多いからね』。


山崎「ルナはどんなところに、神道にアニミズム的要素が色濃く残っていると感じたのかな?」。


ルナ「そうね-。仏教では仏像が本尊とされたりするけど、神道では神像がほとんど見らないわ。もちろんこれは一神教のような偶像崇拝の禁止とは違うでしょ…」 。


山崎「そこに、神道が自然崇拝を残している感じを持たせるわけだね。ルナにそう感じさせるのは、おそらく社(やしろ)が、本尊を拝む場ではなく、万物、自然を対象とする拝殿って感じがするからかもしれないね」。ルナ「確かにそうね」。


ルナ「鏡や玉や剣が御神体とされるところにもアニミズムの要素が感じるけど…」。


山崎『なるほど。おじさんが、神道がアニミズム的要素を色濃く残すと思うのには、神道がタマ(魂)とカミ(神)の観念が結びついた信仰だからというのもある。


古代の日本人は、言葉には言霊(ことだま)、木には木霊(こだま)、人には人霊(ひとだま)、稲には稲霊(いなだま)、船には船霊(ふなだま)が存在すると考えたそうけど、


天照大神の御神体(ごしんたい・神霊を象徴するもの)=御霊(みたま)を「八咫鏡」(やたのかがみ)とするのなんかは、まさにタマとカミの結びつきを示していよね。


さらに、神道の神、つまり日本神話の神には、ギリシア神話でみられる理念神〔勝利、自由、秩序、愛などの理念を神格化した神。日本神話ではこれといった理念神は登場しない〕がみられず、自然神が多いことも、神道にアニミズム的要素が色濃く残っている根拠の1つになると思うよ』。


ルナ『秩序の神という理念神がみられないのは、古代の日本人が、天体の運行から、花の一生に至るまでの全ての自然現象に、規則性や秩序性を感じ、


自然の摂理こそが、全ての秩序であり、理念であるとみていたからかもしれないわね』。山崎「なるほど」。


山崎「それから、例えば、八幡神社の祭神の八幡神は、応神天皇(15代天皇。5世紀頃)のことだとされている。このように神社の祭神はみな自然神なわけではない。でも、一般の人は、地域の神社は、その祭神に関わりなく、そこの地域や住民を守る 産土(うぶすな)神、鎮守神、氏神であると認識しているよね。ここにもアニミズム的要素がみられるだろうね」。


J、多神教と一神教


山崎『アニミズムやアニマティズムの信仰の対象が、やがて神格化されて、自然神が誕生した。自然神の誕生は、多神教の誕生でもある。


自然神とは、山や川、太陽や月、雷や風といった自然、天体、気象現象を神格化したものだ。アイヌの熊など神聖視される動物も自然神の一種と言える。


その後、人間神や文化神や理念神も誕生する。人間神とは、民族や氏族の統合の象徴で、祖先神や氏神といったものだ。


例えば、奈良の春日大社の祭神 天児屋根命〔あねのこやねのみこと・天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天の岩屋にかくれたとき、祝詞(のりと)を奏して出現を祈った。のちに邇々芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨につきしたがった神の1人。祝詞の神。子孫は大和朝廷の祭祀を司った〕は、


朝廷の祭祀を司った中臣(なかとみ)氏と、中臣氏から分れた藤原氏〔中臣鎌足が大化の改新の功により藤原姓を賜ったことにはじまる〕の氏神だ。


【 春日大社… 710年の平城京への遷都後まもなく、藤原不比等が、武神の建御雷神(たけみかづちのかみ)を春日山の浮雲峰に祀ったのにはじまり、786年に、称徳女帝の命で、藤原永手(ながて・不比等の孫。左大臣)が山麓に移し、建御雷神とともに、祖神の天児屋根命をあわせて祀った。この他、祭神は、武神の経津主神(ふつぬしのかみ)、比売神(ひめがみ)。】


祖先神や氏神は、子孫に律法をさずけたり、子孫を守護する神だね。


歴史や伝説の英雄なども神格化されている。家康は、日光東照宮に、東照大権現〔権現とは、権(かり)に現れた神の意。神仏習合思想で、インドの仏・菩薩が、日本の衆生を教化するために、仮に神の姿をとって現れたという意味〕として祀られている。


この他、人間神の例として、明治神宮は、明治天皇を祭神としている。天満宮の祭神の天神さんは、菅原道真だね。


文化神は、屋敷神、かまどの神、音楽神、学芸神といった生活や文化を司る神だ。


理念神は、勝利、秩序、自由、愛などの理念が、神格化されたものだ。アメリカの自由の女神。ギリシア神話の秩序と正義の女神 テミスや、運命の3女神 モイライ。


最高神のゼウスも雷神であると同時に、人間社会の秩序を支配している。また、バラモン教の宇宙の根本原理ブラフマン(梵)を神格化した ブラフマー(梵天)は、自然神と理念神の性格をもっていると言えるよね。


多神教では、時代がすすむにつれ、神の間に上下関係や支配被支配関係が生まれ、多くの神のなかから最高神が誕生したり、主要な神がトリオで最高神の位置を占めるようになってくる。


3神トリオの例としては、ギリシア神話で世界を3分する ゼウス(天)、ポセイドン(海)、ハデス(冥府)の兄弟。ヒンズー教の ブラフマー(創造)、ビシュヌ(維持)、シバ(破壊)。


古事記の最初に登場する造化3神〔天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神御産巣日神(かみむすひのかみ)〕。


黄泉(よみ)の国から帰った伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が海で禊(みそぎ)して生まれた三貴子〔天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)〕などがあげられる。


多神教には、特定の最高神は存在せず、祭儀の目的(福徳・病気平癒・長寿・悪霊退散・和合・祈雨など)にかなった神を最高神とするものもある。


つまり、その場に適した神を、交替で最高神とする信仰で、これを交替神教というそうだ。


リグ・ヴェーダ(バラモン教の聖典ヴェーダの最初部)時代のバラモン教はこれにあたる。密教の別尊曼荼羅〔 密教U 曼荼羅T 分類 〕もこれに属すると言えるよ。


また、多神教でも特定の一神をとりわけ強く信仰するもの、多神教と一神教の中間に位置するものもあるらしい。


一神教の成立については、多神教より発展したという説や、一神教こそ宗教の原初の形態で、多神教は一神教が退化して誕生したという説もあけど、これらはほとんどかえりみられない。


最も支持されているのが、創唱者によって創造されたという説だ。一神教にも、他の集団が崇拝する神を容認するが、自分たちは特定の神しか拝まないというものと、他の神は一切認めないという立場があり、古代イスラエルのヤーウェへの信仰は、前者だね』。


K、汎神論。理神論


ルナ『アニミズムって、一切が神、宇宙や自然すべてが神という「汎神(はんしんろん)論」に通じているわよね』。


山崎「そうだね。ただ汎神論に2種類あるんだよ」。ルナ「2種類?」。


山崎「一切が神というのと、神が一切というやつだ」。ルナ「同じように思えるけど…」。


山崎「一切が神となると、ルナもおじさんも、そこに転がっている石も、あそこに立っている木も神ということだね。すると神という言葉は飾りものにすぎない。形容詞にすぎないってことになる。これは神がいないのと同じだというので“無神論”というんだよ」。ルナ「なるほど」。


山崎「これに対して、神が一切というと、ルナも私も、そこの石も木も、宇宙のすべてが、じつは神の影のような存在で、実際は、本体の神しか存在しないことになるね。だからこっちは“無宇宙論”というのさ」。


ルナ『無神論は多元論。無宇宙論は一元論ね。一神教は「神」と「神の創造物の宇宙」の二元論にあるから、一切が神という多元論や、神が一切という一元論は否定されるでしょ』。


山崎「そうだね。汎神論を、無神論、無宇宙論と立て分けて論じるようになったのも、一神教の立場から、汎神論を否定するためになされたことと想像できる」。


ルナ「いつ頃から汎神論について色々論じられるようになったの?」。


山崎『スピノザが“神即自然”(即はそのままの意)という「理神論」を説いてからだというよね』。


ルナ「理神論?」。


山崎『17〜18世紀のヨーロッパに登場した神学だ。世界の根源としての神の存在は認めるが、これを人格的な神とは考えない立場さ。理神論者たちは、イギリス国教会(聖公会)の説く、神の啓示(おつげ)、神の奇跡、秘儀(サクラメント)などの神秘的要素、超自然的要素を否定し、


神による天地創造以後の世界においては、自然に内在する法則を把握することは可能であり、宗教的真理は自然から理性によって把握できると主張したんだよ。このため、理神論は、自然宗教や理性宗教と呼ばれているんだ』。


ルナ「理性宗教と自然宗教って反対のような感じだけど、キリスト教の世界観では同じなのね」。


山崎『イギリスの思想家 トーランド〔1670〜1722・論争をまきおこす多くの著書のため、迫害され諸国を放浪。貧困のうち死去。「キリスト教は神秘ならず」は処女作〕が「キリスト教は神秘ならず」(1696)を公刊すると、それに反論する国教会側とのあいだに論争が起きたというよ。


トーランドは、信仰が理性に反してはならず、キリスト教の教義は理性に反しないと主張し、教会の伝統的な秘儀を厳しく攻撃したそうだ」。


ルナ「でも、キリスト教の教義を、理性で把握できるという主張もおかしいわよね」。山崎「結局そこが一神教の世界で育った思想家の限界ということなんだろうね」。


L、スピノザ。必然と偶然


山崎「理神論者で最も有名なのが、オランダの哲学者・神学者の スピノザ(1632〜77)だ」。ルナ「スピノザ?」。


山崎『スピノサの両親はポーランドからオランダに移住した裕福なユダヤ商人で、スピノザは、ユダヤ人学校でヘブライ語や聖書を学び、その後、ユダヤ教の神学を研究したそうだ。


しかし批判的な見解をもつに至り、ユダヤ教会から永久的に破門され、学問の研究に生涯を終えたようだね』。ルナ「そうなんですか」。


山崎『スピノザは、まず神を万物の内在的原因と考え、超越的原因ではないとして“神即自然”と主張したんだ」。ルナ「汎神論ね」。


山崎『そして、神は唯一無限の実体である。精神界、物質界の全ての事物、事象は、神の諸様態である。


神の本性は、絶対・無限で、属性を無限に持つ。精神も身体も神の属性の1つにすぎない。と考えたんだ』。


ルナ「これは汎神論の無宇宙論ですね」。


山崎『そうだね。神による一元論さ。さらに、一切は神に内在する必然性(必ずそうなる)によって生成されるので、人間の自由意志や偶然(たまたまそうなる)は全く存在しないとしているよ。


スピノザによると、自由意志と理解されている心像や言語は、じつは単なる身体の運動にすぎないというよね』。


ルナ「決定論、運命論ね」。


山崎「但し、彼は、個の本質に、自己保存の衝動(コナトゥス)を認めている。その上でこのコナトゥスを乗り越えるには、神による必然性を理性によって認識し、この認識を他者と共有する必要があると唱えているよ」。


ルナ「ここに理神論的な思想があるのね」。


山崎『スピノザの真の自由とは、理性を通して、自己を含む全ての存在が、神の必然性の中にあることを洞察し、人間が神を通して思考できていることを知ることだという。


そして、これが最高の善であり道徳あるというのが、彼最大の主張で、これを「神への知的愛」と呼んでいるよ』。


ルナ『デカルト(1596〜1650)の「我思う、ゆえに我あり」を、根拠のない宗教的信念から否定しているわね』。


山崎『さらに「神への知的愛」とは、神が、神の一様態である人間を介して、自分(神)自身を愛することであり、人間は神の一様態であるから、神への愛は人間への愛でもある。


人間は、神が、自分自身を認識し、愛し、満足する行為に参与することで、最高の満足を得ることができると主張するよね』。


ルナ「感情については?」。


山崎『感情には、感覚的な受動感情と、理性的な能動感情があり、欲望の決定が、不完全な受動感情でなされたとき、人間は自らの環境にふりまわされ支配されている状態にある。能動感情により決定されているとき、人間は自由であるとしているよ』。ルナ「なるほど」。


山崎「そして、以上のような理神論の立場から、聖書はあくまで民衆を導く信仰の書であり、科学や哲学の書ではない。聖書にある奇跡を現実の出来事として教えるのは、信仰を迷信におとしめる行為であると主張したそうだ」。


ルナ「スピノザも色々と考えたようだけど、結局、センスのない服をおかしくアレンジしたみたいになっちゃってるわね」。


山崎「もともとオカルトにすぎないものに、色々と理屈をつけたからおかしなものになってしまったということだね」。ルナ「はい」。


山崎「無宇宙論や唯心論〔全ての事物、事象は、心という本体よりあらわれた影であり、本来 心の他に存在しない〕は、神あるいは心を唯一の真理とする一元論だ。一元論の場合、1つの存在だけが真理なんだから、その1つがよほどしっかりとした根拠を持たないと、スピノザみたいに哲学ではなく神学みたいになっちゃうよね」。


ルナ「全てに仏性があるという仏教の立場は、一切が神という無神論と同じだと思うけど…」。山崎「そうだね。仏教は無神論的宗教と言えるね」。


ルナ『スピノザが「全ては必然」という運命論の立場にあるのに対して、仏教はそうではないですよね。すると、仏教って全ては偶然だというの?」。


山崎「仏教でも偶然はあり得ないとみるよ。但し、それは全てを必然とみるからではなく、全ての結果に原因があるという因果の法則の立場からだ」。


ルナ「なるほど。まず因果の法則によって偶然は否定されるわけね」。


山崎『それから一神教では、宇宙は唯一絶対の神によって創造されたとするけど、これに対して仏教では、全ては、因(結果を生じさせる直接的な因。原因)と縁(因を助けて果を生じさせる間接的な因。助因)が、一瞬一瞬 和合して成り立っているという「縁起」を説く』。


ルナ「全てが関係性によって成り立っている。全てが相互依存の関係にあるということね。全ては神の御心という運命論とは違うわ」。


山崎『仏教における、森羅万象の本質は変化だよ。変化しないものはないという「空」だ。空は、縁起と表裏一体の関係にあり、あらわれた果にまた新たな因と縁が加わると、たちまち変化するので、新たな因や縁をつくってゆくことで、未来はいくらでも変えてゆけるという可能性の哲学でもあるんだよ』。


ルナ「空は可能性の哲学なのね。運命論や決定論、つまり全ては必然で決まっているというのとは逆の立場ね。すると、偶然でもなく必然でもないというのが仏教の立場になるわ」。山崎「そういうことだ。 全てが関係性によって成り立っているというのが仏教だ」。


M、アイヌの信仰 T〔アイヌ人〕


ルナ「アイヌの意味は?」。山崎「アイヌ語で人間を意味するそうだ」。


ルナ「そもそもアイヌ人とは?」。山崎「東アジアの古種族で、歴史的には、北海道を中心に、樺太南部、千島列島、本州の東北部を生活圏にしていた人たちだ」。


山崎『現在では、日本とロシアという2つの国に分断されて生活する少数民族で、日本では北海道を中心に、東京他の都市部でも生活しているというよ。その数3万人を超えるとも、北海道内には2万3千人がいるともいうが実際のところ正確な数はよく分かっていないようだ。


これはアイヌと名乗ることができない人がいるからだというよね。またこれらの人たちのほとんどが、日本人との混血によって人種的な特質は薄れているらしい。


なお、アイヌは、他のモンゴロイドに比べて、彫りが深かったり、体毛が濃かったりといった身体的特徴から、コーカソイドに近いという説が広かった時期があったそうだ。のちに、アイヌ=縄文人近似説が主流となっている』。


ルナ「縄文人近似説?」


山崎『この説によると、≪縄文時代、日本列島を含む東アジア一帯には、南方系の人々が住んでいた。およそ5千年前、シベリアの北方系の人々が東アジアに拡大をはじめた。2300年前には、九州北部から日本列島に侵入してきた。彼らが弥生人である。本土の大部分は弥生人によって占められ、わずかに北海道に残った縄文人がアイヌの人々になった。現代日本人は、平均として、およそ北方弥生系7〜8割、南方縄文系2〜3割の比率で混血している≫ということらしい。


〔縄文時代… 今から約1万6500年前(前145世紀)〜約3千年前(前10世紀)。弥生時代… 前10世紀中頃(異論もある)〜3世紀中頃〕


室町中期から江戸後期にかけては、和人(アイヌの立場から日本人を指す語)の抑圧に対して、しばしばアイヌの武装蜂起が起きている。秀吉、家康から松前氏が蝦夷の支配権を認められた後にも、大規模な蜂起が起き、これを収拾することで、松前氏は実質的な支配権を確立したそうだ。


アイヌ人は、食糧や生活に必要な素材のほとんどを狩猟〔エゾシカ・ヒグマ・アザラシ・トド・オットセイなど〕、漁労〔サケ、マス、ニシン、シシャモなど〕、植物採集により得ていたんだ』。


【 シシャモという言葉はアイヌ語のスサム(柳の葉の意)に由来する。神の国の柳の葉が人間の世界に落ちて魚になったとされる。サケは、カムイ・チップ(神の魚)と呼ばれ、サケの回帰性を神が与えてくれたものとみなした。】


ルナ「木の皮の繊維で織った和服に似たアイヌの民族衣装をアツシ(アットゥシ)というわよね」。山崎「アツシには、オヒョウあるいはシナノキの内皮を使うそうだ」。


山崎『しかし明治政府が成立し、多くの和人が移住してくると、森林は伐採され、原野は耕作地となり、狩猟や漁労の権利も奪われてしまったという。これにより彼らは、採集民としての生活が維持できなくなったという。


明治政府は、アイヌの農民化とともに、皇国臣民化を図ったというよ。以来、政策によって日本文化への同化を強いられ、固有の文化を失っていったそうだ。とくにアイヌ語は、日常の会話で全く使われなくなったそうだ。


近年までアイヌに対する根強い差別や偏見があったが、現在では、物質的、精神的ともに、日本人と全く同じ生活を営んでいて、民族としてのアイヌはすでになく、せいぜいアイヌ系日本人となっているともいう人もいるよね』。


ルナ「北海道や東北を、蝦夷地(えぞち)と言うでしょ」。山崎「蝦夷とは、大和朝廷によって異族視されていた北方に住む土着民に対する呼称で、蝦夷地は、時代によりその地域は変化しているよね」。


山崎『アイヌも、近世には、蝦夷(えぞ)と呼ばれたそうだ。アイヌという言葉が一般化したのは明治以降だという。蝦夷は、古代には「えみし」と読み「毛人」とも書かれたらしい。また「えみし」の転訛から「えびす」とも読まれたそうだ。えぞと読むようになったのは平安中期以降だというよ。


えみし、えぞの語源については様々な説があるが、一説によると、アイヌ語の雅語(日常語に対して文章語をいう)の「エンチュ」(人間の意)に由来するという。他には、本来の意味は「田舎(辺境)の勇者」であったという説などがあるようだ』。


N、アイヌの信仰 U〔カムイ〕


ルナ「アイヌの信仰ってどのようなものなの?」。


山崎『まず、ユーカラという神話的叙事詩がある。ユーカラは吟唱するもので、「カムイ・ユーカラ」(神謡)と「人間のユーカラ」(英雄叙事詩)の2つに大別される。また、鳥獣、植物、火、風などの神々が自らの身の上を語るカムイ・ユーカラ(神謡)、人間の祖先神が自らの功績を語るオイナ(聖伝)、人間の英雄(主にポンヤウンペという少年)の戦闘や愛などの体験記であるユーカラ(英雄詞曲)、主人公が女性のマト・ユーカラ(婦女詞曲)の4つに分けられたりする。


カムイ・ユーカラやオイナによれば、アイヌ神話の国造りの神は、コタン・コル・カムイ〔コタンは村や里や集落。カムイは神や神霊の意〕で、この神は巨人神で鯨を串刺しにしてあぶったりする。妹神とともに、大海に陸地をつくり、山や川、人間、動物、植物などを創造し、天上界に帰ったとあるそうだ。


天上界は神々の生活の場〔カムイ・モシリ〕で、ここの支配者は、カント・コル・カムイ〔雷神カンナカムイと同一とする説もある〕で、この神の指示によって、地上世界の創造されたという。


アイヌの世界観には、神々の世界(カムイ・モシリ)、人間の世界(アイヌ・モシリ)、死後に行く(ポクナ・モシリ)があり、死後に行く世界は、地上と同じ様相をしていると考えられていて、主神的な存在は見られないそうだ。


天上界から人間界〔アイヌ・モシリ〕に、生活の知恵や文化を授けた神は、アイヌラックル(人間的な神の意)という始祖神(アイヌ人の祖)で、オキクルミ、アエオイナカムイ、オイナカムイ、オキキリムイの別名を持つ。


この神は、脛(すね)の中に、稗(ひえ)の種を隠して、地上に降り、人間に穀物を授け、狩猟、漁労、耕作、薬草につていの知識、家や舟の作り方、彫り物、機織り、刺繍、神の祀り方や祈りの詞(ことば)などの信仰の儀礼、争いごとの解決法など生活の全てを教えたという。また地上の悪神を退治している』。


ルナ「日本語の神とカムイ〔神威や神居と当て字する〕は関係あるの?」。山崎「共通の祖先語から生まれたという説もあるようだよ」。


山崎「そのカムイ(神霊)が、動植物や自然現象、さらには人工物など、あらゆるものに宿っているというのがアイヌの世界観だね」。ルナ「アニミズムね」。


ルナ「他はどのような神がいるの?」。


山崎『太陽(チュプカムイ)、雨乞い(ホイヌサバカムイ)、雷(カンナカムイ)、狩猟(ハシナウックカムイ)、幣柵(ヌサコルカムイ)、月、風、雪、山、川、湖、草木、鳥獣、魚、虫、火、舟、疱瘡などの神々が祀られるという。


カムイ・ユーカラでは、これらの神々が、自分の来歴や体験などを語り、人間に対する位置づけや祀られるゆえんなどを明らかにしているそうだ。


水の神(ワッカ・ワシ・カムイ)や、魚(チェプコルカムイ)を与えてくれる川の神(ペトルンカムイ)はとくに重要で、また多くの祭儀では、火の神(アぺ・カムイ)がとくに尊ばれるというよ。火の神は人間の言葉を神の言葉に変えて、諸神に伝えてくれるため、どんなカムイに祈りを捧げる場合でも、原則としてアペ・カムイへの礼拝がともなうそうだ。


舟や家をつくる材料となるシランパ・カムイ〔樹木の神霊。樹木の集合である山をも意味した〕には、材料となる良い樹木には良いカムイが、ならない樹木には悪いカムイがいるとみなしたそうだ。


家にも、家の守護霊(チセコロカムイ・家の東北角に存在)、囲炉裏の霊〔アペ・フチ・カムイ。アペは火、フチは老婆の意味で、老婆の姿をした神〕、夫婦の霊(エチリリクマッ・家に入って入口すぐ右の柱に存在)などがいるとされたという。


また、陸、海、空のそれぞれに、最も重要な動物神がいる。陸ではキムン・カムイ(山にいる神)であるヒグマ、海ではレプン・カムイ(沖にいる神)であるシャチ、空ではコタン・コル・カムイ(集落を護る神)であるシマフクロウだ。他には、鹿の霊(ユッコルカムイ)、狐の霊(キムンシラッキ)なども信仰されたようだ。


さらに、人間に幸をもたらすピリカ・カムイ(善きカムイ)と、人間に災をもたらすウェン・カムイ(悪しきカムイ)がいる。流行病や天災は、悪しきカムイとされる。疱瘡(天然痘)や流行病を司る神は、パヨカカムイまたはパイカイカムイといい、この神の射た矢の音を聞いた者が疱瘡になるそうだ』。


O、アイヌの信仰 V〔イオマンテ〕


ルナ「イオマンテ(熊神送りの祭儀)ってよく聞くけど…」。


山崎『イは「それ(神霊)を」、オマンテは「行かしめる」の意味で、飼育した子熊(ヒグマ)を殺し、その霊魂であるカムイを神々の世界(カムイ・モシリ)に送り届ける祭儀だというよ。なお、親熊を狩りで殺した場合、その場で解体し、霊を送るけど、これはカムイ・ポプニレ(カムイを発動させる意)というそうだ。


カムイ・ポプニレは、祭壇を設えてヒグマの頭部を祀る。これは、殺された直後の獣(熊以外の動物も)のカムイ(霊魂)は、両耳の間に留まっているので、これを神々の世界に送り返すからだというよ。


但し、人間を傷つけたり殺したりした熊は、細かく刻んで大地にまいたり、ゴミと一緒に燃やしてしまい、ポプニレを行わないため、こうした熊の霊魂は神の世界に帰れないそうだ。


春先、まだ冬眠から目覚めない熊を狩ると、冬ごもりの間に生まれた子熊がいる場合がある。この子熊を集落に連れ帰って飼育する。はじめは、人間の子供と同じように家の中で育てるそうだ。1、2年ほど育てた後に、集落をあげての盛大な祭儀(イオマンテ)を行う。


花矢(木を装飾的に削ってつくった矢)を射かけ、最後に本物の矢を心臓に打ち込み、さらに丸太の間に首を挟んで屠殺するそうだ。遺骸は一定の様式に従い、頭だけを残して解体される。頭部はポプニレ同様、イナウ(木幣)や酒を供え、祈りを捧げて、霊魂を神々の世界に送り返す。肉は人々にふるまわれるそうだ。


アイヌの人たちは、イオマンテを行うことにより、再び熊神が、自然の恵み(毛皮や肉)をもって、人間の世界に訪れてくれると考えたらしい。


なお、熊神の他、主要な動物神〔シマフクロウ・キツネ・タヌキ・カラスなど〕を送る場合もイオマンテと呼ばれ、クジラやシャチを対象とするイオマンテもあるそうだ。一部の地域では、シマフクロウ〔北海道には130羽しかいない。日本では1971年に国の天然記念物。93年に希少野生動植物種に指定〕のイオマンテが重視されるという』。


翔「イオマンテは、生贄(いけにえ)を神に捧げて守護を願うというものや、人間の罪を動物に着せてあながわせるといった贖罪信仰とも違うみたいだね」。


山崎『アイヌの信仰は、アニミズム的な側面が強い。自然物、人工物、人間に関わるものであれば全てに神霊(カムイ)が存在すると信じられていた。神と霊との関係は、樹を切るときには、その霊を森の神に送り返すといったもので、同様に、使わなくなった食器は、捨てずに特定の場所にもっていき、器や皿の霊を神の世界へ送り返す。葬式では、死者の霊とともに副葬品の霊が他界へ行くように、副葬品を壊したり破ったりするそうだ。イオマンテもこうしたところからきていることが分るよね。


カムイは、カムイ・モシリという神々の世界からやってくる。このカムイ・モシリは、天上界にあると考える場合と、山の獣であれは山の奥に、鳥であれば天界にあるといったように生活の場から想定される場合とがあるようだ。


カムイ・シモリでは、カムイは、人間と同じ姿で、人間と同じように、料理をしたり、彫り物をしたり暮らしているが、人間には見ることができないという。カムイが人間界になにかの理由(シマフクロウなら村を護るため)でやってくる場合、人間に見える衣装を身に付ける。火のカムイなら赤い衣装を、クマなら黒い衣装を身に付ける。これが人間には炎に見えたり、毛皮に見えたりするそうだ。


クマは毛皮と肉という土産をもって、気に入った人間の家を訪れる。狩猟はこれを迎える行為だというよ。本人が心が美しいと熊が好意をもって訪問してくる。猟運とはこれをいうそうだ。


なお、熊やキツネを先祖とする家も多いそうだけど、これをトーテムの残存とするかどうかについては考えが分かれているらしい』。


P、アイヌの信仰 W


翔「偶像は作られたの?」。


山崎『アイヌの信仰は、神殿やら神の像やらは作らない。祭儀では、イナウを用いる。例えばイオマンテでは、熊神の祭壇を中心に、森の神、水の神、狩猟の神、氏神、農業神、祖霊などの祭壇が設けられるそうだけど、祭壇とは、イナウを立てる並べる柵だというよ。

また祭壇は、家の脇にも設けられていて、祭儀ごとに酒を供え、祈りを捧げるそうだ。


【 イナウ… 木幣(もくへい)。通常は、ヤナギを使用。ミズキや、キハダ(ミカン科)で作られたものは上等とされ、肌が白いミズキのイナウは天界で銀に、黄色いキハダのイナウは金に変るとされる。捧げる神によって種々の形がある。

一例をあげると、直径が3センチほどのヤナギやミズキの枝を採集し、70センチほどの長さに切り、皮を剥ぎ、乾燥させる。乾燥したら、表面を削り、先端部あたりにふさふさと飾りたらす。イナウ作りはアイヌの男性の大切な仕事とされ、イオマンテなど重要な祭儀には、泊りがけで集い、イナウを作成したという。】


また、アイヌには神官のような人は存在せず、成人男性であれば誰でもカムイへの儀礼ができなければならないという。一方、女性はふつう火の神以外には祈りを捧げられないそうだ。参加できない祭儀も多いようだ』。


Q、アイヌの信仰 X〔コロボックルと日本人の起源〕


翔『「コロボックル」ってアイヌの説話に登場する小人だよね』。


山崎『地面を50センチくらい掘って屋根をかけた竪穴住居に住むというよね。また、コロボックルとはフキの葉の下に住む人の意味で、フキの葉の下に2〜3人(10人とも)入れる大きさだそうだ。


漁が得意で、笹の葉を合わせて作った舟で漁に出て、多くの舟が力を合わせてニシンなどを捕り、クジラも捕るそうだ。北海道の原住民で、アイヌの家にやってきて物品を交換したりするという。


人類学者の 坪井正五郎〔1863〜1913・東大理学部教授。日本人類学会の創設者〕が、1887年(明治20)に「コロボックルは日本列島の先住民で、アイヌに追われた」と主張し、「日本人の先住民はアイヌである」(当時の主流の説)と主張した 小金井良精〔よしきよ。1858〜1944・東大解剖学部教授。日本解剖学会の創設者〕と激しい論争を展開したそうだ。


これを「コロボックル論争」「アイヌ・コロボックル論争」という。この論争によって、日本人の起源の研究が飛躍的に進歩したというよ。


小金井は、人骨の実証的研究から坪井の間違えを証明し、彼の「アイヌ先住民説」は、修正をなされながらも現在に至っている。つまり、アイヌは縄文人の血を最も直接的に引き継いでいるとみられている。沖縄の人たちも、縄文人の血を濃く受け継ぐ民族だといわれている。


しかし小金井は、縄文時代の先住民のアイヌは、弥生人(日本人)が海外から渡来したことによって、北へと追いやられたと考えたが、これはその後の研究によって、弥生人も基本的には縄文人に由来することが分り、間違えのようだ。


縄文人は、本州では、大陸から農耕文化が入ることによる生活の変化や、西からの遺伝的影響によって体質を大きく変えて弥生人となったが、北日本では、北からの遺伝的影響を受けながらも、漁猟採集を中心とした生活が続き、本州ほど体質を変化することなくアイヌとなったというのが現在の見方のようだね。


なお、縄文人は、2〜3万年前(後期旧石器時代)に、アジア大陸から陸橋を渡ってやってきたモンゴロイド系の集団が、海面が上昇したことで、日本列島に長期に亘って閉じ込められ、その結果、特殊化したものだというよ』。
http://shinri809.com/sono13.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/181.html#c1

[近代史3] アイヌのシャーマニズム 中川隆
2. 中川隆[-12809] koaQ7Jey 2019年1月22日 10:07:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

アイヌの医療


癌に効くアイヌの薬草

アイヌ民族の薬草

@原因不明の病気に冒された人(中川註 長井博さん)がいた。

その人は色々な方法での治療を受けたが効果が見られなかった。

そこでからはアイヌの産婆で治療も上手な不思議な霊能力のあるおばあさん(中川註 青木愛子さん)の治療を受けることにした。


その治療とは自然のリズムと一体になる生活を送るというものだった。

日の出前に起床、徒歩一分程の沢の湧き水で顔を洗い、散策する。

家に戻るとおばあさんが処方した煎じ薬を飲む。


それに用いられた薬草はキハダの実(シケレペ)と、フッキソウ(ユクトパキナ)が主であった。そして甚だしい苦痛が訪れた時にはおばあさんの先祖に当たる紙や水野神に祈りながら手当を行う。すると不思議にも苦痛は去るのだという。そのようにして彼は徐々に回復した。

彼の回復はすべての薬草のお陰とは言えないが、おばあさんのところへ来なかったら彼は死んでしまっていただろう。


Aアイヌ民族伝承の薬草で抗ガン剤を作ろうとのことで研究が進められている。

131種の植物のエキスを抽出し、培養した人の肺ガン細胞3種で抗ガン活性を検査した。3種類のガン細胞すべてに強い抗ガン活性を示したのは、ナナカマドやチシマアザミなど4試料。2種類に効いたのはオニシモシケなど2試料。1種類にも43試料が有効だった。しかし、植物の部位や獲る時期、場所によって効き目は全く異なるため、まだまだ研究が必要である。

※抗ガン活性=ガン細胞を殺す働き
http://www.hokuyo-h.kushiro.ed.jp/j/08/04/pair%20project/ainu.html


アイヌの薬草治療は、同じように風邪の症状を発症していても、その方達の身体を観て、薬草も同じものを与えなかった。 つまり、ほとんど同じ症状であるにも関わらず、使用する薬草は、それぞれにほとんど異なっていたそうです。

しかも、それほど時間をかけずに回復し、症状の部分の回復だけではなく、身体全体の体力が上がっていくのも同時進行だったそうです。
http://yumikosan.biz/column/column001.html


アイヌ民族の知恵 薬草に抗がん作用 道立衛生研と北大が共同研究班

北海道新聞 2004/03/24


★アイヌ民族の知恵 薬草に抗がん作用 道立衛生研と北大が共同研究班

 アイヌ民族が食料や薬などに用いてきた植物のうち、四十七種類に、がん細胞を殺す(抗がん活性)作用があることを二十三日までに、道立衛生研究所(札幌)と北大の共同研究班が突き止めた。

特に高い抗がん活性を示したチシマアザミとナナカマドについて活性物質を特定する分析作業を進めており、がん治療の新薬開発につながる可能性もあるという。

 抗がん剤開発では、植物などから抗がん活性のある物質を探す試みも盛んで、共同研究班は、アイヌ民族が薬などに利用してきた植物ならば、有益な物質を見つけられる確率も高いとみて二年前、研究を始めた。

 文献などからアイヌ民族が薬などに用いた百八十三種類の植物を選び、葉や根などの部位に分けてエキスを抽出。これを培養したヒトの肺がん細胞三種類にそれぞれを加え、がん細胞を死滅させるかどうかで、抗がん活性の有無を判断した。

 三種類のがん細胞すべてに抗がん活性を示したのは、アイヌ民族が薬に使ったというチシマアザミの葉と茎、解熱剤として使われたナナカマドの若葉、それにエゾノサワアザミの根とシャクの根。このうち抗がん活性物質がほかの研究者によって突き止められているシャクと、希少種のエゾノサワアザミの二種類を除いた二種類について、今夏ごろまでに活性物質の特定を終える予定だ。


アイヌの薬草で抗がん剤を 49種に効き目確認

 アイヌ民族伝承の薬草で抗がん剤をと、札幌市の北海道立衛生研究所と北海道大が、研究を進めている。既に49種の薬用・食用植物に抗がん活性(がん細胞を殺す働き)を確認。来年3月末までに物質を特定するが、新抗がん剤の誕生につながる可能性もある  

3種類の肺がん細胞すべてに強い抗がん活性を示したのはナナカマドの若葉、チシマアザミの茎など4試料。
 
アイヌは、ナナカマドをかゆや茶に入れて解熱剤に、チシマアザミはかっけ治療薬として服用した。ほかは下痢やせき止め、止血など幅広いが、植物を採る時期や場所で効き目は全く異なる。  

北大大学院の井上勝一助教授は「高齢者向けに穏やかで有効なものを開発したい」と話している。
2004/04/02 19:20 【共同通信】


薬草として知られるオニシモツケとクサノオウは二種類のがん細胞に、ハマナスなどは一種類のがん細胞に効き目があったといい、研究班は、これらのなかにも有望な活性物質が含まれている可能性があるとみて、今後、分析を行いたいとしている。
http://www.ikkando.com/saisin-jyoho/saisin-jyoho1.html
http://www.iph.pref.hokkaido.jp/Kankobutsu/Shoho/annual55/n02.pdf


幸霊 奇霊 祓へ給へ 清め給へ 守り給へ
幸はへ給へ 照らし給へ 導き給へ

掛けまくも畏き 伊邪那岐の大神  ◇       ミ ◇     祓へ給ひ清め給へと
筑紫の日向の橘の          ◇◇   / ̄| ◇◇.   まをすことを聞こし召せと
小戸の阿波岐原に        ◇◇ \  |__| ◇ ◇    恐み恐みもまをす。
禊ぎ祓へ給ひし時に           彡 O(,,゚Д゚) /.       
なりませる祓へ戸の大神たち       (  P `O      
諸々の禍事・罪・穢れあらむをば    /彡#_|ミ\    
                           


春からの贈り物 -行者ニンニクを採りに-
http://www.youtube.com/watch?v=pQFSAATJDAU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=qMMmyG5H81Q&feature=related

奥深い源流に生えるギョウジャニンニク
http://www.youtube.com/watch?v=KomsIsmJh6M&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=cpZGklBhz6g&feature=related


「行者ニンニクは生活習慣病の予防効果が高い」2009年2月18日(水) 10:40

先日とはまた別に農学博士 西村弘行教授よりいただきましたレジュメをここで紹介させていただきます。

今回も行者ニンニクの薬効のすばらしさが研究報告されています。

報告の中には、

•インフルエンザなどへの抗菌作用
•胃潰瘍や十二指腸潰瘍、ガンの予防・改善
•脳梗塞や心筋梗塞など動脈硬化症の予防効果
•血糖値を低下させる作用
•ダイエット効果
•高脂血症や動脈硬化、糖尿病、また脳梗塞から回復
•発ガン予防効果や各種のアレルギー症状の解消

など数多くの効能が報告されています。


北海道は薬効高い野草の宝庫
「行者ニンニクは生活習慣病の予防効果が高い」

北海道東海大学工学部教授 西村弘行


清冽な水と寒暖の差の大きい北海道は薬効高い野草の宝庫 

 春(といっても、北海道では三月の末ごろからですが)、山野で雪が融け始め、春の陽光がさんさんと地面を照りつけるようになると、これまで眠っていた野草が一斉に目を覚まします。北海道の冬は厳しいですが、北方系の植物たちにとっては事情が違います。冬の間は植物たちの多くが眠っていますから、雪の下の大地も眠っています。植物たちが眠り、大地も休息している間に土の中では微生物たちが活躍します。微生物たちは、秋に落ちた枯れ葉や枝を分解して土にかえします。この分解物こそが植物たちにとって最高の栄養源になります。

 雪の下のほぼ半年間、微生物たちによってこの作業が繰り返され、春の陽光で目覚めるころの大地は、たっぷりの栄養源とたっぷりの雪解け水とで大きくふくらんでいます。そこへ暖かな春の陽光が降り注げば、その温度で雪解け水が水蒸気化し、水蒸気の上昇とともに土がほぐされ軟らかくふっくらしてきます。これが微生物や陽光によって作られた滋養豊富な大地なのです。

 北海道は自然に恵まれ、植物の種類も多く、食べられる山菜がたくさんあります。私たちが食べるフキノトウ、カタクリ、ウド、モミジガサ、タランボ、行者ニンニクなどの山菜は香りが高く、各種の健康機能を持っています。

 牛肉や豚肉、卵、牛乳、お茶、野菜、果物…これらの食物は、人間が改良して作ったもので、本来ある野生の原種ではありません。山菜は数億年の昔から命をつないできた生命力あふれる気の強い食物です。「春の味覚」、山菜を食すことは健康を維持するばかりではなく、季節の食生活にうるおいを与えてくれます。

 北海道は野草の宝庫ですが、その中でも、人気度、味、薬理効果などの面からみても北海道を代表する野草で、まさに「健康野草の王様」行者ニンニクについてお話しましょう。


行者ニンニクの血液浄化、代謝改善作用はすごい!

 行者ニンニクはユリ科ネギ属の多年草で、その仲間にはタマネギ、ニンニク、ニラ、長ネギ、ラッキョウなどがあります。見るとスズランのような茎葉部の形をしており、根はノビルやアサツキの根に似ています。日本では北海道に多く自生し、修行僧、すなわち行者が隠れて食べては体力をつけていた…という逸話と、匂いがニンニクに近いことから「行者ニンニク」の名が付けられたといわれています。

 主要成分は各種の硫黄を含んだ化合物(含硫化合物)で、二次代謝産物として薬効が豊富です。まず、非常に強力な抗菌作用が判明しており、インフルエンザ、膣炎などの炎症を抑制あるいは防止する効果があるとされています。さらにアリシン及びアリシン由来の関連物質には、腫瘍細胞の増殖を抑制したり、アルコールによる胃粘膜の損傷を予防したりする効果があることが明らかになっています。

つまり、アリシンは細胞の再生に寄与し代謝を活性。胃潰瘍や十二指腸潰瘍、ガンの予防・改善に有効と認められています。アリシンから由来する成分、トルスルフィド類やビジルジチイン類も注目の生理活性物質でしょう。これら含硫化合物は、血液を濁らせる酸化型悪玉コレステロールや血栓の生成を抑制するなど血液の浄化作用に優れています。すなわち脳梗塞や心筋梗塞など動脈硬化症の予防効果が高いと考えられます。

 また、行者ニンニクの匂い成分である含硫化合物のなかには血糖値を低下させる作用を持っています。同じ薬効は行者ニンニク中に元々含まれる含硫アミノ酸にもあることが確認されています。

 さらにこれら含硫化合物には脂質代謝改善効果があり、行者ニンニクを食べることにより体脂肪の燃焼効果によって、運動持続性を増したり、ダイエット効果も期待されます。

 これは行者ニンニクの強力な血液浄化力を裏づけるエピソードなのですが、あるとき少年が行者ニンニクを十五本食べて鼻血をだしてしまいました。なぜかといえば、血液がサラサラとなり勢いよく流れすぎたため。そのときは、いや、さすがに行者ニンニク、もの凄い血液浄化力だと感心したものです。

 行者ニンニクは生でよし、煮てよし、焼いてよしの山菜です。お花見のジンギスカンに入れると最高ですが、食べる量は五本以下が最適です。これだけでも、かなりの効果が期待できるでしょう。事実、行者ニンニクをよく食べるようになったことで、高脂血症や動脈硬化、糖尿病、また脳梗塞から回復した例があると聞きます。また、免疫賦活活性や抗アレルギー活性が高いため、行者ニンニクを食べると発ガン予防効果や各種のアレルギー症状の解消に役立つケースも多いそうです。

 こうした薬効も二次代謝産物という北の大地からの贈り物があればこそ。「北海道の野草には薬となる成分がぎゅーっと詰まっている」との評判から、近年、行者ニンニクを筆頭に北の野草の病理学的研究や機能性食品の開発が盛んです。新たな「薬食同源」の供給地として、今後、北海道への関心、注目が高まることは間違いありません。
http://www.mytokachi.jp/ktpr/entry/8


西村弘行

 私とギョウジャニンニクとの出会いは、1969(昭和44)年4月に北海道大学農学部農芸化学科の助手として札幌に赴任して以来でした。

 私には、神奈川県で寺の住職をしている叔父がいまして、その叔父は俳人でもあり全国の文学者とお付き合いがありました。その叔父から、北海道へ行くならと、今は亡き詩人・アイヌ民族研究家の更科源藏氏を紹介いただいたのです。

 更科先生は、私が植物学を勉強していることを聞き、アイヌ民族の植物に対する考え方などを詳しく話してくださいました。

 私は感動し拝聴しましたが、アイヌ民族が食用にする珍しい野草にひかれました。「アイヌネギ」と言っていましたが、どんな野草なのかわかりませんでした。さっそく大学の図書館へ行って牧野富太郎先生の植物図鑑で調べました。しかしその時は、その野草の実態がわかりませんでした。

 結局、山菜の本で調べたところ、正式な名称を「ギョウジャニンニク」ということがわかりました。その名の由来は、昔、修行僧である行者たちが雪解けの頃、山野で修行中にこっそり食べて体力をつけたといわれており、行者が食べるニンニクに近い匂いのする植物にちなんで、牧野富太郎先生が付けられたのだそうです。

 このようにしてギョウジャニンニクと出会った私は、その後もギョウジャニンニクを中心に、北海道に自生する薬効性のある植物について研究を続けてきました。1986(昭和41)年には、北大農学部の八鍬利郎名誉教授を会長に、私と北大付属農場の中嶋博教授が事務局を担当し、「ギョウジャニンニク研究会」を発足しました。その二年後に、広く北海道内に自生する薬効性のある野草、あるいは北方冷涼地域に適した外来作物についても扱うことにして、名称を「北方系機能性植物研究会」に変更しました。

 この「北方系機能性植物研究会」は、超高齢化社会を迎える今日的状況から、一般消費者が望む「安くて」「安全で」「おいしい」健康維持食品の開発が大きな課題になるという視点で、産学官が総合的に取り組んでいるものです。北海道の一次産業にどう付加価値をつけるか、生産者と加工業者が一体となった一・五次産業の確立に貢献することを目的としています。

 さて、北海道は自然に恵まれ、植物の種類も多く、食べられる山菜がたくさんあります。一説によると、その種類は600種以上あるだろうと言われ、現在はそのうちの一割弱40〜50種類ぐらいは食べているようです。

 このように豊富な野草の中で、北海道を代表する山菜はどれかと問いますと、北海道の人たちなら、ためらうことなく「ギョウジャニンニク」と答えます。

 ギョウジャニンニクは数ある野草の中でも、人気度、味、薬理効果などの面からみても、北海道を代表する健康野草で、まさに「健康野草の王様」といっても過言ではありません。

 ギョウジャニンニクの薬効をあげていけば、まず脳梗塞・心筋梗塞などの動脈硬化症の予防です。血液をサラサラにしたり、血管を丈夫にする働きがあります。中性脂肪・コレステロールの低下、血糖値の上昇を抑制する効果も明らかになっています。

 これは、臨床実験でも明らかで、毎日100gのギョウジャニンニクを食べさせて3日おきに採血して検査したところ、抗酸化力が高まっていました。動脈硬化症の予防だけでなく、一度こうした病気になった人の病後食としてもいいでしょう。

 ギョウジャニンニクの主要成分は、におい成分のもとになっている含硫アミノ酸で、特に量的に多いのが、エネルギー代謝に重要なアリインです。含硫アミノ酸のアイリンは、酵素アリナーゼの作用でアリシンが作られ薬理活性物質に変化していきます。アリシンは強い抗菌作用があり、その抗菌性によって肺結核、インフルエンザなどを防止する効果があるとされています。

 さらにニンニクやギョウジャニンニクのがん予防効果が注目されています。新鮮なニンニクには、胃がんに対する予防あるいは胃のがん細胞の増殖を阻害することが科学的に明らかにされています。アリシンをはじめとした硫化アリル類が、発がんを予防したり、がん細胞の増殖を抑えることは、さまざまな研究によって報告されています。

 昔から言われている疲労回復・滋養強壮作用は、ビタミンB1と結合することによってさらに効果が高まるので、肉や卵と合わせるとさらに効果を持続させます。
 滋養強壮はもちろん、がんの予防・抑制にも効果があるギョウジャニンニクは、まさに驚異の野草といえるでしょう。
http://www.genki-e.jp/prevention/prevention03.html


行者にんにく(キト、プ草)

『キトは食糧、背骨といってトゥレプと共にアイヌにとって大事な食べ物です。

体にとにかく様々な効能効果があります。
虚弱体質の方にはたくさん食べさせます。
また風邪薬にもなるし、便秘、脚気、肺病、なでも効ききます。

山のものは神さんが人間のために地上に降ろされた食べものであり、薬なんです。だから神様に感謝して、食べる分だけいただき、 また来年もここに授けてくださいってお祈りして、根は必ず残して撮るんですよ。』

日当たりのよい斜面のキトは、太くておいしいのです
生で食べたり子のみの長さに切って おハウ(お汁)にいれ、塩味で食べます
青葉のない冬の保存食としても最高です。

クキが少し固くなった五月の下旬〜六月にかけて花も葉も根元から一緒に大量にとり、洗わずにザクザクと1.5cmくらいに刻みます
1.5cmぐらいに切ったキトを乾燥させてサラニャにいれてブに蓄えておきます
起用するときはざるにいれて一晩水につけて戻し、おハウに放つのです

またご飯を炊いたとき後に上にのせ、まぜるときに熊の油をいれるのはイオマンテに欠かせない大御馳走なのです

キトは別名プ草と呼びますが、キト、キトビロは北海道北部および樺太でのことですが、日本語でいう『祈祷びる』からきているともいわれています

また、和名を『行者にんにく』となづけたのは植物学者牧野富太郎博士で、行者が荒行に耐えるため食べたと解するのかもしれません

キトの別名フラルイキナ(烈しい匂い)とは独特のにおいのあるところから来ています。実際のこれを食すると2日間はニンニク臭の強烈版の匂いで周囲の方を圧倒してしまいます。

アイヌの人々は、キトの強くて烈しい刺激臭に病魔も近づけぬと信じ、伝染病が流行したときに、必ず戸口や窓につるしたのです

癌予防、冷え、感染症予防にとても効果があると言われています。

今回のアイヌ薬草採りで、死ぬ思いをしたのは、このキトの群生がほとんど断崖絶壁にあるためだったのです
http://wagoiryou.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/11-a586.html
http://wagoiryou.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/12-7d9b-1.html
http://wagoiryou.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/13-df85.html
http://wagoiryou.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/14-fad7.html
http://wagoiryou.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/15-5023.html


行者にんにくのレシピ 210品
http://cookpad.com/search/%E8%A1%8C%E8%80%85%E3%81%AB%E3%82%93%E3%81%AB%E3%81%8F

ギョウジャニンニクの選び方と保存方法や料理
http://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/vegitable/Gyoujyaninnniku2.htm


行者にんにく ネット販売


【楽天市場】 行者にんにく
http://search.rakuten.co.jp/search/mall/-/%E8%A1%8C%E8%80%85%E3%81%AB%E3%82%93%E3%81%AB%E3%81%8F-304653/p.1-s.1-sf.0-st.A-v.2


北海道下川町近郊産天然行者にんにく のーすもーる北海道の森
天然行者にんにく(アイヌネギ)
500g入 3,080円(税込・配送料無料)
http://www.northmall.jp/ainunegi/index.htm

行者にんにく  300g
2,400円 消費税込・送料別
http://www.sansaiya.com/sansai/gyouja.html

単価 4000円/1kg
http://www.sansaikinoko.com/ninniku-index.html


ぷくさ 行者にんにく焼酎 標茶町 By酒匠&北海道ソムリエ 鎌田孝
http://www.youtube.com/watch?v=KkKyZxQ9QUs


乙類焼酎 ぷくさ
原材料:米、米麹、行者にんにく
内容量:720ml
定 価:1,575円税込(送料別)


北海道標茶町産
行者にんにく(冷凍)
1パック(250g入真空パック)
定価:1,400円税込(送料別)
※時期により商品の無い場合がありますので、ご注文の際にご確認ください。


ご購入方法は電話・ファックスにてお問い合せ下さい。

(株)小野商店
〒088-2301 北海道川上郡標茶町旭2丁目2番5号
TEL 015-485-1345
FAX 015-485-1346
http://www9.plala.or.jp/pukusa/pukusa.html
http://www9.plala.or.jp/pukusa/gyoujya.html


強烈!行者にんにく焼酎「ぷくさ」

標茶特産美容と健康にTVでお馴染みの「行者にんにく」を原材料中10%以上も使用!

*僕の経験上大体1%位ならかすかにする程度
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 しかも焼酎の本場宮崎で仕込まれ逆輸入!

白麹で仕込まれたすっきりでしかもいい感じで仕上がっている本格焼酎。
行者にんにくの独特な風味とどことなく甘く感じる呑み口はなかなかの出来栄え!

個性的で美味い!しかも強烈!道産指折りの変り種焼酎!
「行者にんにく」は臭くて苦手と言っても我慢!(笑)
これは思わずにやにや笑えるほど

しっかりちゃんと行者にんにくの風味か利いています。

昔風に言うなら「パンチが効いてる!」
そんな表現がぴったり!
あなたも一度挑戦してみる価値はあります!
道東方面にお越しの際はお土産にお勧め!

最近では小樽や道内観光各地にこのクサーーーイ焼酎が勢力拡大中!

あなたも「行者人にんにく」に魅せられてはみませんか!?

発売元:北海道観光物産興社 
札幌市白石区南郷通15丁目北6-18 TEL 011-864-3131
製造元:落合酒造 宮崎県宮崎市大字田吉348 TEL 0985-51-6636
http://dosyocyu.exblog.jp/7554728


エント茶 ネット販売 宮本酋長売店

アイヌの人たちが日常お茶のように飲んでいた薬草茶です。

日常のお茶や粥の香り付けにも使われていた薬草で、解熱や発汗、利尿作用があるとされ、風邪や二日酔いの薬としても効果があると言われています。

アイヌの人たちは山猟や沖漁に行く時、徳利の栓をこの茎ですると何日たっても水の味が変わらないということで利用していました。


エント茶 540円
原材料 シソ科のナギナタコウジュ(アイヌ語で”エント”)
内 容 ティーパッグ10個入り(説明書付)
http://www.shiraoi.net/net-shop/91_161.html


アイヌ伝統食研究グループ・ポロトの母さんの会 代表 大須賀るえ子さん(北海道食づくり名人)により、”キハダの実のクッキー”と”エントのミルクティー”づくり、また、昔話風にアイヌの食文化について語られました。


”キハダ”は、落葉広葉樹の高木です。

黄色い内皮は黄柏と呼ばれ、苦味のある健胃整腸薬として古くから有名ですが、アイヌも多く利用してきた重要な植物の一つです。

写真上がエント、下の黒い実がキハダの実

”エント”はナギナタコウジュ(シソ科の植物)のことで、解熱や発汗、利尿の効果があることから、風邪や二日酔いの薬として全草を煎じて飲むほか粥に炊いても食べたという。また、強い臭いが病魔を遠ざけると考えられていました。


エント茶はハーブティーのようでとても香りがよく、美味しいお茶で、来会されるお客様にも好評です。

昨年の我々の観光商品モニターツアー時にも、ポロトの母さんの会のエント茶とおにぎりが振る舞われましたが、おにぎりもエントで炊いたもので、絶品でした。
http://ameblo.jp/shokokai-shiraoi/entry-10057856143.html


詳細は


『アイヌの食事・アイヌの自然療法』

食物によし悪しなし! 柴田流健康長寿の14か条  健康リスクを回避する、食肉生活のススメ (PRESIDENT )へのコメント  
http://www.asyura2.com/09/health15/msg/550.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/181.html#c2

[近代史3] アイヌの食文化

アイヌの食文化


【アイヌ料理】オハウを作ってみた
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10293618


平取町 アイヌ料理 
http://www.youtube.com/watch?v=LruBb1DBPFI


アイヌ料理 画像
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C+%E6%96%99%E7%90%86&hl=ja&lr=lang_ja&tbs=lr:lang_1ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=_K9dUL-fGIOdmQXF94DwBQ&ved=0CC4QsAQ&biw=1030&bih=892

▲△▽▼

アイヌ人の食事は汁ものが主食で、その具は殆ど山菜や雑穀類。

要するに、完全菜食では味付けが難しいので、肉や魚を少しだけ入れて山菜や雑穀類を食べ易くしたという事ですね。

アイヌ人の様な狩猟民は牧畜民の欧米人の様には肉を沢山食べないのです。

アラブ人の様な遊牧民もミルク、ヨーグルトが主食で肉はハレの日にしか食べません。

従って、毎日肉を食べる欧米人や日本人は「人類本来の食生活」から大きく離れています。アメリカ人に極端な肥満が多いのはホルモン剤で育てた牛の肉を食べるからですね。


▲△▽▼

今の日本では、お金を出しさえすれば、世界中のどんな食べ物でも手に入れることができます。しかし私たちの置かれた環境に感謝し、そこから得られる糧に満足して生きてきたアイヌの人々の暮らしと、 今の暮らしを比べると、アイヌの人々の暮らしのほうがずっと豊かであったのではないかと思えます。

ここでは、アイヌの人々の食文化をご紹介したいと思います。


アイヌの食文化


アイヌの人たちには、主食にあたるものはありません。

一汁一菜といえば、和食であれば汁物・おかず1品にご飯ですが、アイヌ料理では、そのまま汁物1品とおかず1品のことを指します。お米は日常食ではなく、儀式の際に大量に使われるおさけを作るための大切な材料として利用されていました。


神(カムイ)の自然と生きる生活


アイヌの人たちは自然のすべてのものを、神(カムイ)としてあがめ、日々信仰の中に生きてきました、したがって儀式に欠かせないお酒は大変貴重なものでした。
その原料となる米も大変大切にされ、普段の食を満たすために使われることはほどんどありませんでした。

食事の回数は1日に2〜3回、で季節や労働の内容によって変わることもありました。

アイヌの人たちにとって、大地は神(カムイ)の肌であり、大地にはえている草や木は神の衣服にあたります。むやみやたらと木を切り倒したり、大地をけずって畑を耕すということはしませんでした。

農耕をおこなわなくとも、ふんだんにある自然の木の実や植物を自分たちが必要な分採取し、食していたのではないかと思われます。


厳しい北海道の自然の中で生き抜く食の知恵


厳しい北海道の気候のなかで生活していたアイヌの人々は寒さに大変強い民族だといわれています。 冬の期間、ビタミンなどの補給に必要な植物の補給ができません。そのためアイヌの人々は、タラなどの魚の肝臓から「魚油」をとり、保存食として利用していたようです。

「魚油」はビタミンを大量に含む優れた栄養食品であり、植物が採れない期間、利用されていたようです。

その他に、ビタミンが豊富ですぐに熱に変わる脂肪をたくさんとっていたこと、
細ンしておいた山菜をふんだんに使っていたこと、そして何よりも、食事は大変うす味で、減塩食だったことがきびしい冬も元気に過ごせた理由だといわれています。


アイヌの食の紹介


チェプオハウ(魚汁)


アイヌの人たちには、私たちのご飯やパンのような 「主食」にあたるものはありません。

一汁一菜といえば、和食であれば汁物・おかず1品にご飯ですが、アイヌ料理では、そのまま汁物1品とおかず1品のことを指します。

お米は日常食ではなく、儀式の際に大量に使われるお酒を作るための大切な材料として利用されていました。
http://www.town.shiraoi.hokkaido.jp/ka/sankei/syokuzai/ainu.html#ainu2


オハウ ohaw(煮込み汁)

獣肉や魚肉、山菜、野菜を鉄鍋で煮込んだ汁物。単なるスープに留まらず、鍋料理とも言えるほど具沢山の汁物で、「主食」が存在しない狩猟・漁労民族であるアイヌの食生活の中心を成す料理だった。現在、北海道の郷土料理として名高い石狩鍋、三平汁の起源とも言われている[2]。

具材に特に決まりはないが、大体以下の様な方法で調理される。


1.鍋に水を張り、獣骨や小魚の焼き干しを入れて火にかけ、出汁を取る。

2.大まかに切り分けた肉、魚を入れて煮る。乾肉、乾魚の場合は時間をかけて煮る。この際、アクは取り除かない。

3.野菜は根菜などの煮えにくいものから入れ、つぎに繊維の多い山菜、そして葉物野菜を入れる。それらが柔らかくなるまで煮込む。

4.動物性脂肪、魚油、少量の塩で味を整え、最後に風味付けとして焼き昆布の粉末、乾燥させたプクサ(ギョウジャニンニク)をふりかける。


※肉のアクが気になるようであれば、後から入れる野菜や薬味に吸わせる。


中心となる具材からそれぞれ

「チェプオハウ」(cep ohaw 魚汁)、
「カムオハウ」(kam- 肉汁)、
「カムイオハウ」(kamuy- 熊汁)、
「キナオハウ」(kina- 野菜汁)

などと呼ばれていた。ニリンソウは汁と相性が良いため「オハウキナ」(ohawkina 汁の草)と呼ばれ、具材として特に好まれていた。


ラタシケプ rataskep(野草による煮物や和え物)
直訳すれば「混ぜたもの」。山菜や野菜、豆類を柔らかく汁気が無くなるまで煮込み、軽く潰してから獣脂、魚油、少量の塩で味を整えた料理。 日常食としても作られるが、儀式の供物や振る舞いには欠かせない、ハレ食である。


使用する材料によって限りない種類がある。


シケレペキナラタシケプ sikerpekina rataskep
乾燥させたシケレペキナ(ヒメザゼンソウ)を湯で戻してから、弱火で数時間、汁気が無くなるまで炊く。食べやすい大きさに刻み、獣脂と塩少量で味を整える。


プクサラタシケプ pukusa rataskep
豆を柔らかくなるまで炊き、プクサ(ギョウジャニンニク)の茎を加えてさらに炊く。獣脂と塩で味を整える。 チスイェラタシケプ cisuye rataskep 初夏に採集したチスイェ(アマニュウ)で作る。豆を炊いて柔らかくなったところにチスイェを加えてさらに炊き、獣脂と魚油で味を整える。


かぼちゃラタシケプ kampoca rataskep
豆を柔らかくなるまで炊き、切干にして保存しておいた南瓜を水で戻して入れ、さらに炊く。南瓜が煮崩れたところで、塩と魚油で味を整える。香辛料としてシケレペ(キハダ)の実をふりかける。


チポロラタシケプ cipor rataskep
「チポロイモ」とも呼ばれる料理。馬鈴薯は皮ごとゆでる。別の鍋にチポロ(筋子)を入れ、弱火で潰しながら半煮えにする。茹で上がった馬鈴薯は皮をむいて厚切りにし、先ほどの煮えたチポロを入れ、塩を加えてよく混ぜる。


ニセウラタシケプ nisew rataskep
ニセウ(どんぐり)は殻を取り、渋皮つきのまま数回ゆでこぼしてアクを抜く。ここにあらかじめ水戻ししておいた豆を水と共に入れ、沸騰したら煮汁を捨てる。再度水を注いで全体が柔らかくなるまで煮込み、玉蜀黍の粒を入れてさらに煮る。好みの柔らかさになったら米の粉を入れ、全体を練り上げる。塩と脂で味を整え、出来上がり。


サヨ sayo(粥)

ピヤパ(稗)やシアマム(米)で炊いた薄い粥。大抵は穀物のみで炊かれるが、山菜などを炊き込む場合もある。農耕民族のような「主食」としての粥ではなく、脂こい汁物や焼肉、焼き魚で腹を満たしたのち、「口直し」として茶のようにすすられるものである。そのため脂気が混じらないように、それ専用の小鍋で炊かれる。盛り付けの際も、掬うカスプ(お玉杓子)は汁用とは別のサヨカスプ(粥杓子)を用い、汁の味が混ざらないよう気を配った。


このサヨには、以下の種類がある。


トゥレプサヨ turep sayo
トゥレプ(オオウバユリ)から澱粉を採集した際の澱粉滓を醗酵させた保存食オントゥレプ(on turep)を入れた粥。まず硬く乾燥したオントゥレプを臼で搗き砕き、水で戻す。水の沈殿物で直径3センチほどの団子を作り、稗の薄い粥に入れてさらに炊く。

トゥレプの球根の鱗茎を入れた粥も、同じ名前で呼ばれる。


イルプサヨ irup sayo
オオウバユリのイルプ(澱粉)を団子にして入れた粥。


エントサヨ ento sayo
山菜の一種であるエント(ナギナタコウジュ)を入れた粥。独特の香気が好まれる。


サッシラリサヨ satsirari sayo
トノト(どぶろく)を作ったときにできるシラリ(酒粕)を、粥に入れる。


キキンニサヨ kikinni sayo
キキンニ(エゾノウワミズザクラ)の皮を入れた粥。


チポロサヨ cipor sayo 米で粥を炊き、チポロ(イクラ)を入れる。生イクラを使ったチポロサヨは、秋にしか食べられないごちそうである。それ以外の季節は、サッチポロ(sat cipor 乾燥筋子)を入れた粥を作る。


シト sito(団子)


チセ内部に飾られた漆器類。儀礼の際はシトやトノト(どぶろく)を盛り付ける。(北海道開拓記念館)

団子。名称の「シト」は、大和言葉でペースト状にすりつぶした生の穀物や団子をさす「しとぎ」と同系統とされている[1]。かつて穀物の精白や製粉を臼による手作業でこなしていた時代は、その手間ゆえに贅沢な食品。日常の食品としてよりも、イオマンテ(熊送り)やイチャルパ(祖霊祭)その他、ハレの日の供物やご馳走して作られることが多かった。


材料はメンクル(黍)、ムンチロ(粟)、シアマム(米)。時代が下がればエモ(馬鈴薯)、カンポチャ(南瓜)も材料として加わった。日本の草餅と同じく、ノヤ(ヨモギ)を混ぜ込んだ「ノヤシト」も春の味として好まれていた。


作り方は以下の通り

1.精白された穀物を一晩水に漬ける。水から上げたのち、一晩水を切る。

2.穀物を臼に入れ、数人でイウタウポポ(杵搗き歌)を唄い調子を取りながら搗いて粉にする。

3.出来上がった粉を湯で練上げ、直径7、8センチ、厚さ1センチほどの大きさに丸める。

4.大鍋に沸かした湯で、鍋底に焦げ付かないように注意しながら茹で上げる。


茹で上がったシトは、供物にするならばそのままシントコ(sintoko 漆塗りの桶)、パッチ(patci 木鉢)、オッチケ(膳)に盛り付けるか、ミズキの串に刺した巨大な串団子「ニッオシト」にして神前に捧げる。

人間が食べる際は、チポロ(イクラ)を半潰しにしたものか、焼いた昆布を砕き、脂で練ったタレをつける。


チタタプ citatap(肉や魚のたたき)

チタタプというアイヌ語を訳すれば、「チ・タタ・プ」(ci-tata-p 我々が・たくさん叩いた・もの)。その名の通り、魚のたたきである。


以下は、代表的な作り方。

1.鮭のアラ、頭、白子をイタタニ(丸太を輪切りにして作った俎板)に乗せ、鉈のような重みのある刃物で刻み、叩く。

2.ペースト状になるまで叩いたら葱、メンピロ(ノビル)、プクサ(ギョウジャニンニク)のみじん切りを薬味として加える。

3.焼き昆布と塩で味を整える。


鮭以外でも、スプン(ウグイ)、ウッタプ(カスベ)、イチャニウ(マス)、チマカニ(カジカ)などあらゆる魚、さらにユク(鹿)、キムンカムイ(ヒグマ)、モユク(狸)、イソポカムイ(兎)、さらにルオプ(シマリス)などの獣肉も刻んで薬味を加え、チタタプに加工された。老いた獣の肉は固いことが多いので、チタタプに加工すれば食べやすい。


これらのチタタプの鮮度が落ちた場合は、つみれのように汁に入れる。


イオマンテ(iomante)の際は、熊の脳のたたき、「チノイペコタタプ」が作られる。

材料は熊のほほ肉、脳味噌、葱、塩。儀式で飾り付けた熊の頭から脳味噌を取り出し、あらかじめゆでて刻んだ熊の頬肉と混ぜる。薬味として葱を効かせ、塩で味付けする。熊送りの際しか作られない貴重な料理なので、量も少ない。儀式を司るコタンの有力者から、掌に直に下賜される[2]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%96%99%E7%90%86

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アイヌ民族の「食」


かつて、アイヌ民族の暮らしを支える営みは、森や川、海などの自然を基盤とした狩猟、漁労、採集、農耕であり、それで得た産物を使いおこなわれた交易でした。
季節を通して暮らしに必要なものを入手します。

北の地に長い冬が終わりを告げるころ、森では雪解けの水をたっぷりと吸い込んだ木々が芽吹き、ギョウジャニンニクやニリンソウ、フキなどの山菜を採り、川ではイトウ漁がはじまります。

森の緑が濃くなる頃、畑にはアワやヒエを蒔き、初夏、オオウバユリの鱗茎からデンプンを採取する。真夏の沖ではメカジキ漁、川ではマス漁がおこなわれます。

秋、川では遡上する鮭を迎える祈りとともにサケ漁が解禁され、森ではキハダやクルミなどの木の実やきのこを採取しました。

一面を雪に覆われる冬は山猟の季節、シカやキツネ、テンなどを追い、それらの良質の毛皮は交易品としても利用されてきました。


「かつて」という時間は結構あいまいでひとりひとり微妙にイメージする時代が違います。例えば100年とか150年前のことなのか、つい10年前のことなのか、個々の時間軸の捉えかたでイメージされる時代はさまざまです。しかし、アイヌ民族の文化を紹介する様々な冊子やインターネットなどで得られる情報の多くが、上記のような生活でありますが、これは現代のアイヌの人々の生活ではなく、いわゆる私たちアイヌ民族にとって一番身近な伝統の時代の文化なのです。

食に関していえば、食材も豊富で、和食からフレンチ、イタリアン、中華などいろいろな食文化に溢れた時代現代であるにも関わらず、ことアイヌ民族の食文化に関しては、ある一定の時代の枠のなかに閉じ込めた、今なお何の変化もしていないかのようなイメージで語られることは少なくありません。

文化を考える時、その時間軸を外してしまうことでさまざまな誤解や偏見を生むことがあるので気を付けたいものですね。


(1)料理のアイヌ語名

・オハウ(ルル) 汁もの

アイヌ料理の中で一番ポピュラーというか基本的なメニューに「オハウ」や「ルル」と呼ばれる、塩と油(脂)で味付けをした、具のたくさん入ったスープがあります鹿肉を使ったものは「ユク(鹿)オハウ」「ユクル」、山菜がたくさん入っているものは「キナ(野草)オハウ」、「キナルル」などと呼ばれます。


・ラタシケプ(ボツボツ) 煮込み?あえもの?

