★阿修羅♪ > dGhQLjRSQk5RSlE= > 100095
 
g検索 dGhQLjRSQk5RSlE=  
 前へ
dGhQLjRSQk5RSlE= コメント履歴 No: 100095
http://www.asyura2.com/acat/d/dg/dgh/dGhQLjRSQk5RSlE=/100095.html
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
8. 中川隆[-14949] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:20:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2041]

ソ連の歴史




















http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c8
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
9. 中川隆[-14948] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:22:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2040]
ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。


ブラッドランド : ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 – 2015/10/15
ティモシー スナイダー (著), Timothy Snyder (原著), & 1 その他
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8A-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861297
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8B-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861300/ref=sr_1_fkmrnull_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3+%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F&qid=1555198794&s=books&sr=1-1-fkmrnull


▲△▽▼

【犠牲者1400万!】スターリンとヒトラーの「ブラッドランド」1933〜1945
http://3rdkz.net/?p=405

筑摩書房の「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」(ティモシー・スナイダー著)によれば、ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。この数字は戦争で死亡した戦死者は一人も含まれていない。戦闘による犠牲者ではなく、両政権の殺戮政策によって死亡した人々だ。犠牲者の大半はこの地域に古くから住まう罪もない人々で、一人も武器を持っておらず、ほとんどの人々は財産や衣服を没収されたうえで殺害された。

「ブラッドランド」には、ルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ナチ西部占領地域は含まれていない。ルーマニアではファシスト政権の反ユダヤ政策により、強制収容所や移送中の列車の中で30万人が死亡したが、これはナチやソ連政府とは無関係な殺害政策である。ハンガリーでは戦争末期に40万人のユダヤ人がアウシュビッツに送られて死亡したが、ソ連は関与していない。ユーゴではナチ傀儡「クロアチア独立国」により数十万人のユダヤ人やセルビア人が殺害されたが、ユーゴがソ連に支配されたことはない。フランスでも反ユダヤ政策によりユダヤ人が絶滅収容所に送られたが、「ブラッドランド」からは外れる、とのこと。

その理由は、あくまで上記のようにポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域のみに的を絞っているからだ。これらは戦前にはソ連に、戦間期にはナチスの大量殺人政策に痛めつけられた地域である。双方の無慈悲なテロに晒され夥しい数の人が死んだ”流血地帯”である。

筑摩書房「ブラッドランド」を読み解きながら、この地域で一体何が起こったのかまとめたい。


ブラッドランド=”流血地帯”はどういう意味を持つか

ブラッドランドは…

・ヨーロッパユダヤ人の大半が住んでいた

・ヒトラーとスターリンが覇権をかけて争った

・ドイツ国防軍とソ連赤軍が死闘を繰り広げた

・ソ連秘密警察NKVD(内務人民委員部)とSS(ナチス親衛隊)が集中的に活動した

…地域である。

ブラッドランドにおける主な殺害方法

1400万人殺したといっても、高度なテクノロジーは一切使われておらず、野蛮な方法であった。

ほとんどは人為的な飢餓による餓死である。

その次に多いのは銃殺である。

その次に多いのはガス殺である。

ガスも高度なテクノロジーとは無縁であった。ガス室で使用されたガスは、18世紀に開発されたシアン化合物や、紀元前のギリシャ人でさえ有毒だと知っていた一酸化炭素ガスである。

ウクライナの人為的飢餓テロー犠牲者500万人

http://3rdkz.net/?p=405


1929年〜1933年にかけて餓死したウクライナ農民の死亡率。赤は25%以上。ほぼ全滅した村も多くあった。

1930年代初頭、第一次五か年計画、集団農場化を焦るスターリンは、反抗的なウクライナ農民を屈服させるために飢餓を利用した。

年間770万トンにも及ぶ血も涙もない食糧徴発作戦により、少なくとも500万人のウクライナ農民が人為的な飢餓に追い込まれて死亡した。

食料徴発隊は共産党員、コムソモール、地元の教員・学生、村ソヴィエトの理事や議員、OGPU(合同国家政治保安部)で構成された《ブリガーダ》と呼ばれる作業班で、ほとんど盗賊と変わらなかった。作業班は家から家へと渡り歩き、家の中を隅から隅まで探し、屋根裏や床を破壊し、庭を踏み潰し、棒を突っ込んで穀物を探した。

村でも街でも国の組織にハッパをかけられ、残虐行為が広がっていた。
http://3rdkz.net/?p=405

ある妊娠中の女性が小麦を引き抜いたとして板切れで打ちすえられ死亡した。
三人の子供を抱えた母親は集団農場のじゃがいもを掘り出したとして警備員に射殺された。子供たちは全員餓死した。
ある村では穀物をむしり取ったとして7人の農民と14歳と15歳の子供達3人が銃殺された。

《ブリガーダ》は狂ったように食物を探しまわり、飢餓によって手足の浮腫が生じていない農民の家を怪しんで捜索した。しまいにはサヤエンドウ、ジャガイモ、サトウダイコンまでも取り上げた。餓死したものたちも瀕死の者たちも一緒になって共同墓地に放り出された。

人々の餓死は1933年初春に最高潮に達した。


雪が解け始めたとき、本物の飢餓がやってきた。人々は顔や足や胃袋をふくらませていた。彼らは排尿を自制できなかった・・。今やなんでも食べた。ハツカネズミ、ドブネズム、スズメ、アリ、ミミズ・・骨や革、靴底まで粉々にした。革や毛皮を切り刻み、一種のヌードル状にし、糊を料理した。草が生えてくるとその根を掘り出し葉や芽を食べた。あればなんでも食べた。タンポポ、ゴボウ、ブルーベル、ヤナギの根、ベンケイソウ、イラクサ・・

33年の冬までに、ウクライナの農民人口2000〜2500万人のうち、4分の1から5分の1が死んだ。
彼らは孤独のまま、極めて緩慢に、なぜこんな犠牲になったのかという説明も聞かされずに、自分の家に閉じ込められ、飢えたまま置き去りにされ、ぞっとするような死に方をしていったのだ。

1345345447_959eb1e91e65[1]


ある農家はまるで戦争であった。みんな他を監視していた。人々はパンのかけらを奪い合った。妻は夫と、夫は妻といがみ合った。母は子供を憎んだ。しかし一方では最後の瞬間まで、神聖犯すべからざる愛が保たれていた。四人の子供を持った母親・・彼女は空腹を忘れさせようとして子供におとぎ話や昔話を聞かせてやった。彼女自身の舌は、もうほとんど動かないのに、そして自分の素手の腕さえ持ち上げられないのに、子供らを腕の中で抱いていた。愛が、彼女の中に生きていた。人々は憎しみがあればもっと簡単に死ねることを悟った。だが、愛は、飢餓に関しては、何もできなかった。村は全滅であった。みんな、一人も残っていなかった。

大粛清ー犠牲者70万人以上

greatpurge

ウクライナ大飢饉が一息ついた1934年1月、ナチスドイツとポーランドが不可侵条約を結んだ。当時のソ連はドイツ、ポーランド、日本という3つの宿敵に囲まれている形であった。ドイツとポーランドが手を結んだ今、ソビエト領内のポーランド人や少しでもポーランド人と関わりを持つ者は全てスパイとなった。

同年12月、レニングラード党第一書記キーロフが暗殺された。彼はスターリンにつぐナンバー2の権力者だった。スターリンはこれを最大限利用し、国内に反逆勢力がいるということを強調した。あたかも陰謀が常に存在するかのように。だがキーロフ暗殺の黒幕はスターリンその人であることが疑われている。

また、スターリンは集団農場化の大失敗によって引き起こされたウクライナの大飢饉を、外国のスパイ勢力の陰謀のせいだと主張した。

1936年、スターリンの妄想に付き従うものは重臣たちにさえ多くなかった。そんな中、ポーランド人のニコライ・エジョフという男がスターリンによってNKVD長官に任命されると、この男は反体制派とされる人々を嬉々として自ら拷問にかけ、手当たり次第にスパイであると自白させて銃殺にした。

1937年にはスターリンに歯向かうものは国内にいなかったが、依然政敵のトロツキーは外国で健在であり、ドイツとポーランドと日本という、いずれもかつてはロシア帝国やソビエト赤軍を打ち負かした反ソ国家に囲まれていた。スターリンは疑心暗鬼に囚われた。ドイツとポーランドと日本が手を携えて攻めてくるかもしれない……トロツキーが(かつてレーニンがそうしたように)ドイツ諜報機関に支援されて劇的にロシアの大地に帰還し、支持者を集めるのではないか……今こそ一見無害に見える者たちの仮面をはぎ取り、容赦なく抹殺するのだ!1937年の革命20周年の記念日に、スターリンは高らかにそう宣言した。

ポーランド人やドイツ人、日本人、またはそのスパイと疑われた人々や、元クラーク(富農)や反ソ運動の嫌疑により、約70万人の国民がスターリンとエジョフのNKVDによって銃殺された。また数え切れないほどの人々が拷問や流刑の過程で命を落とした。

粛清の範囲は軍や共産党やNKVDにまで及び、国中がテロに晒された。

殺された一般国民は全員、荒唐無稽な陰謀論を裏付けるために拷問によって自白を強要された無実の人々であった。

大粛清開始時のNKVD上級職員の3分の1はユダヤ人であったが、1939年には4%以下となっていた。スターリンは大粛清の責任をユダヤ人に負わせることを企図し、事実ヒトラーがそう煽ったように、後年ユダヤ人のせいにされた。こうしてのちに続く大量虐殺の布石がうたれたのである。

ポーランド分割ー犠牲者20万人以上

Soviet_and_German_Troops
1939年ブレスト=リトフスク(当時はポーランド領)で邂逅する独ソの将兵。両軍の合同パレードが開催された。

1939年9月中旬、ドイツ国防軍によってポーランド軍は完全に破壊され、戦力を喪失していた。極東においてはノモンハンにおいてソ連軍が日本軍を叩き潰した。その一か月前にはドイツとソ連が不可侵条約を結んでいた。世界の情勢はスターリンが望むままに姿を変えていた。

ヒトラーはポーランド西部を手に入れて、初めての民族テロに乗り出した。

スターリンはポーランド東部を手に入れて、大粛清の延長でポーランド人の大量銃殺と強制移送を再開した。

ドイツ国防軍の末端兵士に至るまで、ポーランド人は支配民族(=ドイツ人)に尽くすための奴隷民族であると教えられた。ドイツ将兵はポーランド人を気まぐれに虐待し、ドイツ兵一人が傷つけば身近なポーランド人を報復として数百人規模で銃殺した。また、ドイツ兵は平然とポーランド女性やユダヤ人女性を強姦した。銃声が聞こえれば付近の村人をフェンスの前に並ばせて皆殺しにした。またポーランド軍捕虜から軍服を奪い去り、ゲリラと決めつけて問答無用に銃殺にした。ポーランドにはユダヤ人が数多くいたが、ドイツ兵は彼らも気まぐれに虐待を加え、婦女子を強姦し、村人を銃殺し村を焼き払った。また、ドイツ空軍は開戦以来都市に無差別の爆撃を加え続け、戦闘の混乱により東に逃げる人々の列に機銃掃射を加えて楽しんだ。

1939年末までにドイツ兵に殺されたポーランド民間人は45000人に上った。
http://3rdkz.net/?p=405&page=2


戦後はドイツ軍政と、諜報機関のトップであるラインハルト・ハイドリヒによって編成されたナチス親衛隊の移動抹殺部隊により、ポーランドのエリート階層は根絶やしにされ、銃やガスや人為的飢餓でのきなみ絶滅の憂き目にあった。これは「AB行動」と呼ばれる。

ヒトラーの目的はポーランドをドイツの人種差別主義者の理想通りの世界とすること、社会からドイツの支配に抵抗する力を奪うことだった。とはいえ、当時のドイツの殺戮班はこの手のテロにまだ不慣れで、NKVDほど効率的に敵を排除することができず、総督府領内で徐々にレジスタンス活動が活発化して行く。

ソ連の場合、チェーカーやゲーペーウーを前身に持つエリートテロ組織であったNKVDや、革命初期の内戦期からテロの執行機関であった赤軍がもっとうまくやった。

ソ連軍は9月中旬、50万の大軍勢を持って、既に壊滅したポーランド軍と戦うために、護る者が誰もいなくなった国境を超えた。そこで武装解除したポーランド将兵を「故郷に帰してやる」と騙して汽車に乗せ、東の果てへ輸送した。

ポーランド将校のほとんどは予備役将校で、高度な専門教育を受けた学者や医師などの知識階級だった。彼らを斬首することにより、ポーランドの解体を早めることが目的だった。

同じころNKVDの職員が大挙してポーランドに押し寄せた。彼らは10個以上の階級リストを作成し、即座に10万人以上のポーランド民間人を逮捕。そのほとんどをグラーグ(強制収容所)へ送り、8000人以上を銃殺した。またすでに逮捕されたポーランドの高級将校たちを片っ端から銃殺にし、ドイツの犯行に見せかけた。そして家族をグラーグへ追放した。銃殺された者は20000人以上、将校の関係者としてグラーグへ送られた者は30万人以上とされる。そのほとんどは移送中の汽車の中や、シベリアやカザフスタンの収容所で命を落とした。

独ソ双方から過酷なテロを受けたポーランドでは、20万人が銃殺され、100万人以上が祖国を追放された。追放された者のうち、何名が死亡したかはいまだ未解明である。

独ソ開戦ー犠牲者?

horocaust

ドイツは第一次大戦で英軍の海上封鎖により76万人が餓死した苦い記憶を持つ。その歴史を熟知していたヒトラーは、食糧不安を解消するためになんとしてもウクライナが欲しかった。ウクライナはソ連の穀物生産の90%をしめるヨーロッパ有数のカロリー源であった。ヒトラーは東方総合計画を策定した。これは端的にいえばウクライナを占領し、農民を全て餓死させ、空白になった土地にドイツ人を入植させる。こういうものだった。

ドイツの計画立案者たちは、33年のウクライナ大飢饉に倣い、集団農場を使って農民を餓死させる計画を立てた。また、戦争によって拡大した領土に住まうドイツ人や前線に送るドイツ兵に食糧を効率的に供給するために、スラブ人やユダヤ人から食べ物を取り上げ、餓死させる計画を立てた。これはつまり、ソ連地域の大都市を破壊し、森に帰すことで冬の寒さに晒し、1942年の春までに3000万人を餓死させるというものだった。

しかし、戦況が思ったよりも長引き、ドイツ国防軍は苦戦し、進軍が遅れたために計画通りにはいかなかった。都市や集団農場の住民を殺して食糧源がなくなれば戦況は壊滅的に悪化するだろう。このような事情に加え、ナチス親衛隊やドイツ国防軍にソ連NKVDほどの実力はなかった。実際には飢餓計画は実行不可能だったのである。しかし、ドイツ国防軍に捕らえられた300万のソビエト兵捕虜は、冬の荒野に鉄条網を張り巡らせただけの収容所ともいえぬような場所に拘禁され、食べ物を与えられずほとんど全員が餓死した。またドイツ国防軍やナチス親衛隊は、50万人の捕虜を銃殺し、260万人の捕虜を餓死させるか、移送中に死に至らしめた。初めから殺すつもりだったのだ。犠牲者は310万人ともいわれる。

また、ドイツ兵はポーランド人よりもさらに劣等な人種としてロシア人を見ていた。ドイツ兵は彼らをためらうことなく銃殺したが、このような民間人に対する犯罪行為は、バルバロッサ命令という形で合法とされた。

また、コミッサール命令という政治将校、共産党員、赤軍将兵、または市民のふりをしたゲリラは問答無用に処刑して良いことになっていた。この定義にユダヤ人が含まれるようになると殺戮は拡大した。犠牲者はあまりにも膨大で、はっきりとした数字は未解明である。

1941年の9月までにドイツ軍が包囲した、ソビエト北の要衝レニングラードでは本格的な兵糧攻めが行われた。900日間にわたる包囲戦により、100万人の市民が餓死した。ヒトラーは東方総合計画により、レニングラードを完全に破壊して更地にしたうえでフィンランドに引き渡すつもりだった。はじめから住民を全て殺すつもりだったのである。包囲下のレニングラードでもNKVDは微塵も揺らぐことなく健在で、裏切り者を探し回っては銃殺していた。レニングラード市民は独ソ双方から過酷なテロを受けたのである。

また、1944年のワルシャワ蜂起では、20万人の市民が戦闘の巻き添えになって死亡し、70万人の市民が市内から追放された。

ホロコーストー犠牲者540万人

holocaust2

ホロコーストはバルト諸国のリトアニアから開始された。ナチス親衛隊はリトアニアやラトヴィアで現地民を扇動してポグロムを引き起こし、ユダヤ人やNKVD、共産党員を殺害。ドイツ軍や警察はユダヤ人の成人男性をスパイやゲリラと見なして銃殺した。

1941年の8月ごろになると、ヒトラーは既にソ連への奇襲作戦が失敗し、戦争終了を予定していた9月中旬までにモスクワを占領することは不可能そうであると悟った。総統はせめてユダヤ人を皆殺しにすることを考えた。こうしてユダヤ人の女性や子供・老人がゲリラの定義の中に含まれた。

ポーランドの時と同じように、ソ連の指導者たちを排除するため、保安諜報部(SD)と警察の特殊部隊が編成されていたが、彼らの任務はいつしかユダヤ人を全て殺すことへと変化して行った。SDと警察の移動抹殺作戦により、リトアニアのユダヤ人20万人のうち19万5千人が銃殺された。その他の地域でも気の狂ったような大量銃殺が繰り広げられ、その凶行をとめることができる者はいなかった。全ては総統命令として正当化されたのである。

ウクライナ、ベラルーシ、西部ソ連地区でも状況は似たようなものだった。ドイツ軍が版図を広げるたびに移動抹殺隊が影のように現れ、現地徴集兵を雇ってユダヤ人や共産党員、精神障害者や同性愛者を手当たり次第に銃殺した。ウクライナのキエフではたった2日で3万人以上のユダヤ人婦女子が銃殺され、ベラルーシでは過酷なパルチザン戦が繰り広げられ、国民の4分の1が巻き添えになって殺された。移動抹殺作戦の犠牲者は100万人以上と推計される。
http://3rdkz.net/?p=405&page=3


ポーランドには6つの絶滅収容所が設置され、ヨーロッパ各地からユダヤ人や政治犯、思想犯、同性愛者や障害者がかき集められて、飢餓や強制労働や銃やガスによって命を絶たれた。犠牲者は250万人を超える。

ホロコーストの結果、ヨーロッパの全ユダヤ人のうち3分の2が殺害され、なかでもポーランドの被害が最も深刻で、90%以上、300万人のユダヤ人が絶滅された。

抵抗の果てに

redarmyrape

戦争後期、ソ連軍はドイツ軍を打ち破って東プロイセンへ侵入した。そして彼らは目に付く全ての女性を強姦しようとした。その時点でドイツ成人男性の戦死者数は500万人にのぼっていた。残った男性はほとんど高齢者や子供で、彼らの多くは障害を持っていた。女性たちを守る男はいなかった。強姦被害にあった女性の実数は定かではないが数百万人に及ぶと推定され、自殺する女性も多かった。

それとは別に52万のドイツ男性が捕えられて強制労働につかされ、東欧の国々から30万人近い人々が連行された。終戦時までに捕虜になり、労役の果てに死亡したドイツ人男性は60万人に上った。ヒトラーは民間人を救済するために必要な措置を一切講じなかった。彼は弱者は滅亡するべきだと思っていた。それはドイツ民族であろうと同じだった。そして彼自身も自殺を選んだ。

ヒトラーの罪を一身に背負わされたのが戦後のドイツ人であった。新生ポーランドではドイツ人が報復や迫害を受け、次々と住処を追われた。ポーランドの強制収容所で死亡したドイツ人は3万人と推計される。1947年の終わりまでに760万人のドイツ人がポーランドから追放され、新生ポーランドに編入された土地を故郷とするドイツ人40万人が移送の過程で死亡した。

戦間期のスターリンの民族浄化

独ソ戦の戦間期には、対独協力の恐れがあるとみなされた少数民族の全てが迫害を受けた。

1941年〜42人にかけて90万人のドイツ系民族と、9万人のフィンランド人が強制移住させられた。

1943年、ソ連軍がカフカスを奪還すると、NKVDがたった1日で7万人のカフカス人をカザフスタンとキルギスタンに追放した。更にNKVDはその年の12月には、2日間で9万人のカルムイク人をシベリアへ追放した。

1944年にはNKVD長官ベリヤが直接指揮を執って、47万人のチェチェン人とイングーシ人をわずか一週間で狩り集めて追放した。一人残らず連行することになっていたので、抵抗する者、病気で動けない者は銃殺され、納屋に閉じ込めて火を放つこともあった。いたるところで村が焼き払われた。

同年3月、今度はバルカル人3万人がカザフスタンへ追放され、5月にはクリミア・タタール人18万人がウズベキスタンへ強制移住させられた。11月にはメスヘティア・トルコ人9万人がグルジアから追放された。

このような状況であったから、ソヴィエトと共に戦ったウクライナやバルト諸国やポーランド、ベラルーシでもNKVDの仕事は同じだった。赤軍や新生ポーランド軍は、かつては味方だったパルチザンに対して牙をむいた。少数民族や民族的活動家はのきなみ捕えられ、同じように東の果てに追放されたのだった。その数は1200万人に及んだ!

おわりに

長年、ドイツとロシアにはさまれた国々の悲惨な歴史に圧倒されていた。これ以上恐ろしい地政学的制約はないだろう。ドイツとソ連の殺害政策によって命を失った人々は、誰一人武器を持たない無抵抗の民間人は、それだけで1400万人に及ぶ。もちろんこれは戦闘による軍人・軍属の戦死者は含まれていない。またルーマニアやクロアチアやフランスの極右政権によって虐殺されたユダヤ人やセルビア人は数に含まれていない。

ドイツとソ連の殺害政策は、偶発的に起こったのではなく、意図的に明確な殺意を持って引き起こされた。その執行機関はNKVDであり、赤軍であり、ドイツ国防軍であり、ドイツ警察であり、ナチス親衛隊だった。その殺し方は飢餓が圧倒的に多く、その次に多かったのが銃で、その次がガスである。

アウシュビッツはホロコーストの象徴だが、アウシュビッツで死亡したユダヤ人は死亡したユダヤ人の6分の1に過ぎない。アウシュビッツが本格的に稼働するころには、既にユダヤ人の多くは命を落としていた。

ベルゲン・ベルゼンやダッハウ解放後の悲惨な写真は人々の記憶に刻みつけられたが、それらはどちらも絶滅収容所ではなく、西側の連合軍が解放した絶滅収容所は一つもなく、カティンの森もバビ・ヤールも、西側の目に触れたことは一度もない。

ナチス崩壊後も、スターリンの赤い帝国が厳重に引いた鉄のカーテンによって、ロシアばかりでなく、ドイツの犯罪行為も闇に葬られてしまった。ナチスドイツの東部捕虜収容所は、絶滅収容所以上の絶滅施設であった。そこでは310万人が飢餓や銃によって殺害され、ソ連兵捕虜の死亡率は60%近くに上った。ヒトラーの東方総合計画の検証もほとんど進まなかった。”ブラッドランド”は、全て戦後スターリンの帝国に覆い隠されてしまったからである。

激しい人種差別と階級的憎悪、独裁者の偏執的かつ無慈悲な実行力が両国に共通に存在していた。

海に囲まれた我が国には、人種差別がどれほどの暴力を是認するものなのか、階級憎悪がどれほどの悲劇を生んできたのか、ピンとこない。

知ってどうなるものでもないが、この恐ろしい歴史を興味を持ったすべての人に知ってもらいたい。
http://3rdkz.net/?p=405&page=4

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c9

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
10. 中川隆[-14947] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:40:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2039]

ドイツやソ連に占領されるとこうなる:

ワイダ カティンの森 Katyń (2007年)

監督 アンジェイ・ワイダ
脚本 アンジェイ・ワイダ ヴワディスワフ・パシコフスキ プシェムィスワフ・ノヴァコフスキ
原作 アンジェイ・ムラルチク
音楽 クシシュトフ・ペンデレツキ
撮影 パヴェウ・エデルマン
公開 2007年9月17日
製作国 ポーランド
言語 ポーランド語 ドイツ語 ロシア語


動画
https://www.nicovideo.jp/search/KATY%C5%83%20%20%2F7%20?f_range=0&l_range=0&opt_md=&start=&end=


キャスト

マヤ・オスタシェフスカ (Maja Ostaszewska):アンナ
アルトゥル・ジミイェフスキ (Artur Żmijewski):アンジェイ大尉 - アンナの夫、カティンで殺害される
ヴィクトリア・ゴンシェフスカ (Wiktoria Gąsiewska) : ヴェロニカ(通称ニカ) - アンジェイとアンナの娘
マヤ・コモロフスカ (Maja Komorowska):アンジェイの母
ヴワディスワフ・コヴァルスキ (Władysław Kowalski):アンジェイの父・ヤン教授 - ヤギェウォ大学教授、講演会を名目に大学に招集され、同僚とともに収容所に送られ、病死
アンジェイ・ヒラ (Andrzej Chyra):イェジ中尉 - アンジェイの戦友 - カティンで殺害されず帰還、のちに「カティンの森事件」について、ソ連側の証人となったことを恥じて自殺
ダヌタ・ステンカ (Danuta Stenka):大将夫人ルジャ
ヤン・エングレルト (Jan Englert):大将 - カティンで殺害される
アグニェシュカ・グリンスカ (Agnieszka Glińska):イレナ - ピョトル中尉の妹
マグダレナ・チェレツカ (Magdalena Cielecka):アグニェシュカ - ピョトル中尉、イレナの妹
パヴェウ・マワシンスキ (Paweł Małaszyński):ピョトル中尉 - カティンで殺害される
アグニェシュカ・カヴョルスカ (Agnieszka Kawiorska):エヴァ - 大将とルジャの娘
アントニ・パヴリツキ (Antoni Pawlicki):タデウシュ(トゥル) - アンナの甥、父カジミエシュはカティンで殺害される
アンナ・ラドヴァン (Anna Radwan) : エルジュビェタ - タデウシュの母
クルィスティナ・ザフファトヴィチ (Krystyna Zachwatowicz):グレタ - ドイツ総督府の法医学研究所関係者。イェジ中尉の依頼により、アンナにアンジェイ大佐の手帳をわたす
セルゲイ・ガルマッシュ (Sergei Garmash) : ポポフ大尉 - 同情的でアンナを秘密警察から匿った赤軍将校
スタニスワヴァ・チェリンスカ (Stanisława Celińska) : スタシア - 大将の使用人
クシシュトフ・グロビシュ (Krzysztof Globisz) : 医師 ドイツ総督府の法医学研究所で、カティンの森の事件の調査をしている。ポーランドがソ連により解放されることになり、自分の身の危険を感じている。


▲△▽▼


『カティンの森』(ポーランド語: Katyń)は、2007年(平成19年)製作・公開のポーランドの映画(en:Cinema of Poland)である。第二次大戦下に実際に起きた「カティンの森事件」を題材とした映画である。


自らの父親もまた同事件の犠牲者である映画監督アンジェイ・ワイダが、80歳のときに取り組んだ作品である[1]。原作は、脚本家でありルポルタージュ小説家でもあるアンジェイ・ムラルチクが執筆した『死後 カティン』(Post mortem. Katyń, 工藤幸雄・久山宏一訳『カティンの森』)である。構想に50年、製作に17年かかっている。

撮影は『戦場のピアニスト』等でも知られるポーランド出身の撮影監督パヴェウ・エデルマン、音楽はポーランド楽派の作曲家クシシュトフ・ペンデレツキが手がけた。ポーランドでは、2007年9月17日に首都ワルシャワでプレミア上映され、同年同月21日に劇場公開された[2]。

翌2008年(平成20年)、第58回ベルリン国際映画祭でコンペティション外上映された[2]。

ワイダは、2010年(平成22年)4月7日、ロシアのウラジーミル・プーチン首相、ポーランドのドナルド・トゥスク首相が出席した「カティンの森事件」犠牲者追悼式典に参列した[3]。同月10日に開催予定であったがポーランド空軍Tu-154墜落事故のため中止となった「カティンの森事件」追悼式典のための大統領機には、搭乗してはいなかった[4][5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE


1939年9月、クラクフのアンナ(マヤ・オスタシェフスカ)は娘を連れ、夫のアンジェイ大尉(アルトゥル・ジミイェフスキ)を探しに行く。一方、東から来た大将夫人(ダヌタ・ステンカ)はクラクフに向かう。アンジェイや仲間のイェジ(アンジェイ・ヒラ)たちは、ソ連軍の捕虜となっていた。アンジェイは、見たことすべてを手帳に書き留める決意をする。アンナはクラクフに戻ろうとするが、国境を越えられない。11月、アンジェイの父はドイツ軍の収容所に送られる。翌年初め、アンナと娘、アンナの義姉と娘は、ロシア人少佐の家に匿われていた。義姉親子は強制移住のため連れ去られるが、アンナたちは逃げ延びる。春、アンナと娘は義母のいるクラクフへ戻り、義父の死を知る。アンジェイはイェジから借りたセーターを着て、大将、ピョトル中尉らと別の収容所に移送される。1943年4月、ドイツは一時的に占領したソ連領カティンで、多数のポーランド人将校の遺体を発見したと発表する。犠牲者リストには大将、イェジの名前が記され、アンジェイの名前はなかった。大将夫人はドイツ総督府で夫の遺品を受け取り、ドイツによるカティンの記録映画を見る。1945年1月、クラクフはドイツから解放される。イェジはソ連が編成したポーランド軍の将校となり、アンナにリストの間違いを伝える。イェジは法医学研究所に行き、アンジェイの遺品をアンナに届けるよう頼む。イェジは大将夫人から“カティンの嘘”を聞き、自殺する。国内軍のパルチザンだったアンナの義姉の息子タデウシュは、父親がカティンで死んだことを隠すよう校長から説得されるが、拒否する。その帰り道、国内軍を侮辱するポスターを剥がした彼は警察に追われ、大将の娘エヴァと出会う。校長の妹はカティンで遺体の葬式を司った司祭を訪ね、兄ピョトルの遺品を受け取る。そして兄の墓碑にソ連の犯罪を示す言葉を刻み、秘密警察に狙われる。法医学研究所の助手グレタはアンナに、アンジェイの手帳を届ける。
http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=40518


▲△▽▼


カティンの森事件(ポーランド語: zbrodnia katyńska、ロシア語: Катынский расстрел)は、第二次世界大戦中にソビエト連邦(ロシア共和国)のグニェズドヴォ(Gnyozdovo)近郊の森で約22,000人[1]のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソビエト内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。

NKVD長官ベリヤが射殺を提案し、ソビエト共産党書記長スターリンと政治局の決定で実行された[2]。

「カティン(カチンとも。Katyń)」は現場近くの地名で、事件とは直接関係ないものの、覚えやすい名前であったためナチス・ドイツが名称に利用した。


経緯

1939年4月にドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約を廃棄し、同年8月にドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が締結された。同年9月1日にドイツがポーランドに侵攻することで第二次大戦が始まり、9月17日にソ連も同様にソ連・ポーランド不可侵条約を廃棄してポーランドの東部に侵攻した。独ソ不可侵条約には秘密議定書があり、両国はそれに従ってポーランドへの侵攻と分割占領を行ったのである。


ポーランド人捕虜問題

1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土は占領下に置かれた。武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。

ポーランド政府はパリへ脱出し、亡命政府を結成、翌1940年にアンジェへ移転したがフランスの降伏でヴィシー政権が作られると、更にロンドンへ移された。

1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人を含む230,672人と訂正した[3]。ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせたが満足な回答は得られなかった。

1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイスキー協定(英語版)を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たなかった。そこで亡命政府は捕虜釈放を正式に要求したが、ソ連側は全てが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日には亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキがヨシフ・スターリンと会談したが、スターリンは「確かに釈放された」と回答している。


捕虜の取扱い

ポーランド人捕虜はコジェルスク、スタロビエルスク(英語版)、オスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の1つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜たちは皆喜んだが、「西へ向かう」という言葉が死を表す不吉なスラングでもあることを知っていた少数の捕虜は不安を感じ、素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、言葉通り西へ向かい、そのまま消息不明となる。


事件の発覚

スモレンスクの近郊にある村・グニェズドヴォ(Gnyozdovo)では1万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという噂が絶えなかった。独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置いた際にこの情報を耳にした。

1943年2月27日、ドイツ軍中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。報告を受けた中央軍集団参謀ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ将軍は「世界的な大事件になる」と思い、グニェズドヴォよりも「国際的に通用しやすい名前」である近郊の集落カティンから名前を取り「カティン虐殺事件」として報告書を作成、これは中央軍集団からベルリンのドイツ国民啓蒙・宣伝省に送られた。宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは対ソ宣伝に利用するために、事件の大々的な調査を指令した。


発見当初の動静

1943年4月9日、ゲッベルスはワルシャワ、ルブリン、クラクフの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告した。ポーランド赤十字社は反ソプロパガンダであるとして協力を拒否したが、各市の代表は中央軍集団司令部に向かい、調査に立ち会った。ドイツ側は赤十字社の立ち会いの後に事件を公表する予定であったが、1943年4月13日には世界各紙で「虐殺」情報が報道された。このため、ドイツのベルリン放送でカティンの森虐殺情報が正式に発表された。

1943年4月15日、ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年にソビエトに侵攻してきたドイツ軍によってスモレンスク近郊で作業に従事していたポーランド人たちが捕らえられて殺害されたと主張した。しかし、捕虜がスモレンスクにいたという説明はポーランド側に行われたことがなく、亡命政府はソ連に対する不信感を強めた。ポーランド赤十字社にも問い合わせが殺到し、調査に代表を派遣することになった。すでに回収された250体の遺体を調査した赤十字社は遺体がポーランド人捕虜であることを確認し、1940年3月から4月にかけて殺害されたことを推定した。1943年4月17日、ポーランド赤十字社とドイツ赤十字社はジュネーヴの赤十字国際委員会に中立的な調査団による調査を依頼した。

これを受けてソ連はポーランド亡命政府を猛烈に批判し、断交をほのめかした。ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は全関係国の同意がとれないとして調査団の派遣を断念した。1943年4月24日、ソ連はポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求した。ポーランド亡命政府が拒否すると、26日にソ連は亡命政府との断交を通知した。

ポーランド赤十字社はカティンに調査団を送り込み、また、ドイツもポーランド人を含む連合軍の捕虜、さらにスウェーデン、スイス、スペイン、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ハンガリー、チェコスロバキア(ベーメン・メーレン保護領及びスロバキア)など各国のジャーナリストの取材を許可した。さらに枢軸国とスイスを中心とする国から医師や法医学者を中心とする国際調査委員会が派遣された。1943年5月1日、国際委員会とポーランド赤十字社による本格的調査が開始された。


第一次調査

調査はソ連軍がスモレンスクに迫る緊迫した状況下で行われた。国際委員会は遺体の発掘と身元確認と改葬を行い、現地での聞き取り調査も行った。ドイツ側は「12,000人」の捕虜の遺体が埋められていると発表していたが、実数はそこまでには至らなかった。

発掘途中の調査では、遺体はコジェルスクの捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の脳からは死後3年以上経過しないと発生しない物質が検出されたことや、墓穴の上に植えられた木の樹齢が3年だったこと、遺体が死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連の犯行を窺わせた。

また、調査に同行したアメリカ軍捕虜のジョン・ヴァン・ブリード大佐とスチュワート大尉は、捕虜の軍服や靴がほころびていないことからソ連軍による殺害であることを直感したと後に議会公聴会で証言している。

1943年5月になると現場付近の気温が上昇し、死臭が強まったために現地の労働者が作業を拒否するようになった。6月からは調査委員会と赤十字代表団が自ら遺体の発掘に当たった。明らかに拷問に遭った遺体や今までに見つからなかった8番目の穴が発見されるなど調査は進展したが、この頃になるとソ連軍がスモレンスクに迫り、委員会と代表団は引き上げを余儀なくされた。ポーランド赤十字社代表団は6月4日、委員会は6月7日に現地を離れた。

撤収までに委員会が確認した遺体の総数は4,243体であった。


西側連合国の対応

イギリスは暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークでドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、ナチス・ドイツが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。また当時ロンドンに移っていたポーランド亡命政府に対するイギリス大使であるオーウェン・オマレーが「事件がソ連によるものである」と結論した覚書を提出したが、ウィンストン・チャーチル首相はこれを公表しなかった[4]。

1944年、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領はカティンの森事件の情報を収集するために、かつてブルガリア大使を務めていたジョージ・ハワード・アール(英語版)海軍少佐を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触してソビエト連邦の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務から外され、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった[4]。また、事件の生存者であるユゼフ・チャプスキ(英語版)は、1950年から「ボイス・オブ・アメリカ」のポーランド向け放送を担当することになったが、その際には事件に対して言及することを禁じられている[4]。


ソ連による「真相究明」

1943年10月15日からNKVDは独自に再調査を開始した。さらにモスクワに調査委員会を設置し、事件の調査を開始した。しかし、この調査委員会は委員長のニコライ・ブルデンコをはじめとして全員がソ連人であり、最初から「ナチス・ドイツの犯行」であることを立証するためのものであった[5]。ブルデンコ委員会は独自の聞き取り調査によって「殺害は1941年8月から9月、つまり、ドイツ軍の占領中に行われた」とし、殺害に用いられた弾丸がドイツ製であったことを根拠として、ナチス・ドイツの犯行であったと結論付けた[5]。

さらにソ連はニュルンベルク裁判においてドイツ人を裁くため、さらに調査報告書を作成した。告発を行ったソ連の検察官は「もっとも重要な戦争犯罪の内の1つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である」と述べている。これに基づいて1946年7月1日に裁判でカティンの森事件について討議が行われた。しかしこの告発は証拠不十分であるとして、裁判から除外された[5]。


冷戦期のカティンの森事件問題

冷戦が激化し始めた1949年、アメリカでは民間の調査委員会が設立され、事件の再調査を求めるキャンペーンを行った[6]。1951年、アメリカ議会はカティンの森事件に対する調査委員会を設置した[5]。1952年にはアメリカ国務省がソ連に対して証拠書類の提供を依頼したが、ソ連はこれを誹謗であるとして抗議している。調査委員会はソ連の犯行であることが間違いないと結論し、アメリカ議会は1952年12月に「カティンの森事件はソ連内務人民委員部が1939年に計画し、実行した」という決議を行っている[5]。しかし東側諸国はもとより西側諸国の多くもこれに同調しなかった[6]。

1959年、ソ連国家保安委員会(KGB)のアレクサンドル・シェレーピン議長は、ニキータ・フルシチョフ第一書記に対して、ポーランド人捕虜処刑に関する文書の破棄を提案している[7]。戦後ポーランドを支配していたPZPR(ポーランド統一労働者党)の幹部たちはソ連の説明を公式見解として認定した[8]。亡命ポーランド人たちは事件の研究を続け、時には地下出版の形でポーランド国内に伝えた[9]。

また、1970年代後半のイギリスでは事件に関する関心が高まり、ロンドンに犠牲者のための記念碑を作る計画があったが、イギリス政府はこの事件が起こった日付が「1940年」となっている点に難色を示し、除幕式に代表を派遣しなかった[4]。


冷戦後の調査

ソ連では1985年に就任したゴルバチョフ書記長の下でペレストロイカが進み、グラスノスチ(情報公開)の風潮が高まると、ソ連においても事件を公表する動きがあらわれた。1987年にはソ連・ポーランド合同の歴史調査委員会が設置され、事件の再調査が開始された。1990年にはNKVDの犯行であることを示す機密文書が発見され、ゴルバチョフ書記長らはもはや従来の主張を継続することはできないという結論を下した。

1990年4月13日、ソ連国営のタス通信はカティンの森事件に対するNKVDの関与を公表し、「ソ連政府はスターリンの犯罪の一つであるカティンの森事件について深い遺憾の意を示す」ことを表明した[7]。同日、ポーランドのヴォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領がゴルバチョフと会談し、ゴルバチョフはカティンの森事件に言及するとともに、発見された機密文書のコピーをポーランド側に渡し、調査の継続を伝えた[7]。これにはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)、ビコブニアの事件も含まれている。


1992年、ソ連崩壊後の新生ロシア政府は最高機密文書の第1号を公開した。その中には、西ウクライナ、ベラルーシの囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書、ソ連共産党政治局が出した1940年3月5日付けの射殺命令や、21,857人のポーランド人の殺害が実行されたこと、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたシェレーピンのフルシチョフ宛て文書も含まれている。しかし、公表された文書で消息が明らかとなった犠牲者はカティンで4421人、ミエドノイエで6311人、ハルキエで3820人、ビコブニアで3435人であり、残りの3870人は依然として消息不明のままである[10]。

2004年、ロシア検察当局の捜査は「被疑者死亡」、「ロシアの機密に関係する」などの理由で終結した[11]。さらにロシア連邦最高軍事検察庁は事件の資料公開を打ち切り、2005年5月11日に「カティンの森事件はジェノサイドにはあたらない」という声明を行った[12]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6


▲△▽▼

January 1, 2010
こんな映画を観た〜アンジェイ・ワイダ「カティンの森」

シアター・キノ代表の中島洋が正月映画に選んだ作品に間違いはないだろう。

こう考えて観た「カティンの森」(原題はカティン)、ソ連秘密警察によるポーランド将校の処刑シーンが延々と続いて終わるワイダ監督渾身の力作は、元日に観るべき映画として最良の選択だった。

カティンの森<事件>についてはウィキペディアが詳しい。カティンの森事件

しかしこの映画は「カティンの森事件」を伝えるためだけのものではない。実父をカティンで殺された経歴を持つワイダ監督の眼差しは、たとえば「存在の耐えられない軽さ」のような映画と同じ、犠牲者の側に立つのか、それとも生き延びるために加害者の欺瞞に迎合するのか、という非常に困難な問いに向けられている。そして、映画全体としてはソ連の犯罪の告発というより、夫の生還を信じて何十年も待ち続けたポーランドの女性たちへの痛切なグランプリになっている。

映画にはいくつかの役割がある。その中でも最も重要なものの一つは、歴史と人間の欺瞞を暴くことであり、もしかしたらすべてが欺瞞かもしれない歴史の中での人間の生き方を問うことである。

将校の妻たちは潔癖とも言える「拒否」の精神を発揮し、はた目には無意味に見える抵抗を続けていく。同じ状況におかれたとき、自分ならどうしただろうかと考えずにはいられないが、たぶん、現実に彼女たちはこういう生き方を貫いたのだ。処世術として迎合したふりをして時を待ち、組織化して反撃に転じるという発想はない。政治的にあまりにナイーブなのだ。すべては個人的な出来事に還元されてしまうようで、それを歯がゆくも感じる。

将校アンジェイの妻は、彼女とその娘の安全を心配する良心的な秘密警察幹部からの形式的な結婚話を断るが、思わず、なんて愚かなと思ってしまったほどだ。

しかし、これこそが女性特有の偉大さなのだ。極私的な「愛」しか信じるに値するものはない。一見、非歴史的で小市民的にみえるこの愚かといえば愚かな信念こそが、実はジェノサイドを不可避的に結果するあらゆる「政治」を解体する唯一の契機なのかもしれない。

大量の死体がブルドーザーで埋められていくシーンは圧巻で、自分が死体の一つとなって埋められていくかのような圧迫感がある。しかしそれは単に残酷なシーンというだけでなく、人間が本質的に持つ残酷さを感じさせて映像そのもの以上に恐ろしい。

バビ・ヤールでナチス・ドイツが行った大量処刑は機関銃によるものだったが、「カティンの森」ではソ連赤軍は一人ずつ確実にピストルで処刑したようだ。ほとんど証言が残されていないが、生涯最後となるかもかもしれない作品で、ワイダ監督はどんな細部にも細心の注意を払い、できるだけ事実に忠実に再現するように心がけたことだろうから、これがほぼ事実なのだろう。こうした「手工業的」な処刑方法には、いかにもスターリン型共産主義者らしい陰険さと小心さがうかがえる。

この大量虐殺の首謀者はスターリンとその片腕ベリヤであることが歴史的に明らかになっている。しかしこの「事件」は彼らの個人的な資質によって起きたものではなく、権力の集中によっていつでも起こりうることであり、現に起きていて、これからも起きていくことだろう。

最も軽蔑すべき人間たちによって最も優れた人間たちが粛清されてきたのが人類の歴史にほかならない。

その歴史を反転させる革命こそが待たれている。
https://plaza.rakuten.co.jp/rzanpaku/diary/201001010000/


▲△▽▼

「カティンの森」アンジェイ・ワイダ監督 虐殺を今に問う 2009年12月19日
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html

 祖国の悲劇と抵抗の歴史を描き続けるポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の「カティンの森」が東京・神保町の岩波ホールで公開中だ。冒頭、「両親に捧(ささ)げる」という字幕が出る。父の命を奪い、母を苦しめた第2次大戦中の虐殺を、改めて「今」に問う。

 ポーランドに、ナチス・ドイツとソ連が侵攻した1939年。アンナは、ポーランド軍大尉の夫がソ連軍捕虜として連行される姿を目撃する。3年半後、ドイツは「虐殺された多数のポーランド人将校の遺体を発見」と発表。アンナは夫の死を伝えられるが、事実を受け入れられない……。

 この虐殺は「カティンの森事件」と呼ばれる。ポーランド東部を占領したソ連が40年、捕虜にした1万5千人ともいわれるポーランド人将校を殺害した。監督が映画化を構想し始めたのは、それから半世紀後だった。戦後、ポーランドはソ連の強い影響下にあった。「冷戦期、この事件はドイツの犯罪とされていた」と監督。89年に共産主義政権が次々倒れた東欧革命が起きるまで、真相はほぼ闇に葬られていたという。

 以後、すぐ製作に取りかかろうと試みるが、事件自体が長くタブー視され、全容を示す資料も、事件を扱った小説も見つからなかった。「世代」「地下水道」「灰とダイヤモンド」の「抵抗3部作」をはじめ、抑圧された人間像を切り出す原作を重厚に映してきた社会派の巨匠は、撮影までに長期をかけた。「見つかった将校の日記を参考にしたり、当時を知っている人にインタビューしたりした。映画は登場人物を含め、ほとんど実話だ」

 監督がつむぐ物語は、残された人たちを軸につづられていく。「特に、多くの女性の話を書くことが大事だった」と話す。監督自身、夫の生還を信じ続けた母親を見て育ったからだ。待つ側を物語ることで、残されて生きる者をも苦しませ続ける戦いの現実を強調したかった。犠牲になった兄のためにソ連の犯罪を意味する墓碑を建てようとする女性も登場する。

 手を縛り、後頭部を撃ち抜き、埋める――。終盤の虐殺場面は、まるで流れ作業のように残酷に映される。「この事件は戦争というより、スターリンの指示による官僚的、組織的な虐殺だろう」。独ソ双方が、相手側の犯罪としてプロパガンダ映画に利用するさまも象徴的に映される。

 劇中、アンナの夫の父にあたる大学教授はドイツの収容所で亡くなる。「言いたいことは一つ。独ソ両国ともポーランドを事実上、『消滅』させることで、同国を思うままに動かしたかった」と述べた。
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c10

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
11. 中川隆[-14946] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:51:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2038]

そして、超天才ショスタコーヴィチの人生はこうなった


宇野功芳

クラシック作曲家の三大ネクラは、ブラームス、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチではあるまいか。それでもチャイコフスキーの場合は、泣き節が大げさな上、メロディーが甘美なので深刻さが減じているが、救われないのはショスタコーヴィチだ。後期の弦楽四重奏曲を聴いてごらんなさい。もう、生きていくのがいやになる。


▲△▽▼

ショスタコーヴィチ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81

ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906年9月25日 - 1975年8月9日)は、ソビエト連邦時代の作曲家。交響曲や弦楽四重奏曲が有名である。

シベリウス、プロコフィエフと共に、マーラー以降の最大の交響曲作曲家としての評価がほぼ確立され、世界的にも特に交響曲の大家と認知されている。また、弦楽四重奏曲においても秀逸な曲を残し、芸術音楽における20世紀最大の作曲家の一人である。ショスタコーヴィチの音楽には暗く重苦しい雰囲気のものが多いが、その一方でポピュラー音楽も愛し、ジャズ風の軽妙な作品も少なからず残している。

当初、体制に迎合したソ連のプロパガンダ作曲家というイメージで語られていたが、『ショスタコーヴィチの証言』[1]が出版されて以後、ショスタコーヴィチには皮肉や反体制、「自らが求める音楽と体制が求める音楽との乖離に葛藤した、悲劇の作曲家」というイメージも加わった。

略歴

1906年 9月25日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに生まれる。
1915年 春、両親に連れられて初めて劇場を訪れ、オペラ(リムスキー=コルサコフの《サルタン王の物語》)を観る。夏には母親から初めてのピアノのレッスンを受ける。秋、シドルフスカヤ商業学校に入学。作曲も始める。
1916年 グリャッセール音楽学校に入学。
1917年 2月、街路上で同年配の少年が警官に殺害されるのを眼前で見る。同月、グリャッセールのところへ通う興味を失ってしまう。
1918年 秋、ローザノヴァにピアノを師事。(1917年とも)
1919年 第108労働学校が閉鎖。ユストニナ校に転校。秋、ペテルブルク音楽院に入学。グラズノフに師事する。
1921年 ユストニナ校を中退。
1922年 父が死去。
1923年 音楽院のピアノ科を修了。夏休みを利用した結核療養のために訪れたクリミアで、初のピアノ・リサイタルを開く。
1924年 11月、映画館「スヴェトラーヤ・フィリム」でピアノ伴奏のアルバイトを始める
1925年 作曲科の修了にともない、音楽院を卒業。修了制作として交響曲第1番を作曲。
1926年 5月16日、交響曲第1番初演。秋、音楽院の大学院課程に進学。
1927年 1月、第1回ショパン国際ピアノコンクールに出場。
1928年 メイエルホリド劇場の音楽部長として1月から3月まで務める。
1930年 バレエ音楽「黄金時代」完成し、レニングラードで初演。失敗する。
1931年 バレエ音楽「ボルト」完成し、レニングラードで初演。同じく失敗する。
1932年 科学者ニーナ・ヴァルザルと結婚。婚約記念として書き始められた歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を彼女に献呈。8月、作曲家同盟レニングラード支部の運営委員に選出。
1933年 軽音楽に関するレニングラード市の委員会の委員になる。ピアノ協奏曲第1番初演。
1934年 レニングラード市アクチャーブリ区の区議会議員に選出される。
1936年 歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」(1月)とバレエ「明るい小川」(2月)に対するプラウダ批判。5月30日、長女ガリーナ生誕。
1937年 春(一説には1月)、レニングラード音楽院に講師として勤務(後に教授)。交響曲第5番初演(11月21日)。この成功により名誉を回復。
1938年 5月10日、長男マクシム生誕。
1939年 ムソルグスキー生誕100周年記念祭の準備委員会の委員長となる。音楽院で教授に就任。
1940年 5月、労働赤旗勲章受章。ピアノ五重奏曲がスターリン賞を受賞。
1941年 交響曲第7番を作曲。翌年の初演は成功を収め、同年アメリカでも演奏された。レニングラード音楽院教授を辞任。
1942年 1月、交響曲第7番がスターリン賞第1席受賞。ロシア共和国功労芸術家の称号を授与。
1943年 3月、モスクワ音楽院教授に就任。国歌コンクールに参加。
1946年 ピアノ三重奏曲第2番がスターリン賞第2席を受賞。12月、レーニン勲章受章。
1947年 2月、レニングラード音楽院教授に復職。同月、作曲家同盟レニングラード支部の支部長に選出。10月、ロシア共和国人民芸術家の称号を授与。ロシア共和国最高議会代議員に選出。
1948年 ジダーノフ批判。9月、レニングラード音楽院、モスクワ音楽院ともに教授の職を解任。
1948年 3月、世界平和文化科学会議出席のため渡米(ニューヨーク)。
1949年 オラトリオ「森の歌」作曲・初演。
1950年 「森の歌」がスターリン賞第1席を受賞。10月、ソヴィエト平和擁護委員会の委員となる。11月、世界平和会議出席のためワルシャワ入り。
1952年 「革命詩人の詩による10の詩曲」がスターリン賞第2席を受賞。12月、世界平和会議出席のためウィーンへ。
1953年 交響曲第10番作曲、初演(12月17日)。6月、文化代表団の一員としてオーストリアに派遣される。
1954年 交響曲第10番に関する討議会(いわゆる第10論争)が作曲家同盟で開かれる。8月、ソ連人民芸術家の称号を授与。9月、国際平和賞受賞。12月、妻ニーナ死去。同月、スウェーデン王立音楽アカデミーの名誉会員に選出される。
1955年 東ドイツ芸術アカデミーの準会員に選出される。11月、母ソーフィヤ死去。
1956年 1月、サンタ・チェチーリア芸術アカデミーの名誉会員に選出される。9月、レーニン勲章受章。
1957年 春に開かれた第2回作曲家同盟大会において作曲家同盟初委員長となる。交響曲第11番がレーニン賞受賞。
1958年 オックスフォード大学より名誉博士の学位を授与、イギリス王立音楽アカデミー会員に選出。国際シベリウス記念賞受賞。9月、右手の麻痺(後に脊椎性小児麻痺であることが判明)で入院。
1959年 9月、米国務省主催による文化交流プログラムでワシントンで開催されたソヴィエト祭に、ソヴィエト代表団の一員として派遣される。メキシコ音楽院名誉教授の称号を受ける。
1960年 2月、再び右手の治療のため入院。10月、息子マクシムの結婚式で転倒、右足を骨折、入院。作曲家同盟第1書記に任命。
1961年 9月、ソビエト共産党員となる。12月、入党と引き替えにレニングラード音楽院大学院での教育活動に復帰する。交響曲第4番初演(12月30日)。
1962年 交響曲第13番作曲、初演。ソヴィエト連邦最高会議代議員に選出される。第2回チャイコフスキー国際コンクールの組織委員会委員長に任命される。6月、右手の治療のため三度入院。 月、イリーナ・スピーンスカヤと再婚。11月、ゴーリキー市で行われたコンサートで「祝典序曲」を指揮。
1963年 ユネスコ国際音楽評議会名誉会員に選出。
1964年 バシキール自治共和国人民芸術家の称号を受ける。
1965年 心臓病の悪化で入院。ソヴィエト芸術学名誉博士の学位を授与。
1966年 5月、生誕60周年記念演奏会出演後、心筋梗塞を起こし入院。第3回チャイコフスキー国際コンクールの組織委員会委員長に任命される。8月、イギリス・ロイヤル・フィルハーモニック協会金賞受賞。10月、レーニン勲章受章。社会主義労働英雄の称号を授与。
1967年 3月、オーストリア共和国名誉銀記章授与。9月、右足骨折で入院。
1968年 5月、シャルル・クロ記念フランス・レコード協会1等賞受賞。ロシア共和国作曲家同盟理事に選出。《ステパン・ラージンの処刑》がグリンカ賞受賞。世界平和擁護委員会の委員に選出。
1969年 交響曲第14番作曲、初演。ウィーン・モーツァルト協会がモーツァルト記念メダルを授与。
1970年 クルガンのサナトリウムで8月まで療養生活を送る。ベートーヴェン生誕200年祭のソヴィエト連邦実行委員会委員長に就任。8月、治療のため再入院。11月、《ソヴィエト民警の行進》がソヴィエト文学・芸術コンクール1等賞受賞。フィンランド作曲家協会名誉会員に任命。
1971年 3月、第24回共産党大会代議員を務める。9月、2回目の心筋梗塞で入院。10月革命勲章受章。
1972年 5月、東ドイツ友好の星金賞受賞。7月、聖トリニティー大学より名誉音楽博士の学位を授与される。スクリャービン生誕100周年祭実行委員会委員長に選出。
1973年 デンマーク・ゾンニング基金名誉賞受賞。6月、ノース・ウェスタン大学より芸術名誉博士の学位を授与。8月、サハロフ非難書簡に署名。姉マリア死去。ラフマニノフ生誕100周年祭実行委員会委員長に選出。
1974年 男声合唱曲《忠誠》、弦楽四重奏曲第14番がグリンカ賞受賞。ソ連邦最高会議民族ソヴィエト〈国民教育・科学・文化委員会〉委員長を務める。
1975年 4月、フランス芸術アカデミーの名誉会員となる。最後の作品「ヴィオラソナタ作品147」完成。7月、体の不調を訴え入院。8月4日に再入院の後、8月9日、ソ連の首都モスクワの病院にて肺がんで逝去。8月14日、ノヴォジェヴィチ墓地に埋葬される。

詳細

1919年ペテルブルク音楽院(後にペトログラード音楽院、レニングラード音楽院)に入学。専攻は作曲とピアノ。1925年に、同音楽院作曲科の卒業作品として作曲した交響曲第1番において国際的に注目された。

1920年代後半から1930年代前半にかけては、アルバン・ベルクやダリウス・ミヨーなど西欧の革新的な音楽技法を吸収し、舞台音楽を中心に多くの楽曲を作曲。特にピアノ協奏曲第1番ではジャズに、歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』ではベルクの歌劇『ヴォツェック』などに触発された内容となっている。

しかし、1936年に歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』とバレエ『明るい小川』が、ソヴィエト共産党機関紙『プラウダ』で批判(プラウダ批判)を受け、自己批判を余儀なくされる。そのような状況下、批判前に作曲し、オーケストラでリハーサルまでしていた交響曲第4番の初演を撤回。批判後、新たに作曲された交響曲第5番以降は、それまでの作風から一転し、政府が自国の音楽に求めた「社会主義リアリズム」-「形式において民族的、内容において社会主義的」 - の路線に沿う作風の作品を発表し続けることとなる。

1930年代後半から1940年代前半にかけては、交響曲や室内楽曲を多く作曲。

中でも、スターリン賞を受賞したピアノ五重奏曲や、友人の突然の死を悼んだピアノ三重奏曲第2番、独ソ開戦直後から書き始められた交響曲第7番「レニングラード」が有名である。

1948年、ソビエトの作曲家のほとんどが「形式主義者」として共産党により批判(「ジダーノフ批判」と呼ばれる。)されると、オラトリオ『森の歌』や映画音楽『ベルリン陥落』、カンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、あからさまに当局に迎合した共産党賛美の作品を多数作り、名誉の回復を勝ち得た。

一方、ヴァイオリン協奏曲第1番(1948年)や『ユダヤの民族詩から』(1948年)、弦楽四重奏曲第4番(1949年)など、この頃書かれた作品のうち、何曲かは公表が控えられ、多くはスターリンの死後に発表された。

1953年にスターリンが死ぬと、第9番以降、ジダーノフ批判以後は書かれていなかった交響曲(第10番)を約8年ぶりに発表。曲の内容の暗さと「社会主義リアリズム」との関係において、大論争(いわゆる第10論争)を巻き起こし、国外でも大きく報道された。

1950年代後半から晩年にかけては、交響曲、協奏曲、室内楽曲、さらには声楽曲で傑作を多数残した。特に、当局の締め付けが和らいだスターリン死後から1960年代前半までのいわゆる「雪解け」の時期には、演奏が禁止されていた作品の名誉回復(『ムツェンスク郡のマクベス夫人』でさえ、中規模程度の改訂の後、1963年に復活上演された)、交響曲第4番やヴァイオリン協奏曲第1番といった公表が控えられていた作品の発表、「社会主義リアリズム」の概念にとらわれない近代的で斬新な作風の作品(弦楽四重奏曲第7番や『サーシャ・チョールヌィの5つの詩』、映画音楽『ハムレット』など)の発表が相次いだ。

特にこの時期を代表する作品が弦楽四重奏曲第8番と交響曲第13番の2曲である。

弦楽四重奏曲第8番(1960年)では、曲の大半で自作の引用を大々的に行うほか、ドイツ音名の自分のイニシャル「DSCH」の音列を中心主題の素材として用い、自身へのレクイエムとした。また、交響曲第13番(1963年)は、ナチによるユダヤ人の大虐殺を、ウクライナの谷底バビ・ヤールで起こった実際の事件を取り上げて告発。共産党によりテクストとして用いた詩の書き換えを要求されるなどの事件もあったが、1930年代、1940年代のような厳しい批判にはほとんど晒されることもなく、音楽には一切手が加えられず現在でもショスタコーヴィチの代表作として聴かれている。また、60代を過ぎた1960年代半ば以降は、透明で熟達した技法の深化がみられる『ミケランジェロ組曲』やヴァイオリンソナタ、ヴィオラソナタなどのほか、十二音技法やトーン・クラスターを導入した『A・ブロークの詩による7つの歌曲』や交響曲第14番などで前衛的な作風へのアプローチを再び試みるなど、死の直前まで意欲的に作曲を続けた。ショスタコーヴィチの最晩年を代表する作品には、ロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲や、ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』の運命の動機など他作曲家の作品の引用を大胆に行い(自作の交響曲第4番の引用もある)、自身の音楽的回想とした交響曲第15番(1972年)、すべての楽章をアダージョとし、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番『月光』からの引用もみられる弦楽四重奏曲第15番(1974年)、死の1か月前に完成し、ショスタコーヴィチの「白鳥の歌」とも呼ばれる、作曲者自身聴くことの出来なかった遺作ヴィオラソナタ(1975年)などがある。

ショスタコーヴィチはピアニストとしても活躍した。卓越したテクニックを有し、音楽院を卒業してからは作曲家になるかピアニストになるか真剣に悩んでいたほどである。第1回ショパン国際ピアノコンクールにソヴィエト代表の一人として選出され出場・入選したほか、2曲のピアノ協奏曲や『24の前奏曲とフーガ』など、自作の初演・録音も多数行なった。しかし、後年は脊椎性小児麻痺の影響で右手が不自由となり、ピアノを弾くことが出来なくなった。また大のサッカー好きで、地元のサッカークラブのスコアをメモ帳に書き記すなどの熱狂的サッカーファンだった。サッカーの審判の資格も持っていた。

作風

ショスタコーヴィチの作品には、J.S.バッハのフーガ、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲、マーラーの交響曲、ベルクの和声語法や引用法などの影響が見られ、オーケストレーションはあまり楽器の音色を混ぜない原色配置である。原則としてショスタコーヴィチの音楽は調性音楽の範囲内にあるが、無調的な主題を用いることも多く、最晩年には十二音技法を自分なりに消化した独自の音列技法やトーンクラスター等の前衛技法を用いたりしている。戦争や生死などをテーマとした重い作品が多い一方、交響曲第9番やジャズ組曲のような軽妙な作品も多く作曲している。

一般に作風の変化の境界点は、以下の項目に分けられる。

初期・前衛的な作品群


作品1 - 作品46(1919年 - 1936年) 少年期から音楽院入学以前の極初期は除き、ショスタコーヴィチの作風は、前衛的な音楽から出発したといってよい。例えば、交響曲第1番の冒頭では、グラズノフに和声の変更を指摘されていた。「前衛的」と最もはっきりとわかる初期の作品としては、『弦楽八重奏のための2つの小品』(作品11)、ピアノソナタ第1番(作品12)、格言集(作品13)、そして交響曲第2番(作品14)がある。しかし、『タヒチ・トロット』(作品16)や映画音楽『新バビロン』(作品18)以降は、ジャズやボードビル、キャバレー・ソングなど、軽音楽の影響も受けることとなる。この分野の傑作としてはバレエ『黄金時代』(作品22)、劇音楽『条件付の死者』(作品31)、ピアノ協奏曲第1番(作品35)などがあるが、枚挙に暇がない。交響曲第4番(作品43)の第3楽章の中間部は、明らかに軽音楽の影響が濃厚である。ショスタコーヴィチの、新ウィーン楽派に影響を受けたという意味での「前衛音楽」としての最後の作品は、管弦楽のための『5つの断章』(作品42)である。この作品は、交響曲第4番同様発表が控えられ、初演が行われたのは1965年になってからである。ゴーゴリの短編に取材したオペラ『鼻』(作品15)は、彼自身交流のあったメイエルホリドの斬新な舞台演出の影響を受け、古典形式を基本としながらも、ベルク、クルシェネクら同時期の作品を参考にしたきわめて前衛的な作風で発表当時から賛否両論を巻き起こす問題作となり、次作のオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(作品29)とともに彼の初期作品のピークとなる。初期はロシア音楽の伝統を受け継ぎながら最新の音楽を取り上げるなど機智と独創性に富んだ作風であったが、ムツェンスク郡のマクベス夫人』がスターリンの怒りを買い、折からの粛清が絶頂期にあることも鑑み、前衛色は失われていった。

社会主義リアリズム

作品47 - 作品92(1936年 - 1953年) 第4番のような前衛性を控えた交響曲第5番(作品47)は初演後に「社会主義リアリズムのもっとも高尚な理想を示す好例」と評価された[2]。この時期のショスタコーヴィチが音楽を担当した映画は「社会主義リアリズム」に基づいたテーマのものばかりで、ロシア革命を主題としたものが多い。例えば、ノンポリの学生が革命の理念に目覚め、社会主義的に成長する姿を描いた『マクシム三部作』(『マクシムの青春時代』作品41、『マクシムの帰還』作品45、『ヴィヴォルグ地区』作品50)、ロシア革命の英雄チャパーエフの活躍を描いた『ヴォロチャーエフ砦の日々』、暗殺されたキーロフを髣髴とさせる人物が主人公の『偉大な市民』2部作(作品52、55)、ロシア革命におけるレーニンとスターリンの活躍を描いた『銃を取る人』(作品55)、ロシア革命後の赤軍と白軍との内戦を描いた『忘れがたき1919年』(1952年、作品89)である。第二次世界大戦の勃発後はピアノ五重奏曲(作品57)や交響曲第8番(作品65)、ピアノ三重奏曲第2番(作品67)などこの路線から離れた作品もいくつか残している。しかし、1948年に「ジダーノフ批判」が出てからは、オラトリオ『森の歌』(作品81)や映画音楽『ベルリン陥落』(作品82)、『革命詩人の詩による10の詩曲』そしてカンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、再び意識したように「社会主義リアリズム」色濃い作風の作品を残している。この時期の作品としては交響曲第8番などの他に、歌劇『賭博師』や、ヴァイオリン協奏曲第1番なども、社会主義リアリズムの路線からは離れた作風であると評価されることが多い。


ユダヤ音楽への傾倒

ショスタコーヴィチの作曲家としての「ユダヤの音楽」への関心が明らかな最初の作品は ピアノ三重奏曲第2番 (1944年)といわれていた[3][4]。もちろんショスタコーヴィチはユダヤ人ではなかったが、マーラーへの興味をはじめとし、1936年には、プラウダ批判によって、自分の悲運をユダヤ人のそれに沿って象徴するものと考えるようになった[5]。1937年の交響曲第5番第3楽章にはユダヤ音楽の要素が表れそれは交響曲第3番(1929年)からのユダヤ教会での典礼の詠唱の旋律の引用でもある[6] また交響曲第7番(1941年)第1楽章のクライマックスなどにはクレズマー旋律が使われている[7]。音楽院の愛弟子でレニングラード攻防戦で戦死したユダヤ人、ヴェニアミーン・フレーイシュマンの未完のオペラ『ロスチャイルドのヴァイオリン』の補作(1944)を行ったこともある。作品にユダヤ音楽の主題が使われているのは歌曲集『ユダヤの民俗詩から』(1948年)、 ヴァイオリン協奏曲第1番(1948年)、弦楽四重奏曲第4番(1949年)、24の前奏曲とフーガ(1951年)、 プーシキンの詩による4つのモノローグ(1952年)である[8]。 ピアノ協奏曲第2番(1957年)第2楽章 交響曲第9番(1945年)フィナーレの後半には、ユダヤ人には「それ」としてハッキリ分かる形でユダヤ音楽が引用されているという。弦楽四重奏曲第8番(1960年)には、ピアノ三重奏曲第2番最終楽章のユダヤ旋律が明瞭に引用されている。その他の作品では交響曲第13番 (1962年)、また 交響曲第15番 (1971年)最終楽章での交響曲第7番の引用にユダヤ音楽のテーマを見出せる[9]。 ショスタコーヴィチの周りには、例えば親しい友人に作曲家のミェチスワフ・ヴァインベルク、俳優ソロモン・ミホエルスなどユダヤ人は多かったし、このほかオーケストラの団員にもユダヤ系は多かった。


スターリン死後

作品93 - (1953年 - ) 1953年3月5日、スターリンが死んだ。独裁者の死は、ソヴィエトの社会に一時の混乱をもたらした。1956年、フルシチョフによって行われた「スターリン批判」により、スターリンの独裁体制は名実ともに崩れ去った。スターリンの死に合わせたように、ショスタコーヴィチは、第9番を最後に中断していた交響曲を書き始め、すぐに発表する。前衛的な作風ではないものの、終始音楽に悲劇的な重さが付きまとう音楽で、自身のイニシャルをドイツ音名にした「DSCH」の音列も頻出する、自伝的な作品である。この作品以降、ショスタコーヴィチの曲には「DSCH」の音列が頻繁に使われるようになる。1950年代も終わり近くになると、ソヴィエトの社会主義体制も次第に軟化しはじめ、アメリカとも協調姿勢をとるようになってゆく。「雪どけ」といわれるこの時期、ショスタコーヴィチが発表を控えていた交響曲第4番などの作品が数十年ぶりに「初演」されたのもこの頃だ。戦前、ショスタコーヴィチが個人批判される元凶となった歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』はそのままの形での上演は絶望的だったものの、ある程度改訂された『カテリーナ・イズマイロヴァ』(作品114)は再上演が許される状態にまでなった。しかし、交響曲第13番の歌詞問題が表面化した頃、キューバへのミサイル配備計画がアメリカに非難されたのをきっかけに「雪どけ」体制は解体され、冷戦の時代に突入する。

「雪どけ」後

ブレジネフ時代になり、国内では締め付けが強まるが、ショスタコーヴィチ自身の生活は安定し数々の栄誉に包まれるなど、音楽活動を続ける環境はスターリン時代と比べ格段と恵まれていた。相変わらず体制に迎合した作品もあるが、作風は芸術性が高まり、七楽章の弦楽四重奏曲第11番(1966年)・マーラーの『大地の歌』の影響を受けた声楽つきの交響曲第14番(1969年)。豊かな響きと緊張感漂う映画音楽『リア王』(1970年)などの意欲作を相次いで発表した。とくに『ブロークの詩による七つの歌曲』(1967年)と弦楽四重奏曲第12番(1968年)においては十二音技法に挑戦するなど、その研究心は衰えなかった。

最晩年になると、作風も哲学風で研ぎ澄まされた独特の透明感が支配的となる。交響曲第15番(1971年)、弦楽四重奏曲第14番(1973年)・弦楽四重奏曲第15番(1974年)では過去の作品からの引用が顕著になるが、そこにはすでに健康の衰えを感じ、死を意識した作曲者の思いが見え隠れする。それは政治に翻弄された波瀾万丈の人生を振り返り、達観したかのような感を受ける。また「ミケランジェロの詩による組曲」(1974年)では、自身の芸術の総括をルネサンスの芸術家に譬えたものとして評価されている。


作品

「ショスタコーヴィチの楽曲一覧」も参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E4%B8%80%E8%A6%A7

ショスタコーヴィチの創作の中心は、交響曲と弦楽四重奏曲にあった。これらのなかでも特に有名なのが、交響曲第5番、第7番、第10番と弦楽四重奏曲第8番である。また歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』 は古今のオペラの傑作の一つとされる。


交響曲

交響曲第1番 ヘ短調 作品10(1925年)
交響曲第2番 ロ長調 作品14「十月革命に捧ぐ」(1927年)
交響曲第3番 変ホ長調 作品20「メーデー」(1929年)
交響曲第4番 ハ短調 作品43(1936年)
交響曲第5番 ニ短調 作品47(1937年)
交響曲第6番 ロ短調 作品54(1939年)
交響曲第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」(1941年)
交響曲第8番 ハ短調 作品65(1943年)
交響曲第9番 変ホ長調 作品70(1945年)
交響曲第10番 ホ短調 作品93(1953年)
交響曲第11番 ト短調 作品103「1905年」(1957年)
交響曲第12番 ニ短調 作品112「1917年」(1961年)
交響曲第13番 変ロ短調 作品113(1962年)
交響曲第14番 ト短調 作品135(1969年)
交響曲第15番 イ長調 作品141(1971年)


弦楽四重奏曲

弦楽四重奏曲第1番 ハ長調 作品49(1938年)
弦楽四重奏曲第2番 イ長調 作品68(1944年)
弦楽四重奏曲第3番 ヘ長調 作品73(1946年)
弦楽四重奏曲第4番 ニ長調 作品83(1949年)
弦楽四重奏曲第5番 変ロ長調 作品92(1952年)
弦楽四重奏曲第6番 ト長調 作品101(1956年)
弦楽四重奏曲第7番 嬰ヘ短調 作品108(1960年)
弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 作品110(1960年)
弦楽四重奏曲第9番 変ホ長調 作品117(1964年)
弦楽四重奏曲第10番 変イ長調 作品118(1964年)
弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調 作品122(1966年)
弦楽四重奏曲第12番 変ニ長調 作品133(1968年)
弦楽四重奏曲第13番 変ロ短調 作品138(1970年)
弦楽四重奏曲第14番 嬰ヘ長調 作品142(1973年)
弦楽四重奏曲第15番 変ホ短調 作品144(1974年)

弦楽のためのレクィエム 作品144bis(原曲は第15番)


管弦楽曲・吹奏楽曲

スケルツォ第1番 嬰ヘ短調 作品1(1919年)
主題と変奏 変ロ長調(1922年)
スケルツォ第2番 変ホ長調(1924年)
タヒチ・トロット(1928年)
E・ドレッセルの歌劇『コロンブス』のための2つの小品(1929年)
ジャズ・オーケストラのための第1組曲(1934年)
5つの断章(1935年)
ジャズ・オーケストラのための第2組曲(1938年)
荘厳な行進曲(1941年)
バレエ組曲第1 - 4番(1950年 - 53年)
祝典序曲(1954年)
ノヴォロシースクの鐘(1960年)
ロシアとキルギスの主題による序曲(1963年)
交響詩「十月革命」(1967年)
交響的哀悼前奏曲(1967年)
ソヴィエト民警の行進曲(1970年)
インターヴィジョン(1971年)
「緑の工場」のための序曲
2つの前奏曲(アルフレート・シュニトケ編曲)


協奏曲

ピアノ協奏曲第1番 ハ短調 作品35(1933年)
ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 作品102(1957年)
ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 作品77(99)(1948年)
ヴァイオリン協奏曲第2番 嬰ハ短調 作品129(1967年)
チェロ協奏曲第1番 変ホ長調 作品107(1959年)
チェロ協奏曲第2番 ト短調 作品126(1966年)

室内楽曲

弦楽八重奏のための2つの小品 作品11(1927年)
チェロ・ソナタ ニ短調 作品40(1934年)
ピアノ五重奏曲 ト短調 作品57(1940年)
ピアノ三重奏曲第1番 ハ短調 作品8(1923年)
ピアノ三重奏曲第2番 ホ短調 作品67(1944年)
ヴァイオリン・ソナタ ト長調 作品134(1968年)
ヴィオラ・ソナタ ハ長調 作品147(1975年)
弦楽四重奏のための2つの小品(1931年)
ヴァイオリン・ソナタ(1945年に着手したが未完)
チェロとピアノのためのモデラート
3つのヴァイオリン二重奏曲
ハープ二重奏のためのポルカ 嬰ヘ長調
3つの小品


オペラ

鼻(1928年)
ムツェンスク郡のマクベス夫人(1934年)Op.29
カテリーナ・イズマイロヴァ(1963年) - 「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の改訂版。Op.114
賭博師(1941年)
大きな稲妻
オランゴ(1932年)


オペレッタ
モスクワ・チェリョームシキ(1958年)Op.105

合唱曲

オラトリオ「森の歌」(1949年)
カンタータ「わが祖国に太陽は輝く」(1952年)
混声合唱のための無伴奏合唱曲十の詩曲(1951年)
バラード「ステパン・ラージンの処刑」(1964年)
反形式主義的ラヨーク

声楽曲

日本の詩人の詞による6つの歌 作品21(1928年) オーケストラ伴奏版あり
プーシキンの詩による4つのロマンス 作品46 オーケストラ伴奏版あり
歌曲集「ユダヤの民族詩より」 作品79 オーケストラ伴奏版あり
レールモントフの詩による2つのロマンス 作品84
エフゲニー・ドルマトーフスキーの詩による4つの歌曲 作品86
プーシキンの詩による4つのモノローグ 作品91
エフゲニー・ドルマトーフスキーの詩による5つのロマンス 作品98
スペインの歌 作品100(1956年)
風刺 作品109(1960年)
自作全集への序文とその序文についての短い考察 作品123
アレクサンドル・ブロークの詩による7つの歌曲 作品127
マリーナ・ツヴェタエワの詩による6つの歌曲 作品143 オーケストラ伴奏版あり
ミケランジェロの詩による組曲 作品145 オーケストラ伴奏版あり


バレエ音楽

黄金時代(1930年)
ボルト(1931年)
明るい小川(1935年)
お嬢さんとならず者(1962年)

映画音楽

新バビロン 作品18(1929年)
女一人 作品26(1931年)
黄金の丘 作品30(1931年)
呼応計画 作品33(1932年)
司祭とその下男バルダの物語 作品36(1935年)
愛と憎しみ 作品38(1934年)
マクシムの青年時代 作品41(1935年)
女友達(1935年)
マクシムの帰還(1937年)
ヴォロチャーエフの日々(1937年)
ヴィボルグ地区(1938年)
友人たち(1938年)
偉大なる市民第1部(1937年)
銃を取る人 作品50(1938年)
偉大なる市民第2部 作品55(1939年)
おろかな子ねずみ 作品56(1939年)
コルジンキナの冒険 作品59(1940年)
ゾーヤ 作品64(1944年)
素朴な人々(1945年)
若き親衛隊 作品75(1948年)
ピロゴーフ(1947年)
ミチューリン 作品78(1948年)
エルベ河の邂逅 作品80(1948年)
ベルリン陥落 作品82(1949年)
ベリンスキー(1950年)
忘れがたき1919年(1951年)
偉大な川の歌・ユニティ 作品95(1954年)
馬あぶ 作品97(1955年)
第1軍用列車(1956年)
5昼夜 作品111(1960年)
ハムレット 作品116(1964年)
生涯のような1年(1965年)
ソフィア・ペロフスカヤ 作品132(1967年)
リア王 作品137(1970年)
永遠の使者
戦艦ポチョムキン(この映画のために曲が作られたわけではなく、1976年の復刻時に既存の交響曲が使用された)
チェリョームシキ


劇付随音楽 全10作品

南京虫 作品19(1929年)
射撃 作品24(1929年)
ルーレ・ブリタニア 作品28(1931年)
ハムレット 作品32(1932年)
スペインにサリュー 作品44(1936年)
人間喜劇 作品37(1933年 - 1934年)
リア王 作品58a(1941年)
母国 作品63(1942年)
ロシアの川 作品66(1944年)
勝利の春 作品72(1946年)

ピアノ曲

5つの前奏曲(1921年)
3つの幻想的な舞曲(1925年)
2台のピアノのための組曲嬰ヘ短調(1925年)
ピアノ・ソナタ第1番(1926年)
10の格言集(1927年)
ピアノ・ソナタ第2番(1943年)
24の前奏曲(1933年)
子供のノート(1944年)
陽気な行進曲(1949年)
24の前奏曲とフーガ(1952年)
2台のピアノのための小協奏曲(1954年)
グリンカの主題による変奏曲(1957年)

編曲作品

ドメニコ・スカルラッティの2つの小品 作品17
ムソルグスキー 歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」の管弦楽編曲 作品58
ムソルグスキー 歌劇「ホヴァーンシチナ」の管弦楽編曲 作品106
ムソルグスキー 歌曲集「死の歌と踊り」の管弦楽編曲
A.ダヴィデンゴの2つの合唱曲の管弦楽編曲 作品124
ロベルト・シューマン チェロ協奏曲 イ短調の編曲 作品125
ストラヴィンスキー 詩篇交響曲の4手ピアノ用編曲
リムスキー・コルサコフ 私はほら穴で君を待っていたの管弦楽編曲
チシチェンコ チェロ協奏曲第1番の再オーケストレーション
ヨハン・シュトラウス2世 「ウィーン気質」の編曲
ヨハン・シュトラウス2世 「観光列車」の編曲
オネゲル 交響曲第3番 典礼風の4手ピアノ用編曲
ベートーヴェン 蚤の歌の管弦楽伴奏用編曲
ベートーヴェン ピアノソナタ第8番 悲愴の第2楽章の管弦楽編曲
ベートーヴェン ピアノソナタ第32番の第1楽章の管弦楽編曲
マーラー 交響曲第10番の4手ピアノ用編曲
シューベルト 軍隊行進曲の管弦楽編曲
ロシア民謡「ヴォルガの舟歌」のオーケストレーション

自作の編曲

歌劇「鼻」のピアノ編曲
交響曲第3番のピアノと声楽用編曲
バレエ「明るい小川」よりモデラート
主題と変奏 作品3のピアノ用編曲
交響曲第4番の2台ピアノ用編曲
交響曲第10番の2台ピアノ用編曲

その他の作品

兵士(1917年頃)
森の中にて
自由の讃歌
ソヴィエト讃歌
国歌(ソヴィエト連邦)
赤軍の歌(アラム・ハチャトゥリアンとの共作)
ポルカ
4つのワルツ
平和の鳥
儀式用行進曲
2つのマズルカ
我が祖国の栄光を歌う

創作ジャンルは宗教音楽以外のほぼ全てにわたる。労働歌で1917年から1944年の間ソヴィエト連邦国歌でもあった『インターナショナル』の管弦楽編曲もある。

著作

本人の著書と称されているものが、日本では2冊出版されている。ソロモン・ヴォルコフによる『ショスタコーヴィチの証言』(水野忠夫訳 中央公論社、1980年)と、レフ・グリゴーリエフとヤーコフ・プラデークの手による『ショスタコーヴィチ自伝――時代と自身を語る』(ラドガ出版社訳 ラドガ出版社〔発売:ナウカ〕、1983年)である。前者は、はじめは1979年にアメリカ、ドイツで出版されたもので、ショスタコーヴィチの評価をめぐって論議を巻き起こした。発表された当初からソビエト作曲家同盟などのほかローレル・フェイのような西側の音楽学者からも偽書である疑いが投げかけられ真贋については議論があった[1]。詳細は「ショスタコーヴィチの証言」を参照。

後者は1980年にソ連で刊行された。「自伝」とあるが、正確には、ショスタコーヴィチが生前にさまざまな媒体に発表した文章などを年代順にまとめたものである。ヴォルコフやマクシム・ショスタコーヴィチは、「実際には、別人が書いていたのだ」と主張している。すべての記事はソビエト体制下では公式見解として発表されたものである。

ショスタコーヴィチはさまざまな人物と頻繁に手紙をやりとりしており、数冊が出版されている。邦訳書は2006年現在、存在しない。とりわけ有名なのは、音楽学者イサーク・グリークマンと行われた書簡集である。1993年にロシアで出版されたもので、英訳されている (Story of a Friendship, trans. by Anthony Phillips, London: Faver/Ithaca, N.Y. : Cornell University Press, 2001.)。

2006年9月25日、ショスタコーヴィチ生誕100周年を記念し、ショスタコーヴィチと公私共に親友だったイワン・ソレルチンスキーとの往復書簡が出版されている。これは、イワンの息子であり音楽学者のドミトリーが編纂した書籍。ショスタコーヴィチとソレルチンスキーが知り合った1927年から、ソレルチンスキーが急逝した1942年までにやりとりされた、現存するほぼすべての書簡が掲載されている。

なお子息2人(ガリーナとマクシム)による、多くの写真を交えた回想証言『わが父ショスタコーヴィチ』(田中泰子訳、音楽之友社、2003年)が出版されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c11

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
12. 中川隆[-14945] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:55:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2037]

宇野功芳

「ここ何年かで日本はもとより、世界のオーケストラが格段にうまくなった。
複雑に音が入り組んだマーラー、ショスタコーヴィチの交響曲には以前にも名盤が存在したが、指揮者の解釈はともかく、オーケストラの性能は十分とはいえなかった。
今ようやく、作曲者の意図した音が細大漏らさず、出てくるようになった気がする」
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO92976910Z11C15A0000000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c12

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
13. 中川隆[-14944] koaQ7Jey 2019年11月14日 05:31:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2036]

平林遼(指揮者)

ショスタコーヴィチ 解説 交響曲第1〜15番 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ECi1eJLgNeQ


ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 解説 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=XzF8q6q_sMA
https://www.youtube.com/watch?v=AZC-HUVnpv0
https://www.youtube.com/watch?v=MzGKkKgJWTs
https://www.youtube.com/watch?v=WTzqSDPKXTc


ショスタコーヴィチ ロシアとキルギスの主題による序曲 解説 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6naFbMeh008


ショスタコーヴィチの交響詩《十月》詳細解説/Symphonic poem October by D.Shostakovich - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RrlviGz2Z-w

平林遼(指揮) @ryo_hirabayashi

広上淳一、ロリン・マゼール等各氏に師事 。
2019年第4回ニノ・ロータ国際指揮者コンクール「聴衆賞」・ファイナリスト(最高位次点) 。第1回イタリア国際指揮者コンクール「第3位」。2015-2017 ベルリン。第1回リッカルド・ムーティ・イタリアン・オペラ・アカデミー最終選考招聘。
東京音大指揮科卒。
https://twitter.com/ryo_hirabayashi?lang=ja


平林 遼 指揮者 未来の音楽研究所 音楽哲学・音楽思想
https://www.ryohirabayashi.com/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c13

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
14. 中川隆[-14943] koaQ7Jey 2019年11月14日 06:23:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2035]
2006.08.19 明るい!?ショスタコーヴィチ
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20060819/1156002386

クラシック作曲家の三大ネクラは、ブラームス、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチではあるまいか。
それでもチャイコフスキーの場合は、泣き節が大げさな上、メロディーが甘美なので深刻さが減じているが、救われないのはショスタコーヴィチだ。
後期の弦楽四重奏曲を聴いてごらんなさい。もう、生きていくのがいやになる。
(講談社現代新書『新版・クラシックの名曲・名盤』宇野功芳著より引用)

ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906年9月25日-1975年8月9日)は、「社会主義」ソヴィエト連邦を象徴する作曲家だ。

体制と理想との間で悶え苦しんだ作曲家ショスタコーヴィチ。

「社会主義」という理想と裏腹に、ソヴィエト社会は密告社会だった。

ショスタコーヴィチの作品は、「社会主義」リアリズムの路線に沿った作品であると国家よりお墨付きを与えられたり、反対に、作品によっては、ブルジョア的、退廃的であると批判された。

史上最悪の独裁者の一人であるスターリンの指導の下、生命の安全すら危惧された境遇で、その恐怖は計り知れない。

体制と理想の間で悩み苦しみながら、社会的な制限の中で、最大の理想を追い求めた音楽家がショスタコーヴィチだ。


私はショスタコーヴィチという作曲家にとても興味がある。

彼の人生は、国家と体制が個人の内面にまで入り込んできた時代を象徴するように思え、その作品は、特殊な状況下における人間の孤独な内面の戦いを暗示しているように思えてならないからだ。

彼の作品がネクラであるのは当然のことで、逆に明るかったりしたら、現在、彼の膨大な作品を私たちが楽しむこともできないはずだ。


◇  ◇  ◇


ショスタコーヴィチ:ジャズ音楽集
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000EMH7VY/ushinabesquar-22/

アーティスト: シャイー(リッカルド),ショスタコーヴィチ,ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団,ブラウティハム(ロナウド),マスーズ(ペーター)

1. ジャズ組曲 第1番 第1曲 : ワルツ
2. ジャズ組曲 第1番 第2曲 : ポルカ
3. ジャズ組曲 第1番 第3曲 : フォックストロット
4. ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 作品35 第1楽章 : Allegretto
5. ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 作品35 第2楽章 : Lento
6. ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 作品35 第3楽章 : Moderato
7. ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 作品35 第4楽章 : Allegro con brio
8. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第1曲 : 行進曲
9. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第2曲 : リリック・ワルツ
10. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第3曲 : 第1ダンス
11. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第4曲 : 第1ワルツ
12. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第5曲 : 小さなポルカ
13. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第6曲 : 第2ワルツ
14. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第7曲 : 第2ダンス
15. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第8曲 : フィナーレ
16. タヒチ・トロット(二人でお茶を) 作品16

______


ジャズ組曲第2番 第3曲 第1ダンス - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=71nw5r3n9iQ
リッカルド・シャイー指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

Shostakovich Jazz Suite Riccardo Chailly - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Shostakovich%3A+Jazz+Suite++Riccardo+Chailly

Royal Concertgebouw Orchestra · Riccardo Chailly

___

ショスタコーヴィチ: ジャズ組曲 ヤンソンス 1996 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VxpPokL863U
https://www.youtube.com/watch?v=EhUqLuoy4zs

マリス・ヤンソンス指揮 Mariss Jansons 8, 9, 11 March.1996
フィラデルフィア管弦楽団 The Philadelphia Orchestra
Shostakovich : Jazz Suite No.1

______


そんなネクラなショスタコーヴィチが、明るい作品を残している。

それが、ジャズ組曲だ。

このCDには、第1番と第2番が収録されているどちらも名曲だ。

中でも「プロムナードオーケストラのためのジャズ組曲第2番」のワルツ。

この曲は、スタンリー・キューブリックの遺作・映画『アイズ・ワイド・シャット』のテーマとして使われた。

優雅な旋律。まるで舞踏だ。

禁欲的な曲に収まりきらない、そこから溢れ出る退廃の香り。

ソヴィエト体制の下で、交響曲第5番を作曲した同じ作曲家とは思えないほど、この曲にはロマンティシズムが溢れている。

ショスタコーヴィチという人物、その音楽性には興味が尽きない。

その世界はどこまでいっても深淵だ。


◇  ◇  ◇


トルストイ『戦争と平和』の冒頭。

19世紀のナポレオンのロシア侵攻という歴史的事件をむかえる貴族社会の様子が描かれている。

来るべき戦争に対してもどこか他人事な社交界の空気。

トルストイの描写はとても精緻で、優雅な社交界の姿が目に浮かぶ。

この曲を聴いて連想されるのはそんな空気だ。

時代はだいぶ違うが、一言で言うと、「ロシア的」という言葉に尽きると思う。


「ソヴィエト連邦」を象徴する作曲家、ショスタコーヴィチの音楽に「ロシア」の残り香が感じられる。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20060819/1156002386

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c14

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
15. 中川隆[-14942] koaQ7Jey 2019年11月14日 06:40:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2034]



ショスタコーヴィチ「タヒチ・トロット(二人でお茶を)」作品16
2015 MAR 3 1:01:01 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/03/03/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81%e3%80%80%e3%80%8c%e3%82%bf%e3%83%92%e3%83%81%e3%83%bb%e3%83%88%e3%83%ad%e3%83%83%e3%83%88%e3%80%8d%e4%bd%9c%e5%93%81/


「タヒチ・トロット」(Tea for Two、二人でお茶を)は懐かしい。この原曲はブロードウェイ・ミュージカルの作曲家ヴィンセント・ユーマンスがNo, No, Nanette(ノウ、ノウ、ナネット)という作品の挿入歌として作って大ヒットした。

このコメディーの筋はなかなか面白い。金持ちの娘ナネットはブロードウェイの舞台に立ちたい。そこに2万5千ドル出せば恋人のトニーが曲を書いてキミを主演女優にするよという話が来る。そこでナネットは遺産管財人の弁護士に2万5千ドルを出すようかけ合うが、遺産は伯父さんが1929年の大恐慌ですってしまっていて実はもうない。弁護士はそこで「48時間キミがYesを言わなかったら出そう」という賭けにでる。何をきかれても No, No といい続けたナネットはそれで誤解を招いて大騒動になりトニーを取るか芝居を取るかになってあきらめ、めでたしめでたしというあらすじだ。

しかし作曲されたのは1925年だから大恐慌のくだりはあとづけなんだろう。Tea for Twoは曲が先にできていて、それにとりあえず作詞家が歌詞を即興でつけて、後で直そうと言っていたら結局そのままになってしまったそうだし、上演しながら作っていくというスタイルだった。ちなみに19世紀ヴィクトリア朝の英国で紳士が淑女を午後のお茶に誘い”Tea for two“と注文 するのがプロポーズするサインだったそうで、和訳の「二人でお茶を」はちょっと変だ。「紅茶ふたつ!」だ。

「48時間、Noを言い続ける」というのをぱくったのだろうか、ショスタコーヴィチの交響曲第1番を初演した指揮者のニコライ・マルコが自宅で彼にこれを聞かせ、「キミが1時間以内に記憶だけでこの曲を編曲することはできない(つまりNo)に100ルーブル賭けよう」と勝負を挑んだ。そうしたら22才のショスタコーヴィチはそれを45分(40分説もあり)で管弦楽スコアにしてしまい、賭けに勝ったとされる(作り話という説もあるが)。1927年のことだ。

これをどこで覚えたのか、僕は記憶がないが、ショスタコーヴィチのを聴く前に知っていたことは間違いない。ジャズ、ポップシンガーなど数えきれないほどの人がフィーチャーしているから確証はないが、このドリス・デイの歌がそうだったかな?という感じだ。




変ニ長調が長3度上のヘ長調に転調するのも斬新だが、いきなりサブドミナントで入るのがとてもおしゃれだ。こういうのはおかたいドイツ音楽じゃない、フランスのシャンソンの家系という感じで大好きだ。

ショスタコーヴィチがこれをちょいちょいと編曲したのがこれだ。こっちは変イ長調だ。気に入ったのか「タヒチ・トロット」という別名にして堂々と作品番号までつけている。今だったらコンプライアンス問題になってるな、大らかな時代だったんだ。




https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/03/03/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81%e3%80%80%e3%80%8c%e3%82%bf%e3%83%92%e3%83%81%e3%83%bb%e3%83%88%e3%83%ad%e3%83%83%e3%83%88%e3%80%8d%e4%bd%9c%e5%93%81/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c15
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
16. 中川隆[-14941] koaQ7Jey 2019年11月14日 10:05:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2033]

2013.05.20 ショスタコーヴィチ再入門
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20130520/1369061625


井上道義さんとサンクトペテルブルク響のショスタコーヴィチの演奏会を聴いて以来、ショスタコーヴィチの音楽が頭から離れない。


私は昔、クラシック音楽を聴きはじめたすぐ後にショスタコーヴィチに夢中になったが、その後、ベートーヴェンやブルックナーなどの、ドイツ・オーストリアのクラシック音楽を聴くようになって、ショスタコーヴィチから離れてしまっていた。井上道義さんはショスタコーヴィチの魅力について「複雑なところ」とインタビュー記事で明快に答えていた。先日の演奏会後のスピーチでは、「昔は嫌だなあと思っていたが、なぜか夢中になった」とマイクを握りしめた。その後、全曲演奏会という破天荒なプロジェクトを成功させるまで至り、いまでは彼のプログラムの中心にある。


クラシック音楽を聴き始めたころ、私は、ショスタコーヴィチの作品に特有の独特で謎めいたメロディが好きだった。


そこで今夜のブログは、これからショスタコーヴィチを聴いてみたいという人のことも意識しながら、過去に夢中になった楽曲を紹介し、これから聴いてみたい曲を挙げることで、再びショスタコーヴィチに接近していく自分の記録としたい。


■舞台管弦楽のための組曲(ジャズ音楽集)

私が最初に夢中になったように、ショスタコーヴィチの入門にはまずこの音楽が良いと思う。 理由は「聴きやすい」点。ジャズ 音楽集としてCDが発売されている。舞台管弦楽のための組曲の第2ワルツは映画『アイズ・ワイド・シャット』でもテーマ曲として使用されたポピュラーな楽曲で、哀愁漂う名曲である。哀愁の漂う曲でありながら、この曲を際立たせているのは、知的で謎めいている点だ。ショスタコーヴィチの作曲家としてのポテンシャルの異様な高さを物語る名曲である。

ショスタコーヴィチ:ジャズ音楽集
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000EMH7VY/ushinabesquar-22/

Shostakovich Jazz Suite Riccardo Chailly - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Shostakovich%3A+Jazz+Suite++Riccardo+Chailly

アーティスト: シャイー(リッカルド),ショスタコーヴィチ,ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団,ブラウティハム(ロナウド),マスーズ(ペーター)



■交響曲第7番

2番目に聴くなら、交響曲が良い。ショスタコーヴィチの交響曲を初めて聴くなら、もっともポピュラーな5番ではなくて、7番が良いと思う。圧倒的な音の洪水に溺れる。今回、7番をもう一度聴いてみて、改めて、凄まじい曲だと思った。この密度の音楽。普通ではない。芸術にとって当り前なことが保障されない体制、自由に作品を書くことが許されないソ連という特殊な環境で、こんな巨大な作品を書いたショスタコーヴィチは異才という他ない。


Shostakovich Symphony No.7 in C major - Gergiev - Mariinsky Theatre Orchestra - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fXmxFTLT0j0

I. Allegretto (00:00)
II. Moderato (poco allegretto) (28:23)
III. Adagio (43:25)
IV. Allegro non troppo (1:03:19)

Mariinsky Theatre Orchestra
Valery Gergiev, conductor

August 21, 2006
Berwaldhallen, Stockholm





■交響曲第5番

もちろん5番も素晴らしい。日本では時に『革命』という標題で呼ばれるが、この「革命」というのはまったく根拠のない標題で、この名前を聴くと、違和感がすごい。そんな標題で呼ばないでほしいと個人的に思っているが、そんな私の違和感に配慮することなく、かなり頻繁に使用されている。

Evgeny Mravinsky conducts Shostakovich Symphony no. 5 - video 1973 - YouTube


____

Shostakovich Symphony No 5 Yevgeny Mravinsky Tokyo 1973 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dDil02N31uI

Leningrad Philharmonic Orchestra
Tokyo, 26.VI.1973
__________

Shostakovich - Symphony n°5 - Leningrad - Mravinsky Vienna 1978 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZSJKq2zvsEM

Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky
Live recording, Vienna, 13.VI.1978

_____

Mravinsky - Shostakovich Symphony No.5 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=sh936XImR_o

Mravinsky - Shostakovich Symphony No. 5 in D minor, Op. 47
Leningrad Philharmonic Orchestra
1983.11.20, Minsk Philharmonic Hall



■弦楽四重奏曲

かなりディープである。音楽史的にはベートーヴェンの同ジャンルと並ぶ傑作とされている。はっきり言ってとっつき辛い。難解であるがテンションは異常に高い。私も挑戦したが、作品群の輪郭すらつかめていない。しかし無人島にひとつ持っていくなら、案外こういうCDなのかもしれない。これから末永く付き合っていきたい。

Shostakovich Emerson String Quartet - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Shostakovich+Emerson+String+Quartet

Borodin Shostakovich String Quartet - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Borodin++Shostakovich++String+Quartet




■ヴァイオリン協奏曲第1番

ヴァイオリン協奏曲の傑作のうちの一つ。ベートーヴェンやブラームスのヴァイオリン協奏曲とは全く違った匂いを放つ傑作。超絶技巧を要する難曲だが、それが癖になる。例えば、ヒラリー・ハーンのような優れたヴァイオリニストが弾くと、一流アスリートの人間離れした身体能力を目にするような感じがする。


Hilary Hahn - Shostakovich Concerto for Violin and Orchestra No. 1 in A minor - YouTube


Hilary Hahn, violin - Berliner Philarmoniker
Mariss Jansons, Conductor
Shostakovich: Concerto for Violin and Orchestra No. 1 in A minor
Recorded live at the Suntory Hall, Tokyo, 26 November 2000

____

shostakovich Violin Concerto No.1 in A minor - Hahn - Chailly - Royal Concertgebouw Orchestra - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4J_kyHTbQcM

Hilary Hahn, violin

Royal Concertgebouw Orchestra
Riccardo Chailly, conductor

January 11, 2002
Grote Zaal, Concertgebouw, Amsterdam



■交響曲4番

7番や5番に次いでポピュラーなのは10番だが、4番がすごい。音的には7番のような感じだが、メッセージはもっと不可解で、マーラー的にドロドロした魑魅魍魎の世界。4番がマーラー的で、5番がベートーヴェン的。6番は「田園」的。7番は音の洪水で、8番は深刻。まっすぐ進化していないところがショスタコーヴィチの魅力の一つであると最近思っている。

shostakovich Symphony No.4 In C Minor, Op.43 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Shostakovich%3A+Symphony+No.4+In+C+Minor%2C+Op.43++++Myung+Whun+Chung



■交響曲全集

ショスタコーヴィチの交響曲は、5番のようにポピュラーな曲がある一方で、とっつき難いものが多い。15番などは最後の交響曲にふさわしく凄い曲だが、聴きやすい曲とは言えない。また、声楽入りの1113〜14番などもそうで、メッセージ性が強く、そのメッセージというのもソ連体制下で書かれたものなので、21世紀に生きる私はこの辺りは、いままで敬遠してきた。しかし聴かずに済ますのは勿体ない。現時点での私のショスタコーヴィチ再入門はこのあたりである。全集は様々な指揮者が取り組んでいる。きっと聴き飽きることはない。一生ものだ。


ショスタコーヴィチ:交響曲

Mravinsky Shostakovich Symphony - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Mravinsky++Shostakovich++Symphony++

Gergiev Shostakovich Symphony - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Gergiev++Shostakovich++Symphony


■その他の名曲について

あとは、ピアノ協奏曲第1番、チェロ協奏曲(2曲)、オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が著名だが、私はほとんど知らない。弦楽四重奏、交響曲全集を聴き終えたら、そのあたりに取り組んでみたいと考えている。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20130520/1369061625

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c16
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
17. 中川隆[-14940] koaQ7Jey 2019年11月14日 10:47:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2032]

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47
2014 NOV 4 0:00:38 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/11/04/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%95%e7%95%aa%e3%83%8b%e7%9f%ad%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%81%ef%bc%94%ef%bc%97/



交響曲第5番についてまずお断りしておく必要があります。僕はこの曲の第4楽章が嫌いであり、第3楽章までしか聴かない者だということです。

ではどうしてここに登場させるのかというと、第1楽章の後半と第3楽章ラルゴがショスタコーヴィチの書いた最も美しく上質の音楽に属するものだからです。特に後者はベートーベンの9番とブルックナー7番以降のそれとともに交響曲の緩徐楽章の最高傑作と思います。それゆえに5番は捨て去ることができないのです。

この曲との付き合いは自分としては古く、72年ですから高2のときに新宿のアカネヤで買ったLP(後述)がなれ初めです。どうしてこの曲を選んだかは忘れましたが、帯に記されていた「革命」というニックネームから何となくというところだったでしょうか。聴いてみてよくわからず、第1楽章がえらい暗いなという印象ぐらいでした。

それが我慢して何度か聴いているうちに、さっき大嫌いと書いた第4楽章が好きになり(!)全曲を閑があればかけるほど気に入ってしまったのです。そうやって入門したショスタコーヴィチをあれこれ知るうちに、だんだんそれが安っぽく思えてきた。彼の音楽にそういう性質は潜んでいるのですが、あの楽章は特に作曲家に嘲笑され踊らされている気になってきてしまいました。

彼の音楽は楽想、楽器法にマーラーの影響を強く感じます。この5番でいえば第2楽章がそれですし、4番の第3楽章ラルゴの出だしはマーラー節そのものです。マーラーはシニカルな人で音楽で自分の人生の軋轢や不幸をあぶりだして、いたぶるみたいなところがある。自虐的な私小説を思わせます。何か苦味のあるものが無数の矢のように飛んでいる(そこが苦手なのです)。

マーラーでは自分という内側に向いていたその矢が、ショスタコーヴィチの場合は外に向いている。そう感じます。私小説ではなく、もっとパブリックなものとして。それが「ヴォルコフの証言」なる書物に示唆されている体制への反抗のようなものかどうかはともかく、マーラーと同様にシニカルであり、場合によってはもっと攻撃的なものだったり、聴き手の予想をふっとはぐらかす後退だったりもします。

ヴォルコフの真偽不明の本の出現によって第4楽章コーダのテンポがどうあるべきかという議論が出ましたが、それはたいして意味がないように思います。僕はコーダ云々など以前に、この大言壮語の楽章の存在自体が本音とは遠い気がするのです。作曲者が本気で書いてスターリン体制への反抗と睨まれ発表が頓挫した交響曲第4番を思い起こして下さい。こんな安物の音楽をまじめに書くような男が書く音楽ではないことはあまり異論が出ないのではないでしょうか。



ということで僕は家では第3楽章ラルゴまでしか聴きません。終楽章がブルックナー9番のように未完成であったと思えばいいのです。4番も静かに消える第3楽章ラルゴで終わりです。それならば5番の印象は大きく変わり、掛け値なしの名交響曲になります。



petrucciに楽譜がないのでお示しできませんが、第1楽章の第2主題、ハープの和音と弦の葬送風リズムの部分のこの世のものと思えぬ妖しげな和声変化、ブルックナーの7番にそっくりなフルートに続いて不気味に轟くピアノの低音が導き出す展開部の有機的な主題の複合、コーダに入るあたりから漂う言葉にならない神秘感、最後のチェレスタ!ここはベートーベン第九の第1楽章コーダの高みに至っているとさえ思います。天才とは恐ろしいものです。

第3楽章の神々しさは筆舌に尽くしがたく、血の出るような弦の不協和音の軋み、2番目のヴァイオリン主題の凍てつく大気に虹がかかるような和音の素晴らしさ、ハープの部分に続く主題の和音変化!神品です。弦のトレモロに乗ってオーボエ、クラリネットが吹く主題は冷たく濁った黄泉の水に咲く蓮の花のようです。バルトークの「管弦楽のための協奏曲」の第3楽章の神秘世界は5番の蓮の花あたりとそっくり。7番をおちょくったバルトークもこの第3楽章は認めたと考えて不思議ではないでしょう。最後はハープのハーモニクスで悲歌となります。なんて凄まじい音楽だろう。

この後にあの粗野で音楽的にも不出来な第4楽章が来るという神経は許容しがたく、作曲者の音楽的良心も許容していなかったと固く信じます。だからここでおしまいです。体制側はこの曲を称賛し、ショスタコーヴィチは満場の大喝采だった初演後に「フィナーレを長調のフォルテシモにしたからよかった。もし、短調のピアニッシモだったらどうなっていたか。考えただけでも面白いね」と語ったそうです。

終楽章冒頭の4度のティンパニはR・シュトラウスのツァラトストゥラ、上に跳ね上がる主題は英雄の生涯を連想します。バカ殿を喜ばす「英雄の鼓舞」として格好の小道具です。安っぽい弦のマーチ主題にけばけばしいトランペットの伴奏がつく所は殿の顔をうかがっての嘲笑、その先の騒がしくもあほらしい太鼓連打、コーダのから騒ぎでとどめのヨイショ。要するに将軍様むけのフィナーレだったと僕は信じております。



キリル・コンドラシン / モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団


Shostakovich Symphony no 5 in D minor op 47 (Kirill Kondrashin) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=bDzLRiU7wc4&feature=emb_title

Conductor : Kirill Kondrashin
Moscow Philarmonics Symphony Orchestra




前述のとおり僕はこれのLPを高2の時に買い、いたく気に入って暗記するほど聴きました。そのバイアスがあるかもしれませんが、音楽の核心をがっちりとつかまえてテンポと強弱を伸縮させた非常に説得力のある快演と思います。ちなみにコンドラシンが初演した4番はさらに大変な名演であります。腕達者なオケが剛柔とりまぜた敏感な反応を見せ、ffのトゥッティのカロリーはとても高く音が濁らない。しかも肝心の第1,3楽章の神経にふれてくるような繊細さと神秘感はこれが最高のもののひとつです。第4楽章まで聴く前提で書きますと、主部が素晴らしいテンポでコーダは古典的に大きめの減速となり、聴き慣れたせいもあるでしょうが僕には唯一耐えられるものです。




ベルナルト・ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

Shostakovich Symphony No. 5 (Haitink) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=YS4dcZ90fN0





もうひとつ、この指揮者とオケのものは何を聴いても品格が高い。85年にロンドンで購入。初めてCDというものを買った物の一つ で、やはり懐かしい演奏ですが、久々に聴きなおしてみて感服です。ロシア風のけばけばしさや初演時のすさんだ空気とは無縁。第2楽章にすら漂う気品、第3楽章のppの弦の和声の室内楽のような美しさなど、純音楽的アプローチの最高峰であります。では迫力不足?とんでもない。とにかくオーケストラが抜群にうまく重量感も力感も満点、ハイティンクがいつもながらで余計なことは何せず必要なことに足しも引きもしない。何かとんがったことを有難がる方には物足りないでしょうが、名曲とは音楽自体が立派なのですからそんなものは何もいらない。そういう事を教えてくれる録音です。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/11/04/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%95%e7%95%aa%e3%83%8b%e7%9f%ad%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%81%ef%bc%94%ef%bc%97/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c17
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
18. 中川隆[-14939] koaQ7Jey 2019年11月14日 10:53:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2031]

「知られざるロシア・アバンギャルドの遺産」100年前を振り返る
2015 JAN 31 2:02:02 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/01/31/%e3%80%8c%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%96%e3%82%8b%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%90%e3%83%b3%e3%82%ae%e3%83%a3%e3%83%ab%e3%83%89%e3%81%ae%e9%81%ba%e7%94%a3%e3%80%8d%e3%83%bc/

「スターリン弾圧を生き延びた名画」という副題の番組。革命後のロシアで行われた暴挙は人間の残虐さと無知蒙昧をさらけだしたが、テロリズムのニュースのさなか、100年たった今も人は変わっていないことに暗澹たる思いがある。

イオセブ・ジュガシヴィリ(通称ヨシフ・スターリン)の所業は今のロシア人はどう評価しているのか。ウラジーミル・ウリヤノフ(通称ウラジーミル・レーニン)なる物理学者の子がひいたレールの上をグルジアの靴職人の子スターリンが爆走した。シベリアに抑留され銀行強盗と殺戮を重ね、ロシア革命という天下取りのプロセスはどこか三国志の曹操を思わせる。

しかし100年前はまがりなりにも政権の正統性に神でも民衆でもなくイデオロギーが関与する余地があったことは注目に値する。神と暴力とメディアによる大衆扇動よりはずっと知性の裏付けがある。しかし知性も殺戮の道具になれば同じことだ。チャーチルは「ロシア人にとって最大の不幸はレーニンが生まれたことだった。そして二番目の不幸は彼が死んだことだった」といった。


Uz_Tansykbayev_CrimsonAutumn
https://sonarmc.com/wordpress/site01/files/2015/01/Uz_Tansykbayev_CrimsonAutumn.jpg


面白かった。中央アジア・ウズベキスタンのオアシスの町ヌクスの美術館にあるイーゴリー・サヴィツキー(1915〜1984)が集めた数千点のロシア・アバンギャルドの絵画の話である。スターリンによる芸術へのテロリズム。僕は音楽の側面しか見ておらず絵は無知だが、暴挙で消されかけサヴィツキーの情熱によってヌクスで命脈を保った1910−30年頃の絵のパワーは素人目にも圧倒的だ。


Uz_Kurzin_Capital
https://sonarmc.com/wordpress/site01/files/2015/01/Uz_Kurzin_Capital.jpg

このクルジンの「資本家」のインパクトは今も強烈だ。資本主義に生きる自分を描かれたような気がする。クルジンはクレムリンを爆破しろと酔って叫んだかどで逮捕され、シベリアの強制収容所送りとなった。


ルイセンコの「雄牛」。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/01/31/%e3%80%8c%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%96%e3%82%8b%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%90%e3%83%b3%e3%82%ae%e3%83%a3%e3%83%ab%e3%83%89%e3%81%ae%e9%81%ba%e7%94%a3%e3%80%8d%e3%83%bc/uz_lysenko_bull-2/


凄い絵だ。痛烈な体制批判のメタファーと考えられている。一目見たら一生忘れない、ムンクの「叫び」(1893年)のパンチ力である。この画家の生涯についてはつまびらかになっていないというのが時代の暴虐だ。


ストラヴィンスキー、シャガール、カンディンスキーら革命でロシアを出た人たちの芸術を僕らはよく知っているが、彼らの革新性にはこうした「巣」があったことは知られていない。ストラヴィンスキーの何にも拘束されず何にも似ていない三大バレエは、このアヴァンギャルド精神とパリのベルエポックが交わった子供だったのではないか。プロコフィエフの乾いたモダニズムは「西側の資本主義支配層の堕落した前衛主義」に聞こえないぎりぎりの選択だったのではないか。


Uz_Korovay_Dyers
https://sonarmc.com/wordpress/site01/files/2015/01/R_Smirnov_Buddha.jpg


この「巣」を総じて「ロシア・アバンギャルド」と呼ぶ。アバンギャルドはフランス軍の前衛部隊のこと(英語だとヴァンガード)だが、転じて先進的な芸術運動をさすようになった言葉だ。

「何物にも屈せず、何物も模倣せず」をテーゼとする。

これらの画家たちはカンバスの表の面に体制を欺く当たり障りない風景画や労働讃美の絵などを描き、裏面に自分のステートメントを吐露した真実の絵を描いて「何物にも屈せず」の精神を守っR_Smirnov_Buddhaたそうで、それを「二枚舌」と呼んでいる。


これはショスタコーヴィチを思い出して面白い。

「ヴォルコフの証言」なる真偽不詳の本が出版され第5交響曲の終楽章コーダをどう演奏するかの論争があった。ハイティンクやロストロポーヴィチがその意を汲んだテンポでやったが、あれは偽書だからムラヴィンスキーのテンポが正しいのだという風な議論だったように記憶する。

僕の立場は違う。「証言」が偽書であろうとなかろうと、皮相的な終楽章はあの4番を書いた作曲家の「二枚舌」にしか聞こえない。スコアの裏面に真実のステートメントをこめた楽譜が書いてない以上、コーダのテンポなど解決策でもなんでもなく、あの楽章は演奏しないという手段しかないと思う。同じ意味で僕は7番はあまり聴く気がしない。


「何物にも屈せず、何物も模倣せず」。このテーゼはなんて心に響くのだろう。別にアバンギャルドという言葉を知って生きてきたわけではないが、このテーゼはささやかながら僕個人が子供時代から常にそうありたいと願ってきた生き方そのものを鉄骨のような堅牢さで解き明かしたもののような気がしてならない。若い頃のピエール・ブーレーズがそうだったし、彼の録音が自分の精神の奥深いところで共鳴したのはそういうことだったのかもしれないと思う。

僕は芸術家ではないが、ビジネスをゼロから構築していくのはアートに通じるものがある。その過程がなにより好きであって、うまくいくかいかないかは結果だ。これから何年そんな楽しいことが許されるのかなと思うと心もとないが、心身健康である限り思い切りアバンギャルドでいこうと、ロシアの無名画家たちの絵に勇気をもらった。

有名であったり無名であったりすることの真相はこんなに不条理なものだし、そういうことをひきおこす人生という劇だって、いくら頑張った所でどうにもつかみどころのないものだ。だったらアバンギャルドするのが痛快で面白い。屈して、模倣して、大過がない、そんな人生ならやらないほうがましだ、改めてそう思う。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/01/31/%e3%80%8c%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%96%e3%82%8b%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%90%e3%83%b3%e3%82%ae%e3%83%a3%e3%83%ab%e3%83%89%e3%81%ae%e9%81%ba%e7%94%a3%e3%80%8d%e3%83%bc/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c18

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
19. 中川隆[-14938] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:02:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2030]

ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハ短調 作品43(読響・カスプシクの名演を聴く)
2017 SEP 8 1:01:27 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/08/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac4%e7%95%aa-%e3%83%8f%e7%9f%ad%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%8143/

2017年9月 6日(水) 19:00 東京芸術劇場
指揮=ヤツェク・カスプシク
ヴァイオリン=ギドン・クレーメル

ヴァインベルク:ヴァイオリン協奏曲 ト短調 作品67 (日本初演)
ショスタコーヴィチ:交響曲 第4番 ハ短調 作品43

紀尾井町のオフィスで火急の案件が電話で飛びこんできて、没頭していたら19:00の開演に間に合いそうもないことに気がついた。焦ってタクシーに飛び乗って電話の続きだ。「10分前あたりに着きそうです」なんて言われてやれやれと思ったら間抜けなことに「サントリーホール」と運転手さんに指示しており、完全にそう思い込んでいたのを降りてから気がついた。まいったぞ、またタクシーで池袋へ急行だ。しかしよかった、4番は間に合った。

4番は134人の大編成の難曲でなかなか聴けない。家の装置で大音量で再生してもピンとこない箇所が数々あり、そこがどう鳴るべきかずっと気になっていた意中の音楽である。東京芸術劇場のアコースティックはこの大管弦楽には好適で、前から6列目だったがほぼマストーンと分厚い管楽器の混濁がなく、第1楽章の弦のプレストによるフガートの明晰さも圧倒的だった。総じて、非常に素晴らしい演奏で指揮のカスプシク、読響に心から敬意を表したい。

4番をショスタコーヴィチは1番と考えていたふしがある(1−3は習作だと)。マーラー1番の引用が各所にあるのはそのためだろうか。第1楽章のカッコーはすぐわかるが第3楽章冒頭は巨人・第3楽章であり、コントラバスが執拗に繰り返すドシドソラシドは巨人・第2楽章でありどきっとする。木管の原色的な裸の音や金管・打楽器のソリステッィックな剥き出しの用法など全曲にわたって管弦楽法は大いにマーラー的だ。

1936年1月から2月にかけてオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が「プラウダ批判」にあいショスタコーヴィチは4番の初演を見合わせた。プラウダ批判とはソ連共産党 中央委員会機関紙『プラウダ』による、プレスの体裁を纏った「将軍様」スターリンの検閲機関である。いまの北朝鮮を想像すればいい。ということはこの曲には将軍様のご機嫌を損ねて自身や家族の命を危うくする何物かがこめられていたはずだ。その何物かは隠喩であって賢明な聴衆には伝わるが愚鈍な政府はわからないと思慮したのが、情勢が変化して意外にそうではないという危惧が作曲家の心に警鐘を鳴らし始めたと考えるのが筋だろう。

ではそれは何か?私見だが、巨人は自己の作曲の第1幕の、そして第3楽章の終結はスターリン圧政による「死」の暗示ではないだろうか。虐殺の死臭漂う中での皮肉な門出。運命への怒り、哄笑とシニカルな抗議。プラウダ批判の後、政府関係者が懺悔して罪を償えとしつこく説得したが拒絶した結末がこのスコアになっていると僕は思う。引用されるカルメンの闘牛士も魔笛のパパゲーノも、お考えいただきたい、女の死であり道化の首つり自殺の暗示なのではないか。将軍様を「死神の道化」にしたものだ。彼は忖度して作品を曲げることはしなかったが、そのかわり、演奏を撤回した。芸術家としての矜持を僕は称賛したい。それはあたかもフィガロの結婚を書いたモーツァルトに重なるものとして。

何よりの死の暗示は第3楽章の終結、全曲のコーダとなるチェレスタの部分である。カスプシクの含蓄ある指揮によって、僕はここのコントラバスとティンパニの心臓が脈動するような音型がチャイコフスキーの悲愴交響曲の終楽章コーダから来ていることを確信した。その直前、金管のファンファーレが強烈な打楽器の炸裂で飛散する部分で死を象徴する楽器であるタムタム(銅鑼)の一撃があることも悲愴と同じである。それはチャイコフスキーの死を飾る音楽であった。自身のデビュー交響曲を死で飾る境遇を彼は音楽の常識ある人だけにわかる隠喩でこう表現したのではないか。

そして、さらに4番の終結部ではマーラー9番の悲痛なヴァイオリンの高域による終結が模倣される。マーラーは悲愴の低音域による死を高音に置換しているが、ショスタコーヴィチはここで両者を複合してメッセージをより強固とし、より天国的で透明だが死体のように冷たくもあるチェレスタによる昇天で自己を開放している。この終結を導く主調のハ短調に交差するシ・ラ・ド(バスクラ)、ソ・ド・ファ#(トランペット)の陰にレがひっそりと響き、悲愴の「ロ短調」が半音下の複調で亡霊のように浮かび上がるのを聴くと僕はいつもぞっとする。トランペットはツァラトゥストラを模しており、そのハ長調対ロ長調の隠喩である凝りようはおそるべしだ。最後のチェレスタの、雲の上に浮上する、ハ短調とは不協和なラ、レが魂の天界への望まざる飛翔のように感じられる。

どこといって悲しい短調の旋律やストーリーがあるわけでもないのに、演奏が終わると心は何処からかやってきた重たい悲嘆に満ちていて、涙がこぼれ、僕は拍手は控えてただただこうべをたれて合掌していた。何という素晴らしい音楽だろう。4番はショスタコーヴィチの最高傑作である。1−3番を習作と見れば、仮面をつけていない彼の唯一の交響曲でもある。僕が5番は聴くが、第3楽章までしか聴かない理由を分かってくださる方はおられるだろうか?終楽章はモランボン楽団の行進曲なのである。スターリンは死んだが、彼はもう4番の世界に戻ることはできなかった。そして、最後と悟った15番に、4番の精神を受け継いだあの不可思議な終結を持つ引用に満ちた謎の交響曲を書いたのである。

この曲の真実を抉り出した演奏はこれをおいてない。ショスタコーヴィチは親友だった(と思っていた)ムラヴィンスキーに初演を依頼したが断られる。理由は不明だが危険を察して逃げたとしたら親友は策士でもあったのだろう。コンドラシンが初演を引き受けたことに隠された思想的共鳴があったかどうかも不明であるが、後に西側に出たことからもその可能性があると思料する。初演したモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の楽想の咀嚼と共感は深く、未聴のかたはまずこれで全曲を覚えることをおすすめする。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/08/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac4%e7%95%aa-%e3%83%8f%e7%9f%ad%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%8143/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c19

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
20. 中川隆[-14937] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:10:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2029]

ショスタコーヴィチの4番×チョン・ミュンフン
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20080517/1211029757

ショスタコーヴィチの交響曲の魅力は何かというと、屈折したものとか、鬱屈したものとか、「芸術的な感性を率直に爆発させていない部分」を噛み砕いていく楽しみがある点。暗号を解読するようでもあり、スルメを噛むようでもある。


これはショスタコーヴィチ全盛期がソ連という、自由がない特殊な時代・特殊な体制下にあったからだが、ごく普通の人間だったら、危険な作品を書かずに、簡単に政治体制に迎合してその中に組み込まれてしまったと思う。ヘタレでなかったというか、精神的に強靭な人だったのだ。


そんな、決してとっつきやすいとはいえないショスタコーヴィチの交響曲の中で、私は4番などはよく聴く方で、何も考えずにドライブする時などにCDをかけている。


爆発するオーケストラ(第1楽章冒頭と第3楽章冒頭はともに凄い迫力だ)。咽ぶような弱さ。アイロニー。パロディ。晦渋。雑音。不協和音。「声なき声の集合のような」傑作で、こうした音楽の圧倒的な存在感を耳にすると、気持ちが静かになってくるというか、不思議に心が澄んでくるのだ。


曲は長大な第1楽章と第3楽章が短い第2楽章を挟む、全3楽章構成になっており、マーラーからの影響も言われるなど、様々な工夫を凝らしたモダンな作品となっている。続く交響曲第5番が「暗」から「明」へと至り、勝利でフィナーレを迎える古典的な交響曲であるのと対照的である。

Shostakovich Symphony No.4 In C Minor, Op.43 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Shostakovich%3A+Symphony+No.4+In+C+Minor%2C+Op.43++++Myung+Whun+Chung

Philadelphia Orchestra · Myung Whun Chung
Released on: 2002-01-01


このCDは、第4番のみの収録で全3曲しか入っていないが、密度は濃い。情報量がものすごい。チョン・ミュンフンが生み出す、凄まじい音の洪水。音量は大体これくらいだろうなという予測のリミットをどんどん超えて、更新していく。オーケストラのあおり方、扇情的な音楽作りという点で、この人の右に出る指揮者はいないだろう。名人集団のフィラデルフィア管が、ヒステリックなまでに叫び、啼く。それでも崩れない。巧さも聴かせる。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20080517/1211029757
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c20

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
21. 中川隆[-14936] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:16:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2028]


2006.08.20 「深刻」ショスタコーヴィチ・交響曲第5番
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20060820/1156096568


今日もショスタコーヴィチ。

なんだか、このブログはまったく世の中の流れを無視して書いていますね。

読んでいただいてる方々、お付き合いいただきありがとうございます。


さて、今日は交響曲。

ショスタコーヴィチの代表作にして、交響曲史上の傑作のひとつでもある交響曲第5番について。

5番。

クラシックファンにはよく知られていることですが、5番目の交響曲には傑作が多いのです。


例えば、

ベートーヴェンの第5は、日本では『運命』として知られているし、

チャイコフスキーの5番、

ブルックナーの5番、

マーラーの5番、

プロコフィエフの5番、

シベリウスの5番、

など、傑作揃いです。

5番を代表作とする作曲家はとても多いのです。

このように重なると、偶然として片付けられず、数の魔力とも呼びたくなります。


◇  ◇  ◇


さて、ショスタコーヴィチの交響曲第5番です。

「深刻」としかいいようのない曲ですが、彼の作品のなかでは比較的聴きやすい曲です。


ショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品シリーズ)

ショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品シリーズ)
作者: 千葉潤
出版社/メーカー: 音楽之友社
発売日: 2005/03/01
メディア: 単行本(ソフトカバー)
クリック: 1回
この商品を含むブログ (8件) を見る

.

