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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100287
http://www.asyura2.com/acpn/k/ko/koa/koaQ7Jey/100287.html
[社会問題10] 「日本:首相が強制不妊手術の被害者たちに謝罪する」(RFI・首相官邸) 無段活用
1. 中川隆[-10525] koaQ7Jey 2019年4月28日 23:16:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1561]
卵巣だけでなく子宮も取ったから髭が生えて来たみたいだね
http://www.asyura2.com/18/social10/msg/195.html#c1
[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
198. 中川隆[-10524] koaQ7Jey 2019年4月29日 07:29:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1562]

株価が売上高より大きく動く理由は3つ
塚崎公義(久留米大学商学部教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15983


 今回は『老後破産しないためのお金の教科書』の著者である塚崎が、株価が売上高より大きく動く理由を説明します。

 企業の売上高が2割も3割も増減する事は稀ですが、株価が2割も3割も上下する事は珍しくありません。その理由は大きく分けて3つあります。「固定費があるから」「借金があるから」「美人投票だから」です。


(zoom-zoom/gettyimages)

固定費があるから会社の利益は大きく変動する

 まずは、「会社の売り上げが少し増えると会社の利益が大きく増える」というメカニズムについてです。利益が大きく増えれば、株価が大きく値上がりする可能性は高くなりますから。

 会社の利益は売上から費用を引いたものですが、費用の中には売上が増えても減っても変わらないものがあります。たとえばレストランは、客が来ても来なくても店を借りる費用や社員の人件費などがかかります。これを固定費と呼びます。

 一方で、売り上げが増えると連動して増える費用もあります。レストランの材料費などですね。これを変動費と呼びます。

 いま、レストランの固定費が9万円だとします。レストランは1500円の定食を提供していて、その材料費(=変動費)は500円だとします。

 客が一人も来ないと、9万円の赤字です。客が一人来て、1500円の売上を得ると、変動費を差し引いて1000円の利益が出ますから、赤字が8万9000円になります。客が90人来ると、赤字が消えます。この点を損益分岐点と呼びます。

 客が100人来ると、収入が15万円、固定費が9万円、変動費が5万円ですから、差し引きの利益は1万円です。客が110人だと同様に計算して利益は2万円です。なんと、客数が100人から110人に1割増えただけなのに、利益は2倍になっているのです。

 このように、普通の会社には、売り上げが少し増える(減る)と利益が大きく増える(減る)メカニズムが働いているわけです。


借金があると株主の儲けは大きく振れる

 次に、「会社の売り上げが少し増えると株主の持分が大きく増える」というメカニズムについてです。株主の持分が大きく増えれば、株価が大きく値上がりする可能性は高くなりますから。

 上記のレストランが株式会社で、資本金9万円、無借金だとします。固定費は資本金で、変動費は売上金で賄おう、ということですね。

 客が100人来て利益が1万円稼げると、株主の持分は、資本金の9万円に利益の1万円を加えた10万円になります。客が110人来て利益が2万円稼げると、株主の持分は9万円プラス2万円で11万円になります。客数が10%増えると、株主の持分も10%増えます。

 売り上げもメニューも全く同じ内容のレストランが今ひとつあったとします。ただし、資本金は4万円で、銀行借り入れが5万円です。

 客が100人来て利益が1万円稼げると、株主の持分は4万円プラス1万円で5万円になります。客が110人来て利益が2万円稼げると、株主の持分は4万円プラス2万円で6万円になります。客数が10%増えると、株主の持分は20%増えるのです。

 銀行借り入れをしている企業の方が、客数が増えた時の持分の増加率が高いのです。もちろん、客数が減った時の持分の減少率も高いので、どちらが得だとは言えませんが。

 なぜそんなことが起きるかと言えば、銀行には「儲かっても損しても、決められた利息を払う」という契約だからです。店の半分は自分の資本金で、残りの半分は銀行からの借金で借りているわけですが、借金で借りている店からの利益(または損失)も株主のものになるわけですね。

 まあ、自己資金10万円で株を買っている人と、自己資金10万円プラス借金10万円で20万円分の株を買っている人では、利益も損も後者が2倍ですから、それと同じことだと考えれば良いのでしょうね。

 余談ですが、資本金9万円の無借金会社と、資本金4万円で借金5万円の会社を比較すると、(銀行への利払いを考えなければ)利益額は同じですから、株主が支払った金額に対して後者の方が効率よく稼いでいることになります。これが「ROE(Return on Equity)が高い会社」というわけです。もっとも、会社が赤字になれば、ROEのマイナス幅が大きい会社になってしまいますが。

 この場合、売上高が少し増減するとROEが大きく上下することになります。つまり、投資家にとってはハイリスク・ハイリターンになる、というわけですね。


美人投票で株価は大きく動く場合あり

 株価は美人投票です。したがって、「売上と利益が増えた。来期も増えそうだ」といった決算発表に対し、「他の投資家たちも買うだろうから、株価は上がるだろう。他の投資家たちが買う前に、自分も買おう」と考える投資家が多いと、株価は大幅に値上がりすることになります。

 増収増益が続くとなると、当該企業が成長企業だという認識が投資家の間で広まるかも知れません。そうなると、将来の巨額の利益を期待して買おうという投資家も増えるかもしれません。

 もっとも、固定費と借金が確実に利益や株主持分の振れ幅を大きくし、株価の大幅な変化につながるのとは異なり、美人投票の世界では投資家たちが何を考えるか、によって影響が大きく出たり小さく出たりすることになりますので、ケース・バイ・ケースということになるのでしょうね。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15983


2018年10月15日
金融緩和で株価は上がる?「黒田教」信者が信仰を続けたワケ
塚崎公義(久留米大学商学部教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/14211


 今回は『老後破産しないためのお金の教科書 』の著者である塚崎が、「株式市場は美人投票」と言われる理由について解説します。

 「株式市場は美人投票だ」と言われます。経済学者ケインズの言葉なのですが、その意味を知っている人は意外と少ないようです。以下、厳密ではありませんが、イメージを掴んで頂けるように説明して行きます。

 現在の美人投票は、審査員が壇上の女性を見て、美人だと思った候補に投票し、最も得票の多かった候補が優勝してトロフィーを受け取ります。しかし、ケインズの時代の美人投票は、優勝した候補のみならず、その候補に投票した審査員も「美的センスが高い」という賞品がもらえましたから、話は複雑でした。

 自分が美人だと思っても、他の審査員がそう思わなければ、その候補は優勝しませんから、その候補に投票しても賞品はもらえません。賞品が欲しければ、他の候補が投票しそうな候補に投票すべきなのです。

 そうなると、他の審査員たちの審査基準が気になります。顔だけ見るのかスタイルも見るのか、目に注目するのか口元に注目するのか。他の審査員が見ていないポイントをチェックしても仕方ありませんから。

 さらに言えば、審査員たちは壇上の候補を眺めるよりも、審査員席の噂話を気にするようになります。「どの候補が優勝するという噂が流れているのか」という情報が最も価値があるわけです。その噂に沿って皆が投票するでしょうから、噂通りの結果になる可能性が高いからです。

 場合によっては、「候補Cが審査員に賄賂を贈ったらしいからCが勝つだろう」という噂が流れて、審査員たちが「Cが勝ちそうだからCに投票しよう」と考えて、実際にCが勝つかもしれません。そして、重要なことは、その噂が嘘であっても審査員が信じればCが勝つということです。

 審査員の中にCの親友がいて、Cが賄賂を贈っていないことを知っていたとしても、Cに投票するのが賢い行動です。真実を知っているから儲かるという訳ではありませんから。

 株式市場も、上記と同様だ、というのがケインズの教えです。株式投資で儲けようと思ったら、何が真実かを探求するのではなく、他の投資家が何に投資するのかを探るべきだ、というのです。

 一歩進めると、経済統計などで何を見たら良いのか、ということにも関わってきます。たとえば、市場関係者は金融政策に強い関心を持っています。金融が緩和されるという噂が立つと株価が上がるからです。したがって、日銀総裁の発言などには投資家たちが強い関心を示します。


 一方で、たとえば鉱工業生産指数は、景気を語る上では重要な経済指標ですが、投資家たちの注目度は、いまひとつです。それは、投資家たちが「他の投資家たちが鉱工業生産に注目していないので、鉱工業生産が発表されても株価は動かないだろう。それなら自分も見る必要はなさそうだ」と思うからです。

 こうして、皆が注目するものは一層皆が注目し、皆が注目しないものは一層注目されなくなる、というわけです。

 筆者は、株価等々ではなく景気そのものを観察して予測する「エコノミスト」なので、日銀総裁の発言や日銀短観の大企業製造業業況判断DIといった市場関係者の注目度の高いものよりも、鉱工業生産等々の方を見るようにしていますが、これは関心や目的の違いによるものであって、どちらが正しいという物ではありません。読者も、関心によって何に注目するかを決めれば良いのです。

 アベノミクスが始まり、黒田東彦日銀総裁が異次元の金融緩和を宣言した時、株価は上昇しました。宣言しただけで、未だ金融緩和が実施される前から株価が上昇したのは、投資家たちが「世の中に資金が出回るから株価が上がるだろう。その前に買っておこう」と考えて買い注文を出したからです。本稿では、彼らのことを「黒田教信者(失礼)」と呼ぶことにします。

黒田日銀総裁は間違えていると、知っていた

 しかし、筆者を含む銀行関係者は「日銀が金融を緩和しても世の中には資金は出回らない。黒田日銀総裁は間違えている」と知っていました。では、銀行関係者は株を買わなかったでしょうか。そんなことはありません。

 ちなみに、筆者は零細投資家として、株式に投資をしています。そこで、黒田日銀総裁が就任した時、株を買いました。元手は小さかったですが、おかげさまでそこそこ儲かりました。

 なぜ買ったのかといえば、上記のように、美人投票に於いては、他の投資家が買う物を他の投資家より先に買えば良いのであって、他の投資家が信じている事が正しいか否かは関係ないからです。


黒田教信者は、よりいっそう黒田教を信じるようになった

 少し難しくなりますが、黒田教の美人投票では、不思議なことが二つ起こりました。景気が回復して株価上昇が正当化されたこと、それによって黒田教信者が、よりいっそう黒田教を信じるようになったこと、です。

 多くの銀行員は「世の中に資金が出回らないのを見て、黒田教が誤りだと人々が気付けば、株価は下がるだろう」と思っていました。しかし、そうはならなりませんでした。アベノミクスにより景気が回復し、企業収益が増えたので、美人投票で上がりすぎた株価に企業収益が追いついてしまったからです。

 それを見た黒田教信者たちは、「やはり金融を緩和すると株価が上がるのだ」と考えて、いっそう黒田教を信じるようになったのです。「途中経過の説明が間違っていても、結果が合っていればそれを信じた方が得だ」ということなのでしょうね。

 なお、重要なことは、株価が美人投票なのは、短期投資をする場合であって、長期投資をする場合には違う、ということです。10年持っているつもりで株を買うならば、他の投資家のことは考えずに、「この会社は10年後も利益を出し続けているだろうか」「この会社は今後10年で大きくて立派な会社に成長するだろうか」を考えていれば良いのです。

 他の投資家の動向は、噂や思惑で動きますが、「他人の噂は75日」ですから、長期投資には関係ないと考えましょう。

 その意味では、他人の噂の変化を予想する短期投資より会社の将来を予想する長期投資の方が、ある意味で簡単かもしれませんし、運より実力の世界だと言えそうですね。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/14211
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c198

[近代史3] マスコミの偽情報 _ CIA は有力メディアを情報操作のために使っている 中川隆
6. 中川隆[-10523] koaQ7Jey 2019年4月29日 07:34:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1563]

2019.04.29
マスコミは広告主や広告会社に弱い


 民間放送局が広告収入で成り立っていることは言うまでもないが、日本の新聞や週刊誌も購読料で儲けているわけではないようだ。利益の大半を広告収入に頼っていると言われている。購読料は配達などの経費で消えてしまうらしい。広告主のマスコミに対する発言力は大きいということである。

 マスコミの経営者は「社会の木鐸」でも「言論の自由」を守っているわけでもない。カネ儲けを目的としている。手間暇かけて中身のある報道してスポンサーと喧嘩するより、スポンサーや政府などが望む情報を流していた方が楽。それを見越してマスコミを操ろうとする人は飴と鞭を使い分ける。そうした傾向は1980年代から強まった。

 2008年11月12日にトヨタ自動車の相談役だった奥田碩は首相官邸で開かれた「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」で、「正直言ってマスコミに報復してやろうか。スポンサーでも降りてやろうか」と発言している。年金や保険の問題を批判的に取り上げているマスコミを不愉快に感じたようだ。マスコミの編集権に経営者が介入するやり方があるとも奥田は口にした。

 広告会社の影響力も強い。電通の場合、視聴率をコントロールできると言われ、それは放送局の収入に直結する。オリンピックなど大きなイベントでも利権を握っているという。かつては電力会社もマスコミの懐を潤す存在だった。そのひとつの結果としてマスコミは原発の「安全神話」を広めたわけだ。

 その神話は2011年3月11日の東電福島第1原発の事故で崩壊する。その日、炉心が溶融する大事故が引き起こされたのだ。そして日本中の原発が止まる。その停止した原発を安倍晋三政権は再稼働させようとしている。

 福島県には第1原発のほかに第2原発があるが、その第2原発で1989年1月6日にトラブルが発生している。冷却水再循環ポンプ内にボルトや座金が脱落、それが原子炉内に流入するという重大な事故だった。前年の暮れからポンプ内で振動があり、警報も鳴っていたのだが、東電の指示で運転を続けた結果だと言われている。

 これだけの事故であるにもかかわらず、東電や国は県へ速やかに報告していない。2002年8月には東電による点検記録の改竄を国が報告していなかったことを知る。当時の知事、佐藤栄佐久が怒り、プルサーマル計画の了承を取り消して東電管内の原発稼働を拒否した。

 佐藤知事が再稼働を認めたのは2006年7月。その時、知事の弟の祐二が土地取引に関して検察から取り調べを受けている。9月に祐二は逮捕され、県議会内では知事の辞職を求める声が高まった。そして10月、佐藤栄佐久は東京地検特捜部に収賄の容疑で逮捕される。懲役2年、執行猶予4年の判決が確定しているが、裁判の記録を読むと、冤罪だった可能性が高いと言わざるをえない。警察、検察、裁判所は支配システムの一部だと言うことを忘れてはならない。

 福島第1原発の事故後、日本中の原発が停止する。政府や電力会社は早く再稼働させようと目論むが、そのターゲットのひとつが東電の柏崎刈羽原発。

 その当時の新潟県知事、泉田裕彦は通産省(現在の経産省)出身だが、原発の再稼働は拒否する。2016年の知事選挙にも立候補する意向を示していたが、地元の新潟日報が中古フェリー購入に関する疑惑を報道して知事を攻撃、泉田はその報道を否定したものの、立候補を撤回した。現在は衆議院議員を務めている。

 その選挙で当選した米山隆一も再稼働に反対、県独自で福島第1原発事故などの検証作業を進めるのだが、2018年4月に週刊文春が知事の女性問題に関する記事を掲載、それが原因で辞任する。そして行われた2018年の選挙では自民党と公明党が支持する花角英世が当選した。

 巨大利権の原発を日本へ導入する際、中心的な役割を果たしたのは中曽根康弘である。中曽根たちは1954年3月2日、2億3500万円という原子力予算案が国会に提出している。

 中曽根が出世階段を登り始めるのは1950年だと言われている。スイスで開かれるMRA(道徳再武装運動)の世界大会へ出席したのだが、この団体はアメリカの「疑似宗教団体」で、CIAの別働隊だと見なされている。日本人としては岸信介や三井本家の弟、三井高維らが参加していた。

 そのMRAで中曽根はヘンリー・キッシンジャーなどCFR(外交問題評議会)のメンバーと知り合うことにも成功、1953年にはキッシンジャーが責任者を務めていた「ハーバード国際セミナー」に参加している。

 キッシンジャーがセミナーの責任者に選ばれたのはハーバード大学を卒業した直後の1950年だが、大学へ入る前に彼は軍のCIC(対敵諜報部)で活動しただけでなく、破壊工作(テロ)組織のOPCにも所属していたと言われている。OPCは後にCIAの秘密工作部門になる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904290000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/330.html#c6

[近代史3] マスコミは何時からフェイクニュースを流す様になったのか 中川隆
11. 中川隆[-10522] koaQ7Jey 2019年4月29日 07:34:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1564]

2019.04.29
マスコミは広告主や広告会社に弱い


 民間放送局が広告収入で成り立っていることは言うまでもないが、日本の新聞や週刊誌も購読料で儲けているわけではないようだ。利益の大半を広告収入に頼っていると言われている。購読料は配達などの経費で消えてしまうらしい。広告主のマスコミに対する発言力は大きいということである。

 マスコミの経営者は「社会の木鐸」でも「言論の自由」を守っているわけでもない。カネ儲けを目的としている。手間暇かけて中身のある報道してスポンサーと喧嘩するより、スポンサーや政府などが望む情報を流していた方が楽。それを見越してマスコミを操ろうとする人は飴と鞭を使い分ける。そうした傾向は1980年代から強まった。

 2008年11月12日にトヨタ自動車の相談役だった奥田碩は首相官邸で開かれた「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」で、「正直言ってマスコミに報復してやろうか。スポンサーでも降りてやろうか」と発言している。年金や保険の問題を批判的に取り上げているマスコミを不愉快に感じたようだ。マスコミの編集権に経営者が介入するやり方があるとも奥田は口にした。

 広告会社の影響力も強い。電通の場合、視聴率をコントロールできると言われ、それは放送局の収入に直結する。オリンピックなど大きなイベントでも利権を握っているという。かつては電力会社もマスコミの懐を潤す存在だった。そのひとつの結果としてマスコミは原発の「安全神話」を広めたわけだ。

 その神話は2011年3月11日の東電福島第1原発の事故で崩壊する。その日、炉心が溶融する大事故が引き起こされたのだ。そして日本中の原発が止まる。その停止した原発を安倍晋三政権は再稼働させようとしている。

 福島県には第1原発のほかに第2原発があるが、その第2原発で1989年1月6日にトラブルが発生している。冷却水再循環ポンプ内にボルトや座金が脱落、それが原子炉内に流入するという重大な事故だった。前年の暮れからポンプ内で振動があり、警報も鳴っていたのだが、東電の指示で運転を続けた結果だと言われている。

 これだけの事故であるにもかかわらず、東電や国は県へ速やかに報告していない。2002年8月には東電による点検記録の改竄を国が報告していなかったことを知る。当時の知事、佐藤栄佐久が怒り、プルサーマル計画の了承を取り消して東電管内の原発稼働を拒否した。

 佐藤知事が再稼働を認めたのは2006年7月。その時、知事の弟の祐二が土地取引に関して検察から取り調べを受けている。9月に祐二は逮捕され、県議会内では知事の辞職を求める声が高まった。そして10月、佐藤栄佐久は東京地検特捜部に収賄の容疑で逮捕される。懲役2年、執行猶予4年の判決が確定しているが、裁判の記録を読むと、冤罪だった可能性が高いと言わざるをえない。警察、検察、裁判所は支配システムの一部だと言うことを忘れてはならない。

 福島第1原発の事故後、日本中の原発が停止する。政府や電力会社は早く再稼働させようと目論むが、そのターゲットのひとつが東電の柏崎刈羽原発。

 その当時の新潟県知事、泉田裕彦は通産省(現在の経産省)出身だが、原発の再稼働は拒否する。2016年の知事選挙にも立候補する意向を示していたが、地元の新潟日報が中古フェリー購入に関する疑惑を報道して知事を攻撃、泉田はその報道を否定したものの、立候補を撤回した。現在は衆議院議員を務めている。

 その選挙で当選した米山隆一も再稼働に反対、県独自で福島第1原発事故などの検証作業を進めるのだが、2018年4月に週刊文春が知事の女性問題に関する記事を掲載、それが原因で辞任する。そして行われた2018年の選挙では自民党と公明党が支持する花角英世が当選した。

 巨大利権の原発を日本へ導入する際、中心的な役割を果たしたのは中曽根康弘である。中曽根たちは1954年3月2日、2億3500万円という原子力予算案が国会に提出している。

 中曽根が出世階段を登り始めるのは1950年だと言われている。スイスで開かれるMRA(道徳再武装運動)の世界大会へ出席したのだが、この団体はアメリカの「疑似宗教団体」で、CIAの別働隊だと見なされている。日本人としては岸信介や三井本家の弟、三井高維らが参加していた。

 そのMRAで中曽根はヘンリー・キッシンジャーなどCFR(外交問題評議会)のメンバーと知り合うことにも成功、1953年にはキッシンジャーが責任者を務めていた「ハーバード国際セミナー」に参加している。

 キッシンジャーがセミナーの責任者に選ばれたのはハーバード大学を卒業した直後の1950年だが、大学へ入る前に彼は軍のCIC(対敵諜報部)で活動しただけでなく、破壊工作(テロ)組織のOPCにも所属していたと言われている。OPCは後にCIAの秘密工作部門になる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904290000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/119.html#c11

[近代史3] チャンネル桜の常連の三橋貴明はチャンネル桜関係者の受け売りしかできないアホだった 中川隆
4. 中川隆[-10521] koaQ7Jey 2019年4月29日 08:24:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1565]

2019年4月29日
【三橋貴明】古代史分野の三橋貴明

三橋は別に経済学者でも経済評論家でも
エコノミストでも官僚でも政治家でもない、
ただの経営者です。

が、なぜか日本国に蔓延する「経済の嘘」を暴き、
正しい情報を広めることが仕事の一部になってしまっています。

理由はもちろん、財政破綻論をはじめ、
日本で蔓延している経済関連の情報が
「嘘だらけ」であるためです。

「日本は財政破綻する」
「日本は公共事業をやり過ぎて、借金が膨れ上がった」
「日本は輸出依存国。日本経済は中国に依存している」
「日本は人口減少で衰退する。人口減少している国の経済は成長しない」
「日本の公務員は多すぎる」

などなど、国内では嘘八百の情報が流通していましたが、
誰も「根拠」「ソース」「データ」を示さなかった。

というわけで、三橋がデータに基づき、
上記の嘘を暴いていったところ、
やたら受けてしまったのです。

恐ろしいことに、三橋以前の日本では、
データに基づき経済を論評するというスタイル
そのものが存在しないに等しかったのです。

まあ、理由は分かるのです。
何しろ、インターネットが発展し、
官公庁がWEBにアップし始める前は、

そもそも一般人が
データにアクセスすること自体が難しかったのです。

というわけで、一般人がデータに基づき発言する際には、
新聞の切り抜きを持ち歩かなければならなかった。

もっとも、新聞の記事やグラフにしても、
一時データではないため、何らかの情報操作が
なされている可能性はありました。

ちなみに、三橋が作成する膨大なグラフについて、
ある高齢の方が「一体何人のスタッフを雇っているんですか!」
と驚嘆していましたが、一人でやっています。

正直、インターネット以前の「グラフ作成業務」と、
三橋の作業では、生産性が数百倍は違うと思います。

ところで、同じく
嘘情報が蔓延してしまっているのが、歴史分野です。

特に、古代史の分野については、
歴史学者の嘘が目を覆いたくなるほど
凄まじいレベルに達しています。

昨日も書きましたが、
日本の歴史学者は古代史の基本資料である
古事記や日本書紀を無視するというか、
根拠なく否定するのです。
(その割に、中国の史書はやたら妄信する)

日本国の情報を正すために、
歴史分野においても「嘘を暴き、拡散する」
必要があると考えていたのですが、
実はこの分野には先駆者がいらっしゃいます。

「日本人ルーツの謎を解く」などの著作を出されている、長浜浩明氏です。
https://amzn.to/2L6LozM

長浜氏のスタイルは、
経済分野における三橋と酷似しています。

一次ソースから素直に「歴史」を読み解き、
現代の自虐歴史学者たちの欺瞞を次々に暴いていく。

何しろ、単にソースデータを読み解いているに過ぎないため、
長浜氏が発する「情報」は、誰も否定できません。
しかも、インターネットにより、
誰でもソースデータを確認出来てしまうのです。

自分とスタイルが似ているためというわけではないですが、
三橋は以前から長浜氏の大ファンです。

というわけで、三橋経済塾第八期第八回講義(19年8月)
のゲスト講師として、長浜氏にお願いし、
快くお引き受け頂きました(超嬉しかった!)。

それはともかく、三橋は長浜氏の後追いの形で、
ソースデータに基づき古代史を
「正す」お仕事を増やしていきます。

第一弾として、三橋初の本格的な歴史的なコンテンツ「経世史論」をリリースしました。

【経世史論〜「正しい祖国の歴史」を学び、「現代」を読み解く〜】
http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/


▲△▽▼

【三橋貴明】古代史分野の三橋貴明への2件のコメント

嘘は許さない より 2019年4月29日 8:07 AM

>特に、古代史の分野については、 歴史学者の嘘が目を覆いたくなるほど凄まじいレベルに達しています。

チャンネル桜関係者や水島総社長の問題は

人類学、遺伝学、考古学、民族学、神話学や歴史学の研究者は全員極左なので言う事は一切信用できない

という判断をしていて、

西岡力や渡部昇一の様な詐欺師や田中英道の様なパラノイアのキチガイだけを出演させて嘘八百のデマを拡散している事なんですね。

南京大虐殺や慰安婦・徴用工強制連行は既に証明されていて否定できる筈もないのに、詐欺師の詭弁で視聴者を騙そうとしている。

そもそも、吉田清治さんの慰安婦強制連行の証言でも、歴史学会では疑っている人は昔から殆ど居ないのに、まだ詐欺師呼ばわりしているんですね:

経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html

___

嘘は許さない より 2019年4月29日 8:14 AM


今は遺伝子ゲノムすべてを調べているから長浜浩明氏みたいな一昔前の話は通用しなくなっているんだよ:

サイエンスZERO 動画
日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
https://www.dailymotion.com/video/x6zpgpj

弥生人は韓国人に近い遺伝子だと思われてたが今回の調査で違うことがわかった

大がかりなDNA解析による新情報では弥生人の初期は縄文人に近い遺伝子だったが集団の戦いなどで弥生人は時代が進むにつれて韓国人のDNAに近づいて 現代日本人はほとんど韓国人のDNAと一緒になった

これ旧日本人が韓国人に大虐殺された後に中出しレイプされて生まれたのが俺たち現代日本人ってことになるぞ

ナレーション(弥生人の核DNA分析から予想された現代日本人の位置は ここ。弥生人同士がまじわって 現代日本人が成立したと考えられるからです。ところが…。)

篠田謙一:実はですね 現代日本人はもう既に この辺りだということが分かったんですね。つまり 弥生人って 混血していけば恐らく 混血する相手はこの縄文人になりますから当然 現代日本人の位置っていうのはこちらに ずれてくるはずなんですよね。ところが そうならなくてこっちに来てしまったということで ちょっと 考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり こっち(韓国人)に引っ張る 何かがなければいけないということになるんですね。

小島瑠璃子:てことは 韓国とか あとは大陸の方と多くまじわりながら人口を増やしてったのが私たちってことですか?

篠田謙一:そういうことになると思うんです。

小島瑠璃子:え〜!
https://38news.jp/default/13556



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/374.html#c4

[近代史3] チャンネル桜の常連の三橋貴明はチャンネル桜関係者の受け売りしかできないアホだった 中川隆
5. 中川隆[-10520] koaQ7Jey 2019年4月29日 09:19:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1566]
あなたのコメントは承認待ちです。 2019年4月29日 9:17 AM


長浜浩明氏の嘘は amazon のカスタマーレビューでも指摘されていますね:

古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/374.html#c5

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
182. 中川隆[-10519] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:15:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1567]
古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RCQT9M0397NL/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4886563694


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c182

[近代史02] 弥生人の起源2 中川隆
25. 中川隆[-10518] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:15:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1568]

古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RCQT9M0397NL/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4886563694


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/549.html#c25

[近代史3] 日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか? 中川隆
34. 中川隆[-10517] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:16:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1569]

古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RCQT9M0397NL/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4886563694


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html#c34

[近代史3] 天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統 中川隆
1. 中川隆[-10516] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:18:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1570]

天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統


「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

____


古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


____


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RCQT9M0397NL/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4886563694


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/316.html#c1

[近代史3] 天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨 中川隆
13. 中川隆[-10515] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:20:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1571]
古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RCQT9M0397NL/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4886563694

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html#c13

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
82. 中川隆[-10514] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:51:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1572]

天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統

外務省創価グループ、宮内庁とそのバックにいる CIAが 必死にデマを拡散していますが、天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統です。

昔は年上の兄弟はどんどん他の土地へ出て行って、末弟が最後まで実家に残るので
末弟に家を継がせるのが普通だったのですね:

「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

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古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3


内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
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皇位継承


7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,

16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,

仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で,兄弟相続が多い。

応神・仁徳を境として,皇位継承の原則に大きな変化が起こっているように見える。
しかし,父子直系相続は7世紀末以降の天皇の目ざした皇位継承法であり,兄弟相続は日本固有の継承法であることからすると,応神以前の直系相続は記紀編纂の過程で作為された可能性が強い。

また,記紀にみえる天皇の名称をみると,

7,8,9代の孝霊,孝元,開化と41,42,43,44代の持統,文武,元明,元正はヤマトネコ,

10,11代の崇神,垂仁はイリヒコ,

12,13,14代の景行,成務,仲哀と34,35代の舒明,皇極はタラシヒコ(メ),

15,17,18代の応神,履中,反正と38代の天智はワケ,

27,28,29代の安閑,宣化,欽明はクニオシ


という称をもつというように時期により特色があり,それらを検討すると

7〜9代の名称は持統以下の名称を手本に,
12〜14代の名称は舒明,皇極の名称を手本にして作られた

と推定される。

これに加えて記紀には9代までの天皇の事績については神武以外ほとんど所伝がないこと,10代の崇神が初代の天皇を意味する所知初国(はつくにしらす)天皇の称号をもつことなどから,9代までの天皇の実在性は疑われている。

10代以後も,皇居や陵墓の所在地や称号の変化などから,10〜12代の天皇は大和を根拠としていたが,15〜25代の天皇は河内平野を主要な根拠地とする別系統の天皇ではないかとして,前者を三輪政権(初期大和政権),後者を河内政権と呼ぶ説もある。

同様に26代の継体以後の天皇もそれまでとは別系統の天皇とする説もある。

これらの説に従えば,古代の皇位継承は,10代の崇神以後2度断絶したが,6世紀中葉以降に,万世一系の思想により崇神からはじまる一系統の系譜にまとめ,さらに崇神以前の系譜をつぎ足したということになる。

しかしこれも一つの解釈ないし仮説であって,古代の皇位継承にはなお多くの疑問が残っている。
→王朝交替論
[直木 孝次郎]

皇嗣の冊定

大化以前の皇位継承については,天皇が任意に選定したとする中田薫の選定相続説,天皇が神意により卜定したとする滝川政次郎の卜定相続説,末子相続から兄弟相続への移行を説く白鳥清の兄弟継承説,あるいは大兄(おおえ)(同腹中の長子)からその兄弟,ついで大兄の子の順に継承反復したとする井上光貞の大兄相続説などがある。

そして天智朝に至り,中国より継受した嫡長子相続主義にもとづく皇位継承法が定められたとも説かれている。

しかし爾後の実例に徴すると,皇嗣の選定は,嫡系男子の優位を認めながらも,天皇(あるいは上皇)の勅定するところであり,明治の皇室典範制定以前は,立太子の詔において初めて皇嗣を冊定するのを本則とした。

ただ立太子の儀はときに省略された例も少なくなく,ことに室町時代から江戸初期にかけて中絶したが,霊元天皇がこれを再興するに当たり,立太子に先立ち朝仁親王(東山天皇)を儲君(ちよくん)に治定したのが例となって,明治の嘉仁親王(大正天皇)の立太子に至るまで,儲君治定が実質的な皇嗣冊立を意味した。

皇位継承の資格

皇位継承者は,いうまでもなく皇親に限られる。

推古天皇をはじめ皇后から皇位を継いだ例も数例あるが,皇曾孫の皇極,皇孫の元正以外の女帝はみな皇女である。

継嗣令に〈女帝子〉の語が見えるから,令制では女帝の存在を公認しており,江戸中期の後桜町まで10代8女帝が生まれたが,いずれも中継ぎ的色彩が濃く,やはり皇男子の継承が本則であったとすべきであろう。

平安・鎌倉時代には,いったん臣籍に降下したのち,さらに皇籍に復した例が数例あり,そのうち光孝の皇子定省(宇多)は皇位にのぼったが,やはり変則であろう。

皇位継承の原因

上古の皇位継承は,天皇が没することによって行われたが,645年(大化1)皇極が孝徳に皇位を譲って譲位の例を開いてからは,明治まで87代中(北朝天皇を除く)56代の天皇が譲位によって皇位を継いだ。

天皇譲位の場合には,皇嗣が禅(ゆずり)を受けて直ちに践祚(せんそ)するのを常例としたが,天皇が没した場合には,没時と践祚との間に時日を要した例も多く,ことに上古においては数年月を経ることもあった。

また鎌倉時代以後は,皇嗣の選定について朝廷と幕府の間の交渉に日時を要した場合も数例ある。

なお斉明の皇太子中大兄(天智天皇),天武の皇后鸕野讃良(持統天皇)は,天皇没後,皇位につかずに数年にわたり執政したが,これを〈称制(しようせい)〉といった。

81代安徳が平氏に擁されて西海に幸した後,京都において後鳥羽が践祚し,1年余にわたって2人の天皇が存立し,また96代後醍醐の譲位否認のもとで光厳が践祚し,爾後50余年にわたって南北両朝が併存対立した。

また天皇がいったん譲位したのち,再び皇位についたことが2度あり,これを重祚(ちようそ)という。

35代皇極が重祚して37代斉明となり,46代孝謙が重祚して48代称徳となったのがそれで,ともに女帝にして,特殊な政情によるものである。
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=128  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c82

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
83. 中川隆[-10513] koaQ7Jey 2019年4月29日 11:02:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1573]

2世紀にソウルから北九州伊都国に移住してきた天皇一族は大和に天孫降臨

畿内に先住していた縄文人・弥生人を征服、
若い女性以外は全員殺して、若い女性をレイプしまくって生まれたのが畿内人だった:


サイエンスZERO 動画
日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
https://www.dailymotion.com/video/x6zpgpj


弥生人は韓国人に近い遺伝子だと思われてたが今回の調査で違うことがわかった

大がかりなDNA解析による新情報では弥生人の初期は縄文人に近い遺伝子だったが集団の戦いなどで弥生人は時代が進むにつれて韓国人のDNAに近づいて 現代日本人はほとんど韓国人のDNAと一緒になった

これ旧日本人が韓国人に大虐殺された後に中出しレイプされて生まれたのが俺たち現代日本人ってことになるぞ

ナレーション(弥生人の核DNA分析から予想された現代日本人の位置は ここ。弥生人同士がまじわって 現代日本人が成立したと考えられるからです。ところが…。)

篠田謙一:実はですね 現代日本人はもう既に この辺りだということが分かったんですね。つまり 弥生人って 混血していけば恐らく 混血する相手はこの縄文人になりますから当然 現代日本人の位置っていうのはこちらに ずれてくるはずなんですよね。ところが そうならなくてこっちに来てしまったということで ちょっと 考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり こっち(韓国人)に引っ張る 何かがなければいけないということになるんですね。

小島瑠璃子:てことは 韓国とか あとは大陸の方と多くまじわりながら人口を増やしてったのが私たちってことですか?

篠田謙一:そういうことになると思うんです。

小島瑠璃子:え〜!
https://38news.jp/default/13556

▲△▽▼
▲△▽▼


被差別同和部落の起源 _ ソウルから日本に移住した天皇一族が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した


同和部落民は日本に先住していた縄文人・弥生人の末裔

朝鮮から渡来した漢民族の天皇一族が畿内を完全に乗っ取って、被支配者の縄文人・弥生人を迫害してエタ地域に隔離したのが同和部落の起源


▲△▽▼


畿内の被差別部落民は日本先住の縄文人・弥生人の子孫

2013年12月17日 形質人類学のデータ

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、


部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。


とし、


頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。


と書き、さらに、


大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。


と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html


▲△▽▼


小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」
『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号

畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。

このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
一致することは興味深い(以上、75頁)

(追加)形質人類学的にみた未解放部落

われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。

(中略)

身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。

大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
(大阪大学医学部教授)


▲△▽▼


網野善彦 『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』 岩波現代文庫

私がこの『東日本と西日本』を読んで、とくに衝撃をうけた記憶がはっきりとあるのは、小浜基次さんの論文でした。

小浜さんは大阪大学の名誉教授で、形質人類学・解剖学の専門家、1904年に生まれ、1970年に亡くなっておられます。

この文章は短いものですが、小浜さんは形質人類学の立場から日本列島の、
東と西に住む人びとの差異をいろいろな角度から指摘しておられます。

その中で私がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びとがきわめてよく似ており、
形質上は同じであると指摘されている点です。

そしてそれに対して、山陰・北陸と東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人の違いに比べて、
はるかに大きく、東北、北陸の人びとはむしろアイヌに近いと小浜さんは強調しておられます。

これは頭部の特性、短頭、中頭、長頭をはじめ、身体的な特質から導き出された結論ですが、
さらに衝撃だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。

小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、
被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たちだというとらえ方をする人たちが、実際に関西では少なからずあったと思います。

これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、
差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。

小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。


▲△▽▼


埴原和郎 東京大学・国際日本文化研究センター各名誉教授

私どもが行った現代日本人頭骨の分析からみても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で“特殊な日本人”ともいえる。

その理由は、この地方で渡来系集団の影響がきわめて濃厚であるためと
想像されるが、このような傾向は、すでに古墳時代に現れていたといえる。

時代はやや下がるが、平安時代に編纂された『新撰姓氏録』によると、
畿内の氏族一一八二氏のうち、ほぼ三分の一が渡来系の氏族といわれる。
とくに新羅系の秦氏、百済系の漢氏、高句麗系の高麗氏などは
代表的な氏族で、ともに畿内を中心として、ほぼ全国に拡散した。

この他、日本書紀や続日本紀などにある渡来人の歴史をみれば、
近畿地方に渡来系の特徴が濃厚に残っていることは当然ともいえる。
そして人骨の研究からこれが裏付けられることは、日本人および
日本歴史を考えるうえできわめて重要である。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c83

[近代史3] チャンネル桜の常連の三橋貴明はチャンネル桜関係者の受け売りしかできないアホだった 中川隆
6. 中川隆[-10512] koaQ7Jey 2019年4月29日 11:09:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1574]

嘘は許さない より 2019年4月29日 11:06 AM


2世紀にソウルから北九州伊都国に移住してきた天皇一族は大和に天孫降臨
畿内に先住していた縄文人・弥生人を征服、
若い女性以外は全員殺して、若い女性をレイプしまくって生まれたのが畿内人だった:


サイエンスZERO 動画
日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
https://www.dailymotion.com/video/x6zpgpj


弥生人は韓国人に近い遺伝子だと思われてたが今回の調査で違うことがわかった

大がかりなDNA解析による新情報では弥生人の初期は縄文人に近い遺伝子だったが集団の戦いなどで弥生人は時代が進むにつれて韓国人のDNAに近づいて 現代日本人はほとんど韓国人のDNAと一緒になった

これ旧日本人が韓国人に大虐殺された後に中出しレイプされて生まれたのが俺たち現代日本人ってことになるぞ

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被差別同和部落の起源 _ ソウルから日本に移住した天皇一族が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した

同和部落民は日本に先住していた縄文人・弥生人の末裔

朝鮮から渡来した漢民族の天皇一族が畿内を完全に乗っ取って、被支配者の縄文人・弥生人を迫害してエタ地域に隔離したのが同和部落の起源

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畿内の被差別部落民は日本先住の縄文人・弥生人の子孫

2013年12月17日 形質人類学のデータ

エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、

部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。

とし、

頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

と書き、さらに、

大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。

と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。

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埴原和郎 東京大学・国際日本文化研究センター各名誉教授

私どもが行った現代日本人頭骨の分析からみても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で“特殊な日本人”ともいえる。

その理由は、この地方で渡来系集団の影響がきわめて濃厚であるためと
想像されるが、このような傾向は、すでに古墳時代に現れていたといえる。

時代はやや下がるが、平安時代に編纂された『新撰姓氏録』によると、
畿内の氏族一一八二氏のうち、ほぼ三分の一が渡来系の氏族といわれる。
とくに新羅系の秦氏、百済系の漢氏、高句麗系の高麗氏などは
代表的な氏族で、ともに畿内を中心として、ほぼ全国に拡散した。

この他、日本書紀や続日本紀などにある渡来人の歴史をみれば、
近畿地方に渡来系の特徴が濃厚に残っていることは当然ともいえる。
そして人骨の研究からこれが裏付けられることは、日本人および
日本歴史を考えるうえできわめて重要である。
https://38news.jp/default/13556
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/374.html#c6

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
199. 中川隆[-10511] koaQ7Jey 2019年4月29日 12:03:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1575]

平野憲一の株のお話 2019.04.29 ここで役立つ相場格言 その2


 ここで役立つ相場格言 その2


 相場は最後が大きい : 
平成バブル相場は平成元年に天井を打ちましたが、その年1年で1万円上がりました。正に最後は火のついたような活況相場でした。今は不透明感や不安感の方が幅をきかせ、大きな上げ相場と言うイメージではありません。従って最後では無いと言う事が言えます。

 相場が変われば作戦を変えよ : 
2万2000円や200日移動平均線にはね返されてきた相場は、その重要なポイントを越えました。今までは吹き値売りでおおむね成功でした。しかし相場は重要ポイントを越えた事により、「吹き値売り」から「押し目買い」に変わりました。
http://kasset.blog.fc2.com/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c199

[昼休み54] 太陽光発電は国家経済を破綻させ環境も破壊する 中川隆
32. 中川隆[-10510] koaQ7Jey 2019年4月29日 12:09:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1576]

2019年04月29日
2021年に再エネ固定価格買取を廃止 市場制度に移行


事業用は14円だが将来は8円程度まで下がるでしょう


画像引用:ソーラーサポートセンター太陽光発電の売電価格推移表https://sorasapo.com/wp-content/uploads/2018/12/solar-feed-in-tariff-taransition-graph-2019.png


固定買い取り価格は廃止へ

経済産業省は固定価格買い取り制度(FIT)の廃止に向けた検討を始めた。

4月に開催された再生可能エネルギー大量導入・次世代電力ネットワーク小委員会では、固定価格から変動価格への移行が提言された。

現在のFIT制度は「市場から隔離されている」として、市場取引をベースにした新たな仕組みを検討するとしている。




再生エネルギー固定買取価格は2012年に42円(住宅用)と40円(事業用)で始まりました。

通常キロワット27円で販売する火力や原子力は7円以下で発電しているので、約6倍で買い取っていた。

割高な分は電気料金として毎月上乗せされ、平均的な家庭で現在770円ほど支払っています。


一方本来7円程度の価値しかない電力を40円で買い取って貰った発電事業者は大儲けし、新エネルギーブームが起きた。

ストレートに言えば全家庭が毎月700円を支払って、売電事業者が受け取っている構造です。

日本の再生エネルギー比率は水力を除くと8%程度で、さらにバイオマスも除くと5%程度です。


にも拘わらず毎月の電気料金は既に770円上昇しているので、再生エネルギーが20%になったら毎月2千円くらいになるでしょう。

固定買取価格は年々引き下げられて2019年度は事業用14円、将来は10円以下まで引き下げられる。

8円以下まで引き下げられると他の発電方式と対等になり、固定買取価格の必要もなくなる。

太陽光と風力を増やせない事情

固定価格買取が始まったのは2009年で10年間の契約、2012年から契約期間20年になり2032年まで40円で買い取ります。

今振り返るとあまりにふざけた制度で、本来7円の価値しかない電力を20年間に渡って40円で買い取っている。

買取価格は10円以下に引き下げられるが、今までに契約した事業者の買取価格は稼働した年の買取価格のままです。


ここにメスを入れるべきなのだが、買取価格全体を引き下げるために、新規参入者から買い叩こうとしています。

市場と連動した価格制度ではおそらく、火力発電などの発電コストが上昇すると太陽光などの買取価格も上昇するでしょう。

天候が悪いなどの気象条件によっても、太陽光や風力の買取価格は変動するでしょう。


太陽が出ず無風だと自然エネルギーの発電量は減るので、その時だけ買取価格が上昇してもトータルの売り上げは減少する。

エネルギー基本計画では再生エネルギーは全体の22%程度で原発も20%程度、火力が55%程度となっています。

再生エネルギーの半分は水力や地熱なので、太陽光や風力は実質10%と低く抑え込まれています。


こうなった理由は発電コストの高さで、他の発電方法の2倍以上で買い取ったら電気料金が上昇し国際競争力が低下してしまう。

欧米では風力や太陽光のコストが安い例もあるが、詳しくつっこむとどれも補助金適用後の入札価格にすぎない。

欧米では自然エネルギーに膨大な補助金を使っていて、一見すると火力や原子力より安く見せかけている。


日本は補助金を適用する前の「生の数字」で議論しているので、欧米より非常に高くなります。

今後は本当に低コストで発電できる事業者だけが生き残り、コスト高の事業者は全滅します。
http://www.thutmosev.com/archives/79692160.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/144.html#c32

[リバイバル3] 音がわからないアホ・オーディオマニアが良く引用する「オーディオの科学」の何処がおかしいか 中川隆
21. 中川隆[-10509] koaQ7Jey 2019年4月29日 12:11:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1577]

自宅システムのサウンドが変わり始めた - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年04月29日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/d76e973246c81fbb12cc35317bb7db18

4月17日にエクスクルーシブ M4パワーアンプが修理を終えて帰って来た。(パワーSWのO/H)その後毎日4時間ほど鳴らし込んでいる。一昨日まで4日間ほど、アンプのSWを入れてから1時間ほど経つとRchから音が出たり、出なかったりを繰り返していた。(アンプが温まると出る不具合?)

それが昨日から治った様だ。それと共にサウンドも大分良くなって来た。以前は「線の細い音」でとても褒められたものではなかったが、大分「太い音」に変わって来て、ピアノの左手のサウンドに実在感が出て来た。高域も特に線が細かったがそれも解消されて来た。

今までも「こんなサウンドが本来のサウンドではない」と思っていたので、「鳴らし込み」で変わって来ると経験上確信していた。それが如実に良い方向に変わって来てくれている様だ。まだまだ良くなってくると思っている。

電源・電源ケーブル・ラインケーブル・SPケーブル・SP箱内配線(ユニット配線)と全ての接続をNo1グレードのケーブルで揃えている。行く着く先は「オリンパスクラス」のサウンドになる筈だと思っている。多分1年ほど「鳴らし込み」をしないとそこまでは行かないだろうと、最初から考えていた事なのでまだ途中経過である。

予測通りにサウンドが変わり始めている・・・期待出来そうだ。

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音楽を聴くには体力(持久力と筋力)と血流対策が必要

2019年04月28日 | ピュアオーディオ

15年も音楽三昧をしてくると「体力」と「血流」への対策が必須だと感じる。1日2時間程のヒアリングなら「癒し」の効果が得られるだろうが、4時間以上/日も毎日聴いてくると「運動不足」で体力が落ちて来る。

「音楽を聴く」と云う行為は、真剣に音楽と向き合えば向き合うほど、身体を動かさないでじっと聴き込むはずだ。これは精神面では特に問題にはならないが、体力面や血流面では大きな問題となって来る。

リクライニングシートに座って4時間以上、毎日ヒアリングを続けていれば運動機能が下がると共に、体内の血流もおかしくなってくる。オーディオ評論家諸氏に「早死傾向」が有る事は良く知られている。SS誌の執筆家、岩崎氏や瀬川氏、浅沼氏等60歳前に亡くなっている。

オーディオ評論をまじめにやればやるほど、「聴く時間」が増える=「不健康な時間」が増える・・・と私は思う。だから私は25年前から1万歩/日の運動を欠かさない。それでも足りないくらいだと思っている。やはりスポーツをして身体に負荷を掛けてやらないとじり貧になって来ると感じる。

長くオーディオを楽しむためには、体力・筋力・循環力(血の)を維持してやらないと、早死にしてしまうと思う。何事も「ほどほど」が良いのかも知れない。あまりに根を詰めた様な行動は何処かに無理が出て来る。

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まだまだ修理をしなければならない

2019年04月27日 | ピュアオーディオ

自宅のEMT#981が「読み込み」不良になって来ました。5月には修理に出す予定でしたので特に慌てる必要は有りませんが、自宅でCDが聴けなくなる事はチョッとストレスになりますね。おそらく「電源部のコンデンサー」が熱で消耗しているんだと思う。このCDPは電源部(ピックアップユニットの近く)でかなりの発熱をします。

自宅システムは最近音のバランスがおかしい?「音の出方」もおかしい?・・・「ふん詰まり」の症状みたいだと感じている。音自体は出ているが、「中低域の押し出し感」が無くなっている。いつも聴いている音楽をかけると「おかしい?」と感じるのだ。

M4パワーアンプ電源ラインを本来のラインから取り始めたので、「負荷」が大きくなっている(伝送容量が大きくなっている)と思う。まだその容量に対応できなくて「ふん詰まり」を起こしている。この様な経験は十分しているので「時間」だけが解決してくれる。久しぶりに「典型的」な「ふん詰まり」の症状を経験した・・・と思っている。更なる不具合につながらなければ良いが・・・。

いつも聴く音量が小さくて(アッテネーター切り替えレベル”0”ポジションだと1クリック)厳しい使い方だとは思う。C3には本来のボリュームとは別にアッテネーター切り替えレベルが@0db A-15db B-30db となっている。いつも聴く音量だと、@0dbだと1クリック(7時方向以下) A-15dbだと9時の方向 B-30dbだと10時の方向・・・このアッテネーターの切り替えレベルでも「音のバランス」が変わって来る。

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Lo-D HS-01 システムのサウンド

2019年04月26日 | ピュアオーディオ

先週から鳴らし出したLo-D HS-01システム。5pフルレンジスピーカーです。周波数帯域 :150Hz〜20kHzとなっていますが、中域専用の音の様な感じです。10KHz以上は出ていない様な・・・。

とにかく「威圧感」が有りません。現在はカーペンターズを録音したMD専用で鳴らしています。サブシステムのD208システムを聴いてからでも「威圧感」を全く感じません。口径が5pですので箱のサイズ:幅68x高さ88x奥行58mm 重量 :0.55kgと片手に載るサイズの可愛いSPです。

このSPに「音質」を期待してはいけません。ただ鳴ってくれれば良いのです。そう云うものだと思います。現在はBELDEN9497 スピーカーケーブルを接続して鳴らしています。壁掛け用のフックが有れば壁に引っかけて使える様になっています。

「このSPで良いや」と思える日が来た時は「オーディオも終わり」の時の様に思います。

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LE8Tシステム復元完了

2019年04月25日 | ピュアオーディオ

月曜日に修理を終えて発送されたLE8Tユニットが到着しました。早速エンクロージャーに組み付けてセットを完了。

ソースは先日FMエアーチェックしたドボルザーク「新世界」交響曲(カラヤン/ベルリンフィル1964年録音)(MD)です。たまたま今日のメインシステムの演目です。全曲を一気に聴きました。思いの外低音が伸びているので満足でした。

このLE8Tユニットはうまく出来ています。きちんとセッティングして高性能なケーブル類やアンプを使うと、その素性をそのまま出して来ます。シンプルな20pフルレンジなのですがバカに出来ないサウンドを出して来ます。アンプ類はケンソニックのC200+P300です。こちらも修理上がりで調子が良くなっています。

これでサブシステムの修理関係は終わりです。残るは自宅システムを完成をさせる事。現在、「鳴らし込み」の状態で決してC3+M4の組合せに満足している訳では有りません。アンプ類はまだまだ変遷が有るのか?疑問符が付きます?C3+M4の組合せではまだまだ・・・の状態。鳴らし込みで大きく変化してくれれば評価も変わります。現在は自作管球プリ+WE101Dppパワーアンプの「ドラマチック」な表現に対抗出来ていません。何かアッサリした音なのです。もう少し充実したサウンドが出ても良いと思っています。鳴らし込みをしながら待たざるを得ないのかな?・・・と思っています。

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サブシステムをまず1セットに減らそう・・・

2019年04月24日 | ピュアオーディオ

「機器のお守り」でやや疲れ気味。サブシステムが3セット有り、数を減らしたいと思っている。1セットはつい最近増設したLo-d Hs-01システム、こちらはサトリアンプ専用のお守りSP。(こちらは場所を取らないので温存)減らす対象はD208とLE8T。どちらも処分しようかと考えている。そして新たなSP1セットにしたい。

そうなるとアンプ類が余ってしまうが、余ったアンプも処分してしまおうと思う。余計なアンプが有るからSPを買ってシステムを作ってしまう。アンプが無くなれば「諦め」も付く。取り敢えず、ディネッセンのアンプは息子宅に出そうと思う。そうすると彼の処は3台のアンプがTr化される。現在クレル:KST-100、LUXMAN:M-06αと管球アンプ1台の組合せ。本人の希望でTr型アンプへの換装が実現する。どの機種が低域・中域・高域になるかは分からないが彼に任せればよい。更に「低域用」のアンプを200W級に入れ替える予定している。

管球アンプの寿命は長い。下手なTr型アンプより長く持つ。音質も「音の厚み」や「滑らかさ」が有り使いやすい。ただ「低域」の再生だけは「Tr型」の方がキレが有り反応や質感が良い。管球式では低域が丸くなってしまう。その為、メインのオリンパスシステムでも低域はM・レビンソンのNo431L(200W/ch)を使っている。

次に購入するSPは決めている。やはり30pウーハークラスは外せない。38cmクラスになると重量が出て来て一人では動かせない。また38cmクラスでは「スペース」の問題も出て来る。既にメインの2セットが38cmクラスなのでそこまでサブシステムに拘る必要もない。目的が有ってサブシステムを置いているのでその目的を果たせば良い。

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LE8Tも修理完了

2019年04月23日 | ピュアオーディオ

先週修理に出したLE8T(ショート)も修理が完了した。修理代を払ったので今頃は運送途中で有ろう。今回は自分で壊してしまったのだから仕方がない事。修理費用だけが痛い。

一つ不具合が出ると「負の連鎖」が続くモノだ。今月は「修理」ばかりだった様に思う。この際思い切って悪い処や気になる処、騙して使って居る処を直してしまいたいと思っているが「修理代」もバカに出来ない。もう少し時間をかけてじっくりと「正常化」を図って行きたい。「不具合」を溜めない事だ。今まで不具合を溜め過ぎていた。

毎日、サブシステム1→サブシステム2→サブシステム3→メインシステム→自宅システムの順番で鳴らしている。やはり一寸システム数が多い・・・と思う。これでは「お守」ばかりして音楽を楽しめないでいる。アンプも全く眠っているものが4台も有る。持ち過ぎだと思う。早く処分したいと思うが・・・「思い入れ」が有るとなかなか踏ん切りが付かない。「優柔不断」に陥っている。

メインシステムと自宅システムでは最低2時間は「音楽」を楽しむ様にしている。最近はショスタコービッチ:JAZZ組曲1・2番やマーラーシンフォニー1番等を良く聴く。一つのシステムでじっくり聴けるのは2時間が限度。それ以上は体力的に問題が出て来る。先の日曜日はヤルヴィさんがハンス・ロットの交響曲1番をNHK交響楽団で指揮していました。初めて聞く名前なので興味津々で4楽章すべて聞いていました。まだ知らない作曲家や曲が沢山有ります。一杯聴きたいとも思うが、好きな曲の方につい手が伸びてしまう。

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ケンソニックC200+P300の組合せ

2019年04月22日 | ピュアオーディオ

ケンソニックのC200+P300は45年前のアンプです。購入したのは当時憧れていましたが、若干20歳の私には買えない代物でした。あれから45年、中古で廉価で手に入る様になりました。購入にあたって「古すぎてパーツが壊れて故障の連続」と云うのを危惧していました。

実際に購入して1年半にもなります。最初の1年は「眠っていたアンプ」特有の「半導体」が蘇る時に変な音が出ましたが、特にトラブル無く使えました。しかし、P300のSW ON後の「立ち上がり」時になかなかリレーが入ってくれません。そこで今回修理に出しました。修理を終えて帰って来たP300がアッテネーターのガリも無くなりほぼ正常になりました。これからは安心して使えると思います。

「オーディオ全盛時代」の幕開けの「フラッグシップモデル」ですので良い部品を使って有る様です。同時期のパイオニアのエクスクルーシブC3+M4も同じ様に「しっかりした部品」を使って有り、45年経った今でも壊れないですね。当時は「手作り」に近い作り方をされており、修理もパーツ1個1個が交換できる様に作られています。その意味では後の「リフロー半田」の様な「基板毎の交換」見たいな事は有りません。

今後はこのC200+P300がサブシステムのメインになると思います。プリアンプは殆どトラブル無く今までも使えています。丈夫なアンプですね。

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ディネッセンの「アンタレス」パワーアンプ

2019年04月21日 | ピュアオーディオ

ディネッセンのパワーアンプ「アンタレス」は非常に珍しいアンプです。デバイスはFETです。今年このアンプは「処分」しようと予定していたのですが、「残留ノイズが有る」と正直に書いていたら買い手が付かなかったので、改めて聴き直して見たらかなり良いサウンドがしそうだと思い直し、今回「ノイズ取り」の修理に出しました。出ていた「残留ノイズ」は「グランドアース」が十分とれていない症状・・・に思えました。

今回「ゴッドハンド」にお願いして、グランド配線の引き回しを再点検していただきました。その結果、意味不明の「引き回し」が有ってノイズを拾って居たみたいだ・・・との事で、グランドアースを引き直していただきました。

修理が終わったアンプを繋いで「ノイズ確認」・・・D208ユニット(97db/m)に耳を当てて確認しましたが、可聴帯域のノイズはほぼ取れています。これなら「実用」に出来ます。早速鳴らして見ました。ダイナミックレンジが広がっています。当然「音数」や「スケール感」も増えています。組み合わせた管球プリアンプの良さが出ているのか・・・艶やかで細やかさがでて非常に良い感じです。しばらく鳴らし込んで後日ヒアリングの感想を述べたいと思います。

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Lo-D HS-01 システム

2019年04月20日 | ピュアオーディオ

暇を見つけてはまた新しいシステムを構築。「Lo-D HS-01」と云う超ミニSPを鳴らすシステムです。目的は「サトリアンプのお守り用」です。ついでにアイソレーション電源も不具合品を購入。こちらも今回修理して使える様にしました。このアイソレーション電源は「70W仕様」ですので、メインシステムで使うなら、CDPやプリアンプぐらいしか使えません。省エネタイプのサトリアンプ専用になります。

「Lo-D HS-01」は実物を見たのは初めてですが、本当に「超」が付くほど小さいですね。小さいけれど金属エンクロージャーでズッシリしています。周波数特性的に下が150Hzくらいまでしか出ませんので、まさに「BGM」SPとして最適です。ウーハーを追加して大型化する事も出来ますが、オリジナルの状態で使います。

早速鳴らして見ました。ソースはMD。かわいらしいサウンドです。カーペンターズを鳴らしています。フルレンジですので「ヴォーカル」ものが合いますね。意外とエネルギー感や広がり感があります。真夜中用のシステムとしても使えます。何より「場所」を取らないのが良いです。まだ着いたばかりで1時間も鳴らしていません。じっくりと聴きこんでからまたコメントしましょう。



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/881.html#c21

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
183. 中川隆[-10508] koaQ7Jey 2019年4月29日 13:47:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1578]


「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く! (宝島社新書 296) – 2009/9/10
安本 美典 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4796673482?_encoding=UTF8&isInIframe=0&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books&showDetailProductDesc=1#product-description_feature_div

内容紹介

箸墓の出土物が放射性炭素年代測定で卑弥呼の生きた時代と一致したとの発表で、邪馬台国畿内説がいっきに盛り上がってきました。しかし、そもそもこの発表の真偽のほどが疑わしく、さらに考古学的な事実や文献学的な史実からかけ離れた邪馬台国畿内説には、まったく根拠がないのです。著者は邪馬台国北九州説の立場から、「邪馬台国畿内説、箸墓=卑弥呼の陵墓説」を、舌鋒鋭く粉砕します。

内容(「BOOK」データベースより)

よそおいは「科学的」、内容は「支離滅裂」!歴博の研究グループの「炭素14年代測定法」による「箸墓古墳は卑弥呼の墓説」は、捏造に等しい。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

安本/美典
1934年、中国東北(旧満州)生まれ。京都大学文学部卒業。文学博士。産業能率大学教授を経て、現在、古代史研究に専念。『季刊邪馬台国』(梓書院発行)編集責任者。「邪馬台国の会」主宰者。情報考古学会会員。専攻は日本古代史、言語学、心理学。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


カスタマーレビュー

hira
筆者の主張を知りたければ、『邪馬台国への道』を読むべき! 2019年3月20日


 本書は、国立歴史博物館の研究グループが、炭素14年代測定法により、箸墓古墳を3世紀半ばの造営と推定できたので、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が有力だと、発表したことへの批判から、はじまっていますが、結局は、代表作

『邪馬台国への道』
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93&i=stripbooks&adgrpid=60278501504&gclid=EAIaIQobChMIj-_P37704QIVVbaWCh1FmQf7EAAYASAAEgKPmvD_BwE&hvadid=338592697130&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=13828832324121605197&hvtargid=kwd-334597022393&hydadcr=16037_11170827&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_41xwlnckqn_e

で、取り上げられた説の繰り返しが、大半です。

 しかも、それらの説の根拠が、本書であまり記述されていないので、ここでは、それらを次のように、まとめましたが、その中には、前提が怪しく危うい説も、散見できます。


○邪馬台国=畿内説は、成り立たず

 邪馬台国論争は、「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国が、どこにあったかよりも、当時の日本列島で、最も繁栄していたのは、どこだったかのほうに、論点が摩り替えられ、本来は、青銅器・鉄器や土器等の出土と無関係ですが、筆者も、それを持ち出しているので、ますます混乱しています。

 「魏志倭人伝」によると、帯方郡〜邪馬台(壱)国間が、1万2000余里、帯方郡〜狗邪韓国間が、7000余里、狗邪韓国〜対馬国間・対馬国〜壱岐国間・壱岐国〜末盧国間が、それぞれ1000余里、末盧国〜伊都国間が、500里なので、伊都国〜邪馬壱国間が、1500余里以内となります。

 1500余里は、対馬国〜壱岐国間の約1.5倍なので、地図上で、どうみても、近畿まで到達できず、九州の北半分が限界なうえ、方位と距離の両方の書き誤りとなれば、「魏志倭人伝」自体の信憑性が、疑問視されるので、邪馬台国=九州北部説とみるのが、妥当です。

 ちなみに、対馬・壱岐の規模は、それぞれ400余里四方・300里四方、「魏志韓伝」によると、韓(馬韓・辰韓・弁韓)の規模は、4000里四方とあり、当時の1里=75〜90mで、1500余里=112.5〜135kmと算出できます。

 邪馬台国を、筆者は、福岡県朝倉市(平塚川添遺跡)付近に、想定していますが、納得できる根拠は、地名を列挙する程度で、希薄です。

○箸墓古墳=卑弥呼の墓説も、成り立たず

 邪馬台国=九州北部説が、妥当なので、箸墓古墳=卑弥呼の墓説は、当然成り立ちませんが、筆者は、歴博の研究グループが、不確実な炭素14年代測定法で、ホケノ山古墳・箸墓古墳等を、3世紀代と推定したことに反論し、4世紀代だと主張しています。

 特に、土器付着の炭化物は、実際より古い年代を示すようで、今後の科学的知見がないと、何ともいえませんが、大和での大型の前方後円墳の林立が、3世紀代からか、4世紀代からで、状況が多少異なり、筆者は、歴博の研究グループが、邪馬台国=畿内説を有利に、導こうとしたと指摘しています。

○天皇の平均在位年数

 筆者は、21〜50代の天皇29人(39代を除外)が、478(21代=倭王武が、宋皇帝に朝貢)〜793.5(50代の在位が、781〜806年と長期なので、その半分を算入)年の316年間なので、天皇の平均在位年数を、約10年(10.88年)としています。

 これは、神功皇后(14-15代の間)を5世紀初め(400年)に、崇神天皇(10代)を4世紀半ば(360年)に、位置づけることを中心に、組み立てられ、5世紀初めは、倭が、朝鮮半島へ渡海し、高句麗との交戦を断続的に開始した年代、4世紀半ばは、崇神天皇陵とされる行燈山古墳が造営された年代です。

 ですが、行燈山古墳=崇神天皇陵といえない等、各天皇の実在性・事績等は、不確定で、それら以前でも、10年/人を微妙に調整しており、崇神の9代前の神武天皇(初代)を3世紀後半(280〜290年)、神武の5代前のアマテラスを3世紀前半(239年)としています。

○邪馬台国東遷説への疑問

 この説は、3世紀前半に、九州北部にあった邪馬台国の一派が、いったん日向へ、そこから3世紀後半に、大和へ移動し、朝廷を樹立したとする主張で、これと整合させるため、筆者は、アマテラス=卑弥呼を3世紀前半に、神武天皇の東征を3世紀後半に、推定したとみられます。

 「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで、筑紫城に居住し、神武天皇から、大和州へ移住したとあります。

 また、「宋史日本国伝」では、初代がアメノミナカヌシ、23代(「新唐書日本伝」を訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 ただし、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 他方、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、移住直後は、まだ統治基盤が落ち着かないと推測されるので、東遷説と結び付けにくく、神武東征の時期が、もう少し古くないと、納得困難でしょう。

 東遷説の時期は、2世紀後半の倭国乱きっかけと、3世紀半ばの邪馬台国と狗奴国の戦争きっかけがあり、筆者には、3世紀前半に、後述の卑弥呼=アマテラス説があるため、3世紀後半を想定していますが、前述の鉄器の出土数の比較を勘案すれば、2世紀終りのほうが、妥当です。

 私は、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみており、17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、天皇の在位期間の平均が、約12年/人となります。

 1〜16代の17人を、12年/人とすれば、崇神天皇(10代)の即位は、4世紀初め(304年)になり、大和に大型の前方後円墳が林立しはじめた時期と合致し、神武天皇(初代)の即位は、2世紀終り(196年)になり、倭国乱後と合致します。

 そもそも、卑弥呼や壱与を輩出した邪馬台国が突然、遷都する理由はなく、大和に九州の影響が、ほとんどないので、もし、あるとすれば、倭国乱で敗走した勢力が、一時日向へ避難し、そこから大和へ進出した可能性で、それなら当時は、準構造船か丸木舟しかないので、東遷でなく、集団移住程度です。

 なお、九州北部(夜須町)と畿内(大和郷)の地名の一致は、天皇による東遷でなく、有力豪族でも成り立つうえ、斉明天皇(37代)が、新羅派兵で(白村江の合戦前)、朝倉宮まで出陣し、約3ヶ月生活したので、その際に命名した可能性も捨て切れず、これだけでは、東遷説の根拠といえません。


○卑弥呼=アマテラス説への疑問

 「日本書紀」では、神功皇后を卑弥呼と同一視しており、筆者は、卑弥呼をアマテラスに比定していますが、そもそも記紀神話で、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)は、6種類あり、そのうち、アマテラスが天皇の祖先なのは、「古事記」と「日本書紀」本文の2つです。

 そこでは、5男神(長男が天皇の祖先・アメノオシホミミ)が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘となっています。

 一方、「日本書紀」一書第一・第三と次の段の一書第三の3つは、5男神が、スサノオの息子、3女神が、アマテラス(日の神)の娘となっています(「日本書紀」一書第二の1つは、どちらの子供か、明記されていません)。

 ここから、元々は、5男神が、スサノオの息子で、3女神が、アマテラスの娘だったのを、アマテラスを天皇家の祖先神にするために、記紀神話の主要2ヶ所で、5男神が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘へと、改変したとも推測できます。

 よって、アマテラス‐アメノオシホミミ‐ニニギ‐ホオリ(山幸彦)‐ウガヤフキアエズ‐カンヤマトイワレヒコ(神武天皇)の系譜自体の、信憑性が疑問視されるうえ、そもそも筆者が、神代を人代の延長とし、神代でも、平均在位年数を、10年に設定するのは、疑問です。

 「日本書紀」で、タカミムスヒは、アマテラスよりも、天孫降臨の命令を主導しているので、元々は、タカミムスヒが、天皇家の祖先神とされ、天武天皇(40代)の時代に、アマテラスへ転換したとする説が有力です。

 そのうえ、「魏志倭人伝」によると、倭では、卑弥呼‐男王‐壱与と、王位継承されており、ニニギは男神なので、天皇家の祖先神の系譜と、合致しません。

 筆者が、卑弥呼=アマテラス説を主張するのは、「古事記」に登場する地名数から、出雲(2位)を葦原の中つ国に(本文にあり)、九州(1位)を高天原に(本文になし)、比定し、邪馬台国東遷説に結び付けたいからのようですが、すべてをつなげるのには、無理があります。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RO6D5A61LSNPK/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4796673482
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c183

[近代史02] 弥生人の起源2 中川隆
26. 中川隆[-10507] koaQ7Jey 2019年4月29日 13:48:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1579]


「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く! (宝島社新書 296) – 2009/9/10
安本 美典 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4796673482?_encoding=UTF8&isInIframe=0&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books&showDetailProductDesc=1#product-description_feature_div

内容紹介

箸墓の出土物が放射性炭素年代測定で卑弥呼の生きた時代と一致したとの発表で、邪馬台国畿内説がいっきに盛り上がってきました。しかし、そもそもこの発表の真偽のほどが疑わしく、さらに考古学的な事実や文献学的な史実からかけ離れた邪馬台国畿内説には、まったく根拠がないのです。著者は邪馬台国北九州説の立場から、「邪馬台国畿内説、箸墓=卑弥呼の陵墓説」を、舌鋒鋭く粉砕します。

内容(「BOOK」データベースより)

よそおいは「科学的」、内容は「支離滅裂」!歴博の研究グループの「炭素14年代測定法」による「箸墓古墳は卑弥呼の墓説」は、捏造に等しい。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

安本/美典
1934年、中国東北(旧満州)生まれ。京都大学文学部卒業。文学博士。産業能率大学教授を経て、現在、古代史研究に専念。『季刊邪馬台国』(梓書院発行)編集責任者。「邪馬台国の会」主宰者。情報考古学会会員。専攻は日本古代史、言語学、心理学。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


カスタマーレビュー

hira
筆者の主張を知りたければ、『邪馬台国への道』を読むべき! 2019年3月20日


 本書は、国立歴史博物館の研究グループが、炭素14年代測定法により、箸墓古墳を3世紀半ばの造営と推定できたので、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が有力だと、発表したことへの批判から、はじまっていますが、結局は、代表作

『邪馬台国への道』
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93&i=stripbooks&adgrpid=60278501504&gclid=EAIaIQobChMIj-_P37704QIVVbaWCh1FmQf7EAAYASAAEgKPmvD_BwE&hvadid=338592697130&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=13828832324121605197&hvtargid=kwd-334597022393&hydadcr=16037_11170827&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_41xwlnckqn_e

で、取り上げられた説の繰り返しが、大半です。

 しかも、それらの説の根拠が、本書であまり記述されていないので、ここでは、それらを次のように、まとめましたが、その中には、前提が怪しく危うい説も、散見できます。


○邪馬台国=畿内説は、成り立たず

 邪馬台国論争は、「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国が、どこにあったかよりも、当時の日本列島で、最も繁栄していたのは、どこだったかのほうに、論点が摩り替えられ、本来は、青銅器・鉄器や土器等の出土と無関係ですが、筆者も、それを持ち出しているので、ますます混乱しています。

 「魏志倭人伝」によると、帯方郡〜邪馬台(壱)国間が、1万2000余里、帯方郡〜狗邪韓国間が、7000余里、狗邪韓国〜対馬国間・対馬国〜壱岐国間・壱岐国〜末盧国間が、それぞれ1000余里、末盧国〜伊都国間が、500里なので、伊都国〜邪馬壱国間が、1500余里以内となります。

 1500余里は、対馬国〜壱岐国間の約1.5倍なので、地図上で、どうみても、近畿まで到達できず、九州の北半分が限界なうえ、方位と距離の両方の書き誤りとなれば、「魏志倭人伝」自体の信憑性が、疑問視されるので、邪馬台国=九州北部説とみるのが、妥当です。

 ちなみに、対馬・壱岐の規模は、それぞれ400余里四方・300里四方、「魏志韓伝」によると、韓(馬韓・辰韓・弁韓)の規模は、4000里四方とあり、当時の1里=75〜90mで、1500余里=112.5〜135kmと算出できます。

 邪馬台国を、筆者は、福岡県朝倉市(平塚川添遺跡)付近に、想定していますが、納得できる根拠は、地名を列挙する程度で、希薄です。

○箸墓古墳=卑弥呼の墓説も、成り立たず

 邪馬台国=九州北部説が、妥当なので、箸墓古墳=卑弥呼の墓説は、当然成り立ちませんが、筆者は、歴博の研究グループが、不確実な炭素14年代測定法で、ホケノ山古墳・箸墓古墳等を、3世紀代と推定したことに反論し、4世紀代だと主張しています。

 特に、土器付着の炭化物は、実際より古い年代を示すようで、今後の科学的知見がないと、何ともいえませんが、大和での大型の前方後円墳の林立が、3世紀代からか、4世紀代からで、状況が多少異なり、筆者は、歴博の研究グループが、邪馬台国=畿内説を有利に、導こうとしたと指摘しています。

○天皇の平均在位年数

 筆者は、21〜50代の天皇29人(39代を除外)が、478(21代=倭王武が、宋皇帝に朝貢)〜793.5(50代の在位が、781〜806年と長期なので、その半分を算入)年の316年間なので、天皇の平均在位年数を、約10年(10.88年)としています。

 これは、神功皇后(14-15代の間)を5世紀初め(400年)に、崇神天皇(10代)を4世紀半ば(360年)に、位置づけることを中心に、組み立てられ、5世紀初めは、倭が、朝鮮半島へ渡海し、高句麗との交戦を断続的に開始した年代、4世紀半ばは、崇神天皇陵とされる行燈山古墳が造営された年代です。

 ですが、行燈山古墳=崇神天皇陵といえない等、各天皇の実在性・事績等は、不確定で、それら以前でも、10年/人を微妙に調整しており、崇神の9代前の神武天皇(初代)を3世紀後半(280〜290年)、神武の5代前のアマテラスを3世紀前半(239年)としています。

○邪馬台国東遷説への疑問

 この説は、3世紀前半に、九州北部にあった邪馬台国の一派が、いったん日向へ、そこから3世紀後半に、大和へ移動し、朝廷を樹立したとする主張で、これと整合させるため、筆者は、アマテラス=卑弥呼を3世紀前半に、神武天皇の東征を3世紀後半に、推定したとみられます。

 「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで、筑紫城に居住し、神武天皇から、大和州へ移住したとあります。

 また、「宋史日本国伝」では、初代がアメノミナカヌシ、23代(「新唐書日本伝」を訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 ただし、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 他方、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、移住直後は、まだ統治基盤が落ち着かないと推測されるので、東遷説と結び付けにくく、神武東征の時期が、もう少し古くないと、納得困難でしょう。

 東遷説の時期は、2世紀後半の倭国乱きっかけと、3世紀半ばの邪馬台国と狗奴国の戦争きっかけがあり、筆者には、3世紀前半に、後述の卑弥呼=アマテラス説があるため、3世紀後半を想定していますが、前述の鉄器の出土数の比較を勘案すれば、2世紀終りのほうが、妥当です。

 私は、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみており、17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、天皇の在位期間の平均が、約12年/人となります。

 1〜16代の17人を、12年/人とすれば、崇神天皇(10代)の即位は、4世紀初め(304年)になり、大和に大型の前方後円墳が林立しはじめた時期と合致し、神武天皇(初代)の即位は、2世紀終り(196年)になり、倭国乱後と合致します。

 そもそも、卑弥呼や壱与を輩出した邪馬台国が突然、遷都する理由はなく、大和に九州の影響が、ほとんどないので、もし、あるとすれば、倭国乱で敗走した勢力が、一時日向へ避難し、そこから大和へ進出した可能性で、それなら当時は、準構造船か丸木舟しかないので、東遷でなく、集団移住程度です。

 なお、九州北部(夜須町)と畿内(大和郷)の地名の一致は、天皇による東遷でなく、有力豪族でも成り立つうえ、斉明天皇(37代)が、新羅派兵で(白村江の合戦前)、朝倉宮まで出陣し、約3ヶ月生活したので、その際に命名した可能性も捨て切れず、これだけでは、東遷説の根拠といえません。


○卑弥呼=アマテラス説への疑問

 「日本書紀」では、神功皇后を卑弥呼と同一視しており、筆者は、卑弥呼をアマテラスに比定していますが、そもそも記紀神話で、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)は、6種類あり、そのうち、アマテラスが天皇の祖先なのは、「古事記」と「日本書紀」本文の2つです。

 そこでは、5男神(長男が天皇の祖先・アメノオシホミミ)が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘となっています。

 一方、「日本書紀」一書第一・第三と次の段の一書第三の3つは、5男神が、スサノオの息子、3女神が、アマテラス(日の神)の娘となっています(「日本書紀」一書第二の1つは、どちらの子供か、明記されていません)。

 ここから、元々は、5男神が、スサノオの息子で、3女神が、アマテラスの娘だったのを、アマテラスを天皇家の祖先神にするために、記紀神話の主要2ヶ所で、5男神が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘へと、改変したとも推測できます。

 よって、アマテラス‐アメノオシホミミ‐ニニギ‐ホオリ(山幸彦)‐ウガヤフキアエズ‐カンヤマトイワレヒコ(神武天皇)の系譜自体の、信憑性が疑問視されるうえ、そもそも筆者が、神代を人代の延長とし、神代でも、平均在位年数を、10年に設定するのは、疑問です。

 「日本書紀」で、タカミムスヒは、アマテラスよりも、天孫降臨の命令を主導しているので、元々は、タカミムスヒが、天皇家の祖先神とされ、天武天皇(40代)の時代に、アマテラスへ転換したとする説が有力です。

 そのうえ、「魏志倭人伝」によると、倭では、卑弥呼‐男王‐壱与と、王位継承されており、ニニギは男神なので、天皇家の祖先神の系譜と、合致しません。

 筆者が、卑弥呼=アマテラス説を主張するのは、「古事記」に登場する地名数から、出雲(2位)を葦原の中つ国に(本文にあり)、九州(1位)を高天原に(本文になし)、比定し、邪馬台国東遷説に結び付けたいからのようですが、すべてをつなげるのには、無理があります。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RO6D5A61LSNPK/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4796673482
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/549.html#c26

[近代史3] 天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨 中川隆
14. 中川隆[-10506] koaQ7Jey 2019年4月29日 13:49:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1580]


「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く! (宝島社新書 296) – 2009/9/10
安本 美典 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4796673482?_encoding=UTF8&isInIframe=0&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books&showDetailProductDesc=1#product-description_feature_div

内容紹介

箸墓の出土物が放射性炭素年代測定で卑弥呼の生きた時代と一致したとの発表で、邪馬台国畿内説がいっきに盛り上がってきました。しかし、そもそもこの発表の真偽のほどが疑わしく、さらに考古学的な事実や文献学的な史実からかけ離れた邪馬台国畿内説には、まったく根拠がないのです。著者は邪馬台国北九州説の立場から、「邪馬台国畿内説、箸墓=卑弥呼の陵墓説」を、舌鋒鋭く粉砕します。

内容(「BOOK」データベースより)

よそおいは「科学的」、内容は「支離滅裂」!歴博の研究グループの「炭素14年代測定法」による「箸墓古墳は卑弥呼の墓説」は、捏造に等しい。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

安本/美典
1934年、中国東北(旧満州)生まれ。京都大学文学部卒業。文学博士。産業能率大学教授を経て、現在、古代史研究に専念。『季刊邪馬台国』(梓書院発行)編集責任者。「邪馬台国の会」主宰者。情報考古学会会員。専攻は日本古代史、言語学、心理学。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


カスタマーレビュー

hira
筆者の主張を知りたければ、『邪馬台国への道』を読むべき! 2019年3月20日


 本書は、国立歴史博物館の研究グループが、炭素14年代測定法により、箸墓古墳を3世紀半ばの造営と推定できたので、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が有力だと、発表したことへの批判から、はじまっていますが、結局は、代表作

『邪馬台国への道』
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93&i=stripbooks&adgrpid=60278501504&gclid=EAIaIQobChMIj-_P37704QIVVbaWCh1FmQf7EAAYASAAEgKPmvD_BwE&hvadid=338592697130&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=13828832324121605197&hvtargid=kwd-334597022393&hydadcr=16037_11170827&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_41xwlnckqn_e

で、取り上げられた説の繰り返しが、大半です。

 しかも、それらの説の根拠が、本書であまり記述されていないので、ここでは、それらを次のように、まとめましたが、その中には、前提が怪しく危うい説も、散見できます。


○邪馬台国=畿内説は、成り立たず

 邪馬台国論争は、「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国が、どこにあったかよりも、当時の日本列島で、最も繁栄していたのは、どこだったかのほうに、論点が摩り替えられ、本来は、青銅器・鉄器や土器等の出土と無関係ですが、筆者も、それを持ち出しているので、ますます混乱しています。

 「魏志倭人伝」によると、帯方郡〜邪馬台(壱)国間が、1万2000余里、帯方郡〜狗邪韓国間が、7000余里、狗邪韓国〜対馬国間・対馬国〜壱岐国間・壱岐国〜末盧国間が、それぞれ1000余里、末盧国〜伊都国間が、500里なので、伊都国〜邪馬壱国間が、1500余里以内となります。

 1500余里は、対馬国〜壱岐国間の約1.5倍なので、地図上で、どうみても、近畿まで到達できず、九州の北半分が限界なうえ、方位と距離の両方の書き誤りとなれば、「魏志倭人伝」自体の信憑性が、疑問視されるので、邪馬台国=九州北部説とみるのが、妥当です。

 ちなみに、対馬・壱岐の規模は、それぞれ400余里四方・300里四方、「魏志韓伝」によると、韓(馬韓・辰韓・弁韓)の規模は、4000里四方とあり、当時の1里=75〜90mで、1500余里=112.5〜135kmと算出できます。

 邪馬台国を、筆者は、福岡県朝倉市(平塚川添遺跡)付近に、想定していますが、納得できる根拠は、地名を列挙する程度で、希薄です。

○箸墓古墳=卑弥呼の墓説も、成り立たず

 邪馬台国=九州北部説が、妥当なので、箸墓古墳=卑弥呼の墓説は、当然成り立ちませんが、筆者は、歴博の研究グループが、不確実な炭素14年代測定法で、ホケノ山古墳・箸墓古墳等を、3世紀代と推定したことに反論し、4世紀代だと主張しています。

 特に、土器付着の炭化物は、実際より古い年代を示すようで、今後の科学的知見がないと、何ともいえませんが、大和での大型の前方後円墳の林立が、3世紀代からか、4世紀代からで、状況が多少異なり、筆者は、歴博の研究グループが、邪馬台国=畿内説を有利に、導こうとしたと指摘しています。

○天皇の平均在位年数

 筆者は、21〜50代の天皇29人(39代を除外)が、478(21代=倭王武が、宋皇帝に朝貢)〜793.5(50代の在位が、781〜806年と長期なので、その半分を算入)年の316年間なので、天皇の平均在位年数を、約10年(10.88年)としています。

 これは、神功皇后(14-15代の間)を5世紀初め(400年)に、崇神天皇(10代)を4世紀半ば(360年)に、位置づけることを中心に、組み立てられ、5世紀初めは、倭が、朝鮮半島へ渡海し、高句麗との交戦を断続的に開始した年代、4世紀半ばは、崇神天皇陵とされる行燈山古墳が造営された年代です。

 ですが、行燈山古墳=崇神天皇陵といえない等、各天皇の実在性・事績等は、不確定で、それら以前でも、10年/人を微妙に調整しており、崇神の9代前の神武天皇(初代)を3世紀後半(280〜290年)、神武の5代前のアマテラスを3世紀前半(239年)としています。

○邪馬台国東遷説への疑問

 この説は、3世紀前半に、九州北部にあった邪馬台国の一派が、いったん日向へ、そこから3世紀後半に、大和へ移動し、朝廷を樹立したとする主張で、これと整合させるため、筆者は、アマテラス=卑弥呼を3世紀前半に、神武天皇の東征を3世紀後半に、推定したとみられます。

 「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで、筑紫城に居住し、神武天皇から、大和州へ移住したとあります。

 また、「宋史日本国伝」では、初代がアメノミナカヌシ、23代(「新唐書日本伝」を訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 ただし、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 他方、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、移住直後は、まだ統治基盤が落ち着かないと推測されるので、東遷説と結び付けにくく、神武東征の時期が、もう少し古くないと、納得困難でしょう。

 東遷説の時期は、2世紀後半の倭国乱きっかけと、3世紀半ばの邪馬台国と狗奴国の戦争きっかけがあり、筆者には、3世紀前半に、後述の卑弥呼=アマテラス説があるため、3世紀後半を想定していますが、前述の鉄器の出土数の比較を勘案すれば、2世紀終りのほうが、妥当です。

 私は、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみており、17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、天皇の在位期間の平均が、約12年/人となります。

 1〜16代の17人を、12年/人とすれば、崇神天皇(10代)の即位は、4世紀初め(304年)になり、大和に大型の前方後円墳が林立しはじめた時期と合致し、神武天皇(初代)の即位は、2世紀終り(196年)になり、倭国乱後と合致します。

 そもそも、卑弥呼や壱与を輩出した邪馬台国が突然、遷都する理由はなく、大和に九州の影響が、ほとんどないので、もし、あるとすれば、倭国乱で敗走した勢力が、一時日向へ避難し、そこから大和へ進出した可能性で、それなら当時は、準構造船か丸木舟しかないので、東遷でなく、集団移住程度です。

 なお、九州北部(夜須町)と畿内(大和郷)の地名の一致は、天皇による東遷でなく、有力豪族でも成り立つうえ、斉明天皇(37代)が、新羅派兵で(白村江の合戦前)、朝倉宮まで出陣し、約3ヶ月生活したので、その際に命名した可能性も捨て切れず、これだけでは、東遷説の根拠といえません。


○卑弥呼=アマテラス説への疑問

 「日本書紀」では、神功皇后を卑弥呼と同一視しており、筆者は、卑弥呼をアマテラスに比定していますが、そもそも記紀神話で、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)は、6種類あり、そのうち、アマテラスが天皇の祖先なのは、「古事記」と「日本書紀」本文の2つです。

 そこでは、5男神(長男が天皇の祖先・アメノオシホミミ)が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘となっています。

 一方、「日本書紀」一書第一・第三と次の段の一書第三の3つは、5男神が、スサノオの息子、3女神が、アマテラス(日の神)の娘となっています(「日本書紀」一書第二の1つは、どちらの子供か、明記されていません)。

 ここから、元々は、5男神が、スサノオの息子で、3女神が、アマテラスの娘だったのを、アマテラスを天皇家の祖先神にするために、記紀神話の主要2ヶ所で、5男神が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘へと、改変したとも推測できます。

 よって、アマテラス‐アメノオシホミミ‐ニニギ‐ホオリ(山幸彦)‐ウガヤフキアエズ‐カンヤマトイワレヒコ(神武天皇)の系譜自体の、信憑性が疑問視されるうえ、そもそも筆者が、神代を人代の延長とし、神代でも、平均在位年数を、10年に設定するのは、疑問です。

 「日本書紀」で、タカミムスヒは、アマテラスよりも、天孫降臨の命令を主導しているので、元々は、タカミムスヒが、天皇家の祖先神とされ、天武天皇(40代)の時代に、アマテラスへ転換したとする説が有力です。

 そのうえ、「魏志倭人伝」によると、倭では、卑弥呼‐男王‐壱与と、王位継承されており、ニニギは男神なので、天皇家の祖先神の系譜と、合致しません。

 筆者が、卑弥呼=アマテラス説を主張するのは、「古事記」に登場する地名数から、出雲(2位)を葦原の中つ国に(本文にあり)、九州(1位)を高天原に(本文になし)、比定し、邪馬台国東遷説に結び付けたいからのようですが、すべてをつなげるのには、無理があります。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RO6D5A61LSNPK/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4796673482
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html#c14

[近代史3] 日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか? 中川隆
35. 中川隆[-10505] koaQ7Jey 2019年4月29日 13:50:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1581]


「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く! (宝島社新書 296) – 2009/9/10
安本 美典 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4796673482?_encoding=UTF8&isInIframe=0&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books&showDetailProductDesc=1#product-description_feature_div

内容紹介

箸墓の出土物が放射性炭素年代測定で卑弥呼の生きた時代と一致したとの発表で、邪馬台国畿内説がいっきに盛り上がってきました。しかし、そもそもこの発表の真偽のほどが疑わしく、さらに考古学的な事実や文献学的な史実からかけ離れた邪馬台国畿内説には、まったく根拠がないのです。著者は邪馬台国北九州説の立場から、「邪馬台国畿内説、箸墓=卑弥呼の陵墓説」を、舌鋒鋭く粉砕します。

内容(「BOOK」データベースより)

よそおいは「科学的」、内容は「支離滅裂」!歴博の研究グループの「炭素14年代測定法」による「箸墓古墳は卑弥呼の墓説」は、捏造に等しい。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

安本/美典
1934年、中国東北(旧満州)生まれ。京都大学文学部卒業。文学博士。産業能率大学教授を経て、現在、古代史研究に専念。『季刊邪馬台国』(梓書院発行)編集責任者。「邪馬台国の会」主宰者。情報考古学会会員。専攻は日本古代史、言語学、心理学。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


カスタマーレビュー

hira
筆者の主張を知りたければ、『邪馬台国への道』を読むべき! 2019年3月20日


 本書は、国立歴史博物館の研究グループが、炭素14年代測定法により、箸墓古墳を3世紀半ばの造営と推定できたので、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が有力だと、発表したことへの批判から、はじまっていますが、結局は、代表作

『邪馬台国への道』
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93&i=stripbooks&adgrpid=60278501504&gclid=EAIaIQobChMIj-_P37704QIVVbaWCh1FmQf7EAAYASAAEgKPmvD_BwE&hvadid=338592697130&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=13828832324121605197&hvtargid=kwd-334597022393&hydadcr=16037_11170827&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_41xwlnckqn_e

で、取り上げられた説の繰り返しが、大半です。

 しかも、それらの説の根拠が、本書であまり記述されていないので、ここでは、それらを次のように、まとめましたが、その中には、前提が怪しく危うい説も、散見できます。


○邪馬台国=畿内説は、成り立たず

 邪馬台国論争は、「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国が、どこにあったかよりも、当時の日本列島で、最も繁栄していたのは、どこだったかのほうに、論点が摩り替えられ、本来は、青銅器・鉄器や土器等の出土と無関係ですが、筆者も、それを持ち出しているので、ますます混乱しています。

 「魏志倭人伝」によると、帯方郡〜邪馬台(壱)国間が、1万2000余里、帯方郡〜狗邪韓国間が、7000余里、狗邪韓国〜対馬国間・対馬国〜壱岐国間・壱岐国〜末盧国間が、それぞれ1000余里、末盧国〜伊都国間が、500里なので、伊都国〜邪馬壱国間が、1500余里以内となります。

 1500余里は、対馬国〜壱岐国間の約1.5倍なので、地図上で、どうみても、近畿まで到達できず、九州の北半分が限界なうえ、方位と距離の両方の書き誤りとなれば、「魏志倭人伝」自体の信憑性が、疑問視されるので、邪馬台国=九州北部説とみるのが、妥当です。

 ちなみに、対馬・壱岐の規模は、それぞれ400余里四方・300里四方、「魏志韓伝」によると、韓(馬韓・辰韓・弁韓)の規模は、4000里四方とあり、当時の1里=75〜90mで、1500余里=112.5〜135kmと算出できます。

 邪馬台国を、筆者は、福岡県朝倉市(平塚川添遺跡)付近に、想定していますが、納得できる根拠は、地名を列挙する程度で、希薄です。

○箸墓古墳=卑弥呼の墓説も、成り立たず

 邪馬台国=九州北部説が、妥当なので、箸墓古墳=卑弥呼の墓説は、当然成り立ちませんが、筆者は、歴博の研究グループが、不確実な炭素14年代測定法で、ホケノ山古墳・箸墓古墳等を、3世紀代と推定したことに反論し、4世紀代だと主張しています。

 特に、土器付着の炭化物は、実際より古い年代を示すようで、今後の科学的知見がないと、何ともいえませんが、大和での大型の前方後円墳の林立が、3世紀代からか、4世紀代からで、状況が多少異なり、筆者は、歴博の研究グループが、邪馬台国=畿内説を有利に、導こうとしたと指摘しています。

○天皇の平均在位年数

 筆者は、21〜50代の天皇29人(39代を除外)が、478(21代=倭王武が、宋皇帝に朝貢)〜793.5(50代の在位が、781〜806年と長期なので、その半分を算入)年の316年間なので、天皇の平均在位年数を、約10年(10.88年)としています。

 これは、神功皇后(14-15代の間)を5世紀初め(400年)に、崇神天皇(10代)を4世紀半ば(360年)に、位置づけることを中心に、組み立てられ、5世紀初めは、倭が、朝鮮半島へ渡海し、高句麗との交戦を断続的に開始した年代、4世紀半ばは、崇神天皇陵とされる行燈山古墳が造営された年代です。

 ですが、行燈山古墳=崇神天皇陵といえない等、各天皇の実在性・事績等は、不確定で、それら以前でも、10年/人を微妙に調整しており、崇神の9代前の神武天皇(初代)を3世紀後半(280〜290年)、神武の5代前のアマテラスを3世紀前半(239年)としています。

○邪馬台国東遷説への疑問

 この説は、3世紀前半に、九州北部にあった邪馬台国の一派が、いったん日向へ、そこから3世紀後半に、大和へ移動し、朝廷を樹立したとする主張で、これと整合させるため、筆者は、アマテラス=卑弥呼を3世紀前半に、神武天皇の東征を3世紀後半に、推定したとみられます。

 「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで、筑紫城に居住し、神武天皇から、大和州へ移住したとあります。

 また、「宋史日本国伝」では、初代がアメノミナカヌシ、23代(「新唐書日本伝」を訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 ただし、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 他方、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、移住直後は、まだ統治基盤が落ち着かないと推測されるので、東遷説と結び付けにくく、神武東征の時期が、もう少し古くないと、納得困難でしょう。

 東遷説の時期は、2世紀後半の倭国乱きっかけと、3世紀半ばの邪馬台国と狗奴国の戦争きっかけがあり、筆者には、3世紀前半に、後述の卑弥呼=アマテラス説があるため、3世紀後半を想定していますが、前述の鉄器の出土数の比較を勘案すれば、2世紀終りのほうが、妥当です。

 私は、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみており、17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、天皇の在位期間の平均が、約12年/人となります。

 1〜16代の17人を、12年/人とすれば、崇神天皇(10代)の即位は、4世紀初め(304年)になり、大和に大型の前方後円墳が林立しはじめた時期と合致し、神武天皇(初代)の即位は、2世紀終り(196年)になり、倭国乱後と合致します。

 そもそも、卑弥呼や壱与を輩出した邪馬台国が突然、遷都する理由はなく、大和に九州の影響が、ほとんどないので、もし、あるとすれば、倭国乱で敗走した勢力が、一時日向へ避難し、そこから大和へ進出した可能性で、それなら当時は、準構造船か丸木舟しかないので、東遷でなく、集団移住程度です。

 なお、九州北部(夜須町)と畿内(大和郷)の地名の一致は、天皇による東遷でなく、有力豪族でも成り立つうえ、斉明天皇(37代)が、新羅派兵で(白村江の合戦前)、朝倉宮まで出陣し、約3ヶ月生活したので、その際に命名した可能性も捨て切れず、これだけでは、東遷説の根拠といえません。


○卑弥呼=アマテラス説への疑問

 「日本書紀」では、神功皇后を卑弥呼と同一視しており、筆者は、卑弥呼をアマテラスに比定していますが、そもそも記紀神話で、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)は、6種類あり、そのうち、アマテラスが天皇の祖先なのは、「古事記」と「日本書紀」本文の2つです。

 そこでは、5男神(長男が天皇の祖先・アメノオシホミミ)が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘となっています。

 一方、「日本書紀」一書第一・第三と次の段の一書第三の3つは、5男神が、スサノオの息子、3女神が、アマテラス(日の神)の娘となっています(「日本書紀」一書第二の1つは、どちらの子供か、明記されていません)。

 ここから、元々は、5男神が、スサノオの息子で、3女神が、アマテラスの娘だったのを、アマテラスを天皇家の祖先神にするために、記紀神話の主要2ヶ所で、5男神が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘へと、改変したとも推測できます。

 よって、アマテラス‐アメノオシホミミ‐ニニギ‐ホオリ(山幸彦)‐ウガヤフキアエズ‐カンヤマトイワレヒコ(神武天皇)の系譜自体の、信憑性が疑問視されるうえ、そもそも筆者が、神代を人代の延長とし、神代でも、平均在位年数を、10年に設定するのは、疑問です。

 「日本書紀」で、タカミムスヒは、アマテラスよりも、天孫降臨の命令を主導しているので、元々は、タカミムスヒが、天皇家の祖先神とされ、天武天皇(40代)の時代に、アマテラスへ転換したとする説が有力です。

 そのうえ、「魏志倭人伝」によると、倭では、卑弥呼‐男王‐壱与と、王位継承されており、ニニギは男神なので、天皇家の祖先神の系譜と、合致しません。

 筆者が、卑弥呼=アマテラス説を主張するのは、「古事記」に登場する地名数から、出雲(2位)を葦原の中つ国に(本文にあり)、九州(1位)を高天原に(本文になし)、比定し、邪馬台国東遷説に結び付けたいからのようですが、すべてをつなげるのには、無理があります。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RO6D5A61LSNPK/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4796673482
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html#c35

[政治・選挙・NHK260] 小沢一郎衆院議員が、国民民主党に自由党を吸収合併、野党結集に弾み、自民党支持者の中には、古くからの小沢一郎総理大臣待望… 笑坊
1. 中川隆[-10504] koaQ7Jey 2019年4月29日 14:16:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1582]
消費税を廃止する、移民は入れないと公約すれば簡単に勝てるよ

しかし、小沢は絶対に国際金融資本に都合が悪い事は言わないんだ
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/236.html#c1

[近代史3] 中野剛志 _ アメリカで大論争の「現代貨幣理論」とは何か 中川隆
12. 中川隆[-10506] koaQ7Jey 2019年4月29日 14:59:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1580]

「日本の未来を考える勉強会」ーよくわかるMMT(現代貨幣理論)解説
平成31年4月22日 講師:評論家 中野 剛志氏 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=LJWGAp144ak
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/314.html#c12
[近代史3] センメルヴェイス反射 _ 真理の徒は石もて追われ

センメルヴェイス反射 _ 真理の徒は石もて追われ


何故 MMT はこんなにも批判されるのか?