山菜類、野菜類や豆類などからつくる料理で、数種類の材料を混ぜ合わせて煮るものが多く、味付けには油脂や塩が用いられます。ほとんど汁気のない料理で、「オハウ・ル(汁もの)」「サヨ(粥)」「チサッスイェプ(ご飯)」以外の料理のほとんどが「ラタシケプ」に相当します。

ラタシケプ種類も多く、その素材は地域や家庭によっても違いがあります。日常食として食べたり、儀礼など祭事のごちそうとしてもつくられます。

・ その他 ・チタタプ(たたき?) ・サヨ(粥) ・シト(団子)

・チサッスイェプ(飯) ・ルイペ(解けるもの) ・フイペ(生のもの)他
(2)調味料について(甘み、しょっぱみ、酸味、からみ、薬味)

・油=脂:タラ、イワシ、サメ、アザラシ、シカ、クマ、※(甘いもの)

・海水(を使用したという事例もあった)、

・塩

・昆布、魚の焼き干し、骨、※(だしをとる際に多く使われる)

・植物=キハダの実、チョウセンゴミシ、ヒメスイバ、サンショウ、ヤマブドウ
ヒメザゼンソウ、ミツバ、ギョウジャニンニク、ナギナタコウジュ等々)

・その他 樹液(イタヤカエデ、クルミ、樺)
みそ、しょうゆ


(3)スム(油)

アイヌの料理に油は欠かすことのできない調味料のひとつです。甘みをだすために使われるほか、ビタミンが豊富なので栄養のバランスやエネルギー源としても大切なものです。陸獣、海獣、鳥、魚など植物以外のいわゆる動物性の脂(油)が使われました。油の常温での形は、固形、液体のものがあります。


●魚油の形状:常温で液体。

魚油の種類:イワシ油、ニシン油、タラ油、サメ油、マンボウ油
油の採取:


@肝臓だけを煮る。空鍋に肝臓を入れじっくり焦げないように弱火で煮る。脂分がしみだしたら、ザルや晒布などで濃す。何度か繰り返すことできれいな油が取れる。

A湯を沸かした鍋に肝臓を入れ煮る。油が浮いてきたら、上の部分を杓子ですくい、息を吹きかけながら油と水分をわける。

B魚全体を鍋で煮る。油が浮いてきたら上の部分を杓子ですくい、息を吹きかけながら油と水分をわける。


●陸獣油の形状:常温で固形、又は半固形

油を採る陸獣の種類:クマ、シカ、タヌキ、

油の採取:

@ 脂身だけを煮る。空鍋に薄切りにした脂身を入れ、焦げないように
火にかける。油分がしみだしたら、別容器にとる。

A湯を沸かした鍋に骨(骨は割って髄が溶け出しやすいようする)や脂身などを入れ煮る。油が浮いてきたら、上の部分を杓子ですくい、息を吹きかけながら油と水分をわける。


(4)食材の確保について

・狩猟 ・漁撈 ・採集 ・農耕 ・交易

※江戸時代すでに栽培されていた作物
粟、稗、黍、麦、大豆、小豆、などの雑穀及び豆類
蕪、ジャガイモ、大根、葱、カボチャなどの野菜類
※移入品 米、塩、みそ、糀 等


(5)食材の保存法

@乾燥 (茹でて乾燥、焼いて乾燥、生で乾燥、発酵させて乾燥、寒干)
A燻製 (乾燥に関連する)
B塩蔵 ほとんどされなかた
C冷凍 冬の一定期間
D土に埋ける 冬の一定期間(凍れないよう)


例えば:

肉の保存 茹でて乾燥
魚の保存 寒干、焼いて乾燥
山菜の保存 生で乾燥、茹でてから乾燥、醗酵させて乾燥
木の実の保存 生のまま乾燥
穀類の保存 乾燥
根菜類 乾燥、凍れさせて粉にして乾燥
油の保存 海獣や陸獣の内臓(胃、膀胱 など)


・当日のメニュー

1)チェプオハウ(鮭のスープ)
2)チマチェプ(焼き鮭)
3)メンクルチサスイェプ(イナキビご飯)
4)ペネコショイモ(凍れ芋)
5)エントウセイ(ナギナタコウジュのお茶)


・チエプオハウ(魚汁)の作り方

材 料:・サケ ・ジャガイモ ・大根 ・昆布 ・人参 ・長ネギ ・他山菜
・ギョウジャニンニク ・塩 ・タラの油

作り方

1)大根、人参、ジャガイモは皮をむいて適当な大きさに切り、鍋に入れて煮る。

2)野菜が煮えたらサケを適当な大きさに切って入れる。この時、肝臓などがあれば一緒に入れる。

3)サケが煮えたら塩と油で味付けする。(内臓が入る場合は油をあまり入れなくてよい。)

4)昆布はカリカリに火にあぶって揉み砕いたものを入れ、乾燥したギョウジャニンニク、ネギも鍋に入れ、蓋をして蒸す程度にさっと煮たせて出来上がり。


・メンクルチサスイェプ(イナキビご飯)の作り方

材 料:・米 ・イナキビ ・塩 ・油

作り方1)米とイナキビをといで、塩、油を適量いれて炊く。

※水量はふつうにご飯を炊くよりも少し多めが良い。


・ペネコショイモ

材 料:・ペネコショイモ ・片栗粉 ・砂糖 ・塩 ・油


作り方

1)冬の間外で凍れさせたジャガイモを乾燥させたペネコショイモを水にもどし、何度か水を取り替え、晒しの袋などに入れ水切りをしておく。

2)水切りをしたペネコショイモに、片栗粉を混ぜて練り、砂糖と塩で味を調え適当な大きさの団子にし、フライパンに油をひき、焼く。

http://www.coleman.co.jp/event/winter/bbw_0903.pdf?PSID=o3jdhodr7852t7umu9quo1j6h6

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2010.2.12 アイヌの伝統食をまるごと体験!オントウレプ食べてみよう 


昨年7月に手稲山でオオウバユリの根を採取し、みんなでデンプン作りをしました。
http://teinesato.blog.so-net.ne.jp/2009-11-13-5


オオウバユリのアイヌ語名を「トウレプ」といいます。デンプンをとったあとのオオウバユリの根の繊維を発酵させ、乾燥させたものを「オントゥレプ」といいます。アイヌで保存食として利用されていました。

今回も安田千夏さんに講師をお願いしました。


「昔のアイヌの冬の暮らし」についてクイズを交えてお話いただきました。つくづくアイヌは究極のサバイバル術のエキスパートだと感心するエピソードばかりでした。アイヌの男性のたくましさは素敵だなあ〜〜とうっとり・・・なかでも「クマにであったらどうするか?」の本の紹介とエピソードはびっくりでした


このドーナツ型の物体が繊維を発酵させたものです。これから乾燥させるのです。


実は乾燥させたものは3個あったのですが、(かちかちに乾燥したものはなんとも動物の糞のようないでたちなのですが)2個紛失してしまいました。これは乾燥したものを細かく削っているところです。


本当は削ったものを水に浸しておくとボウルの底にデンプンが沈殿するのです。それをスプーンなどでお粥に落とすとトゥレプサョ(ウバユリ粥)になる・・・はずでした・・

1個では少なすぎてデンプンは取れなかったので今回は急遽、イナキビ入りのお粥、アイヌの人が食べていた「魚の汁」(チェプオハウ)と「シバレイモ」(ペネコショイモ)団子をつくることになりました。


「魚の汁」(チェプオハウ)です。今回は鮭を使用した三平汁です。鱈なども内臓ごと使っていたようです。

当時、塩は交易で手に入れなければならなかったので貴重だったようです。実際食べていたものはかなりの薄味だったようです。私達は現代風にアレンジしたいただきました。ポイントはギョウジャニンニク」(プクサ)とあぶった昆布を砕いていれるところです。


調理風景です。


これが「シバレイモ」(ペネコショイモ)です。真冬に外に出しておき凍ったジャガイモを水で何度もアクだししたものです。みなさん少し凍ってしまったジャガイモを食べたことがありますか?すこしクセのある匂いがします。

あんな感じです。


砂糖を少し加えて団子状にしてホットプレートで焼きます。これはとても美味しかったです!もちもちっとしていて焼くと香ばしくほんのり甘く・・また食べてみたいです。


完成しました


いただきま〜〜す

前回のオオウバユリの採取から7ヶ月、採取→加工→調理の過程をみんなで学ぶことができました。

昔のアイヌの人たちは食べ物を粗末にすることなく最後の最後まで智恵をしぼり使い切る究極のエコの精神を持っていたんだなあ・・と尊敬します。そして食べ物になる植物の子孫が絶えることがないようにルールをつくって採取していたことも学ぶことができました。自然、食べ物、いのちに感謝する気持ちが自然にわきあがってきます。

いのちを身近に感じ、感謝し生きていきたいです。
http://teinesato.blog.so-net.ne.jp/2010-05-07

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アイヌの人々は肉を食べる場合には動物の新鮮な内臓を例外として、生で食べることはあまりありませんでした。

肉を食べる場合にはほとんどの場合、汁ものに入れて煮たものや焼いたものを食べていました。

魚類を食べる場合には串に刺したものを焼いて食べたり、天日などで乾燥させたりしたものを汁ものに入れて煮たものを食べていました。獲ったサケを冬期に屋外で凍らせてそのまま食べることもありました。


ラタシケプは山菜や蔬菜、豆類などを汁気が無くなるまでしっかりと煮込んで魚脂や獣油、海水などを使って味付けを施して鳥獣肉、魚肉は使いません。

カッコウの初鳴きを合図として、一年分の山菜を採って乾燥させて収蔵し終えたところに、夏がやってきて畑仕事が始まります。昔のアイヌには稲作は行われていなかったのですがアワやヒエあるいはイナキビのような穀類と豆類、蕪などを昔から栽培していました。

山の物ではヤマブドウやクロミノウグイスカグラ(ハスカップ)のような果実は生で食べましたが、山菜類は魚や肉などと一緒に汁に入れて煮込んだり、お粥やご飯などと一緒に炊いたりして食べるものでした。

雑穀類を焚いたチサッスイェプや雑穀類を焚いて焦がして作ったスウケプ、シト(団子)などはイオマンテのように大きな儀礼の時に食べられる特別料理であって祖先や神々も一緒に食べて、楽しむとされていました。
http://www.islanddistinctiveoccasions.com/hokkaidob/


アイヌ語でオハウもしくはルルという魚や鳥獣肉、山菜などの具が沢山入った汁ものを主食としていました。

入れる材料によって多くのバリエーションをもっています。

副食として食べられていたものはアイヌ語でサヨというお粥でその種類もヒエ粥、アワ粥、ギョウジャニンニク、ウバユリの繊維質、イクラ入りの粥などのバリエーションがあったそうです。

他にはアイヌ語でラタシケプという山菜や野菜の煮込んだもの、焼き魚、穀物の団子のように多くの種類の料理があります。

調味料に使われるのは、メインは塩でしたが、寒冷地であることからカロリー補給や味を柔らかくすることを目的として油脂を多用しました。
http://www.islanddistinctiveoccasions.com/hokkaidob/hokkaidoba.html

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アイヌ生活文化再現マニュアル
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/bunka_main.html


 私たちのいう「自然」に食糧(しょくりょう)を求めていたアイヌの人たちは、一年の多くを食糧採取(しょくりょうさいしゅ)に費(つい)やしました。特に、野生植物は、一度で取り尽くしてしまうようなことはせず、必ず「根」を残し、次の年の分を確保(かくほ)しながらの採取でした。四季折々(しきおりおり)にとれる野生植物や動物、魚介類(ぎょかいるい)は家族の食卓(しょくたく)にのぼるとともに、長い冬の間の食糧(しょくりょう)として、また、飢饉(ききん)などに備(そな)えるために蓄(たくわ)えられました。

 調理(ちょうり)には、「煮(に)る」「焼(や)く」「炊(た)く」という方法が用いられました。主食として、山菜をベースに、動物の肉や魚を入れて煮(に)たオハウ、ルルがありました。オハウは、用いる材料によって、チエプオハウ(サケを入れた汁)、プクサオハウ(ギョウジャニンニクを入れた汁)、カムオハウ(動物の肉を入れた汁)などと呼ばれました。

 副食(ふくしょく)には、アワやヒエなどの穀物(こくもつ)を煮たサヨ、山菜を汁(しる)気がなくなるまで煮込(にこ)んだラタシケプがあり、生の動物の肉や魚は、串にさして焼いて食べました。また、季節によっては、「生で食べる」こともありました。


プクサ(ギョウジャニンニク)

焼(や)いて干(ほ)したウグイ。夏にとれた魚は、焼いて天日(てんぴ)で干(ほ)し、貯蔵(ちょぞう)した(新ひだか町アイヌ民俗資料館蔵)。

儀礼(ぎれい)の際(さい)の食事

   クマやシマフクロウの霊送(れいおく)りや祖先供養(そせんくよう)、婚礼(こんれい)や葬礼(そうれい)などのときには、普段(ふだん)の食事に加えて、雑穀類(ざっこくるい)を炊いたもの、団子(だんご)など特別な料理がつくられました。一年に数回しか味わうことのできないこの特別な料理は、人間だけでなく、祖先(そせん)や神々もともに食べ、ともに楽しむものでした。


いまに伝える

   江戸時代の終わりころになると、アイヌの人たちも野菜(やさい)をつくるようになり、多くの料理に用(もち)いられました。また、明治以降(めいじいこう)、本州からの移住者(いじゅうしゃ)の増加(ぞうか)とともに、アイヌの人たちを取り巻(ま)く環境(かんきょう)も大いに変化し、食生活もまた大きく変化しました。その一例として、調味料(ちょうみりょう)の使用などがあります。現在、北海道内各地でつくられる料理もこのころにつくられたものを基本としています。チエプオハウやラタシケプなどといった料理の多くは、日常の料理として、あるいは儀礼(ぎれい)の際(さい)の料理として盛(さか)んにつくられており、その伝統(でんとう)はいまに伝わっています。


食事の様子(『蝦夷嶋図説』函館市中央図書館蔵)


チエプオハウ
ラタシケプ
 

クマの霊送(れいおく)りのときにつくられる料理。神とともに人間も楽しむ(財団法人アイヌ民族博物館蔵)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/hito/taberu/taberu.html


アイヌ料理 春〜夏
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono2/tabemono.html

アイヌ料理 秋〜冬
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono/tabemono.html


アイヌは人間の力が及ばないもの、自然の恵みを授(さず)けてくれるもの、生きていくうえで欠かせないものなどを、神[カムイ]として敬っていました。自然界の神々―火の神、水の神、山の神、集落の神、森の神、狩猟の神、穀物(こくもつ)の神等―に感謝し、神々が与えてくれた恵みとして、食材を必要な分だけいただきます。

 秋は豊かな実りの季節でした。川では遡上する鮭を捕え、山では木の実を採集し、狩りで動物の肉を手に入れて食べました。冬や飢饉(ききん)に備えて保存食も加工しました。

 動物からとった油脂(ゆし)や、塩などを調味料として使い、肉や魚、山菜などを入れた汁物[ルル]、ヒエ・アワなどのおかゆ、煮物(にもの)などが食べられていました。

 今回は、料理を作る場所として、『旭川市博物館分館アイヌ文化の森 伝承(でんしょう)のコタン チセ』を使用しました。アイヌの伝統的な住居には、炉(いろり)が切られており、火種を絶やさなかったといわれています。

 古くから集落のあった石狩川の周辺には、豊かな自然があり、食材は、家の周りで容易に調達できました。現在では都市化の影響もあり、身近で手に入れることが難しくなっています。今回、食材を調達するにあたり、旭川近郊の山々はもとより、遠方まで出かけて集めたものもあります。

 本マニュアルは、杉村京子さんが、親の世代から学んだ、秋から冬にかけての食材を用いた料理を紹介します。

 自然に抱かれ、チセで暮した時代に培われた習慣や知恵は、様々な社会変化の影響を受けながら、独自の文化として生き続けています。

 なお、食材を採集する時期は、旭川地域を目安にしています。
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono/tabemono_hajimeni.html


杉村さんが子供の頃、大人に連れられて山へ出かける時、弁当は持ちませんでした。器と塩を持って行き、その場で材料を調達(ちょうたつ)しておつゆを食べたと言います。

「アイヌのおつゆには、肉か魚介類が欠かせない。」

と杉村さんは言い、山菜だけではなく、カワシンジュガイ(カラスガイ)などを捕(と)って入れました。

家では秋から冬にかけて獲(と)った鹿や熊の肉、鮭なども乾燥保存しておき、
夏でも山菜と一緒におつゆに入れて食べました。

アイヌの料理では、このような汁物が主食でした。

 これは、キト、セリ、ニリンソウなどの山菜と、乾燥保存した鮭を入れた塩味のおつゆです。

 杉村さんが親達から聞いた話では、かつて塩は交易(こうえき)[ウイマム]で手に入れていたので貴重品でした。濡(ぬ)らした箸(はし)の先にわずかな塩をつけ、器に盛ったおつゆに混ぜて食べたと言います。

 アイヌは素材の味を活(い)かした料理を作り、あまり濃い味付けをしませんでした。
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono2/tabemono_column_02.html


現在では、一年中、新鮮な食材を入手できるようになり、採集や保存に手間をかけなくても良い時代になりました。

 また、身近に自然が少なくなったことも影響(えいきょう)して、杉村さんも昔ながらの料理を作って食べる機会が減りました。

 しかし、杉村さんが親達から学んだ料理は、ほかに代え難(がた)いものとして、現在も杉村さんの心に刻まれています。 杉村さんは言います。

 「あるおばちゃんが、おれらは小さい時から、おつゆに魚でも肉でもたくさん入れて食べたもんだけど、今の人はそういうことができない。おれらはうまいものばかり食ったもんだと言ってたけど、ほんとにそうだわ。

今、これだけのおいしいもの毎日食べられないよ。まずおいしい、昔のものは。自然のものを自然のまま、こしらえて食べる。体にはいいし、おいしいし。」


 神々を敬(うやま)い、自然に抱かれて暮らしてきたアイヌにとって、物がない時代にこそ味わうことのできた豊かさもあったのです。  
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono2/tabemono_owarini.html


 「ウタリの食べものはね、ほとんどが薬。自然のものを食べるから、体に良いものばかりだった。戦争中、終戦後、(食料が乏しい時代でも)ウタリには栄養失調の者はいなかった。」

 杉村さんは、アイヌのことを、仲間・親戚(しんせき)を意味するウタリという言葉で表現するのを好みます。病人や高齢(こうれい)で山へ行けない家庭のためにも食べものを集めて分け与え、集落全体がひとつの家族のようにして、助け合って生きて来たと言います。

 食材の採取にあたっては、昔ほど身近に自然がなくなり、山奥へ行かなければ採れなくなったものもあります。 杉村さんは、その原因のひとつに乱獲(らんかく)を挙げて言います。

 「ウタリは、山へ行って物をいただいて来る時、10本しかなかったら、7本だけいただいて、あとの3本は残してくる。動物も虫も魚もいる、人間だけではない。そういう習慣が一番大切だと思います。

ウタリは山から余分に持ってきて捨てることは一切しなかった。それをみんなに教えたいと思う。分かって欲しい。」


 食は、親子や地域のコミュニケーションに欠かせない要素でもありました。特に熊送りの時などは近所の人達も集まって、大勢で楽しく料理をしたり、食事をしました。そうした中で、アイヌの伝統文化は、親から子へと語り継がれてきたのです。
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono/tabemono_owarini.html


イオマンテ−熊の霊送り[料理編]
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri.html


 狩猟採集(しゅりょうさいしゅう)を生業(せいぎょう)としていたアイヌは、狩猟(しゅりょう)の対象など生活の中で深い関わりを持つ動物をカムイ(神)として敬(うやま)い、その魂を大切に取り扱ってきました。

 「イオマンテ」とは「動物の魂をカムイモシリ(神の国)へ送る」という意味で、広く動物神の霊送りの名称として使われる場合がありますが、一般的には「飼い熊の霊送り儀礼」を指す言葉として知られています。春先のヒグマ猟(りょう)で、母熊と共に生まれたばかりの子熊を手に入れると、人々はカムイから養育を任された名誉あることと考え、授(さず)かった子熊を大切に育てました。そして1〜2年ほど飼育した後には、その魂をカムイモシリへ送り帰す盛大な儀式が、集落をあげて営(いとな)まれてきたのです。

イオマンテは、カムイを敬(うやま)い、日常生活の中で常にカムイの存在を意識してきた人々が、たくさんのお土産を持たせて子熊の魂を送ることでその再訪(さいほう)を願い、食料の安定供給を求めるという、アイヌにとって最も重要な伝統儀式のひとつです。イオマンテは、明治以降の同化政策による生活環境の変化などにより、次第(しだい)に行われなくなりました。

 今回のイオマンテの料理の再現は、道南の白老地方に伝わる儀式の際の特別な料理です。アイヌ民族博物館が平成元年から数回にわたり実施したイオマンテの料理を参考に制作します。(写真1)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_hajimeni.html


イオマンテの儀式は寒い時期に行われるため、料理の材料はそれまでに採取(さいしゅ)され、プとよばれる食料庫に保存されてきたものが中心となります。イオマンテでは

「熊が神の国へ土産として持ち帰るためのごちそうの数々」、また

「宴(うたげ)の際、神と一緒に来客が食べるごちそう」

と、普段にない種類と量を女性たちが用意することになります。

 イオマンテの儀式において、アイヌの人たちは熊を「殺す」という観念(かんねん)は全くありません。熊の毛皮をまとい、肉を身につけ、

「神の国から、人間の国へ遊びにきた神を、もとの神の国へ送り返す」

という考えから、祭儀(さいぎ)が行われてきました。その神をもてなすためのごちそうとして料理が作られるのです。(写真155、156)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_owarini.html


カムイオハウ

イオマンテでつくられる料理には、あらかじめ儀礼の前に作られるものと儀礼の進行に伴って作られるものとがあります。このカムイオハウは、儀礼のなかで熊の解体が終わると、その肉の一部を使用して作られます。(写真2)

 カムイオハウには熊肉、ギョウジャニンニク、ダイコン、ニンジン、ネギ、塩を使います。(写真3)

 熊肉を適当な大きさに切り、湯通しをして、熊肉のアクを取り除きます。(写真4)
 
 熊肉に火が通ったところで一度鍋から取り出します。これで熊肉の下準備が完了しました。(写真5)
 
 野菜の下準備です。火が通りやすいように適当な大きさに切り、煮込みます。(写真6)
 
 茹(ゆ)でてアクを取り除いた熊肉は、食べやすいように一口大に切ります。(写真7)
 
   野菜の火の通り具合をみて、鍋に熊肉を入れます。全体をかき混ぜながら、材料に火が通ったところで塩を入れて味付けます。(写真8) 

 刻(きざ)んだネギと、乾燥したギョウジャニンニクの葉を入れて仕上げます。ギョウジャニンニクはアイヌ語でプクサとよばれ、保存する際は、茎と葉に分けて細かく切って乾燥させます。(写真9、10)  

材料が全部入ったところで、強火でひと煮立ちさせて完成です。(写真11、12)  
 カムイオハウは供物として祭壇(さいだん)の前に供えられるほか、宴(うたげ)の席で客にふるまわれます。

 この他、熊肉などを使ってつくる重要な料理にチノイペコタタプ(熊の頬の肉と脳のあえもの)があります。この料理は、他の料理と違い男性の手で作られます。作られる量も少量のため、皿などに盛り付けず、エカシなど主だった男性だけに配られます。材料は、熊の脳、熊の頬肉、ネギ、塩です。作り方は、頬肉をあらかじめゆでておき、まな板の上でみじん切りにして脳と混ぜ合わせます。これに、細かく刻(きざ)んだネギを入れ、塩で薄く味付けします。
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_01_kamuiohau.html


 トノト

 トノトは、神々に捧(ささ)げる御神酒(おみき)です。酒もイオマンテには欠かせず、1週間から10日ほど前から仕込み始めます。(写真13)

 仕込みには、魔よけのため、マキリ、イナウル、チエホロカケプを用意します。

右からマキリ、イナウル、チエホロカケプ(写真14)

 酒はトノトカラシントコとよばれる樽に仕込まれます。(写真15)

 酒樽を包むための毛布やキナとよばれるゴザ、そしてキナを縛るタラという縄を用意します。

 こうじ(麹(こうじ)・カムタチ)を混ぜるためにサカエナムテプという器とエンピリという道具を用意します。

 酒の材料にはヒエと麹(こうじ)を使います。ヒエはアイヌにとって最も古い作物で酒の原料として重要なものです。麹(こうじ)はヒエとほぼ同じ量を用意します。
麹(こうじ) (左)とヒエ(右) (写真18)


 最初にヒエのお粥(かゆ)を作ります。
 鍋に湯をわかし、用意したヒエを入れます。
 ヒエを鍋の中でゆっくりとかき混ぜながら、火を通します。(写真21)

 鍋にヒエを入れ終わったら、蓋(ふた)をしてお粥(かゆ)を作ります。お粥(かゆ)といっても柔らかすぎないように、ほんの少し水分が残るくらいに炊き上げます。(写真22)

 炊き上がったヒエをサカエナムテプに移し替えます。(写真23)
 ヒエをサカエナムテプ全体にのばし、人肌になるまで冷まします。(写真24)
 ヒエが冷めてから、麹(こうじ)を入れます。(写真25)

 発酵がうまく進むように、ヒエと麹(こうじ)をムラなくまんべんに混ぜ合わせます。(写真26)

 麹(こうじ)と混ざり合ったヒエを樽に移します。樽に移しながら、さらに混ぜ合わせます。(写真27、28)

 火の神に祈りを捧(ささ)げます。

 「火の神よ 今日の仕込みのため お移しいたしますのを どうぞ お許しください」

という言葉を述べながら、真っ赤になったオキを2つとりあげます。(写真29、30)

 オキを仕込んだヒエの上にのせます。


 「火の神よ あなたの力で このヒエが よいお酒になりますよう どうぞ お守りください」

と祈ります。(写真31)

 オキを移し、火の神への祈りを終えた後、樽にふたをしてヒエを寝かせます。
 発酵(はっこう)をうながすため、毛布で一度樽を包み込んでからゴザを巻きます。(写真32)

 ゴザを巻きつけます。(写真33、34)

 樽のふたの上にイナウルを巻きつけたマキリをのせます。 これは仕込んだ酒に魔物が近づかないように、という願いが込められています。(写真35)  

       
 最後にゴザの上部をすぼめてタラで縛り付けます。
 樽の上部にはチエホロカケプをさします。これも魔よけのためです。(写真36)
 樽は、神窓の近くの左座(ひだりざ)に置きます。ヒエが発酵(はっこう)して酒になるのを待ちます。(写真37)

仕込みの終わった樽を前に、火の神においしいお酒ができますよう守護(しゅご)してくださいと再び祈りを捧(ささ)げます。(写真38)

仕込み終わったヒエは、イオマンテの前日まで何度か状態をみながら樽の中をかき混ぜ、発酵(はっこう)を促します。タラを解き、ゴザを外して樽の中を静かにかき混ぜます。(写真39、40)

こうしてイオマンテが行われる前日を待つのです。(写真41)

まつりの前日、酒漉(さけこ)しをします。ゴザを解いてふたを取り、仕込みの際に入れたオキを取り出します。(写真42、43)

取り出したオキは、炉の中へもどし、火の神に立派な酒が出来るよう見守ってくれたことへの感謝をあらわす祈りを捧(ささ)げます。(写真44)

酒漉(さけこ)しをするため、別の樽にサケヌンパニとよばれる棒を4本「井桁(いげた)」に組んだものを置きザルをのせます。仕込んだ酒をサケピサツクといわれる柄杓(ひしゃく)でザルにあけていきます。(写真45)

仕込んだ酒はもろみの状態です。

ザルにあけたもろみを、手で擦(す)り込むようにして漉(こ)します。ザルをゆすったり、ザルの底をこすったりもします。(写真46)

こうしてザルで漉(こ)されたもろみはトノト、ヒエで作った酒になります。(写真47、48)

酒漉(さけこ)しの過程で、パッチとよばれる器を用意します。(写真49)

酒漉(さけこ)しでザルに残る酒粕(さけかす)をシラリといいます。シラリはパッチに盛られ、神への祈りであるカムイノミに使われます。(写真50)

酒漉(さけこ)しが終わったザルは洗わずに戸口に持っていき、戸口のそばの守り神であるアパサムシペカムイに祈りを捧げながら、ザルを当てて、付着した酒粕(さけかす)を落とします。シラリを戸口の神の方へ飛び散らせます。

 シラリを神に捧げ、実りの多い年であるようにという願いがこめられています。(写真51)

 酒漉(さけこ)しに使ったザルなどの道具を洗い終わったタライの水は玄関先にまき、

「戸口の神様も、近くを往来する神様も飲みたい神様がいたら、どうぞみんなで分けて飲んでください」

と言葉を添(そ)えます。

イオマンテの前日、トノトがこうして出来上がります。(写真53)

再(ふたた)び樽をゴザで覆(おお)い、神窓(かみまど)の左座(ひだりざ)に置き、翌日のイオマンテを待つのです。(写真54、55)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_02_tonoto.html


シト

シトは米やイナキビなどで作る団子です。(写真56)

材料は米、イナキビ、もち米の粉(つなぎ用)です。
米、イナキビを研いで水に一晩漬け置き、ザルに上げ、水切りしておきます。

米 (写真57)
イナキビ (写真57)
 
 米とイナキビをそれぞれ臼(うす)に入れて杵(きね)で搗(つ)き、粉にします。
 イウタといわれる杵搗(きねつ)きは、2〜3人で唄で拍子をとりながら交互に搗(つ)いていきます。(写真58)
   
ある程度搗(つ)いたところで、搗(つ)いた米を器に移します。(写真59)
 
杵搗(きねつ)きと同時に、搗(つ)いた米やイナキビは、順次ふるいにかけ、粉状になったものと、まだ粗(あら)いものにふるいわけます。(写真60)
 
まだ粗(あら)いものは再び臼(うす)にもどし、さらに搗(つ)いて粉にしていきます。

 こうして全てが粉になるまで杵搗(きねつ)きが繰り返されます。(写真61)  
米の粉にお湯を注ぎます。

 ヘラで混ぜ合わせてから、じっくりと手でこねていき、耳たぶほどのかたさに練(ね)り上げます。

イナキビも同様にお湯を注いで混ぜ合わせ手で練(ね)っていきます。(写真64)
練(ね)り上げる際、つなぎとしてもち米の粉を使います。イナキビに混ぜ、ほどよいかたさに練(ね)り上げていきます。(写真65)
 
練(ね)った米やイナキビで団子を作ります。(写真66)  

団子の形は用途(ようと)によって違います。

 直径3〜4cmに丸めたシトは、イオマンテの時、撒(ま)くものです。(写真67)  
 平たい円盤状に作るシトは、直径6cmほどのものと10cmほどの大きめのものとがあります。(写真68)
 
大きめの円盤状のシトには中央に穴をあけるものとそうでないものがあります。(写真69)
 
鍋でお湯を沸かし、シトを入れ、茹(ゆ)でていきます。
シトは茹(ゆ)であがると湯に浮いてきます。  

 茹(ゆ)であがりまでおよそ15分です。

 ザルに上げ、冷まして米とイナキビのシトの完成です。(写真71)

 直径6〜7cmの小さい方の円盤状のシトはパッチに盛り付けます。パッチに山盛りになるように盛り付けていきます。

 これは、家の中へ招きいれた熊の神や先祖への供(そな)え物とするシトです。(写真72、73)

 丸いシトも同様にパッチに盛り付けていきます。このシトはイオマンテのとき、エカシたちによるカムイノミが終わった後、神(熊)の上にクルミなどと一緒に撒(ま)かれ、皆で拾(ひろ)います。

「みなが楽しんで拾(ひろ)いあえば、神もまた楽しい」

とされているのです。(写真74、75)

ひと回り大きめの円盤状のシトは、その両側を切り、オツチケとよばれるお膳(ぜん)に積んでいきます。

 切ったシトは、縦と横方向交互(こうご)になるように積みます。このシトも供(そな)え物として使われます。(写真76、77)

穴をあけたシトは串に刺して神に持たせるお土産(みやげ)となります。串はミズキを削って作られたものを使い、12個のシトを通します。(写真78、79、80)

串のダンゴをイナウルで包みます。(写真81)
 
 包み込んだあと両端と中央を縛り、さらに両側にイナウルを撚(よ)りあわせた紐(ひも)を結んで完成させます。この串のダンゴは、祭壇(さいだん)に飾り付け、神へのお土産(みやげ)とするのです。(写真82、83)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_03_sito.html


スケトウダラの利用

 タラは干して食べるほか、肝を煮詰めて脂(あぶら)をとり、料理の時の調味料として用います。(写真84)

 タラをさばいて肝臓を取り出します。(写真85、86)

 身の方には切り込みを入れておきます。(写真87)

 切り込みに紐(ひも)を通して、2尾をつなげ、竿に干して乾燥させます。(写真88、89)

 タラの脂(あぶら)の作り方です。取り出した肝を鍋に入れます。(写真90)

 鍋を火にかけ肝を煮詰めます。(写真91)

 煮詰めていくと黄金色のエキスがしだいに出てきます。

 肝が焦げ付かない程度に弱火でじっくり煮詰めます。(写真92)

 脂(あぶら)が出きったところで、ザルで濾(こ)します。

 濾(こ)した脂(あぶら)はビンなどに移し替えて保存します。タラの脂(あぶら)は調味料として料理に使います。(写真94、95、96)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_04_suketoudara_01.html


スケトウダラの塩煮

干したタラで塩煮を作ります。(写真97)

 3〜4週間干したタラは、背びれなどを切り落とし、下ごしらえをします。(写真98)

 下ごしらえしたタラを鍋に入れ、たっぷりの水で煮込みます。(写真99)
 いったん沸騰させた後、塩で味付けをし、弱火にして時間をかけじっくりと煮込んでいきます。

 じっくり煮込んだタラは骨まで軟らかくなります。(写真100、101)

 出来上がったスケトウダラの塩煮を、お膳(ぜん)に盛り付けます。干したスケトウダラの味が十二分に生かされた料理です。白老地方のイオマンテでは必ず作られてきた料理のひとつです。(写真102、103)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_04_suketoudara_02.html


ボツボツ

ボツボツの材料はカボチャ、マメ、トウモロコシ、シケレペ(キハダの実)、砂糖、塩、タラの脂(あぶら)です。(写真104、105)

シケレペはキハダの実で、秋に黒く熟したものを採取します。胃痛、喘息(ぜんそく)などの薬として用いられることもあります。(写真106)
 
マメとシケレペはあらかじめ煮込んでおきます。

材料のカボチャは生のものがあればそれを使うが、多くはリンゴの皮を剥(む)くようにかんぴょう状にしたものを乾燥させ保存しておいたものを使います。(写真108)
 
生のカボチャは皮を剥(む)き適当な大きさに切って、水から煮ます。(写真109)  
 カボチャに火が通り柔らかくなったところで、下ごしらえしたマメとシケレペをカボチャに加え、さらに煮込みます。(写真110)
 
ゆでておいたトウモロコシも加え、かき混ぜながら煮込んでいきます。

 調味料として砂糖とタラの脂(あぶら)を入れ、味付けをします。十分にかき混ぜながら味を馴染(なじ)ませます。最後に塩を少し加えて味を調え、かき混ぜながら水が無くなるまで弱火で煮続けます。(写真111、112)
 
ボツボツ、又は「カンポチヤラタシケプ」とよばれ、白老地方の代表的なラタシケプのひとつです。(写真113)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_05_botubotu.html


チポロラタシケプ

チポロラタシケプは筋子、ジャガイモ、塩を使います。(写真114)

カムイチエプとよばれるサケは、アイヌにとってもっとも重要な食料です。秋に大量に捕獲(ほかく)したサケは冬を越すための保存食にされます。(写真115)

生の筋子を用いたラタシケプは、サケが遡上(そじょう)する時期限定の料理で、上等なごちそうといえます。

 チポロとは筋子のことです。(写真116)
 
 取り出した筋子は、お湯と塩を使い筋をとります。(写真117)  

 お湯に塩を入れてかき混ぜた後、筋子をその中に入れ、ほぐしていきます。(写真118、119)

 ほぐした筋子を、一度ザルにあけます。(写真120)
 
 再度お湯に塩を入れかき混ぜ、ぬめりなどを取りきれいにします。こうして筋子の下ごしらえをしておきます。(写真121、122)
 
 ほぐした筋子を鍋に入れて火にかけます。焦げ付かないようにゆっくりとかき混ぜながら火を通します。(写真123)

 塩で味付けし、さらにじっくり火を通します。
 
 筋子をすりつぶすのには、チポロニマというすりこぎ棒付きのこね鉢(ばち)を使います。(写真124)
 
火が通った筋子をチポロニマに移し、すりこぎで押し付けるようにしながらすりつぶしていきます。(写真125)
 
ジャガイモは皮をむいてふかしておきます。ふかしたジャガイモを鍋の中でつぶします。(写真126)

 ジャガイモを十分につぶしたところで、鍋に筋子を入れて和えると、チポロラタシケプの完成です。(写真127、128、129)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_06_tiporo.html


シケレペキナラタシケプ

シケレペキナラタシケプには乾燥させたシケレペキナ、塩、タラの脂(あぶら)を使います。 
シケレペキナとはヒメザゼンソウのことです。山で採取したあと茹(ゆ)でて、乾燥させ保存しておきます。(写真130、131)

 いったん水にもどしたヒメザゼンソウを洗い、鍋に入れ火にかけます。初めは中火で、その後は弱火で数時間かけてじっくりと煮込みます。(写真132)

 煮汁を十分に吸収させ、水気がほとんど無くなるまで煮込みます。
 
煮込んだヒメザゼンソウを鍋から取り出します。

 イタタニとよばれるまな板の上で、適当な長さに切っていきます。(写真134)  
 切ったヒメザゼンソウを再び鍋にもどし、味付けにタラの脂(あぶら)、塩を入れ、かきまぜながら火を通します。(写真135)
 
 できあがったシケレペキナのラタシケプをパッチに入れ、神に供(そな)えます。(写真136)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_07_sikere.html


シケレペラタシケプ

 シケレペラタシケプは、シケレペ(キハダの実)、マメ、塩、タラの脂(あぶら)を使ったラタシケプです。

 乾燥させ保存しておいたシケレペ(キハダの実)を、水に浸(ひた)して戻し、火にかけて煮込みます。

 煮えたところで、あらかじめ煮ておいたマメを鍋に入れます。(写真140)
 
 塩、タラの脂(あぶら)を加えて味を整えます。(写真141)
 
 火が通ったら鍋をおろし、キハダの実とマメをいっしょにすりつぶしていきます。(写真142)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_08_sikere.html


いなきびご飯、ひえご飯

かつて、アイヌにとって農耕による生産物は貴重な食料で、特に米をふんだんに使うのはイオマンテなど儀式のときの特別なごちそうでした。

 いなきびご飯には、イナキビ、米、マメ、塩を使います。(写真144、145)

 マメをあらかじめかために煮ておき、鍋にイナキビと米を入れて混ぜ合わせ、塩とマメを加えます。

 鍋を火にかけ、最初は強火で炊き上げていきます。(写真147)

 沸騰したら弱火にします。
 
 弱火でじっくり炊き込みます。(写真148)
 
 炊き上がったご飯にタラの脂(あぶら)を適量入れ、混ぜ合わせて味付けし、完成です。(写真149、150、151)
 
ひえご飯も同様に作ります。(写真152、153、154)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_09_inakibigohan.html


アイヌ料理「ハルコロ 」


今年(2011年)の5月22日開店の北海道以外では唯一のアイヌ料理の専門店です。「ハルコロ」とは「お腹いっぱい食べれる」という意味のアイヌ語です。

2009年11月7日に赤字のため閉店した中野区新井にあったアイヌ料理店「レラ・チセ」のコンセプトを受け継ぎ一部のスッタッフが開店させたお店です。テーブル3つにカウンターという小さなお店ですが、木調で手作りのぬくもりが感じられるお店です。アイヌ民族の情報発信基地にもなっているようでいろいろなパンフレットやポスターが貼ってあります。

場所は新大久保のコリアンタウンや渚総研からもほど近いJR総武線大久保駅南口から徒歩1分の焼き鳥屋の跡地。以前はこのあたりには屋台村もあり飲食店街として栄えていたのに最近はすっかり寂れてしまいました。

今回の注文は「鹿丼」¥900-と「オハウ」(鮭汁、チェプ汁)¥200-です。

アイヌ料理を食べるのは白老に行ったとき以来なので何年ぶりだろうか。。。

鹿肉。。。久しぶりに食べるジビエ料理(獣肉料理)です。

「鹿丼」は、やや固めの牛肉のような味わい。以外と油分が多い。寒い地方の料理なせいか味付けは濃い目です。

「オハウ」は(鮭の切り身、タマネギや人参、大根、長ネギなど鮭がちょっと少ないのが気になったけど、野菜が豊富で塩味であっさりしています。これは安いです。


鹿肉料理はちょっと高い気がしますが、食材としての入手のいにくさを考えるとまぁこんなところでしょうか。。。

鹿肉や鮭、行者にんにく、コマイなどの食材を使った料理が多いのですが、ぜひ熊肉のレパートリーも増やして欲しいですね。

お客の入りがすごく少なかったのがちょっと気になります。

せっかく復活させたアイヌ文化の東京の拠点です。前身の「レラ・チセ」のように赤字や経営不振を理由に閉店させないよう活発なイベントスペースとしての機能やワークショップなど情報発信基地としての機能を期待したいです。

琉球王国の沖縄料理店は東京にたくさんあるのに、アイヌ民族のアイヌ料理店はなぜ東京には一軒しかないんだぁ!
なぜ、北海道出身者にアイヌ民族のことを聞いても何にも知らんのかぁ〜という素朴な疑問が以前からありました。

アイヌ民族の文化は少数民族とはいえ日本の貴重な文化遺産です!日本人として絶対に守っていかなければなりません!


::::::::::::::::::::::::以下リンク先からの転載です:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

大久保にオープンしたその名は「ハルコロ」。「お腹いっぱい食べれる」という意味のアイヌ語です。

JR総武線大久保駅南口から徒歩1分のところに開業。カウンター席と浦川治造さんお手製のテープル席が3つ。木の温もりが感じられる素敵なお店です。鹿肉やキトピロ(行者ニンニク)、鮭の料理を味わうことができます。レラチセの閉店から1年半、東京ではアイヌ料理を食べれるお店はなかったので、今日は久しぶりに行者ニンニクを味わった。

レラチセでも働いていた照代さん、レラチセの創業にも関わっていたお母さんのタミエさんを囲みいい時間。子どもたちが輪唱をし、千葉さんのトンコリが鳴り、タカハシは気持ちよく酔い粗相をしました。ごめんなさいだったけど、嬉しい酔いでした。


レラ・チセは、日本の東京都内にかつて存在したアイヌ料理店。
店名はアイヌ語で「風の家」の意味である。

1993年の「国際先住民年」を契機として、全国からの募金で、1994年に東京都新宿区の西早稲田で開業する。2000年に東京都中野区新井に移転する。

アイヌ料理の店であるが、エゾ鹿のステーキ「ユク」や鮭の背わたの塩漬け「メフン」、いも団子「ムニニイモ」がメニューにあった。鹿肉カレーや鮭カレー、熊肉の焼肉を食べられることもあった。アイヌ語教室の開催など、首都圏のアイヌ文化継承の拠点となった。ライブもあった。中野区新井の店は三階建てであった。かつては、昼と夜の営業が行われときもあったが、全体を通して午後6時からの営業となっていた。不況の中で売上が減少し赤字経営が続いた。2009年11月7日閉店した。
http://blogs.yahoo.co.jp/nagisa_aoi21/60786274.html


「ハルコロ 」(HaruKor)

・住所: 東京都新宿区百人町1-15-3
・電話: 03-3366-6400


JR大久保駅南口より徒歩1分
JR新大久保駅より徒歩3分
大久保駅から120m


地図
http://www.mapion.co.jp/m/35.69657318_139.70171817_8/v=m2:%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%AD/
http://tabelog.com/tokyo/A1304/A130404/13126529/dtlmap/


営業時間
[月〜金]17:00〜24:00(L.O.23:00)
[土・日]16:00〜24:00

ランチ営業、夜10時以降入店可、夜12時以降入店可、
不定休 日曜営業
http://r.tabelog.com/tokyo/A1304/A130404/13126529/


ハルコロは、日本の東京都内に2011年5月に開店したアイヌ料理および北海道料理の店。 2009年11月に閉店したアイヌ料理の店『レラ・チセ』の共同経営者の女性の一人とレラ・チセでも働いていた娘が、閉店した焼き鳥屋の後を借り受け、2011年5月22日に開業する。

メニューに、鹿肉料理が含まれ、アイヌ料理もいくつかある。居酒屋もかねている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%AD


新宿「ハルコロ」 母の志継ぎ、店きりもり
2011.10.01 朝日新聞朝刊

この夏、東京・新宿でアイヌ民族の女性が亡くなった。宇佐タミエさん。69歳。北海道外で唯一とされるアイヌ料理店を三女の照代さん(39)と再開させた矢先だった。「民族の文化と誇りを守りたい」。料理を通して伝えてきた母の志は、娘が受け継ぐ。

JR大久保駅近くの新宿区百人町の一角。約8坪の店のメニューには、ジャガイモやカボチャの団子「シト」や「鹿天」などアイヌ伝統の料理や創作料理が並ぶ。カウンターのすみに、孫に囲まれてほほえむタミエさんの写真があった。

 北海道釧路市で生まれ育ったタミエさんは40歳のころ、離婚を機に一男四女の子供をつれて上京。ビルの清掃や店員など、時には三つの仕事を掛け持ちして育て上げた。首都圏のアイヌ民族の団体「レラ(風)の会」に子どもをつれて参加し、歌や踊りを学ぶうち活動にものめり込んだ。

 1994年、同会がアイヌ料理店「レラ・チセ」(風の家)を早稲田に開いた。タミエさんは仕込みを受け持ち、照代さんも店に立った。アイヌの味を伝え、広げる。「アイヌであることに誇りを持っている」と語っていた。

 だが、店はその後、中野に移転し、2009年には経営難で閉店した。沈み込むタミエさんを見て、照代さんは「母の生きがいを取り戻し、みんなが集う場をもう一度つくろう」と決意。閉店した焼き鳥屋の後を借り受けた。店名の「ハルコロ」はアイヌ語でハル(食べ物)コロ(持つ)という意味。「食べ物に困らないように」という願いを込めた。

 開店前日の今年5月21日。タミエさんは店で5人の子どもと9人の孫、1人のひ孫に囲まれた。アイヌ語で「サザエさん」を輪唱する孫たちに、タミエさんは目を細めた。サケを具にした「オハウ」(汁)などで腕もふるった。

 しかしタミエさんは6月30日夕、突然、脳出血で倒れ、息を引き取った。照代さんは「母の分も長く、店を続けたい。やがてはアイヌ語やムックリ(口琴)などを学ぶ場にもしていきたい」と話している。

 ハルコロについて北海道アイヌ協会は、道外で唯一のアイヌ料理店ではないかという。
http://blogs.yahoo.co.jp/nagisa_aoi21/60786274.html


やはり「レラ・チセ」の後継店だった「ハルコロ」 2012-04-15

 夏頃にマイミクさんから教わったのか、大久保駅南口に鹿肉などが食える「北海道料理の店」があるとのことで、
大久保「ハルコロ」
(http://r.tabelog.com/tokyo/A1304/A130404/13126529/)
へ。


 まずは鹿煮込みと鹿肉の餃子。

 それから、から揚げのような「鹿天」。

 鹿肉のジンギスカン風。

あと鹿から離れて秋鮭のルイベ。

次の水タコ刺ともども、冷凍だけど口の中で解かすと地味が美味しい。

最後は「オハワ」というアイヌ風野菜汁。


 店内にはアイヌの人達が常連客として集っているし、昔早稲田に開業していた「レラ・チセ」について書かれた本もあるので、退店後に調べてみたら案の定、この店はかつて「北海道以外では日本唯一のアイヌ料理店」として斯界に著名だった「レラ・チセ」の後継店でした。資料

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%BB

によると、「レラ・チセ」は、1994年に西早稲田で開業、2000年に早稲田界隈では惜しまれつつ中野区新井に移転するまで、「早稲田グルメ」の有名店として早大学内雑誌や学生媒体にも数多く掲載。移転直前の頃にσ(^^)も食べには行きましたが、すぐ足が不自由になり正座が困難になったσ(^^)にとって、土間の店は狭苦しくて快適な食事場所とは言えず、常連の座に就くほど通うには至りませんでした。
 リーマンショックなどの不況による赤字のため2009年11月閉店、しかし昨年5月、「レラ・チセ」の共同経営者が大久保に現在の「ハルコロ」を開店するも6月に急逝。現在店は「レラ・チセ」時代から店に出ていた娘が後を継いで切り盛りしているとのこと

 「レラ・チセ」時代には熊肉も入荷があればメニューに乗っていたが、今夜直接聞いた所では現在は扱っておらず、また客単価もよくある通り「食べログ」平均予算より高く5000円越えでしたが、内容を考慮すればコスパは許容範囲だと思いました。人数が集まれば鍋なども受注してくれるでしょう。職場から近い?ので思いつきで再訪も可能性高そうです。
http://ameblo.jp/armarius/entry-11223435985.html


▲△▽▼

日本人の様な農耕民よりインディアンやアイヌの様な狩猟採集民の方が味覚が発達しているんですね。

因みに、アングロサクソンは氷河時代に氷河に閉じ込められて腐った肉ばかり食べていたから味覚ゼロです。

世界の料理ではアイヌ料理が飛びぬけた No.1だというので間違いありません:


なぜ日本食は世界で人気があるのか _ ネイティブアメリカン料理
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/487.html

アメリカ人には食べ物の味がわからない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/765.html

イギリス人は美味しい材料でわざと不味く作る
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/768.html

フランス人はバゲット(フランスパン)が一番好き
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/766.html

ドイツ人はお腹がいっぱいになれば食べる物は何でもいい
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/767.html

4000年の歴史を誇る 本場中華料理は不味くてとても食えない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/864.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/182.html

[近代史3] シベリアの狩猟文化 _ 黒澤明 「デルス・ウザーラ」 から見た”精霊信仰”

シベリアの狩猟文化 _ 黒澤明 「デルス・ウザーラ」 から見た”精霊信仰”


デルス・ウザーラ 1975年 日本ヘラルド映画

動画
https://www.youtube.com/watch?v=Va2-eEm0qEI
http://yume551.com/foreignfilm/52421.html


監督 黒澤明

脚本 黒澤明, ユーリー・ナギービン, 井手雅人

原作 ウラジミール・アルセーニェフ

音楽 イサーク・シュワルツ

撮影 中井朝一, ユーリー・ガントマン, フョードル・ドブロヌラーボフ


キャスト

アルセーニエフ - ユーリー・ソローミン
デルス・ウザーラ - マクシム・ムンズク
スベトラーナ・ダニエルチェンコ
オレンチエフ- アレクサンドル・ピャトコフ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%A9

デルスウザーラ:人と自然との共存
http://shindenforest.blog.jp/archives/69104203.html


デルス・ウザーラ

シベリアの大自然の中で自由に生きた後で文明によって殺された実在の人物です。

シベリアの厳しい大自然の中で自然に敬意を表しながら自然と調和して生きてきた一人の男デルス・ウザーラの半生を黒澤明監督はソ連・日本の合作として映画化しました。

黒澤監督は、この話の企画を30年間ずっと温めてきて自殺未遂の後でようやく実現した渾身の作品です。


自然とは何か、人と自然の関係とは、文明とは何か、
心に響く実話に基づいた話です。


こちらの写真は実際の原作者であるアルセーニエフとデルス。
http://livedoor.blogimg.jp/shindenforest/imgs/8/1/810494e5.jpg


ストーリーは次の通りです


ロシアの地質学者(原作者)のアルセーニエフは、当時ソビエト連邦にとって地図上の空白地帯だったシホテ・アリン地方の地図製作の依頼を政府から受けました。
彼は、コザック兵たちで編制された探検隊を率いてその地に赴きます。


アルセーニエフ隊が、夜営をしている所に一人の猟師がやってきました。

彼の名は、デルス・ウザーラ。

シホテ・アリン地方のゴリド族出身で、デルスは、妻や息子たちを天然痘で亡くしてから、天涯孤独の身となり文明からは一歩離れてシベリアの自然の中で暮らしていました。


文明の利器は、唯一父から譲り受けた古い銃でした。


デルスは、この探検隊との出会いによってアルセーニエフのガイドとして同行することになります。


デルスは、

太陽を一番の人として、
すべての存在、火も水も、シベリアトラも鳥もすべて人として対等にそして敬意を払い、接していました。


動物の足跡からその状態もわかり、風や湿度の様子で気象も予測できます。


自然と一体化して暮らすデルスのおかげで
探検隊は、自然の猛威から何度も助けてもらいます。

猛吹雪に襲われた時にも、
的確なデニスの行動によって
アルセーニエフは命を助けてもらいます。

またデルスは自分たちが作った小屋を立ち去るときに次に来るであろう見知らぬ人のために薪やマッチなどを置いて残してあげていました。

自然の中で生き抜くためにはどんな存在に対しても優しく接する習慣がついていました。

自然とあらゆる存在に敬意を持ち、シベリアの大自然を熟知し、自然と調和をとりながら
その中で力強く生きているデルスはアルセーニエフの心に響く存在となり、やがて無二の親友となっていきます。

そして

無事にシベリアの厳しい冬を乗り越えて、アルセーニエフたち探検隊は任務を果たし、
ウラジオストクの街へ帰ります。

この時にアルセーニエフは、デルスも一緒に都会へ来て楽に暮らすことを提案します。

でも、デルスは自然と共にいることを選びます。


アルセーニエフは、デルスとの再会を約束して別れます。


そして、五年後アルセーニエフは再びシホテ・アリン地方へと任務でやってきます。

そこでアルセーニエフはデニスと再会することになりますが すべての状況は大きく変わっていました。

アルセーニエフは、再びデルスと行動を共にします。

悪質な中国人猟師たちによる落とし穴の罠や山賊の襲撃など、自然に敬意を払うことのないお金儲け目的の人種がこの地に入り込んでいました。

さまざまな困難に陥りながらも、今回もデルスの活躍により探検隊は無事に任務を果たしていきます。


でも、デルスは年老いていました。
野生の勘も判断力にも衰えが見え始め視力も落ちていました。


ある日、探検隊は、野性のトラと遭遇します。
デルスは、そこでついトラを撃ってしまいます。

森の神の化身としてのトラを不用意に撃つことなど、いままでのデルスでは考えられない行動でした。


デルスは、

「トラを殺したことによって森の精霊たちが怒る。」

と大いに軽はずみな行動に出てしまったことを後悔します。

さらに、完璧なほどの銃の腕前を誇っていたデルスも歳と共に急速に視力が低下した影響で、狙った所に正確に撃つことが出来なくなり猟師としての自信までも完全に失ってしまいます。

何もかもうまくいかない自分に腹を立てどんなことにも怒りっぽくなってしまいます。


もう猟師としてシベリアで生きることはできないのかもしれない。
失意のどん底にいたデルスはアルセーニエフの申し出によって、都会ハバロフスクの彼の家で一緒に暮らすことにしました。


デルスは、慣れない都会でアルセーニエフの優しい妻とデルスのことが大好きな息子とともに暮らし始めます。

厳しい自然界とは違い、飢えや寒さもない都会での生活。


でも、デルスは銃を撃つこともできず自然と対話することも無くなり外で寝ることもできない。


薪や水までお金を出して買わなければならない生活がすべてを自然の恵みから授かってきたデルスには理解できません。

暖炉の薪を調達しようとデルスは公園の木を伐り警察に逮捕されてしまいます。

デルスには何もかも不自然な規則で制約された都会の暮らしには限界が来ていました。


アルセーニエフも、デルスをこれ以上都会に留めることはよくないことを理解します。


せめてデルスが森へ戻っても不自由の無いようにと
旅立ちの日に衰えた視力でも猟ができるようにアルセーニエフは、最新式の銃をデルスにプレゼントします。

その後すぐにアルセーニエフに連絡が入ります。


「あなたの名詞を持つ男が死体で発見されました」という内容でした。

街を出ようとしたデルスは、贈られた最新式の銃を持っていたために
強盗に遭い、銃を奪われ、殺されてしまったのです。


文明によって助けてあげたはずの銃がきっかけでデルスは殺されてしまいました。

自然界ではどんな時にでも無駄に生き物を殺すことはなかったデルス。

自然界の摂理から離れてしまった都会の怖さを理解していませんでした。


アルセーニエフは文明的な生活が便利で自然界へ帰るデルスにも文明の利器を持たせた結果が裏目に出てしまいました。


そしてデニスが埋められた墓の場所は後日木をすべて伐採され開発されて墓がどこだったのかさえわからなくなってしまいます・・・

黒沢明監督は、デルスについて次のように語っています。

「デルスのように自然の中でたったひとり暮らしている人間、
自然をとても大事にし、尊敬し、怖れも持つ。
その態度こそ、いま世界の人々がいちばん学ばなければならないところです。」


現在でもデルスの生まれ故郷の人たちは自然を尊びシャーマニズムを信仰し
特に火と水には畏敬の念を持つ民族として知られています。

自然界の火水(かみ)。

デルスの生き方は
自然を尊いものとしすべての生き物、すべての存在に敬意を払い
必要最低限生きていくのに必要なものだけを自然から利用させてもらう。

http://livedoor.blogimg.jp/shindenforest/imgs/9/e/9eafb2c2.jpg


まるで昔の日本人
昔の世界各地の先住民のような生き方です。

多くの人が神性さを見失っているのは、本物の自然界との正しい関係を自ら断ち切ったことが大きな原因です。

太陽の暖かさと心の温かさ、大空に広がる空気と肺の空気、母なる海の水と身体の水分、
河の水流と血液の流れ、身体を構成する素材と大地も、全く同じものであることを理解していない人がほとんどなのです。

英語では、自然のNatureも自分の中にある本性のNatureも同じ単語で表されます。

これは本来一致していなければならないものだからです。
http://shindenforest.blog.jp/archives/69104203.html


デルスウ・ウザーラ―沿海州探検行 (東洋文庫 (55)) – 1965/11/1
アルセーニエフ (著), 長谷川 四郎 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%A6-%E3%82%A6%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%A9-%E6%B2%BF%E6%B5%B7%E5%B7%9E%E6%8E%A2%E6%A4%9C%E8%A1%8C-%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E6%96%87%E5%BA%AB-55-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%95/dp/4582800556/ref=pd_sim_74_1?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=MPMGEBM0R8EVN8X4EHZX

長い旅、冒険です 投稿者Cafe Red Sky2007年4月8日

1906年4月、ロシアの若き兵隊長(著者のアルセーニエフ)が、ウラジオストックを出発し、日本海に面する沿海州(ウスリー地方)の調査・探検にでた。

仲間は、9名の兵士、植物学者、学生である。

さらに、デルスウという特別な仲間がいる。彼は、狩猟を行いタイがの中で一人で生きてきた自然人である。

日本海を経由して、沿岸、山岳地帯、タイガを越え、何度かの危険にあい、探検は続く。旅の終わりは、翌年の1月である。鉄道に乗って、ハバロフスクに帰宅する。

自然の様子、現地の人との遭遇が、客観的に具体的に描写されている。内容が濃く、読み応えのある自然地理学・紀行文学です。

次のような目次を見返すだけで、探検の様子が伝わってきます。

「出発、ジギト湾のほとり、行進開始、山地にて、洪水、、、、トラの襲撃、旅の終わり、、」


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最高!ナチュラリスト必読。 投稿者garbanzo2004年12月7日

時は20世紀はじめ、ロシアでは近代化に押され、旧体制が崩壊せんとする時期だ。
著者アルセニーエフは軍務を帯びて沿海州に調査旅行に出かける。
その折に案内役を勤めたのが標題のデルスウ・ウザーラ氏である。

デルスウ氏は、沿海州を広く旅した経験をもち、また自然の中で生きる術を身に付けている。
足跡や焚き火の跡からまるで目で見たかのように状況を再現する能力や、観天望気の才、動物の様子から先の季節を予想することもできる。

これらはアボリジニやアメリカ原住民のような「霊的」な人種にしかできないことのようについ思ってしまうが、自然の中にひとが点在していた時代には、当然皆が持っていた力だったのだろう。

著者の自然科学に対する造詣も浅いものではないが、デルスウ氏にはかなわない。

景色が浮かぶような描写は訳者の腕に負う部分も多そう。
植物の記述など詳細にもズレがない。
これほどの本が一般に流布していないのが、不思議。←私が知らなかっただけ?
ナチュラリスト、山好き、冒険好きの方には特におすすめ。

ウラディミール・アルセーニエフ(露: Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев, 1872年8月29日 - 1930年9月4日)はロシア極東地域の探検家である。

1910から1918年までハバロフスク博物館長をつとめる。
また、シベリア植物の数多くの種を書き記した最初の人物であると言われている。

アルセーニエフの著書「デルス・ウザラ(英語版)」(ロシア語: Дерсу Узала)に感銘を受けたゴーリキーは、アルセーニエフに手紙を書きロシア国立出版所から出版することを勧める。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%95


2007.02.19 死後80年たって、明らかになった、デルス・ウザーラの作者、アルセーニエフの遺書


世界的に有名な 『デルス・ウザーラ』 のを執筆したロシア人研究家、 ウラジーミル・アルセーニエフ氏の遺書が、 このたび、明らかになり、 話題を呼んでいます。

アルセーニエフ氏は、 地理学、 民俗学の研究者であり、 旅行家で極東ロシアの探検を行った人物としてよく知られています。

そのアルセーニエフ氏が、 自分の死後、 森のなかに埋葬されることを望んでいた記述が見つかりました。 それも、本人の死後80年もたった、 今見つかったのです。

この遺書は、 モスクワの古本屋に流れ込んだ、 本人の蔵書にはさまれていたところを偶然に見つかったのだそうです。 亡くなる前、アルセーニエフ氏がつけていたメモは数奇な運命をたどりました。アルセーニエフ氏がなくなったあとの1930年、書付は影も形もなく消えてしまったのです。そして、つい最近、時の流れに色あせたその書付は、ロシア極東国立太平洋大学の学長の手に渡りました。細かい字がびっしりと並んだその書付を読んだゲンナージイ・トゥルモフ学長は、古い本の間にはさまれた、この書付をみたとき、わが眼が信じられなかったとして、次のように述べています。

「見つかった手紙は、にせものである可能性もありました。筆跡を鑑定する専門家にかけようとおもったくらいです。ところが、筆跡をみた鑑定士たちは、これはホンモノにまちがいようがないと断言しました。遺言をしるしたその手紙には、

『私を葬る際は、墓地ではなく、森の中に埋めてくれるよう、心のそこからお願いします』

と書かれていたのです」

アルセーニエフは、つぎのような文句を墓標に刻むようにと、その文面に記してもいました。

「私は、私よりも前に、この沿海地方を探検した人たちの足跡をおって旅をした。
この人々は、もうずいぶん前に死に出(しにで)の旅に向かって去っていった。

今度は私の番だ。旅人よ、足を止め、ここに腰かけ、休むといい。私を恐れることはない。
私もおまえとおなじように、疲れたものだ。
いま、わたしには、とわの、そして、まったくの安寧が訪れている。
ウラジーミル・アルセーニエフ」

こんなふうにアルセーニエフは自分の墓標に刻む文面まで、考えていたのです。

遺言は発見されてから、ウラジオストックのロシア極東国立太平洋大学にある博物館へと送られました。ここは、アルセーニエフがかつて勤務していたところです。

アルセーニエフがタイガに葬られることを望んでいたということは、何も驚くことではありません。アルセーニエフは、生前にすでに、「極東のコロンブス」という異名で呼び習わされていたくらいで、探検家としてのそのあくなき探究心、そして、手つかずのロシアの新たな土地をさらに深く分け入りたいという好奇心が、人々の驚嘆をかっていたのでした。

歩兵士官学校を卒業し、帝国軍の将校となったアルセーニエフは、こどものことから旅に憧れをいだいていました。

1900年代のはじめ、アルセーニエフは、南沿海地方の地形、地質、軍事上、統計上の研究を行うため、数度の探検旅行を行います。

アルセーニエフの行ったこうした大掛かりな探検は、ぜんぶで12回以上に及びました。
このおかげで、サヒテ=アニーニャ山脈から、ウスリー地方、カムチャッカ、コマンドル諸島、そしてハバーロフスクまでの、ロシア極東の、ほぼすべての土地の調査が完成されたのです。

アルセーニエフは、130以上にもおよび学術的、文学的エッセーを残しています。

そうしたエッセーには、ロシアの東の果てに住む少数民族たちの、生活習慣、手工芸、民間信仰について書かれており、大いに興味をそそられます。

そのなかでも、『デルス・ウザーラ』は、こうした少数民族が命や自然に対し、どんな特異な接し方をしているかを描き出し、多くの読者に独自の世界を開きました。

この『デルス・ウザーラ』はのちに1975年、黒澤明監督によって映画化され、日本だけでなく、世界の名作映画のひとつと称され、多くの感動を呼んでいます。

さて、アエルセーエフの遺書は、彼の死後あきらかにされなかったので、ウラジオストックの普通の墓地に葬られました。本人の意思にそって、埋葬をしなおすかどうか、この問題はまだ決着がついていません。アルセーニエフが葬られた古い墓地に、木々がおいしげり、ほぼ森に近い状態になっていることから、近い親戚筋や彼の伝記を書いた作家たちは、くちぐちに、「故人の意思を自然がくみとったのではないか」と話しているそうです。
https://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2007/02/19/417844/


【デルス・ウザーラ】 - 『アイヌへの文化の伝播』2014/09/07

 先日、礼文島でオホーツク文化に触れ、昔観た映画のことをを思い出した。
その映画の題名は『デルス・ウザーラ』といった。
黒沢明が監督をした日ソ合作映画だった。

1975年公開、自分が二十歳代前半であった。
同年のアカデミー賞 外国語映画賞を受賞している。

この映画はウラディミール・アルセーニエフという実在の人物が著した同名の探検記録に基づいている。

アルセーニエは旧ソ連の軍人で、ロシア極東地方の調査、地図作成にたずさわった。
旧ソ連の間宮林蔵のような人である。

そこで案内役を引き受けたのが、先住民のゴリド人(現ナナイ人)である『デルス・ウザーラ』であった。

デルスは家族を失い、一人森林で漁師として生きていた。
デルスはその調査隊の案内で超人的な洞察力を発揮する。

微かに残された動物や人の足跡から、また小鳥のなき声などから様々な情報を読み取る。
また動物のような鋭敏な臭覚をもっている。

まるで大自然界でのシャロックホームズのようで、わくわくドキドキされられた。
また、大自然の中で培われた、昔からの風習を引き継いでいた。

その中の一節。

 【デルスが焚火の傍らに座って歌っている。

彼の姿の半分は焚火であかあかと照らされ、もう半分は、青い月の光に照らされて、まるで、赤いのと青いのと、二人の人間が座っているように見える。

アルセーニエフ、来て、その姿を見て立ち停まる。

デルスは傍らに斧と銃を置き、焚火の前に座って、手にしたナイフで木の小枝を胸で支えて、それをナイフで削りながら、静かに歌っている。
その歌は、単調で、憂鬱で、もの悲しい。

彼は、木を削りとるのではなく、削りかけては木に残しておくので、それは一ツ一ツまくれて、ちょうどサルタンの王冠のような形になる。

それを彼は右手に持ち、歌をやめて空間の何物かに、何か質問して、耳を傾けている。
緊張して耳を傾けているが、河の音意外には何も聞こえない。

すると彼は、右手に持った棒を火の中に投げ、小さな空缶をとり出し、瓶からウオトカを注ぎ、それに人さし指をひたして、四方の土にはじき飛ばす。

それから、タバコの葉やほした魚や肉、青い布、新しい中国の履物やマッチの箱などを火に投げ入れた。

そして、ふたたび何かを叫び、そして耳をすます。
どこかずうっと遠くで、夜の鳥の鳴く声が聞こえる。

アルセーニエフ、それを見て近づく。
その足音に、デスルは頭を上げて見る。
その眼は深い悲しみをたたえている。

アルセーニエフ、そのデルスと向かい合って座る。
沈黙・・・・。

デルス、話はじめる。

『カピタン!あすこ、わしの女房、子供、死んでる』

デルスは森を指さす。
そして、火を見つめて、ぽつんと言う。

『・・・・・天然痘・・・・・』

デルスは深く頭を垂れる。

『村の人、天然痘、怖い。女房、子供、小屋一緒に燃やした!』

アルセーニエフ、慄然として、慰める言葉もなく、ただデルスを見つめる。


デルス
『わし、昨夜、悪い、夢、見た。
こわれた、小屋、その中に、女房、子供、。
みんな、凍え、食べ物、ない。
だから、わし、ここ、来た。
みんな、やった』

月の光だけが、アニセーニエフとデルスを青く照らす・・・・・・・。】


 悲しい場面である。

ここで自分が注目したのが、デルスの祈りの所作である。

なんとアイヌの祈りの儀式である『カムイノミ』と似ていることであろうか!

デルスがナイフで造る、削り屑を付けたままの小枝。
これはアイヌの『イナウ』そっくりである。

そして、ウオトカを四方にはじき飛ばす所作。

アイヌはこれを木製のヘラである『イクパスイ』でおこなう。
歌うように祝詞を唱えながら。

ナナイ人であるデルスはハツングース系である。

アイヌがツングース系の民族から大きな文化的影響を受けたことは、ここからも分かる。
またナナイ人は魚肉を日本人と同じように生で食べる習慣をもつ、数少ない民族でもある。


 さらにこれは映画の場面にはないが、原作にはスキーの場面もえがかれている。

アルセーニエフはツングース系のウデヘ人とビキン川の近でイノシシ狩をする。
ビキン川はウスリー川へ注ぎ、そのウスリー川はアムール川につながりオホーツク海へ流れ込む。

その際、ウデヘ人はスキーを使用したという。
他の文献によると、スキーの滑走面には鹿の皮がはられるようだ。

スキーでイノシシを負い回し、疲れて動きが鈍くなったところを槍で仕留めるのだ、
1907年のことのようだ。

以前、大阪外国語大学教授だった松下唯夫という方の、トゥバ族の滑走面に動物の皮をはったスキーについての調査を御案内したことがあった。

トゥバ族はテュルク系ではあるが、スキーにおけるつながりに興味がわく。
かつてバイカル湖周辺からシベリア極東まで数千Kmにわたる、広大な文化圏が存在したのだろうか?

そして、それはアイヌへつながるのか?


 礼文島で偶然見た、マッコウクジラの歯で造られた一個の小さな女性像が、40年前に観た映画に自分をいざなってくれた。
http://midomidotacnet.blog.fc2.com/blog-entry-117.html



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映画「デルス・ウザーラ」から見た”精霊信仰”

先週の実現塾で1974年に上映された黒澤映画「デルス・ウザーラ」を観た。目的はこの間、実現塾でもポイントになっている観念原回路に相当する精霊の存在を少しでも捉えたいという目的。上映は2時間。デルスの捉えた精霊を捉えられただろうか?何とか記事にしたいと思い、今日はデルスの捉えた精霊を書いておきたい。

映画の中でデルスはシカや鳥や動物たちを「人」と呼ぶ。また、火や水や山も「人」と呼ぶ。あの人いい人、あの人怒っている。あの人喜んでいる。火が静かに燃える状態を見て心地よく火の傍に居る。デルスにとっては全ての自然界にあるものは「人」であるわけだ。

対象に同化する時に「人」と相手を捉える。つまり人に語りかけるように動物や火や水に語りかける。語りかけ、相手からのメッセージを看守する。言葉にならない相手の思い、状態を捉える。それが精霊信仰の交信の一つである。

ここから共認の事を考えてみたい。共認を最初に作り出したサルは同類であるサルを相手に共認を試み、相手の表情、動作から察知し、「相手も同じなんだと」共感する事で安心し、共認形成した。

人類もサルから深化したわけで最初は同じように共認で外圧に対抗した。ただ、地上に降りた人類は極限的に厳しい外圧環境に遭遇し、共認機能だけで突破する事ができず、生存を脅かす全ての対象(自然界)に対してサル時代から唯一獲得してきた機能=「共認機能」を使って対象にひたすら同化しようとした。

つまり人類の共認機能とはそのほとんどが、人だけでなく人以外のものに向けられたのだ。それが自然現象への同化であり、水や火や土、雨や嵐、石ころまで同化対象になった。万物に同化の眼差しを向け、その摂理をひたすら読み解いた先に見えたのが精霊であり、それを生きるエネルギーに昇華させたのが精霊信仰であった。

この映画ではデルスが精霊の使いである「トラ」を射撃で殺した事で、デルスの生きる意欲がどんどん衰弱する。狩猟の腕が落ち、山で生きて行く事ができなくなり都会に移り住むが、結局都会でも馴染めず山に戻り、命を落とす。トラを撃ったことが、自らの生命を取り上げた事に繋がる思想。それこそが精霊信仰の正体だと思う。

自然とはデルスにとって究極の対象であり、生かされている存在。その中で自らの生きていく意欲も主体性も生まれていた。トラを撃つことはその生かされている自然に背いた事になり、自然界からしっぺ返しを受ける、最早生きてはいけないとなっていく。自ら生きようとしても既に生きる気力がなくなりやがて肉体能力を殺ぎ取り奪っていく。


精霊信仰とはこうも言い換えることができる。

つまり、生きる意欲を生み出す源泉であり、主体性を作り出す動力である。究極の生命力である自然界に同化しているのだから、その同化対象から多くの強さ=エネルギーを得ている。その強さの象徴がトラであり、アイヌであれば熊なのだ。

現代に引きつけて、我々の主体性を作り出しているものは何だろう?