音楽之友社の『ショスタコーヴィチ』にも書いてありましたが、

ショスタコーヴィチと、ソ連共産党との関係は極めて難しいものだったようです。

作曲家の芸術的な理想と創造力。

きちんと「社会主義」的な作品を書いているか監視する国家。

昨日も書いたように、彼は厳しい制限の中での理想を追い求めました。

こうした「鬱屈」、「屈折」こそ、ショスタコーヴィチの特色だと思いますし、作品の魅力だと思います。


◇  ◇  ◇


この曲は形式は古典的な四楽章形式です。

最終的に、ベートーヴェンの第5番交響曲のように、勝利で終わる曲なのですが、そこに至る道筋が何とも非常にグロテスクです。

また、フィナーレの最後の勝利にしても、唐突に訪れる感が否めません。

このフィナーレを、「強制された歓喜」ととるか、「勝利」ととるか、作曲家自身の言葉を見てもはっきりせず、現在でも解釈が分かれているそうです。


私はこのフィナーレは、「パロディ」に見えます。

マスコミを通じて見えてくる「他国の政治」は、当然、大真面目でまた深刻なのが理解できるのですが、「パロディ」としか言いようがないときがあります。

しかし、音楽は大変に素晴らしく、そんなことを考えさせる余裕もなく進行していきます。

バーンスタイン指揮のものなど他にも名演揃いですが、この曲を初演したムラヴィンスキーの指揮のものが一番、私は厳しくて好きです。

ムラヴィンスキーのタクトは団員にはとても恐ろしく、まるで鞭を連想させたかもしれません。第四楽章の圧倒的なスピード感には悪魔が乗り移っているのではと思います。

でも、こんな厳しい演奏を日常的に聴いていたんでは体が持ちません。だいたいは、ハイティンク指揮か、ゲルギエフ指揮のものを、i-podに入れて持ち歩いています。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20060820/1156096568

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c21

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
22. 中川隆[-14935] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:31:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2027]


Dmitry Shostakovich - Symphony No. 5 in D minor, Op. 47
Orchestre de Paris, Paavo Järvi
January 2015



___


N響 パーヴォ・ヤルヴィを聴く
2015 FEB 15 1:01:27 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/02/15/%ef%bd%8e%e9%9f%bf%e3%80%80%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a9%e3%83%bb%e3%83%a4%e3%83%ab%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f/


9月からN響主席になるパーヴォ・ヤルヴィの指揮でシベリウスVn協(庄司紗矢香)とショスタコーヴィチ交響曲 第5番であった。

庄司紗矢香は僕自身こんなにほめていて

( 庄司紗矢香のヴァイオリン)、
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/02/18/%e5%ba%84%e5%8f%b8%e7%b4%97%e7%9f%a2%e9%a6%99%e3%81%ae%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%b3/

ライブで聞くのは初めてで期待があった。一方シベリウスは僕にとってこういう曲であって

( シベリウス ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47)、
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/03/22/%e3%82%b7%e3%83%99%e3%83%aa%e3%82%a6%e3%82%b9-%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%b3%e5%8d%94%e5%a5%8f%e6%9b%b2%e3%83%8b%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e4%bd%9c%e5%93%81%ef%bc%94%ef%bc%97/


さてどうなるかというところだった。そこに書いた通り「女性がG線のヴィヴラート豊かにぐいぐい迫ってくるみたいなタイプの演奏はまったく苦手」であるのだが、意外にもそうでないのはほっとした。

結論を言うとちょっと残念。そこに書いた欠点の方は健在であったが美質の方が消えている。あのブラームスを弾いていた彼女にしてはぜんぜん音楽に入れておらずどこかかみ合わない。ヤルヴィの指揮はオケのパースペクティブが明確で風通しが良いのが長所だが、この曲では木管が裸で聴こえたり急な起伏が分裂症気味に聞こえ、第1楽章はただでさえ分裂気味なスコアがそのまま鳴っている感じで庄司の音楽性とマッチしてない。それが原因だったのだろうか。

第2楽章はまだ若いのだろう、あのワーグナー和音の前のモノローグは何なのか彼女は知らないかもしれない。これは良い演奏を聴きすぎている。美点を書いておくとG線までエッジのはっきりした大きな音で鳴っており、ツボにさえハマれば聴衆を圧倒する力のあるヴァイオリニストということはわかった。

ショスタコーヴィチは良かった。僕は5番とはこういうスタンスで付きあってきた

( ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47)
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/11/04/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%95%e7%95%aa%e3%83%8b%e7%9f%ad%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%81%ef%bc%94%ef%bc%97/


解説を読むとベンディツキーという人による作曲家が熱愛したエレーナにまつわる「愛と死」のテーマ、カルメンからの引用について触れられている。注意して耳を傾けたがどこがハバネラなのか全く不明であった。15番の例もあるからそうなのかもしれないが僕はこの曲に女の影など聞かない。あるのは重く湿って不気味にリズミックな軍靴の響きへの絶望的な恐怖だ。

プラウダ批判の恐怖がなければ彼は4番を発表してこのような平明な調性音楽を書くことはなかっただろう。その恐怖の対象がいかに凶暴で理性を逸脱した野獣のものだったか、それは平民はおろかロマノフ王家全員惨殺のむごたらしさを見ればわかる。この5番に隠された自我の屈折はそれに目をつぶってはわからないと思う。

今日の第3楽章は最高のもののひとつ。(第1楽章も好演だったがコーダの最も大事なppのところで大きな咳やセロファンのシャラシャラが入ってしまった)。第2楽章のチェロの激しいアタックはマーラー演奏の影響を感じる。終楽章はスネアドラムが軍靴の響きを告げて冒頭主題が回帰してからあんまりテンポが変わらない。これは非常に納得である。

コーダはムラヴィンスキーに似るがやや速く、彼が微妙に減速するところもそのまま行く。大太鼓が入ってからはほとんどの人が減速するがそれもしないのはスヴェトラーノフに近い。このやり方は葬列を思わせるが戦車の行軍でもあり、作曲家の意図だったかどうかはともかく重量級のインパクトがある。バーンスタインやショルティのように快速で入って2回も大減速をする安芝居は勘弁してほしい。

N響をこういう風に鳴らす指揮者は少ない。だいたいが功成り名を遂げたおじいちゃんを呼んでくるわけで、あと何年生きてますかという老人の棒に憧れの欧州への畏敬をこめてついていけば首にならないという公務員みたいなオケだ。一人の音楽監督が強大な人事権でばっさりということがない。あらゆる業界、そんなので世界一流になれるほど世界は甘くない。悪く言えば名曲アルバムのオケみたいになりかねない。ヤルヴィは全権を渡してリードさせればいい仕事をしそうな面構えだ。

ところでN響はコンマスも替わるらしい。誰であってもいいが客としてはただひとつ、ヴァイオリンセクションがいい音を出せる人にしていただきたい。なお今春から読響定期も聴いてみることにした
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/02/15/%ef%bd%8e%e9%9f%bf%e3%80%80%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a9%e3%83%bb%e3%83%a4%e3%83%ab%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c22
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
23. 中川隆[-14934] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:47:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2026]

Shostakovich Symphony No.7 'Leningrad' - Paavo Järvi




____



N響定期を聴く(ショスタコーヴィチ 交響曲 第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」)
2017 SEP 18 13:13:52 pm by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/18/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2-%e7%ac%ac7%e7%95%aa-%e3%83%8f%e9%95%b7%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%8160%e3%80%8c%e3%83%ac/


パーヴォ・ヤルヴィ / N響のこれが土曜日の18時にあって、14時試合開始の広島カープが優勝しそうなものだからそのままTVにかじりつくか迷った。結局ショスタコーヴィチに操を尽くして出かけたら楽勝と思ったカープは最下位ヤクルトに逆転負けを喫していて、逆の選択をしていたら痛恨になるところだった。

7番レニングラードはベートーベンにおける7番の位置づけだと思う。彼はマーラーに習って番号を意識していて、死にたくないので9番は軽めに書いて15番まで生き延びた。ベートーベン7番はどうも苦手でライブで心から良いと思ったのはヨッフムとサヴァリッシュと山田一雄ぐらいだが、レニングラードも同様路線の音楽で生まれ故郷の市民を鼓舞しようと書いた。このブログに書いた部分は繰り返さない。


読響定期を聴く(モーツァルトとショスタコーヴィチ)
2015 MAY 14 7:07:48 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/05/14/%e8%aa%ad%e9%9f%bf%e5%ae%9a%e6%9c%9f%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f%ef%bc%88%e3%83%a2%e3%83%bc%e3%83%84%e3%82%a1%e3%83%ab%e3%83%88%e3%81%a8%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4/




ショスタコーヴィチはスターリン政権に反抗したり忖度(ソンタク)したり面従腹背したりの複雑な人で、レニングラード市民戦では従軍志願までしているから親祖国(亡命しない)、反ナチ(もちろん)、反スターリン(言えない)の3つの座標軸上でいつも最適解を模索した(余儀なくされた)作曲家だった。プロとして目指す道は4番が示唆していて、しかしスコアが散逸してしまったことが象徴するほどその路線は約束されていないものだったのだ。気の毒でならない。

4番の発表を断念して書いた5番は1−3楽章が面従腹背、終楽章がソンタクという分裂症気味な作品になってしまったが、全曲のコンセプトごと見事にソンタクというまとまりのある作品が7番である。軍人の低脳ぶりを馬鹿にしまくった「戦争の主題」、それをナチに向けたと偽装してスターリンにも向けていたという解釈が出てきているがそれは不明だ。もしそうだったなら上出来だ、なんといってもスターリン賞1席を受賞してしまうのだから。彼は作曲中にその候補に挙がっていることを意識もしていた。

バルトークはプリミティブにわざと書いたその主題にいったんは驚きライバルでもあったから皮肉って自作に引用したが、だんだん高潮して弦合奏になるとルール違反の並行和音の伴奏が付いてくる。戦争にルールはないわけで、こういう含意がプリミティブな頭脳から出るはずがないこれは偽装だと確信しんだろう。息子ペーテルは同じ戦争の被害者として反ナチについて共感もあったと著書に記しているが反スターリンだったかもしれない。ショスタコーヴィチがメリー・ウィドウを引用した可能性は否定できないが、バルトークがそうしたとする説は誤りと彼は書いている。

この日のN響はヤルヴィが連れてきたミュンヘン・フィルのコンマス、ヘルシュコヴィチが非常にうまく、合奏でも彼の音が際立って聴こえたほどで(これはおかしなこと、他がそろってないか楽器なのか音量なのか)、とにかくもう格が違う。なぜヤルヴィがわざわざ呼んできたかわかる。それでも第1ヴァイオリン群としては普段よりもずっと良い音を奏でたのであって、弱音のユニゾンの美しさは絶品であった。ヤルヴィの意図は遂げられたと納得すると同時に、コンマスがいかに影響力が絶大かを確信した。

ということで聴かせどころは弦が多い、というより、弦が弱いとブラバンの曲のようになってしまう7番を存分に賞味させていただいた。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/18/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2-%e7%ac%ac7%e7%95%aa-%e3%83%8f%e9%95%b7%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%8160%e3%80%8c%e3%83%ac/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c23
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
24. 中川隆[-14933] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:51:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2025]

読響定期を聴く(モーツァルトとショスタコーヴィチ)
2015 MAY 14 7:07:48 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/05/14/%e8%aa%ad%e9%9f%bf%e5%ae%9a%e6%9c%9f%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f%ef%bc%88%e3%83%a2%e3%83%bc%e3%83%84%e3%82%a1%e3%83%ab%e3%83%88%e3%81%a8%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4/

指揮=エイヴィン・グルベルグ・イェンセン
ピアノ=アンドレアス・シュタイアー

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453
ショスタコーヴィチ:交響曲 第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」

読響は芸劇のマチネに何年か通ったが7,8年ご無沙汰だった。だいぶメンバーが変わっているようだ。

モーツァルトの17番は第3楽章の主題が飼っていた「ムクドリ」の歌ったメロディだったことで有名だが、きくたびにムクドリはどこまで歌ったのだろうと気になって困る。ミファソッソッソードーぐらいか?そのあとのシシドドレレの装飾音がピヨピヨ聞こえるからこっちもかな?

普段はハープシコードを弾くシュタイアーはモダン・ピアノを弾いた。でも、もしモーツァルトが生きてたら間違いなくそれを選んだろうしオケも現代のサイズにしただろう。もし彼が自演したらどんな風に17番をやるんだろう?そんなことを思ってしまう演奏であった。

1784年に書いた6曲のピアノコンチェルトのうち14番と17番は弟子のバルバラ・フォン・プロイヤーにあげているが彼女の父はザルツブルグ宮廷のウィーンでの代理人だったのが意味深長だ。その父の家とカントリーハウスで両曲はバルバラ嬢のピアノで演奏されたという記録がある。

ある文献によると演奏した部屋の推定サイズは14番が50u(15坪)、17番が100u(30坪)とある。僕のオフィスが21坪だからイメージできるが、これはかなり小さい。特に14番でオーボエ2、ホルン2、ファゴットはその程度の空間では相当な音量で響いたはずだ。

17番はそれにフルート、ファゴット(もう1本)が加わっているのでやはり木管の音量的プレゼンスは変わらないだろう。しかも第2楽章はそれらが活躍するようスコアリングされている。その傾向は24番でさらに顕著になるが、弦5部の人数がカルテットに近かったとみるとオケ全体の音量バランス、そしてオケとフォルテピアノのバランスは現代のイメージとかなり違うということは重要だ。

そのことは作曲時点で「私自身これまでの作品の中で、この曲を最高のものだと思います」と評したピアノと管楽のための五重奏曲K.452の存在を想起させる。私見では声楽アンサンブルを思わせ、フルートを欠きクラリネットが入っている(この時点で!)ことがモーツァルトの音響趣味をうかがう手がかりとして見のがせない。

そういう関心はサントリーホールでは無縁のことだ。シュタイアーの演奏は多少の即興をまじえながらも遊び過ぎのない硬派なものでまずは楽しめた。アンコールはソナタかな思ったらk.330の第2楽章だった。うまい人が弾くとモーツァルトはいい音を置いてるなあとつくづく感じ入る。

偏見ではないつもりだが僕はショパン弾き、リスト弾き、バッハ弾きのモーツァルトはそれだけで聞く気にもならない。それらは畢竟テンペラメントの問題だ。彼の曲は「モーツァルトみたいな四大元素の組合せの人」しかうまく弾けない何かをどうしようもなく秘めていて、聴く方だって、それに合う合わないはある。モーツァルトは名曲だが、ベートーベンがそうであるような意味での天下の名曲というとやや違和感があるように思う。

ショスタコ7番は家であまり聞かない。第1楽章の小太鼓に乗ったテーマが好きでないからだ。しかしこれは侵攻してくるナチス・ドイツを「おちょくった」カリカチュアで、11番の終楽章の野卑なテーマに通じる精神で書かれたものというのが僕の理解だ。インテリ左翼が右翼の稚気を見下す感じを内包するイノセントな主題だ。

これが好きな方には無礼をお許しいただきたいが、この部分を延々と聞いていると、人生の大事な時間をこんなものにつき合わされているわびしい無益さこそが戦争の無益さ及びそれに蹂躙された祖国の運命の悲哀を辛辣にアピールする巧妙な設計と聞こえる。ショスタコーヴィチの抑圧されたシュプレヒコールが屈折した重層的なユーモアと風刺感覚によってやむなくこの形を取って噴出したものでもあると思料する。

そうだとすれば、この曲は彼の精神史における政治闘争が生み出した芸術ということであり、政治はパブリックなものだがその衝動はすぐれてプライベートなものだ。つまり私小説であるという点で、非常にマーラーに接近したものである。彼がマーラーを好んで引用したり、ある部分はマーラー的ですらあるのは、決して故なきことではない。

11番の稿に書いたが、バルトークが管弦楽のための協奏曲でこれをおちょくったという説には組しない。むしろ7番がナチスをカリカチュア化した精神を、揶揄を強調する方向での若干のデフォルメを加えて輸入したものと解する。敬意はないが同調はあると見る。証拠はない。ただバルトークもナチスに祖国を追われ、そういう性向のある人でもあったと僕は解しているからだ。

読響のヴァイオリンセクションは気に入った。高音のユニゾンのピッチの整合もハイレベル。ヴィオラ、チェロも中音域が良く、総じて弦は満足度が高い。管はまちまちだが好演であった。

43才のノルウェー人指揮者エイヴィン・グルベルグ・イェンセンについては何の知識もないが、曲を大局的に適確につかみ骨太にまとめあげる才能を感じる。細かい部分の造り方の巧拙はこの曲ではわからないが、小さくまとまってないのがいい。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/05/14/%e8%aa%ad%e9%9f%bf%e5%ae%9a%e6%9c%9f%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f%ef%bc%88%e3%83%a2%e3%83%bc%e3%83%84%e3%82%a1%e3%83%ab%e3%83%88%e3%81%a8%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c24

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
25. 中川隆[-14932] koaQ7Jey 2019年11月14日 12:05:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2024]

2006.12.01 ショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20061201/1164985242

」ショスタコーヴィチの交響曲第7番は、第二次世界大戦の真っ只中、ナチスドイツに包囲されたレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)で作曲された。


「レニングラード包囲戦」をモチーフとしているこの作品は「レニングラード」と呼ばれている。


ショスタコーヴィチは、ソヴィエト社会主義を代表する作曲家だ。


ソヴィエトの「社会主義」が理想化されて語られていた時代もあったが、現実にはその「社会主義」は「理想社会」とは程遠かった。

実際は密告社会で、国家が個人の内面にまで踏み込んでくる社会だ。


国家による監視の目をかいくぐって、自由を制限された特殊な状況下で理想を描いたのがショスタコーヴィチだった。


交響曲第7番「レニングラード」は、東西冷戦期には、「ファシズムVS社会主義」、「資本主義VS社会主義」という闘争(と勝利)を描いたものとして理解されていたが、現在ではより広い意味で、「戦争を描いた作品」として聴かれている。


◇  ◇  ◇


以前に第5番をこのブログで書いたことがあったが、


「深刻」ショスタコーヴィチ・交響曲第5番
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entries/2006/08/20

第7番もとにかくすごい迫力の曲だ。


第一楽章の「戦争の主題」がすごい。


ラヴェルのボレロのように、曲の進行とともに参加する楽器が増えていく。

控えめだった音量も次第に増大していって大音量となる。


この中で小太鼓の音が、まるで銃声のように響き渡る。


ダダダダダッダダダダダッ。


これは銃撃戦だ。


侵攻する部隊。銃撃。報復。応酬。


荒廃する都市。避難・逃亡する市民。


そんな光景が浮かんできて驚く。


戦慄。

恐怖が戦争映画のBGMのように迫ってくる。


全曲を通して聴きどころ満載のこの曲だが、私はこの「戦争の主題」の小太鼓が凄いと思う。

悲劇的で破滅的な人間の争いをこれほど鮮明にイメージできる曲を私は他に知らない。


◇  ◇  ◇


こういう曲を自宅で聴きたい時ってどんな時だろう?と考えると唸ってしまう。

大植英次 大阪フィル ショスタコーヴィチ:交響曲第7番

___


Shostakovich Symphony No.7 in C major - Gergiev - Mariinsky Theatre Orchestra - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fXmxFTLT0j0

I. Allegretto (00:00)
II. Moderato (poco allegretto) (28:23)
III. Adagio (43:25)
IV. Allegro non troppo (1:03:19)

Mariinsky Theatre Orchestra
Valery Gergiev, conductor

August 21, 2006
Berwaldhallen, Stockholm

___


大植英次氏の指揮・大阪フィル演奏のCDはライブ盤であることが信じられないほどのクオリティ。ドイツ風の重々しい演奏。大フィルの演奏能力はこんなに高かったのか!と唸る。ゲルギエフ盤は音のレンジが広く、華麗さも感じられる。どちらもこの曲の凄さを十分に感じさせてくれるCDだ。


私は、この第7番「レニングラード」に、現代の戦争をイメージする。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20061201/1164985242
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c25

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
26. 中川隆[-14931] koaQ7Jey 2019年11月14日 12:16:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2023]


2009.01.21 ヤンソンス&コンセルトヘボウのショスタコ 7
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20090121/1232532016

マリス・ヤンソンスがロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラ(RCO、以下コンセルトヘボウ)を振ったショスタコーヴィチの7番を時々聴いている。


Symphony No. 7 in C Major, Op. 60, Leningrad - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=zU4KjoF_X74
https://www.youtube.com/watch?v=HQRE6lOTMp4
https://www.youtube.com/watch?v=LkLBdxD5nKE
https://www.youtube.com/watch?v=WRu2U6W5feQ

最近、通勤時間が長くなったのに加え、地下鉄に乗らなくなり騒音が少なくなって、それほどボリュームを上げなくても音が聞こえやすくなったので、常にiPodを携えてクラシックを満喫しながら通勤している。


その時その時の気分によって聴く音楽は変わり、心身疲労困憊した時にはモーツァルトを聴きたくなり、焦りがあるときにはなんとなくバッハが合う。年末に第九を聴きたくなるのも心理だし、真夏にブラームスやシベリウスは似合わないような気がする。


聴く音楽の選択は、気候、天候、あるいは気分によるところが多い。


ショスタコーヴィチの多くの交響曲は、晦渋なところや難解なところ、ギスギスしたところなどがある反面、古典的な調和の中に音楽が収まっているという、複雑な旨みを持っていて、聴いた後には、この作曲家の交響曲でなかったら得られないような独特の満足感がある。


あまり共感が得られないかもしれないが、7番や8番などの悲劇的な交響曲は、満員電車に揺られるときなど、殺伐とした気持ちの時になぜかぴったりと気持ちにフィットする。


◇  ◇  ◇


マリス・ヤンソンスという指揮者は多彩なレパートリーを誇り、ベートーヴェンだってブラームスだってマーラーだって、かなり高いレベルでこなす非常に器用な指揮者だが、もっとも相性が良いのはシャスタコーヴィチではないかと私は勝手に思っている。


ヤンソンスによるショスタコーヴィチというと、5番はウィーンフィルと、8番はピッツバーグ響とというふうに、曲ごとにオーケストラを変えて、十数年がかりで完成させた交響曲全集が評判になった。


全集の中の、レニングラードフィルとの7番はこれまた凄まじい熱演だったが、本盤、2006年録音の、コンセルトヘボウとのコンビでの演奏はまた違った良さを持っている。全集を完成させて肩の荷が下りたのか、より客観的に、空中から戦場を俯瞰するようなスタンスで、7番のテーマである「戦争の悲劇」が語られている。


触れれば火傷するようなバチバチ火花が散るような部分はなくなって、大らかでスケールが大きくて、日常的にはこちらの方が親しめるのではないだろうか。さらに、録音の質もすばらしくて、現在のコンセルトヘボウの音の良さを満喫できる。弦はうっとりするくらいに豊潤な音色で、しっかり揃っている。管楽器も抜群に巧い。金管も打楽器も決して騒がずに、節度のある熱演を見せる。


ヤンソンスの円熟した音楽作りとコンセルトヘボウの余裕が感じられる一枚である。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20090121/1232532016
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c26

[近代史3] 社会主義マジック _ 中共が GDP 世界第二位の超大国になれた理由 中川隆
27. 中川隆[-14930] koaQ7Jey 2019年11月14日 12:42:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2022]

2019年11月14日
中国「独身の日」過去最高でも消費は増えない仕組み

独身の日が増えた分は他の日に買い控え、実店舗売り上げが減っている


画像引用:アリババ、「独身の日」5億人利用で過去最高の4.2兆円 伸びは最低水準に | ビジネス | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイトhttps://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2019/11/1111113.php

消費じゃないものを消費に含める中国経済

中国は11月11日にネットバーゲン「独身の日」を迎えアリババは過去最高の384億ドル(約4兆1000億円)を売り上げました。

2018年の独身の日アリババ売り上げは307億ドル(約3兆3000億円)だったので約25%増となり、前年の27%増に匹敵する伸びでした。

2018年は業界全体で5兆円を売り上げたのでアリババと同じ増加率だったとすると2019年は6.25兆円になります。



ところが独身の日にこれだけ売ったのに2018年の中国個人消費は1桁増にとどまったと見られています。

前提として日本政府が発表する消費とは最終消費で、個人消費(家計消費)を意味しています。

小売店や業者が仕入れた金額を消費とは呼ばないが、中国の統計は企業や政府や公的機関の買い物を含めている。


そんなのは消費じゃないと日本の経済学者が怒っても、中国は共産主義なので通用せず謝罪を要求されるだけです。

例えばネットで商品を仕入れて別の業者に転売し、転売を繰り返して最後に最終消費者が1万円で買ったとします。

資本主義国では1万円だけが消費だが、中国式経済では転売を繰り返した分も「消費」なので2倍ぐらいに増えます。


これが中国の消費経済の中身で、爆買いとか言っても転売を繰り返しているだけなので、実は消費ではありません。

2018年に中国のネット通販売上高は消費全体の22%という統計があり、2018年のネット消費は122兆円で消費全体では556兆円だったと推測される。

ネット消費の122兆円は多くが個人消費で、消費全体の556兆円は企業や政府や公的機関を含む金額と思われます。

怖すぎる中国ネット消費の結末

日本の個人消費は約300兆円、ネット通販市場は約15兆円で、アメリカの50兆円以上より少ないが世界3位グループとなっている。

中国のネット消費額が突出して多く、その代わり実店舗の個人消費額は約330兆円なので、人口が10分の1の日本の約300兆円と大差ない。

中国の消費者は安い「独身の日」にまとめ買いし、他の日は買い控えるのでネット消費全体の伸び率は独身の日よりかなり低い。


さらにネットで消費する分実店舗の売り上げが減っているので、トータルで均してみると消費の伸びは1桁に過ぎない。


1月から9月の個人消費が8.2%増なのにネット売上高は前年比16.8%増、ネット売り上げの中でも独身の日だけが25%増で他の日は10%台にとどまっている。


実店舗の売り上げ減少とネット売り上げ増加がリンクしているので、消費全体の伸びは8%に過ぎない。


さきほど書いたいい加減な「消費」調査を考慮すると、個人消費の実態は8.2%増よりもっと低い。

中国でネット消費が活発なのは「つけ払い」が効く理由が大きく、ほとんどの中国人はVISAやマスターなどのクレジットカードを持っていません。


代わりに中国ではアリババやテンセントが信用スコアに基づいたネット融資をしていて、審査なしで年収の数倍も貸してくれます。


実際には購入履歴や個人情報を勝手に収集して審査しているが、申し込み手続きすら省略しているので審査していないように感じる。

購入した分は後で請求が来るが、明日の事は明日考えるのが中国人なので、今日の買い物を楽しめばそれでいい。


こうして膨らんだ家計債務が膨大な不良債権になりつつあるのだが、政府は消費が増えるので取り締まっていない。


中国には自己破産制度がなく借金は永久に消えないし、それどころか親戚一同の連帯責任なので取りっぱぐれがない。

仮に本人が夜逃げしても親戚の連帯責任なので資産を没収して回収できる仕組みです。
http://www.thutmosev.com/archives/81468056.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/203.html#c27

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
27. 中川隆[-14929] koaQ7Jey 2019年11月14日 13:17:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2021]

ショスタコーヴィチ 交響曲第11番ト短調「1905年」作品103
2015 FEB 17 1:01:23 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/02/17/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%91%e7%95%aa%e3%83%88%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e3%80%8c%ef%bc%91%ef%bc%99/

ヒットラーにしてもスターリンにしても国威発揚に音楽を使った。ムッソリーニにそういう話はないのはオペラでは戦闘モードが萎えてしまうからか。その点、ドイツ、ロシアの音楽はその適性があったのだろう。

スターリンはショスタコーヴィチ(1906−75)にベートーベンのような交響曲第9番を期待していた。1945年、おりしも第2次大戦は有利な戦局であり、その「第9」は5月の戦争終結記念式典に演奏されるかのタイミングで作曲が進み政府の期待も盛り上がった。しかしなぜか完成は遅れて8月となり、さらに困ったことに、壮大な交響曲ではなく軽妙洒脱な軽いタッチの曲だったのである。

肩すかしを食らい、自身を揶揄されたと解したスターリンは激怒し、ジダーノフ批判(中央委員会による前衛芸術の検閲統制)によってショスタコーヴィチは窮地に追いやられたとどこにも書いてある。窮地?そんな甘いものじゃない。ボスの怒りがバックにあるのだからジダーノフは何の言いがかりをつけてでも簡単に彼を殺すことができたということである。

僕がショスタコーヴィチの音楽の論評にいつも違和感を覚えるのはこの殺される恐怖にフォーカスの甘いものばかりだからだ。音楽をやったり愛したり研究したりする人々が権力闘争に疎いのかどうか僕は知らないが、会社の昇進、ポスト争い程度の話であれ大組織の中は血みどろの戦いなのである。他人に生殺与奪権を握られると怖い。まして生命の危険となれば、ソクラテスのような人間でもない限り泰然とできるほうがよほど不思議である。ピアノばかり弾いて育った彼がそんな生き地獄に耐性を持ち合わせていたとはとても思い難い。

フルシチョフのスターリン批判にこういう記述がある。

「1934年の第17回党大会で選出された中央委員・同候補139名のうち98名が処刑された。党大会の代議員全体1,966名のうち1,108名が同様の運命をたどった。彼らに科せられた反革命の罪状は、その大半が濡れ衣であった」

スターリンに「NO」を言うことは、すなわち「死」を意味したのである。34年にこれを目の当たりにした彼が翌年書いたのが問題作となった交響曲第4番であり、その初演は差し止めとなって2年後の37年に書かれたのがあの第5番なのである。濡れ衣であろうが何であろうが血の雨は簡単に降ったという彼の恐怖と正面から向き合わずに5番をどうのこうのと論評しても仕方ない。


「知られざるロシア・アバンギャルドの遺産」100年前を振り返る
2015 JAN 31 2:02:02 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/01/31/%e3%80%8c%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%96%e3%82%8b%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%90%e3%83%b3%e3%82%ae%e3%83%a3%e3%83%ab%e3%83%89%e3%81%ae%e9%81%ba%e7%94%a3%e3%80%8d%e3%83%bc/


ここに書いた先輩世代の非業の画家たちに比べ、同世代のムラヴィンスキー(1903−88)や息子世代のロストロポーヴィチ(1927−2007)らは世渡りをうまくやってポスト・スターリン世代の英雄になった。しかし彼ら演奏家は他人の作品を音にして聴く者を喜ばすエンターテイナーである。自分を喜ばそうとする者を普通は処刑などしない。しかしその作品のほう、つまり真実のステートメントを発しないと芸術家として生きていけない、畢竟、自分自身をさらけ出す運命にある画家や作曲家の「恐怖」は度合いが違ったと考える方が自然な視点と思う。

そのふたりだけでなく多くの演奏家たちが後世になって「ショスタコーヴィチの真実」を語ったり弁護したり主張したりしている。彼らの演奏がスタンダードとされ、その言葉が現代の論評のテキストの一角をになっている。しかし命をかけて自画像を公表している本人からすれば、安全な所にいた人たちがエールを送ってくれたところでスタンドの応援団みたいなものだったろう。外野席か内野席かの違いぐらいはあったかもしれないが、グラウンドで戦っている人にとっては同じことだ。同時代人のムラヴィンスキーは問題含みの4、9、13、14番だけは巧みに逃げて振らなかった。非難するのではない、彼だって殺されないために必死だったということだ。

だからそれから8年間もショスタコーヴィチは交響曲を書かなかった。そして1953年、ついにスターリンが死んだ。その年に満を持して発表した交響曲第10番はそれなりの大交響曲となり自信作でもあった。ところがこれまた賛否両論を巻き起こしてしまうのである。作曲中に宿敵は死んだ。自身の名を暗号化した「DSCH音形」が前半は現れず後半になって頻出する。それが隠蔽された彼なりの喜びであったかどうかはともかく、それがばれてそう解釈されてしまったかもしれない。ポスト・スターリン政権はそれを口実に自分を殺すかもしれない。

暗号化。これはシューマンが愛妻の名を織り込んだのとやっている行為は同じだが、そんなメルヘン世界とはほど遠い。メルヘンに見えるものがあったとすれば推理小説作家が犯人を見抜かれないようにちりばめるひっかけ(ミスディレクション)の類だと解釈してそう人が悪いと思われる道理もないだろう。なにせ本音を見抜かれたら待っているのは「粛清」なのである。

しかし必ず後世が本音を発見してくれる。その時は自分も安全な所、つまりお墓のなかだ。ヴォルコフの証言にある「交響曲は私の墓碑銘である」という彼の言葉なるものは交響曲はダイイング・メッセージだよということであって、ヴォルコフの嘘であったとしてもそれなりに迫真性を感ずるものだ。

彼がその10番騒動の4年後に書いた第11番ト短調「1905年」作品103はソビエト連邦の最高栄誉である「レーニン賞」を与えられているのは注目されるべき事実である。その4年後にやはりロシア革命を題材として作曲された第12番はなんと「レーニン交響曲」とタイトルを付す計画であった。これは56年になされたニキータ・フルシチョフによる前掲のスターリン批判に呼応したものであることは疑いないだろう。そこで西欧は体制プロパガンダに堕落したとして作曲家の評価を下げてしまうのである。

第11番はロシアの共産主義運動の発端をなし、1917年のロシア革命のルーツともなった1905年の血の日曜日事件を描いた曲である。首都サンクトペテルブルグで行われた労働者によるロマノフ朝皇宮への平和的な請願行進に対して政府軍が発砲、数千人といわれる死傷者を出した惨事である。

余談だがこの事件は1月9日で、同年9月5日にロシアは日本との戦争に負ける。そして1917年のロシア革命でロマノフ朝は崩壊、第1次大戦に参戦はしたがドイツにこっぴどくやられる。それはそうだ、このとおり本丸がそれどころではなかったのだ。これはやはり日本に負けた清国が1911年に辛亥革命で崩壊したのとほぼ軌を一にする。日本は2つの共産主義大国を生む誘因となったといえる。

さらに余談になるが、先週ベラルーシでウクライナ停戦調停に出てきたロシア、ドイツ、フランスこそ、日清戦争の戦後処理で遼東半島の日本への割譲にいちゃもんをつけてきた(三国干渉)連中なのである。我々にはウクライナは遠いが、彼らにとって極東は近いのだ。我々はロシア史をもっと知る必要があるだろう。

交響曲第11番に戻る。この曲は無抵抗のまま殺された労働者への鎮魂とも、革命讃美の政権プロパガンダともいわれる。正反対の解釈であり両立はしない。ショスタコーヴィチの政治的立ち位置は当然ながら隠蔽されているのでどっちかという判断は誰もできない。

この曲のアトモスフェアを喚起する力は非常に大きい。第1楽章がハープと弦でそっと始まった刹那、冬のペテルブルク王宮前が忽然と眼前に現れる。こんなめざましい効果のある開始はなかなか思い当たらない。マーラーの1番の高いa音がピンと張った空気を漂わせるのが近いがあちらは清澄な森だ。こちらは血の匂いがする。

バルトークのピアノ協奏曲第2番第2楽章を思わせる静寂な神秘感があたりを覆うが、それは無慈悲で非人間的なもののメルクマールとして背景を支配しており、そこに低音のフルート重奏による聖歌のような虚ろな長調の旋律がぽっかり浮き出る。ふと人間的なものに出会った効果は絶大だが、深い悲しみをたたえているのが心に刺さる。

ミュートしたトランペット・ソロが遠くから響く。これは軍楽隊の合図のトランペットを即座に想起するが、吹いているメロディーは高音で半音階で徘徊する。これに僕はいつもチャイコフスキー4番の第1楽章で第1主題の現れる直前の所を思い出す。やがてやって来る凄惨な運命を暗示しているのも4番と似る。

第2楽章には1951年作曲の自作、無伴奏混声合唱曲「革命詩人による10の詩」作品88の第6曲「1月9日」が使われる。これだ。


Shostakovich - Ten Poems, op. 66, no. 6 The Ninth of January - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=c5ji8-6Z9cM&feature=emb_title


この女声にまたカール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」(1936年)の一節が聞こえてしまう。とんでもない、あれは「生」の、はたまた「性」の音楽だろう?でも聞こえるのだ。もっといえば第3楽章の最後に連打される最後の審判のようなトランペットとティンパニ、あれはホルストの惑星の「火星」(1916年)そのものだ。どちらもこの11番(1957年)よりはずっと前の曲だ。

この曲の第2楽章ほど群衆を銃撃で殺戮するシーンをリアルに描いた音楽はないだろう。銃撃が止んで急にあたりを支配する静寂はまことに残虐であり、映画音楽にすれば客を圧倒するリアリティに満ちている。セミョン・ビシュコフがBPOを振った素晴らしい演奏でこの楽章(15分23秒〜)の銃撃部分をお聴きいただきたい。

Shostakovich Symphony No.11 in G minor op.103 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=xgCjw714IYE&feature=emb_title


Shostakovich Symphony No.11 in G minor op.103

1. Palace Square. Adagio 00:00
2. Ninth of January. Allegro -- Adagio 15:23
3. Eternal Memory. Adagio 33:45
4. Alarm. Allegro non troppo - Adagio -- Allegro 46:00

Semyon Bychkov
Berliner Philharmoniker

あまりに生々しくて放送禁止になるかというレベルであり、撃っている方が「官軍」かというとロマノフ朝の軍なのだから微妙である。軍を含む政治体制をボルシェビキが乗っ取ったと見れば官軍ではある。レーニン賞が出ているのだから政権はそう解釈したに違いない。しかしこの残忍な楽章をはさみこんでいる静謐な第1,3楽章は、革命歌の引用というミスディレクションの迷彩の中で深い祈りの響きをたたえている。

私見では第4楽章は存在そのものが迷彩であり、この交響曲は第4番で犯したミスの補修であった第5番のレプリースであろう。

ロシア革命を賛美する。それはレーニンの肯定であり、レーニンが切ろうとして果たせなかったスターリンの否定であり、尊い革命への契機を提供した労働者たちへの鎮魂にもなるのである。そして何より、それが彼の身の安全を永年保証する護符になったことは言うまでもない。

ところがまだ裏がある。第4楽章の冒頭主題は革命歌「圧政者らよ、激怒せよ」である。交響曲の主題でこれほど無教養で野蛮であり、よって共産党独裁政権のテーマソングとして好適なものは類例がない。あえて同格をひとつあげよといわれれば5番終楽章の主題ということに相成ろう。それを意図して使っているショスタコーヴィチの計略を感じる。政府を嘲弄し、「体制翼賛になりすます偽計」の裏に入れ子構造の偽計を凝らしている。この手口は5番と同じだ。

では果たして、真実が体制翼賛でないなら「無抵抗のまま殺された労働者への鎮魂」なのだろうか。僕はどうもそんな単純なものではないような気がしてならない。

この曲に一貫して感じる作曲家の視線は「血の日曜日事件」を過ぎ去った歴史として眺めるものだ。血のにおいの残る広場に立って慟哭するという姿とは遠い。これを映画音楽と見下す人がいるが、それは言い過ぎだが大きく的外れではない。あえていうなら「ローマ三部作」でのレスピーギの視線が近いだろう。

第4楽章はひとしきりの銃撃と大暴れが続くと、粗暴なドラの一発で静かになりイングリッシュホルンが切々と慕情を歌う。この楽章のチープな戦場劇画風の雰囲気は三部作のうちで最も品格を欠く「ローマの祭り」そのものだ。彼は半世紀前の虐殺事件をコロッセウムでライオンと死闘した剣闘士を見るような目で眺めている。

この11番と、同じく表面は体制翼賛にきこえる12番は、10番騒動の始末と同時に本当に書きたかった13番「バビヤール」へつなぐための2本立ての間奏曲でもあった。13番は今話題のウクライナにいたユダヤ人をナチスが虐殺した事件を主題にし、ソ連にもある反ユダヤ主義を浮き彫りにする問題作である。12番の翌年に書かれたが、彼が2年連続で交響曲を発表したことはこれを除いて一度もない。そして案の定、13番は初演にかけてまたまた大問題を発生させるのである。

ちなみにやはり切れ者であったバルトークが管弦楽のための協奏曲で7番の第1楽章主題をパロディーにしている。対抗心とされ僕もそう信じていたが、米国に亡命して自由の身にはなったがアメリカンに囲まれ決して幸せではなかったバルトークは、7番の愚鈍な主題をあそこに挿入したショスタコーヴィチに何らかの共感もあったかもしれないと最近は思うようになっている。交響曲第13番第2楽章にはバルトークの「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」第3楽章の旋律が引用返しされている。

ではそういう窮地にいなければ彼は何を書いたんだろう?

思い出すのは佐村河内のゴーストライター 新垣隆氏の言葉だ。調性音楽なんて書いたら業界から締め出されてもう生きていけません、だから実をいうと楽しんで書きましたと彼は言った。ショスタコーヴィチは「体制翼賛派である自分」という別人のゴーストライターとして、自分の墓碑銘である交響曲を最後はそれなりに楽しんで書いたのではないだろうか?死ぬまで嘘をばれずにつけば、あなたはそういう人として埋葬されるのだ。

ああいうことでもなければ書かなかった調性のある交響曲を作曲した新垣隆氏。同じくそういうことでもなければ書かれなかったショスタコーヴィチの5番や11番。彼が最後に書いた15番などは他人の作品の引用とパロディーだらけで、いまもってどういう曲なのかつかみかねる。その謎の仮面こそ彼が終生仕方なくつきとおした嘘の象徴ではないか。墓碑銘としてこんなに格好のものはないだろう?彼にそう問いかけられているような気がする。

録音については僕は10種類ぐらいしか知らない。この作曲家に関しては楽譜までひもといて探究してみようという微細な関心はあまりおきないからだ。そう思ってネットを見たら大勢のショスタコファンのかたが多くの演奏を語り、熱いメッセージを書き込んでおられる。日本のクラシックの聴き手は懐が深い。僕はコンドラシン、ハイティンク、バルシャイを好んでいるが色々な意見と聴き方がある。ぜひそちらをご覧いただきたい。

キリル・コンドラシン/ モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団

Shostakovich Symphony 11 (complete) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=kBEwf_zdrnw&feature=emb_title


Moscou Philarmonic
condoctor :Kirill Kondrashine

I. The Palace Square (Adagio) 0:00
II. January The Ninth (Allegro) 12:32
III. Eternal Memory (Adagio) 30:00
IV. Tocsin (Allegro Non Troppo) 40:32

すべてを見抜いているような深みのある第1,3楽章、震撼するほど鮮烈な虐殺シーンを描ききる第2楽章、一度聴いたら忘れない演奏でコンドラシン(1914−81)は墓碑銘を読み取っていたのだろうと思う。「プラウダ」批判で発表できなかった交響曲第4番を25年後に、そして2大問題作のもうひとつ13番を62年に初演し(ムラヴィンスキーは逃げた)、結局西側に亡命したがその3年後にアムステルダムで客死した。すぐにKGBに暗殺されたのではないかと噂がたった。そんな曲を書いた方が殺されなかったのが不思議である。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/02/17/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%91%e7%95%aa%e3%83%88%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e3%80%8c%ef%bc%91%ef%bc%99/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c27

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
28. 中川隆[-14928] koaQ7Jey 2019年11月14日 13:21:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2020]

ラザレフのショスタコーヴィチ交響曲第11番を聴く
2015 MAR 21 13:13:51 pm by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/03/21/%e3%83%a9%e3%82%b6%e3%83%ac%e3%83%95%e3%81%ae%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%91%e7%95%aa%e3%82%92/

ショスタコーヴィチ

ピアノ協奏曲第2番ヘ長調作品102                               交響曲第11番ト短調作品103

ピアノ イワン・ルージン                                      指揮  アレクサンドル・ラザレフ指揮                              日本フィルハーモニー交響楽団

2015年3月20日 サントリーホール

交響曲第11番が僕の最も好きなショスタコーヴィチのひとつであることはブログに書いた。


ショスタコーヴィチ 交響曲第11番ト短調「1905年」作品103
2015 FEB 17 1:01:23 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/02/17/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%91%e7%95%aa%e3%83%88%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e3%80%8c%ef%bc%91%ef%bc%99/


そこに「第1楽章がハープと弦でそっと始まった刹那、冬のペテルブルク王宮前が忽然と眼前に現れる」と書いた。ライブだとそこの冷たい大気まで感じるリアルさで、やがて始まる皇帝軍の一斉射撃の凄まじさはこれが虐殺シーン以外の何ものでもないことを思い知らされる。

ラザレフはだいぶ前にチャイコフスキー5番などを読響で聴いただけだったが、もう長いこといろんなものを聴いたが演奏の良し悪しは初めの1音でほぼわかる。この日は日フィルの弦楽器群から素晴らしい音を引出しておりヴィオラ、コントラバスが好演、ヴァイオリンもこのホールでの最高の質感を保ったことは称賛に値する。

ソロ・トランペットも好演。管楽器は総じてレベルが高かったがイングリッシュホルンの高い方がほんのちょっと上がりきらなかったかな。打楽器も好演だったが特にバスドラの効かせ方が良かった。この音とコンバスが重層的な基調低音を作ることでオケ全体に見事な立体感が出ていた。こういうことは指揮者のセンスの賜物だ。

協奏曲は息子の19歳の誕生日に書いたこの曲は第2楽章などショスタコーヴィチと思えぬ優しい曲想だが聴きごたえがあった。軽め薄めに彩られた管弦楽法が楽しく、イワン・ルージンのピアノも軽め強めのタッチの弾き分けとグラデーションがみごとで、アンコールのプロコフィエフの第7ソナタ第3楽章も聴きごたえがあった。

大変に素晴らしいショスタコーヴィチを聴かせていただき大満足である。どちらもベルリンやロンドンにそのまま持っていって何の遜色もない名演だ。日フィルはほとんど聴いていなかったが、実力を認識した。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/03/21/%e3%83%a9%e3%82%b6%e3%83%ac%e3%83%95%e3%81%ae%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%91%e7%95%aa%e3%82%92/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c28

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
29. 中川隆[-14927] koaQ7Jey 2019年11月14日 13:23:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2019]

ショスタコーヴィチ 交響曲第13番 変ロ短調「バビ・ヤール」
2019 OCT 10 13:13:12 pm by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2019/10/10/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac13%e7%95%aa-%e5%a4%89%e3%83%ad%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e3%80%8c%e3%83%90%e3%83%93/

屋久島で助けた若いイスラエル人にもらったペンダントを自室の壁に掛けている。あれはもう5年前になるのか。羊に見えるが、ヘブライ語の “H” をかたどったユダヤのお守りだそうで、どうして H なのかは思い出せないが、「これはあなたを幸福にします」と真剣なまなざしでいった彼女の顔と言葉は忘れない。

キエフを占領したナチス・ドイツ親衛隊が、2日間で33,771人の女子供を問わないユダヤ人と、ウクライナ人・共産党員・ジプシー・ロマらを虐殺したのが、ウクライナ(キエフ)にあるバビ・ヤール峡谷であった。どういうきっかけだったか、だいぶ前にこの写真を見たときの衝撃は失せようがない。人間が犯したあらゆる罪でも最も悪魔に近い、鬼畜でも済まない、鬼だって畜生だってこんな卑劣、残酷なことはしない、呪って地獄に落とすべき所業だ。

1992年にドイツに赴任した。正直のところあまりうれしくなかった。フランクフルトの街のそこかしこでドイツ語を聞いた時に、まず心に浮かんだのは、これがモーツァルトのしゃべっていた言葉かということでもあったが、ナチスもそうかという暗澹たる気持ちのほうが多めだったのを思い出す。家を借りることに決めたケーニヒシュタインは、たまたまユダヤ人の街だった。ドイツ人には申し訳ないが、その文化、音楽は言うに及ばず哲学、思想、自然科学、法学において最も尊敬に値する国ではあるのだけれど、2年半住んで良い思い出をたくさんいただいたのだけれども、それでもどうしても「それ」だけは意識から消せないまま現在に至っていることを告白しなくてはならない。これだけドイツ音楽を愛し、それなしには人生成り立たないほどなのに、このアンビヴァレント(ambivalent)な相克は僕を内面で引き裂いている。

ナチスのホロコースト犠牲者は600万人とされるが、スターリン時代のソビエト共産党による国民、党員の粛清者は少なく見積もっても2000万人といわれる。ユートピアは死体の上に築かれるものらしい。その体制下に作曲家として生きたショスタコーヴィチがそのひとりにならなかったのは作品を見る限り奇跡としか思えないが、彼には音楽を書くと同等以上のインテリジェンスがあった。交響曲でいえば5番から本音を巧妙に封じ込める作法に転じ、時に大衆にもわかるほど明快に共産党への社会主義礼賛を装って、しかしアイロニーとシニシズムの煙幕の裏で鋭い批判と反逆の目を光らせる。表向きの迎合はスターリン死後の11,12番で犬にもわかる域まで振れ、その反動がいよいよまごうことなき “言葉” を伴った音楽で、本音の暴露と思われて仕方ない体裁で世に問われたのが第13番である。

13番は1962年、僕が小2の時の作品だ。まさにコンテンポラリーだが、最も舞台にかかることの少ないひとつだ。当然のこととして政府が監視、干渉し、Mov1の歌詞書き直しを命じ、初演を委嘱されたムラヴィンスキーが理由は定かではないが逃げ、コンドラシンが振った。劇場の聴衆は熱狂をもって支持した。海外初演はオーマンディーが振った(歌詞はオリジナルで)。フィラデルフィアの楽屋で「日本が大好き」と言ってくれた彼もユダヤ系米国人だ。まず彼の録音を聴いたが、よくわからなかった。僕はまだ若かった。今になって悟ったことだが、「バビ・ヤールに記念碑はない」と始まるこの曲は、世界の聴衆の脳裏にそれを建立して刻み付ける試みであり、エフゲニー・エフトゥシェンコの詩に託して語った作曲家自身の墓碑銘であると思う。

バス独唱とバス合唱は暗く重い。Mov1の曲想も沈鬱である。Mov2は一転、悪魔のブルレスケだ。Mov3「商店で」女たちは耐える、Mov4「恐怖」恐怖は死んでも偽善や虚偽がはびこる新たな恐怖がやってくる、Mov5「出世」私は出世しないのを、自分の出世とするのだ!音楽は旋律があり無調ではないが、鼻歌になるものでもない。4番でモダニズムに向かおうとしていたショスタコーヴィチがもし違う国で活躍できたなら13番目の交響曲はどうなったか、誰も知る由はないが、彼がどんなに不本意であったとしてもこれはあるべきひとつの帰結であり、彼の生きる意志と精神の戦いのドラマとして聴き手の心を痛烈に揺さぶる。Mov4まで、聴衆は尋常でない重みの暗黒と悲痛と諧謔と嘲笑を潜り抜け、Mov5に至って初めて運命の重力から解放される。Vn、Vaソロの天国の花園と鳥のさえずりがなんと救いに聞こえることか。チェレスタとベルが黄泉の国の扉を開け、全曲は静かに幕を閉じる。くどいほどの隠喩に満ちた怒りのメッセージと、田園交響曲から連綿と続く救済のメッセージの交差は現代の眼で見れば何ら新奇ではないが、彼ほどの人間がこんな手法に閉じ込めねばならなかった「なにものか」の重さは痛切だということが、それをもってわかる。ぜひ、上掲の写真をもういちど御覧いただければと思う。

昨日は初めてライブを聴いて、この交響曲は「理解」しようと思っても難しいのだと気づいた。エフトゥシェンコの詩は平明で、そこで起こっていたことを推察させるには充分だ。それをショスタコーヴィチが題材としてなぜ選び取ったかもである。「なにものか」を「時代の空気」と書くのはあまりに軽薄で情けないが、それを彼はこういう音楽に託したという意味での空気(アトモスフィア)ではあリ、彼の境遇ではそれを呼吸せずに生きることは能わなかった。アートは芸術家の心の奥底にある何らかの五感、感覚を通した衝動が生むものだとすれば、ここでの衝動は特異だ。しかし、それは、モーツァルトが危険を冒して書いた「フィガロの結婚」に比定できないでもなく、聴くものに「何かを読み取ってくれ!」という強いメッセージを包含しているように思う。ただ、ショスタコーヴィチのほうは、読み取るも何もあまりにあっけらかんとあからさまであって、彼ほどの頭脳を持った男にして何がそんなことをさせたのかの方を読み取りたくなってしまうという点で、13番は特異な音楽であると思う。

娑婆に戻ろう。きのうはCSファイナル初戦の巨人・阪神と迷った自分がいた。クラシック音楽と野球とどっちが大事なんだという問いに答えるのが僕ほど難儀だという人はほとんど存在しないのではないかというのが長年日本国に暮らして経験的に得た結論だ。犬好きと猫好きは違うが、両立することもある。しかし、こっちは、平明な水準ならともかく、そういう人は見たことがない。所詮は道楽の話だ、どうでもいいとも思うが、僕はそういうことを仔細に観察する手の人間であって、もはやリトマス試験紙になるかと思うほどに両者の人種までが違うと結論するしかないし、酸性でもアルカリ性でもある自分というものがわからなくなる。

これが5番や7番だったら確実に東京ドームに現れていたからけっこう微妙な裁定になるが、13番はなかなか機会がなく抗し難かった。まずハイドンを前菜にしたのは正解で、結果として、13番の重さを中和してくれたように思う。94番、何度聴いても良い曲だなあ、最近はますますハイドンに惹かれている。Mov1の提示部でVaに現れる、まさにハイドン様にひれ伏す瞬間である対旋律をテミルカーノフは2度とも指示して浮きだたせた。もうこれだけで先生わかってるね、さすがだねだ。

彼は13番初稿を作曲家の前で振っているが、コンテンポラリーをオリジナルな形で聴いておくのは大事だ。こうして何度も上演を重ねて、解釈は固まっていくから、千年の単位で物を見るなら我々はそのきわめて初期の過程をwitnessしたことになる。音楽が表すものが美ではなく、怒りである。音楽はそういうものをも伝えることができるという稀なる体験だった。

指揮=ユーリ・テミルカーノフ
バス=ピョートル・ミグノフ
男声合唱=新国立劇場合唱団(合唱指揮=冨平恭平)

ハイドン:交響曲第94番 ト長調「驚愕」
ショスタコーヴィチ:交響曲第13番 変ロ短調「バビ・ヤール」

(サントリーホール)

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2019/10/10/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac13%e7%95%aa-%e5%a4%89%e3%83%ad%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e3%80%8c%e3%83%90%e3%83%93/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c29

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
30. 中川隆[-14926] koaQ7Jey 2019年11月14日 13:29:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2018]

マーラーの墓碑銘
2017 SEP 10 12:12:03 pm by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/10/%e3%83%9e%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%a2%93%e7%a2%91%e9%8a%98/

「私の墓を訪ねてくれる人なら私が何者だったか知っているし、そうでない人に知ってもらう必要はない」と語ったグスタフ・マーラーの墓石(右)には名前しか刻まれていない。作品が語っているし、わからない者は必要ないということだ。去る者追わずの姿勢でも「やがて私の時代が来る」と宣言した堂々たる自信は畏敬に値する。

冒頭の言葉の墓をブログに置き換えて死にたいものだと思う。昨今、一日にのべ 2,000人ものご訪問をいただくようになってきてしまい、普通はなにか気の利いたサービス精神でも働かせるのだろうが僕にエンターテイナーの才能はない。何者か知っている方々だけが楽しんでくださればそれ以上は不要だ。

マーラーがスコアに「足音をたてるな」と書いたぐらい、僕は部下への指示が細かくてしつこかったと思う。理由は信用してないからだから言わない。しないと何をすべきかわからない人にはなぜかを説明するが、そういう人は得てしてそうしてもわからない。より平易にと親切心で比喩を使うと、主題転換の方に気を取られてますますわからなくなる。よって面倒なので、自分でやることになる。

マーラーを聴くと、そこまで僕を信用しませんか?それって、そこまでするほど重要なことでしたっけとなる。そして部下も僕をそう嫌ってるんだろうなと自省の念すら押し付けられて辟易し、音楽会が楽しくもなんともなくなってしまうのだ。ボヘミアンを自称したコンプレックスを断ち切ってウィーンの楽長まで昇りつめたエネルギーの放射と自信はすさまじいが、灰汁(あく)を伴う。

ショスタコーヴィチはマーラーの灰汁を彼自身のシニシズムと混ぜ合わせてスターリン将軍様に見せる仮面に仕立ててしまった賢人である。革命後の1920年代より一貫して第一線に立ち続けることができた芸術家は彼以外にほとんどいない。招かれざる個性だったがその陰に隠れた怒りのくどさも格段で、仮面がだんだん主題にすらなる。交響曲第13番は「バビヤールには墓碑銘がない」と始まるが、「私の交響曲は墓碑銘である」と語ったショスタコーヴィチの墓には「DSCH音型」(自分の名の音名)の墓碑銘がある。


https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/10/%e3%83%9e%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%a2%93%e7%a2%91%e9%8a%98/mahler2/
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/10/%e3%83%9e%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%a2%93%e7%a2%91%e9%8a%98/shostako/


僕は自分の音楽史の起源にある下のブログを書いていて、ネルソン・リドルのスコアに偶然かどうかDSCH音型があるのに気づいた(hが半音低いが)。


こういう、人生になんら影響のないことに気が行って、気になって眠れなくなるのをこだわり性格という。こだわりには人それぞれの勘所があって万事にこだわる人はまずない。芸術家はすべからくそれであって、そうでない人の作品にこだわりの人を吸引する力などあるはずがない。

例えば僕は猫好きだが子猫はつまらないし毛長の洋ものは犬ほど嫌いだから猫好きクラブなど論外である。生来の鉄道好きだが、勘所は線路と車輪のみでそれ以外なんら関心がないから今流の鉄オタとは遠い。原鉄道模型博物館に感動してこのブログを書いたのはわけがある。


車輪のフランジへのこだわりは書いた通りだが、書いてないのは「音」だ。線路と車輪は普通は安価で錆びず持ちがいいステンレスで済ますが継ぎ目を車輪が通過するカタンカタンの音が軽い。原信太郎氏は原音にこだわって鉄を使っているのである。そんなことは普通の客は気にしないし気づきもしないだろうが、僕のような客は気にするのだ。

バルトークの息子ペーテルが書いた「父・バルトーク」(右)に「なぜレールの継ぎ目で音がするの?」とカタンカタンのわけを質問したくだりがあって、父は線路と車輪を横から見た絵を描いて(これが実に精密だ!)、音の鳴る原理を克明に息子に説明しているのである。原信太郎氏はこれを見たかどうか、もし見たなら同胞の絆と膝を打ったに違いない。僕はバルトーク氏も原氏も直接存じ上げないが、心の奥底のこだわりの共振によってそれを確信できる。上掲ブログはあえてそう書かなかったが、それが2014年、3年半前の僕だ。いま書くとしたらぜんぜん違うものができていただろう。

原氏のこだわりの類のものを見ると、大方の日本人はこれぞ匠の技だ、我が国のモノづくりの原点だとなりがちだ。そうは思わない。ヨーロッパに11年半住んでいて、精巧な建築物、構造物、彫刻、絵画、天文時計などジャンルに数限りないこだわりの物凄さをたくさん見たからだ。クラシックと呼ばれる音楽もその最たるもののひとつだ。僕は洋物好きではない、精巧好きであって、それは地球上で実にヨーロッパに遍在しているにすぎないのである。

さて、マーラーの墓から始まって僕のブログはレールの継ぎ目の話にまで飛んでしまう。計画はなく、書きながらその時の思いつきを打ち込んでいるだけだ。アンタッチャブルは出るわ猫は出るわで常人の作文とも思われないが、こういう部分、つまり主題の脈絡なさ唐突さ、遠くに旅立つ転調のようなものがマーラーにはある。そして僕は、それが嫌だからショスタコーヴィチは好きでもマーラーは嫌いなのである。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/10/%e3%83%9e%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%a2%93%e7%a2%91%e9%8a%98/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c30

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
31. 中川隆[-14925] koaQ7Jey 2019年11月14日 13:37:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2017]
「どれを聴く?」迷ったら→井上道義・ショスタコーヴィチ交響曲 コメント 2007.11.01
https://www.michiyoshi-inoue.com/2007/11/_6.html


僕は今回の全曲演奏会で、できれば解説とか予備知識なしに、または
あってもそれを一回捨てて、彼の作品そのものに触れていただきたいのです。
                 ――「月刊ぶらあぼ」2007.11月号より

*「音楽はアートだ!真実をえぐる響き 井上道義的ショスタコーヴィチ世界 《井上道義の目》」 より*

(1)アヴァンギャルドの時代 交響曲第1番〜第3番

【交響曲第1番ヘ短調作品10】  2007.11.3.sat 17:00~
[ショスタコーヴィチの全ての爆発を確認する]
 19歳の、すでにそれまで4年間家族の経済を支えてきたしっかりした少年の
模範的卒業作品。しかし、ここそこに彼の才能の爆発、以後の彼自身の心の支えになる
独自の響き、形、性格が隠れている。彼は天才だが遅咲きのほう、ピアノを始めたのは
9歳なのだ。あなたの息子も、今からでも遅くないかも。

【交響曲第2番 ロ短調 作品14 「十月革命に捧ぐ」】  2007.11.3.sat 17:00~
[集団の中で住む場所を探す]
曲の後半サイレンが鳴るまでは、まるでフォービズム、ある時代のピカソのよう。
午後の授業のベルを聞くまでに遊ぶ奔放な少年の心の中を見るようだ。人は、集団に入れば
その中で自分の住む場所を見つけねばならない、どちらも人間の存在の表裏を形づくる世界だ。
強制とか自由とかの問題ではない。

【交響曲第3番 変ホ長調 作品20 「メーデー」】  2007.11.3.sat 17:00~
[ハプニングアートの時代を30年先取り]
 音の抽象画を狙ったと思える形式のはっきりしない作曲法、見方によってはオノ・ヨーコなどの
ハプニングアートの時代を30年先取りか。言語が音楽に突然社会的実用品として割り込み、
「レーニン」と叫ぶ。聴くほうも演奏するほうもプライバシー侵害を感じるような違和感。
今で言えばテレビコマーシャルの割り込みといえそうな終結部。


(2)批判との闘い 交響曲第4番〜第6番

【交響曲第4番 ハ短調 作品43】  2007.12.1.sat 17:00~
[正真正銘大傑作!]
 正真正銘大傑作。これを書いた後ショスタコーヴィチが粛清されても彼は永遠に名を残しただろう。
しかし上手く生きてくれてよかった。 ここに彼の全てがあり、誰もなしえなかった交響曲の巨大な
20世紀のモニュメントだ。男の音世界はこれだ。誰だ! クラシックは、女子供のすることだと
言ったり、私はクラシック音楽がわかりませんとか言う腰抜けは?

【交響曲第5番 ニ短調 作品47】  2007.11.4.sun 15:00~
[抽象画家の描いた肖像画]
 私事ですが長年、振りたくなかった作品です。10代のころ日比谷公会堂でひどい演奏を
聴いてしまったからか、或いはほとんどの指揮者が、終楽章で乱痴気騒ぎをするばかり
だったからかもしれない。でもあるとき楽譜を真面目に見てから考えが変わった。誰にでも
判りやすい形式で、繰り返しの多い古典的方法で、自分の音楽を型にはめてみたのだ。
すでに売れている抽象画家なのに街角で町の人々の肖像画を書いたようなもの。そしたら
黒山の人だかりになったのだった。

【交響曲第6番 ロ短調 作品54】  2007.11.4.sun 15:00~
[ショスタコーヴィチの「田園交響曲」]
 「大袈裟」が嫌いな人はまずショスタコは6番から聴けば良い。ベートーベンの田園とは
違うが、平和な曲だ。日比谷で聴いて公園散歩…ソヴィエト時代のロシアに生まれなくて
良かったとか思って…ふふふ、幸福ですか?


(3)戦争の時代 交響曲第7番〜第9番

【交響曲第7番 ハ長調 作品60 「レニングラード」】  2007.11.10.sat 17:00~
[オフザケと狂気は全く逆を向いている]
 私がショスタコに真に「はまった」のはこの第1楽章を「フザケタボレロ…」と
思った20年前。一昨日の感じです。オフザケと狂気は全く逆を向いていることを知った。
父や母が戦争の話をしたがらないわけもわかり始めた頃だ。
 人間は弱く、知らないうちに少しずつ狂気=戦争というに蝕まれるのだろう。心せよ!!
 7番が初演された頃、レニングラードでは都市封鎖で毎日3000人が死に、飲む水も
十分になかった。日比谷公会堂では大本営発表を信じていた人々が、クラシック
コンサートに通い2日に1回は行われていた。アメリカ生まれの私の育ての父は英語に
堪能であるというだけで日本ではスパイ扱い。耐えられずフィリピンに移住、母も
(いわく、「あこがれの軍艦!」に守られ)船で彼の後を追った頃だ。数年後、日比谷公会堂は
米軍による空襲での遺体置き場となる。

【交響曲第8番 ハ短調 作品65】  2007.12.9.sun 15:00~
[本当の芸術は材料なぞ何でも良い]
 戦争交響曲とも言われる。本当の芸術は材料なぞ何でも良いのだ,材料そのものを
表現したって芸術とはいえないのだから。その逆も真なりだがね。どんな戦いの中にも
素晴らしい興奮と生きる現実の喜びが人に与えられているではないか。ふふふ。

【交響曲第9番 変ホ長調 作品70】  2007.11.18.sun 15:00~
[人民の期待?を軽くうっちゃる喜び]
 楽しい、面白い、ユーモアがある、やさしい、でも崩れない品位があり、交響曲1番の
ようでもあり、まるでハイドンのシンフォニーのようで、演奏者も楽しめる。
サッカーの好きなショスタコ、意外と恋愛も多かったショスタコの、確信犯的な
おもちゃの兵隊のような凱旋フィナーレ、人民の期待?を軽くうっちゃる喜び=ショスタコの
真骨頂。ははは。


(4)体制の中から 交響曲第10番〜第13番

【交響曲第10番 ホ短調 作品93】  2007.11.11.sun 15:00~
[誰が自分を完全に説明できますか?]
 彼は作曲界の長嶋、イチロー、松井。人は彼を材料に色々書き、言う。しかし彼は
彼の心と頭から出る音形を楽譜に書きとめようとしているだけで、彼自身にだって
その出所がわからない事だってあるのだから。
誰が自分を完全に説明できますか?

【交響曲第11番 ト短調 作品103 「1905年」】  2007.12.5.wed 19:00~
[凍るようなロシアの長編小説]
 良い演奏ならばこの曲はまるで時間を越えて凍るようなロシアの長編小説、
長編歴史映画を見るような音絵巻だ。交響曲の世界は素晴らしい。殺されることなく
2つの革命(第12番とともに)を経験できるのだから…。平和の時代に生きる事への
罪の感覚が芽生えさえするのが恐ろしい。

【交響曲第12番 ニ短調 作品112 「1917年」】  2007.12.5.wed 19:00~
[何が起こっても何も変わらない「世界」]
 この曲の中に音楽の流れをせき止める音が数回出てくるが、何の関係もない音形
なのでロシア語の堪能な一柳さんに聞いてみた。数日して「スターリン」と読めると
聞いた。なるほど! 彼が出てくればすべては止まる。息の根が止められる。
最終楽章は革命の後の「何も変わらない黄昏のような朝焼け」さ。それは我々も
知っている。政権が変わっても首相が代わっても何も変わらない「世界」を。
でも誰にでも希望は与えられている。この曲が15曲の中で一番出来が悪いと
いう人が多いらしい。本当か?まあ聴いてください。

【交響曲第13番 変ロ短調 作品113 「バビ・ヤール」】  2007.11.11.sun 15:00~
[イソップ的世界からの鉄槌]
 名曲! ロシア語の詩は字幕で出します。飛んで跳ねるイソップの世界に身を隠し、
ユダヤ人差別を、身近なこととして偽善的な庶民へも突きつける内容。
日本にも差別はあるがそれをここまで赤裸々に音楽化しようとした勇気ある作曲家は
いない。彼はそれをあのソヴィエトの中でやった真の命知らず。
その上ムラヴィンスキー独裁の頃のレニングラードフィルハーモニーの団員は
その事実を公に出来なかったがユダヤ人がとても多かったのだから・・・・・
暴走族や町の落ガキ達に聞かせたい。


(5)終の境地 交響曲第14番、第15番

【交響曲第14番 ト短調 作品135】  2007.11.18.sun 15:00~
[死とは生きること]
 宗教、神による癒しも拒否し、安心も捨てて、死と対峙するとは自信に満ちた
ショスタコも行き着くところまで極まっている。死とは生きること。死がなければ
生はないのだから。ローレライの魔女は自分に魅入られて死んだ。人は何によって
生かされ何によって死ぬか? それを見つければその人の一生は完全だ。
人にとって当の自分の人生以外に価値あるものは何だろうか? 答えは? 愛とか言うのですか?

【交響曲第15番 イ長調 作品141】  2007.12.9.sun 15:00~
[名曲は、いかようにも変貌するもの]
 この曲は指揮者によってどのようにも変貌する。名曲とはそんなもの。怖い。
愛する?新日フィルと心中。

https://www.michiyoshi-inoue.com/2007/11/_6.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c31

[リバイバル3] 宇野功芳 ブルーノ・ワルターと我が音楽人生 中川隆
31. 中川隆[-14924] koaQ7Jey 2019年11月14日 17:39:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2016]

宇野功芳指揮新星日響のワーグナー「指環」オーケストラル・ハイライト(1993.4.15Live)を聴いて思ふ2018年8月30日
https://classic.opus-3.net/blog/?p=26807


そういえば宇野功芳さんが亡くなって早2年が経過する。

晩年は、その筆の勢いというか、かつてのキレがなくなってしまい、とてもがっかりだったけれど、例えば1980年代初頭、「レコード芸術」誌上で繰り広げられた福永陽一郎さんとのムラヴィンスキー論争などは、現在では考えられないほどの互いの持論の主張と反論の応酬であり、今思い出しても読者である僕たちが熱くなるほど激しいものだった。

当時、オイロディスクからリリースされた「ウィーン芸術週間のムラヴィンスキー」と題するLP4枚組セットについて、冒頭いきなり「エフゲニー・ムラヴィンスキー。この名前は私にアレルギーをおこさせる」と、まずは福永さんが気炎を吐いた。

今度のアルバムについても、宇野さんが「現役指揮者の中で唯一人の天才」なんて持ち上げるものだから、何だか気おされてしまって、かえって味気なくなってしまいそうだったが、1978年のライヴ録音というから、ひとつのオーケストラの常任指揮者としての在任記録も、オーマンディと並ぶ長距離不倒走者というわけだし、この際、心をあらためてジックリ耳をかたむけてみたのだ。
〜「レコード芸術」1981年4月号P200

この謙遜というより何とも慇懃な言い様に、右も左も分からない高校生ながら(当時宇野派の僕は)呆れ返らざるを得なかった。
福永さんは、シューベルトもブラームスも異様な演奏だとして数多の言葉を駆使してこき下ろし、ショスタコーヴィチについては「凄い」と賞讃しながらも感情の枯渇を指摘、さらにチャイコフスキーに至っては「評価のしようがないほどナンセンスな演奏だ」と取りつくしまがない。挙句は「蕁麻疹が出た」という有様だから僕は言葉も出なかった。

さすがの宇野さんも、これには反論の筆を執った(福永陽一郎氏のムラヴィンスキー論に反論する)。

具合が悪いのは、福永さんが、この演奏のすばらしさ、指揮者の表現力、統率力、オーケストラの能力を口を極めて絶讃し、その個性を好む趣味の人を貶すつもりはないが、ご自分は蕁麻疹が出た、といわれていることであろう。ムラヴィンスキーに対するアレルギーに、理由などはほとんどない、その拒絶反応には説明のしようがない、というのでは、これは好き嫌いの問題であって、話にならないのである。好きでも嫌いでも、良いものは良い、悪いものは悪い、というのが批評の鉄則であり、福永さんが、自分は批評家ではない、といわれても、それは通らないと思う。
〜「レコード芸術」1981年7月号P130

いかにも正論の宇野節炸裂に欣喜雀躍。
さらに宇野さんは次のように福永さんを責め立てる。

もう一つの大問題は、福永さんがムラヴィンスキーの実演を一度も聴いたことがない、という事実だ。凡庸な演奏というものは、時にマイクを通した方が良く聴こえる場合もあるが、天才の芸術になればなるほどマイクには入り切らない。
〜同上誌P130

この後も宇野さんはムラヴィンスキーの演奏の凄さを、手を変え、品を変え、訥々と論じられている。そして記事の最後を次のように締められているのである。

それにしても、福永さんがムラヴィンスキーのシューベルトやブラームスを《ロシアなまり》と称しているのには抵抗がある。ムラヴィンスキーのチャイコフスキーやショスタコーヴィチを本場物だから、という理由で高く評価するのが間違いであるように、この指揮者にロシアなまりなど、ありはしない。それこそ彼の個性なのである。福永さんは、ムラヴィンスキーの演奏を「自説でしかない」とけなされているが、演奏というもの自体が、本来自説でしかないのではあるまいか。ぼくが思うに、現代の指揮者たちは自分を語ることから遠ざかっているように思う。
〜同上誌P131

演奏というものが本来自説でしかないという言葉に膝を打つ。
その通り、宇野さんも、自身がオーケストラを指揮するようになってから、自説以外の何ものでもない個性的な演奏を繰り広げた。そしてまた、(ムラヴィンスキーとは次元が違うとはいえ)彼の演奏も録音にはなかなか入り切らなかった。

「ワーグナーには小細工をしてもはじまらない。いかにオーケストラを鳴らし、雄大なスケールを表出するかだけだ」と挑戦したワーグナーの管弦楽を中心に組んだコンサートでも、宇野さんはその録音を発売することにとても躊躇したというのだから興味深い(示導動機が鮮明さを欠き、響きに立体感が乏しいという理由かららしい)。しかし、その演奏は当然とても個性的なもので、今となっては残していただけて良かったと思えるもの。

ワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」よりオーケストラル・ハイライト
・「ラインの黄金」〜ワルハラ城への神々の入場
・「ワルキューレ」〜ワルキューレの騎行
・「神々の黄昏」〜夜明けとジークフリートのラインへの旅
・「神々の黄昏」〜ジークフリートの葬送行進曲
・「神々の黄昏」〜ブリュンヒルデの自己犠牲と終曲
宇野功芳指揮新星日本交響楽団(1993.4.15Live)

悠久を思わせる遅いテンポで奏される「ワルキューレの騎行」は、細部まで見通すことのできる絶品。そして、「神々の黄昏」からの3つのシーンの、時間と空間を超えた魔法の妙。特に「葬送行進曲」での地の果てから蠢き、轟く音響の有機性に驚くばかり(さぞかし実演ではすごい音が発せられたのだろうと思う)。あるいは終曲の、「生への歓呼の動機」と「ワルハラの動機」の上に、「愛の救済の動機」が顔を出し、音が三層に重なり合う場面の神々しさ。

ワーグナーが自筆総譜の最終ページに書き込んだ言葉はこうだ。

1874年11月21日、ヴァーンフリート荘にて完成。もう何も言うまい!
〜日本ワーグナー協会監修/三光長治/高辻知義/三宅幸夫編訳「神々の黄昏」(白水社)P140

文字通り言葉がない。
https://classic.opus-3.net/blog/?p=26807
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/529.html#c31

[リバイバル3] 宇野功芳 ブルーノ・ワルターと我が音楽人生 中川隆
32. 中川隆[-14923] koaQ7Jey 2019年11月14日 17:44:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2015]


ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全曲演奏最終日 そして宇野功芳氏の訃報
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-171c.html


 2016年6月16日、横浜市鶴見区のサルビアホールでパシフィカ・クァルテットによるショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏最終日を聴いた。最後まで緊張感あふれる素晴らしい演奏だった。

 曲目は、前半に11番と13番、後半に14番と15番。親しい人が死に、自分の死が近づいていることを意識する時期のショスタコーヴィチの陰鬱で複雑な感情が描かれる曲。ショスタコーヴィチが信頼し、彼の弦楽四重奏曲を初演してきたベートーヴェン・クァルテットのメンバーの死を追悼する意味の含まれる曲が多く、それぞれの楽器の使い方が曲により異なる。

パシフィカ・クァルテットはそれらの曲の複雑な表情を実に鮮烈に、しかも緊張感にあふれて再現した。強い音の表現がみごと。四人の息もぴったり。やはり、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏を連想する。独特の境地とでもいうか。ただ、とりわけ第1番に関しては、私にはまだまだ理解できないと思った。中学生だったか高校生だったかのころ、初めてベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聴いて途方に暮れた時のことを思い出した。まだまだショスタコーヴィチに関して、私の修行が足りないということだろう。

いずれにせよ、私はショスタコーヴィチについては交響曲よりも室内楽のほうにずっとひかれることを改めて感じた。交響曲は大衆を意識し、ソ連当局を意識するので、内面そのものでなく、あれこれと政治的な言い訳を加えたり、韜晦を加えたりといった余計なものがたくさんある。が、室内楽にはショスタコーヴィチの屈折した内面がそのまま表れる。そこが最高におもしろい。とりわけ、弦楽四重奏曲を最初からずっと聞いていくとその人生の軌跡が見えてくる。しかも、このパシフィカ・クァルテットはそれを最高の生々しさで描いてくれる。

このような最高の企画をしてくれている横浜楽友会に感謝。

といいつつ、鶴見に通って4日間ショスタコーヴィチを聴くというのはなかなかつらい。このところ食欲がなく気が晴れない(といいつつ、一昨日は銀座三越のレ・ロジェ・エギュスキロールで実においしいフランス料理を食べたが)のはショスタコーヴィチの気分を引きずっているからのような気がしてならない。

なお、数日前、ショスタコーヴィチ連続演奏に通っている間に音楽評論家の宇野功芳氏死去の報道に接した。私は高校生、大学生のころ、氏に非常に大きな影響を受けた。その後、氏のあまりに断定的な表現、芸術に順位をつけるような考え方に反発し、私にとって最も嫌いな評論家になっていた。しばしば氏の批評に腹の立つことがあった。だが、CDを聴き、自分なりに感想を抱いた後、宇野氏の評を読むと、私の感想とそっくり同じであることに驚くことも多かった。

5、6年前、一度、出版関係者の紹介で話をする機会(ベストセラー作家であり、クラシック音楽好きで、音楽関係の著書も数冊あると私は紹介された)があり、率直に私の思いをお話しすると、「宇野功芳と対決するという本でも出しませんか。いつでも受けて立ちますよ」といわれた。ちょっと考えたが、音楽に対する知識でとうてい氏に及ぶわけはないと思ってあきらめた。今となってはよい思い出だ。合掌。


コメント


宇野さんはここ数年過去に自分の言った言葉の数々に囚われてしまったようにかんじられました。音楽を聴くときに言葉に囚われることの悲劇というのを、自分は過去ある演奏者の方から直接聞いたことがあります。それをふと思い出してしまいました。
投稿: かきのたね | 2016年6月19日 (日) 03時24分



幻に終わった宇野功芳氏との対決本、もしできていたら、面白い本になったかもしれませんね。読者も参加できたら(投稿か何かの方法で)、私も一言くらいは参加したかも‥と思ってしまいました。
投稿: Eno | 2016年6月19日 (日) 18時12分



かきのたね 様
おっしゃる通りですね。確かに、あのように断定的な言い方をすると、のちに考えが変わったり、別の視点で聴き返してみたりしたとき、前言を翻すのが難しくなってしまいますね。ある意味で自分の成長を自分でとどめてしまうことになるかもしれません。しかも、氏の場合、以前と矛盾したことを書くと鬼の首を取ったようにあげつらうアンチも多かったようですし。あのような文体も一つの芸だったとは思いますが、ご自分へのマイナス面のあったのでしょう。
投稿: 樋口裕一 | 2016年6月19日 (日) 21時58分


Eno様
宇野氏の追悼本として、そのような本の企画をどなたか考えてくれませんかねえ。それがもっとも宇野氏にふさわしい本になるように思います。多くの投稿者が一つのオマージュとして宇野氏への批判をするような本です。私も一人の投稿者として加わりたいですね。

投稿: 樋口裕一 | 2016年6月19日 (日) 22時07分
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-171c.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/529.html#c32

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
32. 中川隆[-14922] koaQ7Jey 2019年11月14日 17:48:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2014]

トリオ・ワンダラーのベートーヴェンとパシフィカ・クァルテットのショスタコーヴィチ 2016年6月11日
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-846f.html


 2016年6月9日、三鷹芸術文化センターでトリオ・ワンダラーによるベートーヴェンのピアノ三重奏曲全曲演奏の二日目、第1・3、変ホ長調WoO38、「仕立て屋カカドゥの主題の夜変奏曲とロンド」、第7番「大公」を聴いた。トリオ・ワンダラーはこれまでナントと日本のラ・フォル・ジュルネで何度も聴いてきたが、実は私はどうもよさがわからない。雑な気がしてしまう。が、強く薦める人がいたので、再び聴いてみた。だが、やはり印象は変わらなかった。

 もう少しじっくりと演奏してほしい気がしてしまう。意味なく速く、せわしげに演奏しているような気がしてならない。第三番の作品1−3のハ短調の曲も、あの若きベートーヴェンの人生に対する鬱積が伝わらない。「大公」も凛とした気品が伝わらない。私がこれらの曲に求めるものとは違うものをこのトリオは表現しているのだろう。「やはり、私にはよくわからない団体だ」ということを再認識した。

 翌6月10日、横浜市鶴見区のサルビアホールでパシフィカ・クァルテットによるショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲連続演奏の初日、第1・2・7・3番の演奏を聴いた。これは素晴らしかった。ショスタコーヴィチの醍醐味を味わった。

 サルビアホールで聴いたのは初めてだった。鶴見駅からすぐのところにある100名を少し超すくらいの規模のホールだが、音響面に優れているように思った。このホールで室内楽を聴くのはとても贅沢だ。

 パシフィカ・クァルテットは1994年結成の弦楽四重奏団。もっと若いのかと思っていたら、今や中堅といえそう。アンサンブルがびしりとあって実に見事。時々テンポを動かすが、テンポの揺れが指揮者なしで完璧に行われるのは小気味いいほど。しかも、それが音楽の流れに沿っているので、まったく不自然ではない。音楽の表情も豊かで、完璧なアンサンブルによってショスタコーヴィチ特有のヒステリックといえるような激しい高揚が展開される。人生のやるせなさ、激しい焦燥、怒り、生そのものの激しい衝動。そのようなものが目の前で繰り広げられる。この団体の凄さだけでなく、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の素晴らしさも改めて知ることができた。第3番は素晴らしい名曲だと思った。

 実は、とても忙しい。たまたまいくつかの仕事の締め切りが重なってしまった。しかも、コンサートや芝居、オペラなどに立て続けに行く予定。そんなわけで、今日はこれ以上文章を書く時間的余裕がない。このくらいにしておく。
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-846f.html


パシフィカ・クァルテットのショスタコーヴィチ第2夜・第3夜 圧倒的演奏!
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-ea0f.html


 2016年6月13日・14日、横浜市鶴見区のサルビアホールでパシフィカ・クァルテットのショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏の第2夜と第3夜を聴いた。本当に素晴らしい。パシフィカ・クァルテットの名前はこのたび初めて知った。こんなすごい弦楽四重奏団がいたなんて!

 完璧なアンサンブル。リリックな部分、ロマンティックな部分、絶望的な部分、うつうつとした部分、躁の部分がとても自然に、しかもメリハリが付けて演奏される。その多くの部分に心を奪われ、時に胸を締め付けられる気持ちになり、時に叫びだしたい気分になる。音楽の中に音楽そのもののドラマがあり、それが余すところなく表現される。しかも、余計なものは含まれていないのを感じる。だからこそ、いっそう魂を揺さぶる。

 私は特にショスタコーヴィチ好きというわけではない。交響曲に関していうと、どちらかというとやや苦手な曲が多い。20年近く前、ボロディン弦楽四重奏団の全集CDを見つけて購入し、その凄まじい演奏に圧倒されて以来、室内楽曲には魅力を感じてきたが、本当のことを言うと、ボロディン四重奏団の全集も通して聴いたのは2、3回だと思う。ショスタコーヴィチの曲を聴くと、胸がいっぱいになって続けて聴きたい気持ちが起こらない。そんなわけで、今回も、初めて聴いたに等しい曲も何曲かあった。

 しかし、そうであったとしても、今回のパシフィカ・クァルテットの演奏には驚嘆する。ぐさりぐさりと心に突き刺さってくる。私はとりわけ第2日(6月13日)の第8番と第3日(6月14日)の第9番と第12番に感動した。音によって作りだされる複雑な人間の魂の世界に揺り動かされた。

 100人くらいしか客の入らないサルビアホールで独り占めするのがあまりにもったいない。世界最高レベルのクァルテットだと思う。最終日が楽しみだ。
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-ea0f.html

ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全曲演奏最終日 そして宇野功芳氏の訃報
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-171c.html


 2016年6月16日、横浜市鶴見区のサルビアホールでパシフィカ・クァルテットによるショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏最終日を聴いた。最後まで緊張感あふれる素晴らしい演奏だった。

 曲目は、前半に11番と13番、後半に14番と15番。親しい人が死に、自分の死が近づいていることを意識する時期のショスタコーヴィチの陰鬱で複雑な感情が描かれる曲。ショスタコーヴィチが信頼し、彼の弦楽四重奏曲を初演してきたベートーヴェン・クァルテットのメンバーの死を追悼する意味の含まれる曲が多く、それぞれの楽器の使い方が曲により異なる。

パシフィカ・クァルテットはそれらの曲の複雑な表情を実に鮮烈に、しかも緊張感にあふれて再現した。強い音の表現がみごと。四人の息もぴったり。やはり、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏を連想する。独特の境地とでもいうか。ただ、とりわけ第1番に関しては、私にはまだまだ理解できないと思った。中学生だったか高校生だったかのころ、初めてベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聴いて途方に暮れた時のことを思い出した。まだまだショスタコーヴィチに関して、私の修行が足りないということだろう。

いずれにせよ、私はショスタコーヴィチについては交響曲よりも室内楽のほうにずっとひかれることを改めて感じた。交響曲は大衆を意識し、ソ連当局を意識するので、内面そのものでなく、あれこれと政治的な言い訳を加えたり、韜晦を加えたりといった余計なものがたくさんある。が、室内楽にはショスタコーヴィチの屈折した内面がそのまま表れる。そこが最高におもしろい。とりわけ、弦楽四重奏曲を最初からずっと聞いていくとその人生の軌跡が見えてくる。しかも、このパシフィカ・クァルテットはそれを最高の生々しさで描いてくれる。

このような最高の企画をしてくれている横浜楽友会に感謝。

といいつつ、鶴見に通って4日間ショスタコーヴィチを聴くというのはなかなかつらい。このところ食欲がなく気が晴れない(といいつつ、一昨日は銀座三越のレ・ロジェ・エギュスキロールで実においしいフランス料理を食べたが)のはショスタコーヴィチの気分を引きずっているからのような気がしてならない。

なお、数日前、ショスタコーヴィチ連続演奏に通っている間に音楽評論家の宇野功芳氏死去の報道に接した。私は高校生、大学生のころ、氏に非常に大きな影響を受けた。その後、氏のあまりに断定的な表現、芸術に順位をつけるような考え方に反発し、私にとって最も嫌いな評論家になっていた。しばしば氏の批評に腹の立つことがあった。だが、CDを聴き、自分なりに感想を抱いた後、宇野氏の評を読むと、私の感想とそっくり同じであることに驚くことも多かった。

5、6年前、一度、出版関係者の紹介で話をする機会(ベストセラー作家であり、クラシック音楽好きで、音楽関係の著書も数冊あると私は紹介された)があり、率直に私の思いをお話しすると、「宇野功芳と対決するという本でも出しませんか。いつでも受けて立ちますよ」といわれた。ちょっと考えたが、音楽に対する知識でとうてい氏に及ぶわけはないと思ってあきらめた。今となってはよい思い出だ。合掌。


コメント


宇野さんはここ数年過去に自分の言った言葉の数々に囚われてしまったようにかんじられました。音楽を聴くときに言葉に囚われることの悲劇というのを、自分は過去ある演奏者の方から直接聞いたことがあります。それをふと思い出してしまいました。
投稿: かきのたね | 2016年6月19日 (日) 03時24分

幻に終わった宇野功芳氏との対決本、もしできていたら、面白い本になったかもしれませんね。読者も参加できたら(投稿か何かの方法で)、私も一言くらいは参加したかも‥と思ってしまいました。
投稿: Eno | 2016年6月19日 (日) 18時12分

かきのたね 様
おっしゃる通りですね。確かに、あのように断定的な言い方をすると、のちに考えが変わったり、別の視点で聴き返してみたりしたとき、前言を翻すのが難しくなってしまいますね。ある意味で自分の成長を自分でとどめてしまうことになるかもしれません。しかも、氏の場合、以前と矛盾したことを書くと鬼の首を取ったようにあげつらうアンチも多かったようですし。あのような文体も一つの芸だったとは思いますが、ご自分へのマイナス面のあったのでしょう。
投稿: 樋口裕一 | 2016年6月19日 (日) 21時58分

Eno様
宇野氏の追悼本として、そのような本の企画をどなたか考えてくれませんかねえ。それがもっとも宇野氏にふさわしい本になるように思います。多くの投稿者が一つのオマージュとして宇野氏への批判をするような本です。私も一人の投稿者として加わりたいですね。

投稿: 樋口裕一 | 2016年6月19日 (日) 22時07分
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-171c.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c32

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
33. 中川隆[-14921] koaQ7Jey 2019年11月14日 17:59:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2013]
パシフィカ・クァルテットのショスタコーヴィチ

String Quartet No. 8 in C Minor, Op. 110 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ql0JzzflED0
https://www.youtube.com/watch?v=zS-eJ6_WWa4
https://www.youtube.com/watch?v=ZJLTyzl-fVo
https://www.youtube.com/watch?v=_4kPd3nW0Fk
https://www.youtube.com/watch?v=ryDeqqUvs44

Ensemble: Pacifica Quartet
Composer: Dmitry Shostakovich
Released on: 2011-09-06
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c33

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
34. 中川隆[-14920] koaQ7Jey 2019年11月14日 18:44:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2012]

ショスタコーヴィチ(1906-1975) プロフィール
https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%EF%BC%881906-1975%EF%BC%89_000000000021314/biography/


「わたしの交響曲は墓碑である」という例の『証言』の中の言葉に色々な意味で象徴されるショスタコーヴィチの音楽と生涯への価値観の変質は、今もって盛んな議論や推論、研究、演奏解釈によって再認識過程の最中にあるとも言えますが、作品によってはすでに演奏年数も75年に及び、伝統と新たな解釈の対照がごく自然におこなわれてきているとも言えそうです。

 圧政と戦争の象徴でもあったソビエト共産主義社会の中に生き、そして逝ったショスタコーヴィチの音楽は、最も20世紀的な音楽のひとつとして位置付けられており、没後四半世紀以上を経た現在では録音点数も増えて、音による鑑賞&検証も比較的容易になりました。以下、彼の生涯を簡単にご紹介しておきます。

 作曲家、ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチは、1906年9月25日午後5時、ペテルブルグに誕生します。父親はポーランド系で度量衡検査院主任、母親はペテルブルグ音楽院を卒業したピアニストで、ドミトリーは9歳から母親にピアノを習い始めて異常なほどの上達ぶりをみせ、さらに作曲にも大きな関心を示し、『自由の賛歌』(ピアノ曲)を書きあげます。同年、私立の学校とグリャッセルの音楽学校という二つの学校に通い出したショスタコーヴィチは、1917年、二月革命で警官が子供を殺害するのを衝撃を受け『革命の犠牲者の行進曲(葬送行進曲)』(ピアノ曲)を作曲。

 1919年、ペトログラード音楽院に入学し、母の師でもあったロザノヴァにピアノを、シテインベルグに作曲を師事します。画家、クストーディエフとも交流を持ち、有名な肖像画が書かれているのもこの頃のこと。作曲活動も活発になり、ピアノ曲のほか、未完に終わったオペラ『ジプシー』や、オーケストラ伴奏歌曲、R=コルサコフ作品のオーケストラ編曲もおこなっています。1922年、父親が亡くなり、ショスタコーヴィチ家の経済状態は貧窮に陥りますが、グラズーノフが手をさしのべてくれたおかげで学業を続けることができました。

 翌1923年にはピアノ科を修了、映画館で解説ピアニストとして働き始めます。この頃、ショスタコーヴィチの結核の症状が悪化し、クリミヤ半島に転地療養することになりますが、同地ではタティアナ・グリヴェンコという同年齢の少女と恋に落ち、5年間に150通の恋文が書かれたほか、ピアノ三重奏曲第1番が献呈されています。1925年には作曲科を修了。卒業作品、交響曲第1番作品10のニコライ・マリコによる初演は大成功を収め、ソヴィエトだけでなく西欧でも演奏されてショスタコーヴィチの名を一躍世界に広め、これが作曲家としての本格的なデビューになったといえるでしょう。

 1926年春、新設された大学院に入学したショスタコーヴィチは交響曲第1番の成功にも関わらず、ピアニストとしての実力の高さからも進路を決めあぐねていました。翌1927年1月には第1回ショパン・コンクールに参加しますが、急性盲腸炎のためいつも通りには弾けず、結局、第1位にはレフ・オボーリンが選ばれてショスタコーヴィチは特別賞を受賞することになります。

 受賞後、新作のピアノ・ソナタ第1番作品12を各地で演奏する一方、同年3月末には国立出版所音楽部門から、その年の秋に控えた十月革命10周年記念式典で演奏される交響曲の作曲を委嘱されたことは、当時の不安定な立場を物語るかのようです。同年にはさらに前年に出会ったソレルティンスキーの影響でピアノ組曲『アフォリズム』作品13を書き上げ、大胆なオペラ『鼻』作品15にも着手。この時期の作風がショスタコーヴィチ自身の変化に伴ってさまざまに変貌していることを伝えてくれますが、これには当時のモダニズムにあふれかえっていた社会情勢の影響も見逃すわけには行きません。

 同じ1927年の8月から9月、ショスタコーヴィチはレニングラード近郊のデッツコエ・セロのサナトリウムで盲腸炎手術後の休養をとっていましたが、同地で工業大学の物理の学生、ニーナ・ヴァルザルと出会い、のちの結婚へと繋がって行きます。この年の暮れにはスターリンによる独裁体制も始まりました。

 1928年、オペラ『鼻』完成。上演をめぐって知り合った著名な前衛演劇人メイエルホーリドの家に住み込み、彼の劇場の音楽を担当。翌1929年には、高名な詩人マヤコフスキーの知己を得『南京虫』の音楽を作曲。また、交響曲第3番『メーデー』作品20も書き上げ、さらにバレエ『黄金時代』作品22に着手。ほかに劇音楽『射撃』作品24、ドレッセルのオペラ『コロンブス』のための間奏曲と終曲作品23も書かかれています。

 秋には演奏会形式で『鼻』の初演がおこなわれ、モダニズム派の形勢が不利だった時代ということもあり、ロシア・プロレタリア音楽協会から酷評を受けることに。ちなみに、『射撃』はプロレタリア側組織、労働青年劇場との関わりから生まれた作品。この頃からすでにショスタコーヴィチの音楽と政治の関係は複雑だったようです。同年末、レニングラード音楽院大学院を卒業。

 1930年1月、マールイ劇場で『鼻』初演。さらに同月、交響曲第3番『メーデー』が初演され、3月にはバレエ組曲『黄金時代』が初演。5月には労働青年劇場との共同作業で音楽を担当した演劇『処女地』の上演が開始され、10月には『黄金時代』がバレエとして上演されます。同じ年、ショスタコーヴィチは、労働青年劇場の機関誌『プロレタリア音楽家』にプロレタリア音楽を熱烈に支持する発言を寄せています。

 なお、前年(1929年)の初めから翌1931年の暮れにかけては、のちのショスタコーヴィチの言葉によれば「『実用』作曲家として過ごした時期」であり、1930年には『処女地』のほか、映画音楽『女ひとり』を書いています。とはいえ、この年はもっぱら、前半の初演の多さと、傑作『ボルト』、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の作曲に着手したことで知られており、現在の認識ではむしろ充実した年という判断が主流です。

 1931年、バレエ『ボルト』作品27完成。その他、劇音楽『ハムレット』、『支配せよ、ブリタニア!』、『条件付きの死者』、映画音楽『黄金の丘』(組曲版も)、弦楽四重奏のための2つの小品、『緑の工場』のための序曲を作曲。

 1932年、ニーナ・ヴァルザルと結婚。組曲『ハムレット』(前年の劇音楽から)、映画音楽『呼応計画』、声楽付き交響詩『カール・マルクスから我々の時代へ』、『チェロのためのモデラート』、『大きな稲妻』作曲のほか、ストラヴィンスキー『詩篇交響曲』を4手ピアノに編曲。また、24の前奏曲の作曲にも着手し翌1933年に完成しています。

 1933年、レニングラード市オクチャーブリ区議会議員に選出。ピアノ協奏曲第1番作品35、劇音楽『人間喜劇』作曲。

 1934年、歌劇『ムツェンスク群のマクベス夫人』初演。大成功を収め、翌年1月にはロジンスキーによってアメリカ初演もおこなわれています。ジャズ・オーケストラのための第1組曲、チェロ・ソナタ、バレエ『明るい小川』、映画音楽『司祭とその下男バルダの物語』、『愛と悲しみ』、『マクシムの青年時代』、『女友達』作曲。妻・母とともにドミトリエフ小路のアパートに転居。嫁姑の確執からか、妻ニーナが病気がちになり保養所で過ごす時間が増加。

 1935年、管弦楽のための5つの断章作品42を作曲したほか、交響曲第4番に着手。バレエ『明るい小川』初演。その他、黄金時代からのポルカをピアノ独奏用に編曲。前年に入居したアパートを母親名義にし、妻とキーロフ大通りのアパートに転居。妻妊娠。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%EF%BC%881906-1975%EF%BC%89_000000000021314/biography/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c34

[近代史3] 天皇一族だけでなく日本人の大人の幼児化も進行している 中川隆
53. 中川隆[-14919] koaQ7Jey 2019年11月14日 18:52:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2011]

あおり運転をする人の卑屈な日常 2019/11/14


逮捕時の状況を楽しむ宮崎容疑者。(AFLO=写真)© PRESIDENT Online 逮捕時の状況を楽しむ宮崎容疑者。(AFLO=写真)

宮崎容疑者はアドレナリンジャンキー

2019年8月、茨城県の常磐自動車道で起きたあおり運転殴打事件。県警は監視カメラから容疑者を全国指名手配し、傷害・強要容疑で住所不定の宮崎文夫容疑者(43)と同乗者の女を逮捕した。この事件は、被害者の車載カメラに暴行の映像が残っていたこともあり、世間で大きな話題となった。宮崎容疑者は新東名高速道路でも同様のあおり運転をした容疑など、余罪が多くあると見られている。このような過激なあおり運転をする人間にはどのような特徴があるのだろうか。精神科医の樺沢紫苑氏はこう分析する。

「逮捕時の映像を見る限り、あおり運転をしている際も、逮捕される際も、その状況を楽しんでいるように見えました。私の作った言葉にアドレナリンジャンキーという言葉があります。これこそ、まさにアドレナリンジャンキーの症状と言っていい。アドレナリンは、本来自分が死に陥りそうになったときに平常時以上の力を発揮する効果をもたらす分泌物のこと。格闘技ではアドレナリンが出ると痛みを感じにくくなり、戦闘意欲が高まることが知られています。宮崎容疑者は、危ない運転に快楽を見出しすぎる、アドレナリンが出た状態にあったと思われます」

感情が一時的に増幅

樺沢氏によれば、宮崎容疑者は怒りの感情が一時的に増幅され、その勢いであおり運転や暴力を振るった可能性が高いという。

「ただし、アドレナリンは一瞬で分泌され、約6秒でピークの値から下がるといわれています。つまり、カッとなっても10秒だけ深呼吸して時間の経過を待てば、事態を冷静に見つめ直すことができる。彼にはそれができなかったのでしょう」

激昂している人というのは、自らが怒っているという自覚が持てない。それがもっとも問題だという。

「怒りを鎮めるための効果的な対策は、怒りを自分で認識すること。『いま自分は怒っている』と客観視できれば、一時的な感情で極端な行動に走ることはなくなります。例えば、シリコンバレーを中心に今流行っているマインドフルネス(瞑想)は、自らの感情を自覚する行為です。いま自分は楽しい、いま自分は落ち込んでいるなどと自覚できれば、感情をコントロールできます」

また、樺沢氏によると、宮崎容疑者は怒りの感情を抑えられない病を患っている可能性も否定できないという。

「怒りが爆発しやすい、間欠爆発症という病気があります。いくつかの診断基準があるのですが、宮崎容疑者は、あおり運転と怒りのトラブルを繰り返していたことから、その特徴を備えている可能性もあります」

さらに、こうしたアドレナリンジャンキーの場合、日常生活の中でも自動車の運転はトラブルを招く可能性が高いと樺沢氏は指摘する。

「よく、車に乗ると性格が変わる人がいますが、それは車が自分に全能感・万能感をもたらしやすいからです。車はスピードや方向など自分でコントロールできる領域が大きいので、卑屈だったり、自己肯定感が低い人は相手に悪気がなくても、割り込みをされたと思い込みやすい。クルマを体の延長線のように捉えていると、自分が邪魔されたように勘違いしやすいのです」

