★阿修羅♪ > 中川隆 koaQ7Jey > 100392
 
g検索 koaQ7Jey   g検索 3bF/xW6Ehzs4I
 前へ
中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100392
http://www.asyura2.com/acpn/k/ko/koa/koaQ7Jey/100392.html
[近代史4] 中川隆 _ 文学関係投稿リンク

中川隆 _ 文学関係投稿リンク

いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは…
2. トンネルの向こう側で待っている女性とは… 川端康成「雪国」
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html

修善寺温泉「あさば」 にはもう泊まってはいけない
_ 英訳すると情痴小説(ポルノ小説)『雪国』が 出来の悪い純愛小説になってしまう理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/514.html#c58

湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 _ 川端康成「雪国」の世界
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html

谷崎潤一郎の世界
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/102.html

小泉八雲の世界
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/103.html

旧家の男子と乳母との心の繋がりが実の母親より遥かに大きい理由 _ 太宰治は本当に性的虐待を受けたのか?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/348.html

伝説の名湯 岩内 朝日温泉 _ 水上勉「飢餓海峡」の世界
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/230.html

いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは…
01. 中川隆 2011年8月05日 07:56:33 『筒井筒』/伊勢物語
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html

狐狸狐狸ばなし _ 歌舞伎「狐狸狐狸ばなし」
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/128.html

中川信夫 『東海道四谷怪談』 1959年 新東宝
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/838.html

溝口健二 お遊さま(大映 1951年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/160.html

溝口健二 西鶴一代女 (東宝 1952年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/159.html

溝口健二 雨月物語 (大映 1953年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/156.html

溝口健二 近松物語(大映 1954年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/161.html

溝口健二 山椒大夫 (大映 1954年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/172.html

エドモンド・デ・アミーチス 『クオーレ 母を尋ねて三千里』
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/865.html

欧米人の恋愛は性的倒錯の一種
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/200.html

西洋の達人が悟れない理由
02. 2010年12月13日 11:02:56 ドストエフスキー『白痴』
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html

黒澤明 ドストエフスキー『白痴』
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/617.html

文学も人間も全然わからなかった黒澤明の 白痴 (松竹 1951年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/173.html

黒澤明にはわからなかった女性の恐ろしさ _ 黒澤明 羅生門 (大映 1950年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/174.html

サルはなぜサルか 1 _ 映画「羅生門」_ 黒澤明にはわからなかった女性の恐ろしさ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/397.html

黒澤明 「デルス・ウザーラ」 から見た”精霊信仰”
_ ウラジミール・アルセーニェフ 「デルス・ウザーラ」
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/738.html

天上の歌声 メリー・ホプキン
01. 2011年6月09日 23:13:18 ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/488.html

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』_ 参考資料 _ 舊約聖書 傳道之書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/550.html

三池崇史 『インプリント〜ぼっけえ、きょうてえ〜』
_ 岩井志麻子 『ぼっけえ、きょうてえ』
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/644.html

高橋克彦 「緋い記憶」
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/820.html

滝田洋二郎 秘密 1999年 東宝
_ 東野圭吾 「秘密」
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/861.html

志田未来 名演技集
_ 東野圭吾 「秘密」
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/862.html#c1

スタジオジブリ 『火垂るの墓』 1988年 東宝
_ 野坂昭如 『火垂るの墓』
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/104.html

昔の日本映画は熱かった _ 高畑勲 野坂昭如_火垂るの墓 (スタジオジブリ 1988年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/163.html



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/232.html

[近代史4] 中川隆 _ 美術関係投稿リンク

中川隆 _ 美術関係投稿リンク

まともな人間に芸術は理解できない _ ゴッホは何故ゴッホになれたのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/481.html

ディープ世界への入り口 平賀敬美術館 _ ゴーギャンがヨーロッパを捨てた理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/297.html

「フランダースの犬」が言いたかった事は? _ ルーベンスは金儲けの天才
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/864.html

幽玄の世界 _ モナリザは何故書き換えられたのか?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/199.html

ドイツの音とは何か? _ 世紀末のエドヴァルド・ムンク
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/447.html#c19

ディープ世界とは何か _ つげ義春が見たもの
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/300.html

『見張りの湯』 から玉川源流へ _ つげ義春の世界
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/314.html

楳図かずお の世界
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/628.html

楳図かずお作品集(動画)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/629.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/233.html

[近代史4] 真光教

真光教

真光教の深層への旅
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/388.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/234.html

[近代史4] 千原温泉

千原温泉


伝説の千原温泉 _ 強い使命感がないと名湯は守れない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/522.html

潮温泉 大和荘 _ 千原温泉に湯治に通うなら、ここに泊まるのがお薦め
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/527.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/235.html

[近代史4] 千古温泉

千古温泉


長野県 真田町 千古温泉 _ 足腰の痛み・運動麻痺に効く名湯
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/228.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/236.html

[近代史4] 奈女沢温泉(釈迦の霊泉)

奈女沢温泉(釈迦の霊泉)


ベールにつつまれた奈女沢温泉 _ 医者に見放された患者が最後に縋る奇跡の水とは
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/568.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/237.html

[近代史4] 中川隆 _ 日本の湯治文化関係投稿リンク 中川隆
3. 中川隆[-13569] koaQ7Jey 2020年2月24日 07:18:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-83]

奈女沢温泉(釈迦の霊泉)

ベールにつつまれた奈女沢温泉 _ 医者に見放された患者が最後に縋る奇跡の水とは
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/568.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/123.html#c3

[近代史4] 定義温泉

定義温泉


アタマに効く温泉 _ 定義温泉
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/345.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/238.html

[近代史4] 横向温泉

横向温泉

アタマに効く温泉
01. 中川隆 2010年4月18日 横向温泉中の湯旅館  
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/345.html

癌に効く温泉・・アトピーに効く温泉
13) 福島県 横向温泉 (参考)
福島県 横向温泉「滝川屋旅館」
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/357.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/239.html

[近代史4] 微温湯温泉 (眼に効く温泉)

微温湯温泉 (眼に効く温泉)


癌に効く温泉・・アトピーに効く温泉
11. 2011年3月02日 20:49:21: 眼に効く温泉 2) 福島県 微温湯温泉 旅館二階堂
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/357.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/240.html

[近代史4] 今神温泉 (現在は野湯)

今神温泉 (現在は野湯)


どんな難病でも治ると言われた山形県の今神温泉は今どうなっているのか?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/898.html

『ゲンセンカン』の風呂場として描写された日本最高の名湯 今神温泉は野湯になっていた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/280.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/241.html

[近代史4] ニセコ薬師温泉 (現在は野湯)

ニセコ薬師温泉 (現在は野湯)

ニセコ薬師温泉 _ 温泉マニアに超絶人気の伝説の名湯がどうしてこうなった?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/560.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/242.html

[近代史4] 二股ラヂウム温泉

二股ラヂウム温泉


あの伝説の名湯は今_ 幻の秘湯 戦慄の二股ラヂウム温泉
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/350.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/243.html

[近代史4] 貝掛温泉 (眼に効く温泉)
貝掛温泉 (眼に効く温泉)


進化し続ける貝掛温泉 _ 白内障が治る名湯だったけど湯治客にはもう手が届かなくなってしまった
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/567.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/244.html

[近代史4] 玉川温泉では癌は治らない

玉川温泉では癌は治らない


玉川温泉では癌は治らない
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/405.html

恐怖の玉川温泉 _ 本当に怖いのは強酸性のお湯ではなく玉川温泉信仰
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/308.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/245.html

[近代史4] 栃尾又温泉 (放射能泉)

栃尾又温泉 (放射能泉)


春は奥只見に行こう _ 栃尾又温泉
1. 中川隆[-9807] koaQ7Jey 2018年4月15日 栃尾又温泉 自在館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/839.html#c1
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/246.html

[近代史4] 増富ラジウム温泉 不老閣 (放射能泉)

増富ラジウム温泉 不老閣 (放射能泉)


アタマに効く温泉
03. 中川隆 2010年4月18日 case2 増富ラジウム温泉 不老閣
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/345.html

癌に効く温泉・アトピーに効く温泉
増富ラジウム温泉 不老閣
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/357.html


▲△▽▼


229 :名無しさん@いい湯だな:2008/07/07(月) 10:43:36 ID:VFDI8BI1

癌にはっきり効いたラジウム温泉は不老閣の岩風呂と栃尾又の自在館だけ。
やわらぎの湯も行ったけど全く効果は感じなかった。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/onsen/1120563678/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/247.html

[近代史4] 栃尾又温泉 (放射能泉) 中川隆
1. 中川隆[-13568] koaQ7Jey 2020年2月24日 08:06:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-82]

229 :名無しさん@いい湯だな:2008/07/07(月) 10:43:36 ID:VFDI8BI1

癌に はっきり効いたラジウム温泉は不老閣の岩風呂と栃尾又の自在館だけ。
やわらぎの湯も行ったけど全く効果は感じなかった。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/onsen/1120563678/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/246.html#c1

[近代史4] 湯の島ローソク温泉 (放射能泉)

湯の島ローソク温泉 (放射能泉)


アタマに効く温泉
03.中川隆 2010年4月18日 case3 湯の島ローソク温泉
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/345.html  


癌に効く温泉・アトピーに効く温泉
湯の島ローソク温泉
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/357.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/248.html

[近代史4] 癌は温泉水と食事療法で治そう 中川隆
1. 中川隆[-13567] koaQ7Jey 2020年2月24日 08:19:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-81]

229 :名無しさん@いい湯だな:2008/07/07(月) 10:43:36 ID:VFDI8BI1

癌にはっきり効いたラジウム温泉は不老閣の岩風呂と栃尾又の自在館だけ。
やわらぎの湯も行ったけど全く効果は感じなかった。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/onsen/1120563678/


▲△▽▼


アタマに効く温泉
03. 中川隆 2010年4月18日 癌患者には来て欲しくない癌に効く温泉
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/345.html


▲△▽▼


増富ラジウム温泉 不老閣 (放射能泉)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/247.html

栃尾又温泉 (放射能泉)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/246.html

湯の島ローソク温泉 (放射能泉)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/248.html

 

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/125.html#c1

[近代史4] 京都 俵屋旅館

京都 俵屋旅館

京都のおもてなしの文化とは _ わかる人にはわかる日本一ハイ・センスな京都 俵屋旅館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/231.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/249.html

[近代史4] 京都 懐石料理 『未在』

京都 懐石料理 『未在』

天才料理長を失った嵐山 _ 吉兆と雲仙_半水盧のその後
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/276.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/250.html

[近代史4] 修善寺温泉「あさば」

修善寺温泉「あさば」


修善寺温泉「あさば」 にはもう泊まってはいけない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/514.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/251.html

[近代史4] 湯河原温泉の「指月」は何故山を下りたのか


湯河原温泉の「指月」は何故山を下りたのか _ あさば・蓬莱・白銀屋
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/190.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/252.html

[近代史4] 鹿児島 妙見温泉 石原荘

鹿児島 妙見温泉 石原荘

こんな温泉に泊まってみたい _ 妙見温泉 石原荘
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/223.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/253.html

[近代史4] 箱根湯本 平賀敬美術館

箱根湯本 平賀敬美術館

ディープ世界への入り口 _ 箱根湯本 平賀敬美術館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/297.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/254.html

[近代史4] 栃木 手白沢温泉

栃木 手白沢温泉


こんな温泉に泊まってみたい _ 手白沢温泉
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/221.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/255.html

[近代史4] 長野 仙仁温泉 岩の湯

長野 仙仁温泉 岩の湯


超絶人気の仙仁温泉 岩の湯 _ 温泉の泉質も宿からの景観も料理もすべて一流半なのに何故?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/229.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/256.html

[近代史4] 北海道 銀婚湯

北海道 銀婚湯


こんな温泉に泊まってみたい _ 北海道 八雲町 銀婚湯
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/226.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/257.html

[近代史4] 屈斜路湖畔 三香温泉

屈斜路湖畔 三香温泉


屈斜路湖畔 三香温泉 その人気の秘密
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/589.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/258.html

[近代史4] 島根 小屋原温泉 熊谷旅館

島根 小屋原温泉 熊谷旅館

温泉マニアの泊まりたい宿 No.1 の小屋原温泉 熊谷旅館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/525.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/259.html

[近代史4] 島根 湯抱温泉 中村旅館

島根 湯抱温泉 中村旅館


湯抱温泉中村旅館 _ 日本人が失ったもの _ 日本古来の『お・も・て・な・し』とは
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/531.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/260.html

[近代史4] 群馬 川古温泉別館 旅館 峰

群馬 川古温泉別館 旅館 峰


苗場の近くの名湯 2 _ 女性に超絶人気の 川古温泉別館 旅館 峰
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/575.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/261.html

[近代史4] 京都 俵屋旅館 中川隆
1. 中川隆[-13566] koaQ7Jey 2020年2月24日 09:28:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-80]

知ったら住みたくなるケンミン性 (第6回)魅力度ランキング2位「京都」に住んでわかる理想と現実
http://www.asyura2.com/09/ishihara13/msg/777.html

京都にだけは住んではいけない
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/918.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/249.html#c1

[近代史4] 群馬 川古温泉別館 旅館 峰 中川隆
1. 中川隆[-13565] koaQ7Jey 2020年2月24日 09:33:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-79]

水上温泉と猿ヶ京温泉を最短距離で結ぶ怪しい3ケタ県道と仏岩温泉 鈴森の湯、川古温泉 浜屋旅館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/581.html


苗場の近くの名湯 4 _ 『ゲンセンカン主人』で有名な湯宿温泉 _ 100円でドバドバ掛け流し温泉に入れるんだけど
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/693.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/261.html#c1

[近代史4] 群馬 川古温泉別館 旅館 峰 中川隆
2. 中川隆[-13564] koaQ7Jey 2020年2月24日 09:35:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-78]

苗場の近くの名湯 4 _ 猿ヶ京温泉
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/693.html#c1

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/261.html#c2
[近代史4] 群馬 法師温泉 長寿館

群馬 法師温泉 長寿館

苗場の近くの名湯 4 _ 伝説になった法師温泉 長寿館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/693.html#c12
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/262.html

[近代史4] 長野 毒沢鉱泉 神乃湯

長野 毒沢鉱泉 神乃湯


オートグラフが聴ける宿 _ 原村 _ ペンション・ムジカ
若い女性に大人気になった改装後の神乃湯
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/213.html#c2
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/263.html

[近代史4] 屈斜路湖畔 三香温泉 中川隆
1. 中川隆[-13563] koaQ7Jey 2020年2月24日 09:53:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-77]

日本で一番美しい道〜富良野・美瑛
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/610.html

北海道 弟子屈町 900草原 絶景ロード
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/601.html

キタキツネ物語の世界
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/609.html

北海道のライブカメラ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/599.html

北海道の温泉に行こう
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/561.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/258.html#c1

[近代史4] 長野 沓掛温泉 満山荘

長野 沓掛温泉 満山荘


沓掛温泉 満山荘 - 秘境温泉 神秘の湯
秘湯ファンに有名な満山荘が移転し一から作り上げた温泉旅館
https://hikyou.jp/report/stay/63836/

沓掛温泉✨満山荘♨️絶品 食事編 ♨♨️温️泉っていいよね♨♨️
https://ameblo.jp/ch-jive/entry-12444207516.html

【温泉】オーガニックな美食と美意識・沓掛温泉満山荘(長野県青木村)(★★★★) ぽん太のみちくさ精神科
http://ponta.moe-nifty.com/blog/2018/04/post-fd40.html


▲△▽▼


こんな温泉に泊まってみたい _ 長野県 奥山田温泉 満山荘
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/227.html

こんな温泉に泊まってみたい _ 長野県 奥山田温泉 満山荘(続き)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/556.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/264.html

[近代史4] 長野 沓掛温泉 満山荘 中川隆
1. 中川隆[-13562] koaQ7Jey 2020年2月24日 11:17:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-76]

沓掛温泉 満山荘 (旧おもとや旅館)

〒386-1606 長野県小県郡青木村大字沓掛434

電話番号 0268-49-2002


満山荘公式サイト
https://manzanso.jp/%E6%BA%80%E5%B1%B1%E8%8D%98%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%92%E9%96%8B%E8%A8%AD%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82/


日本秘湯を守る会 公式Webサイト|沓掛温泉 満山荘 の紹介・宿泊予約
https://www.hitou.or.jp/hymbrrsv/hymbr_pg01.html?yc=nm148

アクセス

交通/車
上信越自動車道上田ICから国道143号線経由約30分。長野自動車道麻積ICから約30分。

交通/電車
JR長野新幹線上田駅下車、青木行きバス終点で沓掛温泉行き乗り換え、沓掛温泉で下車。
http://www.hitou.or.jp/hymbrrsv/hymbr_pg01.html?yc=nm148


地図
https://www.google.com/maps/place/%E6%B2%93%E6%8E%9B%E6%B8%A9%E6%B3%89+%E6%BA%80%E5%B1%B1%E8%8D%98/@36.349754,138.113495,14z/data=!4m8!3m7!1s0x0:0xd6e2f6fc5d497352!5m2!4m1!1i2!8m2!3d36.3497543!4d138.1134949?hl=ja
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/264.html#c1

[近代史4] 大分 由布院 「亀の井別荘」

大分 由布院 「亀の井別荘」


LPの音をSPの音に変える魔法のスピーカ タンノイ オートグラフ
33. 2011年6月05日 M由布院「亀の井別荘」
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/494.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/265.html

[近代史4] 小布施 JAZZ喫茶 BUD

小布施 JAZZ喫茶 BUD


アンティーク・オーディオが聴ける店 _ 長野県 _ JAZZ喫茶 BUD
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/209.html


上高井郡 小布施町 大字 小布施 735-1

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/266.html

[近代史4] 箱根 底倉温泉 函嶺

箱根 底倉温泉 函嶺


箱根で泊まってみたい温泉はここだけだったんだけど… _ 箱根底倉温泉 函嶺
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/301.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/267.html

[近代史4] 鹿児島 妙見温泉 石原荘 中川隆
1. 中川隆[-13560] koaQ7Jey 2020年2月24日 11:58:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-74]

妙見温泉 どさんこ・和気湯
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/224.html

安楽温泉 鶴の湯・朱峰
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/225.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/253.html#c1

[近代史4] 湯河原温泉の「指月」は何故山を下りたのか 中川隆
1. 中川隆[-13559] koaQ7Jey 2020年2月24日 12:00:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-73]

星野リゾート讃歌 _温泉界の救世主の実像に迫る
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/398.html


修善寺温泉「あさば」 にはもう泊まってはいけない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/514.html  
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/252.html#c1

[近代史4] 箱根 湯の花温泉ホテル

箱根 湯の花温泉ホテル


わかる人にしかわからない 箱根湯本温泉 萬寿福
07. 中川隆 2013年8月11日 湯の花温泉ホテル (湯ノ花沢造成泉)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/298.html#c7
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/268.html

[近代史4] 箱根 姥子温泉 秀明館 (眼に効く温泉)

箱根 姥子温泉 秀明館 (眼に効く温泉)


癌に効く温泉・・アトピーに効く温泉
14. 2011年3月04日 箱根 姥子温泉 秀明館
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/357.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/269.html

[近代史4] カルルス温泉 (うつ病に効く温泉)

カルルス温泉 (うつ病に効く温泉)


アタマに効く温泉
3. カルルス温泉
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/345.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/270.html

[近代史4] 岡山 般若寺温泉

岡山 般若寺温泉


あの名画の舞台となった秋津(奥津)温泉は今… _ 般若寺温泉
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/352.html


般若寺温泉 - 秘境温泉 神秘の湯
温泉も文句なし! 川沿いの雄大な景色の秘湯露天風呂
https://hikyou.jp/report/dayuse/60986/


般若寺温泉|観光スポット 岡山観光WEB【公式】- 岡山県の観光・旅行情報ならココ!
https://www.okayama-kanko.jp/spot/11774


般若寺温泉〈立ち寄り湯は完全予約制!川畔の絶景露天風呂!〉
https://ameblo.jp/yoshinoyan-0904/entry-12182945527.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/271.html

[近代史4] 大阪 山空海温泉

大阪 山空海温泉


癌に効く温泉・・アトピーに効く温泉
24. 中川隆 2011年5月03日 2) 山空海温泉
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/357.html


▲△▽▼


こんなに近くに驚異的な温泉が


大阪市内から車で約1時間 能勢に驚異的な温泉があります。

名前も山空海温泉。変わった名前です。看板も手書きで、ほんの小さなものでさっと通ったら見落としてしまう。

設備はほとんど湯船とシャワーだけ。石鹸もない。張り紙も、お金を払ったらお客という意識の人は来ないでください、というような内容などふつうの商売でやっているとうより自分の入浴施設を人に貸している感覚だ。

料金は700円。決して安いとも云えない。

これで、何も良いことなかったら2度と来ないよ、と思えるような温泉だ。

でも、ここの良さは天然湧き出し、かけ流し、きっと塩素は使ってないのだろう。本当の温泉とはこんな湯だというのを味わえる。

酸化還元電位はマイナス220mV 驚異的な数字だ!

(大阪の水道水はプラス170mVだった。
機械で還元力を作ってもまあ、プラス50mVくらいだ。)

近畿圏でこんなに驚異的に良い数字が出るのはこれまで、十津川温泉しかなかった。
http://plaza.rakuten.co.jp/prunelle/diary/200611030000/


▲△▽▼

山空海温泉 大阪府・能勢 【源泉かけ流しどっとねっと】
http://www.gensenkakenagashi.net/kansai-higaeri/sankuukai.html


山空海温泉(さんくうかいおんせん) - 能勢|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/nose-onsen/onsen006036/


▲△▽▼


山空海温泉

大阪府豊能郡能勢町下田尻801

電話 090-7887-0995

日帰り入浴専門


アクセス

電車・バス・車
能勢電鉄日生線 山下駅よりバス利用
阪神高速11号池田線 池田木部より国道173号線、大阪府道604・106号線経由

駐車場 20台

地図
https://www.google.com/maps/place/34%C2%B056'31.1%22N+135%C2%B025'25.6%22E/@34.94196,135.4215953,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d34.94196!4d135.423784


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/272.html

[番外地6] 日銀が買い入れた国債は、再び売却しない限り、存在しないのと同じ 中川隆
16. 中川隆[-13558] koaQ7Jey 2020年2月24日 13:28:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-72]

2020年02月24日
永久国債とは何か 日銀の国債買い入れを制度化

財務省のペット、麻生財務大臣


引用:https://renote.s3.amazonaws.com/uploads/article_image/file/21779/a18bbb67.png

永久国債を提言

数年前FRB議長のベン・バーナンキが来日した時に「永久国債」を提言したが、体よく断られていました。

バーナンキは、日本が再びデフレに戻るリスクを指摘し、「ヘリコプターマネー」を勧めた。

ヘリコプターマネーはバーナンキ議長が「ヘリコプターでお金を撒けば良い」と言ったことから始ました。




だから『教祖』のバーナンキがヘリコプターマネーを勧めるのは予想された事で、むしろその話を聞きに言ったのでしょう。

政府が永久国債を発行し、市場を通さずに中央銀行が直接買い取る事で、国債市場に影響を与えず公共事業を実施できる。

バーナンキは選択肢の一つとして説明し、それ以上踏み込んだ話にはならなかったという。


バーナンキは2016年に安倍首相と会談し、アベノミクスや金融緩和を続けるべきだと発言しました。

今まで出てきた永久国債とは、満期を定めない国債の事で、発行者(国)が求めない限り、償還しなくても良い。

その代わり永久に利子を払い続ける必要があるが、例えばゼロ%やマイナス金利で発行すれば、金利は払わずに済みます。


金利の付かない債権を買う人はいないが、中央銀行が買い取れば、事実上返済しなくて良い借金になります。

そのような国債は前例がないのかと思いきや、大和総研の資料では2014年に世界で2,278億ドル(約25兆円)も発行されています。

イギリスでは5000億円近い永久国債が発行されていて、200年以上前の国債が今でも塩漬けにされ続けています。

財務省の飼い犬とアヒル

日本でも年間数千億円の永久債が民間によって発行されているが、政府は永久国債発行に否定的です。

理由は日本では日銀の直接買い取りが禁止されているので、マイナスやゼロ金利では購入者が居ないと考えられる為です。

日銀の国債引き受け額は2019年末時点で国債発行額の約43%に達したが、最近は頭打ちになっている。


先ほど書いたように日銀の直接引き受けは禁止されているので、一旦市場で販売した国債を、日銀が買い取っています。

これを直接日銀が国から買い取っても、実質的に何も変わらないが、財務省が強く反対しています。

反対理由は表向き「財政の健全性が損なわれる」と言っていますが、要は自分の縄張りだから手を出すなという事です。


犬が近づいた人間に吼えるのと同じで、財務省の縄張りを守る為に吼えるのです。

例えば財務省と飼い犬たちは、ヘリコプターマネーで日本の信用が崩壊すると言っています。

この崩壊論は財務省に近い人ほど大好きな理論で、これを口にしたら「ああ財務省の飼い犬だな」と判断できます。


増税しないと日本崩壊する、金融緩和で日本崩壊する、アベノミクスで日本崩壊する、今度はヘリコプターマネーで日本崩壊すると言っています。

「ハルマゲドンが来る」と言っていた麻原彰晃やオウム幹部達と、彼らの理論がそっくりなのは気のせいでしょうか?

財政支出を増やすと国債が「金利1000%」になったり通貨は「1ドル1万円になる」などと言っています。


彼らの理論では財政を縮小するほど「日本の信用が高まり」財政が健全化するが、過去25年間その通りにした結果、日本経済は崩壊しました。

逆に日本の数倍の借金を抱えている中国とアメリカはまったく破産せず、日本より高成長を続けています。

日本の借金はアメリカや中国と同じ基準で計算するとGDP80%以下に過ぎず、逆にアメリカと中国はGDP比300%以上の借金を抱えています。

財務省と飼い犬たちはこういう本当の数字を突きつけると逃げ回り、「日本破綻」「日本崩壊」という言葉だけを、アヒルのように繰り返しています。


バーナンキの言う通り日本政府が永久国債をゼロ金利で発行し日銀が全額買い取ると、事実上日本政府の借金は消えてなくなります。


財務省が主張する日本の借金がGDP比200%だから財務省は威張れるが、借金ゼロになったら誰も財務官僚に敬意を払わなくなります。

そうなると財務官僚の権限が小さくなり天下り先がなくなり、彼らの金儲けができなくなります。


財務省事務次官経験者は退官した後銀行などに天下りし、年収数億円プラス数年ごとに十億円以上の退職金を受け取ります。

退官後の収入が数百億円にも達するそうで、結局財務官僚がやっているのは「自分の金儲け」です。
http://www.thutmosev.com/archives/63560735.html
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/755.html#c16

[近代史3] バーナンキが2016年に来日し安倍首相と会談した時、永久国債で借金を踏み倒せばいいと提案した 中川隆
2. 中川隆[-13557] koaQ7Jey 2020年2月24日 13:29:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-71]

2020年02月24日
永久国債とは何か 日銀の国債買い入れを制度化

財務省のペット、麻生財務大臣


引用:https://renote.s3.amazonaws.com/uploads/article_image/file/21779/a18bbb67.png

永久国債を提言

数年前FRB議長のベン・バーナンキが来日した時に「永久国債」を提言したが、体よく断られていました。

バーナンキは、日本が再びデフレに戻るリスクを指摘し、「ヘリコプターマネー」を勧めた。

ヘリコプターマネーはバーナンキ議長が「ヘリコプターでお金を撒けば良い」と言ったことから始ました。




だから『教祖』のバーナンキがヘリコプターマネーを勧めるのは予想された事で、むしろその話を聞きに言ったのでしょう。

政府が永久国債を発行し、市場を通さずに中央銀行が直接買い取る事で、国債市場に影響を与えず公共事業を実施できる。

バーナンキは選択肢の一つとして説明し、それ以上踏み込んだ話にはならなかったという。


バーナンキは2016年に安倍首相と会談し、アベノミクスや金融緩和を続けるべきだと発言しました。

今まで出てきた永久国債とは、満期を定めない国債の事で、発行者(国)が求めない限り、償還しなくても良い。

その代わり永久に利子を払い続ける必要があるが、例えばゼロ%やマイナス金利で発行すれば、金利は払わずに済みます。


金利の付かない債権を買う人はいないが、中央銀行が買い取れば、事実上返済しなくて良い借金になります。

そのような国債は前例がないのかと思いきや、大和総研の資料では2014年に世界で2,278億ドル(約25兆円)も発行されています。

イギリスでは5000億円近い永久国債が発行されていて、200年以上前の国債が今でも塩漬けにされ続けています。

財務省の飼い犬とアヒル

日本でも年間数千億円の永久債が民間によって発行されているが、政府は永久国債発行に否定的です。

理由は日本では日銀の直接買い取りが禁止されているので、マイナスやゼロ金利では購入者が居ないと考えられる為です。

日銀の国債引き受け額は2019年末時点で国債発行額の約43%に達したが、最近は頭打ちになっている。


先ほど書いたように日銀の直接引き受けは禁止されているので、一旦市場で販売した国債を、日銀が買い取っています。

これを直接日銀が国から買い取っても、実質的に何も変わらないが、財務省が強く反対しています。

反対理由は表向き「財政の健全性が損なわれる」と言っていますが、要は自分の縄張りだから手を出すなという事です。


犬が近づいた人間に吼えるのと同じで、財務省の縄張りを守る為に吼えるのです。

例えば財務省と飼い犬たちは、ヘリコプターマネーで日本の信用が崩壊すると言っています。

この崩壊論は財務省に近い人ほど大好きな理論で、これを口にしたら「ああ財務省の飼い犬だな」と判断できます。


増税しないと日本崩壊する、金融緩和で日本崩壊する、アベノミクスで日本崩壊する、今度はヘリコプターマネーで日本崩壊すると言っています。

「ハルマゲドンが来る」と言っていた麻原彰晃やオウム幹部達と、彼らの理論がそっくりなのは気のせいでしょうか?

財政支出を増やすと国債が「金利1000%」になったり通貨は「1ドル1万円になる」などと言っています。


彼らの理論では財政を縮小するほど「日本の信用が高まり」財政が健全化するが、過去25年間その通りにした結果、日本経済は崩壊しました。

逆に日本の数倍の借金を抱えている中国とアメリカはまったく破産せず、日本より高成長を続けています。

日本の借金はアメリカや中国と同じ基準で計算するとGDP80%以下に過ぎず、逆にアメリカと中国はGDP比300%以上の借金を抱えています。

財務省と飼い犬たちはこういう本当の数字を突きつけると逃げ回り、「日本破綻」「日本崩壊」という言葉だけを、アヒルのように繰り返しています。


バーナンキの言う通り日本政府が永久国債をゼロ金利で発行し日銀が全額買い取ると、事実上日本政府の借金は消えてなくなります。


財務省が主張する日本の借金がGDP比200%だから財務省は威張れるが、借金ゼロになったら誰も財務官僚に敬意を払わなくなります。

そうなると財務官僚の権限が小さくなり天下り先がなくなり、彼らの金儲けができなくなります。


財務省事務次官経験者は退官した後銀行などに天下りし、年収数億円プラス数年ごとに十億円以上の退職金を受け取ります。

退官後の収入が数百億円にも達するそうで、結局財務官僚がやっているのは「自分の金儲け」です。
http://www.thutmosev.com/archives/63560735.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/636.html#c2

[近代史3] 人類進化史 中川隆
42. 中川隆[-13556] koaQ7Jey 2020年2月24日 13:44:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-70]

2020年02月24日
ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先と未知の人類系統との交雑
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_49.html


 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の共通祖先と遺伝学的に未知の人類系統との交雑の可能性を指摘した研究(Rogers et al., 2020)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。は、すでに昨年(2019年)6月、査読前に公開されていました(関連記事)。その時と内容は基本的に変わっていないようなので、今回は多少の変更点などを中心に簡単に取り上げます。

 本論文の要点は、現生人類(Homo sapiens)系統と分岐した後の、ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先である「ネアンデルソヴァン(neandersovan)」は、220万〜180万年前頃にネアンデルソヴァンおよび現生人類系統の共通祖先系統と分岐した「超古代系統」と分岐した、というものです。ネアンデルソヴァン系統におけるネアンデルタール人系統とデニソワ人系統の推定分岐年代は737000年前頃(査読前の論文では731000年前頃)で、その少し前にネアンデルソヴァン系統と現生人類系統が分岐したと推定されますから、その間にネアンデルソヴァン系統と超古代系統が交雑したことになります。本論文におけるネアンデルタール人系統とデニソワ人系統との推定分岐年代は、たとえば44万〜39万年前頃とする他の研究(関連記事)よりもずっと古くなりますが、これはネアンデルソヴァン系統と超古代系統の交雑のように、本論文が複雑な交雑を想定しているからではないか、と推測されています。

 ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡では、185万年前頃までさかのぼる人類の痕跡が確認されています(関連記事)。本論文は、人類の出アフリカは大別して3回あり、200万年前頃となる最初に超古代系統がアフリカからユーラシアへと拡散し、その後はアフリカの人類とは交流せず、80万〜70万年前頃となる2回目の出アフリカでネアンデルソヴァン系統がユーラシアへと拡散した超古代系統と交雑し、7万〜5万年前頃となる3回目に現生人類がユーラシアへと拡散した、と推測しています。もっとも、すでにゲノムが解析されている現生人類やネアンデルタール人やデニソワ人には遺伝的影響を残していない人類系統による、他の出アフリカもあっただろう、と考えられます。たとえば、中国北西部の212万年前頃の人類(関連記事)です。また、出アフリカ系現代人の主要な祖先ではない現生人類系統の出アフリカも20万年以上前から複数回あった、と推測されます(関連記事)。

 人口史については、超古代系統の有効人口規模は2万〜5万人と推定されており、ネアンデルタール人やデニソワ人よりも多かった、と推定されています。また、本論文の筆頭著者のロジャース(Alan R. Rogers)氏は、以前の研究(関連記事)では、ネアンデルタール人の人口は他の研究の推定よりかなり大きかった、と推定されていました。ネアンデルソヴァン系統は人口が減少し、ネアンデルタール人系統はデニソワ人系統との分岐後に人口が数万人規模まで増加していき、各地域集団に細分化されていった、というわけです。一方、他の研究では、ネアンデルソヴァン系統が現生人類系統と分岐した後、ネアンデルタール人系統もデニソワ人系統も人口がずっと減少していった、と推測されています(関連記事)。本論文は、クロアチアのネアンデルタール人の高品質なゲノム配列(関連記事)も対象とすることで、他の研究と近いネアンデルタール人の人口史を推定しています。

 本論文の課題の一つとして挙げられているのは、他の研究で提示されている遺伝学的に未知の古代系統の交雑など、人類史における複雑な交雑事象を踏まえて、どう整合的に解釈するのか、ということです。たとえば、現生人類およびネアンデルソヴァンの共通祖先と分岐した超古代系統がアフリカでアフリカ西部集団の祖先と交雑した、という最近の研究(関連記事)や、サハラ砂漠以南のアフリカ集団における未知の人類系統との交雑の可能性を指摘した研究(関連記事)です。ただ、後者の研究では、それが単一もしくは複数のアフリカの現生人類系統である可能性は除外されていません。また、早期現生人類がネアンデルタール人と交雑し、その後でネアンデルタール人と交雑した出アフリカ現生人類集団の一部がアフリカに「戻って来た」ので、現代アフリカ人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響は以前の推定よりずっと高い、という研究(関連記事)もあります。

 このように、人類史において異なる系統間の交雑は珍しくなかったようです。超古代系統とネアンデルソヴァン系統は、分岐してから120万年以上経過してから交雑したと推定されており、分岐してから100万年程度では、交雑の大きな障壁にはならないようです。ネアンデルタール人やデニソワ人と現生人類とは、分岐してから70万年ほど経過して交雑していますから、単純に時間経過だけを考えると、交雑はより容易だった、と言えそうです。もちろん、分岐してからの時間が短くとも、生殖隔離をもたらすような変異が蓄積される可能性もありますが。アザラシにおいても、現生人類とネアンデルタール人の場合よりも遺伝距離が2.5倍の種間で交雑が生じており(関連記事)、おそらく哺乳類において一般的に交雑は珍しくなく、それが進化の一因になったのでしょう。


参考文献:
Rogers AR, Harris NS, and Achenbach AA.(2020): Neanderthal-Denisovan ancestors interbred with a distantly related hominin. Science Advances, 6, 8, eaay5483.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aay5483

https://sicambre.at.webry.info/202002/article_49.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/581.html#c42

[近代史4] 岡山 真賀温泉 幕湯

岡山 真賀温泉 幕湯

メモ帳 _ これこそ本物の温泉
4投稿者:真賀温泉幕湯  投稿日:2006年04月04日(火) 00時40分15秒
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/395.html


真賀温泉 真賀温泉館|観光スポット 岡山観光WEB【公式】- 岡山県の観光・旅行情報ならココ!
https://www.okayama-kanko.jp/spot/11353


真賀温泉館 - 美作|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/mimasaka-onsen/onsen003670/


真賀温泉 真賀温泉館 - 秘境温泉 神秘の湯
地元で人気 肌に吸い付くヌルヌル湯
https://hikyou.jp/report/dayuse/60942/


真賀温泉「真賀温泉館」 | 元CAの混浴露天風呂体験記
https://www.food-travel.jp/okayama/magaonsen.html


▲△▽▼


真賀温泉館

源泉名:真賀温泉館源泉  
泉質:低張性アルカリ泉  
湧出量:205リットル/分

旭川沿い国道313号から階段を少し上がった所にある風情のある木造共同浴場「真賀温泉館」。

付近の温泉宿の湯元となっており、天然の岩風呂がある湯治場として古くから知られています。

岩の割れ目から湧き出す温泉を天然石で囲った浴槽は、男湯、女湯家族湯、幕湯に分かれており、底は天然の岩盤でできています。

岩盤に直接穴を空け、差し込んだ竹筒から流れ出る温泉は、風情満点です。

療養温泉としても有名で全国療養温泉番付(昭和55年発行暁教育図書(株))では、西の前頭3枚目にランクされています。

岡山県 真庭市 仲間

電話番号0867-62-2953


入浴料
大人150円/子供100円 
幕湯:大人250円/子供150円 
貸切:1000円/60分

利用時間
※6/1〜7/23まで改修工事に伴い休館 7/24〜 8:00〜21:00(受付20:30まで)

定休日
※6/1〜7/23休館 7/24〜火曜日(祝祭日除く)


地図
https://www.google.com/maps/place/%E7%9C%9F%E8%B3%80%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%A4%A8/@35.137683,133.7151,12z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x5058d296c5b958da!8m2!3d35.1376832!4d133.7150995?hl=ja
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/273.html

[近代史4] 岡山 真賀温泉 幕湯 中川隆
1. 中川隆[-13555] koaQ7Jey 2020年2月24日 14:25:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-69]

yajiさんの旅の道草 岡山 真賀温泉 幕湯・郷緑温泉





真賀温泉 幕湯 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%9C%9F%E8%B3%80%E6%B8%A9%E6%B3%89+%E5%B9%95%E6%B9%AF

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/273.html#c1
[近代史4] 大阪 犬鳴山温泉 山乃湯

大阪 犬鳴山温泉 山乃湯


メモ帳 _ これこそ本物の温泉
11投稿者:犬鳴山温泉山乃湯  投稿日:2006年04月04日(火) 01時03分12秒
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/395.html


こちらの湯はわずかに白濁しており、湯船に入るとツルツルの肌になる、まさに美人の湯。
犬鳴山温泉で本当の源泉に浸りたい方はここがおすすめ。


犬鳴山温泉 山乃湯 - 泉南|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/sennan-onsen/onsen003189/

「山乃湯」犬鳴山温泉・大阪府【源泉かけ流しどっとねっと】
http://www.gensenkakenagashi.net/kansai-higaeri/inunakiyamaonsen-yamanoyu.html


犬鳴山温泉 山乃湯へ行った感想!
https://oosakago.com/yamanoui-1151


▲△▽▼


犬鳴山温泉 山乃湯

大阪府泉佐野市大木2234

電話番号
湯元温泉荘 072-459-7015、
日帰り入浴 山乃湯 072-459-7515

URL
http://www.kankou-izumisano.jp/area/sankan/1268960220770.html


営業時間
日帰り入浴(山乃湯)10:00〜18:00

休日 無休

アクセス

車:阪和自動車道上之郷ICおりて10分ぐらい

電車・バス:JR「日根野駅」から南海バスで「犬鳴山」行に乗り、終点で降りて徒歩3分

南海「泉佐野駅」から南海バス「犬鳴山」行に乗り、終点で降りて徒歩3分

地図
https://www.google.com/maps/place/%E7%8A%AC%E9%B3%B4%E5%B1%B1%E6%B8%A9%E6%B3%89+%E5%B1%B1%E4%B9%83%E6%B9%AF/@34.34084,135.374617,16z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0xb43d06a68c180747!8m2!3d34.3408397!4d135.374617?hl=ja


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/274.html

[近代史4] 奈良 入乃波温泉 山鳩湯

奈良 入乃波温泉 山鳩湯


メモ帳 _ これこそ本物の温泉
14投稿者:入乃波温泉山鳩湯  投稿日:2006年04月04日(火) 01時14分53秒
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/395.html


奈良吉野 入之波温泉元湯 山鳩湯
http://www.yamabatoyu.yoshino.jp/


入之波温泉 山鳩湯|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|川上村|吉野路エリア|温泉|温泉・宿泊
http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/08onsen/01onsen/04south_area/yamabatoyu/


入之波温泉湯元 山鳩湯(しおのはおんせん) - 吉野|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/yoshino-onsen/onsen003368/


関西随一の奈良の名湯「入之波温泉 山鳩湯」|日本の秘湯
https://hitou-japan.com/onsen/yamabatoy/


奈良一の名湯(だと思う)入之波温泉『山鳩湯』 (by 奈良に住んでみました)
http://small-life.com/archives/07/12/1813.php


▲△▽▼


入之波温泉 山鳩湯

〒639-3611 吉野郡 川上村 入之波

TEL 0746-54-0262


営業時間

・日帰り入浴 10:00〜16:00受付 ※17:00閉店

・お泊り In 15:00 Out 10:00


休日

・11月〜3月末まで 火曜日・水曜日
※祭日・正月・連休は営業

・4月〜10月末まで 水曜日
※祭日・連休・お盆は営業

アクセス

電車・バス・車
近鉄八木駅、または大和上市駅よりバス利用湯盛温泉杉の湯下車、入之波行きバスに乗り換え終点下車(タクシーを利用する場合は要予約)

駐車場 12台


地図
https://www.google.com/maps/place/34°15'43.8%22N+136°02'26.2%22E/@34.262169,136.0384223,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d34.262169!4d136.040611



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/275.html

[近代史4] 雌阿寒 山の宿 野中温泉

雌阿寒 山の宿 野中温泉


山の宿 野中温泉:宿の特色 民営国民宿舎Webガイド
http://www.minkoku.com/yado/top.php?yado_id=7

山の宿 野中温泉 - ホーム Facebook
https://ja-jp.facebook.com/Nonakaonsen/


山の宿 野中温泉(旧 民営国民宿舎野中温泉別館) - 帯広|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/obihiro-onsen/onsen000197/

野中温泉ユースホステル(閉館しました) @nifty ONSEN
https://onsen.nifty.com/la-en/obihiro-onsen/onsen006211/


山の宿 野中温泉 [別館] 日帰り入浴 ★★★★
http://www.秘湯宿.com/%E4%BC%9A%E5%93%A1%E5%AE%BF%E4%BB%A5%E5%A4%96%E3%81%AE%E6%B8%A9%E6%B3%89%E5%AE%BF/hokkaido-nonakaonsen-bekkan/


▲△▽▼

「野中温泉」は日本百名山、雌阿寒岳山麓にある小さな温泉宿です。

以前は「別館」は国民宿舎、「本館」はユースホステルとして営業していましたが、

現在宿泊できるのは「別館」のみ、「本館」は日帰り入浴専門施設になりました。

すぐ隣にある「オンネトー温泉 景福」も2014年秋から休業しているので、

現在では「山の宿 野中温泉」が唯一の宿泊施設になってしまいました。

野中温泉から阿寒湖まで18キロと近いですが、

阿寒湖温泉の方は大型ホテルばかりで眺望は良くても湯遣いはイマイチ、

なので、泉質重視であれば断然、野中温泉の方に軍配があります。


▲△▽▼

【雌阿寒温泉 山の宿 野中温泉(別館)】基本情報

めあかんおんせん やまのやど のなかおんせん べっかん

住所:〒089-3964 北海道足寄郡足寄町茂足寄159

TEL:0156-29-7321

【日帰り入浴】
営業時間:9:00〜20:00退館
料金:大人350円 小人200円


【宿泊料金】
1泊2食付7,250円〜 お一人様〇 素泊まり〇 湯治対応△ 自炊△
*素泊まり4,800円 
湯治プラン5,250円(1月〜4月)3泊以上から 要問合せ

アクセス

◆車
道東自動車道「足寄IC」から国道241号線を阿寒湖〜道道664号をオンネトー方面へ、インターから50km、約1時間。

釧路空港から1時間20分、とかち帯広空港から2時間、千歳空港から3時間15分。

◆電車
JR根室本線「釧路駅」より阿寒湖畔行きバスで2時間、終点下車、タクシーで20分。送迎なし。

◆高速バス
札幌駅⇔釧路駅高速バスあり


地図
https://www.google.com/maps?ll=43.395275,143.983523&z=12&t=m&hl=ja&gl=JP&mapclient=embed&cid=14939504749839543578


▲△▽▼


北海道の男性、世界最高齢と認定 112歳野中正造さん 2018年4月10日
 ギネスワールドレコーズ社は10日、北海道足寄町の野中正造さん(112)を存命中の世界最高齢の男性と認定したと発表した。野中さんは2016年10月、国内最高齢男性となった。昨年8月、それまで世界最高齢と認定されていたイスラエル在住の男性=当時(113)=が亡くなり、ギネス社が調査を進めていた。

 野中さんは1905年(明治38年)7月25日、足寄村(現足寄町)生まれ。北海道・雌阿寒岳の麓で約100年続く旅館「野中温泉」の元経営者で、現在は自宅兼旅館で長男の妻、孫と暮らしている。車いす生活だが元気な様子で、新聞を読んだりテレビを見たりするのが毎日の習慣という。

(共同)


男性で国内最高齢の足寄町、野中正造さん(111)は、雌阿寒岳のふもとで約100年続く旅館「野中温泉」を支えてきた。足腰が衰えて車いす生活になった今も、時折温泉につかって体を温め、寒い冬を元気に過ごしている。

 野中さんは1905年7月25日生まれ。父増次郎さん(故人)は富山県から足寄町に入植し、13年に野中温泉を開湯した。長男の野中さんが経営を引き継いだが、温泉旅館だけでは生活できず、畑作や林業もしながら一家を支えた。

 現在は孫の祐子さんが旅館経営を引き継ぎ、ともに暮らす。猫3匹と犬2匹にも囲まれ、穏やかな日々だ。


十勝毎日新聞社ニュース
111歳 足寄の野中さん 男性国内最高齢に 2016年12月15日 14時01分


国内最高齢の男性となった野中さん。日課として新聞に目を通す(野中温泉別館で)

 足寄町茂足寄在住で、道内最高齢の野中正造(まさぞう)さん(111)が、国内最高齢の男性になったことが15日分かった。厚生労働省によると、これまで最高齢だった男性(112)が死去し、野中さんが男性長寿日本一となった。

 野中さんは1905(明治38)年7月25日生まれ。町内の野中温泉の創業者益次郎さんとキヨさんの長男として町上利別で生まれた。長年、畑作と兼業で同温泉を切り盛りしてきた。現在は同温泉で家族と暮らしている。道内では2013年から4年連続で男性最高齢になっている。

 厚労省によると、これまで男性最高齢だった東京都の吉田正光さんが10月29日、112歳で死去。都から同省に今月14日になって連絡があり、111歳の野中さんが最高齢になった。

 1日3回の食事をきちんと取り、新聞も毎日読むという野中さんは「長生きは温泉のおかげ。今後も時折湯につかり、元気に暮らしていきたい」と話した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E9%80%A0

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/276.html

[近代史4] 群馬 万座温泉 豊国館

群馬 万座温泉 豊国館


メモ帳 _ これこそ本物の温泉
81投稿者:万座温泉豊国館  投稿日:2006年04月06日(木) 15時33分05秒
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/395.html

冬の信州の高原に行こう _ 万座温泉スキー場
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/780.html#c38  


▲△▽▼


万座温泉の旅館 豊国館 トップページ
http://www.houkokukan.com/


豊国館(ほうこくかん) - 万座|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/manza-onsen/onsen001309/


万座温泉 豊国館 - 秘境温泉 神秘の湯
日本一の濃厚硫黄泉と雄大な景色を堪能できる露天風呂
https://hikyou.jp/report/dayuse/49710/

▲△▽▼

万座温泉 豊国館

群馬県 吾妻郡 嬬恋村 大字 千俣 万座温泉2401

電話0279-97-2525

入浴料:おとな500円  こども300円

営業時間・期間 8:00〜18:00

休業日 無休


アクセス

電車・バス・車

JR吾妻線万座・鹿沢口駅から西武高原バス万座温泉方面行きで45分、高原ロッジ前下車、徒歩5分

上信越道碓井軽井沢IC(有料)→鬼押し出しハイウェイ(有料)→万座ハイウェイ(有料)


地図
https://www.google.com/maps/place/36%C2%B038'07.2%22N+138%C2%B030'29.0%22E/@36.635321,138.5058603,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d36.635321!4d138.508049
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/277.html

[近代史4] 中川隆 _ 日本の湯治文化関係投稿リンク 中川隆
4. 中川隆[-13550] koaQ7Jey 2020年2月24日 16:36:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-64]

雌阿寒 山の宿 野中温泉
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/276.html

栃尾又温泉 (放射能泉)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/246.html

群馬 万座温泉 豊国館
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/277.html

箱根 姥子温泉 秀明館 (眼に効く温泉)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/269.html

増富ラジウム温泉 不老閣 (放射能泉)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/247.html

長野 毒沢鉱泉 神乃湯
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/263.html

湯の島ローソク温泉 (放射能泉)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/248.html

大阪 山空海温泉
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/272.html

奈良 入乃波温泉 山鳩湯
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/275.html

岡山 真賀温泉 幕湯
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/273.html



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/123.html#c4

[昼休み53] 関西の名曲喫茶・ジャズ喫茶 中川隆
12. 中川隆[-13547] koaQ7Jey 2020年2月24日 16:42:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-61]

湯の島ローソク温泉 (放射能泉)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/248.html
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/381.html#c12
[番外地7] 中国は共産国家ではない 中川隆
1. 中川隆[-13535] koaQ7Jey 2020年2月24日 17:08:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-49]
水島さんは完全に勘違いしているけど、中国人は共産主義者でも唯物論でもないよ、
そもそも共産主義国には、現在の中国みたいな階級も極端な貧富の差は存在しないからね。
中国人は正統派の儒教者だよ

●中国・kankoku は儒教国。儒教は徳治主義。

●徳治主義は「徳のある」人には「良い結果」が訪れるという理屈。 ●もしもお金を騙し取られた場合、騙されたのは「徳が無い」からとなる。

●もしもお金を騙し取り、うまく逃げおうせたら、それは「徳がある」から、お金を手に入れたとなる。

●よって騙されるより、嘘をついて騙す方が得。嘘がバレたらケンチャナヨ(まぁいいか)となる。

●嘘をつくというよりは、嘘のハードルが低い。
徳治主義について中国・kankoku は儒教の国です。儒教は徳治主義です。徳治主義というのは「徳のある人が統治者になると国が栄える」というものです。これは統治者に関わらず、国民全体に浸透しています。よって中国・kankoku ではこの徳治主義が倫理の基礎となっています。 それで庶民にとっての徳治主義をというのは、何か良い結果があれば、それはその人に徳があったからということになります。逆に悪い結果があれば、その人に徳がない、つまり、悪い人であるか、もしくはバカということになります。
この理屈をよく覚えておいてください。

騙す人と騙される人はどちらが悪いかさて。
ここで問題です。 Aさんがいます。 このAさんが、騙されてBさんにお金を取られたとします。
このとき、AさんとBさんはどちらが悪いでしょうか?普通の国ならBさんが悪い 普通の国ならノータイムで悪いのはBさんになります。
Bさんが騙しているからです。 事実と異なることを言って、誤解させてお金をせしめているからです。Bさんが嘘をついているから、Aさんは悪くないということです。 まぁ、場合によっては、「よくそんな嘘に騙されたな」ということもありますが、ほとんどの法治国家ではAさんに非は無く、Bさんの犯罪ということになります。
儒教の徳治主義に照らすとAさんが悪い でも儒教ではそう簡単にはいきません。 「悪い結果があったのは、その人に徳がないから」

という原則があるからです。 この原則に照らすと、Aさんが悪くなります。
お金を騙し取られるという「悪い結果」が起きたのはAさんに徳が無いからです。
騙す人の論理ではBさんの側で考えてみましょう。

Bさんは普通の国では問答無用で「悪い」のですが、儒教では「嘘をついた時点で悪」というわけではありません。儒教では警察に捕まるなどしないと、「悪い結果」と受け取られません。もしも、うまく逃げおうせたら、単に「BさんがAさんのお金を手に入れた」というBさんにとって「良い結果」だけとなり、なぜBさんがお金を手に入れることが出来たのかというと、それはBさんに徳があるからということになります。つまりBさんはうまくやった立派な人であり、徳のある正しい人となります。

無論、中国・kankoku 以外の国では警察に捕まろうと捕まらなくとも嘘をついた時点で「悪人」なのですが、儒教ではこういった結論と成ります。バレなければOK。バレたらケンチャナヨ精神です。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/488.html#c1

[リバイバル3] 天才料理長を失った嵐山_吉兆と雲仙_半水盧のその後 中川隆
13. 中川隆[-13534] koaQ7Jey 2020年2月24日 17:53:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-48]

日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男
枯山水庭園と簡素化、そして夜の美学
https://www.aichi-kyosai.or.jp/service/culture/internet/art/antique/antique_5/post_968.html


 今回は日本の庭園、特に枯山水という独特の庭園様式と銀閣寺の独自性、そして能楽について書いてみたい。

 枯れた山水とは何か?山水とは自然の山とそこに流れる川をいうのであるから、水が枯れていたのでは話にならないではないかと思われるであろう。大自然の雄大さを自分の庭に持ち込もうとした試みがその背景にあることは言うまでもないが、大自然を小さな庭にそのまま持ち込むことは、対象が広大すぎて不可能なことである。そこで小さい世界に縮める、すなわち縮小する、ミニチュア化することからはじまる。それはまた省略の歴史そのものでもある。余計なものは省く。簡略化する。水の代わりに白い砂が使われる。盆栽のルーツは中国で、それが平安時代に日本に伝わったとされる。まさに一遍上人の国宝の絵伝の「筑前の国の武士の館」の縁側に見られる盆栽が資料性の高い初現ではないか。それは次第に愛好者を増やしてゆくが、ある意味で「省略、簡略」化の日本の美学の歴史にも沿っており、広大な自然を一幅の絵に描いた雪舟の色を省略した白黒の世界である水墨画にもその傾向は顕著である。

 「能」は足利義満の時代に、世阿弥が大成した世界である。能の最もすばらしいところは、その省略性にある。舞台には最小限の小鼓、大鼓、笛、謡いが静かなたたずまいで控え、正面には松の絵が見えるのみである。小道具が時々使われるが、それはもう最小限の「かたち」を示す程度でしかない。能を鑑賞する側からみると、面(おもて)の中で発せられる謡は聞きにくく、意味すら判じにくい。事前の勉強が必要、いや当時の観る側、すなわち貴族はそうした知識を教養として身に付けておかねばならなかった。吉野が舞台で、桜が散っているとシテが謡えば、吉野山の風景が眼に浮かび、そこにある古桜の花びらが風に舞っている有様を想像しなければいけない。そのように能はあらゆる意味において、最高の教養と体験、最もふさわしい場を自分の脳裏に描き出し、作者の言わんとする核心を即座に理解しないといけないのだ。省略という点において「能」はその究極といえる。庭も同じだ。有名な「竜安寺石庭」。


観る者の心のありようによって見方が変化する石の庭園

 この庭に配置されたそれぞれの石は「どうだ、おまえはこれをみて何を思うか?」そう問いかける。見る者によってそれぞれの心に浮かぶ想いが異なる。禅問答のようであるが、素直に感じればいい。絶対的に正しい答えなどない。海に浮かぶ島のようだ・・とか、雲の合間に顔を出す山の頂きのようであるとか、宇宙に広がる空間に浮かぶ星々のようだとか、何でもいい。その観る者の過ごしてきた人生経験の世界と想像、観念の世界がそこに表現される。「絶対の答え」ということなど存在しない、個人によってその人生もそれぞれ違うように、その感じ方も大きく違う。その振幅の幅が禅的世界観とも、芸術感覚ともいえる。さらに哲学ともいえるのである。であるから禅の世界には芸術家が生まれやすい土壌が形成される。日本の芸術、美術の奥深さ、すごさはこうした世界に類例のない省略の世界観を室町という時代に創り上げたことだ。もちろんそこには仏教という大きな思想的世界が背景にあることはいうまでもない。

 外国のオペラや劇には大道具、小道具はひしめいて、演出者の世界を観る者に解りやすく、具体的に、より現実的に示そうと試みる。それが演出だ。ところが日本の能では「演出者」は観る者自身なのだ。日本の室町の能のように、省略に徹した芸術は海外には存在しない。

 生け花、すなわち華道も自然の花を室内に持ち込むことにおいては同じ発想の流れにある。自然をひとつの小さな世界の中に閉じ込めること、すなわち都会で田舎の大自然を楽しもうということは、そうした省略の方向づけがなされてはじめて大きな花の咲く空間が部屋の一隅に集約される。料理も建築も同じだ。

 足利義満の時代のいわゆる「北山文化」の歴史的特徴としては、中国文化、とりわけ禅宗の影響を強く受けたことがあげられる。鎌倉時代から武士を中心に新しい宗教として信仰されてきた内向的な禅宗は、次第に日本の文化や芸術の中に溶け込み、その担い手は武士から庶民、町人に広く浸透して行くこととなった。

 村田珠光、利休とその茶の師である武野紹鴎などによる侘び茶の展開も禅宗の影響が大きく影を落としている。さらに茶道の中に禅宗的な庭が取り込まれ、その簡素さ、精神性、枯淡美を取り入れるなど、後の侘び茶道の方向性に極めて強い影響を与えたと考えられる。

 同じ室町時代に作られた金閣寺と銀閣寺にも大きな意味、象徴性が隠されている。金と銀、太陽と月、昼と夜、明暗、陰陽など、日本文化は常に2つの世界の対比、すなわち二元論的世界観が基本になっている。金はもとより宝であり、冨の象徴であり、精神的には阿弥陀浄土の色彩である。反面、銀は渋く、それでいて高貴な色彩をおび、いぶし銀という言葉に代表されるような、渋く控えめな光沢を持っている。金を代表する建築物が金閣寺で、銀を代表する建築物が銀閣寺である。ところが金閣寺には金が貼られ、黄金色に輝いているが、銀閣寺には銀はどこにも貼られていない。木造の単なる書院造り。義政に銀を貼る財力がなくなったからだとかの理由がまことしやかに伝えられたが、銀閣には元々銀が貼られる予定はなかった。それは何故かというと、銀閣は銀、すなわち月の光、夜を象徴する寺だからである。門を入ると、銀閣の手前に白い盛り砂の「銀沙灘(ぎんさだん)」がある。そして銀閣と銀沙灘の間に向月台がある。この向月台の形は円錐型の上三分の一を横に切り取った形をしている。


銀沙灘 向月台 そして銀閣を望む

 そして銀閣を背にして立つと、前には池が広がっている。銀閣の正面には東山がひかえ、夕闇が迫り、暗黒の世界が出現するとそこから月がのぼり始める。銀閣は月の出に真正面に向いている。実はこれからが銀閣の世界なのである。

 こうした月夜に足利義政は銀閣の二階に上り、庭を見下ろす位置に立つ。右下に実際の池が東山からのぼった月を映してキラキラ輝いている。左に目を転じると、月の光に照らされた銀沙灘があたかも大海のように照らし出されているのが見える。その手前には円錐型の上面に月の光が反射して、架空満月を演出している。義政のいる銀閣の上から観ると「実」と「虚」の対比世界が巧妙に演出されて見えるのである。まさに日本美術史上かつてない新しい試みの世界が足利義政によってつくり出されたのである。


筆者による想像のイラスト・義政の観た銀閣の不思議な「虚」と「実」の世界

 その美学は後に小堀遠州等によって「桂離宮」の観月台に引き継がれるが、しかし銀閣は単なる月見を楽しむ場所ではない。義政は応仁の乱の時でさえ、この銀閣にこもっていたという。義政の父は足利六代将軍義教(よしのり)で、赤松満祐に嘉吉の変で暗殺された。義教は信長の手本となった人物ともいわれ、恐怖政治ともいえる強権をふるいすぎた末の暗殺であった。下克上の世の始まりである。その義教の子が義政である。義政の将軍就任以後、天下は乱れ、応仁の乱が勃発する。その全国を二分する大乱の中で義政は銀閣に閉じこもった。政治的には無能と言われる義政であるが、そうせざるを得なかった義政の気持ちは理解できる。将軍という権力のむなしさを彼はまさに実感していたに違いない。「虚」と「実」を見極める場、「空」すなわち、うつろう実相の中において哲学的に「実」は「虚」ではないのか、さらにそこから「生」と「死」を考えたのではないだろうか。私にはそう思えてならない。

 この虚と実の対比、対立が抽象とか象徴という概念を生みだすことにつながってゆく。熟した自由な見方、自由な考え方、その自由な組み合わせと対比・・・そこにこそ次なる芸術の飛躍が待っている。

https://www.aichi-kyosai.or.jp/service/culture/internet/art/antique/antique_5/post_968.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/276.html#c13

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
29. 中川隆[-13533] koaQ7Jey 2020年2月24日 23:30:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-46]
国家がリスクを取らないと東京オリンピックは危ない 2020 FEB 24 by 東 賢太郎

みんな総力をあげて必死に戦っている。どこかで聞き覚えた声明だ。

1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦。霞が関の海軍省・軍令部では祝杯の準備をして戦勝報告を待っていたが、飛び込んできたのは空母4隻を失う予想外の知らせだった。開戦以来初めてとなる大敗に直面し、これをどう発表するかをめぐる調整は難航を極めたという。報道部は「空母2隻沈没、1隻大破、1隻小破」とする発表文を起案したが、作戦部が猛反対した。3日後に発表された味方の損害は「空母1隻喪失、1隻大破、巡洋艦1隻大破」に減らされた。一方で、敵の損害は「空母1隻の大破」が「2隻撃沈」に水増しされ、「沈めた空母の数で日本の勝ち」と発表された。


新型コロナウィルスに関する大本営発表が出ないことを願うが、そもそも英国籍で米国がオペレートしイタリア人が船長で多数国籍の船員という条件下で船員の管轄権がどこまで日本にあり、ことばと文化の差を御してどこまで乗務員の指導と船内隔離ができていたのか?報道は乗客の検査情報ばかりで、船長や乗務員は石ころのごとしで顔も肉声も健康状態もほとんど知らされない。僕は2度クルーズ船に乗ったが、乗客同士の感染よりも「かくれ陽性」の乗務員が懸命に職務を履行するあまりに「善意で」多数の乗客と濃厚接触してしまったことを疑う。
それを防ごうとすれば乗客への食糧や薬の配布などライフラインが脅かされるのだから、防ぐ敵は病死か餓死かの選択であり、誰が見てもやむなしの判断だったのではないかと推察する。そう国民に情報開示すればいいのだ。国民が「清潔、不潔ルート」写真でごまかせると思ったのか副大臣のご真意は不明だが、たぶん政治家はネット民を甘く見ているだろう。違う。稚拙な書き込みであろうと不特定多数の閲覧で精度が徐々に増し、炎上すればするほど「集合知」になってどんどん真相に接近していく。
厚労省は水際対策はもう放棄し、パンデミック防御策に移行するのだろう。しかし、水際対策は僕が1月31日のブログにこう書いた時点で、もう終わっていたのである。
武漢から帰国便で2名の無発症キャリア(不顕性感染者)が見つかってしまった時点で、国境での検疫防御がワークしていなかったことが発覚したわけである。封鎖前の武漢市から脱出した中国人は500万人で脱出先のうち成田は3番目に多い9000人だそうだ。不顕性感染者はその2名の発覚以前に中国人旅行者としてたくさん入国してしまっていた高い可能性がある。実はもう騒いでも遅いのだ。
中国人の9000人は忘れても、「無発症キャリア(不顕性感染者=かくれ陽性)がいるウィルスなのだ」という事実が発覚したこの時点で、人・人感染の有無はわかっていなかったが、敵が何者かよくわかっていない非常時の水際対策というのは最悪の事態を前提にしないと意味ない。ということは「人を見たらウィルスと思え」という事態が来ることは確実とすべきだったのだ。武漢帰国者の14日隔離のデータから疫学的エビデンスが得られたそうだが、ホテル三日月の日本人従業員と船の管轄下にない多国籍船員の接触条件が等価でなければエビデンスは無意味だ。その意味で「不潔ルート」写真はオウンゴールであった。
中国は全人代を延期する。これはこのウィルスの正体を察知したかの如き決然たる厳戒態勢、非常事態宣言だ。呼応するように韓国も最高度のレベル4になった。潜伏期が24日、エアロゾル感染がある、ウィルスが尿と便にも出るという説も聞こえ始め、「人を見なくてもウィルスがいると思え」となる収拾不能な事態すらあり得る。日本の対応はあの程度で大丈夫かと武漢に閉鎖されている一般住民に心配されているらしい。ここで、国は地公体、個人まかせでなく国家として毅然とした、リスクを取った、国民も外国も納得するような手を打たないと、仮に8月までにピークアウトしたとしても東京オリンピックは危ないと思料する。全国民への喫緊の課題は検査試薬の導入、増量だろう。陽性と知った所で薬はなく自分で治すしかないのだが、特定して隔離することで拡散は抑えられ収拾不能な事態は回避できる。ぜひお願いしたい。

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2020/02/24/国家がリスクを取らないと東京オリンピックは危/
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c29

[近代史4] 島根 温泉津温泉 元湯泉薬湯

島根 温泉津温泉 元湯泉薬湯


癌に効く温泉・・アトピーに効く温泉
19. 2011年3月26日 2) 温泉津(ゆのつ)温泉 元湯 (泉薬湯)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/357.html



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/278.html

[近代史4] 中川隆 _ 日本の湯治文化関係投稿リンク 中川隆
5. 中川隆[-13532] koaQ7Jey 2020年2月24日 23:58:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-45]

島根 温泉津温泉 元湯泉薬湯
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/278.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/123.html#c5
[近代史4] 然別峡かんの温泉

然別峡かんの温泉


然別峡かんの温泉 復活
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/572.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/279.html

[近代史4] 幌加温泉 鹿の谷

幌加温泉 鹿の谷


メモ帳 _ これこそ本物の温泉
533投稿者:幌加温泉_鹿の谷  投稿日:2006年08月18日(金) 15時13分52秒
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/395.html


幌加温泉 鹿の谷 - 帯広|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/obihiro-onsen/onsen007763/


北海道幌加温泉【鹿の谷】いま最も行っておきたい自炊湯治宿 おふろどっとこむ
https://おふろ.com/kanoya/


上士幌 秘湯 自噴の幌加温泉 混浴温泉「鹿の家(かのや) No.1」昭和21年(1945年)開業
https://ameblo.jp/taka-to-tonbi/entry-12433053094.html


幌加温泉「湯元 鹿の谷」 | 元CAの混浴露天風呂体験記
https://www.food-travel.jp/hokkaido/horokaonsen.html


スケールデカすぎ!幌加温泉 湯元 鹿の谷 - 癒しの温泉
http://ururu1111226.blog.fc2.com/blog-entry-1389.html


2019-10 秋の北海道をタンノー (3)幌加温泉鹿の谷旅館の湯をじっくりと
http://achikochi.takema.net/kokunai7/2019_10hokkaido/2019_10_hokkaido2.html

▲△▽▼


北海道 河東郡 上士幌町 幌加 番外地

電話 01564-2-2163


アクセス

電車・バス・車

JR帯広駅よりバス利用(110分)、幌加温泉下車、徒歩10分
道東自動車道 音更帯広ICより国道241号線を北上し、上士幌より国道273号線で糠平へ。糠平湖を過ぎると看板あり、左折して2km


地図
https://www.google.com/maps/place/43%C2%B028'05.2%22N+143%C2%B007'15.6%22E/@43.468096,143.1188135,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d43.468096!4d143.1210022
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/280.html

[近代史4] 中川隆 _ 日本の湯治文化関係投稿リンク 中川隆
6. 中川隆[-13529] koaQ7Jey 2020年2月25日 00:55:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-42]

北海道 幌加温泉 鹿の谷
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/280.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/123.html#c6
[近代史4] 群馬 草津温泉

群馬 草津温泉


車中泊向けの軽バン、ホンダ「N-VAN」の実用度
42.中川隆 2018年7月25日 ◆草津温泉ー車中泊者専用スレ◆
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/865.html#c42
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/281.html

[近代史4] 中川隆 _ 日本の湯治文化関係投稿リンク 中川隆
7. 中川隆[-13525] koaQ7Jey 2020年2月25日 05:02:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-38]

群馬 草津温泉
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/281.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/123.html#c7
[近代史4] 群馬 宝川温泉 汪泉閣

群馬 宝川温泉 汪泉閣

廃墟と化した水上温泉
41.中川隆 2017年6月17日 宝川温泉汪泉閣 DVD 2012 英語版
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/624.html#c41

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/282.html

[近代史4] 神奈川 厚木七沢温泉 かぶと湯温泉 「山水楼」

神奈川 厚木七沢温泉 かぶと湯温泉 「山水楼」


恐怖の強アルカリ泉 厚木七沢温泉 _ 入ればお肌つるんつるんになるんだけど…
2. かぶと湯温泉「山水楼」
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/304.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/283.html

[近代史4] 群馬 伊香保温泉

群馬 伊香保温泉


あの名画の舞台となった伊香保温泉は今…
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/355.html

あの名画の舞台となった伊香保温泉は今… _2
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/356.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/284.html

[近代史4] 長野 七味温泉 紅葉館

長野 七味温泉 紅葉館

温泉へ行こう _ 長野県 七味温泉 紅葉館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/500.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/285.html

[近代史4] 弟子屈町 湯治の宿 開紘

弟子屈町 湯治の宿 開紘


弟子屈町 湯治の宿 開紘 _ ここが川湯温泉で最高泉質?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/563.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/286.html

[近代史4] 栃木 那須温泉郷 北温泉旅館

栃木 那須温泉郷 北温泉旅館


『見張りの湯』 から玉川源流へ
01. 中川隆 2012年12月23日 1. つげ義春の世界 那須温泉郷 北温泉旅館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/314.html#c1
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/287.html

[近代史4] 中川隆 _ 日本の湯治文化関係投稿リンク 中川隆
8. 中川隆[-13522] koaQ7Jey 2020年2月25日 05:34:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-35]

栃木 那須温泉郷 北温泉旅館
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/287.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/123.html#c8
[近代史4] 長野 高山村 山田温泉

長野 高山村 山田温泉

雪の中の湯治場  北信濃 山田温泉
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/920.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/288.html

[近代史4] 栃木 那須湯本温泉 雲海閣
栃木 那須湯本温泉 雲海閣

メモ帳 _ これこそ本物の温泉
763投稿者:那須湯本温泉  投稿日:2007年03月25日(日) 10時58分06秒
764投稿者:那須湯本雲海閣  投稿日:2007年03月25日(日) 11時14分54秒
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/395.html


雲海閣 施設を探す|那須高原・那須温泉のお宿|那須温泉旅館協同組合|栃木県
http://www.nasuonsen.com/search/detail.php?no=11


旅館 雲海閣(うんかいかく) - 那須|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/nasu-onsen/onsen006265/


那須湯本温泉 雲海閣 - 秘境温泉 神秘の湯
ボロボロの宿ですがいいですか?と確認が入る鄙び系宿
https://hikyou.jp/report/stay/49283/


驚きのボロ宿 那須湯本温泉 雲海閣に宿泊 魅せる登山と温泉記録
https://wotcool.com/onsen-review/nasu-unkai-kaku/


那須で見つけた!文豪ゆかりの湯治宿【雲海閣】
http://yutty.jp/archives/nasu-unkaikaku/

▲△▽▼

那須湯本温泉 雲海閣

栃木県 那須郡 那須町 湯本33

電話 0287-76-2016


アクセス

電車・バス・車

黒磯駅よりバス利用35分
東北自動車道 那須ICより那須街道で那須湯本へ

駐車場 10台


地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E9%9B%B2%E6%B5%B7%E9%96%A3/@37.0939976,140.001794,15z/data=!4m8!3m7!1s0x0:0xe83255d67b0f0970!5m2!4m1!1i2!8m2!3d37.0939976!4d140.001794?hl=ja

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/289.html

[近代史4] 山形 銀山温泉


山形 銀山温泉

あの名画の舞台となった銀山温泉は今…
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/351.html


銀山温泉 〜 大正浪漫の郷愁を感じるノスタルジックな町並み 〜
http://www.ginzanonsen.jp/index.html


銀山温泉

山形県 尾花沢市 大字 銀山 新畑


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/290.html

[近代史4] 山梨 正徳寺温泉 初花

山梨 正徳寺温泉 初花


メモ帳 _ これこそ本物の温泉
444投稿者:正徳寺温泉_初花  投稿日:2006年08月13日(日) 23時59分11秒
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/395.html


山梨の日帰り温泉【正徳寺温泉 初花】公式HP
https://hatsuhana.info/


正徳寺温泉初花 - 甲府|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/koufu-onsen/onsen002102/


山梨にもあったモール泉!正徳寺温泉「初花」で自慢の湯と鰻に大感動
https://www.travel.co.jp/guide/article/14346/


正徳寺温泉 初花 - 温泉逍遥
https://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/665860b5ed0b04bcdfc91c0b62c8df09


▲△▽▼

天国に一番近い温泉

「初花」には、東京から毎月通っている。先週に続いて本日もお世話になってしまった。
ここの源泉浴槽に入るたびに「幸せなお湯だなぁ」と思う。微温湯なので、いつも長湯になってしまうが、「温泉の質が素晴らしいから長湯する」といったほうが適切かもしれない。

モール臭を含む、ヌルヌルした肌触りの柔らかいお湯。成分が薄いので、強い刺激を求めるような対象ではない。

高い天井に、露天まで見通しのよい明るい浴室。 露天には、別源泉の鉱泉を使用した水風呂とサウナまであり、鉱泉の質も高い。
湯上りには食事処で「初花湯の花御膳」を頼むことが多い。お米以外はたいへん美味い。とくに、温泉湯豆腐、鰻、デザート。

和風の品のいい建屋といい、周りの環境のよさといい、大人の隠れ家的な満足感を与えてくれる日帰り温泉施設は、ここだけかもしれない。
http://hiro33.cocolog-nifty.com/ichiyu/2005/06/post_d499.html

▲△▽▼

正徳寺温泉初花

山梨県山梨市正徳寺1093-1

電話 0553-22-6377


入浴料:
【一浴3時間】
大人700円 子供(0才-小学生)400円

【延長料金(30分毎)】
大人200円  子供(0才-小学生)100円
※一浴(3時間)にお食事をして頂きますと30分延長サービスいたします。

【1日休憩(大広間)】
大人1.400円 子供(0才-小学生)800円

【個室休憩3時間】
大人700円 子供(0才-小学生)400円

【個室休憩6時間】
大人1.400円 子供(0才-小学生)800円

【個室料金】
6畳3.000円 8畳4.000円 12畳5.000円
[(個室休憩料×ご利用人数)+個室利用料]がかかります。


営業時間・期間 10:00〜21:30

休業日 木曜

アクセス

電車・バス・車

山梨市駅または春日居町駅よりタクシー約5分
中央自動車道一宮御坂ICから20分


駐車場 80台(無料)

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%AD%A3%E5%BE%B3%E5%AF%BA%E6%B8%A9%E6%B3%89+%E5%88%9D%E8%8A%B1/@35.680623,138.6651401,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0xddb3c81ff81a33c7?sa=X&hl=ja&ved=2ahUKEwj6gMSjkevnAhVP_GEKHeMYD1cQ_BIwCXoECB4QCA
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/291.html

[近代史4] 山梨 奈良田温泉 白根館

山梨 奈良田温泉 白根館

癌に効く温泉・・アトピーに効く温泉
山梨の温泉2 失われた七不思議の湯 _ 甲信越でNo.1の泉質を誇った奈良田温泉白根館だったけど…
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/357.html#c46


西山温泉 慶雲館は悪い _ 白根館「七不思議の湯」が枯渇した理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/598.html

奈良田温泉・白根館ホームページ
http://www.nukuyu.com/shiranekan/


日本秘湯を守る会 公式Webサイト|奈良田温泉・白根館のご紹介・宿泊予約
https://www.hitou.or.jp/hymbrrsv/hymbr_pg01.html?yc=ys126


白根館 - 南アルプス山麓|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/minamiarupususanroku-onsen/onsen002155/


奈良田温泉 白根館 - 秘境温泉 神秘の湯
https://hikyou.jp/report/stay/49535/


山梨県の秘湯ナンバーワン! 七不思議の湯 奈良田温泉 白根館へ行ってきました!
http://onseneri.com/log/606/


▲△▽▼


奈良田温泉 白根館 のお湯は素晴らしいです! 2003/05頃に訪問

秘湯を守る会のスタンプ帳をここで埋めたことがあるくらい惚れ込んでいます。

10年ほど前から宿泊/立ち寄りをしています。

塩原元湯の大出館ほどではありませんが,喉に刺激を感じる匂いがします。お湯は硫黄臭で少し塩味があります。(自分的には美味しいです♪なので,朝食に出てくる温泉のお粥は美味しいと思います)

湯温は関東人にとっては「ぬるめ」に入ると思います。

手前の西山温泉の慶雲館が新たに温泉を掘り当ててからほどなく,「七不思議の湯」と「銀河の湯」のうちの「七不思議の湯」が枯渇してしまい,「銀河の湯」を「七不思議の湯」と改名して現在に至っています。

ちなみに,西山温泉の蓬莱館のお湯は湯温が下がって加温しなくてはならなくなり,グミのような丸くてオレンジ色の不思議な湯花?はペラペラな粕状態になってしまいました。
http://www.hikyou.jp/detail.php?shid=30273


▲△▽▼


白根館 令和2年3月からの営業変更のお知らせ

昭和37年開業以来お引き立て賜りましたが、諸般の事情により2月末をもって宿泊業務を終了とさせていただきます

3月4日から日帰り温泉として営業を続ける所存ですので旧倍のご支援ご協力を賜りますようお願い申し上げます


3月4日からの日帰り温泉営業のご案内

☆営業時間 10:30〜16:00まで (最終受付は15:30〆)

☆休館日 不定期にて休館日がありますので、お電話または※ホームページにてご確認ください


「部屋は貸してくれるの?
休憩はいくら?お昼ご飯は〜?
素泊まりはできる?

たくさんのお問い合わせを頂いて大変うれしい限りです!!
しかしながら、遠方よりお越しいただくお客様に、人手がないまま無理なサービスは、かえってご迷惑をおかけすることになってしまうため、

しばらくの間入浴のみの営業とさせていただきます。

一つ一つ諸々の問題が解決でき次第サービスの向上に努めてまいりますので、どうかご理解賜りますようお願い申し上げます。  【白根館 館主】



▲△▽▼


 〒409-2701 山梨県南巨摩郡早川町奈良田344

 電話番号 0556-48-2711 (AM9:00〜PM8:00 時間外は留守電)

 予約専用フリーダイアル
 (東京・神奈川・静岡・千葉・埼玉・長野・山梨・愛知)
 0120-48-2711 (AM9:00〜PM8:00 時間外は留守電)

( 当館は静寂と温泉だけが取り得の山奥の小さな宿です。
よって、団体様のご利用はご遠慮願っております。 )

−兄弟館【源氏の湯】閉館のご案内−   

ひと山越えた源氏山の麓、大自然に囲まれた白根館別館源氏の湯は、令和元年9月末日をもって閉館いたしました。

長い間ご愛顧いただき誠にありがとうございました。
http://www.nukuyu.com/shiranekan/

▲△▽▼

アクセス

電車・バス・車

(1)身延駅からバスで90分(奈良田下車徒歩5分)
(2)下部温泉駅からバスで70分(奈良田下車徒歩5分)
(3)甲府南ICから車で100分
(4)新清水ICから車で120分

JR身延線・身延駅から路線バス・山梨交通バス奈良田行きで約100分・終点下車

甲府南I.C.(笛吹ライン〜富士川大橋経由)―国道52号―南アルプス街道―奈良田/白根I.C.―国道52号―南アルプス街道―奈良田/河口湖I.C.―国道139号―国道300号―南アルプス街道―奈良田/御殿場I.C.―東富士五湖道路―国道139号―国道300号―南アルプス街道―奈良田/富士I.C.―国道1号―富士川身延線―国道52号―南アルプス街道―奈良田/清水I.C.―国道1号―国道52号―南アルプス街道―奈良田


駐車場 15台(無料)


地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%94%B0%E6%B8%A9%E6%B3%89+%E7%99%BD%E6%A0%B9%E9%A4%A8/@35.5766446,138.3002061,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0xc188439c178ec838?sa=X&hl=ja&ved=2ahUKEwig8LD-l-vnAhWHwZQKHS54ASAQ_BIwCXoECBkQCA
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/292.html

[近代史4] 中川隆 _ 日本の湯治文化関係投稿リンク 中川隆
9. 中川隆[-13517] koaQ7Jey 2020年2月25日 07:18:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-30]

山梨 奈良田温泉 白根館
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/292.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/123.html#c9
[近代史4] 群馬 大塚温泉

群馬 大塚温泉


群馬県 大塚温泉 _ 何時間でも続けてずっと浸かっていられるのが本物の湯治温泉
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/326.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/293.html

[近代史4] 青森 蔦温泉旅館
青森 蔦温泉旅館  

メモ帳 _ これこそ本物の温泉
427投稿者:蔦温泉_蔦温泉旅館  投稿日:2006年08月12日(土) 21時14分20秒
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/395.html

蔦温泉 公式HP
http://tsutaonsen.com/

蔦温泉(つたおんせん) - 十和田|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/towada-onsen/onsen005793/

蔦温泉 蔦温泉旅館 - 秘境温泉 神秘の湯
100年超の歴史を誇る建物と足元湧出の上質湯が魅力の宿
https://hikyou.jp/report/stay/48542/

▲△▽▼


温泉チャンピオン 郡司勇の温泉サイト 青森秘湯めぐり2

蔦温泉に宿泊した。足元湧出の源泉浴槽が有名な温泉である。
まずは久安の湯に入り、次に貸切風呂も満喫した。
そして新しい泉響の湯に入って閉めた。

良い温泉はなんど来ても良いものだ。合計10泊くらいしているかもしれない。
http://www.gunjion1000.com/?p=3695


蔦温泉は、谷地や酸ヶ湯のような硫黄を含む温泉ではなかった。
なんとなく硫黄泉を予想していたのだが、単純泉のようなお湯だった。
足元湧き出しの鮮度感のあるお湯で、温泉らしい香りもうっすらあるが、コメントしにくい泉質だと思う。

 泉響の湯と久安の湯に入るが、お湯はどちらも同じような感じ。泉響の湯の浴室は天井が高くて音が響くので、それで名前がついたのかなと思ったら、井上靖がつけたのだそうだ。なんだかとても厳かな感じのする浴室だった。
http://hiro33.cocolog-nifty.com/ichiyu/2005/10/post_1e9c.html


▲△▽▼

投稿日:2006年6月19日
心の中に・・・(蔦温泉(つたおんせん))
修さん [入浴日: - / - ]

私にとって「蔦温泉」は特別な場所。
最後に訪れてはや十余年が経ちますが、その記憶は何度となく私の心を癒してくれました。

その「蔦温泉」に再会できる喜びと、一方で、もうあの姿は無いのではないかという不安を抱きつつ、先日初めて宿泊で利用しました。

不安はものの見事に的中し、十数年間想い描き続けたかつての浴場の姿はそこにはもうありませんでした。変わり果てた姿とはいえ、浴槽から吹き抜けにいたる各所にかつての面影が残り、浴槽の底から大粒の湯玉となって湧き上がるお湯に浸かっていると、10年の穢れを洗い流してくれているかのようです。

今回の再訪によって、もう取り戻せないかつての「蔦温泉」がこれまで以上に心に刻まれるという皮肉な結果になったようです。
初めて訪れた蔦沼も綺麗でした。
https://onsen.nifty.com/towada-onsen/onsen005793/kuchikomi/0000045621/


変わらぬ「蔦」 (蔦温泉(つたおんせん)) 感想
修さん [入浴日: 2010年11月12日 / 1泊]

4年半ぶりに訪問。変わらぬお湯、宿、周囲の環境に感激。
今回は中庭に面した本館2階の部屋を用意していただき、お世辞にも「絶景!」とは言えないまでも、山側よりはるかに開放的で、快適なひと時を過ごせました。
https://onsen.nifty.com/towada-onsen/onsen005793/kuchikomi/0000120994/

▲△▽▼

蔦温泉 蔦温泉旅館  
青森県 十和田市 奥瀬 蔦野湯1
電話 0176-74-2311


入浴料:
●大人800円 / 小人500円(小学生)
・ハンドタオル 250円 ・バスタオル(貸出し)500円
●貸切風呂:1時間 3,240円(予約制)

営業時間・期間 10時〜16時
※混み具合によっては繰上げて終了する事も有ります。

アクセス

電車・バス・車

JR東北新幹線八戸駅からJRバス十和田湖行きで1時間20分、十和田湖温泉郷下車、タクシーで10分

東北自動車道の十和田ICで降りて、国道103号線を北上する。十和田湖から国道102号線で奥入瀬川沿いに下って、焼山交差点で左折して八甲田山方向に行く。焼山から5kmほど。


地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E8%94%A6%E6%B8%A9%E6%B3%89/@40.596817,140.9531709,15z/data=!4m8!3m7!1s0x0:0x8846516c26de8453!5m2!4m1!1i2!8m2!3d40.596817!4d140.9531709?hl=ja
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/294.html

[番外地7] 新しい教科書をつくる会
新しい教科書をつくる会

その教科書の資料自体がデタラメだからね。
慰安婦が売春婦だとか、南京大虐殺が無かったとか、徴用工が自分の意思で来たとか、
天皇家が万世一系だとか、すべて悪質な嘘だよ

馬渕さんのグローバリズムが共産主義だとか、ユダヤ思想だというのもすべて間違い、
トランプや安部さんが反グローバリストだというのも間違い
そもそも右翼の話で正しい事なんか過去に一つでも有ったかな?

http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/500.html

[番外地7] 新しい教科書をつくる会 中川隆
2. 中川隆[-13513] koaQ7Jey 2020年2月25日 08:49:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-25]
その教科書の資料自体がデタラメだからね。
慰安婦が売春婦だとか、南京大虐殺が無かったとか、徴用工が自分の意思で来たとか、
天皇家が万世一系だとか、すべて悪質な嘘だよ

馬渕さんのグローバリズムが共産主義だとか、ユダヤ思想だというのもすべて間違い、
トランプや安部さんが反グローバリストだというのも間違い
そもそも右翼の話で正しい事なんか過去に一つでも有ったかな?