現代の精霊とは何なんだろう?その疑問は当然起きたが、このデルスの不屈の精神、生命力と肩を並べるような存在は現代人にはたぶんない。

しかし、現代の精霊をとてつもなく大きな存在、捉えなければいけない

大きな対象と考えれば、「人々の意識」「社会の意識」「自然の摂理」等が浮かび上がってくる。我々のやる気を生み出している「人々の役に立ちたい・・・」「だから新しい活力を創出する事実の発掘」⇒「新理論の追求」そこに現代の精霊は存在するのではないか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=327736


【言語の進化】3.人類最初の観念は「精霊」。「精霊」こそ、観念の原点である。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=314762 

      歩行訓練→踊り→性充足(闘争から解脱充足へ後退)
      ↑     ↓  ↓  祈 り→感謝
      ↑     ↓  ↓  ↑ ↓ ↑
  どうする? → トランス状態で追求→精 霊→何?→何で?


恒常的に生存の危機に晒されていた人類は、唯一の武器である共認機能に先端収束して、不整合な自然世界に問いかけ続け(=対象を凝視し続け)、その果てに遂に自然の背後に「精霊」を見た。人類が万物の背後に見たこの「精霊」こそ、人類最初の観念である。

しかし、観念そのものは、単なる記号にすぎず、それ自体は意味を持っていない。観念≒言葉の意味は、もっぱら言葉を発する前の追求回路=観念原回路の中にある。

換言すれば、観念回路そのものはデジタル回路にすぎない。それは、本能や共認機能を動員して形成されたアナログな追求回路(=観念原回路)に直結して、はじめて意味を持つ。重要なのは、言葉ではなく、言葉以前の伝えたい内容=何らかの意識なのである。

従って、受験勉強のように、「どうする?」発の根源的な追求回路を駆動させることなく、観念回路だけを作動させても、単なる知識としての観念が蓄積され、暗記脳が形成されてゆくだけで、そんな観念は使いこなすことが出来ないし、現実には何の役にも立たない。

なお、万物の背後に「精霊」を見るのも「物理法則」を見るのも、共に五感を超えた認識機能=観念機能の産物であり、五感対象の背後に措定した観念であるという意味では基本的に同じ認識である。

人類が最初に見た「精霊」は、おそらく生命力の塊のようなものだったろう。

しかし、それが言葉として発せられた時、おそらくその言葉は「ぴかぴか」とか「くるくる」というような擬態語だっただろう。そして、その擬態語には、生命の躍動感が込められていたに違いない。

人類の最初の言葉が擬態語や擬音語であったことは、乳児が発する言葉からも、又(最後まで侵略による破壊を免れた)縄文語→日本語に残る擬態語・擬音語の多さからも伺うことができる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=314762



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中部シホテ-アリン 地図
http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/map/russia/World_Heritage/Central_Sikhote_Alin.htm


中部シホテ-アリン(Central Sikhote-Alin)は、ロシアの極東連邦管区沿海地方のウラジオストクの北東のシホテアリニ山脈にある世界遺産(自然遺産)です。

シホテアリニ山脈は、ロシア極東の沿海地方からハバロフスク地方に位置し、ウラジオストクの北東から日本海沿いに900キロメートルにかけて伸びる山脈です。

タイガと亜熱帯の動植物の種族が交じり合った異色の温帯林が手付かずのまま残され、アムールトラやアムールヒョウなど絶命津の危機に瀕した貴重な動物も生息しています。


シホテアリン自然保護区

シホテアリン自然保護区の名前は知らなくても、黒澤明監督が映画化したロシア文豪アルセーニエフの探検小説「デルス・ウザーラ」ならご存じの方も多いのではないでしょうか?

この小説の舞台となったのが、ロシア連邦東部、沿海地方に広がるシホテアリン自然保護区です。
http://www.shiretoko.or.jp/project/shihotearin.html

極東ロシアのトラ生息地に新たな国立公園が誕生!
http://www.wwf.or.jp/activities/2015/12/1295904.html


ビキン川流域と新しい国立公園 地図
https://www.wwf.or.jp/activities/assets_c/2015/12/20151204ac14-20613.html


2015年11月3日、極東ロシアのビキン川流域の116万ヘクタールにのぼる森林が「ビキン国立公園」として指定されました。

針葉樹と広葉樹が混じるこの豊かな森は、シベリアトラの全個体数の1割が生息する場所であると同時に、先住民の人々の重要な生活な場でもあります。今回の国立公園の制定では、その豊かな自然が守られるだけでなく、ロシアで初めて国立公園における先住民の人々の権利も明確に保障されました。

ビキン川流域に広がる「ロシアのアマゾン」

極東ロシアには、針葉樹と広葉樹が混じる豊かな森が広がっており、そこにはシベリアトラ(アムールトラ)やアムールヒョウを頂点とする多様な野生生物が生息しています。

そんな極東ロシアの森の中でも、「ロシアのアマゾン」と称されるほど広大な原生林が残っているのがビキン川流域です。

ビキン川流域の森林は、シホテアリン山脈の西側に広がっており、これまでに商業伐採の手が入ったことがないため、今でも極東ロシアのタイガ(北方林)の森が残っています。

そして、この広大な森は、シベリアトラの個体数の1割にあたる50頭前後が生息する場所であると同時に、この地の先住民であるウデヘとナナイの人々の生活の場でもあります。

WWFは10年以上にわたり、先住民の人々とともにビキン川流域の保全プロジェクトを実施し、独自の自然と伝統的な生活様式の保護に取り組んできました。

2010年には、ビキン川流域の森林生態系の高い価値が世界的に認められ、ユネスコの世界自然遺産候補にも挙げられています。

こうしたことから、2013年11月と2015年4月の2度にわたり、プーチン大統領はビキン川の中上流域を連邦政府の保護区とするよう大統領令を出しました。

ついに国立公園設立!

そして、2015年11月3日、ロシア連邦政府はビキン国立公園設立の法律に署名。

沿海地方ビキン川流域の116万ヘクタール(秋田県の面積とほぼ同じ)以上の森林が国立公園として保護されることになりました。

「ビキン川流域は、チョウセンゴヨウと広葉樹が混じる原生林とそこに生息するシベリアトラだけでなく、そこに住む先住民の人々も含めて、独自の生態系や文化を形成しています。

先住民の伝統と原生の自然が全体として、広大な1つの保全対象となっています」

ビキン国立公園の設立により、豊かな自然だけでなく、先住民であるウデヘとナナイの人々の生活の場も今後、守られていくことになります。

パベル・スリャンズィガ氏は、ビキン国立公園が設立されたことについて、次のように述べています。

「ビキン国立公園が設立されたことで、ビキン川流域の自然が保護されることになりました。これは、先住民の利益に大きく資するものです。

ビキン川とその流域に広がる森林は、ウデヘとナナイの人々が伝統的な生活をおくる母なる自然なのです。
http://www.wwf.or.jp/activities/2015/12/1295904.html



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ナナイ(ゴリド)
ナナイ(Nanai)は、ツングース系の民族。

ナナイはかつてはゴリドと呼ばれ、ロシア軍人、ウラディミール・アルセーニエフの『デルス・ウザラ』の主人公に描かれている。

(黒澤明が1975年に日ソ合作で監督した映画『デルス・ウザーラ』の原作である。)

分布は主にアムール川(黒竜江)流域で、ロシア国内に約1万人で、中国国内にも居住している。2004年人口調査時の中国国内人口は約4640人。中国国内のナナイはホジェン族(Hezhen;赫哲、拼音: Hèzhéホーチョ)と呼び、55の少数民族の一つとして認定されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%8A%E3%82%A4


ナナイ人

ナナイ人は古くからアムール川とその支流ウスリー川(烏蘇里江)や中国のスンガリー川(松花江)の合流する地域に住んでいます。

人口約1万2千人に及ぶ「ナナイ」という民族は伝統的には漁業を生業の基礎にしてきたツングース系の北方少数民族です。

ナナイ族は、川からとれる魚を食料にするばかりではなく、魚の皮は靴や衣服をつくるるために巧みに活用しています。

シャーマニズムを信仰するナナイ人は熊に対する信仰も重視し、とりわけ小熊を一定期間飼育し、その霊を山の神のもとに返す『熊送り儀礼』を年に一回行っています。

シャーマニズムやクマ送りの儀礼、口琴など、アイヌ文化との共通点が多いです。

ナナイ人に人種的に最も近い民族は、中国最東端の同江市、撫遠、饒河付近に暮らしている民族ホジェン族です。その人口は約4500人余りと中国の少数民族の中では際立って少ないです。
http://www.intour-khabarovsk.com/ja/toursja/tours_out_city/149-.html



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アムール流域の考古学
仙台での講演から     V.N. コピチコ(ハバロフスク教育大学)
http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/archeology.htm

 
 ハバロフスク地方は,82万5千km2の面積がある。このような広大な領域は,酷烈な北方性気候から,温和な南方性気候に至るまで,さまざまの異なった気候帯を擁しており,その多様性は,植物相や動物相にも反映している。ここでは,動物界の北方と南方の代表者,たとえばヘラジカ,アカシカ,トラ,クマ,ジャコウネコ,イノシシ,クロテン,テンを,ともに見ることができる。
 この地方の特殊な自然地理学的条件と,動物相の多様性は,先史・古代人類の生活の種々の面に本質的な影響を及ぼした。自然条件は,原始人類の新しい地域への進出経路と定着のテンポを規定した。環境の特殊性が,この地方の住民の生活や経済構造の形成に重要な役割を演じたのである。

 ロシア極東における最古の人類は,きわめて早く,大体シベリアと同じ時期に出現した。ハバロフスク地方の領域内でのもっとも早い人類の活動の足跡は,旧石器時代に遡る。ウリチ地区のボゴロツコエ村の近くのアムール河岸からは,最古の人類のハンドアックスが発掘されている。これは心臓型をした頑丈な道具で,周縁に両面加工により作られており,幅の広い下部は握りとなっている。こうした万能工具で,人々は叩き割ったり,切ったり,掘り返したりしていたのである。学者たちは,最初の人類がハバロフスク地方に現れたのは,15万年以上前のことと見ている。

 アムール河下流に左方から注ぐ支流であるアムグン河の流域の,ポリーナ=オシペンコという集落からほど近いところにある古代人の住居址は,後期旧石器時代のものである。ここには,約2万5千年前から1万5千年前にかけて,人が住んでいた。彼らは大きな河床礫で工具を作っていたが,それは一端だけを打ち欠いたもので,表面は未加工のままである。当時,人々はすでに火を獲得していた。この地方の古代の住民は狩猟・漁労に従事し,クルミ,イチゴ,キノコなどの食用植物を採集していた。人々はあまり大きくない集団をなして居住していた。

 早期新石器時代。この時期,人類はある程度の発展を遂げた。弓矢を発明し,犬を飼いならしたのである。石器製作技術伝統は,1万2千〜1万年前にハバロフスク地方に住んでいた人々の間でも保たれていた。こうした伝統は,ハバロフスク市一帯に分布する遺跡にもっとも明瞭に表れている。アムール河右岸の高い段丘で発見された古代人の住居址は,一時的なものであった。というのは,人々は動物の群の後を追って移動していたからである。

発掘の結果,河の石を積んで作った,著しく焦げたあとのある炉跡が,10基以上も見つかった。炉跡の周囲には石器を製作するときに出る屑が集中していた。ここで人びとが石器を作っていたのである。石器の大部分は,扁平な円礫の片面に幅広く大きな剥離を施したものである。これは石斧−スクレイパー状石器と名づけられているが,それは斧とスクレイパーの機能を果たしたからである。石斧を使って,古代人は森と水の恵みをきわめて幅広く利用し,雨や寒さを避ける住居を建て,各種の狩猟・漁労用の仕掛けを作っていた。こうした道具の助けを借りて作られた丸木舟も,漁労に使われていた。

 狩猟には,木葉形尖頭器が使われた。これは万能の道具で,戦闘用の短剣としても,狩猟用のナイフとしても用いられ,槍や投げ槍の先端に取り付けられることもあり,これによってより効率的に狩猟を行うことができるようになった。ガーシャ遺跡の発掘の際に,世界最古の土器の一つが発見されたが,これは12,930年前のものである。平底深鉢で器壁と底部の土器で,内面は条痕文が施されている。


ハバロフスク郊外のノヴォトロイツク発掘現場にて

ハバロフスク考古学博物館に展示されている石器

 
 ハバロフスク地方では,7千〜4千年前の新石器時代の住居址も発掘されている。これらの住居址は,旧石器時代のものよりもはるかに大きく,この地域の人口が増えたことを物語っている。

こうした遺跡は,アムール本流や他の河川・湖のそばに分布している。集落は多人数が集居するもので,竪穴式の大型住居からなっている。竪穴の長さは,さしわたし10〜15mにも達する。これほどの基礎を築くためには,多くの人力が必要である。新石器時代には,人々はこうした住居に定住していた。

定住生活を営むためには,アムールの人々は恒常的かつ豊富な食物供給源を必要とした。そうした供給源の一つとして,大河沿いおよび沿海に分布する集落にとって重要であったのは,漁労である。

特定の季節になると,シロザケ,カラフトマスなどの遡上性の海水魚が,産卵のために河を遡ってくるので,漁民はさほど時間を費やさずに,村の一冬分の食物を貯えることができた。新石器時代の集落で,考古学者たちは漁網用の錘を大量に発見している。漁網はイラクサで編まれたが,この伝統は,アムールでは20世紀に至るまで保たれていた。アムールの漁民は,世界にさきがけて,ルアー(魚を捕らえるための仕掛けの一種)の発明という重要な進歩をなしとげた。

漁労と並んで,この地方の新石器時代の住民にとって重要であった経済活動は,冬季における鳥獣の狩猟で,それは肉の他に,防寒衣を作るために必要なあらゆる原料をもたらした。

新石器時代には土器も発展を見せ,装飾が施されるようになった。新石器時代の人びとは,手の込んだ華麗な文様で土器を飾ったが,ほとんど同じような文様が,現在のアムール流域の少数民族の衣服や,木やシラカバの皮で作ったさまざまの装飾品にも認められる。

新石器時代の文様には顕著ないくつかの様式があり,それは多少の変化を伴いつつも,今日まで受け継がれている。

第一は縦方向のジグザグ文で,これは歯のついたこてのようなもので刻まれる。

第二は「アムール編目文」で,漁民にとっては自然なことであるが,明らかに網を模しており,ただ編目文は手の込んだ複雑な形になっている。

第三の,もっとも特徴的な文様は,渦巻き文である。
このはっきりした渦巻き文は,平行に走る何本かの縦方向のジグザグ文の地文の上につけられ,容器全体を覆っている。

 アムール流域の人々は,当時としてはかなり発展した共同体経済を営み,複雑な社会組織と,芸術を含む豊かな文化を有していた。

ハバロフスク地方における新石器時代の芸術の遺産としてあまりにも有名なのは,シカチ=アリャン村一帯に見られる岩絵である。シカチ=アリャンには合わせて150ほどの絵がある。

中でも多彩で独特なのは,人面画である。それらは仮面のように見え,一つ一つに特徴があり,きわめて表現力に富む。上部は幅広く,目は大きく,開いた口から二本の大きく鋭い歯が突き出しており,顎は狭くて丸い。こうした顔つきはサルを思わせる。卵形や楕円形の顔もあり,そのうちのあるものは,釣り上がった目と,はっきりと石を穿ってある円い瞳,そして太い不明瞭な鼻をもっている。

シカチ=アリャンの顔絵は,死んだ人々の顔,つまり祖先たちの霊を描いたものである。

こうした恐ろしげな人面画と並んで,玄武岩の大岩の上には,獣,鳥,ヘビなどの動物の絵も見ることができる。

人面画は,土器の赤い顔料が塗られ磨かれた内面にも見られる。彫刻としては,現在のアムールのナーナイ人の娘を思わせる顔つきをした,若い女性の小像が挙げられよう。

 初期鉄器時代。アムール流域における工具は,最初の一千年紀のはじめにあらたな時代を迎えた。

人々は河や湖のそばの小高い場所に住んでいた。

長期間存続した集落は,20〜40の住居が,明確な秩序をもたずに並んだものである。

住居は方形の竪穴で,その上に上屋構造が乗っていた。面積は50ないし200m2で,中央に炉があり,また床には多くの貯蔵穴が開けられていた。

金属器はこうした集落址からは稀にしか見つからない。それは青銅製の装飾品(多くは数珠),鉄製の刀子や斧,そして耕作用の土掘り具の先端部である。道具の大部分は相変わらず石器であった。この時代には,磨製の石鏃やナイフ,石斧も出現した。この時代の特徴的な石器は,礫で作られたもので,漁網の錘とか,穀粒を挽くための石皿,鍬などである。

 この文化に属する集落では,土器は普遍的に見られる。これらの土器はろくろを使わずに作られ,表面は赤い顔料が塗られ,磨かれている。内側には沈線文や押型文で文様が施されている。器種は形も大きさもさまざまで,用途によって,非常に小さな玩具から,大きなものとしては食品・穀物の保存用容器まである。

紀元前6世紀以降になると,アムールの人々の間に鉄器が普及した。
鉄からは工具と武器が作られた。

武器としては,鏃,鎧のさね札,短剣がある。また漁業用の鉤や,針,バックルも発見されている。青銅器としては,ボタンや各種の装飾品がある。

アムール流域の人々の生活に鉄が広汎に入り込んだとはいっても,石製の工具がすたれたわけではなく,集落址に引き続き見られる。それはたとえば,鍬・石皿・棒状の磨石・杵のような種々の農具である。斧,手斧,鏃は大部分が研磨されている。

古代人は骨も加工しており,骨製の弓の外板,鏃,鎧の札,針,玩具が見つかっている。

集落址からの発掘品の中には,大きな器具を模したミニアチュア土器もあり、それは子供の玩具である。ハバロフスクの周辺でも,子供の揺りかごや舟とか,さまざまの形のミニアチュア土器が見つかっている。


 土器は,形状の上でも,また文様に関しても多様である。
土器の外面は,貼りつけ文,沈線文,押型文の手法でつけられた文様で飾られている。
ときには外面に赤い顔料が施されていることもある。

注目に値するのは,アムールの早期鉄器時代の土器が,日本の弥生文化の土器と類似していることである。

学者たちは,大陸と日本列島の間に交流が存在したと見なしている。
経済も多角化し,牧畜・農耕・狩猟・漁労・採集が複合的に営まれるようになった。


 靺鞨。紀元後第一千年期の前半,ハバロフスク地方の境域に,靺鞨族が出現する。

このトゥングース系の人々は,アムールに現れると,先住のパレオアジア系の人々を追いやり,一部は吸収同化した。

靺鞨人は,生活の痕跡をこの地方に数多く残した。靺鞨人の築いた集落は,土塁と濠で固められている。住居は地表から半メートル近く掘り下げられていた。上屋構造の基礎となる柱は,住居の四隅に立てられ,中央にも何本かの柱があって,かまどの周囲を四角く取り巻いていた。

上屋構造はシラカバの皮で覆われ,さらに土がかぶせられていた。
住居の中央にある煙出しの穴が,入口を兼ねていた。

埋葬には長方形の土壙墓が用いられたが,この土壙墓は埋葬の前に焼かれた。
多くの場合,埋葬は複葬であった。墓には死者が生活に必要とするさまざまの品物が供えられ,またウマやブタの犠牲も捧げられた。


 7世紀,靺鞨族は統合され,渤海国を形成した。

ロシア極東において靺鞨文化の継承者となったのは,女真人である。
この時代の遺跡は,沿海地方とアムール流域に見られる。

ハバロフスク地方は,「服属していない」北方女真人の居住地域に含まれていた。彼らは,この時代の考古学的遺物を大量に残している。それは,たとえば巨大な土塁と濠で固められた城砦である。こうした城砦は,たやすく近づけない要害の地に築かれた。

城砦と並んで,女真人が同族を葬った墓地も見つかっている。葬法から見て,墓は三つのタイプに分けられる。

火葬,二次葬(まず死者をどこか別の場所に葬り,後に遺体を一族の墓地に移す),風葬である。

墓からは大量の品物が見つかるが,それは女真人にシャマニズムが存在したという見解を裏づけるものである。

つまりそれは,死者は別の世界で生きつづけ,この世界で必要とする品物はそこでも役立つという信仰の表れである。

女真人の文化は,ナナイ,ウリチ,ウデヘのようなアムール流域の諸民族の文化が発展する土台となった。


ブラゴベーシェンスク郊外コンスタンチーノフカ付近にあった女真人の城砦跡。
中央の盛り上がった部分が土塁で、外側に壕があったそうだ。
(Samovar記)

この城砦の正門付近で発見されたと説明を受けた大きな錠前(ブラゴ教育大秘蔵)。その後、この城砦は満州人も利用しており、錠前の年代特定に興味が注がれた。

 
 17世紀において,アムール流域と沿海地方の住民は,ダウル,ジュチェル,ナトク,アチャン,ゴリディク,ギリヤークの諸種族からなっていたが,現在の研究者は,これらをそれぞれエヴェンキ,ナナイ,ウリチ,オロチ,ネギダール,ウデヘ,ニヴフの前身と見なしている。

アムール上流域に住むダウルとジュチェルの主な生業は,農耕であった。
彼らはまた,ウマ・ウシの飼育や手工業も行っていた。

アムール中下流域,アムール河口一帯およびサハリンの住民にとっては,漁労が第一位を占め,陸上での狩猟と海獣狩猟がこれに組み合わされていた。

彼らの間では,鍛冶,造船,縄編み,獣皮・魚皮加工などの手工業技術がかなり高い水準に達していた。


 ロシア人は17世紀なかばにアムールに行き当たった。

最初にアムールを航行したのはヴァシーリー=ポヤルコフである。彼の率いる一隊は,1643年にヤクーツクから遠征を開始し,1644年にアムールに達して,河口まで下った。

ポヤルコフがヤクーツクに帰りついたのは1649年である。彼はアムール河畔にロシア人の最初の砦,アルバジンを築いた。ロシア人がアムールに出現したことで動揺した満洲人は,ロシア人を追い払おうという企図を実行に移し,二度にわたってアルバジンを包囲した。二度目の包囲の後,ロシア人は満洲人との間で最初の露中条約に調印する。

ロシアと中国の国境を確定する条約は,1858年と1860年に調印された。1858年にアイグン条約が結ばれると,同じ年に17世紀のロシアの探検家の名をとったハバロフスクの建設が始まったが,この都市は急速に発展して,ロシア極東の中心となったのである。
http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/archeology.htm



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アムール靺鞨文化の石像    D.P.ボロティン** Samovar・訳
http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/sekigan.htm


 同類のものが無く、それが製作された数も少なく、くわえて高い芸術性を有する考古学的対象物に取り組む事は大変大きな喜びである。数年前に、そんな貴重な遺物がブラゴベーシェンスク国立教育大学考古学研究室のコレクションに加わった。それは戦士の頭部の立体彫刻(石像)である。
 
 鉄器時代及び中世のアムール川流域の住民には、石を芸術的に加工する伝統は定着していなかった。

よく利用されたのは、金属(これからは多数の興味深い装飾品が考案された)、木、白樺の樹皮などであり、石とは別な材料であった。

石から造り出されたものは、小さな耳飾り、首飾り、作業用具だけであり、しかもこれらを造り出すためには、特別な熟練が必要とされた。

すなわちこの石像を作る事が出来たのは、このような伝統と石の特別な芸術的加工方法を知っていた職人だけである。そんな才能のある人が約一千年も前のアムール川中流域に住んでいたのである。

 大変残念なことであるが、石像は遺跡発掘の作業中に発見されたのではなく、アムール州コンスタンチーノフカ村の村はずれで、農民が土地を耕している最中に全く偶然に発見したものである。発見した農民はとても驚いたが、発見した後におよそ20 年ほど自宅に置いておいた。やがてこの石像の存在はアムール川流域の古代史の熱心な研究者、地元の郷土史家であるA.N.Korobko の知るところとなり、ブラゴヴェシチェンスク国立教育大学・歴史学部へ引き渡されたのである。

 B.S.Sapunov とN.N.Zaitsev、この論文を執筆した私ボロティンは、石像が出土した場所を訪れて、石像が発見され、今は農作業で破壊されてしまった遺跡は靺鞨文化トロイツコエグループに属する墳墓であると判断した1。しかし、私たちの方法では、この石像の所属する文化圏や年代を正確に判定することは困難であり、以下に述べる事は多くの問題を解決するための出発点にしかすぎない事を理解していただきたい。

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* ОБЪЕМНАЯ СКУЛЬПТУРА АМУРСКИХ МОХЭ, ТРАДИЦИОННАЯ КУЛЬТУРА ВОСТОКА АЗИИ,
Выпуск четвертый 2002 г.(『東アジア伝統文化』第4号(アムール国立大学:ブラゴヴェシチェンスク国立教育大学:ロシア科学アカデミーシベリア支部・極東支部考古学共同研究室、2002 年。
** 著者ボロティンП.Болотин, Д.П 氏は、ブラゴヴェシチェンスク国立教育大学・歴史学部・文献学部学部長 (Декан Историко-филологического факультета Благовещенского Государственного Педагогического Университета )。


1 ロシア科学アカデミーの資料によれば、アムール流域をめぐる初期鉄器時代と中世時代の流域文化の流れは、

ウリリスク文化(урильская культура)

→タラカン、ポリツェフ、テバホフ文化(талаканская, польцевская,тэбаховская культуры(全てポリツェフ時代)

→ミハイロフスク文化、ブレア遺跡グループ、靺鞨文化ナイフェリド及びトロイツコエグループ、アムール女真文化(михайловская культура, бурейская гру�>>p памятников, найфельдская и троицкая гру�>>� мохэской культуры, культура амурских чжурчжэней)

→ウラジーミル文化(владимировская культура)

であり、最初の四つは初期鉄器時代に含まれ、残りは中世時代に含まれる。

http://www.philosophy.nsc.ru/journals/humscience/3_98/05_NEST.HTM を参照。

戦士頭部の石像 三面図
(V.ゼーヤ川とブレヤ川、ブラゴヴェシチェンスク周辺の探訪 写真22 参照)
http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/sekigan.htm

 石像(彫刻)は頭にかぶり物をした人物の頭部であり、大きさは高さが39.5cm、基底部の直径が12cm、最大幅が15cm である。材質はきめの細かい玉石であり、同様な玉石は現在でも墳墓から2〜3km離れた場所を流れるアムール川の左岸で目にする事が出来る。

彫られた顔は、おそらく原材料の形や芸術的な構想によってこのような形となったのだと思われるが、不自然なほど長い。石像は基準線をもとにして作られ、研磨が加えられている。顔面と頭部のかぶり物の細部にはくっきりとした凹凸がある。

この作品を残した芸術家は、作業中に玉石表面の大部分を除去したので、(もとの自然な)コブ状の表面は彫刻の基底部分にのみ残っている。


 顔は全く左右対称をなしていて、明らかに男性、厳しい顔立ちをした男の顔である。大きな丸みのある目の部分がふくらんで、表面から出ていて、瞳は無い。その部分には目をちょうど半分割している細い水平な線がくっきりと入っている。目の上には眉毛が、鼻筋のほうへ寄って突起した点で表現されている。鼻は細く、少し尖っており、鼻孔部は若干広がっている。鼻は顔面を丁度左右半々に分けている中心線のようである。そして突き出た唇で示された口許は小さい。顔全体の輪郭は頭部のかぶり物で隠されていて、頬骨のラインから顎だけが露わになっておいるが、顎は尖っている。

 以上のようなアウトラインである石像を観察すると、その横顔は扁平で、横幅との調和がとれており、明らかにモンゴロイド系(アジア系)人種に属する人がモデルである。

                           

 顔を覆っているかぶり物を、我々は鎖帷子(甲冑)のプレートで出来た兜であると解釈している。

プレートは山部と溝部がほぼ同じ幅で交互に連続している。多分これは石材に凹凸を描出して甲冑プレートのラインを示す最も良い方法なのだろう。かぶり物は構造的には本来の兜の部分と鎖帷子の部分に分割される。装飾的に兜は鼻梁から続く中心線によって二つの半球に分けられている。中心線が特別に示されているわけではないが、一定の角度で向き合うプレートの境目が中心線である。前面上部には眉毛の上に薄い切り込みで表現された兜のへりがある。鎖帷子は兜とは明確に分けられており、鎖帷子は兜で保護されていない頭部の一部分を覆う平行プレートのラインで表現され、ラインは頬骨のレベルまで彫られ、首までは達していない。


 プレートを組んだ兜は、中世には極東以外では広く知れ渡っていた。職人たちは戦士にいろんな戦闘帽を提案したが、時々それらの中には様々な技術や伝統文化の影響を確認できるものがある。

しかし、アムール川流域で発見される兜は、薄い鎖帷子のプレートだけで構成された兜がほとんどで、他の構造の兜は今のところ発見されていない。

現在に至るまで、靺鞨、女真、ヂュチェル2、ウラジーミル文化の担い手だった部族をめぐり約1000 カ所の埋葬地が発掘されているが、最初の兜の遺物はアムール女真文化に属するコルサコフスキー墳墓から、V.E.Medvedev の手で発見された。

兜の山の部分とその上部突端は長く、プレートの一方の端に対して広がって半弧形になっていた。プレートは、おそらく革紐で互いに結ばれていたようだ。鎖帷子も鉄片で構成されていたが、長さは短く、形状は違っていた。


 二番目に発見された中世の兜は、アムール川中流域の部族に関連している。
その戦闘用遺物は、シャプカ墳墓の発掘の際に発見されたものである。
これは最初の、そして今のところ唯一の復元可能なアムール川流域で発見された中世の兜である。

それはコルサコフスキー墳墓の兜とは相違していて、兜の山の部分と、その上部突端には様々な小さなプレートが組み込まれていた。予想されてはいたが、鎖帷子は無かった。

この兜がどの民族文化に帰属するかについての解釈は様々に行われている。
E.N.Derevyanko は、この兜はアムール女真文化に含まれるとしたが、S.P.Nesterov とI.Y.Slyusarenko は、シャプカ墳墓がナイフェリトであるとして、兜は靺鞨文化に帰属すると判断している。

                              

 アムール川流域の諸民族の間には、鉄製プレートで出来た兜が19 世紀まで見かけられた

。L.I.Shrenkは学術調査の過程で、そのような兜をギリヤーク人(ニブヒの旧称)のところで目撃し、それを詳細に記述し描写した。

V.E.Medvedev の見解では、それはコルサコフで発見された兜と全ての点で似ていて、この分野の研究者たちがギリヤークの兜は女真のものであると言う事が可能となった。私もその主張には十分に根拠があると考えている。


 ギリヤーク人たちはL.I.Shrenk に対し、兜は(甲冑と一緒に)満洲から入手したと話した。

19 世紀のギリヤーク人にとって、現在確定しているロシア国境付近の境界を通行する事は難しかった。満洲とは地理的な概念であり、「満洲」には農耕が始まったアムール川下流域の諸民族が含まれていた。

19 世紀のアムール川流域で農耕をしていたのは、アムール川の両岸に住んでいた満洲人たちであり、これより以前のこの地域には、彼らの祖先だったヂュチェルや女真が住んでいたのである。

 シベリアや極東の諸民族の間では、甲冑は遺産として相続され、とても大切にされていたという事を考えるならば、甲冑の最初の所有者はアムール川またはスンガリ川(松花江)の女真であったという説を無視する事は出来ない。

くわえて17〜19 世紀の極東地域では、兜の進化の流れが論理的完結をむかえていた。
日本の武将が被った兜の本体部分はプレートで出来ており、外面的にはコルサコフスキーの兜に似ているが、プレートを繋ぐ紐用の穴は無く、プレートは互いに接合され、固いドーム型になっている。

 この石像のかぶり物、兜は、分別のある顔立ちをしている石像の人物の顔にマッチしている。この人物の顔は大変に個性的であり、その形は劇場のマスクを被ったような、どこにでもあるような形ではない。

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2 ロシアの百科事典には、

「ヂュチェル(Дючер)は1 万1 千人程度の少数民族で、17 世紀には現在のアイグン〈愛琿〉からサラプリスコエ地区(ハバロフスク地方)までのアムール川沿い、及びウスリー川とスンガリ川(松花江)下流域に住んでいて、しばしばナナイ人とウリチ人の祖先とみなされた。

ヂュチェルは定住民族で、農耕、牧畜、漁業、狩猟に従事していた。

宗教はシャーマニズムであり、ヂュチェルの子孫はナナイ、ウリチ、その他の少数民族の一員となった。」

と見える。

おそらくこの男性は過去には名の知られた人物であったであろう。もちろん、芸術的な解釈としてであるが、顔立ちから勇敢さ、厳しさ、意志の強さ、支配欲といった性格がうかがわれる。おそらく生前はそのような性格を持った人物であったと思われる。しかし一方では、閉じた大きな丸い目によって象徴的に表現された顔の表情には、不自然と思えるほどの安穏さが感じられるのである。

                             


 ところで、隣接地域である中国や女真の石像は、一般的に全身像が彫られているのに対して、この石像はどうして全身ではなく、特に頭部だけが彫刻されたのであろうか?

 多くの民族の解釈では、顔には人間または何かの霊の内面的本質が現れている。

変身しようとする役者や儀式を執り行う人は、その本質が変わり得ると思われるマスクをかぶる。

このように、頭部は人間の象徴であり、他の人々と区別するものであり、この石像も固有の特徴を有している。


 靺鞨とその子孫である女真族や満洲人たちがシャーマニズムの信奉者であった事から、石像について別の解釈をする事も可能である。

「シャーマン」という言葉はツングース語に語源を持っている。

ツングース・満洲グループ内のどの民族がシャーマニズムを日常の慣習の中に取り入れたのかと言う事を解明するのは難しいが、エベンキ族がロシア人たちにシャーマニズムについての情報をもたらし、この情報がロシアからヨーロッパの学者たちに伝えられた。


 シベリアや極東の別の部族では、人間には成長するに従って幾つかの霊が宿り、それらの霊は人体とは別に存在していると理解していた。

しかし、人間の霊が存在している所は、一般的には頭部と胸部であった。

L.Y.Shternberg の資料によれば、ニブヒは彼らの三つの霊は頭部に宿っていると見なしていた。

E.A.Kreinovich の情報では、彼らは霊を血液と髪に宿していた。

エベンキ、オロチョン族の理解では、


「人間には生きている間に一つではなく、幾つかの霊が宿った。

誕生した時点ではオミの霊が宿り、それはシジュウカラとして現れた。

しかし赤子が成長し、歩き始め、話し始めると、オミの霊はヘヤンの霊に変わった。

人間はこの霊と共に一生を過ごした。

外見上、ヘヤンの霊は宿った先の人間のコピーであり、その人間の胸に存在していた。

その人間が死を迎えると、ヘヤンは飛び去った。

死んだ人間にはヘヤンの霊の代わりにムグドィの霊が宿った。」


とされている。


 人間が死んだ後に、多くの民族はシャーマンの手助けで死者との交流を継続しようとした。

ナナイ人たちは、交流のために特別な人形を製作し、それらにいつも食事を供え、タバコを与え、寝かせ、服を着せたりしなければならなかった。

もしも人間が故郷から遠く離れて逝ってしまったり、その死体を埋葬する事が不可能だった場合は、特別な人形が作られ、死者に対して行われる埋葬の儀式と同じ事が人形に対して行われた。

A.V.Smolyak は、「死者の体を埋葬する事が不可能な場合の人形の埋葬式」は、アムール川下流域の全ての部族に共通の事であったと判断している。

衣服の一部(ベルトなど)が描かれた馬の小骨も同様な役割を果たしたと仮定する事ができる。

トロイツコエ様式の記念碑群の墳墓では何度も同様な発見があった。
もしも何回も行われたであろう埋葬式用の人形が木製、あるいは他の腐りやすい材料で作られていたとすれば、それが地中で長い間残されている事は出来なかったはずであり、その場合、考古学者たちは墓には遺体が埋葬されているのではなく、象徴的なもの、又は追悼墓碑だと結論づける。

 このような理由から、発見された頭部の石像は、故郷を遠く離れて死んだ戦士の霊を慰める役割を果たしていたものであると推定する事が出来るが、この推定は、千年以上にわたる歴史の中で、アムール川流域諸民族が有していた習慣にも合致するものである。

石に彫られた埋葬用人形は、非凡な才能を備え、実在した具体的な故人への敬意を表現したものではないであろうか。

                            5

 石像が該当する地層外で発見された事から、この石像の目的に関して別の仮説も述べておく必要がある。

それは墳墓の上の記念碑だったという解釈である。

墓の上に石柱を立てるという伝統はアムール川流域には無い。しかし、ザバイカル(バイカル湖以東の山地)やモンゴルでは、垂直に立てられた石で出来た墓は初期鉄器時代から広く利用されていた。

バイカル湖の東側へ入ったトロイツコエの靺鞨を通じて、伝統が大きく変化し、それがアムール川中流域へ入ってきたという説を排除すべきではない。

しかしながら、ザバイカル地方の石柱はとても大きく、地中に穴を掘って建てられており、この推測は仮説以外のものではない。

I.A.Lopatin は、ゴルド人(ナナイ人)の墓上の碑を記述し、その中で次のような風習を指摘している。

「囲われた墓の上に小さな棒杭が立てられ、その杭の上端にはセオンがくっきりと表現される。」

しかしI.A.Lopatin によれば、セオンは地上に住む霊であり、人々を助けるか、又は害を及ぼす。

その表現された姿には人間の霊は宿っておらず、人間を原型として作られたことも無かったと言う。


 この石像に似ているものとしては、西シベリアのブロンズ製のマスク、これも兜をかぶった頭部があある。

このマスクは、おそらく偶像の上の飾り物として使われていたようであるが、ここで取り上げている戦士の石像とは、使用材料が別であること、兜が全く違った構造であること、発見された場所が地理的に遠いことなどから一般的な事項を基にした類似点の比較以上のことは出来ないであろう。

 石像に彫られた兜の構造分析、コルサコフスキーとシャープカの墳墓から出土した戦闘帽などから、この石像は、靺鞨・女真の文化的伝統に属するものととみなされる。

そして少し具体的になった年代は、紀元一千年の末である。

石像の思想的役割の解明はより困難な事であるが、石像をめぐる諸問題の解明が進められていくならば、又、石像に対して新たな解釈が加えられる事は充分にあり得るのである。
http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/sekigan.htm




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Samovarの旅ページ

ハバロフスク アムール川流域の中心都市です。
http://www.geocities.jp/putniki/

タイガ 流域の南方に広がるタイガの紹介です。
http://www.geocities.jp/putniki/

ゼヤ川水系 アムール川の支流であるゼア川流域地区の様子です。
http://www.geocities.jp/putniki/

アムール川の船旅 ハバロフスクから間宮海峡へ至る船旅の紹介です。
http://www.geocities.jp/putniki/

    ナナイ博物館に展示してあったシャーマンの衣装(上)
           とナナイの民族衣装の模様(下)
http://www.geocities.jp/putniki/amur/funatabi/funatabiphoto/Shaman.htm

 コピチコ先生の教え子であるナナイ人の郷土史家マキシムさんが博物館内を案内し説明してくれた。

ナナイの衣装には水の世界の代表である龍、蛇、トカゲ、蛙などが描かれている。

中でも虎は森の世界の王様だそうで、存在感が大きい。

またたいがいの衣装には樹木模様がほどこされており、根から下が過去、幹は現世、枝から先は未来を表しているそうで、それがナナイの宇宙観のようである。
http://www.geocities.jp/putniki/amur/funatabi/funatabiphoto/Shaman.htm






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「最後のシャーマン」  岩画に見る呪術世界 アムール川(ロシア)
http://www.47news.jp/47topics/river/2013/06/242626.html


 11月から4月までの半年間、アムール川(中国名・黒竜江)は厚い氷に覆われる。シベリアのタイガ(針葉樹林帯)を貫く大河は全長約4400キロ、植物プランクトンをオホーツク海に運び、世界有数の好漁場を育む。海に注ぐ真水は北海道に着岸する流氷の“生みの親”となる。

 日本との関わりは深い。20世紀には、ロシア革命後の日本のシベリア出兵、第2次大戦後のソ連による旧日本兵のシベリア抑留など、アムール川流域は日本とロシアがせめぎ合う舞台となった。


  ▽象形文字の起源

 アムール川流域の大陸と日本の北方は1万年以上前の先史時代から交流があったのではないか―。書家、岡本光平(64)は漢字のルーツを追って調査を続ける中で、北海道・東北文化の源流のひとつがシベリアにあると考えるようになった。

 岡本は中国や韓国、モンゴルなどの岩に彫られた絵「岩画(がんが)」を象形文字の起源とする仮説を立て、それを補強するために現地調査を重ねてきた。ロシア極東ハバロフスク郊外シカチアリャン村で、アムール川の河原にある岩画群を見て「アムールの岩画の先に見えるのは北海道、東北の北方文化だ」と確信した。

 シカ、鳥、ウマ、竜、人面など150点以上が岩に彫られ、作製時期は最も古いものは推定で約1万4千年前。鬼面のような人の顔からは呪術的な世界も垣間見える。

 実は、北海道余市町のフゴッペ洞窟にも岩画はある。ここに描かれた舟とシカチアリャン村の岩画にある舟は酷似している。「アムールの流れに乗って北海道や東北にたどり着き、同化して日本列島人となった人々がいたのではないか」。東北地方伝統の鹿踊りがシベリアのシャーマンの所作と似ていることなども踏まえた岡本の推論だ。


  ▽デルス・ウザーラ

 シカチアリャン村の人口は約300人、住民の大多数を占める少数民族ナナイは顔つきが日本人ととても似ている。アムール川の漁労で生計を立て、かつてはサケの皮でつくった衣服や靴をまとっていた。ロシアに約1万2千人、中国では赫哲(ホジェン)と称され約4500人が住む。黒沢明監督が映画化した「デルス・ウザーラ」は実在したナナイの猟師を描いた作品だ。

 シカチアリャン村の博物館長でナナイの女性、スベトラーナ・オネンコ(57)は「北海道のアイヌと大陸のナナイは先祖が同じだと思う。岩画だけでなく民族衣装の模様も似ている」と話す。

 フゴッペ洞窟の岩画にある魚がシカチアリャン村の岩画では描かれていないことが謎とされてきた。オネンコは「魚を描くと神様が『魚は十分に足りている』と思って川に魚の恵みを与えなくなる。人々はそれを恐れた」というナナイの伝承を語り“謎解き”をする。

 村で最大の岩画は体長115センチのオオツノジカだ。ユーラシア大陸でも最大級の岩画とされる。「北斗七星の化身」と言い伝えられ、子宝に恵まれない男女が誕生を祈願する。シカの頭や腹などに触れて願いをかけることでその部位の病気が快癒するとも信じられ、祈りの場となっている。

 だが、ナナイの伝統的な精神文化にも変化の波が押し寄せる。


  ▽「土が痛がる」

 今年3月11日、アムール河岸のベルフニー・ネルゲン村でナナイの「最後のシャーマン」オリガ・キリャ(92)が死去した。娘エカテリーナ・ベリディ(62)は「母の生年月日はかつてソ連政府が割り当てた。実際は100歳を超えていたかもしれない」と言う。

 ナナイのシャーマンは自ら奏でる太鼓の音を通じ、川や空、森、トラ、オオカミなど大自然の精霊たちと対話する。精霊の声を聞き、人々を守る特別な存在として村人の畏敬を集めてきた。

 ソ連政権は1940〜50年代、「病気治療と称して金を巻き上げる」「占いと称してうそをつく」詐欺師としてシャーマンを逮捕、粛清した。ナナイの作家コンスタンチン・ベリディ(78)は「こうしてシャーマン文化の土壌が壊された。ソ連時代は記録に残らない歴史が多い」と指摘、キリャの死は「ナナイ文化の大きな損失」と嘆く。

 最後のシャーマンの死は地元で報道もされなかった。村役場幹部のナナイ女性エレーナ・アクタンコ(49)は「古い世代はシャーマンのお告げを信じるけど、若い世代は全く関心がない。もうシャーマニズムの時代ではない」と言う。

 娘によると、キリャ自身が生前「シャーマンは私が最後。もう誰も私の言うことを信じなくなった」と宣言していた。キリャは「地球は一人の人間と同じ。軍事実験や放射能のせいで土が痛がっている」とも話していたという。(文・写真、平林倫、敬称略、年齢などは2013年4月17日現在)
  


•ロシア極東ハバロフスク郊外シカチアリャン村で、オオツノジカの岩画を示す地元の博物館長スベトラーナ・オネンコ。奥は凍結したアムール川(共同)

•アムール川沿いのベルフニー・ネルゲン村の少数民族ナナイの幼稚園児と先生。
記者の来訪に民族衣装を着て迎えてくれた。一部の高齢者を除き、自らの言語ナナイ語を話せる人はいないという(共同)

取材メモ

「金父子」目撃談も

 ハバロフスク地方には、アムール川やその支流の河岸に計4カ所の岩画群がある。ロシア政府は最大規模のシカチアリャン村の岩画群について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産登録を目指している。

 ただ、岩画は自然劣化に加えて観光客による破壊、周辺部分へのペンキによるいたずら書きなどが多発しており、保存対策が急務となっている。

 シカチアリャン村の数キロ下流のアムール河岸には、北朝鮮の総書記だった金正日の生地といわれるビャツコエ村がある。北朝鮮の公式報道では総書記の出生地は北朝鮮の白頭山だが、ビャツコエ村ではソ連軍の部隊幹部を務めたという父親で主席だった金日成との「若き日の金父子」の目撃談が今も語り継がれている。
http://www.47news.jp/47topics/river/2013/06/242626.html




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2014-03-01 エヴェンキ族ノート

1.

ビハル州のガンジス河沿いの町サヒブガンジの南にあるラジマハール丘陵には、北方ドラヴィダ語のひとつマルト語を話す焼畑耕作民マーレル人(パーリア族)が住んでいる。

1963年、若き研究者佐々木高明と山田隆治は彼らの村にテントを張って調査した。

彼らの間にはシャーマニズムがある。

シャーマン(デマノという)は、たとえば翌年の焼畑の場所を決めるプジャ(儀礼)で、ハトを供犠したあと、太鼓を叩いてデマノを神懸りさせる。そして彼が言う神のことばを司祭役のマンジーが聞き取り、村人に伝える(佐々木高明:156f., 195f.)。

デマノは儀礼において重要な役割を果たしているにもかかわらず、村内におけるその地位は高くなく、司祭マンジー(日本式に言えば審神者(さにわ)であろう)よりずっと低い。

マーレル人では太鼓があるようだが、ムンダ人(オーストロアジア語族)など北部・中部インドのシャーマンは、箕で米をふるいながらトランス状態に入るという(エリアーデ:下197)。

箕は、マーレル人の間でも収穫儀礼に供物をいれるのに使われるなどしており、この地域の儀礼に欠かせないようだ。

シャーマニズムは世界中にある宗教形態だが、特にシベリアで発達している。

「シャーマン」の語もツングース系諸民族の間の「シャマン、サマン」に由来する。

それがこの宗教者を表わす一般的な名称になったのは、単にヨーロッパ人の旅行者・研究者がツングースの儀礼に接して記述するのが早く、それが広まったというだけの偶然だが、しかしその名の語源については考えさせられる。

それは仏教の「沙門」(男性修行者・出家者、パーリ語:samaņa、サンスクリット語:śramaņa)に起源するのではないかという説があるのだ(エリアーデ:下328ff.)。

仏教僧を表わすこの語は、中央アジアのトカラ語やソグド語にも入っていた。

ツングースの精霊の名(たとえばブルハン)はモンゴルや満洲族起源であり、モンゴルや満洲族はラマ教からそれを受け入れた。シロコゴロフはツングースのシャーマニズムを「仏教に著彩されたシャーマニズム」だと考える(同:下331)。

エリアーデの結論は、「南方の影響は、実に、トゥングースのシャーマニズムを変化させ、かつ豊かなものとした。−しかしトゥングースのシャーマニズムは仏教の所産ではない」(同:下331)。

「シャマン」=「沙門」起源説には反対もあるが、シロコゴロフとエリアーデが一致して支持するなら、傾聴しなければならない。


シャーマニズムは、周辺のシベリア諸民族のもとでと同じく、ツングース民族文化の重要な構成要素である。

トゥゴルコフとエリアーデによってそのやりかたを見よう。


「シャーマンの衣裳の細部は、いろいろなエベンキ人の集団によって異なっている。

十八世紀のウダ=エベンキ人のシャーマン衣裳は、多数の革紐、小さな鐘、小鈴、ビーズ飾り、金属板の飾りが下げられた長い「ハラート」、それに同じく長くて、これも小さい革紐の下がった胸当て、さらにいま一つリスの尾を縫いつけた柔かいかぶりものとその上にかぶるトナカイの角のついた鉄の帽子、の三つからなっていた」(トゥゴルコフ:188)。

その重さは30キロもあった。そして、「木の撥で打ち鳴らす手太鼓に合わせて、シャーマンは、呪文をとなえたり、踊るのであった。

エベンキ人の太鼓は卵型をし、鳥と獣の色つきの図が描かれていた。
木撥のかわりにシャーマンによっては、乾かしたクマの足を使っていた」。

「シャーマンの歌はカムラーニエの際、シャーマンが遠くに旅したことを示している。

彼は急流を渡り、山をよじ登り、密林をくぐりぬけ精霊と決闘を交えなくてはならないのであった。

道中の大部分をシャーマンは鳥になって「飛んでいく」と考えられていた」(同:189)。


「トゥングースのシャーマンは数多く色々な機会に呼ばれて、その能力を発揮する。

病人の魂を探しに行くにしろ、悪霊を追い払うにしろ、彼は病気治療には必要欠くべからざるものであり、かつ魂の導き手である。

彼は犠牲を天界や冥界に持って行く。
その社会全体の精神的平衡をしっかりと維持するのはシャーマンにしかできぬ仕事である。
病気、不幸、不作などが部族を脅かすことがあれば、彼はその原因をつきとめて正常な状態に戻すのである。

トゥングース人は近隣の部族よりも悪霊−冥界の霊、この世にいる霊などおよそ無秩序なるものの主犯人すべて−にかなりの重要性を認めているから、ごく普通の巫儀(病気、死、神々への供犠など)に加え、何かちょっとでも霊と交わったり、霊を抑える必要のある事が起こるたびに、簡単な「小さな巫儀」を頻繁に行なう」(エリアーデ:上304f.)。


1940年代、あるオロチョンの猟師が病気になって生死の境をさまよっていたとき、関烏力彦という女性シャーマンは「ジツゥニン」という儀式を行ない、あの世へ行って病人の霊魂を奪い返した。

シャーマンは「静かに地面に横になり、飲食を摂らず、両眼を閉じて、身体を静止させて、小声で話したり、神歌を歌ったりして、霊魂をあの世へ行かせる」。

「彼女の左右両側には、各一人の男性が伴をして横になり、二神(助手)になる。関烏力彦シャーマンは寝言のように神語を話し、二人の二神を通じて人々に起きたことを告げる。すなわちシャーマンの霊魂があの世へ行く経過を説明する。


「ジツゥニン」の儀式を行なう時には、関烏力彦シャーマンの愛犬は彼女のお伴をして、彼女の頭の前に腹這いになり、静かに微動だにしない。この時、この犬はすでに神犬となっていて、その魂は主人に付き従ってあの世へ行き、シャーマンが鬼神と闘うために協力する。

関烏力彦の長女孟鬧傑が、当時彼女の母親が話すのを聞いたところによると、あの世に行くには、九つの山・九筋の河を乗り越えなければならない、

各道には鬼神が守っていて、通らせない。
ゆえに、あの世へ行くには、知恵と超能力を持っていなければならない。
それがあれば、いろいろな困難と危険を克服することができる。

鬼神に勝つことができて、はじめてあの世へ到達する。

当時、孟弾刻(病人)の霊魂はすでに八つの山を乗り越え、八筋の河を過ぎて、まもなくあの世の入り口に到達しようとしていたので、関烏力彦シャーマンの霊魂は急いで追いつこうとした。

道の関門を過ぎる時に、妖怪・子鬼たちはみな阻むので、関烏力彦シャーマンの神犬はその妖怪・子鬼を咬み殺し、主人のために障碍を除いた。

この時、シャーマンの身体のそばで横になる神犬の身体は左右に揺れ動き、前の爪で力一杯に地を掻き、後ろ足は後方に向かって伸び、まるで戦っているようである。神犬のこのような行動は。オロチョン語で「アンクゥアニン」と呼ばれる。

シャーマンの霊魂があの世に行くとき、シャーマンの側の二神は「ザロチン」と呼ばれる行動を始める。すなわちシャーマンに合わせて、シャーマンの話を復唱する。

シャーマンがいくつかの山を乗り越え、いくつかの河を越えて、どのような鬼神に遭遇し、どのような神が、彼女を危地から脱するのを助けてくれたか、そして神はなにを求めているかなどを、人々に告げる。

二神の話によって、人々は神の要求を知り、恭しく獣の肉・獣の血・酒などのお供え物を捧げる。

長い時間を経て、関烏力彦シャーマンの身体はゆっくり動き始め、震え始めて、神歌を唱える声も大きくなる。

この時、人々は急いで彼女を助けて、彼女に神帽をかぶせると、関烏力彦シャーマンは神がかりになり始めて、その動きはゆっくりしたものからしだいに速くなり、穏やかなものから狂ったように激しくなる。

鼓の音は天地を震え動かし、神服上のリボンはすべて飛び舞う。

神がかりが終わると、神を送る儀式を行ない、シャーマンの魂があの世へ行く儀式のすべてがやっと終わる。

このシャーマンの儀式を経て、孟弾刻の病気はよくなった」(王・関:61ff.)。


さて、ではそのツングースである。

2.

浜田市南郊の山腹にたつ島根県立大学には、高名な言語学者にしてアルタイスト、服部四郎教授旧蔵書の寄贈を受けた「服部四郎ウラル・アルタイ文庫」がある。

ツングースは、エヴェンキとかオロチョンと自称する狩猟採集民をロシア人が呼んだ名前で、トルコ、モンゴルと並ぶアルタイ諸語の3つのグループのひとつをその南方派の満州語グループとともに形成しているから、服部文庫にはもちろんツングースに関する文献が相当数所蔵されている。居住地域の関係上、露文が多い。

服部四郎自身、戦前北満ハイラルに言語調査のため長期滞在していたとき、彼らを調査したことがある。

「昭和九年ホロンバイルに滞在していた頃、私は三河地方奥の興安嶺にヤクート人が居ると云ふことを時々耳にした」。
「ヤクート」に実際会った話も日本人から聞いた。

ヤクート人はテュルク系の牛馬飼養民で、彼らの住むサハ自治共和国は、首都ヤクーツクを中心にスタノヴォイ山脈の北から北極海まで広がっており、その境界は満州国の国境から300キロ離れている。

不思議に思ったのは、「道案内に連れて行つたオロチョンがヤクートと自由に話をすると云ふ点であつた。何となればヤクート語は土耳古系の言語であり、オロチョン族は通古斯系だから、彼等が母語で話し合つたのなら通じない筈だ。

而もロシヤ語に堪能な赤木氏には全然わからない言葉だつたと云ふからロシヤ語ではあり得ない。

オロチョンには蒙古語の多少出来るものがあるから蒙古語で会話したのだらうか?
この点が甚だ疑問で腑に落ちなかつたのだが、…

蘇聯領の余り遠からぬ所にヤクート自治共和国もあるのだから満州国領にヤクートが居ることも可能性のない事ではないと、ヤクートの存在自体は疑はないで居た。日本へ帰るまでにヤクート語の話されるのを一度でも聴いて見たいものだなあなどと思つてゐたのである」(服部:1)。

そうしているうち、三河地方へ自動車旅行する機会を得た。

その地方の中心ナイラムトへ行くと、「全く偶然にも明日ヤクート人が山から出て来て(それは一年に数へる程しかない事だが)、こゝから数里離れたドゥオーワヤと云ふ部落で物々交換をする。

日本側からはM、H両氏が行かれる事になつてゐるから一緒に行つて見られては如何と云はれるので、同行させて頂く事に決定した」(同:.2)。

そこで会った「ヤクート人」は35、6歳の青年だった。


「私は尋ねた。

「あんたは蒙古語が出来ますか?」

 之は蒙古語だった。… するとこのヤクートは当惑の面持でM氏の方を眺めるのである。
今度はロシヤ語で同じ質問を発する。そこで、


「いや全然出来ません」

「オロチョンと会話が出来るか?」

「出来ます」

「彼等とは何語で話すか?」

「ヤクート語で話します」

「オロチョンはヤクート語が出来るか?」

「彼等の言葉がヤクート語に似てゐます」


 こゝに至つて私は当惑した。ヤクート語とオロチョン語が似て居る?」(同:4)

彼の住むテントへ行ってみることにした。

「馴鹿や老人達はドゥオーワヤの上流三露里の地点に待つてゐると云ふ。
村には馴鹿が来られないためと、ヤクート自身にも村の空気が悪くて気持が悪いからだと。
村と云つても二十戸位のものであつた!」(同:4)


氏はさっそく言語調査にとりかかった。

「ロシヤ語を媒介として、数詞から始めて思付く単語を筆記して行つた。所が最初に調べた数詞によつて、彼等の言語が計らずも通古斯系のものなることが明かとなつたが、調査を進めれば進める程それは明瞭となつた。私は屡ゝ鉛筆を投げて膝を打つた。

ヤクート語ではないことが充分にわかつたので、嬉しさの余りすぐその場で之を同行の人々に報告したのであるが、期待しない結果を惹起した。M氏とH氏が之に対して非常に不愉快な様子なのである。

そして彼等が「ヤクート」であることを再三言明される。領事さんは「之は大発見だ」と小声で云はれたきり、表向きには味方して下さらない。私は妙な孤独の立場に置かれた。そして凡ての人が真理を愛し得るのではない事を身にしみて感じた。

両氏の中のどちらかの方が、彼等は近頃ロシヤ領より移住して来たものですよと私に云はれる許りでなく、私の眼前でヤクート人にまで叱る様な口調でその意見を押し附けて居られるのを私は悲しげに眺めてゐた。

 併し私は機会を見て、この「ヤクート人」と次の会話をするのに成功した。

 年上の男に対し「自分の言葉で自分自身をどう云ふか?」

 答「エヴェンキ!」

 男二人に対し「何処で生れたか?」

 答(二人とも)「此処」

 男二人に対し「老婆は?」

 答「此処で生れた(山奥を指しつゝ)。吾々はずつと前から此処に住んでゐる。」

 若い男に対し「自分等で自身をヤクートと云ふか?」

 答「云はない。ロシヤ人がさう云ふだけだ。」

 私のノートには右の様に筆記してある。

彼等が自分自身をヤクートと云ふのは、さう云へば外国人にはわかり易いと思つてゐるからなのだ」(同:6f..)。


「五族協和」の満州国に、赤いソ連から逃れてきた珍しいヤクート人まで住んでいることが特務機関員にはあらまほしかったのであろうが、真実はどなれば変わるものではない(あるいは当時の日本軍ではどなれば変わったのかもしれない)。

ロシアからやってきたこと自体はそのとおりだ。
しかしロシア革命後に来たのではなく(革命後満州に流れ込んできたいわゆる白系露人と違って。

なおこの調査行の舞台三河地方は白系露人・コサックのコロニーである)、それ以前である。ロシア語もでき、ロシア正教を受け入れてもいた。ただヤクートではなかっただけで。

ちなみに「ヤクート」の名は、隣人であるツングース(エヴェンキ)が彼らを呼んでいた「ヤコ」「ヨコ」からロシア人が呼ぶようになった名前で、自称はサハである。

なお、ヤクートは同じ時期の北サハリンにはいた。
エヴェンキとともに、毛皮商人としてやってきたのである(シロコゴロフ1941:179)。

「ヤクート」でなくとも、「オロチョン」がすでに十分にエキゾチックであった。

「オロチョン」の名はなかなかに人口に膾炙してたものの、その実態については一般には知られていなかった。

たとえば、仏教学者長尾雅人は戦中の昭和18年内蒙古のラマ教寺院を調査したが、そのときの旅の汽車でとなりあわせた北満駐屯の日本兵からいろいろおもしろい話を聞いたうちに、「オロチョンは人間を喰う食人種だ」という風説を耳にしている(長尾:19)。


「エヴェンキ」は彼らの自称で、それが民族呼称になった。漢字では「鄂温克」。

中国で「鄂倫春(オロチョン)」と呼ばれている人たち以外はみなこれが自称だ。

今は遊牧民、農牧民となっているソロンもそう自称する。

シロコゴロフによれば、語根「エヴェ」に動作の主体を表わす接尾辞「ンキ」がついた形だという(シロコゴロフ1941:97)。

「オロチョン」は「トナカイ(オロン)を飼う人」、または「山頂に住む人」の意だとされるが、大興安嶺・小興安嶺に住む中国の「鄂倫春」は、トナカイを飼わず、馬を飼う。彼らも昔はトナカイを飼っていたと伝える。

自称でもあり、他民族がそう呼ぶ他称でもあって、現在彼らが独占する形になっている「オロチョン」の名は、かつてはいま別の名で呼ばれている集団にも他称としてつけられていた。

トナカイ・エヴェンキもそうだし、エヴェンキとは同系別族のサハリンに住むウイルタ(トナカイ飼養民、旧称オロッコ)も、ロシア人によって「オロチョン」と呼ばれていた。

網走の「オロチョンの火祭り」は、戦後南樺太がソ連領になったとき、ウイルタの一部も日本人やアイヌとともに北海道に移住したのだが、その彼らの歌舞を見せる催しとして始まったものである。

「ツングース」はロシア人がエヴェンキを言う名前で、ヤクート人がそう呼んでいたのをロシア人が取り入れたもので、つまり「ヤクート」と逆の関係だ。

以下「ツングース」と言うときは、狭義にエヴェンキのことを指す場合と、広義にツングース諸語を話す民族一般を指す場合がある。


このオロチョン(とモンゴル)は日本の民族学者を鍛える場であった。
彼らを調査した人々は、のちに日本民族学のビッグネームとなった人たちばかりである。

鳥居竜蔵(オロチョン狩猟民には遭遇しなかったが、ソロンや遊牧エヴェンキの調査はしている)、秋葉隆、泉精一、京大大興安嶺探検隊の今西錦司・梅棹忠夫・川喜多二郎・吉良竜夫たち、それに服部四郎も。モンゴルまで広げれば、江上波夫や石田英一郎などの名前がそれに加わる。

騎馬民族征服王朝説や照葉樹林説、霊長類学や文明の生態史観など、戦後の学界をにぎわせた諸学説の源に海拉爾と張家口(西北研究所)がある、という図だ。

(不思議なことに、身近な異族のアイヌはそうではない。

沖縄については、民俗学のほうを大いに鍛えた。柳田国男の「沖縄発見」以前と以後で日本民俗学はさまがわりした。)

3.