では、自己肯定感を高めるためにはどのようにすればよいのだろうか。

「人からほめられるだけでなく、自分で自分をほめるのも自己肯定感の向上につながります。いまの自分でいいじゃないか、追い越されてもいいじゃないかと考えることです」

最後に、万が一、自らがあおり運転被害に巻き込まれた場合は、どのように対処すればいいのだろうか。

「何より相手の挑発にのらないこと。感情は伝染します。自分まで怒ってしまうと相手の怒りは増幅してしまう一方なのです。それを避けるために、相手がどれだけ怒っていても、必ずゆっくり話しましょう。ゆっくり話す行為は、副交感神経が優位に働き、深呼吸と同じ効果があります」

売られた喧嘩は買わない。それがアドレナリンジャンキーから自らの命を守る最大の策である。
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%81%82%e3%81%8a%e3%82%8a%e9%81%8b%e8%bb%a2%e3%82%92%e3%81%99%e3%82%8b%e4%ba%ba%e3%81%ae%e5%8d%91%e5%b1%88%e3%81%aa%e6%97%a5%e5%b8%b8/ar-BBWJ1W5?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/120.html#c53

[リバイバル4] サウンドパーツ 300B プッシュプル・アンプ 中川隆
17. 中川隆[-14918] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:13:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2010]


2019年08月25日
松本オーディオの会、ドイツオーディオ事情、新先生、サウンドパーツ
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603


サウンドパーツの水谷代表主催で長年続けておられる松本オーディオの会にお誘いいただけて参加させていただきました。

いろいろと収穫が多かったので、順番に紹介いたします。

内容はこのようです。

フォト


全体的に、水谷代表が予め発表を選別なさっているためか、LEVELの高い作品ばかりで、どれも販売も出来そうな音質でした。

今回使われたスピーカーはサウンドパーツがフランスからユニットを輸入されて、アッセンブルされている励磁型のスープラボックスという現代スピーカーです。

フォト


歯切れのよい、ダイナミックないい音がしますので一度聴いてみてください。
個人的にはこの2ウェイで十二分で、これも京都の寺院に納められるそうです。

当地でKLANGの会を主催されて、管球王国にドイツ・クラングフィルムの歴史を連載されている当地の小林さんが20日かけてドイツ、フランスのオーディオマニア宅を訪問したり、クラングフィルムなどのスピーカーを仕入れてこられたそうです。

そこで出会ったドイツオーディオマニア邸の一部の写真です。

フォト


クラングフィルムのオイロパ・クラルトンをステレオでお使いのお宅です。

フォト


この写真だけでも驚きますが、実はこれはシステムのごく一部。
左右にそれぞれこのホーンが帯域を替えてさらに2本づつ、計6本の威容です。


フォト


これだけでも立派ですけど、これは大型ホーンスピーカーの裏側にまわって2段のドライバーウーハーを写した写真にも驚くばかりです。


ドイツではアインシュタインも、オクターブも、アバンギャルドもぜんぜん流行っていないそうです。アジア向けではないかと言われていました。
むしろアキュフェーズからTRIO時代までの日本トランジスターアンプが人気とはうれしいやらなにやら。

真空管も過去の性能の悪い製品との見方で、スピーカーはこのような戦前のものでも、アンプは日本のトランジスターアンプが多いそうです。
国民性からは理屈的に高性能であることが認識出来ないと使わないのだとか。


管球王国 新先生のステレオ誌マークオーディオユニットを使った自作スピーカー。

フォト


フォト


フォト


フォト


スピーカーはいなばの「猫カツオ」という餌の箱です。

フォト


これに送り出しはDAP、アンプはAmazonで7千円程度の中国デジタルアンプで十二分だそうです。

フォト


フォト


フォト


フォト


先生は最近はWestern Electricや真空管に固執することなく、柔軟に楽しまれているそうです。
このスピーカーがまたいい音で、SP盤の電気復刻をDSDレコーディングしたものから、現代音源まで違和感なく聴かせてくれました。
吸音材はコピー用紙がいいそうです。


これらは今回の自作品。

フォト


フォト


フォト


フォト


フォト


フォト


自作DACもこんな念の入りようでした。

フォト


フォト


フォト


14時から開催の松本オーディオの会は懇親会を挟んで23時過ぎまで盛り上がりました。

フォト


翌日は松本市のロイヤルオーディオに寄って、こんなスピーカーユニットそのものを自作する催しを見たり

フォト


サウンドパーツの水谷代表邸に寄って、音質に納得出来ない平蔵の自作300Bプッシュプル真空管アンプを手直しいただいてとてもよい音質になりました。

フォト


フォト


前段のWE310の動作ポイントの定数にミスがあって、電圧が足りなかったことと、コンデンサーを国産からヴィシェイにして抜けのよい、力感溢れる、ダイナミックな音になりました。

水谷代表からも、「これなら松本オーディオの会に出してもおかしくない音質!」と太鼓判をいただけました。

最近思うのですが、餅屋は餅屋。
アンプはその道のプロに。ルームチューンはそのチューングッズ材を開発されている方に実際に部屋に来ていただいて聴いてチューニングいただくなど、専門専門の知識、経験をお借りした方が早く、確実だということを学びました。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/114.html#c17

[近代史3] ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST 中川隆
20. 中川隆[-14917] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:14:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2009]


2019年08月25日
松本オーディオの会、ドイツオーディオ事情、新先生、サウンドパーツ
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603


サウンドパーツの水谷代表主催で長年続けておられる松本オーディオの会にお誘いいただけて参加させていただきました。

いろいろと収穫が多かったので、順番に紹介いたします。

内容はこのようです。

フォト


全体的に、水谷代表が予め発表を選別なさっているためか、LEVELの高い作品ばかりで、どれも販売も出来そうな音質でした。

今回使われたスピーカーはサウンドパーツがフランスからユニットを輸入されて、アッセンブルされている励磁型のスープラボックスという現代スピーカーです。

フォト


歯切れのよい、ダイナミックないい音がしますので一度聴いてみてください。
個人的にはこの2ウェイで十二分で、これも京都の寺院に納められるそうです。

当地でKLANGの会を主催されて、管球王国にドイツ・クラングフィルムの歴史を連載されている当地の小林さんが20日かけてドイツ、フランスのオーディオマニア宅を訪問したり、クラングフィルムなどのスピーカーを仕入れてこられたそうです。

そこで出会ったドイツオーディオマニア邸の一部の写真です。

フォト


クラングフィルムのオイロパ・クラルトンをステレオでお使いのお宅です。

フォト


この写真だけでも驚きますが、実はこれはシステムのごく一部。
左右にそれぞれこのホーンが帯域を替えてさらに2本づつ、計6本の威容です。


フォト


これだけでも立派ですけど、これは大型ホーンスピーカーの裏側にまわって2段のドライバーウーハーを写した写真にも驚くばかりです。


ドイツではアインシュタインも、オクターブも、アバンギャルドもぜんぜん流行っていないそうです。アジア向けではないかと言われていました。
むしろアキュフェーズからTRIO時代までの日本トランジスターアンプが人気とはうれしいやらなにやら。

真空管も過去の性能の悪い製品との見方で、スピーカーはこのような戦前のものでも、アンプは日本のトランジスターアンプが多いそうです。
国民性からは理屈的に高性能であることが認識出来ないと使わないのだとか。


管球王国 新先生のステレオ誌マークオーディオユニットを使った自作スピーカー。

フォト


フォト


フォト


フォト


スピーカーはいなばの「猫カツオ」という餌の箱です。

フォト


これに送り出しはDAP、アンプはAmazonで7千円程度の中国デジタルアンプで十二分だそうです。

フォト


フォト


フォト


フォト


先生は最近はWestern Electricや真空管に固執することなく、柔軟に楽しまれているそうです。
このスピーカーがまたいい音で、SP盤の電気復刻をDSDレコーディングしたものから、現代音源まで違和感なく聴かせてくれました。
吸音材はコピー用紙がいいそうです。


これらは今回の自作品。

フォト


フォト


フォト


フォト


フォト


フォト


自作DACもこんな念の入りようでした。

フォト


フォト


フォト


14時から開催の松本オーディオの会は懇親会を挟んで23時過ぎまで盛り上がりました。

フォト


翌日は松本市のロイヤルオーディオに寄って、こんなスピーカーユニットそのものを自作する催しを見たり

フォト


サウンドパーツの水谷代表邸に寄って、音質に納得出来ない平蔵の自作300Bプッシュプル真空管アンプを手直しいただいてとてもよい音質になりました。

フォト


フォト


前段のWE310の動作ポイントの定数にミスがあって、電圧が足りなかったことと、コンデンサーを国産からヴィシェイにして抜けのよい、力感溢れる、ダイナミックな音になりました。

水谷代表からも、「これなら松本オーディオの会に出してもおかしくない音質!」と太鼓判をいただけました。

最近思うのですが、餅屋は餅屋。
アンプはその道のプロに。ルームチューンはそのチューングッズ材を開発されている方に実際に部屋に来ていただいて聴いてチューニングいただくなど、専門専門の知識、経験をお借りした方が早く、確実だということを学びました。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html#c20

[リバイバル3] ドイツの音楽はドイツの真空管アンプで聴こうよ 中川隆
41. 中川隆[-14916] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:15:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2008]


2019年08月25日
松本オーディオの会、ドイツオーディオ事情、新先生、サウンドパーツ
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603


サウンドパーツの水谷代表主催で長年続けておられる松本オーディオの会にお誘いいただけて参加させていただきました。

いろいろと収穫が多かったので、順番に紹介いたします。

内容はこのようです。

フォト


全体的に、水谷代表が予め発表を選別なさっているためか、LEVELの高い作品ばかりで、どれも販売も出来そうな音質でした。

今回使われたスピーカーはサウンドパーツがフランスからユニットを輸入されて、アッセンブルされている励磁型のスープラボックスという現代スピーカーです。

フォト


歯切れのよい、ダイナミックないい音がしますので一度聴いてみてください。
個人的にはこの2ウェイで十二分で、これも京都の寺院に納められるそうです。

当地でKLANGの会を主催されて、管球王国にドイツ・クラングフィルムの歴史を連載されている当地の小林さんが20日かけてドイツ、フランスのオーディオマニア宅を訪問したり、クラングフィルムなどのスピーカーを仕入れてこられたそうです。

そこで出会ったドイツオーディオマニア邸の一部の写真です。

フォト


クラングフィルムのオイロパ・クラルトンをステレオでお使いのお宅です。

フォト


この写真だけでも驚きますが、実はこれはシステムのごく一部。
左右にそれぞれこのホーンが帯域を替えてさらに2本づつ、計6本の威容です。


フォト


これだけでも立派ですけど、これは大型ホーンスピーカーの裏側にまわって2段のドライバーウーハーを写した写真にも驚くばかりです。


ドイツではアインシュタインも、オクターブも、アバンギャルドもぜんぜん流行っていないそうです。アジア向けではないかと言われていました。
むしろアキュフェーズからTRIO時代までの日本トランジスターアンプが人気とはうれしいやらなにやら。

真空管も過去の性能の悪い製品との見方で、スピーカーはこのような戦前のものでも、アンプは日本のトランジスターアンプが多いそうです。
国民性からは理屈的に高性能であることが認識出来ないと使わないのだとか。


管球王国 新先生のステレオ誌マークオーディオユニットを使った自作スピーカー。

フォト


フォト


フォト


フォト


スピーカーはいなばの「猫カツオ」という餌の箱です。

フォト


これに送り出しはDAP、アンプはAmazonで7千円程度の中国デジタルアンプで十二分だそうです。

フォト


フォト


フォト


フォト


先生は最近はWestern Electricや真空管に固執することなく、柔軟に楽しまれているそうです。
このスピーカーがまたいい音で、SP盤の電気復刻をDSDレコーディングしたものから、現代音源まで違和感なく聴かせてくれました。
吸音材はコピー用紙がいいそうです。


これらは今回の自作品。

フォト


フォト


フォト


フォト


フォト


フォト


自作DACもこんな念の入りようでした。

フォト


フォト


フォト


14時から開催の松本オーディオの会は懇親会を挟んで23時過ぎまで盛り上がりました。

フォト


翌日は松本市のロイヤルオーディオに寄って、こんなスピーカーユニットそのものを自作する催しを見たり

フォト


サウンドパーツの水谷代表邸に寄って、音質に納得出来ない平蔵の自作300Bプッシュプル真空管アンプを手直しいただいてとてもよい音質になりました。

フォト


フォト


前段のWE310の動作ポイントの定数にミスがあって、電圧が足りなかったことと、コンデンサーを国産からヴィシェイにして抜けのよい、力感溢れる、ダイナミックな音になりました。

水谷代表からも、「これなら松本オーディオの会に出してもおかしくない音質!」と太鼓判をいただけました。

最近思うのですが、餅屋は餅屋。
アンプはその道のプロに。ルームチューンはそのチューングッズ材を開発されている方に実際に部屋に来ていただいて聴いてチューニングいただくなど、専門専門の知識、経験をお借りした方が早く、確実だということを学びました。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/698.html#c41

[リバイバル3] 最近のオーディオ業界の状況 中川隆
129. 中川隆[-14915] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:17:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2007]


2019年08月25日
松本オーディオの会、ドイツオーディオ事情、新先生、サウンドパーツ
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603


サウンドパーツの水谷代表主催で長年続けておられる松本オーディオの会にお誘いいただけて参加させていただきました。

いろいろと収穫が多かったので、順番に紹介いたします。

内容はこのようです。

フォト


全体的に、水谷代表が予め発表を選別なさっているためか、LEVELの高い作品ばかりで、どれも販売も出来そうな音質でした。

今回使われたスピーカーはサウンドパーツがフランスからユニットを輸入されて、アッセンブルされている励磁型のスープラボックスという現代スピーカーです。

フォト


歯切れのよい、ダイナミックないい音がしますので一度聴いてみてください。
個人的にはこの2ウェイで十二分で、これも京都の寺院に納められるそうです。

当地でKLANGの会を主催されて、管球王国にドイツ・クラングフィルムの歴史を連載されている当地の小林さんが20日かけてドイツ、フランスのオーディオマニア宅を訪問したり、クラングフィルムなどのスピーカーを仕入れてこられたそうです。

そこで出会ったドイツオーディオマニア邸の一部の写真です。

フォト


クラングフィルムのオイロパ・クラルトンをステレオでお使いのお宅です。

フォト


この写真だけでも驚きますが、実はこれはシステムのごく一部。
左右にそれぞれこのホーンが帯域を替えてさらに2本づつ、計6本の威容です。


フォト


これだけでも立派ですけど、これは大型ホーンスピーカーの裏側にまわって2段のドライバーウーハーを写した写真にも驚くばかりです。


ドイツではアインシュタインも、オクターブも、アバンギャルドもぜんぜん流行っていないそうです。アジア向けではないかと言われていました。
むしろアキュフェーズからTRIO時代までの日本トランジスターアンプが人気とはうれしいやらなにやら。

真空管も過去の性能の悪い製品との見方で、スピーカーはこのような戦前のものでも、アンプは日本のトランジスターアンプが多いそうです。
国民性からは理屈的に高性能であることが認識出来ないと使わないのだとか。


管球王国 新先生のステレオ誌マークオーディオユニットを使った自作スピーカー。

フォト


フォト


フォト


フォト


スピーカーはいなばの「猫カツオ」という餌の箱です。

フォト


これに送り出しはDAP、アンプはAmazonで7千円程度の中国デジタルアンプで十二分だそうです。

フォト


フォト


フォト


フォト


先生は最近はWestern Electricや真空管に固執することなく、柔軟に楽しまれているそうです。
このスピーカーがまたいい音で、SP盤の電気復刻をDSDレコーディングしたものから、現代音源まで違和感なく聴かせてくれました。
吸音材はコピー用紙がいいそうです。


これらは今回の自作品。

フォト


フォト


フォト


フォト


フォト


フォト


自作DACもこんな念の入りようでした。

フォト


フォト


フォト


14時から開催の松本オーディオの会は懇親会を挟んで23時過ぎまで盛り上がりました。

フォト


翌日は松本市のロイヤルオーディオに寄って、こんなスピーカーユニットそのものを自作する催しを見たり

フォト


サウンドパーツの水谷代表邸に寄って、音質に納得出来ない平蔵の自作300Bプッシュプル真空管アンプを手直しいただいてとてもよい音質になりました。

フォト


フォト


前段のWE310の動作ポイントの定数にミスがあって、電圧が足りなかったことと、コンデンサーを国産からヴィシェイにして抜けのよい、力感溢れる、ダイナミックな音になりました。

水谷代表からも、「これなら松本オーディオの会に出してもおかしくない音質!」と太鼓判をいただけました。

最近思うのですが、餅屋は餅屋。
アンプはその道のプロに。ルームチューンはそのチューングッズ材を開発されている方に実際に部屋に来ていただいて聴いてチューニングいただくなど、専門専門の知識、経験をお借りした方が早く、確実だということを学びました。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/845.html#c129

[近代史3] ドイツの音楽、ドイツの音、そして世界の音 中川隆
38. 中川隆[-14914] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:19:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2006]


2019年08月25日
松本オーディオの会、ドイツオーディオ事情、新先生、サウンドパーツ
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603


サウンドパーツの水谷代表主催で長年続けておられる松本オーディオの会にお誘いいただけて参加させていただきました。

いろいろと収穫が多かったので、順番に紹介いたします。

内容はこのようです。

フォト


全体的に、水谷代表が予め発表を選別なさっているためか、LEVELの高い作品ばかりで、どれも販売も出来そうな音質でした。

今回使われたスピーカーはサウンドパーツがフランスからユニットを輸入されて、アッセンブルされている励磁型のスープラボックスという現代スピーカーです。

フォト


歯切れのよい、ダイナミックないい音がしますので一度聴いてみてください。
個人的にはこの2ウェイで十二分で、これも京都の寺院に納められるそうです。

当地でKLANGの会を主催されて、管球王国にドイツ・クラングフィルムの歴史を連載されている当地の小林さんが20日かけてドイツ、フランスのオーディオマニア宅を訪問したり、クラングフィルムなどのスピーカーを仕入れてこられたそうです。

そこで出会ったドイツオーディオマニア邸の一部の写真です。

フォト


クラングフィルムのオイロパ・クラルトンをステレオでお使いのお宅です。

フォト


この写真だけでも驚きますが、実はこれはシステムのごく一部。
左右にそれぞれこのホーンが帯域を替えてさらに2本づつ、計6本の威容です。


フォト


これだけでも立派ですけど、これは大型ホーンスピーカーの裏側にまわって2段のドライバーウーハーを写した写真にも驚くばかりです。


ドイツではアインシュタインも、オクターブも、アバンギャルドもぜんぜん流行っていないそうです。アジア向けではないかと言われていました。
むしろアキュフェーズからTRIO時代までの日本トランジスターアンプが人気とはうれしいやらなにやら。

真空管も過去の性能の悪い製品との見方で、スピーカーはこのような戦前のものでも、アンプは日本のトランジスターアンプが多いそうです。
国民性からは理屈的に高性能であることが認識出来ないと使わないのだとか。


管球王国 新先生のステレオ誌マークオーディオユニットを使った自作スピーカー。

フォト


フォト


フォト


フォト


スピーカーはいなばの「猫カツオ」という餌の箱です。

フォト


これに送り出しはDAP、アンプはAmazonで7千円程度の中国デジタルアンプで十二分だそうです。

フォト


フォト


フォト


フォト


先生は最近はWestern Electricや真空管に固執することなく、柔軟に楽しまれているそうです。
このスピーカーがまたいい音で、SP盤の電気復刻をDSDレコーディングしたものから、現代音源まで違和感なく聴かせてくれました。
吸音材はコピー用紙がいいそうです。


これらは今回の自作品。

フォト


フォト


フォト


フォト


フォト


フォト


自作DACもこんな念の入りようでした。

フォト


フォト


フォト


14時から開催の松本オーディオの会は懇親会を挟んで23時過ぎまで盛り上がりました。

フォト


翌日は松本市のロイヤルオーディオに寄って、こんなスピーカーユニットそのものを自作する催しを見たり

フォト


サウンドパーツの水谷代表邸に寄って、音質に納得出来ない平蔵の自作300Bプッシュプル真空管アンプを手直しいただいてとてもよい音質になりました。

フォト


フォト


前段のWE310の動作ポイントの定数にミスがあって、電圧が足りなかったことと、コンデンサーを国産からヴィシェイにして抜けのよい、力感溢れる、ダイナミックな音になりました。

水谷代表からも、「これなら松本オーディオの会に出してもおかしくない音質!」と太鼓判をいただけました。

最近思うのですが、餅屋は餅屋。
アンプはその道のプロに。ルームチューンはそのチューングッズ材を開発されている方に実際に部屋に来ていただいて聴いてチューニングいただくなど、専門専門の知識、経験をお借りした方が早く、確実だということを学びました。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/433.html#c38

[リバイバル3] どうしようもないダメスピーカー JBL 4343 がバカ売れした理由 中川隆
14. 中川隆[-14913] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:28:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2005]

JBL15インチウーハー さようなら! ダイナミックオーディオ マラソン試聴会
2019-11-08
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html


ダイナのマラソン試聴会のワーストシステムです。

https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387804.html
https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387850.html

このJBL15インチウーハー、いずれもボーボー言っているだけで最悪に聞こえました。

遅い!尾は引くは、ボンつくは、膨らむは、エッジはないは!

いいところが一つもありません。

川又店長が出されたヒロアコースティックの低音などとは真逆の反面教師のような低域楽器の表現です。

もう会場で店員さんが言われた「JBL15インチウーハーに憧れってありますね!」なんて、相当の高齢者か、明治以降に西洋音楽が入るまで、低音の音階を現す楽器がなく、だから低音音痴と言われる日本人特有では?

元ドラマーからも、ベースはピッチの変化でリズムを表現するのに、このピッチの変化が聴こえてこないのですから、リズム聴こえずどうしようもないな!という感じです。

3万の入門用ベースでも300万のフェンダーベースでもベースの音色は同じとしか聴こえない

シングルヘッドかオイル含浸のダブルヘッドか、バスドラムのヘッドの張り調整、口径選択などのドラマーのチューニングも全く不明になる解像度(ボケ)です。

この手のを設置しているジャズ喫茶が寂れる一方も仕方ないですね。

現代スピーカーでも、アレイスピーカーでのPA領域でも15インチ(38p)、18インチ(46p)ウーハーなんてサブウーハー帯域の100Hz以下でしか使っていませんね。

比喩がわかりやすいと言われたたとえでは、今の20cm未満の軽量で分割振動しない新素材などのウーハーからは見るべきところのない、聞き所のないウーハーユニットですね。トロくて、スピードがないのですよ。車でいえばダンプカーですね。

まだ瀬川冬樹氏や菅野沖彦氏の悪影響が続いているのでしょうか・・・・
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html



2019年11月14日
マラソン試聴会で印象が変わった小型で安いスピーカー


JBL15インチウーハーが入ったシステムはマラソン試聴会での個人的ワーストとしました。
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html

逆に意外なほどよくて、この上のこちらより印象よく聞こえたのがこの真ん中のメーカーの最小の小型2ウェイでした。

アンプはたしかLINNのネットワークプレーヤー内臓のデジタルアンプで鳴らしておられた記憶です。

川又ルームで聴いたこちらのウィルソンしかり。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1961870482&owner_id=8290003

どうも、ローエンドまで伸ばしたとしても、もたつく、膨らむ低音が出るくらいなら、あっさりとローエンドを諦めた小型2ウェイの方が低音楽器の音色、表現がわかりやすいのですね。

レコーディング、マスタリングモニターのメインが小型2ウェイというのもよくわかります。

友人に譲って、長野県県庁内の喫茶室で鳴らされている小型2ウェイのソナス・ファベール/ガルネリ・オマージュなんか、今聴いても、なかなかの低音楽器の姿を示しています。



コメント

mixiユーザー2019年11月14日 02:42

JBLは4343の頃から低音がドロンとして、他のユニットとのバランスが悪いと感じていたけれど、ステサンは「パワーアンプのドライブ能力が云々」というだけで、ホンマかいな?と思っていましたが、今でもドロンとしたまま進化してないのですね。もう、設計者の個性ととらえた方がいいのかな?


mixiユーザー2019年11月14日 02:51

> mixiユーザー 

日本でしか売れないそうです。低音音痴の日本人を見越して、低音の量だけあれば質はいいや!なんでしょうか冷や汗

mixiユーザー2019年11月14日 02:53
> mixiユーザー 

他に興味深かったことが、世界の頂点のハイスピードな低音のトップエンドスピーカーを聴いてしまうと、B&W800D3のそれはすでに遅いと感じてしまうことです。これもウーハーが大きすぎるような気がします。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1973651735

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/944.html#c14

[リバイバル3] ジャズ喫茶「ベイシー」の選択 _ JBLの本当の音とは 富山誠
158. 中川隆[-14912] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:29:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2004]

JBL15インチウーハー さようなら! ダイナミックオーディオ マラソン試聴会
2019-11-08
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html


ダイナのマラソン試聴会のワーストシステムです。

https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387804.html
https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387850.html

このJBL15インチウーハー、いずれもボーボー言っているだけで最悪に聞こえました。

遅い!尾は引くは、ボンつくは、膨らむは、エッジはないは!

いいところが一つもありません。

川又店長が出されたヒロアコースティックの低音などとは真逆の反面教師のような低域楽器の表現です。

もう会場で店員さんが言われた「JBL15インチウーハーに憧れってありますね!」なんて、相当の高齢者か、明治以降に西洋音楽が入るまで、低音の音階を現す楽器がなく、だから低音音痴と言われる日本人特有では?

元ドラマーからも、ベースはピッチの変化でリズムを表現するのに、このピッチの変化が聴こえてこないのですから、リズム聴こえずどうしようもないな!という感じです。

3万の入門用ベースでも300万のフェンダーベースでもベースの音色は同じとしか聴こえない

シングルヘッドかオイル含浸のダブルヘッドか、バスドラムのヘッドの張り調整、口径選択などのドラマーのチューニングも全く不明になる解像度(ボケ)です。

この手のを設置しているジャズ喫茶が寂れる一方も仕方ないですね。

現代スピーカーでも、アレイスピーカーでのPA領域でも15インチ(38p)、18インチ(46p)ウーハーなんてサブウーハー帯域の100Hz以下でしか使っていませんね。

比喩がわかりやすいと言われたたとえでは、今の20cm未満の軽量で分割振動しない新素材などのウーハーからは見るべきところのない、聞き所のないウーハーユニットですね。トロくて、スピードがないのですよ。車でいえばダンプカーですね。

まだ瀬川冬樹氏や菅野沖彦氏の悪影響が続いているのでしょうか・・・・
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html



2019年11月14日
マラソン試聴会で印象が変わった小型で安いスピーカー


JBL15インチウーハーが入ったシステムはマラソン試聴会での個人的ワーストとしました。
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html

逆に意外なほどよくて、この上のこちらより印象よく聞こえたのがこの真ん中のメーカーの最小の小型2ウェイでした。

アンプはたしかLINNのネットワークプレーヤー内臓のデジタルアンプで鳴らしておられた記憶です。

川又ルームで聴いたこちらのウィルソンしかり。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1961870482&owner_id=8290003

どうも、ローエンドまで伸ばしたとしても、もたつく、膨らむ低音が出るくらいなら、あっさりとローエンドを諦めた小型2ウェイの方が低音楽器の音色、表現がわかりやすいのですね。

レコーディング、マスタリングモニターのメインが小型2ウェイというのもよくわかります。

友人に譲って、長野県県庁内の喫茶室で鳴らされている小型2ウェイのソナス・ファベール/ガルネリ・オマージュなんか、今聴いても、なかなかの低音楽器の姿を示しています。



コメント

mixiユーザー2019年11月14日 02:42

JBLは4343の頃から低音がドロンとして、他のユニットとのバランスが悪いと感じていたけれど、ステサンは「パワーアンプのドライブ能力が云々」というだけで、ホンマかいな?と思っていましたが、今でもドロンとしたまま進化してないのですね。もう、設計者の個性ととらえた方がいいのかな?


mixiユーザー2019年11月14日 02:51

> mixiユーザー 

日本でしか売れないそうです。低音音痴の日本人を見越して、低音の量だけあれば質はいいや!なんでしょうか冷や汗

mixiユーザー2019年11月14日 02:53
> mixiユーザー 

他に興味深かったことが、世界の頂点のハイスピードな低音のトップエンドスピーカーを聴いてしまうと、B&W800D3のそれはすでに遅いと感じてしまうことです。これもウーハーが大きすぎるような気がします。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1973651735

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/402.html#c158

[リバイバル3] 最近のオーディオ業界の状況 中川隆
130. 中川隆[-14911] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:30:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2003]

JBL15インチウーハー さようなら! ダイナミックオーディオ マラソン試聴会
2019-11-08
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html


ダイナのマラソン試聴会のワーストシステムです。

https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387804.html
https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387850.html

このJBL15インチウーハー、いずれもボーボー言っているだけで最悪に聞こえました。

遅い!尾は引くは、ボンつくは、膨らむは、エッジはないは!

いいところが一つもありません。

川又店長が出されたヒロアコースティックの低音などとは真逆の反面教師のような低域楽器の表現です。

もう会場で店員さんが言われた「JBL15インチウーハーに憧れってありますね!」なんて、相当の高齢者か、明治以降に西洋音楽が入るまで、低音の音階を現す楽器がなく、だから低音音痴と言われる日本人特有では?

元ドラマーからも、ベースはピッチの変化でリズムを表現するのに、このピッチの変化が聴こえてこないのですから、リズム聴こえずどうしようもないな!という感じです。

3万の入門用ベースでも300万のフェンダーベースでもベースの音色は同じとしか聴こえない

シングルヘッドかオイル含浸のダブルヘッドか、バスドラムのヘッドの張り調整、口径選択などのドラマーのチューニングも全く不明になる解像度(ボケ)です。

この手のを設置しているジャズ喫茶が寂れる一方も仕方ないですね。

現代スピーカーでも、アレイスピーカーでのPA領域でも15インチ(38p)、18インチ(46p)ウーハーなんてサブウーハー帯域の100Hz以下でしか使っていませんね。

比喩がわかりやすいと言われたたとえでは、今の20cm未満の軽量で分割振動しない新素材などのウーハーからは見るべきところのない、聞き所のないウーハーユニットですね。トロくて、スピードがないのですよ。車でいえばダンプカーですね。

まだ瀬川冬樹氏や菅野沖彦氏の悪影響が続いているのでしょうか・・・・
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html



2019年11月14日
マラソン試聴会で印象が変わった小型で安いスピーカー


JBL15インチウーハーが入ったシステムはマラソン試聴会での個人的ワーストとしました。
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html

逆に意外なほどよくて、この上のこちらより印象よく聞こえたのがこの真ん中のメーカーの最小の小型2ウェイでした。

アンプはたしかLINNのネットワークプレーヤー内臓のデジタルアンプで鳴らしておられた記憶です。

川又ルームで聴いたこちらのウィルソンしかり。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1961870482&owner_id=8290003

どうも、ローエンドまで伸ばしたとしても、もたつく、膨らむ低音が出るくらいなら、あっさりとローエンドを諦めた小型2ウェイの方が低音楽器の音色、表現がわかりやすいのですね。

レコーディング、マスタリングモニターのメインが小型2ウェイというのもよくわかります。

友人に譲って、長野県県庁内の喫茶室で鳴らされている小型2ウェイのソナス・ファベール/ガルネリ・オマージュなんか、今聴いても、なかなかの低音楽器の姿を示しています。



コメント

mixiユーザー2019年11月14日 02:42

JBLは4343の頃から低音がドロンとして、他のユニットとのバランスが悪いと感じていたけれど、ステサンは「パワーアンプのドライブ能力が云々」というだけで、ホンマかいな?と思っていましたが、今でもドロンとしたまま進化してないのですね。もう、設計者の個性ととらえた方がいいのかな?


mixiユーザー2019年11月14日 02:51

> mixiユーザー 

日本でしか売れないそうです。低音音痴の日本人を見越して、低音の量だけあれば質はいいや!なんでしょうか冷や汗

mixiユーザー2019年11月14日 02:53
> mixiユーザー 

他に興味深かったことが、世界の頂点のハイスピードな低音のトップエンドスピーカーを聴いてしまうと、B&W800D3のそれはすでに遅いと感じてしまうことです。これもウーハーが大きすぎるような気がします。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1973651735

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/845.html#c130

[近代史3] 高名なオーディオ評論家は信用してはいけない _ どうしようもないダメスピーカー JBL 4343 がバカ売れした理由 中川隆
39. 中川隆[-14910] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:30:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2002]

JBL15インチウーハー さようなら! ダイナミックオーディオ マラソン試聴会
2019-11-08
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html


ダイナのマラソン試聴会のワーストシステムです。

https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387804.html
https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387850.html

このJBL15インチウーハー、いずれもボーボー言っているだけで最悪に聞こえました。

遅い!尾は引くは、ボンつくは、膨らむは、エッジはないは!

いいところが一つもありません。

川又店長が出されたヒロアコースティックの低音などとは真逆の反面教師のような低域楽器の表現です。

もう会場で店員さんが言われた「JBL15インチウーハーに憧れってありますね!」なんて、相当の高齢者か、明治以降に西洋音楽が入るまで、低音の音階を現す楽器がなく、だから低音音痴と言われる日本人特有では?

元ドラマーからも、ベースはピッチの変化でリズムを表現するのに、このピッチの変化が聴こえてこないのですから、リズム聴こえずどうしようもないな!という感じです。

3万の入門用ベースでも300万のフェンダーベースでもベースの音色は同じとしか聴こえない

シングルヘッドかオイル含浸のダブルヘッドか、バスドラムのヘッドの張り調整、口径選択などのドラマーのチューニングも全く不明になる解像度(ボケ)です。

この手のを設置しているジャズ喫茶が寂れる一方も仕方ないですね。

現代スピーカーでも、アレイスピーカーでのPA領域でも15インチ(38p)、18インチ(46p)ウーハーなんてサブウーハー帯域の100Hz以下でしか使っていませんね。

比喩がわかりやすいと言われたたとえでは、今の20cm未満の軽量で分割振動しない新素材などのウーハーからは見るべきところのない、聞き所のないウーハーユニットですね。トロくて、スピードがないのですよ。車でいえばダンプカーですね。

まだ瀬川冬樹氏や菅野沖彦氏の悪影響が続いているのでしょうか・・・・
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html



2019年11月14日
マラソン試聴会で印象が変わった小型で安いスピーカー


JBL15インチウーハーが入ったシステムはマラソン試聴会での個人的ワーストとしました。
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html

逆に意外なほどよくて、この上のこちらより印象よく聞こえたのがこの真ん中のメーカーの最小の小型2ウェイでした。

アンプはたしかLINNのネットワークプレーヤー内臓のデジタルアンプで鳴らしておられた記憶です。

川又ルームで聴いたこちらのウィルソンしかり。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1961870482&owner_id=8290003

どうも、ローエンドまで伸ばしたとしても、もたつく、膨らむ低音が出るくらいなら、あっさりとローエンドを諦めた小型2ウェイの方が低音楽器の音色、表現がわかりやすいのですね。

レコーディング、マスタリングモニターのメインが小型2ウェイというのもよくわかります。

友人に譲って、長野県県庁内の喫茶室で鳴らされている小型2ウェイのソナス・ファベール/ガルネリ・オマージュなんか、今聴いても、なかなかの低音楽器の姿を示しています。



コメント

mixiユーザー2019年11月14日 02:42

JBLは4343の頃から低音がドロンとして、他のユニットとのバランスが悪いと感じていたけれど、ステサンは「パワーアンプのドライブ能力が云々」というだけで、ホンマかいな?と思っていましたが、今でもドロンとしたまま進化してないのですね。もう、設計者の個性ととらえた方がいいのかな?


mixiユーザー2019年11月14日 02:51

> mixiユーザー 

日本でしか売れないそうです。低音音痴の日本人を見越して、低音の量だけあれば質はいいや!なんでしょうか冷や汗

mixiユーザー2019年11月14日 02:53
> mixiユーザー 

他に興味深かったことが、世界の頂点のハイスピードな低音のトップエンドスピーカーを聴いてしまうと、B&W800D3のそれはすでに遅いと感じてしまうことです。これもウーハーが大きすぎるような気がします。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1973651735

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/311.html#c39

[近代史3] 高名なオーディオ評論家は信用してはいけない 1 _ 瀬川冬樹 中川隆
1. 中川隆[-14909] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:30:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2001]

JBL15インチウーハー さようなら! ダイナミックオーディオ マラソン試聴会
2019-11-08
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html


ダイナのマラソン試聴会のワーストシステムです。

https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387804.html
https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387850.html

このJBL15インチウーハー、いずれもボーボー言っているだけで最悪に聞こえました。

遅い!尾は引くは、ボンつくは、膨らむは、エッジはないは!

いいところが一つもありません。

川又店長が出されたヒロアコースティックの低音などとは真逆の反面教師のような低域楽器の表現です。

もう会場で店員さんが言われた「JBL15インチウーハーに憧れってありますね!」なんて、相当の高齢者か、明治以降に西洋音楽が入るまで、低音の音階を現す楽器がなく、だから低音音痴と言われる日本人特有では?

元ドラマーからも、ベースはピッチの変化でリズムを表現するのに、このピッチの変化が聴こえてこないのですから、リズム聴こえずどうしようもないな!という感じです。

3万の入門用ベースでも300万のフェンダーベースでもベースの音色は同じとしか聴こえない

シングルヘッドかオイル含浸のダブルヘッドか、バスドラムのヘッドの張り調整、口径選択などのドラマーのチューニングも全く不明になる解像度(ボケ)です。

この手のを設置しているジャズ喫茶が寂れる一方も仕方ないですね。

現代スピーカーでも、アレイスピーカーでのPA領域でも15インチ(38p)、18インチ(46p)ウーハーなんてサブウーハー帯域の100Hz以下でしか使っていませんね。

比喩がわかりやすいと言われたたとえでは、今の20cm未満の軽量で分割振動しない新素材などのウーハーからは見るべきところのない、聞き所のないウーハーユニットですね。トロくて、スピードがないのですよ。車でいえばダンプカーですね。

まだ瀬川冬樹氏や菅野沖彦氏の悪影響が続いているのでしょうか・・・・
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html



2019年11月14日
マラソン試聴会で印象が変わった小型で安いスピーカー


JBL15インチウーハーが入ったシステムはマラソン試聴会での個人的ワーストとしました。
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html

逆に意外なほどよくて、この上のこちらより印象よく聞こえたのがこの真ん中のメーカーの最小の小型2ウェイでした。

アンプはたしかLINNのネットワークプレーヤー内臓のデジタルアンプで鳴らしておられた記憶です。

川又ルームで聴いたこちらのウィルソンしかり。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1961870482&owner_id=8290003

どうも、ローエンドまで伸ばしたとしても、もたつく、膨らむ低音が出るくらいなら、あっさりとローエンドを諦めた小型2ウェイの方が低音楽器の音色、表現がわかりやすいのですね。

レコーディング、マスタリングモニターのメインが小型2ウェイというのもよくわかります。

友人に譲って、長野県県庁内の喫茶室で鳴らされている小型2ウェイのソナス・ファベール/ガルネリ・オマージュなんか、今聴いても、なかなかの低音楽器の姿を示しています。



コメント

mixiユーザー2019年11月14日 02:42

JBLは4343の頃から低音がドロンとして、他のユニットとのバランスが悪いと感じていたけれど、ステサンは「パワーアンプのドライブ能力が云々」というだけで、ホンマかいな?と思っていましたが、今でもドロンとしたまま進化してないのですね。もう、設計者の個性ととらえた方がいいのかな?


mixiユーザー2019年11月14日 02:51

> mixiユーザー 

日本でしか売れないそうです。低音音痴の日本人を見越して、低音の量だけあれば質はいいや!なんでしょうか冷や汗

mixiユーザー2019年11月14日 02:53
> mixiユーザー 

他に興味深かったことが、世界の頂点のハイスピードな低音のトップエンドスピーカーを聴いてしまうと、B&W800D3のそれはすでに遅いと感じてしまうことです。これもウーハーが大きすぎるような気がします。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1973651735

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/312.html#c1

[近代史3] 音楽も音も全然わからなかった菅野沖彦先生が日本のオーディオ評論の第一人者になれた理由 中川隆
9. 中川隆[-14908] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:31:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2000]

JBL15インチウーハー さようなら! ダイナミックオーディオ マラソン試聴会
2019-11-08
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html


ダイナのマラソン試聴会のワーストシステムです。

https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387804.html
https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387850.html

このJBL15インチウーハー、いずれもボーボー言っているだけで最悪に聞こえました。

遅い!尾は引くは、ボンつくは、膨らむは、エッジはないは!

いいところが一つもありません。

川又店長が出されたヒロアコースティックの低音などとは真逆の反面教師のような低域楽器の表現です。

もう会場で店員さんが言われた「JBL15インチウーハーに憧れってありますね!」なんて、相当の高齢者か、明治以降に西洋音楽が入るまで、低音の音階を現す楽器がなく、だから低音音痴と言われる日本人特有では?

元ドラマーからも、ベースはピッチの変化でリズムを表現するのに、このピッチの変化が聴こえてこないのですから、リズム聴こえずどうしようもないな!という感じです。

3万の入門用ベースでも300万のフェンダーベースでもベースの音色は同じとしか聴こえない

シングルヘッドかオイル含浸のダブルヘッドか、バスドラムのヘッドの張り調整、口径選択などのドラマーのチューニングも全く不明になる解像度(ボケ)です。

この手のを設置しているジャズ喫茶が寂れる一方も仕方ないですね。

現代スピーカーでも、アレイスピーカーでのPA領域でも15インチ(38p)、18インチ(46p)ウーハーなんてサブウーハー帯域の100Hz以下でしか使っていませんね。

比喩がわかりやすいと言われたたとえでは、今の20cm未満の軽量で分割振動しない新素材などのウーハーからは見るべきところのない、聞き所のないウーハーユニットですね。トロくて、スピードがないのですよ。車でいえばダンプカーですね。

まだ瀬川冬樹氏や菅野沖彦氏の悪影響が続いているのでしょうか・・・・
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html



2019年11月14日
マラソン試聴会で印象が変わった小型で安いスピーカー


JBL15インチウーハーが入ったシステムはマラソン試聴会での個人的ワーストとしました。
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html

逆に意外なほどよくて、この上のこちらより印象よく聞こえたのがこの真ん中のメーカーの最小の小型2ウェイでした。

アンプはたしかLINNのネットワークプレーヤー内臓のデジタルアンプで鳴らしておられた記憶です。

川又ルームで聴いたこちらのウィルソンしかり。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1961870482&owner_id=8290003

どうも、ローエンドまで伸ばしたとしても、もたつく、膨らむ低音が出るくらいなら、あっさりとローエンドを諦めた小型2ウェイの方が低音楽器の音色、表現がわかりやすいのですね。

レコーディング、マスタリングモニターのメインが小型2ウェイというのもよくわかります。

友人に譲って、長野県県庁内の喫茶室で鳴らされている小型2ウェイのソナス・ファベール/ガルネリ・オマージュなんか、今聴いても、なかなかの低音楽器の姿を示しています。



コメント

mixiユーザー2019年11月14日 02:42

JBLは4343の頃から低音がドロンとして、他のユニットとのバランスが悪いと感じていたけれど、ステサンは「パワーアンプのドライブ能力が云々」というだけで、ホンマかいな?と思っていましたが、今でもドロンとしたまま進化してないのですね。もう、設計者の個性ととらえた方がいいのかな?


mixiユーザー2019年11月14日 02:51

> mixiユーザー 

日本でしか売れないそうです。低音音痴の日本人を見越して、低音の量だけあれば質はいいや!なんでしょうか冷や汗

mixiユーザー2019年11月14日 02:53
> mixiユーザー 

他に興味深かったことが、世界の頂点のハイスピードな低音のトップエンドスピーカーを聴いてしまうと、B&W800D3のそれはすでに遅いと感じてしまうことです。これもウーハーが大きすぎるような気がします。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1973651735

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/683.html#c9

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
35. 中川隆[-14907] koaQ7Jey 2019年11月15日 09:41:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1999]

ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第8番


Borodin Quartet play Shostakovich String Quartet no. 8 - video 1984






弦楽四重奏曲第8番ハ短調 作品110は、旧ソ連の作曲家ショスタコーヴィチによって1960年に作曲された弦楽四重奏曲である。作曲者によって「ファシズムと戦争の犠牲者の想い出に」捧げるとしてあるが、ショスタコーヴィチ自身のイニシャルが音名「D-S(Es)-C-H」で織り込まれ、自身の書いた曲の引用が多用されることにより、密かに作曲者自身をテーマにしていることを暗示させている。15曲あるショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の中で、最も重要な作品である。



曲の背景

弦楽四重奏曲第8番が作曲された1960年は、ショスタコーヴィチにとって大きな精神的危機に見舞われた年であった。この曲を書く直前の6月、不本意ながらも共産党に入党することを決意したのである。その1ヶ月後、戦争映画『五日五夜』の、ソビエト軍によるドレスデンのナチスからの解放の場面のための音楽を書くためにドレスデンに行ったショスタコーヴィチは、戦争の惨禍を目の当たりにし、自身の精神的荒廃と重ね合わることになる。そこで表向きには「ファシズムと戦争の犠牲者」に献呈するようにみせつつ、圧政により精神的荒廃に追い込まれた自身への献呈として、1960年7月12日から14日のわずか3日間でこの曲を作曲したのである。

1960年7月19日にショスタコーヴィチ自身が友人グリークマンにあてた手紙には、映画音楽の仕事が全く手に付かずに、ひたすら弦楽四重奏曲の作曲に向かったと述べ、「この曲を書きながら、半ダースのビールを飲んだ後の小便と同じほどの涙を流しました。帰宅後もこの曲を二度弾こうとしましたが、やはり泣いてしまいました」と苦しい気持ちを訴えている。

このようにして書かれたこの曲は、すべての弦楽四重奏曲の中で最も、皮肉とは無縁の直接的表現力を持ち、聴衆に訴えかける力を持っている。また、映画音楽にも通じていたショスタコーヴィチは、バルトークやウェーベルンのような特殊奏法を弦楽四重奏に用いずとも、標題音楽的手法により劇的な表現を実現している。



引用されている主題


音形「D-S(Es)-C-H」
ショスタコーヴィチのドイツ語のイニシャル「Dmitri Schostakovich」より、D-S(Es)-C-Hの音形が全曲のテーマとして現れる。

また、彼が親友に送った手紙によると、自身の作曲、さらに他人の曲から以下のものが引用されている。

交響曲第1番ヘ短調
交響曲第8番ハ短調
交響曲第10番ホ短調
ピアノ三重奏曲第2番ホ短調
チェロ協奏曲第1番変ホ長調
オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》よりアリア「セリョージャ、愛しい人よ」
ワーグナー:楽劇『神々の黄昏』より「ジークフリートの葬送行進曲」
チャイコフスキー:交響曲第6番『悲愴』


なお、この手紙には「私が死んだときには誰かが弦楽四重奏曲を私に捧げてくれるとは思えないので、私は自分自身のために書くことにしました」とあり、この曲を書いたあと自殺するつもりであるということを示唆している。


 第4楽章には、革命歌「過酷な徒刑に苦しめられて」"Замучен тяжелой неволей"の引用も現れる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC8%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c35
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
36. 中川隆[-14906] koaQ7Jey 2019年11月15日 09:55:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1998]

ショスタコーヴィチ 交響曲第8番


Shostakovich Symphony No 8 Yevgeny Mravinsky - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=4GK2NPgHzK0

I. Adagio - Allegro non troppo - Adagio
II. Allegretto
III. Allegro non troppo
IV. Largo
V. Allegretto

Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky, conductor
Live recording, London, 23.IX.1960

_____


Shostakovich - Symphony n°8 - Leningrad - Mravinsky 1961 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=OQlJjQvmn5M

Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky
Live recording, Leningrad, 25.II.1961

___


Shostakovich - Symphony No.8 (Yevgeny Mravinsky)
https://www.youtube.com/watch?v=7C3SJoJepyw




Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky
Live recording in 1982, at Leningrad

_____




交響曲第7番『レニングラード』に続いて、交響曲で戦争を描くべく作曲されたが、第7番と比べるとあまりにも暗いため、当初の評判は非常に悪かった。スターリン賞受賞もされず、1948年にはジダーノフ批判の対象となり、1960年まで演奏が禁止された。

しかし、戦争の悲惨さを描き、かつての音楽技法を駆使したレベルの高さゆえに最近ではショスタコーヴィチの最も注目すべき作品のひとつとされており、録音の数も増えてきている。

スターリングラード攻防戦の犠牲者への墓碑として、1943年の7月2日から9月9日にかけて、モスクワの「創作の家」で一気呵成に書き上げられた。彼自身戦争に対する思索と戦後への希望を描こうとしたが、悲惨な戦場の報道やニュース映画に触れていたこともあり作品自体が悲劇的な性格となった。

戦局が好転していたこともあって、発表当時評価をめぐって賛否両論となった。作曲家同盟の総会では、チモフェーエフが

「前作の勝利の主題が踏襲されず、辛い体験や悪による苦痛とが乗り越えたり打ち勝つこともなく、代わりにパッサカリアとパストラーレに置きかえられている。」

との非難を決議する事態となった。ショスタコーヴィチ自身もこのような非難に対する懸念があったのか、発表当時には

「赤軍の勝利に関わる喜ばしいニュースの影響がない筈はない。多くの内的な、また悲劇的、ドラマティックな葛藤があるが、全体としては楽観主義的な人生肯定的な作品である」

と述べていたり、一方では自作には一切触れることなくペシミズムと偉大な悲劇の相違を力説し、チャイコフスキー、チェーホフ等を例にとって、ソ連で誤解されていることを問題に挙げたりしていた。

(この2つの発言は、13年後の1956年にスターリンの死の年に内容的に関係づけられ、作品の意図は訂正された。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC8%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c36
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
37. 中川隆[-14905] koaQ7Jey 2019年11月15日 10:32:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1997]
ショスタコーヴィチ 交響曲第14番


宇野功芳 この曲のベスト演奏か 
ショスタコーヴィチ:交響曲第14番 クルレンツィス&アンサンブル・ムジカエテルナ
「録音も最優秀,オーケストラもソリストも最上,この演奏を凌ぐのは不可能かもしれない」


Symphonie No. 14, Op. 135 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=N5TmVed2euU&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT
https://www.youtube.com/watch?v=iKhke5x7PG4&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=2
https://www.youtube.com/watch?v=yEj7Xtc1NK0&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=3
https://www.youtube.com/watch?v=IKGRn9jvX50&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=4
https://www.youtube.com/watch?v=65GR91RISy8&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=5
https://www.youtube.com/watch?v=rlq25xOUEtQ&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=6
https://www.youtube.com/watch?v=eu6TbVe8RcE&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=7
https://www.youtube.com/watch?v=iLF47H816yI&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=8
https://www.youtube.com/watch?v=9IdYyOnaINQ&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=9
https://www.youtube.com/watch?v=CrfqpiPFUh8&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=10
https://www.youtube.com/watch?v=zgx0Q2SqFaA&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=11

MusicAeterna · Teodor Currentzis · Petr Migunov · Julia Korpacheva


______

11の楽章から構成される。ソプラノとバスの独唱がついており、マーラーの交響曲「大地の歌」との類似性が指摘されている。この曲において、調性はあまり機能していないが、前半ではト短調が認められる。

歌詞は、ガルシア・ロルカ(スペイン)、ギヨーム・アポリネール (フランス)、ヴィルヘルム・キュッヘルベケル(ロシア語版)(ロシア)、ライナー・マリア・リルケ(ドイツ)の詩によるもので、いずれも死をテーマとしている。

無調、十二音技法、トーンクラスターなどの当時のソビエトでは敬遠されていた前衛技法が、ショスタコーヴィチなりに消化した手法で用いられていることが特筆され、前述のマーラー、ムソルグスキー、ブリテンなどショスタコーヴィチ自身が好んだ作曲家の影響がみられる。なお、この曲はベンジャミン・ブリテンに献呈され、ブリテンによって1970年のオールドバラ音楽祭にて英国での初演がなされている。


この曲の作曲のきっかけは、ショスタコーヴィチが1962年に「死の歌と踊り」の管弦楽向けの編曲を行ったことに由来する。ショスタコーヴィチは体調の悪化から死を意識するようになり、この作品を一つの集大成とみなし、入院加療中にもかかわらず、4週間でスケッチを完成させた。作曲家は「この作品は画期的なもので、数年間にわたって書きためていた作品はこのための下準備です。」と知人への手紙に書いている。初演前の1969年6月21日には、作曲家自身の強い希望により、モスクワ音楽院小ホールにおいてリハーサルが行われている。

ショスタコーヴィチは、このときのスピーチで

「人生は一度しかない。だから私たちは、人生において誠実に、胸を張り恥じることなく生きるべきなのです。」

と述べている。

リハーサル中、同席していた共産党幹部パーヴェル・アポストロフが心臓発作で倒れ病院に担ぎ込まれた(1ヵ月後に死亡)。アポストロフがジダーノフ批判でショスタコーヴィチを批判し窮地に追い込んだ事実を知る人々は、ショスタコーヴィチの作品の祟りと噂した。

曲の構成

11の楽章から成る。演奏時間は約50分。

第1楽章

「深いところから」 Adagio

バス独唱と弦楽合奏。歌詞はロルカによる(露語訳はインナ・トゥイニャーノヴァ)。主題の冒頭はディエス・イレを模したものとされる。更にこの主題は第10楽章で回想される。

第2楽章

「マラゲーニャ」 Allegretto

ソプラノ独唱とヴァイオリン独奏、カスタネット、弦楽合奏。歌詞はロルカによる(露語訳はアナトリー・ゲレースクル(1934年-2011年))。

第3楽章

「ローレライ」 Allegro molto - Adagio

二重唱と鞭、ベル、ヴァイブラフォン、シロフォン、チェレスタ、弦楽合奏。歌詞はアポリネールによる(露語訳はミハイル・クディノフ―以下同様)。

第4楽章

「自殺者」 Adagio

ソプラノ独唱とチェロ独奏と弦楽合奏。歌詞はアポリネールによる。

第5楽章

「心して」 Allegretto

ソプラノ独唱とトムトム、鞭、シロフォン、弦楽合奏。歌詞はアポリネールによるもので、兵士とその姉妹の近親相姦をテーマとしたもの。

冒頭のシロフォンは12音からなる音列を奏でる。晩年のショスタコーヴィチが時折用いた十二音技法のショスタコーヴィチ流解釈である。古今東西の12音音列の中で最もメロディに富んだ音列のひとつと言える。

第6楽章

「マダム、御覧なさい」 Adagio

二重唱とシロフォン、弦楽合奏。歌詞はアポリネールによる。

第7楽章

「ラ・サンテ監獄にて」 Adagio

バス独唱と弦楽合奏。歌詞はアポリネールによる。

第8楽章

「コンスタンチノープルのサルタンへのザポロージェ・コサックの返事」 Allegro

バス独唱と弦楽合奏。歌詞はアポリネールによる。

第9楽章

「おお、デルウィーク、デルウィーク」 Andante

バス独唱と弦楽合奏。歌詞はキュッヘルベケルによる。

第10楽章

「詩人の死」 Largo

ソプラノ独唱とヴァイブラフォン、弦楽合奏。歌詞はリルケによる(露語訳はタマラ・シルマン―以下同様)。

第11楽章

「結び」 Moderato

二重唱とカスタネット、トムトム、弦楽合奏。歌詞はリルケによるもので、人生の結びである死の賛美をテーマとしている。曲の最後ではヴァイオリンが10パートに分かれ、激しい不協和音を奏でる。これはリゲティやペンデレツキ等の用いたトーン・クラスターを模したものとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC14%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c37

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
38. 中川隆[-14904] koaQ7Jey 2019年11月15日 10:52:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1996]

ショスタコーヴィチ:交響曲第14番
クルレンツィス&アンサンブル・ムジカエテルナ
https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%EF%BC%881906-1975%EF%BC%89_000000000021314/item_%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%94%E7%95%AA-%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%B9%EF%BC%86%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%82%AB%E3%82%A8%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%80%81%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%80%81%E3%83%9F%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%95%EF%BC%88%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E4%BB%98%EF%BC%89_3835458

驚くなかれ。ショスタコーヴィチ後期作品に「古楽器使用」!

全15作品中最も地味で深淵な交響曲が、その根底に秘められていた姿を現した。

スターリニズムは終焉すれど、ソビエト体制は不動だった69年、名声に溺れることなく内省とその創作活動の継続に精進していた62歳の作曲家の心の叫びに、ロシアの俊英音楽家たちの新鮮な感性が息吹を与えた。

フランス随一のユニークな小規模レーベルとして、秀逸にしてユニークな古楽盤を次々と生み出し、ル・サージュのシューマン体系録音シリーズに代表されるような現代楽器での注目企画、知られざるフランス近代の名匠デュロゾワールの再発見など、新しい時代の音楽でも他の追従を許さない充実企画を続々世に問うてきたAlphaが、なんとショスタコーヴィチの交響曲をリリースするとなれば、明敏なファンならずとも誰しも注目せずにはおれないはず! そしてさすがはAlpha、ありきたりの内容で攻めてくるわけがないのです。

曲目はショスタコーヴィチ晩期の異色作のひとつ、弦楽合奏と打楽器、という異例のオーケストラ編成に独唱が続く、全12楽章という型破りの楽章構成をとる交響曲第14番。さらに驚かされずにおれないのが、作曲年代が1969年というこの作品を、なんと一部古楽器(!)で演奏してしまったという点。原文解説書には、録音現場でチェロのピンを使わず、両脚で挟んで演奏するプレイヤーの写真が。

本盤の指揮者テオドール・クルレンツィスはショスタコーヴィチがこの曲に込めたメッセージをじっくり読み解いた末、作曲家の意図どおりの弦楽編成で、適宜ガット弦を使用し、ひたすらヴィブラートを排した弦楽サウンドで弾くことこそが、憂鬱と無力感にさいなまれた作曲家が「死」を見すえて作曲した交響曲第14番の本質を最もよく表現できる手段である、という結論に達したのだそうです。

録音会場であるノヴォシビルスク歌劇場の音響空間も、この解釈に大きく関わっているとのこと。祖国ギリシャとロシアの世界的歌劇場や一流オーケストラで経歴を積んだのち、古楽バンド「ムジカエテルナ」を結成、自ら古楽器演奏にも通じてきた人だけに、体験型の現場主義的意識から、このような柔軟な考え方が導き出されたのかもしれません。しかしこういった独特の意見も、演奏のクオリティあればこそ通用するもの。本盤は(曲をよく知る人にも、知らない人にも...

ユーザーレビュー


投稿日:2014/02/04
ショスタコーヴィッチの交響曲14番、1973年に、ロストロポーヴィッチがソ連で秘密裏に発表した曲を、ピリオドアプローチで演奏する? 

そんなあり得ない事をやってしまったギリシャ生まれ、ソ連、ロシアで学び、ピリオドオケも組織したクルレンツィス。

時代を経、変化は当然とは言え、反則じゃねえかとの杞憂は、すぐ晴れた。
ショスタコーヴィッチの怒り、諦めも斬新、そして適確、徹底されたサウンドで、その精神、披露している。見事、感心、恐れ入った。SONY移籍のモーツァルトも楽しみ。又も、才の登場。只、その変化に、私達、付いていけるか。私は、聴いて驚かされ、感心。支持する。

投稿日:2011/02/12
---ショスタコーヴィチはようやく亡くなった。--- この曲の革新的な演奏が生まれた。

この作品は全ての交響曲の中で最も難解なものであるがゆえ、これまでの演奏はバルシャイ・ロストロポーヴィチに代表される過激なソビエト流解釈と、オーマンディやキタエンコのような淡々と楽譜に書かれたことを描く解釈の二つしかなかった。

しかし今回のような、「楽譜や文献から」作曲家の心境をくみ取り、「表情付けをしっかりとつけた」演奏というのはこれが初ではないだろうか。特に第6楽章と第8楽章の声楽陣のテキストに対する感情移入っぷりはさながら演劇のようである。

ここに私はこの曲に対して非常に客観的な立場から本質をえぐり出そうとするエネルギーを感じる。それは過去の演奏におけるひどく主観的(作曲家に近い存在による視点)な演奏や、ひどく客観的(交響曲という純音楽の再現という視点)な演奏とも違う、新たなこの曲の基軸となる解釈である。

もちろん前二つの解釈そのものを否定しているわけではない。当時は作曲家本人がご存命であったり、資料が少なかったりとするわけで、解釈が限られるのは当然である。しかし、この演奏の登場により、ようやくショスタコーヴィチは現世の呪縛から逃れられ、真に亡くなったのではないか、と感じざるを得ない。そうした意味あいでこの演奏は歴史的大名演だと私は考える。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c38

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
39. 中川隆[-14903] koaQ7Jey 2019年11月15日 11:38:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1995]

ショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》がバルトークを激怒させた理由

Bartók Concerto For Orchestra, Sz. 116 - 4.
Intermezzo interrotto (Allegretto) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=kUZ83BzCQNM
https://www.youtube.com/watch?v=9uwpuyc7nS4

Chicago Symphony Orchestra · Pierre Boulez

____


Shostakovich Symphony No 7 Yevgeny Mravinsky - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=V3fSSjfQiLo

1. Allegretto
2. Moderato (poco allegretto)
3. Adagio
4. Allegro non troppo

Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky, Conductor


▲△▽▼


バルトーク (1881〜1945) 《管弦楽のための協奏曲》
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/bartok-concerto-for-orchestra/page-3


幸福な時代の記憶として

5楽章形式。それまでのバルトークの音楽と同じく極めて抽象的なもので、直接的には他の何かをイメージさせるものはない。それでも、アメリカ合衆国の聴衆に配慮したのか、それともバルトーク自身の作風自体が変わったのか、聞く者に対して極度の緊張を強いるようなヨーロッパ時代の音楽と比べると、音楽は明るく親しみやすいものとなっている。特に5楽章にはハンガリーの農村でバルトークが耳にした豚飼いの笛の音が再現されており、それはバルトークの幸せだった時代の追憶なのではという指摘がある。

この《管弦楽のための協奏曲》は依頼を受けて一から作曲したものではなく、他の曲の為に準備していた構想などを転用したものも少なくないことが明らかになっている。

また第4楽章の「中断された間奏曲」では、悲しげな歌をショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》の第1楽章で聞こえるメロディがわざとらしく妨害し、歌を中断させている。

バルトークが指揮者ドラティに語ったところによると、これは明確にショスタコーヴィチを引用したものであり、しかも当時、あまりにも盛んに演奏された《レニングラード》を揶揄する意図が込められたものであったという。
(以上、バルトークや東欧の音楽に詳しい音楽学者の伊東信宏氏による。)

ドイツ軍に包囲されたレニングラード市に捧げられたショスタコーヴィチの交響曲第7番は、反ドイツを象徴し連合国の結束を高める為のものとしてアメリカ合衆国でも盛んに演奏されたのだが、自分がここまで周到に避けてきた交響曲という形式をあっさりと使用するショスタコーヴィチに対して、バルトークは相当な苛立ちを持っていたようである。

これは、ショスタコーヴィチにはショスタコーヴィチの事情があったのだが、バルトークにもそんなことを忖度する必要は無かったということか。

そんな背景を持ったちょっとおかしな間奏曲を経ての第5楽章。バルトークにしては珍しく明るい、光の満ちた音楽である。不思議な疾走感と勢いのまま曲は終わる。この終結部は当初はもっと短いあっさりとしたものだったのだが、あまりにも聞き映えがしない為か、初演の後にバルトークによって改訂されている。(この初稿の終結部はクーゼヴィツキーの初演ライブの録音などで聞くことが出来る。)こういったサービス精神溢れる?改訂もバルトークにしては珍しい。

しかしこの音楽に、バルトークの音楽は堕落したとかバルトークが聴衆が媚びたのだとかという声がある。果たしてそうか?難しいものを難しい形のまま提供することと、難しいものを分かりやすく親しみやすい形で提供することのどちらがより高度な技を必要とするか。

無論、後者である。バルトークの創作は人生の最後において、さらにより高い次元に突入したのだと筆者には感じられるのだ。音楽はやはり極めて抽象的であるが、そこにバルトークの見た景色や聞いた音を重ね合わせる想像も、また可能であろう。その向こうにうっすらと見えてくるバルトーク。その顔は和らいだ表情を見せているかもしれない。バルトークの独特な個性と親しみやすさが幸せな一致点をみることが出来た幸せな作品が、この《管弦楽のための協奏曲》である。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/bartok-concerto-for-orchestra/page-3



▲△▽▼


2006.08.09
ショスタコ第7交響曲を語る——「涼宮ハルヒの憂鬱:射手座の日」上級編
http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2006/08/7_2344.html


脳内宇宙艦隊戦シーンに使われているショスタコービッチ「交響曲第7番」第1楽章に存在する宇宙的恐怖にして深淵のような因縁について以下つらつらと述べていこうというわけ。


 ショスタコーヴィチのマニアの間では有名な話であるし、色々突っ込みを入れたいところもあるだろう。そのあたりはコメント欄で指摘してもらえるとうれしい。


 「射手座の日」に使われた第7交響曲(1941〜1942)は通称「レニングラード」とも呼ばれる。作曲年代で分かるように、この曲は第二次世界大戦最大級の激戦地であったレニングラード、現在のサンクトペテルブルグと密接な関連を持っている。

 独ソ戦開始時、作曲者ショスタコーヴィチは、レニングラード音楽院で作曲を教えていた。第7交響曲はドイツ軍が迫るレニングラードで、1941年7月から作曲が始まった。ドイツ軍がレニングラードを完全に包囲する前に、ショスタコーヴィチは、当時モスクワの首都機能が移転していたクイビシェフに避難し、そこで全曲は完成した。作曲者によるスケッチのメモによると、最後の第4楽章が完成したのは1941年12月27日。

 レニングラードは1941年8月末からドイツ軍に完全に包囲されており、作曲が終了したこの時、冬将軍が到来した市内は、物資の不足によりまさに阿鼻叫喚の地獄と化していた。

 作曲者は、この曲を「レニングラード市」に捧げた。

 初演は1942年3月5日、クイビシェフで行われた。ソ連政府は、世界的に有名な作曲家であるショスタコーヴィチが完成させたこの一見壮大な交響曲を戦意高揚に利用する。複製された楽譜は空輸によってレニングラードに運ばれ、1942年8月9日、包囲下のレニングラードにおいて、レニングラード放送管弦楽団により演奏された。

 オケのメンバーはほとんどが、徴兵され最前線で戦っていた。皆、演奏のために市内に戻ることが許され、1日だけ銃を楽器を持ち替えて、演奏に参加し、そしてまた戦場へと戻っていった。
 彼らのほとんどが、そのまま帰ってこなかった。

 ソ連政府の手により、楽譜はマイクロフィルム化され連合国各国へと渡った。アメリカでは、1942年7月19日、トスカニーニの指揮、NBC交響楽団によって初演が行われた。アメリカはその演奏を、全世界にラジオ中継した。戦意高揚と連合国各国の連帯の強化のために、この曲を利用したのである。


————————————————

 と、いうような曲の来歴を頭に入れて、一度ハルヒの「射手座の日」に戻ろう。
 「射手座の日」で使用されるのは第1楽章。まず、コンピ研との戦闘開始にあたってハルヒが演説するシーンで、楽章冒頭の弦とファゴットのユニゾンによる雄大な印象の第一主題が使用される。

 この第1楽章は、非常に変則的なソナタ形式をしている。通常のソナタ形式では中間部は、2つの主題の展開部になる。ところがこの楽章では、展開部の代わりに、そこに全く別のメロディによる「ボレロまがい」が挟まっているのだ。

 この変ホ長調の主題は「戦争の主題」と呼ばれている。

 このメロディが14回ほど繰り返され、繰り返すたびに盛り上がり、最終的に暴力的なまでの音量ですべてを圧倒する。レニングラード市が戦争に巻き込まれる過程というわけだ。

 「射手座の日」では、この繰り返しの部分が使用される
「1600開戦」の部分では、弦楽器が並行和音でメロディを演奏する7回目と8回目の繰り返しが使われる。

 キョンの「どうにもならないんだ」からはオーケストラの全楽器が咆哮する12回目、続いてメロディが大きく変形されて短調で出現する13回目の部分が使われる。いきなり曲調が悲壮な雰囲気に変わる部分に、みくるの「みなさんどこにいっちゃったんですか〜」という悲鳴が重なるあたり、演出効果満点だ。


————————————————

 と、まあここまでは、ショスタコーヴィチが生きていた頃の解釈である。

 ところでここで、メロディを覚えている人は、「戦争の主題」を口ずさんでみて欲しい。

 なんだか間抜けな気はしないだろうか。メロディだけ取り出すと、およそ戦争とは思えないぐらいのどかで間抜けで、しかもどこか茶番じみてもいる。これならば、ジョン・ウィリアムズが「スターウォーズ」で書いた戦闘の音楽のほうが、ずっと戦争と言うには似つかわしい。

 そういえば、このメロディ、かつてCMでシュワルツネッガーが、「ちちんぷいぷい」という歌詞を付けて歌っていたではないか。それぐらい、メロディとしては間抜けなのだ。

 この間抜けなメロディが「戦争の主題」とはどういうことなのだろうか。

 実は間抜けなのは主題だけではない。この「ボレロまがい」は、ボレロのように厳格にオーケストレーションだけを変化させるのではなく、繰り返しごとに異なる装飾的な対旋律を伴っている。早い話が「合いの手」が付いているわけ。その合いの手もまた、どこかサーカスじみた茶番っぽい雰囲気を持っているのである。

 はて?


————————————————

閑話休題

 1942年に全米にラジオ放送された、第7交響曲の演奏を、アメリカに亡命した一人のハンガリー人の作曲家が聴いていた。

 その名は、バルトーク・ベーラ。ハンガリー人は、「姓・名」の順番で書くので、バルトークが姓である。

 彼は母国ではハンガリー民謡の研究で名前を上げ、民謡と近代的作曲技法とを統合した独自の作風を確立した作曲家として尊敬されていた。
 ところが彼の音楽は、アメリカが受け入れるには晦渋に過ぎた。そしてまた彼の性格もまた、アメリカでうまく立ち回るには実直に過ぎた。ナチスから逃れたアメリカに渡ったものの、ハリウッドを手玉に取ったストラヴィンスキーや、カリフォルニアに作曲の教師の職を見つけたシェーンベルグのようにうまくやることができず、この時期彼は貧乏のどん底にいた。

 しかも彼は、亡命による環境の激変によってか体調を崩しており、あまつさえ精神的には作曲すらできなくなっていた。

 何人かの音楽関係者が、彼を援助しようとしたが、援助を受けるにはバルトークは誇りが高すぎた。難儀な人である。

 そのバルトークは、このショスタコーヴィチの第7交響曲を聴いて怒り狂った。「なんという不真面目な曲だ」と。このことは、彼の息子のピーターが記録している。

 さあ、バルトークはこの曲の何を「不真面目だ」と怒ったのだろうか?


————————————————

 この時、指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーが、なんとかしてバルトークに生活費を渡そうとしていた。裕福な女性と結婚していた彼は、妻の財産を使ってクーセヴィツキー財団を設立し、様々な作曲家に新作を依頼し、自ら初演していた。

 誇り高いバルトークが生活費を受け取らないであろうことを知ったクーセヴィツキーは、代わってバルトークに「自分のためにオーケストラのための曲を書いて欲しい」と依頼した。それが、渡米以来萎えていたバルトークの創作意欲に火を付けた。

 かくしてバルトーク晩年の傑作、オーケストラの各楽器が縦横無尽に活躍する「管弦楽のための協奏曲」が生まれた。

 全5楽章からなる「管弦楽のための協奏曲」の第4楽章は「中断された間奏曲」という題名を持つ。ここで、ショスタコーヴィチの第7交響曲第1楽章の、あの「戦争の主題」後半が引用される。上から下へと音符が下がってくる部分だ。

 引用されたメロディの繰り返しが、木管楽器による人間の笑いを模擬したようなフレーズで3回中断される。「中断された間奏曲」という題名の由来だ。

 同時にバルトークのショスタコーヴィチに対する「不真面目だ!」という意思表示でもあるのだろう。


————————————————

 では、ショスタコーヴィチは、何が不真面目だったのか。私の記憶ではこれを指摘したのは日本の作曲家、柴田南雄だった。

 実は、「戦争の主題」の後半には元ネタがあった。ウィーンのオペレッタ作曲家フランツ・レハールの代表作「メリー・ウィドウ」(1905)だ。

 「メリー・ウィドウ」は、「会議は踊れど進まず」で有名な1814年のウィーン会議を舞台にした恋のさやあての物語だ。ご存知、ナポレオン後のヨーロッパの勢力図を確定しようと各国が角突き合いをしたあげく、ナポレオンのエルバ島脱出でお流れになった会議である。

 ショスタコーヴィチが引用したのは、登場人物の一人、ダニロ・ダニロヴィッチ伯爵が酒場に繰り出すところで歌う歌。そして、ショスタコーヴィチが引用したまさにその部分の歌詞は「彼女ら(松浦注:酒場の女達)は祖国を忘れさせてくれるのさ」というものだったのである!

 おいおい、これはどういうことか。レニングラード市に捧げられた交響曲の「戦争の主題」が、「女で祖国を忘れよう」というのは一体何なのだろうか。バルトークが不真面目と怒った理由も分かろうというものだ。

 皮肉なことに、ショスタコーヴィチが第7交響曲を書き、バルトークがそれに怒って「管弦楽のための協奏曲」を書いたその時期、老いたレハールはナチスの庇護を受けていた。しかもユダヤ人の妻と共に。
 ヒトラーが「メリー・ウィドウ」が大好きだったという理由からだった。それ故、戦争終結後、レハール自体は一切政治的な動きをしていなかったにもかかわらず「戦争協力者」と非難されることになる。


————————————————

 ここで最大の問題は、なぜショスタコーヴィチは、本当に「メリー・ウィドウ」を引用したのか。そして、引用するとしたらその意図は何だったのかということだろう。

 実はショスタコーヴィチには、そのような引用を行う動機が十分にあった。彼は向かうところ敵なしの天才児としてスタートしたが、芸術をも統制しようとするソ連共産党によって1936年、プラウダ紙面で非難されたことがあった。

 スターリンが密告を奨励し、派手に粛正を繰り広げた時期、彼はこともあろうに共産党の機関紙の紙面で批判されたのだ。その恐怖はいかばかりだったろうか。彼は、彼の庇護者でもあった陸軍のトハチェフスキイ元帥に相談したのだが、翌1937年には、そのトハチェフスキイが、スターリンによって粛正されてしまうのである。

 プラウダによる批判以降、ショスタコーヴィチの音楽は変化した。生き延びるために「明るく健全で分かりやすい」という社会主義リアリズム方針に従った。
 彼の巨大な才能を持ってすれば、その路線ですら傑作を書くことが可能だった。そうして有名な第5交響曲が生み出された。
 彼は第二次世界大戦後、もう一度批判されるが、そのときはスターリンへのおべんちゃらに満ちたカンタータ「森の歌」を書いて生き延びた。歌詞はどうしようもないが、音楽は間違いなく傑作だった。

 その一方で、自由に作曲できない環境の中、彼は鬱屈し、屈折していった。彼は自分の音楽に謎めいた仕掛けをするようになる。奇妙に音楽の流れを断ち切るような音名象徴、それとは分からないような引用など。
 音楽は言葉と異なり、それ自身で確定した意味を持たない。いかようにでも解釈できる。有名なロッシーニの「ウィリアムテル」序曲は、アメリカ西部の騎兵隊の映像にもマッチするし、蒸気機関車の疾走にも、あるいは「スターウォーズ」のクライマックスで共和国軍を助けに駆けつけるハン・ソロとミレニアム・ファルコン号の映像にもぴったりだろう。
 その音楽の特質を生かし、ショスタコーヴィチは音楽の中に自分の真意をひそかに埋め込むようになっていった。


————————————————

 そう、ショスタコーヴィチが「戦争の主題」に込めたのは、反祖国的なもの、即ちスターリンによる粛正ではなかったのか。そう考えるとすべてが符合する。どこかおちゃらけた旋律が、サーカスのような対旋律を伴ってどんどん威圧的になっていく過程は、まさにスターリンの治世そのものでないか。
 すなわち、ショスタコーヴィチは、ナチスと戦う祖国の英雄を称える交響曲を書くと見せかけて、実はスターリンに対してあかんべえをかませていたということになるのだ!


————————————————

 ショスタコーヴィチの「音楽の暗号」は、彼の死後の1982年、西側で出版された衝撃的な「ショスタコーヴィチの証言」(ソロモン・ヴォルコフ編)で一躍表に飛び出た。回想録にはそれまで公式発言で形成されたいた西側のショスタコーヴィチ像とは全く異なる、彼があった。公式発言とは異なる、人間的に納得できるショスタコーヴィチがそこにいた。


 これで、めでたしめでたし。謎は解けたぜ、で終わればいいのだが…

 音楽の暗号は、数理的な暗号と異なり読み手がある意図を持っていなければ読み出せない。その意味では、ノストラダムスの予言とよく似ている。
 ということは、常に「それはショスタコーヴィチの真意か。深読みしすぎじゃないか」という問題がつきまとうことになる。戦争の主題が「メリー・ウィドウ」の引用って本当か?他人のそら似で、深読みしすぎじゃないか、というように。

 実際、現在では「証言」は「編者」ヴォルコフが、ショスタコーヴィチ周辺でプライベートに話されていたことや、ショスタコーヴィチが書いた文章を適当につなぎ合わせたものじゃないかという意見が優勢になっている。その証拠に、「証言」には、ショスタコーヴィチが死後に残した最大の爆弾が記載されていない。

 彼はスターリン時代に、スターリンをはじめとしたソ連政治を思い切り皮肉ったカンタータ「反形式主義的ラヨーク」を密かに書いていた。「証言」にはこの曲についての記述が一切ない。「反形式主義的ラヨーク」の存在を、本当に親しい人は皆知っていたが決して口には出さなかった。これが出てこないということは、「証言」は大して親しいわけでもないヴォルコフのでっちあげということだ、というわけである。


————————————————

 だが、私には、そういった混乱すら、実はショスタコーヴィチが意図したものじゃないかという気がする。

 ヴォルコフが西側の出版社に持ち込んだタイプ原稿にはショスタコーヴィチ自身のサインがしてあったという。

 私は想像してしまう。ソ連からの亡命を企てた若きヴォルコフが、西側へのみやげとして、ショスタコーヴィチの回想録をでっちあげるべく取材を開始する。それに気が付いたショスタコーヴィチは、ヴォルコフを呼びつける。おびえるヴォルコフに対して、老いたショスタコーヴィチは何も言わずに、彼の原稿にサインをいれる、というような鬼気迫る光景を。


 さて、長々とした話はこれでおしまい。「涼宮ハルヒの憂鬱」から始まって、ずいぶんと遠いところまで来てしまった。

 まあ、「射手座の日」でなにげなく使われた、そして、かつてシュワルツネッガーがCMで「ちちんぷいぷい」と歌ったメロディには、これだけの因縁がまとわりついていて、暗い暗い深淵が口をぽっかりと開けているのだ、ということで。


————————————————


 バルトークの「管弦楽のための協奏曲」は、色々な録音を聴いたけれど、このライナー指揮シカゴフィルの古い演奏が、やはり一番いい。歴史的名演だ。

 オーケストラの各楽器が、あたかもソリストのように縦横無尽に活躍する、エネルギッシュかつスタイリッシュな曲だ。第1楽章の途中、3本のトランペットと3本のトロンボーンがいきなり6声のカノンを演奏するあたりなど、背筋にぞくっと来るぐらい格好良い。

.


 酸鼻を極めたレニングラード攻防戦の概要を知るには、このソールズベリーによるノンフィクションをお薦めする。長らく入手不可能だったが、最近再刊された。高いとかいわずに、買うべし。

 レニングラードの指導者だったジダーノフは、スターリンにとって目の上のタンコブ的存在だった。スターリンは、ジダーノフを消すために半ば意図的にレニングラードを見捨てたのである。その結果、市民は地獄を見ることになった。

 スターリンの意図に反し、ジダーノフは包囲戦を生き抜き、ナチス・ドイツを打ち破って、ソ連共産党における地位を固める。そして、戦後ジダーノフは、ショスタコーヴィチに対してさらなる個人攻撃を仕掛けることになるのだ。


 偽書だという説が優勢になっているものの、この「証言」が西側に出てきたときのショックは巨大だった。今後ともショスタコーヴィチの受容史を語るには欠かせない文献といえるのではないだろうか。

 最近はかなりショスタコーヴィチの研究も進んでいるようだが、私がフォローできていない。なにか良い本が出ているようならば、是非とも教えてほしい。


 ショスタコーヴィチ趣味の行き着く果て、ということで遺作の「ヴィオラソナタ」をリンクしておく。間違っても素人はこれを買ってはいけない。

 晩年に向かうにつれ、ショスタコーヴィチの音楽は鬱屈し、内省的で暗いものになっていった。その到達点が、死の直前に完成したこのヴィオラソナタだ。

 マーラーの後期交響曲を暗いと感じる人は多いだろうが、これはそれどころじゃない。おそらく、人類が手にした最も暗い、ブラックホールのような音楽である。

 にもかかわらず、この曲は、あたかもホーキング輻射のように光を放っている。恐ろしいまでに高貴で、気高く、そして真っ黒な絶望に彩られている。この曲と比べることができるのは、ゴヤが晩年に描いた一連の「黒の絵画」だけだろう。

 ショスタコ19歳のはつらつとした第1交響曲を考え合わせると、社会主義というのはいったい何だったんだろうかと考えざるを得ない。


Comments

ハルヒでかかってた曲はショスタコビッチだったんですね。ショスタコビッチについてはいろいろいわれていたのは知っていましたが改めて彼が生きていた1984年的世界に思いをはせてしまいました。

Posted by: winter_mute | 2006.08.10 06:10 PM

どうも、松浦さんには申し訳ないですが、ショスタコは、20世紀音楽全体から眺めたとき、大きく視界に入るような作曲家ではないです。この人の音楽、確かに面白い曲もいくつかありますが、音楽の発想が「24のプレリュードとフーガ」のように一見いろいろやってるように見えて、実は内容が貧しかったり、構成より技術に頼っていたり。
バルトークは、ひょっとしてそう言った音楽の本質的な部分から、まず許せなかったのではないか、と思っております。
「ちちんぷいぷい」藤家がアレンジしてたですね。あの子はあれで茶目っ気あるからなぁ(あの子、なんて言っちゃいけないですな)。

Posted by: 大澤徹訓 | 2006.08.11 10:41 PM

 ああ、やっぱり、大澤さんはきびしいなあ。

 あえて書かなかったのですが、「レニングラード」交響曲は、ショスタコーヴィチとしてはあまり良い曲ではないですね。「24のプレリュードとフーガ」もそうです。

 傑作とされる交響曲5番も、どこか「お前、全力を出していないだろ」という部分があります。難しいのはそれがショスタコーヴィチ自身の問題なのか、彼が巻き込まれた政治状況の問題なのか、なかなか判然としないところです。

 交響曲9番とか10番も、曲そのものだけではすべてを語り切っていない。当時のソビエトの状況を考えないと曲が完結しないというところがありますよね。

 逆に言うと異常な状況の中で、作曲家がどう生き延びたかという興味はありますね。音楽を楽しむという点では不純な興味ですけれど。

 私の体験を振り返るなら、まず、交響曲8番があります。指揮活動に乗り出したばかりのロストロポーヴィチが振った演奏を、高校の頃ラジオで聞いたのが始まりでした。
 深い深い1楽章と、続く2つのスケルツォの軽薄さ、そして陰鬱なアダージョと、ちょっと鬱から回復したかという印象の第5楽章、という奇妙さが深く心に残りました。

 それと弦楽四重奏曲、特に7番と12番です。7番ラストの破滅に向けて疾走するような感覚と、悪夢から覚めたという風情のコーダは、夢に見るほど魅せられました。

 そして最後の交響曲15番ですね。もう向こう側に行ってしまったとしか言いようのない曲です。その後に弦楽四重奏曲の15番があって、ヴィオラソナタがあって、このあたりはもう人類が書いた曲とは思えない部分があります。

 若い時に力任せで書いた曲も好きなんですけどね。交響曲2番のポリフォニーとか。あれは多分、教科書的にはやっちゃいけないことのオンパレードじゃないかと思うのですが。

 ああ、多分私は、ショスタコーヴィチの、音楽だけでは語りきれない、絶対音楽として捉えると不完全に見える部分が好きなのかも知れません。


Posted by: 松浦晋也 | 2006.08.12 12:20 AM

 訂正、弦楽四重奏曲は12番ではなく13番です。確かヴィオラのものすごく広い音程にアーチを描く旋律で始まる奴。
 途中で出てくる狭い音程をいったり来たりするフレーズが印象的な曲でした。

 12番は冒頭12音列が出たと思ったら、ドレドレレミレミという単純な全音階のフレーズで受けるという人を食ったやりかたで始まる曲でしたね。

 こんなことを書いていたら、あらためて交響曲と弦楽四重奏曲をひとつずつ聴き直したくなってきました(いやまあ、個人的記憶と色々結びついていたり)。

 それが愛かと問われれば、私はショスタコーヴィチの音楽を愛しているのでしょう。正当なる愛かと言われれば、多分違うのでしょうけれど。

Posted by: 松浦晋也 | 2006.08.12 10:46 PM

ときどきコメントさせていただいている、いしどう です。
えーと、オーケストラ・ダスビダーニャなる、ショスタキスト…じゃなくって(笑)ショスタコーヴィチの音楽が大好きなプレーヤが寄り集まって作ったアマオケでヴィオラを弾かせていただいたりしてます。
「レニングラード」交響曲(というより、単に「7番」といったほうがわたしにはしっくりくるんですが(^^;;)は3年ほど前に演奏しました(去年が1番で今年が8番。次は来年3月4日に池袋の芸術劇場で15番とバイオリン協奏曲第1番を演奏します。もしよろしければお越しください(^^))。とても楽しかったです。

『チチンプイプイ』ですが(笑)、あれはソビエト侵攻したナチスドイツ軍を表現しているもので、それをおちゃらかしているのですから、別段体制にたいしてあっかんべぇをしているわけでもないと考えています。また、「メリー・ウィドウ」が流行った時期のウィーンはナチスドイツ支配下にあったわけで、それも示しているんだということも聞きました。

いずれにしても、われわれにとってはソビエト連邦の存在はまだ近すぎます。どうしても、その社会体制とあわせてショスタコーヴィチの音楽を考えてしまいがちです。
ショスタコービィチの音楽が、20世紀を代表する音楽のひとつになるかどうかは、あと2〜3世紀たって、ソ連の存在が本当に歴史になったときにわかるのかもしれません(まぁ、そのときにまだ人類が存在していて、西洋古典音楽という音楽ジャンルが残っていれば、の話ですが(笑))

…えーと、なんか素人がえらそうなことを書いてしまいました。すみません。


Posted by: いしどう | 2006.08.14 02:13 AM

 あ、15番やりますか。あれは凄い曲ですよねえ。彼岸に渡り切っちゃって、向こう側で石を積んで遊んでいるような印象です。

>別段体制にたいしてあっかんべぇをしているわけでもない

 そういう、あいまいさを残しているところがショスタコーヴィチの立ち位置を象徴しているんだろうと思っています。

 誰が聞いたって第5のフィナーレは空疎です。まして直前の第4ではピアニッシモの主和音引き延ばしをやっていますしね(こっちの演奏効果は素晴らしい)。しかも、同じことを15番のフィナーレでもやっています。

 となると、一体5番のラストに込められたものはなにか、と考えたくなってくる。多分、それこそがショスタコーヴィチが仕組んだことなんでしょう。

Posted by: 松浦晋也 | 2006.08.17 07:42 PM


ハルヒと同じスタッフが、違うアニメで今度はブルックナーを使ったことで、只今話題を呼んでおります。
是非この件についてもそのうち取り上げてみてください。どういうご感想をお持ちになるか、興味があります。
「かんなぎ」という作品の第11話ですが、ブルックナーの交響曲第7番の第一楽章の冒頭を使用しています。
かんなぎはヒロインが神を自称すると言う設定の作品です。
そのヒロインが自らの自己分析を行うシーンで神性を確認するかのように曲は使われいます。そして途中でノイズによって意図的にかき消されると言う演出を行っています。

Posted by: すみのやきとり | 2008.12.15 02:25 AM

http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2006/08/7_2344.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c39

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
40. 中川隆[-14902] koaQ7Jey 2019年11月15日 12:03:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1994]
石川清隆コラム

Testimony −ショスタコーヴィチの証言−
https://kiyotaka-ishikawa-law.com/column/10.html


『ショスタコーヴィチの証言』(注1)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%81%AE%E8%A8%BC%E8%A8%80-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%83%A2%E3%83%B3-%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95/dp/4122038529


という本があります。

刊行後、33年が経過しますが、スターリンやその取り巻き、その全体主義、プロコフィエフなどの音楽関係者、演出家のメイエルホリドなど様々な有名人に対する率直なコメントが書かれているばかりか、彼自身の曲についてそれまで聞いたこともないような面白い記述に溢れています。それはショスタコーヴィチの曲の解釈に多大な影響を与えただけでなく、その後のショスタコーヴィチ論の隠れたネタ本となってきました。

あまり程度がよいとは思えない"偽書論"については後日述べるとして・・。

本書にある、「ユダヤの民族音楽…それは非常に多様性を帯びていて、一見陽気だが実際は悲劇的なものである。それは殆ど常に泣き笑いにほかならない。ユダヤの民族音楽のこの特性は、音楽がいかにあるべきかという私の観念に近い。音楽には常に2つの層がなければならない。」という記述は、ショスタコーヴィチの曲の中で"勝利"だ"歓喜"だと言われていた楽章の中にある外声部,内声部の不可解な音の響きや基底部にあるリズムの意味を初めて説明していたものです(注2)。

例えば、ソ連体制下での"公式"な見解による「勝利の行進」とされていた有名な交響曲第5番の最終楽章について、「あそこにどんな歓喜があるのだ」「あれはボリスゴドノフの場面同様、強制された歓喜なのだ」と書かれています。

更に、公式には、「第7交響曲を我々のファシズムに対する戦いと我々の宿命的勝利、そして我が故郷レニングラードに捧げる」と作曲者によって表明されたとされる「レニングラード」という通称を持つ交響曲第7番については、この「証言」では「私はダビデの詩篇に深い感銘を受けてあの曲を書き始めた」、「神は血のために報復し、犠牲者の号泣を忘れない、など」とあります。他にも引用したらきりがないほど面白い本です。

この本は、編者ヴォルコフが言うように、「ショスタコ-ヴィチと聴衆を隔てる最後の扉が彼の背後で閉められたら、誰が彼の音楽を聞こうとしただろうか。」(注3)という危惧感の元、「表向きの仮面が彼の顔にぴったり貼り付けられていた。それ故仮面の下から、用心深く、疑り深そうに彼の素顔が覗いた時、私は非常に驚いた」という、そのとおりの構成になっています。

ショスタコーヴィチは、音楽はそれ自体を聴いてその意味を感じるものであるが、ソビエト体制の下で、作品への批判を避けるため「公式」に表明したり、させられたり、勝手に代筆された言葉が、聴衆に彼の作品を理解してもらう為の妨げになっているということを強く感じて、こういう構成になったのでしょう。

その衝撃的な内容はショスタコーヴィチの時代背景や、彼の作品について、何度読んでも飽きない不思議な含蓄ある言葉に満ちたものです。一つの例としてダビデの詩篇との関係で語られた第7交響曲を挙げてみましょう。


交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」

この曲は、それまで第二次大戦中にナチスドイツがレニングラードを包囲したその最中に作曲され、その後ソ連は反撃に出てその包囲を解きソ連を勝利に導いた様子を曲にした"戦争交響曲"というような解釈がなされてきました。

実際にこの"公式見解"に沿った、第1主題提示 「この曲の主人公であるソヴェト国民の持つ勇気と自信」(「ボレロ的」展開)、「ファシスト侵略の醜鼻の印象を描き出す」「戦争の主題」 第1主題の短縮再現 「われわれの英雄たちのための(中略)この鎮魂曲をきいて我々は泣かない。こぶしを固めるのだ」…というような解説が、真顔で書かれていました(注4)。

『証言』では、「この曲は戦争の始まる前に構想されていた為、ヒトラーの攻撃に対する反応としてみるのは完全に不可能であり、冒頭の楽章で執拗に繰返される「侵略の主題」は実際の侵略とは全く関係がない」とし、「ヒトラーによって殺された人々に対して、私は果てしない心の痛みを覚えるが、スターリンの命令で非業の死を遂げた人々に対しては、それにも増して心の痛みを覚えずにはいられない。」

この交響曲などが、ナチスドイツとの攻防をテーマとする"戦争交響曲"と捉えられていることについて、「(戦後30年もたって彼らは)何故自分の頭で考えようとしないのだろうか…」「私の多くの交響曲は墓碑である」「(これは)第4番に始まり第7番第8番を含む私の全ての交響曲の主題であった…」と記されています。

戦争前には、スターリンは国内では人民の敵だとして粛清で多数の無辜の人々を殺していました。ヒトラーと独ソ不可侵条約を結び、他方では赤軍の機械化近代化を推し進めていたトゥハチェフスキー元帥(注5)を拷問にかけナチスのスパイだとして銃殺し、これに関係していたとして数百人の将校を処刑しています。他にも粛清で殺された人は多数いました。これらの人々に対しても捧げられた曲だというのです。

これでは、「あれは"戦争交響曲"だ」「侵略者の醜鼻を描きソビエト人民の勝利を輝かしく描いているのだ」などと、上から目線で言っていた人たちはナチスと戦ったのだから社会主義は正義だと思っていたのですから、「同類だ」と言われて立場がなくなりますね。

この曲に関し、初演当時からハンガリーの作曲家べラ・バルトークがショスタコーヴィチに対して「不真面目である」と怒りを表し、「管弦楽のための協奏曲」の中にショスタコーヴィチを皮肉っている部分があるという話がありました。

しかし、何にバルトークが怒っていたのかはよく分からないままでした。

これについては、「管弦楽のための協奏曲」の中だけでなく、ショスタコーヴィチの交響曲第一楽章にもまた、レハールの喜歌劇「メリー・ウィドウ」のパロディが含まれていたという事実から、バルトークの意図が分かります。

この第1楽章の「戦争の主題」とレハールの旋律との関係は、『証言』の編者のヴォルコフが、1979年の英語版『概説(未邦訳)』の注釈ではじめて説明しました。それによると「戦争の主題」の後半はウィーンのオペレッタ作曲家フランツ・レハールの有名な「メリー・ウィドウ」の引用であり、その部分の歌詞は「(キャバレー)マキシムへ行こう〜」だったというのです。(注6)

続く歌詞は「そこの女達は祖国を忘れさせてくれるのさ・・」というものです。
指揮者ムラヴィンスキーは、この初演をラジオで聴いて、このマーチはナチスの侵略ではなく「作曲者が既に創作しておいた愚劣さや、甚だしい下品さの普遍的イメージだ」と思ったと追想していたそうです。(注7)

また、上から目線の人たちは、この曲の最終楽章(第4楽章)については、「(「人間の主題」)が全楽器の絶叫によって打ち立てられ、序奏の同音連打が勝利の宣言となる。」とか言っていました。終わりのコーダ部分が何かしら敵に鉄槌をくらわせているように聞こえるのでしょう。

そのように聞こえなくもありません。『証言』が述べているのはこの「敵」はナチスだけでなくスターリンの殺戮マシーンのような体制でもあるということでしょう。するとここでは「勝利」でなく「鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする」(注8)という「裁き」ないし、「報復」を表現しているのかもしれません。

あえてイメージで語るとすれば・・・、全楽器の絶叫によってそそりたつように打ち立てられるのは、「雷を伴った大きな雲の柱、火の柱」(注9)のようです。

旧約聖書では、「民のため敵に復讐する神は雲の柱の中にいます」、

詩篇では、「雷鳴は車の轟きのよう。・・稲妻は世界を照らし出し地は慄き、震えた。」(注10)

「(主は)、悪者の上に網を張る。火と硫黄。燃える風が彼らへの「裁き」(の杯への分け前)となろう」(注11)

という記述があります。

『証言』で「神は血の為に報復し、犠牲者の号泣を忘れない、などとある」と言及しているのは、言葉で解説するとしたらこのようなことかもしれません。そしてこの「人間性に対する敵」に鉄槌を下すのが、神ではなく、戦争や暴政の中で虐殺されていった人々の無念、かなしみ、慟哭の果ての激しい怒りなのでしょう。

なお、第4楽章の後半は、フレイシュマンのオペラ「ロスチャイルドのヴァイオリン」の終曲の旋律、展開が基調にあるように聴こえるのですが・・・(注12)。

「反形式主義的ラヨーク」(作品番号なし)の登場

『証言』の中で、ジダーノフ批判に触れて「私にはこの主題を描いた作品があり、全てはそこで語られている」と言う記述があります(注13)。

この本の出版後10年たった1989年には、これに符合する、誰も知らない謎の作品が「反形式主義的ラヨーク」として、初演されました。

これは、戦後のジダーノフ批判の時の、スターリンや取り巻きを茶化した声楽曲(世俗カンタータ)で、ヴォルコフの初版『概説』にもこの部分について触れた記述があり、『証言』本文の中でも、この作品の存在を示唆した辺りの記述内容と視点、取り上げ方は一致していました。作風はゴーゴリの原作に基づくオペラ「鼻」を思い出します。

ある偽書説論者は、このソビエト当局を揶揄した「ラヨーク」 が見つかった時に「なぜ『証言』にはラヨークの存在が書かれていないのだろう」 と得意満面に発言したそうです。その後『証言』の翻訳者が、『証言』中にラヨークの存在についての記述があることを指摘しましたが、前言を訂正することはなかったようです(きっとこの論者は邦訳も英語版も読んだことがなかったのでしょうね)。

未だにこの『証言』の内容の中には偽書であることを疑わせる「事実誤認」は確認されていないどころか、この『証言』の内容を裏付ける事実がどんどん出てきました。ソビエト崩壊後、埋葬された場所すらわからない演出家メイエルホリドが拷問され銃殺されたことは、判決文や、取り調べ過程の資料が出てきました(注14)。

まだまだ、おもしろい発見や埋もれている事実があるように思われます。
(つづく)


(注1):『ショスタコーヴィチの証言』(原書:Testimony : The Memorries of Dmitori Shostakovich)1979年10月ソロモーン・ヴォルコフ(ロシア人音楽学者)の編。N.Yにて出版。英訳はAntonia W. Bouisによる。英訳では編者序(Preface)、編者の概説(Introduction)、本文からなる。
邦訳「ショスタコーヴィチの証言」(水野忠夫訳, 中央公論社, 1980)はロシア語タイプ原稿によっているが、編者序、本文のみで編者ヴォルコフの概説(Introduction)は未訳。

(注2):『証言』、出版後25年たって、この「証言」に「ユダヤ音楽の二層」「泣き笑い」というあたりにかかれていたことを、たとえば「二重言語・・ショスタコーヴィチの音楽に含まれた両義性」などと著者の新見解のように書かれている本まで出てきました。総じて、「証言」の結論見方に極めて近い、ないし事実上引用している箇所がかなりあるに出典を明らかにしていません。おもしろいことです。

(注3):邦訳編者(ヴォルコフ)序P.5

(注4):井上頼豊「ショスタコーヴィッチ」(音楽之友社)(P.117以降)
なお、これとは別に、清透な深い悲しみに満ちた第3楽章 Adagioについて「(「祖国の大地」)」とか表題をつけて、「比較的叙情的で明るい内容を持つ。」「陽気で息の長い旋律が現れる。」「祖国愛を表現している。」とか真顔で書いてあるのをどこかで読みましが、これも同類の方なのかもしれません。

(注5):ミハイル・ニコラエヴィチ・トゥハチェフスキー ソ連邦元帥。赤軍の機械化,ロケット兵器開発などを推進。数々の戦術理論を編みだした。スターリンの赤軍大粛清の犠牲者の1人。1937年5月逮捕され、トハチェフスキーは拷問にかけられ、自白を強要させられた。トゥハチェフスキーの調書にはその時の血痕が残されているという。『証言』第三章の後半は、トゥハチェフスキーに関する記述である。

(注6):1979年英語版 概説[Introduction] xxxiv脚注 に明記されている。
この点について我が国では、柴田南雄氏がはじめて指摘したという理解がなされている。しかし、同氏の指摘は、1980年刊の「海」所収のエッセイの中で述べられているので『証言』の邦訳の発刊前であるが、ヴォルコフの指摘はその前年である。
同氏の指摘のみを前提で議論している人は、きっと『証言』の英語版は読んだことがなかったのでしょう。
このマーチとはTVのCMで「シュワちゃん、リエちゃん、チチンプイプイ〜♪」とやっていたあの旋律です。

(注7):概説[Introduction] xxxiii〜xxxiv 原文は"the composer had created universalized image of stupidity and crass tastelessness"

(注8):旧約聖書詩篇第章9節

(注9):同出エジプト記13章

(注10):同詩篇第11章6節

(注11):同77章19節 なお、筆者は特定の宗教への信仰はありません。

(注12):ヴェニアミン・フレイシュマンはソ連邦の夭折したユダヤ系の作曲家。『証言』において、弟子であったフレイシュマンを高く評価する記述がある。チェーホフの短編によるオペラ「ロスチャイルドのヴァイオリン」に着手したが、最前線に志願し、28歳で戦死した。ショスタコーヴィチはフレイシュマンの自筆譜にオーケストレーションを施し、1944年2月完成させた。1968年初演されたが、ソ連体制下では二度と演奏されなかった。

(注13):邦訳初版P.215、上段、英語版初版本文P.147,7〜9行目、同ページ脚注
英語版 概説[Introduction] xxxiv脚注、 に明記されている。

(注14):『証言』第三章の前半は、メイエルホリドに関する記述である。
名越健郎『クレムリン秘密文書は語る』中公新書、1994年などがある。

https://kiyotaka-ishikawa-law.com/column/10.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c40

[お知らせ・管理21] 2019年11月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
37. 中川隆[-14901] koaQ7Jey 2019年11月15日 12:16:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1993]

投稿の間違いを指摘するとすぐに投稿者がコメントを非表示にするからなあ

純真な高校生が魑魅魍魎のデマ投稿を読んで本当だと信じると困るんだ


http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/573.html#c37

[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
90. 中川隆[-14900] koaQ7Jey 2019年11月15日 12:20:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1992]
「大嘗祭」の秘密の儀式とは! 新天皇が寝座のある部屋に一晩こもり…秋篠宮は“宗教色”の強さを指摘し国費支出に異議
https://lite-ra.com/2019/11/post-5090.html


2019.11.14 「大嘗祭」に秘密の儀式が!新天皇が寝座のある部屋に一晩こもり… リテラ

    
    平成の大嘗祭(神社本庁HPより)


 本日14日から15日にかけて、天皇の代替わり儀式のなかで最重視される「大嘗祭」が行われる。大嘗祭は、代替わりした天皇が初めて行う「一世一度」の新嘗祭。その内容の多くは非公開で行われるが、これまでの研究から、その実態は一連の代替わり儀式のなかでもとりわけ宗教色が強いことがわかっている。

 だが、国民主権や政教分離の原則に反する大嘗祭の問題に、安倍政権はまったく触れぬまま進めてきた。いや、テレビなどのマスコミも表層的な解説でお茶を濁すばかりで、正面から大嘗祭を論じることはほとんどない。

 だとすれば、本サイトがその本質をあらためて伝えておく必要があるだろう。

 まず言っておかねばならないことは、大嘗祭の実相は単なる「豊作を祝う農耕儀礼」ではなく、明らかな「宗教儀式」である、ということだ。

 明治新政府がクーデターで幕府を倒した後、日本の政治支配層は「世界で唯一の天皇を中心とした神の国」という思想を国家神道として体系化し、国民支配の基盤にした。その流れで、天皇神格化と国家神道を徹底するために旧皇室典範と登極令をつくり、それまで国民の知らないところでこじんまりと行われていた皇室祭祀を大々的に執り行うようになった。つまり、大嘗祭を大きくクローズアップすること自体が、政治権力の作り上げる「祭政一致」のイメージ装置であったのだ。明治以来の日本政府は、皇室の宗教性を表に出すことで国民の支配に利用したわけである。

 しかも、だ。大嘗祭は、新たな天皇が皇祖神とされる天照大神(アマテラスオオミカミ)らに穀物を供え、新天皇自らも口にすることで豊穣と国民の安寧を祈る儀式と説明され、半年以上前から当日にかけて、多岐にわたる儀礼が執り行われる。だが、そのなかには具体的な内容がまったく明かされていない儀式がある。

 それが、これまでの大嘗祭研究で注目されてきた、霊的・性的な意味合いをもつ“秘密の儀式=秘儀”の存在である。

 本祭の夜、新天皇が大嘗宮の悠紀殿および主基殿に籠ってなされる儀式のことだ。一般参列者はもちろん報道関係も完全にシャットアウトされたなか、天皇は11月14日夕方から翌15日未明まで、ふたつの殿の内陣に合計8時間にわたって引きこもる。

 このとき、新天皇は供えた新稲をアマテラスと一緒に食す〈共食〉の儀を行うと説明されるが、この共食の儀は、悠紀殿と主基殿で二度繰り返されることを除けば、毎年の新嘗祭と同じだ。しかし、それではどうして大嘗祭が特別な皇位継承儀礼であるかの説明がつかない。

 そして着目されたのが、内陣の構造だ。両殿内部には天皇と神の席がしつらえられており、ここで対座して〈共食〉をすることになっている。ところが、これが中心儀礼の割には部屋全体から見ると片隅に追いやられており、内陣の中心・大部分を占めるのは八重畳(やえだたみ)の寝座なのだ。そしてこの寝座を使って〈秘儀〉が行われている、というのが最も有力な説として浮上してきたのである。

 言っておくが、寝座を使った秘儀の存在は、都市伝説として語られているわけではない。神道や歴史学の分野でも本格的に議論されてきたものだ。その先鞭をつけたのが、民俗学の権威で、戦前は国家神道の強化にも多大な影響を与えた折口信夫である。

 折口は大嘗祭がおこなわれた昭和3年の前後にかけて、自身の天皇論と大嘗祭に関する論考を積み上げていった。それらのテーマを総合的にまとめたのが、昭和5年に発表された「大嘗祭の本義」だ。折口はこのなかで、寝具を天孫降臨神話で瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)がくるまって地上に降り立ったとされる「真床覆衾(マドコオフスマ)」に見立て、天皇が布団にくるまる儀式の存在を唱えた。

■折口信夫が指摘した「前天皇との同衾」「性の解放」の儀式の存在

 折口がこの見立てに不可欠な要素として持ち出したのが、「天皇霊」という概念だ。折口によれば、〈天子様の御身体は、魂の容れ物〉であり、天皇はその魂(「天皇霊」)を受け入れることで完全な天皇として「復活」する。すなわち折口は、天皇の権威をほかならぬ「万世一系」の「血筋」ではなく、「肉体を入れ替えて復活をとげる霊魂」という超越的存在の継承によって説明しようとしたのだ。

 折口は「真床覆衾(マドコオフスマ)」「天皇霊」に付随して、「先帝同衾」という説も唱えている。これは前天皇の亡骸と新天皇の肉体というふたつの〈御身体〉を〈一つの衾で覆うて〉、復活のための儀式を行ったというものだ。折口によれば、古代には生死を明確にする意識がなく、平安期でも生死がはっきりしなかったので、「天皇霊」が前の身体に戻るか別の身体に移るかを確認する必要があった。そのための「同衾」だという。

 折口の説はその後、発展されるかたちで、さまざまな論考を生み出した。その一つが「聖婚儀礼」だ。あけすけにいえば、大嘗祭の夜、天皇による性行為が行われるという説である。

 大嘗宮の悠紀・主基両殿に入ることが許される人間は極めて限られる。その内構造は大きく二つにわかれており、御座と神座がある内陣(「室」という)には、天皇以外に「采女(うねめ)」という身の回りの世話をする女官の代表ひとりしか入れない。日本史学者の岡田精司氏らは、この采女を性行為の相手と見た。地方豪族から貢上された采女と「聖婚」することで服従を誓わせる儀礼があったのでないかと推定したのである。

 また、折口は、悠紀・主基両殿以外での性的な儀式の存在を指摘している。大嘗祭において、天皇は悠紀・主基両殿に籠る前に、廻立殿という併設の殿舎で「大忌の御湯」「小忌の御湯」と呼ばれる二度の沐浴=聖水儀礼を行うことで「穢れ」を払うという。史料によれば、この沐浴時に天皇は「天羽衣」を着用したというのだが、折口は〈元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである〉などとして、なんと、天羽衣とフンドシを結びつけた。そして〈物忌みの褌を締めて居る間〉は〈神秘たる霊力をして発散させぬ為〉の〈極端なる禁欲生活〉だとし、その〈解放の時〉が〈性の解放〉であると見立て、こう続けている。

〈天子様の場合には此湯の中の行事の、一切の御用をつとめるのが、処女である。天の羽衣をおぬがせ申し上げるのが、処女の為事なのである。そして羽衣をおとりのけさると、ほんとうの霊力を具へた、尊いお方となる。解放されて、初めて、神格が生じるのである。〉(「大嘗祭の本義」)

■平成の大嘗祭でも秘密のうちに執り行われた主紀殿、悠紀殿の儀

 ちなみに、御所には「内掌典」と呼ばれる処女の巫女がおり、その内掌典がこの「大忌の御湯」「小忌の御湯」に立ち会うとされてきた(実際、昭和天皇の代には、本当に若い頃からずっと俗世界と関係を絶った4人の女性が御所に住んでいたが、その後、交代制になった)。

 しかも、ここで指摘しておかなければならないのは、かくも異様な儀式の存在を述べた折口の説を当時、当局が容認していたという事実だ。前述したように、折口が前後に天皇論・大嘗祭論を展開した昭和3年は、大嘗祭の実施年であったと同時に、治安維持法の最高刑が死刑へ改められた年であり、「三・一五事件」と呼ばれる共産党への大弾圧も行われた。

 ところが、折口の説は取締の対象とならなかっただけではなく、当時、国家神道推進の中心人物によって堂々と紹介されてもいる。近代神道の創始者であり、内務省神社局考証課長でもあった宮地直二が東大の神道講座で「天皇霊」論を講義したのである。

 もちろん、大嘗祭に、折口らの主張する秘儀があったとしても、途中からは、実際に性的行為や前天皇との同衾が行われていたわけではなく、模擬儀礼として行われているだけという可能性が高い。

 また、民主主義下で初めて行われた平成の大嘗祭では、海外メディアが秘儀をめぐる報道を繰り広げたことを政府が憂慮。わざわざ宮内庁が事前に会見で「(大嘗祭に)特別な秘儀はなく、特別な御告文にもそのような思想はない」と否定した(ただし、折口が性的儀式の存在を指摘した「大忌の御湯」「小忌の御湯」の儀については、会見で具体的内容について質問がとんだものの、宮内庁は説明を拒否している)。

 しかし、その平成の大嘗祭にしても、大正や昭和の大嘗祭とまったく同じように、長時間、徹底して秘密裏に執り行われたことは事実だ。

■秋篠宮は大嘗祭の“宗教色”を指摘し、国費でまかなうことに疑義

 平成の大嘗祭を取材した元朝日新聞皇室担当記者でジャーナリストの岩井克己氏は、当時のことを〈午後五時過ぎから午後九時過ぎまで約四時間にわたって天皇の悠紀殿の儀が行われたが、殿内での天皇の「秘儀」はもちろん、廻廊を歩む姿も諸役の動きも全く見えない。奏されたという神楽歌など楽部の奏楽もほとんど聞こえず、ただひたすらじっと座って寒さを我慢しただけで終わった〉と振り返っている(「選択」2014年1月号)。

 今回も、殿内での儀式は当然のように非公開にされている。政府は大嘗祭を「国事行為」ではなく「皇室の行事」と位置付けることでお茶を濁すと同時に「公的性格がある」という二枚舌を使う。その費用は宮廷費つまり公費から支出されることにかわりはなく、大嘗祭だけで約24億4000万円が費やされる予定だ。

 むしろ、その宗教性と国民主権・民主主義の“本質的な不和”については、現在の皇室のほうが自覚的ですらある。昨年、秋篠宮文仁親王は誕生日に際した記者会見で、「宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか」などと公に疑義を呈した。

「大嘗祭については、これは皇室の行事として行われるものですし、ある意味の宗教色が強いものになります。私はその宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか、これは平成の時の大嘗祭の時にもそうするべきではないという立場だったわけですけれども、そのころはうんと若かったですし、多少意見を言ったぐらいですけれども。今回も結局、その時を踏襲することになったわけですね。もうそれは決まっているわけです。ただ、私として、やはりこのすっきりしない感じというのは、今でも持っています」

 だが、宮内庁は「聞く耳を持たなかった」という。秋篠宮文仁親王は記者会見で「そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています」とまで踏み込んでいたが、結局、安倍政権は皇室が懸念する「宗教色の強い皇室行事」をなし崩し的に、事実上の国家行事にしてしまった。