民青や共産党員も全員バカだったけど、右翼も同程度のバカ

まあ、トロツキストがネオコンに転向したり、戦中に米英鬼畜と叫んでいた愛国者が戦後全員 日本共産党員に転向したり、極左と極右は状況が変わると直ぐに互いに転換するから、知能レベルも同じでないとおかしいんだけどね。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/500.html#c2

[近代史3] 外国人が増えると嬉しいか? _ 外人観光客誘致は日本を貧しくしている 中川隆
17. 中川隆[-13512] koaQ7Jey 2020年2月25日 09:00:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-24]

[2020.2.24放送]観光公害——故郷はこうして失われる(KBS京都ラジオ)/ゲスト:川端祐一郎



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/185.html#c17
[近代史3] 訪日外国人による観光公害 地元住民の被害は限界 中川隆
12. 中川隆[-13511] koaQ7Jey 2020年2月25日 09:01:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-23]
[2020.2.24放送]観光公害——故郷はこうして失われる(KBS京都ラジオ)/ゲスト:川端祐一郎



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/527.html#c12
[リバイバル3] 廃墟と化した水上温泉 中川隆
145. 中川隆[-13510] koaQ7Jey 2020年2月25日 09:02:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-22]
[2020.2.24放送]観光公害——故郷はこうして失われる(KBS京都ラジオ)/ゲスト:川端祐一郎



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/624.html#c145
[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
569. 中川隆[-13509] koaQ7Jey 2020年2月25日 10:27:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-21]
2020年02月25日
田舎暮らし 農家に転職 ブラック農業の実態


5年間は国が150万くれるが、5年経ったら開拓した農地は地権者に取られてしまう
開拓した農地を取られるとは、5年間の努力がゼロになる事です。

引用:http://www.maff.go.jp/j/new_farmer/img/zentai.jpg


田舎暮らしにあこがれて移住し、農業を始めるのがブームだったが、そうした人たちはその後どうなったのだろうか。

農業で成功した人が居る一方で、やはり上手く行かず都会に「Uターン」する人も多いようです。


田舎暮らしの失敗例

田舎に移住する人の中には農業に憧れて、田舎に引っ越す人が居るが、当然ながら土地を持っていません。

今農業をしている人の多くは親から農地を「タダで」受け継いだ人たちで、親から農業の手ほどきを受けたと思います。

大げさに言うと農業英才教育を受けたエリート達で、そんな人たちですら農業で食べていけないと言っています。


対して田舎に移住する人は若い人は20代も居るが、30代から40代、あるいは50代で農業経験なしという人も居る。

考えただけで前途多難だと思うのだが、最近は地方自治体が農業体験の機会を設けたり、給付金を出したりしています。

農業用地や住む家も、空き家とか耕作放棄地を紹介するなど、都会の人が農業に参加しやすくしています。


最近では政府が就農給付金制度(農業次世代人材投資資金)をつくり、農水省が「農業を始めたい皆さんを応援します!」とPRしています。

内容は新たに農業を始める人には、年間150万円をくれるという凄いもので、研修期間も年150万円を助成する。

自治体が農地や住む家も紹介してくれて、何の問題もなく農業を開始できるようになっている。


ところがこれらは皆、始める前の支援なので、田畑を耕したり収穫して売るのは、自分でしなければならない。

農業を始めてから上手く行かずに、結局は撤退する人が多いのが現状だそうです。

まず新たに農業を始める人たちは「農業エリート」と違い、親が農民じゃないし、子供の頃から手ほどきも受けていない


多くの転職者が5年で廃業する理由

家庭菜園とかアウトドアをやった事がある程度なので、大人になって農業の技術を習得するのが難しい。

子供の時から、田んぼや畑で虫を取っていた人とは、やっぱり経験や知識、技術に大差があります。

研修を受けて農地を手に入れて、教えられた通りにやっても、周囲の農家の半分も収穫できないでしょう。


新たに始める人は無農薬とか有機栽培とか、理想的な農業を目指す人も居て、それらは普通の農業よりも難しい。

年間利益は100万円以下なので、給付金150万円を足してやっと生活できる程度です。

それだと農機具とか必要な経費が出ないので、農閑期には都会に出稼ぎに出る事になります。


この調子で5年目を迎えると、多くの人は「辞めて都会に戻ろうかな」と考えます。

農地や空き家を貸している農家も、4年目くらいになると、「そろそろ出て行ってくれないか」と言い出します。

農業でやっていけないのは傍から見て分かるので、給付金が無くなったら家賃や地代を払えなくなるからです。


やっと耕した田んぼや畑が、ようやく収穫できるようになって「出て行け」というのも酷い話ですが、続けたらもっと酷い事になるでしょう。

実際真剣に頑張った挙句、農作業と出稼ぎで身体を壊し、ボロボロになった人も居るようです。

経営的に上手く行っていたとしても、やっぱり5年ほど経つと立ち退かせる例が多く、この「5年間」に秘密があるらしい。

騙され利用される就農者たち

放棄して荒廃した農地を耕して収穫できるようになるのが大体5年で、農地を貸す人は最初からそれ目当てで貸す場合があります。

荒れた農地を耕したら、所有者は農地を取り上げて自分で収穫すれば、面倒な手間を省けるのです。

農業就職支援制度などは国や自治体がやっている事で、農家は必ずしも「よそ者」を歓迎しません。


だいたい農村というのは隣同士ですら仲が悪い事が多く、僅かな事で反目しあっているものです。

隣りから農薬が飛んできたとか、隣から来た虫に作物を食われたとか、争いの種は無数にあり協力的ではない。

まして都会から来た新規就農者は「利用できるだけ使ってやれ」と考えている地主も居るのです。


借地権は30年間有効な筈ですが、正式な契約を交わしていないのか、一方的に立ち退きを宣告されます。

無料で仕える開拓民として利用されたあげく、土地を開墾したら追い出されます。

こうして非常に多くの人が、5年以内に農業を辞めているのでした。

これから農業を始める人は、開墾したら自分の土地になるのか、契約書を良く確かめた方が良いです。
http://www.thutmosev.com/archives/62900430.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c569

[近代史4] 秋田 乳頭温泉郷 鶴の湯温泉

秋田 乳頭温泉郷 鶴の湯温泉


メモ帳 _ これこそ本物の温泉
92投稿者:温泉もテーマパークに  投稿日:2006年04月07日(金) 11時29分51秒
乳頭温泉郷・鶴の湯温泉
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/395.html#c2


秋田県の秘湯、乳頭温泉郷の鶴の湯温泉 公式HP
http://www.tsurunoyu.com/


日本秘湯を守る会 公式Webサイト|乳頭温泉郷 鶴の湯温泉のご紹介・宿泊予約
https://www.hitou.or.jp/hymbrrsv/hymbr_pg01.html?yc=at031


鶴の湯温泉 - 角館|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/kakunodate-onsen/onsen000615/

乳頭温泉郷 鶴の湯温泉 - 秘境温泉 神秘の湯
郷愁にどっぷり浸かり、足元湧出のにごり湯で癒される宿
https://hikyou.jp/report/stay/47306/

乳頭温泉「秘湯 鶴の湯」 〜 ひとり旅 日本を味わう温泉旅へ!
http://season2-tabi.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-92b5.html
http://season2-tabi.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-6182.html
http://season2-tabi.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/1-efd3.html
http://season2-tabi.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/2-bf71.html

▲△▽▼

秋田県 仙北市 田沢湖 田沢先達沢国有林50
電話 0187-46-2139

入浴料:大人500円 小人300円
休業日
毎週月曜日は、露天風呂清掃の為、日帰り入浴は内湯のみ

アクセス

電車・バス・車
JR田沢湖線・田沢湖駅から乳頭温泉行きバス、約40分、高原温泉下車。
東北自動車道・盛岡ICから国道46・341号線経由、約60キロ、約40分。

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%B9%B3%E9%A0%AD%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%83%B7+%E9%B6%B4%E3%81%AE%E6%B9%AF%E6%B8%A9%E6%B3%89/@39.8051888,140.7798893,15z/data=!4m8!3m7!1s0x0:0xaa58388b7b8126c0!5m2!4m1!1i2!8m2!3d39.8051888!4d140.7798893?hl=ja

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/295.html

[近代史4] 長野 毒沢鉱泉 神乃湯 中川隆
1. 中川隆[-13506] koaQ7Jey 2020年2月25日 11:47:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-18]





武田信玄の隠し湯だったと言われる毒沢温泉は下諏訪の市街地からすぐの所に在るんですが泉質は全く違います、アルミニウム硫酸塩泉のえぐい味は最初はびっくりしましたね、

当初は3件の旅館で分け合っていた源泉ですが、沢の湯が廃業したので今は
宮の湯と神乃湯の2軒になってしまいました、

凄い泉質ですが残念なことに温度が低くて湯量も少ないのがやや残念な点ですがしかし大変珍しい泉質であることに変わりはなく信玄公の隠し湯にふさわしい温泉です。



毒沢鉱泉 神乃湯 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%AF%92%E6%B2%A2+%E7%A5%9E%E4%B9%83%E6%B9%AF



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/263.html#c1
[近代史4] 群馬 霧積温泉 「金湯館」

群馬 霧積温泉 「金湯館」

軽井沢 自家焙煎珈琲とジャズの店 だぁーちゃ
軽井沢の近くにある伝説の名湯2 霧積温泉
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/519.html#c5


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/296.html

[近代史4] 中川隆 _ 日本の湯治文化関係投稿リンク 中川隆
10. 中川隆[-13505] koaQ7Jey 2020年2月25日 12:11:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-17]

群馬 霧積温泉 「金湯館」
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/296.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/123.html#c10
[近代史4] 長野 白馬八方温泉 『おびなたの湯』

長野 白馬八方温泉 『おびなたの湯』


恐怖の強アルカリ泉 厚木七沢温泉 _ 入ればお肌つるんつるんになるんだけど…
06. 中川隆 2012年12月27日 c. スペックだけは抜群なんだけど… _ アルカリ度日本一の『おびなたの湯』 
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/304.html#c6

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/297.html

[近代史4] 鳥取 岩井温泉 岩井屋 

鳥取 岩井温泉 岩井屋 


279投稿者:お湯は大したこと無くても  投稿日:2006年07月23日(日) 01時36分04秒
足元湧出大内湯が圧巻の岩井屋
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/395.html#c4

アタマに効く温泉
4.アタマに効く温泉? 岩井温泉
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/345.html

公式サイト・鳥取 岩井温泉 岩井屋 
http://www.iwaiya.jp/

日本秘湯を守る会【公式WEB専用】岩井屋 - 【Yahoo!トラベル】
https://travel.yahoo.co.jp/dhotel/shisetsu/HT10048053/information/?sc_e=adlg_google_dsa&gclid=CjwKCAiAhc7yBRAdEiwAplGxX1PdoPhpqGdiMC-IVuWsAQTyQgCwH2o3BUez-PzLX6dEeFtpSVZUxhoCy7gQAvD_BwE

岩井屋 - 岩美 (鳥取)|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/iwami-tottori-onsen/onsen003564/

岩井温泉 岩井屋 - 秘境温泉 神秘の湯
思わず長湯になる、足元から湧きあがる新鮮な湯のお宿
https://hikyou.jp/report/stay/60706/

「鳥取初湯は秘湯の宿」 岩井温泉 岩井屋 いい旅 姫気分.・゜
https://ameblo.jp/at91033/entry-12341016335.html

岩井温泉 岩井屋 宿泊 ★★★+ 秘湯宿.com
http://www.秘湯宿.com/nihon-hitowo-mamorukai/tottori-iwaionsen-iwaiya1-room/
http://www.秘湯宿.com/%e3%82%b3%e3%82%b3%e3%81%8c%e8%87%aa%e6%85%a2%e3%81%ae%e6%b8%a9%e6%b3%89%ef%bc%81/%e9%a3%9f%e4%ba%8b%e8%87%aa%e6%85%a2/tottori-iwaionsen-iwaiya2-meal/
http://www.秘湯宿.com/%e6%97%a5%e5%b8%b0%e3%82%8a%e6%b8%a9%e6%b3%89/tottori-iwaionsen-iwaiya3-bath/


▲△▽▼

岩井温泉 岩井屋 
鳥取県岩美郡岩美町岩井544
電話 0857-72-1525

入浴料:
【外来入浴】大人:800円、子供:500円(6歳未満:300円/価格はすべて税込価格)
営業時間・期間 12:00 〜 19:00

アクセス
電車・バス・車
JR岩美駅から、岩井温泉行きバス約10分、「岩井温泉下車」徒歩1分。
中国自動車道「福崎」「佐用」「山崎」「津山」各 ICより2時間。

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%B2%A9%E4%BA%95%E5%B1%8B/@35.5553431,134.3628839,15z/data=!4m8!3m7!1s0x0:0x5814a2a8e7e42855!5m2!4m1!1i2!8m2!3d35.5553431!4d134.3628839?hl=ja

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/298.html

[近代史4] 星野リゾートにだけは泊まってはいけない

星野リゾートにだけは泊まってはいけない

星野リゾート讃歌 _温泉界の救世主の実像に迫る
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/398.html


▲△▽▼


修善寺温泉「あさば」 にはもう泊まってはいけない
25. 2014年2月13日 07:22:39 : 2D6PkBxKqI
米ゴールドマン、日本での事業機会重視 CEO表明
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/514.html#c25

29. 2014年2月14日 22:02:41 : 2D6PkBxKqI
ゴールドマンの犬 星野佳路の魔手に落ちた名門旅館の運命は 1 _ 山代温泉 白銀屋(現 星野リゾート 界加賀)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/514.html#c29

38. 2014年2月16日 10:52:56 : 2D6PkBxKqI
さようなら、星野佳路
君の悪行は忘れないよ・・・
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/514.html#c38

▲△▽▼

大阪 飛田遊郭 _ やり手ばばぁ がまだ現役でおわします  江戸時代みたい
34.中川隆[-12572] koaQ7Jey 2018年5月23日
星野リゾートがディープな大阪に進出する「ホンマの理由」
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/328.html#c34
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/299.html

[近代史4] 星野リゾートにだけは泊まってはいけない 中川隆
1. 中川隆[-13499] koaQ7Jey 2020年2月25日 14:01:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-11]

星野リゾートってどうですか?
リゾートマンション・リゾートホテル・別荘掲示板@口コミ掲示板・評判
https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/290317/res/1-1000/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/299.html#c1
[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
267. 中川隆[-13498] koaQ7Jey 2020年2月25日 16:10:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-10]


バフェット氏 新型肺炎は株式に大きく影響しているが、株は売らない
グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート2020年2月25日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8816

中国武漢発の新型コロナウィルス肺炎が日本とイタリアにも飛び火し、これまで大きく反応していなかった金融市場も騒ぎ始めた。今回の記事で取り上げたいのは、普段あまり取り上げていないBerkshire Hathawayのウォーレン・バフェット氏の新型肺炎に関するコメントである。

バフェット氏はCNBCのインタビューで次のように説明している。


はっきり言っておくが、Birkshireのビジネスのかなりの部分が何らかの形で新型肺炎の影響を受けている。

バフェット氏のBirkshire Hathawayは保険業を始めとして様々な種類のビジネスを保有する大型のファンドのようなものである。Birkshireはもともと織物業だったが、社内に資金が余っていることに着目したバフェット氏によって買収され投資ファンドになったのである。

バフェット氏はBirkshireの保有する様々なビジネスが新型肺炎によって影響を受けている様子を説明する。


中国にはアイスクリームチェーンのDaily Queenの店舗が1000くらいあるが、ほとんどは閉まっている。開いている店舗も言うほどの商売になっていない。

Birkshireのより大きなポジションは例えばAppleである。BirkshireはAppleの5.6%を保有しているが、Appleが言うには新型肺炎は店舗の閉鎖だけではなくサプライチェーンなどあらゆる面で影響を及ぼしている。他にもBirkshireの保有する一定数の企業がサプライチェーンを通じて影響を受けている。

以前の記事では航空株や空港株など新型肺炎で直接影響を受ける銘柄を取り上げた。

•中国武漢の新型コロナウィルス肺炎、株式投資戦略と関連個別銘柄
•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか

しかしそうした銘柄以外にも幅広い企業が新型肺炎の影響を受けている。バフェット氏のように自分の保有する企業を通して得た情報で語る語り口には重みがある。1つ1つの銘柄に深く関われるのはバフェット氏のような長期投資家の強みである。グローバルマクロのヘッジファンドではある業界を空売りしようと思えば、個別株に立ち入らずにその業界のETFを売買することで済ませてしまうことも多い。

では、新型肺炎の影響を誰よりも痛感しているバフェット氏は投資家としてどうするのか? 彼は次のように言う。


われわれは株を売らない。

何故か?


投資家はビジネスを買っているのだから、株とはそういうものだと理解しなければならない。10年でも20年でも保有するのだから。この24時間や48時間で10年や20年の見通しが変化しただろうか?

American ExpressやCoca Colaなど、Birkshireが部分的に保有するビジネスの多くは今日明日のニュースで売ったり買ったりすべき株ではない。仮にそれで下落したとしても、それは好きなものを買える好機であり安く買えるのだから喜ぶべきだろう。

これが長期投資家の見方である。そもそもバフェット氏は年中買い方の投資家なのだから、下落相場で空売りするという考え方はもともとないのである。

短期か長期かというのは投資家にとって非常に重要である。短期投資家にとっての絶好の売り場が長期投資家にとっての絶好の買い場ということもある。バフェット氏は決して新型肺炎で株が下落しないと言っているのではない。彼は次のように言っている。


明日の株価にはどんなことでも起こりうる。市場はたまに大きな下落を経験する。50%かそれより大きいこともあるだろう。

それでもバフェット氏には関係ないのである。2008年のリーマンショックではBirkshireの株も暴落した。しかし米国株への徹底した長期投資はそれを補ってあまりある長期リターンをBirkshireにもたらしている。

今の相場に話を戻そう。月曜は日本市場は休場だったが、その間にシカゴ日経平均先物は5%近く下げている。今日は荒れた相場になるだろう。この状況で投資家にとって重要なのは、自分の投資スタンスがどういうものかということである。バフェット氏のようなスタンスであれば下落を受け入れるのも良いだろう。そうでなければ、事前に予測し手を打つ必要がある。それで1月からずっと新型肺炎について書いてきたのである。

•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか
•新型肺炎で原油価格暴落、今後の動向と推移予想

市場は今週から慌て始めるだろうが、事前にここまで予測していた投資家はそろそろ下落の底について考え始める時期である。レイ・ダリオ氏の発言を再び引用しておこう。

•中国新型ウィルス、世界最大のヘッジファンドの投資戦略


一般的にはこうした一生に一度のレベルの災害はまず最初に過小評価され、そして状況が進むにつれて過大評価される。

次の段階に進みつつあるのである。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8816
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c267

[近代史02] 幻の柴田罫線 中川隆
137. 中川隆[-13497] koaQ7Jey 2020年2月25日 16:11:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-9]


バフェット氏 新型肺炎は株式に大きく影響しているが、株は売らない
グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート2020年2月25日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8816

中国武漢発の新型コロナウィルス肺炎が日本とイタリアにも飛び火し、これまで大きく反応していなかった金融市場も騒ぎ始めた。今回の記事で取り上げたいのは、普段あまり取り上げていないBerkshire Hathawayのウォーレン・バフェット氏の新型肺炎に関するコメントである。

バフェット氏はCNBCのインタビューで次のように説明している。


はっきり言っておくが、Birkshireのビジネスのかなりの部分が何らかの形で新型肺炎の影響を受けている。

バフェット氏のBirkshire Hathawayは保険業を始めとして様々な種類のビジネスを保有する大型のファンドのようなものである。Birkshireはもともと織物業だったが、社内に資金が余っていることに着目したバフェット氏によって買収され投資ファンドになったのである。

バフェット氏はBirkshireの保有する様々なビジネスが新型肺炎によって影響を受けている様子を説明する。


中国にはアイスクリームチェーンのDaily Queenの店舗が1000くらいあるが、ほとんどは閉まっている。開いている店舗も言うほどの商売になっていない。

Birkshireのより大きなポジションは例えばAppleである。BirkshireはAppleの5.6%を保有しているが、Appleが言うには新型肺炎は店舗の閉鎖だけではなくサプライチェーンなどあらゆる面で影響を及ぼしている。他にもBirkshireの保有する一定数の企業がサプライチェーンを通じて影響を受けている。

以前の記事では航空株や空港株など新型肺炎で直接影響を受ける銘柄を取り上げた。

•中国武漢の新型コロナウィルス肺炎、株式投資戦略と関連個別銘柄
•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか

しかしそうした銘柄以外にも幅広い企業が新型肺炎の影響を受けている。バフェット氏のように自分の保有する企業を通して得た情報で語る語り口には重みがある。1つ1つの銘柄に深く関われるのはバフェット氏のような長期投資家の強みである。グローバルマクロのヘッジファンドではある業界を空売りしようと思えば、個別株に立ち入らずにその業界のETFを売買することで済ませてしまうことも多い。

では、新型肺炎の影響を誰よりも痛感しているバフェット氏は投資家としてどうするのか? 彼は次のように言う。


われわれは株を売らない。

何故か?


投資家はビジネスを買っているのだから、株とはそういうものだと理解しなければならない。10年でも20年でも保有するのだから。この24時間や48時間で10年や20年の見通しが変化しただろうか?

American ExpressやCoca Colaなど、Birkshireが部分的に保有するビジネスの多くは今日明日のニュースで売ったり買ったりすべき株ではない。仮にそれで下落したとしても、それは好きなものを買える好機であり安く買えるのだから喜ぶべきだろう。

これが長期投資家の見方である。そもそもバフェット氏は年中買い方の投資家なのだから、下落相場で空売りするという考え方はもともとないのである。

短期か長期かというのは投資家にとって非常に重要である。短期投資家にとっての絶好の売り場が長期投資家にとっての絶好の買い場ということもある。バフェット氏は決して新型肺炎で株が下落しないと言っているのではない。彼は次のように言っている。


明日の株価にはどんなことでも起こりうる。市場はたまに大きな下落を経験する。50%かそれより大きいこともあるだろう。

それでもバフェット氏には関係ないのである。2008年のリーマンショックではBirkshireの株も暴落した。しかし米国株への徹底した長期投資はそれを補ってあまりある長期リターンをBirkshireにもたらしている。

今の相場に話を戻そう。月曜は日本市場は休場だったが、その間にシカゴ日経平均先物は5%近く下げている。今日は荒れた相場になるだろう。この状況で投資家にとって重要なのは、自分の投資スタンスがどういうものかということである。バフェット氏のようなスタンスであれば下落を受け入れるのも良いだろう。そうでなければ、事前に予測し手を打つ必要がある。それで1月からずっと新型肺炎について書いてきたのである。

•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか
•新型肺炎で原油価格暴落、今後の動向と推移予想

市場は今週から慌て始めるだろうが、事前にここまで予測していた投資家はそろそろ下落の底について考え始める時期である。レイ・ダリオ氏の発言を再び引用しておこう。

•中国新型ウィルス、世界最大のヘッジファンドの投資戦略


一般的にはこうした一生に一度のレベルの災害はまず最初に過小評価され、そして状況が進むにつれて過大評価される。

次の段階に進みつつあるのである。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8816
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/429.html#c137

[リバイバル3] 資産を増やすには ほったらかし投資法が断然優れている 中川隆
32. 中川隆[-13496] koaQ7Jey 2020年2月25日 16:11:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-8]


バフェット氏 新型肺炎は株式に大きく影響しているが、株は売らない
グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート2020年2月25日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8816

中国武漢発の新型コロナウィルス肺炎が日本とイタリアにも飛び火し、これまで大きく反応していなかった金融市場も騒ぎ始めた。今回の記事で取り上げたいのは、普段あまり取り上げていないBerkshire Hathawayのウォーレン・バフェット氏の新型肺炎に関するコメントである。

バフェット氏はCNBCのインタビューで次のように説明している。


はっきり言っておくが、Birkshireのビジネスのかなりの部分が何らかの形で新型肺炎の影響を受けている。

バフェット氏のBirkshire Hathawayは保険業を始めとして様々な種類のビジネスを保有する大型のファンドのようなものである。Birkshireはもともと織物業だったが、社内に資金が余っていることに着目したバフェット氏によって買収され投資ファンドになったのである。

バフェット氏はBirkshireの保有する様々なビジネスが新型肺炎によって影響を受けている様子を説明する。


中国にはアイスクリームチェーンのDaily Queenの店舗が1000くらいあるが、ほとんどは閉まっている。開いている店舗も言うほどの商売になっていない。

Birkshireのより大きなポジションは例えばAppleである。BirkshireはAppleの5.6%を保有しているが、Appleが言うには新型肺炎は店舗の閉鎖だけではなくサプライチェーンなどあらゆる面で影響を及ぼしている。他にもBirkshireの保有する一定数の企業がサプライチェーンを通じて影響を受けている。

以前の記事では航空株や空港株など新型肺炎で直接影響を受ける銘柄を取り上げた。

•中国武漢の新型コロナウィルス肺炎、株式投資戦略と関連個別銘柄
•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか

しかしそうした銘柄以外にも幅広い企業が新型肺炎の影響を受けている。バフェット氏のように自分の保有する企業を通して得た情報で語る語り口には重みがある。1つ1つの銘柄に深く関われるのはバフェット氏のような長期投資家の強みである。グローバルマクロのヘッジファンドではある業界を空売りしようと思えば、個別株に立ち入らずにその業界のETFを売買することで済ませてしまうことも多い。

では、新型肺炎の影響を誰よりも痛感しているバフェット氏は投資家としてどうするのか? 彼は次のように言う。


われわれは株を売らない。

何故か?


投資家はビジネスを買っているのだから、株とはそういうものだと理解しなければならない。10年でも20年でも保有するのだから。この24時間や48時間で10年や20年の見通しが変化しただろうか?

American ExpressやCoca Colaなど、Birkshireが部分的に保有するビジネスの多くは今日明日のニュースで売ったり買ったりすべき株ではない。仮にそれで下落したとしても、それは好きなものを買える好機であり安く買えるのだから喜ぶべきだろう。

これが長期投資家の見方である。そもそもバフェット氏は年中買い方の投資家なのだから、下落相場で空売りするという考え方はもともとないのである。

短期か長期かというのは投資家にとって非常に重要である。短期投資家にとっての絶好の売り場が長期投資家にとっての絶好の買い場ということもある。バフェット氏は決して新型肺炎で株が下落しないと言っているのではない。彼は次のように言っている。


明日の株価にはどんなことでも起こりうる。市場はたまに大きな下落を経験する。50%かそれより大きいこともあるだろう。

それでもバフェット氏には関係ないのである。2008年のリーマンショックではBirkshireの株も暴落した。しかし米国株への徹底した長期投資はそれを補ってあまりある長期リターンをBirkshireにもたらしている。

今の相場に話を戻そう。月曜は日本市場は休場だったが、その間にシカゴ日経平均先物は5%近く下げている。今日は荒れた相場になるだろう。この状況で投資家にとって重要なのは、自分の投資スタンスがどういうものかということである。バフェット氏のようなスタンスであれば下落を受け入れるのも良いだろう。そうでなければ、事前に予測し手を打つ必要がある。それで1月からずっと新型肺炎について書いてきたのである。

•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか
•新型肺炎で原油価格暴落、今後の動向と推移予想

市場は今週から慌て始めるだろうが、事前にここまで予測していた投資家はそろそろ下落の底について考え始める時期である。レイ・ダリオ氏の発言を再び引用しておこう。

•中国新型ウィルス、世界最大のヘッジファンドの投資戦略


一般的にはこうした一生に一度のレベルの災害はまず最初に過小評価され、そして状況が進むにつれて過大評価される。

次の段階に進みつつあるのである。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8816
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/975.html#c32

[リバイバル3] 優良株の長期投資以外はすべてギャンブル 中川隆
18. 中川隆[-13495] koaQ7Jey 2020年2月25日 16:12:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-7]


バフェット氏 新型肺炎は株式に大きく影響しているが、株は売らない
グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート2020年2月25日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8816

中国武漢発の新型コロナウィルス肺炎が日本とイタリアにも飛び火し、これまで大きく反応していなかった金融市場も騒ぎ始めた。今回の記事で取り上げたいのは、普段あまり取り上げていないBerkshire Hathawayのウォーレン・バフェット氏の新型肺炎に関するコメントである。

バフェット氏はCNBCのインタビューで次のように説明している。


はっきり言っておくが、Birkshireのビジネスのかなりの部分が何らかの形で新型肺炎の影響を受けている。

バフェット氏のBirkshire Hathawayは保険業を始めとして様々な種類のビジネスを保有する大型のファンドのようなものである。Birkshireはもともと織物業だったが、社内に資金が余っていることに着目したバフェット氏によって買収され投資ファンドになったのである。

バフェット氏はBirkshireの保有する様々なビジネスが新型肺炎によって影響を受けている様子を説明する。


中国にはアイスクリームチェーンのDaily Queenの店舗が1000くらいあるが、ほとんどは閉まっている。開いている店舗も言うほどの商売になっていない。

Birkshireのより大きなポジションは例えばAppleである。BirkshireはAppleの5.6%を保有しているが、Appleが言うには新型肺炎は店舗の閉鎖だけではなくサプライチェーンなどあらゆる面で影響を及ぼしている。他にもBirkshireの保有する一定数の企業がサプライチェーンを通じて影響を受けている。

以前の記事では航空株や空港株など新型肺炎で直接影響を受ける銘柄を取り上げた。

•中国武漢の新型コロナウィルス肺炎、株式投資戦略と関連個別銘柄
•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか

しかしそうした銘柄以外にも幅広い企業が新型肺炎の影響を受けている。バフェット氏のように自分の保有する企業を通して得た情報で語る語り口には重みがある。1つ1つの銘柄に深く関われるのはバフェット氏のような長期投資家の強みである。グローバルマクロのヘッジファンドではある業界を空売りしようと思えば、個別株に立ち入らずにその業界のETFを売買することで済ませてしまうことも多い。

では、新型肺炎の影響を誰よりも痛感しているバフェット氏は投資家としてどうするのか? 彼は次のように言う。


われわれは株を売らない。

何故か?


投資家はビジネスを買っているのだから、株とはそういうものだと理解しなければならない。10年でも20年でも保有するのだから。この24時間や48時間で10年や20年の見通しが変化しただろうか?

American ExpressやCoca Colaなど、Birkshireが部分的に保有するビジネスの多くは今日明日のニュースで売ったり買ったりすべき株ではない。仮にそれで下落したとしても、それは好きなものを買える好機であり安く買えるのだから喜ぶべきだろう。

これが長期投資家の見方である。そもそもバフェット氏は年中買い方の投資家なのだから、下落相場で空売りするという考え方はもともとないのである。

短期か長期かというのは投資家にとって非常に重要である。短期投資家にとっての絶好の売り場が長期投資家にとっての絶好の買い場ということもある。バフェット氏は決して新型肺炎で株が下落しないと言っているのではない。彼は次のように言っている。


明日の株価にはどんなことでも起こりうる。市場はたまに大きな下落を経験する。50%かそれより大きいこともあるだろう。

それでもバフェット氏には関係ないのである。2008年のリーマンショックではBirkshireの株も暴落した。しかし米国株への徹底した長期投資はそれを補ってあまりある長期リターンをBirkshireにもたらしている。

今の相場に話を戻そう。月曜は日本市場は休場だったが、その間にシカゴ日経平均先物は5%近く下げている。今日は荒れた相場になるだろう。この状況で投資家にとって重要なのは、自分の投資スタンスがどういうものかということである。バフェット氏のようなスタンスであれば下落を受け入れるのも良いだろう。そうでなければ、事前に予測し手を打つ必要がある。それで1月からずっと新型肺炎について書いてきたのである。

•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか
•新型肺炎で原油価格暴落、今後の動向と推移予想

市場は今週から慌て始めるだろうが、事前にここまで予測していた投資家はそろそろ下落の底について考え始める時期である。レイ・ダリオ氏の発言を再び引用しておこう。

•中国新型ウィルス、世界最大のヘッジファンドの投資戦略


一般的にはこうした一生に一度のレベルの災害はまず最初に過小評価され、そして状況が進むにつれて過大評価される。

次の段階に進みつつあるのである。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8816
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/907.html#c18

[近代史4] 埼玉 比企郡 都幾川温泉 旅館とき川

埼玉 比企郡 都幾川温泉 旅館とき川


恐怖の強アルカリ泉 厚木七沢温泉 _ 入ればお肌つるんつるんになるんだけど…
06. 中川隆 2012年12月27日
d. 昔は日本一アルカリ度が高かった(?) 埼玉県 都幾川温泉 旅館とき川
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/304.html#c6


都幾川温泉 旅館とき川 公式HP
http://www.tokigawa.net/

都幾川温泉(@tokigawaonsen)さん Twitter
https://twitter.com/tokigawaonsen?ref_src=twsrc%5Etfw

都幾川温泉 旅館とき川 - 東松山|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/higashimatsuyama-onsen/onsen005641/

都幾川温泉 旅館とき川の探訪記詳細
「pH11.3の強アルカリ泉と季節の柚子会席を味わえる1日4組限定の日帰り貸切温泉」|@nifty温泉
https://onsen.nifty.com/higashimatsuyama-onsen/onsen005641/treport/151204668233/

【コラム:おんせん! オンセン! 温泉!】都幾川温泉 旅館とき川 株式会社共同通信社
https://www.kyodo.co.jp/b/2019-02-25_1970634/

▲△▽▼

温泉チャンピオン 郡司勇の温泉サイト 温泉紀行 2014/04/24
埼玉の秘湯、都幾川温泉・八塩温泉ほか
2 ときがわ温泉 とき川 
http://www.gunjion1000.com/?cat=3


料亭風の平屋の瀟洒な建築。中は浴室が2室と、2間続きの客室が2室の4つだけである。入口の横の林はやまツツジが満開で真っ赤な花が咲いていた。やまぶきとあじさいの2室で昼の部、夜の部2組のみで4組しか入浴できない。そのためこの土曜日の昼の部は1月ばかり前に予約していたものである。

今回はやまぶきになった。6畳と4畳半の個室で和風の清楚な造りである。ここは99年に通販生活でアルカリ性の高い温泉日本一として取り上げたものでPH 11.3で白馬八方温泉とほほ同率一位である。

温泉としてはメタケイ酸規定泉で14.6度の総計219mgのものである。CO3が47.6mgと濃厚に入っておりOH(水酸化)イオンも16.0mgと多い。

透明、甘味、無臭であるがツルツルが強烈に強くローションのようである。石鹸を使い体を洗うとさらにツルツルが増し、石鹸が取れなくなったように錯覚する。内湯の岩組浴槽が1つで弱く加熱掛け流しにされている。

食事は1品ずつ出てくる懐石薬膳料理で14種類のお品書きのメニューに沿って出された。
http://www.gunjion1000.com/?cat=3

▲△▽▼

都幾川温泉 旅館とき川
埼玉県 比企郡 ときがわ町 大字 大野537
TEL 0493-67-0331

営業時間
【昼の部】11:00〜15:00
【夕の部】16:00〜20:00

定休日
月曜・火曜(月曜・火曜が祝日の場合は営業致します)

_______

お電話にてご予約ください。(0493-67-0331)
またはHPのお申込みフォームにてお申込みください。 (https://my.formman.com/form/pc/0pb7tfHcJlUgwzCr/


都幾川温泉  旅館とき川は日帰り温泉となっており、2部屋1日4組様限定とさせて頂いております。
貸切り岩風呂や貸切純和風部屋など贅沢な気分を味わってみませんか。
柚子をふんだんに使った薬膳料理なども魅力の一つとなっております。

ゆずの湯(美肌の湯)

岩の浴槽に檜をあしらい、格子の向こうは悠々たる山景色。
四季の移ろいが感じられます。
お風呂は檜と天然石の造りとなっております
お風呂は、やまぶき貸切湯殿とあじさい貸切湯殿をご用意しております。 p.h.11.3の強アルカリ性温泉で、体の芯から温まり、心身ともに癒されます。
本物の温泉にお入り下さい。
●自家源泉(敷地内より天然温泉が湧出しております)
●源泉100%掛け流しにこだわりました。
●循環器は使用しておりません。

お部屋
客室は純和風個室
ご夫婦で女性グループでご友人達と、心ゆくまでゆったりのんびりとおくつろぎ頂けます。( 完全個室・鍵付 )
お部屋が2部屋の為、事前にご予約承ります。

◆あじさいの間 お部屋には国産檜をふんだんに使用し、小物類も手作りにこだわり 贅沢な雰囲気を味わっていただけると思います
◆やまぶきの間 こちらのお部屋はニ部屋となっております。ちょっぴり隠れ家的な雰囲気が味わえます。

柚子薬膳料理 貸切部屋 貸切風呂
●当館は、お部屋もお風呂も4時間貸し切りとなります。
●バスタオル、浴衣、アメニティはご用意してございます。
 (手ぶらでお越し頂けます)
●お食事は、お部屋で召しあげっていただきます。
 お時間は、当日客室係にお申し付けくださいませ。
●当館のご利用は中学生様以上とさせていただきます。
●無料駐車場をご用意してございます。

ご利用料金

【昼の部】11:00〜15:00
お一人様 9,500円 (税込み)
お食事付き


【夕の部】16:00〜20:00
お一人様 8,500円(税込み)
お食事付き 

お二人様よりご提供させていただきます!!


【平日 夕の部 限定】
お一人様でもご利用できます
ご料金は、お二人さま料金の30%offとさせて頂きます。
http://www.tokigawa.net/yoyaku/index.html


アクセス

電車・バス・車
■JR八高線「明覚駅」 ■東武東上線「武蔵嵐山駅」「小川町駅」■東武越生線「越生駅」
の各駅から、ときがわ町路線バス「せせらぎバスセンター」行きをご利用ください。「竹の谷(たけのかい)」行きに乗換え、「中力(なか)」バス停で降車。徒歩1分

関越自動車道
東松山I.C. より 国道254号線 小川、嵐山方面へ新郷交差点を左折直進3.5KM上唐子 交差点を左折後、県道172号線 直進、5.0KM つきあたりを右すぐひと市交差点を直進、田中を通過し、約8.0KM 道なりに直進

地図
https://www.google.com/maps/place/%E9%83%BD%E5%B9%BE%E5%B7%9D%E6%B8%A9%E6%B3%89+%E3%81%A8%E3%81%8D%E5%B7%9D/@35.987881,139.206264,17z/data=!4m8!3m7!1s0x0:0x78881a1395067e89!5m2!4m1!1i2!8m2!3d35.9878837!4d139.2063376?hl=ja
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/300.html

[昼休み53] 千葉・埼玉・茨城の名湯 中川隆
6. 中川隆[-13493] koaQ7Jey 2020年2月25日 16:48:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-5]
埼玉 比企郡 都幾川温泉 旅館とき川
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/300.html

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/377.html#c6
[番外地7] 中国語は秦の始皇帝の時から全然変わっていない未開人の言葉
中国語は秦の始皇帝の時から全然変わっていない未開人の言葉だよ
中国語では複雑な感情や感覚も表現できないし、抽象的な思考もできない
だから中国の大学では英語で授業しているんだ。
中国人が中国語を使っている限り中国に未来は無い
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/501.html
[番外地7] 新型コロナウィルスの細菌兵器説 中川隆
2. 中川隆[-13490] koaQ7Jey 2020年2月25日 18:48:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[0]
2020.02.25

新型コロナウイルスは人種によって罹患しやすさに変化があるのか?

 アメリカの​CDC(疾病管理センター)によると​、アメリカにおける今シーズン(2019年から20年)のインフルエンザ感染者数は少なくとも2900万人、死者は1万6000人を超えたという。その死者の中に新型コロナウィルスの患者が含まれているのではないかという推測が日本のテレビ番組の中で語られたと話題になっているのだが、この推測が正しいなら、新型コロナウィルスの深刻度は若干、軽減される。新型コロナウイルスは東アジア系の人びとが罹患しやすく、重症化する傾向があると噂されてきたが、それは非東アジア系の人びとが開発した生物化学兵器である可能性が高いことを示しているからだ。

 もしアメリカで広く問題のコロナウィウルスが広がっているなら、非東アジア系の人びとにも感染、犠牲者が出ている可能性が高い、それが生物化学兵器であったとしても使いにくい。いわば自爆攻撃になってしまうからだ。

 中国の武漢で新型コロナウィルスが広がり始めた頃、西側では中国が開発した細菌兵器が漏れ出たとする話が伝えられたが、本ブログでも書いたように、現在ではアメリカ国防総省のDARPA(国防高等研究計画局)やDTRA(国防脅威削減局)が注目されている。

 両機関は2018年からコロナウィルスのコウモリからヒトへの感染に関する研究を進め、​DARPAと関係の深いアメリカのデューク大学が中国の武漢大学と提携、2018年にデューク崑山大学を開設​していることも理由のひとつだ。

 アメリカにおける生物化学兵器の研究開発で中心的な役割を果たしてきたのは陸軍感染症医学研究所があるフォート・デトリック。アメリカで細菌兵器の研究開発が始まったのは1920年頃だと言われているが、劇的に変化したのは第2次世界大戦後のことだろう。日本から重要な研究資料がアメリカへ渡されたと言われているのだ。それ以来、アメリカは生物化学兵器の研究開発で先頭を走っている。

 1930年代から日本軍は捕虜を使い、中国で生体実験を始める。生物化学兵器を開発する一環で、その責任者が京都帝国大学医学部出身の石井四郎中将だった。生体実験のため、秘密裏に部隊が編成される。当初は加茂部隊と呼ばれたが、その後東郷部隊に名を変え、1941年からは第731部隊と呼ばれるようになった。

 戦犯に問われることなく帰国した石井は1946年1月から2月にかけて自宅でCIC(米陸軍対諜報部隊)の尋問を受けているが、厳しいものではなかった。その際、GHQ/SCAPの情報部門G2の部長を務めていたチャールズ・ウィロビー少将と親しくなっている。(Peter Williams & David Wallace, “Unit 731”, Free Press, 1989)

 1947年4月にはキャンプ・デトリック(1955年からフォート・デトリックへ格上げ)から研究者がやって来て、第731部隊の幹部を尋問している。その直前、厚木基地からほど近い倉庫でアメリカ軍の極東医療分隊に所属する「406医療一般研究所」が活動を始めた。そこは病原体の媒介昆虫に関する研究用の「倉庫」と見なされていた。後に同部隊は東京都千代田区丸の内の三菱ビル内に本部を移し、朝鮮戦争の際には戦闘地域へ要員を派遣することになる。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, "The United States And Biological Warfare", Indiana University Press, 1998)

 本ブログでは何度か書いたことだが、アメリカはロシアや中国の周辺に細菌兵器の研究施設を建設してきた。そうした施設が作られた国として名前が挙がっているのは、ウクライナ、アゼルバイジャン、アルメニア、カザフスタン、キルギスタン、モルドバ、タジキスタン、ウズベキスタン、ジョージアなど。アフガニスタン、パキスタン、台湾、フィリピン、韓国、そして日本にもアメリカ国防総省の影響下にある細菌に関する研究施設が存在しているという。

 また、今回のケースでは、2018年に​「弱毒化されたコロナウィルス」に関するアメリカの特許​が認められたことも注目されている。​特許を申請したピルブライト研究所の主要出資者はWHO(世界保健機関)、EC(欧州委員会)、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ基金​など。

 コロナウィルスのワクチンに関する特許をこの研究所は持ったのかもしれないが、ロシア駐在中国大使の張漢暉によると、​新型コロナウィルスに有効なワクチンを中国は作り出すことに成功、最終的な試験を行っている​という。

 2019年3月にはカナダのNML(ナショナル細菌研究所)から中国へ非常に毒性の強いウィルスが秘密裏に運ばれて中国当局から抗議され、7月にはそのNMLから中国人研究者が追い出されたことも話題になったが、10月にジョンズ・ホプキンス健康安全保障センターが世界経済フォーラムやビル・アンド・メリンダ・ゲイツ基金と共同でコロナウィルスの世界的流行に関するシミュレーションをするために集めたことも注目されている。

 この会合にコロナウィルスによる病気と関係の深い中国人は招かれなかったが、アメリカ軍の幹部やネオコンが参加していた。そして会合の翌日、軍事演習に参加するために300名のアメリカ軍将兵が武漢に到着、その2週間後にコロナウィルスの最初の感染が見つかる。新型コロナウィルスの潜伏期間は14日だ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002250000/

http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/489.html#c2

[近代史3] 731部隊と医療被曝 _ 無事に内地に帰還した731部隊員は何をやったのか? 中川隆
3. 中川隆[-13489] koaQ7Jey 2020年2月25日 18:51:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1]
2020.02.25
新型コロナウイルスは人種によって罹患しやすさに変化があるのか?

 アメリカの​CDC(疾病管理センター)によると​、アメリカにおける今シーズン(2019年から20年)のインフルエンザ感染者数は少なくとも2900万人、死者は1万6000人を超えたという。その死者の中に新型コロナウィルスの患者が含まれているのではないかという推測が日本のテレビ番組の中で語られたと話題になっているのだが、この推測が正しいなら、新型コロナウィルスの深刻度は若干、軽減される。新型コロナウイルスは東アジア系の人びとが罹患しやすく、重症化する傾向があると噂されてきたが、それは非東アジア系の人びとが開発した生物化学兵器である可能性が高いことを示しているからだ。

 もしアメリカで広く問題のコロナウィウルスが広がっているなら、非東アジア系の人びとにも感染、犠牲者が出ている可能性が高い、それが生物化学兵器であったとしても使いにくい。いわば自爆攻撃になってしまうからだ。

 中国の武漢で新型コロナウィルスが広がり始めた頃、西側では中国が開発した細菌兵器が漏れ出たとする話が伝えられたが、本ブログでも書いたように、現在ではアメリカ国防総省のDARPA(国防高等研究計画局)やDTRA(国防脅威削減局)が注目されている。

 両機関は2018年からコロナウィルスのコウモリからヒトへの感染に関する研究を進め、​DARPAと関係の深いアメリカのデューク大学が中国の武漢大学と提携、2018年にデューク崑山大学を開設​していることも理由のひとつだ。

 アメリカにおける生物化学兵器の研究開発で中心的な役割を果たしてきたのは陸軍感染症医学研究所があるフォート・デトリック。アメリカで細菌兵器の研究開発が始まったのは1920年頃だと言われているが、劇的に変化したのは第2次世界大戦後のことだろう。日本から重要な研究資料がアメリカへ渡されたと言われているのだ。それ以来、アメリカは生物化学兵器の研究開発で先頭を走っている。

 1930年代から日本軍は捕虜を使い、中国で生体実験を始める。生物化学兵器を開発する一環で、その責任者が京都帝国大学医学部出身の石井四郎中将だった。生体実験のため、秘密裏に部隊が編成される。当初は加茂部隊と呼ばれたが、その後東郷部隊に名を変え、1941年からは第731部隊と呼ばれるようになった。

 戦犯に問われることなく帰国した石井は1946年1月から2月にかけて自宅でCIC(米陸軍対諜報部隊)の尋問を受けているが、厳しいものではなかった。その際、GHQ/SCAPの情報部門G2の部長を務めていたチャールズ・ウィロビー少将と親しくなっている。(Peter Williams & David Wallace, “Unit 731”, Free Press, 1989)

 1947年4月にはキャンプ・デトリック(1955年からフォート・デトリックへ格上げ)から研究者がやって来て、第731部隊の幹部を尋問している。その直前、厚木基地からほど近い倉庫でアメリカ軍の極東医療分隊に所属する「406医療一般研究所」が活動を始めた。そこは病原体の媒介昆虫に関する研究用の「倉庫」と見なされていた。後に同部隊は東京都千代田区丸の内の三菱ビル内に本部を移し、朝鮮戦争の際には戦闘地域へ要員を派遣することになる。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, "The United States And Biological Warfare", Indiana University Press, 1998)

 本ブログでは何度か書いたことだが、アメリカはロシアや中国の周辺に細菌兵器の研究施設を建設してきた。そうした施設が作られた国として名前が挙がっているのは、ウクライナ、アゼルバイジャン、アルメニア、カザフスタン、キルギスタン、モルドバ、タジキスタン、ウズベキスタン、ジョージアなど。アフガニスタン、パキスタン、台湾、フィリピン、韓国、そして日本にもアメリカ国防総省の影響下にある細菌に関する研究施設が存在しているという。

 また、今回のケースでは、2018年に​「弱毒化されたコロナウィルス」に関するアメリカの特許​が認められたことも注目されている。​特許を申請したピルブライト研究所の主要出資者はWHO(世界保健機関)、EC(欧州委員会)、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ基金​など。

 コロナウィルスのワクチンに関する特許をこの研究所は持ったのかもしれないが、ロシア駐在中国大使の張漢暉によると、​新型コロナウィルスに有効なワクチンを中国は作り出すことに成功、最終的な試験を行っている​という。

 2019年3月にはカナダのNML(ナショナル細菌研究所)から中国へ非常に毒性の強いウィルスが秘密裏に運ばれて中国当局から抗議され、7月にはそのNMLから中国人研究者が追い出されたことも話題になったが、10月にジョンズ・ホプキンス健康安全保障センターが世界経済フォーラムやビル・アンド・メリンダ・ゲイツ基金と共同でコロナウィルスの世界的流行に関するシミュレーションをするために集めたことも注目されている。

 この会合にコロナウィルスによる病気と関係の深い中国人は招かれなかったが、アメリカ軍の幹部やネオコンが参加していた。そして会合の翌日、軍事演習に参加するために300名のアメリカ軍将兵が武漢に到着、その2週間後にコロナウィルスの最初の感染が見つかる。新型コロナウィルスの潜伏期間は14日だ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002250000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/471.html#c3

[番外地7] 中国は共産国家ではない 中川隆
2. 中川隆[-13488] koaQ7Jey 2020年2月25日 21:39:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2]
共産主義は終わってないよ
現在は資本主義の最終段階の 帝国主義=グローバリズム まで進んでいるから、その次に共産社会になるんだろ。マルクスの預言通りになっている。
中国は共産主義国ではなくて儒教国家だよ、

本当の共産主義だったのは共産主義・ニューディ−ラーの GHQ が農地改革したり、意図的にインフレを起こして資産家の財産を取り上げて無階級社会にした戦後の日本だけだよ。日本共産党もGHQが合法化したんだろ。
一方、自称共産国家の中国はそんな事はしてないだろ。

共産主義国には、現在の中国みたいな階級も極端な貧富の差は存在しないからね。
中国人は正統派の儒教者だよ

●中国・kankoku は儒教国。儒教は徳治主義。

●徳治主義は「徳のある」人には「良い結果」が訪れるという理屈。 ●もしもお金を騙し取られた場合、騙されたのは「徳が無い」からとなる。

●もしもお金を騙し取り、うまく逃げおうせたら、それは「徳がある」から、お金を手に入れたとなる。

●よって騙されるより、嘘をついて騙す方が得。嘘がバレたらケンチャナヨ(まぁいいか)となる。

●嘘をつくというよりは、嘘のハードルが低い。
徳治主義について中国・kankoku は儒教の国です。儒教は徳治主義です。徳治主義というのは「徳のある人が統治者になると国が栄える」というものです。これは統治者に関わらず、国民全体に浸透しています。よって中国・kankoku ではこの徳治主義が倫理の基礎となっています。 それで庶民にとっての徳治主義をというのは、何か良い結果があれば、それはその人に徳があったからということになります。逆に悪い結果があれば、その人に徳がない、つまり、悪い人であるか、もしくはバカということになります。
この理屈をよく覚えておいてください。

騙す人と騙される人はどちらが悪いかさて。
ここで問題です。 Aさんがいます。 このAさんが、騙されてBさんにお金を取られたとします。
このとき、AさんとBさんはどちらが悪いでしょうか?普通の国ならBさんが悪い 普通の国ならノータイムで悪いのはBさんになります。
Bさんが騙しているからです。 事実と異なることを言って、誤解させてお金をせしめているからです。Bさんが嘘をついているから、Aさんは悪くないということです。 まぁ、場合によっては、「よくそんな嘘に騙されたな」ということもありますが、ほとんどの法治国家ではAさんに非は無く、Bさんの犯罪ということになります。
儒教の徳治主義に照らすとAさんが悪い でも儒教ではそう簡単にはいきません。 「悪い結果があったのは、その人に徳がないから」

という原則があるからです。 この原則に照らすと、Aさんが悪くなります。
お金を騙し取られるという「悪い結果」が起きたのはAさんに徳が無いからです。
騙す人の論理ではBさんの側で考えてみましょう。

Bさんは普通の国では問答無用で「悪い」のですが、儒教では「嘘をついた時点で悪」というわけではありません。儒教では警察に捕まるなどしないと、「悪い結果」と受け取られません。もしも、うまく逃げおうせたら、単に「BさんがAさんのお金を手に入れた」というBさんにとって「良い結果」だけとなり、なぜBさんがお金を手に入れることが出来たのかというと、それはBさんに徳があるからということになります。つまりBさんはうまくやった立派な人であり、徳のある正しい人となります。
無論、中国・kankoku 以外の国では警察に捕まろうと捕まらなくとも嘘をついた時点で「悪人」なのですが、儒教ではこういった結論と成ります。バレなければOK。バレたらケンチャナヨ精神です。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/488.html#c2

[番外地7] 中国は共産国家ではない 中川隆
3. 中川隆[-13487] koaQ7Jey 2020年2月25日 21:43:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3]
完全に誤解しているね。 共産主義は終わってないよ
現在は資本主義の最終段階の 帝国主義=グローバリズム まで進んでいるから、その次に共産社会になるんだろ。マルクスの預言通りになっている。
中国は共産主義国ではなくて儒教国家だよ、チュチェ思想も共産思想でなくて典型的な儒教思想だよ。

本当の共産主義だったのは共産主義・ニューディ−ラーの GHQ が農地改革したり、意図的にインフレを起こして資産家の財産を取り上げて無階級社会にした戦後の日本だけだよ。日本共産党もGHQが合法化したんだろ。
一方、自称共産国家の中国はそんな事はしてないだろ。

共産主義国には、現在の中国みたいな階級も極端な貧富の差は存在しないからね。
中国人は正統派の儒教者だよ

●中国・kankoku は儒教国。儒教は徳治主義。

●徳治主義は「徳のある」人には「良い結果」が訪れるという理屈。 ●もしもお金を騙し取られた場合、騙されたのは「徳が無い」からとなる。

●もしもお金を騙し取り、うまく逃げおうせたら、それは「徳がある」から、お金を手に入れたとなる。

●よって騙されるより、嘘をついて騙す方が得。嘘がバレたらケンチャナヨ(まぁいいか)となる。

●嘘をつくというよりは、嘘のハードルが低い。
徳治主義について中国・kankoku は儒教の国です。儒教は徳治主義です。徳治主義というのは「徳のある人が統治者になると国が栄える」というものです。これは統治者に関わらず、国民全体に浸透しています。よって中国・kankoku ではこの徳治主義が倫理の基礎となっています。 それで庶民にとっての徳治主義をというのは、何か良い結果があれば、それはその人に徳があったからということになります。逆に悪い結果があれば、その人に徳がない、つまり、悪い人であるか、もしくはバカということになります。
この理屈をよく覚えておいてください。

騙す人と騙される人はどちらが悪いかさて。
ここで問題です。 Aさんがいます。 このAさんが、騙されてBさんにお金を取られたとします。
このとき、AさんとBさんはどちらが悪いでしょうか?普通の国ならBさんが悪い 普通の国ならノータイムで悪いのはBさんになります。
Bさんが騙しているからです。 事実と異なることを言って、誤解させてお金をせしめているからです。Bさんが嘘をついているから、Aさんは悪くないということです。 まぁ、場合によっては、「よくそんな嘘に騙されたな」ということもありますが、ほとんどの法治国家ではAさんに非は無く、Bさんの犯罪ということになります。
儒教の徳治主義に照らすとAさんが悪い でも儒教ではそう簡単にはいきません。 「悪い結果があったのは、その人に徳がないから」

という原則があるからです。 この原則に照らすと、Aさんが悪くなります。
お金を騙し取られるという「悪い結果」が起きたのはAさんに徳が無いからです。
騙す人の論理ではBさんの側で考えてみましょう。

Bさんは普通の国では問答無用で「悪い」のですが、儒教では「嘘をついた時点で悪」というわけではありません。儒教では警察に捕まるなどしないと、「悪い結果」と受け取られません。もしも、うまく逃げおうせたら、単に「BさんがAさんのお金を手に入れた」というBさんにとって「良い結果」だけとなり、なぜBさんがお金を手に入れることが出来たのかというと、それはBさんに徳があるからということになります。つまりBさんはうまくやった立派な人であり、徳のある正しい人となります。

無論、中国・kankoku 以外の国では警察に捕まろうと捕まらなくとも嘘をついた時点で「悪人」なのですが、儒教ではこういった結論と成ります。バレなければOK。バレたらケンチャナヨ精神です。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/488.html#c3

[リバイバル3] 箱根で泊まってみたい温泉はここだけだったんだけど… _ 箱根底倉温泉 函嶺 中川隆
13. 中川隆[-13481] koaQ7Jey 2020年2月25日 22:19:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[9]





底倉温泉 函嶺 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%BA%95%E5%80%89%E6%B8%A9%E6%B3%89%E3%80%80%E5%87%BD%E5%B6%BA

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/301.html#c13
[リバイバル3] 病気に効く温泉 _ 長野県 真田町 千古温泉 _ 足腰の痛み・運動麻痺に効く名湯 中川隆
6. 中川隆[-13479] koaQ7Jey 2020年2月25日 22:31:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[11]





千古温泉 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%8D%83%E5%8F%A4%E6%B8%A9%E6%B3%89

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/228.html#c6
[不安と不健康15] コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ)  赤かぶ
340. 中川隆[-13478] koaQ7Jey 2020年2月25日 22:54:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[12]
肥育ホルモン剤入り牛肉の輸入規制ない日本 そこにある食卓の危機 2020/02/25


© マネーポストWEB 提供 アメリカのスーパーには「ホルモンフリー」牛肉が並ぶ(Getty Images)

 発がんリスクのある「肥育ホルモン」が含まれたアメリカ産牛肉の輸入量が激増している。財務省の速報では、今年1月のアメリカ産牛肉の輸入量は2万1428トン。2019年1月は1万7525トンだったから、なんと前年同月比122%。その理由はトランプ大統領に“押しつけられた”日米貿易協定の発効だ。

 1月1日からアメリカ産牛肉の関税率は38.5%から26.6%に下がり、4月からは25.8%になる予定だ。すでに、農畜産業振興機構が2月10日に発表した速報によると、2月初週(3〜7日分)の輸入牛ばら肉1kg当たりの卸売り価格は、オーストラリア産が3円値上げした半面、アメリカ産は10円の値下げとなっており、アメリカ産の方が100円近く安い。このペースで価格差が開いていけば、流通量が上増しする可能性が高い。

 東京大学大学院農学生命科学研究科教授の鈴木宣弘さんはこんな見通しを明かす。

「牛肉の食料自給率(輸入牛肉に対し、日本国内で生産されている割合)は現在、35%くらい。それが2035年くらいになると16%にまで下がると試算しています。安価な輸入品が大量に日本市場に流入することで、国産の農畜産品が割高になるからです。同時に、日本の生産者が苦境に陥るのは間違いない」

 私たちが値段で食材を選んでいると、安全な農産物を生産する日本の農畜産業の担い手が激減。極論すれば、いなくなってしまうかもしれないのだ。鈴木さんが続ける。

「肥育ホルモン剤以外にも、『ラクトパミン』という家畜の餌に混ぜる成長促進剤があります。人体に有害だとして、EUだけではなく中国やロシアでも使用と輸入が禁じられていますが、日本は国内使用は認可されていないものの、アメリカからの輸入は素通りになっているのです」

 日本の“食の安全後進国”ぶりが浮き彫りとなる話だ。それでもアメリカ産牛肉は破竹の勢いで日本に流入している。今年1月分の輸入量から見ると、いずれは長らく牛肉の輸入元の第1位に君臨し続けたオーストラリア産牛肉を上回る予想もある。
 実は、肥育ホルモンはオーストラリア、カナダ、ニュージーランドなどでも使用されている。ただし、アメリカ以外の国は、国際機関「コーデックス」が定めた基準を下回る残留基準値をそれぞれが取り決め、それを上回るものは出荷されないが、アメリカだけは「残留基準値の設定は不要」として定めていない。さらに、国内での肥育ホルモンの使用を禁じているはずの日本は、国際基準を大きく超える残留基準値を定めている。肥育ホルモンが“測定不能”なほど含まれているアメリカ産牛肉を受け入れるためでなければなんだというのだろうか。

「国産なら何も書いていなくてもホルモン剤不使用ですが、輸入牛肉で、特に『ホルモンフリー』などと明示されていないものは、必ず肥育ホルモンが使われていると思った方がいい」(鈴木さん)


財布を取るか、健康を取るか

 食の安全に詳しいライターの小倉正行さんも、肥育ホルモン剤入り牛肉の輸入をまったく規制していないのは日本だけだと話す。

「諸外国は日本向けだけに肥育ホルモンを使う。日本は先進国で唯一といえる肥育ホルモン剤入り肉の輸出先になってしまっています」

 蔓延するホルモン残留肉を避ける方法は3つある。1つ目が、国産肉を買ってきて自分で料理すること。2つ目は外食時に「緑提灯」の店を選ぶこと。

「国産食材の使用量が50%以上の飲食店は、店頭に緑色の提灯を掲げている。『5つ星』と明記している店の使用する食材は90%以上が国産。安全意識が高いので、必ず原産地も教えてくれます」(小倉さん)

 最後がオーガニックをうたうレストランに行くこと。農水省がJAS認証する準備を進めており、有機食材を80%以上使用することが条件だ。自然素材で育てられ、もちろん肥育ホルモン牛肉は使えない。財布には厳しそうだが、ひるんではいけない。

「安いものを食べて病気になったら手遅れです。ホルモンは10年単位で影響が出るといわれています。今動かないといけない」(鈴木さん)
 それでもまだ“安い”を理由にアメリカ産牛肉を買いますか?

※女性セブン2020年2月27日号
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/肥育ホルモン剤入り牛肉の輸入規制ない日本-そこにある食卓の危機/ar-BB10lKJ1?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html#c340

[不安と不健康16] “早死にする人”ランキング 短命にある共通点とは…(ZAK×SPA!)  赤かぶ
161. 中川隆[-13477] koaQ7Jey 2020年2月25日 22:55:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[13]
肥育ホルモン剤入り牛肉の輸入規制ない日本 そこにある食卓の危機 2020/02/25


© マネーポストWEB 提供 アメリカのスーパーには「ホルモンフリー」牛肉が並ぶ(Getty Images)

 発がんリスクのある「肥育ホルモン」が含まれたアメリカ産牛肉の輸入量が激増している。財務省の速報では、今年1月のアメリカ産牛肉の輸入量は2万1428トン。2019年1月は1万7525トンだったから、なんと前年同月比122%。その理由はトランプ大統領に“押しつけられた”日米貿易協定の発効だ。

 1月1日からアメリカ産牛肉の関税率は38.5%から26.6%に下がり、4月からは25.8%になる予定だ。すでに、農畜産業振興機構が2月10日に発表した速報によると、2月初週(3〜7日分)の輸入牛ばら肉1kg当たりの卸売り価格は、オーストラリア産が3円値上げした半面、アメリカ産は10円の値下げとなっており、アメリカ産の方が100円近く安い。このペースで価格差が開いていけば、流通量が上増しする可能性が高い。

 東京大学大学院農学生命科学研究科教授の鈴木宣弘さんはこんな見通しを明かす。

「牛肉の食料自給率(輸入牛肉に対し、日本国内で生産されている割合)は現在、35%くらい。それが2035年くらいになると16%にまで下がると試算しています。安価な輸入品が大量に日本市場に流入することで、国産の農畜産品が割高になるからです。同時に、日本の生産者が苦境に陥るのは間違いない」

 私たちが値段で食材を選んでいると、安全な農産物を生産する日本の農畜産業の担い手が激減。極論すれば、いなくなってしまうかもしれないのだ。鈴木さんが続ける。

「肥育ホルモン剤以外にも、『ラクトパミン』という家畜の餌に混ぜる成長促進剤があります。人体に有害だとして、EUだけではなく中国やロシアでも使用と輸入が禁じられていますが、日本は国内使用は認可されていないものの、アメリカからの輸入は素通りになっているのです」

 日本の“食の安全後進国”ぶりが浮き彫りとなる話だ。それでもアメリカ産牛肉は破竹の勢いで日本に流入している。今年1月分の輸入量から見ると、いずれは長らく牛肉の輸入元の第1位に君臨し続けたオーストラリア産牛肉を上回る予想もある。
 実は、肥育ホルモンはオーストラリア、カナダ、ニュージーランドなどでも使用されている。ただし、アメリカ以外の国は、国際機関「コーデックス」が定めた基準を下回る残留基準値をそれぞれが取り決め、それを上回るものは出荷されないが、アメリカだけは「残留基準値の設定は不要」として定めていない。さらに、国内での肥育ホルモンの使用を禁じているはずの日本は、国際基準を大きく超える残留基準値を定めている。肥育ホルモンが“測定不能”なほど含まれているアメリカ産牛肉を受け入れるためでなければなんだというのだろうか。

「国産なら何も書いていなくてもホルモン剤不使用ですが、輸入牛肉で、特に『ホルモンフリー』などと明示されていないものは、必ず肥育ホルモンが使われていると思った方がいい」(鈴木さん)


財布を取るか、健康を取るか

 食の安全に詳しいライターの小倉正行さんも、肥育ホルモン剤入り牛肉の輸入をまったく規制していないのは日本だけだと話す。

「諸外国は日本向けだけに肥育ホルモンを使う。日本は先進国で唯一といえる肥育ホルモン剤入り肉の輸出先になってしまっています」

 蔓延するホルモン残留肉を避ける方法は3つある。1つ目が、国産肉を買ってきて自分で料理すること。2つ目は外食時に「緑提灯」の店を選ぶこと。

「国産食材の使用量が50%以上の飲食店は、店頭に緑色の提灯を掲げている。『5つ星』と明記している店の使用する食材は90%以上が国産。安全意識が高いので、必ず原産地も教えてくれます」(小倉さん)

 最後がオーガニックをうたうレストランに行くこと。農水省がJAS認証する準備を進めており、有機食材を80%以上使用することが条件だ。自然素材で育てられ、もちろん肥育ホルモン牛肉は使えない。財布には厳しそうだが、ひるんではいけない。

「安いものを食べて病気になったら手遅れです。ホルモンは10年単位で影響が出るといわれています。今動かないといけない」(鈴木さん)
 それでもまだ“安い”を理由にアメリカ産牛肉を買いますか?

※女性セブン2020年2月27日号
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/肥育ホルモン剤入り牛肉の輸入規制ない日本-そこにある食卓の危機/ar-BB10lKJ1?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/13/health16/msg/134.html#c161

[リバイバル3] 輸入肉を食べると癌になる 中川隆
18. 中川隆[-13479] koaQ7Jey 2020年2月25日 22:56:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[11]
肥育ホルモン剤入り牛肉の輸入規制ない日本 そこにある食卓の危機 2020/02/25


© マネーポストWEB 提供 アメリカのスーパーには「ホルモンフリー」牛肉が並ぶ(Getty Images)

 発がんリスクのある「肥育ホルモン」が含まれたアメリカ産牛肉の輸入量が激増している。財務省の速報では、今年1月のアメリカ産牛肉の輸入量は2万1428トン。2019年1月は1万7525トンだったから、なんと前年同月比122%。その理由はトランプ大統領に“押しつけられた”日米貿易協定の発効だ。

 1月1日からアメリカ産牛肉の関税率は38.5%から26.6%に下がり、4月からは25.8%になる予定だ。すでに、農畜産業振興機構が2月10日に発表した速報によると、2月初週(3〜7日分)の輸入牛ばら肉1kg当たりの卸売り価格は、オーストラリア産が3円値上げした半面、アメリカ産は10円の値下げとなっており、アメリカ産の方が100円近く安い。このペースで価格差が開いていけば、流通量が上増しする可能性が高い。

 東京大学大学院農学生命科学研究科教授の鈴木宣弘さんはこんな見通しを明かす。

「牛肉の食料自給率(輸入牛肉に対し、日本国内で生産されている割合)は現在、35%くらい。それが2035年くらいになると16%にまで下がると試算しています。安価な輸入品が大量に日本市場に流入することで、国産の農畜産品が割高になるからです。同時に、日本の生産者が苦境に陥るのは間違いない」

 私たちが値段で食材を選んでいると、安全な農産物を生産する日本の農畜産業の担い手が激減。極論すれば、いなくなってしまうかもしれないのだ。鈴木さんが続ける。

「肥育ホルモン剤以外にも、『ラクトパミン』という家畜の餌に混ぜる成長促進剤があります。人体に有害だとして、EUだけではなく中国やロシアでも使用と輸入が禁じられていますが、日本は国内使用は認可されていないものの、アメリカからの輸入は素通りになっているのです」

 日本の“食の安全後進国”ぶりが浮き彫りとなる話だ。それでもアメリカ産牛肉は破竹の勢いで日本に流入している。今年1月分の輸入量から見ると、いずれは長らく牛肉の輸入元の第1位に君臨し続けたオーストラリア産牛肉を上回る予想もある。
 実は、肥育ホルモンはオーストラリア、カナダ、ニュージーランドなどでも使用されている。ただし、アメリカ以外の国は、国際機関「コーデックス」が定めた基準を下回る残留基準値をそれぞれが取り決め、それを上回るものは出荷されないが、アメリカだけは「残留基準値の設定は不要」として定めていない。さらに、国内での肥育ホルモンの使用を禁じているはずの日本は、国際基準を大きく超える残留基準値を定めている。肥育ホルモンが“測定不能”なほど含まれているアメリカ産牛肉を受け入れるためでなければなんだというのだろうか。

「国産なら何も書いていなくてもホルモン剤不使用ですが、輸入牛肉で、特に『ホルモンフリー』などと明示されていないものは、必ず肥育ホルモンが使われていると思った方がいい」(鈴木さん)


財布を取るか、健康を取るか

 食の安全に詳しいライターの小倉正行さんも、肥育ホルモン剤入り牛肉の輸入をまったく規制していないのは日本だけだと話す。

「諸外国は日本向けだけに肥育ホルモンを使う。日本は先進国で唯一といえる肥育ホルモン剤入り肉の輸出先になってしまっています」

 蔓延するホルモン残留肉を避ける方法は3つある。1つ目が、国産肉を買ってきて自分で料理すること。2つ目は外食時に「緑提灯」の店を選ぶこと。

「国産食材の使用量が50%以上の飲食店は、店頭に緑色の提灯を掲げている。『5つ星』と明記している店の使用する食材は90%以上が国産。安全意識が高いので、必ず原産地も教えてくれます」(小倉さん)

 最後がオーガニックをうたうレストランに行くこと。農水省がJAS認証する準備を進めており、有機食材を80%以上使用することが条件だ。自然素材で育てられ、もちろん肥育ホルモン牛肉は使えない。財布には厳しそうだが、ひるんではいけない。

「安いものを食べて病気になったら手遅れです。ホルモンは10年単位で影響が出るといわれています。今動かないといけない」(鈴木さん)
 それでもまだ“安い”を理由にアメリカ産牛肉を買いますか?

※女性セブン2020年2月27日号
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/肥育ホルモン剤入り牛肉の輸入規制ない日本-そこにある食卓の危機/ar-BB10lKJ1?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/733.html#c18

[番外地7] チュチェ思想は共産思想ではなく典型的な儒教思想
チュチェ思想は共産思想ではなく典型的な儒教思想


完全に誤解しているね。 中国も北朝鮮も共産主義国ではなくて儒教国家だよ、
チュチェ思想も共産思想でなくて典型的な儒教思想だよ。

過去に共産主義だった国は
共産主義・ニューディ−ラーの GHQ が農地改革したり、意図的にインフレを起こして資産家の財産を取り上げて無階級社会にした戦後の日本だけだよ。
日本共産党や労働組合もGHQが合法化したんだろ。
一方、自称共産国家の中国はそんな事はしていない。

共産主義国には、現在の中国みたいな階級も極端な貧富の差は存在しないからね。
中国人は正統派の儒教者だよ

●中国・kankoku は儒教国。儒教は徳治主義。

●徳治主義は「徳のある」人には「良い結果」が訪れるという理屈。 ●もしもお金を騙し取られた場合、騙されたのは「徳が無い」からとなる。

●もしもお金を騙し取り、うまく逃げおうせたら、それは「徳がある」から、お金を手に入れたとなる。

●よって騙されるより、嘘をついて騙す方が得。嘘がバレたらケンチャナヨ(まぁいいか)となる。

●嘘をつくというよりは、嘘のハードルが低い。
徳治主義について中国・kankoku は儒教の国です。儒教は徳治主義です。徳治主義というのは「徳のある人が統治者になると国が栄える」というものです。これは統治者に関わらず、国民全体に浸透しています。よって中国・kankoku ではこの徳治主義が倫理の基礎となっています。 それで庶民にとっての徳治主義をというのは、何か良い結果があれば、それはその人に徳があったからということになります。逆に悪い結果があれば、その人に徳がない、つまり、悪い人であるか、もしくはバカということになります。
この理屈をよく覚えておいてください。

騙す人と騙される人はどちらが悪いかさて。
ここで問題です。 Aさんがいます。 このAさんが、騙されてBさんにお金を取られたとします。

このとき、AさんとBさんはどちらが悪いでしょうか?普通の国ならBさんが悪い 普通の国ならノータイムで悪いのはBさんになります。

Bさんが騙しているからです。 事実と異なることを言って、誤解させてお金をせしめているからです。Bさんが嘘をついているから、Aさんは悪くないということです。 まぁ、場合によっては、「よくそんな嘘に騙されたな」ということもありますが、ほとんどの法治国家ではAさんに非は無く、Bさんの犯罪ということになります。

儒教の徳治主義に照らすとAさんが悪い でも儒教ではそう簡単にはいきません。 「悪い結果があったのは、その人に徳がないから」

という原則があるからです。 この原則に照らすと、Aさんが悪くなります。
お金を騙し取られるという「悪い結果」が起きたのはAさんに徳が無いからです。

騙す人の論理ではBさんの側で考えてみましょう。

Bさんは普通の国では問答無用で「悪い」のですが、儒教では「嘘をついた時点で悪」というわけではありません。儒教では警察に捕まるなどしないと、「悪い結果」と受け取られません。もしも、うまく逃げおうせたら、単に「BさんがAさんのお金を手に入れた」というBさんにとって「良い結果」だけとなり、なぜBさんがお金を手に入れることが出来たのかというと、それはBさんに徳があるからということになります。つまりBさんはうまくやった立派な人であり、徳のある正しい人となります。

無論、中国・kankoku 以外の国では警察に捕まろうと捕まらなくとも嘘をついた時点で「悪人」なのですが、儒教ではこういった結論と成ります。バレなければOK。バレたらケンチャナヨ精神です。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/502.html

[番外地7] 新型コロナウィルスの細菌兵器説 中川隆
3. 中川隆[-13481] koaQ7Jey 2020年2月26日 13:22:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[9]
2020.02.26
クルーズ船の杜撰な感染管理は無能が原因なのか意図的なものなのか?

 ダイヤモンド・プリンセスというクルーズ船で新型コロナウィルスの感染が広がり、問題になっている。乗員や乗客だけでなく厚労省の職員や検疫官も罹患したようだ。

 防護服を着なければならない区域と脱いでかまわない区域が明確でなく、常駐してるプロの感染対策の専門家がいないと指摘した神戸大学病院感染症内科の岩田健太郎教授を安倍晋三政権は批判していたが、岩田教授のような指摘をする人はほかにもいる。橋本岳厚労副大臣などはそうした指摘に対する反論の中で「清潔ルート」と「不潔ルート」が合流していることを示す写真を公表、失笑を買っていた。

 感染管理が杜撰だと言われて当然な情況だが、単に政府が無能でそうした事態になったのか、あるいは病気を蔓延させるため、意図的に行ったのかは判断できない。蔓延させるシナリオが存在し、そのシナリオにとって邪魔な専門家を排除したのではないかとさえ思える。

 新型コロナウィルスの感染が明らかになった頃、中国の細菌兵器が漏れたという話が広められていたが、本ブログで繰り返し書いてきたように、アメリカの細菌兵器部門が関与している疑いがある。中国の細菌兵器開発が原因でないからといって、問題のウィルスが細菌兵器でないということにはならない。

 アメリカの好戦派は1990年代から中国を制圧するプロジェクトを本格化させている。好戦派の中でも大きな影響力を持つネオコンは1991年12月にソ連が消滅した後、潜在的ライバルを潰し、力の源泉であるエネルギー資源の独占しようとする。潜在的ライバルの筆頭は中国だ。

 この世界制覇プランは1992年2月に国防総省のDPG草案という形で作成されている。当時の大統領はCIA出身のジョージ・H・W・ブッシュで、国防長官はリチャード・チェイニー。DPG草案は国防次官だったポール・ウォルフォウィッツを中心とするネオコンのグループがまとめた。そこでこのプランはウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。その後の展開は本ブログで繰り返し書いてきたので、今回は割愛する。

 アメリカは正規軍の戦いでロシアに勝つことは無理である。これは南オセチアやシリアでの戦闘で明確になった。核戦争ではアメリカも死滅する。細菌戦を彼らが選択しても不思議ではないのだが、グローバル化が進められた現在、中国への攻撃が世界へ波及することは明かだった。

 アメリカの支配体制が崩壊へ向かう中、自分のタイミングで世界経済を破壊して新たな体制でも支配者であり続けようと考えても不思議ではないが、それが思惑通りに進むとは限らない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002260000/
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/489.html#c3

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
268. 中川隆[-13480] koaQ7Jey 2020年2月26日 13:32:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[10]
平野憲一の株のお話2020.02.26
続落ダウの下げ率は史上最高値からマイナス8.35%。
http://kasset.blog.fc2.com/


 25日のNY株。

 ダウは879.44ドル安の2万7081.36ドル、ナスダックも255.67ポイント安の8965.61ポイントと大幅続落。

新型コロナウイルスの不安は、経済渋滞を引き起こし世界株安が続いています。
ダウは昨年10月31日以来約4カ月ぶりの安値。

 ダウが史上最高値から現在−8.35%ですが、昔からのダウの習性で12%下がるとトレンドが変わると言われます。

ダウが12%下がったら上昇トレンドが終わった事を意味しますがまだまだ余裕があります。

 投資会社バークシャー・ハザウェイCEOウォーレン・バフェット氏はダウ1000ドル下げの中で、新型コロナウイルスの感染拡大に懸念を示しながらも、株式を売る時ではないとの見方を示しました。CNBCのインタビューでバフェット氏は、新型ウイルスは「恐ろしいものだ」と述べた上で、「株式の取引に影響することではないと思う」と語りました。
 


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c268

[近代史3] 訪日外国人による観光公害 地元住民の被害は限界 中川隆
13. 中川隆[-13479] koaQ7Jey 2020年2月26日 13:35:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[11]

2020年02月26日
訪日外国人3000万人も経済はマイナス 外国人観光は経済に貢献しない


外国人が何千万人来ても、それで経済成長することは絶対に無い。

引用:http://livedoor.blogimg.jp/kinkiboy/imgs/3/a/3a17fc45.png


訪日外国人が増え続け2019年は3188万人を達成し、この調子なら4000万人も可能だと政府は言っていました。

だが外国人がいくら増えても日本の経済成長率は1%台で、むしろマイナスになっているのは何故でしょうか。


無策のツケを誰が払う?

政府は訪日外国人が3000万人を超えたとして、次は4000万人、その次は6000万人だと言っています。

2011年の原発事故の後、特に安部政権が始まった2013年から訪日客は目だって増加しました。

安倍首相は「訪日外国人が増えたのは自分の手柄だ」と言っていて、それは別に構わない。


だが不思議なのは訪日外国人が3倍以上に成っても日本のGDP成長率が増えていない事で、むしろ外国人が増えるほど経済が悪化している。

訪日外国人が増える事と、日本の経済成長に関係があるのかないのか、議論されませんでした。

皆当たり前のように「訪日客が増えれば経済効果がある」と言っているが、わたしはそう思いません。


訪日外国人がお金を使うのは、お金の流れを見ると輸出と同じで、例えば自動車1台輸出すると300万円分のドルが得られます。

実際は原材料費などを輸入しているので得られるのは1台100万円として、外国人が5人くらい訪日すると、交通費込みでそのくらい使います。

外国人がお金を使うのだから日本は儲かっている、と輸出論者は言うのだが、それは戦前から1980年頃までの話です。


その頃までは通貨は事実上固定相場制で、日本が何台自動車を輸出しても、1ドルは360円や200円で固定されていました。

ところが日本の輸出で大損をしたアメリカはぶち切れてしまい、ある日日本の大蔵大臣をNYに呼んで「今日から変動相場制にするから」と通告しました。

これが1985年のプラザ合意で、以来30年間日本はずっと円高不況で苦しんでいます。


観光業は同じ場所でクルクル回るだけのハムスター経済

引用:http://pds.exblog.jp/pds/1/201209/15/22/f0189122_15113970.jpg

日本はハムスター経済?

変動相場制では輸出すればするほど円高になるので、輸出で儲ける自体不可能で、むしろ輸出するほど損をします。

アメリカのような輸入超過国のほうが儲かるように出来ていて、その為にアメリカはルールを変更したのでした。

固定相場制では「輸出するほど儲かった」が、変動相場制では「輸出するほど罰を受ける」のです。


安倍首相の経済政策をみると、円安に誘導して輸出や観光客を増やしているが、輸出と観光客を増やしても成長率は1%のままです。

なんだかハムスターが車輪を回しているが、同じ場所で自分が走っているだけ、というのを連想してしまいます。

輸出を増やして外国人観光客を増やしたのに日本国が儲かっていないのは何故なのでしょうか?


観光と輸出には一つ大きな問題があり、日本人が働いた成果が国外に流出し、蓄積されない事です。

日本で自動車を生産しアメリカに輸出したら、日本には何もなくなり、アメリカには自動車が1台増えます。

お金という紙切れを受け取る代わりに、高度な工業製品である自動車を渡すのは、あまり有利な取り引きではありません。

アメリカは受け取った自動車を何年か有効に使いますが、日本の自動車メーカーが受け取ったお金は有効に使われているでしょうか。

輸出や観光で経済成長はしない

トヨタやホンダが輸出して得た金は中国や海外に別な工場を建てたりして、日本人には何の恩恵ももたらしはしません。

あるいは企業の内部留保になったり、株価や地価を吊り上げたり、ロクな事に使われないのが現実です。

輸出企業が稼いだ金は社員の給料にならないので、たとえトヨタが100兆円稼いでも日本人の収入は増えない仕組みです。


先進国のGDPの3分の2は個人消費なので、個人=社員の給料が増えない限りGDPは増えません。

観光業も日本人がサービスを提供し外国人が受け取るので、日本人労働者が北京に出稼ぎに行ってるのと同じです。

輸出や観光で日本が受け取った外貨は、一般国民のために使われる事は、まずありません。


外国人旅行者より国内旅行者を増やした方が経済効果が大きいのに、外国人を泊めるために日本人をホテルから追い出しているのです。


この政策を続ける限り、来年も再来年も、日本はゼロから1%成長でしょう。

現代の先進国で輸出中心なのは日本とドイツだけで、他はすべて内需中心で貿易は赤字です。

自国の労働者が外国人の為に働くのではなく、自国の為に働いた国だけが経済成長しています。

貿易黒字の日本より貿易赤字のアメリカの方が、成長力があり儲かっているのはこの為です。
http://www.thutmosev.com/archives/62830797.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/527.html#c13

[近代史3] 外国人が増えると嬉しいか? _ 外人観光客誘致は日本を貧しくしている 中川隆
18. 中川隆[-13478] koaQ7Jey 2020年2月26日 13:36:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[12]

2020年02月26日
訪日外国人3000万人も経済はマイナス 外国人観光は経済に貢献しない


外国人が何千万人来ても、それで経済成長することは絶対に無い。

引用:http://livedoor.blogimg.jp/kinkiboy/imgs/3/a/3a17fc45.png


訪日外国人が増え続け2019年は3188万人を達成し、この調子なら4000万人も可能だと政府は言っていました。

だが外国人がいくら増えても日本の経済成長率は1%台で、むしろマイナスになっているのは何故でしょうか。


無策のツケを誰が払う?

政府は訪日外国人が3000万人を超えたとして、次は4000万人、その次は6000万人だと言っています。

2011年の原発事故の後、特に安部政権が始まった2013年から訪日客は目だって増加しました。

安倍首相は「訪日外国人が増えたのは自分の手柄だ」と言っていて、それは別に構わない。


だが不思議なのは訪日外国人が3倍以上に成っても日本のGDP成長率が増えていない事で、むしろ外国人が増えるほど経済が悪化している。

訪日外国人が増える事と、日本の経済成長に関係があるのかないのか、議論されませんでした。

皆当たり前のように「訪日客が増えれば経済効果がある」と言っているが、わたしはそう思いません。


訪日外国人がお金を使うのは、お金の流れを見ると輸出と同じで、例えば自動車1台輸出すると300万円分のドルが得られます。

実際は原材料費などを輸入しているので得られるのは1台100万円として、外国人が5人くらい訪日すると、交通費込みでそのくらい使います。

外国人がお金を使うのだから日本は儲かっている、と輸出論者は言うのだが、それは戦前から1980年頃までの話です。


その頃までは通貨は事実上固定相場制で、日本が何台自動車を輸出しても、1ドルは360円や200円で固定されていました。

ところが日本の輸出で大損をしたアメリカはぶち切れてしまい、ある日日本の大蔵大臣をNYに呼んで「今日から変動相場制にするから」と通告しました。

これが1985年のプラザ合意で、以来30年間日本はずっと円高不況で苦しんでいます。


観光業は同じ場所でクルクル回るだけのハムスター経済

引用:http://pds.exblog.jp/pds/1/201209/15/22/f0189122_15113970.jpg

日本はハムスター経済?

変動相場制では輸出すればするほど円高になるので、輸出で儲ける自体不可能で、むしろ輸出するほど損をします。

アメリカのような輸入超過国のほうが儲かるように出来ていて、その為にアメリカはルールを変更したのでした。

固定相場制では「輸出するほど儲かった」が、変動相場制では「輸出するほど罰を受ける」のです。


安倍首相の経済政策をみると、円安に誘導して輸出や観光客を増やしているが、輸出と観光客を増やしても成長率は1%のままです。

なんだかハムスターが車輪を回しているが、同じ場所で自分が走っているだけ、というのを連想してしまいます。

輸出を増やして外国人観光客を増やしたのに日本国が儲かっていないのは何故なのでしょうか?


観光と輸出には一つ大きな問題があり、日本人が働いた成果が国外に流出し、蓄積されない事です。

日本で自動車を生産しアメリカに輸出したら、日本には何もなくなり、アメリカには自動車が1台増えます。

お金という紙切れを受け取る代わりに、高度な工業製品である自動車を渡すのは、あまり有利な取り引きではありません。

アメリカは受け取った自動車を何年か有効に使いますが、日本の自動車メーカーが受け取ったお金は有効に使われているでしょうか。

輸出や観光で経済成長はしない

トヨタやホンダが輸出して得た金は中国や海外に別な工場を建てたりして、日本人には何の恩恵ももたらしはしません。

あるいは企業の内部留保になったり、株価や地価を吊り上げたり、ロクな事に使われないのが現実です。

輸出企業が稼いだ金は社員の給料にならないので、たとえトヨタが100兆円稼いでも日本人の収入は増えない仕組みです。


先進国のGDPの3分の2は個人消費なので、個人=社員の給料が増えない限りGDPは増えません。

観光業も日本人がサービスを提供し外国人が受け取るので、日本人労働者が北京に出稼ぎに行ってるのと同じです。

輸出や観光で日本が受け取った外貨は、一般国民のために使われる事は、まずありません。


外国人旅行者より国内旅行者を増やした方が経済効果が大きいのに、外国人を泊めるために日本人をホテルから追い出しているのです。


この政策を続ける限り、来年も再来年も、日本はゼロから1%成長でしょう。

現代の先進国で輸出中心なのは日本とドイツだけで、他はすべて内需中心で貿易は赤字です。

自国の労働者が外国人の為に働くのではなく、自国の為に働いた国だけが経済成長しています。

貿易黒字の日本より貿易赤字のアメリカの方が、成長力があり儲かっているのはこの為です。
http://www.thutmosev.com/archives/62830797.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/185.html#c18

[リバイバル3] 廃墟と化した水上温泉 中川隆
146. 中川隆[-13477] koaQ7Jey 2020年2月26日 13:37:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[13]

2020年02月26日
訪日外国人3000万人も経済はマイナス 外国人観光は経済に貢献しない


外国人が何千万人来ても、それで経済成長することは絶対に無い。

引用:http://livedoor.blogimg.jp/kinkiboy/imgs/3/a/3a17fc45.png


訪日外国人が増え続け2019年は3188万人を達成し、この調子なら4000万人も可能だと政府は言っていました。

だが外国人がいくら増えても日本の経済成長率は1%台で、むしろマイナスになっているのは何故でしょうか。


無策のツケを誰が払う?

政府は訪日外国人が3000万人を超えたとして、次は4000万人、その次は6000万人だと言っています。

2011年の原発事故の後、特に安部政権が始まった2013年から訪日客は目だって増加しました。

安倍首相は「訪日外国人が増えたのは自分の手柄だ」と言っていて、それは別に構わない。


だが不思議なのは訪日外国人が3倍以上に成っても日本のGDP成長率が増えていない事で、むしろ外国人が増えるほど経済が悪化している。

訪日外国人が増える事と、日本の経済成長に関係があるのかないのか、議論されませんでした。

皆当たり前のように「訪日客が増えれば経済効果がある」と言っているが、わたしはそう思いません。


訪日外国人がお金を使うのは、お金の流れを見ると輸出と同じで、例えば自動車1台輸出すると300万円分のドルが得られます。

実際は原材料費などを輸入しているので得られるのは1台100万円として、外国人が5人くらい訪日すると、交通費込みでそのくらい使います。

外国人がお金を使うのだから日本は儲かっている、と輸出論者は言うのだが、それは戦前から1980年頃までの話です。


その頃までは通貨は事実上固定相場制で、日本が何台自動車を輸出しても、1ドルは360円や200円で固定されていました。

ところが日本の輸出で大損をしたアメリカはぶち切れてしまい、ある日日本の大蔵大臣をNYに呼んで「今日から変動相場制にするから」と通告しました。

これが1985年のプラザ合意で、以来30年間日本はずっと円高不況で苦しんでいます。


観光業は同じ場所でクルクル回るだけのハムスター経済

引用:http://pds.exblog.jp/pds/1/201209/15/22/f0189122_15113970.jpg

日本はハムスター経済?

変動相場制では輸出すればするほど円高になるので、輸出で儲ける自体不可能で、むしろ輸出するほど損をします。

アメリカのような輸入超過国のほうが儲かるように出来ていて、その為にアメリカはルールを変更したのでした。

固定相場制では「輸出するほど儲かった」が、変動相場制では「輸出するほど罰を受ける」のです。


安倍首相の経済政策をみると、円安に誘導して輸出や観光客を増やしているが、輸出と観光客を増やしても成長率は1%のままです。

なんだかハムスターが車輪を回しているが、同じ場所で自分が走っているだけ、というのを連想してしまいます。

輸出を増やして外国人観光客を増やしたのに日本国が儲かっていないのは何故なのでしょうか?


観光と輸出には一つ大きな問題があり、日本人が働いた成果が国外に流出し、蓄積されない事です。

日本で自動車を生産しアメリカに輸出したら、日本には何もなくなり、アメリカには自動車が1台増えます。

お金という紙切れを受け取る代わりに、高度な工業製品である自動車を渡すのは、あまり有利な取り引きではありません。

アメリカは受け取った自動車を何年か有効に使いますが、日本の自動車メーカーが受け取ったお金は有効に使われているでしょうか。

輸出や観光で経済成長はしない

トヨタやホンダが輸出して得た金は中国や海外に別な工場を建てたりして、日本人には何の恩恵ももたらしはしません。

あるいは企業の内部留保になったり、株価や地価を吊り上げたり、ロクな事に使われないのが現実です。

輸出企業が稼いだ金は社員の給料にならないので、たとえトヨタが100兆円稼いでも日本人の収入は増えない仕組みです。


先進国のGDPの3分の2は個人消費なので、個人=社員の給料が増えない限りGDPは増えません。

観光業も日本人がサービスを提供し外国人が受け取るので、日本人労働者が北京に出稼ぎに行ってるのと同じです。

輸出や観光で日本が受け取った外貨は、一般国民のために使われる事は、まずありません。


外国人旅行者より国内旅行者を増やした方が経済効果が大きいのに、外国人を泊めるために日本人をホテルから追い出しているのです。


この政策を続ける限り、来年も再来年も、日本はゼロから1%成長でしょう。

現代の先進国で輸出中心なのは日本とドイツだけで、他はすべて内需中心で貿易は赤字です。

自国の労働者が外国人の為に働くのではなく、自国の為に働いた国だけが経済成長しています。

貿易黒字の日本より貿易赤字のアメリカの方が、成長力があり儲かっているのはこの為です。
http://www.thutmosev.com/archives/62830797.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/624.html#c146

[近代史3] 日本円と日本の物価は異常に安過ぎる _ 1ドル=50円 が適正価格 中川隆
28. 中川隆[-13476] koaQ7Jey 2020年2月26日 13:40:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[14]

2020年02月26日
訪日外国人3000万人も経済はマイナス 外国人観光は経済に貢献しない


外国人が何千万人来ても、それで経済成長することは絶対に無い。

引用:http://livedoor.blogimg.jp/kinkiboy/imgs/3/a/3a17fc45.png


訪日外国人が増え続け2019年は3188万人を達成し、この調子なら4000万人も可能だと政府は言っていました。

だが外国人がいくら増えても日本の経済成長率は1%台で、むしろマイナスになっているのは何故でしょうか。


無策のツケを誰が払う?

政府は訪日外国人が3000万人を超えたとして、次は4000万人、その次は6000万人だと言っています。

2011年の原発事故の後、特に安部政権が始まった2013年から訪日客は目だって増加しました。

安倍首相は「訪日外国人が増えたのは自分の手柄だ」と言っていて、それは別に構わない。


だが不思議なのは訪日外国人が3倍以上に成っても日本のGDP成長率が増えていない事で、むしろ外国人が増えるほど経済が悪化している。

訪日外国人が増える事と、日本の経済成長に関係があるのかないのか、議論されませんでした。

皆当たり前のように「訪日客が増えれば経済効果がある」と言っているが、わたしはそう思いません。


訪日外国人がお金を使うのは、お金の流れを見ると輸出と同じで、例えば自動車1台輸出すると300万円分のドルが得られます。

実際は原材料費などを輸入しているので得られるのは1台100万円として、外国人が5人くらい訪日すると、交通費込みでそのくらい使います。

外国人がお金を使うのだから日本は儲かっている、と輸出論者は言うのだが、それは戦前から1980年頃までの話です。


その頃までは通貨は事実上固定相場制で、日本が何台自動車を輸出しても、1ドルは360円や200円で固定されていました。

ところが日本の輸出で大損をしたアメリカはぶち切れてしまい、ある日日本の大蔵大臣をNYに呼んで「今日から変動相場制にするから」と通告しました。

これが1985年のプラザ合意で、以来30年間日本はずっと円高不況で苦しんでいます。


観光業は同じ場所でクルクル回るだけのハムスター経済

引用:http://pds.exblog.jp/pds/1/201209/15/22/f0189122_15113970.jpg

日本はハムスター経済?