「日本の未来を考える勉強会」ーよくわかるMMT(現代貨幣理論)解説
平成31年4月22日 講師:評論家 中野 剛志氏 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=LJWGAp144ak

の最後にセンメルヴェイス反射について触れられています。


▲△▽▼

センメルヴェイス反射(Semmelweis reflex)は、通説にそぐわない新事実を拒絶する傾向、常識から説明できない事実を受け入れがたい傾向のことを指す。

この用語は、オーストリアのウィーン総合病院産科に勤務していた医師センメルヴェイス・イグナーツが産褥熱、今日で言う接触感染の可能性に気づき、その予防法として医師のカルキを使用した手洗いを提唱するものの存命中はその方法論が理解されず大きな排斥を受け不遇な人生のまま生涯を終えた史実に由来する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%B9%E5%8F%8D%E5%B0%84

センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ (Semmelweis Ignác Fülöp [ˈsɛmːmɛlvɛjsˈignɑ̈ːʦˈfyløp]) またはドイツ語表記時はイグナーツ・フィーリプ・ゼメルヴァイス (Ignaz Philipp Semmelweis[1]) ハンガリー人[2]の医師。

1818年7月1日 、ハンガリー王国ブダ市タバーン(英語版)町に生まれ、1865年8月13日、オーストリア帝国ウィーン市デープリング町にて死去。

オーストリアのウィーン総合病院産科に勤務。産褥熱、今日で言う接触感染の可能性に気づき、その予防法として医師のカルキを使用した手洗いを提唱するものの存命中はその方法論が理解されず大きな排斥を受け不遇な人生のまま生涯を終えた。

現在では当然の如くに採用されている消毒法及び院内感染予防の先駆者とされ、「院内感染予防の父」、「母親たちの救い主」と呼ばれている。


センメルヴェイスは自宅分娩や同じ病棟で助産婦が行う分娩と医師が行う分娩では産褥熱の発生率が10倍も違うことに疑問を持ち研究を始めた。この原因を明らかにしようと分娩後に死亡した遺体の解剖を行っていた最中の1847年、友人の法医学者ヤコブ・コレチカが産褥熱により死亡した検体解剖を学生らに指導していた際に誤ってメスで指を切創、そのまま解剖を行った後日、産褥熱と似た症状で死亡してしまった。この経緯から彼は目に見えず「臭い」でしか確認できない死体の破片が医師の手に付着していることが死因であると結論付けた(当時は病原菌などの概念が無かったため、このような結論に至った)。彼は自説に基づき脱臭作用のある塩素水で手を洗うことで死体の臭いを取り除き、その結果産褥熱による死亡者は激減したものの、彼の革新的な主張は当時の学会で受け入れられなかった[3]。

1849年3月20日、ウィーン総合病院の助教の任期が切れ、センメルヴェイスは1850年10月にハンガリーに帰国した。1851年よりペシュト市の聖ロクス病院(セント・ロークシュ・コールハーズ)産科名誉部長に就任、1855年にはペシュト大学の教授に任じられる。1857年にチューリッヒ大学の招聘を断り、本国に留まる。同年19歳のヴェイデンホフェル・マーリア (Weidenhofer Mária) と結婚。5児を授かる。

塩素水による洗浄を行った病院に彼が在籍していた時には産褥熱による妊婦の死亡率が3%であったが、彼が除籍された後には洗浄導入以前の30%にまで戻ってしまった。このような相関関係に気づいたセンメルヴェイスも自身が過去に多くの妊婦らを死に至らしめていた事実に気づき罪の意識に苛まれた。そして塩素水による消毒が産褥熱を激減させることを啓蒙しようと数々の病院を回るが、センメルヴェイスの指示は半ば強要や脅しに近いものであったため、同業者も門前払いし、医学会もセンメルヴェイスを危険人物扱いにしていた。

1865年、ウィーンの皮膚病学者フェルディナント・フォン・ヘブラー男爵(英語版)に率いられた医師の集団が、嘘の説明でセンメルヴェイスを精神療養所施設に呼び出す。異変に気づいたセンメルヴェイスが逃亡を計った際、施設の監視人集団から殴打を受けてその時の負傷が元になり同施設で死亡。

センメルヴェイスの説が受け入れられなかった最大の理由は、「患者を殺していたのは医師の手である」という医師にとって受け入れがたい結論にあった(当時、センメルヴェイスの論文を読んだ医師が自殺するという事件まで起き、説を認めることは医師が大量殺人を行ってきたことを認めることになるからであった)。また、彼自身が論文を書くのを苦手としたために、研究成果を論文として発表することが大きく遅れた点も不幸だった。それでも、スイスの雑誌に発表した論文がイギリスの外科医ジョゼフ・リスターに読まれ、手を消毒することで細菌感染を予防するという消毒法がもたらされた。

1889年、ルイ・パスツールが科学会議の席上において「センメルヴェイスが消し去ろうとしていた殺し屋とは連鎖球菌である」と発表した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%84

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/396.html

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
28. 中川隆[-10505] koaQ7Jey 2019年4月29日 18:50:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1582]

北方領土「日本人が知らない」真実、占領の黒幕・返還交渉の矛盾…
粟野仁雄 2019/04/26
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%8C%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%80%81%E5%8D%A0%E9%A0%98%E3%81%AE%E9%BB%92%E5%B9%95%E3%83%BB%E8%BF%94%E9%82%84%E4%BA%A4%E6%B8%89%E3%81%AE%E7%9F%9B%E7%9B%BE%E2%80%A6/ar-BBWikav?OCID=ansmsnnews11#page=2

北方領土と日本の複雑すぎる関係

「今、日本でニュースになっているクリル列島(千島列島)の問題をどう思いますか。日本じゃ北方領土と呼ぶのだけれど……」

 1月末、モスクワでの首脳会談に合わせて旧島民たちの取材に訪れた筆者は、北海道根室市のラーメン店で、隣に座った若いロシア人男性に拙いロシア語でこう尋ねた。サハリンから商売に来ていた体格のよい男は、「北方領土ではないよ。あの島は絶対に我国の『南方領土』なんだ。でも日本はいい国だよ。仲良くしたいね」と笑った。

 安倍首相とプーチン大統領による日ロ首脳会談の度に取り沙汰される北方領土問題だが、3月15日、ロシアの『コメルサント』紙が「大きく交渉スピードが後退した」とプーチン大統領が発言していたことを報じた。足もとでは、5月上旬の対ロ協議を前に、河野太郎外相が国会答弁においてロシア側を刺激しない配慮を見せるなど、交渉の「難しさ」が伝わってくる。

 近づいたとか思うと離れるブーメランのような「北方領土」とは、日本人にとってどんな存在なのか。筆者が若き記者時代から関わったこのテーマについて、まずは地理や歴史などの基本事項を解説したい。

 背の低い白い灯台が立つ根室半島先端の納沙布岬。眼下の岩礁にはかつて作家の三島由紀夫を信奉する国粋主義団体「楯の会」がペンキで描いた「千島を返せ」の文字があったが、積年の波で消えている。沖へ視線をやると、水平線上にまっ平で樹木の1本もない不思議な水晶島が見える。貝殻島の「日本時代」からの古い灯台が見える。右には勇留(ゆり)島。いずれもロシアの実効支配下にある歯舞群島の1つだ。

「うわあ、ロシアが見えるなんて」-――。若いカップルが驚いていたが、寒がって車に引っ込んでしまった。夏のシーズンは濃霧で見にくいため寒い時期がいいのだが、この地域の冬の寒さは半端ではない。見えていた数隻の漁船は、あまりの近さに日本の船かと思いたくなるが、潜水でウニを採るロシアの船である。ここから日露の海上の「中間ライン」(固有の領土、領海を主張してきた国は国境とは言えない)はわずか1.7キロだ。

「ロシア人はウニなんて食べないから、みんな日本に売るんです。この寒いのによく潜るよ」とは食堂兼土産物店「請望苑」を経営する竹村秀夫さんだ。訪問者たちの「北方領土って、こんなに近かったんですか」の言葉に地元民は辟易しているが、北海道旅行も根室まで行く人は少ないから、それも仕方がない。

 北方領土は、北から択捉島、国後島、並列する歯舞諸島と色丹島の「4島」だが、沖縄本島より大きい最大の択捉島と2番目に大きい国後島が、全面積の93%を占める。国後島は根室市からも見えるが、標津町からはより近く、好天なら主峰の爺々岳も見える。

 北方領土をめぐる国際的な取り決めの柱は、(1)1855年の日露通交(和親)条約、(2)1875年の千島樺太交換条約、(3)1904年のポーツマス条約、(4)1951年のサンフランシスコ講和条約、そして(5)1956年の日ソ共同宣言だろう。日ロ間における北方領土を巡るターニングポイントについて、おさらいしてみよう。


開国時にロシアだけは

友好な態度だった

 1855年2月7日、江戸幕府はロシア帝国と「日露通好条約」を結ぶ。「日露和親条約」ともいう。ロシア語では「貿易と国境の条約」だが、日本語では「貿易」も「国境」も消え、和親だとか通好とか、わけのわからぬ言葉になる。

 このとき、ニコライ一世の訓令・プチャーチン提督と対峙したのが、幕府の川路聖謨(かわじ・としあきら)という旗本。NHKの元モスクワ支局長の石川一洋解説委員は、2月に鳥取県倉吉市に招かれた講演会で、川路について「優れた人でしたが、ロシアの交渉団が彼の写真を撮ろうとしたら固辞した。『私のような醜男が貴国に紹介されては日本の恥です』と言ったのです」と素朴な人柄を紹介した。川路は戊辰戦争で幕府軍に殉じて自決した。

 この時期、米国のペリー提督が軍艦を連ねて開国を迫るなど、欧米列強が「鎖国日本」を力でこじ開けようとしたが、石川氏は「ロシアだけは非常に友好的な態度で日本に接してきたのです」と強調した。確かにその通りだ。

 この条約で国境線が得撫(ウルップ)島と択捉島の間とされ、樺太は「日露混住の地」となるが、20年後の1875年、ペテルブルグ(今のサンクトぺテルブルグ)で締結された「千島樺太交換条約」で、樺太は全島がロシア領、千島列島すべてが日本領となる。日本は大政奉還から7年目の明治8年、ロシア側は革命で銃殺されるロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世の父、アレクサンドル三世の時代だ。

 20世紀初頭、日露戦争で日本が勝利し、1905年に「ポーツマス条約」で樺太の南半分が日本領となる。これはロシア人にとって大変な屈辱だった。南樺太のロシア人は北緯50度以北へ追いやられ、代わりに日本の開拓団が多数樺太へ移住し、石炭生産、製紙産業、林業、農業、漁業などを繁栄させた。樺太や千島の日本人は、第二次大戦末期に日本本土の人たちが空襲などに苦しんでいた頃も平和を謳歌した。

 それが破られたのが、ポツダム宣言受諾後の1945年8月。日ソ中立条約を一方的に破ったソ連軍が、満州、樺太、北方領土へ侵攻したのだ。戦闘らしい戦闘もなかった北方領土では、樺太や満州のような悲劇は少ないが、金品を奪うソ連軍との諍いや、本土への脱走時に船が銃撃を受けるなどして、幾人かが命を落とした。

 その後、色丹島などでは2年間ほど日露混住の時代もあった。色丹島の混住時代に小学生時代を過ごした得能宏さん(85)は、「先生は怖がっていたけれど、ロシア兵が黒板のほうに来て、生徒の算数の間違いを直してくれた」と振り返る。

 最終的に4島から日本人すべてが追われた。根室や羅臼などに裸一貫で引き揚げた彼らの戦後の苦労は想像に難くない。


意外に知られていない

サンフランシスコ平和会議での失態

 ソ連の対日参戦は1945年2月の米、英、ソのヤルタ会談で密かに決められた。戦争を早期終結させ、米兵の犠牲を減らしたいルーズベルト・米国大統領の求めによるものだが、スターリン・ソ連書記長の談話録には「問題が起きているわけではない日本と戦争することに国民は納得しない」と、代償に領土拡大を求める巧みな会話が残されている。

 後にスターリンは、釧路と留萌を結ぶライン以北の北海道の北半分までも要求したが、米国が拒否した。実現していたら北海道は今頃、どうなっていたのだろうか。

 1951年、米国との単独講和だったサンフランシスコ平和条約で、日本は「クリルアイランズ(千島列島)」を放棄した。実はこのときに、現在に至るまで禍根を残す失態が生じる。批准国会で野党議員に「放棄した千島に国後や択捉を含むのか」と訊かれた西村熊雄条約局長が、「含む」と答えてしまったのだ。

 外務省はこの大失敗に触れられることを今も嫌がるが、和田春樹・東大名誉教授(ロシア史)は「どんなにつらくとも、放棄したことを認めて交渉すべきだ」と話す。外務省は、「サ条約にはソ連が参加していないから、ロシアのものとされたわけではない」としている。

 1956年、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相との間で「日ソ共同宣言」が締結された。今、盛んにニュースになっている史実だ。「平和条約締結後に、色丹島と歯舞諸島は日本に引き渡すとされた」が、「引き渡す」(ロシア語では「ペレダーチ」)とは、「返す」ではなく、「私の物ですが差し上げます」というニュアンスだった。

 結局、平和条約を結べないまま、世界は冷戦時代に突入。日本を自由主義陣営に引き込みたい米国のダレス国務長官が、「歯舞・色丹の返還を目指してソ連と平和条約を結ぶなら、沖縄を永久に占領する」とした有名な「恫喝」が大きな楔だった。

 そして、1960年の日米安保条約延長でソ連は態度を硬化し、「領土問題は解決済み」とされる。1973年、田中角栄首相がブレジネフ書記長に「両国間の未解決諸問題」に領土問題が含まれることを認めさせたが、その後進展はなかった。80年代にゴルバチョフ政権が誕生し、91年にソ連が崩壊、続くエリツィン政権ではロシアが一旦態度を軟化させたものの、日本は何度も好機を逃してきた(これについては、後述する)。

 日本人の最も身近にある国際問題の1つ、北方領土問題はこうした経緯を辿って来たのである。


忘れられがちな史実

本当の先住民は誰だったのか

 2月7日、筆者は大阪は中の島公会堂の「北方領土返還要求大会」に出かけた。入り口で「アイヌ民族抜きで交渉を進めることはおかしい」と抗議の横断幕を掲げる人たちがいた。

 北方領土史で忘れられがちなのは、「本当の先住民は誰だったのか」だ。筆者は1980年代、北海道で知り合いのソ連担当の公安関係者から、「ソ連の学者たちが北海道のアイヌ民族の存在を口実に、北方領土が古来、自分たちの領土だったことにしようとしている」と聞いた経験がある。アイヌはロシア側にも居ることをテコに、「日本人より先にロシアのアイヌが千島にいた」として、日本が主張する「固有の領土」を否定しようとし、「AS協会」という組織を立ち上げたと、といった話だった。

 詳細は省くが、国境という観念も希薄だったその昔、千島列島ではアリュート、樺太アイヌ、北海道アイヌら、様々な民族が狩猟生活や物々交換などをしていた。政府は、第二次大戦までは一度も外国の手に渡っていない「固有の領土」と強調している。 


ソ連の北方領土占領に米国が協力

なぜか後追いされない衝撃の事実

 2017年12月30日の北海道新聞に「歴史の常識を覆す」報道があった。タイトルは「ソ連の北方四島占領、米が援助、極秘に艦船貸与、訓練も」というものだ。

 概要は、1945年8、9月に行われた旧ソ連軍の北方4島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたというものだ。大量の艦船の提供だけではなく、ソ連兵の訓練も行ったといい、4島占領の背景に米国の強力な軍事援助があったことを示唆する内容だった。

 ヤルタ会談の直後、連合国だった米ソは「プロジェクト・フラ」という極秘作戦を実施した。米国は45年5月から掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。ソ連兵1万2000人を米アラスカ州の基地に集め、1500人の米軍人が艦船やレーダーの習熟訓練を行った。

 8月28日からソ連兵が攻め込んだ択捉、国後、色丹、歯舞の占領作戦には、米国に借りた艦船10隻を含む17隻が参加。ソ連軍は各島で日本兵の武装解除を行い、4島の占領は9月5日までに完了した。

 記事には、和田春樹・東京大学教授が次のような談話を寄せている。

「北方4島を含むソ連の対日作戦を米国が軍事援助していたことは、日本ではほとんど知られておらず、発見と言える。ソ連が勝手に行ったのではなく、米国をリーダーとする連合国の作戦だったことを示す」

 日本がポツダム宣言を受諾して降伏した後に、ソ連は日ソ中立条約を破棄して千島列島を南下、樺太からのソ連軍は米軍がいないことを確認して、択捉、国後島、歯舞群島、色丹島に侵攻したという「常識」を覆す話だ。

 ソ連が樺太南部と千島列島での作戦に投入した全艦船を調べた、ロシア・サハリン州戦勝記念館のイーゴリ・サマリン科学部長の論文を、同紙根室振興局が入手した。調査を主導した谷内紀夫前副局長は、「ボリス・スラビンスキーの著書『千島占領・一九四五年夏』(1993年)には、この経緯の一端が出ているが、話題にならなかった」と言う。

 記事を見た千島歯舞諸島居住者連盟の宮谷内亮一・根室支部長は、「驚いた。ソ連の占領に関わっていたのなら領土問題はアメリカにも責任がある」と話す。旧島民も初耳の人は多い。一方、連盟の脇紀美夫理事長(元羅臼町長)は、「日本が降伏しているのに攻めて占領したソ連に対して、当時、アメリカが強く非難したということは聞かないから、米国のソ連軍支援は十分考えられる」と話す。

 日本政府が「米軍の援助」を知らなかったはずはないが、冷戦下、米国とともに反ソ感情を煽るためにも都合の悪い事実だった。納沙布岬にある北方館の小田嶋英男館長も「ソ連は当時、連合国の一員なのでおかしくはない。引き揚げてきた人は国籍不明の船を見たとか、ロシアの船ではないと話していた。でも、ソ連軍の4島の占領にアメリカが関わった歴史を出さない方がいい、ということだったのでしょう」と推測する。

 事実は北海道新聞の報道後、釧路新聞と根室新聞が報じたが、全国紙は無視した。中央メディアも外務省などに問い合わせはしたはずだ。米国に追従する安倍政権に「忖度」したのなら、情けない話だ。現代史の中で語られる出来事は、今の政治に直結しているケースが多いため、こうしたことは多い。日露首脳会談のときだけ賑やかになる北方領土問題も、その実、4島をめぐる現代史の根本事実すら国民には知らされていない。 


一般人が島へ行くことはできるか?

「渡航禁止」にも矛盾はらむ外務省

 さて、こうした複雑な歴史を持つ北方領土だが、日本人が島を訪れることはできるのか。結論から言えば、行けないことはないものの、一般人が訪れるのはなかなか困難だ。

 時代を遡れば、1989年4月、北海道新聞がメディアとして戦後初めて北方領土、国後島の上陸取材を報じた。まだソ連時代でロシア人でも簡単には入れなかった。歴史的快挙だ。

 当時、筆者が親しくしていた札幌領事館のイワノフという副領事(日本語が堪能だった)は、「あんなところに大した秘密も何もないんです。日本のような発展した国の人に、あんな遅れた場所を見せたくないんですよ」と話した。

 残留日本人や韓国人などの取材でサハリンに通っていた筆者は、自然やロシア人の素朴さには魅かれたが、「何と後れた場所か、1世紀前に戻ったようだ」と感じていた。戦後初めて故郷を再訪した引揚者の女性も、「ロスケ(筆者注:ロシア人。必ずしも蔑称ではない)は何してたのよ。日本時代の方が進んでたわ」と呆れていた。

 ソ連社会の中で、極東地方はモスクワから見放された地域。筆者は「サハリン本島でこれなら、北方領土(同じくサハリン州)なんてどんなに原始的か」と感じていたので、イワノフ氏の話は納得できた。

 1992年に「ビザなし交流」が始まった。4島交流、墓参り、自由訪問などがあるが、誰でも行けるわけではない。元居住者(子孫を含む)、返還要求運動関係者、報道関係者、学者などの専門家に限定される。日本政府は一般人の渡航を自粛するように求めている。「旅券や査証を取っての上陸はロシアの領土であることを認めてしまう」というのが言い分だ。


ソ連に億単位のカネを払って

北方領土の海域で漁をさせてもらう

 とはいえ、北方領土や領海をめぐっては、政府とて「建前と本音」の狭間で矛盾だらけ。たとえば、一時期の中断を含めて1960年代から続く夏場の「貝殻島の昆布漁」は、ロシアに億単位の入漁料を払って北方領土の海域で昆布漁が続く。「日本固有の領土、領海」なら金を払うのは明らかにおかしいが、漁民救済の一助として止むを得ないのだ。

 旅券、ビザで上陸した北海道新聞の記事をきっかけに、1990年代はピースボートなど様々な団体が旅券を取って、サハリン経由で北方領土へ渡っている。政府とて、こうした行為を日本の法律で取り締まることはできない。

 1988年、アイヌ民族の男性が「国後のアイヌと共同事業をする」と言い、北海道水産部の制止を振り切って小舟で国後島へ渡った騒動があった。仲間と「ウタリ合同」というソ連との合弁会社を立ち上げて、色丹島海域で大量のカニを水揚げしてきた。北方領土を外国と認めてしまうことになる。結局、北海道海面漁業調整規則違反に問われ、国内法がソ連の実効支配海域に及ぶか どうかが最高裁まで争われたが、「及ぶ」と認定され、有罪となった。

 検疫も税関も無視だから、戻れば検疫法違反や関税法違反などに問われる可能性があった。しかし、そうすると「北方領土を外国と認めてしまう」ことになるためか、その男性の罪は問われなかった。政府としても「痛し痒し」だったのだ。

 日本人にとって「近くて遠い」北方領土――。返還を唱えるならば、まずはかの地を取り巻く状況がどうなっているのかを、日本人一人ひとりが深く知ることから始めるべきではないか。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%8C%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%80%81%E5%8D%A0%E9%A0%98%E3%81%AE%E9%BB%92%E5%B9%95%E3%83%BB%E8%BF%94%E9%82%84%E4%BA%A4%E6%B8%89%E3%81%AE%E7%9F%9B%E7%9B%BE%E2%80%A6/ar-BBWikav?OCID=ansmsnnews11#page=2
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c28

[近代史3] 馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた 中川隆
12. 中川隆[-10504] koaQ7Jey 2019年4月29日 19:02:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1583]

北方領土「日本人が知らない」真実、占領の黒幕・返還交渉の矛盾…
粟野仁雄 2019/04/26
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%8C%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%80%81%E5%8D%A0%E9%A0%98%E3%81%AE%E9%BB%92%E5%B9%95%E3%83%BB%E8%BF%94%E9%82%84%E4%BA%A4%E6%B8%89%E3%81%AE%E7%9F%9B%E7%9B%BE%E2%80%A6/ar-BBWikav?OCID=ansmsnnews11#page=2

北方領土と日本の複雑すぎる関係

「今、日本でニュースになっているクリル列島(千島列島)の問題をどう思いますか。日本じゃ北方領土と呼ぶのだけれど……」

 1月末、モスクワでの首脳会談に合わせて旧島民たちの取材に訪れた筆者は、北海道根室市のラーメン店で、隣に座った若いロシア人男性に拙いロシア語でこう尋ねた。サハリンから商売に来ていた体格のよい男は、「北方領土ではないよ。あの島は絶対に我国の『南方領土』なんだ。でも日本はいい国だよ。仲良くしたいね」と笑った。

 安倍首相とプーチン大統領による日ロ首脳会談の度に取り沙汰される北方領土問題だが、3月15日、ロシアの『コメルサント』紙が「大きく交渉スピードが後退した」とプーチン大統領が発言していたことを報じた。足もとでは、5月上旬の対ロ協議を前に、河野太郎外相が国会答弁においてロシア側を刺激しない配慮を見せるなど、交渉の「難しさ」が伝わってくる。

 近づいたとか思うと離れるブーメランのような「北方領土」とは、日本人にとってどんな存在なのか。筆者が若き記者時代から関わったこのテーマについて、まずは地理や歴史などの基本事項を解説したい。

 背の低い白い灯台が立つ根室半島先端の納沙布岬。眼下の岩礁にはかつて作家の三島由紀夫を信奉する国粋主義団体「楯の会」がペンキで描いた「千島を返せ」の文字があったが、積年の波で消えている。沖へ視線をやると、水平線上にまっ平で樹木の1本もない不思議な水晶島が見える。貝殻島の「日本時代」からの古い灯台が見える。右には勇留(ゆり)島。いずれもロシアの実効支配下にある歯舞群島の1つだ。

「うわあ、ロシアが見えるなんて」-――。若いカップルが驚いていたが、寒がって車に引っ込んでしまった。夏のシーズンは濃霧で見にくいため寒い時期がいいのだが、この地域の冬の寒さは半端ではない。見えていた数隻の漁船は、あまりの近さに日本の船かと思いたくなるが、潜水でウニを採るロシアの船である。ここから日露の海上の「中間ライン」(固有の領土、領海を主張してきた国は国境とは言えない)はわずか1.7キロだ。

「ロシア人はウニなんて食べないから、みんな日本に売るんです。この寒いのによく潜るよ」とは食堂兼土産物店「請望苑」を経営する竹村秀夫さんだ。訪問者たちの「北方領土って、こんなに近かったんですか」の言葉に地元民は辟易しているが、北海道旅行も根室まで行く人は少ないから、それも仕方がない。

 北方領土は、北から択捉島、国後島、並列する歯舞諸島と色丹島の「4島」だが、沖縄本島より大きい最大の択捉島と2番目に大きい国後島が、全面積の93%を占める。国後島は根室市からも見えるが、標津町からはより近く、好天なら主峰の爺々岳も見える。

 北方領土をめぐる国際的な取り決めの柱は、(1)1855年の日露通交(和親)条約、(2)1875年の千島樺太交換条約、(3)1904年のポーツマス条約、(4)1951年のサンフランシスコ講和条約、そして(5)1956年の日ソ共同宣言だろう。日ロ間における北方領土を巡るターニングポイントについて、おさらいしてみよう。


開国時にロシアだけは

友好な態度だった

 1855年2月7日、江戸幕府はロシア帝国と「日露通好条約」を結ぶ。「日露和親条約」ともいう。ロシア語では「貿易と国境の条約」だが、日本語では「貿易」も「国境」も消え、和親だとか通好とか、わけのわからぬ言葉になる。

 このとき、ニコライ一世の訓令・プチャーチン提督と対峙したのが、幕府の川路聖謨(かわじ・としあきら)という旗本。NHKの元モスクワ支局長の石川一洋解説委員は、2月に鳥取県倉吉市に招かれた講演会で、川路について「優れた人でしたが、ロシアの交渉団が彼の写真を撮ろうとしたら固辞した。『私のような醜男が貴国に紹介されては日本の恥です』と言ったのです」と素朴な人柄を紹介した。川路は戊辰戦争で幕府軍に殉じて自決した。

 この時期、米国のペリー提督が軍艦を連ねて開国を迫るなど、欧米列強が「鎖国日本」を力でこじ開けようとしたが、石川氏は「ロシアだけは非常に友好的な態度で日本に接してきたのです」と強調した。確かにその通りだ。

 この条約で国境線が得撫(ウルップ)島と択捉島の間とされ、樺太は「日露混住の地」となるが、20年後の1875年、ペテルブルグ(今のサンクトぺテルブルグ)で締結された「千島樺太交換条約」で、樺太は全島がロシア領、千島列島すべてが日本領となる。日本は大政奉還から7年目の明治8年、ロシア側は革命で銃殺されるロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世の父、アレクサンドル三世の時代だ。

 20世紀初頭、日露戦争で日本が勝利し、1905年に「ポーツマス条約」で樺太の南半分が日本領となる。これはロシア人にとって大変な屈辱だった。南樺太のロシア人は北緯50度以北へ追いやられ、代わりに日本の開拓団が多数樺太へ移住し、石炭生産、製紙産業、林業、農業、漁業などを繁栄させた。樺太や千島の日本人は、第二次大戦末期に日本本土の人たちが空襲などに苦しんでいた頃も平和を謳歌した。

 それが破られたのが、ポツダム宣言受諾後の1945年8月。日ソ中立条約を一方的に破ったソ連軍が、満州、樺太、北方領土へ侵攻したのだ。戦闘らしい戦闘もなかった北方領土では、樺太や満州のような悲劇は少ないが、金品を奪うソ連軍との諍いや、本土への脱走時に船が銃撃を受けるなどして、幾人かが命を落とした。

 その後、色丹島などでは2年間ほど日露混住の時代もあった。色丹島の混住時代に小学生時代を過ごした得能宏さん(85)は、「先生は怖がっていたけれど、ロシア兵が黒板のほうに来て、生徒の算数の間違いを直してくれた」と振り返る。

 最終的に4島から日本人すべてが追われた。根室や羅臼などに裸一貫で引き揚げた彼らの戦後の苦労は想像に難くない。


意外に知られていない

サンフランシスコ平和会議での失態

 ソ連の対日参戦は1945年2月の米、英、ソのヤルタ会談で密かに決められた。戦争を早期終結させ、米兵の犠牲を減らしたいルーズベルト・米国大統領の求めによるものだが、スターリン・ソ連書記長の談話録には「問題が起きているわけではない日本と戦争することに国民は納得しない」と、代償に領土拡大を求める巧みな会話が残されている。

 後にスターリンは、釧路と留萌を結ぶライン以北の北海道の北半分までも要求したが、米国が拒否した。実現していたら北海道は今頃、どうなっていたのだろうか。

 1951年、米国との単独講和だったサンフランシスコ平和条約で、日本は「クリルアイランズ(千島列島)」を放棄した。実はこのときに、現在に至るまで禍根を残す失態が生じる。批准国会で野党議員に「放棄した千島に国後や択捉を含むのか」と訊かれた西村熊雄条約局長が、「含む」と答えてしまったのだ。

 外務省はこの大失敗に触れられることを今も嫌がるが、和田春樹・東大名誉教授(ロシア史)は「どんなにつらくとも、放棄したことを認めて交渉すべきだ」と話す。外務省は、「サ条約にはソ連が参加していないから、ロシアのものとされたわけではない」としている。

 1956年、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相との間で「日ソ共同宣言」が締結された。今、盛んにニュースになっている史実だ。「平和条約締結後に、色丹島と歯舞諸島は日本に引き渡すとされた」が、「引き渡す」(ロシア語では「ペレダーチ」)とは、「返す」ではなく、「私の物ですが差し上げます」というニュアンスだった。

 結局、平和条約を結べないまま、世界は冷戦時代に突入。日本を自由主義陣営に引き込みたい米国のダレス国務長官が、「歯舞・色丹の返還を目指してソ連と平和条約を結ぶなら、沖縄を永久に占領する」とした有名な「恫喝」が大きな楔だった。

 そして、1960年の日米安保条約延長でソ連は態度を硬化し、「領土問題は解決済み」とされる。1973年、田中角栄首相がブレジネフ書記長に「両国間の未解決諸問題」に領土問題が含まれることを認めさせたが、その後進展はなかった。80年代にゴルバチョフ政権が誕生し、91年にソ連が崩壊、続くエリツィン政権ではロシアが一旦態度を軟化させたものの、日本は何度も好機を逃してきた(これについては、後述する)。

 日本人の最も身近にある国際問題の1つ、北方領土問題はこうした経緯を辿って来たのである。


忘れられがちな史実

本当の先住民は誰だったのか

 2月7日、筆者は大阪は中の島公会堂の「北方領土返還要求大会」に出かけた。入り口で「アイヌ民族抜きで交渉を進めることはおかしい」と抗議の横断幕を掲げる人たちがいた。

 北方領土史で忘れられがちなのは、「本当の先住民は誰だったのか」だ。筆者は1980年代、北海道で知り合いのソ連担当の公安関係者から、「ソ連の学者たちが北海道のアイヌ民族の存在を口実に、北方領土が古来、自分たちの領土だったことにしようとしている」と聞いた経験がある。アイヌはロシア側にも居ることをテコに、「日本人より先にロシアのアイヌが千島にいた」として、日本が主張する「固有の領土」を否定しようとし、「AS協会」という組織を立ち上げたと、といった話だった。

 詳細は省くが、国境という観念も希薄だったその昔、千島列島ではアリュート、樺太アイヌ、北海道アイヌら、様々な民族が狩猟生活や物々交換などをしていた。政府は、第二次大戦までは一度も外国の手に渡っていない「固有の領土」と強調している。 


ソ連の北方領土占領に米国が協力

なぜか後追いされない衝撃の事実

 2017年12月30日の北海道新聞に「歴史の常識を覆す」報道があった。タイトルは「ソ連の北方四島占領、米が援助、極秘に艦船貸与、訓練も」というものだ。

 概要は、1945年8、9月に行われた旧ソ連軍の北方4島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたというものだ。大量の艦船の提供だけではなく、ソ連兵の訓練も行ったといい、4島占領の背景に米国の強力な軍事援助があったことを示唆する内容だった。

 ヤルタ会談の直後、連合国だった米ソは「プロジェクト・フラ」という極秘作戦を実施した。米国は45年5月から掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。ソ連兵1万2000人を米アラスカ州の基地に集め、1500人の米軍人が艦船やレーダーの習熟訓練を行った。

 8月28日からソ連兵が攻め込んだ択捉、国後、色丹、歯舞の占領作戦には、米国に借りた艦船10隻を含む17隻が参加。ソ連軍は各島で日本兵の武装解除を行い、4島の占領は9月5日までに完了した。

 記事には、和田春樹・東京大学教授が次のような談話を寄せている。

「北方4島を含むソ連の対日作戦を米国が軍事援助していたことは、日本ではほとんど知られておらず、発見と言える。ソ連が勝手に行ったのではなく、米国をリーダーとする連合国の作戦だったことを示す」

 日本がポツダム宣言を受諾して降伏した後に、ソ連は日ソ中立条約を破棄して千島列島を南下、樺太からのソ連軍は米軍がいないことを確認して、択捉、国後島、歯舞群島、色丹島に侵攻したという「常識」を覆す話だ。

 ソ連が樺太南部と千島列島での作戦に投入した全艦船を調べた、ロシア・サハリン州戦勝記念館のイーゴリ・サマリン科学部長の論文を、同紙根室振興局が入手した。調査を主導した谷内紀夫前副局長は、「ボリス・スラビンスキーの著書『千島占領・一九四五年夏』(1993年)には、この経緯の一端が出ているが、話題にならなかった」と言う。

 記事を見た千島歯舞諸島居住者連盟の宮谷内亮一・根室支部長は、「驚いた。ソ連の占領に関わっていたのなら領土問題はアメリカにも責任がある」と話す。旧島民も初耳の人は多い。一方、連盟の脇紀美夫理事長(元羅臼町長)は、「日本が降伏しているのに攻めて占領したソ連に対して、当時、アメリカが強く非難したということは聞かないから、米国のソ連軍支援は十分考えられる」と話す。

 日本政府が「米軍の援助」を知らなかったはずはないが、冷戦下、米国とともに反ソ感情を煽るためにも都合の悪い事実だった。納沙布岬にある北方館の小田嶋英男館長も「ソ連は当時、連合国の一員なのでおかしくはない。引き揚げてきた人は国籍不明の船を見たとか、ロシアの船ではないと話していた。でも、ソ連軍の4島の占領にアメリカが関わった歴史を出さない方がいい、ということだったのでしょう」と推測する。

 事実は北海道新聞の報道後、釧路新聞と根室新聞が報じたが、全国紙は無視した。中央メディアも外務省などに問い合わせはしたはずだ。米国に追従する安倍政権に「忖度」したのなら、情けない話だ。現代史の中で語られる出来事は、今の政治に直結しているケースが多いため、こうしたことは多い。日露首脳会談のときだけ賑やかになる北方領土問題も、その実、4島をめぐる現代史の根本事実すら国民には知らされていない。 


一般人が島へ行くことはできるか?

「渡航禁止」にも矛盾はらむ外務省

 さて、こうした複雑な歴史を持つ北方領土だが、日本人が島を訪れることはできるのか。結論から言えば、行けないことはないものの、一般人が訪れるのはなかなか困難だ。

 時代を遡れば、1989年4月、北海道新聞がメディアとして戦後初めて北方領土、国後島の上陸取材を報じた。まだソ連時代でロシア人でも簡単には入れなかった。歴史的快挙だ。

 当時、筆者が親しくしていた札幌領事館のイワノフという副領事(日本語が堪能だった)は、「あんなところに大した秘密も何もないんです。日本のような発展した国の人に、あんな遅れた場所を見せたくないんですよ」と話した。

 残留日本人や韓国人などの取材でサハリンに通っていた筆者は、自然やロシア人の素朴さには魅かれたが、「何と後れた場所か、1世紀前に戻ったようだ」と感じていた。戦後初めて故郷を再訪した引揚者の女性も、「ロスケ(筆者注:ロシア人。必ずしも蔑称ではない)は何してたのよ。日本時代の方が進んでたわ」と呆れていた。

 ソ連社会の中で、極東地方はモスクワから見放された地域。筆者は「サハリン本島でこれなら、北方領土(同じくサハリン州)なんてどんなに原始的か」と感じていたので、イワノフ氏の話は納得できた。

 1992年に「ビザなし交流」が始まった。4島交流、墓参り、自由訪問などがあるが、誰でも行けるわけではない。元居住者(子孫を含む)、返還要求運動関係者、報道関係者、学者などの専門家に限定される。日本政府は一般人の渡航を自粛するように求めている。「旅券や査証を取っての上陸はロシアの領土であることを認めてしまう」というのが言い分だ。


ソ連に億単位のカネを払って

北方領土の海域で漁をさせてもらう

 とはいえ、北方領土や領海をめぐっては、政府とて「建前と本音」の狭間で矛盾だらけ。たとえば、一時期の中断を含めて1960年代から続く夏場の「貝殻島の昆布漁」は、ロシアに億単位の入漁料を払って北方領土の海域で昆布漁が続く。「日本固有の領土、領海」なら金を払うのは明らかにおかしいが、漁民救済の一助として止むを得ないのだ。

 旅券、ビザで上陸した北海道新聞の記事をきっかけに、1990年代はピースボートなど様々な団体が旅券を取って、サハリン経由で北方領土へ渡っている。政府とて、こうした行為を日本の法律で取り締まることはできない。

 1988年、アイヌ民族の男性が「国後のアイヌと共同事業をする」と言い、北海道水産部の制止を振り切って小舟で国後島へ渡った騒動があった。仲間と「ウタリ合同」というソ連との合弁会社を立ち上げて、色丹島海域で大量のカニを水揚げしてきた。北方領土を外国と認めてしまうことになる。結局、北海道海面漁業調整規則違反に問われ、国内法がソ連の実効支配海域に及ぶか どうかが最高裁まで争われたが、「及ぶ」と認定され、有罪となった。

 検疫も税関も無視だから、戻れば検疫法違反や関税法違反などに問われる可能性があった。しかし、そうすると「北方領土を外国と認めてしまう」ことになるためか、その男性の罪は問われなかった。政府としても「痛し痒し」だったのだ。

 日本人にとって「近くて遠い」北方領土――。返還を唱えるならば、まずはかの地を取り巻く状況がどうなっているのかを、日本人一人ひとりが深く知ることから始めるべきではないか。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%8C%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%80%81%E5%8D%A0%E9%A0%98%E3%81%AE%E9%BB%92%E5%B9%95%E3%83%BB%E8%BF%94%E9%82%84%E4%BA%A4%E6%B8%89%E3%81%AE%E7%9F%9B%E7%9B%BE%E2%80%A6/ar-BBWikav?OCID=ansmsnnews11#page=2

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html#c12

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
184. 中川隆[-10503] koaQ7Jey 2019年4月29日 19:33:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1584]

新書821伊勢と出雲 (平凡社新書) – 2016/8/10
岡谷 公二 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E6%9B%B8821%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E3%81%A8%E5%87%BA%E9%9B%B2-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B2%A1%E8%B0%B7-%E5%85%AC%E4%BA%8C/dp/458285821X/ref=sr_1_13?qid=1556533857&refinements=p_27%3A%E5%B2%A1%E8%B0%B7+%E5%85%AC%E4%BA%8C&s=books&sr=1-13&text=%E5%B2%A1%E8%B0%B7+%E5%85%AC%E4%BA%8C


内容紹介
日本原初の記憶が刻まれた地でありながら、それぞれ別物とされてきた伊勢と出雲を、古代朝鮮の文化と鉄をキーワードにつなぎ直す。

内容(「BOOK」データベースより)
前著『神社の起源と古代朝鮮』から三年―。両者とも日本の起源が刻まれた地でありながら別物とされてきた伊勢と出雲を、「韓神と鉄」をキワードにつなぎ直す思索の旅の物語がはじまる。二大神社の繋がりの謎を解く。

著者について
1929年東京生まれ。 東京大学文学部卒業。跡見学園女子大学名誉教授。著書に、『柳田国男の青春』(筑摩書房)、『島の精神誌』(思索社)、『神の森 森の神』(東京書籍)、『南の精神誌』(新潮社)、『絵画のなかの熱帯』(平凡社)、『南海漂蕩』(冨山房インターナショナル、和辻哲郎文化賞)、『原始の神社をもとめて』『神社の起源と古代朝鮮』(いずれも平凡社新書)、訳書に、レリス『幻のアフリカ』、ルーセル『ロクス・ソルス』(いずれも平凡社ライブラリー)など多数。

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
起源・発祥から消化・吸収へ、外来から土着への進展も必要なのでは? 2019年3月10日


 音楽業界のアーティストの初期のアルバムが、よい曲が多く、高いクオリティーだったのに、しだいにアルバムで、よい曲が少なくなり、クオリティーが低がるのは、多々あることです。

 それは、おそらくデビュー前までの長期間、よい曲をたくさんストックしていたからで、そこから、よい曲をアルバムで出し尽くせば、個人には限界があるので、これまでと異なる新しいものを、短期間で生み出すのは、大変困難になり、これは、出版業界にも、いえることではないでしょうか。

 特に新書は、それが顕著で、続々編にもなると、似たり寄ったりになるのも散見でき、本作は、前々作『原始の神社をもとめて』・前作『神社の起源と古代朝鮮』に比べて、残念ながら、内容が薄いといわざるをえません。

 前々作でも、伊勢が(6章)、前作でも、出雲が(4章)、取り上げられていますが、それらを、朝鮮半島から西日本へ渡来人が流入した総論とみれば、本作では、伊勢・出雲の各論として、ヨリ詳細に、考察してもらいたかったところです。

 筆者は、渡来人を新羅・伽耶系とまとめていますが、それぞれの地域へ、いつの時期(弥生期・古墳期・飛鳥期等)に流入し、何をして、どう地域に溶け込んだのかが、不明なままなので、多少整理してもらわないと、内容の繰り返しになってしまうのではないでしょうか。

 たとえば、伊勢や出雲を、鉄と結び付けたいのであれば、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転したとされているので、それも勘案すべきです。

 鉄器は、1世紀後半〜2世紀に、山陽・山陰・近畿北部まで流入しましたが、畿内までは、あまり流入しておらず、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく山陽・山陰・近畿北部と同程度になっています。

 また、鉄器が西日本へ本格的に普及したのは、国外品の使用が、前漢による楽浪郡設置(紀元前108年)以降の紀元前1世紀から、国内鍛造が、おそらく1世紀頃から、国内鋳造が、伽耶諸国滅亡(532年に金官伽耶・562年に大伽耶が滅亡)以降の6世紀後半からです(岡山県・千引カナクロ谷遺跡)。

 さらに、鉄の原料には、鉄鉱石と砂鉄があり、鉄鉱石には、褐鉄鉱・赤鉄鉱・磁鉄鉱があり、褐鉄鉱は、葦・茅等の水辺の植物の根に、水中の鉄分が蓄積し、根が枯渇したものですが、これを原料にしても、磁鉄鉱より格段にもろく、石器より劣るようなので、とても使えないでしょう。

 よって、国内鍛造は、出雲では、弥生後期(2世紀)以降、伊勢では、古墳前期(4世紀)以降で、国内鋳造は、砂鉄によるタタラ製鉄の日本最古の想定でも、4世紀後半〜5世紀前半とみられています(兵庫県・入佐山3号墳の浜砂鉄)。

 そのうえ、倭は、4世紀終り〜5世紀初めから、朝鮮半島へ渡海し、高句麗と断続的に交戦、それ以降に渡来人が、日本列島へ大勢流入したうえ、新羅の実質上の建国が、4世紀半ばなので(それ以前は、12の小国があった辰韓)、鉄関連の新羅・伽耶系神社の創建は、古墳中期〜飛鳥期とみるのが自然です。

 朝鮮半島への仏教伝来は、高句麗・百済が4世紀(それぞれが372年・384年)で、新羅が6世紀と、約200年後なので、そこから、日本列島への流入は、「仏」が百済経由(538年か552年)で、その間の、渡来系の「神」が新羅経由と、推定されています(p.37)。

 一方、高麗の時代・12世紀半ば成立の「三国史記」によると、新羅王の初代が死去し、2代が始祖廟を創建、2代の妹が祭祀したのが、新羅での氏神信仰の起源とみられ、5世紀後半(487年)に、始祖廟が「神宮」と呼称され、これが伊勢神宮の名称や斎宮制に影響されたともいわれています(p.37-39)。

 たしかに、伊勢神宮の創建は、5世紀後半から6世紀後半まで、諸説あるようで、これらから、鉄関連の外来神は、5〜6世紀以後に流入したとも導き出せますが、鉄と結び付けなければ、それ以前も想定できるので、そのあたりが、どうも曖昧なのです。

 ただし、筆者は、新羅・伽耶系神社の祭神が、スサノオ・オオアナムチ・コトシロヌシ等の出雲の神なので、出雲の神も渡来系だとしていますが、祭神は、古代・中世(神仏習合の影響)や近世・近代(神仏分離の影響)等での変更・追加も、多々あるので、それらを精緻に調査してもらいたいです。

 仏教が本格的に普及したのは、飛鳥期〜奈良期で、仏寺に対抗し、神社が社殿化され、その時期の朝鮮半島は、唐勢力の排除(676年)後の統一新羅なので、朝鮮半島からの渡来系をすべて、新羅とみなし、命名された可能性もあり、百済遺民が大勢流入したのに、新羅系神社が大半なのも、気になります。

 私が着目しているのは、百済の王族が、天皇(持統/41代)から、百済王(こにきし)の姓が授与(690か691年)されたのが、百済滅亡(660年)の30か31年後で、高句麗の王族が、天皇(文武/42代)から、高句麗王の姓が授与(703年)されたのは、高句麗滅亡(668年)の35年後であることです。

 つまり、朝鮮の王族が、30〜35年で、大和政権の官僚の一員に取り込まれており、それは、かれらが、中央政府に有益なので、利用したかったからでもありますが、30〜35年経過すれば、渡来系氏族と区別されつつも、渡来人も土着人並に取り扱われ、外来が早急に消化・吸収(日本化)されています。

 ところで、大和政権は、天つ神(天神、天上の神)と国つ神(地祇、地上の神)を区分し、スサノオ・オオアナムチ(オオクニヌシ)・コトシロヌシ(オオクニヌシの息子)は、国つ神ですが、もし、筆者のいう、出雲の神が渡来系なら、外来の天つ神が、外来の国つ神に、国譲りを迫ったことになります。

 しかし、実際には、国つ神は、土着神で、天つ神は、外来神という位置づけですが、記紀神話では、土着の国つ神が、国作りしたよりも、外来の天つ神が、国生みしたほうが、優位なので、もし、外来どうしだったとしても、天皇が、日本列島を統治する根拠となるよう、うまく消化・吸収しています。

 このように、日本は、中国・朝鮮の起源・発祥だけに固執するよりも、それをうまく消化・吸収するのが特徴なので、筆者が今後も、神への祭祀・神社関連の新書を発表するなら、外来から土着への進展の考察も期待します。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R55T1YUOXJ2R0/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=458285821X
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c184

[近代史02] 弥生人の起源2 中川隆
27. 中川隆[-10502] koaQ7Jey 2019年4月29日 19:33:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1585]

新書821伊勢と出雲 (平凡社新書) – 2016/8/10
岡谷 公二 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E6%9B%B8821%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E3%81%A8%E5%87%BA%E9%9B%B2-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B2%A1%E8%B0%B7-%E5%85%AC%E4%BA%8C/dp/458285821X/ref=sr_1_13?qid=1556533857&refinements=p_27%3A%E5%B2%A1%E8%B0%B7+%E5%85%AC%E4%BA%8C&s=books&sr=1-13&text=%E5%B2%A1%E8%B0%B7+%E5%85%AC%E4%BA%8C


内容紹介
日本原初の記憶が刻まれた地でありながら、それぞれ別物とされてきた伊勢と出雲を、古代朝鮮の文化と鉄をキーワードにつなぎ直す。

内容(「BOOK」データベースより)
前著『神社の起源と古代朝鮮』から三年―。両者とも日本の起源が刻まれた地でありながら別物とされてきた伊勢と出雲を、「韓神と鉄」をキワードにつなぎ直す思索の旅の物語がはじまる。二大神社の繋がりの謎を解く。

著者について
1929年東京生まれ。 東京大学文学部卒業。跡見学園女子大学名誉教授。著書に、『柳田国男の青春』(筑摩書房)、『島の精神誌』(思索社)、『神の森 森の神』(東京書籍)、『南の精神誌』(新潮社)、『絵画のなかの熱帯』(平凡社)、『南海漂蕩』(冨山房インターナショナル、和辻哲郎文化賞)、『原始の神社をもとめて』『神社の起源と古代朝鮮』(いずれも平凡社新書)、訳書に、レリス『幻のアフリカ』、ルーセル『ロクス・ソルス』(いずれも平凡社ライブラリー)など多数。

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
起源・発祥から消化・吸収へ、外来から土着への進展も必要なのでは? 2019年3月10日


 音楽業界のアーティストの初期のアルバムが、よい曲が多く、高いクオリティーだったのに、しだいにアルバムで、よい曲が少なくなり、クオリティーが低がるのは、多々あることです。

 それは、おそらくデビュー前までの長期間、よい曲をたくさんストックしていたからで、そこから、よい曲をアルバムで出し尽くせば、個人には限界があるので、これまでと異なる新しいものを、短期間で生み出すのは、大変困難になり、これは、出版業界にも、いえることではないでしょうか。

 特に新書は、それが顕著で、続々編にもなると、似たり寄ったりになるのも散見でき、本作は、前々作『原始の神社をもとめて』・前作『神社の起源と古代朝鮮』に比べて、残念ながら、内容が薄いといわざるをえません。

 前々作でも、伊勢が(6章)、前作でも、出雲が(4章)、取り上げられていますが、それらを、朝鮮半島から西日本へ渡来人が流入した総論とみれば、本作では、伊勢・出雲の各論として、ヨリ詳細に、考察してもらいたかったところです。

 筆者は、渡来人を新羅・伽耶系とまとめていますが、それぞれの地域へ、いつの時期(弥生期・古墳期・飛鳥期等)に流入し、何をして、どう地域に溶け込んだのかが、不明なままなので、多少整理してもらわないと、内容の繰り返しになってしまうのではないでしょうか。

 たとえば、伊勢や出雲を、鉄と結び付けたいのであれば、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転したとされているので、それも勘案すべきです。

 鉄器は、1世紀後半〜2世紀に、山陽・山陰・近畿北部まで流入しましたが、畿内までは、あまり流入しておらず、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく山陽・山陰・近畿北部と同程度になっています。

 また、鉄器が西日本へ本格的に普及したのは、国外品の使用が、前漢による楽浪郡設置(紀元前108年)以降の紀元前1世紀から、国内鍛造が、おそらく1世紀頃から、国内鋳造が、伽耶諸国滅亡(532年に金官伽耶・562年に大伽耶が滅亡)以降の6世紀後半からです(岡山県・千引カナクロ谷遺跡)。

 さらに、鉄の原料には、鉄鉱石と砂鉄があり、鉄鉱石には、褐鉄鉱・赤鉄鉱・磁鉄鉱があり、褐鉄鉱は、葦・茅等の水辺の植物の根に、水中の鉄分が蓄積し、根が枯渇したものですが、これを原料にしても、磁鉄鉱より格段にもろく、石器より劣るようなので、とても使えないでしょう。

 よって、国内鍛造は、出雲では、弥生後期(2世紀)以降、伊勢では、古墳前期(4世紀)以降で、国内鋳造は、砂鉄によるタタラ製鉄の日本最古の想定でも、4世紀後半〜5世紀前半とみられています(兵庫県・入佐山3号墳の浜砂鉄)。

 そのうえ、倭は、4世紀終り〜5世紀初めから、朝鮮半島へ渡海し、高句麗と断続的に交戦、それ以降に渡来人が、日本列島へ大勢流入したうえ、新羅の実質上の建国が、4世紀半ばなので(それ以前は、12の小国があった辰韓)、鉄関連の新羅・伽耶系神社の創建は、古墳中期〜飛鳥期とみるのが自然です。

 朝鮮半島への仏教伝来は、高句麗・百済が4世紀(それぞれが372年・384年)で、新羅が6世紀と、約200年後なので、そこから、日本列島への流入は、「仏」が百済経由(538年か552年)で、その間の、渡来系の「神」が新羅経由と、推定されています(p.37)。

 一方、高麗の時代・12世紀半ば成立の「三国史記」によると、新羅王の初代が死去し、2代が始祖廟を創建、2代の妹が祭祀したのが、新羅での氏神信仰の起源とみられ、5世紀後半(487年)に、始祖廟が「神宮」と呼称され、これが伊勢神宮の名称や斎宮制に影響されたともいわれています(p.37-39)。

 たしかに、伊勢神宮の創建は、5世紀後半から6世紀後半まで、諸説あるようで、これらから、鉄関連の外来神は、5〜6世紀以後に流入したとも導き出せますが、鉄と結び付けなければ、それ以前も想定できるので、そのあたりが、どうも曖昧なのです。

 ただし、筆者は、新羅・伽耶系神社の祭神が、スサノオ・オオアナムチ・コトシロヌシ等の出雲の神なので、出雲の神も渡来系だとしていますが、祭神は、古代・中世(神仏習合の影響)や近世・近代(神仏分離の影響)等での変更・追加も、多々あるので、それらを精緻に調査してもらいたいです。

 仏教が本格的に普及したのは、飛鳥期〜奈良期で、仏寺に対抗し、神社が社殿化され、その時期の朝鮮半島は、唐勢力の排除(676年)後の統一新羅なので、朝鮮半島からの渡来系をすべて、新羅とみなし、命名された可能性もあり、百済遺民が大勢流入したのに、新羅系神社が大半なのも、気になります。

 私が着目しているのは、百済の王族が、天皇(持統/41代)から、百済王(こにきし)の姓が授与(690か691年)されたのが、百済滅亡(660年)の30か31年後で、高句麗の王族が、天皇(文武/42代)から、高句麗王の姓が授与(703年)されたのは、高句麗滅亡(668年)の35年後であることです。

 つまり、朝鮮の王族が、30〜35年で、大和政権の官僚の一員に取り込まれており、それは、かれらが、中央政府に有益なので、利用したかったからでもありますが、30〜35年経過すれば、渡来系氏族と区別されつつも、渡来人も土着人並に取り扱われ、外来が早急に消化・吸収(日本化)されています。

 ところで、大和政権は、天つ神(天神、天上の神)と国つ神(地祇、地上の神)を区分し、スサノオ・オオアナムチ(オオクニヌシ)・コトシロヌシ(オオクニヌシの息子)は、国つ神ですが、もし、筆者のいう、出雲の神が渡来系なら、外来の天つ神が、外来の国つ神に、国譲りを迫ったことになります。

 しかし、実際には、国つ神は、土着神で、天つ神は、外来神という位置づけですが、記紀神話では、土着の国つ神が、国作りしたよりも、外来の天つ神が、国生みしたほうが、優位なので、もし、外来どうしだったとしても、天皇が、日本列島を統治する根拠となるよう、うまく消化・吸収しています。

 このように、日本は、中国・朝鮮の起源・発祥だけに固執するよりも、それをうまく消化・吸収するのが特徴なので、筆者が今後も、神への祭祀・神社関連の新書を発表するなら、外来から土着への進展の考察も期待します。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R55T1YUOXJ2R0/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=458285821X
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/549.html#c27

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
185. 中川隆[-10501] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:12:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1586]

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。

○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。

○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。

○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。

○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1LZN9HINXSIGN?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c185

[近代史02] 弥生人の起源2 中川隆
28. 中川隆[-10500] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:13:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1587]

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。

○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。

○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。

○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。

○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1LZN9HINXSIGN?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/549.html#c28

[近代史3] 天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨 中川隆
15. 中川隆[-10499] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:13:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1588]

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。

○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。

○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。

○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。

○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1LZN9HINXSIGN?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html#c15

[近代史3] 日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか? 中川隆
36. 中川隆[-10498] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:14:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1589]

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。

○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。

○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。

○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。

○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1LZN9HINXSIGN?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html#c36

[近代史3] 天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統 中川隆
2. 中川隆[-10497] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:14:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1590]

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。

○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。

○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。

○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。

○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1LZN9HINXSIGN?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/316.html#c2

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
186. 中川隆[-10496] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:37:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1591]

古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 (036)) – 1999/4/20
白石 太一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/古代国家はいかに形成されたか-古墳とヤマト政権-文春新書-036-太一郎/dp/4166600362/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
ヤマト政権が成立したのは、果して三世紀か、五世紀か、七世紀か。最新の発掘成果をふまえて古代史最大の謎・この国のルーツに迫る


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
経済連携していたところに、古墳文化が流行し、政治連合になったのでは? 2019年2月11日

 本書は、為政者の古墳から、政権の変遷を読み取ろうとしていますが、そうするにあたって、問題なのは、主に次の2点ではないでしょうか。

(1)政治の中心地は、王墓よりも、王宮であること
(2)他地域と比べて、古墳の規模が大きいからといって、そこよりも権力があるとはいえないこと


 (1)について、筆者は、「古墳は本来的に、その勢力の本拠地に造営されるのが原則だった」とし(p.119)、「王宮の位置は、その王の姻族(配偶者の血族)や、時の政権を支えた豪族との関係等、時々の政治情勢に規制される可能性が大きい」としています(p.123-124)。

 王宮の位置は、記紀神話での皇宮(天皇の宮殿)の立地と、天皇の妃の出身地・有力豪族の拠点等から、イメージしているようです。

 大型の前方後円墳(帆立貝式も)が立地する、3世紀前半からの大和(おおやまと)・柳本・箸中・鳥見山古墳群(奈良盆地南東部)は、その付近に皇宮も立地していますが、4世紀半ばからの佐紀古墳群(奈良盆地北部)は、皇宮が立地しておらず、豪族の拠点もなく、先行の古墳もなく、根拠不明です。

 一方、4世紀終り〜5世紀初めからの古市・百舌鳥古墳群(大阪平野南東部・南西部)は、交互に古墳が造営され、その付近に皇宮の一部も立地していますが、これは、初期ヤマト政権の盟主が、大和の勢力から、河内南部と和泉北部の二大勢力連合へと、移動したからとしています(p.123)。

 その根拠は、古市・百舌鳥の両方ともに、巨大古墳に先行する、大型古墳が造営されていたからとしていますが(p.122)、そこに有力豪族の拠点があった痕跡は、発見されていないようです。

 また、4世紀半ばに、柳本古墳群の行灯山・渋谷向山の2古墳が続いたので、王位の世襲制が固定化したとし、5世紀にも、佐紀古墳群でも大型古墳が造営されたので、それらから、佐紀の古墳の被葬者は、古市・百舌鳥の古墳を造営した王の妃+その父の家系の可能性が高いとしています(p.124-125)

 これは、夫が妻の家に通い、その子が妻+その父の家に住む、当時の婚姻の風習を想定しているようですが、それだと、筆者が最初に設定した「その王の姻族」で、古墳が立地していることになります。

 吉備・毛野等、畿内以外の地域で、大型古墳(盟主)が移動するのも、婚姻の可能性があると推測でき、婚姻での祖先を共通にした同族意識も、当初は、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野等の、広域内で発達したとみられます。

 ここまでみると、佐紀古墳群の立地が、根拠不明なことと、古市・百舌鳥古墳群の立地が、先行の大型古墳の存在のみで、その付近に、先行古墳の被葬者の拠点が発見されていない以上、根拠にならないことがわかります。

 そうなると、そもそも、王墓は、被葬者の出身地だという、設定自体が、成り立つとはいえなくなり、王墓も、王宮と同様、時々の政治情勢で決定されていたと、みるほうが自然です。

 豪族の拠点がないとすれば、奈良盆地の、北方の佐紀古墳群は、日本海経由の交易ルートの出入口に、西方の古市・百舌鳥古墳群は、瀬戸内海経由の交易ルートの出入口に、それぞれ立地しているので、皇宮のある盆地へ、アプローチする際の視覚的効果が、相当意識されていることになります。

 「日本書紀」の、崇神天皇(10代)による四道将軍の派遣・平定は、4世紀前半とされ、出発から帰還まで、わずか半年なので、実際は、交易ルートの開拓で、輸入用の丹波・西道の2ルートと輸出用の北陸・東海の2ルートを確保した、次のステップの佐紀古墳群と古市・百舌鳥古墳群の造営といえます。

 (2)について、筆者は、「3世紀後半という、あまりに古い時期に、ヤマトを中心とする一元的・集権的な国家的秩序の形成を構想してしまうと、その後の400年にもおよぶ、長い期間における政治連合の変質過程を、正しく認識するうえで支障がある」(p.19)といっており、これに、私も賛同します。

 しかし、出現期の古墳が、畿内の大和で大型、畿内の山城・瀬戸内の吉備・九州北部の豊(とよ)で中型、九州北部の筑紫で小型なので、広域の政治連合が、畿内の大和を中心に形成され(p.56)、連合の盟主である倭国王は、倭の諸国を代表して外交権・交易権を掌握していたとしています(p.61)。

 そして、出現期古墳を生み出した政治連合の形成の契機が、鉄資源をはじめとする、様々な先進的文物の輸入ルートの支配権を巡る、玄界灘沿岸地域と、畿内・瀬戸内海沿岸地域の、争いにあり(p.57)、それを「魏志倭人伝」での2世紀後半の倭国の乱とし、畿内・瀬戸内連合が、勝利したとしています(p.60)。

 つまり、筆者は、3世紀後半を、多元的・分権的といいつつも、いつのまにか、一元的・集権的な畿内の大和をイメージしており、これは、古墳の大きさと権力の大きさを直結し、邪馬台国=畿内説と、安直に結び付けてしまったのが、原因だといえます。

 ところで、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく瀬戸内と同程度になり、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しています。

 もし、倭国の乱で、畿内・瀬戸内連合が、鉄器の輸入ルートを支配したのなら、逆転するのに約100年もかかったことになり、大幅にズレがあることになります。
 そこで私は、古墳の大きさと権力の大きさが、アル程度比例し、上下(主従)関係が成り立つのは、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野の広域内等、盟主が首長を観察でき、反抗すれば、すぐに戦争ができる範囲内だとみています。

 他方、戦争ができる範囲外では、そもそも首長・盟主が、他地域へ頻繁に行き来しないので、古墳の大きさと権力の大きさの比例を想定するのは、大変疑問で、各首長・盟主は、対等が原則、序列があっても、兄弟程度の関係だったと推測できます。

 ここでの戦争ができる範囲とは、当時は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず(1艘最大20人程度)、途中で水・食糧等を調達しなければならず、海路で侵攻しても、長期戦で食糧不足になれば、撤退しかなく、それほど戦果が期待できないので、補給が容易な、陸路での侵攻が前提です。

 そうなると、遠方とは、戦争よりも交易でつながり、古墳の規模は、広域外への権力の表現よりも、まず広域内への権力の表現で、何よりも、大型古墳を造営できる財力があったと、みるのが自然で、最初から政治連合ではなく、経済連携があり、そこに古墳文化が流行したと、イメージすべきでしょう。

 出現期古墳・纏向型前方後円墳の規模が、それぞれ箸墓・大和の大型前方後円墳の約1/4・1/3・1/2・2/3・3/4・1/1・6/5倍となっているのは、共通の築造企画が存在しなくても(p.38)、交易で長さ(絹・布等)の単位が統一され、被葬者の財力を勘案し、周囲を真似すれば、特定の寸法に近づくのではないでしょうか。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは(p.59)、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、徐々に銅鏡の価値が低下したのを、九州北部が認識していたからで、後漢末から、民間工房の量産品が、中国市場に流通していたため、それを九州北部が、率先して商売にしたのでしょう。

 畿内・吉備の土器が、九州北部へ移動し、その逆が、ほとんどみられないのは(p.60)、交易で、畿内・吉備の土器を商品として、九州北部の輸入鉄器と、物々交換していれば、それは成り立ち、それが、5世紀初めからの、和泉での、陶邑窯跡群の須恵器の全国流通につながったとも、いうことができます。

 筆者が、政治連合の1次的なメンバーは、3世紀初めの西日本の邪馬台国連合で、前方後円墳形の墳丘墓を造営し、2次的なメンバーは、3世紀中葉すぎに邪馬台国連合と合体した東日本で、前方後方墳形の墳丘墓を造営したとしていますが(p.69)、「魏志倭人伝」と、安直に結び付けるのは、禁物です。

 私は、大和が、裕福な財力を元手に、鉄器による水田整備・古墳造営+首長霊祭祀(墳丘形式・葬送儀礼)・威信財副葬のセットの、領国統治モデルを、東国に提供・交易したので、ますます蓄財でき、経営力があったとみています。

 5世紀前半には、その利益を、畿内は、国内不戦の意思表示として、巨大古墳造営に、多く投入した一方、九州北部は、国外からの鉄器確保のため、朝鮮半島派兵に、多く投入したとみれば、古墳の規模の格差は、説明できます。

 それが、5世紀後半には、戦況悪化で、鉄器確保の危機になったため、九州北部だけでなく、畿内も、領国統治モデルを維持しようと、巨大古墳を天皇陵のみに制限し、財力を朝鮮半島派兵に、本格投入したと、みることができます。

 ただし、筆者は、2世紀後半に、九州北部の玄界灘沿岸地域が、畿内・瀬戸内海沿岸地域に敗北・衰退し、3世紀半ばに、狗奴国の濃尾(美濃・尾張)が、邪馬台国の畿内に敗北・衰退したと、主張したいため、九州北部・濃尾の大型古墳は、6世紀前半としています(それぞれ岩戸山古墳・断夫山古墳)。

 ところが、九州北部・濃尾には、4世紀にも、全長100m前後の大型古墳が、次のように、散見できるので、その推論は、成り立ちません。

○九州北部
・久里双水古墳(佐賀県唐津市双水):3世紀後半〜4世紀前半・前方後円墳・全長109m
・一貴(いき)山銚子塚古墳(福岡県糸島市二丈田中):4世紀後半・前方後円墳・全長103m
・金立銚子塚古墳(佐賀市金立町):4世紀終り・前方後円墳・全長98m
・黒崎観世音塚古墳(福岡県大牟田市岬):4世紀終り・前方後円墳・全長97m

○濃尾
・青塚古墳(愛知県犬山市青塚):青塚古墳群、4世紀半ば・前方後円墳・全長123m
・白鳥(しらとり)塚古墳(名古屋市守山区上志段味):志段味古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長115m
・昼飯(ひるい)大塚古墳(岐阜県大垣市昼飯町):不破古墳群、4世紀終り・前方後円墳・全長150m
・坊の塚古墳(岐阜県各務原市鵜沼羽場町):4世紀終り・前方後円墳・全長120m
・粉糠(こぬか)山古墳(岐阜県大垣市青墓町):不破古墳群、4世紀終り〜5世紀初め・前方後方墳・全長100m


 以上より、3世紀前半から、濃尾以西で土器の地域差が希薄化し(庄内式)、環壕集落が廃絶したのは、西日本で経済連携ができたからで、そこへ古墳文化が流行し、3世紀半ばから、東日本にも拡大、政治連合化したのは、4世紀終り〜5世紀初めからの、朝鮮半島派兵が、きっかけではないでしょうか。

 経済連携といっているのは、首長・盟主間が、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)の、対等・分権のヨコの関係で、政治連合化すると、支配と服属の、序列・集権のタテの関係もでき、最初は、みんなの自発的な文化摂取だったのが、やがて有力者の強制的な制度摂取へと変容していくのです。

 これまでは、古墳期を飛鳥期につなげようと、「前方後円墳体制」等のように、古墳を制度として取り扱い、タテの関係に偏重してきましたが、統一国家成立前なので、これからは、有力者どうしのヨコの関係も、同時にみていく必要があり、古墳が文化だった原初へ、イメージを遡行させるべきです。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3355WHQS4KXTS?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c186

[近代史02] 弥生人の起源2 中川隆
29. 中川隆[-10495] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:38:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1592]
古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 (036)) – 1999/4/20
白石 太一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/古代国家はいかに形成されたか-古墳とヤマト政権-文春新書-036-太一郎/dp/4166600362/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8


内容紹介
ヤマト政権が成立したのは、果して三世紀か、五世紀か、七世紀か。最新の発掘成果をふまえて古代史最大の謎・この国のルーツに迫る

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
経済連携していたところに、古墳文化が流行し、政治連合になったのでは? 2019年2月11日

 本書は、為政者の古墳から、政権の変遷を読み取ろうとしていますが、そうするにあたって、問題なのは、主に次の2点ではないでしょうか。

(1)政治の中心地は、王墓よりも、王宮であること
(2)他地域と比べて、古墳の規模が大きいからといって、そこよりも権力があるとはいえないこと


 (1)について、筆者は、「古墳は本来的に、その勢力の本拠地に造営されるのが原則だった」とし(p.119)、「王宮の位置は、その王の姻族(配偶者の血族)や、時の政権を支えた豪族との関係等、時々の政治情勢に規制される可能性が大きい」としています(p.123-124)。

 王宮の位置は、記紀神話での皇宮(天皇の宮殿)の立地と、天皇の妃の出身地・有力豪族の拠点等から、イメージしているようです。

 大型の前方後円墳(帆立貝式も)が立地する、3世紀前半からの大和(おおやまと)・柳本・箸中・鳥見山古墳群(奈良盆地南東部)は、その付近に皇宮も立地していますが、4世紀半ばからの佐紀古墳群(奈良盆地北部)は、皇宮が立地しておらず、豪族の拠点もなく、先行の古墳もなく、根拠不明です。

 一方、4世紀終り〜5世紀初めからの古市・百舌鳥古墳群(大阪平野南東部・南西部)は、交互に古墳が造営され、その付近に皇宮の一部も立地していますが、これは、初期ヤマト政権の盟主が、大和の勢力から、河内南部と和泉北部の二大勢力連合へと、移動したからとしています(p.123)。

 その根拠は、古市・百舌鳥の両方ともに、巨大古墳に先行する、大型古墳が造営されていたからとしていますが(p.122)、そこに有力豪族の拠点があった痕跡は、発見されていないようです。

 また、4世紀半ばに、柳本古墳群の行灯山・渋谷向山の2古墳が続いたので、王位の世襲制が固定化したとし、5世紀にも、佐紀古墳群でも大型古墳が造営されたので、それらから、佐紀の古墳の被葬者は、古市・百舌鳥の古墳を造営した王の妃+その父の家系の可能性が高いとしています(p.124-125)

 これは、夫が妻の家に通い、その子が妻+その父の家に住む、当時の婚姻の風習を想定しているようですが、それだと、筆者が最初に設定した「その王の姻族」で、古墳が立地していることになります。

 吉備・毛野等、畿内以外の地域で、大型古墳(盟主)が移動するのも、婚姻の可能性があると推測でき、婚姻での祖先を共通にした同族意識も、当初は、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野等の、広域内で発達したとみられます。

 ここまでみると、佐紀古墳群の立地が、根拠不明なことと、古市・百舌鳥古墳群の立地が、先行の大型古墳の存在のみで、その付近に、先行古墳の被葬者の拠点が発見されていない以上、根拠にならないことがわかります。

 そうなると、そもそも、王墓は、被葬者の出身地だという、設定自体が、成り立つとはいえなくなり、王墓も、王宮と同様、時々の政治情勢で決定されていたと、みるほうが自然です。

 豪族の拠点がないとすれば、奈良盆地の、北方の佐紀古墳群は、日本海経由の交易ルートの出入口に、西方の古市・百舌鳥古墳群は、瀬戸内海経由の交易ルートの出入口に、それぞれ立地しているので、皇宮のある盆地へ、アプローチする際の視覚的効果が、相当意識されていることになります。

 「日本書紀」の、崇神天皇(10代)による四道将軍の派遣・平定は、4世紀前半とされ、出発から帰還まで、わずか半年なので、実際は、交易ルートの開拓で、輸入用の丹波・西道の2ルートと輸出用の北陸・東海の2ルートを確保した、次のステップの佐紀古墳群と古市・百舌鳥古墳群の造営といえます。

 (2)について、筆者は、「3世紀後半という、あまりに古い時期に、ヤマトを中心とする一元的・集権的な国家的秩序の形成を構想してしまうと、その後の400年にもおよぶ、長い期間における政治連合の変質過程を、正しく認識するうえで支障がある」(p.19)といっており、これに、私も賛同します。

 しかし、出現期の古墳が、畿内の大和で大型、畿内の山城・瀬戸内の吉備・九州北部の豊(とよ)で中型、九州北部の筑紫で小型なので、広域の政治連合が、畿内の大和を中心に形成され(p.56)、連合の盟主である倭国王は、倭の諸国を代表して外交権・交易権を掌握していたとしています(p.61)。

 そして、出現期古墳を生み出した政治連合の形成の契機が、鉄資源をはじめとする、様々な先進的文物の輸入ルートの支配権を巡る、玄界灘沿岸地域と、畿内・瀬戸内海沿岸地域の、争いにあり(p.57)、それを「魏志倭人伝」での2世紀後半の倭国の乱とし、畿内・瀬戸内連合が、勝利したとしています(p.60)。

 つまり、筆者は、3世紀後半を、多元的・分権的といいつつも、いつのまにか、一元的・集権的な畿内の大和をイメージしており、これは、古墳の大きさと権力の大きさを直結し、邪馬台国=畿内説と、安直に結び付けてしまったのが、原因だといえます。

 ところで、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく瀬戸内と同程度になり、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しています。

 もし、倭国の乱で、畿内・瀬戸内連合が、鉄器の輸入ルートを支配したのなら、逆転するのに約100年もかかったことになり、大幅にズレがあることになります。
 そこで私は、古墳の大きさと権力の大きさが、アル程度比例し、上下(主従)関係が成り立つのは、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野の広域内等、盟主が首長を観察でき、反抗すれば、すぐに戦争ができる範囲内だとみています。

 他方、戦争ができる範囲外では、そもそも首長・盟主が、他地域へ頻繁に行き来しないので、古墳の大きさと権力の大きさの比例を想定するのは、大変疑問で、各首長・盟主は、対等が原則、序列があっても、兄弟程度の関係だったと推測できます。

 ここでの戦争ができる範囲とは、当時は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず(1艘最大20人程度)、途中で水・食糧等を調達しなければならず、海路で侵攻しても、長期戦で食糧不足になれば、撤退しかなく、それほど戦果が期待できないので、補給が容易な、陸路での侵攻が前提です。

 そうなると、遠方とは、戦争よりも交易でつながり、古墳の規模は、広域外への権力の表現よりも、まず広域内への権力の表現で、何よりも、大型古墳を造営できる財力があったと、みるのが自然で、最初から政治連合ではなく、経済連携があり、そこに古墳文化が流行したと、イメージすべきでしょう。

 出現期古墳・纏向型前方後円墳の規模が、それぞれ箸墓・大和の大型前方後円墳の約1/4・1/3・1/2・2/3・3/4・1/1・6/5倍となっているのは、共通の築造企画が存在しなくても(p.38)、交易で長さ(絹・布等)の単位が統一され、被葬者の財力を勘案し、周囲を真似すれば、特定の寸法に近づくのではないでしょうか。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは(p.59)、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、徐々に銅鏡の価値が低下したのを、九州北部が認識していたからで、後漢末から、民間工房の量産品が、中国市場に流通していたため、それを九州北部が、率先して商売にしたのでしょう。

 畿内・吉備の土器が、九州北部へ移動し、その逆が、ほとんどみられないのは(p.60)、交易で、畿内・吉備の土器を商品として、九州北部の輸入鉄器と、物々交換していれば、それは成り立ち、それが、5世紀初めからの、和泉での、陶邑窯跡群の須恵器の全国流通につながったとも、いうことができます。

 筆者が、政治連合の1次的なメンバーは、3世紀初めの西日本の邪馬台国連合で、前方後円墳形の墳丘墓を造営し、2次的なメンバーは、3世紀中葉すぎに邪馬台国連合と合体した東日本で、前方後方墳形の墳丘墓を造営したとしていますが(p.69)、「魏志倭人伝」と、安直に結び付けるのは、禁物です。

 私は、大和が、裕福な財力を元手に、鉄器による水田整備・古墳造営+首長霊祭祀(墳丘形式・葬送儀礼)・威信財副葬のセットの、領国統治モデルを、東国に提供・交易したので、ますます蓄財でき、経営力があったとみています。

 5世紀前半には、その利益を、畿内は、国内不戦の意思表示として、巨大古墳造営に、多く投入した一方、九州北部は、国外からの鉄器確保のため、朝鮮半島派兵に、多く投入したとみれば、古墳の規模の格差は、説明できます。

 それが、5世紀後半には、戦況悪化で、鉄器確保の危機になったため、九州北部だけでなく、畿内も、領国統治モデルを維持しようと、巨大古墳を天皇陵のみに制限し、財力を朝鮮半島派兵に、本格投入したと、みることができます。

 ただし、筆者は、2世紀後半に、九州北部の玄界灘沿岸地域が、畿内・瀬戸内海沿岸地域に敗北・衰退し、3世紀半ばに、狗奴国の濃尾(美濃・尾張)が、邪馬台国の畿内に敗北・衰退したと、主張したいため、九州北部・濃尾の大型古墳は、6世紀前半としています(それぞれ岩戸山古墳・断夫山古墳)。

 ところが、九州北部・濃尾には、4世紀にも、全長100m前後の大型古墳が、次のように、散見できるので、その推論は、成り立ちません。


○九州北部
・久里双水古墳(佐賀県唐津市双水):3世紀後半〜4世紀前半・前方後円墳・全長109m
・一貴(いき)山銚子塚古墳(福岡県糸島市二丈田中):4世紀後半・前方後円墳・全長103m
・金立銚子塚古墳(佐賀市金立町):4世紀終り・前方後円墳・全長98m
・黒崎観世音塚古墳(福岡県大牟田市岬):4世紀終り・前方後円墳・全長97m


○濃尾
・青塚古墳(愛知県犬山市青塚):青塚古墳群、4世紀半ば・前方後円墳・全長123m
・白鳥(しらとり)塚古墳(名古屋市守山区上志段味):志段味古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長115m
・昼飯(ひるい)大塚古墳(岐阜県大垣市昼飯町):不破古墳群、4世紀終り・前方後円墳・全長150m
・坊の塚古墳(岐阜県各務原市鵜沼羽場町):4世紀終り・前方後円墳・全長120m
・粉糠(こぬか)山古墳(岐阜県大垣市青墓町):不破古墳群、4世紀終り〜5世紀初め・前方後方墳・全長100m


 以上より、3世紀前半から、濃尾以西で土器の地域差が希薄化し(庄内式)、環壕集落が廃絶したのは、西日本で経済連携ができたからで、そこへ古墳文化が流行し、3世紀半ばから、東日本にも拡大、政治連合化したのは、4世紀終り〜5世紀初めからの、朝鮮半島派兵が、きっかけではないでしょうか。

 経済連携といっているのは、首長・盟主間が、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)の、対等・分権のヨコの関係で、政治連合化すると、支配と服属の、序列・集権のタテの関係もでき、最初は、みんなの自発的な文化摂取だったのが、やがて有力者の強制的な制度摂取へと変容していくのです。

 これまでは、古墳期を飛鳥期につなげようと、「前方後円墳体制」等のように、古墳を制度として取り扱い、タテの関係に偏重してきましたが、統一国家成立前なので、これからは、有力者どうしのヨコの関係も、同時にみていく必要があり、古墳が文化だった原初へ、イメージを遡行させるべきです。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3355WHQS4KXTS?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/549.html#c29

[近代史3] 天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨 中川隆
16. 中川隆[-10494] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:38:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1593]

古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 (036)) – 1999/4/20
白石 太一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/古代国家はいかに形成されたか-古墳とヤマト政権-文春新書-036-太一郎/dp/4166600362/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8


内容紹介
ヤマト政権が成立したのは、果して三世紀か、五世紀か、七世紀か。最新の発掘成果をふまえて古代史最大の謎・この国のルーツに迫る

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
経済連携していたところに、古墳文化が流行し、政治連合になったのでは? 2019年2月11日

 本書は、為政者の古墳から、政権の変遷を読み取ろうとしていますが、そうするにあたって、問題なのは、主に次の2点ではないでしょうか。

(1)政治の中心地は、王墓よりも、王宮であること
(2)他地域と比べて、古墳の規模が大きいからといって、そこよりも権力があるとはいえないこと


 (1)について、筆者は、「古墳は本来的に、その勢力の本拠地に造営されるのが原則だった」とし(p.119)、「王宮の位置は、その王の姻族(配偶者の血族)や、時の政権を支えた豪族との関係等、時々の政治情勢に規制される可能性が大きい」としています(p.123-124)。

 王宮の位置は、記紀神話での皇宮(天皇の宮殿)の立地と、天皇の妃の出身地・有力豪族の拠点等から、イメージしているようです。

 大型の前方後円墳(帆立貝式も)が立地する、3世紀前半からの大和(おおやまと)・柳本・箸中・鳥見山古墳群(奈良盆地南東部)は、その付近に皇宮も立地していますが、4世紀半ばからの佐紀古墳群(奈良盆地北部)は、皇宮が立地しておらず、豪族の拠点もなく、先行の古墳もなく、根拠不明です。

 一方、4世紀終り〜5世紀初めからの古市・百舌鳥古墳群(大阪平野南東部・南西部)は、交互に古墳が造営され、その付近に皇宮の一部も立地していますが、これは、初期ヤマト政権の盟主が、大和の勢力から、河内南部と和泉北部の二大勢力連合へと、移動したからとしています(p.123)。

 その根拠は、古市・百舌鳥の両方ともに、巨大古墳に先行する、大型古墳が造営されていたからとしていますが(p.122)、そこに有力豪族の拠点があった痕跡は、発見されていないようです。

 また、4世紀半ばに、柳本古墳群の行灯山・渋谷向山の2古墳が続いたので、王位の世襲制が固定化したとし、5世紀にも、佐紀古墳群でも大型古墳が造営されたので、それらから、佐紀の古墳の被葬者は、古市・百舌鳥の古墳を造営した王の妃+その父の家系の可能性が高いとしています(p.124-125)

 これは、夫が妻の家に通い、その子が妻+その父の家に住む、当時の婚姻の風習を想定しているようですが、それだと、筆者が最初に設定した「その王の姻族」で、古墳が立地していることになります。

 吉備・毛野等、畿内以外の地域で、大型古墳(盟主)が移動するのも、婚姻の可能性があると推測でき、婚姻での祖先を共通にした同族意識も、当初は、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野等の、広域内で発達したとみられます。

 ここまでみると、佐紀古墳群の立地が、根拠不明なことと、古市・百舌鳥古墳群の立地が、先行の大型古墳の存在のみで、その付近に、先行古墳の被葬者の拠点が発見されていない以上、根拠にならないことがわかります。

 そうなると、そもそも、王墓は、被葬者の出身地だという、設定自体が、成り立つとはいえなくなり、王墓も、王宮と同様、時々の政治情勢で決定されていたと、みるほうが自然です。

 豪族の拠点がないとすれば、奈良盆地の、北方の佐紀古墳群は、日本海経由の交易ルートの出入口に、西方の古市・百舌鳥古墳群は、瀬戸内海経由の交易ルートの出入口に、それぞれ立地しているので、皇宮のある盆地へ、アプローチする際の視覚的効果が、相当意識されていることになります。

 「日本書紀」の、崇神天皇(10代)による四道将軍の派遣・平定は、4世紀前半とされ、出発から帰還まで、わずか半年なので、実際は、交易ルートの開拓で、輸入用の丹波・西道の2ルートと輸出用の北陸・東海の2ルートを確保した、次のステップの佐紀古墳群と古市・百舌鳥古墳群の造営といえます。

 (2)について、筆者は、「3世紀後半という、あまりに古い時期に、ヤマトを中心とする一元的・集権的な国家的秩序の形成を構想してしまうと、その後の400年にもおよぶ、長い期間における政治連合の変質過程を、正しく認識するうえで支障がある」(p.19)といっており、これに、私も賛同します。

 しかし、出現期の古墳が、畿内の大和で大型、畿内の山城・瀬戸内の吉備・九州北部の豊(とよ)で中型、九州北部の筑紫で小型なので、広域の政治連合が、畿内の大和を中心に形成され(p.56)、連合の盟主である倭国王は、倭の諸国を代表して外交権・交易権を掌握していたとしています(p.61)。

 そして、出現期古墳を生み出した政治連合の形成の契機が、鉄資源をはじめとする、様々な先進的文物の輸入ルートの支配権を巡る、玄界灘沿岸地域と、畿内・瀬戸内海沿岸地域の、争いにあり(p.57)、それを「魏志倭人伝」での2世紀後半の倭国の乱とし、畿内・瀬戸内連合が、勝利したとしています(p.60)。

 つまり、筆者は、3世紀後半を、多元的・分権的といいつつも、いつのまにか、一元的・集権的な畿内の大和をイメージしており、これは、古墳の大きさと権力の大きさを直結し、邪馬台国=畿内説と、安直に結び付けてしまったのが、原因だといえます。

 ところで、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく瀬戸内と同程度になり、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しています。

 もし、倭国の乱で、畿内・瀬戸内連合が、鉄器の輸入ルートを支配したのなら、逆転するのに約100年もかかったことになり、大幅にズレがあることになります。
 そこで私は、古墳の大きさと権力の大きさが、アル程度比例し、上下(主従)関係が成り立つのは、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野の広域内等、盟主が首長を観察でき、反抗すれば、すぐに戦争ができる範囲内だとみています。

 他方、戦争ができる範囲外では、そもそも首長・盟主が、他地域へ頻繁に行き来しないので、古墳の大きさと権力の大きさの比例を想定するのは、大変疑問で、各首長・盟主は、対等が原則、序列があっても、兄弟程度の関係だったと推測できます。

 ここでの戦争ができる範囲とは、当時は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず(1艘最大20人程度)、途中で水・食糧等を調達しなければならず、海路で侵攻しても、長期戦で食糧不足になれば、撤退しかなく、それほど戦果が期待できないので、補給が容易な、陸路での侵攻が前提です。

 そうなると、遠方とは、戦争よりも交易でつながり、古墳の規模は、広域外への権力の表現よりも、まず広域内への権力の表現で、何よりも、大型古墳を造営できる財力があったと、みるのが自然で、最初から政治連合ではなく、経済連携があり、そこに古墳文化が流行したと、イメージすべきでしょう。

 出現期古墳・纏向型前方後円墳の規模が、それぞれ箸墓・大和の大型前方後円墳の約1/4・1/3・1/2・2/3・3/4・1/1・6/5倍となっているのは、共通の築造企画が存在しなくても(p.38)、交易で長さ(絹・布等)の単位が統一され、被葬者の財力を勘案し、周囲を真似すれば、特定の寸法に近づくのではないでしょうか。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは(p.59)、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、徐々に銅鏡の価値が低下したのを、九州北部が認識していたからで、後漢末から、民間工房の量産品が、中国市場に流通していたため、それを九州北部が、率先して商売にしたのでしょう。

 畿内・吉備の土器が、九州北部へ移動し、その逆が、ほとんどみられないのは(p.60)、交易で、畿内・吉備の土器を商品として、九州北部の輸入鉄器と、物々交換していれば、それは成り立ち、それが、5世紀初めからの、和泉での、陶邑窯跡群の須恵器の全国流通につながったとも、いうことができます。

 筆者が、政治連合の1次的なメンバーは、3世紀初めの西日本の邪馬台国連合で、前方後円墳形の墳丘墓を造営し、2次的なメンバーは、3世紀中葉すぎに邪馬台国連合と合体した東日本で、前方後方墳形の墳丘墓を造営したとしていますが(p.69)、「魏志倭人伝」と、安直に結び付けるのは、禁物です。

 私は、大和が、裕福な財力を元手に、鉄器による水田整備・古墳造営+首長霊祭祀(墳丘形式・葬送儀礼)・威信財副葬のセットの、領国統治モデルを、東国に提供・交易したので、ますます蓄財でき、経営力があったとみています。

 5世紀前半には、その利益を、畿内は、国内不戦の意思表示として、巨大古墳造営に、多く投入した一方、九州北部は、国外からの鉄器確保のため、朝鮮半島派兵に、多く投入したとみれば、古墳の規模の格差は、説明できます。

 それが、5世紀後半には、戦況悪化で、鉄器確保の危機になったため、九州北部だけでなく、畿内も、領国統治モデルを維持しようと、巨大古墳を天皇陵のみに制限し、財力を朝鮮半島派兵に、本格投入したと、みることができます。

 ただし、筆者は、2世紀後半に、九州北部の玄界灘沿岸地域が、畿内・瀬戸内海沿岸地域に敗北・衰退し、3世紀半ばに、狗奴国の濃尾(美濃・尾張)が、邪馬台国の畿内に敗北・衰退したと、主張したいため、九州北部・濃尾の大型古墳は、6世紀前半としています(それぞれ岩戸山古墳・断夫山古墳)。

 ところが、九州北部・濃尾には、4世紀にも、全長100m前後の大型古墳が、次のように、散見できるので、その推論は、成り立ちません。


○九州北部
・久里双水古墳(佐賀県唐津市双水):3世紀後半〜4世紀前半・前方後円墳・全長109m
・一貴(いき)山銚子塚古墳(福岡県糸島市二丈田中):4世紀後半・前方後円墳・全長103m
・金立銚子塚古墳(佐賀市金立町):4世紀終り・前方後円墳・全長98m
・黒崎観世音塚古墳(福岡県大牟田市岬):4世紀終り・前方後円墳・全長97m


○濃尾
・青塚古墳(愛知県犬山市青塚):青塚古墳群、4世紀半ば・前方後円墳・全長123m
・白鳥(しらとり)塚古墳(名古屋市守山区上志段味):志段味古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長115m
・昼飯(ひるい)大塚古墳(岐阜県大垣市昼飯町):不破古墳群、4世紀終り・前方後円墳・全長150m
・坊の塚古墳(岐阜県各務原市鵜沼羽場町):4世紀終り・前方後円墳・全長120m
・粉糠(こぬか)山古墳(岐阜県大垣市青墓町):不破古墳群、4世紀終り〜5世紀初め・前方後方墳・全長100m


 以上より、3世紀前半から、濃尾以西で土器の地域差が希薄化し(庄内式)、環壕集落が廃絶したのは、西日本で経済連携ができたからで、そこへ古墳文化が流行し、3世紀半ばから、東日本にも拡大、政治連合化したのは、4世紀終り〜5世紀初めからの、朝鮮半島派兵が、きっかけではないでしょうか。

 経済連携といっているのは、首長・盟主間が、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)の、対等・分権のヨコの関係で、政治連合化すると、支配と服属の、序列・集権のタテの関係もでき、最初は、みんなの自発的な文化摂取だったのが、やがて有力者の強制的な制度摂取へと変容していくのです。

 これまでは、古墳期を飛鳥期につなげようと、「前方後円墳体制」等のように、古墳を制度として取り扱い、タテの関係に偏重してきましたが、統一国家成立前なので、これからは、有力者どうしのヨコの関係も、同時にみていく必要があり、古墳が文化だった原初へ、イメージを遡行させるべきです。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3355WHQS4KXTS?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html#c16

[近代史3] 日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか? 中川隆
37. 中川隆[-10493] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:39:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1594]
古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 (036)) – 1999/4/20
白石 太一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/古代国家はいかに形成されたか-古墳とヤマト政権-文春新書-036-太一郎/dp/4166600362/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8


内容紹介
ヤマト政権が成立したのは、果して三世紀か、五世紀か、七世紀か。最新の発掘成果をふまえて古代史最大の謎・この国のルーツに迫る

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
経済連携していたところに、古墳文化が流行し、政治連合になったのでは? 2019年2月11日

 本書は、為政者の古墳から、政権の変遷を読み取ろうとしていますが、そうするにあたって、問題なのは、主に次の2点ではないでしょうか。

(1)政治の中心地は、王墓よりも、王宮であること
(2)他地域と比べて、古墳の規模が大きいからといって、そこよりも権力があるとはいえないこと


 (1)について、筆者は、「古墳は本来的に、その勢力の本拠地に造営されるのが原則だった」とし(p.119)、「王宮の位置は、その王の姻族(配偶者の血族)や、時の政権を支えた豪族との関係等、時々の政治情勢に規制される可能性が大きい」としています(p.123-124)。

 王宮の位置は、記紀神話での皇宮(天皇の宮殿)の立地と、天皇の妃の出身地・有力豪族の拠点等から、イメージしているようです。

 大型の前方後円墳(帆立貝式も)が立地する、3世紀前半からの大和(おおやまと)・柳本・箸中・鳥見山古墳群(奈良盆地南東部)は、その付近に皇宮も立地していますが、4世紀半ばからの佐紀古墳群(奈良盆地北部)は、皇宮が立地しておらず、豪族の拠点もなく、先行の古墳もなく、根拠不明です。

 一方、4世紀終り〜5世紀初めからの古市・百舌鳥古墳群(大阪平野南東部・南西部)は、交互に古墳が造営され、その付近に皇宮の一部も立地していますが、これは、初期ヤマト政権の盟主が、大和の勢力から、河内南部と和泉北部の二大勢力連合へと、移動したからとしています(p.123)。

 その根拠は、古市・百舌鳥の両方ともに、巨大古墳に先行する、大型古墳が造営されていたからとしていますが(p.122)、そこに有力豪族の拠点があった痕跡は、発見されていないようです。

 また、4世紀半ばに、柳本古墳群の行灯山・渋谷向山の2古墳が続いたので、王位の世襲制が固定化したとし、5世紀にも、佐紀古墳群でも大型古墳が造営されたので、それらから、佐紀の古墳の被葬者は、古市・百舌鳥の古墳を造営した王の妃+その父の家系の可能性が高いとしています(p.124-125)

 これは、夫が妻の家に通い、その子が妻+その父の家に住む、当時の婚姻の風習を想定しているようですが、それだと、筆者が最初に設定した「その王の姻族」で、古墳が立地していることになります。

 吉備・毛野等、畿内以外の地域で、大型古墳(盟主)が移動するのも、婚姻の可能性があると推測でき、婚姻での祖先を共通にした同族意識も、当初は、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野等の、広域内で発達したとみられます。

 ここまでみると、佐紀古墳群の立地が、根拠不明なことと、古市・百舌鳥古墳群の立地が、先行の大型古墳の存在のみで、その付近に、先行古墳の被葬者の拠点が発見されていない以上、根拠にならないことがわかります。

 そうなると、そもそも、王墓は、被葬者の出身地だという、設定自体が、成り立つとはいえなくなり、王墓も、王宮と同様、時々の政治情勢で決定されていたと、みるほうが自然です。

 豪族の拠点がないとすれば、奈良盆地の、北方の佐紀古墳群は、日本海経由の交易ルートの出入口に、西方の古市・百舌鳥古墳群は、瀬戸内海経由の交易ルートの出入口に、それぞれ立地しているので、皇宮のある盆地へ、アプローチする際の視覚的効果が、相当意識されていることになります。

 「日本書紀」の、崇神天皇(10代)による四道将軍の派遣・平定は、4世紀前半とされ、出発から帰還まで、わずか半年なので、実際は、交易ルートの開拓で、輸入用の丹波・西道の2ルートと輸出用の北陸・東海の2ルートを確保した、次のステップの佐紀古墳群と古市・百舌鳥古墳群の造営といえます。

 (2)について、筆者は、「3世紀後半という、あまりに古い時期に、ヤマトを中心とする一元的・集権的な国家的秩序の形成を構想してしまうと、その後の400年にもおよぶ、長い期間における政治連合の変質過程を、正しく認識するうえで支障がある」(p.19)といっており、これに、私も賛同します。

 しかし、出現期の古墳が、畿内の大和で大型、畿内の山城・瀬戸内の吉備・九州北部の豊(とよ)で中型、九州北部の筑紫で小型なので、広域の政治連合が、畿内の大和を中心に形成され(p.56)、連合の盟主である倭国王は、倭の諸国を代表して外交権・交易権を掌握していたとしています(p.61)。

 そして、出現期古墳を生み出した政治連合の形成の契機が、鉄資源をはじめとする、様々な先進的文物の輸入ルートの支配権を巡る、玄界灘沿岸地域と、畿内・瀬戸内海沿岸地域の、争いにあり(p.57)、それを「魏志倭人伝」での2世紀後半の倭国の乱とし、畿内・瀬戸内連合が、勝利したとしています(p.60)。

 つまり、筆者は、3世紀後半を、多元的・分権的といいつつも、いつのまにか、一元的・集権的な畿内の大和をイメージしており、これは、古墳の大きさと権力の大きさを直結し、邪馬台国=畿内説と、安直に結び付けてしまったのが、原因だといえます。

 ところで、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく瀬戸内と同程度になり、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しています。

 もし、倭国の乱で、畿内・瀬戸内連合が、鉄器の輸入ルートを支配したのなら、逆転するのに約100年もかかったことになり、大幅にズレがあることになります。
 そこで私は、古墳の大きさと権力の大きさが、アル程度比例し、上下(主従)関係が成り立つのは、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野の広域内等、盟主が首長を観察でき、反抗すれば、すぐに戦争ができる範囲内だとみています。

 他方、戦争ができる範囲外では、そもそも首長・盟主が、他地域へ頻繁に行き来しないので、古墳の大きさと権力の大きさの比例を想定するのは、大変疑問で、各首長・盟主は、対等が原則、序列があっても、兄弟程度の関係だったと推測できます。

 ここでの戦争ができる範囲とは、当時は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず(1艘最大20人程度)、途中で水・食糧等を調達しなければならず、海路で侵攻しても、長期戦で食糧不足になれば、撤退しかなく、それほど戦果が期待できないので、補給が容易な、陸路での侵攻が前提です。

 そうなると、遠方とは、戦争よりも交易でつながり、古墳の規模は、広域外への権力の表現よりも、まず広域内への権力の表現で、何よりも、大型古墳を造営できる財力があったと、みるのが自然で、最初から政治連合ではなく、経済連携があり、そこに古墳文化が流行したと、イメージすべきでしょう。

 出現期古墳・纏向型前方後円墳の規模が、それぞれ箸墓・大和の大型前方後円墳の約1/4・1/3・1/2・2/3・3/4・1/1・6/5倍となっているのは、共通の築造企画が存在しなくても(p.38)、交易で長さ(絹・布等)の単位が統一され、被葬者の財力を勘案し、周囲を真似すれば、特定の寸法に近づくのではないでしょうか。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは(p.59)、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、徐々に銅鏡の価値が低下したのを、九州北部が認識していたからで、後漢末から、民間工房の量産品が、中国市場に流通していたため、それを九州北部が、率先して商売にしたのでしょう。

 畿内・吉備の土器が、九州北部へ移動し、その逆が、ほとんどみられないのは(p.60)、交易で、畿内・吉備の土器を商品として、九州北部の輸入鉄器と、物々交換していれば、それは成り立ち、それが、5世紀初めからの、和泉での、陶邑窯跡群の須恵器の全国流通につながったとも、いうことができます。

 筆者が、政治連合の1次的なメンバーは、3世紀初めの西日本の邪馬台国連合で、前方後円墳形の墳丘墓を造営し、2次的なメンバーは、3世紀中葉すぎに邪馬台国連合と合体した東日本で、前方後方墳形の墳丘墓を造営したとしていますが(p.69)、「魏志倭人伝」と、安直に結び付けるのは、禁物です。

 私は、大和が、裕福な財力を元手に、鉄器による水田整備・古墳造営+首長霊祭祀(墳丘形式・葬送儀礼)・威信財副葬のセットの、領国統治モデルを、東国に提供・交易したので、ますます蓄財でき、経営力があったとみています。

 5世紀前半には、その利益を、畿内は、国内不戦の意思表示として、巨大古墳造営に、多く投入した一方、九州北部は、国外からの鉄器確保のため、朝鮮半島派兵に、多く投入したとみれば、古墳の規模の格差は、説明できます。

 それが、5世紀後半には、戦況悪化で、鉄器確保の危機になったため、九州北部だけでなく、畿内も、領国統治モデルを維持しようと、巨大古墳を天皇陵のみに制限し、財力を朝鮮半島派兵に、本格投入したと、みることができます。

 ただし、筆者は、2世紀後半に、九州北部の玄界灘沿岸地域が、畿内・瀬戸内海沿岸地域に敗北・衰退し、3世紀半ばに、狗奴国の濃尾(美濃・尾張)が、邪馬台国の畿内に敗北・衰退したと、主張したいため、九州北部・濃尾の大型古墳は、6世紀前半としています(それぞれ岩戸山古墳・断夫山古墳)。

 ところが、九州北部・濃尾には、4世紀にも、全長100m前後の大型古墳が、次のように、散見できるので、その推論は、成り立ちません。


○九州北部
・久里双水古墳(佐賀県唐津市双水):3世紀後半〜4世紀前半・前方後円墳・全長109m
・一貴(いき)山銚子塚古墳(福岡県糸島市二丈田中):4世紀後半・前方後円墳・全長103m
・金立銚子塚古墳(佐賀市金立町):4世紀終り・前方後円墳・全長98m
・黒崎観世音塚古墳(福岡県大牟田市岬):4世紀終り・前方後円墳・全長97m


○濃尾
・青塚古墳(愛知県犬山市青塚):青塚古墳群、4世紀半ば・前方後円墳・全長123m
・白鳥(しらとり)塚古墳(名古屋市守山区上志段味):志段味古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長115m
・昼飯(ひるい)大塚古墳(岐阜県大垣市昼飯町):不破古墳群、4世紀終り・前方後円墳・全長150m
・坊の塚古墳(岐阜県各務原市鵜沼羽場町):4世紀終り・前方後円墳・全長120m
・粉糠(こぬか)山古墳(岐阜県大垣市青墓町):不破古墳群、4世紀終り〜5世紀初め・前方後方墳・全長100m


 以上より、3世紀前半から、濃尾以西で土器の地域差が希薄化し(庄内式)、環壕集落が廃絶したのは、西日本で経済連携ができたからで、そこへ古墳文化が流行し、3世紀半ばから、東日本にも拡大、政治連合化したのは、4世紀終り〜5世紀初めからの、朝鮮半島派兵が、きっかけではないでしょうか。

 経済連携といっているのは、首長・盟主間が、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)の、対等・分権のヨコの関係で、政治連合化すると、支配と服属の、序列・集権のタテの関係もでき、最初は、みんなの自発的な文化摂取だったのが、やがて有力者の強制的な制度摂取へと変容していくのです。

 これまでは、古墳期を飛鳥期につなげようと、「前方後円墳体制」等のように、古墳を制度として取り扱い、タテの関係に偏重してきましたが、統一国家成立前なので、これからは、有力者どうしのヨコの関係も、同時にみていく必要があり、古墳が文化だった原初へ、イメージを遡行させるべきです。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3355WHQS4KXTS?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html#c37

[近代史3] (小室圭問題/佳子さま盗撮) 皇室記事まとめ一気読み 中川隆
20. 中川隆[-10492] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:56:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1595]

2019.04.29
紀子さま“パワハラ”で職員2人「自殺」の闇 小室佳代とお似合い家族?
https://rondan.net/21291

小室親族だけではない連続自殺事件

『週刊新潮』2005月8月11・18日合併号では、秋篠宮家の警備担当者が自殺したという記事が掲載されています。

書かれた内容によれば、これのみならず、前年の2004年にも自殺した警備担当者の後輩も自殺しているとか。 自殺といえば小室佳代さんの周囲でも起こっていますが、どうやら秋篠宮家でも起きているようです。似た者同士、お互いはひかれあう運命なのでしょうか?いま再びこの記事を取り上げて議論する価値は大いにあるでしょう。

その自殺の仔細は次のようなもの。


皇室の守護を目的とする皇宮警察。その本部に所属していた警視(58)が7月15日、自ら命を絶った。実はこの人、秋篠宮家の護衛を担当する侍衛官だったという。

昨年夏にも自殺者か出たというが、一体、皇宮警察で何か起きているのか。亡くなったのは、護衛部の侍衛官、加藤達夫氏(仮名)だ。(中略)

だが、

「昨年8月にも加藤の後輩が、首を吊って自殺しているんです」

と明かすのは、皇宮警察関係者のA氏だ。
「「皇宮警察」また出た自殺者は「秋篠宮」担当」『週刊新潮』2005月8月11・18日合併号
当サイトでは、連続自殺といえば、小室母子といった印象すらありますが、秋篠宮家の関係者でもこのような奇妙な出来事があったようです。


関連記事
愛子さまを「皇太子」に! 配偶者の最有力候補 令和時代の皇統問題
2019年4月29日
https://rondan.net/21291



担当者が不祥事続きの秋篠宮家

秋篠宮家の担当者の不祥事といえば、先日取り上げた公然わいせつ事件も有名ですが、この連続自殺事件も非常に衝撃的な事件です。


関連記事
秋篠宮家「公然わいせつ」で逮捕者 その“家風”と眞子さま
2019年4月26日
https://rondan.net/20999

また、自殺の原因として金銭的なトラブルが背後にあったのだないかと記事では推測されています。


「加藤氏と一緒に秋篠宮家の護衛にあたるのが、護衛部の護衛3課。自殺したのは、3課の高山弘(当時47)=仮名=という側衛官です。高山は、眞子さまや佳子さまをよく学習院に送り迎えしており、紀子さまの大のお気に入りだった。加藤は高山を直接の部下のように面倒を見ていました」

もっとも、高山氏は私生活ではかなりいい加減だったという。

「大の女好きで、生活がハデでね。一千万単位の借金を作り、それか原因で白殺したんです。高山は私に“加藤さんに借金の保証人になってもらっている”と言っていた。もしかすると加藤は、高山の残した借金の返済を迫られていたのかもしれません」(同)

秋篠宮家担当の護衛官がたて続けに自殺するとは、尋常ではない。
同上

公然猥褻、借金トラブル、自殺事件と酷い事件やトラブルを複数の職員が起こしているのは、率直に言って呆れてしまいます。本人問題なのか、それとも秋篠宮家の家風にも問題があるのかが重要な論点になるでしょう。十人十色とはいえ、東宮家からはこのような不祥事は聞かれませんので。

このような事件について情報を集めてみると、あれほど「身分不相応である」と批判されていた小室圭さんと眞子さまの結婚も、つい「似た者同士でお似合いなのではないか?」などとも思ってしまうかも。

背後には、表に出せない重大事件の存在も?