 いずれにしても、大嘗祭の宗教性は明らかにもかかわらず、なし崩し的に本番を迎えようとしている。大嘗祭をめぐる国民主権と民主主義、そして政教分離の原則の議論は深まらないままだ。政治権力が天皇と皇室を国家神道に組み入れることで国民を支配した、明治から終戦までの大日本帝国。この国の政府と有権者は、いったい、いつまで“戦中”を引きずるつもりなのだろうか。

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c90

[近代史3] 皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式 中川隆
13. 中川隆[-14899] koaQ7Jey 2019年11月15日 12:21:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1991]
「大嘗祭」の秘密の儀式とは! 新天皇が寝座のある部屋に一晩こもり…秋篠宮は“宗教色”の強さを指摘し国費支出に異議
https://lite-ra.com/2019/11/post-5090.html


2019.11.14 「大嘗祭」に秘密の儀式が!新天皇が寝座のある部屋に一晩こもり… リテラ

    
    平成の大嘗祭(神社本庁HPより)


 本日14日から15日にかけて、天皇の代替わり儀式のなかで最重視される「大嘗祭」が行われる。大嘗祭は、代替わりした天皇が初めて行う「一世一度」の新嘗祭。その内容の多くは非公開で行われるが、これまでの研究から、その実態は一連の代替わり儀式のなかでもとりわけ宗教色が強いことがわかっている。

 だが、国民主権や政教分離の原則に反する大嘗祭の問題に、安倍政権はまったく触れぬまま進めてきた。いや、テレビなどのマスコミも表層的な解説でお茶を濁すばかりで、正面から大嘗祭を論じることはほとんどない。

 だとすれば、本サイトがその本質をあらためて伝えておく必要があるだろう。

 まず言っておかねばならないことは、大嘗祭の実相は単なる「豊作を祝う農耕儀礼」ではなく、明らかな「宗教儀式」である、ということだ。

 明治新政府がクーデターで幕府を倒した後、日本の政治支配層は「世界で唯一の天皇を中心とした神の国」という思想を国家神道として体系化し、国民支配の基盤にした。その流れで、天皇神格化と国家神道を徹底するために旧皇室典範と登極令をつくり、それまで国民の知らないところでこじんまりと行われていた皇室祭祀を大々的に執り行うようになった。つまり、大嘗祭を大きくクローズアップすること自体が、政治権力の作り上げる「祭政一致」のイメージ装置であったのだ。明治以来の日本政府は、皇室の宗教性を表に出すことで国民の支配に利用したわけである。

 しかも、だ。大嘗祭は、新たな天皇が皇祖神とされる天照大神(アマテラスオオミカミ)らに穀物を供え、新天皇自らも口にすることで豊穣と国民の安寧を祈る儀式と説明され、半年以上前から当日にかけて、多岐にわたる儀礼が執り行われる。だが、そのなかには具体的な内容がまったく明かされていない儀式がある。

 それが、これまでの大嘗祭研究で注目されてきた、霊的・性的な意味合いをもつ“秘密の儀式=秘儀”の存在である。

 本祭の夜、新天皇が大嘗宮の悠紀殿および主基殿に籠ってなされる儀式のことだ。一般参列者はもちろん報道関係も完全にシャットアウトされたなか、天皇は11月14日夕方から翌15日未明まで、ふたつの殿の内陣に合計8時間にわたって引きこもる。

 このとき、新天皇は供えた新稲をアマテラスと一緒に食す〈共食〉の儀を行うと説明されるが、この共食の儀は、悠紀殿と主基殿で二度繰り返されることを除けば、毎年の新嘗祭と同じだ。しかし、それではどうして大嘗祭が特別な皇位継承儀礼であるかの説明がつかない。

 そして着目されたのが、内陣の構造だ。両殿内部には天皇と神の席がしつらえられており、ここで対座して〈共食〉をすることになっている。ところが、これが中心儀礼の割には部屋全体から見ると片隅に追いやられており、内陣の中心・大部分を占めるのは八重畳(やえだたみ)の寝座なのだ。そしてこの寝座を使って〈秘儀〉が行われている、というのが最も有力な説として浮上してきたのである。

 言っておくが、寝座を使った秘儀の存在は、都市伝説として語られているわけではない。神道や歴史学の分野でも本格的に議論されてきたものだ。その先鞭をつけたのが、民俗学の権威で、戦前は国家神道の強化にも多大な影響を与えた折口信夫である。

 折口は大嘗祭がおこなわれた昭和3年の前後にかけて、自身の天皇論と大嘗祭に関する論考を積み上げていった。それらのテーマを総合的にまとめたのが、昭和5年に発表された「大嘗祭の本義」だ。折口はこのなかで、寝具を天孫降臨神話で瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)がくるまって地上に降り立ったとされる「真床覆衾(マドコオフスマ)」に見立て、天皇が布団にくるまる儀式の存在を唱えた。

■折口信夫が指摘した「前天皇との同衾」「性の解放」の儀式の存在

 折口がこの見立てに不可欠な要素として持ち出したのが、「天皇霊」という概念だ。折口によれば、〈天子様の御身体は、魂の容れ物〉であり、天皇はその魂(「天皇霊」)を受け入れることで完全な天皇として「復活」する。すなわち折口は、天皇の権威をほかならぬ「万世一系」の「血筋」ではなく、「肉体を入れ替えて復活をとげる霊魂」という超越的存在の継承によって説明しようとしたのだ。

 折口は「真床覆衾(マドコオフスマ)」「天皇霊」に付随して、「先帝同衾」という説も唱えている。これは前天皇の亡骸と新天皇の肉体というふたつの〈御身体〉を〈一つの衾で覆うて〉、復活のための儀式を行ったというものだ。折口によれば、古代には生死を明確にする意識がなく、平安期でも生死がはっきりしなかったので、「天皇霊」が前の身体に戻るか別の身体に移るかを確認する必要があった。そのための「同衾」だという。

 折口の説はその後、発展されるかたちで、さまざまな論考を生み出した。その一つが「聖婚儀礼」だ。あけすけにいえば、大嘗祭の夜、天皇による性行為が行われるという説である。

 大嘗宮の悠紀・主基両殿に入ることが許される人間は極めて限られる。その内構造は大きく二つにわかれており、御座と神座がある内陣(「室」という)には、天皇以外に「采女(うねめ)」という身の回りの世話をする女官の代表ひとりしか入れない。日本史学者の岡田精司氏らは、この采女を性行為の相手と見た。地方豪族から貢上された采女と「聖婚」することで服従を誓わせる儀礼があったのでないかと推定したのである。

 また、折口は、悠紀・主基両殿以外での性的な儀式の存在を指摘している。大嘗祭において、天皇は悠紀・主基両殿に籠る前に、廻立殿という併設の殿舎で「大忌の御湯」「小忌の御湯」と呼ばれる二度の沐浴=聖水儀礼を行うことで「穢れ」を払うという。史料によれば、この沐浴時に天皇は「天羽衣」を着用したというのだが、折口は〈元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである〉などとして、なんと、天羽衣とフンドシを結びつけた。そして〈物忌みの褌を締めて居る間〉は〈神秘たる霊力をして発散させぬ為〉の〈極端なる禁欲生活〉だとし、その〈解放の時〉が〈性の解放〉であると見立て、こう続けている。

〈天子様の場合には此湯の中の行事の、一切の御用をつとめるのが、処女である。天の羽衣をおぬがせ申し上げるのが、処女の為事なのである。そして羽衣をおとりのけさると、ほんとうの霊力を具へた、尊いお方となる。解放されて、初めて、神格が生じるのである。〉(「大嘗祭の本義」)

■平成の大嘗祭でも秘密のうちに執り行われた主紀殿、悠紀殿の儀

 ちなみに、御所には「内掌典」と呼ばれる処女の巫女がおり、その内掌典がこの「大忌の御湯」「小忌の御湯」に立ち会うとされてきた(実際、昭和天皇の代には、本当に若い頃からずっと俗世界と関係を絶った4人の女性が御所に住んでいたが、その後、交代制になった)。

 しかも、ここで指摘しておかなければならないのは、かくも異様な儀式の存在を述べた折口の説を当時、当局が容認していたという事実だ。前述したように、折口が前後に天皇論・大嘗祭論を展開した昭和3年は、大嘗祭の実施年であったと同時に、治安維持法の最高刑が死刑へ改められた年であり、「三・一五事件」と呼ばれる共産党への大弾圧も行われた。

 ところが、折口の説は取締の対象とならなかっただけではなく、当時、国家神道推進の中心人物によって堂々と紹介されてもいる。近代神道の創始者であり、内務省神社局考証課長でもあった宮地直二が東大の神道講座で「天皇霊」論を講義したのである。

 もちろん、大嘗祭に、折口らの主張する秘儀があったとしても、途中からは、実際に性的行為や前天皇との同衾が行われていたわけではなく、模擬儀礼として行われているだけという可能性が高い。

 また、民主主義下で初めて行われた平成の大嘗祭では、海外メディアが秘儀をめぐる報道を繰り広げたことを政府が憂慮。わざわざ宮内庁が事前に会見で「(大嘗祭に)特別な秘儀はなく、特別な御告文にもそのような思想はない」と否定した(ただし、折口が性的儀式の存在を指摘した「大忌の御湯」「小忌の御湯」の儀については、会見で具体的内容について質問がとんだものの、宮内庁は説明を拒否している)。

 しかし、その平成の大嘗祭にしても、大正や昭和の大嘗祭とまったく同じように、長時間、徹底して秘密裏に執り行われたことは事実だ。

■秋篠宮は大嘗祭の“宗教色”を指摘し、国費でまかなうことに疑義

 平成の大嘗祭を取材した元朝日新聞皇室担当記者でジャーナリストの岩井克己氏は、当時のことを〈午後五時過ぎから午後九時過ぎまで約四時間にわたって天皇の悠紀殿の儀が行われたが、殿内での天皇の「秘儀」はもちろん、廻廊を歩む姿も諸役の動きも全く見えない。奏されたという神楽歌など楽部の奏楽もほとんど聞こえず、ただひたすらじっと座って寒さを我慢しただけで終わった〉と振り返っている(「選択」2014年1月号)。

 今回も、殿内での儀式は当然のように非公開にされている。政府は大嘗祭を「国事行為」ではなく「皇室の行事」と位置付けることでお茶を濁すと同時に「公的性格がある」という二枚舌を使う。その費用は宮廷費つまり公費から支出されることにかわりはなく、大嘗祭だけで約24億4000万円が費やされる予定だ。

 むしろ、その宗教性と国民主権・民主主義の“本質的な不和”については、現在の皇室のほうが自覚的ですらある。昨年、秋篠宮文仁親王は誕生日に際した記者会見で、「宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか」などと公に疑義を呈した。

「大嘗祭については、これは皇室の行事として行われるものですし、ある意味の宗教色が強いものになります。私はその宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか、これは平成の時の大嘗祭の時にもそうするべきではないという立場だったわけですけれども、そのころはうんと若かったですし、多少意見を言ったぐらいですけれども。今回も結局、その時を踏襲することになったわけですね。もうそれは決まっているわけです。ただ、私として、やはりこのすっきりしない感じというのは、今でも持っています」

 だが、宮内庁は「聞く耳を持たなかった」という。秋篠宮文仁親王は記者会見で「そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています」とまで踏み込んでいたが、結局、安倍政権は皇室が懸念する「宗教色の強い皇室行事」をなし崩し的に、事実上の国家行事にしてしまった。

 いずれにしても、大嘗祭の宗教性は明らかにもかかわらず、なし崩し的に本番を迎えようとしている。大嘗祭をめぐる国民主権と民主主義、そして政教分離の原則の議論は深まらないままだ。政治権力が天皇と皇室を国家神道に組み入れることで国民を支配した、明治から終戦までの大日本帝国。この国の政府と有権者は、いったい、いつまで“戦中”を引きずるつもりなのだろうか。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html#c13

[近代史3] 天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨 中川隆
30. 中川隆[-14898] koaQ7Jey 2019年11月15日 12:22:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1990]

「大嘗祭」の秘密の儀式とは! 新天皇が寝座のある部屋に一晩こもり…秋篠宮は“宗教色”の強さを指摘し国費支出に異議
https://lite-ra.com/2019/11/post-5090.html


2019.11.14 「大嘗祭」に秘密の儀式が!新天皇が寝座のある部屋に一晩こもり… リテラ

    
    平成の大嘗祭(神社本庁HPより)


 本日14日から15日にかけて、天皇の代替わり儀式のなかで最重視される「大嘗祭」が行われる。大嘗祭は、代替わりした天皇が初めて行う「一世一度」の新嘗祭。その内容の多くは非公開で行われるが、これまでの研究から、その実態は一連の代替わり儀式のなかでもとりわけ宗教色が強いことがわかっている。

 だが、国民主権や政教分離の原則に反する大嘗祭の問題に、安倍政権はまったく触れぬまま進めてきた。いや、テレビなどのマスコミも表層的な解説でお茶を濁すばかりで、正面から大嘗祭を論じることはほとんどない。

 だとすれば、本サイトがその本質をあらためて伝えておく必要があるだろう。

 まず言っておかねばならないことは、大嘗祭の実相は単なる「豊作を祝う農耕儀礼」ではなく、明らかな「宗教儀式」である、ということだ。

 明治新政府がクーデターで幕府を倒した後、日本の政治支配層は「世界で唯一の天皇を中心とした神の国」という思想を国家神道として体系化し、国民支配の基盤にした。その流れで、天皇神格化と国家神道を徹底するために旧皇室典範と登極令をつくり、それまで国民の知らないところでこじんまりと行われていた皇室祭祀を大々的に執り行うようになった。つまり、大嘗祭を大きくクローズアップすること自体が、政治権力の作り上げる「祭政一致」のイメージ装置であったのだ。明治以来の日本政府は、皇室の宗教性を表に出すことで国民の支配に利用したわけである。

 しかも、だ。大嘗祭は、新たな天皇が皇祖神とされる天照大神(アマテラスオオミカミ)らに穀物を供え、新天皇自らも口にすることで豊穣と国民の安寧を祈る儀式と説明され、半年以上前から当日にかけて、多岐にわたる儀礼が執り行われる。だが、そのなかには具体的な内容がまったく明かされていない儀式がある。

 それが、これまでの大嘗祭研究で注目されてきた、霊的・性的な意味合いをもつ“秘密の儀式=秘儀”の存在である。

 本祭の夜、新天皇が大嘗宮の悠紀殿および主基殿に籠ってなされる儀式のことだ。一般参列者はもちろん報道関係も完全にシャットアウトされたなか、天皇は11月14日夕方から翌15日未明まで、ふたつの殿の内陣に合計8時間にわたって引きこもる。

 このとき、新天皇は供えた新稲をアマテラスと一緒に食す〈共食〉の儀を行うと説明されるが、この共食の儀は、悠紀殿と主基殿で二度繰り返されることを除けば、毎年の新嘗祭と同じだ。しかし、それではどうして大嘗祭が特別な皇位継承儀礼であるかの説明がつかない。

 そして着目されたのが、内陣の構造だ。両殿内部には天皇と神の席がしつらえられており、ここで対座して〈共食〉をすることになっている。ところが、これが中心儀礼の割には部屋全体から見ると片隅に追いやられており、内陣の中心・大部分を占めるのは八重畳(やえだたみ)の寝座なのだ。そしてこの寝座を使って〈秘儀〉が行われている、というのが最も有力な説として浮上してきたのである。

 言っておくが、寝座を使った秘儀の存在は、都市伝説として語られているわけではない。神道や歴史学の分野でも本格的に議論されてきたものだ。その先鞭をつけたのが、民俗学の権威で、戦前は国家神道の強化にも多大な影響を与えた折口信夫である。

 折口は大嘗祭がおこなわれた昭和3年の前後にかけて、自身の天皇論と大嘗祭に関する論考を積み上げていった。それらのテーマを総合的にまとめたのが、昭和5年に発表された「大嘗祭の本義」だ。折口はこのなかで、寝具を天孫降臨神話で瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)がくるまって地上に降り立ったとされる「真床覆衾(マドコオフスマ)」に見立て、天皇が布団にくるまる儀式の存在を唱えた。

■折口信夫が指摘した「前天皇との同衾」「性の解放」の儀式の存在

 折口がこの見立てに不可欠な要素として持ち出したのが、「天皇霊」という概念だ。折口によれば、〈天子様の御身体は、魂の容れ物〉であり、天皇はその魂(「天皇霊」)を受け入れることで完全な天皇として「復活」する。すなわち折口は、天皇の権威をほかならぬ「万世一系」の「血筋」ではなく、「肉体を入れ替えて復活をとげる霊魂」という超越的存在の継承によって説明しようとしたのだ。

 折口は「真床覆衾(マドコオフスマ)」「天皇霊」に付随して、「先帝同衾」という説も唱えている。これは前天皇の亡骸と新天皇の肉体というふたつの〈御身体〉を〈一つの衾で覆うて〉、復活のための儀式を行ったというものだ。折口によれば、古代には生死を明確にする意識がなく、平安期でも生死がはっきりしなかったので、「天皇霊」が前の身体に戻るか別の身体に移るかを確認する必要があった。そのための「同衾」だという。

 折口の説はその後、発展されるかたちで、さまざまな論考を生み出した。その一つが「聖婚儀礼」だ。あけすけにいえば、大嘗祭の夜、天皇による性行為が行われるという説である。

 大嘗宮の悠紀・主基両殿に入ることが許される人間は極めて限られる。その内構造は大きく二つにわかれており、御座と神座がある内陣(「室」という)には、天皇以外に「采女(うねめ)」という身の回りの世話をする女官の代表ひとりしか入れない。日本史学者の岡田精司氏らは、この采女を性行為の相手と見た。地方豪族から貢上された采女と「聖婚」することで服従を誓わせる儀礼があったのでないかと推定したのである。

 また、折口は、悠紀・主基両殿以外での性的な儀式の存在を指摘している。大嘗祭において、天皇は悠紀・主基両殿に籠る前に、廻立殿という併設の殿舎で「大忌の御湯」「小忌の御湯」と呼ばれる二度の沐浴=聖水儀礼を行うことで「穢れ」を払うという。史料によれば、この沐浴時に天皇は「天羽衣」を着用したというのだが、折口は〈元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである〉などとして、なんと、天羽衣とフンドシを結びつけた。そして〈物忌みの褌を締めて居る間〉は〈神秘たる霊力をして発散させぬ為〉の〈極端なる禁欲生活〉だとし、その〈解放の時〉が〈性の解放〉であると見立て、こう続けている。

〈天子様の場合には此湯の中の行事の、一切の御用をつとめるのが、処女である。天の羽衣をおぬがせ申し上げるのが、処女の為事なのである。そして羽衣をおとりのけさると、ほんとうの霊力を具へた、尊いお方となる。解放されて、初めて、神格が生じるのである。〉(「大嘗祭の本義」)

■平成の大嘗祭でも秘密のうちに執り行われた主紀殿、悠紀殿の儀

 ちなみに、御所には「内掌典」と呼ばれる処女の巫女がおり、その内掌典がこの「大忌の御湯」「小忌の御湯」に立ち会うとされてきた(実際、昭和天皇の代には、本当に若い頃からずっと俗世界と関係を絶った4人の女性が御所に住んでいたが、その後、交代制になった)。

 しかも、ここで指摘しておかなければならないのは、かくも異様な儀式の存在を述べた折口の説を当時、当局が容認していたという事実だ。前述したように、折口が前後に天皇論・大嘗祭論を展開した昭和3年は、大嘗祭の実施年であったと同時に、治安維持法の最高刑が死刑へ改められた年であり、「三・一五事件」と呼ばれる共産党への大弾圧も行われた。

 ところが、折口の説は取締の対象とならなかっただけではなく、当時、国家神道推進の中心人物によって堂々と紹介されてもいる。近代神道の創始者であり、内務省神社局考証課長でもあった宮地直二が東大の神道講座で「天皇霊」論を講義したのである。

 もちろん、大嘗祭に、折口らの主張する秘儀があったとしても、途中からは、実際に性的行為や前天皇との同衾が行われていたわけではなく、模擬儀礼として行われているだけという可能性が高い。

 また、民主主義下で初めて行われた平成の大嘗祭では、海外メディアが秘儀をめぐる報道を繰り広げたことを政府が憂慮。わざわざ宮内庁が事前に会見で「(大嘗祭に)特別な秘儀はなく、特別な御告文にもそのような思想はない」と否定した(ただし、折口が性的儀式の存在を指摘した「大忌の御湯」「小忌の御湯」の儀については、会見で具体的内容について質問がとんだものの、宮内庁は説明を拒否している)。

 しかし、その平成の大嘗祭にしても、大正や昭和の大嘗祭とまったく同じように、長時間、徹底して秘密裏に執り行われたことは事実だ。

■秋篠宮は大嘗祭の“宗教色”を指摘し、国費でまかなうことに疑義

 平成の大嘗祭を取材した元朝日新聞皇室担当記者でジャーナリストの岩井克己氏は、当時のことを〈午後五時過ぎから午後九時過ぎまで約四時間にわたって天皇の悠紀殿の儀が行われたが、殿内での天皇の「秘儀」はもちろん、廻廊を歩む姿も諸役の動きも全く見えない。奏されたという神楽歌など楽部の奏楽もほとんど聞こえず、ただひたすらじっと座って寒さを我慢しただけで終わった〉と振り返っている(「選択」2014年1月号)。

 今回も、殿内での儀式は当然のように非公開にされている。政府は大嘗祭を「国事行為」ではなく「皇室の行事」と位置付けることでお茶を濁すと同時に「公的性格がある」という二枚舌を使う。その費用は宮廷費つまり公費から支出されることにかわりはなく、大嘗祭だけで約24億4000万円が費やされる予定だ。

 むしろ、その宗教性と国民主権・民主主義の“本質的な不和”については、現在の皇室のほうが自覚的ですらある。昨年、秋篠宮文仁親王は誕生日に際した記者会見で、「宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか」などと公に疑義を呈した。

「大嘗祭については、これは皇室の行事として行われるものですし、ある意味の宗教色が強いものになります。私はその宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか、これは平成の時の大嘗祭の時にもそうするべきではないという立場だったわけですけれども、そのころはうんと若かったですし、多少意見を言ったぐらいですけれども。今回も結局、その時を踏襲することになったわけですね。もうそれは決まっているわけです。ただ、私として、やはりこのすっきりしない感じというのは、今でも持っています」

 だが、宮内庁は「聞く耳を持たなかった」という。秋篠宮文仁親王は記者会見で「そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています」とまで踏み込んでいたが、結局、安倍政権は皇室が懸念する「宗教色の強い皇室行事」をなし崩し的に、事実上の国家行事にしてしまった。

 いずれにしても、大嘗祭の宗教性は明らかにもかかわらず、なし崩し的に本番を迎えようとしている。大嘗祭をめぐる国民主権と民主主義、そして政教分離の原則の議論は深まらないままだ。政治権力が天皇と皇室を国家神道に組み入れることで国民を支配した、明治から終戦までの大日本帝国。この国の政府と有権者は、いったい、いつまで“戦中”を引きずるつもりなのだろうか。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html#c30

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
41. 中川隆[-14897] koaQ7Jey 2019年11月15日 12:34:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1989]
石川清隆コラム
俗物根性(Пошлость)と芸術に対する「冷笑」
https://kiyotaka-ishikawa-law.com/column/27.html

1.注解のほうが交響曲そのものよりも重要だと考えている人々 (注1)

最近話題の佐村河内という被爆2世で聴覚障害がある人物の作とされていた曲には、実はゴースト・ライターがいたという。

何曲か聞いたことがあるが「広島」と題された曲はマーラーの交響曲第2番第5楽章をベースにした習作的作品かと思っていた。「佐村河内の作品」群は、新垣という人の作品だという。音楽まがいの「音楽」というのは数あるが、これらの作品群は音楽的に優れたものと思う。なんでこのように作者をたがえて「お出まし」にならなければいけなかったのだろうか…。

世の中にはアイドル歌手やタレントが自伝や本を出すとき、ゴースト・ライターに書いてもらうことは良くあるといわれ、ゴースト・ライター「専門家」もいる。

今回のは、質的によいものであっても、被爆二世が作曲した「HIROSHIMA」とか「耳が聞こえないハンディを乗り越えて努力の末に作品を完成させた」、東日本大震災をテーマにした「レクイエム」とかいうふれこみで売ろうとしたのだろう。
音楽作品の内容、完成度でなく、何か話題性、逸話を造り上げて、良い物でも、まがい物でも「売らんかな」の音楽業界の商業主義的体質、話題性を『付加価値』とする芸術とその鑑賞者に対する「冷笑的」な傾向が見え隠れします。

作曲家ショスタコーヴィチが「生活の為なのだとそっと言われるところに、すべての悲劇が発生する。」として知人から聞いた面白い話を紹介している。

「それこそドストエフスキーの小説に出てくるような素晴らしい光景であった。二人の「共作者」が便所で落ち会う。一人は相手に金をつかませ、もう一人は相手に高潔さを主題としたいつもの歌を手渡す。そして陰謀を隠すために、便器に勢いよく水を流す。このように崇高で詩的な状況のもとでいわば国民の道徳水準の向上を訴える価値のある新しい作品が生まれるのである。」

それを咎めると「わたしの相棒はきちんとかなりの金を支払ってくれている。ほかの人たちからの注文も受けなければならないのだ。だがそのおかげで生きてゆけるのだから、彼に感謝している。だからきみを中傷好きな人だと吹聴してやる。」 (注2)

と言われたそうです。

2.「革命」という"勇ましい"副題(交響曲第5番)

このショスタコーヴィチの作品で有名な交響曲第5番 (注3) がありますが、これに「革命」とかいう副題をレコード会社が勝手につけて売り出していたのは我が国だけ。

この曲は、現在では、感情的な諸相がかなり複雑な内容を含んでいる曲であることは広く理解されていますが、初演当時「フィナーレでショスタコーヴィッチは新しい創造的手段を見つけ出し、音の壮大さ、雄大さを生み出している。満場が立ちあがる。満場は喜びと幸福感にとらわれる」 (注4) とか褒められて、社会主義リアリズムを代表する交響曲とされて世界中に喧伝されていました。

この曲の最終部分、速度指定はかなりゆったりとしているのですが、アメリカの指揮者バーンスタインは1959年、ソ連に演奏旅行に行った時、この交響曲第5番の演奏で第4楽章のコーダのテンポ(開始部も早い)を倍以上の4分音符=200ほどの超快速で演奏しました。するとかなり軽い諧謔的なおちょくった演奏になるのですが、当時のソ連共産党関係者は、よく分からずにこれを明るい"勝利の凱歌"のように感じてひどく喜んでいたそうです。またバーンスタインが1979年に来日した時の演奏も第4楽章のコーダのテンポも同じくらい速く (注4) 、この曲LPレコードに「革命」とかいう副題が勝手につけられたのはこの前後でしょうか。

当時、ショスタコーヴィチの曲のレコードを買う人の多くは、この曲の最後に「「勝利の行進」を聴くのだ」とか確信を持った人が多かったのかもしれません。このような人たちを満足させるために「革命」とかいう副題をレコードジャケットの帯に付けて売ろうとしたのだと思います。

まあ聞く方も、今ではどう聞いても軽薄で諧謔的な演奏に対し、「気迫溢れる、逞しく勇ましい「革命」を聴かせてくれた」とか「光り輝く圧倒的な勝利を告げるフィナーレまで熱く激しく聴かせてくれた」とか感激しちゃったり。 一部の音楽評論家などが、「うわっすべり的なから騒ぎ」とか書かないまでも速度指定の問題などを書くと、「これだけ演奏が燃えているのに、この批評からはこの凄い演奏に対する熱が感じられない!」とか非難される始末でした…。 (注5)

どうしてこのような「冷笑的態度」で「革命」とかいう副題 (注6) をつけて付加価値を付けられるのでしょうか。

亡命ロシア人の作家ウラジミール・ナボコフは「俗物は感動させること感動させられることを好み、その結果として欺瞞の世界、騙し合いの世界が彼によって彼の周囲に形成されるのである。」 (注7) という。

ショスタコーヴィチは革命後、困窮して「食うためならどんないまわしい行為でも、わたしはしてみせる」と書いたチニャコフという詩人を例に挙げ、「重要なのは食べることであり生きている間はできるだけ甘い生活を送りたいというのである。これは冷笑的な心理と呼ぶだけでは不十分で刑事犯の心理である。わたしの周囲には無数のチニャコフたちがいた。才能のある者もいればさほど才能のない者もいたが。しかし彼らは協力して仕事に励んでいた。彼らはわが国の芸術を冷笑的なものに変えようと努めその仕事を上首尾に成しとげたのであった。」 (注8) と述べています。
チニャコフは、街に立ち「詩人」と書いたボール箱を首から胸に吊るし、通行人から金を恵んでもらいその金で、高級レストランで飲食し、翌日はまた街角に立っていたという。

3.ゴーゴリ『外套』、冷笑的なまなざしでない「不条理」なもの

「貧しい下級官吏がなんとか外套を新調する。外套は生涯の夢になる。ところが、その外套を最初に着た夜に、暗い街区で外套を剥ぎとられて、悲嘆のあまりに死んでしまう。

夜な夜な街区をうろつく外套を着た幽霊が出る。そして幽霊が高慢ちきな上司の外套を剥ぎとってしまう…。」

この作品を、ゴーゴリが単に精神異常をきたして「冷笑して」いるとか、いや、「虐げられる弱者との主題を設定し、ゴーゴリが読者に「人道的な同情を求めている」と読むべきとかいろいろな議論があります。

ナボコフは「ロシアには気取った俗物根性を指す特殊な名詞ポーシュロスチというのがある。屑であることが誰の目にも明らかな対象を指すだけではなく、むしろ偽りの重要性、偽りの美、偽りの知恵、偽りの魅力を指す。何かにポーシュロスチというのは、美学的判断であるばかりか、道徳的弾劾でもある。真なるもの、善なるものは、決してポーシュロスチにはなり得ない。ポーシュロスチは文明の虚飾を前提とするからである。」という (注9) 。

ナボコフはこの主人公の下級役人は「不条理」な現実の精神を体現している「亡霊」だと指摘し、「何かがひどく間違っていて、すべての人間は軽度の狂人であり、自分たちの目には非常に重要と見える仕事に従事している一方、不条理なほど論理的な一つの力が人間たちを空しい仕事に縛り付けている――これがこの物語の本当の"メッセージ"である」 (注10) と結論付けている。

 このように『外套』の主題をとらえて、「身にそぐわない衣」といえば、ゴーゴリは、シェイクスピアの一節を読んでいたのかもしれませんね。王位を奪い暴君と化したマクベスに対し、シェイクスピアは貴族ケイスネスにこう語らしている。 「いまこそ彼はその王という称号がだぶだぶで身体(み)にそぐわくことを感じているのだ。あたかも巨人の衣を盗んだ侏儒(小人)のこそ泥のように…」 (注11)

4.ゴーゴリの『鼻』は?

では、『鼻』は…。

「正気の沙汰とは思えない奇妙きてれつな出来事、グロテスクな人物、爆発する哄笑、瑣末な細部への執拗なこだわりと幻想的ヴィジョンのごったまぜ」 (注12) という解釈もあるのはゴーゴリの『鼻』です。

ナブコフは小説『鼻』について多くを語りませんが、「ゴーゴリにとってのローマは北国に拒まれた良好な健康状態を暫のあいだは保っていられた場所だった。イタリアの花々(それについて彼は言った「墓の上におのずと咲き出る花々をわたしは尊敬する」)は 一個の「鼻」に変身したいという激しい欲望で彼を満たした。目や腕や足など他のものは一切要らない。ただ一個の巨大な鼻「ありとあらゆる春の香りを吸いこめるような二つの手桶ほどの大きさの鼻孔をもつ」鼻になりたい。イタリアにいた間ゴーゴリは特に鼻意識が強かった。」 (注13) という。しかしそれ以前にロシアでゴーゴリの書いた『鼻』の不条理は怖いほどです。


ショスタコーヴィチは言う。

「『鼻』は滑稽ではなく恐ろしい物語である。」「鼻のイメージにもなんら滑稽なものはない。鼻がなければその人は人間ではないが鼻のほうはその人がいなくとも人間になれるし、権力者にもなれる。これはけっして誇張ではなくて歴史の証明する真実である。もしもゴーゴリが今日まで生き続けていたならそれ以上のものを目撃したことだろう。今日では、このような鼻が幽霊のように徘徊していて、たとえばわが国の共和国で起こっていることもその意味ではまったく滑稽ではないのである。」 (注14) ショスタコーヴィチは、ゴーゴリのこの小説をヒントに弱冠20歳でオペラ『鼻』作品15を作曲しました。この作品は、このオペラの中で『鼻』が大衆に囲まれてボコボコにされるように批判され40年余、1974年までロシアでは上演されませんでした。

この作品への批判は、まさに"気取った下司"によるものです。
ナブコフはいう。

「俗物は順応主義者つまり自分の仲間に順応する人物であり、そのほかにもう一つの特徴をもつ。すなわち、ニセ理想主義者であり、ニセ慈善家であり、ニセ学者である。欺瞞は真の俗物の最も親しい友人なのだ。「美」「愛」「自然」「真実」といった偉大な言葉は気取った下司に用いられるときすべて仮面になり"囮おとり"になる。」 (注15)

どんな批判であったのか、は当時の批評家 (注16) の批評をそのまま引用したロシア・ソヴィエト音楽研究に従事した井上頼豊の『古典的名著』 (注17) があります。どんなことを言っているかというと…。

この研究者は、「彼は…歌劇『鼻』で形式主義的傾向の頂点に達した」と結論付け、「『鼻』の抽象的な奇抜さはソヴェトの音楽劇になんの足跡も残さなかった。同様の原理に基づいた他の諸作品も同時期にあらわれたが、ショスタコーヴィッチの歌劇のような自然主義の極端まではいっていなかった。」と評しています。"形式主義的傾向"か"自然主義の極端"とかどういう意味か未だに分かりません。書いているご本人もわかっていたのでしょうかね。

そして、「西欧音楽の革新の影響は…彼らは…知らず知らずのうちにロシア楽派の健康な基礎から次第に遠く迷い出て行った。」とプロレタリア音楽の理想を踏み外したんだそうですが、その理由として「新しい作品が現代音楽界を喜ばせたいという事実が、ショスタコーヴィッチの発展を形式主義の方向へ押しやったことは疑いない。」という。

そしてこの偉大な作品を「歌劇はエヌ・ゴーゴリの同名の名高い物語によっているが、そのユーモラスなリアリズムを失って小話の領分におちている。」とまで断言してしまうのです。

もう一つ面白いことは、井上頼豊はこの「ショスタコーヴィッチ」(1957年)でこの作品をこのように、ケチョンケチョンに批判しているのですが、この批評がこのオペラの録音を聴いたり、楽譜、台本を見て書かれた形跡が全くないのです。 楽譜がウイーンで出版されたのが1962年(戦前に海外での演奏の権利を譲渡していた)、ロジェストヴェンスキーがボリショイ劇場地下壕で筆耕本スコアを発見したのが1950年代終わり(ショスタコーヴィチの手元にはスコアは全くなかった)、1970年に演出家がボリショイ劇場で学生たちと試演したときは録音すらなかった…。井上頼豊センセは台本も楽譜も録音も聞かないで「形式主義!」とか書いていたようですね。

そしてその分析がまたブラックジョークのように面白いのです。

ア 台本について

「こんなきちがいじみた寄せ集めの台本が'作曲家に本当の劇的な基礎を与えないのは明らかであろう」と断じています。

「性格の異なった様々の作品を結びあわせることを原則とした台本の構成そのものにもあらわれていた。古典を"編集する"という破壊的な方法」で「台本の構成…そのものが形式主義的でテキストはゴーゴリのいろいろな物語から編集され 『鼻』の話の他に『昔気質の地主たち』『死せる魂』『狂人日記』『タラス・ブリーバ』および『結婚』の抜粋を含み、おまけにドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』からとったスメルシャコフの小歌まで入っている。古典文学のこのような扱い方は論外である。」そうです。

『オペラ鼻』のコワリョーフ(注;鼻のなくなる八等官)の下男の歌は、『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフ(注:カラマーゾフ家の使用人(コック)。私生児で無神論者)の歌「不屈の強さで、・・・私は愛に至った。神は彼女と私を祝福している」から引用したもので原作にはない下男イワンがバラライカを持って歌うシーンのことですね。これをゴーゴリの作品の中にあるドストエフスキー的要素の抽出・演繹で素晴らしいと思うか、つぎはぎと思うかですが…。

イ 音楽については

井上は、「『鼻』を書いているとき、作曲者が歌劇の設計をまるで忘れていたことは明らかである」とし、「彼の注意は、明らかに新しいポリフォニー効果の追求に奪われていたのである。急速な歌と踊りの形は、もっぱら"仮面" だけで仕上げられ、どれもが誇張されて馬鹿らしいものになっている。」

「これは第一にアリアの配列で証明できる。ふつうの意味での旋律の原則はここにはない」「レシタティーフは、時には縮まってふつうの会話になっている。その上ショスタコーヴィッチのレシタティーフは奇妙な、言葉を摸した誇張した抑揚で書かれている。」

「声楽の配置(したがってまた全歌劇の様式)は故意の不自然さと露骨なおどけとがめだっている。」…とか。

ダニール・ジトミルスキーは「不条理な効果は登場人物のまさにイントネーションで表現されている。しかしながら、それらはゴーゴリの実際の音声の原型を風刺的に解釈したものではありません。」「それらはゴーゴリの小説に存在した主要な風刺を排除している。」という。

「ゴーゴリの皮肉を構成するものは、まさに異様な状況とこれに対する普通の対応を並置していることです。小説の語彙は、日常生活で使用される語彙に極めて近い。オペラの語彙については、それがほぼ完全にパロディです。このパロディは特徴として、ゴーゴリが使用したかなり正確な本来の標準(の語彙の意味)とのすべての関係を失うほどラジカルである。不条理な効果は登場人物のまさにイントネーションで表現されている。しかし、それらはゴーゴリの実際の音声の原型を風刺的に解釈したものではありません。多くの場合、これらは作曲家自身によって発明された音楽的「知的障害」だったのではなく、彼の思考の中で、最良の方法で、登場人物の不条理を表現することを意図したものだ。」

「音楽を通じて愚かさ、不条理と下品を表現しようとして、彼はパロディ化した元となる主要な情報源との接続を失うことなく、彼はこれらの心理的な形象の音楽的に同等な表現を発見した…。」 (注18)

というが、こちらの方がゴーゴリの「小説」とオペラ「鼻」との関係を的確に分析しているように思います。

井上の評論は、まさにナブコフの言う「俗物性」そのものです。

「俗物根性は単にありふれた思想の寄せ集めというだけではなくていわゆるクリシェすなわち決り文句、色褪せたせた言葉による凡庸な表現を用いることも特徴の1つである。真の俗物はそのような瑣末な通念以外の何ものも所有しない」 (注19)

そして、「科学的社会主義的唯物論」と称する「疑似科学的全体主義的俗物論」から芸術とその鑑賞者を冷笑していたと思います。


(注1):「ショスタコーヴィチの証言」 邦訳初版p.282

(注2):「ショスタコーヴィチの証言」 邦訳初版p.253

(注3):交響曲第5番 ニ短調 作品47は、ショスタコーヴィチの作品の中でも、特に著名なものの一つ、コーダの楽譜の指定テンポは4分音符=92なのにバーシュタインは4分音符=188〜200ほどのスピードで演奏している。

(注4):アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ1883年- 1945年)など。有名なレフ・トルストイとは別人。この交響曲第5番は当時ソ連作家同盟議長アレクセイ・トルストイの論文(ショスタコーヴィチの第5交響曲、1937年、イズべスチァ紙)で絶賛されました。

(注5):日本における西洋音楽受容に関する社会学的分析のための一試論
−− D.Shostakovichの場合−−由谷 裕哉"例えば、『証言』以前の第5交響曲の解説で、典型的な一つに、「プラウダ」に批判(=教育?)されたことによってはじめて、ショスタコーヴィチは第5交響曲のような「真の名作」−−この表現には、もちろん、人民大衆のための、という含意が含まれている−−を作りえた、というレトリックによって、ショスタコーヴィチの創作環境を外的に制約(あるいは抑圧)した党による文化政策が、臆面もなく正統化されていた

(注19)※ちなみに、この頃<1970年代初頭頃>の筆者は、時代的な潮流もあって、新左翼的な運動にある程度のシンパシーを抱いていたが、この議論だけは、その頃からとうてい納得出来ないものであった。

この(注19)はバーンスタイン指揮ニューヨークフィルハーモニックによる一度目のレコード(1959年録音)の日本版ライナーノーツ(CBSソニー)で、執筆者は門馬直美。

(注6):フェイ、邦訳「ある生涯」p.136
「彼は自らの交響曲第五番に'何ら副題をつけたり裏書きしたこともないし'出版された楽譜に副題が記されていたこともない」
「私の創造的回答」(掲載誌不祥)には'作曲家の署名付きで発表され「最終楽章で、最初の3楽章までの悲劇的なまでに緊張した瞬間を人生肯定的で楽観的な構想に溶かし込んでいます」と書かれたりしたが…。

(注7):ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・ナボコフ(Владимир Владимирович Набоков Vladimir Vladimirovich Nabokov,(1899年- 1977年)は、帝政ロシアで生まれ、ケンブリッジ大学へ入学、ロシア革命のために帰国を断念フランスやドイツで亡命者として転々とした生活を送り、1940年にアメリカへ渡ります。アメリカではコーネル大学で教職に就き、ロシア文学を教えました。 『ロシア文学講義』"Lectures on Russian Literature" (1981年)
小笠原豊樹訳、TBSブリタニカ 1982年、「俗物と俗物根性」("Philistines and Philistinism"p.376)

(注8):「ショスタコーヴィチの証言」 邦訳初版p.257

(注9):ナボコフ『ロシア文学講義』p.376

(注10):ナボコフ『ロシア文学講義』p.72〜73

(注11):マクベス 第5幕第2場  スコットランドの貴族ケイネスが暴君「マクベス」を指して言う言葉、(訳は拙訳)

(注12): 光文社新訳文庫: 解説

(注13):ナボコフ『ロシア文学講義』p.57

(注14):「ショスタコーヴィチの証言」 邦訳初版p.300

(注15):「ショスタコーヴィチの証言」 邦訳初版p.257

(注16):マルトゥィノフ「ショスタコーヴィチ・人と作品」 (注17):井上頼豊「ショスタコーヴィチ」1957年 音楽之友社p.30〜

(注18):ジトミルスキー「Shostakovich Reconsidered, ed. Ho&Feofanov1998」(p.438〜439) (注19):ナボコフ『ロシア文学講義』p.376

https://kiyotaka-ishikawa-law.com/column/27.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c41

[リバイバル3] 「お客様」登山遭難者が増加  タクシー代わりに救難ヘリ 中川隆
3. 中川隆[-14896] koaQ7Jey 2019年11月15日 12:39:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1988]
416底名無し沼さん (ワッチョイ e59b-zGDE [120.74.223.25])2019/11/15(金) 12:11:50.96ID:0NH1XvvZ0

救助隊の迷惑なんて気にする必要ない、あれは仕事、職業だ。
嫌なら転職すればいいだけだ。
登山者が死ぬのも自己責任だが、救助隊員が死ぬのも自己責任。
自分で選んだ職だ、救助中に死んだとしても登山者に文句言うな、嫌ならやめろ。
消防隊員が火消すのメンドクセーとか言ってたら、じゃあ辞めろって話だ。
火事起こるたびに税金が税金がとか馬鹿な事も言わない。
税金がどうとか言ってるやつ、まじで馬鹿かよ。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/776.html#c3

[リバイバル3] 登山届空欄 「救助できない」 中川隆
3. 中川隆[-14895] koaQ7Jey 2019年11月15日 12:40:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1987]
416底名無し沼さん (ワッチョイ e59b-zGDE [120.74.223.25])2019/11/15(金) 12:11:50.96ID:0NH1XvvZ0

救助隊の迷惑なんて気にする必要ない、あれは仕事、職業だ。
嫌なら転職すればいいだけだ。
登山者が死ぬのも自己責任だが、救助隊員が死ぬのも自己責任。
自分で選んだ職だ、救助中に死んだとしても登山者に文句言うな、嫌ならやめろ。
消防隊員が火消すのメンドクセーとか言ってたら、じゃあ辞めろって話だ。
火事起こるたびに税金が税金がとか馬鹿な事も言わない。
税金がどうとか言ってるやつ、まじで馬鹿かよ。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/753.html#c3

[リバイバル3] 急増する山岳遭難 中川隆
11. 中川隆[-14894] koaQ7Jey 2019年11月15日 12:40:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1986]
416底名無し沼さん (ワッチョイ e59b-zGDE [120.74.223.25])2019/11/15(金) 12:11:50.96ID:0NH1XvvZ0

救助隊の迷惑なんて気にする必要ない、あれは仕事、職業だ。
嫌なら転職すればいいだけだ。
登山者が死ぬのも自己責任だが、救助隊員が死ぬのも自己責任。
自分で選んだ職だ、救助中に死んだとしても登山者に文句言うな、嫌ならやめろ。
消防隊員が火消すのメンドクセーとか言ってたら、じゃあ辞めろって話だ。
火事起こるたびに税金が税金がとか馬鹿な事も言わない。
税金がどうとか言ってるやつ、まじで馬鹿かよ。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/792.html#c11

[リバイバル3] 2015年 かぐらスキー場スノボ遭難 雪洞に2晩ビバークして奇跡の帰還 _ 練子広寿は只者ではない 中川隆
12. 中川隆[-14893] koaQ7Jey 2019年11月15日 12:41:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1985]
416底名無し沼さん (ワッチョイ e59b-zGDE [120.74.223.25])2019/11/15(金) 12:11:50.96ID:0NH1XvvZ0

救助隊の迷惑なんて気にする必要ない、あれは仕事、職業だ。
嫌なら転職すればいいだけだ。
登山者が死ぬのも自己責任だが、救助隊員が死ぬのも自己責任。
自分で選んだ職だ、救助中に死んだとしても登山者に文句言うな、嫌ならやめろ。
消防隊員が火消すのメンドクセーとか言ってたら、じゃあ辞めろって話だ。
火事起こるたびに税金が税金がとか馬鹿な事も言わない。
税金がどうとか言ってるやつ、まじで馬鹿かよ。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/718.html#c12

[リバイバル3] 中川隆 _ オーディオ関係投稿リンク 中川隆
211. 2019年11月15日 13:47:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1984]
ヒューズも重要な「音質改善」のアイテム
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1018.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/451.html#c211
[近代史3] 日本人のルサンチマンは公務員に向かう 中川隆
1. 中川隆[-14892] koaQ7Jey 2019年11月15日 16:59:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1983]

2019年11月15日
上級国民は実在するか? 交通事故で元官僚は逮捕されず一般人は逮捕される

周囲の捜査官の態度も通常の交通事故容疑者とはまったく違うように見える


画像引用:https://daishi-shirokuma.com/wp-content/uploads/2019/11/%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%A4%E3%82%99%E3%81%8B%EF%BC%94.png

上級国民は実在するか?

2019年4月19日に池袋の交差点で暴走自動車が赤信号を無視して横断中の母子に突っ込んだ事故をきっかけに「上級国民」という言葉が流行しました。

こうした例では普通は現行犯逮捕され長期間拘束されるのに、この容疑者は逮捕されず7か月後の現在も起訴されていない。

多くの人が不自然さを感じ、警察が逮捕しない理由は容疑者が元通産相の飯塚幸三だからだと指摘されました。


飯塚幸三は事故時87歳で元通商産業省技官の官僚、現在の経産省と違って昭和の通産省は絶大な権力とカネを握っていました。

省庁の「技官」という役職はそれほど高い地位ではなく、局長以上に昇進することは少ないとされている。

官僚の最高峰は事務次官だがそこまで行くほどのエリートではなく、次官のキャリアに対して技官を「準キャリア」と呼んだりする。


上級国民の特別待遇を感じたのは逮捕されなかった他に、実名報道されず、容疑者ではなくマスコミは揃って「元院長」と呼んだからです。

元院長というのは旧通産省・工業技術院の院長を務めたからだが、果たして一般人だったらマスコミが実名を隠して「元店長」とか「元会社員」と呼ぶかは甚だ疑問です。

マスコミは犯人が在日韓国人の場合、民団や総連などの圧力を警戒して匿名報道するのは周知の事実で圧力にとても弱い。


またマスコミは省庁と癒着関係にあり、関連省庁に絶縁されるとニュース報道ができなくなります。

故に新聞やテレビが政治家を叩くことはあっても、絶対に官僚を叩いてはならないのが暗黙のルールになっている。

マスコミの官僚忖度は確実にあったが、警察による官僚優遇は実際にあったのでしょうか。

警察による官僚優遇はあったか?

事件を取り調べた警視庁によると、交通事故で逮捕しないのは普通の事で、高齢で逃亡の恐れがないのも逮捕しない理由だった。

警察は交通事故の検挙数を公表しているが、逮捕したかしなかったかの統計は見つからなかった。

交通事故後に逮捕されるかされないかで処遇は大きく違い、今回のような被害者が多数の重大事故では長期間の拘留が予想されます。


拘留期限一杯の20日間留置場か拘置所に入れられて連日取り調べを受け、捜査官からかなり強く脅される場合もある。

20日間拘束され面会以外は外部の人に会えないのはかなりの苦痛で、この状況から逃れたいが為に自白する人も多い。

飯塚幸三は事故で自身も負傷し入院したが、現行犯逮捕されなかったのはこの入院によるところが大きい。


事故発生は4月19日で退院は5月18日なのでちょうど一か月後、なにやら時間調整の気配がする入院でした。

元官僚で大企業や特殊法人に天下りを繰り返した容疑者には、当然優秀な弁護士がついていて、逮捕されないような工作をしたでしょう。

1か月という不必要な入院も逮捕を防ぐ手段だし、逮捕後に事情聴取や現場検証しかされていないのも弁護士の手腕と考えられる。


腕のいい弁護士には交通事故の逮捕を防ぐ手段が色々とあり、検察官や裁判所に勾留しないように申し入れをする。

さらに拘留したら不当逮捕での告訴を仄めかしたり、拘留されたら勾留を争う手続き(準抗告や勾留執行停止申立、勾留理由開示請求等)もできる。

これらは普通の交通事故加害者は思いつかず、普通程度の弁護士は逮捕を防ぐまではやってくれない。


たとえ起訴され有罪になっても最長で3年程度、それも執行猶予付きの事実上無罪判決が出る可能性が高い。

ここでも弁護士は高齢である事や健康不安、今までの社会貢献などを主張して最悪でも執行猶予を獲得しようとする。

飯塚幸三を裁く裁判官もまた「官僚仲間」であり、官僚の世界では官僚仲間をかばう文化が存在する。


結局上級国民だから逮捕しないわけではないが、良い弁護士を雇うお金や縁故があれば、逮捕されないようにすることはできる。

一般の事故加害者はすぐ逮捕されてしまうが、有能な弁護士を雇える人は不起訴にしたり逮捕を防いだりできる。

警察の捜査や裁判でこうした有利不利が生ずるのは事実なので、それを特権と言うなら存在すると言える。
http://www.thutmosev.com/archives/81477095.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/713.html#c1

[近代史3] 天下りをやらせて文科省をクビになった前川喜平が騒いでいる理由は「自分の方が総理大臣より身分が上だ」という事 中川隆
7. 中川隆[-14891] koaQ7Jey 2019年11月15日 16:59:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1982]

2019年11月15日
上級国民は実在するか? 交通事故で元官僚は逮捕されず一般人は逮捕される

周囲の捜査官の態度も通常の交通事故容疑者とはまったく違うように見える


画像引用:https://daishi-shirokuma.com/wp-content/uploads/2019/11/%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%A4%E3%82%99%E3%81%8B%EF%BC%94.png

上級国民は実在するか?

2019年4月19日に池袋の交差点で暴走自動車が赤信号を無視して横断中の母子に突っ込んだ事故をきっかけに「上級国民」という言葉が流行しました。

こうした例では普通は現行犯逮捕され長期間拘束されるのに、この容疑者は逮捕されず7か月後の現在も起訴されていない。

多くの人が不自然さを感じ、警察が逮捕しない理由は容疑者が元通産相の飯塚幸三だからだと指摘されました。


飯塚幸三は事故時87歳で元通商産業省技官の官僚、現在の経産省と違って昭和の通産省は絶大な権力とカネを握っていました。

省庁の「技官」という役職はそれほど高い地位ではなく、局長以上に昇進することは少ないとされている。

官僚の最高峰は事務次官だがそこまで行くほどのエリートではなく、次官のキャリアに対して技官を「準キャリア」と呼んだりする。


上級国民の特別待遇を感じたのは逮捕されなかった他に、実名報道されず、容疑者ではなくマスコミは揃って「元院長」と呼んだからです。

元院長というのは旧通産省・工業技術院の院長を務めたからだが、果たして一般人だったらマスコミが実名を隠して「元店長」とか「元会社員」と呼ぶかは甚だ疑問です。

マスコミは犯人が在日韓国人の場合、民団や総連などの圧力を警戒して匿名報道するのは周知の事実で圧力にとても弱い。


またマスコミは省庁と癒着関係にあり、関連省庁に絶縁されるとニュース報道ができなくなります。

故に新聞やテレビが政治家を叩くことはあっても、絶対に官僚を叩いてはならないのが暗黙のルールになっている。

マスコミの官僚忖度は確実にあったが、警察による官僚優遇は実際にあったのでしょうか。

警察による官僚優遇はあったか?

事件を取り調べた警視庁によると、交通事故で逮捕しないのは普通の事で、高齢で逃亡の恐れがないのも逮捕しない理由だった。

警察は交通事故の検挙数を公表しているが、逮捕したかしなかったかの統計は見つからなかった。

交通事故後に逮捕されるかされないかで処遇は大きく違い、今回のような被害者が多数の重大事故では長期間の拘留が予想されます。


拘留期限一杯の20日間留置場か拘置所に入れられて連日取り調べを受け、捜査官からかなり強く脅される場合もある。

20日間拘束され面会以外は外部の人に会えないのはかなりの苦痛で、この状況から逃れたいが為に自白する人も多い。

飯塚幸三は事故で自身も負傷し入院したが、現行犯逮捕されなかったのはこの入院によるところが大きい。


事故発生は4月19日で退院は5月18日なのでちょうど一か月後、なにやら時間調整の気配がする入院でした。

元官僚で大企業や特殊法人に天下りを繰り返した容疑者には、当然優秀な弁護士がついていて、逮捕されないような工作をしたでしょう。

1か月という不必要な入院も逮捕を防ぐ手段だし、逮捕後に事情聴取や現場検証しかされていないのも弁護士の手腕と考えられる。


腕のいい弁護士には交通事故の逮捕を防ぐ手段が色々とあり、検察官や裁判所に勾留しないように申し入れをする。

さらに拘留したら不当逮捕での告訴を仄めかしたり、拘留されたら勾留を争う手続き(準抗告や勾留執行停止申立、勾留理由開示請求等)もできる。

これらは普通の交通事故加害者は思いつかず、普通程度の弁護士は逮捕を防ぐまではやってくれない。


たとえ起訴され有罪になっても最長で3年程度、それも執行猶予付きの事実上無罪判決が出る可能性が高い。

ここでも弁護士は高齢である事や健康不安、今までの社会貢献などを主張して最悪でも執行猶予を獲得しようとする。

飯塚幸三を裁く裁判官もまた「官僚仲間」であり、官僚の世界では官僚仲間をかばう文化が存在する。


結局上級国民だから逮捕しないわけではないが、良い弁護士を雇うお金や縁故があれば、逮捕されないようにすることはできる。

一般の事故加害者はすぐ逮捕されてしまうが、有能な弁護士を雇える人は不起訴にしたり逮捕を防いだりできる。

警察の捜査や裁判でこうした有利不利が生ずるのは事実なので、それを特権と言うなら存在すると言える。
http://www.thutmosev.com/archives/81477095.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/150.html#c7

[近代史3] DNA解析の限界/実は単品ではあまり役にたたないという話 中川隆
2. 中川隆[-14890] koaQ7Jey 2019年11月16日 07:53:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1981]

2018年11月25日
文化変容・継続と遺伝的構成の関係
https://sicambre.at.webry.info/201811/article_49.html


 古代DNA解析が飛躍的に発展していくなか、次第に明らかになってきたのは、文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は一様ではない、ということです。この問題については、以前にも農耕の起源と拡散との関連で述べました(関連記事)。文化変容が、時には置換とも言えるような、その担い手である人類集団の遺伝的構成の大きな変化を反映している場合もあれば、文化変容はおもに文化のみの伝播で、その担い手はさほど変わらない場合もあります。逆に文化的継続は、その担い手の遺伝的構成の継続を反映している場合が多いのでしょうが、そうとは限らないかもしれません。たとえば、ユーラシア東部における中部旧石器時代〜上部旧石器時代にかけての考古学的連続性は、人類集団の遺伝的連続性を反映しているのではなく、外来の人類集団による置換でも起きることかもしれません(関連記事)。まあこれは、種の水準で異なる可能性の高い人類集団間のことなので、以下に述べていく事例とは異なる、と言えるかもしれませんが。

●担い手の置換もしくは遺伝的構成の一定以上の変化による文化変容
 ヨーロッパにおける農耕の拡散はアナトリア半島からの移住民によるものですが、全面的な置換ではなく、在来の狩猟採集民集団と外来の農耕民との交雑が進展していき、全体的には先住の狩猟採集民集団との交雑・同化がゆっくりと進行していったものの、地域によっては交雑・同化が早期に進行した、とされています(関連記事)。ヨーロッパにおいては、青銅器時代にポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の遊牧民集団が大きな文化的・遺伝的変容をもたらした、とされていますが、その度合いは地域により異なり、イベリア半島と中央ヨーロッパでは遺伝的影響が限定的だったのにたいして、ブリテン島ではほぼ全面的な置換が生じたようです(関連記事)。レヴァント南部では、新石器時代から銅器時代を経て青銅器時代へと至る過程で、文化の変容が住民の遺伝的構成の大きな変化を伴っている、と明らかになっています(関連記事)。

●担い手の遺伝的継続を伴う文化変容
 西アジアにおいては、少なくともレヴァント南部・ザグロス・アナトリアの3地域では、農耕社会への移行の担い手は在来の狩猟採集民集団と推測されています(関連記事)。アフリカ北西部でも、少なくとも一部の地域では、狩猟採集社会から農耕社会への移行にさいして担い手の遺伝的構成は大きく変わらなかった、と推測されています(関連記事)。ユーラシア東方草原地帯の牧畜の始まりも、おもに在来集団による文化受容と推測されています(関連記事)。現代日本人であれば、日本の近代化における大きな文化変容と遺伝的継続性の事例をすぐ想起するでしょうか。

●担い手の遺伝的変容・置換と文化の継続
 想定しにくい事例ですが、担い手の置換もしくは遺伝的構成の一定以上の変化による文化変容の事例でも、外来集団による先住民集団の文化の一部の継承は、珍しくなかったと思われます。ここでは、そうした一部の要素ではなく、最重要とも言える言語の継続性を想定しています。バヌアツの現代人の遺伝的構成ではパプア人集団の強い影響が見られますが、言語はオーストロネシア諸語です。最初期のバヌアツ人は遺伝的にはオーストロネシア諸語集団で、パプア人集団の遺伝的影響がほとんど見られません。つまり、バヌアツでは、遺伝的には全面的な置換に近いことが起きたにも関わらず、言語は最初期の住民のものである可能性が高い、というわけです(関連記事)。その理由については不明ですが、他の地域でも同様の事例は想定されます。たとえば縄文時代の日本列島の住民の遺伝的影響は、現代日本人では15%程度と大きくなく、弥生時代以降に置換に近いことが起きた、と言えるかもしれません。しかし、弥生時代以降に日本列島に渡来してきた集団は、一度に大量に移住してきたのではなく、何度かの大きな波はあったとしても、長期にわたる少数の集団で、後に人口増加率で遺伝的影響力を高めていった、と考えられますから、バヌアツの事例からも、言語も含めて縄文時代の文化が、後の時代に強く継承されていった可能性は低くないと思います(関連記事)。もちろん、現代日本語は弥生時代以降に渡来してきた集団の言語が主要な起源となっており、ユーラシア東部では日本語と近縁な言語が消失した、という可能性もじゅうぶん考えられます。文字資料が期待できない以上、この問題の重要な手がかりとなるのは古代DNA解析で、日本列島も含めてユーラシア東部における古代DNA研究の進展が期待されます。またそれにより、中国、とくに華北において、文字文化の継続性と大きな遺伝的変容が明らかになるのではないか、とも予想しています。
https://sicambre.at.webry.info/201811/article_49.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/430.html#c2

[近代史3] DNA解析の限界/実は単品ではあまり役にたたないという話 中川隆
3. 中川隆[-14889] koaQ7Jey 2019年11月16日 07:55:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1980]

2019年11月16日
考古資料から人類集団の遺伝的継続・変容の程度を判断することは難しい
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_31.html


 文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係については、1年近く前(2019年11月25日)にも述べました(関連記事)。その時からこの問題に関していくつか新たな知見を得ることができましたが、私の見解はほとんど変わっておらず、両者の関係は実に多様なので、考古学的研究成果から担い手の人類集団の変容と継続の程度を一概には判断できない、とさらに確信を強めています。そのため、この問題を現時点で再度取り上げる必要はほとんどないのですが、最近のやり取りで、アイヌは「縄文人」の末裔ではない、という言説の根拠として考古資料が持ち出されたので、改めてこの問題について短く触れておきます。

 古代DNA研究が飛躍的に発展していくなか、次第に明らかになってきたのは、文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は一様ではない、ということです。これについては以前の記事で、(1)担い手の置換もしくは遺伝的構成の一定以上の変化による文化変容、(2)担い手の遺伝的継続を伴う文化変容、(3)担い手の遺伝的変容・置換と文化の継続、の3通りに区分して具体例を挙げました。もっとも、これは単純化しすぎた分類だと今では反省しています。とはいっても、これらを的確に再整理して提示できるだけの準備は整っていないのですが、とりあえず、(4)類似した文化が拡大し、拡大先の各地域の人類集団の遺伝的構成が一定以上変容しても、各地域間の遺伝的構成には明確な違いが見られる、という区分を追加で提示しておきます。具体的には、紀元前2750年に始まり、イベリア半島からヨーロッパ西部および中央部に広く拡散した後、紀元前2200〜紀元前1800年に消滅した鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)の担い手においては、イベリア半島とヨーロッパ中央部の集団で遺伝的類似性が限定的にしか認められませんでした(関連記事)。また、鉄器時代にユーラシア内陸部で大きな勢力を有したスキタイも遺伝的には多様だった、と明らかになっています(関連記事)。

 以前の記事の後に当ブログで取り上げた関連事例では、ヒマラヤ地域が(2)によく当てはまりそうです(関連記事)。一方、中国のフェイ人(Hui)の事例(関連記事)は分類が難しく、(1)と(2)の混合と考えています。フェイ人(回族)は遺伝的には多数の人口を有する漢人などアジア東部系と近縁ですが、父系ではユーラシア西部系の影響が見られ、漢人とは異なる多くの文化要素を有しています。フェイ人においては、全体的にアジア東部系の遺伝的継続性が見られるものの、ユーラシア西部に由来する父系の影響も一定以上(約30%)存在し、ユーラシア西部から到来した男性がフェイ人の文化形成に重要な役割を果たした、と考えられます。フェイ人の場合、基本的には集団の強い遺伝的継続性が認められるものの、父系では一定以上の外来要素があり、文化変容に貢献した、と言えそうです。

 このように、文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は多様なので、ある地域の文化変容を単純に集団の遺伝的構成の変容、さらには置換と判断することはできません。これを踏まえて「考古資料から集団置換が起きたか否かを判断するのは容易ではないというかほぼ無理で、古代DNA研究に依拠するしかない」と述べたら、「遺伝子研究では縄文人とアイヌ民族を結びつけることは出来ないということで大変参考になりました」と返信されて、あまりの読解力の低さにうんざりさせられました。

 北海道の時代区分は、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代→擦文時代→アイヌ(ニブタニ)文化期と変遷していき、続縄文時代後期〜擦文時代にかけて、オホーツク文化が併存します。この間の文化変容と「遺伝的証拠」から、アイヌは「(北海道)縄文人」の子孫ではなく、12世紀頃に北海道に到来した、というような言説(関連記事)もネットの一部?では浸透しているようです(アイヌ中世到来説)。もっとも、こうしたアイヌ中世到来説やそれに類する言説を主張する人は、上述のやり取りから窺えるように読解力が低すぎるのではないか、との疑念がますます深まっています。

 それはさておくとして、考古学的には、縄文時代からアイヌ(ニブタニ)文化期、さらには近現代のアイヌにわたる人類集団の連続性を指摘する見解が主流で、アイヌ中世到来説はまともな議論の対象になっていない、と言えるでしょう(関連記事)。また考古資料から、縄文および続縄文文化を継承した擦文文化の側が主体となってオホーツク文化を吸収し、アイヌ(ニブタニ)文化が形成された、との見解も提示されています(関連記事)。アイヌ中世到来説論者に言わせると、こうした評価は適切ではない、ということになるのでしょうが、上述のように文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は一様ではありませんから、置換があったと断定することはとてもできません。もちろん、考古資料だけを根拠に、縄文時代からアイヌ(ニブタニ)文化期までの人類集団の強い遺伝的継続性を断定することもまたできません。もっとも、考古資料も縄文時代からアイヌ(ニブタニ)文化期までの人類集団の強い遺伝的継続性を示唆している、と私は考えていますが。

 古代DNA研究も含めて現時点での遺伝学の研究成果からは(関連記事)、アイヌが「(北海道)縄文人」の強い遺伝的影響を受けている可能性はきわめて高い、と言えそうですが、この問題の解決には古代DNA研究の進展を俟つしかないと思います。ただ、日本列島も含めてユーラシア東部圏の古代DNA研究はヨーロッパを中心とする西部よりもずっと遅れているので、現時点でのヨーロッパと同水準にまで追いつくのには時間がかかりそうです。ただ、古代DNA研究には「帝国主義・植民地主義的性格」が指摘されており、日本でもこの問題が解決されたとはとても言えないでしょう(関連記事)。古代DNA研究の大御所と言えるだろうウィラースレヴ(Eske Willerslev)氏が中心となってのアメリカ大陸先住民集団との信頼関係構築は、日本においても大いに参考になるでしょうが、歴史的経緯が同じというわけではないので、単純に真似ることは難しいかもしれません。古代DNA研究は倫理面でも大きな問題を抱えていますが、それらを克服しての進展が期待されます。
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_31.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/430.html#c3

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
215. 中川隆[-14888] koaQ7Jey 2019年11月16日 10:02:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1979]


米中貿易戦争、合意なら株価暴落か
グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート2019年11月15日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8488

米国株を中心とする世界の株式市場はここ半年ほど米中貿易戦争とイギリスEU離脱が株価にとって最大の問題で、それさえ解決すれば株価が下落する理由はない、という建前のもとで上昇してきた。

建前と言ったのは、それが事実ではないからである。むしろ合意の先を心配する理由が大いにある。ここの読者ならご存知の通り、筆者の言いたいことは米中通商合意自体に株価暴落の原因となるような何かがあるということではない。むしろ投資家であれば一番の関心事である資金の流れの話なのである。金融市場について何も知らない大手メディアとは違い、投資家はそればかり気にしている。

米中貿易戦争とイギリスEU離脱

米国時間11月14日、国家経済会議委員長のカドロー氏は中国との合意に近づいているとの見解を述べた。その他のニュースからも判断すると、米中合意は12月か1月頃に行われる可能性が高そうである。

また、イギリスのEU離脱も12月12日のイギリス議会選挙で2016年の国民投票から長らく続いた議論に結論を出すことになるだろう。

株式市場では目下この2つが注目の的であり、株式市場はこれらが解決されれば株価は上昇しかないと主張するかのように上を向き始めている。以下は米国株のチャートである。

しかし冷静に考えてもらいたいのだが、これらの問題は世界経済に対してどれだけの影響を持つだろうか。片方はアメリカと中国の貿易であり、もう片方はより小さいイギリスという国の貿易にだけ関わる問題である。

これらの問題が重要だというメディアの主張を鵜呑みにしながら、各国のGDPに対して貿易がどの程度の大きさかということを具体的な数字で知っている人がどれだけ居るだろうか? しかし誰もそれを気に留めない。具体的な数値を知りたい人は以下の記事に書いてあるので参考にしてほしい。

•2020年に向けての株式市場の推移予想

いずれにしても、わたしの言いたいのは米中貿易戦争もイギリスEU離脱も金融市場にとっては本当は些細な問題だということである。しかし短期的には市場はそれを口実に動いている。だからその口実がなくなった時の動きが問題となるのである。

米中合意のその後

本物の投資家はそういう些事を気にせず、より大きな影響を与える要因について考えている。一部の国のGDPの一部にしか影響を与えない上記のような問題とは違い、常に株式市場全体に影響を与え続けるものがある。それは金利と流動性(市場に資金がどれだけあるか)である。

2018年、アメリカの中央銀行は利上げと量的引き締めという2つの金融引き締め政策を行っていた。簡単に言えば金融市場から資金を吸い上げていたのである。わたしはアメリカの金融引き締め政策は株価暴落を引き起こすとここに書いたが、中央銀行家は金融引き締めは大した問題ではないと主張していた。

結果、世界同時株安は起こった。その経緯は以下の記事に書いている。

•世界同時株安を予想できた理由と株価下落の原因

中央銀行は今なお去年の株安を米中貿易戦争のせいだと主張しているが、メディアの報道を鵜呑みにせず自分で考える投資家はそれが事実ではないことを知っている。問題は、その株安が本当に収束したのかということである。

中央銀行は自分のせいではないと言いながら金融引き締め政策を撤回したため、金利は下がり、中央銀行が流動性を吸い上げている状況はなくなった。

この状況で考えることは1つである。その措置は世界同時株安を引き起こした流動性の枯渇を解決するために十分だったのだろうか?

その問題を考えるためには、金利の絶対水準を考えるだけでは意味がない。実際に市場がどう反応しているのかを調べることが一番である。

先ず参考になるのは、現在の株高が株価指数だけ釣り上げられて出来たものなのか、それとも市場全体がしっかり上がっているのかということである。先ずはアメリカの主要な株価指数S&P 500のチャートを再掲しよう。

そして次はマイナーな銘柄を纏めた小型株指数Russell 2000のチャートである。

一目瞭然であり、2018年の世界同時株安から回復したのは主要指数に含まれている銘柄だけである。その他の小型株は2018年の高値を奪還できていない。つまり株式市場全体に資金が行き渡っているわけではないのである。

もう1つ基準になるのは、今年に入ってから株価と国債価格が逆相関になっていることである。国債は価格が下がれば金利が上がるように出来ているが、現状は株価が上がればリスクオンで金利も上がる(つまり国債価格は下がる)状態となっている。

債券投資家でなければこの状況の何が悪いのか分からないかもしれないが、流動性の行き渡っている相場では株価と国債価格は同時に上がる。2008年以降の量的緩和による上げ相場とはそういうものだったのである。しかし現状では債券と株式が資金を奪い合っている状況にある。これも1つ流動性が足りていない証拠である。

まとめ

米中貿易戦争とイギリスEU離脱の問題が解決されるとき、株式市場は短期的には上がるだろうが、その後は本当の問題が試されることになる。市場に資金が足りているのかということである。

問題解決は12月か1月になるだろうから、株式市場の頂点までにはまだ時間があることになる。しかし個別株は指数よりも先に天井に近づくものもあり、そうした銘柄は先に売っていっても良いだろう。例えば前回の記事である。

•Teslaの株価が空売り可能圏内に突入

ただ、仮に米中合意の後に株価が下落したとしても、それも実は一番深刻な問題ではない。何故ならば、何か問題が生じた時にはアメリカには金利を下げる余地が残されているからである。

一番の問題は、アメリカが金利を下げ終わった後の話なのである。アメリカは実質的に量的緩和を既に行っているので、利下げ余地を使い果たしてしまえば中央銀行に出来ることはほとんどなくなってしまうのである。

それは量的緩和バブルの本当の終わりになるかもしれない。その話については以下の記事に書いているので、そちらも参考にしてほしい。

•2019年後半以降の株式市場・ドル円の推移動向予想

https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8488

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c215

[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
9. 中川隆[-14887] koaQ7Jey 2019年11月16日 12:56:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1978]
シェーンベルク編曲
チェロ協奏曲(モンのチェンバロ協奏曲による)(1932-1933)

Arnold Schoenberg (after Monn) Concerto for cello and orchestra (1932-33) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kV3mZipNmYQ


Based on Monn's Concerto in D major for harpsichord.

I. Allegro moderato
II. Andante, alla Marcia
III. Tempo di Minuetto.

Performed by Fred Sherry (cello) and the Philharmonia Orchestra conducted by Robert Craft.


▲△▽▼

モン チェンバロ協奏曲の原曲


Matthias Georg Monn-Harpsichord Concerto in D - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=AXKZ76Eaxk0

1, Allegro
2, Andante
3, Tempo di Menuetto

____

GEORG MATTHIAS MONN Concerto for Harpsichord, Strings & BC in D Major - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cWrTiyJR25A


Concerti
La Stagione Frankfurt
-Michael Schneider-



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c9

[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
10. 中川隆[-14886] koaQ7Jey 2019年11月16日 13:18:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1977]

シェーンベルク編曲
チェロ協奏曲ト短調(GEORG MATTHIAS MONN : Concerto for Violoncello, Strings and Basso continuo による)(1912)


Mark Drobinsky, violoncelle M.G.Monn - A. Schonberg Concerto g-moll, Allegro - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9LRIbaZyyX0

https://www.youtube.com/watch?v=PiUcVRCT9fs


▲△▽▼


GEORG MATTHIAS MONN : Concerto for Violoncello, Strings and Basso continuo in G minor の原曲


GEORG MATTHIAS MONN Concerto for Violoncello, Strings and Basso continuo in G minor. - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1gTIXTJ7uLg

Georg Matthias Monn
Concerto for Violoncello, Strings and Basso continuo in G minor
La Stagione Frankfurt

____

Jacqueline du Pre - Monn cello concerto g minor - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=oHiuvbtZ42c
https://www.youtube.com/watch?v=Ja0PO7IarFI

1. Allegro Moderato
2. Adagio
3. Allegro

Jacqueline du Pré, cello
The London Symphony Orchestra
Sir John Barbirolli, conductor
in 1968.

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c10

[リバイバル3] 富士山登山を「ニコ生」中継中に滑落か 救助隊が捜索 中川隆
70. 中川隆[-14885] koaQ7Jey 2019年11月16日 13:54:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1976]

《ライブ配信中に富士山滑落死》アパート大家が語る「47歳無職独身、木造フロなし弁護士浪人生活」
「週刊文春デジタル」編集部 2019/11/16
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8a%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%96%e9%85%8d%e4%bf%a1%e4%b8%ad%e3%81%ab%e5%af%8c%e5%a3%ab%e5%b1%b1%e6%bb%91%e8%90%bd%e6%ad%bb%e3%80%8b%e3%82%a2%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%88%e5%a4%a7%e5%ae%b6%e3%81%8c%e8%aa%9e%e3%82%8b%e3%80%8c47%e6%ad%b3%e7%84%a1%e8%81%b7%e7%8b%ac%e8%ba%ab%e3%80%81%e6%9c%a8%e9%80%a0%e3%83%95%e3%83%ad%e3%81%aa%e3%81%97%e5%bc%81%e8%ad%b7%e5%a3%ab%e6%b5%aa%e4%ba%ba%e7%94%9f%e6%b4%bb%e3%80%8d/ar-BBWPIHj?ocid=ientp


 10月30日、富士山標高3千メートル付近で遺体が発見された事件で、静岡県警は11月12日、遺体の身元を明らかにした。遺体は東京都新宿区西早稲田に住む塩原徹さん(47・無職)。塩原さんは10月28日、富士山での登山の模様をニコニコ動画で配信中に滑落したとみられている。


塩原さんのライブ配信動画より 


「死因は滑落による損傷死、山頂付近から700メートル以上にわたり岩などに激突しながら高速で落下、遺体は男女がわからない程損傷していた」(県警関係者)

 塩原さんは、登山計画書を警察や行政に提出せず、軽装で単独で登山に挑んでいた。思いつきとも捉えられる行動にワイドショーのコメンテーターやネット掲示板では、「山を舐めている」「自業自得」など塩原さんに対して厳しいコメントが続いた。

 塩原さんはなぜ無謀な登山を試み、危険な場所でネット配信を続けたのか。

家賃2万8千円、塩原さんが住んでいたアパートを訪ねた

 塩原さんは新宿区西早稲田の木造アパートで生活をしていた。築50年以上、風呂はなくトイレも共同、一部屋の家賃は2万8千円。定職につかず、親からの仕送りも受けとっていたという。アパートのオーナーに話を聞いた。

「あのアパートは早稲田大学が近いから、40年前はお金がない学生が借りてくれて賑わっていました。だけど、今はほとんど借り手がいなくて、学生が部活の倉庫として利用しています。そんな中、塩原さんは長年部屋を2部屋も借りてくれて、家賃も遅れることなく手渡しで持ってきてました。

 彼は内気で、とても社交的とは言えない性格でした。自分からは何も話そうとしなかった。独り身で、彼女や友達なんかをアパートにつれてきたり、外に飲みに出ることもなかった。通販をよく利用していて、家にいることが多かったという印象です。

 部屋はペットボトルや雑誌といった生活ゴミでかなり散らかっていた。一度、ガスの点検で中に入ったときは足の踏み場もなく、『危険だから片付けてほしい』と注意したこともありました」

 塩原さんのSNSを見ると、司法試験を目指し浪人中だったようだ。塩原さんはニコニコ動画のチャンネル内で「高田馬場法律問題研究所」というコミュニティの代表も務めている。

「たしかに司法研究所みたいなところから書類が郵送で送られてきたり、司法試験の勉強はしているようでした。配信をしていることはまったく知らなかった。事故後、テレビなどに配信の映像が流れていましたが、彼があんなに流暢に話していることにびっくりしました。視聴者からの反応が楽しかったんだと思います。

 ツイッターに大腸ガンを患っていたことを書いていましたが、それも事実です。昨年、3カ月分の家賃を持ってきて、『これから入院する』と話していました。手術もうまくいって、これからってときにあんなことで亡くなってしまって……。ただただ、遠くで暮らすご両親が不憫で仕方ない。ご両親はこれまで息子が心配で、手紙や電話をよこしていたのですが、塩原さんはバツが悪いのか電話にも出なかったようです。病気のときは家にも来ていたのですが、そのときも会わなかったようでした」(同前)

父親は地方の名士、実家を訪ねると……

 塩原さんは愛媛県出身の3人兄弟。父親は某教育機関で教授を務める、いわば地方の名士。母親は学習塾で働いていた。取材班は塩原さんの地元を訪ねた。

「教育熱心なご家庭で、お子さんが進学するにあたり勉強部屋をわざわざ近所のアパートに借りて勉強させていた。徹さんは高校は県内屈指の進学校に進んだ。確かお父さんに影響されてか理系だった。高校卒業後はお子さんの話もしないし、どこで何をされているかは聞かされてない。お子さんのことはなかなか話そうとしないから……」(近隣住民)

 高校の同級生によると、「物静かで目立つ印象がなかった」という。高校卒業後はアメリカに留学し、その後、中央大学に在籍したという。

 だが、40歳を超え、弁護士を目指したが不合格。職もなく独身の塩原さんにとって、唯一の居場所が「ニコ生配信」だった。

「DNA採取といった身元の確認作業のため、11月のはじめ警察の方とともに親御さんが来られたのですが、既に諦めていたようで遺品を整理されていました。『身元が判明したら費用はもちろんお支払いしますのでなかのものは全て処分してください。ご迷惑おかけしてすいません』って気丈にされていました」(前出・アパートオーナー)

 愛媛の実家を訪ねると、母親が肩を落としてこう答えた。

「私たちはネットなど見ていないし、息子が配信などしていることも知らなかった。まだ遺体も会えてなく、葬儀もできていません。仕送りはしていましたが、自立は出来ているものだと思っていました。これ以上は……すみません」

 塩原さんのツイッターには滑落以降、300件以上のコメントが寄せられている。ネット上で繋がっていたと思われる多くの仲間から冥福を祈る言葉が書き込まれていた。

 11月16日21時放送の「直撃!週刊文春ライブ」では、この「富士山滑落死」事故について詳報する。
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8a%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%96%e9%85%8d%e4%bf%a1%e4%b8%ad%e3%81%ab%e5%af%8c%e5%a3%ab%e5%b1%b1%e6%bb%91%e8%90%bd%e6%ad%bb%e3%80%8b%e3%82%a2%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%88%e5%a4%a7%e5%ae%b6%e3%81%8c%e8%aa%9e%e3%82%8b%e3%80%8c47%e6%ad%b3%e7%84%a1%e8%81%b7%e7%8b%ac%e8%ba%ab%e3%80%81%e6%9c%a8%e9%80%a0%e3%83%95%e3%83%ad%e3%81%aa%e3%81%97%e5%bc%81%e8%ad%b7%e5%a3%ab%e6%b5%aa%e4%ba%ba%e7%94%9f%e6%b4%bb%e3%80%8d/ar-BBWPIHj?ocid=ientp


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1012.html#c70

[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
11. 中川隆[-14884] koaQ7Jey 2019年11月16日 14:11:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1975]
Moses und Aron - Arnold Schoenberg - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=NKm_cdlodLQ


»Moses und Aron« (1930-1932, UA 1957), eine unvollendete Oper auf ein Libretto vom Komponisten.

00:00 I. Akt
46:07 Zwischenspiel
48:02 II. Akt

Franz Mazura – Moses
Philip Langridge – Aron
Aage Haugland – Priester
Barbara Bonney – Mädchen
Mira Zakai – Eine Kranke
Daniel Harper – Junger Mann
Thomas Dymit – Der nackte Jüngling
Herbert Wittges – Ein Mann / Der Ephraimit
Kurt Link – Andrer Mann

Chicago Symphony Chorus & Orchestra
Georg Solti, 1984
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c11

[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
12. 中川隆[-14883] koaQ7Jey 2019年11月16日 14:16:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1974]
アーノルド・シェーンベルク モーゼとアロン (1954年 初演)


新・ウィーン楽派の元締めと言えるアーノルド・シェーンベルクが台本を書き、作曲もしたオペラ「モーゼとアロン」です。第2幕までは1932年に完成させ、第3幕は結局は未完に終わった作品。このオペラをご存知のない方でも、旧約聖書にあるモーゼとアロンの兄弟の軋轢の話は、ご存知でしょう。

この「モーゼとアロン」というオペラを、「理解者と協力者の乖離」という観点からみることは、「アラベラ」よりも、はるかに容易ですよね?

何と言っても、アロンはモーゼの言葉を理解していない。しかし、モーゼが受けた神からの言葉を広めるのに当たって最大の協力者である・・それくらいは、簡単に読めること。自分のことや言っている中身を理解していないアロンに頼らないといけないモーゼは、それゆえに苦悩する。

シュトラウスとホフマンスタールの「アラベラ」が、洗練された外観を持ちながら、内容的には悲痛な心情を含んでいる。いや、悲痛な面を持っているのはホフマンスタールの台本だけかな?

それに対し、シェーンベルクの「モーゼとアロン」は、シリアスな外観を持っていますが、ギャグ満載の爆笑オペラなんですね。20世紀のオペラで、これほど笑える作品って、他にあるのかしら?


オペラ「モーゼとアロン」ですが、基本的なストーリーは旧約聖書のモーゼとアロンのエピソードによっています。簡単にまとめると、下記のとおり。


1. モーゼが神から言葉を受ける。

2. その言葉を自分で直接民衆に伝えようと思っても、うまく伝えることができない。

3. だから、言葉を上手に伝える能力を持っている、モーゼの兄のアロンと一緒に活動することになる。

4. アロンは見事にモーゼの言葉を語る。

5. 民衆は、モーゼよりアロンの方を絶賛し、「これぞ!奇跡だ!」

6. 民衆より絶賛を受けたアロンは、「その気」になって、どんどんと民衆を喜ばせる方向に、言葉を変えて行ってしまう。

7. モーゼは「まっ、とりあえずアロンに任せておくか・・・」と、引っ込んでしまう。

8. 民衆の期待に応えたアロンは、乱痴気騒ぎの大集会。

9. こうなると、本来のモーゼの言葉は、どこかに行ってしまう。

10. ここでモーゼが乗り込んできて、

「こらぁ!ええ加減にせんかい!」
「ワシの言葉を忠実に伝えろよ!」


11. アロンは、

「だってぇ・・・だってぇ・・・そもそもアンタが、民衆から離れすぎているのがいけないんじゃないか!」

と反論。


12. モーゼは

「じゃかぁしいんじゃ!最後にはワシの方が勝つんじゃ!」


基本的なあらすじは、こんなところ。いやぁ・・・笑える。

モーゼにとっては、アロンは重要な協力者。しかし、理解者とは言えない。だから、どうしても、このような齟齬が起こってしまう。


さて、このオペラ「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をしたシェーンベルクは、基本的には作曲家。作曲家にとって、親類とも言える身近な存在で、重要な協力者と言えるけど・・・残念なことに、理解者とは、とても言えない存在って、何?

それは演奏家でしょ?

作曲家が作曲した作品を、実際に音にし、多くの人に聞いてもらうに当たって、演奏を本職とする演奏家の協力は、現実的には、不可欠。

しかし、演奏家は、その作品の本当の意味がわからないので、どうしても民衆の好みに合わせてしまう。おまけに音楽家の中でマジョリティーなのは演奏家の側であって作曲家ではない。演奏家は自分たちの常識が、音楽界の常識と思ってしまうわけ。

それに演奏家は直接聴衆と接するので、「結果」が出やすい。それに、演奏家と作曲家ではどちらが、「実際的な力」を持っているのか?

それについては言うまでもないことでしょ?

音楽界の常識は、往々にして演奏家の常識であって、作曲家の常識ではないわけ。演奏家と作曲家が分業して以来、音楽史においては、そんな作曲家と演奏家のぶつかり合いって、よく出てきますよね?

まあ、批評家のような存在は、作曲家にとっては、そもそも理解者でも協力者でもなく単なるオジャマ虫なんだから、扱いがラク。しかし、演奏家は、作曲家にとって必要な協力者であっても、理解者ではない・・・だからこそ扱いが難しいわけ。

作曲家も演奏家も、本来は、同じ音楽の神を父とする兄弟同士なんだから、最初は一緒に行動するけど、方向性の違いから、やがては諍いとなってしまう。

あらまあ!なんとコミカルな悲劇だこと!!

この「モーゼとアロン」というオペラにおいて、モーゼを作曲家、アロンを演奏家としてみると、ツボを押さえたギャグ満載のオペラになるわけ。基本的には、こんな調子。


1. 作曲家が神から霊感を受ける。

2. 作曲家は自分では自分の曲をうまく演奏できない。

3. と言うことで、演奏が本職の演奏家が登場。とりあえず一緒に活動することになる。

4. 演奏家は見事に演奏する。

5. 見事な「演奏」に民衆は感激!

「感動した!これぞ奇跡だ!」


6. 民衆から絶賛されて「その気」になった演奏家は、もともとの作品にどんどんと手を入れ、ますます民衆を喜ばせる方向に向かってしまう。

7. 作曲家は、

「まっ、とりあえず演奏家に任せておくか・・・」

と、引っ込んで、新たな作曲活動。


8. 民衆の絶賛を浴びた演奏家は、大規模な演奏会を主催して、ますます民衆を喜ばせる。

9. そうなると、もともとの作曲家の意図が完全にどこかに行ってしまう。

10. とんでもない状態になっていることに気が付いた作曲家は、演奏家の元に乗り込んできて、

「こらっ!ええ加減にせんかい!

ものには限度というものがあるんじゃ!

楽譜に忠実に演奏しろよ!」


11. 作曲家の立腹に対し、演奏家は

「そもそもアンタの作品が民衆の理解からかけ離れすぎているのが悪いんじゃないか!」

と反論。


12. 演奏家からの反論を受けながら、

「最後に業績が残るのは作曲家の方なんじゃ!」

と締める。


私個人は作曲家でも演奏家でもありませんが、まあ、上記のようなやり取りって、音楽創造の現場では、ありがちなことではないの?

逆に、そんなぶつかり合いもない状態だったら、創造現場とは言えないでしょ?

オペラに限らず作品の解釈に当たっては、一義的ではないでしょう。受け手の様々な解釈も許容される・・・原理的にはそのとおり。

しかし、ここまでツボを押さえているのだから、作曲をした・・・と言うか台本を書いたシェーンベルクが、モーゼ=作曲家、アロン=演奏家 という役割を考えなかったわけがないでしょ?


そもそも、シェーンベルクはウィーンに生まれたユダヤ人ですが、もともとはユダヤ教徒ではありませんでした。もともとはキリスト教徒だったわけ。だからユダヤ教徒歴よりも作曲家歴の方が長いわけ。シェーンベルクは、まずは、作曲家なんですね。

もちろん、このオペラには、旧約聖書におけるユダヤ人の信仰の問題もあるでしょう。ユダヤ人のアイデンティティの問題だってないわけがない。音楽創造現場の問題とユダヤ人の信仰の問題のどっちがメインのテーマなのかは別として、モーゼとアロンというユダヤの有名人が出てくるんだから、信仰の問題がないわけがない。しかし、ユダヤの問題をメインに扱った作品と考えるには、かなり無理がある。

この「モーゼとアロン」というオペラは、どうして、その歌詞がドイツ語なの?

ウィーン生まれのシェーンベルクにしてみれば、ドイツ語はいわば母国語。自分の考えをまとめたり、歌詞を一番書きやすい言語。だからドイツ語でオペラの歌詞を書いた。それはそうでしょう。しかし、ユダヤ人の信仰の問題を主に扱うのなら、どうせならヘブライ語にした方がいいでしょ?

ドイツ語で台本を書いて、後でヘブライ語に翻訳して、それに音楽をつける・・・

この流れでオペラを作っていけば、たとえヘブライ語が母国語でなくても、台本を書き作曲もできるでしょ?

どうせドイツ語のままだって、演奏頻度が高くなるわけではないでしょ?

そもそもユダヤ人の問題を扱うに当たって、ドイツ語なんて、一番微妙な言語でしょ?

むしろドイツ語だけはやめておく・・・そう考えるのが自然じゃないの?

何と言っても、台本を書き始めた1930年代は、ナチスの台頭などがあったわけですからね。ドイツにおけるユダヤ人差別って、身に染みていた頃でしょ?

あるいは、どうせなら、ドイツ語ではなく、英語にする方法だってあるわけですしね。シェーンベルクは後にアメリカに亡命したわけですから、後になってオペラの歌詞を英語に変更するくらいわけがないでしょう。最初の構想はともかく、ドイツ語のままで台本を書き、作曲を進め、後で修正もせずに、そのまま初演を行うということは、明らかにヘンなんですね。初演は1954年で、シェーンベルクはもうお亡くなりになっていましたが、初演までは結構時間もあったわけですし、翻訳作業は人に任せることもできるでしょ?

翻訳作業を協力してくれる人はいっぱいいますよ。よりにもよって、第2次大戦直後に、苦難に満ちたユダヤ人のドラマをドイツ語で歌い上げられても、それこそがお笑いですよ。せめて、英語ヴァージョンを別に用意して、ドイツ語以外でも歌えるようにしておくのがマトモでしょ?

だから、ユダヤの信仰の問題や苦難に満ちたユダヤ人の問題は、決して、このオペラ「モーゼとアロン」のメインのテーマではないわけ。しかし、この「モーゼとアロン」というオペラが、「理解者と協力者の乖離」という一般論、孤高の人と大衆迎合の人との対立、超越的な存在と、現世的な存在の対比。あるいは、音楽創造の現場における「作曲家と演奏家の対立」というテーマから見れば、ドイツ語の歌詞で何の問題もない。

まさにドイツオペラのおなじみの伝統的なテーマであり、「モーゼとアロン」はその変奏に過ぎないわけ。シェーンベルクは台本を書きながら、

「あのヤロー!よくもあの時はオレの作品をムチャクチャに演奏しやがったな!」

と特定の演奏家なり、演奏のシーンを思い出して台本を書いていたのでは?

まあ、台本を書きながら、アタマから湯気が出ているのが簡単に想像できますよ。アロンの歌詞に付けられた多彩な音楽表情には、自分が作曲した作品を演奏される際に、心ならずも「付けられてしまった」トンチンカンな音楽表情が具体的に反映しているのでは?

それこそ作曲しながら、

「あの時は、よくも・・・よくも・・・オレの曲に余計な表情をつけて・・・」

と、髪を掻き毟りながら作曲していたのでは?これはちょっと想像できないけど・・・

まあ、演奏において、多少はトンチンカンな表情もしょうがないところもあるけど、やっぱり限度があるでしょ?

しかし、民衆から絶賛を浴びて「巨匠」の気分になっている演奏家は、どんどんと暴走して行くばかり。しかし、民衆の趣味に合っているがゆえに、ますます民衆から絶賛を浴びる。そうして大規模な演奏会へ!

第2幕の有名な黄金の子牛のシーンおいて、70人の長老たち語る言葉があります。

「人々は至福の境地だが、奇跡が示したのは、酩酊や恍惚がなんたるかということだ。

変わらぬものはいない。皆が高められている、感動せぬものはいない、皆が感動している。

人間の徳が再び力強く目覚めた・・・」


このセリフって、コンサートと言うか演奏家を絶賛する批評の言葉そのものでしょ?

皆さんだって、上記のような批評の文章を読んだことがあるでしょ?

まったく、ツボを押さえまくり。ギャグ満載ですよ。まあ、延々と饗宴が続く黄金の子牛のシーンって、ザルツブルグ・フェスティヴァルのようなものをイメージしているのでは?

だからこそ、モーゼつまり作曲家が、アロンつまり演奏家に「オマエなんて、所詮は、民衆の側じゃないか!」なんて言い渡す。

気持ちが入ったギャグだねぇ・・・

まあ、オペラにおけるモーゼの持っている石版を楽譜にして、アロンが持っている杖を、指揮棒にする・・・そのように演出しても、何の違和感もないでしょ?

シェーンベルクも恨み骨髄だねぇ・・・こりゃ、確かに、晩年でないと発表できませんよ。これほどわかりやすいメタファーなんだから、本来なら誰でもわかるはずなのに・・・


私個人はそんなことを書いてある解説を見たことがありません。まあ、作曲家の方々なら、簡単にわかるんでしょうが、おおっぴらには言えないのかな?

まさに諸般の事情というか大人の事情があるんでしょうね。ちなみに上記の歌詞は、作曲家でもあるピエール・ブーレーズが指揮したCDから取っています。そのCDに添付されている解説書で

「アナタはご自身を、モーゼだと思う?アロンだと思う?」

なんて質問しているインタビューがあります。いやぁ・・・エゲツナイ。

ブーレーズは、当然のこととして、お茶を濁したような回答。

「つーか・・・よりにもよって、このオレに、そんなこと聞くなよ!」

と思ったのでしょうね。シェーンベルクだけでなくブーレーズだって怒っちゃうよ。

もちろん、この作品において、シェーンベルクが単純に、「演奏家への恨み」をオペラにしたわけではないでしょう。自分が神からの霊感を受けて作曲した作品をメチャクチャに演奏する演奏家に向かって、

「勝手にオレの曲に手を入れるなよ!ええ加減にせんかい!このタコ!」

と、心の中で怒鳴っているシェーンベルクに対して、

「タコはオマエだろう!」

そんな言葉も言う人もいるんじゃないの?

たとえばシュテファン・ゲオルゲやライオネル・マリア・リルケ。

ゲオルゲやリルケが、神からの霊感を受けて文学作品にしたのに、それに勝手に音楽をつけたのは、いったい誰?

後から付けられた音楽が、詩人の意に沿ったものなの?

と言うか、リルケなんて挿絵すらいやがりましたよね?

自分の詩に音楽を付けるなんて絶対に容認しないと思うけどなぁ・・・

まあ、デーメルのような三流詩人に音楽を付けるのはともかく、ゲオルゲのような一流の詩に勝手に音楽をつけてはダメでしょ?

音楽を付けた分だけ、「広まりやすい」とは言えますが、それが本当に詩の本質を伝えることに役に立っているの?

そうなんですね!

シェーンベルクは作曲家として、演奏家が勝手につけてしまう不適切な音楽表情に抗議する側、つまりモーゼのような立場であるとともに、作曲に当たって題材とした文学作品の作者から、抗議される側、つまりアロンでもあるわけ。

「ああ!オレもタコだったんだぁ〜!」

これは色々な意味でそのとおり。しかし、まさにアロンのように、

「だってぇ、だってぇ・・・こうすると、みんなにわかってもらいやすいしぃ・・・みんなも喜んでくれているしぃ・・・」

と言わざるを得ない。しかし、本当に民衆にわかってもらえるの?

民衆との間に、共通の認識・・・いわゆる「理解」と言う次元に到達できたの?

表現において、発し手が想定しているとおりに、受け手が理解する・・・そんなことは実にレアケース。

神から霊感を受けて文章を書いて、それに音楽をつけると、最初の霊感からズレてしまう。それを演奏したら、演奏家の理解によって、ますますズレてしまう。

それを一般聴衆がどう聞くの?

もう、とんでもない伝言ゲーム状態。

最初に創作者が受けた神の言葉はどこに行ってしまったの?

最初の意図が伝わらないのなら、表現っていったい何?

「おお!言葉よ、言葉、私に欠けているのはおまえなのだ!」

第2幕最後にあるモーゼの有名なセリフです。


この場合の「欠けている言葉」は、狭義で言うと、まさに演奏能力となる。もう少し一般化すると表現能力というか伝達能力になるわけ。しかし、そのセリフの前の部分

「想像を超える神よ!

語ることはできない意味あまたなる想念よ!」

と言う言葉と組み合わせてみると、別の面も見えてくる。言葉が欠けているのではなく、言葉によって生み出される関係性が欠けている・・・そう言えるわけ。

言葉、あるいは表現によって、発し手と受け手で認識を共有できる。その共有化された認識がモーゼには欠けていて、アロンには備わっている。
いや!

備わっているというより、アロンはそもそも民衆の側なんだから、「見ているもの」も、民衆と共通している。しかし、モーゼは民衆と見ているものが元から違っているわけ。言葉そのものは同じでも、その意味するところが違っている。だから、言語によって関係性が生み出されることはない。

そのような意味で、この「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をした1874年にウィーンに生まれたユダヤ人のシェーンベルクは、言語表現に懐疑のまなざしを向けた「チャンドス卿の手紙」の作者・・・1874年にウィーンに生まれたユダヤ系のホフマンスタールと全く共通しているわけ。そして、その共通性は、

「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」

と言う命題を持つ「論理哲学論考」の作者である哲学者ウィットゲンシュタインと全く共通しています。

「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」

と言うウィトゲンシュタインの言葉と、

「想像を超える神よ!語ることはできない意味あまたなる想念よ!」

というシェーンベルクの言葉って・・・笑っちゃうほどよく似ている。


ウィットゲンシュタインは、1889年にウィーンで産まれたユダヤ人。ちなみに、彼の父親はプロテスタント。母親はカトリックです。

シェーンベルクは前に書いたようにユダヤ人なのに、当初はカトリックで後にプロテスタントに改宗、その後になって、今度はユダヤ教に改宗。

それにホフマンスタールが、ユダヤ系なのにカトリックだったことも・・・ご存知でしょ?

そのようなマイノリティは、コミュニケーションに対する無条件の信頼が、もともとないわけ。表現によって、自分の意図が人々に理解され、関係性が広がっていく・・・とは単純に考えない。もちろん、このようなことは言語の向こうにある心理を読もうとした1856年のウィーンに生まれたユダヤ人フロイトにも見られることでしょ?

言語によって関係性、あるいは相互理解が生み出されないという点においては、

「もし、ライオンが言葉を話せても、言っていることは我々にはわからないだろう。」

というウィットゲンシュタインの「言葉」が見事に語っています。真に創造的な領域では、人の言葉ではなく、神の言葉が支配する。だから表現によって、民衆との間に新たなる関係性が生み出されることはない。

じゃあ、どうして表現するの?

アンタが言うように語らないのが本来の姿じゃないの?

どうせ語ってもわかってくれないんだし・・・

まったくもって、おっしゃるとおりなんですが・・・

それがわかっていながら作品を作る、いや!わかっているからこそ、作品を作るわけ。目の前の人よりも、自分が知らない人に宛てて、作品という形で自分の認識を伝えようとする。語りえぬものだからこそ、語る必要があるわけでしょ?

これは別の言い方をすると、受け手が理解できないものだからこそ、作品にする必要があるとも言えますよね?

このことは作品を作る際には、難しく、わかりにくく書くという問題ではないわけ。

何を語るのか?(=WHAT)と言う点において語りえぬものであって、どう語るのか?(=HOW)の問題ではないわけ。

わかりやすく語っていても、語りたい中身そのものが受け手に受け入れられない、というか、多くの人には見えないもの。しかし、だからこそ、語る必要がある。受け手が見えないとわかっているものを、何とかして語ろうとするわけ。

しかし、だからこそ、ますます閉塞する。そして、自分が直面しているそんな閉塞を打破する協力者がほしい。

しかし、協力者であっても理解者ではないので、そんな協力者との共同作業によって、結局は、傷つき、ますます閉塞してしまう。

そのような点でモーゼも、シェーンベルクも、ホフマンスタールも、そして映画「ソフィーの選択」におけるソフィーやネイサンも、そして映画「ウィットゲンシュタイン」におけるウィットゲンシュタインもまったく同じ。

いやぁ!苦笑いせずにはいられない。

「モーゼとアロン」というオペラは、古代のユダヤが舞台と言うより、まさに当時のウィーンの芸術創造現場を、そしてその閉塞感を反映しているわけ。
ああ!ウィーンって街は、何て閉塞が似合う街なんだろう!


そのように見てみると「モーゼとアロン」は実に笑えるオペラでしょ?

このような気持ちが入ったギャグって、笑うだけでは済まないけど。まあ、このような悲痛で自虐的なギャグは、ユダヤ的なギャグの典型ですよね?

そう言う意味では、この「モーゼとアロン」というオペラは、まさにユダヤ的なオペラと言っていいのかも?

http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/new/07-09/07-09-27.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c12

[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
13. 中川隆[-14882] koaQ7Jey 2019年11月16日 14:26:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1973]


芸術家とは、神から出でた存在であり、神からの霊感を一般の人間に伝え、後生に残すのがその使命。

逆に言うと、ドラマにおいて、神からの言葉を伝えている存在は、芸術家としての自分自身を描いているケースが多いわけ。しかし、神からの言葉を語るがゆえに、一般の人間には理解されない。それゆえに、神からの言葉を受けたものは、一般社会の中で孤立し、苦悩することになる。

孤立の中で、自分の理解者を必死で探したり、神からの言葉を伝えようと、自分の協力者を得ようとして無理をして、その無理によってますます孤立してしまう。結局は、その苦悩がますます深くなる。しかし、一般社会からの孤立ゆえに、神からの霊感は、特定の人や集団を相手とする直接的な語りではなく、客観的な作品として結実することになる。

さて、そんな流れを持つオペラ(正式には舞台祭典劇)のリヒャルト・ワーグナー「ワルキューレ」を考えて見ましょう。


題材としては、ゲルマン神話を元にしているわけですが、そのテーマとしては、芸術家としての意識という点から見ると、実に理解しやすいわけ。このオペラの主要人物であるジークムントのキャラクターなり、ドラマにおける役割・・・それがまさに芸術家の姿そのままなんですね。さて、そのジークムントは、神々の長であるヴォータンの血を引いている。つまり、神から出でし存在。

そして、そのヴォータンからの使命を果たすべく、行動することになる。つまり、神からの言葉を実現させる存在。しかし、ヴォータンからの使命を実現させようとするがゆえに、周囲と諍いが起こる。つまり、神からの言葉を実現させようとすると、周囲の一般人とモメることになる。

ジークムントは、自分と同じように神から出でし存在であるジークリンデに入れ込む。
つまり、芸術家は同類同士だと実に理解が早い。


一番困った時に、ヴォータンからの剣ノートゥングが現れる。つまり、芸術家が真に苦悩した時こそ、神からの霊感が訪れる。ジークムントとジークリンデとの結びつきに対し、一般人のフンディングがジャマをする。

つまり、芸術家同士の結びつきには、一般人からの妨害がつきもの。結局は、ジークムントは、一般人であるフンディングにやられてしまう。つまり、芸術家は、一般人には、この世では勝つことができない。


しかし、ジークムントとジークリンデは、ジークフリートを残すことになる。つまり、芸術家が死んでも、その後まで作品は残ることになる。そのジークフリートには、ヴォータンの娘であるブリュンヒルデが助ける。

つまり、芸術家による作品は、芸術的なルーツを持つ同類のサポートによって、世界に出て行くことになる。ジークフリートによって、この世界が浄化される。つまり、芸術家の作品によって、世界が堕落することを防ぐことになり、まさに神の意思が実現される。


と、まあ、芸術家の苦悩と成果と言う視点で見ると、実にツボを押さえた設定になっている。作者であるワーグナーが、自分自身の苦悩なり、芸術家としての意識や役割を踏まえた上で、台本を書いたのがよくわかる。


神からの言葉を語るがゆえに、この一般社会からは理解されないとなると、以前にシェーンベルクのオペラ「モーゼとアロン」を考えております。シェーンベルクは、神からの言葉を直接的に聞くモーゼに自分自身を重ねている。

しかし、一般社会に神の言葉を伝えるためには、神の言葉を直接的に聞くことができない一般人であるアロンを協力者にしなければならない。この「モーゼとアロン」というオペラの場合は、台本を制作した作曲家のシェーンベルクにしてみれば、モーゼ=作曲者,アロン=演奏家 の役割を負っていることはすぐにわかること。

神からの言葉を直接聞くものは、その言葉を多くの人たちに伝えなければならないという使命感と、対象とする一般人の理解力の低さの間の齟齬で苦悩する。そんな苦悩は、歴史を紐解けば、いくらでも出てきますよ。

それこそ、キリストだって、まさにそのパターン。

あるいは、画家のゴッホとかミケランジェロとか、レンブラントとか・・・ほとんどがそのパターンでしょ?逆に言うと、一般人と上手に付き合うことができたルーベンスが、芸術家の立ち位置の理想形として、ウィーダの「フランダースの犬」に出てくることになる。それだけレアケースというわけ。


芸術家は、神からの言葉を聞くがゆえに、一般人から迫害され、殺される。しかし、その言葉は後世まで残ることになる。


神からの言葉に執りつかれた人間は、本当の意味での自由意思はない。神からの言葉は、当人にとって圧倒的な存在であるがゆえに、それ以外の存在が霞んでしまう。

だから、遮二無二行動して、どうしても一般人とのやり取りがうまく行かない。


それこそ、この「ワルキューレ」の中のジークムントのセリフを取り上げてみましょう。

「♪・・・私は人に会う限り、何度でも飽きずに、友を求めたり、女を得ようとしたのですが、私はただ追放されるばかりでした。

何か不吉なものが私の上にありました。私が正しいと考えるものが、他人には悪いことのように思われたのです。私には悪いと思えることを、ほかの人は好んでしたのでした。どこへ行っても反目の中に落とされ、私の行く先々で怒りに襲われたのです・・・♪」 
 

この言葉を、そのままゴッホの伝記に入れても、何も違和感がないでしょ?

あるいは、ベートーヴェンでもOK。

ミケランジェロでも、基本的には、OKでしょうが、まあ、ミケランジェロは「女を得よう」とはしなかったでしょうね。しかし、彼もトラブルを巻き起こしてばかりでしょ?