変動相場制では輸出すればするほど円高になるので、輸出で儲ける自体不可能で、むしろ輸出するほど損をします。

アメリカのような輸入超過国のほうが儲かるように出来ていて、その為にアメリカはルールを変更したのでした。

固定相場制では「輸出するほど儲かった」が、変動相場制では「輸出するほど罰を受ける」のです。


安倍首相の経済政策をみると、円安に誘導して輸出や観光客を増やしているが、輸出と観光客を増やしても成長率は1%のままです。

なんだかハムスターが車輪を回しているが、同じ場所で自分が走っているだけ、というのを連想してしまいます。

輸出を増やして外国人観光客を増やしたのに日本国が儲かっていないのは何故なのでしょうか?


観光と輸出には一つ大きな問題があり、日本人が働いた成果が国外に流出し、蓄積されない事です。

日本で自動車を生産しアメリカに輸出したら、日本には何もなくなり、アメリカには自動車が1台増えます。

お金という紙切れを受け取る代わりに、高度な工業製品である自動車を渡すのは、あまり有利な取り引きではありません。

アメリカは受け取った自動車を何年か有効に使いますが、日本の自動車メーカーが受け取ったお金は有効に使われているでしょうか。

輸出や観光で経済成長はしない

トヨタやホンダが輸出して得た金は中国や海外に別な工場を建てたりして、日本人には何の恩恵ももたらしはしません。

あるいは企業の内部留保になったり、株価や地価を吊り上げたり、ロクな事に使われないのが現実です。

輸出企業が稼いだ金は社員の給料にならないので、たとえトヨタが100兆円稼いでも日本人の収入は増えない仕組みです。


先進国のGDPの3分の2は個人消費なので、個人=社員の給料が増えない限りGDPは増えません。

観光業も日本人がサービスを提供し外国人が受け取るので、日本人労働者が北京に出稼ぎに行ってるのと同じです。

輸出や観光で日本が受け取った外貨は、一般国民のために使われる事は、まずありません。


外国人旅行者より国内旅行者を増やした方が経済効果が大きいのに、外国人を泊めるために日本人をホテルから追い出しているのです。


この政策を続ける限り、来年も再来年も、日本はゼロから1%成長でしょう。

現代の先進国で輸出中心なのは日本とドイツだけで、他はすべて内需中心で貿易は赤字です。

自国の労働者が外国人の為に働くのではなく、自国の為に働いた国だけが経済成長しています。

貿易黒字の日本より貿易赤字のアメリカの方が、成長力があり儲かっているのはこの為です。
http://www.thutmosev.com/archives/62830797.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/189.html#c28

[近代史3] 輸出企業が日本を滅ぼす _ 輸出超過額と対外資産が増える程 日本人はどんどん貧しくなっていく 中川隆
16. 中川隆[-13475] koaQ7Jey 2020年2月26日 13:41:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[15]

2020年02月26日
訪日外国人3000万人も経済はマイナス 外国人観光は経済に貢献しない


外国人が何千万人来ても、それで経済成長することは絶対に無い。

引用:http://livedoor.blogimg.jp/kinkiboy/imgs/3/a/3a17fc45.png


訪日外国人が増え続け2019年は3188万人を達成し、この調子なら4000万人も可能だと政府は言っていました。

だが外国人がいくら増えても日本の経済成長率は1%台で、むしろマイナスになっているのは何故でしょうか。


無策のツケを誰が払う?

政府は訪日外国人が3000万人を超えたとして、次は4000万人、その次は6000万人だと言っています。

2011年の原発事故の後、特に安部政権が始まった2013年から訪日客は目だって増加しました。

安倍首相は「訪日外国人が増えたのは自分の手柄だ」と言っていて、それは別に構わない。


だが不思議なのは訪日外国人が3倍以上に成っても日本のGDP成長率が増えていない事で、むしろ外国人が増えるほど経済が悪化している。

訪日外国人が増える事と、日本の経済成長に関係があるのかないのか、議論されませんでした。

皆当たり前のように「訪日客が増えれば経済効果がある」と言っているが、わたしはそう思いません。


訪日外国人がお金を使うのは、お金の流れを見ると輸出と同じで、例えば自動車1台輸出すると300万円分のドルが得られます。

実際は原材料費などを輸入しているので得られるのは1台100万円として、外国人が5人くらい訪日すると、交通費込みでそのくらい使います。

外国人がお金を使うのだから日本は儲かっている、と輸出論者は言うのだが、それは戦前から1980年頃までの話です。


その頃までは通貨は事実上固定相場制で、日本が何台自動車を輸出しても、1ドルは360円や200円で固定されていました。

ところが日本の輸出で大損をしたアメリカはぶち切れてしまい、ある日日本の大蔵大臣をNYに呼んで「今日から変動相場制にするから」と通告しました。

これが1985年のプラザ合意で、以来30年間日本はずっと円高不況で苦しんでいます。


観光業は同じ場所でクルクル回るだけのハムスター経済

引用:http://pds.exblog.jp/pds/1/201209/15/22/f0189122_15113970.jpg

日本はハムスター経済?

変動相場制では輸出すればするほど円高になるので、輸出で儲ける自体不可能で、むしろ輸出するほど損をします。

アメリカのような輸入超過国のほうが儲かるように出来ていて、その為にアメリカはルールを変更したのでした。

固定相場制では「輸出するほど儲かった」が、変動相場制では「輸出するほど罰を受ける」のです。


安倍首相の経済政策をみると、円安に誘導して輸出や観光客を増やしているが、輸出と観光客を増やしても成長率は1%のままです。

なんだかハムスターが車輪を回しているが、同じ場所で自分が走っているだけ、というのを連想してしまいます。

輸出を増やして外国人観光客を増やしたのに日本国が儲かっていないのは何故なのでしょうか?


観光と輸出には一つ大きな問題があり、日本人が働いた成果が国外に流出し、蓄積されない事です。

日本で自動車を生産しアメリカに輸出したら、日本には何もなくなり、アメリカには自動車が1台増えます。

お金という紙切れを受け取る代わりに、高度な工業製品である自動車を渡すのは、あまり有利な取り引きではありません。

アメリカは受け取った自動車を何年か有効に使いますが、日本の自動車メーカーが受け取ったお金は有効に使われているでしょうか。

輸出や観光で経済成長はしない

トヨタやホンダが輸出して得た金は中国や海外に別な工場を建てたりして、日本人には何の恩恵ももたらしはしません。

あるいは企業の内部留保になったり、株価や地価を吊り上げたり、ロクな事に使われないのが現実です。

輸出企業が稼いだ金は社員の給料にならないので、たとえトヨタが100兆円稼いでも日本人の収入は増えない仕組みです。


先進国のGDPの3分の2は個人消費なので、個人=社員の給料が増えない限りGDPは増えません。

観光業も日本人がサービスを提供し外国人が受け取るので、日本人労働者が北京に出稼ぎに行ってるのと同じです。

輸出や観光で日本が受け取った外貨は、一般国民のために使われる事は、まずありません。


外国人旅行者より国内旅行者を増やした方が経済効果が大きいのに、外国人を泊めるために日本人をホテルから追い出しているのです。


この政策を続ける限り、来年も再来年も、日本はゼロから1%成長でしょう。

現代の先進国で輸出中心なのは日本とドイツだけで、他はすべて内需中心で貿易は赤字です。

自国の労働者が外国人の為に働くのではなく、自国の為に働いた国だけが経済成長しています。

貿易黒字の日本より貿易赤字のアメリカの方が、成長力があり儲かっているのはこの為です。
http://www.thutmosev.com/archives/62830797.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/187.html#c16

[リバイバル3] 北海道の最低市町村ランキング 中川隆
218. 中川隆[-13474] koaQ7Jey 2020年2月26日 13:48:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[16]
2020年02月26日
コロナは春になれば収まる? 関西以南で沈静化し北海道で増加


2月22日を最後に関西以南で感染者は出ていない
これは関西の気温上昇と一致している

画像引用:【毎日更新】新型コロナウイルス都道府県別の感染者人数まとめ|日本の死者も | コミカルピースhttps://comical-piece.com/korona-virus-japan/

感染者数に南北で偏り

日本国内の新型コロナウイルス感染者数は2月25日時点で169人(チャーター機14人含む)になりました。

一日の増加ペースは10人以上で明らかに日本人から日本人への感染で広まっています。

特に新規感染者が多いのは北海道で、毎日10人近くが新たに感染しています。


東京や神奈川も新たな感染者が発生しているが、愛知県を境に関西より西では2月22日の和歌山を最後に発生していない。

九州や沖縄は中国からの観光客が多く、最初の頃に感染者が見つかったが、地域内での拡大は見られなかった。

このように南や西の地域では地域内での感染拡大が見られず、北海道では爆発的に増加している。


すぐに気づくのは最も感染が拡大している北海道は気温が低く、気温が高い九州や沖縄では感染者が出ても増えなかった事です。

最近の気温は沖縄は最低12度から最高24度、福岡は2度から18度でした。

大阪は2度から15度、名古屋も同じで東京は4度から18度、最近多い札幌はマイナス5度からプラス5度でした。


2月20日以降西日本では最高気温が10度以上になり、新たな感染者は発見されなくなっています。

2月21日に福岡県で1人発見されたのを最後に九州では感染者が出ておらず、愛知も2月23日が最後でした

こうしてみると2月20日以降の感染者のほとんどが降雪地帯ですが、東北地方では感染者はほとんど出ていません。

日本政府の唯一の希望は春になれば収まる事

感染者が出ているのはいわゆる観光県で関西空港と成田空港から各地の観光地に広まっている。

北海道は最も気温が低いい上ニセコなど有名観光地が多く、今も中国からの個人観光客を受け入れている。

書いている間にも状況は刻々と変わっているが、寒い観光地に感染者が集中する傾向は同じでしょう。


北海道の感染者数は2月25日までに35人と関東以外で最多となっていて、まだしばらく寒い時期が続きます。

一方東京周辺は3月になると急速に気温が上昇し、3月初めで最高気温15度以上、中旬には20度を超えるようになります。

気温が上がると感染者が増えない法則性があるなら、3月になれば関東の感染は沈静化すると予測できます。


日本政府は2月25日に新たな感染防止策を取りまとめたが、残念ながら中国や韓国からの渡航制限は含まれなかった。

徹底した感染防止策というものはなく、「手を洗いましょう」とか「外出を控えましょう」という信じがたいレベルでした。

政府は成り行きにまかせて静観するようだが、唯一の希望は3月になれば気温が上昇し、日本本土の感染は収まるという事です。


インフルエンザなど多くのウイルスは気温が低い時期に流行し、気温が上昇すると沈静化するパターンがあります。

これは各国の生活習慣や住居の構造も関係するので、「東南アジアでも発生したから春になっても沈静化しない」というものではないです。

日本列島は南北に長く、沖縄から北海道まで同一国家で衛生状況などがほぼ同じ、そして南ほど感染者が少なく北の北海道は多い。


中国では武漢で最初発生したが、少なくとも上海など南方地域で大流行はしませんでした。

武漢の1月の気温は最低0度で最高10度くらいの日が多く、年間で最も寒い時期に大流行が起きました。

こうした事も新型コロナは寒い時期程感染力が強く、温かい時期に感染しにくくなると推測させる。
http://www.thutmosev.com/archives/82299192.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/588.html#c218

[近代史3] 人類進化史 中川隆
43. 中川隆[-13473] koaQ7Jey 2020年2月26日 14:48:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[18]
2020年02月26日
青木健一
「現生人類の到着より遅れて出現する現代人的な石器 現生人類分布拡大の二重波モデル」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_51.html


 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。現生人類(Homo sapiens)はアフリカから世界中への拡散の過程で、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)といった非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と遭遇しました。本論文は、ネアンデルタール人やデニソワ人は現生人類と同等な繁殖能力や認知能力を有していたという仮定において、古代型ホモ属と現生人類との間の文化に関する問題を検証しています。

 本論文が問題としているのは、古代型ホモ属が先住している地域への現生人類の拡散と、その地域での現生人類的な石器(小石刃・細石器・背付き石器・尖頭器など)の出現に時間差があることです。つまり、石器文化の変化と人類系統の交替が必ずしも対応していない、ということです。このズレはヨーロッパでも見られますが、中国を中心とするアジア東部で顕著です。とくに中国北部では、現生人類の出現と石器伝統の変化が必ずしも対応していないかもしれない、と指摘されています(関連記事)。本論文は、集団の人口と文化水準が連動し、分布を拡大する現生人類と先住の古代型ホモ属の間の資源をめぐる種間競争モデルを想定し、数学的な手法により集団変化を予測するとともに、そのモデルに基づいて、アジア東部における現代人的な石器の出現が現生人類の到達より遅れたとされる現象を解釈します。

 本論文で理論的考察のモデルは、ネアンデルタール人と現生人類との「交替劇」を考察するために著者たちが提案しました。モデルとはそもそも、複雑すぎる現実の中から本質的と思われる要素を抽出し、それらの間の関係性を強引かつ定量的に設定するもので、現実と(はなはだしく)乖離しているといっても過言ではなく、モデルから導かれる予測を現実に適用するには解釈が重要になる、と本論文は指摘します。本論文は「集団」という用語を10〜100人程度の規模と想定し、集団規模が大きいほど、その文化水準(道具の種類数が多く、高機能なものが含まれるなど)は高い、と理論的に予測されます。人口が多いほどアイデアが多く生まれ、多様な技術が共存でき、特別に知能の発達した人が含まれる可能性は高い、と考えられるからです。逆に、文化水準が高いほど人口が維持できる、とも予測できます。ただ、獲物の乱獲により人口を維持できなくなる危険性も伴う、と本論文は指摘します。

 本論文はこれらを踏まえたうえで、学習可能な技術を想定し、この技術の所持者が多い集団ほど、文化水準が高いと仮定します。この技術は、他者を模倣して習得されるか、失敗した場合は、試行錯誤などにより自力で習得できる、と仮定されます。自力習得される技術は、同じ目的を果たすのであれば、既存のものと完全に一致する必要はありません。また、一定の割合の者は習得した技術を忘却する、と仮定されます。本論文のモデルは、人口が多いほど技術所持者も多い、と予測されます。人口動態は、環境収容力に制約されます。また、技術の難易度も考慮されます。

 本論文はこれらを踏まえて、古代型ホモ属の先住地域に現生人類が拡大してきた事例を検証します。両者の間では文化的接触がなく、交雑第一世代は古代型ホモ属と現生人類のどちらかの社会に吸収される、と仮定されます。不均一な地形や変動する気候の影響は無視されます。ここまでの仮定では、古代型ホモ属と現生人類は同等に設定されており、現生人類の分布拡大と古代型ホモ属の絶滅は起こり得ません。そこで本論文は、この対称性を崩す条件として、初期条件の違いを新たに設定します。アフリカおよびレヴァントの初期現生人類は高人口高文化水準にあり、レヴァントを除くユーラシアの古代型ホモ属は、低人口低文化水準だった、と想定されます。

 このモデルでは、現生人類の分布拡大に伴い、古代型ホモ属の分布域は縮小していきます。古代型ホモ属のみの地域と現生人類のみの地域では、人口文化水準は以前と変わらず、前者が低く、後者は高いままです。しかし、現生人類と古代型ホモ属とが共存する地域では、人口文化水準は古代型ホモ属のみの地域よりもさらに低くなります。これは、古代型ホモ属も現生人類も種間競争の影響で人口がきょくたんに少なくなっている、と予測されるからです。この現生人類の分布拡大は、二重波モデルとして表されます。第一波は、まだ先住の古代型ホモ属が存在する地域への拡大で、第二波は、すでに現生人類のみの地域への拡大です。第一波の速度は第二波より速い、と予測されます。また、古代型ホモ属が現生人類と共存しながらアフリカに到達することは、遺伝学と考古学の証拠に反するので、そうならないよう、技術難易度を表すパラメタに上限が設定されます。

 第一波が第二波より速いため、各地点への両者の到着に時間差が生じます。種間競争が弱く、文化水準に関わる技術難易度が高いほど、時間差が大きくなります。また、第一波と第二波の速度は一定と仮定されるため、現生人類の起源地であるアフリカから遠くなるほど、時間差が大きくなります。集団中の技術所持者数がその集団の文化水準を決定する、と仮定されているので、人口の少ない第一波の現生人類集団では、現代人的な石器は製作されてもわずかで、遺物として残らないか発見されいな可能性も考えられる、と本論文は指摘します。一方、第二波の現生人類集団は高人口高文化水準なので、現代人的な石器が見られる、と予測されます。これが、アフリカから遠いアジア東部において、現生人類の到達と現代人的な石器の出現の時間差が大きい理由だろう、と本論文は指摘します。また本論文は、遺伝学の研究では、第二次出アフリカ後の現生人類の人口が1万年以上の長期間激減し、ボトルネック(瓶首効果)が起きたことも、現生人類と古代型ホモ属とが共存する地域での低人口密度を表しているかもしれない、と指摘します。

 本論文は、アフリカ起源の現生人類が高人口高文化水準、ユーラシアの古代型ホモ属が低人口低文化水準と設定し、現生人類のアフリカから世界中への拡散と、古代型ホモ属の絶滅を説明しました。ただ、現生人類も最初は低人口低文化水準だったと考えられます。本論文は、低人口低文化水準から高人口高文化水準への移行には3段階あった、と推測しています。まず、低人口低文化水準の集団がある地域に複数存在する状況において、そのうち1集団で人口と技術所持者が偶然に少し増えて、高人口高文化水準の平衡点の吸引域に入り、その後に高人口高文化水準の平衡点に収束します。高人口高文化水準に達した集団から地域内の他集団への人の移住があれば、受け入れ側の集団でも高人口高文化水準状態への遷移が可能となります。こうして、地域内集団の多くが、一種の連鎖反応により高文化水準に次々と遷移します。本論文は、こうした平衡遷移過程が起きやすい場として、氷期の繰り返しのような地球規模の環境劣化の中、生物がかろうじて生存できる比較的好条件のレフュージア(待避地)を挙げます。平衡遷移過程には集団間の移住率が重要で、低すぎても高すぎても働きません。ただ、平衡遷移過程は条件が整っても作動するとは限らず、偶然が伴う、とも指摘されています。地球規模の環境が改善すると、退避地が分布拡大の起点になり得ます。具体例としては、2万年前頃の最終氷期極大期の後のヨーロッパが挙げられています。

 このような平衡遷移過程が現生人類のみで起きた理由について、本論文は不明としています。近親交配の証拠(関連記事)から示唆されるように、古代型ホモ属の集団は孤立しており、集団間の移住がきわめて限定的だったのかもしれません。また本論文では、アジア東部への現生人類および現代人的な石器の到来は同一経路だったとの前提が採用されていますが、じっさいには南北2経路の可能性が高い、と指摘されています。本論文が指摘するように、上述のモデルから導かれる予測を現実に適用するには解釈が重要になり、そのための証拠は、とくに遺伝学において急速に蓄積されつつあります。本論文のモデルは現生人類の拡散の解明に大きく貢献できそうですが、より妥当な仮説の提示には、遺骸・DNA・遺物などの具体的証拠が必要となります。


参考文献:
青木健一(2020)「現生人類の到着より遅れて出現する現代人的な石器 現生人類分布拡大の二重波モデル」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第6章P199-220

https://sicambre.at.webry.info/202002/article_51.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/581.html#c43

[近代史3] 欧州で増える貧困層 イギリスではフードバンク難民が100万人以上 中川隆
4. 中川隆[-13472] koaQ7Jey 2020年2月26日 14:56:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[19]
イギリスは、社会不安が「巨大暴動」という形で再燃してもおかしくない状況に 2020.02.26

イギリスもまた超格差社会である。『今日のイギリスは、先進国の中で最も不平等な国の1つ』と英社会学部教授は指摘する。

イギリスでは5人に1人が貧困状態で暮らしている。50万人近くがフードバンクを利用している。女性の中には生理用品が買えないという理由で学校を休んでいる女性もいるほどだ。(鈴木傾城)

先進国の中で最も不平等な国の1つ、イギリス

EU(欧州連合)離脱を成し遂げたイギリスのボリス・ジョンソン首相だが、EUを脱退したからと言ってイギリスが急に明るい国になるわけではない。イギリス国内はグローバル化の毒が社会の隅々にまで染み渡っている。

私たちはアメリカが激しい競争社会であり、格差がとめどなく広がっているいびつな社会であることは知っている。しかし、イギリスもそうなっているというのはあまり知らない。

イギリスもまた超格差社会である。『今日のイギリスは、先進国の中で最も不平等な国の1つ』と英社会学部教授は指摘する。

イギリスでは5人に1人が貧困状態で暮らしている。50万人近くがフードバンクを利用している。女性の中には生理用品が買えないという理由で学校を休んでいる女性もいるほどだ。

さらに子供の貧困も凄まじく、100万人の子供が適切な住居で暮らしておらず、空腹のまま学校に行かざるを得ない状況に陥っていると言われている。

ホームレスも増えて、バッキンガム宮殿のまわりにもホームレスだらけと化している。移民もまた昨今の不景気で次々とホームレス化している。

途上国の話ではない。イギリスの話である。

イギリスに来て成功している移民もいるが、逆に苦境に堕ちている移民も多い。低賃金と不安定な雇用でいつまで経っても生活の基盤が安定せず、白人系の低所得層と共に貧困に喘いで対立している。


人種問題・移民問題・差別問題・格差問題・貧困問題

イギリスの最底辺は荒廃している。

イギリスでは2011年7月23日にエイミー・ワインハウスという女性シンガーがドラッグとアルコールの過剰摂取で死んだ。彼女は家の近くの路地でいつもコカインを手に入れていた。

彼女はスラムに住んでいたわけではなく、ちゃんとしたところに住んでいたのだが、それでもドラッグの売人が路上で危険な薬物を売買する環境にあったのだ。

(ブラックアジア:エイミー・ワインハウス。名前にふさわしい死を迎えた歌手)

彼女が絶命した1ヶ月後、イギリスでは大規模な暴動が起きていたのも記憶に新しい。

これはロンドン北部にあるトッテナムで、29歳の黒人の男が警察官に射殺されたことで自然発生的に起きた暴動だった。

この射殺は不当だったとして家族と地元住民が警察署に抗議デモを行ったのだが、それを聞きつけて多くの黒人たちが警察署を取り囲み、日頃の警察官による差別的な言動を激しく抗議する状況になった。

こうしているうちに興奮した抗議デモ参加者の何人かがバスに放火したり、建物を壊し始め、あっと言う間に抗議デモが破壊と略奪を含む暴動と化した。

そこに社会の底辺で仕事もなく鬱屈していた白人の男たちも乗りかかった。そのため、暴動と破壊と放火は急拡大して他都市にも拡散していった。この暴動には人種問題・移民問題・差別問題・格差問題・貧困問題のすべてが爆発したものだった。
イギリスは、2008年のリーマン・ショックで直接的ダメージを受けた国のひとつで、その後も2010年のドバイ・ショックにも巻き込まれ、ギリシャ・ショックにも巻き込まれ、2011年は出口のない不況にもがいていた。

多くの若者が失業し、暴動が起きたトッテナム地区に限って言えば、失業率は20%近くもあった。

この20%が爆発したのが2011年8月のイギリス暴動だった。


EUを脱退してもグローバル経済から脱退できない

しかしながら、底辺の国民がいくらイギリス政府に不満をぶつけたところで事態は改善される見込みはなかった。経済的苦境はイギリス政府だけが問題なのではなく、先進国すべての問題になっていたからだ。

言うならば、グローバル経済という一国ではどうにもならない弱肉強食の資本主義システムでは、「労働者」はもはや単なるコストであり、使い捨ての対象なのである。

イギリスでもこうした状況が放置され続け、大量の移民が入り込んでますます労働環境が悪化していき、ついに移民反対派が反旗を翻してEU脱退を迎えることになった。

しかし、イギリスがEUを脱退したからと言って、すぐに格差問題や貧困問題が解決されるわけでもないし、「人種問題・移民問題・差別問題・格差問題・貧困問題」が解決されるわけでもない。

イギリスはEUを脱退しても、「グローバル経済」から脱退できない。今後も多国籍企業が下層の労働者を使い捨てにしながら肥え太っていくシステムは変わらない。
多国籍企業は、常に安い労働力を探して、労働力を安価で使うだけ使って、用済みになったら労働者を捨てるか、工場ごと捨てて去っていく。

労働者は使い捨てなので、労働環境を整えるとか終身雇用で面倒を見るような「コストのかかること」は絶対にしない。そうやって多国籍企業は世界の労働市場を荒らし回って莫大な利益を貯め込み、税金も回避して世界中を逃げ回る。
アップルも、グーグルも、アマゾンも、マクドナルドも、スターバックスも、世界各国で莫大な利益を計上しながら税金をうまくすり抜けているのを咎められて、あちこちの国で追徴課税命令を受けている。

しかし、これらは氷山の一角でしかない。

莫大な利益は巧みに隠され、株主と経営者と言ったステークスホルダーがその利益にありつき、労働者は賃金を抑えられた上に酷税が敷かれてどんどん貧しくなっていく。

人間の歴史の中で変わらない普遍的な方式とは?

かくしてイギリスの底辺では貧困が定着したまま放置され、怒りが充満したまま現在に至っている。このままではイギリスは再び巨大な暴動が起きるのではないかと噂する人もいる。

「貧困の増大と社会システムの行き詰まりは暴力を産み出す」という社会現象は、人間の歴史の中で変わらない普遍的な方式でもある。これらの根っこにあるのは、まさに貧困の増大と社会システムの行き詰まりだ。

イギリスにはそれが顕著になっている。だから、私自身もイギリスではEU脱退による後遺症が広がると、再度、大きな社会不安が巨大暴動という形で再燃してもおかしくないと考えている。

果たしてボリス・ジョンソン首相は、うまく舵取りができるのだろうか。
まずいことに、今後のイギリスはEUと切り離された形で生きていかなければならないのだが、そこに中国発の新型コロナウイルス問題が湧き上がっている。世界経済は暗転する。そのダメージをイギリスはまともに食らうことになる。

つまり、イギリスが経済的苦境に堕ちるのは確実な情勢となっている。

そうであれば最も大きな影響を受けるのがアンダークラス(貧困層)である。イギリスで2011年の大規模暴動が再現するような事態になっても不思議ではない。
今でもイギリスの底辺では経済環境の悪化に追い詰められる人たちが増えており、ますます不満と怒りをマグマのように溜めているのである。まさに「貧困の増大と社会システムの行き詰まり」の真っ只中だ。

イギリス社会がこの問題をどうやって解決できるのか誰も分からない。


『分解するイギリス: 民主主義モデルの漂流(近藤 康史 )』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4480069704/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=asyuracom-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4480069704&linkId=0285d334d40558ea6b00a9c46899fad9
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/803.html#c4

[近代史3] 階級社会イギリスは、オーウェルの「1984年」監視社会を実現した、最初の国だった 中川隆
1. 中川隆[-13471] koaQ7Jey 2020年2月26日 14:57:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[20]

イギリスは、社会不安が「巨大暴動」という形で再燃してもおかしくない状況に 2020.02.26

イギリスもまた超格差社会である。『今日のイギリスは、先進国の中で最も不平等な国の1つ』と英社会学部教授は指摘する。

イギリスでは5人に1人が貧困状態で暮らしている。50万人近くがフードバンクを利用している。女性の中には生理用品が買えないという理由で学校を休んでいる女性もいるほどだ。(鈴木傾城)

先進国の中で最も不平等な国の1つ、イギリス

EU(欧州連合)離脱を成し遂げたイギリスのボリス・ジョンソン首相だが、EUを脱退したからと言ってイギリスが急に明るい国になるわけではない。イギリス国内はグローバル化の毒が社会の隅々にまで染み渡っている。

私たちはアメリカが激しい競争社会であり、格差がとめどなく広がっているいびつな社会であることは知っている。しかし、イギリスもそうなっているというのはあまり知らない。

イギリスもまた超格差社会である。『今日のイギリスは、先進国の中で最も不平等な国の1つ』と英社会学部教授は指摘する。

イギリスでは5人に1人が貧困状態で暮らしている。50万人近くがフードバンクを利用している。女性の中には生理用品が買えないという理由で学校を休んでいる女性もいるほどだ。

さらに子供の貧困も凄まじく、100万人の子供が適切な住居で暮らしておらず、空腹のまま学校に行かざるを得ない状況に陥っていると言われている。

ホームレスも増えて、バッキンガム宮殿のまわりにもホームレスだらけと化している。移民もまた昨今の不景気で次々とホームレス化している。

途上国の話ではない。イギリスの話である。

イギリスに来て成功している移民もいるが、逆に苦境に堕ちている移民も多い。低賃金と不安定な雇用でいつまで経っても生活の基盤が安定せず、白人系の低所得層と共に貧困に喘いで対立している。


人種問題・移民問題・差別問題・格差問題・貧困問題

イギリスの最底辺は荒廃している。

イギリスでは2011年7月23日にエイミー・ワインハウスという女性シンガーがドラッグとアルコールの過剰摂取で死んだ。彼女は家の近くの路地でいつもコカインを手に入れていた。

彼女はスラムに住んでいたわけではなく、ちゃんとしたところに住んでいたのだが、それでもドラッグの売人が路上で危険な薬物を売買する環境にあったのだ。

(ブラックアジア:エイミー・ワインハウス。名前にふさわしい死を迎えた歌手)

彼女が絶命した1ヶ月後、イギリスでは大規模な暴動が起きていたのも記憶に新しい。

これはロンドン北部にあるトッテナムで、29歳の黒人の男が警察官に射殺されたことで自然発生的に起きた暴動だった。

この射殺は不当だったとして家族と地元住民が警察署に抗議デモを行ったのだが、それを聞きつけて多くの黒人たちが警察署を取り囲み、日頃の警察官による差別的な言動を激しく抗議する状況になった。

こうしているうちに興奮した抗議デモ参加者の何人かがバスに放火したり、建物を壊し始め、あっと言う間に抗議デモが破壊と略奪を含む暴動と化した。

そこに社会の底辺で仕事もなく鬱屈していた白人の男たちも乗りかかった。そのため、暴動と破壊と放火は急拡大して他都市にも拡散していった。この暴動には人種問題・移民問題・差別問題・格差問題・貧困問題のすべてが爆発したものだった。
イギリスは、2008年のリーマン・ショックで直接的ダメージを受けた国のひとつで、その後も2010年のドバイ・ショックにも巻き込まれ、ギリシャ・ショックにも巻き込まれ、2011年は出口のない不況にもがいていた。

多くの若者が失業し、暴動が起きたトッテナム地区に限って言えば、失業率は20%近くもあった。

この20%が爆発したのが2011年8月のイギリス暴動だった。


EUを脱退してもグローバル経済から脱退できない

しかしながら、底辺の国民がいくらイギリス政府に不満をぶつけたところで事態は改善される見込みはなかった。経済的苦境はイギリス政府だけが問題なのではなく、先進国すべての問題になっていたからだ。

言うならば、グローバル経済という一国ではどうにもならない弱肉強食の資本主義システムでは、「労働者」はもはや単なるコストであり、使い捨ての対象なのである。

イギリスでもこうした状況が放置され続け、大量の移民が入り込んでますます労働環境が悪化していき、ついに移民反対派が反旗を翻してEU脱退を迎えることになった。

しかし、イギリスがEUを脱退したからと言って、すぐに格差問題や貧困問題が解決されるわけでもないし、「人種問題・移民問題・差別問題・格差問題・貧困問題」が解決されるわけでもない。

イギリスはEUを脱退しても、「グローバル経済」から脱退できない。今後も多国籍企業が下層の労働者を使い捨てにしながら肥え太っていくシステムは変わらない。
多国籍企業は、常に安い労働力を探して、労働力を安価で使うだけ使って、用済みになったら労働者を捨てるか、工場ごと捨てて去っていく。

労働者は使い捨てなので、労働環境を整えるとか終身雇用で面倒を見るような「コストのかかること」は絶対にしない。そうやって多国籍企業は世界の労働市場を荒らし回って莫大な利益を貯め込み、税金も回避して世界中を逃げ回る。
アップルも、グーグルも、アマゾンも、マクドナルドも、スターバックスも、世界各国で莫大な利益を計上しながら税金をうまくすり抜けているのを咎められて、あちこちの国で追徴課税命令を受けている。

しかし、これらは氷山の一角でしかない。

莫大な利益は巧みに隠され、株主と経営者と言ったステークスホルダーがその利益にありつき、労働者は賃金を抑えられた上に酷税が敷かれてどんどん貧しくなっていく。

人間の歴史の中で変わらない普遍的な方式とは?

かくしてイギリスの底辺では貧困が定着したまま放置され、怒りが充満したまま現在に至っている。このままではイギリスは再び巨大な暴動が起きるのではないかと噂する人もいる。

「貧困の増大と社会システムの行き詰まりは暴力を産み出す」という社会現象は、人間の歴史の中で変わらない普遍的な方式でもある。これらの根っこにあるのは、まさに貧困の増大と社会システムの行き詰まりだ。

イギリスにはそれが顕著になっている。だから、私自身もイギリスではEU脱退による後遺症が広がると、再度、大きな社会不安が巨大暴動という形で再燃してもおかしくないと考えている。

果たしてボリス・ジョンソン首相は、うまく舵取りができるのだろうか。
まずいことに、今後のイギリスはEUと切り離された形で生きていかなければならないのだが、そこに中国発の新型コロナウイルス問題が湧き上がっている。世界経済は暗転する。そのダメージをイギリスはまともに食らうことになる。

つまり、イギリスが経済的苦境に堕ちるのは確実な情勢となっている。

そうであれば最も大きな影響を受けるのがアンダークラス(貧困層)である。イギリスで2011年の大規模暴動が再現するような事態になっても不思議ではない。
今でもイギリスの底辺では経済環境の悪化に追い詰められる人たちが増えており、ますます不満と怒りをマグマのように溜めているのである。まさに「貧困の増大と社会システムの行き詰まり」の真っ只中だ。

イギリス社会がこの問題をどうやって解決できるのか誰も分からない。


『分解するイギリス: 民主主義モデルの漂流(近藤 康史 )』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4480069704/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=asyuracom-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4480069704&linkId=0285d334d40558ea6b00a9c46899fad9
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/889.html#c1

[近代史3] イギリスの高級オーディオはすべて輸出用で本国では全く売れない _ イギリス人は何故そんなにケチなのか? 中川隆
38. 中川隆[-13470] koaQ7Jey 2020年2月26日 14:58:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[21]

イギリスは、社会不安が「巨大暴動」という形で再燃してもおかしくない状況に 2020.02.26

イギリスもまた超格差社会である。『今日のイギリスは、先進国の中で最も不平等な国の1つ』と英社会学部教授は指摘する。

イギリスでは5人に1人が貧困状態で暮らしている。50万人近くがフードバンクを利用している。女性の中には生理用品が買えないという理由で学校を休んでいる女性もいるほどだ。(鈴木傾城)

先進国の中で最も不平等な国の1つ、イギリス

EU(欧州連合)離脱を成し遂げたイギリスのボリス・ジョンソン首相だが、EUを脱退したからと言ってイギリスが急に明るい国になるわけではない。イギリス国内はグローバル化の毒が社会の隅々にまで染み渡っている。

私たちはアメリカが激しい競争社会であり、格差がとめどなく広がっているいびつな社会であることは知っている。しかし、イギリスもそうなっているというのはあまり知らない。

イギリスもまた超格差社会である。『今日のイギリスは、先進国の中で最も不平等な国の1つ』と英社会学部教授は指摘する。

イギリスでは5人に1人が貧困状態で暮らしている。50万人近くがフードバンクを利用している。女性の中には生理用品が買えないという理由で学校を休んでいる女性もいるほどだ。

さらに子供の貧困も凄まじく、100万人の子供が適切な住居で暮らしておらず、空腹のまま学校に行かざるを得ない状況に陥っていると言われている。

ホームレスも増えて、バッキンガム宮殿のまわりにもホームレスだらけと化している。移民もまた昨今の不景気で次々とホームレス化している。

途上国の話ではない。イギリスの話である。

イギリスに来て成功している移民もいるが、逆に苦境に堕ちている移民も多い。低賃金と不安定な雇用でいつまで経っても生活の基盤が安定せず、白人系の低所得層と共に貧困に喘いで対立している。


人種問題・移民問題・差別問題・格差問題・貧困問題

イギリスの最底辺は荒廃している。

イギリスでは2011年7月23日にエイミー・ワインハウスという女性シンガーがドラッグとアルコールの過剰摂取で死んだ。彼女は家の近くの路地でいつもコカインを手に入れていた。

彼女はスラムに住んでいたわけではなく、ちゃんとしたところに住んでいたのだが、それでもドラッグの売人が路上で危険な薬物を売買する環境にあったのだ。

(ブラックアジア:エイミー・ワインハウス。名前にふさわしい死を迎えた歌手)

彼女が絶命した1ヶ月後、イギリスでは大規模な暴動が起きていたのも記憶に新しい。

これはロンドン北部にあるトッテナムで、29歳の黒人の男が警察官に射殺されたことで自然発生的に起きた暴動だった。

この射殺は不当だったとして家族と地元住民が警察署に抗議デモを行ったのだが、それを聞きつけて多くの黒人たちが警察署を取り囲み、日頃の警察官による差別的な言動を激しく抗議する状況になった。

こうしているうちに興奮した抗議デモ参加者の何人かがバスに放火したり、建物を壊し始め、あっと言う間に抗議デモが破壊と略奪を含む暴動と化した。

そこに社会の底辺で仕事もなく鬱屈していた白人の男たちも乗りかかった。そのため、暴動と破壊と放火は急拡大して他都市にも拡散していった。この暴動には人種問題・移民問題・差別問題・格差問題・貧困問題のすべてが爆発したものだった。
イギリスは、2008年のリーマン・ショックで直接的ダメージを受けた国のひとつで、その後も2010年のドバイ・ショックにも巻き込まれ、ギリシャ・ショックにも巻き込まれ、2011年は出口のない不況にもがいていた。

多くの若者が失業し、暴動が起きたトッテナム地区に限って言えば、失業率は20%近くもあった。

この20%が爆発したのが2011年8月のイギリス暴動だった。


EUを脱退してもグローバル経済から脱退できない

しかしながら、底辺の国民がいくらイギリス政府に不満をぶつけたところで事態は改善される見込みはなかった。経済的苦境はイギリス政府だけが問題なのではなく、先進国すべての問題になっていたからだ。

言うならば、グローバル経済という一国ではどうにもならない弱肉強食の資本主義システムでは、「労働者」はもはや単なるコストであり、使い捨ての対象なのである。

イギリスでもこうした状況が放置され続け、大量の移民が入り込んでますます労働環境が悪化していき、ついに移民反対派が反旗を翻してEU脱退を迎えることになった。

しかし、イギリスがEUを脱退したからと言って、すぐに格差問題や貧困問題が解決されるわけでもないし、「人種問題・移民問題・差別問題・格差問題・貧困問題」が解決されるわけでもない。

イギリスはEUを脱退しても、「グローバル経済」から脱退できない。今後も多国籍企業が下層の労働者を使い捨てにしながら肥え太っていくシステムは変わらない。
多国籍企業は、常に安い労働力を探して、労働力を安価で使うだけ使って、用済みになったら労働者を捨てるか、工場ごと捨てて去っていく。

労働者は使い捨てなので、労働環境を整えるとか終身雇用で面倒を見るような「コストのかかること」は絶対にしない。そうやって多国籍企業は世界の労働市場を荒らし回って莫大な利益を貯め込み、税金も回避して世界中を逃げ回る。
アップルも、グーグルも、アマゾンも、マクドナルドも、スターバックスも、世界各国で莫大な利益を計上しながら税金をうまくすり抜けているのを咎められて、あちこちの国で追徴課税命令を受けている。

しかし、これらは氷山の一角でしかない。

莫大な利益は巧みに隠され、株主と経営者と言ったステークスホルダーがその利益にありつき、労働者は賃金を抑えられた上に酷税が敷かれてどんどん貧しくなっていく。

人間の歴史の中で変わらない普遍的な方式とは?

かくしてイギリスの底辺では貧困が定着したまま放置され、怒りが充満したまま現在に至っている。このままではイギリスは再び巨大な暴動が起きるのではないかと噂する人もいる。

「貧困の増大と社会システムの行き詰まりは暴力を産み出す」という社会現象は、人間の歴史の中で変わらない普遍的な方式でもある。これらの根っこにあるのは、まさに貧困の増大と社会システムの行き詰まりだ。

イギリスにはそれが顕著になっている。だから、私自身もイギリスではEU脱退による後遺症が広がると、再度、大きな社会不安が巨大暴動という形で再燃してもおかしくないと考えている。

果たしてボリス・ジョンソン首相は、うまく舵取りができるのだろうか。
まずいことに、今後のイギリスはEUと切り離された形で生きていかなければならないのだが、そこに中国発の新型コロナウイルス問題が湧き上がっている。世界経済は暗転する。そのダメージをイギリスはまともに食らうことになる。

つまり、イギリスが経済的苦境に堕ちるのは確実な情勢となっている。

そうであれば最も大きな影響を受けるのがアンダークラス(貧困層)である。イギリスで2011年の大規模暴動が再現するような事態になっても不思議ではない。
今でもイギリスの底辺では経済環境の悪化に追い詰められる人たちが増えており、ますます不満と怒りをマグマのように溜めているのである。まさに「貧困の増大と社会システムの行き詰まり」の真っ只中だ。

イギリス社会がこの問題をどうやって解決できるのか誰も分からない。


『分解するイギリス: 民主主義モデルの漂流(近藤 康史 )』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4480069704/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=asyuracom-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4480069704&linkId=0285d334d40558ea6b00a9c46899fad9
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/447.html#c38

[近代史3] 欧州で増える貧困層 イギリスではフードバンク難民が100万人以上 中川隆
5. 中川隆[-13469] koaQ7Jey 2020年2月26日 14:59:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[23]
上のリンク
https://blackasia.net/?p=17284
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/803.html#c5
[近代史3] 階級社会イギリスは、オーウェルの「1984年」監視社会を実現した、最初の国だった 中川隆
2. 中川隆[-13468] koaQ7Jey 2020年2月26日 15:00:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[24]
上のリンク
https://blackasia.net/?p=17284
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/889.html#c2
[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
59. 中川隆[-13467] koaQ7Jey 2020年2月26日 15:05:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[25]
イギリスは、社会不安が「巨大暴動」という形で再燃してもおかしくない状況に 2020.02.26

イギリスもまた超格差社会である。『今日のイギリスは、先進国の中で最も不平等な国の1つ』と英社会学部教授は指摘する。

イギリスでは5人に1人が貧困状態で暮らしている。50万人近くがフードバンクを利用している。女性の中には生理用品が買えないという理由で学校を休んでいる女性もいるほどだ。(鈴木傾城)

先進国の中で最も不平等な国の1つ、イギリス

EU(欧州連合)離脱を成し遂げたイギリスのボリス・ジョンソン首相だが、EUを脱退したからと言ってイギリスが急に明るい国になるわけではない。イギリス国内はグローバル化の毒が社会の隅々にまで染み渡っている。

私たちはアメリカが激しい競争社会であり、格差がとめどなく広がっているいびつな社会であることは知っている。しかし、イギリスもそうなっているというのはあまり知らない。

イギリスもまた超格差社会である。『今日のイギリスは、先進国の中で最も不平等な国の1つ』と英社会学部教授は指摘する。

イギリスでは5人に1人が貧困状態で暮らしている。50万人近くがフードバンクを利用している。女性の中には生理用品が買えないという理由で学校を休んでいる女性もいるほどだ。

さらに子供の貧困も凄まじく、100万人の子供が適切な住居で暮らしておらず、空腹のまま学校に行かざるを得ない状況に陥っていると言われている。

ホームレスも増えて、バッキンガム宮殿のまわりにもホームレスだらけと化している。移民もまた昨今の不景気で次々とホームレス化している。

途上国の話ではない。イギリスの話である。

イギリスに来て成功している移民もいるが、逆に苦境に堕ちている移民も多い。低賃金と不安定な雇用でいつまで経っても生活の基盤が安定せず、白人系の低所得層と共に貧困に喘いで対立している。


人種問題・移民問題・差別問題・格差問題・貧困問題

イギリスの最底辺は荒廃している。

イギリスでは2011年7月23日にエイミー・ワインハウスという女性シンガーがドラッグとアルコールの過剰摂取で死んだ。彼女は家の近くの路地でいつもコカインを手に入れていた。

彼女はスラムに住んでいたわけではなく、ちゃんとしたところに住んでいたのだが、それでもドラッグの売人が路上で危険な薬物を売買する環境にあったのだ。

(ブラックアジア:エイミー・ワインハウス。名前にふさわしい死を迎えた歌手)

彼女が絶命した1ヶ月後、イギリスでは大規模な暴動が起きていたのも記憶に新しい。

これはロンドン北部にあるトッテナムで、29歳の黒人の男が警察官に射殺されたことで自然発生的に起きた暴動だった。

この射殺は不当だったとして家族と地元住民が警察署に抗議デモを行ったのだが、それを聞きつけて多くの黒人たちが警察署を取り囲み、日頃の警察官による差別的な言動を激しく抗議する状況になった。

こうしているうちに興奮した抗議デモ参加者の何人かがバスに放火したり、建物を壊し始め、あっと言う間に抗議デモが破壊と略奪を含む暴動と化した。

そこに社会の底辺で仕事もなく鬱屈していた白人の男たちも乗りかかった。そのため、暴動と破壊と放火は急拡大して他都市にも拡散していった。この暴動には人種問題・移民問題・差別問題・格差問題・貧困問題のすべてが爆発したものだった。
イギリスは、2008年のリーマン・ショックで直接的ダメージを受けた国のひとつで、その後も2010年のドバイ・ショックにも巻き込まれ、ギリシャ・ショックにも巻き込まれ、2011年は出口のない不況にもがいていた。

多くの若者が失業し、暴動が起きたトッテナム地区に限って言えば、失業率は20%近くもあった。

この20%が爆発したのが2011年8月のイギリス暴動だった。


EUを脱退してもグローバル経済から脱退できない

しかしながら、底辺の国民がいくらイギリス政府に不満をぶつけたところで事態は改善される見込みはなかった。経済的苦境はイギリス政府だけが問題なのではなく、先進国すべての問題になっていたからだ。

言うならば、グローバル経済という一国ではどうにもならない弱肉強食の資本主義システムでは、「労働者」はもはや単なるコストであり、使い捨ての対象なのである。

イギリスでもこうした状況が放置され続け、大量の移民が入り込んでますます労働環境が悪化していき、ついに移民反対派が反旗を翻してEU脱退を迎えることになった。

しかし、イギリスがEUを脱退したからと言って、すぐに格差問題や貧困問題が解決されるわけでもないし、「人種問題・移民問題・差別問題・格差問題・貧困問題」が解決されるわけでもない。

イギリスはEUを脱退しても、「グローバル経済」から脱退できない。今後も多国籍企業が下層の労働者を使い捨てにしながら肥え太っていくシステムは変わらない。
多国籍企業は、常に安い労働力を探して、労働力を安価で使うだけ使って、用済みになったら労働者を捨てるか、工場ごと捨てて去っていく。

労働者は使い捨てなので、労働環境を整えるとか終身雇用で面倒を見るような「コストのかかること」は絶対にしない。そうやって多国籍企業は世界の労働市場を荒らし回って莫大な利益を貯め込み、税金も回避して世界中を逃げ回る。
アップルも、グーグルも、アマゾンも、マクドナルドも、スターバックスも、世界各国で莫大な利益を計上しながら税金をうまくすり抜けているのを咎められて、あちこちの国で追徴課税命令を受けている。

しかし、これらは氷山の一角でしかない。

莫大な利益は巧みに隠され、株主と経営者と言ったステークスホルダーがその利益にありつき、労働者は賃金を抑えられた上に酷税が敷かれてどんどん貧しくなっていく。


人間の歴史の中で変わらない普遍的な方式とは?

かくしてイギリスの底辺では貧困が定着したまま放置され、怒りが充満したまま現在に至っている。このままではイギリスは再び巨大な暴動が起きるのではないかと噂する人もいる。

「貧困の増大と社会システムの行き詰まりは暴力を産み出す」という社会現象は、人間の歴史の中で変わらない普遍的な方式でもある。これらの根っこにあるのは、まさに貧困の増大と社会システムの行き詰まりだ。

イギリスにはそれが顕著になっている。だから、私自身もイギリスではEU脱退による後遺症が広がると、再度、大きな社会不安が巨大暴動という形で再燃してもおかしくないと考えている。

果たしてボリス・ジョンソン首相は、うまく舵取りができるのだろうか。
まずいことに、今後のイギリスはEUと切り離された形で生きていかなければならないのだが、そこに中国発の新型コロナウイルス問題が湧き上がっている。世界経済は暗転する。そのダメージをイギリスはまともに食らうことになる。

つまり、イギリスが経済的苦境に堕ちるのは確実な情勢となっている。

そうであれば最も大きな影響を受けるのがアンダークラス(貧困層)である。イギリスで2011年の大規模暴動が再現するような事態になっても不思議ではない。
今でもイギリスの底辺では経済環境の悪化に追い詰められる人たちが増えており、ますます不満と怒りをマグマのように溜めているのである。まさに「貧困の増大と社会システムの行き詰まり」の真っ只中だ。

イギリス社会がこの問題をどうやって解決できるのか誰も分からない。


『分解するイギリス: 民主主義モデルの漂流(近藤 康史 )』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4480069704/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=asyuracom-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4480069704&linkId=0285d334d40558ea6b00a9c46899fad9

https://blackasia.net/?p=17284

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c59

[近代史3] マルクスがイギリスで共産主義を考えた理由 中川隆
2. 中川隆[-13466] koaQ7Jey 2020年2月26日 15:05:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[26]
イギリスは、社会不安が「巨大暴動」という形で再燃してもおかしくない状況に 2020.02.26

イギリスもまた超格差社会である。『今日のイギリスは、先進国の中で最も不平等な国の1つ』と英社会学部教授は指摘する。

イギリスでは5人に1人が貧困状態で暮らしている。50万人近くがフードバンクを利用している。女性の中には生理用品が買えないという理由で学校を休んでいる女性もいるほどだ。(鈴木傾城)

先進国の中で最も不平等な国の1つ、イギリス

EU(欧州連合)離脱を成し遂げたイギリスのボリス・ジョンソン首相だが、EUを脱退したからと言ってイギリスが急に明るい国になるわけではない。イギリス国内はグローバル化の毒が社会の隅々にまで染み渡っている。

私たちはアメリカが激しい競争社会であり、格差がとめどなく広がっているいびつな社会であることは知っている。しかし、イギリスもそうなっているというのはあまり知らない。

イギリスもまた超格差社会である。『今日のイギリスは、先進国の中で最も不平等な国の1つ』と英社会学部教授は指摘する。

イギリスでは5人に1人が貧困状態で暮らしている。50万人近くがフードバンクを利用している。女性の中には生理用品が買えないという理由で学校を休んでいる女性もいるほどだ。

さらに子供の貧困も凄まじく、100万人の子供が適切な住居で暮らしておらず、空腹のまま学校に行かざるを得ない状況に陥っていると言われている。

ホームレスも増えて、バッキンガム宮殿のまわりにもホームレスだらけと化している。移民もまた昨今の不景気で次々とホームレス化している。

途上国の話ではない。イギリスの話である。

イギリスに来て成功している移民もいるが、逆に苦境に堕ちている移民も多い。低賃金と不安定な雇用でいつまで経っても生活の基盤が安定せず、白人系の低所得層と共に貧困に喘いで対立している。


人種問題・移民問題・差別問題・格差問題・貧困問題

イギリスの最底辺は荒廃している。

イギリスでは2011年7月23日にエイミー・ワインハウスという女性シンガーがドラッグとアルコールの過剰摂取で死んだ。彼女は家の近くの路地でいつもコカインを手に入れていた。

彼女はスラムに住んでいたわけではなく、ちゃんとしたところに住んでいたのだが、それでもドラッグの売人が路上で危険な薬物を売買する環境にあったのだ。

(ブラックアジア:エイミー・ワインハウス。名前にふさわしい死を迎えた歌手)

彼女が絶命した1ヶ月後、イギリスでは大規模な暴動が起きていたのも記憶に新しい。

これはロンドン北部にあるトッテナムで、29歳の黒人の男が警察官に射殺されたことで自然発生的に起きた暴動だった。

この射殺は不当だったとして家族と地元住民が警察署に抗議デモを行ったのだが、それを聞きつけて多くの黒人たちが警察署を取り囲み、日頃の警察官による差別的な言動を激しく抗議する状況になった。

こうしているうちに興奮した抗議デモ参加者の何人かがバスに放火したり、建物を壊し始め、あっと言う間に抗議デモが破壊と略奪を含む暴動と化した。

そこに社会の底辺で仕事もなく鬱屈していた白人の男たちも乗りかかった。そのため、暴動と破壊と放火は急拡大して他都市にも拡散していった。この暴動には人種問題・移民問題・差別問題・格差問題・貧困問題のすべてが爆発したものだった。
イギリスは、2008年のリーマン・ショックで直接的ダメージを受けた国のひとつで、その後も2010年のドバイ・ショックにも巻き込まれ、ギリシャ・ショックにも巻き込まれ、2011年は出口のない不況にもがいていた。

多くの若者が失業し、暴動が起きたトッテナム地区に限って言えば、失業率は20%近くもあった。

この20%が爆発したのが2011年8月のイギリス暴動だった。


EUを脱退してもグローバル経済から脱退できない

しかしながら、底辺の国民がいくらイギリス政府に不満をぶつけたところで事態は改善される見込みはなかった。経済的苦境はイギリス政府だけが問題なのではなく、先進国すべての問題になっていたからだ。

言うならば、グローバル経済という一国ではどうにもならない弱肉強食の資本主義システムでは、「労働者」はもはや単なるコストであり、使い捨ての対象なのである。

イギリスでもこうした状況が放置され続け、大量の移民が入り込んでますます労働環境が悪化していき、ついに移民反対派が反旗を翻してEU脱退を迎えることになった。

しかし、イギリスがEUを脱退したからと言って、すぐに格差問題や貧困問題が解決されるわけでもないし、「人種問題・移民問題・差別問題・格差問題・貧困問題」が解決されるわけでもない。

イギリスはEUを脱退しても、「グローバル経済」から脱退できない。今後も多国籍企業が下層の労働者を使い捨てにしながら肥え太っていくシステムは変わらない。
多国籍企業は、常に安い労働力を探して、労働力を安価で使うだけ使って、用済みになったら労働者を捨てるか、工場ごと捨てて去っていく。

労働者は使い捨てなので、労働環境を整えるとか終身雇用で面倒を見るような「コストのかかること」は絶対にしない。そうやって多国籍企業は世界の労働市場を荒らし回って莫大な利益を貯め込み、税金も回避して世界中を逃げ回る。
アップルも、グーグルも、アマゾンも、マクドナルドも、スターバックスも、世界各国で莫大な利益を計上しながら税金をうまくすり抜けているのを咎められて、あちこちの国で追徴課税命令を受けている。

しかし、これらは氷山の一角でしかない。

莫大な利益は巧みに隠され、株主と経営者と言ったステークスホルダーがその利益にありつき、労働者は賃金を抑えられた上に酷税が敷かれてどんどん貧しくなっていく。


人間の歴史の中で変わらない普遍的な方式とは?

かくしてイギリスの底辺では貧困が定着したまま放置され、怒りが充満したまま現在に至っている。このままではイギリスは再び巨大な暴動が起きるのではないかと噂する人もいる。

「貧困の増大と社会システムの行き詰まりは暴力を産み出す」という社会現象は、人間の歴史の中で変わらない普遍的な方式でもある。これらの根っこにあるのは、まさに貧困の増大と社会システムの行き詰まりだ。

イギリスにはそれが顕著になっている。だから、私自身もイギリスではEU脱退による後遺症が広がると、再度、大きな社会不安が巨大暴動という形で再燃してもおかしくないと考えている。

果たしてボリス・ジョンソン首相は、うまく舵取りができるのだろうか。
まずいことに、今後のイギリスはEUと切り離された形で生きていかなければならないのだが、そこに中国発の新型コロナウイルス問題が湧き上がっている。世界経済は暗転する。そのダメージをイギリスはまともに食らうことになる。

つまり、イギリスが経済的苦境に堕ちるのは確実な情勢となっている。

そうであれば最も大きな影響を受けるのがアンダークラス(貧困層)である。イギリスで2011年の大規模暴動が再現するような事態になっても不思議ではない。
今でもイギリスの底辺では経済環境の悪化に追い詰められる人たちが増えており、ますます不満と怒りをマグマのように溜めているのである。まさに「貧困の増大と社会システムの行き詰まり」の真っ只中だ。

イギリス社会がこの問題をどうやって解決できるのか誰も分からない。


『分解するイギリス: 民主主義モデルの漂流(近藤 康史 )』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4480069704/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=asyuracom-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4480069704&linkId=0285d334d40558ea6b00a9c46899fad9

https://blackasia.net/?p=17284

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/891.html#c2

[近代史4] かぐらスキー場 (かぐら・三俣・田代スキー場)

かぐらスキー場 (かぐら・三俣・田代スキー場)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/779.html


2015年 かぐらスキー場スノボ遭難 雪洞に2晩ビバークして奇跡の帰還 _ 練子広寿は只者ではない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/718.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/301.html

[近代史4] かぐらスキー場 (かぐら・三俣・田代スキー場) 中川隆
1. 中川隆[-13465] koaQ7Jey 2020年2月26日 15:51:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[27]

相次ぐ“バックカントリー”事故
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/695.html

スキー場で遭難した時の対処方法
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/797.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/301.html#c1

[近代史4] ロッテアライリゾート


ロッテアライリゾート
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/935.html

呪われたスキー場 _ 妙高 新井スキー場(ロッテアライリゾート)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/190.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/302.html

[近代史4] ロッテアライリゾート 中川隆
1. 中川隆[-13464] koaQ7Jey 2020年2月26日 15:54:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[28]

相次ぐ“バックカントリー”事故
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/695.html

スキー場で遭難した時の対処方法
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/797.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/302.html#c1

[近代史4] ニセコ スキー場

ニセコは既に外人に乗っ取られ日本語も通じなくなった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/184.html


日本人は金髪美女に弱い _ 小布施からセーラ・カミングスの姿が消えた
24. 2013年8月05日 オーストラリア人に乗っ取られたニセコ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/444.html#c24


苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった
401. 中川隆 2017年3月25日 なぜ日本に多くの外人がスキーに?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c401


“爆買い”から“爆滑り”へ 中国人観光客がスキー場に殺到
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/234.html


ニセコ薬師温泉 _ 温泉マニアに超絶人気の伝説の名湯がどうしてこうなった?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/560.html


▲△▽▼

訪日外国人による観光公害 地元住民の被害は限界
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/527.html

外国人が増えると嬉しいか? _ 外人観光客誘致は日本を貧しくしている
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/185.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/303.html

[近代史4] 苗場スキー場

苗場スキー場
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/775.html


苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/304.html

[近代史4] 苗場スキー場 中川隆
1. 中川隆[-13463] koaQ7Jey 2020年2月26日 16:22:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[29]

苗場の近くの名湯 1 _ 苗場温泉 雪ささの湯
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/566.html

苗場の近くの名湯 2 _ 女性に超絶人気の 川古温泉別館 旅館 峰
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/575.html

水上温泉と猿ヶ京温泉を最短距離で結ぶ怪しい3ケタ県道と仏岩温泉 鈴森の湯、川古温泉 浜屋旅館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/581.html

苗場の近くの名湯 3 _ 漣(さざなみ)温泉 のぞみの湯
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/578.html

苗場の近くの名湯 4 _ 『ゲンセンカン主人』で有名な湯宿温泉 _ 100円でドバドバ掛け流し温泉に入れるんだけど
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/693.html

苗場の近くの名湯 4 _ 猿ヶ京温泉
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/693.html#c1

苗場の近くの名湯 4 _ 伝説になった法師温泉 長寿館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/693.html#c12

進化し続ける貝掛温泉 _ 白内障が治る名湯だったけど湯治客にはもう手が届かなくなってしまった
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/567.html

湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/304.html#c1

[近代史4] かぐらスキー場 (かぐら・三俣・田代スキー場) 中川隆
2. 中川隆[-13462] koaQ7Jey 2020年2月26日 16:23:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[30]

進化し続ける貝掛温泉 _ 白内障が治る名湯だったけど湯治客にはもう手が届かなくなってしまった
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/567.html

湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/301.html#c2

[近代史4] 美ヶ原高原

冬の信州の高原に行こう _ 美ヶ原高原
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/780.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/305.html

[近代史4] 屈斜路湖・阿寒

屈斜路・阿寒


屈斜路湖畔 三香温泉 その人気の秘密
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/589.html  

雌阿寒 山の宿 野中温泉
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/276.html

弟子屈町 湯治の宿 開紘 _ ここが川湯温泉で最高泉質?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/563.html


▲△▽▼


日本で一番美しい道〜富良野・美瑛
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/610.html

北海道 弟子屈町 900草原 絶景ロード
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/601.html

キタキツネ物語の世界
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/609.html

北海道のライブカメラ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/599.html

北海道の温泉に行こう
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/561.html




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/306.html

[近代史4] 群馬県 丸沼高原スキー場

群馬県 丸沼高原スキー場
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/931.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/307.html
[近代史4] 群馬県 たんばらスキーパーク

群馬県 たんばらスキーパーク
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/930.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/308.html
[近代史4] 谷川岳 天神平スキー場

冬の谷川岳に行こう _ 天神平スキー場
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/781.html

谷川岳 天神平スキー場
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/847.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/309.html

[近代史4] 新潟県 魚沼市 奥只見丸山スキー場

新潟県 魚沼市 奥只見丸山スキー場

春は奥只見に行こう _ 奥只見丸山スキー場・栃尾又温泉・駒の湯温泉
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/839.html

新潟県 魚沼市 奥只見丸山スキー場
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/846.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/310.html

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
31. 中川隆[-13461] koaQ7Jey 2020年2月26日 17:27:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[31]
2020年 02月 26日
コロナウイルスの深刻な影響
https://tannoy.exblog.jp/31071368/

コロナウイルスが世界に広まり、イタリアも韓国も武漢並みの町の封鎖に踏み切ったようです。検査キットの普及も、町や村の封鎖も思い切った手をうってきました。日本政府の関係者、特に官僚の事なかれ主義が完全に裏目になっています。検査も受けられない体制は、誰のために政府はあるのでしょうか?毎日、行われる担当大臣の答弁も、回りの官僚の保身に徹しているように思えます。原発と同じ構図です。

治療薬が無い現状、発病したら家で熱が下がるまで耐えるしかないのです。若い人は体力があるので、自然治癒する確立が多いのですが、高齢者、それも持病のある方達のリスクはとても大きいです。医療関係者も戦々恐々の対応を強いられています。次期戦闘機に何兆もの予算を組めるのなら、いま戦場になっているコロナウイルス(COVID-19)との戦いに何故、思い切った手が打てないのでしょう。


大企業は、社員一人が発病しても、数千人の社員を自宅勤務に出来ますが、中小零細の会社や、人と接してなんぼのサービス業は、文字通り死活問題です。町に人通りが絶えたら、飲食業、接客業、売店、全ての活動がストップします。そしてそのサービス業は日本のGDP(国内総生産)の7割を占めているのです。言い換えると日本の7割がすでに影響を受けているという現状です。それに対して、すぐ即効性の手を打てないなら、原発事故時の対応を責める資格はありません。


今週に入り、イベントも続々と中止もしくは延期のアナウンスがされ始めました。いま日本にきている海外オーケストラの面々もおののいていることでしょう。東京と大阪の公演を行うような場合、ベルリンフィルのような移動に専用の飛行機をチャーターしている場合を除き、やはり新幹線なのでの移動になります。このリスクも大変大きな物になります。そして、演奏者もそうですが、観客も演奏会場まで、この状況ではたどり着けないでしょう。私も、今週の金曜日には、川崎での演奏会があります。その川崎に到達するのに、地下鉄を二つ乗り継ぎ、夕方で満員の東海道線で品川-川崎間を電車内で過ごさなければなりません。川崎駅の構内も、リスクは高いです。13,000円のチケットは、もったいないですが、この状況で、リスクを負って行くほどでは無いと考えます。


これから、気温が暑くなってくる五月頃までは、コロナウイルス(COVID-19)は終焉しないでしょう。よくテレビで引用される、大きなピークのカーブを押さえ込んで、山を低くして後ろにずれ込まそうと言う説明がされますが、あの後ろのピークの山は、実際は数百倍もおおきなピークです。高さも高ければ、大きさも大きいので、簡単には終息しません。


今回のコロナウイルス(COVID-19)の中国国内の死亡率は、2.2%といわれています。1918年のスペイン風邪の時は、日本では当時の人口5400万人の半分の2400万人がかかり、39万人が無くなっています。1.6%です。今、日本の人口は1億2600万人です。そのうち、半数の6000万人が罹るとしたら、1.6%の死亡率は96万人です。これは第二次世界大戦の原爆を含めた空襲による死亡者数約30万人の三倍にもなるとんでもない数字です。


それが、後手後手に回って対応が取れない政府や担当省庁の対策(ウイルス検査施設の確立)の遅れが原因になれば、その責任もとらないで、今回もお茶を濁して逃げるのでしょうか?クルーズ船を二週間桟橋に停めて、その間被害者の蔓延を図った対応に大義があるのなら、今こそ、イタリアのような町ごと、村ごとの封鎖も必要でしょう。


中止になるのはクラシックの演奏会だけではありません。ロックバンドも、野球も、サッカーも、もちろん室内競技のサッカーや、バスケットや、バレーボールも卓球も水泳さえもこれから中止になるでしょう。その影響は、当然オリンピックの問題まで引き継ぎます。だからこそ、早期の終焉を目指して、今週、来週の時期に思い切った手を打たなければなりません。大臣が育児休暇を取っていられない非常時なのです。

また中国観光客の来日中止で、倒産の危機に対面している宿泊施設を、政府が借り上げて臨時の収容施設にして、その滞在者には、ファミレスのセントラルキッチンを動かして、暖かい栄養のある食品を届けるような対応をするよう、全関係省庁をあげて業界の協力を仰ぎ、戦う必要のある二ヶ月間だと思います。その決断が、お客の来ない観光業を救い医療施設の不足も補います。自衛隊の協力も不可欠でしょう。国民全体でこの国難に対処する体制作りが必要です。その決断が、月30兆円あるサービス業のGDPの損失を抑えていく手だと思うのですが・・・

https://tannoy.exblog.jp/31071368/
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c31

[番外地7] 新しい教科書をつくる会 中川隆
3. 中川隆[-13460] koaQ7Jey 2020年2月26日 17:42:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[32]
新しい教科書を作る会の教科書は最初から最後までデタラメだからね。
慰安婦が売春婦だとか、
南京大虐殺が無かったとか、
徴用工が自分の意思で来たとか、
慰安婦・徴用工に対する個人補償は既に終わっているとか、
天皇家が万世一系だとか、
すべて悪質な嘘だよ
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/500.html#c3
[近代史3] 内田樹 生きづらさについて考える

生きづらさについて考える – 2019/8/24 内田 樹 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A5%E3%82%89%E3%81%95%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B-%E5%86%85%E7%94%B0-%E6%A8%B9/dp/4620325988/ref=sr_1_1?adgrpid=76923437509&gclid=CjwKCAiAy9jyBRA6EiwAeclQhDYtBmgJs8Af6xVKMoRvUXdL9lyrsfxgRtI9yfdinpNQXAr4EzPDohoCy8wQAvD_BwE&hvadid=379183288446&hvdev=c&hvlocphy=1009412&hvnetw=g&hvqmt=b&hvrand=14741751188876810725&hvtargid=aud-758806828536%3Akwd-813400905783&hydadcr=27487_11564624&jp-ad-ap=0&keywords=%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A5%E3%82%89%E3%81%95%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B&qid=1582707444&sr=8-1


週刊金曜日インタビュー 2020-02-26
http://blog.tatsuru.com/2020/02/26_1553.html


去年の暮に『週刊金曜日』の植村隆編集長が凱風館までインタビューに来た。植村さんは北星学園大学事件のときに「捏造記者」という無根拠な誹謗中傷を受けて、失職のリスクにさらされたことがあった。そのときに鈴木邦男さんと一緒に植村さんを支える会に加わって支援活動をしたことがある。そのご縁で、植村さんが『週刊金曜日』の編集長に就任したのを機会に神戸まで会いにいらしたのである。

――内田さんの著作『生きづらさについて考える』は、さまざまなメディアで発表されたものをひとつにまとめたものですが、一貫しているものがあると感じました。いま日本が「生きづらい」社会になっていることへの警鐘だと思われますが?
2016年暮れに、米外交問題評議会発行の『フォーリン・アフェアーズ』が、「日本の大学」特集をしたときに、いまの大学に対してどう思うかを、日本の教員や学生にインタビューをしていました。すると、「身動きできない」(trapped)「息苦しい」(suffocationg)「釘付けにされている」(stuck)というような、「身体的」な印象を共通してみんなが語っていた。

僕は、制度の問題より、そういう「身体的」な印象を語った言語のほうが、今の日本社会の実相をよく現していると思うのです。

「生きづらい」とみんなが思っているのは文字通り、「身体的」につらいということなのです。

若い人たちが特に感じているのは「未来が閉じられている」という実感ではないでしょうか。自分が動ける可動域がどんどん制限されていく、職業であっても、居住地であっても、生き方の自由度が下がってきている。

僕自身同じことを感じます。僕に対する批判の多くが自由度を抑制しようとしている。
「大学教授ともあろうものが、何々していいのか?」とか、「哲学者を名乗るのであれば、これくらいのことは知らずしてどうする?」などなど。そちらで勝手に僕が何者であるかを決めて、その枠の中に押し込めようとする。

これは現代日本社会に共通しているように思えます。立場にかかわらず、「いやしくも・・・である以上、・・・であるべきだ」という文型で他人の言動の可動域を限定してくる。

理屈として筋は通っているんです。

でも、そういう文型で埋め尽くされてしまうとこちらは息が詰まる。たしかに批評として切れ味はいいかも知れないけれど、そういう定型句が行き交うせいで集団の知性が活性化するということはありません。

それは体制を批判する人も同じです。「日本社会は・・・であるべきだ」というふうにやはり「あるべき姿」を語る。「いろいろあっていいんじゃないの」とか「まあ、好きにしたらいいよ」というタイプの非統制的なメッセージは左翼的な言説のうちにはまず見ることがない。

萩生田発言の本質

――時代的にはいつ頃からそのようなことを感じるようになりましたか?

90年代の終わりぐらいからでしょうか。「貧すれば鈍す」ということだと思います。
バブルの時代はみんな自分の金儲けに忙しくて、他人の生き方にあれこれ口出しする暇がなかった。こちらとしては気楽な時代でした。でも、バブル崩壊後に「パイの取り合い」が始まった。そのときに「お前に許されたスペースから出るな」という言い方が支配的になった。人の生活空間そのものまで限定する動きが、あらゆる分野で顕著になった。
先日、萩生田光一文科相の「身の丈」発言というのがありましたけれど、あれは今年の流行語大賞かなと思いました。時代の気分を実に的確に言い表しているから。

「身の程を知れ」とか「おのれの分際を知れ」という言葉は僕が子供のころまではよく口にされていたもので。でも、久しく訊かなかった。それが生き返ったのは、世の中が「貧乏くさくなった」ことの証拠なんだと思います。みんなで分割する「パイ」が縮んでいるんだから自分の取り分以上のものを取ろうとするなというわけです。そういう言葉は「パイが大きくなっているとき」には口にされない。ですから、高度成長期以降はほとんど死語になっていました。それがいま甦ってきた。自分の取り分で満足しろ、自分に与えられたステイタスから一歩も出るなというのは「貧しい社会」固有の発想です。


――内田さんがおっしゃった時代のひとつの総仕上げみたいな言葉ですね。

これはイデオロギーではないのです。身体実感を言葉にしただけです。でも、体にかかわる言葉が一番生々しく時代精神というものを露出する。


閉塞の時代

――これはお金がなくなったということだけでしょうか?

それだけではないと思います。貧乏ということで言ったら、僕が育った1950年代の日本の方がはるかに貧しかった。でも、人々は明るかった。


――政治的な影響ですか?

政治とも直接は関係がない。政治もその気分の中にあるからです。気分が先で、制度は気分の変化の帰結なんです。まず気分が変わる。メディアの論調が変わる。それから、政治家の価値観やふるまいが変わる。みんな「時代の空気」に適応しているのです。
だから、政治を変えようと思うなら、政治制度をいじってもしかたがない。時代の気分が変わらないと何も変わらない。

例えば、安倍政権が倒れて、石破茂さんが総理大臣になったからといっても社会は別に明るくはならないと思います。でたらめな縁故政治が多少はなくなるでしょうけれど、石破さんが内閣総理大臣になっても、岸田文雄さんがなったって、あるいは小泉進次郎さんがなっても、日本社会の閉塞感は変わらないと思う。

でも、自民党が政権にあることが閉塞感の理由ではないのです。逆なんです。自民党が抑圧的な政策を行うから社会が閉塞的であるのではなくて、社会が閉塞的になったので、むしろそれが、抑圧的な政策と親和し、それを呼び込んでいる。

いま安倍政権を5割近い人が支持しています。5割近い人が、この時代の空気を自分にとってごく自然なものだと思っているということです。この酸欠状態の中で深く呼吸できていると思っている。彼らは抑圧とか、息苦しさとか、生きづらさとかいうものを、もう感じていない。酸欠状態そのものが自然になっている。この人たちに、「息苦しくないですか?」「どこか穴あけて新鮮な空気を入れないと窒息しますよ」ということを伝えないと危険だと思います。


「対米従属」からの解放

――社会が閉塞的になった要因は何でしょうか?

バブルの崩壊ですよね。バブル期の80年代の日本人は異常なほどの多幸感に満たされていた。あの多幸感は単に「カネがある」からだけではありませんでした。あれは「国家主権をアメリカから買い戻す」という前代未聞のプランを日本人が本気で考えていたからです。

あの頃、戦後40年経って、ついに経済力でアメリカを追い越しそうになった。89年に三菱地所はマンハッタンのロックフェラーセンターを買い、ソニーはコロンビア映画を買いました。摩天楼とハリウッドを買ったんです。それをおよそアメリカ社会にあるもので値札がついているものは何でも買えるということだと日本人は理解した。摩天楼とハリウッドが買えるなら、「国家主権」をカネで買い戻すということだってできないはずはない。対米従属の身分からカネで自己解放を遂げることができないはずはない。そういう破天荒な夢が一瞬その時期の日本人の脳裏をよぎった。

世界史上、国家主権をカネで買い戻した国はありません。だから、これは達成されれば、世界史に残る偉業になった。そのことを日本人はみんな口には出さないまま、漠然とは感じていた。国内の米軍基地にもお引き取り願い、日米地位協定を改定し、主権国家になることが夢ではなくなった。

でも、バブル崩壊と同時にその夢はついえた。それがもたらす無力感は想像以上に深いものでした。国家としての生きる目標が失われたんですから。このあとどうすればいいのか? もう永久に対米従属するしかないのか? 

だからバブルの崩壊というのは、単に株価が下がった、地価が下がったという程度のことではなかったのです。国家目標を見失ってしまったんですから。


韓国に習わない日本

――そのなかで、現在は中国が元気が良い。

日本はそれ以後ひたすら没落しているわけですけれど、中国は劇的な成長を遂げた。
実は韓国もそうなのです。韓国もやはり日本に比べるとはるかに成功している。

韓国の場合は、日本の植民地支配から脱したあと、今度は朝鮮戦争があり、久しく軍事独裁があり、80年代に入って、ようやく市民たちが自力で民主化を達成した。

日本の場合は、戦争に負けて、GHQに与えられた既製品の民主主義ですけれども、韓国の場合は、市民が手作りした、血であがなった民主主義です。そこが日本と決定的に違う。そしてもう一つ違うのは、経済的にも日本より成功していることです。

中国の場合は非民主的な独裁政治と市場経済の組み合わせで成功した。韓国は民主制と市場経済の組み合わせで成功した。この二つの成功モデルがいま日本の目の前にある。日本はこれからどちらのモデルに従うかという二者択一を突きつけられているわけです。
もちろん、民主主義と市場経済の組み合わせである韓国モデルの方が日本にとってははるかに親和性が高い。けれども、いまの自民党政権は、韓国モデルから何かを学ぶ気はない。それよりは中国モデルあるいはシンガポール・モデルに惹きつけられている。どちらも強権的な一党独裁体制で、政府批判をする者は令状なしで逮捕拘禁でき、反権力的なメディアもないし、学生運動も労働運動もない国です。そういう国が経済的には発展している。


――どうして日本は韓国モデルを選ばないのですか?

かつての植民地だからでしょう。一段下に見ていた隣国の成功モデルを模倣することはあまりに屈辱的で耐えられないのでしょう。

「成熟」を阻むモノ


――その独裁的な安倍政権の7年をどう見ていますか?

日本の国力を衰微させた7年間でした。「暗黒の時代」として日本政治史に残ると思います。この7年間で、先進国としてのすべての指標が低下した。経済はもちろんですが、なによりも教育の劣化、学術的な発信力は低下が著しい。科学に関しては、『ネイチャー』が2017年に警鐘を鳴らしています。東アジア第1位の先進科学国だった日本の科学力が21世紀に入って劇的に低下したからです。


――表面的にはノーベル学賞受賞者が続いていますが?

それは30年前の研究成果が今になって評価されているわけで、いまの教育行政が続く限り、遠からずノーベル賞はゼロになります。それは受賞者たちが口々に言っていることです。


――教育の分野ではどのようなことが問題ですか?

市場原理を学校教育に導入したからです。限りある教育資源を「選択と集中」で生産性の高そうなセクターに集約しようとしてきた。

中高一貫教育がそうです。あの制度が子どもたちの成熟をどれほど妨げているかについて、みんなあまりに無自覚過ぎます。12歳から18歳まで、同じ仲間と過ごすというのはある種の「地獄」ですよ。変化し、複雑化し、成熟してゆくことを制度的に阻害されるんですから。

思春期の子どもたちって、日ごとに変化するものじゃないですか。それが6年間同じ仲間たちと、同じような言葉づかい、同じようなふるまいをすることを強いられている。12歳のときにある「キャラ」をあてがわれて、それで集団内部のポジションを決められると、それを18歳まで維持しなければ居場所がなくなる。その「キャラ」を忠実に演じることが「自分らしさ」の発現だとみなされている。

日本は集団主義で、「同質化圧」が強いと言いますけれど、それ以上に「自己同一化圧」の方が強いと思う。「自分探しの旅」とか、「自分らしく生きる」とか、「ベストワンよりオンリーワン」とかいう言葉はどれも「自己同一性を早く決めて、決めたらそこから一歩も出るな」というメッセ―ジを言外に発している。先ほどの「身のほどを知れ」「おのれの分際をわきまえろ」と同じです。その自己限定命令をあたかも成長の目標であるかのように設定している。でも、「自分らしさを貫け」というのは実は「成熟するな」ということと同義なのです。

「成熟」というのは、変化し、複雑化することです。昨日言ったことと全然違うことを言い出す、昨日の語り口と全然違う語り口になる。語彙が変わり、表情が変わり、感情が変わり、ふるまい方が変わってゆく、そういうダイナミックな変化のことです。でも、日本社会は、子どもたちが昨日と別人になること、「よりわかりにくくなる」ことをあらゆる機会に阻止しようとしている。社会そのものが成員たちの市民的成熟を構造的に阻害している。日本人が幼稚化した理由はこの「自己同一性圧」にあると僕は思っています。

「自分らしさ」なんてどうだっていいじゃないですか。大事なことは成熟し、複雑化することです。


権力におもねる司法

――なるほど、教育ではそういう問題がある。では、政治の劣化はどうでしょう。最近では、「桜を見る会」問題で安倍政権はまた居直ったり、証拠隠滅みたいなことをしていますが?

この間、ほとんど司法が動いていないことが深刻だと思います。検察が動いていない。なるほど、検察というのは権力の走狗なんだ、権力者に対しては司法の手は及ばないのだ、ということを日本人の多くは日々実感している。これは「法の支配」「法の下の平等」という法治国家の土台が崩れ始めているということです。すでに日本は近代国家としての体をなしていない。いまの日本国民の統治機構に対する不信感は、南米やアフリカの破綻国家、独裁国家のレベルに近づいていると思います。


――マスメディアに対してはどのように思われていますか?

検察もメディアも同じで、腐っているのは制度ではなく、個人なのです。安倍政権下の7年間では、公的な制度を適切に機能させることよりも、権力者におもねって出世しようとする人間たちが重用されました。公益よりも私利を優先させる人間が公的機関の要路に配された。自分さえよければそれでいい、自分がやりたいことができるのなら、先行き国も、自分の属する組織も、どうなってもいいと思っている人たちがあらゆるセクターで指導層を占めるようになった。それはメディアも同じです。自分が出世して、いい思いをできるのであれば、自分の属する新聞社やテレビ局が先行きどうなっても知らないという人間たちがトップを占めるようになった。


――なかには公共性をなんとか守っていこうとする若いジャーナリストもいると思いますが?

います。僕もそういう人たちと連携して仕事をしています。若いジャーナリストたちは辺野古の番組を作ったり、モリカケ問題を追ったり、れいわ新選組を取材したりしている。でも、彼らが書く記事も彼らが制作したコンテンツも、使われない。紙面に載らない、放映されない。上層部が官邸のご機嫌を伺って、抑え込んでしまう。

山本太郎現象

――そのれいわ新選組の山本太郎ですけれども、内田さん自身は、彼をどう見ていますか?

彼は立派な政治家だと思います。感情の器が大きい。怒りも喜びも共感力も、すごく大きい。怒って泣くし、悲しんで泣くし、困っている人を見ると、共感して泣く。不正への憤りで震える、弱者への共感で震える。あそこまで感情のスケールが大きい政治家は、今の日本にはいないような気がします。

それに彼は全部自分の言葉で話しますね。政治家的定型句を決して使わない。先日、梅田での街宣を見に行きましたけれど、3時間続いた街宣なのに、みんな帰らない。何百人もの人が寒空に立って、3時間聴いている。驚きました。それだけ説得力があるということです。

安倍政権の期限

――そういう状況のなかでの2020年ですが、安倍政権4選の声もあります。

僕は「猫の首に鈴をつけにいく」のは自民党のOBじゃないかと思います。福田康夫とか、山崎拓とか、小泉純一郎とか、亀井静香とか、古賀誠とか、もう現役ではない人たちが、「もう辞めろ」と引導を渡しに行く。これ以上続くと、統治機構への信頼が致命的に傷つくから。

辞任勧告が出ると、党内で「ポスト安倍」の動きが始まる。早ければ、年明けすぐに始まるのではないでしょうか。自民党の先行きを考えたら、このまま安倍政権が続くと、自民党という政党そのものが終わってしまう。

福田さんは一連の公文書の扱いに関しては、相当怒っていると思います。小泉純一郎も「製造責任」がありますし。


批判されない権力者

――内閣支持率がいつまでも高いのはなぜでしょうか?

最大の支持理由は「ほかにいない」からです。それは「この人がいま首相だから」というのと同義です。自分にあてがわれた立場からはずれてはいけない、「分際をわきまえろ」というルールが日本の有権者にも深く内面化されている。だから、「首相は首相であるという事実ゆえに、いつまでも首相であるべきだ」という不思議な推論をする。

権力を持たないものが権力者に逆らうことは「分を知らないふるまい」だとして排撃される。権力の基盤が「現に権力を持っていること」ことなんです。その権力をどのように使っているのか、その適否は副次的なことに過ぎない。

富裕層に対する批判を口にすると、「そういうことは同じくらい稼いでから言え」という批判がすぐに来る。政治家を批判すると、「だったら、自分で選挙に出て政治家になれ」と切り返される。自分の分をわきまえずに、自分がそこにいないポジションの人間を批判するのはルール違反だ、弱者の見苦しい嫉妬だ、と。そういう考え方をする人がほんとうに多い。それが現状肯定につながるわけですけれど、その無力感をなぜかリアリズムだと思い込んでいる。そういう人が日本人の5割いるということですね。


――内田さんの若い時代は違っていましたか?

金持ちだから、学者だから、権力者だからといって、「正味の人間」としてなんぼのものか、ということが人を見るときの基準でした。肩書のような外形的なものには意味がないと思っていました。60年代末の学園紛争って、要するに学生たちが大学の先生に向かって、「あんたら、ずいぶんえらそうにしているけれど、正味の人間として、平場に降りてきて、俺らと対決したときに、俺らを論破できるのか、説得できるのか?」と挑戦したことだったと思うんですよね。そして、実際に「象牙の塔」から引きずり下ろして、差しで議論してみたら、あれほど威張っていた先生たちがみんな腰砕けで、それほど節操もない人間だということがわかった。そういうことです。


――安倍首相はどうでしょう?

あの時代の学生たちの集会につれてきたら、一瞬で論破されてしまうでしょうね。


――しかし現代人は権力には逆らえない。

「分をわきまえろ」「控えおれ」という時代ですからね。江戸時代の身分制みたいな話です。


――日本は江戸時代が再現されている。しかし香港では学生たちがたちあがって、中国共産党と闘おうとしている。

立派だと思います。市民たちが主権的に国を統治したいという意志が、香港でも台湾でも、はっきり表示されている。でも、日本では、89年くらいで政治的な夢を見る時代が終わっている。主権国家なら国民は主権者なのですが、いまの日本は主権国家ではなくて、アメリカの属国なわけです。主権者はホワイトハウスにいるわけですから、日本人には自分たちが主権者だという意識がない。そんな人間に市民革命を起こす力があるはずがないじゃないですか。この政治危機において、国会前のデモに100万人集まらない国ですからね。だから、安倍政権が自民党内部の内紛で退場することはあっても、国民が自力でひきづり降ろすということは難しいと思います。


自己限定からの脱却

――そのような状況下で、わたしたちがするべきことは?

「みんな、それぞれの場所で、創意工夫をしてやってください」ということに尽きますね。僕がとにかく声を大にして言いたいのは、「自分らしい」などという言葉に囚われて、自己限定をし、自由度を下げるような生き方をやめたほうがいい、ということです。「みんな好きにやってください。まわりががたがた言っても気にしないでいいです。」それに尽きますね。「身の丈にあった」「身の程をわきまえろ」などという言葉でどれだけ日本が窮屈になっているのかを反省してもらいたい。


――そのようなやばい状況に気が付き、好きに生きろと?