エヴェンキとはどんな人たちか。トゥゴルコフの書いた「身上書」を見てみよう。

「名称 ツングース。現称エベンキ。

ヤクート人など隣接地域の住民は、かれらをツングースとよんでいた。

現在、かれらが自称する「エベンキ人」が公式名称として用いられている。


 人口 2万5000人。


 居住面積 

約700万平方キロメートル(日本の面積の20倍近い)シベリアの全面積の約7割を占める。


 居住域の境界 

西部はエニセイ川左岸、東部はオホーツク海沿岸およびサハリン、北部は北極圏、南部はアムール川ないしモンゴリアと中国東北部の中部。

 言語 

エベンキ語。アルタイ語系のツングース・満州語に属す。
この言語のほかに各地方でロシア語・ブリヤート語・ヤクート語その他の言語も使用している。


 生業 

本来は、狩猟・トナカイ飼養。

若干の地区では、馬・ラクダ・牛・羊の飼養。

副業は、漁労・採集・海獣狩猟。現在はさらに、野菜栽培・畜産業(乳牛・肉牛飼育など)


 生活様式 

トナカイ飼養者と馬飼養者は遊牧生活。
トナカイを飼わない漁労者は定住生活。
両者の中間に属する者は、半定住。

現在、エベンキ人の大部分は定住生活に移行している。

 世界の他の民族から区別する最も大きな特徴 少数の人々で他に例を見ない広い領域を占めていること」(トゥゴルコフ:6)。

これを「文化人類学事典」(弘文堂、1994)で補えば、

「エヴェンキの生業の中では狩猟がすべての基礎をなしている。

彼らの狩猟対象は、食肉用として野生トナカイ、オオシカ、ノロ、クマなどがあり、毛皮用として、リス、テン、キツネなどがある。

現在は銃が使われるがその普及前は弓矢・槍が使われた。
各種わな類も広く使われる。

漁撈と海獣狩猟は副次的であるが、河岸や海岸の住民の間では重要であった。

エヴェンキのトナカイは主に輸送用であり、飼育頭数も概して少ない(多くても1家族当たり100頭内外)。荷駄用・騎乗用に使われることが多いが、北部の森林ツンドラ地帯の住民の間では橇も使われる。

南部では牛馬の牧畜の影響で搾乳も行われる。

エヴェンキの物質文化は木材と皮革を主体としている。

住居は毛皮または白樺の樹皮で覆った円錐形のテントが広く使われ、衣類の多くは毛皮を縫い合わせて作られる。

布は中国人、モンゴル人、ロシア人などとの交易でもたらされた。

ナイフや鏃、槍の穂先となる金属製品も多くは交易でもたらされたが、かれらも鍛冶技術を持ち。作り直すこともした。

土器はなく、容器の多くは木や木の皮でつくられた。


かれらの社会は多くの父系の氏族に分かれ、氏族外婚が厳しく守られていたが、狩猟組織はそれに関係なく結成されることが多く、獲物を近隣の者に分配するという慣習も励行された。


宗教ではシャマニズムが有名で、またよく発達しており、少数の大シャマンを頂点とする階層があり、儀式用の衣装も多くの装飾がほどこされていた。

しかし、他方でクマ、オオカミ、フクロウ、カラスなどの動物や自然の主への崇拝・儀礼もあり、これらの中にはシャマニズムとのつながりの薄いものもあった。

ロシア人との接触で多くの者がキリスト教化したが、革命後の宗教活動はそのほとんどが衰退した」(佐々木史郎)。


シベリアには17世紀におよそ36000人ほどいたと推定されている(フォーシス:66)。

1979年の統計では、ソ連に約27300人、1978年に中国に約13000人とされているが、ただし後述するようにその8割は同族と言うにはやや問題のあるソロン族で、同族ながら別立てのオロチョンは約3200人を合わせても減った勘定になる。

とにかく絶対数において非常に少ない。居住地域の広大さと、それに反比例する人口の少なさ。

北方の苛烈な気候はそもそも人間の生存に適していない。
そして近代以前、気候や生態的条件はこの地域に農耕や牧畜(トナカイ以外の)を許さなかった(ヤクート人が牛馬の飼育をしているのは例外である)。

人は狩猟採集によってしか生きることはできず、その狩猟は、農耕はもちろん、牧畜に比べても人口を養う力が非常に弱いのである。


エヴェンキの狩人をイメージしたければ、アルセーニエフの「デルスー・ウザーラ」を見ればいい。

黒沢明が映画化したことでも有名なあの探検記の主人公デルスーは、アルセーニエフが沿海州のシホテ・アリン山地を探検したときに同行したゴリド(ナナイ)族の狩人で、エヴェンキではないが同じツングース系の民族である。


彼らは痕跡解読の達人である。

「デルスーは黙って歩き、冷静にすべてを眺めていた。

私はすっかり風景に感心していたが、彼は人間の手先のとどく高さのところで折られている小枝を観察し、その小枝の曲げられている方向によって、彼はその人間の歩いていった方向を知った、また折られた部分の鮮度によって、その行なわれた時間を判定したり、その人間の履物などを推定したりしていた。

何か私にわからないことがあって、疑問を表明すると、彼は私に言ったものだ。

「なんだ、あんた、何年も山あるき、わからないか」

 私にはわからないことが、彼には単純明快だった。

ときどき、私が何か見つけようと、いかに希望しても、なんにも見つけなかったところに、彼は何ものかの足あとを見てとった。

で、彼は老いたるアカシカの雌と一歳仔がそこを通ったことを見てとった。

彼らはシモツケソウの葉をむしりとって、それから何かにおどろいたらしく、大急ぎで逃げていったのだった」(アルセーニエフ:上246)。


「翌日の午前、じっさい、デルスーはわれわれに追いついた。

彼はわれわれ一行に起こったことを、足跡によってよく知っていた。
われわれが休息した場所を、彼はみていた。

また、われわれが一カ所に長く立っていたことを知っていた。
それはちょうど小路がきれた場所だった。

そこでは私がほうぼうへ路さがしに人をやったことを、彼はみていた。

ここでは兵士の一人が靴をかえた。また地上にちらばっている血のついたぼろ切れや綿屑から、誰かが足に怪我をした−などを彼はみてとっていた。

私は彼の観察能力になれていたが、兵士らにはそれは意外な新発見だった。
彼らはおどろき、めずらしそうにゴリドに目を見はっていた」(同:下39)。


「私がなんらかの明白な足跡を見逃したりすると、デルスーは私をからかって、頭をふり、こう言った。

「フム! 子供と同じ。子供みたいに歩き、頭をふる。

目あり、何も見えない。わからない。

まったく、こんな人、町に住む。シカさがさなくてもいい。
食べたいもの、買う。ひとりで山に生きる、できない。−すぐ死んでしまう」


 そう、彼の言ったとおりだ。数千の危険が密林では単独旅行者を待ちかまえている。

そして、いろんな足跡をときあかすことのできる者だけが、この闘争から勝利者として出ていくことができるのである」(同:上247)。


このような観察の習性は、伝達に使うこともできる。

「文字はもたなかったが、エベンキ人は一定の記号の体系を作りあげた。

たとえば、そこの木の小枝に一かたまりのコケが置いてあり、そのコケの上に細い若木の先端が置いてあると、エベンキ人ならだれでも、ここの若木の先端の指す方向に、狩で倒した獲物を隠してあるということを悟るのだ。

また、タイガの中で家畜が行方不明になったときなど、その動物の頭をシラカバの皮に描いて捜索を乞うサインとすることもあるという。…

小枝に刻み目を入れて自分たちの行動を伝えることもある。

たとえば、ハコヤナギの樹皮に小枝が斜にはめ込まれ、その先端が上を向いていたとする。

それは、ここに、少し前まで人がいたのだが、ずっと遠くへいってしまったことを示している。

小枝の刻み目が五つなら五「ヌルギー」。

一ヌルギーというのはトナカイに乗って一日に移動できる距離だから、このサインを残した人たちは、ここから五日の道のりのことろに行ったのだ」(トゥゴルコフ:68f)。


京大の大興安嶺探検隊によると、手紙を送ることもできたという。

「オロチョン道が出あうところにはよく、シラカンバの皮にかきつけたロシア文字の手紙が、木の枝にはさんで地面につき立ててあった。

これらの手紙は、通りすがりの者の手によって、つぎからつぎへと場所をうつされ、ついに目的地まではこばれるしくみになっているのである。

たとえはてしない樹海のなかに分散していても、かれらのあいだには、いつでもよく連絡がたもたれ、いま誰がどの地点にいるかということを、すべての者がたがいによく知りあっており、ほかの家族の移動の道すじも、手にとるようにおぼえていた」(今西:383f.)。


エヴェンキにはデルスーのような狩りの名人がたくさんいた。

リスのような毛皮獣は、毛皮に傷がつくと値が下がる。

1930年代に「ある狩人のとった300枚1束のリスの毛皮は、どのリスも頭を撃たれていた」(トゥゴルコフ:30)。

永田珍馨は「1キロさきの雑草の動きで動物の種類をみきわめ、20メートルほどもある高い赤松の梢で、実を求めて走り回るリスの頭だけをねらい」、確実にしとめる彼らの腕前に驚嘆している(永田:78)。

彼らの間には、撃ち取った獲物の肉は、狩猟に参加した者もしなかった者も含め、同じ部落(キャンプ)の人間みなで分け合うという不文律がある。


「翌朝、デルスーははやばやと帰ってきて、シカをとったから、その肉を野営地へ運んでくるのに、馬をかしてくれ、と私に頼んだ。…

 午前十時頃、デルスーは肉を運んできた。

彼はそれを三等分して、一つを兵士らに、一つを旧信徒に、一つを近所の小屋に住む中国人たちに分配した。兵士らがそれに抗議した。

「いかん」デルスーが反撥した。

「わしら、そうできん。みんなにやるんだ。ひとりでみんなとる、わるい」


 この原始共産観念が、彼のあらゆる行為に、いつも一筋の赤い線のように通っていた。

自分のとってきた獲物を、彼は民族を問わず、隣人みなに等分に与え、自分はそれと同じ分け前をとったのである」(アルセーニエフ:下16f.)。


社会は安全保障の体系である。

北の狩猟民は死と隣り合わせに生きている。
冬の山の中の狩りは、農耕とは比べものにならぬほど危険に満ちている。
不猟が重なれば、荒天が続けば、死がすぐそばに歩み寄る。

そんな彼らにとって、狩りに参加しなかった集落成員にも平等に肉を分配するという形での相互扶助は生存のために不可欠で、この習慣(ニマトという)を続けているうちに血肉と化したのであろう。

生きんがためという背景事情を差し引いても、利己的なふるまいの氾濫にうんざりしているわれわれには実に魅力的だ。
「森のシャーロック・ホームズ」と呼びたくなる痕跡の解読能力とともに。


チュームと呼ばれる彼らの天幕は、木を円錐形に組み、その上に白樺の樹皮や毛皮をかぶせたもので、いちばん上は煙出しのために空けられていた。

移動のときは樹皮や毛皮だけ持っていき、木組みはその場に残しておく。
あとから来たほかの者が使ってもいい。


京大大興安嶺探検隊の支隊は、途中から持参のテントをやめて、若木を切ってこのオロチョン式チュームをたてることにした。

「この案は大成功だった。なかに陣取ってみると、感じはひろびろとして、立つこともできた。荷物はすべて手のとどくところにあり、われわれ五人が、まるでオロチョン一家のようにくつろいでも、さしてきゅうくつではなかった。…

キャンプのあとには。オロチョンの移動したあとのような、しかしそれよりはすこし手ぎわのわるい円錐形の骨ぐみが、つぎからつぎへとのこされていった。

ほんもののオロチョンたちは、いつかはこの骨ぐみをみて、眼をまるくしていぶかしがることだろうと、われわれは腹をかかえた」(今西:228)。


なに、眼を丸くしはしないだろう。北満のロシア人も干草刈りの出作り小屋としてエヴェンキ式の天幕を立てていた(Lindgren1930:528)。

土地のことは土地の者に学べ。

シベリアのロシア人は寒地適応度の高いツングース式の長靴や手袋などを取り入れたし、焚火のしかたもエヴェンキにならった。

「薪を火の上に積むのではなく、扇状に横に並べる方法で、ずっと燃料を節約して強い火力を得ている。…

このような焚火の横に寝ていて、冬に凍死したという話を私は聞いたことがない」(トゥゴルコフ:105)。


貯蔵庫を作っておくこともある。

「ツングースの全ての群団に於いて、食料や衣服や何らかの器具が必要なものは、何人でも貯蔵庫が見つかり次第その品を取り出すことが許されている」(シロコゴロフ1941:575)。

「通例その家族以外の者が貯蔵庫から物を取出せば、これを旧に返すことになっていたが、夏季に悪くなることのある肉だけは例外である」(同:576)。

これも相互扶助の一形態である。


容器や袋は白樺の樹皮や獣皮で作る。これならば軽いし、落としても割れない。
自給もでき、重くて壊れやすい土器や陶器とちがい、移動生活に適合している。

食事の際の慣習として、

「普通の食事の時は、食物の一部を天に向かってはね上げ、地に落とし、火に投入してから、馬神像につけてこれを拝むのであるが、出猟にあたっては別に二椀を設けて一を馬神に、一を家神に供えて大猟を祈ってから食事する。

また出猟中は食事前必ず山神にその一部を捧げる意味で地に捨てるのである」(泉:22)。


酒を飲むときも同様である。

長老格の者が「酒を火にそそぎ、なにやらとなえると、ほかの者もこれにつづき、さらに茶碗の酒を指先で四方にはじき神々にささげる」(永田:109)。

オロチョンは酒ばかりでなくタバコも好み、人が出会ったときのあいさつにもタバコが用いられる。

「客ある時はまず客の煙管をもらって、煙草をつめて火を点じて進め、次に客は家族の煙管を一つ一つ受け取ってこれに自分の煙草をつめて火を点じて返す」(泉:22)。

人の好きなものは神も好みたまうべしとてか、山の中の神霊にもタバコを供える。

たとえば山神パイナチアの祭祀として、

「一本の高い老樹を選び出し、その樹皮を削り、そこに人の顔形を描き入れて、紅布でこれを覆う。

狩人がそこを通り過ぎるときに、煙草に火を点けて捧げ、酒を供え、叩頭し、獲物を山神へと捧げる。

そして馬の尻尾、あるいはたてがみの毛を数本ほど切ってその付近の木に縛り付ける。
遠くに猟へ出かける時には必ずこれを行なう」(王・関:172)。


名前のタブーについて、(エヴェンキの1氏族である)マネグル族を調査したマークはこう書いている。

彼らは「成人となった同族の名をいかなることがあっても人に告げることがない。

もし誰かがマネグル族に向ってこれをたずねることがあれば、「お前さんのたずねるのはこれこれの人物の息子か父か親戚だ」と答える。

それ以上に正確な回答をうけることは絶対にできない。

この奇異な習慣は年少者にたいしては適用されない。

年少者の名前についてならばどのマネグル族にたずねても即座に答えるのである。

マグネル族が自分の名を尋ねられた場合には沈黙して答えないか、全然別の名をもって答えるのが普通である」(マーク:145)。


トナカイについては、「異境雑話」にある中川五郎治の観察を引こう。

エトロフ島番所につとめていた1807年にロシア人に捕えられ、オホーツクに連れて行かれた五郎治は、そこを逃亡、ヤクーツクを経てイルクーツクへ至り、1812年に松前に帰着した。

彼がたどった道は北方ツングースのただ中であった。彼はツングースを「トングシ」と呼んでいる。

「鹿(オレニ、一名サハタ)、毛色種々にして白きもの斑なるもの、灰色のものもあり、腹多く白し、トングシ、之に乗るには左足をオレニの尻の上へ掛け、鞍壺へ飛乗る也。予等乗るに、トングシの膝を台にし、夫江足を掛け乗馬の如く鞍へ力を入れば、鞍翻(ひっくりかえ)る也。

トングシ、鹿に乗るには右よりす。魯西亜にて馬に乗るには皆左方よりす。
故に右よりするものはトングシ也とて大いに笑ふ。

鹿は一日、エツテ、宿に着すれば皆放ち遣る也。
其時、鹿、雪中に鼻を差入、嗅ぐ、而してモーハという苔の在所を自ら掘て之を喰ふ。飼葉の世話する事もなき也」(加藤1986:147f.)。


「夏は青草を喰ふ。人の小便を至て好む。若し人、途中にて尿すれば、此鹿、荷を駄し人を載せながら争ひ集って嘗む。…

(トナカイは)腹の上には乗らず、前足の上に小き鞍体の物を置き、皮の腹帯一筋かけて乗る也。鞍持ち至て悪しく、初て乗時には隙なく落つる故、左手に綱を取り、右手に雪杖を持て乗る也」(同:148)。

乳搾りもするけれど、牛などと違いそれによって生活を立てるわけではない。
トナカイは運搬手段・交通手段であった。

そういうものとしては馬がいるが、草原の動物である馬は牧草のないタイガの中では生きられない。
体格も積載量も馬には劣るが、トナカイ苔の生えているツンドラ地帯および凍土層の上の樹海の中では、トナカイこそよい交通手段なのである。

彼らの足のつくりも森の中を歩くのに適していて、林中を行くなら馬よりずっと速い。

ただし、オロチョン族はトナカイを飼わず、馬を飼う。
トナカイ苔の南限に近い北満ではトナカイ飼養がむずかしく、逆に草原には近いので、馬飼養に移ったのだろう。

トナカイを飼うエヴェンキを漢人は「使鹿部」、馬を飼うオロチョンを「使馬部」と呼んだ(「使犬部」もあり、これは犬橇を用いるアムール川下流のナナイなどを指す)。


狩猟は男の仕事で、トナカイの世話は女の仕事であった。

エヴェンキ族の間では男女の分業が厳格に守られていた。

言うまでもない女の仕事の第一はお産であるが、それは産屋でする。
家族の幕居のそばに小さな幕居を立てて、そこで行なうのだ。
潔めが終わるまでそこにとどまる。

育児・炊事も女性の肩にかかる。

男女の分業は、馬オロチョンの場合「男の仕事は出猟、獲物の処理、交易、薪割り等であり、女の仕事は子馬の飼育、放牧馬群の監視、馬乳搾り、馬乳加工品製造、白樺材の器具、衣服等の製作等である」(泉:28)。

トナカイ飼養民の場合馬とトナカイがいれかわる。
皮を剥ぐのは男の仕事で、なめすのは女の仕事になる。

シャーマンには男も女もいる。

狩りは山野を跋渉し、冬の森の中に野宿したり、2日も3日も待ち伏せをしたりと、体力も集中力も、知識も技能も必要なたいへんな仕事であるが、狩りに出ないときのエヴェンキの男はキャンプで怠惰にのらくらしている。

キャンプでの毎日の仕事はほとんど女の肩にかかっている。

仕事の男女分業が厳格なためだが、しかしいつも忙しいわけではなく、「ツングース族の間では、五時頃にはどこかの家々(極く普通のツングース族の幕舎)に、数人の人々が必ず集まっている。

其所では彼女等に恰も欧羅巴の交際社会に於けるように、お茶を飲み、そしてあらゆる種類の事について話をしている。

それらの風習、仕方、そして特に彼等が流行や風聞などに払っている関心は、欧羅巴人のそれらに類似していることは、真に驚くほどである。

或る有名な旅行家はツングース族を"La noblesse de la Sibérie"(シベリアの貴族)と呼んでいるほどである」(シロコゴロフ1967:222)。


食用や販売用の果物を採集するのも女性の仕事である。

それをさがしに森へ入ったとき、「婦人達は往々、果物や漿果を極めて好む熊に遭うことがある。しかし実際上からいえば、熊は決して婦人達を襲うことがなく、時としてはこれに一顧も与えず、これと並んで漿果を食べつゞけることもある。
もし熊が襲って来れば、婦人達は極めて敏捷に防ぐのである」(シロコゴロフ1941:518)。


彼らの生活を支える狩りの獲物は主に鹿であるが、熊狩りも行なった。
しかし熊には畏敬の念をもっていた。

熊は「父の兄を意味する「アマハ」と尊称された」(大塚:114)。

熊狩りは冬に行なう。

熊の穴に棒を突っ込んで目覚めさせ、熊が怒って穴から頭を出したところを鉄砲で撃つ。

「狩人は獣の中で、クマを獲ったときだけ「ボタール」という。これは、弾が当たったという意味であるが、クマを撃ち斃したことを、直接あらわすことばではない」(同:216)。

熊の肉で「スウヴァー」という特別な粥が作られるが、それを食べはじめる前に、「ひとりひとりが「カァー、カァー、カァー」と、カラスの鳴き声をまねるのが決まりである。その理由をたずねると、だれもが分からないという。

オルグヤより北方のモー河で育ったひとりの狩人は、「俺が食うんじゃないぞ、ロシア人が食うんだぞ」と言ってから食べるそうだ」(同:217)。


「格別な霊力をもつ森の支配者であるクマの骨は、宴のあと大切に残さず集められ、ほかの獣のばあいにはなされない、霊送りの儀礼が手厚く執り行なわれるのである。

頭骨・頸骨・脊椎骨・肋骨・四肢骨など、おもだった骨はすべて骨格どおりに順序だてて、ていねいに細いヤナギの枝で苞状につつまれ、他人の眼につきにくい森に持って行く。/そこに二本の柱を立てて、人の高さほどの位置に横木をわたす。この横木に骨の包みを縛りつけるが、頭骨は陽がのぼる東の方に向いていなければいけない。

これによって、クマの霊は森に還ってゆき、そこで「骨からの再生」をはたして、ふたたび人間たちの前に毛皮の衣服を着てあらわれると信じられていた」(同:217f.)。

アイヌの熊送りにも連なる北方狩猟民の熊崇拝のあらわれである。


狩猟民である彼らは、恵みとして獲物を与えてくれる「森の主」「獣の主」を信じていて、それに基づく儀礼もあった。

「昔エヴェンキ族はシンケーレーヴーン(毛皮すなわち獲物を追う)という狩猟儀礼を全氏族的規模でこぞって催し、それを氏族の聖所、ブガドという聖なる岩もしくは樹木の傍らで行なった、狩人たちは毛皮外套に身を包んでトナカイやオオシカの群をあらわし、動物ダンスをすることによって、群を氏族の猟区に誘い込む。彼らは動物を仕とめたしぐさをして、この無言劇を終える。

そのほか小さな動物の木偶を配して、密林全体の光景をミニチュアで再現し、集団狩猟のおきてを例示する。

シャマンもまたこの儀礼的な狩猟準備に参加する彼は神おろしの儀を行なって聖なる氏族岩ブガドの下に住む動物の女主人のところに脱魂状態のうちに到達する。

ここでシャマンは、この動物の女主人が巨大な牝オオシカあるいは牝の野生トナカイの姿をして大群の中にいるのに気がつく。その許しを得て、シャマンは自分の氏族の猟区につれて来た群から動物を捕える。

類話によっては、この女主人を老婆としており、エスキモーのセドナと同様、シャマンはどの皮シャツにいるしらみをとってやらなければならない。

そのすきにシャマンは彼女の脇の小さな革袋から、密林獣の毛を数本盗んで、自分の氏族の猟区にふりまくと、たちまち野獣に変わる」(ポドカーメンナヤ・ツングースカ川地方。フリートリッヒ:121)。


このような無言劇や踊りを伴う狩猟儀礼は、シベリアの、たとえばレナ川上流シシキノの岸壁画を思い起こさせる。

そこには石器時代から17・8世紀まで、その時代のその地の住人によって絵が描きつがれてきた。

その中には動物の絵、なかんずく狩りの主要な獲物であった鹿の絵が多い(オクラードニコフ)。

その中のどれかは彼らの祖先によって描かれたかもしれない。絵に描くことも呪術のひとつであっただろう。

絵に描けば、対象を自分の力の下におくことができる。


 なお、エヴェンキの踊りは輪踊りである。

1843年にミッデンドルフが見たオホーツク海沿岸のツゴール川のエヴェンキの踊りは、熱狂的なものだった。

「最初小さな輪をつくる。その輪は、男女が交互にならび、それには非常に年とった老人も入っている。… 手をつなぎ側方へ足を移動するだけの単調な踊りがはじまった。

ほどなく、しかし輪の踊りは活気をおびてきて、とんだりはねたりする動作になり、全身がゆれ、顔はほてり、叫び声は歓喜にみち、互いに相手の声を圧倒しようと大声をはり上げた。

毛皮の半外套(毛皮上着)を脱ぎすて、腰当て(すねあて)も脱ぎすてた。

最後は狂気が一同をとりこにした。何人かのものは、なおもそれにあらがおうとしたが、もうすでにその中の一人の首がかすかに拍子をあわせて、右へ左へと揺れはじめる。と突然、強固な堰が破れたかのごとく、見物人が踊りの輪の中に突入する。踊りの動作はまったくばらばらになり、騒然となって、歌は絶叫と化す。

フルヤー、フルヤー−フーゴイ、フーゴイ−、ヒョーギー。ヒョーギー−フムゴイ・フムゴイ−ヘーカ・ヘーカ−アハンデー・アハンデー−ヘールガ・ヘールガ。

ついに踊りの輪はつかれ切って乱れ、足はいうことをきかず、声もかれはてる」(トゥゴルコフ:121)。


彼らの狩りは、夜の天空にも神話的に映される。

大熊座は宇宙のオオシカ=ホグレンである。

「ホグレンはある時天のタイガの藪から出てきて、山の頂に太陽があるのを見つけると。そこへ行って、太陽をつかまえ、藪の中に持ち去った。そのために、真中の世界は夜になった。

人間たちは驚き、度を失い、何をすべきか、どうなったのか分からなかった。
真暗闇のなかで暮らすのは大変だった。恐ろしいし寒い。だが、どうやってこの災いから逃れるべきか誰も分からなかった。

その時、人間たちの中で英雄マインが名乗りをあげた。足に軽いスキーをはくと、彼はホグレンの足跡を追った。真夜中に追いつくと、巨大な弓で矢を放ち、射止めた。善良な英雄はホグレンから太陽を奪って、真中の世界に昼をとり戻した。

しかし、英雄自身はもはや人間たちのもとに帰ることができず、天に留まり、昼と太陽の守護者、生命の源泉となった。

それ以来、地上では昼と夜の交替が起こる。すなわち、ホグレンが明るく暖かな太陽をつかんで、天のタイガの藪の中に持ち去る度に、善良な英雄マインは滑りの良い翼スキーをつけ、オオジカの後を追いかけ。真夜中にこの宇宙の獣に追いつくと、明るい太陽、すなわち昼を人間たちのために奪い返すのである。


この伝承では大熊座のひしゃくの四つの星はホグレンの脚、柄の三つの星はマインとマインの放った二本の矢と考えられている。すなわち、最後の。もっとも遠い星がマイン、その次はマインが疾走中に大弓から放ち、獲物を外れた一本目の矢、ひしゃくに近い三つ目の星がホグレンを射止めた二本目の矢である」(荻原:122)。

天の川については別の伝承がある。

「宇宙の熊アンギは天空を東から西へ太陽のオオジカ(トナカイ)を追いかけ、それに追いつき、そして殺す。天の川はアンギのスキーの跡である。大熊座は熊にまだ食べられていないオオジカの脚である、オオジカを食べてしまうと、熊は最後には体がひどく重くなって、辛うじて足をひきずって行った。それで、天空の西の方では道は一本でなく、二本残った」(同:122)。


彼らの宇宙観は、世界を三層に考えていた。

最高神と他の神々が集う天上界、人々が日常暮らしている中間の世界、死者の魂の宿る地下の世界に。

それは氏族河の上流・中流・下流とも観念された。

中流には生きている氏族員が、下流には死んだ氏族員が住んでいる。

上流には将来この世に現われる氏族の魂が大きな天幕に住んでいる(フリートリッヒ:115)。

シャーマニズムは、そのことば(「シャマン」)にしてからがツングース語であり、周辺のシベリア諸民族のもとでと同じく、ツングース民族文化の重要な構成要素である。これについては前述した。


19世紀から20世紀の初めにかけての彼らは、こういう人々であった。

4.

エヴェンキは今も私たちを鍛えつづける。


研究は資料がなければできない。当たり前のことであるが、それはつまり、資料によって研究が規定される、ということでもある。基づく資料によって結ばれる像は異なるのである。

エヴェンキ族の研究には、民族学・言語学、歴史学、考古学などが関係する。歴史学は史料・古文献により、考古学は発掘された遺跡や出土物により、現在学としての言語学や民族学は現地調査の報告によって進められる。

それを総合する必要があるわけだが、そのとき上の事情をよくわきまえておかなければならない。相互参照はもちろん必要だが、しかしできるだけ、文献史料なら文献史料自体、考古学資料なら考古学資料自体によって解読されるべきで、安易に性格のまったく異なる隣接分野と突き合わせてはならない。

まずそれぞれの領域で尽くしてから始まるのだ、ということを忘れてはならない。それぞれに方法が異なるのだから、安直な突き合わせは安直な結論しかもたらさないだろう。

戦前に大きくはばたいた日本の東洋学は、かなりの部分が漢字をアルファベットにする作業であった。驚くべき大量の文献の堆積は、中国史とその周辺史にとって宝の山である。

ただし、それは表音文字でない漢字で書かれている。漢族については漢字でいい。しかし異族異域の固有名詞は何を表わしているのか、それをまず解読しなければならない。

土地の比定、族名の比定、人名の比定を重ね、読み解いていく基礎工事をまずほどこす必要がある。かつ、漢文文献を近代語に「翻訳」する場合、それら特有の思考法、コンテクスト、「語法」や「文法」(社会的歴史的な)に通暁しなければならない。

その点で日本人は有利な立場に立っていた。欧米人はやはり漢字文献読解の力でも量でも一歩落ちるし、当時の中国人は伝統的な学問に縛られていて、この分野に弱かったから。それが日本、なかんずく京都を支那学・東洋学のひとつの中心にした。

日本における東洋学のパイオニア白鳥庫吉は、たとえば匈奴は何民族かという問いに対し、記録に残る断片的な彼らの言語資料、固有名詞や役職名などを手がかりに、それを近現代の言語学資料で解き、匈奴はモンゴル系である、などという答えを出した。

考えてみればすぐわかるとおり、この方法はおかしい。千年前二千年前から言語も民族も移り変わっているだろうに、昔の名称を変化を経たあとの近代の辞書中の単語と突き合わせて施した解釈で出した結論は信頼できるのか。

それはもっともな論難だが、しかしほかに何も参照できるものがなければ、無理筋気味の力わざもやむをえない。しかし、そういう「英雄時代」のあとでは、それぞれの分野での研究を突き詰めたのちに相互参照するのが本道である。


エヴェンキの研究においては、日本は有利な位置を占めている。

ロシア・中国は実際にエヴェンキ族を国民にかかえ、それは研究に非常に有利だ。特にエヴェンキ族の大半をかかえるロシアは。

だが、為政者として「当事者」であることのデメリットも同様に存在するわけで、そうでないことによる客観性が、離れた国々にはある。

また、ロシア始め欧米は漢文史料にうとい。逆に、中国は漢文史料と漢字に縛られすぎる。固有名詞の漢字表記もわずらわしいが、普通名詞についても、長すぎる漢字の伝統がすべての語に含意を与えるので、独特のやりにくさがある。

即し、かつ離れる距離があるのは大きなメリットだ。実は「当事者」でもあった。満州国時代には現地調査もできた。だから、外にはロシア・欧米の研究成果と中国の伝統を踏まえ、内には八百万の神々や神懸りを今もどこかで信じていて、「森の民」(国土の3分の2が森だ)でもある日本人は、彼らを理解するためのいい条件を備えている。


エヴェンキに関して言えば、明清時代以前に記録はない。中国人には宿痾があり(おそらく不治の病だろう)、何でも中国にある/あったと考える。だからもちろんエヴェンキについても中国の古史書の中に発見できると信じている。だが、その点はよく検討されなければならない。

「アジアの書記官」中国の史官たちは、周代以来厖大な量の歴史記録をせっせと積み上げてきた。漢字で。その古記録のうちには周辺の民族についても山ほど記述があるわけだが、しかしそれらは基本的に受身の記録である。

朝貢に来た部族、侵攻してきた部族の記録がほとんどで、それをしない部族についてはせいぜい伝聞であり、それ以上の記述はない。要するに、農耕・牧畜を行ない、首長がいて、軍事行動を起こすことができ、国家を形成しているかその手前の状態にあるものの記録と、彼らから得た偏見まじりの伝聞ばかり、ということだ。

狩猟・漁労・採集、トナカイ飼育(馬飼育)、円錐形テントによるタイガ・ツンドラ地域の移動生活、風葬、氏族制と族外婚、シャーマニズム、無土器などがエヴェンキ民族を形成する指標的な文化要素である。

少なくともこれだけの文化要素の複合がなければエヴェンキ民族とは言えない。そして、古記録中にそれぞれの文化要素についてはさまざまな記載があるが、この複合をもつものについてはない。

明清時代以前の古文献中、関係がありそうなのは断片的な文化要素の記述にとどまる。

トナカイについては、「新唐書回鶻伝」にある記事が最古らしい。いわく、「太宗の時代に、能くみずから〔唐に〕通交した北狄としては、さらに烏羅渾があり、これは烏洛候または烏羅護ともいい、京師の東北六千里ばかりの地にあたり、東は靺鞨西は突厥、南契丹、北は烏丸に達するが、だいたいの習俗はみな、靺鞨と同じである。烏丸はあるいは古丸ともいう。/また鞠〔という部族〕があり、あるいは裓ともいい、抜野古の東北に住んでいた。〔その地方には〕木はあるが草はなく、地面には苔が多い。〔その地方には〕羊と馬はおらず、「人は鹿をやしなうこと牛馬のごとし。ただ苔にみを食す」(松田:294)。

その〔鞠の〕風習としては、車に乗り、また、鹿の皮で衣をつくり、木を集めて家屋を造り、尊い者も卑しい者もいっしょに住む」(「回鶻伝」、佐口透訳注、騎馬民族史2:447。1個所松田氏により訂正した)。

トナカイを飼うのならたぶんエヴェンキの祖先だろうが、きわめて断片的な伝聞である。

「契丹の別類」室韋という集団はおもしろい(「室韋・契丹・奚伝」、田村実造訳注、『騎馬民族史』1)。

「北史室伝」によれば、「その言語は庫莫奚・契丹・豆〔莫〕婁と同じである」(p.291)が、南室韋・水室韋・鉢室韋・深末怚室韋・大室韋と五部に分かれるうちの、大興安嶺の西にあったと思われる大室韋は、「言語は通じない」(騎馬民族史1:294)。

「新唐書室韋伝」によれば、「その言語は靺鞨語である」(同:291)。「旧唐書」では9、「新唐書」では20余部に分かれるとされ、そのうちには史書中「モンゴル」の初出である「蒙兀/蒙瓦部」もある。

つまり言語を異にし、生業も異なるらしい雑多なグループをその中に含んでいるわけだ。

「父母が死ぬと男女はあつまって哭くこと三年。屍は樹上に置く」(「魏書失韋伝」、同:290)という風葬の習俗や、「貂皮を多くとる。… 男女とも、みな白い鹿皮の上衣と袴を着る」という記述にはエヴェンキと似た点も見出せるが、農耕牧畜民である点で決定的に違う。

「多くの粟や麦および穄がある」(同:291)。
羊はおらず、馬は少なく、豚や牛が多い。「牛車にのり」(同:292)、「麯で酒をつくる」(同:291)。

しかし、以下の記述には注目するべきだ。

「契丹の北のかた三千里にある」南室韋から「北方へ十一日ゆくと北室韋(水室韋であろう)に至る。〔北室韋は〕九部落にわかれ、吐紇山をめぐって住んでいる。その部落の大酋長は、乞引莫謹賀咄と号す。各部には、莫何弗が副としている。気候はもっとも寒く、雪が深くて馬の背を没するほどである。

〔人びとは〕冬は山に入って穴居生活をするが、牛畜は凍死するものが多い。麞や鹿が多い。〔人びとは〕狩猟を本務とし、肉を食い毛皮を着る。氷を割って水中に没し網で魚や鼈をとる。地には積雪が多く、〔人びとは〕穴に落ちこむのをおそれて木〔そり〕にのって進み、おとし穴があると止まる。みな貂を捕えるのを仕事とし、狐や貂の毛皮を冠り、魚皮を衣る。

また北へ行くこと千里で鉢室韋に至るが、〔その部落の人びとは〕胡布山のもとに住んでいて、人口は北室韋より多く、幾部落あるか知れない。樺の皮で屋舎をおおう。そのほかは北室韋と同俗である」(「北史室韋伝」、同:293)。

さまざまな集団の寄り集まりらしく思えるこの室韋の中、特に北室韋と鉢室韋の中には、ダウールとかソロンの祖先のような部族も数えられていたかもしれない。

「徴税はなく、狩猟はつねに衆をよび集めて行ない、おわるとみな散居する。互いに臣属することがない。ゆえに部人は猛悍で戦闘を喜んだが、ついに強国となることはできなかった」(「新唐書室韋伝」、同:301)。

ダウールは、1643年に探検に来たポヤルコフの報告に、

「彼等はゼーヤ河およびシルカ河沿岸に六種の穀物を作っていた。
即ち大麦、燕麦、稷、蕎麦、豌豆、亜麻である。

同地方にはまた胡瓜、罌粟、大豆、蒜、林檎、梨、胡桃等も生長する。彼等の有する家畜は馬、牛、豚(極めて多し)等で鶏も亦飼っている」(池尻:224)

とある。農耕牧畜を営むかたわら狩猟・漁撈も重要な生業であり、エヴェンキと関係の深い彼らの祖先は、室韋の中にきっといただろう。だが、純粋な狩猟民であるエヴェンキはその中に含まれてはいまい。

氏族制と族外婚については、たとえば「後漢書烏桓伝」にも見ることができる。

「その性格はたけだけしく頑固で、怒れば父や兄すらも殺したが、しかしついにその母親には、危害を加えなかった。そのわけは、母親には肉親の一族があり、〔もし母親を殺せば、復讐を受けることを免かれないが、これに反して〕実の父や兄は〔殺しても〕一族の者から報復を受けなかったからである」(「烏桓・鮮卑伝」、河内良弘訳注、騎馬民族史1:155)。


1712−15年、清朝からカスピ海北方のトゥルグート汗のもとへ使した満洲人トゥリシェンの旅行記「異域録」には「ソロン人」への言及が多々あるが、「ソロン」の名で指しているのは明らかにシベリアのエヴェンキ族である。

エニセイスクにロシア人、ブリヤート人とともに住んでいる「ソロン人」(トゥリシェン:53)は、もちろんいま中国で「ソロン(索倫)」と呼ばれている人々ではありえないが、清代の「索倫部」ということなのだろう。

それには山中に住む狩猟民を指す「鄂翁喀拉索倫(エオンコル・ソロン=ダウール語で:野生ソロン)」という集団もあった(シロコゴロフ1941:120)。

「ロシア人は、ソロン人のことを、カムニハンともトゥングースとも呼んでいる。

ソロン人は馴鹿を飼っているが、その色は薄白く、体の形は驢馬や騾馬に似ている。ソロン人は荷を積んだり、車につないで牽かせたりして使う」(同:57。カムニハンはブリヤート人がエヴェンキを呼ぶ名前)。

そして、シベリアの狩猟漁撈に従事するソロン人からは毛皮、狩猟漁撈をしないソロン人からは金を貢納させている(同:87)。清国内のソロン人やダフール人は蝶鮫を貢物としている(同:123)。

一方で、使いの者の出身地のさらに向こう(黒竜江中流域)には「ビルラ(ビラルチェン)、使犬国(ゴリド/ナナイ)、モニイル(マネグルであろう)、グルイル、などという部族」がいて、毛皮を貢物とすると言っている(同:125)のを見れば、同じくツングースであるこれらの諸族とソロンとは区別されているようだ。

この例をもって推せば、ある族名(ここでは「ソロン」)のうちに、似てはいても生業において来歴において相違も大きい集団(エヴェンキ)が含められてしまうのはよくあることである。

その一方で、今日の民族学知識に照らせば同族であるはずの集団が別族のようにあげられる(ここではエヴェンキ=ソロンと別立てにされたビラルチェン、マネグル)。

割合新しく正確な清代でそうならば、まして元明以前の古記録はそうだろう。

後述「開原新志」にある「乞烈迷」(ギリミ)には今日のギリヤーク(傍白:今の公称はニヴヒだが、これは大陸側の彼らの自称であり、サハリンに住む者は「ニグヴン」を自称とするのだから、そうは言わないサハリンの人々まで「ニヴヒ」で標準化するのはどうか。「ギリヤーク」でいいんじゃないか。

でなければ「ニヴヒ」「ニグヴン」の2つに分けるか)以外の民族も含まれているようだし(ギリヤークは「吉里迷」と別字で書かれる)、「西伯利東偏紀要」(1885年)には、「費雅喀」(フィヤカ:ギリヤーク別称)と別に「済勒彌」(ギリミ)を挙げ、「松花江ノ両岸ハ旧ト費雅喀人ノ居ル所為リ、今ハ則チ俄倫春・奇勒爾二族ヲ合シ、凡ソ江沿ニ遷居スル者、済勒彌ト統称ス」(和田:495)としているのを見てもいい。

そのように明らかな異族がひとつにまとめられているのは、しかるべき理由があってのことかもしれないと考えてみていい。あるいは単にその史料の書き手の恣意によるのかもしれず、そこはよく吟味されなければならない。


明清時代を見ると、「大明一統志」に引かれた元代の地誌「開原(開元)新志」にある「乞烈迷」(ギリミ:ギリヤークを指すナナイの呼称)の四種のうち、「北山野人」は「鹿ニ乗リテ出入ス」(和田:467)。明末の「遼東志」には、「鹿ヲ養ヒ、乗リテ以テ出入ス。海驢・海豹・海豬・海牛・海狗ノ皮ヲ水産ス」(同:478)と、海獣狩猟を業とすることが書いてある。

これはオホーツク海沿岸に住むエヴェンキに近いエヴェン(ラムート)族の祖先かもしれない。

乾隆時代の「皇清職貢図」には「鄂倫綽」(オロチョン)の名が見える。いわく、

「近海之多羅河・強黔山ニ游牧ス。男女皆披髪跣足、角鹿(即ち馴鹿)ヲ養ヒ魚ヲ捕フルヲ以テ生ト為ス、居ル所魚皮ヲ以テ帳ト為ス、性懦弱、歳ニ貂皮ヲ進ム」(同:480)。

「多羅河」はアムール河口の西でオホーツク海に注ぐトゥグル河であろうとされる。

「鄂倫綽」は「吉林通志」にも言及される。「奇勒爾」(キレルKiler、アムール地方のツングース系諸族が新来のツングース族を称した語)は寧古塔の東北二千余里の所にいるが、そこは「即使鹿ノ鄂倫春遊牧スル処所、職貢図ニ所謂鄂倫綽ナル者是也、有使馬・使鹿二部、使鹿ハ使馬之外ニ在リ」云々(同:490)。


清代からエヴェンキの歴史時代が始まる、と言っていい。

姿の見えないエヴェンキたちが、このへんからようやく見えてくる

みずからが南方ツングースである清朝はエヴェンキ族の分布地の南縁を実効支配していたので、情報も正確になってくるし、ロシア人による記録も出てくるので、それと対照しつつ論じることができるのだ(ごくわずかながら日本人の記録もある)。

それまでは漢文史料の独占状態であるから、漢文史料の性格を斟酌しつつ読み解いていく作業となり、記述の背景や事情や意図や誤解半解や漢人文化特有の偏向など、さまざまなものがからんでいるのでわずらわしい。見方が複眼となるこのあたりからすっきりしてくる。

19世紀になると、特に1854−56年のシュレンクの探検以降は、完全に「断片的古記録」から「体系的民族誌の時代」に移行する。


清代とは、明代から組織化が進んできた毛皮貢納体制が完成する時代である。
ロシアのシベリア進出も毛皮を求めてのことだった。
気の毒な貂の災厄が東西から国家的に追い求められた。

貂皮は紀元前から文明世界に知られていたが、美しいその毛皮は北の果てからもたらされるものだから貴重だった。紀元100年ごろの「説文解字」に、貂は「鼠の属なり、大にして黄・黒。胡の丁零国より出づ」とあるように、北方の遊牧民がそれをもたらしていた。

遊牧民中北辺の者がみずから狩ることもあったろうが、彼らのさらに北の森の中に住む狩猟民から得ていたにちがいない。それを交易する「セーブルロード」はたしかに存在していた。モンゴル高原を通り「北荒」に至る唐代の「参天河汗道」は貂皮を税として維持されていた(松田:309,311f.)。

タイガの狩猟民もかなり昔からユーラシア商業に連なり、北の森にない物資を得ていたのである。

オロチョン族の猟師は、ダウール人や漢人、ロシア人の「アンダ」(友人)と商売関係を結んでいた。

定期的に開かれる交易市(バクジョール)での物々交換の相手であり、またオロチョンが必要に迫られて村を訪ねたときは必ず自分のアンダの家に泊まり、アンダも親戚の訪問のようにこれをもてなすし、毛皮をもたずに前借りを求められてもこころよく応じる。

計算にうといオロチョンとの取引は大きな利益になるからである。
この関係でオロチョンは金銭に直せば大損をしているのだが、金銭の外にある彼らにも一応のメリットがあるシステムだから続いたのであろう。


17世紀、ロシアがアムール河岸に暴力的に進出してきたとき、清朝は、アムール川の北にいてロシア人の襲撃を受けていたダウール族とソロン族を嫩江地域に移住させた。1650年の頃である。

彼らの安寧のためでもあり、彼らから食料を略奪して調達していたロシア人から糧道を断つ目的でもあった。

そして、ロシア人をアムール地方から駆逐し、ネルチンスク条約(1689)を結んでこの地方を清朝領と確定させた康熙帝の頃から、布特哈八旗を始め、ダウール人、ソロン人とともにオロチョン人も八旗軍に組織された。布特哈八旗は打牲部とも言われる。狩猟する者をもって編成されたのでこの名がある(池尻:51ff..)。

ロシアでも同じ頃、「友好的な」ツングースとブリヤートの氏族から徴兵してロシア人を支援する予備隊として使ったという。のちにザバイカル地方のツングースとブリヤートのコサック連隊となった(フォーシス:115,189)。

満州国時代の日本軍も、山野を自分の庭のごとく知り尽くし、射撃に秀でた彼らを、来るべきソ連との戦いに利用すべく訓練を施していた。中露の伝統に忠実だったのだ。

軍には「文化に浴せしめず即ち原始生活の維持。帰農せしめず。特殊民族としての隔離。阿片厳禁。白麺厳禁。独立自活の道を講ずる、即ち依存生活の排撃等」という指導要領があったという(中生:234)。


アヘンのことも書いておかなければならない。

「彼らの言によると、だいたい次の二点から阿片を用いるようになったとのことである。

(1) 厳寒期出猟露営の際、これを服用すると、酒と異なって身体のしんから暖まって睡眠を取りやすくなる。

(2) 不猟で食物がないとき、阿片は空腹感を麻痺させる不可思議な力を持っている。

以上の理由から阿片を常用することとなり、その後は中毒者となり、禁断症状がおきると、身体のあらゆる面に圧迫感を感じ、涙・唾液などが止めどもなく流れ、あくびを連発する」(泉:21)。

「阿片服用は一人前になって出猟しうる男子の当然の権利であり、誇りでもある」(同:21)から、泉の調査した1936年に25歳以上の男子では81パーセントがアヘンを常用していた。

ただ、彼らはアヘンを吸わず、生のまま食うので、生理的な悪影響は少ないという。

この悪習は清朝末期に漢人苦力から入ってきたものであるが、日本軍はみずからの指導要領に反してそれを利用していた。

永田がオロチョンの調査に行ったとき、特務機関を訪ね、オロチョンを掌握する方法を聞くと、機関員はこともなげに、「それは簡単だ。彼らが手にいれにくい阿片を利用することだ。これさえあれば何でもないよ」と即答したという(永田:17)。

こういう陶酔への溺れやすさが彼らの致命的な弱点かもしれない。民族を滅ぼしかねない過度の飲酒癖や、煙管があいさつの小道具とまでなった愛煙癖と並べて考えるべきである。すべて農耕定住民が彼らを籠絡すべく山にもたらしたものであった。

あるいは、シャーマニズムの本質でもあるエクスタシーがそこに関係しているのかもしれない。

また、シャーマニズムを信奉するシベリアの諸民族の間には、不意の刺激に対する過敏なヒステリー反応(いわゆる「極北ヒステリー」)がよく見られたことを想起しておこう。これらの嗜好はそういう諸連関の中に置いてみてもいい。


考古学は、結局のところ「石と骨の学問」である(もっと言えば、「学問的墓暴き」、「穴を掘って穴を見つける作業」)。定住して、しかるべき大きさの構造物を作り、墓を掘って埋葬をする集団でないと、考古学の網にはかかりにくい。エヴェンキのような天幕で移動する小集団は、あらかじめそこから漏れるようにできているようなものだ。

竪穴式住居にも住むことはあったようだが、死体は風葬、つまり樹上に置き朽ちるにまかせて墓を作らず、土器もなく、石器の道具類ぐらいしか残さなかったツングースの祖先を、考古学調査で発見することはむずかしい。

鉄器を使っていても(彼らの間には鍛冶師がいる)、その生活形態は「歩く旧石器時代」なのだから。

オクラードニコフは新石器時代末期のシルカ川洞穴遺跡や紀元前1800−1300年ごろのグラズコヴォ文化の遺跡出土の人骨がエヴェンキ人に酷似するというが(加藤1994:35f.,43f.)、土器をもち埋葬をする文化なら、今のエヴェンキ狩猟民に直接結びつくことはない。

定住民からタイガの移動狩猟民が析出したとも考えることはできるが、それは仮説にすぎず、証拠はない。

定住民集団から流出する個人や集団はあったに違いないが、流入していく先には、生活技術の体系に裏打ちされた文化を伝承してきた狩猟民の集団がいたのだから。

たとえば記録のある近世に牧畜民ヤクートがトナカイ飼養民の社会に流入し、生業は受け入れながら言語はヤクート化した例のようなことは史上何度もあっただろう。

だが、重要なのは太古からの連続のほうであって、中期旧石器時代から人類はシベリアに広がっていたが、それはもちろん狩猟採集民である。こちらが本質的な問題で、それがエヴェンキかどうかは二義的な問題だ。

土を掘る考古学では、「土」が特権的である。葬法には土葬・水葬・火葬・風葬があるが、「骨の学問」である考古学は、骨を残す土葬をよりどころとする。

風葬は偶然骨が残ったときだけしか研究されない(しようがない)。
器具においても土器陶器が卓越する。

木や皮のように朽ちてしまうものはそもそも資料として例外的にしか存在しないし、金属器は金属器時代以前にないのはもちろんだが、以降も、有機物ほどではないが腐食の問題があり、それが多少のさまたげになる。

朽ちずに残り、加工しやすいため形や文様で分類しやすい土器は、考古学の寵児である。だからそのふたつをもたないエヴェンキは、その存在自体が考古学の手から逃れるためにあるようなものだ。

土器のない文化は、ひとつは先土器文化であるが、「非土器文化」もあるわけだ。

移動生活に不便(重い上に壊れやすい)な土器をもたないのもひとつ、しかしインドのような高度な文明地域でも、金属器を好み陶器をほとんど使わないなどということがある。インドは「土器陶器の専制」を相対化してくれる。


歴史学や考古学がこうである。つまり、彼らの歴史について憶測以上のことは言えない、ということだ。そういうふうに学問の網の目をすりぬけるというのはすばらしいことのように思える。すべからくわれらのごとくあるべし、と筆をもつ人たちは考える。われらのようでなければ、われらのようにならねばならない、と。だがそうではないのだ。そのことをエヴェンキは示している。


いま、そのエヴェンキの民族文化は死滅に瀕している。

中国では、恐るべき漢族の厖大な数に圧倒されて、その海に水没せんとしている。

定住を強制され、狩猟を禁じられ、銃を取り上げられた。

狭苦しい日本から見れば広大な興安嶺の森も、漢族の植民と林業開発の波をかぶれば狭い。野生動物も減った。

オロチョンの娘は同族の男と結婚したがらないそうだ。
飲んだくれで、酔えば妻を殴り、農業など定住生活に不適合とくれば、誰が好んで結婚するだろうか。それはもう末期の姿である。

だが、なぜ彼らは酒を飲むのか思いやってもいい。
女が飲んだくれの男を避けるのと同じくらいの道理は、酒を飲む男のほうにもたぶんある。アルコール中毒やそれに起因する変死は中国政府の政策による強制定住のあと激増した(思2000b:19)。

オロチョン自治旗におけるオロチョンの平均寿命は47.5歳(!)である(麻:116)。

文字のない彼らのことばも若年層では話せない者が増えている(文字化されておらず、学校で教えられていないのも話者が減っている一因だが、それは妙な話だ。ロシアでは文字化されているのだから)。

20歳以下のトナカイ・エヴェンキ人の80パーセントがエヴェンキ語が話せない(思2000b:6)。

もともと絶対数が少ないのだから、今の高齢者たちが世を去った後には、定住の村々にはもとオロチョンだった漢族を見ることになるだろう。
民族意識だけは残るかもしれないが(たぶん残る)、それ以外は漢族と区別のつかない人々を。

それはシャモたちがアイヌにしたことでもあった。

「彼らの最大の欠点は怠惰である」と言われている(トゥゴルコフ:43)。

だが、ソ連時代初頭のヤクート北方委員会の報告が言うとおり、「これは、寄生的・ブルジョワ的怠惰ではなく、別の生活習慣および経済条件の産物である。

原住民の生活の一つの面である休息中のみをみて、他の面を見落としている。

つまり、この休息期間によって、いま一つの狩猟の際の極端なエネルギーの消耗−緊張、長時間の忍耐、厳しい寒さ等々による−に適応できる比類ない力を呼び起すのである」(同:45)。

それにはさらにもうひとつの側面があるだろう。
生きていくのに必要なだけの獲物をとり、獲り過ぎないという調整の側面も。

移動生活を送る狩猟採集民である彼らは、定住民の病である「富の蓄積」の強迫におかされていない。

食べていけて、その上に少しばかり余裕があればいい。

だが、蓄積がないということは、「食べていくこと」をむずかしくする。

被狩猟動物の減少は狩猟者である彼らの飢餓につながるから、過剰な狩猟の抑制は死活的に重要である。

そんなエヴェンキは、定住民の、たとえば漢人の狩猟者たちが動物がたちまち絶滅してしまうようなやり方で狩りをするのを憎んでいた(シロコゴロフ1941:198)。

現在中国ではエヴェンキに狩猟が禁じられている。おかしな話だ。
狩りを禁じなければならないほど野生動物が減ってしまったのは彼らのせいではなく、その逆なのに。


ロシアの状況はこれよりずっとましである。
シベリアははるかに広大で、ロシア人は少ない。本来の住地でもある。
その「少なさ」はしかし相対的なもので、絶対的に少ないエヴェンキの人口から見れば絶対的に多い。

集団化(コルホーズ化)はソ連のほうが中国よりずっと早く、死滅したシャーマニズムは中国でより長く残っていた。

現在シベリアで狩猟やトナカイ飼育を行なっている者は少数民族人口の1割以下である。

銃や弾丸は管理され、狩猟は免許制で、許可された頭数以上を獲ってはならない。シベリアが、世界がいかに広くとも、わずか数万の狩猟民を容れるほどに広くない。

それでも中国よりましなのは、面積の広さとともに、あるいはそれ以上に、長く寒い冬や北の大地の広さに感覚が同調しているロシア人のメンタリティに、エヴェンキと似たものがあるからかもしれない。

特にコサックには。リンドグレンが指摘するように、山と平地に棲み分けている北満のコサックとエヴェンキの間には相互に敬意や親愛の感情があった(Lindgren1938)。

中国人にとってはロシア人も北狄で、その意味で同一範疇であろう(たとえばこんな例:

支那人は「露西亜移住民や、稀には原住民のツングースにとって甚だ魅力ある獲物となる場合が非常に多い … 何時も黄金を携帯していた支那人を追捕し殺害することは、ある時期に於いて地方商業の重要な部門であったのである」! シロコゴロフ1941:174)。

狩猟民は生態系の正当な構成員である。「肉食動物」としてその地域の食物連鎖の頂点に立つ。

彼らを養えるほどの獲物の棲む広いテリトリーを必要とし、獲物の数が許す個体数以上は生存できない。

農耕が(そして牧畜が)生態系の「異物」であるのとはまったく違うありかただ。農耕はことの性格として生態系を改変するし、さらに進めば破壊する。

いわんや工業は。

狩猟が地球にとって正常な細胞であるのに対し、農耕はガン細胞なのである。

今そのガン細胞は地表を覆い尽くさんばかりだ。

アムールトラが絶滅に瀕している。人間はそれを保護しようとする。

同じ「肉食動物」の狩猟民も絶滅に瀕しているが、狩猟民以外の人類はその死滅をうながす。彼らから狩猟を取り上げることで。

人間が馬以下だった先の戦争を思い出す。人間の兵卒は一銭五厘の令状でかき集められるが、軍馬の調達はずっとむずかしく、大切にされていたのではなかったか。動物園のトラが酒びたりになっている光景を想像するべきかもしれない。

彼らは、彼ら同士あるいは近隣の狩猟民との間では争いがあったし、攻められれば反撃したにしても、征服戦争をするわけでなし(できるわけもないが)、それ以外には何も問題を起こさなかったのに、歴史は彼らの民族文化に退場を命じている。われわれの残念な歴史は、ただ前へと進む。
http://d.hatena.ne.jp/agarih/20140301


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/183.html

[リバイバル3] 最近のオーディオ業界の状況 中川隆
81. 中川隆[-12808] koaQ7Jey 2019年1月22日 11:57:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

548sage2019/01/16(水) 11:01:36.79ID:e4m0/4fE>>549>>554

100Hz - 4000Hz で十分とか言ってるアホは碌に演奏会行ったこと無いのバレバレだな

549名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 12:12:17.20ID:Q4In6jtS
>>548
ピアノの音域がどこからどこまでで、それが何Hzなのか、全く理解出来てないんだろうなぁ
ピアノの低域が凄まじく鳴って欲しいと言ってるが、100Hz程度じゃ足りないのを理解してないんかな?

550名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 12:27:35.68ID:MVrFLGtV

100Hz - 4000Hz というのはフラットな領域で、低域と高域はそこからなだらかに下降するという話だよ

そもそも倍音成分の入り方で印象が決まるから、基音まで正確に出る必要は無いんだ


CDのスペクトラム(周波数帯域)
http://web1.kcn.jp/oshikuma_lab/theatertopics4.html

ピアノ曲
測定した3曲のスペクトラムは、非常によく似ており、帯域は70Hz-数kHzとなっている。
紫: リスト 超絶技巧練習曲/UCCG-1440/Track13(ラ・カンパネラ)/アリス=紗良オット
緑: 献呈/TOCE55880/Track3(ショパン 幻想即興曲)/蔵島由貴
橙: Stereo Sound Best Sound Selection柳沢功力/SSRR1/Track7(シューベルト 楽興の時)/内田光子

552名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 12:48:18.68ID:MVrFLGtV

手廻し蓄音機のフラットな周波数レンジは 200-2000Hz だけど低音は十分聞こえるよ:

研究レポート;横浜蓄音器ミュージアム
http://emgmark7.com/dish.html

554名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 12:58:06.97ID:cXz8LBGe
>>548
空間は周波数特性を持っているという常識を知っている人で
生のコンサートが好きな人はそれほど高域に拘らない。
https://i.imgur.com/rclvef3.jpg


聴く位置にもよるが、LPFをかけて聴いている場合が多い。

いっぽう、CDなどから音楽に入った人で生を聴く場合
どちらかというと前席の方を好む傾向があるように思う。

ただしPAを使ったコンサートは除く。

560名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 16:47:35.92ID:RCdE/Epb
>>545
>周波数レンジは 100Hz - 4000Hz で十分なんだ 。

んなこたーない。
4000Hzで頭打ち バッサリ切れてると、楽譜上は再現できてるはずのものが
全く聞こえない。 何やってるのかさっぱりわからない。
高い音が聞こえないだけでなく、低い音も判別不能になる。
100〜16000Hzだと ちゃんと低い音も聞こえる。物足りないけど。(ラジカセでFM聞く感じ
100〜20000Hzだと 高音の細かい音も聞こえてくる。
しかし100〜っていう低音再生能力の低さだと ギターすら再現不可能。
40Hz以上だと4弦ベースのルート音が聞き取れる。
35Hz以上だと、ほぼすべての楽器がちゃんと聞き取れる。
30Hzは 人により聞き分け不能なので ぶっちゃけ空気の振動だけでOK

ってことで下限は35〜40くらい、上は自称20000は欲しい。

561名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 17:22:37.38ID:Q4In6jtS
>>560
一般的なピアノの最低音は27.5Hz(A0)
ベーゼンドルファーなどの中には16Hz(C0)まで出る特殊なモデルはあるけどね
ただ、あまり使われない帯域だし、一般的な家庭で出せる実用的な音量で、この周波数の純音が聴こえる人は余りいないから、仰る通り35Hzくらいまでフラットだと大抵なんとかなるのよね

個人的には5弦コントラバスの最低音である32Hz(C1)まではキチンと鳴って欲しい
音程が定められていないグランカッサもこの辺りでチューニングしているものもあるしね。

562名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 17:25:39.49ID:irlFKxhJ

下は30Hzからはまったく同感。30以下はストンと落ちてもいい。無駄にあると聴こえないのに悪さをする。
だけど単体で30Hzが-3dBとか最大譲って-6dBとか、実測したらほとんど無いだろ。

563名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 19:35:37.65ID:RCdE/Epb

人間の可視聴範囲が20-20000って言われてるけど、
辺実的に大人になるとモスキート音が聞こえなくなり 16000くらいまでになる。
下は生まれつき下限が決まっちゃってて
20聞こえる人はほぼいない。30聞こえない人が多数。

普通のアップライトピアノの一番左端が ちゃんと聞き取れない人が多いんだよ。
ルート音がきこえず 倍音ばっかり聞こえて気持ち悪いの。
一番低い音に感じず それより少し右の鍵盤のほうが低い音に感じるの。


565名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 20:09:41.99ID:MVrFLGtV

今時数万円のスピーカーだって人間の可聴範囲20Hz〜20,000Hz付近をカバーしている。
そこで、スピーカーの再生周波数に付いて一寸調べてみたら、どうやらこういう事らしい。
スペックがどの様な数字であるかは兎も角、

「実際にスピーカーから出る低音の60Hz以下は音というよりも風圧として肌で感じるもので、
強烈なドラムやベースの唸りの様な低音は大概80Hz〜100Hzくらいである」という。

だから、60Hzが出れば通常僕らが聴いているオーディオの低音に何ら不足を感じるものではなく
まして50Hzが出るなら映画館などの大鉄桟を巨大な大砲の発射音や炸裂音で揺るがすに
実は充分な低音が出る事をオイロダインのスペックから読み取る事が出来るのだそうだ。

そして高音は「4KHz〜6KHz以上の純音の音色を判別する事は非常に難しく」
この辺りで音程に対する判断は鈍って来るものらしい。

僕らが聴く「スピーカーの音(無論録音前の原音も)を決定づけるのは純音ではなく倍音であって、
倍音は整数倍で膨らんで、大体13〜14KHzほど先からは殆ど聴こえてこない」ものらしい。
だから、オイロダインの50Hz〜15KHzという周波数帯域はこれらの条件を
低音で10Hz、高音で1KHzばかり其々上回っており、従ってオイロダインで聴けない音は無いといってもよいという事になるらしい。
だから、2〜3万ながら矢鱈に周波数帯域の優秀なスピーカーが量販店などに出回っているのは、要するに僕ら消費者が悪いという事になるようだ。
http://audio-file.jugem.jp/?eid=34


566名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 20:13:16.60ID:MVrFLGtV

要するに、80Hz以下の低音は音ではなく体を揺らす振動としてしか感じられない

6000Hz以上の高音は視覚的な音色として捉えられるので音としては聞こえない

80-6000Hz さえ出ていれば聞こえない音は無いんだよ

567名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 20:17:01.37ID:MVrFLGtV

Western Electric Amplifier の周波数帯域

WE86 : 40〜10000 Hz
WE91 : 50〜 8000 Hz

なにせ入力トランスも出力トランスも100〜6000 Hz ですから。
http://n-nobo.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/1-eeb8.html

ウェスタンはちゃんと研究して必要十分な周波数レンジを出すアンプを開発したんだよ

568名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 20:23:45.28ID:MVrFLGtV

という事で、

フルトヴェングラーのティンパニの轟きやホロヴィッツの凄まじい低音を聴くには
100Hz出てれば十分なんだ

レンジを広げると響きが薄くなって、彫りが浅い醤油味になってしまうんだ

マークレヴィンソンのアンプは意識的にレンジを狭くしている

569名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 20:29:25.12ID:e4m0/4fE

80Hzで切ってもベース、コントラバスの音が普通にすっぽ抜けるんだが
おじいちゃんだからわかんないかな

数万円のスピーカーだと精々公称42Hz-だが
バスレフで膨らませてるからウッドベースのアーティキュレーションとか狂ってるぞ


570名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 20:34:45.75ID:MVrFLGtV>>578

手廻し蓄音機は 200Hzまでしか出ないけど、ベース、コントラバスの音が普通に聞こえる。

倍音成分がちゃんと出る装置なら、基音も出ている様に感じるんだ

安物のスピーカーだから不自然な音になるんだよ


571名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 20:44:55.20ID:e4m0/4fE

誰もおじいちゃんの低レベルな音は求めてないから巣に帰ってどうぞ

572名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 21:12:07.41ID:l7AgVfrs

40Hzがキッチリ出ると、コントラバス(編成によってはチューバ、コントラファゴット)がしっかり鳴り、オーケストラ全体の基礎となり全体を支える。
その上にピラミッド状の和声が形成され、主旋律が美しく、時に荒々しく、堂々と奏でられる。

勿論バスレフポートに頼らずに密閉型等でこの帯域が綺麗に鳴ることが望ましいが、かなりハードルは高いのでバスレフ型でも構わないと思う

573名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 21:30:37.75ID:MVrFLGtV

ジャズ用でこれよりいいスピーカーは無いだろ

Western Electric 755A
再生周波数帯域70〜13,000Hz 

Western Electric 755A が搭載された米松エンクロージャーシステムです。

8inchシングルコーン・ダイレクトラジエーター型、パーマネントマグネット採用、
今まで聴いたフルレンジユニットの中でも味わい深さは別格です。
特に50年代のJAZZやジャズボーカルは絶品です。

主な仕様:
8inchシングルコーン・ダイレクトラジエーター型フルレンジ インピーダンス4Ω(実測DCR2.9Ω/2.8Ω)最大入力8
再生周波数帯域70〜13,000Hz 
サイズW330×H533×D305mm 重量9.6kg
http://www.hifido.co.jp/sold/?KW=WESTERN+ELECTRIC&G=0201&LNG=J&O=0&L=20&C=14-83658-24178-00


やっぱり755は嫌味なスピーカー

ALTEC288も励磁にして、タンガー整流515も励磁に改良してダブルウーハーで
817には羽までつけて ネットワークも完璧なWEオイルコンで製作して
金も時間も労力も涙も友情も詰まったこの817励磁システムを嘲笑うかのようなWE-SOUND

バカヤロー!、と叫びたくなるいい音
何でこのスピーカーはこうなの?
まずなんといっても音がリアル、 この生々しさはいったい何なの?
まるで楽器がそこにある、 そこに演奏者がいるようの鳴り方
嫌味だねー きらいだね
今までの苦労は何だったの?
オーディオマニアを嘲笑うかのような嫌味なスピーカー
https://blog.goo.ne.jp/8417chiharu/e/3f20b82ea3defe549749b6671ce0305c

574名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 21:32:19.53ID:MVrFLGtV

ジャズ用でこれよりいいスピーカーは無いだろ _ 2

Western Electric 755A
再生周波数帯域70〜13,000Hz 

私の書斎にWestern Electric 755A がやってきた日のことは、忘れられない。
システムに繋いで、そろそろと音出しをしてみる。
  聴きなれたレコードを何枚かかけてみると、愕然としてしまった。
当然のことではあるが、愛聴盤というものは、どこにどんな音が入っているかを暗記しているものであるが、
このスピーカーで聴くそれは、まったく別物であった。今迄聴こえていなかった音が、豪華絢爛に再現されてくるのであった。  

それはあたかも、澱んだ東京の空に浮かぶ見慣れた星空から、一転して空気の澄み切った山の頂きから仰ぎ観る天空の星星の情景そのままに、
天空一面、星、星、星のショーの大星夜を目の当たりにしたようなものだった。


  星星が煌く音となり、その微粒子が壮大な音楽を構築しているかのようであった。
今迄、自分は一体、何を聴いてきたのだろうという悔しさと、
まだレコードにもCDにもいくらでも秘められた音が入っているのだという嬉しさが頭の中を過ぎった。
http://mikami.a.la9.jp/audio/we755a/we755a.htm

575名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 21:36:48.94ID:MVrFLGtV

アンプでもスピーカーでもウェスタンやクラングフィルムの周波数レンジが狭い装置を超える音は絶対に出せないんだ

Western Electric Amplifier の周波数帯域

WE86 : 40〜10000 Hz
WE91 : 50〜 8000 Hz

なにせ入力トランスも出力トランスも100〜6000 Hz ですから。
http://n-nobo.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/1-eeb8.html

ウェスタンはちゃんと研究して必要十分な周波数レンジを出すアンプを開発したんだよ

576名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 21:44:54.94ID:2SYAN9rV

低能率のゴミシステムの音しか聴いてない連中がはじめてウェスタンに触れると愕然とするだろう
もちろん万能ではないが


578名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 04:50:16.31ID:1kbcgfmR
>>570
>>倍音成分がちゃんと出る装置なら、基音も出ている様に感じるんだ

正しい
実用品としては「基音も出ている様に感じる」をクリアすれば良い
そこで満足せず基音まで再生しようとするのが趣味の世界

なのだか、50Hzよりも50kHz の優先度が高いというオーディオ業界の共通認識
だから、ずっと落ち目なんだと思う
まともに取り組んでいない

579名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 07:26:35.83ID:hnMus0Ip

みんな簡単に測定できないから勝手な事言ってる。データー無けりゃ安心して何でも言えるねww

580 名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 08:19:45.53ID:xg4cOQCi
>>578
をいをい、イマドキのツイーターは50Kを再生したいんじゃなくて
20Kを正確にピストンモーションさせようとすると、イヤでも高域が伸びるってだけだぞ
あと素材の共振周波数を可聴帯域に影響を与えない様にすると、これまた伸びる
情弱がしたり顔するのはやめてね╰( ̄▽ ̄)╯♡


582 名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 08:45:50.73ID:1kbcgfmR
>>580
情弱からすると、20Hzをいくらかでも再生するために50Hzフラットが必要
馬鹿でも分かる理屈


584名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 09:24:32.89ID:29fFzp7m

>をいをい、イマドキのツイーターは50Kを再生したいんじゃなくて
>20Kを正確にピストンモーションさせようとすると、イヤでも高域が伸びるってだけだぞ

嘘つけ
ハイレゾ対応だぞ

581名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 08:25:18.36ID:xg4cOQCi>>583

それにしてもf特でしかスピーカーを語れないってのもどうなのよ?
昔のピエガなんてf特は鬼フラットだが、音の方は・・・(´Д` )
それに比べてVOTのf特は・・・
だがVOTで聞くちあきなおみは泣けるで!
それからラッシュモアはテャンデバのクロスが繋がってないし
ビクターのSX-V1もネットワークはちゃんと繋がってない
どちらも聴感で最終的に音決めしてるのが特徴な


583名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 08:55:59.04ID:1kbcgfmR
>>581
そりゃそうだ。ピエガは高音が得意だからな。バランスが悪い
アホでもわかる
個人差が大きい聴感で開き直るまえにちゃんと測定しろっていうところは賛成
ツイーターにだけこだわりの小細工をしたって
低音不足なのは聴感で分かる(のに、聴感でチューニングしました!)
この間抜さが凋落のもと

585名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 09:25:33.76ID:Vv0VDGYt
>>583
ちょっと何言ってるのか分からないw
ツイーターに小細工ってピエガのコトか?
リボンツイーターなんて小細工でもなんでもないじゃん?
またピエガはあのアルミウーハーがダメな子だったので
スキャンスピークぅ、なんとかして〜
と言って音が良くなった(音楽的になった)のは有名だろ?

586名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 09:26:18.67ID:vFOrWUp/

量感と音が出ていることは別だと思うんだが

587名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 09:34:23.62ID:Vv0VDGYt

ピエガといえばTIASで聞いたANLS3は音が良かってデ
補水
しかし定価500万・・・

588名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 10:56:01.69ID:qMuelrEv>>592

3極管シングルアンプみたいな中音域しか出ないアンプが一番いい音だというのが定説だ

トランジスタアンプは周波数レンジが広いだけで、音がきつく響きが薄いからクラシックには向かないというのが常識

トランジスタアンプは女性ヴォーカルやエロビデオ以外には需要が無いよ


589名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 11:00:52.66ID:qMuelrEv

因みに、女性ヴォーカルやポルノの再生にはウェスタンの映画館用システムが一番いいというのが定説だけどね

YG + FMアコーステックスではそれだけの雰囲気は出ない

590名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 11:03:51.65ID:qMuelrEv

女性ヴォーカルやエロビデオの再生には YG + FMアコーステックスではなく、ウェスタンを使おう:


・ G.I.P.Laboratory GIP-555 - 555W : WE555 ドライバーのレプリカ
http://www.gip-laboratory.com/seihin555.html

・G.I.P.Laboratory Western Electric WE555 のレプリカ・ドライバーを使ったスピーカーシステム

@) G.I.P.Laboratory GIP-12A horn system : Western Electric WE555 のレプリカ・ドライバー使用
片チャンネル寸法: W:1143 × H:1715 × D:1194, 片チャンネル重量 92kg
http://www.gip-laboratory.com/seihin12system.html


A) G.I.P.Laboratory GIP-30154 horn system : Western Electric WE555W のレプリカ・ドライバー使用
片チャンネル寸法: W:1735 × H:1336 × D:660, 片チャンネル重量 280kg
http://www.gip-laboratory.com/seihin30154hornsystem.html

591名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 11:57:51.77ID:LFnKcnEi

虚言壁の人は「定説」「常識」を用いる
誰にとっても有害・無益なことをなぜそんなに熱心に続けられるのか

592名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 12:08:19.72ID:kpZ7rleG
>>588
こういうやつがいなくならない限り、ピュアオーディオの未来は暗い。

まず、CDなどのデジタルデータが正確にスピーカ端子まで実現できているのは
客観的に実証されている。

したがって、君の言うことが正しければ録音が悪いということになる。
それをこういうアンプならと断定すること自体間違っていると気がつかねば。

594名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 12:25:24.60ID:5WKTEnmr

まあ世の中の定説常識から逸脱してるから
オーオタなんだろ

595名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 12:40:44.81ID:onHX254+>>598

オーオタはロレックスとかの機械式じゃなきゃ腕時計とは認められないって威張ってる人みたいだね。
カシオの1000円の腕時計を尊敬すべきだ。


597名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 16:31:47.79ID:qMuelrEv

おおざっぱに言って25歳以下の若者は17,000ヘルツ、中年は14,000ヘルツ、高齢者は10,000ヘルツくらいまでしか聞き取れない。

一般的なCD音源は20,000ヘルツまで記録できるが、ハイレゾは40,000ヘルツまで記録再生が可能と言われています。

20代の人ですらCDの高音域が聞こえないのだが、「ハイレゾで音が良くなった」はほとんど錯覚の可能性が高い。


1万円のスピーカーを5万円のハイレゾに買い替えたら、ハイレゾに関係なくスピーカーの通常音域が改善され、結果的に「ハイレゾで音が良くなった」ことになる。

ハイレゾの恩恵を多少でも感じることができるのは30代までで、40代以降の人は低中音域が優れた高級スピーカーを買う方が良いです。

いわゆる歌謡曲の多くは誰でも聞き取れる10,000ヘルツ以下が中心なので、誰も楽しめるようになっています。


599名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 16:42:16.40ID:qMuelrEv

WE(ウェスタンエレクトリック)の、最高峰の真空管アンプにつきまして

60年から70年前の、WEの真空管アンプが、今でも、どのような民生用アンプをも越えていることは事実です。
なぜそうなのかは、それが往年のプロ用のアンプだったからに他なりませんが、
その後トランジスタアンプが出現し、最初にそれを使ったプロのかたがたは、トランジスタのものは使えないと、結論づけてしまいました。
https://procable.jp/crown/s_75.html

600名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 17:01:48.81ID:btWSUvjD

初期のトランジスターには色々アレコレ問題があったから
それなら馴れている球の方がいいとなるのはプロなら当然
車でもプジョーはグリースレスジョイントの時代になってもグリースを使っていたが
かっての植民地であるアフリカや中近東でつかうには
グリース式の方が良いとの判断だった
陛下の御料車プリンスロイヤルも旧式のアクリル塗料にグリースアップを必要とするジョイントを使用していたが
これも今まで使い馴れている方式でやってくれとの、宮内庁のご要望に沿ってだ


601名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/17(木) 17:07:55.88ID:btWSUvjD

そういやマッキンもインピーダンス変動に強いからとの理由で
バッファーとしてトランスを石にも採用したんだよな
今となってはロールスのパルテノングリルや911のリアエンジン同様
止めようったってお客が許してくれないw
しかし、あのトランスをかますおかげで低インピーダンスのスピーカーをBTL接続で鳴らしても
不安定になるコトなくガンガン鳴らせる
てかモノアンは内部でBTL接続になってるはずだ

602名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/18(金) 05:54:43.12ID:wAAqmNqF

ウェスタンが生々しい音を出すのは事実だけど音に腰がない
ふらふらへにょへにょの音で良いかというとそれもまた違う訳で

物量投入は物量投入で良さがある
どの選択も一長一短があるの解らないのは痛い

603名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/18(金) 10:19:52.96ID:6kW4mwv0

クラングフィルムは音に腰が有るよ

専門家の音質評価では

クラングフィルム > ロンドン・ウェスタン >> ウェスタン

604名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/18(金) 10:22:11.54ID:6kW4mwv0

YG + FMアコーステックスを使っているアホが大好きな女性ヴォーカルやポルノ・ビデオの再生には
ウェスタンが一番いいというのが定説だけどね

605名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/18(金) 10:40:09.47ID:6kW4mwv0

ウェスタンサウンドは人の声が良い

 今まで沢山のウェスタンサウンドを聴いてきましたがどのサウンドも一つの共通点がありました、

ウェスタンの音は一言で云うなら音にコクと味が少なくしかも奥に展開するサウンドにはならない、

聴いていると味のない食パンを食べているようなサウンドだ、

また劇場用のサウンドは観客席に攻めてくるサウンドが特徴ですが、以前有名な方がウェスタンの594を持ち込んで試聴会を開いたことがありましたが、ウェスタン特有の音の浸透力に乏しくこのサウンドには魅力を感じなかったのが残念であったが人の声だけは良かった、

 ウェスタンのシステムを採用した劇場を調べますとピンク映画館が多いのがわかった、

なぜならピンク映画館の女性の声は生々しく聞こえないとしらけますね、

特に人気のあった日活ロマンポルノあれは良かった!