事件の裏に重大な秘密が隠されているという噂もあるようです。


「加藤さんが亡くなった前後に、護衛3課で監察に調べられていた警視が辞意を伝えています。表に出せないようなヤバイ話があるのは確実ですよ。これじゃ、秋篠宮家担当の護衛体制はガタガタじゃないですか。関いた口が塞がらない」
同上


紀子さまのパワハラも事件の原因の一つか?

警備担当者が相次いで自殺し、警備体制はガタガタ。一家のすべてを取り仕切る執事のような宮内庁職員は辞任して公然わいせつ罪で逮捕ということで、宮内庁の職員が秋篠宮家の担当になることを恐れるという話もあながち、ただの噂話とも言えないのかもしれません。

最近の紀子様の笑顔は「自然じゃなくて怖い」とか、「目が笑っていない!」などと言われているようですが、確かにこんな表情で怒鳴りつけられたら結構恐怖かも……。

ともあれ、小室圭問題も何の解決もせず、悠仁さまの身辺警備や進学の問題、秋篠宮家のうつ病疑惑等々、平成も残すところ僅かとなりましたが、秋篠宮家の問題は山積状態です。

果たして、皇室が国民との信頼関係を回復し、安心できるようになる時がいつの日かふたたび訪れるのでしょうか?
https://rondan.net/21294
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/291.html#c20

[近代史3] プチエンジェル事件の顧客と噂されている秋篠宮・高円宮はロリコンなのか? 中川隆
25. 中川隆[-10491] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:57:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1596]

2019.04.29
紀子さま“パワハラ”で職員2人「自殺」の闇 小室佳代とお似合い家族?
https://rondan.net/21291

小室親族だけではない連続自殺事件

『週刊新潮』2005月8月11・18日合併号では、秋篠宮家の警備担当者が自殺したという記事が掲載されています。

書かれた内容によれば、これのみならず、前年の2004年にも自殺した警備担当者の後輩も自殺しているとか。 自殺といえば小室佳代さんの周囲でも起こっていますが、どうやら秋篠宮家でも起きているようです。似た者同士、お互いはひかれあう運命なのでしょうか?いま再びこの記事を取り上げて議論する価値は大いにあるでしょう。

その自殺の仔細は次のようなもの。


皇室の守護を目的とする皇宮警察。その本部に所属していた警視(58)が7月15日、自ら命を絶った。実はこの人、秋篠宮家の護衛を担当する侍衛官だったという。

昨年夏にも自殺者か出たというが、一体、皇宮警察で何か起きているのか。亡くなったのは、護衛部の侍衛官、加藤達夫氏(仮名)だ。(中略)

だが、

「昨年8月にも加藤の後輩が、首を吊って自殺しているんです」

と明かすのは、皇宮警察関係者のA氏だ。
「「皇宮警察」また出た自殺者は「秋篠宮」担当」『週刊新潮』2005月8月11・18日合併号
当サイトでは、連続自殺といえば、小室母子といった印象すらありますが、秋篠宮家の関係者でもこのような奇妙な出来事があったようです。


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https://rondan.net/21291



担当者が不祥事続きの秋篠宮家

秋篠宮家の担当者の不祥事といえば、先日取り上げた公然わいせつ事件も有名ですが、この連続自殺事件も非常に衝撃的な事件です。


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秋篠宮家「公然わいせつ」で逮捕者 その“家風”と眞子さま
2019年4月26日
https://rondan.net/20999

また、自殺の原因として金銭的なトラブルが背後にあったのだないかと記事では推測されています。


「加藤氏と一緒に秋篠宮家の護衛にあたるのが、護衛部の護衛3課。自殺したのは、3課の高山弘(当時47)=仮名=という側衛官です。高山は、眞子さまや佳子さまをよく学習院に送り迎えしており、紀子さまの大のお気に入りだった。加藤は高山を直接の部下のように面倒を見ていました」

もっとも、高山氏は私生活ではかなりいい加減だったという。

「大の女好きで、生活がハデでね。一千万単位の借金を作り、それか原因で白殺したんです。高山は私に“加藤さんに借金の保証人になってもらっている”と言っていた。もしかすると加藤は、高山の残した借金の返済を迫られていたのかもしれません」(同)

秋篠宮家担当の護衛官がたて続けに自殺するとは、尋常ではない。
同上

公然猥褻、借金トラブル、自殺事件と酷い事件やトラブルを複数の職員が起こしているのは、率直に言って呆れてしまいます。本人問題なのか、それとも秋篠宮家の家風にも問題があるのかが重要な論点になるでしょう。十人十色とはいえ、東宮家からはこのような不祥事は聞かれませんので。

このような事件について情報を集めてみると、あれほど「身分不相応である」と批判されていた小室圭さんと眞子さまの結婚も、つい「似た者同士でお似合いなのではないか?」などとも思ってしまうかも。

背後には、表に出せない重大事件の存在も?

事件の裏に重大な秘密が隠されているという噂もあるようです。


「加藤さんが亡くなった前後に、護衛3課で監察に調べられていた警視が辞意を伝えています。表に出せないようなヤバイ話があるのは確実ですよ。これじゃ、秋篠宮家担当の護衛体制はガタガタじゃないですか。関いた口が塞がらない」
同上


紀子さまのパワハラも事件の原因の一つか?

警備担当者が相次いで自殺し、警備体制はガタガタ。一家のすべてを取り仕切る執事のような宮内庁職員は辞任して公然わいせつ罪で逮捕ということで、宮内庁の職員が秋篠宮家の担当になることを恐れるという話もあながち、ただの噂話とも言えないのかもしれません。

最近の紀子様の笑顔は「自然じゃなくて怖い」とか、「目が笑っていない!」などと言われているようですが、確かにこんな表情で怒鳴りつけられたら結構恐怖かも……。

ともあれ、小室圭問題も何の解決もせず、悠仁さまの身辺警備や進学の問題、秋篠宮家のうつ病疑惑等々、平成も残すところ僅かとなりましたが、秋篠宮家の問題は山積状態です。

果たして、皇室が国民との信頼関係を回復し、安心できるようになる時がいつの日かふたたび訪れるのでしょうか?
https://rondan.net/21294
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/362.html#c25

[近代史3] 秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください 中川隆
41. 中川隆[-10490] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:57:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1597]

2019.04.29
紀子さま“パワハラ”で職員2人「自殺」の闇 小室佳代とお似合い家族?
https://rondan.net/21291

小室親族だけではない連続自殺事件

『週刊新潮』2005月8月11・18日合併号では、秋篠宮家の警備担当者が自殺したという記事が掲載されています。

書かれた内容によれば、これのみならず、前年の2004年にも自殺した警備担当者の後輩も自殺しているとか。 自殺といえば小室佳代さんの周囲でも起こっていますが、どうやら秋篠宮家でも起きているようです。似た者同士、お互いはひかれあう運命なのでしょうか?いま再びこの記事を取り上げて議論する価値は大いにあるでしょう。

その自殺の仔細は次のようなもの。


皇室の守護を目的とする皇宮警察。その本部に所属していた警視(58)が7月15日、自ら命を絶った。実はこの人、秋篠宮家の護衛を担当する侍衛官だったという。

昨年夏にも自殺者か出たというが、一体、皇宮警察で何か起きているのか。亡くなったのは、護衛部の侍衛官、加藤達夫氏(仮名)だ。(中略)

だが、

「昨年8月にも加藤の後輩が、首を吊って自殺しているんです」

と明かすのは、皇宮警察関係者のA氏だ。
「「皇宮警察」また出た自殺者は「秋篠宮」担当」『週刊新潮』2005月8月11・18日合併号
当サイトでは、連続自殺といえば、小室母子といった印象すらありますが、秋篠宮家の関係者でもこのような奇妙な出来事があったようです。


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担当者が不祥事続きの秋篠宮家

秋篠宮家の担当者の不祥事といえば、先日取り上げた公然わいせつ事件も有名ですが、この連続自殺事件も非常に衝撃的な事件です。


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また、自殺の原因として金銭的なトラブルが背後にあったのだないかと記事では推測されています。


「加藤氏と一緒に秋篠宮家の護衛にあたるのが、護衛部の護衛3課。自殺したのは、3課の高山弘(当時47)=仮名=という側衛官です。高山は、眞子さまや佳子さまをよく学習院に送り迎えしており、紀子さまの大のお気に入りだった。加藤は高山を直接の部下のように面倒を見ていました」

もっとも、高山氏は私生活ではかなりいい加減だったという。

「大の女好きで、生活がハデでね。一千万単位の借金を作り、それか原因で白殺したんです。高山は私に“加藤さんに借金の保証人になってもらっている”と言っていた。もしかすると加藤は、高山の残した借金の返済を迫られていたのかもしれません」(同)

秋篠宮家担当の護衛官がたて続けに自殺するとは、尋常ではない。
同上

公然猥褻、借金トラブル、自殺事件と酷い事件やトラブルを複数の職員が起こしているのは、率直に言って呆れてしまいます。本人問題なのか、それとも秋篠宮家の家風にも問題があるのかが重要な論点になるでしょう。十人十色とはいえ、東宮家からはこのような不祥事は聞かれませんので。

このような事件について情報を集めてみると、あれほど「身分不相応である」と批判されていた小室圭さんと眞子さまの結婚も、つい「似た者同士でお似合いなのではないか?」などとも思ってしまうかも。

背後には、表に出せない重大事件の存在も?

事件の裏に重大な秘密が隠されているという噂もあるようです。


「加藤さんが亡くなった前後に、護衛3課で監察に調べられていた警視が辞意を伝えています。表に出せないようなヤバイ話があるのは確実ですよ。これじゃ、秋篠宮家担当の護衛体制はガタガタじゃないですか。関いた口が塞がらない」
同上


紀子さまのパワハラも事件の原因の一つか?

警備担当者が相次いで自殺し、警備体制はガタガタ。一家のすべてを取り仕切る執事のような宮内庁職員は辞任して公然わいせつ罪で逮捕ということで、宮内庁の職員が秋篠宮家の担当になることを恐れるという話もあながち、ただの噂話とも言えないのかもしれません。

最近の紀子様の笑顔は「自然じゃなくて怖い」とか、「目が笑っていない!」などと言われているようですが、確かにこんな表情で怒鳴りつけられたら結構恐怖かも……。

ともあれ、小室圭問題も何の解決もせず、悠仁さまの身辺警備や進学の問題、秋篠宮家のうつ病疑惑等々、平成も残すところ僅かとなりましたが、秋篠宮家の問題は山積状態です。

果たして、皇室が国民との信頼関係を回復し、安心できるようになる時がいつの日かふたたび訪れるのでしょうか?
https://rondan.net/21294
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c41

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
187. 中川隆[-10489] koaQ7Jey 2019年4月29日 21:20:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1598]

農耕社会の成立〈シリーズ 日本古代史 1〉 (岩波新書) – 2010/10/21
石川 日出志 (著)
https://www.amazon.co.jp/農耕社会の成立〈シリーズ-日本古代史-1〉-岩波新書-日出志/dp/400431271X/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8


内容紹介
縄文の集落から弥生の農耕社会へ。稲作の導入を契機とする、日本列島の歴史の大きな分岐点は、しかし、「縄文人から弥生人へ」という単純な交代ではなく、複線としての歴史の始まりであった。北海道から沖縄まで列島全体をひろく視野に、ゆたかな地域性を保ちつつ緩やかに変わってゆく列島の姿を新鮮に描きだす。

内容(「BOOK」データベースより)
「海を越えてやってきた渡来人が、縄文人にかわり、西日本を中心に新しい文化を築いた」という一般的な弥生時代のイメージ。しかし、稲作の導入を契機とする日本列島の歴史の大きな分岐点は、もっと緩やかにして多様なものであった。縄文から弥生への連続性と、地域文化の豊かさに注目しつつ、「複線」としての歴史像を新鮮に描きだす。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
石川/日出志
1954年新潟県に生まれる。1983年明治大学大学院文学研究科博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は考古学

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち3.0
弥生期は、互酬・交易のヨコの関係と、支配のタテの関係の、はじまりである 2019年2月9日


 日本史で、飛鳥期以後は、政治の中心地を時代名とし、古墳期以前は、中央集権が、未整備なので、新規に登場した文化名を使用していますが、縄文期は、定住による縄文土器の出現、弥生期は現在、弥生土器との区別よりも、水田稲作の伝播を優先し、時代区分としています。

 農耕社会が成立したのは、弥生期ですが、本書は、「シリーズ日本古代史」の最初でもあるので、それ以前の、日本列島最古の出土がある旧石器後期と縄文期、それ以後の、前方後円墳が出現した古墳初期も、取り上げ、連続的・相対的に俯瞰しようとしているので、弥生文化自体は、5章中、2章です。

 よって、弥生期を充分理解したいなら、本書は、総論なので、別書で、各論を補充したほうがよいでしょう。

 本書で気づかされたのは、移動生活だった旧石器期は、すべて自給自足といってよく、定住生活になった縄文期も、食糧・道具等の大半が、自給自足ですが、黒曜石・サヌカイト・ヒスイ・天然アスファルト等、貴重な道具を、交流(互酬)・交易で、調達していることです。

 しかも、それは、長距離を一気に移動する、直接交流・交易ではなく、複数の集落間を、中短距離でリレーする、間接交流・交易だったと推測でき、弥生期の交流・交易は、弥生文化圏とともに、続縄文期の北海道・南島続縄文期(貝塚後期)の沖縄等、弥生文化圏周辺の地域へも、一部到達しています。

 縄文期には、集落をまとめるリーダーがいても当然ですが、集落のメンバーどうしは、平等が原則で、集落どうしは、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)のヨコの関係がありました。

 それが、弥生期には、水田稲作の導入で、リーダーが、集落のメンバーから突出した存在になり、保護(人命・財産の保障)と納税(貢納・労役)のタテの関係が、はじめてできると、リーダーが、集落どうしの交流(互酬)・交易を主導するようになったので、リーダーどうしのヨコの関係になります。

 また、リーダーは、集落どうしの対立を解消したり、同盟で連携したり、抗争に戦勝し、その集落を支配下にすれば、上下(主従)のタテの関係になり、庶民とは格差のある首長ができ、今度は、首長どうしのヨコの関係になり、こうして、タテの関係が重層すれば、高次どうしのヨコの関係ができます。

 青銅器・鉄器は、そのような中での摂取なので、リーダー・首長どうしの互酬(交流)・交易か(ヨコの関係)、上位者(首長)から下位者(リーダー)への授与(下賜)で(タテの関係)、入手したとみるべきでしょう。

 ここで注意したいのは、青銅器・鉄器等の貴重品・舶来品を入手する際に、戦時だと、侵略による略奪も可能ですが、平時だと、自前の工房で製作するか、互酬・交易で調達するか、有力者から授与されるかの、いずれかしかないことで、このうち、製作と互酬・交易には、財力が必要です。

 そして、古墳初期の前方後円墳も、そのような中での摂取ですが、大和に大型古墳が出現するのは、3世紀前半〜半ば、鉄器の出土数で、畿内が九州北部を逆転するのは、3世紀後半と、ズレています。

 それは、大型古墳が、首長と庶民のタテの関係で造営され、対内的な権力の表現である一方、鉄器等の舶来品が、首長どうしのヨコの関係で調達され、財力の表現で、別の力だからです。

 大和は当初、対外的な権力はなく、財力があったので、大型古墳を造営、西の輸入用2方向・東の輸出用2方向に、流通ルートを確保することで、鉄器を普及させ、鉄器による水田整備・古墳造営・威信財副葬のセットの、領国統治モデルを東国に提供したので、ますます蓄財できたのではないでしょうか。

 輸入の場合、売り手側が2者(丹波・吉備)なら、買値の比較ができ、買い手側が有利になり、輸出の場合、買い手側が2者(北陸・東海)なら、売値の比較ができ、売り手側が有利になるからで、こうして大和は、売り買いとも、九州北部より優勢になれ、経営力があったとみるべきでしょう。

 こうして、古墳期には、弥生期由来の支配のタテの関係で、為政者が、リーダー→首長→豪族と、庶民とは隔絶した存在になるとともに、縄文期由来の互酬・交易のヨコの関係で、豪族どうしが、貴重品・舶来品等を取引するようになったと、推測できます。

 特に、銅鏡で、漢鏡7期は(p.202)、後漢が弱体化し、中国の市場に流通していたもの、卑弥呼へ授与された百枚の魏鏡は、民間工房に外注されたもの、三角縁神獣鏡は、日本輸出専用に中国の民間工房が量産したものとみられ、前漢鏡→後漢鏡→魏鏡以降と、銅鏡の価値が低下したのを認識すべきです。

 ヨコの関係については、4世紀終り〜5世紀初めに、倭が朝鮮半島へ渡海・交戦したのも、鉄器確保と引き換えの派兵とみれば、一種の贈与と返礼で、略奪・領土拡大のためというよりも、日本列島での鉄器による水田整備・古墳造営・威信財副葬のセットの、領国統治モデル維持のためといえます。

 さらに、5世紀後半・雄略天皇(21代)の時代にみられる、人制(ひとせい)は、豪族が、天皇に私財で奉仕するかわりに、地位・利得等の恩恵を享受する、一種の贈与と返礼ともいえ、それが、天皇中心の中央集権のタテの関係へと、長期的には発展しましたが、短期的には反抗もあったと説明できます。

 ただし、筆者は、考古学だと、紀元前1〜2世紀に、九州北部で最有力だったのは、奴国・伊都国なのに、「魏志倭人伝」だと、伊都国には代々、王がいるが皆、女王国に統属したとあるので、邪馬台国は、九州以外だとし、畿内説が順当だとしていますが(p.205)、なぜ九州以外なのかが、根拠不詳です。

 邪馬台国=畿内説を主張するなら、九州から近畿までの距離を、どのように統属したのかが、大変疑問で、それぐらいの広域を統治する能力があるなら、すでにアル程度の中央集権化でしょう。

 「三国志・魏志」烏丸鮮卑東夷伝(巻30)には、倭人だけでなく、烏丸・鮮卑・夫餘・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓(馬韓・辰韓・弁韓)の項目もあり、それらの範囲が推定された、朝鮮半島〜中国大陸東北部〜沿海州周辺の地図が、ネットで散見できます。

 そこで、倭の範囲を、近畿以西の西日本とすると、朝鮮半島の他地域に比べて、倭だけが、異様に広いことがわかり、しかも、朝鮮半島の他地域は、拠点を複数設置し、陸路を整備すれば、反乱があっても、すぐに大軍を派兵すれば、騎馬もあり、一気に鎮圧するのも可能です。

 一方、3世紀の倭は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず、途中で水・食糧等を調達しなければならず、九州〜近畿間の海路で、大軍は無理、補給も困難、そんな状況で、畿内の邪馬台国が、九州北部の伊都国の一大率の検察に、畏憚する(おそれはばかる)のは、到底納得できません。

 2章で筆者は、「確かな資料に基づく議論と、可能性を探ることとは、厳密に分ける必要があり、確実さの保証のない議論には慎重でありたい」といっていますが(p.58)、5章の古墳初期の最後で、「魏志倭人伝」等の文献学を安直に取り入れ、考古学のみで押し通さなかったのは、残念です。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1UDQYBN7YRW1X?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c187

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
188. 中川隆[-10488] koaQ7Jey 2019年4月30日 05:08:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1599]

古代国家はいつ成立したか (岩波新書) – 2011/8/20
都出 比呂志 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A4%E6%88%90%E7%AB%8B%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8B-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%83%BD%E5%87%BA-%E6%AF%94%E5%91%82%E5%BF%97/dp/4004313252/ref=la_B001I7HGUQ_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1556568374&sr=1-1

内容紹介

日本列島で「国家」はいつ成立したのか。それを解き明かす一つの鍵が考古学の成果にある。集落の構造、住居間の格差、富を蓄えた倉庫の様子など、社会構造の変遷を追っていったとき、邪馬台国は国家なのか、倭の五王の頃はどうか、あるいは7世紀以降の律令体制を待つのか……。諸外国の集落との比較も交え、わかりやすく語る。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
都出/比呂志
1942年大阪市生まれ。1964年京都大学文学部卒業、68年同大学大学院文学研究科博士課程中退。専攻、考古学・比較考古学。現在、大阪大学名誉教授

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0

古代史の学者達は、序列・集権のタテ関係を重視するあまり、対等・分権のヨコ関係を軽視しがち 2019年2月5日

 筆者は、考古学者なのに、本書の弥生期では、邪馬台国=畿内(大和)説を、古墳期では、倭の五王=履中・反正・允恭・安康・雄略の5天皇(17〜21代)説を、無条件に導入する等、文献学を最初から安直に取り入れて解説しており、とても異例で、大前提が、怪しく危ういです。

 本来なら、先に、考古学で事実を確認し、後に、文献学で推測を補強するのが通例であるうえ、邪馬台(壱)国=九州北部説や、倭の五王=九州王朝説が、あるにもかかわらず、なぜそれらを採用していないかは、ほとんどスルーされています。

 卑弥呼の倭が、狗奴国との交戦の際、魏が帯方郡から派遣した援軍は、長年滞在しているのに、方位の東を南と書き誤ったとしたり、倭の7ヶ国が、伊都国の一大率の検察を畏憚しているのに、邪馬台国が、伊都国(放射式)か投馬国(連続式)から、水行10日+陸行1月もかかるとするのは、強引です。

 軍隊にとって、諸国の位置・距離は、進軍・補給等に最低限必要なので、方位等の記載ミスはありえず(書き誤りなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、訂正してもよいはず)、領土統治は、反乱をすぐに鎮圧できることが、大前提です。

 邪馬台(壱)国=九州北部説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、邪馬台国=畿内(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

 弥生期は、早期・前期・中期・後期・終末期と、5区分し、武器・祭器・環壕(濠)集落・墓地等から、戦争・青銅器祭祀等で、小さな政治的まとまりから、大きな政治的なまとまりへ(リーダーから首長へ)、発展していったと、説明しています。

 紀元前1000〜紀元前800年の早期は、まだ採集を継続していた時代、紀元前800〜紀元前400年の前期は、米の栽培が定着した時代、紀元前400〜紀元前50年の前期は、小国が誕生し、九州北部・吉備・出雲・畿内・東海・関東の各ブロックが出現した時代、紀元前50〜180年の後期は、ブロック間の抗争の時代、180〜240年の終末期は、女王の卑弥呼が君臨した時代と、単純化したいようです。

 ただし、当時は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず(1艘の乗員は、最大でも20人程度)、途中で水や食糧等を調達しなければならず、海路で侵攻しても、高地性集落等に篭城されての長期戦で、食糧不足になれば、撤退するしかなく、それほど戦果が期待できません。

 よって、陸路で侵攻できる範囲でしか、侵略戦争は、非合理的なので、筆者のいう、弥生後期での、九州北部・吉備・出雲・畿内・東海・関東のブロック間の、中小型船が必要な抗争は、非現実的で、それよりも、遠方とは交易でつながるのが、合理的だったとみられます。

 大型船は、4世紀終り〜5世紀初めから、朝鮮半島からの渡来人が、日本列島へ大勢渡海した際に、多用されたと推測でき、それ以前と以後の戦争は、分けて考えるべきではないでしょうか。

 また、古墳期は、3世紀半ばから、前方後円墳・前方後方墳で、設計の尺度に共通性があるので、地方有力首長達が、中央政府を樹立し、そこでは、相互承認で(前方後方墳が存続する4世紀後半までは)、身分秩序や古墳の形状・規模が、決定されたとしています。

 ですが、古墳初期から、中央政府が、実在していたとするのは、大変疑問で、筆者は、「前方後円墳体制」という用語を提唱していますが、初期・前期の古墳は、各地方首長による、「自発的な文化」だったのではないでしょうか。

 中央政府というからには、地方有力首長達が、寄合していなければいけませんが、その証拠はなく、大和の纏向遺跡に、物(土器)が集積していたからといって、人(有力者)が集合したとはいえません。

 古墳の形状・規模等は、各地方有力首長の自己の権力・財力しだいで、どうにでもでき(遠方からは、攻め込まれにくいので)、交易では、長さ・重さ・大きさの単位を、揃える必要があるので、それが古墳の規模にも、影響したのではないでしょうか。

 そして、古墳中期・5世紀後半の雄略天皇の時代には、人制(ひとせい)等で、中央集権化に取り組み、古墳も、やがて「強制的な制度」へと変容し、その時期からの巨大古墳は、畿内で天皇のみに限定されたとみるのが自然です。

 つまり、最初は、全国各地の首長達の対等・分権社会だったのが、しだいに首長の盟主(天皇)中心の序列・集権社会へと移行し、その反発として、古墳後期・6世紀前半の継体天皇(26代)の時代に、磐井の乱が、九州の北半分で勃発したと位置づけられます。

 そののち、中央集権化は、6世紀半ばの欽明天皇(29代)の時代→飛鳥期・7世紀前半の推古天皇(33代)の時代→7世紀半ばの天智天皇(38代)の時代→7世紀後半の天武・持統の2天皇(40・41代)の時代と、徐々に政敵の皇族・有力豪族が排除され、雄略天皇の時代から、約200年もかかりました。

 中央集権化がゆっくりだったのは、海外から日本列島へ攻め込まれる心配がなかったからですが、白村江の合戦(663年)の大敗後、はじめて危機となり、壬申の乱(672年)で、大和政権の中枢にいた有力豪族達が一掃されたため、天武天皇に権威・権力が集中できました。

 最後の6章に、学者達の、日本列島に国家はいつ成立したのかの議論が、取り上げられていますが、玄人の学者にとっては、大切でも、素人の読者にとっては、不毛で、それは結局、どのレベルの領域で、いつ中央集権化がはじまったかで、見方が変化するからです。

 そのうえ、筆者は、3世紀からの地域国家(筑紫・吉備・出雲・毛野)を、中央政府(大和)の鉄に依存し、自立していないので、独立国家でないと言及していますが(p.177)、それだと、現在の日本も、他国にエネルギーの大半を依存しているので、独立国家といえないことになり、論理破綻しています。

 そもそも、大和が自前で航路を開拓し、朝鮮半島南部から直接、鉄資源を輸入し、それを全国各地へ流通させていた確証はなく、自立・自給自足の概念を持ち込むのなら、日本列島で製鉄できるようになったのは、現時点では、6世紀後半とされているので、初期国家を古墳期とするのと、矛盾します。

 古代史の学者達の大半は、徴税(農海産物等の貢納・労役)・青銅器祭祀・戦争等、ある程度の序列・集権の段階での、為政者から庶民への「強制的な制度」を取り上げるのが普通で、本書もそれを踏襲しています。

 しかし、突出した人物が、出現する前後の起源には、共同体の構成員どうしの、対等・分権の段階があり、弥生初期の庶民にとっての水田稲作や、古墳初期の地方首長達にとっての古墳は、「自発的な文化」だったはずですが、その視点が、欠如しており、それは、想像で補充するしかないのも、事実です。

 序列・集権の発想しかなければ、古墳に副葬された威信財を、上位から下位への授与(下賜)とみなすしかなく、無茶ですが、対等・分権の発想があれば、威信財は、贈与と返礼(互酬)か物々交換(交易)の、流通で取得した可能性もあり、古墳期の銅鏡の大半は、すでに中国市場に流通していました。

 私は、畿内が、3〜4世紀に、舶来品の輸入用として丹波ルートと吉備ルート、舶来品の輸出用として、北陸ルートと東海ルートの、東西2方向ずつに、交易ルートを確保したことで、日本列島の流通を、主導できるようになったとみています。
 そうできたのは、輸入の場合、売り手側が、2者(丹波・吉備)なら、買値の比較ができ、買い手側が有利になり、輸出の場合、買い手側が、2者(北陸・東海)なら、売値の比較ができ、売り手側が有利になるからで、こうして畿内は、売り買いとも、九州北部よりも優勢になれたとみるのが自然です。

 威信財を、筆者は、現代社会での外国製のブランド商品になぞらえ、それを入手することで、仲間意識が形成されたのではと、類推していますが(p.183)、実際には真逆で、仲間への対抗意識から、しばしば収集の量・質ともに、エスカレートします。

 それは、威信財だけでなく、古墳の規模も同様で、大和・河内・和泉・吉備で、5世紀前半まで、大型古墳が林立したのは、対抗意識が激化したのも一因ではないでしょうか。

 ブランド商品の流行は、対等・分権社会だからこそ成立し、本人は、「自発的な文化」という認識で購入しますが、仲間とのヒートアップが懸念され、それを抑止するには、制限が必要です。

 その制限が、5世紀後半の雄略天皇の時代からの序列化・集権化で、古墳には、それ以降、「強制的な制度」が作用したとみられ、これまで古墳で浪費していた、地方首長達の財力を、戦況が悪化していた、朝鮮半島への関与に、投入しようとしたのではないでしょうか。

 筆者最大の誤解は、生活様式が共通するからといって、そこが中央政権の影響範囲だとは、とてもいえないもにもかかわらず、文化と制度を同一視していることで、同じ欧米文化を摂取していても、制度の違う国家は、いくらでも存在します。
 文化の摂取は、利得があれば、対象者が、自発的に取り入れ、対等・分権が前提で、国境も、簡単に乗り越えますが、制度の摂取は、支配者の利得で、対象者へ強制的に取り入れさせられ、序列・集権が前提で、支配者の統治範囲が、国境となり、文化と制度を混同すると、トンチンカンな推測になります。

 高齢な筆者は、戦前・戦中に席巻した、極度に中央集権化された皇国史観を、嫌悪しているようですが、戦後に導入した欧米の理論自体も、秩序的・体系的で、序列的・集権的な性向にあるので、その思想に引っ張られ、そこから対等・分権を、なかなかイメージできなかったのかもしれません。

 近代化以前の中国・朝鮮では、ほとんどが、序列・集権のタテ関係で、成り立っていましたが、近代化以前の日本では、為政者の合議制や、百姓の寄合等、対等・分権のヨコ関係も、同時に重要なのに、古代史の学者達は、序列・集権のタテ関係を重視するあまり、対等・分権のヨコ関係を軽視しがちです。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2RTQBW9GMDZ11?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c188

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
189. 中川隆[-10487] koaQ7Jey 2019年4月30日 07:19:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1600]

〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作 (歴史文化ライブラリー) – 2011/9/20
藤尾 慎一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%88%E6%96%B0%E3%80%89%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3-%E4%BA%94%E3%80%87%E3%80%87%E5%B9%B4%E6%97%A9%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%B0%B4%E7%94%B0%E7%A8%B2%E4%BD%9C-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%96%87%E5%8C%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E8%97%A4%E5%B0%BE-%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4642057293/ref=la_B004LTVZ8C_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1556576285&sr=1-2


内容紹介
東アジア国際情勢、広まりの遅い水田稲作…。「炭素14年代測定法」による衝撃の測定結果で、500年遡る日本列島の全体像を描く。

内容(「BOOK」データベースより)
「炭素14年代測定法」の衝撃が、これまでの弥生文化像を覆しつつある。東アジアの国際情勢、鉄器がない当初の数百年、広まりの遅い水田稲作、村や墳墓の景観…。五〇〇年遡る“新”弥生時代における日本列島像を描く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
藤尾/慎一郎
1959年、福岡県に生まれる。1986年、九州大学大学院博士課程単位取得退学。現在、国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学教授、博士(文学)


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち3.0
弥生期の先行的な先進文化の摂取と、総体的な流れを追うことに、特化した本 2019年1月28日


 本書は、弥生期の開始が、紀元前5世紀から紀元前10世紀へと早期化し、その期間も、約700年から約1200年へと長期化する際に、研究成果が変更する事態が、取り上げられており、それらを水田稲作・金属器の伝播、弥生期の集落・墳墓の規模・構造、地域別の文化の特色の、3つに大別しています。

 筆者の『弥生時代の歴史』では、九州北部での水田稲作が、紀元前10世紀の開始となった結果、弥生期の見方が、どう変容するかを、通史的な記述の中で、取り上げられており、本書では、少し重なる部分もありますが、学者達の間での論争や、その根拠・経緯等、詳細まで踏み込んでいます。

 このうち、まず、水田稲作・金属器の伝播では、土器等の出土物に付着した炭化物中の、炭素14の放射線の濃度を測定・分析し(加速器質量分析法=AMS)、年代を特定することで(誤差は±20年程度)、九州北部での水田稲作が、紀元前10世紀に開始されたのが、わかったことから、出発しています。

 そののち、水田稲作は、紀元前7世紀に近畿、紀元前4世紀に東北北部、紀元前2世紀に関東へ伝播し、青銅器・鉄器の使用は、おおむね紀元前4世紀からなので、水田稲作の流入後、約600年間は、金属器のない石器の時代だったことも、導き出されています。

 ここでは、特に、九州北部・大阪・東北北部での、水田稲作の伝播の仕方が、次のように、言及されています。

○九州北部
 紀元前10世紀は、中国大陸の中原(ちゅうげん)地域で、紀元前1046年に(本書では、紀元前1027年説を採用)、殷が滅亡し、周王朝が樹立された頃で、中国大陸から朝鮮半島への影響は、まだないので、朝鮮半島南部からの渡来人が、自分達の意志で、水田稲作等を九州北部に持ち込んだとみられます。

 当初は、九州北部の平野の上・中流域に、狩猟・採集・畑作(陸稲も)の在来の園耕民、下流域に、渡来の水田稲作民と、住み分けられていました。

 それが、紀元前9〜紀元前8世紀に、水田に適した土地が、ほとんど開発し尽くされ、環壕集落が出現、対立・抗争もみられるようになり、紀元前7世紀に、園耕民が、水田稲作民化したので(四箇/しか型)、水田稲作が普及するまで、約300年が必要でした。

 水田稲作民が、朝鮮半島南部からの渡来人といえるのは、朝鮮半島系の調理用土器(刻目/きざみめ文土器)を所有していたからで、やがて、刻目文土器は、日本(板付型)と朝鮮(松菊里型)で、変化しましたが、刻目文土器を持ち込んでいない渡来人も、下流域に進出しています(那珂/なか型)。

○大阪
 それから、水田稲作は、紀元前8〜紀元前7世紀に、九州東部・南部・瀬戸内西部、紀元前7〜紀元前6世紀に、神戸・大阪へと、伝播しています。

 大阪(古河内潟周辺)では、在来の園耕民と、外来(香川からが有力)の水田稲作民が、住み分けられ、しばらくそのままで交流し、その約100〜150年後に、園耕民が、水田稲作民化しました。

 尾瀬ヶ原のハイマツの花粉割合から推定した気温変動によると、紀元前8〜紀元前7世紀は、寒冷のピークで、これ以降、しだいに温暖化していったので、水田稲作が、西日本で普及した時期と呼応しています。

○東北北部
 青森には、日本海沿岸経由で、紀元前4世紀に、狩猟・採集の園耕民が、水田稲作を取り入れましたが、北海道南部の影響下にあるので、農工具・祭祀等は、そのまま縄文系を踏襲し、紀元前1世紀に、水田稲作を放棄、狩猟・採集生活へと逆行し、そののちの水田稲作の再開は、6世紀でした。

 東北中部の仙台・東北南部のいわきでも、紀元前4世紀に、狩猟・採集の園耕民が、水田稲作を取り入れましたが、弥生系の組織・体制に改変したので、水田稲作を放棄しなかった(または、できなかった)とみられます。

 以上より、九州北部・大阪では、園耕民が、なかなか水田稲作民化せず、それぞれ約300年・約100〜150年もかかりましたが、いったん先進文化を摂取すると、縄文系の組織・体制を排除したので、水田稲作に依存するしかなくなりました。
 一方、東北北部では、縄文系の組織・体制を温存したまま、水田稲作を取り入れたので、途中で放棄できました。

 これは、贈与と返礼の関係が優勢の、縄文的な平等・分権社会が、保護と納税の関係が優勢の、弥生的な序列・集権社会へと、移行するには、かなりの抵抗があるということで、序列・集権の組織・体制になれば、反乱か衰退がないかぎり、不可逆的で、古墳期には、ますます序列・集権が拡大しました。

 そして、先進文化を摂取するには、園耕民が、自発的に受け入れるための理由があり、私は、それを初穂と出挙(すいこ)の組み合わせだと推測していますが、それで、序列・集権の地域が、優勢になれば、近隣の平等・分権の地域は、その外圧の影響で、水田稲作を受け入れざるをえなくなります。

 こうして、人々は当初、開いた世界で、自発的に水田稲作に取り組み、それが普及・定着すると、やがて、閉じた世界になり、強制的だとも、受け取られるようになりますが、序列・集権の組織・体制になってしまうと、そこを離脱しないと、抜け出せません。

 この連鎖で、朝鮮半島南部から、西日本・北日本・東日本へと、水田稲作が伝播したとみられますが、水田稲作可能な新天地の情報・丸木舟の船団での渡海技術・水田整備までの食糧調達には、海洋漁労交易民の関与が、不可欠なのではないでしょうか。

 なので、渡来人は、ある程度の財産を持参するか、なければ、現地で負債しての新生活になるかですが、ここから、すでに、序列が形成され、保護と納税の関係へと、発展する可能性があります。

 つぎに、弥生期の集落・墓地の規模・構造では、これまで弥生期が約700年間の際には、土器型式の存在期間が、30〜50年で、世代交代を約30年とみれば、同一の土器型式なら、おおむね同時期に存在していたと仮定できました。

 しかし、これから弥生期が約1200年間になれば、存在期間が、30〜150年になるので、炭素14による年代特定で、精度を30年程度に絞り込むか、30〜150年の累積結果として容認するかの、いずれかで、累積数だと、当時の集落・墓地の状況と食い違うので、復元とはいえず、人口の推定にも影響します。

 さらに、地域別の文化の特色では、北の文化・北のボカシの地域・中の文化・南のボカシの地域・南の文化の、5つに区分し、これらが重なり合いながら、数珠つなぎに連続していると、イメージされています。

 また、水田稲作・環壕集落・青銅器祭祀の、3つを指標とすれば、西から東へ、3つが存在する地域(西日本)・水田稲作と環壕集落の地域(東日本)・水田稲作(北日本)のみの地域の、3段階に区分できますが、水田稲作を取り入れた地域が、そのまま、古墳祭祀の地域と一致するのが、わかります。

 つまり、北の続縄文文化・中の弥生文化・南の貝塚後期文化のうち、中の弥生文化が、古墳文化に置き換わっただけで、それは、水田稲作と古墳造営の組織・体制が、同一だから、抵抗なく移行できたと推測できます。

 このように、本書は、弥生期の先行的な先進文化の摂取と、総体的な流れを追うことに特化した、総論なので、筆者の『弥生時代の歴史』とともに、弥生期に関心がある人は、最初に読むのがお勧めです。

 それから、他の本で、各論を読み進め、先進文化の普及・定着や、後行的な中国大陸からの直接の影響を、補完するのがよいでしょう。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3DK1H6YQL7LDU?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c189

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
190. 中川隆[-10486] koaQ7Jey 2019年4月30日 07:51:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1601]

旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記 (全集 日本の歴史 1) – 2007/11/9
松木 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E3%83%BB%E7%B8%84%E6%96%87%E3%83%BB%E5%BC%A5%E7%94%9F%E3%83%BB%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E6%99%82%E4%BB%A3-%E5%88%97%E5%B3%B6%E5%89%B5%E4%B8%96%E8%A8%98-%E5%85%A8%E9%9B%86-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-1/dp/4096221015/ref=la_B004LREFCM_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1556578152&sr=1-1


内容紹介

この本が対象とするのは、日本列島にヒトが初めて登場した旧石器時代から、人びとが定住を始めて多彩な土器や土偶が登場する縄文時代、稲作が盛んになって列島各地にさまざまな文化が花開く弥生時代を経て、世界的にも類を見ない大規模な古墳が集中してつくられる古墳時代に至る、4万年の日本列島の歩みです。

この4万年は、文字が存在しない、あるいはまだ十分に普及していない時期でした。この時期の社会は、土器や古墳など、ヒトがつくった「もの」が文字の代わりに重要な意味をもつ、文字以前の物質社会でした。そこでは、ヒトがつくる「もの」にさまざまなメッセージや意味が込められるとともに、今度はその「もの」がヒトの行動を規定するという面もありました。いわば、「もの」からヒトの心が見えてくる社会だったのです。

この本は、そうしたヒトと「もの」との双方向的な関係に着目する「認知考古学」という新しい方法論を用いて、4万年の日本列島の歩みを、考古資料という「もの」の分析から綴っています。たとえば縄文時代につくられた、火炎土器に代表される派手な装飾の土器の数々。これはただ当時の人びとの美的感覚を語るものではなく、当時の人びとが土器にそのような派手な装飾を加えなければならない、社会的な必要性があったからこそ生まれたものであり、その必要性とは何かと考えることで、当時の社会が見えてくるのです。

こうした視点から考古資料を見ていくことで、従来なかった、新しい列島像が描かれます。古墳についても、これまでの歴史学では「なぜ5世紀の日本列島にこのような巨大古墳がつくられたのか」という問いに明確な答えは出せませんでしたが、本書では、ある答えが提示されています。その答えが正しいかどうかは読んでご判断いただくとして、読者のみなさんの知的好奇心を刺激する1冊であることは間違いありません。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
松木/武彦
岡山大学文学部准教授。1961年愛媛県生まれ。大阪大学大学院文学部研究科博士課程修了。専攻は日本考古学。ヒトの心の現象の科学的な分析・説明による、科学としての歴史の再構築をめざしている

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち4.0
認知考古学での推論は、分権的で自発的な対象者のみに、適用すべきでは? 2019年1月26日


 本書は、日本列島の旧石器・縄文・弥生・古墳期の無文字社会4万年間の歴史を、認知科学(感情・欲望・神・迷信等、心の現象を科学的に分析・説明する分野)の考古学への適用、地球環境の気候変動による影響、未分化な状態から日本国形成までの最初の経緯、の3本柱で、読み解こうとしています。

 ですが、古代以前の日本列島の人々は主に、旧石器時代に日本列島へ流入して縄文期に定住した土着人、弥生期の渡来人、古墳期の渡来人の3種に大別でき、弥生期と古墳期は、中国大陸・朝鮮半島の先進文化を摂取してきたので、物質文化も、海外からの影響を考慮するのが通例です。

 そこから、縄文等の土着文化を深層(基層)、弥生等の外来文化を表層としたり、時代とともに、表層の物質文化は、変化しても、深層の精神文化は、不変だと、主張されることが、多々あり、古代での和魂漢才、近代での和魂洋才のように、縄魂弥才ともいわれます。

 それで、研究者達は、縄文期以前と弥生期以後を、明確に区分し、中国の歴史書等、文字記録(文献史料)があれば、それを物質資料(考古資料)と併用しますが、筆者は、無茶を承知で、物質文化のみを対象とし、旧石器・縄文・弥生・古墳期の無文字社会から、一貫した理論を導き出そうとしています。

 認知科学では、人間は、体だけでなく、脳も進化し、自分達の生存・生活に都合のいい、有利な文化を摂取するとされており、海外から影響されるのも、人々の心が、進化していないと、それを摂取し、定着することは、ありません。

 そうなると、物質文化の普及が、少数か多数か、狭域か広域か、定着の範囲を、重要視すべきですが、日本列島のオリジナルか、中国大陸・朝鮮半島のコピーかアレンジかは、ほとんど無意味になります。

 ただし、中国大陸の先進文化を、日本列島は、自発的・選択的に摂取し、朝鮮半島は、強制的・全面的に摂取してきた傾向にあるので、海外からの影響といっても、強制的・全面的だと、認知科学を信用するのは、無理ですが、自発的・選択的だったからこそ、適用を許容できるのかもしれません。

 本書の要旨は、まず、機能的な実用性を超える、視覚的な象徴性が表現された「凝り」に着目し、「凝り」のある人工物は、人の心を呼び起こし(認知的誘引性)、それが社会的なメッセージとなることがあり(モニュメントは、その一例)、そうなるのは、環境が変化する際に顕著だと、指摘されています。

 つぎに、無文字社会4万年間の、環境の変化(気候変動)を、次のように、分類しています。

・第1寒冷化期(4万年前〜後期旧石器後半・2万年前)
・第1温暖化期(後期旧石器後半・約2万年前〜縄文前期・7,6000年前)
・第2寒冷化期(縄文前期・7,6000年前〜縄文晩期・28,2700年前)
・第2温暖化期(弥生期前半・28,2700年前〜紀元前後)
・第3寒冷化期(弥生期後半・紀元前後〜奈良期・8世紀末)


 さらに、人々は、生存・生活のために、環境の変化(気候変動)に対応しようとしますが、温暖化期と寒冷化期で、それぞれ類似した行動をとる傾向にあると、主張されています。

 温暖化期は、食糧増加による生存・生活の安定・余裕から、人口が増加するとともに、小集団が大集団化し、特定の物質文化が形成され、大集団で既存のアイデンティティを保守したり、子孫に既存文化を伝達する等、標準的になりがちです。

 温暖化期に「凝り」が現れるのは、発展が限界の時期で、それは、周囲の集団に対抗・競合するためで、既存文化の地域色が濃厚化しますが、差異化・差別化は、改善・改良程度です。

 一方、寒冷化期は、食糧減少による生存・生活の不安・危機から、大集団が小集団化し、別地へ移動したり、小集団で新規のアイデンティティを独創する等、流動的になりがちです。

 寒冷化期に「凝り」が現れるのは、衰退が急落の時期で、それは、外からの影響・内からの模索が活発化するからで、新規文化の萌芽である一方、既存文化の地域色が希薄化します。

 そして、温暖化期でも寒冷化期でも、機能・実用を超えた「凝り」に固執するのは、我々には意味不明ですが、その集団が共有する意味があるからで、そこには、人々を結束・連帯する役割があるといえます。

 近代人は(筆者も)、機能的な実用性と視覚的な象徴性を区分しますが、当時の人々は、それらが未分化で、我々が視覚的な象徴性の表現といっている部分も、そこには、社会的なメッセージという、機能的な実用性があると解釈でき、これは、近代的な分析手法といえるのではないでしょうか。

 現代は、機能・実用を超えた「凝り」のある大物(モニュメント、太陽の塔は、その一例)は、生み出しにくい社会になりましたが、小物は、商品の付加価値と位置づけられ、魅力か無駄かの間を、行き来しており、現在でも通用する、着眼点ではないでしょうか。

 なお、本書では、寒暖の変動を、花粉の割合から推定されているようですが(p.231)、屋久杉の年輪炭素同位体比をもとに復元した気候変動では、弥生終末期の3世紀は寒冷、古墳前期の4世紀は温暖、古墳中期の5世紀は寒冷、古墳後期の6世紀は温暖、飛鳥期の7世紀は寒冷、奈良期の8世紀は温暖となっています。

 寒冷の、3世紀には、倭国乱後に諸小国が広域連合としてまとまり、5世紀には、倭が朝鮮半島へ渡海し、断続的に戦争する中で、前方後円墳が特化され、7世紀には、朝鮮半島での戦争が激化するとともに、朝鮮3国や大和で、中央集権化が急速に推進されました。

 温暖の、4世紀には、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳等、多様な古墳が出現し、6世紀には、皇室・有力豪族間の勢力争いが続き、8世紀には、律令制下で、皇室・有力貴族間の勢力争いが続き、為政者達は、寒冷期には、戦争だから結束し、温暖期には、平和だから乱立している印象があります。

 筆者の指摘で、私が最も注目したのは、後期旧石器時代の、中・小型動物しかいなくなった際に、「オレのヤリ」を誇示・優越するため、ほぼ実用がない、希少な大型動物の狩猟専用の大型尖頭器(打製石器)が、特別視されるようになったことです。

 時代遅れの「無用の長物」になって初めて、社会的なメッセージ性が植え付けられ、この現象は、鉄器が利器として普及すると、武器形青銅器が、祭器化したり、朝鮮式小銅鐸や、中国由来の実用的な小・中型銅鏡が、日本で大型化・祭器化したり、古墳も、日本で巨大化する等、後世にも再現されています。

 私が大変疑問なのは、古墳出現期から、大和で、大型の前方後円墳が造営されたり、銅鏡が多数出土したからといって、学者達の間では、前方後円墳が、大和から流行したとか、大和が、銅鏡を配布していたとか、想定していることで、本書では、そのようには、言及されていないので、共感できます。

 纏向遺跡に、近畿だけでなく、瀬戸内〜東海・北陸の土器が、多数出土するのは、大和の流通域が、その範囲だということで、九州北部と直接の交易は、なかったようで、当時は、このような流通域が、全国各地で重なり合いながら、数珠つなぎに連続していたとみるべきです。

 ただ、本書で忘れ去られているのは、村の酋長や小国の王どうしで、圧倒的な力の差があれば、力の強い者が、弱い者へ、物を授与・配布することは、ありますが、ほぼ対等や、多少の強弱であれば、物は、贈与と返礼(互酬)や、物々交換(交易)で、流通することです。

 当時は、互酬(交流)と交易が、区別されていたと推測できますが、現在は、同類のようにみえ、物の出土の分布から、安直に授与・配布と判断されがちですが、飛鳥期・奈良期の集権社会になる以前の、弥生期・古墳期の分権社会では、互酬・交易は、大半で、授与・配布は、極稀とみるべきです。

 そして、弥生期の墳丘墓の副葬品は、漢・魏からの授与・配布の可能性もありますが、古墳期の5世紀前半までの古墳の副葬品は、漢・魏の滅亡後で、中央集権でもないので、ほとんどが、互酬・交易による調達で、中国の皇帝や大和の天皇からの授与・配布は、わずかな可能性でしょう。

 筆者は、日本列島で古墳が大型化したのを、鉄器等の先進文化輸入の窓口が、諸国の王(大酋長)に集約されたこと、王個人が突出せず、集団の一体性・共同性が尊重されていたこと、古墳造営が単純・容易な技術なので、庶民の集団労働が可能なことの、3つをあげています。

 しかし、大型古墳が、4世紀に、全国で造営されたということは、その時点から、圧倒的な力をもち、庶民から突出した王(豪族)が、各地に出現するようになったということです。

 よって、古墳の規模は、諸国の豪族(王族)が決定しており、庶民の意向が反映されることは、ありえず、5世紀後半から、豪族の古墳の規模が縮小したのは、鉄器が庶民にも普及したので、鉄器の価値(「有り難さ」)が低下したからとするのは(p.333)、あまりにも突飛です。

 また、文字(制度・法典・神話・歴史書・度量衡・貨幣・暦・年号等)が出現し、モニュメントの必要性が低下したからとするのも、こじつけで、庶民に文字が普及するのは、もっと後世で、何より天皇の巨大な前方後円墳が、6世紀も顕在で、為政者の威信を表現する手段として、まだ有効な状況です。

 5世紀後半は、国内的には、天皇中心の集権体制に歩み出した初期なので、そこから、大和の政権が、諸国の豪族へ、古墳の規模を制限したか、国外的には、友好国の百済が相当劣勢で、朝鮮半島の戦況が悪化し、鉄確保の不安から、豪族達が、そちらへ人員を投入したかの、いずれかではないでしょうか。

 つまり、天皇(大王)と諸豪族の関係しだいで、タテ(集権)の関係なら、大和の政権が強制できるので、古墳の規模を制限することもありえますが、ヨコ(分権)の関係なら、豪族達の自発になるので、領国経営の一環として、古墳造営を軽視・朝鮮派兵を重視し、人員を割り振ったとみることもできます。

 このように、弥生期の諸小国の王・古墳期の諸国の豪族等、為政者の登場後は、庶民よりも、為政者達のほうの、認知科学を重要視すべきですが、その前提として、弥生期に、いかに庶民から王が突出し、古墳期に、いかに小国の王達から豪族が突出したのかも、大切です。

 弥生期に、庶民から王が突出できたのは、私の推論ですが、王が、初穂と出挙(すいこ)の制度を導入し、わずかな初穂(律令制下では、収穫量の約3%)を元手に、出挙(利息は、私出挙で100%と高金利、律令制下の公出挙でも50%)で運用すれば、徴税せずに、簡単に財産形成できます。

 初穂は、今秋の収穫直前に、神への感謝のために献上する、最短で充分に生育した稲穂で、祭祀の主催者である王に貢納、出挙は、今春の種蒔期に、高床倉庫の管理者である王が、農耕民に初穂の稲種を貸与し、今秋の収穫期に、利子付で返済させる慣習です。

 もちろん、王は、開墾時・洪水時に水田整備を統率したり、近隣との同盟・戦闘を主導しますが、それらには、能力が必要な一方、初穂と出挙は、能力不要の、弥生期の領国経営モデルといえます。

 古墳期に、小国の王達から豪族が突出できたのは、本書のように、豪族が、鉄器入手の窓口になったからとみられ、鉄器は、開墾時・洪水時の水田整備や、農繁期の田植え・稲刈り等で、作業効率や農産物の生産量が向上できるので、鉄器調達も、能力不要の、古墳期の領国経営モデルといえます。

 弥生期には、農閑期が比較的短かったうえ、抗争していたのが、古墳期には、農閑期が長くなったうえ、抗争が無駄になり、その時間を古墳造営に割り当てられるようになったのでしょう。

 4世紀終り〜5世紀初めから、朝鮮半島へ渡海し、断続的に戦争するようになると、大勢の渡来人が、日本列島へ流入し、朝鮮半島では戦闘(軍事)、日本列島では水田稲作・古墳造営(民政)と、住み分けられたと推測でき、5世紀後半からの戦況悪化で、領国経営モデルが不安・危機となっています。

 ここで注意したいのは、領国経営モデルの導入当初には、為政者が突出しておらず、分権の段階で、弥生期では庶民が、古墳期では小国の王達が、自分達の利益につながるので、自発的に取り入れていることで、やがて、領国経営モデルが定着すれば、強制的だとも受け取られ、集権の段階になります。

 ここまでみると、認知考古学は、関係者が、集権的か分権的か、対象者が、自発的か強制的かも、考慮すべきで、原始社会のように、分権的で自発的な状況が確保されていないと、安易に適用してはいけないのではないでしょうか。

 たとえば、縄文期は、統率者が突出していなかったとされているので、人々は、分権的で自発的といえますが、弥生期は、集団の酋長→小国の王と、集権化されたので、物質文化は、庶民よりも、為政者達の意思の反映とみるべきで、古墳期は、諸国の豪族と庶民の格差が拡大し、豪族は、圧倒的な力をもちます。

 なので、認知考古学での推論は、分権的で自発的な対象者のみに適用すべきで、そうでないと、本書でも多少みられたように、トンチンカンな理由づけになってしまうおそれがあります。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R35E0FR93J8EFU?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c190

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
191. 中川隆[-10485] koaQ7Jey 2019年4月30日 08:19:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1602]

弥生時代の歴史 (講談社現代新書) – 2015/8/20
藤尾 慎一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%97%A4%E5%B0%BE-%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4062883309/ref=sr_1_4?qid=1556579810&refinements=p_27%3A%E8%97%A4%E5%B0%BE+%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E&s=books&sr=1-4&text=%E8%97%A4%E5%B0%BE+%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E


内容紹介

稲作は五〇〇年も早く始まっていた! AMS炭素14年代測定法が明らかにした衝撃の事実をもとに、弥生時代の歴史を書き換える。


AMS炭素14年代測定に基づき、水田稲作の開始は従来よりも500年早かったとした国立歴史民俗博物館の研究発表は当時、社会的にも大きなセンセーションを巻き起こしました。発表時には当時の常識からあまりにもかけ離れていたために疑問を呈する研究者も数多くいましたが、その後、測定点数も4500点ほどまでにと飛躍的に増加を遂げ、現在では歴博説の正しさがほぼ確定されています。

では、水田稲作の開始が500年早まると、日本列島の歴史はどのように書き換えられるのでしょうか。一言で言えば、「弥生式土器・水田稲作・鉄器の使用」という、長らく弥生文化の指標とされていた3点セットが崩れ、「弥生文化」という定義そのものがやり直しになったと言うことです。この3つは同時に導入されたものではなく、別々の時期に導入されたものでした。例えば鉄器は水田稲作が始まってから600年ほど経ってからようやく出現します。つまりそれ以前の耕作は、石器で行われていたのです。また水田稲作そのものの日本列島への浸透も非常に緩やかなものでした。水田稲作は伝来以来、長い間九州北部を出ることがなく、それ以外の地域は依然として縄文色の強い生活様式を保持していました。また東北北部のように、いったん稲作を取り入れた後でそれを放棄した地域もありました。関東南部で水田稲作が始まるのは、ようやく前3~2世紀になってからでした。

とすると、これまで歴史の教科書で教えていたように、何世紀から何世紀までが縄文時代で、その後に弥生時代が来ると単純に言うことはできなくなります。水田農耕社会であるという弥生「時代」の定義は、ある時期までは日本列島のごくごく一部の地域にしか当てはめられなくなるからです。

本書は、このような問題意識の元で「弥生文化」が日本列島に浸透していく歴史を「通史」として描く初めての本です。

著者について

藤尾 慎一郎
1959年福岡県生まれ。広島大学文学部史学科卒業、九州大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、国立歴史民俗博物館副館長・総合研究大学院教授。専門は考古学。著書に『縄文論争』(講談社選書メチエ)、『弥生時代の考古学』(同成社)、『弥生時代 500年早かった水田稲作』、『弥生文化像の新構築』(ともに吉川弘文館)が、共著書に『弥生文化の輪郭』、『弥生文化誕生』(ともに同成社)がある。AMS炭素14年代測定に基づいて弥生時代の開始を500年遡らせ大きな話題となった国立歴史民俗博物館の研究において主導的な役割を担った。

カスタマーレビュー

hira
弥生時代は難解だ 2019年1月20日


 古代以前の日本史において、縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期、古墳時代は、出現期・前期・中期・後期・終末期と、学者間での時期区分が、おおむね一致していますが、弥生時代は、20世紀の古い研究と、21世紀の新しい研究で、ズレているので、大変理解しにくくなっています。

 20世紀の研究は、遺跡から出土する土器の型式から、相対的に年代を推定していましたが、21世紀の研究は、土器に付着した炭化物中の、炭素14の測定・分析(加速器質量分析法=AMS)を追加することで、±20年程度の誤差がありつつも、絶対的に年代を特定することができるようになりました。

 本書では、それにより、水田稲作が、紀元前10世紀に、九州北部へ伝播したと判明したので、弥生時代を再定義していますが、従来のように、早期・前期・中期・後期を使用しており、それも混乱する要因なので、年代が特定できるなら、「何世紀頃」という表記を、メインにしてもらいたいです。

 本書は、素人にもわかる入門書の位置づけなので、地域各々の特徴をテーマにするなら、広域別の変遷とし、先進文化の流入をテーマにするなら、著者の前作『〈新〉弥生時代−500年早かった水田稲作』で取り上げられている区分を、今作でこそ、全面に押し出しても、よかったのではないでしょうか。

 前作では、弥生時代が、紀元前10〜3世紀の1200年間になったので、前半の紀元前10〜紀元前4世紀の600年間は、水田稲作+石器の時代、後半の紀元前4〜3世紀の600年間は、水田稲作+石器+鉄器の時代と、区分されています。

 そのうえ、後半の前半の紀元前4〜紀元前1世紀の300年間は、石器が主・鉄器が副の時代、後半の後半の紀元前1〜3世紀は、鉄器が主・石器が副の時代と区分されており、とても明解です。

 また、本書は、特に、水田稲作・青銅器・鉄器等の、日本各地への流入が、取り上げられており、それらをまとめると、次に示す通りです。

・水田稲作+農工具:
紀元前50世紀に長江下流域、
紀元前30世紀に山東半島、
紀元前11世紀に朝鮮半島、
紀元前10世紀に九州北部、
紀元前8世紀に九州東部・中部、
紀元前7世紀に神戸・大阪・鳥取、
紀元前6世紀に徳島・奈良・伊勢湾沿岸、
紀元前4世紀に津軽(紀元前1世紀に断念)・仙台・いわき、
紀元前3世紀に長野・関東南部

に伝播

・青銅器:使用は、
紀元前15〜13世紀に朝鮮半島、
紀元前8世紀に九州北部(今川遺跡の銅鏃・銅ノミ)、
紀元前4世紀に西日本で銅剣・銅矛・銅戈(か)・小銅鐸等、

鋳造は、紀元前4〜紀元前3世紀に九州北部・中部に伝播、
銅資源は、7世紀に産出

・鉄器:製造(鋳造)は、
紀元前9世紀に黄河中・下流域、
紀元前5世紀に遼東半島(燕)・朝鮮半島北部、
紀元前3か紀元前1世紀に朝鮮半島南部、
6世紀に西日本、

鋳造鉄器の使用は、
紀元前4世紀に西日本(燕から)、
紀元前2世紀に東日本、

鍛造鉄器の使用は、
紀元前3世紀に九州北部、

鍛造は、1世紀に西日本で普及、(紀元前1世紀に石器が衰退)


 ただし、これらは、何ヶ所の遺跡・遺物で判断しているのか、詳細不明な部分もあり、それによって、一所での突発なのか、狭域での先駆なのか、広域での定着なのか、根拠をすべて提示してもらえれば、もっと親切なのに、残念です。

 ここで、一所での突発か、狭域での先駆か、広域での定着かに、注目するのは、狩猟・採集社会では、抗争が異例ですが、水田稲作社会では、抗争が通例だからで、水田稲作が普及すれば、水田整備・田植え・稲刈りや、近隣との利害の衝突・抗争等があり、集団行動・集団生活が大切になります。

 そのため、集団を統率する有力者が、首長として台頭しますが、環壕集落がないのは、近隣との縄張意識があまりなく、有力者の墓がないのは、首長が突出しなくてよい、縄文的な分権社会といえます。

 分権的な狩猟採集社会から、集権的な水田稲作社会への転換は、ある集団が、分権から集権化すれば、隣接集団も、防御・対抗するために、分権から集権化しなければならなくなり、東北北部で、水田稲作を途中で断念できたのは、周囲から孤立し、近隣からの圧迫がなかったからではないでしょうか。

 ところで、本書では、朝鮮半島南部の村から離脱した水田稲作民が、九州北部の平野の下流域に定住し、中・上流域に定住していた園耕民と住み分けたのが、水田稲作の最初だとしているようです。

 しかし、海洋漁労民は、縄文時代から、朝鮮半島〜日本列島の間で交流していたので、かれらの情報で、九州北部の平野に新天地があり、かれらの支援で、丸木舟の船団で渡海し、水田稲作民の水田整備期間には、食糧調達もしなければならないので、陸海両面で、相当の人数が必要になります。

 しかも、日本最古級の九州北部の板付遺跡では、自然を大規模に改変し、石製品・木製品だけで、高度な水田を整備したとあるので、相当の期間がかかり、水田稲作民だけでは不可能でしょう。

 「魏志倭人伝」には、倭人に入墨文化があるとされているので、渡来当初からの、海洋漁労民の関与が想定でき、一大率は、一大(壱岐)国が、交易+統治の拠点として、九州北部に設置したとの仮説を、連想させます。

 なお、本書は、弥生時代の通史という位置づけで、執筆を開始したようですが、研究成果が新旧で変更された、前半の600年間と、後半の前半の300年間は、重点的に取り上げられている一方、後半の後半の300年間は、かなり省略され、弥生時代のすべてを、網羅しているわけではありません。

 筆者は、水田稲作・青銅器・鉄器等の、日本各地への流入の先駆を、テーマとしているようで、紙面の制限があるからか、それらが普及してからの、諸小国の王の出現、王墓とその副葬品、高地性集落の分布、小国と外国との交流等が、多少手薄になっています。

 さらに、水田稲作は、紀元前10世紀の朝鮮半島南部からの流入だけでなく、中国大陸の江南地域からの影響もあるとされ、紀元前5世紀の呉の滅亡・紀元前4世紀の越の滅亡や、紀元前3世紀の秦の始皇帝による徐福伝説が、その候補ですが、それらにも踏み込んでいないので、留意すべきでしょう。

 最後に、後半の後半の300年間において、2世紀後半に、九州北部の諸国(倭)と、近畿中部の諸国は、相互に圏外で、倭国乱は、九州北部周辺の戦争で、終戦で交易が活発化できるようになった3世紀前半から、九州北部が、近畿中部へ、徐々に鉄器を販売しはじめたのではないでしょうか。

 近畿中部は、倭国乱に参戦していないので、米で鉄器を購入し、後漢が衰退しはじめた2世紀後半以降の漢鏡7期は、すでに大量生産され、市場で商品化されていたので、米で銅鏡も購入、威信財とした一方、九州北部は、3世紀前半に後漢が滅亡すると、商売目的で、銅鏡を調達・販売したとみられます。

 大阪平野の池上・曽根遺跡や、奈良盆地の鍵・唐古遺跡では、大勢の人々が生活していたので、かれらの食糧を供給できるほど、近畿中部では、米が大量生産できたと推測できます。

 西日本では、2世紀までに、各地で陸橋付の円形周溝墓・突出部付の円丘墓が出現し、それが、3世紀前半からの、帆立貝式前方後円墳・前方後円墳の登場につながっており、前方後円墳は、大和が発祥というわけではなく、同時多発とみるべきです。

 3世紀半ばのホケノ山古墳・箸墓古墳等は、近畿中部の諸国連合の王墓で、大型の前方後円墳の造営は、大和が顕著ですが、それは、王が米の財力で、農閑期に、水田稲作民を雇用したからで(富の再分配)、周辺諸国への不戦の意思表示として、全国に流行し、交易も活発化したのではないでしょうか。

 よって、近畿中部には、何もなく、関東〜九州の中央なので、中心になったと主張するのには、無理があり、私は、近畿中部の諸国が連合した大和政権が、3〜4世紀に、西方2・東方2の計4方向に、交易(先進文化の輸入と輸出)ルートを確保することで、流通を主導したとみています。

 それらは、輸入のための丹波ルート(日本海側)・西道ルート(瀬戸内海側)と、輸出のための北陸ルート(日本海側)と東海ルート(太平洋側)で、「日本書紀」では、崇神天皇(10代)による四道将軍の派遣・平定ですが、出発から帰還まで、わずか半年なので、実際は、交易ルートの開拓でしょう。

 輸入も輸出も、それぞれ2方向の交易ルートを開拓したのは、輸入の場合、売り手側が2者なら、買値の比較ができ、買い手側が有利になり、輸出の場合、買い手側が2者なら、売値の比較ができ、売り手側が有利になるからで、こうして大和政権は、売り買いとも、優勢になったとみるのが自然です。

 他方、九州北部の諸国が連合した筑紫政権(倭)は、輸入が、朝鮮半島南部ルートの1方向のみなので、価格が一定になり、輸出が、出雲ルート(日本海側)と吉備ルート(瀬戸内海側)の2方向としても(出雲は、朝鮮半島と直接交易していたかも)、大和政権と比較すれば、やや劣勢といえます。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R5DMQWRG5BIKL?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c191

[近代史3] センメルヴェイス反射 _ 真理の徒は石もて追われ 中川隆
1. 中川隆[-10484] koaQ7Jey 2019年4月30日 08:50:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1603]

センメルヴェイス反射の例


2019.4.26
財政赤字容認の「現代貨幣理論」を“主流派”がムキになって叩く理由
中野剛志:評論家
https://diamond.jp/articles/-/200555

 昨今、「現代貨幣理論(MMT、Modern Monetary Theory)」なる経済理論が、米国、欧州そして日本でも話題となり、大論争を巻き起こしている。

 今なぜ、MMTなのか。

 景気減速感が強まる一方、金融政策が手詰まりな状況で、「財政政策で活路を」と考える論者や、格差是正やグリーン・ニューディールなどを訴えて財政拡張政策を主張するいわゆるリベラル政治家らが、その理論的な根拠としていることがある。

 だが、このMMTに対して、主要な経済学者や政策当局の責任者たちは、ほぼ全員、否定的な見解を示している。日本でも、MMTに関する肯定的な論調はごくわずかだ。それには理由がある。

「異端の学説」なのか
MMTをめぐり大論争

 MMTが注目を集めているのは、その支持者が「財政赤字を心配するな」という主張をするからだとされている。

 より正確に言うと、「(米英日のように)通貨発行権を持つ国は、いくらでも自国通貨を発行できるのだから、自国通貨建てで国債を発行する限り、財政破綻はしない」というのである。

普通であれば、MMTのような「異端の経済学説」が、真面目に取り上げられるなどということは考えられない。無視あるいは一蹴されて終わりだろう。

 ところが、極めて面白いことに、MMTは、無視されないどころか、経済学者のみならず、政策当局、政治家、投資家そして一般世論までも巻き込んで、大騒ぎを引き起こしたのである。

暴露された
主流派の「不都合な事実」

 その理由は、MMTが、主流派経済学者や政策当局が無視し得ない「不都合な事実」を暴露したからである。

 もう一度言おう。MMTが突きつけたのは、「理論」や「イデオロギー」ではない。単なる「事実」である。

 例えば、MMTの支持者が主張する「自国通貨建て国債は、デフォルト(返済不履行)にはなり得ない」というのは、まぎれもない「事実」である。

 通貨を発行できる政府が、その自国通貨を返せなくなることなど、論理的にあり得ないのだ。

 実際、「自国通貨建て国債を発行する政府が、返済の意思があるのに財政破綻した」などという例は、存在しない。財政破綻の例は、いずれも自国通貨建てではない国債に関するものだ。

 実は、MMT批判者たちもこの「事実」を否定してはいない。その代わりに、彼らは、次のいずれかの批判を行っている。

 批判(1)「財政規律が緩むと、財政赤字が野放図に拡大し、インフレを高進させてしまう」

 批判(2)「財政赤字の拡大は、いずれ民間貯蓄の不足を招き、金利を高騰させる」

 MMTに対する批判は、ほぼ、この2つに収斂している。

 では、それぞれについて、その批判の妥当性を検討してみよう。この検討を通じてMMTが指摘した「不都合な事実」とは何かが明らかになるだろう。

財政赤字拡大で
「インフレは止まらなくなる」は本当か?

 まず「財政赤字の拡大は、インフレを招く」という批判(1)を考えてみよう。

 実は、MMT批判者たちが指摘するように、財政赤字の拡大はインフレを招く可能性はある。これはMMT自身も認める「事実」だ。

 政府が、公共投資を増やすなどして財政支出を拡大すると、総需要が増大する。総需要が増大し続け、総供給が追い付かなくなれば、当然の結果として、インフレになる。

 それでもなお、野放図に財政赤字を拡大し続けたら、インフレは確かに高進するだろう。

 ということは、MMT批判者たちもまた、「インフレが行き過ぎない限り、財政赤字の拡大は心配ない」「デフレ脱却には、財政赤字の拡大が有効」と認めているということである。

 言い換えれば、仮に「財政規律」なるものが必要だとすれば、それは「政府債務の規模の限度」や「プライマリーバランス」ではなく、「インフレ率」だということだ。

 すなわち、インフレ率が目標とする上限を超えそうになったら、財政赤字を削減すればいいのである。

 そして、米国も欧州も低インフレが続いており、日本にいたっては20年もの間、デフレである。

 そうであるなら、財政赤字はなお拡大できる。それどころか、デフレの日本は、財政赤字がむしろ少なすぎるということになる。

 この点は、MMTの批判者でも同意できるはずだ。


 実際、MMTを批判する主流派経済学者の中でも、ポール・クルーグマンや、ローレンス・サマーズ 、あるいはクリスチーヌ・ラガルドIMF専務理事らは、デフレや低インフレ下での財政赤字の拡大の有効性を認めている。 

 ところが、より強硬なMMT批判者は、「歳出削減や増税は政治的に難しい。だから、いったん財政規律が緩み、財政赤字の拡大が始まったら、インフレは止められない」などと主張している。

 しかし、これこそ、極論・暴論の類いだ。

 そもそも、国家財政(歳出や課税)は、財政民主主義の原則の下、国会が決める。「財政規律」なるものもまた、財政民主主義に服するのだ。

「政治は、財政赤字の拡大を止められない」などというのは、財政民主主義の否定に等しい。

 また総需要の超過は好景気をもたらすので、所得税の税収が自動的に増大し、財政赤字は減る。したがって、仮に増税や歳出削減をしなくとも、インフレはある程度、抑制される。

 加えて、金融引き締めによるインフレ退治という政策手段もある。

 要するに、インフレというものは、経済政策によって止められるものなのだ。

 実際、歴史上、ハイパーインフレの例は、戦争・内戦による供給能力の棄損や社会主義国の資本主義への移行による混乱、独裁国家による政治的混乱といった、極めて特殊なケースに限られる。

 また、1960年代後半から70年代にかけての米国の高インフレも、ベトナム戦争、石油危機、変動相場制への移行といった特殊な外的要因が主である。

 特に戦後の先進国で、財政支出の野放図な拡大が止められずにインフレが抑制できなくなったなどという事例は、皆無だ。

 そして何より、日本は、過去20年間、インフレが止められないどころか、デフレから脱却できないでいる。歳出抑制や消費増税といった経済政策によってインフレを阻止できるという、皮肉な実例である。

 したがって、「財政赤字の拡大を容認すると、インフレが止まらなくなる」などということはないのだ。

 これは、「事実」である。


「民間の貯蓄不足を招き
金利を高騰させる」は本当か?

「財政赤字の拡大は民間貯蓄の不足を招き、金利を高騰させる」という批判(2)は、先ほどの批判(1)とは違って、完全に「事実」に反する。

 まず、基本的な事実確認から始めよう。

 一般に、銀行は、個人や企業から預金を集めてきて、それを貸し出すと思われている。しかし、それは「誤解」である。

 実は、銀行は、集めた預金を貸し出すのではない。その反対に、銀行の貸し出しによって預金が創造されるのである。

「預金⇒貸し出し」ではない。「貸し出し⇒預金」なのだ。これが、いわゆる「信用創造」である。

 これは、MTT固有の理論ではない。銀行の実務における「事実」にすぎない。

 余談だが、この「事実」は、最近でも例えば、参議院決算委員会(2019年4月4日)の質疑で、西田昌司参議院議員が黒田日銀総裁に確認している。ちなみに、黒田総裁はMMTには否定的である。

 西田委員「銀行は信用創造で10億でも100億でもお金を創り出せる。借り入れが増えれば預金も増える。これが現実。どうですか、日銀総裁」

 黒田総裁「銀行が与信行動をすることで預金が生まれることはご指摘の通りです」


政府の赤字財政支出が
民間貯蓄を増やす

 貸し出しが預金を創造するというのは、政府に対する貸し出しにおいても、同様である。

 すなわち、政府の赤字財政支出(国債発行)は、民間貯蓄(預金)によって賄われているのではない。その反対に、政府の赤字財政支出が、民間貯蓄(預金)を増やすのである。

 ただし、政府は民間銀行に口座を開設しておらず、中央銀行にのみ口座を開設している。

 それゆえ、実際のオペレーションは、図1の通りとなる。


オペレーションの流れ

https://diamond.jp/articles/-/200555?page=6


 この図1からも明らかなように、民間銀行は、個人や企業が預け入れた預金をもとに、新規発行国債を購入するわけではない。

 中央銀行から供給された準備預金(日銀当座預金)を通じて、購入するのだ【1】。その上で、政府が財政支出を行うと【2】、それと同額だけ民間貯蓄が増える【4】。


政府債務残高及び長期国債金利の推移

https://diamond.jp/articles/-/200555?page=7


超インフレ、金利高騰は起きず
主流派経済学の「権威」脅かす

 このように、MMTは、実は、特殊な理論やイデオロギーではなく、誰でも受け入れ可能な単なる「事実」を指摘しているのにすぎないのである。

 だが、その「事実」こそが、主流派経済学者や政策当局にとっては、この上なく、不都合なのだ。

 例えば、「インフレが行き過ぎない限り、財政赤字の拡大は心配ない」というのが「事実」ならば、これまで、主流派経済学者や政策当局は、なぜインフレでもないのに財政支出の拡大に反対してきたのだろうか。

 防災対策や貧困対策、少子高齢化対策、地方活性化、教育、環境対策など、国民が必要とする財政支出はいくらでもあった。にもかかわらず、主流派経済学者や政策当局は、財政問題を理由に、そうした財政支出を渋り、国民に忍耐と困苦を強いてきたのである。

 それなのに、今さら「インフレが行き過ぎない限り、財政赤字の拡大は心配ない」という「事実」を認めることなど、とてもできないということだろう。

 さらに、「財政赤字は民間貯蓄で賄われているのではない」という「事実」を知らなかったというのであれば、「貸し出しが預金を創造する」という信用創造の基本すら分かっていなかったことがバレてしまう。

 主流派経済学者や政策当局にとって、これほど不都合なこともない。彼らのメンツに関わる深刻な事態である。

 というわけで、主流派経済学者や政策当局が、よってたかってMMTをムキになって叩いている理由が、これで明らかになっただろう。

 その昔、ガリレオが宗教裁判にかけられたのは、彼が実証した地動説が教会の権威を揺るがしたからである。

 それと同じように、MMTが攻撃にさらされているのは、MMTが示した「事実」が主流派経済学者や政策当局の権威を脅かしているからなのだ。

(評論家 中野剛志)
https://diamond.jp/articles/-/200555

▲△▽▼

中野剛志 消費増税も吹っ飛ばす破壊力。「MMT」(現代貨幣理論)の正体 2019年4月26日
https://www.excite.co.jp/news/article/BestTimes_10271/

■アメリカでいま大論争
消費増税も吹っ飛ばす破壊力。「MMT」(現代貨幣理論)の正体

「MMT」って、聞いたことありますか?

 MMTというのは、現代貨幣理論(Modern Monetary Theory)のことです。

 最近、アメリカで大論争を巻き起こし、日本でもよく採り上げられている経済理論です。

 きっかけとなったのは、2019年1月に、アメリカの史上最年少議員(民主党)として話題のアレクサンドリア・オカシオコルテス議員が「MMT」への支持を表明したことで、突如、MMTが脚光を浴びました。

 MMTの論者たちは、「財政赤字は心配するな」という過激とも思える大胆な主張をしています。

 このため、著名な主流派経済学者や政策当局が、MMTを「トンデモ理論」だとバッシングを始めました。

 ところが、このバッシングに対して、MMTを提唱する経済学者ステファニー・ケルトン教授らが、強力に反論したので、大騒ぎになりました。

 そして、この論争が、日本にも飛び火したというわけです。

 なぜ、日本に飛び火したのか。

 言うまでもなく、日本は、GDP比の政府債務残高が先進国の中でもダントツで大きく、財政危機だと言われているからです。

 しかも、今年、消費税率を8%から10%に引き上げようとしているところです。

 それなのに、「財政赤字は心配するな」などというMMTが正しかった、なんて話になったら、消費増税は、ぶっ飛びます。
 それどころか、これまで二十年以上にもわたって、財政危機を騒いできたのは、いったい何だったのかという話になって、大変なことになります。


 最近、世界経済も国内景気も急激に悪化しており、このまま消費増税をしていいのだろうかという不安が高まっています。

 先日も、自由民主党の萩生田幹事長代行が、消費増税延期を口走ったため、大きな波紋を呼んでいます。

 そんな最中に、海の向こうから、突然「財政赤字は心配するな」という理論がやってきたのです。

 それで、日本の財務省は、MMTに対して、異例の反論を行い、火消しに走っているというわけです。

 また、長年、財政健全化を訴えてきた朝日新聞編集委員の原真人さんも、MMTを「トンデモ経済理論」呼ばわりしています。
■意外とシンプルな理論
 ところで、MMTとは、どのような理論なのでしょうか。

 一見すると難しそうですが、ポイントだけ押さえれば、意外と簡単に分かります。

 ポイントは、こうです。

 日本やアメリカやイギリスのように、自国通貨を発行できる政府(正確には、政府と中央銀行)は、デフォルト(債務不履行)しない。

 自国通貨建ての国債は、デフォルトすることはない(アルゼンチンなど、デフォルトの事例は、外貨建て国債に関するものだけ)。   

 だから、アメリカや日本は、財源の心配をせずに、いくらでも、好きなだけ支出ができる。

 ただし、財政支出を拡大し、需要超過になって、インフレになる。

 たった、これだけです。
 しかし、実は、このMMTの主張は、単に「事実」を言っているだけで、何も新奇な理論を提唱しているわけではありません。


通貨を発行できる政府が、自国通貨建ての国債を返済できるなんて、当たり前の話です。

 それどころか、財務省だって、日本の国債は、自国通貨建てなので、デフォルトしないと言っているのです。

 平成14年に、海外の格付け会社が日本国債の格付けを引き下げました。すると、財務省は、格付け会社(ムーディーズ、S&P,フィッチ)宛に、質問状を発出しました。そこには、こう書かれています。
(1) 日・米など先進国の自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない。デフォルトとして如何なる事態を想定しているのか。
 デフォルトしないのならば、政府は財源の心配は無用ということになります。

 しかし、もしそうだとすると、税金は、何のためにあるのでしょうか。

「財源の心配がいらないなら、無税国家ができるじゃないか」と思われたかもしれません。

 もちろん、無税国家は不可能です。

 なぜなら、税金を一切なくして、政府が好きなだけ財政支出をしまくったら、消費や投資が拡大し続け、インフレが止まらなくなって、大変なことになるからです。
■消費税は何を減らす?
 だから、税金を課して、消費や投資を抑えて、インフレを止めるのです。

 ただし、税金を重くし過ぎると、今度は、インフレの反対、すなわちデフレになります。

 この場合、税金は、物価を調整するための手段だということになります。

 他にも、税金には、重要な役割があります。
 例えば、高所得者により重い所得税を課すと、所得格差を是正できます。


また、温室効果ガスの排出に対して、炭素税を課すと、温室効果ガスを抑制できます。

 このように、税金は、抑制したいものや減らしたいものに課すことで、経済をうまく調整するのに使うのです。

 ですから、税金は、財源確保の手段ではなく、経済の調整の手段として、必要だということです。

 これが、MMTの、最も初歩的な説明です。

 しかし、この最も初歩的な説明だけでも、破壊力が抜群なのです。

 例えば、先ほど説明したように、税金は、温室効果ガスの排出に対して課すと、温室効果ガスを減らせます。

 ということは、消費税は、何を減らすのでしょうか。

 消費に税金を課しているのですから、当たり前ですが、消費を減らすことになります。

 さて、今年、消費税を増税する予定ですが、そうなると、消費が減ります。

 消費を減らしたら、当然、不景気になり、国民生活は苦しくなります。
■増税とインフレ・デフレの関係
 それなのに、どうして、消費を減らしたいのでしょうか?

 えっ、消費増税は、社会保障財源を確保し、財政赤字を減らすために必要?

 でも、自国通貨建て国債はデフォルトしないというのは、財務省ですら認めている事実ですよ。

 デフォルトしないならば、財源を確保する必要なんて、ないじゃないですか。

 こういうことを言うと、「そんなこと言ったって、財政赤字が大きくなり過ぎたら、インフレが止まらなくなるじゃないか!」と批判されるでしょう。
 この批判は、まったく、その通りです


実際、MMTも、財政赤字を増やすと、インフレになると言っています。

 でも、ということは、逆に財政赤字を減らしたら、インフレの反対のデフレになるはずですね。

 ところで、日本は二十年もデフレで苦しんでいて、安倍政権はデフレ脱却を掲げています。

 つまり、安倍政権は、インフレにしたいわけです。実際、インフレ率2%という目標を掲げています。

 そうだとしたら、安倍政権は、インフレを実現するために、財政赤字を増やさなきゃ、いけないはずですよね。

 それなのに、消費増税で財政赤字を減らしたりなんかしたら、どう考えたって、デフレはひどくなるでしょう。

 そもそも、安倍政権は、2%のインフレ率を目標に掲げています。

 だったら、2%のインフレ率という「行きつく先」まで、財政赤字を拡大すればいいではないですか。
■MMT反対派への反論
 えっ、MMTなんてトンデモ経済理論の実験なんか、してはいけない?

 それを言うなら、「デフレなのに、消費増税を断行する」ことの方が、よほど「実験」でしょう。

 だいたい、「デフレ時に消費増税をやっても問題ない」なんて経済理論、どこにあるんですか?

 MMTをトンデモ呼ばわりした原真人さん、教えてください。

 しかも、消費増税の実験でしたら、すでに、1997年の消費増税(税率3%から5%へ)と、2014年の消費増税(5%から8%へ)の二度もやっています。
 いずれの実験も、デフレを悪化させました


何で、二度も失敗した危険な実験を、もう一回、やろうとしているのでしょうか。

 意味が分かりません。

 ところが、財政赤字の拡大については、まだ、こう反論する人がいます。

「いや、財政赤字の拡大を認めてしまったら、インフレは止まらなくなる。インフレを止めるために、歳出を削減したり、増税したりするなんて、できないんだ。なぜって、国民が嫌がる歳出削減や増税を、政治家は決断できないからだよ」

 これは、ひどい反論ですね。

 なぜなら、財政支出や増税は、国会で決めることになっています。

 これは「財政民主主義」と言って、日本国憲法第83条で定められています。

「歳出削減や増税はできないから、インフレが止まらなくなる」というなら、財政は、国会以外のどこで決めるのでしょうか?

 財務省が決めるのでしょうか?

 いや、ダメです。それは、憲法83条違反ですよ。

 それに、日本は、すでに20年も、インフレを止めています。

 むしろ、インフレにしたくてもできなくて、困っています。

 2014年には、デフレで国民が苦しんでいるのに、消費増税をしてしまいました。

 そんな日本が、どうしてインフレが進み過ぎて国民が苦しんでいる時に、歳出削減や増税ができないというのでしょうか?

 日本の民主主義をバカにするのも、いい加減にしてもらいたいものです。

 というわけで、MMTの破壊力、いかがでしたでしょうか?

 財政や税金について、もっと知りたくなったでしょうか?

 それとも、狐につままれたようで、どうも納得できないといった感じでしょうか?