 僕からのメッセージは「身の程を知るな」、「身の丈を超えろ」ですね。これは小学生から老人にまで言いたい言葉です。「小さくまとまるなよ」と。

http://blog.tatsuru.com/2020/02/26_1553.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/937.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 心理学、大脳生理学、文化人類学、文化関係投稿リンク 中川隆
90. 中川隆[-13459] koaQ7Jey 2020年2月26日 18:02:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[33]

内田樹 生きづらさについて考える
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/937.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/807.html#c90
[リバイバル3] 中川隆 _ 日本文化関係投稿リンク 中川隆
126. 中川隆[-13458] koaQ7Jey 2020年2月26日 18:05:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[34]

内田樹 生きづらさについて考える
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/937.html

内田樹 嫌韓の構造
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/664.html

内田樹:全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売りさえしておけば政権は延命できる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/398.html
 
比較敗戦論のために - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/301.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/466.html#c126

[リバイバル3] 中川隆 _ 心理学、大脳生理学、文化人類学、文化関係投稿リンク 中川隆
91. 中川隆[-13457] koaQ7Jey 2020年2月26日 18:23:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[35]

内田樹:全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売りさえしておけば政権は延命できる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/398.html
 
比較敗戦論のために - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/301.html

内田樹 嫌韓の構造
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/664.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/807.html#c91

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
32. 中川隆[-13453] koaQ7Jey 2020年2月26日 19:00:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[40]

2020年02月25日
支那人が「難民」として住み着く時代
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68800846.html


日本が支那人の「避難先」となる


Children Europe 2Chinese kids 3
(左 : 多文化主義者が理想とする未来 / 右 : オーストラリアで暮らす支那人の子供達)

  只今、我が国で武漢肺炎が猖獗(しょうけつ)を極めている。アメリカ合衆国は優秀な諜報機関を備えているので、支那でのウイルス蔓延を去年の11月頃から察知していたそうだ。たぶん、CIAがホワイトハウスに情報を伝えていたから、政府が早急に支那人渡航者の制限を発令し、ウイルス感染者の入国を禁止したのだろう。ところが、俊敏な米国と対照的なのが我が日本。既に、武漢以外の都市でウイルスが拡散していたのに、日本政府と地方自治体は、こぞって支那からの観光客を大歓迎。彼らが落としてくれる銭が少なくなっては困ると心配したのか、湖北省からではない個人客なら「OK !」と合図を送り、その情報を得た支那人は一路日本へ。もう、この対応で日本の命運は決まってしまった。微熱がある者、あるいはちょっと咳き込んだ者でも、何食わぬ顔で入管を通り過ぎたから、さあ大変。人間型のウイルス噴射機が到来したから、日本人の感染者が激増した。

  恐ろしい現実はまだある。観光局の発表によれば、今年1月に来日した支那人の数は、何と92万4千800人というのだ。前年(2019)の1月だと75万4千421人となっているから、実に17万379人の増加となっている。もう、目眩がしてくるが、この中には観光客なく、支那大陸からの“難民”が相当混じっているという。現実的な思考を持つ支那人からすれば、不潔で危険な独裁国にいるより、安全で清潔な日本に逃れた方がいい。もし、呑気に残っていると、いすせれ武装警察に尋問され、強制的な検査を受ける破目になる。もし、ちょっとでも感染の疑いがあれば、即「強制収容所」行きだから、命の保証は無い。ここは治療施設じゃなく、汚染された人間を閉じ込める牢獄で、入所者は只“苦しみ”ながら“死”を待つのみ。肺炎に罹ると呼吸困難になるから、もがき苦しみながらの「絶命」となる。ホント、支那人に生まれると不幸だ。

Chinese in Wuhan 4Chinese tpurists 1112

  日本の国会議員は与党でも野党でも、全くと言っていいほど国家意識が無い。日本に逃れてくる支那人は、本国に帰るつもりはなく、そのまま日本に居坐ろうとする。彼らは日本の高度医療を期待し、もし武漢肺炎に罹ったら、日本の病院で快適な日々を送ろうと考えているのだ。日本人の医者や看護婦は、あの下劣な支那人と大違いで、人命を尊重し、外人であっても“平等”に扱ってくれるから非常に有り難い。もし、日本人が支那大陸で病気になったら、どんな“治療”と“看護”になるのか、ちょっと考えてみればわかるじゃないか。日本人の母親で我が子を支那の病院に連れて行き、入院させることに同意する者がいるのか? 不潔で黴菌だらけの病院監獄を見れば、「ぎゃぁぁぁぁ〜〜〜!!!」と悲鳴を上げて脱走するはずだ。日本人は外国の医療機関を日本の基準で想像するから愚かである。支那人には他人への配慮が無い。例えば、赤ん坊用の粉ミルクとベビーフードかなんか恐ろしくて子供に与えることはできないから、幼い子供を持つ日本人は支那での生活は考えられないし、移住なんか絶対に無理。風邪薬や胃腸薬はもちろんのこと、目薬だってどんな成分なのか解らないから購入することはない。失明の危険性を孕む目薬なんて、冗談を通り越している。一般の日本人は支那を経済大国と思っているが、実際は、腐敗と金銭が渦巻く古代国家でしかない。支那人のような劣等民族を対等に扱い、国籍まで与える日本政府は気が狂っている。

  我々がすべきことは、支那人の入国を全面的に禁止するばかりではなく、日本に居残っている支那人を排除して、なるべく支那系住民を少なくすることにある。たとえ、日本での永住権があっても、特別法を作って、それを剥奪するか無効にすればよい。また、日本人と結婚している帰化支那人でも、入国の経緯や結婚の形態に怪しい点があれば、即刻、こうした日本国籍を取り消して支那に強制送還するのが筋である。そもそも、日本は「事後法」を認めている国家だし、英米も第二次大戦後、「事後法」で戦犯国を裁いた前科者だから、日本の立法措置を非難することはできない。もちろん、日本の左翼学者や人権派弁護士は猛烈に反対するだろうが、最初に“違法”な方法を取った外国人に“合法的”地位を与えるのが間違っている。例えば、日本人は大学入試のとき「裏口」から入った者に対しては容赦がなく、発覚後、直ちに退学処分にしたりするが、それは「不正な入学は駄目」という鉄則があるからだ。では、「見つからずに卒業すればいいのか?」と言えば、「それも駄目 !」と却下される。たとえ、四年間きちんと授業料を納めたとしても、親が袖の下を使って「合格」を買い取ったのであれば、「学士様」という「身分」は“剥奪”となる。同級生からも卒業生とは認められないし、この汚点は一生つきまとう。日本人は不正入国や国籍詐欺には寛大でも、裏口入学については殊のほか厳格である。

Chinese cartoon 2(左 / 苦力を縛り首にする風刺画 )
  日本人は本質的に“心が優しい”から、困っている人を助けようとする。が、それは同等の文明や生活水準をもつ歐米人だけにすべきで、支那人とか朝鮮人は冷たく見放すべきだ。なぜなら、彼らは簡単に祖国を捨て去る地球市民であるからだ。しかも、寄生先の国家を劣化させる厄介者となっている。だいたい、北米や西歐諸国で、支那人を受け容れたことで、何か「嬉しい」ことがあったのか? 偽善的な知識人は別だけど、「支那人、出て行け !」と罵りたくなるのが普通だ。かつて、フランク永井は「そばに居てくれるだけでい〜い〜」と唄っていたけど、支那人が側に居たら、「いつまで俺の近くに居やがるだ ! とっとと、帰れ!」と言いたくなる。支那人というのは、目にするだけでも不愉快だ。交際して清々しく思うことは全くない。京都の風情を愛する日本人は、アヒルみたいにガァーガァー喋る支那人を忌々しく思っていたし、祖父の代から東京で暮らしてきた江戸っ子は、支那人に銀座を占領されて怒っていた。昔、筆者は埼玉県の川越に住んでいたけど、ある日、テレビ番組で支那人が群れる映像を見て愕然としたことがある。30年くらい前は日本人だけが行き交う街並みで、支那人の団体客なんて見かけなかった。それなのに、今じゃ下品な支那人が大量に訪れ、店の前でモノを喰ったり、大勢で話ながらゾロゾロ道端を歩いたり。これじゃあ、まるで環境破壊だ。

  我々には支那人の生活や健康を考慮する義務は無い。たとえ、支那大陸にウイルスが蔓延しようとも、日本政府は忖度することなしに、支那人の観光客を全てシャットアウトにすべきである。支那人の健康は北京政府が責任をもって配慮すべし。日本政府は日本国民の利益を第一に考えるべきである。一般の日本人は気づいていないが、難民条約というのは、後進国や独裁国の住民が有利になるよう考案された脅迫状で、西歐諸国や日本といった先進国には何の利益も無く、むしろ負担を増幅させるだけの代物である。「難民」を称する逃亡者は、必ず豊かな文明国を目指す。彼らは「命」を優先していると弁明するが、ちゃっかり避難先を選んでいる。例えば、ラオスやカンボジアからの難民は、タイとかマレーシアよりも、オーストラリアやカナダを選ぶし、「クルド難民」は同じ信仰を持つサウジ・アラビアとかドバイといった富裕国を斥け、遙か遠くの日本を「定住地」として選んでいる。なぜなら、アラブ諸国は“よそ者”に冷たく、福祉金など全く期待できないからだ。ところが、日本に行けば言葉が通じなくても何とかなるし、事によったら社会福祉で生活できる。運が良ければ国籍取得も可能だから万々歳だ。さらに、帰化人となれば親兄弟を呼び寄せることもできる。ということで、「日本行き」がベスト・チョイスだ。(NHKは本当に悪質で、難民推進派の本間浩と緒方貞子を使って特番を作り、「難民受け容れ」を呼びかけていた。NHKの制作者は筆者に「彼らは制作者の代弁者なんですよ。ハハハ !」と笑いながら答えていた。もちろん、一般視聴者には内緒だ。彼らはゼニだけを巻き上げる。)

支那人が溢れかえるオーストラリア

mixed race couple 5mixed race couple 111


(写真 / 多民族主義者が讃美する異人種カップル)

  日本の未来を考える上で、非常に参考となるのは、アジア諸国に近い南の楽園で、愚劣化したアングロ・サクソン国のオーストラリアだ。最近は、クライヴ・ハミルトン教授の『Silent Invasion』で“濠洲のアジア化”が話題となったけど、既にオーストラリアは1970年代に多文化・多民族主義で「別の国」となってしまった。オーストラリアは人種的に変質してしまい、もはやギリス人やケルト人が主流の国ではない。街の至る所に、移民や難民としてやって来たアラブ人やレバノン人、ソマリア人、マレー人、インド人、フィリピン人、そして“どんな種族”か判らぬ混血児がいて、その中に支那人が大量に紛れ込んでいる。銭儲けを得意とする支那人は大都市に集まりがちで、支那大陸生まれの支那系オーストラリア人だと、53%くらいがシドニーで暮らしているそうだ。また、ブリスベンやメルボルンにも香港出身の支那人や客家の支那人が多く住み着いているから、本当におぞましい。まぁ、支那人というのは、チャンスがあれば何でもする民族だから、先進国がちょっとでも甘い態度を示せば、続々と上がり込んでくる。

Bob Hawke 3(左 / ボブ・ホーク )
  支那移民が増えたのは、1970年代にオーストラリア政府が「白濠主義(White Australia Policy)」を放棄したせいなんだけど、1980年代後半に首相となったボブ・ホーク(Robert James Lee Hawke)の罪過も大きい。オーストラリアには呆れるほどリベラル派が多く、この労働組合上がりの首相も左巻きの人物で、人種差別への反対とか人道主義への配慮とかで人気を誇っていた。(実際、彼は1983年から1991年まで首相の座に就いていたから、珍しい程の長期政権だった。) ホークは根っからの政治屋で、15歳の時には「将来、オーストラリアの首相になるんだ!」と意気込んでいたそうだ。また、彼は米国のビル・クリントン大統領と同じく、有名なローズ奨学金をもらってオックスフォード大学に留学した経験をもつ。帰国してからは組合活動に励んだそうで、議長選挙に挑むと勝利を摑み、輝かしいACTU(オーストラリア労働組合評議会)のトップになれた。

  「リベラル派」というのは、国民の利益を犠牲にしても“高尚”な理念に邁進するようだ。アングロ・サクソン系やケルト系のオーストラリア人は、異様な顔つきの支那人が大嫌いなのに、天安門事件が勃発すると、ホーク首相は約2万人の支那人留学生に滞在延長を許したしまった。(Tony Wright, "Refugees : more confusion : Hawke backtracks and dashes hopes of 20,000", The Canberra Times, 13 June 1990) 当時、ケ小平が率いる北京政府の残虐性にショックを受けた西歐人は、「あらまぁ、お可哀想に !」と支那人の留学生や活動家を憐れみ、滞在期限が切れても追い返そうとはしなかったけど、これは致命的な誤りだ。「デモクラシー」を叫ぶ活動家だって、権力を握れば新たな始皇帝となる。昭和女子大の黄昭堂がいち早く警告していた通り。何千年経っても支那人は支那人のままである。オーストラリアでも同じで、綺麗事が大好きなリベラル派は支那人に「難民」資格を与える始末。でも、この例外措置に反対する者もいたから、オーストラリア政府に対し、「どれくらいの延長期間なんだ?」とか、「何年くらい認めるんだ?」との質問が投げかけられたという。最初、ホーク首相は「だいたい6ヶ月以上で、10年を超すことはない」と曖昧に答えていたが、実際のところ4年くらいを目途に考えていたそうだ。

  とはいっても、厚かましい支那人だ。「滞在期限」が来たから潔く帰る、ということはない。もし、あの暗黒大陸に戻れば、悲惨な生活しか期待できないし、いくら頑張っても出世できる訳じゃないから、快適で豊かなオーストラリアに留まった方が“お得”だ。オーストラリアに住むことができれは、どんな下っ端仕事でもへっちゃらで、人種差別なんか屁でもない。太古の昔から、支那人自身が差別主義者なんだから。とにかく、“地上最低”の支那で働けば、様々な公害や土壌汚染、農薬漬けの野菜に、重金属まみれの食品、暴動、圧政、弾圧、搾取、虐殺、疫病などで苦しむ事になるし、第一、生きている喜びが無い。列車に乗れば「あの世行き」だし、そこら辺の道路を歩けば、いきなり地面の陥没でブラックアウト。暴走車が突っ込んでくれば瀕死の重傷だ。また、エスカレーターやエレベーターに乗ったら、暴走機関車よりも危険で、「いつ、どんな事故」が起きるのか分からない。格差社会なんか当たり前で、共産党幹部の家庭に生まれたら幸運だけと、農村に生まれたら一生「農奴」のままだ。それに、支那では「マモン(金銭の神)」が「テーミス(正義の女神)」の天秤を持っているから、“公正”を掲げる司法と警察だって金で動く。日本人は呑気にモデル・ガンを買って「サバイバル・ゲーム」を楽しんでいるが、支那人は実生活で生死を彷徨(さまよ)っている。ということで、支那人は何が何でも歐米諸国にしがみつく。

  普通の日本人は赤い学校でクルクルパーにされているから、「白濠主義」と聞けば、「えっぇ〜、こわいぃぃ〜」と思ってしまうが、実際、アングロ・ケルト系国民が大半だった頃のオーストラリアは素晴らしかった。日本人の学者でオーストラリアを研究する者は、ほとんどが左翼なので、西歐的濠洲を望んだエドマンド・バートン(Sir Edmund Barton)やジョン・カーティン(John Curtin)、アルフレッド・ディーキン(Alfred Deakin)、ロバート・メンジーズ(Sir Robert Menzies)といった首相や移住省大臣を務めたアーサー・コーウェル(Arthur Calwell)に対する評価は極めて低い。良家のお坊ちゃんやお嬢ちゃんが通う慶應義塾大学では、悪質な関根正美とか塩原良和が教えていたから、多文化主義を素晴らしいと信じる学生が大量生産されていた。とは言っても、事情は東京大学や一橋大学でも同じで、移民問題や多民族社会を専攻する教授は、ほとんどが老獪な反日分子かピンク・リベラル、あるいは“なんちゃって左翼”だから、アングロ・オーストラリアを肯定する学者なんて皆無だ。

Edmund Barton 1Alfred Deakin 1Robert Menzies 1Arthur Calwell 1


( 左 : エドマンド・バートン / アルフレッド・ディーキン / ロバート・メンジーズ / 右 : アーサー・コーウェル )

  外国を理解するには、具体的に考えてみるのが一番だ。もしも、一般の日本人がオーストラリアへ移住することになったとして、この人々に「イギリス人だらけの濠洲」と「支那人がウヨウヨいる多民族濠洲」を選択できるとしたら、おそらく90%以上の者が白人だけの濠洲を選ぶことになるだろう。(アボリジニの村で暮らしたいと考える日本人はゼロ。) 普通に考えれば、1960年代までのオーストラリアの方が良いと分かるのに、オーストラリアの政治家ときたら、どいつもこいつも「多文化・多民族主義、万歳 !」という奴らばかりだ。移住省大臣を務めたアル・グラスビー(Albert Jamie Grassby)やサウス・オーストラリア州の首相を務めたドン・ダンスタン(Donald Allan Sunstan)は論外として、ハロルド・ホルト(Harold Holt)、ゴフ・ウットラム(Gough Whitlam)、ポール・キーティング(Paul Keating)、ジョン・ハワード(John Howard)なども移民歓迎の売国奴であった。(アル・グラスビーは札付きの多文化主義者で、非イギリス的肉体を持っていたからアングロ・ケルト的濠洲を憎んでいた。ドン・ダンストンも極左分子で、このバイセクシャル議員はユダヤ人妻のグレーテルとマレーシア人妻のアデーレと別れた後、スティーブン・チェンという支那人学生と愛人関係となった。グラスビーにはエレノールという正妻がいたけど、アンジェラ・チェンという愛人がいて、この支那人と最期まで暮らしていた。さぁ〜すが、多民族主義者は私生活も多彩だ。)

Al Grassby 1Don Dunstan 1Gough Whitlam 1Harold Holt 1


(左 : アル・グラスビー / ドン・ダンスタン / ゴフ・ウットラム / 右 : ハロルド・ホルト )

Kevin Rudd 5(左 / ケヴィン・ラッド )
  最近ではニュー・サウス・ウェイルズ州の首相を務め、支那人との癒着ぶりから「北京(ベイジン)ボブ」と呼ばれるボブ・カー(Robert John Carr)が有名になった。しかし、彼が外務大臣を務めた時の親分であるケヴィン・ラッド(Kevin Rudd)も「ベイジン・ボブ」に負けず劣らず、支那人に媚びる政治家だった。白人議員としては珍しく、ラッド首相は北京語を流暢に話す。というのも、彼はオーストラリア国立大学(Australian National University)に通っていた頃、支那語と支那史を専攻し、「陸克文」という支那名まで持っている「支那通」であるからだ。(Kevin Rudd, "Learning Chinese Is a Doorway to Understanding", IFC Mandarin Connection, 27 May 2018) これに加え、彼は1984年頃、北京にある濠州大使館に勤めた経験がある。そこでの肩書きは、政治顧問となっていたから、たぶん、流暢な支那語の才能を買われてのことだろう。

  さらに注目すべきは、義理の息子が支那人ということだ。ラッド首相にはジェシカ(Jessica Rudd)という娘がおり、女房のテレーズ・レイン(Therese Rein)が「レイン財団」を創設していた。ジェシカは母親が拵えた財団に勤めていたが、そこには将来の夫になるアルバート・ツォ(Albert Tse)も役員になっていた。玉の輿に乗ったアルバートは、香港出身の支那移民で、元々は「BankWest」の銀行員であったらしい。(Arjun Ramachandran, "He beat Kevin Rudd : who is Albert Tse ?", The Sydney Morning Herald, December 8, 2007) 二人の間には娘も生まれたから、祖父となったケヴィン・ラッドは大喜びだ。

Jessica Rudd & Albert Tse 02Kevin Rud & Therese Rein 1


(左 : アルバート・ツォとジェシカ・ラッド / 右 : テレーズ・レイン夫人とラッド首相 )

  確かに、初孫が支那人との混血児なら、支那人を“より一層”身近に感じられるし、「支那人は出て行け !!」と叫ぶ白人は赦しがたい「天敵」となる。異人種間結婚の恐ろしさは、遺伝子プールの毀損や人種の変質ばかりではなく、「同胞」の変化にもある。つまり、支那系の孫ができると、自分の「同胞」に何億もの支那人が加わってしまうのだ。もちろん、アングロ・ケルト系のオーストラリア人は引き続き「良き仲間」であるが、支那大陸の異民族も自分の「仲間」になってしまうところに、異民族融合の“恐ろしさ”がある。ラッド首相のような祖父にしたら、西歐人ばかりの濠洲は、孫が爪弾きにされるので好ましくない。やはり、色々な人種が混じった濠洲の方が安全だし、支那人の血を引く子供にとっては“最良”の国家となる。

支那語教育を推奨する元首相

  一般的に、西歐人というのは、アジア諸国の言語を学ぶことはない。たとえ、中学生や高校生の時に始めても、あまりにも異質で難解な言葉なので諦めてしまう者がほとんど。日本語なんか暗号みたいだし、アラビア語と同じくらい難しい。文法は違うけど支那語だって複雑怪奇だ。第一、あの膨大な漢字の量を知れば「やめておこう」となる。ところが、ラッド首相はアジア諸国との貿易を増大させ、オーストラリア経済の要(かなめ)にしたいらしい。そこで、ラッド氏は「オーストラリア経済の未来はアジア言語にあり !」と喝破し、「標準語(Mandarin)」とされる北京語や日本語、インドネシア語(Bahasa)、朝鮮語を学ぶよう勧め、学校教育に取り入れるよう訴えかけたという。(Creating an Asia-literate Australia : an Address to the 2002Australia in Asia Series, 8 October 2002) 日本人なら「いくら貰っているんだ?」と尋ねたくなるが、ラッド首相は支那語教育に熱心で、民間企業が新入社員を採用する際、何割かの「特別枠」を設け、アジア言語を習得した学生に与えるよう提案したのだ。もう、二階俊博もたじろぐ程の「チャイナ好き」である。

  ところが、チャンコロ屋の夢は、本当に夢幻(ゆめまぼろし)となったらしい。将来の就職に有利なるだろうと計算して、幾人かの子供達が支那語の勉強を始めたというが、あまりにも難しかったのか、それとも興味が薄れたのか、94%の小学生が12歳になる前に挫折したそうだ。("Chinese Language Programs in Australia : 94% Drop-Out Rate", The Linga Franca, October 13, 2008) そりゃそうだろう。西歐白人の家庭で支那語を話す親なんかいないし、たとえ子供が興味を持っても、文法や語彙が違いすぎるから、次第に飽きてくる。子供には何らかのインセンティヴがないと、「続けよう」という意思がはたらかないのだ。そもそも、動機が「銭儲け」という魂胆なので、続く訳がない。小学生は興味を持ったものに集中する。例えばもし、オーストラリア人の子供が日本に移住して、日本のアニメを観たり、漫画雑誌を目にすれば、自然と日本語を学びたくなるだろう。しかし、オーストラリア白人の家庭に生まれ、両親とも英語を話し、友達も白人だらけという環境で、小学生が難解な支那語を勉強するのか? いったい、支那文化に“どんな”魅力があるというのか? 二千年とか三千年の歴史を自慢する支那や南鮮には、日本の作品を盗んだ「パクリ文化」や、歐米諸国のポップ・カルチャーに憧れた「猿マネ藝術」しかない。子供は正直だから、「嫌なもの」は「嫌 !」と答えてしまうのだ。

Chinese in Australia 3Chinese cartoon 1


(左 : 「オーストラリア国民」となった支那人 / 右 : 支那移民を揶揄する風刺画 )

  「多文化主義」とやらを称讃するオーストラリアは、今や様々な人種が暮らすテナント長屋となっている。 現地の政治に詳しくない日本人でも、キャンベラやシドニー、メルボルン、アデレイド、ブリスベンを旅行すれば、目を丸くして「ひゃゃゃ〜、アジア人やアフリカ人ばかりじゃん !!」と驚き、「第三世界」に来たような錯覚に陥るだろう。中には、松田優作のジーパン刑事みたいに「何じゃこりゃ !!」と叫ぶ者もいるかも知れないぞ。これなら、草原に出てコアラやカンガルーを眺めた方がマシだ。野生動物は同種類の繁殖を好むから、火傷したコアラはいるけど、髭面のコアラとか、タヌキと混血したコアラ、ゴリラの母から生まれたカンガルーなんていないじゃないか。

  敗戦で健全な精神を滅茶苦茶にされた日本人は、フランクフルト学派の大学教授や革命を望む進歩的知識人、伝統的社会を憎む日教組教師によって、国家意識を根こそぎ奪われてしまった。国防の重要性を訴える保守派国民でも、我が国を守るのは「誰」なのかを認識せず、アジア移民の流入に断固たる拒絶を示すことができない。なぜならば、保守派知識人でも「人権」とか「人道主義」に縛られ、アジア人の排斥とナショナリズムは右翼思想とかネオナチ主義と考えてしまうのだ。報道によれば、武漢肺炎が拡散した時、安倍総理や側近の高官は、習近平の来日断念と対支那感情の悪化を懸念して、支那人の入国を全面禁止にできなかったという。つまり、残酷な独裁者を「国賓」として招くために、一般国民を犠牲にしても“OK”と考えていたのだ。首相官邸で働く高官らは大卒者のはずだが、学校で愛国精神と国防意識を学んでいなかったので、「日本人が最優先」という発想が無かったのだろう。

  一方、武漢肺炎の拡大で心配な日々を送る日本人には、二重三重の損害が降り掛かっている。普通なら、この時期でもマスクや殺菌剤の“品切れ”は無いのに、今年はどこの薬局でも売り切れ状態で、日本各地で入手が難しく、通信販売では高値が附いている。さらに、学校や会社に通うために電車やバスを利用すれば、飛沫感染の恐れがあるというので、短時間の乗車しかできない。しかも、ウィルス蔓延のせいで、各地のイベントやコンサートは軒並み中止となり、主催者側は困り果てている。只でさえ、消費増税の影響が全国各地を震撼させ、経済成長がマイナス6.3%という惨状なのに、東京五輪まで危うくなっている訳だから、日本経済にとって大打撃だ。

  ところが、今でも支那人の個人客は入国禁止となっておらず、安全な日本へ逃れようとする来日客(避難民)は絶えない。日本で肺炎になれば無料か低料金で極上の医療を受けることができるし、「人道主義」を掲げてコネれば、長期滞在も可能となる。何しろ、日本には既に支那人だらけの街や支那人が群れる租界が出来上がっているから、日本語が不自由でも生活に困らない。しかも、働き先はいくらでもある。支那料理屋での皿洗いでもいいし、人手不足の農家で「臨時雇い」でもいい。また、筋肉労働の市場に行けば、幾らでも需要があるから、小さな工場で働くこともできるし、一攫千金を期待できる闇社会もある。こうなりゃ、10年、20年でも暮らして行けるだろう。それに、アホな日本人を引っ掛けて結婚できれば、永住権や国籍も夢じゃない。日本だと、様々な理由をつけて滞在を伸ばすことができるし、都会に行けば支那人を支援する人権屋とか左翼弁護士も“いっぱい”いるから一安心だ。

  とにかく、日本人は精神的に弱い。「根気強くゴネれば道は開ける」というのが支那人のモットー。彼らには日本人が持つ「羞恥心」といったものは無い。付け入る隙があれば、とことん利用し、その隙間をグイっと広げて、もっと多くの利益を得ようとする。やがて日本には支那人の血筋を持つ者で溢れ、帰化人の子孫とか日支混血児の家庭、アジア人と結婚する帰化支那人の孫などが普通になってしまうだろう。たぶん、「李」とか「劉」、「趙」といった姓が当たり前となるんじゃないか。地上波テレビ局はこっそりと多民族社会を目指している。狡賢い制作者は、白人藝人を招いて作る番組の中に、ちゃっかりアジア人を混ぜて、視聴者のアジア人アレルギーを薄めようと謀っているのだ。テレビ朝日は、『ビートたけしのTVタックル』にアジア人を混ぜて地均しをしていた。朝鮮系支那人の張景子(稲川素子事務所)を呼んできたり、南鮮擁護の特集番組では、東海大学の金慶珠(ホリプロ)を招いて反論を述べさせていた。ちなみに、レギュラー出演者の大竹まことは、プロデューサーの意見を喋るだけの代理人。最近では、上海出身の支那人女優、高陽子(ジャパン・ミュージック・エンターテイメント)を起用して支那人掩護に努めていた。日本人は日本語を流暢に喋るアジア人に心を許してしまうから、破壊主義派の左翼にとったら赤子も同然だ。

  武漢肺炎に罹った日本人は本当に気の毒だけど、こうした患者達は病院に赴いて更に驚く。既に支那人の患者がいて、医者や看護婦さんの手厚い治療を受けているからだ。日本人の患者はアジア人患者の到来で、診察の順番が廻ってくるまで長時間待たされ、得たいの知れない外人と同じ待合室で坐る破目になる。しかも、こうしたアジア人が何時の間にか「国民健康保険証」を持っており、日本人と同じように高度医療を受けているんだから頭にくる。日本人は両親や祖父母、曾祖父母の頃から国民健康保険制度を支えており、長年に亙って多額の保険料を納めてきた。中には医者や看護婦、介護師を排出した家族もいる。それなのに、支那人ときたら“たった”三ヶ月ないし半年くらいで保険証を入手でき、それを「後ろめたい」とも思わない。悪質な支那人は一つの保険証を使い回して診察を受けている。只でさえ、支那人は北海道や沖縄、東京周辺の土地を買い漁り、日本の街を汚くしているのに、ウイルスまで撒き散らかしているんだから、一人残らず叩き出したくなる。もし、日本国が消滅するとしたら、それはミサイル攻撃じゃなく、支那人の襲来によるものだろう。安倍晋三は長期政権を築いた総理大臣というより、日本を変質させた張本人として歴史に刻まれるはずだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68800846.html

http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c32

[近代史3] 社会主義マジック _ 中共が GDP 世界第二位の超大国になれた理由 中川隆
35. 中川隆[-13452] koaQ7Jey 2020年2月26日 20:38:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[41]
2020年02月26日
新型ウイルスで中国は致命傷を負う、膨らむ債務と縮む成長率


支出は毎年2桁増、成長率が5%では遠からず経済破綻する


新型ウイルスが中国経済に与えるダメージ

中国経済はこの12年間、巨額公共投資による公共事業や不動産価格上昇によって経済成長してきました。

だが2015年の中国経済危機を境に経済は下り坂になり、2019年の成長率は6%で2000年代の半分になっている。

それでも年6%は世界2位の高度成長だが、中国は年間数百兆円もの公共投資をしている。

年6%成長は約80兆円に相当するが、中国は80兆円の経済成長を得るために年300兆円以上支出していると見られる。

それが新型コロナウイルスで2020年は良くて5.5%、悪ければ5%以下の成長率に落ち込む。

年間数百兆円の公共投資は都市建設や不動産開発などに振り分けられ、年間の鉄道建設費だけで50兆円以上使っている。


中国は毎年日本の鉄道総路線に匹敵する鉄道建設をし、新幹線の総路線に匹敵する高速鉄道を建設している。

さらに日本の全地下鉄に匹敵する地下鉄を建設し、日本の全高速道路に匹敵する高速道路を建設している。

このうち北京や上海など大都市周辺はとっくに開発し終わったので、今建設しているのは過疎地や砂漠が多い。


高速鉄道の場合黒字なのは北京上海線の一路線だけで他はすべて赤字、在来線も9割は赤字、地下鉄や高速道路も9割以上赤字です。

これでも飽き足らずに中国は日本のすべての空港に匹敵する空港を毎年建設し、これもすべて赤字です。

中国は砂漠に100万人規模の都市を建設したが入居者がなく鬼城になったが、これでもまだ飽き足らなかった。

中国の浪費経済で膨らんだ債務

中国政府は2017年4月に突然、北京の隣りの河北省に人口200万人以上の先端都市を建設すると発表しました。

この「雄安新区」はケ小平の深圳経済特区、江沢民の上海市浦東新区に匹敵する習近平の偉業と発表された。

深圳や浦東を上回る新都市をゼロから作るのだが、これもすべて借金になる。


中国の公的債務は欧米専門家によるとGDP比250%から300%に達し、今も増え続けている。

中国は成長率を維持するために公共投資を毎年増やしているが、成長率は毎年低下している。

公共投資を増やすほど、成長率が低下するほど公的債務のGDPは増加するが、「健全財政だ」と主張している。


中国政府の借金の多くは国債ではなく投資商品のような形で販売されていて、購入者は政府の借金だと知らされていない。

もし政府が返済不能になったらどうするのか、いずれ政府支出を減らすか中央銀行が買い取るか、政府が破産することになる。

日銀のように中央銀行が買い取っても良いが、日本は予算がゼロ成長だから可能なので、中国は毎年大幅に予算を増やしている。


もし政府が毎年10%予算規模を拡大し、増えた全額を人民銀行が買い取ったら大混乱が生じるかもしれない。

ウイルス騒動が起きなくとも最近の中国経済は年0.5%ほどのペースで成長率が低下していた。

もし中国がより大きな公共投資で成長率を高めると、さらに債務比率を高めてしまう。


かといって公共投資を削減すると経済成長率が2%や1%に落ち込み、日本のようにマイナス成長になりかねない。

進んでも破産、下がっても破産するので中国は現状程度の公共投資を続け、「借金は存在しない」と言い続けるしかない。

ウソが通用しなくなり経済が混乱したら、その時は本当に国家破産するしかない。

http://www.thutmosev.com/archives/82285928.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/203.html#c35

[近代史4] 千葉 南房総市 弁天鉱泉

千葉 南房総市 弁天鉱泉


癌に効く温泉・・アトピーに効く温泉
27. 中川隆 2011年8月04日 千葉県にも眼病に効く 酸化還元電位(ORP)マイナス291 の驚異的な温泉が有ります: 弁天鉱泉 千葉県南房総市小浦487
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/357.html


旅館 弁天鉱泉 - 館山|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/tateyama-onsen/onsen009789/

旅館 弁天鉱泉の探訪記詳細
「南房総のにごり湯!1日4組限定、こだわりの宿!」|@nifty温泉
https://onsen.nifty.com/tateyama-onsen/onsen009789/treport/150415642229/

一日4組限定!日に数回色が変わる神秘的な温泉 南房総の 弁天鉱泉 千葉県 温泉JAPAN
http://onsenjapan.jp/infos/report/9283/1299

千葉 旅館 弁天鉱泉 ソムリエaccoののほほん日記
https://ameblo.jp/acco-123/entry-12455126514.html


▲△▽▼

磯料理が美味しい隠れ宿
しろうさぎさん [入浴日: 2011年6月18日 / 5時間以内]
...館山自動車道鋸南富山ICからすぐとアクセスが良く、磯料理が美味しい1日4組限定の宿である。 昼食付き入浴した。
露天は寝湯ができるようになっており、相模湾越しに富士山も見え、夜には漁り火も見ることが出来る。 硫黄臭が強い内湯はぬるめだがよく温まり湯冷めしない。 
源泉の湧出量は少ないが、千葉県で一番硫黄含有量が多く、飲泉もできる。

小浦弁天温泉 
含硫黄ーカルシウム・マグネシウム・ナトリウムー炭酸水素・硫酸塩泉 
加温 かけながし 飲泉可
21.4度 pH7.2 溶存物質 1030 
マグネシウム 46.6 カルシウム 123.3 硫化水素イオン 13.4 硫酸イオン 274 炭酸水素イオン 379.9 メタケイ酸 67.4 
酸化還元電位 (ORP) マイナス291 (2011.6.18)
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/list/aid_onsen009789/1.htm


▲△▽▼

千葉県南房総の温泉旅館【旅館 弁天鉱泉】公式ホームページ
http://www.bentenkousen.com/

■日帰り温泉 & ランチパック 
   爽やかな南房総で、旬の味覚と温泉が楽しめる!
1日4組限定の弁天鉱泉での温泉入浴と昼食をセットにしたお得なプラン!

休憩用個室(海は見えません)をご用意、レンタル用タオル付
料金・・\7.700
※料金には、1名様の温泉入浴料、ご昼食代、サービス料、消費税が含まれております。(入湯税150円別)

◎御利用時間=10:30A.M.〜3:00P.M.  
◎昼食時間=11:30〜13:00 


■日帰り温泉 & ディナーパック
  近くなった房総へ、お泊りはちょっと出来ないと言う人へ!
お泊り気分で、豪華なディナーパックは、いかがでしようか!
満天の星空を見ながらの露天風呂は最高です。
休憩用個室(海は見えません)をご用意、レンタル用タオル付

料金・・\7.700
※料金には、1名さまの温泉入浴料、ご夕食代、サービス料、消費税が含まれております。(入湯税150円別)

◎御利用時間=16:00P.M.〜20:00P.M.  
◎夕食時間=18:0〜20:00  

◎御利用時間=16:00P.M.〜20:00P.M.  
◎夕食時間=18:0〜20:00 
http://www.bentenkousen.com/higaeri.htm

影向の湯の由来
弁天鉱泉のすぐ近くのほこらの中に弁財天が有り、社の裏には頼朝が名付けたと言う影向池が有る。
昔から、この池の水は眼病に良く効くとされ、多くの人々が利用した。
現在では、これと泉脈を同じくする弁天鉱泉の源泉のみが残っているだけで、池は涸れている。

弁天鉱泉の源泉は、当地弁財天のほこら近くから湧き出ています
現在まで三代続いた温泉旅館で、昔から目に良いとされ地元の方々に愛用され(ホウ酸や硫黄を含んでいる為) 開放して参りましたが、現在の所、残念ながら諸般の事情により廃止させて頂きました。
当館では、本物の温泉効果を体験して頂く為、毎日源泉を100% 入れ替えて、循環式を使用せずかけ流し式のオーバーフロー方式を採用しております。

現在の所、1日に数回色の変わる温泉を
☆ご宿泊
☆ご昼食コース 
☆夕食コース

のお客様に、大人2名様以上、1日4組限定でご利用頂いており、露天風呂も同時にご利用頂いております。

入浴時間(御宿泊者)AM6:30 〜 PM22:00 (毎日源泉汲み替えの為、ご理解を!)
http://www.bentenkousen.com/newpage4.htm


▲△▽▼

旅館 弁天鉱泉
千葉県 南房総市 小浦487
電話 0470-57-2528

アクセス
JR内房線岩井駅からバス館山航空隊行き「弁天鉱泉」下車徒歩1分
富津館山道 路鋸南富山ICより約10分
JR内房線 岩井駅よりタクシーにて約6分
送迎バス(JR内房線岩井駅から)があります。


地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%97%85%E9%A4%A8+%E5%BC%81%E5%A4%A9%E9%89%B1%E6%B3%89/@35.0756053,139.8331613,15z/data=!4m8!3m7!1s0x0:0x7085f0643505304f!5m2!4m1!1i2!8m2!3d35.0756053!4d139.8331613?hl=ja



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/311.html

[近代史4] 千葉 南房総市 弁天鉱泉 中川隆
1. 中川隆[-13451] koaQ7Jey 2020年2月26日 22:05:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[42]

弁天鉱泉 [南房総] 露天風呂 +++ 影向の湯 +++



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/311.html#c1
[近代史4] 千葉 南房総市 弁天鉱泉 中川隆
2. 中川隆[-13449] koaQ7Jey 2020年2月26日 22:16:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[44]

千葉県にだけは住んではいけない
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html
 

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/311.html#c2
[近代史3] 監視国家 中国 中川隆
3. 中川隆[-13448] koaQ7Jey 2020年2月26日 22:46:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[45]
まだ新型肺炎の真実を隠す中国、このままでは14億人の貧困層を抱える大きいだけの国になる=鈴木傾城 2020年2月25日


中国はアメリカに強硬な貿易戦争を仕掛けられている。すでに経済成長も失い、打つ手が後手後手になってしまっている。そんな中で新型コロナウイルスが蔓延し、どんどん感染者や死者が増えている。中国が新たな成長を取り戻すには民主化と情報の自由化が必要になるが、現状は真逆の方向に向かっている。

最初から最後まで真実を隠し、今も規制を敷いている

新型コロナウイルスは中国でどのような状況になっているのか、誰も分からないと言っても過言ではない。

政府発表では2020年1月30日の段階で7,800人だったが、当時から現場は「10万人以上の患者がいる」と切実に訴えており、その乖離は壮絶なものがある(編注:2月24日現在、中国の保険当局によると感染者数は7万7,658人とされています)。

中国人ですらも中国共産党政権の発表など信じていない。中国共産党政権は、常に自分たちの都合に合わせて数字を歪曲し、情報隠蔽してしまう。中国では真実を言ったら公安当局に連行されてしまう。

日本でもアメリカでも政権に反対の人は堂々と反対運動を繰り広げて何事もなく日常生活を送っているのだが、中国では同じことをやったら無事に済まない。政権に不都合な人間は「みんな消される」のである。

新型コロナウイルスが封じ込められなかったのも、中国共産党政権は当初、情報を隠蔽していたからだ。いや、最初から最後まで真実を隠し、今もインターネットにも強い規制を敷いている。

情報を隠蔽する。都合の悪い真実はねじ曲げる。それが中国なのである。
中国の検索エンジンでは「絶対に検索できない言葉」もあって、たとえば「天安門事件」と検索しても何も引っ掛からない。それは中国政府は国民に知って欲しくない言葉だからだ。

そのため、今の若年層は天安門事件というものがあったことすらも知らない人もいる。

「何を知らないのか知らない」という状況になる

大陸に住む中国人は、中国政府が許可した情報だけアクセスできて、中国政府が隠したい情報は何も知らないままにされている。

「何を知らないのか知らない」という状況になるのだ。

都合の悪い情報はどんどん検閲されていく。この中国共産党政権の悪しき体質は新型コロナウイルスの蔓延で世界中が知ることになった。

中国はすべてにおいて、そうなのだ。中国では凄まじい大気汚染や環境破壊で癌で死んでいく人間が毎年数百万人レベルで出現している。しかし被害者は隠蔽されているだけで、今も依然として中国を覆い尽くしている。

中国共産党政権の都合の悪い事実は決して知らされない。消される。何も許されない。

次世代を作り出す技術革新は、その多くは自由な環境の中で生まれる。「あれは駄目、これは駄目、なぜ駄目なのか考えるな、政府に従え」という環境であれば、何も生み出せない。

政府が許可したものだけ、海外からパクリで持ってきてそれを運用するだけなので、すべてがワンテンポ遅れる。

そのパクリも、ハッキングやスパイ行為で情報を盗んで行われるので、情報が盗めなくなったら終わりだ。すべて盗んだものだから、そこから独創的な技術革新が生まれることもない。

そもそも下手に技術革新を進めていくと政府の都合の悪い領域に達する可能性もあるので何もできない。これが今の中国の現状なのである。
こうした情報統制や隠蔽体質は、通常の民主主義社会であれば、やがて薄まっていくのだが、中国は共産党の一党独裁なので逆にどんどん強まっている。

報道の自由などまったくない。北朝鮮と大差がない。


なぜ、中国政府は情報統制に走っているのか?

報道の自由と言えば、日本の報道の自由度も低いが、それもそうだろう。
日本では朝日新聞や毎日新聞などが捏造に歪曲に印象操作を行い、中国・韓国・北朝鮮の反日もまったく報道せず、誰が日本で売国スパイをしているのかすらも報道しないような体質なのだ。これで報道の自由が上がるわけがない。
しかし、中国の情報隠蔽というのは、もはやそんなレベルではなく、言論封殺と言っても良い状況だ。

中国では「国家安全法」で、中国にとって都合の悪い外国人もテロリストと決めつけたり、中国に不利な情報を報じる外国人ジャーナリストを国外追放したりしている。

それに飽き足らず、「反テロ法案」というものもあって、中国政府が「お前はテロリスト」と決めれば、その人物はテロリストになる。

たとえば、中国政府は海外から支援を受けたNGO団体の活動家を中国から追い出しているが、その根拠として「国家安全法」や「反テロ法」を持ち出している。
さらに習近平政権は「海外NGO管理法」を制定させて、中国のすべての人権向上のための活動を事実上、完全閉鎖に追いやった。

なぜ、これほどまで中国政府は情報統制に走っているのか。

言うまでもない。中国政府はもう政権運営に行き詰まっており、アメリカのドナルド・トランプとも対立して政治的にも経済的にもボロボロになっているからだ。
しかし、汚職・環境破壊・格差・経済不振を何としてでも隠し通して、中国共産党の一党独裁を維持し続けたいと思っている。


中国は絶対に次の時代の覇権国家になれない

中国共産党では中国の未来はない。しかし、中国はこの共産党の一党独裁なので、政権交代ができない。共産党が駄目になったときの受け皿がない。つまり、中国共産党が終わるときが中国の終わるときだ。

中国は格差問題が解消できないどころかますます広範囲に広がっている。こうしたことから、中国の内陸部では頻繁に暴動が起きている。
しかし、中国は弾圧国家であり、こうした暴動も警察や軍隊の激しい暴力で鎮圧させている。この暴動が抑えきれなくなれば、中国は崩壊するが、もし北朝鮮のように弾圧が延々と続くとしたらどうなるのか。

中国は発展もなく、進歩もなく、どんどんじり貧になりながら続いていくということになる。そうであった場合、中国という国は先進国に向かうのではなく、中進国から貧困国へと向かっていく。

14億人の貧困層を抱えるただの図体だけが大きな貧困国になってしまうのだ。
中国はアメリカに強硬な貿易戦争を仕掛けられている。すでに経済成長も失い、打つ手が後手後手になってしまっている。そんな中で新型コロナウイルスが蔓延し、どんどん感染者や死者が増えている。

中国が新たな成長を取り戻すには民主化と情報の自由化が必要になるが、現状は真逆の方向に向かっている。

中国共産党は、情報の自由化を認めたとたんに14億人の批判対象になって崩壊してしまうので、絶対に民主化も自由も認めない。それならば、中国はこれから情報封鎖と弾圧を繰り返しながら、徐々に途上国へと戻っていくだけだ。
今のまま推移するのであれば、中国は絶対に次の時代の覇権国家になれない。多くの日本人は漠然と中国が豊かになっていく想像ばかりしているが、実はその逆の動きもあることを知るべきだ。

https://www.mag2.com/p/money/894920
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/888.html#c3

[近代史4] 長野 志賀高原 五色温泉 五色の湯旅館

長野 志賀高原 五色温泉 五色の湯旅館



メモ帳 _ これこそ本物の温泉
これこそ本物の温泉2
2投稿者:五色温泉_五色の湯旅館  投稿日:2009年12月05日(土) 18時08分14秒
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/395.html#c23


五色の湯旅館 – 信州の一軒宿の秘湯
https://goshikinoyu.nagano.jp/

五色温泉五色の湯旅館 - ホーム Facebook
https://ja-jp.facebook.com/pages/category/Inn/%E4%BA%94%E8%89%B2%E6%B8%A9%E6%B3%89%E4%BA%94%E8%89%B2%E3%81%AE%E6%B9%AF%E6%97%85%E9%A4%A8-458848960814870/


五色の湯旅館 - 志賀高原|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/shigakougen-onsen/onsen002310/


五色温泉 五色の湯旅館 - 秘境温泉 神秘の湯
五色の名の通り、色が変わる不思議な温泉
https://hikyou.jp/report/dayuse/49793/


五色の湯旅館 《五色温泉》 入浴ガイド - 温泉新選組
https://www.onsen-shinsengumi.com/nagano/goshiki/goshikinoyu/index.html


五色温泉 五色の湯旅館 宿泊 秘湯宿.com
http://www.秘湯宿.com/%e4%bc%9a%e5%93%a1%e5%ae%bf%e4%bb%a5%e5%a4%96%e3%81%ae%e6%b8%a9%e6%b3%89%e5%ae%bf/nagano-gosikinoyu1-room/
http://www.秘湯宿.com/%e3%82%b3%e3%82%b3%e3%81%8c%e8%87%aa%e6%85%a2%e3%81%ae%e6%b8%a9%e6%b3%89%ef%bc%81/%e9%a3%9f%e4%ba%8b%e8%87%aa%e6%85%a2/nagano-goshikinoyu2-meal/
http://www.秘湯宿.com/%E6%97%A5%E5%B8%B0%E3%82%8A%E6%B8%A9%E6%B3%89/nagano-goshikinoyu3-bath/


▲△▽▼


五色温泉 五色の湯旅館
長野県 上高井郡 高山村 奥山田3682-6 五色温泉
電話 026-242-2500

アクセス

電車・バス・車
JR長野駅から長野電鉄線須坂駅下車、山田温泉行きバスで40分
上信越自動車道須坂長野東ICより高山村方面へ約40分(約22km)

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%BA%94%E8%89%B2%E3%81%AE%E6%B9%AF%E6%97%85%E9%A4%A8/@36.6576978,138.459505,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0x53363a4017a3cc79?sa=X&hl=ja&ved=2ahUKEwjdjqims-_nAhWSuJQKHe1fAQkQ_BIwC3oECB4QCA
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/312.html

[近代史4] 山形県 月山スキー場

山形県 月山スキー場

残雪の出羽三山に「生まれかわりの旅」に出よう _ 月山スキー場
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/866.html

月山スキー場
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/867.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/313.html

[近代史4] 長野 奥蓼科温泉郷 渋の湯温泉 渋御殿湯

長野 奥蓼科温泉郷 渋の湯温泉 渋御殿湯
 

メモ帳 _ これこそ本物の温泉
450投稿者:渋の湯温泉_渋御殿湯  投稿日:2006年08月14日(月) 00時33分20秒
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/395.html


八ヶ岳、天狗岳登山口の秘湯、奥蓼科温泉郷 渋の湯 天下の霊湯 渋御殿湯-信州秘湯会 公式HP
http://www.gotenyu.com/

渋御殿湯 - 蓼科|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/tateshina-onsen/onsen002313/

渋御殿湯 日帰り入浴 ★★★+ 秘湯宿.com
http://www.秘湯宿.com/%E4%BC%9A%E5%93%A1%E5%AE%BF%E4%BB%A5%E5%A4%96%E3%81%AE%E6%B8%A9%E6%B3%89%E5%AE%BF/nagano-sibugotenyu/

奥蓼科温泉 渋御殿湯
http://www.denshaonsen.com/jp/4/20414_tateshinachino/shibugotenyu.html


▲△▽▼

温泉チャンピオン 郡司勇の温泉サイト 下諏訪の温泉と毒沢、渋御殿湯など  2012/10/06
4 渋御殿湯温泉
http://www.gunjion1000.com/?p=3795

渋御殿湯の足元湧出源泉に入りたく訪問した。何回目か忘れるほどである。
奥の宿泊者専用温泉は2000円で日帰り入浴が出来た。

31度の足元湧出源泉は長寿湯といい、奥に浴槽に掛け流しされている源泉が渋御殿湯で26度である。単純酸性硫黄泉でH2S 25.3mgの強力な源泉である。

PHは2.72である。CO2が999.6mgで炭酸泉に近い値になっている。白濁した湯で、酸味、硫黄臭多しである。

古い木造の浴舎に3つの浴槽があり、足元自噴の長寿湯と掛け流しの御殿湯、御殿湯の加熱浴槽の3つがある。非常にすばらしい自然の妙で温泉もこの域に達してしまうと神々しい。

浴槽一面に足元からの気泡が出ており。炭酸分の多さが伺える。女性浴槽にも足元源泉があるが気泡がない。この湯の後は硫黄臭で感覚が麻痺するので硫黄臭に感じてしまうほどの温泉であった。
http://www.gunjion1000.com/?p=3795

▲△▽▼


長野県 茅野市 北山5520-3 奥蓼科温泉郷
電話 0266-67-2733

入浴料:大人1000円・小学生800円・幼児500円
【部屋休憩】大人2000円(西・東ともご利用可)
営業時間・期間 10:00-15:00(最終受付14:30)

アクセス
電車・バス・車
JR中央本線茅野駅から奥蓼科行きバスで約1時間、終点下車すぐ
長野道諏訪ICより約40分
駐車場 30台(無料)

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%B8%8B%E5%BE%A1%E6%AE%BF%E6%B9%AF+-+%E5%A5%A5%E8%93%BC%E7%A7%91%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%83%B7/@36.0361369,138.3281228,15z/data=!4m8!3m7!1s0x0:0x6f0c9f11805f23c!5m2!4m1!1i2!8m2!3d36.0361369!4d138.3281228?hl=ja

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/314.html

[近代史4] 宮城 東鳴子温泉 高友旅館

宮城 東鳴子温泉 高友旅館  

メモ帳 _ これこそ本物の温泉
250投稿者:東鳴子温泉高友旅館  投稿日:2006年06月11日(日) 10時45分42秒
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/395.html


高友旅館|宮城県大崎市鳴子 東鳴子温泉 湯治宿 公式HP
http://www.takatomo.co.jp/

黒湯の高友旅館 - 鳴子|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/naruko-onsen/onsen004967/

東鳴子温泉 高友旅館 - 秘境温泉 神秘の湯
ガツンとくる強烈な黒湯は温泉マニア大絶賛の名湯
https://hikyou.jp/report/stay/51776/

東鳴子温泉「黒湯の高友旅館」 | 元CAの混浴露天風呂体験記
https://www.food-travel.jp/miyagi/takatomo.html

クセのある湯が、クセに鳴子!/東鳴子温泉・高友旅館 ひなびた温泉研究所
http://hina-ken.com/?p=3566

東鳴子温泉 高友旅館 日帰り入浴 ★★★★ 秘湯宿.com
http://www.秘湯宿.com/%E6%97%A5%E5%B8%B0%E3%82%8A%E6%B8%A9%E6%B3%89/miyagi-higashinaruko-takatomoryokan/

▲△▽▼

東鳴子温泉 高友旅館  
宮城県 大崎市 鳴子温泉 大口鷲ノ巣18
電話 0229-83-3170

アクセス
電車・バス・車
JR陸羽東線「鳴子御殿湯駅」より徒歩3分
東北自動車道「古川IC」から、鳴子方面へ国道47号を約27km北上。
新川渡大橋、鳴子国道維持出張所、ナルコモガミモータースを通過し、「東鳴子温泉」入口の信号を左折。そこから道なりに約1分程。

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%9D%B1%E9%B3%B4%E5%AD%90%E6%B8%A9%E6%B3%89+%E9%BB%92%E6%B9%AF%E3%81%AE%E9%AB%98%E5%8F%8B%E6%97%85%E9%A4%A8/@38.7428835,140.737291,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0x6071b2f3f1dff313?sa=X&hl=ja&ved=2ahUKEwi5j8bay-_nAhUUUd4KHcH-AzUQ_BIwDHoECBkQCA



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/315.html

[近代史4] 中川隆 _ 日本の湯治文化関係投稿リンク 中川隆
11. 中川隆[-13441] koaQ7Jey 2020年2月27日 01:10:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[52]

宮城 東鳴子温泉 高友旅館
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/315.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/123.html#c11
[近代史4] 霧島新燃荘(きりしましんもえそう)

霧島新燃荘(きりしましんもえそう)


霧島新燃荘:宿の特色 || 民営国民宿舎Webガイド 公式HP
http://www.minkoku.com/yado/top.php?yado_id=84

霧島新燃荘(きりしましんもえそう) - 霧島|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/kirishima-onsen/onsen004792/

新湯温泉 国民宿舎新燃荘 - 秘境温泉 神秘の湯
郷愁感たっぷり!足元湧出極上にごり湯で人気のお宿
https://hikyou.jp/report/stay/49353/

新湯温泉「霧島新燃荘」 | 元CAの混浴露天風呂体験記
https://www.food-travel.jp/kagoshima/kirishima-shinmoesou.html

温泉ソムリエ菅井が薦める、温泉ファンが絶えない極上の乳白色の強硫黄泉、霧島新燃荘
https://tabicoffret.com/article/76484/index.html

『西の大関といわれる秘湯のおもてなしは横綱だった!』by 日限地蔵 霧島新燃
https://tabelog.com/kagoshima/A4603/A460301/46010102/dtlrvwlst/B116194120/

▲△▽▼

霧島新燃荘(きりしましんもえそう)
鹿児島県 霧島市 牧園町 高千穂3968
電話 0995-78-2255

入浴料:立寄り湯 500円
休憩入浴1,000円

営業時間・期間
立寄り湯 08:00〜20:00
休憩入浴 08:00〜16:00

アクセス
電車・バス・車
JR日豊本線霧島神宮駅より林田温泉乗換、霧島温泉行きバスで40分、
新湯入口下車徒歩10分又は、林田温泉より車で7分
九州自動車道えびのI.C.から県道30号線、県道1号線経由30km

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%B0%91%E5%96%B6%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%AE%BF%E8%88%8E%E9%9C%A7%E5%B3%B6%E6%96%B0%E7%87%83%E8%8D%98/@31.902944,130.8546473,15z/data=!4m8!3m7!1s0x0:0x467b2009ba3887a7!5m2!4m1!1i2!8m2!3d31.902944!4d130.8546473?hl=ja

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/316.html

[近代史4] 中川隆 _ 日本の湯治文化関係投稿リンク 中川隆
12. 中川隆[-13439] koaQ7Jey 2020年2月27日 01:49:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[54]

霧島新燃荘(きりしましんもえそう)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/316.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/123.html#c12
[リバイバル3] 高配当銘柄を買うとこういう目に遭う _ JT 日本たばこ産業 (2914) 中川隆
15. 中川隆[-13437] koaQ7Jey 2020年2月27日 10:14:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[56]
536 日本は滅亡します
2月27日 09:46

喫煙者が減少した本当の理由を教えてやろうか。
所得が下がってタバコを買う余裕がなくなった。
https://finance.yahoo.co.jp/cm/message/1002914/a3ja3t
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/976.html#c15

[近代史3] チャンネル桜関係者や保守・右翼は何故 知恵遅れの安倍晋三にそんなに簡単に騙されるのか? 中川隆
20. 中川隆[-13436] koaQ7Jey 2020年2月27日 10:27:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[57]

2020年2月26日
ウソで自滅する国家 〜安倍・トランプ・文在寅
From 藤井聡@京都大学大学院教授

消費増税で日本経済はもうメチャクチャ。その上、コロナショックも加わり、令和恐慌はほぼ確定的な状況。その上、東京五輪も中止の可能性も日に日に高まってきています。そうなれば、恐慌はさらに酷いものになってしまいます。

この状況では、政府は消費税を5%に減税することを軸とした、超大型の景気対策を連発しなきゃいけないのに、驚くべきことに、安倍総理は

「景気は緩やかに回復しています」

と強弁しています。

これはもう、誰が見ても明々白々なウソなのですが、これまで、景気は回復しつつあるとウソをつき続けてきたもんだから、今更、「いや、実は景気めちゃ冷えてるんです(でヘッ!)」なんてもう言えないーーーってことで、こんなに経済がメチャクチャであるにも関わらず、臆面も無くウソを突き続けているわけです。

で、こんなくだらないウソをついてたら、「緊急経済対策をやります!」なんて言えなくなってしまうのですが−――実際、麻生財務大臣は、

「いますぐ何か考えているわけではない」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200225-00000517-san-bus_all.view-000&

なぞと嘯いています。

いやぁ・・・こうやって、日本って滅んでいくんだなぁ・・・としみじみと感じてしまう今日この頃ですがーーーこのたび、こんなくだらない「ウソ話」について、危機と対峙する保守思想誌「表現者クライテリオン」にての特集を組み、刊行いたしました!

題して、

ウソで自滅する国家 〜安倍・トランプ・文在寅
https://www.amazon.co.jp/dp/B084B14TY6

今日は、その議論の一端をご紹介する、という趣旨で、巻頭の座談会

溶解するナショナリズム、幼児化する民主主義/会田弘継×堀茂樹×藤井聡

の冒頭部分をご紹介したいと思います。

是非、ご一読ください!

『溶解するナショナリズム、幼児化する民主主義/会田弘継×堀茂樹×藤井聡』
https://www.amazon.co.jp/dp/B084B14TY6

(藤井)
今回の特集は「ウソで自滅する国家 安倍・トランプ・文在寅」というもので、いわゆる西側諸国の民主主義で選ばれたリーダー達が、とんでもないウソを平然とつき続けており、それを通してまさに国家が自滅しかかっている、という危機的な状態について批評、描写しようとするものです。

例えばアメリカのトランプは、ワシントンポスト紙の調べによれば、993日で、13,435回もの嘘をついていたそうです。イランのソレイマニ司令官殺害の問題でも、攻撃をした直後には「アメリカ側を攻撃しようとしていたから、自己防衛のために殺害した」とトランプは説明してわけですが、実際はそれは単なるウソで、「自己防衛」ではなく単なる「報復」で殺害に至ったことが明るみにでています。結果、イラン情勢は、戦争がはじまりかねない程に一気に緊迫したのは記憶に新しいところです。

我が国日本を鑑みても、例えば昨今では、政府関係者は「桜を見る会」に関連して、誰もがウソだと思わざるを得ない様な説明を繰り返しています。「出席名簿は存在しない」という政府の説明をまともに信じている国民はほとんどいないでしょうし、同じようなことが、森友とか加計でも繰り返されてきました。

ここで重要なのは、そのウソそのものというより、政府が平然とウソをついているという事実そのものにあります。

政府が保身のためだけにそれだけ平然とウソをつき続けているとしたら、経済や外交についての重要案件についても自己都合のためにウソをついているに違いない、ということになるからです。

実際、令和元年の10%消費増税で経済データは明らかに激しい冷え込みを示しているにも関わらず、政府は驚くべきことに「景気は緩やかに回復している」と公表しています。

そんな認識のままでは政府は適切な経済対策を行うことはないでしょうから、結局は、こんなくだらないウソのせいで、日本は自滅しかかっている状況にあるわけです。

もちろん、もともと「狡猾」であるべき政治は、必然的にある種のウソは付き物ではありますが、今のウソはそういう狡猾さからはかけ離れた「幼稚」なものに堕落してしまっている。

しかも、そんな幼稚な嘘が、さして批判されない。事実、トランプも安倍も一定以上の世論支持を受けており、彼らのウソがまかり通る状況になっている。これは、民主主義の本質とも関わる深刻な問題です。

そもそも、理性に基づく民主主義において、“政治家のウソ”は最も忌み嫌われるべきものです。にも拘わらず、民主主義国家において特に、幼稚なウソがまかり通っているのが現状なわけで、これは要するに民主主義が「幼児退行」している事を意味している。で、そんな幼児退行によってまさに今、アメリカや日本と言った民主主義国家が自滅しかかるわけです。

ついては本日は、アメリカの現代政治にお詳しい会田先生、ならびに、黄色いベスト運動が盛んに展開されたフランスの情勢にお詳しい堀先生にお集まりいただき、アメリカやフランス、そして日本の状況を俯瞰しながら、現代における、ウソがまかり通る幼児退行する民主主義の問題そのものについて、縦横に論じていただきたいと思っております。それでは、「ウソの先進国」(笑)とも言えそうな、アメリカのお話から口火を会田先生からお願いしたいと思います。よろしくお願いします。

(会田)
2016年の大統領選挙の時、トランプの言葉には、数字的な誇張や自慢等を含んだかなりのウソが含まれていました。ですが、政治家のウソをつくという話は、今、藤井先生が指摘されたように、古くからあるものです。

例えばトクヴィルは、1830年代にアメリカを観察したときに新聞の問題を肯定的にも語っているが、否定的にも語っている。あるいは、20世紀初頭のリップマンも、メディアが世論を激しく歪めるという問題を批判的に論じている。つまり民主主義におけるウソの問題の原型はトクヴィル、リップマンによって描写されている。

(藤井)
今日においてもその基本構造は何も変わってないですよね。

(会田)
そうです。ですが、今のトランプのウソ、ならびにそれによって形成される世論現象は、インターネット、あるいはSNSという要素が入ってきた点、ならびに、外国からの介入によって引き起こされた可能性もあるという点において、新しい形になってきている。こうした新しい問題は、フランスの選挙の時にも起きたと言われていますよね。

そして、そういう現象が明るみになるにつれ、「言説と政治の問題」がより強く意識されるようになってきた。その中で、我々がまず認識しないといけないのは、「政治的言説の中には、ウソが沢山入り込んでいるんだ」という事実じゃないかと思っています。

簡単に言うと、「十分に高い民度の国民がいて、皆が理性で話し合って、適切なアウフヘーベンを繰り返し、最も適切な政治的決定を民主主義のプロセスを通して見出し、実現していく」というような理想的な民主主義っていうのは、アメリカの様な大国では…

(藤井)
有り得ないですよね、それは(笑)。

(会田)
古代ギリシャにおいては、理想的な民主主義は成立したかもしれない。ただ、それは奴隷制のあった時代。でも、アメリカの建国の時には、状況が全然違う。そんな状況で果たして民主主義は実現可能なのかどうかという強い疑問を抱きながらこのアメリカ国家がスタートしている。

(藤井)
今回の特集タイトルでは「ウソ」という、平易な言葉を使っていますが、特集の趣旨そのものは、民主主義というものが本質的に抱えている危険性を現代的問題の中で浮かび上がらせる、というもの。

そもそも、現代は民主主義そのものの危険性が過小評価されており、その結果、深刻な国家的危機をもたらす、というのが先代の西部邁先生の頃から、表現者が一貫して主張し続けてきたものです。

例えば、民主主義者として有名なジョン・スチュワート・ミルですら、トックヴィルを引用しながら直接性でなく間接民主制を主張したのは、民主主義そのものが極めて恐ろしい危険性をはらんでいるからだ、っていうことを、例えば「代議制統治論」の中で明確に論じている。そしてミルやトックヴィルが論じた民主主義の「本質的危険性」の問題がまさに、今、トランプ、安倍、そして、文在寅さんの問題として鮮明に浮かび上がっているわけです。そんなあたりについて、是非、堀先生のお立場からもお話お聞きしたいと思います。
https://38news.jp/economy/15422
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/511.html#c20

[近代史3] 安倍晋三は会う人ごとに「相手が望むこと」を言っている 中川隆
16. 中川隆[-13435] koaQ7Jey 2020年2月27日 10:28:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[58]

2020年2月26日
ウソで自滅する国家 〜安倍・トランプ・文在寅
From 藤井聡@京都大学大学院教授

消費増税で日本経済はもうメチャクチャ。その上、コロナショックも加わり、令和恐慌はほぼ確定的な状況。その上、東京五輪も中止の可能性も日に日に高まってきています。そうなれば、恐慌はさらに酷いものになってしまいます。

この状況では、政府は消費税を5%に減税することを軸とした、超大型の景気対策を連発しなきゃいけないのに、驚くべきことに、安倍総理は

「景気は緩やかに回復しています」

と強弁しています。

これはもう、誰が見ても明々白々なウソなのですが、これまで、景気は回復しつつあるとウソをつき続けてきたもんだから、今更、「いや、実は景気めちゃ冷えてるんです(でヘッ!)」なんてもう言えないーーーってことで、こんなに経済がメチャクチャであるにも関わらず、臆面も無くウソを突き続けているわけです。

で、こんなくだらないウソをついてたら、「緊急経済対策をやります!」なんて言えなくなってしまうのですが−――実際、麻生財務大臣は、

「いますぐ何か考えているわけではない」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200225-00000517-san-bus_all.view-000&

なぞと嘯いています。

いやぁ・・・こうやって、日本って滅んでいくんだなぁ・・・としみじみと感じてしまう今日この頃ですがーーーこのたび、こんなくだらない「ウソ話」について、危機と対峙する保守思想誌「表現者クライテリオン」にての特集を組み、刊行いたしました!

題して、

ウソで自滅する国家 〜安倍・トランプ・文在寅
https://www.amazon.co.jp/dp/B084B14TY6

今日は、その議論の一端をご紹介する、という趣旨で、巻頭の座談会

溶解するナショナリズム、幼児化する民主主義/会田弘継×堀茂樹×藤井聡

の冒頭部分をご紹介したいと思います。

是非、ご一読ください!

『溶解するナショナリズム、幼児化する民主主義/会田弘継×堀茂樹×藤井聡』
https://www.amazon.co.jp/dp/B084B14TY6

(藤井)
今回の特集は「ウソで自滅する国家 安倍・トランプ・文在寅」というもので、いわゆる西側諸国の民主主義で選ばれたリーダー達が、とんでもないウソを平然とつき続けており、それを通してまさに国家が自滅しかかっている、という危機的な状態について批評、描写しようとするものです。

例えばアメリカのトランプは、ワシントンポスト紙の調べによれば、993日で、13,435回もの嘘をついていたそうです。イランのソレイマニ司令官殺害の問題でも、攻撃をした直後には「アメリカ側を攻撃しようとしていたから、自己防衛のために殺害した」とトランプは説明してわけですが、実際はそれは単なるウソで、「自己防衛」ではなく単なる「報復」で殺害に至ったことが明るみにでています。結果、イラン情勢は、戦争がはじまりかねない程に一気に緊迫したのは記憶に新しいところです。

我が国日本を鑑みても、例えば昨今では、政府関係者は「桜を見る会」に関連して、誰もがウソだと思わざるを得ない様な説明を繰り返しています。「出席名簿は存在しない」という政府の説明をまともに信じている国民はほとんどいないでしょうし、同じようなことが、森友とか加計でも繰り返されてきました。

ここで重要なのは、そのウソそのものというより、政府が平然とウソをついているという事実そのものにあります。

政府が保身のためだけにそれだけ平然とウソをつき続けているとしたら、経済や外交についての重要案件についても自己都合のためにウソをついているに違いない、ということになるからです。

実際、令和元年の10%消費増税で経済データは明らかに激しい冷え込みを示しているにも関わらず、政府は驚くべきことに「景気は緩やかに回復している」と公表しています。

そんな認識のままでは政府は適切な経済対策を行うことはないでしょうから、結局は、こんなくだらないウソのせいで、日本は自滅しかかっている状況にあるわけです。

もちろん、もともと「狡猾」であるべき政治は、必然的にある種のウソは付き物ではありますが、今のウソはそういう狡猾さからはかけ離れた「幼稚」なものに堕落してしまっている。

しかも、そんな幼稚な嘘が、さして批判されない。事実、トランプも安倍も一定以上の世論支持を受けており、彼らのウソがまかり通る状況になっている。これは、民主主義の本質とも関わる深刻な問題です。

そもそも、理性に基づく民主主義において、“政治家のウソ”は最も忌み嫌われるべきものです。にも拘わらず、民主主義国家において特に、幼稚なウソがまかり通っているのが現状なわけで、これは要するに民主主義が「幼児退行」している事を意味している。で、そんな幼児退行によってまさに今、アメリカや日本と言った民主主義国家が自滅しかかるわけです。

ついては本日は、アメリカの現代政治にお詳しい会田先生、ならびに、黄色いベスト運動が盛んに展開されたフランスの情勢にお詳しい堀先生にお集まりいただき、アメリカやフランス、そして日本の状況を俯瞰しながら、現代における、ウソがまかり通る幼児退行する民主主義の問題そのものについて、縦横に論じていただきたいと思っております。それでは、「ウソの先進国」(笑)とも言えそうな、アメリカのお話から口火を会田先生からお願いしたいと思います。よろしくお願いします。

(会田)
2016年の大統領選挙の時、トランプの言葉には、数字的な誇張や自慢等を含んだかなりのウソが含まれていました。ですが、政治家のウソをつくという話は、今、藤井先生が指摘されたように、古くからあるものです。

例えばトクヴィルは、1830年代にアメリカを観察したときに新聞の問題を肯定的にも語っているが、否定的にも語っている。あるいは、20世紀初頭のリップマンも、メディアが世論を激しく歪めるという問題を批判的に論じている。つまり民主主義におけるウソの問題の原型はトクヴィル、リップマンによって描写されている。

(藤井)
今日においてもその基本構造は何も変わってないですよね。

(会田)
そうです。ですが、今のトランプのウソ、ならびにそれによって形成される世論現象は、インターネット、あるいはSNSという要素が入ってきた点、ならびに、外国からの介入によって引き起こされた可能性もあるという点において、新しい形になってきている。こうした新しい問題は、フランスの選挙の時にも起きたと言われていますよね。

そして、そういう現象が明るみになるにつれ、「言説と政治の問題」がより強く意識されるようになってきた。その中で、我々がまず認識しないといけないのは、「政治的言説の中には、ウソが沢山入り込んでいるんだ」という事実じゃないかと思っています。

簡単に言うと、「十分に高い民度の国民がいて、皆が理性で話し合って、適切なアウフヘーベンを繰り返し、最も適切な政治的決定を民主主義のプロセスを通して見出し、実現していく」というような理想的な民主主義っていうのは、アメリカの様な大国では…

(藤井)
有り得ないですよね、それは(笑)。

(会田)
古代ギリシャにおいては、理想的な民主主義は成立したかもしれない。ただ、それは奴隷制のあった時代。でも、アメリカの建国の時には、状況が全然違う。そんな状況で果たして民主主義は実現可能なのかどうかという強い疑問を抱きながらこのアメリカ国家がスタートしている。

(藤井)
今回の特集タイトルでは「ウソ」という、平易な言葉を使っていますが、特集の趣旨そのものは、民主主義というものが本質的に抱えている危険性を現代的問題の中で浮かび上がらせる、というもの。

そもそも、現代は民主主義そのものの危険性が過小評価されており、その結果、深刻な国家的危機をもたらす、というのが先代の西部邁先生の頃から、表現者が一貫して主張し続けてきたものです。

例えば、民主主義者として有名なジョン・スチュワート・ミルですら、トックヴィルを引用しながら直接性でなく間接民主制を主張したのは、民主主義そのものが極めて恐ろしい危険性をはらんでいるからだ、っていうことを、例えば「代議制統治論」の中で明確に論じている。そしてミルやトックヴィルが論じた民主主義の「本質的危険性」の問題がまさに、今、トランプ、安倍、そして、文在寅さんの問題として鮮明に浮かび上がっているわけです。そんなあたりについて、是非、堀先生のお立場からもお話お聞きしたいと思います。
https://38news.jp/economy/15422
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/629.html#c16

[近代史3] 浜崎洋介 _ 安倍「器」論 中川隆
9. 中川隆[-13434] koaQ7Jey 2020年2月27日 10:28:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[59]

2020年2月26日
ウソで自滅する国家 〜安倍・トランプ・文在寅
From 藤井聡@京都大学大学院教授

消費増税で日本経済はもうメチャクチャ。その上、コロナショックも加わり、令和恐慌はほぼ確定的な状況。その上、東京五輪も中止の可能性も日に日に高まってきています。そうなれば、恐慌はさらに酷いものになってしまいます。

この状況では、政府は消費税を5%に減税することを軸とした、超大型の景気対策を連発しなきゃいけないのに、驚くべきことに、安倍総理は

「景気は緩やかに回復しています」

と強弁しています。

これはもう、誰が見ても明々白々なウソなのですが、これまで、景気は回復しつつあるとウソをつき続けてきたもんだから、今更、「いや、実は景気めちゃ冷えてるんです(でヘッ!)」なんてもう言えないーーーってことで、こんなに経済がメチャクチャであるにも関わらず、臆面も無くウソを突き続けているわけです。

で、こんなくだらないウソをついてたら、「緊急経済対策をやります!」なんて言えなくなってしまうのですが−――実際、麻生財務大臣は、

「いますぐ何か考えているわけではない」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200225-00000517-san-bus_all.view-000&

なぞと嘯いています。

いやぁ・・・こうやって、日本って滅んでいくんだなぁ・・・としみじみと感じてしまう今日この頃ですがーーーこのたび、こんなくだらない「ウソ話」について、危機と対峙する保守思想誌「表現者クライテリオン」にての特集を組み、刊行いたしました!

題して、

ウソで自滅する国家 〜安倍・トランプ・文在寅
https://www.amazon.co.jp/dp/B084B14TY6

今日は、その議論の一端をご紹介する、という趣旨で、巻頭の座談会

溶解するナショナリズム、幼児化する民主主義/会田弘継×堀茂樹×藤井聡

の冒頭部分をご紹介したいと思います。

是非、ご一読ください!

『溶解するナショナリズム、幼児化する民主主義/会田弘継×堀茂樹×藤井聡』
https://www.amazon.co.jp/dp/B084B14TY6

(藤井)
今回の特集は「ウソで自滅する国家 安倍・トランプ・文在寅」というもので、いわゆる西側諸国の民主主義で選ばれたリーダー達が、とんでもないウソを平然とつき続けており、それを通してまさに国家が自滅しかかっている、という危機的な状態について批評、描写しようとするものです。

例えばアメリカのトランプは、ワシントンポスト紙の調べによれば、993日で、13,435回もの嘘をついていたそうです。イランのソレイマニ司令官殺害の問題でも、攻撃をした直後には「アメリカ側を攻撃しようとしていたから、自己防衛のために殺害した」とトランプは説明してわけですが、実際はそれは単なるウソで、「自己防衛」ではなく単なる「報復」で殺害に至ったことが明るみにでています。結果、イラン情勢は、戦争がはじまりかねない程に一気に緊迫したのは記憶に新しいところです。

我が国日本を鑑みても、例えば昨今では、政府関係者は「桜を見る会」に関連して、誰もがウソだと思わざるを得ない様な説明を繰り返しています。「出席名簿は存在しない」という政府の説明をまともに信じている国民はほとんどいないでしょうし、同じようなことが、森友とか加計でも繰り返されてきました。

ここで重要なのは、そのウソそのものというより、政府が平然とウソをついているという事実そのものにあります。

政府が保身のためだけにそれだけ平然とウソをつき続けているとしたら、経済や外交についての重要案件についても自己都合のためにウソをついているに違いない、ということになるからです。

実際、令和元年の10%消費増税で経済データは明らかに激しい冷え込みを示しているにも関わらず、政府は驚くべきことに「景気は緩やかに回復している」と公表しています。

そんな認識のままでは政府は適切な経済対策を行うことはないでしょうから、結局は、こんなくだらないウソのせいで、日本は自滅しかかっている状況にあるわけです。

もちろん、もともと「狡猾」であるべき政治は、必然的にある種のウソは付き物ではありますが、今のウソはそういう狡猾さからはかけ離れた「幼稚」なものに堕落してしまっている。

しかも、そんな幼稚な嘘が、さして批判されない。事実、トランプも安倍も一定以上の世論支持を受けており、彼らのウソがまかり通る状況になっている。これは、民主主義の本質とも関わる深刻な問題です。

そもそも、理性に基づく民主主義において、“政治家のウソ”は最も忌み嫌われるべきものです。にも拘わらず、民主主義国家において特に、幼稚なウソがまかり通っているのが現状なわけで、これは要するに民主主義が「幼児退行」している事を意味している。で、そんな幼児退行によってまさに今、アメリカや日本と言った民主主義国家が自滅しかかるわけです。

ついては本日は、アメリカの現代政治にお詳しい会田先生、ならびに、黄色いベスト運動が盛んに展開されたフランスの情勢にお詳しい堀先生にお集まりいただき、アメリカやフランス、そして日本の状況を俯瞰しながら、現代における、ウソがまかり通る幼児退行する民主主義の問題そのものについて、縦横に論じていただきたいと思っております。それでは、「ウソの先進国」(笑)とも言えそうな、アメリカのお話から口火を会田先生からお願いしたいと思います。よろしくお願いします。

(会田)
2016年の大統領選挙の時、トランプの言葉には、数字的な誇張や自慢等を含んだかなりのウソが含まれていました。ですが、政治家のウソをつくという話は、今、藤井先生が指摘されたように、古くからあるものです。

例えばトクヴィルは、1830年代にアメリカを観察したときに新聞の問題を肯定的にも語っているが、否定的にも語っている。あるいは、20世紀初頭のリップマンも、メディアが世論を激しく歪めるという問題を批判的に論じている。つまり民主主義におけるウソの問題の原型はトクヴィル、リップマンによって描写されている。

(藤井)
今日においてもその基本構造は何も変わってないですよね。

(会田)
そうです。ですが、今のトランプのウソ、ならびにそれによって形成される世論現象は、インターネット、あるいはSNSという要素が入ってきた点、ならびに、外国からの介入によって引き起こされた可能性もあるという点において、新しい形になってきている。こうした新しい問題は、フランスの選挙の時にも起きたと言われていますよね。

そして、そういう現象が明るみになるにつれ、「言説と政治の問題」がより強く意識されるようになってきた。その中で、我々がまず認識しないといけないのは、「政治的言説の中には、ウソが沢山入り込んでいるんだ」という事実じゃないかと思っています。

簡単に言うと、「十分に高い民度の国民がいて、皆が理性で話し合って、適切なアウフヘーベンを繰り返し、最も適切な政治的決定を民主主義のプロセスを通して見出し、実現していく」というような理想的な民主主義っていうのは、アメリカの様な大国では…

(藤井)
有り得ないですよね、それは(笑)。

(会田)
古代ギリシャにおいては、理想的な民主主義は成立したかもしれない。ただ、それは奴隷制のあった時代。でも、アメリカの建国の時には、状況が全然違う。そんな状況で果たして民主主義は実現可能なのかどうかという強い疑問を抱きながらこのアメリカ国家がスタートしている。

(藤井)
今回の特集タイトルでは「ウソ」という、平易な言葉を使っていますが、特集の趣旨そのものは、民主主義というものが本質的に抱えている危険性を現代的問題の中で浮かび上がらせる、というもの。

そもそも、現代は民主主義そのものの危険性が過小評価されており、その結果、深刻な国家的危機をもたらす、というのが先代の西部邁先生の頃から、表現者が一貫して主張し続けてきたものです。

例えば、民主主義者として有名なジョン・スチュワート・ミルですら、トックヴィルを引用しながら直接性でなく間接民主制を主張したのは、民主主義そのものが極めて恐ろしい危険性をはらんでいるからだ、っていうことを、例えば「代議制統治論」の中で明確に論じている。そしてミルやトックヴィルが論じた民主主義の「本質的危険性」の問題がまさに、今、トランプ、安倍、そして、文在寅さんの問題として鮮明に浮かび上がっているわけです。そんなあたりについて、是非、堀先生のお立場からもお話お聞きしたいと思います。
https://38news.jp/economy/15422
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/688.html#c9

[不安と不健康15] コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ)  赤かぶ
341. 中川隆[-13433] koaQ7Jey 2020年2月27日 10:38:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[60]
【桜便り】除草剤たっぷり国産大豆は危ない!
種苗法 改悪〜山田正彦/ 日本人の命より外国人の命を優先する安倍政権の怪
[桜R2/2/26]



http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html#c341
[不安と不健康16] “早死にする人”ランキング 短命にある共通点とは…(ZAK×SPA!)  赤かぶ
162. 中川隆[-13432] koaQ7Jey 2020年2月27日 10:39:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[61]

【桜便り】除草剤たっぷり国産大豆は危ない!
種苗法 改悪〜山田正彦/ 日本人の命より外国人の命を優先する安倍政権の怪
[桜R2/2/26]



http://www.asyura2.com/13/health16/msg/134.html#c162
[近代史4] 国産大豆は食べてはいけない
国産大豆は食べてはいけない


除草剤たっぷり国産大豆は危ない!種苗法 改悪〜山田正彦[桜R2/2/26]


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/317.html

[近代史4] 輸入小麦は食べてはいけない
輸入小麦は食べてはいけない


除草剤たっぷり輸入小麦は危ない!山田正彦[桜R2/2/26]



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/318.html

[近代史4] 輸入小麦は食べてはいけない 中川隆
1. 中川隆[-13434] koaQ7Jey 2020年2月27日 11:45:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[59]

除草剤たっぷり輸入小麦は危ない!

長生きしたけりゃパンは食べるな
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/327.html

食べてはいけない _ カップ麺や袋めんが年間6000億円 麺市場は1兆円に拡大
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/326.html

パンやラーメンを食べるとハゲになる
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/724.html

世界中の飢餓に苦しむ貧困者を救ったインスタントラーメンだけど…
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/999.html

カップヌードルの人体への影響
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/557.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/318.html#c1

[近代史4] 輸入肉は食べてはいけない

輸入肉は食べてはいけない


輸入肉を食べると癌になる
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/733.html

低所得者はでっぷりと太って糖尿病になる _ 糖尿病患者の半数以上が年収200万円未満
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/995.html

ジャンクフードを食べると超絶肥満、うつ病、癌、アトピー、花粉症になる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/337.html

アメリカ人には食べ物の味がわからない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/765.html

ハンバーガーが大好きなビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの正体
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/727.html

ハンバーガーが大好きなバフェットの2面性 庶民を装う超富裕層の素顔
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/715.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/319.html

[近代史4] オリーブ油とゴマ油以外の油は使ってはいけない

オリーブ油とゴマ油以外の油は使ってはいけない


サラダ油を使うと認知症になる
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/725.html

認知症と糖尿病の原因はサラダ油とパーム油だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/329.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/320.html

[近代史4] 山形 出羽三山


山形 出羽三山


残雪の出羽三山に「生まれかわりの旅」に出よう
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/866.html


いい日旅立ち _ 山の向こうで待っている人とは…
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/283.html

ディープ世界とは何か _ つげ義春が見たもの
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/300.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/321.html

[近代史4] 沖縄 新城島(あらぐすくじま)

沖縄 新城島(あらぐすくじま)

ヤマトンチュには絶対に話してはいけない パナリ(新城)島の秘密
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/706.html

沖縄パナリの秘祭 _ 臨月になった美女を引き出して洞の中で行う秘密の儀式とは
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/446.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/322.html

[近代史4] 石垣島 『キャンピングロッジ 虹の豆』

石垣島『キャンピングロッジ 虹の豆』

一度は行ってみたい _ 高樹沙耶が経営している石垣島『キャンピングロッジ 虹の豆』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/707.html


何も知らない普通の人をドラッグの世界に引きずり込む手口

46.中川隆 2016年11月04日 マインドコントロールされた高樹沙耶と「安倍」大麻夫人
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/902.html#c46

57. 中川隆2017年9月11日 大麻で有罪の高樹沙耶、業界で有名だった「夜の乱れた生活」と「男性関係のだらしなさ」
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/902.html#c57



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/323.html

[近代史4] 青森 下北半島 恐山

青森 下北半島 恐山


伝説の名湯 岩内 朝日温泉 _ 飢餓海峡の世界
●水上勉の「飢餓海峡」を歩く 下北半島編  
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/230.html


イエスのヒーリングは本物のシャーマンには敵わない
03. 2010年12月24日 イタコの口寄せ
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/609.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/324.html

[近代史4] 中央アルプス 駒ヶ岳

中央アルプス 駒ヶ岳


スキー場の選択は雪質だけで決めよう
114. 中川隆 2018年10月14日 中央アルプス駒ヶ岳ロープウェイ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/782.html#c114
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/325.html

[近代史4] 西穂高岳

西穂高岳


単独の90歳女性西穂で救助 2015年07月17日 _ 90歳過ぎたら単独行は止めよう
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/799.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/326.html

[近代史4] 剱岳

剱岳


剱岳行方不明 _ 19歳の妹が9/8の日曜の夕方から行方不明です。何か情報をお持ちの方よろしくお願いいたします。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/992.html

1969年1月 剱岳大量遭難 プロジェクトX 「魔の山大遭難・決死の救出劇」
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/729.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/327.html

[近代史4] 谷川岳

谷川岳


廃墟と化した水上温泉

13.中川隆[-7525] 2017年6月12日 憧れの谷川岳 一ノ倉沢を登ろう
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/624.html#c13

14.中川隆 2017年6月12日 山岳ガイドと行く 谷川岳一ノ倉沢 エコハイキング
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/624.html#c14

15.中川隆[-7523] 2017年6月12日 谷川岳の沢を登ろう
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/624.html#c15

16.中川隆 2017年6月12日 谷川岳〜朝日岳〜白毛門馬蹄形縦走 vol.1
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/624.html#c16

17. 中川隆 2017年6月12日 水上 ラフティング
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/624.html#c17

19. 中川隆[-7518] 水上(利根川)のキャニオニング・シャワークライミングの体験ツアー
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/624.html#c19


新潟・平標山で男性2人死亡 登山道で倒れる 2015年7月5日
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/624.html

冬の谷川岳に行こう _ 天神平スキー場
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/781.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/328.html

[近代史4] 沖縄 新城島(あらぐすくじま) 中川隆
1. 中川隆[-13435] koaQ7Jey 2020年2月27日 14:05:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[58]

家族を守るため、女がみんな、神女になる島〜沖縄の根“久高島”〜
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/441.html

イエスのヒーリングは本物のシャーマンには敵わない
02. 2010年12月14日 シャーマンのイニシエーション
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/609.html


琉球人は沖縄の先住民なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/704.html

尖閣は中国人の言う通り中国の領土かもしれない _ 琉球民族は純然たる日本人
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/327.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/322.html#c1

[近代史4] 石垣島 『キャンピングロッジ 虹の豆』 中川隆
1. 中川隆[-13434] koaQ7Jey 2020年2月27日 14:08:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[59]

沖縄 首里城火災 _ 琉球人は何をやっても いい加減、無責任で「ゆすりとごまかしの名人」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/703.html

風俗嬢に沖縄出身女性が多い理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/224.html

1972年5月15日に沖縄は「返還」されて「琉球処分」後の状態になるが、米軍基地は居座ったまま (櫻井ジャーナル)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/809.html

日本人を馬鹿にしきったアメリカ人 _ 基地に入れば、日本とアメリカの関係がよくわかる
http://www.asyura2.com/10/senkyo91/msg/566.html

沖縄が中国に「復帰」するとこうなる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/784.html

沖縄県民が知らない米軍の撤退後に待ち受けている恐ろしい現実
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/349.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/323.html#c1

[近代史4] 熊野

KUMANO - 熊野
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/587.html

いい日旅立ち _ 山の向こうで待っている人とは…
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/283.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/329.html

[近代史4] 剱岳 中川隆
1. 中川隆[-13433] koaQ7Jey 2020年2月27日 14:49:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[60]

北アルプス ドローン大縦走 〜剱・立山〜 PR動画



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/327.html#c1
[近代史4] 西穂高岳 中川隆
1. 中川隆[-13432] koaQ7Jey 2020年2月27日 14:59:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[61]

西穂高岳へ登山
6月の北アルプス登山 Trail Mt.hotaka Climbing , JAPAN ALPS


@新穂高ロープウェイ〜西穂山荘編




A西穂山荘〜西穂独標




B西穂独標〜西穂高岳山頂




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/326.html#c1
[近代史4] 谷川岳 中川隆
1. 中川隆[-13431] koaQ7Jey 2020年2月27日 15:05:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[62]

魔の山 谷川岳 一ノ倉沢の大岩壁を見に行く





魔の山 谷川岳 、壮絶な一ノ倉沢の大岩壁を眺める



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/328.html#c1
[近代史4] 中央アルプス 駒ヶ岳 中川隆
1. 中川隆[-13430] koaQ7Jey 2020年2月27日 15:09:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[63]

千畳敷カール(中央アルプス)の紅葉見ごろ




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/325.html#c1
[近代史4] 美ヶ原高原 中川隆
1. 中川隆[-13429] koaQ7Jey 2020年2月27日 15:13:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[64]

▲美ヶ原高原(王ヶ頭2,034m)トレッキング 2017年5月28日 
北アルプスの絶景が待ち受けるアルプス展望コースへ



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/305.html#c1
[近代史4] 沖縄 新城島(あらぐすくじま) 中川隆
2. 中川隆[-13427] koaQ7Jey 2020年2月27日 15:23:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[66]

新城島




パナリ島(新城島)に3日間宿泊滞在。神々の島パナリ島はすごかった!



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/322.html#c2
[近代史4] 石垣島 『キャンピングロッジ 虹の豆』 中川隆
2. 中川隆[-13426] koaQ7Jey 2020年2月27日 15:26:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[67]


石垣島キャンピングロッジ「虹の豆」



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/323.html#c2
[近代史4] 屈斜路湖・阿寒 中川隆
1. 中川隆[-13425] koaQ7Jey 2020年2月27日 15:29:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[68]

日本一美しいと言われる道の夏の景色 美瑛 富良野






【冬編】Most Beautiful Road 日本で一番美しい道〜富良野・美瑛



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/306.html#c1
[近代史4] 屈斜路湖・阿寒 中川隆
2. 中川隆[-13424] koaQ7Jey 2020年2月27日 15:34:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[69]

道の駅摩周温泉〜摩周湖〜川湯温泉街〜900草原〜多和平〜標茶駅



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/306.html#c2
[近代史4] 屈斜路湖・阿寒 中川隆
3. 中川隆[-13423] koaQ7Jey 2020年2月27日 16:04:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[71]


キタキツネ物語


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/306.html#c3
[近代史3] 天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった 中川隆
8. 中川隆[-13428] koaQ7Jey 2020年2月27日 16:51:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[72]
たいせつな作業 - 内田樹の研究室 2020-02-27
http://blog.tatsuru.com/2020/02/27_0848.html

ある媒体に「たいせつな作業」というタイトルでの寄稿を頼まれたので、「朝のおつとめ」のことを書いた。

 9年前に神戸に自宅兼道場を建てた。二階に住んでいて、階段を降りると、そこが道場である。究極の職住近接を達成したと思って喜んでいたらのだが、「家の中に道場がある」というのは、ただ、道場が空間的に近いということとは別のことだということにしばらくして気がついた。

 朝起きて、道場の扉を開くと、「鎮まった場」がそこにある。「鎮まった」というのはノイズがないということである。物理的なノイズに限らず、心を乱すようなノイズがない。そこだけ他と違う。武道というのは「超越的なもの」を受け入れて、心身を調えて、それを発動させる術であるから、道場もどこか「浮世離れ」した場でなければならない。だから、道場を作るときには神棚を勧請し、合気道開祖植芝盛平先生の写真を正面に飾り、二代道主吉祥丸先生が揮毫された「合気」の扁額と、私の師匠である多田宏先生の「風雲自在」の書を道場に掲げた。すると「場が調う」というのがどういう感じなのか、身にしみて分かる。

 道場ができてしばらくは朝起きて道場に行って、神棚に一礼するだけだったが、なんとなくもっと「儀礼的なこと」がしたくなって、「お勤め」をするようになった。

 きっかけは羽黒山の山伏の宿坊に泊めてもらったときである。朝のお勤めを宿泊者みんなでする。修験道は神仏習合なので、祝詞と般若心経を唱えるのである。この「神仏共生」の儀礼がすとんと腑に落ちた。なるほど、これが日本人の宗教性なのかと思った。

 それで、家に戻ってから、祝詞と般若心経を道場で唱える「お勤め」を始めた。
 祝詞のときは拍子木を打ち、お経の時は錫杖を振る。拍子木の打ち方は禊祓いの行の時に教わった。錫杖の振り方は滝行の時に行者の方に教わった。

 朝稽古のある日は5時半に道場に降りる。冬だとまだ空には星が出ている。道場に端座して、一人朗々と祝詞と般若心経を唱えると、なんだか今日やらなければいけない仕事の半分くらいを終えた気になる。
http://blog.tatsuru.com/2020/02/27_0848.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/525.html#c8

[近代史3] 神道の事を単なる儀式であって宗教ではないと思っている天皇一族には理解できない神道の世界 中川隆
14. 中川隆[-13427] koaQ7Jey 2020年2月27日 16:52:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[73]
たいせつな作業 - 内田樹の研究室 2020-02-27
http://blog.tatsuru.com/2020/02/27_0848.html

ある媒体に「たいせつな作業」というタイトルでの寄稿を頼まれたので、「朝のおつとめ」のことを書いた。

 9年前に神戸に自宅兼道場を建てた。二階に住んでいて、階段を降りると、そこが道場である。究極の職住近接を達成したと思って喜んでいたらのだが、「家の中に道場がある」というのは、ただ、道場が空間的に近いということとは別のことだということにしばらくして気がついた。

 朝起きて、道場の扉を開くと、「鎮まった場」がそこにある。「鎮まった」というのはノイズがないということである。物理的なノイズに限らず、心を乱すようなノイズがない。そこだけ他と違う。武道というのは「超越的なもの」を受け入れて、心身を調えて、それを発動させる術であるから、道場もどこか「浮世離れ」した場でなければならない。だから、道場を作るときには神棚を勧請し、合気道開祖植芝盛平先生の写真を正面に飾り、二代道主吉祥丸先生が揮毫された「合気」の扁額と、私の師匠である多田宏先生の「風雲自在」の書を道場に掲げた。すると「場が調う」というのがどういう感じなのか、身にしみて分かる。

 道場ができてしばらくは朝起きて道場に行って、神棚に一礼するだけだったが、なんとなくもっと「儀礼的なこと」がしたくなって、「お勤め」をするようになった。

 きっかけは羽黒山の山伏の宿坊に泊めてもらったときである。朝のお勤めを宿泊者みんなでする。修験道は神仏習合なので、祝詞と般若心経を唱えるのである。この「神仏共生」の儀礼がすとんと腑に落ちた。なるほど、これが日本人の宗教性なのかと思った。

 それで、家に戻ってから、祝詞と般若心経を道場で唱える「お勤め」を始めた。
 祝詞のときは拍子木を打ち、お経の時は錫杖を振る。拍子木の打ち方は禊祓いの行の時に教わった。錫杖の振り方は滝行の時に行者の方に教わった。

 朝稽古のある日は5時半に道場に降りる。冬だとまだ空には星が出ている。道場に端座して、一人朗々と祝詞と般若心経を唱えると、なんだか今日やらなければいけない仕事の半分くらいを終えた気になる。
http://blog.tatsuru.com/2020/02/27_0848.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/124.html#c14

[リバイバル3] 残雪の出羽三山に「生まれかわりの旅」に出よう _ 月山スキー場 中川隆
15. 中川隆[-13426] koaQ7Jey 2020年2月27日 16:54:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[74]
たいせつな作業 - 内田樹の研究室 2020-02-27
http://blog.tatsuru.com/2020/02/27_0848.html

ある媒体に「たいせつな作業」というタイトルでの寄稿を頼まれたので、「朝のおつとめ」のことを書いた。

 9年前に神戸に自宅兼道場を建てた。二階に住んでいて、階段を降りると、そこが道場である。究極の職住近接を達成したと思って喜んでいたらのだが、「家の中に道場がある」というのは、ただ、道場が空間的に近いということとは別のことだということにしばらくして気がついた。

 朝起きて、道場の扉を開くと、「鎮まった場」がそこにある。「鎮まった」というのはノイズがないということである。物理的なノイズに限らず、心を乱すようなノイズがない。そこだけ他と違う。武道というのは「超越的なもの」を受け入れて、心身を調えて、それを発動させる術であるから、道場もどこか「浮世離れ」した場でなければならない。だから、道場を作るときには神棚を勧請し、合気道開祖植芝盛平先生の写真を正面に飾り、二代道主吉祥丸先生が揮毫された「合気」の扁額と、私の師匠である多田宏先生の「風雲自在」の書を道場に掲げた。すると「場が調う」というのがどういう感じなのか、身にしみて分かる。

 道場ができてしばらくは朝起きて道場に行って、神棚に一礼するだけだったが、なんとなくもっと「儀礼的なこと」がしたくなって、「お勤め」をするようになった。

 きっかけは羽黒山の山伏の宿坊に泊めてもらったときである。朝のお勤めを宿泊者みんなでする。修験道は神仏習合なので、祝詞と般若心経を唱えるのである。この「神仏共生」の儀礼がすとんと腑に落ちた。なるほど、これが日本人の宗教性なのかと思った。

 それで、家に戻ってから、祝詞と般若心経を道場で唱える「お勤め」を始めた。
 祝詞のときは拍子木を打ち、お経の時は錫杖を振る。拍子木の打ち方は禊祓いの行の時に教わった。錫杖の振り方は滝行の時に行者の方に教わった。

 朝稽古のある日は5時半に道場に降りる。冬だとまだ空には星が出ている。道場に端座して、一人朗々と祝詞と般若心経を唱えると、なんだか今日やらなければいけない仕事の半分くらいを終えた気になる。
http://blog.tatsuru.com/2020/02/27_0848.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/866.html#c15

[近代史02] 命を賭して悪の帝国と闘ったサダム・フセイン (小沢先生もこれ位カッコ良ければなあ) 中川隆
92. 中川隆[-13425] koaQ7Jey 2020年2月27日 17:29:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[75]
2020.02.27
中東にNATO軍が登場することで情勢に変化はあるのか?