しかし、それでも作品は残る。自分の死後も残るものを作る・・・それが芸術家の使命。

神よりも、一般人を向いていたら、神の言葉はもう降りてこない。神は嫉み深いもの。

一般社会から疎外された極限の状態にこそ、ノートゥングが現れ、作品のキーとなる霊感が訪れる。しかし、その神の言葉ゆえに、この社会では生きることができない。

結局は、神からの言葉をまとめた作品を制作する創作者だけでなく、その作品を守ろうとした人間までが迫害されてしまう。まるで、ブリュンヒルデが炎に幽閉されたように。しかし、そんな幽閉された芸術家を解き放つのも、神からの言葉をまとめあげた作品。芸術の歴史とは、見方を変えると、まさにこんな感じになっているものでしょ?

http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/new/07-12/10-04-26.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c13

[近代史3] 沖縄 首里城火災 _ 琉球人は何をやっても いい加減、無責任で「ゆすりとごまかしの名人」 中川隆
75. 中川隆[-14881] koaQ7Jey 2019年11月16日 14:34:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1972]
首里城焼失・修復を支えた当事者たちが語る「喪失感」と「復活への決意」
週刊新潮 2019年11月14日号掲載

首里城再建を誓う「琉球史学者」「宮大工」「漆芸家」(1/2)
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/11161100/?all=1


 沖縄の心の拠りどころが、無残にも崩れ落ちていった。10月31日、世界遺産に登録されている「首里城跡」の上に建つ正殿などが、一夜にして灰燼に帰した大火。原因究明が急がれる中、30年以上にわたる復元作業に携わった人々は早くも“復活への決意”を口にして……。

 ***

 沖縄のシンボルとして威容を誇っていた首里城は、暗闇を紅蓮の炎で照らしながら姿を消した。

「正殿や北殿、南殿など主要な七つの棟が焼失し、その面積は約4200平方メートルに及びました。これまでも琉球王朝時代の1453年、1660年、1709年の3回、そして太平洋戦争の沖縄戦と、計4回の焼失を経ています。今回全焼した正殿は、1992年に復元されたものでした」(地元記者)

 首里城跡が世界遺産に登録されたのは2000年。これに先立つ86年、壮大な復元プロジェクトが緒に就いた。今年2月には、正殿裏手にある「御内原(うーちばる)エリア」の工事が終わり、33年にわたる一連の作業が完了。また国営沖縄記念公園の一角をなす首里城公園にあって、正殿など有料区域の管理が、2月に国から県へと移行されたばかりだった。

「今回被害にあった7棟は、すべて戦後に復元されており、文化財保護法の対象ではありませんでした。県から管理者に指定された『沖縄美(ちゅ)ら島(しま)財団』は、鎮火の翌11月1日、会見を行いましたが、スプリンクラーが設置されていなかった点を問われると『そういう施設を前提にして県から指定を受けている。我々は関係しません』などと、現場の管理については他人事のような回答が目立ちました」(同)

 が、その後、火元とみられる正殿北側の1階部分から焼け焦げた分電盤が発見され、電気経路のショートが原因との見方が強まっている。外部からの侵入の痕跡はなく、放火の可能性は低い。設備の不具合による出火となれば管理者たる財団の姿勢も問われよう。

 首里城の事情を知る関係者が明かすには、

「台風の際などには、巻き上げられた海水が強風で城の壁に当たって屋内へ吹き込んできます。現に、城内では雨漏りが起きていました。海水が電気コードを覆う金属などにこびりつけば、錆びて『電気抵抗』となる。ここに大電流の負荷がかかれば、ショートを起こすことも十分あり得ます」

 出火の経緯はともかく、地域の人々が大いに打ちひしがれたのは言うまでもない。まして30年以上にわたる修復作業を支えてきた当事者ともなれば、その胸中は如何ばかりか――。

 王朝時代の歴史考証をはじめ、修復の全体指揮を担った高良倉吉・琉球大学名誉教授(72)=琉球史=は、

「城が焼けるさまを自宅の前から眺めて『本当に現実なのか』と、とてつもない喪失感に襲われました」

 そう嘆きながらも往時を振り返って、

「正殿の再建にあたって多くの学者と議論した結果、大戦で破壊された首里城ではなく、琉球王朝時代の姿を復元しようとなりました。我々は“中古でなく新車に”を合言葉にプロジェクトを進めていましたが、沖縄戦で当時の資料も失われてしまった。国内をくまなく探し回った結果、王家である尚(しょう)家が琉球処分で東京に移住させられた時、重要な資料も一緒に運ばれていたことが分かったのです」

 なかでも重宝したのは、

「おもに『百浦添御殿普請日記』と『寸法記』。いずれも王府の公式資料で、1864年に行われた王国時代最後の大規模工事の記録です。後者は鎌倉芳太郎という沖縄文化の研究者によってまとめられたもので、材料ごとの寸法まで記されていた。それらを読み解くうち、首里城は桐油で塗装されていたこと、琉球漆器の塗り師が参加していたことも判明しました。つまり城自体が巨大な“漆器”だったというわけです」

シェア

ツイート

ブックマーク

現場で技を伝授して

 本土復帰前から沖縄の文化財復興に携わってきた、鈴木嘉吉・元奈良国立文化財研究所長(90)も、

「首里城は戦前に国宝指定されていて、昭和の初めに文化財としての修理を受けている。その時にしっかりした図面が作ってあって、また尚家に残っていた地図にも正殿の内装が詳しく記されていたので、その二つを合わせて正確な図面を描くことができたのです。私は当時、その作業を監督していました」

 との一方で、

「大変だったのは資材の確保です。沖縄の原木は戦災で失われていたから、代わりに台湾ヒノキを用いた。当時は赤瓦を作っている業者も県内に一つしかありませんでした。工法も王国時代と同じく、柱を繋ぐ横材を現在の建物より多くしました。構造の安全性を確かめるため、10分の1サイズの模型も作りましたね」

 さらに、人員招集もひと苦労だったという。

「当時、沖縄には伝統建築を担う宮大工がおらず、大工はもっぱら本土から呼んでいました。正殿の工事には12〜13人の大工が関わっていて、作業期間中にその技術を、地元の職人に教えたりもしていました」

 実際に福井県から参加し、副棟梁として現場管理や施工図作成に携わった、宮大工の山本信幸さん(61)が言う。

「沖縄の建築は、柱の数が多く木の組み方も独特で、内地の城とは全く異なります。その上、史実に合わせて復元しなければならず、出来上がった設計図通りに造っても微妙に異なるおそれがあるので、ともかく古い写真を見ながら、自分の意見を加えずに忠実に再現するよう努めました」

 今回、担当した正殿の屋根が崩れ落ちる映像を目の当たりにした山本さんは、

「一緒に造りあげた建築士、瓦や螺鈿(らでん)の職人など、様々な人のことが頭をよぎって涙がこぼれました。前回は内地の人間が多く関わりましたが、この30年で地元の大工さんの技術も育ってきているので、次は沖縄の人を中心に、我々がそれを支える形で再び復元できればと思っています」

(2)へつづく

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/703.html#c75

[近代史3] 神道の事を単なる儀式であって宗教ではないと思っている天皇一族には理解できない神道の世界 中川隆
12. 中川隆[-14880] koaQ7Jey 2019年11月16日 16:02:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1971]

2019年11月16日
二礼二拍手一礼は正しい参拝方法? 決まった方法はない


二礼二拍手一礼を辞めれば行列は短くなります


国が勝手に決めた参拝方法

正月のニュースに初詣渋滞というのがあり、最近初詣で長い行列が常態化していると書かれていました。

確かにどの有名神社に行っても短い時で数十人、長い時は数百人もの行列ができています。

その記事によると渋滞の原因は「二礼二拍手一礼」をする人が増えたため、昔より一人当たりの時間が長くなったらしい。



多くの人が二礼二拍手一礼をするようになったのは平成以降で、平成の神社ブームやアニメの影響もあるという。

平成の即位の礼や関連行事はテレビ中継されたり人々の注目を浴び、公式な参拝法として広まりました。

アニメや映画の中でも二礼二拍手一礼する人が多いので、他の方法は間違っていると主張する人が増えた。


だが実際には日本人が二礼二拍手一礼するようになったのは「平成以降」であり、伝統でもなんでもありません。

二礼二拍手一礼を正式な参拝方法と決めたのは明治期の大日本帝国で、悪名高い国家神道を全国に普及させようとしました。

幕末から明治にかけての日本はキリスト教を模範とすする宗教改革に取り組んだが、その動機は西洋はキリスト教だから発展したという間違った認識によるものでした。


キリスト教は一神教だから日本も一神教でなくてはならないと言い、仏教を廃止して神道に統一しようとすらしました。(廃仏毀釈)

キリスト教にならって神道もアマテラスだけの一神教にしようとし、アマテラスだけを唯一神にしようとしました。

この時に参拝方法も二礼二拍手一礼だけを正しいと決め、他の参拝方法は間違っていると断定しました。

神道の参拝方法は各人自由が基本

明治3年1月3日に「神仏分離令」が発布され、暴徒が寺を襲って略奪や破壊行為に及んだりしました。

暴動は明治4年に終息したが、その後も寺を解体したり仏像や経典を燃やすなどの行為が全国で行われた。

神仏分離令は明治天皇が発布した事になっており、閣議決定や国会決議などと違って取り消すことはできない。


ばか過ぎてどうにもならないが、二礼二拍手一礼は亡霊のように生き残り、平成日本で大復活を遂げました。

では江戸時代以前の参拝はどうしていたかというと、それぞれの地方や神社で方法が違い、これが正しいというものは無かった。

古くは魏志倭人伝の記述に、倭人は土下座の代わりに拍手を打つと書かれていて、礼をする代わりだったようです。


神道はもともと一つの宗教ではなく、それぞれの村や集落の神を祭るもので、当然神様によってルールも違いました。

拍手の回数や礼の回数も神社によって違い、人々はかなり適当にやっていました。

一般的なのはパンパンと2回拍手を打つスタイルで、昭和期までほとんどの人がそうしていたと思います。


ところが平成になって人々が急に二礼二拍手一礼をやりだしたので、初詣は渋滞してしまいました。
http://www.thutmosev.com/archives/81483680.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/124.html#c12

[近代史3] 天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった 中川隆
7. 中川隆[-14879] koaQ7Jey 2019年11月16日 16:04:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1970]

2019年11月16日
二礼二拍手一礼は正しい参拝方法? 決まった方法はない


二礼二拍手一礼を辞めれば行列は短くなります


国が勝手に決めた参拝方法

正月のニュースに初詣渋滞というのがあり、最近初詣で長い行列が常態化していると書かれていました。

確かにどの有名神社に行っても短い時で数十人、長い時は数百人もの行列ができています。

その記事によると渋滞の原因は「二礼二拍手一礼」をする人が増えたため、昔より一人当たりの時間が長くなったらしい。



多くの人が二礼二拍手一礼をするようになったのは平成以降で、平成の神社ブームやアニメの影響もあるという。

平成の即位の礼や関連行事はテレビ中継されたり人々の注目を浴び、公式な参拝法として広まりました。

アニメや映画の中でも二礼二拍手一礼する人が多いので、他の方法は間違っていると主張する人が増えた。


だが実際には日本人が二礼二拍手一礼するようになったのは「平成以降」であり、伝統でもなんでもありません。

二礼二拍手一礼を正式な参拝方法と決めたのは明治期の大日本帝国で、悪名高い国家神道を全国に普及させようとしました。

幕末から明治にかけての日本はキリスト教を模範とすする宗教改革に取り組んだが、その動機は西洋はキリスト教だから発展したという間違った認識によるものでした。


キリスト教は一神教だから日本も一神教でなくてはならないと言い、仏教を廃止して神道に統一しようとすらしました。(廃仏毀釈)

キリスト教にならって神道もアマテラスだけの一神教にしようとし、アマテラスだけを唯一神にしようとしました。

この時に参拝方法も二礼二拍手一礼だけを正しいと決め、他の参拝方法は間違っていると断定しました。

神道の参拝方法は各人自由が基本

明治3年1月3日に「神仏分離令」が発布され、暴徒が寺を襲って略奪や破壊行為に及んだりしました。

暴動は明治4年に終息したが、その後も寺を解体したり仏像や経典を燃やすなどの行為が全国で行われた。

神仏分離令は明治天皇が発布した事になっており、閣議決定や国会決議などと違って取り消すことはできない。


ばか過ぎてどうにもならないが、二礼二拍手一礼は亡霊のように生き残り、平成日本で大復活を遂げました。

では江戸時代以前の参拝はどうしていたかというと、それぞれの地方や神社で方法が違い、これが正しいというものは無かった。

古くは魏志倭人伝の記述に、倭人は土下座の代わりに拍手を打つと書かれていて、礼をする代わりだったようです。


神道はもともと一つの宗教ではなく、それぞれの村や集落の神を祭るもので、当然神様によってルールも違いました。

拍手の回数や礼の回数も神社によって違い、人々はかなり適当にやっていました。

一般的なのはパンパンと2回拍手を打つスタイルで、昭和期までほとんどの人がそうしていたと思います。


ところが平成になって人々が急に二礼二拍手一礼をやりだしたので、初詣は渋滞してしまいました。
http://www.thutmosev.com/archives/81483680.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/525.html#c7

[近代史3] アイヌ人は先住民ではない、日本人は単一民族だというデマを撒き散らすチャンネル桜 中川隆
25. 中川隆[-14878] koaQ7Jey 2019年11月16日 16:51:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1969]
2019年11月16日
考古資料から人類集団の遺伝的継続・変容の程度を判断することは難しい
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_31.html


 文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係については、1年近く前(2019年11月25日)にも述べました(関連記事)。その時からこの問題に関していくつか新たな知見を得ることができましたが、私の見解はほとんど変わっておらず、両者の関係は実に多様なので、考古学的研究成果から担い手の人類集団の変容と継続の程度を一概には判断できない、とさらに確信を強めています。そのため、この問題を現時点で再度取り上げる必要はほとんどないのですが、最近のやり取りで、アイヌは「縄文人」の末裔ではない、という言説の根拠として考古資料が持ち出されたので、改めてこの問題について短く触れておきます。
 古代DNA研究が飛躍的に発展していくなか、次第に明らかになってきたのは、文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は一様ではない、ということです。これについては以前の記事で、(1)担い手の置換もしくは遺伝的構成の一定以上の変化による文化変容、(2)担い手の遺伝的継続を伴う文化変容、(3)担い手の遺伝的変容・置換と文化の継続、の3通りに区分して具体例を挙げました。もっとも、これは単純化しすぎた分類だと今では反省しています。とはいっても、これらを的確に再整理して提示できるだけの準備は整っていないのですが、とりあえず、(4)類似した文化が拡大し、拡大先の各地域の人類集団の遺伝的構成が一定以上変容しても、各地域間の遺伝的構成には明確な違いが見られる、という区分を追加で提示しておきます。具体的には、紀元前2750年に始まり、イベリア半島からヨーロッパ西部および中央部に広く拡散した後、紀元前2200〜紀元前1800年に消滅した鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)の担い手においては、イベリア半島とヨーロッパ中央部の集団で遺伝的類似性が限定的にしか認められませんでした(関連記事)。また、鉄器時代にユーラシア内陸部で大きな勢力を有したスキタイも遺伝的には多様だった、と明らかになっています(関連記事)。

 以前の記事の後に当ブログで取り上げた関連事例では、ヒマラヤ地域が(2)によく当てはまりそうです(関連記事)。一方、中国のフェイ人(Hui)の事例(関連記事)は分類が難しく、(1)と(2)の混合と考えています。フェイ人(回族)は遺伝的には多数の人口を有する漢人などアジア東部系と近縁ですが、父系ではユーラシア西部系の影響が見られ、漢人とは異なる多くの文化要素を有しています。フェイ人においては、全体的にアジア東部系の遺伝的継続性が見られるものの、ユーラシア西部に由来する父系の影響も一定以上(約30%)存在し、ユーラシア西部から到来した男性がフェイ人の文化形成に重要な役割を果たした、と考えられます。フェイ人の場合、基本的には集団の強い遺伝的継続性が認められるものの、父系では一定以上の外来要素があり、文化変容に貢献した、と言えそうです。

 このように、文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は多様なので、ある地域の文化変容を単純に集団の遺伝的構成の変容、さらには置換と判断することはできません。これを踏まえて「考古資料から集団置換が起きたか否かを判断するのは容易ではないというかほぼ無理で、古代DNA研究に依拠するしかない」と述べたら、「遺伝子研究では縄文人とアイヌ民族を結びつけることは出来ないということで大変参考になりました」と返信されて、あまりの読解力の低さにうんざりさせられました。

 北海道の時代区分は、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代→擦文時代→アイヌ(ニブタニ)文化期と変遷していき、続縄文時代後期〜擦文時代にかけて、オホーツク文化が併存します。この間の文化変容と「遺伝的証拠」から、アイヌは「(北海道)縄文人」の子孫ではなく、12世紀頃に北海道に到来した、というような言説(関連記事)もネットの一部?では浸透しているようです(アイヌ中世到来説)。もっとも、こうしたアイヌ中世到来説やそれに類する言説を主張する人は、上述のやり取りから窺えるように読解力が低すぎるのではないか、との疑念がますます深まっています。

 それはさておくとして、考古学的には、縄文時代からアイヌ(ニブタニ)文化期、さらには近現代のアイヌにわたる人類集団の連続性を指摘する見解が主流で、アイヌ中世到来説はまともな議論の対象になっていない、と言えるでしょう(関連記事)。また考古資料から、縄文および続縄文文化を継承した擦文文化の側が主体となってオホーツク文化を吸収し、アイヌ(ニブタニ)文化が形成された、との見解も提示されています(関連記事)。アイヌ中世到来説論者に言わせると、こうした評価は適切ではない、ということになるのでしょうが、上述のように文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は一様ではありませんから、置換があったと断定することはとてもできません。もちろん、考古資料だけを根拠に、縄文時代からアイヌ(ニブタニ)文化期までの人類集団の強い遺伝的継続性を断定することもまたできません。もっとも、考古資料も縄文時代からアイヌ(ニブタニ)文化期までの人類集団の強い遺伝的継続性を示唆している、と私は考えていますが。

 古代DNA研究も含めて現時点での遺伝学の研究成果からは(関連記事)、アイヌが「(北海道)縄文人」の強い遺伝的影響を受けている可能性はきわめて高い、と言えそうですが、この問題の解決には古代DNA研究の進展を俟つしかないと思います。ただ、日本列島も含めてユーラシア東部圏の古代DNA研究はヨーロッパを中心とする西部よりもずっと遅れているので、現時点でのヨーロッパと同水準にまで追いつくのには時間がかかりそうです。ただ、古代DNA研究には「帝国主義・植民地主義的性格」が指摘されており、日本でもこの問題が解決されたとはとても言えないでしょう(関連記事)。古代DNA研究の大御所と言えるだろうウィラースレヴ(Eske Willerslev)氏が中心となってのアメリカ大陸先住民集団との信頼関係構築は、日本においても大いに参考になるでしょうが、歴史的経緯が同じというわけではないので、単純に真似ることは難しいかもしれません。古代DNA研究は倫理面でも大きな問題を抱えていますが、それらを克服しての進展が期待されます。
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_31.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/323.html#c25

[近代史3] 武満徹と映画、音と音楽 中川隆
1. 中川隆[-14877] koaQ7Jey 2019年11月16日 18:54:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1968]

武満徹
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%BA%80%E5%BE%B9


武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 - 1996年2月20日)は、日本の作曲家。

ほとんど独学で音楽を学んだが、若手芸術家集団「実験工房」に所属し、映画やテレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。和楽器を取り入れた『ノヴェンバー・ステップス』によって、日本を代表する現代音楽家となった。


1930年10月8日に東京本郷区駒込曙町(現 文京区本駒込一丁目)で生まれる。
父は鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)隈之城町出身で帝国海上保険勤務、祖父の武満義雄は政友会の鹿児島県幹事長を務め、第7回衆議院議員総選挙から第12回衆議院議員総選挙まで衆議院議員を連続6期15年務めた[1]。

生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡る。1937年、小学校入学のために単身帰国し、東京市本郷区の富士前尋常小学校に入学[2]、7年間にわたって叔父の家に寄留する。叔母は生田流箏曲の師匠であり、初期の習作的な作品『二つの小品』(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られる[3][4]。この頃に従兄弟からレコードで聴かされたベートーヴェンやメンデルスゾーンなどのクラシック音楽には興味を示さなかったが[5]、その一方で1948年に行われた「新作曲派協会」第2回作品発表会に足を運び、後に作曲を師事する清瀬保二の『ヴァイオリンソナタ第1番』のような、当時としては新しい音楽に感動していたとされる[6]。

1943年、旧制の私立京華中学校に入学。額から頭にかけての格好が飛行船に似ていたため、当時の渾名は「ツェッペリン」であった[7]。軍事教練では教官の手塚金之助少尉からしごきを受け、野外演習で入浴中に「あの金坊の野郎、ただじゃおかねえからな」と叫んだところ、真ん前に手塚がいたため「この野郎」と殴られたこともある[7]。在学中の1945年に埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員される。軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていた[8]リュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン『聴かせてよ、愛のことばを』(Parlez-moi d'amour)[9]を耳にして衝撃を受ける。現代音楽の研究者である楢崎洋子は、後年の『鳥は星型の庭に降りる』、『遠い呼び声の彼方へ!』など、いくつかの作品モチーフに、このシャンソンの旋律線との類似点があることを指摘している[10]。戦争中は予科練を受験[7]。戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年であった[11]。

終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、フランクやドビュッシーなど、近代フランスの作曲家の作品に親しむ一方で、横浜のアメリカ軍キャンプで働きジャズに接した。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事するが、ほとんど独学であった。京華高等学校卒業後、1949年に東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学)作曲科を受験。科目演奏には最も簡単なショパンのプレリュードを選び、妹の下駄を突っかけて試験会場に出向いたが、控室で網走から来た熊田という天才少年(後に自殺)と意気投合し、「作曲をするのに学校だの教育だの無関係だろう」との結論に達し[12]、2日目の試験を欠席し、上野の松坂シネマで『二重生活』を観て過ごした[13]。この時期の作品としては清瀬保二に献呈された『ロマンス』(1949年、作曲者死後の1998年に初演)のほか、遺品から発見された『二つのメロディ』(1948年、第1曲のみ完成)などのピアノ曲が存在する[14]。

デビュー以前はピアノを買う金がなく、本郷から日暮里にかけて街を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという[15]。武満は「1軒もことわられなかったから、よほど運がよかったのだ」と言っているが、ときどき同行した友人の福島和夫によると、最初は確かに貸してくれたが、何度も続くと必ず「もう来ないで下さい」と断られたという[15]。のち、芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は、武満と面識はなかったにもかかわらず、妻のピアノをプレゼントした[15]。

デビュー、前衛作曲家への道

1950年に、作曲の師である清瀬保二らが開催した「新作曲派協会」第7回作品発表会において、ピアノ曲『2つのレント』を発表して作曲家デビューするが、当時の音楽評論家の山根銀二に「音楽以前である」と新聞紙上で酷評された[16]。傷ついた武満は映画館の暗闇の中で泣いていたという[17]。この頃、詩人の瀧口修造と知り合い、『2つのレント』の次作となるヴァイオリンとピアノのための作品『妖精の距離』(1951年)のタイトルを彼の同名の詩からとった。同年、瀧口の下に多方面の芸術家が参集して結成された芸術集団「実験工房」の結成メンバーとして、作曲家の湯浅譲二らとともに参加、バレエ『生きる悦び』で音楽(鈴木博義と共作)と指揮を担当したほか、ピアノ曲『遮られない休息I』(1952年)などの作品を発表した。

この最初期の作風はメシアンとベルクに強い影響を受けている。

「実験工房」内での同人活動として、上述の湯浅譲二や鈴木博義、佐藤慶次郎、福島和夫、ピアニストの園田高弘らと共に、メシアンの研究と電子音楽(広義の意。主にテープ音楽)を手がけた。また武満はテープ音楽(ミュジーク・コンクレート)として、『ヴォーカリズムA.I』(1956年)、『木・空・鳥』(同年)などを製作し、これらを通して音楽を楽音のみならず具体音からなる要素として捉える意識を身につけていった。

「実験工房」に参加した頃より、映画、舞台、ラジオ、テレビなど幅広いジャンルにおいて創作活動を開始。映画『北斎』の音楽(1952年、映画自体が制作中止となる)、日活映画『狂った果実』の音楽(1956年、佐藤勝との共作)、橘バレエ団のためのバレエ音楽『銀河鉄道の旅』(1953年)、劇団文学座のための劇音楽『夏と煙』(1954年)、劇団四季のための『野性の女』(1955年)、森永チョコレートのコマーシャル(1954年)などを手がけた。これらの作品のいくつかには、ミュジーク・コンクレートの手法が生かされているほか、実験的な楽器の組み合わせが試みられている。また作風においても、前衛的な手法から、ポップなもの、後に『うた』としてシリーズ化される『さようなら』(1954年)、『うたうだけ』(1958年)のような分かりやすいものまで幅が広がっている。また、1953年には北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美[18]が病状悪化の早坂文雄を介して委嘱した「美幌町町歌」を作曲している。

この間、私生活においては『2つのレント』を発表した際にチケットをプレゼントした若山浅香と1954年に結婚した。病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨は鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住した。

1957年、早坂文雄(1955年没)に献呈された[19]『弦楽のためのレクイエム』を発表。日本の作曲家はこの作品を黙殺したが、この作品のテープを、1959年に来日していたストラヴィンスキーが偶然NHKで聴き、絶賛し、後の世界的評価の契機となる[20]。

1958年に行われた「20世紀音楽研究所」(吉田秀和所長、柴田南雄、入野義朗、諸井誠らのグループ)の作曲コンクールにおいて8つの弦楽器のための『ソン・カリグラフィI』(1958年)が入賞したことがきっかけとなり、1959年に同研究所に参加。2本のフルートのための『マスク』(1959年)、オーケストラのための『リング』(1961年)などを発表する。大阪御堂会館で行われた『リング』の初演で指揮を務めた小澤征爾とは、以後生涯にわたって親しく付き合うことになる[21]。この時期の作品では、ほかに日本フィルハーモニー交響楽団からの委嘱作品『樹の曲』(1961年、「日フィルシリーズ」第6回委嘱作品)、NHK交響楽団からの委嘱作品『テクスチュアズ』(1964年、東京オリンピック芸術展示公演)などがある。このテクスチュアズで日本人作曲家として初めてユネスコ国際作曲家会議でグランプリを受賞。武満の名声は一気に跳ね上がった。


世界のタケミツ

1960年代には小林正樹監督の『切腹』(1962年、第17回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、羽仁進監督の『不良少年』(1961年、第16回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年、第19回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、『他人の顔』(1966年、第21回毎日映画コンクール音楽賞受賞)などの映画音楽を手がけ、いずれも高い評価を得ている。

武満自身は、若い頃から映画を深く愛し、年間に数百本の映画を新たに見ることもあった。スペインの映画監督ヴィクトル・エリセの映画エル・スールを父親の視点から絶賛しているほか、ロシア(ソ連)の映画監督アンドレイ・タルコフスキーに深く傾倒し、タルコフスキーが1987年に他界すると、その死を悼んで弦楽合奏曲『ノスタルジア』を作曲している。

1962年にNHK教育テレビ『日本の文様』のために作曲した音楽は、ミュジーク・コンクレートの手法で変調された筑前琵琶と箏の音を使用しており、武満にとっては伝統的な邦楽器を使用した初の作品となった。その後、前述の映画『切腹』では筑前琵琶と薩摩琵琶が西洋の弦楽器とともに使用され、1964年の映画『暗殺』(監督:篠田正浩)、『怪談』(監督:小林正樹)では琵琶と尺八が、1965年の映画『四谷怪談』(監督:豊田四郎)では竜笛、同年のテレビドラマ『源氏物語』(毎日放送)では十七弦箏とともに鉦鼓、鞨鼓など、雅楽の楽器も使用された[22]。1966年のNHK大河ドラマ『源義経』の音楽においては邦楽器はオーケストラと組み合わされている。これらの映画や映像のための音楽での試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。その最初の作品である『エクリプス』(1966年)は琵琶と尺八という、伝統的な邦楽ではありえない楽器の組み合わせによる二重奏曲である。この『エクリプス』はアメリカで活動中の小澤征爾を通じてニューヨーク・フィル音楽監督レナード・バーンスタインに伝えられ、このことから、同団の125周年記念の作品が委嘱されることとなった。こうしてできあがった曲が、琵琶と尺八とオーケストラによる『ノヴェンバー・ステップス』(1967年)である。この作品を契機として武満作品はアメリカ・カナダを中心に海外で多く取り上げられるようになった[23]。

1970年には、日本万国博覧会で鉄鋼館の音楽監督を務め、このための作品として『クロッシング』、『四季』(初の打楽器アンサンブルのための作品)、テープ音楽"Years of Ear"を作曲、翌1971年には札幌オリンピックのためにIOCからの委嘱によってオーケストラ曲『冬』を作曲した。1973年からは「今日の音楽」のプロデュースを手がけ、世界の演奏家を招いて新しい音楽を積極的に紹介した。1975年にエフエム東京の委嘱によって作曲された『カトレーン』は同年に文化庁芸術祭大賞、翌年に第24回尾高賞を受賞するなど、日本で高い評価を得た[24]。また『ノヴェンバー・ステップス』以後は、世界からの注目も高まり、1968年と69年には「キャンベラ・スプリング・フェスティバル」のテーマ作曲家、1975年にはイェール大学客員教授、1976年と77年にトロントで開催された「ニューミュージック・コンサーツ」ではゲスト作曲家として招かれた。

癌との闘い

1980年に作曲されたヴァイオリンとオーケストラのための『遠い呼び声の彼方へ!』は、前衛的な音響が影を潜め、和声的な響きと「歌」を志向する晩年の作風への転換を印象続ける作品となった[25]。この時期にショット社へ移籍し、作品の演奏の機会は以前よりも急激に増えることになる。以前、自身の作曲が日本で正当に評価されていなかったことを嘆き、「今日の音楽・作曲賞」では武満たった一人が審査を務め、武満自身の手で国際作曲賞を授与することに決めた。この作曲賞から多くの日本の若手や世界各国の若手が巣立った。

1980年代はすでに前衛は流行らなくなっており、武満も今日の音楽では積極的に海外の潮流を紹介したが、武満本人の興味はそれとはもう関わりが薄くなっていた。

作品はますます調性的になり、オーケストラとの相性が良いのでひっきりなしにオーケストラ曲の委嘱に応えていた。全編が調性音楽である「系図」には、かつての不協和音は完全に影を潜めた。

この時期になると世界各国からの反応も、良いものばかりではなくなり始めた。ショット社はドイツにあるにもかかわらず、ドイツの新聞で「シェーンベルク以前の音楽」「バスタブの中の河」(リヴァーランのドイツ初演評)などと酷評を受けるようになる。

晩年、それまで手をつけていなかったオペラに取り組もうと意欲を見せるが、作品は完成の日の目を見ることはなかった。タイトルは『マドルガーダ』(邦題は『夜明け前』)となる予定であった[26]。

1995年、膀胱、および首のリンパ腺にがんが発見され、また、間質性肺炎を患っていた武満は数ヶ月に亘る長期の入院生活を送ることになる[27]。小康を得ての一時退院中、完成された最後の作品となる『森のなかで』『エア』を作曲[28]。1996年2月20日、虎の門病院にて死去した。享年65[29][30]。墓所は、東京都文京区小日向にある曹洞宗日輪寺の境内墓地。

政治的態度

政治にも関心が深く、1960年代の安保闘争の折には「若い日本の会」や草月で開かれた「民主主義を守る音楽家の集い」などに加わり武満自身もデモ活動に参加していた(ただし体調が悪くなっていたのですぐ帰っていたらしい[31])。1970年代には、スト権ストを支持したことがある。また、湾岸戦争(1991年)の際には、報道番組における音楽の使われ方に対して警鐘を鳴らし、報道番組は、音楽を使うべきではないと論じた。一方で音楽による政治参画については否定的であったとされ、1970年代には自身も参加した音楽グループ「トランソニック」の季刊誌上で見解を示した[32]。


作風

初期

1960年代前期は、特に管弦楽曲においてクライマックスを目指すヒートアップの方向性が明確に表れる。「アーク」(「テクスチュアズ」含む)「アステリズム」などがこれに当たる。この時期には西欧前衛の動向を手中に収め独自の語法として操る術を獲得しているが、特にヴィトルド・ルトスワフスキのアド・リビトゥム書法からの影響が直接的に現れている。もっともこれは結果としてルトスワフスキとの類似となったもので、直接には1960年代初頭に一柳慧によって日本にその思想が持ち込まれたジョン・ケージの偶然性の音楽の影響が見られる。武満はピアニストのためのコロナなどにおいて、直接的には図形楽譜による記譜の研究、内面的には偶然性がもたらす東洋思想との関連などを探った。そして帰結したのが時間軸の多層化という考え方である。1960年代後期には、それまで映画音楽でのいくつかの試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。この頃から徐々に、上で述べた(1960年代前期までの)西洋音楽的な一次元的時間軸上の集中的指向性を薄め、東洋音楽的な多層的時間軸上の汎的指向性へと変化していく。


中期

中期を過ぎた頃には、前衛語法の使用から次第に調的な作風へと変化していった。具体的には「グリーン(当初の題は「ノヴェンバー・ステップス第2番」)」を発端とし、いくつかの中規模な作品を経て「カトレーン」「鳥は星型の庭に降りる」など1970年代終盤において明確に調性を意識するようになる。「アーク」の書き直しを行うごとに、協和音やオクターブなどの響きやすい音程関係へ傾斜した。モートン・フェルドマンのいう「オーケストラにペダルをつける」アイデアをここまで自家薬籠中の物とした作曲家、それを細川俊夫は「日本で唯一官能的な響きをオーケストラから引き出した」と述べた。

後期

作品は1980年代は武満トーンでどの声部も豊麗に鳴り響いていたものの、1990年代からは健康管理が難しくなったことも含めて、歌われる旋律線が一本に収斂される時間が優勢になっていった。線が例え二本であっても、一本を持続にした上でもう一本を歌わせることで、情報量の制限を試みている。この手法はクラブサンのための「夢見る雨」で効果的に使われていたが、いかなる作品に対しても適用し始めたのは1990年代からになる。この手腕に対してルチアーノ・ベリオは「タケミツは西洋楽器のみを使ったほうが、よりいっそう日本を感じるんだよね」と答えている。佐野光司は「武満は、最晩年も進化し、『第四期』といってもよかった」とこの時代を締め括る。

備考

武満は晩年に「実は数的秩序をハーモニーに導入している」などとも語り、いまだ創作軌跡の全貌は、明らかにされていない点も多い。ヴィトルト・ルトスワフスキから「トオルよ。メロディーについて考えているか」と尋ねられ「はい。考えています」と返答し、「これからの作曲家もメロディーを忘れてはいけない」という呼びかけに、最も早く反応した日本の作曲家であることが、戦後日本音楽史の中で際立っている。今日の音楽では武満の好みが色濃く反映された選曲を行っており、ブライアン・ファーニホウのような作曲家も日本初演を実現させた。

実用音楽

武満は多くの映画音楽を手がけているが、それらの仕事の中で普段は使い慣れない楽器や音響技術などを実験・試行する場としている。武満自身、無類の映画好きであることもよく知られ、映画に限らず演劇、テレビ番組の音楽も手がけた。

琵琶と尺八の組み合わせで彼は純音楽として代表作『ノヴェンバー・ステップス』をはじめ『エクリプス(蝕)』、『秋』、三面の琵琶のための『旅』などを書いているが、最初に琵琶を用いた作品は映画『切腹』およびテレビ(NHK大河ドラマ)『源義経』であり、尺八は映画『暗殺』でプリペアド・ピアノやテープの変調技術と共に用いた。さらに映画『怪談』(監督:小林正樹)では、琵琶、尺八のほかに胡弓(日本のもの)、三味線、プリペアド・ピアノも、それぞれテープ変調と共に用いている。この『怪談』の音楽は、ヤニス・クセナキスがテープ音楽として絶賛した。これらの作品の録音において、琵琶の鶴田錦史、尺八の横山勝也との共同作業を繰り返した経験が、後の『ノヴェンバー・ステップス』その他に繋がった。

2台のハープを微分音で調律してそのずれを活かすという書法は、純音楽としては『ブライス』などに見られ、またハープ独奏としては『スタンザII』が挙げられるが、このための実験としては、映画『沈黙』『美しさと哀しみと』『はなれ瞽女おりん』(すべて監督:篠田正浩)などが挙げられる。『はなれ瞽女おりん』は後に演奏会用組曲『2つのシネ・パストラル』としてもまとめている。

他にテレビの音楽としてはNHKの歴史ドキュメンタリー番組「未来への遺産」においてオンド・マルトノを用いていることも特筆される。純音楽ではこの楽器は用いなかった。

黒澤明とは、『どですかでん』で初めてその音楽を担当して以来の関係であったが、1985年の映画『乱』で黒澤と対立し「これ以後あなたの作品に関わるつもりはない」と言った。武満は黒澤にマーラー風の音楽を求められたことに不満を述べている[33]。

短編ドキュメンタリー映画『ホゼー・トレス』でのジャズの語法をはじめ、1960-70年代当時の日本の歌謡曲の語法など、武満自らが趣味として多く接した娯楽音楽の分野へのアプローチを試みたのも、これら映画音楽やテレビの音楽である。

その他の娯楽音楽として、晩年、それまでに作曲した合唱曲、映画音楽の主題や挿入歌などをポピュラー音楽として再編し石川セリが歌ったポピュラーソングのCDアルバムを発表した。これについては武満の死後、武満の葬儀の席上で黛敏郎が思い出として披露した、未発表の短い映画音楽用の旋律[34]を基に、もう一枚のリメイク・ヴァージョンのアルバムが出ている。森山良子、小室等、沢知恵らもこれらの歌をレパートリーとしている。

影響

晩年監修を務め、武満の死後完成した東京オペラシティのコンサートホールはタケミツ・メモリアルの名が冠せられた。東京オペラシティのオープニング・コンサートの中で、作曲家でピアニストの高橋悠治は武満のために「閉じた眼II」を弾いた[35]。また、「武満徹作曲賞」の演奏会も毎度、このホールにて行われている。

武満の劇音楽の仕事は多忙を極めたこともあり、アシスタントを雇っていたことが知られているが、これは同時にまだデビュー間もない新人の発掘・育成にも繋がっていった。アシスタント経験者には池辺晋一郎や八村義夫、川井学、毛利蔵人、菅野由弘がいる。高橋悠治もデビュー初期に武満の仕事を手伝っており、『おとし穴』(監督:勅使河原宏)などでは演奏にも参加している。また、クラシック出身者以外にもマジカル・パワー・マコや鈴木昭男といった独自の楽器音響を追求する後輩たちとも交流を持ち、劇音楽の仕事を通してコラボレーションを行っている。

武満の著書には彼自身の自筆譜が多く掲載されていることで知られていたが、そのほとんどはフルスコアではなく、コンデンススコアである。コンデンススコアでまず作曲し、思いついた奏法や楽器名をその上に記し、アシスタントがフルスコアに直すことで多くのオーケストラ曲は完成されていた。多忙ではなくなった時期からは、自らフルスコアを書いている。

保守的なことで知られるウィーン・フィルによってもその作品は演奏され、その死は、多くの演奏家から惜しまれた。ショット社の公表では、没後武満の作品の演奏回数は1年で1000回を越えた。(出典:日本の作曲20世紀)映画音楽で有名なジョン・ウィリアムズも、武満を高く評価しており、『ジュラシック・パーク』では尺八を取り入れた。

音楽作品

作品については武満徹の作品一覧をご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%BA%80%E5%BE%B9%E3%81%AE%E4%BD%9C%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7

全集
『武満徹全集』(全5巻)、小学館、2002−05年
音楽作品の録音全集。管弦楽や室内楽などコンサート作品から、映画音楽やラジオ・テレビ作品のサウンドトラックまで、様々なレコード会社や放送用の音源をまとめ、新録音も含めて全集として発売している。ただし、長木誠司は「監修者不在」を批判している[36][37]。

自筆譜

パウル・ザッハー財団から武満徹の全自筆譜・メモ・スケッチほかを一律管理したい、と申し出がある[38]が武満夫人を含む関係者はこの申し出に2016年現在応じていない。

出版[編集]

楽譜は日本ショット株式会社およびフランスのサラベール(現在はデュランなど他レーベルとともにBMGが版権を所有し発行管理している)により出版されている。かつては一部の楽譜が音楽之友社からも出版されていたが、サラベールに奪われた。

著作(文章)

武満自身、音楽作品以外に文章でも多数の著書を発表、また新聞や雑誌でも音楽評論を盛んに執筆した。

著作集
『武満徹著作集』(全5巻)、新潮社、2000年。編纂委員は友人の谷川俊太郎と船山隆。
さまざまな媒体に発表した文章の大半を、『音、沈黙と測りあえるほどに』などの単著を軸に収録されている。しかし厳密には、武満徹の残した文章のすべてではない。

単著(日本語)
『武満徹←1930……∞』 私家版、1964年
『音、沈黙と測りあえるほどに』新潮社、1971年(著作集第1巻)
『骨月−あるいは a honey moon』私家版、限定200部、1973年12月(『草月 ikebana sogetsu』83号、1972年8月に発表。『遠い呼び声の彼方へ』に所収)、小説
『樹の鏡、草原の鏡』新潮社、1975年(著作集第1巻)
『音楽の余白から』新潮社、1980年(著作集第2巻)
『夢の引用 映画随想』岩波書店、1984年(著作集第5巻)
『音楽を呼びさますもの』新潮社、1985年(著作集第2巻)
『夢と数』リブロポート、1987年(著作集第5巻)、自らの音楽語法について直接述べた著作
『遠い呼び声の彼方へ』新潮社、1992年(著作集第3巻)
『時間の園丁』新潮社、1996年(著作集第3巻)、1996年に点字資料版が日本点字図書館で刊行

単著(再編本、英語版)
『サイレント・ガーデン』新潮社、1999年(闘病日記、病床で描いた絵入り料理レシピ)
『私たちの耳は聞こえているか』「人生のエッセイ9」日本図書センター、2000年(既刊書に収録された回想エッセイを再編した著作)
『武満徹|Visions in Time』エスクァイアマガジン・ジャパン、2006年
『武満徹エッセイ選 言葉の海へ』小沼純一編、ちくま学芸文庫、2008年
Confronting Silence: Selected Writings. trans. and ed. by Yoshiko Kakudo and Glenn Glasow. Berkeley, Calif: Fallen Leaf Press, 1995.
『映像から音を削る 武満徹映画エッセイ集』清流出版、2011年

共著

『ひとつの音に世界を聴く――武満徹対談集』晶文社、1975年、新装版1996年
『武満徹対談集――創造の周辺』芸術現代社(上・下)、1976年→新版(芸術現代選書・全1巻)、1997年
『音・ことば・人間』川田順造との往復書簡、岩波書店、1980年→岩波同時代ライブラリー(改訂版)、1992年→(著作集第4巻)
『音楽』小澤征爾との対話、新潮社、1981年→新潮文庫、1984年
『音楽の庭――武満徹対談集』新潮社、1981年
『シネマの快楽』蓮實重彦との対話、リブロポート、1986年→河出文庫、2001年
『すべての因襲から逃れるために――武満徹対談集』 音楽之友社、1987年
『オペラをつくる』大江健三郎との対話、岩波新書、1990年→(著作集第4巻)
『歌の翼、言葉の杖――武満徹対談集』 TBSブリタニカ、1993年→(著作集第5巻)
『シネ・ミュージック講座/映画音楽の100年を聴く』 秋山邦晴と、フィルムアート社、1998年
『武満徹対談選 仕事の夢・夢の仕事』 小沼純一編、ちくま学芸文庫、2008年
『武満徹 自らを語る』 聞き手安芸光男、青土社、2010年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%BA%80%E5%BE%B9
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/717.html#c1

[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
58. 2019年11月16日 18:56:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1967]

武満徹と映画、音と音楽
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/717.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c58
[近代史3] 武満徹と映画、音と音楽 中川隆
2. 中川隆[-14876] koaQ7Jey 2019年11月16日 19:08:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1966]

ついこの前出たポリフォーン「総特集・武満 徹」の中に、ブラームスのクラリネット・ソナタの譜面を見てピアノで弾いてみた武満が

「こんないい音楽があったら、もう他に音楽はいらないんじゃないかというような、譜面を全部見終わったときに、自分が感じた印象というのは、完璧だ、ということでした」

と講演でしゃべった速記が載っていました。さらにシンポジウムで秋山邦晴がその「ブラームス発言」に現代作曲家としては安易な発言だという疑義が発せられてそれに答える形で、詳しくは原文を当たって頂くとしていくつかの弁明をされたあと、

 ・・あの人が書いた旋律などを見ていると、今までなんとなく聴き流してし  まっていたけれど、その音をよく確かめてみると、そんなに単純な甘ったるい旋律というようなもんじゃないんですね。そこには確固たる、知的な構造がある。僕なんかがいちばん持ってないものを持っている。

と述べ、ソナタ1番アンダンテ冒頭のE♭とD♭が曲全体の構造に深く密接に関わってる点とリズムのセルがわずか4小節のなかで2小節ずつ生と死とも言える極端な対比を作っていることでその構造の卓抜さの説明をしました。

こんなブラームス解説はいままで読んだことはなく、もっと第1線の作曲家の方々に名曲解説をして頂き愛好家の蒙を啓いてもらいたいと思わせるとともに、1番の当方の印象もまんざらまちがっていなかったのがわかり、腑におちた、という気分になりました。

 しかしあのアンダンテの冒頭に生と死の対比を嗅ぎつけるこの武満の感性の鋭さにはとてもついて行けないものがあります。ブラームスの深い知性、芸の細かさにあらためて目を開かされました。
http://homepage3.nifty.com/fm-classic-live/023K.html


その美術館で、私は3冊ほど本を買い求めました。その中の1冊に、

『カメラの前のモノローグ 埴谷雄高・猪熊弦一郎・武満徹』(マリオ・A 著/集英社新書)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%81%AE%E5%89%8D%E3%81%AE%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B0-%E5%9F%B4%E8%B0%B7%E9%9B%84%E9%AB%98%E3%83%BB%E7%8C%AA%E7%86%8A%E5%BC%A6%E4%B8%80%E9%83%8E%E3%83%BB%E6%AD%A6%E6%BA%80%E5%BE%B9-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BBA/dp/4087200310

があります。これは外国人写真家がこの3人に試みたロング・インタビュー集です。

 そして武満徹さんはこんなことを言っていました。
このインタビューは’92年9月に行われていますから、武満さんが亡くなる’96年の約3年半くらい前ということになります。

 「最近、ブラームスに夢中になっちゃってて、皆に笑われてますけれども。
今頃、ブラームスがいい、って言うのか、って言われて。」

 「なんていうんだろう、あれだけの音楽としての骨格というか、構築力っていうの、作り上げる力、論理っていうのかな、とてもわれわれにはないもんだし。
それは、もしかしたらなくてもしょうがないことなんだけど。

でも今頃になって、僕はベートーヴェンとかバッハとかブラームスとか、そういう人たちの音楽の力っていうか、芸術としての力、決して古くなくって・・・それこそ、ブラームスは同時代人だ(笑)、とつくづくとそう思っていますね。」

 それを読んだ私は、私の周りがぱあっと明るく開けたような気持ちになりました。これは別にとても有名な人が言っていることを引用して、自分がやっていることを偉そうに正当化する気になったなどという愚鈍な話ではありません。私はこの言葉からとても勇気をもらった気がしたのです。自分は間違ったことはしていなかったのかもしれない、というほのかな希望のようなものを感じたのです。

 実は、練習を積んでいくうちに、私はこのブラームスの曲がとても好きになっていました。この「ピアノ三重奏曲 第一番」は1854年、ブラームスがなんと21歳の若さで作曲しています。その後、亡くなる6年前にあたる1891年、58歳の時に改訂され、現在ではこの改訂されたものが演奏されることがほとんどになっています。

 私が持っている譜面にはその両方が掲載されていますが、時をへだてて改訂されたものは、最初のものよりぐんと複雑で、大きな曲になっています。37年の間にコンチェルト、交響曲など数多くの作品を書いてきたブラームスの筆の力が集積されているようにも思われます。

 だからでしょうか、例えばここはピッコロが聞こえてくるとか、弦楽器が束になって響いているところだとか、金管楽器が高らかに歌っているところだとか、ピアノを弾きながら、私にはそんな風に感じられるところがたくさんあります。そしてつくづくピアノはオーケストラのようだと思わずにはいられませんでした。

 また、ブラームスは20歳の時に、リストやロベルト&クララ・シューマン夫妻に出会っています。そしてその年にシューマンは論説「新しい道」を書いて、ブラームスを新世界の巨匠として世の中に紹介しています。その翌年、シューマンはライン川に身を投じて一命はとりとめたものの精神病院に送り込まれますが、この頃からブラームスのクララ・シューマンへの想いは恋の情熱へと高まっていきます。

 そんなことを思い浮かべると、この曲の各楽章の流れ、全体を通して見た時の流れは、なんだかもう溢れ出るロマンティシズムと、期待、不安、喜び、失望などが交錯する色彩をにわかにおびてくるように感じます。揺れ動いている気持ちがそのまま音になっているような気さえしてきます。

そしてその時の自分自身を、37年後のブラームスが力強い筆で再構築している姿が見えてきます。作品全体を通した曲の流れ、揺るがない骨組み・構造力の強さ。メロディーの美しさ。ヴァイオリン、チェロ、ピアノの拍がずれながら屹立し、交錯する緊張感。ここのところでグッときちゃうのよと感じざるを得ないような持っていき方など、感嘆するところがたくさんあります。

それは細かく譜面をなめるように見ていけば見ていくほど感じたことでもあります。そういう意味では、私はまだ満足に弾けない箇所を残しながらも、音を拾う作業から、やっと少しずつ本当の譜読みの段階に入っていたのだと思います。なんとかここまできたぞ〜。って、遅過ぎる、か。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~kkyoko/tsukimiso/brahms.html

▲△▽▼

「武満徹 音楽創造への旅」を読んで
                     

とても分厚い本で(2016年2月刊)、頁の方も上下二段に分かれて細かい字がいっぱい詰まっており、つい読書意欲が萎えてしまうが、いざ読み始めてみるとこれがとても面白くて興味深い内容。

読み進むにつれて段々と武満氏の天賦の才が露わになってくるように感じてきて思わず慄きを覚えてしまった。この人は稀に見る天才だ!


名前だけはよく聞くものの、武満氏(1996年没)の音楽はまだ聴いたことがないので、ここはひとつ腰を据えて聴かねばなるまいという気にさせられた。

もっとも映画音楽の方はそうとう作曲しているようで、たとえば黒沢明監督の代表作「七人の侍」の音楽担当は周知のとおり「早坂文雄」氏だが、仲良しだった武満氏も参画しており木村功と津島恵子の絡みのシーンなどを部分的に担当しているそうだし、石原裕次郎の最初の主演作「狂った果実」の音楽も担当しているというので二度ビックリ。

クラシック音楽との関連では、メシアン、ウェーベルンなどの近代の作曲家の影響を多大に受けており、いわゆる古典ロマン派の音楽家たちとは無縁のようだが珍しくブラームスとモーツァルトの音楽に言及する箇所があったので紹介してみよう。


☆ ブラームスの「クラリネット・ソナタ」(604頁)

「最近ブラームスの音楽に急に目覚めましてこの人は凄いと思うようになった。〜中略〜。

晩年の室内楽、たとえば作品120のクラリネット・ソナタなんか聴くと旋律一つの中に本当に大きな世界がある。人生そのものがそこにあるという感じになってくるんです。実に見事な構造をしています。

真ん中のゆっくりした楽章にアダージョですけど非常に長い旋律がある。その最初の二小節と次の二小節が完全なコントラストになっている。

はじめの二小節はこうで(口ずさむ)、次の二小節はこうなんです(口ずさむ)。初めの方は生命感に満ち溢れているのにあとのほうは明らかに死を思わせる。

ひとつの旋律の中に生と死が見事に構造化されている。生の後ろにいつも死があるのが見える。生と死の二つが弁証法的にからんでいって、最後の方になってくると、生も死もない途方もないところに突き抜けるんですね。生死を超越した宗教的といってもいいような非常に高いところに抜け出ている。

素晴らしい音楽です。ある意味では実に単純な構造だけど、同時に実に複雑でもある。聴いていてすごく心が励まされる曲です。やはり音楽はここまでいかなきゃダメなんじゃないかと思いました。」


☆ モーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K.364」(741頁)

「最近生まれてはじめてモーツァルトのヴァイオリン・・・を聴いてビックリしました。素晴らしいですね。典型的なあの時代の様式の曲だけど時代の古さなんてまったく感じさせない。新鮮でした。ちょっとショックを受けました。

長い間音楽をやってきて自分ではオーケストラのことがかなり分かったつもりになっていて“オレのオーケストレーションもなかなかうまくなったな”なんて思いはじめていたんだけど、とんでもない。あれを聴いたら、自分はまだまだオーケストレーションが何もわかっていなかったじゃないかと思って2、3日ショックでした。〜中略〜

モーツァルトの音楽は表面的な外観とかロジックではとらえきれないものを持っている。ブラームスなんかにしてもそうですが、ああいう人たちは長い音楽生活の中で濾過されて出来上がった直感力というか西洋音楽の伝統に鍛え抜かれた信じられないような直感力を持っていて、それでもってああいう美しいフォームを作れるんですね。ただ一本の旋律だけ見ても実に単純にして、しかし同時に複雑な内容をもった見事に美しい曲を書いてます。

モーツァルトというのは音楽が頭から流れるままにスラスラ書いて作曲の苦労なんかまるでなかったみたいにいう人がいるけど、この間、モーツァルト学者の海老沢敏さんにちょっと話を聞いたら、そうじゃなくて非常に緻密にスケッチをとったりしているというんですね。やっぱり単純なものの背景に鍛え抜かれたものがあるんですね。」
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/0c544a7135c52c1b154be5de51f1dc83


武満徹・音楽創造への旅 – 2016/2/20 立花 隆 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A6%E6%BA%80%E5%BE%B9%E3%83%BB%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E5%89%B5%E9%80%A0%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%97%85-%E7%AB%8B%E8%8A%B1-%E9%9A%86/dp/4163904093

▲△▽▼

brahms Clarinet Sonata No. 1, Wlach & Demus (1953) ブラームス クラリネットソナタ第1番 ウラッハ&デムス - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=84vFArQzQHM

brahms Clarinet Sonata No. 2, Wlach & Demus (1953) ブラームス クラリネットソナタ第2番 ウラッハ&デムス - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JrhqxXdjI6w

Brahms: Clarinet Sonata in F minor, op 120
cl: Reginald Kell pf: Mieczyslaw Horszowski
http://www.youtube.com/watch?v=c-wYtDLhvkE


brahms Clarinet Trio, Wlach & Kwarda & Holetschek (1952)
ブラームス クラリネット三重奏曲 ウラッハ&クヴァルダ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uY1KOvnNicI

Reginald Kell, Louis Kentner, Anthony Pini play Brahms Trio (R.1941) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1G79z6SGaFc

brahms Clarinet Quintet, Wlach & Vienna Konzerthaus Quartet (1952)
ブラームス クラリネット五重奏曲 ウラッハ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5rKJCFg3yn4

brahms Clarinet Quintet in bm-Op115-Lener Quartet & Charles Draper - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=K570sk82hNc


Brahms - Clarinet quintet - Kell - Busch live - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QnDjbisYdoM
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/717.html#c2

[リバイバル3] ヒヤリ・ハット体験 _ スキー事故で半身不随になりたくなかったら… 中川隆
39. 中川隆[-14875] koaQ7Jey 2019年11月17日 00:38:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1965]
スノボ滑落事故【衝撃動画】Japanese snowboarder was fatal crush



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/778.html#c39
[リバイバル3] 剱岳行方不明 _ 19歳の妹が9/8の日曜の夕方から行方不明です。何か情報をお持ちの方よろしくお願いいたします。 中川隆
62. 中川隆[-14874] koaQ7Jey 2019年11月17日 00:41:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1964]
スノボ滑落事故【衝撃動画】Japanese snowboarder was fatal crush




ロッククライミングの落下動画



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/992.html#c62
[リバイバル3] 富士山登山を「ニコ生」中継中に滑落か 救助隊が捜索 中川隆
71. 中川隆[-14873] koaQ7Jey 2019年11月17日 00:46:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1963]

【高画質フル】富士山 ニコ生主 ライブ配信者滑落死亡 この自爆事故から我々が学ぶこと



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1012.html#c71
[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
59. 2019年11月17日 08:56:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1962]
エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c59
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
1. 中川隆[-14872] koaQ7Jey 2019年11月17日 09:07:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1961]

テオ・アンゲロプロス 永遠と一日 1998




 1)  「そのとき、全てが、時が止まる」

 
 海辺の家。

 
 「アレクサンドレ、島へ行こう」

 「どこへ?」

 「島だよ。海の底で古代都市を見て、島で崖に登って、沖を船が通ったら叫ぶんだ」

 「古代都市?」

 「お祖父さんの話さ。昔、幸福な町が地震で沈んだ。何世紀も海底で眠っている。明け方の星が地球と別れを惜しむ朝、一瞬、古代都市が海の上に出てくる。そのとき、全てが、時が止まる」

 「時って?」

 「砂浜でお手玉遊びをする子供、それが、時だってさ。来るだろ?」 


 アレクサンドレ少年がベッドからそっと起き、白いサンダルを両手に持って、こっそり寝室を出て行った。 



 2)  重苦しく、沈鬱な心


 北ギリシャの港町、テサロニキ。海の見えるアパートの一室で、少年の日の夢から醒めた詩人


 「今日が最後の日だ」

 「明日、病院へお供させて下さい」

 「ウラニア、辛く考えるのはよそう。終わりはいつもこんな風だよ」

 思いつめたようなウラニアは、アレクサンドレに部屋の鍵を手渡した。

 「三年間、本当にありがとう。私一人ではどうなっていたか」


  「私の心残りは、アンナ・・・君は分るよね。私は何一つ完成していない。あれもこれも下書き・・・言葉を散らかしただけだ・・・」



 3) 別れ  


アレクサンドレは、一人娘のカテリーナのアパートに立ち寄った。愛犬を預け、別れの挨拶をしに来たのである。アレクサンドレは同時に、三年前に死んだ妻の手紙を娘に渡した。

 娘はその中から、一通の封筒がない手紙に眼を留め、それを読み始めていく。

 「『1966年9月20日』。“私の日”だわ。ママがいつも話していた」

 娘は手紙を読み始めた。

 「私は眼が覚め、あなたは寝ていた。夢を見てたの?アレクサンドレ・・・
あなたの手が私を捜すように動き、瞼が震え、あなたはまた眠りに落ちた。
あなたの眼から、涙のような汗が一滴転がり落ちた。傍で赤ちゃんがむずかった。
ドアがきしんだ。私はベランダに出て、そっと泣いた」


 30年前の夏の日の回想


 「海辺の家」で、若妻のアンナは泣いていた。

 「本のことしか考えないのね。いつになったら二人になれるの。私には飛び去らないように、ピンで刺し止めたいほど大事なときだった・・・

 海辺の家から書いてます。もうろうとして、温かいミルクとジャスミンの香りの中で、私はあなたに話しかけ、近づき過ぎるとあなたは抵抗する。私があなたを脅かした?ただの恋する女なのに・・・

 夜、あなたを見ていた。寝てるの、黙ってるの?考えているあなたが怖い。沈黙に割り込むのが怖い。だから私は体で、私は傷つきやすいと伝えた。それが私の唯一の方法だった。私はただの恋する女よ、アレクサンドレ・・・

 私は裸で砂浜を歩いた。風が吹いて、沖を船が通った。まだ寝ているあなたの温かみに包まれて・・・でも、あなたは私の夢を見ていない。ああ、アレクサンドレ。私を夢見ていると一瞬でも思えたら、嬉しくて泣き出すわ・・・」


突然、浴室から娘の夫が表れた。

 「海辺の家は売ることにしました。明日から解体が始まります」

 アレクサンドレは娘に別れを告げて、愛犬を預けることなく街の中に出て行った。


 老人はゆっくり立ち上がり、海辺を彷徨(さまよ)い歩く。

 「どこだ、アンナ?島か、アンナ?」


30年前の夏の日


 島へ向かうヨットの中で、若者たちが踊り回っていた。その中にアレクサンドレがいて、母に寄り添って行く。

 「お前のお父さんの夢を見るの。それも毎晩。今、いてくれたら。あんまり急だったから。お前はまた旅だったし・・・いつも遠くにいるね。お父さんを信じない子で、傷ついていたよ」


 青く輝くギリシャの海。アンナは夫に語りかける。

 「何考えてるの?」
 「崖に登る」
 「裏切り者!」
 「なぜ怒る、アンナ。すぐに戻る。頼むよ、すぐに戻る」
 「裏切り者!」


 それでもアレクサンドレは、単身崖に登って、沖を行く船を大声で呼び、白いハンカチを振った。



 4)  呻きを捨てた老詩人


 アレクサンドレは母の病院を訪ねた。


 「お母さん、なかなか来られなくて・・・次々に用ができてね。お母さん、お別れに来ました。明日、発ちます」

 母は静かに立ち上がり、ゆっくりと窓のカーテンを開け、息子の名を呼ぶのだ。

 「アレクサンドレ、ご飯ですよ」
 「今、行きます」


 息子がそう答えたとき、映像はまた、あの夏の海辺の風景を映し出していく。しかしこの記憶を遡る旅は、雷鳴が轟き、驟雨が襲い来る場面を再現した。急いで避難する親戚たち。

 アレクサンドレは妻を探しに、浜辺へ向かった。濡れ鼠になった妻がそこに待っていて、二人は激しく抱擁しあった。
 
 再び母の病室。

 アレクサンドレは、倒れ込む母を抱えて、ベッドに寝かしつけた。
 
 「お母さん。なぜ、願うことが、願いどおりにならない?なぜです。なぜ我々は、希望もなく、腐っていくのか。苦痛と欲望に引き裂かれて、なぜ私は、一生よそ者なのか。

ここが我が家と思えるのは、稀に自分の言葉が話せたときだけ。自分の言葉・・・失われた言葉を再発見し、忘れられた言葉を沈黙から取り戻す。そんな、稀なときしか、自分の足音が聞こえない・・・
なぜです?・・・教えて下さい。なぜ、お互いの愛し方が分らないのか?」




 5) さざなみ寄せる海に向かって叫ぶ老詩人


 アレクサンドレは、廃墟と化した海辺の家に立ち寄った。 亡き妻アンナの声が聞こえてきた。

 「海辺から、あなたに何度も、何度も、手紙で話しかける。いつかこの日のことを、思い出すときがあったら、覚えていてね。夢中になって、あなたを見ていた眼・・・夢中であなたに触れた指・・・震える思いで、私は待っている・・・なぜって、今日は私の日」
 
 外の海辺には、親戚たちの歌声が、アコーディオンやギターの伴奏に乗って聞こえてきた。

 「アレクサンドレよ」

 「踊りましょう。踊るのは嫌いでも、今日は私の日」


 「アンナ、病院に行くのは止めるよ。病院には行かない。行かないよ。明日の計画を立てよう。

明日・・・明日って何だ?
いつか君に聞いた、“明日の時の長さは?
”君の答えは?」


 「永遠と一日」

 アンナは小声で囁いた。囁いた後、静かに夫から離れていくアンナ。

 「聞こえない・・・何と言った?」

 「永遠と一日!」

 
 「アンナ。私は今夜、向こうへ渡る。言葉で君をここに連れ戻す。

全ては真実で、全てが真実を待っている。私の花・・・よそ者・・・私・・・とても遅く・・・」


 「アレクサンドレ!」

 どこかで、自分を呼ぶ妻の声が聞こえてきた。
 
http://zilge.blogspot.com/2008/11/blog-post_02.html



テオ・アンゲロプロス

「わたくしは、イタリアの有名な俳優、ジャン=マリア・ヴォロンテの最後の日々を一緒に過ごしました。つまり、彼は死んだ時、わたくしの前回の作品『ユリシーズの瞳』の撮影に入っていまして、最後の日々を私は一緒に撮ったのです。彼が死んでいるのを発見したのは私でした。その時、本当に衝撃を受けたし驚きました。しかし、その衝撃や驚きを超えて、1つの疑問が私の心の中に浮かび上がりました。

あと1日しか生きられないとしたら、その日なにをするかという疑問です。そうやって人生最後の日に人は、どのように歩くのか、どのようにコーヒーを飲むのか、どんなことが頭の中に浮かび上がってくるのか。たった1日の時間の中に過去、現在、未来が収縮したときにどのようなことが起きるのかと考えたのです。


この映画のはじめに子供たちが時間について話します。1人の子供が「時間がない」「時間とはなにか」という質問をします。そして時間についての話が始まるのですが、時間とはお爺さんの話によれば、砂浜でお手玉遊びをする子供、それが時間だ、時だと答えます。これはヘラクレイトスが時間についておこなった定義です。そしてこの映画の最後に、これは、はっきりとは言われてなくて、暗示されているだけですけれど、もう1つの古代ギリシャの哲学者の時間の定義でこの映画は終わっています。それは時間は存在しないということ。

この映画のラストのカットでは3つの時間が同時に存在しています。この3つの次元、過去、現在、未来というのは、西洋哲学の中にある分類です。この3つの過去、現在、未来はこのカットの中に同時に存在しているのです。主人公である彼は現在にいながら過去を生き、そして未来へと呼びかけをしているのです。同じ平面で彼はこの3つの時間を生きているわけです。すなわち、この3つの次元は別々のものとして本当は存在していないのです。現在のみが存在しているのです」


質問者

「同じ、ワンカット、ワンショットの中には、今おしゃったことはエッセンスでしょうけど、その前に妻のアンナが出てきてますよね。それでアンナは消えていくんですけれども、そこには幻想のアンナも実際生きた姿で出てきているのでしょうか」


テオ・アンゲロプロス

「アンナは他の所にも出てきています。確かにアンナは過去からの呼びかけであって、過去の呼びかけによって現在に存在しているのです。

彼の方は現在に存在しています。そして未来へ呼びかけます。そうすることによって、未来が現在になるというわけです。

あの、アジア、仏教の考え方だと聞いたことがありますが、アジアでは違った時間の概念があると聞いたことがあります。過去、現在、未来という3分類の時間は存在せず、全てが現在である。現在しか存在しないという話を聞いたことがありますが、それは間違いでしょうか」

http://www.werde.com/movie/interview/eoniotita.html




「テオ・アンゲロプロス監督インタビュー」
(「キネマ旬報・1999年4月上旬春の特別号」より)


 「―― 今回の『永遠と一日』で、あなたの映画のまなざしの核になったものは何でしょう。


 ―― 『自分自身に対するまなざし、だと思う。自分の人生を振り返って、自分という人間を見つめる、そのまなざし。

映画の中で、主人公のアレクサンドレが30年前の妻と出会う時、本人は現在の姿のままなのは、今の自分で昔をみていることなんだ。けっして若返ったりせず、つまり、現在と過去は必ず一緒にいるんだよ。

今の自分の上に過去が重なって来て、そうするうちに自分のイメージも混沌としてくるというのかな』


 ―― 今回の主人公アレクサンドレは、詩人として作家という設定ですね。その彼が、不治の病を得て、過去の自分の仕事を振り返る時、『今までの作品は全て下書きにすぎない』と吐き捨てるのはとても痛切ですが。

 ―― 『僕自身、そう感じることが多いからね。これまで、数多くの映画を撮ってきたけど、本当にそれらは下書き、あるいは下書きの一部を出したにすぎないんじゃないな、と。その時の自分の考え、感じたことの一部のみが表現されているにすぎないと思うんだよ』」

http://zilge.blogspot.com/2008/11/blog-post_02.html



この映画には回想シーンが大量にあります。しかしながら、回想の仕方が普通の映画とは違うのです。普通の映画であれば、回想シーンに「現在の自分」という視点は希薄なものです。老人の若い頃の思い出の中には、若かりし頃の自分がいて当然。現在の自分にとっての「過去の自分」を振り返る。それが普通の「回想シーン」です。ところがこの映画における「回想」は違うのです。主人公である「国民的巨匠詩人」の老人の回想、それはあくまで「現在の自分と、その他の物事の過去」を思い描くだけなのです。それは回想の内にあってただ一人自分だけが現在の姿で描かれることによって表現されます。

 そう、とにかく自分だけは常に現在の姿をしているのです。回想シーンではどうやら体力や健康状態は当時の状態になっているようではあります。が、そんなことはどうでも良いのです。主人公にとっては、自分自身はあくまで特別な存在なのです。そのことが〜この映画に慣れると〜ありありと分かります。そしてこのことは、主人公が現実の世界に戻って来たその時に主人公を責めさいなむのです。国民が敬愛する巨匠としての立場も、親としての立場も、彼にとってはただただ虚しいものであり、自分の居場所を何処にも見出せなくなってゆくのです。

 ラストシーンで主人公は朽ち果てた海辺の生家に訪れます。生家はその日の内に取り壊され、売り払われてしまうことが決まっています。この海辺の生家には、庭から砂浜へ延びるスロープがあって、その先端にはちょっとした日除付きの展望台があります。これの庭からの眺めは、恐らく主人公にとってはもっとも懐かしく思い出深いものであり、冒頭のシーンから何度も何度も在りし頃の美しい姿のままで描かれてきていました。それが、このシーンでは朽ち果てています。朽ち果てているのは他の部分も同じではありますが、衝撃の度合はまるで違うのです。それを演出したのは、この映画にとって最後の回想、いや幻想でした。

 海の方から聞こえてくる音楽に誘われて庭に出てみると、そこには前述の通り朽ち果てた「思い出」が横たわっています。そして、そのさらに向う側には、若かりし頃のままの姿の家族達が何事もなかったかの如く穏やかにダンスを踊っているのです。そう、このシーンはそれまでのような回想ですらないのです。主人公が求めて止まないもの、そして、かつて無意識の内に我が身から遠ざけていたモノが、全てを失った「今」そこにあるのです。しかし、それはあくまで幻想でしかないのです。しかし主人公は、それを幻想と知りながらも受け入れるのです。あまりにも異常なその情景は、見ための上ではどこまでも穏やかであるにも関わらず、根底にあるすれ違い続けた愛情と悲しみの激流を感じさせるのです。

 やがて親戚一同は、スクリーンに映る画面から出て行くことにより物語の世界自体から去って行きます。主人公には彼らを押しとどめる術はありません。やがて最後に残った彼の妻が消え去らんとするとき、主人公は尋ねます。明日とは何か、と。そしてもはや消え去ってしまった存在である妻の声だけがそれに答えるのです。明日とは、永遠と一日だ、と。

http://ne.cs.uec.ac.jp/~ichimal/movie/m0003.html




一日であり、永遠である、「白」


「死」を前にした詩人アレクサンドレは、これからおそらく凄絶な人生を歩んでいくであろうアルバニア難民の少年に「生」の残酷を見る。「死」へ向かうアレクサンドレの最後の「生」の一日を、この同情すべき少年と過ごしながら、彼は自身の半生を旅していく。少年時代、妻との日々、世の常というもの、今日という日に出会った少年との交流、自由、後悔、逡巡――。

 そして、彼の周りは真っ白になった。その白の中、黒いコートを着た彼は幽鬼のように歩くのだ。

 画の中の「白」は豊潤な「詩(ことば)」を湛えていた。世の営みにおけるすべての喜び、哀しみ、嘆き、怒り、諦観。すべてが生であり、同時にすべての死であり、そして時間の流れであり、また止まってしまった時間である、この「白」の中で、男は喪服のような黒を纏って彷徨う。『永遠と一日』というタイトルを感覚的に理解させる、アンゲロプロスの力技をまざまざと見せられた瞬間だった。

 少年のアレクサンドレがあたかも産道を通るかの如く身を縮めて階段を下り、外界の大海へと繰り出していく。人生のスタートを象徴するシーンだ。それから時は流れ、溌剌とした時代は過ぎ、もはや自らの死を肌で感じ取っているアレクサンドレは、見知らぬ向かいの部屋の住人と音楽で交流する寂しい老い人となる。妻のアンナは数年前に亡くなっており、たった一人の血縁の娘を頼るも婿には冷たくされ、思い出のつまった海の家まで売ったと言われる。婿の機嫌を伺うばかりで、父の忘れ形見となるであろう犬すら預かれない娘には、それを止める術はない。大切に思っていたものが、一枚一枚、彼から剥ぎ取られていく。

 この寂寥の中、アレクサンドレは難民の少年と出会う。病に冒された老人にとっても、過酷な運命を背負う少年にとっても、もしかしたら「最後の生の一日」になるかもしれない刹那を、彼らは共に過ごす。超えても超えようとしても死が待つであろう絶望の国境。子どもの溺死体があがった海。生きなければならない少年と、生きることを拒まれた難民仲間の少年の死体が収められた霊安室。―― いずれも白い。今日の出来事でありながら、すべては生と死の境にある彼らにとっては「明日」かもしれない。そんな混沌や不安がこの白に収斂されているように思った。

 静謐なトーンの画がほとんどであるが、それはアレクサンドレの覚えている妻の「生」の手触りそのものなのだろう。はちきれんばかりの肉体を弾ませ、匂いたつような色を湛えて、全身で「愛している」と叫ぶアンナは異彩を放ち、さながら美神のような輝きがある。だが、遺された手紙から、そんなアンナのどうしようもない孤独を知ってしまうと、イメージの中の彼女はどんどん翳っていく。そこではじめて彼は近くにいたと思っていた妻を遠くに感じる。

「確かなものなど何もなかったのか」――

 詩人である彼は、それを確かめるべく、残酷な生を背負った少年と彼の一日を辿り、言葉を売る詩人である自身の存在否定ともなる「言葉買い」をする。そして少年と乗ったバスの中で、これまでの彼の生き様が音楽に乗って繰り広げられていく。それらを見て、顔を合わせ、静かに微笑みあう二人の至福の表情。忘れられないほど印象的な微笑だ。

 すべてが終わると、現在・過去・未来を象徴する黄色い雨合羽の自転車乗りが、彼らの乗ったバスを追い越していく。蝶が花々を渡っていくと、その花が次々に開いていくかのような華やかなイメージが連なる、映画史上に残る名シーンといってよいだろう。

 「コルフーラ(私の花)」「クセニティス(よそ者)」「アルガディニ(とても遅く)」―― ラストカットで泣きながらアレクサンドレが彼岸に叫ぶこれらのキーワードは、アレクサンドレのそれまでの人生を象徴するものだ。

アレクサンドレは幸運にも詩とアンナという(私の花)を持っていた。だが、詩にもアンナにも自分は(よそ者)であった。本質が見えず、ほんとうに大切なものに(とても遅く)に気づいたのだ。

もう、今日という日には叶わないこの三つがひとつの環に唱和されたとき、海の向こうから幼い頃に呼ばれたものと同じ懐かしい声を聞く。「アレクサンドレ、アレクサンドレ、アレクサンドレ……」

 そして彼は、この世もあの世も超えて総てを象徴する「白」へと溶け込み、彼の明日という日は「一日」であり「永遠」となる。

 この映画はどの画からも、もちろんどの台詞からも詩情が溢れている。それは痛いほど哀しく、残酷で、そして泣きたいほどに美しい。東京国際フォーラムにて「アンゲロプロス映画祭」が開かれるが、もちろんそこでも本作は上映される。言葉と映像が、芸術という形に昇華された、誰にも真似ができない、映画芸術の最高傑作に触れられる幸せを是非スクリーンで噛みしめたいものである。
http://intro.ne.jp/contents/2005/04/26_0025.html





http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c1
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
2. 中川隆[-14871] koaQ7Jey 2019年11月17日 10:00:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1960]

テオ・アンゲロプロス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AD%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B9


テオ・アンゲロプロス(Theo Angelopoulos)ことテオドロス・アンゲロプロス(ギリシャ語:Θόδωρος Αγγελόπουλος、Theodoros Angelopoulos、1935年4月27日 - 2012年1月24日)は、ギリシャ・アテネ出身の映画監督。



1935年、アテネで生まれ、子どもの頃に第二次世界大戦や1940年代後半の国内の政情不安を体験。アテネ大学法学部を卒業後、兵役を経てフランスのソルボンヌ大学、高等映画学院に留学。帰国後は映画雑誌で批評活動を4年間展開した後、1968年に短編ドキュメンタリー映画『放送』を自主製作して映画監督としてデビュー。

1970年に初の長編作品『再現』を監督した後、ギリシャの現代史を題材にした3部作『1936年の日々』(1972年)、『旅芸人の記録』(1975年)、『狩人』(1977年)を発表し、世界的な名声を獲得する。1980年に『アレクサンダー大王』でベネチア国際映画祭金獅子賞を、1988年に『霧の中の風景』でベネチア国際映画祭銀獅子賞を、1995年に『ユリシーズの瞳』でカンヌ国際映画祭審査員特別賞を、1998年に『永遠と一日』でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞[1]。

「20世紀三部作」の第1部『エレニの旅』(2004年)においては、舞台をバルカン半島以外にも広げ、新たなる展開を示した。20世紀三部作は、当初『トリロジア』という題名の1本の長編となる予定であったが、上映時間が膨大になりすぎるため、三部作として製作されることとなったという[2]。2009年に第2部『エレニの帰郷』を発表。第3部『THE OTHER SEA(もう一つの海)』の撮影中だった2012年1月24日、アテネ郊外のトンネル内でオートバイにはねられて頭を強打し、運ばれた先の病院で死亡した[3]。享年76。



監督作品

放送 Εκπομπή(1968)
再現 Αναπαράσταση(1970)
1936年の日々 Μερες του '36(1972)

旅芸人の記録 Ο Θίασος(1975)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E8%8A%B8%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2

狩人 Οι Κυνηγοί(1977)

アレクサンダー大王 Μεγαλέξανδρος(1980)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E5%A4%A7%E7%8E%8B_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

シテール島への船出 Ταξίδι στα Κύθηρα(1984)
蜂の旅人 Ο Μελισσοκομοσ(1986)

霧の中の風景 Τοπίο στην ομίχλη(1988) 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E9%A2%A8%E6%99%AF

こうのとり、たちずさんで Το Μετέωρο βήμα του πελαργού(1991)
キング・オブ・フィルム/巨匠たちの60秒 LUMIERE ET COMPAGNIE(1995)オムニバスの一編

ユリシーズの瞳 Το Βλέμμα του Οδυσσέα(1995)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AE%E7%9E%B3

永遠と一日 Μια αιωνιότητα και μια μέρα(1998)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%A8%E4%B8%80%E6%97%A5

エレニの旅 Τριλογία 1: Το Λιβάδι που δακρύζει(2004)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%8B%E3%81%AE%E6%97%85

それぞれのシネマ 〜カンヌ国際映画祭60回記念製作映画〜/3分間 Chacun son cinéma / Trois minutes(2007)オムニバスの一編

エレニの帰郷 Η σκόνη του χρόνο(2009)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%8B%E3%81%AE%E5%B8%B0%E9%83%B7



出演作品
テオ・オン・テオ THEO ON THEO(2004)ドキュメンタリー

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AD%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B9


▲△▽▼


ギリシャの芸術家の名前って、皆様は、どれくらいご存知ですか?

「まあ、彫刻家や音楽家は名前が伝わっていないけど、文学関係なら、有名なホメロス、それに3大悲劇詩人のエウリピデス,ソフォクレス,アイスキュロス、喜劇のアリストファネス。別の方面?でも有名なレスボス島の女流詩人のサッフォーとか・・・」

まあ、出て来る名前って、こんなところでしょ?
これらの名前は全員古代の人ですよね?それ以降のギリシャの芸術家の名前は?

こうなると途端に出てきませんよね?
アレキサンダー大王以降のギリシャの芸術界は一体何やっていたの?
2千年以上もサボっていたの?

ギリシャ人も、かつては、すばらしい芸術家を輩出したのに・・・遺伝子的にレヴェルが低いわけではないでしょう?
だって、かつては立派だったんだし・・・

それに、16世紀のスペインの画家に、その名も「ギリシャ人」という名前のエル・グレコというギリシャ系の人もいます。ギリシャ人もギリシャ以外の国では活躍しているわけ。

どうして、ギリシャ国内では芸術家を生み出さなくなってしまったのでしょうか?

このように芸術家を産まない国や地域ってありますよね?
日本のお隣の朝鮮半島の芸術家の名前って、ご存知ですか?
中国の芸術家の名前なら、世界史でいやというほど覚えさせられましたよね?
詩人だけでも李白、杜甫、白楽天、孟浩然・・・ああ!!思い出したくも無い、勉強ばかりのあの日々!?

しかし、朝鮮半島の芸術家の名前って、出てきませんでしたよね?

あるいは、イスラム圏の芸術家の名前って、出てきますか?
イスラムでは歌舞音曲を禁じているはず。絵画もダメなの?文学だって禁じているのかな?

「テメエらは、コーラン読んでりゃ、ええんや!」なの?

しかし、ペルシャにはイスラムとは異質なキャラクターの詩人のオマル・ハイヤームという人もいました。別に遺伝子的に芸術とは無縁の人というわけではないんですね。どうしてイスラムの下では、芸術家が出なくなってしまったのでしょうか?

これらの国や地域の経済的な問題なの?
しかし、どのみち、創造的な芸術家がその作品でお金儲けをできるわけもないことは歴史的な現実。芸術家というものは死んでから認められるものでしょ?
芸術作品を制作すると言っても、文章を書くのは費用がかかるわけでもないので、「その気」になりさえすれば、できることでしょ?

芸術家の絶対数が少なく、多くの人が芸術家との接触することが少なかったから、芸術作品を作る意欲や発想が起こらなかったの?
しかし、例えばギリシャなどは様々な芸術家が訪れていますよね?
それにギリシャ人も外国に出てみればいいじゃないの?
韓国人だってそう。中国に行けばいいだけ。その気になれば、様々な芸術家との接触は可能なんですね。

では、これらの国や地域が何故に、芸術家を生み出さなかったのでしょうか?

それはそれらの人々がダメダメだからですね。

「悪いのは全部アイツのせいだ!」

そのような発想なので、自分自身を厳しく見つめることをしないわけ。自分自身から目をそらしているような人間が、芸術家になれるわけがありませんよ。

職業としての音楽家や物書きや絵描きにはなれるかもしれません。しかし、そんな自分自身から目をそらすような人間は、永遠に届くような作品を生みだす「芸術家」になれないわけです。

別の言い方をすると、自分から逃避してしまっているので、仕事にはなっても、使命にはなっていないわけ。

今回の文章で取り上げる映画はギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロス監督の75年の作品である「旅芸人の記録」という映画です。テオ・アンゲロプロス監督は現在における最も厳しい精神の「芸術作品」を作る監督です。まあ、映画の分野において、芸術性では3本指には確実に入るような大芸術家。

しかし、ギリシャという芸術不毛の地で、どうしてアンゲロプロスのような芸術的な映画監督が出現したの?

また、彼は、どのようにして、芸術家不毛の地から芸術作品を生み出すような芸術家になったの?

アンゲロプロスは自分自身の「内なるギリシャ」、つまり自分の中の「内なるダメダメ」を厳しく見つめ、それを克服していったわけです。今回取り上げる「旅芸人の記録」という作品は、ダメダメなギリシャ人の一員であるアンゲロプロスの心の中に巣食う「ダメダメな部分」を白日なところにさらしているわけ。その過程があったがゆえに、近年のアンゲロプロス監督作品の「人間と人間のコミュニケーション」「人間の再生への希望」を語る豊穣な作品群が生み出されることになったわけです。

では、彼の作品「旅芸人の記録」の導きに従って、ギリシャ人のダメダメな面・・・これは呆れるほど韓国やイスラムにおけるダメダメな面と共通しています・・・を見てみることにいたしましょう。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という作品は1939年から1952年のギリシャを舞台に、「羊飼いの少女ゴルフォ」というお芝居を上演している旅芸人の一座を描いた映画です。事件を時系列的に追った映画ではありません。

一座がそのお芝居を上演しようとすると、当時のギリシャの様々な情勢によって、途中で上演がストップしてしまう・・・そんな映画です。

つまり「羊飼いの少女ゴルフォ」の上演という「まがりなりにも」芸術活動と言える活動がジャマされていくことについての映画といえるわけです。
「ギリシャにおいて何故に芸術が育たないのか?」そのような問題意識が反映しているわけですね。

この映画について、日本の3文映画ライターが「激動のギリシャ現代史を語る映画」などと解説したりしていますが、現代史ではないんですね。もし、現代史を語るつもりなら、登場人物の名前をもっと現代的にするでしょう。

この「旅芸人の記録」という作品での登場人物の名前はエレクトラとかアガメムノンなど、昔のギリシャ人の名前です。そして起こっている事件も、昔から何回も繰り返されているような事件。つまりそれだけアンゲロプロス監督は「いつまで経っても変わらない」ギリシャを描きたいわけです。

それに現代史を描くつもりなら、事件の配置を時系列的にしますよ。歴史を描くつもりが無いから、事件の時系列を無視しているわけです。まあ、それがわからないからこそ、「映画ライター」なんでしょうが・・・

さて、この映画に従って、ギリシャのダメダメやダメダメ家庭の問題というより、もっと一般的な意味でのダメダメ精神の事例を以下に列挙いたします。


1. 働かない・・・ギリシャ人は働かない。この4時間の映画で、働いている人はレストランのウェイターくらい。労働者が「資本家打倒!」と言うのはいいとして工場で働いているシーンはない。「労動者ならまずは労働しろよ!」と言いたいところ。

また、資本家も工場を経営したり、外国と貿易を行うというそぶりもない。とにかく働かない連中なんですね。さすがに韓国では働いているシーンは出てきますが、イスラム圏でも働いているシーンって出てこないでしょ?商店で働いている人は多少出てきますが・・・イスラム圏の工場って見たことありませんよね?やっぱり働かない連中なんですね。


2. 政治好き・・・経済的な面では意欲がない連中ですが、政治には熱心です。「悪いのは全部政治が悪いせいだ!」などと思っていたりするので、やたら政治には熱心なんですね。この映画でもデモ行進のシーンが多い。あるいは政治議論も活発です。

個々の人間が政治について確かな見解を持つことは必要でしょう。しかし、問題の全部を政治のせいにしてもねぇ・・・しかし、デモのシーンはイスラムでも韓国でもおなじみですよね?そして、この手の人は、政治論議が好きでも、実際に政治に携わって、現状を改善しようとはしないもの。ただ、「ダメな政治のせいで、うまく行かない。」という理屈がほしいだけ。


3. 会話がない・・・登場人物の皆さんは、とにかく人の話を聞かない。4時間にもわたる映画なのに、会話のシーンがない。どちらかが一方的に言っているだけ。人の話を聞くという習慣がなさそう。


4. 被害者意識・・・何かと被害者意識が出て来る。『イギリスには裏切られた!』『国王には裏切られた!』とか・・・「ああ、オレ達って、何てかわいそうなんだ?!」そして相手を恨むわけ。


5. 当事者意識がない・・・被害者意識があるのに、当事者意識がない。「じゃあ、アンタはギリシャという国をどうしたいの?」と言われても答えられない状態。ただ、相手を恨んでいるだけなんですね。イスラムや韓国でもこんな感じですよね?


6. 内部分裂・・・ギリシャ人の内輪もめは、それこそ紀元前のアテネとスパルタの戦争など、いつもやっているようです。「イギリス人はギリシャから出て行け!」と本気で思っているのなら、ギリシャ人が結集して、イギリス人を追い出せばいいじゃないの?

ところがこの映画では内輪もめのシーンばかり。ギリシャ正規軍とイギリス軍が戦うシーンなどは全然なくて、いつもギリシャ人同士で戦っているんですね。同じようにイスラムだと宗派対立などが出てきますよね?
韓国だと地域対立とか・・・彼らがまとまるのは「○○大嫌い!」それだけなんですね。


7. こびへつらい・・・この映画で出て来るギリシャ人は、強きにこびへつらい、弱い人には威張っている。そのような権威主義なのもダメダメの特色の一つですね。落ちたイヌだけを叩こうとするのがギリシャ人の特色のようです。まあ、これはイスラムや韓国も同じですが・・・


8. ユーモアがない・・・4時間にわたる映画なのに、笑えるシーンがない。まあ、それは監督のアンゲロプロスの個人的キャラクターの面も大きいでしょう。しかし、ダメダメな人間は「自分自身を笑う」心のゆとりって無いものなんですね。「オレってバカだなぁ・・・」なんて自分を笑わないのに、自分以外の人のことは高笑いするわけ。

ユーモアって、いつもとは別の見方で物事を見たりすると、出てきたりするものでしょ?
ユーモアがないってことは、それだけ、ものの見方が画一的ということなんですね。


9. ホスピタリティーがない・・・この面は、むしろアンゲロプロス監督の別の作品で強調されています。どうもギリシャ人は外の世界から来た人を歓迎するという発想がない様子。外来者を、ヘタをすれば政治的な人質として利用したりするくらいの扱い。外の世界から来た人と会話して自分の知識を広め、相手に自分のことを知ってもらおうなんてこれっぽちも考えていない。

自分自身が被害者意識に凝り固まっているので、人をもてなす心の余裕がないわけ。このような面は韓国もイスラムの全く同じですよね。スポーツ大会などヒドイものでしょ?これでは味方ができませんよね?


10. 歴史自慢・・・この「旅芸人の記録」という作品では強調されていませんが、ギリシャは偉大な歴史がありますね。それはそれで結構なこと。しかし、ちょっと考えて見てください。「オレは小学校の時は優秀で、学級委員をやっていたんだ!」・・・そんなことを言う人間ってショボイオヤジでしょ?
ちゃんとした人間はそんな昔の自慢話などはしないものでしょ?

歴史自慢しかするものがない連中って、それだけ今現在がダメダメということですよね?
しかし、ダメダメな人間は歴史しか自慢するものがないので、歴史自慢をしたがる。
そして「こんなに偉大な歴史を持つ我々なのに、今うまく行かないのはアイツのせいだ・・・」と被害者意識をますます膨らませるわけ。


このように、「悪いのは全部アイツのせいだ!」と思っていると、自分の気持ちとしてはラクですよね?だって、自分自身では何もしなくてもいいんですからね。ただ相手を恨んでいるだけでいい。
まあ、一般の人はそれでいいのかもしれませんが、そんな貧しい精神では芸術家は育たないでしょ?

真の芸術家になるためには、自分の内面にあるそのようなダメダメな面を自覚していく必要があるわけです。
ギリシャ人のアンゲロプロスは、このような自分に厳しい映画作品を作ることによって、自分自身を一歩前に進めたわけです。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という映画はギリシャ映画ですので、セリフはギリシャ語です。ということで字幕担当の人も「とある芥川賞受賞作家さん」がやっています。その作家さんはギリシャ語が出来るので、アンゲロプロス監督作品の字幕だといつもこの人です。この作家さんは、ギリシャに住んだり、最近ではイラクに行って「フセイン政権下ではイラク人はすべて幸せだった!アメリカ人は出て行け!」とかおっしゃっておられます。メールマガジンも発行されていて、私も読む時がありますが、実に「お・も・し・ろ・い」わけ。

自分自身の問題から目をそらし、グチばかり言う人間は、やっぱりそんな類の人間が多いところに行きたがるものなんですね。そうして、グチで盛り上がることになる。
「アンタたちは全然悪くないのよ!悪いのは全部アメリカなんだ!」
そう言われれば言われた方もラクでしょ?
確かに同情してもらったイラクの人も幸福かもしれません。だって「自分自身は全然悪くない!」と思っていられるわけですからね。「悪くはない」んだから、自分自身では何もしなくてもいいわけ。

そのような精神的に怠惰な状況に、外国からのダメダメ人間が、まるで腐臭にハエやゴキブリが吸い寄せられるように喜んで出かけ、集まり、そしてグチで盛り上がる。

職業としての物書きや絵描きや音楽家は、そこそこのスキルがあればなれるものです。しかし、芸術家になって未来に残る作品を生み出すには「自分自身を厳しく見つめる」ことが必要不可欠なんですね。

ダメダメなギリシャの映画監督のアンゲロプロスが「旅芸人の記録」という、何より自分に厳しい作品を作って、自分自身を見つめ大芸術家になっていったのに対し、グチばかり言っていて、世界中のグチ人間を求めて自分から逃げ回っている人間が、芥川賞という新人賞止まりなのは、芸術的にみて必然なんですね。

この映画で描かれたギリシャの人々は、誰かを犯人認定して、対抗心ばかりを膨らませ、自分では何もする気もなく、しょーもない議論ばかりという、典型的なダメダメ人間の姿といえるでしょう。これは何もギリシャの問題だけでなく、たとえば、インターネットの掲示板が、まさに絵に描いたようにこんな様相でしょ?

作り手のアンゲロプロスとしては、「激動のギリシャの歴史」を描いているのではなく、バカばかりやっているダメダメ人間の姿を描いているわけ。彼は歴史学者ではなく、芸術家なんだから、普遍的な人間心理を描きますよ。

ダメダメというのは、時とか場所とかのテンポラリーな問題ではなく、人間の普遍的な心理の問題なんですね。だから、ちょっと見方を変えると、21世紀の日本での様相を理解するのにも役に立つわけ。

ちなみに、ギリシャもイスラム圏も韓国も、独裁政権が多い。民主的政体は育たない。

それは民主主義というものは、個々の責任という面が要求されるからですね。自分自身が主体的に政治に参加する。そしてみんなの選択に共同責任を持つわけ。しかし、責任を取りたくないダメダメ人間は、独裁政治の方がラクなんです。だって独裁だったら上手くいかなかったら、その原因の全部を独裁者のせいにできるでしょ?そして「オレたちは独裁政治の被害者だ!」と言うだけ。

だから、これらの国の政権担当者は、政権を降りた後は大変な目にあいますよね?
それは「うまく行かない原因」を一手に引き受けされられるからです。「自分たちは被害者だ!」と思いたいダメダメ人間は、とにもかくにも加害者というレッテルを何かに貼りたがるわけ。民主的政体だと、自分自身にも責任を取らないといけないので、精神的にラクができない。だから、このようなダメダメな連中は無意識的に独裁政治を望んでいるわけです。

ダメダメというのは、経済的な問題というより、まずもって心が貧しいわけなんです。
https://medium.com/dysfunciton/%E6%97%85%E8%8A%B8%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2-1453b498408d


▲△▽▼


「テオ・アンゲロプロスの世界」


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c2
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
3. 中川隆[-14870] koaQ7Jey 2019年11月17日 10:39:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1959]
これはエレニ・カラインドルーの曲ではないですが、



Theo Angelopoulos Ο Θίασος(旅芸人の記録) : 1975








アンゲロプロスの映画はエレニ・カラインドルーが音楽を担当してから表面的で浅くなってしまいましたね。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c3
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
4. 中川隆[-14869] koaQ7Jey 2019年11月17日 12:10:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1958]

アンゲロプロスの最高傑作は

アレクサンダー大王 Μεγαλέξανδρος(1980)














これは勿論エレニ・カラインドルーの曲ではないですが、いくら何でも音楽が酷過ぎますね。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c4
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
5. 中川隆[-14868] koaQ7Jey 2019年11月17日 12:20:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1957]

テオ・オン・テオその1 2005年10月26日 | Weblog

ギリシャのアンゲロプロス監督に、詩人で作家でもある池澤夏樹さんがこれまでの映画について質問し、アンゲルプロス監督が答えている。池澤夏樹さんは日本で最初に公開された「旅芸人の記録」の名前をつけ、画面に出てくる日本語の言葉も入れた。それ以来、すべてのアンゲロプロス監督の映画の日本語の言葉を入れている。日本のアンゲロプロス人気は池澤さんの日本語の言葉の力によるところが大きい、といっても過言ではないと思わせるほどだ。

アンゲロプロス監督もかつては詩人だったそうだ。短いセリフの中にこめられている内容の深さというのか、一回見ただけ終わるのはもったいない、もう一度見ようと引っ張られるような磁力のようなものがある。

「旅芸人の記録」〈1974−1975〉についての質問に答えてー。

同世代の監督でただ一人、ギリシャに残り映画を作り続けることになった。抵抗の間、独裁制は何か、どうして独裁制になったのかと自問するようになった。年月をさかのぼり、自分の歴史と重ねた。

1935年に生まれ、1936年にはメタクサス独裁になり、5歳のとき第2次世界大戦になった。ドイツ軍がギリシャを占領した。9歳のとき、最初の内戦でアテネさえ戦場となり、ついで第2時内戦となった。”山の戦争”となったパルチザンと国軍が戦った。そして1952年には右翼が復活した。多くの人々は独裁制が終わり、再び民主主義が復活すると、世の中は変わると期待したがー。

1952年のことを語りながら、1974年のことを語るにはどうするか。検閲の耳があり、人々は語らない習慣になっていた。しかし、「1936年の日々」のように、アイロニーの映画として、”イワザルの話法”ではなく、柔軟であるがはっきりした話法を選択することにした。52年と74年の2つの歴史的な時代を同じ流れで同一のカットで共存させるという方法だった。・・・

「旅芸人の記録」はやはりアンゲロプロス監督の最高傑作ではないかと思っている。「エレニの旅」も作り、まだこれからも20世紀を総括する映画を作るらしいけれど。これ以上の作品を作るのは難しいのではないか。独裁制が続いていたギリシャの中で映画を作ったというのが大きい。こういう厳しい精神状況で追い詰められた中だからこそ、いつまでも歴史に残るような傑作を作れたのだろうと思う。

旅芸人一座は雪のある細い山道を歩き、村の人々にアコーディオンを奏でながら、芝居を見に来てと今日も歌い続けるー。

ヤクセンボーレ!ゴルフォも来るよ、タソスも来るよ。
みんなそろって見に来ておくれ。話題の芝居は今夜の8時。
飛び切りおもしろい 芝居が見られるよ!!
https://blog.goo.ne.jp/777henry14/e/b50d4d2737cd7668618d256640da9f5b

テオ・オン・テオその2 2005年10月27日 | Weblog

池澤夏樹さんのアンゲロプロス監督へのインタビューが続く。「アレクサンダー大王」〈1980年)について。民衆と独裁者の関係、共産主義の限界について描かれているのではという問いにー。

政治とイデオロギーが主題の、ある意味予言的な映画になった。〈その後のソ連邦の崩壊。社会主義圏の国々の独立を指しているのだろうか。)社会主義的な体験と誰もが見ていた社会主義の夢。その終焉を見つめた映画。

寓話の形をとっているが、構造としてはミサの形を取っている。ビザンチン形式で一方に独唱者たち、一方の大衆は声に順応してあるときは大王を称え、あるとは”神を食べる”。それは古代社会におけるセレモニーだった。キリスト教社会では周知のあの儀式に受け継がれている。

神の血を飲み、神の体を食べる。〈この辺のことはちょっとわからない内容。映画では確かに大王は食べられてしまうが。)ビザンチン美術では重要な円形広場の概念があって、村の広場にも円形広場と時計塔がある。すべては広場で起こる。

この映画は私自身にも深く刻み込まれた作品だ。長い年月信じていた一つの夢の終わり、希望と変革の時代の終焉がテーマだからだ。やがて来る終焉は私には既に見えていた。アレクサンダーはスターリン現象の寓意で、カリスマ的君主が独裁者と化す現象の寓意だ。

世界の変革を語る思想を信じようとしてきた。世界は変わるもの、より良く変わるものだと。よりよい世界、社会主義とはそれだった。人々はすべてを失った。唯一のよりどころであった夢さえなくした。夢の向こう側にあるもの、つまり形而上学を。世界にとってこれほど重大なときはなかった。

この映画の後には、歴史を後景に押しやること、人間について語る。歴史を信じ、歴史がもたらすものを担い、すべてを失った人間を。その思いが「シテール島への船出」〈1984年)になっていった。夢を信じ、海へ捨てられる人々。老主人公のように。「シテール島」にいたるまで4年間かかった。長い空白だった。その年月が歴史の変化を引き受け消化する為に、必要だった。・・・

これは胸を打たれる重い内容だった。そして夢というのは世界がよりよくなるという社会主義のことだというくだりになると、ぐっと来てしまった。あの老主人公に、そばへ行きたいと叫ぶ老妻を添わせて、海へと送り出すシーンはせめてものアンゲロプロス監督のはなむけなんだろう。

社会主義は一つの国では成就できないという、国境を越えた、むしろ国境をなくそうという思想でもあったはずだ。しかし実際にはスターリンを筆頭にそれとは逆のことをした。あちこちで、地図上の国境どころか、内なる精神的な国境も越えようとはしなかった。

アンゲロプロス監督がその変化を引き受けるのに4年間もの時間が必要だったというのは、その作業の大変さを物語っている。かつて政治的季節に出会ったものは、その夢を捨てることは出来ない。世界はよりよくなる、きっとよくなると今でも毎日、TVニュースや新聞の中に、夢のかけらを探している。時を経ても、種火のような炎は消えてない。
https://blog.goo.ne.jp/777henry14/e/594b4fdf80bb34f971ae5027c6675b6a
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c5

[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
6. 中川隆[-14867] koaQ7Jey 2019年11月17日 14:00:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1956]

シテール島への船出、VOYAGE TO CYTHEREA、Ταξίδι στα Κύθηρα(1984)


監督 テオ・アンゲロプロス
脚本 テオ・アンゲロプロス 、 タナシス・ヴァルティノス 、 トニーノ・グエッラ
撮影 ヨルゴス・アルヴァニティス
音楽 エレニ・カラインドルー




















現代の都会。朝、映画監督のアレクサンドロス(ジュリオ・ブロージ)は撮影所に向かった。おりから、彼の作品の主役になる俳優のオーディションが行なわれているが、アレクサンドロスの気に入る者はいない。女優のヴーラ(マリー・クロノプルー)は彼の愛人で、最近冷たいと彼にグチを言う。そんな矢先、ラヴェンダーの花を売る老人(マノス・カトラキス)が入ってくる。その老人こそイメージに描く老俳優だと、アレクサンドロスは直感した。老人を追って地下鉄に乗り港へ行く彼。埠頭まで追ったところで彼は花売り老人を見失う。

同じ場面のまま映画中映画になって彼は妹のヴーラ(先出の女優のヴーラ)と二人で、32年前にロシアに亡命した父の帰国を待っている。ウクライナ号から降りたった父スピロ(ラヴェンダー売りの老人)を出迎え、母カテリーナ(ドーラ・ヴァラナキ)の待つ家に案内する。スピロとカテリーナの再会。しかしスピロが何を言ったのか、カテリーナは怒って台所に閉じこもり、スピロは家を去って町の安ホテルに泊った。

翌日、親友のパナヨティス(ヨルゴス・ネゾス)らの歓迎を受けるスピロ。山にあるそのむらにスキー・リゾートを造る計画があり、村人は署名をするが、スピロは猛反対し、カテリーナに署名するのをやめさせる。そんな父を非難するヴーラ。今さら母に命令などできるはずはないと……。夜中、スピロはロシアでの生活をカテリーナに語り、あちらにも妻子ができたと告白する。朝、村人たちはみな帰ってゆくが、スピロは一人残った。

山では、憲兵隊がスピロの行方を探していた。国籍のないままのスピロがこれ以上面倒を起こすと、滞在許可まで取り消されると、アレクサンドロスに警告して去る彼ら。しかしスピロはカテリーナと二人で山の家に残ると言いはる。雪山の中を追放されたスピロとカテリーナが降りてくる。

港。警察はスピロをロシアの船に乗せて帰そうとするが、船は出てしまう。警察はあわててスピロを旧港へ運び彼を乗せたランチがロシア船に追いつくが、スピロ自身がソ連に帰る意思を見せないので、ロシア船は彼の乗船を拒否した。

憲兵隊長と港湾警察官はスピロをランチで沖に沖に連れ出しそこにかけられた浮桟橋の上に降ろす。疲れはてて医務室で眠っていたカテリーナが目醒めてカフェに現れ、沖を見る。朝、浮桟橋の上でスピロとカテリーナが抱き合っている。

夜明け、スピロは桟橋を繋いだロープをほどく。二人を乗せた浮桟橋は朝霧の中に消えてゆくのだった。


▲△▽▼

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c6
[環境・自然・天文板6] 「地球温暖化」の虚構 (その二) お天道様はお見通し
23. 中川隆[-14866] koaQ7Jey 2019年11月17日 15:12:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1955]
>>22
放射平衡点自体が条件が変われば変わってしまうから、そんな中学生の掛け算・割り算では解は求まらないんだよ

大型コンピューターでシミュレーション計算しなければいけない問題を
中学生の掛け算・割り算で答えを出せる訳ないだろ

http://www.asyura2.com/15/nature6/msg/787.html#c23

[環境・自然・天文板6] 「地球温暖化」の虚構 (その二) お天道様はお見通し
24. 中川隆[-14865] koaQ7Jey 2019年11月17日 15:16:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1954]
そもそも理想気体の状態方程式を実際の計算に使えると思ってるのは中高生だけだよ
http://www.asyura2.com/15/nature6/msg/787.html#c24
[近代史3] 中国が仏教を禁止し無数の仏像を取り壊している 中川隆
1. 中川隆[-14867] koaQ7Jey 2019年11月17日 17:11:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1956]

2019年11月17日
中国で進む貧困化と富の集中 超金持ちと貧困が増えている
http://www.thutmosev.com/archives/81506330.html


成長が止まると富裕層は肥え太り中間層がいなくなる(蘇州の山塘街)

胡錦涛の高借金高成長が莫大な負債を作った

新興国の成長が止まると「成熟国家」という美しい名前で呼ばれるようになるが、成長が終わったのを言い換えているだけです。

日本の成長は30年前に終わったが中国も成長期が止まり停滞期に移行しています。

中国の成長率は19年が6%で20年は5%台だが、リーマンショック以降低下し続けています。



これは同時に2012年の習近平就任以来成長率が低下しているのを意味し、だから習近平は独裁を強化しています。

近年の中国は仏教禁止(今までも禁止だったが最近黙認されていた)を強化したり、毛沢東崇拝を強めている。

例えば映画で人気の少林寺では仏像や仏教経典などを禁止し、代わりに毛沢東の肖像画を飾り共産党教育をしています。


中国のあらゆる寺で仏像や仏画などが燃やされたり壊され、「仏作って魂入れず」どころか仏もなし魂もなしになっている。

中国人が飽きもせず京都や奈良の寺に行くのは、中国の寺にはなくなった仏像などがあるからでしょう。

ウイグルやチベットなどでの統制を強化したり、ネット検閲や信用ランク制度を導入するなど、国民の不満を抑えるのを重視している。


習近平は経済的に無能なのかと言うと話は逆で、今までの江沢民や胡錦涛よりは経済を理解していると思います。

江沢民や胡錦涛、胡錦涛は特に成長率を重視しGDPで日本を抜き、「10年以内に経済力でアメリカを倒す」と宣言するなど目覚ましい成果を挙げた。

だが成長の原資は借金であって、中国はGDPを100兆円増やすために500兆円以上も公的債務を増やしています。

「中国は活気に満ちている」と日本マスコミが言う理由

2012年に国家主席に就任した習近平は内情を知って驚いた筈で、徐々に低成長路線にシフトしています。

中国の2019年の成長率は6%だが、水増した数字なので実際には4%以下なのでしょう。

習近平の緊縮財政路線によって中国は不況になったが、中国は「不況」という言葉を報道機関やネットで使うのを禁止した。


中国では新聞記者やテレビ報道員は国家試験に合格した人しかなれず、容易に許可を取り消すことが出来る。

個人のブログも審査制で共産党が指定した審査員2名の許可が必要なので、このブログのような事を書いたら許可されません。

こうして表面上一切不況は存在しないのだが、実際には中国経済は徐々に不況が進行しています。


北京や上海ではオフィスビルの空室が増加したが、政府は対策として郊外の事業者に引越しを命じた。

郊外はがら空きになるが外国人が行く中心部は賑わうので、中国のメンツは保たれるという訳です。

日本の有名新聞社やテレビ記者はどうせ北京と上海の街中しかいかないので、「今日も中国は活気に満ちている」と報道します。

細る中間層と太る超富裕層

また2018年から19年にかけて失業が社会問題になったが、中国には公務員、都市戸籍、農民工、農村民、外国人という階層が存在する。

これは江戸時代の日本の士農工商エタ非人に等しい身分制度で、個人の努力などで上に上がる事は出来ません。

不景気になるとまずアフリカや貧しい国の外国人が排除され、次に農村の仕事がなくなり、次に農民工が失業します。


最後に都市戸籍の都市住人の失業率が上がるが、公務員だけは絶対に失業しないよう守られています。

2019年に農民工の失業が深刻になったと報道されたが、都市戸籍住民は失業していないので、統計にはまったく反映されません。

中国の公式な失業率はずっと4%くらいだが、この数字は都市に住む都市戸籍の上級国民だけの失業率です。


日本に旅行に来るのはほとんど都市戸籍で、農村戸籍の人が外国旅行をする事はまず無いでしょう。

普通の中国人より服装などが明らかに貧しい中国人が団体で歩いていたら、農民戸籍の人達かもしれません。

国連機関などによると2019年に中国の個人資産は人民元安と株価下落で10%以上減少しました。


にもかかわらず中国富裕層の資産は20%以上増加していて、その分中間層の資産が減少しました。

社会が成熟化すると中間層が減り富裕層が肥え太るが、中国もその段階に来ています。
http://www.thutmosev.com/archives/81506330.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/517.html#c1

[] 在日朝鮮人タレント
106. 中川隆[-14866] koaQ7Jey 2019年11月17日 18:08:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1955]


2019年11月16日
朝鮮人のマスカレード / 「日本国民」を装う帰化人
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68787607.html


「元々は朝鮮人」という藝人

korea 082korea 081

(写真 : 伝統的な生活を営む朝鮮人 )

  人間は野生動物と違って、自分の"由来"を知りたいと欲するようだ。大抵の人は自分が誰の子供で、どんな家系に連なるのかを知らないと安心できない。もし、赤ん坊のとき養子縁組が行われた子供が、中学生や高校生となり、自分の「両親」が本当の親ではないと察知するや、「では、自分を産んだ母や父は誰なのか?」と無性に探したくなる。赤の他人なら、「そんなの、どうでもいいじゃないか。育ての親がちゃんと居るんだから、君を里子に出した実の両親など必要ないだろう。それに今更、生みの親を探し当てたところで何になるんだ?」と説教するかも知れない。だが、本人にとったら、「自分が誰なのか」を知りたいし、こうした欲求は理性じゃ割りきれないものである。

  普通の日本人は日本人の両親から生まれ、誕生の時から日本に住んでいる。それゆえ、普段、自分のアイデンティティーとか国籍のことをあまり考えない。だいたい、日本人であることは改めて考えるまでもない自明の事実。それに、父や母の実家に行けば“日本人”の祖父母がいて、仏壇の近くには曾祖父母の遺影が飾ってあったりする。これが旧家の場合になると、自宅の側に昔からの蔵があって、扉を開けると、ご先祖様が残した骨董品とか刀剣、書状、掛け軸などがあったりするから、幼い子供でも自分の血筋を実感することが多い。

  ところが、朝鮮系「日本国民」だと、だいぶ話が違ってくる。在日朝鮮人や帰化鮮人だと、祖父母が戦後にやって来た密入国者とか、闇市でボロ儲けした第三国人、密造酒や屑鉄を売っていた下層民、賭博行やヒロポン販売で“のし上がった”豪商ときている。これじゃあ、友達に話すわけにもいかず、何としても隠したい。戦前、日本に渡ってきた朝鮮人は、敗戦を切っ掛けにして“ほとんど”が帰ってしまい、日本に留まったのは僅か数百名程度。ところが、残った鮮人ときたら大半が「ロクでなし」で、「傲慢・横暴」を絵に描いたような不逞鮮人。どいつもこいつも、日本人から嫌われた連中ばかり。(詳しくは拙書『支那人の卑史 朝鮮人の痴史』の第5章を読んでね。) しかし、暢気に育った在日4世とか5世だと、日本にやって来た1世の過去を知らないから、「日本人から虐待された哀れな従属民」と思っている。朝鮮人の親は我が子を傷つけたくないので、嘘と分かっていても、「お前の爺ちゃんは、日本人の命令で強制的に連行されてきたんだよ !」と教えるしかない。

  日本人的感覚からすれば、「テメェー、何言ってやがんでぃ !!」と呆れてしまうが、朝鮮人にとったら「歴史の偽造」なんて朝飯前。過去を自分の利益になるよう勝手に作り替えても構わない。何千年も前から支配者の虐待を受けてきた賤民は、偽りを口にしても罪悪感は無い、というか「生きる術(すべ)」となっている。そもそも、日本人は朝鮮人や支那人を解っていないのだ。我々の祖先は明治維新で先に西歐人と接触していたから、支那人や朝鮮人も正確に歴史の研究をするものと思っていた。ところが、暗黒大陸の異民族は違う。支那人は太古から権力を失った支配者を悉く誹謗し、新たな支配者を称讃する。しかも、胡麻が蜂蜜になるくらい、入念に捏(こ)ねて輝かしい青史を書く。同様に、朝鮮人は惨めな過去を帳消しにするため、薔薇色の歴史を創作する。朝鮮人にとり、歴史と小説、事実と妄想の区別は無い。彼らは百戦連敗でも「凱旋門」を建設できる民族だ。たとえ、工芸品すら無い劣等国であっても、5千年の歴史を有する高度文明国と自慢できる。

  朝鮮人の思考様式には唖然とすることが多いけど、「孔子もキリストも実は朝鮮人だった」と真面目に言える朝鮮人は、ある意味すごい。喉から手が出るほど「ノーベル賞」が欲しいけど、朝鮮民族には無理。だから、日本人科学者が受賞すると、南鮮人は「ウリ(俺)も欲しい !」とねだる。でも、現実的には絶望的だ。そこで、彼らは考えた。スウェーデンが駄目と言うなら、自分たちで受賞者をつくろう、と。これこそ、コロンブスの卵だ! いや、鮮人の独創性かも知れない。ブラック魔王とケンケンだってビックリ ! 「チキチキ・マシン猛レース」で岩石オープンが優勝するよりも凄いぞ。早速、彼らは独自に「ノーベル賞級の業績を持つ朝鮮人科学者」を選定し、韓国研究財団が「優秀な朝鮮人」17名に科学賞を与えたそうだ。さぁ〜すが、朝鮮人は頭がいい。発想の転換に優れている。自分で作って、仲間に与えるなんて斬新だ。日本人では考えつかない。朝鮮人には天賦の才能がある !