 どちらにしても、議論の続きについては、


目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室【基礎知識編】 – 2019/4/22
中野 剛志 (著)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4584138958/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=bestshoseki-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4584138958&linkId=288b8e2d2b0e6fa2b42e0c3d793db718


をお読みいただけますと、幸いです。

 読み終わったら、経済学者、官僚、そして朝日新聞編集委員もビビるほど、経済が理解できるようになっているでしょう。
https://www.excite.co.jp/news/article/BestTimes_10271/?p=6


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/396.html#c1

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
192. 中川隆[-10483] koaQ7Jey 2019年4月30日 08:55:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1604]

天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ (NHKブックス) – 2015/10/22
中村 修也 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E6%9C%9D%E3%81%A8%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2-%E5%94%90%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%B8-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E4%BF%AE%E4%B9%9F/dp/4140912359?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp


内容紹介

古代日本に存在した、もう一つの「占領」

663年の「白村江の戦い」に敗れた日本は、唐の再攻撃に備えて防衛態勢を整備し、その後は律令国家建設へ邁進したと言われている。だが、それは本当なのか? 本書は、唐の羈縻政策を軸に展開した当時の東アジア情勢を踏まえつつ、中国・朝鮮側の史料との比較から『日本書紀』を再検証し、これまでの通説に挑む力作。唐の支配体制が、その後の律令国家体制とどのように結びついていったのかを鮮やかに描く。

内容(「BOOK」データベースより)

古代東アジアに起こった一大戦役・白村江の戦。通説では、唐・新羅連合軍に敗れた日本は以後、唐の律令に学び、国家体制を整備していったと言われる。だが、この通説は果たして本当か?敗戦国の日本が、唐の支配を全く受けずに友好関係を保つことが可能だったのか?本書は、中国・朝鮮側の史料、最新の考古学の知見、古今東西の「戦争」における常識など、多角的な視点から『日本書紀』を再解釈。白村江後に出現した唐の日本「支配」の実態、さらに、それがのちの律令国家建設に与えた影響を鮮やかに描く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
中村/修也
1959年、和歌山県生まれ。1989年、筑波大学大学院歴史・人類学研究科博士課程単位取得修了。博士(文学)。現在、文教大学教育学部教授


カスタマーレビュー

hira
史料がわずかしかない日本古代史で、新説か既説かは、そんなに大事? 2018年12月29日


 筆者は、近代のアジア太平洋戦争で、日本が大敗した後、GHQに占領され、再建を指導された経験から、古代の白村江の合戦で、倭+百済遺民が大敗した後を、想像すべきだとし、通説を批判、異説を展開しています。

 異説では、まず、663年の白村江の合戦で、倭+百済遺民が、唐+新羅に大敗後、唐が、九州にも進出し、朝鮮式山城(やまじろ)・水城(みずき)や防(防御地)・烽(ノロシ台)を設置、後世の大宰府の位置には、筑紫都督府も設置し、占領統治するつもりだったと主張されています。

 それは、唐の6度の来日時期の664〜672年の間に、それらが整備されているうえ、唐が、大量の人員を、朝鮮半島から日本列島へと、送り込んだからで、そうなると、それらは、唐や新羅の侵攻を防御する施設でないことがわかります。

 また、667年の近江・大津京への遷都は、大和政権の前方拠点の難波・河内と後方拠点の大和から引き離す、唐の強制で、両拠点の中間の山頂の高安城(たかやすのき)は、唐が、両拠点を監視するためとみられます。

 そのうえ、670年の庚午年籍(こうごねんじゃく)・671年の近江令は、戸籍を作成することで、公正・円滑に徴税でき、671年の水時計(漏刻)の設置は、官僚の勤務管理に有効で、いずれも唐が、直接持ち込んだとみれば、納得できます。

 さらに、唐が、百済の王子の扶余隆を、熊津都督に利用したように、671年の大友皇子の後継も、唐の傀儡政権で、唐の日本列島撤退直後の、672年の壬申の乱での大海人皇子の政権奪取は、その転換とも受け取れ、689年の飛鳥浄御原令は、当時頻繁に通交していた新羅と、唐の制度を折衷したようです。

 朝鮮半島では、642年に、百済は、高句麗と同盟し、新羅を攻撃、新羅は、西部40余城を奪取され、劣勢から、643年に、唐に援軍を要請しましたが、反応なく、647年に、政権の内乱が発生しましたが、鎮圧し、ようやく、648年に、唐と同盟できましたが、654年に、北部30余城も奪取されています。

 そののち、唐は、高句麗を挟み撃ちにするため、660年に、新羅と連携し、百済を滅亡させると、倭は、百済復興のため、援軍を渡海しましたが、663年に、白村江の合戦で大敗、唐は、668年に、新羅と連携し、高句麗も滅亡させ、百済に熊津都督府を、高句麗に安東都護府を設置し、占領統治しました。

 ところが、唐は、新羅も、鶏林州都督府を設置し、統治しようとしたので、670年から、新羅が、唐に反抗・交戦し、唐は、それを鎮圧できず、朝鮮半島の戦況が悪化したので、672年に、日本列島から撤退すると、同年に、壬申の乱が勃発、唐は、676年に、朝鮮半島からも撤退させられています。

 唐は、同盟国の新羅でさえ、鶏林州都督府を設置したので、敗戦国の倭に、筑紫都督府を設置するのも、当然だったでしょう。

 なお、盗作だと酷評しているレビューも、一部あり、学者間のルールは、遵守すべきですが、そもそも史料が、わずかしかない日本古代史では、異説といっても、類似する傾向にあり、それが先行研究に無知だっただけで、異説の積み重ねが、通説になるので、既説か新説かのみに固執するのは、不毛です。

 古代日本の制度・技術・文化も、たかが、中国発祥・朝鮮経由と一蹴することもできますが、されど、独自に変容・洗練されたので、盗作ではなく、固有と位置づけられるので、それと同様、読者は、新説の「藤原鎌足」の12ページ?と、既説の細密な本書の、違いを楽しめばよいのではないでしょうか。

 ところで、「隋書倭国伝」で、600年に、妻子のいる倭王のアメ・タリシヒコ・アホケミが、隋に使者を派遣していますが、女帝の推古天皇(33代)と一致せず、「旧唐書日本伝」で、日本国は倭国の別種とあるので、推古天皇を大和政権、タリシヒコを筑紫政権(倭)とする説(九州王朝説)があります。

 他にも、「日本書紀」と「隋書倭国伝」「隋書」で、冠位12階と内官12等の序列や、遣唐使の訪問年が、食い違っており、「日本書紀」では、608年に帰国した遣隋使の小野妹子が、隋の国書を百済で奪い取られたのに免罪で、「隋書倭国伝」では、九州の地名しか登場せず、不自然です。

 私は、個人的に、九州王朝説(古田武彦)を、本書の説と組み合わせ、白村江の合戦には、大和政権配下の全国各地の豪族達が、参戦したのではなく、各々自立しつつ、相互交流していた、大和政権・筑紫政権等が、協力して参戦したとみています。

 4世紀半ばには、高句麗の南下で、馬韓の諸国が百済、辰韓の諸国が新羅に結束した一方、弁韓は、6世紀半ばまで、諸国(伽耶諸国)のままで滅亡したように、日本列島でも、外圧が強い九州(筑紫政権)、中くらいの近畿(大和政権)、弱い東国と、諸国の結束の度合に差があったでしょう。

 そして、白村江の合戦での疲弊が、九州で比較的大きく、近畿で中くらい、東国で小さかったうえ、合戦後の唐の占領統治も、九州で比較的強く、近畿で中くらい、東国で弱かったと推測できます。

 なので、唐が日本列島から撤退すると、壬申の乱で、反乱軍は、戦力が温存されていた東国を味方に引き入れられたので、大和政権の中枢を一掃できたうえ、新生大和政権は、かなり疲弊していた筑紫政権等も併合でき、国号を日本に改称したのではないでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/dp/4062883309?_encoding=UTF8&isInIframe=0&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books&showDetailProductDesc=1#product-description_feature_div
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c192

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
193. 中川隆[-10482] koaQ7Jey 2019年4月30日 09:25:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1605]

日本古代史と朝鮮 (講談社学術文庫) – 1985/9/5
金 達寿 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%81%A8%E6%9C%9D%E9%AE%AE-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%87%91-%E9%81%94%E5%AF%BF/dp/4061587021


内容紹介

「日本古代史は、朝鮮との関係史である」とは、古代史研究家・金達寿の主張しつづけてきたことばである。本書は、地名や古墳・神社などを手がかりに日本各地に現存する古代朝鮮遺跡の発掘に執念を燃やしてきた著者がこれらの事実と、記・紀などに残された高句麗・百済・新羅系渡来人の足跡をはじめ、豊富な文献資料などから「帰化人史観」によってゆがめられた歴史記述を痛烈に批判し、真の日本古代史への道を開示したものである。

著者について

1919年、朝鮮・慶尚南道で生まれ、1930年に渡日。日本大学芸術科卒業。作家・古代史研究家。主著に『金達寿小説全集』『金達寿評論集』『古代日朝関係史入門』『日本古代史と朝鮮文化』『古代日本と朝鮮文化』『朝鮮−民族・歴史・文化−』『わがアリランの歌』『行基の時代』『故国まで』『日本の中の古代朝鮮』『日本の中の朝鮮文化』(学術文庫)などがある。

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
日本人と朝鮮人の区別は、否定的なのに、高句麗系・百済系・新羅系の区別に、肯定的なのは、なぜ? 2018年12月28日


 本書は、巧妙で、それは、韓国出身の筆者が、日本列島の歴史・文化の起源を、ただ、朝鮮半島由来だと力説しても、簡単に受け入れられないのを想定し、日本出身の他者が、そう主張している文章を引用することで、説明しているからです。

 ですが、現在主流でない、皇国史観の記述を引用し、それを批判する等、一昔前の執筆を実感するとともに、当時の日本人と朝鮮人(帰化人)の区別を否定する反面、出身不詳の渡来人を、高句麗系・百済系・新羅系と、安易に断定したり、日本の史実に朝鮮が関与したとする等、行き過ぎも散見されます。

 海で隔てられた、日本列島と朝鮮半島を、区分するよりも、陸で続いた、高句麗・百済・新羅等を、区分するほうが、当時の戦乱もあって、大変困難なのに、矛盾しているのではないでしょうか。

 日本人の文章を引用する中、筆者は唯一、朝鮮人の文定昌の「日本上古史」を引用しており、それは、本書で最も、主張したかったからでしょう。

 そこでは、大化の改新(645年)と孝徳天皇=新羅系、白村江の合戦(663年)と斉明・天智天皇=百済系、壬申の乱(672年)と天武天皇=新羅系、新羅・唐戦争(〜676年)後と持統天皇=百済系と、日本の史実に朝鮮が関与したと指摘しています。

 そこで、「日本書紀」に該当する、その時代や、それ以前の、大和政権と朝鮮諸国の外交をみていくこととし、それらを列挙すると、次のようになります。

 なお、各時代の※印は、筆者が取り上げた記事を、まとめたものです。


●推古天皇(33代、在位592〜628年)の時代
○他国の使者が来訪
・新羅:597・598・610・611・616・621・623年(600・623年:新羅派兵)
・高句麗:595(仏僧)・610・618・625年
・百済:597・599・602年
・任那:610・611・623年(562年:任那滅亡)
○自国の使者を派遣
・新羅:600・623年
・高句麗:601年
・百済:601年
・任那:600・623年
※推古16(608)年9月11日:隋使が帰国、遣隋使が派遣され、8人(南淵請安・日文=旻・高向玄理)が留学
※推古31(623)年7月:唐の学問僧2人・医者2人(恵日)等が、帰国し、新羅使が同行

●舒明天皇(34代、在位629〜641年)の時代
○他国の使者が来訪
・新羅:632・638・639・640年
・高句麗:630年
・百済:630・631(人質)・635・638・640年
・任那:638年
※舒明4(632)年8月:唐使が来訪、唐の学問僧3人(旻)が、帰国し、新羅送使等が同行
※舒明12(640)年10月11日:唐の学問僧2人(南淵請安・高向玄理)が、新羅経由で帰国し、百済・新羅の朝貢使が同行

●皇極天皇(35代、在位642〜645年)の時代
○他国の使者が来訪
・新羅:642×2年
・高句麗:642・643年
・百済:642×3・643年
○自国の使者を派遣
・新羅:642年
・高句麗:642年
・百済:642年
・任那:642年

●孝徳天皇(36代、在位645〜654年)の時代:新羅系?
○他国の使者が来訪
・新羅:645・646・647×2(人質)・648・649(人質)・650・651×2・652・653・654×2年
・高句麗:645・646・647・654年
・百済:645・646・651・652・653・654×2年
・任那:646年
○自国の使者を派遣
・新羅:646・648(学僧)・649年
・高句麗:648(学僧)
・百済:648(学僧)
※645年:乙巳(いっし)の変
※大化3(647)年7月:新羅への使者(高向玄理)が帰国し、新羅の金春秋(のちの29代・武烈王)が、人質に
※648年:新羅の金春秋が、入唐
※白雉5(654)年2月:第3次遣唐使(高向玄理・恵日)が、新羅道を経由

●斉明天皇(37代、在位655〜661年)の時代:百済系?
○他国の使者が来訪
・新羅:655×2(人質)・656年
・高句麗:655・656×2・660年
・百済:655・656・660×2・661年(660年:百済滅亡)
○自国の使者を派遣
・新羅:657年
・高句麗:656年
・百済:661年

●天智天皇(38代、在位668〜671年)の時代:百済系?
○他国の使者が来訪
・新羅:667・668・669・671×2年
・高句麗:666×2・667・668・671年(668年:高句麗滅亡)
・百済:662・663・667・668・671×2年
○自国の使者を派遣
・新羅:668・670年
・高句麗:663年
※663年:白村江の合戦
※天智4(665)年9月23日:唐使が来訪、12人(定恵/じょうえ、藤原鎌足の息子)が、百済経由で帰国(白雉5年2月に記載)

●天武天皇(40代、在位673〜686年)の時代:新羅系?
○他国の使者が来訪
・新羅:672・673×2・675×3・676×2・677・679×2・680×2・681・682・683・684・685年
・高句麗:673・676・679・680・682年
○自国の使者を派遣
・新羅:675・676・677・681・684年
※670〜676年:新羅・唐戦争
※672年:壬申の乱

●持統天皇(41代、在位690〜697年)の時代:百済系?
○他国の使者が来訪
・新羅:687・689・690・692・693・695年
○自国の使者を派遣
・新羅:687・692・695年

※朱鳥元(686)年10月2日:大津皇子の謀反が発覚し、本人+新羅僧の行心(こうしん)等30余人が逮捕


 以上より、まず、当時は、情報収集のためか、全方位外交が通例で、他国の使者が来訪し、自国の使者を派遣するので、他国の使者と自国の使者が一緒だったり、送使が同行することも、多々あります。

 そのうえ、「日本書紀」は、中国とは対等、朝鮮とは優越な関係で、日本が小帝国だと主張したいため、周辺諸国との通交を、朝貢と潤色しがちなので、通交のすべてが、記載されているわけではないと認識しておくべきです(他国の使者の来訪に比べて、自国の使者の派遣が少ないです)。

 つぎに、遣隋使・遣唐使が、日本列島から朝鮮半島へ渡海する際、新羅経由や新羅使が同行と記載されているので(623・632・640年)、そこから、列島の渡来系氏族と半島の政権が結託し、大和政権に関与したとの仮説がありますが、これは、562年に、任那が新羅に吸収されたからではないでしょうか。

 654年の遣唐使出発は、新羅道を経由したとありますが、対馬から旧・任那へ渡海し、そこから百済も経由しないと当然、山東半島(萊州/らいしゅう)には到着できず、665年の定恵帰国での百済経由は、663年の白村江の合戦での大敗後に、唐が百済を占領していたからです。

 645年の乙巳の変の時期には、642年に、百済は、高句麗と同盟し、新羅を攻撃、新羅は、西部40余城を奪取され、劣勢から、643年に、唐に援軍を要請しましたが、反応なく、647年に、政権の内乱が発生・鎮圧、ようやく、648年に、唐と同盟できましたが、654年に、北部30余城も奪取されています。

 つまり、当時の新羅は、半島での戦争に手一杯で、とても列島の内政にまで、干渉する余裕は、なかったとみるのが自然で、劣勢の新羅が、大和政権に使者を頻繁に派遣し、人質も送り込んだのは(647・649・655年)、大和政権が百済を救援しないか、情報収集のためと推測できます。

 そして、663年に、白村江の合戦で大敗し、朝鮮式山城の築造を主導したのは、筆者のいう、百済遺民ではなく、戦後処理で6度も来日し(664・665・667・669・671×2年)、大量の人員を送り込んだ、唐でしょう。

 また、672年の壬申の乱の時期は、670年から、新羅は、唐に反抗・交戦し、唐は、鎮圧できず、戦況が悪化したため、列島から撤退すると、その直後に壬申の乱で、大和政権が一掃、新羅は、676年の唐の半島撤退後もしばらく、大和政権に使者を頻繁に派遣し、唐との関係を注視していたとみられます。

 さらに、持統天皇の時代は、すでに百済が滅亡し、復興も絶望的なので、百済系に影響力があったとは、到底いえず、大津皇子の謀反事件で、飛騨の寺に強制移住させられた、新羅僧の行心と結び付けるのは、いくらなんでも無理があります。
 このように、日本の史実に、朝鮮が関与したとする仮説は、成り立ちそうになく、筆者は、記紀神話の些細な記述を、こじつけ的に解釈する傾向にあり、これは、新興の神道が、教義を創作する際の手法と類似しています。

 筆者は、日本の史実に、朝鮮が関与したと指摘したいようですが、そもそも記紀神話での天皇家自体が、日向からの渡来人と公言しており、大和に侵攻・平定し、政権を樹立・土着できたので、昔の出身地よりも、今の居住地のほうを、重要視しているのがわかります。

 そのうえ、天上の神々(天つ神)の子孫とされる、天皇家や中央豪族は、天から渡来した血統だとし、地上の神々(国つ神)の子孫とされる、地方豪族を、統治してきたので、地へと土着した実績もあると、記紀神話から読み取れるのに、そのような中で、出身のみに執着するのは、不毛です。

 ただし、平安初期に、嵯峨天皇(52代)が編纂させた、古代氏族名鑑「新撰姓氏(しょうじ)録」によると、京・畿内の貴族1182氏のうち、渡来系氏族(諸蕃)が、326氏(漢163氏・百済104氏・高句麗41氏・新羅9氏・任那9氏)・約28%なので、当時も渡来人が、相当数いたと認識しておくべきです。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1JCEH3J1W1XUJ/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4061587021
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c193

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
194. 中川隆[-10481] koaQ7Jey 2019年4月30日 09:29:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1606]

古代朝鮮と日本文化 (講談社学術文庫) – 1986/9/5
金 達寿 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%87%91-%E9%81%94%E5%AF%BF/dp/4061587544?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp


内容紹介

本書は、日本独自の文化といわれる神社・神宮の中に、高麗(こま)神社、百済(くだら)神社、新羅(しらぎ)神社など、古代朝鮮三国の名を負った神社が日本各地に散在するのに注目した著者が以来、十数年の歳月にわたり、それらの由来を明かすべく、文献や地名などを手がかりに実地踏査したものをまとめたものである。新羅において祀った祖神廟(そしんびょう)を神社・神宮の原形とみるなど、日本の神々のふるさとを遙か古代朝鮮に見いだした、著者ならではの労作といえよう。


著者について

1919年、朝鮮・慶尚南道で生まれ、1930年に渡日。日本大学芸術科卒業。作家・古代史研究家。主著に『金達寿小説全集』『金達寿評論集』『古代日朝関係史入門』『日本古代史と朝鮮文化』『古代日本と朝鮮文化』『朝鮮―民族・歴史・文化―』『わがアリランの歌』『行基の時代』『故国まで』『日本の中の古代朝鮮』『日本古代史と朝鮮』(学術文庫)などがある。


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
朝鮮文化的な見方と日本文化的な見方 2018年12月28日

 本書は、「日本古代史と朝鮮」の続編で、前作は、概論、今作は、各論という位置づけといえます。

 今作も、前作同様、韓国出身の筆者が、日本列島の文化の起源を、ただ、朝鮮半島由来だと力説しても、簡単に受け入れられないのを想定し、日本出身の他者が、そう主張している文章を引用することで、説明しており、日本列島各地の、朝鮮半島の影響のある神社・祭神等が、取り上げられています。

 しかし、それらが、いかに朝鮮半島を起源としているのか、または、いかに皇国史観で解説されているかに、終始するあまり、いかに日本列島で定着していったのか、そこにどのような意味・価値があるのか等まで、ほとんど踏み込んでいないのは、大変残念です。

 たとえば、特定の人物を取り上げ、なぜその人物に魅力があるのかを掘り下げる際に、どこで誰から生まれたかだけでは、その人物を理解できたとは、到底いえず、どう育ち、どう過ごし、どう死に、何を感じ、何を思い、何を考えていたのか等まで、探求するほうが、その何倍も重要です。

 それと同様、日本文化も、その起源は、それほど大切ではなく、それは、その大半が、中国大陸・朝鮮半島・欧米等の海外に由来するのは、自明だからですが、むしろ、日本列島の中で、たんなる模倣でなく、独自に変容・洗練してきたことが、固有の文化が形成されたといえるのではないでしょうか。

 筆者も、前作で、《ネーション(国民)、民族というものは、その風土における長い歴史の積み重ねによって形成されるのであって、原初から「朝鮮人」「日本人」としてあったものではない》といっていますが、朝鮮由来の神社・祭神にも、日本化していく過程があるはずです。

 T‐1章・U‐11章では、紀元4年に、新羅の初代王が死去し、2代王が、初代のために建立した祖神廟を、神社・神宮の起源だと指摘されていますが、それは元々、儒教・道教での、祖先を祭祀する霊廟に由来し、発祥は結局、中国大陸に行き着くので、由来・起源のみに固執するのは、不毛です。

 しかも、大勢の渡来人達が、朝鮮半島から日本列島へと移住したり、その間を往来して交易していたので、伽耶諸国・百済・高句麗・新羅等の文化を持ち込み、朝鮮語の地名・社名にするのも、当然の結果といえます。

 T‐2章では、高句麗の王族が、天皇(42代・文武)から、高句麗王の姓が授与(703年)されたのは、高句麗が滅亡(668年)して35年後で、百済の王族が、天皇(41代・持統)から、百済王(こにきし)の姓が授与(690か691年)されたのは、百済が滅亡(660年)して30か31年後です。

 つまり、朝鮮の王族が、30〜35年で、大和政権の官僚の一員に取り込まれており、それは、かれらが、中央政府に有益なので、利用したかったからでもありますが、30〜35年経過すれば、渡来人も土着人並になったといえるのではないでしょうか。

 ここで注意したいのは、渡来人達が持ち込んだ、先進の制度・技術・文化等が、国境を容易に乗り越えていることで、当時の日本列島は、人種が多様だったのに、古代史を探求する際に、日本人・朝鮮人・中国人等を過度に意識するのは、現代人の近代的な偏見です。

 ところで、筆者は、T‐1章とT‐4章で、朝鮮では、新しい文化を取り入れると、従来のものを否定・滅亡させたり、新旧が対立的で、「あれかこれか」になる一方、日本では、神仏習合・本地垂迹等、新旧が同居・調和するといっています。

 筆者の関心は、各地の神社の起源が、自分の出身地の朝鮮由来とわかれば、それで満足のようで、そこでは、日本と朝鮮を対立させたまま、思考停止・終了しており、これは、朝鮮文化的な見方といえ、筆者が韓国人なので、納得すべきなのでしょうか。

 一方、私は、渡来人達が定住・混血する中で、神社の祭神が、信仰の対象として、日本社会に、どう受け入れられ、融合していったのかにも、興味があり、これは、日本文化的な見方といえますが、本書の内容は、そこまで差し迫っていないので、日本人には、広く浅くみえてしまうのでしょうか。

 日本文化は、「たかが、」中国発祥・朝鮮経由といえば、それまでですが、「されど、」独自に変容・洗練されたので、「盗作」ではなく、「固有」と位置づけられますが、日本発祥といえるものが、希少なのも、事実です。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1FE45AH1ETTWN?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c194

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
35. 中川隆[-10480] koaQ7Jey 2019年4月30日 09:36:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1607]
2019.04.30
再び存在感を誇示し始めたダーイッシュが米の敵、トルコや中国を攻撃する可能性

 ダーイッシュ(IS、ISIS、ISIL、イスラム国などとも表記)の指導者とされる​アブ・バクル・アル・バグダディの映像がインターネット上にアップロード​された。この武装集団は4月21日にスリランカであった爆破事件を実行したのは自分たちだと主張している。

 当局の発表によると、直接的な実行者は地元の武装集団、ナショナル・タウヒード・ジャマート(NTJとも表記される)に所属する7名で、その集団の指導者と言われているモウルビ・ザフラン・ハシムはダーイッシュを支持する発言をしている。

 ジョージ・W・ブッシュ政権の命令でアメリカ主導軍がイラクを先制攻撃、サダム・フセイン政権を倒したのは2003年3月のこと。その翌年にダーイッシュはAQI(イラクのアル・カイダ)として組織されたと言われている。

 2006年にISI(イラクのイスラム首長国)が編成された際、このAQIは中核になり、2010年にISIのリーダーになったのがアブ・バクル・アル・バグダディだという。

 調査ジャーナリストの​シーモア・ハーシュが2007年にニューヨーカー誌に書いた記事​によると、それまでにジョージ・W・ブッシュ政権はシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラを最大の敵だと定め、スンニ派の過激派と手を組むことにしたという。

 アメリカ政府を動かしていたネオコンはフセイン体制を倒した後に親イスラエル政権を樹立するつもりだったが、その計画は失敗し、イラクの多数派であるシーア派が主導権を握ってしまった。その結果、同じシーア派のイランと接近する。

 2009年1月にアメリカ大統領となったバラク・オバマは翌年の8月にPSD-11を出し、ムスリム同胞団を主力とする体制転覆プロジェクトを始めた。スンニ派の過激派とはサラフ主義者やムスリム同胞団を指しているので、オバマはブッシュ・ジュニア政権の方針を引き継いだ、つまりチェンジしなかったと言えるだろう。

 そして2010年12月にチュニジアでいわゆる「アラブの春」が始まり、11年2月にはリビア、3月にはシリアで戦争が勃発する。当然のことながら、いずれもムスリム同胞団が中心的な役割を果たした。

 2011年10月にリビアのムアンマル・アル・カダフィ体制が倒され、戦闘員や武器/兵器はトルコ経由でシリアへ運ばれるが、その際にNATO軍とアル・カイダ系武装集団LIFGの連携が明らかになった。カダフィ体制が倒された直後、反カダフィ勢力の拠点だったベンガジでは裁判所の建物にアル・カイダの旗が掲げられたのは象徴的な出来事だった。(​ココ​や​ココ​)

 ​輸送の拠点になったのはベンガジにあったCIAの施設やアメリカの領事館​で、アメリカの国務省はそうした行為を黙認していた。​マークを消したNATOの輸送機​が武器をリビアからトルコの基地まで運んだとも伝えられている。

 アメリカ領事館は2012年9月11日に襲撃され、大使だったクリストファー・スティーブンスが殺された。​領事館が襲撃される前日、大使は武器輸送の責任者だったCIAの人間と会談、襲撃の当日には武器を輸送する海運会社の人間と会っていたとされている​。ちなみに、当時のCIA長官はデイビッド・ペトレイアス、国務長官はヒラリー・クリントンだ。

 襲撃の前月にアメリカ軍の情報機関DIAはホワイトハウスに対し、シリア情勢に関して報告している。​その中でシリアで政府軍と戦っている武装勢力はサラフ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)、ムスリム同胞団、アル・ヌスラ(AQIと実態は同じだと指摘されていた)​だとしている。ちなみに、アル・ヌスラの主力はサラフ主義者やムスリム同胞団だ。

 アル・カイダ系武装集団との連携が露見していたバラク・オバマ政権は「穏健派」を支援していると主張していたが、そうした勢力は存在しないと報告している。オバマ政権の政策はシリアの東部(ハサカやデリゾール)にサラフ主義者の支配地域を作ることになるとも警告していた。ダーイッシュの出現を見通していたと言える。


 ISI(イラクのイスラム首長国)は2013年に活動範囲がシリアへ拡大し、西側ではシリア(Syria)のSを加えてISIS、またはレバント(Levant)のLを加えてISILと呼ばれるようになるが、現地での呼び名はダーイッシュ。2014年に売り出された当時のダーイッシュは残虐性を演出、アメリカ主導軍のシリア空爆の口実に使われる。

 アメリカ主導軍とダーイッシュの連携でリビアと同じように体制を転覆させようとしたのだろうが、シリア軍がリビア軍と違って強かったことに加え、アメリカ政府が大規模な軍事介入へ入る動きを見せる中、2015年9月30日にロシアがシリア政府の要請で軍事介入し、ダーイッシュを含むジハード傭兵の支配地域は急速に縮小していく。

 そこでアメリカ軍は手先をクルド勢力に切り替え、ダーイッシュが支配していた油田地帯をアメリカ軍が占領していく。現在はイラクで同国政府の抗議を無視して軍事力を増強、中東支配の拠点にしようとしている。

 敗走したダーイッシュなどの戦闘員をアメリカ軍は救出、アフガニスタンなどへ運んでいると言われているが、出身国へ戻る動きもあり、東アジアでの活動も活発化している。

 例えば、2017年5月にはフィリピン南部にあるミンダナオ島のマラウィ市をダーイッシュ系だというマウテ・グループやアブ・サヤフが制圧、普通のイスラム教徒をワッハーブ派へ改宗させる工作が数十年にわたって続けられてきたインドネシアでは2016年1月にジャカルタで何回かの爆破と銃撃戦があった。ミャンマーのロヒンギャが住む地域や中国西部の新疆ウイグル自治区へも戦闘員が潜り込んでいると言われている。

 新疆ウイグル自治区、アフガニスタン、スリランカ、インドネシアは中国が進める一帯一路の重要な場所。次のターゲットはトルコになるのではないかとも言われている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904300000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c35

[近代史3] 秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください 中川隆
42. 中川隆[-10479] koaQ7Jey 2019年4月30日 09:43:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1608]

2019.04.30
秋篠宮家付き職員(19)も拳銃で自殺! 小室家と並ぶ「3名」の不審死
https://rondan.net/21383

19歳の少年の自殺、普通ではない秋篠宮家担当職

当サイトでは、秋篠宮家担当の警備2名が立て続けに自殺した事件について紹介しましたが、どうやら、二人の警備担当者が自殺した1年後にも別の秋篠宮家担当の19歳の少年の警備員が拳銃自殺をしていたようです。


28日午後0時10分ごろ、東京都港区元赤坂の赤坂御用地内のトイレで、皇宮警察赤坂護衛署勤務の男性巡査(19)が頭から血を流して倒れているのを同僚が見つけた。病院に搬送されたが、約1時間後に死亡が確認された。皇宮警察によると、貸与されている拳銃で自殺を図ったという。

皇宮警察によると、この日は午前9時から1時間半、皇太子ご一家の住まいである東宮御所の正門で勤務。その後、約70メートル離れた警備待機所で、次の勤務時間まで待機するスケジュールだった。

巡査は昨年4月に採用され、今年2月に同署勤務に。特に悩んだりする様子もなかったという。
「19歳の皇宮警察官が拳銃自殺 赤坂御用地内で」『朝日新聞』2006.9.28

19歳皇宮護衛官が赤坂御用地内で拳銃自殺

皇太子ご一家や秋篠宮ご一家の住まいがある赤坂御用地の警備を担当する皇宮警察の男性巡査が28日昼過ぎ、拳銃で頭を撃って自殺した。

「皇宮警察官拳銃自殺事件 – ドス子の事件簿(皇太子妃雅子殿下の事件簿)」livedoor Wiki

関連記事紀子さま“パワハラ”で職員2人「自殺」の闇 小室佳代とお似合い家族?
2019年4月29日
https://rondan.net/21294


警察の自殺はそれほど珍しい事件ではないかもしれませんが、普通「特に悩んだりする様子もなかった」19歳の少年が、勤務後半年足らずで精神的に追い詰められ拳銃自殺などするものでしょうか?

また、この少年の自殺は3人目で、なんと2004年から3年続けて秋篠宮家と関係する警備職員が一人ずつ自殺していることになります。

尋常ではない連続自殺事件

2004年と2005年の秋篠宮家担当警備員の自殺を報じた『週刊新潮』の記事には「秋篠宮家担当の護衛官がたて続けに自殺するとは、尋常ではない。」と書かれてしますが、さらに、続けて19歳の少年が拳銃自殺するというのは、異常としか言いようがないでしょう。

また、先の二人の自殺に関しては「金銭的トラブルが原因ではないか?」という報道もされていますが、19歳の少年の自殺に関しては原因は全く不明です。

そういえば、眞子さまの婚約内定先の小室家も、小室圭さんの父、と父方の祖父母の計3人の自殺…。なんの因果でしょうか?

自殺の原因は何か?考え得る選択肢

これほど連続して自殺者が出るということは、単純な金銭的トラブルのみが原因とは言い切れません。

考えられる連続自殺事件の原因として、一つは、秋篠宮家の「パワハラ問題」です。

そして二つ目は、警備担当の激務によるストレス。

ただし、この二つ目の「激務」という可能性はほぼあり得ないでしょう。過去の『日刊ゲンダイ』の記事によると、皇族警察は「激務」どころか、「暇すぎること」こそが、相次ぐ皇族警察の不祥事の原因ではないか?と指摘しています。


そもそも皇宮警察官の不祥事は今に始まった話ではない。03年には巡査部長(54)が痴漢で逮捕。04年には女性職員の下着を盗んだ警部補(45)とビデオ店からAVを盗んだ巡査長(31)が懲戒処分。05年には愛知万博にキセル出張した警視(53)、08年にはATMに置き忘れていた現金を持ち去った巡査部長(49)が懲戒。06年には護衛官(19)が赤坂御用地で拳銃自殺した。1000人前後の小所帯なのに、事件が異常に多いのだ。

「彼らは日々、皇居や京都御所など施設の警備や皇族の護衛に当たっています。一般市民に接する機会がほとんどないうえ、犯人を捕まえるケースもまずない。皇室の安全を守る毎日が延々と繰り返される。定年までの自分の仕事と給料が計算できるほど単調な職場です。狭い組織なので人間関係も濃密になりやすい。ストレスを爆発させる皇宮警察官が増えているのです」(捜査事情通)

「ヒマ過ぎる?不祥事続きの皇宮警察 知られざる日常」2010.7.2

最後に、考えられるのが、自殺にみせかけた口封じの殺害といったところでしょうか。

新聞報道にも含みが…

新潮や朝日新聞の報道も、最後の可能性をそれとなく匂わせているようにも思えます。


B氏はさらにこう話した。

「加藤さんが亡くなった前後に、護衛3課で監察に調べられていた警視が辞意を伝えています。表に出せないようなヤバイ話があるのは確実ですよ。これじゃ、秋篠宮家担当の護衛体制はガタガタじゃないですか。開いたロが塞がらない」

最後に、残された加藤氏の妻は涙ながらに語った。

「何故、こんなことになってしまったのか。理由もさっぱりわからず、それだけに残念でなりません。主人が監察に呼ぱれたことは聞いていましたが、内容については知りません。でも、そんなに弱い人ではないと思っていたのですが……」

「「皇宮警察」また出た自殺者は「秋篠宮」担当」『週刊新潮』2005月8月11・18日合併号

巡査は昨年4月に採用され、今年2月に同署勤務に。特に悩んだりする様子もなかったという。

「19歳の皇宮警察官が拳銃自殺 赤坂御用地内で」『朝日新聞』2006.9.28

最後の選択肢は陰謀めいた内容になってしまいますが、『週刊新潮』の記事内の「表に出せないようなヤバイ話があるのは確実」という箇所は、明らかに自殺者の個人的な問題が原因ではなく、皇室警備という職務上の問題と自殺に何らかの関りがある可能性を示唆しています。

まとめ

何らかの責任を押し付けられて、もしくは何らかの知ってはいけない内部事情を知ってしまった結果、「殺された」とまではいわずとも自殺せざるを得ない状況に追い込まれたというのは、陰謀論めいてはいても、全く荒唐無稽な妄想とも言い切れないのではないでしょうか?

代替わりによって、秋篠宮家は皇嗣家となることで職員も大幅増員されますが、宮内庁職員の間では「秋篠宮家に異動になるのでは」と、戦々恐々な状況であるとも噂されますが、現在のトラブル続きの秋篠宮家の状態を考えると無理もないでしょう。

ここは、早急に眞子さまと小室圭さんの結婚問題等、様々な問題を解決し、職員にとって安心して働ける環境を整えることが重要です。
https://rondan.net/21383
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c42

[近代史3] プチエンジェル事件の顧客と噂されている秋篠宮・高円宮はロリコンなのか? 中川隆
26. 中川隆[-10478] koaQ7Jey 2019年4月30日 09:43:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1609]

2019.04.30
秋篠宮家付き職員(19)も拳銃で自殺! 小室家と並ぶ「3名」の不審死
https://rondan.net/21383

19歳の少年の自殺、普通ではない秋篠宮家担当職

当サイトでは、秋篠宮家担当の警備2名が立て続けに自殺した事件について紹介しましたが、どうやら、二人の警備担当者が自殺した1年後にも別の秋篠宮家担当の19歳の少年の警備員が拳銃自殺をしていたようです。


28日午後0時10分ごろ、東京都港区元赤坂の赤坂御用地内のトイレで、皇宮警察赤坂護衛署勤務の男性巡査(19)が頭から血を流して倒れているのを同僚が見つけた。病院に搬送されたが、約1時間後に死亡が確認された。皇宮警察によると、貸与されている拳銃で自殺を図ったという。

皇宮警察によると、この日は午前9時から1時間半、皇太子ご一家の住まいである東宮御所の正門で勤務。その後、約70メートル離れた警備待機所で、次の勤務時間まで待機するスケジュールだった。

巡査は昨年4月に採用され、今年2月に同署勤務に。特に悩んだりする様子もなかったという。
「19歳の皇宮警察官が拳銃自殺 赤坂御用地内で」『朝日新聞』2006.9.28

19歳皇宮護衛官が赤坂御用地内で拳銃自殺

皇太子ご一家や秋篠宮ご一家の住まいがある赤坂御用地の警備を担当する皇宮警察の男性巡査が28日昼過ぎ、拳銃で頭を撃って自殺した。

「皇宮警察官拳銃自殺事件 – ドス子の事件簿(皇太子妃雅子殿下の事件簿)」livedoor Wiki

関連記事紀子さま“パワハラ”で職員2人「自殺」の闇 小室佳代とお似合い家族?
2019年4月29日
https://rondan.net/21294


警察の自殺はそれほど珍しい事件ではないかもしれませんが、普通「特に悩んだりする様子もなかった」19歳の少年が、勤務後半年足らずで精神的に追い詰められ拳銃自殺などするものでしょうか?

また、この少年の自殺は3人目で、なんと2004年から3年続けて秋篠宮家と関係する警備職員が一人ずつ自殺していることになります。

尋常ではない連続自殺事件

2004年と2005年の秋篠宮家担当警備員の自殺を報じた『週刊新潮』の記事には「秋篠宮家担当の護衛官がたて続けに自殺するとは、尋常ではない。」と書かれてしますが、さらに、続けて19歳の少年が拳銃自殺するというのは、異常としか言いようがないでしょう。

また、先の二人の自殺に関しては「金銭的トラブルが原因ではないか?」という報道もされていますが、19歳の少年の自殺に関しては原因は全く不明です。

そういえば、眞子さまの婚約内定先の小室家も、小室圭さんの父、と父方の祖父母の計3人の自殺…。なんの因果でしょうか?

自殺の原因は何か?考え得る選択肢

これほど連続して自殺者が出るということは、単純な金銭的トラブルのみが原因とは言い切れません。

考えられる連続自殺事件の原因として、一つは、秋篠宮家の「パワハラ問題」です。

そして二つ目は、警備担当の激務によるストレス。

ただし、この二つ目の「激務」という可能性はほぼあり得ないでしょう。過去の『日刊ゲンダイ』の記事によると、皇族警察は「激務」どころか、「暇すぎること」こそが、相次ぐ皇族警察の不祥事の原因ではないか?と指摘しています。


そもそも皇宮警察官の不祥事は今に始まった話ではない。03年には巡査部長(54)が痴漢で逮捕。04年には女性職員の下着を盗んだ警部補(45)とビデオ店からAVを盗んだ巡査長(31)が懲戒処分。05年には愛知万博にキセル出張した警視(53)、08年にはATMに置き忘れていた現金を持ち去った巡査部長(49)が懲戒。06年には護衛官(19)が赤坂御用地で拳銃自殺した。1000人前後の小所帯なのに、事件が異常に多いのだ。

「彼らは日々、皇居や京都御所など施設の警備や皇族の護衛に当たっています。一般市民に接する機会がほとんどないうえ、犯人を捕まえるケースもまずない。皇室の安全を守る毎日が延々と繰り返される。定年までの自分の仕事と給料が計算できるほど単調な職場です。狭い組織なので人間関係も濃密になりやすい。ストレスを爆発させる皇宮警察官が増えているのです」(捜査事情通)

「ヒマ過ぎる?不祥事続きの皇宮警察 知られざる日常」2010.7.2

最後に、考えられるのが、自殺にみせかけた口封じの殺害といったところでしょうか。

新聞報道にも含みが…

新潮や朝日新聞の報道も、最後の可能性をそれとなく匂わせているようにも思えます。


B氏はさらにこう話した。

「加藤さんが亡くなった前後に、護衛3課で監察に調べられていた警視が辞意を伝えています。表に出せないようなヤバイ話があるのは確実ですよ。これじゃ、秋篠宮家担当の護衛体制はガタガタじゃないですか。開いたロが塞がらない」

最後に、残された加藤氏の妻は涙ながらに語った。

「何故、こんなことになってしまったのか。理由もさっぱりわからず、それだけに残念でなりません。主人が監察に呼ぱれたことは聞いていましたが、内容については知りません。でも、そんなに弱い人ではないと思っていたのですが……」

「「皇宮警察」また出た自殺者は「秋篠宮」担当」『週刊新潮』2005月8月11・18日合併号

巡査は昨年4月に採用され、今年2月に同署勤務に。特に悩んだりする様子もなかったという。

「19歳の皇宮警察官が拳銃自殺 赤坂御用地内で」『朝日新聞』2006.9.28

最後の選択肢は陰謀めいた内容になってしまいますが、『週刊新潮』の記事内の「表に出せないようなヤバイ話があるのは確実」という箇所は、明らかに自殺者の個人的な問題が原因ではなく、皇室警備という職務上の問題と自殺に何らかの関りがある可能性を示唆しています。

まとめ

何らかの責任を押し付けられて、もしくは何らかの知ってはいけない内部事情を知ってしまった結果、「殺された」とまではいわずとも自殺せざるを得ない状況に追い込まれたというのは、陰謀論めいてはいても、全く荒唐無稽な妄想とも言い切れないのではないでしょうか?

代替わりによって、秋篠宮家は皇嗣家となることで職員も大幅増員されますが、宮内庁職員の間では「秋篠宮家に異動になるのでは」と、戦々恐々な状況であるとも噂されますが、現在のトラブル続きの秋篠宮家の状態を考えると無理もないでしょう。

ここは、早急に眞子さまと小室圭さんの結婚問題等、様々な問題を解決し、職員にとって安心して働ける環境を整えることが重要です。
https://rondan.net/21383
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/362.html#c26

[近代史02] プーチン大統領は神の申し子_____小沢一郎先生はこういう人になって欲しかった 中川隆
150. 中川隆[-10477] koaQ7Jey 2019年4月30日 10:17:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1610]
2019-04-26
国際情勢の大変動を見抜く!-9〜東欧カラー革命は対プーチン戦争〜
http://www.kanekashi.com/blog/2019/04/6221.html


ソ連崩壊後の金貸しによるグローバル化、民営化によって登場した(主に)ユダヤ系新興財閥の主要メンバー達は、次々とプーチン大統領によって排除されていったが、最後までプーチン大統領に抵抗したのがミハイル・ホドルコフスキー。

彼を支援したのが、イギリスのジェイコブ・ロスチャイルド卿とアメリカのキッシンジャー元国務長官。

因みに、キッシンジャーはご存知のとおり、ロックフェラーとの繋がりが深く、バリバリのネオコン派で、TPP、グローバル化推進では主に裏舞台で活躍してきた。ところが、近年はトランプ大統領と親近性を高め、中国習近平やプーチンとの関係をも深めており、民族派への転換が噂されている。(故に動きには注目していく。)

彼らを敵に回してもプーチン大統領は怯むことなく、ホドルコフスキーを逮捕投獄。石油利権が金貸しの手先に渡るのを見事に阻止した。

本丸の取り崩しが失敗に終わった金貸しは、今度は旧ソ連諸国、つまり外堀を埋める動きにでる。いわゆる東欧カラー革命がそうで、グルジアの「バラ革命」、ウクライナの「オレンジ革命」、そしてキルギスの「チューリップ革命」すべて金貸しの画策です。

手口は三つとも判を押したようにすべて同じ。新露派の国家首長が選挙で勝利したが、不正選挙だとして市民デモや暴動が起き再選挙。結果、親欧米派が勝利を納めるというもの。

デモや暴動を扇動したのはいずれも反体制NGO。その黒幕はジョージ・ソロスという。そのシナリオ通りに事が進んだ。

『世界を操る支配者の正体』(馬渕睦夫 著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E9%A6%AC%E6%B8%95-%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/406219175X/ref=sr_1_1?adgrpid=57028848367&hvadid=338514114426&hvdev=c&hvlocphy=1009549&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=7278385446062088875&hvtargid=kwd-334868628383&jp-ad-ap=0&keywords=%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93&qid=1556014387&s=gateway&sr=8-1


からの紹介です。

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■ロシアの国富をアメリカ資本主義に譲り渡す行為

ベレゾフスキーとグシンスキーの追放以降、新興財閥による政治介入は収まったかに見えました。新興財閥の実力者の一人アブラモビッチは、今やロシア政治ではなくサッカーに関心を寄せています。イングランド・サッカーの名門チェルシーを所有しているのが、アブラモビッチなのです。

そうして政商としては腰砕けになった新興財閥の中で、最後までプーチン大統領に抵抗したのがミハイル・ホドルコフスキーでした。プーチン大統領とホドルコフスキーとの戦いはアメリカやイギリスを巻き込んだ国際的性格を帯びることになります。この闘争の内実を理解することが、現在のウクライナ危機の本質を理解することにつながります。

プーチンとホドルコフスキーの対決は、2003年に決戦を迎えました。プーチン大統領は、石油王手ユーコスの社長であったホドルコフスキーを逮捕したのです。10月のことでした。表向きの理由は脱税です。脱税容疑は単なる逮捕の口実ではありません。実際、ホドルコフスキーは国内オフショア制度を悪用して、他の主要な石油会社が24パーセントの税金を払っているにもかかわらず、わずか12パーセントしか払わなかったのです。しかし、逮捕の本当の理由はホドルコフスキーがプーチンとの約束を破って政治に口を出したことでしょう。

彼は、プーチンに反対する政党をイデオロギーに関係なく反プーチンであるという理由だけで支援したり、自ら2008年の大統領選挙への出馬を公言するようになりました。プーチンにしてみれば、ビジネスに特化していれば少々の脱税くらいは目をつぶることができたのかもしれませんが、自らの政治生命に挑戦するがごとき挑発行為は決して許せないと感じたことは想像に難くありません。

もう一つの決定的理由は、ホドルコフスキーと欧米との緊密な関係です。ユダヤ系のホドルコフスキーは当然欧米のユダヤ系の指導者たちと親しい関係にありました。その一人がイギリスのジェイコブ・ロスチャイルド卿でした。ホドルコフスキーはロスチャイルド卿と組んでNGOの「オープン・ロシア財団」をロンドンに設立しました。読んで字の通り、「ロシアを欧米世界に開放する」というもので、ロシア民族主義者たるプーチンを刺激する活動です。続いて、アメリカにも事務所を開設、なんとユダヤ人のキッシンジャーを理事に招聘するのです。こうなると偶然ではなく、ユダヤ系であるホドルコフスキーが欧米の主要なユダヤ人脈を意図的に活用したといえそうです。

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この欧米との関係緊密化は財団設立にとどまりませんでした。最終的にプーチンにホドルコフスキー逮捕を決断させたのは、アメリカ石油メジャーとユーコスとの提携問題であったと思います。ユーコスはシブネフチ(アブラモビッチ所有)のと合併することになっており、この世界有数のロシア石油会社はアメリカ石油メジャーのシェブロンやエクソンモービルに40パーセントにも及ぶ株を売却する交渉が進んでいたのです。

この一連の動きは、プーチンにとってロシア国家の富をアメリカ資本に事実上譲り渡す行為と映ったとしても不思議ではありません。ここに、プーチンはユーコスつぶしを決断し、ホドルコフスキーを逮捕投獄し、結局彼はシベリアの刑務所に服役することになりました。ホドルコフスキー事件をめぐる一連の動きについては、栢俊彦『株式会社ロシア―渾沌から甦るビジネスシステム』が参考になります。

ホドルコフスキーは、昨年末にプーチン大統領に恩赦され出所しました。このことと、ウクライナ危機とは連動しているのではないでしょうか。本書ではこれを検証する余裕はありませんが、今後のロシアと欧米との関係を見るうえで、関連性を頭に入れておく必要はありそうです。

ホドルコフスキー逮捕投獄を機に新たな米露冷戦がはじまったと見られます。世界のメディアは、2007年2月のミュンヘン安保会議におけるプーチン大統領のアメリカ避難スピーチをもって新冷戦の開始と伝えましたが、実際には2003年の10月に始まっていたのです。以後今日まで、メドベージェフ大統領時代の米露関係リセット時代はありましたが、ロシアとアメリカは基本的には冷戦状態が続いているのです。

2003年という年に注目してください。3月にはアメリカのイラク攻撃が始まり、アメリカの勝利とともに、イラクの石油はアメリカの資本が押さえました。イラク戦争は大量破壊兵器を保有するイラクを予防攻撃した戦争ではなく、イラクの石油をアメリカが奪うための戦争であったのです。これによって、アメリカは世界の主要な産油国を抑えたことになります。残った主要石油大国は、イランとリビアを除けばロシアだったのです。したがって、ホドルコフスキーが逮捕され、やがてユーコスが解体されたことは、世界の石油支配の完成を目指すアメリカのメジャーにとっては大きな後退だったのです。

それから数年後、チュニジアをはじめ突如「アラブの春」減少と称される民主化運動が北アフリカ諸国に吹き荒れます。その結果チュニジアやエジプトで政変が起こりましたが、一連の民主化運動の真の狙いは産油国リビアであったことは想像に固くありません。世俗政権として国内を安定化し、それなりの反映を達成したリビアのカダフィ大佐は虐殺されました。カダフィ政権を倒すことで「民主化」が成功したとされたのです。しかし、リビアはいまだにテロが横行し民主主義も実現されていません。いったい誰のための民主化運動だったのでしょうか。

■東欧カラー革命は対プーチン戦争

ユーコス事件を受けて、アメリカはどう対応したのでしょうか。アメリカはロシアのおひざ元旧ソ連諸国で反撃に出たのです。2003年11月のグルジア「バラ革命」に始まる東欧カラー革命です。グルジアでは、ソ連時代の新思考外交で知られたエドゥアルド・シェワルナッゼ元外相が、1995年以来大統領に就任していました。シェワルナッゼ大統領は当初親米路線をとっていましたが、ロシアの圧力もあって次第にロシアに近づくようになっていました。そこで、親米政権を樹立するために起こったのがバラ革命なのです。

アメリカの法律事務所出身のミヘイル・サーカシビリがシェワルナッゼの対抗馬として議会選挙が行われました。結果は、シェワルナッゼの与党「新グルジア」が21パーセントで第一位、サーカシビリ率いる「国民運動」が18パーセントで二位となりました。ところが、ここで選挙には不正があったとして、野党勢力のデモが発生したのです。デモ隊は議会を占拠するまで暴徒化し、その結果、シェワルナッゼ大統領は辞任してサーカシビリが大統領に就くことになりました。これが「バラ革命」と呼ばれるものです。

この革命がアメリカによって演出されたことは今や世界の常識になっています。前線活躍したのが、ジョージ・ソロスでした。彼は、旧ソ連圏諸国の民主化や市場経済化を支援する「オープン・ソサイエティ」を立ち上げて、資金援助を行ってきました。ソロスはグルジアに「オープン・ソサイエティ」の支部を設立し、反政府のグルジアNGOを育成します。このNGOが反政府デモを主導したのです。

もう一つ、選挙結果を不正であると決めつけた原因は、選挙監視に当たったアメリカの調査会社が投票所の出口調査でサーカシビリ陣営の勝利を発表したことです。正規の選挙管理委員会の発表はシェワルナッゼ陣営の勝利でした。これを受けサーカシビリ派のデモが起こったのです。このパターンをよく覚えておいてください。以下に述べるように、その後も同様の手法でアメリカは親米政権を成立させていきます。

2004年にはウクライナで今度は「オレンジ革命」が起こりました。11月に行われた大統領選挙は、親露派のヤヌコビッチ首相と欧米が推すユーシチェンコ元首相との争いとなり、決選投票でヤヌコビッチ候補が勝利しました。しかしここで、この選挙は不正であるとして敗れたユーシチェンコ派のデモが起こったのです。選挙結果を不正であるとしてデモを起こすのは、グルジアのバラ革命の際と同じパターンです。ユーシチェンコ陣営を応援して、アメリカのNGOや欧州安全保障協力機構(OSCE)などが選挙に不正があったと一斉に非難を始めました。外国の応援を得てデモはますます膨れ上がり、ウクライナ全土があたかも新欧米派のオレンジ色の旗に占領された感がありました。

オレンジ革命は私が赴任する前年に起こりましたが、デモが吹き荒れる中、欧米諸国や我が国はアメリカ大使館での情報分析会議に参加していました。この圧力に屈してクチマ大統領は再選挙に同意します。そして、12月に行われた再選挙の結果、今度はユーシチェンコ候補が勝ちました。つまり、ユーシチェンコ候補が勝てば、選挙は公正に行われたということになったわけです。

アメリカのプーチンに対する反撃はこれで終わったわけではありませんでした。次に標的になったのは中央アジアに位置するキルギスです。キルギスでは2005年3月に議会選挙が行われ、アカエフ大統領の与党が圧勝しました。しかし、野党陣営はこの選挙は防いだとしてデモを起こし、再選挙とアカエフ大統領の退陣を求めました。これに対し、アカエフ大統領はロシアへ逃亡し、ここにキルギス「チューリップ革命」が成就したのです。お気づきの通り、グルジアやウクライナの革命とまったく同様のパターンでした。
http://www.kanekashi.com/blog/2019/04/6221.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/297.html#c150

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
36. 中川隆[-10476] koaQ7Jey 2019年4月30日 10:18:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1611]
2019-04-26
国際情勢の大変動を見抜く!-9〜東欧カラー革命は対プーチン戦争〜
http://www.kanekashi.com/blog/2019/04/6221.html


ソ連崩壊後の金貸しによるグローバル化、民営化によって登場した(主に)ユダヤ系新興財閥の主要メンバー達は、次々とプーチン大統領によって排除されていったが、最後までプーチン大統領に抵抗したのがミハイル・ホドルコフスキー。

彼を支援したのが、イギリスのジェイコブ・ロスチャイルド卿とアメリカのキッシンジャー元国務長官。

因みに、キッシンジャーはご存知のとおり、ロックフェラーとの繋がりが深く、バリバリのネオコン派で、TPP、グローバル化推進では主に裏舞台で活躍してきた。ところが、近年はトランプ大統領と親近性を高め、中国習近平やプーチンとの関係をも深めており、民族派への転換が噂されている。(故に動きには注目していく。)

彼らを敵に回してもプーチン大統領は怯むことなく、ホドルコフスキーを逮捕投獄。石油利権が金貸しの手先に渡るのを見事に阻止した。

本丸の取り崩しが失敗に終わった金貸しは、今度は旧ソ連諸国、つまり外堀を埋める動きにでる。いわゆる東欧カラー革命がそうで、グルジアの「バラ革命」、ウクライナの「オレンジ革命」、そしてキルギスの「チューリップ革命」すべて金貸しの画策です。

手口は三つとも判を押したようにすべて同じ。新露派の国家首長が選挙で勝利したが、不正選挙だとして市民デモや暴動が起き再選挙。結果、親欧米派が勝利を納めるというもの。

デモや暴動を扇動したのはいずれも反体制NGO。その黒幕はジョージ・ソロスという。そのシナリオ通りに事が進んだ。

『世界を操る支配者の正体』(馬渕睦夫 著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E9%A6%AC%E6%B8%95-%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/406219175X/ref=sr_1_1?adgrpid=57028848367&hvadid=338514114426&hvdev=c&hvlocphy=1009549&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=7278385446062088875&hvtargid=kwd-334868628383&jp-ad-ap=0&keywords=%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93&qid=1556014387&s=gateway&sr=8-1


からの紹介です。

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■ロシアの国富をアメリカ資本主義に譲り渡す行為

ベレゾフスキーとグシンスキーの追放以降、新興財閥による政治介入は収まったかに見えました。新興財閥の実力者の一人アブラモビッチは、今やロシア政治ではなくサッカーに関心を寄せています。イングランド・サッカーの名門チェルシーを所有しているのが、アブラモビッチなのです。

そうして政商としては腰砕けになった新興財閥の中で、最後までプーチン大統領に抵抗したのがミハイル・ホドルコフスキーでした。プーチン大統領とホドルコフスキーとの戦いはアメリカやイギリスを巻き込んだ国際的性格を帯びることになります。この闘争の内実を理解することが、現在のウクライナ危機の本質を理解することにつながります。

プーチンとホドルコフスキーの対決は、2003年に決戦を迎えました。プーチン大統領は、石油王手ユーコスの社長であったホドルコフスキーを逮捕したのです。10月のことでした。表向きの理由は脱税です。脱税容疑は単なる逮捕の口実ではありません。実際、ホドルコフスキーは国内オフショア制度を悪用して、他の主要な石油会社が24パーセントの税金を払っているにもかかわらず、わずか12パーセントしか払わなかったのです。しかし、逮捕の本当の理由はホドルコフスキーがプーチンとの約束を破って政治に口を出したことでしょう。

彼は、プーチンに反対する政党をイデオロギーに関係なく反プーチンであるという理由だけで支援したり、自ら2008年の大統領選挙への出馬を公言するようになりました。プーチンにしてみれば、ビジネスに特化していれば少々の脱税くらいは目をつぶることができたのかもしれませんが、自らの政治生命に挑戦するがごとき挑発行為は決して許せないと感じたことは想像に難くありません。

もう一つの決定的理由は、ホドルコフスキーと欧米との緊密な関係です。ユダヤ系のホドルコフスキーは当然欧米のユダヤ系の指導者たちと親しい関係にありました。その一人がイギリスのジェイコブ・ロスチャイルド卿でした。ホドルコフスキーはロスチャイルド卿と組んでNGOの「オープン・ロシア財団」をロンドンに設立しました。読んで字の通り、「ロシアを欧米世界に開放する」というもので、ロシア民族主義者たるプーチンを刺激する活動です。続いて、アメリカにも事務所を開設、なんとユダヤ人のキッシンジャーを理事に招聘するのです。こうなると偶然ではなく、ユダヤ系であるホドルコフスキーが欧米の主要なユダヤ人脈を意図的に活用したといえそうです。

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この欧米との関係緊密化は財団設立にとどまりませんでした。最終的にプーチンにホドルコフスキー逮捕を決断させたのは、アメリカ石油メジャーとユーコスとの提携問題であったと思います。ユーコスはシブネフチ(アブラモビッチ所有)のと合併することになっており、この世界有数のロシア石油会社はアメリカ石油メジャーのシェブロンやエクソンモービルに40パーセントにも及ぶ株を売却する交渉が進んでいたのです。

この一連の動きは、プーチンにとってロシア国家の富をアメリカ資本に事実上譲り渡す行為と映ったとしても不思議ではありません。ここに、プーチンはユーコスつぶしを決断し、ホドルコフスキーを逮捕投獄し、結局彼はシベリアの刑務所に服役することになりました。ホドルコフスキー事件をめぐる一連の動きについては、栢俊彦『株式会社ロシア―渾沌から甦るビジネスシステム』が参考になります。

ホドルコフスキーは、昨年末にプーチン大統領に恩赦され出所しました。このことと、ウクライナ危機とは連動しているのではないでしょうか。本書ではこれを検証する余裕はありませんが、今後のロシアと欧米との関係を見るうえで、関連性を頭に入れておく必要はありそうです。

ホドルコフスキー逮捕投獄を機に新たな米露冷戦がはじまったと見られます。世界のメディアは、2007年2月のミュンヘン安保会議におけるプーチン大統領のアメリカ避難スピーチをもって新冷戦の開始と伝えましたが、実際には2003年の10月に始まっていたのです。以後今日まで、メドベージェフ大統領時代の米露関係リセット時代はありましたが、ロシアとアメリカは基本的には冷戦状態が続いているのです。

2003年という年に注目してください。3月にはアメリカのイラク攻撃が始まり、アメリカの勝利とともに、イラクの石油はアメリカの資本が押さえました。イラク戦争は大量破壊兵器を保有するイラクを予防攻撃した戦争ではなく、イラクの石油をアメリカが奪うための戦争であったのです。これによって、アメリカは世界の主要な産油国を抑えたことになります。残った主要石油大国は、イランとリビアを除けばロシアだったのです。したがって、ホドルコフスキーが逮捕され、やがてユーコスが解体されたことは、世界の石油支配の完成を目指すアメリカのメジャーにとっては大きな後退だったのです。

それから数年後、チュニジアをはじめ突如「アラブの春」減少と称される民主化運動が北アフリカ諸国に吹き荒れます。その結果チュニジアやエジプトで政変が起こりましたが、一連の民主化運動の真の狙いは産油国リビアであったことは想像に固くありません。世俗政権として国内を安定化し、それなりの反映を達成したリビアのカダフィ大佐は虐殺されました。カダフィ政権を倒すことで「民主化」が成功したとされたのです。しかし、リビアはいまだにテロが横行し民主主義も実現されていません。いったい誰のための民主化運動だったのでしょうか。

■東欧カラー革命は対プーチン戦争

ユーコス事件を受けて、アメリカはどう対応したのでしょうか。アメリカはロシアのおひざ元旧ソ連諸国で反撃に出たのです。2003年11月のグルジア「バラ革命」に始まる東欧カラー革命です。グルジアでは、ソ連時代の新思考外交で知られたエドゥアルド・シェワルナッゼ元外相が、1995年以来大統領に就任していました。シェワルナッゼ大統領は当初親米路線をとっていましたが、ロシアの圧力もあって次第にロシアに近づくようになっていました。そこで、親米政権を樹立するために起こったのがバラ革命なのです。

アメリカの法律事務所出身のミヘイル・サーカシビリがシェワルナッゼの対抗馬として議会選挙が行われました。結果は、シェワルナッゼの与党「新グルジア」が21パーセントで第一位、サーカシビリ率いる「国民運動」が18パーセントで二位となりました。ところが、ここで選挙には不正があったとして、野党勢力のデモが発生したのです。デモ隊は議会を占拠するまで暴徒化し、その結果、シェワルナッゼ大統領は辞任してサーカシビリが大統領に就くことになりました。これが「バラ革命」と呼ばれるものです。

この革命がアメリカによって演出されたことは今や世界の常識になっています。前線活躍したのが、ジョージ・ソロスでした。彼は、旧ソ連圏諸国の民主化や市場経済化を支援する「オープン・ソサイエティ」を立ち上げて、資金援助を行ってきました。ソロスはグルジアに「オープン・ソサイエティ」の支部を設立し、反政府のグルジアNGOを育成します。このNGOが反政府デモを主導したのです。

もう一つ、選挙結果を不正であると決めつけた原因は、選挙監視に当たったアメリカの調査会社が投票所の出口調査でサーカシビリ陣営の勝利を発表したことです。正規の選挙管理委員会の発表はシェワルナッゼ陣営の勝利でした。これを受けサーカシビリ派のデモが起こったのです。このパターンをよく覚えておいてください。以下に述べるように、その後も同様の手法でアメリカは親米政権を成立させていきます。

2004年にはウクライナで今度は「オレンジ革命」が起こりました。11月に行われた大統領選挙は、親露派のヤヌコビッチ首相と欧米が推すユーシチェンコ元首相との争いとなり、決選投票でヤヌコビッチ候補が勝利しました。しかしここで、この選挙は不正であるとして敗れたユーシチェンコ派のデモが起こったのです。選挙結果を不正であるとしてデモを起こすのは、グルジアのバラ革命の際と同じパターンです。ユーシチェンコ陣営を応援して、アメリカのNGOや欧州安全保障協力機構(OSCE)などが選挙に不正があったと一斉に非難を始めました。外国の応援を得てデモはますます膨れ上がり、ウクライナ全土があたかも新欧米派のオレンジ色の旗に占領された感がありました。

オレンジ革命は私が赴任する前年に起こりましたが、デモが吹き荒れる中、欧米諸国や我が国はアメリカ大使館での情報分析会議に参加していました。この圧力に屈してクチマ大統領は再選挙に同意します。そして、12月に行われた再選挙の結果、今度はユーシチェンコ候補が勝ちました。つまり、ユーシチェンコ候補が勝てば、選挙は公正に行われたということになったわけです。

アメリカのプーチンに対する反撃はこれで終わったわけではありませんでした。次に標的になったのは中央アジアに位置するキルギスです。キルギスでは2005年3月に議会選挙が行われ、アカエフ大統領の与党が圧勝しました。しかし、野党陣営はこの選挙は防いだとしてデモを起こし、再選挙とアカエフ大統領の退陣を求めました。これに対し、アカエフ大統領はロシアへ逃亡し、ここにキルギス「チューリップ革命」が成就したのです。お気づきの通り、グルジアやウクライナの革命とまったく同様のパターンでした。
http://www.kanekashi.com/blog/2019/04/6221.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c36

[リバイバル3] OPPO Sonica DAC _ 音楽がわからないアホ・オーディオマニアが絶賛する超お買い得品(?)だけど… 中川隆
46. 中川隆[-10475] koaQ7Jey 2019年4月30日 11:02:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1612]

新しい「ブルーレイレコーダー」 - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2019年04月30日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/772625e088500d336fa26be8b0c668f0


「音楽を長時間聴いていると頭が疲れてくる」のは誰しも経験されることだと思う。

周知のとおり、音楽を聴くという行為は耳から入った音声信号を頭の中で情報処理しているので当然の話。

そこで、我が家ではときどき気分転換にテレビ(ソニーの55インチ)で肩の凝らないドキュメンタリーやミステリ番組をオーディオシステムで音出しをして観ているがこのほど古いテレビチューナーが録画できない状態になった。

再生はできるので全面的な故障ではないものの、大概の番組は録画したうえで観ているので大いに困ってしまった。

故障したチューナーは購入してだいぶ経つので寿命かもしれないと思い、遅ればせながら「ブルーレイレコーダー」でも買おうかと近くの大型電気店に出かけてみた。

事前にネットでどういうブランドがいいのか、相場はどのくらいかおおよそ調べたのは言うまでもない。

そしてパナソニックとソニーに絞っていたところ、たまたまパナソニックの製品が特売価格として展示してあった。

   

お値段はネット価格よりも5000円ほど高かったので、「これネットのお値段と一緒になるのなら購入しますよ。」と、いきなり勝負に出た。

すると店員さんが「上司と相談してきます。」、そして数分後に戻ってきて「ネットのお値段と一緒でいいです。」

しめた!試しでも言ってみるものだった(笑)。

さっそく持ち帰ってセッティング。今どきのチューナーは薄くて軽くて実に扱いやすい。

しかも地デジのチャンネル合わせは、郵便番号を打ち込むだけだからずいぶん楽だった。

また、説明書をよく読んでみるとCDも再生できるようになっている!

我が家にはCDトラポが2台あって、持ち主が言うのも何だがかなりの高級機だし、これらには(音質が)どうせ及ばないのは百も承知だがどのくらい肉薄しているか試聴してみた。

何と何と、結構「いい音」が出るんですよねえ!

さっそく近くのオーディオ仲間に来てもらって聴いてもらったところ、「既存のCDトラポとあまり遜色がありませんよ。自分も買おうかなあ」(笑)。

ここで二つの実験をしてみた。

1 ブルーレイにCDを挿入してそのまま再生する

2 いったんCDをHDDに取り込んで録音したソースを再生する

後者の方が回転系がないぶん音質的に有利のはずだと二人で話しながら聴いたところ予想どおりだった。

2の場合一枚のCDをそっくり取り込むのに17分ほどかかるが、それだけの価値はありそうだ。しかもブルーレイレコーダーに有線ランを接続するとCDジャケットまで表示してくれるのには驚いた。

今どきの「ブルーレイレコーダー」は「費用 対 効果」の面からするとたいへんな穴場ですよ!
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/772625e088500d336fa26be8b0c668f0

価格.com - パナソニック(Panasonic)のブルーレイ・DVDレコーダー 人気売れ筋ランキング
https://kakaku.com/kaden/dvd-recorder/itemlist.aspx?pdf_ma=65
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/852.html#c46

[リバイバル3] CD プレーヤーは進歩しているのか?  中川隆
65. 中川隆[-10474] koaQ7Jey 2019年4月30日 11:03:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1613]


新しい「ブルーレイレコーダー」 - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2019年04月30日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/772625e088500d336fa26be8b0c668f0


「音楽を長時間聴いていると頭が疲れてくる」のは誰しも経験されることだと思う。

周知のとおり、音楽を聴くという行為は耳から入った音声信号を頭の中で情報処理しているので当然の話。

そこで、我が家ではときどき気分転換にテレビ(ソニーの55インチ)で肩の凝らないドキュメンタリーやミステリ番組をオーディオシステムで音出しをして観ているがこのほど古いテレビチューナーが録画できない状態になった。

再生はできるので全面的な故障ではないものの、大概の番組は録画したうえで観ているので大いに困ってしまった。

故障したチューナーは購入してだいぶ経つので寿命かもしれないと思い、遅ればせながら「ブルーレイレコーダー」でも買おうかと近くの大型電気店に出かけてみた。

事前にネットでどういうブランドがいいのか、相場はどのくらいかおおよそ調べたのは言うまでもない。

そしてパナソニックとソニーに絞っていたところ、たまたまパナソニックの製品が特売価格として展示してあった。

   

お値段はネット価格よりも5000円ほど高かったので、「これネットのお値段と一緒になるのなら購入しますよ。」と、いきなり勝負に出た。

すると店員さんが「上司と相談してきます。」、そして数分後に戻ってきて「ネットのお値段と一緒でいいです。」

しめた!試しでも言ってみるものだった(笑)。

さっそく持ち帰ってセッティング。今どきのチューナーは薄くて軽くて実に扱いやすい。

しかも地デジのチャンネル合わせは、郵便番号を打ち込むだけだからずいぶん楽だった。

また、説明書をよく読んでみるとCDも再生できるようになっている!

我が家にはCDトラポが2台あって、持ち主が言うのも何だがかなりの高級機だし、これらには(音質が)どうせ及ばないのは百も承知だがどのくらい肉薄しているか試聴してみた。

何と何と、結構「いい音」が出るんですよねえ!

さっそく近くのオーディオ仲間に来てもらって聴いてもらったところ、「既存のCDトラポとあまり遜色がありませんよ。自分も買おうかなあ」(笑)。

ここで二つの実験をしてみた。

1 ブルーレイにCDを挿入してそのまま再生する

2 いったんCDをHDDに取り込んで録音したソースを再生する

後者の方が回転系がないぶん音質的に有利のはずだと二人で話しながら聴いたところ予想どおりだった。

2の場合一枚のCDをそっくり取り込むのに17分ほどかかるが、それだけの価値はありそうだ。しかもブルーレイレコーダーに有線ランを接続するとCDジャケットまで表示してくれるのには驚いた。

今どきの「ブルーレイレコーダー」は「費用 対 効果」の面からするとたいへんな穴場ですよ!
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/772625e088500d336fa26be8b0c668f0

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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/842.html#c65

[リバイバル3] 伝説の ソナス ファベール ガルネリ・オマージュ 中川隆
20. 中川隆[-10473] koaQ7Jey 2019年4月30日 11:15:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1614]

千葉県 Komugi邸訪問記 禁断のKRELL

Komugi邸のシンボルスピーカー、Sonusfaber Elipsa
https://ameblo.jp/507576/entry-12457794696.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/684.html#c20

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
88. 中川隆[-10472] koaQ7Jey 2019年4月30日 12:00:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1615]
>>87
>何時が「何時から」の「何時」なんですか?

天皇家では天武天皇(40代)以前は兄弟相続する伝統だったので、有能な皇子でなければ天皇にはなれなかったのです。

それが、天武天皇の時代から中国の儒教に基づいた長子相続に無理やり変えたので
バカでもチョンでも長子で母親の実家の身分が高ければ天皇にせざるを得なくなったのです。

それで、異母妹との結婚で生まれた皇子が皇位継承争いで有利になって、奇形児ばかり産まれる様になったのですね:


初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。


初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。


____


7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,

16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,

仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で,兄弟相続が多い。

応神・仁徳を境として,皇位継承の原則に大きな変化が起こっているように見える。
しかし,父子直系相続は7世紀末以降の天皇の目ざした皇位継承法であり,兄弟相続は日本固有の継承法であることからすると,応神以前の直系相続は記紀編纂の過程で作為された可能性が強い。

また,記紀にみえる天皇の名称をみると,

7,8,9代の孝霊,孝元,開化と41,42,43,44代の持統,文武,元明,元正はヤマトネコ,

10,11代の崇神,垂仁はイリヒコ,

12,13,14代の景行,成務,仲哀と34,35代の舒明,皇極はタラシヒコ(メ),

15,17,18代の応神,履中,反正と38代の天智はワケ,

27,28,29代の安閑,宣化,欽明はクニオシ


という称をもつというように時期により特色があり,それらを検討すると

7〜9代の名称は持統以下の名称を手本に,
12〜14代の名称は舒明,皇極の名称を手本にして作られた

と推定される。

これに加えて記紀には9代までの天皇の事績については神武以外ほとんど所伝がないこと,10代の崇神が初代の天皇を意味する所知初国(はつくにしらす)天皇の称号をもつことなどから,9代までの天皇の実在性は疑われている。

10代以後も,皇居や陵墓の所在地や称号の変化などから,10〜12代の天皇は大和を根拠としていたが,15〜25代の天皇は河内平野を主要な根拠地とする別系統の天皇ではないかとして,前者を三輪政権(初期大和政権),後者を河内政権と呼ぶ説もある。

同様に26代の継体以後の天皇もそれまでとは別系統の天皇とする説もある。

これらの説に従えば,古代の皇位継承は,10代の崇神以後2度断絶したが,6世紀中葉以降に,万世一系の思想により崇神からはじまる一系統の系譜にまとめ,さらに崇神以前の系譜をつぎ足したということになる。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c88

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
89. 中川隆[-10471] koaQ7Jey 2019年4月30日 12:15:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1616]

>天皇家では天武天皇(40代)以前は兄弟相続する伝統だったので、有能な皇子でなければ天皇にはなれなかったのです。
>それが、天武天皇の時代から中国の儒教に基づいた長子相続に無理やり変えたので
バカでもチョンでも長子で母親の実家の身分が高ければ天皇にせざるを得なくなったのです。


因みに、白村江の戦いで負けた後、日本は唐の属国になっていたという説も有るのですね:

天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ (NHKブックス) – 2015/10/22
中村 修也 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E6%9C%9D%E3%81%A8%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2-%E5%94%90%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%B8-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E4%BF%AE%E4%B9%9F/dp/4140912359?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp

内容紹介

古代日本に存在した、もう一つの「占領」

663年の「白村江の戦い」に敗れた日本は、唐の再攻撃に備えて防衛態勢を整備し、その後は律令国家建設へ邁進したと言われている。だが、それは本当なのか? 本書は、唐の羈縻政策を軸に展開した当時の東アジア情勢を踏まえつつ、中国・朝鮮側の史料との比較から『日本書紀』を再検証し、これまでの通説に挑む力作。唐の支配体制が、その後の律令国家体制とどのように結びついていったのかを鮮やかに描く。

内容(「BOOK」データベースより)

古代東アジアに起こった一大戦役・白村江の戦。通説では、唐・新羅連合軍に敗れた日本は以後、唐の律令に学び、国家体制を整備していったと言われる。だが、この通説は果たして本当か?敗戦国の日本が、唐の支配を全く受けずに友好関係を保つことが可能だったのか?本書は、中国・朝鮮側の史料、最新の考古学の知見、古今東西の「戦争」における常識など、多角的な視点から『日本書紀』を再解釈。白村江後に出現した唐の日本「支配」の実態、さらに、それがのちの律令国家建設に与えた影響を鮮やかに描く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
中村/修也
1959年、和歌山県生まれ。1989年、筑波大学大学院歴史・人類学研究科博士課程単位取得修了。博士(文学)。現在、文教大学教育学部教授

カスタマーレビュー

hira
史料がわずかしかない日本古代史で、新説か既説かは、そんなに大事? 2018年12月29日


 筆者は、近代のアジア太平洋戦争で、日本が大敗した後、GHQに占領され、再建を指導された経験から、古代の白村江の合戦で、倭+百済遺民が大敗した後を、想像すべきだとし、通説を批判、異説を展開しています。

 異説では、まず、663年の白村江の合戦で、倭+百済遺民が、唐+新羅に大敗後、唐が、九州にも進出し、朝鮮式山城(やまじろ)・水城(みずき)や防(防御地)・烽(ノロシ台)を設置、後世の大宰府の位置には、筑紫都督府も設置し、占領統治するつもりだったと主張されています。

 それは、唐の6度の来日時期の664〜672年の間に、それらが整備されているうえ、唐が、大量の人員を、朝鮮半島から日本列島へと、送り込んだからで、そうなると、それらは、唐や新羅の侵攻を防御する施設でないことがわかります。

 また、667年の近江・大津京への遷都は、大和政権の前方拠点の難波・河内と後方拠点の大和から引き離す、唐の強制で、両拠点の中間の山頂の高安城(たかやすのき)は、唐が、両拠点を監視するためとみられます。

 そのうえ、670年の庚午年籍(こうごねんじゃく)・671年の近江令は、戸籍を作成することで、公正・円滑に徴税でき、671年の水時計(漏刻)の設置は、官僚の勤務管理に有効で、いずれも唐が、直接持ち込んだとみれば、納得できます。

 さらに、唐が、百済の王子の扶余隆を、熊津都督に利用したように、671年の大友皇子の後継も、唐の傀儡政権で、唐の日本列島撤退直後の、672年の壬申の乱での大海人皇子の政権奪取は、その転換とも受け取れ、689年の飛鳥浄御原令は、当時頻繁に通交していた新羅と、唐の制度を折衷したようです。

 朝鮮半島では、642年に、百済は、高句麗と同盟し、新羅を攻撃、新羅は、西部40余城を奪取され、劣勢から、643年に、唐に援軍を要請しましたが、反応なく、647年に、政権の内乱が発生しましたが、鎮圧し、ようやく、648年に、唐と同盟できましたが、654年に、北部30余城も奪取されています。

 そののち、唐は、高句麗を挟み撃ちにするため、660年に、新羅と連携し、百済を滅亡させると、倭は、百済復興のため、援軍を渡海しましたが、663年に、白村江の合戦で大敗、唐は、668年に、新羅と連携し、高句麗も滅亡させ、百済に熊津都督府を、高句麗に安東都護府を設置し、占領統治しました。

 ところが、唐は、新羅も、鶏林州都督府を設置し、統治しようとしたので、670年から、新羅が、唐に反抗・交戦し、唐は、それを鎮圧できず、朝鮮半島の戦況が悪化したので、672年に、日本列島から撤退すると、同年に、壬申の乱が勃発、唐は、676年に、朝鮮半島からも撤退させられています。

 唐は、同盟国の新羅でさえ、鶏林州都督府を設置したので、敗戦国の倭に、筑紫都督府を設置するのも、当然だったでしょう。

 なお、盗作だと酷評しているレビューも、一部あり、学者間のルールは、遵守すべきですが、そもそも史料が、わずかしかない日本古代史では、異説といっても、類似する傾向にあり、それが先行研究に無知だっただけで、異説の積み重ねが、通説になるので、既説か新説かのみに固執するのは、不毛です。

 古代日本の制度・技術・文化も、たかが、中国発祥・朝鮮経由と一蹴することもできますが、されど、独自に変容・洗練されたので、盗作ではなく、固有と位置づけられるので、それと同様、読者は、新説の「藤原鎌足」の12ページ?と、既説の細密な本書の、違いを楽しめばよいのではないでしょうか。

 ところで、「隋書倭国伝」で、600年に、妻子のいる倭王のアメ・タリシヒコ・アホケミが、隋に使者を派遣していますが、女帝の推古天皇(33代)と一致せず、「旧唐書日本伝」で、日本国は倭国の別種とあるので、推古天皇を大和政権、タリシヒコを筑紫政権(倭)とする説(九州王朝説)があります。

 他にも、「日本書紀」と「隋書倭国伝」「隋書」で、冠位12階と内官12等の序列や、遣唐使の訪問年が、食い違っており、「日本書紀」では、608年に帰国した遣隋使の小野妹子が、隋の国書を百済で奪い取られたのに免罪で、「隋書倭国伝」では、九州の地名しか登場せず、不自然です。

 私は、個人的に、九州王朝説(古田武彦)を、本書の説と組み合わせ、白村江の合戦には、大和政権配下の全国各地の豪族達が、参戦したのではなく、各々自立しつつ、相互交流していた、大和政権・筑紫政権等が、協力して参戦したとみています。

 4世紀半ばには、高句麗の南下で、馬韓の諸国が百済、辰韓の諸国が新羅に結束した一方、弁韓は、6世紀半ばまで、諸国(伽耶諸国)のままで滅亡したように、日本列島でも、外圧が強い九州(筑紫政権)、中くらいの近畿(大和政権)、弱い東国と、諸国の結束の度合に差があったでしょう。

 そして、白村江の合戦での疲弊が、九州で比較的大きく、近畿で中くらい、東国で小さかったうえ、合戦後の唐の占領統治も、九州で比較的強く、近畿で中くらい、東国で弱かったと推測できます。

 なので、唐が日本列島から撤退すると、壬申の乱で、反乱軍は、戦力が温存されていた東国を味方に引き入れられたので、大和政権の中枢を一掃できたうえ、新生大和政権は、かなり疲弊していた筑紫政権等も併合でき、国号を日本に改称したのではないでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/dp/4062883309?_encoding=UTF8&isInIframe=0&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books&showDetailProductDesc=1#product-description_feature_div

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c89

[近代史02] 平成バブル崩壊と ソロモン・ブラザース証券 相場師列伝3 スットン教
30. 中川隆[-10469] koaQ7Jey 2019年4月30日 14:05:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1618]
48. 中川隆[-10470] koaQ7Jey 2019年4月30日 14:05:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1617]
消費税と共に停滞し続けた平成という時代
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-9fdaae.html
2019年4月30日 植草一秀の『知られざる真実』

元号が変わるが時間空間が天皇制によって支配されることは戦後の日本民主化の精神にふさわしくはない。

元号の改定をことさらに大きく報じることも適正でないと感じられる。

辛うじて、歴史の時代区分上の便法として元号を用いることが好都合な場合があるというに過ぎない。

西暦との換算に伴う各種事務コストも無視できない。

平成の30年間は日本が停滞を続けた期間に重なる。

この30年は消費税導入の期間とも完全に重なる。

消費税を導入した直後から日本経済の超停滞が始動したと言って過言でない。

消費税が導入されたのは1989年4月。

1989年は「改元・消費税・参院選・内閣総辞職」の年だった。

奇しくも2019年と重なる部分が多い。

2019年も「改元・消費税・参院選」が重なる予定にある。

「内閣総辞職」まで重なれば、時代の転換にうまく符合することにもなる。

日本のバブル崩壊が始動したのは1990年の年明けだ。

1989年5月と10月にバブル崩壊の予兆があった。

日銀が公定歩合引き上げに動いたのである。

しかし、株価は1989年の年末まで上昇を続け、1989年末が日経平均株価の史上最高値になった。

日経平均株価の水準は38915円だった。

このバブルピークから30年の時間が経過するが、現在の日経平均株価の水準は22000円である。

30年の時間が経過して株価は半分強の水準なのだ。

「失われた10年」は「失われた20年」になり、「失われた30年」になった。

消費税が導入された1989年からの平成の30年間は、日本経済超停滞の時代だった。

「失われた10年」の表現は、拙著『日本の総決算』(講談社)で

「失われた90年代」

と帯に記したのが初出である。

バブル崩壊もバブル崩壊不況も日本の経済政策失敗が大きな原因だった。

政策失敗は国際政策協議という名の「経済外交」の分野で日本外交が対応能力を保持していなかったことによって発生した。

巨大バブルは日本の内的要因によって発生したものではない。

米国の経済政策変化に日本は翻弄され、日本経済は未曽有の混乱に巻き込まれた。

為政者が十分な洞察力、判断力、そして行動力を持たないと国民経済を守ることができないのだ。

私は『中央公論』1991年11月号に「バブル崩壊後日本経済のゆくえ」と題する論文を発表した。

バブルの生成と崩壊のメカニズムを解き明かしたものだった。

1981年に発足した米国のレーガン政権が新しい経済政策を実行した。

これが「レーガノミクス」だ。

レーガノミクスにより米国金利上昇=ドル上昇が生じる一方、米国の財政赤字と経常収支赤字が急膨張した。

米国で保護主義圧力が高まり、レーガン政権は人為的なドル切り下げ政策を発動した。

1985年9月のプラザ合意だ。

急激な円高は日本の長期金利を急低下させて日本の資産価格を急騰させた。

日本経済はバブル経済に沸き立つことになった。

このなかで、日本銀行は1987年に公定歩合を引き上げようとした。

そのタイミングでNY株価急落=ブラックマンデーが発生し、米国は日銀の金利引き上げ中止を指令した。

そのために日本の真正バブルが生成された。

日本の資産価格上昇はジャパンマネーの席巻をもたらした。

これに対して米国の日本批判=ジャパンバッシングが激化した。

そして、1989年に発足したブッシュ政権が日本弱体化を狙って「ストロングアメリカ=ストロングダラー」の路線を掲げた。

円安進行とともに日本金利が上昇し、日本のバブル崩壊がもたらされた。

米国の経済政策によって天国に強制連行された日本経済は、同じ米国の戦術によって地獄に叩き落されたのだ。

経済外交能力を持たない政府の下に置かれる国民は、政府の能力の欠如によって深刻な不幸を背負わされることになる。


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/258.html#c30

[近代史3] 日本や中国のバブルは簡単に崩壊するけれど、アメリカのバブルだけは絶対に崩壊しない理由 中川隆
7. 中川隆[-10468] koaQ7Jey 2019年4月30日 14:06:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1619]

消費税と共に停滞し続けた平成という時代
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-9fdaae.html
2019年4月30日 植草一秀の『知られざる真実』

元号が変わるが時間空間が天皇制によって支配されることは戦後の日本民主化の精神にふさわしくはない。

元号の改定をことさらに大きく報じることも適正でないと感じられる。

辛うじて、歴史の時代区分上の便法として元号を用いることが好都合な場合があるというに過ぎない。

西暦との換算に伴う各種事務コストも無視できない。

平成の30年間は日本が停滞を続けた期間に重なる。

この30年は消費税導入の期間とも完全に重なる。

消費税を導入した直後から日本経済の超停滞が始動したと言って過言でない。

消費税が導入されたのは1989年4月。

1989年は「改元・消費税・参院選・内閣総辞職」の年だった。

奇しくも2019年と重なる部分が多い。

2019年も「改元・消費税・参院選」が重なる予定にある。

「内閣総辞職」まで重なれば、時代の転換にうまく符合することにもなる。

日本のバブル崩壊が始動したのは1990年の年明けだ。

1989年5月と10月にバブル崩壊の予兆があった。

日銀が公定歩合引き上げに動いたのである。

しかし、株価は1989年の年末まで上昇を続け、1989年末が日経平均株価の史上最高値になった。

日経平均株価の水準は38915円だった。

このバブルピークから30年の時間が経過するが、現在の日経平均株価の水準は22000円である。

30年の時間が経過して株価は半分強の水準なのだ。

「失われた10年」は「失われた20年」になり、「失われた30年」になった。

消費税が導入された1989年からの平成の30年間は、日本経済超停滞の時代だった。

「失われた10年」の表現は、拙著『日本の総決算』(講談社)で

「失われた90年代」

と帯に記したのが初出である。

バブル崩壊もバブル崩壊不況も日本の経済政策失敗が大きな原因だった。

政策失敗は国際政策協議という名の「経済外交」の分野で日本外交が対応能力を保持していなかったことによって発生した。

巨大バブルは日本の内的要因によって発生したものではない。

米国の経済政策変化に日本は翻弄され、日本経済は未曽有の混乱に巻き込まれた。

為政者が十分な洞察力、判断力、そして行動力を持たないと国民経済を守ることができないのだ。

私は『中央公論』1991年11月号に「バブル崩壊後日本経済のゆくえ」と題する論文を発表した。

バブルの生成と崩壊のメカニズムを解き明かしたものだった。

1981年に発足した米国のレーガン政権が新しい経済政策を実行した。

これが「レーガノミクス」だ。

レーガノミクスにより米国金利上昇=ドル上昇が生じる一方、米国の財政赤字と経常収支赤字が急膨張した。

米国で保護主義圧力が高まり、レーガン政権は人為的なドル切り下げ政策を発動した。

1985年9月のプラザ合意だ。

急激な円高は日本の長期金利を急低下させて日本の資産価格を急騰させた。

日本経済はバブル経済に沸き立つことになった。

このなかで、日本銀行は1987年に公定歩合を引き上げようとした。

そのタイミングでNY株価急落=ブラックマンデーが発生し、米国は日銀の金利引き上げ中止を指令した。

そのために日本の真正バブルが生成された。

日本の資産価格上昇はジャパンマネーの席巻をもたらした。

これに対して米国の日本批判=ジャパンバッシングが激化した。

そして、1989年に発足したブッシュ政権が日本弱体化を狙って「ストロングアメリカ=ストロングダラー」の路線を掲げた。

円安進行とともに日本金利が上昇し、日本のバブル崩壊がもたらされた。

米国の経済政策によって天国に強制連行された日本経済は、同じ米国の戦術によって地獄に叩き落されたのだ。

経済外交能力を持たない政府の下に置かれる国民は、政府の能力の欠如によって深刻な不幸を背負わされることになる。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/121.html#c7

[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
41. 中川隆[-10467] koaQ7Jey 2019年4月30日 14:07:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1620]

消費税と共に停滞し続けた平成という時代
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2019年4月30日 植草一秀の『知られざる真実』

元号が変わるが時間空間が天皇制によって支配されることは戦後の日本民主化の精神にふさわしくはない。

元号の改定をことさらに大きく報じることも適正でないと感じられる。

辛うじて、歴史の時代区分上の便法として元号を用いることが好都合な場合があるというに過ぎない。

西暦との換算に伴う各種事務コストも無視できない。

平成の30年間は日本が停滞を続けた期間に重なる。

この30年は消費税導入の期間とも完全に重なる。

消費税を導入した直後から日本経済の超停滞が始動したと言って過言でない。

消費税が導入されたのは1989年4月。

1989年は「改元・消費税・参院選・内閣総辞職」の年だった。

奇しくも2019年と重なる部分が多い。

2019年も「改元・消費税・参院選」が重なる予定にある。

「内閣総辞職」まで重なれば、時代の転換にうまく符合することにもなる。

日本のバブル崩壊が始動したのは1990年の年明けだ。

1989年5月と10月にバブル崩壊の予兆があった。

日銀が公定歩合引き上げに動いたのである。

しかし、株価は1989年の年末まで上昇を続け、1989年末が日経平均株価の史上最高値になった。

日経平均株価の水準は38915円だった。

このバブルピークから30年の時間が経過するが、現在の日経平均株価の水準は22000円である。

30年の時間が経過して株価は半分強の水準なのだ。

「失われた10年」は「失われた20年」になり、「失われた30年」になった。

消費税が導入された1989年からの平成の30年間は、日本経済超停滞の時代だった。

「失われた10年」の表現は、拙著『日本の総決算』(講談社)で

「失われた90年代」

と帯に記したのが初出である。

バブル崩壊もバブル崩壊不況も日本の経済政策失敗が大きな原因だった。

政策失敗は国際政策協議という名の「経済外交」の分野で日本外交が対応能力を保持していなかったことによって発生した。

巨大バブルは日本の内的要因によって発生したものではない。

米国の経済政策変化に日本は翻弄され、日本経済は未曽有の混乱に巻き込まれた。

為政者が十分な洞察力、判断力、そして行動力を持たないと国民経済を守ることができないのだ。

私は『中央公論』1991年11月号に「バブル崩壊後日本経済のゆくえ」と題する論文を発表した。

バブルの生成と崩壊のメカニズムを解き明かしたものだった。

1981年に発足した米国のレーガン政権が新しい経済政策を実行した。

これが「レーガノミクス」だ。

レーガノミクスにより米国金利上昇=ドル上昇が生じる一方、米国の財政赤字と経常収支赤字が急膨張した。

米国で保護主義圧力が高まり、レーガン政権は人為的なドル切り下げ政策を発動した。

1985年9月のプラザ合意だ。

急激な円高は日本の長期金利を急低下させて日本の資産価格を急騰させた。

日本経済はバブル経済に沸き立つことになった。

このなかで、日本銀行は1987年に公定歩合を引き上げようとした。

そのタイミングでNY株価急落=ブラックマンデーが発生し、米国は日銀の金利引き上げ中止を指令した。

そのために日本の真正バブルが生成された。

日本の資産価格上昇はジャパンマネーの席巻をもたらした。

これに対して米国の日本批判=ジャパンバッシングが激化した。

そして、1989年に発足したブッシュ政権が日本弱体化を狙って「ストロングアメリカ=ストロングダラー」の路線を掲げた。

円安進行とともに日本金利が上昇し、日本のバブル崩壊がもたらされた。

米国の経済政策によって天国に強制連行された日本経済は、同じ米国の戦術によって地獄に叩き落されたのだ。

経済外交能力を持たない政府の下に置かれる国民は、政府の能力の欠如によって深刻な不幸を背負わされることになる。


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c41

[リバイバル3] 保険会社に騙されるな 中川隆
23. 中川隆[-10466] koaQ7Jey 2019年4月30日 15:14:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1621]
定年後にマイカーを手放しても自動車保険解約は避けるべき理由
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190430-00000001-moneypost-bus_all
マネーポストWEB 4/30(火) 7:00配信 週刊ポスト2019年4月26日号


自動車保険の「等級別割引」は親族に引き継げる(イメージ)


 定年後の家計を考えるとき、「車」は大きな負担となる。それでは、都市部で1500ccクラスの車を“解約”した場合、どれほどのお金が浮く計算になるのか。

 ファイナンシャル・プランナーの森田悦子氏が試算したところ、年間で駐車場代24万円、任意保険代、6万円、自動車税3万4500円、車検7万円、ガソリン代9万6000円と、計50万円の費用圧縮になった。

 免許を自主返納すれば「運転経歴証明書」を受け取れる。自治体によって異なるが、この証明書を提示すればバスやタクシーの利用割引など、様々な特典を受けられる。一方、自動車保険も解約すべきと思いがちだが、子や孫などが新たに車を購入する予定があれば、慌てないほうがよいという。

「免許を返納したドライバーが無事故だった場合、同居の親族が新たに車を購入した際に『等級別割引』を引き継げます。18歳の初心者ドライバーが新規の自動車保険に加入した場合、一般的なフル補償の年間保険料は約35万円ですが、無事故の等級を引き継げば、約16万円で契約できます」(ジャーナリストの柳原三佳氏)

 すぐに車を買いそうな親族がいなくても、自動車保険を解約ではなく「中断」しておけば、その後10年間は等級を引き継げる。

「もとの被保険者が死亡した場合も、中断時から10年間は同居の親族が等級を引き継ぐ権利があります。すでに解約した場合でも、一定の期間内に保険会社に連絡すれば、『中断証明書』が発行されて、引き継ぎできる場合もあります」(同前)

固定電話で年3万円ケータイで年6.5万円の見直し

 携帯電話の普及で、固定電話も解約の検討対象となった。

「基本料金(NTTの場合1836円)に加えてキャッチホンなどのオプションがつけば月2000〜3000円の出費となる。解約で年間3万円ほど浮きます」(ファイナンシャル・プランナーの橋本絵美氏)

 NTTの加入電話を解約する場合は、局番なしの「116」をダイヤルするか、ネットから申し込む。同時に携帯電話の契約も見直したい。

「通話料やデータ通信料はプランによって大きく異なるため、自分に適したプランがどれか見極める必要があります。3か月分の料金明細を準備して、確認しましょう。購入時に、店員に言われるまま『通話かけ放題』『データ容量5GB』、さらに月数百円のオプションサービスをいくつも契約しているケースが多いですが、これらを見直すことで、年間で数万円浮くことも珍しくない」(橋本氏)

住まいの賃貸契約に“いらないサービス”がついていることも

 持ち家を売却して賃貸に引っ越すという“定年後のダウンサイジング”にも、注意すべきポイントがある。

「不動産業者が『引っ越し業者や火災保険を紹介しますよ』と持ちかけてくる場合、マージン込みの価格になりがちなので自分で手配したほうがいい。賃貸契約に年額1万円程度の“24時間駆け付けサービス”などがつけられていることもある。解約して問題ないでしょう」(森田氏)