 ウェスタンで聴かされる大事な場面での彼女達の声に色気があった、

今思うとウェスタンサウンドは人の声は素晴らしい!
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-036.html

606名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/18(金) 11:53:09.34ID:wAAqmNqF

金持ちで人の声を聴くのにウェスタン選択しない奴は金をドブに捨ててるのと同じだな
いずれ俺何やってたんだろう・・・になるだろうけど

610名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/18(金) 12:45:44.26ID:wAAqmNqF

聴けばわかるが聴く機会が無い
呼ばれるためには相応の環境を持ってないと相手にされない

ここらへんがネックなんだろうけど

611名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/18(金) 13:16:37.78ID:qlH13WR+>>616

昭和末期辺りだと地元の家電販売店の話だが
当時のナカミチ、サンスイ他の協賛で展示会とか
結構やってたな。全部で100万越えするような高価なシステムではなく
せいぜい5〜60万とかだがそれでも違いははっきりしてたし
で当時の店員さんもメーカーから来てた人も人を見て対応とかはなかったし
音源もクラシックかけてたのもあるがそうでないのもあった。
ところが今はどうだ。40代後半だけどクラシックやジャズ以外の音源だと
露骨に渋い顔するのが多い。好きな機材で何聞こうと買う自分の勝手だろと思う。

612名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/18(金) 14:25:34.96ID:y7S/Gqqi
>>611
音源の事だけど、クラシックやジャズ以外の音源というのはいわゆるマルチモノの録音ということで敬遠されている。
Aの音源用に使うマイクa、Bの音源用に使うマイクb,C--c,D--dとマイクをセットしよう。
Aの音源はマイクb,c,dでも、Bの音源はマイクa,c,dでも、C--a,b,d D--b,c,d でも録られいる。
A,B,C,Dの音源が十分に離れていればお互いに影響は少ないが、ドラムセットに何本もセットされたマイクをみると
Aの音をほんの少し遅延し、やや高域減衰した音をbが、さらに遅延減衰をcが、以下dが
B(同上)
C(同上)
D(同上)
それをミキサーで混ぜて、エコーをかけ、リミッターを通し出来上がったものはぐちゃぐちゃだ。
ほとんどの商売音源はゼネラルオーディオ向けに音源の音量バランスに重きを置いているので
その音源を高級オーディオで聴くと頭が痛くなってしまう。
ポピュラー音楽ファンの人は超オフマイク2本で録られた音を聴いたことがないので何を言っているのかわからないと思うが。
とにかく昭和末期より聴衆のレベルは向上している結果だ。

618名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/18(金) 17:52:40.25ID:bO049exr>>620

元々録音のいい曲より、コンプかけまくりの濁った音色の曲を滑らかな音が分離した音色に変えてこそ価値がある

620名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/18(金) 21:29:51.95ID:NltAh+Ry
>>618
それは最早オーディオではなく魔法だw

621名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/18(金) 21:32:54.94ID:EIM1Envy
>>620
魔法じゃないよ
実際できるし
ハイレゾ化だけでは無理だけどねー

622名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/18(金) 21:57:23.93ID:NltAh+Ry
>>621
ぜってーならねえ
もしそうなったら、それはソフトの情報を忠実に再生していない器機だというコトになる
ある特定のソフトを聞く分にはいいかもしれないが、それ以外のソフトでは皆その器機特有の音色で聞かされるコトになる
実際に、そのようなスピーカーは実在する
ベーゼンは最高なのだが、スタンウェイを聞いてもベーゼンの音で表現する

624名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/18(金) 23:41:03.01ID:
>>622
CD自体濁ってるからその濁りを取る事はできるよ

625名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/19(土) 00:15:00.96ID:HEJmcKfQ
>>622
とりよw
>ベーゼンは最高なのだが、スタンウェイを聞いてもベーゼンの音で表現する

おいおいw
「ぜってーならねえ」どころか自らなると認めてるだろw

なぜなら、「スタンウェイを聞いてもベーゼンの音で表現する」ならその逆の
ベーゼンを聞いてもスタンウェイの音で表現することも不可能と言えないどころか

「コンプかけまくりの濁った音色の曲を滑らかな音が分離した音色に変える」ことが
できないことを否定するどころか、その可能性を示唆してるだろwお前w

>ある特定のソフトを聞く分にはいいかもしれないが、それ以外のソフトでは皆その器機特有の音色で聞かされるコトになる

だからよw
それは再生側の話で、今の時代、デジタル時代、製作者も含め音源をいじれまくれるだろw

626名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/19(土) 01:00:42.39ID:ds5IN0Ud

ハードロックが好きな人は、演歌は嫌い。

627名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/19(土) 08:08:46.09ID:94Yt//EG

クラシックが好きな人は、それ以外のアホ音楽はすべて大嫌い。

女性ボーカル聴くより風俗で生声聞いた方が絶対にいい


629名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/19(土) 09:18:02.81ID:W6vLJj/X

クラシック至上主義者がスメタナもコダーイもドヴォルザークもガーシュインもバルトークも否定って
どんだけ痴呆だよ

630名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/19(土) 09:23:25.82ID:T/dXbzvc

現代曲の怒涛のサウンドを楽しんでいる身からすると、なまぬるい平均律の調性音楽はへなちょこだ‼

631名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/19(土) 09:27:04.44ID:ZysLtoRZ

SP盤のフルトヴェングラーよりゴリゴリ出たらたいしたもんだけど

632名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/19(土) 10:00:14.79ID:ZlsWIvBK

CDとかいうノイズメディアをありがたがっている時点で終わってる
いくらそれをハイレゾ化して高級機械で聞いたところで同じ
賢い人は自分で整形して普通の機械で聴く


636名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/19(土) 17:02:10.27ID:T/dXbzvc>>639

好きな音楽、歌手、ミュージシャンはテレビ、ラジオのようなスピーカーから聞こえてきて初めて知った。
憧れの人に近づこうとコンサートに出かけても、聞こえてくるのはPAからの音でテレビ、ラジオで聞いたあの音だ。
音楽を産業にできたのは多くの人間に買ってもらうことができるように単純な楽曲、低廉な再生機械、それを活かす録音技術などの製作、普及の結果だ。
ほとんどの人間の音楽の原体験がこれなのだ。

普段聴いている音楽を目の玉が飛び出るような値段のオーディオ機器で聴いても何も変わらないと言う人がいる。
ラジカセ、ポータブルオーディオで聴いた方が楽しいと言う人がいる。
当たり前だよ そうゆう風に楽曲、音を作っているのだから。

日本のある高級オーディオ機器メーカーの記事で読んだことがある。(ソース明示できないが、確かに記憶にある)
”ユーザー数は全世界で2000人ぐらいなので生産量は増やす考えはない。
この数の大切なお客様を大事にしてゆく。”

ピュアオーディオなんて70数憶人の内の分別のつく大人、数千人のもので構わないと思う。
”庭のコンサートホールで音楽学校の生徒を集めチャリティー半分パトロン半分でコンサートを開こう。
政界財界の人間も呼んで人脈も広めよう。”
”今度の旅行は未開の地へ行って、西洋音楽に毒されてい民族音楽を楽しもう。
音楽学者も連れていけば喜ぶかな?”
”娘の音楽学校の作曲科の彼に新しい手法の楽曲を委託しよう。
作品を気に入れば、演奏、録音の費用も工面しよう。”
数千人の中にはこんな人間もいることだろう。
音源を含め質の低下を起こさないようにメーカーは脇目を振らず高級、高性能路線を突っ走れ!

637名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/19(土) 17:18:07.37ID:94Yt//EG>>646

ごちゃごちゃ言う必要はない

今すぐに、

タンノイ モニター・シルバー

グッドマン Axiom80

QUAD ESL57

ハーベス HLコンパクト オリジナル

スペンドール BCU

ソナスファーベル ガルネリ・オマージュ

の完璧なレプリカを出せば、それ以外のオーディオは売れなくなる


646名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 08:47:23.55ID:y3Ike97f
>>637
馬鹿だな!そんな物出せば余計死期が早まる。首括りの足を引っ張るに等しい。

638名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/19(土) 17:27:56.73ID:oU2je5iL

残念ながらハイエンドオーディオはマニアの為じゃなくて金持ちがテキトーに買うものになるでしょ
豪邸に弾きもしないグランドピアノ置くのと同じようなポジションを狙っていく流れ
見た目、スペック、素材はブランドストーリー作りの為に使うだけ。極論を言えば


641名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/19(土) 20:32:07.36ID:94Yt//EG

クラシックファン以外にはオーディオの需要なんか無いんだよ

流行歌ならパソコン付属の1500円のスピーカーで十分だ

642名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/19(土) 22:21:18.59ID:ZNCIwp4L

というかそれ用にチューンされてるから
オーディオ専用機だと逆に劣化に聞こえるw

643名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/19(土) 22:39:15.63ID:Td8DlhXq

おまいらなんでピュア板いるの?
音の悪いアイドルでもマジコで聞くと新たな発見があるぞ?

644名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/19(土) 22:54:24.42ID:ZNCIwp4L>>645

そんな発見なんてーどーでもいいんだよ
クオリティが上がると違和感とモーレツな嫌悪感が最悪聞いてられなくなう


645名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/19(土) 23:43:17.70ID:Td8DlhXq
>>644
>クオリティが上がると違和感とモーレツな嫌悪感が最悪聞いてられなくなう

なこたあねえ
ウソだと思うんなら、手持ちのソフトをTIASに持って行って聞いてみな
アブサートロンならかけてくれる可能性が高いぞ

647名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 08:51:54.19ID:pd87HVGp

マジコでは低音パートの楽器が鈍い音しか出ないようですが

648名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 08:58:10.81ID:pd87HVGp

装置の性能が拙いとちゃんと分離できないからごちゃごちゃになって気持ち悪い音になる
レコードのスクラッチノイズと同じ

あれも楽器の音と分離するぐらいの装置になると気にならなくなる

649名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 09:09:24.18ID:zXD2YsMg>>652

クラシックはすべての音が完全に混じり合わないとホールトーンにならないんだよ

音が分離していたら嘘っぱちの音だ

オートグラフが一番本当の音に近い


650名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 09:13:22.72ID:zXD2YsMg>>653

マイクで捉えた音は原音じゃない

二階席正面で聴くのが原音だ

静電型スピーカーならは細かい音まですべて出るのに、QUAD ESL63 はわざわざ小さな穴が無数に開いたアルミカバーを付けて
残響音を入れ、ロイヤルアルバートホール二階席正面で聴くのと同じ音にしている


653名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 09:56:39.11ID:pd87HVGp
>>650
全部出るってお前さんは現場のミキサーの音聞いたことあるのw

652名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 09:55:25.74ID:pd87HVGp
>>649
ソースに入ってる音がそうなんだから仕方がない


654名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 10:13:45.19ID:uv7tEpS2>>656

ここで言ってるピュアオーディオって、ソースに忠実に再生することでしょ?
(本来は違うけど)
ノイズまみれのCDを忠実に再生して何が楽しいの?
最先端はそのノイズを如何にソフトウェアで取り除いて整形して本来の音を再現するかに移行してる
それができれば 44.1khz 16-bitで充分なの


656名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 10:45:57.90ID:d6B4Hof5
>>654
>ノイズまみれのCD
今時のCDでノイズなんて全く聴こえない、脳内で発生しているノイズのこと?

> 最先端はそのノイズを如何にソフトウェアで取り除いて整形して本来の音を再現するかに移行してる

それにはオカルトの力が必要で、結果バカにされるオカルト宗教となり
将来が絶望となった。
オカルト連中がいなくなれば、少しは将来が出てくる可能性もあるが・・・・・。


658名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 11:27:09.44ID:uxd/LTM3
>>656
44.1khz 16-bit化する際に波形がぐちゃぐちゃになってるよ
いくらでも整形できる


657名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 11:16:17.57ID:zXD2YsMg

デジタルテープに忠実に再生したら聴くに堪えない音になるんだ

コンサートホールはそのまま聞いて一番いい音になる様に音響設計してるんだよ

ソースを正確に再現する事に意味は無い


659名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 11:28:41.02ID:zXD2YsMg

手廻し蓄音機でも真空管アンプでも。input より output の方が遥かにいい音になってるよ

ソースをそのまま再現する過去の名器なんか存在しない


661名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 11:40:28.11ID:zXD2YsMg>>663

クラシックファンは 1960, 70, 80年代のオーディオが一番好きなんだよ

WE124 や リーク、ローサーの真空管アンプを完璧に復刻したらベストセラーになるよ

662名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 12:12:51.13ID:O75SIilQ

今のデジタルオーディオはクラシックファンには全然合わないね
クリアにはなるけど

663名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 12:16:31.99ID:zAighD97
>>661
クラシック言うても種類が多すぎてなぁ……


665名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 12:58:39.05ID:7LcldXFN

クラシックはほぼ全くと言っていいほど聴かない俺だが、とりあえずピュアオーディオやってヴァイオリンの音色の良さには目覚めた


667名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 13:48:27.73ID:zXD2YsMg>>668

>ピュアオーディオやってヴァイオリンの音色の良さには目覚めた


クラシックファンはこの演奏をいい音で再生したいんだよ:


メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲(クライスラー、旧録音) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NNu_sV5PVoo

Kreisler & Zimbalist - Bach Concerto for 2 Violins - 1st Mvt. (1915) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=mXgwb4ri3jw


671名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 16:00:15.04ID:zXD2YsMg

メンデルスゾーンやバッハの協奏曲でクライスラーに匹敵する演奏は100年経っても遂に一つも現れなかったんだよ

クラシックファンはそういう世紀の名盤をいい音で聴きたいんだ

クラシックファンは最近のヴァイオリニストのどうしようもないアホ演奏には関心ないんだ

672名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 16:11:27.67ID:zXD2YsMg>>674

演奏による音の違い >>>>> オーディオによる音の違い


だから、いくらいい装置で最新録音を聴いても、100年前の伝説の演奏には絶対に敵わないんだ

677名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 19:53:39.10ID:zXD2YsMg>>678

クラシックの伝説の名盤はその殆どが1920年代から1950年代に集中しているから

クラシックファンが好きなオーディオは SP や モノラル録音を上手く再生できるものに限られる

グッドマン、ワーフデール、ローサーや QUAD が今でも人気があるのは、その時代の音源の再生に一番合っているからだ


678名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 20:01:11.21ID:VPxmafEV
>>677
クラフアンだがバッハ派だし古楽器派だから
そんなもの聞かんから要らんわ

679名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 20:04:27.94ID:S6BK59k2

ちょっと古い録音にぼわぼわの低音が入っていることがある
200Hzぐらいのローカットかける

680名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 20:24:26.17ID:zXD2YsMg

>クラフアンだがバッハ派だし古楽器派だから
そんなもの聞かんから要らんわ


バッハの演奏で一番人気有るのは

メンゲルベルクのマタイ受難曲
シゲティの無伴奏バイオリン
カザルスの無伴奏チェロ
ブッシュ合奏団のブランデンブルグ協奏曲

すべてSP とモノラルだ

681名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 20:27:07.86ID:zXD2YsMg

これ以上の演奏はできないと言われているのは


Adolf Busch plays Bach's Chaconne - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_ii7aPCQgHE

682名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 20:58:59.03ID:ZNxVy3FS

一番しか聴かないってわけじゃないしなぁ

演奏家が曲をどう解釈したかも聴き所だろ
曲のベストプレイが一つしかないなんて音楽好きとは思えない

単なる権威主義じゃね?

683名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 21:03:23.81ID:zXD2YsMg

天才は100年に一人しか出ないからなあ

クライスラーやブッシュに匹敵する才能は現在の教育システムでは潰されるんだ

684名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 21:08:05.86ID:zXD2YsMg

1960年以降は天才が全く出なくなった理由 : ジュリアードのガラミアンとディレイ

 アメリカではジュリアード音楽院のイワン・ガラミアンやドロシイ・ディレイであるが、共に 素晴らしい名ソリストを数多く育てている。ざっとあげてみると次のようになる。


イワン・ガラミアン
ズーカーマン。渡辺茂人。マイケル・レビン。
パールマン。チョンキョンファ。・・・Etc


ドロシー・ディレイ
パールマン。原田孝一郎。竹澤恭子。五嶋みどり。
諏訪内晶子。ギル・シャハム。アン・アキコマイヤーズ。
シュロモ・ミンツ。漆原朝子。チョーリヤン・リン。
チー・ユン。サラチャン。神尾真由子。数住岸子。
前橋汀子。加藤知子。ナイジェル・ケネディ。奥村智弘。・・Etc

(年長の生徒はドロシーがガラミアンの助手をしていたために共通の生徒がいる。)


 このようにして、Vnの指導を受けるのはジュリアードに限る、それもガラミアンや ドロシー・ディレイの指導を受けることが、ヴァイオリニストとしてのステイタスにもなっている ばかりでなく、実際に世界を席巻するソリストが、続々と送り出されている。

 ガラミアンの教育法は古い権威主義と呼ばれていた様に独自の指導法で、誰に対しても同じ方法で 徹底して指導したが、生徒は細部まで、正確に徹底した練習を求められ、テクニックの習得に重点が 置かれていたと言う。

 先生の指示する弓使い、指使いに従わない生徒には容赦をすることがなかった。

 特にガラミアンは運弓の名手と言われたカペーの弟子であっただけに運弓にはうるさく、後に ガラミアンのトレードマークになるが、大きく弓を使いいい音を出すことを徹底して訓練した。

   後にガラミアンは石ころでも立派に磨き上げて、ヴァイオリニストを創ることが出来たと評されている。
http://chauchaw.web.fc2.com/hafuna-48-4.html

685名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 21:10:39.99ID:ZNxVy3FS>>689

じゃあカザルスに匹敵する名手はそろそろ出てる頃だな

つーか100年単位で定期的に出てくるもんでもなし
現代に存在しうる名手を否定とかあり得んわ


686名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 21:11:15.36ID:zXD2YsMg

ガラミアンの指導法ではクライスラーやブッシュの様な100年に一人の天才は真っ先に潰される

残るのは器用だけど音楽がわからないアホ・ヴァイオリニストだけなんだ


688名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 21:13:43.29ID:zXD2YsMg

クライスラーやブッシュは蚊の鳴く様な小さな音だから、大ホールでは演奏できなかったんだ

今のヴァイオリニストは全員大音量で弾くから細かなニュアンスが出せないんだ

689名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 21:13:52.77ID:zAighD97
>>685
ボケ始めたクソジジイだから、新しいものが認められないだけなんだよ。


690名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 21:29:48.42ID:zXD2YsMg

フルトヴェングラーやニキッシュやマーラーに匹敵する指揮者が今後出て来ると思ってる音楽関係者は一人もいない

バックハウスやコルトーやホロヴィッツに匹敵するピアニストが今後出て来ると思ってる音楽関係者は一人もいない

昔とは環境が変わってしまったんだ

691名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 21:36:49.66ID:zXD2YsMg

クラシックファンには100年前の伝説の名盤が上手く再生できない

YGアコーステックス, マジコ、B&W, FMアコーステックス, ゴールドムント なんか用無しなんだ

692名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 22:16:44.18ID:igsifIMl

ヒストリカル録音をやたら持ち上げるのは音楽が分からない糞耳と相場が決まっている

693名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 22:20:43.52ID:ZNxVy3FS

ある楽器が「良い鳴り」をする時の音圧は昔も今も変わらんだろ
ストラドが100年前200年前より爆音を出すようになってるのかよ

やっぱアホやなこいつ

>>689
だな
人生終末期って感じ

694名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 22:42:01.29ID:zXD2YsMg

>ある楽器が「良い鳴り」をする時の音圧は昔も今も変わらんだろ

ほんとに何も知らない知恵遅ればかりだな
金属弦になってから大きな音は出るがポルタメント奏法ができなくなったんだよ


バイオリンなどに使われる弦は、現在では一般にスチールを素材としたスチール弦(最近ではナイロン弦も)が使用されます。
しかし、スチール弦が使用されるようになったのは20世紀も半ば近くになってからでした。
それまでは、羊の腸の筋をよって作ったガット弦が広く用いられていたのです。
スチール弦は19世紀の末から知られていましたが、広く普及するまでに多くの時間が必要でした。
特に1920年代前後には、演奏家の間でスチール弦か、ガット弦かという優劣論争が繰り広げられました。
ガット弦特有の柔らかい響きを重視する演奏家がいる一方で、より力強い音が可能で
しかも耐久性の面で特性を発揮するスチール弦の優位を主張して止まない演奏家もいたのです。

しかし、音量と耐久性の面で特性を発揮するスチール弦に軍配が挙がったのはその後の歴史に見る通りです。
ところが、作品の作られたものと同様な楽器で演奏する、いわゆるオリジナル楽器の演奏家が増えてきた現在では、
ガット弦の復権にも目覚ましいものがあります。古き良き時代の音を髣髴とさせるガット弦の良さが再び注目されてきたのです。
https://akira-nonaka.blog.so-net.ne.jp/2018-07-10


695名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 22:51:05.04ID:zXD2YsMg

1920年代まではノンヴィブラート ポルタメント奏法でテンポが速く音量が小さかったんだ

1940年代以降はヴィブラート奏法でテンポが遅く音量が大きくなった

昔の奏法でないと世紀の名演は出ない

696名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 22:52:39.39ID:ZNxVy3FS

ルノー・カビュソン(1976-)はポルタメント奏法をマスターしてるようだが?

出来なくなったなんて嘘だな
アホらしいからもう構わんとこ

697名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 23:00:18.16ID:zXD2YsMg>>743

>ルノー・カビュソン(1976-)はポルタメント奏法をマスターしてるようだが?


昔のポルタメントと今のポルタメントは全然違うのも知らないのか

カペーSQの演奏を特徴付けるのはノン・ヴィブラートとポルタメントである。
カペーSQの演奏は、同世代或は先輩格の四重奏団―ロゼーSQ、クリングラーSQ、ボヘミアSQらと、これらの点で共通する。
そして、第1次世界大戦を境に勃興し、カペーSQの後塵を拝してゐた四重奏団― レナーSQ、ブッシュSQ、ブダペストSQ
の各団体がヴィブラート・トーンを基調とするのと、大きな相違点を持つ。

しかも、カペーのポルタメントは旧式で、時代を感じる。 ポルタメントを甘くかける印象の強いレナーも、
カペーとは世代が違ふことが聴きとれる。 ここで、最も藝術的なポルタメントを使用したクライスラーの特徴を例に挙げることで、ポルタメントの様式における相違点を検証したい。

クライスラーの奥義は3点ある。第1に、必ずしも音の跳躍―即ち運指法の都合―でポルタメントを使はない。
云ひ換へれば、指使ひを変へないでも弾けるパッセージであらうとも、感興の為にポルタメントを使用する。
第2に、音から音への移行過程は最初が緩やかで、最後になるほど速く行なはれる。

第3に、フレーズの変わり目が同じ音のままの場合、敢てポジションを変へて音色を変へる。
この際に同一音の連続にも関わらず、ポルタメントが入ることになる。

このクライスラーの特徴は、ティボー、エルマンそしてレナーにも概ね当て嵌まる。

これに反してカペーはポルタメントの使用箇所に運指の都合が見られ、
何よりも移行過程の速度が均一である。
カペーの左手による表現はロゼーやマルトーと云つた旧派と同じ音楽様式に根付いてゐるのだ。
http://www.h6.dion.ne.jp/~socrates/capet.html


698名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 23:04:50.93ID:ZNxVy3FS

クライスラーに反して、カペーは旧式、なんだな

じゃあクライスラーは新式じゃねえか
解散解散

699名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 23:07:16.97ID:zXD2YsMg

これが旧式のポルタメント

Capet Quartet_ Beethoven String Quartet No.15 op.132 - 1st mvt. - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=AYjgV5Nklr4


クライスラーのはヴィブラートとポルタメント両方かけてる新式の下品な音だ

700名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 23:14:45.50ID:igsifIMl

ヒストリカル信者はどんなに薀蓄を垂れても永遠に音楽が理解できない悲しい生き物なんだな
わかるよ

701名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 23:14:56.20ID:zXD2YsMg

クライスラーはヴィブラートかけていて下品だというのでウイーンフィルの採用試験で落とされているんだ

ウイーンフィルは戦前はノンヴィブラートだった

702名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 23:16:32.51ID:zXD2YsMg

音楽がわかる人間なら 95dB以下の低能率スピーカーとかトランジスタアンプなんか絶対に使わないけどね

703名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 23:18:34.58ID:3eSsxjNf

100年に一人の天才クライスラーの名演は
新式の下品な音だそうです

冒涜も甚だしい

704名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 23:22:12.17ID:zXD2YsMg

当時の人間は女性ボーカルやポルノビデオの代わりにクライスラーやレナーを聴いていたのさ

705名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/20(日) 23:41:08.11ID:zXD2YsMg

因みに、当時は梅毒が大流行りだったから、金持ちは風俗に行けなかったんだ


708名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 02:40:50.22ID:JUWXJcHN

ID:zXD2YsMgは単なる音楽への冒涜にしかなってないな

710名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 08:48:37.44ID:geCmiS1L

収録時間の短いSPに無理に詰め込もうと省略し放題、テンポも速めたデタラメ解釈を「これが
本物」と有難がり他を否定するバカは後を絶たない。この悪習はLPになっても続きCDになって
漸く改められ始めた。提示部の繰り返しもしっかりやる者が増えてきたが、昔の悪習に染まった
バカ評論家には「繰り返しは不要無駄だ!」と決めつける奴も出る始末。悪習はまだまだ続く
だろうが時代は確実に進歩している。

711名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 09:14:47.16ID:SWgfKodx>>712

提示部の繰り返しは観客へのサービスなんだよ

ビューローが演奏会で第九を演奏する時は全曲を二回繰り返していた。

しかし、録音時に第九を二回分録音したのは聞いた事ない

712名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 09:19:28.41ID:geCmiS1L
>>711
繰り返しの意味も分かってないアホー

713名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 09:29:27.95ID:geCmiS1L

コンサートであれレコード、CDであれ、聴いていて省略したり、いい加減な勝手な演奏に気づく
奴は極めて稀。こんな輩が分かったツラこいて生意気な事をホザクのでありまする。

714名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 09:56:51.62ID:SWgfKodx>>721

エロイカの第一楽章提示部を繰り返すアホ指揮者は聞いた事が無い

長過ぎて観客サービスにならないからな

715名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 10:02:27.63ID:SWgfKodx>>478

提示部は、なぜ繰り返すのか?

私の大好きな、ベートーヴェンの交響曲第2番の第一楽章をやっていた時のこと。カッコイイ提示部をリピートして、2回目に入った時、
マエストロが「みなさん、繰り返し後も、1回目と同じテンションで弾いてくださいね。決して、疲れただの、また〜だの思ってはいけませんよ。
ところで皆さん、提示部って何で繰り返すのかわかりますか?」

みんな遠慮したのかもしれないが、誰も答えられなかった。私も、わからなかった。
マエストロの答えは「テーマを印象づけたいから」だ。ベートーヴェンの時代はCDもレコードもないし、
予習をしてコンサートに聴きに来る人なんていないのだから、みんなその場で初めて曲を聴くようなものである。

だからソナタ形式の提示部は2度演奏して、第一主題と第二主題がどんなテーマであるか、聴く人に印象付ける必要があるのだと。

あ〜なるほど・・。ここで第一主題と第二主題が脳裏に刻み込まれるから、その後の展開部で、何を展開しているのかが分かり、
再現部が登場した時に、あっと気づくんだろうな。
https://blog.goo.ne.jp/y-saburin99/e/cbdf22ba5911fe92b570086d4cf91762

716名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 10:08:25.53ID:SWgfKodx

提示部は演奏会でも繰り返さないのが普通だ、録音時間の短縮とは関係無い

私は子供の頃、モーツァルトの交響曲というと、ブルーノ・ワルター指揮、コロンビア交響楽団の演奏が好きでした。
「第40番ト短調」と「第41番“ジュピター”」が裏表になったLPレコードは、針ですり減るほど聞きました。
この2つの曲は、第1楽章と第4楽章がソナタ形式で、提示部にリピート記号がついていますが、
ワルターの演奏は繰り返しを省略していました。

このころ(1960年代から1970年代あたり)の演奏と言うのは、演奏会にしろ、レコードにしろ、
ソナタ形式の曲は、よほど短い曲でない限りリピートを省略するのが普通でした。
「運命」や「田園」などの名曲も、提示部の繰り返しは、大抵省略されていました。


モーツアルト交響曲40番。ワルター指揮コロンビア交響楽団の演奏は、繰り返しを省いているのですか?

第1楽章は、多くの指揮者はセッション録音では提示部のリピートを行いますが、
ワルターの場合はこのセッション録音でも省略していますね。
(1952年ウィーンフィルとのライブでも省いています。
私の手持ちでは、パイヤール指揮イギリス室内管のものが省略派ですね。)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1393710943

717名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 10:53:42.16ID:SWgfKodx

そもそも楽譜通りに音化したらとても聴ける音にならないから、マーラーもフルトヴェングラーもメンゲルベルクは
自分で大幅に編曲したスコアしか使ってないよ

楽譜と違うのは当たり前だ

718名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 10:56:55.41ID:SWgfKodx

楽譜に書いてある通りに演奏したらまともな音楽にならないし

マイクで捉えた音を正確に再現したらまともな音にならない

だから、クラシクファンは YG やマジコや B&W を使わないんだ
トランジスタアンプもすべて NG

719名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 11:03:44.68ID:SWgfKodx

まあ、女性ヴォーカルやポルノなら かぶりつきで録音したのを再生するのが一番真に迫ってるからな。

だから、女性ヴォーカルやポルノビデオを毎日聴いてる人は YG やマジコや B&W を欲しがるんだ


>楽譜と違うのは当たり前だ

だからオマエは楽譜に書かれていない繰り返しを勝手に付け加え、それを自ら省くのか?

>楽譜に書いてある通りに演奏したらまともな音楽にならないし

真の楽譜を求めて今も世界中で研究が続けられている。古くばブルックナー、現在ではマーラーも。
つい最近ではマラ6の楽章配列、ハンマーの回数等問題になり改訂版が出された。クック版マラ
10のスコアーの改訂報告書、作曲者の真の意図を執拗に追い求める態度を見ろ!ブラームス
すら Hans Galによる改訂版が出版されている。
>楽譜に書いてある通りに演奏したらまともな音楽にならないし
何たるバカ!!

722名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 12:16:05.30ID:SWgfKodx

シューマンとみんな大幅に変更したスコアを使ってるよ

ベートーヴェンのメトロノーム表示も完全に無視されている

ブルックナーも響きがいい改訂版しか使わない指揮者がいる

723名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 12:23:18.46ID:SWgfKodx

どちらにしろ作曲家は演奏家としては三流だから、楽器法とかは素人と変わらない

良く知ってる人が教えるか編曲してやらないととても聴けた音にならないんだ

724名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 12:29:16.08ID:bz61nXtw

作曲家は演奏家としては三流って、偏屈な子沢山のオルガン弾きのおじさんは・・・
ちっちゃい子供の時からピアノ演奏のドサ回りしていたヴォルフくんは・・・
バイオリン弾けば猫も杓子もあまつさえネズミさんすら、その後を付いていった悪魔のバイオリニストは・・・(´Д` )

725名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 12:31:22.60ID:SWgfKodx>>727

ベートーヴェンやモーツアルトはピアノは弾けるけど打楽器とか金管楽器は弾けないだろ

オーケストラで使う楽器すべて弾ける作曲家なんか存在しない


728名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 15:09:02.82ID:geCmiS1L

収録時間に大きな制限のあるSPレコード時代故、省略やテンポアップが平気で行われ、当時の
「評論家」などが、初めて聴いた素人感覚から「これだけ」が本物と感激有難がり、宣伝したのが、
今日のバカが湧く元となったのだ。SP時代からの演奏家はこういう悪習に馴染んでおり、聴衆も
ドーセ分かりっこないからと、バカにして勝手な真似をして来たのだ。こういう古い演奏家が死に
絶え時間制限の少ないCD時代の演奏者が出て来てから漸く誤魔化しのない真面な演奏が
聴けるようになってきた。出鱈目な演奏をした古い奴等や、第九1楽章に繰り返しがあるなんて
バカな嘘、決め付けを偉そうに平気でヌカスバカがピュアオーディオをダメにした一因でもあるのだ。

729名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 15:32:27.33ID:SWgfKodx>>731

1960年以降にはまともな演奏家は一人も出てないだろ

730名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 15:45:10.63ID:SWgfKodx>>732

名演かどうかは 1分も聴けば音楽ファンなら誰にでもすぐにわかるからな

それがわからないというのは音楽がわからないという事だ

まあ、YG やマジコ買うアホは音楽がわからないからそういうのを買うんだけどね


734名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 16:07:25.18ID:SWgfKodx>>736

何れにしろ、YG やマジコ買うのはポルノをかぶりつきで見たい人間だけさ

二階正面席からポルノ見ても面白くないからな

735名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 16:19:17.97ID:jUD782qH

昔富野がロボット出してプロレスやっときゃ、後は好き勝手にしていーだろw
とザンボット3やガンダムを作った様に
ピンク映画も濡れ場入れときゃ、話しは好き勝手やらしてもらうぜ
つーことで、新たな表現者が現れた
ポルノを小バカにするやつあ、ホントーに芸術が分かっているわけではなく
芸術が分かるオレ、カッケー(*´ω`*)
と思ってるだけなwww

738名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 16:29:05.45ID:SWgfKodx>>739

結論を纏めておくと

女性ヴォーカルは音楽ではなくポルノの一種だ

ポルノは二階正面席で見るより、かぶりつきで見た方がいいから
女性ヴォーカルもかぶりつきで聴きたい

それで女性ヴォーカルやポルノが好きな人間は臨場感が出る YG やマジコを欲しがるんだな

本当は風俗で生の声聴いた方がもっといいんだけど、世間体が有るから女性ヴォーカルやポルノで我慢してるんだ


740名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 16:49:28.27ID:SWgfKodx

女性ヴォーカルは音楽がわからない色キチガイしか聴かないだろ

741名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 16:53:55.89ID:gNdqIgRI

まともな演奏家がいてもメディア化する時に腐った音に劣化させてるから何の意味もない
俺は整形出来るから本来の音に近づけて聴けるけどw

742名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 17:05:10.22ID:1KHgngxv

カワイの自動演奏もオリジナルに忠実に微妙なタッチも表現出来れば
プログラム修正して名ピアニストより遥かに感動出来るものに昇華出来そう


744名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 17:42:48.82ID:geCmiS1L

負けが明らかになっても、その事実を認めず、虚勢を張ってれば「原爆」が落とされる。その後
「人道違反」だとか「人道」「「人類に対する犯罪」等とバカな論理をを振り回すバカf共の存在は
全く変わってない!同じ愚をまた繰り返しそう。>>ID:SWgfKodxを見ているとホントそう思う。

745名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 18:17:55.04ID:SWgfKodx

ヴァイオリンもピアノもコンサートホールも演奏技術もオーディオもすべて完成してしまって、昔よりいい音はもう出せない
プレイエルやエラールよりいい音のピアノなんか絶対に作れない
ムジークフェラインザールよりいいホールなんか絶対に作れない

フルトヴェングラーに匹敵する指揮者はもう永遠に現れない

ウェスタンやローサーよりいい音のアンプはもう永遠に作れない
グッドマン Axiom80 や QUAD ESL57 よりいい音のスピーカーはもう永遠に作れない


それが結論

746名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 18:25:51.14ID:geCmiS1L

愈々「脳梅」決定、救いようない!スピロヘータ―耐性菌猖獗極める!!

747名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 18:34:41.12ID:sgOIkB07

まぁグッドマン Axiom80 も QUAD ESL57 も歴代の名器も
結局費用対効果で商売になれば作られるしもっと進歩すると思うよ
今のオーディオ機器なんて商売のために妥協してるのばっかりだし

748名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 18:38:49.13ID:SWgfKodx>>749

トランスでも真空管でも1920年代のが一番良くて、今ではもうそのレベルのは作れなくなっているんだ

Axiom80 も1930年代のが断然良くて、新しくなると音質がどんどん劣化している

749名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/21(月) 18:44:25.65ID:sgOIkB07
>>748
うん。まぁなんでもそうだよね。
初期は勝負かけないといけないからモノは良いんだけど
結局売って商売していかないといけないから経済性優先で
品質後回しになっていくからね結局

と、ここまで言ってあれだが>>738の結論はいったん保留しといて良いと思うよ(´・ω・`)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/pav/1497707977/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/845.html#c81

[リバイバル3] かぐらスキー場 (かぐら・三俣・田代スキー場) 中川隆
105. 中川隆[-12807] koaQ7Jey 2019年1月22日 12:18:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

745名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 07:45:13.89

すげえ降ってる


747名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 08:32:56.68

かぐら2便がらがら
みつまたも結構降ってて軽め

田代にみないったかな

751名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 09:48:09.81>>753

腿パウや
つーかそれ以上ありそうだけど埋まって入れない

753名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 10:59:52.71
>>751
ジャイアン入り口ツボで腰あったわ
なかなか地獄

5ロマ運休
田代落ち絶対深い
ボードはシューが御守りかもな

754名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 11:18:51.58

今日は腰パウやで
転んだら最後や
さっきパトロールにスコップで掘られてるスキーヤーいたで

755名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 11:25:13.36

ドローンにロープぶらさげて救助費用もらおうかな

756名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 11:49:55.14

窒息死がありそうだな

757名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:00:07.24


いつもの
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https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1546499506/l50
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/779.html#c105

[リバイバル3] かぐらスキー場 (かぐら・三俣・田代スキー場) 中川隆
106. 中川隆[-12806] koaQ7Jey 2019年1月22日 13:05:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

757名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:00:07.24


いつもの
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758名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:19:31.49

アライでそれで死んだ人のニュースのスレ立ってた

759名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:26:29.25

スコップで掘られるのか、、、

ロッテアライリゾートでスノーボーダーの54歳男性が死亡 雪に上半身突っ込み窒息

2019年1月21日 (月) 19:50 – 17時間前

_____


2019年1月21日午後3時15分頃、新潟県妙高市両善寺のスキー場「ロッテアライリゾート」のゲレンデ脇で、東京都練馬区高松の会社員、大谷孝一さん(54)が倒れているのを、30代のスノーボーダーの男性が発見した。大谷さんは心肺停止の状態で妙高市内の病院に搬送されたが、同8時58分、死亡が確認された。

妙高警察署によると、大谷さんは友人と4人で同スキー場を訪れ、スノーボードを滑走していた。同日、午後1時過ぎ、仲間から大谷さんが行方不明になっているとの連絡が同スキー場にあり、関係者が捜索を開始。さらに同3時過ぎには、仲間から、「一緒にスノーボードに来ている友人とはぐれて連絡が取れなくなっている」と110番通報があった。

同署によると、大谷さんは、中級レベルのコース「ウマノセ」(1460m)沿いの「山麓第2リフト」の乗り場から約100m上のコース脇で、杉の木の周りに積もった雪に上半身を突っ込んだ状態で発見された。死因は転倒した事故による窒息死。現場付近は当時、雪が降っており、視界が悪い状態だった。約160cmの積雪があったという。

同署は、事故の原因などについて調べている。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/779.html#c106

[リバイバル3] スキー場の選択は雪質だけで決めよう 中川隆
158. 中川隆[-12805] koaQ7Jey 2019年1月22日 13:07:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

745名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 07:45:13.89

すげえ降ってる


747名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 08:32:56.68

かぐら2便がらがら
みつまたも結構降ってて軽め

田代にみないったかな


751名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 09:48:09.81>>753

腿パウや
つーかそれ以上ありそうだけど埋まって入れない


753名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 10:59:52.71
>>751
ジャイアン入り口ツボで腰あったわ
なかなか地獄

5ロマ運休
田代落ち絶対深い
ボードはシューが御守りかもな


754名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 11:18:51.58

今日は腰パウやで
転んだら最後や
さっきパトロールにスコップで掘られてるスキーヤーいたで


755名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 11:25:13.36

ドローンにロープぶらさげて救助費用もらおうかな


756名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 11:49:55.14

窒息死がありそうだな

757名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:00:07.24


いつもの
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758名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:19:31.49

アライでそれで死んだ人のニュースのスレ立ってた


759名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:26:29.25

スコップで掘られるのか、、、
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1546499506/l50


ロッテアライリゾートでスノーボーダーの54歳男性が死亡 雪に上半身突っ込み窒息

2019年1月21日 (月) 19:50 – 17時間前


_____


2019年1月21日午後3時15分頃、新潟県妙高市両善寺のスキー場「ロッテアライリゾート」のゲレンデ脇で、東京都練馬区高松の会社員、大谷孝一さん(54)が倒れているのを、30代のスノーボーダーの男性が発見した。大谷さんは心肺停止の状態で妙高市内の病院に搬送されたが、同8時58分、死亡が確認された。

妙高警察署によると、大谷さんは友人と4人で同スキー場を訪れ、スノーボードを滑走していた。同日、午後1時過ぎ、仲間から大谷さんが行方不明になっているとの連絡が同スキー場にあり、関係者が捜索を開始。さらに同3時過ぎには、仲間から、「一緒にスノーボードに来ている友人とはぐれて連絡が取れなくなっている」と110番通報があった。

同署によると、大谷さんは、中級レベルのコース「ウマノセ」(1460m)沿いの「山麓第2リフト」の乗り場から約100m上のコース脇で、杉の木の周りに積もった雪に上半身を突っ込んだ状態で発見された。死因は転倒した事故による窒息死。現場付近は当時、雪が降っており、視界が悪い状態だった。約160cmの積雪があったという。

同署は、事故の原因などについて調べている。


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/782.html#c158

[リバイバル3] スキーに行こう _ 年取っても できるスポーツはスキーだけ 中川隆
75. 中川隆[-12804] koaQ7Jey 2019年1月22日 13:08:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]


745名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 07:45:13.89

すげえ降ってる


747名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 08:32:56.68

かぐら2便がらがら
みつまたも結構降ってて軽め

田代にみないったかな


751名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 09:48:09.81>>753

腿パウや
つーかそれ以上ありそうだけど埋まって入れない


753名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 10:59:52.71
>>751
ジャイアン入り口ツボで腰あったわ
なかなか地獄

5ロマ運休
田代落ち絶対深い
ボードはシューが御守りかもな


754名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 11:18:51.58

今日は腰パウやで
転んだら最後や
さっきパトロールにスコップで掘られてるスキーヤーいたで


755名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 11:25:13.36

ドローンにロープぶらさげて救助費用もらおうかな


756名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 11:49:55.14

窒息死がありそうだな

757名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:00:07.24


いつもの
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758名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:19:31.49

アライでそれで死んだ人のニュースのスレ立ってた


759名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:26:29.25

スコップで掘られるのか、、、
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1546499506/l50


ロッテアライリゾートでスノーボーダーの54歳男性が死亡 雪に上半身突っ込み窒息

2019年1月21日 (月) 19:50 – 17時間前


_____


2019年1月21日午後3時15分頃、新潟県妙高市両善寺のスキー場「ロッテアライリゾート」のゲレンデ脇で、東京都練馬区高松の会社員、大谷孝一さん(54)が倒れているのを、30代のスノーボーダーの男性が発見した。大谷さんは心肺停止の状態で妙高市内の病院に搬送されたが、同8時58分、死亡が確認された。

妙高警察署によると、大谷さんは友人と4人で同スキー場を訪れ、スノーボードを滑走していた。同日、午後1時過ぎ、仲間から大谷さんが行方不明になっているとの連絡が同スキー場にあり、関係者が捜索を開始。さらに同3時過ぎには、仲間から、「一緒にスノーボードに来ている友人とはぐれて連絡が取れなくなっている」と110番通報があった。

同署によると、大谷さんは、中級レベルのコース「ウマノセ」(1460m)沿いの「山麓第2リフト」の乗り場から約100m上のコース脇で、杉の木の周りに積もった雪に上半身を突っ込んだ状態で発見された。死因は転倒した事故による窒息死。現場付近は当時、雪が降っており、視界が悪い状態だった。約160cmの積雪があったという。

同署は、事故の原因などについて調べている。


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/773.html#c75

[リバイバル3] 相次ぐ“バックカントリー”事故 中川隆
22. 中川隆[-12803] koaQ7Jey 2019年1月22日 13:09:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]


745名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 07:45:13.89

すげえ降ってる


747名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 08:32:56.68

かぐら2便がらがら
みつまたも結構降ってて軽め

田代にみないったかな


751名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 09:48:09.81>>753

腿パウや
つーかそれ以上ありそうだけど埋まって入れない


753名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 10:59:52.71
>>751
ジャイアン入り口ツボで腰あったわ
なかなか地獄

5ロマ運休
田代落ち絶対深い
ボードはシューが御守りかもな


754名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 11:18:51.58

今日は腰パウやで
転んだら最後や
さっきパトロールにスコップで掘られてるスキーヤーいたで


755名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 11:25:13.36

ドローンにロープぶらさげて救助費用もらおうかな


756名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 11:49:55.14

窒息死がありそうだな

757名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:00:07.24


いつもの
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758名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:19:31.49

アライでそれで死んだ人のニュースのスレ立ってた


759名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:26:29.25

スコップで掘られるのか、、、
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1546499506/l50


ロッテアライリゾートでスノーボーダーの54歳男性が死亡 雪に上半身突っ込み窒息

2019年1月21日 (月) 19:50 – 17時間前


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2019年1月21日午後3時15分頃、新潟県妙高市両善寺のスキー場「ロッテアライリゾート」のゲレンデ脇で、東京都練馬区高松の会社員、大谷孝一さん(54)が倒れているのを、30代のスノーボーダーの男性が発見した。大谷さんは心肺停止の状態で妙高市内の病院に搬送されたが、同8時58分、死亡が確認された。

妙高警察署によると、大谷さんは友人と4人で同スキー場を訪れ、スノーボードを滑走していた。同日、午後1時過ぎ、仲間から大谷さんが行方不明になっているとの連絡が同スキー場にあり、関係者が捜索を開始。さらに同3時過ぎには、仲間から、「一緒にスノーボードに来ている友人とはぐれて連絡が取れなくなっている」と110番通報があった。

同署によると、大谷さんは、中級レベルのコース「ウマノセ」(1460m)沿いの「山麓第2リフト」の乗り場から約100m上のコース脇で、杉の木の周りに積もった雪に上半身を突っ込んだ状態で発見された。死因は転倒した事故による窒息死。現場付近は当時、雪が降っており、視界が悪い状態だった。約160cmの積雪があったという。

同署は、事故の原因などについて調べている。


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/695.html#c22

[番外地6] スキー場で遭難した時の対処方法 中川隆
3. 中川隆[-12802] koaQ7Jey 2019年1月22日 13:09:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

745名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 07:45:13.89

すげえ降ってる


747名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 08:32:56.68

かぐら2便がらがら
みつまたも結構降ってて軽め

田代にみないったかな


751名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 09:48:09.81>>753

腿パウや
つーかそれ以上ありそうだけど埋まって入れない


753名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 10:59:52.71
>>751
ジャイアン入り口ツボで腰あったわ
なかなか地獄

5ロマ運休
田代落ち絶対深い
ボードはシューが御守りかもな


754名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 11:18:51.58

今日は腰パウやで
転んだら最後や
さっきパトロールにスコップで掘られてるスキーヤーいたで


755名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 11:25:13.36

ドローンにロープぶらさげて救助費用もらおうかな


756名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 11:49:55.14

窒息死がありそうだな

757名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:00:07.24


いつもの
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758名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:19:31.49

アライでそれで死んだ人のニュースのスレ立ってた


759名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/22(火) 12:26:29.25

スコップで掘られるのか、、、
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1546499506/l50


ロッテアライリゾートでスノーボーダーの54歳男性が死亡 雪に上半身突っ込み窒息

2019年1月21日 (月) 19:50 – 17時間前


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2019年1月21日午後3時15分頃、新潟県妙高市両善寺のスキー場「ロッテアライリゾート」のゲレンデ脇で、東京都練馬区高松の会社員、大谷孝一さん(54)が倒れているのを、30代のスノーボーダーの男性が発見した。大谷さんは心肺停止の状態で妙高市内の病院に搬送されたが、同8時58分、死亡が確認された。

妙高警察署によると、大谷さんは友人と4人で同スキー場を訪れ、スノーボードを滑走していた。同日、午後1時過ぎ、仲間から大谷さんが行方不明になっているとの連絡が同スキー場にあり、関係者が捜索を開始。さらに同3時過ぎには、仲間から、「一緒にスノーボードに来ている友人とはぐれて連絡が取れなくなっている」と110番通報があった。

同署によると、大谷さんは、中級レベルのコース「ウマノセ」(1460m)沿いの「山麓第2リフト」の乗り場から約100m上のコース脇で、杉の木の周りに積もった雪に上半身を突っ込んだ状態で発見された。死因は転倒した事故による窒息死。現場付近は当時、雪が降っており、視界が悪い状態だった。約160cmの積雪があったという。

同署は、事故の原因などについて調べている。


http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/586.html#c3

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
141. 中川隆[-12801] koaQ7Jey 2019年1月22日 13:28:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
したたか仏政府 ルノーとの経営統合要求で日産“強奪”狙い
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/245896
2019/01/22 日刊ゲンダイ


仏政府は何としても日産が欲しい(マクロン仏大統領、右は西川日産社長)/(C)ロイター=共同

 日産自動車の前会長、カルロス・ゴーン被告の長期勾留が続く中、フランス政府が攻勢を強めている。先週、仏自動車大手ルノーのマルタン・ビアル取締役や、ルメール経済・財務相の側近が訪日。マクロン大統領の意向を受け、日産とルノーの経営統合を経産省に要求したという。日仏連合の緩衝材だったゴーン被告不在の今、日産の「フランス企業化」が現実味を帯びてきた。

 フランス政府が突きつけた統合構想は、ルノーと日産の持ち株会社を設立し、その傘下に両社をぶら下げるもの。この方式だと、ルノーの筆頭株主である仏政府が持ち株会社の大株主になる。仏政府が経営統合をゴリ押しする理由は、日産の工場を仏国内に造り、日産のカネで雇用を創出したいからだ。

 減税や大統領辞任などを求める抗議デモは、10週目に突入。マクロンにすれば日産は、市民の怒りを抑えるのに必要な雇用創出の“金ヅル”なのだろう。

「仏政府は2014年、株式を2年以上持つ株主に2倍の議決権を与える『フロランジェ法』を制定。翌年には当時、経済産業デジタル相だったマクロン氏が、一時的に政府所有のルノー株を買い増し。議決権を高め、『フロランジェ法』の導入を決めた。仏政府のルノーへの議決権を従来の15%から28%まで引き上げ、ルノーを通じて日産の経営に介入しようとしたのです。以来、仏政府は経営統合を日産側に強く求めてきたが、当時ルノーの会長兼CEOだったゴーン氏が反発。しかし、ゴーン氏は昨年6月のルノー取締役改選で退任圧力を受け、経営統合を進める方針に変わりました」(経済担当記者)

■ゴーン被告追い出しで拍車

 ゴーン被告は任期満了を迎える22年までに、経営統合に乗り出すとささやかれていた。

 ルノーは日産株を40%以上保有し議決権を持っている。これ以上、影響力を行使されたくないため、日産は何としても経営統合を避けたい。西川広人社長らが、司法取引までして検察と組み、ゴーン被告を排除、事実上のクーデターを起こしたといわれるゆえんだ。

 ところが、ゴーン被告がシャバにいなくなった今、仏政府は日産を“強奪”する気マンマンである。経済ジャーナリストの井上学氏がこう言う。

「ゴーン氏の不在により、仏政府の思惑通りに事が進んでいると思います。ゴーン氏は早期の経営統合に反対でしたからね。つまり、日産はゴーン氏を切ったことで、自らの首を絞めたことになる。恐らく日産は、ゴーン氏の悪事が明らかになれば、ルノーが何らか譲歩するとの見通しを立てていたのでしょう。ところが、ルメール経済・財務相がルノーの会長兼CEOからのゴーン氏の解任を求めた理由について、『(勾留によって)職務遂行できないから』と言っていた通り、仏政府には、ゴーン氏の不祥事を理由に譲歩する気などありません」

 ルメールは実際、20日付の仏紙のインタビューで、日産側が求めている「(ルノーとの)資本構成の均衡回復や両社相互の資本参加の変更は、議論の対象ではない」と断じた。

 見通しを誤った日産の“頼みの綱”である日本政府も、当てにできない。

「日産車の国内シェアが高いわけではないし、政治とのつながりが強いわけでもない。つまり、日本政府にとって日産を守る義理がないのです。今後、日産はルノーの株を買い増して議決権を消滅させようとするかもしれませんが、ルノーに反撃されて終わりでしょう。遅かれ早かれ、日産がフランス企業になるのは避けられないと思います」(井上学氏)

 国際世論は、日本の検察がゴーン被告を不当に長期勾留しているとして、猛反発している。

 仏政府のシタタカさに一杯食わされ、世論を味方にできず、日産経営陣はいつ“瞬殺”されてもおかしくない。

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c141

[リバイバル3] 生活をダウングレードするというのは激しい苦痛を伴うこと 中川隆
5. 中川隆[-12800] koaQ7Jey 2019年1月22日 16:12:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

なぜ年収数億円の有名人が破産する?私たち庶民にも参考になるたった1つの防衛策=鈴木傾城
https://www.mag2.com/p/money/624967



年俸10億円以上も稼ぐスポーツ選手が引退後に自己破産するケースは珍しくない。それはなぜか。それを理解すれば、私たちがお金持ちになる方法も見えてくる。

米国のスタースポーツ選手は引退後、70%以上の確率で破産する

誰もが憧れるスーパーヒーローが自己破産

アメリカの調査機関やスポーツ誌の独自調査によると、アメリカのフットボール選手やバスケットボール選手が引退後に自己破産(ブローク)に追い込まれるケースは70%から80%になると報じて大騒ぎになったことがある。

アメリカのこうした華々しいスポーツ選手たちの年俸は1億円や2億円レベルではない。10億円、20億円、スーパースターでは100億円以上もの収入を得ている。にもかかわらず、彼らは一文無しどころか莫大な借金を抱えて「自己破産」してしまう。

メジャーリーグのスター選手であったカート・シリングは、現役時代に日本円にすると約125億円を稼いだが、現役を引退して10年後には財産をすべて使い切り、自宅も記念品も何もかも失った。

ナショナル・フットボール・リーグのスターだったキース・マッキャンツも、ヨットに高級マンションに高級車を買いまくって、あっという間に破産に追いやられていった。

キース・マッキャンツのさらに上をいったのがアントワン・ウォーカーだった。現役時代に122億円を稼いだのに、やはり贅沢と浪費に明け暮れて、結局は有り金をすべて使い果たした。

北朝鮮と関わりが深いデニス・ロッドマンも、現役を引退すると一挙に破産寸前にまで追い込まれている。

100億円以上を使い果たせるというのは尋常ではないと思うが、贅沢に明け暮れればすぐにカネは消えていく。

次々と破綻していった著名人

ボクシングの元ヘビー級王者マイク・タイソンも、20年の現役時代で230億円以上稼いだ。しかし、宮殿のような豪邸に高価なスポーツカー、放蕩、離婚、訴訟とトラブルが続き、2003年には21億円もの借金を抱えて自己破産に追い込まれている。

ボクシングで言えば、かつてモハメッド・アリと戦ったジョージ・フォアマンは、45歳で再度ボクシングの世界にカムバックしている。「老いても戦えることを見せてやる」という意地があったと言われ、勝利を収めたときは世界中で新聞の一面を飾った。

しかし、実はフォアマンがリングに戻ったのは「老いても戦える」ことを見せつけるためではなかった。このとき、フォアマンは現役時代で稼いだ大金をすべて使い果たしていてホームレス寸前になっており、もはや老いてリングに戻るしか稼ぐ方法がなかったからである。

日本で最近になって有名になったフロイド・メイウェザーも、あだ名が「マネー」と言われるだけあってガツガツとカネを稼ぐことで有名なのだが、稼いだカネをやはり贅沢に蕩尽して税金滞納や債権の未払いなどカネのトラブルがついて回っている。



ミュージシャンで言えば、マイケル・ジャクソンも全身麻酔薬プロポフォールで死ぬ数年前からほぼ破産寸前になっていて、資産が莫大にあるどころか、負債額は400億円以上にものぼっていた。

エルトン・ジョンも総資産は200億円以上もあったが、2001年に破産の憂き目を見た。ビリージョエルも稼いでは破産し、破産しては稼ぎ、そうかと思ったらまた破産するという破天荒な人生を送っている。

マービン・ゲイも現役時代から浪費や離婚で財産が吹き飛び、ドラッグに溺れて咽頭生活を余儀なくされて、最後は父親に撃ち殺された。ジャズの巨星チャーリー・パーカーもドラッグとセックスに溺れ、稼いだカネはすべて蕩尽して一文無しになった挙げ句、34歳で死んだ。

白人のジャズ・トランペッターだったチェット・ベイカーも、ドラッグに大金を注ぎ込んで晩年は生活保護だった。スタイリッシュなR&Bを歌うトニ・ブラクストンも、高級ホテル連泊、カジノ、ブランド、大金をかけたバケーションなどで2度も破産に追い込まれている。

浪費に歯止めがかからない

俳優で言えば、2018年9月6日に死んだバート・レイノルズは晩年は破産寸前になっていた。ニコラス・ケイジも破産寸前に追い込まれ、ジョニー・デップも生活費が月に2億円超えの「利己的で無謀かつ無責任なライフスタイル」で破産に追い込まれる確率が高まっている。

ドン・ジョンソンも、キム・ベイシンガーも途方もないカネの使い方で破産、最近ではケリー・ラザフォードが自己破産した。こうしたセレブの巨額浪費と破産は毎年のように報道され、そしてこれからも新たなセレブが新たな破産を発表する。

言うまでもないが、莫大な金を稼ぐ人が破産してしまうのは、稼ぐ以上に使うからでもある。

抜群の知名度と実力のために、少し働けば莫大なカネが転がり込んでくる。まるで触ったものがすべて黄金に変わるギリシャ神話のミダス王のように、自分が関わったらそれがすべてカネになる。だから、このような考え方になる。

「欲望を制御する必要はない。いくらでもカネが使える。なくなっても構わない。また稼げばいい」

しかし、人間の実力は永遠ではない。能力は年齢と共に失われていく。しかし、人気や実力が落ちたり、年齢のせいで技能や容姿が衰えてしまって明らかに収入が減っているにも関わらず、彼らは生活を格下げすることができない。

生活を戻すというのは、贅沢と浪費に慣れきった人間にはドラッグを断つ以上に難しいものなのである。

実業家でも資産家でも、いったん成功すると必ず生活をアップグレードさせる。豪邸を買い、良い車を買い、美しい女性を囲い、着ているものに金をかけ、趣味に大金を使い、他人に気前良く金をばらまく。

そうした栄華に染まってしまうと、全盛期が終わっても浪費に歯止めがかからない。

絶対に破産しないための生き方

いくら莫大なカネを稼ぐ能力があったとしても、自分自身の欲望をコントロールできないと、カネは底の抜けたバケツに水を注ぐのと同じで一滴も残らない。

カネが入ったからと言って、それを高級マンションに高級車に高級料理に注ぎ込んでいると、1億円あっても2億円あっても足りない。いや、10億円あっても20億円あっても足りないだろう。

生活は常に「収入>支出」という単純な公式によって成り立つかどうかが決まる。資本主義社会において、この公式から逃れられる人はいない。

年収が10億円あっても、年間20億円を使っていたら自己破産するしかない。逆に、年収が300万円であっても、年間100万円しか使わなかったら200万円が残る。

自分の欲望をコントロールすることができて、年間100万円で生活できる人は年間300万円の収入で十分にやっていけるし、地道にしていればカネも貯まるし、淡々と末永く暮らしていける。



「収入>支出」

たった、これだけのシンプルな「たった1つのルール」を守って生きるだけで、私たちは資本主義の中で破産せずに暮らしていくことができる。このルールを守っていると、常にカネが手元に残るので破産したくてもできない。

自制が効くお金持ちがやっていること

さらに精神的余裕のある人は、節約して貯まったカネを運用に回して利息を稼ぎ、その利息もまた貯めて運用に回すので、ゆっくりだが確実に資産を膨らませていくことができる。

頭の良い人は「収入>支出」のルールを1つの公式であると気付き、それを強化した公式を持っている。それは以下のものである。

(収入−支出)+ 資産 × 運用利回り

この公式こそが、現代の資本主義で「絶対に破産しないための生き方」を示すものなのだ。言ってみれば「生き残りのための公式」とも言うべきか。

ただ、一部の人は頭でこの公式を知っていても、自分の人生で実際に使いこなすことができない。

なぜなら、本能のまま、欲望のまま、気の向くままにカネを使ってしまうからだ。自分を律することができないからだ。一定の歯止め、コントロール、自制が効かないからだ。

長い人生の中で、自制が効く人と効かない人は、真逆の結末を迎えることになる。果たして、あなたはどちらのタイプだろうか。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/605.html#c5

[近代史3] 中国人に愛国心や公共心が完全にゼロな理由 _ 中国人は宗族から宗族の利益になる様な悪事をやる事を毎日強要されている 中川隆
1. 中川隆[-12799] koaQ7Jey 2019年1月22日 16:30:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

特別番組「宗族を目の敵にした共産革命〜中国人の善と悪はなぜ逆さまか 宗族と一族イズム」
石平 倉山満【チャンネルくらら・1月6日配信】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=Oyg1XmBqWRw
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/138.html#c1
[近代史02] 中国最後の皇帝 毛沢東 _ 共産革命とは一体何であったのか? 中川隆
22. 中川隆[-12798] koaQ7Jey 2019年1月22日 16:40:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

大躍進政策と文化大革命は宗族を潰して中国を国民国家にする為に行った


中国人に愛国心や公共心が完全にゼロな理由 _ 中国人は自分が属する宗族から宗族の利益になる様な悪事をやる事を毎日強要されている

特別番組「中国人の善と悪はなぜ逆さまか〜宗族と一族イズム」
石平 倉山満【チャンネルくらら・12月30日配信】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=OIKKE71Xp-s

特別番組「宗族を目の敵にした共産革命〜中国人の善と悪はなぜ逆さまか 宗族と一族イズム」
石平 倉山満【チャンネルくらら・1月6日配信】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=Oyg1XmBqWRw


▲△▽▼

宗族
古代中国での父系同族集団。

中国の殷から周の時代の社会の基本的な集団となった、父系(男系)の同族集団。本家と多くの分家(小家族)から成り、本家の家父長(族長)が統率し、祖先崇拝という信仰で結びついている。このような宗族の守るべき規範が宗法である。
実際には擬制的(みせかけ)であったらしいが、宗族の結びつきの原理は血縁関係であった。
このような氏族社会の上に周の封建制が形成される。そして、春秋から戦国にかけて、鉄製農具の普及などによって生産力が向上したことが、個々の小家族の自立を可能にし、宗族という氏族社会が解体し、地縁的な村落機構を通して統一国家が農民を支配する形態に移行していく。しかし、中国では現代に至るまで、一族意識は強固に残っている。
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-027_0.html


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中国人の善と悪はなぜ逆さまか 宗族と一族イズム – 2018/12/5 石平 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/481911350X/ref

内容紹介

戦争も腐敗も善となる恐ろしい論理を明らかにする。中国史を支配する組織の正体。

戦争も腐敗も善となる
恐ろしい論理を明らかにする

石平氏渾身の書き下ろし。
これを知らずして中国人は理解できない!

やっと私も中国人が分かったと言える

中国史を支配する組織の正体

易姓革命も、対外拡張も、腐敗も
共産党政権の命運も!