  脱線したので話を戻す。朝鮮人は自分の民族性や血統を恥じるのか、家系を曖昧にするすことが多い。特に、昭和から平成の初めくらいまでは、ほとんどの在日朝鮮人や帰化鮮人が出自を隠蔽していた。朝鮮名を堂々と掲げる者は少数派で、多数派は「偽名(通名)」を使って日本人のように振る舞っていた。一般的に知られているのは、藝能界で活躍していた「隠密鮮人crypto-Japanese)」である。例えば、和田アキ子(金福子)や俳優の伊原剛志(尹惟久)、西城秀樹(李乙龍 / 通名: 木本龍雄)だ。山本寛斎の娘婿となった椎名桔平(李在剛/ 通名 : 岩城正剛)は、家族で帰化したようで、兄の「岩城正剛(李正明)」も一緒に日本国籍を取っている。

  日本人と思っていた有名藝人が、「元在日鮮人」と判って驚く日本人は多い。例えば、ビッグ・スターの矢沢永吉が元鮮人と知らされれば、結構、多くのファンが衝撃を受けるんじゃないか。実は高校時代、筆者の親友であるN君、「超」が附くほどの矢沢ファンで、赤いバスタオルやLPレコードを持っていた。筆者が好きだったドイツのバンド「Accept」やブリテンの「Judas Priest」だと、「何だ、あんなうるさい洋楽 !」と全面否定するのに、矢沢氏の曲は全て大絶賛。N君は筆者に「これを聴いてみろよ !」と録音テープを貸してくれたけど、覚えているのは「黒く塗りつぶせ」くらい。後は、CF(TV広告)で使われていた曲だけ。当時、どうして多くの不良が矢沢ファンになったのか判らなかった。

  子供時代をあまり語らない矢沢氏は、昭和53年6月8日に帰化し、「趙永吉」という本名を「巴山永吉 / 巴山英吉」に変えたようだ。帰化申請の場所は「永ちゃん」らしく横浜だった。矢沢氏と違い、いち早く出自を明らかにしたジョニー大倉(朴雲煥 / 通名 : 大倉洋一)は、ちょっぴり後悔していたけど、同胞の在日から「やっぱり、そうだったの。うれしい」という声援をもらったそうだ。彼は二十歳の頃、どうせ有名になれば発覚するだろうと思い、事務所の社長や恩人のミッキー・カーチスに告白したらしい。彼は純粋に朝鮮の血を受け継ぐと自慢する一方で、日本に住んでいたという「虚しい過去」を「精算」するため、周囲の人間に自分の素性を明かしたそうだ。(小林靖彦 編 『在日コリアン・パワー』双葉社、1988年、p.14) ちなみに、「ジョニー」という英語名は横浜で外人と遊んでいた時、一緒に居た黒人兵につけてもらったそうである。

  上掲書のインタビューによると、大倉氏は川崎にある楽器屋を訪れ、そこに貼ってあった「メンバー募集」の広告を見て、矢沢氏に電話を掛けたそうだ。矢沢氏は当時から“あの性格”であったらしい。彼は大倉氏と一度も面識が無いのに、最初から“気さく”な態度で接していたという。電話越しなのに、「あのさぁ〜」といった調子で話しかけ、いきなり「横浜で会わないか」と誘ってきた。そこで、大倉氏は早速、京浜急行の川崎駅に向かい、長いオカッパの矢沢氏と対面したそうだ。“ビッグ”になった現在の矢沢氏とは大違い。ダサイ格好の大倉氏と奇妙な髪型の矢沢氏は、お互いの外見を目にして共に大笑いしたそうだ。

  大倉氏は独学でギターの演奏や芝居のコツを学んだというが、俳優としては予想外の評価を受けた。東映のヤクザ映画に出演すると、これがなかなかの“嵌(は)まり役”ときている。彼は「ヤクザの朝鮮人」を演じ、制作者は大絶賛。しかし、本人は世間の評判を気にしていた。なぜなら、“本物”が演じているようなものだから、“リアル過ぎる演技”となってしまうのだ。彼が『戦場のメリークリスマス』に出演したときの事だ。監督の大島渚は脚本で「自害する朝鮮人」を目にし、企画段階で大倉氏を頭に思い浮かべたらしい。大島監督は即座に採用を決定し、他の誰よりも先に彼をキャスティングしたという。案の定、大倉氏はNG無しで見事、「切腹する朝鮮人の軍属」を演じたそうだ。ちなみに、抜擢された大倉氏は、大島監督が朝鮮人について矢鱈と詳しかったので驚いたそうである。彼は監督から台本と一緒に『赤道直下の朝鮮人の反乱』という本をもらい感動した。さすが、京大卒の左翼監督はひと味違う。大島渚も「残虐非道な日本軍」を糾弾するインテリだった。

  脱線したので話を戻す。人気ロック・グループ「キャロル」といえば、その親衛隊を務めていた岩城滉一(李光一)が目に浮かぶ。岩城氏も“アニキ”と同じ帰化鮮人だが、日本国籍を取得したのはごく最近で、平成29年4月5日だ。インターネットが普及する前は、まさか「クールス」の人気者が在日地鮮人なんて、想像した日本人はほとんどいないだろう。かなり昔、筆者が歯医者に行ったとき、治療後に勘定を済ませようと椅子に座っていた時のことだ。「もうそろそろかなぁ〜」、と待っていたが、なかなか事務員の若い女性が呼び出してくれなかった。そこで、事務室のドアに近づいて中の様子を窺ったら、何と彼女は電話で岩城氏のライブ・チケットを予約していたのだ。「こらっ !」と叱りたかったが、「まぁ、二枚目俳優のコンサートじゃ仕方ないか・・・」と諦めたのを覚えている。確か、平成の初めくらいだったから、世間の女性は岩城氏に黄色い声援を送っていた。

  岩城氏の思い出は他にもあって、筆者は劇場で彼が主演する『南へ走れ、海の道を !』という映画を観たことがある。共演者は人気女優の安田成美で、彼女も帰化鮮人だ。以前、評論家の塩田丸男が“うっかり”バラしてしまったが、安田氏の本名は「鄭成美」といい、平成7年12月21日に帰化した。おそらく、1994年(平成6年)に結婚したから、それを切っ掛けに日本国籍の所得を考えたのだろう。子供の将来を考えれば当然だ。そういえば、彼女は平成6年にNHKのテレビ小説『春よ、来い』に出演したけど、筆者はこの配役に驚いたことがある。放送されたとき、筆者はこの作品のことを全く知らず、亡くなった中村粲(あきら)先生に教えてもらった。聞くところによると、『春よ、来い』というのは橋田壽賀子の自伝小説を基にしており、どうやら橋田氏は自分の役を美人女優にやらせたかったそうだ。当時の女性視聴者は「えぇぇっっっ〜、あのオバさんが若い時の役柄なのぉぉぉ〜」と呆れ返っていた。まぁ、原作者の婆さんにしてみれば、鑑に映る自分の姿に複雑な思いを抱いていたんだろう。「せめて、架空の世界では美女に生まれたい !」と願っても不思議じゃない。

  藝能界というのは朝鮮人の主な就職先になっているようで、恨み節の曲を披露する演歌界にも帰化鮮人が多い。有名なのは「五木ひろし」で、通名は「松山数夫」とか「松田数夫」になっている。でも、本名は「李数夫」で昭和48年4月18日に帰化していた。「都はるみ」も朝鮮人で、本名は「李晴美」といい、昭和41年5月18日に国籍を取得していた。下積み生活が長かった瀬川瑛子も帰化鮮人で、通名は「清水瑛子」とか「瀬川映子」というそうで、本名は「施瑛」というらしい。昭和48年5月28日、彼女は家族揃って日本国籍を取っている。(母?「施済萬」、姉?「施梅鶯」、弟?「施延富」) 某週刊誌によると、彼女の父「瀬川伸(施延雄)」も歌手であったという。しかし、売れていなかったのか、朝鮮料理屋を兼業していたようだ。筆者の個人的感想だけど、演歌の大御所や錦野旦、長州力、前田日明などが元鮮人でも構わない。しかし、「布袋寅泰」という藝人は嫌いだ。「ザ・ローリング・ストーンズ」が来日したとき、どうして彼が共演できたのか、全く以て腑に落ちない。なぜ、こんな三流の鮮人ミュージシャンが、よりにもよって一流のストーンズと交渉でき、東京の最終公演で、堂々とステージに立つことができたのか? 確実な証拠は見つからないが、特別な人脈を持っていたとしか思えない。

財界に蝟集する帰化鮮人

  まぁ、虚栄の世界に生きる藝人なら、生意気な在日鮮人でも、傲慢な帰化鮮人でも、あまり害は無い。ところが、財界の帰化鮮人とか在日鮮人となれば、少々事情が違ってくる。なんと言っても、大企業や新興企業となれば、テレビや新聞・雑誌への影響が甚大だ。テレビ局のプロデューサーやディレクターにとって、電通の社員とスポンサー企業は神様と同じ。無料(タダ)で観ているくせに文句ばかりつけてくる視聴者なんか、ウンコにたかる蠅かウジムシ以下。お金を出す人が本当の「お客様」だ。したがって、スポンサー企業の社長や重役が朝鮮人なら、番組が朝鮮人礼賛の内容になったり、在日同胞に配慮した“提灯特番”になってもおかしくはない。朝鮮人の正体を暴く番組なんて絶対にNG。藝者の太鼓持ちだって、冗談の限界は心得ている。財務省と広告主に媚びる経済番組だと、ソフトバンクの株が暴落したって、「下がった今なら お買い得 !」と勧めるのが鉄則。間違っても、「ジャンク株」なんて言っちゃ駄目。

  日本名をプロフィールに掲げているから判らないけど、有名企業の創業者とか経営者には朝鮮人が結構多い。例えば、「アイリスオーヤマ」の大山晃弘社長は、「趙慧済」という本名を持ち、平成10年9月21日に帰化している。元々はパチンコ屋であった「大和商事」を創業したのは、「OKグループ」の会長を務める大城敬三で、彼の本名は「徐海注」という。国籍は北鮮から南鮮へと移し、在日南鮮人として活躍している。彼は馬主として有名だが、韓国へ多額の送金を行った事でも知られる民団の大御所だ。息子の「徐正一」と如何なる関係か判らぬが、現在の大和商事で代表取締役を務めているのは大城正準(徐正準)で、彼は平成7年12月21日に帰化している。一緒に国籍を申請した「金王姫」や「徐桃子」、「徐華子」、「徐元哲」、「徐哲教」がどんな関係を持っているのか、定かではない。パチンコ好きの日本人なら「Daiwa」を創業した家族について何か知っているんじゃないか。

   関東地方でスーパー・マーケットやホーム用品店をチェーン展開をしている「Olympicグループ」も、朝鮮人が創業した企業である。社長の金澤富夫は「尹芳列」という本名を持ち、昭和40年12月10日に帰化している。どうい家族関係か判らないけど、「尹良樹」と「尹明美」「尹裕之」「尹美名子」も一緒に国籍を取得した。金澤社長には王生(尹王生)という弟がいて、有料養老院を運営する「ハーフ・センチュリー・モア」の社長になっている。その兄に当たるのか、「金澤有知」は副社長であるという。とにかく、在日鮮人の家族関係は複雑だ。

  朝鮮人が選ぶ職業というのは、パチンコ屋か藝人でなければ飲食業だ。有名な朝鮮料理屋である「叙々苑」を創業した朴泰道も在日朝鮮人で、以前は「新井」とか「吉田泰道」を名乗っていて、昭和55年6月18日に帰化している。パチンコなどの娯楽業や飲食業のみならず、不動産業やゴルフ場、リサイクル業まで幅広く手掛ける「ユーコー・ラッキー・グルー」を創業した金海龍海も在日朝鮮人だった。父の金海基泰がどの国籍なのか判らぬが、息子の龍雄は平成24年2月10日に帰化している。龍海の息子二人は現在、「ユーコー」の経営者となっており、「基泰」が社長で「基樹」が副社長であるそうだ。

 西歐社会で絶大な権力をふるうユダヤ人と同じく、朝鮮人も日本人が嫌がる職種で成功し、卑しい身分から権力者へと上りつめた。敗戦後、「第三国人」となった朝鮮人は、クズ鉄や銅線、産業廃棄物を集める産廃業者とか、密造酒や飴菓子を作る製造業、豚や牛を精肉にして卸す屠殺業、地上屋まがいの不動産業、高利貸し、風俗業などに就いて、コツコツ金銭を貯めると、徐々に有力者となっていった。これまたユダヤ人と似ているが、文明国にタカる賤民は横の繋がり(同胞人脈)を強化して、憎い現地民族をやっつけようとするらしい。朝鮮人の藝人とか商人は、日本人から嫌われているので、こっそりと裏舞台で手を結び、互いに助け合いながら勢力を拡大しようとする。

  報道番組で耳にしたのだが、恐喝容疑で「キム・ジョンヒ」という飲食店経営者が逮捕された。この在日南鮮人は、「道端アンジェリカ」というファッション・モデルの亭主であるという。このキム(金?)は、女房の元恋人を脅迫して、35万円を巻き上げようとしたそうだ。しかし、異例なことに、キムの逮捕に警視庁捜査二課が動いたのである。この程度のチンケな恐喝事件なら、所轄の刑事が来るはずだ。それなのに、わざわざ二課の捜査官がお出ましになった、ということは、キムの背後に何らかの犯罪組織か黒い人脈があるのかも知れない。在日朝鮮人というのは、同胞で蜘蛛の巣のようなネットワークを築いているから、代官山でカタギの仕事をしていても、危ない人物と付き合っていたりする。もしかしたら、捜査二課は何らかの情報を引き出すためにキムをしょっ引いたのかも知れないぞ。

  在日や帰化した歌手や俳優でも、意外な「友人関係」を築いているし、商売人は同胞の出資者とか投資家、お得意先を持っていて、会社の重役とか相談役、特別顧問などに同胞がいたりする。ただし、日本名を持っているから、外部の日本人には判らない。朝鮮人は日本人に血筋を知られたくないから、自分の過去や家系を隠す。カツラで知られる「リーブ21」の岡村勝正(廬勝正)とか、朝鮮料理のタレを販売する「モランボン」の創業者「全演植」、「MKタクシー」の青木定雄(兪奉植)、パチンコ製造業の「平和工業(旧中島商会)」を創設した中島健吉は有名だけど、他の鮮人は官報を調べないと判らない。

政治家になった元朝鮮人

  帰化鮮人のビジネスマンも厄介だが、それ以上に有害なのは公権力を握った朝鮮人だ。立憲民主党の福山哲郎は既に「陳哲郎」と判明している。彼は父の「陳栄澤」と弟の「陳俊郎」と共に、昭和50年8月29日に帰化している。朝鮮系の政治家は必ずと言っていいほど素性を隠す。例外なのは、證券スキャンダルで自殺した新井将敬くらいだ。「朴景在」という北鮮人だった新井議員は、「新井隆」とか「新井隆央」、「崔隆」という通名を持っていた。ところが、高校生の時、覚悟を決めて日本国籍を取得し、大学卒業すると大蔵省に入った。当時、渡部昇一先生は新井氏の素性に言及し、まともな帰化鮮人として紹介していた。新井氏は石原慎太郎と同じ大田区を地盤としていたから、衆院選挙では相当苦戦したらしい。ちなみに、彼の母親は「崔玉慶」というが、日本での通名は夫の「新井義男」とリンクさせたのか、「新井眞佐栄」と名乗っていた。しかし、以前は「大岡直恵」という名前だった。朝鮮人に複数の偽名を許す日本政府は異常である。

  権力を握る政治家には、「帰化鮮人じゃないのか?」、と疑いたくなる人物が多い。例えば、在日鮮人や帰化鮮人にも信者を増やそうとする創価学会は、明らかに朝鮮贔屓であるから、公明党に朝鮮系議員がいても不思議じゃない。例えば、農水省の官僚から政治家に転向した上田勇(うえだ・いさむ)は、小泉政権で財務副大臣を務め、現在は公明党政務調査会の会長代理となっている。平成5年4月23日、通名が「山本勇」で本名を「崔勇」という在日鮮人が帰化しているが、この人物が当の上田議員なのかよく判らない。国会議員のみならず、公権力を握る公務員は、三代か四代まで遡って祖先を公表し、どのような血筋になっているのか明らかにすべきである。もし、この法律に反対する公務員がいれば、その人物の方が怪しい。国会で勇ましい謝蓮舫は、「個人のプライバシー」を楯にして反対するが、どうして自分の両親や祖父母をはっきり紹介できないのか? 西歐系帰化人は堂々と自分の人種や宗教を明かすのに、支那人や朝鮮人は真っ赤になって激昂し、ご自慢の家系を隠す。よっぽど恥ずかしいのだろう。

  朝鮮人の利益を忖度する政治家には、“帰化人”疑惑の議員が多い。例えば、日本人を貶め、朝鮮人を称讃した小沢一郎には「朝鮮人疑惑」がまとわりついているが、彼の母親は帰化鮮人じゃなく本当に日本人なのか? 以前、小沢は女性の鮮人秘書を抱えていた。この「金淑賢(きむ・すくひょん)」という南鮮人は、東京大学で韓中修好に関する研究をテーマにして博士号を所得したそうだが、誰のために秘書をしていたのか? 南鮮に媚びる小沢から貴重な情報を引き出すためか、南鮮の「協力者」にして上手く操るためだろう。

  今は凋落しているけど、社会党はソ連だけじゃなく、北鮮の代表機関でもあった。 生前、社会党の土井たか子は、「李高順」との噂があったけど、裁判では明らかにされず、うやむやのままで終わってしまった。パチンコ屋と金日成が大好きだった社会党委員長は、たとえ法律上「日本人」であっても、心のふるさとは朝鮮であったに違いない。金丸信だって、山梨の「日本人」というが、中身は生粋の朝鮮人だ。自民党の闇将軍と呼ばれていたが、属性は菅直人や白真勲と同じである。

  「朝鮮人疑惑」をもたれる議員には、パチンコ業界の回し者がいる。例えば、自民党参院議員の尾立源幸(おだち・もとゆき)が、パチンコ屋の代理人であることは周知の事実。今では比例全国区の支部長をしているが、元々は鳩山由紀夫の秘書で、自民党に鞍替えすると二階派に入った。民主党から民進党に移って、雲行きが悪くなると、安全な自民党に潜り込むんだから、政治理念とか基本姿勢なんて端っから無いんだろう。派閥の親分たる二階俊博だって、小林旭も呆れてしまうほどの渡り鳥。自民党を飛び出した二階は、新生党から新進党に移り、自由党や保守党、保守新党を迂回して自民党に戻ってきた。今でも二階と親しい小池百合子は、「緑のタヌキ」と呼ばれていたが、その本性は政界のカモメである。細川護熙から小沢一郎、小泉純一郎の寝床を渡り歩き、用済みとなるやポイ捨て。「寝る相手」を換えて出世すると、非現実的な公約を掲げて東京都知事となった。高齢で卵を産めない雌鶏(めんどり)は、金の卵を求めて二期目を目指している。

朝鮮人が進出するマスコミ界

  政治家に次いで危険なのは、マスコミに潜伏する帰化鮮人である。とりわけ、テレビ局に就職する帰化鮮人は、何を目論んでいるのか分からないし、どんな害悪を垂れ流すのか予想できないので注意を要する。テレ朝の「ニュース・ステーション」に出ていた松嶋明日香(あすか)は、結婚前「孫明日香」という名前で通っていた。しかし、本名は「孫栄順(そん・よんすん)」。彼女は津田塾大の大学院を最終学歴としているが、その前は朝鮮大学校に通っていた。この「大学校」は法律的に認められた「大学」じゃないから、朝鮮人が集まる「私塾」に過ぎない。したがって、日本の大学に入るため、何らかの試験を受けたのだろう。幼い頃、彼女は日本の小学校に通ったというが、中学は朝鮮の民族学校に入ったそうだ。良知会が発行した『100人の在日コリアン』によれば、中学二年生のとき、彼女は平壌の音楽舞踊学校に留学し、約二ヶ月間、楽しいお勉強をしたらしい。(pp.184-185.)

  TBSやフジテレビよりも、NHKの方がより積極的に「朝鮮枠」を設けているようで、在日鮮人や帰化鮮人が多く紛れ込んでいる。例えば、同局の安梨香(あん・いひゃん)は、連続ドラマ『ふたりっ子』を手掛けたプロデューサー。彼女の父親はパチンコ屋から身を起こして、建設業や不動産業へと転身した在日朝鮮人。この職歴を観ただけでも、如何にも朝鮮人らしいと判る。娘の梨香も様々な世界で暮らすことが好きなようで、高校は神戸国際カナディアン・アカデミーに通い、大学は上智大学の比較文化に入った。祖国大好きの鮮人才女は、高校時代、ソウルに渡って夏期学校に通ったそうだ。たぶん大学生の時だろうが、延世大学に留学したことがあるという。

  この朝鮮娘は反日分子が集うNHKに就職し、朝鮮人をテーマとするドラマを作った。(安氏は演出を担当。) 2002年8月24日、NHK大阪放送局はFMシアターで、『ポンソンファ』というラジオ・ドラマを放送した。主人公の「明」は在日3世次男坊で、彼の両親はパチンコ屋の経営者という設定だ。普段、明は南鮮国籍を意識しないが、就職活動の時に国籍の件で苦労する。しかし、彼は民族の違いから由来する屈辱感と挫折感をものともせず、それらを克服しながら明日への一歩を踏み出す。NHK曰わく、この作品は「国籍を超えて新しい生き方を探す在日青年の物語」であるそうだ。平成14年、日本の役所はこの“素晴らしい”朝鮮ドラマを称讃し、文化庁藝術祭優秀賞を与えた。一般的には、誰も聴かない、誰も知らない朝鮮ドラマだが、税金で暮らしている連中にとっては秀作らしい。普通の日本人だと、「他にマシな作品はなかったのか?」と尋ねたくなるが、官庁の公務員は日本人らしい感性を持っていないから、朝鮮人にジャンジャン報奨金や補助金を出す。それにしても、NHKはどこの放送局なんだ? 日本人からゼニを巻き上げて、その視聴料を朝鮮人のために使い、彼らを励ます娯楽を放送するなんて。これじゃあ、「潰してしまえ!」と叫びたくなる。

  テレビ局や新聞・雑誌社は政治家や官公庁ほどの権力を持っていないが、それなりに絶大な影響力を有している。したがって、マスコミ業界で活躍する朝鮮系知識人や御用評論家には注意せねばならない。先ほど紹介した『100人の在日コリアン』を読むと、如何に朝鮮人の社会浸透が進んでいるか、がよく分かる。例えば、テレ朝の「スーパー・モーニング」に出ていた作家の若一光司は朝鮮系で、姜尚中と仲良く対談し、在日鮮人問題を議論しても、決して自分の血筋を明らかにしなかった。朝鮮人じゃないけど、テレ朝が寵愛する「青木理(おさむ)」や「吉永みちこ」、「大谷昭宏」の素性を明らかにしてもらいたい。テレ朝の報道番組が重用していた大村秀章は元朝鮮人だった。パチンコ大手の「SANYO」は「三洋物産」の金沢(金)要求が築いた朝鮮企業で、彼は大村のパーティー券を40万円分買っていた。現在の三洋商事社長は金全球で、三洋販売は金信球が社長になっている。左翼議員の近藤昭一もパチンコ屋の代理人となっていたが、愛知には朝鮮人の手下が本当に多い。

  知ってしまうとゾッとするが、大手マスコミには朝鮮系社員がウジャウジャいる。例えば、NHK大阪放送局の小山帥(おさひと)、毎日放送の西村秀樹、日経新聞記者の川上寿敏、毎日新聞記者の蓮見新也、朝日新聞記者の朴琴順(ぼく・きんじゅん)、朝日新聞大阪本部の企画報道室で副室長を務める松本督(すすむ)、読売新聞大阪本社で社会部次長を務める渡口行雄(わたぐち・ゆきお)、「黒田ジャーナル」で記者をしていた栗原佳子など、一般人は気づかないけど皆朝鮮系。ちなみに、「黒田ジャーナル」は亡くなった黒田清が設立した会社で、テレ朝のワイドショー「やじうま新聞」を観ていた人なら覚えているんじゃないか。亡くなって久しい黒田は昔、エコノミストの長谷川慶太郎と一緒に毎週木曜日の朝、新聞記事のコメンテーターを務めていた。極左分子の黒田はマスコミ界で「黒田軍団」と呼ばれる連中を率いた。彼は古巣の読売新聞を退社した後、「しんぶん赤旗」にもコラムを持っていたというから、名前は黒でも、心は相当真っ赤であった。

  一般の日本人は普段の生活で官報など読まないが、その帰化情報を目にすれば、あまりにも大量の朝鮮人が「日本国民」となっていることに驚くはずだ。朝鮮人は「日本人の仮面(マスカレード)」を被って発言し、朝鮮人の利益を促進する欺瞞を吐く。ザ・カーペンターズの名曲「This Masquerade」ならいいけど、帰化鮮人の「ディス・マスカレード」じゃ厭になる。(筆者の個人的な好みになるけど、ジョージ・ベンソンが以前カヴァーした「This Masquerade」の方が秀逸だと思う。) カレン・カーペンターは「この淋しいゲームで私たちは幸せなの?」と歌っていたが、「日本国民」になれた朝鮮人は何が起こっても幸せだ。日本という高度文明国の正式な公民になれたのだから文句はない。でも、朝鮮人から「私たちは同じ日本国民よ !」と言われた日系日本人は複雑な気持ちになる。「日本人」というのは紙切れで誕生した透明人間じゃない。日本人の両親、日本人の祖父母、日本人の曾祖父母から、日本人の血と肉を受け継いだのが本当の日本人だ。

  日本人は朝鮮人が非難すような排外主義の民族じゃない。譬えは、多少ゲルマン人やケルト人の血が混じっていても、日本で生まれたヨーロッパ系混血児は、自然と「日本人」になってしまう。ところが、支那人や朝鮮人の血が混じると話が違ってくる。アジア人の遺伝子は濃厚で、外見的には同じようになっても、精神的には異邦人のままだ。恥ずかしさと屈辱感で満たされた混血児や帰化人は、自然な日本人になれない。日系日本人は精神的におかしくなっているが、これからは肉体的にも異常になってくる。精神というのは肉体に追従するものだからねぇ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68787607.html
http://www.asyura2.com/2002/dispute2/msg/515.html#c106

[近代史3] 朝鮮人の血統は恥ずかしい _ 在日朝鮮人に生まれた事の悲しみ 中川隆
3. 中川隆[-14865] koaQ7Jey 2019年11月17日 18:09:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1954]


2019年11月16日
朝鮮人のマスカレード / 「日本国民」を装う帰化人
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68787607.html


「元々は朝鮮人」という藝人

korea 082korea 081

(写真 : 伝統的な生活を営む朝鮮人 )

  人間は野生動物と違って、自分の"由来"を知りたいと欲するようだ。大抵の人は自分が誰の子供で、どんな家系に連なるのかを知らないと安心できない。もし、赤ん坊のとき養子縁組が行われた子供が、中学生や高校生となり、自分の「両親」が本当の親ではないと察知するや、「では、自分を産んだ母や父は誰なのか?」と無性に探したくなる。赤の他人なら、「そんなの、どうでもいいじゃないか。育ての親がちゃんと居るんだから、君を里子に出した実の両親など必要ないだろう。それに今更、生みの親を探し当てたところで何になるんだ?」と説教するかも知れない。だが、本人にとったら、「自分が誰なのか」を知りたいし、こうした欲求は理性じゃ割りきれないものである。

  普通の日本人は日本人の両親から生まれ、誕生の時から日本に住んでいる。それゆえ、普段、自分のアイデンティティーとか国籍のことをあまり考えない。だいたい、日本人であることは改めて考えるまでもない自明の事実。それに、父や母の実家に行けば“日本人”の祖父母がいて、仏壇の近くには曾祖父母の遺影が飾ってあったりする。これが旧家の場合になると、自宅の側に昔からの蔵があって、扉を開けると、ご先祖様が残した骨董品とか刀剣、書状、掛け軸などがあったりするから、幼い子供でも自分の血筋を実感することが多い。

  ところが、朝鮮系「日本国民」だと、だいぶ話が違ってくる。在日朝鮮人や帰化鮮人だと、祖父母が戦後にやって来た密入国者とか、闇市でボロ儲けした第三国人、密造酒や屑鉄を売っていた下層民、賭博行やヒロポン販売で“のし上がった”豪商ときている。これじゃあ、友達に話すわけにもいかず、何としても隠したい。戦前、日本に渡ってきた朝鮮人は、敗戦を切っ掛けにして“ほとんど”が帰ってしまい、日本に留まったのは僅か数百名程度。ところが、残った鮮人ときたら大半が「ロクでなし」で、「傲慢・横暴」を絵に描いたような不逞鮮人。どいつもこいつも、日本人から嫌われた連中ばかり。(詳しくは拙書『支那人の卑史 朝鮮人の痴史』の第5章を読んでね。) しかし、暢気に育った在日4世とか5世だと、日本にやって来た1世の過去を知らないから、「日本人から虐待された哀れな従属民」と思っている。朝鮮人の親は我が子を傷つけたくないので、嘘と分かっていても、「お前の爺ちゃんは、日本人の命令で強制的に連行されてきたんだよ !」と教えるしかない。

  日本人的感覚からすれば、「テメェー、何言ってやがんでぃ !!」と呆れてしまうが、朝鮮人にとったら「歴史の偽造」なんて朝飯前。過去を自分の利益になるよう勝手に作り替えても構わない。何千年も前から支配者の虐待を受けてきた賤民は、偽りを口にしても罪悪感は無い、というか「生きる術(すべ)」となっている。そもそも、日本人は朝鮮人や支那人を解っていないのだ。我々の祖先は明治維新で先に西歐人と接触していたから、支那人や朝鮮人も正確に歴史の研究をするものと思っていた。ところが、暗黒大陸の異民族は違う。支那人は太古から権力を失った支配者を悉く誹謗し、新たな支配者を称讃する。しかも、胡麻が蜂蜜になるくらい、入念に捏(こ)ねて輝かしい青史を書く。同様に、朝鮮人は惨めな過去を帳消しにするため、薔薇色の歴史を創作する。朝鮮人にとり、歴史と小説、事実と妄想の区別は無い。彼らは百戦連敗でも「凱旋門」を建設できる民族だ。たとえ、工芸品すら無い劣等国であっても、5千年の歴史を有する高度文明国と自慢できる。

  朝鮮人の思考様式には唖然とすることが多いけど、「孔子もキリストも実は朝鮮人だった」と真面目に言える朝鮮人は、ある意味すごい。喉から手が出るほど「ノーベル賞」が欲しいけど、朝鮮民族には無理。だから、日本人科学者が受賞すると、南鮮人は「ウリ(俺)も欲しい !」とねだる。でも、現実的には絶望的だ。そこで、彼らは考えた。スウェーデンが駄目と言うなら、自分たちで受賞者をつくろう、と。これこそ、コロンブスの卵だ! いや、鮮人の独創性かも知れない。ブラック魔王とケンケンだってビックリ ! 「チキチキ・マシン猛レース」で岩石オープンが優勝するよりも凄いぞ。早速、彼らは独自に「ノーベル賞級の業績を持つ朝鮮人科学者」を選定し、韓国研究財団が「優秀な朝鮮人」17名に科学賞を与えたそうだ。さぁ〜すが、朝鮮人は頭がいい。発想の転換に優れている。自分で作って、仲間に与えるなんて斬新だ。日本人では考えつかない。朝鮮人には天賦の才能がある !

  脱線したので話を戻す。朝鮮人は自分の民族性や血統を恥じるのか、家系を曖昧にするすことが多い。特に、昭和から平成の初めくらいまでは、ほとんどの在日朝鮮人や帰化鮮人が出自を隠蔽していた。朝鮮名を堂々と掲げる者は少数派で、多数派は「偽名(通名)」を使って日本人のように振る舞っていた。一般的に知られているのは、藝能界で活躍していた「隠密鮮人crypto-Japanese)」である。例えば、和田アキ子(金福子)や俳優の伊原剛志(尹惟久)、西城秀樹(李乙龍 / 通名: 木本龍雄)だ。山本寛斎の娘婿となった椎名桔平(李在剛/ 通名 : 岩城正剛)は、家族で帰化したようで、兄の「岩城正剛(李正明)」も一緒に日本国籍を取っている。

  日本人と思っていた有名藝人が、「元在日鮮人」と判って驚く日本人は多い。例えば、ビッグ・スターの矢沢永吉が元鮮人と知らされれば、結構、多くのファンが衝撃を受けるんじゃないか。実は高校時代、筆者の親友であるN君、「超」が附くほどの矢沢ファンで、赤いバスタオルやLPレコードを持っていた。筆者が好きだったドイツのバンド「Accept」やブリテンの「Judas Priest」だと、「何だ、あんなうるさい洋楽 !」と全面否定するのに、矢沢氏の曲は全て大絶賛。N君は筆者に「これを聴いてみろよ !」と録音テープを貸してくれたけど、覚えているのは「黒く塗りつぶせ」くらい。後は、CF(TV広告)で使われていた曲だけ。当時、どうして多くの不良が矢沢ファンになったのか判らなかった。

  子供時代をあまり語らない矢沢氏は、昭和53年6月8日に帰化し、「趙永吉」という本名を「巴山永吉 / 巴山英吉」に変えたようだ。帰化申請の場所は「永ちゃん」らしく横浜だった。矢沢氏と違い、いち早く出自を明らかにしたジョニー大倉(朴雲煥 / 通名 : 大倉洋一)は、ちょっぴり後悔していたけど、同胞の在日から「やっぱり、そうだったの。うれしい」という声援をもらったそうだ。彼は二十歳の頃、どうせ有名になれば発覚するだろうと思い、事務所の社長や恩人のミッキー・カーチスに告白したらしい。彼は純粋に朝鮮の血を受け継ぐと自慢する一方で、日本に住んでいたという「虚しい過去」を「精算」するため、周囲の人間に自分の素性を明かしたそうだ。(小林靖彦 編 『在日コリアン・パワー』双葉社、1988年、p.14) ちなみに、「ジョニー」という英語名は横浜で外人と遊んでいた時、一緒に居た黒人兵につけてもらったそうである。

  上掲書のインタビューによると、大倉氏は川崎にある楽器屋を訪れ、そこに貼ってあった「メンバー募集」の広告を見て、矢沢氏に電話を掛けたそうだ。矢沢氏は当時から“あの性格”であったらしい。彼は大倉氏と一度も面識が無いのに、最初から“気さく”な態度で接していたという。電話越しなのに、「あのさぁ〜」といった調子で話しかけ、いきなり「横浜で会わないか」と誘ってきた。そこで、大倉氏は早速、京浜急行の川崎駅に向かい、長いオカッパの矢沢氏と対面したそうだ。“ビッグ”になった現在の矢沢氏とは大違い。ダサイ格好の大倉氏と奇妙な髪型の矢沢氏は、お互いの外見を目にして共に大笑いしたそうだ。

  大倉氏は独学でギターの演奏や芝居のコツを学んだというが、俳優としては予想外の評価を受けた。東映のヤクザ映画に出演すると、これがなかなかの“嵌(は)まり役”ときている。彼は「ヤクザの朝鮮人」を演じ、制作者は大絶賛。しかし、本人は世間の評判を気にしていた。なぜなら、“本物”が演じているようなものだから、“リアル過ぎる演技”となってしまうのだ。彼が『戦場のメリークリスマス』に出演したときの事だ。監督の大島渚は脚本で「自害する朝鮮人」を目にし、企画段階で大倉氏を頭に思い浮かべたらしい。大島監督は即座に採用を決定し、他の誰よりも先に彼をキャスティングしたという。案の定、大倉氏はNG無しで見事、「切腹する朝鮮人の軍属」を演じたそうだ。ちなみに、抜擢された大倉氏は、大島監督が朝鮮人について矢鱈と詳しかったので驚いたそうである。彼は監督から台本と一緒に『赤道直下の朝鮮人の反乱』という本をもらい感動した。さすが、京大卒の左翼監督はひと味違う。大島渚も「残虐非道な日本軍」を糾弾するインテリだった。

  脱線したので話を戻す。人気ロック・グループ「キャロル」といえば、その親衛隊を務めていた岩城滉一(李光一)が目に浮かぶ。岩城氏も“アニキ”と同じ帰化鮮人だが、日本国籍を取得したのはごく最近で、平成29年4月5日だ。インターネットが普及する前は、まさか「クールス」の人気者が在日地鮮人なんて、想像した日本人はほとんどいないだろう。かなり昔、筆者が歯医者に行ったとき、治療後に勘定を済ませようと椅子に座っていた時のことだ。「もうそろそろかなぁ〜」、と待っていたが、なかなか事務員の若い女性が呼び出してくれなかった。そこで、事務室のドアに近づいて中の様子を窺ったら、何と彼女は電話で岩城氏のライブ・チケットを予約していたのだ。「こらっ !」と叱りたかったが、「まぁ、二枚目俳優のコンサートじゃ仕方ないか・・・」と諦めたのを覚えている。確か、平成の初めくらいだったから、世間の女性は岩城氏に黄色い声援を送っていた。

  岩城氏の思い出は他にもあって、筆者は劇場で彼が主演する『南へ走れ、海の道を !』という映画を観たことがある。共演者は人気女優の安田成美で、彼女も帰化鮮人だ。以前、評論家の塩田丸男が“うっかり”バラしてしまったが、安田氏の本名は「鄭成美」といい、平成7年12月21日に帰化した。おそらく、1994年(平成6年)に結婚したから、それを切っ掛けに日本国籍の所得を考えたのだろう。子供の将来を考えれば当然だ。そういえば、彼女は平成6年にNHKのテレビ小説『春よ、来い』に出演したけど、筆者はこの配役に驚いたことがある。放送されたとき、筆者はこの作品のことを全く知らず、亡くなった中村粲(あきら)先生に教えてもらった。聞くところによると、『春よ、来い』というのは橋田壽賀子の自伝小説を基にしており、どうやら橋田氏は自分の役を美人女優にやらせたかったそうだ。当時の女性視聴者は「えぇぇっっっ〜、あのオバさんが若い時の役柄なのぉぉぉ〜」と呆れ返っていた。まぁ、原作者の婆さんにしてみれば、鑑に映る自分の姿に複雑な思いを抱いていたんだろう。「せめて、架空の世界では美女に生まれたい !」と願っても不思議じゃない。

  藝能界というのは朝鮮人の主な就職先になっているようで、恨み節の曲を披露する演歌界にも帰化鮮人が多い。有名なのは「五木ひろし」で、通名は「松山数夫」とか「松田数夫」になっている。でも、本名は「李数夫」で昭和48年4月18日に帰化していた。「都はるみ」も朝鮮人で、本名は「李晴美」といい、昭和41年5月18日に国籍を取得していた。下積み生活が長かった瀬川瑛子も帰化鮮人で、通名は「清水瑛子」とか「瀬川映子」というそうで、本名は「施瑛」というらしい。昭和48年5月28日、彼女は家族揃って日本国籍を取っている。(母?「施済萬」、姉?「施梅鶯」、弟?「施延富」) 某週刊誌によると、彼女の父「瀬川伸(施延雄)」も歌手であったという。しかし、売れていなかったのか、朝鮮料理屋を兼業していたようだ。筆者の個人的感想だけど、演歌の大御所や錦野旦、長州力、前田日明などが元鮮人でも構わない。しかし、「布袋寅泰」という藝人は嫌いだ。「ザ・ローリング・ストーンズ」が来日したとき、どうして彼が共演できたのか、全く以て腑に落ちない。なぜ、こんな三流の鮮人ミュージシャンが、よりにもよって一流のストーンズと交渉でき、東京の最終公演で、堂々とステージに立つことができたのか? 確実な証拠は見つからないが、特別な人脈を持っていたとしか思えない。

財界に蝟集する帰化鮮人

  まぁ、虚栄の世界に生きる藝人なら、生意気な在日鮮人でも、傲慢な帰化鮮人でも、あまり害は無い。ところが、財界の帰化鮮人とか在日鮮人となれば、少々事情が違ってくる。なんと言っても、大企業や新興企業となれば、テレビや新聞・雑誌への影響が甚大だ。テレビ局のプロデューサーやディレクターにとって、電通の社員とスポンサー企業は神様と同じ。無料(タダ)で観ているくせに文句ばかりつけてくる視聴者なんか、ウンコにたかる蠅かウジムシ以下。お金を出す人が本当の「お客様」だ。したがって、スポンサー企業の社長や重役が朝鮮人なら、番組が朝鮮人礼賛の内容になったり、在日同胞に配慮した“提灯特番”になってもおかしくはない。朝鮮人の正体を暴く番組なんて絶対にNG。藝者の太鼓持ちだって、冗談の限界は心得ている。財務省と広告主に媚びる経済番組だと、ソフトバンクの株が暴落したって、「下がった今なら お買い得 !」と勧めるのが鉄則。間違っても、「ジャンク株」なんて言っちゃ駄目。

  日本名をプロフィールに掲げているから判らないけど、有名企業の創業者とか経営者には朝鮮人が結構多い。例えば、「アイリスオーヤマ」の大山晃弘社長は、「趙慧済」という本名を持ち、平成10年9月21日に帰化している。元々はパチンコ屋であった「大和商事」を創業したのは、「OKグループ」の会長を務める大城敬三で、彼の本名は「徐海注」という。国籍は北鮮から南鮮へと移し、在日南鮮人として活躍している。彼は馬主として有名だが、韓国へ多額の送金を行った事でも知られる民団の大御所だ。息子の「徐正一」と如何なる関係か判らぬが、現在の大和商事で代表取締役を務めているのは大城正準(徐正準)で、彼は平成7年12月21日に帰化している。一緒に国籍を申請した「金王姫」や「徐桃子」、「徐華子」、「徐元哲」、「徐哲教」がどんな関係を持っているのか、定かではない。パチンコ好きの日本人なら「Daiwa」を創業した家族について何か知っているんじゃないか。

   関東地方でスーパー・マーケットやホーム用品店をチェーン展開をしている「Olympicグループ」も、朝鮮人が創業した企業である。社長の金澤富夫は「尹芳列」という本名を持ち、昭和40年12月10日に帰化している。どうい家族関係か判らないけど、「尹良樹」と「尹明美」「尹裕之」「尹美名子」も一緒に国籍を取得した。金澤社長には王生(尹王生)という弟がいて、有料養老院を運営する「ハーフ・センチュリー・モア」の社長になっている。その兄に当たるのか、「金澤有知」は副社長であるという。とにかく、在日鮮人の家族関係は複雑だ。

  朝鮮人が選ぶ職業というのは、パチンコ屋か藝人でなければ飲食業だ。有名な朝鮮料理屋である「叙々苑」を創業した朴泰道も在日朝鮮人で、以前は「新井」とか「吉田泰道」を名乗っていて、昭和55年6月18日に帰化している。パチンコなどの娯楽業や飲食業のみならず、不動産業やゴルフ場、リサイクル業まで幅広く手掛ける「ユーコー・ラッキー・グルー」を創業した金海龍海も在日朝鮮人だった。父の金海基泰がどの国籍なのか判らぬが、息子の龍雄は平成24年2月10日に帰化している。龍海の息子二人は現在、「ユーコー」の経営者となっており、「基泰」が社長で「基樹」が副社長であるそうだ。

 西歐社会で絶大な権力をふるうユダヤ人と同じく、朝鮮人も日本人が嫌がる職種で成功し、卑しい身分から権力者へと上りつめた。敗戦後、「第三国人」となった朝鮮人は、クズ鉄や銅線、産業廃棄物を集める産廃業者とか、密造酒や飴菓子を作る製造業、豚や牛を精肉にして卸す屠殺業、地上屋まがいの不動産業、高利貸し、風俗業などに就いて、コツコツ金銭を貯めると、徐々に有力者となっていった。これまたユダヤ人と似ているが、文明国にタカる賤民は横の繋がり(同胞人脈)を強化して、憎い現地民族をやっつけようとするらしい。朝鮮人の藝人とか商人は、日本人から嫌われているので、こっそりと裏舞台で手を結び、互いに助け合いながら勢力を拡大しようとする。

  報道番組で耳にしたのだが、恐喝容疑で「キム・ジョンヒ」という飲食店経営者が逮捕された。この在日南鮮人は、「道端アンジェリカ」というファッション・モデルの亭主であるという。このキム(金?)は、女房の元恋人を脅迫して、35万円を巻き上げようとしたそうだ。しかし、異例なことに、キムの逮捕に警視庁捜査二課が動いたのである。この程度のチンケな恐喝事件なら、所轄の刑事が来るはずだ。それなのに、わざわざ二課の捜査官がお出ましになった、ということは、キムの背後に何らかの犯罪組織か黒い人脈があるのかも知れない。在日朝鮮人というのは、同胞で蜘蛛の巣のようなネットワークを築いているから、代官山でカタギの仕事をしていても、危ない人物と付き合っていたりする。もしかしたら、捜査二課は何らかの情報を引き出すためにキムをしょっ引いたのかも知れないぞ。

  在日や帰化した歌手や俳優でも、意外な「友人関係」を築いているし、商売人は同胞の出資者とか投資家、お得意先を持っていて、会社の重役とか相談役、特別顧問などに同胞がいたりする。ただし、日本名を持っているから、外部の日本人には判らない。朝鮮人は日本人に血筋を知られたくないから、自分の過去や家系を隠す。カツラで知られる「リーブ21」の岡村勝正(廬勝正)とか、朝鮮料理のタレを販売する「モランボン」の創業者「全演植」、「MKタクシー」の青木定雄(兪奉植)、パチンコ製造業の「平和工業(旧中島商会)」を創設した中島健吉は有名だけど、他の鮮人は官報を調べないと判らない。

政治家になった元朝鮮人

  帰化鮮人のビジネスマンも厄介だが、それ以上に有害なのは公権力を握った朝鮮人だ。立憲民主党の福山哲郎は既に「陳哲郎」と判明している。彼は父の「陳栄澤」と弟の「陳俊郎」と共に、昭和50年8月29日に帰化している。朝鮮系の政治家は必ずと言っていいほど素性を隠す。例外なのは、證券スキャンダルで自殺した新井将敬くらいだ。「朴景在」という北鮮人だった新井議員は、「新井隆」とか「新井隆央」、「崔隆」という通名を持っていた。ところが、高校生の時、覚悟を決めて日本国籍を取得し、大学卒業すると大蔵省に入った。当時、渡部昇一先生は新井氏の素性に言及し、まともな帰化鮮人として紹介していた。新井氏は石原慎太郎と同じ大田区を地盤としていたから、衆院選挙では相当苦戦したらしい。ちなみに、彼の母親は「崔玉慶」というが、日本での通名は夫の「新井義男」とリンクさせたのか、「新井眞佐栄」と名乗っていた。しかし、以前は「大岡直恵」という名前だった。朝鮮人に複数の偽名を許す日本政府は異常である。

  権力を握る政治家には、「帰化鮮人じゃないのか?」、と疑いたくなる人物が多い。例えば、在日鮮人や帰化鮮人にも信者を増やそうとする創価学会は、明らかに朝鮮贔屓であるから、公明党に朝鮮系議員がいても不思議じゃない。例えば、農水省の官僚から政治家に転向した上田勇(うえだ・いさむ)は、小泉政権で財務副大臣を務め、現在は公明党政務調査会の会長代理となっている。平成5年4月23日、通名が「山本勇」で本名を「崔勇」という在日鮮人が帰化しているが、この人物が当の上田議員なのかよく判らない。国会議員のみならず、公権力を握る公務員は、三代か四代まで遡って祖先を公表し、どのような血筋になっているのか明らかにすべきである。もし、この法律に反対する公務員がいれば、その人物の方が怪しい。国会で勇ましい謝蓮舫は、「個人のプライバシー」を楯にして反対するが、どうして自分の両親や祖父母をはっきり紹介できないのか? 西歐系帰化人は堂々と自分の人種や宗教を明かすのに、支那人や朝鮮人は真っ赤になって激昂し、ご自慢の家系を隠す。よっぽど恥ずかしいのだろう。

  朝鮮人の利益を忖度する政治家には、“帰化人”疑惑の議員が多い。例えば、日本人を貶め、朝鮮人を称讃した小沢一郎には「朝鮮人疑惑」がまとわりついているが、彼の母親は帰化鮮人じゃなく本当に日本人なのか? 以前、小沢は女性の鮮人秘書を抱えていた。この「金淑賢(きむ・すくひょん)」という南鮮人は、東京大学で韓中修好に関する研究をテーマにして博士号を所得したそうだが、誰のために秘書をしていたのか? 南鮮に媚びる小沢から貴重な情報を引き出すためか、南鮮の「協力者」にして上手く操るためだろう。

  今は凋落しているけど、社会党はソ連だけじゃなく、北鮮の代表機関でもあった。 生前、社会党の土井たか子は、「李高順」との噂があったけど、裁判では明らかにされず、うやむやのままで終わってしまった。パチンコ屋と金日成が大好きだった社会党委員長は、たとえ法律上「日本人」であっても、心のふるさとは朝鮮であったに違いない。金丸信だって、山梨の「日本人」というが、中身は生粋の朝鮮人だ。自民党の闇将軍と呼ばれていたが、属性は菅直人や白真勲と同じである。

  「朝鮮人疑惑」をもたれる議員には、パチンコ業界の回し者がいる。例えば、自民党参院議員の尾立源幸(おだち・もとゆき)が、パチンコ屋の代理人であることは周知の事実。今では比例全国区の支部長をしているが、元々は鳩山由紀夫の秘書で、自民党に鞍替えすると二階派に入った。民主党から民進党に移って、雲行きが悪くなると、安全な自民党に潜り込むんだから、政治理念とか基本姿勢なんて端っから無いんだろう。派閥の親分たる二階俊博だって、小林旭も呆れてしまうほどの渡り鳥。自民党を飛び出した二階は、新生党から新進党に移り、自由党や保守党、保守新党を迂回して自民党に戻ってきた。今でも二階と親しい小池百合子は、「緑のタヌキ」と呼ばれていたが、その本性は政界のカモメである。細川護熙から小沢一郎、小泉純一郎の寝床を渡り歩き、用済みとなるやポイ捨て。「寝る相手」を換えて出世すると、非現実的な公約を掲げて東京都知事となった。高齢で卵を産めない雌鶏(めんどり)は、金の卵を求めて二期目を目指している。

朝鮮人が進出するマスコミ界

  政治家に次いで危険なのは、マスコミに潜伏する帰化鮮人である。とりわけ、テレビ局に就職する帰化鮮人は、何を目論んでいるのか分からないし、どんな害悪を垂れ流すのか予想できないので注意を要する。テレ朝の「ニュース・ステーション」に出ていた松嶋明日香(あすか)は、結婚前「孫明日香」という名前で通っていた。しかし、本名は「孫栄順(そん・よんすん)」。彼女は津田塾大の大学院を最終学歴としているが、その前は朝鮮大学校に通っていた。この「大学校」は法律的に認められた「大学」じゃないから、朝鮮人が集まる「私塾」に過ぎない。したがって、日本の大学に入るため、何らかの試験を受けたのだろう。幼い頃、彼女は日本の小学校に通ったというが、中学は朝鮮の民族学校に入ったそうだ。良知会が発行した『100人の在日コリアン』によれば、中学二年生のとき、彼女は平壌の音楽舞踊学校に留学し、約二ヶ月間、楽しいお勉強をしたらしい。(pp.184-185.)

  TBSやフジテレビよりも、NHKの方がより積極的に「朝鮮枠」を設けているようで、在日鮮人や帰化鮮人が多く紛れ込んでいる。例えば、同局の安梨香(あん・いひゃん)は、連続ドラマ『ふたりっ子』を手掛けたプロデューサー。彼女の父親はパチンコ屋から身を起こして、建設業や不動産業へと転身した在日朝鮮人。この職歴を観ただけでも、如何にも朝鮮人らしいと判る。娘の梨香も様々な世界で暮らすことが好きなようで、高校は神戸国際カナディアン・アカデミーに通い、大学は上智大学の比較文化に入った。祖国大好きの鮮人才女は、高校時代、ソウルに渡って夏期学校に通ったそうだ。たぶん大学生の時だろうが、延世大学に留学したことがあるという。

  この朝鮮娘は反日分子が集うNHKに就職し、朝鮮人をテーマとするドラマを作った。(安氏は演出を担当。) 2002年8月24日、NHK大阪放送局はFMシアターで、『ポンソンファ』というラジオ・ドラマを放送した。主人公の「明」は在日3世次男坊で、彼の両親はパチンコ屋の経営者という設定だ。普段、明は南鮮国籍を意識しないが、就職活動の時に国籍の件で苦労する。しかし、彼は民族の違いから由来する屈辱感と挫折感をものともせず、それらを克服しながら明日への一歩を踏み出す。NHK曰わく、この作品は「国籍を超えて新しい生き方を探す在日青年の物語」であるそうだ。平成14年、日本の役所はこの“素晴らしい”朝鮮ドラマを称讃し、文化庁藝術祭優秀賞を与えた。一般的には、誰も聴かない、誰も知らない朝鮮ドラマだが、税金で暮らしている連中にとっては秀作らしい。普通の日本人だと、「他にマシな作品はなかったのか?」と尋ねたくなるが、官庁の公務員は日本人らしい感性を持っていないから、朝鮮人にジャンジャン報奨金や補助金を出す。それにしても、NHKはどこの放送局なんだ? 日本人からゼニを巻き上げて、その視聴料を朝鮮人のために使い、彼らを励ます娯楽を放送するなんて。これじゃあ、「潰してしまえ!」と叫びたくなる。

  テレビ局や新聞・雑誌社は政治家や官公庁ほどの権力を持っていないが、それなりに絶大な影響力を有している。したがって、マスコミ業界で活躍する朝鮮系知識人や御用評論家には注意せねばならない。先ほど紹介した『100人の在日コリアン』を読むと、如何に朝鮮人の社会浸透が進んでいるか、がよく分かる。例えば、テレ朝の「スーパー・モーニング」に出ていた作家の若一光司は朝鮮系で、姜尚中と仲良く対談し、在日鮮人問題を議論しても、決して自分の血筋を明らかにしなかった。朝鮮人じゃないけど、テレ朝が寵愛する「青木理(おさむ)」や「吉永みちこ」、「大谷昭宏」の素性を明らかにしてもらいたい。テレ朝の報道番組が重用していた大村秀章は元朝鮮人だった。パチンコ大手の「SANYO」は「三洋物産」の金沢(金)要求が築いた朝鮮企業で、彼は大村のパーティー券を40万円分買っていた。現在の三洋商事社長は金全球で、三洋販売は金信球が社長になっている。左翼議員の近藤昭一もパチンコ屋の代理人となっていたが、愛知には朝鮮人の手下が本当に多い。

  知ってしまうとゾッとするが、大手マスコミには朝鮮系社員がウジャウジャいる。例えば、NHK大阪放送局の小山帥(おさひと)、毎日放送の西村秀樹、日経新聞記者の川上寿敏、毎日新聞記者の蓮見新也、朝日新聞記者の朴琴順(ぼく・きんじゅん)、朝日新聞大阪本部の企画報道室で副室長を務める松本督(すすむ)、読売新聞大阪本社で社会部次長を務める渡口行雄(わたぐち・ゆきお)、「黒田ジャーナル」で記者をしていた栗原佳子など、一般人は気づかないけど皆朝鮮系。ちなみに、「黒田ジャーナル」は亡くなった黒田清が設立した会社で、テレ朝のワイドショー「やじうま新聞」を観ていた人なら覚えているんじゃないか。亡くなって久しい黒田は昔、エコノミストの長谷川慶太郎と一緒に毎週木曜日の朝、新聞記事のコメンテーターを務めていた。極左分子の黒田はマスコミ界で「黒田軍団」と呼ばれる連中を率いた。彼は古巣の読売新聞を退社した後、「しんぶん赤旗」にもコラムを持っていたというから、名前は黒でも、心は相当真っ赤であった。

  一般の日本人は普段の生活で官報など読まないが、その帰化情報を目にすれば、あまりにも大量の朝鮮人が「日本国民」となっていることに驚くはずだ。朝鮮人は「日本人の仮面(マスカレード)」を被って発言し、朝鮮人の利益を促進する欺瞞を吐く。ザ・カーペンターズの名曲「This Masquerade」ならいいけど、帰化鮮人の「ディス・マスカレード」じゃ厭になる。(筆者の個人的な好みになるけど、ジョージ・ベンソンが以前カヴァーした「This Masquerade」の方が秀逸だと思う。) カレン・カーペンターは「この淋しいゲームで私たちは幸せなの?」と歌っていたが、「日本国民」になれた朝鮮人は何が起こっても幸せだ。日本という高度文明国の正式な公民になれたのだから文句はない。でも、朝鮮人から「私たちは同じ日本国民よ !」と言われた日系日本人は複雑な気持ちになる。「日本人」というのは紙切れで誕生した透明人間じゃない。日本人の両親、日本人の祖父母、日本人の曾祖父母から、日本人の血と肉を受け継いだのが本当の日本人だ。

  日本人は朝鮮人が非難すような排外主義の民族じゃない。譬えは、多少ゲルマン人やケルト人の血が混じっていても、日本で生まれたヨーロッパ系混血児は、自然と「日本人」になってしまう。ところが、支那人や朝鮮人の血が混じると話が違ってくる。アジア人の遺伝子は濃厚で、外見的には同じようになっても、精神的には異邦人のままだ。恥ずかしさと屈辱感で満たされた混血児や帰化人は、自然な日本人になれない。日系日本人は精神的におかしくなっているが、これからは肉体的にも異常になってくる。精神というのは肉体に追従するものだからねぇ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68787607.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/495.html#c3

[昼休み54] 日本の中枢は既に在日朝鮮人に乗っ取られている 中川隆
45. 中川隆[-14864] koaQ7Jey 2019年11月17日 18:10:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1953]


2019年11月16日
朝鮮人のマスカレード / 「日本国民」を装う帰化人
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68787607.html


「元々は朝鮮人」という藝人

korea 082korea 081

(写真 : 伝統的な生活を営む朝鮮人 )

  人間は野生動物と違って、自分の"由来"を知りたいと欲するようだ。大抵の人は自分が誰の子供で、どんな家系に連なるのかを知らないと安心できない。もし、赤ん坊のとき養子縁組が行われた子供が、中学生や高校生となり、自分の「両親」が本当の親ではないと察知するや、「では、自分を産んだ母や父は誰なのか?」と無性に探したくなる。赤の他人なら、「そんなの、どうでもいいじゃないか。育ての親がちゃんと居るんだから、君を里子に出した実の両親など必要ないだろう。それに今更、生みの親を探し当てたところで何になるんだ?」と説教するかも知れない。だが、本人にとったら、「自分が誰なのか」を知りたいし、こうした欲求は理性じゃ割りきれないものである。

  普通の日本人は日本人の両親から生まれ、誕生の時から日本に住んでいる。それゆえ、普段、自分のアイデンティティーとか国籍のことをあまり考えない。だいたい、日本人であることは改めて考えるまでもない自明の事実。それに、父や母の実家に行けば“日本人”の祖父母がいて、仏壇の近くには曾祖父母の遺影が飾ってあったりする。これが旧家の場合になると、自宅の側に昔からの蔵があって、扉を開けると、ご先祖様が残した骨董品とか刀剣、書状、掛け軸などがあったりするから、幼い子供でも自分の血筋を実感することが多い。

  ところが、朝鮮系「日本国民」だと、だいぶ話が違ってくる。在日朝鮮人や帰化鮮人だと、祖父母が戦後にやって来た密入国者とか、闇市でボロ儲けした第三国人、密造酒や屑鉄を売っていた下層民、賭博行やヒロポン販売で“のし上がった”豪商ときている。これじゃあ、友達に話すわけにもいかず、何としても隠したい。戦前、日本に渡ってきた朝鮮人は、敗戦を切っ掛けにして“ほとんど”が帰ってしまい、日本に留まったのは僅か数百名程度。ところが、残った鮮人ときたら大半が「ロクでなし」で、「傲慢・横暴」を絵に描いたような不逞鮮人。どいつもこいつも、日本人から嫌われた連中ばかり。(詳しくは拙書『支那人の卑史 朝鮮人の痴史』の第5章を読んでね。) しかし、暢気に育った在日4世とか5世だと、日本にやって来た1世の過去を知らないから、「日本人から虐待された哀れな従属民」と思っている。朝鮮人の親は我が子を傷つけたくないので、嘘と分かっていても、「お前の爺ちゃんは、日本人の命令で強制的に連行されてきたんだよ !」と教えるしかない。

  日本人的感覚からすれば、「テメェー、何言ってやがんでぃ !!」と呆れてしまうが、朝鮮人にとったら「歴史の偽造」なんて朝飯前。過去を自分の利益になるよう勝手に作り替えても構わない。何千年も前から支配者の虐待を受けてきた賤民は、偽りを口にしても罪悪感は無い、というか「生きる術(すべ)」となっている。そもそも、日本人は朝鮮人や支那人を解っていないのだ。我々の祖先は明治維新で先に西歐人と接触していたから、支那人や朝鮮人も正確に歴史の研究をするものと思っていた。ところが、暗黒大陸の異民族は違う。支那人は太古から権力を失った支配者を悉く誹謗し、新たな支配者を称讃する。しかも、胡麻が蜂蜜になるくらい、入念に捏(こ)ねて輝かしい青史を書く。同様に、朝鮮人は惨めな過去を帳消しにするため、薔薇色の歴史を創作する。朝鮮人にとり、歴史と小説、事実と妄想の区別は無い。彼らは百戦連敗でも「凱旋門」を建設できる民族だ。たとえ、工芸品すら無い劣等国であっても、5千年の歴史を有する高度文明国と自慢できる。

  朝鮮人の思考様式には唖然とすることが多いけど、「孔子もキリストも実は朝鮮人だった」と真面目に言える朝鮮人は、ある意味すごい。喉から手が出るほど「ノーベル賞」が欲しいけど、朝鮮民族には無理。だから、日本人科学者が受賞すると、南鮮人は「ウリ(俺)も欲しい !」とねだる。でも、現実的には絶望的だ。そこで、彼らは考えた。スウェーデンが駄目と言うなら、自分たちで受賞者をつくろう、と。これこそ、コロンブスの卵だ! いや、鮮人の独創性かも知れない。ブラック魔王とケンケンだってビックリ ! 「チキチキ・マシン猛レース」で岩石オープンが優勝するよりも凄いぞ。早速、彼らは独自に「ノーベル賞級の業績を持つ朝鮮人科学者」を選定し、韓国研究財団が「優秀な朝鮮人」17名に科学賞を与えたそうだ。さぁ〜すが、朝鮮人は頭がいい。発想の転換に優れている。自分で作って、仲間に与えるなんて斬新だ。日本人では考えつかない。朝鮮人には天賦の才能がある !

  脱線したので話を戻す。朝鮮人は自分の民族性や血統を恥じるのか、家系を曖昧にするすことが多い。特に、昭和から平成の初めくらいまでは、ほとんどの在日朝鮮人や帰化鮮人が出自を隠蔽していた。朝鮮名を堂々と掲げる者は少数派で、多数派は「偽名(通名)」を使って日本人のように振る舞っていた。一般的に知られているのは、藝能界で活躍していた「隠密鮮人crypto-Japanese)」である。例えば、和田アキ子(金福子)や俳優の伊原剛志(尹惟久)、西城秀樹(李乙龍 / 通名: 木本龍雄)だ。山本寛斎の娘婿となった椎名桔平(李在剛/ 通名 : 岩城正剛)は、家族で帰化したようで、兄の「岩城正剛(李正明)」も一緒に日本国籍を取っている。

  日本人と思っていた有名藝人が、「元在日鮮人」と判って驚く日本人は多い。例えば、ビッグ・スターの矢沢永吉が元鮮人と知らされれば、結構、多くのファンが衝撃を受けるんじゃないか。実は高校時代、筆者の親友であるN君、「超」が附くほどの矢沢ファンで、赤いバスタオルやLPレコードを持っていた。筆者が好きだったドイツのバンド「Accept」やブリテンの「Judas Priest」だと、「何だ、あんなうるさい洋楽 !」と全面否定するのに、矢沢氏の曲は全て大絶賛。N君は筆者に「これを聴いてみろよ !」と録音テープを貸してくれたけど、覚えているのは「黒く塗りつぶせ」くらい。後は、CF(TV広告)で使われていた曲だけ。当時、どうして多くの不良が矢沢ファンになったのか判らなかった。

  子供時代をあまり語らない矢沢氏は、昭和53年6月8日に帰化し、「趙永吉」という本名を「巴山永吉 / 巴山英吉」に変えたようだ。帰化申請の場所は「永ちゃん」らしく横浜だった。矢沢氏と違い、いち早く出自を明らかにしたジョニー大倉(朴雲煥 / 通名 : 大倉洋一)は、ちょっぴり後悔していたけど、同胞の在日から「やっぱり、そうだったの。うれしい」という声援をもらったそうだ。彼は二十歳の頃、どうせ有名になれば発覚するだろうと思い、事務所の社長や恩人のミッキー・カーチスに告白したらしい。彼は純粋に朝鮮の血を受け継ぐと自慢する一方で、日本に住んでいたという「虚しい過去」を「精算」するため、周囲の人間に自分の素性を明かしたそうだ。(小林靖彦 編 『在日コリアン・パワー』双葉社、1988年、p.14) ちなみに、「ジョニー」という英語名は横浜で外人と遊んでいた時、一緒に居た黒人兵につけてもらったそうである。

  上掲書のインタビューによると、大倉氏は川崎にある楽器屋を訪れ、そこに貼ってあった「メンバー募集」の広告を見て、矢沢氏に電話を掛けたそうだ。矢沢氏は当時から“あの性格”であったらしい。彼は大倉氏と一度も面識が無いのに、最初から“気さく”な態度で接していたという。電話越しなのに、「あのさぁ〜」といった調子で話しかけ、いきなり「横浜で会わないか」と誘ってきた。そこで、大倉氏は早速、京浜急行の川崎駅に向かい、長いオカッパの矢沢氏と対面したそうだ。“ビッグ”になった現在の矢沢氏とは大違い。ダサイ格好の大倉氏と奇妙な髪型の矢沢氏は、お互いの外見を目にして共に大笑いしたそうだ。

  大倉氏は独学でギターの演奏や芝居のコツを学んだというが、俳優としては予想外の評価を受けた。東映のヤクザ映画に出演すると、これがなかなかの“嵌(は)まり役”ときている。彼は「ヤクザの朝鮮人」を演じ、制作者は大絶賛。しかし、本人は世間の評判を気にしていた。なぜなら、“本物”が演じているようなものだから、“リアル過ぎる演技”となってしまうのだ。彼が『戦場のメリークリスマス』に出演したときの事だ。監督の大島渚は脚本で「自害する朝鮮人」を目にし、企画段階で大倉氏を頭に思い浮かべたらしい。大島監督は即座に採用を決定し、他の誰よりも先に彼をキャスティングしたという。案の定、大倉氏はNG無しで見事、「切腹する朝鮮人の軍属」を演じたそうだ。ちなみに、抜擢された大倉氏は、大島監督が朝鮮人について矢鱈と詳しかったので驚いたそうである。彼は監督から台本と一緒に『赤道直下の朝鮮人の反乱』という本をもらい感動した。さすが、京大卒の左翼監督はひと味違う。大島渚も「残虐非道な日本軍」を糾弾するインテリだった。

  脱線したので話を戻す。人気ロック・グループ「キャロル」といえば、その親衛隊を務めていた岩城滉一(李光一)が目に浮かぶ。岩城氏も“アニキ”と同じ帰化鮮人だが、日本国籍を取得したのはごく最近で、平成29年4月5日だ。インターネットが普及する前は、まさか「クールス」の人気者が在日地鮮人なんて、想像した日本人はほとんどいないだろう。かなり昔、筆者が歯医者に行ったとき、治療後に勘定を済ませようと椅子に座っていた時のことだ。「もうそろそろかなぁ〜」、と待っていたが、なかなか事務員の若い女性が呼び出してくれなかった。そこで、事務室のドアに近づいて中の様子を窺ったら、何と彼女は電話で岩城氏のライブ・チケットを予約していたのだ。「こらっ !」と叱りたかったが、「まぁ、二枚目俳優のコンサートじゃ仕方ないか・・・」と諦めたのを覚えている。確か、平成の初めくらいだったから、世間の女性は岩城氏に黄色い声援を送っていた。

  岩城氏の思い出は他にもあって、筆者は劇場で彼が主演する『南へ走れ、海の道を !』という映画を観たことがある。共演者は人気女優の安田成美で、彼女も帰化鮮人だ。以前、評論家の塩田丸男が“うっかり”バラしてしまったが、安田氏の本名は「鄭成美」といい、平成7年12月21日に帰化した。おそらく、1994年(平成6年)に結婚したから、それを切っ掛けに日本国籍の所得を考えたのだろう。子供の将来を考えれば当然だ。そういえば、彼女は平成6年にNHKのテレビ小説『春よ、来い』に出演したけど、筆者はこの配役に驚いたことがある。放送されたとき、筆者はこの作品のことを全く知らず、亡くなった中村粲(あきら)先生に教えてもらった。聞くところによると、『春よ、来い』というのは橋田壽賀子の自伝小説を基にしており、どうやら橋田氏は自分の役を美人女優にやらせたかったそうだ。当時の女性視聴者は「えぇぇっっっ〜、あのオバさんが若い時の役柄なのぉぉぉ〜」と呆れ返っていた。まぁ、原作者の婆さんにしてみれば、鑑に映る自分の姿に複雑な思いを抱いていたんだろう。「せめて、架空の世界では美女に生まれたい !」と願っても不思議じゃない。

  藝能界というのは朝鮮人の主な就職先になっているようで、恨み節の曲を披露する演歌界にも帰化鮮人が多い。有名なのは「五木ひろし」で、通名は「松山数夫」とか「松田数夫」になっている。でも、本名は「李数夫」で昭和48年4月18日に帰化していた。「都はるみ」も朝鮮人で、本名は「李晴美」といい、昭和41年5月18日に国籍を取得していた。下積み生活が長かった瀬川瑛子も帰化鮮人で、通名は「清水瑛子」とか「瀬川映子」というそうで、本名は「施瑛」というらしい。昭和48年5月28日、彼女は家族揃って日本国籍を取っている。(母?「施済萬」、姉?「施梅鶯」、弟?「施延富」) 某週刊誌によると、彼女の父「瀬川伸(施延雄)」も歌手であったという。しかし、売れていなかったのか、朝鮮料理屋を兼業していたようだ。筆者の個人的感想だけど、演歌の大御所や錦野旦、長州力、前田日明などが元鮮人でも構わない。しかし、「布袋寅泰」という藝人は嫌いだ。「ザ・ローリング・ストーンズ」が来日したとき、どうして彼が共演できたのか、全く以て腑に落ちない。なぜ、こんな三流の鮮人ミュージシャンが、よりにもよって一流のストーンズと交渉でき、東京の最終公演で、堂々とステージに立つことができたのか? 確実な証拠は見つからないが、特別な人脈を持っていたとしか思えない。

財界に蝟集する帰化鮮人

  まぁ、虚栄の世界に生きる藝人なら、生意気な在日鮮人でも、傲慢な帰化鮮人でも、あまり害は無い。ところが、財界の帰化鮮人とか在日鮮人となれば、少々事情が違ってくる。なんと言っても、大企業や新興企業となれば、テレビや新聞・雑誌への影響が甚大だ。テレビ局のプロデューサーやディレクターにとって、電通の社員とスポンサー企業は神様と同じ。無料(タダ)で観ているくせに文句ばかりつけてくる視聴者なんか、ウンコにたかる蠅かウジムシ以下。お金を出す人が本当の「お客様」だ。したがって、スポンサー企業の社長や重役が朝鮮人なら、番組が朝鮮人礼賛の内容になったり、在日同胞に配慮した“提灯特番”になってもおかしくはない。朝鮮人の正体を暴く番組なんて絶対にNG。藝者の太鼓持ちだって、冗談の限界は心得ている。財務省と広告主に媚びる経済番組だと、ソフトバンクの株が暴落したって、「下がった今なら お買い得 !」と勧めるのが鉄則。間違っても、「ジャンク株」なんて言っちゃ駄目。

  日本名をプロフィールに掲げているから判らないけど、有名企業の創業者とか経営者には朝鮮人が結構多い。例えば、「アイリスオーヤマ」の大山晃弘社長は、「趙慧済」という本名を持ち、平成10年9月21日に帰化している。元々はパチンコ屋であった「大和商事」を創業したのは、「OKグループ」の会長を務める大城敬三で、彼の本名は「徐海注」という。国籍は北鮮から南鮮へと移し、在日南鮮人として活躍している。彼は馬主として有名だが、韓国へ多額の送金を行った事でも知られる民団の大御所だ。息子の「徐正一」と如何なる関係か判らぬが、現在の大和商事で代表取締役を務めているのは大城正準(徐正準)で、彼は平成7年12月21日に帰化している。一緒に国籍を申請した「金王姫」や「徐桃子」、「徐華子」、「徐元哲」、「徐哲教」がどんな関係を持っているのか、定かではない。パチンコ好きの日本人なら「Daiwa」を創業した家族について何か知っているんじゃないか。

   関東地方でスーパー・マーケットやホーム用品店をチェーン展開をしている「Olympicグループ」も、朝鮮人が創業した企業である。社長の金澤富夫は「尹芳列」という本名を持ち、昭和40年12月10日に帰化している。どうい家族関係か判らないけど、「尹良樹」と「尹明美」「尹裕之」「尹美名子」も一緒に国籍を取得した。金澤社長には王生(尹王生)という弟がいて、有料養老院を運営する「ハーフ・センチュリー・モア」の社長になっている。その兄に当たるのか、「金澤有知」は副社長であるという。とにかく、在日鮮人の家族関係は複雑だ。

  朝鮮人が選ぶ職業というのは、パチンコ屋か藝人でなければ飲食業だ。有名な朝鮮料理屋である「叙々苑」を創業した朴泰道も在日朝鮮人で、以前は「新井」とか「吉田泰道」を名乗っていて、昭和55年6月18日に帰化している。パチンコなどの娯楽業や飲食業のみならず、不動産業やゴルフ場、リサイクル業まで幅広く手掛ける「ユーコー・ラッキー・グルー」を創業した金海龍海も在日朝鮮人だった。父の金海基泰がどの国籍なのか判らぬが、息子の龍雄は平成24年2月10日に帰化している。龍海の息子二人は現在、「ユーコー」の経営者となっており、「基泰」が社長で「基樹」が副社長であるそうだ。

 西歐社会で絶大な権力をふるうユダヤ人と同じく、朝鮮人も日本人が嫌がる職種で成功し、卑しい身分から権力者へと上りつめた。敗戦後、「第三国人」となった朝鮮人は、クズ鉄や銅線、産業廃棄物を集める産廃業者とか、密造酒や飴菓子を作る製造業、豚や牛を精肉にして卸す屠殺業、地上屋まがいの不動産業、高利貸し、風俗業などに就いて、コツコツ金銭を貯めると、徐々に有力者となっていった。これまたユダヤ人と似ているが、文明国にタカる賤民は横の繋がり(同胞人脈)を強化して、憎い現地民族をやっつけようとするらしい。朝鮮人の藝人とか商人は、日本人から嫌われているので、こっそりと裏舞台で手を結び、互いに助け合いながら勢力を拡大しようとする。

  報道番組で耳にしたのだが、恐喝容疑で「キム・ジョンヒ」という飲食店経営者が逮捕された。この在日南鮮人は、「道端アンジェリカ」というファッション・モデルの亭主であるという。このキム(金?)は、女房の元恋人を脅迫して、35万円を巻き上げようとしたそうだ。しかし、異例なことに、キムの逮捕に警視庁捜査二課が動いたのである。この程度のチンケな恐喝事件なら、所轄の刑事が来るはずだ。それなのに、わざわざ二課の捜査官がお出ましになった、ということは、キムの背後に何らかの犯罪組織か黒い人脈があるのかも知れない。在日朝鮮人というのは、同胞で蜘蛛の巣のようなネットワークを築いているから、代官山でカタギの仕事をしていても、危ない人物と付き合っていたりする。もしかしたら、捜査二課は何らかの情報を引き出すためにキムをしょっ引いたのかも知れないぞ。

  在日や帰化した歌手や俳優でも、意外な「友人関係」を築いているし、商売人は同胞の出資者とか投資家、お得意先を持っていて、会社の重役とか相談役、特別顧問などに同胞がいたりする。ただし、日本名を持っているから、外部の日本人には判らない。朝鮮人は日本人に血筋を知られたくないから、自分の過去や家系を隠す。カツラで知られる「リーブ21」の岡村勝正(廬勝正)とか、朝鮮料理のタレを販売する「モランボン」の創業者「全演植」、「MKタクシー」の青木定雄(兪奉植)、パチンコ製造業の「平和工業(旧中島商会)」を創設した中島健吉は有名だけど、他の鮮人は官報を調べないと判らない。

政治家になった元朝鮮人

  帰化鮮人のビジネスマンも厄介だが、それ以上に有害なのは公権力を握った朝鮮人だ。立憲民主党の福山哲郎は既に「陳哲郎」と判明している。彼は父の「陳栄澤」と弟の「陳俊郎」と共に、昭和50年8月29日に帰化している。朝鮮系の政治家は必ずと言っていいほど素性を隠す。例外なのは、證券スキャンダルで自殺した新井将敬くらいだ。「朴景在」という北鮮人だった新井議員は、「新井隆」とか「新井隆央」、「崔隆」という通名を持っていた。ところが、高校生の時、覚悟を決めて日本国籍を取得し、大学卒業すると大蔵省に入った。当時、渡部昇一先生は新井氏の素性に言及し、まともな帰化鮮人として紹介していた。新井氏は石原慎太郎と同じ大田区を地盤としていたから、衆院選挙では相当苦戦したらしい。ちなみに、彼の母親は「崔玉慶」というが、日本での通名は夫の「新井義男」とリンクさせたのか、「新井眞佐栄」と名乗っていた。しかし、以前は「大岡直恵」という名前だった。朝鮮人に複数の偽名を許す日本政府は異常である。

  権力を握る政治家には、「帰化鮮人じゃないのか?」、と疑いたくなる人物が多い。例えば、在日鮮人や帰化鮮人にも信者を増やそうとする創価学会は、明らかに朝鮮贔屓であるから、公明党に朝鮮系議員がいても不思議じゃない。例えば、農水省の官僚から政治家に転向した上田勇(うえだ・いさむ)は、小泉政権で財務副大臣を務め、現在は公明党政務調査会の会長代理となっている。平成5年4月23日、通名が「山本勇」で本名を「崔勇」という在日鮮人が帰化しているが、この人物が当の上田議員なのかよく判らない。国会議員のみならず、公権力を握る公務員は、三代か四代まで遡って祖先を公表し、どのような血筋になっているのか明らかにすべきである。もし、この法律に反対する公務員がいれば、その人物の方が怪しい。国会で勇ましい謝蓮舫は、「個人のプライバシー」を楯にして反対するが、どうして自分の両親や祖父母をはっきり紹介できないのか? 西歐系帰化人は堂々と自分の人種や宗教を明かすのに、支那人や朝鮮人は真っ赤になって激昂し、ご自慢の家系を隠す。よっぽど恥ずかしいのだろう。

  朝鮮人の利益を忖度する政治家には、“帰化人”疑惑の議員が多い。例えば、日本人を貶め、朝鮮人を称讃した小沢一郎には「朝鮮人疑惑」がまとわりついているが、彼の母親は帰化鮮人じゃなく本当に日本人なのか? 以前、小沢は女性の鮮人秘書を抱えていた。この「金淑賢(きむ・すくひょん)」という南鮮人は、東京大学で韓中修好に関する研究をテーマにして博士号を所得したそうだが、誰のために秘書をしていたのか? 南鮮に媚びる小沢から貴重な情報を引き出すためか、南鮮の「協力者」にして上手く操るためだろう。

  今は凋落しているけど、社会党はソ連だけじゃなく、北鮮の代表機関でもあった。 生前、社会党の土井たか子は、「李高順」との噂があったけど、裁判では明らかにされず、うやむやのままで終わってしまった。パチンコ屋と金日成が大好きだった社会党委員長は、たとえ法律上「日本人」であっても、心のふるさとは朝鮮であったに違いない。金丸信だって、山梨の「日本人」というが、中身は生粋の朝鮮人だ。自民党の闇将軍と呼ばれていたが、属性は菅直人や白真勲と同じである。

  「朝鮮人疑惑」をもたれる議員には、パチンコ業界の回し者がいる。例えば、自民党参院議員の尾立源幸(おだち・もとゆき)が、パチンコ屋の代理人であることは周知の事実。今では比例全国区の支部長をしているが、元々は鳩山由紀夫の秘書で、自民党に鞍替えすると二階派に入った。民主党から民進党に移って、雲行きが悪くなると、安全な自民党に潜り込むんだから、政治理念とか基本姿勢なんて端っから無いんだろう。派閥の親分たる二階俊博だって、小林旭も呆れてしまうほどの渡り鳥。自民党を飛び出した二階は、新生党から新進党に移り、自由党や保守党、保守新党を迂回して自民党に戻ってきた。今でも二階と親しい小池百合子は、「緑のタヌキ」と呼ばれていたが、その本性は政界のカモメである。細川護熙から小沢一郎、小泉純一郎の寝床を渡り歩き、用済みとなるやポイ捨て。「寝る相手」を換えて出世すると、非現実的な公約を掲げて東京都知事となった。高齢で卵を産めない雌鶏(めんどり)は、金の卵を求めて二期目を目指している。

朝鮮人が進出するマスコミ界

  政治家に次いで危険なのは、マスコミに潜伏する帰化鮮人である。とりわけ、テレビ局に就職する帰化鮮人は、何を目論んでいるのか分からないし、どんな害悪を垂れ流すのか予想できないので注意を要する。テレ朝の「ニュース・ステーション」に出ていた松嶋明日香(あすか)は、結婚前「孫明日香」という名前で通っていた。しかし、本名は「孫栄順(そん・よんすん)」。彼女は津田塾大の大学院を最終学歴としているが、その前は朝鮮大学校に通っていた。この「大学校」は法律的に認められた「大学」じゃないから、朝鮮人が集まる「私塾」に過ぎない。したがって、日本の大学に入るため、何らかの試験を受けたのだろう。幼い頃、彼女は日本の小学校に通ったというが、中学は朝鮮の民族学校に入ったそうだ。良知会が発行した『100人の在日コリアン』によれば、中学二年生のとき、彼女は平壌の音楽舞踊学校に留学し、約二ヶ月間、楽しいお勉強をしたらしい。(pp.184-185.)

  TBSやフジテレビよりも、NHKの方がより積極的に「朝鮮枠」を設けているようで、在日鮮人や帰化鮮人が多く紛れ込んでいる。例えば、同局の安梨香(あん・いひゃん)は、連続ドラマ『ふたりっ子』を手掛けたプロデューサー。彼女の父親はパチンコ屋から身を起こして、建設業や不動産業へと転身した在日朝鮮人。この職歴を観ただけでも、如何にも朝鮮人らしいと判る。娘の梨香も様々な世界で暮らすことが好きなようで、高校は神戸国際カナディアン・アカデミーに通い、大学は上智大学の比較文化に入った。祖国大好きの鮮人才女は、高校時代、ソウルに渡って夏期学校に通ったそうだ。たぶん大学生の時だろうが、延世大学に留学したことがあるという。

  この朝鮮娘は反日分子が集うNHKに就職し、朝鮮人をテーマとするドラマを作った。(安氏は演出を担当。) 2002年8月24日、NHK大阪放送局はFMシアターで、『ポンソンファ』というラジオ・ドラマを放送した。主人公の「明」は在日3世次男坊で、彼の両親はパチンコ屋の経営者という設定だ。普段、明は南鮮国籍を意識しないが、就職活動の時に国籍の件で苦労する。しかし、彼は民族の違いから由来する屈辱感と挫折感をものともせず、それらを克服しながら明日への一歩を踏み出す。NHK曰わく、この作品は「国籍を超えて新しい生き方を探す在日青年の物語」であるそうだ。平成14年、日本の役所はこの“素晴らしい”朝鮮ドラマを称讃し、文化庁藝術祭優秀賞を与えた。一般的には、誰も聴かない、誰も知らない朝鮮ドラマだが、税金で暮らしている連中にとっては秀作らしい。普通の日本人だと、「他にマシな作品はなかったのか?」と尋ねたくなるが、官庁の公務員は日本人らしい感性を持っていないから、朝鮮人にジャンジャン報奨金や補助金を出す。それにしても、NHKはどこの放送局なんだ? 日本人からゼニを巻き上げて、その視聴料を朝鮮人のために使い、彼らを励ます娯楽を放送するなんて。これじゃあ、「潰してしまえ!」と叫びたくなる。

  テレビ局や新聞・雑誌社は政治家や官公庁ほどの権力を持っていないが、それなりに絶大な影響力を有している。したがって、マスコミ業界で活躍する朝鮮系知識人や御用評論家には注意せねばならない。先ほど紹介した『100人の在日コリアン』を読むと、如何に朝鮮人の社会浸透が進んでいるか、がよく分かる。例えば、テレ朝の「スーパー・モーニング」に出ていた作家の若一光司は朝鮮系で、姜尚中と仲良く対談し、在日鮮人問題を議論しても、決して自分の血筋を明らかにしなかった。朝鮮人じゃないけど、テレ朝が寵愛する「青木理(おさむ)」や「吉永みちこ」、「大谷昭宏」の素性を明らかにしてもらいたい。テレ朝の報道番組が重用していた大村秀章は元朝鮮人だった。パチンコ大手の「SANYO」は「三洋物産」の金沢(金)要求が築いた朝鮮企業で、彼は大村のパーティー券を40万円分買っていた。現在の三洋商事社長は金全球で、三洋販売は金信球が社長になっている。左翼議員の近藤昭一もパチンコ屋の代理人となっていたが、愛知には朝鮮人の手下が本当に多い。

  知ってしまうとゾッとするが、大手マスコミには朝鮮系社員がウジャウジャいる。例えば、NHK大阪放送局の小山帥(おさひと)、毎日放送の西村秀樹、日経新聞記者の川上寿敏、毎日新聞記者の蓮見新也、朝日新聞記者の朴琴順(ぼく・きんじゅん)、朝日新聞大阪本部の企画報道室で副室長を務める松本督(すすむ)、読売新聞大阪本社で社会部次長を務める渡口行雄(わたぐち・ゆきお)、「黒田ジャーナル」で記者をしていた栗原佳子など、一般人は気づかないけど皆朝鮮系。ちなみに、「黒田ジャーナル」は亡くなった黒田清が設立した会社で、テレ朝のワイドショー「やじうま新聞」を観ていた人なら覚えているんじゃないか。亡くなって久しい黒田は昔、エコノミストの長谷川慶太郎と一緒に毎週木曜日の朝、新聞記事のコメンテーターを務めていた。極左分子の黒田はマスコミ界で「黒田軍団」と呼ばれる連中を率いた。彼は古巣の読売新聞を退社した後、「しんぶん赤旗」にもコラムを持っていたというから、名前は黒でも、心は相当真っ赤であった。

  一般の日本人は普段の生活で官報など読まないが、その帰化情報を目にすれば、あまりにも大量の朝鮮人が「日本国民」となっていることに驚くはずだ。朝鮮人は「日本人の仮面(マスカレード)」を被って発言し、朝鮮人の利益を促進する欺瞞を吐く。ザ・カーペンターズの名曲「This Masquerade」ならいいけど、帰化鮮人の「ディス・マスカレード」じゃ厭になる。(筆者の個人的な好みになるけど、ジョージ・ベンソンが以前カヴァーした「This Masquerade」の方が秀逸だと思う。) カレン・カーペンターは「この淋しいゲームで私たちは幸せなの?」と歌っていたが、「日本国民」になれた朝鮮人は何が起こっても幸せだ。日本という高度文明国の正式な公民になれたのだから文句はない。でも、朝鮮人から「私たちは同じ日本国民よ !」と言われた日系日本人は複雑な気持ちになる。「日本人」というのは紙切れで誕生した透明人間じゃない。日本人の両親、日本人の祖父母、日本人の曾祖父母から、日本人の血と肉を受け継いだのが本当の日本人だ。

  日本人は朝鮮人が非難すような排外主義の民族じゃない。譬えは、多少ゲルマン人やケルト人の血が混じっていても、日本で生まれたヨーロッパ系混血児は、自然と「日本人」になってしまう。ところが、支那人や朝鮮人の血が混じると話が違ってくる。アジア人の遺伝子は濃厚で、外見的には同じようになっても、精神的には異邦人のままだ。恥ずかしさと屈辱感で満たされた混血児や帰化人は、自然な日本人になれない。日系日本人は精神的におかしくなっているが、これからは肉体的にも異常になってくる。精神というのは肉体に追従するものだからねぇ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68787607.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/232.html#c45

[昼休み52] 日本人女性2人、リゾート地・セブ島で知り合った韓国人の男2人と飲酒→集団強姦される…フィリピン 中川隆
356. 中川隆[-14863] koaQ7Jey 2019年11月17日 18:11:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1952]


2019年11月16日
朝鮮人のマスカレード / 「日本国民」を装う帰化人
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68787607.html


「元々は朝鮮人」という藝人

korea 082korea 081

(写真 : 伝統的な生活を営む朝鮮人 )

  人間は野生動物と違って、自分の"由来"を知りたいと欲するようだ。大抵の人は自分が誰の子供で、どんな家系に連なるのかを知らないと安心できない。もし、赤ん坊のとき養子縁組が行われた子供が、中学生や高校生となり、自分の「両親」が本当の親ではないと察知するや、「では、自分を産んだ母や父は誰なのか?」と無性に探したくなる。赤の他人なら、「そんなの、どうでもいいじゃないか。育ての親がちゃんと居るんだから、君を里子に出した実の両親など必要ないだろう。それに今更、生みの親を探し当てたところで何になるんだ?」と説教するかも知れない。だが、本人にとったら、「自分が誰なのか」を知りたいし、こうした欲求は理性じゃ割りきれないものである。

  普通の日本人は日本人の両親から生まれ、誕生の時から日本に住んでいる。それゆえ、普段、自分のアイデンティティーとか国籍のことをあまり考えない。だいたい、日本人であることは改めて考えるまでもない自明の事実。それに、父や母の実家に行けば“日本人”の祖父母がいて、仏壇の近くには曾祖父母の遺影が飾ってあったりする。これが旧家の場合になると、自宅の側に昔からの蔵があって、扉を開けると、ご先祖様が残した骨董品とか刀剣、書状、掛け軸などがあったりするから、幼い子供でも自分の血筋を実感することが多い。

  ところが、朝鮮系「日本国民」だと、だいぶ話が違ってくる。在日朝鮮人や帰化鮮人だと、祖父母が戦後にやって来た密入国者とか、闇市でボロ儲けした第三国人、密造酒や屑鉄を売っていた下層民、賭博行やヒロポン販売で“のし上がった”豪商ときている。これじゃあ、友達に話すわけにもいかず、何としても隠したい。戦前、日本に渡ってきた朝鮮人は、敗戦を切っ掛けにして“ほとんど”が帰ってしまい、日本に留まったのは僅か数百名程度。ところが、残った鮮人ときたら大半が「ロクでなし」で、「傲慢・横暴」を絵に描いたような不逞鮮人。どいつもこいつも、日本人から嫌われた連中ばかり。(詳しくは拙書『支那人の卑史 朝鮮人の痴史』の第5章を読んでね。) しかし、暢気に育った在日4世とか5世だと、日本にやって来た1世の過去を知らないから、「日本人から虐待された哀れな従属民」と思っている。朝鮮人の親は我が子を傷つけたくないので、嘘と分かっていても、「お前の爺ちゃんは、日本人の命令で強制的に連行されてきたんだよ !」と教えるしかない。

  日本人的感覚からすれば、「テメェー、何言ってやがんでぃ !!」と呆れてしまうが、朝鮮人にとったら「歴史の偽造」なんて朝飯前。過去を自分の利益になるよう勝手に作り替えても構わない。何千年も前から支配者の虐待を受けてきた賤民は、偽りを口にしても罪悪感は無い、というか「生きる術(すべ)」となっている。そもそも、日本人は朝鮮人や支那人を解っていないのだ。我々の祖先は明治維新で先に西歐人と接触していたから、支那人や朝鮮人も正確に歴史の研究をするものと思っていた。ところが、暗黒大陸の異民族は違う。支那人は太古から権力を失った支配者を悉く誹謗し、新たな支配者を称讃する。しかも、胡麻が蜂蜜になるくらい、入念に捏(こ)ねて輝かしい青史を書く。同様に、朝鮮人は惨めな過去を帳消しにするため、薔薇色の歴史を創作する。朝鮮人にとり、歴史と小説、事実と妄想の区別は無い。彼らは百戦連敗でも「凱旋門」を建設できる民族だ。たとえ、工芸品すら無い劣等国であっても、5千年の歴史を有する高度文明国と自慢できる。

  朝鮮人の思考様式には唖然とすることが多いけど、「孔子もキリストも実は朝鮮人だった」と真面目に言える朝鮮人は、ある意味すごい。喉から手が出るほど「ノーベル賞」が欲しいけど、朝鮮民族には無理。だから、日本人科学者が受賞すると、南鮮人は「ウリ(俺)も欲しい !」とねだる。でも、現実的には絶望的だ。そこで、彼らは考えた。スウェーデンが駄目と言うなら、自分たちで受賞者をつくろう、と。これこそ、コロンブスの卵だ! いや、鮮人の独創性かも知れない。ブラック魔王とケンケンだってビックリ ! 「チキチキ・マシン猛レース」で岩石オープンが優勝するよりも凄いぞ。早速、彼らは独自に「ノーベル賞級の業績を持つ朝鮮人科学者」を選定し、韓国研究財団が「優秀な朝鮮人」17名に科学賞を与えたそうだ。さぁ〜すが、朝鮮人は頭がいい。発想の転換に優れている。自分で作って、仲間に与えるなんて斬新だ。日本人では考えつかない。朝鮮人には天賦の才能がある !

  脱線したので話を戻す。朝鮮人は自分の民族性や血統を恥じるのか、家系を曖昧にするすことが多い。特に、昭和から平成の初めくらいまでは、ほとんどの在日朝鮮人や帰化鮮人が出自を隠蔽していた。朝鮮名を堂々と掲げる者は少数派で、多数派は「偽名(通名)」を使って日本人のように振る舞っていた。一般的に知られているのは、藝能界で活躍していた「隠密鮮人crypto-Japanese)」である。例えば、和田アキ子(金福子)や俳優の伊原剛志(尹惟久)、西城秀樹(李乙龍 / 通名: 木本龍雄)だ。山本寛斎の娘婿となった椎名桔平(李在剛/ 通名 : 岩城正剛)は、家族で帰化したようで、兄の「岩城正剛(李正明)」も一緒に日本国籍を取っている。

  日本人と思っていた有名藝人が、「元在日鮮人」と判って驚く日本人は多い。例えば、ビッグ・スターの矢沢永吉が元鮮人と知らされれば、結構、多くのファンが衝撃を受けるんじゃないか。実は高校時代、筆者の親友であるN君、「超」が附くほどの矢沢ファンで、赤いバスタオルやLPレコードを持っていた。筆者が好きだったドイツのバンド「Accept」やブリテンの「Judas Priest」だと、「何だ、あんなうるさい洋楽 !」と全面否定するのに、矢沢氏の曲は全て大絶賛。N君は筆者に「これを聴いてみろよ !」と録音テープを貸してくれたけど、覚えているのは「黒く塗りつぶせ」くらい。後は、CF(TV広告)で使われていた曲だけ。当時、どうして多くの不良が矢沢ファンになったのか判らなかった。

  子供時代をあまり語らない矢沢氏は、昭和53年6月8日に帰化し、「趙永吉」という本名を「巴山永吉 / 巴山英吉」に変えたようだ。帰化申請の場所は「永ちゃん」らしく横浜だった。矢沢氏と違い、いち早く出自を明らかにしたジョニー大倉(朴雲煥 / 通名 : 大倉洋一)は、ちょっぴり後悔していたけど、同胞の在日から「やっぱり、そうだったの。うれしい」という声援をもらったそうだ。彼は二十歳の頃、どうせ有名になれば発覚するだろうと思い、事務所の社長や恩人のミッキー・カーチスに告白したらしい。彼は純粋に朝鮮の血を受け継ぐと自慢する一方で、日本に住んでいたという「虚しい過去」を「精算」するため、周囲の人間に自分の素性を明かしたそうだ。(小林靖彦 編 『在日コリアン・パワー』双葉社、1988年、p.14) ちなみに、「ジョニー」という英語名は横浜で外人と遊んでいた時、一緒に居た黒人兵につけてもらったそうである。

  上掲書のインタビューによると、大倉氏は川崎にある楽器屋を訪れ、そこに貼ってあった「メンバー募集」の広告を見て、矢沢氏に電話を掛けたそうだ。矢沢氏は当時から“あの性格”であったらしい。彼は大倉氏と一度も面識が無いのに、最初から“気さく”な態度で接していたという。電話越しなのに、「あのさぁ〜」といった調子で話しかけ、いきなり「横浜で会わないか」と誘ってきた。そこで、大倉氏は早速、京浜急行の川崎駅に向かい、長いオカッパの矢沢氏と対面したそうだ。“ビッグ”になった現在の矢沢氏とは大違い。ダサイ格好の大倉氏と奇妙な髪型の矢沢氏は、お互いの外見を目にして共に大笑いしたそうだ。

  大倉氏は独学でギターの演奏や芝居のコツを学んだというが、俳優としては予想外の評価を受けた。東映のヤクザ映画に出演すると、これがなかなかの“嵌(は)まり役”ときている。彼は「ヤクザの朝鮮人」を演じ、制作者は大絶賛。しかし、本人は世間の評判を気にしていた。なぜなら、“本物”が演じているようなものだから、“リアル過ぎる演技”となってしまうのだ。彼が『戦場のメリークリスマス』に出演したときの事だ。監督の大島渚は脚本で「自害する朝鮮人」を目にし、企画段階で大倉氏を頭に思い浮かべたらしい。大島監督は即座に採用を決定し、他の誰よりも先に彼をキャスティングしたという。案の定、大倉氏はNG無しで見事、「切腹する朝鮮人の軍属」を演じたそうだ。ちなみに、抜擢された大倉氏は、大島監督が朝鮮人について矢鱈と詳しかったので驚いたそうである。彼は監督から台本と一緒に『赤道直下の朝鮮人の反乱』という本をもらい感動した。さすが、京大卒の左翼監督はひと味違う。大島渚も「残虐非道な日本軍」を糾弾するインテリだった。

  脱線したので話を戻す。人気ロック・グループ「キャロル」といえば、その親衛隊を務めていた岩城滉一(李光一)が目に浮かぶ。岩城氏も“アニキ”と同じ帰化鮮人だが、日本国籍を取得したのはごく最近で、平成29年4月5日だ。インターネットが普及する前は、まさか「クールス」の人気者が在日地鮮人なんて、想像した日本人はほとんどいないだろう。かなり昔、筆者が歯医者に行ったとき、治療後に勘定を済ませようと椅子に座っていた時のことだ。「もうそろそろかなぁ〜」、と待っていたが、なかなか事務員の若い女性が呼び出してくれなかった。そこで、事務室のドアに近づいて中の様子を窺ったら、何と彼女は電話で岩城氏のライブ・チケットを予約していたのだ。「こらっ !」と叱りたかったが、「まぁ、二枚目俳優のコンサートじゃ仕方ないか・・・」と諦めたのを覚えている。確か、平成の初めくらいだったから、世間の女性は岩城氏に黄色い声援を送っていた。

  岩城氏の思い出は他にもあって、筆者は劇場で彼が主演する『南へ走れ、海の道を !』という映画を観たことがある。共演者は人気女優の安田成美で、彼女も帰化鮮人だ。以前、評論家の塩田丸男が“うっかり”バラしてしまったが、安田氏の本名は「鄭成美」といい、平成7年12月21日に帰化した。おそらく、1994年(平成6年)に結婚したから、それを切っ掛けに日本国籍の所得を考えたのだろう。子供の将来を考えれば当然だ。そういえば、彼女は平成6年にNHKのテレビ小説『春よ、来い』に出演したけど、筆者はこの配役に驚いたことがある。放送されたとき、筆者はこの作品のことを全く知らず、亡くなった中村粲(あきら)先生に教えてもらった。聞くところによると、『春よ、来い』というのは橋田壽賀子の自伝小説を基にしており、どうやら橋田氏は自分の役を美人女優にやらせたかったそうだ。当時の女性視聴者は「えぇぇっっっ〜、あのオバさんが若い時の役柄なのぉぉぉ〜」と呆れ返っていた。まぁ、原作者の婆さんにしてみれば、鑑に映る自分の姿に複雑な思いを抱いていたんだろう。「せめて、架空の世界では美女に生まれたい !」と願っても不思議じゃない。

  藝能界というのは朝鮮人の主な就職先になっているようで、恨み節の曲を披露する演歌界にも帰化鮮人が多い。有名なのは「五木ひろし」で、通名は「松山数夫」とか「松田数夫」になっている。でも、本名は「李数夫」で昭和48年4月18日に帰化していた。「都はるみ」も朝鮮人で、本名は「李晴美」といい、昭和41年5月18日に国籍を取得していた。下積み生活が長かった瀬川瑛子も帰化鮮人で、通名は「清水瑛子」とか「瀬川映子」というそうで、本名は「施瑛」というらしい。昭和48年5月28日、彼女は家族揃って日本国籍を取っている。(母?「施済萬」、姉?「施梅鶯」、弟?「施延富」) 某週刊誌によると、彼女の父「瀬川伸(施延雄)」も歌手であったという。しかし、売れていなかったのか、朝鮮料理屋を兼業していたようだ。筆者の個人的感想だけど、演歌の大御所や錦野旦、長州力、前田日明などが元鮮人でも構わない。しかし、「布袋寅泰」という藝人は嫌いだ。「ザ・ローリング・ストーンズ」が来日したとき、どうして彼が共演できたのか、全く以て腑に落ちない。なぜ、こんな三流の鮮人ミュージシャンが、よりにもよって一流のストーンズと交渉でき、東京の最終公演で、堂々とステージに立つことができたのか? 確実な証拠は見つからないが、特別な人脈を持っていたとしか思えない。

財界に蝟集する帰化鮮人

  まぁ、虚栄の世界に生きる藝人なら、生意気な在日鮮人でも、傲慢な帰化鮮人でも、あまり害は無い。ところが、財界の帰化鮮人とか在日鮮人となれば、少々事情が違ってくる。なんと言っても、大企業や新興企業となれば、テレビや新聞・雑誌への影響が甚大だ。テレビ局のプロデューサーやディレクターにとって、電通の社員とスポンサー企業は神様と同じ。無料(タダ)で観ているくせに文句ばかりつけてくる視聴者なんか、ウンコにたかる蠅かウジムシ以下。お金を出す人が本当の「お客様」だ。したがって、スポンサー企業の社長や重役が朝鮮人なら、番組が朝鮮人礼賛の内容になったり、在日同胞に配慮した“提灯特番”になってもおかしくはない。朝鮮人の正体を暴く番組なんて絶対にNG。藝者の太鼓持ちだって、冗談の限界は心得ている。財務省と広告主に媚びる経済番組だと、ソフトバンクの株が暴落したって、「下がった今なら お買い得 !」と勧めるのが鉄則。間違っても、「ジャンク株」なんて言っちゃ駄目。

  日本名をプロフィールに掲げているから判らないけど、有名企業の創業者とか経営者には朝鮮人が結構多い。例えば、「アイリスオーヤマ」の大山晃弘社長は、「趙慧済」という本名を持ち、平成10年9月21日に帰化している。元々はパチンコ屋であった「大和商事」を創業したのは、「OKグループ」の会長を務める大城敬三で、彼の本名は「徐海注」という。国籍は北鮮から南鮮へと移し、在日南鮮人として活躍している。彼は馬主として有名だが、韓国へ多額の送金を行った事でも知られる民団の大御所だ。息子の「徐正一」と如何なる関係か判らぬが、現在の大和商事で代表取締役を務めているのは大城正準(徐正準)で、彼は平成7年12月21日に帰化している。一緒に国籍を申請した「金王姫」や「徐桃子」、「徐華子」、「徐元哲」、「徐哲教」がどんな関係を持っているのか、定かではない。パチンコ好きの日本人なら「Daiwa」を創業した家族について何か知っているんじゃないか。

   関東地方でスーパー・マーケットやホーム用品店をチェーン展開をしている「Olympicグループ」も、朝鮮人が創業した企業である。社長の金澤富夫は「尹芳列」という本名を持ち、昭和40年12月10日に帰化している。どうい家族関係か判らないけど、「尹良樹」と「尹明美」「尹裕之」「尹美名子」も一緒に国籍を取得した。金澤社長には王生(尹王生)という弟がいて、有料養老院を運営する「ハーフ・センチュリー・モア」の社長になっている。その兄に当たるのか、「金澤有知」は副社長であるという。とにかく、在日鮮人の家族関係は複雑だ。

  朝鮮人が選ぶ職業というのは、パチンコ屋か藝人でなければ飲食業だ。有名な朝鮮料理屋である「叙々苑」を創業した朴泰道も在日朝鮮人で、以前は「新井」とか「吉田泰道」を名乗っていて、昭和55年6月18日に帰化している。パチンコなどの娯楽業や飲食業のみならず、不動産業やゴルフ場、リサイクル業まで幅広く手掛ける「ユーコー・ラッキー・グルー」を創業した金海龍海も在日朝鮮人だった。父の金海基泰がどの国籍なのか判らぬが、息子の龍雄は平成24年2月10日に帰化している。龍海の息子二人は現在、「ユーコー」の経営者となっており、「基泰」が社長で「基樹」が副社長であるそうだ。

 西歐社会で絶大な権力をふるうユダヤ人と同じく、朝鮮人も日本人が嫌がる職種で成功し、卑しい身分から権力者へと上りつめた。敗戦後、「第三国人」となった朝鮮人は、クズ鉄や銅線、産業廃棄物を集める産廃業者とか、密造酒や飴菓子を作る製造業、豚や牛を精肉にして卸す屠殺業、地上屋まがいの不動産業、高利貸し、風俗業などに就いて、コツコツ金銭を貯めると、徐々に有力者となっていった。これまたユダヤ人と似ているが、文明国にタカる賤民は横の繋がり(同胞人脈)を強化して、憎い現地民族をやっつけようとするらしい。朝鮮人の藝人とか商人は、日本人から嫌われているので、こっそりと裏舞台で手を結び、互いに助け合いながら勢力を拡大しようとする。

  報道番組で耳にしたのだが、恐喝容疑で「キム・ジョンヒ」という飲食店経営者が逮捕された。この在日南鮮人は、「道端アンジェリカ」というファッション・モデルの亭主であるという。このキム(金?)は、女房の元恋人を脅迫して、35万円を巻き上げようとしたそうだ。しかし、異例なことに、キムの逮捕に警視庁捜査二課が動いたのである。この程度のチンケな恐喝事件なら、所轄の刑事が来るはずだ。それなのに、わざわざ二課の捜査官がお出ましになった、ということは、キムの背後に何らかの犯罪組織か黒い人脈があるのかも知れない。在日朝鮮人というのは、同胞で蜘蛛の巣のようなネットワークを築いているから、代官山でカタギの仕事をしていても、危ない人物と付き合っていたりする。もしかしたら、捜査二課は何らかの情報を引き出すためにキムをしょっ引いたのかも知れないぞ。

  在日や帰化した歌手や俳優でも、意外な「友人関係」を築いているし、商売人は同胞の出資者とか投資家、お得意先を持っていて、会社の重役とか相談役、特別顧問などに同胞がいたりする。ただし、日本名を持っているから、外部の日本人には判らない。朝鮮人は日本人に血筋を知られたくないから、自分の過去や家系を隠す。カツラで知られる「リーブ21」の岡村勝正(廬勝正)とか、朝鮮料理のタレを販売する「モランボン」の創業者「全演植」、「MKタクシー」の青木定雄(兪奉植)、パチンコ製造業の「平和工業(旧中島商会)」を創設した中島健吉は有名だけど、他の鮮人は官報を調べないと判らない。

政治家になった元朝鮮人

  帰化鮮人のビジネスマンも厄介だが、それ以上に有害なのは公権力を握った朝鮮人だ。立憲民主党の福山哲郎は既に「陳哲郎」と判明している。彼は父の「陳栄澤」と弟の「陳俊郎」と共に、昭和50年8月29日に帰化している。朝鮮系の政治家は必ずと言っていいほど素性を隠す。例外なのは、證券スキャンダルで自殺した新井将敬くらいだ。「朴景在」という北鮮人だった新井議員は、「新井隆」とか「新井隆央」、「崔隆」という通名を持っていた。ところが、高校生の時、覚悟を決めて日本国籍を取得し、大学卒業すると大蔵省に入った。当時、渡部昇一先生は新井氏の素性に言及し、まともな帰化鮮人として紹介していた。新井氏は石原慎太郎と同じ大田区を地盤としていたから、衆院選挙では相当苦戦したらしい。ちなみに、彼の母親は「崔玉慶」というが、日本での通名は夫の「新井義男」とリンクさせたのか、「新井眞佐栄」と名乗っていた。しかし、以前は「大岡直恵」という名前だった。朝鮮人に複数の偽名を許す日本政府は異常である。

  権力を握る政治家には、「帰化鮮人じゃないのか?」、と疑いたくなる人物が多い。例えば、在日鮮人や帰化鮮人にも信者を増やそうとする創価学会は、明らかに朝鮮贔屓であるから、公明党に朝鮮系議員がいても不思議じゃない。例えば、農水省の官僚から政治家に転向した上田勇(うえだ・いさむ)は、小泉政権で財務副大臣を務め、現在は公明党政務調査会の会長代理となっている。平成5年4月23日、通名が「山本勇」で本名を「崔勇」という在日鮮人が帰化しているが、この人物が当の上田議員なのかよく判らない。国会議員のみならず、公権力を握る公務員は、三代か四代まで遡って祖先を公表し、どのような血筋になっているのか明らかにすべきである。もし、この法律に反対する公務員がいれば、その人物の方が怪しい。国会で勇ましい謝蓮舫は、「個人のプライバシー」を楯にして反対するが、どうして自分の両親や祖父母をはっきり紹介できないのか? 西歐系帰化人は堂々と自分の人種や宗教を明かすのに、支那人や朝鮮人は真っ赤になって激昂し、ご自慢の家系を隠す。よっぽど恥ずかしいのだろう。

  朝鮮人の利益を忖度する政治家には、“帰化人”疑惑の議員が多い。例えば、日本人を貶め、朝鮮人を称讃した小沢一郎には「朝鮮人疑惑」がまとわりついているが、彼の母親は帰化鮮人じゃなく本当に日本人なのか? 以前、小沢は女性の鮮人秘書を抱えていた。この「金淑賢(きむ・すくひょん)」という南鮮人は、東京大学で韓中修好に関する研究をテーマにして博士号を所得したそうだが、誰のために秘書をしていたのか? 南鮮に媚びる小沢から貴重な情報を引き出すためか、南鮮の「協力者」にして上手く操るためだろう。

  今は凋落しているけど、社会党はソ連だけじゃなく、北鮮の代表機関でもあった。 生前、社会党の土井たか子は、「李高順」との噂があったけど、裁判では明らかにされず、うやむやのままで終わってしまった。パチンコ屋と金日成が大好きだった社会党委員長は、たとえ法律上「日本人」であっても、心のふるさとは朝鮮であったに違いない。金丸信だって、山梨の「日本人」というが、中身は生粋の朝鮮人だ。自民党の闇将軍と呼ばれていたが、属性は菅直人や白真勲と同じである。

  「朝鮮人疑惑」をもたれる議員には、パチンコ業界の回し者がいる。例えば、自民党参院議員の尾立源幸(おだち・もとゆき)が、パチンコ屋の代理人であることは周知の事実。今では比例全国区の支部長をしているが、元々は鳩山由紀夫の秘書で、自民党に鞍替えすると二階派に入った。民主党から民進党に移って、雲行きが悪くなると、安全な自民党に潜り込むんだから、政治理念とか基本姿勢なんて端っから無いんだろう。派閥の親分たる二階俊博だって、小林旭も呆れてしまうほどの渡り鳥。自民党を飛び出した二階は、新生党から新進党に移り、自由党や保守党、保守新党を迂回して自民党に戻ってきた。今でも二階と親しい小池百合子は、「緑のタヌキ」と呼ばれていたが、その本性は政界のカモメである。細川護熙から小沢一郎、小泉純一郎の寝床を渡り歩き、用済みとなるやポイ捨て。「寝る相手」を換えて出世すると、非現実的な公約を掲げて東京都知事となった。高齢で卵を産めない雌鶏(めんどり)は、金の卵を求めて二期目を目指している。

朝鮮人が進出するマスコミ界

  政治家に次いで危険なのは、マスコミに潜伏する帰化鮮人である。とりわけ、テレビ局に就職する帰化鮮人は、何を目論んでいるのか分からないし、どんな害悪を垂れ流すのか予想できないので注意を要する。テレ朝の「ニュース・ステーション」に出ていた松嶋明日香(あすか)は、結婚前「孫明日香」という名前で通っていた。しかし、本名は「孫栄順(そん・よんすん)」。彼女は津田塾大の大学院を最終学歴としているが、その前は朝鮮大学校に通っていた。この「大学校」は法律的に認められた「大学」じゃないから、朝鮮人が集まる「私塾」に過ぎない。したがって、日本の大学に入るため、何らかの試験を受けたのだろう。幼い頃、彼女は日本の小学校に通ったというが、中学は朝鮮の民族学校に入ったそうだ。良知会が発行した『100人の在日コリアン』によれば、中学二年生のとき、彼女は平壌の音楽舞踊学校に留学し、約二ヶ月間、楽しいお勉強をしたらしい。(pp.184-185.)