 年間で10万円単位の支出の見直しが実現できれば、長生きリスクはさらに低減し、「早く年金をもらう」が実践しやすくなる。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/841.html#c23

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
195. 中川隆[-10465] koaQ7Jey 2019年4月30日 15:28:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1622]

倭の五王 - 王位継承と五世紀の東アジア (中公新書) – 2018/1/19
河内 春人 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B-%E7%8E%8B%E4%BD%8D%E7%B6%99%E6%89%BF%E3%81%A8%E4%BA%94%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%B2%B3%E5%86%85-%E6%98%A5%E4%BA%BA/dp/4121024702?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp

内容紹介

倭の五王とは、中国史書『宋書』倭国伝に記された讃・珍・済・興・武を言う。邪馬台国からの交信が途絶えてから1世紀後、中国へ使者を派遣した王たちである。当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が争い、倭もその渦中にあった。本書は、中国史書から、中国”への接近”の意図や状況、倭国内の不安定な王権、文化レベルを解読、天皇と五王との比定などを通し、5世紀の倭の実態を描く。

内容(「BOOK」データベースより)

倭の五王とは、中国史書『宋書』倭国伝に記された讃・珍・済・興・武を言う。邪馬台国による交信が途絶えてから150年を経て、5世紀に中国へ使者を派遣した王たちである。当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が争い、倭もその渦中にあった。本書は、中国への“接近”の意図や状況、倭国内の不安定な王権や文化レベル、『古事記』『日本書紀』における天皇との関係などを中国史書から解読。5世紀の倭や東アジアの実態を描く。


著者について

河内春人(こうち・はるひと)
1970 年東京都生まれ.93 年明治大学文学部卒業.2000 年明治大学大学院博士後期課程中退.2002 年日本学術振興会特別研究員(PD),博士(史学).現在,明治大学・立教大学・中央大学・大東文化大学・首都大学東京など兼任講師. 著書 『東アジア交流史のなかの遣唐使』(汲古書院, 2013 年) 『日本古代君主号の研究――倭国王・天子・天皇』(八木書店,2015 年) 共著 『古代中国・日本における学術と支配 』(同成社,2013 年) 『藤原仲麻呂政権とその時代』(岩田書院,2013 年) 『梁職貢図と東部ユーラシア世界』(勉誠出版,2014 年) 『日本古代の地域と交流』 (塙書房,2016 年) 『日朝関係史』(吉川弘文館,2017 年) 他多数 翻訳 シャルロッテ・フォン・ヴェアシュア著 『モノが語る日本対外交易史 ―― 七〜一六世紀』( 藤原書 店, 2011年)

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち3.0
国際感覚がなければ、日本古代史は理解できない 2018年8月24日

 4世紀初めから、中国大陸の北半分が戦乱で弱体化し(五胡十六国時代)、4世紀後半から、朝鮮半島北部の高句麗が南下すると、5世紀代の日本列島の倭は、半島南中部の伽耶諸国からの鉄資源確保が圧迫されないよう、半島南西部の百済を救援・参戦するとともに、大陸南半分の宋に朝貢しました。

 本書は、6世紀前半成立の中国の歴史書「宋書」に登場する、倭の五王が、5世紀代に、朝鮮半島や中国大陸と、いかに関係したかを、限られた少ない史料にもかかわらず(限られた少ない史料だからこそ、新書の紙面を埋め尽くそうと)、比較的詳細に検討しています。

 歴史学のうち、文献学は、史料批判が必須で、ひとつの史料を、ただ信用するだけだと、もはや信仰の対象としての宗教的な経典や、文学的な神話の読解になってしまうので、本書は、そうならないよう、なるべく複数の史料を照らし合わせ、諸説ある場合には、丁寧に吟味しているのではないでしょうか。

 特に、「日本書紀」は、国内外の様々な書物をもとに、飛鳥後期・天武天皇(40代)の時代に編纂が開始され(681年)、奈良前期・元正天皇(44代)の時代に完成しましたが(720年)、その間の天武系+藤原系の政権の都合がいいように、潤色された箇所も多々あり、それらは、主に3つに大別できます。

 1つめは、歴代天皇の即位では、血筋が正統性の根拠なので、系譜がつながっているように潤色し(ヤマトタケルの息子の14代・仲哀天皇は、父の死から35年後に誕生していて不自然)、中央豪族達も、天皇家の祖先神の家系か、古来より天皇に奉仕していたと潤色することで、正当性を担保しています。

 2つめは、実際よりも以前から、先進的な制度を摂取したり、朝鮮半島へ派兵・支配していたと潤色しており、そうすれば、日本は先進国だと自負できるとともに、先例が国史にあれば、比較的抵抗なく、その制度や派兵を、受け入れやすくなる傾向にあります。

 3つめは、600年から遣隋使、668年から遣新羅使を派遣しましたが、中国とは対等、朝鮮とは優越な関係とし、日本は小帝国だと主張するため、周辺諸国(高句麗・新羅・百済・任那・伴跛/はえ・耽羅/たんら・呉/くれ・蝦夷・隼人・多禰嶋/たねのしま)との外交を、朝貢だと潤色しています。

 このように、「日本書紀」を、そのまま信用するわけにはいかないので、本書での取り扱いは、最低限にしているのでしょう。

 百済と新羅は、4世紀半ばに、実質上建国されましたが、5世紀代は、中央集権化で先行していた高句麗の南下政策で、百済・新羅・倭が、戦争のために、中央集権化しなければならなくなり、国家体制を、「横」の関係から「縦」の関係へと変容させる最初の時期といえます。

 日本の戦国期には、武家・寺社等の様々な勢力が乱立しましたが、極度に集権的だった織田信長が、やや分権的でもあった延暦寺・本願寺を、最後は制圧し、天下統一しており、戦争に中央集権化は、必須なのが実証されています(余談ですが、白村江の合戦もアジア太平洋戦争も、軍隊は、分権的でした)。

 「横」から「縦」への関係切り替えは、国家間の外交でも適用され、高句麗・百済・新羅・倭は、絶対的な地位の、中国への朝貢合戦を繰り広げ、自国が他国よりも優位な地位を確保しようとするとともに、戦争で劣勢になれば、自国の生き残りをかけて、優勢な他国と同盟し、人質も差し出しました。

 ちなみに、百済が、倭へ人質を差し出すようになったのは、高句麗に大敗・屈服した翌年(397年)からで、筆者は、百済の近肖古(きんしょうこ)王(13代)が倭王へ、七支刀を贈与した時期(372年)には、まだ倭と百済が対等な同盟だったと言及しているにすぎません(p.13-14)。

 百済は、七支刀贈与の同年、倭よりも先に、中国南朝・東晋へ朝貢し、近肖古王が、鎮東将軍(将軍号)・領楽浪太守(楽浪郡の長官)を授与しており、国際的には、倭より上の立場で、391年から、倭+百済+伽耶諸国連合軍は、高句麗+新羅連合軍と、朝鮮半島で、断続的に戦争しています。

 そのうえ、百済は、腆支(てんし)王(18代)も、東晋に朝貢し(416年)、使持節(中国皇帝から委譲された特権)・都督百済諸軍事(軍政権)・鎮東将軍・百済王(民政権)を授与しました。

 そののち、東晋が滅亡、宋が建国されると(420年)、高句麗王は、征東大将軍、百済王は、鎮東大将軍に昇格した一方、倭の讃は、その翌年(421年)に、はじめて宋に朝貢し、官爵(倭国王・安東将軍)を授与しましたが、中国への朝貢は、新羅(377年に前秦へ、高句麗も同行)よりも後発です。

 南朝・宋にとっての百済は、両国で北朝を挟み込む、重要な位置にあったので(高句麗も同様)、それ以降の倭の珍→済→興→武が、都督百済諸軍事を要求しても、宋に却下され、国際的には、高句麗・百済より下の立場のままでした(序列は、上から車騎→征東→鎮東→安東、大将軍→将軍の順)。

 しかも、当時の人質は、日本の戦国期のように、政治の役に立たない女性や子供・老人等だけではなく、政治の役に立つ男性を、連携相手へ差し出すこともあると明記しており(p.44-45)、新羅から倭への人質・金春秋(のちの29代・武烈王)は、当時46歳と働き盛りでした。

 また、新羅は、高句麗(392・412年)と倭(402年)の双方へ、人質を差し出しており、当時の戦況の相当な劣勢が読み取れますが、逆に、その程度の「ゆるい主従関係」ともいえ、高句麗も、宋(420年)と北魏(435年)の中国南朝・北朝両方に朝貢し、北魏の皇帝に指摘されても、中止していません。

 さらに、新羅による、392年の高句麗への人質は、のちの実聖(じっせい)王(18代)、412年の高句麗への人質と402年の倭への人質は、奈勿(なこつ)王(17代)の息子、百済による、397年の倭への人質は、のちの腆支王(18代)、461年の倭への人質は、蓋鹵(がいろ)王(21代)の息子か弟です。

 つまり、将来、政権の中枢に有望な王族を抱え込めば、長年にわたる円滑な連携も期待でき、当時の朝鮮半島と日本列島では、国外的にも、国内的にも、まだ序列(秩序)が明確になっていませんでした。

 そして、5世紀代の倭は、朝鮮半島を実効支配するために渡海したのではなく、軍事援助するかわりに、百済・伽耶諸国が、知識人・技術者(渡来人)や鉄素材・先進文物等を提供する、一種の交易といえ、水田稲作(開墾・治水・灌漑施設の整備)・古墳造営等に、大量に鉄器具が必要でした。

 武士の君臣間での御恩と奉公の関係では、戦勝による領地獲得がないと、主従関係が成立・維持できませんが、ここでは、交易なので、派兵すれば、勝敗にかかわらず、知識人・技術者や鉄素材・先進文物等が取得でき、倭王を窓口に、各地の豪族達へ分配することで、先進文化が発達しました。

 これを突き詰めると、戦時の朝鮮半島では、日本列島から将軍・兵士が流入し、平時の日本列島では、朝鮮半島から農民・職人が流入することで(難民も)、日本列島には「民」による平和、朝鮮半島には「軍」による動乱と二分化し、双方を商人が往来するという構図になっていたのではないでしょうか。

 私達が注意しなければいけないのは、近代日本の極度な中央集権や、「きつい主従関係」の知識(偏見)が抜け切らないため、それを過去にも投影しがちなことで、それは、おそらく古代日本の、いつの時点でも同様で、地方分権から中央集権への過渡期を、段階的にイメージしなければいけません。

 珍が倭の隋ら13人(平西・征虜・冠軍・輔国は、珍の安東と同等の3品で、平西は安東の1級下、征虜は平西の2級下、征虜→冠軍→輔国と各1級下)、済が23人と、連名で将軍号を要求したのも、倭王がまだ、有力豪族達の盟主(代表)程度の存在で、地方分権が濃厚だった証拠です。

 古代日本の中央集権化は、5世紀後半の雄略天皇(21代)の時代→6世紀半ばの欽明天皇(29代)の時代→7世紀前半の推古天皇(33代)の時代→7世紀半ばの天智天皇(38代)の時代→7世紀後半の天武・持統の2天皇(40・41代)の時代と、約200年で徐々に推進されました。

 中央集権化に、このような期間がかかったのは、海外から日本列島へ攻め込まれる心配がなかったからですが、白村江の合戦(663年)の大敗後、はじめて危機となり、急速に推進され、壬申の乱(672年)で、政権の中枢にいた有力豪族達が一掃されたため、天武天皇に権威・権力が集中できました。

 筆者が主張したかったのは、総体的には、倭の五王を歴代天皇に比定するのは、現状では大変困難だということ、局所的には、[1]珍から済への継承での王統移動、[2]武=雄略天皇(21代、ワカタケル)説への疑問、[3]5世紀代の始祖王=応神天皇(15代、ホムタワケ)説です。

 それに、大前提として、まず、武による、宋の皇帝への上表文に、「東のかた毛人55国を征し、西のかた衆夷66国を服し、渡りて海北95国を平らぐ。」とあるため、武の政権は、日本列島の中央付近にあったとみるのが自然です。

 7世紀半ば成立の「隋書」倭国伝には、国造(軍尼/くに=国)120人、9世紀初め〜10世紀初め成立の「先代旧事本紀」には、国造家135氏とあるので、東55+西66=121ヶ国と、おおむね合致します。

 つぎに、5世紀までに造営された、全長200m以上の巨大古墳35基は、大和19基、河内6基、和泉5基と(備前2基、摂津・上野・丹後が各1基)、大半が畿内に分布しており、巨大古墳の造営には、大量の鉄器具が必要なので、鉄資源の確保を主導した倭の五王は、畿内の政権だと推測できます。

 筆者も、3世紀後半からの、大和東側の大和・柳本古墳群→大和北側の佐紀古墳群+大和西側馬見古墳群→河内の古市古墳群+和泉の百舌鳥古墳群の変遷を、取り上げており(p.14-17)、5世紀代の畿内の政権が、大和を既成地の後方拠点、河内・和泉を新開地の前方拠点としたのに、異論ないでしょう。

 [1]については、珍は、安東将軍で、倭の隋は、そのわずか1級下の平西将軍と推測でき、筆者は、珍と済に続柄の記載がないので、そこから倭の隋が、珍と対立する済の勢力だとし、珍の勢力と、済+倭の隋の勢力を、古市古墳群(安東)と、百舌鳥古墳群(平西)に、結び付けているようです(p.95-98)。

 [2]については、筆者は、5世紀半ば造営の稲荷台1号墳(千葉県市原市)出土の鉄剣での「王」を、珍か済と推定し、5世紀後半造営の稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土の鉄剣と江田船山古墳(熊本県和水町)出土の鉄刀での、ワカタケルの「大王」とは区別しています(p.98-100)。

 ところが、記紀神話以前の7世紀成立とされる「上宮(じょうぐう)記」の逸文(「釈日本紀」)によると、垂仁天皇(11代)には「大王」、応神天皇(15代)には「王」、継体天皇(26代)には「大公王」が使用されているので、「大王」は、尊称にすぎないと導き出せます。

 むしろ、稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の鉄刀での、「治天下」を重要視すべきですが、「治天下」とは、中国皇帝のように、天下(世界)を統治する唯一の王を意味するので、武=雄略天皇説だと、武が478年に宋へ朝貢、臣下と官爵を要求し、宋の権威に依拠するのと矛盾します。

 しかし、雄略天皇は、稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の鉄刀により、5世紀後半に、関東南部から九州北部にかけて、統治していたと推測でき、5世紀代で唯一、実在性が確実視されています。

 よって、倭の五王の一人に、雄略天皇が該当しないか、武=雄略天皇なら、国外的には、中国へ朝貢・従属、国内的には、「治天下」の王だと使い分けていたか、当初は、朝貢・従属していたのを、途中で、「治天下」の王へと路線変更したかの、いずれかとみるしかありません。

 ただし、筆者は、倭が中国への朝貢を打ち切ったのを、権力を天皇に集中できたからでなく、宋の滅亡・南斉の権威低下と、王位継承での混乱としています。

 [3]については、「古事記」では、百済の近肖古王から応神天皇へ、横刀(たち)・大鏡が贈与され(「日本書紀」では、近肖古王から神功皇后へ、七枝刀・七子鏡が授与)、百済との外交開始が応神天皇なので、中興の祖的に位置づけています。

 一方、武による、宋の皇帝への上表文での、祖・禰(でい)=仁徳天皇(16代)説もあり、そこでは、讃=履中天皇(17代)、珍=反正天皇(18代)、済=允恭天皇(19代)、興=安康天皇(20代)、武=雄略天皇に比定されています。

 ですが、応神天皇と仁徳天皇は、記紀神話に事績の重複があるので、同一人物説もあり、結局、筆者は、倭の五王を厳密に検討し、比定できないと結論づけたにもかかわらず、記紀神話を安直に持ち出し、5世紀代の始祖王=応神天皇とするのには、到底納得できません。

 それよりも、応神天皇の5世孫が、王統断絶後の継体天皇(26代)で、この家系が、現在まで皇位継承されており、応神天皇を八幡神と同一視され、皇祖神としても崇拝されているだけで、実在性が確実視されていません。

 もし、記紀神話を信用できないとするのなら、実際には、王統移動しているのに、親子間や兄弟間で王位継承しているように、潤色している痕跡を発見するほうが得策で、「日本書紀」での気になる点は、次に示す通りです。

‐允恭の父・仁徳天皇、允恭の同母兄・反正天皇と、允恭天皇から王統断絶(25代)まで、年齢が算定できない(履中天皇以外)
‐反正天皇以前は、皇太子が王位継承していたが、允恭天皇で、はじめて群臣の推挙によって即位(仁徳天皇の即位は、皇太子が自殺したので例外)
‐允恭天皇の名前に、近臣を意味する「宿禰(すくね)」が含まれ、允恭の同母兄の履中・反正の2天皇の「別(わけ)」と異なる
‐反正天皇の事績が、わずかしかない(「古事記」も同様)

 どうも、珍=反正天皇と済=允恭天皇の間に、何かありそうです。

 最後に、文章や巻末の簡素な年表だけだと、全体像が把握しにくいので、中国(北朝・南朝)・高句麗・百済・新羅・倭の欄を別々にした、年表を冒頭に掲載してくれれば、朝貢・同盟・攻撃・救援等の様子が、もっとわかりやすくなったのではないでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RNBFVRDJ1WONB?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c195

[お知らせ・管理21] 2019年04月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
172. 中川隆[-10464] koaQ7Jey 2019年4月30日 15:55:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1623]
>>170
>文字列の横に「-〇〇」と付いていて他の人には付いてなかったので「なんだこれ?」とそうしてリロードしてみたらコメント削除

体制側に都合が悪い事を書くと文字列の横に「-〇〇」と付くんだよ:


センメルヴェイス反射 _ 真理の徒は石もて追われ

何故 MMT はこんなにも批判されるのか?

「日本の未来を考える勉強会」ーよくわかるMMT(現代貨幣理論)解説
平成31年4月22日 講師:評論家 中野 剛志氏 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=LJWGAp144ak

の最後にセンメルヴェイス反射について触れられています。


▲△▽▼

センメルヴェイス反射(Semmelweis reflex)は、通説にそぐわない新事実を拒絶する傾向、常識から説明できない事実を受け入れがたい傾向のことを指す。

この用語は、オーストリアのウィーン総合病院産科に勤務していた医師センメルヴェイス・イグナーツが産褥熱、今日で言う接触感染の可能性に気づき、その予防法として医師のカルキを使用した手洗いを提唱するものの存命中はその方法論が理解されず大きな排斥を受け不遇な人生のまま生涯を終えた史実に由来する。

僕がここで嫌われているのもセンメルヴェイス反射なんだな


http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/553.html#c172

[近代史02] 弥生人の起源2 中川隆
30. 中川隆[-10463] koaQ7Jey 2019年4月30日 16:03:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1624]


倭の五王 - 王位継承と五世紀の東アジア (中公新書) – 2018/1/19
河内 春人 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B-%E7%8E%8B%E4%BD%8D%E7%B6%99%E6%89%BF%E3%81%A8%E4%BA%94%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%B2%B3%E5%86%85-%E6%98%A5%E4%BA%BA/dp/4121024702?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp


内容紹介

倭の五王とは、中国史書『宋書』倭国伝に記された讃・珍・済・興・武を言う。邪馬台国からの交信が途絶えてから1世紀後、中国へ使者を派遣した王たちである。当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が争い、倭もその渦中にあった。本書は、中国史書から、中国”への接近”の意図や状況、倭国内の不安定な王権、文化レベルを解読、天皇と五王との比定などを通し、5世紀の倭の実態を描く。


内容(「BOOK」データベースより)

倭の五王とは、中国史書『宋書』倭国伝に記された讃・珍・済・興・武を言う。邪馬台国による交信が途絶えてから150年を経て、5世紀に中国へ使者を派遣した王たちである。当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が争い、倭もその渦中にあった。本書は、中国への“接近”の意図や状況、倭国内の不安定な王権や文化レベル、『古事記』『日本書紀』における天皇との関係などを中国史書から解読。5世紀の倭や東アジアの実態を描く。


著者について

河内春人(こうち・はるひと)
1970 年東京都生まれ.93 年明治大学文学部卒業.2000 年明治大学大学院博士後期課程中退.2002 年日本学術振興会特別研究員(PD),博士(史学).現在,明治大学・立教大学・中央大学・大東文化大学・首都大学東京など兼任講師. 著書 『東アジア交流史のなかの遣唐使』(汲古書院, 2013 年) 『日本古代君主号の研究――倭国王・天子・天皇』(八木書店,2015 年) 共著 『古代中国・日本における学術と支配 』(同成社,2013 年) 『藤原仲麻呂政権とその時代』(岩田書院,2013 年) 『梁職貢図と東部ユーラシア世界』(勉誠出版,2014 年) 『日本古代の地域と交流』 (塙書房,2016 年) 『日朝関係史』(吉川弘文館,2017 年) 他多数 翻訳 シャルロッテ・フォン・ヴェアシュア著 『モノが語る日本対外交易史 ―― 七〜一六世紀』( 藤原書 店, 2011年)


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち3.0
国際感覚がなければ、日本古代史は理解できない 2018年8月24日

 4世紀初めから、中国大陸の北半分が戦乱で弱体化し(五胡十六国時代)、4世紀後半から、朝鮮半島北部の高句麗が南下すると、5世紀代の日本列島の倭は、半島南中部の伽耶諸国からの鉄資源確保が圧迫されないよう、半島南西部の百済を救援・参戦するとともに、大陸南半分の宋に朝貢しました。

 本書は、6世紀前半成立の中国の歴史書「宋書」に登場する、倭の五王が、5世紀代に、朝鮮半島や中国大陸と、いかに関係したかを、限られた少ない史料にもかかわらず(限られた少ない史料だからこそ、新書の紙面を埋め尽くそうと)、比較的詳細に検討しています。

 歴史学のうち、文献学は、史料批判が必須で、ひとつの史料を、ただ信用するだけだと、もはや信仰の対象としての宗教的な経典や、文学的な神話の読解になってしまうので、本書は、そうならないよう、なるべく複数の史料を照らし合わせ、諸説ある場合には、丁寧に吟味しているのではないでしょうか。

 特に、「日本書紀」は、国内外の様々な書物をもとに、飛鳥後期・天武天皇(40代)の時代に編纂が開始され(681年)、奈良前期・元正天皇(44代)の時代に完成しましたが(720年)、その間の天武系+藤原系の政権の都合がいいように、潤色された箇所も多々あり、それらは、主に3つに大別できます。

 1つめは、歴代天皇の即位では、血筋が正統性の根拠なので、系譜がつながっているように潤色し(ヤマトタケルの息子の14代・仲哀天皇は、父の死から35年後に誕生していて不自然)、中央豪族達も、天皇家の祖先神の家系か、古来より天皇に奉仕していたと潤色することで、正当性を担保しています。

 2つめは、実際よりも以前から、先進的な制度を摂取したり、朝鮮半島へ派兵・支配していたと潤色しており、そうすれば、日本は先進国だと自負できるとともに、先例が国史にあれば、比較的抵抗なく、その制度や派兵を、受け入れやすくなる傾向にあります。

 3つめは、600年から遣隋使、668年から遣新羅使を派遣しましたが、中国とは対等、朝鮮とは優越な関係とし、日本は小帝国だと主張するため、周辺諸国(高句麗・新羅・百済・任那・伴跛/はえ・耽羅/たんら・呉/くれ・蝦夷・隼人・多禰嶋/たねのしま)との外交を、朝貢だと潤色しています。

 このように、「日本書紀」を、そのまま信用するわけにはいかないので、本書での取り扱いは、最低限にしているのでしょう。

 百済と新羅は、4世紀半ばに、実質上建国されましたが、5世紀代は、中央集権化で先行していた高句麗の南下政策で、百済・新羅・倭が、戦争のために、中央集権化しなければならなくなり、国家体制を、「横」の関係から「縦」の関係へと変容させる最初の時期といえます。

 日本の戦国期には、武家・寺社等の様々な勢力が乱立しましたが、極度に集権的だった織田信長が、やや分権的でもあった延暦寺・本願寺を、最後は制圧し、天下統一しており、戦争に中央集権化は、必須なのが実証されています(余談ですが、白村江の合戦もアジア太平洋戦争も、軍隊は、分権的でした)。

 「横」から「縦」への関係切り替えは、国家間の外交でも適用され、高句麗・百済・新羅・倭は、絶対的な地位の、中国への朝貢合戦を繰り広げ、自国が他国よりも優位な地位を確保しようとするとともに、戦争で劣勢になれば、自国の生き残りをかけて、優勢な他国と同盟し、人質も差し出しました。

 ちなみに、百済が、倭へ人質を差し出すようになったのは、高句麗に大敗・屈服した翌年(397年)からで、筆者は、百済の近肖古(きんしょうこ)王(13代)が倭王へ、七支刀を贈与した時期(372年)には、まだ倭と百済が対等な同盟だったと言及しているにすぎません(p.13-14)。

 百済は、七支刀贈与の同年、倭よりも先に、中国南朝・東晋へ朝貢し、近肖古王が、鎮東将軍(将軍号)・領楽浪太守(楽浪郡の長官)を授与しており、国際的には、倭より上の立場で、391年から、倭+百済+伽耶諸国連合軍は、高句麗+新羅連合軍と、朝鮮半島で、断続的に戦争しています。

 そのうえ、百済は、腆支(てんし)王(18代)も、東晋に朝貢し(416年)、使持節(中国皇帝から委譲された特権)・都督百済諸軍事(軍政権)・鎮東将軍・百済王(民政権)を授与しました。

 そののち、東晋が滅亡、宋が建国されると(420年)、高句麗王は、征東大将軍、百済王は、鎮東大将軍に昇格した一方、倭の讃は、その翌年(421年)に、はじめて宋に朝貢し、官爵(倭国王・安東将軍)を授与しましたが、中国への朝貢は、新羅(377年に前秦へ、高句麗も同行)よりも後発です。

 南朝・宋にとっての百済は、両国で北朝を挟み込む、重要な位置にあったので(高句麗も同様)、それ以降の倭の珍→済→興→武が、都督百済諸軍事を要求しても、宋に却下され、国際的には、高句麗・百済より下の立場のままでした(序列は、上から車騎→征東→鎮東→安東、大将軍→将軍の順)。

 しかも、当時の人質は、日本の戦国期のように、政治の役に立たない女性や子供・老人等だけではなく、政治の役に立つ男性を、連携相手へ差し出すこともあると明記しており(p.44-45)、新羅から倭への人質・金春秋(のちの29代・武烈王)は、当時46歳と働き盛りでした。

 また、新羅は、高句麗(392・412年)と倭(402年)の双方へ、人質を差し出しており、当時の戦況の相当な劣勢が読み取れますが、逆に、その程度の「ゆるい主従関係」ともいえ、高句麗も、宋(420年)と北魏(435年)の中国南朝・北朝両方に朝貢し、北魏の皇帝に指摘されても、中止していません。

 さらに、新羅による、392年の高句麗への人質は、のちの実聖(じっせい)王(18代)、412年の高句麗への人質と402年の倭への人質は、奈勿(なこつ)王(17代)の息子、百済による、397年の倭への人質は、のちの腆支王(18代)、461年の倭への人質は、蓋鹵(がいろ)王(21代)の息子か弟です。

 つまり、将来、政権の中枢に有望な王族を抱え込めば、長年にわたる円滑な連携も期待でき、当時の朝鮮半島と日本列島では、国外的にも、国内的にも、まだ序列(秩序)が明確になっていませんでした。

 そして、5世紀代の倭は、朝鮮半島を実効支配するために渡海したのではなく、軍事援助するかわりに、百済・伽耶諸国が、知識人・技術者(渡来人)や鉄素材・先進文物等を提供する、一種の交易といえ、水田稲作(開墾・治水・灌漑施設の整備)・古墳造営等に、大量に鉄器具が必要でした。

 武士の君臣間での御恩と奉公の関係では、戦勝による領地獲得がないと、主従関係が成立・維持できませんが、ここでは、交易なので、派兵すれば、勝敗にかかわらず、知識人・技術者や鉄素材・先進文物等が取得でき、倭王を窓口に、各地の豪族達へ分配することで、先進文化が発達しました。

 これを突き詰めると、戦時の朝鮮半島では、日本列島から将軍・兵士が流入し、平時の日本列島では、朝鮮半島から農民・職人が流入することで(難民も)、日本列島には「民」による平和、朝鮮半島には「軍」による動乱と二分化し、双方を商人が往来するという構図になっていたのではないでしょうか。

 私達が注意しなければいけないのは、近代日本の極度な中央集権や、「きつい主従関係」の知識(偏見)が抜け切らないため、それを過去にも投影しがちなことで、それは、おそらく古代日本の、いつの時点でも同様で、地方分権から中央集権への過渡期を、段階的にイメージしなければいけません。

 珍が倭の隋ら13人(平西・征虜・冠軍・輔国は、珍の安東と同等の3品で、平西は安東の1級下、征虜は平西の2級下、征虜→冠軍→輔国と各1級下)、済が23人と、連名で将軍号を要求したのも、倭王がまだ、有力豪族達の盟主(代表)程度の存在で、地方分権が濃厚だった証拠です。

 古代日本の中央集権化は、5世紀後半の雄略天皇(21代)の時代→6世紀半ばの欽明天皇(29代)の時代→7世紀前半の推古天皇(33代)の時代→7世紀半ばの天智天皇(38代)の時代→7世紀後半の天武・持統の2天皇(40・41代)の時代と、約200年で徐々に推進されました。

 中央集権化に、このような期間がかかったのは、海外から日本列島へ攻め込まれる心配がなかったからですが、白村江の合戦(663年)の大敗後、はじめて危機となり、急速に推進され、壬申の乱(672年)で、政権の中枢にいた有力豪族達が一掃されたため、天武天皇に権威・権力が集中できました。

 筆者が主張したかったのは、総体的には、倭の五王を歴代天皇に比定するのは、現状では大変困難だということ、局所的には、[1]珍から済への継承での王統移動、[2]武=雄略天皇(21代、ワカタケル)説への疑問、[3]5世紀代の始祖王=応神天皇(15代、ホムタワケ)説です。

 それに、大前提として、まず、武による、宋の皇帝への上表文に、「東のかた毛人55国を征し、西のかた衆夷66国を服し、渡りて海北95国を平らぐ。」とあるため、武の政権は、日本列島の中央付近にあったとみるのが自然です。

 7世紀半ば成立の「隋書」倭国伝には、国造(軍尼/くに=国)120人、9世紀初め〜10世紀初め成立の「先代旧事本紀」には、国造家135氏とあるので、東55+西66=121ヶ国と、おおむね合致します。

 つぎに、5世紀までに造営された、全長200m以上の巨大古墳35基は、大和19基、河内6基、和泉5基と(備前2基、摂津・上野・丹後が各1基)、大半が畿内に分布しており、巨大古墳の造営には、大量の鉄器具が必要なので、鉄資源の確保を主導した倭の五王は、畿内の政権だと推測できます。

 筆者も、3世紀後半からの、大和東側の大和・柳本古墳群→大和北側の佐紀古墳群+大和西側馬見古墳群→河内の古市古墳群+和泉の百舌鳥古墳群の変遷を、取り上げており(p.14-17)、5世紀代の畿内の政権が、大和を既成地の後方拠点、河内・和泉を新開地の前方拠点としたのに、異論ないでしょう。

 [1]については、珍は、安東将軍で、倭の隋は、そのわずか1級下の平西将軍と推測でき、筆者は、珍と済に続柄の記載がないので、そこから倭の隋が、珍と対立する済の勢力だとし、珍の勢力と、済+倭の隋の勢力を、古市古墳群(安東)と、百舌鳥古墳群(平西)に、結び付けているようです(p.95-98)。

 [2]については、筆者は、5世紀半ば造営の稲荷台1号墳(千葉県市原市)出土の鉄剣での「王」を、珍か済と推定し、5世紀後半造営の稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土の鉄剣と江田船山古墳(熊本県和水町)出土の鉄刀での、ワカタケルの「大王」とは区別しています(p.98-100)。

 ところが、記紀神話以前の7世紀成立とされる「上宮(じょうぐう)記」の逸文(「釈日本紀」)によると、垂仁天皇(11代)には「大王」、応神天皇(15代)には「王」、継体天皇(26代)には「大公王」が使用されているので、「大王」は、尊称にすぎないと導き出せます。

 むしろ、稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の鉄刀での、「治天下」を重要視すべきですが、「治天下」とは、中国皇帝のように、天下(世界)を統治する唯一の王を意味するので、武=雄略天皇説だと、武が478年に宋へ朝貢、臣下と官爵を要求し、宋の権威に依拠するのと矛盾します。

 しかし、雄略天皇は、稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の鉄刀により、5世紀後半に、関東南部から九州北部にかけて、統治していたと推測でき、5世紀代で唯一、実在性が確実視されています。

 よって、倭の五王の一人に、雄略天皇が該当しないか、武=雄略天皇なら、国外的には、中国へ朝貢・従属、国内的には、「治天下」の王だと使い分けていたか、当初は、朝貢・従属していたのを、途中で、「治天下」の王へと路線変更したかの、いずれかとみるしかありません。

 ただし、筆者は、倭が中国への朝貢を打ち切ったのを、権力を天皇に集中できたからでなく、宋の滅亡・南斉の権威低下と、王位継承での混乱としています。

 [3]については、「古事記」では、百済の近肖古王から応神天皇へ、横刀(たち)・大鏡が贈与され(「日本書紀」では、近肖古王から神功皇后へ、七枝刀・七子鏡が授与)、百済との外交開始が応神天皇なので、中興の祖的に位置づけています。

 一方、武による、宋の皇帝への上表文での、祖・禰(でい)=仁徳天皇(16代)説もあり、そこでは、讃=履中天皇(17代)、珍=反正天皇(18代)、済=允恭天皇(19代)、興=安康天皇(20代)、武=雄略天皇に比定されています。

 ですが、応神天皇と仁徳天皇は、記紀神話に事績の重複があるので、同一人物説もあり、結局、筆者は、倭の五王を厳密に検討し、比定できないと結論づけたにもかかわらず、記紀神話を安直に持ち出し、5世紀代の始祖王=応神天皇とするのには、到底納得できません。

 それよりも、応神天皇の5世孫が、王統断絶後の継体天皇(26代)で、この家系が、現在まで皇位継承されており、応神天皇を八幡神と同一視され、皇祖神としても崇拝されているだけで、実在性が確実視されていません。

 もし、記紀神話を信用できないとするのなら、実際には、王統移動しているのに、親子間や兄弟間で王位継承しているように、潤色している痕跡を発見するほうが得策で、「日本書紀」での気になる点は、次に示す通りです。

‐允恭の父・仁徳天皇、允恭の同母兄・反正天皇と、允恭天皇から王統断絶(25代)まで、年齢が算定できない(履中天皇以外)
‐反正天皇以前は、皇太子が王位継承していたが、允恭天皇で、はじめて群臣の推挙によって即位(仁徳天皇の即位は、皇太子が自殺したので例外)
‐允恭天皇の名前に、近臣を意味する「宿禰(すくね)」が含まれ、允恭の同母兄の履中・反正の2天皇の「別(わけ)」と異なる
‐反正天皇の事績が、わずかしかない(「古事記」も同様)

 どうも、珍=反正天皇と済=允恭天皇の間に、何かありそうです。

 最後に、文章や巻末の簡素な年表だけだと、全体像が把握しにくいので、中国(北朝・南朝)・高句麗・百済・新羅・倭の欄を別々にした、年表を冒頭に掲載してくれれば、朝貢・同盟・攻撃・救援等の様子が、もっとわかりやすくなったのではないでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RNBFVRDJ1WONB?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp



http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/549.html#c30

[近代史3] 知ってはいけない真実 _ 阿修羅でアクセスを禁止されているサイト 中川隆
5. 中川隆[-10462] koaQ7Jey 2019年4月30日 16:16:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1625]


阿修羅掲示板では体制側に都合が悪い記事にアクセスできない:

センメルヴェイス反射 _ 真理の徒は石もて追われ


何故 MMT はこんなにも批判されるのか?

「日本の未来を考える勉強会」ーよくわかるMMT(現代貨幣理論)解説
平成31年4月22日 講師:評論家 中野 剛志氏 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=LJWGAp144ak

の最後にセンメルヴェイス反射について触れられています。


▲△▽▼

センメルヴェイス反射(Semmelweis reflex)は、通説にそぐわない新事実を拒絶する傾向、常識から説明できない事実を受け入れがたい傾向のことを指す。

この用語は、オーストリアのウィーン総合病院産科に勤務していた医師センメルヴェイス・イグナーツが産褥熱、今日で言う接触感染の可能性に気づき、その予防法として医師のカルキを使用した手洗いを提唱するものの存命中はその方法論が理解されず大きな排斥を受け不遇な人生のまま生涯を終えた史実に由来する。


僕が阿修羅掲示板で嫌われているのもセンメルヴェイス反射なんだな


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/377.html#c5

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
94. 中川隆[-10461] koaQ7Jey 2019年4月30日 17:10:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1626]

昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=NQhVOTS0j7A

「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、

エ・・・・・、エ・・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、

エー、広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」

1975年10月31日、日本記者クラブ主催「昭和天皇公式記者会見」


▲△▽▼


日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた – YouTube動画
http://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes


「世界大戦は私のせいで多くの人が死んだ?

あ、そう! だから何? 」

昭和天皇の身代わりになって処刑された東条英機

御文庫といって天皇の宮殿の地下深くに御文庫を作り

そこに大本営を置いて天皇が参謀たちを集め図面を置いて

毎日毎日、今度はここ行けここ行けと指図をするわけ

それを指図ができると東条英機が受けてですねやるわけです

だから参謀たちが天皇を大参謀に、参謀たちが戦争計画を作り、それを東条に渡すわけです

東条英機は大文庫に、御文庫の中には入れないわけです

他の連中も

そういうシステムで戦争が進んでいく訳です

____


ゴマすり東条さんは毎日三回は 昭和天皇の所へ顔を出して、御用聞きしてたんだ

それである日、昭和天皇が真珠湾を攻撃しろと言ったんで、へいへいとその通りにしたというのが真実

関係者はみんな八百長戦争だと見破られると困るから真剣に戦った様に見せたかったんだよ:


日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。

アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c94

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
17. 中川隆[-10460] koaQ7Jey 2019年4月30日 18:33:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1627]

2019年04月30日
中国の田舎事情 年収3万円の農村生活とは


中国の農村では年収5万円以下で生きている人が大勢いる


中国の田舎は日本とはレベルが違う

日本のマスコミによると中国と言えばもの凄く発展していて、買い物の9割はキャッシュレスで現金はまったく使われていない。

中国人はみんな高収入になり日本人より豊かになったので、海外旅行で爆買いしているという。

それらの1%くらいは事実だが99%くらいは誇張で、特に豊かな人と貧しい人の差が大きい。



豊かな人は都会に多く、田舎では貧しい人が多く、マスコミ人は都会で遊んで「取材した」と称して記事を書く。

上海の繁華街や深センとかの工業地帯を案内されて、日本に帰ると「中国は素晴らしい」と連呼するようになる。

渋谷と道頓堀を歩いて帰る外国人観光客と変わらず、遊ぶ金は会社持ちなので自腹は切っていない。


それはともかく上海や北京の「年収が日本より上」と言う人がいて、本当だとすると大変な事になる。

中国の平均年収はGDPから推測すると70万から80万円なので、上海や北京が平均500万だったら、他に10万以下の人が無数に存在することになる。

平均とはそういうもので、「中国で資産家が急増」して平均値が少ししか増えていないなら、貧しい人が急増していることになる。


中国の農民の平均年収は公表していた2015年ごろは7万円から10万円以下でした。

農民戸籍を持つ人が9億人、農民人口は約2億人程度と考えられ、農村戸籍でありながら都会で出稼ぎしている人も多い。

農民2億人の平均年収が10万円という事は、大都市周辺では100万円以上も珍しくないので、逆に5万円以下も多い事になる。

中国限界農民の現実

実際に中国には年収5万円以下の人が数千万人存在し、その多くが奥地の農民だといわれている。

大都市には年収数百万円のITサラリーマンが居る一方で、雲南省やウイグルやチベットや内モンゴルには年収2万円の人がいる。

超貧困地帯は旧ウイグルや旧チベットや旧モンゴルのように、本来中国の領土ではなかった地域に多い。


これら異民族は漢民族ではないとみなされて、反乱を防ぐため意図的に貧困状態に置かれている。

たとえばウイグルではウイグル人は電車に乗れず旅行できず、学校や幼稚園にも通えず、大手企業への就職も禁止されている。

これでは農民以外できないし、農民として生産性を上げたり収入を増やす方法もない。


その一方で上海や北京近郊の漢民族の大農場では、都会向けの農作物を栽培して会社化し大儲けをしている。

年収3万円の生活がどんなものかというと、食料は自分の農地で育てたものを食べ、物々交換でも手に入れる。

農作物との交換で服などを手に入れたり、市場で売って多少の現金になることもある、


市場原理が導入された結果、大都市の年金は月5万円だが、貧しい農村の年金は月1000円しかもらえない。

中国では一人っ子政策があり、現在は2人っ子政策に移行したが、実はどちらも金さえ払えば2人目や3人目の子供をつくれる。

金が無いのに2人目や3人目を作ると、年収3万円の人には到底払えない罰金が科せられる。


早い話「漢民族以外は子供を産むな」という政策で、生まれた子供の多くが無戸籍になっている。

無戸籍の人は最低限の権利すら認められず、一生涯年収3万円のままになる。

キャッシュレスがこれに追い打ちをかけていて、年収3万円の人は銀行口座やスマホがない。


今までは出来ていた最低限の買い物すらできないので、物々交換経済に逆戻りしている。
http://www.thutmosev.com/archives/79692633.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c17

[近代史3] 社会主義マジック _ 中共が GDP 世界第二位の超大国になれた理由 中川隆
8. 中川隆[-10459] koaQ7Jey 2019年4月30日 18:34:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1628]

2019年04月30日
中国の田舎事情 年収3万円の農村生活とは


中国の農村では年収5万円以下で生きている人が大勢いる


中国の田舎は日本とはレベルが違う

日本のマスコミによると中国と言えばもの凄く発展していて、買い物の9割はキャッシュレスで現金はまったく使われていない。

中国人はみんな高収入になり日本人より豊かになったので、海外旅行で爆買いしているという。

それらの1%くらいは事実だが99%くらいは誇張で、特に豊かな人と貧しい人の差が大きい。



豊かな人は都会に多く、田舎では貧しい人が多く、マスコミ人は都会で遊んで「取材した」と称して記事を書く。

上海の繁華街や深センとかの工業地帯を案内されて、日本に帰ると「中国は素晴らしい」と連呼するようになる。

渋谷と道頓堀を歩いて帰る外国人観光客と変わらず、遊ぶ金は会社持ちなので自腹は切っていない。


それはともかく上海や北京の「年収が日本より上」と言う人がいて、本当だとすると大変な事になる。

中国の平均年収はGDPから推測すると70万から80万円なので、上海や北京が平均500万だったら、他に10万以下の人が無数に存在することになる。

平均とはそういうもので、「中国で資産家が急増」して平均値が少ししか増えていないなら、貧しい人が急増していることになる。


中国の農民の平均年収は公表していた2015年ごろは7万円から10万円以下でした。

農民戸籍を持つ人が9億人、農民人口は約2億人程度と考えられ、農村戸籍でありながら都会で出稼ぎしている人も多い。

農民2億人の平均年収が10万円という事は、大都市周辺では100万円以上も珍しくないので、逆に5万円以下も多い事になる。

中国限界農民の現実

実際に中国には年収5万円以下の人が数千万人存在し、その多くが奥地の農民だといわれている。

大都市には年収数百万円のITサラリーマンが居る一方で、雲南省やウイグルやチベットや内モンゴルには年収2万円の人がいる。

超貧困地帯は旧ウイグルや旧チベットや旧モンゴルのように、本来中国の領土ではなかった地域に多い。


これら異民族は漢民族ではないとみなされて、反乱を防ぐため意図的に貧困状態に置かれている。

たとえばウイグルではウイグル人は電車に乗れず旅行できず、学校や幼稚園にも通えず、大手企業への就職も禁止されている。

これでは農民以外できないし、農民として生産性を上げたり収入を増やす方法もない。


その一方で上海や北京近郊の漢民族の大農場では、都会向けの農作物を栽培して会社化し大儲けをしている。

年収3万円の生活がどんなものかというと、食料は自分の農地で育てたものを食べ、物々交換でも手に入れる。

農作物との交換で服などを手に入れたり、市場で売って多少の現金になることもある、


市場原理が導入された結果、大都市の年金は月5万円だが、貧しい農村の年金は月1000円しかもらえない。

中国では一人っ子政策があり、現在は2人っ子政策に移行したが、実はどちらも金さえ払えば2人目や3人目の子供をつくれる。

金が無いのに2人目や3人目を作ると、年収3万円の人には到底払えない罰金が科せられる。


早い話「漢民族以外は子供を産むな」という政策で、生まれた子供の多くが無戸籍になっている。

無戸籍の人は最低限の権利すら認められず、一生涯年収3万円のままになる。

キャッシュレスがこれに追い打ちをかけていて、年収3万円の人は銀行口座やスマホがない。


今までは出来ていた最低限の買い物すらできないので、物々交換経済に逆戻りしている。
http://www.thutmosev.com/archives/79692633.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/203.html#c8

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
159. 中川隆[-10458] koaQ7Jey 2019年4月30日 18:59:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1629]
昭和天皇とダブルファンタジー  昭和天皇の戦争責任と「言葉のアヤ」発言の論理 (朝日新聞社 論座)
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/276.html

   
菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師
論座 2019年04月30日 より無料公開部分を以下転載。 

1https://image.chess443.net/S2010/upload/2019043000002_1.jpeg
1988年4月、87歳の誕生日に=提供・宮内庁
 

連載 昭和天皇とダブルファンタジー

■天皇のリアリズム
 
 昭和天皇とマッカーサーの会談は回を重ねていった。日本国憲法施行から3日目、1947(昭和22)年5月6日に開催された第4回会見では、「象徴」になったばかりの天皇がマッカーサーに向かって自らの外交・軍事方針を強く主張したという。豊下楢彦は、通訳・奥村勝三のメモを見た松井明の記録に基づき、憲法第9条をめぐって両者が活発な議論を交わしたと述べている。

https://image.chess443.net/S2010/upload/2019043000002_2.JPEG
1945年9月、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥を訪問した昭和天皇=撮影・GHQ写真班
 
 天皇は、完全に軍備を撤廃するには、国連恃(だの)みでは心もとないこと、米国による安全保障が不可欠と述べた。対してマッカーサーは、軍備をいっさい持たないことが日本にとって最大の安全保障であり、将来の国連強化に期待すべしと説いた。しかし、天皇は納得しない。マッカーサーは天皇のリアリズムの前に屈し、半ば折れるように防衛協力を約束している。
 
 こうした天皇のアメリカ傾斜が、長期の米軍駐留を認める「沖縄メッセージ」(1947/昭和22年)、そして1952(昭和27)年の講和条約と安全保障条約・行政協定へつながっていったことは比較的よく知られている。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c159

[近代史3] 神道の事を単なる儀式であって宗教ではないと思っている天皇一族には理解できない神道の世界 中川隆
3. 中川隆[-10457] koaQ7Jey 2019年4月30日 20:08:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1630]

天皇と儒教思想 伝統はいかに創られたのか? (光文社新書) – 2018/5/16
小島毅 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%A8%E5%84%92%E6%95%99%E6%80%9D%E6%83%B3-%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%89%B5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E6%AF%85/dp/4334043542?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp


出版社からのコメント

◎天皇皇后両陛下の宮中行事、陵墓造営、宮中祭祀、歴代天皇の系譜、一世一元の制……
◎創られたのは明治、ネタ元は儒教思想


【内容紹介】

八世紀の日本で、律令制定や歴史書編纂が行われたのは、中国を模倣したからだ。
中国でそうしていたのは儒教思想によるものだった。
つまり、「日本」も「天皇」も、儒教を思想資源としていたといってよい。

その後も儒教は、日本の政治文化にいろいろと作用してきた。
八世紀以来、天皇が君主として連綿と存続しているのは事実だが、その内実は変容してきた。

江戸時代末期から明治の初期、いわゆる幕末維新期には、天皇という存在の意味やそのありかたについて、従来とは異なる見解が提起され、それらが採用されて天皇制が変化している。

そして、ここでも儒教が思想資源として大きく作用した。

本書は、その諸相を取り上げていく。


【本文より】
天皇や皇族の日常生活が、明治維新のあとは洋装にお変わりになり、洋館にお住まいになり、洋食を召し上がるようになったというたぐいのことは目につきやすく、「近代化」を象徴する行為として認識されていよう。

しかし、じつは祭祀・儀礼といった、古くからの伝統に由来しているはずの行為も、その多くがやはり明治維新の前後に新しく始まったものだった。

洋装・洋館・洋食といった西洋化とは異質ながらも、それらもまた明治時代の近代天皇制を支える装置だった。

すなわち、古制という名目によりながら、近代天皇制にあわせて改変されたものだった。
(「はじめに」より)


【著者紹介】
1962年生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。
東京大学大学院人文社会系研究科教授。専門は中国思想史。
東アジアから見た日本の歴史についての著作も数多くある。
著書に『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』『朱子学と陽明学』(以上、ちくま学芸文庫)、
『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ)、『父が子に語る日本史』『父が子に語る近現代史』(以上、トランスビュー)、
『「歴史」を動かす 東アジアのなかの日本史』(亜紀書房)、『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)、
『儒教の歴史』(山川出版社)などがあり、
監修したシリーズに『東アジア海域に漕ぎだす(全六巻)』(東京大学出版会)がある。

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち3.0
儒教的な「制度」ばかりが取り上げられ、儒教的な「思想」が取り上げられていない 2018年8月6日


 本書では、天皇の稲作・皇后の養蚕、天皇陵の認定・整備、宮中祭祀、天皇の系譜の確定、一世一元制(天皇1代で1回の改元)といった、天皇をめぐる諸制度の大半が、明治維新の前後以降に、新たに創られた伝統だと指摘されており、改暦(太陰太陽暦から太陽暦への転換)にも言及しています。

 そして、筆者は、「宗教信者が自分の教義を生活信条とするのは個人の自由だが、それを他の人々にも押し付け、自分たちの教義で国家の制度を決めてはならない。最近の議論はこの原則に抵触しかねない傾向を帯びていると、私には感じられる。」といっています(p.21-22)。

 つまり、筆者は、天皇をめぐる諸制度が、国家の制度・国民の統制等に踏み込めば、特定の宗教教義だけが優遇されて問題だと力説していますが、ここで取り上げられた諸制度の説明は、いかに儒教由来かの解説に終始しており、いかに国家の制度・国民の統制等に踏み込んだのかが、ほとんどありません。

 よって、ここでは、そこまで紹介しておきます。

・天皇の稲作・皇后の養蚕

 稲作は、昭和天皇(124代)から(1927/昭和2年)、養蚕は、明治天皇(122代)の皇后(昭憲/しょうけん)から(1871・明治4年)、取り組まれましたが、これらは、戦後でこそ、マスコミで報道されますが、戦前・戦中の国民が、認知していたのかは疑問で、天皇・皇后個人の信条の範囲といえます。

 むしろ、取り上げるべきは、明治初期からの神道非宗教論を根拠とし、神道国教化のため、古代社格制度を復活させた、近代社格制度で、特定の神社は、毎年2月の祈年祭・11月の新嘗祭と例祭に、政府か知事から幣帛(実際は金銭)が奉献されましたが、これは、皇室・朝廷ゆかりの神社等への優遇です。

・天皇陵の認定・整備

 これは、万世一系の天皇を強化するための施策で、皇室の陵墓は、古代前半まで、律令制下で管理されましたが、古代後半から、律令制が形骸化すると、しだいに荒廃し、中世には、完全に仏主神従になり、神式の土葬より仏式の火葬が流行、朝廷の財政も逼迫し、皇室の陵墓も、忘れ去られた存在でした。

 それが、近世には、神主仏従へと転換し、尊皇思想を背景に、江戸期から明治期にかけて、皇室の陵墓を特定・整備されるようになりました。

 記紀神話では、神武天皇(初代)が、日本の建国者なので、この時期にはじめて、歴代天皇で最重要視されるようになり、宮中祭祀や、国民の祝祭日で、神武天皇への崇敬を誘導するとともに(後述)、神武天皇陵が規定されると、それに隣接して橿原神宮を創建しています(1890・明治23年)。

 天皇陵は、いったん認定・整備されれば、後世に疑義が提示され、それが有力であっても、ほとんど指定変更されませんが、それは、儒教道徳での祖先崇拝にあたり、混迷できないからで、史実の不安定よりも、信仰の安定を優先させているのでしょう。

 当時の皇室の陵墓の整備は、江戸幕府や明治政府の費用負担で、現在は宮内庁が管理していますが、これは長年、歴代天皇が公認してきた政権が、日本国の為政者と定義され、戦後からは、天皇が特定の個人・団体に依存しないよう、皇室を公私にわたり、国費で庇護しているのです。

 ただし、皇室の陵墓は、皇室や宮内庁が祭祀・管理するだけで、国民に拝礼を強要していないので、皇室の信条の範囲と位置づけられます。

・宮中祭祀

 宮中三殿のうち、賢所は、東京遷都で京都から移転し、三種の神器のヤタノカガミを複製した神鏡が安置・祭祀され、皇霊殿と八神殿は、神祇官から神祇省への降格・廃止で、皇居外の神祇官から皇居内へ移転、皇霊殿は、歴代皇室の祖霊が、八神殿(神殿と改称)は、天上・地上の神々が祭祀されました。

 したがって、三殿が皇居内に結集し、天皇が祭祀を主宰するようになったのは、明治初期(1872・明治5年)からで、それ以前の、天皇による祖先崇拝は、仏式で法会されていましたが、神仏分離令にともない、春と秋の彼岸の時期に、皇霊祭が執り行われるようになりました(春季皇霊祭・秋季皇霊祭)。

 宮中祭祀は、天皇(親祭)か、宮内省の担当者が執り行いますが、明治・大正(123代)の2天皇は、あまり熱心でなく、昭和・平成(125代)の2天皇や大正・昭和天皇の2皇后(貞明/ていめい・香淳/こうじゅん)は、とても熱心だったので、宮中祭祀自体は、天皇・皇后個人の信条の範囲といえます。

 天皇主宰の宮中祭祀(大祭)は当初、古代からのが、新嘗祭(11月23日)・神嘗祭(10月17日)の2つで、近代からのが、元始祭(1月3日)・紀元節祭(2月11日)・神武天皇祭(4月3日)・春季(春分の日)・秋季(秋分の日)皇霊祭+神殿祭・先帝祭(孝明・明治・大正天皇)の8つでした。

 ですが、大祭すべてを、天皇が執り行っておらず、担当者の代理も多々あるので、ここまでは、天皇個人の信条の範囲ですが、問題は、明治初期(1873・明治6年)から、宮中での大祭日を、国民の祝祭日として、休日に規定したことで、天皇と国民を結び付けています。

 祝祭日の制定時には、古来よりの慣習の元日(1月1日)・宮中での新年宴会(1月5日)と、元始祭(宮中三殿での天皇親祭、1月3日)・孝明天皇(121代)祭(死去日、1月30日)・紀元節(神武天皇即位日、2月11日)・神武天皇祭(死去日、4月3日)・神嘗祭(五穀豊穣の感謝祭、9月17日)・天長節(明治天皇誕生日、11月3日)・新嘗祭(収穫祭、11月23日)の9日が休日でした。

 制定の5・6年後には、春季皇霊祭(春分の日、1879・明治12年から)・秋季皇霊祭(秋分の日、1878・明治11年から)の2日が、休日に追加され、神嘗祭は、新暦だと、稲穂の生育が不充分な時期なので、旧暦に近い、1ヶ月後(10月17日)に移されています。

 明治天皇の死後、天長節は、大正天皇の誕生日(8月31日)に移行しましたが、この時期が盛暑なので、2ヶ月後(10月31日)も祝日としました(天長節祝日)。
 戦前・戦中には、前天皇の死去日の先帝祭(孝明天皇祭・1月30日、明治天皇祭・7月30日、大正天皇祭・12月25日)が、休日だったのを、戦後には、昭和天皇の死後、昭和天皇の誕生日(4月29日)を、みどりの日→昭和の日とし、前天皇の誕生日を、休日に制度化しつつあります。

 現在でも、国民の祝日・16日のうち、紀元節が建国記念の日、天長節が文化の日、新嘗祭が勤労感謝の日、春季皇霊祭が春分の日、秋季皇霊祭が秋分の日と、昭和の日・天皇誕生日(12月23日)の、皇室ゆかりの日・7日が継承され、天皇と国民の結び付きが潜在化しているとも解釈できますが、近年は、祝日の4日を月曜日に移動させ、3連休にしたので、皇室ゆかりの祝日が顕在化する結果になっています。

 そのうえ、明治中期の教育勅語発布の翌年(1891年)から、宮中祭祀の大祭のうち、元始祭・紀元節・神嘗祭・天長節・新嘗祭の5日を、校長・教員と生徒に、小学校で儀式を執り行わせ、学校行事化し、天皇と学校を結び付けており、ここまで注目しないとといけないでしょう。

・天皇の系譜の確定

 これも、万世一系の天皇を強化するための施策ですが、南北朝分裂で、北朝より南朝を、正統とするのが主流となったのは、儒教道徳の優劣ではなく、三種の神器を所持していたからという根拠が、本書で忘れ去られています。

 南北朝期に、南朝方の北畠親房(ちかふさ)は、「神皇正統(じんのうしょうとう)記」で、三種の神器の、鏡は正直、玉は慈悲、剣は智恵の象徴とし、これらを所持している南朝の天皇は、有徳者だとしています。

 また、江戸初期に、儒学者・林羅山は、三種の神器の、鏡は智、玉は仁、剣は勇と、儒教の3徳目を象徴しているとし、孔子の「論語」には、「智者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず」とあるので、三種の神器を継承した歴代天皇が、有徳者であるとしました。

 さらに、徳川光圀ら編纂の「大日本史」は、前述の2人と同様、三種の神器の所持を根拠に、南朝を正統にしたうえ、神功皇后(14代と15代の間)は、天皇から除外、大友皇子は、弘文天皇(39代)として算入し、これら3条件が、明治政府に採用されています(1911・明治44年)。

 ちなみに、鎌倉後期の持明院統と大覚寺統の両統迭立や、それが深刻化した南北朝分裂は、皇位継承の正統性が、血筋だけで主張できなかったので、当時頻繁に、儒教道徳が持ち出されたことに、注視すべきです。

 天皇の系譜の確定は、皇室の陵墓の認定・整備と同様、それ自体だけだと、皇室の信条の範囲といえますが、戦前・戦中の学校教育で、歴代天皇の名前の暗記・暗誦を必須にしたのは、国民への強制といえます。

・改暦

 太陰太陽暦から太陽暦への転換(1872・明治5年→1873・明治6年)は、本書だと、当時の政府が財政危機で、2か月分(改暦での誤差1ヶ月+閏月1ヶ月)の公務員給与を、節約できるからとしていますが、実際は、先進国からの摂取を、中国から欧米へと転換し、それに都合がよかったからでしょう。

 江戸期には、幕府が暦の改定を、朝廷から奪取しており、幕末・維新で、王政復古を標榜しつつも、実際の為政者は、上流武士中心から下級武士中心へと切り替わっただけなので、明治期の改暦にも、あまり抵抗がなく、韓国は1896年、中国は1912年に、太陽暦を導入したので、日本は先進的といえます。

 ですが、中国・韓国で、対外的には、新暦(太陽暦)を採用しつつも、対内的には、旧暦(太陰太陽暦)で生活している一方、日本で、旧暦から新暦へと完全に転換したのは、同年に規定した、季節感のある祝祭日が、祈年祭・神嘗祭・新嘗祭の3つだったのが影響しているのではないでしょうか。

 祈年祭は、旧暦2月4日から新暦2月17日へ、神嘗祭は、旧暦9月11・17日から新暦9月17日→10月17日へ(前述)、新嘗祭は、明治6年の旧暦11月の2の卯の日が、新暦11月23日なので、その日に移行し、天皇の即位日・誕生日・死去日も、旧暦を新暦に換算しました。

 元日(1月1日)・元始祭(1月3日)・新年宴会(1月5日)は、年始の日付に意味があるので、そのままとし、節会(せちえ)・節句も、同様ですが(1月7日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日)、これらは、季節感とのズレが顕著です。


・一世一元制

 東アジアでは、皇帝・国王・天皇が1代で、数回改元する場合と、1回のみ改元する場合に、大別できますが、近代日本の一世一元制が、他と全く異なるのは、後世に、天皇の即位から退位・死去までを、一時代と区分することで、この表記は、日本で革命的な出来事があるまで、おそらく存続するでしょう。

 たとえば、奈良末期〜平安初期の桓武天皇(50代)は、即位から死去まで、おおむね延暦の元号だけでしたが、文書上で、延暦と表記されるだけでは、それが桓武天皇の時代だったとは、知識がないと直接わかりません。

 しかし、明治・大正・昭和・平成・…は、天皇と時代が一対一で対応し、これらは、中国・朝鮮での王朝名や、日本での朝廷(飛鳥・奈良・平安)・幕府(鎌倉・室町・江戸)の場所とは違う時代区分で、「日本書紀」の元号なしの時期での、「神武天皇何年」といった表記と似ています。

 8〜9世紀には、日本・中国・渤海で、一世一元制が取り入れられていたようですが、それよりも、近代日本での、天皇と時代の直結のほうが、はるかに異質で、こちらを強調すべきではないでしょうか。

 ここまでみると、本書で取り上げられているのは、天皇・皇后個人の信条の範囲がほとんどなので、そこで皇室が、伝統を新規に創出するのも、信教の自由で、天皇をめぐる諸制度が、国家の制度・国民の統制等に影響してはじめて、問題化すべきなのに、筆者は、そこまで踏み込んでいません。

 実は、本書で取り上げられている、明治前期までの天皇をめぐる諸制度の大半は、神道国教化のために導入されましたが、国民が信教の自由で抵抗し、天皇への崇敬が、あまり浸透せず、いったん断念されています。

 そこから、政府は、方針転換し、明治中期からの軍人勅諭・教育勅語、明治後期からの神社神道(神社非宗教論)・家族国家観等、儒教思想を次々に打ち出すことで、国家神道を構築していきましたが、それらが、本書に皆無なのは、大変残念です。

 筆者の専門が、中国思想史なら、中国や朝鮮の儒教が、忠と孝を区別していたのを、近代日本の儒教は、忠孝一致に特化することで、国民の天皇への絶対忠誠を実現させたことに、もっと踏み込むべきだったのではないでしょうか。

 神道に、儀式はあるが、教義がないので、近代日本では、教義に儒教を持ち込みましたが、それは、中国を模倣しただけでなく、日本独特な思想も打ち立てており、むしろ、そちらで国民を追い込み、戦禍で多大な犠牲となりました。

 さらにいえば、その思想が、儒教・仏教・神道・道教等、どこ由来かを追求するだけでは、無意味で、それよりも、どのように国民を追い込んでいったのかのほうに、意味があるのではないでしょうか。

 そもそも、伝統とは、保守しつつ、革新していくものなのですから…
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R35BD6RYXYABGT?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/124.html#c3

[近代史3] 多文化共生は大量殺人を引き起こす 中川隆
1. 中川隆[-10456] koaQ7Jey 2019年4月30日 20:29:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1631]

ラマダンの季節=テロの季節。スリランカのイスラム・テロのあとで。イスラム理解を深めよう。移民のことも。
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/637.html
投稿者 晴れ間 日時 2019 年 4 月 30 日 19:13:44: FhUYgDFvAt2/E kLCC6orU
 


最近起きたスリランカのイスラム・テロに関連して、他の投稿記事への私のコメントを再掲し、同時に加筆する。
以下の3コメントのうち、最初の二つ(@とA) はスレ主であった仁王像が、私のコメントを「初期非表示」にしたので、ここに再掲する。
3つ目のコメントは、天木直人氏の記事へのコメントであったが、これもHIMAZIN という私の投稿への妨害活動に異常な執念を燃やす人物からの「攪乱・妨害」投稿があったので、ここに再掲する。
仁王像は「イスラム好き」を自称している。(日本会議や日本の歴史修正主義者への「共感」も隠さない。「過去の世界」に生きている人のようだ。)
HIMAZIN は「イスラム教徒」であると、私は見ている。HIMAZIN が現下の欧米の「ムスリム同胞団」と同一のイデオロギーの持ち主であることは確かである。


--【他記事への私のコメント】---------------------------------------------------------------------------
@■ http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/633.html#c3
イスラムはもともと「過激」なんだよ。それが本物のイスラム。
「過激でない(受けいけられる) 範囲」で「戒律」を守っているのが「穏健派と言われているムスリム」。
しかし「穏健なはずのムスリム」が「本当の教理」に目覚めれば、いつでも「過激派」に変容可能。
キリスト教みたいに「宗教改革」をやればいいのだよ。教理を改変する者は「死刑」という教理があるため皆ビビって尻込みしているだけ。しかし「イスラム協力機構」の加盟国が「みんなでやれば怖くない」。
ただし「墨塗りコーラン」を作れば、単にユダヤ教にキリスト教をくっつけたものに変わる。過激な部分は主に歴代カリフが書き足したものだからね。
(勿論、ユダヤ教もキリスト教も、過激な部分はある。異端は火刑。ただ、大半は世俗化して無神論者になったり、「死刑反対」になったりしている。)

「無学層」は自分で思考する能力がない。イマムの言う通りに教えを守るだけ。(知能指数2桁の人々。)
経典を読む能力のある者には、「過激主義」への門が開かれる。
本当に知力が高く、批判力のある者は、「棄教への道」を歩む。

英語が読める者は、ロバート・スペンサーの本がお勧め。(Robert Spencer 。米アマゾンで大量の読者コメントを参考に選ぶ。)
ハマスの過激派もスペンサーの本を熱心に読んで、イスラムの教理について勉強しているそうだ。

A■ http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/633.html#c5
仁王像は「母系社会」氏に、なぜイスラム礼賛投稿をするのを止めたのか、尋ねればよい。
聞きたいだろう? あのイスラム礼賛を。
私はあることを書いたときから、誰がイスラム礼賛を止めるのか、観察していた。「母系社会」氏が真っ先に止めた。
その正確な理由を私が知る由もないけれど、あの言葉(事実の指摘) が止めるきっかけになったのだろう、と私は考えている。

仁王像は、もうすこし謙虚に学ぶよう心がけないと、陰謀論者並みに「妄想」の中でだけ生きるようになるよ。
「母系社会」氏程度の判断力と知力はあって欲しいものだ。


B■ こちらは政治板での天木直人氏記事への投稿コメント
<日本のモスクで説教をした可能性があるというのだ!>日本とつながっていたスリランカ自爆テロ組織代表の衝撃  天木直人 
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/230.html
投稿者 赤かぶ 日時 2019 年 4 月 28

【私のコメント】
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/230.html#c12
何をいまさら驚くのだろう。
筑波大学構内での『悪魔の詩』翻訳者の殺害といい、多数の日本人が犠牲になったダッカ・テロといい、日本国内滞在者によるテロ事件はすでに何度も起きている。
イスラムがある限り、これは変わらんよ。
日本の公安警察は、殺傷武器だけを監視対象にしているようだが、イスラムの危険性は「武器、殺害道具」ではない。(殺害道具=包丁なら、日本のどの家庭にもある。)
イスラムの危険性は、その「イデオロギー」(特に異教徒憎悪) にある。「イデオロギー」だから、公安当局がモスク内に「監視カメラ」をつけても「見えない」。
むしろ「盗聴器」をつけて、「過激イマム」の説教内容を分析するするのがよい。(説教の言語を理解できる専門人材が要る。)

フランスの場合、ムスリム住民の「イスラム国」への参加度合いと、人口当たりのモスクの数との間には「相関関係」があることが確認されている。
つまりモスクの数が多いほど、「過激イマムの過激説教」を聞く機会が多いほど、信者は「過激化」する。
日本も「移民」を無制限に入れると、テロが頻発する国になるよ。分かりきったことだ。


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イスラム理解には、ロバート・スペンサー Robert Spencer の本がおすすめ。(ハマスのお墨付き。)
(購入は、米アマゾン amazon.com で。)

イスラムとはどういう宗教か?
The Politically Incorrect Guide to Islam (and The Crusades)

イスラム1400年の歴史
The History of Jihad: From Muhammad to ISIS

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ただ、世界中で(特に欧米では) イスラム教徒の「世俗化」と「棄教」は猛烈な勢いで進んでいるようだ。
欧州在住者の間では、出生率も逓減傾向にあるそうだ。


■【ここからは今回の私の追加新規投稿部分。やや纏まりに欠けるが、時間がないので我慢のほどを】=========================

※私の投稿には、HIMAZIN という「イスラム擁護者」が執念深く妨害粘着してくる。
私は、HIMAZIN をイスラム教徒だと見ている。少なくとも日本のイスラム関係者だ。
イデオロギー的には、欧米の「ムスリム同胞団」と全く同一。「イスラム教徒を傷つけるな!」という台詞も含めて、全く同じ事を言っている。
なお、この「イスラム教徒を傷つけるな!」という台詞は、ムスリム同胞団創設者の孫タリク・ラマダンの十八番の台詞。
「批判を封じ込める」のが、この台詞の目的。イスラムは「言論の自由」や「批判精神」を許さないのが特徴。
(これと同じことを言うのが、フランスのトロツキスト政党の一つ「NPA」 反資本主義新党。政党とは名ばかりの党員数二千名にも満たない弱小グループ。NPAは「ムスリム同胞団」と連帯している。)

また、このタリク・ラマダンが、#MeeToo 運動の渦中、告発されて強姦容疑で逮捕されたとき、ある記事の中で私がその件触れると、さっそく HIMAZIN が「シオニスト!」と叫んで私に対する投稿妨害行動に出た。
YouTube の動画を見るとよい。(ただしフランス語。) タリク・ラマダンを告発した女性の動画には、フランスの「ムスリム同胞団」の連中が「シオニスト〜!」「イスラエルの〜」とか言って叫んでいることがわかるから。彼らはHIMAZIN と全く同一のイデオロギーを持っている。(全く同じ、脊椎反射的な反応だから、私は笑った。)

HIMAZIN 本人は、自分は「ムスリム同胞団」のメンバーではない、と言っている。そういう言い訳は無意味だ。「ムスリム同胞団」とは大元の組織の名称で、その傘下には様々なサテライト団体(女性団体やサークル団体) を作っている。どんなカルト団体や宗教団体でも、類似の組織形態を取るだろう。サークル活動に誘われて行ってみたら、バックに宗教団体がいた、とか。


※なお、これは重要なことだが、イスラムには「タキーヤ」と言って、「イスラムを守るためには、攻撃をかわす手段として "嘘" をついて異教徒を欺せ!」という教義がある。「イスラム教徒は(積極的に)嘘をつくから信用するな!」というのがイスラム理解の「基本のキ」だ。
私が最初に読んだ本(ハミド・ザナズ著=仏語) には、その点に関する注意が、特に強調して書かれていた。「イスラムでは "嘘" は善」と。「嘘をついてはいけません」という社会規範の中で育った日本人には、特に自覚が必要。


※上記@■とB■ のコメントでも触れたが、イスラム理解にはロバート・スペンサーの本を読むことが不可欠。
米 amazon.com で著者名 Robert Spencer を入力すれば沢山出てくる。直接本を購入しないまでも、読者レビューを読めば、本の内容は推測できるだろう。
■ついでに、イスラムの「基礎的知識」についての、ロバート・スペンサーの動画。(合計13本。)
13講連続のもの(55分43秒)
https://www.youtube.com/watch?v=SAuS3K5Qdq4
Islam Exposed a.k.a. "The Basics of islam" by Robert Spencer 13 talking points

こちらは、同じものだが、13本の動画に分かれている。(各動画4〜5分)
https://www.youtube.com/watch?v=eL7v4RCp0KU&list=PLG60CR__0a0W2odPBuJn1w1Q7i9b4HA1I
The Basics of Islam 1: Robert Spencer on "Islamophobia"

いずれも、右下の歯車マークを操作すれば、英語の字幕が出る。
(さらに日本語翻訳の字幕も出せるとは思うが、多分滅茶苦茶だろうから、おすすめしない。)


■また、ロバート・スペンサーが編集長をしているニュース・サイト「ジハード・ウオッチ」Gihad Watch はこちらから。
https://www.jihadwatch.org/

イスラム勢力の活動や動向を速くキャッチするには、情報の早さと質の面で、このサイトを見るのがいちばん。
なお、ロヒンギャが話題になっていたときに、私はこのサイトをチェックしたが、取り上げていなかった。このサイトでは、ロヒンギャの行動を「ジハード」とは見做さなかったのだろう。(それ以前に、ロヒンギャは「原始人」のレベルと見られたのかもしれない。=あくまでも私の推測。)


--【参考 : 私の過去の投稿から】------------------------------------------------

■「陰謀脳」と「カルト脳」 (1) 「"反ユダヤ主義批判"= "シオニズム支持"」と考える低学力者
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/436.html
投稿者 晴れ間 日時 2017 年 1 月 10 日

■「陰謀脳」と「カルト脳」 (2) 「イスラム信者らしい 77NFlyiBvM」による私への言論封殺行為
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/437.html
投稿者 晴れ間 日時 2017 年 1 月 10 日

■「陰謀脳」と「カルト脳」 (3) 「イスラム信者らしい 77NFlyiBvM」の批判(脅し) に対する私の反論
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/438.html
投稿者 晴れ間 日時 2017 年 1 月 10 日


----【ついでにこちらも】-------------------------------------------
最初のものはコーランの章句の引用。ラマダンに関したものもある。

■『コーラン』における「異教徒」と「不信仰者」の扱い ⇒ 〈改宗/逃亡/死〉の三者択一のみ
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/377.html
投稿者 晴れ間 日時 2016 年 7 月 07 日

■「宗教批判」としてのイスラム批判は「ヘイト」ではない
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/378.html
投稿者 晴れ間 日時 2016 年 7 月 07 日

■「平和の家」と「戦争の家」。 「イスラムは平和の宗教」の"嘘"。
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/381.html
投稿者 晴れ間 日時 2016 年 7 月 24 日

■イスラムの教義が「移住」を促し、「移住」したムスリムはシャリアを実践する
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/405.html
投稿者 晴れ間 日時 2016 年 8 月 28 日


==================================
※以上は主に議論板に投稿したもの。ほかにも国際板と戦争板に、投稿やコメントをしている。私は思想も言動も一貫しているので、削除はしていない。(訂正があるときは、それのみを指摘。) 自分で探すのも面倒なので、読者にお任せする。

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※国際板の記事(多分、天木直人氏の記事へのコメントがどこかで、「母系社会」氏が私にイスラムの「共生思想の素晴らしさ」(正確な用語は未確認) について意見したことがあった。なんでも、イスラム社会では、貧者が富者に「施し??」を求めるのは「当然の権利」で、貧者は「悪びれもせず」「卑屈にもならず」それを受け取り、要求する、それが可能なのがイスラム社会だ、という意味内容だった。

「知る大切さ」氏は、「イスラムにもいいところがある」という立場だ。どこがどういいのか、説明してほしいと思うが、そういう問いには一切答えなかった。しかし「知る大切さ」氏は、私の投稿妨害を続ける HIMAZIN に賛同すると述べた以上、その理由説明をすべきだ。
まさか、「知る大切さ」氏も「母系社会」氏が述べる「うわごとのようなイスラム礼賛」をそのまま信じているのではあるまいな?

「母系社会」氏の主張は、今でもイスラム教徒に「立派に」受け継がれている。(文化的伝統は強固に継続。)
欧州に居住するイスラム教徒約5000万人のうちの8割は、欧州の納税者が払う「社会福祉」に寄生して暮らしている。「悪びれ」もせず、子供に支払われる養育手当を狙って、ボロボロ子供を産み続けている。男の大半は失業中。女も家事・育児だけで、家の外では働かない。外出するときは例の布被り姿。そしてムスリム移民は「植民地化の代償として、西洋/フランスは500年間は自分たち移民の生活の面倒を見ろ!」とうそぶいている。
家賃を全く払わない者が多く住む団地では、建物の改修がなされないから、設備は壊れ荒れ放題。警察も介入できない「無法地帯」となった地区も多数。数年前の調査で、フランス全国で750箇所以上存在する。
そういう地区では、麻薬取引が行われるなど、犯罪の巣になっているが、警察は介入できない。
子供同士が地域毎に「ギャング団」を作って抗争している。12歳の子供までが刺し殺された。警察にできることは、せいぜい「夜間外出禁止令」を出してパトロールすることくらいだ。
「危険地域」を通るバスの運転手は、沿線住民が金属パイプでバスのガラス窓を叩き割ろうと襲ってくるから、勤務拒否を起こす。
住民の人命救助を優先せざるを得ない救急車のスタッフは、こういう団地に向かうときは「防弾チョッキ」を着て出動する。

団地だけではない。そういう地区にある学校は子供の学力がひどい。自分の子供をそういう地区の学校に通わせたくない親と家庭は、逃げ出す。
パリ地方の場合(それ以外でも)、ユダヤ人の子供は公立学校からは姿を消した。子供のイジメも暴力を伴うものだからだ。(イスラム教徒の子供は、特にユダヤ人の子供をいじめる。それが「教義」だから。)

人種毎に学校での学力に差があり、学力までもが(人種毎に) 階層化している。住む地域も異なる。イスラム教徒はボンボン人口増殖し、白人は、生活環境・教育環境の悪化を嫌って、その地区から逃げ出す。それが「多文化社会」の現実だ。
「母系社会」氏のいう「イスラム社会の共生関係」の現実的結果が、それ。そして逃げ出す白人に「差別だ!」「レイシストだ!」と叫ぶ。逃げられない非白人には殴りかかる。(「勤勉でカネも稼ぐ」中国人は殴られ、殺される。ユダヤ人はすでに何人も殺された。)


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※私はイギリスのことはよく知らないが、日本語の本も出ているようだから、図書館で借りて読むといい。
(日本語版は高価だが、英語版を買えば千円程度だ。)
■ダクラス・マレー著『西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム』 東洋経済新報社、2018年(邦訳刊)

著者はイギリスのジャーナリストで、YouTube にも多数の動画があるから、動画の方が手軽だろう。
日本のアマゾンにある、この本への日本語読者レビューも参照。

※日本は、移民を入れるのなら、それなりの「覚悟」をしておくべきだ。欧州の状況を見れば、移民導入の代価は非常に高くつくと思われる。(社会が壊れ、もう元に戻れなくなる。)
その代価を払うのは、シンガポールでもどこでも自由に住める「富裕層」ではない。高い家賃を払えない、国外脱出もできない「庶民」だ。移民と「仕事を奪い合う」ことになる貧乏原住民だ。

「イスラム」について「思い違い」をすると、とんでもないことになる。事前に知っておくべきだ。
一握りの「インテリ教養人」「上級市民」と、一般労働力としてやってくる「移民」は全く異なる。「下層民」は相手の文化など尊重しない。
「差別」をしたくなければ、最初から「必要な距離」を置いて接するべきだ。

「母系社会」氏は、日本がそういう社会になることを願っているのだろうか。
「知る大切さ」氏は、どの程度「知る努力」をしているのだろうか。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/373.html#c1

[近代史3] アイヌ人は先住民ではない、日本人は単一民族だというデマを撒き散らすチャンネル桜 中川隆
1. 中川隆[-10455] koaQ7Jey 2019年4月30日 20:41:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1632]

アイヌ新法の何が画期的なのか?〜「アイヌ否定」歴史修正主義の終えん。平成の最後にアイヌ復権への第一歩
古谷経衡 | 文筆家/著述家 4/29(月) 23:58
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/



さっぽろ雪まつりでアイヌ装束を着るアイヌの人々(写真:つのだよしお/アフロ)


1】法律に初めてアイヌの先住性を明記

アイヌの伝統的狩猟対象である鮭(photAC)
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/


 4月19日、「アイヌ新法」が参議院で可決、成立した。この新法のもっとも画期的な部分は、我が国の法律史上、はじめてアイヌを「先住民族」と規定したことにある。ではこれまでの国のアイヌ民族の先住性に対する考え方はどのようなものであったのか。

 1997年(平成9年)、「北海道旧土人保護法」が廃止され、代わりに同年施行された「アイヌ文化の振興並びにアイヌ民族の伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(旧アイヌ法)では、アイヌを初めて「民族」と認めたことが画期的であったが、アイヌの先住性までは言及されなかった。

 これに先立つこと1995年、村山富市内閣は内閣官房長官の私的諮問機関として「ウタリ(アイヌ語で”同胞”の意)対策のあり方に関する有識者懇談会」を設置し、1996年には同懇親会から「中世末期以降の歴史の中で見ると、アイヌの人びとは当時の”和人”との関係において北海道に先住していたことは否定できない」等の報告書が提出された。

 また旧アイヌ法の制定を受け、衆議院と参議院内閣委員会では、「アイヌの人びとの『先住性』は、歴史的事実であり、この事実も含め、アイヌの伝統等に関する知識の普及並びに啓発の推進につとめること」とする付帯決議が盛り込まれている。また2008年には衆参両院本会議は、アイヌ民族を先住民族と認定することを求める決議を全会一致で採択した。

 しかしながら、このような国のアイヌ文化振興への取り組みのなかでも、アイヌ民族の先住性が法律に書き込まれたことは一度もなかった。

 日本は単一民族国家ではなく、アイヌがかつて現在の東北からサハリン、千島などにかけて広範に先住していたことは自明であったが、法律に「先住民族」を明記したことは、上記のような経緯からアイヌにとっても悲願であり、また先住民族の権利擁護や文化復権を求める国際的な潮流にようやく日本が追いついたことの証左であり、重ねて画期的といえる。

2】歴史修正主義者たちから沸き上がったアイヌ否定論

”デマ”のイメージ(pfotoAC)
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/

 しかし、このようなアイヌに対する「先住性」「民族性」を真っ向から否定する歴史修正主義の動きが、2008年ごろから沸き起こる。これがいわゆる「アイヌ否定論」であり、この論の骨子は、1)「アイヌ民族は存在しない」、2)「アイヌ民族は先住民族ではない」という何ら歴史学的根拠に基づかないトンデモな主張であった。

 この「アイヌ否定論」の最前衛に立ったのは、漫画家の小林よしのり氏である。小林氏は漫画という媒体を用いて、「アイヌ否定論」をぶちあげた。小林氏は取材の中でアイヌ文化研究家の河野本道氏なる人物と知己となり、河野氏の「アイヌ否定」説に全面的に依拠して、「アイヌなどいない」「アイヌは先住民族ではない」という、歴史学会では歯牙にもかけられていない「珍説」を紙面上で訴え続けた。

 この小林氏の珍説に明らかに影響されたとみられるのが、北海道札幌市議会議員(当時)であった金子快之(やすゆき)氏である。金子氏は2014年8月11日、自身のツイッター上で「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいがアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行使しまくっているこの不条理。納税者に説明できません」とつぶやき、一斉に非難を浴びた。

 金子氏は2014年9月、このツイッター上での差別発言を理由に、所属していた自民党札幌支部連合会を除名され、市議会が辞職勧告決議を出したが辞職しないまま、2015年4月12日投開票の札幌市議会議員選挙(15年統一地方選挙)で落選した。

 ところが金子氏は、つい先般行われた2019年4月24日投開票の渋谷区議会議員選挙(19年統一地方選挙)で政治団体「NHKから国民を守る党」から出馬し、当選して議員に返り咲いている。

3】アイヌ否定から沖縄ヘイトへ

 もう一例は北海道議会議員(当時)であった小野寺秀(まさる)氏である。小野寺氏は、アイヌの先住性に疑問を投げかける見解を2014年に道議会で提起した。当時の紙面から抜粋する。

北海道議会の最大会派「自民党・道民会議」の小野寺秀(まさる)議員(51)=帯広市選出=が11日の道議会決算特別委員会で、「アイヌが先住民族かどうかには非常に疑念がある。グレーのまま政策が進んでいることに危機感を持っている」と発言した。(中略)毎日新聞の取材に小野寺氏は「アイヌ民族の存在は否定しないが、北海道と本州の間は昔から多くの人が往来している。北海道がアイヌだけの島だったことは誰も証明できない」と主張。決算委では「我々の祖先は無謀なことをアイヌの人たちにやってきてはいない。そういう自虐的な歴史を北海道で植え付けるのはいかがなものか」とも述べた。

出典:毎日新聞(2014.11.12)、強調筆者

 小野寺氏は、自民党の議員でありながら、すでに述べた通り、2008年に衆参両院本会議で、アイヌ民族を先住民族と認定することを求める決議を全会一致で採択したことを無視する意見を公に表明したことで大きな問題とされた。この小野寺氏は2015年の北海道議会選挙において改選を迎えたが出馬せず、政界を引退した。現在では主に右派系ネット番組等に精力的に出演を続けている。

 この両氏は、前後の文脈から総合的に考察しても、明らかに歴史学の「いろは」にすら接触しておらず、体系的な日本史知識というものが全く欠落していると推量される。両氏の主張は既出の小林よしのり氏による「アイヌ否定」というトンデモ論のコピーであることは自明で、この他にも北海道在住の自称アイヌ研究家などが小林氏の影響を受けて盛んな「アイヌ否定論」「アイヌ利権の危険性」等を繰り返した。

 しかし、にわかに2014年〜15年にかけて最盛を迎えるかにみえた「アイヌ否定論」は、その後、ネット右翼や中央の保守論壇の間では爆発的には浸透せず、代わりに彼らのデマ・トンデモ・憎悪の矛先は南方に転じて、沖縄における反基地活動家・普天間基地辺野古移設反対派への呪詛、翁長雄志前沖縄県知事らへの周到で執拗なデマ攻撃へと転換していった。

 ではなぜ「アイヌ否定論」は、ネット右翼や中央の保守論壇に於いて決定的な盛り上がりに欠けたのだろうか。

4】歴史修正主義「アイヌ否定論」の終わり

 その理由は、簡単に述べると以下のようになる。

1)アイヌの存在と先住性があまりにも明白で揺るぎようのない事実であること

2)ネット右翼や中央の保守論壇の中で、北海道(北方問題)への興味・関心が薄いこと

3)小林よしのり氏らが最前衛となった「アイヌ否定論」が、歴史学的な検証に耐えられるものではないトンデモ論であったために、南京大虐殺否定や従軍慰安婦への日本軍関与の否定など、同様の歴史的問題(…こぞって保守系言論人がそれを追検証するような事態)と違って「アイヌ否定論」に追従する中央の保守系言論人や研究者がいなかったこと

4)「アイヌ否定論」と対にして語られた「アイヌ利権」なるものが、まったく確認されていないこと

5)そもそも日本政府が「アイヌ民族」の存在を認めていること

 などである。そして最大の理由は、

6)「アイヌ否定論」の最前衛となった小林よしのり氏が、従前から「反米保守」「アンチ・ネット右翼」の立場を採っていたことで、ネット右翼や中央の保守論壇に対する影響力をこの段階(2014年〜15年時点)で著しく喪失していたこと。またそれと同様に、小林よしのり氏の漫画の商業的停滞が続いていたため、全般的な影響力が限局したものにとどまったこと

 である。

 こうして一時期盛り上がった「アイヌ否定論」はすぐに鳴りを潜めたが、漠然とした「アイヌ否定」「アイヌ利権」という、ネガティブなイメージがネット空間に広がったことは確かだった。しかし今回の「アイヌ新法」の成立によって、国が初めてアイヌを「先住民族」と認めたことで、こういった歴史修正主義者たちのトンデモ論は最終的かつ不可逆に葬り去られたことになった。

 だが、小林よしのり氏が盛んに唱えた「アイヌ否定論」が、北海道の地方議員やその支持者たちに広がり、「なんとなくアイヌってその存在自体が怪しいし、弱者利権のにおいがする」というイメージを植え付け続けたという時点で、小林氏の責任は重いものと言わざるを得ない。「アイヌ新法」の成立によって、ネット空間に漠然と伝播されたアイヌに対するネガティブイメージが、徐々にであっても希薄化していくことを願うものである。

5】アイヌ民族史概説〜中世から幕末まで〜

筆者作成
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/

 さて本稿後半では、駆け足ではあるが「アイヌ民族はいない」「アイヌは先住民族ではない」という「アイヌ否定論」がいかにトンデモであるかを歴史的に振り返りたい。

 アイヌ民族が日本(和人)の記録に初めて登場したのは14世紀の室町時代である。『アイヌ民族の軌跡』(浪川健治、山川出版社)によると、

 アイヌ民族を記した本州の最初の資料は室町初期の1356(延文元)年に、諏訪(小坂)円忠を発願者として成立した「諏訪大明神絵詞(すわだいみょうじんえことば)」である。(中略)東北の大海の中央に「蝦夷カ千島」があり「日ノ本(ひのもと)」「唐子(からこ)」「渡党(わたりとう)」の三類の蝦夷が群居する。「日ノ本」と「唐子」は外国に連なり、風貌は夜叉(やしゃ)のようであり、禽獣(きんじゅう)・魚肉を食として農耕を行わない。そして、言葉はまったく通じない。

 一方「渡党」は和国の人に似て、言葉も大半は通じるが、髭面多毛な人という。また霧を起こす術を心得ていたり、山野を獣のように走ることができ、毒矢を用いて武器にしたり、木を削って幣帛(へいはく=神に奉献する供物)のようなものをつくる。「宇曽利鶴子洲」(現在の函館、または下北半島)、「万当宇満伊犬」(現在の松前)という小島があり、「渡党」は多く「津軽外が浜」に往来し交易していると記されている。

出典:『アイヌ民族の軌跡』P26-27、浪川健治、山川出版社、強調筆者

 という。この事から、室町時代の日本人には、蝦夷=アイヌが少なくとも三分類あり、また地理的な事実誤認はあるものの下北半島より北(要するに北海道やサハリン、千島)に居住する「異国人」として認識されていたことがわかる。

 応仁の乱に端を発した戦国期になると、北海道南部にも和人が進出し、紆余曲折の末、松前氏(蠣崎氏から改名)が現在の函館を中心とした渡島半島南部に和人のコロニーを建設する。戦国期が終わり、徳川幕藩体制が確立されると、松前藩が成立して18世紀に大名(石高のない1万石扱い。参勤交代は遠隔地特例で6年に1回)となり、アイヌとの交易で富を蓄えた。

 しかし、松前藩とアイヌとの間には交易をめぐるトラブルが多発した。その多くの原因が松前(和人)側の強権的な交易比率の改悪等であった。これが原因で17世紀中葉には最大の反和人蜂起といわれる「シャクシャインの戦い」(寛文蝦夷蜂起)、18世紀後半には「クナシリ・メナシの戦い」が現在の道東・国後島を中心として起こった。

 基本的に江戸幕府は、海禁政策(鎖国)を維持しつつも、外国との接触点、つまり国境をあいまいな形にしておき、交易や通信を直接行うのではなく、特定の大名に一任し、日本周辺の異民族を服属させているという図式をとることによって、間接的に幕府の「御武威・御威光」を内外に誇示した。幕府は特定の大名に交易を独占させる特権を与える一方、そこから得られた外国情報を江戸に集約させ対外情勢の分析にあたった。

 この体制を「日本型華夷秩序(にほんがたかいちつじょ)」と呼ぶ。この「日本型華夷秩序」の中で、事実上ロシアと国境を接する蝦夷=アイヌとの交易・通信を任されたのが松前藩であった。

 しかし19世紀初頭になると外国船の来航が頻繁となり、幕藩体制は動揺する。特にロシア船が根室に来航し通商を要求。これを幕府側が拒否した報復として樺太や国後島等がロシア軍船の砲撃を受ける文化露寇(1806年、1807年)が起こると、応戦した松前藩、津軽藩、南部藩らの諸兵がロシア軍の圧倒的な火力の前に敗北を喫した。

 このような情勢の中、幕府は1799年、蝦夷地を直轄地として蝦夷地奉行を置き(のち箱館奉行と改名)、ロシアの南下に対抗するべく軍備拡充とアイヌの同化政策を強化する。具体的にはアイヌに対し農業耕作を推奨し、日本語使用を推奨、日本服着用の許可、儒教徳目による教化、日本風の名前への改名などであった。

 結局、江戸幕府の蝦夷地直轄は、一時期の松前藩への返還(1821年〜1854年)を挟んで幕末まで続いた。しかしこういったアイヌへの同化政策は、幕府が滅び明治へと世が変わる時代と比べれば、まだしも穏やかな部類であった。

5】アイヌ民族史概説〜アイヌへの完全な日本同化政策〜

筆者作成
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/

 明治政府は、1869年(明治2年)、開拓使を設置し「蝦夷」の呼称を「北海道」に改名した。北海道の誕生である。また四民平等の原則に基づき、1871年(明治4年)、アイヌは「平民」に編入することが布告された。

 しかし日本人平民と区別するために1878年(明治11年)、アイヌは「旧土人」と呼称することが正式に決定され、公の呼称ではアイヌは「旧土人」と位置付けられ、なんとこの露骨な差別的呼称が、本稿冒頭における1997年(平成9年)の「北海道旧土人保護法」の廃止まで使用され続けたのである。

 明治政府によるアイヌへの日本同化政策は、それ以前の幕府時代と比べて極めて苛烈で、そして近代的国民国家の形成に即した急激なものであった。明治政府が実行したアイヌへの苛烈な同化政策は以下の通り。

(明治)維新政府は、アイヌの人びとを「開明の民」とするためにアイヌ民族古来の風俗や風習を一方的に禁止する。(中略)女子の入墨、男子の耳輪を禁止し、違反者は「厳重ノ処分」を行うとした。(中略)さらに、経済的基盤としての生業についても、1871(明治4)年には根室地方の鮭の種川とされていた西別川での流し網を禁止し、1874(明治7)年には豊平川とその支流での引き網・ウライ猟(アイヌの伝統的な漁業方法)を制限した。

 1876年以降になると、西別川では一漁場、猟一統に制限し、乱獲防止を名目に禁漁に等しい厳しい制限を強いた。また同年、アイヌの伝統的狩猟法の一つである仕掛弓や毒矢の使用を「獣類生息ノ妨害」を理由として禁止し、「新業(主に農業)ニ移シ、又ハ猟銃ヲ貸与」することをはかっただけでなく、「免許鑑札」を受けた者以外の鹿猟を禁止するにいたる。近代国家によって、アイヌ文化とその継承はすべての面において否定され、「臣民」化が生活の窮迫とあいまって進行した。

出典:『アイヌ民族の軌跡』P.87〜88、浪川健治、山川出版社、カッコ内一部筆者、一部言いかえをした箇所あり、強調筆者

 このように明治政府が推進したアイヌへの日本同化政策は、蝦夷を北海道と改名し、開拓使を設置しただけではなかった。アイヌ民族の精神的アイデンティティを奪いつくし、経済的にも圧迫(慣れない農業への強制転換など)し、アイヌを完全に日本帝国の内側に取り込もうとした究極の同化政策を行ったのである。

 前述した小野寺道議の「我々の祖先は無謀なことをアイヌの人たちにやってきてはいない」という発言は、このような歴史的経緯に照らし合わせてみても、まったくのデタラメであり歴史修正主義であることが分かる。

 そしてこの同化政策は、あろうことか平成の時代まで「北海道旧土人保護法」という名の下で事実上、続いていたのである。

 平成が終わり令和の時代が到来するいま、「アイヌは我が国における先住民族である」と法律で明記されたことは、明治以来進められた近代国家の負の遺産の清算、およびアイヌ民族の誇りを取り戻す積極的動きが、ようやく平成の最後にその第一歩を記したという意味においても画期的なものなのだ。(了)

*参考図書:『アイヌ民族の軌跡』(浪川健治、山川出版社)、『アイヌ民族否定論に抗する』(岡和田晃、マーク・ウィンチェスター 編、河出書房新社)
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/323.html#c1

[近代史3] 施 光恒 : 「グローバル化」とは「多国籍企業中心主義化」

施 光恒 :「グローバル化」とは「多国籍企業中心主義化」

「日本の未来を考える勉強会」
ーポストグローバル化に向かう世界とナショナリズムの意義ー平成31年3月27日 
講師:九州大学准教授 施 光恒氏 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=helG4ohheTM
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/397.html

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
102. 中川隆[-10454] koaQ7Jey 2019年5月01日 05:03:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1634]
>>101
>新天皇は知恵遅れなんかじゃないよ。


2013年3月4日月曜日
ベルギー大使館のパーティーに行った時に、
イスラエルから来ていたモサドのエージェントの日本人の奥さんが

「美智子様のお子様はお一人だけなのよ」

と自慢げに話していた。

その時に常陸宮夫妻も来ていたが

「彼、精神薄弱なの」

とも言っていた。よく観察してみたが、やはり彼女が言うように精神薄弱のようだ。
http://reptilianisreal.blogspot.jp/2013/03/blog-post_6330.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c102

[近代史3] 神道の事を単なる儀式であって宗教ではないと思っている天皇一族には理解できない神道の世界 中川隆
4. 中川隆[-10453] koaQ7Jey 2019年5月01日 05:37:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1635]
2019.05.01
元号は支配層が情報を操作する道具のひとつ

 日本の支配層が執着している現在の「元号」は一世一元、つまり天皇と一心同体の関係にある。天災、事変、祥瑞、即位などさまざまな理由で改められていた本来の元号とは異質。薩摩と長州を中心とする「明治王朝」によって作り上げられた新しいものである。