 アメリカ軍の中で中東、エジプト、アフガニスタンにかけての地域を担当しているのは中央軍だが、その中央軍に替わってNATO軍が入ってくるという話がある。イドリブの情況を見ていると、トルコがNATO加盟国として動き始めたように感じられる。NATOの登場がトルコをロシアやシリアから引き離すことにつながるという見方もある。

 中東地域の要石をアメリカはイラクだと考えている。1980年代からネオコンはイラクに親イスラエル体制を築いてシリアとイランを分断、それぞれを個別撃破しようと考えていた。ウェズリー・クラーク元欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)最高司令官によると、ポール・ウォルフォウィッツ国防次官は1991年にイラク、シリア、イランを殲滅すると語っている。(​3月​、​10月​)

 2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃された10日後、イラクを攻撃することが決まったと元同僚から聞かされて驚いたクラークは数週間後、イラク、シリア、レバノン、リビア、ソマリア、スーダン、そしてイランを破壊すると知らされたという。クラークも統合参謀本部の元同僚も理由はわからなかったという。こうした中東からサハラ以北のアフリカに対する侵略戦争は始まった。

 その侵略戦争にはアメリカのほか、サウジアラビア、イスラエル、イギリス、フランス、カタール、トルコなどが参加、2016年にカタールとトルコは離脱していた。そのトルコがNATOの登場で再び侵略国側に戻るかどうかが注目されている。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002270000/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/298.html#c92

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
92. 中川隆[-13424] koaQ7Jey 2020年2月27日 17:30:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[76]
2020.02.27
中東にNATO軍が登場することで情勢に変化はあるのか?

 アメリカ軍の中で中東、エジプト、アフガニスタンにかけての地域を担当しているのは中央軍だが、その中央軍に替わってNATO軍が入ってくるという話がある。イドリブの情況を見ていると、トルコがNATO加盟国として動き始めたように感じられる。NATOの登場がトルコをロシアやシリアから引き離すことにつながるという見方もある。

 中東地域の要石をアメリカはイラクだと考えている。1980年代からネオコンはイラクに親イスラエル体制を築いてシリアとイランを分断、それぞれを個別撃破しようと考えていた。ウェズリー・クラーク元欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)最高司令官によると、ポール・ウォルフォウィッツ国防次官は1991年にイラク、シリア、イランを殲滅すると語っている。(​3月​、​10月​)

 2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃された10日後、イラクを攻撃することが決まったと元同僚から聞かされて驚いたクラークは数週間後、イラク、シリア、レバノン、リビア、ソマリア、スーダン、そしてイランを破壊すると知らされたという。クラークも統合参謀本部の元同僚も理由はわからなかったという。こうした中東からサハラ以北のアフリカに対する侵略戦争は始まった。

 その侵略戦争にはアメリカのほか、サウジアラビア、イスラエル、イギリス、フランス、カタール、トルコなどが参加、2016年にカタールとトルコは離脱していた。そのトルコがNATOの登場で再び侵略国側に戻るかどうかが注目されている。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002270000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c92

[不安と不健康16] “早死にする人”ランキング 短命にある共通点とは…(ZAK×SPA!)  赤かぶ
163. 中川隆[-13423] koaQ7Jey 2020年2月27日 18:05:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[77]

東北医科薬科大学病院 2020/02/26
「新型コロナウイルス感染症 〜市民向け感染予防ハンドブック」を発刊しました


※下図「感染予防ハンドブック」表紙画像をクリックし、ご自身の端末にPDFデータをダウンロードし、ご活用ください。


令和2(2020)年2月25日
東北医科薬科大学病院 病院長 近藤丘
東北医科薬科大学 医学部 感染症学教室 特任教授 賀来満夫

http://www.hosp.tohoku-mpu.ac.jp/info/information/2326/
http://www.asyura2.com/13/health16/msg/134.html#c163

[番外地7] 東北医科薬科大学病院 「新型コロナウイルス感染症 〜市民向け感染予防ハンドブック」

東北医科薬科大学病院 2020/02/26

「新型コロナウイルス感染症 〜市民向け感染予防ハンドブック」を発刊しました

※下図「感染予防ハンドブック」表紙画像をクリックし、ご自身の端末にPDFデータをダウンロードし、ご活用ください。


令和2(2020)年2月25日
東北医科薬科大学病院 病院長 近藤丘
東北医科薬科大学 医学部 感染症学教室 特任教授 賀来満夫

http://www.hosp.tohoku-mpu.ac.jp/info/information/2326/

http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/503.html

[近代史4] 酒は飲んではいけない

酒は飲んではいけない


ウイスキーやブランデーをストレートで飲み続けた人の末路は?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/529.html


フランス人はバゲット(フランスパン)が一番好き
2. 中川隆 2017年10月09日 フランス人が大好きなワインは体に悪い
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/766.html#c2


酒を飲むとバカになる
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/723.html


ほとんど禁酒に成功しなかった「禁酒法」が残した教訓とは?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/808.html


カルヴァドス _ 一番香りの良いお酒
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/794.html#c4
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/330.html

[近代史4] 糖質制限はしてはいけない

糖質制限はしてはいけない

食べてはいけないのは小麦食品だけ

糖質制限を何年も続けると廃人になる
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/734.html

糖質制限食がダメな理由・・・・・古代人のミイラが語る・・・・
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/585.html

BRIAN ENO氏のアホ陰謀論を斬る _ Warburg の研究を理解しないで嘘八百言ってるだけ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/554.html


▲△▽▼

除草剤たっぷり輸入小麦は危ない!

長生きしたけりゃパンは食べるな
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/327.html

食べてはいけない _ カップ麺や袋めんが年間6000億円 麺市場は1兆円に拡大
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/326.html

パンやラーメンを食べるとハゲになる
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/724.html

世界中の飢餓に苦しむ貧困者を救ったインスタントラーメンだけど…
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/999.html

カップヌードルの人体への影響
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/557.html

▲△▽▼


私の最近の朝食は「ホットチョコレート」のみ。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/536.html

私の最近の朝食は「ホットチョコレート」のみ _ 砂糖・パン・うどん・蕎麦・パスタは摂ってはいけない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/536.html

ココナッツオイルを使うバターコーヒーダイエット
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/597.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/331.html

[近代史4] 能の世界

能の世界


いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは…

01. 中川隆 2011年8月05日 能「井筒」
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html#ctop

02. 中川隆 2013年7月15日 能は本来、修善寺あさば旅館の池に浮かぶ能舞台「月桂殿」の様に川や池を隔てて、遠くから見るものだった
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html#c2


修善寺温泉「あさば」 にはもう泊まってはいけない
60. 中川隆 2014年9月01日 『雪国』の国境の長いトンネルは あさば旅館の池に浮かぶ能舞台『月桂殿』の橋掛かりと全く同じ意味を持っている
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/514.html#c60
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/332.html

[近代史4] 川端康成の世界

川端康成の世界

いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは…
2. トンネルの向こう側で待っている女性とは… 川端康成「雪国」
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html

修善寺温泉「あさば」 にはもう泊まってはいけない
_ 英訳すると情痴小説(ポルノ小説)『雪国』が 出来の悪い純愛小説になってしまう理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/514.html#c58

湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 _ 川端康成「雪国」の世界
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/333.html

[近代史4] ドストエフスキーの世界

ドストエフスキーの世界


西洋の達人が悟れない理由
02. 2010年12月13日 11:02:56 ドストエフスキー『白痴』
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html

黒澤明 ドストエフスキー『白痴』
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/617.html

文学も人間も全然わからなかった黒澤明の 白痴 (松竹 1951年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/173.html


無痛で安らかに1分で確実に死ねる『サルコー(Sarco)』と名付けられたマシンが完成した
1. 中川隆 2018年1月24日 悪霊のキリーロフ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/794.html#ctop


日本のフツーの男はみんなロリコンだった
16. 中川隆 2018年12月22日 B ドストエフスキー E・H・カー著「ドストエフスキー」筑摩書房 筑摩叢書106
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/108.html#c16

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/334.html

[近代史4] 川端康成の世界 中川隆
1. 中川隆[-13425] koaQ7Jey 2020年2月27日 19:47:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[76]

日本のフツーの男はみんなロリコンだった
3. 中川隆 2018年12月22日 「眠れる美女」 House of the sleeping beauties
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/108.html#c3
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/333.html#c1
[近代史4] ニーチェの世界

ニーチェの世界

サルはなぜサルか 1 _ 白人崇拝がタイ人を猿にした
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/396.html


存在の耐えられない軽さ _ 参考資料 _ 舊約聖書 傳道之書
『ツァラトゥストラ』重さの霊
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/550.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/335.html

[近代史4] 聖書の世界

聖書の世界


西洋の達人が悟れない理由
03. 中川隆 2011年1月29日 U. エロスの深層
神様が人間を創った理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html


アナーキストが誰にも相手にされない理由 _ 一般大衆は自由であるよりも支配されることを望んでいる
アダムとイブはサタンのお陰で神の専制支配から逃れることが出来た。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/737.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/336.html

[近代史4] ドストエフスキーの世界 中川隆
1. 中川隆[-13427] koaQ7Jey 2020年2月27日 20:05:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[77]

アナーキストが誰にも相手にされない理由 _ 一般大衆は自由であるよりも支配されることを望んでいる
1. 中川隆 2017年7月06日 カラマゾフの兄弟 大審問官
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/737.html#c1
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/334.html#c1
[近代史4] ドストエフスキーの世界 中川隆
2. 中川隆[-13426] koaQ7Jey 2020年2月27日 20:18:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[78]

『翻訳の品格』 - 亀山郁夫批判
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/681.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/334.html#c2
[近代史4] 古事記の世界

古事記の世界


弥生人の起源2
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/549.html

天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html


▲△▽▼

日本書紀(原文・現代語訳・口語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/513.html

古事記(原文・現代語訳・口語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/514.html

先代旧事本紀 (現代語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/515.html

古語拾遺(現代語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/516.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/337.html

[近代史3] トランプは反グローバリズムの旗手なのか? それとも自分の支持率や人気を上げる事しか考えていない無知蒙昧なアホなのか? 中川隆
14. 中川隆[-13425] koaQ7Jey 2020年2月27日 21:10:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[79]

2020年02月27日
トランプの成功人生 父から受け継いだ土地転がし必勝法


これほどあからさまに、自分を誇示できる人はアメリカ人にも少ない


引用:https://www.ridus.ru/images/2016/2/18/366434/large_55b25b2fe3.JPG


米大統領のドナルド・トランプについては、嘘つきだとかやり手だとか、両極端の評価が聞こえてくる。

だが実際のトランプ氏の生まれや生い立ち、どんな風に成功したかを知る人は少ないのではないでしょうか。


トランプ氏はどんな人か

大富豪のトランプ氏はヒラリーと争って大統領選に当選したが、最初から型破りで奇抜な言動が多かった。

そもそも彼はどうやって資産を築き、全米有数の富豪になったかを見ると、かなり興味深い人生を送っている。

富裕層や資産家、成功者には2種類のタイプが居て、親から受け継いだものを生かしたタイプと、そうでない者が居ます。




金持ち、資産家、政治家、有名投資家などのほどんどは、親から受け継いだ資産を運用しているだけです。

全米調査では驚く事に、女性資産家で自分の力で富裕層になった割合は、ほぼゼロでした。

アメリカの資産家の95%は男性で、5%の女性のうち、自力で資産を築いた人は19%だった。


男性は70%が自力で資産を築いていたが、親の資産を元手に増やした人がかなり含まれていて、完全に自力のみは4割以下と推測されます。

さらにアメリカ人の3分の2が資産ゼロ、つまり無一文で、上位1%の富裕層の冨が下位90%の冨を上回った。

アメリカンドリームの現実はかなり厳しくて、1%の富裕層に入れない人の大半は、一生資産ゼロで生きなくてはなりません。


さてドナルド・トランプは庶民から富裕層に成り上がったと主張しているが、父親はニューヨークで不動産業をしていました。

フレッド・トランプはスウェーデン移民の子で、アメリカで生まれて住宅建設業者をしていた。

フレッドの父つまりドナルドの祖父は、いわゆる「ろくでなし」でレストラン経営をしたが早世してしまった。

父フレッドから英才教育を受ける

残されたドナルドの祖母は針仕事をしながら3人の子供を育て、フレッドは腕の良い大工になり独立した。

大工のフレッドは安い土地を買い、念願だった自分の家を自分の手で建てたが、すぐに売り払った。

何もない土地に家を建てて売ると、それだけで利益が出たからで、貧しかった一家はかなり裕福になりました。


「エリザベス・トランプ&サン社」というのが父親の会社で、不動産を買っては家を建てて、前より高い値段で販売していました。

1920年代にアメリカは空前の好景気になり、自動車や家が飛ぶように売れ、株価が天井知らずに上昇していました。

生活水準が上がると、自動車やラジオ、洗濯機や冷蔵庫など、様々な家具を所有するので、前より広い家に人々は住みたくなります。


フレッドがビジネスを成功させて会社を立ち上げたのは、なんと18歳の時で、未成年だったので母親を名義人にした。

1929年の大恐慌を無難に乗り切り、次々に土地を買い建物を建て、ビジネスを成功させていた頃、ドナルドが生まれた。

ドナルドは大学在籍中から父の会社を手伝い、1968年に22歳で父親の会社に入社している。


3年後の25歳で会社を譲り受けたが、父親が独立した18歳よりは遅い。

ドナルドの手法は基本的に父親と同じだったが、より大規模に、より派手に行いました。

フレッドは1929年大恐慌で、破綻した会社を安く買って大儲けをしたが、トランプもこれに倣っている。

負債と復活

1970年代から80年代のアメリカは「ベトナムの後遺症」と呼ばれた酷い時代で、ニューヨーク市が破産したりしていました。

トランプを一躍有名にしたのは日本にも関係があるNYの「プラザホテル」を買収してトランプ・プラザと名づけた。

他にも次々に破綻した物件を買い叩いては「トランプタワー」を増やしていきました。


このやり方は批判が多いが、破綻したホテルを買い取って投資して成功させ、多くの人をピンチから救ったのも事実だった。

やがて買収した物件の幾つかが多額の負債を抱え、トランプは何度も破産の危機に陥っている。

だが諦めないトランプは、「自分が破産したらお前の銀行は大損失を受けるぞ」と逆に銀行を脅して債権を放棄させた。


借金が巨大なら、政府や銀行は破綻を恐れて救済するという法則を学び、90年代のピンチを乗り切った。

2000年代に入るとトランプは映画やテレビに出演して自分の顔と名前を売り込むようになりました。

「有名になれば金に成る」事を学び、この頃ブームになった「セレブ」として活動していった。


「トランプ」をブランド化しトランプホテル、トランプタワー、トランプ大学まで作りアメリカの好景気で華麗に復活した。

やがて彼は自分が大統領になる事を想像し始め、ブッシュが当選した大統領選で、副大統領になろうとした。

これは失敗し、少数政党のリーダーになろうとしたが、少数政党は内部対立で崩壊した。


そこで「大統領になるには2大政党から立候補しなければ駄目だ」と悟り、共和党党員として活動を始めた。

彼はマスコミに多く登場し、自分のテレビ番組を持つほど精通していたので、テレビをうまく利用した。

不満を持つ人々に語りかけ、自分なら解決できると納得させ、多くの支持者を獲得していった。


そしてついに共和党の大統領候補にまで辿り着いたのだった。

http://www.thutmosev.com/archives/62776480.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/493.html#c14

[近代史3] 731部隊と医療被曝 _ 無事に内地に帰還した731部隊員は何をやったのか? 中川隆
4. 中川隆[-13424] koaQ7Jey 2020年2月27日 21:21:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[80]

 猿の頭痛
2020年02月27日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1043.html

 武漢肺炎が生物兵器として開発中だったウイルス株が、何らかの理由で、外部に漏れて世界的なパンデミックが起きていることは、ほぼ疑いのない状況になっている。

「ウイルスは野生動物由来ではない」大紀元が調査報告を発表
 https://www.ntdtv.jp/2020/02/42667/

ハーバード大教授「来年まで世界人口の最大70%が新型肺炎に感染」 2/26(水)
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200226-00000004-cnippou-kr

 これは、100年前のスペイン風邪と同等で、このときは、ウイルス株の突然変異や抗原抗体反応などで、世界で5000万人〜1億人が死亡したと推定されている。
 (致死率2%と推定されているが)
 スペイン風邪の流行は、数次にわたっていて、初期の病状は、それほど深刻なものではなかったが、感染・再感染を繰り返すうちに病毒性の高い突然変異を起こしたものと考えられている。また繰り返し感染がもたらすアナフィラキシーショックやサイトカイン症候群も取り沙汰されている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%94%BE%E5%87%BA%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4

 元々、免疫が脆弱になっているアレルギー体質の糖尿病や喘息、COPDや間質性肺炎、膠原病、リウマチ、多発性硬化症など免疫難病を基礎疾患として抱えている人々は、非常に重篤な症状になり、命に関わることを理解しておくべきだ。
 世界人口の7割が感染するなら、そのうち1割くらいが免疫系基礎疾患を抱えていると考えるべきで、結局、スペイン風邪と同等の致死率が出ても不思議ではない。
 また、このくらいの感染率だと、安全な逃避地は地球上に存在しないかもしれない。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%85%8D%E7%96%AB%E7%96%BE%E6%82%A3

 日本国内でも、若年層の重症者が増えている事情は、やはりRNA突然変異を疑うべきだろう。これから繰り返し感染者が増えれば、それはRNA遺伝子の突然変異を裏付ける現象なので、病原体の毒性が強まる可能性も大いに考えられる。

 それにしても、日本政府=安倍政権の馬鹿さ加減には開いた口が塞がらない。日本人は安倍晋三をトップに据えたことで、何割かが死ぬほどの凄まじいお灸を据えられていると考えるべきだ。
 トップが無能だと、官僚たちまで、これほどの馬鹿しかいなくなるのかと感嘆するしかない。
 劉伯温の(南北朝時代の)予言によれば、8月後半にとんでもない事態になるそうだ。

 さて、中国政府が細菌兵器を開発してきた理由は、自分たちが日本軍731部隊による細菌兵器人体実験の大規模な被害を受けたことで、この安価なBC大量殺戮兵器の価値に気づかされていたからだろう。
 実際、731部隊の活動していた、中国東北省(満州)、遼寧省では、現在、中国共産党による、731部隊の悪行をそのまま受け継いでいるような、人体模型工場とか、法輪功加盟者を拘束して生きたまま臓器を摘出して殺害するような病院が稼働している。

 私は、武漢の細菌兵器研究所も、731部隊の残党が生み出したのではないかと強く疑っている。その内容が、あまりにも酷似しているからだ。

 https://www.epochtimes.jp/p/2018/04/32382.html

 https://www.epochtimes.jp/jp/2006/04/html/d99548.html 

 これらは、日本軍が敗北し、731部隊が証拠隠滅のため、散り散りに逃避してから、人脈が流れて人体実験医学を受け続いてきた可能性がある。

 731部隊とは何か? 大半の証拠が、敗戦時に石井四郎らによって爆発隠滅されたが、当時の被害者からの資料提供で、何が行われたのか、復元が進んでいる。
 http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col5813.htm

 http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/history/Asia_is_Japanese/731.htm

ウィキの資料は、ネット上から削除されているものも含めて、証言証拠が充実している。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A

 ここで、ごく最近、現代ビジネスに掲載されたコンテンツが面白いので紹介することにしたい。

 これは、京都大学医学部教授の戦後学位論文中に、猿にペスト菌を接種して発病実験した経過が描かれているのだが、そのなかに「猿が頭痛を訴えた」と記録が残されていた。
 これを見た研究者たちは、この教授が実験に用いた「猿」は、実は人間ではないかと疑い、学位の剥奪を要求したのだが、京大側は、調査を拒否したものだ

**********************************************************************

 731部隊の闇…日本社会がどうしても隠したい「残酷すぎる過去」 2月27日現代ビジネス
  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/70626

新型肺炎を巡る報道が連日、洪水のように流されている。ほとんど否定されているようだが、一部には武漢にある武漢ウイルス研究所で生物兵器として開発されていたものが流出したのではないか、という噂も流れている。

奇しくもこうしたタイミングで、日本国内でも、先の大戦中に生物兵器の実験をしていた「731部隊」に関する報道が相次いでいる。

ひとつは人気コミック『僕のヒーローアカデミア』に登場する「志賀丸太」という登場人物の名前が無神経だと海外、特に韓国からの批判を受け、著者の堀越耕平氏が謝罪と名前の変更を余儀なくされたニュース。

そしてもう一つは、京都新聞に「サルが頭痛」という見出しで報じられた、731部隊に関するニュースである。

731部隊とは、結局何だったのか

731部隊の正式名称は「関東軍防疫給水部」。「関東軍」とはよく聞く名前だと思うが、正式には、日露戦争の勝利により獲得した遼東半島南部(関東州)と旅順・長春間の鉄道沿線防衛のため創設された部隊を前身とした軍のこと。その後、日本による満洲の植民地化において中心的役割を担うこととなった。

731部隊は満洲北部の平房(現在の黒龍江省哈爾濱〈ハルビン〉市平房区)という寒村に、一大細菌・生物戦施設を設け、捕虜とした中国人やロシア人約3000人を「マルタ」と称し、文字通り「丸太」のごとく非人道的な扱いをしながら、ペスト菌やコレラ菌など細菌の感染実験、生体解剖を重ねていた。

「僕のヒーローアカデミア」の件は、この「マルタ」を連想させるという批判なのだ(なお、著者はそうした意図を否定している)。

 731部隊の責任者は石井四郎という軍医で、最終的には陸軍中将にまで昇進した人物だ。その部隊は、彼が東郷一という偽名をよく使用したことから東郷部隊、出身地である千葉県の加茂から多くの職員を募ったことから加茂部隊とも称されたが、戦争末期には石井部隊か、敵国に内情を知られないための秘匿名の「関東軍七三一部隊」の名で呼ばれるのが普通となった。

731部隊は実験を重ねるだけでなく、日中戦争が本格化してからは、参謀本部の要請に応じ、中国戦線に限って化学兵器と細菌兵器を実戦投入してもいたから、日本の軍事史上においても大きな汚点と言わざるをえない。

化学・細菌兵器の使用は1928年に国際連盟で採択された国際紛争平和的処理一般議定書(ジュネーブ一般議定書)で、捕虜に虐待については1929年に締結された「捕虜ノ待遇ニ関スル条約」で禁止され、日本は批准を見送るが尊重する立場を表明していた。

731部隊の存在と活動は明らかな国際法違反であったが、大戦終結後の極東国際軍事裁判(東京裁判)において、責任者が罰せられるどころか、被告人席に立たされることさえなかった。なぜなら、訴追が見送られただけでなく、存在さえも隠蔽されたからである。

 731部隊の免責は、石井四郎ら同部隊幹部の取り調べに当たった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の参謀第2部(G2)が、生体実験の研究成果は他に例のない貴重な資料との判断から、研究資料すべての提供することと引き換えに石井らの免責を上申。最高司令官ダグラス・マッカーサーもそれを認め、アメリカ本国の統合参謀本部(JCS)からもそうするよう指示が下されたことから、速やかに遂行された。

 かくして731部隊の存在と行状は、ソ連が実施した情報公開と一部関係者の証言を除いては闇に葬られてしまった。

 731部隊の幹部たちはいずれも沈黙を貫いた。戦時中は「石井の番頭」を公言して憚らず、階級が最終的に中佐まで進んだ内藤良一博士も同様であった。この内藤博士は戦後、のちに大手医薬品メーカーに成長するミドリ十字を創業し、その会社が薬害エイズ事件を引き起こしたのは何かの因縁であろうか。

明かされ始めた当時の記録

 欧米では、よほどの国家機密でもない限り一定期間が過ぎれば、あらゆる公文書が公開される。731部隊関連のそれとて例外ではなく、これにより731部隊の実態と免責に至る経緯について、多くのことが明らかとなった。

 この分野については神奈川大学名誉教授にして科学史と科学論を専門とする常石敬一が多くの著作を世に送り出しているが、ジャーナリストの青木冨貴子が著わした『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』(新潮文庫)も有益な作品である。
 石井四郎本人の日記や先述した内藤博士に関する新たな資料も見つけ出したのだから。

 なかでも内藤博士に関する話は群を抜いて興味深い。それはメリーランド州カレッジパークにある国立公文書館で公開されていたもので、青木が目にした資料によれば、内藤がワシントンの日本大使館付陸軍武官の紹介状を手にロックフェラー研究所の国際衛生研究室を訪れ、黄熱病の病原株を分けてほしいと申し入れたのだが、それがなんと1939年2月23日のことだった。

 すでに国際会議の決議で、アジア諸国にウイルスを持ち込むことが禁止されていた後である。当然同研究所では所長のセイヤー博士が直接内藤に会って、きっぱりと断りを入れたが、内藤はそれに懲りず、再び訪問し黄熱病ワクチンの扱いについて質問を浴びせ、さらに同月26日には、同研究所の技師が内藤と同一と思しき人物から、黄熱病ウイルスを渡すよう脅迫されという記述まであった。

 このようにアメリカが占領期に収集した資料が次々と日の目を見るなか、日本政府は国会で追究されるたびに731部隊に関する資料の存在を否定してきた。2012年に国立国会図書館関西館で、731部隊によるペスト菌散布を裏付ける金子順一軍医少佐論文(1943年付)が発見された際も、「政府内部に資料が見当たらないのが実態」と答弁していたのである。つまり「政府内部には」ないというわけだ。

 しかし、どれだけ政府がないと言っても、あるものは隠せない。2011年の公文書管理法施行を受け、厚生労働省が国立公文書館に順次移管している戦没者等援護関係資料の中から、731部隊に関する新たな公文書が発見されたのである。これが冒頭に触れた、京都新聞の「サルが頭痛」の見出しで報じられた記事である。

 その資料は1950年9月に厚生省(現・厚生労働省)復員局留守業務第三課が作成した「資料通報(B)第50号 関東軍防疫給水部」と題された文書で、戦後、中ソに取り残された元731部隊の軍医や軍人らの状況を把握するために作成されたと目される。

 計4ページある文書のうちの一枚は「関東軍防疫給水部行動経過概況図」と題され、ソ連軍との開戦に伴う撤収方法について詳しく、本部第一部が細菌研究、第四部が細菌生産などと部隊構成まで記載されていた。

 しかも、新資料の発見は、まだ埋もれいる資料がたくさんあるのではないかとの疑念を募らせると同時に、すでに発見されている資料を真摯に受け止めねばならないとの機運を盛り上げることにもつながった。

 その具体的な動きが、同記事で取り上げられている、滋賀医科大名誉教授の西山勝夫を事務局長とする「満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を京大に求める会」(以下、「求める会」)である。

 終戦時、731部隊の人員は約3900人を数え、軍医52、技師49人、雇員1275人、衛生兵1117人という部隊構成だったと具体的に示されている。京都大学医学部講師の身から731部隊に派遣されて凍傷研究を行ない、戦後は京都府立医科大学長になった吉村寿人の回想によると、「京大の助教授・講師級の若い者が8名(病理学3、微生物学2、生理学2、医動物学1)が派遣されることになった」。

 同じく戦後、吉村以外の京大出身の元731部隊員たちが医学界に戻り、金沢大医学部長、京大医学部長などを務めた。学者以外にも京大出身者はいて、石井四郎の片腕と言われたM元軍医大佐や、先ほどから何度も取り上げている内藤良一もまた京大医学部の卒業生だった。

 京都大学の出身者やかつてそこに籍を置いていた者が戦争犯罪に手を染めていたというわけだ。真っ当な人生を送る卒業生にとって許しがたいことで、実験成果をもとに博士論文を認め、博士号を授与されたとなればなおさらであった。

 「サルの頭痛」

 京都新聞の記事で問題として取り上げられたのは、1945年に戦死した将校の論文「イヌノミのペスト媒介能力に就いて」で、ペスト菌を、イヌノミを介してサルに感染させ死亡させた特殊実験中に、サルが「頭痛を訴え」と記述されていた点である。

 「求める会」は、サルが頭痛を訴えることはありえず、このサルは捕虜を指す隠語の一つで、実際に人体実験が行われたのではと疑い、博士号の取り消しも視野とした再調査を申し入れたのだった。

 調査を中止した京大

 2019年2月、大学当局は予備調査から得られた結論として、「どのようにサルの『頭痛』を判断したか記載されていないが、何らかの行動指標によって頭痛が起きていると判断していたと推察できる」などと説明。その上で「ねつ造の疑いの根拠には科学的合理的理由がなく、実験ノートや生データがないため調査を継続することは不可能」と回答している。

 大学側がさらなる調査を行わない方針とも伝えてきたことで、「求める会」の大学当局への不信感はさらの膨らみ、「使用された動物がサルであるか、ヒトである可能性を明確に否定できると証明しなければならない」と声明を出した。

 会の共同代表を務める立命館大教授の松宮孝明も記者からの質問に、「疑わしい時にどう推定するべきかという問題。学位を授与する大学として、可能な限り調査をして、疑わしいなら学位は取り消すべき」とコメントしていた。

 今後この問題がどう展開するかは予断を許さない状況だが、今回の新資料でも明らかなように埋もれた資料はまだまだ存在する可能性がある。だれかが意図的に隠したとしても、歴史の闇はいずれ明るみに出る時が来るだろう。

**************************************************************

 731部隊を創立したのは、千葉県出身の石井四郎である。同郷である加茂出身の医師ばかりを集めたので「加茂部隊」と呼ばれたが、「同郷者」には、極悪戦犯として知られる「麻薬王・里見甫」がいたことも知られている。
 里見は、二反長音蔵の力を借りて北京郊外の通州に麻薬精製工場を作り、日本人婦女子ばかりを集めて、ヘロインとアヘンの精製販売を行わせていた。
 これに対し、古くからアヘン利権を手にしていた青幇が怒り、頭目の蒋介石が通州工場の残虐な襲撃を行わせたのが「通州事件」の真相である。

 これに激怒した陸軍第十軍が南京大虐殺を実行するわけだが、731部隊の残虐さは、上のウィキリンクを見れば分かるように、吐き気を催して、とうてい説明する気になれない。
 おまけに、731部隊は、敗戦後、誰一人戦犯起訴されなかった。人体実験の資料を米軍に手渡すことと引き換えに免罪されたのだ。
 これは麻薬利権戦犯でありながら、莫大な麻薬資金を米軍に手渡して引き換えに釈放された、岸信介や里見甫と似ている。

 無罪放免となった石井四郎・内藤良一。北野政次ら司令官らは、そのまま日本に帰還し、戦後日本医学界の基礎を担った。
 内藤は、ミドリ十字者を設立、現在の公衆医学検査協会=検診協会も内藤の生み出した仕組みであり、子供たちに「結核検診」と称して、強制的にレントゲンを照射して、一人の患者を発見する代償に、50名の被曝癌患者を出したといわれる。

 日本で、女性の乳癌と肺癌が激増した理由は、この結核集団レントゲン検診が極めて大きな役割(乳癌・肺癌イニシエーション)を果たしている。
 また、内藤の会社は、エイズウイルスを不活化せずに血漿医薬として利用、多数を殺害したことも知られる。これで事実上ミドリ十字社は解体され三菱ウェルファーマに代わった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AE%B3%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 すなわち、731部隊の残虐な犯罪は、戦後日本医学を呪い続けているのである。
 今のところ、証拠は見つけていないが、武漢コロナウイルス肺炎も、もしかしたら731部隊との接点があるかもしれない。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1043.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/471.html#c4

[近代史4] 北海道 天塩郡 豊富温泉

北海道 天塩郡 豊富温泉


アトピー・乾癬に効能のある湯治湯 日本最北端の温泉郷 豊富温泉
https://toyotomi-onsen.com/

入浴施設 豊富温泉 ミライノトウジ
https://toyotomi-onsen.com/hotspring

北海道豊富町| 豊富温泉
https://www.town.toyotomi.hokkaido.jp/section/syoukoukankouka/a7cug60000001fqi.html

【豊富温泉】温泉に入って医療費控除?石油の湯?アトピーに絶大な効果があるという豊富温泉へ・・・ たびこふれ
https://tabicoffret.com/article/76349/index.html

豊富温泉(稚内)の日帰り温泉、旅館、ホテルおすすめ4選|@nifty温泉
https://onsen.nifty.com/toyotomi-hokkaido-onsen/

豊富温泉町営ふれあいセンター - 稚内|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/wakkanai-onsen/onsen000009/

豊富温泉 川島旅館 - 稚内|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/wakkanai-onsen/onsen009716/

北海道 豊富温泉、知る人ぞ知る国内から殺到の効能豊かな秘湯とは? TRIP'S(トリップス)
https://trip-s.world/07032015toyotomionsen

【豊富の豊富温泉】日帰り入浴も楽しめて、アトピーに効く石油温泉
https://good-hokkaido.info/toyotomi-onsen/


▲△▽▼

豊富温泉町営ふれあいセンター 公式HP
https://toyotomi-onsen.com/hotspring

北海道 天塩郡 豊富町 豊富温泉
電話 0162-82-1777

入浴料:大人510円 小学生250円 未就学児無料 65歳以上380円

【回数券】
大人8枚 3,570円 小学生8枚 1,750円

【シニア回数券】
65歳以上11枚 3,800円
※購入時は要証明

【1ヶ月定期券(住民票有)】
大人10,000円  小学生5,000円
※豊富町に住民票を有している方が対象です。
※購入時は要証明

【1ヶ月定期券(住民票無)】
大人12,000円  小学生6,000円

営業時間・期間
8:30〜21:00(受付/20:30まで)

休業日
元日・整備日(毎年4月10日前後の4日間)
※年末年始は短縮営業


アクセス
電車・バス・車
JR豊富駅 沿岸バス(豊富駅⇒豊富温泉【経由】⇒幌延駅)約10分ふれあいセンターバス停下車

温泉街には無料駐車場がたくさんあるので、駐車場の心配はご無用です。
また、直通バスは残念ながらありません。
ただし、札幌と豊富を結ぶ特急はぼろ号が走っているので、乗り換え無しで向かうことができます。だいたい5時間くらいです。
路線バス、観光タクシー、レンタカー、レンタル自転車が豊富での移動手段です。
効率的なのは稚内でレンタカーを借りるのが一番いいかもしれません。
周辺にはサロベツ原生花園やトナカイ観光牧場があり、豊富ホッキチャウダーといった名物もあります。

交通手段は以下を参考にしてください。
https://good-hokkaido.info/toyotomi-onsen/


地図
https://www.google.co.jp/search?lr=&hl=ja&as_qdr=all&sxsrf=ALeKk03Pd9VF1rrOXB8gQXhPng3wxRtbow:1582807810821&q=%E8%B1%8A%E5%AF%8C%E6%B8%A9%E6%B3%89&npsic=0&rflfq=1&rlha=0&rllag=45072540,141839644,145&tbm=lcl&ved=2ahUKEwj5377K4vHnAhUYy4sBHdYFDRQQtgN6BAgLEAQ&tbs=lrf:!1m4!1u3!2m2!3m1!1e1!1m4!1u2!2m2!2m1!1e1!2m1!1e2!2m1!1e3!3sIAE,lf:1,lf_ui:1&rldoc=1#rlfi=hd:;si:;mv:[[45.075240699999995,141.8444601],[45.0711608,141.8375536]];tbs:lrf:!1m4!1u3!2m2!3m1!1e1!1m4!1u2!2m2!2m1!1e1!2m1!1e2!2m1!1e3!3sIAE,lf:1,lf_ui:1&spf=1582807816679

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/338.html

[近代史4] 中川隆 _ 日本の湯治文化関係投稿リンク 中川隆
13. 中川隆[-13431] koaQ7Jey 2020年2月27日 22:17:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[82]

北海道 天塩郡 豊富温泉
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/338.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/123.html#c13
[番外地7] ドストエフスキーの貧困生活
ドストエフスキーの貧困生活【作家貧乏列伝#1】
https://pdmagazine.jp/trend/binbo-dostoevsky/


『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』などの傑作を残した文豪・ドストエフスキーはギャンブルにはまって借金生活を送るロクデナシだった?? 新連載、【作家貧乏列伝】第1回は、そんなドストエフスキーの貧乏生活に迫ります!



文学史にその名を残した大作家たちは、誰もが華々しい生活を送っていたわけではありませんでした。むしろ、作家としての成功を手にする前には、金銭的に苦しい生活を強いられていたケースの方が圧倒的に多いと言えるでしょう。
P+D MAGAZINEの新連載企画となる「作家貧乏列伝」は、そんな文学者たちの苦しいお財布事情について伝記的に振り返ります。その第一回となる今回は、ロシアを代表する文豪であり、世界規模で多大な影響を及ぼしている小説家、フョードル・ドストエフスキーを特集!

人間存在の根本問題を重厚な文章で描いたドストエフスキーの作品は今もなお多くの支持を獲得しており、ノルウェー・ブック・クラブが選ぶ「世界最高の100冊」には『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』、『悪霊』、『白痴』の4冊が選出されています。

そんな大文豪として名高いドストエフスキーですが、その作品執筆の背景には、自身の持つ「浪費癖、賭博癖」と、それらがもたらした「破綻した生活」が強く関係していることが知られています。今回は波乱の人生をおくったドストエフスキーの貧乏エピソードを、彼の作品とともに紹介します。

年収500万円なのに借金は800万円?ドストエフスキーの呆れた浪費癖。

ドストエフスキーは1821年、モスクワに生まれました。父親は医者、母親は商人の娘でしたが、子供は兄、ドストエフスキー、弟、妹3人と8人家族であったために裕福な家庭とは言えなかったようです。

ドストエフスキーは両親の死を経て工兵学校へ入学します。22歳で工兵学校を卒業し、少尉として製図局で働くようになった彼は、父親の残した領地からなる収入と製図局の給料を足した額、およそ5,000ルーブルほどを年収として得ていました。19世紀当時の1ルーブルは現在の日本円でおよそ1,000円。年収500万円といえばかなり裕福な暮らしができそうなものですが、ドストエフスキーの生活が困窮していた理由は、彼の持つ浪費癖にありました。

よく知られているように、ドストエフスキイには医しがたい[引用者註:病的な、の意]賭博癖や浪費癖がありました。この浪費癖はすでに兄ミハイルとの往復書簡にもでてきまして、金がはいるとまず前の借金を払い、残りの金をすぐ使ってしまって、いくら金があっても足らないという具合でした。妹ワルワーラの夫カレーピンは、父の死後、ドストエフスキイ兄弟の後見人となって田舎の領地から上る収入を毎月送っており、ドストエフスキイには年千ルーブリ送っていましたが、その送金が着いたその日にもう一文もなくなっているということがありました。

『ドストエフスキイ その生涯と作品』より

十分な収入があるにも関わらず、送金を受けた日には一文無し……ドストエフスキーの浪費癖は酷いものでしたが、彼の父親は真逆でした。私的な患者を抱える医者であったものの、妻が子どもたちと田舎へ出かける際には、衣類や家具が盗まれないか不安にかられるあまり「ようく思いだしていちいち書いておよこし」と頼んでいます。貧乏を極端に恐れる父親を反面教師として、ドストエフスキーの金銭感覚はおかしくなっていったのかもしれません。

浪費癖とは別に、ドストエフスキーのお人好しで気前のいい、考え無しの性格もまた、貧しい生活を招く原因となっていました。誰かにご馳走を振る舞う、知り合った人のいい鴨にされて金を貸す、博打で片っ端から金をする……彼の生活態度はだらしなく、挙げ句の果てには急に退職をしてしまいます。

「つとめはじゃがいものようにあきあきしました」、「食いぶちくらいはすぐに見つけます。猛烈な勢いで仕事をしますからね。いまやわたしは自由の身です」と兄への手紙で堂々と宣言していますが、あては全くありませんでした。むしろ、「さて、さしあたり何をするか、それが問題です。8,000ルーブルからの借金があるのですからね。」と、今の日本円に置き換えて800万円の借金を抱えている状況で考え無しに仕事を辞めたドストエフスキーに舞い込む仕事など、当然ながらありませんでした。



ギャンブル、愛人……“泥沼作家”ドストエフスキーの生活

ドストエフスキーがだらしないのは金銭面だけではありません。女性関係においても同様でした。最初の妻、マリアは既婚者でしたが、ドストエフスキーはマリアの息子の家庭教師になったことをきっかけに近づこうとします。マリアの夫が亡くなった後に2人は結婚しますが、結核を患っていたマリアはドストエフスキーと離れて療養することを余儀なくされるのでした。

その一方、ドストエフスキーは愛人のスースロワとともに二度目の外国旅行に旅立とうとしていました。しかし借金の手続きや雑誌編集の仕事などにより彼女と出発できなかったドストエフスキーは、パリで落ち合うことを約束します。

しかしここで、ドストエフスキーの賭博癖が悪い方向へ働いてしまいます。パリへと向かう道中、ドイツのヴィースバーデン滞在中にルーレットへのめり込んだドストエフスキーは4日間もの時間を費やします。

博打に興じるドストエフスキーをよそに、スースロワは単身パリに向かい、現地で新しい恋人を見つけました。ドストエフスキーがようやくパリに到着した頃には、すでにスースロワはその新しい恋人から棄てられていましたが、ドストエスフスキーは彼女と恋愛関係に戻るのではなく、似た者同士の「兄妹」として振る舞うことになったといいます。

そしてこの後、まったく懲りないドストエフスキーはドイツのバーデン=バーデンで賭博に耽ります。ここで負けに負けた彼は、持っていた時計をも売り飛ばし、スースロワとホテルで請求書が来ないかと絶えずビクビクしながら過ごさなければいけないほどでした。

もはや自虐小説!? 『賭博者』あらすじ

出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4102010084

なんとか家族や出版社からの借金で窮地を脱した2人は、この旅行を終えて別れることになります。この時の経験をもとにドストエフスキーが書いた作品は、その名も『賭博者』。ドイツの架空の街、ルーレテンブルクを舞台に、ロシアの将軍の家庭教師である主人公アレクセイがルーレットにより身を滅ぼしていく物語です。アレクセイはドストエフスキーが、将軍の義理の娘でアレクセイが思いを寄せるポリーナはスースロワが、フランス人公爵でステレオタイプな鼻つまみ者のデ・グリューはスースロワがパリで作って棄てられた恋人のサルバトールが、それぞれ投影されているのです。

デ・グリューが金の力でポリーナの心を自分に向けようとしていることを知ったアレクセイは、「そんな金なんて叩き返してしまえ」と所持金を持ってルーレットに挑みます。神でも味方につけたかのように勝ったアレクセイは20万フランもの大金を得ますが、ポリーナからは愛憎入り混じった言葉を投げつけられて終わるのでした。加えてルーレットで得た大金も娼婦のブランシュに根こそぎ搾り取られ、ギャンブラーとして身を落としていきます。

当初大勝ちするものの、そこからアレクセイが転落していく様子をドストエフスキーはえげつないままに描いています。「次はもっとうまくやる」、「次こそは取り返す」といった負の連鎖を生み出す思考法は、賭博依存症のドストエフスキーだからこそリアルに描けたものだったのです。

起死回生の一作、『罪と罰』を生み出した窮地

借金の返済に追われたドストエフスキーは、悪質な出版業者であるステロフスキーとの間にとんでもない契約を結びました。その契約内容とは、金を貸すかわりに期限までに新作の長編小説を書かなければ違約金を支払うほか、ドストエフスキーの持つ著作権を永久的に譲渡するというもの。借金がある以上、ひどい条件であっても呑むしかなかったドストエフスキーの生活は、ますます困難なものとなっていきます。

なんとかステロフスキーから借りた金も例によってルーレットであらかた溶かし、堕ちるところまで堕ちたドストエフスキーは『罪と罰』を書き始めます。この『罪と罰』は、頭脳明晰ではあるが貧しい主人公、ラスコーリニコフが強欲非道な高利貸しの老婆と目撃された老婆の妹まで殺してしまうことで罪の意識に苦しめられる物語です。1人の貧乏な青年を主軸に「正義のためであれば人を殺す権利はあるのだろうか」、「正義とはなにか」という重厚かつ普遍的な問題を描いた『罪と罰』は、一気にドストエフスキーの評価を高めました。

出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4102010211

『罪と罰』では好評を博したものの、ステロフスキーの契約ではもう1本長編小説を書く必要がありました。しかし『罪と罰』の執筆により時間もなくなり、精神的にも追い詰められていたドストエフスキーは口述筆記にて『賭博者』を完成させます。このときに筆記を担当したのは、速記学校に通う20歳の女学生、アンナでした。

なんとか『賭博者』の原稿を完成させ、窮地を脱したドストエフスキーはアンナへプロポーズします。2人は25歳も離れていましたが、同世代の青年にはない才能に惹かれたアンナはプロポーズを受け、結ばれます。

2人の結婚生活は幸せなものではありませんでした。ドストエフスキーは持病のてんかん発作を起こし、すぐにでも払わなければいけない借金のために生活は困窮。アンナは嫁入り道具全てを質入れし、ドストエフスキーに外国での治療を受けさせようと旅立つ決意をします。

ドストエフスキーの親族とも不仲だったアンナはようやく平穏な生活を手にいれましたが、ドストエフスキーはそんな生活に飽き飽きし、ルーレットでまたもや有り金全てを失います。海外を転々とする生活は4年にも及び、その間に何度もドストエフスキーは賭博に溺れましたが、1871年にサンクトペテルブルクに戻った頃から生活がようやく好転します。

その理由はドストエフスキーが編集を引き受けた雑誌で書いたエッセイ、『作家の日記』や回想が人気になったほか、妻アンナがドストエフスキーの著作集を自ら出版したことで経済的に安定したことにあります。ギャンブル癖のあるドストエフスキーが困窮生活から抜け出した背景には、“できすぎた妻”であるアンナの支えがあったのです。


“生活破綻者”の文学

日本文学においても『罪と罰』の設定を借りて作品を書いた江戸川乱歩、『カラマーゾフの兄弟』に登場する挿話に着想を得て「蜘蛛の糸」を書いたと言われている芥川龍之介など、ドストエフスキーの影響は計り知れません。文学史で大きな存在ではあるものの、彼自身は波乱の人生のなかで人間を深く見つめなおした作品を多く残しています。そんなドストエフスキーの洞察力を育んだのは、自らの浪費癖と賭博癖が招いた破綻であったと考えると、作家稼業の独特なカルマを感じさせますね。

さて、続く「作家貧乏列伝」第2回では、明治の女流作家、樋口一葉を特集します。今では5千円札にその顔が刷られている一葉の貧困生活とは一体どんなものだったのでしょうか?

https://pdmagazine.jp/trend/binbo-dostoevsky/
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/504.html

[番外地7] ドストエフスキーの貧困生活 中川隆
1. 中川隆[-13429] koaQ7Jey 2020年2月28日 00:28:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[85]

ドストエフスキー
http://aoitori-center.com/tenkan/dostoyevski.html


◦誕生、幼年時代
◦作家デビュー
◦ペトラシェーフスキー事件
◦処刑劇
◦ロシアの政治と宗教
◦暴力革命
◦ロシア正教
◦ベリンスキーと無神論
◦ドストエフスキーの改心
◦シベリア以降
◦最初の妻マリア
◦雑誌「時代」
◦愛人
◦妻と兄の死
◦成就せぬ愛
◦「罪と罰」
◦第2の妻アンナ
◦海外生活
◦「白痴」、娘の死、「悪霊」
◦帰郷
◦「カラマーゾフの兄弟」と最後の栄光
◦死
◦ドストエフスキーのてんかん発作
◦発症
◦発作症状
◦シベリア流刑後のてんかん発作
◦発作頻度、発作時刻
◦発作後症状
◦19世紀ヨーロッパの臨床神経学
◦臭化カリウム(ブロム)
◦ブロム中毒
◦鑑別判断
◦アンリ・ガストーの全般てんかん説
◦素因性全般てんかん説の根拠
◦恍惚前兆
◦創造された恍惚前兆?
◦恍惚前兆以外の前兆
◦発作前駆症状
◦全般てんかんと部分てんかん(側頭葉てんかん)
◦家族発生
◦旺盛な性欲
◦てんかんを乗り越えて
◦てんかん気質
◦人間観察の天才
◦てんかんからの自由
◦参考図書・引用文献

「大多数のものは、癲癇発作に襲われた人を見て、神秘的なあるものを含んだ、激しく耐え難い恐怖を抱くものである」

ドストエフスキー「白痴」米川正夫訳

「そう、わたしは「倒れ病」にかかっている。これは、12年前、人生のうちでももっとも最悪の時期に、不幸にも背負うことになった病だ。しかし、病気を恥じる必要などない。それに、倒れ病といえども活動を止めることはできないのだ」

誕生、幼年時代


 ドストエフスキーは、ご存じのように、19世紀ロシアの小説家です。

 生まれたのは1821年11月11日。この年、ナポレオンがセントヘレナ島で死に、ヨーロッパは政治的反動期を迎えていました。一方、同じ年にフローベール、ボードレールなど新たな文学の担い手も誕生しており、7年後にはトルストイも生まれています。

 父親は医者でした。司祭の子として生まれた父親は、ナポレオン戦争に従軍したのち、施療病院の医師となり、八等官の官位を獲得しました。ピョートル大帝が定めた官位では八等官以上が貴族に準ずることになっていますから、ドストエフスキー一家も貴族階級ということになります。

 母親は裕福な商人の娘でした。

 上には1歳ちがいの兄ミハイルがおり、ドストエフスキーにつづいて弟1人、妹3人が生まれています。

 子沢山の8人家族ですから、子供時代、ドストエフスキー一家は貧乏だったいう伝説もあるようです。しかし、ドストエフスキーは思春期に名門寄宿学校で教育をうけていますし、父の死後、その遺産によってある程度の年金ももらえるようになっています。家庭が貧乏だったとは思えません。少年時代の「貧乏伝説」はドフトエフスキーが成人してからの借金生活の類推から生まれたのかもしれません。しかし、ドストエフスキーの幼年時代における「貧乏伝説」誕生には、奇人だった父親も一役買っていた可能性があります。

 貴族に列せられた父親は、別荘にでかけていった妻に「あわれな、よるべないわたしを忘れないでおくれ」と詠嘆調で手紙を書きはじめながら、そのあとで、召使いが身の回り品をくすねてしまわないか心配になり、一転「書いておよこし…….おまえのドレスや胸飾り、ナイトキャップなどで残していったものはないか、それから納戸においてあるようなものについても、ようく思い出していちいち書いておよこし。ワシリーサにごまかされないかと心配だから」と、くどくど書くような人間でした(コンスタンチン・モチューリスキー著 松下裕・松下恭子訳「評伝ドストエフスキー」)。「ああ、なんと残念なことだろう…….手元不如意のためにおまえの名の日のために何にも贈ってやれないとは。わたしの心は悲嘆にくれている」などとも妻に書き送っていますが、貧乏という強迫観念におそわれていただけのことで、妻にプレゼントを何も買えないほど窮乏していたわけではありません。

 父親は、妻の死後、仕事を辞め、自分の地所の村にひきこもります。そして、飲んだくれ、本来の性格にいよいよ磨きがかかります。農民を虐待する「けだもののような」人間になって、あげくのはてに、積年の恨みが爆発した農民たちによって殺害されます。ドフトエフスキーが18歳のときのことです。

 父親のこの病的なまでの吝嗇癖はドフトエフスキーの妹に受け継がれます。妹は夫の死後、莫大な遺産を手にしたにもかかわらず、召使いを雇う出費を嫌い、一人暮らしを続けました。そして、その噂を聞きつつけた強盗に殺害されます。しかし、ドストエフスキーには父親の吝嗇癖が正反対に遺伝してしまったようです。成人してからドフトエフスキーは金銭に関する無能ぶりを大いに発揮することになります。

 この父親のもとへの来客は少なく、他の家族との交流はほとんどありませんでした。そのうえ、14歳で寄宿学校にはいるまで、教育は家庭内でおこなわれました。初等教育は聖書物語などをもちいた母親による読み書きの授業で始まり、その後、家庭教師によって引き継がれました。ただし、ラテン語教育だけは父親によってなされました。こうした教育環境の中、当然、級友もいませんから、ドストエフスキーは兄弟以外の同年輩の子どもと遊ぶ機会がほとんどなかったようです。

 実際、幼年時代を回顧した「作家の日記」の文章に現れるのは、同年代の子どもではなく、父親の所有する地所で出会った無知ながら宗教心に富み心優しかった農奴です(作家の日記 1976年2月 2 百姓マレイ米川正夫訳)。「狼がくる」と脅える幼いドストエフスキーに対し、農奴のマレイが「なにをいうのだね、なにを?どこに狼がいるもんかね、そら耳だよ、ほんに!」と励ましてくれたというのです。百姓外套にしがみつくドストエフキーの頬を撫でて「さあ、キリストさまがついてござらっしゃる。十字切るだよ」とマレイが優しく諭してくれたことが「作家の日記」の中で印象深く回顧されています。

 14歳の年、ドストエフスキーは名高い教授陣が名を連ねる名門寄宿学校に入学します。そして、母親が死んだ16歳の年、ペテルブルグの寄宿学校に移り、翌年、工兵学校の試験に合格、22歳の年まで工兵学校の寮で過ごします。ただし、シラーをはじめとするロマン派西欧文学に耽溺し「人間は謎です。それを説きあかさねばなりません」と兄に書き送っていた文学少年は、工兵学校にとって相当場違いな生徒だったようです。

作家デビュー


 22歳で工兵学校を卒業し、少尉に任官、製図局で働くようになります。父親の残した領地からの収入と製図局の給料を足すと、年収は5000ルーブルにのぼり、充分豊かな生活ができる収入が保証されていました(江川卓氏の試算よると当時のロシアの1ルーブルは現在の日本の1000円前後に相当し、したがって、当時のドフトエフスキーには500万円の年収があったことになります(江川卓 謎とき『白痴』新潮選書))。

ところが、ここで、ドストエフスキーは経済観念のなさを露呈、それは、この後、長年にわたって、彼を苦しめることになります。ばくちで金をすってしまう一方で、得体の知れない人間たちにかもにされ、瞬く間に高利貸しから多額の借金をする羽目に陥ります。そして、何ヶ月も文無しで過ごす生活を余儀なくされました。それでいながら、製図局勤務に辟易し、一年で退職してしまいます。文学に専念したい一心の行動でした。しかし、かといって、文学で身を立てられる見込みがあったわけではありません。

ただ一つの希望は、ゴーゴリの小説にヒントを得た貧しい官僚と薄幸の少女との交流を描いた小説「貧しき人々」でした。推敲に推敲を重ねた小説は、24歳の年に完成します。ドストエフスキーは詩人ネクラーソフのもとにその草稿をもちこみました。そして、この小説を読んで熱狂したネクラーソフが当時の指導的文芸評論家ベリンスキーに「貧しき人々」を紹介します。ベリンスキーはドストエフスキーの処女小説に最大級の讃辞を送ります。「芸術家としてのあなたに対して真実がひらかれ、高らかに告げられたのです…….どうかその天賦の才を重んじ、つねにそれに忠実であってください。そうすればあなたは大作家になるでしょう」とドストエフスキーに熱狂的に語って、ベリンスキーはこの小説を激賞しました。

ペトラシェーフスキー事件


 このようにして、ドストエフスキーは作家として華々しいデビューを飾ります。しかし、指導的評論家に派手にもち上げられ有頂天になったのもつかの間、ネクラーソフやツルゲーネフたちにその天狗ぶりを揶揄され、ベリンスキーの文学サークル内でドストエフスキーはしだいに孤立していきました。その上、勢い込んで書いた第2作「分身」をベリンスキーに冗長とけなされ、猜疑心を募らせます。結局、一年ほどでベリンスキー、ネクラーソフらと袂を分かち、なんども前借りを頼み込んでいたクラエフスキーが運営している「祖国雑誌」に「白夜」などの小説を発表することになります。そして、その一方で、若い外務省官吏ペトラシェーフスキーが主宰するサークルにも出入りするようになりました。

 ペトラシェーフスキーの家には毎週金曜日に社会主義者が集まっていました。社会主義といっても、このサークルの人々が信奉していたのはフランスのフーリエが提唱した空想的(ユートピア的)社会主義で「この上もなく明るい、天国のように道徳的な光を帯びたもの」でした(「作家の日記」16 現代的欺瞞の一つ 米川正夫訳)。この社会主義は「キリスト教と同一視されて、単に時代と文明に応じて訂正され、改良されたものにほかな」らず、「この上もなく神聖な道徳的なものと思われたばかりか、何よりも一般人類的なもの、例外なく全人類のために与えられた未来の掟」と考えられていたのです。ロマンチックな人道主義的小説「貧しき人々」を書いたドストエフスキーが、そのような社会主義に心を傾けていったのは自然のことでした。

 しかし、専制政治によって硬直化した当時のロシアにおいて社会主義の理想を実現することはどうみても不可能でした。その閉塞状況を打ち破ろうとすると、最終的には暴力革命しかないということになります。しかし、ペトラシェーフスキーは平和的な宣伝活動によって大衆に影響を及ぼしていくことでこと足れりと考えており、暴力による変革など夢にも考えていませんでした。ドストエフスキーはしだいにそうした生ぬるい態度に不満を感じるようになったようです。ペトラシェーフスキー・サークルの急進派であるドゥーロフたちのグループに引き寄せられていったのです。

 ドゥーロフ・グループの中心人物はのちにドストエフスキーの小説「悪霊」の主人公スタヴローギンのモデルになったとされるスペシネフでした。裕福な家庭に育ったスペシネフは70歳の伯爵老夫人でさえ彼に恋したというほどの美青年で、マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」に影響を受け、原始キリスト教に範をとった秘密結社結成を夢見ていました。ドゥーロフたちの目標は民衆の反乱を準備することでした。そして、その手始めとして秘密印刷所建設を開始します。これは、秘密警察を使ってまで体制護持に狂奔していた当時の専制ロシアにあっては、死刑を免れない、危険な企みでした。このため、ドゥーロフ・グループの入会規約には秘密保持のために「裏切りには死を」という条項さえ入れられていました。

 ペトラシェーフスキーの集会には当局のスパイとしてアントネルリという男が潜入していました。ある時、この政府の密偵はドストエフスキーが朗読したベリンスキーの手紙にペトラシェーフスキーのサークルの面々が熱狂する場面を目撃します。ドストエフスキーが「ロシア国民には宗教はない」と読み進んだところで、割れるような拍手が起きたのです。このときドストエフスキーが朗読した手紙というのは宗教に回帰しようとするゴーゴリをベリンスキーが非難したもので、当局からみれば「ロシア正教に対する不適な表現に充ちて」いました。そして、その一週間後、1849年4月23日未明、ペトラシェーフスキーのサロンに出入りしていたドストエフスキーたち34名が逮捕され、ペトロパヴロフスク要塞に収容されます。最終的に23名が起訴され、ドストエフスキーもその中に入っていました。ドストエフスキーの罪状は「悪逆なる企画に参加し、ロシア正教と最高政権に対して不適なる表現に充ちたる、文学者ベリンスキーの書簡を普及し、多くの同士とともに手刷器械の方法によりて、反政府的文書の頒布を企てた」ことでした。

処刑劇


 1849年12月22日、ドストエフスキーたちはペトロパヴロフスク要塞から死刑台の待つ処刑場に連れ出されます。

 「今日、12月22日、ぼくらはセミョーノフスキイ連隊の練兵場へ引かれていきました。そこで僕ら一同は死刑の宣告を読み上げられ、十字架に接吻させられ、頭の上で剣が折られ、ぼくらは死装束(白いシャツ)を着せられました。それから、3人のものが刑の執行のため、柱のそばに立たされました。3人ずつ呼びだされるのですから、したがってぼくは2番目の番にあたっており、余命一分以上もなかったわけです。兄さん、ぼくはあなたをはじめ、あなたの家族全部を思い起こしました。が、最後の瞬間はあなただけ、ただあなた1人だけがぼくの心に残りました。その時はじめて、なつかしい兄さん、ぼくがどんなにあなたを愛しているかを思い知りました!それからなお、そばにいたプレシュチェーエフとドゥーロフを抱きしめて、告別する暇がありました。

 とどのつまり、退却命令の太鼓が鳴ったと思うと、柱に縛り付けられた連中が連れ戻されて、皇帝陛下がわれわれに生命を与えてくださる旨が読み上げられました。それから本当の宣告が下ったわけです。(1849年12月12日、兄ミハイルへの手紙)」

 「本当の宣告」は、死刑ではなく、シベリアへの流刑でした。死刑から流刑に減刑されたのはドゥーロフ・グループの計画の全貌が漏洩しなかったおかげでした。しかし、最初に柱に縛り付けられ兵士たちに銃を突きつけられた三人のうち一人は「退却命令の太鼓」の合図も間に合わず、発狂しました。

 20年後、ドストエフスキーは小説「白痴」でこの場面を再現しています。

 この男はあるとき他の数名のものと一緒に処刑台にのぼらされました、国事犯のかどで銃殺刑の宣告を読み上げられたのです。ところが、それから20分ばかりたって特赦の勅令が読み上げられ、罪一等を減じられました。けれど、この二つの宣告のあいだの20分、少なくとも15分というもの、その人は自分が幾分かののちにはぽかりと死んでしまうものと信じて疑わなかったのです…….その人は…….この数分かの出来事はけっしてけっして忘れはしない、といっていました。群衆や兵隊に取りまかれた処刑台から、二十歩ばかり離れたところに、柱が三本立ててあったそうです…….まず三人のものを引っ張っていって柱へしばりつけ、死刑服を着せ、それから銃の見えないように、白い頭巾を目の上までかぶせました。次ぎにおのおのの柱の前に数人ずつの兵士が整列しました。ぼくの知人は八番目に立っていましたから、したがって三度目に柱の方へ呼び出されることになっていたわけです。一人の僧が十字架を手にしてひとりひとり回って歩きました…….刑場からほど遠からぬところに教会堂があって、その金色の屋根の頂きが明らかな日光に輝いていたそうです。かれはおそろしいほど執拗にこの屋根と、屋根に反して輝く日光をながめていて、その光線から目を離すことができなかったと申します。この光線こそ自分の新しい自然である、いま幾分かたったら、何らかの方法でこの光線と融合してしまうのだ、という気持ちがしたそうです…….今にも到来すべき新しい未知の世界と、それにたいする嫌悪の念は、じつに恐ろしいものでしたけれど、当人にいわせると、このときもっと苦しかったのは、絶え間なく浮かんでくる一つの想念だったそうです、????『もし死ななかったらどうだろう?もし命を取り止めたらどうだろう?それは無限だ!しかも、その無限の時がすっかりおれのものになるんだ!そうしたら、おれは一つ一つの瞬間を百年に延ばして、一物たりともいたずらに失わないようにする。そして、おのおのの瞬間をいちいち算盤で勘定して、どんなものだって空費しやしない』この想念がしまいには激しい憤怒の情に変わって、もう片時も早く撃ち殺してもらいたい気持ちになったそうです」

 死刑執行直前の赦免、という、人を発狂に追いやるような劇のシナリオを書いたのは当時のロシア皇帝、ニコライ一世でした。皇帝自ら、死刑執行の規模、囚徒たちと司祭の服、太鼓の打ち方、監獄から刑場への通路、剣の折り方、足かせのはめかたまで細々と指示し、しかも、3度も変更しました。

 専制君主の冷酷な気まぐれは、しかし、結果的に、ベリンスキーが予言した大作家ドストエフスキーを誕生させることになります。兄の手紙の中でドストエフスキーは次のように書いています。

 「…….ぼくはきょう45分ものあいだ死と直面し…….最後の一刹那まで押しつめられたのです。ところが、今もういちど生きているのですからね!

 …….過去をふり返って見て、どれだけ時が浪費され、迷いと、過失と、安逸と、無能な生活ぶりの中に過ごされたか、自分がいかに時を貴ぶことを知らなかったか、幾たび自分の心情と精神に悖ることをしたか、そのことを考えると、われながら心臓に血のにじむ思いです。生活は天の賜物です、生活は幸福です、一つ一つの瞬間は永遠の幸福となりうるのです。Si jemesse savait ! (もし青春が知識を持っていたら)いま生活を一変するにあたって、ぼくは新しい形に生まれ変わりますよ、兄上!誓っていいますが、ぼくは希望を失いません、自分の精神と心情を純なままに保ちます。ぼくはいい方に更正します」

 死の一歩手前まで押しやられた体験と、その後の4年間の極限状態ともいうべきシベリアの監獄体験が血肉化し、巨大傑作小説群が生み出されることになります。

「ロシアの政治と宗教


 ただ、この前後のドストエフスキーの行動、心情を理解するためには19世紀のロシアについてある程度承知しておく必要があるかもしれません。

 ロシアはヨーロッパの辺境に位置します。その地理的条件が政治的にも宗教的にも文化的にもロシアをヨーロッパの僻村にしてきました。

 ヨーロッパの僻村といっても、ユーラシア大陸全体からみればロシアは辺境国家ではありません。しかし、ウラル山脈の向こうにはシベリアという不毛の寒冷大地が広がり、ロシア人が毛皮を求めて分け入るまで、文明の香りはなきに等しい状態でした。シベリアの南にはアジア文明圏がひろがっていますが、隣接する草原地帯には遊牧民が駆け回っていて、文明の香どころか、逆に、この遊牧民たちがしばしばロシアを破壊しにやってきました。13世紀、農業革命によって中世ヨーロッパが近代ヨーロッパへと抜け出すきっかけをつかんだ頃、ロシアはジンギスカンが創設したモンゴル軍団に蹂躙されます。都市を破壊され、約250年間、「タタールの軛」と呼ばれたモンゴル(キプチャク・ハーン国)の間接支配下におかれます。この間、ルネッサンスも宗教改革もロシアにとって無縁のものでした。

 もともと、ロシアには細々と焼き畑農業や牧畜を営むスラブ民族が点々と群れをなしていただけでした。そこへ、9世紀にスカンジナビア半島からノルマン人がやってきて、従来から居住していたスラブ民族の支配者となります。このノルマン人というのは、武装した船で川を遡ってきたというのですから、おそらくヴァイキングの類でしょう。ちなみに、ロシアという言葉はノルマン人を意味するルースというギリシャ語から派生したものです。

 当然ながら、このヴァイキングあがりの支配者と従来からの居住民との間に共通の文化的基盤はありませんでした。スラブ人と支配者を結びつけるものは何もなかったのです。国家が形成された時点では、支配者の軍事力と住民からの収奪がかろうじて国家を形成させていたにすぎません。「剣にまさる法はなかった」のです。

 この誕生時の国家構造がロシアという国を運命づけました。強権体質の支配階級と、内心はともかく、無言でそれに従う無数の農民。この2層構造は近代社会誕生に必須な階層間の流動性、中間階級の誕生を阻害し、ロシアを近代化に不向きな国家へと硬直化させました。

 圧倒的多数の農民にたいし支配層は力と宗教的権威づけで対応するしかありませんでした。そして、モンゴル支配がロシアのそうした強権政治体制をさらに強固にしました。モンゴルからの独立という旗印の下、絶対的権力が許容されたからです。それに、モンゴルの支配機構そのものもロシアを専制政治体制に傾斜させる要因となったかもしれません。

 9世紀頃ロシアにいくつかの小国家が形成されはじめたときには、ロシアの森林地帯から草原地帯(ステップ)に抜け出る位置にあるドニエプル川沿いの交通の要所、ウクライナのキエフが栄えていました。しかし、その後、内紛などでキエフは衰え、独立の機運が盛り上がったころにはモスクワ公国が優勢となって、その力によって15世紀にモンゴルの支配を脱します。

 しかし、モスクワ公国が主導権を握った当時のロシアは、その後のロシアからは想像もつかないほどの小国でした。ポーランドやスウェーデンといった当時の「大国」にその存在を左右されかねない状態だったのです。そうした弱小国家が巨大国家への道を歩み始めたのは16世紀初頭、イワン三世の時代といわれています。そして、その後、ロシア帝国は20世紀初頭の滅亡のときまで絶え間なく武力によって周辺地域を征服し、膨張していきます。このこともまた、ロシアで専制政治が継続する要因になりました。新たに獲得した領地の居住民を支配するにあたって強圧的専制政治は「便利」で「効率的」な制度だったからです。当然、ロシア専制政治のもとでは、国家創成時同様、支配者と新たな被支配者の間には国民としての共通基盤は存在しえませんでした。

 こうして、西欧諸国では中産階級が力を得て絶対王政から立憲君主制、民主制へと移行していった時代に、ヨーロッパの僻村、ロシアでは、専制君主、皇帝(ツァーリ)1人に権力が集中していきました。国家の発展がツァーリの領土と権力の拡大を意味するという奇妙でいびつな国家体制が20世紀初頭まで続いたのです。

 しかし、この専制君主の立場は、ときとして、きわめて危ういものになりかねませんでした。貴族階級に操られたり、暗殺されたりする危険性があったのです。集中する絶対権力と、疑心暗鬼、これがロシア専制君主の属性となります。そのためでしょう、この専制国家においては、傑出した能力を有するツァーリでも、どこかしら奇怪な面をさらけだすことがありました。

 貴族を押さえ、ロシアの統一を確固たるものとし、ヨーロッパへの窓口を開いたと謳われるイワン雷帝は、ペルシャから送られてきた象がツァーリたる自分の前で跪かなかったことに激怒、即座に象を殺させました。西ヨーロッパ文明を取り入れ、神政的専制国家ロシアを近代化させようと努めた多芸の持ち主ピョートル大帝は、ブールハーフェの外科教室において解剖を見学したさい、屍体が切り刻まれる光景に胸をむかつかせている側近貴族たちに、屍体の腱をかみ切ってくるように命令しています(「ロシア」ロバート・ウォーレス著、タイムライフ ブック)。かれの機嫌を損ねて、鼻に釘抜きを突っ込まれ、鼻の穴を引き裂かれた人間もいます。超一流の文筆家で、「啓蒙主義者」を自称し、ヴォルテールやグリムと文通していたエカチェリーナ女帝は、夫ピョートル三世暗殺の黒幕ではないかとの噂が絶えませんでした。夫の死後、エカチェリーナは独身を通しましたが、その間、ポチョムキンをはじめとして12人の情夫をとっかえひっかえし、それは60歳を過ぎても止みませんでした。11番目の情夫の妻は、ちょっとした失言で女帝の不興を買い、夫の前で裸にされ、むち打たれています。

 一方、ロシア近代化の巨大な壁となって立ちはだかった農奴制も「有能な」専制君主のもとで促進されることになりました。農民を土地に縛り付ける奴隷的強制労働は古代から中世にかけて、さまざまな国に存在していたようです。しかし、近代にはいると、ほとんどの国ではなくなっていきました。ところが、農業労働力が圧倒的に足らなかったロシアでは、土地に農民を縛り付けておくことが農業生産にとって必須条件であったため、奴隷的農民、農奴が17世紀に入って逆に増加しました。

 農奴制が完全にロシアに根を下ろしてしまうきっかけをつくったのは、皮肉なことに、ロシアの近代化を強引に推し進めようとしたピョートル大帝でした。かれは人頭税と兵役の義務化を制定しましたが、その際、義務化と引き替えに、領主の農奴に対する法的権利の強化を認めてしまったのです。このため、農奴は人頭税の財源として土地に縛り付けられ、売り買いの対象になってしまいました。さらに、「啓蒙君主」エカチェリーナの治世は「貴族には天国、農民には地獄」をもたらしたと評されています。貴族の特権をふやし、領主の権限を強め、農奴の権利を奪ったのです。きっかけは在位11年目に起きたロシア史上最大の農奴の反乱「ブガチョフの乱」でした。この反乱をうけて、エカチェリーナは「改革」に着手します。地方の治安維持のために、行政、司法、警察権をすべて地方の貴族(地主)に一任することにしたのです。この結果、領主は殺すこと以外なら農奴になにをしてもいいということになりました。こうして、農奴は完全な奴隷状態におかれたのです。その悲惨な状況を報告した「ロシア解放思想の父」ラジーシチェフはシベリアに追放されました。

 このように、ロシア近代化の父と啓蒙君主の母の元で、農奴制は「完成」され、ロシアという国家は近代化と逆行する社会構造へと硬直化していったのです。

暴力革命


 西欧の文明を取り入れてロシアを近代化させるにあたって、ピョートルは2つの方策を用いました。一つは、オランダ、フランスなどヨーロッパ「先進国」の人間をロシアに連れてくることです。これは、手っ取り早い効果が期待できますし、好条件につられ、西欧からさまざまな技術を携えた人間がロシアに移住、サンクトペテルブルクやモスクワには外国人街ができました。もう一つの近代化策は、ロシア人自身、とくに 若いロシア人にヨーロッパ文明の技術を学ばせることでした。多くの貴族の子弟が西欧文明を学び、フランス語は公用語に近いものとさえなりました。しかし、そうした西欧文明は上層階級に共有されただけで、食べるだけで精一杯の大多数の農奴にとってはあずかり知らぬものでした。こうして、キリスト教を別にすると、二つの階層の文化的基盤はさらに引き裂かれることなりました。

 さらに、先進的な西欧文明に学んだ貴族の子弟たちの間で、専制国家ロシアにとって不都合な考えも芽生えてきました。

 ピョートルはロシアの若者がヨーロッパ文明の技術面のみを習得してくれることを期待していたはずです。しかし、事はそんなに都合よく運びませんでした。若者の多くは、近代化技術を学ぶ過程において、必然的に近代西欧思想にも触れ、そうした思想から自国を見つめ直すようになったのです。その結果、西欧諸国の自由主義に触れた一部の若者たちは、専制政治に変革を求めるようになります。しかし、それに対し、ロシア政府は強圧的な弾圧でのぞみました。そのことが、正義感に燃える若者たちの怒りにさらに油を注ぎ、暴発を引き起こしました。

 その最初の例が、1825年12月14日、皇帝アレキサンドル一世の急逝直後におきたデカブリスト(12月党員)事件です。事件を主導したのはロシア軍の将校たちで、そのほとんどが貴族の子弟でした。かれらはナポレオンを追撃してパリに入った際、革命によって絶対王政の軛を脱し、自由を謳歌するパリ市民を目の当たりにしました。そして、自由を扼殺している自国の専制政治と引き比べ慄然とします。帰国後、かれらは専制政治打倒、立憲君主制樹立、農奴解放を目指した秘密結社を結成、アレキサンドル一世の急逝によって生じた政治的空白を狙って、軍事的クーデターを企てます。しかし、この試みは失敗に終わり、クーデターを主導したペステリ以下5名が死刑、100名以上がシベリア流刑などの刑に処せられました。シベリア流刑になったデカブリストの妻たちの一部は夫を追うようにして流刑地で居住することを決心します。ロシア専制体制打倒を希求する人々にとってデカブリストとその妻たちは殉教者的存在となりました。

 デカブリスト事件後、激しい反動の嵐が襲います。

 アレキサンドル一世のあと皇帝となったニコライ一世は、勤勉で有能な人物でした。しかし、自らの皇帝就任に際してクーデターを経験したこの専制君主は、厳重な検閲制度と監視制度によって国民の思想を強圧的に統一しようとしました。皇帝直属の政治警察、第3部を創設、危険人物、危険集団を監視させたのです。

 そのような状況にあって、政治的発言を封じられた誠実な若者たちに残された道は文学でした。ドストエフスキーを激賞したベリンスキーもモスクワ大学在学中に発表したドラマが専制政治批判と指弾されて大学中退のやむなきにいたり、唯一の発言の道を文芸批評にみつけた社会主義者でした。ベリンスキーのあとにはチェルヌイシェーフスキイ、ドヴロリュウボフ、ピイサレフといった苦行僧のような著述家が続きます。一方、プーシキンを筆頭とする詩人や小説家など文学者たちも、先進西欧諸国からの最新思想によって心に描いたあるべき祖国の姿と専政政治によって窒息寸前の前近代的自国の狭間にあって絶望するしかありませんでした。かれらの作品はその絶望を吐露したものというみかたもできます。共通の文化基盤を持たない支配階級と農民(農奴)階級にはさまれ、のたうち回る文学者たち知識人はインテリゲンツィアと呼ばれるようになりました。ドストエフスキーもその一人で、かれの文学はこうした異様な環境の中から生まれでました。整然として、一見、穏健とも見えるツルゲーネフやトルストイの小説も例外ではありません。アナーキスト的絶望がその底に秘められていて、その叫びとでもいうべきものが、世界中を驚かせた傑作群に結実したのです。

 しかし、1870年代にはいると、言論だけではなにも変わらない現状に飽き足らなくなった若者たちが行動を求めて農村に向かいます。「人民の中に(ナロードニキ)」と呼ばれる運動です。しかし、前にも申しましたように、知識人階級の若者と農民の間には教養、宗教、思想の面において埋めることのできない断絶がありました。かんじんの農民の理解が得られず、挫折します。

 残された方法は実力行使による体制変革でした。皇帝独裁体制を手っ取り早く打ち倒す方法は明らかです。皇帝を抹殺すればいいのです。絶対的権力を握っている頂点が消失すれば、「上部構造」はもろくも崩れ去るでしょう。こうして、列車爆発、冬宮食堂爆破など、執拗に、何度も、皇帝暗殺が企てられましたが、ことごとく失敗に終わりました。しかし、10回以上失敗を繰り返した後、1881年3月1日、ついに、アレキサンドル2世が自爆テロによって暗殺されます。

 しかし、皇帝暗殺によっても専制政治は消滅しませんでした。それどころか、デカブリスト事件後同様、当局の激しい締め付けが始まります。しかし、それにもかかわらず、革命の試みはあとを絶ちませんでした。そして、ご存じのように、第一次世界大戦のさなか、レーニンたちが主導した共産党革命によってロシア帝国は最終的に消滅します。

ロシア正教


 19世紀ロシアとドストエフスキーについて考える場合、もうひとつ、宗教のことも考えておく必要があります。

 ロシアではキリスト教が専制政治を支える主柱の一つでした。ただし、キリスト教といっても、ロシア人が信奉してきたのは、西欧諸国にひろまっていたカトリックではありませんし、ましてや、プロテスタントでもありません。10世紀末にキエフ・ロシアのウラジーミル大公が洗礼を受けて以来、ロシアのキリスト教はビザンツ帝国の流れをくむ東方正教会でした。

 15世紀、モスクワ公国をはじめとするロシア諸国がモンゴルによるタタールの軛から自らを解き放って独立した頃、ビザンツ帝国が崩壊します。モスクワ大公、イワン3世は最後のビザンツ皇帝の姪を妻に迎え、一方、オスマントルコから逃げ出した東方正教会の聖職者たちが、同一宗派ということでロシアにながれこみ、国家の保護のもとにおかれました。その後、モスクワはローマ、コンスタンチノープルにつぐ「第3のローマ」だと主張する聖職者が出現、モスクワ公国の王はツァーリ(Czar (古代ローマ皇帝Caesarに由来))を自称するようになります。

 しかし、「国家宗教」ロシア正教会は御用宗教としての権力、財力は与えられていましたが、逆にそのせいもあって、保守的で、自己変革能力に欠けていました。人々の尊崇を集める宗教家を輩出することはありましたが、フランチェスコ、ルター、ザビエル、あるいは、日本でいうと、一遍、親鸞、明恵といった革新的な宗教家を生み出す力をほとんどもち合わせていませんでした。

 唯一、17世紀半ばに総主教になったニコンが、制度改革を行おうとしましたが、聖職者や民衆の頑強な抵抗にあいます。そのうえ、ニコンは総主教の地位を皇帝よりも上位におこうとして、皇帝に総主教の座をとりあげられ、改革は挫折します。ただし、ニコンの制度改革による儀式上の変更はある程度継続されました。

 ロシア正教では、ビザンツ伝来の神々しい宗教儀式が信者に神を体感させ、儀式が信仰そのものという一面がありました。事実、ウラジーミル大公がカトリックやイスラムではなくビザンツの東方正教会を信仰するようになったきっかけも、キリスト教やイスラム教の調査に向かった使者がビザンツの荘厳な宗教儀式に感銘をうけて、大公にギリシャ正教の採用を勧告したせいといわれています。このため、農民やコサックらの下層民や一部の聖職者は儀式上の変革の継続に憤激、その中から分離派(ラスコールニキ)(別名、古儀式派)がうまれます。激しい弾圧にも屈せずラスコールニキは、自らをむち打つ鞭身派、去勢術を施す去勢派といったような極端な戒律の分派までも生みだしながら、その後何百年にもわたってロシア国内でさまざまな抵抗を続けます。ドストエフスキーが「罪と罰」の反社会的主人公に分離派をもじってラスコオルニコフの名前をつけていることはよく知られています。この分離派による「反宗教改革」がロシア宗教史上の唯一の光明といえるかもしれません。しかし、乱暴な言い方をすれば、表面上、ロシアは「神と同等の」皇帝のもと、宗教によって多大な恩恵を被っている御用聖職者、「無知蒙昧で信心深い」圧倒的多数の下層民で埋め尽くされていたことになります。この宗教的不毛地帯において「無神論」が19世紀ロシアの心ある知識人に侵食したのも無理からぬことでした。

ベリンスキーと無神論


 ドストエフスキーの出世作「貧しき人々」を激賞したベリンスキーからして、無神論者の筆頭でした。前に触れたように、ベリンスキーは専制君主制と農奴制からなるロシア社会の変革を熱望する社会主義者でした。しかし、デカブリスト事件後、官警の厳しい監視のもとでその真情を吐露するには文芸批評しか道がないというそれだけの理由で批評家の道を選んだ人でした。ベリンスキーはマルクスたちの「われらはまず第1に無神論的団体である」というインターナショナルの宣言を字句通り受け入れ、ドストエフスキーにはじめてあったときも「いきなり無神論から話をはじめ」ました。ベリンスキーは「一切の根底が精神的要素であるということを知っていた…….しかし、一個の社会主義者として、何よりもまっさきにキリスト教をその台座から引きずり落とさねばならなかった。革命が必ず無神論から始まらなければないのを知っていた」のです。また、あるとき、ドスエフスキーに向かってベリンスキーは「社会がこんなにも陋劣な組織になっていて、どうしても悪事をはたらかざるを得ないようになっているのに、経済的にいって、悪事にまきこまざるをえないのに、人間の罪悪を数えたてて、さまざまな義務を負わしたり、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、などと要求するのは不可能です」と主張したそうです。

 そして、同席していた友人にむかってベリンスキーは「ぼくはこの人をみると、涙ぐましい気がするくらいなんですよ」と揶揄するかのようにドストエルスキーを評したそうです。「いつもぼくがこんなふうにキリストの名を口にするたびに、この人は顔色をすっかり変えて、まるで泣き出さないばかりなんですからね」

ドストエフスキーの改心


 以上は、ドストエフスキーが1873年に当時を回顧して書いたものの引用です(「昔の人々 作家の日記1873年、 米川正夫訳」)。ベリンスキーと袂を分かったものの、当時の知識人同様、ドストエフスキーも「神を捨て」ます。

 しかし、この文章のあとには、シベリア流刑の途上においてナターリャ・フォンヴィージン夫人から福音書を贈られたという記述が続きます。フォンヴィージン夫人はデカブリストの一員としてシベリア流刑の身となった夫に付き従って25年間シベリアで過ごした女性で、その福音書はシベリアのオムスク要塞の獄中でドストエフスキーが唯一読むことを許される本となりました。当然、ドストエフスキーは聖書を隅から隅まで何度も読み返しました。このフォンヴィージン夫人にドストエフスキーは出獄後、手紙を書いています。

 「…….自分の苦しみ抜いたもの、堪え忍んだもの、人から奪われたものを掛けて見て、本当の重みを知るのです…….そうした瞬間には『枯れかかった葉』のように、信仰を渇望し、かつそれを見いだすものです。それはつまり、不幸の中にこそ真理が顕れるからです…….わたしは世紀の子です…….不信と懐疑の子です…….(しかし)神様は時として、完全に平安な瞬間を授けてくださいます。そういう時、わたしは自分でも愛しますし、人にも愛されているのを発見します…….もしもだれかがわたしに向かって、キリストは真理の外にあることを証明し、また実際に真理がキリストの外にあったとしても、わたしはむしろ真理よりもキリストとともにあることを望むでしょう」

 「死の家の記録」の中で主人公は自分の過去を徹底的に見直したと語っています。これは、シベリアの監獄でのドストエフスキーの生活をそのまま反映しているものと推測されます。死の手前にまで行った処刑劇とシベリアの監獄体験をきっかけとして、ドストエフスキーは正義実現のためには手段を選ばないという、デカブリストに始まってロシア革命にまで延々とつながっていく流れの危険性を徐々に認識するようになります。それは「男たちや女たちに、別の男や女たちのことを神だの蛇蝎だのとみなすよう、そそのかす」(イーグルトン著大橋洋一訳「イデオロギーとは何か」 平凡社ライブラリー)正義主義(イデオロギー)が有する危険性の認識だったのでしょう。「人間が何らかの重大な理由で争い殺しあうとき、たとえばその理由というのが生存そのものにかかわるものであれば、それは理解できないわけではない。ところが人間が、どういう筋道をへて、観念などという、どうみても抽象的なものの名において争い殺し合うようになるのか、これを理解するのはかなり難しい」とイーグルトンは書いています。しかし「観念とは、男たちや女たちが、それなくしては生きられないもの、時には、そのために命をかけるもの」です。実際、ドストエフキー自身、あの処刑劇において死刑宣告に臨んでも「われわれが告発される原因になった事柄、われわれの精神を支配していた思想や観念は、悔悟を要しないものと思われたのみならず、むしろなにか自分たちを浄化する殉教的なもののように感じ」られたと回想しています(「作家の日記」16 現代的欺瞞の一つ 米川正夫訳)。「その気持ちは長く続」き、「流刑の幾年間も、苦痛も、われわれの意志を砕きはしなかった」というのです。

 しかし「なにかしらある別のものがわれわれの見解、われわれの信念、われわれの心情を一変させ」ます。この「あるもの」というのは「民衆との端的な接触」「共通の不幸の中における彼らとの同胞としての結合」だったとドストエフスキーは説明しています。「国民的根本へ復帰し、ロシアの魂を認識し、国民精神を悟」ったというのです。ロシアの魂を語りながら、ドストエフスキーは少年時代の父の地所で出会った心優しい農奴を思い出していたのかもしれません。あるいは、シベリア流刑中に出会った「神の横に座すべき」心美しい犯罪者たちのことを思い浮かべていたのかもしれません。

 しかし、かれのこの説明にはいまひとつ曖昧なところもあります。そのように述べながら、あとになって「わたしの信念の更正の歴史を語ることは、はなはだ困難である」と述懐しているからです。出獄後、ドストエフスキーは3回、ドイツ、フランス、イギリス、スイス、イタリアなど「先進的」西欧諸国を見て回り、どうやら、相当に失望したようです。産業革命を成し遂げた西欧式合理主義は人類を破滅に追いやるかもしれない、むしろ、無垢なロシアこそが人類を救うのだと後年かれは主張するようになります。しかし、そこに至る過程は、彼自身にとっても、曰くいいがたいものだったようです。

 いずれにしろ、社会正義実現のために文字通り命をかけ、死の淵をのぞき込みながら生還したのち、ドストエフスキーは多種雑多な「犯罪者」が交錯する牢獄を体験し、徐々に正義主義の不毛性を認識するようになります。そして「キリストの名を口にするたびに、顔色をすっかり変えて、まるで泣き出さないばかり」だったドストエフスキーは、キリストに回帰し、最後は「カラマーゾフの兄弟」の高みへと到達します。


シベリア以降


 受刑者たちがひしめく劣悪な環境のオムスク監獄でドストエフスキーはプライベートな時間を完全に奪われて4年間を過ごしました。受刑者の中にはもちろん箸にも棒にもかからぬ極悪非道な人間もいましたが、一方では、殺人、強盗などの罪で受刑しているにもかかわらず、勇気、寛容、思いやりに満ちた「神の隣の座を占めてもおかしくない」人間が少なからずいました。世の常識的な道徳律を適用し得ない世界があることをドストエフスキーは身をもって体験しました。そして、そうした「善悪の彼岸」が監獄外の世界にもありえることを後に小説で表現することになります。