■正義派知識人のA教授はなぜ、親族の腐敗を喜んだのか――まえがきに代えて
■第1章 一族のためであれば腐敗は善になる
■第2章 宗族という巨大組織の実態
■第3章 「械闘」に見る一族イズムの恐ろしい本性
■第4章 「共産党VS.宗族」の勝者
■第5章 中国史を動かす一族イズム

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カスタマーレビュー


hij
「収賄汚職は人民にとっては罪悪であるが、家族にとっては美徳である」2018年12月11日

習近平の腐敗摘出によって共産党幹部の収賄の恐るべき実態が明らかになった。元
政治局常務委員周永康の場合、差し押さえられた資産総額は何と900億元(1兆4900
億円相当)というからすさまじい。本人だけでなく、妻、息子など親族、腹心の部下
もグルになって収賄三昧の日々を送るのが中国の流儀である。これを「全家福」を
もじって「全家腐」という。(習近平自身も同じ穴の狢である。)

周永康ら腐敗幹部にとって掌中の政治権力を家族の収賄に使わせるのは家長として
の当然の義務であり、この義務を果たすのは美徳である。家族の利益より公の利益
を優先する者は、中国社会では変人、馬鹿者呼ばわりされる。家族や一族のために
公益を損なってもよいという異質な家族観を著者は「一族イズム」と呼ぶ。

中国には家族のほかに腐敗の共同戦線ともいうべき「圏子」(チェンツ)という利益
共同体がある。もし圏子の誰か一人が摘発されると同罪の幹部が芋蔓式に摘発され
ることになる。

一族イズム、圏子文化の源流は中国独特の「宗族」である。宗族とは先祖を共有す
る父系同族集団である。何世代も続くうちに世帯数は数百、数千になり人口は数千
になり、万を超えることもある。宗族は族会を組織し、族長を選び、祠堂をつくり、
祭祀をおこない、族譜を編纂し、族産をつくって子弟の教育、弱者の援助、救済を
おこなう村における小国家なのである。

共産党が政権を取ったとき、毛沢東は宗族を「諸悪の根源」とみなし、方々の村で
村のゴロツキを使って地主を殺し、土地を貧農に分配し、財産を奪った(「一村一
焼一殺」)。地主、郷紳が消えて宗族組織は分解した。宗族に代わる組織として共
産党が編みだしたのが人民公社であったが、人民公社の時代に伝統の宗族がひそか
に復活してきた。宗族勢力は、祠堂をつくり、族譜を編纂した。一族イズムはケ小
平以後の中国において中国人の共通した行動原理となったのである。共産党が潰し
たはずの宗族の行動原理がいまや共産党幹部までを支配するようになった。宗族は
永遠不滅なのである。

本書は中国出身の著者ならではの観察がたいへん参考になる。共産党幹部の収賄の
手口などもいろいろ書いてあって興味深い。

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じゃぐぁ
あの大陸で近代国家が生まれない理由 2018年12月31日

近代国家とは、法が支配し、嘘をつかない国民が、必要に応じて公のために力を尽くすものであろう。
正式な定義は知らなくて良い。この本で書いてあるような内容を否定すれば、すなわち近代国家である。
敵を知り己を知るための一冊として、是非若い方に読んでいただきたい。
「宗族」と呼ばれる一族の論理が最優先で、「械闘」と呼ばれる一族間の争いには全員参加、一族以外は皆殺しにしても罪悪感を感じることのなメンタリティを知ることができる。
一度は共産党が潰した宗族が、人民公社を通して生き残り、現在も変わらず影響を及ぼすに至る過程を詳細に書き表した本書を、是非読むべき。

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アキレスの踵
5つ星のうち5.0
福沢諭吉の遺言 中韓には関わるな2018年12月25日

イギリスはヨーロッパ大陸に領地を持っていた時代がありました。しかし当時のヨーロッパ大陸は動乱の嵐が吹き荒れていて、その影響がイギリス国内にも及んだため、イギリスの国内政治も安定することはありませんでした。しかし無能な国王が何代か続いた時期に、イギリスはヨーロッパ大陸から撃退されて領地を失い、島国に閉じこもる羽目になってしまいました。そうしたら初めて国内の政治が安定するようになり、国内にエネルギーが蓄積され始め、後世の大発展の基盤を作ったのです。

日本の歴史を見ても、大陸諸国との関係にのめり込んでいって、うまくいった試しは一度もありません。ただの一度もです。これは大陸と島国とでは、地政学的な立場がまるで異なるからでしょう。大陸の文化は重厚ですから、惹かれる気持ちはよくわかります。しかし惹かれるのは当人の勝手です。明治以来、中国に心酔してそこで生涯を全うした人は何人も出ました。当人はそれで満足でしょうが、母国で生きる同胞を巻き込んではいけません。母国が島国であるという地政学的立場を忘れて、大陸諸国との関係にのめり込んでいくと、戦前、ドイツとの関係に深入りし過ぎた失敗をまた繰り返すことになるでしょう。

そもそも島国に政権をつくるのは、大陸から独立するためです。サハリンを考えてみればわかるように、大陸から独立しないのなら独自の政権などつくる必要はありません。つまり島国の政権は、出発時からすでに反大陸という基本的性格を備えています。この体質に反するようなことをやれば、当然そのツケは廻ってきます。

日本と相性がいいのは同じ島国の海洋型国家で、イギリス・台湾・東南アジア諸国です。相性が悪いのは重厚長大型の大陸諸国で、中国・ロシア・ドイツです。「同じアジア」というスローガンにだまされてはいけません。戦前の日本軍が中国大陸に軍事的にのめり込んだのも、現代の日本企業が中国に深入りし過ぎているのも、後世の歴史家たちから見れば、本質的に同じことだと判定するかもしれません。もちろん大陸諸国と全くつきあうなという意味ではありませんが、どれだけ深入りするかは、自国の国益から判断しないといけません。歴史から学ぶべき教訓とは「日中友好」ではありません。「大陸諸国との関係に深入りするな」ということです。

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アマゾネス
日本人とは永遠に分かり合えない理由はここにある。2018年12月30日

石平さんの様々な解説のおかげで、大陸の連中の脳内がどうなっているのかよく分かるようになりました。今回は彼らの国家観です。中華人民共和国という国としての組織の事はぶっちゃけどうでもよくて、身内親戚さえ良ければ何してもいいという、未だに部族社会だという衝撃です。アメリカも州毎に別の国だという認識で、ニューヨーカーがカリフォルニアに海外旅行してきたぜと語る、なんて小話もあります。それよりもっと細かく一族単位でチャイナ人は考えます。なるほどだから北京料理と四川料理は全く別の国の料理だと騒ぐわけです。更に身内の利益になる事だけ考えるから、中央政府や日本などの外国企業から賄賂を抜き取る工作に腐心するわけです。外部から奪い取った賄賂を身内にばら撒くことで身内が潤うんですから。そこに公の利益とか人様に迷惑をかけない道徳とか全く考慮にありません。この視点でチャイナを眺めると項羽と劉邦も、三国志も、全く同じ考え方で貫かれてます。驚くべきは21世紀の現代も未だにやっているということ。国家レベルでも皇帝習近平と他の宗族との勢力争いです。

こんな人達ですから全く話が通じるわけがありません。また言い切りますが民主主義体制というのも彼らには適用できません。民主主義を運用するには、国民の高い民度、国家としての合意が必要だからです。一族単位で固まってるような考えでは、民主的な国家運営なんかできるわけがありません。だから、皇帝を頂点とした独裁国家でないとチャイナは統治できないんです。アメリカはよく独善的に民主化を進める〜なんてやってますが、民主主義はすごく運用が難しいので、世界の大半の国では無理です。チャイナはそんな感じなので、経済的に取引してる方などはその辺を理解した上で対応した方がいいでしょう。独特な部族社会の考えを利用して利益を得るなどの狡猾さが必要だと思います。

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fms
習近平の「民族の偉大なる復興」の真の意味が理解できる一冊。これを実現させてはならない!2018年12月13日

中国における”宗族”の発生・解体から、”人民公社”までの成り立ちの仕組み・歴史を丁寧に説明してある。
そして、実質的な”宗族”の復活については、ケーススタディとして、2例を取り上げて、詳しく解説している。
最後は、”人民公社”の廃止まで解説してあります。

私は、いままで全く理解できなかった中国人の思考回路が、やっと理解でき、納得できるようになりました。
この中国シナ人独特の思考を理解せず、彼らと商売をすると、たぶん、大変なことになります(実は私もひどい目にあった一人です)。

本書に書かれているのは、中国ですが、私には朝鮮も同様のメンタリティを持っているような気がします。

すばらしい力作と思います。

中国人を相手に、交渉をする方には、読んでおいたほうがいい一冊です。

https://www.amazon.co.jp/dp/481911350X/ref


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中国とは何者か?〜宗族と幇〜
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/05/001252.html

中国人の特徴として、『自己中心、ご都合主義、独善、責任転嫁、人間不信、土匪国家、危険な「友好」』などが挙げられている

そしてそれらの特徴を解明する切り口のひとつとして『中国人は同族集団(身内)には寛容で、外部に対しては何でもあり』という甚だしい二重性があることが指摘されている。
それらの中国人の気質を形成してきた大きな要因は、中国特有の社会構造にある。今回のエントリーでは、中国固有の社会的結合と言われる、宗族(そうぞく)と幇(パン)という集団に焦点を当て、その中から中国特有の社会構造や意識構造を見ていきたい。


<宗族とは何か?>
中国では姓を同じくする父系の相続集団を『宗族』と呼ぶ。宗族は長子相続と同姓不婚を原理とし、本家を大宗、次男以下の分家を小宗という。宗族は大宗の強力な統制の元で共通の祖先への祭祀を通じて、常に一族集団の団結に努めていた。このような宗族内の上下関係や秩序を定めたものが「宗法」であり、これに基づく道徳的規範が「礼」である(ちなみに儒教はこの宗族の規範を土台としてそれを体系化したものである)。
この宗族という集団は、概ね周の時代に確立する(BC1000〜BC750年頃)。宗族の起源は元々は母系の氏族共同体であったと思われるが、それが歴史のある段階で、父系の宗族(大宗)へと転換していったと思われる。そして小宗の登場は支配階級における「姓氏制度」の確立と密接に連関している。姓氏制度のうち「姓」は母系の血縁集団を基礎としている。これが大宗にあたる。それに対して「氏」とは同じ姓の成人男子に、所領や地位が与えられることによって発生する。つまり氏とは成人男子の社会的身分を表しており、これが小宗を形成している。

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祖先を祀る宗族の会合 写真はこちらからお借りしました。td>

ただし後述するように宗族は周の時代には「宗法」や「礼」という観念規範を強固に定めているということ、あるいは氏の出現によって氏族の共有制が崩れ父系制家族による私有制が制度化されていったということ、これらのことは制度としての宗族や姓氏制度の確立と戸同時に、氏族の規範が解体され、宗族の解体へのベクトルがすでに開始されていたことも意味する。
事実、周の後の春秋戦国時代に生じた群雄割拠を通じて旧支配階級は所領や地位を失い、支配階級において氏は無意味化していく。
そして、そればかりではなく宗族の結集軸である祖霊信仰も春秋戦国時代以降弱体化していく。このことは宗族そのものの持つ集団私権力が弱体化すれば、血縁集団さえも容易に解体されていくことを示している。
中国の歴史上、庶民(農村)においては確かに宗族が社会構造の基底部を形成していることは一面の事実である。例えばよく用いられる例として、同じ宗族から科挙合格者などのエリートを輩出すれば一族郎党にその恩恵が及ぶため、宗族の期待を一身に集めるという話はごく一般的な話である(村落ではなく宗族であることに注意)。
しかし支配階級においては、この宗族は祖霊信仰とともに権力闘争の基盤上、二義的なものに転落して言ったという事実も同時に押さえておかなければならない。
このことが、中国人は集団的であると同時に個人主義的であるといわれる、社会構造的な基盤を形成している。
<幇(的な結合)とは何か?>
他方『幇(パンもしくは、ほう)』とは何か?それは、一言で言って利益集団である。
幇には秘密結社的あるいは紅幇(ホウパン)・青幇(チンパン)などのマフィア的な組織である「幇会」(パンフェ)から、公然組織的な「幇派」(華僑社会における地縁・血縁を土台とした組織や業界団体・職能団体に至るまで)などさまざまな「幇」が存在する。
そして現在の「幇」組織の起源は清の時代である18世紀が起源といわれている。
しかし、この幇(的な組織)は中国の歴史上何度も登場したり消滅したりしてきたので、必ずしもそれが幇(的な組織)の起源とはいえない。
例えば遡れば、華僑そのもの(一種の利益集団)も南北朝時代の3世紀ごろの移民(おそらく戦乱に追われた亡命者や難民)を起源とするといわれているし、秘密結社的なものという意味では、歴史上判明している範囲でも182年の黄巾の乱において宗教的秘密結社が既に猛威を振るっている。黄巾の乱は秦朝の時代に兵役で農村から駆り出され、除隊してからも帰るべき家や耕すべき田畑を持たない兵士上がりの貧民たちの相互扶助組織が基盤となったといわれる。
この黄巾の乱を始め、中国の歴史は地域豪族、有力商人、知識人が農民を巻き込んで起こす全国的反乱が際立って多いことが、その特徴である。そしてそれらの多くは宗教的な秘密結社の形をとっており、それがそれらはしばしば時の王朝を揺るがし、転覆に至らしめている。

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太平天国の乱を主導した洪秀全 紅幇と青幇

写真はこちらとこちらからお借りしました
その意味では客家(ハッカ)もそのような利益集団(あるいは半秘密結社)の代表的なものの一つと言える。
黄巾の乱から始まる400年間の争乱によって中国の人口は1/10以下に激減する。そしてそれ以前に中原地帯を制覇していたもともとの漢民族は、ほぼ滅亡する。そしてその際各地に逃げのびた旧支配階級の末裔たちは中原発祥の「正当中華文明」の再興を目的として再結集を計る。これが客家の起源といわれている。
この客家に属するといわれる、主だった具体的人名を挙げてみよう。
清代における太平天国の乱を主導した洪秀全、孫文、朱徳、ケ小平、李登輝(台湾総裁)、タクシン(もとタイ首相)、リーファンユー(シンガポール初代首相)等々、中国及び華人社会において国の変革(ないし政権転覆)を主導した人物の名前が綺羅星の如く並ぶ(リンク)。

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ケ小平氏 元台湾総裁 李登輝氏

それぞれ写真はこちらとこちらからお借りしました。
この客家の起こした反乱も含め、中国史の特色は、農民が武装解除されず古代より農民を戦闘員として組織していること、(秘密)結社=人工的利益集団の力が以上に強く、それがしばしば中国の歴史を動かしてきたことにある。その意味では中国史は正規軍の戦いだけではなく総力ゲリラ戦の歴史であり、それらの争乱によって歴史の1/3は非統合状態にあったというところにある(毛沢東率いる共産革命もその一つの典型に過ぎないという見方は十分に可能である)。
しかし、問題は、中国ではなぜこのように秘密結社や人工集団が、異常に繁殖し力を持つてきたのかということにあり、農民側の宋族がなぜここまでに戦闘的(他集団と敵対的)であるのかという点にある。
その理由のひとつが、異民族支配(モンゴル系やツングース系等)の歴史が長く、農民が治水灌漑等の理由で強制移住を繰り返させられてきたこと。それによって地縁的結合はバラバラに解体され、解体されないまでも異郷の地で周辺農民からよそ者として孤立状態を強いられてきたことがあげられよう。争いが絶えずいわば根無し草になった人々は、血縁である宗族や利益集団である幇へと結集するしかない。このことが中国人が身内(宗族や幇)に対して寛容で他集団に対して敵対的(ないしは利用対象でしかない)中国人の二重性の基礎を形成している。
しかしそれらも含めてもっと根深い理由があるように思われる。利益集団の強さは盗賊や海賊が形成したといわれる古代ギリシャやローマと共通したものがある。また中国の中原は東西南北の交通(後の草原の道、シルクロード、海の道)の交わる要所にあり、その制覇をめぐって諸勢力が激突を繰り返してきたという歴史的構図も見て取れる。
最後の問題は、各集団が相互に敵対的でありかつ著しく攻撃的な民族体質の源泉は何によって形成されたかにある。その要因を更に中国の歴史を紐解く事で解明していきたい。
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/05/001252.html

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【中国】中国人の特徴@ 〜自己中心、ご都合主義、独善〜 11/04/05

白人(欧米人)の意識構造の解明に引き続き、今後、中国人(漢人?)の意識構造の解明に入る前提として、中国人の特徴を固定してみます。

以下、『中国が嫌われる七つの理由リンク』より抜粋
http://www.mars.dti.ne.jp/~saitota/hitori050501.htm

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1.自己中心

「自己中心的である」を略して「自(ジ)己(コ)中(チュー)」などと呼ぶが、こういう人間が好かれることはまずない。中国人はまさにジコチューが国民性といってよい。そしてそれが国家規模に拡大され、自国中心主義になる。「中国」という自称がその最たる証拠である。

中国人は古来、近隣国を蔑視してきた。この蔑視観は、文化の違う人々を人間と見なさないほどまでに強い。その優越意識はアパルトヘイト以上である。その証拠に華人以外はみな禽獣として、民族名称には獣へんや虫へんのついた漢字を用いて書いた。盛唐時代の代表的な知識人である韓愈は、著書「原人」で、夷狄のことを「半人半獣」とし、獣より進化したと評した。作家の魯迅は「中国人は人間を人間とも思わない」と、中国人の国民性を批判している。

西欧諸国が清国に対して通商要求をするときに、どうしても耐えられなかったのはあの屈辱的な「三脆九叩」の礼をさせられることである。アヘン戦争終結後の一八四二年、外国人を夷狄あつかいする清国に対し、イギリスは南京条約第一七条でわざわざ英国を「英夷」と呼ばないように規定した。それでも中国が守らないので、一八五八年、アロー号事件後の天津条約の締結のさいに「夷狄」呼ばわりしないことを再度明文化させている。清末に中国人と接した外国人のほとんどがその傲慢さに苛立ち、イギリス通商特使として北京に派遣されたマカートニーは逆に中国人を「半野蛮人」と呼んだ。イギリス公使兼香港総督J・F・デビスは中国文明を「半文明Lとみなし、初代総税務司のN・レイに至っては「アジアの野蛮人」と呼んで軽蔑した。こうなると、中国人とイギリス人のジコチューくらべである。


2.ご都合主義

ジコチューは自分の都合に従って行動する。したがってご都合主義が普遍化されるのである。他人の都合や思惑は二の次、三の次というより、最初から考慮されていない。政治の流れを見ても、一九五〇年代、「向蘇一辺倒」などといわれ、ソ連と蜜月の関係を結んでいたにもかかわらず、六〇年に入って突然「ソ連修正主義反対」、「ソ連社会帝国主義打倒」のスローガンを掲げて豹変した。そして六〇年代、日米安保、アメリカ帝国主義反対を唱え、旧日本社会党と共同声明まで出した中国は、七〇年代に入るやある日突然、日米安保賛成、反ソ親米に急変した。

このとき日本の旧社会党員は肩すかしを食らい、いわゆる進歩的文化人はどれほど困惑したことだろうか。日本にかぎらない。文化大革命を礼賛した世界の文化人たちは、文革収拾とともに、文化大革命そのものが「動乱の十年」となって評価が逆転して、中国人の敵として振り落とされていく。中国人のご都合主義についていくのはたいへんなことである。

戦後、日本の世論は「中国人とは、原則を重視する民族」という神話を信じていた。それは中国政府がいつも「平和五原則」「周恩来四原則」「日中三原則」と原則ばかりを唱えていたので、つい幻惑されたためであろう。実は、これは原則ではなかった。偏執、強情、拘泥を「原則重視」に読み間違えたのである。ジコチューの中国は、原則(建前)と本音を実にうまく使い分ける。
人治国家の中国では、法はあっても自分の都合で利用したり、無視したりするのが通常である。したがって、朝令暮改、契約反故などが頻繁に起こり、たいていの日本人は中国人の独断にふりまわされ、最後にはノイローゼになってしまう人までいる。


3.独善

仏教と儒教は中国から朝鮮を経由して日本に伝えられた。宗教が共通なのだから、精神文化も共有しているように思えるが、根本となる死生観がまったく異なっている。日本人は「死ねば神」「死者悉皆成仏」といって、死後にまで生前の利害や怨恨を問わない心を持っている。だが、中国人には強烈な勧善懲悪の倫理意識があり、自分の敵は死後もその墓を暴き、屍にむち打ち、魂まで食らおうとする。人は死しても安らかに眠ることができないのである。しかも信仰の自由はなく、国内で邪教とされた宗教は徹底弾圧し、日本の総理の靖国神社参拝にまで政治的に干渉してくる。

中国の内政干渉は靖国問題にとどまらない。歴史教科書、政府高官の発言、南京事件の評価、日本の生存権問題に属する日米安保、憲法改正論議、ダライ・ラマや李登輝前台湾総統の訪日、航空会社の空港使用、ホテルでの国旗掲揚など、ありとあらゆることに干渉し、外交問題にしようとする。

かつてテレピ朝日の二ュースステーションで、キャスターの久米宏がチベットに関して発言した内容に中国が圧力を加え、翌日の放送で中国に対して謝罪した事件があった。同じように、テレピ各社の中国特番で、中国政府と協力して制作されたものであるにもかかわらず、放送後、中国の一方的な抗議を受け、公開謝罪させられたケースが何度もある。中国の独善的な思惑の押しつけは、日本に対してだけではない。世界のいたるところにおよんでいるのである。

たとえば、旧西ドイツやデンマークなどでチベットの人権侵害問題をとりあげる議会に圧力をかけ、決議をしたら報復すると恫喝した。また江沢民主席はかつてスイスでデモ隊に遭遇したときに、迎えに出たスイスの首相に対し、自国の管理もできないのかなどと、いちじるしく礼を失する発言をしたことがある。アメリカに対しでも同様の干渉を加える。李登輝が総統の座にあったとき、卒業したコーネル大学の訪問のために訪米を申し入れたことがあった。アメリカの上下両院が李氏の訪米を受け入れる決定をしたにもかかわらず、中国はこの決議に関しても「誤った決議」だとして反省を求めたのである。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=248775

4.責任転嫁

「悪いのは全部他人で、成果は全部自分のおかげ」という責任転嫁と絶対無謬の独善意識が中華思想の真骨頂である。

私は台湾で生まれ育ったが、小中学校時代に、近代中国が貧困・落後したのは列強の侵略と清朝の腐敗、軍閥内戦に原因がある、と教えられた。中華人民共和国では、それがすっかり国民党政府の責任にされている。

また、文革が終焉すると、「動乱の十年」の責任は全部四人組のせいにされた。毛沢東の過ちに触れられることは決してなく、あれほどの社会的混乱の責任をすべて四人の政治指導者に押しつけたのは、裏返せば、中国人の破廉恥な無責任意識のなせるわざである。改革開放になると、急激な経済開放のために強盗殺人、賭博、麻薬密売、買売春、人身売買、詐欺、迷信など、「六害」「七害」と呼ばれる凶悪犯罪が横行するようになった。これはある意味で当然の結果である。こうした無秩序は中国本来の姿であり、百年変わらぬ国民性の復活にすぎない。ところが中国はそれを認めず、資本主義の精神汚染だと決めつけ、今度は「社会主義新文明を創造せよ」と呼びかけ、党大会のたびに決議などしている。資本主義のモデルについていくだけで手一杯だというのに、何主義だろうと新文明の創造などできようはずがない。

西欧文明が東アジアに大きな影響をおよぼしたのちの中国人の不幸、落後はすっかり西欧のせいにされてしまったのである。近代中国の没落はアヘン戦争以後、すべて列強の侵略の結果に帰され、中国自身にどんな問題があっても、それに目を向けることはない。こうした責任転嫁は、中国文明の優越性に対する固執の表れともいえる。自己の無謬性の過信によって独善的となり、ことに日本人のような自虐的な国民に対しては、反省や謝罪を要求することをやめようとしない。明末、異端の儒学者といわれた李卓吾は、その著書『蔵書』の中で、中国人についてこう指摘している。「いかに自己礼賛するかについては苦心惨憺するが、自己批判についてはまったく関心を持たない」と。最近、中国駐在の日本人商社関係者が中国人気質について調査をし、以下のような中国人像がまとめられたという。

「絶対自分の非を認めない。それは中国人が責任感の意味を知らないというよりも、失敗を他人のせいにする習性があるからだ。もともと、中国は熾烈な競争社会であり、責任をとる段になったら、なるべく自分の身にふりかからないようにしなければ生き残れないからだ」


5.人間不信

中国人は国家を信用していないばかりか、社会も人間も信用していない。妻さえ住用しないのは、もともと他人だからとしても、血のつながった親子や兄弟でさえ信用できないのである。毛沢東の極左政策の時代に、「父母よりも毛主席が親しい」と言う言葉が流行り、当時は中国社会の砦とも言うべき家族まで階級の敵と目され、子が父を告発することさえ頻発した。劉少奇や林彪は、政敵ではなく我が子に密告され、一人は獄死し、一人は逃亡する途中で死亡したのである。

中国のことわざに「一人で廟に入るな、二人で井戸をのぞくな」というものがある。一人で廟に入ると、悪い坊主のカモにされ、殺されて金品を奪われてしまうかもしれない。二人で井戸をのぞくと、相棒に突き落とされる危険があるという意味である。この人間不信社会で生き残り、競争に勝つために兵法が発達した。孫子は「兵は脆道なり」と言った。つまり戦争は詐欺の道だというわけである。中国人気質の最大の特色も「詐」にある。中国人は「詐の民」だという人もいる。親は子に対して「人にだまされるな」と教育し、常日頃口うるさく教えている。

戦後、日本人は中国人の詐欺ぶりを目の当たりにして驚愕した。偽残留孤児、偽難民、偽装結婚、偽造パスポート、闇銀行、偽造卒業証書、偽造プリペイドカード……。自分の利益のためにはどんな物でも平気で偽造するし、どれをとってとも日本人の想像を絶するものばかりだ。

世界中で今大きな問題になっているのは、中国の偽ブランド品である。知的所有権の盗用は別としても、薬、タバコ、酒、食品など、人が健康を害したり、悪くすれば命を落としたりしてもおかまいなしに、どんどんコピーをつくってしまうク中国政府は「打仮運動」と称して偽ブランドの追放キャンペーンを行っているが、効果はまったくない。現在の中国は、公金横領、賄賂横行、汚職天下の国であり、偽物天国である。今日も中国のどこかで偽プランド品が製造され、世界にばらまかれている。

嘘でぬりかためられた人間不信の社会の中で、中国人は上から下までだましあっている。政府はマスコミを通じて民衆をだまし、民衆は面従腹背で良民を装いながら国家を食い物にする。中国人社会で詐欺師が暗躍し、偽物が氾濫するのは当然なのだ。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=248776

6.土匪国家

この数年来の日本における中国人犯罪の急増はいまや常識といえる。実際、外国人犯罪者の半数以上が中国人犯罪者で、新手のピッキング強盗となるとほとんどが中国人の手によるものである。石原慎太郎都知事も、この類例を見ない凶悪犯罪を新聞で指摘しているし、ある自衛隊関係者は、警察署に収容された中国人に提供する食事の一食分の経費が、自衛官のそれよりも高いことをぼやく有様だ。

日本ばかりではない。世界の多くの大都市が中国人密入国者の問題に悩まされている。シベリアヘの中国人密入国者は年間五十万人にのぼるという信じがたい数字も出ている。蛇頭の年間総収入は世界の麻薬密売の収入の数字をとうに超えている。

中国人が海外流出すると、流出した先で社会が大きく変化する。台湾の生活環境の変化は、その代表的な一例である。台湾は戦時中、疎開して家を離れても物が盗まれることがなかった。しかし、戦後、四十万の日本人が台湾から追放され、代わりに二百万の中国人が大陸から流入すると、台湾はたちまち泥棒の国と化した。泥棒の多さは高層ピルの上階でも窓に鉄格子がはまっていることが如実に物語っている。あの特異な建築群の景観は、泥棒のせいなのである。台湾では「中国人を見たら泥棒と思え」という教育を親がするようになった。

九四年、中国の浙江省杭州の千島湖で、台湾入観光客二十四人を乗せた遊覧船が湖上で強盗にあい、全員が船室で焼き殺された事件があった。台湾では有名な事件である。当時の中国政府はこの痛ましい事件が強盗殺人事件であったことをひた隠しにしていた。李登輝総統は激怒し、中国を「土匪国家」だと非難した。

中国が「土匪国家」であることは、歴史的にも知られている。清代の乾隆帝時代、英国の通商使マカートニーは、『奉使記』の中で沿道には乞食と盗賊ばかり目立つと記している。中華民国初期は、「賊のいない山はなく、匪のいない湖はない」と言われるほどで、賊の数は推定二千万人、軍隊より多かった。その当時、上海や満州の各都市では公共パスに武装兵士が最低二人同乗していた。そうでなければ安全が確保できないのである。現在でもいたるところで「車匪路覇」に注意を呼びかける看板がかけられ、改革開放後の中国を特色づけている。九〇年代、匪賊との銃撃戦で殉職した警官は毎年二千人あまりにものぼる。


7.危険な「友好」

親善、好意を示す「友好」という言葉は、本来嫌われるはずがない。だが、中国人との「友好」だけは別である。新聞やテレビなどのマスコミは、米、英、仏、独と日本との大人のつきあいには普通「親善」という言葉を用い、「友好」というキャッチフレーズを使うことはあまり見られない。だが、中国に関するかぎり、なぜか「友好」という言葉が使われ、日中交流の専門用語のようになっている。

戦前、戦後を通して、日本と中国は「友好」と「非友好」に二分されていた。一時、中国との関係はもっぱら「友好人士」や「友好商社」という、中国からお墨付きをもらった一部の日本人に独占されていた。一九七二年に日中国交正常化がなると、日中間の交流は「友好人士」の独壇場でなくなり、やがて「子々孫々にいたるまで」という形容がつけられて「友好」が強調されるようになった。普段、人間不信の社会で生きているので、中国人は人間関係についてことさら「友好」を強調しないと不安に襲われる。

しかし、中国を相手にする側にとって、中国が強調する「友好」ほど不安なものはない。なぜなのか。その理由は「友好」の解釈権がもっぱら中国の側にあり、中国の規定する「友好」におとなしくついていかなければならないからだ。ことにしたたかさをあまり持ち合わせていない日本人は、腹芸が下手でタヌキとキツネの化かし合いができない。しかも日本人は外圧に弱く、中国流の「友好」パフォーマンスに対抗するのがきわめて下手である。

「友好」という言葉を額面どおり受け取っていると、思わぬ落とし穴にはまることになる。実は中国が「友好」を語るとき、ことに相思相愛を語るときが最も危険なのである。それは歴史を振り返ればわかる。たとえば、中ソ、中印、中越戦争が起こったときは、いずれも両国の「友好」関係が蜜月のピークに達した時期にあたり、まさに老子のいう「物極まるときは必ず反(かえ)る」という結果になった。

だいたい人間の歴史で、民族間、国家間に「子々孫々の友好」などあったためしがない。中国との「友好」は、すなわち彼らの独善的な価値観を全面的に受け入れることでしかない。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=248779


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広東省農民「オラの村が隣の村との戦争で焼き打ちされたんだが…」 
2010-05-16 11:52:14 |

広東省・福建省ネタ2003年ごろ、大学で上海人の学生と知り合った。
当時、卒論で中国の農村を調べようかと思っていた俺が
彼に何か面白い話はないかと聞くと、こんな答えが返ってきた。


上「中国の農村はヤバい。俺たち都会の人間は、
  農村で人を轢いても現場で車を止めるなってことになってる。
  すぐに現場を離れて隣の村まで行ってから、警察に電話するんだ」

俺「なんですぐに助けないの?」

上「助けたいのはやまやまだけど、後が怖いんだよ。
  村人がワラワラ寄ってきて、轢いた人間をリンチして車をボコボコにするんだ。
  その場を離れないと自分の命が危ない」

俺「……そう」


話を聞いた当初、上海人はここまで農民への偏見を持っているのか、と
ちょっと不愉快になった。

だが、後にいろいろと調べてみると、どうやら彼の話はネタではなくマジなのだ。
中国南方の農村(特に広東と福建)は、非常にバイオレンスな顔を持つのである


事件の舞台は中国のディープサウス、広東省最西部。

東山鎮の脚踏村(あしぶみ村)という、名前からして田舎テイスト溢れる村だ。
場所は下記であり、瀬戸内海に浮かぶ旧水軍根拠地の村のような地域をイメージすればいいと思う。  


ちなみに、事件に関わる地名は「広東省湛江市東山鎮脚踏村」及び同「調文村」だが、
これは日本の地名に置き換えると、それぞれ

広東省 湛江市 東山鎮 脚踏村
     ↓
●●県 ××郡 △△町 大字○○

こういう感じになる。


今回の事件は脚踏村と調文村の戦いだが、
つまり大字の町内会レベルで焼き打ちとリンチを繰り返している訳なのだ。

さらにすごいことに、両村の村人がネット上にも事件を持ちこんで
互いに荒らしと叩きに明け暮れている模様である。


械闘が盛行する18世紀と、ネットを駆使する21世紀が同居。
あまりにもカオスすぎる現代中国の農村。
それではご覧ください。


―――――――――――――――――――――――――――――――

【湛江市東海島東山鎮脚踏村、1.28事件の真相告発!】
原題:「湛江市東海島東山鎮脚踏村1.28事件真相!」湛江板
http://tieba.baidu.com/f?kz=709201131

  ※スレ内では、脚踏村の行為やその側の人間の発言をピンク、調文村の好意や発言を緑で表示することにした。


湛江市東海島東山鎮脚踏村で発生した1.28事件は、
更なる暴力事件である2.3事件を引き起こし、
脚踏村の村人の家庭59戸の家屋と家産が悲惨な破壊を被った。

なかでも村人の家5戸は屋内の現金がすべて持ち去られ、
一部の家屋は白昼堂々と焼き打ちにあった。
売店1軒は略奪し尽くされ、無辜の村人3人が殴られて重傷だ。


事件の詳細:

1月28日早朝、
脚踏村の村人が車列を組んで新婚の花嫁を迎えに行って村に戻る際、
東山鎮の調文村出身の新郎・唐某という人物と一悶着があり、
婚姻の車列に参加していた数人の脚踏村の村人が
唐某を殴りつけて重傷を負わせた。


1月29日、
脚踏村の無関係の村人が用事で村の外に出た際に、
事故があった調文村の村人が三叉路まで彼を追跡し、
調文村へと拉致して殴りつけて重傷を負わせた。


2月1日、
(先日、脚踏村の村人に殴られた)調文村の村人・唐某が病院で死亡。
村の不良分子が他の村人を扇動し、白昼堂々と
東山鎮の中心部にある脚踏村民が経営する薬局を襲撃して破壊した。店はほぼ全壊。


2月3日午前、
調文村の数百人の暴徒が組織的に2隊に分かれ、
暴徒の1隊は東山鎮中心部の脚踏村民が経営する店舗をすべて破壊(計3店)。

もう1隊(約200人)は脚踏村へと攻め込み、
罪もない村人を殴りつけ、用意したガソリンに火をつけ民家数軒を焼き打ち、
無数の家屋を打ち壊した。

現地の派出所には飾り物のような警官が十数名しかおらず、
暴徒が村に攻め込んで悪行を働いているのを知るまで1時間もかかった。


現在、調文村の暴徒は尚も現地の主要交通路をバスで封鎖し、
外に出ようとする脚踏村の村人と思われる人間を殴りつけている。
政府と天に対して敵対行為をおこなっているのだ!

1.28事件から2.3事件にかけての負のスパイラルの結果、
現地の警官が村人の安全と財産が残酷にも破壊されるのを
現場で目の当たりにし(つつも何もできず)、
政府の関係部門は社会の秩序を守るという威信を失うこととなった。
現地の治安は大地震の後のごとき無政府状態だ!


1月28日にはリンチ事件から被害者が死亡し、
さらに続いて脚踏村の無辜の村人が暴力を受けて重傷を受け、
村人が経営する店舗が破壊と強奪を受け、
2月3日には暴徒が村に攻め込んで悪行の限りを尽くす。
現地の警察は解決能力が無く、片目をつむって見逃して暴徒のなすがままだ。


正義はどこにある!
政府はどこにあるんだ!!


5 名前:名無し人民@ヒャッハー!
野蛮すぎるだろ。


9 名前:名無し人民@ヒャッハー!
無辜の村人たちの為に、政府が(この混乱を)正しい道に戻してくれるよう願う。

  ※前時代的な暴力のカオスに対して何らかの対応を示せるのは、やはり前時代的王朝たる「お上」なのかもしれない。
   中国の農民の認識として、この発想はあり得るところかと思う。


10 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>>6
政府が正しい道に戻したとして、死者はどうなるよ?


13 名前:名無し人民@ヒャッハー!
これは貴様ら脚踏村の村人が報いを受けたのだ。
天知る地知る、って知っているか?

  ※対立する調文村の村人による書き込みと思われる。


14 名前:名無し人民@ヒャッハー!
死者は無辜の被害者だぞ…。
なんで法律で解決しないんだよ…。

まさか脚踏村の無関係の村人まで責任があるって言うのか…?
今度は脚踏村の村人が調文村の村人を襲撃することだってあるかも…。


15 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>>14
カマトトぶるんじゃねえよ


17 名前:名無し人民@ヒャッハー!
みんなダメだろ。
村人は無辜の被害者だが、全ては起こってしまった。
人も死んだ。
村も荒らされた。

どうしようもない。


19 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>用意したガソリンに火をつけ民家数軒を焼き打ち、
>無数の家屋を打ち壊した。
>現地の派出所には飾り物のような警官が十数名しかおらず、
>暴徒が村に攻め込んで悪行を働いているのを知るまで1時間もかかった。
これは道理が許さない。
政府が罰してくれることを望む!

  ※脚踏村の村人による書き込みかもしれない。


20 名前:名無し人民@ヒャッハー!
当時の状況を知らない人間が、何の権限があってこの事件を批判するんだ。

死んだ唐某は幼い頃に父を亡くして
兄妹数人とともに女手ひとつで育てられた。
彼の母さんは大変な思いで育てたんだぞ。


唐某だって結婚をしたかったんだ。
家は貧乏だったかが、家族がみんな一緒なら幸せだと言って暮らしていた。
なのに、まさか恋人を家に送った帰りに、恋人の村(脚踏村)の
騒ぎ好きの不良どもから殴り殺されるとは。

唐某はなにも悪いことをしていない。無実だ。
彼が半死半生の目に遭うまでリンチされた件、こちらにこそ道理があるのか?


唐某の死は無念だったと思わないか?
もちろん、唐某の村の人間がとった行動は間違っている。
これでは更に多くの無辜の人間を傷つけることになる。

とにかく、感情的にならずに正しい方法で解決してほしいと思う。

  ※最初に殴り殺された唐某について、>>1とやや異なる情報が載せられている。
   おそらくは調文村の村人の書き込みだろう。

   おそらく、調文村の唐某は脚踏村の女の子と付き合っており結婚。
   だが、もともと村同士の仲が悪かったかして、唐君は結婚当日に脚踏村の村人により撲殺されたのだ。

   (中国では結婚式の際に、知り合いが新郎新婦にいたずらをする「鬧房」という習慣があり、
    その悪ふざけの過程で誤って新郎を殺した可能性もある)

   そして、新郎側の村はリベンジのために脚踏村を襲撃した…、というわけである。


22 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>>19
>これは道理が許さない。
お前たち脚踏村の娘は、これから外の村に嫁に行けると思うなよ!
お前らの村の娘を嫁にしようとしたら、新郎が村人に殴り殺されたんだ!

野蛮な村人どもめ!
こんな村には、今後は誰も行きやしないさ!!

  ※調文村の村人による書き込みだろう。


25 名前:名無し人民@ヒャッハー!
(脚踏村と調文村がある)東海島の島人はヤクザみたいに言われているけれど、
どうやら噂は間違いないようだな。

こんなに常識の通じない地域は、
放置して勝手に殺し合いさせておけばいいと思う。


27 名前:名無し人民@ヒャッハー!
法治社会ではこういう事件は法律によって解決される。
だが、調文村の村人は集団で脚踏村に攻め込んで
(日本軍のような)「三光作戦」を実行した。

これは旧社会的で野蛮な行為だ!!


29 名前:名無し人民@ヒャッハー!
犯罪を犯したんだ。
お前らの子どもに至るまで略奪し尽くしてやるぞ。

唐姓の人間を許さない!!

  ※脚踏村の村人による書き込みだろう。
   中国南方の農村では、村が丸ごと同じ一族…という場合がある。
   (そのため、1人の体面を傷つけると「一族の恥」ということになり、こういう復讐が行われる)。

   最初の死者・唐某の出身地である調文村は、おそらく唐氏一族の村。
   ゆえに、脚踏村の村人は唐氏の一族郎党を憎むに至るのである。


47 名前:名無し人民@ヒャッハー!
君子はたとえ10年がかかっても仇討ちをおこなうものだ。
調文村をこのままにはしておけん!

  ※脚踏村の村人による書き込みだろう。


56 名前:名無し人民@ヒャッハー!
お前ら、戦いを続けて楽しいか?
それで家族や愛する人が巻き添えになって死んだらどうするんだ?

それでもまだ戦うのか?


69 名前:名無し人民@ヒャッハー!
唐一族は恐ろしすぎる!
脚踏村の1万人の村人が、数千人の唐氏一族に踏み荒らされたのだ。
(略)


82 名前:名無し人民@ヒャッハー!
脚踏村はもともと良くないことばかりしてきた。
二十数年前にも(似たような械闘で)大事件を起こしているしな。

しかし調文村も野蛮だ。
村の勢力を頼みにする大人が多すぎる。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


この後もスレは荒れ続け、両村の村人による

「お前の村を滅ぼしてやる!」
「貴様らこそ滅亡しろ!!」

という物騒な書き込みがたびたび見られた。


…ところで、ちょっと話を変える。

中国において、農民が役所を襲撃するといった暴動(官民衝突)はしばしば発生しており、大紀元(法輪功のニュースサイト)なんかで報じられることが多いのもご存知の通り。

そして、中国崩壊論者の人がこれらに対してホルホルして
「共産党独裁政治への庶民の不満が高まっているのだ!」という
根拠として引用したりする。


だが、暴動を起こす農民というのは、このスレで見ればわかるがごとく、
リミットブレイクを非常に容易に起こす人たちなのである。
大した理由じゃなくても暴れるのだ。


一見すると識者ホルホル系の官民衝突のようでも、役所への反乱に見えて
実は単なる村同士の(どうでもいい理由での)戦争が
飛び火しただけというケースも多いのではないか。

また、実際に地方の役所が無道な場合(これも多いのだ)でも、
抗議に立ちあがった農民が知らん間に目的と手段を逆にしてしまい、
「とりあえず暴れたからそんでいいやw」となって
問題の解決を求めないケースもあるのではないか。

良くも悪くも彼らの単純さと不条理さを舐めてはいけないと思う。


暴動といっても、即・反政府や反共産党につながる性質のものとは限らない。
党と軍がひとまず綻びを見せずに存在する限りは、
農民による村レベルでの暴動は、中央から見れば中学生のニキビ程度の日常茶飯事の小事件だ。

「中国にはよくあること」で流せる話なのである。

普通は現場レベルで放っておくし、
ちょっと目立ったら(大規模化したら)、クレアラシル(武装警察)を塗ればいい。
この程度では、脳味噌や人体(共産党や国家)に影響を与えるには及ばない。


…なので、「どこどこで農民が反乱!」というニュースを聞いた際、
すぐに「中国崩壊への第一歩だフハハ」と大喜びしても
只のヌカ喜びだと思うのだ。

「反乱」の背景とか経緯をよく調べた方がいいし、
それが大規模化しかけたところで鎮圧されているようなら、
むしろ「中国の体制は(現時点では)盤石だ」という根拠にすらなり得る。

ニキビは、もちろん疾病要因もあるものの生理体質的な理由でできることも多い。
当たり前のように生まれる赤ニキビに、すぐにクレアラシルを塗れるのは、
共産党が最低限はお肌のケアをしているということである。


もっとも、ニキビの現場にいる人はたまったものじゃなかろうが…。
これが中国の農村だからしょうがない。


http://blog.goo.ne.jp/dongyingwenren/e/a370aaaca87869d375aa1d5ce930e919
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広東省農民「オラの村が隣の村と戦争をはじめるらしいんだが…」

2009-11-08

広東省・福建省ネタ今回取り上げるのは、広東省の「械闘」である。


…と言っても何のことやらわからない読者が大部分だと思うので、
ここはひとつYahoo辞書先生に語句解説をしてもらうことにしよう。


 かい‐とう【械闘】
 革命前の中国で、水利や地境などの争いなどを原因として起きた
 部落や労働者集団間の武力闘争。清代には華中・華南に多かった。


中国南部の械闘には、「宗族」と呼ばれる父系血族の集団同士で争われる例が多い。
(→要するに、陳さん一族VS張さん一族みたいな感じでのガチバトル)


一族と言っても、勢力は数百人以上。一村以上の単位での総動員である。

外部から傭兵を連れてきた場合は数千人以上が激突する大合戦となり、
海外に渡った華僑の親戚たちが銃や火砲まで援助してくるのでタチが悪い。
村は、平時から堀や砦が築かれて完全武装だったりする。

械闘は清代の康煕雍正年間(18世紀初頭)から盛んに発生するようになり、
なんと20世紀前半の中華民国時代まで普通に続いていた。
広東省や福建省で特に多く、台湾でも日本統治時代の直前まで盛んにやり合っていたらしい。


…宗族の械闘の原因は、当初は

「うちの一族の村の水を取るな」とか「うちの一族の風水を切る場所に墓を作るな」
という相応の理屈に基づいたものだったようだが、
何百年も対立しているうちに当事者たちも理由を忘れてしまい、
なぜ戦っているのか不明のままドンパチやっていることも多かったようだ。

民国初期に福建省の統治を担当させられた役人が、上司の袁世凱に
「こいつらマジで洒落ならん。勘弁」
と報告していたりするから余程の事なのである。


そして「新中国」の成立後。

農村の宗族組織や封建的な支配関係は共産党様によって解体され、治安も向上。
械闘の風潮はおさまった、とされている。

だが、どうやら実際のところは全然おさまっていなかったようなのだ。


百度の「広東」板より、ディープすぎるスレをご覧ください。


原題「械闘」 広東板
http://tieba.baidu.com/f?kz=269824098


俺たちの村は広東省汕頭市潮南区、司馬浦仙港郷の辺りにあるんだが、
隣の村との関係がずっと良くないのだ。
歴史上、たびたび武力衝突をしていたのだが、
20年前からは特に大規模な闘争は起こっていなかった。

しかし、先月30日に俺の村の共産党支部書記が
(奴は十年以上この職にあり、偽造タバコを作って儲けている地方皇帝だ)
隣の村に行って先方の代表と話をして、帰ってくるや隣村と戦うと言うんだ。

少なくとも鉄パイプ300本以上、ライフル十数本を準備した。
村の老人たちの大部分は開戦を支持している。

派出所の警官がやってきたが、
あれやこれやとタライ回しをされるだけで、解決できないままに去っていった。

地方皇帝いわく、
各戸ごとに少なくとも1人を動員せよ。
出さない家は敵を攻撃するついでに打ち壊す。
各戸ごとに100元を拠出せよ。
戦死した場合は10万元の見舞金を保証する。

昨夜、俺はさまざまな奇怪な声を耳にしながら寝た。
今日、戦いを始めるらしい。
すべての準備は完了して掛け声を待つばかりのようだ。

これは何時代だよ?
なんで俺の村はこんなことやってるんだ?

みんなすまない。
この事を拡散して多くの人に知らせてくれ。


広東の海陸豊地域では、俺が小学生のころまで烏旗軍と紅旗軍が戦っていたぞ。
なにか事があって紛糾すると、烏旗勢力に属する村と紅旗勢力に属する村とが棍棒を持って村境に集まるんだ。

中学に上がってからは似たような事件はもう無くなった。

烏旗軍と紅旗軍は政治とは関係ない。
宗族と関係があるんだ。


  ※海陸豊地域…現在の広東省東部・汕尾市に位置する海豊市と陸豊市のこと。
         民国時代には、軍閥革命家の彭湃という人物が「海陸豊ソヴィエト」という
         カオスな名前の政権を樹立したりもしている地域である。
           


  ※烏旗と紅旗…もともと、福建省や広東省は「宗族」という父系血族の団結がめちゃくちゃ強い地域。
           村ひとつがまるごと「李」さんや「陳」さんの宗族だったりする。
           (→中国でよく見る「李家鎮」とか「陳家囲」なんかの村名を想像するとわかりやすい)

           で、宗族同士が械闘(=武力衝突)をやってるうちに、
           戦国時代のように宗族や村が合従連衡して連合軍を作る場合がある。烏旗と紅旗もそのひとつ。
           この手のケースは清代中期から盛んになり、福建省仙游県の「烏旗軍と白旗軍」の対立とか
           福建省晋江市の「東佛軍と西佛軍」の対立とか、類似例は数多くある。

           現在はさすがに正面切っての大戦争はやらないようだが、
           暗黙の了解で隣の村が敵対派閥に属していたりする。現地に工場なんかを作る場合は注意が必要。


…清代の中国(特に南部)の農村部では、
科挙に合格したが官僚にならずに地元に残った
「郷紳」という半官半民の実力者が村や宗族を牛耳る事例が多かったという。

悪徳郷紳(=土豪劣紳)のなかには、
密輸や汚職で私腹を肥やしたり、械闘を扇動するような手合いもいたらしい。


いっぽう現代の中国の農村では、地域に土着して土皇帝と呼ばれるようになった
下級共産党幹部が過去の劣紳にかわって村を牛耳っているようである。


儒教イデオロギーが「中国の特色ある社会主義」に変わっただけで、
結局は現代の中華人民共和国も、下層部では歴代中華王朝とそっくり。
そんなことを今回の事例から感じる次第。


…おらこんな村いやだ。
http://blog.goo.ne.jp/dongyingwenren/e/dbd9f05454ebcc6ef12699aaaeaba4e8



http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/537.html#c22

[リバイバル3] 北海道民が教える「雪道の歩き方」5カ条 中川隆
5. 中川隆[-12797] koaQ7Jey 2019年1月22日 17:36:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

視界ゼロ 北海道を襲う"ホワイトアウト"の恐怖…直面したときの対処法は
1/22(火) 10:45配信 北海道ニュースUHB



 北海道各地は連日激しい風雪に見舞われ、1月17日には当別町で66歳の男性が自宅まであと一歩の玄関前で亡くなりました。

 男性はホワイトアウトの視界の悪さからか、車で雪山に突っ込み、そこから120メートル離れた自宅まで歩いて戻るうちに力尽きて倒れたとみられています。低体温症での死亡が確認されました。

 視界のすべてを奪う「ホワイトアウト」。冬の北海道では視界不良を原因とする事故が増えます。

 ホワイトアウトに直面したら、どのような対応をしたらいいのでしょうか。

 JAF札幌支部 鈴木健二郎氏によりますと…

 【走行中】
1:ハザードランプ、リアフォグランプを点灯させる
2:徐々にスピードを落とす
3:なるべく左側に寄せてとめる

 【停車中】
1:ハザードランプとブレーキランプの両方を点灯させる (ブレーキを踏み続けて点灯させる)
2:クラクションを鳴らして存在を示す

 また、気温が低いほど危険性が増すホワイトアウト。同じ風速でも気温が高いか低いかによって雪質は変わります。

 目安になるのは、氷点下8℃。

 氷点下8℃以下になると、雪質が軽くなり、そよ風でも舞うようになります。地吹雪も起きやすくなるので注意が必要です。
.
UHB 北海道文化放送


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/679.html#c5

[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
143. 中川隆[-12796] koaQ7Jey 2019年1月22日 17:42:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

「村八分訴訟」衝突はなぜ起きた? 「Uターン者のトラブル少なくない」専門家は警告
1/22(火) 9:48配信 西日本新聞
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00010003-nishinpc-soci

起きた? 「Uターン者のトラブル少なくない」専門家は警告


訴状を持って大分地裁に入る原告側の代理人弁護士


 大分県中部の集落に移住した男性(73)の家族3人が21日、「村八分」の扱いを受け転居せざるを得なくなったとして損害賠償を求めて大分地裁に提訴した。近年、UターンやIターンなどが一部の都市生活者に人気となっているが、専門家は「元々の住民と価値観の相違などからトラブルになるケースは少なくない」と警告する。なぜ衝突は起こったのか。男性、訴えられた元区長(70)や土地改良区、専門家に意見を聞いた。
.

元区長主導の仕返しだ 移住者の原告男性(73)

 −なぜこの集落に移住したのか。

 集落に住んでいた故人の男性に歓迎するからと強く勧められたことが大きかった。池に近い静かな環境は障害のある長男(46)と同居するには最適だと思った。元区長男性(70)も「よく来てくれた」と、池から取水するための同意書作りにも汗を流してくれた。当時は本当に感謝していた。

 ただ自治区の運営方法などで元区長の身勝手な振る舞いが多く、ついていけないとの思いが徐々に募り退会した。元区長はメンツをつぶされたと思ったのか、元区長主導による集落の「村八分」が始まった。
.

 −池の水が減ったのは農業用水として使用されたからだと元区長は主張する。

 約10年暮らし、雨が少ない年もあったが、取水ができないほど水位が低下する年は一度もなかった。池の水位が異常に下がりだした17年7月は、日田などで人的被害も出た九州豪雨のあった月だ。一方で、昨夏は耶馬渓ダム(中津市)が干上がるほど少雨だったが、池には満々と水があった。元区長らの嫌がらせ以外に考えられない。
.

 −現在の生活は。

 県内の賃貸アパートに妻(72)と2人で暮らしている。長男は施設に預け、家族がバラバラに暮らさざるを得ない状態だ。家賃や施設利用料も新たに発生し経済的負担は重い。年金生活だから貯蓄を取り崩さざるをえず、人生設計が狂った。なにより一緒に暮らせなくなった長男に申し訳ない。盾突いたからといって、他人の生活まで脅かし、人生も狂わせるほどの仕返しをする必要があるのか。

説得にも聞く耳持たず 集落の元区長男性(70)

 −なぜ、ごみ出し禁止や行政広報誌の配布を中止したのか。

 集落のごみステーションは、自治区構成員の土地に自治区が金を出して作った。男性は退会したのだからごみを置く権利はない。行政広報誌は役員が構成員に配布するものであり、男性に配る義務はない。
.

 −2017年7、8月に、原告の家が取水できなくなったのは、元区長ら集落の男性2人が農業用ため池の水位を故意に低下させたからだと主張している。

 まったくの的外れだ。その時期は水田に水を供給しなければならない。雨が降らなければ池の水は減り、水位が下がるのは当然。池に流れ込む水を途中でせき止める権利もわれわれにはなく、流入量をわざと減らすこともできない。それは男性も知っているはずだ。男性は「池に水が入ってこない」と勝手に水路の堰(せき)板を調整し周辺集落から頻繁にクレームが来た。そのたびに頭を下げたのは私たちだ。どちらが被害者か。
.

 −対立がここまで先鋭化した理由は。

 10戸ほどの小さな集落に来てくれるからと最初は歓迎し、池の使用が認められるよう集落全世帯の同意も取りまとめた。男性より数年早く移住した別の6人家族は集落に溶け込んでいる。移住者が住みにくいわけでは決してない。強調したいのは、彼ら家族が勝手に出ていったということ。彼には「われわれもいたらない部分はある。でも慣例やしきたりがあり、すぐには変えられない。徐々に変えていけばいいじゃないか」と説得した。自分が正しいと聞く耳を持たなかったのは彼だ。
.

取水保護の責任はない 池管理の地元土地改良区

 −男性は、土地改良区が池から取水できるよう維持管理する義務を怠ったと訴えている。

 まず確認しておきたいのはため池は農業利水用だということ。2006年11月、集落側から全世帯の同意書を提出されたため、同年12月、「特別の配慮」で池からの取水を許可した。同時に男性には、池の水位が下がったり、池干しなどのため取水ができなくなったりしても、改良区に異議を申し立てないという誓約書を出してもらっている。農業利水が最優先で、改良区には、男性が取水できるようにため池を管理する法的責任はないと考える。

−集落側から2017年1月、改良区に取水同意についての取り下げ書が提出された。男性への取水許可は無効になっているのか。

 保留と考えている。家族の生活権もあるため、集落から同意取り下げ書が提出されたからといって、一方的に許可を取り消すわけにもいかない。ただ、改良区の構成員でもある集落側の意向を無視するわけにもいかない。非常に難しい立場だということを男性には理解してほしい。
.

 −改良区は集落寄りだと男性は指摘している。

 過去、農業用ため池なのに、飲料用以外の生活雑用水として男性に取水させていることに、県から疑義が指摘されたこともあった。だが、集落の同意もあるからと男性の取水権を守った。集落と男性の仲介役として話し合いの場も設定したが、男性は姿を現さなかった。改良区には法的責任はなく、集落のもめ事をこれ以上調整することも困難だと考えている。
.

先鋭化させないシステム急務 大東文化大・島田恵司教授(自治体政策論)

 人口減少で移住者の受け入れに積極的な自治体は多いが、各地で元々の住民との摩擦が問題となっている。解決が困難なケースもあり、行政は問題が起こることを前提に、対立を先鋭化させないシステム作りを行う必要がある。


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c143

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
510. 中川隆[-12795] koaQ7Jey 2019年1月22日 17:43:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]


「村八分訴訟」衝突はなぜ起きた? 「Uターン者のトラブル少なくない」専門家は警告
1/22(火) 9:48配信 西日本新聞
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00010003-nishinpc-soci

起きた? 「Uターン者のトラブル少なくない」専門家は警告


訴状を持って大分地裁に入る原告側の代理人弁護士


 大分県中部の集落に移住した男性(73)の家族3人が21日、「村八分」の扱いを受け転居せざるを得なくなったとして損害賠償を求めて大分地裁に提訴した。近年、UターンやIターンなどが一部の都市生活者に人気となっているが、専門家は「元々の住民と価値観の相違などからトラブルになるケースは少なくない」と警告する。なぜ衝突は起こったのか。男性、訴えられた元区長(70)や土地改良区、専門家に意見を聞いた。
.

元区長主導の仕返しだ 移住者の原告男性(73)

 −なぜこの集落に移住したのか。

 集落に住んでいた故人の男性に歓迎するからと強く勧められたことが大きかった。池に近い静かな環境は障害のある長男(46)と同居するには最適だと思った。元区長男性(70)も「よく来てくれた」と、池から取水するための同意書作りにも汗を流してくれた。当時は本当に感謝していた。

 ただ自治区の運営方法などで元区長の身勝手な振る舞いが多く、ついていけないとの思いが徐々に募り退会した。元区長はメンツをつぶされたと思ったのか、元区長主導による集落の「村八分」が始まった。
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 −池の水が減ったのは農業用水として使用されたからだと元区長は主張する。

 約10年暮らし、雨が少ない年もあったが、取水ができないほど水位が低下する年は一度もなかった。池の水位が異常に下がりだした17年7月は、日田などで人的被害も出た九州豪雨のあった月だ。一方で、昨夏は耶馬渓ダム(中津市)が干上がるほど少雨だったが、池には満々と水があった。元区長らの嫌がらせ以外に考えられない。
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 −現在の生活は。

 県内の賃貸アパートに妻(72)と2人で暮らしている。長男は施設に預け、家族がバラバラに暮らさざるを得ない状態だ。家賃や施設利用料も新たに発生し経済的負担は重い。年金生活だから貯蓄を取り崩さざるをえず、人生設計が狂った。なにより一緒に暮らせなくなった長男に申し訳ない。盾突いたからといって、他人の生活まで脅かし、人生も狂わせるほどの仕返しをする必要があるのか。

説得にも聞く耳持たず 集落の元区長男性(70)

 −なぜ、ごみ出し禁止や行政広報誌の配布を中止したのか。

 集落のごみステーションは、自治区構成員の土地に自治区が金を出して作った。男性は退会したのだからごみを置く権利はない。行政広報誌は役員が構成員に配布するものであり、男性に配る義務はない。
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 −2017年7、8月に、原告の家が取水できなくなったのは、元区長ら集落の男性2人が農業用ため池の水位を故意に低下させたからだと主張している。

 まったくの的外れだ。その時期は水田に水を供給しなければならない。雨が降らなければ池の水は減り、水位が下がるのは当然。池に流れ込む水を途中でせき止める権利もわれわれにはなく、流入量をわざと減らすこともできない。それは男性も知っているはずだ。男性は「池に水が入ってこない」と勝手に水路の堰(せき)板を調整し周辺集落から頻繁にクレームが来た。そのたびに頭を下げたのは私たちだ。どちらが被害者か。
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 −対立がここまで先鋭化した理由は。

 10戸ほどの小さな集落に来てくれるからと最初は歓迎し、池の使用が認められるよう集落全世帯の同意も取りまとめた。男性より数年早く移住した別の6人家族は集落に溶け込んでいる。移住者が住みにくいわけでは決してない。強調したいのは、彼ら家族が勝手に出ていったということ。彼には「われわれもいたらない部分はある。でも慣例やしきたりがあり、すぐには変えられない。徐々に変えていけばいいじゃないか」と説得した。自分が正しいと聞く耳を持たなかったのは彼だ。
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取水保護の責任はない 池管理の地元土地改良区

 −男性は、土地改良区が池から取水できるよう維持管理する義務を怠ったと訴えている。

 まず確認しておきたいのはため池は農業利水用だということ。2006年11月、集落側から全世帯の同意書を提出されたため、同年12月、「特別の配慮」で池からの取水を許可した。同時に男性には、池の水位が下がったり、池干しなどのため取水ができなくなったりしても、改良区に異議を申し立てないという誓約書を出してもらっている。農業利水が最優先で、改良区には、男性が取水できるようにため池を管理する法的責任はないと考える。

−集落側から2017年1月、改良区に取水同意についての取り下げ書が提出された。男性への取水許可は無効になっているのか。

 保留と考えている。家族の生活権もあるため、集落から同意取り下げ書が提出されたからといって、一方的に許可を取り消すわけにもいかない。ただ、改良区の構成員でもある集落側の意向を無視するわけにもいかない。非常に難しい立場だということを男性には理解してほしい。
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 −改良区は集落寄りだと男性は指摘している。

 過去、農業用ため池なのに、飲料用以外の生活雑用水として男性に取水させていることに、県から疑義が指摘されたこともあった。だが、集落の同意もあるからと男性の取水権を守った。集落と男性の仲介役として話し合いの場も設定したが、男性は姿を現さなかった。改良区には法的責任はなく、集落のもめ事をこれ以上調整することも困難だと考えている。
.

先鋭化させないシステム急務 大東文化大・島田恵司教授(自治体政策論)

 人口減少で移住者の受け入れに積極的な自治体は多いが、各地で元々の住民との摩擦が問題となっている。解決が困難なケースもあり、行政は問題が起こることを前提に、対立を先鋭化させないシステム作りを行う必要がある。


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c510

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
165. 中川隆[-12794] koaQ7Jey 2019年1月22日 19:24:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

日本人のルーツをさぐる旅 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%92%E3%81%95%E3%81%90%E3%82%8B%E6%97%85&sp=mAEB


2018/08/29 に公開
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c165

[近代史3] 宮脇淳子 皇帝たちの中国  中川隆
3. 中川隆[-12792] koaQ7Jey 2019年1月22日 19:54:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち「アヘン戦争から日本の近代が始まった〜第八代道光帝」
宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Pn6mzjLpiLA
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/139.html#c3
[政治・選挙・NHK256] 音を立てて崩れ始めた「南京大虐殺」の嘘 虚構が生き残る道は中国の政治的主張のみに  うまき
1. 中川隆[-12791] koaQ7Jey 2019年1月22日 22:43:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
南京大虐殺30万人は過大評価なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/129.html

南京大虐殺、南京での組織的略奪とその隠蔽は昭和天皇が直々に命令して実行させた?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/131.html

朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html

http://www.asyura2.com/19/senkyo256/msg/559.html#c1

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
14. 中川隆[-12790] koaQ7Jey 2019年1月23日 09:30:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
2019.01.23
イギリスの軍と情報機関によるロシアを悪魔化して描く極秘の心理作戦が発覚

 ​アノニマス(匿名)を名乗るハッカー集団​が昨年(2018年)11月、あるNGOに関する文書を公開した。そのNGOはインテグリティ・イニシアティブ。イギリスの軍と情報機関による極秘の心理作戦を実行、その活動範囲はアメリカにも拡大し、同国の国務省、FBI、DHS(国土安全保障省)、あるいは有力シンクタンクに強力な同盟者を育成していることが明らかになった。原資の200万ドルはイギリスの外務省が出したという。

 プロジェクトの内容は第2次世界大戦が終わって間もない頃にアメリカで始まった情報操作プロジェクト、モッキンバードに似ていると言われている。

 モッキンバードで中心的な役割を果たしたのは4名。ウォール街の弁護士でOSSやCIAに君臨していたアレン・ダレス、やはりウォール街の弁護士でアレンの側近として破壊工作を指揮していたフランク・ウィズナー、やはりダレスの側近で国際決済銀行初代頭取の孫であるリチャード・ヘルムズ、そしてワシントン・ポスト紙の社主だったフィリップ・グラハムだ。

 フィリップ・グラハムの妻、キャサリンはウォーターゲート事件でリチャード・ニクソンを失脚させた当時のワシントン・ポスト紙社主。フィリップはジョン・F・ケネディ大統領が暗殺される3カ月前に自殺している。キャサリンの父は世界銀行の初代総裁だ。ニクソン辞任で副大統領から昇格したジェラルド・フォード大統領時代、政府内からデタント派が粛清されてネオコンが台頭したことは本ブログでも繰り返し書いてきた。

 ウォーターゲート事件の取材は若手記者だったカール・バーンスタインとボブ・ウッドワードが中心になって行われたが、ウッドワードは少し前まで海軍の情報将校で記者としては素人に近い。事実上、取材はバーンスタインが行ったようだ。

 そのバーンスタインはニクソン大統領が辞任した3年後の1977年にワシントン・ポスト紙を辞め、「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書いている。その記事によると、20年間にCIAの任務を秘密裏に実行していたジャーナリストは400名以上に達し、そのうち200名から250名が記者や編集者など現場のジャーナリストで、残りは、出版社、業界向け出版業者、ニューズレターで働いていた。また1950年から66年にかけてニューヨーク・タイムズ紙は少なくとも10名の工作員に架空の肩書きを提供したとCIAの高官は語ったという。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)

 当然のことながら、CIAの工作は国境を越える。​フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング(FAZ)紙の編集者だったウド・ウルフコテ​は2014年2月、ドイツにおけるCIAとメディアとの関係をテーマにした本を出している。

 彼によると、ドイツだけでなく多くの国のジャーナリストがCIAに買収されている。人びとがロシアに敵意を持つように誘導するプロパガンダを展開、人びとをロシアとの戦争へと導き、引き返すことのできない地点にさしかかっているというのだ。2017年1月、56歳のときに心臓発作で彼は死亡する。出版されたはずの英語版は市場に出てこなかった。

 インテグリティ・イニシアティブも人びとがロシアに敵意を持つように誘導する。そのネットワーク内に含まれるウィリアム・ブラウダーはアメリカ支配層の対ロシア戦争で重要な役割を果たしている。

 この人物はボリス・エリツィン時代のロシアでクレムリンの腐敗勢力と手を組んで巨万の富を築いたひとり。不正な手段で手に入れた資産をロシアから持ち出すために使われた銀行のひとつ、リパブリック・ナショナル銀行ニューヨークを創設した人物とヘルミテージ・キャピタル・マネージメントなる会社を共同で創設したのがプラウダーだ。

 この金融ネットワークでマネーロンダリングしていたとロシア当局はにらみ、ブラウダーが雇っていたセルゲイ・マグニツキーが2008年に逮捕される。マグニツキーを弁護士だとする人もいるが、実際は会計士。経済犯罪の鍵を握る人物だったと言われている。

 そのマグニツキーは取調中に死亡、西側では拷問で殺されたと宣伝されてきた。この人物は心臓病を抱えていたことから病死だと考える人が少なくないが、口封じされたと疑っている人もいる。ブラウダーは2013年に欠席裁判で懲役9年の判決を受けているが、ロシアの逮捕令状要請はインターポールが拒否している。

 インテグリティ・イニシアティブが重要視しているのはドイツだが、その矛先はイギリス労働党のジェレミー・コービン党首やドナルド・トランプ米大統領にも向けられている。西側の有力メディアやアメリカの民主党が盛んに宣伝しているロシアゲートの発端になった根拠薄弱で信頼度の低い報告書を作った元MI6オフィサーのクリストファー・スティールはブラウダーにも雇われていた。

 日本のマスコミが権力者の走狗にすぎないことは言うまでもないが、日本で崇拝者が少なくないアメリカやイギリスをはじめとする西側の有力メディアも同類だ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901230000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c14

[近代史02] プーチン大統領は神の申し子_____小沢一郎先生はこういう人になって欲しかった 中川隆
139. 中川隆[-12789] koaQ7Jey 2019年1月23日 09:30:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
2019.01.23
イギリスの軍と情報機関によるロシアを悪魔化して描く極秘の心理作戦が発覚

 ​アノニマス(匿名)を名乗るハッカー集団​が昨年(2018年)11月、あるNGOに関する文書を公開した。そのNGOはインテグリティ・イニシアティブ。イギリスの軍と情報機関による極秘の心理作戦を実行、その活動範囲はアメリカにも拡大し、同国の国務省、FBI、DHS(国土安全保障省)、あるいは有力シンクタンクに強力な同盟者を育成していることが明らかになった。原資の200万ドルはイギリスの外務省が出したという。

 プロジェクトの内容は第2次世界大戦が終わって間もない頃にアメリカで始まった情報操作プロジェクト、モッキンバードに似ていると言われている。

 モッキンバードで中心的な役割を果たしたのは4名。ウォール街の弁護士でOSSやCIAに君臨していたアレン・ダレス、やはりウォール街の弁護士でアレンの側近として破壊工作を指揮していたフランク・ウィズナー、やはりダレスの側近で国際決済銀行初代頭取の孫であるリチャード・ヘルムズ、そしてワシントン・ポスト紙の社主だったフィリップ・グラハムだ。

 フィリップ・グラハムの妻、キャサリンはウォーターゲート事件でリチャード・ニクソンを失脚させた当時のワシントン・ポスト紙社主。フィリップはジョン・F・ケネディ大統領が暗殺される3カ月前に自殺している。キャサリンの父は世界銀行の初代総裁だ。ニクソン辞任で副大統領から昇格したジェラルド・フォード大統領時代、政府内からデタント派が粛清されてネオコンが台頭したことは本ブログでも繰り返し書いてきた。

 ウォーターゲート事件の取材は若手記者だったカール・バーンスタインとボブ・ウッドワードが中心になって行われたが、ウッドワードは少し前まで海軍の情報将校で記者としては素人に近い。事実上、取材はバーンスタインが行ったようだ。

 そのバーンスタインはニクソン大統領が辞任した3年後の1977年にワシントン・ポスト紙を辞め、「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書いている。その記事によると、20年間にCIAの任務を秘密裏に実行していたジャーナリストは400名以上に達し、そのうち200名から250名が記者や編集者など現場のジャーナリストで、残りは、出版社、業界向け出版業者、ニューズレターで働いていた。また1950年から66年にかけてニューヨーク・タイムズ紙は少なくとも10名の工作員に架空の肩書きを提供したとCIAの高官は語ったという。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)

 当然のことながら、CIAの工作は国境を越える。​フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング(FAZ)紙の編集者だったウド・ウルフコテ​は2014年2月、ドイツにおけるCIAとメディアとの関係をテーマにした本を出している。

 彼によると、ドイツだけでなく多くの国のジャーナリストがCIAに買収されている。人びとがロシアに敵意を持つように誘導するプロパガンダを展開、人びとをロシアとの戦争へと導き、引き返すことのできない地点にさしかかっているというのだ。2017年1月、56歳のときに心臓発作で彼は死亡する。出版されたはずの英語版は市場に出てこなかった。

 インテグリティ・イニシアティブも人びとがロシアに敵意を持つように誘導する。そのネットワーク内に含まれるウィリアム・ブラウダーはアメリカ支配層の対ロシア戦争で重要な役割を果たしている。

 この人物はボリス・エリツィン時代のロシアでクレムリンの腐敗勢力と手を組んで巨万の富を築いたひとり。不正な手段で手に入れた資産をロシアから持ち出すために使われた銀行のひとつ、リパブリック・ナショナル銀行ニューヨークを創設した人物とヘルミテージ・キャピタル・マネージメントなる会社を共同で創設したのがプラウダーだ。

 この金融ネットワークでマネーロンダリングしていたとロシア当局はにらみ、ブラウダーが雇っていたセルゲイ・マグニツキーが2008年に逮捕される。マグニツキーを弁護士だとする人もいるが、実際は会計士。経済犯罪の鍵を握る人物だったと言われている。

 そのマグニツキーは取調中に死亡、西側では拷問で殺されたと宣伝されてきた。この人物は心臓病を抱えていたことから病死だと考える人が少なくないが、口封じされたと疑っている人もいる。ブラウダーは2013年に欠席裁判で懲役9年の判決を受けているが、ロシアの逮捕令状要請はインターポールが拒否している。

 インテグリティ・イニシアティブが重要視しているのはドイツだが、その矛先はイギリス労働党のジェレミー・コービン党首やドナルド・トランプ米大統領にも向けられている。西側の有力メディアやアメリカの民主党が盛んに宣伝しているロシアゲートの発端になった根拠薄弱で信頼度の低い報告書を作った元MI6オフィサーのクリストファー・スティールはブラウダーにも雇われていた。

 日本のマスコミが権力者の走狗にすぎないことは言うまでもないが、日本で崇拝者が少なくないアメリカやイギリスをはじめとする西側の有力メディアも同類だ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901230000/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/297.html#c139

[昼休み54] カルロス・ゴーンは所得税をゼロにする為に世界各地の日産所有豪邸を転々としていた 中川隆
21. 中川隆[-12788] koaQ7Jey 2019年1月23日 09:32:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

ゴーン容疑者、課税逃れか=税務上居住地オランダに−仏報道
2019年01月11日01時20分


 【パリ時事】10日付のフランス紙リベラシオンは、日産自動車の前会長カルロス・ゴーン容疑者が、2012年に税務上の居住地をフランスからオランダに移していたと報じた。フランス居住者を対象とした富裕税の課税逃れを企てた可能性がある。


 リベラシオンによれば、税務上の居住地として登録するには少なくとも年間183日の居住実績が必要。同紙は、主にパリと日本を行き来する生活のゴーン容疑者がこの要件を満たしていた可能性は低いと指摘した。
 リベラシオンは、ゴーン容疑者の納税回避額は伝えていない。富裕税は12年の制度改正で高額所得者への課税が強化され、マクロン大統領が昨年1月に廃止した。(2019/01/11-01:20)

_______

「公共心欠ける」と批判=ゴーン容疑者の課税逃れ−仏
2019年01月11日07時39分

 【パリ時事】日産自動車の前会長カルロス・ゴーン容疑者が、フランスの富裕税課税を逃れるためオランダに税務上の居住地を移していたとされる問題で、仏ラジオ・ヨーロッパ1は10日、「公共心に欠け、違法性が無くても大問題だ」と指摘した。同容疑者が会長兼最高経営責任者(CEO)を務める仏自動車大手ルノーの労組幹部は仏テレビに対し「我慢できない」と反発した。


 ヨーロッパ1は、ゴーン容疑者の逮捕直後の昨年11月、ルメール仏経済・財務相が同容疑者の仏国内での納税状況に関し「報告すべき特別な点はない」と説明したことについて「うそだったのではないか」と批判した。

 税務上の居住者となるには、オランダではフランスと同様、原則年間183日以上の滞在が必要。仏紙リベラシオンは、主にパリと日本を行き来するゴーン容疑者がこの要件を満たす可能性は低いと指摘した。(2019/01/11-07:39)


http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/333.html#c21

[お知らせ・管理21] 2019年01月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
61. 中川隆[-12787] koaQ7Jey 2019年1月23日 09:39:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
>新共産主義クラブはあちこちの板で荒らしをしている工作員ですよ。

どこの組織の工作員ともいえないから、工作員では有り得ないよ。

阿修羅で工作員だと確認されているのは中国工作員の赤かぶだけだよ
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/544.html#c61

[近代史3] 内閣官房参与をクビにされた藤井聡先生、遂に本音を語る 中川隆
3. 中川隆[-12786] koaQ7Jey 2019年1月23日 10:17:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
“増税、入管法反対”で官邸を追われた「藤井聡」官房参与語る「日本の未来は最悪に…」
政治週刊新潮 2019年1月17日号掲載


藤井聡
“イエスマン”以外は去って行く



 多くの会社で仕事納めとなった先月28日。この日、日本の中枢、安倍官邸でも、一人の男がその仕事を終えようとしていた。

「2012年以来、内閣官房参与として、安倍政権の国土強靭化政策の旗振り役をしていた藤井聡京大教授が、28日付で辞任を発表したのです」(政治部記者)

 任期を全うしての辞任であれば、ことさら注目を集めることもなかったであろう今回の人事。しかし、

「藤井さんが消費増税反対の急先鋒だったことから、更迭されたのではないかとの憶測が飛び交ったんです。彼は昨年11月、『しんぶん赤旗』にまで登場して増税批判を展開。これに菅官房長官が激怒し、半ば追われる形で官邸を去ったのでは、と囁かれているのです」(同)

 真相やいかに。藤井氏ご当人に話を聞いてみると、

「昨年12月に閣議決定された国土強靭化の5カ年計画を一区切りとして、これからは、本分である学究の分野で、自分の考えを主張していこうと思ったんです。総理とも相談の上、辞任を決めました」

 今後は安倍政権に対しても是々非々の立場で言論活動を行っていくという。

「安倍政権は、5%であった消費税を8%に増税し、今秋には10%に引き上げようとしています。こうして経済に圧力をかけ続ければ、デフレ脱却や経済再生は不可能。経済再生なき財政再建などあり得ませんし、今度の消費増税でデフレ脱却に失敗すれば、日本の未来は最悪なものとなるでしょう」

 さらに藤井氏が異を唱えるのは増税だけでない。

「入管法改正という名の“移民政策”など、経済、社会を混乱させるグローバリズムを加速させた。このような政策は本来、保守とは対極にある考え方で、一線を越えたと考える国民が保守層含めて急速に増えています」

 手枷足枷の取れた藤井氏に官邸もヒヤヒヤ?
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/01210558/?all=1
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/140.html#c3

[近代史3] ニセコは既に外人に乗っ取られ日本語も通じなくなった
ニセコは既に外人に乗っ取られ日本語も通じなくなった


2017-01.24 これが日本なのか?ニセコのスキー場の現状 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UiGw-AZUDsM

ニセコの夜の大通りを歩いてみたら外国人だらけで日本じゃなかったw【農村JACK】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NX1ZuLLfhcM

2018.01.18 日本人がいないニセコの路線バス - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UwiVO2GjLH8


▲△▽▼


日本人には高くて買えなくなったニセコの別荘


日本人の勝ち組が中古別荘を買う場合もありますが、金額の桁が2ケタ違いますね:


ニセコ高級別荘情報 Taiga Niseko
http://www.taigaprojects.com/ja/niseko-real-estate-sales/property

ニセコひらふ泉郷 - 別荘
http://www.izumikyo.co.jp/realestate/

ノースベースニセコ株式会社 ニセコ暮らしを応援します!
https://northbaseniseko.com/


▲△▽▼


ニセコ温泉の話 オーストラリア人の富豪別荘エリア

ホテルニセコいこいの村に来る途中、別荘エリアの「入口」を通る。

 で、帰りは、別に別荘エリア内には侵入禁止ではないので、エリア内をドライブして、貧乏夫婦(私と奥さん)は素晴らしい別荘を車の中から眺めて思う存分嫉妬の嘆声を上げてきた。

 というのも、ここはオーストラリアの富豪(!)たちの別荘エリアだからである。


 なぜ、富豪と解るか?
 なぜ、日本人のものではないと解るか?

 それは簡単である。
 建てられている別荘の「質」が、全く違うからである。
 それは「ひと目」で区別できる。


 私がニセコにたまに来るようになったのは20年前から。オーストラリア人が不動産投資をし、別荘やリゾートマンションを建てるようになったのは10年ほど前からである。20年前のその前から、ニセコは別荘地だった。しかし、どの別荘を見ても、

「倹約してやっと建てた掘っ立て小屋」

 以上のものではなかったし、今でも、そうした日本人のみすぼらしい古い別荘はいたるところにある。

ところが、オーストラリア人のそれは、まるで小さな城のように、頑丈で、立派で、見た目も美しい。何よりも、どの家も壁一面を大きく硝子で作り、景色を楽しむことができるようにしている。南側に向けたその硝子壁だけでも驚きである。

建材もいいのを使っていて、大きな車庫のドアですら、日本人が使うガレージ扉などではなく、ずっしりとした木の、彫刻でも施しているような高級品を使っている。

こうした建材は日本では手に入らないのではないか、オーストラリアから持ってきているのではないか、と思えた。庭に駐めてあるジープは、もちろん宗主国英国製のレンジローバーの高級機種である。

 円高でオーストラリア人観光は減ったなどというけれども、オーストラリアや香港の大金持ちは、何も変わっていない、リッチな金の使いかたというのを心得ている。

 それに比べて、日本人の建てている別荘という名の粗末な小屋。

 日本人の別荘エリアにも入ってみたのだが(東山エリアにあった)、どの家も、地方都市の住宅街の建売住宅のように個性が無い。安普請であることがヒシヒシと見るものに確実に伝わってくる建築物だった。
http://plaza.rakuten.co.jp/atsushimatsuura/diary/200903090000/



▲△▽▼

2018.04.21
もう日本人の出る幕なし?外国人だらけのニセコに見る日本の未来
このままでは「観光大国」は遠い夢…
高橋 克英
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55346

いまや「日本で最も国際的なリゾート」といわれる北海道ニセコ。
街は外国人で溢れ、看板や物価も完全に富裕層向けにシフトしている。

高級ホテルの建設ラッシュに沸く同地区は、地価の上昇でも3年連続国内トップを記録した。ところが、当然ウハウハだと思われた地元経済の実態は……? 