 今でも続く明治王朝とは天皇制官僚体制であり、その上にはイギリスやアメリカを支配する巨大金融資本が君臨している。その歴史は本ブログでも繰り返し書いてきた。明治王朝が築かれる過程で自由民権運動が破壊され、琉球併合を手始めに東アジア侵略をはじめている。

 その侵略を後押ししていたのがイギリスの支配層。中でも重要や役割を果たしたジャーディン・マセソンは中国(清)への麻薬密輸や武器取引で大儲けした会社だ。麻薬を売りつけるため、イギリスは1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年までアロー戦争を引き起こしている。

 彼らが扱っていた麻薬、つまりアヘンはインドから持ち込まれていた。そのインドを支配するためにイギリスの東インド会社は傭兵(セポイ)を使っていたが、この傭兵が1857年に武装蜂起、一般のインド人を巻き込んで大反乱になる。

 蜂起軍は統制されていなかったことから1859年に鎮圧されるが、その年にジャーディン・マセソンはふたりのエージェントを日本へ送り込んでいる。ひとりは某作家の歴史小説で有名なトーマス・グラバーで、赴任地は長崎。もうひとりはジャーディン・マセソンの創設者一族に属すウィリアム・ケズウィックで、赴任地は横浜。

 日本を貿易の対象と見ていただろうが、それだけでなく、傭兵の供給地にしようと目論んでいた可能性が高い。アヘン戦争やアロー戦争でイギリスは中国に勝利したが、それは海戦。内陸部を支配する兵力を持っていなかった。傭兵が必要、ということで日本が目をつけられたのだろう。だからこそ、イギリスは戦費を用立て、技術を提供している。

 明治以降は勿論だが、それ以前も日本が世界と無縁だったわけではない。そもそも「鎖国」という表現が正しくない。外国との交流はあったが、徳川体制が管理していただけである。現在も人びとが勝手に外国へ出て行ったり、外国人が勝手に日本へ入ってくれば犯罪だ。

 ところが、日本は外国と関係ない閉じた空間だという前提で歴史を考え、歴史も因果の連鎖として捉える人が少なくない。現在の内政を語る場合にも似たことが言える。少なからぬ日本人は空間的な広がりや時間的な流れで現状を見ることができない。

 日本人がそうした思考をする一因は元号にあるのではないだろうか。元号は日本独自のもので、外国の出来事との関連を考えるためには不便。歴史も寸断され、大きな流れとして捉えることには不向きだ。しかも出来事を天皇と結びつけて考えることを強いる。元号は支配層が情報操作する道具としても機能している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905010000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/124.html#c4

[番外地7] 知ると脱力 日本の伝統の正体(笑) 中川隆
2. 中川隆[-10452] koaQ7Jey 2019年5月01日 05:40:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1636]

天皇と儒教思想 伝統はいかに創られたのか? (光文社新書) – 2018/5/16
小島毅 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%A8%E5%84%92%E6%95%99%E6%80%9D%E6%83%B3-%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%89%B5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E6%AF%85/dp/4334043542?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp


出版社からのコメント

◎天皇皇后両陛下の宮中行事、陵墓造営、宮中祭祀、歴代天皇の系譜、一世一元の制……
◎創られたのは明治、ネタ元は儒教思想


【内容紹介】

八世紀の日本で、律令制定や歴史書編纂が行われたのは、中国を模倣したからだ。
中国でそうしていたのは儒教思想によるものだった。
つまり、「日本」も「天皇」も、儒教を思想資源としていたといってよい。

その後も儒教は、日本の政治文化にいろいろと作用してきた。
八世紀以来、天皇が君主として連綿と存続しているのは事実だが、その内実は変容してきた。

江戸時代末期から明治の初期、いわゆる幕末維新期には、天皇という存在の意味やそのありかたについて、従来とは異なる見解が提起され、それらが採用されて天皇制が変化している。

そして、ここでも儒教が思想資源として大きく作用した。

本書は、その諸相を取り上げていく。


【本文より】
天皇や皇族の日常生活が、明治維新のあとは洋装にお変わりになり、洋館にお住まいになり、洋食を召し上がるようになったというたぐいのことは目につきやすく、「近代化」を象徴する行為として認識されていよう。

しかし、じつは祭祀・儀礼といった、古くからの伝統に由来しているはずの行為も、その多くがやはり明治維新の前後に新しく始まったものだった。

洋装・洋館・洋食といった西洋化とは異質ながらも、それらもまた明治時代の近代天皇制を支える装置だった。

すなわち、古制という名目によりながら、近代天皇制にあわせて改変されたものだった。
(「はじめに」より)


【著者紹介】
1962年生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。
東京大学大学院人文社会系研究科教授。専門は中国思想史。
東アジアから見た日本の歴史についての著作も数多くある。
著書に『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』『朱子学と陽明学』(以上、ちくま学芸文庫)、
『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ)、『父が子に語る日本史』『父が子に語る近現代史』(以上、トランスビュー)、
『「歴史」を動かす 東アジアのなかの日本史』(亜紀書房)、『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)、
『儒教の歴史』(山川出版社)などがあり、
監修したシリーズに『東アジア海域に漕ぎだす(全六巻)』(東京大学出版会)がある。

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち3.0
儒教的な「制度」ばかりが取り上げられ、儒教的な「思想」が取り上げられていない 2018年8月6日


 本書では、天皇の稲作・皇后の養蚕、天皇陵の認定・整備、宮中祭祀、天皇の系譜の確定、一世一元制(天皇1代で1回の改元)といった、天皇をめぐる諸制度の大半が、明治維新の前後以降に、新たに創られた伝統だと指摘されており、改暦(太陰太陽暦から太陽暦への転換)にも言及しています。

 そして、筆者は、「宗教信者が自分の教義を生活信条とするのは個人の自由だが、それを他の人々にも押し付け、自分たちの教義で国家の制度を決めてはならない。最近の議論はこの原則に抵触しかねない傾向を帯びていると、私には感じられる。」といっています(p.21-22)。

 つまり、筆者は、天皇をめぐる諸制度が、国家の制度・国民の統制等に踏み込めば、特定の宗教教義だけが優遇されて問題だと力説していますが、ここで取り上げられた諸制度の説明は、いかに儒教由来かの解説に終始しており、いかに国家の制度・国民の統制等に踏み込んだのかが、ほとんどありません。

 よって、ここでは、そこまで紹介しておきます。


・天皇の稲作・皇后の養蚕

 稲作は、昭和天皇(124代)から(1927/昭和2年)、養蚕は、明治天皇(122代)の皇后(昭憲/しょうけん)から(1871・明治4年)、取り組まれましたが、これらは、戦後でこそ、マスコミで報道されますが、戦前・戦中の国民が、認知していたのかは疑問で、天皇・皇后個人の信条の範囲といえます。

 むしろ、取り上げるべきは、明治初期からの神道非宗教論を根拠とし、神道国教化のため、古代社格制度を復活させた、近代社格制度で、特定の神社は、毎年2月の祈年祭・11月の新嘗祭と例祭に、政府か知事から幣帛(実際は金銭)が奉献されましたが、これは、皇室・朝廷ゆかりの神社等への優遇です。


・天皇陵の認定・整備

 これは、万世一系の天皇を強化するための施策で、皇室の陵墓は、古代前半まで、律令制下で管理されましたが、古代後半から、律令制が形骸化すると、しだいに荒廃し、中世には、完全に仏主神従になり、神式の土葬より仏式の火葬が流行、朝廷の財政も逼迫し、皇室の陵墓も、忘れ去られた存在でした。

 それが、近世には、神主仏従へと転換し、尊皇思想を背景に、江戸期から明治期にかけて、皇室の陵墓を特定・整備されるようになりました。

 記紀神話では、神武天皇(初代)が、日本の建国者なので、この時期にはじめて、歴代天皇で最重要視されるようになり、宮中祭祀や、国民の祝祭日で、神武天皇への崇敬を誘導するとともに(後述)、神武天皇陵が規定されると、それに隣接して橿原神宮を創建しています(1890・明治23年)。

 天皇陵は、いったん認定・整備されれば、後世に疑義が提示され、それが有力であっても、ほとんど指定変更されませんが、それは、儒教道徳での祖先崇拝にあたり、混迷できないからで、史実の不安定よりも、信仰の安定を優先させているのでしょう。

 当時の皇室の陵墓の整備は、江戸幕府や明治政府の費用負担で、現在は宮内庁が管理していますが、これは長年、歴代天皇が公認してきた政権が、日本国の為政者と定義され、戦後からは、天皇が特定の個人・団体に依存しないよう、皇室を公私にわたり、国費で庇護しているのです。

 ただし、皇室の陵墓は、皇室や宮内庁が祭祀・管理するだけで、国民に拝礼を強要していないので、皇室の信条の範囲と位置づけられます。


・宮中祭祀

 宮中三殿のうち、賢所は、東京遷都で京都から移転し、三種の神器のヤタノカガミを複製した神鏡が安置・祭祀され、皇霊殿と八神殿は、神祇官から神祇省への降格・廃止で、皇居外の神祇官から皇居内へ移転、皇霊殿は、歴代皇室の祖霊が、八神殿(神殿と改称)は、天上・地上の神々が祭祀されました。

 したがって、三殿が皇居内に結集し、天皇が祭祀を主宰するようになったのは、明治初期(1872・明治5年)からで、それ以前の、天皇による祖先崇拝は、仏式で法会されていましたが、神仏分離令にともない、春と秋の彼岸の時期に、皇霊祭が執り行われるようになりました(春季皇霊祭・秋季皇霊祭)。

 宮中祭祀は、天皇(親祭)か、宮内省の担当者が執り行いますが、明治・大正(123代)の2天皇は、あまり熱心でなく、昭和・平成(125代)の2天皇や大正・昭和天皇の2皇后(貞明/ていめい・香淳/こうじゅん)は、とても熱心だったので、宮中祭祀自体は、天皇・皇后個人の信条の範囲といえます。

 天皇主宰の宮中祭祀(大祭)は当初、古代からのが、新嘗祭(11月23日)・神嘗祭(10月17日)の2つで、近代からのが、元始祭(1月3日)・紀元節祭(2月11日)・神武天皇祭(4月3日)・春季(春分の日)・秋季(秋分の日)皇霊祭+神殿祭・先帝祭(孝明・明治・大正天皇)の8つでした。

 ですが、大祭すべてを、天皇が執り行っておらず、担当者の代理も多々あるので、ここまでは、天皇個人の信条の範囲ですが、問題は、明治初期(1873・明治6年)から、宮中での大祭日を、国民の祝祭日として、休日に規定したことで、天皇と国民を結び付けています。

 祝祭日の制定時には、古来よりの慣習の元日(1月1日)・宮中での新年宴会(1月5日)と、元始祭(宮中三殿での天皇親祭、1月3日)・孝明天皇(121代)祭(死去日、1月30日)・紀元節(神武天皇即位日、2月11日)・神武天皇祭(死去日、4月3日)・神嘗祭(五穀豊穣の感謝祭、9月17日)・天長節(明治天皇誕生日、11月3日)・新嘗祭(収穫祭、11月23日)の9日が休日でした。

 制定の5・6年後には、春季皇霊祭(春分の日、1879・明治12年から)・秋季皇霊祭(秋分の日、1878・明治11年から)の2日が、休日に追加され、神嘗祭は、新暦だと、稲穂の生育が不充分な時期なので、旧暦に近い、1ヶ月後(10月17日)に移されています。

 明治天皇の死後、天長節は、大正天皇の誕生日(8月31日)に移行しましたが、この時期が盛暑なので、2ヶ月後(10月31日)も祝日としました(天長節祝日)。
 戦前・戦中には、前天皇の死去日の先帝祭(孝明天皇祭・1月30日、明治天皇祭・7月30日、大正天皇祭・12月25日)が、休日だったのを、戦後には、昭和天皇の死後、昭和天皇の誕生日(4月29日)を、みどりの日→昭和の日とし、前天皇の誕生日を、休日に制度化しつつあります。

 現在でも、国民の祝日・16日のうち、紀元節が建国記念の日、天長節が文化の日、新嘗祭が勤労感謝の日、春季皇霊祭が春分の日、秋季皇霊祭が秋分の日と、昭和の日・天皇誕生日(12月23日)の、皇室ゆかりの日・7日が継承され、天皇と国民の結び付きが潜在化しているとも解釈できますが、近年は、祝日の4日を月曜日に移動させ、3連休にしたので、皇室ゆかりの祝日が顕在化する結果になっています。

 そのうえ、明治中期の教育勅語発布の翌年(1891年)から、宮中祭祀の大祭のうち、元始祭・紀元節・神嘗祭・天長節・新嘗祭の5日を、校長・教員と生徒に、小学校で儀式を執り行わせ、学校行事化し、天皇と学校を結び付けており、ここまで注目しないとといけないでしょう。


・天皇の系譜の確定

 これも、万世一系の天皇を強化するための施策ですが、南北朝分裂で、北朝より南朝を、正統とするのが主流となったのは、儒教道徳の優劣ではなく、三種の神器を所持していたからという根拠が、本書で忘れ去られています。

 南北朝期に、南朝方の北畠親房(ちかふさ)は、「神皇正統(じんのうしょうとう)記」で、三種の神器の、鏡は正直、玉は慈悲、剣は智恵の象徴とし、これらを所持している南朝の天皇は、有徳者だとしています。

 また、江戸初期に、儒学者・林羅山は、三種の神器の、鏡は智、玉は仁、剣は勇と、儒教の3徳目を象徴しているとし、孔子の「論語」には、「智者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず」とあるので、三種の神器を継承した歴代天皇が、有徳者であるとしました。

 さらに、徳川光圀ら編纂の「大日本史」は、前述の2人と同様、三種の神器の所持を根拠に、南朝を正統にしたうえ、神功皇后(14代と15代の間)は、天皇から除外、大友皇子は、弘文天皇(39代)として算入し、これら3条件が、明治政府に採用されています(1911・明治44年)。

 ちなみに、鎌倉後期の持明院統と大覚寺統の両統迭立や、それが深刻化した南北朝分裂は、皇位継承の正統性が、血筋だけで主張できなかったので、当時頻繁に、儒教道徳が持ち出されたことに、注視すべきです。

 天皇の系譜の確定は、皇室の陵墓の認定・整備と同様、それ自体だけだと、皇室の信条の範囲といえますが、戦前・戦中の学校教育で、歴代天皇の名前の暗記・暗誦を必須にしたのは、国民への強制といえます。


・改暦

 太陰太陽暦から太陽暦への転換(1872・明治5年→1873・明治6年)は、本書だと、当時の政府が財政危機で、2か月分(改暦での誤差1ヶ月+閏月1ヶ月)の公務員給与を、節約できるからとしていますが、実際は、先進国からの摂取を、中国から欧米へと転換し、それに都合がよかったからでしょう。

 江戸期には、幕府が暦の改定を、朝廷から奪取しており、幕末・維新で、王政復古を標榜しつつも、実際の為政者は、上流武士中心から下級武士中心へと切り替わっただけなので、明治期の改暦にも、あまり抵抗がなく、韓国は1896年、中国は1912年に、太陽暦を導入したので、日本は先進的といえます。

 ですが、中国・韓国で、対外的には、新暦(太陽暦)を採用しつつも、対内的には、旧暦(太陰太陽暦)で生活している一方、日本で、旧暦から新暦へと完全に転換したのは、同年に規定した、季節感のある祝祭日が、祈年祭・神嘗祭・新嘗祭の3つだったのが影響しているのではないでしょうか。

 祈年祭は、旧暦2月4日から新暦2月17日へ、神嘗祭は、旧暦9月11・17日から新暦9月17日→10月17日へ(前述)、新嘗祭は、明治6年の旧暦11月の2の卯の日が、新暦11月23日なので、その日に移行し、天皇の即位日・誕生日・死去日も、旧暦を新暦に換算しました。

 元日(1月1日)・元始祭(1月3日)・新年宴会(1月5日)は、年始の日付に意味があるので、そのままとし、節会(せちえ)・節句も、同様ですが(1月7日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日)、これらは、季節感とのズレが顕著です。


・一世一元制

 東アジアでは、皇帝・国王・天皇が1代で、数回改元する場合と、1回のみ改元する場合に、大別できますが、近代日本の一世一元制が、他と全く異なるのは、後世に、天皇の即位から退位・死去までを、一時代と区分することで、この表記は、日本で革命的な出来事があるまで、おそらく存続するでしょう。

 たとえば、奈良末期〜平安初期の桓武天皇(50代)は、即位から死去まで、おおむね延暦の元号だけでしたが、文書上で、延暦と表記されるだけでは、それが桓武天皇の時代だったとは、知識がないと直接わかりません。

 しかし、明治・大正・昭和・平成・…は、天皇と時代が一対一で対応し、これらは、中国・朝鮮での王朝名や、日本での朝廷(飛鳥・奈良・平安)・幕府(鎌倉・室町・江戸)の場所とは違う時代区分で、「日本書紀」の元号なしの時期での、「神武天皇何年」といった表記と似ています。

 8〜9世紀には、日本・中国・渤海で、一世一元制が取り入れられていたようですが、それよりも、近代日本での、天皇と時代の直結のほうが、はるかに異質で、こちらを強調すべきではないでしょうか。

 ここまでみると、本書で取り上げられているのは、天皇・皇后個人の信条の範囲がほとんどなので、そこで皇室が、伝統を新規に創出するのも、信教の自由で、天皇をめぐる諸制度が、国家の制度・国民の統制等に影響してはじめて、問題化すべきなのに、筆者は、そこまで踏み込んでいません。

 実は、本書で取り上げられている、明治前期までの天皇をめぐる諸制度の大半は、神道国教化のために導入されましたが、国民が信教の自由で抵抗し、天皇への崇敬が、あまり浸透せず、いったん断念されています。

 そこから、政府は、方針転換し、明治中期からの軍人勅諭・教育勅語、明治後期からの神社神道(神社非宗教論)・家族国家観等、儒教思想を次々に打ち出すことで、国家神道を構築していきましたが、それらが、本書に皆無なのは、大変残念です。

 筆者の専門が、中国思想史なら、中国や朝鮮の儒教が、忠と孝を区別していたのを、近代日本の儒教は、忠孝一致に特化することで、国民の天皇への絶対忠誠を実現させたことに、もっと踏み込むべきだったのではないでしょうか。

 神道に、儀式はあるが、教義がないので、近代日本では、教義に儒教を持ち込みましたが、それは、中国を模倣しただけでなく、日本独特な思想も打ち立てており、むしろ、そちらで国民を追い込み、戦禍で多大な犠牲となりました。

 さらにいえば、その思想が、儒教・仏教・神道・道教等、どこ由来かを追求するだけでは、無意味で、それよりも、どのように国民を追い込んでいったのかのほうに、意味があるのではないでしょうか。

 そもそも、伝統とは、保守しつつ、革新していくものなのですから…
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R35BD6RYXYABGT?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp

▲△▽▼



2019.05.01
元号は支配層が情報を操作する道具のひとつ

 日本の支配層が執着している現在の「元号」は一世一元、つまり天皇と一心同体の関係にある。天災、事変、祥瑞、即位などさまざまな理由で改められていた本来の元号とは異質。薩摩と長州を中心とする「明治王朝」によって作り上げられた新しいものである。


 今でも続く明治王朝とは天皇制官僚体制であり、その上にはイギリスやアメリカを支配する巨大金融資本が君臨している。その歴史は本ブログでも繰り返し書いてきた。明治王朝が築かれる過程で自由民権運動が破壊され、琉球併合を手始めに東アジア侵略をはじめている。


 その侵略を後押ししていたのがイギリスの支配層。中でも重要や役割を果たしたジャーディン・マセソンは中国(清)への麻薬密輸や武器取引で大儲けした会社だ。麻薬を売りつけるため、イギリスは1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年までアロー戦争を引き起こしている。


 彼らが扱っていた麻薬、つまりアヘンはインドから持ち込まれていた。そのインドを支配するためにイギリスの東インド会社は傭兵(セポイ)を使っていたが、この傭兵が1857年に武装蜂起、一般のインド人を巻き込んで大反乱になる。


 蜂起軍は統制されていなかったことから1859年に鎮圧されるが、その年にジャーディン・マセソンはふたりのエージェントを日本へ送り込んでいる。ひとりは某作家の歴史小説で有名なトーマス・グラバーで、赴任地は長崎。もうひとりはジャーディン・マセソンの創設者一族に属すウィリアム・ケズウィックで、赴任地は横浜。


 日本を貿易の対象と見ていただろうが、それだけでなく、傭兵の供給地にしようと目論んでいた可能性が高い。アヘン戦争やアロー戦争でイギリスは中国に勝利したが、それは海戦。内陸部を支配する兵力を持っていなかった。傭兵が必要、ということで日本が目をつけられたのだろう。だからこそ、イギリスは戦費を用立て、技術を提供している。


 明治以降は勿論だが、それ以前も日本が世界と無縁だったわけではない。そもそも「鎖国」という表現が正しくない。外国との交流はあったが、徳川体制が管理していただけである。現在も人びとが勝手に外国へ出て行ったり、外国人が勝手に日本へ入ってくれば犯罪だ。


 ところが、日本は外国と関係ない閉じた空間だという前提で歴史を考え、歴史も因果の連鎖として捉える人が少なくない。現在の内政を語る場合にも似たことが言える。少なからぬ日本人は空間的な広がりや時間的な流れで現状を見ることができない。


 日本人がそうした思考をする一因は元号にあるのではないだろうか。元号は日本独自のもので、外国の出来事との関連を考えるためには不便。歴史も寸断され、大きな流れとして捉えることには不向きだ。しかも出来事を天皇と結びつけて考えることを強いる。元号は支配層が情報操作する道具としても機能している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905010000/


http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/312.html#c2

[お知らせ・管理20] これが阿修羅に巣食う電通工作員 中川隆
252. 中川隆[-10451] koaQ7Jey 2019年5月01日 05:46:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1637]
世は元号の転換点とお騒ぎであるが、恐ろしいまで個人が特定される時代になった
2019-04-30 そりゃおかしいぜ第三章


秋篠宮の長男悠仁の中学校の机の上に、刃がピンクに塗られた2本の包丁が棒にくくられ置かれていた。元号の転換期に、皇位継承第3位の悠仁への嫌がらせか、何らかのメッセージを含ませたらしいが、犯行意図の詳細は不明である。都会のど真ん中の中学校であるが、工事関係者を装って学校に入って犯行に及んだようである。防犯カメラの一部が切断されていたり、教室の特定などしていたなどから周到に計画されたようである。

驚いたのはそのあとである。僅か3日後の29日に犯人が逮捕されたのである。本人は学校に侵入した事実を認めている。56歳のこの男の素性の詳細は発表されていないが、誤認逮捕でもないようである。

お茶の水周辺なら数万人の人物が常時通るであろう、学校に侵入した男をその中から特定するのである。さらに沿線各地域の街頭や駅などの無数の防犯カメラを解析し降車駅を特定し、住居までたどり着いたのである。

この解析をしたのが、警察のSSBC(捜査支援分析センター)なんと日本語の頭文字をとったこの組織は、2009年に新設された画像収集、解析を専門としたチームである。警視庁が設置している街頭の防犯カメラや、民間のビル、商店、駅の改札にある無数のカメラ映像を収集し解析する組織である。

防犯カメラには犯罪抑止の作用はあるものの、個人がいかなる形であれ特定される時代になったという事実を今回の事件解決に強く感じたのである。この組織は、画像をソートし顔の特徴や体形や動作などから簡単に個人を特定するのである。

犯人が鉄道を使う場面があれば、鉄道会社に照会し、利用時間などから使用された交通系ICカードの利用履歴を調べることもできる。自動車を使っていれば自動車ナンバー自動読取装置(Nシステム)まで解析し行き先を特定することまで可能である。

これらの断片的な情報を1本の線で結ぶリレー方式の捜査を今回警視庁が行ったのである。一般民間人の防犯カメラまで警察は管理下に置くのである。恐ろしい時代になった。都会ではAIの管理下で、個人は生きている時代になったのである。
https://blog.goo.ne.jp/okai1179/e/8a4b69eadc28421b8a45db881a90f539

阿修羅で反体制的な投稿をしてる人も全員 氏名、住所、職場、家族構成、学歴、資産、犯罪歴まで把握されてブラックリストに載っているよ。

http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c252

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
37. 中川隆[-10450] koaQ7Jey 2019年5月01日 06:03:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1638]



2019.05.01
米国政府が政権転覆を仕掛けているベネズエラで銃撃戦の情報


 ベネズエラで4月30日にラ・カルロタ空軍基地の外で銃撃戦があったという。基地のそばで反政府派と見られる兵士に囲まれたフアン・グアイドが軍事蜂起を呼びかける映像が流れている。

 現地からの情報によると、「カラー革命」、つまり旧ソ連圏で西側支配層が仕掛けた市民を動員しての政権転覆工作が失敗した後に一部の部隊が軍事蜂起、グアイドや反政府派の人びとがクーデター軍を支援するような形になっている。

 ベネズエラの政権転覆工作を実行しているグループは2003年にセルビアで設立されたCANVAS、その組織を設立したオトポール(抵抗)!から手ほどきを受けている。

 オトポール(抵抗)!はスロボダン・ミロシェビッチの体制を倒す目的で1998年に作られた。これらにはNED(ナショナル民主主義基金)、IRI(国際共和研究所)、USAID(米国国際開発局)などから、つまりCIAから資金が提供されている。

 現在、アメリカ支配層によるベネズエラの政権転覆工作を指揮しているのはエリオット・エイブラムズ。​ウゴ・チャベス大統領時代の2002年に実行されたクーデターは3人のアメリカ人、つまり1986年から89年にかけてベネズエラ駐在大使を務めたオットー・ライヒ、国連大使だったジョン・ネグロポンテ、そしてエイブラムズが黒幕​だった。それ以外にもクーデター計画はあった。

 エイブラムズはCIAが1980年代に中米で行った秘密工作に参加している。当時、ニカラグアでは反革命ゲリラのコントラを使って政権転覆を目論み、エル・サルバドルの「汚い戦争」にも関係している。

 エル・サルバドルでは1980年3月にCIAの手先になっていた軍人や警官がカトリックのオスカル・ロメロ大司教を暗殺、その年の12月にはカトリックの修道女ら4名を惨殺、81年12月にはエル・モソテの村で住民900名から1200名を殺している。エイブラムズはそのエル・モソテの村での虐殺について1982年2月に上院外交委員会で偽証している。

 そのエイブラムズが映画いた計画に基づいてだと見られているが、グアイドは2月23日に起こると事前に予告、バージン・グループを率いるイギリスの富豪、リチャード・ブランソンはその日にコンサートを開いた。

 コンサートに20万人以上が集まったとワシントン・ポスト紙は伝えていたが、その様子を撮影した写真から実際は1万5000人くらいと推測されている。20万人程度の観客を集めたかったのだろうが、失敗した。

 コンサートの開催日に「人道的援助物資」を積んだUSAID、つまりCIAのトラックがコロンビア領内に出現し、現在は使われていない橋を渡ってベネズエラ領へ侵入しようと試みた。政府軍からの銃撃を誘ったが、失敗している。そこで反政府派はトラックに火炎瓶を投げ込んで燃やし、政府軍に責任を押しつけようとしたが、これもうまくいかなかった。

 そこでグアイドは不法出国して周辺国を回り、3月4日に帰国するが、ニコラス・マドゥロ政権は無視。その3日後にベネズエラでは大規模な停電があり、アメリカのマイク・ポンペオ国務長官はベネズエラ政府の無能さが原因だと主張する。が、アメリカ側の破壊工作と見る人が少なくない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905010001/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c37

[政治・選挙・NHK260] <国民福祉税構想>細川元首相が明かす深夜発表の舞台裏 平成の政治写真 あの事件の真相 赤かぶ
1. 中川隆[-10449] koaQ7Jey 2019年5月01日 10:01:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1639]
>赤字国債を財源に6兆円の減税を実施する安易な方法は絶対に避けたかった。ツケを後世に回す無責任極まりないやり方だからです。もし、私が赤字国債で減税の穴埋めをしていれば、今日の赤字国債のたれ流し政策は細川が始めたと言われていたでしょう。その点は今なお矜持に思っています


これが妄想なんだ。

真実は

「日本の未来を考える勉強会」ーよくわかるMMT(現代貨幣理論)解説
平成31年4月22日 講師:評論家 中野 剛志氏 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=LJWGAp144ak
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/294.html#c1

[近代史3] 内閣官房参与をクビにされた藤井聡先生、遂に本音を語る 中川隆
16. 中川隆[-10451] koaQ7Jey 2019年5月01日 10:29:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1637]


2019年5月1日
財務省が紹介した「有識者のMMT批判」の「間違い」を解説します。
From 藤井聡(京都大学大学院教授)
https://38news.jp/economy/13570

いよいよ「令和」となりました!

この新しい御代が、明るく、
素晴らしい時代となるためにも是非、
無粋にも、愚かしい帰結を導くこと必定な
消費税増税は今、避けねばなりません。

そんな議論の中で、今、
大きな話題を集めているのが、MMT(現代貨幣理論)。

このMMTについては、
連日、新聞、雑誌に取り上げられていますが、
その多くが「批判的」論調です。

こうした状況の背後には、

「MMTが正しければ、
今年10月の消費増税なんて論外だ、
ということが“発覚”してしまう」

から、という事情があります。

ですから、メディアに大きな影響を持つ、
財務省を中心とした「緊縮派」の勢力は、
MMTを躍起になって否定しようとしているわけです。

彼らにしてみれば、
特に今は、10月の消費増税前の「正念場」ですから、
MMTが普及してしまうことを、
過剰に恐れているわけです。

そんな彼らが、MMT批判に活用している、
ほぼ唯一のツールは
「外国の権威の学者さん達」の意見。

例えば、財務省が、
4月17日に公表したペーパーには
17人もの経済学者達のMMT批判を
ずらりと並べています。
https://www.mof.go.jp/about_mof/councils/fiscal_system_council/sub-of_fiscal_system/proceedings/material/zaiseia310417/01.pdf

しかしそれらの批判の実に多くが、
「単なるMMTについての認識不足」
に基づくもの。

例えば、シラー教授は、
「政府はどこまでも財政赤字を無限に続けられる」
というMMTは極めて悪質だと批判し、
パウエルFRB議長は、
「赤字は問題にならないという考えは全く誤っている」
とMMTを批判していますが、
MMTは決してそんなことは主張していません。

マイルドなインフレを超えるほどの赤字拡大は
控えるべきだと、名言しているのがMMTだからです。

それ以外の典型的なMMT批判が、
ポールクルーグマン氏の次のような批判です。

「債務については、経済の持続可能な成長率が利子率より高いか低いかに多くを左右されるだろう。もし、これまでや現在のように成長率が利子率より高いのであれば大きな問題にならないが、金利が成長率より高くなれば債務が雪だるま式に増える可能性がある。

債務は富全体を超えて無限に大きくなることはできず、残高が増えるほど、人々は高い利子を要求するだろう。つまり、ある時点において、債務の増加を食い止めるために十分大きなプライマリー黒字の達成を強いられるのである。」
(2019年2月12日、ニューヨークタイムス)

この指摘は要するに、国債発行額の上限は、
MMTが主張するような「(マイルド)インフレになるまで」
というだけでは、場合によっては、
債務は無限に拡大してしまうこともある、
だから、債務が無限に拡大してしまうことを避けるためにも、
「債務対GDP比が発散させない」
ということも制約の一つとして考慮すべきである、
というものです。

クルーグマン氏は、もともと、
デフレ状況では、デフレ脱却こそが優先されるべきであり、
したがって、債務の拡大を気にせず、
デフレ脱却まで徹底的に財政拡大をすべきだ、
と何度も論じてきた経済学者です。

したがって、このMMT批判は、
「アメリカの様に、デフレでない経済を想定した批判」
であり、
「日本の様な、デフレ経済を想定した批判」
ではないと言えるでしょう。

したがって、この批判を「日本」の財務省が、
MMT批判の文脈で引用すること自体が
根本的に間違っているともいえるのですが・・・

それはさておいても、
このクルーグマン氏のMMT批判について、
アメリカのMMT論者の一人であるケルトン女史が、
強く批判しています。
(例えば、こちら http://econdays.net/?p=10437

当方もまた、このケルトン女史の批判に強く賛同します。

なぜなら、クルーグマンは、
国債発行は、資金の枯渇をもたらし、
金利の上昇をもたらすと想定している一方、
現実のマーケットでは、
(ケルトン女史が主張するように)
国債発行は、資金供給量を拡大するため、
金利の高騰は起こらず金利はむしろ下落する、
という現象が起こっているからです。

ただし、こうしたケルトン女史の批判に加えて、
先週お話した「債務対GDP比の安定化条件」を加味すると、
以下のように批判することもできます。

・・・

今回のクルーグマン氏の指摘は、国債発行額を、「(マイルド)インフレ」以下になるようにするという、いわば「マイルド・インフレ制約」を考えておけば、国債発行額を債務対GDP比が発散させない範囲内にとどめるという「債務対GDP比制約」には必ずしも配慮しなくてもいい、という理論的可能性について考察されていない。

実際、日本(ならびに、現在のアメリカ)の様に債務対GDP比が少なくとも100%を超えている場合(仮に乗数効果が1にしか過ぎなかったとしても)、「債務対GDP比制約」は、事実上、現実的な水準では存在していないことが数理的に明らかにされている(https://38news.jp/economy/13526)。
(※ なお先週の上記記事は、クルーグマン氏のMMT批判に数理的に改めて反論するための下準備として公表したものです)

したがって、(債務対GDP比がはるかに1を下回る国ならいざ知らず)少なくとも日本においては、クルーグマン氏の懸念は単なる「杞憂」に過ぎない。

なお、ケルトン女史の指摘をさらに踏まえるなら、(債務対GDP比の水準が如何様であろうとも)マイルド・インフレ制約の方が、債務対GDP比制約よりも、より「厳しい」ものとなるという条件が成立する可能性がより高いものとなることが理論的に予想される。

なぜなら、MMTの理論的帰結として導かれ、しかも、現実の経済において観測される「国債発行額の拡大が国債金利を引き下げる」という現実の現象があり、かつ、「中央銀行の国債保有分については、政府の利払いは必要ない」という現実があるからである。

以上より、クルーグマン氏が懸念する「債務対GDP比制約に配慮して、国債発行額を抑制すべき必然性」は必ずしも高くなく、かつ、少なくとも今の日本においては、その必然性は事実上皆無である。

・・・

なお、クルーグマン氏以外の様々な論者の批判についても、
その多くは、このクルーグマン氏への反論で
十分に対応可能なものです。

なぜなら、伝統的な経済学者の多くが、
金利と国債発行、そして、債務対GDP比についての
基本的な「現実」を踏まえていない、
という事情があるあるからです。

ついてはクルーグマン氏をはじめとした世界の有識者達には、
(MMTについてのより適正な認識の形成というよりむしろ)
政府赤字と金利、そして債務対GDP比についての
「実際上の関係」をしっかりと認識頂いた上で、
それぞれの国情に即した適切な経済財政政策を提言されんことを、
心から祈念申し上げたいと思います。

追伸1:
財政政策の現実の現場では、何が効果的な「支出項目」なのかの判断が何よりも重要。ついては是非、当方の今年最初の新著であります、「インフラ・イノベーション」を是非ご参照ください。
https://www.amazon.co.jp/dp/459408205X
(本書の解説は、こちらをどうぞ https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20190429/

追伸2:
「令和ピボット」の詳しい考え方については是非、表現者クライテリオンの最新刊「令和への建白書」をご一読ください!
https://the-criterion.jp/backnumber/84_201905/
(10%OFFの定期購読は、コチラから→https://the-criterion.jp/subscription/


https://38news.jp/economy/13570

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/140.html#c16

[近代史3] センメルヴェイス反射 _ 真理の徒は石もて追われ 中川隆
2. 中川隆[-10450] koaQ7Jey 2019年5月01日 10:31:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1638]

2019年5月1日
財務省が紹介した「有識者のMMT批判」の「間違い」を解説します。
From 藤井聡(京都大学大学院教授)
https://38news.jp/economy/13570

いよいよ「令和」となりました!

この新しい御代が、明るく、
素晴らしい時代となるためにも是非、
無粋にも、愚かしい帰結を導くこと必定な
消費税増税は今、避けねばなりません。

そんな議論の中で、今、
大きな話題を集めているのが、MMT(現代貨幣理論)。

このMMTについては、
連日、新聞、雑誌に取り上げられていますが、
その多くが「批判的」論調です。

こうした状況の背後には、

「MMTが正しければ、
今年10月の消費増税なんて論外だ、
ということが“発覚”してしまう」

から、という事情があります。

ですから、メディアに大きな影響を持つ、
財務省を中心とした「緊縮派」の勢力は、
MMTを躍起になって否定しようとしているわけです。

彼らにしてみれば、
特に今は、10月の消費増税前の「正念場」ですから、
MMTが普及してしまうことを、
過剰に恐れているわけです。

そんな彼らが、MMT批判に活用している、
ほぼ唯一のツールは
「外国の権威の学者さん達」の意見。

例えば、財務省が、
4月17日に公表したペーパーには
17人もの経済学者達のMMT批判を
ずらりと並べています。
https://www.mof.go.jp/about_mof/councils/fiscal_system_council/sub-of_fiscal_system/proceedings/material/zaiseia310417/01.pdf

しかしそれらの批判の実に多くが、
「単なるMMTについての認識不足」
に基づくもの。

例えば、シラー教授は、
「政府はどこまでも財政赤字を無限に続けられる」
というMMTは極めて悪質だと批判し、
パウエルFRB議長は、
「赤字は問題にならないという考えは全く誤っている」
とMMTを批判していますが、
MMTは決してそんなことは主張していません。

マイルドなインフレを超えるほどの赤字拡大は
控えるべきだと、名言しているのがMMTだからです。

それ以外の典型的なMMT批判が、
ポールクルーグマン氏の次のような批判です。

「債務については、経済の持続可能な成長率が利子率より高いか低いかに多くを左右されるだろう。もし、これまでや現在のように成長率が利子率より高いのであれば大きな問題にならないが、金利が成長率より高くなれば債務が雪だるま式に増える可能性がある。

債務は富全体を超えて無限に大きくなることはできず、残高が増えるほど、人々は高い利子を要求するだろう。つまり、ある時点において、債務の増加を食い止めるために十分大きなプライマリー黒字の達成を強いられるのである。」
(2019年2月12日、ニューヨークタイムス)

この指摘は要するに、国債発行額の上限は、
MMTが主張するような「(マイルド)インフレになるまで」
というだけでは、場合によっては、
債務は無限に拡大してしまうこともある、
だから、債務が無限に拡大してしまうことを避けるためにも、
「債務対GDP比が発散させない」
ということも制約の一つとして考慮すべきである、
というものです。

クルーグマン氏は、もともと、
デフレ状況では、デフレ脱却こそが優先されるべきであり、
したがって、債務の拡大を気にせず、
デフレ脱却まで徹底的に財政拡大をすべきだ、
と何度も論じてきた経済学者です。

したがって、このMMT批判は、
「アメリカの様に、デフレでない経済を想定した批判」
であり、
「日本の様な、デフレ経済を想定した批判」
ではないと言えるでしょう。

したがって、この批判を「日本」の財務省が、
MMT批判の文脈で引用すること自体が
根本的に間違っているともいえるのですが・・・

それはさておいても、
このクルーグマン氏のMMT批判について、
アメリカのMMT論者の一人であるケルトン女史が、
強く批判しています。
(例えば、こちら http://econdays.net/?p=10437

当方もまた、このケルトン女史の批判に強く賛同します。

なぜなら、クルーグマンは、
国債発行は、資金の枯渇をもたらし、
金利の上昇をもたらすと想定している一方、
現実のマーケットでは、
(ケルトン女史が主張するように)
国債発行は、資金供給量を拡大するため、
金利の高騰は起こらず金利はむしろ下落する、
という現象が起こっているからです。

ただし、こうしたケルトン女史の批判に加えて、
先週お話した「債務対GDP比の安定化条件」を加味すると、
以下のように批判することもできます。

・・・

今回のクルーグマン氏の指摘は、国債発行額を、「(マイルド)インフレ」以下になるようにするという、いわば「マイルド・インフレ制約」を考えておけば、国債発行額を債務対GDP比が発散させない範囲内にとどめるという「債務対GDP比制約」には必ずしも配慮しなくてもいい、という理論的可能性について考察されていない。

実際、日本(ならびに、現在のアメリカ)の様に債務対GDP比が少なくとも100%を超えている場合(仮に乗数効果が1にしか過ぎなかったとしても)、「債務対GDP比制約」は、事実上、現実的な水準では存在していないことが数理的に明らかにされている(https://38news.jp/economy/13526)。
(※ なお先週の上記記事は、クルーグマン氏のMMT批判に数理的に改めて反論するための下準備として公表したものです)

したがって、(債務対GDP比がはるかに1を下回る国ならいざ知らず)少なくとも日本においては、クルーグマン氏の懸念は単なる「杞憂」に過ぎない。

なお、ケルトン女史の指摘をさらに踏まえるなら、(債務対GDP比の水準が如何様であろうとも)マイルド・インフレ制約の方が、債務対GDP比制約よりも、より「厳しい」ものとなるという条件が成立する可能性がより高いものとなることが理論的に予想される。

なぜなら、MMTの理論的帰結として導かれ、しかも、現実の経済において観測される「国債発行額の拡大が国債金利を引き下げる」という現実の現象があり、かつ、「中央銀行の国債保有分については、政府の利払いは必要ない」という現実があるからである。

以上より、クルーグマン氏が懸念する「債務対GDP比制約に配慮して、国債発行額を抑制すべき必然性」は必ずしも高くなく、かつ、少なくとも今の日本においては、その必然性は事実上皆無である。

・・・

なお、クルーグマン氏以外の様々な論者の批判についても、
その多くは、このクルーグマン氏への反論で
十分に対応可能なものです。

なぜなら、伝統的な経済学者の多くが、
金利と国債発行、そして、債務対GDP比についての
基本的な「現実」を踏まえていない、
という事情があるあるからです。

ついてはクルーグマン氏をはじめとした世界の有識者達には、
(MMTについてのより適正な認識の形成というよりむしろ)
政府赤字と金利、そして債務対GDP比についての
「実際上の関係」をしっかりと認識頂いた上で、
それぞれの国情に即した適切な経済財政政策を提言されんことを、
心から祈念申し上げたいと思います。

追伸1:
財政政策の現実の現場では、何が効果的な「支出項目」なのかの判断が何よりも重要。ついては是非、当方の今年最初の新著であります、「インフラ・イノベーション」を是非ご参照ください。
https://www.amazon.co.jp/dp/459408205X
(本書の解説は、こちらをどうぞ https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20190429/

追伸2:
「令和ピボット」の詳しい考え方については是非、表現者クライテリオンの最新刊「令和への建白書」をご一読ください!
https://the-criterion.jp/backnumber/84_201905/
(10%OFFの定期購読は、コチラから→https://the-criterion.jp/subscription/


https://38news.jp/economy/13570

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/396.html#c2

[近代史3] 内田樹:全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売りさえしておけば政権は延命できる

内田樹
全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売り。
 とりあえず、それさえしておけば政権は延命できる。


内田樹の研究室 涅槃状態に入った安倍政権 2019-04-26
http://blog.tatsuru.com/2019/04/26_0924.html


北方領土問題の解決が政府のアジェンダから消されました。

そんな問題ははじめから存在しなかった、ということにすれば政権の失策は問われない。

これは安倍政権になってから、重要な問題のすべてについて政権が採用してきた遁辞です。

それについて去年ある大学での講演でしゃべったことの一部を再録しておきます。

 そして、2012年から安倍政権が始まる。これが僕の戦後史第五段階論の第五段階に相当するわけですけれども、これはもう切るカードが何もないわけですね。経済カードも政治カードも、新しいカードは何もない。やれることは外交的には全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売り。

 とりあえず、それさえしておけば政権は延命できる。

 とにかく「やってはいけないこと」だけはわかっている。

 それは鳩山政権がやったことです。

「国土を返してくれ、国家主権を返してくれ」ということはおくびに出してもいけない。それを言った瞬間に政権が崩壊することだけはわかっている。だから、対米交渉は一切何にもしない。全部アメリカの言う通りにするということだけが決まっている。

「対米交渉」というのは、交渉らしきものをしているただの時間つぶしです。安倍政権の国会運営と同じです。「やっているふり」をしているだけです。最終的にはアメリカの要求を全部丸のみにする。それがわかっているから、アメリカは安倍政権の延命を許している。さすがに対米自立のために何もしなかった政権というのは戦後初めてです。

 日本は主権国家であって、望むものはもうすべて手に入れているので、要求することはなにもない。完全に満たされているというのが安倍政権下の日本国民が享受している「妄想」です。

 もう全部達成し終えた。国土も回復したし、国権も奪還した。だから、世界中から日本は尊敬されている。世界中の人が日本をすばらしい国だとあこがれている。「日本すごい」とか、「世界が尊敬する日本」とかいうテレビ番組や書物が溢れていますけれど、これが第五段階の特徴です。

 もう達成すべき目標がなくなった。すべては手に入ったので、何の努力も要らない。涅槃状態のうちにある。それが現在の日本です。

 敗戦後の国民的な課題であったはずの「国土の回復、国権の回復」は実はとっくの昔から達成されていたので、そんなことは今さら考えるに及ばない。それどころか、明治維新からあと先の大戦までの近代日本がやってきたことはすべて「すばらしい達成」ばかりであって、そのせいで世界中の人々から、とりわけアジアの被侵略地や旧植民地の人たちから感謝され、尊敬されているというような妄説に人々が取り憑かれている。

 沖縄の基地問題に対する日本国民の無関心、北方領土に対する無関心、北朝鮮の拉致問題に対する無関心、すべて同根です。今の日本は最高の状態で、安倍政権がやっている政策は外交も経済すべて成功しているという話のうちに眠りこけているのが現代日本人が落ち込んでいる「ニルヴァーナ状態」です。

 その病的な「努力したくない」感は自民党改憲草案の前文に徴候的に現れています。そこにはこんなことが書いてあります。

「我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。」

 これを日本国憲法の前文と比べると、その異様さが際立ちます。憲法前文にはこうあります。

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」

 自民党改憲案は「占めており」、現行憲法は「占めたいと思う」です。

 自民党草案を起草した人間の脳内では、日本はすでに国際社会において重要な地位を「占め終わっている」。

 だとすれば、いったいこれ以上何を努力する必要があるのか。
 実現困難な理想を掲げて、それに向けて鋭意邁進するというタイプの文言はもう使わないということについてどうやら起草委員たちはひそかに合意していたようです。

 日本にはもう努力目標が存在しない。

 アメリカからの国家主権の奪還は不可能なので、それについてはもう語らない。アメリカとロシアからの領土の回復は不可能なので、それについても、もう語らない。安保理の常任理事国入りについても、もう語らない。

 それが21世紀の日本人が落ち込んでいる国民的規模での「涅槃」状態です。

 これは重い病気に罹った人間が「私はまったく健康である。他の人たちが私の健康を羨ましがっているほどだ」とへらへら笑っているのと変わらない。主観的にはいい気分かも知れないけれど、そうやっているうちに手当をしない患部はどんどん壊死している。(後略)
http://blog.tatsuru.com/2019/04/26_0924.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/398.html

[近代史3] 内田樹:全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売りさえしておけば政権は延命できる 中川隆
1. 中川隆[-10449] koaQ7Jey 2019年5月01日 11:02:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1640]

日本の英語教育は「植民地における現地人への宗主国言語教育」と全く変わらない


外国語学習について - 内田樹の研究室 2018-10-31


2018年6月12日に「文系教科研究会」というところで、私立の中学高校の英語の先生たちをお相手に英語教育についてお話した。その一部をここに掲載する。

ここで論じたのは英語だけれど、言語教育一般について適用できる議論だと思う。
ここ数日、「論理国語」と「文学国語」というカテゴライズをするという話がTLを飛び交っているけれど、それがほんとうだとしたら、それはたぶん言語というものについて一度も真剣に思量したことのない人間の脳裏に去来したアイディアだろうと思う。それはまさに「植民地における現地人への宗主国言語教育」とまったく同型的なものだからだ。

国語教育においても「植民地現地人」に求められる言語能力は同じである。

それは宗主国アメリカに仕え、アメリカに朝貢することで「代官」「買弁」としての地位を保全している日本の支配層たちが、同国人の知性の発達を阻害し、日本人を愚民化することで、属国日本をアメリカが支配しやすいようにするために作り出した仕掛けである。

以下がそのときの講演。途中からなので、話が見えにくいのはご容赦。


外国語学習について語るときに、「目標言語」と「目標文化」という言葉があります。

「目標言語」というのは、今の場合なら、例えば英語です。なぜ英語を学ぶのか。それは「目標文化」にアクセスするためです。英語の場合であれば、ふつうは英語圏の文化が「目標文化」と呼ばれます。

僕らの世代において英語の目標文化ははっきりしていました。それは端的にアメリカ文化でした。アメリカ文化にアクセスすること、それが英語学習の最も強い動機でした。僕たちの世代は、子どものときからアメリカ文化の洪水の中で育っているわけですから、当然です。FENでロックンロールを聴き、ハリウッド映画を観て、アメリカのテレビドラマを観て育ったわけですから、僕らの世代においては「英語を学ぶ」というのは端的にアメリカのことをもっと知りたいということに尽くされました。

僕も中学や高校で「英語好き」の人にたくさん会いましたけれど、多くはロックの歌詞や映画の台詞を聴き取りたい、アメリカの小説を原語で読みたい、そういう動機で英語を勉強していました。

僕もそうでした。英語の成績は中学生からずっとよかったのですが、僕の場合、一番役に立ったのはビートルズの歌詞の暗記でした。ビートルズのヒット曲の歌詞に含まれる単語とイディオムを片っ端から覚えたのですから、英語の点はいいはずです。

つまり、英語そのものというよりも、「英語の向こう側」にあるもの、英米の文化に対する素朴な憧れがあって、それに触れるために英語を勉強した。英米のポップ・カルチャーという「目標文化」があって、それにアクセスするための回路として英語という「目標言語」を学んだわけです。

その後、1960年代から僕はフランス語の勉強を始めるわけですけれども、この時もフランス語そのものに興味があったわけではありません。フランス語でコミュニケーションしたいフランス人が身近にいたわけではないし、フランス語ができると就職に有利というようなこともなかった。そういう功利的な動機がないところで学び始めたのです。フランス文化にアクセスしたかったから。

僕が高校生から大学生の頃は、人文科学・社会科学分野での新しい学術的知見はほとんどすべてがフランスから発信された時代でした。40年代、50年代のサルトル、カミュ、メルロー=ポンティから始まって、レヴィ=ストロース、バルト、フーコー、アルチュセール、ラカン、デリダ、レヴィナス・・・と文系の新しい学術的知見はほとんどフランス語で発信されたのです。

フランス語ができないとこの知的領域にアクセスできない。当時の日本でも、『パイデイア』とか『現代思想』とか『エピステーメー』とかいう雑誌が毎月のようにフランスの最新学術についての特集を組むのですけれど、「すごいものが出て来た」と言うだけで、そこで言及されている思想家や学者たちの肝心の主著がまだ翻訳されていない。フランス語ができる学者たちだけがそれにアクセスできて、その新しい知についての「概説書」や「入門書」や「論文」を独占的に書いている。とにかくフランスではすごいことになっていて、それにキャッチアップできないともう知の世界標準に追いついてゆけないという話になっていた。でも、その「すごいこと」の中身がさっぱりわからない。フランス語が読めないと話にならない。ですから、60年代―70年代の「ウッドビー・インテリゲンチャ」の少年たちは雪崩打つようにフランス語を学んだわけです。それが目標文化だったのです。 

のちに大学の教師になってから、フランス語の語学研修の付き添いで夏休みにフランスに行くことになった時、ある年、僕も学生にまじって、研修に参加したことがありました。振り分け試験で上級クラスに入れられたのですけれど、そのクラスで、ある日テレビの「お笑い番組」のビデオを見せて、これを聴き取れという課題が出ました。僕はその課題を拒否しました。悪いけど、僕はそういうことには全然興味がない。僕は学術的なものを読むためにフランス語を勉強してきたのであって、テレビのお笑い番組の早口のギャグを聴き取るために労力を使う気はないと申し上げた。その時の先生は真っ赤になって怒って、「庶民の使う言葉を理解する気がないというのなら、あなたは永遠にフランス語ができるようにならないだろう」という呪いのような言葉を投げかけたのでした。結局、その呪いの通りになってしまったのですけれど、僕にとっての「目標文化」は1940年から80年代にかけてのフランスの知的黄金時代のゴージャスな饗宴の末席に連なることであって、現代のフランスのテレビ・カルチャーになんか、何の興味もなかった。ただ、フランス語がぺらぺら話せるようになりたかったのなら、それも必要でしょうけれど、僕はフランスの哲学者の本を読みたくてフランス語を勉強し始めたわけですから、その目標を変えるわけにゆかない。フランス語という「目標言語」は同じでも、それを習得することを通じてどのような「目標文化」にたどりつこうとしているのかは人によって違う。そのことをその時に思い知りました。

ロシア語もそうです。今、大学でロシア語を第二外国語で履修する学生はほとんどいません。でも、若い方はもうご存じないと思いますけれど、1970年に僕が大学入学したとき、理系の学生の第二外国語で一番履修者が多かったのはロシア語だったのです。

「スプートニク・ショック」として知られるように、60年代まではソ連が科学技術のいくつかの分野でアメリカより先を進んでいたからです。科学の最先端の情報にアクセスするためには英語よりもロシア語が必要だった。でも、ソ連が没落して、科学技術におけるアドバンテージが失われると、ロシア語を履修する理系の学生はぱたりといなくなりました。もちろんドストエフスキーを読みたい、チェーホフを読みたいというような動機でロシア語を履修する学生の数はいつの時代もいます。目標文化が「ロシア文学」である履修者の数はいつの時代もそれほど変化しない。けれども、目標文化が「ソ連の科学の先進性」である履修者は、その目標文化が求心力を失うと、たちまち潮が引くようにいなくなる。

僕の学生時代はフランス語履修者がたくさんおりました。でも、その後、フランス語履修者は急減しました。ある時点で中国語に抜かれて、今はもう見る影もありません。

理由の一つは、日本のフランス語教員たちが学生たちの知的好奇心を掻き立てることができなかったせいなのですけれど、それ以上に本国のフランスの文化的な発信力が低下したことがあります。フランス文化そのものに日本の若者たちを「目標」として惹きつける魅力がなくなってしまった。

フランス語やロシア語の例から知れる通り、われわれが外国語を学ぶのは目標文化に近づくためなのです。目標文化にアクセスするための手段として目標言語を学ぶ。

しかし、まことに不思議なことに、今の英語教育には目標文化が存在しません。英語という目標言語だけはあるけれども、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか。向かう先はアメリカでもイギリスでもない。カナダでもオーストラリアでもない。どこでもないのです。

何年か前に、推薦入試の入試本部で学長と並んで出願書類をチェックしていたことがありました。学長は英文科の方だったのですけれど、出願書類の束を読み終えた後に嘆息をついて、「内田さん、今日の受験者150人の中に『英文科志望理由』に『英米文学を学びたいから』と書いた人が何人いると思う?」と訊いてきました。「何人でした?」と僕が問い返すと「2人だけ」というお答えでした「後は、『英語を生かした職業に就きたいから』」だそうでした。

僕の知る限りでも、英語を学んで、カタールの航空会社に入った、香港のスーパーマーケットに就職した、シンガポールの銀行に入ったという話はよく聞きます。別にカタール文化や香港文化やシンガポール文化をぜひ知りたい、その本質に触れたいと思ってそういう仕事を選んだわけではないでしょう。彼らにとって、英語はたしかに目標言語なのですけれど、めざす目標文化はどこかの特定の文化圏のものではなく、グローバルな「社会的な格付け」なのです。高い年収と地位が得られるなら、どの外国でも暮らすし、どの外国でも働く、だから英語を勉強するという人の場合、これまでの外国語教育における目標文化に当たるものが存在しない。
これについては平田オリザさんが辛辣なことを言っています。彼に言わせると、日本の今の英語教育の目標は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」はもちろん有用な仕事であり、しかるべき能力を要するし、それにふさわしい待遇を要求できるポストですけれど、それは一人いれば足りる。何百万単位で「シンガポール支店長」を「人形焼き」を叩き出すように作り出す必要はない。でも、現在の日本の英語教育がめざしているのはそういう定型です。

僕は大学の現場を離れて7年になりますので、今の大学生の学力を知るには情報が足りないのですけれども、それでも、文科省が「英語ができる日本人」ということを言い出してから、大学に入学してくる学生たちの英語力がどんどん低下してきたことは知っています。それも当然だと思います。英語を勉強することの目標が、同学齢集団内部での格付けのためなんですから。低く査定されて資源分配において不利になることに対する恐怖をインセンティヴにして英語学習に子どもたちを向けようとしている。そんなことが成功するはずがない。恐怖や不安を動機にして、知性が活性化するなんてことはありえないからです。

僕は中学校に入って初めて英語に触れました。それまではまったく英語を習ったことがなかった。1960年頃の小学生だと、学習塾に通っているのがクラスに二三人、あとは算盤塾くらいで、小学生から英語の勉強している子どもなんか全然いません。ですから、FENでロックンロールは聴いていましたけれど、DJのしゃべりも、曲の歌詞も、ぜんぶ「サウンド」に過ぎず、意味としては分節されていなかった。それが中学生になるといよいよ分かるようになる。入学式の前に教科書が配られます。英語の教科書を手にした時は、これからいよいよ英語を習うのだと思って本当にわくわくしました。これまで自分にとってまったく理解不能だった言語がこれから理解可能になってゆくんですから。自分が生まれてから一度も発したことのない音韻を発声し、日本語に存在しない単語を学んで、それが使えるようになる。その期待に胸が膨らんだ。

今はどうでしょう。中学校一年生が四月に、最初の英語の授業を受ける時に、胸がわくわくどきどきして、期待で胸をはじけそうになる・・・というようなことはまずないんじゃないでしょうか。ほかの教科とも同じでしょうけれど、英語を通じて獲得するものが「文化」ではないことは中学生にもわかるからです。

わかっているのは、英語の出来不出来で、自分たちは格付けされて、英語ができないと受験にも、就職にも不利である、就職しても出世できないということだけです。そういう世俗的で功利的な理由で英語学習を動機づけようとしている。でも、そんなもので子どもたちの学習意欲が高まるはずがない。

格付けを上げるために英語を勉強しろというのは、たしかにリアルではあります。リアルだけれども、全然わくわくしない。外国語の習得というのは、本来はおのれの母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものを習得ゆくプロセスのはずです。だからこそ、知性の高いパフォーマンスを要求する。自分の知的な枠組みを超え出てゆくわけですから、本当なら「清水の舞台から飛び降りる」ような覚悟が要る。そのためには、外国語を学ぶことへ期待とか向上心とか、明るくて、風通しのよい、胸がわくわくするような感じが絶対に必要なんですよ。恐怖や不安で、人間はおのれの知的な限界を超えて踏み出すことなんかできません。
でも、文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』にはこう書いてある。

「今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を超えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。」

冒頭がこれです。まず「経済」の話から始まる。「経済競争」「メガコンペティション」というラットレース的な状況が設定されて、そこでの「果敢な挑戦」が求められている。英語教育についての基本政策が「金の話」と「競争の話」から始まる。始まるどころか全篇それしか書かれていない。

「このような状況の中、英語は、母語の異なる人々をつなぐ国際的共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが21世紀を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です」という書いた後にこう続きます。

「現状では、日本人の多くが、英語力が十分でないために、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないといった事態も起きています。」
「金」と「競争」の話の次は「格付け」の話です。ここには異文化に対する好奇心も、自分たちの価値観とは異なる価値観を具えた文化に対する敬意も、何もありません。人間たちは金を求めて競争しており、その競争では英語ができることが死活的に重要で、英語学力が不足していると「制限を受けたり」「適切な評価が得られない」という脅しがなされているだけです。そんなのは日本人なら誰でもすでに知っていることです。でも、「英語ができる日本人」に求められているのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」なのです。

外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです。

でも、この文科省の作文には、外国語を学ぶのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」の檻から逃れ出るためだという発想がみじんもない。自分たちの狭隘な、ローカルな価値観の「外側」について学ぶことは「国際的な相互依存関係」のうちで適切なふるまいをするために必須であるという見識さえ見られない。僕は外国語学習の動機づけとして、かつてこれほど貧しく、知性を欠いた文章を読んだことがありません。

たしかに、子どもたちを追い込んで、不安にさせて、処罰への恐怖を動機にして何か子どもたちが「やりたくないこと」を無理強いすることは可能でしょう。軍隊における新兵の訓練というのはそういうものでしたから。処罰されることへの恐怖をばねにすれば、自分の心身の限界を超えて、爆発的な力を発動させることは可能です。スパルタ的な部活の指導者は今でもそういうやり方を好んでいます。でも、それは「やりたくないこと」を無理強いさせるために開発された政治技術です。
ということは、この文科省の作文は子どもたちは英語を学習したがっていないという前提を採用しているということです。その上で、「いやなこと」を強制するために、「経済競争」だの「メガコンペティション」だの「適切な評価」だのという言葉で脅しをかけている。

ここには学校教育とは、一人一人の子どもたちがもっている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています。子どもたちの知性的・感性的な成熟を支援するのが学校教育でしょう。自然に個性や才能が開花してゆくことを支援する作業に、どうして恐怖や不安や脅迫が必要なんです。勉強しないと「ひどい目に遭うぞ」というようなことを教師は決して口にしてはならないと僕は思います。学ぶことは子どもたちにとって「喜び」でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。

この文章を読んでわかるのは、今の日本の英語教育において、目標言語は英語だけれど、目標文化は日本だということです。今よりもっと日本的になり、日本的価値観にがんじがらめになるために英語を勉強しなさい、と。ここにはそう書いてある。目標文化が日本文化であるような学習を「外国語学習」と呼ぶことに僕は同意するわけにはゆきません。

僕自身はこれまでさまざまな外国語を学んできました。最初に漢文と英語を学び、それからフランス語、ヘブライ語、韓国語といろいろな外国語に手を出しました。新しい外国語を学ぶ前の高揚感が好きだからです。日本語にはない音韻を発音すること、日本語にはない単語を知ること、日本語とは違う統辞法や論理があることを知ること、それが外国語を学ぶ「甲斐」だと僕は思っています。習った外国語を使って、「メガコンペティションに果敢に挑戦」する気なんか、さらさらありません。

外国語を学ぶ目的は、われわれとは違うしかたで世界を分節し、われわれとは違う景色を見ている人たちに想像的に共感することです。われわれとはコスモロジーが違う、価値観、美意識が違う、死生観が違う、何もかも違うような人たちがいて、その人たちから見た世界の風景がそこにある。外国語を学ぶというのは、その世界に接近してゆくことです。 

フランス語でしか表現できない哲学的概念とか、ヘブライ語でしか表現できない宗教的概念とか、英語でしか表現できない感情とか、そういうものがあるんです。それを学ぶことを通じて、それと日本語との隔絶やずれをどうやって調整しようか努力することを通じて、人間は「母語の檻」から抜け出すことができる。

外国語を学ぶことの最大の目標はそれでしょう。母語的な現実、母語的な物の見方から離脱すること。母語的分節とは違う仕方で世界を見ること、母語とは違う言語で自分自身を語ること。それを経験することが外国語を学ぶことの「甲斐」だと思うのです。

でも、今の日本の英語教育は「母語の檻」からの離脱など眼中にない。それが「目標言語は英語だが、目標文化は日本だ」ということの意味です。外国語なんか別に学ぶ必要はないのだが、英語ができないとビジネスができないから、バカにされるから、だから英語をやるんだ、と。言っている本人はそれなりにリアリズムを語っているつもりでいるんでしょう。でも、現実にその結果として、日本の子どもたちの英語力は劇的に低下してきている。そりゃそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」が「上がり」であるような英語教育を受けていたら、そもそもそんな仕事に何の興味もない子どもたちは英語をやる理由がない。

(中略)

今は英語教育にとりわけ中等教育では教育資源が偏ってきています。他の教科はいいから、とにかく英語をやれという圧力が強まっています。別にそれは英語の教員たちが望んだことではないのだけれど、教育資源が英語に偏っている。特に、オーラル・コミュニケーション能力の開発に偏っている。何でこんなに急激にオーラルに偏ってきたかというと、やはりこれは日本がアメリカの属国だということを抜きには説明がつかない。

「グローバル・コミュニケーション」と言っても、オーラルだけが重視されて、読む力、特に複雑なテクストを読む能力はないがしろにされている。これは植民地の言語教育の基本です。

植民地では、子どもたちに読む力、書く力などは要求されません。オーラルだけできればいい。読み書きはいい。文法も要らない。古典を読む必要もない。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分である、と。それ以上の言語運用能力は不要である。理由は簡単です。オーラル・コミュニケーションの場においては、ネイティヴ・スピーカーがつねに圧倒的なアドバンテージを有するからです。100%ネイティヴが勝つ。「勝つ」というのは変な言い方ですけれども、オーラル・コミュニケーションの場では、ネイティヴにはノン・ネイティヴの話を遮断し、その発言をリジェクトする権利が与えられています。ノン・ネイティヴがどれほど真剣に、情理を尽くして話していても、ネイティヴはその話の腰を折って「その単語はそんなふうには発音しない」「われわれはそういう言い方をしない」と言って、話し相手の知的劣位性を思い知らせることができる。

逆に、植民地的言語教育では、原住民の子どもたちにはテクストを読む力はできるだけ付けさせないようにする。うっかり読む力が身に着くと、植民地の賢い子どもたちは、宗主国の植民地官僚が読まないような古典を読み、彼らが理解できないような知識や教養を身に付ける「リスク」があるからです。植民地の子どもが無教養な宗主国の大人に向かってすらすらとシェークスピアを引用したりして、宗主国民の知的優越性を脅かすということは何があっても避けなければならない。だから、読む力はつねに話す力よりも劣位に置かれる。「難しい英語の本なんか読めても仕方がない。それより日常会話だ」というようなことを平然と言い放つ人がいますけれど、これは骨の髄まで「植民地人根性」がしみこんだ人間の言い草です。

「本を読む」というのはその国の文化的な本質を理解する上では最も効率的で確実な方法です。でも、植民地支配者たちは自分たちの文化的な本質を植民地原住民に理解されたくなんかない。だから、原住民には、法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない。

今の日本の英語教育がオーラルに偏って、英語の古典、哲学や文学や歴史の書物を読む力を全く求めなくなった理由の一つは「アメリカという宗主国」の知的アドバンテージを恒久化するためです。だから、アメリカ人は日本人が英語がぺらぺら話せるようになることは強く求めていますけれど、日本の子どもたちがアメリカの歴史を学んだり、アメリカの政治構造を理解したり、アメリカの文学に精通したりすること、それによってアメリカ人が何を考えているのか、何を欲望し、何を恐れているのかを知ることはまったく望んでいません。

(以下略)

「原住民には法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない」ということを英語教育について書いたら、国語教育でも同じことをしようとしているということを知らされた。

まことに情けない国に成り下がったものである。
http://blog.tatsuru.com/2018/10/31_1510.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/398.html#c1

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
107. 中川隆[-10448] koaQ7Jey 2019年5月01日 11:09:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1641]

美智子様の実子は1人だけ??? 2013年3月4日月曜日


ベルギー大使館のパーティーに行った時に、
イスラエルから来ていたモサドのエージェントの日本人の奥さんが

「美智子様のお子様はお一人だけなのよ」

と自慢げに話していた。

その時に常陸宮夫妻も来ていたが

「彼、精神薄弱なの」

とも言っていた。よく観察してみたが、やはり彼女が言うように精神薄弱のようだ。


ふうーん、そういえば美智子様に似ているのは確かに秋篠宮の1人だけ。

なんたって、世界の秘密を握るモサドのエージェントだから、情報は本物の確立は高い。

ちょっと「美智子様の子供は一人だけ」とネットをサーフィンしてみたが、逆に出てきたのは、

「秋篠宮の父親が違う」

という驚きの情報だった。と言う事は、秋篠宮だけが美智子様の子供で、しかも、父親は天皇陛下ではないと言う話になる。


そして、究極的に私が見つけた2チャンネル的なサイトには、なんと、秋篠宮自身が

「だれか、私の父を知りませんか?」

というページだった。そこには


「何回も母に聞きましたが、母は頑として口を開こうとしません。
私は、父親が違うという事で、養父や兄弟にも、散々、いじめられて育ちました。だれか、私の父を知っている人がいましたならご連絡ください。」


というものだった。


その秋篠宮の実父は、もしかして殺されてしまった可能性もあるのではないのだろうか。

ウワサによると、秋篠宮の実父は宮内庁の警備員だったらしい。

美智子様に赤ちゃんができてしまってから堕胎しろとは宮内庁もいえず、次男として育てられたという話だ。


この話は、英国のハリー王子とだぶる。彼もダイアナ妃とポロ教師のボーイフレンドとの間にできた子供で、チャールズ皇太子の子供ではない。

皇室という所は「現実は小説よりも奇なり」という所なのだろう。
http://reptilianisreal.blogspot.jp/2013/03/blog-post_6330.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c107

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
108. 中川隆[-10447] koaQ7Jey 2019年5月01日 11:12:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1642]

秋篠宮には知ってはいけない秘密が有る


2019.04.30
秋篠宮家付き職員(19)も拳銃で自殺! 小室家と並ぶ「3名」の不審死
https://rondan.net/21383


19歳の少年の自殺、普通ではない秋篠宮家担当職

当サイトでは、秋篠宮家担当の警備2名が立て続けに自殺した事件について紹介しましたが、どうやら、二人の警備担当者が自殺した1年後にも別の秋篠宮家担当の19歳の少年の警備員が拳銃自殺をしていたようです。


28日午後0時10分ごろ、東京都港区元赤坂の赤坂御用地内のトイレで、皇宮警察赤坂護衛署勤務の男性巡査(19)が頭から血を流して倒れているのを同僚が見つけた。病院に搬送されたが、約1時間後に死亡が確認された。皇宮警察によると、貸与されている拳銃で自殺を図ったという。

皇宮警察によると、この日は午前9時から1時間半、皇太子ご一家の住まいである東宮御所の正門で勤務。その後、約70メートル離れた警備待機所で、次の勤務時間まで待機するスケジュールだった。

巡査は昨年4月に採用され、今年2月に同署勤務に。特に悩んだりする様子もなかったという。
「19歳の皇宮警察官が拳銃自殺 赤坂御用地内で」『朝日新聞』2006.9.28

19歳皇宮護衛官が赤坂御用地内で拳銃自殺

皇太子ご一家や秋篠宮ご一家の住まいがある赤坂御用地の警備を担当する皇宮警察の男性巡査が28日昼過ぎ、拳銃で頭を撃って自殺した。

「皇宮警察官拳銃自殺事件 – ドス子の事件簿(皇太子妃雅子殿下の事件簿)」livedoor Wiki

関連記事紀子さま“パワハラ”で職員2人「自殺」の闇 小室佳代とお似合い家族?
2019年4月29日
https://rondan.net/21294


警察の自殺はそれほど珍しい事件ではないかもしれませんが、普通「特に悩んだりする様子もなかった」19歳の少年が、勤務後半年足らずで精神的に追い詰められ拳銃自殺などするものでしょうか?

また、この少年の自殺は3人目で、なんと2004年から3年続けて秋篠宮家と関係する警備職員が一人ずつ自殺していることになります。

尋常ではない連続自殺事件

2004年と2005年の秋篠宮家担当警備員の自殺を報じた『週刊新潮』の記事には「秋篠宮家担当の護衛官がたて続けに自殺するとは、尋常ではない。」と書かれてしますが、さらに、続けて19歳の少年が拳銃自殺するというのは、異常としか言いようがないでしょう。

また、先の二人の自殺に関しては「金銭的トラブルが原因ではないか?」という報道もされていますが、19歳の少年の自殺に関しては原因は全く不明です。

そういえば、眞子さまの婚約内定先の小室家も、小室圭さんの父、と父方の祖父母の計3人の自殺…。なんの因果でしょうか?

自殺の原因は何か?考え得る選択肢

これほど連続して自殺者が出るということは、単純な金銭的トラブルのみが原因とは言い切れません。

考えられる連続自殺事件の原因として、一つは、秋篠宮家の「パワハラ問題」です。

そして二つ目は、警備担当の激務によるストレス。

ただし、この二つ目の「激務」という可能性はほぼあり得ないでしょう。過去の『日刊ゲンダイ』の記事によると、皇族警察は「激務」どころか、「暇すぎること」こそが、相次ぐ皇族警察の不祥事の原因ではないか?と指摘しています。


そもそも皇宮警察官の不祥事は今に始まった話ではない。03年には巡査部長(54)が痴漢で逮捕。04年には女性職員の下着を盗んだ警部補(45)とビデオ店からAVを盗んだ巡査長(31)が懲戒処分。05年には愛知万博にキセル出張した警視(53)、08年にはATMに置き忘れていた現金を持ち去った巡査部長(49)が懲戒。06年には護衛官(19)が赤坂御用地で拳銃自殺した。1000人前後の小所帯なのに、事件が異常に多いのだ。

「彼らは日々、皇居や京都御所など施設の警備や皇族の護衛に当たっています。一般市民に接する機会がほとんどないうえ、犯人を捕まえるケースもまずない。皇室の安全を守る毎日が延々と繰り返される。定年までの自分の仕事と給料が計算できるほど単調な職場です。狭い組織なので人間関係も濃密になりやすい。ストレスを爆発させる皇宮警察官が増えているのです」(捜査事情通)

「ヒマ過ぎる?不祥事続きの皇宮警察 知られざる日常」2010.7.2

最後に、考えられるのが、自殺にみせかけた口封じの殺害といったところでしょうか。

新聞報道にも含みが…

新潮や朝日新聞の報道も、最後の可能性をそれとなく匂わせているようにも思えます。


B氏はさらにこう話した。

「加藤さんが亡くなった前後に、護衛3課で監察に調べられていた警視が辞意を伝えています。表に出せないようなヤバイ話があるのは確実ですよ。これじゃ、秋篠宮家担当の護衛体制はガタガタじゃないですか。開いたロが塞がらない」

最後に、残された加藤氏の妻は涙ながらに語った。

「何故、こんなことになってしまったのか。理由もさっぱりわからず、それだけに残念でなりません。主人が監察に呼ぱれたことは聞いていましたが、内容については知りません。でも、そんなに弱い人ではないと思っていたのですが……」

「「皇宮警察」また出た自殺者は「秋篠宮」担当」『週刊新潮』2005月8月11・18日合併号

巡査は昨年4月に採用され、今年2月に同署勤務に。特に悩んだりする様子もなかったという。

「19歳の皇宮警察官が拳銃自殺 赤坂御用地内で」『朝日新聞』2006.9.28

最後の選択肢は陰謀めいた内容になってしまいますが、『週刊新潮』の記事内の「表に出せないようなヤバイ話があるのは確実」という箇所は、明らかに自殺者の個人的な問題が原因ではなく、皇室警備という職務上の問題と自殺に何らかの関りがある可能性を示唆しています。

まとめ

何らかの責任を押し付けられて、もしくは何らかの知ってはいけない内部事情を知ってしまった結果、「殺された」とまではいわずとも自殺せざるを得ない状況に追い込まれたというのは、陰謀論めいてはいても、全く荒唐無稽な妄想とも言い切れないのではないでしょうか?

代替わりによって、秋篠宮家は皇嗣家となることで職員も大幅増員されますが、宮内庁職員の間では「秋篠宮家に異動になるのでは」と、戦々恐々な状況であるとも噂されますが、現在のトラブル続きの秋篠宮家の状態を考えると無理もないでしょう。

ここは、早急に眞子さまと小室圭さんの結婚問題等、様々な問題を解決し、職員にとって安心して働ける環境を整えることが重要です。
https://rondan.net/21383

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c108

[近代史3] 雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている 中川隆
22. 中川隆[-10446] koaQ7Jey 2019年5月01日 12:02:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1643]
>>16
>雅子さまがお妃候補に上がった時、飛行機で外務官僚に会って聞いてた時、雅子さまは外務省を二位を大きく離したトップで入って将来は総理大臣になる位優秀だから


真実は

2017.12.02
雅子様C@学歴 日本語も英語も話せない釣書詐欺
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4764

「日本で一番優秀な女性」という触れ込みで皇太子の妻になった小和田雅子さんですが、実際はどうだったんでしょうか。

学歴がすべてを決めるわけではありませんが、実は高学歴とは程遠い方。学歴ロンタリングのの見本のような方です。

学歴が高低がもんだいなのではなく、嘘をつくとろに問題があると思います。ざっと見てみましょう

語学力 日本語が不自由

帰国子女やバイリンガルの場合、日本語がおかしいことは、よくあることですが、高校2年まで日本で育った雅子さまは、帰国子女とは言いません。にもかわらず、「天照大神」を、てんてるだいじん、とよむ知能のレベルでした

音読すると、変さが、いっそう解ります。支離滅裂です。

クワガタ、けれども、クワガタ、けれども、クワガタ、クワガタ、、、

言語は思考の土台だと思うのですが、言語能力が低いということは、知能が高くないということではないのかしら。


テレビ朝日 スーパーモーニング

工藤雪枝氏(雅子様の友人)の発言、小和田優美子さんの代弁として
「英語でのカウンセリングを希望」
「日本語では敬語や皇室用語が負担」

しかしながら、雅子さん、その英語が話せないようです。

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語学力 英語が不自由

雅子様の英語のスピーチって、おおまっぴらに公表されてないけど、人前で話せるレベルではないんでしょうね。

本当に堪能なら、「英語が堪能な優秀な雅子様」として、スピーチの動画をマスコミを通じて拡散に励むはず。実際は、日常会話の、英検1級がやっとのレベルらしいですね。一般人なら問題ないけど、外務省勤務で将来の女性大使候補。名門ハーバート大卒、英国名門大学留学、という経歴には無理がある実力です。

ご成婚後、海外の音楽家に「サインして」とねだったらしいですね。それだけでも、ちょっと問題があるとおもうのですが、雅子はsignしてくれと頼んだそうです。

日本では署名も、色紙のサインも同じくサインといいますが、

英語では、Autographs。

signとは、書類に署名するサインのこと。それぞれ違うものです。

音楽家は「sign??はあ??」ってなったらしい。雅子さんの英語力は、その程度のレベル。

2015年のトンガ王の即位式に参列した折、雅子に通訳が付いていたところをみると、本当に話せないらしいらしいですね。

※以下、ドス子wiki様よりお借りしてます。

http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5


マサグリッシュとは、

雅子夫人が口にするトンデモ英語のこと。2008年10月9日、とある奥様により『English Journal』2008年11月号掲載のHayley Westenraさんインタビューで、2005年6月4日サントリーホールにてコンサート鑑賞した東宮夫妻が

“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!”

と超上流階級にあるまじき品のない表現でサインを求めたことが発見され、ヘイリーサインおねだり祭り・ウォンチュー祭りとなった。

『English Journal』2008年11月号

Hayley Westenraさんがインタビュー中で証言した雅子の台詞“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!”

Part1342-802 可愛い奥様 sage 2008/10/09(木) 12:20:51 ID:mG+LOOXnO
そんなにたいした記事ではありませんが
English Journal 2008,11号でちょっとだけ盆丼について書いてあったのでレポします。
Haylay Westenra へのロングインタビューの中に、
「A Royal Stir」という記事があり
2005年6月4日にのコンサートに盆丼が来て、その後歓談したと書いてあります。
・来ると言う予告はあったが、始まるまで来るか来ないかわからなかった。
・二人とも「lovely」だった。(かわいい?)
・警備がすごかった
・ヘンリーが「protocol」に従って歓談を終わらせようとしたら

「Oh,no,oh,wait,we want you to sign something for us」

と言われて、ちょっと時間が長引いてしまったら、ドアの向こうの警備がパニックになってしまった。
という話でした。

804 可愛い奥様 sage 2008/10/09(木) 12:23:18 ID:mG+LOOXnO
続き、、、
上の英語を話したのは丼かな〜と思います。
英語は勉強中なので詳しくはわかりませんが、上品な英語ではありませんよね。
ヘンリーはフジテレビドラマの白い巨塔の主題歌を歌っていたので
ミーハーな気持ちで見に行ったのかと思いましたが、
なんとユニセフ史上の最年少の大使でした。
あと、ニュージーランド出身だそうです。

804 可愛い奥様 sage 2008/10/09(木) 12:37:21 ID:mG+LOOXnO
EJは48ページです。

『English Journal』2008年11月号(ヘイリーさんの大きな顔写真が表紙)
http://www.yuko2ch.net/mako/mako/src/1225897331546.jpg

Hayley Westenraロングインタビューpp.48-49より

A Royal Stir(やんごとなき珍事)

2005年6月4日のコンサートを皇太子夫妻が鑑賞して、その後歓談したことについて:
・来ると言う予告はあったが、始まるまで来るか来ないかわからなかった(いつものことながら迷惑)
・二人とも「lovely」だった(とりあえず褒めておく時の無難で典型的な言葉)
・警備がすごかった
・ヘイリーが「protocol」に従って歓談を終わらせようとしたら

But on the second knock, I was like“Oh”, you know, “Thank you very much. Um, I’d better, better be going. I’d better let you go.”
And they’re like,“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!”
And so, I thought, “OK, well, I’ll, I’ll hang around then, and, um, better sign,”you know,
“Better do as they say.”And, um, not knowing that I was, you know, creating quite a stir outside.

アルク編集部がサインねだりにつけた対訳「いえいえ、ちょっと待って、何かにサインをしてちょうだい!」

マスコミ記事にて外務省で美しく正確な英語を話す、と散々宣伝されていた小和田雅子だが、
人にものを頼むときに「May I…」や「Would you…」を使うという初歩の初歩ができない
「sign」は書類に署名する場合に使い、有名人の所謂サインなら「autograph」を使うという、超初級英単語を知らなかった

…という、帰国子女(小中学校義務教育時期のほとんどを日本で過ごしている小和田雅子は厳密にはこの定義に当てはまらないが)ではありえない英語のレベルの低さが判明することになった。

転載以上

雅子「Oh,no,oh,wait,we want you to sign something for us」

・signサイン 書類にする署名

・autograph 署名、(有名人の)サイン

ハーバート大卒業したはずの雅子さんは、この違いが判らなかったということ。

語学力 ロシア語・フランス語は問題外

釣書にあったはずの、ロシア語、フランス語は、全くダメ。

ドイツ語が堪能野のは、紀子様のほう。ドイツ語圏の人が、紀子妃はドイツ語を流ちょうに話すと書かれていたのだから、間違いなさそう。

雅子の場合、子供の障害や同和の出自や婚前の堕胎経験など自分の恥は紀子様にスライドして流布させ、紀子様のお手柄は自分のものにしているみたいですね。何語なら、まっとうに話せるのかしら。朝鮮語??

雅子様の「華麗な」学歴も経歴も全部無試験、親のコネ

・学習院初等部をうけるも落ちた。双葉には、なんども落ちた。

・双子の妹がうかったとき、お情けで入学を許された。

・高校2年生のとき、親とともに渡米。

この渡米も退学も意味が不明だとか。

大学受験もあるのに、中途半端な時期に日本の高校を退学して、わざわざレベルの低い米国の公立高校へ編入というのも不思議な話です。

アメリカの公立高校はレベルが低く、ちょっと勉強したらAが取れるそうですが、それでも雅子の成績は悪かったそうです。勉強ができない子のクラスに移動させようとすると、父親が乗り込んできて文句をいったそうで、、、どっかで聞いた話ですね。

紀子様はご成婚前になんども堕胎した。怒った川嶋教授が御所に乗り込み、「なんども堕胎さえやがって」「うちの娘を殺すきか」と天皇に詰めよった、という創価学会が流している流説に似てます。

アメリカの学校への転校の理由としては、雅子が学業がついていけない、あるいは、堕胎する必要ができるなどの不祥事をおこした、、、、など、理由があったとみなしたほうがよさそうです。

双子の妹は日本に残してますので、雅子だけ連れてというのもおかしな話です。雅子は、英語ができない子のクラスから上がれないままのレベルのままでした。

ハーバート大卒

実際に入学したのはラドグリフ女子大。14年後にハーバートに吸収されたので、小和田家は「ハーバート大卒」といいはっているだけ。

しかも、ハーバート大付属の女子大に父のコネで入学。試験なし。

卒論は、父のコネの大物のインタビューをまとめたもの。雅子さんが書いたかどうか不明。おそらくは代筆では??それでも優を取れなかった雅子さん。

東大

面接のみでの編入。ひとつも単位をとれず、ろくに授業も受けず、父のコネで職員の子弟枠をつかって外務省に入省。

外務省入省

父のコネで、子弟枠(今は廃止)をつかっての面接のみので入省。

省内では、仕事ができない人で有名だった。遅刻の常習犯。けじめがなく、小和田外務次官を「お父様」とよび、通勤手当をもらいながら車で通勤。通訳に呼ぶと、通訳が出来なくて泣く。できる仕事はコピーだけ。ついたあだ名がコピー番長。

当時、不倫をしていたのは省内でも有名な話らしい。すくなくとも、2人の不倫相手がいたらしい。

ひとりは、奥参事官。赴任先のイラクで「流れ弾にあったって」亡くなった方。しかし状況的に流れ弾がとんでくるなど、状況的に見てありえないという。

レベルの低いアメリカの公立高校の成績も、学力が低いクラスから抜け出せなかった雅子さん。

2015年のトンガ王国の戴冠式に参列した時は、通訳が付いてましたので、ハーバート大學どころか、付属の女子大も実力ではは無理でしょう。

オックスフォード大

外務省から国費留学させてもらうも、一人だけ学士がとれず帰国。

毎週洗濯物を抱えて、親がいるフランスへ渡ってたそうな。

この間、福田元首相の甥と恋愛関係にあり婚約まで発展。ほかにも付き合っていた彼氏がいたうえに、浩宮徳仁親王とはコルマールのホテルに同宿したことが確認されてます。「運命の出会い」とされているスペイン王女のパーティーでの出会いよりも数年前の話です。

もともと、「留学」の意味が解ってなかったのかもしれません。

続きます。
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4764

詳細は


雅子様の学歴ロンダリング
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0

雅子様の子弟枠を使ったインチキ外交官試験
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/265.html#c22

[リバイバル3] 「マイ電柱」は効果が有るのか? 中川隆
17. 中川隆[-10445] koaQ7Jey 2019年5月01日 12:17:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1644]

2019年05月01日 自宅システムを聴くのが楽しみ - Mr.トレイルのオーディオ回り道
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/2d1425b132968258955c66ce4266f22e


最近は自宅システムを聴くのが楽しみになっている。毎日良い方向のサウンドが変化している。今まで聴いた事の無い「低音」がD130から出て来ている。これは偏にC3+M4の組み合わせで出て来るsoundだと思う。

今まで自宅システムではC29+MC2500 → C40+MC2500 → C40+ムラードEL34ppモノラルアンプ×2 → C40+STC4033Lシングルアンプ → 自作管球プリ+STC4033Lシングルアンプ → 自作管球プリ+WE101Dppパワーアンプ1号 → 自作管球プリ+WE101Dppパワーアンプ2号 →エクスクルーシブC3+M4パワーアンプの組み合わせに変遷して来ました。約10年程の期間です。

単純にアンプだけが変わった訳では有りません。ケーブル類も15年前からすべて「自作品」に変わって来ています。そのケーブルも年々グレードアップして来て、やっと完成形(現No1グレード)になりました。

C3+M4パワーアンプも全くのオリジナルでは有りません。C3+M4は1975年発売のアンプですので「直出し電源ケーブル」でした。それも「扇風機」に使われるような「ヒョロ線」の頼りない電源ケーブルです。これを「インレット化」してNo1グレードの電源ケーブルを使える様にしています。電源ケーブルの性能を発揮させるには、アンプ内部の「ヒューズ」を質の高いものに交換するとより効果的です。C3にはFXヒューズ1本(メイン)と内部にフルテック製オーディオグレードヒューズ(4本)を使っています。M4にはメインヒューズにフルテック製を導入済。内部に有る4本1Aのヒューズはまだ未交換です。

今までの低音は50Hzくらいに「リミッター」が掛かった様な音の出方でしたが、今回は40Hz以下まで「延びて」来ています。低音が豊かになるとサウンド自体が豊かに聴こえます。それ故、自宅システムを聴くのが非常に楽しみなのです。こうなると「どこまで良くなるか?」・・・と期待しています。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/2d1425b132968258955c66ce4266f22e
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/759.html#c17

[リバイバル3] 起業するより多国籍企業に投資する(現物株を買う)方がギャンブル度は遥かに低い 中川隆
14. 中川隆[-10444] koaQ7Jey 2019年5月01日 12:37:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1645]
綻びはじめたコンビニの24時間営業 ドミナント戦略でオーナー追い詰め
2019年4月30日


株主利益最優先で暴利

 大阪のセブン・イレブン店長が、人手不足から家族を総動員したり過労死を招く長時間労働にならざるをえない現状を訴え、24時間営業の短縮を求めたが、セブン・イレブン・ジャパンは逆に違約金を払えと脅した。この問題で全国のフランチャイズのコンビニ・オーナーらが同社に団体交渉を申し入れたが、同社は「労使関係はない」といって拒否した。そして今月に入り、親会社のセブン&アイ・ホールディングスが責任をとらせる形で同社の古屋一樹社長を退任させたが、問題は解決したわけではない。流通経済の専門家やジャーナリストが著した書籍をもとに、今回の問題の背景を探ってみた。

 全国に1万9000店あるセブン・イレブンのうち、本部とフランチャイズ契約を結んでいる店が9割以上を占める。漆原直行著『なぜ毎日コンビニで買ってしまうのか?』(マイコミ新書)は、そのシステムを明らかにしている。

 フランチャイズ(許可・特定営業権などの意味)チェーンとは、本部と加盟店がそれぞれ「独立した事業体」として契約をかわし、本部がロゴマークやPOSレジ、陳列ワゴン、調理什器などを提供し、商品を供給するかわりに、加盟店はフランチャイズ加盟料とロイヤリティ(権利料)を払うというものだ。ロイヤリティは粗利に4〜6割程度の料率をかけた金額で、毎月それを加盟店から徴収する。一方加盟店は、残った利益から人件費や光熱費などを払わなければならない。こうしたシステムによって、本部は直営方式で多店舗展開するより低いコストで全国展開でき、収益も大きいが、加盟店は人材確保に苦しむことになる。

 POSシステムとは、どれぐらいの年齢の男女がいつ、どこで、どんな商品を購入したかのデータをレジでリアルタイムで収集し、それを商品開発やキャンペーンに利用するというものだ。また、弁当やおにぎり、サンドイッチといったFF(ファストフード)はコンビニの主力商品だが、加盟店舗が本部に発注してから工場→配送センターをへてその店舗に納品されるまで、最短5〜6時間だという。これを毎日朝・昼・夕方の3便体制でくり返しており、1日3回設定された締め切りに対応するため、工場は24時間体制で製造を続けなければならない。電気代が跳ね上がるばかりでなく、工場で働く外国人留学生はじめバイトの人たちにも、配送センターのドライバーにも大きな負担がかかる。

 社会的問題になっているのが、ドミナント戦略(高密度多店舗出店方式)と呼ばれるコンビニの出店方式だ。一つの地域に同一チェーンが集中して出店する戦略のことで、面でそのエリアを押さえて競合チェーンの進出を食い止め、その地域の顧客を一網打尽にとり込んで多大な利益を上げる米国流のビジネスモデルである。

 たとえば北側、東側、西側それぞれ数百b先に競合チェーンAの店舗が営業している場所に、チェーンBの店舗が単独出店したら、直後にBの南側数百bのところにチェーンAが新規出店し、Bを四方向からとり囲んで閉店させたという例は、全国でよく見られると漆原氏はいう。競合チェーンの店が立ち退いた後、別の競合チェーンが出てくるくらいなら自分たちが出店してしまえ、という例も多い。そうしたなかで同一チェーンの2店舗が同時期に共倒れするように閉店してしまった例もあり、ドミナント戦略そのものがオーナーを追い詰めている。

米投資家が経営陣揺さぶり

 毎日新聞経済部編『カリスマ鈴木敏文、突然の落日』(毎日新聞出版)は、セブン&アイHDの人事抗争と会長兼CEO鈴木敏文の退任(2016年)の過程を描いたものだが、そのなかから別の問題が見えてくる。

 セブン&アイHDの大株主である米投資ファンドのサード・ポイントは2016年はじめ、同社の取締役会に送った書簡を公表した。書簡は、鈴木敏文が自身の次男をセブン・イレブン・ジャパンの次期社長にしようとして、当時の社長・井阪隆一を解任しようとしていると暴露し、「好業績を上げている井阪を解任するなら株主総会で行動に出ざるを得ない」と人事介入の脅しをおこなった。書簡はまた、イトーヨーカ堂を切り捨て、そごう・西武からの投資から撤退するよう要求した。書簡はさらに「セブン・イレブンの収益性を伸ばし、株主利益を改善すること」を訴え、「それは安倍首相のアベノミクス第三の矢が示す、株主利益とリターンに十分に合致する」と強調した。

 結果、取締役会で鈴木は多数をとれず、鈴木は退任を表明。かわって井阪がセブン&アイHDの社長に昇格した。イトーヨーカ堂は約20店舗、そごうと西武が2店舗閉鎖となった。

 サード・ポイントのCEOダニエル・ローブは「取締役会が株主の最善の利益にもとづいて決定したことをうれしく思う」とのコメントを発表した。サード・ポイントは「ものいう株主」として知られ、株価が割安な企業に投資して経営改革を迫り、株価が上がった時点で売り抜けて利益を手にすることを常とする。アベノミクスで株価が上昇し始めると、日本への投資に力を入れるようになった。セブン&アイHDの株式の三割は、サード・ポイントをはじめとする外国人株主が握っている。

 以上のことを総合すれば、外国人投資家がアベノミクスをチャンスと見て、8期連続で過去最高の営業利益と純利益を上げているセブン&アイHDに投資して暴利をむさぼってきたこと、そしてそれはコンビニ店長の長時間労働や留学生たちの深夜労働のうえに成り立ってきたものであり、それは同時に恵方巻きに象徴される食品の大量廃棄をもたらしていることが明らかになってくる。この構図の見直しが避けられないところにきているとともに、アベノミクスがいったい誰に奉仕したのかが改めて浮き彫りになっている。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/11588
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/826.html#c14

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
109. 中川隆[-10443] koaQ7Jey 2019年5月01日 12:51:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1646]

秋篠宮には知ってはいけない秘密が有る? _ 2


2018.08.18
美智子皇后の正体|F氏の手紙・入内、出産後の信じられない女帝の奔放
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/10/22/2016102220161022120000/

コメント欄に、国民が緊急に知っておくべき重要な情報提供が有りましたので記事としました。一部は私も耳にしていた情報ですが、多くの謎の鍵を説く決定的証言が有りました。

・・・・以下転載です・・・・・

コメント欄

ミテ子さんのカッコウ(鳥)疑惑はかなり前から一部で噂になっていましたが、もっと凄いのがありまして盗宮出産後も皇太子を騙して男性と密会していた。(たぶん婚活パーティーの仲間)それが昭和帝の怒りをかい死ぬようなリンチを受けた。

表面上は流産だが実は…喜久子妃の言葉が苛めの一つとして伝わっていますが、皇太子以外ミテ子にされた仕打ちは知っていた。

ミテ子はヒステリーで発狂して手の施しようがなく別荘に篭って落ち着くのを待った。

真相は…若くして二度と子を産めなくされたこと。

昭和帝のご長女様が若くしてガンで亡くなった直後にミテ子は一家でリゾートに旅行し、あろうことか長女を亡くしてふさぎ込む香淳皇后に皇室のクレームをつけています。

盗宮を生んだミテ子さんは調子に乗りすぎて香淳皇后をないがしろにする態度がひどく目に余るようになり、昭和帝はリンチを命じたのだろうと伝わっています。

その後ミテ子さんは甲状腺の病気を発症してどんどん痩せて…顰蹙を買いながら昭和帝が亡くなるのを待って自分らの代になり…今に至るところでしょう。

旧宮家関係もミテ子さんのカッコウや別腹説やリンチは知っているでしょうが内々でしか話さない。

ミテ子は面倒なキャラクターだから。闘争か何だか知りませんが、清浄な中に土足で入って行って何もされないのがどうかしています。皇室を舐めてかかったミテ子さんと取り巻きが甘かったのでしょう。排除されても仕方がない事です。

≪私の返事≫

貴重な情報有難うございました。驚くべきことがあったんですね。

美智子が、徳仁ばかり可愛がって、文仁親王や、清子様に冷たい意味がよくわかりましたよ。自分の産んだ子が徳仁だけだから、愛子を女帝にと固執するのがよくわかりまし

た。たとえ東宮は自分の腹を痛めた子でも、東宮ほど両親にも、兄弟にも、祖父母にも、母方の祖父母や叔父叔母にも似ていないのが昔から不思議でした。

ただ、読者様から情報提供のあった、朝日新聞の皇太子妃正田家担当で、入内後も浩

宮担当をした。佐伯晋が浩宮にそっくりですね。

佐伯は、婚約が決まったころ、ある夜、正田美智子を連れ出して、朝帰りしたそうです。その時の美智子の言い訳は「昨晩のことはよく覚えていない」だそうです。許嫁のいる娘を、新聞記者とデートに出す、母親の富美子も富美子だと思いますが、あの「大陸夫人」ならやりかねませんね。

≪FXさんのコメント≫

その噂、私も聞いたことがあります。

美智子夫人の産んだ子供は、ナル殿下お一人、

実は文仁親王は、某女優(加◯さくら)の子、正田冨美さんは宮中に伺う時、お土産をナル殿下の分しか用意しなかったという・・・、都市伝説のようなものかと、その時は、笑って聞いていましたが・・・(怖っ)。


≪私のコメント≫

私が、一部知っていたのは「美智子さんが、流産し、その時誰かから嫌みを言われたので、狂乱状態になり、拘禁服を着せられて、葉山の御用邸にいかれ、2,3か月療養されたとのこと。

何故流産ぐらいで発狂し、拘禁服を着させられたかが疑問でしたが、F氏の証言で腑に落ちました。侍従らに折檻されて、「石女(うまずめ)」にされたんですね。びっくりしましたが、表面に出ないだけで、皇室内の折檻というのは、昔からあったのではないでしょうか?