 1854年2月15日、33歳の年、ドストエフスキーは出獄し、第七シベリア歩兵大隊に配属され、キルギス平原に近い人口5千の街セミパラチンスクで一兵士として兵役に服すことになります。待ちに待った、解放の日でした。死刑を免れた感激の中で「どれだけ時が浪費され、迷いと、過失と、安逸と、無能な生活ぶりの中に過ごされたか、自分がいかに時を貴ぶことを知らなかったか、幾たび自分の心情と精神に悖ることをしたか、そのことを考えると、われながら心臓に血のにじむ思いです」と兄に書き送ったドストエフスキーです、「ひとときも時間を無駄にしまい」と誓っていたに違いありません。まだ兵役が残っていたので、文学に没頭できる環境にはありませんでしたが、それでも、創造意欲は燃えさかっていたはずです。すぐに傑作小説が生まれでてもおかしくありませんでした。

 しかし、事はそううまく運びませんでした。

 エパンチン将軍夫人と3人の姉妹の前で銃殺刑が直前になって免除になった例の男の話をムイシュキン公爵がする「白痴」の1場面で、長女のアレキサンドラが「そのかたは減刑になったのでしょう、つまり、その『無限の生活』を恵まれたのでしょう。で、それから後、その莫大な富をどうなさったのでしょう」と尋ねるところがあります。これに対し、ムイシュキンは「まるっきり違った生活をして、多くの瞬間を空費したそうです」とあっけらかんと答えています。ドストエフスキーも同様に、出獄後しばらく「多くの瞬間を空費」することになります。

最初の妻マリア


 多くの瞬間を空費することになった最初の原因は、マリヤ・ドミートリエヴナという名の人妻でした。ドストエフスキーの友人だったセミパラチンスク地区検事ヴランゲリ男爵によれば、マリアは「中背のちょっとかわいいブロンドで、とても痩せており、情熱的で興奮しやす」い女性でした。夫のイサーエフはアルコール中毒で、マリアは不幸な結婚生活を送っていました。同情心もあったのでしょう、逆上したかのようにドストエスキーはマリアに入れ込んでしまいます。マリアのほうは、どうやら、さほどのぼせてはいなかったようですが、そんなことはおかまいなしに、ドストエフスキーはマリアの息子の家庭教師をかってでて、イサーエフ家に一日中入り浸るようになります。やがて、イサーエフはセミパラチンスクから600キロも離れたクズネーツクに職をみつけ、一家は引っ越すことになります。マリアに会えなくなると知ったドストエフスキーは気が動転、絶望のどん底に落ちこみます。つねにドストエフスキーへの援助を惜しまなかったヴランケリは、イサーエフ一家が旅立つ日、とびきり上等のシャンペンをイサーエフにふるまって前後不覚になるまで酔わせ、不倫の恋人たちに別れの舞台をつくってやりました。

 まもなく、イサーエフは酒がもとで死にます。チャンス到来とドストエフキーは心躍らせます。ところが、マリアからは年若い教師に求愛されているという神経を逆なでするような手紙が届き、ドストエフスキーは再び半狂乱に陥ります。ヴランゲリたちに頼み込んで、マリアへの年金が国庫から早く出るよう斡旋してもらい、マリアの息子、パーヴェルが士官候補隊に特待生として入隊できるように手配します。うまい具合に、ちょうどこの頃、ヴランゲリたちの運動が功を奏して、ドストエフスキーは一兵卒から将校待遇に昇進します。こうしたことが効いたのかどうか、よくはわかりませんが、ともかくも、マリアの心はドストエフスキーに傾き、1856年2月6日、二人は結婚します。

 しかし、マリアにとって、この結婚はどうやらあまり気乗りのしないものだったようです。結婚直後、ドストエフスキーがてんかん発作を起こしたこともあってか、新婚早々、マリアの気持ちはドストエフスキーを離れていきました。ドストエフスキーも同じでした。「情熱が反省に変わり、反省が幻滅に変わって(E.H.カー)」いきました。マリアはイサーエフとの間にパーヴェルを生んでいますし、ドストエフスキーも2番目の妻との間にはたくさんの子どもを授かっています。しかし、マリアとドストエフスキーの間には子供は生まれませんでした。やがて、結婚前から罹患していたマリアの結核が悪化、マリアは臥床生活を余儀なくされます。こうして、マリアが死ぬ日まで、不幸な結婚生活が続くことになります。


雑誌「時代」


 しかし、ともかくも家庭を持つことである程度の落ち着きを取り戻したドストエフスキーは執筆活動を再開します。まずは、中編小説「スチェパンチコヴォ村とその住人」「叔父様の夢」を発表しましたが、この2編はドストエフスキー自身にとっても意に満たない不満な出来だったようです。実際、世評もさほどのことはありませんでした。しかし、皇帝に嘆願書まで書き、ついに、待ちのぞんでいたペテルブルグへの帰還が実現すると、オムスク監獄出獄直後から書きためていたノートに基づいて「死の家の記録」の執筆を開始します。当初「死の家の記録」は「ロシア世界」誌で連載が開始されましたが、のちに、兄ミハイルとはじめた雑誌「時代(ヴレミャ)」に転載され、成功を収めます。オムスク監獄の徒刑囚の生活を淡々とつづったもので、ドストエフスキーを否定的にみていたトルストイもこの作品だけは絶賛、ツルゲーネフに至ってはドストエフスキーをダンテに比肩するほどの称えようでした。

 雑誌「時代」は、文学への思いを断ち切れずにいた兄のミハイルが、弟の執筆活動再開にあわせ、煙草工場の事業をなげうって創刊した雑誌でした。ミハイルが雑誌を運営し、ドストエフスキーが編集長の役目を引きうけました。「死の家の記録」以外にもドストエフスキーは「虐げられし人々」を連載、さらに、文学評論、政治評論も執筆し、雑誌寄稿者との交渉にも当たりました。ドストエフスキーの働きが功を奏したのか、「時代」はうなぎ登りに部数を増やし、経費を差し引いても毎号、相当な黒字を残すようになりました。

 この間、1862年6月から8月まで2か月間、40歳になったドストエフスキーはドイツ、フランス、イギリス、イタリアを回ってすごし、その年の冬「冬に記す夏の印象」という西欧旅行記も「時代」に連載しています。ただし、これら西欧諸国にあまりいい印象を受けなかったことは前にお話ししたとおりです。

 しかし、「先進的」西欧諸国に失望したのはひとりドストエフスキーだけではありませんでした。

 1840年代、ドストエフスキーがペトラシェーフスキー事件に連座した頃、フランスをはじめとする西欧諸国では革命的情熱が燃えさかり、ロシアの知識人たちにとっては憧憬の的でした。しかし、1948年、パリをはじめとして多くの国で革命が起きたものの、その後、ルイ・ナポレオンの統治に象徴されるように、さまざまな反動の嵐が押し寄せます。そうした西欧諸国の実情に幻滅したロシア知識人の一部は、180度方向を転換、ロシアそのものに価値を見出すようになります。いわゆるスラブ主義です。しかし、一方で、西欧風自由主義を以前と変わらず信奉する西欧主義も残存しました。クリミア戦争の敗北で、失意の中、厳格な専制君主ニコライ一世が亡くなり、穏健派と噂のアレキサンドル二世が皇帝に即位すると、当局の思想統制もゆるみ、農奴解放の噂が流れるようになります。ペテルブルクにドストエフスキーが戻ってきたのはちょうどその頃で、言論界はスラブ主義と西欧主義に二分され、開放感に充ちあふれ、沸き立っていました。

 そうした中、雑誌「時代」はスラブ主義、西欧主義のいずれにも与しないことを宣言します。中道路線を旗印に掲げたのです。当初、この旗印は人々に新鮮な印象を与えました。しかし、二つの政治的勢力が激しくつばぜり合いを繰り返す中での中立表明は危険です。日和見主義と蔑視され、両陣営からの攻撃の矢面に立たされかねないからです。実際、この曖昧な政治的姿勢が遠因となって、順風満帆とみえていた「時代」は突然、発行停止命令をくらってしまいます。

 発行停止の直接の原因は1863年春に起きたポーランド反乱でした。かつての大国ポーランドは18世紀後半に分割され、その大半はロシアが支配するところとなりました。しかし、昔日の栄光を知るポーランド人の間にはロシア支配への憤懣が鬱積、その怒りがいつ噴出してもおかしくない状態にありました。そうした中、1863年1月にポーランドで反乱が始まります。しかし、ロシアによる徹底的な弾圧によって、秋までに反乱は終熄しました。スラブ主義者も西欧主義者もこの微妙な問題には口をつぐみ、雑誌「時代」も慎重な態度をとっていました。

 そのような時、ストラーホフの「致命的な問題」という論説が「時代」に掲載されます。ポーランドの文学的成果を称揚し、ロシアはポーランドと鉄砲や大砲ではなく芸術を武器として戦うべきだという趣旨の論文でした。一見もっともらしい穏健な論文で、当局の検閲もなんなく通りました。ところが、発刊後、右翼雑誌からロシア文化に対するポーランド文化の優位性を主張するものだとして激しい攻撃にさらされます。そのうち、当局も、これを無視できなくなり、結局、皇帝の裁可の下、「時代」に発行停止命令が下ります。ドストエフスキーたちの弁明は却下されました。スラブ主義陣営からも西欧主義陣営からも「中立派」雑誌「時代」を擁護する意見はでませんでした。

 景品つき煙草という奇抜な商法で得た金をすべて雑誌「時代」につぎ込んでいた兄のミハイルは、全財産を失い、ドストエフスキーは定収入の道を閉ざされることになりました。

愛人


 ところが、「時代」廃刊騒ぎのさなか、ドストエフスキーは愛人と連れ立って2度目の外国旅行に旅立とうとしていました。


アポリナーリヤ(ポリーナ)・
スースロワ

 1861年、「時代」にアポリナーリヤ(ポリーナ)・スースロワという女子大生の短編が掲載されていましたが、2度目の外国旅行に同行する予定だったのは、このスースロワでした。

 スースロワの父親はもともと農奴でした。しかし、強靱な意志、人並みはずれた能力で農奴の身分を脱し、手広く企業を営むようになった相当なやり手でした。そして、築き上げた資産で娘たちに高等教育を受けさせました。そのかいあって、ポリーナの妹ナデージダはロシア史上最初の女性医師となっています。一方、姉のポリーナのほうは、妹のような栄光とは無縁でしたが、アレキサンドル二世時代の開放感に充ちた空気に鋭敏に反応し、自由奔放に生きる「新しいタイプ」の女性でした。しかも、父親からは鋼鉄のような性格を譲り受けていました。のちにポリーナと結婚したローザノフは彼女のことを「異常なまでの集中力、決断力を持つ女性」と評しています(ドリーニン編 中村健之助訳 「スースロワの日記」みすず書房)。「気性は完全にロシア女でしたが、ロシア女はロシア女でも、分離派の”無僧派”の女でした。いや”鞭身派の聖母”といった方がいいでしょう」とも書いています。ローザノフはのちにドストエフスキーの伝記も書いた文学者でしたが、結婚後数年して、男を作ったスースロワに逃げられてしまいます。復縁を哀願するローザノフにスースロワは「何千という夫があなたのような立場に立たされますが、吠えたりはしませんよ、人間は犬ではないのですからね」とすげなく答えています。

 当初、ドストエフスキーはこのスースロワと一緒にペテルブルグを出発して1863年の夏の間フランス、イタリアを旅する予定でした。しかし、妻マリアの転地療養の手配、借金の手続き、旅券更新に手間取って、その間に愛人は先にパリへ旅立ってしまいます。ドストエフスキーはポリーナに一ヶ月以上も遅れて出発しました。にもかかわらず、途中、ヴィースバーデンに立ち寄り、ルーレット賭博に4日間を費やします。ようやくパリに着いたドストエフスキーを待っていたのは「あなたは来るのが少し遅すぎた」というポリーナの言葉でした。ポリーナはパリで新たにスペイン人の恋人を作っていたのです。しかし、ドストエフスキーがパリに着いた頃、そのスペイン人の恋人はポリーナに飽きがきていたようで、病気を理由にポリーナと会おうとしなくなっていました。愛人に捨てられかかったドストエフスキーと新たな恋人に捨てられたポリーナは「兄と妹」という関係を保つことを条件にイタリアに出発します。しかし、途中、二人はまたもヴィースバーデンに立ち寄り、ルーレットで有り金すべてをまきあげられてしまいます。ミハイルをはじめとする親戚、出版社からかきあつめた借金でようやくヴィースバーデンを出立、ジュネーブ、トリノ、ジェノア、ローマ、ナポリと南欧各地を転々とします。そして、10月になってようやく二人は別れることになり、この奇怪な情事旅行は終幕をむかえます。この2ヶ月間で、ドストエフスキーのポリーナに対する情熱はかなり冷めたようです。しかし、の後もしばらくはポリーナとの関係が続き、2番目の妻アンナと結婚してからもドストエフスキーはポリーナと手紙をやりとりしています。そして、この「鞭身派の聖母」は「賭博者」「白痴」などかれのさまざまな小説に出没することになります。


妻と兄の死


 10月にロシアに戻ると、結核の末期症状を示して蒼白く痩せ細ったマリアが待っていました。マリアはすぐに死の床に伏すことになります。結婚後、自分を愛することのなかった妻をドストエフスキーは冬の間中、献身的に看病しました。しかし、自身、ひどいてんかん発作におそわれ、痔にも悩まされます。その間、兄のミハイルは懸命の努力で新たな雑誌「世紀(エボーハ)」の発刊にこぎ着けます。ドストエフスキーは「地下生活者の手記」を「世紀」のために執筆します。ドストエフスキー的世界の始まりをつげるとされるこの異様な手記の第一部は「わたしは病的な人間だ…….」という言葉で始まり、「いま雪が降っている、べたべた濡れた、黄いろい、濁ったような奴だ、昨日もやはり降ったし、二、三日まえもやっぱり降った」という情景描写で終わります。おそらく、てんかん発作を繰り返す中、憔悴しきって呪いの言葉を吐き散らす妻を看病していた暗澹たるモスクワの一冬がそこに反映しているのでしょう。

 1964年4月16日、妻のマリアは息をひきとります。

 追い打ちをかけるように、3か月後の7月10日、数日病の床に伏せっていた兄のミハイルが思いもかけず死んでしまいます。セミョーノフスキイ連隊の練兵場で死刑を宣告されたとき「兄さん、ぼくはあなたをはじめ、あなたの家族全部を思い起こしました。が、最後の瞬間はあなただけ、ただあなた1人だけがぼくの心に残りました」と書いているドストエフスキーです、生きる気力もなくなるほどの打撃を受けます。しかし、愛する兄は、未亡人と四人の子ども、二万ルーブル以上の借金、そして、愛人とミハイルによって認知された子どもまで残していました。この未亡人と情婦と遺児たちを路頭に迷わせないようにする責務がドストエフスキーの肩にのしかかりました。兄の借金に関しては、ドストエフスキーが背負うべき法的責務はありませんでした。しかし、兄の名誉を重んじて、これも引きうけることを決断します。

 とりあえずは兄の唯一の遺産ともいうべき「世紀」の発刊継続に力を注ぎました。しかし、発刊が遅れに遅れ、読者が離れていきき、結局、廃刊の憂き目にあいます。

 これほどの不幸、不運に見舞われても、ドストエフスキーは挫けませんでした。この頃、ヴランゲリへの手紙の中でドストエフスキーは「こうして、ぼくはとつぜんたった一人になり…….全生活が真っ二つに割れてしまったのです…….にもかかわらず、ぼくは始終たったいま生活を始めようとしているような気がします。おかしいでしょう、ね?猫のような生活力!」と書いています。これ以降も、しばらく、かれは「猫のような生活力」で窮地を何度も乗り越えることになります。

成就せぬ愛


 失意のどん底にあったドストエフスキーは、この間、寂しさを紛らしたかったのでしょうか、さらに、二人の女性と成就せぬ恋愛事件を起こしています。

 一人はアンナ・コルヴィン・クリューコフスカヤという20歳の女性です。アンナは裕福な家庭の長女でしたが、良家の娘らしからぬ情熱と行動力を兼ね備えていました。騎士小説に耽溺し、女優になることを夢見ていたアンナは「世紀」に短編小説を投稿します。廃刊寸前の「世紀」は掲載原稿が払底していたためにこの素人小説を掲載しました。ところが、これが厳格な父親の知るところとなり、アンナの家庭に大騒動を巻き起こします。しかし、なんとか父親への説得に成功、アンナの家族はドストエフスキーと面会します。そして、やがて、ドストエフキーはアンナに強く魅かれ、求婚し、拒絶されます。アンナは妹に「ドストエフスキーの妻となるべき女性は、自身をすべて彼に捧げ、彼以外のことはなにも考えない人間でないと駄目」だと話したそうです。アンナは人間観察に相当たけていたようです。幸いなことに、ドストエフスキーはそのような奇跡的女性にまもなく遭遇することになります。

 このアンナとのエピソードがあった前後、ドストエフスキーはマルタ・ブラウンというもう1人の女性と関係をもっています。マルタの出自についてはよくわかっていません。しかし、おそらく、アンナとは正反対の家庭の出だったようです。若い頃、オーストリア、プロシャ、スイス、イタリア、スペイン、フランス、ベルギー、オランダをハンガリー人やイギリス人の男たちと連れだって放浪し、人生の「さまざまな印象を味」わい、最後は、一文無しでイギリスにたどりつきます。イギリスでは、路上で寝泊まりし、犯罪者とつきあったりしていましたが、親切なメソジスト派の牧師に救い出され、ボルチモア出身の水夫ブラウンと結婚します。しかし、イギリスを逃げださざるを得ない事情が生じ、ブラウンと別れ、ペテルブルグに戻り、「世紀」に投稿していたアルコール中毒文士ゴルスキーの情婦となります。そして、ゴルスキーの紹介で「世紀」の英文翻訳者として雇われ、ドストエフスキーと関係が生じます。ドストエフスキーは彼女にどうやら結婚を申しでたようです。それに対するマルタのあからさまな返事が残されています。

 「…….わたくしは肉体的の関係で、あなたを満足させることができるでしょうか、私たちの間に精神的な調和が実現するでしょうか?…….たとい一瞬なりと、それともしばらくのあいだ、友情と好意を授けてくださいましたことについて、わたくしは永久に感謝します…….あなたがわたくしの堕落した面をおさげすみにならず、わたくしというものを、わたくしが自分で考えている以上に、高く評価してくださったことを、物質上の利益よりもずっとありがたく存じています」

 「白痴」のナターシャを連想させるこのマルタとの関係がいつまで続いたのか不明です。また、ムイシュキン公爵とナターシャ同様、ドストエフスキーとマルタが同棲していたのかどうかもわかりません。

「罪と罰」


 この恋愛事件の間にドストエフスキーの経済状況は悪化の一途をたどります。亡兄の家族と義理の息子パーヴェルを養わなければなりませんでしたし、「世紀」の債権者たちはこんどこそ債務者監獄に放り込むと息巻いていました。せっぱ詰まったドストエフスキーは、危険を承知で、悪徳出版業者ステルロフスキーから三千ルーブル借金します。借用条件は、それまでに書いた著作のすべての出版権を譲渡するというものでした。そのうえ、1年先の1866年12月1日までに新作小説の原稿を手渡さなければ、将来書かれる本のすべての著作権もステルロフスキーに握られるということになっていました。「屈辱的な「奴隷的契約」でしたが、債務監獄に放り込まれる危機に直面していたドストエフスキーはこの条件を呑んで当座をしのぐしかありませんでした。

 「奴隷的」契約で借りた三千ルーブルでしたが、そのほとんどは借金返済にあっという間に消えてしまいました。なんとか残ったわずか百七十五ルーブルを懐にドストエフスキーは債権者を逃れるように1865年夏、ヴィースバーデンに逃げだします。ところが、例によってルーレットで有り金巻き上げられます。ヴランゲリ、出版社など思いつくすべての伝手に無心の手紙を書きましたが、すぐには、どこからも返事が来ません。そこへ、スースロワがやってきます。彼女への未練を断ち切れず、ドストエフスキーはヴィースバーデンで落ち合う約束をしていたのです。ところが、彼女もさして持ち合わせがありません。二人の宿代・食事代も払えず、かといって、ロシアに帰る旅費も捻出できない状態の中、ようやく、手紙で借金を頼みこんでいた一人、ツルゲーネフからお金が届きます。その金でスースロワはパリに旅立ちました。しかし、ドストエフスキーは宿賃も満足に払えない状態でとり残されます。安宿では「働かざる者食うべからず」と食事の提供を拒否され、何日も満足に食事もとれない状態が続き、質入れでなんとか食いつなぎました。

 この絶望的な状況のさなか、ドストエフスキーは高利貸しの老婆を殺そうとする青年の話を書き始めます。この青年は「極度の貧窮の中で暮らしているのですが、つい軽率で、観念のぐらついているために、いま空中に瀰漫(びまん)している、ある種の奇怪な、『未完成の』思想に深入りして、一挙にしておのれの忌まわしい状態から抜け出ようと決心します」しかし「解決することのできない問題が殺人者の前に立ち塞がり、夢にも想像しなかったような、思いがけない感情が、彼の心を苦しめるのです。神の真理、地上の掟が勝ちを制して、彼はついに、自首せざるを得なくなります」

 ロウソクの灯りにも事欠く安宿の一室でこの小説を書いているうちに、ようやく、ヴランゲリから送金が届き、ドストエフスキーはヴランゲリの勤務先、コペンハーゲンに向かいます。その後、ペテルブルグに戻りますが、全面的に書き直されながらもこの小説は書き継がれ、1866年1月号の「ロシア報知」に掲載されます。「罪と罰」という題名のこの小説は読者の圧倒的支持を受け、ドストエフスキーはロシアを代表する作家の一人とみなされるようになります。

第2の妻アンナ


 「罪と罰」は大成功でした。しかし、ステルロフスキーと契約した12月1日という締め切り期日が目前に迫ってきていました。新たな小説の腹案はほぼできあがっていましたが、「罪と罰」の執筆に時間をとられ、10月に入っても約束の小説は一行も書かれていませんでした。追いつめられたドストエフスキーは友人の勧めにしたがい、速記者を雇い、口述筆記によって新たな小説を1カ月で仕上げようともくろみます。速記者としてやって来たのは、速記学校に通う20歳になったばかりの女性、アンナ・グリゴ−リエブナでした。

 アンナの父親は「市会か役所かにつとめて」いたということですから役人だったのでしょう(「回想のドストエフスキー アンナ・ドストエフスカヤ 松下裕訳 みすず書房」。41歳の時、13歳年下のアンナの母親と結婚したこの父親は「貧しき人々」を書いたドストエフスキーを天才と激賞、シベリアからのドストエフスキーの「奇跡的復帰」に驚喜し、娘に「ドストエフスキー熱」を吹き込んでいました。おかげで、アンナは雑誌「時代」に掲載された最新作「死の家の記録」「虐げられし人々」や「ロシア報知」掲載の「罪と罰」を夢中になって読んでいました。ところが、父親はアンナがドストエフスキーと出会う半年前に死んでしまいます。アンナにとっては「生まれて初めてであった大きな不幸」で「来る日も来る日も父の墓地のあるポリシャーヤ・オフタに行って泣きくらしたが、それでもこの悲しい出来事をあきらめきれ」ませんでした。

 アンナがドストエフスキーの口述筆記の仕事を紹介されたのは、こういうときでした。

 最初のうちはアンナもドストエフスキーもお互い、あまりいい印象をもちませんでした。しかし、口述筆記によって新たな小説「賭博者」の原稿が期日までに間に合うかもしれないという希望がみえてくると、二人はうち解けて話すようになります。そして、たがいに惹かれ始めます。

 「賭博者」は約束の期日前に仕上がり、「送付証明書」つきで草稿はステルロフスキーのもとに送られました。こうして、ドストエフスキーは窮地を脱します。

 一息ついたところで、ドストエフスキーは空想の小説の筋を語って遠回しにアンナに求婚の思いをほのめかしました。拒絶されるのは覚悟の上だったでしょう。ところが、奇跡がおこります。同世代の青年の空虚な会話よりも天才の言葉に魅了されていたアンナが結婚を承諾したのです。

 1867年2月15日、イズマイロフスキー寺院で二人は結婚式を挙げました。

 しかし、新婚生活はアンナにとって苦痛に満ちたものでした。まず、10日間「シャンパン漬け」になっていたドストエフスキーが立て続けに2度、てんかん発作を起こします。さらに、ドストエフスキーの兄嫁や義理の息子パーヴェルとの軋轢が激しくなります。ドストエフスキーにぶら下がるように生活していた二人にとってアンナは自分たちの生活を脅かす邪魔者でしかありませんでした。かれらは結婚に猛反対し、結婚後もアンナを敵視していました。何とか二人を離婚させるべく策略をめぐらしていました。少なくともアンナにはそうとしかみえませんでした。ことあるごとに彼女の神経をいらだたせたのです。とくに、新婚夫婦と同居していたアンナとほぼ同い年のパーヴェルはアンナにとって耐え難い存在でした。夫をかれらから引き剥がすため、アンナは拝み倒すようにドストエフスキーを説得、嫁入り道具を質に入れた金で外国旅行に旅立つことを了承させます。結婚式の2か月後のことです。兄嫁やパーヴェルの強硬な反対を押し切って、二人はベルリンに旅立ちます。

海外生活


 ベルリンを経由して、かれらは、まず、ドレスデンに腰を落ち着けました。ここでアンナは結婚式以来はじめて「敵意の輪」から解放され、心の平安を得ます。しかし、ドストエフスキーはすぐに平穏無為の生活に飽きてしまいました。一攫千金と興奮を求めて、若い妻をドレスデンに残し、ホンブルグにルーレットにでかけていってしまいました。そして、有り金すべてをすってしまいます。何度も金の催促の手紙を書いてよこした挙げ句、8日たって、ようやく、ドストエフスキーはドレスデンに戻ってきました。寛容な若妻はそのことをまったく責めませんでした。

 その後、スイスに向かうはずでしたが、予定を変更して、こんどはアンナと連れ立ってヴィースバーデンによります。ドストエフスキーとしては、ベリンスキーについて書いた原稿料を元手に今度こそルーレットで「窮地を脱する」つもりでした。しかし、もちろん、さらなる窮地に追い込まれることになります。ホテルにアンナをおいて賭博場にでかけていっては、よろよろしながら舞い戻ってきて「しょげかえり、むせび泣き、自分のせいでおまえをこんなに苦しめてすまないとひざまずき許しを請」うということがいつ果てるともなく繰り返されます。結婚の時ドストエフスキーがアンナに贈ったブローチとダイヤとルビーのついた耳飾りも含め、ありとあらゆるものが質に入れられ、その多くは二度と帰ってきませんでした。宿屋の女主人や小口の債権者に嫌みを言われながら、アンナは質草によってひねり出したなけなしの金を夫に渡し続けました。しかも、この困窮のさなか、ドストエフスキーは義理の息子パーヴェルや兄嫁への送金だけは欠かさず、アンナの神経をいらだたせました。

 よくもまあ、これで、離婚に至らなかったものです。

 しかも、アンナへの打撃はてんかん発作、親族とのいざこざ、賭博、借金だけではありませんでした。前にも述べたように、ドストエフスキーはアンナとの結婚後もスースロワと文通を続けていました。そのくせ、てんかん発作とたいして変わらない嫉妬の発作を爆発させることもありました。新婚当初、モスクワにいるドストエフスキーの妹夫婦の家でアンナはカルタ遊びに興じたことがありました。隣の席にはサーシャ・イワノフという機知に富んだ愉快な青年が座っていて、アンナは「彼とおしゃべりをしたり笑ったりし」ました。ところが、これをみてドストエフスキーはだんだん不機嫌になっていきます。帰り道では一言も喋ろうとしませんでした。そして、ホテルに一室に戻ると形相を変え、アンナが「思いやりのないコケットで…….夫を苦しめるためにだけ男とたわむれていた」と叫び始めたのです。

 再婚後のドストエフスキーの行動をみると、なぜ、ドストエフスキーが一回目の結婚生活に失敗し、その後も、スースロワやアンナたちとの恋が成就しなかったのか、その理由の一端が窺えるような気がします。よほど心の広い女性でもこんなことには耐えきれないでしょう。ところが、この幼い妻の心のうちには不思議な信念が芽生えていたのです。

 「…….わたしはフョードル・ミハイロヴィッチを限りなく愛していましたが、その愛は、同年輩の男女にみられるような肉体的なものではなくて、純粋に精神的な、観念的なものでした。むしろ、才能のある、高い精神性を持った人物に対する崇拝、賛美といったほうがいいかもしれません。これほど辛い思いをし、一度も喜びと幸福な目にあったことのない人、全生活を捧げつくしてきた身内のものから当然やさしさと思いやりで報われるべきところを打ち捨てられたままのこの人にたいして、わたしの心は憐れみでいっぱいでした。生涯の道づれになり、苦労を分かちあい、生活の負担を軽くし、幸せにしてあげたいという夢想がわたしをとらえてはなしませんでした。フョードル・ミハイロヴィッチは、わたしの神、わたしの偶像となり、わたしは生涯彼に仕えるつもりでした」

 これは、海外旅行にでかける前の心境をアンナが述懐したものですが、「ドストエフスキー教」とでも呼ぶべきこのアンナの母性的信仰はその後も揺らぐことはありませんでした。賭博についても、夫の精神安定のための必要悪とみなし、「気晴らし」に行ってくるようすすめることもあったぐらいでした。

 二人は、ヴィースバーデンで「嵐のような」5週間を過ごした後、ジュネーブに落ち着き、その後、イタリアを回って、1871年、再び、ドレスデンに舞い戻ってきます。長年の外国生活で自分の才能が枯渇し、破滅に瀕していると気落ちするドストエフスキーにアンナは「運試し」を勧めます。妻のあきらめのまじった勧めによって、夫は喜び勇んでヴィースバーデンにでかけます。しかし、もちろん、賭博は惨めな結果に終わります。ドレスデンにいるアンナのもとに「お前の送ってくれた30ターレルを、そっくり負けたのだ」といつもながらの夫の手紙が届きます。「こんどこそこの妄想も永久に終わりをつげた。わたしは以前にもお前に当てて、永久に終わりをつげたと書いたが、今これを書きながら感じているような気持ちは、これまでかつて覚えたことがない。おお、今度こそわたしはあの悪夢に別れを告げた。もし今この瞬間、お前のことを案じる不安さえなかったら、わたしは神に祝福したいくらいだ。とんだ災難ではあったが、とにかく万事おさまったわけだからね…….今度こそわたしの両の手を解かれた思いだ。わたしは賭博で両手を縛られていたが、これからは仕事のことを考えて、これまでのように、夜っぴいてばくちのことなど空想しない」と、あいかわらずの、いいわけ混じりの虚しい誓いが書き連ねてありました。もちろん、アンナは真に受けなかったでしょう。

 ところが、奇跡が起きます。

 本当に、ドストエフスキーは賭博から足を洗ったのです。

 そして、これ以降、アンナは孫悟空を操るお釈迦様のように夫を「操る」ことができるようになります。ドストエフスキーのほうも、そこらあたりに数多転がっている亭主族のように、喜んで妻に操られるようになります。平安に満ちた家庭生活にどっぷり浸かることになったのです。後年、アンナに書き送った手紙の中でドストエフスキーは彼女が「いかなる女性にも勝り」「女王となって全王国を与えられて」も見事に取り仕切るだろうと大まじめで賞賛しています。

 話が前後しますが、ヴィースバーデンでの「嵐のような」5週間のあとバーゼルを経由してジュネーブに着いたドストエフスキーたちはユーゴー、ミル、ゲルツェン、バク−ニンたちが出席している「国際平和会議」に「ぶつかり」ました。「平和と自由」という旗印の下に開かれた国際会議で、自らが属する国の政体に反対しているということが唯一の参加資格という不思議な会合でした。ドストエフスキーは第2回会議に出席し、その印象をマイコフや姪のソーニャに罵詈雑言とともに書き送っています。「本の中でなく現実にはじめてお目にかかった社会主義者、革命家の五千の聴衆を前にした演壇上のほらふき、これは筆紙の及ぶところではありません!…….滑稽さ、薄弱さ、無意味さ、不一致、自己撞着、????これらは想像もできないくらいです!しかも、こうしたやくざな連中が、不幸な労働者たちを動揺させているのです!これは寂しいことです。彼らは手始めとして、地上の平和を獲得するためには、キリスト教を撲滅しなければならぬ、大きな国家をなくして、小さな国を作らなくてはならぬ、いっさいの資本を没収して、すべてを命令によって共有のものにすべし、等々を主張しています。これらはみんななんの証明もなく、20年も前から棒暗記したものが、そのまま残っているのです。が、おもなものは火と剣です。そして、すべてが滅ぼされたあとで、彼らの意見によれば、その時はじめて平和が訪れるというわけです。しかし、もうたくさんです」

「白痴」、娘の死、「悪霊」


 ジュネーブに着くと、前借りするたびごとにマイコフに空約束していた小説をこんどこそ書かなくてはならなくなります。「完全に美しい人間」ムイシュキン公爵を主人公とした異様な恋愛小説「白痴」の執筆がこうして開始されます。この頃、ドストエフスキーには望郷の念が押さえ切れないほど高まっていました。それを反映してか、小説は、てんかん治療を終えてスイスから戻ってくるムイシュキン公爵の描写から始まります。

 この間に、最初の娘、ソーニャが生まれます。赤ん坊のうぶ声が聞こえると、我をわすれ、ドストエフスキーは掛け金のかかった産室のドアに体当たりをかませました。助産婦は「ながい間この仕事をしてきたが、これほど興奮してとりみだした父親をみたことがない」と呆れかえりました。しかし、ソーニャは生後3か月に肺炎で死んでしまいます。マイコフ宛にドストエフスキーは悲痛な手紙を書き残しています。「あと2時間で死んでしまうとは夢にも知りませんでしたので、新聞を読みにでかけようとすると、彼女は小さな目でわたしを追い、じっとわたしを見つめたのです。今でもそれが目に焼きついて、いっそうありありと見えてきます。たとえ次の子が生まれるとしても、かわいがることができるどうか…….わたしはソーニャがほしい。あの子はもういない、自分はあの子にめぐり会うことができない。このことが納得できないのです」

 ソーニャの思い出の残るジュネーブは耐え難く、二人は同じジュネーブ湖畔の街ヴヴェーに移り住みます。その後、ミラノをとおってフィレンツェに腰を落ち着け、ここで「白痴」を完成させます。そして、ヴェニス、プラハに寄って、再び、ドレスデンに戻ってきます。ドレスデン滞在中、次女のリューボチカが誕生します。幸いなことに、この子は丈夫でした。ようやく、彼らの家庭は幸福で輝くようになります。妻に裏切られた男を喜劇風に描いた小説「永遠の夫」はそのような生活の中で執筆されました。

 ちょうど、この頃、モスクワ大学農学部にかよっているアンナの弟スニートキンがドレスデンにやってきました。スニートキンは、農学部で地下革命運動の蠢動があること、その運動にかかわっている友人の一人にイワノフという学生がいることをドストエフスキーに話してきかせました。ところが、その数ヶ月後、そのイワノフがモスクワ大学の裏庭の池に死体となって浮いているのを発見されます。過激な無政府主義者バクーニンとも関係のあるネチャーエフという学生が革命組織を大学に結成、その組織の一員であったイワノフを「密告と裏切り」の恐れがあるという嫌疑をかけ、他の学生をそそのかせ、殺させたのでした。ドストエフスキーはこの事件をヒントに、革命運動を痛烈に皮肉った小説「悪霊」を執筆します。

帰郷


 1871年夏、ようやく、夫婦はペテルブルグに戻ります。そして、すぐに長男が生まれました。相変わらず、借金だらけでしたが、アンナの才覚で、ドストエフスキーはしだいに経済的困窮から抜けだします。

 ちょうど、ネチャーエフの裁判が始まったこともあって「悪霊」は大変な評判を呼びました。アンナはこの「悪霊」を自費出版することをもくろみ、うまく成功を収めます。刷るそばから「悪霊」は売れていったのです。これ以後、アンナは同じ方法で夫の作品を自費出版し、安定した収入を確保することに成功します。

 一方、ドストエフスキーはメチュチェルスキー公爵という自称政治評論家が発行している雑誌「市民」の編集長の職につきます。給料は月250ルーブルで、執筆原稿にはさらに原稿料が支払われることになっていました。編集長就任後、彼はこの雑誌に社会政治評論を主体とするエッセイ「作家の日記」の連載を開始します。しかし、辛抱を強いられる編集長の職にしだいにドストエフスキーは耐えられなくなります。その上、メチュチェルスキー公爵とも意見が合わなくなり、結局、編集長の職を辞します。しかし、「作家の日記」は好評でしたので、アンナはこのエッセイを独立雑誌の形で定期的に発行することにしました。アンナに尻を叩かれながらドストエフスキーは奇跡的な勤勉さで規則正しく「作家の日記」を書き継ぎました。執筆内容が対トルコ戦争のさなかの愛国的雰囲気にマッチしたこともあって、この私的定期刊行物は部数を増やしていきました。印刷代以外、売上代金はすべて手元に残り、小説同様、「作家の日記」も相当の利益をもたらしました。こうして、彼の経済的基盤は徐々に安定していきました。これも、ネクラーソフが驚いたように、ドストエフスキーがアンナの「いいなり」になったおかげでした。

 末の息子アレキセイ(アリョーシャ)が3歳の時けいれん重積で亡くなるという不幸はありましたが、ロシア帰還後は、それ以前のことが嘘のように、平穏無事に時間が過ぎていきました。

 そうした中、彼の名声はしだいに高まっていきました。シベリア流刑の苦難を乗り越え、名作「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」を書き、いままた、「作家の日記」に時事的意見を忌憚なく述べるかれは「人生の教師」とみなされるようになりました。崇拝者たちが次から次へと家を訪れてきました。悩みを抱えてドストエフスキーの助言を求める手紙も数多く舞い込みました。そして、ドストエフスキーはそれらにいちいち懇切丁寧に返答の手紙を書き送りました。さらに、慈善事業の一環として自作を朗読するよう依頼されることもしばしばでした。そうした中、皇太子(のちの皇帝アレキサンドル三世)の家庭教師ポベドノスツェフ、皇帝の甥、コンスタンチーノヴィッチ大公などの要人たちとも知り合いになりました。しかし、「貧しき人々」で鮮烈なデビューをした青年時代と異なり、これらの栄光にのぼせることもありませんでした。

「カラマーゾフの兄弟」と最後の栄光


 一方、この頃、哲学者ソロヴィヨーフと知り合いになっています。ソロヴィヨーフはアンナと同世代のい哲学者で、無神論を容認する西欧諸国を糾弾、ロシアの歴史的使命は宗教的使命だと主張していました。ドストエフスキーはこの哲学者の連続講義を聴講、かれと連れだってオプチナ・プスティン修道院を訪れるほどに親密な仲になります。この修道院は歴代、有徳の長老を輩出して国民の尊崇を集め、あたかも巡礼のように多くの信者が全国から訪れてきていました。その「巡礼」の中にはゴーゴリやトルストイの姿がみられたこともあります。当時は、アンヴローシ神父が民衆の崇拝を一身に集めていました。ドストエフスキーとソロヴィヨーフもこの神父を訪ね、うまい具合にこの伝説的長老と語り合うことができました。この「巡礼」後、ドストエフスキーは新しい小説にとりかかります。父親殺しを軸として展開されるその壮大な宗教的叙事詩「カラマーゾフの兄弟」にはアンヴローシ神父がゾシマ長老として登場します。

 朗読はロシア文学において重要な位置を占めていました。意外かもしれませんが、ドストエフスキーは朗読の名人でした。朗読のみならず、人に語って聞かせることが得意で、かれの演説は人々を魅了しました。この得意技が彼の晩年をいちだんと輝かせることになります。死の前年の1880年6月8日、ドストエフスキーはロシア文学愛好者協会の記念大会でプーシキンについての演説をおこない、聴衆を熱狂させたのです。「真のロシア人なることは、ヨーロッパの矛盾に最終的な和解をもたらし、全人間的なおのれの魂の中に、ヨ−ロッパの悩みの捌け口をさし示し、同胞的な愛をもってすべての同胞をその中に収め入れ、すべての民族を、キリストの福音に示された掟によって完全に同胞として結合さす偉大な一般調和の言葉を発することを意味するのである!」とドストエフスキーは説きました。聴衆の熱狂ぶりは後々まで語り継がれるほど激烈なものでした。会場内は収拾がつかない混乱状態に陥り、気まずい仲にあったツルゲーネフでさえ昂奮してドスエフスキーの方に駆け寄ってきたほどでした。かれはこの発言が「有頂天な、誇張した、幻想的なものに聞こえるかもしれない」ことを自覚していました。しかし、演説内容が印刷され、それを読んだグラドーフスキーたちに、おめでたい楽観主義と揶揄されると、やはり、頭にきて、猛然と反論します。かれは、正義を掲げて無数の人間をギロチン台に追いやった「先進的」ヨーロッパ文明に危惧を表明します。「自由、平等、同胞愛、と書いてみたところでなんの意味があろう?…….この三つの言葉の上に、さらに第四の、しからんずんば死(という言葉)をつけ加えなければならない…….同胞的団結という「公民的制度」を獲得するために、同胞の首をちょん切りにでかけるのだ」と警告しました。そして、「総決算が行われる」にちがいないと予言します。「政治上の諸問題は、必ずや大がかりの、決定的な、総勘定的性質を帯びた、政治的戦争を招来しなければやまない。このあらゆるものを巻き込んでしまう戦争は、現世紀、おそらくはこの十年間に勃発するに相違ない」とまで断言したのです。第一次世界大戦は、この演説が行われた24年後に「勃発」します。また、ヒトラー、スターリン、毛沢東、クメール・ルージュなどの所業にみられるごとく、20世紀が「正義」の名の下に「同胞の首をちょん切」る大量殺戮の世紀であったことはご存じの通りです。


 悲劇的終末によって生涯を閉じた19世紀ロシアの文学者は少なくありません。

 些細な口論から決闘し、雷雨の中、銃弾を受けて26歳の生涯を閉じたレールモントフ、妻の浮気に端を発した決闘によって37歳の若さで死んだプーシキン、鬱病の中、断食を強いられ、42歳で餓死したゴーゴリ、家出同然にでた巡礼の旅の途上、名もないちいさな停車場で82歳の生涯を閉じたトルストイ。

 しかし、波乱に満ちた生涯とは裏腹に、ドストエフスキーは安らかに「畳の上」で死を迎えました。

 死因は生涯彼を苦しめたてんかんとは無関係で、肺出血でした。

 ペテルスグブルグに戻ってきて数年たった頃、ドストエフスキーは気管支炎と診断され、毎夏、ドイツのエムス鉱泉で療養するようになります。エムスからアンナに宛てた手紙の中には「痙攣性の咳」のことがしばしばでてきます。しかし、その後、肺気腫の合併を主治医から告げられます。長年にわたって気管支炎を繰り返していると、末梢細気管支壁と肺胞壁が破壊され、空気の通り道と肺胞が異常に拡大することがあります。これが肺気腫で、うまく呼吸ができなくなります。アンナの回想録にはドストエフスキーが相当数のたばこを吸っていたことが書かれていますから、過度の喫煙が原因で肺気腫にまで悪化したのかもしれません。ただし、当時のことですから、レントゲン写真で診断できたわけではありません。シベリアにおける重労働で珪肺に罹患していた可能性、肺ガンに冒されていた可能性もないとはいえません。いずれにしても、しばしば襲う呼吸困難から、かれは死期が近いことを予感するようになります。

 死の数日前、ドストエフスキーは喀血します。病変が血管に及び、破れた血管から血液が流れ出たのです。喀血後、いったんは小康状態を得、主治医も肺の血管を「血液の糊」が蔽ったので大丈夫だろうと請けあいます。しかし、結局、喀血が再発、呼吸状態が悪化します。

 1881年1月28日、死の当日の朝、目覚めたドストエフスキーは妻のアンナに「今日は死ぬだろうな」と力なく呟きました。そして、聖書占いをしました(「ドストエフスキー」江川卓 岩波新書)。聖書を適当にめくり、開かれたページの最初に現れたイエスの言葉で運勢を占うのです。力ない手で開かれたページはマタイ福音書3章14節から始まっていました。イエスがヨハネの洗礼をうける場面です。

 「14ヨハネ、イエスを止めて言いけるは、われこそ汝より洗礼を受くべきなるに、なんぞ汝の我に来たれるや?15されどイエス、答えて彼に言う、いまはとどむるなかれ、けだしわれら…….」

 ここまで聞いて、ドストエフスキーはアンナが聖書を読むのを制し、つぶやきました。

 「いまはとどむるなかれ…….つまり、わたしは死ぬということだ」

 このとき使われた聖書はシベリア流刑途上ヴィージナ夫人から贈られ、オムスク監獄の枕元でドストエフスキーと寝起きをともにした1823年版ロシア語訳聖書でした。自分のほうこそイエスの洗礼を受けるべきであるのに、イエスに洗礼など施せないと逡巡するヨハネに、いまはともかくも洗礼を施して欲しい、とイエスが頼んでいる場面です。しかし、ロシア語訳聖書のこの箇所は誤訳だったと江川卓氏は指摘しています。イエスの言葉「いまはとどむるなかれ」は、正しくは、「まあ、いまはそんなことをいわずに」とでも訳すべきだったというのです。実際、のちのロシア語訳ではそのように訂正されたそうです*。しかし、このときのドストエフスキーはそんなことを知るよしもありません。そして、午後8時過ぎ、呼吸状態が悪化して意識を失い、誤訳されたイエスの言葉に黙って従うかのように、永眠しました。59歳でした。

* ただし、日本語の聖書でも、たとえば、フランシスコ会聖書研究所訳註版「新約聖書」などでは「今は、止めないで下さい」となっています。しかし、英語では“Allow it now”ですから、これはたしかに「いまはとどむるなかれ」ではなく「いまだけは許されよ」ということになるでしょう。

ドストエフスキーのてんかん発作


 ドストエフスキーの生涯を見渡したとき、何よりも驚かされるのは、その恐るべき生命力、精神力です。ペトラシェーフスキー事件では、処刑劇と監獄生活によって、多くの仲間が発狂したり廃人同然になったりしています。しかし、ドストエフスキーはそれらを乗り越え、出獄後、旺盛な執筆活動を開始します。しかも、その執筆活動は、借金の返済に追われ、ルーレットに狂い、錯綜する女性関係をくぐり抜けていく中でおこなわれました。さらに、てんかん発作によってその生活は何度となく寸断されました。にもかかわらず、膨大な量の傑作小説群、評論、日記、手紙を書き残したのです。ドストエフスキー自身もこのねばり強い「猫のような生活力」を誇っていたことは以前述べたとおりです。

発症


 そのドストエフスキーのてんかん発作です。

 ドストエフスキーのてんかん発症時期に関してはさまざまな説がありますが、目撃者によってはっきり記載されているのは、1846年、ドストエフスキー25歳の年です。前年、ベリンスキーによって激賞された小説「貧しき人々」が「ペテルブルグ文集」に掲載され、小説家として彼の名前が一般にも知られるようになった頃です。

 目撃者は友人作家グリゴローヴィッチです。

 「ある時連れだってトロイツキー横町を通りかかると、葬列に出くわした。彼はくるりと引き返そうとしたが、私たちが何歩も行かぬうちに、たちまち発作を起こした。発作はあまりにもひどかったので、とおりがかりの人の手を借りて、最寄りの牛乳店へ運ばなければならなかった。意識はようやく回復したが、こういう発作のあとでは、いつもうちひしがれたようになって、いつも二日か三日は続くのだった」(「文学的回想録」(コンスタンチン・モチューリスキー著松下裕・松下恭子訳「評伝ドストエフスキー」から引用))。

 グリゴローヴィッチは、この文章の直前に「根をつめた仕事と、閉じこもって座り続けていることが、かれの健康にきわめて悪く影響した。それは、まだ若い頃、学校時分に何度かおそわれた病気も悪化させた。めずらしく二人で散歩しているとき、何度か発作が起こった」(同上)とも書いています。グリゴローヴィッチはドストエフスキーと工兵学校の同窓ですから、この25歳の時の記載以前、工兵学校にいた16歳から22歳の間にすでにてんかん発作があったのかもしれません。しかし、10代後半にドフトエフスキーがてんかんを発症していたのかどうか、これ以上究明する手だてはありません。このため、ドストエフスキーのてんかん発症年齢を正確に確定することはできません。しかし、いずれにしても、ドストエフスキーが思春期から青年期にかけててんかん発作を経験していたことだけはたしかです。

 さらには、7歳の時、最初のてんかん発作があったと書いている伝記作家もいます。しかし、この「7歳発症説」の根拠はよくわかりません。

 ドストエフスキーの最初の伝記を書いたミラーは「ドストエフスキーの病気と少年時代に両親に起きたきわめて不愉快な事件を結びつけることは伝説と化していた。このことはドストエフスキーの家族から直接聞いたことで、充分信頼がおけるのであるが、具体的にそれが何をさすのかをここで公表することはできない」と書いているそうです。原著を確認できないので、詳細は不明ですが、この「伝説」はもう一人の伝記作家グロスマンも2番目の妻アンナから直接聞いているとのことです。彼女も、やはり伝説の具体的中身を公表することを拒んだそうです。

 もしかしたら、この不愉快な事件というのは父親殺害事件のことかもしれません。しかし、もしそうだとすれば、ミラーのいう「少年時代」というのはドストエフスキー18歳の時のこととなり、7歳てんかん発症説とは無関係ということになります。18歳の時、はじめててんかん発作が起きということであれば、これは、グリゴローヴィッチの記載とほぼ一致します。

 一方、ミラーが書いているように父親の殺害事件がてんかん発症の原因となったという根強い伝説説あるようです。たしかに、父親の殺害事件のショックがてんかん発作の誘因となったことはあるかもしれません。しかし、それがてんかん発症の病因になることは、もちろん、ありません。ヒステリーなどの神経症とちがい、心因性の負荷が脳に繰り返し異常放電を引き起こす機能異常をもたらすことはないからです。

 ドストエフスキーのてんかん発症年齢がはっきりしないのはドストエフスキー自身にも原因がありそうです。はっきりした「痙攣性」発作が何度もみられるようになるまで、かれは自分の発作をてんかん発作と認めようとしなかったからです。ドストエフスキーが自分の病気をてんかんと渋々ながらも認めたのはずいぶん後になってからです。第7シベリア旅団の軍医エルマコフ大佐はドストエフキーが1850年(29歳の時)に「はじめて」てんかん発作を起こしたと書いていますが、これはドストエフスキーから聞いた病歴を基にした記載だろうと思われます。また、ソフィア・コバレフスカヤも流刑が終わりに近づいた頃、最初のてんかん発作があった、とドストエフスキー本人から聞いているようです。さらに、オムスクの軍病院の医師トロイキーもドストエフスキーがシベリアでてんかん発作を発症したと言っています。いずれもグリゴローヴィッチの記載年齢よりずっとのちの発症ということになります。

 しかし、その30歳前半の時点でも、ドストエフスキーがてんかんの診断を受け入れていたかどうか怪しいのです。

 ドストエフスキーのてんかんの診断が公式な記録に残っているのは36歳の時、最初の結婚直後です。激しい発作を何回も繰り返し、その時診察したエルマコフ大佐は「まぎれもないてんかん」と診断しました。それまでかかった「すべて」の医者は、単なる神経性の発作だから暮らし向きが変われば発作もおさまるだろうと請け合ってくれていたのに、どうしたことだ、てんかんと分かっていれば結婚などしなかったのに、とドストエフスキーは兄への手紙で愚痴っています。一生を通じて、てんかんが軽快することがなかったため無理もないですが、ドストエフスキーは、どの医者にも不信感を抱き、何人もの医者を渡り歩いています。心の安静を保つためにこのときまで、てんかんではないといってくれる医者を捜し求め、いろいろな医者にかかっていたのかもしれません。

発作症状


 グリゴローヴィッチがドストエフスキーのてんかん発作を記載している25歳の年、もう1人の友人がドストエフスキーの発作を目撃しています。知人宅のパーティーで、突然、奇妙な顔つきをして恐怖に襲われたような目つきになった、というのです。そうした状態が数分続いた後、かれは虚ろな声で「俺は今どこにいるんだ」と呟き、外気を求めるように窓に駆け寄りました。窓台に座ったドストエフスキーの顔はゆがみ、頭は一方に傾き、身体全体がふるえはじめました。知人がびしょ濡れになるまで冷水で冷やしましたが、ちんと意識を回復しないまま、ドストエフスキーは通りにかけだしていきました。

 同じ年、1846年にドストエフスキーは医師ヤノスキーの診察を受けています。

 ヤノスキーは、1847年から1849年の3年間に3回ドストエフスキーの発作を目撃しています。

 一回目は1847年7月、場所は聖イザーク通りです。ドストエフスキーは帽子もかぶらず、通りがかりの役人の腕を握りしめていました。コートとチョッキのボタンは外れたままで、アスコットタイも緩んでいました。「死にそうだ」と叫びながらドストエフスキーはヤノスキーの助けを求めました。心拍数が100を越え、頻脈になっていました。やがて、投げ出すように頭を後屈させ、けいれん様の震えが始まりました。ヤノスキーはドストエフスキーを家に連れ帰り、瀉血を施しました。

 翌年、こんどは睡眠中にけいれんを起こします。ベリンスキーの死で精神的に不安定になっていたドストエフスキーに頼まれ、ヤノスキーはドストエフスキーの隣りの部屋で寝てあげました。すると、夜中の3時、イビキのような激しい呼吸音が隣室から聞こえてきました。みると、ドストエフスキーが仰向けに倒れ、目を見開き、口から泡を吹き、舌を突き出し、けいれんしていました。

 さらに、翌年の初春の夜更け、発作が起こりそうだと助けを求め、ドストエフスキーがヤノフスキーのところにやってきました。

 ヤノフスキーはドストエフスキーにはこのような「軽い発作」も数多くみられたと書き残しています。

 ドストエフスキーがてんかん発作を繰り返し起こしていることは、もちろん、ヤノフスキーはわかっていたはずです。そして、おそらく、そのことをドストエフスキーに告げていたでしょう。しかし、ドストエフスキーはその診断に納得しなかったようです。当時、かれは自分の発作を「微風をともなう発作coups de sang par rafales」と呼んでいました。ラテン語のaura(前兆)はもともと微風を意味しますから、かれの この表現は意味深長です。しかし、医学書を読みあさって、ある程度医学知識があったはずのドストエフスキーですが、当時は、てんかんという言葉を一度も使っていません。ですから、20歳代半ばの時点では、てんかんと認識していなかった(もしくは、認識したくなかった)と思われます。しかし、1857年、36歳の年にウランゲル男爵に宛てた手紙でドストエフスキーはヤノフスキーがドストエフスキーの病気が真性てんかんだと診断したと書いています。ですから、いずれかの時点で、ドストエフスキーはヤノフスキーの診断を受け入れるようになったものと思われます。

シベリア流刑後のてんかん発作


 秘密警察に逮捕されてペトロバーヴロフスカヤ要塞監獄に監禁され、その後シベリアの流刑地オムスクの監獄に収容されていたため、ヤノフスキーが書いている3年間の発作以降、しばらく、ドストエフスキーの発作についての情報は途切れます。ただ、オムスクの要塞監獄で何度も発作を起こしたことだけはたしかなようです。

 吹雪に埋まったオムスクの街の救助に囚人たちがかり出された日のことをドストエフスキーと同じ獄舎にいたポーランド人政治犯トカルジェーフスキーが手記に書き残しています(米山正夫 「ドストエーフスキイ研究 生涯」河出書房新社)。「人力を越える苦しい昼間の労働でへとへとになって」帰ってきてから、突然、ドストエフスキーが「目の前が暗くなった、力が出ない」と訴えたあと、床に倒れ、前後不覚に陥ったというのです。ただし、その後、ドストエフスキーは肺炎で監獄付属病院に入れられたということですから、このエピソードがてんかん発作によるものか、肺炎にともなう呼吸障害や発熱に起因する意識障害かはわかりません。

 てんかん発作の詳細な記録が再び現れるのは約10年後の1857年、最初の結婚を未亡人マリヤ・ドミートリエヴナとした年です。先ほども申しましたように、結婚後ドストエフスキーはひどい発作を繰り返し、第7シベリア旅団の軍医エルマコフ大佐に診てもらっています。この軍医による12月16日付の公式記録には次のうに記されており、これが、ドストエフスキーのてんかんを記載した最初の公式文書です。

 「35歳前後の中肉中背の男性。1850年(29歳)にはじめててんかん発作におそわれた。発作は、突然の叫声、意識消失、四肢と顔面の痙攣からなり、唇から泡を吹く。いびき様の呼吸がみられ、微弱化した頻脈をみとめる。発作持続は15分で、その後、ぐったりする。1853(32歳)年に再び発作がみられ、その後は月末になるとみられるようになった」

 6年後、友人のストラーホフもドストエフスキーの発作を目撃しています。

 「一瞬、言葉を探し求め、何かを要求するかのように彼は動きを止めた。わたしは彼に注目した。何かとてつもないことでも喋りはじめるのではないかと期待したのだ。しかし、半ば開いた口から飛び出てきたのは奇妙な雑音めいた音声だった。彼は意識を失って部屋の真ん中で倒れた…….身体を硬直させ、けいれんし口から泡を吹いた」

 最初の結婚から10年後、アンナ・グリゴーリエヴナと2度目の結婚をした直後、またもや、発作が頻発します。

 「…….フョードル・ミハイロヴィッチは殊のほか元気で、姉とたのしそうに何か話していた。すると突然、何か言いかけて、真っ青になったかと思うと、ソファから身体を浮かすようにして私の方にもたれかけてきた。すっかり変わってしまったその顔つきをみて、私はぎょっとした。急に、おそろしい、人間のものとは思われぬ叫びが、というより悲鳴がひびきわたって、彼は前にたおれはじめた…….私は彼の肩を抱きかかえ、力を込めて長椅子に掛けさせた。だが無感覚になった体は長椅子からずりおちて、私の力ではどうしようもなかった…….少しずつ、けいれんがおさまると、彼は意識をとりもどしはじめた。だが、初めのうち、自分がどこにいるのかわからず、口もきけなかった。たえず何か言おうとしたが、ろれつがまわらず、何を言っているのか聞き取れなかった。(「回想のドストエフスキー」アンナ・ドストエフスカヤ 松下裕訳)」

 このときは、数時間後に再び発作が起きています。

発作頻度、発作時刻


 その後も、肺出血で死亡する直前までドストエフスキーは少なくとも35年間、途切れることなくてんかん発作を起こしました。この間、「虐げられし人々」を執筆していた1861年には、けいれん重積とみまがう長い痙攣を経験していますし、「悪霊」を執筆していた50歳前後には相当頻繁に発作がみられたようです。ストラーホフによれば、ドストエフスキーのてんかん発作は週2回起きることもあれば、4カ月間発作がないときもあったということです。平均すると月に一回程度の頻度になります。しかし、まれには、再婚当時のように日に2回頻発することもあったわけです。

 寝ているときよりも起きているときのほうが他人に目撃されやすいので、記録に残っているドストエフスキーの発作症状はほとんどが覚醒時のものです。しかし、実際には睡眠時の発作のほうが圧倒的に多かったようです。このことはアンナも書いていますし、ドストエフスキー本人も1869年9月14日の日記に「ほとんどすべての発作はベッドに横たわっているときに起きる。睡眠の前半部分で、だいたい朝4時前後だ」と書いています。アンリ・ガストーは5年間におきた26回の発作を検討しています。それによれば、26回中25回の発作は夜に起きていました。この25回の夜間発作のうち23回は寝入ってから30分から4時間たった睡眠中に起き、睡眠途中に目を覚まして発作が起きたのは2回だけでした。ただし、睡眠中の発作といっても、ドストエフスキーは夜中遅くまで仕事をして、寝入るのは夜明けの4時から5時ということがよくありましたから、本人が書いているように発作自体は早朝に起きていたことになります。

発作後症状


 てんかん発作は発作後もドストエフスキーを苦しめました。

 発作が終わると、眠ってしまうことが多かったようです。しかし、睡眠に至らず、中途半端に意識が戻ってしまって、発作後自動症と呼ばれるおかしな動作を繰り返すこともありました。発作がおさまったのち、知らないうちに、たばこの葉を紙で丸めて紙巻きたばこを作っていたことがある、と自ら書いています。25歳で発作が起きたとき、人を振り切って駈けだしたというのも、いわゆる遁走発作だったのかもしれませんが、発作後自動症だった可能性もあります。

 充分意識が戻ってからも、頭が働かず、何日もぼんやりと過ごすことがありました。グリゴローヴィッチもいっているように「発作のあとでは、いつもうちひしがれたようになって」、そういう状態は「いつも二日か三日は続」き、まともな状態に戻るのに最低一週間ぐらいはかかったようです。2番目の妻アンナも新婚直後の発作のあとで「発作の後でいつも続く押しつぶされるような憂愁が、その時は一週間にもわたったのである」と書いています。そして「『自分に一番親しい人を亡くしたような、誰かを埋葬したような気分だ』これはかれがその容態を説明するのに用いた言葉である」と補足しています。ひどいときには発作後1カ月ぐらい原稿が一行も書けないときもあったようです。そのために、雑誌編集者に原稿の遅れを弁解しなければならないこともありました。

 記憶減退も彼を苦しめました。

 てんかん発作がなかった頃は、見たもの、聞いたもの、読んだものを、すべて、どんな些細なことでも、詳細に思い出すことができたのに、てんかん発作が起きるようになってからは、ありとあらゆることを忘れ、よく見知っているはずの人のことさえ忘れてしまうようになった、とかれは愚痴っています。

 ロシアの天才ピアニスト、スヴィアトゥラフ・リヒテルは演奏旅行で訪れた街で紹介された人物の名前をすべて覚えていたそうです。街の名前を聞くとそうした名前が「数珠つなぎになって思いだされ、息苦しくなってしまう」とあるドキュメンタリー番組で語っています。ドストエフスキーもリヒテル同様、そのような異様な記憶力を若い頃はもっていたのかもしれません。しかし、その抜群の記憶力も、てんかん発作を繰り返すうちに減退していったようです。発作頻度が高かった「悪霊」執筆時はとくにこれがひどく、自分が作り出した登場人物の名前さえ忘れてしまって、最初から読み直さなければならないほどでした。アンナとの婚約当時も「虐げられし人々」の登場人物のことをアンナが1人1人論評したのに対し、ドストエフスキーは「よく覚えていない」と答えています。「罪と罰」と「賭博者」を脱稿し終えた直後のことで、この2作に異常な集中をしたあとだったせいかもしれませんが、それにしても、数年前に書いた小説の人物のことを忘れてしまっているのは、ちょっと異常です。

19世紀ヨーロッパ臨床神経学


 てんかんに対しドストエフスキーがどんな治療をうけていたのか、記録が残っておらず、よくわかりません。おそらく、さまざまな「治療」をうけていたでしょう。しかし、かれが生きていた時代、効果的な抗てんかん薬はブロムに以外なく、発作を消失させる方法は皆無に近い状態でした。ですから、かれがうけた「治療」の大半は効果を示さなかったはずです。「治療」について記録が残っていないのはそのせいもあるかもしれません。

 ドストエフスキーが受けたであろうてんかん「治療」を推測するためには、当時の医学状況を概観しておく必要がありそうです。

 かれが生きていた十九世紀は、てんかんも含む神経疾患への理解が深まり、臨床神経学が先進西欧諸国において花開いた時代でした。

 フランスではドゥシャンヌが電流によって筋肉が収縮することを発見、電気神経生理学の開拓者となりました。かれは進行性筋ジストロフィー(ドゥシャンヌ型進行性筋ジストロフィー)にその名をとどめています。また、シャルコーも鋭い臨床観察によって筋萎縮性側索硬化症をはじめとするさまざまな神経疾患について業績を残し、その臨床講義集「神経系疾患講義」は後々まで世界中の臨床神経科医のバイブルとなりました。かれが勤めていたパリのサルペトリエール病院は臨床神経学のメッカとなり、マリー、バビンスキーなど名だたる臨床神経学者がシャルコーの後に続いています。オーストリアのジークムント・フロイトもシャルコーのもとで研鑽を積み、催眠術のヒステリー治療への応用を学び、これがのちに精神分析学へと開花することになります。また、ドストエフスキーと同時代、パリには「医学臨床講義集」の著者として有名な卓抜な臨床家トルーソーもいて、彼の名前は低カルシウムの患者にみられる特徴的な手の症状、トルーソー徴候に残っています。一方、ドイツにはロンベルグ徴候(脊髄病変の有無を調べる神経徴候で、もともとは晩期梅毒合併症である脊髄癆の診断に用いられました)に名が残るロンベルグ、電気神経生理学の大家エルブ、膝蓋腱反射の有用性に着目した慧眼の精神科医ウェストファールらがいました。

 しかし、ドストエフキーが活躍した19世紀後半、近代てんかん学の基礎を築いたのはイギリスのジャクソンとガワーズでした。

 ロンドン病院のジャクソンは失語症の研究を通して臨床症状と大脳局在との関連に注目するようになります。そして、てんかん発作も大脳局在論で説明可能であると確信「てんかんとは灰白質の偶発的、突発的、過剰性、急速性、局在性発射に名づけられたものである」という、近代てんかん学の扉を開く定義を提唱します。一方、筋ジストロフィーの患者さんにみられる、膝に手をおいて立ち上がろうとする徴候、ガワーズ徴候で有名なガワーズは、筋疾患のみならず、てんかんについても多くの業績を残し、1881年に出版された「てんかん及びの他の慢性痙攣性疾患」は後々までてんかん学の分野で大きな影響を与えました。

臭化カリウム(ブロム)


 このようにてんかんの病態に関する理解は、この時期、飛躍的に深まっていました。しかし、治療にかんしては旧態依然たる状態が続いていました。一般に、病態解明から有効な治療法に至る道は険しく、その開発には長い年月と「僥倖」を要します。そのことは、たとえば、パスツールやコッホが細菌学を創始してからペニシリンの発見までに半世紀以上かかり、しかも、培養実験の失敗がペニシリン発見のきっかけになったことからもお分かり頂けると思います。

 てんかんも同様でした。

 18世紀初頭、サルペトリエール病院で近代精神医学の基礎をうち建てたエスキロールは30名のてんかん患者にさまざまな治療を試み、その有効性を報告しています。その治療とは瀉血、下剤投与、入浴、焼灼術、そしてさまざまな薬物療法でした。どの治療によっても、数週間から数ヶ月、発作が消失しましたが、最終的にはいずれの「治療」によって場合も発作が再発、持続的な効果がみられた治療法は一つもありませんでした。発作が止まったといっても、おそらくは、暗示効果、いまでいうPlacebo(偽薬)効果が少なからず寄与していたのでしょう。そして、エスキロールがおこなった「治療」の中で、現在もてんかんの治療として行われているものはありません。

 ドフトエフスキーが40代半ばであった1866年、てんかんの「薬物療法」に失望したある著明なアメリカ人医学者は、てんかん罹患者には「自然治癒力」に縋りつくよう説得するしかないと書いています(Friedlander WJ The History of Modern Epilepsy)。

 ところが、1857年、ロンドンではてんかん治療の流れを大きく変える発表が行われていました。ある医師がアンチモン、ジギタリス、硝酸銀で治療した52名のてんかん患者の治療成績を発表した際、これに対するコメントとして、産婦人科医のチャールズ・ロコックが驚くべき治療成績を報告したのです。月経期に増悪するヒステリー性てんかん女性15名に臭化カリウム(臭化カリウムは英語でBromideといい、日本ではブロムと呼ばれることも多いので、以下、これに従います)を投与し、14名でうまく発作をコントロールできたというのです。

 ただし、ロコックは抗てんかん作用を期待してブロムを使ったわけではありません。当時、どういうわけか、セックスとてんかんの間に強い関連があると信じられていました。とくに、マスターベーション、オナニーなどの自慰行為はてんかんを含めた精神疾患の重要な原因の一つとみなされていました。自慰行為によって血液が脳に貯まり鬱血する(もしくは、逆に、血液が脳から流れて虚血になる)のがいけないというのです。このため、てんかんを含めた精神疾患の治療として去勢術や割礼までもが大まじめに議論され、実際におこなわれていたのです。シーヴキングへのコメントの際にもロコックは、オナニーがしばしばてんかんの原因となっており、そうした症例は増加傾向にあるにもかかわらず見過ごされていると「警告」しています。

 そこで、「性欲抑制剤」ブロムを使ってみたのです。

 ロコックがブロムを使う「根拠」となったのは、ブロム10粒を1日3回服用して一時的に不能になった男性がいるというドイツからの報告でした。この論文を読んで、月経期にヒステリーてんかんの発作を起こす女性にブロムを投与して性欲を減退できれば、てんかん発作を押さえられるかもしれないとロコックは考えました。そして、臭化カリウムを試み、性欲とはまったく無関係の驚くべき抗てんかん作用を発見したわけです。ペニシリンの例にみられるように、医学も含めた科学の歴史においては、偶然が新発見に重要な役割を果たすことがあります。スコットはこれを「カジノ要因」と呼んでいますが、ブロムの抗てんかん作用の発見は、その典型例でした(D.F. Scott The history of epileptic therapy)。「理由づけは間違っていても結果は正しかった」のです。

 ロコックはその後ブロムとてんかんについての論文は書いていません。しかし、1861年にラドクリフが出版した痙攣に関する書物には「てんかんをもつ人々はロコック卿の名前を感謝の気持ちをもって思いだすべきだ」と書かれています。ラドクリフはロコック同様、ブロムをてんかん患者に試み、従来の「治療薬」とは雲泥の差の抗てんかん作用を確認したのです。その後、ブロムはイギリスの医学界において徐々に使われるようになりました。ジャクソンのてんかんに関する業績にもブロム治療の経験が相当寄与しているといわれています。ドストエフスキーが死んだ1881年に出版されたガワーズの「てんかん及びその他の慢性痙攣性疾患」には、ブロムが従来のてんかん治療法を駆逐したと記されています。

 しかし、どうやら、イギリス以外の国でブロム治療が一般的になるのはこのガワーズの書物出版以降のことのようです。フランスでもブロムの効果が一般に認識されるようになったようで、1888年冬、画家のゴッホが前後不覚に陥り、みずからの耳朶を切り落としてアルルの病院に担ぎ込まれたときには、「てんかん」の診断のもと、主治医のフェリックス・レーがブロムを処方しています。

 しかし、ブロムの効果が世界中の国々で知られるようになるまでには、いまでは考えられないぐらいの時間を要しました。そのことは、さきほどのアメリカの医学者の嘆きからも推し量ることが出来ます。残念ながら、ドストエフスキーが生きている時代、ブロムによるてんかん治療はロシアでは一般的ではなかったようです。ですから、ドストエフスキーはブロムの恩恵を受けることはできなかったのです。ドストエフスキーは「ブロム以前」のてんかん治療を受けざるをえませんでした。

 それがどんなものであったのか、よくわかりません。ヤノフスキーによって瀉血を施されていたことは、前に述べたとおりです。さすがに、去勢術は受けていなかったでしょうが、割礼はどうなのでしょう。下剤、アンチモン、ジギタリス、硝酸銀などは勧められて飲んだかもしれません。また、夏になると毎年のようにドイツのエムス鉱泉で療養していたのも、一つには、「てんかん治療」としての入浴を勧められたのかもしれません。

 しかし、ことごとく発作抑制には無力で、おそらく、そのたびにドストエフスキーは失望したことでしょう。

 ロシアが好きで、海外旅行に出るとすぐに望郷の念に駆られていたドストエフスキーが3度も西欧諸国に旅立った目的の一つも「てんかん治療」だったようです。どういうわけか、ロシアで頻発していたてんかん発作が、海外旅行にでると、ウソのように頻度を減じたからです(海外生活の緊張がてんかん発作を起こしにくくしたのかもしれません。ちなみに、「白痴」の主人公ムイシュキン公爵も「国外の」スイスでてんかんが「軽快」してロシアに戻って来るという設定になっています。また、海外旅行の際には、ドイツやフランスで名だたる医者にかかろうともしています。スースロワとの旅行を計画していた1863年6月17日、ツルゲーネフにあてた手紙でドストエフスキーは次のように書いています。「小生は癲癇を病んでいまして、それがしだいに募っていくので、絶望に陥っているくらいです。どうかすると発作のあとで、二週間も三週間も、ご想像できないような憂愁におそわれるのです!実のところ、小生はできるだけ近いうちに、ベルリンとパリに向けて出発します。それはただただ癲癇の専門医の診察を受けるためなのです(パリではトルーソー、ベルリンではロンベルグ)。ロシアには専門医がおりません。小生は当地の医者たちから、互いに矛盾撞着した診断を与えられるので、彼らに対してまったく信頼を失ったほどです」

 ドストエフスキーが臨床神経学史上の巨人たちの診察を受けることができたかどうか、わかりません。しかし、もし、受診できたとしても、有効な抗てんかん薬のないこの時代、ドストエフスキーが医者に対する不信を払拭することはなかったでしょう。実際、ある時期を境に、ドストエフスキーはてんかんを不治の病と達観、てんかんに関しては、いかなる医者にもかからなくなってしまったようです。

ブロム中毒


 さらに、万が一、ブロムが手に入ったとしても、それで、ドストエフスキーが満足したかどうかもわかりません。

 ブロムはあまりにも副作用が強いからです。

 ロコックの報告から13年後の1874年の時点で、すでにウイリアム・ハモンドはブロム中毒Broismを報告してり、「この男性の患者の姿形はとんでもないことになっている。首には巨大な膿瘍がみられ、まったくひどい状態にある。しかし、それでも、てんかん発作よりはましだ」とのべています。ブロム中毒は加齢ともに増えることが知られていますから、もし服用していればドストエフスキーがブロムの副作用に悩まされた可能性は高かったと思われます。ブロムは血液の濃度がある一定水準を超えると副作用が多発することが知られています。このため、今は血液濃度を指標に慎重に服用して頂いていますが、当時は血液濃度を測定する技術がまだありません。ドストエフスキーが副作用を訴えたところで、「てんかん発作よりはまし」と服用することを勧められたことでしょう。「怒りの閾値」が低かったドストエフスキーのこと、激怒し、すぐ服用をやめてしまったかもしれません。

 気力喪失、易疲労性、集中力低下、食欲減退、集中力や記憶力の低下などはブロムの副作用として「まだ軽い」ほうで、ひどくなると、落ち着きをなくし、ひどい頭痛に襲われ、眠れなくなります。周りの状況がわからなくなって、鬱状態となり、記憶力が失われ、幻覚に悩まされ、痴呆状態になることもあります。これに加えハモンドがいうようなニキビ、膿瘍などの皮膚の症状が顔を中心に全身に現れ、粘膜は乾き、舌はカサカサになって舌苔がべっとりと付き、腸閉塞をきたすようなひどい便秘になることもあります。

 これほどひどい副作用があるために、20世紀前半、より副作用の少ないフェノバルビタール、フェニトインなどの抗てんかん薬が商品化されると、ブロムはほとんど使われなくなります。実際、フェノバルビタールの有効性が報告された1912年当時、「てんかんを治癒させる薬を見つけだす試みは破綻した。てんかんの治療を求めて患者がやってくると医者は無力感に苛まされる」と書いている研究者もいるぐらいです。てんかん発作抑制にある程度有効であっても、その副作用ゆえに、ブロムが「実用的」ではないという認識がフェノバルビタール登場以前に広まっていたことが窺われます。しかし、最近になって、ブロムはわずかに見直されています。これは、先ほど述べたように、血中濃度をモニターしながら比較的安全に使えるようになってきたからです。現存のてんかん薬では押さえきれないてんかん発作、とくに、重症乳児ミオクロニーてんかんといった悪性難治てんかんの全身痙攣コントロールのために、まれに使用されることがあります。さらに、フェノバルビタールなどの通常の抗てんかん薬ではひどい副作用がでる間歇性ポルフィリアがある患者さんのてんかん発作に対しては唯一安全な抗てんかん薬です。

鑑別診断


 薬で8割近くが発作をコントロールできるということもあって、現在、てんかん外来にみえる患者さんで、ドストエフスキーほどたくさんの詳細な(そして、抗てんかん薬で修飾されていない「純粋な」)発作症状を聴取できる機会はそれほど多くありません。

 これほど多くの詳細な病歴が得られれば、ドストエフスキーがてんかんだと確信をもって診断できます。記録に残っている症状はてんかん発作以外考えられませんし、てんかん発作と考えて、臨床上、何の矛盾もないからです。ドストエフスキーは脳波検査が可能となる前の19世紀の人間ですから脳波所見は不明です。しかし、前にも述べましたように、脳波は補助診断にすぎません。これだけ病歴上の証拠がそろえば、ドストエフスキーがてんかんを有していたのは確定的といっていいでしょう。

 (ただし、ドストエススキーはてんかんなどではなかったと主張する人もいます。その代表格は、精神分析の創始者フロイトです。ドフトエフスキーはてんかんではなくヒステリーを有していたのだというのが、かれの診たてです。てんかん発作とみえるものは、エディプス・コンプレックスに基づく自己懲罰の現れにすぎない、というのです。「ドストエフスキーは自分がてんかんだといっており、他人からもそうみられていた。意識消失、筋硬直と、それに続く、虚脱がみられる激しい発作を起こしたからである。しかし、かれのてんかん発作は神経症の一症状にすぎず、診断としては、「ヒステリー・てんかん」というヒステリーの中でも重篤な一病型の可能性が高い」とフロイトは主張しました。シェテファン・ツヴァイクへの手紙の中で「てんかんは精神的素性とは無関係の器質性脳疾患であり、通常、知的退行、知的崩壊を伴うものです」と書いていますから、フランスに留学したフロイトにとっても、てんかんの概念はその程度のものだったのかもしれません。もちろん、現在ではまったく受け入れがたいい説です)

 てんかん発作があったのは間違いないとして、つぎに問題となるのは、ドストエフスキーがどんな発作型をもっていて、どのようなてんかんを有していたか(つまり、どのような原因(病因)によるどのようなてんかん発作がみられていたのか)という点です。

 発作型は、前に述べましたように、部分発作および部分発作の二次性全般化を考えるのが一番自然です。

 上に述べた、妻、友人、医師による発作の記録はドストエフスキーが運動性痙攣発作(たぶん強直間代発作でしょうが、運動症状が主体の複雑部分発作で終わることもあったかもしれません)がみられていたこと、しかし、覚醒時に発作がおきた場合には何らかの症状(前兆)が運動性痙攣発作に先行していたことを示しています。実際、ドストエフスキーが自分の発作を「微風をともなう発作coups de sang par rafales」と呼んでいたことは前に述べたとおりです。前兆だけで終わるような発作もあったのかもしれません。前兆は単純部分発作ですから、ドストエフスキーには単純部分発作から強直間代発作(もしくは複雑部分発作)に進展する発作がみられていたと推定されます。

アンリ・ガストーの全般てんかん説


 ところが、ドストエフスキーのてんかん発作は部分発作ではなく全般発作だったと主張した人がいます。

 現代てんかん学の枠組みを作るに当たって大きな足跡を残したフランスのてんかん学の大家、アンリ・ガストーです。

 1978年のエピレプシア誌にガストーは「てんかん症候学とてんかん予後論にかんするフョードル・ドストエフスキーの意図せざる寄与」という論文を発表してドストエフスキーのてんかんについて論じ「ドストエフスキー全般てんかん説」を展開したのです。しかし、その後、1983年、同じエピレプシア誌でオランダのヴォスクイルがガストーの説に疑問を呈しました。そこで、その一年後、ガストーはヴォスクイルの疑問にも答える意味も兼ねて、ドストエフスキーのてんかんに関する論文を再びエピレプシア誌に発表しました。

 以下に、ガストーの主張のあらまし、そして、それに対してヴォスクイルが提議した論点をみてみましょう。

素因性全般てんかん説の根拠


 ドストエフスキーが死んでから一世紀の間に、このロシアの作家のてんかんについて無数の論文が書かれたが、かいつまんでいうとそれは次のようになる、とガストーはまず述べます。

 ドストエフスキーは側頭葉病変に起因する器質性てんかんに罹患していたと推定され、その発作には至福感と恍惚感からなる独特な前兆が先行していた。てんかん発作はこの傑出したてんかん患者の思想、感情、文学作品に多大な影響を与えたと考えられる。ドストエフスキーはキリストをモデルとした充足感と愛につつまれた世界を熱望しており、その著作には普遍的人類愛が表現されている。一生を通して、毎月、発作がはじまる際、恍惚発作がかれに天国への扉を開いてみせていたことが、おそらく、その一因であろう。

 自分もこうした推定をそれまで信じてきた、いや、それどころか、こうした考え方の形成に自らかかわってきさえした、とガストーは述べます。そして、これは間違いだった、と自らを断罪します。ドストエフスキーは側頭葉病変に起因する器質性てんかんではなく、素因性の全般てんかん(特発性全般てんかんに罹患していたというのです。そして、ドストエフスキーの天才は生来のものであり、てんかんゆえにその天性が磨かれたわけではない、てんかんがあったにもかかわらず、才能を発揮したとみるべきだと主張します。

 ガストーは、ドストエフスキーのてんかんを素因性全般てんかんと考える根拠をいくつもあげています。

 ひとつは、有名な「恍惚前兆」にかんするものです。恍惚前兆はドストエフスキー部分発作説の根拠とされていましたが、ガストーは恍惚前兆の存在そのものに疑問を呈しています。恍惚前兆はドストエフスキーの創作にすぎず、そのてんかん発作は部分発作から全身痙攣に二次性全般化していたわけではないというのです。一方、素因性てんかんである証拠として、ドストエフスキーには脳の器質性病変を疑わせる神経学的異常や精神症状がみられなかったこと、息子がてんかんで死亡しており、家族性素因が疑われることが挙げられています。

恍惚前兆


 以上の中でもっとも力をこめて書かれているのが、ドストエフスキー部分発作説の根拠となる恍惚前兆についてです。ドストエフスキーのてんかん発作には恍惚前兆などもともと存在していなかった、というのがガストーの主張です。

 まず、ガストーが槍玉に挙げている「伝説的な」恍惚前兆についてみてみましょう。

 前兆とはてんかん発作直前にみられる発作の先駆けともいうべき症状で、これが感じられるときにはすでに脳内のいずれかで異常電流が流れており、単純部分発作の一種であることは以前説明しました。

 前兆は、身体の違和感とか、胃からこみ上げてくるような吐き気など、不快感を伴うものがほとんどです。しかし、恍惚前兆はこれとは逆で、快感を呼び起こすような前駆症状です。従来、ドストエフスキーの発作にはこの恍惚前兆が先行していたと信じられてきました。

 その証拠とされたのが小説「白痴」の中で主人公ムイシュキン伯爵がおこすてんかん発作です。

 「…….何かしらあるものが彼の眼前に展開した。異常な内部の光が彼の魂を照らしたのである。こうした瞬間がおそらく半秒くらいも続いたろう。けれども、自分の胸の底からおのずとほとばしりでた痛ましい悲鳴の最初の響きを、彼は意識的にはっきり覚えている。それはいかなる力もってしても、止めることのできないような叫びであった。続いて瞬間に意識は消え、真の暗黒がおそったのである…….

 …….癲癇の発作…….の瞬間にはふいに顔、ことに目つきがものすごく歪む、そして痙攣が顔と全身の筋肉を走って、恐ろしい…….悲鳴が胸の奥のそこからほとばしり出る…….誰か別の人間がいて、それが発した声のようにさえ思われる…….」

 (ドストエフスキー「白痴」 米川正夫訳)

 てんかん発作を起こす直前のこの「異常な内部の光」について、ムイシュキン公爵は詳細にわたって追想します。

 「…….憂愁と精神的暗黒と圧迫を破って、ふいに脳髄がぱっと焔でもあげるように活動し、ありとあらゆる生の力が一時にものすごい勢いで緊張する。生の直覚や自己意識はほとんど十倍の力を増してくる。が、それはほんの一転瞬の間で、たちまち稲妻のごとくすぎてしまうのだ。そのあいだ、知恵と情緒は異常な光をもって照らし出され、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安は、諧調に満ちた歓喜と希望のあふれる神聖な平穏境に忽然と溶け込んでしまうかのように思われる。しかし、この瞬間、この光輝は、発作が始まる最後の一秒…….の予感にすぎない…….」

 これが恍惚前兆といわれているものです。そして、この迫真的描写は実際にこの前兆を体験したものにしかなしえないだろうと考えられてきました。つまり、ドストエフスキーの前兆そのものだろうと推定されてきたのです。

 この一瞬の間に過ぎ去る「光輝」について公爵は次のように分析します。

 「感覚のこの一刹那が、健全なときに思い出して仔細に点検してみても、いぜんとして至純な諧調であり、美であって、しかも今まで聞くことは愚か、考えることさえなかったような充溢の中庸と和解し、至純な生の総和に合流しえたという、祈祷の心持ちに似た法悦境を与えてくれるならば、病的であろうとアブノーマルであろうと、少しも問題にならない!…….もしその一刹那に、つまり、発作前、意識の残っている最後の瞬間に、『ああ、この一瞬間のためには一生涯を投げ出しても惜しくはない!』とはっきり意識的にいういとまがあるとすれば、もちろん、この一刹那それ自体が全生涯に値するのである」

 そして、ロゴージンに次のように語ります。

 「この一刹那に、ぼくはあの時はもはやなかるべしという警抜な言葉が、なんだかわかってくるような気がした…….あの癲癇もちのマホメットが引っくりかえした水瓶から、まだ水の流れ出さぬさきに、すべてのアラーの神の棲家を見つくしたというが、おそらくこれがその瞬間なのだろう」

 似たような記述が「悪霊」にもみられます。

 「よる寝ない習慣をやめなきゃ駄目だよ」と諭すシャートフに対しキリーロフは次のように答えます。

 「ある数秒間があるのだ、――――それは一度に五秒か、六秒しか続かないが、そのとき忽然として、完全に獲得されたる永久調和の存在を、直感するのだ……それは論駁の余地のないほど明白な心持ちなんだ。まるで、とつぜん全宇宙を直感して、『しかり、そは正し』といった…….有頂天の歓喜ではなく、ただ何とはない静かな喜悦なのだ…….もし十秒以上続いたら、魂はもう持ちきれなくて、消滅してしまわなければならない…….ぼくはこの五秒間に一つの生を生きるのだ。そのためには、一生を投げ出しても惜しくない。それだけの価値があるんだからね…….」

 「きみ、癲癇の持病はないのかい?」というシャートフの問にキリーロフは「ない」と答えます。

 しかし、シャートフは忠告します。「じゃ、今に起きるよ。気をつけたまえ…….癲癇はちょうどそんな具合に始まっていくって、ぼく、人から聞いたことがあるよ。ぼくはある癲癇もちから、発作の前の感覚を詳しく話してもらったが、いまきみのいったのと寸分ちがわない。その男もやはり五秒間と、はっきり区切ったよ。そして、それ以上は持ちきれないといったっけ。きみ、マホメットが甕から水の流れ出てしまわないうちに馬に乗って天国を一周した話を思い出して見たまえ。甕―――これがつまりその五秒間なんだ。君の永久調和にそっくりじゃないか。しかも、マホメットは癲癇持ちだったんだからね。気をつけたまえ、キリーロフ、癲癇だよ」(以上、米川正夫訳『悪霊』)。

 小説だけではありません。ドストエフスキーの思い出を書き綴ったストラーホフとソフィア・コバレフスカヤもドストエフスキーの恍惚前兆について触れています。

 まず、ストラーホフですが、かれはドストエフスキーの死後2年目に出版した「回顧録」に次のように書いています。

 「フョードル・ミハイロヴィチは発作前の高揚した気分について何度かわたしに話してくれたことがある。『ほんの一瞬、わたしは至福に満たされることが何度かあった。それは、普通の時には想像もつかない、それを経験した人間にしか想像もできないようなものだ。そういうとき、わたしは自己や全宇宙との永遠なる調和を直覚する。全知覚はおそろしく鮮明となり、その心地よさはたとえようもない。その数秒間の至福の時を十年間の人生、いや全生涯と取り替えてもいいという人間だっているかもしれない』と」

 ソフィア・コバレフスカヤはドストエフスキーが彼女と彼女の姉に語って聞かせた「最初」の発作の模様を「こども時代の思い出」に書き残しています。それは、シベリア流刑中の復活祭イブの夜、思いがけず親友が尋ねてきて、ドストエフスキーがこの友人と夜遅くまで神について語り合っていたとき起こります。突然、ドストエフスキーが「神は存在する、まさしく存在するのだ!」と叫んだというのです。近くの教会から深夜のミサを告げる鐘が鳴り始めたときのことでした。ドストエフスキーは語り続けました。「あたりの空気が巨大な音響につつまれ、私は動こうとしたが、その時、天国が地上に舞い降り、私を呑みこんでしまうのを感じた。本当に私は「神」に触れたのだ。神が私のところにやってきたのだ。『然り、神は存在する』と私は叫んだ。しかし、それ以外のことは何も覚えていない。われわれてんかんもちが発作前数秒間に感じる幸福をあなた達のような健康人は想像することもできまい。コーランの中でマホメットは、天国を見、天国に行ってきたといっている。みずからを賢人とうぬぼれている間抜けな連中はマホメットを嘘つき、いかさま師と信じて疑わない。しかし、違うのだ、断じてかれは嘘つきなどではない、かれはてんかん発作の間に実際に天国に行ってきたのだ。私同様、かれもこの病の犠牲者だったのだ。この至福の状態がいったいどのぐらい続くのか、数秒か、数時間か、数ヶ月か、それはわからない。しかし、信じ給え、人生が与えてくれるはずのすべての歓びを提供されても、わたしは、この至福の状態と交換しようとは思わないだろう」

 似たようなことを、ドストエフスキーはウランゲル男爵にも話しているそうです。

創造された恍惚前兆?