  TBSやフジテレビよりも、NHKの方がより積極的に「朝鮮枠」を設けているようで、在日鮮人や帰化鮮人が多く紛れ込んでいる。例えば、同局の安梨香(あん・いひゃん)は、連続ドラマ『ふたりっ子』を手掛けたプロデューサー。彼女の父親はパチンコ屋から身を起こして、建設業や不動産業へと転身した在日朝鮮人。この職歴を観ただけでも、如何にも朝鮮人らしいと判る。娘の梨香も様々な世界で暮らすことが好きなようで、高校は神戸国際カナディアン・アカデミーに通い、大学は上智大学の比較文化に入った。祖国大好きの鮮人才女は、高校時代、ソウルに渡って夏期学校に通ったそうだ。たぶん大学生の時だろうが、延世大学に留学したことがあるという。

  この朝鮮娘は反日分子が集うNHKに就職し、朝鮮人をテーマとするドラマを作った。(安氏は演出を担当。) 2002年8月24日、NHK大阪放送局はFMシアターで、『ポンソンファ』というラジオ・ドラマを放送した。主人公の「明」は在日3世次男坊で、彼の両親はパチンコ屋の経営者という設定だ。普段、明は南鮮国籍を意識しないが、就職活動の時に国籍の件で苦労する。しかし、彼は民族の違いから由来する屈辱感と挫折感をものともせず、それらを克服しながら明日への一歩を踏み出す。NHK曰わく、この作品は「国籍を超えて新しい生き方を探す在日青年の物語」であるそうだ。平成14年、日本の役所はこの“素晴らしい”朝鮮ドラマを称讃し、文化庁藝術祭優秀賞を与えた。一般的には、誰も聴かない、誰も知らない朝鮮ドラマだが、税金で暮らしている連中にとっては秀作らしい。普通の日本人だと、「他にマシな作品はなかったのか?」と尋ねたくなるが、官庁の公務員は日本人らしい感性を持っていないから、朝鮮人にジャンジャン報奨金や補助金を出す。それにしても、NHKはどこの放送局なんだ? 日本人からゼニを巻き上げて、その視聴料を朝鮮人のために使い、彼らを励ます娯楽を放送するなんて。これじゃあ、「潰してしまえ!」と叫びたくなる。

  テレビ局や新聞・雑誌社は政治家や官公庁ほどの権力を持っていないが、それなりに絶大な影響力を有している。したがって、マスコミ業界で活躍する朝鮮系知識人や御用評論家には注意せねばならない。先ほど紹介した『100人の在日コリアン』を読むと、如何に朝鮮人の社会浸透が進んでいるか、がよく分かる。例えば、テレ朝の「スーパー・モーニング」に出ていた作家の若一光司は朝鮮系で、姜尚中と仲良く対談し、在日鮮人問題を議論しても、決して自分の血筋を明らかにしなかった。朝鮮人じゃないけど、テレ朝が寵愛する「青木理(おさむ)」や「吉永みちこ」、「大谷昭宏」の素性を明らかにしてもらいたい。テレ朝の報道番組が重用していた大村秀章は元朝鮮人だった。パチンコ大手の「SANYO」は「三洋物産」の金沢(金)要求が築いた朝鮮企業で、彼は大村のパーティー券を40万円分買っていた。現在の三洋商事社長は金全球で、三洋販売は金信球が社長になっている。左翼議員の近藤昭一もパチンコ屋の代理人となっていたが、愛知には朝鮮人の手下が本当に多い。

  知ってしまうとゾッとするが、大手マスコミには朝鮮系社員がウジャウジャいる。例えば、NHK大阪放送局の小山帥(おさひと)、毎日放送の西村秀樹、日経新聞記者の川上寿敏、毎日新聞記者の蓮見新也、朝日新聞記者の朴琴順(ぼく・きんじゅん)、朝日新聞大阪本部の企画報道室で副室長を務める松本督(すすむ)、読売新聞大阪本社で社会部次長を務める渡口行雄(わたぐち・ゆきお)、「黒田ジャーナル」で記者をしていた栗原佳子など、一般人は気づかないけど皆朝鮮系。ちなみに、「黒田ジャーナル」は亡くなった黒田清が設立した会社で、テレ朝のワイドショー「やじうま新聞」を観ていた人なら覚えているんじゃないか。亡くなって久しい黒田は昔、エコノミストの長谷川慶太郎と一緒に毎週木曜日の朝、新聞記事のコメンテーターを務めていた。極左分子の黒田はマスコミ界で「黒田軍団」と呼ばれる連中を率いた。彼は古巣の読売新聞を退社した後、「しんぶん赤旗」にもコラムを持っていたというから、名前は黒でも、心は相当真っ赤であった。

  一般の日本人は普段の生活で官報など読まないが、その帰化情報を目にすれば、あまりにも大量の朝鮮人が「日本国民」となっていることに驚くはずだ。朝鮮人は「日本人の仮面(マスカレード)」を被って発言し、朝鮮人の利益を促進する欺瞞を吐く。ザ・カーペンターズの名曲「This Masquerade」ならいいけど、帰化鮮人の「ディス・マスカレード」じゃ厭になる。(筆者の個人的な好みになるけど、ジョージ・ベンソンが以前カヴァーした「This Masquerade」の方が秀逸だと思う。) カレン・カーペンターは「この淋しいゲームで私たちは幸せなの?」と歌っていたが、「日本国民」になれた朝鮮人は何が起こっても幸せだ。日本という高度文明国の正式な公民になれたのだから文句はない。でも、朝鮮人から「私たちは同じ日本国民よ !」と言われた日系日本人は複雑な気持ちになる。「日本人」というのは紙切れで誕生した透明人間じゃない。日本人の両親、日本人の祖父母、日本人の曾祖父母から、日本人の血と肉を受け継いだのが本当の日本人だ。

  日本人は朝鮮人が非難すような排外主義の民族じゃない。譬えは、多少ゲルマン人やケルト人の血が混じっていても、日本で生まれたヨーロッパ系混血児は、自然と「日本人」になってしまう。ところが、支那人や朝鮮人の血が混じると話が違ってくる。アジア人の遺伝子は濃厚で、外見的には同じようになっても、精神的には異邦人のままだ。恥ずかしさと屈辱感で満たされた混血児や帰化人は、自然な日本人になれない。日系日本人は精神的におかしくなっているが、これからは肉体的にも異常になってくる。精神というのは肉体に追従するものだからねぇ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68787607.html
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/334.html#c356

[近代史3] ソフトバンク 孫正義は日本人の敵 中川隆
13. 中川隆[-14865] koaQ7Jey 2019年11月17日 18:51:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1954]

成功者たちは、本当に成功したのか? 2019年11月17日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-937.html

 日本の成功者といえば、「金儲けの成功者」として知られる人物ばかりが取り上げられている。

 誰でも知っているのは、ソフトバンクの孫正義、ユニクロの柳井正、京セラの稲森和夫、前沢友作、三木谷浩史、堀江貴文などだが、彼らの人生を俯瞰してみると「成功」とは、いったい何なのか? を考えさせるものがある。

 というのも、上に挙げた「成功者」たちの大半が、現在、すべてを失う存亡の危機に瀕しているからだ。

 孫正義

 1957年生まれ、鳥栖市の赤貧のなかで育ち、後に福岡に移住。実父の孫三憲が密造酒とパチンコ業で成功し裕福になった。
 https://www.youtube.com/watch?v=zhrz8KdUB4w&feature=emb_logo

 推定資産2兆円。この人は前沢のように周囲にばらまくことはしない。贅沢三昧の散財もしない。ファンドを作って財産を増やし続けることだけに関心があるようだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%AD%A3%E7%BE%A9

 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56573

 現在、ソフトバンクファンドが決定的な危機にあることを多くの人が知っている。
 総務省は、すでにソフトバンクの倒産を見込んで、現在の通信事業の後始末に関するプロジェクトを立ち上げているといわれ、大半の利権が、ドコモに移動すると噂されている。
 有利子負債14兆円を返済するために、一か八かの博打に頼っている経営状態では、もはや助かる見込みもないだろう。

 ソフトバンクに価値のないゴミ企業株を高値で売りつけたのは、孫正義の娘の所属するゴールドマンサックスだといわれる。
 孫も娘に頼まれて、ろくな調査もせずにホイホイ投機博打に巨大な資金を投入し、ゴールドマンサックス十八番の金融詐欺に遭ったといえるだろう。
 ユダヤ金融ファンドの地位を脅かすような日本産ファンドを、イルミナティが許すはずがない。

 ソフトバンクの名前は、私の記憶では1980年代のパソコン黎明期に無料ソフトの流通バンクを経営していたことから知られたが、その歴史は、たかだか40年に満たない。
 それが、もうすぐこの世から完全に失われるように思える。
 日本一の超大金持ちの人生は、あっけないものだ。

 柳井正
 ユニクロの総帥、柳井は1949年、宇部市生まれ。そこは安倍晋三の本拠地でもある。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E4%BA%95%E6%AD%A3

 柳井の姓名は、山口県東部に柳井市があり、そこは田布施の東隣でもある。ここに、明治以降の、日本の権力者、実業家の血縁網が、ぞろぞろと描かれている。
 それこそ明治天皇=大室寅之祐から野坂参三・宮本顕治、岸信介、松下村塾関係者など、「日本の大物」の大半が集っているのが実に不可解だ。

 実は、日本の政治家・実業家のルーツを調べてゆくと、朝鮮・韓国との関わりの深い人物が実に多い。小泉純一郎の実父、純也、児玉機関の総帥、児玉誉士夫、笹川良一、そして岸信介である。柳井市・田布施町は、大韓帝国併合時に、大量の朝鮮人が移住し、定着した場所としても知られる。上に挙げた全員が、統一教会・文鮮明とも深い絆を持っていた。

 なお、柳井の長男、一海も、孫の娘と同じくゴールドマンサックスに所属している。
 おそらく、孫と同じように、柳井も息子を通じて、ゴミ株を高値で売りつけられようとしているように見える。ユダヤ金融資本の陰謀の魔手に絡め取られているのではないだろうか?
 ユダヤカルトは、柳井や孫のような、ユダヤ人以外の人物が世界経済を動かすことは許さない。
 柳井は、孫ビジョンファンドの社外取締役であり、ソフトバンクの倒産によって無傷ですむことはありえない。

 前沢友作
 1975年生まれ、ZOZO総帥だった前沢は、ソフトバンクに事業のすべてを譲渡し、現在は一線から身を引いている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%BE%A4%E5%8F%8B%E4%BD%9C

 剛力彩芽とも破局し、現在、何をしているのかの情報はない。
 総資産は2000億円を超えていて、この甘い蜜に吸い寄せられて危険な虫たちがわんさかやってきて、全身にたかられている状態のようだ。
 下半身の人格がずいぶん甘いようで、このことで、剛力が逃げ出しただけでなく、暴力団関係者から多額の金をむしり取られているとの週刊誌情報もある。

 前沢の破滅的失敗を見ると、カネを儲けたことで浮かれた気分になって散財し、厳密なマーケットリサーチを行わず、勘だけで事業を進めたせいだと指摘を受けている。
 https://www.mag2.com/p/news/421115

 前沢の失敗は、堀江貴文に似ていて、この二人は、宇宙開発という問題の本質を理解しないまま、空想的未来ビジョンを盲信している点など、似通った部分が多い。
 宇宙開発には夢が溢れているように見えるが、その内実は、徹頭徹尾、戦争準備でしかない。宇宙開発の名における軍事事業であることを二人とも理解していないのだ。
 今の段階では宇宙旅行など無意味なことで、世界が夢中になっている宇宙開発の真実は、宇宙核ミサイル基地の建設だけである。

 堀江貴文
 1972年、八女市生まれ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%B1%9F%E8%B2%B4%E6%96%87

 いわゆる実業家としては、たぶん日本一メディアへの露出が多い人物である。おそらく堀江も、それを意識して利用しているのだろう。
 思想的には極右に近い国家主義者であり、ファッシズムへの傾斜も見られる。

「定年退職後30年の老後資金として年金以外に約2000万円が必要」とする金融庁報告に対し抗議デモが発生した。
 堀江は、Twitterで「バカばっか」、「そんな時間あったら働いて納税しろや。税金泥棒め」と発言した。

 彼は、自分の専門分野以外の知識が大きく欠落した人物である。だから、偽計取引、風説の流布、有価証券報告偽造などの実刑が希な事件で、不可解な2年半もの実刑判決を受けているが、これが、「経済界の既得権益秩序を乱した」報復として行われたことも、あまり理解していない。

 前沢と同じように、空想的な宇宙開発に莫大な資金を投じているが、これも、実は軍事産業であることを理解せずに、本気で宇宙旅行などを信じているが、もしも、本当に宇宙ミサイル技術につながる開発に成功してしまえば、再び犯罪を捏造されて投獄されることへの警戒を持ち合わせていないようだ。

 三木谷浩史
 1965年生まれの三木谷浩史は、現在、奈落に転落中である。
 それは、きちんとした準備と見通しがないまま楽天が携帯電話キャリア通信事業を立ち上げてしまったからで、本業の足を引っ張るどころではすまず、このままでゆけば一年も経ずに倒産に至ってしまいそうな不安感がある。
 実は、総務省は、すでにソフトバンクとともに、楽天携帯事業破綻に備えて、対策を進めているらしい。
 https://president.jp/articles/-/24403

 https://www.asahi.com/articles/ASMBQ7S6LMBQULFA00G.html

 本業の通販事業でも、参入事業者に負荷を押しつける未熟なシステムにより、アマゾンに水をあけられる一方であり、競合する分野では、もはや競争力が存在していない状況だ。
 我々が、楽天のロゴを目にするネット社会も、先の長い話ではなさそうだ。三木谷の、やることなすこと失敗続きであり、孫や柳井、前沢らは、同じような国際金融資本の罠に閉じ込められているのではないかと思える。

 なお、日本近代史における成功者の系譜として、松下幸之助、井植歳男、盛田昭夫、稲森和夫らが挙げられるが、いずれも生長の家の谷口雅春との関係がある。
 谷口は出口王仁三郎の大本教幹部だったので、日本における戦前、戦後の事業成功者の多くが実は、大本教とのつながりを持っていると思っていい。
 現在の日本会議や、松下政経塾も、谷口雅春によるアイデアの実現である。
 これが何を意味しているのかは、別に項目を立てて考察が必要だと思う。

 このブログは、「成功者たちは、本当に成功したのか?」という表題で書き始めた。
 上に挙げた「成功者」たちの人生を見て、本心から尊敬できる人物が一人でもいるだろうか?

 実は、上に挙げた成功者たちは、巨大な暗雲に包まれ、明日の運命も分からない状態だ。孫正義が10年後にも日本一の大金持ち、成功者として日本社会に君臨している可能性は、私はゼロだと思う。
 孫だけではない。ファンドに参加している柳井も孫と共倒れする可能性がある。三木谷も、倒産目指してまっしぐらという印象だ。
 前沢も堀江も、宇宙開発で巨大な損失を被り、もう立ち上がる力も失うだろう。

 なぜ、こんな悲惨な状態になっているかといえば、彼らの行動原理が徹底した利己主義だからだ。
 何度も書いているように、「人生は与えたものが還ってくる」因果応報のプロセスである。
 社会全体に奉仕するという意思がなければ、必ず利己主義の報復を受ける。
 松下幸之助や井植歳男らは、人々の生活を改善してやろうという利他主義の意思を強く持っていた。

 松下は草創期からの従業員が死んだときは、必ず葬儀に駆けつけて涙をボロボロ流して会社への貢献を感謝した。その死を惜しんで、多額の香典を包んだ。
 ナショナルの初期の企業原理は人情だったのだ。
 井植も、主婦業のなかで、もっとも苛酷だった洗濯を合理化できる道具を開発して、日本中の女性たちを解放してやろうという明確な利他主義の意思を持っていた。
 孫や三木谷に、そんな利他主義が存在するだろうか?

 私が知る限り、本当に利他主義に生きている経営者は、壱番屋の創業者であった1948年生まれの宗次徳二である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%AC%A1%E5%BE%B3%E4%BA%8C

 宗次の凄惨な幼少時代は、読むことにも勇気がいるほどであり、涙が止まらない。
 https://oitachi-ima.com/jjitugyouka-oitachi/3638/

 現在、宗次は4時に起床し、一日の休みもなく名古屋市都心部(新栄)で清掃奉仕活動を続けている。多額の(数十億?)私財を子供食堂や児童救済施設に寄付し続けている。
 家族には一円も残さないと公言し、私財のすべてを社会活動に充てるとしている。
 自分が、壱番屋カレー店を通じて得た250億円の金すべてを社会に還元すると宣言していて、身の回り品も最低のバーゲン品ばかり、遊興にも一切金を使わない。
 日本を代表するバイオリニスト、葉加瀬太郎や五島緑らのストラディバリは、すべて宗次が私財で購入し、無償貸与しているものだ。

 因果応報の原理からいえば、宗次徳二の人生には、地球上のすべての幸福が殺到してくるのではないだろうか?
 宗次自身には、たくさんの幸運も、詐欺師も寄ってくるが、一切興味を示さず、淡々と社会奉仕を続けている。

 日本の成功者たちのなかで、本当に成功しているのは、ひょっとすると宗次ただ一人かもしれない。
 彼を知る、すべての人々は、誰よりも宗次を敬愛しているからだ。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-937.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/549.html#c13

[近代史3] ファーストリテイリング会長の柳井正は完全なアホだった 中川隆
2. 中川隆[-14864] koaQ7Jey 2019年11月17日 18:52:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1953]
成功者たちは、本当に成功したのか? 2019年11月17日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-937.html

 日本の成功者といえば、「金儲けの成功者」として知られる人物ばかりが取り上げられている。

 誰でも知っているのは、ソフトバンクの孫正義、ユニクロの柳井正、京セラの稲森和夫、前沢友作、三木谷浩史、堀江貴文などだが、彼らの人生を俯瞰してみると「成功」とは、いったい何なのか? を考えさせるものがある。

 というのも、上に挙げた「成功者」たちの大半が、現在、すべてを失う存亡の危機に瀕しているからだ。


 孫正義

 1957年生まれ、鳥栖市の赤貧のなかで育ち、後に福岡に移住。実父の孫三憲が密造酒とパチンコ業で成功し裕福になった。
 https://www.youtube.com/watch?v=zhrz8KdUB4w&feature=emb_logo

 推定資産2兆円。この人は前沢のように周囲にばらまくことはしない。贅沢三昧の散財もしない。ファンドを作って財産を増やし続けることだけに関心があるようだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%AD%A3%E7%BE%A9

 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56573

 現在、ソフトバンクファンドが決定的な危機にあることを多くの人が知っている。
 総務省は、すでにソフトバンクの倒産を見込んで、現在の通信事業の後始末に関するプロジェクトを立ち上げているといわれ、大半の利権が、ドコモに移動すると噂されている。
 有利子負債14兆円を返済するために、一か八かの博打に頼っている経営状態では、もはや助かる見込みもないだろう。

 ソフトバンクに価値のないゴミ企業株を高値で売りつけたのは、孫正義の娘の所属するゴールドマンサックスだといわれる。
 孫も娘に頼まれて、ろくな調査もせずにホイホイ投機博打に巨大な資金を投入し、ゴールドマンサックス十八番の金融詐欺に遭ったといえるだろう。
 ユダヤ金融ファンドの地位を脅かすような日本産ファンドを、イルミナティが許すはずがない。

 ソフトバンクの名前は、私の記憶では1980年代のパソコン黎明期に無料ソフトの流通バンクを経営していたことから知られたが、その歴史は、たかだか40年に満たない。
 それが、もうすぐこの世から完全に失われるように思える。
 日本一の超大金持ちの人生は、あっけないものだ。

 柳井正
 ユニクロの総帥、柳井は1949年、宇部市生まれ。そこは安倍晋三の本拠地でもある。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E4%BA%95%E6%AD%A3

 柳井の姓名は、山口県東部に柳井市があり、そこは田布施の東隣でもある。ここに、明治以降の、日本の権力者、実業家の血縁網が、ぞろぞろと描かれている。
 それこそ明治天皇=大室寅之祐から野坂参三・宮本顕治、岸信介、松下村塾関係者など、「日本の大物」の大半が集っているのが実に不可解だ。

 実は、日本の政治家・実業家のルーツを調べてゆくと、朝鮮・韓国との関わりの深い人物が実に多い。小泉純一郎の実父、純也、児玉機関の総帥、児玉誉士夫、笹川良一、そして岸信介である。柳井市・田布施町は、大韓帝国併合時に、大量の朝鮮人が移住し、定着した場所としても知られる。上に挙げた全員が、統一教会・文鮮明とも深い絆を持っていた。

 なお、柳井の長男、一海も、孫の娘と同じくゴールドマンサックスに所属している。
 おそらく、孫と同じように、柳井も息子を通じて、ゴミ株を高値で売りつけられようとしているように見える。ユダヤ金融資本の陰謀の魔手に絡め取られているのではないだろうか?
 ユダヤカルトは、柳井や孫のような、ユダヤ人以外の人物が世界経済を動かすことは許さない。
 柳井は、孫ビジョンファンドの社外取締役であり、ソフトバンクの倒産によって無傷ですむことはありえない。

 前沢友作
 1975年生まれ、ZOZO総帥だった前沢は、ソフトバンクに事業のすべてを譲渡し、現在は一線から身を引いている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%BE%A4%E5%8F%8B%E4%BD%9C

 剛力彩芽とも破局し、現在、何をしているのかの情報はない。
 総資産は2000億円を超えていて、この甘い蜜に吸い寄せられて危険な虫たちがわんさかやってきて、全身にたかられている状態のようだ。
 下半身の人格がずいぶん甘いようで、このことで、剛力が逃げ出しただけでなく、暴力団関係者から多額の金をむしり取られているとの週刊誌情報もある。

 前沢の破滅的失敗を見ると、カネを儲けたことで浮かれた気分になって散財し、厳密なマーケットリサーチを行わず、勘だけで事業を進めたせいだと指摘を受けている。
 https://www.mag2.com/p/news/421115

 前沢の失敗は、堀江貴文に似ていて、この二人は、宇宙開発という問題の本質を理解しないまま、空想的未来ビジョンを盲信している点など、似通った部分が多い。
 宇宙開発には夢が溢れているように見えるが、その内実は、徹頭徹尾、戦争準備でしかない。宇宙開発の名における軍事事業であることを二人とも理解していないのだ。
 今の段階では宇宙旅行など無意味なことで、世界が夢中になっている宇宙開発の真実は、宇宙核ミサイル基地の建設だけである。

 堀江貴文
 1972年、八女市生まれ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%B1%9F%E8%B2%B4%E6%96%87

 いわゆる実業家としては、たぶん日本一メディアへの露出が多い人物である。おそらく堀江も、それを意識して利用しているのだろう。
 思想的には極右に近い国家主義者であり、ファッシズムへの傾斜も見られる。

「定年退職後30年の老後資金として年金以外に約2000万円が必要」とする金融庁報告に対し抗議デモが発生した。
 堀江は、Twitterで「バカばっか」、「そんな時間あったら働いて納税しろや。税金泥棒め」と発言した。

 彼は、自分の専門分野以外の知識が大きく欠落した人物である。だから、偽計取引、風説の流布、有価証券報告偽造などの実刑が希な事件で、不可解な2年半もの実刑判決を受けているが、これが、「経済界の既得権益秩序を乱した」報復として行われたことも、あまり理解していない。

 前沢と同じように、空想的な宇宙開発に莫大な資金を投じているが、これも、実は軍事産業であることを理解せずに、本気で宇宙旅行などを信じているが、もしも、本当に宇宙ミサイル技術につながる開発に成功してしまえば、再び犯罪を捏造されて投獄されることへの警戒を持ち合わせていないようだ。

 三木谷浩史
 1965年生まれの三木谷浩史は、現在、奈落に転落中である。
 それは、きちんとした準備と見通しがないまま楽天が携帯電話キャリア通信事業を立ち上げてしまったからで、本業の足を引っ張るどころではすまず、このままでゆけば一年も経ずに倒産に至ってしまいそうな不安感がある。
 実は、総務省は、すでにソフトバンクとともに、楽天携帯事業破綻に備えて、対策を進めているらしい。
 https://president.jp/articles/-/24403

 https://www.asahi.com/articles/ASMBQ7S6LMBQULFA00G.html

 本業の通販事業でも、参入事業者に負荷を押しつける未熟なシステムにより、アマゾンに水をあけられる一方であり、競合する分野では、もはや競争力が存在していない状況だ。
 我々が、楽天のロゴを目にするネット社会も、先の長い話ではなさそうだ。三木谷の、やることなすこと失敗続きであり、孫や柳井、前沢らは、同じような国際金融資本の罠に閉じ込められているのではないかと思える。

 なお、日本近代史における成功者の系譜として、松下幸之助、井植歳男、盛田昭夫、稲森和夫らが挙げられるが、いずれも生長の家の谷口雅春との関係がある。
 谷口は出口王仁三郎の大本教幹部だったので、日本における戦前、戦後の事業成功者の多くが実は、大本教とのつながりを持っていると思っていい。
 現在の日本会議や、松下政経塾も、谷口雅春によるアイデアの実現である。
 これが何を意味しているのかは、別に項目を立てて考察が必要だと思う。

 このブログは、「成功者たちは、本当に成功したのか?」という表題で書き始めた。
 上に挙げた「成功者」たちの人生を見て、本心から尊敬できる人物が一人でもいるだろうか?

 実は、上に挙げた成功者たちは、巨大な暗雲に包まれ、明日の運命も分からない状態だ。孫正義が10年後にも日本一の大金持ち、成功者として日本社会に君臨している可能性は、私はゼロだと思う。
 孫だけではない。ファンドに参加している柳井も孫と共倒れする可能性がある。三木谷も、倒産目指してまっしぐらという印象だ。
 前沢も堀江も、宇宙開発で巨大な損失を被り、もう立ち上がる力も失うだろう。

 なぜ、こんな悲惨な状態になっているかといえば、彼らの行動原理が徹底した利己主義だからだ。
 何度も書いているように、「人生は与えたものが還ってくる」因果応報のプロセスである。
 社会全体に奉仕するという意思がなければ、必ず利己主義の報復を受ける。
 松下幸之助や井植歳男らは、人々の生活を改善してやろうという利他主義の意思を強く持っていた。

 松下は草創期からの従業員が死んだときは、必ず葬儀に駆けつけて涙をボロボロ流して会社への貢献を感謝した。その死を惜しんで、多額の香典を包んだ。
 ナショナルの初期の企業原理は人情だったのだ。
 井植も、主婦業のなかで、もっとも苛酷だった洗濯を合理化できる道具を開発して、日本中の女性たちを解放してやろうという明確な利他主義の意思を持っていた。
 孫や三木谷に、そんな利他主義が存在するだろうか?

 私が知る限り、本当に利他主義に生きている経営者は、壱番屋の創業者であった1948年生まれの宗次徳二である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%AC%A1%E5%BE%B3%E4%BA%8C

 宗次の凄惨な幼少時代は、読むことにも勇気がいるほどであり、涙が止まらない。
 https://oitachi-ima.com/jjitugyouka-oitachi/3638/

 現在、宗次は4時に起床し、一日の休みもなく名古屋市都心部(新栄)で清掃奉仕活動を続けている。多額の(数十億?)私財を子供食堂や児童救済施設に寄付し続けている。
 家族には一円も残さないと公言し、私財のすべてを社会活動に充てるとしている。
 自分が、壱番屋カレー店を通じて得た250億円の金すべてを社会に還元すると宣言していて、身の回り品も最低のバーゲン品ばかり、遊興にも一切金を使わない。
 日本を代表するバイオリニスト、葉加瀬太郎や五島緑らのストラディバリは、すべて宗次が私財で購入し、無償貸与しているものだ。

 因果応報の原理からいえば、宗次徳二の人生には、地球上のすべての幸福が殺到してくるのではないだろうか?
 宗次自身には、たくさんの幸運も、詐欺師も寄ってくるが、一切興味を示さず、淡々と社会奉仕を続けている。

 日本の成功者たちのなかで、本当に成功しているのは、ひょっとすると宗次ただ一人かもしれない。
 彼を知る、すべての人々は、誰よりも宗次を敬愛しているからだ。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-937.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/673.html#c2

[お知らせ・管理21] 2019年11月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
45. 中川隆[-14863] koaQ7Jey 2019年11月17日 18:59:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1952]
>>40
>★阿修羅♪掲示板は、山本太郎さんの応援サイトです。

赤かぶは中国の工作員、そして山本太郎は

れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。
森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。母親は森順子、
ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/573.html#c45

[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
7. 中川隆[-14862] koaQ7Jey 2019年11月17日 19:48:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1951]

蜂の旅人、The Beekeeper、Ο Μελισσοκομοσ(1986)


監督 テオ・アンゲロプロス
脚本 テオ・アンゲロプロス 、 ディミトラス・ノラス 、 トニーノ・グエッラ
撮影 ヨルゴス・アルヴァニティス
音楽 エレニ・カラインドルー















春が訪れようとする北ギリシャの村で、結婚式が行われている。花嫁の父スピロ(マルチェロ・マストロヤンニ)は長年勤めてきた小学校教師を唐突に辞職したばかりで、家族との別離を決意していた。婚礼が終わるや否や、彼は父祖代々の巡礼の旅に出る。花の咲く土地に逗留しては蜂を放し、蜜を吸わせては旅を続ける伝統の旅路だ。

道中でヒッチハイクをしていた少女が彼につきまとい、宿の部屋にまで闖入する。彼女はスピロを誘惑するが彼は無視。すると幼なじみだという青年を連れてきた。夜、スピロが目を覚ますと、隣のベッドで二人が交わっていた。あえぐ男の裸体の下から黙って自分を見つめる少女の眼差しに、スピロは慌てて部屋を飛びだした。彼は一人旅を続け、旧友ニコス(ニコス・クーロス)と共にゲリラ時代の仲間セルジュ(セルジュ・レジアニ)を病院に見舞う。三人は海岸で酒を酌み交わし、歴史の中で失ってしまった理想に思いを馳せた。再び巣箱を置くために滞在した街でスピロは少女を見かけ、隠れる。

彼はアテネに妻アンナを訪ねて旅に誘うが、妻は夫の接吻に涙を流すだけだった。スピロは少女を若者たちの所から強引に連れ出す。フェリーの上で唇を奪おうとする彼に、彼女は激しく抵抗した。スピロは少女を連れて長女のアンナを訪ねた。かつて家出した彼女は駆け落ちした夫とガソリンスタンドを経営していた。

生まれ故郷の町で、彼は少女を広場に残して自分の生家を訪ねる。酔った少女は戻ってきた彼の手を噛み、その血を懸命に吸った、二人は彼の旧友(ディノス・イリオプロス)の所有刷る映画館に泊まり、スクリーン前で儀式のように交わる。そのあと二人は町で酒を飲み、彼女は去る。翌日、スピロはマスクもつけずに養蜂を解き放ち、無数の蜂に刺されて倒れる。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c7
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
8. 2019年11月17日 19:57:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1950]
蜂の旅人



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c8
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
9. 中川隆[-14861] koaQ7Jey 2019年11月17日 20:01:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1949]
蜂の旅人


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c9

[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
10. 中川隆[-14860] koaQ7Jey 2019年11月17日 20:05:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1948]

蜂の旅人




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c10
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
11. 中川隆[-14859] koaQ7Jey 2019年11月17日 20:27:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1947]

こうのとり、たちずさんで、THE SUSPENDED STEP OF THE STORK、Το Μετέωρο βήμα του πελαργού

監督 テオ・アンゲロプロス
脚本 テオ・アンゲロプロス 、 トニーノ・グエッラ 、 ペトロス・マルカリス
撮影 ヨルゴス・アルヴァニティス 、 アンドレアス・シナノス
音楽 エレニ・カラインドルー
















テレビレポーターのアレクサンドロス(グレゴリー・カー)は、ヴェトナム難民たちがギリシャ船に救われながら政府に入国を拒否されたために冬の海に身を投げたという事件が忘れられず、クルーとともに3国と接する北ギリシャの国境地帯に取材にやって来た。案内してくれた大佐(イリアス・ロゴテティス)は国境線の前に、飛び立つ寸前のこうのとりのように片足で立ちながら、呟く。「一歩含み出せば異国か、死か、それが国境だ」。町では国境を越えて保護を求めてきた老若男女の難民が定住許可を待ってかりそめに居住しており、彼らは電線を修復する仕事を行っていた。市場でアレクサンドロスは10年ほど前に失踪し行方不明になっているはずの政治家(マルチェロ・マストロヤンニ)を見つける。彼はこの〈男〉とその夫人(ジャンヌ・モロー)を対面させ、その様子をカメラに収めようとする。

〈男〉の周辺を取材し続けるアレクサンドロスは、ある夜、ホテルのバーで身じろぎもせず自分を見つめている〈少女〉(ドーラ・クリシクー)に気づき、運命的に愛を交わした。彼は彼女と再びカフェで出会い、後を追って共同住宅の一室に入ると、電線工事の仕事から帰ってきた〈少女〉の父が取材中の〈男〉だったので驚く。カフェでクルド人同士が争いとなり、私刑で殺された男がクレーンで空中高く首を吊られるという悲惨な事件のあった日、〈男〉の妻が町に到着し、翌朝〈男〉と出会う。彼女の横顔に涙がにじむが、夫人はカメラに顔を向け「彼じゃない」と言って歩み去る。アレクサンドロスが夫人から預かった、政治家が残していた電話テープの声を〈男〉に聞かせると、〈男〉はテープの続きを静かに語り出す。やがて町は集会の前祝いで沸き返りだした。アルバニアから村の半分の人々が難民として越境して来たために、河を隔てて年に一度お互いの無事を確かめ合おうという儀式で、おまけに今年は結婚式も重なっていた。

その結婚式の花嫁こそ、あの〈少女〉であった。翌日の結婚式をアレクサンドロスは取材クルーとともに見守るが、式も終わりになろうという頃、遠くから聞こえる銃声で人々はちりぢりになる。そのさなかに〈男〉はまた行方不明になった。「僕は見たよ。国境を越えて見えなくなった」と言う少年の声を聞きながら、アレクサンドロスはふと顔をあげると、電柱を上っていく電線工事の黄色い人々の姿が目についた。弦の切れた天のハープのようにたわむ電線をぴんと張るその姿は、まるで空に向かって飛び立とうとするこうのとりのようであった。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c11
[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
216. 中川隆[-14858] koaQ7Jey 2019年11月17日 21:01:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1946]

トランプ大統領は利下げ停止に感謝すべき2019年11月17日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8494

11月13日、アメリカの中央銀行であるFed(連邦準備制度)のパウエル議長は議会証言で現在の金利水準が適切であると述べ、今年3回行われた利下げを当面停止する意思を表明した。

これは中央銀行に金融緩和を要求し続けてきたトランプ大統領には不服の残る決定かもしれない。しかし2020年11月の大統領選挙を控え、実際にはトランプ大統領にとって最良の結果となったのではないか。もしかすると、トランプ氏も口では不平を言いながら内心ではほっとしているかもしれない。

演出された米中貿易戦争

というのは、トランプ大統領は明らかに大統領選挙の日付を意識して実体経済を操作しているからである。米中貿易戦争が2019年終盤から解決に向かい始めたことは偶然ではない。大統領選挙が2020年11月ならば、その半年から1年ほど前に米中貿易戦争が解決すれば、そのポジティブな影響は大統領選挙の頃に実体経済に現れているだろう。米中貿易戦争はアメリカ経済全体にはあまり影響を及ぼしていないが、農家や工業地帯を票田とするトランプ氏には重要なことである。

つまり、米中貿易戦争は最初からトランプ氏のショーであり、それがこの時期に解決することも最初から仕組まれていた。債券投資家のガンドラック氏が指摘していた通りである。
•ガンドラック氏: トランプ氏は再選に出馬せずニュースメディアでも始めるだろう

これと同じように、トランプ氏は経済を押し上げる低金利を中央銀行に要求し続けていた。特に2018年の世界同時株安の頃にはトランプ大統領の悲痛な声が聞かれた。高金利のために株価バブルが弾けてしまえばトランプ氏に再選の可能性はないからである。

見事なのはトランプ氏がその懸念を株安が深刻化する前に表明し、Fedのパウエル議長に警告していたことである。
•トランプ大統領は機関投資家からバブル崩壊の予報を受けている (2018/10/14)

しかしパウエル議長はトランプ氏の警告を無視し、株式市場は12月の底値へと下落してゆくことになった。Fedが高金利政策を停止したのはその後である。

利下げ停止の大統領選への影響

さて、現状アメリカの政策金利は1.5%で停止しており、言い換えればゼロ金利まで1.5%の利下げ余地があるということになる。

世界同時株安を経てFedが言うことを聞いたことに気を良くしたトランプ大統領は今ではマイナス金利までの利下げを公然と要求しているが、恐らく利下げが止まったことはトランプ大統領にとってプラスの影響をもたらすだろう。

それは何故か? 何故ならば、金融市場にとって一番恐ろしいことは金融緩和が行われないことではなく、金融緩和の手段が枯渇してしまうことだからである。

量的緩和を最大限に行っている日銀にはもはや追加緩和の手段はほとんどない。この状況は世界的な株高になってももはや上がらないドル円に象徴されている。追加緩和の手段がない以上これ以上の円安誘導は不可能であり、ドル円は後は落ちるのみである。

同じように、アメリカが利下げ出来る状況は株式市場にとって上昇の唯一の理由である。以下の記事で書いた通り、筆者は米中通商合意後の株式市場を心配しているが、それでも利下げ余地がある間は一番深刻な事態にはならないはずである。
•米中貿易戦争、合意なら株価暴落か

しかし一番恐ろしいのはこの利下げ余地を使い切ってしまった後のことである。2008年以降金融緩和を頼みの綱として10年以上上昇し続けてきた株式市場は、アメリカの利下げ完了をもってその後の上昇要因が何もなくなってしまう。投資家にしか分からないかもしれないが、相場にとって材料出尽くしは上げ相場の死を意味する。それは量的緩和の作り出した巨大な株式バブルの終わりとなるだろう。

アメリカ国民にとっては、それが大統領選挙の前に来るのか、後に来るのかは重要なファクターである。トランプ大統領はここまでバブル崩壊を何とか綱渡りで回避してきたが、あと1年それを続けることが出来るだろうか?
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8494
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c216

[リバイバル3] アンプの音はトランスで殆ど決まってしまう 中川隆
19. 中川隆[-14857] koaQ7Jey 2019年11月17日 21:05:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1945]


CDラインのライントランスについて - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年11月17日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/45212c5e2d5c4b3821fd91bfb3d4e39c

CDラインに「ライントランス」を使っています。最初は小さなタムラトランスのモノから、平田電機のモノへ、更にUTCのライントランスと色々な種類のライントランスを試しました。最後はWEのライントランスにたどり着きました。ライントランスもサイズや重量でスケール感や質感が大きく左右されます。ライントランスを使うとCDPそのままでは「二次元の世界」が「三次元の世界」に変わり、アナログに近い表現力をして来ます。上の写真はWE#15Aトランスです。おそらく100前の代物でしょう。


WEのライントランスは1個2Kg有ります。上の写真では左右でLch・Rchを構成します。合計で4Kgの重量になります。WEのライントランスは、111c、93F、93A、91A、63C,63A、50A、そして15Aと試して来ました。

上の写真は15A入手時の写真です。WEのエナメル線で配線されています。個人的に音数が全く足りない、質感も繊細感は有るがスケール感がない。ただこのトランスの素性は「只モノではない」と感じました。

箱の設計をして、愛知県のリンホフ工房さんにお願いして、花梨材で特注の箱を作成していただきました。


WEのトランスは型番が少なる(古いものほど)音質が良いです。特に50Aや15Aはその後のトランスとは違う傾向の音質のトランスです。「音のキレ」がまるで違います。

箱内配線はお見せできませんが、111cや91Aと同じ配線でも、63Aや50A・15Aは別物の質感です。現在は50Aは自宅システムで、15Aはオリンパスシステムで使っています。もはやこれを聴いたら外せません。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/45212c5e2d5c4b3821fd91bfb3d4e39c



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/760.html#c19

[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
12. 中川隆[-14856] koaQ7Jey 2019年11月17日 22:47:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1944]

ユリシーズの瞳、Ulysses' Gaze、Το Βλέμμα του Οδυσσέα(1995)


監督 テオ・アンゲロプロス
脚本 テオ・アンゲロプロス
撮影 ヨルゴス・アルヴァニティス 、 アンドレアス・シナノス
音楽 エレニ・カラインドルー


















アメリカの映画監督A(ハーヴェイ・カイテル)が、故郷のギリシャでの回顧上映と、バルカン半島最初の映画作家マナキス兄弟についての映画を作るために帰国した。彼の作品はギリシャ正教正当派の勢力が強くなっている北部で物議をかもす。デモで騒然とする街で彼はかつての恋人らしき女(マヤ・モルゲンステルン)とすれ違う。彼はマナキス兄弟が未現像のまま遺したという幻の3巻のフィルムを探して旅に出る。

まずアルバニアに向かう彼はタクシーに、コリツァに住む妹に42年ぶりに会いに行くという老女(ドーラ・ヴォラキナ)を同乗させた。彼のタクシーはさらに旧ユーゴのマケドニアへ。その小都市モナスティルにはマナキス兄弟の博物館がある。彼はそこで職員らしい女(モルゲンステルン=二役)に、幻の3巻のフィルムのことを尋ねるが、女は答えない。首都スコピエに向かう列車の中で、彼は乗り合わせた彼女に憑かれたようにフィルムのことを語る。激しく求めあう二人。ブルガリア国境。検問を受け、下車した彼に第二次大戦中死刑になりかけたヤナキス兄弟の記憶がとりつく。二人はルーマニアの首都ブカレストに向かう。

夢うつつの彼はそこで、生まれ故郷のコスタンザからギリシャに移住するまでの辛酸を舐めた自身の少年時代の回想に入り込み、母や家族と束の間をすごす。コスタンザのホテルで夢から覚めた彼は、港で女に別れを告げる。巨大なレーニン像を乗せた艀でドナウ河を逆上り、彼の旅は続く。新ユーゴ(セルビア共和国)の首都ベオグラードでは旧友の記者ニコス(ヨルゴス・ミハラコプロス)が待っており、養老院にベオグラード映画博物館の元教授に会いに行く。教授は幻の3巻はサラエヴォのイヴォ・レヴィが現像法を研究していたが、戦争の勃発で音信不通になってしまったと語る。

サラエヴォの向かう旅で、再び彼は幻想の中に入り込む。彼は第一次大戦のさなか、ブルガリアの農婦(モルゲンステルン=三役)の小舟でエブロス川を下って彼女の家に赴く。戦争で家は焼け、女の夫は殺されていた。女は彼を全裸にして夫の服を着せると、彼と儀式のように交わる。彼は戦火のサラエヴォに着き、映画博物館の館長イヴォ・レヴィ(エルランド・ヨセフソン)に会う。戦争のため完成寸前でフィルムの現像を諦めたというレヴィに、彼は何があっても現像すべきだと言い張り、そのまま疲労で昏睡におちいる。

朝、彼はレヴィの娘ナオミ(モルゲンステルン=四役)と会う。レヴィは幻のフィルムの現像に着手、現像は成功した。二人はフィルムが乾く間、霧の日だけ戦闘がやみ、人々が束の間、思い思いに音楽や演劇を楽しむサラエヴォの街に散歩に出掛ける。公園で彼はナオミと踊り、ギリシャ語であたかも懐かしい恋人のように語り合う。

ところが川辺を散策中、先に行きすぎたレヴィの家族は兵士に捕えられる。深い霧の中、彼を残して駆けつけたレヴィともども、幼い子供たちまで射殺する銃声が響く。深い悲しみを胸に彼はひとり映画博物館の跡に戻り、レヴィが現像したフィルムを見はじめる。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c12
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
13. 中川隆[-14855] koaQ7Jey 2019年11月17日 22:52:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1943]

「ユリシーズの瞳」はギリシャ出身で現在アメリカに在住する映画監督という設定の主人公が、バルカン半島で最初に撮影されたと言うマナキス兄弟が撮影した「まぼろしのフィルム」を探す旅というあらすじを持つ作品です。

実は、この「ユリシーズの瞳」のDVDを見る前に、フランスの映画監督であるエリック・ロメール監督の59年の「獅子座」と言う作品のDVDを見ました。その「獅子座」のDVDにはオマケが付いていて、ロメールの司会による、ジャン・ルノアールとアンリ・ラングロアの対談が付いていました。

その対談のお題が、「人類最初の映画」と言えるルミエール兄弟による映像作品についてでした。ちなみに、ジャン・ルノアールは有名な画家のオーギュスト・ルノアールの次男であり、映画監督としてはルキノ・ヴィスコンティの師匠格に当たる人。それにロメールをはじめとしたヌーヴェル・ヴァーグの連中にも暖かい理解を示した、「大したオッサン」と言える人ですね。もちろん、映画監督としても超が付くくらいの一流。

そして、対談相手のアンリ・ラングロアは、ヌーヴェル・ヴァーグの関係者で、批評家。映像ライブラリーを設立し、映画の発展に尽力した・・・と言えるのかな?

重要なことは、アンリ・ラングロアが批評家で、ジャン・ルノアールが芸術家と言うか創作者という違いです。

そして、批評家のラングロアによる、ルミエール兄弟の映像作品への「まなざし」と、芸術家ルノアールによる、ルミエール兄弟作品への「まなざし」が全然違っているわけ。

ラングロアは、ルミエール作品を見ながら、芸術技法の発展とか、労働者などの一般人が登場するようになったとかの、いわば進歩史観。これはこの対談がなされた68年という時代が反映していると言えるでしょう。いかにも古き良きモダニズムですね。そして「さすが批評家!」と言いたくなるほど、政治的に捉えている。

それに対し、ルノアールは、全然違っているわけ。
ルノアールがこのルミエール兄弟の映像に「発見」した「まなざし」は、「純粋なる喜び」と言えるようなもの。撮影する人間が、「これって、面白いなぁ!」とウキウキして撮影している。そんな心の弾むような瞬間が映像から発見できる・・・ルノアールの主張は、こんなところです。

絵画や戯曲などの個別の表現技法が、ある種、弁証法的に「統合」されて、ルミエールの時代に映画作品として結実したと言うより、「作り手」の純粋な喜びが反映されて、これらのルミエール兄弟の映像作品になっているんだ!そんな調子です。
無垢なんて言葉が出てきたりしますが、それは無邪気とは違うわけ。純粋なる喜びなんですね。

アングロアの言うような、政治的な側面なり、表現における技法的な進歩も、ある面ではあるでしょうし、その面からの説明は、往々にして、多くの人に受け入れられやすい。だって、多くの人はルノアールが語る「純粋な喜び」なんて言われてもピンと来ませんよ。労働者階級云々とか、表現技術の発展と言った文言の方に反応するものでしょ?

だから、芸術家が、「心が弾む」ような「純粋な喜び」を元に、作品を作っても、政治的に解説されちゃったりするわけ。それにやっぱり表現技法の発展という側面は否定しがたい。以前に同じような表現があったら、同じことはしたくはないでしょ?

人と違ったことをしたい、新たな技法にチャレンジしたい・・・
その気持ちはいいとして、それが「純粋な喜び」に基づいていないと、単なる技法の問題に堕してしまうわけ。

まずは「これって面白いなぁ!」と思ったりしたのか?
そのような発見なり「まなざし」が、芸術作品の出発点なんですね。

この対談で司会をしているエリック・ロメールが、批評家ラングロアと、創作者ルノアールの「違い」を際立たせることによって、自分自身の内部で会話を行い、「自分とはどんな存在なのか?」考えているわけ。言うまでもなくロメールなどのヌーヴェル・ヴァーグの連中は、批評家から出発して、創作に向かった人たち。

この対談で言うと、ラングロアのような立場から、ルノアールへのような立場へと自分たちの「立ち位置」を移動させて行ったわけ。そして創作者ロメールの作品が、「これって面白いなぁ!」と言った新鮮な視点に満ちたものであることは、ご存知の方も多いでしょう。創作者ロメールは、むしろルミエール兄弟の精神に忠実と言えるわけです。「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」と言うより、原点回帰・・・映画の始原への回帰なんですね。

ロメール司会によるこの対談が頭に入っていると、アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」と言う作品を理解するのに、実に役に立つわけ。というか、これ以上の「解説」はありえないほどですよ。

「最初の映画」という共通する題材。そして失われた「まなざし」という問題意識。そして創作の原点。

「純粋な喜び」を持って、物事を、事物を見ることが出来る人だけが、神の恩寵に預かれるわけ。面白いもので、いわゆる無神論者でも神の恩寵がこめられた文章を書くこともありますし、宗教関係者の書いたものでも、まったく神の恩寵のない文章も、多く存在するわけ。

虚心で物事を見ることができるか?
幼児のように心を虚しくできるものだけが天国に入ることができる。

そう言うことなんですね。しかし、多くの人は、虚心で物事を見ることはできない。と言うか、しようとしない。大体が「政治的なメッセージ」を受け取ろうとするわけ。あるいは、「倫理的なメッセージ」を受け取ろうとするもの。しかし、幼児が物事を政治的なり倫理的に見るでしょうか?

物事を倫理的に見るからこそ、神の恩寵から、そして天国から遠い・・・そんなものじゃないの?
虚心で見るからこそ、子供たちの楽園に入ることができるわけ。

さて、やっと、「ユリシーズの瞳」に入って行きましょう。
ここではクラシック音楽が使われているわけではありませんが、「いかにも」使いそうな「引き」があったりします。
舞台は戦火のサラエボ。濃い霧が起こって、ターゲットとなる人間が見えないので狙撃手が仕事にならない。狙撃されないので、人々は安心して外に出てくる。そうして人々が集まって音楽を演奏している・・・
セルビア人も、モスリムも、ユダヤ人も・・・

さあ!このようなシチュエーションが語られたら、次には、どんな音楽が演奏されると思いますか?たぶん、100人中、80人以上の人が考えるのは、ベートーヴェンの第9交響曲ですよね?「人類よ!皆で手をつなげ!!」平和のメッセージとしては、この上ないくらいにフィットします。

もうちょっとヒネルと、何かのレクイエムとか・・・たくさんの方々がお亡くなりになったことを追悼する・・・そんな音楽だって成立するでしょう。戦火のボスニアに一時的に訪れた平和・・・それを音楽で表現するのなら、平和を歌い上げるような音楽だったり、亡くなった人を追悼するような音楽ですよね?それこそが心より平和を望む人々の心情を表現するものでしょ?

まさに「ドナ・ノビス・パーチェム」と、心から思いますよ。ただ、宗教曲だと、宗派の問題があるので、この選択は、ファースト・チョイスではない。特にボスニアでは、難しいでしょう。

戦火のボスニアを舞台にした映画はその他にもあります。
マイケル・ウィンターボトム監督の97年の「ウェルカム・トゥ・サラエボ」です。あの映画では最後にチェロの独奏があります。私はその映画を見たのですが、最後にチェロ独奏のシーンがあることを、実は忘れていました。だって、あまりにも「当たり前」ですからね。人から尋ねられたので、そう言えばそんなシーンもあったのかな?と思った程度。

そのチェロ独奏の曲目が何なのか?クラシック音楽に多少なじんでいる人なら、100人中100人が同じ選曲をするでしょう。その選曲自体は、心がこもったすばらしいものです。「カタルーニャの鳥はピース!ピース!と鳴いているんですよ!!」ですからね。

その心情は、すばらしいとしても、映画表現としては、事前に予想できてしまう。
戦争の悲惨さと、平和への願いをテーマとした映画なら、その選曲がベストでしょう。逆に言うと、そのようなオーソドックスな選曲をしなかったら、戦争とか平和と言う問題は、主なテーマでないと言えますよね?

戦火のサラエボで、濃い霧によって訪れた一時的な平和。
その時に「人類よ!皆、手をつなげ!」と言う音楽が演奏されれば、これ以上ない「平和へのメッセージ」になるでしょ?実際、このシーンでは、楽器を持った演奏者だけでなく、コーラスまで居る。
しかし、映画において演奏されるのは、ベートーヴェンの第9交響曲ではなく、エレニ・カラインドルーによるオリジナル音楽。

どうしてベートーヴェンを使わないの?
まさか第9交響曲を知らなかったの?そんなわけないでしょ?ベートーヴェンの第9交響曲なんてあまりに有名ですしね。百歩譲って監督のアンゲロプロスや脚本のトニーノ・グエッラが思いつかなくても、音楽を担当しているカランドルーだったら思いつきますよ。この「ユリシーズの瞳」という映画では、リルケの詩が引用されます。リルケを引用するくらいなんだから、ベートーヴェンだって引用できますよ。

著作権の関係なの?
しかし、ベートーヴェンの作品は著作権は切れているでしょ?
まあ、その点についてはカザルスの「鳥の歌」よりも、ラクですよ。

むしろ、様々な民族が一緒になって、演奏している。
なんてミエミエの「引き」で、観客を引っ張っておいて、カラインドルーのオリジナルですからね。
観客としては「あれっ?」と思うわけです。

戦火のボスニアにおいて、一時的に訪れた平和・・・その平和なり戦火が主なテーマではないというわけ。戦争なり平和がテーマだったら、ベートーヴェンの第9交響曲を使いますよ。
あるいは、それこそ「鳥の歌」でもいいわけ。その「鳥の歌」だったら、平和への希求という思いが強く打ち出せるでしょ?「鳥の歌」に、それらしい歌詞を乗っけて演奏してもいいのでは?平和を希求する歌詞を乗せれば、より平和への思いが表現できるでしょ?

しかし、あえてベートーヴェンを使わない・・・そして、映画において実際に引用されているのは、リルケの詩。
ここで引用されているリルケの詩は、リルケの若書きの詩。実は、最初にこの映画を劇場で見たときは、この詩が突然出てきたのには、ビックリしました。日本のマンガ家の竹宮恵子氏のマンガでも引用されていた詩なんですね。

この映画にも出てきたのかぁ・・・アンタ!よく会うねぇ・・・なんですが、結局、発想が似ている人同士は、似たり寄ったりのことをするんでしょうね。竹宮恵子さんの芸術家意識が強い人ですからね。

そのリルケの若書きの詩は、リルケの芸術家意識が横溢したもの。
終わりなき探求・・・それが芸術家の使命だ!そんな感じの詩。

つまり、この「ユリシーズの瞳」という映画は、戦争や平和をテーマとしたわけではなく、芸術家のあり方、そして、その終わりなき自己探求がテーマであるわけです。

芸術家そのもの、そして芸術作品が、本来持っている、「まなざし」。
それがどうして喪失したのか?
最初の映画である、マナキス兄弟にはあったのでは?そのような映像作品の原点を見直すことで、自分自身も見直したい。

いわば芸術家としての原点を求める旅、まさにユリシーズ(オデッセウス)の旅と同じ。これは主人公の旅であるだけでなく、ギリシャの旅であるわけ。

ギリシャは、古代のソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者や、ソフォクレス、アイスキュロス、エウリピデスなどの劇作家が活躍した古代以降は芸術家が出ていませんよね?約2000年の間いったい何をやっているの?
どうしてこうなっちゃったのでしょうか?

スペインに渡ったギリシャ人は、まさにエル・グレコという名前で歴史に名前を残しているのに?あるいは、20世紀では、アメリカにおいては映画監督のカサヴェデスや、ギリシャの血を引くマリア・カラスなんて大芸術家も誕生しています。

この「ユリシーズの瞳」では、ハーヴェイ・カイテル演じる主人公の映画監督はカサヴェデスを意識していて、当初はカサヴェデスに主演を頼もうとしたことはご存知の方も多いでしょう。外国のギリシャ人は、それなりに活躍しているわけ。
どうしてギリシャの地にいるギリシャ人は、全然ダメになっちゃったの?

これらの問題意識が、アンゲロプロスの初期の作品では主要なテーマでした。
あの有名な1975年の「旅芸人の日記」と言う作品でも、「羊飼いの娘ゴルフォ」という戯曲の上演という「芸術作品の成立」が、いつもいつも阻まれるというスタイルでしたよね?

どうして芸術が育たないのか?

そのような問題意識が反映しているわけ。


あの「旅芸人の日記」を、激動のギリシャ現代史を描く!なんてオバカな解説があったりしますが、現代史を描くのなら、もっと時系列に沿って描きますし、登場人物の名前だって現代風にしますよ。現代史ではなく、2000年に渡るギリシャの芸術不毛の歴史を描くことが主眼だったわけ。

じゃあ、どうして、かつては立派だったギリシャが、どうしようもないほどに芸術不毛の地になってしまったの?

その答えは、まさにこの映画「ユリシーズの瞳」の冒頭に引用されているプラトンの言葉が示しているでしょ?


「魂でさえも、自らを知るためには、魂を覗き込む。」

自分自身の魂を覗き込まない人が、永遠に残るような作品を生み出せるわけがないでしょ?

現在のギリシャって、そんな気概がなくなっていますよね?

「悪いのは全部○○のせいだ!」なんて、被害者意識に浸っているだけで、自分自身に厳しく接することをしない。

そんな地域では芸術なんて生まれませんよ。そんな地域って他にもあるでしょ?
たとえばイスラムとか韓国とか・・・

その手の地域って、やたら政治的なデモが盛んで、誰かを糾弾することだけに熱心。
「じゃあ、アンタはいったいどうしたいの?」なんて言われると逆上するだけ。

「自分がかわいそうな被害者だ!」と常に思いたいがために、何事も政治的に捉えてしまう。

「自分たちはダメな政治による被害者なんだ!」そう言うための理屈がほしいわけ。

しかし、それでは芸術作品なんて生まれませんよ。ギリシャやイスラムや韓国に芸術作品が生まれないのは当然なんですね。

しかし、自分の魂を覗き込むこと自体は、政治は関係ないでしょ?
それこそ最低の政治状況にあったショスタコーヴィッチだってできたわけですからね。

ただ、多くの人は、どんな作品も政治的に捉えてしまうわけ。しかし、政治なんて洞窟に映った影のようなもの。逆に言うと、移ろい行くものだからこそ、多くの人は関心を持ってしまう。まさに目移りするわけ。そして、その影が、この線のどちら側なのか?なんてツマンナイことばかりに関心を持つ。

右翼とか左翼とか、正しいとか間違っているとか・・・

しかし、所詮は影ですよ。


この「ユリシーズの瞳」の字幕を担当されている某芥川賞作家さんが、以前に「アンゲロプロスの作品は、国境の問題を身を持って体験したものでないとわからない。」なんて書いていたことがありました。いささか失笑してしまいます。そんなことを言うから芥川賞止まりなんですよ。国境も、政治体制も、人の、人の魂が作りし影のようなもの。影ではなく、人の魂そのものに真実があるわけでしょ?

たとえば、前回取り上げたショスタコーヴィッチですが、よく「スターリン体制云々」なんて言われたりしますよね?

しかし、創作者にとって重要なものはスターリンの問題よりも、そんな体制を「求めて」しまう人間たちの魂の問題。そのような精神は、たとえスターリンの問題が終了しても、次に同じようなものを求めてしまうわけ。

「悪いのは○○のせいだ!」という人は、その次には「悪いのは△△のせいだ!」と言いだして、その次には「悪いのは☆☆のせいだ!」なんて言ったりするものでしょ?

結局は、発想そのものは全然変わっていないものなんですね。

それこそ、日本でも第2次大戦前に「悪いのはアメリカやイギリスなんだ!」と大騒ぎしていた人が、後になって「悪いのは、日本の軍国主義のせいだ!」と、大騒ぎする。この2つの主張は、政治的には大きな違いがありますが、精神的には全く同じでしょ?

そして、洞察力のある芸術家が見つめるのは、変わらない精神的な面の方なんですね。

魂の真実なんて、時代によって変わるものではありませんよ。しかし、変わらないからこそ、多くの人には見えないわけ。
多くの人は洞窟に映った影しか見えないし、見ようとしない。ショスタコーヴィッチだって、スターリン云々を直接描いたわけではないんですね。スターリンのような人を「求めてしまう」多くの人々の魂を覗き込んでいるわけ。そして、「求めてしまう」魂は、いつの時代でも変わらない。

魂に真実があり、魂を覗き込む行為、見続ける精神に真実があるわけでしょ?

人類最初の映画であるルミエール兄弟の映像作品に、ルノアールが、純粋な喜びをみて、芸術創作の原点を見たように、アンゲロプロスも、バルカン半島最初の映画であるマナキス兄弟の作品を捜し求めるという行為を描くことによって、芸術創作の原点を捜し求めたわけ。それはプラトンの言う、「魂を覗き込む」行為そのものでしょ?

この「ユリシーズの瞳」においては、アンゲロプロス個人としての芸術家の原点を探求する旅という側面があり、初期の作品群で扱われたギリシャにおける芸術不毛の探求という側面もあるわけ。だから、まさに彼のその時点における集大成的な作品であって、過去に自分の映画に登場した俳優を再び登場させているわけです。

激動のバルカン半島を描くと言った、時事ネタを扱った作品ではないんですね。時事ネタや政治ネタが中心のテーマの作品だったら、ベートーヴェンの第9交響曲とか「鳥の歌」を使いますよ。


むしろ、2千年以上変わらずに続く、芸術家の自己探求がテーマとなっているわけ。「いかにも」な曲が使われていない・・・そこから見えてくる作者の意図もあるわけです。

真の芸術家は、洞窟に映った影などは、その作品のテーマにはしないもの。

事物を、「純粋な喜び」を持って見つめること。
魂を覗き込む終わりなき旅。
それこそが、芸術作品の始源となる。

それらが芸術家の原点でしょ?
そして、とりあえずの終着点とも言えるのかな?

たどり着き、また旅立つ。

純粋な矛盾も、純粋な喜びも、自分自身の魂も、薔薇の花びらのように幾重にも重なった円環の中にあり、それを求める旅は、永遠に終わることはない。それを求め続ける使命を背負っているのが、アーティストというものだ。

アンゲロプロスも、そう考えているのでは?
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-08/07-08-02.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c13

[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
14. 中川隆[-14854] koaQ7Jey 2019年11月17日 23:25:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1942]

エレニの帰郷、The Dust of Time、 Η σκόνη του χρόνο(2009)

監督 テオ・アンゲロプロス
脚本 テオ・アンゲロプロス
音楽 エレニ・カラインドルー















20世紀末の現在。ローマの撮影所チネチッタ。映画監督の“A”(ウィレム・デフォー)は、ある理由により中断していた撮影を再開しようとしていた。しかし、ベルリンを舞台に、歴史的事件と彼の両親のパーソナルな人生との関係を描こうとするその作品の完成は困難を極めていた……。

“A”の母親エレニ(イレーヌ・ジャコブ)は、女子大生の時、秘密警察に逮捕され、テサロニキ収監所に送られた。女性囚人と共に脱走した彼女は、恋人のスピロス(ミシェル・ピッコリ)と離れ離れになってしまう。

1953年4月27日、スピロスはギリシャ難民の町テミルタウに辿り着く。そこでエレニは、イスラエル難民ヤコブ(ブルーノ・ガンツ)と共に集会に参加していた。ようやく再会しお互いの愛を確認するエレニとスピロス。だがスターリン死去による民衆の混乱の中、二人は逮捕され、別々の車でシベリアへと送られる。エレニとの親しい関係を咎められたヤコブもシベリアへと送られるが、やがて彼女の苦境を支える友となる……。

エレニとスピロスの間に生まれた息子は、ヤコブの姉の協力により、モスクワへと逃れる。スピロスもまた、交換出獄によって海外へと逃れた。1974年12月31日、エレニはヤコブと共にオーストリアへと越境、彼女はスピロスのいるアメリカへと向かう。一方、イスラエルへの帰郷を夢見ていたヤコブも、彼女への愛を断ち切りがたく、共にニューヨークへと向かう。

エレニはニューヨークでスピロスの居場所を探し続け、ようやく見つけるが、彼は見知らぬ女性と暮らしていた。茫然自失のエレニはカナダへと向かい、そこで徴兵忌避のために滞在していた息子“A”と再会する……。

1999年のベルリン。ヤコブが、エレニとスピロスの宿泊するホテルを訪ねる。3人は雨の中を外出する。地下鉄の駅の構内で、ジプシー音楽に合わせて踊っていると、エレニがめまいを起こす。スピロスがAに電話をかけたところ、孫娘エレニの所在がわかったという。ヤコブを残し、エレニとスピロスは孫娘エレニのいる廃墟へ向かう。そこでは、警察と特殊部隊が取り囲む中、ホームレスや麻薬中毒が廃墟の不法占拠を続けていた。エレニはひとりで建物に入って行き、孫娘エレニを見つける。エレニとスピロスは、Aと孫娘エレニの暮らすアパートメントへ行く。

重い病に冒されているエレニは、孫娘エレニの部屋でベッドに横たわっている。ヤコブが見舞いに訪れ、エレニに別れを告げる。その足で船着き場に向かったヤコブは、船に乗り込む。ヤコブは両手を広げ、シュプレー川に入水する。

2000年の元日に、エレニは息を引き取る。孫娘エレニが、エレニに呼びかけつづけるスピロスの手を握る。2人は窓辺に立ち、雪の降る外を眺める。
スピロスと孫娘エレニが、ブランデンブルク門の前の道をゆっくりと走ってくる。手に手を取った2人の顔には、朗らかな笑みが浮かんでいる。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c14
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
15. 中川隆[-14853] koaQ7Jey 2019年11月18日 00:03:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1941]
ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島の遺伝子は?
 

ギリシャは長い間オスマントルコ帝国の支配下(約400年)にあり、その間徹底したオスマン帝国の混血政策で、現在のトルコ共和国のトルコ人(中央アジアのトルコ民族も基は一緒だが)と現在のギリシャ人は医学的にはほとんど同じ人種である。

異なるのは宗教と言葉と長い歴史とそれに基づく文化である)。
それが民族間のとくに征服されたギリシャ側のトルコに対する憎悪を際立たせている。

トルコ人の発祥は古く中央アジアも中国よりのあたりと言われている。今ではトルキスタンと言われている地域だ。中央アジアの共通語は今でもトルコ語だ。 トルコ語人口は共和国を入れて約7000万人が話している。トルコ語だけでアジアを横断できると言われているくらいの広域言語だ。

トルコはその後セルジュクトルコやオスマントルコとして発展しながら、アジアからすこしづつヨーロッパに移動をしていった。その間にイスラム教に改宗した。またその間に移動した先々で混血をしたため、本籍のモンゴロイド系に、イラン系、アラビア系が加わり、世界最大のオスマン帝国時代にアフリカ系やヨーロッパ人の血を入れた。 特にギリシャ人、ブルガリア人との混血はすごかった。共和国トルコ人とギリシャ人、ブルガリア人は医学的にほとんど同一人種と言われている。言語と文化と住む地域と歴史が違うため、区別ができるのだ。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/


ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島の遺伝子は?
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/1-14.htm


  当ガラパゴス史観が若い頃にイスタンブールに駐在していたことは当記事1-13.中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか?で触れましたが、オスマントルコ帝国は約400年のバルカン半島の一部を支配下に置き、特に現代のギリシャとブルガリアに当たる隣接地域の徹底した混血政策をすすめた結果、 特にギリシャ人とブルガリア人のトルコ人に対する憎悪は計り知れないものがあります。

数百年以上に渡る長い間オスマン帝国の、それも首都のイスタンブールに隣接したギリシャ地域は ヨーロッパ人からはすっかり忘れられ、イスラム教徒の一部でしかなかったのです。

ところがヨーロッパ文明の夜明けであったギリシャ文明を興したギリシャ人を探していた西欧は オスマン帝国内にギリシャ語を話す集団がいることに気が付いたのです。しかもギリシャ正教を守っていたのです。これはギリシャ人の末裔に違いないと喜んだのです。

  下記はオスマン帝国が支配した歴史を持つバルカン半島に現存する国家とトルコ内のクルド人のY-DNA頻度リストです。つまり「南欧」地域です。これを見るとバルカン民族は大きく次の3種に分類されることがわかります。


1.ローマ帝国の子孫系と思われるラテン系Y-DNA「E1b1b1」が多い民族は、
   30%以上がギリシャ人とアルバニア人、
   20%がブルガリア人、セルビア人、マケドニア人

2.最も多いバルカン系遺伝子のY-DNA「I2」(ノルマン系はY-DNA「I1」)は、
   50%以上がヘルツェゴヴィナ人とボスニア人、
   30%以上がクロアチア人、セルビア人、ルーマニア人、マケドニア人とブルガリア人

3.メソポタミア農耕民系のY-DNA「J2」+アラブ系Y-DNA「J1」は、
   30%以上がトルコ人とクルド人、
   20%以上がアルーマニア人とアルバニア人です。

  その3種のY-DNAに2種の遺伝子が更に絡んでいるのもわかります。

4.スラヴ系遺伝子のY-DNA「R1a」は、
  30%弱がクロアチア人、
  20%弱がボスニア人

5.ケルト系遺伝子のY-DNA「R1b」は、
  20%以上がアルーマニア人、
  20%弱がトルコ人、クルド人とアルバニア人

  以上の5種のY-DNAが複雑に絡み合っているのがバルカン半島です。確かに民族毎に主要遺伝子がありますが、これにキリスト教、正教会とイスラム教などの宗教とそれぞれの言語が更に絡み合い訳がわからなくなっています。

かつてバルカン半島の大部分の国名だったユーゴスラヴィアは南スラヴ人の国と言う意味ですが、スラヴのY-DNA「R1a」は主要な遺伝子ではなく、チトーがソビエトに操られ机上で作った国家に過ぎなかったことが良くわかります。 解体は必然だったようです。あまりにも混沌としている地域なので深入りせずにY-DNA研究の結果のみを淡々とお届けします。

では、本題の、現代ギリシャはヨーロッパなのか?

  当ガラパゴス史観の経験とY-DNA調査の結果から判断すると、ギリシャはイタリア、スペイン、ポルトガルと一緒の南欧つまり地中海国家であって、北欧国家とは完全に別の地域国家なのです。

更にギリシャ人は長いオスマン帝国の徹底同化政策で南欧の中でもトルコ人と非常に似ておりペロポネソス半島とアナトリアはほぼ一体で考えられてきたのです。

  地中海国家とは、北アフリカも含めた地中海南岸と北岸のことです。現在の地中海南岸はサラセン帝国と後継アラブ国家とオスマン帝国によって完全にイスラム圏とY-DNA「J1」アラブの国家群に変貌してしまいましたが、 本来はY-DNA「E1b1b1」のラテン系地域だったのです。

現在でもアフリカ北岸のアラブ諸国のラテン度はかなり高く、特に砂漠の民ベルベル人、特にトゥアレグ族はY-DNA「E1b1b1」が主体の基本ラテン系民族で、 ローマ帝国に対抗した古代チュニジアなどアフリカ北岸を形成した古代民族遺伝子集団の末裔の一つと思われます。

  Y-DNA「J1」アラブ遺伝子集団が来なければ、オスマン帝国が来なければ、 アフリカ北岸はY-DNA「E1b1b1」ベルベル人主体の地中海民族集団として西欧列強の植民地になり戦後独立し、結局今と同じような地図上の国境線引きでベルベル人国家が出来ていたでしょう。

  一方北欧は本来のヨーロッパ国家群でケルト・ゲルマン系とスラヴ系及びノルマン系の遺伝子が混じり合い民族エネルギーを高めてきた国家群なのですが、長い間南欧ローマ帝国から見ると辺境の野蛮人集団に過ぎなかったのです。

つまり、北欧諸国は文明の先進地域だった南欧に対し、決定的なコンプレックスを持っているのです。ギリシャ文明もローマ文明もルネッサンスも全てギリシャとイタリアから。 だからオスマン帝国に埋もれていたギリシャ文明の末裔を探し出したのです。


  だからギリシャの踏み倒しの脅しにも関わらず更に支援を考えています。ギリシャもその北欧のコンプレックスを良く理解しているので、足元を見て平気で踏み倒しができるのです。

この民族の心の動きが下記の朝日新聞の記事で明瞭に理解できます。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/1-14.htm  




1-14. ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/1-14.htm

  集めたY-DNAデータの中から地中海周辺とバルカン半島、旧オスマン帝国領土に絞りまとめて見ました。先ずはインターネットから借用した地中海周辺の地図を頭に叩き込んで下さい。そのあとでY-DNA頻度データを見て下さい。 地中海の北岸と南岸に限り、東岸の近東諸国のデータは省きました。


結果をまとめて見ました。


1.ギリシャ

  予想通りラテン系Y-DNA「E1b1b1」が主要で、次いでメソポタミア農耕民系Y-DNA「J2」やアナトリア系Y-DNA「R1b」やスラブ系Y-DNA「R1a」、クロマニヨン系Y-DNA「I」等が続いています。

  またY-DNA「J2」と共にメソポタミア農耕を興したらしいY-DNA「G」もある程度残っています。 このアナトリア系のY-DNA「R1b」はロシアのバシキ―ル人がほぼ純系で、恐らくアフリカのチャド系Y-DNA「R1b」も同系ではないかと推測しています。


2.トルコ

  最も多いのはメソポタミア農耕民系のY-DNA「J2」です。

テュルク民族のオリジナル遺伝子と思われるY-DNA「N」(ヤクート人の遺伝子)が、西に民族移動を進める過程でイスラム化すると同時に各地の遺伝子を取り込み 最後に到達したアナトリアで東ローマ帝国を形成していた先住民のY-DNA「J2」と「R1b」と「 I 」、更にラテン系の「E1b1b1」を取り込み成立したのがセルジュクトルコと後継のオスマントルコなのでしょう。

調査の対象によって出現頻度がかなり異なることがわかります。現代トルコ人は均質ではなく調査対象の選び方でかなり変わるか、地域差がかなりあるのでしょう

  またオスマン帝国時代にアフリカ北岸も領土にしたため、アフリカ系Y-DNA「A」や東ユーラシア時代に取り込んだと思われるY-DNA「C」(タタール系でしょう)も現存しています。

3.バルカン諸国家

  アルバニア人だけがラテン系遺伝子を強く残していますが、他は見事にバルカン系遺伝子のY-DNA「 I2」が主要遺伝子となっており、旧ユーゴースラヴィアの国名にもなったスラヴ系Y-DNA「R1a」が続きます。

  どうやらアルバニア人だけが極めて特徴的な遺伝子構成のようです。他の諸国は遺伝子構成は現代では基本的に似通っているのですが、宗教と言語の違いが極めて厳しく、紛争地帯の最大の要因のようです。


4.バルカン周辺諸国家(旧オスマン帝国の影響があった諸国)

  バルカン系遺伝子Y-DNA「 I2」とスラヴ系遺伝子Y-DNNA「R1a」が核の民族群のようです。

5.イタリア

  ここではイタリア北部の遺伝子調査結果は出てきません、キチンと系統的に調査されたデータは意外にないのです。

  研究者の注目はやはりイタリアらしいラテンの色彩の強い地中海ど真ん中のイタリア靴のつま先最南端部のカラブリア州や島々のようです。

Y-DNA「E1b1b1」が核のシシリー島とバイキングY-DNA「 I1」が核のサルディニア島の違いがはっきりとわかります。恐らく島民の気質も大きく違うのでしょう。

特に不思議なのはマルケ方言を話すイタリア中央部のMarchigiano方言民の人々で、非常に希少なY-DNA「T」がほぼ100%なのです。 勿論ジェファーソン元アメリカ大統領(Y-DNA「T」)の出身地なのでしょう。このようにイタリア半島部と島々は遺伝子的にかなり面白い国なのです。

6.フランス・プロバンス地域

  フランスの地中海沿岸部のため、もう少しラテン系遺伝子の割合が多いのかと推測をしていましたが、ケルト系Y-DNA「R1b」が60%近くを占める典型的な北欧系地域でした。 恐らくイタリア北部も同じような傾向ではないかと推測できます。

つまりヨーロッパ大陸部は北欧で、バルカン半島やイタリア半島、イベリア半島のような地中海に飛び出した地域と島々のみが南欧 つまり地中海地域なのでしょう。もう少しイタリア研究論文の調査を進めて見ます。

7.スペイン

  スペインは各地方がスペインからの分離独立を声高に叫ぶような不思議な国家なのです。スペインを統一したのはカスティーリャ王国ですが、現代にいたっても国家への帰属意識は意外に低いのだそうです。 それぞれの州が好き勝手に叫んでいるようなのです。

実は予想に反してラテン度は低くケルト度が高いのです。スペインのY-DNA「R1b」はラテン気質をみてもゲルマン系ではなくケルト系に近いと思われます。


  バスク人はイギリスのケルト系と並ぶほぼ純系のケルト系遺伝子集団です。

  ガリシア州はスペインの中で最もラテン系遺伝子が多い州。

  アラゴン州はバルカン系遺伝子が最も高い州。

  独立の声が最も大きいカタルーニャ州はバスクの次にケルト度が高い州です。

  ポルトガルは独立していますが、遺伝子的にはイベリア半島民の一部です。

8.ベルベル人

  アフリカ北岸一帯に分布するベルベル人は見事にラテン系遺伝子Y-DNA「E1b1b1」の民族です。

アフリカ北岸はカルタゴやハンニバル将軍などの歴史があり、恐らく古代ローマ時代は当時の文明の先端に位置していたと思われます。 特にトゥアレグ族はほぼ純粋なY-DNA「E1b1」遺伝子集団です。

9.アラブ人

  サラセン帝国など、アラブY-DNA「J1」の拡大でアフリカ北岸はアラブ一色に染まりY-DNA「E1b1b1」はひっそりとわき役に落とされました。 しかし遺伝子調査は極めて明快に今でもY-DNA「E1b1b1」が民衆の遺伝子の核であることを示しています。

つまりアラブの文化を取り入れイスラム教に改宗した集団はイスラム・アラブ人の一員となり改宗せずに独自の信仰を守った集団はベルベル人として非定住・遊牧の生活を選んだものと思われます。

  これは中国で中華文明に取り込まれた異遺伝子集団は漢民族に取り込まれ、そうでない集団は辺境の少数民族化したのと同じような様相です。

  ベドウィン人はアフリカ北岸のアラブ人の中でも古いアラビア語を話す集団らしいですが、ラテン度はほとんどなくアフリカの主要遺伝子の一つであるY-DNA「E1a」を多く含み、 恐らく交易を通してだろうと推測できますが、むかなり特殊な交配を行ってきた民族集団のようです。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c15

[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
16. 中川隆[-14852] koaQ7Jey 2019年11月18日 00:06:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1940]

2013年3月3日 トルコ系民族考
現在中央アジアの歴史に関して興味を覚えておりその中で重要な要素となるトルコ系民族に関する現時点での見解をまとめておく必要があり記事にした。


 語族とは、言語学上同一の起源(祖語)から派生・発達したと認められる言語群の集まりを言います。かつてインドヨーロッパ語族、ウラルアルタイ語族、セム語族を世界三大語族と呼んだそうですがその後研究が進み見直しをされています。


 本記事で取り上げるウラルアルタイ語族に関しても、ウラル語族とアルタイ諸語の関連性が否定され別々に扱われているそうです。

 アルタイ語族も大きく三つに分類されます。トルコ諸語、モンゴル諸語、ツングース諸語です。これを民族として分ける見方もありますが東洋史家宮脇淳子先生によると言語と人種の分類はあいまいで、遊牧民族の特性として優れた一族に雑多の民族が結集して一つの集団をつくるのですべてが同じ民族集団とは一概には言えないそうなのです。宮脇先生の言では、極論するとトルコ諸語、モンゴル諸語といっても方言のようなものだそうです(苦笑)。


 という事で、トルコ系民族といってもトルコ諸語を話すふんわりとした民族集団、一応ルーツはモンゴロイドではあるが西へ行くにつれコーカソイド(白人種)との混血が進んでいると思って下さい。

 アジアではアルタイ語族、セム語族の他にシナチベット語族(支那、チベット、ビルマ)やオーストロアジア語族(ベトナム、クメール)、タイ・カダイ語族(タイ、ラオス)などもあります。特にシナチベット語族など支那だけで13億いますから相当な数です。


 さてトルコ系民族ですが、学問上はトルコ共和国と区別するためチュルク系民族と表記する場合が多いです。しかし私は突厥(とっくつ、とっけつ)や鉄勒(てつろく)などトルコ系民族を漢字表記した支那人の言語感覚に倣ってあえてトルコ系民族と呼びます。


 トルコ系民族の発祥の地はどこなのでしょうか?これにはいろいろな説がありますが同じアルタイ語族に属するモンゴル系、ツングース系民族の発祥の地を同時に考えなければ解決しないと思っています。


 古代支那の史書では、トルコ系、モンゴル系、ツングース系民族を総称して北狄という蔑称をもって呼んでいました。中でモンゴル系とツングース系は東胡と総称していたような気がします。これには資料的な裏付けがなくあくまで私の個人的な見解ですが…。


 というのもモンゴル系民族の代表である鮮卑族(北魏や隋、唐を建てた)のルーツが東胡にあるとされるのです。東胡はトルコ系と目される匈奴に攻撃され一時滅ぼされます。その生き残りのうち烏丸山に逃れたのが烏丸、鮮卑山に逃れたのが鮮卑と呼ばれるようになったと言われています。


 このうち烏丸は長城線からほど近い熱河のあたりだと分かっていますが、鮮卑の場所が分かりません。おそらく興安嶺山脈の西麓当たりではなかったかと想像しています。


 私はこの事からモンゴル系民族のルーツは興安嶺山脈西麓からモンゴル高原東部にかけてだったのではないかと考えます。一方、ツングース系民族は旧満州のうち興安嶺の東側から日本海にかけての地域。というのは遊牧に適した興安嶺からモンゴル高原までと違って、公安嶺の東側は森林が多く狩猟民族であったツングース民族に都合のよい地形だったのです。というより地勢によって民族の生態が決まったと言っても良いでしょう。


 ここでようやくトルコ系民族の考察に入るのですが、消去法からトルコ系民族のルーツはモンゴル高原西部にあったのではないかと推定されます。そして突厥の発祥の地を考えてバイカル湖周辺もそれに含めて良いでしょう。さらに匈奴がトルコ系民族だったと推定するなら河北省の北辺から西の内モンゴル地区も有力候補地になります。


 実は、トルコ系民族は支那本土に入り込んでいたという説があります。というのは史書で登場する狄がトルコ系民族ではなかったか?と言われているんです。赤狄、白狄が匈奴に発展したという説です。


 東胡モンゴル系民族説を取れば必然的にそうなりますね。一方、陝西省甘粛省以西にはインドヨーロッパ語族(アーリア人)と推定される月氏がいました。古代世界では印欧語族の広がりは世界的規模だったと言われます。楼蘭王国の遺跡で見つかった若い女性のミイラも明らかにコーカソイドの特徴を持っていたそうですし。


 古代においてはトルコ系民族はバイカル湖周辺からモンゴル高原の西半分、支那のオルドス地域(黄河の湾曲部内部)、河北に渡って存在していたと考えます。

 そのうち、支那本土では漢民族の数が増えたため追い出されモンゴル高原に本拠を移したのでしょう。これが匈奴です。匈奴は強大化し漢帝国を脅かす勢力になります。


 次に台頭してきたのは丁零です。「ていれい」という名前からトルコの漢字表記だと思われます。丁零はバイカル湖周辺から発祥したと言われ、匈奴の勢力が漢の攻撃や内紛で衰えた後勢力をのばします。しかし間もなくモンゴル系の鮮卑がモンゴル高原に進出し丁零を降したそうですから、この時以来モンゴル高原という呼び名は確定したのでしょう。


 モンゴル高原がモンゴル族の支配下となったあとトルコ系民族は西遷します。これが高車です。鮮卑が支那本土への侵攻に力を注いだため一時空白になったモンゴル高原を奪い返す事もあったそうですが間もなくモンゴル系の柔然が強大化したため再びこれに服属しました。


 東アジアはモンゴル系の鮮卑が建てた北魏と柔然の南北朝時代に突入します。鮮卑は支那本国の南北朝とモンゴル系民族における南北朝を同時に戦っていたのですから面白いですね。


 柔然は、555年支配下民族で製鉄奴隷として酷使していた突厥に独立され滅亡します。突厥もトルコの漢訳です。この突厥がトルコ系民族全盛時代でした。


 突厥は東では支那の北朝、隋唐と抗争し西では一時中央アジアで猛威をふるったエフタルを滅ぼしササン朝ペルシャを圧迫します。


 この突厥も東西に分裂した後、東突厥はモンゴル高原に興った同じトルコ系のウイグルに滅ぼされます。ウイグルは唐朝とは友好関係を保ってシルクロード交易で繁栄しました。西突厥も内紛分裂を繰り返した後一部はウイグルに服属しました。


 トルキスタンと呼ばれる地域はこのころトルコ系民族が定着して以降の呼び名でしょう。


 ちょうどそのころ西アジアではイスラム教が台頭していました。トルコ系民族でもイスラム教に改宗する者たちが出始めカラハン朝(9世紀中ごろ〜1211年)が成立します。


 トルコ人の中には、軍人奴隷としてイスラム諸国に仕える者たちが出現しそのなかで権力を握った者たちはインドの奴隷王朝やエジプトのマムルーク朝のように自分たちの王朝を建てる者たちもいました。


 トルコ民族の西遷で一番の大きな流れはセルジューク朝(1038年〜1157年)の成立でしょう。セルジューク朝の時代にトルコ人たちは現在のアナトリア半島(小アジア)まで達します。この中からオスマントルコ(1299年〜1922年)が登場し現在に至るのです。
http://houzankai.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-ee44.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c16

[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
17. 中川隆[-14851] koaQ7Jey 2019年11月18日 00:09:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1939]

トルコ人とギリシャ人、ブルガリア人は医学的にほとんど同一人種

1-13. 中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか? rev.2
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/

ギリシャは長い間オスマントルコ帝国の支配下(約400年)にあり、その間徹底したオスマン帝国の混血政策で、現在のトルコ共和国のトルコ人(中央アジアのトルコ民族も基は一緒だが)と現在のギリシャ人は医学的にはほとんど同じ人種である。

異なるのは宗教と言葉と長い歴史とそれに基づく文化である)。
それが民族間のとくに征服されたギリシャ側のトルコに対する憎悪を際立たせている。


超短縮トルコ教養講座(2002年4月)

トルコ語はウラルアルタイ語族で日本語も一族、と言われている。日本語と朝鮮語はウラルアルタイ語族とは違うという学者もおり、学説はまだ完全には確立していない。トルコ人の発祥は古く中央アジアも中国よりのあたりと言われている。今ではトルキスタンと言われている地域だ。中央アジアの共通語は今でもトルコ語だ。 トルコ語人口は共和国を入れて約7000万人が話している。トルコ語だけでアジアを横断できると言われているくらいの広域言語だ。

  トルコはその後セルジュクトルコやオスマントルコとして発展しながら、アジアからすこしづつヨーロッパに移動をしていった。その間にイスラム教に改宗した。またその間に移動した先々で混血をしたため、本籍のモンゴロイド系に、イラン系、アラビア系が加わり、世界最大のオスマン帝国時代にアフリカ系やヨーロッパ人の血を入れた。 特にギリシャ人、ブルガリア人との混血はすごかった。共和国トルコ人とギリシャ人、ブルガリア人は医学的にほとんど同一人種と言われている。言語と文化と住む地域と歴史が違うため、区別ができるのだ。

    一方、共産ロシア時代にタタール人が黒海のクリミア半島からシベリアに強制移住されたことは有名だ。共和国にもタタール人はかなり移住してきている。彼らは混血が進む前のオリジナル・トルコ人の形態を強く残していると言われている。従って典型的モンゴロイド系の顔をしている。つまり日本人とも似た顔立ちだ

  小生の知り合いだった研究者はブルガリア人とのハーフだった。代理店の営業マンは典型的アラブ系だった。友達は典型的ギリシャ彫刻の顔をしていた。

  彫りの深かった会社の日本人同僚は、トルコ人に違いない、と言われた。夏に日焼けしていた小生はパキスタン人か、と言われた、何で!。

 トルコでどちらかというとアジア系の顔をしているのはタタール系だ。

ロシアの隔離政策で沿海州から黒海北部のクリミア半島に強制移住させられたタタール居住区がある。そこからの移住者だ。

共和国トルコ人は中東系にちかい。 しかし数百年もの間世界最大を誇ったオスマン帝国は多種多様な人種を抱えていたので様々な顔のトルコ人がいる。ハンガリーやオーストリーも支配下だったので白人そっくりな人も多い。 アラビア系も多い(アラビアのロレンスはアラビアを支配下においていたオスマン帝国末期の欧米列強による帝国解体時の実話である)。

中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか?

  共和国トルコ語を話せると中央アジアはほぼ通訳なしで旅行が出来ると言われており、かつてはシルクロード/中央アジアのことをトルキスタンと呼んだこともあったほどです。

  中国正史に出てくる四夷の北狄がテュルクの最初の記述と言われているようです。その後の丁零や高車は当ガラパゴス史観の若い頃40年前ぐらいには既にテュルクではないかと言われていました。

  そして明らかにテュルクと確認されたのが6世紀の突厥と鉄勒です。特に突厥はテュルク語・突厥文字で書かれた碑文でテュルクに間違いない証明されました。テュルクは6世紀には漢民族に対抗する大国を打ち建てるほどの力を持ったのです。

  欧米では例えば、

Y-DNA「R1a」はスラブ系、
「R1b」はケルト系、
「I1」はノルマン系、
「I2」はバルカン系、
「E1b1b」はラテン系、
「J1」はメソポタミア農耕民系

等、民族と遺伝子がかなり密接に結び付いています。


  極東でも

Y-DNA「O1」/「O2」は長江文明系、
「O3」は黄河文明系、
「D1」はチベット系、
「D2」は縄文系、
「O2b」/「O2b1」は弥生系

など、やはり文化・民族と結びついています。

  では中央アジアの標準語であるテュルク語系民族は結びつく典型的な遺伝子が果たしてあるのでしょうか?今回調査をしてみました。

  実は当ガラパゴス史観がまだ20代の会社研究員だった頃、会社で初めてのイスラム圏の駐在員としてイスタンブ―ル大学に客員研究員として出向しました。トルコ人は日本人に対し特に親近感が強く(何と言ってもトルコと敵対していたロシアのバルチック艦隊を破り、   一方和歌山沖で難破したエルトゥール号乗員の救出などで)、当ガラパゴス史観も親しくしてもらったことと、もともとアジア系であったトルコ人には親近感があったことで、不自由のない駐在員生活を送ることが出来ました。   イスタンブールには駐在員の家族を入れても20人程度の日本人しかいなかった時代でした。

  と言う訳で、もともとテュルクにはかなり興味があるのですが、遺伝子的には良くわからない存在でした。そこでこれまで集めた海外論文を引っくり返し、テュルク語の4群分類に従って、Y-DNAデータを並べて見ました。   それなりに面白いデータになりましたので報告します。

  a) Siberian Turkic (Northeast) :
    主要遺伝子は、北部がY-DNA「N1c1」、南部がY-DNA「R1a」にはっきりと分かれます。
    恐らく最も古いテュルク語系と思われます。特にヤクート人はほぼ純系のY-DNA「N」
    遺伝子民族です。


  b) Karluk Turkic (Southeast)  :
    Y-DNA「N1c1」は少数派になり、Y-DNA「R1a」がやや優勢だが、遺伝子交配が進み
    ユーラシアの遺伝子がほとんど網羅されている。

  c) Kipchak Turkic (Northwest)  :
    東部のカザフはY-DNA「C3c」が主要遺伝子でモンゴル帝国の影響がくっきりと
    残っている。西部は明らかにY-DNA「R1a」が優勢。

  d) Oghuz Turkic (Southwest)   :
    テュルク代表のトルコ共和国が属するが、Y-DNA「J2」が優勢となる。


  e) 例外             :
    Bashkirはケルトやバスクと同じくY-DNA「R1b」が主要遺伝子。

  以上で、テュルク語群の典型遺伝子は存在しないが、居住する地域によって上記4タイプのY-DNAが主要もしくは優勢で、テュルクが西に進むに従い交配してきた遺伝子がはっきりと読み取れます。

  現在のY-DNA分布と中国正史に登場する殷周時代の四夷の位置取りを見ると


 ●北狄や続く丁零、高車、突厥など一群の草創期のテュルク系は恐らくY-DNA「N1c1」
    だろうと考えられますが、


  ・東夷の夷が弓を持つと言う意味ならY-DNA「C3c」騎馬民のモンゴル系・ツングース系
     しかいないはずですが、従順な集団だったらしいということになると
     該当は?です。

  ・西戎はY-DNA「D1」のチベット系しか候補はいないはずですが、Y-DNA「D」は、
     アンダマン諸島のY-DNA「D*」を見ると侵入者は皆殺しにするが、自ら侵略は
     しない穏やかな遺伝子族のはずなので、侵略・略奪を繰り返していたとなると
     むしろ当時既にY-DNA「O3」が交配して牛耳っていた可能性が高いです。
     もしくはY-DNA「R1a」/「R1b」に分化する前の「R1」か分化直後の「R1a」の
     可能性も考えられます。


  ・南蛮は?、現在も居住している長江文明の子孫のY-DNA「O2a」でしょう。

 


●テュルクが中央アジアに移動したときに、Y-DNA「R1」から分化したインド・アーリアン
    「R1a」と密に交配し新たな遺伝子構成に変化し、
 

●モンゴル帝国/キプチャク汗国のもとで征服者のジンギスカン遺伝子Y-DNA「C3c」が
    主要の集団に変化し、
 

●チムール帝国、セルジュクトルコ帝国、オスマントルコ帝国と西進するに従い、メソポタミア
    の農耕民遺伝子集団Y-DNA「J2」を取り込み農耕民化したようです。
    その際に既にアナトリアに居住していた、Y-DNA「R1b」も取り込んだようです。
    しかしBashkirの「R1b」の起源はまだ?です。

  しかし大きな謎は、テュルクと交配した集団は何故テュルク語を採用したのだろうか?と言う点です。   ブルガリアのBulgar人はもともとテュルク系の集団でしたが、「R1a」に取り込まれスラブ化してしまいました。   オスマントルコ帝国の征服時に再度テュルク化する機会はあったのですが、スラブを維持したようです。

  他の集団もスラブ化、モンゴル化、イラン化やアラブ化しても不思議ではなかったはずです。   最も合理的な推測では、イスラム教を取り込んだことがテュルク語を守ったことになったのではないかと考えられます。   トルキスタン=イスラム教と言うのが現代の状況なのです。   コーランの経典教育の共通言語としてテュルク語を採用した?と密接な関係があると考えるのが妥当でしょう。


  それでも何故アラビア語ではなかったのでしょうか?

テュルクの遺伝子構成にアラブのセム系Y-DNA「J1」が   極めて少ないことが結果として経典の単語はアラビア語でも教育システムとしてアラビア語と近縁にならなかったからかもしれません。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/  


▲△▽▼


10-5. Y-DNA「N」   ウラル度(シベリア度)調査 Rev.4
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/

  Eupediaには今までY-DNA「N」の詳細が無かったのですが、やっと詳細説明が記載されたので翻訳転載します。

  Y-DNA「N」はユーラシア大陸を10000〜12000年前頃に東から西へ横断大移動を行った遺伝子のようですが、有史前の出来ごとになると該当する民族移動を探すのは難しいようですね。

  欧米の王朝先祖調査FTDNAプロジェクトによると、ロシアのリューリク王朝のウラジミールU世(1053-1125)はY-DNA「N1c1」だったらしいく、従兄弟のOlegT世はY-DNA「R1a1a」だったらしい。しかもこのリューリックのY-DNA「N1c1」(変異:DYS390=23)子亜型は現在ロシアのウラル語族内ではなくスカンジナヴィアで見つかるそうだ。歴史はなかなか複雑でまさしく小説より奇なりのようだ。

  以下、Eupediaの記事の翻訳です。

  Y-DNA「N1c」は、主として東ヨーロッパの北部、特にフィンランド(61%)、ラップランド(53%)、エストニア(34%)、ラトビア(38%)、リトアニア(42%)および北ロシア(30%)で高頻度に分布し、さらにロシア中央部(15%)、ベラルーシ(10%)、東ウクライナ(9%)、スウェーデン(7%)、ポーランド(4%)およびトルコ(4%)でも低い頻度で見つかります。

  Y-DNA「N1c」はヴォルガ-ウラル地域のウドムルト人(67%)、Komi人(51%)、マリ人(50%)およびモルドヴァ人(20%)を含むウラル語族の集団で顕著にみられるが、隣人のテュルク語族のチュバシ人(28%)、ヴォルガ・タタール人(21%)およびバシキール人(17%)でも顕著で、同様に南ロシアのノガイ人(9%)にも見られる。

  ヨーロッパのY-DNA「N1c」は、Y-DNA「N」のユーラシア西端の到達範囲を表わしていますが、全極東(中国、朝鮮、日本)、モンゴルおよびシベリア(特にウラル語を話す北シベリア住民の間で)の至る所で見つかります。

  Y-DNA「N1c」は、中央シベリア北部の2つのウラル語族、ネネツ(Nenet)族とガナサン(Nganasan)族で最大頻度の95%近くに達します。また中央シベリア東部のサハ(Sakha)共和国(Yakutia)に主に居住するテュルク語族のヤクート族では90%になります。

  ヨーロッパのY-DNA「N1c」の分布


  Y-DNA「N」は東アジアのY-DNA「NO」の子孫です。

  それは、およそ15,000〜20,000年前にインドシナか中国南部で始まったと考えられます。

  Y-DNA「N1*」およびY-DNA「N1c」は両者とも、中国北東部の西遼河の渓谷の新石器時代〜青銅器時代(4500-700 BCE)の遺跡から37%(70サンプル中26サンプル)の高頻度で見つかります(Yinqiu et al. 2013)。

  新石器時代のサンプルの中でも、Y-DNA「N1」が紅山(Hongshan)文化(4700-2900 BCE)と小河沿(Xiaoheyan)文化(3000-2200 BCE)から得られたサンプルの3分の2の頻度を占めると言うことは、Y-DNA「N1」集団は中国北東部および恐らくモンゴルとシベリアでも新石器時代のライフスタイルの拡散に主な役割を果たしてきたと推測できます。

  =========================================

 ㊟ガラパゴス史観註

  最近の古代中国史では中国4大古代文明は、長江文明、黄河文明、遼河文明および四川文明ですが、それぞれ主役のY-DNA亜型は異なり、

   ・長江文明はY-DNA「O1」と「O2」が主役、
   ・黄河文明はY-DNA「O3」、
   ・四川文明はY-DNA「D1」と考えられる、縄文人の中心の「D2」の兄弟亜型、
   ・遼河文明はY-DNA「N1」が主役と考えられます。

  Y-DNA「N」とY-DNA「O」はY-DNA「NO」から分化し、「O」は長江と黄河流域で発展したのに対し「N」は遼河流域で発展し結果的でしょうが棲み分けしていたようです。「D」は中国大陸/中原の最初の民族のはずでしたが「O」、特に「O3」に追われ「O3」が好まない標高の高い高原部に逃げ込み後の羌族やチベット族を形成したようです。

  ところが一大古代文明を築いたはずのY-DNA「N1」も結局、恐らく「O3」によって遼河からシベリアに追われ古住シベリア民としてひっそりと生きることになったようです。

  残った「O1」,「O2」も大部分は「O3」集団に取り込まれ長江文明系黄河遺伝子集団に変質し漢民族化したのですが、同化を拒んだ集団のうち、「O1」(恐らく楚民)は海南島や台湾経由で東シナ海や南シナ海に逃げ諸島の先住民化し今に至っています。

  「O2」の中で「O2a」(恐らく越民)は南に逃げ今日のヴェトナムや東南アジア民となり、更に西に進みインド亜大陸でモンゴル系先住民となり更に南下してドラヴィダ民族の中で水田稲作農耕民として生き残り、特にタミール人に水田稲作農耕文化の語彙を多く残し、大野教授が日本語のタミール語起源説を発表したのは有名である。

  一方北に向かった「O2b」(恐らく呉民)は満州辺りで「O2a」から「O2b」に分化し、水田稲作の適地を求めて南下し韓半島南部で稲作を発展させ現在でも韓国民の30%以上のY-DNA頻度をもたらすほど定着している(これが韓国南部が日本と極めて近い理由の大きな部分)。

  ところが「O2b」は更に水田稲作適地を求めて対馬海峡を南下し恐らくボートピープルのように小集団で繰り返し日本列島に移住したものと考えられ、先住民のY-DNA「D2」縄文人に恐らく敵対せず入り込み交配を重ね「O2b1」に分化し、水田稲作農耕文化を日本列島に定着させたものと考えられます。「D2」系縄文人の強い敵対がなかったため青森まで稲作が早いスピードで北上できたものと考えられます。

  「O2b」が長江文明系の呉民出自であったため後の漢字の導入に際し受け入れに抵抗がなく、導入時に「O3」の大和朝廷族が採用した唐音に加え「O2b」の持っていた呉音が日本語に残る結果になったものと思われます。

  日本列島へのY-DNA「N1c」や「NO」、「Q1」などの移動は恐らく、朝鮮半島の中華王朝の出先機関で生き残り抗争に負けて追い出された武装侵略者「O3」集団の大和朝廷族や物部などの他の天孫族や武士団族の配下や郎党として渡ってきたのでしょう。ただし縄文晩期に見つかる陸稲農耕は漢民族が形成される前の古い「O3」が持ち込んだと考えるのが合理的ですが(「O3」で最も古い「O3*」が日本人に見つかる)、その際に「NO」,「N1」や「Q1」が渡来した可能性もあります。
  =========================================

  ヨーロッパで見つけられるY-DNA「N1c1」子亜型は、12,000年前に南シベリアを横断し、10,000年前にヨーロッパ北東部に拡散したと考えられます。

  それはクンダ(Kunda)文化(8000-5000 BCE)および後の櫛目文土器(Comb Ceramic)文化(4200-2000 BCE)に関係し、フィン人やプレ-バルト人へ発展しました。

  インドヨーロッパ語族の縄目文土器(Corded Ware)文化(3200-1800 BCE)は、紀元前2,500年前頃からバルト海沿岸地域およびフィンランド南部に進出してきました。

  2つの文化の混合はハイブリッドKiukainen文化(2300-1500 BCE)を生じさせました。

  現代のバルト人は、ウラル語族とスラブ語族の文化の合併に起因する、Y-DNA「N1c1」とY-DNA「R1a」のほぼ等しい割合を持っています。

  低頻度のY-DNA「N1c1」は、すべてのスラブ語族やスカンジナビアの集団に見つかり、同様に北西部を除いたドイツの大部分でも見つかります。

  その起源は現時点ではまだ不確かですが、最も恐らくはロシア、ベラルーシおよびウクライナからドイツ東部に向かった鉄器時代及び中世早期のプロト-スラヴ種族の拡散によるものでしょう。

  スカンジナビア人のY-DNA「N1c1」は次の3つのオリジンの可能性があります。:

  1. 鉄器時代以来のスカンジナビア人/ドイツ人の集団による北部サーミ(Sami)人集団の進歩的な同化による。
  2. 最近の2000年の間に起ったドイツおよびポーランドからの移住。
  3. 特に8世紀間に渡るスウェーデンとフィンランドの政治的な結合の間でスカンジナビアの支配を受けた時、フィンランドおよびバルト海諸国との人口交換。

 ●ウラル語族のY-DNA「N1c1」

  Y-DNA「N1c1」はウラル語族に強く関係しており、代表的な言語系統図は下記のようになります(分類は諸説あり、それぞれ階層の詳細はやや異なるが、属する言語に違いはない)。

  サモエード語派(Nganasan語、Enets語、Nenet語およびSelkup語)。
    ガナサン(Nganasan)語
    エネツ(Enets)語(イェニセイ-サモエド)
    ネネツ(Nenets)語
    セルカップ(Selkup)語
  フィン・ウゴル語派
    Finno-Permic諸語
      バルト・フィン諸語
        フィンランド語
        カレリア語
        エストニア語など
      ペルム(Permic)諸語
        コミ(Komi)語
        ウドムルト語
      サーミ(Saamic)語
      ヴォルガ(Volgaic)諸語
        マリ(Mari)語
        モルドヴィン(Mordvin)語
    ウゴル諸語
      ハンガリー語
      Ob-ウゴル諸語
        ハンティ(Khanty)語
        マンシ(Mansi)語)

  北シベリアのサモエード語派で最も早く分離したのは子亜型のY-DNA「N1c1*」とY-DNA「N1c1a」に一致します。

  ペルム(Permic)諸語とヴォルガ(Volgaic)諸語の話し手は、Y-DNA「N1c1a1」(変異:L708)、Y-DNA「N1c1a1a」(変異:L1026)、Y-DNA「N1c1a1a1」(変異:VL29)、Y-DNA「N1c1a1a2a」(変異:Z1935)およびY-DNA「N1c2b」(変異:P43)を含む広く様々なY-DNA「N1c」の子亜型を持っています。

  バルト・フィン諸語は、Y-DNA「N1c1a1a1」(変異:VL29)がヴォルガ-ウラル地域からカレリア、フィンランドおよびエストニアへの移住時に分化したように見えます。

  VL29(Y-DNA「N1c1a1a1」)およびその子亜型もバルト・スラブ集団で見つかったY-DNA「N1c1」の子亜型群です、インド・ヨーロッパ語族の亜型Y-DNA「R1a」が吸収し後に中央・東ヨーロッパのあたりでY-DNA「N1c1」から分化したことを確認します。

  西シベリアのKhantyとMasiの言語と同様に、ハンガリー語を含むウゴル諸語はY-DNA「N1c1a1a2b」(変異:L1034)子亜型に相当します。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c17

[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
18. 中川隆[-14850] koaQ7Jey 2019年11月18日 00:23:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1938]

国家破綻の現実: 飢餓で苦しむギリシャの子供たち 2013 年 5 月 11 日


2010年に国家破綻状態となりECB/IMFから救済されたギリシャですが、今ギリシャの経済状況についてあまり知られていません。

ギリシャの失業率は27%(1930年の大恐慌のアメリカより悪い)で、ギリシャでは仕事が全くない状態となっています。仕事がなくなれば、収入がなくなり、そして貯蓄もなくなる。 お金がなくなれば食べるものもなくなる。

今悲しいことに、ギリシャでは失業して食料が買えず飢餓で苦しんでいる子供が急増しています。NY Timesの記事で、飢餓で苦しむギリシャ子供たちの『現実』が綴られています。


ギリシャにある小学校校長のニカス氏は子供の遊ぶ姿や笑顔、将来を夢を見てきた。
それが、最近では子供の姿が様変わりしてしまったという。

ゴミ箱から食べ物をあさる少年、
空腹でしゃがみこむ11歳、
友達から食べ物を盗む子供。

「彼らは家では何も食べていない」と校長先生はいう。

アテネ大学のリノス教授によると、2012年にはギリシャの小中学校生徒の10%が食料不足(空腹と栄養失調のリスク)があるといわれている。

「食料不足でいえば、ギリシャはアフリカの国のレベルまで落ちてしまった」という。

ある学校職員は生徒280名中少なくとも60名が食料不足となっていると指摘する学校もある。

ぺトラキス家では父が去年12月に解雇された。

フラットスクリーンのテレビにプレーステーションで遊ぶ子供がいる一般的な家庭だった。12月に解雇された父はその5ヶ月前から給与の支払いが停止。家賃の支払いもできず今年2月に貯蓄がなくなった。

父は新しい職を見つけることもできず、食料は不足になった。
父は食べることをやめて、体重は劇的に減った。

「去年の夏に仕事していたときは、あまったパンを捨てていた」父はいう。
「今では、どう生き残っていくかの戦いだ」と涙を流す。
http://uskeizai.com/article/357282064.html  

▲△▽▼



ギリシャ国民の集団大虐殺
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-87b7.html

2018年8月24日 マスコミに載らない海外記事

2018年8月21日 Paul Craig Roberts

 欧州連合や他の政治声明が、ギリシャ危機は終わったと発表し、ギリシャ国民集団大虐殺の政治とマスコミによる隠蔽が、昨日(8月20日)始まった。 それが意味するのは、ギリシャはもう終わりで、死んで、おしまいだということだ。ギリシャは限界まで搾取され、死骸が犬に投げ与えられたのだ。

 350,000人のギリシャ人、主に若い専門職の人々がギリシャから去った。出生率は、残った人口を支えるのに必要な率より遥かに低い。EUやIMFやギリシャ政府によってギリシャ国民に課された緊縮政策が、ギリシャ経済の25%もの縮小をもたらした。減少はアメリカ大恐慌にも等しいが、ギリシャでの結果は最悪だ。フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、社会保障法や、預金保険や公共事業計画など社会福祉の他の手段で、大量失業の影響を緩和したが、ギリシャ政府は、IMFとEUの命令に従って社会福祉手段を剥奪し、大量失業の影響を悪化させた。

 伝統的に、腐敗、誤った運営、不運、予想できない出来事なりのいずれかで、主権国家が、債務を返済できなくなった場合、その国の債権者たちは、債務を負った国が返済できる水準まで債務の帳簿価格を切り下げる。

 ギリシャの場合、状況が一転した。ジャン-クロード・トリシェ率いる欧州中央銀行と国際通貨基金が、ドイツやオランダやフランスやイタリアの銀行が保有しているギリシャ政府国債の利子と元金の全額を、ギリシャは支払わなければならないと裁定したのだ。

 一体どうして、こういうことが実現したのだろう?

 いずれも危機を悪化させた二つの理由が、現在のギリシャを、ほぼ十年前の危機の始めにそうであったより遙かに酷い立場におくことになったのだ。

 “危機”の始めなら、ギリシャ債務はギリシャ国内総生産129%で、債務金額の一部を切り下げることで、容易に解決できていたはずなのだ。現在、ギリシャ債務はGDPの180%だ。

 一体なぜだろう?

 債務者が一セントたりとも失わずに済ませるため、ギリシャの債権者に利子を支払うべく、ギリシャは更に融資を受けたのだ。売女経済マスコミが“緊急救済措置”と呼んだ追加融資はギリシャにとっての緊急救済措置ではなかった。ギリシャの債権者にとっての緊急救済措置だったのだ。

 緊急救済措置を期待して、ギリシャ債務のクレジット・デフォルト・スワップをアメリカの銀行が売っていたため、オバマ政権は、この緊急救済措置を奨励した。緊急救済措置が無ければ、アメリカの銀行は賭けに負け、ギリシャ国債のデフォールト保険を支払っていたはずなのだ。

 更にギリシャは、外国人への公共資産売却や、例えば、最低限の生活以下への年金引き下げや、病人が治療を受ける前に亡くなるほどになった実に劇的な医療引き下げなど、ギリシャの社会福祉削減を要求された。

 記憶が正しければ、中国はギリシャの港を買収した。ドイツは空港を買収した。様々なドイツやヨーロッパの企業がギリシャ各都市の水道会社を買収した。不動産投機家連中が、ギリシャの保護された島々を不動産開発のために購入した。

 このギリシャ公共財産略奪は、ギリシャが負っている債務を減らす方向には向かわない。あらたな融資と同様、利子の支払いに使われたのだ。

 かつてない膨大な債務はそのままだ。債務を負っているギリシャ国民同様、経済は、かつてないほど小さい。

 ギリシャ危機が終わったという宣言は、外国銀行の儲けのために、ギリシャ国民から搾り取れるものはもはや何もないという声明にすぎない。ギリシャは急速に沈没しつつある。港や空港や都市公益事業や強制的に民営化された他の公共財産にまつわる収入は今や外国人のものとなり、彼らがお金をギリシャから奪い取り、更にギリシャ経済を悪化させる。

 ギリシャ人は彼らの経済的な未来を奪われてしまっただけではない。彼らは主権も失ってしまったのだ。ギリシャは主権国家ではない。EUとIMFに支配されている。2013年の私の著書、The Failure of Laissez Faire Capitalism第III部、“The End of Sovereignty”で、これがいかにして行われたかを私はご説明した。

 ギリシャ国民はツィプラス政権に裏切られたのだ。ギリシャ国民には自分たちを国際銀行家連中に売り渡した政府に反乱し、暴力的に打倒するという選択肢があった。そうはせずに、ギリシャ国民は自らの破滅を受け入れ、何もしなかった。ギリシャ国民は本質的に集団自殺したのだ。

 2008年の世界金融危機は終わっていない。アメリカやEUやイギリスや日本の中央銀行による膨大な貨幣の創造によって、隠されているだけだ。貨幣の創造は実際の生産の成長を遙かにしのいでおり、“実際の条件”が維持可能なものを超えて、金融資産の価値を押し上げている。

 この危機が一体どういう展開になるかは、見ていなければわからない。欧米文明の崩壊という結果をもたらしかねない。食うか食われるかなのだろうか? ギリシャの後はイタリアやスペインやポルトガルやフランスやベルギーやオーストラリアやカナダで、最後は誰もいなくなるのだろうか?

 欧米世界丸ごと、自分たちの権益に役立つよう強力な既得権益経済集団が醸成するウソの中で暮らしている。オンラインのものを除き、自立したメディアはなく、そうした独立メディアは悪者扱いされ、アクセスできないようにされつつある。情報が管理されている世界に暮らしている人々は、自分たちに一体何が起きているのか全くわからずにいる。それで、彼らは自分の利益のためにある行動ができずにいるのだ。

 Paul Craig Robertsは元経済政策担当の財務次官補で、ウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者。ビジネス・ウィーク、スクリプス・ハワード・ニューズ・サービスとクリエーターズ・シンジケートの元コラムニスト。彼は多数の大学で教えた。彼のインターネット・コラムは世界中の支持者が読んでいる。彼 の新刊、The Failure of Laissez Faire Capitalism and Economic Dissolution of the West、HOW AMERICA WAS LOST、The Neoconservative Threat to World Orderが購入可能。

記事原文のurl:https://www.paulcraigroberts.org/2018/08/21/genocide-of-the-greek-nation/


▲△▽▼


2015•07•02
ギリシャ危機の原因はドイツ


ここ最近、またギリシャ危機が騒がれ始めました。

私のブログのアクセス解析でも、【ギリシャ人 働かない】なんて検索ワードで訪れてくださる方がチラホラと。

しかし、前にも投稿で書いたことが有るのですが、今回のギリシャ危機の主な要因は、ドイツに代表されるEU内の先進国です。

ユーロという枠組みは、通貨を統合して政治的には統合しないという不思議な枠組み。
このシステムで一番得をしたのが、ドイツです。

そもそもドイツは、国際競争力の高い高級車等が主力商品の工業国。
売っている商品のジャンルこそ違えど、日本と同じ様な貿易黒字国です。
貿易黒字国の宿命として存在するのが、通貨高。
通貨高になってしまうと、優れた商品を作っても他国から見れば割高な商品となってしまう為、競争力は失われてしまう。

ではどうすれば良いのかといえば、そもそも通貨が変動しなければ良い。
ユーロという枠組みを作って、ヨーロッパ圏内の通貨を統一してしまえば、通貨変動によって競争力が変化しない。
よって、ドイツがどれだけ黒字を出そうが、ヨーロッパという市場では競争力が変化しない事になる。

またこの枠組みを作ることで、ドイツにとってもうひとつ有利な点が生まれる。
それは、通貨安。
ドイツが貿易黒字を出すと、通貨高の要因になるのは先ほど書きました。
では、ユーロという枠組みを作り、貿易赤字を垂れ流している国を引き込めばどうなるでしょうか。
赤字と黒字がユーロ経済圏内で相殺し合い、上手く行けば通貨安に誘導できる。

ユーロという通貨が安くなれば、世界市場で販売しているドイツ車の国際競争力は更に増し、ドイツ経済にとって良い影響を与える。
つまりユーロという枠組みは、ドイツのような貿易黒字国にとっては良いことづくめと言える。


しかし、経済だけを統一して国を統一しないと、問題が起こってきます。
それは、一部の都市のみが発展し、地方が衰退してしまうという現象です。

ヨーロッパという地域で考えると、イマイチ『ピンッ!』と来ないという方は、日本という枠組みで考えれば分かりやすいでしょう。
日本も、東京一極集中で、地方が衰退しています。
しかし日本の地方は、むかし夕張等で破綻が起こりましたが、それ以外は比較的安定しています。
何故かと言うと、国が地域差を是正する為に再分配を行っているからです。
具体的には、東京で稼いだ税金を吸い上げて、地方交付税という形で再分配をする。

もし、この日本の中で東京が
『地方は怠け者で働かないから発展してないだけだ。
何故自分達の税金が、関係のない地方に配られるんだ!
東京で稼いだ税収は東京のためだけに使うべき!』

と言い出したらどうでしょうか。
東京都地方の格差は、更に拡大することになります。


潤沢な資金が有る東京は、有り余る資金で最新設備を設けた大学などを何個も創ることが出来ます。
そうなれば、日本中の優秀な若者は、地方から東京に移住することになります。
東京という地域には人が流入し、経済的にも更に発展。
更に増額した税収で、住民サービスは良くなります。
すると、地方の引っ越しが出来る程の財力が有る人達は、発展していて住民サービスも良い東京に移住した方が得になるので、また、住民の移動が起こってしまう。

結果として、経済的・学力的に東京の大学に行けない若者と、引っ越す財力のない人達が地方に取り残されることになる。
この様な人たちは収入も少ない為、地方の税収は更に下がる。
財政を維持する為には、緊縮政策を取らなければならない。
つまりは、住民税の増額と公共サービスの削減・低下につながる。

簡単に表現すると
富める者はより裕福に。
貧しい者はより貧しくなってしまう。

この流れを避ける為に行われるのが、同じ経済共同体内での再分配です。
しかし、EUはこのが機能していない。

ドイツ人達は、『何故ギリシャ人の為に、自分達の税金が使われなければならないんだ!』と主張し、ギリシャに金を貸すことはあっても、再分配という形で分け合うことはしていない。
もしEUの要求通りに、ギリシャで緊縮財政が起こればどうなるのか。
先程日本で例えた際の、【東京】と【地方】の関係と同じようなる。
やる気があってまじめに勉強をしているギリシャ人の学生は、ドイツの大学に進学してドイツの会社に入社する。
当然、税金もドイツで支払い、ドイツはより潤う事になる。

その一方でギリシャは、公共サービスが低下して、税金も上昇。
EU国内では国民は移住が自由である為、余裕のある人はサッサとドイツに移住してしまう為、主な収入源の富裕層が国を出て行くことになる。
こうなると、更に税収は激減する。
つまり、ギリシャにとっては緊縮財政を採用しても借金を踏み倒しても、どちらにしても地獄ということ。

これは、ギリシャが悪いというわけではなく、EUという制度に致命的なエラーが存在するということ。

因みにこの話は、私が考えた机上の空論では有りません。
この話を、日本に留学で来ているスエーデン人の方に話した所、大きく頷き、ドイツに全て搾取されているといった事を話されていました。
その方の話によると、ドイツは経済状態も良く、物も大量に消費される為、物価自体が安いそうです。
どれぐらい安いのかというと、スエーデンでビールを購入するより、ガソリンを使ってデンマーク経由で陸路でドイツに渡り、トランクに詰めるだけ積んでスエーデンに戻った方が安いそうです。

ここまでモノが安いと、ドイツ周辺国の人は皆、ドイツで買物をすることになり、ドイツの税収が上がる一方で周辺地域は疲弊してしまう。

これが成り立つのも、再分配が行われていないからです。

今回のギリシャ危機は、どのような形で処理するかによって、EUという枠組みそのものが存続できるかどうかという重要な問題です。

ギリシャの意見を聞き入れ、再分配を真面目に考える事ができれば、存続できる可能性はあるでしょう。

しかし、ギリシャを切り捨てた時点で、EUという枠組みは近いうちに空中分解することでしょう。
http://kimniy8.hatenablog.com/entry/2015/07/02/193000

ギリシャ危機、金融メディアが語らない10のこと
http://jp.wsj.com/articles/SB10468926462754674708104581085121389238598


ギリシャ人たちが危機に陥っているのは、彼らが怠け者で借金を踏み倒す連中だからだ、というのは正しいか?