江戸時代、武家の家では妻が浮気すると、間男を捕まえ、二人を裸にして、女を上に乗せ、一太刀で真っ二つにしたそうです。

「姦婦姦夫の重ね斬り」と言います。普通の武家の家でそうですからね。

2800年続く、世界最古の王家で、しかも世界最高権威をもつ日本の天皇家に、史上初めて民間から入内した嫁が、人の良い皇太子を騙して、東宮出産後も間男と「昼下がりの情事」を楽しむなんて、戦前は大日本帝国の大元帥のヒロヒトとして、世界から恐れられた、気性の激しい昭和天皇を激怒させたのです。

「殺されなかっただけ感謝しろ」の話ですよ。

ロミオとジュリエットの様に、皇太子が熟睡した深夜、東宮御所の外の森で、逢引するぐらいなら未だ可愛げがありますが。白昼堂々ですからね。婚約交渉の時、母親の富美子が、昭和天皇に散々の悪態をつき、記者のカメラが向くと決まって不機嫌な表情をする。母親のこうした「日本人離れした」態度を見て、美智子も横着になったんでしょう。

ある皇室ブロガーさんの豊富な写真を見ると、ナルへの溢れんばかりの愛を隠さない美智子さんと、無視された無念さをかみ殺す文仁親王と複雑な表情の清子内親王の対照的な姿。

★お土産をなるの分しか用意しなかった用意しなかった正田富美、用意がいいですね(笑)ある意味、托卵を積極的に仕組んだのはこの母親です。朝日新聞の佐伯晋との子であることも知っていたでしょう。娘が折檻されることも計算のうちだったかもしれません。

正田富美(旧姓副島、上海生まれの佐賀人;本籍多久市)のこの天皇家に対するあくなき敵意、婚約交渉中の昭和天皇に対する発言、天皇家を「あちらよばわり」「婚約はストラングル(闘争)です」、婚約後の会見で不機嫌そうに「最良の結婚と最適な結婚は違うんですよ」等々、

少なくとも武家の家柄(副島氏は多久藩2万石の下級武士)では口を裂かれても言えない言動です。どうさかさまから見ても朝鮮人です。しかも夫の正田英三郎は出自は部落民です。

石高2万石と言えば、旧日本陸軍の研究では、1万石で兵士250人、2万石だから、武士階級は500人いるかいないかの超小藩です。特に本藩の佐賀藩は、支藩に対する搾取がきつく、特に多久は、鍋島家の元主家竜造寺家(家老鍋島直茂は主人の竜造

寺家を乗っ取った)の藩ですから、搾取はより一層きつかったらしいです。

ですから、多久の下級武士は相当生活が苦しかったはずです。維新後、副島家からは、ブラジル移民も出ましたが、普通の武士階級では海外移民などいきませんよ。平民以下の人が多かったのです。

加えて戦中上海生まれとする自称日本人には在日朝鮮人がいます。

元総理の鳩山由紀夫の妻、鳩山幸が両親とも在日朝鮮人でした。なんせ、戦前は各国の租界が有り、列強の謀略戦が繰り広げられ「魔都」と呼ばれた上海ですから、日本人と

言っても疑ってかかるのが正解です。

昭和天皇は嫁が産んだ男子が、長男の子ではない、浮気相手の男の子だという事を直観的に感ずいていたのでしょう。

カッコウの雛鳥には「徳仁」の「徳」という、最も不吉な文字を付けました。

私はこれは昭和天皇が行った一種の呪詛だと思います。徳仁の即位を絶対に阻止するつもりだったのでしょう。

ご自分の死後、皇太子妃の美智子が【皇室を破壊すること】を読んでいたと思います。カッコウの雄鳥の朝日新聞記者の佐伯晋は、そのご、旧宮家、家族周辺から噂が広まり、上司の追及を受け、「美智子との関係をげろったそうです」

とっくに朝日は退職してますが、顔を見ると東宮と瓜二つです。

東宮は両親に似ていない、弟、妹とも似ていない、祖父母、従姉とも似ていない。正田家の祖父母とも似ていない。叔父叔母とも似ていない。従姉とも似ていない。

似ているのが佐伯だけだという皮肉。

英国、初め世界の人気者だった故ダイアナ妃は夫のチャールズがカミラ夫人との浮気を知ると、騎兵で馬術のインストラクターであったジェームズ・ヒューイットと5年間不倫しました。

英国王室の法律では、皇太子の妃を寝取った男は、死刑だそうです。未だにヒューイットは刑死していませんが、これは、チャールズも離婚後、人妻カミラと再婚した負い目もあるでしょう。

DNA鑑定やって、佐伯との「親子関係」が確認されれば、東宮は皇位継承権を失うし、前代未聞とは言え、佐伯はイギリス並みに死刑相当だと思います。そして、ここでまた朝日新聞だ。50年以上前とは言え、社員が犯してはいけない罪を犯した。

戦前は「大逆罪」というのが有りましたら、「慰安婦捏造」に続いてこれですからね〜雇用者責任と慰謝料として10兆円程度は皇室に払わせて、倒産させるのがベストだと思います。

≪甲状腺障害が怪我の功名となった女帝≫

甲状腺を患ってから、痩せとやつれが目立つようになりました。

しかし、「お花畑の人」特に私のような、皇室情報が入らない、地方居住者にとっては、それが、反射的に「美智子妃」への同情と根拠のない共感に変わったのです。

何故かというと、入内後数年は、美智子妃と懇意な皇室ジャーナリスト達がフレームアップ(捏造)した【美智子妃いじめ伝説】がマスメディアや商業雑誌の成長とともに、嘘が事実となって国民の共通認識となって下地となっていたからです。

事実は、皇室の伝統を無視して、どんどん露骨に破壊してゆく美智子さんに、周囲の皇族たちが呆れ、勝気な美智子さんにてこずり、最終的に無視するようになったのだと思います。「無視」を「いじめ」と取らえて【美智子さまいじめの妄想】を事実を知らない一般国民の常識にしてしまったんですよ。その時悪役にされるのは、決まって、入内に反対した学習院常磐会と古手の女官たち。

聖心女子大では、大きな顔と態度をしていた自称優等生が、お茶の水女子大に編入したら、成績不振、大きな態度取らせてくれない。そのうち女学生たちから「何あの子」と言われて無視されるようになる。それを「苛めだ!」と叫んで、フィクション小説を書き始めるようなものです。

嗜好が朝鮮人に似ていますね。上司から、ミスを指摘され注意されたら、「差別ニダ!」と叫ぶ。実際はこんな程度のものだと思います。

当時高校生の私も騙されて「美智子さま、また皇室内で苛められているんだ、可愛そうにな〜」と見事に騙されました。

★すべては、今の様にネットのない、TV、女性雑誌全盛時代の影響力です。

当時の我々はマスゴミに見事に洗脳されていたんですよね。それでも私の学生時代の下宿、大田区久が原の旧家の奥さんたちは、美智子さんの本性を知っていまし

たよ。特に東京23区内のお屋敷町の住人は、家族から、また、親戚から、皇居や東宮御所に女官を出している旧家が多く。その人たちは【美智子さまの苦労と栄光の物語】は、鼻から相手にしていませんでした。旧皇族、華族の人達も一緒

だと思います。女帝の耳に届かないようにこっそり悪口を言っていると思います。

★1959年の入内以降、美智子皇后で一番稼がしてもらったのは、女性誌です。

良く知りませんが「女性自身」とか「女性セブン」とか。当時の「開かれた皇室」の風潮の中で、女性誌の被写体になるビジュアルを持っていたのが美智子さ

んだけでした。私は、常陸宮華子さんの方が、本当の意味で上品でお美しいと思いますが、華子様は、オファーが来ても受けなかったでしょう。

そして、皇后になると、あの甲状腺でやつれたしわくちゃの顔が【民間初の皇太子妃で苦労された方】という事実と異なるイメージを女性にアピールして、雑誌を購読させるのです。

ところが、この2年、状況が全く逆転してしまいました。

秋篠宮家の2内親王、眞子様と佳子様が成人され、特に一瞬にして佳子様が国民的アイドル皇族になり、女性誌も佳子様の公務やキャンパスライフを競って取り上げるようになりました。

だって、佳子様を取り上げたら売り上げが伸びるんですから。その代り、女帝の露出が減りました。「アテクシこそが元祖女性誌のアイドルなのよ」80超えた老婆が20歳そこそこの孫娘に嫉妬全開です。

学園祭参加禁止、園遊会も禁止、これって立派な【人権侵害】じゃないですか?

もしかしたら女帝は佳子さま○○も企んでいるかもしれない。心配です。
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/10/22/2016102220161022120000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c109

[近代史3] もうすぐ氷河時代が来る証拠 中川隆
13. 中川隆[-10442] koaQ7Jey 2019年5月01日 13:19:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1647]
2019年5月1日
目標破綻は不可避か、地球温暖化の厳しい現実


[ロンドン 16日 ロイター] - クリーンなエネルギーシステムがこれほど喧伝(けんでん)されているにもかかわらず、大気中の二酸化炭素(CO2)は急速に増え続けており、改善の兆しは見られない。

大気中のCO2濃度が上昇を続ける中、気候変動防止目標は手の届かないものになっており、政策担当者らは居心地の悪い選択を強いられるだろう。

このままCO2濃度が上昇し続ければ今世紀中には、気温が現在よりかなり高くなる世界に向けた計画を練るか、大気中からCO2を除去するため未検証の戦略に頼らざるを得なくなるだろう。

国連気候変動枠組み条約(UNFCCC)の締結国は、地球の平均気温が産業革命以前の水準を超えて上昇することを阻止すると宣言。

同条約に基づき2015年締結されたパリ協定では、署名国は地球の平均気温の上昇を摂氏2度未満に抑えること、さらに摂氏1.5度に抑えるための努力を推進することを公約している。

気候変動に関する政府間パネル(IPCC)に助言する科学者らの試算によれば、これらの上限設定は、大気中のCO2濃度が450ppm(2度以下)または430ppm(1.5度以下)を超えないことを意味している。

だが現在の動向から考えれば、2020年代後半から2030年代後半には、こうした上限値に達してしまう。エネルギーシステムとグローバル経済に大規模な変更を加えるには、あと10─20年に満たない時間しか残されていないことになる。

だが、エネルギーシステムの進化ペースは遅いことで有名だ。家電製品や産業機械、発電所、パイプライン、送電システムといった長期に及ぶ設備投資に組み込まれているからだ。

現在使われている設備の予想耐用年数と更新ペースの遅さを考えると、今後20年間にわたって大気中のCO2濃度を430─450ppm以下に抑えるシナリオを描くことは、ますます困難になってくる。

ハワイ島マウナロア山での計測によれば、大気中のCO2濃度は2019年初めにすでに約410ppmまで上昇している。10年前は387ppm、観測開始した1958年には314ppmだった。

これとは別に、世界各地の観測ネットワークが海面で計測した大気中のCO2濃度は、2018年が平均407ppmで、10年前の385ppm、1980年の339ppmから上昇している。

米政府機関である地球システム研究所によれば、地球の平均CO2濃度は、過去10年間で年平均2ppm以上、つまり1年に約0.6%のペースで上昇しているという。

重要なのは、観測からは、大気中のCO2濃度の上昇が減速し、いずれ横ばいになるという兆候が見られない点だ。

これまでの推移を考えると、CO2濃度は政策担当者の設定したパリ協定の目標を超過し、地球の平均気温も2つの目標を超過してしまうことはほぼ確かなようだ。

どちらも数10年間、目標値をオーバーシュートした後、今世紀後半に目標値に向けて戻り始めると、IPCCの「Mitigation of climate change」(2014年)は予想する。

IPCCに助言する科学者らは、地球温暖化を長期的に摂氏1.5度以下に抑えるには、いずれにせよ、すでに大気中に放出されたCO2を何らかの方法で回収する必要があることを認めている。

今世紀後半の数十年間で、1000億トン─1兆トンのCO2を回収する必要がある、とIPCCの「Global warming of 1.5 degrees Celsius」(2015年)で同科学パネルは説明する。

CO2回収には、植林、森林再生、土地再生、大気中CO2の直接的な回収・貯留などの戦略がある。だがこれまでのところ、どの方法についても、求められる規模に近い条件で商業的に実現可能かどうかは確認されていない。

とはいえ、CO2目標の破綻が迫っていることは、エネルギーシステムが政策当局の設定する目標からどれほど乖離しているか、現在の傾向がそのまま続けば地球温暖化がどれほど現実味を帯びるか、政策担当者がそうした結末を避けたいのであれば、どれほどの努力が必要なのか、こうした事実を如実に示している。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/202.html#c13

[アジア13] 悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない 中川隆
605. 中川隆[-10441] koaQ7Jey 2019年5月01日 13:35:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1648]

南京大虐殺や慰安婦強制連行を否定するチャンネル桜関係者や水島総社長の問題は

歴史学の研究者は全員極左なので言う事は一切信用できない

という判断をしていて、

西岡力や渡部昇一の様な詐欺師や田中英道の様なパラノイアのキチガイだけを出演させて嘘八百のデマを拡散している事なんですね。

南京大虐殺や慰安婦・徴用工強制連行は既に証明されていて否定できる筈もないのに、詐欺師の詭弁で視聴者を騙そうとしている。

そもそも、吉田清治さんの慰安婦強制連行の証言でも、歴史学会では疑っている人は昔から殆ど居ないのに、まだ詐欺師呼ばわりしているんですね:

経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html

http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html#c605

[アジア13] 悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない 中川隆
606. 中川隆[-10440] koaQ7Jey 2019年5月01日 13:47:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1649]

チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html

従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/133.html

吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html

今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」_ 吉田清治の話はやっぱり事実だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/132.html

従軍慰安婦は売春婦として認可されない 13才、14才から働き始めているので売春婦では有り得ない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/137.html

朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/134.html

チャンネル桜の常連の三橋貴明はチャンネル桜関係者の受け売りしかできないアホだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/374.html

朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html

櫻井よしこ はその時点で一般大衆に受けそうな意見を受け売りしてるだけの無知蒙昧・無定見なオバサン
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/217.html

チャンネル桜や正論で大活躍中のアホ右翼・アホ陰謀論評論家 まとめ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/228.html

朝日新聞陰謀論 _ なんでもみんな朝日新聞が元凶だというアホ右翼の妄想
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/233.html

日本のアホ右翼は太平洋戦争はアジアを植民地支配から解放する為にやったというデマを流しているが…
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/157.html

世界に比類なき日本文化 _ 名誉白人認定されたいアホ右翼は欧米人に金渡して「日本スゴイ!」と言わせている
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/235.html

アイヌ人は先住民ではない、日本人は単一民族だというデマを撒き散らすチャンネル桜
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/323.html

こうしてベストセラーは創られる _ 「見計らい本」で書店にヘイト本が並ぶ現象が問題に
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/225.html

http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html#c606

[議論31] 狂った宗教 イスラム教 _ 頭がおかしいのは中国人と朝鮮人だけではない 中川隆
168. 中川隆[-10445] koaQ7Jey 2019年5月01日 14:18:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1644]
ラマダンの季節=テロの季節。スリランカのイスラム・テロのあとで。イスラム理解を深めよう。移民のことも。
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/637.html
投稿者 晴れ間 日時 2019 年 4 月 30 日 19:13:44: FhUYgDFvAt2/E kLCC6orU
 

最近起きたスリランカのイスラム・テロに関連して、他の投稿記事への私のコメントを再掲し、同時に加筆する。

以下の3コメントのうち、最初の二つ(@とA) はスレ主であった仁王像が、私のコメントを「初期非表示」にしたので、ここに再掲する。

3つ目のコメントは、天木直人氏の記事へのコメントであったが、これもHIMAZIN という私の投稿への妨害活動に異常な執念を燃やす人物からの「攪乱・妨害」投稿があったので、ここに再掲する。

仁王像は「イスラム好き」を自称している。(日本会議や日本の歴史修正主義者への「共感」も隠さない。「過去の世界」に生きている人のようだ。)
HIMAZIN は「イスラム教徒」であると、私は見ている。HIMAZIN が現下の欧米の「ムスリム同胞団」と同一のイデオロギーの持ち主であることは確かである。


--【他記事への私のコメント】---------------------------------------------------------------------------
@■ http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/633.html#c3
イスラムはもともと「過激」なんだよ。それが本物のイスラム。
「過激でない(受けいけられる) 範囲」で「戒律」を守っているのが「穏健派と言われているムスリム」。
しかし「穏健なはずのムスリム」が「本当の教理」に目覚めれば、いつでも「過激派」に変容可能。
キリスト教みたいに「宗教改革」をやればいいのだよ。教理を改変する者は「死刑」という教理があるため皆ビビって尻込みしているだけ。しかし「イスラム協力機構」の加盟国が「みんなでやれば怖くない」。
ただし「墨塗りコーラン」を作れば、単にユダヤ教にキリスト教をくっつけたものに変わる。過激な部分は主に歴代カリフが書き足したものだからね。
(勿論、ユダヤ教もキリスト教も、過激な部分はある。異端は火刑。ただ、大半は世俗化して無神論者になったり、「死刑反対」になったりしている。)

「無学層」は自分で思考する能力がない。イマムの言う通りに教えを守るだけ。(知能指数2桁の人々。)
経典を読む能力のある者には、「過激主義」への門が開かれる。
本当に知力が高く、批判力のある者は、「棄教への道」を歩む。

英語が読める者は、ロバート・スペンサーの本がお勧め。(Robert Spencer 。米アマゾンで大量の読者コメントを参考に選ぶ。)
ハマスの過激派もスペンサーの本を熱心に読んで、イスラムの教理について勉強しているそうだ。

A■ http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/633.html#c5
仁王像は「母系社会」氏に、なぜイスラム礼賛投稿をするのを止めたのか、尋ねればよい。
聞きたいだろう? あのイスラム礼賛を。
私はあることを書いたときから、誰がイスラム礼賛を止めるのか、観察していた。「母系社会」氏が真っ先に止めた。
その正確な理由を私が知る由もないけれど、あの言葉(事実の指摘) が止めるきっかけになったのだろう、と私は考えている。

仁王像は、もうすこし謙虚に学ぶよう心がけないと、陰謀論者並みに「妄想」の中でだけ生きるようになるよ。
「母系社会」氏程度の判断力と知力はあって欲しいものだ。


B■ こちらは政治板での天木直人氏記事への投稿コメント
<日本のモスクで説教をした可能性があるというのだ!>日本とつながっていたスリランカ自爆テロ組織代表の衝撃  天木直人 
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/230.html
投稿者 赤かぶ 日時 2019 年 4 月 28

【私のコメント】
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/230.html#c12
何をいまさら驚くのだろう。
筑波大学構内での『悪魔の詩』翻訳者の殺害といい、多数の日本人が犠牲になったダッカ・テロといい、日本国内滞在者によるテロ事件はすでに何度も起きている。
イスラムがある限り、これは変わらんよ。
日本の公安警察は、殺傷武器だけを監視対象にしているようだが、イスラムの危険性は「武器、殺害道具」ではない。(殺害道具=包丁なら、日本のどの家庭にもある。)
イスラムの危険性は、その「イデオロギー」(特に異教徒憎悪) にある。「イデオロギー」だから、公安当局がモスク内に「監視カメラ」をつけても「見えない」。
むしろ「盗聴器」をつけて、「過激イマム」の説教内容を分析するするのがよい。(説教の言語を理解できる専門人材が要る。)

フランスの場合、ムスリム住民の「イスラム国」への参加度合いと、人口当たりのモスクの数との間には「相関関係」があることが確認されている。
つまりモスクの数が多いほど、「過激イマムの過激説教」を聞く機会が多いほど、信者は「過激化」する。
日本も「移民」を無制限に入れると、テロが頻発する国になるよ。分かりきったことだ。


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イスラム理解には、ロバート・スペンサー Robert Spencer の本がおすすめ。(ハマスのお墨付き。)
(購入は、米アマゾン amazon.com で。)

イスラムとはどういう宗教か?
The Politically Incorrect Guide to Islam (and The Crusades)

イスラム1400年の歴史
The History of Jihad: From Muhammad to ISIS

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ただ、世界中で(特に欧米では) イスラム教徒の「世俗化」と「棄教」は猛烈な勢いで進んでいるようだ。
欧州在住者の間では、出生率も逓減傾向にあるそうだ。


■【ここからは今回の私の追加新規投稿部分。やや纏まりに欠けるが、時間がないので我慢のほどを】=========================

※私の投稿には、HIMAZIN という「イスラム擁護者」が執念深く妨害粘着してくる。
私は、HIMAZIN をイスラム教徒だと見ている。少なくとも日本のイスラム関係者だ。
イデオロギー的には、欧米の「ムスリム同胞団」と全く同一。「イスラム教徒を傷つけるな!」という台詞も含めて、全く同じ事を言っている。
なお、この「イスラム教徒を傷つけるな!」という台詞は、ムスリム同胞団創設者の孫タリク・ラマダンの十八番の台詞。
「批判を封じ込める」のが、この台詞の目的。イスラムは「言論の自由」や「批判精神」を許さないのが特徴。
(これと同じことを言うのが、フランスのトロツキスト政党の一つ「NPA」 反資本主義新党。政党とは名ばかりの党員数二千名にも満たない弱小グループ。NPAは「ムスリム同胞団」と連帯している。)

また、このタリク・ラマダンが、#MeeToo 運動の渦中、告発されて強姦容疑で逮捕されたとき、ある記事の中で私がその件触れると、さっそく HIMAZIN が「シオニスト!」と叫んで私に対する投稿妨害行動に出た。
YouTube の動画を見るとよい。(ただしフランス語。) タリク・ラマダンを告発した女性の動画には、フランスの「ムスリム同胞団」の連中が「シオニスト〜!」「イスラエルの〜」とか言って叫んでいることがわかるから。彼らはHIMAZIN と全く同一のイデオロギーを持っている。(全く同じ、脊椎反射的な反応だから、私は笑った。)

HIMAZIN 本人は、自分は「ムスリム同胞団」のメンバーではない、と言っている。そういう言い訳は無意味だ。「ムスリム同胞団」とは大元の組織の名称で、その傘下には様々なサテライト団体(女性団体やサークル団体) を作っている。どんなカルト団体や宗教団体でも、類似の組織形態を取るだろう。サークル活動に誘われて行ってみたら、バックに宗教団体がいた、とか。


※なお、これは重要なことだが、イスラムには「タキーヤ」と言って、「イスラムを守るためには、攻撃をかわす手段として "嘘" をついて異教徒を欺せ!」という教義がある。「イスラム教徒は(積極的に)嘘をつくから信用するな!」というのがイスラム理解の「基本のキ」だ。
私が最初に読んだ本(ハミド・ザナズ著=仏語) には、その点に関する注意が、特に強調して書かれていた。「イスラムでは "嘘" は善」と。「嘘をついてはいけません」という社会規範の中で育った日本人には、特に自覚が必要。


※上記@■とB■ のコメントでも触れたが、イスラム理解にはロバート・スペンサーの本を読むことが不可欠。
米 amazon.com で著者名 Robert Spencer を入力すれば沢山出てくる。直接本を購入しないまでも、読者レビューを読めば、本の内容は推測できるだろう。
■ついでに、イスラムの「基礎的知識」についての、ロバート・スペンサーの動画。(合計13本。)
13講連続のもの(55分43秒)
https://www.youtube.com/watch?v=SAuS3K5Qdq4
Islam Exposed a.k.a. "The Basics of islam" by Robert Spencer 13 talking points

こちらは、同じものだが、13本の動画に分かれている。(各動画4〜5分)
https://www.youtube.com/watch?v=eL7v4RCp0KU&list=PLG60CR__0a0W2odPBuJn1w1Q7i9b4HA1I
The Basics of Islam 1: Robert Spencer on "Islamophobia"

いずれも、右下の歯車マークを操作すれば、英語の字幕が出る。
(さらに日本語翻訳の字幕も出せるとは思うが、多分滅茶苦茶だろうから、おすすめしない。)


■また、ロバート・スペンサーが編集長をしているニュース・サイト「ジハード・ウオッチ」Gihad Watch はこちらから。
https://www.jihadwatch.org/

イスラム勢力の活動や動向を速くキャッチするには、情報の早さと質の面で、このサイトを見るのがいちばん。
なお、ロヒンギャが話題になっていたときに、私はこのサイトをチェックしたが、取り上げていなかった。このサイトでは、ロヒンギャの行動を「ジハード」とは見做さなかったのだろう。(それ以前に、ロヒンギャは「原始人」のレベルと見られたのかもしれない。=あくまでも私の推測。)


--【参考 : 私の過去の投稿から】------------------------------------------------

■「陰謀脳」と「カルト脳」 (1) 「"反ユダヤ主義批判"= "シオニズム支持"」と考える低学力者
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/436.html
投稿者 晴れ間 日時 2017 年 1 月 10 日

■「陰謀脳」と「カルト脳」 (2) 「イスラム信者らしい 77NFlyiBvM」による私への言論封殺行為
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/437.html
投稿者 晴れ間 日時 2017 年 1 月 10 日

■「陰謀脳」と「カルト脳」 (3) 「イスラム信者らしい 77NFlyiBvM」の批判(脅し) に対する私の反論
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/438.html
投稿者 晴れ間 日時 2017 年 1 月 10 日


----【ついでにこちらも】-------------------------------------------
最初のものはコーランの章句の引用。ラマダンに関したものもある。

■『コーラン』における「異教徒」と「不信仰者」の扱い ⇒ 〈改宗/逃亡/死〉の三者択一のみ
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/377.html
投稿者 晴れ間 日時 2016 年 7 月 07 日

■「宗教批判」としてのイスラム批判は「ヘイト」ではない
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/378.html
投稿者 晴れ間 日時 2016 年 7 月 07 日

■「平和の家」と「戦争の家」。 「イスラムは平和の宗教」の"嘘"。
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/381.html
投稿者 晴れ間 日時 2016 年 7 月 24 日

■イスラムの教義が「移住」を促し、「移住」したムスリムはシャリアを実践する
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/405.html
投稿者 晴れ間 日時 2016 年 8 月 28 日


==================================
※以上は主に議論板に投稿したもの。ほかにも国際板と戦争板に、投稿やコメントをしている。私は思想も言動も一貫しているので、削除はしていない。(訂正があるときは、それのみを指摘。) 自分で探すのも面倒なので、読者にお任せする。

--------------------------------------------------------------
※国際板の記事(多分、天木直人氏の記事へのコメントがどこかで、「母系社会」氏が私にイスラムの「共生思想の素晴らしさ」(正確な用語は未確認) について意見したことがあった。なんでも、イスラム社会では、貧者が富者に「施し??」を求めるのは「当然の権利」で、貧者は「悪びれもせず」「卑屈にもならず」それを受け取り、要求する、それが可能なのがイスラム社会だ、という意味内容だった。

「知る大切さ」氏は、「イスラムにもいいところがある」という立場だ。どこがどういいのか、説明してほしいと思うが、そういう問いには一切答えなかった。しかし「知る大切さ」氏は、私の投稿妨害を続ける HIMAZIN に賛同すると述べた以上、その理由説明をすべきだ。

まさか、「知る大切さ」氏も「母系社会」氏が述べる「うわごとのようなイスラム礼賛」をそのまま信じているのではあるまいな?

「母系社会」氏の主張は、今でもイスラム教徒に「立派に」受け継がれている。(文化的伝統は強固に継続。)

欧州に居住するイスラム教徒約5000万人のうちの8割は、欧州の納税者が払う「社会福祉」に寄生して暮らしている。「悪びれ」もせず、子供に支払われる養育手当を狙って、ボロボロ子供を産み続けている。男の大半は失業中。女も家事・育児だけで、家の外では働かない。外出するときは例の布被り姿。そしてムスリム移民は「植民地化の代償として、西洋/フランスは500年間は自分たち移民の生活の面倒を見ろ!」とうそぶいている。

家賃を全く払わない者が多く住む団地では、建物の改修がなされないから、設備は壊れ荒れ放題。警察も介入できない「無法地帯」となった地区も多数。数年前の調査で、フランス全国で750箇所以上存在する。

そういう地区では、麻薬取引が行われるなど、犯罪の巣になっているが、警察は介入できない。

子供同士が地域毎に「ギャング団」を作って抗争している。12歳の子供までが刺し殺された。警察にできることは、せいぜい「夜間外出禁止令」を出してパトロールすることくらいだ。

「危険地域」を通るバスの運転手は、沿線住民が金属パイプでバスのガラス窓を叩き割ろうと襲ってくるから、勤務拒否を起こす。

住民の人命救助を優先せざるを得ない救急車のスタッフは、こういう団地に向かうときは「防弾チョッキ」を着て出動する。

団地だけではない。そういう地区にある学校は子供の学力がひどい。自分の子供をそういう地区の学校に通わせたくない親と家庭は、逃げ出す。

パリ地方の場合(それ以外でも)、ユダヤ人の子供は公立学校からは姿を消した。子供のイジメも暴力を伴うものだからだ。(イスラム教徒の子供は、特にユダヤ人の子供をいじめる。それが「教義」だから。)

人種毎に学校での学力に差があり、学力までもが(人種毎に) 階層化している。住む地域も異なる。イスラム教徒はボンボン人口増殖し、白人は、生活環境・教育環境の悪化を嫌って、その地区から逃げ出す。それが「多文化社会」の現実だ。

「母系社会」氏のいう「イスラム社会の共生関係」の現実的結果が、それ。そして逃げ出す白人に「差別だ!」「レイシストだ!」と叫ぶ。逃げられない非白人には殴りかかる。(「勤勉でカネも稼ぐ」中国人は殴られ、殺される。ユダヤ人はすでに何人も殺された。)


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※私はイギリスのことはよく知らないが、日本語の本も出ているようだから、図書館で借りて読むといい。
(日本語版は高価だが、英語版を買えば千円程度だ。)

■ダクラス・マレー著『西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム』 東洋経済新報社、2018年(邦訳刊)

著者はイギリスのジャーナリストで、YouTube にも多数の動画があるから、動画の方が手軽だろう。
日本のアマゾンにある、この本への日本語読者レビューも参照。

※日本は、移民を入れるのなら、それなりの「覚悟」をしておくべきだ。欧州の状況を見れば、移民導入の代価は非常に高くつくと思われる。(社会が壊れ、もう元に戻れなくなる。)

その代価を払うのは、シンガポールでもどこでも自由に住める「富裕層」ではない。高い家賃を払えない、国外脱出もできない「庶民」だ。移民と「仕事を奪い合う」ことになる貧乏原住民だ。

「イスラム」について「思い違い」をすると、とんでもないことになる。事前に知っておくべきだ。
一握りの「インテリ教養人」「上級市民」と、一般労働力としてやってくる「移民」は全く異なる。「下層民」は相手の文化など尊重しない。
「差別」をしたくなければ、最初から「必要な距離」を置いて接するべきだ。

「母系社会」氏は、日本がそういう社会になることを願っているのだろうか。
「知る大切さ」氏は、どの程度「知る努力」をしているのだろうか。

 

コメント


ISを作り支援しているのは、米国とイスラエルだ。
> Bloggers: Edward Snowden leaked NSA documents show U.S., Israel created Islamic State

https://www.politifact.com/punditfact/statements/2014/aug/19/blog-posting/edward-snowden-leaked-nsa-documents-show-us-israel/


ユダヤ教の聖典タルムードと旧約聖書は、似て非なるものだ。

タルムードでは、ユダヤ人は、己が目的を遂げるために、Goyim(ユダヤ人以外の人間一般)に対して、嘘や殺人を犯しても、何の罪にも問われないと教えている。

> Talmudic Hate Speech as the basis of the Genocide of Non-Jews

https://revisionistreview.blogspot.com/2019/03/talmudic-hate-speech-as-basis-of.html


スリランカ・テロ事件の重要なポイントは、その犯行の動機として、ニュージーランドにおけるイスラム教徒への乱射虐殺事件を挙げていることだ。

つまり、これは、世界のいかなる国も、ISのテロの標的となることを示している。

すなわち、これを読み解くと、以下のようになる。

我われ、アングロサクソンを裏切ると、ISを使って、テロ攻撃をお見舞いするぞ。


2. 2019年4月30日 21:09:18 : nlTtDoNxmM : cWVXTnBSL01KSE0=[2]

>>01補足。
ユダヤ教をよく知るための必読書として、アマゾン・ストアから追放された、次の二著を挙げる。

@ Judaism’s Strange Gods: Revised and Expanded

A Judaism Discovered: A Study of the Anti-Biblical Religion of Racism, Self-Worship, Superstition and Deceit

著者は、いずれも、Michael Hoffman氏だ。


3. 2019年4月30日 21:16:27 : nlTtDoNxmM : cWVXTnBSL01KSE0=[3]
>>01補足
多分、日本の天皇閨財閥体制も、ユダヤ教から借りて、Goyimたる日本国民を同じように扱っている。

これは、天皇裕仁や皇族が関わった「金の百合」で、自分たちに尽くしてくれた日本兵や鉱山技師を、口封じのために、つまり自分たちの欲望を満たすために、情け容赦なく殺したことに表れていて、その意味では、福島原発事故の対応を見ると、現在でも伝統として存在している。



6. 晴れ間[1434] kLCC6orU 2019年5月01日 04:06:03: xni5yVaf3k : UExEM2RXUElUbUU=[12]


HIMAZIN というのが、私の投稿への妨害・嫌がらせ投稿を続けているが、読者はHIMAZIN の行動をよく見てほしい。

これがイスラムだよ。「批判」する者は「攻撃」する。言論の自由は許さない。

フランスでは、イスラムに「敵対的」だとみなされると、そしてムスリムと同一の団地に住んでいたりすると、イマムに引き連れられた「イスラム教徒」の集団が家に押しかけてきたりする。ある一家など、消防車が救援に来るまで、一週間も家から出られなかったりした。

彼らは殆ど「ムスリム同胞団」の影響下にある。(欧米のイスラム教徒の9割は、「ムスリム同胞団」の傘下にあると言われている。)

また、アメリカ(北米) だと、イスラムに批判的な人物が教員や公務員だったりすると、「ムスリム同胞団」系の集団が役所や学校に圧力をかけてきて、その教員・公務員の「解雇」を迫ったりする。実際に「解雇」に追い込まれた例もある。
非ムスリムも、自分に「批判」と「攻撃」が向けられるのを怖れて、黙り込まされる。イギリスでは、この態度が白人少女数千名の(パキスタン系ムスリム移民による) 性奴隷化(ロザラム事件) につながった。

これが数年〜数十年来欧米で猛威をふるってきた「ポリティカル・コレクトネス」。
イスラムの「攻撃」に沈黙し「服従」してはならない。

しかしここ1-2年、このイスラムによる「横暴」に嫌気が差した人々が、選挙での投票行動で、「イスラム嫌い」を明らかにしつつある。
この動向は、5月の欧州議会選挙でも確認されるであろう。

イスラムの危険性は、いくら注意しても注意しすぎることはない。
フランスでは、すでにムスリム生まれの人々の15%が「棄教」したと言われている。しかしそのことを親族に隠している人が殆どである。親族・近隣がの圧力と攻撃が物凄いからである。「圧力」を逃れるために、故郷と親族から離れて暮らすことを選んだ人も多い。


イスラムがそういう宗教(正確には支配イデオロギー) だということは、十分知っておいてほしい。


http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/332.html#c168

[近代史3] 多文化共生は大量殺人を引き起こす 中川隆
2. 中川隆[-10444] koaQ7Jey 2019年5月01日 14:20:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1645]
>>1 の続き


ISを作り支援しているのは、米国とイスラエルだ。
> Bloggers: Edward Snowden leaked NSA documents show U.S., Israel created Islamic State

https://www.politifact.com/punditfact/statements/2014/aug/19/blog-posting/edward-snowden-leaked-nsa-documents-show-us-israel/


ユダヤ教の聖典タルムードと旧約聖書は、似て非なるものだ。

タルムードでは、ユダヤ人は、己が目的を遂げるために、Goyim(ユダヤ人以外の人間一般)に対して、嘘や殺人を犯しても、何の罪にも問われないと教えている。

> Talmudic Hate Speech as the basis of the Genocide of Non-Jews

https://revisionistreview.blogspot.com/2019/03/talmudic-hate-speech-as-basis-of.html


スリランカ・テロ事件の重要なポイントは、その犯行の動機として、ニュージーランドにおけるイスラム教徒への乱射虐殺事件を挙げていることだ。

つまり、これは、世界のいかなる国も、ISのテロの標的となることを示している。

すなわち、これを読み解くと、以下のようになる。

我われ、アングロサクソンを裏切ると、ISを使って、テロ攻撃をお見舞いするぞ。


2. 2019年4月30日 21:09:18 : nlTtDoNxmM : cWVXTnBSL01KSE0=[2]

>>01補足。
ユダヤ教をよく知るための必読書として、アマゾン・ストアから追放された、次の二著を挙げる。

@ Judaism’s Strange Gods: Revised and Expanded

A Judaism Discovered: A Study of the Anti-Biblical Religion of Racism, Self-Worship, Superstition and Deceit

著者は、いずれも、Michael Hoffman氏だ。


3. 2019年4月30日 21:16:27 : nlTtDoNxmM : cWVXTnBSL01KSE0=[3]
>>01補足
多分、日本の天皇閨財閥体制も、ユダヤ教から借りて、Goyimたる日本国民を同じように扱っている。

これは、天皇裕仁や皇族が関わった「金の百合」で、自分たちに尽くしてくれた日本兵や鉱山技師を、口封じのために、つまり自分たちの欲望を満たすために、情け容赦なく殺したことに表れていて、その意味では、福島原発事故の対応を見ると、現在でも伝統として存在している。

6. 晴れ間[1434] kLCC6orU 2019年5月01日 04:06:03: xni5yVaf3k : UExEM2RXUElUbUU=[12]


HIMAZIN というのが、私の投稿への妨害・嫌がらせ投稿を続けているが、読者はHIMAZIN の行動をよく見てほしい。

これがイスラムだよ。「批判」する者は「攻撃」する。言論の自由は許さない。

フランスでは、イスラムに「敵対的」だとみなされると、そしてムスリムと同一の団地に住んでいたりすると、イマムに引き連れられた「イスラム教徒」の集団が家に押しかけてきたりする。ある一家など、消防車が救援に来るまで、一週間も家から出られなかったりした。

彼らは殆ど「ムスリム同胞団」の影響下にある。(欧米のイスラム教徒の9割は、「ムスリム同胞団」の傘下にあると言われている。)

また、アメリカ(北米) だと、イスラムに批判的な人物が教員や公務員だったりすると、「ムスリム同胞団」系の集団が役所や学校に圧力をかけてきて、その教員・公務員の「解雇」を迫ったりする。実際に「解雇」に追い込まれた例もある。
非ムスリムも、自分に「批判」と「攻撃」が向けられるのを怖れて、黙り込まされる。イギリスでは、この態度が白人少女数千名の(パキスタン系ムスリム移民による) 性奴隷化(ロザラム事件) につながった。

これが数年〜数十年来欧米で猛威をふるってきた「ポリティカル・コレクトネス」。
イスラムの「攻撃」に沈黙し「服従」してはならない。

しかしここ1-2年、このイスラムによる「横暴」に嫌気が差した人々が、選挙での投票行動で、「イスラム嫌い」を明らかにしつつある。
この動向は、5月の欧州議会選挙でも確認されるであろう。

イスラムの危険性は、いくら注意しても注意しすぎることはない。
フランスでは、すでにムスリム生まれの人々の15%が「棄教」したと言われている。しかしそのことを親族に隠している人が殆どである。親族・近隣がの圧力と攻撃が物凄いからである。「圧力」を逃れるために、故郷と親族から離れて暮らすことを選んだ人も多い。


イスラムがそういう宗教(正確には支配イデオロギー) だということは、十分知っておいてほしい。
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/637.html#c9

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/373.html#c2

[近代史3] 雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている 中川隆
25. 中川隆[-10443] koaQ7Jey 2019年5月01日 14:25:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1646]
>>23, >>24
小和田家のバックには外務省創価グループとCIAが居て、雅子を無理に好太王妃に押し込んだんだよ。

美智子と雅子は皇室を破壊する為に送り込まれたアメリカのエージェントだ。

そもそも他宗教を一切認めないクリスチャンを皇室に入れるのが滅茶苦茶なんだ。


詳細は


美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイなのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/262.html

柏原芳恵のバイブレーター騒動 _ 宮内庁が皇太子妃候補 No.1 を引き摺り降ろした手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/117.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/265.html#c25

[近代史3] 雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている 中川隆
27. 中川隆[-10445] koaQ7Jey 2019年5月01日 14:34:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1644]

雅子のバックに CIA が付いていなければ こんな殺人事件は絶対に起きないよ:


question
nei********さん 2008/6/17 01:27:13

雅子様が精神のバランスを崩した理由について質問です。

雅子様が体調・及び精神のバランスを崩されて、ご静養されていますが、それは2003年に起きた、イラクでの奥克彦参事官がゲリラに殺害されたのが、引き金と聞きました。

故・奥参事官と交際していたのだが、外務省事務次官 だったお父様との仕事の絡みで、結婚することになったのだが、本当は彼と結婚するはずだったので、殺害がショックで話も出来ないほどに落ち込まれてるのは本当なのでしょうか?

answer
ton********さん 2008/6/17 22:14:24

奥参事官の殺害は、ゲリラではなく、米軍の誤射ではなかろうかとされています。

乗っていた車はすぐに米軍が押さえ、日本に返されたのは、かなり時間が経過した後でした。

そのため、誤射どころではなく、狙い撃ちだったのではなかろうかとの憶測まで流れたものです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1317197253

・雅子は中国系アメリカ人デビット・カオと同棲。また、白人男性と付き合っていたというリークもある。

カオ氏に、トップレス写真を撮られる。後日、カオ氏は写真を宮内庁に買い取らせようとしたらしいが、そのせいなのか、偶然なのか、ギャングに殺されてしまう。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/265.html#c27

[近代史3] 雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている 中川隆
28. 中川隆[-10444] koaQ7Jey 2019年5月01日 15:10:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1645]

不細工な色情狂の雅子が皇太子妃になれたのは 外務省創価グループ・高円宮とそのバックの CIA の暗躍のお蔭だった:


2018.07.11
高円宮家|故高円宮憲仁(前)紀子妃いじめの元凶。史上初天罰で死んだ悪徳皇族
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2017/01/06/2017010620170106000000/

今日は、朝鮮人小和田雅子の入内に暗躍し、死ぬまで紀子妃を苛め続けた悪徳皇族の高円宮憲仁です。

憲仁は昭和天皇の末弟の三笠宮崇仁の三男として生まれました。皇位継承順位7位という最下位です。そのせいか常にコンプレックスを抱き、妬んでいました。

成人後は、国際交流基金(外務省の外郭団体)に勤務し、ここで小和田恒とのつながりができました。

それ以降は、この愚かな男は小和田恒の将棋の駒となり、反対者の多い中、妻の久子とともに暗躍して雅子の入内を強行させました。巨悪朝鮮人小和田恒にとっては、非常に使い勝手の良い駒だったでしょう。

そもそも皇太子と小和田雅子の出会いをセッティングしたのも高円宮夫婦で、高円宮の自宅でサプライズのように二人の出会いを演出させたのです


思えば、「皇太子妃候補フィーバー」が起きたのは1988年でバブルの真っ最中でした。

日替わりで、週刊誌や写真誌がこの令嬢が最有力候補だとか、誰がダークホースかなどと紙面を躍らせていました。

しかし、候補に挙がった名門の令嬢たちは、週刊誌に取り上げられるや否や、急に婚約するか、海外の留学で逃げるかして、最後は一人もいなくなりました。

窮屈な皇室暮らしに加えて、私が思うに「皇太子知的障碍者説」を候補に挙がった令嬢たちの両親は名門同士のネットワークで知っていたのではないでしょうか?

ちなみにその当時の妃候補には小和田雅子のまの字も入っていません。病気療養中とはいえ、未だ昭和天皇が健在だったせいかもしれません。

1993年、昭和天皇の崩御を待ったかのように雅子の入内が決まりました。

政治家にも心ある人がいて、元副総理の後藤田正晴氏などは「チッソの孫娘など入内させたら、皇居に莚旗(むしろばた)が立つと言って大反対しました。

この発言は、熊本の水俣病患者たちが皇居に抗議に押し掛けるといった意味です。

今上陛下の回想にも「この縁談には反対が多い、しかし、このままでは皇太子が年を取っていくだけだ」という苦しい胸の内を語ったことがありました。

要は今上陛下にとっても苦渋の決断だったのでしょう。お気の毒なことです。

結果として皇室に朝鮮人の血という「穢れ」を持ち込みました。

そして知的障碍者の夫と、精神分裂病の妻の間にできた、娘の精神が正常であるはずはありません。

デヴィ夫人の買った話では、夫人の友人が東宮家に訪問した際に、愛子様は、食事中で、なんと手でつかんで食べていたそうです。

それを見た友人が「駄目よ!手でつかんで食べたりしたら」と注意したら、いきなり、手にかみつかれたそうです。とても人間の所業とは思えません。

また別の話では、愛子様が、訪問客からプレゼントをもらった時、乱暴に箱を開けて、中身を取り出し、床に投げつけたそうです。

これを見た雅子は注意もせず「嫌いなの〜」と聞いただけだったそうです。

昨年出た話で愛子様が偏差値70を取ったという話は嘘だと思います。

高円宮久子や、小和田家側の流した嘘話でしょう。愛子様は学習院中等科を卒業できないでしょう。雅子は他校の受験を考えているそうですが、転校しても結果は同じになると思います。

初等科の頃は「いじめ事件」が起きましたが、いじめを肯定するのではありませんが、こういう頭がおかしく奇行のはなはだしい子はいじめられてもしようがないです。

世間を挙げてバッシングされ他の小学校に転校させられた男の子がむしろ被害者ではないでしょうか?

憲仁は雅子の入内が成功したら、次に始めたのが、「紀子妃いじめ」です。

皇室担当の記者によると「憲仁は階級意識の強い男で、紀子妃の実家のことを馬鹿にしていた」そうです。

紀子妃は母方が会津藩士の家系で、父方は庄屋さんだそうです。

朝鮮人の雅子と違い、ちゃんと武家の血が流れているではありませんか。

そういう憲仁の母も大名の高木家の出身ですが、高木家は河内の国で1万石の大名でした。1万石以上が大名ですから、仮に1石削られても9999石でただの旗本になってしまいます。憲仁の母方の階級は大したことないのです。

憲仁は青年皇族として公務ができるものは自分しかないとうぬぼれていましたが、一方、秋篠宮殿下の存在を恐れていました。秋篠宮に公務を奪われることを恐れたのです。

憲仁は秋篠宮は大したことないだろうと見くびっていましたが、優秀な秋篠宮殿下は、着実に公務をこなし、憲人から仕事を奪っていきました。

どんどん公務を失っていく憲仁、皇室担当記者によると「憲仁親王は、元赤坂(秋篠宮邸)は殺虫剤を巻きすぎて虫一匹いないなどと嘘を広めました。

一見気さくな人物を装っていたが、実に腹黒い人物でした」と述べています。

後に憲仁が急死したときには皇室担当者一同が「やっぱり天罰ってあるんだな〜」としみじみ思ったそうです。
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2017/01/06/2017010620170106000000/

高円宮家|故高円宮憲仁(後)紀子妃いじめの元凶。史上初天罰で死んだ悪徳皇族
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2017/01/07/2017010720170107000000/


続きです。

高円宮夫婦が許せないのは皇族として初めて韓国を公式訪問していることです。

あんな呪われた半島に行くなんて、朝鮮の邪気を全身で受けて、それを皇室に持ち込んでいるのです。

落ち目の憲仁は焦って東宮一家に近づきます。

この時以来、東宮一家と秋篠宮家は疎遠になったそうです。秋篠宮と東宮のご兄弟の仲を裂いたのも憲仁です。東宮に近づいて、皇室内での発言権を増すか、仕事をもらいたかったのでしょう(笑)

国辱物のサッカ―ワールドカップ日韓共催を実現させたのも、日本サッカー協会名誉理事だった憲仁と、当時の電通の最高顧問だった朝鮮人の成田豊、河野談話で日本を貶めた河野洋平です。

高円家は何故か韓国との関係が強いです。高円宮夫婦と在日企業ロッテの会長重光武雄が一緒に移っている写真があります。私は高円宮家は、特に未亡人の久子は韓国のエージェントだと思っています。

昭和天皇のご遺志を踏みにじってまで雅子入内を強行した憲仁は、2002年11月21日に、カナダ大使館でスカッシュをしているときに心不全で急死しました。

当然のように憲仁が死亡してからは紀子妃バッシングが無くなりました。


高円宮はやはり皇室担当の記者が言ったように「天罰に当たった」のでしょう。

私としては、スカッシュ中に激怒された昭和天皇の霊が憲仁の首根っこをつかんで命をあの世に持って行ったんだと思います。

いやあ〜それにしても早く死んでくれてよかった。

憲仁と久子の夫婦は悪謀を図ることに関しては最強のコンビです。

今も憲仁が健在ならば、夫婦そろって、秋篠宮を貶め、今上陛下の無くなるのを待って、愛子を女性天皇にする策略を小和田恒とともにプランニングしていたことでしょう。

しかし、未亡人の久子も相当なワルです。

久子は今、今上陛下が無くなるのを辛抱強く待っていることでしょう。結論を言うと高円宮憲仁は皇族史上類を見ない腹黒い悪徳皇族でした。

※コメント


2018年5月16日 7:49 PM

某TV局ディレクターの家族の方から、あれは腹上死だった、と聞いたことがあります。おそらく皇子が欲しかったからでは?

また、ネットで高円宮夫妻の離婚の噂を読んだことがあります。
生命維持装置を外すことを許可したのも早くて、それがネットで話題になっていたのです。

葬儀で長女の茶髪が目立ちましたね。
両親のゴタゴタを知っていて反抗していたのではないか、とネットで話題になっていました。
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2017/01/07/2017010720170107000000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/265.html#c28

[近代史02] アタマに効く温泉 中川隆
32. 中川隆[-10443] koaQ7Jey 2019年5月01日 15:47:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1646]
自閉症の子どもが生まれる決定的な要因が米バージニア大学の研究者により特定される。それは「母親の腸内細菌環境」。その予防法
http://www.asyura2.com/16/iryo5/msg/720.html



その予防法も初期段階ながら提起される

https://indeep.jp/autism-risk-determined-by-mothers-microbiome-health/

投稿日:2018年7月30日

米国バージニア大学のニュースリリースより

今回は、アメリカのバージニア大学が 7月17日に発表した冒頭の「自閉症のリスクは母親の腸内の微生物の健康状態によって決定されることを発見した」ということについてお伝えしたいと思います。

現在、主要国における自閉症のお子さんの増え方は普通ではなく、下はアメリカの例となりますが、「 40年間ほどの間に 70倍も増加している」のです。

アメリカの1975年から2015年までの自閉症と診断された子どもの推移

日本を含む他の主要国でも、ここまでではないとしても、非常に増えていることにおいては同じだと思われます。

このようなこともあり、この問題は社会的にも大きすぎるものとなりつつあるのではないかとも思います。

それと共に、今回この記事をご紹介しようと思った理由は、以前いくつかの記事を書いている中で、私は、

「子どもの先天性障害のかなり多くが、母親の腸内細菌の状態と関係しているのではないだろうか」

と思うようになっていました。

たとえば、最近の記事では、以下の「腸内システムが脳を支配している可能性」についてふれた記事などの内容でも、それを考えました。

この中で翻訳してご紹介した記事の中に、

「お腹の赤ちゃんの、脳の発達そのものが結腸のリズムに支配されている」

ことが、神経科学に関する医学専門誌「ジャーナル・オブ・ニューロサイエンス」に発表されたりしていまして、つまり、「まず腸があり、それが脳を形成していく」ということが最近はわかったりしているのですね。

さらには、以下の記事、

・妊娠中の「グルテン不耐性」の女性がグルテンを摂取すると、その子どもが統合失調症などを含む脳障害を発症する確率が飛躍的に高くなるという医学論文
 In Deep 2018/07/15

では、「グルテン不耐性」(小麦などに含まれているグルテンを普通に消化できないために心身に様々な不調が発生する)という言葉が出ました。

……それで、その記事に書きましたけれど、「私自身がグルテン不耐性だった」ことが最近わかりまして、今は基本的に……というか、ほぼ完全にグルテンをとらない生活をしています。

ちなみに、これは「健康のため」とかではないです。今の私は、グルテンを摂取すると、多くの不快な症状(私の場合は、異常な胃の不調、さまざまなアレルギー症状、手足のしびれ、鼻血、睡眠時無呼吸症候群のような状態、持続する関節痛など)が出ます。

グルテンをやめて、これらの症状が全部消えたときにはさすがに驚きました。

「ああ、こういうことがこの世にはあるんだ」と。

しかし、自分のことはここでやめておきます。

書きたかったのは、このような状態も「グルテンが悪いのではない」と私は認識しているのです。

グルテンのせいではなく、私たちのほうのせいであり、

「大腸の細菌(マイクロバイオーム)のバランスが崩壊したことによって、グルテンとうまく付き合うことができなくなってしまった」

のだと私は考えています。

これは、先ほどリンクした記事でご紹介した本で、著作『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』というものの中にも、グルテンや乳糖への不耐性の原因の可能性として腸内細菌について書かれていますが、私もそう思います。

グルテンからはここで離れまして、話を戻しますと、たとえば、この『あなたの体は9割が細菌』という著作の前半部分にあるエピソードは下のようなものでした。

後発性(生後しばらくしてから初めて診断される)自閉症の原因として、破傷風菌類が腸内で繁殖することにより、その毒素が脳に到達して自閉症になるケースがあることが分かってきた。

この原因のひとつが乳幼児期の抗生物質の使用によるもの。抗生物質が腸内の破傷風菌の繁殖を阻止する細菌類を殺してしまうことで、破傷風菌が繁殖する。

ごく一部のケースですけれど、自閉症の原因として、「腸内環境が抗生物質によって崩壊したことによるもの」があることがわかったということが書かれてあります。

人間の脳は、乳幼児期に最も発達するわけで、それに加えて、先ほど書きましたように、「脳の成長を担っているのは、腸であり、腸内細菌である」わけで、その時期に、腸内細菌がダメージを受けると、脳もダメージを受ける可能性が高くなると。

しかし、このような後天性というのはあくまでごく一部であり、多くの自閉症のお子さんたちは「生まれた時から自閉症」であることが圧倒的に多いのです。

先ほどのような最近の医学的発見と、現実のさまざまな状況を合わせてみると、最近の私は、「先天性の疾患はお母さんの腸内環境と関係があるのかもしれない」と考えるようになりました。

生まれてきてからならともかく、生まれる前の赤ちゃんの腸内の環境は、すべてお母さんからの影響としか思えないからです。

それで、今回のバージニア大学のニュースリリースでは、「自閉症のリスクが母親の腸内細菌の健康状態に決定づけられる」と断言されていまして、それでご紹介しようと思った次第です。

ここからご紹介しようと思いますが、これを読むにあたって、内容の概要と、注意しなければならないことを先に書いておきます。

最も大事なことは、

「これは自閉症の方のご本人の治療とは関係のない話である」

ということです。予防とは関係しますが、治療法ではありません。

アメリカでは、自閉症のお子さんに対して、糞便移植などで腸内環境を改善する治療の努力はおこなわれていますが、すでに脳の成長が完成した子どもへの影響には限界があります。

下が今回の研究の概要です。

バージニア大学の今回の発見の概要

・自閉症的な神経発達障害が、母親の腸内のマイクロバイオームの健康状態によって決定づけられることが判明した

・もうひとつは、自閉症となる脳障害を起こす原因が「インターロイキン17a (IL-17a)というタンパク質であることもわかった。

そして、以下の部分には注意されてしほいと思います。

読まれる際に注意するべきこと

ニュースリリースでは、食餌療法やプロバイオティクスを摂取することなどによって母親の腸内の健康を保つことにより、自閉症リスクを下げられるかもしれないと書かれてありますが、これは今回の研究で得た成果ではなく、ニュースリリースを書いた人の感想でしかないです。

これに関しては、今回は長くなるのでふれないですが、「腸内環境を良くする」と言われている食品やプロバイオティクスなどのサプリメントが、腸内を「完全に良くする」ということはあり得ないというのか合理的に正しい考え方だと思われます(少しは良くするでしょうけれど、この自閉症の予防の問題では「少しの改善」ではいけません)。

まして、「食事の改善」だけで、バランスを崩した腸内細菌の環境を完全に修復することは不可能だと思われます。何しろ、私たちひとりの中にある腸内細菌の数は「 100兆個」です。仮に何億もの数のいいものが入っている食品をとっても、東京ドームの観客のひとりに「良い水滴が当たる」程度の効果しかないと思われます。

このあたりには注意されて読んでいただきたいと思いますが、おそらく腸内環境を完全に変えるには「糞便移植」しかないと私は考えています。

糞便移植はアメリカやオーストラリアなどでは積極的におこなわれているようですが、日本ではどうなのかわかりません。

では、ここからバージニア大学のニュースリリースです。

Autism Risk Determined By Health of Mom’s Microbiome, UVA Finds
バージニア大学ニュースリリース 2018/07/07

子どもが自閉症となるリスクは母親の腸内の微生物の健康状態によって決定されることをバージニア大学の研究者たちが発見した
自閉症スペクトラム(典型的な自閉症の状態から軽い症状の人までをすべて含んだ医学用語)を発症するリスクは、妊娠中の母親の腸内に自然に生息している微生物の集合であるマイクロバイオームによって決定されることが、バージニア大学医学部の新しい研究から示唆されている。

この研究からは、自閉症を予防するためには、母親が食事の内容を変えたり、状態に合わせたプロバイオティクスを摂取する程度の簡単なものである可能性があることが見出されている。

バージニア大学の科学者たちは、マウスにおける自閉症的な神経発達障害の発症を防ぐために、今回の発見を使って、それが有効であることを確認した。

さらに、研究者たちは、免疫系によって産生される特定の炎症性分子を遮断することによって、自閉症のような疾患の発症を止めることができることを見出した。

このインターロイキン-17a(IL-17a)を標的とする試みは、自閉症を予防するための別の潜在的手段を提供すると研究者は言う。しかし、このアプローチは、副作用のリスクがあるために、はるかに複雑であることに注意してほしい。

「私たちは、腸内のマイクロバイオームが自閉症的な疾患に対する感受性の決定に重要な役割を果たしていることを明らかにしました。母親のマイクロバイオーム、またはこの炎症分子である IL-17a を標的とすることができることを示唆しています」と、 バージニア大学の神経科学科のジョン・ルケンズ(John Lukens)教授は述べる。

教授は、「この IL-17a を(自閉症の)早期診断のためのバイオマーカーとして使用することも可能です」とのべる。

マイクロバイオームと自閉症のリスク

ルケンズ教授と同僚たちによるこの画期的な研究は、母親のマイクロバイオームの健康と子どもの健全な発達との複雑な関係を明らかにしたといえる。

教授は、「マイクロバイオームは、複数の方法で発達中の脳を形作することに強く関係しています。 マイクロバイオームは、お腹の中の子どもの免疫系が感染や損傷やストレスにどのように反応するかということを形成していく上で、本当に重要な存在なのです」と言う。

そして、母親の不健全なマイクロバイオームが問題を生み出す場合がある。

ルケンズ教授の研究は、未発達の胎児が神経発達障害を受ける可能性を示している。そして、教授たちのチームは、IL-17a 分子がマウスにおける自閉症的症状の発症に重要な寄与をしていることを見出した。

今回の研究には、良いニュースが含まれている。

それは、マイクロバイオームは、食餌療法、プロバイオティックのサプリメント、糞便移植によって簡単に変更することができる。これらのアプローチのすべては、腸内に生息する様々な微生物の間の健康なバランスを回復させることを目指している。

「私たちの仕事の次の大きなステップは、妊娠した母親たちのうち、自閉症リスクと相関する腸内のマイクロバイオームの特徴を特定することだと思います。本当に重要なことは、母親のマイクロバイオームを効果的に、安全に調整するために、どのようなことができるのかを理解することだと考えます」とルケンズ教授は語る。

自閉症予防のためのもう一つの選択肢

IL-17a の遮断も自閉症を予防する方法を提供するかもしれないが、ルケンズ教授はその経路は、より多くのリスクを伴うと述べる。 「妊娠について考えれば、母親の身体は基本的に赤ちゃんの外来組織を受け入れています」と言う。

その結果、胚の健康を維持するためには、免疫調節の複雑なバランスが必要となるため、妊娠中に免疫システムを操作することには慎重にならざるを得ない。

IL-17a は、以前から、関節リウマチ、多発性硬化症および、乾癬などに関与していることがわかっており、それを標的とする薬剤はすでに入手可能だ。

しかし、ルケンズ教授は、この IL-17a という分子は感染症、特に真菌感染症を止めるための重要な目的を持っていると指摘する。そのような役割を持っている IL-17a を阻害することにより、母体が、「あらゆる種類の感染症に罹りやすくなる可能性があるのです」と言う。

妊娠中に感染症に罹りやすくなるというような状態になることは、胎内の子どもの発達に複雑な波及効果をもたらす可能性がある。

研究の次のステップとして、ルケンズ教授と彼のチームは、自閉症および他のそのような状態の進行における他の免疫分子の潜在的役割を探求する予定だ。今回特定された IL-17a は、その中にひとつに過ぎないかもしれないからだ。

ルケンズ教授の研究は免疫系と神経発達障害を関連づけているが、これはワクチンが自閉症の発症に寄与していることを示唆するものではないことを強調した。

「免疫応答と発達中の脳との間には明確な関連があります」と彼は語った。 「ワクチンとは何の関係もありません」。

この研究は、ハートウェル財団、オーウェンズファミリー財団、シモンズ財団自閉症研究イニシアチブによって支援されている。さらに、研究チームのメンバーは、国立衛生研究所 / 全米医科学研究所、バージニア大学医療科学者養成プログラムから支援を受けた。

ここまでです。

とても画期的な発見ではありますが、これで楽観できるものではないことを私たちは考えなければなりません。

なぜなら、「どうして、その母親(あるいは多くの大人たち)の腸内の環境は崩壊してしまったのか」ということを明確に突き止めない限り、自閉症や先天性の障害を持たれるお子さんたちが増え続けることは避けられないと思われるからです。

https://indeep.jp/autism-risk-determined-by-mothers-microbiome-health/  

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/345.html#c32

[近代史3] 長生きしたけりゃパンは食べるな 中川隆
16. 中川隆[-10442] koaQ7Jey 2019年5月01日 15:48:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1647]

自閉症の子どもが生まれる決定的な要因が米バージニア大学の研究者により特定される。それは「母親の腸内細菌環境」。その予防法
http://www.asyura2.com/16/iryo5/msg/720.html



その予防法も初期段階ながら提起される

https://indeep.jp/autism-risk-determined-by-mothers-microbiome-health/

投稿日:2018年7月30日

米国バージニア大学のニュースリリースより

今回は、アメリカのバージニア大学が 7月17日に発表した冒頭の「自閉症のリスクは母親の腸内の微生物の健康状態によって決定されることを発見した」ということについてお伝えしたいと思います。

現在、主要国における自閉症のお子さんの増え方は普通ではなく、下はアメリカの例となりますが、「 40年間ほどの間に 70倍も増加している」のです。

アメリカの1975年から2015年までの自閉症と診断された子どもの推移

日本を含む他の主要国でも、ここまでではないとしても、非常に増えていることにおいては同じだと思われます。

このようなこともあり、この問題は社会的にも大きすぎるものとなりつつあるのではないかとも思います。

それと共に、今回この記事をご紹介しようと思った理由は、以前いくつかの記事を書いている中で、私は、

「子どもの先天性障害のかなり多くが、母親の腸内細菌の状態と関係しているのではないだろうか」

と思うようになっていました。

たとえば、最近の記事では、以下の「腸内システムが脳を支配している可能性」についてふれた記事などの内容でも、それを考えました。

この中で翻訳してご紹介した記事の中に、

「お腹の赤ちゃんの、脳の発達そのものが結腸のリズムに支配されている」

ことが、神経科学に関する医学専門誌「ジャーナル・オブ・ニューロサイエンス」に発表されたりしていまして、つまり、「まず腸があり、それが脳を形成していく」ということが最近はわかったりしているのですね。

さらには、以下の記事、

・妊娠中の「グルテン不耐性」の女性がグルテンを摂取すると、その子どもが統合失調症などを含む脳障害を発症する確率が飛躍的に高くなるという医学論文
 In Deep 2018/07/15

では、「グルテン不耐性」(小麦などに含まれているグルテンを普通に消化できないために心身に様々な不調が発生する)という言葉が出ました。

……それで、その記事に書きましたけれど、「私自身がグルテン不耐性だった」ことが最近わかりまして、今は基本的に……というか、ほぼ完全にグルテンをとらない生活をしています。

ちなみに、これは「健康のため」とかではないです。今の私は、グルテンを摂取すると、多くの不快な症状(私の場合は、異常な胃の不調、さまざまなアレルギー症状、手足のしびれ、鼻血、睡眠時無呼吸症候群のような状態、持続する関節痛など)が出ます。

グルテンをやめて、これらの症状が全部消えたときにはさすがに驚きました。

「ああ、こういうことがこの世にはあるんだ」と。

しかし、自分のことはここでやめておきます。

書きたかったのは、このような状態も「グルテンが悪いのではない」と私は認識しているのです。

グルテンのせいではなく、私たちのほうのせいであり、

「大腸の細菌(マイクロバイオーム)のバランスが崩壊したことによって、グルテンとうまく付き合うことができなくなってしまった」

のだと私は考えています。

これは、先ほどリンクした記事でご紹介した本で、著作『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』というものの中にも、グルテンや乳糖への不耐性の原因の可能性として腸内細菌について書かれていますが、私もそう思います。

グルテンからはここで離れまして、話を戻しますと、たとえば、この『あなたの体は9割が細菌』という著作の前半部分にあるエピソードは下のようなものでした。

後発性(生後しばらくしてから初めて診断される)自閉症の原因として、破傷風菌類が腸内で繁殖することにより、その毒素が脳に到達して自閉症になるケースがあることが分かってきた。

この原因のひとつが乳幼児期の抗生物質の使用によるもの。抗生物質が腸内の破傷風菌の繁殖を阻止する細菌類を殺してしまうことで、破傷風菌が繁殖する。

ごく一部のケースですけれど、自閉症の原因として、「腸内環境が抗生物質によって崩壊したことによるもの」があることがわかったということが書かれてあります。

人間の脳は、乳幼児期に最も発達するわけで、それに加えて、先ほど書きましたように、「脳の成長を担っているのは、腸であり、腸内細菌である」わけで、その時期に、腸内細菌がダメージを受けると、脳もダメージを受ける可能性が高くなると。

しかし、このような後天性というのはあくまでごく一部であり、多くの自閉症のお子さんたちは「生まれた時から自閉症」であることが圧倒的に多いのです。

先ほどのような最近の医学的発見と、現実のさまざまな状況を合わせてみると、最近の私は、「先天性の疾患はお母さんの腸内環境と関係があるのかもしれない」と考えるようになりました。

生まれてきてからならともかく、生まれる前の赤ちゃんの腸内の環境は、すべてお母さんからの影響としか思えないからです。

それで、今回のバージニア大学のニュースリリースでは、「自閉症のリスクが母親の腸内細菌の健康状態に決定づけられる」と断言されていまして、それでご紹介しようと思った次第です。

ここからご紹介しようと思いますが、これを読むにあたって、内容の概要と、注意しなければならないことを先に書いておきます。

最も大事なことは、

「これは自閉症の方のご本人の治療とは関係のない話である」

ということです。予防とは関係しますが、治療法ではありません。

アメリカでは、自閉症のお子さんに対して、糞便移植などで腸内環境を改善する治療の努力はおこなわれていますが、すでに脳の成長が完成した子どもへの影響には限界があります。

下が今回の研究の概要です。

バージニア大学の今回の発見の概要

・自閉症的な神経発達障害が、母親の腸内のマイクロバイオームの健康状態によって決定づけられることが判明した

・もうひとつは、自閉症となる脳障害を起こす原因が「インターロイキン17a (IL-17a)というタンパク質であることもわかった。

そして、以下の部分には注意されてしほいと思います。

読まれる際に注意するべきこと

ニュースリリースでは、食餌療法やプロバイオティクスを摂取することなどによって母親の腸内の健康を保つことにより、自閉症リスクを下げられるかもしれないと書かれてありますが、これは今回の研究で得た成果ではなく、ニュースリリースを書いた人の感想でしかないです。

これに関しては、今回は長くなるのでふれないですが、「腸内環境を良くする」と言われている食品やプロバイオティクスなどのサプリメントが、腸内を「完全に良くする」ということはあり得ないというのか合理的に正しい考え方だと思われます(少しは良くするでしょうけれど、この自閉症の予防の問題では「少しの改善」ではいけません)。

まして、「食事の改善」だけで、バランスを崩した腸内細菌の環境を完全に修復することは不可能だと思われます。何しろ、私たちひとりの中にある腸内細菌の数は「 100兆個」です。仮に何億もの数のいいものが入っている食品をとっても、東京ドームの観客のひとりに「良い水滴が当たる」程度の効果しかないと思われます。

このあたりには注意されて読んでいただきたいと思いますが、おそらく腸内環境を完全に変えるには「糞便移植」しかないと私は考えています。

糞便移植はアメリカやオーストラリアなどでは積極的におこなわれているようですが、日本ではどうなのかわかりません。

では、ここからバージニア大学のニュースリリースです。

Autism Risk Determined By Health of Mom’s Microbiome, UVA Finds
バージニア大学ニュースリリース 2018/07/07

子どもが自閉症となるリスクは母親の腸内の微生物の健康状態によって決定されることをバージニア大学の研究者たちが発見した
自閉症スペクトラム(典型的な自閉症の状態から軽い症状の人までをすべて含んだ医学用語)を発症するリスクは、妊娠中の母親の腸内に自然に生息している微生物の集合であるマイクロバイオームによって決定されることが、バージニア大学医学部の新しい研究から示唆されている。

この研究からは、自閉症を予防するためには、母親が食事の内容を変えたり、状態に合わせたプロバイオティクスを摂取する程度の簡単なものである可能性があることが見出されている。

バージニア大学の科学者たちは、マウスにおける自閉症的な神経発達障害の発症を防ぐために、今回の発見を使って、それが有効であることを確認した。

さらに、研究者たちは、免疫系によって産生される特定の炎症性分子を遮断することによって、自閉症のような疾患の発症を止めることができることを見出した。

このインターロイキン-17a(IL-17a)を標的とする試みは、自閉症を予防するための別の潜在的手段を提供すると研究者は言う。しかし、このアプローチは、副作用のリスクがあるために、はるかに複雑であることに注意してほしい。

「私たちは、腸内のマイクロバイオームが自閉症的な疾患に対する感受性の決定に重要な役割を果たしていることを明らかにしました。母親のマイクロバイオーム、またはこの炎症分子である IL-17a を標的とすることができることを示唆しています」と、 バージニア大学の神経科学科のジョン・ルケンズ(John Lukens)教授は述べる。

教授は、「この IL-17a を(自閉症の)早期診断のためのバイオマーカーとして使用することも可能です」とのべる。

マイクロバイオームと自閉症のリスク

ルケンズ教授と同僚たちによるこの画期的な研究は、母親のマイクロバイオームの健康と子どもの健全な発達との複雑な関係を明らかにしたといえる。

教授は、「マイクロバイオームは、複数の方法で発達中の脳を形作することに強く関係しています。 マイクロバイオームは、お腹の中の子どもの免疫系が感染や損傷やストレスにどのように反応するかということを形成していく上で、本当に重要な存在なのです」と言う。

そして、母親の不健全なマイクロバイオームが問題を生み出す場合がある。

ルケンズ教授の研究は、未発達の胎児が神経発達障害を受ける可能性を示している。そして、教授たちのチームは、IL-17a 分子がマウスにおける自閉症的症状の発症に重要な寄与をしていることを見出した。

今回の研究には、良いニュースが含まれている。

それは、マイクロバイオームは、食餌療法、プロバイオティックのサプリメント、糞便移植によって簡単に変更することができる。これらのアプローチのすべては、腸内に生息する様々な微生物の間の健康なバランスを回復させることを目指している。

「私たちの仕事の次の大きなステップは、妊娠した母親たちのうち、自閉症リスクと相関する腸内のマイクロバイオームの特徴を特定することだと思います。本当に重要なことは、母親のマイクロバイオームを効果的に、安全に調整するために、どのようなことができるのかを理解することだと考えます」とルケンズ教授は語る。

自閉症予防のためのもう一つの選択肢

IL-17a の遮断も自閉症を予防する方法を提供するかもしれないが、ルケンズ教授はその経路は、より多くのリスクを伴うと述べる。 「妊娠について考えれば、母親の身体は基本的に赤ちゃんの外来組織を受け入れています」と言う。

その結果、胚の健康を維持するためには、免疫調節の複雑なバランスが必要となるため、妊娠中に免疫システムを操作することには慎重にならざるを得ない。

IL-17a は、以前から、関節リウマチ、多発性硬化症および、乾癬などに関与していることがわかっており、それを標的とする薬剤はすでに入手可能だ。

しかし、ルケンズ教授は、この IL-17a という分子は感染症、特に真菌感染症を止めるための重要な目的を持っていると指摘する。そのような役割を持っている IL-17a を阻害することにより、母体が、「あらゆる種類の感染症に罹りやすくなる可能性があるのです」と言う。

妊娠中に感染症に罹りやすくなるというような状態になることは、胎内の子どもの発達に複雑な波及効果をもたらす可能性がある。

研究の次のステップとして、ルケンズ教授と彼のチームは、自閉症および他のそのような状態の進行における他の免疫分子の潜在的役割を探求する予定だ。今回特定された IL-17a は、その中にひとつに過ぎないかもしれないからだ。

ルケンズ教授の研究は免疫系と神経発達障害を関連づけているが、これはワクチンが自閉症の発症に寄与していることを示唆するものではないことを強調した。

「免疫応答と発達中の脳との間には明確な関連があります」と彼は語った。 「ワクチンとは何の関係もありません」。

この研究は、ハートウェル財団、オーウェンズファミリー財団、シモンズ財団自閉症研究イニシアチブによって支援されている。さらに、研究チームのメンバーは、国立衛生研究所 / 全米医科学研究所、バージニア大学医療科学者養成プログラムから支援を受けた。

ここまでです。

とても画期的な発見ではありますが、これで楽観できるものではないことを私たちは考えなければなりません。

なぜなら、「どうして、その母親(あるいは多くの大人たち)の腸内の環境は崩壊してしまったのか」ということを明確に突き止めない限り、自閉症や先天性の障害を持たれるお子さんたちが増え続けることは避けられないと思われるからです。

https://indeep.jp/autism-risk-determined-by-mothers-microbiome-health/  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/327.html#c16

[近代史3] 中国は何時崩壊するのか? 中川隆
11. 中川隆[-10441] koaQ7Jey 2019年5月01日 18:09:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1648]

2019年05月01日
中国の5G覇権は杞憂 覇権政策はすべて失敗


5G覇権には実態が伴っていない


画像引用:https://abematimes.com/posts/4493394

中国の「覇権」病

中国は5G通信で覇権を握ると言い、世界のマスコミも当たり前のように報道するが、それはあり得ない。

中国は過去数年間で通信網に巨額投資を行い、IT全体で100兆円程度は投資したようです。

数年前のニュースで中国はまだ先進国に後れを取っているとし、巨額投資でIT覇権を握るという目標を立てた。




中国政府がなになに覇権を握ると言っては巨額投資するパターンは、多くの分野で行われてきました。

例えば防衛分野で2008年頃に中国は、アメリカを超える軍事力で覇権を握ると言って、今も軍事費拡大を続けている。

その結果中国の軍事費は2019年に20兆円になり、米軍の80兆円につ世界2位になった。


だがそれで中国が安全保障で覇権を握ったかというと、むしろ周囲に敵を増やして孤立しています。

日米と対立しインドとも対立、同盟国のパキスタンやロシア、北朝鮮も中国を警戒するようになった。

欧州やアジア諸国も中国の軍事的拡大に警戒するようになり、「軍事力でアメリカを倒す」目標は達成できそうにない。


自動車でも中国は世界覇権を握ると言って日米欧の技術を盗み、EV化でEV覇権を握ると言っていました。

中国のEVが売れているのは中国国内だけで、売れている理由はガソリン車でナンバーを取得できないからです。

中国でガソリンナンバーを取得するには数十倍から100倍の競争率だが、EVなら無競争でナンバーを貰えます。


外国ではそうではないので、中国製自動車が自動車覇権を握ることはないでしょう。

巨額投資で増える巨額債務

半導体生産でも数年前中国は数10兆円といった巨額投資計画を発表し、「世界の半導体覇権を握る」とぶち上げていました。

宣言通り巨額投資したと思うが、中国国内ですら半導体の自給率は20%程度とされています。

また2008年の北京五輪前後に中国は、GDPでアメリカを超えて経済覇権を握ると盛んに言っていました。


オバマと習近平が初会談したとき、習は「太平洋を中米で分割して日本は中国の支配下にする」と提案していました。

これでオバマは中国が思っていたより危険な国であると知り、以降米中関係は険悪化の方向に進みました。

中国は「なになにで覇権を握る」と宣言しては100兆円もの巨額投資をしたが、ひとつも成功しなかったのが分かります。


ある時は高速鉄道や鉄道で巨額投資をし「世界の鉄道覇権を握る」と言っていましたが、中国の鉄道路線の99%は赤字です。

半導体にしろ軍備にしろ鉄道にしろ、巨額投資の失敗で残っているのは巨額債務で、数千兆円もの隠れ債務が蓄積されています。

数十兆円や100兆円もの巨額投資を毎年のように行い一つも成功しなかったという事実から、将来膨大な借金が中国の重荷になります。


中国が5Gで「通信覇権」を握れるかと言えば、その可能性は無いと思います。
http://www.thutmosev.com/archives/79728737.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/112.html#c11

[近代史3] チャンネル桜のアホ番組に出演する自称専門家の話は信じてはいけない

チャンネル桜のアホ番組に出演する自称専門家の話は信じてはいけない


チャンネル桜 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E6%A1%9C

チャンネル桜 番組紹介『日本よ、今...「闘論!倒論!討論!」』
http://www.ch-sakura.jp/programs/program-info.html?id=1655

___


林原チャンネル - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%9E%97%E5%8E%9F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB


▲△▽▼


チャンネル桜関係者や水島総社長の問題は


大学で遺伝子学、考古学、民族学や歴史学を研究している専門家は全員 極左なので、彼らの言う事は一切信用できない

という判断をしていて、

西岡力や渡部昇一の様な詐欺師や田中英道の様なパラノイアのキチガイだけを出演させて嘘八百のデマを拡散している事なんですね。

南京大虐殺や慰安婦・徴用工強制連行は既に証明されていて否定できる筈もないのに、詐欺師の詭弁で視聴者を騙そうとしている。

そもそも、吉田清治さんの慰安婦強制連行の証言でも、歴史学会では疑っている人は昔から殆ど居ないのに、まだ詐欺師呼ばわりしているんですね:


経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html

▲△▽▼

チャンネル桜関係者が拡散している悪質な嘘とデマについての詳細は

チャンネル桜や正論で大活躍中のアホ右翼・アホ陰謀論評論家 まとめ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/228.html

チャンネル桜の常連の三橋貴明はチャンネル桜関係者の受け売りしかできないアホだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/374.html

西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html

アイヌ人は先住民ではない、日本人は単一民族だというデマを撒き散らすチャンネル桜
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/323.html

チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html

従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/133.html

吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html

今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」_ 吉田清治の話はやっぱり事実だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/132.html

従軍慰安婦は売春婦として認可されない 13才、14才から働き始めているので売春婦では有り得ない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/137.html

朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/134.html

南京大虐殺30万人は過大評価なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/129.html

南京大虐殺、南京での組織的略奪とその隠蔽は昭和天皇が直々に命令して実行させた?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/131.html

朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html

櫻井よしこ はその時点で一般大衆に受けそうな意見を受け売りしてるだけの無知蒙昧・無定見なオバサン
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/217.html

朝日新聞陰謀論 _ なんでもみんな朝日新聞が元凶だというアホ右翼の妄想
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/233.html

靖国神道は軍人を殺人の前に奮い立たせる為のものであって、信仰ですらないインチキ神道
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/127.html

昭和天皇の戦争犯罪問題が再燃すると困るから天皇一族は靖国神社に参拝できなくなった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/128.html

日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html

秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html

美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイなのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/262.html

天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/103.html

皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html

日本のアホ右翼は太平洋戦争はアジアを植民地支配から解放する為にやったというデマを流しているが…
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/157.html

世界に比類なき日本文化 _ 名誉白人認定されたいアホ右翼は欧米人に金渡して「日本スゴイ!」と言わせている
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/235.html

こうしてベストセラーは創られる _ 「見計らい本」で書店にヘイト本が並ぶ現象が問題に
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/225.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/399.html

[近代史3] チャンネル桜のアホ番組に出演する自称専門家の話は信じてはいけない 中川隆
1. 中川隆[-10440] koaQ7Jey 2019年5月01日 20:27:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1650]

君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html

昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html

原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html

戦争に行ったら こんな事もしてみたい あんな事もやってみたい__わくわく どきどき
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/313.html

後の日本人は本当に GHQ とマッカーサーに洗脳されて東京裁判史観・自虐史観を持つ様になったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/232.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/399.html#c1

[リバイバル3] 名湯 関金温泉はこのまま朽ちてしまうのか? _ 温清楼の日本一の露天風呂の運命は? 中川隆
15. 中川隆[-10439] koaQ7Jey 2019年5月01日 20:42:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1651]

しゃあま家茶屋 閉店・閉鎖
https://ja-jp.facebook.com/syamaketyaya/


誰が見てもこうなるのが予測できたのに、倉吉市には知恵遅れしか居ないのか。

関金温泉はもう永遠にお終い。



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/533.html#c15

[近代史3] ロシア民謡「二つのギター」(ДВЕ ГИТАРЫ)

ロシア民謡「二つのギター」(ДВЕ ГИТАРЫ)

ギターのかき鳴らす音色に心もかき乱されるまま酒に酔いしれる歌。

作詞:А.グリゴーリエフ /  作曲:И.ヴァシーリエフ
1857年成立


Two Guitars - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Two+Guitars+&sp=mAEB
https://www.youtube.com/results?search_query=%D0%94%D0%B2%D0%B5+%D0%B3%D0%B8%D1%82%D0%B0%D1%80%D1%8B&sp=mAEB


Occhi chorni (Очи Чёрные) on accordion (Russian Gypsy music) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MkUOxJv4jmA  

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【ロシア音楽】二つのギター (Две гитары) (日本語字幕) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UEGU-1gOPWE


ポール・モーリアの編曲や、シャンソン歌手のシャルル・アズナヴール(Charles Aznavour)によるカバー(Les Deux Guitares)でも知られる、ロシア・ジプシー民謡。映像は1999年、ロシアのテノール歌手、オレグ・ポグディン(Олег Погудин)による歌唱。


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Irina Slutskaya Gipsy - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=u2NEzk4Jgp4
https://www.youtube.com/results?search_query=Irina+Slutskaya+Gipsy+

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The Unbearable Lightness of Being  存在の耐えられない軽さ  
https://www.youtube.com/watch?v=t2-T5DrTWoU&feature=related
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6128180

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Occhi chorni (Очи Чёрные) on accordion (Russian Gypsy music) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MkUOxJv4jmA  


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ジプシーの娘 Цыганочка - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%D0%A6%D1%8B%D0%B3%D0%B0%D0%BD%D0%BE%D1%87%D0%BA%D0%B0


▲△▽▼


『Две гитары』はロシアの歌曲です。

作詞はロシアの詩人アポロン・アレクサンドロヴィチ・グリゴーリエフ(Аполлон Александрович Григорьев、1822年〜1864年)、

作曲はイヴァン・ヴァシーリエヴィチ・ヴァシーリエフ(Иван Васильевич Васильев、1810年代〜1870年代)がロマ民謡を元として執筆したものです。

当初は「Цыганская венгерка(ジプシー風ハンガリー舞曲)《の題で1857年に発表されました。

 この歌は、フランスのシンガーソングライターのシャルル・アズナヴール(Charles Aznavour、1924〜存命)のフランス語詞歌唱や、フランスの作曲家・指揮者のポール・モーリア(Paul Mauriat、1925年〜2006年)によってアレンジされたバージョンでも知られています。  
http://ezokashi.opal.ne.jp/russiaframe.html

二つのギター(ジプシーの娘)


『二つのギター』は、作詞・作曲者不詳のロシア民謡・ジプシー音楽(ロマ音楽)。

歌詞は存在するが、YouTube動画などで検索してみると、歌ありバージョンよりは、ギターやバイオリン(ヴァイオリン)などの歌なし器楽曲(インストゥルメンタル)として人気があるようだ。


特に、『二つのギター』という題名だけあって、二人でギター合奏(デュエット)する動画もよく見られる。ギター独奏曲としても親しまれ、各種アレンジされた楽譜も一般的に市販されている。

ジプシーダンスの曲としても人気

なお、『二つのギター』と同じメロディがジプシーダンス・舞踊のための楽曲として用いられる場合は、『ジプシーの娘 Цыганочка』と題された別の歌詞が用いられる。ただ、こちらも歌詞あり版はあまり用いられないようだ。

YouTubeで『ジプシーの娘』を検索してみると、タイトル通り、比較的若い女の子がジプシー系の衣装を身にまとってジプシーダンスを披露する動画をいくつか見つけることができる。

ポールモーリアのアレンジで世界的に有名に

『二つのギター』が世界的な知名度を獲得した背景には、フランスの作曲家ポール・モーリア(Paul Mauriat/1925-2006)による1960年代から70年代頃のイージーリスニング版カバー『Les deux guitares』の存在が非常に大きいと思われる。

同カバー版を収録した音源の解説には、「2つのギターの調べ」が奏でられるロシア民謡曲であることが説明されている。

「ロシアには多くのジプシーが住んでおり、街頭でギターをひいたり踊りをおどったりするほか、トランプ占いなどで生計をたてていますが、 これはそのジプシーの歌の一つで、『黒い瞳』と並んで世界中に知られた民謡曲です。 何ともいえない悲しみをたたえて流れる2つのギターの調べ──それは、若い男女のやるせない愛情を象徴しているのです。」

なお、このポール・モーリアによるイージーリスニング版が発表される以前に、『二つのギター』と呼ばれるロシア民謡・ジプシー歌曲が存在したのかどうか、また、ジプシーダンスに用いられる『ジプシーの娘 Цыганочка』とはどういう関係にあるのか、等の詳しい経緯については定かではない。
http://www.worldfolksong.com/songbook/russia/two-guitars.htm


▲△▽▼

1.
ギターが二丁、壁の向こうで
せつなげに嘆きはじめた…
幼い頃からの忘れがたい節回し、
愛する人よ、君なのかい?
さあ一度、もう一度
それから何度も、何度でも!


2.
これは君だ、と僕にはわかったよ
ニ短調で弾く君の弾き方と
素早い爪弾きかたでやる
君のメロディーの出し方で
さあ一度、もう一度
それから何度も、何度でも!


3.
どうして僕には君のことが分からないんだろう?
君の周りを悲しさが取り囲んでいる
情熱的な朗らかさの〔悲しさが〕
猛烈な二日酔いの〔悲しさが〕
さあ一度、もう一度
それから何度も、何度でも!


4.
君のことさ、がっつり飲むんだ
パンチ酒のそばにゃ、湯たんぽと
ハンガリー風モチーフの
きみのメロディーがある
さあ一度、もう一度
それから何度も、何度でも!

5.
ああ痛い、ああ痛い
二日酔いのせいで頭が…
さあ飲もうよ、僕らはこれから飲むんだ
一週間ずっと!
さあ一度、もう一度
それから何度も、何度でも!

http://ezokashi.opal.ne.jp/russiaframe.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/400.html

[近代史3] 雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている 中川隆
40. 中川隆[-10438] koaQ7Jey 2019年5月01日 21:37:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1652]
>>33
小和田恒から大金を貰っていたから本当の事を言えなかったんだろ。

真実は:


雅子の学歴ロンダリング
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0


嘘てんこ盛りな小和田雅子の「釣書き」
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E9%87%A3%E6%9B%B8%E3%81%8D

小和田恒 Dosuko Wiki FANDOM powered by Wikia
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%81%92

「東大卒業&ハーバード大卒業の超才媛」というイメージが売り物の雅子夫人であるが、実際には東大は学士入学→中退であり、ハーバードについては父・小和田恒のコネが大きく働いていたと考えられる。彼女は外務省入省後オックスフォード大院に国費留学しているが、国費留学組の中でただ一人修士号を取得することができず、父親のコネが働かない場所では結果を出せないという実証がされている。

このように実質が伴わないのにやたら高学歴イメージを作り出していることから、皇室御一行様スレッド住民奥様方の間では古くから「学歴ロンダリング」との表現がされている。

時折秋篠宮妃紀子殿下と比較して「雅子サマの方が才媛だ!」という雅子擁護派の主張が散見されるが、紀子殿下は学習院大学院にて心理学修士号を取得しており、経済学学士どまりの雅子夫人と比較しどこをどう客観的に判断しても、紀子妃殿下の方が学位は上である。

ハーバード大卒について

ハーバード大学部教育問題について

ハーバード大学の学部教育の問題として、マイノリティへの成績の付け方が他大学に比べ甘いこと、また実際の教育が教授でない教員(フェロー)によって行われている実態があることが指摘されている。これは教授が研究や大学院教育に重点を置いているためであるが、教授が学生の指導を密接に行うリベラルアーツ・カレッジとの違いになっている。マサチューセッツ州のアマースト大学、ペンシルバニア州スワースモア大学(Swarthmore College)といったリベラルアーツ・カレッジを卒業して、ハーバード大学の大学院に入学する学生も多い。

" class="outlink">http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%A5%CF%A1%BC...
http://en.wikipedia.org/wiki/Harvard_Universityの“Views of Harvard”2パラグラフ目にも、ハーバード大学のgrade inflationにつき記述がある)

ハーバード大成績評価について

上述のように、ハーバード大学が学部生に甘い成績をつけることは有名で、以前からかなり問題になっている。平均的な成績がAなので、普通に履修していればGPAは限りなく4に近づける。このBoston Gloveの記事だと91%がHonor(Cum Laude, Magna Cum Laude, Summa Cum Laude)で卒業らしい。

Harvard asks faculty to justify grading methods
By Patrick Healy, Globe Staff, 10/23/2001
SPECIAL REPORT | Oct. 7

 At Harvard, it's honors all around Harvard University has a dirty little secret: a grade inflation culture that allows 91 percent of students to graduate with honors, rendering the distinction virtually meaningless.

 For the first time, professors at Harvard University have been asked to justify the grades they give students as the university launches its toughest examination yet of grade inflation.

 Susan Pedersen, dean of undergraduate education, gave faculty members a January deadline to explain their grading practices in writing. A committee will review the data and recommend whether changes to grading should be considered.

 The plan was announced at a private faculty meeting last week, following a Globe study revealing that decades of grade inflation have made it much easier to graduate with honors.

 More than half of Harvard's grades last year were A's and A-minuses, and a record 91 percent of students graduated with honors in June. Yale, Princeton, and other Ivy League and nationally ranked universities had far lower rates of honors, the Globe found.

マグナ・クム・ラウデについて

英語版Wikipediaの「Latin honors」のページによると、

Harvard College first awarded final honors to its graduates in 1869. From 1872 to 1879, cum laude and summa cum laude were the two Latin honors awarded to graduates. Beginning in 1880, magna cum laude was also awarded:

The Faculty then prepared regulations for recommending candidates for the Bachelor's degree, either for an ordinary degree or for a degree with distinction; the grades of distinction being summa cum laude, magna cum laude, and cum laude. The degree summa cum laude is for those who have attained ninety per cent on the general scale, or have received Highest Honors in any department, and carries with it the assignment of an oration on the list of Commencement parts; the degree magna cum laude is for those who have attained eighty per cent on the general scale, or have received Honors in any department, and carries with it the assignment of a dissertation; and the degree cum laude is to be given to those who attain seventy-five per cent on the general scale, and to those who receive Honorable Mention in any study together with sixty-five per cent on the general scale, or seventy per cent on the last three years, or seventy-five per cent on the last two.... [Annual Reports of the President and Treasurer of Harvard College, 1877-78]

だそうなので、GPA3.2ならMagna Cum Laudeとなれる。すなわち、成績の8割がBで2割がAなら取れるということ。前述の通り平均の成績がAである以上、かなり出来の悪い人間でも取れるということになる。

もうひとつ、雅子妃がMagna Cum Laudeということは、当然Summa Cum Laudeではなかったということだ。この英語版Wikipedia によるとハーバード大学では9割以上Aの成績を獲ればSumma Cum Laudeとのことなので、GPAは3.6以下だったと推察される。ハーバード大学のような成績インフレ学校で GPA3.6以下とは、特に優秀でもなんでもない。中の中ぐらいの成績だと結論付けられる。

小和田恒とハーバード大学

実父小和田恒氏がハーバード客員教授(1979-1981)として勤めていた。

小和田雅子卒業論文執筆に協力した人々

たかだか一学部生の卒業論文なんぞに普通関わらないような財界人3人が、小和田雅子の卒論作成の手助けをしている事実が存在する。言うまでもなく父小和田恒のコネクションがなければ得られない人脈である。

『素顔の雅子さま』主婦と生活社(1993年)p.76より引用

小和田雅子ハーバード大学経済学部卒業論文
EXTERNAL ADJUSTMENT TO IMPORT PRICE SHOCKS : OIL IN JAPANESE TRADE「輸入価格ショックへの外的調整・日本の石油貿易」

Acknowledgments(謝辞)

This thesis is the product of work carried out in both Tokyo and in Cambridge.

I should like to acknowledge the financial assistance of the Japan Institute and the Center for International Affairs of Harvard University which provided me with summer grants to collect data and interview people in Japan during the summer of 1984. I am grateful for the help given to me in Tokyo by Mr. Kazuo Nukazawa, Directer of the Financial Affairs Department,The Federation of Economic Organizations, Mr. Teruhiko Mano, Genearal Manager of Economic Research Division, Bank of Tokyo, and Mr. Eisuke Sakakibara, Advisor to the President and Director, Genaral Plannning and Administraion Department, Japan Center for International Finance.

In the process of analyzing this material after my return to Harvard I should like to give special thanks to my thesis advisor, Professor Jeffrey D. Sachs for his careful guidance, and to his research assistant Mr. Warwick Mckibbin for help with the computer work.