 しかし、ガストーは「恍惚前兆」はドストエフスキーの創作にすぎず、元来、そうした前兆などは医学的にありえないと主張します。

 その根拠として、自らのてんかん発作について日記にこと細かに記していたドストエフスキーが恍惚発作についてはなにも書き残していないこと、ストラーホフとソフィア以外の友人や妻のアンナが「恍惚前兆」についてなにも述べていないことを挙げています。さらに、ガストー自らの臨床経験をふり返ってみても、「恍惚前兆」があるてんかん患者に出会ったことがない点をつけ加えます。

 たしかに、恍惚前兆については、日記や手記にドストエフスキーは何も書いていないようです。また、ドストエフスキーが過去の女性関係も含め甘えかかるように何ごとも話し、相談していた愛妻アンナも「思い出」の中で恍惚前兆についてまったく触れていません。にもかかわらず、ストラーホフとソフィアだけが「恍惚前兆」について書き残しているというのはたしかに奇異な感じがします。

 ガストーがこの論文を書くきっかけとなったのはカトー(Jacques Cateau)が書いたドストエフスキー伝だったそうです。その中でカトーはストラーホフとソフィアがまったく違う時期(シベリア時代以降とシベリア時代)に起きたドストエフスキーの恍惚前兆について記しているにもかかわらず、内容が極似していることを指摘しているそうです。すなわち、ストラーホフの語った発作は、復活祭前夜、10時をすぎた夜遅く、大変重要な抽象的な話題について熱気を帯びた会話の最中に起きたことになっていますが、ソフィアが語る発作も、復活祭前の夜、古い友人と文学や哲学について話しているときに起きていて、発作内容のみならず、周りの状況も似ているというのです。そこから、ガストーはストラーホフの手記からかなり遅れて発表されたソフィアの手記はストラーホフの手記をそのまま転用したのではないかと疑念を呈します。

 さらに、ドストエフスキーが語ったとストラーホフが書いている「恍惚前兆」の内容が「白痴」や「悪霊」の文章の引き写しにすぎない可能性をガストーは指摘します。実際には、ドストエフスキーは恍惚前兆についてストラーホフに語ったことなどなかったのではないか、いうのです。では、「白痴」や「悪霊」にみられる「恍惚前兆」は何かというと、おそらく、それは、あとで述べる発作前駆症状からドストエフスキーが創造したものにすぎず、発作直前にかれが単純部分発作としての「恍惚前兆」を体験していたわけではないというのです。

 たしかにそういわれてみますと、「白痴」「悪霊」の記述とストラーホフやソフィアの手記の話はよく似ています。

 ガストーがいうように、ドストエフスキー本人から何も聞いていないにもかかわらず、ストラーホフが「白痴」や「悪霊」から、あたかも、ドストエフスキーが恍惚前兆をもっていたかのように書いたかどうかはわかりません。しかし、二つの小説に繰り返し書いているぐらいですから、この恍惚前兆のことをドストエフスキーがストラーホフなどの友人、知人に「お得意の話」として繰り返し話していた可能性はあるかもしれません。問題は、それをドストエフスキー自身の経験として話していたかどうかです。ストラーホフはきっとそれを実話として受け取ったのでしょう。しかし、日記に何も書き残していない、アンナも知らないとなると、ドストエフスキーとしては、自分が創造した「一般論」を語っただけだったのかもしれません。身近に暮らしていたアンナはそれがドストエフスキーの実体験か創作かの区別はついたでしょう。しかし、ストラーホフはそれをドストエフスキー本人の実体験ととってしまったのかもしれません。

 ガストーの説も私の説明も、証拠のない、仮説にすぎません。しかし、少なくともガストーに関していえば、いささか強引なこの仮説には、かれの豊富な臨床経験の裏付けがあります。

 みずからの35年にわたるてんかん診療経験をふりかえって、ガストーは「恍惚前兆」をもったてんかん患者などは一人もいなかったと指摘します。つまり、医学的にみて、「恍惚前兆」の存在そのものに大いなる疑念があるというのです。

 同じことをヴォスクイルも書いています。

 かれはオランダ中のてんかん学者に恍惚前兆を有する患者を経験したことがあるどうか聞いて回ったそうです。しかし、恍惚前兆を経験している医師は一人もいなかったというのです。

 かくして、「恍惚前兆」は側頭葉てんかんの代表的前兆のように信じられてきましたが、それは、ドストエフスキーの創造力、筆力に幻惑されたにすぎず、そのような前兆をもつ患者は皆無に等しい、とガストーは主張するのです。実際、そういわれてみると「恍惚前兆」はドストエフスキーの恐るべき創作力が生み出された幻にすぎないという気がしてきます。

 ドストエフスキーの恐るべき創作力といえば、わたしにも似たような経験があります。

 はじめてドストエフスキーの恍惚発作について知ったのは故和田豊治先生の「臨床てんかん学」においてでした。しかし、それを読んで以後、20年以上にわたっててんかんの患者さんを診てきていますが、恍惚前兆を訴える方に遭遇したことは一度もありません。ただ、それは、小児科医としてこどものてんかんだけを診ているためで、成人の側頭葉てんかんなどでは恍惚前兆が結構あるのだろうと漠然と思ってきました。ところが、ガストーの論文を読んで、おやおやと思い、念のため、もう一度、和田先生の本を読み返してみました。すると、てんかんの前兆として躁状態に近い喜悦や歓喜(pleasure)といった感情状態がもたらされうることはむしろ稀である」と和田先生はコメントされていました。しかし、このコメントを読み返すまで、この文章のことは完全に忘れていました。和田先生のこのコメントのあとに、「白痴」の本文が引用されていたのですが、どうやら、「諧調に満ちた歓喜と希望のあふれる神聖な平穏境」という文章があまりに強烈だったために、和田先生の「むしろ稀である」というコメントのほうはきれいさっぱり記憶から吹き飛んでしまっていたようです。

 このように、恍惚前兆はめったにみられません。

 しかし、全くないというわけでもないのです。

 その証拠として、ヴォスクイルはボローニャ大学のグループが報告した恍惚発作をともなう側頭葉てんかんの一例を挙げています。報告されている症例は30才男性で、てんかん発症は13才、発作としては動作の停止と意識の混濁からなる複雑部分発作がみられています。そして、そうした発作の前にこの男性は「言葉で言い表せぬ歓び」を感じとっていました。その歓びは、彼が愛してやまない音楽を聴いているときにわき起こる歓びに匹敵するものでした(セックスの最中に発作が起きたときの経験から、この歓びが性的快感とは別物だともこの男性は断言しています)。この発作が始まると不愉快な感情、思いは消え去り、この男性は至福感に包まれます。その「恍惚前兆」の最中に脳波が記録されました。複雑部分発作のときによく見られる、脳波の平坦化とそれに続く律動波が認められ、まぎれもないてんかん発作であることが確認されました。このボローニャからの報告以外にも発作時脳波は記録されていませんが、いくつか「恍惚前兆」の報告がなされています。

 このように、たしかに「恍惚前兆」は稀かもしれません。しかし、全くないとはいえないのです。

恍惚前兆以外の前兆


 さらに、もし、恍惚前兆がドストエフスキーの創作にすぎなかったとしても、それによって、ドストエフスキーが部分てんかんをもっていなかったということにはならない、とヴォスクイルは指摘します。友人、妻、主治医が目撃し、書き残した覚醒時の発作の記録からは、恍惚前兆ではないにしてもドストエフスキーの発作に何らかの前兆、すなわち、部分発作が先行していたことが推測されるからです。

 「彼はくるりと引き返そうとしたが、私たちが何歩も行かぬうちに、たちまち発作を起こした」

 「突然、ドストエフスキーは奇妙な顔つきをして恐怖に襲われたような目つきになった。そうした状態が数分間続いた後、虚ろな声でかれは「俺は今どこにいるんだ」と呟き、外気を求めるように窓に駆け寄った」

 「『死にそうだ』と叫びながらドストエフスキーはヤノスキーの助けを求め…….やがて、投げ出すように頭を後屈させ、けいれん様の震えが始まった」

 「一瞬、言葉を探し求め、何かを要求するかのように彼は動きを止めた。わたしは彼に注目した。何かとてつもないことでも喋ってくれるのではないかと期待したのだ。しかし、半ば開いた口から飛び出てきたのは奇妙な耳障りな音だった」

 「突然、何か言いかけて、真っ青になったかと思うと、ソファから身体を浮かすようにして私の方にもたれかけてきた。すっかり変わってしまったその顔つきをみて私はぎょっとした。急に、おそろしい、人間のものとも思われぬ叫びが、というより悲鳴がひびきわたって、彼は前にたおれはじめた」

 以上の記載によって、覚醒時の発作では、痙攣発作がおこる前、発作が来ることを感じとったかのようにドストエフスキーが「くるりと引き返そうとし」たり、「恐怖に襲われたような目つきになった」り、「言葉を探し求め、何かを要求するかのように…….動きを止めた」り「何かを言いかけた」りしていたことがわかります。このことは、恍惚前兆ではないにしても、何らかの発作を予感させる症状、すなわち前兆(部分発作)が痙攣発作に先行していたことを示唆しています。やはり、ヴォスクイルが主張するように、ドストエフスキーのてんかん発作は部分発作と考えたほうがよさそうです。

発作前駆症状


 ガストーが指摘しているように、ドストエフスキーは発作前駆症状も経験していたようです。

 てんかんの患者さんの一部には、発作の数日前、あるいは、数時間前から、発作を起こすのではないかと思わせる行動異常が出現することがあります。理由もないのに、妙にそわそわしたり、怒りっぽくなったり乱暴になったりするのです。発作がくることを患者さん自身が自覚している場合もありますし、「今日か明日ぐらいが怪しい」などと予測される保護者の方もいます。発作を予告するような(しかし、発作の直前にみられるものではない)こうした症状を発作前駆症状と呼びます。てんかんの患者さんの一割程度にみられるといわれています。本人は頭痛、不安、苛立ち、気分の落ち込みなどを感じているようですが、はっきりしません。しかし、前兆同様、「言葉に言い表しがたい、なんともおかしな気分」であることがどうやら多いようです。

 ドストエフスキーは小説「白痴」のなかで、その「言葉に表しがたい」発作前駆症状と思われるムイシュキン公爵の行動、心理を書き記しています。

 第二編の5、ムイシュキン公爵が「恍惚前兆」に引き続いて痙攣で倒れる日のことです。

 この日、公爵は一番列車に乗って半年ぶりにモスクワからペテルブルグに戻ってきて、レーベジェフの家を訪ずれ、ナスターシャの安否を尋ねます。そして、ラゴージンの家に寄って彼としばらく話をします。その後、ナスターシャに会おうとしてレーベジェフの義妹の家を訪ねますが、不在を告げられます。仕方なく、宿に戻ったところでラゴージンに殺されかかり、ちょうどその時、てんかん発作を起こします。

 その日の朝、ペテルブルグの停車場で公爵は「だれかの怪しい燃えるような二つの目が、列車で到着した人々を取り囲む群衆の中に、突如ちらりとひらめいたように」感じます。これは、公爵をつけ狙うラゴージンの目ですが、「沈み込んでふさぎがち」にもかかわらず、群衆の中に埋没しているはずのわずかな視線に気づいており、公爵の神経が妙にとぎすまされていることを暗示しています。また、レーベジェフの家では「頭痛」を訴え、別荘地での静養をレーベジェフに薦められます。さらに、ペテルブルグ駅での「二つの目」のことをラゴージンに話し、「へえ!いってえだれの目だっただんろう?」としらばっくれるラゴージンに「人込みの中だったから、ただそんな気がしたばかりかもしれないよ…….ぼくはなんだかしだいに、5年前よく発作がおこってたときと、同じような心持ちになって行くみたいだ」と公爵はつぶやきます。

 しかし、明らかにおかしくなるのは、ラゴージンと別れて、夕方6時頃、別荘地行きの列車に乗り込むあたりからです。

 いったんは座席に座ったものの、公爵は「切符を床へたたきつけ」停車場を出ます。そして「自分がことに病的な気持ちにとらえられているのを感じ」ます。それは「以前病気の激しかったとき、発作の襲おうとするまぎわによく経験したのと、ほとんど同じ気持ち」でした。「こうした発作の起こりそうなときの彼は、自分でも知っていたが、おそろしくぼんやりしてしまって、よくよく注意を緊張させて見ないことには、人の顔やその他のものを一緒くたにして、間違えることが多かった」のです。自分を刺し殺すかもしれない象牙の柄のナイフ、つけ狙うラゴージンの二つの目、ある宿屋での殺人事件など、さまざまな想念が公爵の頭の中で走馬燈のように駆け巡ります。その一方で、例の恍惚前兆のことにも思いを凝らそうとしますが(このあたり、ドストエフスキーは、発作前駆症状と前兆とをはっきり区別せず書いており、このことが、先ほど述べた、ガストーの「恍惚発作」創造説の根拠になっているわけです)またも、象牙の柄のナイフに思考の矛先が戻ってきます。やがて、公爵は「どうかするとすべてのものが混沌として、でたらめで、醜陋をきわめることがある」と感じながらナスターシャを尋ねてペテルブルグ区にやってきます。そして、「病気は再発しかかって」いて、それは「疑うまでもない」という確信に至ります。ナスターシャは不在で、ムイシュキンは仕方なく宿に帰ります。そして、宿の階段をのぼって踊り場にさしかかったとき、ロゴージンが襲いかかってきます。「ロゴージンの目はぎらぎら輝き、物狂おしい薄笑いに歪んで」いて、「右手があがって、なにやらその中できらりと光」りますが「公爵はその手を押しとどめようとも」しません。そして、このときてんかん発作が始まり、驚いたロゴージンは逃げ去ります。

 ここに至るまでに、さまざまに揺れ動く公爵の心理とそれにともなう行動がみごとに活写されています。しかし、そのすばらしさは、全文を引き写してこないとわかって頂けないでしょう。まことに小林秀雄が言うように「引用は断念しなければならない。引用しようと思えば一章全体の語句が鎖につながれている様に起きあがってくる」のです。しかし、発作前駆症状を実感しうる得難い一章であることはたしかです。

 また、「カラマーゾフの兄弟」には、てんかん発作は前もって予言できないことを知っているんだ、ごまかすな、とイワンがスメルジャコフに詰問する場面が出てきます。これに対し、スメルジャコフは、発作の日時は予言できないが、その予感だけは決まってある、と答えています。これも、また、ドストエフスキーのてんかんに発作前駆症状がみられていたことを暗示しています。

 この前駆症状というのは前兆と一応区別されて考えられています。発作そのもの、すなわち、脳内の突発性異常電流に基づく症状ではないとされています。しかし、本当にそうなのか、よくわかりません。前兆と異なり、前駆症状は捉えどころのない症状なので、医学的研究の対象となりにくく、十分な検討がなされていないからです。てんかん外科手術前の検査として、脳の表面や深部に電極を設置して脳波を記録すると、本人も自覚していない脳波上だけの「てんかん発作」が頻発している場合があります。もしかしたら、一部の患者さんでは、臨床症状を伴わないそうした「潜伏てんかん発作」の積み重ねが気分の変動などに現れているのかもしれません。しかし、実際にはよくわかっていません。ただ、部分発作のある患者さんに多いという報告だけはなされています。ですから、発作前駆症状をこれほど見事に描き出しているということもドストエフスキー「部分てんかん説」の根拠となりえるかもしれません。

全般てんかんと部分てんかん(側頭葉てんかん)


 以上から、ドストエフスキーのてんかん発作が部分発作であることを否定するガストーの議論はかなり強引なものだということがわかっていただけたかと思います。しかし、ガストーはこれ以外についても論を進めてドストエフスキーの素因性全般てんかん説を展開しているので、それについてもみてみたいと思います。


図4 大脳の側面像

フリー百科事典『ウィキペディア』より

 ただし、その前に、ガストーがなぜ全般てんかんにこだわるのか、また、側頭葉てんかんとは何かについて少し補足しておくべきかもしれません。

 大脳半球は大きな脳溝を境として前頭葉、頭頂葉、側頭葉、後頭葉の4つに区分されます。側頭葉は頭頂葉の下方に前頭葉と後頭葉に挟まれるようにして側頭骨に包まれています。ただし、側頭葉は脳の内側へ入り込んでおり、この部分も側頭葉に含まれます。側頭骨に接し、外側に位置する側頭葉を外側側頭葉、内側に入り込んだ側頭葉を内側側頭葉といっています。内側側頭葉は系統発生上古い皮質で、組織学的にも外側側頭葉とは異なっています。

 側頭葉は他の脳葉同様、数え切れないほどたくさんの機能にかかわっているものと推定されますが、外界信号の統合処理に関与し、外界刺激を認識し、過去の記憶と照らし合わせてその意味を判別することが外側側頭葉の主要機能の一つと考えられています。一方、内側側頭葉は他の部位の神経細胞群(内側側頭葉の海馬、扁桃核を含め辺縁系と呼ばれています)とともに記憶に関与し、また、種の保存に必要な情動や自律神経機能を統合する役割も果たしていると考えられています。


内側側頭葉てんかんのMRIとポジトロンCT

右上は脳の正中線における矢状断で、この図で橙色の垂直線で撮影した冠状断が左下図、30°ほど前方に傾けて撮像したものが右上図。この右上図で下方両側に房のように突き出ているものが側頭葉である。左下図で内側に灰色の塊のようなものがみえるのが内側側頭葉の海馬で、右に比べ左の海馬が小さいのがわかる(矢印;海馬萎縮)。ポジトロンCTでも右海馬は索状に黄色く写っているのに、左海馬には黄色のものはみられない。これは、右海馬でエネルギー源の糖の取り込みが低下していることを示している。

 側頭葉てんかんとは、側頭葉に発作焦点があり、側頭葉起源のてんかん発作が繰り返し起きる病態をいいます(同様に、発作焦点の部位によって、前頭葉てんかん、頭頂葉てんかん、後頭葉てんかんが区別されます)当然の事ながら、側頭葉てんかんでは発作時、そして、発作間欠時にも、側頭葉の機能を反映した症状がみられます。

 内側側頭葉にある海馬、扁桃体といった辺縁系組織は痙攣閾値が低く、発作焦点を形成しやすくなっています。さらに、外側側頭葉に始まったてんかん発射は急速に内側側頭葉に伝播、内側側頭葉で発作が励起されて、発作が遷延し、他の脳葉にまで異常放電が拡大していくこともあります。このため、内側側頭葉、とくに辺縁系組織は「てんかん発作のペースメーカー」とさえ呼ばれています。

 大脳半球4つの脳葉のうちもっとも大きいのは前頭葉で、脳表の約3分の1を占めます。したがって、もし、てんかん焦点になる可能性がどの脳葉でも同一であれば、面積比からいって、前頭葉てんかんがもっとも多くなるだろうことが予測されます。事実、小児の部分てんかん(症候性もしくは潜因性局在関連てんかん)では、前頭葉てんかんがもっとも多いといわれています。ところが、成人に達すると、側頭葉てんかんが前頭葉てんかんを抜いて部分てんかん、とくに、難治性部分てんかんのトップに躍り出ます。おそらく、それは、辺縁系内側側頭葉のてんかん発作への閾値が低いためだと思われます。このため、成人では、部分てんかん、とくに、難治性部分てんかんといえば側頭葉てんかんというイメージができあがっています。成人てんかんで側頭葉てんかんが何よりも問題とされるのは、こうした理由からです。

 側頭葉てんかんの病因としては腫瘍、先天性形成異常、瘢痕組織などさまざまですが、詳細は省きます。ただし、海馬の神経細胞が脱落する側頭葉内側硬化という病態があって、難治性側頭葉てんかんの病因のかなりの部分を占めており、しかも、外科治療によって劇的によくなる、ということは頭の片隅に入れておいてください。


小児症候性局在関連てんかん発作消失の経時的変化

側頭葉てんかんは、前頭葉てんかんに比べ、発作消失率が低く、このことが、成人で側頭葉てんかんが主要な難治てんかんとなっていく要因の一つと考えられる。

 側頭葉てんかんの代表的症状は、「胃からこみ上げてくるような」異常感覚を感じた後、意識が消失、目がうつろとなり、口をもぐもぐさせたり、手に持っているものを弄んだりといった自動症に至る、というものです。そして、ときとして、全身痙攣に至ることもあります。こうした発作症状の移り変わりは、前兆(単純部分発作)から複雑部分発作、そして、最終的に二次性全般化発作に至る過程を反映しています。前兆としては、先に述べた、上行性上腹部異常感覚以外にも、恐怖感、異常嗅覚、異常味覚、既視感、幻聴、幻視、めまいなどがあります。そして、きわめてまれですが、先ほど述べたように、恍惚発作のような至福感、性的興奮が発作に先行することがあります。

家族発生


 さて、それでは、つぎに、家族性発生についてみてみましょう。

 たしかに、ドストエフスキーの次男アレキセイはてんかん発作重積を疑われる状態で死亡しています。アンナによると、ドストエフスキーはこのアレキセイを溺愛していたようで、自分のてんかんが最愛の次男に遺伝し、死に至らしめたのではないかという自責の念に相当苦しめられたようです。しかし、ドストエフスキーの思いは思いとして、次男にてんかんがあるというだけで、ドストエフスキーのてんかんは家族発症の特発性てんかんであるというのはちょっと乱暴です。アレキセイのてんかん発作重積の原因が脳炎や脳梗塞などの重篤な中枢神経疾患だった可能性もありますし、だいいち、てんかん発症者はアレキセイだけで、次男以外にてんかんの血縁者はいません。てんかんの頻度を考えると、親族にたった1人しかいないのに、ドストエフスキーのてんかんが家族性発症だとはとてもいえません。

 また、ドストエフスキーのてんかんが家族発症の素因性特発てんかんだったとしても、だからといってガストーが言うようにドストエフスキーのてんかんが部分てんかんではなかったということにはなりません。

 最近、成人においても、家族発症性の遺伝性部分てんかんの存在が知られるようになってきているからです。その中には家族発症性遺伝性側頭葉てんかんも含まれています。家族性発症の側頭葉てんかんにはいろいろな臨床特性のものが報告されていて、12番染色体長腕をはじめとしてさまざまな原因遺伝子座が同定されているものもあります。そうした家族性側頭葉てんかんのうち、最初に報告された家系は、発症が10代から若年成人期とされています。もちろん、今となっては証明のしようがありませんが、ドストエフスキーがこのタイプの側頭葉てんかんを有していた可能性だってありうるわけです。

 一方、複雑部分発作の自動症の中には、遁走発作という、駈けだしていってしまうようなものもあります。25歳の時、知人宅のパーティーで起きたというドストエフスキー発作もそうしたものの一つだったかもしれません。奇妙な顔つきをして恐怖に襲われたような目つきになり、虚ろな声で「俺は今どこにいるんだ」と呟き、外気を求めるように窓に駆け寄ったという、例の発作です。窓台に座ったかれの顔はゆがみ、頭は一方に傾き、身体全体がふるえはじめ、びしょ濡れになるまで冷水をかけられたドストエフスキーは充分意識を回復しないまま通りにかけだしていっています。ただし、これは、前にも言いましたように、発作後自動症だった可能性もあります。

 発作のないときにも、側頭葉てんかんでは、さまざまな行動異常、精神神経症状が認められることがあります。行動異常としては多動、衝動的行動、注意散漫、暴力行為などがみられ、精神症状としては記憶力減退、易怒性、統合失調様症状などがあり、また、男性の場合、高率に性的無関心がみられるといわれています。

 ガストーが側頭葉てんかんといっている場合、以上のような病像を念頭に置いていたのだとご承知おきください。

 側頭葉てんかんのような部分てんかんは、脳に何らかの問題があるために発症し、てんかんの素因は余り関係がないとガストーがこの論文を書いた時点では考えられていました。脳に何らかの異常があり、このため、知能障害、精神障害の合併率も高いというのが、てんかん専門家の間では「常識」でした。これに対し、全般性てんかんには遺伝が関与し、大きな異常がない脳に生ずると思われていました。つまり、ドストエフスキーのように、傑作小説をいくつも書き残した高度な知性には部分てんかんよりも全般てんかんがふさわしいというのが、当時の支配的仮説だったのです。

 当然、ガストーもこの図式の中で論じています。

 しかし、部分てんかんが何らかの脳病変に起因するという説は成人てんかんではともかく、小児てんかんには当てはまらないことが、その後、わかってきました。小児には機能性部分てんかんと呼ばれる、遺伝性が高く、脳の「キズ」とは無関係の部分てんかんの症例が相当数いることがわかってきたのです。事実、ガストーもその後、後頭葉発作を特徴とするそうした「良性」小児部分てんかんを報告することになります。部分てんかんだからといって脳に病変があるとは限らないのです。

旺盛な性欲


 性欲の減退がないことも側頭葉てんかんにしてはおかしい、とガストーは論じています。

 たしかに、てんかん発症後もドストエフスキーの性欲が旺盛だったのは事実です。46歳でアンナと2度目の結婚をした後、8年間にソフィア、リュボフ(エーメ)、フョオドル、アレキセイと2男2女が生まれていますし、1876年、55歳の年のアンナへの手紙の中でも

 「だれがお前みたいにわたしをあまやかしてくれるだろう、だれがわたしと一心同体に融け合うだろう?それに、あの点についても私たちのひみつはみんな共通なんだからね。それだもの、どうしてわたしはお前の原子の一つ一つをあがめていつもするようにおまえ全体を飽くことなく接吻せずにいられよう?なにしろお前は、あの点でどんなに素晴らしい女房なのか、自分でも、合点がいかないくらいだ。しかし、帰ってからなにもかも証明してみせる。まあ、わたしが情欲の強い男だとしても(たとえ情欲が強い男であろうとも)それがこれほど飽くことを知らず女性を愛することできるということを、いったいお前は考えないのかね。それはわたしがもう千たびもお前に証明したじゃないか。が、こんど帰ったら、わたしはお前を食べてしまいそうだ」

 と、何ともコメントのしようのないことを書いています(この文章のすぐあとに「ねえ、この手紙はだれも読みはしないし、お前もまただれにも見せなどしないからね」などという文章が続いていますが、どうも、ドストエフスキーは後世の文学史家の執念深さを見誤ったようです)。

 前にも述べたように、たしかに、側頭葉てんかんの患者さんでは性欲減退がよくみられます。しかし、よくみられるといっても、せいぜい側頭葉てんかんの患者さんの3分の1程度です。性欲減退がみられない側頭葉てんかんはいくらでもあります。「情欲が強い」からといって、側頭葉てんかんではないと結論するのは、これも、いささか乱暴です。

てんかんを乗り越えて


 これ以外にも、ガストーは、ドストエフスキーが部分てんかんではない理由として、器質性脳疾患を疑わせる症状がみられないこと、睡眠発作が主体であること、つねに痙攣性発作がみられていたことなどを挙げていますが、長くなりますので、これ以上詳しくは述べません。しかし、ヴォスクイルはそうしたことも含め、ドストエフスキーが2次性全般化痙攣をともなう複雑部分発作を有していなかった断言することはできないと指摘しています。

 ヴォスクイルの論文がでた翌年、ガストーは再びエピレプシア誌にドストエフスキーのてんかんについて再論しています。その論文では素因性全般てんかん説が後退し、ドストエフスキーのてんかんは全般てんかんとも部分てんかんともどっちともいえないという曖昧な結論で終わっています。

 結論だけみれば、後から書かれた論文の方が医学的には正しいということになります。

 しかし、論文としてみるならば、じつは、最初の論文の方が圧倒的に優れています。最初の論文は医学論文としては例外的なほど情熱に溢れ、迫力があり、アンリ・ガストーという人がてんかん学の世界で敬愛されていた理由が今さらながらに納得できる論文です。

 医学を含めた自然科学は「正しい」知識を積み重ねて発展していきます。そして、正誤の判断だけを指標にすれば、後世の人間はどんな凡人であっても自然科学史上の偉人たちをいとも容易に弾劾できてしまいます。ガストーの論文も「医学的正しさ」を金科玉条にすれば、あとの方が正しいという、ある意味で当たり前な、つまらない結論に行き着いてしまいます。しかし、ガストーの最初の論文はそういう観点だけではみるべきではない例外的な医学論文ではないかと思われます。

 ガストーの最初の論文における真の結論は、じつは、「ドストエフスキーの天才は生来のものであり、てんかんゆえにその天性が磨かれたわけではない、てんかんがあったにもかかわらず、才能を発揮したのだ」いうものです。全般てんかん説はその結論へ至る条件の一つにすぎません。しかし、どうやら、この結論を証明しようとする熱い想いが、論理をやや強引におしすすめることになったようです。そうまでして、このことを証明しようとした裏には、ドストエフスキーとてんかんの関係についての通説をなんとしてでも覆したいというガストーの強い欲求がみてとれます。通説とは、もう一度確認しておきますと、

 ドストエフスキーは側頭葉病変に起因する器質性てんかんに罹患していたと推定され、その発作には至福感と恍惚感からなる独特な前兆が先行していた。てんかん発作はこの傑出したてんかん患者の思想、感情、文学作品に多大な影響を与えたと考えられる。ドストエフスキーはキリストをモデルとした充足感と愛につつまれた世界を熱望しており、その著作には普遍的人類愛が表現されている。一生を通して、毎月、発作がはじまる際、恍惚発作がかれに天国への扉を開いてみせていたことが、おそらく、その一因であろう。

 というものです。こんなことを主張する人間は、ドストエフスキーの生涯とその作品を通観しながら、てんかんの影響というものをドストエフスキー本来の才能によって創造された芸術と区別すらできないのだ、とガストーはきめつけています。「てんかんゆえに」ではない、「てんかんにもかかわらず」才能を発揮したのだ、ドストエフスキーはてんかんに打ち勝ち、てんかんを乗り越えたのだ、というのです。

 いかにももっともらしいことを、と思われる方もみえるかもしれません。しかし、ガストーが思いつきでこんなことを主張したとは考えられません。この言葉は、むしろ、経験豊かな臨床医としてのガストーの実感だったように思われます。

 ガストーという人は、南フランスのマルセーユで長年にわたり膨大な数のてんかん患者を診察し、深い洞察力でてんかんという病をみつめ、てんかんにかんする数多くの記念碑的論文を書いた人です。現在も世界中で使われている国際てんかん分類、てんかん発作分類作成にあたって主導的役割を果たし、現代てんかん学の父と呼んでもいいような人です。そんな人がそれまでの自らの発言を否定してまで「思いつき」で「いかにももっともらしいこと」を書くとは、ちょっと、考えにくいのです。

 ヴォスクイルに対する論文を書く前にガストーは手紙や手記も含めたドストエフスキーの全著作をすべて読み直したと記しています。これは、ドストエフスキーに加え、ゴッホ、フローベールといったてんかんをもった天才的芸術家たちについて講演するための準備だったようですが、全著作を読み直したあともドストエフスキーとてんかんとの関係にかんするガストーの信念は崩れていません。難治てんかんに罹患しつつもドストエフスキーは天才的芸術をうみだしたが、その天才的芸術はてんかんとは無関係に生まれでたというのです。

 そのことをいうために、ガストーがやや強引にドストエフスキー素因性全般てんかん説を言い出した可能性があることについては、上に述べました。素因性全般てんかんであれば、側頭葉てんかんと異なり、知的退行、精神症状を合併することは通常ありません。もちろん、側頭葉てんかん(症候性部分てんかん)であっても、必ずしも、全例が知的退行や精神異常をきたすわけではありません。しかし、ドストエフスキーのように頻回に発作が起きる側頭葉てんかんではそうした合併症の出現頻度が高くなります。薬をどれだけ使っても発作が頻回に起き、知的に荒廃し、問題行動を起こす側頭葉てんかん症例を数限りなくガストーは経験したはずです。ですから、どうあっても、そんなことが考えられない素因性全般てんかんでなければならなかったのです。

 しかし、まさかとは思いますが、ガストーは錯覚に陥っていたのかもしれません。

 いうまでもありませんが、ドストエフスキーの時代においては、頻回に発作がみられていたとしても、だから難治てんかんだったということにはなりません。当時は、ブロムが一部の限られた地域で使用されるようになっただけで、めぼしい抗てんかん薬はまだなかったことは以前お話したとおりです。抗てんかん薬による治療を受けていなかったのですから、当然、ドストエフスキーのてんかんは「難治」てんかんということにはなりません。部分てんかんでもなんの不都合もないのです。

 ガストーがドストエフスキーの全著作を読み通したのは、もちろん、この天才作家のてんかんについて医学的に論考するためだったでしょう。しかし、もしかしたら、ガストーは医学的興味だけでドストエフスキーの全著作を読了することはできなかったのかもしれません。ドストエフスキーの著作に現れる多彩で複雑な世界、世界中の読者を魅了してきたドストエフスキーの文章、それらにガストーはのめり込んでいったのではないかと思われます。そして、そうした読書体験を長年診てきたてんかん患者に関する臨床経験と照らし合わせたのでしょう。てんかんが人間にいかなる影響を及ぼすものか、そのさまざまな様相をガストーは数限りなく目撃してきたはずです。そうした臨床経験とドストエフスキーの残した著作を虚心坦懐に引き比べても、確信は揺らがなかったのです。「てんかんゆえに」ではない「てんかんにもかかわらず」なのだ、ドストエフスキーはてんかんを乗り越えたのだ、と。

 そして、そのことは、てんかんという「敵」に対するドストエフキー自身の信念でもありました。この文章のはじめに引用しましたように、1865年12月、「罪と罰」を執筆中、かれは次のようにノートに書き留めています。

 「しかし、病気を恥じる必要などない。それに、倒れ病といえども活動を止めることはできないのだ」

てんかん気質


 もちろん、てんかんがドストエフスキーになんの影響を及ぼさなかったというわけではありません。ドストエフスキーがてんかんという病に終生悩まされていたことは前に述べたとおりです。しかし、てんかんがかれの思想や作品に本質的な影響を及ぼしたか否かの疑問に答えるのは容易ではありません。検証は不可能で、推測によってしか議論できません。

 ところが、ドストエフスキーという沃野をてんかんという鋤で掘り返してみたいという誘惑を断ち切れない人間が後を絶ちませんでした。ガストーが紹介している「恍惚発作がドストエフスキーに天国への扉を開いてみせ、そのことがかれの思想、感情、文学作品に多大な影響を与え、普遍的人類愛の表明に至らせた」という説は、論理の組み立てがあまりに粗雑で、さすがに、いま、これを鵜呑みにし、信じる人は少ないでしょう。しかし、もっと巧妙に、ドストエフスキーに対するてんかんの「絶対的影響」がもっともらしく論じられることがあります。

 その場合、よくもちだされるのが「てんかん気質」です。

 てんかん気質というのは、てんかんをもっている人に共通してみられるとされる性格、特徴のことです。てんかんをもつ人間は躁鬱的で、生真面目である一方、性的に歪みがみられ、怒りっぽく、すぐに敵意を剥きだしにし、攻撃的、偏執狂的、感情的な側面もあるとされています。また、哲学的、宿命論的で宗教に傾斜しがちであり、強迫的で罪悪感が強いかたわら、説教的になることもあるというのです。さらに、受動的、依存的で、迂遠、粘着質で、延々と文章を書き連ねる書字過多(hypergraphia)がみられるという説もあります。そして、これをドストエフスキーに当てはめてみると、ドストエフスキー本人のみならず、その文章、小説の登場人物、筋立てにもこうした特徴が当てはまると「てんかん気質論者」は主張します。てんかんがドストエフスキーを支配し、ドストエフスキー本人の性格、生活態度、その文章、その作品の登場人物にまで「てんかん的特徴」が浸透しているというのです。

 たしかに、ドストエフスキーは「躁鬱的」な側面があったようですし、作家デビューを果たした頃は「怒りっぽく」「すぐに敵意を剥きだしにし」「攻撃的」「偏執狂的」「感情的」だったために文学者仲間から孤立してしまいました。そして、そういった性格は、ある意味で、死の直前まで変わることはなかったようです。また、ドスエフスキーの文章は、同じロシアの文豪チェホフなどにくらべ、簡潔性に欠ける面があります。もちろん、翻訳でしかわかりませんが、ドストエフスキーの文章はくどくどしく、だらだらとどこまでも続き「迂遠」「粘着質」「書字過多」と評されてもいたしかたない面があるようにみえます。加えて、その小説やエッセイに「哲学的」「宿命論的」「宗教的」なものが多く含まれていることはご存じのとおりです。さらに、小説の登場人物も、地下室の住人、ラスコールニコフ、スタヴローギン、フョードル・カラマーゾフなど偏執狂的、強迫的、攻撃的人間に事欠きません。ドストエフスキーの小説にはてんかんをもつ人間が現れますが、それだけではなく、登場人物全員に、特有の、共通の性格が刻印されているようにみえます。ドストエフスキー本人も含め、たしかに「ドストエフスキー的世界」は「てんかん気質」に満ち溢れています。

 てんかん特有の性格、気質がみられるということは古代ギリシャ時代からいわれてきました。そして、ドストエフスキーが活躍した19世紀半ばには、フランスのてんかん学の大家、モレルが「てんかん気質」を盛んに論じていました。興奮性と易怒性がてんかんを有する人間の際だった特徴だというのです。ちょっとしたことで「てんかん性の怒り」を爆発させ、それが1-2時間続くことがあり、しかも、日に何度も何度も繰り返すことがあるとモレルは書いています。さらに、てんかんを有する人間は宗教的なものに傾斜しやすいとも指摘しています。

 その後、てんかん気質論はドイツでも盛んにいわれるようになります。ドイツの精神科医シュナイダーは1933年初版の精神病理学の概説書に「大抵の癲癇患者は時のたつにつれて一定の様式の精神的変化を起こす。変化は知性の領域にも人格の領域にも起こる。迂遠な、杓子定規な、信心に凝った、涙脆い、蔭日向の多い性質、精神的視界の狭窄、饒舌な愚直性、粘着性、自己の状態に対する不可解な多幸性などがかかる状態の性格特徴としてよくみられる。記憶の著しい障碍も、重い癲癇痴呆に陥ったものに見られる」と書いています(クルト・シュナイダー著、西丸四方訳「臨床精神病理学序説」みすず書房)。

 しかし、その後、てんかん気質論は一旦下火になります。

 なぜかといいますと、てんかんはさまざまな疾患の集まりであって、てんかん発作を(それも、さまざまな発作型の発作)もっているというだけで、同じ「性格」を共有することなどあり得ないと考えられるようになったからです。もともと、19世紀から20世紀初頭に盛んに論じられたてんかん気質論というのは主として精神病院に入院しているてんかん患者の観察からひきだされたものでした。精神病院への入院、隔離を要するようなてんかん患者は、たいてい、ひどいてんかん発作があり、重篤な精神症状を合併しています。てんかん気質論はそうした一部の特殊な患者を対象として組み立てられたものだったのです。しかも、こうした患者たちの「気質」は精神病院という特異な環境に閉じ込められたことによってつくりだされた可能性も考慮する必要があります。てんかん気質は永遠にとらわれの身となったための心理的帰結だと評した研究者もいるくらいです。たしかに、そのような環境下では、興奮性、易怒性がみられても当然かもしれません。

 しかし、20世紀に入ってフェノバルビタール、フェニトインといった抗てんかん薬が登場し、ある程度、てんかん発作が抑制されるようになると、精神病院に監禁されるてんかん患者の数は減り、逆に、自宅から外来に通ってくるてんかん患者が増えます。すると、てんかん気質を有さないてんかん患者が少なくないことにいやでも気づかされます。こうして、「てんかん気質」論は影をひそめました。

 ところが、20世紀半ば、一旦下火になった「てんかん気質」論議が再び活発になります。それは、側頭葉てんかん、とくに、先ほど少し触れた、内側側頭葉硬化に起因する側頭葉てんかんが注目されるようになり、このてんかんには紛れもなく特有な性格、「内側側頭葉てんかん性格」とでも呼ぶべきものが存在するという報告が相次いだからです。実をいいますと、上に列挙した「てんかん気質」はこの内側側頭葉てんかんに特有とされた「気質」です。ガストーが引用している「ドストエフスキー側頭葉てんかん罹患説」も、この「内側側頭葉てんかん性格」が盛んに議論されていた頃でてきました。そして、「てんかん性格」も含め内側側頭葉てんかんの種々相について精力的に探求した研究者の一人がガストーでした。「ドストエフスキー部分てんかん説」の形成にみずから関わってきたとかれが言っているのはこのことをさしているものと思われます。

 しかし、やがて「内側側頭葉てんかん性格説」も下火となります。さまざまな研究が行われましたが、内側頭葉てんかん患者ほとんどが「てんかん気質」を有しているという明確な結果がでなかったのです。いまに至るも「内側側頭葉てんかん」に特有な性格様式があるかどうかにかんしては結論がでていません。

 結局のところ、てんかん気質論というのは血液型性格論とたいして変わらない議論だったといえるかもしれません。根拠が薄弱で、言葉の遊びにすぎない報告も少なくなかったのです。てんかん、とくに、内側側頭葉てんかんの人の中に、うえにあげたような「てんかん気質」の方はたしかにいます。しかし、そうでない人もたくさんいます。逆に、てんかんをもたない「てんかん気質」の人間もたくさんいるのです。ベンソンは現存するてんかん専門家のほとんどはその存在を否定しており、てんかん性格を論じる試みそのものに反対する学者もいると記していますが、それも当然かもしれません(Benson F & Hermann B Personal Disorder : In Engel J & Pedley A eds. Epilepsy: A complehensive textbook。pp 2065-9, 1997)。

人間観察の天才


 このように「てんかん気質」が存在するかどうかさえ怪しいのですが、ドストエフスキーをてんかん気質で論じる場合、さらなる問題があります。それは、ドストエフスキーの人生と作品をてんかん気質という一点でのんきに規定してしまってもいいのかという疑問です。「てんかん気質論」はドストエフスキーがてんかんというものから逃れられなかったという視点で論じています。しかし、そんな視点がはたして正しいのか、という議論も当然あってしかるべきでしょう。がストーが主張しているのもそのことです。そして、これは、ドストエフスキーのみならず、てんかんをもつ人すべてについていえることです。「てんかん性格を論じる試みそのものに反対する学者もいる」とベンソンが書いているのも、そのあたりの事情も反映しています。

 しかし、ここでは、ドストエフスキーに限定して考えてみましょう。

 てんかん気質論は、一見、ドストエフキーとその芸術に当てはまるようにみえます。しかし、ドストエフスキーとその作品は、それをすべてはねのけてしまっているという見方も同時に可能です。

 まず、なによりも、ドストエフスキーは自己も含めた人間観察の深さにおいて、余人の追従を許さぬ天才だったことを思い起こす必要があります。長年にわたってドストエフスキーについて論じた文学批評家、小林秀雄は同じ文学批評家の中村光夫らとの対談で次のようにいっています。

小林

 ドストエフスキーという作家の感受性というものは、独特のもので、あんな人はめったにないのだが、目がじかに人間にいくんだよ。人間以外にまったく興味を持っていない…….美術展覧会評なんてみればよくわかる。絵なんか一つも論じてない。描いてあるものを論じている。だからあれは絵なんてものに全然興味がないんですよ。音楽論というものもないでしょう。僕はチャイコフスキイのことがどこかにあるだろうと思ってずいぶん探した。ありゃしないのだ…….

中村

 小説家だね。

小林

 小説家というものはそれでなきゃいけないんですよ。ああいう人からみればたいていの小説家は気取り屋で、人間に興味をもっていないよ。人間にあるだけの興味をもつということが小説の根本なんだね。

 小林秀雄は「天才は努力する才だといわれるが、誤解を招きやすい言葉だ。努力なら凡人でもするからだ」という意味のこともたしかどこかで書いていたはずです。天才と凡人は努力の内容が違うということなのでしょう。たしかに、天才は恐るべき集中力で、魅入られたように、延々と努力を続けるようです。同じ努力といっても、質も量も違い、凡人からみると、努力を発明しているようにさえみえます

 小さい頃、電車に乗ると、きまって、疾走する電車の中から線路脇の標識の字を目をこらし読みあてる遊びをしていた、と大リーガーのイチローが語っていたことがあります。「そんなつもりはなかったけど、今考えると、動態視力の訓練になっていたかもしれない」とつけ加えながら。

 酒を飲みに行っても漫才のネタを紙に書き留めていたら、相方に、こんなところでまで、そんなことをすることはないだろう、と「たけし」はいわれたそうです。しかし、漫才をやっているんだから、四六時中漫才のことを考えていて当たり前だし、どんなところでも、これはというネタがみつかれば、書き留めずにはいられなかった、と「たけし」はふり返っています。

 あるオーケストラのコンサートマスターを務めるバイオリニストがいっていました。練習、コンサート、レッスンとバイオリンを半日も弾いていると、バイオリンの音を聞くのもイヤになって、その日は絶対にバイオリンを手にしない、と。しかし、ソ連の巨匠バイオリニスト、オイストラッフは、プラハで開かれた音楽祭において、夜、コンサートを終えて友人音楽家の別邸にやってきたと思ったら、他の客が夜明け近くまで談笑している間、ずっと上機嫌でバイオリンを弾き続けたそうです。

 現代医学は機能障害をきたした脳の病態については、ある程度、解明することができます。しかし、脳機能障害のない人間において能力に差が出る理由をきちんと説明することはできません。天才と凡人の脳は「医学的」に差がありません。ポジトロンCTのような機能画像検査によってさまざまな能力の違いをある程度窺い知ることはできます。しかし、現在のところ、脳病変が何もない人間における能力の差は「誤差範囲」でしかありません。あまりに常識的な説明で申し訳ないのですが、この「誤差範囲」内で差が出るとしたら、1人の人間がある一つの物事にどれだけ集中し、そのことに時間を配分できるかによる、と考えるしかありません。少なくとも、それが、「天才」を成り立たせる条件の一つです。

 ドストエフスキーは人間のあらゆる面を四六時中考え続けた天才だったようです。だからこそ、フロイトの深層心理学出現以前に深層心理を小説のなかで自在に扱うことが出来たのでしょう。前にも申しましたように、ドストエフスキーはシベリア流刑中、自己の過去のすべてを洗いざらい点検し直したといっています。そんな人間ですから、おそらく、てんかんが自分に及ぼすさまざまな影響についても考えていたはずです。

 かれが生きていた当時、てんかん気質といった概念が一部のてんかん学者の間で話題になっていましたが、おそらく、ドストエフキーはそれについて何も知らなかったと思われます。ですから、まさか、そのような概念で自分の文学が総括されるとは想像もしていなかったでしょう。しかし、青年期以降、一生を通じ、数ヶ月に一回は必ず襲ってきて、「異常な内部の光」で自分の「魂を照らし」だしたてんかん発作です。それが自分にもたらすものについて思いを巡らすことは何度もあったでしょう。少なくとも、無意識のうちにでも、てんかんがみずからの文学に及ぼしている影響を感じとっていた可能性はあります。そして、そうしたなかで、小説を構想し、執筆していたはずです。いまさら、みずからの作品やその登場人物にてんかん性格があるといわれても驚きはしなかったかもしれません。

 「白痴」の主人公はキリストをモデルとした純粋無垢なムイシュキン公爵です。しかし、作品の構想段階では、強烈な情欲を有し、強欲で、自尊心が強く、そのくせ、屈辱の中に快感をみいだす、ムイシュキン公爵とは正反対の異常性格の男が主人公として設定されていました。ムイシュキン公爵同様、てんかんがあり、しかし、そのために、白痴と母親から蔑まされている人間が想定されていたのです。のちに「カラマーゾフの兄弟」で登場するスメルジャコフのような人物が念頭にあったのかもしれません。しかし、結局、ドストエフスキーは「もっとも美しい人間」キリスト公爵を主人公に据え、この醜悪な人間像を捨てさります。なぜドストエフスキーがそのような選択をしたのかについては、いろいろ憶測がなされているようです。しかし、それはともかくとして、このことは、同じてんかんを有していても「純粋無垢な人間」から「醜悪な人間」までいかなる人間類型もあり得ることをドストエフスキーが本能的に悟っていたことを示唆しています。てんかんを持つ人間を「てんかん性格」という観点でしかみられない研究者に比べ、医学的にも、ドストエフスキーのほうが正しいのです。

てんかんからの自由


 てんかんの歴史にかんする名著「倒れ病」を書いた医学史家のテムキンは、ドストエフスキーが1880年代に西欧諸国で注目集めるようになったとき、人々は、まず、なによりも、病的世界に否応なく引きずり込むかれの小説の恐るべき吸引力に強い印象を受けた、と書いています。そして、もしかしたら、そのことが端緒となって、人々がドストエフスキーの小説にてんかんの世界を観ようとするようになったのかもしれません。しかし、「たしかにドストエフスキーはてんかんだったかもしれないが、その小説はかれの知性、気質、想像力すべてがあわさって生まれでたものだ」とテムキンは指摘します。その小説世界には、病気体験に加え、病気以外の個人的体験、そしてかれの創造力が分かちがたく織り混ざっているというのです。「巨大小説群がドストエフスキーという特異なてんかん患者によって創りだされた産物であることは事実だ、しかし、だからといって、ドストエフスキーの世界を単純にてんかんの世界とみなすわけにはいかない」とテムキンはコメントしています。

 ムイシュキン公爵が五年ぶりに発作を起こす日のエピソードですが、これについて小林秀雄は「『白痴』を愛読した人なら、恐らく誰でもムイシュキンの発作に伴う錯乱的心理を扱ったこの驚くべき一章を忘れることはできない」と前置きして、これは「心理分析上の鬼才を縦横に発揮した場面」と評しています。このような場面を描いたがゆえにドストエフスキーは「内的独白を語り或いは意識の流れを描く」という「心理的手法の創始者」とみなされているようですが、この一節の描写は「心理小説の驚くべき発達に伍して尚比類ないものを有して」いると小林秀雄は激賞しています。

 この場面がドストエフスキーみずからの発作前駆症状体験を反映したものである可能性があることは以前述べました。ですから、みようと思えば、ここにドストエフキーにたいするてんかんの「支配的影響力」をみることができるわけです。しかし、この一節を通読すれば、ドストエフスキーがてんかんに引きずり回されていないことは明らかです。むしろ、自らのてんかん体験を異様な智力と忍耐力によって分析統合し、「心理分析上の鬼才を縦横に発揮した場面」へと結実させています。

 いうまでもありませんが、こうした事情は、てんかんに限ったことではありません。

 死刑執行劇、監獄、賭博、借金、異様な恋愛関係。てんかん以外のこうした苦難の体験をドストエフスキーは自らの創作の中に昇華させていきました。たとえば、借金経験がかれの小説を支配しているという人はいないでしょう。まったく逆で、かれの恐るべき咀嚼力によって借金経験がかみ砕かれ、消化され、「罪と罰」にみられるように、悪夢に似たかれの小説にリアリティーを与えています。また、賭博にあれほど狂いながら、小説「賭博者」では呵責なきまでに賭博者の情動を抉りだしています。

 てんかんについても同じことがいえます。それは、この発作前駆症状を描いた一章だけでも、充分に読み取ることができます。ドストエフスキーが生み出したものは、てんかん気質といった概念など弾き飛ばしてしまっています。

 たしかに、ガストーがいうようにドストエフスキーはてんかんを乗り越えたのです。ドストエフスキー本人が宣言しているように「倒れ病といえども活動を止めることはできな」かったのです。

 そして、ドストエフスキーは、そのように乗り越えていくことが「自由」を得る唯一の道だとも考えていたようです。

 「作家の日記」の中で、ドストエフスキーは次のように書いています。

 「現今の世態においては、自由を放縦の意味に解している。けれど、真の自由はただおのれ自身と、自己の意志の克服にのみ存するのであって、かくすれば、ついには広い精神的状態に達して、いついかなる瞬間にも、おのれ自身にたいして真の主人公となり得るのである。意欲の放縦は、単におのれを奴隷状態に導くにすぎない」(「作家の日記」1877年2月 第2章 4 問題のロシア的解決。米川正夫訳)

 この信念はどうやら、キリスト教からドストエフスキーが生み育てたものだったようです。同じ「作家の日記」の中でかれは次のように説きます。「『社会組織がこんなに忌まわしくできている以上、手に刃をもたないでは、そこから抜け出すことはできない』これこそ環境説の唱えるところで、キリスト教とは正反対である。キリスト教は環境の圧迫を十分に認めて、罪人に憐憫を声明しながら、しかも、環境に対する戦いを人間の道徳的義務とする、そして、どの辺で環境がおわり、どこから義務が始まるかという境界を人間に示すのである。人間に義務責任を付与しながらキリスト教はそれによって人間の自由をも認めているのである」(「作家の日記」1873年 2 環境 米川正夫訳)。

 てんかんという環境と戦うことで、ドストエフスキーはてんかんから自由を得ました。てんかんに関しても「おのれ自身にたいして真の主人公」だったのです。万が一、治療によっててんかん発作がなくなることがあったとしても、もしかしたら、ドストエフスキーにとって、それはてんかんからの真の自由を意味しなかったかもしれません。てんかん発作が薬によって消失しても、それは、本人の努力とは無関係に起きた一現象にすぎないからです。自由とは何の関係もありません。ある時点で、ドストエフスキーが己のてんかんを不治の病と見定めるようになったことは以前述べました。しかし、そのことは、かれがてんかんに対して白旗を掲げたことを意味しませんでした。繰り返しになりますが、たとえば、そのことは、発作前駆症状を描いた一章を読めば明らかでしょう。

参考図書・引用文献


ドストエフスキー著 米川正夫訳 ドストエフスキー全集1〜20,別巻 河出書房新社

アンナ・ドストエフスカヤ 松下裕訳「回想のドストエフスキー1,2」みすず書房

ドリーニン編 中村健之助訳「スースロワの日記」みすず書房

コンスタンチン・モチューリスキー著 松下裕・松下恭子訳「評伝ドストエフスキー」筑摩書房

E・H・カー著 松村達雄訳「ドストエフスキー」筑摩叢書

アンリ・トロワイヤ著 村上香住子訳「ドストエフスキー伝」中公文庫

加賀乙彦著「ドストエフスキイ」中公文庫

亀山郁夫著「ドストエフスキー 謎とちから」文春新書

中村健之介著「永遠のドストエフスキー 病という才能」中公新書

江川卓著「謎解き『白痴』」新潮選書

江川卓著「ドストエフスキー」岩波新書

小林秀雄著「ドストエフスキイの生活」新潮文庫小林秀雄対談集III「文学と人生について」文春文庫

小林秀雄 全作品5「罪と罰について」新潮社

和田春樹編 「ロシア史」 山川出版社

ロバート・ウォーレス著 鳥山成人監修「ライフ 人間世界史16 ロシア Rise of Russia」タイムライフ インターナショナル

J. M. ロバーツ著 鈴木董監修「世界の歴史6 近代ヨーロッパ文明の成立」創元社

司馬遼太郎「ロシアについて 北方の原型」文藝春秋

大野真弓責任編集「世界の歴史8 絶対君主と人民」中公文庫

今井宏著 「世界の歴史13 絶対君主の時代」河出書房新社

松田道雄著 「世界の歴史22 ロシアの革命」河出書房新社

イーグルトン著 大橋洋一訳「イデオロギーとは何か」 平凡社ライブラリー

和田豊治著 「臨床てんかん学」金原出版

クルト・シュナイダー著、西丸四方訳「臨床精神病理学序説」みすず書房

Alajouanine T. (1963) Dostoiewskyi's Epilepsy. Brain 86:209-18

Engel J & Pedley A eds. (1997) Epilepsy: A complehensive textbook.

Cirignotta F, Todesco CV, Lugaresi E (1980) Temporal lobe epilepsy with ecstatic seizures (So-called Dostoevsky epilepsy). Epilepsia 21:707-710

Friedlnder WJ (2001) “The History of Modern Epilepsy: The beginning, 1865-1914” Greenwood Press, Westport.

Depondt C, Van Paesschen, Matthiis G et al. (2002) Familial temporal lobe epilepsy with febrile seizures. Neurol 58;1429-33.

Gastaut H (1978) Fyodor Mikahilovitch Dostoevsky's involuntary contribution to the symptomatology and prognosis of epilepsy. Epilepsia 19:186-201

Gastaut H. (1984) New comments onf the epilepsy of Fyodor Dostoevsky. Epilepsia 25:408-11

Hughes JR. (2005) The idiosyncratic aspects of the epilepasy of Fyodor Dostoevsky. Epilep Behav 7:531-8

Taylor DC. (2007) Whatever happened to the "epileptic prodrome" Epilep Behav 11:251-2

Temkin O. The falling sickness (2nd Ed, Revised): A history of epilepsy from the Greeks to the Greeks to the beginnings of modern neurology., The John Hopkins University Press, Baltimore

Scott DF (1993) “The history of epileptic therapy: an account of how medication was developed” Parthenon Publishing Group, Lancs.

Voskuil PHA. (1983) The epilepsy of Fyodor Mikhailovitch Dostevsky (1821-1881). Epilepsia 24:658-67


http://aoitori-center.com/tenkan/dostoyevski.html
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/504.html#c1

[近代史4] 長野 白骨温泉 小梨の湯 笹屋

長野 白骨温泉 小梨の湯 笹屋

白骨温泉 小梨の湯 笹屋 公式HP
http://konashinoyu.com/

日本秘湯を守る会 公式Webサイト|白骨温泉 小梨の湯 笹屋のご紹介・宿泊予約
https://www.hitou.or.jp/hymbrrsv/hymbr_pg01.html?yc=nk136

白骨温泉 小梨の湯 笹屋 - ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/kamikouchi-onsen/onsen005833/

白骨温泉 小梨の湯笹屋 - 秘境温泉 神秘の湯
開放感溢れる内湯が贅沢!神秘の青い自家源泉も魅力
https://hikyou.jp/report/dayuse/50585/

『白骨温泉 小梨の湯 笹屋  白濁の湯に癒される旅』白骨温泉(長野県)の旅行記・ブログ by ひろかなさん【フォートラベル】
https://4travel.jp/travelogue/10883155

白骨温泉 小梨の湯 笹屋 宿泊 ★★★+ 秘湯宿.com
http://www.秘湯宿.com/nihon-hitowo-mamorukai/nagano-shirahone-onsen-sasaya1-room/
http://www.秘湯宿.com/nihon-hitowo-mamorukai/nagano-shirahone-onsen-sasaya2-meal/
http://www.秘湯宿.com/nihon-hitowo-mamorukai/nagano-shirahone-onsen-sasaya3-bath/


vol.2/白骨温泉 小梨の湯 笹屋・加藤 二三子 温泉達人コレクション
http://onsen-c.com/2016/12/25/katofumiko/
http://onsen-c.com/2016/12/25/katofumiko/2/


▲△▽▼

白骨温泉 小梨の湯 笹屋
長野県 松本市 安曇 白骨4182-1
電話 0263-93-2132

笹屋では「日帰り入浴」をお受けしております。
ご利用いただけない日もございますのであらかじめお電話(TEL:0263-93-2132)にてご確認くださいますようお願いいたします。

【日帰り入浴でのご利用について】

ご利用時間
◆貸切露天風呂 11:00〜14:00
※30分の貸切です。

◆内湯風呂 11:00〜14:00

入浴料 各600円(税込)

アクセス
電車・バス・車
松本電鉄上高地線 新島々駅よりバスで1時間
長野自動車道 松本IC〜国道158号経由で約1時間

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%B0%8F%E6%A2%A8%E3%81%AE%E6%B9%AF+%E7%AC%B9%E5%B1%8B/@36.146771,137.626673,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0x5c1e527128a60bac?sa=X&hl=ja&ved=2ahUKEwj-8PeGjPLnAhWGZt4KHdvYBNUQ_BIwC3oECBsQCA

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/339.html

[近代史4] 長野 安曇野 中房温泉
長野 安曇野 中房温泉


中房温泉 公式Webサイト
https://www.nakabusa.com/

日本秘湯を守る会 公式Webサイト|中房温泉のご紹介・宿泊予約
https://www.hitou.or.jp/hymbrrsv/hymbr_pg01.html?yc=nn144

中房温泉(なかぶさおんせん) - 安曇野|ニフティ温泉
https://onsen.nifty.com/adumino-onsen/onsen006121/

中房温泉 - 秘境温泉 神秘の湯
長野の大秘境に湧く豊富な源泉を大自然の露天で味わう
https://hikyou.jp/report/stay/56557/

14種類の湯船がある北アルプス中房温泉旅館!
その中でも必ず入って欲しい湯船ベスト4!!
長野県 LINEトラベルjp 旅行ガイド
https://www.travel.co.jp/guide/article/2297/

中房温泉 宿泊 & 日帰り入浴 ★★★★ 秘湯宿.com
http://www.秘湯宿.com/nihon-hitowo-mamorukai/%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9B%87%E9%87%8E%E5%B8%82%E3%80%80%E3%80%8C%E4%B8%AD%E6%88%BF%E6%B8%A9%E6%B3%89%E3%80%8D/

▲△▽▼

「中房温泉」は標高1,462m、北アルプス燕岳登山口にある山奥の一軒宿です。
燕岳登山の前泊利用者が大半ですが、温泉を目当てに泊まりに来る人は連泊する人も多く、しかもその人たちはかなりの温泉通です。

「中房温泉」がマニア受けするポイントは・・・

•源泉数は何と日本一!敷地内のあちこちから源泉の湯けむりが上がっています
•源泉温度が94.7度であるにもかかわらず、水冷式・空冷式という方法で一切加水していないこだわり
•全て敷地内での自然湧出
•ほのかに硫黄の香りが漂うヌルスベの湯
•内湯、露天風呂からプール、蒸し風呂、地熱蒸しまでバラエティに富んだお風呂
•裏山で地熱蒸し料理ができる

ということにあります。
お風呂の数は16種類!その多くが混浴です。
中には徒歩10分近く歩かなければならない野天風呂もあったりと、見て回るだけでも大変。
「中房温泉」は、まさに「温泉テーマパーク」と言える宿です。
http://www.秘湯宿.com/nihon-hitowo-mamorukai/%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9B%87%E9%87%8E%E5%B8%82%E3%80%80%E3%80%8C%E4%B8%AD%E6%88%BF%E6%B8%A9%E6%B3%89%E3%80%8D/


▲△▽▼


中房温泉
長野県 安曇野市 穂高有明7226
電話 0263-77-1488

【日帰り入浴】
営業時間:9:30〜16:00
営業期間 期間営業 (4月下旬 〜 11月下旬)
料金:大人・小人700円
*日帰り専用露天風呂「湯原の湯」(男女別)のみ利用可能
貸切風呂 2,000円/40分

アクセス
電車・バス・車
JR大糸線 穂高駅より中房温泉行きバス利用50分
豊科ICよりR147(北穂高、有明、宮城)経由、中房温泉へ
駐車場 40台

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%B8%AD%E6%88%BF%E6%B8%A9%E6%B3%89/@36.3942214,137.7466455,15z/data=!4m8!3m7!1s0x0:0xd49cb454ccd296d0!5m2!4m1!1i2!8m2!3d36.3942214!4d137.7466455?hl=ja
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/340.html

[近代史4] ドストエフスキーの世界 中川隆
4. 中川隆[-13426] koaQ7Jey 2020年2月28日 02:09:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[88]

●ドストエフスキーのいる現代ロシア文学 望月哲男
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/literature/mochizuki-no76.html


目次


はじめに


I ドストエフスキー受容の諸相――評論と文学研究から
1. 評論の事例から
2. 文学研究の事例から
II ドストエフスキー文学の現代的展開
1. ドストエフスキー・テーマの変奏
a)現代の地下室人:Iu.マムレーエフ『ある個人主義者の手帳』(1986)
b)ポスト全体主義の地下室:V.マカーニン『アンダーグラウンドあるいは現代の英雄』(1998)
c)宗教と生命のテーマ:Ch.アイトマートフ『処刑台』(1986)
d)ロシア論の文体:D.ガルコフスキー『果てしない袋小路』(1995/1997)
2. ドストエフスキー論のある現代文学
a)反ユダヤ主義批判:F.ゴーレンシテイン『ドストエフスキー論争』(1990)
b)イデオロギー批判の反転:Iu.クワルディン『戦場はドストエフスキー』(1996)
c)文学の呪縛:V.ピエツフ『新モスクワ哲学』(1989)
d)寸鉄詩的批判:D.プリゴフ「文学と芸術の諸法則」;V.シャラーモフ「赤十字」
3. 加工されるイメージ
a)ナンセンス小説風ドストエフスキー:V.ナルビコワ『第一人物の場と第二人物の場』(1989)
b)ジャンキー・ノヴェル風ドストエフスキー:A.ヴィトゥフノフスカヤ『ロシア文学最後の金貸しの老婆』(1996)
c)ヴァーチャル・リアリティ版ドストエフスキー:V.ペレーヴィン『チャパーエフとプストタ』(1996)
d)テキスト自壊型ドストエフスキー:V.ソローキン『ドストエフスキー・トリップ』(1997);『青脂』
(1999)


むすび

はじめに


 本稿のテーマは、19世紀文学の現代的な意味や応用可能性という問題と関係する。筆者の目的は、今日のロシア文学作品中で19世紀作家ドストエフスキー(1821-1881)に関連するモチーフが利用されているケースをいくつか取り上げ、大まかな類型に分けながら、それぞれの場合にドストエフスキー・イメージが果たしている役割や意味を考えることである。筆者はこの作業がドストエフスキー文学の理解の拡大に役立つと同時に、現代ロシア人の自己表現の特徴を考える材料ともなると考えるが、それは次のようなことを根拠としている。

 現代ロシアの文学作品には、ドストエフスキーとその文学への直接・間接の言及を含むものが少なからずみられる。ドストエフスキー作品の主題、状況設定、人物像などの明示的・暗示的応用、ドストエフスキーを意識した作中論議、文体や表現手法面での模倣やパロディ、などといったものである。

 このような要素がそれぞれの作品中で果たしている役割はまちまちである。すなわちドストエフスキーに関連した部分が、作品の主題設定や構成の本質的部分に関わっていると思われる場合がある一方で、この作家への言及が唐突で不自然な印象を与える場合もある。

またそれぞれの作家の言及から推測されるドストエフスキー解釈の姿勢にも、対象を総合的に捉えようとする生真面目なものから、一面に偏った恣意的なもの、あるいは明らかに揶揄や遊戯を目指しているものまで、様々なものがある。すなわち古典を受容し応用する動機や姿勢の個別差が、そこに自然に反映されているのであって、ドストエフスキーへの言及が必ずしも彼への積極的関心から生じているわけではない。

 しかしそのような個別的差異があるからこそかえってわれわれは、現代作家の自己表現においてドストエフスキーがもっている特殊な意味を意識することになる。そもそも古典の応用という行為は、現代文化の自己認識と密接に連動した行為である。現代作家の個人的文化史地図というものを想定するならば、そこでは古典作家の位置づけが相対的に地図の作者の位置を指し示すことになろう。古典作家に触れる手つきが、そのまま現代人の自意識の表現なのだ。ただし人は漠然と古典を自作に利用したりはしない。自己表現の題材は、意識的にせよ無意識にせよ、選ばれている。文化論の表面にしばしば登場する歴史上の人物や事項は、過去を介しての現在認識というフィードバック作業にとって、有意義でかつ無視できない要素を供えているとみなすのが妥当だろう。文体模写やパロディの対象選択にもまったく同じことが言える。ドストエフスキーのイメージが現代文学に頻出するとするならば、現代の文学的自己表現にとってこの作家がそれだけ広い応用可能性を持つことを意味する。くりかえしになるが、この選択には必ずしも対象への積極的関与は前提とされない。共感や理解のみではなく、反感や揶揄、これみよがしの蔑視を含んだ言及の中にも、われわれは一定の対象への強迫的なこだわりを感じとり、文化の下意識のようなものを読みとるのではないだろうか。ソ連文化論におけるスターリンの神話的地位を思い起こせば足りよう。

 実際ドストエフスキーの名前は、一連の定型化したイメージ群と強く結びついている。表層にあるのは、例えば彼の数奇な人生のエピソード群(流刑、病気、賭博、外国流浪・・・・・・)、作品中のユニークな人物や事物のイメージ(例えば「斧」「老婆」「白痴」といった語はドストエフスキー連想語である)、奇怪な事件と普遍的人間論や社会論を組み合わせた物語構成、濃密な文体が生み出す非日常的な時間・空間感覚、といったものである。そしてその背後には、ある独特な文化論のパラダイムが開けている。その中心をなす系列が、ロシアと西欧(あるいはアジア)、ロシア人とユダヤ人(あるいはドイツ人、ムスリム・・・・・・)、ロシア正教とカトリシズム(あるいはプロテスタンティズム)、キリスト教的な自由論と科学的決定論等々といった、ロシア的なものを一方に据えた対比や択一のパラダイムである。

またエゴイズムと博愛衝動、劣等感と優越感、ショーヴィニズムと民族融和思想といった対立概念の処理の手続きも、矛盾物の対話的共存とも、詭弁的な意味の転倒や組み替えとも見なせるような、独自の論理に従っている。

 このような問題のパラダイムや論理自体は、ある程度ロシア近代に普遍的なものであったにも関わらず、しばしば象徴的にこの作家の名前と結びつき、「ドストエフスキー的問題」「ドストエフスキー的論理」とさえ見なされている。ドストエフスキーの名前はこうした観念連想をともなった、いわばロシア文化論上のビッグ・ネームなので、ロシア作家が彼の名や文章にナイーヴで偶然的な態度で言及することは、想像しがたい。ドストエフスキーの主題を自己流に展開し直したり、彼の作品のパロディを書いたりするとき、作家たちはドストエフスキー作品が一種代表的な形で表現しているロシア文学の特殊な社会的機能や、この作者の民族観・人間観を含めた全体について、なんらかの態度を表明しているとみて、あながち間違いではないだろう。

 没後120年の間に、ドストエフスキーは何度かロシア文化論の熱い話題となってきた。

前世紀末にはウラジーミル・ソロヴィヨフ、ワシーリー・ローザノフ、ドミートリー・メレシコフスキー、アキーム・ヴォルインスキー、レフ・シェストフらが、ドストエフスキーの宗教観や審美・倫理観を論ずることで、時代精神を表現しようとした。1920年代後半には、彼の名前はプチ・ブルジョアジー式の歪んだ人間観と結びつけられ、批判や風刺の素材となった。70年代には、再発見されたミハイル・バフチンの理論が、ドストエフスキーにおけるイデオロギーと創作原理の位置関係を逆転して見せ、彼の名はポリフォニックなタイプの思想表現の代名詞となった。この時代にはまた、ソ連 国内のネオ・スラブ主義や新土地主義といった思潮との関連で、ドストエフスキーの思想が語られ直すようにもなった。そしてこの世紀末、ドストエフスキーはソ連後の新しい思想文脈で、あらためて文化意識の表現媒体となったようにみえる。例えば90年代半ばに発足した二大文学賞のひとつでロシア資本による「アンチ・ブッカー賞」が、96年以降その長編小説部門を「カラマーゾフの兄弟賞」と名づけるようになったのも、(トルストイその他を差し置いて)この作家をロシア的小説家の代表として名指すという、文化意識の選択的表現なのである。そうだとすれば、文学作品中のドストエフスキー・イメージを拾い集める作業は、現代ロシア文化論のフィールド・ワークとしての意味をも持つだろう――これが筆者の仮説である。


I 現代ドストエフスキー受容の諸相――評論と文学研究から

 ドストエフスキーの登場する文学作品を具体的にみる前に、ドストエフスキーがどのような意味で現代文芸の関心対象となるのかという背景的問題を、90年代の文芸評論と文学研究を材料に、例示的に検討してみたい。

1.評論の事例から

 資料のひとつは、雑誌『ズナーミャ』1990年7号所収の「ドストエフスキーと21世紀前夜」と題する誌上対談1。これは政治思想家・ドストエフスキー研究家で、ゴルバチョフ時代に大統領顧問も勤めたユーリー・カリャーキンの同名の著書2を記念したものである。

ちなみにカリャーキンの本はソ連後期を通じて書かれてきた論文を集めたもので、中心主題のひとつがドストエフスキーを通じてみたスターリニズムおよびテロリズムの問題。人間の自己欺瞞はどこに発生するか、目的は行為を正当化するか、倫理的な価値は何によって保証されるかといった一連の問いが、ドストエフスキーを介してマルクス主義から形而上学へと「転向」したこの著者の立場から検討されている。文学を倫理学・政治学の書として読み抜いたカリャーキンの論考をまくらにしたこの誌上対談は、ドストエフスキーに対するかなり多様な受容や評価のあり方を垣間みせてくれる。

例えばイーゴリ・ヴィノグラードフにとって、ドストエフスキーの意義は(トルストイと同じく)近代における信仰喪失が生む諸問題を先鋭に描いたところにある。ソ連という非宗教社会の経験を経た今日のロシア人は、あらためて善・良心・名誉・慈悲といった人間的な価値を、宗教によらず保つことができるかという問いの前にたたされている。この点でドストエフスキー文学は、ロシア社会にきわめてアクチュアルな意味を持つというのである。

 『悪霊』の研究者リュドミラ・サラスキナは、社会主義革命を含む20世紀政治史に対するドストエフスキーの予見性を強調している。ロシアの革命家たちは何者だったか?『悪霊』で戯画化されたような悪魔的犯罪者や陰謀家だったのか、それとも高潔な者たちだったのか?――そう彼女は問う。マクシム・ゴーリキーの『勤労者への呼びかけ』(1917.11.10)を引用しながら彼女が主張するところによれば、レーニン派は『悪霊』のモデルとなったネチャーエフ・グループの意図したところと同じく、陰謀的手段で革命を遂行し、労働者階級を貶め、大量虐殺や不当逮捕を遂行した。ドストエフスキーはこの歴史の歩みを正確に予見していたのである。
 レニングラード封鎖史に強い関心を持つ作家アレシ・アダモーヴィチにとって、ドストエフスキーは苦悩や残酷さへの態度という視角から人間性の深奥を描き出そうとした作家である。革命と大戦を通じて想像を絶する歴史の暗黒を経験してきたロシア人の心は、苦悩に関するドストエフスキー的認識の中に、復活への方途を学ぶことができるだろうというのである。

 一方でドストエフスキーの限界性を、現代にとって警戒すべき問題として指摘する立場もある。

 アレクシス・クリモフにとって、ドストエフスキーはひたすら人間性の破壊的・消極的な側面を探求した作家であった。屈辱に快楽を見出し、自ら破滅を選択するような「地下室の精神」の持ち主は、自己救済の道を自分で閉ざしている。そうしたドストエフスキーの文学は、現代人に救いをもたらさないというのだ。
 ミハイル・ヴォリケンシテインやカレン・ステパニャンは、ドストエフスキーからそれぞれ大きな歴史的教訓を引き出しつつ、彼のイデオロギー性を批判している。前者によれば、ドストエフスキーは普遍人類的博愛の理念を説く一方で、自らはナショナリストで排外主義者であるという矛盾から抜け出られなかった。また後者は、ドストエフスキーが身内と余所者の論理に強くとらわれていたことを指摘する。スラブ対非スラブ、ロシア正教対イスラム(カトリック・・・・・・)といった相互排除の論理の中で、侵略が救済と、革命が解放と呼びかえられ、戦いが永遠に回避されないメカニズムが継承される。ドストエフスキーはこうした意味で、現代にも共通するナショナリズムの病を明示してくれる反面教師なのである。

 現代のドストエフスキー受容のあり方自体を批評する、メタ・文学論的言説もここには含まれている。

 文芸学者ヴャチェスラフ・イワノフは、ドストエフスキーをイデオロギー的評価から解放し、文学として捉え直すことを提唱している。彼によれば、そもそもロシア文学は、哲学、法的規範論、現代史論といったような、文学以外のジャンルの役割を担いすぎてきた。

ドフトエフスキーにはもちろん哲学者や宗教家の素養があったが、彼の真骨頂はあくまでも文学作品を描いたところにあるというのだ。こうした批判は、もちろんフォルマリストやバフチンの文学観に通じると同時に、ワレリー・ポドロガ、ミハイル・ヤンポリスキーら現代の「余白の哲学」派による、ロシアにおける文学言説の権威主義的機能への批判とも共通している。

 またドミートリー・ウルノフは現代の定型化された、通俗的ドストエフスキー解釈が、実は無知や思いこみに立脚した虚像であることを、いくつかの例をあげて指摘している。

彼によればドストエフスキーは「われわれとはちがうばかりか、時にはまったく反対のことを言っている」のである。

 ドストエフスキーへの現代的関心の一端を伺わせるこのような議論は、多かれ少なかれペレストロイカ以降の思想環境の変化と連動している。例えば、カリャーキンのソ連期の著作においてはスターリン批判やジダーノフ批判の文脈で行われていたドストエフスキーの政治観の祖述が、今日では革命とソ連史全体の批判を背景としているが、これは政治思想上の環境変化が文学論に反映した例である。

 ただし現代的ドストエフスキー受容の特徴は、そうした部分をみるだけでは把握できない(スターリン批判であれ革命批判であれ、文学に政治的メッセージを読む関心のあり方としては変わりがないとも言える)。今日のドストエフスキー受容の特徴は、規範的で教科書的な解釈の枠が失われ、様々な枠組み、態度、方法による多元的なドストエフスキー理解が文化論の場に持ち込まれるという、その状況自体にあるのだ。

2.文学研究の事例から

文芸学におけるドストエフスキー論のジャンルでも、以下に例示するような複数のアプローチによる研究が同時に展開されている。

 a)テキストをめぐる環境整備:旧正字法とコンコーダンス

 ドストエフスキーの定本を目指したソ連科学アカデミーによる30巻全集が1990年に完結したが、ソ連崩壊後これに対抗する形で、1917年までの(ドストエフスキー時代の)旧正字法による『ドストエフスキー全集定本』がペトロザヴォツク大学のウラジーミル・ザハーロフの編集で出版されはじめた3。文学作品はそもそもそれが書かれたときの言語で存在すべきであり、文学の受容も文学論もそれを前提とすべきである、というのが編者の率直な主張であるが、これも一面で文化規範の揺れが生んだ新しい文芸意識の所産と言えるかも知れない。ザハーロフはまたドストエフスキーの全作品コンコーダンスも公開している。

 b)歴史の中のドストエフスキー像:アルヒーフ、帝政、物語

 ドストエフスキーの伝記研究家イーゴリ・ヴォルギンは『ロシアに生まれて:資料にみるドストエフスキーと同時代人』(1991)5で、ドストエフスキーの家系と関連人物からなる物語を、中世の大リトワ公国から1840年代にかけての大きなスパンで記述している。

また『権力のメタモルフォーゼ:18−19世紀におけるロシア皇帝暗殺の試み』(1994)6では、1849年のペトラシェフスキー事件を主な接点に、皇帝対インテリゲンツィアの対抗図式の中にドストエフスキーを位置づけようとしている。前出のリュドミラ・サラスキナも、ペトラシェフスキー事件の関連人物(特にニコライ・スペシネフ)および小説『悪霊』に描かれた1860年代の政治的人物(特にセルゲイ・ネチャーエフ)を中心素材として、ロシア政治史の中における人間ドストエフスキーを描き出そうとしている(『悪霊:警告の小説』(1990)、『ドストエフスキー:デーモンたちの超克』(1996))。

ヴォルギンとサラスキナの見解はある点で対立しているが、共通するのはアーカイヴ資料や外国のドストエフスキー研究を積極的に利用する態度、帝政ロシアとは何だったかという関心、そしてドストエフスキー史を物語として成立させようという伝記作者としての野心である。彼らの仕事はある意味で、ペレストロイカ以降の「歴史の復権」運動や、ロシア人の精神的ルーツ探しのムードと連動している。

 c)キリスト教の視点

 先述のザハーロフや文芸評論家カレン・ステパニャン、若い世代のタチアーナ・カサトキナなどが中心となって、ドストエフスキー文学とキリスト教文化(福音書、ロシア正教、イコン等々)の研究が盛んに行われている。ザハーロフ編『18−20世紀ロシア文学における福音書テキスト』(1994,1998)、ステパニャン編『20世紀末のドストエフスキー』(1996)、カサトキナ『ドストエフスキーの性格学』(1996)、A.ストリジョフ編『ドストエフスキーと正教』(1997)などがその例である8。この問題に関する関心や考察態度も様々で、例えばストリジョフの本に収録されたウラジーミル・マリャーギンの論文9は、ドストエフスキーが信仰の必要性を正しく説きながら、正教の具体相(例えば長老制度や修道生活)の認識においても、また理念の解釈においても誤りをおかしているという、かつてのコンスタンチン・レオンチェフのドストエフスキー批判を追認する内容である(ただし彼はこれをドストエフスキーの問題というよりは、19世紀宗教精神の弛緩の故と捉えている)。一方カサトキナは、例えばドストエフスキーの主要長編のエピローグを、それぞれの主題に捧げられたシンボリックな宗教画(「言葉のイコン」)と見なすというような、宗教論の芸術手法論への展開を試みている10。ミハイル・バフチンのポリフォニー文学論とキリスト教思想の関係に関する関心も潜在的に高い。

いずれにせよこの領域での議論はソ連時代を通じてないがしろにされてきたものであり、ロシアの読者・研究者は今あらためて革命前の議論を継続する位置に立ったのである。


d)新しい文化学の応用:精神分析、受容理論、エロスフロイト的精神分析学の方法をロシア精神文化史に応用するイーゴリ・スミルノフは、ドストエフスキーの時代のリアリズム文学を、エディプス・コンプレクスの問題に捧げられた文学と性格づけている。すなわち父(世代)と子(世代)の葛藤への様々な対応の形が、文学としてモデル化されているというのだ。社会的なテーマ設定としては、エディプス・コンプレクスの文学は、ニヒリズム文学と反ニヒリズム文学に類型化される。前者が宗教・国家・家庭といった権威の生成システムを否定するのに対し、後者はそれらを共同体の条件として擁護するのだ。しかるにドストエフスキーの文学は第三のカテゴリーを形成すると、スミルノフは考える。『悪霊』にみられるように、彼はニヒリストの論理を破産に追い込むと同時に、社会秩序の代弁者をも戯画化してしまう。彼の文学は、社会モデルの自己批判、文学の自己批判を含んだ「ポスト文学」だというのがスミルノフの論旨である(『プシホディアフロノロギカ:ロマン主義から現代までのロシア文学の精神史』1994)。


少しちがったスタンスの「心理詩学」をかかげるエフィーム・エトキンドは、文学を人間の合理的部分と非合理な部分の関係論として捉え、虚偽の持つ表現性と真実の訥弁性という背理のレベルで、ドストエフスキーの小説『白痴』を読解している(『<内的人間>と外的言語』1998)。これらもまたソ連文芸の公式路線から排除されてきた方法のドストエフスキーへの応用である。

 文化学者ヴァレリー・ポドロガやミハイル・ヤンポリスキーは、読書を身体的コミュニケーションと捉える現代的受容理論の立場から、ドストエフスキー作品を性格づけている。

彼らによればドストエフスキーの作品では、主人公たちの身体と精神のバランスが壊れているうえに、個別的な身体の輪郭も曖昧で、あたかも主人公たちが集合的に一定の精神状態を表現しているかのようである。そこには読者が日常的な身体感覚で追体験できるような三次元空間の代わりに、複数の時間帯が混在し、存在と非存在、瞬間と永遠が接するような時空間(ミハイル・バフチンのいう「ソブイチエ=共存・事件」空間)が開けている。

 読者の作業は特殊な叙述のリズムに沿って、この境界の世界を体感していくことである(V.ポドロガ「皮膚のない人間」1994、M.ヤンポリスキー「痙攣する身体:ゴーゴリとドストエフスキー」1996)。これも新しいアプローチの応用であると同時に、ようやく自国で全面的に展開されようとしているバフチン理論への、多少屈折した応援演説のようにみえる。

 最後に言及するG.レヴィントンは、ドストエフスキー文学の民衆フォークロア的要素に注意を促している。彼によればドストエフスキーとフォークロアの研究は、従来宗教歌や伝説といった「上品な」ジャンルに限られていて、より大衆的で下品なジャンル(エロチシズム、スカトロジーを含む諺やチャストゥーシカの類)にはおよんでいない。しかしこのジャンルは文化研究の重要な領域であり、記述文学への影響も無視できない。M.バフチンのいうカーニヴァル文学のジャンルも、これと深い関係を持っているのであって、ドストエフスキーのそうした側面もより研究されるべきなのである(G.レヴィントン「ドストエフスキーとフォークロアの<下品な>ジャンル」1996)。彼のこの論には、1975年にドストエフスキー記念館での会議で報告して公式筋の酷評を受けたものという自注がついているが、ここにも規範の崩壊のしるしを読みとることができる。

 作家の創作の生理的部分に着目するこうした視点との関連で、ドストエフスキーの病的で好色な側面の記述を含む同時代人の回想の類が出版されていることもつけ加えておきたい15。また自殺に関する思想史という一般的文脈のなかで、ドストエフスキーの自殺観を整理したG.チハルチシヴィリの仕事も、広い意味での彼の文化史的意味の再評価といえるだろう。


 社会評論と文学研究の両世界に取材した以上のサンプルは、網羅的というにはほど遠いが、現代版ドストエフスキー受容の「愉快な雑居性」(バフチン)を伺うには十分であろう。

こうした雰囲気がそのまま、文学作品における様々な「ドストエフスキー・ゲーム」の背景となっているのである。


II ドストエフスキー文学の現代的展開


 以下ドストエフスキー・イメージの応用を含む現代文学の実例を観察するに際して、主として作者の姿勢に応じて対象を3つのグループに分ける。すなわち、ドストエフスキーのテーマの積極的展開を含むもの、ドストエフスキー批判やドストエフスキー論自体を文学化したもの、文体模写やパロディを主な動機としたもの、の3グループである。これらのカテゴリーは必ずしも相互排除的ではなく、むしろ大まかなアクセントの差にすぎないが、実際の検討には便利な作業枠を提供すると思う。

 分析に際しては、何かの一般原則に照らして個別ケースを検討するのではなく、作家個々の論理を推測する作業を重視した。すなわちそれぞれの「引用者」がドストエフスキーに見いだしている応用可能性や問題性とは何か、彼はドストエフスキーの何を取り何を捨てたか、ドストエフスキー・イメージは彼の作品に何をもたらしているか、といった問いが本論の中心関心である。それらを集積してドストエフスキー(あるいは19世紀文学)の現代的意味といった一般論に展開する作業は、課題として残されている。

 なお対象の選択原理は体系的であるよりは経験的であり、「現代」という概念の枠も明確にしていない。ただし本論の作業は、主としてソ連後の文芸に関するこの数年間の共同研究を背景にしているので、資料もおおよそペレストロイカ以降の作品が選ばれている。その結果、広義の現代ドストエフスキー・イメージ論に欠かせないヴェネディクト・エロフェーエフ、アレクサンドル・ソルジェニーツィン、サーシャ・ソコロフなどのソ連末期の作品が大半漏れ落ちているが、それらを補完して論の枠を広げていくことも、近い将来の課題としたい。


1.ドストエフスキー・テーマの変奏

 ドストエフスキーに特徴的なテーマを現代風に展開した作品をまず検討したい。例示されるのは、地下室人のテーマ、宗教および生命のテーマ、ロシア論のテーマである。

 a)現代の地下室人:Iu.マムレーエフ『ある個人主義者の手帳』(1986)17
ドストエフスキーの男性主人公の一定型として、『地下室の手記』(1864)の主人公を代表例とする、いわゆる「地下室人」のタイプがある。一種の幻滅したロマンチストで、知性や想像力に恵まれながら、現実への適応性や生活意欲を欠き、世間から孤立した生活をしている。彼の存在は様々な意味で宙ぶらりんである。近代文明人の不幸な自意識を身につけた彼は、ルソー的な自然人の理想に従えないと同時に、契約社会における経済的人間(技術的人間・政治的人間)のあり方にも反発する。伝統的信仰生活をとうに逸脱しながら、自然科学や功利主義的社会論の説く人間観には違和感を覚える。世間のエリートやたくましい生活者を鈍感な俗物と軽蔑しながら、彼らに羨望に近いものを覚えている。

 地下室人は、その言説もアイロニーに満ちている。すなわち自意識の前提となる自己の特権化・彼我の差異化の意志(私は彼らとは違う、私は独立独歩だ・・・・・・)と、自意識自体の対話的本性の認識(私は誰かを意識した発話の中で自己を発見する、私は常に内なる発話者、聞き手、対象といった複数の私に分裂する)とが、彼の発言の中で葛藤を起こしている。彼らの多くは、近代的人間の不合理な運命――理想に照らした自己の不完全さを認識する知性を持ちながら、その不完全性を克服する能力を持たない状態――を、個人的な屈辱と感じている。このようないくつかの要因から、地下室人の発言は、他者を斬る刀でまず自らが傷つくような自虐性を持っている。

 地下室人は思想的な人間であり、彼の思索は彼一個の運命を越えた、普遍的な問題としての広がりを持つ(逆に言えば、彼の思想は彼個人の運命の改善に対して無力である)。ドストエフスキーの作品では、地下室人はしばしば聖なる女性、子供、キリスト的人間といった反対イメージとのペアで現れる。

 しかし地下室人の属性をこのような形で網羅的に名指すことは、おそらく不可能である。地下室人は文字通り近代社会に対する下部や外部からの反省的視点を人格化したものとして、尽きせぬ文化論上の可能性を持っているからだ。したがってこのアイロニカルな形象の中に何を見いだすかということが、それぞれの時代や個人の自己表現となりうる。ちなみにドストエフスキー自身は、このようなタイプを19世紀ロシア知識人のうちに実在する、両面価値を持った人間像ととらえていた。彼は小説の中でその批判者としての機能を利用する一方で、こうした偏った人格の精神的な調和の回復をテーマとして意識していた。一方ドストエフスキーの「残酷な才能」、「病的人間観」を批判したニコライ・ミハイロフスキーやマクシム・ゴーリキーは、これを近代ブルジョア社会の病理を背負った、作者自身の精神の表象として論じた。さらに、たとえば今世紀のフロイト派は地下室人のルサンチマンの心理的メカニズムに、実存主義者は存在と意識の乖離に、ミハイル・バフチンは彼らの発話の対話的構造に、それぞれ注目したのである。

 現代ロシア文学におけるこのタイプのヴァリエーションとして、まずユーリー・マムレーエフ(1931-)の小説の主人公を観察してみたい。

 亡命作家マムレーエフは、人間の奇怪な想像力、とりわけ死・暴力・狂気といったものへの両義的な関心を突き詰めて描写する点で、ゴーゴリ風の怪異談やドストエフスキーのゴシック・ロマンス的側面を受け継ぐ表現者と見なされている。たとえば亡命先のアメリカでのデビュー作『地獄の空』(1980)には、死んでいく人間の魂の状態をのぞき込もうとして次々と殺人を犯す人物が登場する。インド哲学やオカルティズムを背景とした生命輪廻のイメージと、個々の存在の局面を脱し得ない人間の認識の限界性との落差が、彼の小説をグロテスクな悲喜劇にしている。世間から孤立して一種の哲学的実験空間に入り込んでいく彼の主人公たちは、総じて「地下室人」の仲間だといえよう。

 短編『ある個人主義者の手帳』は、文体までドストエフスキーを連想させるものである。

主人公の手帳の冒頭は、次のような『地下室の手記』風文体で始まる。

 やはり私はいやらしい奴だ。そしてなおさらいやらしいことに、そう書きながら満足している。つまりろくでなしの、ボケ老人の、耳を引っ張るぐらいじゃ足りないのと、さんざん自分の悪口を言いながら、それでも愛しているのだ! しかもその愛し方といったら! この世のものとは思えぬような愛し方なのだ。P.117

 彼が世間から孤立している動機も、ドストエフスキーの地下室人の「良識人」批判を忍ばせる。 


 
 断っておくが、この世で私が一番我慢できないのは、地上の人間の90パーセントを占めている凡人たちだ。誓って言うが、どんな殺人者だろうと変質者だろうとアルコール中毒だろうと、平凡人に較べれば、ましで高尚な存在なのだ・・・・・・。殺人者なら、例えば心に後悔の念やら恐怖やらを抱えていて、額には感覚の高ぶりから汗を浮かべていたりするものだが、凡人の場合にはそんなものの影さえない。凡人はただの喋る機械であり、精神性がなく、病的に鈍感で、しかもそれが良識人の証明と見なされているのだ。P.119


 この人物のもう一つの特徴をなすのは、ドストエフスキーの別種の地下室人――『白痴』のイッポリートや掌編『宣告』の主人公など自殺志願者たち――に通じる、死への恐怖と死すべき人間の運命に感じる屈辱感である。

 私は自分自身病的に、震えがくるほどに死を恐れており、自分がやがて膿みただれて死にゆく身であること、たとえ理論上といえども、いつ何時死ぬかもしれぬ身であることに対して、造物主自らわが身の前に跪いて謝ってもらわねばと感じているものである。P.125

 ドストエフスキーの主人公が、娼婦や貧しい孤児といった「聖なる弱者」や「聖なる子供」を相手に経験することになる他者との限定的交流実験を、この「個人主義者」は若い女性を相手に行う。彼は「適度に悪魔的で、詩的で、夢遊病を患っていた」「きわめてハイレベルの処女」と結婚してアパートに閉じこもり、人々への嫌悪、死への恐怖、性の快楽を強制的に共有することによって、一種逃避的な「他者との融合」を試みるのである。以下は死のイメージと性衝動(タナトスとエロス)が耽美的な結合を見せている例である。