毎年同地をスキーで訪れている金融コンサルタント、マリブジャパン代表の高橋克英さんが、最新事情から「インバウンド」という言葉にすがる日本の未来を読み解く。

日本人客にも「まずは英語で話しかける」ニセコ事情

パウダースノーで世界的に有名な北海道のニセコリゾート。オーストラリア人やフランス人に華僑を中心に、今年も世界中から多くのスキーヤー、スノーボーダ―が同地を訪れ、温泉とともにスノーシーズンを満喫した。

地元の倶知安町が、スイスのサンモリッツと姉妹都市の提携を結んでから54年、いまやニセコは「東洋のサンモリッツ」から「世界のニセコ」として、その名を世界のスキーヤーや富裕層に知られる存在となっている。


私事ながらスキーが趣味で、ここ数年、毎年ニセコを訪れているが、その変貌には目を見張るばかりだ。例えば、ニセコ地区にある4つのスキー場の一つ、東山エリアの中核ホテルである「ヒルトンニセコビレッジ」の館内表記は、日本語よりも英語が先にあり、ホテル従業員も基本、外国人。当然「公用語」は英語である。

館内の寿司屋では板前が、私のように、どこから見ても日本人にしか見えない相手に対してでも、まずは英語で話かけてくる。宿泊客や利用客の大半が外国人なのだから、見かけは日本人でも、ひょっとしたら外国人かもしれないと考えて接するのは合理的だろう。

こうしたサービスは、なにも外資系のホテルだから行われているというわけではない。

ニセコで最も栄えている「ひらふ」エリアは、まるでスイスやイタリアの高級スキーリゾートのようだ。ショップの看板や広告も英語表記オンリーで、日本語が一切ない店も珍しくない。ショップの客も従業員も外国人。ひらふ十字路を中心に、スキー場のリフトに乗る地点までのひらふ坂の両側には、欧風デザインのホテルや近代的なコンドミニアムが並んでおり、そのほとんどが外国資本による外国人相手のものだ。

現在も、ひらふ地区では、あちこちでクレーン車と英語表記の建設看板が立ち並び、さらなる開発が進められている。たとえば今年、私が訪れた際もシンガポールの大手デベロッパーであるSCグローバルが、外国人富裕層向け高級ホテルを建設中だった。


[写真]まるで海外のように英語表記の看板が建ち並ぶニセコの街(Photo by GettyImages)まるで海外のように英語表記の看板が建ち並ぶニセコの街(Photo by GettyImages)

日本であって、日本ではない

冬のニセコは、日本でもっとも外国人率が高い街であり、もはやここは日本であって日本ではない。

京都や金沢など、近年日本の多くの観光地には外国人観光客が訪れている。だが、それらとニセコには決定的な違いがある。それは、ビジネスの対象を外国人、それも富裕層に特化していることだ。しかも、その戦略は大成功を収めている。

欧米などのスキーリゾートを対象とした「ワールド・スキー・アワード」における、50室未満のブティックホテル部門で、ひらふ地区にある高級デザイナーズ・ホテル「ザ・ヴェール・ニセコ」が世界一に輝いている。カテゴリーが限定されているとはいえ、日本にあるホテルが世界的にこれだけ高く評価された例は過去にもほとんどないはずだ。

「ザ・ヴェール・ニセコ」の最上階に位置するペントハウスは、ニセコでも最高級とされる部屋の一つで、187uの広々とした室内には最高のプレミアム暖炉、バスルーム3つを備え、天井まで届く大きな窓からは北海道の名峰・羊蹄山の壮大な眺めを一望できる。スキーのあとは開放感あふれる57uを誇るバルコニーの露天風呂でゆっくりと星空を眺めながらリラックス。まさに至福のひとときに違いない。

このペントハウスは、トップシーズンでは1泊50万円を超えるのだが、なんと、すでに来年2019年のシーズンまで予約で満室状態だという。

ちなみに、ホテル予約検索サイト「エクスペディア」などで、今年12月から来年3月のスキーシーズンにて宿泊予約しようとしても、「ザ・ヴェール・ニセコ」はじめ、ニセコ地区の高級ブティックホテルは、軒並み既に満室や売り切れとなっている。繰り返すが、今年ではなく、まだ1年近く先の来シーズンの話だ。まるで、バブル期の東京湾岸エリアや都心のクリスマス時期のホテル予約のような狂乱ぶりではないか。

ニセコが世界的に注目されはじめたのは2000年頃からだ。最初はオーストラリア人から人気に火がつき、その後、SNSなどを通じて評判が広がると、フランスを中心に、イギリス、ドイツ、北欧など、ヨーロッパ各国からもスキーヤーが訪れるようになった。

理由はズバリ、雪質にある。ご存知の方も多いと思うが、ヨーロッパのアルプスなどの雪質は固く締まっており、初心者には荷が重いところが少なくない。それに対し、ニセコはサラサラのパウダースノーで、しかも毎日のように雪が降るから常に新雪。一度これを体験すると、その違いに病みつきになる人が続出するのも頷ける。しかも、ナイター施設なども充実しているのに加えて、温泉や北海道の食と魅力に溢れている。


物価も「世界の高級リゾート水準」

さらに、ここ数年は、香港やシンガポール、マレーシア、台湾などの華僑を中心とした富裕層や、フィリピン、ベトナム、タイなど、雪が降らない国からの観光客も急増した。大げさではなくニセコでは日本人を探すのが困難になるほど、外国人で賑わっている。

リッチな外国人客を相手にしているため、物価も世界の高級リゾート相場になっている。ゲレンデ周辺では、ランチの海鮮丼でさえ5000円というのが、ごく標準的な料金だ。すし盛り合わせになると松竹梅で、それぞれ1万円、2万円、3万円も珍しくない。価格に、5000円、1万円といったキリのいい数字がやたらと多いのは、両替や換算を意識してのことだという。

これだけお金持ちが集まれば当然、地元経済にも恩恵が大きいだろうと思われそうだが、残念ながらそうでもないようだ。

まずショップやレストランだが、いまでは客はもちろん、従業員までも外国人が目立つようになり、日本人の姿がめっきり減っている。私が毎年訪れているレストランでも、昨年までは地元の日本人女性2人が「May I help you?」と慣れない英語で接客のアルバイトをしていたが、今回は、夏場はロンドンで働き、冬はニセコでスキーを楽しみながらアルバイトしているというフランス人青年と、職を求めて中国本土からやってきた20代女性の2名にとって代わられていた。これだけ多くの国から観光客がやってくると、接客にも英語だけでなく、フランス語や広東語までが求められる。これでは、普通の日本人が出る幕はないかもしれない。

「99.9%お客さんは外国人。今日もフランス人の団体と、香港やマレーシアからのグループの予約で満席です。彼らが満足する接客は、日本人では難しいですね」と英語でアルバイトに指示を出しながら、日本人の料理長は話していた。


[写真]外国人客でごった返すニセコのスキー場の食堂(Photo by GettyImages)外国人客でごった返すニセコのスキー場の食堂(Photo by GettyImages)

ニセコ地区では、外国資本による別荘やコンドミニアムの開発も進んでおり、外国人スキーヤーや観光客だけでなく、外国人居住者も年々増加している。こうした外国人のために働く外国人従業員の増加もまた、続いている。地元の学校には外国人の子供が増え、新たにインターナショナルスクールも作られているという。


なぜか地元も国内資本も儲けられていない

流入人口が増えれば、当然地価は上昇する。3月末、国土交通省から発表された公示地価では、地元の倶知安町の住宅地の公示地価は前年比33.3%と3年連続全国トップ。しかもトップ3をニセコ地区が独占した。さらに、商業地でも35.6%と全国トップとなり、まさにニセコが日本全国を圧倒している。


そうなれば、少なくとも不動産開発の分野では、日本のデベロッパーや金融機関が荒稼ぎしているのだろうと思ったのだが、どうやら、それもないようだとわかって驚いた。

私が調べた限り、ニセコでの海外富裕層向けを中心としたコンドミニアムや別荘への不動産投資ニーズに、国内の不動産業者・銀行は、ほとんど応えられていない。海外不動産業者やプライベートバンクと海外富裕層との間には、独自のネットワークが形成され、日系企業が入り込む余地がほとんどない状態であるという。

ニセコは、まさに「外国人の、外国人による、外国人のためのリゾート」と化していると言っていいだろう。地元ニセコ町の分析でも、民間消費や観光業の生産額のほとんどが、町外に流出超過だとされている。観光客や投資の増加は、もはや地域の収入には十分つながっていないというわけだ。

もちろん、ニセコ興隆は悪いことではない。ただ、観光客やスキーヤーたちがこれほどお金を落としてくれているのに、地元や日本経済に恩恵がないというのは、もったいなさすぎる。「おもてなしの心」などという美学を奉じて、細やかな気配りを観光産業の中心にすえるのもよいが、奥ゆかしいばかりでハングリー精神に欠けては、世界を相手に、いただけるものもいただけないことになってしまう。


[写真]メニューの表示も英語のほうが目立つニセコのレストラン(Photo by GettyImages)メニューの表示も英語のほうが目立つニセコのレストラン(Photo by GettyImages)

折しも、来年のG20大阪開催にあわせ、G20観光相会議がニセコで開催されることが決まっている。それに合わせてパークハイアットやリッツ・カールトンといった外資系超高級ホテルやコンドミニアムの開業も予定されており、北海道新幹線の札幌までの延伸にあわせ、ニセコ地区にも新駅ができる予定だ。共存共栄の世界を目指して、出遅れている国内資本による投資の増加に期待したい。

そこでの成否が、「観光大国」を目指す日本の未来をうらなう試金石になる、と言っても、あながち大げさにすぎるということはないだろう。

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2016.9.22
ニセコがすごい!外国人観光客が押し寄せる高級リゾートに変貌


東京大学名誉教授、月尾嘉男さんが詳しく解説!


★10年で様子が一変

先日、北海道のニセコに行ってきたのですが驚くほどの変化でした。ニセコという地名は世界に有名ですが、世界からスキーヤーが集まってくるのは、人口1万5000人強の倶知安(くっちゃん)、4700人のニセコ、5600人の蘭越(らんこし)という、尻別川(しりべつがわ)の流域に展開している3つの町が一帯となった地域です。

とりわけ倶知安は新潟県高田、北海道旭川と並んで、オーストリア・ハンガリー帝国のレルヒ少佐が西欧式のスキーを教えたというスキー発祥の地ですから、スキーは盛んなことは勿論ですが、羊蹄山やニセコアンヌプリへの登山、尻別川でのカヌーなど、一年を通じでアウトドアスポーツが楽しめる場所です。

これまで観光客が増えなかったのは、新千歳空港から自動車で2時間、鉄道で3時間かかるという不便な場所だったことが影響しています。私も毎年1、2回はスキーやカヌーをするために遊びに行っていますが、往復にそれぞれ1日が必要であり、不便な場所でした。

ところが、ここ10年ほどで様子が一変しました。宿泊客数が2000年代は年間130万泊程度でしたが、リーマンショックが終わった2011年頃から増えて、最近では170万泊に増え、札幌には及びませんが、北海道では第2位に成長しました。

東北6県の観光目的の宿泊客数が170万泊ですから、いかにニセコ一帯の人気が高いか分かると思います。それを支えているのが外国人観光客です。


日本人観光客は2003年の130万泊から減少気味で、2010年頃には100万泊を切っていました。ところが2003年には4万泊以下で全体2〜3%でしかなかった外国人観光客が急速に増加し、2014年には55万泊と全体の3分の1になるほど増えてきたのです。


★外国人が押し寄せ、開発ブーム

大きな理由は2つあります。

1つは2001年にアメリカで発生した9.11同時多発テロ事件の影響で、安全な日本を目指して外国人が来るようになったことです。

もう1つは日本の冬の時期は南半球のオーストラリアが夏休みになり、パウダースノーのニセコ一帯のスキー場は絶好の目的地になったことです。実際、外国人の比率はオーストラリアが32%、香港が18%、シンガポールが9%となっています。


その結果、ニセコ一帯に開発ブームが発生しました。ニセコ地域には主要なスキー場が5ヵ所ありますが、とりわけ外国人に人気のある「ヒラフスキー場」には、道道からスキー場のリフトに乗る地点まで1キロほどの坂道があり、その両側にはホテルやコンドミニアムが並んでいますが、数十軒ある宿泊施設のうち1、2軒を除いてはすべて外国資本に買収されてしまいました。

正面に羊蹄山の勇姿を眺めることができるという条件が好まれた結果です。また道道の両側には個人経営のペンションが並んでいましたが、大半が外国人相手の豪華なコンドミニアムに変化しました。


それらのホテルやコンドミニアムは国際的な評価も高く、去年の「ワールド・スキー・アワード」誌の評価で、ホテルでは「ザ・ヴェール・ニセコ」、大型ホテルでは「ヒルトン・ニセコ・ヴィレッジ」、ロッジでは「セッカカン」が世界1位になっています。

倶知安はスイスのサンモリッツと姉妹都市になっていますが、それに近い雰囲気になってきました。


★高級リゾート地に

去年、国土交通省が発表した地価公示価格では、ニセコの「花園スキー場」に隣接する別荘地の値段が1年で20%値上がりし、全国1位の値上がり率になりました。 さらに20日に発表された2016年の地価調査では、北海道全体が低下している中で、倶知安町(くっちゃんちょう)は上昇しています。そしてこの一帯の2004年から去年まで12年間の不動産投資が1500億円にもなり、最近ではリゾート地帯ではない、倶知安の市街地にも次々と店舗や住宅が建設されはじめています。

東京都庁の建設費が1500億円、六本木ヒルズ全体が2700億円という東京と比較すれば驚くような数字ではありませんが、人口規模で比較すれば、異常な数字です。

その結果、地域に異常な事態が発生しはじめています。日本全体の有効求人倍率は1.3に上がってきましたが、北海道平均は1.06で、札幌でも同じ程度です。ところが倶知安では2.3にもなり、その影響でアルバイトの時給が1200円にもなっています。

しかも外国からは富裕層が到来するために物価も上昇し、スキーシーズンには高級ホテルの宿泊料金が平均1泊15万円、最高は55万円にもなり、スイスのサンモリッツに匹敵する値段になっていますが、一般の日本人には遠い存在になりつつあります。

それを象徴する逸話があります。ニセコの料理店では名物の「蟹ラーメン」が2300円ですが、日本の物価は安いと外国人の注文殺到という状態です。
http://www.tbsradio.jp/75667


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ニセコでは英語がペラペラ話せないとアルバイトすらできなくなった


外国語学習について - 内田樹の研究室 2018-10-31

2018年6月12日に「文系教科研究会」というところで、私立の中学高校の英語の先生たちをお相手に英語教育についてお話した。その一部をここに掲載する。

ここで論じたのは英語だけれど、言語教育一般について適用できる議論だと思う。
ここ数日、「論理国語」と「文学国語」というカテゴライズをするという話がTLを飛び交っているけれど、それがほんとうだとしたら、それはたぶん言語というものについて一度も真剣に思量したことのない人間の脳裏に去来したアイディアだろうと思う。それはまさに「植民地における現地人への宗主国言語教育」とまったく同型的なものだからだ。

国語教育においても「植民地現地人」に求められる言語能力は同じである。

それは宗主国アメリカに仕え、アメリカに朝貢することで「代官」「買弁」としての地位を保全している日本の支配層たちが、同国人の知性の発達を阻害し、日本人を愚民化することで、属国日本をアメリカが支配しやすいようにするために作り出した仕掛けである。

以下がそのときの講演。途中からなので、話が見えにくいのはご容赦。


外国語学習について語るときに、「目標言語」と「目標文化」という言葉があります。

「目標言語」というのは、今の場合なら、例えば英語です。なぜ英語を学ぶのか。それは「目標文化」にアクセスするためです。英語の場合であれば、ふつうは英語圏の文化が「目標文化」と呼ばれます。

僕らの世代において英語の目標文化ははっきりしていました。それは端的にアメリカ文化でした。アメリカ文化にアクセスすること、それが英語学習の最も強い動機でした。僕たちの世代は、子どものときからアメリカ文化の洪水の中で育っているわけですから、当然です。FENでロックンロールを聴き、ハリウッド映画を観て、アメリカのテレビドラマを観て育ったわけですから、僕らの世代においては「英語を学ぶ」というのは端的にアメリカのことをもっと知りたいということに尽くされました。

僕も中学や高校で「英語好き」の人にたくさん会いましたけれど、多くはロックの歌詞や映画の台詞を聴き取りたい、アメリカの小説を原語で読みたい、そういう動機で英語を勉強していました。

僕もそうでした。英語の成績は中学生からずっとよかったのですが、僕の場合、一番役に立ったのはビートルズの歌詞の暗記でした。ビートルズのヒット曲の歌詞に含まれる単語とイディオムを片っ端から覚えたのですから、英語の点はいいはずです。

つまり、英語そのものというよりも、「英語の向こう側」にあるもの、英米の文化に対する素朴な憧れがあって、それに触れるために英語を勉強した。英米のポップ・カルチャーという「目標文化」があって、それにアクセスするための回路として英語という「目標言語」を学んだわけです。

その後、1960年代から僕はフランス語の勉強を始めるわけですけれども、この時もフランス語そのものに興味があったわけではありません。フランス語でコミュニケーションしたいフランス人が身近にいたわけではないし、フランス語ができると就職に有利というようなこともなかった。そういう功利的な動機がないところで学び始めたのです。フランス文化にアクセスしたかったから。

僕が高校生から大学生の頃は、人文科学・社会科学分野での新しい学術的知見はほとんどすべてがフランスから発信された時代でした。40年代、50年代のサルトル、カミュ、メルロー=ポンティから始まって、レヴィ=ストロース、バルト、フーコー、アルチュセール、ラカン、デリダ、レヴィナス・・・と文系の新しい学術的知見はほとんどフランス語で発信されたのです。

フランス語ができないとこの知的領域にアクセスできない。当時の日本でも、『パイデイア』とか『現代思想』とか『エピステーメー』とかいう雑誌が毎月のようにフランスの最新学術についての特集を組むのですけれど、「すごいものが出て来た」と言うだけで、そこで言及されている思想家や学者たちの肝心の主著がまだ翻訳されていない。フランス語ができる学者たちだけがそれにアクセスできて、その新しい知についての「概説書」や「入門書」や「論文」を独占的に書いている。とにかくフランスではすごいことになっていて、それにキャッチアップできないともう知の世界標準に追いついてゆけないという話になっていた。でも、その「すごいこと」の中身がさっぱりわからない。フランス語が読めないと話にならない。ですから、60年代―70年代の「ウッドビー・インテリゲンチャ」の少年たちは雪崩打つようにフランス語を学んだわけです。それが目標文化だったのです。 

のちに大学の教師になってから、フランス語の語学研修の付き添いで夏休みにフランスに行くことになった時、ある年、僕も学生にまじって、研修に参加したことがありました。振り分け試験で上級クラスに入れられたのですけれど、そのクラスで、ある日テレビの「お笑い番組」のビデオを見せて、これを聴き取れという課題が出ました。僕はその課題を拒否しました。悪いけど、僕はそういうことには全然興味がない。僕は学術的なものを読むためにフランス語を勉強してきたのであって、テレビのお笑い番組の早口のギャグを聴き取るために労力を使う気はないと申し上げた。その時の先生は真っ赤になって怒って、「庶民の使う言葉を理解する気がないというのなら、あなたは永遠にフランス語ができるようにならないだろう」という呪いのような言葉を投げかけたのでした。結局、その呪いの通りになってしまったのですけれど、僕にとっての「目標文化」は1940年から80年代にかけてのフランスの知的黄金時代のゴージャスな饗宴の末席に連なることであって、現代のフランスのテレビ・カルチャーになんか、何の興味もなかった。ただ、フランス語がぺらぺら話せるようになりたかったのなら、それも必要でしょうけれど、僕はフランスの哲学者の本を読みたくてフランス語を勉強し始めたわけですから、その目標を変えるわけにゆかない。フランス語という「目標言語」は同じでも、それを習得することを通じてどのような「目標文化」にたどりつこうとしているのかは人によって違う。そのことをその時に思い知りました。

ロシア語もそうです。今、大学でロシア語を第二外国語で履修する学生はほとんどいません。でも、若い方はもうご存じないと思いますけれど、1970年に僕が大学入学したとき、理系の学生の第二外国語で一番履修者が多かったのはロシア語だったのです。

「スプートニク・ショック」として知られるように、60年代まではソ連が科学技術のいくつかの分野でアメリカより先を進んでいたからです。科学の最先端の情報にアクセスするためには英語よりもロシア語が必要だった。でも、ソ連が没落して、科学技術におけるアドバンテージが失われると、ロシア語を履修する理系の学生はぱたりといなくなりました。もちろんドストエフスキーを読みたい、チェーホフを読みたいというような動機でロシア語を履修する学生の数はいつの時代もいます。目標文化が「ロシア文学」である履修者の数はいつの時代もそれほど変化しない。けれども、目標文化が「ソ連の科学の先進性」である履修者は、その目標文化が求心力を失うと、たちまち潮が引くようにいなくなる。

僕の学生時代はフランス語履修者がたくさんおりました。でも、その後、フランス語履修者は急減しました。ある時点で中国語に抜かれて、今はもう見る影もありません。

理由の一つは、日本のフランス語教員たちが学生たちの知的好奇心を掻き立てることができなかったせいなのですけれど、それ以上に本国のフランスの文化的な発信力が低下したことがあります。フランス文化そのものに日本の若者たちを「目標」として惹きつける魅力がなくなってしまった。

フランス語やロシア語の例から知れる通り、われわれが外国語を学ぶのは目標文化に近づくためなのです。目標文化にアクセスするための手段として目標言語を学ぶ。

しかし、まことに不思議なことに、今の英語教育には目標文化が存在しません。英語という目標言語だけはあるけれども、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか。向かう先はアメリカでもイギリスでもない。カナダでもオーストラリアでもない。どこでもないのです。

何年か前に、推薦入試の入試本部で学長と並んで出願書類をチェックしていたことがありました。学長は英文科の方だったのですけれど、出願書類の束を読み終えた後に嘆息をついて、「内田さん、今日の受験者150人の中に『英文科志望理由』に『英米文学を学びたいから』と書いた人が何人いると思う?」と訊いてきました。「何人でした?」と僕が問い返すと「2人だけ」というお答えでした「後は、『英語を生かした職業に就きたいから』」だそうでした。

僕の知る限りでも、英語を学んで、カタールの航空会社に入った、香港のスーパーマーケットに就職した、シンガポールの銀行に入ったという話はよく聞きます。別にカタール文化や香港文化やシンガポール文化をぜひ知りたい、その本質に触れたいと思ってそういう仕事を選んだわけではないでしょう。彼らにとって、英語はたしかに目標言語なのですけれど、めざす目標文化はどこかの特定の文化圏のものではなく、グローバルな「社会的な格付け」なのです。高い年収と地位が得られるなら、どの外国でも暮らすし、どの外国でも働く、だから英語を勉強するという人の場合、これまでの外国語教育における目標文化に当たるものが存在しない。
これについては平田オリザさんが辛辣なことを言っています。彼に言わせると、日本の今の英語教育の目標は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」はもちろん有用な仕事であり、しかるべき能力を要するし、それにふさわしい待遇を要求できるポストですけれど、それは一人いれば足りる。何百万単位で「シンガポール支店長」を「人形焼き」を叩き出すように作り出す必要はない。でも、現在の日本の英語教育がめざしているのはそういう定型です。

僕は大学の現場を離れて7年になりますので、今の大学生の学力を知るには情報が足りないのですけれども、それでも、文科省が「英語ができる日本人」ということを言い出してから、大学に入学してくる学生たちの英語力がどんどん低下してきたことは知っています。それも当然だと思います。英語を勉強することの目標が、同学齢集団内部での格付けのためなんですから。低く査定されて資源分配において不利になることに対する恐怖をインセンティヴにして英語学習に子どもたちを向けようとしている。そんなことが成功するはずがない。恐怖や不安を動機にして、知性が活性化するなんてことはありえないからです。

僕は中学校に入って初めて英語に触れました。それまではまったく英語を習ったことがなかった。1960年頃の小学生だと、学習塾に通っているのがクラスに二三人、あとは算盤塾くらいで、小学生から英語の勉強している子どもなんか全然いません。ですから、FENでロックンロールは聴いていましたけれど、DJのしゃべりも、曲の歌詞も、ぜんぶ「サウンド」に過ぎず、意味としては分節されていなかった。それが中学生になるといよいよ分かるようになる。入学式の前に教科書が配られます。英語の教科書を手にした時は、これからいよいよ英語を習うのだと思って本当にわくわくしました。これまで自分にとってまったく理解不能だった言語がこれから理解可能になってゆくんですから。自分が生まれてから一度も発したことのない音韻を発声し、日本語に存在しない単語を学んで、それが使えるようになる。その期待に胸が膨らんだ。

今はどうでしょう。中学校一年生が四月に、最初の英語の授業を受ける時に、胸がわくわくどきどきして、期待で胸をはじけそうになる・・・というようなことはまずないんじゃないでしょうか。ほかの教科とも同じでしょうけれど、英語を通じて獲得するものが「文化」ではないことは中学生にもわかるからです。

わかっているのは、英語の出来不出来で、自分たちは格付けされて、英語ができないと受験にも、就職にも不利である、就職しても出世できないということだけです。そういう世俗的で功利的な理由で英語学習を動機づけようとしている。でも、そんなもので子どもたちの学習意欲が高まるはずがない。

格付けを上げるために英語を勉強しろというのは、たしかにリアルではあります。リアルだけれども、全然わくわくしない。外国語の習得というのは、本来はおのれの母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものを習得ゆくプロセスのはずです。だからこそ、知性の高いパフォーマンスを要求する。自分の知的な枠組みを超え出てゆくわけですから、本当なら「清水の舞台から飛び降りる」ような覚悟が要る。そのためには、外国語を学ぶことへ期待とか向上心とか、明るくて、風通しのよい、胸がわくわくするような感じが絶対に必要なんですよ。恐怖や不安で、人間はおのれの知的な限界を超えて踏み出すことなんかできません。
でも、文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』にはこう書いてある。

「今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を超えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。」

冒頭がこれです。まず「経済」の話から始まる。「経済競争」「メガコンペティション」というラットレース的な状況が設定されて、そこでの「果敢な挑戦」が求められている。英語教育についての基本政策が「金の話」と「競争の話」から始まる。始まるどころか全篇それしか書かれていない。

「このような状況の中、英語は、母語の異なる人々をつなぐ国際的共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが21世紀を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です」という書いた後にこう続きます。

「現状では、日本人の多くが、英語力が十分でないために、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないといった事態も起きています。」
「金」と「競争」の話の次は「格付け」の話です。ここには異文化に対する好奇心も、自分たちの価値観とは異なる価値観を具えた文化に対する敬意も、何もありません。人間たちは金を求めて競争しており、その競争では英語ができることが死活的に重要で、英語学力が不足していると「制限を受けたり」「適切な評価が得られない」という脅しがなされているだけです。そんなのは日本人なら誰でもすでに知っていることです。でも、「英語ができる日本人」に求められているのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」なのです。

外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです。

でも、この文科省の作文には、外国語を学ぶのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」の檻から逃れ出るためだという発想がみじんもない。自分たちの狭隘な、ローカルな価値観の「外側」について学ぶことは「国際的な相互依存関係」のうちで適切なふるまいをするために必須であるという見識さえ見られない。僕は外国語学習の動機づけとして、かつてこれほど貧しく、知性を欠いた文章を読んだことがありません。

たしかに、子どもたちを追い込んで、不安にさせて、処罰への恐怖を動機にして何か子どもたちが「やりたくないこと」を無理強いすることは可能でしょう。軍隊における新兵の訓練というのはそういうものでしたから。処罰されることへの恐怖をばねにすれば、自分の心身の限界を超えて、爆発的な力を発動させることは可能です。スパルタ的な部活の指導者は今でもそういうやり方を好んでいます。でも、それは「やりたくないこと」を無理強いさせるために開発された政治技術です。
ということは、この文科省の作文は子どもたちは英語を学習したがっていないという前提を採用しているということです。その上で、「いやなこと」を強制するために、「経済競争」だの「メガコンペティション」だの「適切な評価」だのという言葉で脅しをかけている。

ここには学校教育とは、一人一人の子どもたちがもっている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています。子どもたちの知性的・感性的な成熟を支援するのが学校教育でしょう。自然に個性や才能が開花してゆくことを支援する作業に、どうして恐怖や不安や脅迫が必要なんです。勉強しないと「ひどい目に遭うぞ」というようなことを教師は決して口にしてはならないと僕は思います。学ぶことは子どもたちにとって「喜び」でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。

この文章を読んでわかるのは、今の日本の英語教育において、目標言語は英語だけれど、目標文化は日本だということです。今よりもっと日本的になり、日本的価値観にがんじがらめになるために英語を勉強しなさい、と。ここにはそう書いてある。目標文化が日本文化であるような学習を「外国語学習」と呼ぶことに僕は同意するわけにはゆきません。

僕自身はこれまでさまざまな外国語を学んできました。最初に漢文と英語を学び、それからフランス語、ヘブライ語、韓国語といろいろな外国語に手を出しました。新しい外国語を学ぶ前の高揚感が好きだからです。日本語にはない音韻を発音すること、日本語にはない単語を知ること、日本語とは違う統辞法や論理があることを知ること、それが外国語を学ぶ「甲斐」だと僕は思っています。習った外国語を使って、「メガコンペティションに果敢に挑戦」する気なんか、さらさらありません。

外国語を学ぶ目的は、われわれとは違うしかたで世界を分節し、われわれとは違う景色を見ている人たちに想像的に共感することです。われわれとはコスモロジーが違う、価値観、美意識が違う、死生観が違う、何もかも違うような人たちがいて、その人たちから見た世界の風景がそこにある。外国語を学ぶというのは、その世界に接近してゆくことです。 

フランス語でしか表現できない哲学的概念とか、ヘブライ語でしか表現できない宗教的概念とか、英語でしか表現できない感情とか、そういうものがあるんです。それを学ぶことを通じて、それと日本語との隔絶やずれをどうやって調整しようか努力することを通じて、人間は「母語の檻」から抜け出すことができる。

外国語を学ぶことの最大の目標はそれでしょう。母語的な現実、母語的な物の見方から離脱すること。母語的分節とは違う仕方で世界を見ること、母語とは違う言語で自分自身を語ること。それを経験することが外国語を学ぶことの「甲斐」だと思うのです。

でも、今の日本の英語教育は「母語の檻」からの離脱など眼中にない。それが「目標言語は英語だが、目標文化は日本だ」ということの意味です。外国語なんか別に学ぶ必要はないのだが、英語ができないとビジネスができないから、バカにされるから、だから英語をやるんだ、と。言っている本人はそれなりにリアリズムを語っているつもりでいるんでしょう。でも、現実にその結果として、日本の子どもたちの英語力は劇的に低下してきている。そりゃそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」が「上がり」であるような英語教育を受けていたら、そもそもそんな仕事に何の興味もない子どもたちは英語をやる理由がない。

(中略)

今は英語教育にとりわけ中等教育では教育資源が偏ってきています。他の教科はいいから、とにかく英語をやれという圧力が強まっています。別にそれは英語の教員たちが望んだことではないのだけれど、教育資源が英語に偏っている。特に、オーラル・コミュニケーション能力の開発に偏っている。何でこんなに急激にオーラルに偏ってきたかというと、やはりこれは日本がアメリカの属国だということを抜きには説明がつかない。

「グローバル・コミュニケーション」と言っても、オーラルだけが重視されて、読む力、特に複雑なテクストを読む能力はないがしろにされている。これは植民地の言語教育の基本です。

植民地では、子どもたちに読む力、書く力などは要求されません。オーラルだけできればいい。読み書きはいい。文法も要らない。古典を読む必要もない。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分である、と。それ以上の言語運用能力は不要である。理由は簡単です。オーラル・コミュニケーションの場においては、ネイティヴ・スピーカーがつねに圧倒的なアドバンテージを有するからです。100%ネイティヴが勝つ。「勝つ」というのは変な言い方ですけれども、オーラル・コミュニケーションの場では、ネイティヴにはノン・ネイティヴの話を遮断し、その発言をリジェクトする権利が与えられています。ノン・ネイティヴがどれほど真剣に、情理を尽くして話していても、ネイティヴはその話の腰を折って「その単語はそんなふうには発音しない」「われわれはそういう言い方をしない」と言って、話し相手の知的劣位性を思い知らせることができる。

逆に、植民地的言語教育では、原住民の子どもたちにはテクストを読む力はできるだけ付けさせないようにする。うっかり読む力が身に着くと、植民地の賢い子どもたちは、宗主国の植民地官僚が読まないような古典を読み、彼らが理解できないような知識や教養を身に付ける「リスク」があるからです。植民地の子どもが無教養な宗主国の大人に向かってすらすらとシェークスピアを引用したりして、宗主国民の知的優越性を脅かすということは何があっても避けなければならない。だから、読む力はつねに話す力よりも劣位に置かれる。「難しい英語の本なんか読めても仕方がない。それより日常会話だ」というようなことを平然と言い放つ人がいますけれど、これは骨の髄まで「植民地人根性」がしみこんだ人間の言い草です。

「本を読む」というのはその国の文化的な本質を理解する上では最も効率的で確実な方法です。でも、植民地支配者たちは自分たちの文化的な本質を植民地原住民に理解されたくなんかない。だから、原住民には、法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない。

今の日本の英語教育がオーラルに偏って、英語の古典、哲学や文学や歴史の書物を読む力を全く求めなくなった理由の一つは「アメリカという宗主国」の知的アドバンテージを恒久化するためです。だから、アメリカ人は日本人が英語がぺらぺら話せるようになることは強く求めていますけれど、日本の子どもたちがアメリカの歴史を学んだり、アメリカの政治構造を理解したり、アメリカの文学に精通したりすること、それによってアメリカ人が何を考えているのか、何を欲望し、何を恐れているのかを知ることはまったく望んでいません。

(以下略)

「原住民には法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない」ということを英語教育について書いたら、国語教育でも同じことをしようとしているということを知らされた。

まことに情けない国に成り下がったものである。
http://blog.tatsuru.com/2018/10/31_1510.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/184.html

[近代史3] 外国人が増えると嬉しいか? _ 外人観光客誘致は日本を貧しくしている

外国人が増えると嬉しいか? _ 外人観光客誘致は日本を貧しくしている

2018年1月22日
外国人に媚びない観光サービス


現在の日本における観光サービスは、
何というか「外国人に媚びまくる」形で
発展していっています。

いつの間にか、鉄道の電光掲示板に
簡体字やらハングルやらの文字が。

英語なら百歩譲って分かりますが、
なぜ特定のアジアの方々に向けた
掲示板のせいで、日本国民が
迷惑をこうむらなければならないのでしょう。

一事が万事、この調子。

そもそも、世界で最も外国人観光客が
訪れるフランスのパリには、
英語の表記すらありません。

パリのホテルで、

「英語のマップをくれ」

とフロントマンに言ったところ、
冷たく「ない」と言われました。

フランスの観光サービスは、
外国人に対して全く媚びていない。

それにも関わらず、
世界一なのでございますよ。

日本が本格的に「観光大国」を
目指すならば、あの煩わしい
簡体字とハングルを外すべきでしょう。

日本国民が、日本中の観光地を訪れ、
結果、日本の観光サービスが隆盛を極め、
質が高いサービスを目指して
外国人が「苦労しながら」やってくる。

これならば、分かります。

とはいえ、現実の日本の観光サービスは、
外国人観光客「様」に媚びるのが基本です。

良質のサービスを「安く」供給することで
リピーターを増やすという、まさしく
デフレ国の国民に相応しい落ちぶれた
スタイルで「観光立国」を目指しています。

挙句の果てに、民泊を拡大。

兵庫県養父市の特区では、白タクを解禁。

東北新幹線を走る「E5系」などの車両で、
今年の夏から順次、乗客がWi─Fi(無線LAN)の
サービスを利用できるようにすると発表。

理由は「中国人観光客様」の
利用需要が高まっているためです。

外国人「様」にひたすら媚び、
観光サービス業が外国人に懸命に
頭を下げ続けたところで、年間の
訪日外国人の旅行消費額は4・4兆円。

高々、4.4兆円。

それに対し、日本の個人消費
(民間最終消費支出)は
300兆円規模になります。

国民が一年間にわずか2%、
消費を増やすだけで、訪日客の
消費以上の経済効果になるのです。

それにも関わらず、政府は
緊縮財政で国民の消費を押さえつけ、
観光関連の規制を次々に緩和していく。

結果、日本国民は東南アジアで
トゥクトゥクを漕ぐがごとく、その日の
生計を立てるまでに落ちぶれるわけです。

大本の緊縮財政路線、財政均衡主義を
打ち破らない限り、我が国は観光サービスを
先頭に発展途上国化していくと思います。
https://38news.jp/economy/11544


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植民地のインドは商品を輸出しても、その見返りの代金は
ポンドでイギリスに蓄積され、デフレになり、不景気になった
2006年2月9日 アメリカの謎を解く 橋本裕の文学・人生日記帳

ブッシュ大統領が1月31日の一般教書演説で、「私は8800億ドルを減税し、国民に返却した。今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」と述べた。

 一方で、アメリカの経常赤字は05年が7900億ドル(93兆6940億円)、財政赤字も06年度は4230億ドル(約50兆2千億円)で過去最大、債務残高はすでに8兆ドル(約950兆円)を越えている。

 日本では、税制赤字を解消するために、増税をしなければならないと考えられているが、アメリカは逆である。減税をして国内消費を活性化し、景気をよくして税収をあげようとする。さらにアメリカの場合は戦争によって軍需景気を作りだしているわけだ。

 いずれにせよ、アメリカは消費大国。国も国民も借金をして消費を楽しんでいる。このアメリカの消費を助けているのが日本をはじめとするアジア諸国だ。とくに日本の貢献が大きい。日本は政府と民間が何百億ドルというアメリカ国債を買っている。

 先日、朝日新聞夕刊「経済気象台」に「米国のもう一つの謎」という文章が載った。経常収支の赤字が拡大しているにもかかわらず、ドル高が持続している謎について、それは借金国のアメリカが負債について支払う金利が「異常」に低いからだと書いている。これに反して、アメリカの対外資産は巨大な利益を手にしている。

 アメリカは莫大な借金をし、そしてその中から、わずかな一部を他国に貸している。そして不思議なことに、巨大な借金のための利払いよりも、わずかな海外資産の方が多くの利益を生み出しているというのだ。

 どうしてこんなマジックが可能なのか。それは日本がこの逆をしているからである。なぜ日本がこの分の悪い役回りを続けるのか、実はこれこそが本当の謎だということになる。

驚くべきことに、小さな対外資産から受け取る利子と配当が、大きな対外負債に支払う利子と配当を今日まで上回り続けている。家計にたとえると、収入を上回る買い物をして毎月赤字が続き、借金が膨らんでいる。ところが、多額の借金に支払う金利がゼロに近ければ、わずかばかり保有する預金などから受け取る利子の方が大きいという状態なのだ。これでは赤字をいくら出しても、借金さえできれば、後は何の憂いもなく買い物ができる


このうまい話に手放しで悪のりして、米国は経済収支赤字を続け、負債の増加に加速度がついている。この構図が最近話題になり、債権国が浮き足だっている。日本にその気配がないことが「謎」の源である


 実はアメリカのこの「うまい話」は、19世紀に繁栄した大英帝国をまねているだけだ。大英帝国の場合は、その繁栄の謎をとく鍵はインドをはじめとする植民地が持っていた。たとえば当時イギリスの植民地であったインドは、香辛料などの原材料を輸出してイギリスを相手に多額の黒字を計上していた。ところが黒字はルピーではなく、ポンドを使って決済され、そのままイギリスの銀行に預けられていた。

 だからイギリスはいくら植民地を相手に赤字を出しても平気だった。イギリスの銀行に預けられたポンドを、イギリス国内で使えばいいからだ。インドは名目上は債権が増え、お金持ちになったが、そのお金をイギリスの銀行から自由に引き出し、自分の国では使えなかった。お金の使い道は預金者ではなく、イギリスの銀行が決めていたからだ。そしてもちろん、イギリスの銀行は国内の人々に貸し出した。

 イギリス国民は植民地から輸入した品物で生活をたのしみ、しかもしはらったポンドもイギリスの銀行に吸収され、イギリスのために使われるわけだ。こうしてイギリスはどんどん発展した。

 一方植民地はどうなったか。たとえばインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積されるだけだから、国内にお金がまわらなくなる。どんどんデフレになり、不景気になった。

 仕事がきつくなり、給料が下がり、ますます必死で働いて輸出する。ところが黒字分の代金は、ポンドのまま名義上の所有としてやはりイギリス国内で使われる。こうしていくら黒字を出してもインドは豊かになれなかった。そして、赤字を出し続けたイギリスは、これを尻目に繁栄を謳歌できた。

 このイギリスとインドの関係は、そっくり現在のアメリカと日本の関係だと言ってもよい。経済同友会元副代表幹事の三國陽夫さんは、「黒字亡国」(文春新書)にこう書いている。


輸出拡大によっていくら日本が黒字を蓄積しても、それはアメリカ国内にあるアメリカの銀行にドルで預け入れ、アメリカ国内に貸し置かれる。日本からの預金は、アメリカにしてみれば資金調達である。貸し出しなどに自由に使うことができる。

 日本は稼いだ黒字にふさわしい恩恵に与らないどころか、輸出関連産業を除いて国内消費は慢性的な停滞に喘いでいる。停滞の原因であるデフレはなかなか出口が見えない。

 日本の黒字がドルとして流入したアメリカはどうなのか。ドルはアメリカの銀行から金融市場を経由して広く行き渡り、アメリカ経済の拡大のために投下されている。日本の黒字は結局、アメリカが垂れ流す赤字の穴埋めをし、しかもアメリカの景気の底上げに貢献しているのである。・・・

 輸出で稼いだ黒字を日本がドルでアメリカに預け、日本の利益ではなく、アメリカの利益に貢献している限り、円高圧力もデフレ圧力も弱まることなく、政府・日銀がいくら財政支出や金融緩和というデフレ解消策を講じても、一向に持続性ある効果は現れないのである


 幸い、最近この貿易構造がかわりつつある。日本の貿易相手国が中国をはじめとするアジアやヨーロッパにシフトしたことで、日本の対米黒字の割合が相対的に低下したからだ。こうして日本がデフレから解放されるチャンスがここから拡大した。

 しかし、問題はすでに厖大なドル建て資産をアメリカに持っていることだ。日本人の汗の結晶であるドル建て資産が、今後ドル安で何百兆と失われる可能性がある。こうした形で、アメリカは最終的に日本の資産を合法的に手に入れようとする。

「今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」というブッシュの一般教書の宣言は、これからも日本をはじめ、世界から資金を調達するという意思表示と読むべきなのだろう。
http://www.asyura2.com/0601/hasan45/msg/253.html


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2017年10月20日
観光立国神話の間違い 外人観光客誘致は日本を貧しくしている

「貿易黒字が回復」「貿易赤字が悪化」のように言うのは間違い
引用:http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20161024001223_comm.jpg


「輸出は良いこと」と言う間違い

日本には「輸出は良いこと」で「輸入は悪いことだ」という考え方が、徳川300年の因習のように染み付いています。

しかもこう信じている総本山が自民党幹部だったり、経産省や財務官僚、東大教授、経団連トップだったりします。

無学な人間ががどう喚いても総本山は自分が正しいと思っていて、改める気配すらありません。


安倍首相のアベノミクスも良く言われるように大企業偏重で、もっと言えば輸出企業偏重でした。

それを象徴するように大新聞やテレビは日本の貿易黒字が増えると「稼ぐ力が戻った」と大喜びしました。

財務省や経産省や自民党も「貿易黒字が”回復した”」とガンが直ったように喜んでいました。


アベノミクスでは貿易黒字を増やすために観光客誘致に力を入れ、2016年に2000万人を達成し、2017年は2500万人以上が確実になっています。

外国人が金を使うのは自動車を輸出するのと同じで、日本が儲かる=良い事だと皆思っています。

政府は輸出や観光客を増やすために円安に誘導し、現在は1ドル112円程度で推移しています。


ところが為替レートは日米の物価上昇率によって、同じ数字でも実効為替レートはどんどん変動しています。

たとえば日本の物価上昇率が20年間ゼロ、同じ期間アメリカは2%だったとすると、同じ為替レートでも実質的に、毎年2%円安になっています。

現在の1ドル112円は1995年時点の、130円か140円に相当する「超円安」になっています。


仮に今後1ドル80円になっても、1995年時点の1ドル100円以上でしかない筈で、円安の恩恵を受けて貿易黒字になったのが良く分かります。


輸出と観光偏重が日本を貧しくする

では貿易黒字で儲かったからこのまま続ければ良いのではないか、とも思えるがそうは行きません。

日本の貿易黒字で喜ぶのは日本人だけで、貿易相手はみんな不愉快になり怒り出します。

中国の貿易黒字が増えたとき、日米では中国人への反感が高まりましたが、80年代には欧米で「ジャパンバッシング」がありました。


日本がこのまま輸出を増やして貿易黒字を増やすと、間違いなくジャパンバッシングは復活するでしょう。

さらに貿易黒字だけが拡大し続けると、儲かった外貨の一部は日本円に交換されるので、円高圧力がどんどん高まります。

80年代に貿易黒字を溜め込んだ日本は、1995年の超円高で全て吐き出す破目になりました。


超円高や阪神大震災の傷も癒えて、小泉政権で再び貿易黒字を溜め込んだが、2011年の超円高でまた吐き出しました。

言っては悪いが「大食い選手権」で食えるだけ食って、トイレで吐いている大食い芸人と同じです。

これらで分かるのは輸出で儲けてから吐き出すには10年以上の時間差が有った事で、恐らく安部首相も引退する2030年までに次の超円高が起きます。


もっと前にも「高度成長期」に溜め込んだ貿易黒字を1985年プラザ合意の超円高で吐き出しています。

1971年にはニクソンショックによって1ドル360円の固定レートが廃止され、変動相場制に移行しています。

これら全ては、日本が貿易黒字で儲けすぎたのに欧米諸国が反発し、為替レートを上げる事で調整した結果でした。


10年か20年ごとに同じ事を繰り返しているわけで、偉い人達もいい加減に学習して欲しいです。


輸出するには同額の輸入が必要

ではどうすれば良いのかというと、実は非常に簡単な話で、輸出と同じ金額の輸入をすれば良いだけです。

自動車を100万台輸出しようが1000万台輸出しようが、同額の輸入をすれば為替相場は円高に動きません。

”偉い人達”は輸出を喜んで輸入を毛嫌いしていますが、その原因になっているのは恐らく、財務省の勘違いです。


財務省はGDPの計算方法で「輸出はプラス」「輸入はマイナス」にしていて、間違いではないが非常に誤解を与えています。

「輸出はプラス」に異論はないが「輸入はマイナス」の部分は、まるで輸入するほど日本のGDPが下がっているような印象を与えています。

毎回同じ例を挙げるが、例えばアメリカから100グラム50円で牛肉を輸入したとします。


スーパーで売るときには100gあたり150円とか300円になり、3倍から5倍もの値段で販売されています。

さらに牛肉は牛丼になったり、しゃぶしゃぶ、ステーキなどになり国内で付加価値がついて販売されています。

日本が輸入する大半は原料なので、輸入した価格の何倍もの価値が国内でつけられ「輸入によってGDPが増えている」のです。


アイフォンのような完成品でさえ、輸入したものを販売しサービスし課金されることで、やはり何倍もの付加価値が国内で生まれます。

輸出がGDPに貢献しているのと同様に、輸入もGDPに貢献していて、国内で付加価値が生まれているので分かり難いのです。

日本政府が輸出を増やしたいのなら、同額の輸入を増やすべきだが「輸出だけ増やせ」と言うから必ず失敗するのです。


今回の「安倍景気」も輸出だけに偏重するのなら、小泉景気と同じく、10年後に無残な失敗に終わるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/73197193.html

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2017年12月28日
外国人観光客3,000万人へ バブルの行き着く先


膨大な経常黒字を観光収支の黒字がさらに拡大させている。
こんな事をすれば将来の超円高を招く
引用:https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/r/recomme_jp/20170824/20170824170841.png

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外国人が増えると嬉しいか?

2017年は訪日外国人数が2,800万人に達したと推測され、年間で4兆円のインパウンド消費が見込まれている。

政府はさらに外国人観光客を倍増させるつもりで、2018年は3,200人の訪日、5兆円近い消費を予想しています。

ところで外国人が日本に来て消費するのは経済的に、日本から外国に輸出するのと同じ経常黒字になります。


物を輸出するのと、外国人が日本で消費するのは、お金の流れとしては同じ「外国から日本へ」です。

その経常収支は10月に過去最大2.1兆円の黒字を記録し、通年でも過去最高に近い数字が出ると予想されます。

経常黒字が大きくなると、「やった!日本が儲かった」と喜ぶ人が居ますが、これは「儲かる、損をする」とは関係ない数字です。


経常収支が黒字なのはお金が日本に流れた一方で、日本の労働力が外国の為に消費されたのを意味します。

トヨタが300万円の自動車をアメリカに輸出すると、日本はお金を受け取り、アメリカは日本の労働力を自動車1台分受け取ります。

受け取った300万円分のドルを有効に使えれば良いが、日本の労働者を300万円で買ったアメリカ人の方が、得をしているかも知れません。


90年代から2000年代に日本は空前の経常黒字を積み重ねたが、貧しくなるばかりで経済は縮小を続けました。

これを振り返っただけで「経常黒字(貿易黒字)=日本の儲け」は完全に間違っているのがわかります。

「輸出=儲かる」「経常黒字(貿易黒字)=日本の儲け」という間違った考えのせいで、日本は自国の労働力を外国のために使ってしまいました。

外国人観光客が増えるのも同じであり、日本人の労働力を中国人や韓国人のために使い、日本はお金という紙くずを受け取っています。


円高の戦犯は小泉元首相

要するに日本人が中国に出稼ぎメイドをしているのと同じであり、日本が儲かっているとかでは有りません。

中国人相手に接待している労働力を、日本のために使ったほうがずっと良いのだが、政府の上の人はそう思っていません。

外国人が増えたといって喜んでいると、80年代に自動車や家電輸出で儲けたときと同じく、最後は悲惨なバブル崩壊で終わります。


なぜなら国の経常黒字が増えると、変動相場制によってその国の通貨を上昇させる圧力が生じ、耐え切れなくなった時に超円高になるからです。

最近では2007年から2011年にかけて円高が進み、1ドル70円台になったが、その原因は2007年までの輸出攻勢にありました。

小泉首相は日本経済を再生するため円安に誘導し、その時は輸出が拡大して経常黒字が増えて、日本はかなり儲けました。


当然の結果としてこのような経常黒字は円高圧力を生じさせ、2007年の1ドル124円を天井として、2011年に80円を割るまで下がり続けました。

2011年の超円高を引き起こしたのは、2000年代前半に円安誘導した小泉首相や竹中財務大臣、福井日銀総裁らでした。

そして現在、小泉時代と同じように安倍首相と黒田日銀総裁は円安に誘導し経常黒字を増やし、「日本は勝った!日本は儲けた」と言っています。


彼らのせいで再び超円高になるのは、2020年代以降と予想されるので、小泉元首相と同じように責任を認めないでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/74237738.html


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滅茶苦茶な金融緩和で超円安にして株価と不動産価格だけバブルにしても日本は豊かにならない


小泉景気は2001年から73カ月も続いたが、内容は円安で輸出を増やすものだったので、円高であっけなく終了しました。

むしろ強引な円安誘導で国際収支の黒字を積み重ねた結果、儲けたドルが一斉に円に換金され、空前の超円高を作り出した。


貿易や海外投資で儲ければ、儲けたドルは後で円に交換されるので円高を引き起こし、結局は儲けた金を全て吐き出す破目になります。

貿易黒字はまったく無意味とまでは言わないものの、日本が儲けるという観点からは「ほとんど無意味」なのは事実です。

同様に安倍首相が力を入れ年間2500万人に達した外国人観光客も、国際収支の黒字を増やすだけで「ほとんど無意味」です。


国際収支が積み上げられた結果、「将来円に交換される外貨」が増えていき、最も円高になって欲しくない時に、一斉に円に交換し超円高になります。

ここでも悪事を働いているのは財務省で、貿易黒字や国際収支黒字を「日本の稼ぐ力」と呼び「貿易黒字が回復した」と良い事のように言っています。

財務省は「財政」つまり国の貯金がいくらあるかを数える役所なのだが、経済については分かっておらず、無知なのに口を出します。


国際収支の黒字は将来の超円高を作り出す「悪い事」なのに、「黒字になった、勝った勝った」と喜んでいるのです。

日本のようにGDPの7割近くも個人消費が占めている国では、景気が回復したら輸入が増えて貿易黒字になるので、巨額貿易黒字は「不況」のサインでしかありません。
http://www.thutmosev.com/archives/72361513.html

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輸出や外国人観光客の誘致をいくら頑張ってやっても日本が豊かにならない理由


経済コラムマガジン 2016/10/24(913号)落日の構造改革派

構造改革派の中にも、段々と問題は供給サイドだけでなく、需要サイドにもあるのではないかと考える者が現れるようになった(日本の供給サイドは特に大きな問題がないと筆者は見ている)。明らかに構造改革派は落日を迎えている。しかしいきなり財政支出による需要創出というわけには行かない。筆者の記憶では、最初に需要サイドに着目した構造改革派は「霞ヶ関埋蔵金」を問題にした人々である(埋蔵金を使っての需要創出をしろと主張)。


その次は外国人観光客の誘致を唱える人々である。
これは外国人観光客の買い物による需要増を狙っている。

そして最近ではTPP締結が注目されている。ところでアベノミクスの第三の矢である「成長戦略」の柱は規制緩和などによる構造改革だったはずである。ところが奇妙なことに最近になって「成長戦略」の第一はTPPという話が出るようになっている。これは TPP による輸出増が狙いである。

このように外国人観光客の誘致やTPPの目的は需要増といっても外需の増加ということになる。

たしかに構造改革よる供給サイドの強化といった現実離れした考えからは、これらはいくらか進歩していると言える。しかしこれに対して筆者達は、これ以上外需依存を高めるのではなく(外需依存はいずれ円高で苦しむことになる)、財政政策(ヘリコプター・マネーなどによる)による内需拡大政策を主張しているのである
http://www.adpweb.com/eco/eco913.html

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2016年07月04日
訪日外国人2000万人も経済はマイナス 外国人観光は経済に貢献しない

外国人が何千万人来ても、それで経済成長することは絶対に無い。


http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/a/5/a5a20193.png


外国人観光客は2016年も増え続けていて、この調子なら2000万人達成も可能だと言っています。

だが外国人がいくら増えても日本の景気は良くならず、むしろマイナス成長になっているのは何故でしょうか。


無策のツケを誰が払う?

政府は訪日外国人が1000万人を超えたとして、次は2000万人、あるいは3000万人だと言っています。

2011年の原発事故の後、増え続けた訪日客は特に安部政権が始まった2013年から、目だって増加しました。

安倍首相は「訪日外国人が増えたのは自分の手柄だ」と言っていて、それは別に構わない。


だが不思議なのは外国人が2倍に成っても日本のGDPがマイナス成長な事で、むしろ外国人が増えるほど経済が悪化している。

訪日外国人が増える事と、日本の経済成長に関係があるのかないのか、議論されませんでした。

皆当たり前のように「訪日客が増えれば経済効果がある」と言っているが、わたしはそう思いません。


訪日外国人がお金を使うのは、お金の流れを見ると輸出と同じで、例えば自動車1台輸出すると200万円のドルが得られます。

実際は原材料費などを輸入しているので1台100万円として、外国人が5人くらい訪日すると、交通費込みでそのくらい使います。

外国人がお金を使うのだから日本は儲かっている、と輸出論者は言うのだが、それは戦前から1980年頃までの話です。


その頃までは通貨は事実上固定相場制で、日本が何台自動車を輸出しても、1ドルは360円や200円で固定されていました。

ところが日本の輸出で大損をしたアメリカはぶち切れてしまい、ある日日本の大蔵大臣をNYに呼んで「今日から変動相場制にするから」と通告しました。

これが1985年のプラザ合意で、以来30年間日本はずっと円高不況で苦しんでいます。


同じ場所でクルクル回るだけのハムスター経済
引用:http://pds.exblog.jp/pds/1/201209/15/22/f0189122_15113970.jpg


日本はハムスター経済?

変動相場制では輸出すればするほど円高になるので、輸出で儲ける自体不可能で、むしろ輸出するほど損をします。

アメリカのような輸入超過国のほうが儲かるように出来ていて、その為にアメリカはルールを変更したのでした。

観光客がドサドサやってきてお金を使うのも同じ事で、彼らの買い物のせいで円高になり、余計輸出企業が苦しむだけです。


固定相場制では「輸出するほど儲かった」が、変動相場制では「輸出するほど罰を受ける」のです。

2016年に入って中国ショックやイギリスショックで円高になり、一時99円に達してまた戻っています。

評論家はイギリスのEU離脱の影響と言っていますが、何も無くたって輸出と観光客のせいで円高になるのです。


安倍首相の経済政策をみると、円安に誘導して輸出や観光客を増やしているが、輸出が増えたら必ず円高になります。

輸出とはドルを円に交換するで、観光客もドルや人民元を円に交換し、際限なく円高になります。

なんだかハムスターが車輪を回しているが、同じ場所で自分が走っているだけ、というのを連想してしまいます。


輸出や観光客でお金を集めようとして必死に働いているのだが、こんな事をいくら頑張ってもゼロ成長のままです。

観光と輸出にはもう一つ大きな問題があり、日本人が働いた成果が国外に流出し、蓄積されない事です。

日本で自動車を生産しアメリカに輸出したら、日本には何もなくなり、アメリカには自動車が1台増えます。


輸出や観光で経済成長はしない

お金という紙切れを受け取る代わりに、高度な工業製品である自動車を渡すのは、あまり有利な取り引きではありません。

アメリカは受け取った自動車を何年か有効に使いますが、日本の自動車メーカーが受け取ったお金は有効に使われているでしょうか。

大抵は中国や海外に別な工場を建てたりして、日本人には何の恩恵ももたらしはしません。


あるいは企業の内部留保になったり、株価や地価を吊り上げたり、ロクな事に使われないのが現実です。

輸出や観光で日本が受け取った外貨は、一般国民のために使われる事は、まずありません。

外国人旅行者より国内旅行者を増やした方が経済効果が大きいのに、外国人を泊めるために日本人をホテルから追い出しているのです。


この政策を続ける限り、来年も再来年も、日本はゼロ成長でしょう。

ではどうすれば経済が成長するかと言うと、今まで書いた逆、つまり輸入を増やして貿易や観光を赤字にすれば、その分円安で輸出し易くなります。

貿易黒字の日本より貿易赤字のアメリカ企業の方が、成長力があり儲かっているのはこの為です。
http://thutmose.blog.jp/archives/62830797.html

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2017年8月3日【小浜逸郎】日本人よ、外国人観光客誘致などに浮かれるな
https://38news.jp/economy/10870

2020年東京五輪を控え、外国人観光客をもっともっと迎えようではないかという機運が高まっています。
実際、ここのところ訪日外国人数はうなぎ上りに増えています。
2014年と2016年とを比較すると、わずか2年間で、1340万人から2400万人、倍率にして1.8倍という目覚ましさです。
http://www.jnto.go.jp/jpn/statistics/since2003_tourists.pdf

また先ごろ、2016年の「旅行収支」が1.3兆円の黒字を記録したことがマスコミによって報じられ、一般国民を喜ばせています。
なかには、日本はこれから観光立国を目指すべきだなどという、いささかおっちょこちょいなことを言いだす人も出てくる始末です。

たしかに、多くの外国人が(移民としてでなく)観光のために日本を訪れ、
「おもてなし文化」のような日本のよいところを知ってもらうのは悪いことではありません。

また、外国人がたくさんお金を落として行けば、観光資源の豊富な地域は儲かるでしょうし、新たに外国人誘致のための観光開発に力を入れることで、経済波及効果が望めるかもしれません。

しかし、です。

こういう議論が、果たしてどれだけこれからの日本経済全体や日本文化全体に資するものかどうかは、もっと慎重に考えてみなくてはなりません。

まず、訪日外国人といっても、すべてが観光目的で日本に来るわけではありません。
観光目的は、全体の約6割にとどまります。残りはビジネスその他なのです。
http://bit.ly/2hkBlYK

ビジネスでは、利にさとい中国商人などが、巧みに利益をかっさらっていかないとも限りません。

次に、外国人の内訳ですが、韓国、中国、台湾、香港の4地域で、全体の73%を占めます。

欧米加豪の合計はわずか14%にすぎません。
しかも、2014年当時、前者は、67%、後者は18%でした。
http://www.jnto.go.jp/jpn/statistics/since2003_tourists.pdf

つまり、増えているのは、東アジアからの訪問者であって、ヨーロッパや英米圏から日本を訪問する人たちの割合は、むしろ減っているのです(絶対数は増えていますが)。

数字を大きく押し上げているのは、近隣諸国だということがこれでわかります。

私たちは、外国人と聞くと、何となく西洋人を思い浮かべてしまう習慣から抜けきっていないのではないでしょうか。
そうして、そういうお客さんがたくさん来てくれることはウェルカムだ、とどこかで感じていないでしょうか。

そこには、近代以降の西洋コンプレックスが微妙に左右していると思いますが、それはともかくとしても、韓国や中国がいまの日本にとって、たいへん不安定で剣呑な関係にあるということを忘れないほうがいいと思います。

筆者は別に、この両国の国民一人一人に対して嫌悪感情や差別感情を抱いているわけではありません。
それは、筆者の勤務する大学での留学生に対する対応の仕方を見ていただければわかると思います。

しかし、実際に長野オリンピックの際に来日した中国人は、ああいう乱暴な振る舞いに及んだわけですし、最近は少しおとなしくなったものの、訪日中国人観光客のマナーの悪さは有名です。

さらに中共独裁政権には、国防動員法という法律があって、国外に滞在している中国人はすべて有事の際に政権の命令に従わなくてはならないことになっています。

違反すれば厳罰でしょうから、彼らは「便衣兵」としてゲリラ戦を展開する可能性が大きい。

また慰安婦問題に限らず、韓国の反日感情は尋常ではなく、サッカー大会やフィギュアスケート大会などにおけるヒステリックな反応、仏像の窃盗、靖国神社の放火、落書きなど、数々の狼藉ぶりは私たちの記憶に新しいところです。

日本なら確実に犯罪行為とみなされることも、本国ではとがめられるどころか、「もっとやれ」と言わんばかりの調子です。

こういう人たちが「訪日外国人」としてうなぎ上りに増えているからといって、外国人観光客が増えることはいいことだなどと単純に言えるでしょうか。

訪日外国人が増えることを素直に喜べない理由のもう一つ。

じゃんじゃん高級ホテルの建設でも進むなら話は別ですが、実際には、
サービスの悪い民泊の増加による料金低下競争が起きています。老舗旅館などが経営難で閉鎖されていきます。

デフレ不況期にこういうことが起きると、移民による賃金低下競争と同じで、日本の経済全体に悪影響を及ぼすのです。

さらに、次の点が重要です。

「旅行収支」が1.3兆円の黒字と聞くと、それだけで日本経済の復活に貢献するかのように思ってしまいます。

観光のにぎわいというのは目立ちますし、外国からたくさんの人がやってきて日本の土地を踏んでくれることは、日本が国際的に認知されて何となく繁栄につながるかのようなお祭り気分に国民を誘います。

しかし、「旅行収支」とは何でしょうか。

要するに、旅行によって外国人が日本に落とすお金(収入)と、日本人が外国に落とすお金(支出)との単なるバランスを示す数字です。

日本人にお金がなくて海外旅行にあまり行かなくなれば、それだけで黒字幅は増えます。

知っておくべきなのは、旅行収支は、GDPに算入されないという事実です。

旅行収支は経常収支のうちのサービス収支の一種ですが、経常収支でGDPに算入されるのは、純輸出(輸出額−輸入額)だけです。

GDPは、次の恒等式によって算出されます。

Y(GDP)=C(消費)+I(投資)+G(政府支出)+NX(純輸出)

ここで、言うまでもなく、消費や投資や政府支出とは、国内における日本国民による支出(=他の「日本国民」にとっての所得)を指しています。

つまり、外国人がいくら日本にお金を落としても、それだけでは、GDPの増加にはつながらないのです。 必ずしも内需(国内生産)が増えるわけではありませんからね。

一方で国内需要にもとづく財やサービスの生産が大きく落ち込んでいれば(いるのですが)、何にもなりません。

ところで、旅行収支1.3兆円の黒字というマスコミの報道ですが、これって、GDPのわずか0.26%にすぎませんよね。

GDPに算入されないうえに、この程度の黒字幅をもって、何か日本の経済が好転しているかのような幻想を振りまくマスコミの罪はたいへん重い。
こうした報道は、政府が本来やるべきことをやらない口実として利用され、不作為の事実を隠蔽する効果を生むだけなのです。

日本は、「観光立国」などという、できもしない浮かれ騒ぎにうつつを抜かすのではなく、 一刻も早くPB黒字化目標を破棄し、政府債務の対GDP比という正しい「財政健全化」概念を採用すべきです。

そのうえで、分母であるGDPを拡大させるために、政府支出を惜しまず、大胆な公共投資に打って出るのでなくてはなりません。

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筆者は前回、「日本人よ、外国人観光客誘致などに浮かれるな」と題して、2016年の「旅行収支」が1.3兆円の黒字を記録したことなどにそんなに大げさに騒ぐなという趣旨の一文を寄せました。
https://38news.jp/economy/10870

ところが、その矢先、日経新聞が見事にこの大騒ぎをやってくれたのです(8月13日付)
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO19940990S7A810C1EA3000/?n_cid=NMAIL003

訪日外国人が増えても、GDPにカウントされるのは「旅行収支」なので、そのぶん日本人の海外渡航での出費が増えれば、GDPは増えません。

記事中に、「年間の付加価値誘発額は4兆円になると試算。名目国内総生産(GDP)で0.8%の上昇が期待できる。」とありますが、この数字は、たとえ予測通りとしても、日本人が海外で消費する金額が差し引かれていないので、明確に誤りです。

海外取引額としてGDPにカウントされるのは「純輸出」、つまり輸出額−輸入額ですが、旅行収支もこの中に含まれます。
結局、0.8%という見込み数字は、「輸出分」だけを計算しているのです。

3.ちなみに「旅行収支」のGDP寄与額1.3兆円は、2016年で、わずか0.26%です。
これで、「いずれ地方経済のけん引役は公共投資から観光消費にかわるとの期待も出ている」とは、お臍が茶を沸かします。

地方財政は、わずかな例外を除いて、いまどこも逼迫しています。
ことに、度重なる災害が起きた地域では、対策費捻出に血のにじむ思いをしています。

中央政府は財務省の「緊縮真理教」のために、ろくな財政出動も行わず、公共投資を減らし続けています。

地方交付金をケチってきたために、老朽化した橋やトンネルを修繕できずに潰してしまうところも出ています。

橋やトンネルを潰すということは、そこを通過する道を丸ごとなくしてしまうということでもありますよね。

災害大国日本のインフラ整備は、こんな情けないありさまなのです。

これでは、百歩譲って「観光大国」なる目標を景気回復の選択肢の一つとして認めるとしても、そのために不可欠な基盤整備や観光資源の維持・開発もままならないでしょう。

そういう現実をきちんと指摘して、政府に喫緊の課題として突きつけるのがマスコミの役割であるはずなのに、なんと日経は、「政府は20年に訪日客消費を現状2倍の8兆円の目標を掲げる。」などと、もともと何の根拠もない謳い文句を嬉々として掲げ、政府の宣伝係を自ら買って出ているわけです。

日経のこの記事には、悪政のお先棒担ぎをやっているさまがありありと出ています。いまの日本のマスコミの劣化状態を象徴していると言ってよいでしょう。恥を知れと言いたい。

一番の問題は、「経済専門紙」を標榜する日本経済新聞のようなマスコミが、日本はすでにデフレから脱却したという、このような超楽観記事を載せることで、国民がそう思い込んでしまうことです。
https://38news.jp/economy/10950  


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安倍首相は間違った政策を実施して、せっかくの経済成長を潰そうとしています。

第一の危機は2019年に迫る消費増税で、実施したら再びマイナス成長とデフレに戻るが、安倍首相は増税すると発言しています。

今までの消費税創設と増税でマイナス成長にならなかった事は一度もなく、税収が増えたことも在りませんでした。


第二の危機は安倍政権の輸出偏重で、今まで輸出を増やそうとしたり、外国人観光客を誘致してきました。

その結果、輸出はマイナスで観光客も成長に寄与していないという結果が出ているわけで、今回外需はマイナスでした。

日本経済の8割が内需で外需は15%程度なのに、一生懸命外需を増やして内需は消費増税で潰してきました。


まるで逆噴射しながら離陸しようとする飛行機のようで、これでは日本経済の高度が上がる筈が在りませんでした。

内需を増やすには消費支出、個人消費、設備投資、公共事業を増やすことで、まず政府が支出を増やす必要があります。

今までの25年間、政府は支出を減らしてきたたために、個人消費と設備投資が減少し、GDPが減り税収も減らしました。


安倍首相が同じ間違いを繰り返すようなら、日本経済も同じようにマイナス成長になり、財政も悪化します。
http://www.thutmosev.com/archives/72298540.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/185.html

[近代史3] 日本はもうすぐ中国小日本省になる

日本はもうすぐ中国小日本省になる


50年後の日本地図 (日本人は放射能汚染された東日本に押し込められる)
http://blog.goo.ne.jp/hps777/e/ee6e8a91af4cf1c9b0adb452f1667b7e


1972年2月、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー補佐官が北京を訪問し、
周恩来首相と会談した時に、日本に対して三つの密約が交わされた。

米中密約の内容

1.日本に核武装そして単独防衛させない
2.これを防ぐために米軍は日本に駐留する(ビンの蓋論)
3.朝鮮半島および台湾問題で日本に発言権を与えない

この密約は、2002年10月、当時の江沢民中国国家主席が、
テキサスの牧場に当時のブッシュ大統領を訪ねたときにも再確認された。
http://dwellerinkashiwa.net/?p=2976



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中国の最終兵器は移民爆弾 _ 外国人参政権を認めると中国に日本を乗っ取られる

中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無いが、人口爆弾で他国を乗っ取ってきた:


漢民族は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。

引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/20/97ae91cd74d02dab5763add74c395063.jpg


ユーラシア大陸の真ん中に陣取っている中国とロシアは、有史以来ほとんど戦争に勝った事が無い。


中国とロシア(ソ連)は外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。

もしかしたら紛争程度の小競り合いでは勝っているかも知れないが、国同士の戦争ではない。

その代わり内陸の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。


勝てない中国

中国も同様で、秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。


ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。


清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。


今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。


戦争に勝てなくても領土を増やす方法

そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。


漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。


チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。


このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
http://thutmose.blog.jp/archives/66023396.html



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「外国人参政権」 を認めると北海道と沖縄が中国に編入される


なぜ「外国人参政権」を認めると、沖縄が中国に編入されるのか 2017.10.07 
by 北野幸伯『ロシア政治経済ジャーナル』
http://www.mag2.com/p/news/287616


かねてから外交政策の観点から安倍政権支持を明言している無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』の著者で国際関係研究者・北野幸伯さんですが、希望の党の政策についても一部評価しているようです。

今回は、小池氏が「外国人参政権に反対でなければ希望の党には入党できない」と表明したことについて絶賛するとともに、その理由をわかりやすく解説しています。


小池さん、「外国人参政権反対」を踏み絵に

選挙戦盛り上がっています。私は、「外交が素晴らしい」ということで、安倍続投を願っています。しかし、安倍さんの政策をすべて支持しているわけではありません。

たとえば「消費税引き上げ」に反対しています。小池さんは、「消費税引き上げ凍結」を宣言している。この方面では、是非がんばっていただきたい。もう一つ、小池さん、こんなことを宣言しています。

毎日新聞10月3日から。


◇民進党からの入党希望者に、「政策協定書」署名を義務づけ


希望の党の小池百合子代表は「寛容な保守」「ダイバーシティー(多様性)社会」を掲げている。その一方、民進党からの入党希望者には、外国人への地方参政権の付与に反対する「政策協定書」への署名を義務づけた。

希望の党に入りたければ、「外国人参政権に反対でなければならない」そうです。毎日新聞は、この決定を批判しているわけですが、私は、「素晴らしいじゃないか!」と思います。皆さんはどうですか?