 結局のところ、彼らは1年に10カ月間しか働かず、14カ月分の支払いを受け取っている。25歳で引退し、カフェにたむろしてウーゾ(アニスの香りがするギリシャの蒸留酒)をあおっている。ドイツからの施しで生活し、税金をごまかす。欧州委員会、欧州中央銀行(ECB)、国際通貨基金(IMF)のトロイカが繰り返し支援しようとしたが、彼らは聞く耳をもたない。そして今や、極端なリベラルに走り、借り入れたカネをびた一文返そうとしない。

 それは正しいか?

 全く正しくない。

 ギリシャ危機について皆さんが教えられているほとんどあらゆるものは、完全なたわごとである。以下はその理由だ。

 1.ギリシャ人は既に要請されている以上に緊縮している。5年前の救済取り決め以降、ギリシャ政府は支出を削減し、増税し、そして基礎的財政収支(プライマリーバランス)を240億ユーロの赤字から30億ユーロの黒字に転換した。同国は実際には救済側の要求以上に債務を削減した。IMF自体が緊縮対策は「どんな基準でみても異例だ」と述べ、改革面での彼らの「重要な進展」を称賛したのも無理はない。

 2.本当の問題はトロイカの薬が効かなかったということだ。IMFは当初、緊縮政策を採用すれば、ギリシャは2011年から「V字型」の経済回復に入ると予測していた。「信頼感の効果と、市場アクセス再開」が期待されたのだ。だが、現実にはそうではなかった。これらは10年の救済文書から引用したものだ。IMFは、14年までに経済成長率が3%を超え、「失業率は12年までに15%近くでピークになるだろう」と予測した。何たることだろう。つまるところ、ギリシャ政府が債務を削減する間、経済は一段と縮小しただけだった。

 3.引用される「専門家」の発言は、皆バイアスがかかっている。確かに、TVやインターネット上では大勢の賢人たちがあれこれ非難したり警告したりしている。問題はどこにあるか。彼らがおおむね金融部門で働いている点だ。したがってその関心事は株式、債券、その他の金融資産であって、アテネやテッサロニキのような諸都市の雇用や世帯収入など日常生活の実態ではない。金融は実際に大切かもしれないが、それがすべてではないことは確かだ。

 4.ギリシャは既に破局している。わたしにとって開いた口がふさがらないのは、ギリシャはトロイカへの返済を停止したり、ユーロから離脱したりすれば、経済的な災厄に直面すると別の専門家が主張する時だ。国内総生産(GDP)は8年間で25%減少した。輸入は40%減少した。公式の失業率は25%だ。災厄だって?それは既に発生している。

 5.国というものは、財政緊縮でマネーを「創出」できない。ギリシャとトロイカの話し合いは、ギリシャ政府がどれほど増税ないし支出削減すべきかをめぐって決裂した。これは「単式簿記」システムの誤りに基づいている。それでも、広い範囲(尊敬すべき報道機関をも含む)で繰り返されている。ある国が増税ないし支出削減しても、全体としてマネーを創出しない。それは、一つの手から別の手にマネーが移動するだけだ。

 6.本当は、ギリシャのドラクマ再導入は極めて容易だ。容易でないとする恨み言は、全く偽りだ。この種の措置は以前にも実行されたことがある。例えば、ベルリンの壁崩壊後の多くの東欧諸国がそうだ。当時、IMFとその他国際機関は手を差し伸べたし、新通貨への移行は成功し、比較的痛みも少なかった。彼らがギリシャを助けるのを拒否するなら、それは意図的な悪意ある行為だろう。

 7.本当は、ユーロ無しでもギリシャはやっていける。英国がそうだし、ポーランドがそうだし、スカンジナビア諸国がそうだ。アイスランドは自国通貨の管理ができることもあって、2008年の通貨危機から回復した。実際、IMFは、ギリシャが今もドラクマを使っていてそれを切り下げてさえいれば、このような不況を回避できた可能性があると認めている。ギリシャがユーロを必要とするという考えはくだらないのだ。

 8.ギリシャだけがこの危機の原因だったのではない。非は「ダボスの寵児たち」にある。彼らはお気に入りの「ユーロ」構想を誰にでも売り込んだ。その中にはユーロは不釣り合いなギリシャなどの国も含まれていた。これが過去10年間の膨大な債務バブルを膨らませる一因になった。それ以降、ダボスの寵児たちは自分たちの専売特許のパンと水と粥(かゆ)という治療食を強く勧めた。だが、効果は全くなかった。皆さんは、ダボスの寵児たちが自分たちのこの治療法を自分で試そうとするほど間抜けでないことに気づくだろう。ブリュッセル、フランクフルト、ロンドン、ワシントンでは、食事のメニューはこのような治療食ではなく、ロブスター・テルミドール、オイスター・ロックフェラー、そしてシャトー・ディケムだ。


 9.パニックになるな。今回のギリシャ危機は他の世界にとって大きな問題にならないはずだ。ギリシャ経済の規模は米アラバマ州のそれと同じくらいだ。市場は既にギリシャの金融資産の大半を償却している。ギリシャ危機が「伝染」するのは、海外の政策担当者がそれを放置した場合だけだろう。わたしは良いパニックを好む人がいることは評価しているが、彼らは気持ちを落ち着かせる必要がある。


 10.トロイカの提案する「治療薬」は無意味だ。トロイカが提案するように、ギリシャは年金制度を改革すべきか?課税基盤を広げて簡素化すべきか?港湾を民営化すべきか?確かに。よろしい。しかし、これらはどれも100万人規模の人々を職に復帰させ、カネを稼がせ、消費させるのに全く助けにならない。弾丸による負傷を「食事と定期的な運動」で治療しようとするようなものだ。それらの処方が悪いのではない。完全に的外れなのだ。


(筆者のブレット・アレンズはマーケットウォッチのコラムニスト)

原文:Opinion: 10 things they’re not telling you about the Greek crisis
http://www.marketwatch.com/story/10-things-theyre-not-telling-you-about-the-greek-crisis-2015-07-01

http://jp.wsj.com/articles/SB10468926462754674708104581085121389238598


▲△▽▼

日本より長い労働時間 「ギリシャ人=怠け者」は大ウソだった 2015年7月8日
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/161509


「緊縮財政計画」を拒否したギリシャに対し、EU各国は呆れ果てている。もともと、ギリシャ人を「怠け者」と軽蔑していることもあって、「あいつら働きもしないで」と怒りを強めているようだ。

 しかし、本当にギリシャ人は怠け者なのか。意外にもギリシャ人の労働時間は、日本人より長いという。ギリシャ人の労働実態について「東短リサーチ」が詳細にまとめている。チーフエコノミストの加藤出氏がこう言う。

「ギリシャ人が怠け者というのは、勝手な思い込みです。OECDの2013年の調査では、ギリシャ人の年間労働時間は、2037時間と世界2位。

1位は2237時間のメキシコ。日本は1735時間で16位でした。

この調査結果を疑った英BBC News Magazineが、フルタイムやパートなどさまざまな切り口で統計を見直したのですが、やはりギリシャの長時間労働は事実でした。

賃金の水準が低いため1つの仕事だけでは生活ができず、2つ、3つと仕事を掛け持ちしている人が多い。労働時間が長いという統計は、ギリシャ人の間で浸透している。だから“怠け者”と決めつけるドイツに対して猛烈に反発しています」


■楽天的な国民性でイメージ定着

 実際、1950年代、ドイツに移住したギリシャ人の勤勉ぶりは、よく知られている。

 しかし、どうして「ギリシャ人は怠け者」というイメージが定着してしまったのか。

「公務員があまりにも恵まれているため、ギリシャ人は働かない、というイメージがついてしまったのでしょう。ステレオタイプの報道が多いのも原因です。

ドイツのテレビ局は、ヨットハーバーを映して〈経済危機でもギリシャ人はヨットを保有している〉と報じています。でも、実際にはヨット所有者の多くは裕福なドイツ人でした。

ギリシャ人が楽天的だということも大きいでしょう。気候が良いためか、“まぁ、しょうがないか”と深刻にならない。北ヨーロッパの国からすると、そうした態度が怠け者に見えるのでしょう」(加藤出氏)

 怠け者ではないらしいが、あまりの楽観主義が、ここまで債務を膨らませてしまったのは確かだ。

▲△▽▼

ギリシャの真実 2015-07-09
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12048360210.html


相も変わらずといえば、日本国内のギリシャ問題に関する報道が相も変わらず、

「ギリシャ人は怠け者で、公務員だらけで、財政赤字を膨らませたから破綻した!」

 といった嘘八百が流れておりますので、訂正しておきたいと思います。


 ギリシャ人の労働時間は、OECD諸国の中では最長です。ドイツ人はもちろんのこと、日本人よりも多いのです。

 そして、2014年のギリシャ政府はプライマリーバランス(基礎的財政収支)が黒字化していました。

 さらに、パパンドレウ政権までのギリシャの公務員数が妙に多かったのは確かですが、今は激減し、主要先進国の中では「日本に次いで」少なくなっています。


【主要先進国の公務員対労働人口比率(%)】
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/image-12048360210-13360844829.html
http://members3.jcom.home.ne.jp/takaaki.mitsuhashi/data_50.html#OECD

 ギリシャ問題については、当ブログ以外では以下の記事がかなり適切かと存じます。

『【オピニオン】ギリシャ危機、金融メディアが語らない10のこと
http://jp.wsj.com/articles/SB1046892646275467470810458108512138


 ギリシャ人たちが危機に陥っているのは、彼らが怠け者で借金を踏み倒す連中だからだ、というのは正しいか?

 結局のところ、彼らは1年に10カ月間しか働かず、14カ月分の支払いを受け取っている。

25歳で引退し、カフェにたむろしてウーゾ(アニスの香りがするギリシャの蒸留酒)をあおっている。

ドイツからの施しで生活し、税金をごまかす。

欧州委員会、欧州中央銀行(ECB)、国際通貨基金(IMF)のトロイカが繰り返し支援しようとしたが、彼らは聞く耳をもたない。そして今や、極端なリベラルに走り、借り入れたカネをびた一文返そうとしない。


 それは正しいか?

 全く正しくない。

 ギリシャ危機について皆さんが教えられているほとんどあらゆるものは、完全なたわごとである。以下はその理由だ。

1.ギリシャ人は既に要請されている以上に緊縮している。(後略)』9238598


 WSJの記事でブレット・アレンズは「1」以外にも、以下のポイントを挙げていました。


2.本当の問題はトロイカの薬が効かなかったということだ。

3.引用される「専門家」の発言は、皆バイアスがかかっている。

4.ギリシャは既に破局している。

5.国というものは、財政緊縮でマネーを「創出」できない。

6.本当は、ギリシャのドラクマ再導入は極めて容易だ。

7.本当は、ユーロ無しでもギリシャはやっていける。

8.ギリシャだけがこの危機の原因だったのではない。

9.パニックになるな。

10.トロイカの提案する「治療薬」は無意味だ。

 全て、正しいと思います。


 上記が「事実」であるにも関わらず、なぜ、

「ギリシャ人は怠け者で、公務員だらけで、財政赤字を膨らませたから破綻した!」

 のようなウソが蔓延するのか。

もちろん、緊縮財政を正当化するためです。日本の場合は、

「ギリシャは破綻した。日本も破綻する。だから、緊縮財政」

 という、陳腐なレトリックが相も変わらず報道されています。

この手の「ウソ」からいい加減に目覚めなければ、日本もギリシャも経済の縮小と国民の貧困化から逃れられません。


 というわけで、皆様もギリシャについて「ウソ」を語っていたり、書いたりしている人を見かけたら、容赦なく「ギリシャの真実」を教えて差し上げて下さいませ。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12048360210.html


▲△▽▼


昨日のギリシャに関するレトリックは、実に「理不尽」でございますが、その上、問題解決を不可能とします。

ギリシャが財政破綻したのは、生産性が低い状況で関税自主権や通貨発行権を手放し、さらに国債発行に際し、共通通貨で国際金融市場から政府が資金調達しなければならなくなったためです。

ギリシャ政府は、国債を発行する際にドイツ政府やフランス政府と「競争」を強いられたわけでございます。


 結果、ギリシャの金利は高止まりし(現在の長期金利は18.9%)、しかも関税と為替レートという「盾」を失っている状況で、生産性向上のための投資が困難な構造に置かれました。ギリシャの問題こそが、構造問題なのです。


 ギリシャの構造というよりは、ユーロの構造ですが、ユーロという構造問題を解決するためには、結局は「ユーロという構造」を壊すしかありません。正しい解決策である「ユーロの構造を壊す」ことを防ぐためにも、全てを「ステレオタイプなギリシャ国民の印象」に押し付け、

「ギリシャ人は怠け者で、公務員だらけで、財政赤字を膨らませたから破綻した!」

 などと、嘘つきたちが蔓延する結果になったのだと思います。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12048719130.html

▲△▽▼

【青木泰樹】ギリシャ危機は対岸の火事ではない 2015/07/11


ギリシャ危機は対岸の火事ではない。

この手の論評が目に付くようになりました。

確かに、私もそう思います。

しかし、ギリシャ危機から何を教訓として学ぶのでしょうか。そこが問題です。

財務省シンパと思われるマスコミの論調は、概ね一致していますね。

一言で言えば、「身から出た錆(さび)」。

ギリシャ危機を招いたのは他ならぬギリシャ自身の放漫財政の結果であると。

放漫財政のツケは必ず払わなくてはならない。まさに今のギリシャ危機がそれを物語っているのだと。


そして例によって、「翻って、日本の場合はどうなのか」というお決まりのパターンが続くわけです。

今回驚いたのは、ギリシャが2014年度に基礎的収支(プライマリーバランス:PB)を黒字化していたことでした(三橋先生が前にブログで指摘されて初めて知りました)。

「我が意を得たり」と思ったかどうかはわかりませんが、マスコミの論調もヒートアップします。

曰く、「ギリシャは日本より財政は健全であったにもかかわらず破綻寸前。ましてや日本は危機目前。早急に財政再建を」となるわけです。

確かに、ギリシャの政府債務対GDP比は180%くらいで、日本のそれは200%を超えています(もちろん幾つかある政府債務の定義のうちの一つの場合ですが)。

また日本は2020年度のPB赤字解消さえ危ぶまれているとマスコミは報じていますから、国民の危機感を煽るにはギリシャ財政との比較は格好の材料なのでしょう。

「消費税再増税も歳出削減も、日本のためなのだ。財政出動などもっての外だ」と言いたいために。

しかし、財政健全化の指標とされる政府債務対GDP比の国際間比較は、実はほとんど意味はありません。

外国と比較して多い少ないではなく、その比率が中長期的に一定の枠内に収まっていれば問題ないのです。

以前、サラリーマンの住宅ローンを組む時の目安は、年収の五倍程度までと言われておりました。

つまり住宅ローン対年収比率は500%までが健全ということです。

もちろん、まだまだ債務を膨張させられると言いたいのではありません。
あまり目くじらを立てるほど神経質になる必要はないと言っているのです。

以前からお話ししているように、国債問題とは民間保有の国債残高が累増し、利払い費が膨張することです。

本年中に日銀は国債発行残高の3割を保有することになるでしょうから、国債問題は事実上解決したのも同然なのです。

後は適当な時期に政府と日銀間で、すなわち広義の政府部門内で処理すれば良いだけの話です。

政府が新しい債券(例えば長期のゼロクーポン債)を発行し、それと日銀保有の国債を交換すれば済むことです(そうすれば、万一金利が上がっても日銀のバランスシートは痛まない)。

それによって民間の債権債務関係が変更するわけではないので、民間経済に悪影響は及びません。

政府債務対GDP比の国際間比較以上に意味がないというか、逆に経済成長にとって最悪なのが「PB目標」、すなわち基礎的収支を単年度で均衡させる財政目標です。

財務省、そのシンパのマスコミ、経済学者、評論家、政治家たちはギリシャ危機から財政再建の重要性を学ばねばならないと考えているのでしょう。

日本も、2020年度のプライマリー赤字解消に向けて9.4兆円歳出削減をしなければならないと息巻いていた自民党の政調会長もいましたね。

その方たちに是非、ギリシャ危機の本質を学んでいただきたい。
まさに対岸の火事ではないのです。
なぜギリシャ危機が生じたのか。その原因は何なのかを。


それは財政均衡主義がもたらした災厄なのです。

まさしく経済思想が現実経済を潰した事例なのです。

欧州委員会(EU)、欧州中央銀行(ECB)、国際通貨基金(IMF)という三者、いわゆるトロイカに押し付けられたPB目標を達成しようとして、ギリシャは忠実に増税と歳出削減を履行し、結果的に経済を破綻させました。

5年間でGDPは25%減少しました(日本に置き換えて考えるなら、日本の名目GDPは約490兆円ですから、120兆円以上が消し飛んだことになります)。
失業率も平均で26%超、若年層に至っては60%超です。

若者が希望の持てない、未来のない国にしてしまったのです。
万死に値する所業です。

ここまで経済を破壊して得たものは何か。

若干のPB黒字だけです。

それによって財政再建はかなったのでしょうか、財政破綻の危機は去ったのでしょうか。

とんでもない、PBを黒字化しても財政破綻寸前です。

PB目標の達成は、国家の安寧も財政再建も、何ももたらさなかったという歴史的事実が残ったのです。

これを教訓とせずして、何を教訓とすべきでしょうや。


PB目標の達成のためには、増税と歳出削減しかありません。

しかし、公的支出を削減すれば、総需要が減り、名目GDPが減り、税収も減る。
増税分を国内で使えばまだしも、対外債務の返済に充てれば、ますます名目GDPは減る。

民需か外需が公需の減少した分を補てんするだけ増加しなければ、国民経済は縮小する。

ただの足し算引き算です。


この誰にでもわかることを財務省も、トロイカも、特にドイツのメルケル首相はわからないのです。

それは、「入を量りて、出を制す」という財政均衡主義の原点である個人の経済感覚に根ざすものなのでしょう。

部分だけを見て全体を顧みない。
財政を均衡させれば、万事うまくいくと思っている。
救いのない頑固脳。

そうした経済通念から脱却しない限り、為政者の思い込みによる経済破壊が続くのです。これは本当に人災です。


果たして、財政均衡主義の犠牲となったギリシャはどうなるのでしょうか。
トロイカは、金融支援の替わりにより厳しい緊縮策をギリシャに要求しております。

増税(付加価値税における軽減税率廃止)によってGDP1%分の増収を、そして歳出削減策(年金制度変更)によってもGDP1%分の増収を目指せと言っています。

他に軍事費も4億ユーロ削減せよと要求しております。
ギリシャの国防にまで口を出してきています。

到底、声は届かないでしょうがギリシャのチプラス首相に二つ助言を送っておきましょう。


先ず財政支援に関して。


歳入=税収+国債収入(国債を中心とする借入金)。

歳出=一般歳出(国債費を除く政策経費)+国債費(利払い費および償還費等)


ですね。財政赤字は「税収<歳出」です。


他方、プライマリー均衡は、「税収=一般歳出」です。


ギリシャはプライマリー黒字の状況ですから、問題は国債収入が確保できない(金融支援=借金ができない)ということです。

それゆえ借金の返済(国債費)ができずにトロイカに支援を仰いでいるわけです。
この状況を打開するためにチプラス首相はこう言えばいいのです。

「私が金融支援を仰ぐのは(追加の借金したいのは)、あなたたちに借金を返すためだ。」と。

さらに、あなたの右のポケットにあるカネを貸してくれ。すぐにあなたの左のポケットにそれを入れるから」と言えばよいのです。

つまり、トロイカのカネはギリシャ政府経由でトロイカに戻るのです。
トロイカに損はない。

これによってギリシャの銀行は救われ、実体経済をこれ以上毀損することなく、問題を先送りできるのです。

先送りが大切なのです。

世の中には、先送りを嫌悪する人達が一定数おりますが、それは物事の二面性を理解していないことを表明するに等しい。

先送りの対語は、拙速です。

拙速にならずに、じっくりと時間をかけて解決することが適切な場合も多々あるのです。今回のギリシャのケースがまさにそれです。

経済を立て直して、ユーロからドラクマに移行する時間稼ぎが必要なのです。


もう一つ、チプラス首相は緊縮策を受け容れないほうが良いのです。
これ以上、ギリシャ国民に貧困の淵を覗かせてはならないのです。
メルケルに従って、若者の失業を増やしてはなりません。

その代り、次のように逆提案すればよいのです。

「ギリシャは経済成長を成し遂げることによって、トロイカに債務を返済することを約束する。ついては、成長のための資金を融資してくれ。

これまで、トロイカの要求に素直に従ってきたが、結果は最悪だった。経済を潰してしまった。あなたたちの論理でギリシャを救えないことが分かった。

あなたたちもわかっただろう。成長によってのみ、ギリシャは救われ、ユーロも命脈を保つことができる(ただし、一時的ですが)。ギリシャには世界に誇れる観光資源がある。それを中心にギリシャ強靭化計画を実施することで再生を図りたいのだ」と。

もちろん、なかなか難しいでしょう。

ギリシャはユーロ通貨を導入したことで、先の見えない将来を自ら造ってしまいました。

以前の通貨ドラクマのままでいれば、現況以上に再生は可能であったと思います。
厳しい時期が到来しようと、未来に希望が持てれば生きていけるものですから。
ユーロ圏に留まる限り、ひとたび金融支援が滞るとギリシャの銀行システムは破壊されます。

今後も繰り返し、そうした状況が続きます。
それが実体経済にとって最も厳しいことなのです。決済ができないと商売が成り立たないからです。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/





http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c18

[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
19. 中川隆[-14849] koaQ7Jey 2019年11月18日 00:32:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1937]

ギリシャの音楽は哀しい



Boy on a dolphin






ジーン・ネグレスコ 島の女 Boy on a Dolphin (1957年)



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c19
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
20. 中川隆[-14848] koaQ7Jey 2019年11月18日 01:00:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1936]
エレニ・カラインドルー





http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c20
[リバイバル3] 本当のオーディオファイルは「ミニマリスト」を目指す 中川隆
45. 中川隆[-14847] koaQ7Jey 2019年11月18日 09:05:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1935]
自分の趣味としてのオーディオ GRFのある部屋 2019年 11月 17日
https://tannoy.exblog.jp/30631703/

高齢者の重大事故が多発していますが、統計を取るとやはり一番事故率が高いのは、25歳未満の若い世代だそうです。スピードを出すのが楽しくて仕方がない世代だし、経験も積んでいません。年齢とともに、いろいろの現象を目の当たりにして、怖くなってますます慎重になる人もいれば、自分だけは大丈夫だと、大見得を切って走っている人もいます。

また車に乗ると気が大きくなり、道路を自分だけの物と勘違いして、クラクションを鳴らしながら威張って走っている勘違い者も後を絶ちません。交通事故こそ、社会の縮図を見せる事象も少ないほどです。歩行者としては、無意識のうちに他人の進路を妨害しないように歩いている人も、少し高い目線の車に乗ると、世間を見下ろしたような高圧的な態度を取ったり、勘違いする人もいます。


勘違いは、自動車事故ばかりではありません。ほとんどすべてのことにあてはまります。よくあるのは、健康オタクです。適度な運動は欠かせませんが、過激な運動を繰り返して、体内の細胞を活性化しすぎ、ガンを発症する確率が高くなります。何事もやり過ぎは逆効果でしょう。

健康食品やサプリメントのコマーシャルが毎日、繰り返し行われています。その莫大なコマーシャル代も結局は、その製品を買う人が払っているのには、なかなか気がつきません。毎日、毎日、おなじコマーシャルが流れ、人々を無意識に洗脳しているのです。


産地直送の、本場の食材や、緑黄野菜のコマーシャルも同じです。産地直送は美味しいかもしれませんが、人のからだは純粋な化学工場ですから、身体の中に入れば、炭水化物、タンパク質、脂肪等の栄養素に分かれ、それを酵素が分解して、分子レベルにして取り込んでいるのです。もちろん、その分子にはどこどこ産とは書かれていません。


それらの通販の費用の何分の一が、個別な運送費とコマーシャルに費やされています。どこ産の食材だから身体に良いとは、言い切れないのに、画面上には、個人の意見です。と書かれていても、信じたい人は信じるのです。産地直送だから、身体に良いとは言いませんが、美味しいから身体に良いと思わせるのです。思わせているのは、30分以内に申し込めば、おまけが付いてくると言う商法です。


健康食品ばかりではありません。昔のバナナのたたき売りや景品販売と同じ手法が繰り返されているのです。その手法は、ますます高度化されて、イメージ先行になっていきます。住宅誌も、自動車誌もきれいな写真で、きれいに印刷された商品は性能が良いはずだと思わせるのです。同じとは言いませんが、映画「スティング」の様な出てくる人が全員が詐欺仲間だと、逃げ場がありませんね。


アメリカでは2%のスーパーリッチ、日本でも5%のリッチの人たちがいるそうです。高級スポーツカーだけではなく、オーディオ店も、そういう人達を狙って、各県に一軒ぐらいの専門店はありました。極めて濃い熱烈なお客さんを持って、一種の秘密結社を構成しています。その手法は、歴史になって、博物館に入っているようなヴィンテージの機器で、クローズサーキットを作り上げ、その中で、外界との接触を断って濃密な関係を構築しているようなお店です。


さすがに、現在は、そのようなカリスマ店は少なくなりましたが、地方のオーディオ店によく飾ってあるのは、海外のカリスマオーディオ店の経営者と一緒に写っている写真です。ここまで、彼らは営業に来たんだと感心もし、驚きもしました。


その手法は、常に決まっています。限定された部門だけに、フォーカスを当てて、どんどんと、細分化して中身を濃くしていくのです。最後は、それでなくては出来ないと思わせられれば大成功です。後は、お客の方が勝手にエスカレートしていくからです。お店ですから、物を売らなくてはなりません。一つより二つ、二つより四つとどんどんとエスカレートしていき、気がついたら、部屋中大型スピーカーで埋まっていたり、押し入れタンスのような機器類の箱で身動き取れなくなっています。


それは限界までエスカレートして、ある日、我に返ります。そういうお店の経営者は、みなミイラ取りがミイラになった人達です。強く信じていますから、説得力が違います。何回かお話ししていますが、そうして細分化していくと、11時59分59秒99999・・は永遠に12時にはなれないのです。


でも現実は、12時になるし、なれば魔法は壊れます。大伽藍が崩壊するように崩れるのです。カリスマ経営者も、回復不可能の事態に陥ったり、亡くなってしまえば魔法がなくなったただの箱です。しかし、いまはその昔のブランドだけが一人歩きする時代でもあります。何十年前のブランドでも、名前が知られていれば、それは良い物だと思い込むからです。そのブランド名にあこがれた時代、その頃の郷愁を呼び起こすのがブランドの力でもあるからです。


でも、音楽を聴くためのオーディオは、そういう特殊な世界に入り込むのではなく、自分の出来る範疇で、自らが再構成できうる範囲で楽しむべきだと思うのです。どんなに、能書きが良くても、自分の装置の中に組み込んで、あくまでも自身が使いこなせる範囲で行うべきだと思っています。名前に頼るのではなく、郷愁を誘うデザインに殉ずることはなく、あくまでも、音楽が活き活きとなる装置を目指すべきだと思うからです。
https://tannoy.exblog.jp/30631703/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/691.html#c45

[リバイバル3] 最近のオーディオ業界の状況 中川隆
131. 中川隆[-14846] koaQ7Jey 2019年11月18日 09:06:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1934]
自分の趣味としてのオーディオ GRFのある部屋 2019年 11月 17日
https://tannoy.exblog.jp/30631703/

高齢者の重大事故が多発していますが、統計を取るとやはり一番事故率が高いのは、25歳未満の若い世代だそうです。スピードを出すのが楽しくて仕方がない世代だし、経験も積んでいません。年齢とともに、いろいろの現象を目の当たりにして、怖くなってますます慎重になる人もいれば、自分だけは大丈夫だと、大見得を切って走っている人もいます。

また車に乗ると気が大きくなり、道路を自分だけの物と勘違いして、クラクションを鳴らしながら威張って走っている勘違い者も後を絶ちません。交通事故こそ、社会の縮図を見せる事象も少ないほどです。歩行者としては、無意識のうちに他人の進路を妨害しないように歩いている人も、少し高い目線の車に乗ると、世間を見下ろしたような高圧的な態度を取ったり、勘違いする人もいます。


勘違いは、自動車事故ばかりではありません。ほとんどすべてのことにあてはまります。よくあるのは、健康オタクです。適度な運動は欠かせませんが、過激な運動を繰り返して、体内の細胞を活性化しすぎ、ガンを発症する確率が高くなります。何事もやり過ぎは逆効果でしょう。

健康食品やサプリメントのコマーシャルが毎日、繰り返し行われています。その莫大なコマーシャル代も結局は、その製品を買う人が払っているのには、なかなか気がつきません。毎日、毎日、おなじコマーシャルが流れ、人々を無意識に洗脳しているのです。


産地直送の、本場の食材や、緑黄野菜のコマーシャルも同じです。産地直送は美味しいかもしれませんが、人のからだは純粋な化学工場ですから、身体の中に入れば、炭水化物、タンパク質、脂肪等の栄養素に分かれ、それを酵素が分解して、分子レベルにして取り込んでいるのです。もちろん、その分子にはどこどこ産とは書かれていません。


それらの通販の費用の何分の一が、個別な運送費とコマーシャルに費やされています。どこ産の食材だから身体に良いとは、言い切れないのに、画面上には、個人の意見です。と書かれていても、信じたい人は信じるのです。産地直送だから、身体に良いとは言いませんが、美味しいから身体に良いと思わせるのです。思わせているのは、30分以内に申し込めば、おまけが付いてくると言う商法です。


健康食品ばかりではありません。昔のバナナのたたき売りや景品販売と同じ手法が繰り返されているのです。その手法は、ますます高度化されて、イメージ先行になっていきます。住宅誌も、自動車誌もきれいな写真で、きれいに印刷された商品は性能が良いはずだと思わせるのです。同じとは言いませんが、映画「スティング」の様な出てくる人が全員が詐欺仲間だと、逃げ場がありませんね。


アメリカでは2%のスーパーリッチ、日本でも5%のリッチの人たちがいるそうです。高級スポーツカーだけではなく、オーディオ店も、そういう人達を狙って、各県に一軒ぐらいの専門店はありました。極めて濃い熱烈なお客さんを持って、一種の秘密結社を構成しています。その手法は、歴史になって、博物館に入っているようなヴィンテージの機器で、クローズサーキットを作り上げ、その中で、外界との接触を断って濃密な関係を構築しているようなお店です。


さすがに、現在は、そのようなカリスマ店は少なくなりましたが、地方のオーディオ店によく飾ってあるのは、海外のカリスマオーディオ店の経営者と一緒に写っている写真です。ここまで、彼らは営業に来たんだと感心もし、驚きもしました。


その手法は、常に決まっています。限定された部門だけに、フォーカスを当てて、どんどんと、細分化して中身を濃くしていくのです。最後は、それでなくては出来ないと思わせられれば大成功です。後は、お客の方が勝手にエスカレートしていくからです。お店ですから、物を売らなくてはなりません。一つより二つ、二つより四つとどんどんとエスカレートしていき、気がついたら、部屋中大型スピーカーで埋まっていたり、押し入れタンスのような機器類の箱で身動き取れなくなっています。


それは限界までエスカレートして、ある日、我に返ります。そういうお店の経営者は、みなミイラ取りがミイラになった人達です。強く信じていますから、説得力が違います。何回かお話ししていますが、そうして細分化していくと、11時59分59秒99999・・は永遠に12時にはなれないのです。


でも現実は、12時になるし、なれば魔法は壊れます。大伽藍が崩壊するように崩れるのです。カリスマ経営者も、回復不可能の事態に陥ったり、亡くなってしまえば魔法がなくなったただの箱です。しかし、いまはその昔のブランドだけが一人歩きする時代でもあります。何十年前のブランドでも、名前が知られていれば、それは良い物だと思い込むからです。そのブランド名にあこがれた時代、その頃の郷愁を呼び起こすのがブランドの力でもあるからです。


でも、音楽を聴くためのオーディオは、そういう特殊な世界に入り込むのではなく、自分の出来る範疇で、自らが再構成できうる範囲で楽しむべきだと思うのです。どんなに、能書きが良くても、自分の装置の中に組み込んで、あくまでも自身が使いこなせる範囲で行うべきだと思っています。名前に頼るのではなく、郷愁を誘うデザインに殉ずることはなく、あくまでも、音楽が活き活きとなる装置を目指すべきだと思うからです。
https://tannoy.exblog.jp/30631703/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/845.html#c131

[リバイバル3] ハイエンド・スピーカーの世界 中川隆
133. 中川隆[-14845] koaQ7Jey 2019年11月18日 09:07:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1933]
自分の趣味としてのオーディオ GRFのある部屋 2019年 11月 17日
https://tannoy.exblog.jp/30631703/

高齢者の重大事故が多発していますが、統計を取るとやはり一番事故率が高いのは、25歳未満の若い世代だそうです。スピードを出すのが楽しくて仕方がない世代だし、経験も積んでいません。年齢とともに、いろいろの現象を目の当たりにして、怖くなってますます慎重になる人もいれば、自分だけは大丈夫だと、大見得を切って走っている人もいます。

また車に乗ると気が大きくなり、道路を自分だけの物と勘違いして、クラクションを鳴らしながら威張って走っている勘違い者も後を絶ちません。交通事故こそ、社会の縮図を見せる事象も少ないほどです。歩行者としては、無意識のうちに他人の進路を妨害しないように歩いている人も、少し高い目線の車に乗ると、世間を見下ろしたような高圧的な態度を取ったり、勘違いする人もいます。


勘違いは、自動車事故ばかりではありません。ほとんどすべてのことにあてはまります。よくあるのは、健康オタクです。適度な運動は欠かせませんが、過激な運動を繰り返して、体内の細胞を活性化しすぎ、ガンを発症する確率が高くなります。何事もやり過ぎは逆効果でしょう。

健康食品やサプリメントのコマーシャルが毎日、繰り返し行われています。その莫大なコマーシャル代も結局は、その製品を買う人が払っているのには、なかなか気がつきません。毎日、毎日、おなじコマーシャルが流れ、人々を無意識に洗脳しているのです。


産地直送の、本場の食材や、緑黄野菜のコマーシャルも同じです。産地直送は美味しいかもしれませんが、人のからだは純粋な化学工場ですから、身体の中に入れば、炭水化物、タンパク質、脂肪等の栄養素に分かれ、それを酵素が分解して、分子レベルにして取り込んでいるのです。もちろん、その分子にはどこどこ産とは書かれていません。


それらの通販の費用の何分の一が、個別な運送費とコマーシャルに費やされています。どこ産の食材だから身体に良いとは、言い切れないのに、画面上には、個人の意見です。と書かれていても、信じたい人は信じるのです。産地直送だから、身体に良いとは言いませんが、美味しいから身体に良いと思わせるのです。思わせているのは、30分以内に申し込めば、おまけが付いてくると言う商法です。


健康食品ばかりではありません。昔のバナナのたたき売りや景品販売と同じ手法が繰り返されているのです。その手法は、ますます高度化されて、イメージ先行になっていきます。住宅誌も、自動車誌もきれいな写真で、きれいに印刷された商品は性能が良いはずだと思わせるのです。同じとは言いませんが、映画「スティング」の様な出てくる人が全員が詐欺仲間だと、逃げ場がありませんね。


アメリカでは2%のスーパーリッチ、日本でも5%のリッチの人たちがいるそうです。高級スポーツカーだけではなく、オーディオ店も、そういう人達を狙って、各県に一軒ぐらいの専門店はありました。極めて濃い熱烈なお客さんを持って、一種の秘密結社を構成しています。その手法は、歴史になって、博物館に入っているようなヴィンテージの機器で、クローズサーキットを作り上げ、その中で、外界との接触を断って濃密な関係を構築しているようなお店です。


さすがに、現在は、そのようなカリスマ店は少なくなりましたが、地方のオーディオ店によく飾ってあるのは、海外のカリスマオーディオ店の経営者と一緒に写っている写真です。ここまで、彼らは営業に来たんだと感心もし、驚きもしました。


その手法は、常に決まっています。限定された部門だけに、フォーカスを当てて、どんどんと、細分化して中身を濃くしていくのです。最後は、それでなくては出来ないと思わせられれば大成功です。後は、お客の方が勝手にエスカレートしていくからです。お店ですから、物を売らなくてはなりません。一つより二つ、二つより四つとどんどんとエスカレートしていき、気がついたら、部屋中大型スピーカーで埋まっていたり、押し入れタンスのような機器類の箱で身動き取れなくなっています。


それは限界までエスカレートして、ある日、我に返ります。そういうお店の経営者は、みなミイラ取りがミイラになった人達です。強く信じていますから、説得力が違います。何回かお話ししていますが、そうして細分化していくと、11時59分59秒99999・・は永遠に12時にはなれないのです。


でも現実は、12時になるし、なれば魔法は壊れます。大伽藍が崩壊するように崩れるのです。カリスマ経営者も、回復不可能の事態に陥ったり、亡くなってしまえば魔法がなくなったただの箱です。しかし、いまはその昔のブランドだけが一人歩きする時代でもあります。何十年前のブランドでも、名前が知られていれば、それは良い物だと思い込むからです。そのブランド名にあこがれた時代、その頃の郷愁を呼び起こすのがブランドの力でもあるからです。


でも、音楽を聴くためのオーディオは、そういう特殊な世界に入り込むのではなく、自分の出来る範疇で、自らが再構成できうる範囲で楽しむべきだと思うのです。どんなに、能書きが良くても、自分の装置の中に組み込んで、あくまでも自身が使いこなせる範囲で行うべきだと思っています。名前に頼るのではなく、郷愁を誘うデザインに殉ずることはなく、あくまでも、音楽が活き活きとなる装置を目指すべきだと思うからです。
https://tannoy.exblog.jp/30631703/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/697.html#c133

[議論31] 工作員の手引き書! AN
1. 中川隆[-14844] koaQ7Jey 2019年11月18日 09:58:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1932]
赤かぶは中国の工作員だよ


阿修羅が Google 検索から除外されたのは米中対立が始まって、ファーウェイや中国のネットでの情報操作が排除され始めた時点からだ。

阿修羅では中国人工作員が風説を流布していると判断されたんだよ:






2018/10/07 に公開


前回の馬渕睦夫大使との対談は大変好評でしたので、2回目を行うこととなりました!今回のテーマは「スパイ(工作員)」映画やドラマの中だけじゃない、リアルスパイのお話をお送りします。
そして、話題は"ディープステート"へ。この世界を操り、歴史を作ってきたとされる影の政府、真の実力者、アメリカの"奥の院"の存在が明らかに・・・。

※月刊誌「WILL」2018年11月号掲載の「大公開 中国スパイの手口」(河添恵子)、も合わせてご覧ください!




http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/707.html#c1
[お知らせ・管理21] 2019年11月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
50. 中川隆[-14846] koaQ7Jey 2019年11月18日 10:33:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1934]
>>49
>法的に訴えられる可能性があります。


法的に訴えられる可能性があります。というのは電通工作員の常套語なんだな

電通にはネット工作員の手引書が有って、工作手口をマニュアル化してるんだ
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/573.html#c50

[近代史3] 人類進化史 中川隆
30. 中川隆[-14845] koaQ7Jey 2019年11月18日 10:39:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1933]

2019年11月18日
現代人アフリカ南部起源説
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_35.html

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)L0系統の詳細な分析を報告した研究(Chan et al., 2019)が報道されました。ナショナルジオグラフィックでも報道されています。現生人類(Homo sapiens)の起源がアフリカにあることは広く認められています(現生人類アフリカ単一起源説)。本論文は、現生人類の起源地をアフリカ東部と示唆する人類遺骸もあるものの、現代人のmtDNA系統樹では、最初に分岐した系統であるmtHg-L0を代表する複数の現代人集団はアフリカ南部に存在している、と指摘します。しかし、これまで、ヨーロッパ系のmtHg-N(mtHg-L3から分岐)の詳細な分析が進展していた一方で、mtHg-L0の分析は遅れており、代人の遺伝的多様性に関する研究の制約となっていました。そこで本論文は、新たなL0系統のデータを得て、現代の地理的分布と古気候データを組み合わせることで、L0系統の起源地と、L0系統がいつどのように拡散していったのか、推測しました。

 その結果、本論文は、L0系統が現在はマカディカディ塩湖(Makgadikgadi Pans)となっているボツワナ北部のマカディカディ–オカバンゴ古湿地という残存古湿地内で20万年前頃(95%の信頼性で240000〜165000年前)に出現した、と推定しています。これは、じゅうらいの推定よりもやや古くなります。当時、この地域にはマカディカディ(Makgadikgadi)湖という当時アフリカでは最大の湖(面積は現在のビクトリア湖の約2倍)があり、20万年前頃に乾燥化によりマカディカディ–オカバンゴ古湿地となって、乾燥の進んだ土地に囲まれた豊かなオアシスとなりました。さらに本論文は、L0系統が約7万年にわたってこの地域に居住し続け、13万〜11万年前頃に、まず北東方向、次に南西方向へと拡散していった、と推測しています。古気候データからは、湿度の上昇により最初に北東方向、次いで南西方向へと緑の回廊が開かれた、と示唆されます。その後、L0系統の故地である現在のボツワナ北部はさらに乾燥化し、推定有効集団規模からL0kが系統故地に留まった一方で、南西方向に拡散したL0d1-2系統は、アフリカ南部の湿潤化と海産資源の利用により人口が増加していった、と推測されます。現生人類の起源は現在のボツワナ北部となるアフリカ南部にあり、この最初期集団は、気候変動による拡散の前まで長期間(約7万年)故地に留まっていた、と本論文は主張します。以下、L0系統の初期の拡散を示した本論文の図2です。

画像
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-019-1714-1/MediaObjects/41586_2019_1714_Fig2_HTML.png


 本論文の見解には多くの批判が寄せられています。遺伝人類学者のバービエリ(Chiara Barbieri)氏は、mtHg-L0系統の詳細な分析興味深く価値があるものの、L0系統の起源地と年代について、現代人のDNAのみに基づいていることに注意を喚起しています。先史時代は長く、人々は移住する、というわけです。バービエリ氏は、L0系統の正確な起源地と年代の確定のためには、年代測定のされた化石からのDNA解析が必要になる、と指摘します。しかし、本論文は古代DNAを考慮に入れておらず、現代人のDNAのみを調べました。

 ゲノムの異なる部分では、本論文の見解と矛盾する物語が現れます、たとえば、現代人のY染色体DNA系統樹では、起源地はアフリカ西部のカメルーンと想定されています(関連記事)。ゲノム研究では、コイサン人系統が他のアフリカ人系統と35万〜26万年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。まだ査読中の研究(Bergström et al., 2019)では、50万年前頃までさかのぼる可能性も指摘されています。進化人類学者のハーヴァティ(Katerina Harvati)氏は、本論文がこれらの研究を参照しなかったか、議論しなかったことに驚いた、と述べています。これら一見すると矛盾した結果は、アフリカにおける人類史が単純なものではなく、現生人類が長期にわたって混合・多様化し、移動していることを示唆しています。化石証拠も同様で、現生人類的な化石は、たとえばモロッコでは30万年以上前(関連記事)、レヴァントでは194000〜177000年前頃のもの(関連記事)が発見されています。複雑な石器も、アフリカ北部・東部・南部で30万年前以前のものが知られています。

 こうした知見に基づき、現生人類の起源はアフリカの特定地域にある、という見解を多くの研究者は捨て、アフリカ全体が起源地と考えるようになりました(関連記事)。現生人類の起源に関して、アフリカ単一起源説を前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、というような見解です(関連記事)。本論文は、化石や考古学的知見に言及しておらず、反論していない、と指摘されています。また、この研究の指導的立場にあるヘイズ(Vanessa M. Hayes)氏によるサン人のDNA解析に関しても、先住少数民族に関わる非政府組織から傲慢・無知と個人情報の取り扱いについて批判されているそうです。

 本論文は、現代人の核DNAも古代DNAも考慮せず、過去の人類の移動も軽視していることから、複数の研究者に強く批判されています。上記報道ではまだ穏やかな表現になっていますが、Twitter上では辛辣な表現で批判されています。たとえば、奇妙な論文との発言や、本論文が現在『ネイチャー』に掲載されたことに本当に驚いた、20年前からタイムワープしたようだとの発言や、1930年代のような論文との発言です。mtHg-L0系統を詳細に分析した本論文の意義は大きく、それ故に『ネイチャー』に掲載されたのでしょうが、本論文のデータは現代人アフリカ南部起源説を示唆するとか、それと整合的であるとかいった一文を挿入するのに留めておくべきだったのではないか、と思います。Twitter上での複数の研究者による本論文への辛辣な発言も、仕方のないところもあると思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:アフリカ南部の古湿地における人類の起源と最初の移動

進化学:そこは「エデンの園」だったのか

 現生の全ての人々の祖先の発祥の地と考えられる場所は、ボツワナ北部の地域である。この地域は、現在は乾燥した塩生砂漠だが、約20万年前まではマカディカディ湖という当時アフリカ最大の古湖(面積は現在のビクトリア湖の2倍)があった。そして約20万年前、気候の乾燥化によってマカディカディ–オカバンゴ古湿地へと変貌し、乾燥の進んだ土地に囲まれた豊かなオアシスとなった。それはちょうど、解剖学的現生人類がそこで足掛かりを得た時期であった。その後、解剖学的現生人類は7万年間にわたってこの地にとどまり、約13万年前になってようやく(より穏やかな気候を利用して)外の世界へと移動し広がっていった。その先は先史時代が示すところである。A TimmermannとV Hayesたちは今回、この成り行きを気候の再構築から組み立てたが、その根拠の大部分はミトコンドリアDNAの解析に基づいている。現生人類のミトコンドリアゲノム(ミトゲノム)で最も古く分岐したのは、現在もこの地方に居住しているコイサン族に由来するL0系統のものである。現代人のミトゲノムに関する既存の情報を、新たに得られた情報資源と合わせて用いることで、L0系統の歴史および分岐の状況が再構築され、この系統がどこで出現し、その後どこへ移動したのかが明らかになった。こうして、L0系統が約20万年前にアフリカ南部で出現したという新たな知見が得られた。この年代は、従来の推定を5万〜2万5000年さかのぼるものである。


参考文献:
Chan EKF. et al.(2019): Human origins in a southern African palaeo-wetland and first migrations. Nature, 575, 7781, 185–189.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1714-1

Bergström A. et al.(2019): Insights into human genetic variation and population history from 929 diverse genomes. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/674986

https://sicambre.at.webry.info/201911/article_35.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/581.html#c30

[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
21. 中川隆[-14844] koaQ7Jey 2019年11月18日 10:56:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1932]

エレニ・カラインドルー






http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c21
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
22. 中川隆[-14843] koaQ7Jey 2019年11月18日 11:01:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1931]


エレニ・カラインドルー
L' Africana (Music for the Film) (Full Album)





http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c22
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
23. 中川隆[-14842] koaQ7Jey 2019年11月18日 11:05:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1930]
エレニ・カラインドルー


Eleni Karaindrou - Nostalgic


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c23
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
24. 中川隆[-14841] koaQ7Jey 2019年11月18日 11:13:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1929]
エレニ・カラインドルー










http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c24
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
25. 中川隆[-14840] koaQ7Jey 2019年11月18日 11:16:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1928]
エレニ・カラインドルー



Synaulia Elenhs Karaindrou


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c25
[近代史3] エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい 中川隆
26. 中川隆[-14839] koaQ7Jey 2019年11月18日 11:21:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1927]
エレニ・カラインドルー



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html#c26
[リバイバル3] アンプの音はトランスで殆ど決まってしまう 中川隆
20. 中川隆[-14838] koaQ7Jey 2019年11月18日 11:30:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1926]
アナログプレーヤーを聴かなくなった - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年11月18日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/829a971b7d3ff15c5d1fc1088f77ff49


10年程前まではアナログプレーヤーも使っていた。CDラインにWEのライントランスを入れる前までは良く使っていた。WEのライントランス(91A)を使う様になってから、メインソースがCDに変わった。

カートリッジは色々遍歴が有るが、SPUにしてようやく落ち着いた。現在も予備も含めて3セットは所有している。自宅システムにはSPUリファレンスを奢っているが、現在ではほとんど出番が無くなった。LPも700枚ほど所有しているが、LPを聴くだけの「心の余裕」が無い。その点CDやMDは何の気なしに使える。自宅システムにもWEのライントランス(50A)を使っている。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/829a971b7d3ff15c5d1fc1088f77ff49
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/760.html#c20

[近代史3] ソフトバンク 孫正義は日本人の敵 中川隆
14. 中川隆[-14837] koaQ7Jey 2019年11月18日 12:31:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1925]

2019年11月18日
ソフトバンク経営破綻が現実味 10兆円ファンドに応募無し 資金繰り細る

孫氏の説明で何が本当なのかさっぱり分からない


画像引用:https://image.businessinsider.com/5dc4542c7eece514c512b0f8?width=1100&format=jpeg&auto=webp


投資で儲かったら働くのがばからしくなった?

ソフトバンクグループには疫病神が憑りついているようで、最近悪いニュースしか聞こえてこない。

最新の話題は孫正義が自信満々で宣言したソフトバンク2号ファンドに応募が無かったというものです。

ブルームバーグによるとソフトバンク・ビジョンファンド2号の第一回応募は10兆円の募集に対して2千億円の応募しかなかった。




約50分の1という事で、もし東芝や東電だったら世間や株主は徹底的に叩いたが、この国の人はソフトバンクに甘い。

2019年の春ごろに孫正義は意気揚々と経済メディアに登場し、「10兆円じゃ足りない、すぐに使い切る」と言っていました。

「2年か3年ごとに10兆円ファンドを立ち上げて、100兆円ファンドにする」とも語っていました。


「ビジョンファンド以外に興味がなくなった」とも言い、ソフトバンク本体の経営についても、どうでも良いなどと言う事が増えた。

ありがちな事として投資で大きく勝った人は働くのがバカらしくなり、本業が疎かになる例が多い。

今の孫氏は正にそんな感じで、「秒速で1億円稼ぐんですよ」と言っていた某有名人に似ている。


続いての悪いニュースはソフトバンクの財務状況が悪化しているという記事を、デイリー新潮が掲載していました。

会計評論家・細野祐二氏によるとソフトバンクの財務はかなり悪く、破綻が現実味を帯びているという。

ソフトバンクはビジョンファンドが投資した米新興企業ウィーワークが巨額損失を出し、既に約1兆円を投入しさらに1兆円が必要とされている。

孫正義はごまかしが多すぎる

ウィーワークはレンタルオフィス会社だが、売上約1000億円に対して損失が1300億円以上つまり2300億円ものコストが掛かっている。

将来的にも黒字化するのは難しいが、負債が表面化する前の8月に孫氏は「ウィーワークは高い成長を見込める」と言っていました。

この辺から孫氏の発言に辻褄の合わない部分が増え、外国メディアに叩かれることが多くなった。


ソフトバンクが投資した米通信会社スプリントも赤字続きで負債は5兆円近くに達している。

ソフトバンクが出資している配車サービス「ウーバー」も赤字で、5月の上場時から35%値下がりした。

ソフトバンクが大口投資や買収した「ソフトバンク銘柄」の多くが赤字で、その割に株価や評価額が高いという共通点がある。


IT企業は現在は赤字であっても将来は莫大な利益を生むという期待感から、経営実態とかけ離れた株価がつくことが多い。

株価が順調に上がっている間は良いが、下がり始めるともう目も当てられない。

ソフトバンクグループは国際会計基準で決算報告しているが、日本の会計基準では2018年、19年とも赤字となる。


違いは国際会計基準は保有株価を時価で計算し、日本式は取得株価で計算する。

ソフトバンクは買収によって株価を釣り上げてIPOでさらに株価を上げる錬金術によって莫大な利益を生み出した。

だが取得株価も時価も含み益・含み損に過ぎず、巨額の保有株を売却したら株価は暴落して損失が出る。


この結果ソフトバンクグループの財務が急速に悪化していて、会計評論家・細野祐二氏によると破綻してもおかしくないという。

全ての根源は孫正義の話に手前勝手な誇張が多いことで、確定していない架空の利益を「持っている」ように話す。

損失はうまく隠して「スプリントは黒字になった」と言うくせに、見込み利益に過ぎないものを保有資産のごとく言っている。


この会社に良い将来があるとはどうしても思えない
http://www.thutmosev.com/archives/81498584.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/549.html#c14

[リバイバル3] 孫正義の詐欺の手口 中川隆
13. 中川隆[-14836] koaQ7Jey 2019年11月18日 12:31:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1924]

2019年11月18日
ソフトバンク経営破綻が現実味 10兆円ファンドに応募無し 資金繰り細る

孫氏の説明で何が本当なのかさっぱり分からない


画像引用:https://image.businessinsider.com/5dc4542c7eece514c512b0f8?width=1100&format=jpeg&auto=webp


投資で儲かったら働くのがばからしくなった?

ソフトバンクグループには疫病神が憑りついているようで、最近悪いニュースしか聞こえてこない。

最新の話題は孫正義が自信満々で宣言したソフトバンク2号ファンドに応募が無かったというものです。

ブルームバーグによるとソフトバンク・ビジョンファンド2号の第一回応募は10兆円の募集に対して2千億円の応募しかなかった。




約50分の1という事で、もし東芝や東電だったら世間や株主は徹底的に叩いたが、この国の人はソフトバンクに甘い。

2019年の春ごろに孫正義は意気揚々と経済メディアに登場し、「10兆円じゃ足りない、すぐに使い切る」と言っていました。

「2年か3年ごとに10兆円ファンドを立ち上げて、100兆円ファンドにする」とも語っていました。


「ビジョンファンド以外に興味がなくなった」とも言い、ソフトバンク本体の経営についても、どうでも良いなどと言う事が増えた。

ありがちな事として投資で大きく勝った人は働くのがバカらしくなり、本業が疎かになる例が多い。

今の孫氏は正にそんな感じで、「秒速で1億円稼ぐんですよ」と言っていた某有名人に似ている。


続いての悪いニュースはソフトバンクの財務状況が悪化しているという記事を、デイリー新潮が掲載していました。

会計評論家・細野祐二氏によるとソフトバンクの財務はかなり悪く、破綻が現実味を帯びているという。

ソフトバンクはビジョンファンドが投資した米新興企業ウィーワークが巨額損失を出し、既に約1兆円を投入しさらに1兆円が必要とされている。

孫正義はごまかしが多すぎる

ウィーワークはレンタルオフィス会社だが、売上約1000億円に対して損失が1300億円以上つまり2300億円ものコストが掛かっている。

将来的にも黒字化するのは難しいが、負債が表面化する前の8月に孫氏は「ウィーワークは高い成長を見込める」と言っていました。

この辺から孫氏の発言に辻褄の合わない部分が増え、外国メディアに叩かれることが多くなった。


ソフトバンクが投資した米通信会社スプリントも赤字続きで負債は5兆円近くに達している。

ソフトバンクが出資している配車サービス「ウーバー」も赤字で、5月の上場時から35%値下がりした。

ソフトバンクが大口投資や買収した「ソフトバンク銘柄」の多くが赤字で、その割に株価や評価額が高いという共通点がある。


IT企業は現在は赤字であっても将来は莫大な利益を生むという期待感から、経営実態とかけ離れた株価がつくことが多い。

株価が順調に上がっている間は良いが、下がり始めるともう目も当てられない。

ソフトバンクグループは国際会計基準で決算報告しているが、日本の会計基準では2018年、19年とも赤字となる。


違いは国際会計基準は保有株価を時価で計算し、日本式は取得株価で計算する。

ソフトバンクは買収によって株価を釣り上げてIPOでさらに株価を上げる錬金術によって莫大な利益を生み出した。

だが取得株価も時価も含み益・含み損に過ぎず、巨額の保有株を売却したら株価は暴落して損失が出る。


この結果ソフトバンクグループの財務が急速に悪化していて、会計評論家・細野祐二氏によると破綻してもおかしくないという。

全ての根源は孫正義の話に手前勝手な誇張が多いことで、確定していない架空の利益を「持っている」ように話す。

損失はうまく隠して「スプリントは黒字になった」と言うくせに、見込み利益に過ぎないものを保有資産のごとく言っている。


この会社に良い将来があるとはどうしても思えない
http://www.thutmosev.com/archives/81498584.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/965.html#c13

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
80. 中川隆[-14835] koaQ7Jey 2019年11月18日 12:34:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1923]
2019.11.18
ラテン・アメリカとヨーロッパを結びつけるファシスト

 ラテン・アメリカで新自由主義を巡る戦いが激しくなっている。新自由主義は一部の人びとへ全ての富を集中させる仕組みを作り上げ、富を独占する私的権力へ国を上回る力を与えることを目標にしている。それに対する反発が強まっているのだ。

 ラテン・アメリカはアングロ・アメリカの「裏庭」だと言われてきた。ラテン・アメリカの資源をアングロ・アメリカを拠点とする巨大資本が独占するという宣言とも言える。

 かつてのスペインやポルトガルの支配層と同じように、アメリカの支配層はラテン・アメリカの資源を略奪、私的な富の源泉にしてきた。そのラテン・アメリカが真の意味で独立することを彼らは許さない。

 第2次世界大戦の後、アメリカの支配層はラテン・アメリカをナチスの残党たちを匿うために利用した。本ブログでは繰り返し書いてきたが、ウォール街やシティ、つまり米英の金融資本はナチスのパトロン的な存在だった。1933年から34年にかけての時期にウォール街の住人がフランクリン・ルーズベルト政権を倒すためにクーデターを計画した理由もそこにある。

 ナチスに率いられたドイツは1941年6月にソ連侵略を開始する。バルバロッサ作戦だ。その時に東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人にすぎなかったと言われている。西側の守りを懸念するドイツ軍の幹部は軍の半分を残すべきだとしたが、アドルフ・ヒトラーがその進言を退けたという。そこで、ヒトラーは西側から攻めてこないことを知っていたのではないかと推測する人もいる。

 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。この段階でドイツの敗北は決定的。そこでイギリスやアメリカは協議、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸した。

 スターリングラードでの戦いにドイツ軍が敗れると、ナチスの親衛隊はアメリカ側と接触を始める。そのアメリカ側の人間は情報機関OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたち。

 ダレスたちは1944年になるとドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将と接触しているが、その仲介役はダレスの部下で、ウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナー。ちなみにOSSの長官だったウィリアム・ドノバンはダレスの友人で、自身もウォール街の弁護士だ。

 大戦が終わった直後、ローマ教皇庁の要職にあったジョバンニ・バティスタ・モンティニなる人物がナチスの大物にバチカン市国のパスポートを提供し、逃走を助けはじめている。

 モンティニは後のローマ教皇パウロ6世で、ヒュー・アングルトンというアメリカ人と親しくしていた。ヒューのボスにあたる人物がアレン・ダレス。ヒューの息子であるジェームズ・アングルトンはCIAで秘密工作に深く関与することになる。このローマ教皇庁が協力した逃走ルートは一般的にラッテ・ラインと呼ばれている。

 ダレスたちは大戦後の1948年からナチスの元幹部や元協力者の逃走を助け、保護し、雇い入れる「ブラッドストーン作戦」を始めている。この作戦で助けられた人物の中には親衛隊の幹部だったオットー・スコルツェニーやゲシュタポ幹部で「リヨンの屠殺人」とも呼ばれていたクラウス・バルビーも含まれていた。

 元ナチス幹部たちを逃がした先がラテン・アメリカ。ナチスの元幹部たちはまずアルゼンチンへ運ばれ、そこから分かれていき、アメリカの秘密工作に協力したと言われている。バルビーが1980年にボリビアでのクーデターに協力したことは本ブログでも書いた通り。

 このクーデターにはステファノ・デレ・キアイエなる人物も協力している。NATOの加盟国には破壊活動を目的とする秘密部隊が存在、イタリアの組織はグラディオ。(Jeffrey M. Bale, “The Darkest Sides Of Politics, I,” Routledge, 2018)

 デレ・キアイエはグラディオの工作に参加していた。この秘密部隊は1970年にイタリアでクーデターを試みて失敗しているが、これにもデレ・キアイエは加わっている。クーデターに失敗した後、彼はスペインへ逃亡、1973年にはCIA主導の軍事クーデターを成功させたチリを訪問、オーグスト・ピノチェト政権の幹部たちと会っている。

 こうしたネットワークはラテン・アメリカだけでなく、アングロ・アメリカやヨーロッパにも広がっていて、それは今でも消えていない。ウクライナでネオ・ナチが登場したのも必然なのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201911170000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c80

[近代史3] 馬渕睦夫 deep state の世界を語る _ 朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてヤラセだった 中川隆
55. 中川隆[-14834] koaQ7Jey 2019年11月18日 12:36:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1922]
2019.11.18
ラテン・アメリカとヨーロッパを結びつけるファシスト

 ラテン・アメリカで新自由主義を巡る戦いが激しくなっている。新自由主義は一部の人びとへ全ての富を集中させる仕組みを作り上げ、富を独占する私的権力へ国を上回る力を与えることを目標にしている。それに対する反発が強まっているのだ。


 ラテン・アメリカはアングロ・アメリカの「裏庭」だと言われてきた。ラテン・アメリカの資源をアングロ・アメリカを拠点とする巨大資本が独占するという宣言とも言える。


 かつてのスペインやポルトガルの支配層と同じように、アメリカの支配層はラテン・アメリカの資源を略奪、私的な富の源泉にしてきた。そのラテン・アメリカが真の意味で独立することを彼らは許さない。


 第2次世界大戦の後、アメリカの支配層はラテン・アメリカをナチスの残党たちを匿うために利用した。本ブログでは繰り返し書いてきたが、ウォール街やシティ、つまり米英の金融資本はナチスのパトロン的な存在だった。1933年から34年にかけての時期にウォール街の住人がフランクリン・ルーズベルト政権を倒すためにクーデターを計画した理由もそこにある。


 ナチスに率いられたドイツは1941年6月にソ連侵略を開始する。バルバロッサ作戦だ。その時に東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人にすぎなかったと言われている。西側の守りを懸念するドイツ軍の幹部は軍の半分を残すべきだとしたが、アドルフ・ヒトラーがその進言を退けたという。そこで、ヒトラーは西側から攻めてこないことを知っていたのではないかと推測する人もいる。


 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。この段階でドイツの敗北は決定的。そこでイギリスやアメリカは協議、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸した。


 スターリングラードでの戦いにドイツ軍が敗れると、ナチスの親衛隊はアメリカ側と接触を始める。そのアメリカ側の人間は情報機関OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたち。


 ダレスたちは1944年になるとドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将と接触しているが、その仲介役はダレスの部下で、ウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナー。ちなみにOSSの長官だったウィリアム・ドノバンはダレスの友人で、自身もウォール街の弁護士だ。


 大戦が終わった直後、ローマ教皇庁の要職にあったジョバンニ・バティスタ・モンティニなる人物がナチスの大物にバチカン市国のパスポートを提供し、逃走を助けはじめている。


 モンティニは後のローマ教皇パウロ6世で、ヒュー・アングルトンというアメリカ人と親しくしていた。ヒューのボスにあたる人物がアレン・ダレス。ヒューの息子であるジェームズ・アングルトンはCIAで秘密工作に深く関与することになる。このローマ教皇庁が協力した逃走ルートは一般的にラッテ・ラインと呼ばれている。


 ダレスたちは大戦後の1948年からナチスの元幹部や元協力者の逃走を助け、保護し、雇い入れる「ブラッドストーン作戦」を始めている。この作戦で助けられた人物の中には親衛隊の幹部だったオットー・スコルツェニーやゲシュタポ幹部で「リヨンの屠殺人」とも呼ばれていたクラウス・バルビーも含まれていた。


 元ナチス幹部たちを逃がした先がラテン・アメリカ。ナチスの元幹部たちはまずアルゼンチンへ運ばれ、そこから分かれていき、アメリカの秘密工作に協力したと言われている。バルビーが1980年にボリビアでのクーデターに協力したことは本ブログでも書いた通り。


 このクーデターにはステファノ・デレ・キアイエなる人物も協力している。NATOの加盟国には破壊活動を目的とする秘密部隊が存在、イタリアの組織はグラディオ。(Jeffrey M. Bale, “The Darkest Sides Of Politics, I,” Routledge, 2018)


 デレ・キアイエはグラディオの工作に参加していた。この秘密部隊は1970年にイタリアでクーデターを試みて失敗しているが、これにもデレ・キアイエは加わっている。クーデターに失敗した後、彼はスペインへ逃亡、1973年にはCIA主導の軍事クーデターを成功させたチリを訪問、オーグスト・ピノチェト政権の幹部たちと会っている。


 こうしたネットワークはラテン・アメリカだけでなく、アングロ・アメリカやヨーロッパにも広がっていて、それは今でも消えていない。ウクライナでネオ・ナチが登場したのも必然なのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201911170000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/105.html#c55

[近代史3] 右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた 中川隆
55. 中川隆[-14833] koaQ7Jey 2019年11月18日 12:37:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1921]
2019.11.18
ラテン・アメリカとヨーロッパを結びつけるファシスト

 ラテン・アメリカで新自由主義を巡る戦いが激しくなっている。新自由主義は一部の人びとへ全ての富を集中させる仕組みを作り上げ、富を独占する私的権力へ国を上回る力を与えることを目標にしている。それに対する反発が強まっているのだ。


 ラテン・アメリカはアングロ・アメリカの「裏庭」だと言われてきた。ラテン・アメリカの資源をアングロ・アメリカを拠点とする巨大資本が独占するという宣言とも言える。


 かつてのスペインやポルトガルの支配層と同じように、アメリカの支配層はラテン・アメリカの資源を略奪、私的な富の源泉にしてきた。そのラテン・アメリカが真の意味で独立することを彼らは許さない。


 第2次世界大戦の後、アメリカの支配層はラテン・アメリカをナチスの残党たちを匿うために利用した。本ブログでは繰り返し書いてきたが、ウォール街やシティ、つまり米英の金融資本はナチスのパトロン的な存在だった。1933年から34年にかけての時期にウォール街の住人がフランクリン・ルーズベルト政権を倒すためにクーデターを計画した理由もそこにある。


 ナチスに率いられたドイツは1941年6月にソ連侵略を開始する。バルバロッサ作戦だ。その時に東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人にすぎなかったと言われている。西側の守りを懸念するドイツ軍の幹部は軍の半分を残すべきだとしたが、アドルフ・ヒトラーがその進言を退けたという。そこで、ヒトラーは西側から攻めてこないことを知っていたのではないかと推測する人もいる。


 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。この段階でドイツの敗北は決定的。そこでイギリスやアメリカは協議、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸した。


 スターリングラードでの戦いにドイツ軍が敗れると、ナチスの親衛隊はアメリカ側と接触を始める。そのアメリカ側の人間は情報機関OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたち。


 ダレスたちは1944年になるとドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将と接触しているが、その仲介役はダレスの部下で、ウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナー。ちなみにOSSの長官だったウィリアム・ドノバンはダレスの友人で、自身もウォール街の弁護士だ。


 大戦が終わった直後、ローマ教皇庁の要職にあったジョバンニ・バティスタ・モンティニなる人物がナチスの大物にバチカン市国のパスポートを提供し、逃走を助けはじめている。


 モンティニは後のローマ教皇パウロ6世で、ヒュー・アングルトンというアメリカ人と親しくしていた。ヒューのボスにあたる人物がアレン・ダレス。ヒューの息子であるジェームズ・アングルトンはCIAで秘密工作に深く関与することになる。このローマ教皇庁が協力した逃走ルートは一般的にラッテ・ラインと呼ばれている。


 ダレスたちは大戦後の1948年からナチスの元幹部や元協力者の逃走を助け、保護し、雇い入れる「ブラッドストーン作戦」を始めている。この作戦で助けられた人物の中には親衛隊の幹部だったオットー・スコルツェニーやゲシュタポ幹部で「リヨンの屠殺人」とも呼ばれていたクラウス・バルビーも含まれていた。


 元ナチス幹部たちを逃がした先がラテン・アメリカ。ナチスの元幹部たちはまずアルゼンチンへ運ばれ、そこから分かれていき、アメリカの秘密工作に協力したと言われている。バルビーが1980年にボリビアでのクーデターに協力したことは本ブログでも書いた通り。


 このクーデターにはステファノ・デレ・キアイエなる人物も協力している。NATOの加盟国には破壊活動を目的とする秘密部隊が存在、イタリアの組織はグラディオ。(Jeffrey M. Bale, “The Darkest Sides Of Politics, I,” Routledge, 2018)


 デレ・キアイエはグラディオの工作に参加していた。この秘密部隊は1970年にイタリアでクーデターを試みて失敗しているが、これにもデレ・キアイエは加わっている。クーデターに失敗した後、彼はスペインへ逃亡、1973年にはCIA主導の軍事クーデターを成功させたチリを訪問、オーグスト・ピノチェト政権の幹部たちと会っている。


 こうしたネットワークはラテン・アメリカだけでなく、アングロ・アメリカやヨーロッパにも広がっていて、それは今でも消えていない。ウクライナでネオ・ナチが登場したのも必然なのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201911170000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html#c55

[近代史3] ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった!  中川隆
12. 中川隆[-14832] koaQ7Jey 2019年11月18日 12:37:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1920]
2019.11.18
ラテン・アメリカとヨーロッパを結びつけるファシスト

 ラテン・アメリカで新自由主義を巡る戦いが激しくなっている。新自由主義は一部の人びとへ全ての富を集中させる仕組みを作り上げ、富を独占する私的権力へ国を上回る力を与えることを目標にしている。それに対する反発が強まっているのだ。


 ラテン・アメリカはアングロ・アメリカの「裏庭」だと言われてきた。ラテン・アメリカの資源をアングロ・アメリカを拠点とする巨大資本が独占するという宣言とも言える。


 かつてのスペインやポルトガルの支配層と同じように、アメリカの支配層はラテン・アメリカの資源を略奪、私的な富の源泉にしてきた。そのラテン・アメリカが真の意味で独立することを彼らは許さない。


 第2次世界大戦の後、アメリカの支配層はラテン・アメリカをナチスの残党たちを匿うために利用した。本ブログでは繰り返し書いてきたが、ウォール街やシティ、つまり米英の金融資本はナチスのパトロン的な存在だった。1933年から34年にかけての時期にウォール街の住人がフランクリン・ルーズベルト政権を倒すためにクーデターを計画した理由もそこにある。


 ナチスに率いられたドイツは1941年6月にソ連侵略を開始する。バルバロッサ作戦だ。その時に東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人にすぎなかったと言われている。西側の守りを懸念するドイツ軍の幹部は軍の半分を残すべきだとしたが、アドルフ・ヒトラーがその進言を退けたという。そこで、ヒトラーは西側から攻めてこないことを知っていたのではないかと推測する人もいる。


 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。この段階でドイツの敗北は決定的。そこでイギリスやアメリカは協議、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸した。


 スターリングラードでの戦いにドイツ軍が敗れると、ナチスの親衛隊はアメリカ側と接触を始める。そのアメリカ側の人間は情報機関OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたち。


 ダレスたちは1944年になるとドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将と接触しているが、その仲介役はダレスの部下で、ウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナー。ちなみにOSSの長官だったウィリアム・ドノバンはダレスの友人で、自身もウォール街の弁護士だ。


 大戦が終わった直後、ローマ教皇庁の要職にあったジョバンニ・バティスタ・モンティニなる人物がナチスの大物にバチカン市国のパスポートを提供し、逃走を助けはじめている。


 モンティニは後のローマ教皇パウロ6世で、ヒュー・アングルトンというアメリカ人と親しくしていた。ヒューのボスにあたる人物がアレン・ダレス。ヒューの息子であるジェームズ・アングルトンはCIAで秘密工作に深く関与することになる。このローマ教皇庁が協力した逃走ルートは一般的にラッテ・ラインと呼ばれている。


 ダレスたちは大戦後の1948年からナチスの元幹部や元協力者の逃走を助け、保護し、雇い入れる「ブラッドストーン作戦」を始めている。この作戦で助けられた人物の中には親衛隊の幹部だったオットー・スコルツェニーやゲシュタポ幹部で「リヨンの屠殺人」とも呼ばれていたクラウス・バルビーも含まれていた。


 元ナチス幹部たちを逃がした先がラテン・アメリカ。ナチスの元幹部たちはまずアルゼンチンへ運ばれ、そこから分かれていき、アメリカの秘密工作に協力したと言われている。バルビーが1980年にボリビアでのクーデターに協力したことは本ブログでも書いた通り。


 このクーデターにはステファノ・デレ・キアイエなる人物も協力している。NATOの加盟国には破壊活動を目的とする秘密部隊が存在、イタリアの組織はグラディオ。(Jeffrey M. Bale, “The Darkest Sides Of Politics, I,” Routledge, 2018)


 デレ・キアイエはグラディオの工作に参加していた。この秘密部隊は1970年にイタリアでクーデターを試みて失敗しているが、これにもデレ・キアイエは加わっている。クーデターに失敗した後、彼はスペインへ逃亡、1973年にはCIA主導の軍事クーデターを成功させたチリを訪問、オーグスト・ピノチェト政権の幹部たちと会っている。


 こうしたネットワークはラテン・アメリカだけでなく、アングロ・アメリカやヨーロッパにも広がっていて、それは今でも消えていない。ウクライナでネオ・ナチが登場したのも必然なのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201911170000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/352.html#c12

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
49. 中川隆[-14831] koaQ7Jey 2019年11月18日 12:38:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1919]
2019.11.18
ラテン・アメリカとヨーロッパを結びつけるファシスト

 ラテン・アメリカで新自由主義を巡る戦いが激しくなっている。新自由主義は一部の人びとへ全ての富を集中させる仕組みを作り上げ、富を独占する私的権力へ国を上回る力を与えることを目標にしている。それに対する反発が強まっているのだ。


 ラテン・アメリカはアングロ・アメリカの「裏庭」だと言われてきた。ラテン・アメリカの資源をアングロ・アメリカを拠点とする巨大資本が独占するという宣言とも言える。


 かつてのスペインやポルトガルの支配層と同じように、アメリカの支配層はラテン・アメリカの資源を略奪、私的な富の源泉にしてきた。そのラテン・アメリカが真の意味で独立することを彼らは許さない。


 第2次世界大戦の後、アメリカの支配層はラテン・アメリカをナチスの残党たちを匿うために利用した。本ブログでは繰り返し書いてきたが、ウォール街やシティ、つまり米英の金融資本はナチスのパトロン的な存在だった。1933年から34年にかけての時期にウォール街の住人がフランクリン・ルーズベルト政権を倒すためにクーデターを計画した理由もそこにある。


 ナチスに率いられたドイツは1941年6月にソ連侵略を開始する。バルバロッサ作戦だ。その時に東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人にすぎなかったと言われている。西側の守りを懸念するドイツ軍の幹部は軍の半分を残すべきだとしたが、アドルフ・ヒトラーがその進言を退けたという。そこで、ヒトラーは西側から攻めてこないことを知っていたのではないかと推測する人もいる。


 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。この段階でドイツの敗北は決定的。そこでイギリスやアメリカは協議、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸した。


 スターリングラードでの戦いにドイツ軍が敗れると、ナチスの親衛隊はアメリカ側と接触を始める。そのアメリカ側の人間は情報機関OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたち。


 ダレスたちは1944年になるとドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将と接触しているが、その仲介役はダレスの部下で、ウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナー。ちなみにOSSの長官だったウィリアム・ドノバンはダレスの友人で、自身もウォール街の弁護士だ。


 大戦が終わった直後、ローマ教皇庁の要職にあったジョバンニ・バティスタ・モンティニなる人物がナチスの大物にバチカン市国のパスポートを提供し、逃走を助けはじめている。


 モンティニは後のローマ教皇パウロ6世で、ヒュー・アングルトンというアメリカ人と親しくしていた。ヒューのボスにあたる人物がアレン・ダレス。ヒューの息子であるジェームズ・アングルトンはCIAで秘密工作に深く関与することになる。このローマ教皇庁が協力した逃走ルートは一般的にラッテ・ラインと呼ばれている。


 ダレスたちは大戦後の1948年からナチスの元幹部や元協力者の逃走を助け、保護し、雇い入れる「ブラッドストーン作戦」を始めている。この作戦で助けられた人物の中には親衛隊の幹部だったオットー・スコルツェニーやゲシュタポ幹部で「リヨンの屠殺人」とも呼ばれていたクラウス・バルビーも含まれていた。


 元ナチス幹部たちを逃がした先がラテン・アメリカ。ナチスの元幹部たちはまずアルゼンチンへ運ばれ、そこから分かれていき、アメリカの秘密工作に協力したと言われている。バルビーが1980年にボリビアでのクーデターに協力したことは本ブログでも書いた通り。


 このクーデターにはステファノ・デレ・キアイエなる人物も協力している。NATOの加盟国には破壊活動を目的とする秘密部隊が存在、イタリアの組織はグラディオ。(Jeffrey M. Bale, “The Darkest Sides Of Politics, I,” Routledge, 2018)


 デレ・キアイエはグラディオの工作に参加していた。この秘密部隊は1970年にイタリアでクーデターを試みて失敗しているが、これにもデレ・キアイエは加わっている。クーデターに失敗した後、彼はスペインへ逃亡、1973年にはCIA主導の軍事クーデターを成功させたチリを訪問、オーグスト・ピノチェト政権の幹部たちと会っている。


 こうしたネットワークはラテン・アメリカだけでなく、アングロ・アメリカやヨーロッパにも広がっていて、それは今でも消えていない。ウクライナでネオ・ナチが登場したのも必然なのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201911170000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c49

[近代史3] アフター・ヒトラー 中川隆
2. 中川隆[-14830] koaQ7Jey 2019年11月18日 12:42:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1918]
2019.11.18
ラテン・アメリカとヨーロッパを結びつけるファシスト

 ラテン・アメリカで新自由主義を巡る戦いが激しくなっている。新自由主義は一部の人びとへ全ての富を集中させる仕組みを作り上げ、富を独占する私的権力へ国を上回る力を与えることを目標にしている。それに対する反発が強まっているのだ。


 ラテン・アメリカはアングロ・アメリカの「裏庭」だと言われてきた。ラテン・アメリカの資源をアングロ・アメリカを拠点とする巨大資本が独占するという宣言とも言える。


 かつてのスペインやポルトガルの支配層と同じように、アメリカの支配層はラテン・アメリカの資源を略奪、私的な富の源泉にしてきた。そのラテン・アメリカが真の意味で独立することを彼らは許さない。


 第2次世界大戦の後、アメリカの支配層はラテン・アメリカをナチスの残党たちを匿うために利用した。本ブログでは繰り返し書いてきたが、ウォール街やシティ、つまり米英の金融資本はナチスのパトロン的な存在だった。1933年から34年にかけての時期にウォール街の住人がフランクリン・ルーズベルト政権を倒すためにクーデターを計画した理由もそこにある。


 ナチスに率いられたドイツは1941年6月にソ連侵略を開始する。バルバロッサ作戦だ。その時に東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人にすぎなかったと言われている。西側の守りを懸念するドイツ軍の幹部は軍の半分を残すべきだとしたが、アドルフ・ヒトラーがその進言を退けたという。そこで、ヒトラーは西側から攻めてこないことを知っていたのではないかと推測する人もいる。


 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。この段階でドイツの敗北は決定的。そこでイギリスやアメリカは協議、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸した。


 スターリングラードでの戦いにドイツ軍が敗れると、ナチスの親衛隊はアメリカ側と接触を始める。そのアメリカ側の人間は情報機関OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたち。


 ダレスたちは1944年になるとドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将と接触しているが、その仲介役はダレスの部下で、ウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナー。ちなみにOSSの長官だったウィリアム・ドノバンはダレスの友人で、自身もウォール街の弁護士だ。


 大戦が終わった直後、ローマ教皇庁の要職にあったジョバンニ・バティスタ・モンティニなる人物がナチスの大物にバチカン市国のパスポートを提供し、逃走を助けはじめている。


 モンティニは後のローマ教皇パウロ6世で、ヒュー・アングルトンというアメリカ人と親しくしていた。ヒューのボスにあたる人物がアレン・ダレス。ヒューの息子であるジェームズ・アングルトンはCIAで秘密工作に深く関与することになる。このローマ教皇庁が協力した逃走ルートは一般的にラッテ・ラインと呼ばれている。


 ダレスたちは大戦後の1948年からナチスの元幹部や元協力者の逃走を助け、保護し、雇い入れる「ブラッドストーン作戦」を始めている。この作戦で助けられた人物の中には親衛隊の幹部だったオットー・スコルツェニーやゲシュタポ幹部で「リヨンの屠殺人」とも呼ばれていたクラウス・バルビーも含まれていた。


 元ナチス幹部たちを逃がした先がラテン・アメリカ。ナチスの元幹部たちはまずアルゼンチンへ運ばれ、そこから分かれていき、アメリカの秘密工作に協力したと言われている。バルビーが1980年にボリビアでのクーデターに協力したことは本ブログでも書いた通り。


 このクーデターにはステファノ・デレ・キアイエなる人物も協力している。NATOの加盟国には破壊活動を目的とする秘密部隊が存在、イタリアの組織はグラディオ。(Jeffrey M. Bale, “The Darkest Sides Of Politics, I,” Routledge, 2018)


 デレ・キアイエはグラディオの工作に参加していた。この秘密部隊は1970年にイタリアでクーデターを試みて失敗しているが、これにもデレ・キアイエは加わっている。クーデターに失敗した後、彼はスペインへ逃亡、1973年にはCIA主導の軍事クーデターを成功させたチリを訪問、オーグスト・ピノチェト政権の幹部たちと会っている。


 こうしたネットワークはラテン・アメリカだけでなく、アングロ・アメリカやヨーロッパにも広がっていて、それは今でも消えていない。ウクライナでネオ・ナチが登場したのも必然なのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201911170000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/405.html#c2

[リバイバル3] 中川隆 _ 動物関係投稿リンク 中川隆
7. 2019年11月18日 13:46:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1917]
死ぬまで拘束…日本人が知らない「乳牛の残酷生涯」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/719.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/815.html#c7
[近代史3] 死ぬまで拘束…日本人が知らない「乳牛の残酷生涯」 中川隆
1. 中川隆[-14829] koaQ7Jey 2019年11月18日 13:49:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1916]

加工乳・低脂肪乳を飲むとガンになる

遊牧民は 1万年間 乳製品しか食べていなかったけど、絶滅はおろか病気にすらなっていない。

乳製品自体が体に悪い訳はないんだけど…

▲△▽▼

人工ホルモン入り牛乳

 回答者:リック・ノース、「社会的責任のためのオレゴン物理学者」の安全な食べ物キャンペーンのプロジェクト・ディレクター及びアメリカがん協会オレゴン部会の前CEO.


昔、牛乳は最も純粋な栄養食品だったが、今は乳量を増やすために、 rBGH や rBST のような遺伝子組み換え牛成長ホルモンを投与されている

問題は、これによって乳生産量は増えるが、同時に乳腺炎にかかりやすくなり、膿がミルクに移行してしまうことだ。

rBGH は乳がん、前立腺がん、直腸がんにつながる物質であり、多くの先進国では使用を禁止している。

 解決策:牛乳はラベルを確かめて買いましょう。

 (スターバックスは rBGH を使用したミルクの使用をやめていますが、日本では・・・今のところ何の規制もない様子。GMO 反対の動きはあるのですが、飼料までは手が回らないのか?)

▲△▽▼

recombinant bovine growth hormone- 遺伝子組換え牛成長ホルモン
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/414980465.html


カナダ、EUはじめ、欧米の圧力に屈して危険な添加物を使っている日本ですら禁止された超がつく曰く付きのものらしいですが、アメリカでは何故か使用が認められ、未だ恐ろしいミルクが販売されているようなんですね。

名前だけ聞くといまいちピンときませんでしたが、簡単いうと危険度満点の人工ホルモン注射を打って急成長させた乳牛のやばいミルク。みたいです。


「遺伝子組み換え牛成長ホルモン」投与牛のミルクはガンを誘発する より

http://www5.ocn.ne.jp/~kmatsu/kumikae508.htm


(引用開始)

これは、アメリカのモンサント社が製造しているもので、遺伝子組み換え牛成長ホルモンとしてアメリカで唯一認められている薬品である。アメリカの畜産農家の約15%(17000戸)が rBGH を使用しており、全米の牛の約30%が、月2回rGBHを注射されているといわれている。


このrBGHを子牛に注射すると、非常に早く成長するため、飼料の効率がとてもよくなる。また、乳牛に注射すると、通常よりも二週間も長く乳を出すため、1頭からとれるミルクの量が15%から20%も増加する。しかし、この rBGH にはさまざまな問題点が指摘されている。


まず、rBGH を投与された牛は乳腺炎にかかりやすくなるため、ミルクのなかに膿汁が混入する。また、乳腺の炎症を抑えるために抗生物質が投与されるため、それがミルクに残存することが懸念されている。さらに、イリノイ大学のエプスタイン教授は、1996年に発表した論文で、rBGHを投与された牛のミルクを飲んだ人に、乳ガンや大腸ガンが発生しやすくなる危険があることを指摘している。

(引用終了)


なぜここまで危険と言われているのにアメリカで売り続けられるのか原因がわかりました。このホルモン剤を製造販売しているのが米国モンサント社。ロックフェラー財団の支援を受けている会社でした。これらにかかったら何でもありですもんね。故にです。


日本では禁止されているから大丈夫だね〜と安心している方、驚くなかれ!ハーゲンダッツ、ブレイヤーズ、バスキン・ロビンス(31アイスクリーム)はばっちりrBGHのミルクを使っているみたいですよ。ハーゲンダッツなんか添加物がないような売りのアイスクリームなのにとんでもない裏がありましたね。うぅ、、結構食べてたよ〜 泣


この遺伝子組換え作物を作りまくっているモサント社の作物や種子が今後TPPにより堂々日本の農業に参入し市場に出回る可能性が大きいわけですねぇ・・震!


世の中怖いことばりでございます〜 泣
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/414980465.html

有害なのは牛乳そのものではなく加工乳・低脂肪乳とアメリカ製牛乳だけ

牛乳でできた乳製品 vs 乳製品で作られた加工乳

牛乳は成分無調整で飲む


よつ葉乳業は牛乳を原料にバター、ヨーグルト、チーズなどの乳製品を作っています。これが普通の乳業会社であるはずなのですが、不思議なことに普通の大手の乳業会社は乳製品で牛乳を作っているのです。

雪印は黄色ブドウ球菌の毒素などと思われる大量の食中毒被害を発生させました。洗浄工程の手抜きとされていますが、この事件の背景は大手の乳業会社のモラルの欠如した体質に根差すもっと深いところにあるのです。

低脂肪乳のような加工乳は、生乳と還元乳を混ぜて作ります。還元乳とは脱脂粉乳、無塩バターなどの乳製品と強い毒性の疑いのあるキレート剤(乳化の目的で使用されています)で作ります。あらかじめ決まった成分濃度に調整しておいた還元乳を、入荷した生乳の成分を検査して、その都度配合の比率を考えれば、目的の成分濃度にできるという仕組みです。乳業会社がなぜこんなに複雑な製造をしているのかという理由は、この方がもうけが大きいからなのです。なぜなら、加工用の原料は北海道産の何分の一かの価格の安い輸入物が使えるからです。もちろん、ヨーロッパ産のチェルノブイリの放射能汚染の心配のあるものも使われています。加工乳、低脂肪牛乳(ローファットミルク)、乳飲料は、生乳と還元乳の配合割合が異なるだけのことなのです。

さらに乳飲料にはブドウ糖(遺伝子組換え)、果汁(輸入品、農薬汚染、濃縮還元の問題あり)、合成色素、合成香料など粗悪な原料がいっぱい使われています。明治ヤシ油混入事件では乳製品ではなく、植物油が混ぜられていたのです。しかし、今でも市販のヨーグルトでは2000年7月第2週カタログ表紙で指摘したように、ココナツオイルなどを始め様々な薬品が堂々と使われているのです。

この加工乳に使われる生乳にも、1999年11月1週第43号でご紹介したように、エサ、飼い方など問題が山積みです。しかも、こともあろうに雪印は店頭で回収してきた乳製品を、この加工乳へ再利用していたわけです。どのような管理が行われたか不明な回収品を再利用するなどという、およそ食品生産に携わる立場としては考えられないことです。

しかし、このことは私たちにもLLミルク反対運動の当時からわかっていたことで、いずれこのような事件が起こることも予想できていたことでした。厚生省も知っていて放置してきたことです。さらに、このことは単に雪印に限定されていることでもないのです。現在の大手メーカーの製造ラインではいつこのような事件が起こっても不思議なことではないという現実がそこにあるのです。牛乳は成分無調整で飲む、こんなあたりまえのことを消費者が早く理解できない限り。


これまでの主な事件


▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
 森永ヒ素ミルク中毒事件
▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼

古い牛乳、鮮度が落ちた牛乳はヨーグルト化が進み、乳酸菌が増えているため乳酸の酸っぱさがある。そのため、牛乳としては売れないので、アルカリ中和処理され、原料用、すなわち粉ミルクの原料にまわされます。

このとき森永は安い第2リン酸ソーダー(アルカリ剤)を購入して使いましたが、それはヒ素などを使っている鉄工所の廃液から回収したヒ素入りのものだったのです。そのため1954年130名の赤ちゃんがヒ素中毒で死亡し、今なお12000名の人々が後遺症で苦しみ続けているのです。


▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
 明治ヤシ油混入事件
▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼

1971年、公正取引委員会は、明治乳業が牛乳に異種脂肪を混入していることを告発しました。そのため、1973年4月に乳等省令の改正で牛乳に乳成分以外の添加が禁止されています。


▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
 チチヤス乳業異臭事件
▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼

牛乳ビンの消毒に使った次亜塩素酸ソーダが牛乳に残留し、異臭を発した事件。チチヤス乳業ではこの薬品を含む排水を川に流し、大量の魚が川に浮いた事件も起こしています。一部の酪農家では搾乳するときにこの薬品をわざと牛乳に混入し、牛乳の細菌数を低く見せるという噂があり、心配です。


▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
ピンホール事故などの危険性
▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼

このほか、ピンホール事故で中部地方で食中毒事件が発生したことがありますが、このことは超高温滅菌(UHT滅菌)で無菌化された牛乳ではいつ死亡事故が発生するかもしれないという心配があります。パスチャライズ牛乳では、乳酸菌がいるため、保管条件が悪くてもヨーグルト化して酸っぱくなったり、かたまったりするだけで心配はないのですが、無菌化している牛乳ではパックの角などに発生したピンホールから食中毒菌が侵入し、異臭を発しない場合、気づかずに飲んでしまうこともあるからです。


低脂肪乳は健康になるか?


低脂肪乳は脂肪が少ないから健康になると思うのはあまりにも短絡的です。

まず、生乳そのもののポストハーベスト農薬、遺伝子組換え、薬漬け畜産などの原料段階の汚染の問題、輸入原料の放射能汚染、加工工程の薬品汚染など問題だらけです。脂肪の摂りすぎが心配なら、おいしい良質の牛乳を少しだけ飲めばいいのではないでしょうか。

牛乳はカルシウムいっぱいって本当か?

確かに搾りたての牛乳には消化吸収によいカルシウムが100g中100mgくらい含まれています。煮干しに含まれるカルシウムより1.5倍くらい体に吸収されるので良質とされています。しかし、この良質なカルシウムは滅菌による加熱には弱く、消化されにくい難溶性の無機カルシウムに変化してしまうのです。したがって、生乳やパスチャライズ牛乳ではカルシウムが期待できますが、一般に市販されている大手メーカーの牛乳ではそのほとんどが超高温滅菌牛乳であるため、カルシウム分子が熱変性を受けてしまっています。

もちろん、90日保存可能と宣伝するLLミルク(ロングライフミルク)でも熱変性しています。

生体中におけるカルシウムの代謝はその体がどれくらいカルシウムが不足しているかということで吸収率が大きく異なることが知られており、必要に応じて人体は、牛乳以外の野菜(小松菜、だいこん葉)、雑穀(ごま、大豆)、小魚、海藻から十分カルシウムを吸収できるのです。

とくに小魚、海藻のカルシウムは吸収率が多少劣っても、量が多いので優れたカルシウム源です。なお、栄養士は食品のカルシウムばかり考えていますが、水道中にもカルシウムが含まれており、そもそも日本人がカルシウム不足になる心配はほとんどないのです。

骨粗鬆症の予防に、牛乳を飲まされている老人が多いのですが、農薬などに汚染された牛乳を飲んで、またマクギャバン報告の示すように高カロリー、高脂肪、高蛋白の牛乳、しかもカルシウムの吸収しにくくなっている超高温滅菌の市販乳を飲んで、健康になるわけがありません。


よつ葉の乳製品


プレーンヨーグルトは生乳100%

よつ葉乳業では生乳100%と乳酸菌のヨーグルトを作っています。しかし、これは大変珍しいことで、大手メーカーでは粗悪な乳製品や異種脂肪でしか作っていないのです。詳しくは2000年7月第2週カタログ表紙を参照して下さい。

チーズも無添加

よつ葉ではゴーダチーズ、チェダーチーズ、シュレッドチーズ(チェダーチーズ、モッツァレラチーズが原料)、カマンベールチーズを牛乳と乳酸菌から精製塩、塩化カルシウム、レンネット、白カビなどで作っています。ただし、よつ葉プロセスチーズは伊藤ハムに委託しているもので原料は輸入物であり、原料、生産工程も市販品であり、もちろんオルターでは取扱いません。市販のチーズには一般的に安くて危険な輸入原料が使われている問題、発酵調整剤などの食品添加物などの問題があります。

バターも無添加

よつ葉バターの有塩バターは塩分控えめ(精製塩1%台)で、無塩バターとももちろん牛乳より無添加で作っています。ところで大手メーカーのバターの色はいつも一定ですが、これはカロチン色素で黄色く着色しているのです。またBHT、BHAなどの防腐剤の使用や原料も放射能汚染の心配な輸入物の使用が一般的なのです。
http://alter.gr.jp/Preview2.aspx?id=462&cls=


よつ葉乳製品のご案内
http://www.yotsuba.co.jp/product/gyunyu.html

アメリカの乳牛の餌はホルモン入り

牛成長ホルモンの中で唯一、遺伝子組み替えによって製造されたものがあります。モンサント社が開発した「rBST」(recombinant bovine matotoropin)、商品名を「ポジラック」といいます。牛が乳を分泌するときに出す成長ホルモンから分離した遺伝子を大腸菌に注入し、培養して製造します。これを牛に投与すると乳腺細胞が活性化するとともに、代謝全体が急激に高まり、牛乳の生産量を増加させます。

「遺伝子組み替え牛成長ホルモン」は、「乳牛の生産効率を高め、酪農家の収入を増やせる」とモンサント社は酪農家を煽ります。

確かに「ポジラック」を乳牛に注射すると、毎日出す乳の量が15〜25%増える上に、乳を出す期間も平均30日ほど長くなるといいます。アメリカではどの程度の乳牛に使用されているのかについて米農務省(USDA)によると2002年段階で、投与されている乳牛は全体の32%にあたるといいます。(22%、あるいは30%という説もあります)

しかし月2回の注射という作業に加え、1回当たり5.25ドルというコストがかかるため、小規模農家より数百頭〜数千頭の大規模農家の方がこの「ポジラック」を使用する傾向にあります。

結局アメリカでも牛乳はより一層、供給過剰になり、多くの家族経営の酪農家を廃業に追い込みます。遺伝子組み換え作物と同様、ここでもモンサント社の夢の技術を享受できるのは、大規模な企業経営だけです。


◆乳ガン、前立腺ガンを増加させ、抗生物質の投与も増やす!


遺伝子組み換え牛成長ホルモン「rBST」の投与は、インシュリン様成長因子(IGF-1)という成長ホルモンを増加させます。IGF-1は、人間の血液中にも存在している成長ホルモンと組成はまったく同じですが、細胞分裂を引き起こすもっとも強力な成長ホルモンの一つであり、高濃度で摂取すると様々な悪影響があるといわれます。

そして「rBST」を投与された牛の牛乳中のIGF-1は簡単に人間の血液に侵入します。IGF-1は低温殺菌では破壊されない上に、本来なら人間の胃のなかで分解されてしまうのですが、牛乳の中のガゼインというタンパク質がこの分解作用を妨げることによって、胃腸管の中でも生き延び完全なまま吸収されるといいます。

欧州委員会によって設置された科学委員会は、遺伝子組み替え牛成長ホルモンを注射された牛の乳には、IGF-1が高濃度に含まれていることをつきとめました。委員会の報告書はIGF-1の摂取と乳ガンおよび前立腺ガン発生の関係は、疫学的に立証できるとした上で、IGF-1の過剰摂取はガン細胞の細胞死誘発機能を抑制し、ガンの発生と進行を促進する、と警告しています。EUは「rBST」を投与した乳製品・肉の輸入も禁止しています。

カナダも1999年にそれまで10年間続いていた「rBST」の禁止を続行することを発表しました。カナダ保健省が出した報告書によると、「rBST」によって牛の不妊症、四肢の運動障害が増加すると報告しています。

もう一つ問題なのは「rBST」を投与した牛は乳腺炎にかかる率が最大25%も増加したということです。それによって牛の体細胞(膿汁)が牛乳に混じる確率も高くなり、また乳腺の炎症を抑えるために抗生物質が常時投与されてそれが牛乳に残存する可能性も増加することになります。


EUは「rBST」を投与した乳製品・肉の輸入も禁止しています。

これまで「遺伝子組み替え牛成長ホルモン」を認可したのは、ブラジル、南アフリカ、パキスタン、メキシコ、東ヨーロッパなど規制の緩やかな国々です。それに対して、EU15カ国を始めとして、オーストラリア、ニュージーランド、ノルウェーも認可していません。

日本国内におけるrBSTの使用を認可していませんが、それ以上の規制がありません。食品添加物の場合は、規制値が設定されているもの以外は流通禁止の規則があります。ところが家畜のホルモン剤については2種類(ゼラノール、トレボロンアセテート)だけ残留基準値が設定されていますが、逆にそれ以外は原則として流通が自由なのです。

規制値のないホルモン剤と「rBST」が投与された乳製品や牛肉はフリーパスで日本に輸入されています。しかし、残留はあるのか、どの程度の量なのか、その実態はまったく分からないのです。
http://asyura2.com/0601/gm12/msg/391.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/719.html#c1

[環境・自然・天文板6] 「地球温暖化」の虚構 (その二) お天道様はお見通し
26. 中川隆[-14828] koaQ7Jey 2019年11月18日 13:55:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1915]
>>25
大気には何種類もの気体が含まれて。しかも 水−水蒸気 は二相流だから

そんな単純な計算にはならないんだよ

圧縮性流体の方程式には確かに状態方程式は使うけど、シミュレーションでなければ計算できない
http://www.asyura2.com/15/nature6/msg/787.html#c26

[環境・自然・天文板6] 「地球温暖化」の虚構 (その二) お天道様はお見通し
27. 中川隆[-14830] koaQ7Jey 2019年11月18日 14:00:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1917]
僕は親切だから教えてあげるけど

中学生程度の学力で地球温暖化が正しいかどうか検討しても意味無いよ

この問題には関わらない方が自分の為だ
http://www.asyura2.com/15/nature6/msg/787.html#c27

[リバイバル3] 「住宅は資産」という幻想で誰があなたをカモにするのか? 中川隆
263. 中川隆[-14832] koaQ7Jey 2019年11月18日 16:01:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1919]
老後資産を食いつぶす…安易なワンルームマンション投資は絶対やってはいけない理由
https://biz-journal.jp/2019/11/post_127808.html
2019.11.16 文=中村芳子/アルファアンドアソシエイツ代表、ファイナンシャルプランナー Business Journal


「Getty Images」より


 先日、社会人1年目の23歳の女性から「老後に2000万円必要って聞いて不安です。どうしたらいいんでしょう」と相談された。老後の不安が20代にまで広がっているなんて、危険だ。なぜなら、不安は間違いを引き起こすから。彼女には「まずは20代をどう生きるか、そっちが大切。これに取り組もう」と勧めた。

 将来への不安から、保険、不動産、投資商品などを購入すると、かえって悪い結果になったり、詐欺にあってしまったりするから気をつけて! と前回お話しした。なかでも特に気をつけたいのが、ワンルームマンション投資だ。

■昔ながらの不動産投資で、老後に家賃収入を得る方法

 退職にそなえて資産をつくり、引退後の定期収入を得るための昔からのやり方がアパート経営だ。10年前に亡くなった母は中卒だったが、化粧品や下着のセールスパーソンとして人並み以上の収入を得ていた。贅沢はせず、こつこつ貯めたお金で土地を買った。最初は駐車場として貸していたが、晩年そこにローンでアパートを建てた。地方なので家賃は月4万円と安いが、6世帯あるので計24万円。老齢厚生年金のない母の年金は少なかったが、アパートの収入はそれを十分に補ってくれた。

 入居者が決まらなかったり、家賃を払わない人に居座られたり、空室が続いたり、いろいろ苦労したが、まわりが開発されたこともあって、過去15年ほどはずっと満室で、相続した父のよい小遣いの源になっている。地元の不動産会社が月数千円で管理を請け負ってくれているので、煩わしさもない。ただ、数年に一度は、外壁を塗ったり水回りをリフォームしたり、数十万円〜100万円以上の費用はかかっている。

 母の例は、昔ながらの不動産投資のやり方だ。将来性のある場所に安く土地を買い、ローンでアパートを建てて貸す。ローン返済中も少しプラスになる(家賃収入が返済額より少し多い)。ローンが終わったら、家賃収入をまるまる受け取ることができる。そのなかで、アパート経営の苦労も経験する。

 実は、母はもうひとつ別の土地も買っていた。それは「原野商法」、つまり「ここはいま原野ですが、確実な開発計画があるので将来必ず値上がりします」という詐欺だったらしく、価値のない土地に数百万円払っていたようだ。手放したくても、その土地はいまだに売れない。投資に失敗がつきもの、というのも母は教えてくれた。

■昨今の不動産投資 会社員がワンルームマンションを買う

 ところが、昨今の都会の不動産投資は様子が違う。30〜40代の会社員が「老後の収入を準備しよう」「不労所得を得よう」という投資セミナーに出席する。不動産投資がどれほど魅力的かという話を聞く。そして、不動産業者が選んだ物件を、提携金融機関のローンで、業者がすすめるプランで、「頭金ゼロ」で、物件を実際に見ることもなく購入する。

 不動産投資、特に中古ワンルームマンション投資がどれほど魅力的かということをアピールするため、こんなことが謳われている。

1. 利回りが魅力!

 金利ゼロが長く続いている。預金をしても利息はつかないが、不動産投資(中古ワンルーム)の利回りはおおむね4%以上だ。

2. ローンの低金利が魅力!

 今は歴史的な低金利で、おどろくほど低い利息負担でローンが借りられる。

3. 都心の物件が魅力!

 日本全体は人口が減っているが、東京都心にはむしろ人が集まって賃貸物件の需要は高くなっている。この傾向は今後も変わらないだろう。

4. 家賃保証が魅力!

 当社から買ってもらうと家賃保証をつけるので、万一空室になっても家賃収入が入らなくなることはない。

5. 当社の仕入れ力が魅力!

 人気が高く値段が下がりにくい物件を割安に仕入れているので、お買い得だ。

6. 老後の不労所得になるのが魅力!

 現役時代にローンで物件を買い、退職までにローンを返し終えれば、家賃収入が老後の収入源となる。家賃月8万円のマンションを2件持てば月16万円の収入。公的年金(たとえば月16万円)と合わせて、月32万円の収入があれば老後はゆとりのある暮らしが手にはいる。

 いいことばかりだ。もしこれらが真実なら、私だって買いたくなる。

■こんなリスクが見過ごされている

 一方、長く不動産ビジネスに関わっているプロが驚くのは、ワンルームマンションを100%ローンで買うことが勧められているからだ。昔ながらの不動産投資は10〜50%の頭金を入れるのが常識だし、ワンルームマンションは、人気が落ちると半額になるといわれている。ここでは、100%ローン、自己資金なしで投資した場合のリスクを考えてみよう。

・リスク1. 毎月持ち出しになる

 たとえば、家賃が月7万円、2000万円の中古マンション。登記費用や各種手数料の数十万円は現金で払うが、頭金はゼロ。不動産ローン2000万円というプラン。金利2%、30年なら毎月の返済額は7万4000円となる。管理費を差し引いた手取りの家賃収入を6万5000円とすると、毎月9000円の赤字だ。月9000円の出費(持ち出し)でワンルームマンションを手に入れられるなら安いもの、だろうか? このほかに毎年10万円前後の(物件により違う)固定資産税がかかるのも忘れてはいけない。

・リスク2. 年数が経ち建物が古くなると家賃は安くなる

 今は家賃7万円でも物件が古くなると、入居者が入れ替わるタイミングで家賃が少しずつ下がるのが普通。投資物件を手がける会社の多くは、管理も請け負って「家賃保証」をつけている。入居者があってもなくても「月7万円」を保証してくれる。

 でも気をつけて!家賃保証の期間はローン期間と同じ(30年)でも、たいてい保証家賃の金額は2年ごとに見直されることになっている。2年ごとに数千円ずつ家賃収入が減るリスクがあるということ。月9000円の持ち出しが、将来1万2000円、2万円と膨らんでいくリスクがある。しかも保証しているのは不動産会社。その会社が倒産したり営業をやめれば、保証はなくなる。このリスクも忘れないこと。

・リスク3. 中途売却で大損するかも

 多くの会社員は「今の仕事、収入が定年まで続くだろう」とのんきに考えている。でも人生何があるかわからない。外国の人と恋に落ちて日本を出ることになるかもしれない。会社が統合されたり倒産したりで、職を失うかもしれない。家族や自分の病気や事故で、転職や退職を余儀なくされるかもしれない。さまざまな理由で、物件を3年後、5年後、10 年後に売らなければならなかったり、売りたくなるかもしれない。

 その時に値下がりしていたらどうなるか。いや、そもそも割高に買っている(売りつけられている)可能性は高い。2000万円で買ったマンションを5年後に売ろうとしたら、1500万円でしか売れない可能性は十分ある。「値下がりしにくい物件」と勧められても、世界も日本も何が起こるかわからない。不動産市場が急に冷えることだってある。 

 損は500万円にとどまらない。購入時の各種手数料は計100万円を超える。合わせて600万円を超える損になる。売るときのお金のやりくりも大変。5年後のローン残高は1744万円。売るときの各種手数料の合計が70万円だったら314万円の持ち出し。貯金から出すか、別にローンを手当てしなくちゃいけない。

・リスク4. 退職後も終わらない30年ローン

「老後の不労所得」をうたいながら、45歳の会社員に30年ローンをすすめている。65際の退職後もローン返済が10年続く。これでは老後の足しにならない。最長のローンを勧めるのは、不動産会社と銀行の利益が一致するから。銀行はより高額のローンを借りてもらえる。不動産会社はより高い物件を買ってもらえる。自宅を買うときも同じだから覚えておいたほうがいい。銀行が貸してくれる金額は、自分が返せる金額とイコールじゃない。

・リスク5. 複数戸投資でリスクがさらに大きく

 退職年齢の65歳を過ぎてもローンを返し続けるプランの場合、物件を2つ以上勧められることがある。1つを売った代金でローンの残債を返済すればいい、という作戦。恐ろしい。

 たとえば、先の2000万円の物件を2つ30年ローンで買うと、20年後のローン残高は800万円ずつ。1戸を1600万円で売れば、手元に残ったお金(売却価格1600万円−ローン残800万円 = 残るお金800万円)でもう1戸の残債を払えます、という計算だ。これは20年後に価格がほとんど下がらない前提であり、リスクはとても大きい。一方を売っても、片方の残債を払えないリスクはとても高い。この手法は絶対に勧めない。

・リスク6. 見ないで買う

 不動産投資セミナーがきっかけでワンルームマンションを買った人たちのなかには、物件を見ていない人も少なくない。不動産は金融商品じゃない。物件を見ないで買うことは、ありえない。何より、物件は土地勘がある場所で選ぶべきだ。駅からの距離、どんな人が住んでいるか、管理の状況、まわりの環境(安全性、買い物、公園、病院ほか)、自分だったら住みたいか、自分の子どもを住まわせたいかという視点からも見てみる。土地勘があれば、不動産が値下がりしたときや入居者が入らなかったとき、どうするかの判断を自分ですることができる。これはとても大切だ。

 近隣で同じような物件がいくらで取引されているかも必ず確認しよう。良心的な業者ならそのデータを見せてくれる。物件に案内しないで売買契約を結ぼうとする業者は、絶対信用してはいけない。

■「金持ち父さん」のやり方は全然違った

 アメリカや日本で不動産投資ブームを巻き起こした、ロバート・キヨサキ著の『金持ち父さん 貧乏父さん』を久しぶりに開いてみた。キヨサキ氏が実践していた不動産投資の基本は、こうだ。

(1)まわりの人たちが見逃している価値ある物件を見つける

(2)それを、市場価格(実際の価値)より安く買う

(3)リフォームなど自分で手をかけて価値を上げる

(4)賃貸に出す

(5)頭金を入れて買い、賃料収入からローンを払っても月々プラス(小遣い)にする

(6)不動産の価値が上がったら、売って値上がり益もとる

 この本を読んで不動産投資に手を出した人を、日本やアメリカで何人か知っている。成功した人もいれば、失敗した人もいる。不動産投資には、向き不向きがある。物件の魅力を見つけられる人、市場の動きを読める人、人と違う情報源がある人なら儲けられる。そうでなければ、利益を出すのは難しい。

 頭金が少ないほど投資のリスクは高くなる。100%ローンの不動産投資は会社員、初心者には絶対に勧めない。プロだって100%借り入れの投資には簡単に手を出さない。リスクの怖さを知っているからだ。

 保険でも株式投資でも「勧められるまま」に買って成功した人はいない。不動産も同じ。自分で勉強する。その一歩は、できるだけたくさんの物件を自分の目で見ること。投資セミナーは販売促進セミナーなので、そこでの情報を真に受けてはいけない。すぐに個人情報を渡さないことをお勧めする。

 次回は、それでも老後のために不動産投資をしたい人のために、基本の基本をお話ししよう。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/615.html#c263

[議論31] 工作員の手引き書! AN
2. 中川隆[-14831] koaQ7Jey 2019年11月18日 18:31:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1918]
現在の中国には五毛党(1件当たり5毛<約6円>の報酬で、中国政府に有利な発言をネット上に書き込む世論工作員)や、「自乾五(自発的に政府擁護の論陣をネットで展開する中国ネットユーザー)」がいる。

義和団は清朝に反対する人々を「漢奸(売国奴)」と呼んだが、五毛党や自乾五も中国政府と異なる意見を持つ者を「漢奸」呼ばわりしている。
http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/548.html


▲△▽▼


阿修羅掲示板で毎日毎日嘘八百のデマを垂れ流している自称赤かぶ氏は明らかに中国の工作員グループですね。


赤かぶ=中国の工作員グループ

は真実を隠蔽し埋没させる為に毎日毎日必死の工作活動をしているのです

http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/707.html#c2

   前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > dGhQLjRSQk5RSlE= > 100095  g検索 dGhQLjRSQk5RSlE=

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。