『THIS IS 読売』1993年4月号pp.51-53、小和田雅子のハーバード卒論を手伝った一人、糠沢和夫氏本人の寄稿記事より引用

 小和田雅子さんのハーバード大学卒業論文(英文九十九ページ)は、一九八五年三月に提出されたものだが、前書きに小生(当時経団連理財部長)と東京銀行の真野調査部長、国際金融情報センターの榊原総務部長(いずれも当時)の協力への謝辞が述べられている。

 前年の夏休みに小生がご父君(小和田恒・現外務事務次官)からの紹介でお目にかかり。経団連の食堂で昼食を共にさせて頂きながら、石油ショックに対するマクロ・ミクロの対応などについてお話をした。

Mr. Kazuo Nukazawa, Director of the Financial Affairs Department,The Federation of Economic Organizations,

糠澤和夫 経済団体連合会参与 (元)ハンガリー大使、外務省大臣官房文化交流部長。
Mr. Teruhiko Mano, Genearal Manager of Economic Research Division, Bank of Tokyo,
真野輝彦 東京銀行参与(当時)、三菱UFJリサーチ&コンサルティング客員研究理事。
Mr. Eisuke Sakakibara, Advisor to the President and Director, Genaral Plannning and Administraion Department, Japan Center for International Finance.
榊原英資 (元)大蔵省財務官、慶應義塾大学グローバルセキュリティーセンター教授。


 繰り返すが、ハーバード大学の成績の付け方は甘く、大手メディアも問題視しているほどである。それにも関わらず、彼女が獲得したのはMagna Cum Laudeであり、最高ランクのSumma Cum Laudeではない。また、ハーバード大学では、一般教養科目の成績も含めたLatin Honorとは別に、専攻科目毎に与えられるEnglish Honorがあるが(ハーバード大学公式ページ)、そちらの方は獲得できていない。ここまで有利な条件が揃っているにも関わらず、成績はこの程度なのである。

東京大学法学部について

日本の一般学生より条件が有利な学士入学

学士入学試験とは当時の共通一次試験や現在のセンター試験を経る形式とは大きく異なり、外国語(英語)と小論文・面接のみでクリアできる代物である。在米生活が長い雅子にとって英語の比重が高い試験は一般日本人受験者よりかなり優位に働くのは疑いなく、併せてハーバード卒業(父コネ・卒論執筆も父コネ)肩書きが面接で大いに効力を発揮したのは想像に難くない。

僅か1年の在籍後、即中退

「昭和62年 東京大学ご中退」と宮内庁HP 皇太子同妃両殿下のご略歴ページにも明確に記載されている。

昭和61年10月に外交官試験(当時はコネが物言う試験だった)合格後、NHK出演やFOCUS取材やまた皇太子を顔を合わせるパーティーに何度も出席しており、更に後期には運転免許取得のために自動車学校へ通ってもいた。

東大法学部に在籍していた1年間で学業に励んでいた様子はまるで窺えない。

→【母校】
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E6%AF%8D%E6%A0%A1

も参照のこと。

外交官試験について

 →「外交官試験」
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93


オックスフォード大学留学について

国費留学

オックスフォード大学ベリオール・カレッジに国費留学(一説には1,300万円かかったとも言われる)するものの、同期7人の中で雅子ただ一人だけが修士号を取得できずに帰国。

 『週刊文春』2006年3月16日号によれば、当時のオックスフォード大学で担当教授だったルーカス・チュカリス教授が、彼女は「日本政府によるアメリカ製航空機の購入」というテーマで論文を書いていたが、外務省に呼び戻されたため断念せざるを得なかったのは残念だと証言している。

 しかし、ならば提出できなかったことについて正当な理由があるのだから、オックスフォード大学当局及び外務省と話をつけて、後からの論文提出を認めてもらえば良かっただけの話である。どうもその辺の行動力が彼女には欠けている気がしてならない。


修士論文を提出できなかった件

小和田雅子が修士論文を提出できなかったのは付き纏うマスコミの所為とも言われたが、移動には宿舎からタクシーを呼べば済む話だし、校内にマスコミが入らないように大学当局と交渉することもできはたずである。

また、小和田雅子が病気をしたせいで満足に勉強ができなかった、とも言われるが、そうだとすれば、彼女は外務官僚として国費留学していながら、自身の健康管理を怠っていたため(他の6人の同期官僚について病気をしたとの証拠・証言は2008年現在に至るも挙がっておらず、現地環境が病気の主要な原因だとは考えられない)に、修士号を取得できず帰国したことになる。

いずれにしろ、社会人としては少々心構えが甘く、論文を執筆できなかった理由付けとしては苦しいものだと言わざるを得ない。

外務省員留学コース

彼女が留学したコースは、学者志望者向けのコースとは違い、企業や官庁の研修生向けのそれであり、現地の学生や少しやる気のある学生ならば1年で修了できるとも言われている。言葉の壁などで手こずってもせいぜい1年半。高校〜大学が米国で、しかも大学の卒業論文を英語で書いてパスした人間が、1年半もいて修士論文を書けなかったというのはまず考えられない。

実父・小和田恒氏の不明瞭な学歴について

名桜大学・客員教授紹介欄では「【最終学歴】英国ケンブリッジ大学大学院修了」、名誉博士号をあげちゃった早稲田大学でも「小和田恒氏は1932年9月18日に新潟県新発田市に生まれた。1955年に東京大学を卒業すると同時に外務省に入省し、その後、ケンブリッジ大学大学院を修了した。」と記載。

しかし、国際司法裁判所の小和田恒Biographyでは「LL.B., Cambridge University」、LL.B.=Bachelor of Laws(法学学士)である。ケンブリッジのLL.M.(法学修士)コースに在籍はしていたが修士論文を提出できなかったことについて、恒本人が「船便で博士論文を盗まれてしまった」と主張しているインタビューが発掘されたことについて保管庫02に書き込みまとめがあるので是非参照されたい。
実父についても修士号を取得しているかどうか定かでなく、いつの間にやら早稲田の名誉博士号をゲトしているところは、まさに父娘揃っての学歴ロンダリングと表現できるだろう。
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/265.html#c40

[リバイバル3] かぐらスキー場 (かぐら・三俣・田代スキー場) 中川隆
119. 中川隆[-10437] koaQ7Jey 2019年5月01日 22:03:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1653]


雪日記
蘇る粉雪、 最後のファイナルラストまだだまだ終わらんよパウダー!!
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-3586.html


【18-19シーズン 162日目】 天候:晴れ
4/28(日) かぐらスキー場でスノーボード。

かぐら最終決戦の朝を迎えました。
ゲレンデ周りのパウダーはそこまで期待できないでしょうから、
ゴロマ営業開始に間に合えばいいやと温泉でのんびりしていたら…、

それでも8:00前に到着したのに神楽魂寮の前!!

もしや!!と思いロープウェイに向かったら、
嗚呼…!!
物凄い行列…。

今年のゴールデンウィークは雨予報多め、
昨日悪天候からの本日晴れ予報、
連休2日目、
そりゃ混雑しますよね。

王者かぐらをナメテいました。
これじゃゴロマ開店には間に合いそうもないな…。

超混雑時のロープウェイはフル回転。
到着した搬器に即お客を乗せられるように両サイドに定員を待機させてくれます。
もちろん、到着時も両開きであっという間に折り返し運転。
それでも20分以上待ちましたけどね…。

みつ1にゾロゾロ人が駆け込んでいたので、みつ2へ。
みつ2からかぐらを目指すなんて初めてだな(笑)

ゴンドラも並んでいます。
ヒトリストレーンなんて久々に使いました。

でも、ヒトリストレーンのおかげでそこまでの待ちは無し。
定員乗車は平日に慣れすぎてしまった者にとって辛いけど(笑)

ゴロマもそこそこ混雑していましたが、
トップシーズンとは雰囲気が丸で違います。
ギラギラしたパウダージャンキーが皆無(笑)

見慣れた方が少なく、大型連休なのですなぁって感じです。

KG-1を超えればそこは先ほどの様な混雑とは無縁の世界。
ちょっと出遅れてしまいましたが、入山者もあまりいないようでした。
もうバックカントリー愛好家は板仕舞いしたか、
立山など春らしい山へ移住してしまったのでしょう。

嗚呼…冬景色!!

静寂の白い世界、
ノートラックの新雪を踏みしめる快感。
この感覚ばかりはスキーシールよりスノーシューの圧勝です。

目指すは北斜面一択ですが、

遠回りして苗場山と神楽峰に最後のご挨拶。

幻想的なハロと神楽の森。

本日は迷わず北斜面です。
出遅れたものの、まだ10名ほどしか訪れていないようで。

先行者がドロップしました。
嗚呼…どう見てもパウダー!!
それではわたくしめも…!!

さいこ〜!!

その先の沢も一気に!

超ウルトラスーパーファイナルさいこ〜!!

ありがとうございました!!

やっぱり北斜面は裏切らない。
そしてかぐらは最高だ。
まさかまさかのゴールデンウィークパウダー。

今シーズン、2月下旬くらいから降雪が止まり、
かぐらでは3月中旬のパウダーがラストだと思っていました。
それが3月下旬から脅威のパウダーの連続!
結局その勢いのまま4月下旬までラストパウダーラストパウダーと、
何度ラストパウダーを撤回した事でしょう(笑)

もう本当に本当、悔いはありません。
大満足の18-19シーズンパウダーおさめとなりました。

ゲレンデはやはり大混雑、
そしてパウダーのパの字も無く、走らない残念な雪質。
ラストパウダーの余韻を大切に、このまま下山します。

残り1ヵ月はなるべく晴れて欲しいな。

みつまた駐車場はこんな所まで!?って所までビッシリ埋まっておりました。
大変な駐車場整理、いつもお疲れ様です。

スキー場発表積雪量
かぐらエリア:220cm 
田代エリア:190cm 
みつまたエリア:160cm 

使用板:GENTEMSTICK / SPEEDMASTER “八甲田” SPECIAL
ビンディング:BURTON / STEP ON
ブーツ:BURTON / PHOTON STEP ON
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-3586.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/779.html#c119

[リバイバル3] スキー場の選択は雪質だけで決めよう 中川隆
168. 中川隆[-10436] koaQ7Jey 2019年5月01日 22:05:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1654]

スキー場積雪ランキング 2019年5月1日更新
https://weather.goo.ne.jp/ski/ranking/


1 月山夏

山形 積雪量 950cm
.

2大雪山黒岳

道北 積雪量 320cm
.

3ロッテアライリゾート

新潟 積雪量 302cm
.

4夏油高原

岩手 積雪量 270cm
.

5谷川岳天神平

群馬 積雪量 230cm
.

6奥只見丸山

新潟 積雪量 230cm
.

7シャルマン火打

新潟 積雪量 220cm
.

8かぐら

新潟 積雪量 220cm
.

9関温泉

新潟 積雪量 200cm
.

10ニセコマウンテンリゾート グラン・ヒラフ

道央 積雪量 200cm
.

11中央アルプス千畳敷

長野 積雪量 200cm
.

12札幌国際

道央 積雪量 190cm
.

13HAKUBA VALLEY エイブル白馬五竜

長野 積雪量 185cm
.

14キロロスノーワールド

道央 積雪量 180cm
.

15中山峠

道央 積雪量 180cm
.

16HAKUBA VALLEY 栂池高原

長野 積雪量 180cm
.

17サッポロテイネ

道央 積雪量 170cm
.

18天元台高原

山形 積雪量 170cm
.

19たんばらスキーパーク

群馬 積雪量 170cm
.

20野沢温泉(やまびこゲレンデ)

長野 積雪量 165cm
.

21HAKUBA VALLEY Hakuba47ウィンタースポーツパーク

長野 積雪量 165cm
.

22竜王スキーパーク

長野 積雪量 165cm
.

23志賀高原 横手山・渋峠

長野 積雪量 165cm
.

24秋田八幡平

秋田 積雪量 160cm
.

25HAKUBA VALLEY 白馬八方尾根

長野 積雪量 160cm
.

26志賀高原 熊の湯

長野 積雪量 160cm
.

27志賀高原中央エリア 寺小屋

長野 積雪量 150cm
.

28奥志賀高原

長野 積雪量 150cm
.

29八甲田

青森 積雪量 150cm
.

30丸沼高原

群馬 積雪量 150cm
.

31赤倉観光リゾート

新潟 積雪量 140cm
.

32志賀高原 焼額山

長野 積雪量 140cm
.

33志賀高原中央エリア 一の瀬ファミリー

長野 積雪量 130cm
.

34志賀高原中央エリア 一の瀬山の神

長野 積雪量 130cm
.

35志賀高原中央エリア 一の瀬ダイヤモンド

長野 積雪量 130cm
.

36志賀高原中央エリア タンネの森 オコジョ

長野 積雪量 130cm
.

37志賀高原中央エリア 高天ヶ原マンモス

長野 積雪量 130cm
.

38ニセコアンヌプリ国際

道央 積雪量 120cm
.

39グランデコスノーリゾート

福島 積雪量 120cm
.

40GALA湯沢

新潟 積雪量 110cm
.

41安比高原

岩手 積雪量 110cm
.

42鹿沢スノーエリア

群馬 積雪量 100cm
.

43星野リゾート 猫魔

福島 積雪量 100cm
.

44野沢温泉

長野 積雪量 95cm
.

45富良野

道北 積雪量 85cm
.

46高鷲スノーパーク

岐阜 積雪量 80cm
.

47おんたけ2240

長野 積雪量 80cm
.

48森吉山阿仁

秋田 積雪量 80cm
.

49山形蔵王温泉(ユートピアゲレンデ)

山形 積雪量 75cm
.

50山形蔵王温泉(中央ゲレンデ)

山形 積雪量 60cm


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/782.html#c168

[近代史3] 雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている 中川隆
41. 中川隆[-10435] koaQ7Jey 2019年5月01日 22:12:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1655]
>>33
>ヒルズ通商代表の通訳をされているのにどこが英語が話せず、ハーバードは高校とか、短大とか、元女子大を統合しただけで高校レベルの学力しかないとか、優秀賞は6割が貰えるとか嘘八百をのたまう工作員!


雅子様は外務省では仕事が全然できなくて周りの人がみんな困っていたんだよ:

雅子様の子弟枠を使ったインチキ外交官試験
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93

 平成12年まで行われていた外務公務員I種試験の通称。かつて外務省は、国家公務員採用I種試験ではなく、外務省独自に行うこの試験によりキャリアを採用していた。これに合格して入省した外交官を俗に「キャリア外交官」と呼称し、外務省本省の多くの幹部職や、主としていわゆる大国に駐在する大使等はほとんどこちらから任命されていた。小和田恒・雅子父娘は、いずれもこの試験の合格者である。

 「外交官に比べれば東大法学部卒など霞んで見える」とまで言われ、非常に人気が高く、外務公務員採用I種試験に合格した者は、大学を中退して入省した程である(事実、東大3年〜4年次中退者が非常に多い)。雅子妃が東大を中退しているのも、3年次に合格を果たしたからである。

 またかつては、そのブランドより、在外公館へ他省庁から出向した者(アタッシェ制度)に対して差別的な扱いをしているとの指摘もあった。「外務キャリアの不当な特権意識を助長している」等の批判を受け、外務公務員採用I種試験は廃止され、平成13年(2001年)より、外務キャリアは他省庁と同様に国家公務員採用I種試験合格者から採用されることとなった。

(以上、ウィキペディア『キャリア(国家公務員)』『公務員試験』の項より。一部加筆)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3...


 当時の外交官試験がいかに不透明なものであったかは、外務官僚・外交官の傲慢さ、いいかげんさ、横柄さ、ずさんさを痛快に暴いたテリー伊藤著『お笑い!外務省機密情報』(飛鳥新社)にも詳しい。

「外交官に対する、理由なきこの特別扱いは、まず採用試験にルーツがある。外交官以外はみな、大蔵省をはじめ全省庁のキャリア官僚がすべて、同じ上級職(現在の正式名はT種)の国家公務員試験で選抜されている。

 外交官は語学ができないといけないから?われわれ一般国民はこう騙されがちだが、実態はまるで違う。ノンキャリア組から本省のキャリア組幹部まで、『外交官試験の語学試験の内容とレベルは、専門的でもなければ高くもない』と口を揃える。英語を含めて1ヶ国語だけしか必要ないし、和訳と外国語訳があるだけ。

 最近は大学受験ですら、『日本人は何年間も外国語教育を受けながら、喋れないし聞けない』という批判を気にして、ヒアリング試験ぐらいは取り入れている。しかし、外交官試験は相変わらずペーパーテストだけ。

 したがって、『外交になど、とても使えはしないレベルの語学力の持ち主が、ぞろぞろ合格する』(外務省幹部)

(中略)

 あるノンキャリア外交官は、『語学の専門能力を持っている外交官は、ノンキャリア組の試験で選ばれるんです』と言った。これは、『外務省専門職員採用試験』というやつだ。文字通り、語学の専門能力を持っている人間を選ぶ。

このシステムは、『外交は実は半端な語学力などでやるものではなく、全人的な能力でやるもの。語学は、専門の通訳に任せておけばいい』ということを外務省が、当然ながら知っていることを物語る。『全人的な能力』が求められているのだから、キャリア外交官を特別な試験で選ぶ理由はない。理由の無いものが存在しているのは、日本人の外国コンプレックス、『海外だの国際だのという話は特別な人間にしか分からない』という思い込みがあるためだ。」
(pp.121-123)

「テストといえば、外交官の血族社会が時代の変化に負けずに、延々と続いている大きな理由のひとつは、『外交官試験』にある。外交官試験の問題は、『ヨーロッパ篇 その1』でも問題提起して、廃止を訴えた。ここで、もうひとつの側面を指摘し、重ねて廃止をアピールしたい。

 中央官庁のキャリア組のなかでも外交官だけ別扱いにして、特別に『外交官試験』を行う。つまりは、外交官以外の目で、次世代の外交官を選ぶ機会がないということである。

 しかも、試験官と受験生が実は血のつながりがあったり、そうでなくとも『世話になった、かつての上司の息子さん』が受験生――ということは頻発している。
 コネ優先なんて半端なものじゃない。事実上、身内が身内を選ぶ、身内しか選ばないシステム、それが外交官試験である。外交官試験ある限り、血族社会は揺るがないのだ。

 これを壊す。すなわち外交官試験を廃止して、外務官僚以外の人間が外交官の採用、不採用を決める改革を今すぐ、断行するしかない。」
(pp.221-222)


 未だに雅子妃優秀伝説を信じている人々が多いのは、同氏が指摘する「日本人の外国コンプレックス、『海外だの国際だのという話は特別な人間にしか分からない』という思い込み」が残っているからではないかとも思われる。

 ちなみに、週刊新潮(2004年12月23日発行)に高山正之・帝京大学教授が執筆された「変見自在」によると、「外交官試験には大使の子が5人に1人合格していたが、橋本龍太郎元首相(編者注;故人)が外交官試験を国家公務員採用T種試験に一本化してからは、大使の子の合格者はゼロである」とのことである。
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/265.html#c41

[近代史3] 雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている 中川隆
42. 中川隆[-10434] koaQ7Jey 2019年5月01日 22:26:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1656]

>>33
>ヒルズ通商代表の通訳をされているのにどこが英語が話せず、ハーバードは高校とか、短大とか、元女子大を統合しただけで高校レベルの学力しかないとか、優秀賞は6割が貰えるとか嘘八百をのたまう工作員!

雅子様の本当の実力は高校生程度

1級位の実力
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/1%E7%B4%9A%E4%BD%8D%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%8A%9B


小和田雅子が備えていると吹聴されていたもの。スキーバッジテストと、英語検定でよく取り沙汰される。



小和田雅子の「1級位の実力」ソース記事

残念なことに英検については現在ソースが確認できていないのだが、スキーについては、小和田雅子が浩宮と「公式に認められる出会い=1986/10/18スペイン・エレナ王女レセプションパーティに手書きで参加者名簿に書き込み飛び込み出席ご対面」を果たす直前の時期に発売された写真誌にて、当時外交官のタマゴとして取材を受けた記事に記載されている。


『FOCUS』1986年10月17日号表紙と目次:浩宮と小和田雅子が揃って同じ写真誌の同じ号に掲載

 <その夜の浩宮さま――渋谷のハウスレストランでご学友と“グルメ”>はっきりいってどーでもいい浩宮外食記事

 <外交官に「清原級」ルーキー――ハーバード出身小和田雅子さんの完全無欠>記事

pp.62-63より引用
 東を向いても西を見ても北をうかがっても、日本の周りはコワイ顔した国ばかり。外交官の皆様は、色々な摩擦で心身ボロボロの状態でしょうか。しかし今年も多数の俊英が外交官試験に集まり、約40倍の難関をかいくぐって、新たなボロボロ候補28人が誕生。中で注目なのが、3人の女性合格者の一人、ご覧の小和田雅子さん(22)である。

・・中略・・

 だが「優」はもっとある。雙葉の中学時代には、当時巨人の高田選手に憧れ、仲間とソフトボール部を創部、サードでクリーンアップを打ち、世田谷区の大会で優勝。テニスも田園コロシアムのスクール仕込み、スキーもバッジテスト1級位の実力だとか。他方、おばあさまのご指導で書も達者。外国時代はお母さまとホームパーティーを切り盛りしていたので、お料理も上手。ともかくすごいレディーなんである。


当フォーカス記事に小和田雅子が掲載されるにあたっては、「ウインナー炒め」姿なんぞを態々目黒の小和田家自宅コンクリ御殿台所にカメラマンを招き入れてまで撮影するという、普通では考えられないようなセッティング・手回しの良さが根底に存在していることが知られている。引用記事で掲載されている小和田雅子写真は、コンクリ御殿中庭でロシアイコン美術書を小道具に、二階窓からと思しきアングルで撮影されていることから、カメラマンが台所から家の二階まであちこちに引き入れられ小和田家総協力体制をバックに撮影しているということが見て取れるだろう。

そこまで取材において小和田雅子本人と濃密な接触があるにも関わらず、「スキーもバッジテスト1級 位 の 実力だとか」とアバウト表現が使われていることから、「本当に1級持ってるのなら、どうして“○○年に1級取得”と説明しないの??」とスレ住民奥様方から大いに不審がられている。

雅子擁護者も「英検一級程度、スキー検定一級程度の実力を持っている。雅子様の公式発表だけど?」と書いたその直後には「合格証明書なんて存在しませんよ。実際は、検定は受けてないですから」と訳分からんことを言い出す始末である(後掲)。

雅子の英語能力については【マサグリッシュ】の項に見られるとおり、相当お粗末なものであることがソースから窺われることになった。その他のご優秀ぶり説明にしても、ソフトボール部優勝は世田谷区中学レベル止まりだし、書道は母方祖母・江頭寿々子に習った程度で書道専門の先生に師事していたわけでもない。母優美子とホームパーティーを切盛りし料理が得意というくだりについては、「結婚後せっかくの小和田家里帰りに実家手料理を食するのではなくケータリング利用」「外食大好き大食い雅子さま」「デパ地下で『母の味』として買い求めた物はレトルトのチーズフォンデュ」といったエピソード群と相当乖離がある。

ちなみに上掲『FOCUS』1986年10月17日号とほぼ同時期発売の『FRIDAY』1986年10月24日号<いっぺんに「女性外交官」3人誕生「スマイル外交はワタシたちにおまかせネ」>は、女性新人外務省員となることが内定した小和田雅子(22)・松田弥生さん(24)・志野光子さん(23)の3名まとめて紹介する記事であり、雅子はワンオブゼムの扱い止まりである。もちろん自宅コンクリ御殿を利用してまでの撮影もない。

参照:

【ウインナー炒め】
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%82%92%E3%82%81

【マサグリッシュ】:雅子夫人が口にするトンデモ英語のこと
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

【釣書き】
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E9%87%A3%E6%9B%B8%E3%81%8D


訳分からん雅子擁護「英検一級程度、スキー検定一級程度の実力を持ち外国語もペラペラなのだから、そんな事やる必要はない」→「合格証明書なんて存在しませんよ。実際は、検定は受けてないですから」(゚Д゚)ハァ?編集
◾ニュース速報+板:【皇室】皇太子一家が長野で静養 1週間滞在、スキー楽しむ★4より


173 名前:名無しさん@十周年 投稿日:2010/03/25(木) 23:19:55 ID:OZ2rybbU0
美智子様や紀子様と同じ事するなんて・・・ね?
つまり、「誰でもできること」を雅子様がなさる必要はないでしょ。
 
英検一級程度、スキー検定一級程度の実力を持ち
外国語もペラペラなのだから、そんな事やる必要はない。
 
 
175 名無しさん@十周年 2010/03/25(木) 23:21:08 ID:wkUvmpYw0
>英検一級程度、スキー検定一級程度の実力を持ち
 
実は雅子さんを馬鹿にしてるだろう。
褒め殺しってやつ。
 
 
181 名無しさん@十周年 2010/03/25(木) 23:24:54 ID:OZ2rybbU0
 >>175
はぁ?
雅子様の公式発表だけど?
あなたはそれ以上の実力なの?
 
213 名無しさん@十周年 2010/03/25(木) 23:36:03 ID:OZ2rybbU0
合格証明書なんて存在しませんよ。
実際は、検定は受けてないですから。
 
身内や友人などの評価が、それくらい高かったという事。
だから、とても優れているって分かりますよね。
 
230 名無しさん@十周年 2010/03/25(木) 23:46:44 ID:OZ2rybbU0
>正規の受験合格はひとつもない。
 
コネも重要な才能の一つ。
大病院の院長の娘は、ブスでもお医者様と結婚できるでしょ。
 
248 名無しさん@十周年 2010/03/25(木) 23:53:51 ID:OZ2rybbU0
だーかーらー
もし万が一コネがあったとしても、それも含めて才能であり、批判する人は
嫉妬してるだけってこと。
 
持ってる人と持ってない人、人種が違うんですよ。
選ばれた人は、生きていくステージが違うんです。

TOEIC1000点余裕の元外交官雅子さまを500も取れない主婦が批判ですか?編集

Part2951-969 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2015/04/20(月) 13:54:05.27 ID:kBHVBjvn0
このスレヤバすぎる。年がら年中朝から晩まで雅子さまのアラ探ししてるだけ。
なんでもかんでも揚げ足取りで猛攻撃。だいたい雅子さまに会ったこともないくせに
何がわかるというのか。まぁすごい妄想だらけのスレだわ。雅子さまは実は英語が下手だの、礼儀がなってないだの、家柄が良くないだの・・・
少なくともあなた方一般人にはつま先にも及ばないような雲のはるか上のレベルですがね。
だいたい元外交官の英語力が低いって、どういうレベルのこと言ってるんだかw
TOEIC1000点余裕の元外交官雅子さまを500も取れない主婦が批判ですか?
これって馬の骨に念仏、釈迦に説法ってやつでしょう。
こんな小姑みたいな連中に叩かれてる雅子さまのお気持ちは・・・
それにこんなスレがもうすぐ3000スレに届く勢いって日本も世も末ってことでしょうか。


TOEICの満点が何点なのかも知らずに堂々と書き放っているところが、哀れさを通り越して滑稽ですらあるきよびんです。雅子と英語検定試験・英語力については【マサグリッシュ】を参照のこと。


国連英検一級ハーバード大卒の皇太子妃は幽閉 / 国連英検一級 / 国連英検も一級とかちゃんとトロフィーも資格もある人だからなぁ編集
◾秋篠宮家のお噂1013より

987 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/24(火) 11:09:11.03
幼稚な英語がやっとの大学中退ニートのハタチは在京海外大使との午餐に出して
国連英検一級ハーバード大卒の皇太子妃は幽閉

これが日本の皇室


◾秋篠宮家のお噂1029より

350 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2015/04/10(金) 11:11:33.39
日本語すら怪しいキコマコカコなのに
何でそんなに英語にこだわるのかね

やっぱ国連英検一級、ハーバード大卒、元外務省通訳の雅子さまに
対抗してるの?
よくそんな死んでも勝てない勝負に挑むよね


◾秋篠宮家のお噂1063©2ch.netより

774 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/06/23(火) 10:33:54.48
雅子さまって
高校時代〜大学時代にいたるまで
数々の優秀賞を取って、国連英検も一級とか
ちゃんとトロフィーも資格もある人だからなぁ
証拠だらけじゃケチのつけようがないと思うんだけど

眞子なんてただ大学卒業しただけなのに
アンチ東宮は「ICUを出たから英語話せる」認定
意味が分からん

397 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2015/06/26(金) 01:43:24.33 ID:bLrTl6410
>>379
>>391
国連英検には特A級、A級、B級、C級、D級、E級しか存在しないのに
http://www.kokureneiken.jp/

「一級」のトロフィーと資格()、「特Aクラス()」ってなんのことかしら(呆)

【くにさん】【きよびん】も参照のこと。


スキーインストラクター資格保有者が見る、紀子妃殿下・徳仁・雅子三者のスキーの腕前編集
◾マコオタ掲示板より


無題 Name 名無し 11/02/21(月)19:29 No.104313
No.104299の動画の紀子さま。レポーターの「大変お上手です」はお世辞抜き。
現代のカービング技術ではないが、1993年時点で「5年ぶり」と言うことは、大学時代には間違いなく1級レベル。
皇太子は3級(受ける大人はほとんどいないが)。雅子さんは2級ギリギリ合格するかどうか。
斜面の違いではなく、板に対する運動の質の違い。
以上、SAJ正指導員・B級検定員のオレが通りました。
参考ようつべ:20050214皇太子ご一家長野へ
http://www.youtube.com/watch?v=MlyMpKbwqMg

無題 Name 名無し 11/02/24(木)21:48 No.104385
>紀子さまは高等2年のときに、
>学校行事のスキーで、お一人だけ
>一番上のレベルだったんだよね。

紀子嬢は学年で2番目に上手だったとか。
さらに1年の冬友人にあてた年賀状から、蔵王で
スキー検定2級を合格したことがわかる。
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3ji/img-box/img20080311160642.jpg

拙者もスキー検定2級を受けたクチだが、蔵王でスキー検定合格なんて、
雪の積もらない土地の人間からすると、ハンパないレベルの高さだよ。


無題 Name 名無し 11/03/01(火)10:29 ID:rrr.gsS0 No.104572
>皇太子は3級(受ける大人はほとんどいないが)

なーんと、皇太子殿下は、昭和58年、国際スキー指導連盟テスト合格
(銀メダル=アマチュアの最高位)された。
完全に昔のスキーの教本通りの滑り方。
皇族やめたら、スキー指導員をして暮らしてもいいかもね。


無題 Name 名無し 11/03/02(水)08:50 ID:2gqJRsx. No.104583
>昭和58年、国際スキー指導連盟テスト合格(銀メダル=アマチュアの最高位)

1983年、スキーバブルもいいとこで、当時絶好調のSAJに対抗してSIAが乱発(今は違います)せざるを得なかったのがシルバーメダル(SAJ2級相当)。

三笠宮寛仁親王殿下が総裁を務める団体で「宮さま枠」は当然。でも、これが「アマチュアの最高位」?ずいぶんと、SIAもバカにされたモンですね。

他のスポーツ同様「上位者であるほど毎シーズン、トップクラスのレッスンを受け続けないと(指導員でも)衰える」というのが、スキー界の常識。

No.104299の動画で皇太子の滑りは「(1983年から)全然上達してない」どころか、ピーク時にSIAシルバーを持っていたとしても劣化著しく、「SAJなら3級そこそこ」が妥当。

>完全に昔のスキーの教本通りの滑り方。
>皇族やめたら、スキー指導員をして暮らしてもいいかもね。

ID:rrr.gsS0がスキー、というかエキスパートスポーツのことを何も知らないのはわかりました。

こういうところで、いいかげんなコメを垂れ流さないようにお願いします。

愛子が硬筆・毛筆で「上の方の級」を持っていると、これまたあやふや曖昧な持ち上げ方をしてみせる週刊女性記事編集

『週刊女性』2011年12月20日号<書道も“上級者” 愛子さま「冬の芸術活動」! 雅子さまへの何よりの「プレゼント」に――>
p.37より引用

「・・前略・・また先月(補足:2011年11月気管支肺炎により)、天皇陛下が入院された際にはお見舞いとして、東宮御所で花やみかんを摘まれ、お見舞いの手紙も書かれたそうです」

 愛子さまの“達筆”に陛下も喜ばれたかもしれない。

 グラビアページの毛筆習字でもわかるように愛子さまは絵だけでなく字もお上手だ。

「作文の授業で、愛子さまは硬筆・毛筆とも上の方の級を持っていることを書かれたそうですよ」(学習院関係者)


『週刊女性』2012年3月20日号<今週にもご退院へ 皇太子・秋篠宮ご一家 天皇陛下を励まされた「お見舞い」秘話!>
p.168より引用

 愛子さまについて、宮内庁担当記者が続ける。

「(補足:2012年2月天皇陛下心臓バイパス)手術翌日の2月19日に、皇太子さまが秋篠宮さまと陛下を見舞われたときに、愛子さまから“お見舞いカード”を託され陛下にお渡ししました。その後3月1日に、雅子さまもご一緒に再びお見舞いされたときに、陛下からそのお礼をいただいたそうです」

 本誌でも報じたことがあるが、愛子さまは毛筆や硬筆の“有段者”。そんな直筆のメッセージに、陛下も目を細められたはずだ。

「上の方の級」がいつの間にやら“有段者”に摩り替えられているのも見逃せない。

参考:【優秀伝説】
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%84%AA%E7%A7%80%E4%BC%9D%E8%AA%AC

2018年9月3日佳子内親王殿下英語スピーチニュースのヤフーコメントで、国連英検特A級のくにさんを雅子に強引にスライドして英語ご優秀プロパガンダ活動に勤しむ雅子擁護

【スライド】【くにさん】【マサグリッシュ】も参照されたい。


Part3362-581 可愛い奥様 sage 2018/09/03(月) 06:13:30.68 ID:cL+rAiQX0
佳子様ニュースのヤフコメで今世紀最大の嘘を発見w

i_a*****|10時間前

皇族だと雅子様が1番上手いだろうな。

nknown|8時間前

雅子妃殿下は、国連特Aですものね。

https://news.yahoo.co.jp/profile/id/iZX065yRVXGdblK3YrbxE320/comments/archive/15358830936611.0fb5.27279/#replyArea (Archive.is記録)


https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/1%E7%B4%9A%E4%BD%8D%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%8A%9B
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/265.html#c42

[近代史3] 雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている 中川隆
43. 中川隆[-10433] koaQ7Jey 2019年5月01日 22:28:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1657]

>>33
>ヒルズ通商代表の通訳をされているのにどこが英語が話せず、ハーバードは高校とか、短大とか、元女子大を統合しただけで高校レベルの学力しかないとか、優秀賞は6割が貰えるとか嘘八百をのたまう工作員!


雅子様の本当の実力は高校生程度 _ 2

マサグリッシュ(雅子夫人が口にするトンデモ英語)
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

雅子夫人が口にするトンデモ英語のこと。

2008年10月9日、とある奥様により『English Journal』2008年11月号掲載のHayley Westenraさんインタビューで、2005年6月4日サントリーホールにてコンサート鑑賞した東宮夫妻が“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!”と超上流階級にあるまじき品のない表現でサインを求めたことが発見され、ヘイリーサインおねだり祭り・ウォンチュー祭りとなった。

目次[表示]

『English Journal』2008年11月号 Hayley Westenraさんがインタビュー中で証言した雅子の台詞“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!”編集

Part1342-802 可愛い奥様 sage 2008/10/09(木) 12:20:51 ID:mG+LOOXnO

そんなにたいした記事ではありませんが
English Journal 2008,11号でちょっとだけ盆丼について書いてあったのでレポします。
Haylay Westenra へのロングインタビューの中に、
「A Royal Stir」という記事があり
2005年6月4日にのコンサートに盆丼が来て、その後歓談したと書いてあります。
・来ると言う予告はあったが、始まるまで来るか来ないかわからなかった。
・二人とも「lovely」だった。(かわいい?)
・警備がすごかった
・ヘンリーが「protocol」に従って歓談を終わらせようとしたら「Oh,no,oh,wait,we want you to sign something for us」と言われて、ちょっと時間が長引いてしまったら、ドアの向こうの警備がパニックになってしまった。
という話でした。
 
804 可愛い奥様 sage 2008/10/09(木) 12:23:18 ID:mG+LOOXnO
続き、、、
上の英語を話したのは丼かな〜と思います。
英語は勉強中なので詳しくはわかりませんが、上品な英語ではありませんよね。
ヘンリーはフジテレビドラマの白い巨塔の主題歌を歌っていたので
ミーハーな気持ちで見に行ったのかと思いましたが、
なんとユニセフ史上の最年少の大使でした。
あと、ニュージーランド出身だそうです。

804 可愛い奥様 sage 2008/10/09(木) 12:37:21 ID:mG+LOOXnO
EJは48ページです。


『English Journal』2008年11月号(ヘイリーさんの大きな顔写真が表紙)

http://www.yuko2ch.net/mako/mako/src/1225897331546.jpg
Hayley Westenraロングインタビューpp.48-49より
A Royal Stir(やんごとなき珍事)
 
2005年6月4日のコンサートを皇太子夫妻が鑑賞して、その後歓談したことについて:
・来ると言う予告はあったが、始まるまで来るか来ないかわからなかった(いつものことながら迷惑)
・二人とも「lovely」だった(とりあえず褒めておく時の無難で典型的な言葉)
・警備がすごかった
・ヘイリーが「protocol」に従って歓談を終わらせようとしたら
 
But on the second knock, I was like“Oh”, you know, “Thank you very much. Um, I'd better, better be going. I'd better let you go.”
And they're like,“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!”
And so, I thought, “OK, well, I'll, I'll hang around then, and, um, better sign,”you know,
“Better do as they say.”And, um, not knowing that I was, you know, creating quite a stir outside.
 
アルク編集部がサインねだりにつけた対訳「いえいえ、ちょっと待って、何かにサインをしてちょうだい!」

『English Journal』2008年11月号
Hayley Westenraロングインタビューp.45より引用
EJ: Do you get people asking for autographs when you go to your regular places?
対訳:普段行くような場所でも、サインを求められたりしますか?
Westenra: Yeah. Autographs and just, I, like in New Zealand, it's I get a, a lot of people will just, will come up and will just go“Hey, it's great what you're doing. Congratulations.”
対訳:ええ。サイン、それに、ええと、ニュージーランドでは、たくさんの人たちが近寄ってきて「ねえ、あなたの仕事は素晴らしいですね。おめでとう」と言ってくれます。
・・中略・・
Pautograph 署名、(有名人の)サイン

問題の台詞を発した主語は“they”とぼかした形になっているが、“Oh, no, oh, wait”と凄い勢いでまくし立てている口調、上品さの欠片も無い表現(皇太子は浩宮時代から英語の上品な言い回しを専ら教わっているはずである)から、発したのは雅子であろうとほぼ断定されている。それを裏付けるようにアルク編集部による対訳が女性口調になっていることも注目される。なおEJ同インタビュー別ページでは、ヘイリーさんが母国でサインを求められることにも触れており、そこでは“autograph”が使われていることも確認したい。

マスコミ記事にて外務省で美しく正確な英語を話す、と散々宣伝されていた小和田雅子だが、
◾ 人にものを頼むときに「May I…」や「Would you…」を使うという初歩の初歩ができない
◾「sign」は書類に署名する場合に使い、有名人の所謂サインなら「autograph」を使うという、超初級英単語を知らなかった

…という、帰国子女(小中学校義務教育時期のほとんどを日本で過ごしている小和田雅子は厳密にはこの定義に当てはまらないが)ではありえない英語のレベルの低さが判明することになった。

結婚前は学歴ロンダリング、公務は居眠り・おサボり、日本の伝統方面一切NG、家事も子育ても全くできず専業主婦としてもアウトとという、婚約結婚当時の持ち上げっぷりが粗末なハリボテだったことが明らかになっている雅子夫人であるが、さすがに海外生活が長い(といっても小・中学校義務教育期間は日本で過ごしているため厳密な意味での帰国子女ではない)のは事実なので、英語が堪能なのは一応本当ではないかと見なされていた。但し雅子結婚後の英語スピーチや訪豪「So fluffy」「Like you!」から見て、外務省などからの英語堪能触れ込みも疑問視されていた。
それがヘイリーさんへのサインおねだり“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!”によって、英語が堪能どころではない、日本の中学レベルですらクリアしてるか怪しいひどいものであることが判明した。メッキが剥げ落ちハリボテだとばれまくった雅子にとっての、いわば最後のメッキだった英語ご堪能伝説が瓦解したことで、ショックを受けているかつての雅子信者だった奥様も少なくない。

大発見をなした奥様は「たいした記事ではない」と謙遜されるものの、雅子夫人の最後のメッキ・英語ご堪能伝説が瓦解した瞬間を意味する重要な記事である。このことから雅子の英語についての実力がマイナスの方向に見直されることになり、マサグリッシュという語も誕生した。


Part1344-153 可愛い奥様 sage 2008/10/10(金) 16:56:13 ID:CQ0Qvi3XO
>>147
オトコと対面で`I want you'なら
「ねーセクロスしよー」だもんなー。
雅男のマサグリッシュなんてこんなもんだろ。
 
155 可愛い奥様 sage 2008/10/10(金) 16:57:26 ID:YX5IdNi/O
マサグリッシュ…なんてひわいな語感w
 
157 可愛い奥様 sage 2008/10/10(金) 16:58:22 ID:SmocHTeF0
>>153
>マサグリッシュ
絶妙なネーミングだ
シャッポ脱いじゃうw


2002年12月5日NZ&豪州訪問前記者会見にて「外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は正直申しましてその状況に適応することになかなか大きな努力がいったということがございます」発言を雅子がし、その後静養状態に突入、2004年5月10日徳仁がデンマーク訪問前記者会見にて「人格否定発言」をするのだが、この雅子のお下手糞英語=マサグリッシュを野放しにしていてはいずれ国際問題になりかねない、到底海外には出せないと宮内庁側が判断するのも無理ないわという見方に落ち着いている。

参照:【雅子の(゚Д゚)ハァ?な発言シリーズ】、【雅子の迷惑外交武勇伝】、【1級位の実力】


雅子・紀子妃殿下・皇后陛下・徳仁・小和田恒の英語スピーチに関するYoutube映像編集

雅子の米語スピーチ他ほんのちょっとだけ いずれもラスト数秒編集

http://jp.youtube.com/watch?v=wCWptMSlE80
http://jp.youtube.com/watch?v=zVs_0E0_RAc
http://www.youtube.com/v/zVs_0E0_RAc
2000年12月ニュージーランド・オーストラリア訪問における「Like you!」3分00秒辺り
http://jp.youtube.com/watch?v=mOl25Uni398

本物の帰国子女である秋篠宮妃紀子殿下の英語スピーチ編集

http://jp.youtube.com/watch?v=2poW0zMBpQk
45秒〜 1992年10月15日第37回CWAJ版画展オープニングセレモニーでの紀子妃殿下英語スピーチ

https://www.youtube.com/watch?v=EJgMWGjnY6g
秋篠宮両殿下ご公務 キルト展 日本フラワーデザイナー協会 他より、
40秒〜 2016年11月23日「第10回母子手帳国際会議」開会式での紀子妃殿下英語スピーチ

秋篠宮家佳子内親王殿下の英語スピーチ編集

https://www.youtube.com/watch?v=_wpdx-5iDNw
佳子さまが英語で世界の高校生激励 国際情報五輪(2018/09/02 17:32) ANNnews

皇后陛下によるIBBY基調講演(第26回IBBYニューデリー大会)編集

http://www.youtube.com/watch?v=rUAJinl6Di8
http://www.youtube.com/watch?v=--JbIr5F3Xs
http://www.youtube.com/watch?v=h5QDFb8rJOQ
http://www.youtube.com/watch?v=jVf9ymAEpDE
http://www.youtube.com/watch?v=K-bjYfv-uXQ

美智子皇后陛下が英語で語られた倭建御子と弟橘比売命の物語 Her Majesty the Empress English Speech
http://www.youtube.com/watch?v=VcjpOk5uJQA

徳仁英語スピーチ編集

ガーナ訪問の徳仁スピーチ 野口英世アフリカ賞シンポジウム(2010/3/9)
http://www.youtube.com/watch?v=mascKpX0i2U

ケニア訪問での徳仁スピーチ(2010/3/12)
https://www.youtube.com/watch?v=3ITzlWOqYc4

参照:ロイヤルイングリッシュ 英国仕込み(?)の皇太子の英語を聞いてみよう!
http://toeic-town.net/prince-royal-english/

雅子実父・小和田恒の英語スピーチ編集

ICJ Judge Hisashi Owada - FRG is NOT a STATE_! - Villa Mylius Vigoni Case - English_German
http://www.youtube.com/watch?v=GX-RFpLJrss

マサグリッシュのご本人が早速言い訳に登場か、雅子お粗末英語テンプレ(当時)を削れとしつこく食い下がる英文「自称ネイティブ」嵐と、スレ住民奥様方とのやり取りと様々な書き込み編集

Part1345-430 可愛い奥様 sage 2008/10/11(土) 23:58:34 ID:Ncqp6Qjr0


>>10
“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us"


Who ever that created this template should understand that the above
expression used by Princess Masako is completely natural as a matter
of spoken English. Although technically "autograph" can be used as a
verb, in a conversation it is commonly used as a noun. Hence a
typical expression would be "can you sign this", or "can I get your
autograph." I find it completely natural that Princess Masako said
"...we want you to sign something for us," it just shows that she has
a good grasp of colloquial English.

Furthermore, I don't understand why she would need to be so humble
as to plead "may I" when engaged in a casual conversation! "Wwe
want you to sign..." is comepletely acceptable.

While it's your choice whether to leave this template the way it is,
it just shows that whoever created this template is not a native
English speaker. I almost find this template embarassing! But again,
it's your choice.

I'm a native English speaker and hence excuse my writing in English
here; however, I can understand Japanese quite well and happen to
run across this template.


435 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:01:17 ID:qvHDGtU60 ←日付跨ぎでID切替、>>430と同一人物
>>430

By the way, excuse my brevity and typos as I type very quickly.
I assume you get my point, though.


437 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:03:08 ID:/nibcOzs0
>>430
furthermore とかhenceとかそれらしい単語使ってるけど
whileですか...フーンニヤニヤ


438 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:03:39 ID:/qOIj5PO0
新手の擁護か?


439 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:04:32 ID:ziUuOEFS0
すごいわぁ、こんなにも「自分はネイティブ」って主張してるネイティブ、初めて会っちゃったw


440 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:05:11 ID:IG9ODQYQ0
>>438
英語の基地フォーラムから遠征してきたんじゃね?
じゃなければ「ブッダを殺せ」のサイトで自作の死ぬ程下品な丼様ファンタジー書いてるアメリカ人か


441 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:05:39 ID:qvHDGtU60
>>430

By the way, excuse my brevity and typos as I type very quickly.
I assume you get my point, though.


446 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:08:47 ID:/qOIj5PO0
humbleな言葉は身分が高ければ必要ないと・・・?


447 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:09:10 ID:vRKauGCd0
we want you
つかわねーよw
一応ロイヤル(インペリアル)ファミリーの人で40すぎてる人だよw
10代の子じゃないんだよ。
アメのロークラスはすっこんでろw
と言いたい訳だが、
I can understand Japanese quite well and happen to
run across this template.
アンタ CANってこのセンテンスで自分で使ってて・・・www
取り合えず全部日本語で書いてから言えや。


448 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:09:11 ID:T6OX/1qI0
中学二年くらいの時、やたらと英語が書きたかったことがあったな。
今思い出すととても恥ずかしい。いやん。


449 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:09:14 ID:qqg4bjJq0
>>430
above expressionてwww
expression aboveだろソレwww

釣りキチくさいな。


450 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:10:16 ID:IG9ODQYQ0
>>447
>happen to run across
笑えるwww


452 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:10:59 ID:vRKauGCd0
>>449
デカイ釣り針だったので釣られてしまったよ・・・

ま雅子が自分で書いてたらワロスw


453 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:11:08 ID:jy7T5Zs40
昨日、雅子の英語はおかしくない、nativeは普通に使うと書いていて
さも自分はネイティブ表現に詳しいように書いていた。
ところが、英語力ないんじゃない?って言われて逆ギレして

「自分はハーバード」

と言い出して、ヲチスレで散々笑いものされた。
ヲチスレでの過去スレと今日のスレみたらわかるよw

もうすごく頭悪いから。


454 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:11:15 ID:81V+du3K0
I'm a native English speaker and hence excuse my writing in English
here; however, I can understand Japanese quite well and happen to
run across this template.

雅子だろ。


455 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:12:35 ID:vRKauGCd0
日本語で書いてくれればすぐわかるのにw


456 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:14:09 ID:sAVpKrYy0
日本語はよく分かっていると言っている割に、
ほとんど日本語の掲示板にわざわざ英語で書き込むあたり、
owdのニホイを感じますわw


457 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:14:40 ID:qvHDGtU60
Whatever you may write back or respond is fine as I am not
protecting Princess Masako nor am I taking any sides here.
All I wanted to say is that her expression is completely natural.
I'm not passing judgment on her English abilities either...I'm just making a
statement on a particular expression she used.


469 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:23:29 ID:+Y4t0kMmO
寝ようと思ったのにぃ〜。

きっと英語はとても単純で敬語も丁寧語もないから楽と信じてるんだろうね。

茶髪の言うことはまるで理解不能だろうw。


470 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:23:59 ID:sAVpKrYy0
457
さー、どこから突っ込んでいいんやら


471 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:24:38 ID:s0aVw0nG0
>>447
we want youってねーw
それこそネイティブの人が聞いたら、別なこと想像するよね

まっ ヘイリーは女性だからさ


472 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:25:09 ID:Pq2EuN090
丼擁護って、どうしてIDのない板が好きなんでしょう?
難民といい、噂板といい、ホントに楽しそう。

…ひとり何役もできて賑わってるように見えるのが利点かしら?
よくわかんないけどきっとそうwww


473 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:26:15 ID:IG9ODQYQ0
>>470
まずnorの入った正しい美しい構文から教えてあげてw


474 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:29:01 ID:qqg4bjJq0
>>470
マジキチに触るのもどうかとw2行目と4行目が特に酷いがw


477 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 00:30:53 ID:jy7T5Zs40
自称ハーバードはひたすら「さすが雅子様、we want you to 」という表現
がすぐにでてくるとか、しゃべりなれてるとか絶賛していた。
いかにもネイティブなしゃべり方だと。

自分はハーバードで「雅子さんのようにはいかないね」といわれたぐらいだから、
雅子はすごかったんだろうといっていた。

しかし、ヲチスレ住人に「つまり、雅子以下の英語力って言われたんだから、
雅子の英語のよしあしなどわからないんじゃないの?」と突っ込まれていた。


514 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 01:10:59 ID:OtQjwhCH0
I'm a native English speaker and hence

もうね、このあたりが「一生懸命、書きました」て感じ〜
henceねぇ・・・


519 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 01:15:59 ID:geOEYCrh0
英語ヨワな私のために、嵐の英語の何が面白いのか解説たのんます。


526 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 01:26:07 ID:OtQjwhCH0
>>519
そもそもね、掲示板に書き込みするのに自分のことを
native English speaker と書く本物のネイティブはいないってことw

せいぜい自分はアメリカ人とかイギリス人とかそんな感じ。
そもそもそんなこと書かない
英語の先生になりたいネイティブが、それをアピールしたいときに
言う程度。
そんなこと聞かれてもないのに
言い出す人、みたことない。
それをわざわざ書くということは、自分の英語力は間違いないとどうしても
主張したいから。反論されたくないから。
そこまで強い意志をもって書くのは変でしょ。

「たまたまテンプレにでくわした」という、まるで雅子問題に興味はなかったけどみたいな
人がw

それにね、and henceなんて表現は、お堅い文章、論文にぐらいしかでてこない。
技術文章とか。そしてand henceという表現は日本人学生が論文かくときに
多用するフレーズ。
別に論文ならいいけど、「たまたま」このスレにきたネイティブpgrが
どうしてそんなお堅い表現でかくの?w


527 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 01:26:10 ID:qqg4bjJq0
>>519
>>430の最初の2行は訳すとこんな感じ。
このコンピュータ構文を誰か作った人、
雅子さまの表現の前は完璧に自然なものです。話し言葉の英語の問題として。

そんな調子で「私ネイティブの英語スピーカーアルよ、私はここに主張するココロ!」
とかなんか騒いでるw


529 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 01:29:37 ID:OtQjwhCH0
and hence なんて表現と日常会話で使ったらハァ?だよw

乱暴きわまりないwe want you toがこなれた表現だ、おかしくないといっている人間なら
and henceなんてガチガチの表現しないでしょw掲示板でw


534 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 01:38:57 ID:geOEYCrh0
>>526-529
ありがとう。
きよびんが「私は生粋の日本人です」と書き込むようなものなんですね。


538 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 01:42:23 ID:OtQjwhCH0
>>534
そう。
他にもたくさん、もう笑っちゃうような「いかにも日本人が頑張って書きました。
間違ってないでしょ?」みたいな、日本人学生特有の表現があるけど、書くと
またそこを改善して戻ってくると思うので黙っておくよw

ちなみに別に日本人学生の書く英語をバカにしているとかじゃないよ。
ここでおかしいのは、一生懸命、ネイティブのフリをしているのに
その英文が「生粋の日本人です!」と書き手を裏切っている点でw


566 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 03:19:53 ID:WKHR7m/30
すいません
EJの「A Royal Stir(やんごとなき珍事)」って英語ではどのような意味合いなのでしょうか?
普通、どこかの国の皇族やら王族やら大統領にお会いしたら
「名誉な事」や「高貴なご歓談」のような題になると思ったのですが、、、


571 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 03:38:20 ID:qqg4bjJq0
>>566
Royalは字面的には「王室の」という意味ですが、
皮肉的に使われると「なにこれひでええwww ワロスwwww」となり、
後者の意味をかなり強く含ませて使われることがわりと多い。
「Stir」と一緒に使われていたら、字面的にも後者のような印象があるので、
「やんごとなき珍事」という訳は、かなりバランスをとった訳と思われますね。


585 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 05:49:59 ID:B4+pYKiA0
しかし I want you to (do) か。
本当に言ったんならもう人前には出せない。
これは命令文ですよ。Give me your autograph と一緒だよ。
「私のためにサインをしなさい」と? ありえん。
お願い文なんだからCould you使うのそんな難しくもないだろ?
学校の教師が生徒に教室で指示出しするのだって
I would like you to (do) を使いますわ。


586 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 05:53:20 ID:B4+pYKiA0
あ、 I じゃなくて We want you to か。余計悪いな。
皇太子の威光がないと何も頼めんのか。


587 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 06:10:33 ID:EzYScfdc0
別にペラペラじゃなくていいんだよ、発音だって悪くてもいい。
立場にふさわしい会話の仕方をこの15年の間にマスターすべきだったのに。
日本語でも無神経なことしか言えないんだから英語でなんて無理だ罠。


589 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 06:44:12 ID:qvHDGtU60
I find it hysterical that you're all focused on my language, not the
words the Princess used! Your undivided attention should be on
whether her language is correct and appropriate, not mine! I'm not at
all interested in hearing your views about my English. I was rather
hoping that my earlier entry, if at all, would provoke a further
discussion on Princess Masako's language.

So I hate to be repetitive but the expressions she used are perfectly correct
as a matter of English language and further, in my view (it's my
subjective opinion, not yours!), perfectly appropriate. So in my personal
view, your template >>10 is misplaced and should be reconsidered, so
that it does not degrade the credibility and quality of this entire site.
Maybe you don't care about credibility and quality, that again is
up to you all. But I just find it a pity because many of your other
templates are not only interesting but are a product of much effort
and time; you throw in a template which has not gone through a thorough
verification and you're essentially throwing away the credibility down
the kitchen sink. Reviewing my language is going down the totally
wrong path and is just adding insult to injury!


591 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 06:49:12 ID:qvHDGtU60
>> 588

> Would you mind having your autograph
This is incorrect as a matter of logic, not grammer. "Would you
mind giving me your autograph" would make logical sense, though
unusually stiff as an expression.
Could I have your autograph please?

> I would be obliged if you could give me your autograph.
This is fine. It's extremely humble and somewhat unusual for that
matter.

> I ain't give a shit if you dont wanna write down your f*cking name here!
I almost didn't comment on this one! Well, one observation: you don't
"give shit" to other people, it's the other people giving you shit, so
you have it reversed!


592 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 06:51:32 ID:qvHDGtU60
Oops, forgot to comment on one of the examples >>588 gave:

>Could I have your autograph please?
This is correct and a polite phrase.


598 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 07:13:06 ID:2pY9VCct0
>>589
わかっておられないのは、貴方の方では無いでしょうか?
”her language is correct and appropriate”とは思わない。皇室の人間として、成人として、
この様な言葉遣いは恥ずかしいですと言うご意見が、ここでは多いのです。

貴方のおられる環境では普通の事なのかも知れませんので、貴方のおっしゃる事は限られた地域や層で正しいと思います。
しかし、普通にそれなりの教育を受けられる環境では、恥ずかしい事だと申し上げておきます。
私は在米歴が二桁ですし、夫は英語が母国語です。貴方のおられる環境とは違う様ですね。
ここには、他にも英語圏在住の奥様が多数おられますが、あれが普通だとおっしゃるのは今のところ貴方だけでは無いでしょうか?

それにしても、”her language”って、、、、。


601 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 07:25:42 ID:qvHDGtU60

>> 598
Finally, we're talking about her, not me. You may have misunderstood
me: I said Princess Masako's laguage is correct. But I also said that
whether it is appropriate or not is just my "subjective opionion". If
you think it's inappropriate, of course that's totally fine! It's just
a difference in opinion...I think it's appropriate, you don't, and I
respect that. Have a good day!


602 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 07:32:50 ID:C2LvDsO20
…というわけで気が済んだみたいねw


603 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 07:34:11 ID:qvHDGtU60
I will be very specific about what bothers me about template >>10.
It says: "signは書類に署名する場合に使い、有名人のサインならautographを使う
(これも超初級)を知らなかったという、帰国子女ではありえない英語の
レベルの低さが判明。" What I am saying is that Princess Masako's
English is correct and the current template is misplaced. As I mentioned
in my first entry. it's solid English to use the verb "sign" here. You can
all eat your heart out on whether it is appropriate or not, but without
being there on the scene when it was said, how could one judge; again, given
the circusmstances, I believe it is appropriate. You may disagree and that is fine.


605 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 07:35:22 ID:f1cDUjBa0
まだいるのか。('A`)

ナガッチリなのは誰かさんと似ているなw


625 可愛い奥様 2008/10/12(日) 08:12:51 ID:SMbvTNK20
ちょっとハイソな感じのアメリカの婦人はなんでもcould I、 May Iていうよ
それを知っててI want you to sign がマナーにあってるというのは
なんだろ I want you to want me!みたいなteens englishがOKなの?
いつか眞子様の前に黙って腕を伸ばして愛子様のためにサイコロとってた雅子様の
お正月の双六ムービーを思い出したけど、やっぱり基本的なマナーをしらないんじゃないか
と思った。


627 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 08:14:39 ID:+AcyHk+s0
>>620
中学の時に外国人の人に「I cannot speak English well...」と
言ったら「とんでもない、とってもオジョーズですよ」と言われたのに
似てる。

あまりにたどたどしいから、相手はmskさんを励ますつもりで
「mskさん、エーゴ、オジョーズですよ」って言ってるのかもね。


629 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 08:19:51 ID:czHHnZSs0
>>627
どうだろ?
日本でも教科書に載ってないようなくだけた言い回しをする外人は
「すごいね、日本語ペラペラじゃん!」て言われたりするから
雅子の英語もそんな感じなのかもよ。


630 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 08:20:15 ID:9Nm6T0Zz0
マサグリッシュ…英語までオレ流だったとはorz


636 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 08:23:41 ID:+AcyHk+s0
>>629
なるほど。
くだけている=日常使っている(教科書っぽくない)という
発想ですね。

盆は自分に聞き取れない早さで英語をまくしたてる丼を
尊敬しちゃったりするんだろうな orz


847 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 14:35:22 ID:eqvl1Czw0
さっきまで友達のアメリカ人に会ってたから、雅子の英語と
自称ネイティブの英語嵐の文章を見せてみた。

雅子の英語については「昔、うちにいたホームステイの日本人を思いだす。
彼女は英語をならいたてでいつもI want you toといっていて、母に
別の表現を教えられていた。皇太子妃も、誰かからその構文をならって
さっそくつかってみただけだろう。頑張っているのだからいいじゃないか」
というので、「雅子さんは英語がウリで、英字新聞を読み、海外生活長くて
そういう自分が外交させてもらえないから病気になったといってるんだよ」と
教えると、驚いていた。


849 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 14:36:37 ID:vplhqCgI0
>>847
自称ネイティブについてはいかがでした?


850 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 14:36:44 ID:dGyemWTB0
>>847
自称ネイティブの方は?


853 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 14:37:48 ID:eqvl1Czw0
自称ネイティブwwの英語については、ここの奥様の指摘と全く同じ
ことを言っていた。さすが奥様方!

ネイティブではないよ、と言っていたし、
どうしてこの人は自分をネイティブということにしておきたいのかと質問された。


860 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 14:46:32 ID:eqvl1Czw0
この人は自分の英語力に反論されたくないからnativeとしたいのだと思うと
答えたら「理解できない。自分で英語力に自信があるならそれでいいじゃないか。
僕らは英語の間違いを指摘するのに反論を恐れて自分はnativeなんていわない。
だって自分の母国語であることを疑われるという発想さえない」とも言っていたよ。


863 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 14:56:43 ID:EzYScfdc0
>>853
そのアメリカ人の方は
雅子はハーバード卒がウリだと知らないのでしょうか?


867 可愛い奥様 sage 2008/10/12(日) 15:01:14 ID:eqvl1Czw0
>>863
ハーバードなのは知ってた。
でも海外生活が長いとか、そのあとオックスフォードにも行っているとかは
知らなかったみたい。それに雅子が英語にそんなにこだわっていることも
知らなかったので、話すと自称ネイティブの人のことも含めて、どうして
そんなに彼らは日本人なのに日本人以外になろうとするのかと驚いてた。


Part1360-615 可愛い奥様 sage 2008/10/26(日) 20:17:22 ID:ZGlm/tCQ0
Hello.
I have an opinion about >>h ttp://seesaawiki.jp/w/dosukono/d/%a5%c6%a5%f3%a5%d7%a5%ec%a1%bc%a5%c8%c3%d6%a4%ad%be%ec#content_8" >11

seesaawiki移転で元ページが見られませんので、当該テンプレコピペにリンクします。


It is necessary to delete.
Because it is insufficient as evidence.
There is no positive proof that princess Masako spoke it.
And it is not official conversation.
So I think it should not complain about a usual conversation.

But I was surprised at her accurate grammar.
This is praiseworthy.

620 可愛い奥様 sage 2008/10/26(日) 20:21:28 ID:XkECLzHO0
>>615
あなたのGrammarがPraiseworthyではない以上、
そのあなたに褒められる雅子の文法もそれなりだと。

擁護ならもうちょっと上手にやらないとね。

621 可愛い奥様 sage 2008/10/26(日) 20:21:43 ID:6QIlqXXE0
出た!自称native。

628 可愛い奥様 sage 2008/10/26(日) 20:24:57 ID:XkECLzHO0
ああ、釣りに引っかかったか。アンカーはってごめん。
しかし it should not complain とはいやはや。

631 可愛い奥様 sage 2008/10/26(日) 20:27:45 ID:6QIlqXXE0
「削除する」のはItではないですわな。「削除される」にしないとw。


Part1380-769 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 01:10:49 ID:SJtAuyZx0
すみません、マサグリッシュについてちょっとお聞きしたいのですが

「あなたのサインをいただけますか?」と言う場合には勿論オートグラフを使わねばならないと思いますが
「サインをしていただけますか?」の場合はsignで差し支えないと思うのですが、違うのでしょうか?

どのみち雅子さんがヘイリーさんに言ったのは「ちょっと!サインしてちょうだいよ!」という妃殿下という立場の人間にふさわしくない言葉であったということは分かるのですが。

「サインを【して】ください」と頼む場合はsignを使っていいものかどうか
後学のために、どうかご教授ください。


824 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 03:08:52 ID:3jDZ0M2S0
>>769
雨人に確認しましたw
signだと日本語でいう「署名」になるので、
署名が必要な書類に名前を書くときはsignでいいです。
日本語で言う「サインがほしい」というときは
autographです。
May I have your autograph?とたずねるのがベストだそうです。

I want you to sigh hereだと
「You!ここに署名するニダ!」なんじゃorz


829 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 03:32:28 ID:3jDZ0M2S0
>>769

言葉足らずですみません。
日本語のサインしてくださいの「して」の部分にはこだわらずとも
いいのではないかと思います。
May I have your autograph?のautographは名詞ですが
意味は「サインしてください」だし
Would you sign here?のsignは動詞なので
もちろん「署名してください」です。
また変な説明になってしまったかも、スマソ。


833 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 04:18:56 ID:LzjN5bHz0
>>769
signって言ったら、雨人はまずどこかに自分に不利な条項が書いていないかどうか
確認すると思うぞw
契約書、書類への署名の他、子供の宿題に確認の印として名前を書く場合もsign。
「うかつにしたらイカン」という印象が伴う。


836 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 05:10:29 ID:JBNSlJqw0
>>769
もちろんsignを使ってもいいけど
その場合は、契約書とか宅配便の受け取りとかにする【署名】になる。

だから、マサグリッシュの邦訳「ちょっと、サインしてよ!」は、ある意味、超訳。
「ちょっと、名前書いてよ!」の方が正確。


837 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 05:26:40 ID:5VmsSWMA0 ←マサグリッシュ擁護者登場
ヘイリーが自分の言葉でパラフレーズしたんでないか?
他のインタビューでも語彙の足りな英語話す子供歌手だし。
日本人のバカ歌手が茶髪にサインを求められて、
「王室の人にサインくれって言われちゃったよ」って他の人に言うような感じで。
実際は「サインしてくださいませんか」でも。

838 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 05:31:07 ID:5VmsSWMA0
英語圏に住んだことのある奥様なら分かると思うけど。


839 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 05:33:43 ID:LzjN5bHz0
>>837
自分も最初にそう思って雨人に確認したけど「ナイナイw」って言われたよ。
子供がsignとautographを取り違えてたら必ず親が言い直させるって。
日本語だと同じ「サイン」だけど、向こうではまったく別の単語。

ヘイリーも語彙たりないかもしれないが、それにしてもautographを常に求められる
立場で契約書も身近な存在だろうから、ただのおバカな子供ってわけじゃないよ。


841 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 06:33:56 ID:JBNSlJqw0
>>837
>ヘイリーが自分の言葉で

あり得ないね。
母国語だからこそ、オートフラフをサインと置き換えるわけながいよ。
日本語英語のサインと、英語のsignはまったく意味合いが違うもの。
場違いな場面で「サイン」といわれて、印象的だったんでしょ。


842 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 06:43:06 ID:5VmsSWMA0
http://www.signonsandiego.com/uniontrib/20071215/news_lz1n15pubeye.html

Don't ask Will Ferrell for an autograph; he won't sign

Want an autograph from Johnny Depp?
Chances are, he'll sign something for you – and not be a jerk about it.

The 44-year-old actor is the most gracious celebrity – for the third year in a row – on Autograph magazine's annual list of the “10 Best and 10 Worst Hollywood Signers.”

“Though soft-spoken and laid-back, he likes to talk to fans and get to know them while signing,” New York autograph dealer Anthony Risi explains in the December issue.
“He'll sign more than one item when he has time, too.”

843 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 06:47:13 ID:5VmsSWMA0
ーhe'll sign something for you

sign = sign autograph 同じことみたいですね。


848 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 07:08:27 ID:P0vZmtvc0
>>837
ヘイリーは同じインタビューで、
母国でサインを求められる事に対し、ちゃんとautographを使ってます。
h ttp://wiki.livedoor.jp/dosukono/d/%a5%d8%a5%a4%a5%ea%a1%bc

そもそも何で今頃サイン話持ち出すの?
散々検証して「東宮プゲラw」で結論は出たはずなのに。
疑問に思う新参奥は、
ちゃんとまとめサイトを御覧になったの?


851 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 07:15:53 ID:aB1iTJkW0
>>843
マサコサマの英語に間違いがあるはずがない!ほら!ここに
ちゃんとネイティブの言葉であるじゃない!!って必死なのはわかりますが、
サインくださいっていうときに、signはつかわない。
autographを使うの。ごめんなさいね。

ついでに、we want you to Vが、人にものを頼んで何かしてもらう時に
使う表現か、さがしてきてね。がんばれw


852 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 07:17:50 ID:sz8pXuY9O
>>842-843
窓乙


887 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 09:06:20 ID:iG/5kdyOO
>>769

> 「サインを【して】ください」と頼む場合はsignを使っていいものかどうか
> 後学のために、どうかご教授ください。
契約書とかでないサインはautographを使うのが通例です。
サイン【して】下さい
ならば
Could you kindly give me your autograph?
と言えないこともないけどgiveは直接的すぎるしgrantにすると古めかしい。
やはり
May I ask for your autograph here?(サインをお願いするものを差し出す)
が無難かなあ


889 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 09:07:06 ID:3HUXLQvdP
ちょっと失礼。

842-843の、マサングリッシュは正しい!に対する、皆さんの反論に追加します。
日本でもそうですが、どの国でも、同じ単語を「繰り返し」て使わぬよう配慮するもの。

ですので、最初の文は
「◯◯にサイン頼むんじゃないよ。書きゃしないから」
ってな感じ。

autographの重複使用を避けて、singを用いただけです。

例のご本と同レベルの語学感覚ですね、843の主張は...。

907 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 09:30:34 ID:N9eR8bkI0
>>889
けれども、けれども、クワガタクワガタの人に重複単語の聞き辛さと言っても
理解不能かと思われ


914 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 09:40:34 ID:DvVyzGTJ0
And they're like,

“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!”
And so, I thought,

“OK, well, I'll, I'll hang around then, and, um, better sign,”you know,
“Better do as they say.”And, um, not knowing that I was, you know,
creating quite a stir outside."

すっかり、マサグリッシュ祭に乗り遅れてしまって、そのときレスしそびれたけど、
この文章の肝は、ヘイリーが一瞬
「何かの誓約書(たとえばこの会談は口外しちゃいかんとか)にでもサインしなきゃいけないのかしら?」
って思ったことなんじゃないかと思うんですが。

だから、
「いいわ、そうね、そうよ、(外の人には終わらせろって合図のノックされているけど)このままもうすこしお付き合いして、
それで、その・・・、『署名』をしたほうがいいのかな、
ねえ、その、『彼らが言うとおりにしたほうがいいんだろう』って思ったの」

みたいな意味なんじゃないか?って思ったんですよ(ひどい訳文でごめん)。まあ、なんとも言えませんが。

でなきゃ、「署名」って言ったあとに、その意味を説明するのに「彼らの言うとおり」になんて言い換えないでしょう?

だから、この雑誌のインタビュー、実はオチが
「でもそれって、『サインをください(autograph)』っておっしゃりたかったみたいで、ほっとしたのよ」
だったんじゃないかってすら思えるよ。

916 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 09:41:39 ID:DvVyzGTJ0
ごめん自己レス
「彼らが言うとおりにしたほうが」
じゃなくて
「彼らの言うとおりにしたほうが」です。


929 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 10:04:53 ID:7NtmKwW80
>>914
考えすぎ。押しかけファンが楽屋でおねだりするサインはスターのサインでしょう。
この状況で、sign と sign autograph は同じことだから。


935 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 10:11:41 ID:DvVyzGTJ0
>>929
英語話ごめんね。
でも↓っておっしゃるけど・・・

>>考えすぎ。押しかけファンが楽屋でおねだりするサインはスターのサインでしょう。
この状況で、sign と sign autograph は同じことだから。

→私が思うに、問題は、皇太子ご夫妻って、押しかけファンだったの?ってことなんですけど。

ヘイリーにしてみたら、「世界で唯一の帝国皇太子ご夫妻が押しかけファンみたいな要求をするわけない」
つまり、まさかいわゆるAutographをよこせなんて言うわけないとは思っていたと思うよ。

だから、なんかの誓約書って思ったんじゃないかなあって思ったわけで・・・。

考え過ぎかな・・・。これを読んだとき、私は「一瞬、あれって思った」って話なんだろうなと思ったけど。


956 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 10:45:46 ID:C1pkWaLf0
>>935
 私も同意見です。
 やんごとない方々とお目にかかったとき「ご一緒した際、そこで見聞き
したことは一切口外しません」「宣伝材料に使いません」といった一筆を
求められることはよくあるのではないでしょうか。
 ましてsign ”something”なんて言われてしまったから、ヘイリーは
「ちょっと待って。一筆もらっときたいんだけど」ぐらいに受け取ってしま
ったのかも。
 これが一般の日本人なら、「あぁ、signとautographの勘違いだな」と
思うのでしょうが、何分お相手はあのHarvard-educatedで聞こえた
妃殿下ですしネ・・・


965 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 10:59:15 ID:fQ3nv7OBO
>>956
誓約書にしても身分のある本人が言い出すのは変な感じ


979 可愛い奥様 sage 2008/11/08(土) 11:33:50 ID:DvVyzGTJ0
>>965
いずれにしても、なんつうか、better do as they sayって言いかえているから、
ヘイリーちゃん、「一瞬」署名してもらいたいって何のことなんだろうとは思っていたと思う。

確かに、皇太子ご夫妻から誓約書出されるってコンテクストにしたって変だよね。

だからこそ、ノックされ外からはせかされて、
ただでさえ打ち合わせ通り行っていなくて、かなりあせる状況で、
署名ってなんだなんだなんのこっちゃ・・・うーんとりあえず

「この人たちに言われたとおり」にすればいいんだろうって。

しかもWe want you to sign... と言いながら、それこそ押しかけファンのように何かサイン帳なり、
それこそサインされる紙なりグッズなり差し出してあげれば、autographのことだってぴんときただろうに
something なんて言い出すから、おいおい、何が出てくるんだ?って。

このコンテクストから推測するに何かサインされるものもそっちで用意しろって意味だったんでしょう? 
それこそ、そこに余っているCDかパンフレットか「何か」にサインしてよ ってかんじ。

でなきゃ、We want you to sigh this くらいにはなっていたんじゃないの?

いやあ、せめて、最初にはっきりautographって言葉をつけて言ってあげた方が親切だったよね。

・・・あ、ごめんなさい、間違いは丁寧に教えてやらずに放置しなきゃいけないんでしたね。


Part1685-577 可愛い奥様 sage 2009/12/05(土) 01:32:57 ID:tGPiMC/x0
今日(ってもう昨夜か)、何気にたけしが出てる番組見てたら、
ゲストの外人サン(名前忘れたw)が、
「サインもらいたい時、サインプリーズ・・・っていうと、外人は引きますよw」って話してた。
ちゃんと「autograph」を使うようにって言ってたのを聞いて、
フォアグラ妃を真っ先に思い出しました。
・・・悠仁さまの事といい、もしかして何気にテレビも東宮sageの動きが始まった??


Part1410-813 可愛い奥様 sage 2008/12/06(土) 14:07:32 ID:INQf+5b40
>おみ足をお引っ張りする

な、なんですかそれってw
ギャグですよね?w

816 可愛い奥様 sage 2008/12/06(土) 14:08:57 ID:n2zhNZqSO
ヒヒ妃的(owd的)には、何でも“お”つけりゃおk=敬語なんだよw
でも、英語はそうはいかないからオキヤアイソウpgr
「おクウカ?おフォアグラ〜」てか?

822 可愛い奥様 sage 2008/12/06(土) 14:13:31 ID:RU7pEjYP0
>>813
h ttp://www.kunaicho.go.jp/koutaishi/ryodenka-bunsho-h15.html
最後から2つ目段落。


828 可愛い奥様 sage 2008/12/06(土) 14:26:19 ID:7AT2EEiv0
雅子の記者会見文を日本語で読むからなにか不自然さを感じるだけであって、
この記者会見文を英訳して英語で読むと機知に富んだユーモアがあって非常に素晴らしい良い文章なのです。
ですから外国特派員などは絶賛してるそうですもの。
やはり、外国育ちの方はどこか違うのね。


831 可愛い奥様 sage 2008/12/06(土) 14:33:21 ID:6HJbt4eS0
>>828
ためしに何か英訳してみていただけませんか?


836 可愛い奥様 sage 2008/12/06(土) 14:36:44 ID:7AT2EEiv0
>>831
Isn't it certain that Crown Prince comes more than full marks when doing because there are full marks though presenting Crown Prince the point will do the nature hesitate in a little?

I want to try for Crown Prince to fulfill the role energetically to the extent that Crown Prince has helped up to now, and I was able to spend the time of ten years safely in the future so that I should not pull Crown Prince's gams either and to come.

By the way, I am felt difficult to bring all answers to the question together today, and I think that it will have the dream of getting the failure point by the examination.


843 可愛い奥様 sage 2008/12/06(土) 14:40:11 ID:pl0WzN5y0
By the way, ....

848 可愛い奥様 sage 2008/12/06(土) 14:42:26 ID:pl0WzN5y0
>Crown Prince's gams

盆は女だったのか?wwww

904 可愛い奥様 sage 2008/12/06(土) 15:41:34 ID:tlLJU6PP0
836って、ひょっとして
>> 皇太子様に点数を差し上げることは少々はばかられるような気もいたしますが,もし,
>>満点というものがあるのでしたら,皇太子様は満点以上でいらっしゃることは確かでは
>>ないでしょうか。
>>
>> これまで,皇太子様にお助けいただいて,私が10年間の時を無事に過ごしてくること
>>ができました分,これからは私も皇太子様のおみ足をお引っ張り申し上げないよう,皇
>>太子様がお元気にお役目を果たしていらっしゃれますよう努めてまいりたいと思います。
>>
>> ところで,私自身は,今日は全ての質問への答えをまとめることが難しく感じられ,試
>>験で落第点をとった夢を見そうな気がしています...。

の部分を約したつもり??? どこの機械翻訳にかけたのwww おかしすぎてイチイチ書け
ないけど、まず落第点とかいうときの「点」はpointじゃないわよ。failure pointとか聞くと、
故障箇所とか機能不全部位とかの意味に取れちゃう。そもそも、最初の方の満点は
full marksって訳してるくせに・・・w

それと、日本語では「足を引っ張る」っていうのは「人の成功や前進の妨げになること」
ですから。いくらちょっとクラシックなgamsという言葉使ってみても、gamsをpullするの
では日本語の本来の意味が全然英訳に反映されてない。それにgamsって女性の足
を言うことが多いし、あまり良い意味ではない。女性が挑発的に足をチラつかせるみた
いな時に使う。いくらナルイニの足が女性より生ッチロそうだからって・・・

この前の自称ネイティブさんよりお粗末だわぁw でも、まぁお疲れさん。


Part2917-216 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2015/01/14(水) 00:27:37.78 ID:2soeH0Dm0
すぽるとおわた。
FIFAで表彰された90歳御爺ちゃん日本人サッカージャーナリストの方が、
「Cロナウドやメッシからサインを貰うのを忘れるなよと周囲から言われる」ネタを英語スピーチで披露していて、
ええ、もちろん「autograph」を使われていましたよ。signじゃなくてねww


http://www.jfa.jp/news/00003168/

FIFAバロンドール2014 賀川浩さんがFIFA会長賞を受賞
2015年01月13日 ・・中略・・
賀川浩 さん
素晴らしい場に出席できることを誇りに思うとともに、このような名誉ある賞をいただくことを光栄に思います。ブラッター会長に初めてお会いしたのはワールドユースが日本で行われた1979年のことで、当時会長は大会運営を担当されていました。あれから多くの時間が過ぎましたが私の英語は少しも上達しておらず、今回ここに来ることを躊躇させるほどでした。しかしながら、リオネル・メッシやノイアー、クリスティアーノ・ロナウドに会えるだけでもいいじゃないですか、と若い仲間たちが私を送り出してくれました。
日本サッカーの発展において、メディアの力があったとブラッター会長が捉えてくれたから受賞が決まったと聞いています。いまのメディアのなかでは最高齢ですが、私よりもはるか以前にサッカーメディアの草分けとなった大先輩が多くいらっしゃいます。そういった先輩方の後を継いで、私が代表して賞をいただいたのだと思っています。

参照 Hiroshi Kagawa: FIFA Presidential Award 2014 Reaction https://www.youtube.com/watch?v=rRoLfLfBixs
   賀川浩の片言隻句 http://fcjapan.air-nifty.com/kagawa/2015/01/post-b641.html
But my young friends in Japan were very encouraging and said I must come – if only to meet Manuel Neuer, Cristiano Ronaldo, and Lionel Messi. They told me not to forget to bring them back some autographs.
賀川氏ご本人は「私の英語は少しも上達しておらず」と謙遜して仰っているが、マサグリッシュのごとく有名人の「サイン」を「sign」とする愚は犯していない。「autograph」をきちんと使っていることが分かる。


「インフォーマル」とは編集

雅子夫人の英語こと、「マサグリッシュ」の語り口調を端的に表す言葉。Yahoo!掲示板に投稿された東宮夫妻についての書き込みが元となり知られるようになった。


Yahoo!掲示板より:http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=552019559&tid=9dbcbc4xoa2bepjs&sid=552019559&mid=84850
アジアのヤングリーダーとの会合 2008/11/23 16:05 [ No.84850 / 84853 ]
投稿者 : foreign_snake
海外在住の日本人です。
今日、久々に会った知人から驚くべき話を聞き、真偽を確かめたくて投稿します。
知人は11月にアジアのヤング・リーダーの一人として日本を訪問したのですが
御所に招待され、「プリンスとプリンセスに会った」とのこと。
雅子妃は確か静養中ではありませんでしたか?
知人によると、プログラムではクラウンプリンス(皇太子)のみと接見の予定で、会う前に日本側からお辞儀の仕方を練習したが
プリンスだけではなくプリンセスが突然現れ、先方から握手をしながら
メンバーと歓談したそうです。知人によると、
プリンセスはアメリカンイングリッシュで大変インフォーマルな話し方。
ハーバード出身のメンバーとは「あそこ知ってる?」みたいな話で盛り上がり

予定の25分を上回る45分間喋りっぱなしだったそうです。
しかし自分がもっとも驚いたのは、その場で
「ニュージーランドに行って以来、外国に行かせてもらっていない」
と皇室の閉鎖的な体制を批判していた、という発言です。
知人は外国人に対してとてもフランクに接してくれて嬉しかった、と言ってくれましたが、日本に対する批判を外人に言いふらすような行為を皇太子妃がしたとしたら、日本人としてとても恥ずかしいです。
皇太子妃は病気のため公務をしていないこと、皇族は国民に対しての義務を果たす責任がある、ということを自分が説明したところ、知人も納得してくれて
「そういえば、皇太子は血色がよかったけれど
皇太子妃は明らかに病後のような肌の感じだった」
と言っていました。
知人の話を疑うわけではありませんが、この会合はいつ行われたのでしょうか。また、皇太子妃の出席は公式に発表されているのでしょうか?
知っている方がいたら教えて下さい。

皇太子同妃両殿下のご日程 平成20年(10月〜12月)
平成20年11月17日(月)
皇太子同妃両殿下 ご接見(アジア21・ヤングリーダーズサミット参加者代表)(東宮仮御所)
皇太子同妃両殿下 ご接見(平成20年度(第23回)上級国家行政セミナー参加者)(東宮仮御所)


当書き込みで取り上げられている「アジアのヤングリーダーが御所に招待されてプリンスとプリンセスに会った」という会合は、宮内庁HP日程ページでも記録されている。書き込みをした人物のハンドルが「foreign_snake」であることから、時折スレに気になる書き込みを投下する「スネーク」さんの一人であると思われる。
ニュージーランドの歌姫・ヘイリー嬢へのサインおねだり事件で発された“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!”が知られるようになったことから、「マサグリッシュ=雅子俺流インフォーマル英語」というものであるとスレでは認識されている。公衆面前へのお出まし場面ではフォーマルに振舞ってなんぼの公人中の公人たる皇族の一人であるのに、インフォーマルにしか(英)会話ができないのは皇族としての資質が欠落していると見なされても仕方ないことだろう。

雅子については「Conversationalist」と評価を下す海外メディアもあり、その「インフォーマル」ぶりは日本国内より海外で認知されているようである。


海外における雅子への評価「Conversationalist」について編集

Part1572-664 可愛い奥様 sage 2009/06/14(日) 22:40:52 ID:/SEc3LAX0
元?Voice of America(駐日経験有り)の Steven L Herman氏の有名人に会ったぞー、のページより
ttp://tvtokyo.com/famous.htm (魚拓にリンクします)

My subjective Hall of Fame of those I've met:
Charismatic: Gen. Colin Powell/Ma Ying-jeou (tie)
Conversationalist: Crown Princess Masako
Coolest: Wolfman Jack
Crankiest: Jonathan Winters
Creative: Akira Kurosawa
Dangerous: Tony Spilotro
Ditziest: Debby Boone
Eccentric: Tamayo Otsuki
Enthusiastic: Juan Flavier
Friendliest: Bo Derek/Princess Sayako (tie)
Holistic: Dalai Lama
Humblest (relative to power or fame): Prince Albert
Laid-back: Dizzy Gillespie
Leadership: Adm. Thad Allen/Carlos Ghosn (tie)
Over-rated: Nobuyuki Idei
Self-confident: Binyamin Netanyahu
Shyest: Akebono
Smartest: Sadako Ogata
Surliest: Frank Sinatra


流石のさーや
フレンドリーではあった有名人の中ではボーデレクwとタイって本当に対人ではあたりの良い気のつく朗らかなVIPプリンセスだったのですね

しかし
カンバセーショナリストマサコw
くっちゃべってばかり議論ふっかけてばかりだったのですねマサグリッシュでwwww


676 可愛い奥様 sage 2009/06/14(日) 23:02:59 ID:Sc1dvoMd0
>>664
超シャイ:曙w

英辞郎によれば、
conversationalist
【名】 話し上手◆楽しい・面白い・興味深いことについて話ができる人
だそうですがw

ちなみに、共産党のサイトで「赤旗」記事で、そのHerman氏が
ttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-07-09/11_0601.html
ーーーーー
「(前略) また同記事は、皇室に対する“記者会見”が、世界的に見てもいかに
やりにくいものであるか、著名人の発言も引用しています。日本外国特派員協会
のスティーブン・ハーマン会長は、「われわれは質問もできない」と述べ、
「モスクワの国家保安委員会(KGB)のトップやワシントンの国家安全保障局
(NSA)のほうが、(皇室より)ずっとインタビューしやすい」と話しています。
ーーーーー
その皇室の中の雅子がcanversationalistだったとww


719 可愛い奥様 sage 2009/06/15(月) 00:24:15 ID:yjhh1xjA0
>>664
カンバセーショナリストに噴いたwww
やっぱりそう見られてるんだねー。
議論ふっかけ好き、映像見ててもマシンガントーク炸裂、喋り倒すってやっぱそのまんまなんだねw

それに比べてサーヤはフレンドリスト。
フレンドリーを使うということは本当に褒め言葉だよね。


781 可愛い奥様 sage 2009/06/15(月) 07:16:53 ID:KLamqI9t0
>>676
英辞郎が正確じゃないのですよ

【conversationalist】
a person who is good at or fond of engaging in conversation.

因にハーマン氏が外国人記者協会の会長だった時は確か外国人記者達は宮内庁の記者会見に出席させてもらえなかったんじゃなかったかと
今は外国人記者協会の代表が一人出席をしているけど


784 可愛い奥様 sage 2009/06/15(月) 07:42:35 ID:RHiPhVKA0
>>781
こっちの方がわかりやすいかな。

オックスフォード英英辞典より【conversationalist】
a person who is good at talking to others, especially in an informal way.

especially in an informal wayって、やっぱり
くうかふぉあぐらマシンガントーク、だったんでしょうかww


792 可愛い奥様 sage 2009/06/15(月) 08:17:03 ID:6E50TsEz0
>>784
>in an informal way.

胸がすくほどの直球ぶりw


794 可愛い奥様 sage 2009/06/15(月) 08:20:40 ID:RHiPhVKA0
>>784
ついでに、~ist元のconversationalに~lyで
【副】雑談で;打ちとけて、くだけて。

だってorz。 いわゆる文語でなく口語程度かな、とは正直おもっていたのですがw
ほんとにマサグリッシュだったのかもしれませんね。
ちなみにジーニアス英和大辞典です。

英語に詳しい奥様の解説アトヨロ。

デヴィ夫人オフィシャルブログ書き込み:外国人から「H.I.H. princess Masako(雅子妃殿下)」と呼ばれることに対し、“Just call me Masako”と、自ら「H.I.H.」ハイネスの敬称不要だと言ってのける雅子編集
◾デヴィ夫人 オフィシャルブログ 2012-07-06 12:48:46<松田聖子さん 一家庭を壊してまで 男が欲しいですか?>(注:Googleキャッシュ)より、空白行を適宜詰めた形にて引用

2012-07-06 12:48:46
松田聖子さん 一家庭を壊してまで 男が欲しいですか?
テーマ:ブログ

私は 日本を 駄目にしているのは 政治家とマスコミだと思います。
日本のマスコミは、 やっつけようと ターゲットに決めた政治家を
誹謗中傷 ・ 罵詈罵倒で追い詰め 
政治生命を奪いかねないことをしたり、
刑事事件などにおいては 被害者家族を守るどころか
加害者を異様にかばって 名前を伏せたり 顔を隠したり・・・
被害者、 犠牲者の名前や 顔写真は公開するのに。
猫もしゃくしも 右向け右というように、 物事や人のことを取り上げる際
リンチのような攻撃をしたり いたずらに 世論をあおったりします。

アメリカのメディアは、 公平 ・ 平等に 賛成 ・ 反対 (味方 ・ 敵)の
両意見を 必ず載せます。
一方 日本のメディアは 意図的に 始めから目的をもって取材し
それに合った意見しか 載せないということが 往々にしてあります。

松田聖子略奪再々婚話が入るが、雅子に関係ないため中略。


ところで 話は変わりますが・・・ 
日本のマスコミは 何故 いつも 強者の味方ばかりするのでしょう。
弱者の味方となる メディアの方は いないのですか!?

雅子妃は気に入らない人がいると 皇太子妃という立場を利用して 
東宮の職員を 辞任に追い込まれるのですね。
雅子妃は 元東宮侍従長の末綱隆氏と 3年間にも渡って 
口を利いてあげず 「妃殿下とコミュニケーションが取れなかった」として
彼は ついに 辞任せざるを得なくなった事は 有名です。
末綱隆氏は 元警視庁副総監で 次期 警視総監と目されていた方で、
ご結婚前の 留学する 皇太子殿下に付き添って 
ロンドンに数年いた経験もあり、
皇太子殿下との信頼関係は とても厚かったのです。
雅子妃は この方の 何が気に入らなかったのでしょうか?
彼に対する 皇太子殿下の信頼の厚さに 嫉妬されたのでしょうか。

更に 現東宮大夫の小町大夫とは 過去 12ヵ月間 
口を利いてあげていないそうです。
原因は 愛子様の校外学習に 雅子妃が同行したことについて
(10台の車を連らね 数百人の警備員を動員、 豪華スゥイートに宿泊 等)
日本の全社会から 大非難を受けた際、
小町大夫が 「 正常なこととは 思っていない 」 と発言したことでした。 
この発言以降 雅子妃は 小町大夫との意思疎通を 完全に
シャットアウトしたのだそうです。

雅子様は 「適応障害」というご病気で 病状に波があるとのことですが
こんなに 非人間的で 底意地の悪いことが出来るお方の 
どこが 病気なのでしょうか。
このお二人が どんなに困惑し 辱しめを受け 
屈辱の日々を送られているか。 もし それを楽しまれているようなら
とんでもないことです。
美しく 情深いプリンセスは おとぎ話の中にだけしか
存在しないのでしょうか。

都合の悪い時だけ 病気になる 単なるワガママ病ではないかと
思われても 仕方ないと思います。
ご成婚後 20年近くも経って 今だに皇室に馴染めないのなら
又、「皇太子妃」というお立場が 雅子妃を苦しめているのなら
ご辞退なさればいいのに。
そして ご自由になられて 本来の 優秀な能力や実力を
発揮なされ Happyになられたら いかがでしょう。

青山の国連大学にはよく行かれ、 
そちらでは とても ハツラツとしているご様子。
外国人の方々に
「H.I.H. princess Masako(雅子妃殿下)」と呼ばれることに対し
“Just call me Masako”とおっしゃられ
お元気に はしゃいでいらっしゃると 伺いました。

外交官に戻られ 大いに羽ばたき 日本のために 
世界で戦っていただきたいし その方が 雅子様も 光り輝き
ご自身 Happyで 望ましいのでは?

雅子妃は 皇太子妃のお立場で このお振舞いなのですから
皇后様になられたら・・・と想像するだけでも 恐ろしい。
皇太子殿下も 日本国のために そろそろ お覚悟を決められた方が
宜しいのではないのでしょうか。

今や 皇室ジャーナリストというより 雅子様ジャーナリストとして
活躍している 友納 尚子さんに 一言申し上げたい。
雅子妃を 国民の目をごまかしても お守りするのが 
あなたの使命のように 雅子様に ベタベタとへつらい 
かばう 記事ばかりを 書き続けていますが、
もう少し冷静に そして 日本史、 皇室の存在と 在り方について
勉強なさった方が 宜しいのではないでしょうか。
すべての不祥事、異常時にも 雅子妃を正当化し 
まるで 小和田家お抱えと 思わせるような   
雅子様に 媚びへつらった あなたの記事、
読むに堪えません。
雅子様を思う気持ちは 判らなくはありませんけれど
日本国民にとって 大切な皇室なのですから
もっと 公平 ・ 公正で 未来をふまえた 記事を書くのが
正しい 皇室ジャーナリストでは ないでしょうか。
日本のマスコミは 皇室に関して筆が鈍る 傾向にありますが、
皇室 ・ 王室 をもつ 諸外国のマスコミは 
皇室 ・ 皇族・ 王室 ・ 王族について 
公明正大に 堂々と 書いています。

皆さんは 雅子妃と 松田聖子さんの件、 そして 
だらしない 日本のマスコミについて どうお考えになりますか?
皆さんの ご意見をお聞かせ下さい。


なお、前掲デヴィ夫人ブログ<松田聖子さん 一家庭を壊してまで 男が欲しいですか?>のオリジナルは数日後削除。どうやら滋賀県大津市の中学生いじめ自殺事件に関する書き込みへの削除と連動しているようであり、それに対する運営側へのデヴィ夫人反論が2012-07-12 12:29:35<何故 コメントを削除する!? 汚いアメーバのやり方に憤慨!(追加分)に記されている。

アルク社英語教材で小和田雅子が体験者として宣伝広告に出てたという書き込み編集

Part871-452 可愛い奥様 sage 2007/05/15(火) 14:50:40 ID:p0wP1j0M0
>>445
ですねーー。わたしは、アルクだったかな、
英語の通信教育の広告に手記をよせている丼が
はじめての恐怖体験でしたわ。

719 可愛い奥様 sage 2007/05/15(火) 18:36:44 ID:36+8tXQ30
>>452
亀ですみません、その話初めて聞きました。
よければ詳しく教えていただけませんか?wktk

724 可愛い奥様 sage 2007/05/15(火) 18:41:57 ID:p0wP1j0M0
>>719
えっと、アルクという比較的、レベルの高い人
偏差値のそこそこ高い受験英語レベルはクリアしている人が
最低くらい。ビジネスで英語を使う人特に商社や海外駐在員など向けの
英語通信教材をだしているところがあるんです。

TIME誌や日経なんかに広告がよくでていたのですが、
そのアルクの広告に 私もアルクのなんとかコースを使って
外交官試験に合格しましたとかいう体験記をのせてたんだったと思う。
若き女性 外交官試験合格者のあの人も使っていた!みたいなことで
なんか、彼女の推薦とかプライベートな素敵な生活って話がでてたんです。
私はTIMEマラソンというTIME誌を読むコースとっていて読みました。

皇室入りでかかげていたの海外生活と英語レベルのはりぼてが本当なら
別に日本でアルク使う必要はないんですけどねえ。皇室入りで
あの広告の過去は抹消したんだと思う。

734 可愛い奥様 sage 2007/05/15(火) 18:51:13 ID:VFP3lKnjO
>>724
以前、ネットにあるアルクの辞書を使っていたら、例文でPrincess Masako…てな例文があったんだよねw
そういう繋がりがあったんだ。

765 可愛い奥様 sage 2007/05/15(火) 19:19:27 ID:St86VsqN0
アルクって韓国系というか反日のところじゃなかったかしら?
以前2ちゃんのどこかで例文が反日だとプチ祭りになってたような

789 可愛い奥様 sage 2007/05/15(火) 19:44:12 ID:St86VsqN0
>>765
アルクについて、自己レス
これがその時のスレのミラー。ニュース速報だった。
ttp://www.2chsearch.info/?b=news&d=1152115050
「天皇」と入れるとこんな例文が出てくるのは今も変わってなかった
 * 権力の座から追われた天皇
out-of-favor emperor

1.日本の最初の天皇は神武天皇と伝えられます。彼はおよそ2600年前の天皇です。


しかし、神武天皇から14代の仲哀天皇までは、実際にいたかどうか確かではないため
伝説的な人物として扱われています。
It is said that the first emperor of Japan was Jinmu, who lived about 2,600 years ago.
But it is uncertain whether any of the emperors from Jinmu to the 14th emperor, Chuai, actually existed,
so they are treated as legendary figures.

サッカー日本代表宮本恒靖選手に英語で話しかける雅子編集

Part394-733 可愛い奥様 sage 2006/03/05(日) 16:39:22 ID:dfLqqfcY
>>704
2002年のワールドカップのころ、サッカー日本代表と面会したとき
宮本選手が英語使えると知って、宮本選手に愛子の写真を見せて英語で話しかけたらしい。

776 可愛い奥様 2006/03/05(日) 17:34:59 ID:74cOE6SF
宮本との英語での会話は
いきなり英語で話し掛けたわけではないよ。
宮本に「英語が話せるそうですね」と話し掛けたら
「かたことですが」と答えたので
ちょっと英語で話しただけ。

798 可愛い奥様 sage 2006/03/05(日) 17:45:11 ID:ff4O8ktK
>>776
宮本は、U17のキャプテンで、試合後のインタビューを英語でした人。
「かたことですが」は社会知というもの。
牙子には一生理解できないもの。
ほんま、アスペ風味ですこと。


『月刊テーミス』2008年4月号にて、小和田恒が日本人相手に英語で喋りだすということが記事に書かれている。
<引用>さらに、雅子さまの背後に控えている父・小和田恒国際司法裁判所判事を中心とする小和田家の家風も無関係ではない。小和田氏といえば、明らかに日本人が多いとわかっている講演会でも、いきなりペラペラと英語で喋り出してしまう人なのだ。<引用終わり>
どうやら小和田家の家風であると察せられる。
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/265.html#c43

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