ある国に住む他民族は、独立を目指す

•コソボ
•南オセチア
•アプハジア
•クリミア
•クルド
•カタルーニャ

このリストは、何でしょうか? これは、(ゆっくり、何度も読んでください)

「ある国の特定の地域に、他民族が多数住んでいたので、分離、独立した、あるいは分離、独立を目指している例」

です。例を一つ一つ見てみましょう。

・コソボ

コソボは、セルビアの一部でした。しかし、アルバニア系住民が、圧倒的に多い。それでコソボは08年2月、セルビアからの独立を宣言しました。

・南オセチア

南オセチアは、ジョージア(旧グルジア)の一部。しかし、オセット人が約9割を占めている。1992年に住民投票が行われ、圧倒的多数で「独立派」が支持を得ました。しかし、「事実上の独立」を達成したのは08年8月のロシア―グルジア戦争後です。南オセチアを国家承認しているのは、ロシアを含む4か国だけ。それでも、「事実上の独立国家」である。

・アブハジア

アブハジアもジョージアの一部です。ここは、アブハジア人が、5割強を占めている。1994年に主権宣言しています。しかし、南オセチアを同じく、事実上の独立を達成したのは、08年8月のロシアーグルジア戦争後でした。アブハジアを承認している国は、ロシアを含む4か国だけ。

・クリミア

クリミアは、ウクライナの一部だった。ここは、ロシア系住民が6割を占めている。2014年3月に、住民投票が実施されます。97%がロシアへの帰属を望んだとされ、ロシアに併合されることになりました。

・クルド(イラク)

イラク北部のクルド自治区は、当然クルド人が大半を占めています。ここでは9月25日、「独立の是非」を問う住民投票が実施されました。9割が「独立を支持」ということで、緊張が高まっています。

・カタルーニャ

スペインのカタルーニャ州では10月1日、「独立の是非」を問う住民投票が実施されました。結果は、92%が独立支持。カタルーニャ州の人は、「俺たちはカタルーニャ人。スペイン人ではない!」と考えているのですね。スペインも、大混乱が予想されます。


外国人参政権付与で、沖縄は中国に吸収される

というわけで、「ある国のある地域に、他民族が密集して住んでいると、独立の機運が高まる」ことをご理解いただけるでしょう。例えば、外国人参政権が与えられたとしましょう。その後、どんな動きが懸念されるのでしょうか?

たとえば、中国が沖縄南部の〇〇市に狙いをつけます。そこに中国人労働者を集中して住まわせる。市の過半数は、「参政権を持つ中国人」になってしまいました。彼らは、「独立の是非」を問う住民投票を実施。圧倒的多数で独立が承認されました。日本政府は自衛隊を投入して、実力で独立を阻止しようとします。

すると中国政府は、「わが国の同胞が、日本軍国主義に大量虐殺されようとしている。これを座視することはできない! そもそも、日本には沖縄の領有権はない! 日本は、中国固有の領土である沖縄を長年不法占拠してきた。いまこそ、歴史の正義を取り戻す時だ!」と大軍を沖縄に送り込みます。かくして、沖縄は中国に編入されることになりました。

このシナリオ、「米軍は何やってたんだ!」と思いますね。確かに。ただ、長期的に見ると、米軍だっていつまでいるかわかりません。

「ある国のある地域に、他民族がたくさん住んでいると、独立を主張し始める」

これは、世界のあちこちで起こっている事実です。中国人が、ある地域に密集して住み、過半数を超えた。将来彼らが「独立」を主張することは十分ありえます。そこまでいかなくても、住民投票で次々と反日的政策を進めていくことでしょう。

私は、どの国の人も差別しません。しかし、「外国人参政権を与えるかどうか」は差別とは関係ありません。私はモスクワに27年間住んでいますが、もちろん参政権はありません。私は「外国人」なので、参政権がなくて当然なのです。そして、日本国内に住む外国人も、参政権がなくて当然なのです。

そういった意味で、「外国人参政権反対」を踏み絵にする小池さんの決定は素晴らしいと思います。
http://www.mag2.com/p/news/287616  

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NEWSポストセブン 2018年01月09日
中韓の「日本買収」が止まらない これは武器を持たない戦争

【対馬では韓国人客激増、韓国資本による不動産買収が進む】

【対馬の「韓国展望所」で記念撮影する韓国人客ら】

【沖縄でも中国による土地買収が激しさを増している】

 今、「外国人による土地買収」という“日本領土侵食”が大規模に進行している。その主役は中国と韓国だ。外国人の土地買収自体は合法だが、自衛隊施設や在日米軍基地に隣接する土地が買収されるケースも多い。

 この問題に詳しい産経新聞編集委員の宮本雅史氏は、「世界の多くの国では、外国人による土地所有を基本的に『不可』とするほか、認める場合も地区を限定するなど厳しく制限している。それなのに、日本は野放し状態で、一度買われた土地を買い戻すのは困難だ」と警鐘を鳴らす。

 以下に示す通り、過疎や少子高齢化で人口減少が著しい地方や離島ほど、狙われやすい傾向がある。外国人による土地買収は、「武器を持たない戦争」なのである。

【北海道】 
中国をはじめとする外国資本による広大な森林、農地、ゴルフ場などの不動産買収が進み、その規模は森林だけで東京ドーム515個分の2411haに及ぶ(北海道庁調べ)。このままでは北海道全域が「虫食い状態」になる恐れがある。

■土地買収と中国語教育が進行中
 中国系企業が進出する釧路・白糠工業団地では中国と関係があるとされる日本企業が発電施設建設の名目で1.3haの土地を買収。白糠町の小中高では中国語・文化の教育が盛ん。

■中国企業の「撮影所」計画
 札幌市・宮の森で高級マンションを手がける中国系不動産会社の親会社「海潤メディアグループ」が、同市内に大規模な撮影所建設を計画中。

■大学が“中国化”する?
 中国との深い関係が指摘される学校法人「京都育英館」が、苫小牧駒澤大学の経営権や15haにも及ぶ敷地などの取得を進めている。

【新潟・佐渡】 
 中国総領事館の移転問題で揺れた新潟市。佐渡島では留学生や観光客の受け入れ、農業の連携先などとして中国との関係強化が図られており、経済的に疲弊する国境の離島に中国の影がちらつく。

■「治外法権」恒久化の恐れ
 在新潟中国総領事館が移転用地として2012年に取得に動いた新潟市内の土地は約1万5000平方メートル。2017年末現在、移転は行われず土地は野ざらしのままだ。

■中国人留学生の「受け皿」
 2016年4月、中国と関係の深い人物が、中国人留学生らに佐渡の文化や日本語を教える日本語学校を佐渡島に開校。施設はタダ同然で取得した。

【対馬】 
 朝鮮半島情勢が緊迫化する中、国境の島「対馬」では韓国人観光客がさらに増え、不動産などの買収にも拍車がかかる。有事の際に避難民が押し寄せる懸念もあり、地元島民からは「もはや韓国領」との声すら挙がる。

■旧日本軍の軍港周辺を買い占め
 かつて海軍の施設が置かれ、自衛隊の対馬防備隊本部のある竹敷地区周辺を韓国資本が買収し、ホテルやロッジ、民宿など数十軒を営業中。

■「対馬はもともと韓国領」?
 2012年には15万人だった韓国人客が2017年には30万人(人口の10倍)まで急増。現地韓国人ガイドは「対馬はもともと韓国領」と偽りの説明をしている。

■中国人もやって来る
 対馬の表玄関・厳原港では大規模な改修工事が進む。将来は大型客船の停泊も見込んでおり、一度に数千人単位の中国人客が大挙する可能性も。

【九州・沖縄】 
 中国人観光客が闊歩する沖縄でも、中国による土地買収が激しさを増している。沖縄の米軍基地用地のうち1割強を中国資本が買収した疑いも指摘されるなか、リゾート開発などを名目にした買収工作の事例は枚挙に暇がない。

■中国系ツアー会社がホテル用地買収
 香港の大手旅行会社「EGLツアーズ」が2017年10月、那覇市内4か所の買収を発表。敷地面積は計2103平方メートルで、ホテルを建設する計画。

■中国政府系団体が広大な土地購入
「中国老齢事業発展基金会」の関係団体が、沖縄県南城市で約4300平方メートルの土地を購入(2016年3月)。基金会は同地に中国人向け介護技術訓練センターを開設予定。

■海保の航空基地近くの山林を購入
 海上保安庁の航空基地がある鹿児島空港。その近くの山林285haを中国系企業がゴルフ場用地として2011年2月に購入した。

●監修・宮本雅史(『爆買いされる日本の領土』著者)
みやもと・まさふみ/1953年生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、産経新聞社入社。社会部編集委員、那覇支局長などを経て編集委員。

※SAPIO2018年1・2月号



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中国人が日本領土爆買い「北海道は中国32番目の省になる」2017.11.16 07:00
https://www.news-postseven.com/archives/20171116_626631.html


 いま北海道では、ゴルフ場や広大な農地、自衛隊基地近くの森林などが中国系資本により次々と買収されている。現地を取材した産経新聞編集委員の宮本雅史氏が報告する。

 * * *
 札幌市内から車でおよそ1時間、名山・羊蹄山の麓にある喜茂別町。奥深い山中を進み、「これより先、私有地につき関係者以外立ち入り禁止」という看板を越えた先に、美しい緑のフェアウェイが広がる。

 約210ha(東京ドーム45個分)の広大な敷地には、超豪華なクラブハウスが併設される。ゴルファーには楽園のような環境だが、コースで交わされるのは中国語ばかりだ。

 ここは、“中国人による中国人のためのプライベートゴルフ場”。運営会社が破綻して塩漬け状態のゴルフ場を2011年に中国の投資会社が買収したもので、複数の関係者が「100%、ある中国人オーナーのプライベートゴルフ場」と証言する。最近はゴルフ場予約サイトにも登場し日本人もプレーできるようだが、「オーナーの別荘」と囁かれる豪華クラブハウスに日本人プレーヤーの姿はない。

 いま、北海道で「中国による日本領土の爆買い」が進む。複数の専門家の意見をまとめると、これまで北海道で中国資本に買収された森林や農地などは推定7万haに達し、山手線の内側の11倍以上の広さになる。

 まずは以下に代表的な事例を紹介しよう。

占冠(しむかっぷ)村にある総合リゾート施設「星野リゾートトマム」は、1000haを超える敷地に巨大タワーホテルやスキー場などを併設する。

「星野リゾート」という名称から日本企業の経営と思われがちだが、経営主体は2015年秋に同施設を買収した中国系企業で、「星野リゾート」は管理を行うのみだ。最近、同リゾートを訪れた知人によると、当地には中国人の利用客が大挙して押しかけ、場内アナウンスにも中国語が。知人は、「正直、ここはどこの国かと驚いた」と語った。

 他にも赤井川村では2016年にシンガポール系企業が270ha(東京ドーム58個分)のキャンプ場を買収し、現在も周辺を買い増す。また登別市上登別町では中国風テーマパークの跡地70 haを中国系企業が買収して太陽光パネル設置を進める。彼らはエネルギーにも触手を伸ばしているのだ。

 中国系資本による土地買収にはパターンがある。最初に「リゾート地をつくる」「医療ツーリズムの拠点にする」などの壮大な計画をぶち上げる。財政難の自治体が賛成した途端に買収交渉を進める。だが、最初の構想は一向に実現しない。

 では何のために膨大な日本の領土を手に入れているのか。

 中国が買った土地には共通点がある。ほとんどが周囲を自然に囲まれて中の様子がわからない土地だ。出入りする場所が限られるため、出入口さえ封鎖すれば、外部からの干渉が難しくなる。

 しかもゴルフ場やキャンプ場はすでに土地が整備されていて水源が豊富にあり、開墾せずとも宅地や農地に転用できる。つまり、いつでも“自己完結型の自治区”となりうるのだ。

最近は世界で移民問題が大きなテーマになっているが、隔離された土地に大勢の中国人が住み着き、農産物や水、エネルギーを占有すれば日本の領土に中国の自治区ができてしまう。それこそが彼らの狙いではないのか。

 事実、中国の一部メディアは、「北海道は十年後に中国の三十二番目の省になる」と予測しているという。ある在日の中国人論客は、「中国は北海道を二十年前から狙っている」として「これは武器を持たない、目に見えない戦争だ」と警鐘を鳴らす。

●みやもと・まさふみ/1953年生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、産経新聞社入社。社会部編集委員、那覇支局長などを経て現職。侵食される北海道の現状を取材した近著『爆買いされる日本の領土』(角川新書)ほか著書多数。

※SAPIO2017年11・12月号


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埼玉・西川口、いつのまにか「マニアックな中華街」に 本場でもレアな巨大鉄鍋も 風俗店減少がきっかけ
3/29(木) 7:00配信


中国東北地方郷土料理のお店「滕記熟食坊」の外観


 埼玉県の西川口(川口市)と言うと、風俗街のイメージが根強いかもしれませんが、最近は中華料理店の増加が目立ち、インターネットでは「マニアックな中華街」とまとめられています。羊料理、アヒル料理、四川省の串料理、東北地方の郷土料理など、よく知られている「日本式中華料理」と違い、メニューには中国語しかなかったり、店員と日本語が通じなかったりと、店によってはまさに「プチ海外旅行」。西川口で長年中華料理店を営んでいる店主は「10年ほど前から『グルメの街』を目指した結果、外国人住民の増加とともに、中華料理を始めとする各国の料理店が増えてきた」と話します。

【写真特集】テーブルに埋め込まれた巨大鉄鍋、メニューは中国語 「マニアックな中華街」西川口を直撃!
https://withnews.jp/article/f0180329003qq000000000000000W02310901qq000017076A


一歩踏み込んだら旅行気分 オーソドックスでなくB級中華? 

 JR西川口駅の西口。駅前はチェーン店が並んでいますが、奥へ一歩進むと、火鍋、シルクロード(新疆ウイグル族)の料理、四川串鍋料理、上海料理、またアヒル(モミジ、手羽先、ネック、砂肝…)といった中華の専門店が次から次へと現れます。

 ひとことに中華料理と言っても、馴染みのある中華麺や、青椒肉絲(チンジャオロース)、回鍋肉(ホイコーロー)、坦々(タンタン)麺などでなく、日本に住む中国人にとっても新鮮です。

 日本人がここを歩くと、「別世界」という感じで、まさに旅行気分も味わえます。
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本格的な中国東北地方の郷土料理

 中華料理の看板を通り抜け、10分ほど歩くと、中国東北地方(旧満州国)の郷土料理のお店「滕記熟食坊」(テンジシュシーファン)に出会います。看板の下には「東北鉄鍋燉(ドンペイティゴドゥン)」の大きな文字が見えます。

 中国の東北地方というと、黒竜江省、吉林省、遼寧省の三つの地域を指します。店主夫婦は最も北部に位置する黒竜江省・佳木斯(ジャムス)市出身で、極寒の地の郷土料理を日本に持ち込んできました。

 「鉄鍋燉」の特徴というと、テーブルに埋め込まれた大きな鉄鍋に肉や野菜を入れ、じっくり煮込むことです。大きな鉄鍋ならではのいい匂いと湯気が漂います。

 鍋の名前は食材により異なります。例えば「東北農家燉」にはスペアリブとモロッコインゲン、甘くないトウモロコシ、かぼちゃが入っています。「殺猪菜」は豚肉や豚のモツ、豆腐などと発酵した白菜の煮物を入れます。

 さらに東北名物料理の地鶏と東北名産の紅キノコの煮物があり、鉄鍋で煮ると格別に味が深くなります。魚鍋の「鯉と豆腐の煮物」も高い人気を誇り、わざわざ1時間以上車を運転して来店した中国人客もいました。

 鉄鍋を注文すると、トウモロコシのパンもその場で焼いてくれます。練った生地の塊を、鉄鍋の縁あたりにペタッと貼り付け、鍋の熱で芳しく焼き上げ、パリパリとした食感もあり、美味しいです。

 こうした郷土料理は、東北地方の出身以外の中国人ではめったに目にすることがないです。遼寧省出身の夫も都市部に暮らしていたため、このような鉄鍋料理は1〜2回ぐらいしか食べたことないと言います。


鉄鍋が大人気 日本人客が3割 メニューは中国語だけ

 「滕記熟食坊」のおかみの興(シン)さんによると、この店は2年ほど前にオープンしました。最初は中国人客が圧倒的に多かったそうですが、口コミなどで日本人にも人気が高まり、感覚的に日本人客が3割近くなっているそうです。

 メニューは全部中国語です。日本語が書かれていない理由を尋ねると、「おかずの日本語名が分からないんです」と興さんが恥ずかしがりながら話しました。ただ、料理の写真を載せているので、日本人客も注文には困らないそうです。
 
 興さんはある程度日本語が話せますので、日本人客の接客や、電話予約を受け取っています。「ほとんどの予約電話は日本人客からのものですね」。そして店主である夫を含め、ほかの店員はあまり日本語が話せないそうです。

 この店の鉄鍋はかなり大きいため、4人以上のグループで食べるのがオススメです。多人数のほうが賑やかで、水餃子、アヒル料理、鶏の燻製など、ほかにも本場のメニューを楽しめます。食べきれない場合は、テイクアウトもできますので、少人数で行っても心配ありません。
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孔子の73代目が語る西川口の変化

 「滕記熟食坊」は開店して2年ほどですが、すでに中華料理の店が増えていたそうです。西川口はいつ頃から「グルメの街」に変身してきたのでしょうか。

 警察などによると、西川口には1990年代から2000年代前半にかけて、違法な性風俗店が乱立していました。新風営法施行以前からあって営業が認められた店の周辺の営業禁止地域に違法店が次々開店し、「西川口流」などとという隠語も誕生。それが警察の取り締まりで07年までに、大半の店が廃業に追い込まれました。

 同時に「同伴」や「アフター」でにぎわっていた「まともな飲食店」も、客を失いました。「風俗店が摘発されてクリーンになりましたが、空洞化も起きてしまったんです」。こう話すのは、西川口に店を構えて27年になる中華料理「異味香(イーウイシャン)」のオーナーで地域の商店街連合会青年部にも入っている山田慶忠(よしただ)さん(49)です。

 山田慶忠さんの本名は孔慶忠さんで、実は『論語』で有名な孔子の第73代目子孫(末裔)。お父さんは第72代目の孔憲蕚さんです。お父さんの代から日本へ移住し、1991年に「異味香」を開店。山東料理を提供し続けています。ちなみに、孔子の家計図(世家譜)によると、「憲」は72代目で共通する文字で、73代は「慶」、74代は「繁」になっているそうです。現在世界中に孔子の子孫は200万人を超えていると言われています。


グルメの街を目指したが、中華街は「自然発生」

 山田さんによると、転機になったのは、08年に西川口で開催された埼玉県内のB級グルメ大会でした。そこから、西川口を「グルメの街」として売り出そうと企画し、数年後には山田さんが地区の名物になる「焼焼売」を開発。しかし、中華料理の店はその動きとは関係なく、自然発生的に増えてきたそうです。

 「飲食店が撤退するたびに、中華料理店がその空きを埋める感じですね」と話す山田さん。すべての店が成功するわけでなく、撤退する店も多いそうですが、その場所にまた別の中華料理店が開店するなど入れ替わりがめまぐるしいそうです。

 さらに話を聞くと、「自然発生」した背景について、考えられる理由をいくつか挙げてくれました。

 まずは立地の良さです。東京につながる交通の便がよく、家賃も東京都内と比べ安いことから、「都内で成功した中華料理店のオーナーが、気軽に西川口で支店を開くことができる」と指摘します。
 
 次に、中国人の多さです。「西川口はもともと鋳物が盛んで、今は工場で働く中国人が多い。中国人の住民が増えたため、中華料理への需要も高いのでは」と話します。  
 
 そして、西川口のイメージ。日本人にとってはマイナスなイメージが残るかもしれませんが、「外国人はその固定観念にあまり取られていない」と山田さん。
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競争は激しくなるなか 町中に活気付いている

 山田さんによると、「マニアックな中華街」としてネットで知られるようになると、メディアによる取材も増え、宣伝効果や口コミなどで、足を運んでくれるお客さんも増えたそうです。

 山田さんは「異味香は老舗の中華料理として、競争も感じているが、町全体が活気づいていて、いい傾向」と感じています。

 ただし、課題も。店の入れ替わりが激しく、なかなか地域全体の店の概要が把握しにくいという現状があります。

 また中華料理店に限りませんが、マナーの問題もあります。例えば安易に油を捨ててしまう店があるので、「油の垂らし問題」は地区の問題になります。店舗のゴミはまとめて業者に頼んで廃棄するものですが、一部ではそのまま住民用のゴミ捨て場を利用して、トラブルになるケースもあるそうです。

 街が活性化しつつも、こうした新たな問題の解決が課題になっています。
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異文化の町もいいかも

 横浜の中華街や都内で中華料理が多い池袋では、中華料理店が密集するだけでなく、ほかの観光やショッピングの施設が併存しているため、いい相乗効果があります。現在、西川口は「マニアックな中華街」になりつつあるも、集客するような目立った施設は特にありません。

 山田さんは西川口が「異文化の町」と考えているようです。中華料理だけでなく、インド料理、タイ料理、韓国料理など、各国の本場に近い味を堪能できるため、「異文化」のほかに観光・レジャー施設が設立されれば、より魅力ある西川口になるのではないかという考えです。

 「マニアック」、「異文化」など、西川口の町は、今後もますます目が離れません。




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2018年05月19日
目に見える支那人の侵略 / アジア人の集落が出現する日本
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/

  5月13日(日曜日)、TBSの「噂の ! 東京マガジン」が埼玉県西川口に蝟集する支那人を特集した。

この番組は度々、トラブルを抱える地方自治体を取材し、どのような状況になっているのか、なにが原因なのかを視聴者に伝えることで長寿番組となっている。たぶん、「報道特集」みたいに暗い雰囲気が無いからだろう。

それにしてもTBSと言えば、支那人や朝鮮人を擁護するプロパガンダ局として有名なはずなのに、時折、在日アジア人の問題点を指摘することがあるので興味をそそられる。だが、それはキャバレーの呼び込みのようなもので、別の目的を含んでいるから気を許せない。

  同番組は西川口の商店街などを取材し、在住支那人がどのような問題を引き起こしているのかを紹介していた。例えば、支那人は町内会の規則を守らず、勝手にゴミを捨てに来るし、分別しなければならないのに、缶でも紙屑でも、瓶でも一纏めにして投棄する。それでも、ゴミ捨て場に持ってくる奴はまだ良い方で、不届きな支那人はポイ捨てが当り前。コンビニで買った弁当を食べたら、そのプラスチック容器を道端に投げ捨てるし、ビニール袋やタバコはもちろんのこと、古びた家具や要らなくなった冷蔵庫、テレビ、粗大ゴミを不法投棄するから腹が立つ。

chinese people 2Chinese collecting cans
(左: 地べたに坐る支那人観光客 / 右: 空き缶を担いで歩く支那人)

  今のところ、支那系住民が少数派だから何とかなっている、というのが現状だ。例えば、見廻り役の市職員や近所の日本人に見つかれば、捨てた不要品を再び手にして、そそくさと立ち去る、だが、大抵の支那人は人目が無くなった夜中に“こっそり”捨てに来るからタチが悪い。「見つからなければ何をしてもいい」というのが支那人の行動原理だ。自分の家なら綺麗にするけど、一歩外へ出れば「他人」の土地だから、遠慮する事は無い。食堂や病院内で立ち小便をしてもいいし、百貨店や遊園地で痰を吐き捨てても構わない。階段の隅でウンコをしないだけマシ。これは支那人が悪いんじゃない。“気にする”日本人の方が悪いのだ。

  当ブログでも度々述べたが、支那人は基本的に「がさつ」で粗野。デカイ声で喋るし、語気も荒く、マナーも悪い。昔、フランク永井がヒット曲の『おまえに』を披露し、「そばにいてくれる〜だけでいい〜」と唄っていたけど、支那人だと側に居るだけでも不愉快だ。円広志じゃないけ;ど、「飛んで飛んで、廻って廻って、何処かに消えてしまえ !」と歌いたくなる。とにかく、支那人というのは短気なのか、それとも単純に馬鹿なのか、しょっちゅう「いざこざ」を起こし、掴み合いの喧嘩になるようだ。西川口の繁華街でも支那人同士の喧嘩が毎週の如く起こり、街行く日本人も呆れ顔。TBSの取材を受けた日本人も、支那人による騒動に言及し、店の前の喧嘩なんか珍しくないと答えていた。つまり、もう「西川口の名物」になっている、ということだ。

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(写真 / 街頭で喧嘩を始めた支那人たち )

  それにしても、「なぜ」支那人が西川口に住み始めたのか? その理由は、警察による風俗店の取締に遡るという。暴力団との関連があったのかも知れないが、地元警察は“怪しげ”な風俗店を摘発し、治安の回復を図ろうとした。この浄化作戦が効を奏したのか、繁華街から多くの酒場や風俗店が消えて行き、テナント・ビルに空き店舗が目立つように・・・。ところが、意外な副作用が現れてきた。なんと、その空白に支那人が入ってきたのである。ビルの所有者からすれば、誰かが空きスペースを借りてくれないと困ってしまう。だから、支那人の経営者が店を構えてくれれば、元通りのテナント料が入ってくるので助かる。こうして支那人の店がドンドン増えていったという訳。あとは“いつも”のパターンが繰り返される。支那人が住むところ、必ず北京料理店とか上海料理店が出来るし、一般支那人が訪れる食材店や雑貨店も附随するのも定跡。当然ながら、床屋とか酒屋も支那人が経営する店となるから、いつの間にか日本人が寄りつかない「支那人商店街」となってしまうのだ。

  こうした情報番組を観れば、一般視聴者は「TBSも中々いい取材をするじゃないか」と思うだろう。しかし、そこには巧妙な洗脳があった。TBSの取材班は川口に住む支那人にインタビューを行い、「マナーの良い」支那人と「行儀の悪い」支那人を区別していたのだ。ある若い支那人女性によると、勝手なゴミ捨てを行うのは、日本の習慣を知らない年配の支那人で、日本の「しきたり」を知っている若い人は“ちゃんと”ルールを守っている、と語っていた。要するに、TBSは支那人回答者とグルになってイメージ操作を行い、“全て”の支那人が傍若無人なのではなく、“一部”の不埒な支那人がトラブルを起こしているだけ、と仄めかしていたのだ。TBSが日本人の側に立ち、支那人を攻撃するなんてあり得ない。もし、TBSが支那人を批判する番組を流すとすれば、そこには必ず裏がある。番組出演者は明言しなかったが、川口に住む中高年の支那人が日本のルールを勉強し、日本の生活習慣を理解できれば、異民族共存が実現するとでも言いたいのであろう。

  残念ながら、川口市は既にアジア人の街ととなっている。市役所が作成した「川口市多文化共生方針平成26年度〜28年度」によれば、同市に居住する外国人の数はうなぎ登り。全国的に見れば、一位の東京新宿区、二位の大阪市生野区、三位の江戸川区、四位の足立区に次いで、第五位となっている。平成17年には15,000人だった外国人の数が、平成26年1月の時点では22,958人となっているのだ。ということは、平成30年の現在では、もっと増えているはずである。国籍別に見ると、支那人がダントツで13,645名、総数の59.4%を占めている。次に来るのが南鮮人で、2,846名だから12.4%の割合となっている。後はフィリピン人、ベトナム人、トルコ人、ブラジル人と続いている。なるほど、これじゃあ、街の景観が暗くなるはずだ。良い子のみんなは、「わたし、金髪碧眼の白人が行き交う麻布や広尾みたいな街がいいなぁ〜」とい言っちゃだめだよ。「ヘイト・スピーチ」に問われてしまうから。

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(左: 支那人労働者 / 右: 抗議活動を行う支那人の群れ)

  新宿に外国人が多いのは解るけど、川口にアジア人が集中するのは、長屋の家賃が安く、東京へのアクセスに関しても便利だからだろう。特に、財政状況が傾き、商店街が寂れている地方自治体には、手頃な賃料で住める貸し屋が多く、日本人がそれほど集まらないので、どこからともなくアジア人が入居してくる。時代遅れの中古アパートじゃ、大学生だって借りてくれないから、家賃収入を求める大家はしぶしぶながらも、支那人とかフィリピン人に貸すしかないのだ。しかし、一旦アジア人を受け容れてしまうと、もう新たな日本人は借りなくなる。隣人が支那人だらけなんてゾっとするじゃないか。それに、「類は友を呼ぶ」方式で、支那人が入居する長屋には、「口コミ」で支那人が集まってくる。(ちなみに、俗に言う「マンション」とは「高層長屋」のことである。区割りの賃貸物件なのに、一戸建ての「豪邸」と呼んだらおかしい。)

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(写真 / 支那人の子供たち)

  「噂の東京マガジン」でも紹介されていたが、川口市の「UR芝園団地」には大勢の支那人が住んでいる。この団地には全部で2,500世帯が住んでおり、その内の約半数が支那人世帯であるという。これじゃ、日本人の若い夫婦が引っ越してくる訳がない。日本人で住んでいるのは、逃げ場の無い高齢者世帯ばかり。つまり、日本人の借り主というのは、諦めを以て我慢している老人を意味する。案の定、団地の公園で伸び伸びしているのは、支那人の高齢者がほとんどで、日本人が交流を楽しんでいる光景は無い。近くの商店街には支那人が集う店舗が6軒もあり、幼稚園や小学校にも支那人の子供が通っているという。日本人の子供は減っているのに、支那人夫婦には子供がポコポコと生まれているので、やがて川口市の児童数は、半分がアジア系となるに違いない。所得の高い家庭は引っ越してしまうし、所帯を持ったばかりの若い夫婦は川口を選ばないから、西川口の地価はドンドン下がり、アジア人にとってお手頃な土地となる。こうなれば、役所のサービスも外人向けとなるし、公用語も支那語や朝鮮語となるから、更にアジア人が寄ってくるだろう。もっと恐ろしいのは、支那系の市議会議員が誕生し、役所の公務員にもアジア系が増え、小規模な「東アジア共同体」が出来上がってしまう事だ。中曾根康弘や鳩山由紀夫が夢見た楽園が実現化しているとは・・・。日系日本人にとって「悪夢の到来」ということだろう。

インド人が密集する甲斐の国

  埼玉県のアジア地区と言えば、西川口ばかりでなく、フィリピン人が群れる蕨市も有名だ。しかし、こうしたアジア人地区は日本各地に現れている。例えば、山梨県の甲府市だ。そこには意外にも、インド人が多い。平成27年の統計によれば、甲府市には1,922名の永住者、799名の留学生、414名の家族滞在者などを含め、19万2千601人が住んでいる。国籍別で見てみると、1,513名の支那人、1,128名の朝鮮人、456名のフィリピン人、298名のブラジル人などが住みついているそうだ。それでも外国人の数は減った方である。平成20年(2008年)だと、19万8千594人も外国人が住んでいたのだ。「そんなアホな !」と呟きたくなるが、都心以外でも着々とアジア人の数が増えている。本当に恐ろしい。

  でも、なんで甲府にインド人が群れているのか? その主因は、商売人が集まってきたからである。明治の頃、同市は水晶の産地として栄え、宝飾品の加工技術も優れていたという。1980年代のバブル景気の時、インドから大勢の宝石商が訪れ、市場開拓を狙ったインド商人がそのまま住みついてしまったらしい。それに、安倍政権は高度人材とか専門職の外人を優遇するので、インド人ビジネスマンは「利益をもたらす外国人」として、比較的容易に滞在許可を得ることができる。だが、そこにはもう一つの弊害があった。インド商人が甲府に会社を設立し、長期的な滞在を続ければ、必ず「家族の呼び寄せ」が生じてくるのだ。単身赴任を我慢するのは日本人くらいで、普通の外国人は家族を引き連れてやって来る。人権思想に染まった歐米諸国や日本政府は、「家族と共に暮らす権利」とやらを持ち出されると、ヘナヘナと折れてしまう。かくして、日本語が解らず、日本の習慣すら理解できないインド人の女房や子供がゾロゾロと来日してくるのだ。

  西歐のビジネスマンと違い、インド商人は祖国を捨てやすい。たとえインドに対する愛国心があっても、祖国に居住する意思は稀薄なのだ。日本人はインド人の笑顔に騙されてしまうが、彼らは基本的に図々しく、何年でも日本に住みつき、機会があれば日本国籍まで得ようとする。英国に移住する厖大なインド人を見れば解るじゃないか。インド人は何かにつけ、英国のインド支配を非難するが、ブリテン島に移住できるとなると、英国大使館前にできた長蛇の列に並ぼうとする。もし、本当にイギリス人を恨んでいるなら、どうして彼らは元支配者の国家に移住しようとするのか? 植民地から解放された民族が、再び帝国主義者の軛(くびき)を望むなんておかしい。例えば、ヤクザが嫌いなのに、自らすすんで、組長の屋敷に奉公する日本人なんて居るのか? 考えられる答えは一つだけ。「お金」だ。インド人は甘っちょろいブリテンに移り住んで、快適な暮らしを楽しもうと謀っているのである。

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(写真 / 英国の大学に通うインド人大学生)

  だいたい、インド人はその茶色い肌と奇妙な顔附きで嫌われたのだから、アングロ・サクソン人が大勢住むイングランドに渡れば、再び“差別”されることは目に見えている。ところが、インド人は気にせず、ドンドンやって来るんだから呆れてしまうじゃないか。「植民地にされて可哀想なインド人」なんて嘘っぱちだ。彼らはイギリス人に支配されて幸せだった。そもそも、厳格なカースト制度の下で暮らしていたインド人にとって、イギリス人の支配なんか屁でもない。それよりも、西歐式の教育を受けることができてラッキーだ。ムガール帝國のままなら、下層階級の者は、いくら優秀でも一生「下人」のままである。英語を流暢に喋るインド人学生を見てみろ。高等教育を受けたエリート層は、祖国を発展させようとせず、同胞を見棄ててオックスフォードやケムブリッジ大学に留学し、ブリテン国籍まで取得しようとする。さらに、白い肌のイギリス人娘と結婚できれば、もう鼻高々で、イギリス紳士になった気分になれる。イギリス人男性と結婚できたインド人女性も同じで、結婚したからといって、白人の亭主を連れて実家に住むなんてことはあり得ない。逆に、郷里から両親を呼び寄せたいと思うのが普通だ。

  異人種間結婚というのは厄介なもので、ゲルマン系のイギリス人でも、有色人種のインド人とセックスすれば、祖先とは違った容姿の赤ん坊をもうけることになる。同種族のデイン人とかノルウェー人と結婚すれば、自分と似たような子供を持つことが出来たのに、インド人との混血児じゃ、友人に披露するとき、まるで養子みたいに思われてしまう。しかし、両親はイングランドで生まれた我が子を「イギリス人」として育てるから、本人もそのつもりになる。すると、生まれてきた子供も、すっかり「一等国民」気取りだ。日本人だと笑ってしまうが、こうしたインド系混血児は自分の容姿を顧みず、インドの子供たちを見下し、「私はブリテン人よ !」と大威張り。彼らにとり、父あるいは母の祖国に暮らす茶色の貧民なんか「同胞」じゃない。非西歐系の2世3世はブリテン国内で差別廃止を訴えるが、心の底で祖父母の国と距離を置いていることが多い。親しみが湧かないという理由もあるのだろうが、移民の子孫は無意識的に「劣等民族と一緒にされたくない !」と思ってしのうのだ。ちなみに、学校の先生は内緒にしているが、マハトマ・ガンジーだって物凄い差別主義者なんだから。(この話にいつては、いずれ紹介したい。まったく、日本人は「お人好し」というか、外国知らずで脳天気な国民である。)

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(左: イギリス人女優のエリザベス・ハーレー / 右: ハーレーと結婚し、直ぐに離婚したインド人大富豪のアルン・ナイアル )

  山梨県と言えば、武田信玄が有名で、この戦国時代最強の武将に対する地元民の尊崇は殊のほか篤く、ご先祖様が武田家に仕えていたことを自慢する人も多い。しかし、甲府に住む帰化インド人や日印混血児は、「信玄公」をどう思っているのか? 特に、地元の小学校に通う混血児の場合、先生や級友が信玄公に言及するとこもあるから、何らかの感想を持っているはずだ。毎年恒例の「信玄公祭り」になれば、山梨の観光協会はもちろんのこと、一般のオっちゃんやオバはん、子供たちもウキウキするし、甲冑を身につけた若者や壮年男性は、甲州軍団を結成し、恭しく出陣式を演じたりする。中には武田騎馬軍団の大ファンで、ご自慢の火縄銃を持ち出したりする人もいるから、甲斐の住民は大はしゃぎだ。

  ところが、帰化インド人は蚊帳の外。日本国籍を取得したって、外人観光客と同じ立場だ。インド人なら川中島の合戦や長篠の合戦より、セポイの乱とかプラッシーの戦いの方に馴染みがあるんじゃないか。ただし、日本人を母親に持つ混血児だと複雑になる。例えば、長野県出身の母親を持ち、信濃で生まれ育てば、「私も諏訪家にゆかりのある子孫です」なんて言い出しかねない。まぁ、信州生まれの母親が持つ血統を遡れば、どこかで武田家の足軽とか諏訪藩に出入りした中間くらいには当たるだろう。(だってさぁ、武田勝頼に使えた小姓の遠い親戚とか、武田騎馬軍団の馬を飼育した雑用係の子孫とか、捜せばいくらでもあるじゃないか。) しかし、インド人風の人相で、生粋の信州人なんて変だ。アジア系混血児は自分のアイデンティティーに悩むから、日本史を熱心に勉強することはない。たとえ、三重県や滋賀県に住んだって、地元で行われる伊賀衆忍者祭りとか甲賀流忍者イベントに参加しないだろう。黒い忍者の衣装に身を包んだインド人なんか滑稽で、「ドラゴンボール」のピラフ様に付き随う小姓みたいだ。(「ピラフ一味」の「シュウ」を参照。)

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(写真 / 色々なインド人 )

  理由はともあれ、山梨にインド人が大勢住みつけば、自然と「インド人コミュニティー」が出来てしまうだろう。彼らは日本に移住しても食生活は変わらないから、依然としてインド料理を家庭で食べるし、レストランでもカレーを注文するに違いない。なぜなら、インド人のビジネスマンが昼食に、蕎麦とか納豆、沢庵、梅干しを注文するとは思えないじゃなすか。川口市の例でも分かる通り、外国人は同類が集まる店を好む。甲府に住むインド人でも、食事を取るとすれば、同胞が経営するレストランに赴き、故郷の言葉で仲間と会話することが多い。例外もあるだろうが、こうした食堂で日本人の客を見かけることは少なく、よほどのカレー好きでない限り、滅多に近づくことはないだろう。そもそも、日本人はインド文化に馴染みが無いし、ビジネス以外でインド人と付き合いたいとは思わない。テレビ番組はインド・ロケを行って興味深い風習や奇人変人を紹介するが、実際に現地を訪れれば、あまりの猥雑さに辟易するだろう。インドは様々な民族でごった返しているし、気候だって蒸し暑く、不衛生な場面も珍しくない。黴菌の倉庫みたいな場所だから、どんな病気に罹るのか不安で、日本に帰るまで心配だ。これだから、優秀なインド人がイングランドやカナダ、アメリカに移住するはずである。

  一般の日本人は支那人とかインド人と“共生”したいとは思わない。それなのに、こうしたアジア人が激増するのは、安い賃金労働者を求める企業が政治家に働きかけ、移民規制を緩めるよう頼むからだ。普通の生活を送る一般国民は、即座に自分の財産が脅かされ、所得が半減するわけじゃないから、外人が増えても小声で愚痴をこぼすだけである。だが、大幅に人件費を削減できる企業は必死だ。ある程度の札束を議員に渡しても、それ以上の利益を確保できるから、熱心な「移民受け容れ賛成派」になる。一方、暢気に暮らしている庶民は、事態が悪化するまで行動を起こすことはない。街に支那人や朝鮮人、インド人、フィリピン人が溢れ出してから、ようやく重い腰を上げるケースがほとんどだ。しかし、そうなった時にはもう手遅れなので、不愉快なアジア人を排除できず、日本人が犠牲を払って異邦人を「隣人」にするしかない。つまり、日本人が「嫌な事」を我慢して暮らして行くということだ。これが「寛容の精神」がもたらす結果である。

  何よりも赦せないのは、移民や難民を支援するテレビ局だ。無料放送の地上波テレビ局は、不愉快なアジア人が来日すれば、沢山のお金を落としてくれる観光客と紹介し、技能実習生に話題が及べば、人手不足の日本を助けてくれる即戦力と称する。たとえ、彼らがマナー違反をしても、「それはごく一部の人だけです。大半の外国人は日本が好きで、我々がルールを教えてやれば、良き隣人となります」と釘を刺す。それでも猜疑心を持つ日本人に対しては脅しをかけ、アジア人排斥論者を「極右」と定義する一方で、「みなさん、外国人に対する偏見はやめましょう」と訴える。でも、こんな甘い考えは外国人に通用しない。「マイノリティー」として住んでいれば、多少なりともルールに従うが、人数が増えれば、彼らの流儀を日本人の方に押しつけてくる。大勢のアジア人から苦情や要求が来れば、なし崩し的に妥協するのが現在の日本人である。いずれ、役所から届けられる書類も、支那語や朝鮮語、タイ語とかの文面になるだろう。学校でも総合学習とか生活科の時間に、支那人やフィリピン人の文化を学ぶようになるし、給食にはキムチとかインド料理のナンが出てくるに違いない。

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(左: 日本に来るかも知れないタイ人 / 中央: フィリピン人 / 右: 黒人と白人の混血児)

  日本人は閉鎖的でもなければ、外人排斥の国でもない。明治以降、怒濤の如く西歐文化が流入したし、ファッション業界には外人モデルが多い。巷に溢れる少女漫画には、アーリア人や北歐人のキャラクターが満載だ。カレンダー業者もキリスト教のグレゴリウス暦を採用し、官庁では日曜日が安息日になっている。役所の日付は基本的に元号を用いているが、一般人はイエズス・キリストの生誕を基軸とした年号を使っても不便は無い。だいたい、共産党までキリスト教の暦を選択しているんだから、誰だって唖然とするだろう。(ただし、これは皇室を嫌っているからで、仕方なく西暦を用いてるだけだ。共産党員は元号に不満なら、「マルクス暦」でも独自に作ればいいじゃないか。でも、まさか、宮本顕治の生誕を祝して、「宮顕(ミヤケン)暦」なんてあり得ないよねぇ。筆坂さんはどう思うのか、一度きいてみたい。) また、日本のキリスト教徒人口はいつも1%以下なのに、大勢の日本人がクリスマス・イヴに浮かれているのは変だ。12月になれば、商店街に巨大なクリスマス・ツリーが設置されるので、スペインやイタリアから来た宣教師はビックリする。異教徒の国であるはずの日本で、ゲルマン人の巨木信仰と聖ニコラウスが大人気なんて信じられない。しかも、異教徒時代のドイツ人を真似てハロウィーンまで行っているんだから、「外人嫌い(ゼノフォビア)」なんて嘘だ。

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(写真 / 日本で歓迎されそうな外国人のタイプ)

  しかし、NHKやテレ朝、フジテレビに登場する評論家は、日本人の排他性を批判し、閉鎖的な国民性を歎く。でも、これは彼らが得意とするトリックのようなレトリック。日本人は「嫌いな民族」を嫌っているだけだ。イギリス人は好きだけど、朝鮮人や支那人は大嫌い。インド人やフィリピン人と比べたら、スウェーデン人やノルウェー人の方が断然好ましいので、付き合うなら北歐人を選ぶ。ドイツの森や城は素晴らしいけど、インダス川は汚水の大河で、ライン川と大違い。フランスの葡萄畑とかイタリアの小麦畑は美しいけど、インドの大自然なんか恐ろしいだけ。蚊に刺されただけでも、何かの熱病が発症するんじゃないかと思えてしまう。フィリピンなんてだらしない土人が住む南方の島に過ぎない。現地を支配する華僑だって、島の原住民を見下しており、同胞と思っていないのだ。

  こうした現実を目にすれば、アジア人を受け容れるのは愚の骨頂である。確かに、「来日するアジア人にも良い人がいる」というのは事実だろう。だが、彼らが群れを成したとき、その光景は極めて不愉快だ。これは善悪の問題ではない。日本人は日本で快適な生活を送る権利がある。どうして、アジア人が「より良き生活」を送るために、我々日本人の方が我慢しなければならないのか? 我々は先祖から日本を受け継ぎ、その素晴らしい遺産を守りながら、子孫に手渡そうとしているのに、いつの間にか、外人に気兼ねしながら暮らすようになっている。日本は日本人の国であった。ところが、今では鳩山由紀夫が述べたように、日本は「日本人だけの為にある国」じゃない。大東亜戦争で散華した我が軍の将兵は、確か、日本人の子孫を思って戦場に向かったはずなのだが。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/




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中国人のコンビニ店員を追い出せば日本人の給料が上がる

東京のコンビニ店員は外国人だらけです。これは日本が「留学生で大学の定員を埋め、彼らを外国人労働者としてコンビニが雇う」という誤った道を選択してしまったからです。(三橋貴明)


本来、コンビニ業界はもっと早く完全自動レジを導入すべきだった

ついに来た!コンビニ全店「無人レジ」の波


もはや私達の生活から切り離せない存在となっている「コンビニエンスストア」。そんなコンビニ大手5社が、深刻化している人手不足の解消や流通業の効率化を図るため、揃って「ある革新的なシステム」を導入すると発表。ネットでは賛否両論、さまざまな意見が飛び交っている。

■2025年までに全コンビニに「無人レジ」導入

セブンイレブン・ジャパンやファミリーマートなどの大手コンビニエンスストア5社は、消費者が自分で会計をする「セルフレジ」を2025年までに国内の全店舗に導入すると公表した。これまでにも、大型スーパーなどの一部で、商品を一点ずつ読み取るセルフレジが設置されてきたが、今回導入されるシステムは、カゴや袋に商品を入れたまま、専用の機械が組み込まれた台に置くだけで会計が可能。

これは、経済産業省と共同で発表する「コンビニ電子タグ1000億枚宣言」に明記されるもので、2025年までに、セブンイレブン、ローソン、ファミリーマート、ミニストップ、ニューデイズで取り扱う全ての商品(計1000億個)に専用のICタグが貼り付けられる。このICタグにより、消費者が購入するカゴの中の商品の情報を一括で読み取って会計をオート化し、深刻な人手不足の解消を図るほか、販売状況をメーカーや物流事業者と共有することで物流業界の生産性向上につなげる狙いだ。(後略)

出典:国内コンビニ全店舗に「無人レジ」 使い方や防犯対策に懸念の声相次ぐ – しらべぇ(2017年4月18日)

あえて書きます。キタ──♪ o(゚∀゚o) (o゚∀゚o) (o゚∀゚)o キタ──♪ であると。

2月14日に、パナソニックとローソンが、電子タグ(ICタグ)を利用した完全自動レジの実験を公開しました。電子タグから価格情報をレジが読み取り、自動計算するシステムです.。この完全自動レジの導入により、コンビニ店員の労働時間の約4分の1を占めるレジ対応を省力化できます。

そして、ついに4月18日、コンビニ5社が電子タグを利用した完全自動レジ導入を宣言したのです。

東京のコンビニ店員はなぜ外国人だらけなのか?

地方はよくわかりませんが、東京のコンビニは「外国人だらけ」です。もちろん、日本はコンビニにおける外国人労働者の雇用について、技能実習生としても禁止しています。それでは、なぜコンビニに外国人店員が多いかと言えば、「留学生のアルバイト」制度が悪用(あえて「悪用」と書きます)されてしまっているのです。

少子化により、定員割れになる大学が増えてきた。同時に、コンビニの時給が据え置かれ、安い時給で働くアルバイトが減ってきた。正しい対処法は、さっさと完全自動レジを導入し、「コンビニの省力化と時給の引き上げを実現し、アルバイトを呼び込む」だったはずなのですが、現実には「留学生で大学の定員を埋め、彼らを外国人労働者としてコンビニが雇う」という道が選択されてしまったのです。

本来であれば、コンビニ業界は5年以上も前に、完全自動レジの導入を始めるべきだったと思います。そして、生産性を高めることで時給アップを可能とし、日本の潜在労働力を呼び込むのです。

日本は「人手不足」ではない。我が国(特に地方)に必要な3つの対策

何しろ、就業を希望しているものの、求職活動を行っていないため非労働力人口とされている、いわゆる潜在的な労働人口は、我が国は2016年の数字で380万人に及ぶのです。ある意味で、日本は人手不足ではありません。厳密には、

「生産性向上により実質賃金を高め、潜在労働力を活用することで人手不足を解消する」

という正しい道が存在しているにも関わらず、生産性向上のための技術投資や設備投資に踏み切らず、賃金の引き上げも拒否した結果、生産年齢人口比率低下の影響をまともに受け、ひたすら人手不足が深刻化していっているわけでございます。

特に、若年層が相変わらず東京に流出する地方は、人手不足が顕著になっていっています。米沢の経営者の方々が言っていた、「もはや給料の問題ではなく、労働市場に失業者がいない」という言葉が印象的でした。

無論、地方においても潜在的労働人口の労働市場への流入を促進する必要がありますが、同時に日本の地方こそが「生産性向上のための投資」を牽引するという事実を理解して欲しいのです。世界における生産性向上を、日本の地方が牽引する時代が訪れたのです。理由は簡単。日本の地方こそが、世界の中でも突出して人手不足が深刻化していっている地域であるためです。

上記を理解したとき、日本の人口減少や地方からの人口流出を、「このままでは日本が衰退する〜っ!」といった、ナイーブ(幼稚)な文脈で理解してはならないことが分かるはずです。日本国(特に地方)に必要なのは、人手不足を解消する生産性向上のための投資、実質賃金の引き上げ、潜在労働力の活用、この3つ以外にはないのです。

日本の経営者が、あるいは日本国民が、「人口減少で衰退する〜っ!」といった幼稚な理論から脱却し、「人手不足を埋めるために、いかに生産性を上げるべきか」について真剣に考え始めたとき、我が国は再び経済成長の黄金循環に乗ることができるのです。
http://www.mag2.com/p/money/215182

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2018年01月10日
外人の土地買収を許している日本が全面的に悪いので論評のしようが無い

対馬では韓国人客激増、韓国資本による不動産買収が進む 対馬では韓国人客激増、韓国資本による不動産買収が進む

対馬の「韓国展望所」で記念撮影する韓国人客ら
沖縄でも中国による土地買収が激しさを増している


 今、「外国人による土地買収」という“日本領土侵食”が大規模に進行している。その主役は中国と韓国だ。外国人の土地買収自体は合法だが、自衛隊施設や在日米軍基地に隣接する土地が買収されるケースも多い。

 この問題に詳しい産経新聞編集委員の宮本雅史氏は、「世界の多くの国では、外国人による土地所有を基本的に『不可』とするほか、認める場合も地区を限定するなど厳しく制限している。それなのに、日本は野放し状態で、一度買われた土地を買い戻すのは困難だ」と警鐘を鳴らす。

 以下に示す通り、過疎や少子高齢化で人口減少が著しい地方や離島ほど、狙われやすい傾向がある。外国人による土地買収は、「武器を持たない戦争」なのである。

 【北海道】

 中国をはじめとする外国資本による広大な森林、農地、ゴルフ場などの不動産買収が進み、その規模は森林だけで東京ドーム515個分の2411haに及ぶ(北海道庁調べ)。このままでは北海道全域が「虫食い状態」になる恐れがある。

 ■土地買収と中国語教育が進行中

 中国系企業が進出する釧路・白糠工業団地では中国と関係があるとされる日本企業が発電施設建設の名目で1.3haの土地を買収。白糠町の小中高では中国語・文化の教育が盛ん。

 ■中国企業の「撮影所」計画

 札幌市・宮の森で高級マンションを手がける中国系不動産会社の親会社「海潤メディアグループ」が、同市内に大規模な撮影所建設を計画中。

 ■大学が“中国化”する?

 中国との深い関係が指摘される学校法人「京都育英館」が、苫小牧駒澤大学の経営権や15haにも及ぶ敷地などの取得を進めている。

【新潟・佐渡】

 中国総領事館の移転問題で揺れた新潟市。佐渡島では留学生や観光客の受け入れ、農業の連携先などとして中国との関係強化が図られており、経済的に疲弊する国境の離島に中国の影がちらつく。

 ■「治外法権」恒久化の恐れ

 在新潟中国総領事館が移転用地として2012年に取得に動いた新潟市内の土地は約1万5000平方メートル。2017年末現在、移転は行われず土地は野ざらしのままだ。

 ■中国人留学生の「受け皿」

 2016年4月、中国と関係の深い人物が、中国人留学生らに佐渡の文化や日本語を教える日本語学校を佐渡島に開校。施設はタダ同然で取得した。

 【対馬】

 朝鮮半島情勢が緊迫化する中、国境の島「対馬」では韓国人観光客がさらに増え、不動産などの買収にも拍車がかかる。有事の際に避難民が押し寄せる懸念もあり、地元島民からは「もはや韓国領」との声すら挙がる。

 ■旧日本軍の軍港周辺を買い占め

 かつて海軍の施設が置かれ、自衛隊の対馬防備隊本部のある竹敷地区周辺を韓国資本が買収し、ホテルやロッジ、民宿など数十軒を営業中。

 ■「対馬はもともと韓国領」?

 2012年には15万人だった韓国人客が2017年には30万人(人口の10倍)まで急増。現地韓国人ガイドは「対馬はもともと韓国領」と偽りの説明をしている。

 ■中国人もやって来る

 対馬の表玄関・厳原港では大規模な改修工事が進む。将来は大型客船の停泊も見込んでおり、一度に数千人単位の中国人客が大挙する可能性も。
 【九州・沖縄】

 中国人観光客が闊歩する沖縄でも、中国による土地買収が激しさを増している。沖縄の米軍基地用地のうち1割強を中国資本が買収した疑いも指摘されるなか、リゾート開発などを名目にした買収工作の事例は枚挙に暇がない。

 ■中国系ツアー会社がホテル用地買収

 香港の大手旅行会社「EGLツアーズ」が2017年10月、那覇市内4か所の買収を発表。敷地面積は計2103平方メートルで、ホテルを建設する計画。

 ■中国政府系団体が広大な土地購入

 「中国老齢事業発展基金会」の関係団体が、沖縄県南城市で約4300平方メートルの土地を購入(2016年3月)。基金会は同地に中国人向け介護技術訓練センターを開設予定。

 ■海保の航空基地近くの山林を購入

 海上保安庁の航空基地がある鹿児島空港。その近くの山林285haを中国系企業がゴルフ場用地として2011年2月に購入した。

 ●監修・宮本雅史(『爆買いされる日本の領土』著者)

 みやもと・まさふみ/1953年生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、産経新聞社入社。社会部編集委員、那覇支局長などを経て編集委員。

 ※SAPIO2018年1・2月号
https://smcb.jp/diaries/7577121


2017.7.29
苫小牧駒澤大の“中国化”に「待った」 学生と保護者に広がる不安…曹洞宗が儒教系に!?
https://www.sankei.com/premium/news/170728/prm1707280009-n1.html

学校法人駒澤大学が傘下の苫小牧駒澤大学(苫駒大)を学校法人京都育英館に無償で移管譲渡する計画をめぐり、苫駒大仏教専修科の学生らが国を相手取り、大学設置者の変更を認可しないよう求める訴訟を起こした。関係者から経緯の不透明さや、同大が“中国化”する懸念が示されていた移管譲渡計画。一方で突然、移管を告げられた学生や保護者にとってはまさに「青天の霹靂(へきれき)」で、8月末ともされる文部科学省の認可可否の判断を前に、法的手段でストップをかけたい考えだ。(※7月19日にアップされた記事を再掲載しています)


50億円超を無償譲渡

 「移管というのは、テレビニュースで知った。ちゃんとした説明がなされないまま移管手続きだけが進んでいくことは許せない」

 今月10日、東京地裁へ訴えを起こし、会見した学生の保護者は、大学側への不信感をにじませた。

 原告となったのは仏教専修科の1〜3年生8人。訴状によると、苫駒大は今年1月、入学者減少などを理由に平成30年度から京都育英館へ移管譲渡することを公表。今年3月に設置者の変更を文科省に申請した。


関係者によると、譲渡されるのは、苫駒大の敷地15ヘクタール(10ヘクタールは苫小牧市からの無償譲渡で、5ヘクタールは無償貸与)と校舎、図書館(蔵書数10万4千冊)、備品類。全て無償だ。総資産は約40億円で雑書類や備品を加えると50億円を超えるという。大学名も変更となる。

 移管譲渡計画に絡み産経新聞は6月、京都育英館を設立した学校法人育英館について中国との関係の深さを指摘。同大が“中国化”するとの懸念を報じている。

 訴状によると、大学は1月に学生向け説明会を開催したが、約200人の学生のうち出席者は6人。2月にも学生向け説明会を実施する一方、保護者向けには説明会を実施しておらず、説明文書の送付もないという。原告側は「具体的な説明がなく、学生・保護者は不安を抱えたまま生活している」としている。

曹洞宗から儒教へ

 学生・保護者が戸惑うのが、「建学の精神の違い」だ。

 移管譲渡を受ける学校法人京都育英館は25年4月に設立され、京都看護大学や苫小牧市に隣接する白老町で北海道栄高校(生徒数371人)の運営を手がけている。同法人を設立した学校法人育英館は、京都ピアノ技術専門学校や関西語言学院(京都市)、四万十看護学院(高知県四万十市)を運営、中国・瀋陽市では、東北育才外国語学校を設立、経営している。

ホームページ(HP)によると、関西語言学院は、中国の高校や大学を卒業した学生を日本の大学や大学院に進学させるための日本語学校。在籍する学生は昨年7月現在で540人で、全員が中国人だ。東北育才外国語学校は東北育才学校(瀋陽市)と共同で設立した中高一貫校で、日本語教育を展開。東北育才外国語学校から関西語言学院、そして日本国内の大学へというルートを構築してきた。

 また、京都看護大学はホームページの中で、儒教の考えに基づいた「明徳・格物致知の実践」を建学の精神として紹介している。

 一方の苫駒大を運営する学校法人駒澤大学の実質的な経営母体は曹洞宗。「根本的に建学の精神が異なる」(原告側代理人の川義郎弁護士)というわけだ。

 この違いは、仏教専修科に通う学生にとっては特に切実な問題となってくる。

 仏教専修科には約30人が在籍。曹洞宗系の教員が講義を担当するカリキュラムを受講することで、曹洞宗の寺院の住職としての資格を取得できるのが特色で、実家の寺院を継ぐために通う学生も少なくない。

MD20170718537158【ニュースの深層】苫小牧駒澤大の“中国化”に「待った」 学生と保護者に広がる不安…曹洞宗が儒教系に!?

大学側は今年1月、「仏教専修科のカリキュラムも卒業まで維持されます。学生の不利益にならないように対処します」とする学生向け文書を出したが、原告側は「仏教系カリキュラムの教員の代替は困難で、大学設置者が変われば住職資格が取れなくなる」として、認可差し止めを求めている。


 「子供が寺を継ごうと決めてくれて、お檀家さん達も心待ちにして送り出してくれた矢先の話。大学側の説明も二転三転している」。長男(18)が今年入学したばかりの法雲寺住職、丹羽秀高さん(53)=長野県辰野町=は不安を募らせる。

 原告側は、学生・保護者や寺院の檀家も含めて、認可しないよう求める2500通超の請願書を文科省に提出している。

 原告側によると、北海道内で曹洞宗の住職資格を取ることができる大学は苫駒大のみ。駒大苫小牧高校から進学した長男(19)が2年生に在籍する仙鳳禅寺住職、成沢広仁さん(58)=北海道釧路町=は「住職資格を取るために(同じ母体が運営する)東京の駒澤大に移る道もあるかもしれないが、息子は『苫小牧に残って勉強したい』と言っている」と説明。「高校時代から下宿に出したのに、本人が一番かわいそうだ。最後まで責任をとってほしい」と漏らした。

 原告側がこれまでに取った法的手段は(1)国に大学設置者の変更を認可しないよう求める差し止め訴訟(2)認可差し止めの仮処分申し立て(3)駒澤大学側に原告1人当たり30万8千円の賠償などを求める訴訟−の3種類で、司法判断が注目される。


 【学校法人駒沢大学と苫小牧駒澤大学】

 駒澤大学は、曹洞宗が禅の実践と仏教の研究のために文禄元(1592)年に設置した「学林」が起源。大正14(1925)年、駒澤大学と改称し、昭和24(1949)年に新制大学となった。現在、1万5000人超が7学部、8大学院研究科で学ぶ。

 苫小牧駒澤大は平成10年に開校された曹洞宗の宗門関係学校。東胆振・日高地方唯一の四年制大学で、苫小牧市が市有地15ヘクタールのうち校舎敷地として10ヘクタールを無償譲渡、5ヘクタールを無償貸与したほか、設立資金95億円のうち総額53億円を市などが負担した「公私協力」の大学。

_______


苫小牧駒澤大学
https://www.t-komazawa.ac.jp/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%AB%E5%B0%8F%E7%89%A7%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%A6


▲△▽▼

2017年3月2日【小浜逸郎】北海道というエアポケット


尖閣、辺野古基地移設、高江ヘリパッド騒動と、
いま日本国民の視線は沖縄に集まっていますね。

中国が沖縄を自国の領土として狙っていることは、
いまや周知の事実です。私たちはもちろん、この安全
保障上の危機に真剣に立ち向かわなくてはなりません。

しかし産経新聞が以前から連載している「異聞 北の大地」
というコラムがずっと気になっていたのですが、
北海道にも由々しき問題がじわじわと進行しつつあります。

水源の所在地や森林や広大な土地が中国資本によって買い占められているのです。
しかもリゾート施設だの別荘地だのゴルフ場だのと言った名目で、
実際には何をやっているのか役所も近隣の人たちもしかとつかんでいません。

中国の「サラミ・スライス」戦略は日本人の油断をよそに、着々と本土に及んでいるのです。
最近3回にわたって掲載された第4部には恐るべきことが書かれています。以下要約。


1.中国は、釧路を国防、経済両面で海洋進出の拠点として狙っている。

すでに付近には中国資本の貿易会社やメガソーラー発電所が建ち、
日中友好協会主催による「一帯一路」構想についての勉強会が開かれ、
孔子学院の講座や小中生を対象とした中国語教育も。

道東は自衛隊の基地が密集し、国防上の要衝であるにもかかわらず、
釧路市では「中国資本が急に活発化したという実感はない」などとのんきに構えている。
http://www.sankei.com/world/news/170224/wor1702240016-n1.html

2.平成17年、北海道チャイナワークの張相律社長が
「北海道の人口を1千万人に」と提言し、

(1)海外から安い労働力を受け入れる
(2)北海道独自の入国管理法を制定する

とぶち上げた。

「不動産を購入した裕福な外国人には住民資格を与える」と強調。

北海道で中国資本に買収された森林や農地などは推定で7万ヘクタール。
山手線の内側の11倍以上。森林の多くは伐採され太陽光発電所として
利用されているが設置されていない所もある。また太陽光発電の寿命は
20年で、跡地を何にするかは自由。経産省によると、土地の後利用は
企業側が決めるが「個別の問題なので把握していない」という。

夕張市は観光4施設を元大リアルエステートに売却する契約を締結。
4月に現地法人「元大夕張リゾート」に引き渡す。
中国系企業なのに同市では「日本の会社と認識している」と説明。
http://www.sankei.com/world/news/170225/wor1702250023-n1.html

3.国土交通省が国内での外国人不動産取引の手続きを円滑化
するための実務マニュアルを作成。国会でようやく外国資本の
不動産買収に規制を設けようという議論が起きている時に、
「どんどん買ってください」と言わんばかりに日本の不動産を
外国資本に斡旋する国交省の姿勢には唖然とする。

マニュアルには、外国人に対して取引や賃貸を拒絶することは
「人権に基づく区別や制約となることから人種差別となる」と明示している。

日本は外国人土地法の第1条で「その外国人・外国法人が属する国が
制限している内容と同様の制限を政令によってかけることができる」
としているが、これまで政令が制定されたことはない。

ちなみに中国では外国人の不動産所有は基本的に不可。
諸外国と比べ、全く法規制をしいていないわが国では、
国籍を問わずだれでも自由に土地を購入できる。
http://blog.goo.ne.jp/sakurasakuya7/e/884073e66a98c0319f25170316a099a9

いやはや驚きですね。日本人の油断をいいことに、
本土に対する経済的文化的実効支配がどんどん進んでいるのです。
この「油断」には次の4つが含まれているでしょう。

1.北海道経済全体の地盤沈下を引き起こしたデフレ促進の政治
2.特に道東部のインフラ未整備
3.本州、特に首都圏住民の北海道に対する軽視
4.外国資本に対する規制の欠落

1.2.3.については、北海道に住む方の次のような嘆きの声もあります。

《衰退著しい北海道の地方都市の中でも、釧路はそれが顕著なところ。
(中略)帯広の底堅い景気とは対照的に、非常に景気が悪く、人口流出も止まりません。

そんな衰退激しい都市に中国資本が進出するのは容易と思われます。

そしてこれに、先日、JR北海道が発表した道内の鉄路の
維持困難路線の問題が加わります。
道東のほとんどがJR北海道単独での維持が困難、と判断され、
北海道外の経済人、コメンテーターの多くの方々が
「採算が取れないなら廃線にすべき」と語っていました。

もし、釧路が中国の影響下になることになれば、
北海道内の鉄道網も中国の影響を受けることが考えられます。

東京や大阪の方々に考えていただきたいのは、
道東で採れる野菜の多くが東京や関西に向けて出荷されている、
ということです。

首都圏での野菜の安定供給、価格の維持に道東の野菜が貢献しています。
そしてその農産物の輸送は、鉄道が主力なのです。

もし(中略)道東の鉄道網を中国が握ることになれば、
首都圏の食糧供給の一部が中国に握られることになります。

どうか短区間の採算だけで北海道の鉄路を判断しないで
いただきたいし、日本国内で「切り捨て論」が高まれば、
中国が虎視眈々と狙っていることも考えていただきたいのです。》
http://shiaoyama.com/essay/detail.php?id=597

まことに的確な、また切実な訴えというほかはありません。
私たちは(私自身もそうですが)首都圏で暮らしていると、
海を隔てたあの美しく広大な北海道をロマンチックな観光の
対象としか考えず、そこで暮らす道民の方たちの悩みなどに
あまり思いをいたしません。「採算が取れないなら廃線にすべき」
などと平気で語る無責任なコメンテーターがたくさん
出てきてしまうのも、じつに残念な話です。

同じ日本人でありながら、まるで化外の地を見るようなまなざしではありませんか。

実際、地図を見るとすぐわかりますが、道東部(にかぎらず地方)の
交通インフラの整備状況はお粗末としか言いようがありません。

交通インフラ未整備→産業衰退→人口流出→一層の過疎化
→さらに廃線の増加という悪循環に陥ってしまうわけです。

4.の不動産に対する外資規制の欠落ですが、これが何と言っても問題ですね。
私は以前から、なぜ外国人に勝手に国土を買わせるのだろうと不思議に思い、
憤ってもいたのですが、ここ数年の中国の侵略的意図を見るにつけ、
その思いがいよいよ募ってきました。

上記要約に記したように、地方官僚も中央官僚も、やっと動き出したという
国会議員たちも、そのノーテンキぶりと鈍感ぶりにはあきれてものが言えません。

これでは中国に国土を蚕食されつくしても自業自得だと
言いたくなりますが、迷惑を被るのは、普通の庶民です。

先の外国人土地法では
「その外国人・外国法人が属する国が制限している内容と
同様の制限を政令によってかけることができる」
と謳っているのですから、中国に対して一刻も早く法的な規制を
かけるべきですが、どうもあまり期待できそうにありません。

というのは、安倍政権全体がグローバリズムの道を周回遅れで
突っ走っているからです。またアメリカ様に貢納する金は
すぐに出すが、デフレ脱却のためにぜひとも必要な公共投資は
一向に実施しない。安倍首相は財務省の財政均衡主義に洗脳され、
しかも何でも世界に開くことがいいことだと信じている人です。

こういう人を総理大臣に戴いているうちは、事態は変わりません。
中国は日本のそういう弱点をよく見抜いているのです。

ちなみに、釧路を中国が狙っているのは、北極海航路の拠点
(不凍港)として目をつけているからです。海洋軍事国家を
目指している中国は、今後、本気で領有に乗り出してくるでしょう。

そうなると、ロシアとの間の確執も生じます。

要するに平和ボケ国家・日本は両大国の恰好の餌場としてコケにされる公算が強いのです。

日本を守るために、沖縄だけでなく北海道にもぜひ真剣な関心を向けましょう
https://38news.jp/economy/10151





▲△▽▼

移民は「侵略」に活用されてきました。この種の「侵略」が歴史的に得意なのは、中国です。中国は「洗国」という侵略手法を得意とします。

 洗国とは、支那大陸において中華帝国が「他国」を乗っ取る際に多用される伝統的な侵略手法です。まずは、国内の流民を数十万人規模で「対象国」に移住させる。当初は「外国人労働者」として、いずれは「移民」として、膨大な人民を送り込み、現地に同化させていく。やがて、支那本国から官僚が送り込まれ、その国・地域を中華帝国の支配下に置く。


 洗国とは、人口を利用した外国侵略なのです。


 今この瞬間も、チベットやウイグル(東トルキスタン)で行われているのが、まさにこの洗国です。


 チベット人男性やウイグル人男性を中国国内に散らばらせ、現地に同化させる。さらに漢人をチベットやウイグルに送り込み、現地の女性と結婚させ、これまた同化させてしまう。やがては、現在の満州(旧:女真族の国)同様に、国境線が実質的に消滅し、中国の一部として支配が始まる。


 今風に言えば、民族浄化(エスニック・クレンジング)で、明らかに国際犯罪です。とはいえ、現実に中国共産党はチベット人やウイグル人に対する洗国をほぼ完成させ、台湾にもじわじわと浸透していっています。


 そして、我が国にも。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12415662357.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/186.html

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