 「絡み合うんだ、絡み合うんだ」私は彼女の耳にわめいた。性交時の高まりゆく叫び声の中で、私は彼女に人生のすべてを垣間みさせた。死を運命づけられた脆い生、まるで精液のように、一時高揚し、甘い肉の快楽にしがみつきながら、ついには落下して無に帰してしまう、忌まわしい老人のような生の姿を。私は彼女に理解させようとした。肉欲の汗は死の前の汗であり、性交の果ての疲弊した姿は、人生の終わりのシンボルであって、人生とはまさに射精と同じように、忌まわしくもいとおしいもの、速やかな破滅を約束されたものであると。P.124


 しかし自己の主観的世界感覚を相手と共有しようとするこの強引な試みは、相手が別個の主観の持ち主であるという当然な理由によって、簡単に破綻してしまう。こうした展開において、この小説はきわめて「哲学的」な図式性を持っている。

 自分の外に自分を見ることが私には実に快かったが、同時にその自分の「自我」の塊を食べてしまいたい、自分の体に取り込みたいとも思うのであった。しかしその時、われわれの関係のドラマの最後の一幕が始まった。つまり彼女を自分の中に取り込み、自分のものにしようとすればするほど、私はなにかしら自分には貫き通せぬほど硬いもの、他人の精神の核のようなものに突き当たってしまうことに気がついたのだった。

それはなにやら敵意をもった、弾力のある「非私」であり、私はそれにはねのけられて自分の中へと退散したのであった。P.127


 マムレーエフの脆き独裁者・個人主義者の精神は、この後一直線に内向し、病的になっていく。『白痴』のイッポリートや『カラマーゾフの兄弟』のイワンに現れたような、悪魔的な分身が彼の元を訪れ、唯我論の思想を説き始める。さらに彼は、死への恐怖とは裏腹の、死に対するただならぬ興味に惹かれて、墓地を訪れて暮らすようになっていく。次のような描写は、三文文士の墓地での幻想体験を描いたドストエフスキーの短編「ボボーク」や、注15にあげたオポチーニンの回想にあるドストエフスキーの口述の物語(墓地に通って若い女性の死体に口づけする役人の話)を連想させる。


 墓穴に至るまでの比類なく神秘的な埋葬行進の道を、私はなにか病的なまでに親しい自分の道のように感じた。それはこの世と死後の世界のどこか中間にあって、魂はもう離れようとしているが、まだ離れきってはいないのだ。魂はこの世の夢や叫びや泣き声や幻と別れ切れていない。そしてこの世が今別れの時にあたって、何か別の、非現実的な意味をもちはじめたのだ。(中略)

 死体が穴の側に置かれると私は何よりも真っ先にその顔をのぞき込もうと勤めた。

すると時として、荘厳な劇的なものとは反対に、心の中に笑い上戸の愚者のような力がわき起こってきた。突然死人の顔に唾を吐きかけたくなったり、死者が今にも起きあがって、駆けてくるのではというようなばかげた予感がしたりした。私はそんなとき目をじっと閉じて、また開いてみた。ひょっとして本当に駆け出したら?(中略)

 私は故人の冷たく固まった容貌をじっと見つめた。もしもずっと、気が狂うほど長い間その顔を見つめていたら、きっとその動かぬ悪夢のような、死んだ仮面をはぎ取って、その背後に生の秘密を、自分自身の秘密を見出すことができるように思えたのだ。
(中略)

 エクスタシーも何度か経験した。つまりぼうっとして正体を失った私が、もはや自分の世界の仕切りを越えて、みんなを突き飛ばしながらもぐり込んで、死者たちとキスをしようとするのだ。そんなとき一人の老人が私にオーバーシューズを落としてくれた。P.138-139

 マムレーエフの作品は、鈍感な良識人への反発、死すべき運命への屈辱感、唯我主義的感性といった主人公の心理的造形、エロスとタナトスの結び付け方といった諸点で、ドストエフスキーの世界に近いところが多い。奇人の手記を局外者が読むという物語枠の設定も、19世紀好みである。

 ただし両者の地下室人の位置づけは、いささか食い違っている。

 ドストエフスキーの地下室人は、アイロニカルな個性として自己完結する以前に、一定の社会的機能を背負っている。すなわち高邁な理想を失い、功利主義的な原理に沿って浅薄に固まりかけている近代社会の「良識」に、疑問を投げかける機能である。彼は積極的な属性を何一つ持たないが故に、自己を笑いながら他者をも笑うことのできる批判的な道化である。先述のようにドストエフスキーの小説は、この両義的機能を持った道化を、聖なる女性・子供・キリストといったイメージを媒介として積極的な人格として完成させる、という構想の中で理解することができる。

 一方マムレーエフの地下室人は、そうした社会的な機能をはぎ取られた、いわば純粋な地下生活の実践者である。彼は世の良識人を鈍感と批判するが、それは彼の死への感受性や独自の美学を、彼らが理解しないからにすぎない。たとえばイッポリートやスタヴローギン、イワン・カラマーゾフといったしたたかな「神の摂理の批判者」たちにさえドストエフスキーが与えた留保や疑念――もしかしたら自分の知覚を越えたところで何かの調和原理が働いているかもしれないという形で、彼らの批判を認識論的に相対化してしまう疑念――が、マムレーエフの主人公には与えられていない。同様にこの主人公には、結局人格としての他者から隔絶している。ラスコーリニコフに対するソーニャのように、地下室人の主観的物語を別の論理で読み解いてしまうような他者との接触が、彼には恐怖なのだ。

この物語を怪談として読むなら、一つの山場は、自我の拡大幻想の餌として利用した妻がもう一つの自我の主体だと、彼が気づくシーンであろう。

 マムレーエフの描く地下室人の世界はいわば純粋な荒廃であり、ドストエフスキーとの比較を媒介にすることで、その本質が鮮明に浮かび上がってくる。それは共同体、母性原理といった、個を結んで集団となす概念が全く効力を失った世界での、肥大した不安を抱えた自我のイメージである。


 b)V.S.マカーニン『アンダーグラウンドあるいは現代の英雄』(1998)

 ドストエフスキーの地下室人は内省の人であるばかりか行為の人でもあり、何かの事件を契機にその思想と人生への態度を試みられる。たとえば『罪と罰』のラスコーリニコフは、殺人を犯すことで複雑な問題群に直面する。すなわち、いわゆる凡人と非凡人に関する彼の思想は正しかったか否か、その論理に基づいて行った行為は適切であったか否かといった、犯行の正当性をめぐる一連の問題と並行して、親族や警察といった他者に犯行を隠すべきか告白すべきか、犯罪者に正常なコミュニケーションは可能かといった、発話行為をめぐる倫理や心理の問題が発生するのである。

 題名もドストエフスキー(およびレールモントフ)の作品を連想させるウラジーミル・マカーニン(1937-)の小説『アンダーグラウンドあるいは現代の英雄』の主人公は、ソ連全体主義社会の地下世界出身者だが、彼の経験はそうしたラスコーリニコフ的問題の現代版というべきものを含んでいる。

 主人公は90年代モスクワの地下室人――すなわちソ連期からのアングラ作家で、ソ連後の時代にも出版して世に出ることをかたくなに否む54歳の男性である。かつて出版社訪問をしながら、ついに121回目に掲載を拒絶されたとき、彼は手元の原稿をすべてピローグの包み紙に提供してしまった。現在の彼はもっぱら頭の中で創作するばかりで、彼がどんなタイプの作家なのかは、読者には不明である。

 現代の地下室人は経済的問題にさらされていて、この人物も妻子と別れたまま、タイプライター一つを抱えて巨大なアパートの留守宅を時限付き管理人として転々と住み暮らすという、綱渡り生活を強いられている。その環境の中で、彼は廊下を歩き回って他人のドアの向こう側を推測したり、夜中に女性を訪問したりといった、ドストエフスキーの地下室人にはない生態をも身につけているのである。

 この人物の「地下生活」の意味は揺らいでいる。本来主人公にとって、アンダーグラウンドとはソ連後期の良心的知識人が強いられたライフスタイルもしくは精神態度の一つであり、しかもソ連社会に必須な構成要素でさえあった。個人が超自我と下意識を必要とするように、社会も公的部分とアングラ的部分を必要とするという論理である。しかしそのような意識は、社会の変動と無縁ではいられない。次のような内省は、ソ連後の非体制派知識人にとっての自己正当化の複雑さを反映している。

私の人生は失敗ではないと知り、信じたかった。そして何か特別の目的と至上の配慮によって、いま(現在このロシアで)私のような人間が、評価も名声も得ることなく、しかもテキストを生産する力を持って生きていることが必要とされているのだと、信じる必要があったのだ。アンダーグラウンド。言葉無しで生きてみること。他の連中はそうして生きている。沈黙者として生きることがリスクかリスクでないか――それが問題だった。そして私は最初の一人だった。私は自分の無名性を敗北ではなく、引き分けでもなく、勝利として受け止めた。私の自我がテキストを凌駕したのだと。

 そしてゴルバチョフ改革の後でアングラの連中が地下のあちこちから飛び出してきて、まるで急に我に返ったように昼の光の中での名声をひっつかみ、奪い取ろうとし始めたとき(そしてその名声の奴隷となり、過去の傷痍軍人のようなものとなっていったとき)、私は私のまま残った。私にはなにも埋め合わせるべきものはなかった。次々と本を出したり、何かの地位を占めたり、雑誌の編集をしたりするのは、ただの誘惑であり、そして次には俗悪な振る舞いとなった。書かざる私の「私」は、それ自身の人生を獲得した。拒絶の瞬間に神が私に多くのものを恵み、そのままでいるすべを与えてくれたのだ。3:136


 主人公の言う「沈黙」や「拒絶」の意味を読みとるのは意外に難しい。メディアを支配する<全体主義的公式文化>対自由で主体的な<地下文化>というソ連時代の対立構造が崩れ、非体制的であることの自明の意味も失われた。主人公の仲間たちはいまやあらためて、出版か沈黙か、文化の表面に出るか地下にとどまるかの選択を迫られている。そしてすでに社会主義時代に作品発表の努力を放棄したこの人物は、ペレストロイカの時代にもその姿勢を貫こうとしているように見える。彼が抱えているタイプライターは、あたかも禁煙者にとってのパイプのように、何を放棄したかを示す記号なのである。その選択の根拠が、ここではあたかも倫理的なもの、良心の問題(俗悪さの拒否)であるかのように語られているのだが、なぜ作家や編集者の地位に納まることが限定的に俗悪さのみを意味することになるのかは、じつは経験的にしか説明されていない。彼の選択は柔軟で主体的なものというよりは、むしろ定型的で受動的なものにさえ見える。つまり沈黙や無名性という概念が、すべてを超越する精神の純粋さを示す指標として、この人物の選択を支配しているようなのだ。従って彼の選択を社会倫理的に説明するだけでなく、心理的なレベルで説明することも大いに可能であろう。たとえば彼のうちには、官憲の暴力で精神障害を被った弟との関係や、何度も出版を拒否する編集者たちとのつきあいなどから生じた一連のトラウマがあり、それがいわば地下室症候群とでも言うべき症状に結びついたあげく、あらゆる社会的・積極的選択の意味をその都度覆してしまうのだ、というように。いずれにせよ彼の行動は、彼の意識的な説明からだけでは理解できない。彼は地下室的な生活を選んでいるというよりは、むしろ選ばされている。彼の倫理的な議論はドストエフスキーの主人公の皮肉な饒舌の前では奇妙なほどナイーヴであるが、にもかかわらず両主人公は、彼らの存在の客観的様態とその主観的(主体的)動機付けとの間の乖離という点で、共通性を持っている。

 これが小説の前提である。

 物語のプロセスで、この地下室人も否応なく現実の他者世界との関係を強いられる。その関係の中心をなすのが、二つの殺人事件である。主人公はコーカサス・マフィアとのトラブルから、偶然に相手の一人を殺し、次にはソ連期からの国家保安部のスパイを、計画的に暗殺するのである。ラスコーリニコフの場合と同じく、殺人は主人公に、責任の所在、罪意識への対応、他者への態度といった一連の問題を投げかける。そしておもしろいことに、この文学的人物は、そうした問いをドストエフスキーの小説のコンテクストで受け止めるのである。

「殺人を犯すと、人は殺人自体にとらわれるのではなく、本や映画やテレビで殺人について読んだり見たりしてきたすべてのことにとらわれるようになるものだ」(1-92)と主人公は考える。とりわけ文学は、経験の意味を判断する媒介物として、非常な影響力を彼に発揮する。たとえば「殺すなかれ」という命題は、(『山上の垂訓』などではなく)ドストエフスキー文学を通じてロシア精神を呪縛していると、彼は述懐する。


 私は「殺すな」について考えてきた。テーマは(時代で言えば)もちろん19世紀のこと・・・・・・それから、文学の(文学による)警告のこと・・・・・・それからかのフョードル・ミハイロヴィチ(ドストエフスキー:訳者)のこと――この人物抜きではどうしようもない。本当の道徳思想の香りが漂ってくるのは、どうしてもこのあたりしかない。そしてドストエフスキーのいわゆる「殺人者は自らを滅ぼす」という思想は、ほとんど絶対命題のようなものになっている。古典でありカノンなのだ(ロシア人にとっての文学は、いまだに巨大な自己暗示である)。「殺人を犯すなかれ」という立派な、根本的な教訓――例えばドストエフスキーの小説は、いまだにわれわれにとって生きている。しかしそれはすでに思想として、エネルギッシュに表現された芸術的抽象概念として生きているのだ。過去の天才的な言葉(そして当時としては無条件に先見的な言葉)の中に、すでに来るべきタブーが見えかくれしている。1:101

 ロシア文学はこのように強力な倫理的呪縛力を持つ「一大ウイルス」であり、ドストエフスキーの作品はその代表である。しかし同時に、彼の論理によれば、文学ウイルスのメッセージは時代ごとに変化する。たとえばドストエフスキーから20年ほどさかのぼったプーシキンの時代には、殺人(決闘)は名誉を守る手段として文化的に正当化されていたのだ。タブーは一定ではない。だから主人公は、文学同士を対立させることで、罪意識を回避することさえできる。

 背中を刺されてベンチに坐っているカフカス人の姿は、相変わらず私の目に映っていた。それは当たり前だ。しかしそのベンチも血痕も、それ自体は呵責を促す物ではなかった。ましては殺人への呵責を。これは計画殺人ではなくむしろ決闘であり、われわれはともにナイフを抜いたからだ。しかも相手のほうが先に私を殴り、斬ってきた(及び発砲した)のだから。つまり私は正当に勝ったのだ。だから時がたってどんなことを言われようとかまわない。あるいはたとえいわゆるロシア文学が、今まさに私の耳元でなにを叫び、わめこうと。だがいったいロシア文学はなにを叫ぶのだろう。

例えば19世紀のどちらの半分の声で叫ぶのか。決闘好きの前半世紀か、それとも懺悔好きの後半世紀か。まさにそんな風に私は問題に対して反対からの問題を投げかけ、時間を分割することで自分を正当化した。1:101-102


 当然ながら、文学と実人生の非同一性という自明の命題も、彼の遁辞のネタとなる。

 ドストエフスキーも言葉でわれわれを説得しただけだ。だがF.M.(ドストエフスキー:訳者)が最後の言葉を発して自己の勝利を誇示したとき、すぐさま明らかになったのは、彼が説得した相手は誰か関係ない人間で、私ではなかったということだ。つまり単に内部で、自分のテキストの領域で、読んでいる私を説得しただけだ。テキストの中でということは、私の「我」の中ではないのだから。1:102


 しかしこの主人公は、論理とも倫理とも違う心理的な面で、苦しい状態に追いつめられていく。すなわちまたもやラスコーリニコフと同じように、すべてを沈黙のうちに隠し通すという至上命題と、告白への衝動との間で引き裂かれるのである。

 それはわがプロットの展開をめぐる小さな、しかし大事な心理的発見であった。つまり私を(私の心を)いま圧迫しているものは、良心というよりは喋らないでいるという状態なのだと、ふとそう思ったのである。その通り、いまの私を苦しめるのは良心の呵責ではない(それは概して弱い)。沈黙していることが苦しいのだ。目の前に一枚の紙もなく、一人の聞き手もいないことが。(中略)そんな風に考えながら私は寝込んだ。何か心が知らせたのだろうか。当面私には謎だった。考えが及ばないのだ。そんなおしゃべりな、危険なやり方でも、この私を言葉へと回帰させたいという心のメッセージなのか。もし目の前に聾で唖の女がいたら、私はもうとっくに相手に話し、懺悔していただろう。3:75


 こうして主人公は皮肉な状態に陥っていく。すなわち地下室人の反対陣営である世の管理者たち(刑事や精神科医)が、罠にかけたり薬物を用いたりして彼の言葉を要求するのに対し、彼自身が告白の相手に選ぼうとした同じアンダーグラウンドの弱者たちは、彼の言葉を受け入れる用意がない。木賃宿暮らしの女性フルート奏者ナータ(この人物はドストエフスキーの聖なる女性=弱者を連想させる)は、精神薄弱気味で長い話を理解する能力がないし、顔見知りの若い娼婦は、あまりにも屈託がなくてとりつく島がない。「ラスコーリニコフとソーニャの関係のようなものは、薬にするほどもないのだ。だから彼女のうち明け話を聞いたり、彼女に向かってうち明けたりするなんてことは、考えることさえできない。それはまるで一緒に寝ながらソ連の宇宙飛行士のマーチを歌うのと同じくらい場違いなのだ」(1:104)――そう主人公は考える。この後彼は精神と肉体をやみ、死の瀬戸際までいくのだが、いわば倫理問題において19世紀文学を相対化しようとした彼が、この問題では現実によって自らの文学性を笑われることになるのである。

 この小説は結局、沈黙者として生きようとした地下室人が、現実的経験を文学的レベルで解釈・消化し、乗り越えようとしたあげく、他者とのコミュニケーションの喪失に足をすくわれるという、皮肉なテーマ構造を持つ。最後に彼は、同じく無名作家の友人や精神障害を持つアングラ画家の弟との交流の中で、再び言葉への信頼を取り戻すのだが、地下室人のコミュニケーション体験をめぐるこの物語は、マムレーエフのものよりも読者の受容に向けて開かれた印象を与える。それは作者が地下室人を悲劇化することなく、文学と社会状況の両面から彼を相対化し、その弱さや矛盾、道化的側面を描くことに成功しているからである。


 c)宗教と生命のテーマ: Ch.T.アイトマートフ『処刑台』(1986)

ドストエフスキーの小説は、特殊個人的な問題と普遍人類的な問題とをダイナミックに関係づける点で、悲劇や哲学的対話のジャンルとの類縁性が指摘されてきた。これはすなわち、主人公一個の限られた経験のうちに、生命や人類の未来といった大規模な問いにふさわしい時空間が開けていることを意味するが、ドストエフスキー文学のそうした側面を意識した現代作品も散見される。

 上述のマカーニンも、中編『抜け穴』(1991)20の中で、ドストエフスキーの言葉のシンボリックな使用により、一種運命的な選択の場を小説中に導入していた。すなわち、この近未来アンチ・ユートピア小説の主人公が不思議な抜け穴を通って訪れる地下世界のホールで、たまたま「未来への姿勢」という意識調査が行われているのだが、そこでは絶望した人々が投げ捨てるアンケート用紙が、主人公の目の前に堆くたまっていく。主人公はそれを、「未来への入場券の返却」というメッセージと受け止めるのだが、これはむろん『カラマーゾフの兄弟』のイワンが、幼児の苦しみのような不条理を前提とした未来の調和を拒絶する態度表明として用いた表現の応用である。

このような大きな問いに開かれた小説構成を持ち味とする現代作家の一人が、チンギス・アイトマートフ(1928-)である。86年に出版された長編『処刑台』は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』中の「大審問官」の章や、ミハイル・ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』などの系列に属す、キリストの試練物語の変奏という要素を持っている。

 この小説には三組の主役たちがいる。中央アジアのモユンクムィ・ステップを流浪するオオカミの家族、ジャーナリストを目指す元神学生のアヴジイ、キルギスの熱心な牧羊家ボストンの一家である。このうち第二のアヴジイの物語が、ドストエフスキーのテーマと深く関わっている。ソ連末期の神学生アヴジイは、教会のキリスト教がもつ社会的な意味に疑問を覚え、ジャーナリストとして直接世の悪と戦おうとする。彼は中央アジアとバルトを結ぶ麻薬密輸団の存在を知り、大麻採取グループに潜入するが、道中自前のキリスト教を振りかざして説教するために、半殺しの目にあってしまう。書き上げたルポルタージュも結局握りつぶされた彼は、女性環境学者と結婚しようと再度赴いた中央アジアで、食肉生産ノルマ補填のため野生カモシカを大量捕獲するグループに雇われたあげく、再度リンチを受けて十字架刑のような死に方をする。

 麻薬、宗教、環境破壊などソ連期の禁忌テーマを積極的に盛り込んだ点で、ペレストロイカ期の告発文学の先鋒と見なされたこの小説には、イエス・キリストのエピソード以外にも、ドストエフスキーの小説を下敷きにしたと思える要素が多い。
 たとえば教会の教条主義を批判するアヴジイの論理には、主体的人間の視点から伝統的な神のイメージを修正しようとする意図が見えるが、ここにはイワン・カラマーゾフ流のヒューマニズムに立脚した摂理批判(弱者の苦悩は将来の世界調和によってはあがなわれないという思想)、およびラスコーリニコフや『悪霊』のキリーロフのいわゆる「人神」思想(人間がその神的資質によって神に成り代わるという思想)の反映を見いだすことができる(もちろん今世紀の建神主義等も媒介項として考えられる)。地上の人間の知的能力が発展するにつれて神の概念も発展すべきであると考える彼は、伝統的な民族・民衆の宗教がすでに役割を終えたと感じ取り、現代社会の需要に合致した神の理念を備えた、現代の宗教を追求する必要があると主張するのである。

 私たち自身から生じているものを天上の力のせいにしてはいけません――そう主人公は神父の一人に語りかける。――もしも被造物である私たちが、善の力と悪の力という両極の力を同時に身に備えることを神が避け得たとするならば、神は何のために私たちをこれほど不完全なものとして作る必要があったのでしょうか。私たちをかくも疑心と欠点だらけの者、神ご自身に対するにさえ狡知をもってするような者に、作る必要がどこにあったのか。あなた様は教理が絶対的なものであり、世界と私たちの精神の本質がそこに最終的に把捉されていると、断固主張されています。しかしそれは不合理です。果たしてキリスト教2000年の歴史において、私たちはほとんど聖書以前の時代に述べられた事柄に、一言も付け加えることができなかったというのでしょうか。あなたは真理を独占するために戦っておられる。しかしそれは控えめにみても自己欺瞞です。なぜならたとえ神の教えだろうと、真理を究極まで認識し尽くしたといえる教えなどあり得ないからです。もしそうだとしたら、そんなものは死んだ教えではありませんか。P.81


 この神学生は、宗教的新思想のほかにキリスト幻想にもとりつかれていて、麻薬団や密猟団での奇怪な体験のプロセスに、イエスの放浪とゴルゴダのイメージがつきまとう。実際、作中には彼の幻想の形で、ブルガーコフの小説を連想させるピラトとイエスの最後の対話シーンが登場するが、そこにはドストエフスキーが描いた中世の異端審問官と復活したキリストの対面シーンも、潜在イメージとして包含されている。ただし沈黙を通すドストエフスキーのイエスと違って、アイトマートフのイエスは雄弁に自らの思想を語る。しかも彼の説く神のイメージには、主人公自身の抱く理性的人間神の要素が混入している。つまりアイトマートフのキリストは、主人公の思想を別の側から代弁しているのだ。

 創造主は私たちに理性というこの世で最高の恵みを授けられた。そして理性によって生きる自由を与えられた。この神の恵みをいかに使うか――そこに人間の歴史の眼目があるのです。総督よ、まさかあなたは人間の存在の意味が自己の精神をみずから完成させることにあるということを否定なさりはすまい。それ以上の目的は世にないのですから。輝かしい精神の完成に向かって、一日一日と無限の階段を上っていくこと――そこにこそ理性的存在の美しさがあるのです。(中略)
 神の御心は、いつかある日あたかも青天の霹靂のように神の子が復活し、諸国民に裁きを下すために天から下ってくるということではありません。目的は全く同じでも、事情は正反対なのです。この私が、つまりこの町を通ってゴルゴダに至るまでの距離しか余命のないこの私が、復活再臨するというのではなく、あなた方人間たちが、キリストのうちで、気高き正義のうちで、生きるために来臨する、つまりあなた方が、この先数え切れぬほどの世代の果てに、私の元へやってくるのです。そしてそれが私の再臨となる。言い換えれば、私は人々のうちにあって自らの苦悩を通じて自らの元へ戻る。つまり人々のうちで人々の元へと戻るのです。P.150-151


 この小説のイエスは、神と人とを連続したカテゴリーとしてとらえている。彼によれば「総体としての人類は地上における神の似姿」なのだ。

 一方この幻想の対話の相手であるピラトの発言も、同じくドストエフスキーの大審問官の思想を想起させる。主体性を欠いた弱い存在である人類は、自由で自発的な愛の原理によって生きるよりも、奇跡、神秘、権威によって支配されることを望んでいると、大審問官は説くが、次のような箇所はそうした思想のパラフレーズと見なせるだろう。

 確かにおまえの洞察は鋭い。だが、おまえはあまりにも思い上がっていはしまいか。広場の群衆の卑しい本性を忘れ、人間の信仰に強い期待をかけすぎてはいまいか。おまえはもうじき市壁の外でこのことを思い知らされるだろう。(中略)カエサル無しには世界は成り立たず、ある者の支配と他の者の服従は存在かなわぬ。故におまえが思いついた別の秩序を新しい歴史として押しつけようとつとめても無駄である。カエサルにはカエサルの神々がいる――カエサルは連綿と続く「明日」の永遠性の中で一定の境界を失い、空気のようにすべての者に平等に属するような、おまえの抽象的な神、明日という神を認めない。なぜなら平等に与えることのできるものはすべて、何でもないか、価値がないか、下らないものに決まっているからだ。(中略)おまえがどんな予言をしようと、おまえの努力は無駄である。権力によって治められる世界はほかの形を取り得ないのだから。世界はより強い者が権力を握るという従来のあり方を今後もとり続けるであろう。今後も強者が世界を支配するであろう。P.153-154


 未来に向けた人類の成長・完成の思想を説くイエスと、現在の秩序の論理を擁護するピラトの対立の構図は、アヴジイの物語だけでなく小説全体の構想の雛形となっている。オオカミの家族の物語でも、牧羊家ボストンの物語でも、個のイニシアティヴによる生命の積極的展開や競争的共存の思想が、権力のもとでの保身や異分子排除の論理と対立し、敗れていくのである。それがソ連末期の現実だと作者は言いたいようだ。

 近代ロシア文学の記憶は、いわば福音書的なモチーフを現代の物語に応用する際の媒介イメージを提供している。牧羊家ボストンの人物像がトルストイの小説から農村派文学にまで現れる「誠実な農民」のイメージに連なっているとすれば、アヴジイはドストエフスキーのムイシキン公爵からヴェネディクト・エロフェーエフやサーシャ・ソコロフらの主人公たちに通じる、「聖なる愚者」、「弱き義人」のイメージと重なっている。この後者――聖愚――のイメージの中に、アイトマートフはドストエフスキー的キリスト教のヒューマニズム的側面とキリスト崇拝の要素を選択的に取り入れた。だからアヴジイの物語は、たとえばゾシマ長老を欠いたアリョーシャ・カラマーゾフの話といったものを連想させる。

ただしマムレーエフの場合と同様、テーマの類似はその処理の差を際だたせている。アイトマートフ版ドストエフスキーが与える違和感は、主人公たちがすでにある思想を持った(あるいはプログラミングされた)信念の人として登場することである。あたかもオオカミの母親が(人間語で言うところの)母性本能・種族維持本能を脳神経に組み込まれて、それに反する行動ができないのと同じように、アイトマートフの人間たちも、信念に矛盾する行動ができない。ドストエフスキーの小説を開かれたものとしていた、思想の不完結性、人間と思想の関係の決定不能性、およびそれ故のダイナミズムが払拭され、かわりにある信念の人の冒険が悲劇的な色調で描かれる。小説は一面で思想による現実の批判、他面で思想の諸側面の展開という機能を果たしているが、思想自体の正当性や整合性が試みられる機会は欠落している。1990年の『カッサンドラの烙印』で、アイトマートフは新しい進化の方向選択の理念(賢明なる優生学)を唱道して敗北する「宇宙修道士」の物語を書いたが、思想のニュアンスの差にも関わらず、そこでも一つの思想の悲劇的絶対化が行われているのである。

 アイトマートフは、小説ジャンルに近代以前の叙事詩の要素を持ち込むのを持ち味とした作家である。『一世紀より長い一日』(1980)のような作品では、リアリズム小説的な要素と叙事詩的要素との対抗が、近代的なものと伝統的なもの、ソ連的なものと民族的なものといった対立を表現する装置として、見事に機能している。たとえばカザフの物語詩やそのバリエーション(記憶を奪われた捕虜マンクールトのエレジーなど)が現代社会の事件や状況(宇宙開発基地に先祖の墓地を奪われた民族の状況など)と拮抗する、神話的空間をなしていた。『処刑台』では民族のエポスに代わって、福音書やドストエフスキーの小説のモチーフが物語の神話的ベースとして利用されているのだが、それは作品を重層化する機能を十分に果たしていないようにみえる。それはおそらく作者が古典を作品に取り込む過程で、対象の多義的な陰影を省略し、自分の思想に引きつけたいくつかの単純なメッセージに還元してしまったからである。その結果ドストエフスキーのモチーフも、作品の神話素と言うよりは、むしろ書き割りのようなものと化してしまったのである。


 d)ロシア論の文体:D.ガルコフスキー『果てしない袋小路』(1995/1997)21

 ミハイル・バフチンはドストエフスキーの主人公の言葉の分析に際して、文が直接の指示内容以外に含んでいる発話者の意識に関するメッセージに、とりわけ注目している。たとえば「隠された論争や対話」と彼が呼ぶ種類の言表においては、表面に言及されない他人の言葉を相手にした葛藤が、ほのめかしや留保を含んだ、屈折した表情を発言に与えている。そのような言葉は、いわば想像上の他者の問いや糾弾を先取りしたうえでの、応答や釈明なのである。これは前出の地下室人タイプの発話にとりわけ顕著な特徴であるが、時としてナレーションの言葉にも、あるいはドストエフスキー自身による評論の言葉にも、類似の兆候を見いだすことができる。

 バフチンはこのような現象を、人間の意識と思想の対話的性格に関するドストエフスキーの認識に帰している。彼の考えによれば、ドストエフスキーの主人公は社会的なタイプや心理学的性格の観点からは定義しきれない、世界と自分をみる視点や意識として設計されている。この意識は自己認識に向けて無限の運動を行う。すなわちそれは外部世界との相互作用を通じて自己を知ろうとしながら、自分に対する外部からの定義を裏切ろうとする。そして同時に自分が自らに与えた定義やイメージまで、常に相対化してしまうのである。「自己」とは既存のものでなく、こうした運動の中で絶えず新しく認識し直されていく、非完結の存在なのだ。

 このことはドストエフスキーの思想の扱いにも直接関係する。バフチンによれば万人共通の意識のあり方を前提として単一の普遍的な真理を求めるたぐいの形而上学を、ドストエフスキーは否定した。彼が思想の名で意味するものは、特定の意識の視野に写った真実、およびそれらの相互関係の叙述である。すなわち思想とは、意識同士の相互主観的、対話的な関係の中で発せられる問いと応答からなっていて、そこには個人の肉声の調子や彼の他者への顧慮のあり方が、すべて含まれている。そして意識が完結しないものである以上思想も完結しない。自己について無限の発話が可能であるように、思想についても最終的な定義は存在しないのである。22

 思想家ドミートリー・ガルコフスキー(1960-)は、このようなバフチンのドストエフスキー解釈をきわめて積極的に受け取りながら、それをドストエフスキーの個人的特徴と言うよりは、もっと一般的な文脈でとらえ直そうとしている。すなわち彼は上記のようなドストエフスキー風の思想表現のあり方を、ロシア人によるロシア論の必然的な形式と考えるのである。

 彼の『果てしない袋小路』は、その風変わりな形式の故に思想的エッセイとも文芸評論とも特異な小説とも読める作品だが、そこで彼はドストエフスキー、ワシーリー・ローザノフ、ウラジーミル・ナボコフを中心主題としたユニークなロシア文化論を展開している。

ただしそれは、ロシアにおけるロシア文化論の特殊な意味、論者の心理、適切な議論形式のあり方等々、ロシア文化論というジャンルの背景・方法・意味・機能に関する様々な考察や思考実験を含んでいる点で、メタ・ロシア文化論と呼ぶべきものである。

 ガルコフスキーの論理では、ロシア文化にはそもそも合理的な自己表現はふさわしくない。ロシア人はまず民族の中心的神話を持たず、また文化の輪郭や境界も曖昧である。しかもロシアでは言語(ロシア語)自体が、論理性や哲学的機能を欠いている。

 ロシア語。ロシア語がどの程度まで哲学システムの構築材料となるか。答は簡単。ゼロ程度だ。ロシア語とは根本的に「非哲学」言語だ。ロシア語は虚の言葉だ。ロシア語は絶えず分裂し、「両義的になり」、一つの形から別の形へととりとめもなく流れ込み、虚のイメージを与えるのだ。G.1-222

 「発せられた思想は嘘となる」はすでに碑銘ものの金言である。ところでこの真理の私家版として「ロシア語で発せられた思想は不合理である」と言ってもいいであろう。なぜなら本来合理的な思想でも、ロシア人の口に上ると不合理なニュアンスを帯びてしまうのだから。G.1-224


 さらにロシア人の精神が、中心に空虚を抱え込んでいる。

 ロシア精神は本来おとなしく黙しがちで、不定型な精神である。それは完全な空虚、虚ろな穴だ。そもそもロシア自体が不毛なのだ・・・・・・。
 しかし――とガルコフスキーは自分の命題をドストエフスキー風の逆説で展開する。

――その空虚さが恐るべき感受性を生み、認知された素材を驚くべき、信じがたいほどの明察の光で照らし出すことができるのだ。G.1-229


 「ロシア人は自分を完全な本物ではないと思っている」(G.2-14)とガルコフスキーは書くが、それならば自らの精神の曖昧さや虚ろさを自覚したロシア人が、曖昧なロシア語を用いて、曖昧なロシアを語るには、果たしてどのような態度が可能か。ガルコフスキーによればその見本がこの書の主題であるローザノフおよびドストエフスキーの方法なのである。

 「ローザノフは一生涯柔らかな空虚の中で、ロシア文化の壁の在処を手探りしていた」という詩人マンデリシタムの言葉を受けて、ガルコフスキーは書いている。

 柔らかな空虚の中で堅い基盤を求めて手探りしている思想家の像――これはすでにシンボルの域を超えている。これはローザノフの本質であり、ひいてはローザノフ自身に対する必須の態度でもあるのだ。G.2-5


 ローザノフの態度とは、具体的にはこの20世紀初期の思想家の作品を貫くアフォリズム文体を示す。すなわち「蜂蜜」のように不定型なロシアという素材を、小さな断片に分けてアフォリズム的に描写し、さらにそれぞれのアフォリズムに必要な注釈、逸脱、変奏を加えていく手法であった。

 作者にとって論理的に一貫し、自足したロシア論は、すでにロシア論ではない。曖昧なものを曖昧にとらえて破綻しない方法、あるいは最初から自己矛盾や破綻をプログラムしたローザノフの方法こそが、ロシアへの言語的対応として模範とするにふさわしい。そして絶えず留保、補足、例証や反証を必要とするアフォリズムの迷路に入り込んでいく中で、ロシア人はロシアのみか自分自身をも表現することができるというのである。

 限界性を自在さと読み替えるようなこうした独特な評価を、作者はローザノフのほかにドストエフスキーにも与えている。

 ドストエフスキーとローザノフ――彼らはおそらく唯一自由なロシアの思想家たちである。まさにその自由さの代償として、彼らの思考は民族的なイデエによって厳しく規定されていたのだ。すなわち彼らを通してルーシ(ロシアの古称:訳者)が自己現したのである。G.1-241

 ドストエフスキーはいまだ自国の哲学をもたない国に生まれた哲学者である。ただしその国には自前の文学があった。だからドストエフスキーは自分の哲学を小説の形で表現した。これは悲劇であると同時に幸福でもある。というのも、このユニークな場合には、内部の精神世界とその言語表現との間に分裂が生まれなかったからである。

ドストエフスキーは自由で、その哲学の才能はロシア文学の広い懐の中で展開された。

ドストエフスキーの口を借りて、ロシア的なタイプの考え方が自己表現した。すなわち発作的でとぎれとぎれでありながら、同時にしつこくていつまでも言い訳したりつけ加えたりといったタイプの考え方である。G.1-240


 ガルコフスキーはドストエフスキー流の人間論やロシア論の本質的特徴を捉えているだけでなく、そうしたものを自己流に利用・応用している。きまじめながらポストモダン派の世代に属す彼は、すでに(たとえばソルジェニーツィンのように)ロシアの「実体」や「精神」そのものを、直接に論ずる姿勢を貫くことができない。一つにはすでにロシア論やロシアイメージの膨大な集積が目の前にあり、言われるべきことは言い尽くされているからである。また一つには、ロシア人たる自己がロシア人を対象化して語ることの限界(自己言及のアイロニー)を自覚させられているからである。彼はこうした限定された立場を意識し、許された範囲のゲームを行おうとしている。それはロシア論の集積のうえにある現代の自己の立場から、ロシア論自体について語ること、具体的には様々なロシア論の視点や文体を比較検討し、自分の声に乗せてその可能性を試してみることである。メタ・ロシア論は、彼が選んだ方法と言うよりも、彼に強いられたフィールドなのである。
 実際彼は一見自前の断定的な口調の中に複数の他者の文体を取り込みながら、対象を対象自身の言葉で語ってみせる。またあるところでは、文体自体が議論の内容を模倣している。次の文章は、ロシア人の地下室人的側面を、地下室人的な言葉で語っている例である。

 ロシア文化には沈黙の才はあるが、物事を伏せておく才はない。ロシア人は適当なときに話を止めるすべを知らず、全部話してしまおうとし始めるのだ。この次第は『地下室の手記』に見事に描写されている。(中略)途中で話を止めるすべを知らぬロシア人は、いったん喋りはじめると最後までいってしまい、そしてその言葉の洪水が、ついにはへとへとになって自壊するまで続くのである。(中略)これは全て罪悪感の具体的発露である。それも自己に向けられた罪悪感、つまり単なる弁明でなく弁解であっ、それが例の『内部に終点を持たぬ発話』、何でも口から出してしまう発話の原因となり、それが「退化」と呼ぶべきか、弁明の破壊的な力を自己自身に伝える作業となり、いわば弁明の内に閉じこもることとなって、それが恐らく、少なくとも他人の意識にとっては、人格の消滅となる(これは思想的模倣の一種である)。ロシア人の『自己』の不幸な性格がここから理解できる。弁解するとき、ロシア人は常に自分の世界のもっとも弱い、病んだ部分を取りあげる。しかも自分が考えていることをではなく、他人が(恐らく)自分について考えているであろうことを話題にする。それもその『他人』にそう思ってほしくないがためなのである。(中略)自我という回転する漏斗が、自己弁明の空虚が、絶えずロシア人を吸い込んできたのだ。G.2-5


 ここでは、自虐とも自己陶酔ともみえるロシア人の際限ない弁明衝動の説明が、空虚を動力として回転し続ける漏斗のような、果てしない文体をまとっている。このような形式と内容の対応は、実は文体だけでなくこの作品のコンセプト全体についてもいえる。『果てしない袋小路』(本稿でG.2 と呼んだもの)は、本来この作者がローザノフらを論じた同名の評論(本稿のG.1)への注釈書という体裁をとっている。ただしもとの評論(『コンチネント』誌所収)は書物としての『果てしない袋小路』には収録されていないので、大半の読者は目に見えぬ評論への言及と向かい合うことになる。しかもこの注釈書は、量にしてもとの評論(雑誌版で90ページ弱)の十数倍にもふくれあがっていて、約700ページ、949項の注を盛った百科事典の一巻のような形をしているのだ。注は内容的にももとのテキストを逸脱して広がり、注への注、さらにその注という風に分岐している。そしてこの密林のような総体の中には、ロシア思想論・文化論だけではなく、作者とその地下室人のような父親との関係を中心とした、インチームなロシア人の自己の物語までが展開されているのである。

 この特異な<注・小説>は、その形式自体がいくつもの点で現代ロシア人たる作者の自意識を表現している。すなわちそれは求心力の不在(まとまりのなさ)、非論理性、形式感覚の喪失、自虐性と自己顕示の混在、そうした矛盾のただ中にある独特の美的快楽や陶酔、等々といった点で、筆者の意識するロシア人の性格を表現している。そして同時に自己言及の逆接性、思考の非完結性、形而上学の不可能性といった、現代哲学の認識をも模倣している。作者の論理を敷衍すれば、おそらくロシアは近代に遅れてきた分だけ近代を早く脱したという、ポストモダン派の言説に近づいていくだろう。ドストエフスキーは、非合理や無秩序といったマイナス価値を自在さというプラス価値に変質させるような、ロシア近代の知恵の代表例として、この作家の自己表現の中心部分に取り込まれているのである。


2.ドストエフスキー論のある現代文学

 ドストエフスキーへの批判は評価と同じほど長い歴史を持つもので、論点も少なくない。

ツルゲーネフやストラーホフなど個人的関わりがあった者たちがほのめかしていた人格的問題(猜疑心、名誉心、予言者気取り、果ては性的嗜好の偏り等々)、ミハイロフスキー、レオンチエフ、ゴーリキーなどがいろいろな角度から指摘した彼の文学の倫理・思想上の問題点(プチ・ブルジョア的価値観、宗教上の修正主義、人間観のグロテスクな偏向等々)、最初の評価者ベリンスキーからナボコフまでがしばしば指摘してきた、創作作法の欠点(冗長さ、バランスの悪さ、大衆文学的通俗性等々)といったものが、代表的論点として例示される。

 ジャーナリストでもあったドストエフスキーには、もちろんそのイデオロギーや政治的立場への批判もついて回る。実際彼の民族主義的偏見もしくはショーヴィニズム(反ユダヤ、反ポーランド、反イスラム、反ドイツ・・・・・・)の要素をどのように批判するか、あるいはどのような手続きで理解するかという議論は、学界でも時としてうねりのような高まりを見せる。

 90年代ロシアでも、このようなドストエフスキーの問題点、とりわけ反ユダヤ主義の側面を取り上げ、ドストエフスキーに関する議論を文学化した作品が発表されている。以下現代の文学的ドストエフスキー批判の展開ぶりを検討してみたい。


a)反ユダヤ主義批判: F.ゴーレンシテイン『ドストエフスキー論争』(1990)23
フリードリヒ・ゴーレンシテイン(1932-)の戯曲『ドストエフスキー論争』は、実は1973年に書かれていた作品で、ペレストロイカ後のソ連で初めて出版されたものである。

作者は粛正された父を持つユダヤ系の映画脚本家・小説家。『惑星ソラリス』(A.タルコフスキー)『愛の奴隷』(N.ミハルコフ)等の脚本を手がけ、79年に非公式文集『メトローポリ』の出版に参加した後、亡命している。

 『ドストエフスキー論争』は、エデムスキーといういかにもユダヤ人らしい姓を持った文学研究者が書いた「ドストエフスキーの無神論」という問題論文の採否をめぐって、作家同盟の編集部で行われる議論を戯曲化したもの。配役にもせりふ回しにも、上演用の配慮がなされているとはいえない、いわゆる「読むための戯曲」のように感じられる。

 論争の参加者は、主人公の文学研究者以外に編集者、作家、学者など十数名におよび、思想傾向も、反スターリニズムの農村派シンパサイザー、反ユダヤ主義のナショナリスト、その逆の反ロシア主義者など、多彩である。作品の所々に暗示されている事柄から判断して、出来事は執筆と同時期、すなわち70年代初期を背景にしているようだ。この時代、ドストエフスキーを含めた革命前文学の研究・評価において、すでにスターリン時代のような露骨なイデオロギー的規制は弱まっていて、様々な解釈基準や方法論の導入が可能になりつつあった。しかしそれだけに、古典の解釈が個々人の思想的な立場の表現としての意味合いを強く持ち、19世紀作家の評価をめぐって、イデオロギー上の「アヴァンチュリスト」対保守主義者が対立するという場面も、珍しくはなかった。先にふれたようにドストエフスキーはこの時期、一種の文化的復古主義やロシア民族主義のムードにも影響されて、比較的によく読まれ、生誕150周年を一つの契機として新しい科学アカデミー版の全集も編まれ始めていた。しかしそれゆえに個々の解釈の持つ論争的意味も大きく、たとえば「西側の」「ブルジョア式心理学」や「構造主義」といった文学研究の方法に対する態度、あるいはこの作家の宗教観、社会主義観、民族意識といったイデオロギー的要素の扱い方が、論者の自己主張の指標となっていた。――それがこの作品の大まかな背景状況である。

 論文の著者エデムスキーは、ドストエフスキーを良心的ロシア知識人のモデルとして、あるいは19世紀ロシア作家の代表者として崇拝する風潮に反対する、ドストエフスキー批判者の立場から立論している。

 今日ではドストエフスキーの体が、偉大なる19世紀ロシア文学の全身を隠してしまっている。19世紀文学を自分に取り込むのでも、冠のようにその頂を飾るのでもなく、まさに影のように覆い隠しているのだ。トルストイも彼の陰に隠れてしまったし、プーシキンはなおさらだ。チェーホフだけが一見意外なことに、かろうじて影から逃れ、彼と並び立っている。(中略)それどころか最悪なことに、19世紀ロシア文学のすべてが、今日ではドストエフスキーの視点から、ドストエフスキーを介して理解されているのだ。これはわが国でも外国でも同様である。P.19


 こうした意見とそれをめぐる議論の詳しい検討は省略するが、エデムスキーのドストエフスキー批判の主な論点と論理の骨子のみを列挙すれば、おおむね以下のような矛盾をはらんだ多彩なリストになる。

ア)男性原理批判:ドストエフスキーは男性原理中心の作家で、女性原理を理解していない。両性の原理の尊重から「愛」のモチーフが生まれるのに対して、単性原理は「自由」の概念を絶対化する。ドストエフスキーは自由を人間存在の最重要問題とし、自由との関連で犯罪のテーマを作品の中心に据えた。自由追求の志向が、(信仰=自発的自由の委託につながらず)「不死がなければすべては許されている」というイワン・カラマーゾフの思想につながるとき、20世紀的な殺人の肯定が帰結される。

イ) 宗教上の修正主義批判:ドストエフスキーは宗教の解釈に科学的な論理や方法を持ち込んでいる。神によって生きる代わりに、神を解釈しようとしている。従ってアインシュタインやフロイトとは通じ合うが、本来の宗教的神秘からは外れている。

ウ) キリスト解釈批判:ドストエフスキーはイエス・キリストの個性には共感したが、キリストの教えには従おうとしなかった。総じて彼の教義論は浅薄である。

エ) 民族的宗教の批判:ドストエフスキーにおいてはキリスト教観がロシア民族論と結びつき、自国民の属性や使命を説明する原理として用いられている。彼にとって世界とはロシアであり、人間の苦悩とはロシア人の苦悩である。『山上の垂訓』の普遍人類的な意味が恣意的に読み替えられている。

オ) ジャーナリスト的側面の批判:民族主義のイデオローグであったドストエフスキーが真価を発揮したのは、小説家としてよりもジャーナリストとしてであった。

カ)仏教的要素(!)批判:ドストエフスキーがキリスト・イメージの表象として描いた『白痴』のムイシキン公爵は、実はキリストに似ていない。キリストにとって人間的なものがすべて無縁でないのに対し、ムイシキンは人間的なものからの自由(解脱?)を求めている。

キ) 革命批判の批判:ドストエフスキーは革命勢力の批判にも失敗している。『悪霊』に書かれているのは、国家と革命勢力の戦いではなく、民族主義的無神論と社会主義的無神論という、二つの革命勢力の争いである。

ク) 女性観批判:女性はドストエフスキーにとって総合的人格ではなく、情欲か憐憫かのいずれかを喚起する偏った存在としてイメージされている。そこに生ずる愛
には、破滅が約束されている。

ケ) 20世紀への反面教師性:ドストエフスキーは神なくして生まれてきた。そこに彼の現代性があり、20世紀の精神が彼に惹かれている根拠がある。ドストエフ
スキーの誘惑は、現代の精神病の一つである。


 このような一連の批判と、それをめぐる議論の後、この異端の文学研究者の労作に出版不可の判定が下される。戯曲の最後に作者は、怒れるエデムスキーの呪詛のような言葉を付け加えている。

 (西欧によってさんざん見当違いにもてはやされたあげく:訳者)ドストエフスキーは全世界的な予言者、新時代の意識のイデオローグとして戻ってきた。それはどんな精神の実験にもころりと参ってしまうような、半アジア人の若年層には、きわめて危険なイデオローグである。皆に共通する指導的理念を信じない者は、自分の手で理念を量産するようになる。そして自分の手で作るものだから、自分ではそれが尊重できない。何の神秘もない、ただの作り物だからだ。ドストエフスキーは生の理念も死の理念も尊重しなかったし、本当に身近に感じていた「ロシア」の理念のような本物の理念でさえ、尊重していなかった。彼はそれを形而上学的に理解しただけなのだ。(中略)

20世紀は科学の世紀であるばかりか、意外なことに民族主義の世紀であった。

科学と民族主義という前代未聞の組み合わせのせいで、文化は成熟した力を失い、解体された。一貫した進歩の道を奪われた文化は、誘惑に負けやすい。とりわけ悲惨な時代における危険な誘惑の一つは、苦悩を通じて幸福を得ようという誘惑である。それこそが、とりわけ「世界的」小説群を書いていた時期の、ドストエフスキーの創作精神の眼目だった。(中略)

ドストエフスキーは20世紀文化の支配者である精神分析学の「ブーム」によって持ち上げられた。ゴーゴリやツルゲーネフに学ぶより、ドストエフスキーの方が楽だし、まねもしやすい。彼の思想に誘惑されるのはおもしろく、また自尊心も満足させてくれる。みんな完全な人間ではないから。ドストエフスキーとは、多くのものを得ながらただ一つのもの、神聖なるものを失った文化の頂点をなす存在である。その失われたものとは、保守的で、ダイナミズムや流動性に欠け、反逆者の視点から見れば滑稽なものでさえあるのだが・・・・・しかしそうしたものを欠いた文化は、遅かれ早かれ自滅を約束されているのだ。P.50


 エデムスキーの議論には、先に瞥見した90年代のドストエフスキー論議につながる観点も含まれている。たとえば宗教の危機の時代の作家としての彼の現代的な意味、そのキリスト観とキリスト教観の正当性、民族主義的側面への関心など。しかしそうした問題を論ずるエデムスキーの態度は、学問的な公平さや冷静さを離れて、きわめて断定的・主観的・択一的であるし、論点同士の整合性にも怪しいところがある。彼の論点のすべてを備えた(そしてそれ以外の積極的資質を欠いた)個人としての作家を想像するのはいささか難しい。あたかも彼にとってドストエフスキーは、単なる研究対象の域を遙かに越えた、一種の強迫観念として存在しているかのようだ。同じことは彼の説を擁護したり批判したりする他の登場人物たちについてもいえる。ドストエフスキーは人々の思想的な格闘の場に、一つの人格としてではなく、悪魔もしくは神のごときものとして君臨しているかのようである。

 ゴーレンシテインの作品は、ドストエフスキー論を媒介として、ソ連ユダヤ人という「内側にいる外部者」の目が、70年代ソ連知識階層の思想的雰囲気に感じた違和感や危機感をも表現している。そして同時に、こうした対立の様相自体が隠蔽された心理的閉塞状態の中で、古典作家の定型イメージがグロテスクに肥大していく様も、そこに反映されているのである。


b)イデオロギー批判の反転:Iu.クワルディン『戦場はドストエフスキー』(1996)24

 ユーリー・クワルディン(1946-)の小説『戦場はドストエフスキー』の設定には、ゴーレンシテインの戯曲との共通点が多い。すなわちここでも文学者同士の議論が描かれ、そこでドストエフスキー批判が展開される。ただしゴーレンシテインの議論が多人数での討論会であったのに対し、ここで行われるのは二人の主人公の間のダイアローグである。それも一因して、議論は文学論や思想論のレベルを逸脱した、より個人的、人間的な要素を含んで広がっていく。

 議論の主体の設定にも、皮肉なひねりが感じられる。ドストエフスキー批判者の役を務めるのは、この作品でもユダヤ人学者なのだが、ただし彼は青年時代からエリートコースを歩んでアカデミー会員の地位に上り詰めた学会の大立て者である。これに対してドストエフスキーの専門研究者として彼の擁護役に回るのが、ソ連後の学界で路頭に迷いかけている無名のロシア人学者なのだ。あたかもフェミニズムやポストコロニアル思想が支配するアメリカ文学界のような強者と弱者の逆転現象が、ロシアでも起こっているかのようである。

 舞台はアカデミー会員の文学者ダヴィドソンが住む大きなフラット。現代の経済危機で収入の道を絶たれたある研究所の学者エゴーロフが、この学界の権威を訪れ、研究助成金申請の推薦者となってくれるよう依頼する。現代文芸学理論の用語を散りばめた滑稽な文学談議を通じて、エゴーロフはこの大学者の関心を得ることに成功するかに見えるが、本題に入ったところでひとつの難題が持ち上がる。すなわち彼の研究テーマが「ドストエフスキーの予言性」であるのに対して、ユダヤ人のダヴィドソンは大のドストエフスキー嫌いなのである。

 ダヴィドソンのドストエフスキー批判は、先に見たゴーレンシテインの主人公の論点と幾分重なりながら、きわめて感情的反発をも含む形で、多岐にわたって展開されている。

 彼によれば、ドストエフスキーはまず自らの思想を客観視する冷静さやユーモアを欠いた真面目人間で、たとえばキリスト神人説に傾倒するあまり、キリストを文学上の人物として検討するゆとりを持たなかった。それが彼の文学を浅いものにしている。またドストエフスキーは作家というよりも、国家に無益な政策提言をするようなジャーナリストであった。彼は人間の行動の動機を美しくカモフラージュしてくれるイデオロギーの魅力にとりつかれ、「スポンジのようにイデオロギーに浸っていた」(p.20)。さらにドストエフスキーは収入のために書くプロレタリア作家であり、その様な文学の横行は国家の貧困を反映している。その調和や節度を欠いた書きぶりも、原稿料への打算と精神的アンバランスのしからしむるところで、「チェーホフの手で編集したいくらい」(p.23)である。またドストエフスキーにとって女性とは単なる性愛の対象に過ぎなかった・・・・・・。

 取り留めもなく羅列されるこのような批判の後に、ついに核心にあたるものが登場する。ダヴィドソンの議論の矛先は、ドストエフスキーの反ユダヤ主義に向けられているのである。

『ヴレーミャ』『エポーハ』という雑誌や『グラジダニン』という新聞で、ドストエフスキーは西欧派とスラブ派の中間に陣を張ろうとした。つまり今の言葉で言えば、中間派(ツェントリスト)を目指したのだ。(中略)

そもそも、スラブ派と西欧派の論争は結局のところ、今でも同じだが、ユダヤ人への態度という明々白々な問題に帰着するのだ。(中略)ユダヤ人への態度は、キリスト教的とは言わないまでも、せめて寛容なものでなくてはならないということを、ドストエフスキーは理性では理解していた。しかしもちろん実際には第一カテゴリーの人間すなわち極右スラブ派に同調し、ユダヤ人を憎んだのだ。P.30


 ドストエフスキーの書簡集を開きながら、彼はこの作家がユダヤ人を「ジュー」と呼び、ユダヤ人がロシアのジャーナリズム、思想、経済界に勢力を張って「国家の中の国家」を形成し、社会主義運動を広め、非ユダヤ人への陰謀をたくらんでいることへの警戒を表明した箇所を引用してみせる。この意味で彼にとってのドストエフスキーは特殊な存在ではなく、ロシア民族主義の矛盾した心理構造を代表する存在に過ぎない。

 偉大なるロシア人は偉大なるユダヤ人から書物(聖書)を借用し、それに馴染み、自分のものとしてしまった。そしてその後、ユダヤ人をジューと呼んで呪うようになったのだ!興味深い変わり身ではないかね! またこれはどうだ――共産主義を考え出したのはユダヤ人(マルクス:訳者)だ。そしてロシアがこの思いつきを実行した。

すると結論として、共産主義者はユダヤ人崇拝者ということになるな?――それじゃ、スターリンの反ユダヤ政策はどこからきたのだ?謎だろう?哀れなユダヤ人から思想だけ取り上げておいて、その民族を呪うんだからな! P.31-32

 ダヴィドソンによれば、ドストエフスキーは登場人物をマリオネットのように操りながら、ひたすらこうした自らの思想をモノローグ的に述べただけであり、ミハイル・バフチンの言うポリフォニー文学という定義は、まったく見当はずれなのである。

 バフチンの定義なんて忘れなさい・・・・・・バフチンはドストエフスキーをちっとも分かっていない。ポリフォニーはチェーホフのもので、ドストエフスキーはモノローグ作家だ!・・・・・・彼の登場人物は人間じゃなくて操り人形だ。ドストエフスキーが彼らの後ろで糸をひき、今度はこの人形、次はあの人形と、作者の思想を伝えさせているのだ。
 (中略)

声たちのざわめきはやがてひとつの声、作者の声にまとまっていく。そうなるともう文学的仕掛けなど糞くらえで、作品を新聞記事のように読むしかない。そこですべてがはっきりする。ドストエフスキーは新聞記事として読むべきなのだ。例えば今の『文学新聞』のようにね。まったくドストエフスキーと同じで、文学を除けばすべてについて書いてあるから。P.35-36


 クワルディンの主人公のドストエフスキー批判は、ゴーレンシテインのものに劣らず矛盾に満ちている。彼にとってドストエフスキーの文学は、まじめなイデオロギーの表現であると同時にポストモダニズム的なゲームであり、執筆狂の書き流しかと思えば原稿料をねらっての水増し文である。

 さて、こうした多面的で一貫性を欠いたドストエフスキー批判が、この作品でどのような意味を持っているのかは、あくまでも判然としない。例えば貧しい家に私生児として生まれながら「生来の怠惰の故に」偶然文学の道に紛れ込んだエゴーロフという毛並みの悪い文学者が、俗っぽさをむき出しにしながら「ドストエフスキーを愛せるのは、自ら苦しんでいる者だけなのだ」と独白する様子は、それなりにダヴィドソンの怪気炎と拮抗している様に見える。エゴーロフの態度の根底にあるのは、きわめて素朴故に否定しがたい、作家の言葉に対する絶対の信頼感である。

エゴーロフはみんなが互いに寛容な態度をとり、軽率な過ちや侮辱を許し合い、他人の良い面のみを見いだして、それを会話でも強調するような、そんなことを望んでいたのだ。ドストエフスキーはなんとすばらしい人間だったことか。なぜダヴィッドソンはそれを理解しようとしないのか。ドストエフスキーはどの作品でも、人間に対する善良な態度について、キリスト教的な態度について語っている。その際、彼がもっとも大事にしたのは道徳の問題であった。道徳性だけが、彼の重要な関心事であった。

彼が常に<肯定>と<否定>を、善と悪を対決させていたのも、そうした例を通じて、善の優位を導くためであった。もしもドストエフスキーの作品のこうした面に気づかないとしたら、人生のことも何一つ気づかず、理解しないということになるだろう。
P.45


 一方で作中に紹介されるダヴィドソンの出自も、彼の思想を相対化してしまう意味あいを持っている。このアカデミー会員は、実は20年代からの古参党幹部の息子であった。

彼は幼時からエリートコースを歩みながら、スターリン時代には社会主義リアリズムを、ペレストロイカ期にはモダニズムやポストモダニズムを論じることで、常に学会の指導者の地位を保ち続けてきた、ソ連的変身術の達人なのである。おまけにこの人物は(彼の論じるドストエフスキーのごとく)性欲の権化のような人物で、定例の曜日に美人学生を自宅に招いて、あやしげな指導をしている(ちょうどこの日がその曜日で、主人公たちの談話は、女子学生の訪問で中断されるのである)。
 この奇怪な物語は、あたかもドストエフスキーの短編『いやなはなし』(1862)のような、やるせない結末を迎える。ダヴィドソンは結局エゴーロフの研究を基金に推薦することを拒絶するのだが、それに代えて別の提案をする。すなわちドストエフスキーの代わりに自分ダヴィドソンを研究対象とするならば、相手に月額1500ドルの助成金を保証しよう、ただしその見返りとして、自分に助成金の20パーセントをよこせと持ちかけるのである。こうしてドストエフスキー嫌いの毛並みの良い俗物と、ドストエフスキー好きの毛並みの悪い俗物とが、経済的なベースで手を握り、物語は大団円を迎える。つまりこの小説では、ドストエフスキーの反ユダヤ主義への批判が、いつの間にかユダヤ人学者の俗物性への批判と入れ替わっているのである。

 ゴーレンシテインとクワルディンの作品は、ドストエフスキー評価という窓口から、この20年間におけるロシア文学世界の変化を垣間見させてくれる。すなわち前者の作品でドストエフスキーをめぐる言説がはらんでいたイデオロギー的緊張が、後者においてはすっかり失われている。親ドストエフスキーも反ドストエフスキーも含めて、ここでは全ての言説の真の動機は個人的嗜好や利害である。ユダヤ人としての視点も、個人が隠蔽したり強調したりできる、選択的立場であるかのようだ。そうした意味で、ここでもあらゆる発言は自己言及的であり、対象を性格づけると同時に発話者自身を描写している。打算的で節操のない好色漢としてのドストエフスキー像は、じつは論者であるダヴィドソンの
自己の投影なのである。


c)文学の呪縛: V.ピエツフ『新モスクワ哲学』(1989)25

 前出のマカーニンの小説『アンダーグラウンド・・・・・・』には、殺人という行為が文学作品の記憶を介して初めて理解されるという、一種の事実とフィクションの転倒関係がほのめかされていた。こうしたことを、個人的経験論でも文学一般論でもなく、ロシア文学とロシア人読者の間の特殊な関係に帰す立場がある。文学作品の社会的な機能――世界の情報を伝え、空間や時間の観念を均一化し、宗教・思想・科学などを流布し、歴史や現実の事件の解釈を提供し、人々の行為に影響を与える、といった働き――は、本来小説(ノヴェラ)の本質に組み込まれていたものだが、近代ロシアの政治・社会状況の中で、文学のそうした側面がとりわけ涵養された。すなわちロシア文学は、人々に世界を教え、行動規範を説く教師のように、ロシア社会に君臨してきたというのである。

この種の事柄は心情的なイメージを背負っているので、真実性を論じることは意外に難しい。しかし現実として、たとえば言論の自由が抑圧されていた19世紀ロシア(あるいは20世紀ソ連)では、かろうじて文学が社会問題を表現し思想を語る媒体として機能していた、というようなロシア文学史の記述を、多くの人は抵抗なく受け入れてきた。これに逆の評価を与えれば、ロシアには事実の代わりに言葉や観念が、現実の代わりに文学があったという、ミハイル・エプシテイン流のロシア=シミュレーション社会論となる。ドストエフスキーの文学は、しばしばその種の議論の強力な例証として言及されてきた。

 ヴャチェスラフ・ピエツフ(1946-)は、小説『新モスクワ哲学』において、このような疑似現実体験の生産装置としてのロシア文学論、とりわけドストエフスキー論を、物語の輪郭として配置するという、風変わりな実験をしている。以下はこの小説の序文である。

 驚くべきことだが、ロシアの人間はずいぶん昔から母国の言葉の支配下に、あるいはくびきの下におかれてきた。例えばオランダ人はキェルケゴールを百年もの間読まずに放っておいたし、フランス人にとってのスタンダールも、死ぬまではお呼びではなかった。ところがわが国では、サラトフ県の何とかいう坊主の息子上がりの教師(19世紀作家・思想家チェルヌィシェフスキー:訳者)が、国民の将来のためには(板に打ちつけた:訳者)釘のうえで眠る方法を修得したらいい、といったことを書くと、もう国民の半数が釘のうえで寝はじめる始末なのだ。文学の言葉へのそうした服従的態度は二重の意味で驚くべきである。なぜなら、子供か狂人ででもない限りみんなよく知っているように、そうした言葉自体の陰に隠れているのは、単に生命のない現実の反映、模型に過ぎないからである。いや模型ならまだましなほうだ。悪くすると人々はひょいと腰を下ろしてありとあらゆるデタラメ話を作り出す。そしてその人生ごっこに我を忘れ、実在したこともない男や女に、前代未聞の行動をさせ、おまけにそのデタラメを実話だとふれこんで、罪もない何百万の人々を事実上誤った道に誘い込む。しかもその際、何か超人的な特権が自分にあるかのようにふるまうのだ。というのも、よく「彼は考え込んだ」とか「彼の頭にこんな考えが浮かんだ」などと書いてあるが、ある人間がどんなことを考え込んだか、どんな考えが彼の頭に浮かんだかなんてことが、いったい誰に用があるっていうんだろう!

 またあるとき本を開いてみると、実際こんなことが書いてある。「七月のはじめ、途方もなく暑い時分の夕暮れ時、一人の青年が借家人から又借りしているS横町の小部屋から通りに出て、なんとなく思いきりわるそうにのろのろと、K橋のほうに足を向けた・・・・・・」(『罪と罰』冒頭:訳者)これを読むと、つい考えてしまうだろう。そもそも、暑い七月も、青年が小部屋から出ていった夕暮れ時も、S横町も、青年自身も、何も存在せず、これはただある作家が自らの悪夢から逃れ、さらにはバタつきパンの一片を手に入れようとして、考え出したことなのだと。いやもし仮に、例えば暑い七月はあった、恐らくはS横町もあった、そして住人から又借りされた小部屋もあったとしても、この青年なるものは影もかたちもなかったのだ。いや百歩譲って、この青年が存在したとしても、彼は決して夕刻にアパートの敷地を出て決められた場所に向かうことはなかった。いやもし仮に向かったとしても、「何となく思いきり悪そうに」ではなくて、反対にドイツ風の足どりで出かけたのだし、それも小部屋からでも、夕刻でも、七月のはじめでもなく、きっとイズマイロフスキー連隊のアパートから九月三〇日の早朝に出かけたんだと。

 一番面白いのは、なぜかこの種の洞察が原寸大の大きさで得られることはなく、われわれはあたかもかつて先祖たちが最後の審判の日を信じていたように、無条件で文学を信じている、ということだ。あるいはこの文化現象は、わが国の文学が福音書的文学だからということで説明されるかもしれない。しかし一面では別様の原因も考えられる。つまり書いてあることがそのまま起こったのだと。つまり本当に暑い七月があって、夕刻も、青年もそのままで、まさに彼が「思いきり悪そうに」敷地を出ていったのだ。たとえそれが前世紀の六〇年代ではなかったとしても、前前世紀の四〇年代とか、あるいはボリス・ゴドゥノフの時代とか、はたまた二年前だとか。なぜならば人類はかくも長いあいだ、豊かでかつ多様な形で生存してきたのだから、たとえ文学者がどんな突飛な、悪夢のようなシチュエーションを考え出そうとしても、人間が実際に一度も経験したことがないことなど考えつくことはできないのだ。如何なる幻想もやがては現実となり、如何なる原因もそれなりの結果に結びつき、如何なる子音と母音の組み合わせも、必ずや人類のいずれかの言葉で何事かを意味するものとなる。

ことほど左様に、如何なる芸術的な思いつきも必ずや現実のシチュエーションや出来事と呼応したあげく、ついには現実の出来事と受け止められる定めなのである。問題はまさに、すべてが実在したというその点にある。エヴゲーニー・オネーギンとタチアーナ・ラーリナも、アカーキー・アカーキエヴィチと彼の不運な外套も、レビャートキン大尉とその突飛な詩句も、かの頑固一徹居士も――確かにこういう連中は、実は別の名前を持ち、別の状況におかれて、住む時代も場所も別だったのだが、そんなことは相対的に無意味である。大事なのは別のこと、つまりむしろ文学こそがいわば生活の根っこ、もしくは生活そのものであって、ただちょっと水平方向にずらしてあるだけだということなのだ。だからこそ、わが国では実生活の向かう方向に文学が向かうということも、また反面で、文学が向かう方向に実生活が向かうということも、はたまた実生活に沿って文学が書かれるばかりでなく、ある点でいえば文学に沿って実生活が営まれているということも、さらに文学の精神的呪縛力が強いあまりに、きわめて良識的な人間さえ、ある種のロマンチックなケースにおいては、ふと「アリョーシャ・カラマーゾフならそんなことはしなかっただろう」などと考えかねないことも、どれもこれも決して少しも驚くべきことではないのである。だからある種のロマンチックなケースでわれわれがつい神聖なるトルストイ、ドストエフスキー、チェーホフの作品を参照するとしても、そこに恥じるべきことはなにもない。なぜなら彼らはフィクションではなくて、ほぼ作品のまま現実に存在したロシア生活の司祭、つまり見習うべき手本に従って苦悩し、思考した存在だからである。つまりすべて現実だったということが大切なのだ。例えば次のような一節は、いかにも比類なくおぞましいものに見える。「老婆は叫び声をあげたが、しかしそれもごく弱々しい声であり、かろうじて両手を頭のほうにあげたかとおもうと、そのままへなへなと床にしりもちをついた。・・・・・・倒したコップの水のように血がほとばしり、体は仰向けに倒れた。・・・・・・彼女はもう事切れていた。目は飛び出さんばかりにむき出され、額から顔全体がしわくちゃで、痙攣に歪んでいた。・・・・・・頭蓋骨は粉々になり、少し脇にずれている・・・・・・」
(『罪と罰』老婆殺害の場面:訳者)しかしこのようなシーンが、まったくこの描写通りのディテールをともなって、実際に何度も繰り返されてきたばかりか、つい最近もまたぞろ繰り返されたのである。確かにこの最近のケースはこれほど残虐ではなかった。被害者の老婆は現代の素材とスタイルの暗いまだら縞のコートを着て、耳あてのついた滑稽な毛の帽子を被り、「さらば青春」の名でお馴染みのゴムとフェルトのオーバーシューズをはいて、ポクロフスキー並木道の取っつきにあるベンチに、目を閉じて腹に両手をあてた恰好でちょこんと座っていた。なんといっても二〇世紀最後の四半期の風俗が、古典的なシーンをも甘く修正したのである。P.54-55


 文学と現実の関係をめぐるこの饒舌な序文は、いわば引き延ばされた逆説、文章として展開された反語法である。すなわちロシア文学の現実支配力の暴露・告発に始まり、文学のリアリティ構築のメカニズム分析、ロシアにおける文学の「福音書」的性格の指摘へと進んだ議論が、最後には文学とは「ちょっと水平方向にずらされた(=シンボライズされた)」実生活であり、文学と現実は連動するのであって、人が文学に沿って行動したり、文学に書かれたことが実現したりするのは当然であるという、文学の現実支配力の肯定に終わっているのである。

 告発者が弁護人と裁判官をかねたような、この見せかけの文学批判においては、ガルコフスキーの作品に似て、内容とスタイルが一致している。すなわち文学の呪縛力を論ずる言説が、いかにも文学的観念連想の世界に閉じこめられた人のような、果てしない袋小路風の文体をまとっているのだ。

 この序文と小説本体との関係もアイロニカルである。物語はある共同住宅を舞台とした失踪・殺人事件を、二人の主人公がアームチェア・デテクティヴ風に推理・捜査するというもので、この序文の議論とも、小説のタイトルが意味する新しいモスクワの哲学とも、とりわけ関連した印象はない。従って小説におけるこの序文の位置づけは、ローレンス・スターンやニコライ・ゴーゴリ風の真面目くさった冗談、人を煙に巻くためのペダントリー、物語を遅延させるための遠回りといったものとの類推で理解される。つまりこの序文のうちで作品の物語部分にとって必要なメッセージは、最後の数行に書かれたある老婆の死という事件に尽きていて、それ以前の部分(ロシア文学の呪縛力への驚きに始まって、『罪と罰』の老婆殺しのシーンに至る部分)は、「ある老婆の死」という発端のシチュエーションを導くための回りくどい「枕詞」なのである。

 ちなみにこの小説は序文ばかりか後書きめいたものも備えていて、そこにまた物語本体に場所を譲っていた前書きの議論の尻尾のごときものが顔を出す。そしてそれはもう、完全な文学肯定・文学賛歌となっている。

 (主人公ベロツヴェートフの:訳注)考えは次の点に落ちついた。つまり人類精神の発展プロセスにおいて、文学は遺伝子にも比すべき重要な意義を担ってきた。なぜならば文学とは人類の精神的経験が集約されたものであり、その意味で人類という理性的な存在の遺伝子コードに付加された本質的な書き込みなのである。だから文学がなければ人間は本当の意味で人間にはなり得ない。つまり先祖の血とともに世代から世代へと受け継がれていくものがあると同時に、書物によってのみ受け継がれていくものもあるのだ。まさにこの結果として、人々は文学を顧慮しながら生きるべく義務づけられている。ちょうどキリスト教徒が「我らが父」を顧慮するように・・・・・・。P.124


 

 つまりこの小説は一種の枠物語で、ここに引用した頭と尻尾の部分は、本文とは別次元の「小説ジャンルに関するメタ・言説」として切り離して考えることができる。そしてそのことは逆の可能性をも示唆している。つまり序文と末尾に分担された、いかにも屈折した文学批判/文学賛美こそが、この作品の本体すなわち「新モスクワ哲学」であって、探偵気取りの人物たちの経験を書いたストーリー部分は、他の何かと代替も可能な、イラストレーションに当たるのかもしれない。本当の主人公は文学――というわけである。

 いずれにせよわれわれに興味深いのは、ロシアにおける文学の心理的・倫理的呪縛力や文学と現実の相似性というテーマが、マカーニンの場合と同様に、ここでもドストエフスキー文学(とりわけ『罪と罰』)を素材として展開されていることである。順序としてはピエツフの作品が10年ほど早いので、ピエツフ――マカーニンという影響関係も考えられなくはない。しかし問題はおそらく個人的な影響関係ではなく、すでに長いことロシア人一般に共有されているドストエフスキー・イメージのステロタイプであろう。少なくともシンボリズムの時代には形成されていたと思われる紋切り型イメージによれば、たとえばラスコーリニコフは思想とプライドのために罪を犯すインテリ、彼に殺される老婆は卑俗な現実原則の代弁者、ポルフィーリーは人間を知悉した心理分析家、マルメラードフは寄る辺のない酔いどれ・・・・・・ということになる。あらゆるステロタイプと同様に、これらはオリジナルの人物像の一面をわかりやすく切り取っているせいで、非常に強固なイメージとして人々の心に染みついている。そしてドストエフスキー自身には、こうしたイメージ群を駆使して近代ロシア社会の葛藤を描いたリアリスト、ロシアの進むべき道の探求者、さらにロシアの未来を文学的に洞察した予言者、といったイメージが与えられるのである。

 このような紋切り型の人間群像は、簡単に実生活のシチュエーションに適用することができる。従って文学と現実の相似性、文学の現実への影響力といったテーマの展開にドストエフスキーを利用するのは、きわめて自然なことだ。この作家はつまり、そうした議論に好適な、できあいのコンテクストを丸ごと提供してくれるのである。これを逆からみれば、ドストエフスキーをネタに文学と現実の関係を語るということ自体が、とうに紋切り型であり、新しいインパクトを与えにくいということにもなる。

 おそらくこの作品の作者は(後に言及するパロディ作者たちと同様)そのような事情を十分ふまえたうえで、あえて「ちょっと水平方向にずらした」言及の遊びを行っている。

それがこの序文の、循環論法めいた奇妙な論理構成であり、最後に登場する被害者の老婆の滑稽な現代風の服装なのである。


d)寸鉄詩風批判:ドミートリー・プリゴフ「文学と芸術の諸法則」(『D.プリゴフ:

1975-1989 の作品集』1997)26ヴァルラーム・シャラーモフ「赤十字」(『コルィマ物語』1959)27


 ステロタイプの集積の頂点に形成されるのが神話であるが、主としてシンボリズム時代の思想家たちが作り上げた神話的なドストエフスキー像――たとえば天上の原理と地上の原理の和解を求めて苦悩する思想の巨人のイメージ――は、そのまま現代の文脈に移されると違和感をもたらす。前出のユーリー・カリャーキンの書物『ドストエフスキーと21世紀前夜』にも、そのような感慨をもたらすドストエフスキー像の巨大化・神秘化作用が働いているようだ。また一方でそのような神話を真っ向から批判する議論――たとえば先に見たゴーレンシテインやクワルディンの主人公たちの議論――にも、ともすると文学のメッセージを逆方向に単純化し、別の極端なイメージ(「ショーヴィニズムの権化」「悪趣味なジャーナリスト」等々)を生産するきらいがある。こうしたケースで認識のバランス回復に役立つものの一つは、寸鉄詩やアネクドート等の、軽やかなからかいやユーモアをベースにした批判である。

 詩人ドミートリー・プリゴフ( 1940−)の作品にその例がある。

レールモントフは人生に苦しむあまり
人生を愛する力がなかった
シェストフは書物に苦しむあまり
書物を嫌う力がなかった
ドストエフスキーは神に苦しむあまり
愛するすべを知らなかった
俺は国家のことに苦しみながら
真面目に愛そうとしてきた
ただ俺がとびきり苦しむものだから
誰も俺を愛そうとしない(プリゴフp.106)

           *****

ドストエフスキーはプーシキンをたたえて言った
「飛んでいけ、小鳥よ、あの地平線めがけて
その後どうするかは、私が教えよう
二人で楽しく流刑地で暮らすため」


プーシキンは答える。「近寄るな、畜生め!
詩人は自由なもの! 恥辱とは無縁さ!
君のような退屈な苦悩などまっぴらだ!

は高木美菜子訳、ヴァルラーム・シャラーモフ『極北コルイマ物語』(朝日新聞社、1999)を利用した。

詩人は神がお好みの場所に、憩わせてくれるのさ!」(プリゴフp.107)


 前者では苦悩と愛のアイロニーという文脈でドストエフスキーの苦悩者ぶりがからかわれ、後者では散文作家ドストエフスキーの地上的・政治的な精神が、自由な詩人の立場から批判されている。もちろん「苦悩する地上人」も「自由な詩人」も、ともにステロタイプにすぎない。ただこのコンセプチュアリズムの詩人は、紋切り型の概念同士を単純にぶつけることによって、ある意味でゴーレンシテイン風の批判よりも効果的なイメージ転換を成し遂げている。それはおそらく紋切り型イメージから深刻さを払いのける手つきの背後に、自分自身をも笑っている道化的詩人の姿が見えるからである。

 これとは全く違う意味ではあるが、次のようなヴァルラーム・シャラーモフ(1907-82)の寸鉄言も、長々しい議論に劣らぬ批判力を発揮している。

 ドストエフスキーは『死の家の記録』で、大きな子供のようにふるまう人びと、芝居に夢中になり、怒りを見せずに子供のように言い争う不幸な人びとのふるまいに感動している。ドストエフスキーは本物のやくざ世界の人間に会ったこともなければ、知り合ったこともないのだ。このやくざ世界を描くとなれば、ドストエフスキーは同情の言葉など使わないはずだ。(シャラーモフp.14)


 17年をソ連のラーゲリで過ごしたこの作家はおそらく、19世紀にシベリアの監獄で4年間を過ごしたドストエフスキーを批判することに、とりわけ関心があるわけではない。

ただ彼は自らの体験を語るに際して、ドストエフスキーの描く民衆像は参考にならないと言っているだけだ。そしてそれが、流刑地で本当のナロード(人民)を発見したと感じたドストエフスキーの陥ったロマンチックな錯誤を、端的に暴く結果になっている。つまり神話の向こう側にあるドストエフスキーの人間像に迫っているのである。


3.加工されるイメージ

最後に扱うのは、意識的な加工や改変を施されたドストエフスキー・イメージを含む文学作品である。つまり広義の文体模写やパロディの手法によって生み出された、もう一人のドストエフスキー、新しい『罪と罰』、似て非なるドストエフスキー風文体といった、一連の「もじり」が、作品の中で大小さまざまな役割を果たしているケースである。

 パロディの意味や効果は、作家自身の構想や技量に応じてまちまちである。しかしドストエフスキー自身が先輩作家ゴーゴリをモデルに行ったような文体模写やパロディは、先行文学を批判的に受容する手続きとして、あるいは文化的権威や時代のモードに対する自己主張の方法として、普遍的かつきわめて有効なものである。したがってパロディ文学の出来栄えは、古典文学の現代的な意味やインパクトを伺ううえでも、現代作家の文化的自意識をみるうえでも、大切なポイントであろう。

 ここに言及する例は4点だけであるが、もじりの姿勢や方法において皆異なっている。

それぞれを仮に名付ければ、

a)ナンセンス小説版、
b)ジャンキー・ノヴェル風、
c)バーチャル・リアリティ版、
d)テキスト自壊型ドストエフスキー、

といったところである。それぞれの作家の決して一義的でないドストエフスキー観を見分けるために、以下では主として次のような点に注目したい。すなわち、

1)それぞれの文体模写の動機付けは何か、

2)それは作品にどのような効果を及ぼしているか、

3)それぞれの作家はドストエフスキーの文体のどのような側面に関心を持っているか、

4)ドストエフスキーの文学はロシア文化のどのような側面を表象するものとして受け止められているか。


 なお模写もパロディも、直接的には文章自体を対象としている。すなわちその出来栄えは、作家の発想や構想自体の質もさることながら、改編された文章がオリジナルの文章の記憶との対比において醸し出す、既視感、違和感、不気味な驚きといった効果に帰す部分がきわめて大きい。従って以下の言及においても、必要に応じて関連テキストを付す。


a) ナンセンス小説風ドストエフスキー:V.ナルビコワ『第一人物の場と第二人物の場』
(1989)28

 最初の作品は名前遊びの例。個人にまつわる情報やイメージを究極に圧縮した記号が固有名詞である。夏目漱石は明治期の知識人であり、開化時代の余計者を描き、神経を病み・・・・・・といった無数の情報の集合だが、一言で表現するなら「夏目漱石」というに尽きる。この圧縮された情報記号の一部を改変すると、名前のパロディあるいは名前の仮面(八目漱石、夏目宝石・・・・・・)が生まれる。名前の仮面は瞬時に多重の効果をもたらす。すなわちオリジナルのイメージを喚起しつつ、そのイメージを何らかの方向に向けて換骨奪胎し、同時に作品のコンテクストを多元化する。すなわち言葉遊び、下世話なユーモア、権威の嘲弄、現実風刺といったものを広く許容する、開放的な非日常空間(バフチン的に言えばカーニヴァル的な世界)を生み出すのである。

 ドストエフスキー自身この手のことが好きで、実在の人物に似た名前の考案(シチェドロダーロフ←シチェドリン、カラマーゾフ←カラコーゾフ)、イニシャルや語尾だけによるモデルのほのめかし(――ボフ氏=ドブロリューボフ、批評家B=ベリンスキー)、地口的な固有名詞の言い換え(雑誌『ゴーロス(声)』→『ヴォーロス(毛)』)といった、フォークロアや子供の言葉遊びにも似た固有名詞の遊戯を、小説でも評論でも試みている。ある種の場合には、これは相手に直接言及することをはばかるという礼儀上の、あるいは政治的な身振りであったが、大半は相手に対する悪意の間接的な表現であった。

 ドストエフスキー自身もこの手の遊戯のネタになった。たとえば前出のサラスキナによれば、1920年代末のソ連で、二人組のユーモア作家イリヤー・イリフとエヴゲーニー・ペトロフが、「F.トルストエフスキー」というペンネームで『千一の昼、もしくは新シェヘラザード』と題する40ほどのエッセイを書き、プチブル的俗物や旧体制の残滓を攻撃してみせた。また二人はこれと前後して、ドストエフスキーの主人公をもじった人物が登場する、悪趣味なユーモア物語を書いていた。

 ドストエフスキーはなにかとこの手のプリミティヴなゲームに縁があったのである。

 ドストエフスキーとトルストイという19世紀文学の二大巨匠の仮面を風変わりな恋愛小説の主人公たちに与えたのが、ヴァレリヤ・ナルビコワ(1958-)である。ドドストエフスキーとトエスチルストイという奇抜な名の主人公たちが登場する彼女の小説『第一人物の場と第二人物の場』(1989)は、次のように始まっている。

これは不合理(イラショナル)だね。
でも私の名前イッラよ。
の字が二つ入っているのかい。
イッラはイッラよ。
君に敬意を表してイラショナルっていうときも大文字で書きたい気分だね。

時計はシンメトリーで十時十分だった。酔っ払いが橇の刃で引き裂かれて死んだので、シャベルをもった子どもたちがその埋葬をしているところ。近所のアパートではロッシーニの『シンデレラ』をかけていた。

あなた本当にそんな年?――イッラが聞いた――ドドストエフスキーなんて苗字、なんだか先史時代みたいね。
名前のほうで呼んでくれてもかまわないよ。
どんな名前?
彼は言った。
そんな名前なら呼ばない方がましだわ
車庫はエレベーターでできているが、それは・・・・・・だから。電車道を最終電車が通過し、それから汽車が走っていく。
汽車が走ってる――イッラが窓をさす。
よくあることさ――ドドストエフスキーが答える。
汽車だわ――彼女は繰り返す。そして列車が完全に通り過ぎるまで、彼女はその怪物を見つめていた。

なぜだか汽車がいるのよね――彼女は三度目に言う。
彼女が寝かせてくれと言うので、彼は枕をもってきてやり、彼女がベッド全体を占領した。そして彼もベッド全体を占領した。
わたしたち友だちなのに――彼女は当惑する。P.9


こうして知り合い、同棲するようになった二人のもとに、ドドストエフスキーの友人トエスチルストイが訪ねてきて、そのまま住み着いてしまう。やがてヒロイン・イッラとトエスチルストイの間にも恋愛関係が生じ、部屋組と台所組に分かれた奇妙な共同生活が始まる。

 彼らは二つのカップルに別れた。イッラとドドストエフスキーが部屋に、イッラとトエスチルストイが台所に。つまり彼らは結局四人というわけだ。けれども台所に集まってみると、また三人になってしまう。P.35


 イッラにとって恋人ナンバーワンはあくまでもドドストエフスキーで、トエスチルストイは二番手なのだが、不思議な経緯で彼女はトエスチルストイの方と結婚してしまうので、一番手と二番手の間の心理的テリトリー関係が微妙になる。これが小説の変わったタイトルの由来である。この意外なほどに古めかしい面を持つ心理的葛藤は、結局作品の最後近くまで続くのだが、作者はそれまでの過程で固有名詞を使ったナンセンス風言葉遊びを十分楽しんでいる。

 イッラはドドストエフスキーを愛していない振りをし、ドドストエフスキーはイッラを愛していない振りをし、イッラはトエスチルストイを愛している振りをし、トエスチルストイは気分が悪い振りをし、イッラは上機嫌の振りをし、ドドストエフスキーは気分が良くても悪い振りをし、仕舞いには周囲の雰囲気に関わらぬ一定のポーズができあがっていった。P.42


 ある部分では、ドドストエフスキーの名はさらに縮められてドド(Dodo)となり、トエスチルストイはT.e.と略称されるが、後者はロシア語のト・エスチすなわち「つまり/端的に言えば」の略号と同一になる。

 この家庭内三角関係の果てに、ドストエフスキーがトエスチルストイを殺害し、追われる身となった彼とイッラはかろうじて空中に飛び上がって難を逃れる、という展開になる。クライマックスの殺害シーンは、次のようなシュール・レアリスティクなどたばた劇風の描写を与えられている。

 トエスチルストイはすぐに帰ってきた。彼はそのまま台所に入って、そこから聞いた「彼女はここにいたのか?」

「彼女はここにいた。それが?」ドドストエフスキーは言った。トエスチルストイは台所を出てトイレに向かった。ドドストエフスキーはそれに気がついて、行く手を遮った。トエスチルストイは膀胱も胃袋もいっぱいだったので、ゆっくりと動いていた。二人がぶつかったとき、ドドストエフスキーは相手の喉をつかもうとしたが、トエスチルストイはすばやく身を丸めた。彼の背筋は非常に強く、ドドストエフスキーはどうしてもその丸まった体を開けなかった。そこで彼は球になった体を風呂場まで転がしていって、片足で押さえつけながらバスタブに水を溜めた。水がたまって彼がその中にトエスチルストイを投げ込むと、相手はすぐに水中で体を伸ばした。今にもイッラが戻ってくるかと心配だったので、ドドストエフスキーは一刻も早く済ませてしまいたかった。トエスチルストイは水中では球になれなかったので、ドドストエフスキーにとってもう処理は難しくなかった。彼が相手の首を締めると、トエスチルストイは「はなせ、馬鹿野郎」と言い、ドドストエフスキーは「馬鹿野郎はお前だ」と言い、トエスチルストイは何も言い返さず、そこでドドストエフスキーはもう自分が相手を窒息死させたことを知った。彼は相手の体をきわめて慎重に解体したが、それは膀胱を傷つけたくなかったからだ。内臓が尿にまみれることを警戒したのだが、どうやらイッラの帰宅前に全部片づけて、ビニール袋にしまうことができた。彼が鍋を火にかけたとき、イッラがドアベルをならした。台所に入ってくると彼女は鍋の蓋をあけてたずねた。「これ何?」はじめ彼女はそれが若鶏だと思ったのだが、しかしじっと見たあげくそれがなんだか理解した。「なんであなたハリネズミを殺したの?」「食べるのさ」彼は答える。「どうして?食べ物がないって言うの? マカロニならいっぱいあるでしょう」「こいつは珍味なのさ」ドドストエフスキーは言った。二人は煮こごりを食べた。たいそうおいしかったが、ドドストエフスキーにはどうしても少し尿の臭いがするような気がした。もちろんそんなはずはないのだが。P.61-62(テキストA参照)


 ちなみにこのシーンは、ロシア版ナンセンス文学の代表者ダニール・ハルムスの、次のようなロシア文学者遊びを連想させる。

ゴーゴリ: (袖から舞台へと倒れ込み、そのままじっとしている)
プーシキン: (登場してゴーゴリの体に躓いて転ぶ)くそ!いやはや、ゴーゴリに躓いた!
ゴーゴリ: (立ち上がって)なんてことだ!おちおち休んでもいられない(歩き出してプーシキンに躓いて転ぶ)いやはや、プーシキンに躓くなんて!
プーシキン: (立ち上がって)一分間も休めやしない!(歩き出してゴーゴリに躓い
て転ぶ)くそ!あれ、またゴーゴリか!(以下同様なことが4回繰り返される)30


 ナルビコワの作品におけるオリジナル人物とパロディの関係は、少し複雑である。男性主人公たちが19世紀作家たちを連想させる要素は、名前以外にあまり多くない。強いて言えば両者とも書物の蒐集家で、はっきりした趣味傾向を持っている。ドドストエフスキーにはファンタジーや宗教的なものへの関心が、トエスチルストイにはエロチシズムや即物的な世界への関心が優勢であるように見える。たとえばドドストエフスキーが旧約聖書と新約聖書の比較論を展開するのに対し、トエスチルストイは、女性の胸は成人男性の掌に収まるのをよしとする、といった俗物的な意見を披瀝する。これは霊的作家ドストエフスキー対地上的作家トルストイというシンボリストの観念と、どこか関連しているように見える。

 モデルとパロディが思想レベルで重なり合うのは、ドドストエフスキーが福音書批判をするところである。

つまり仮に努力すれば、「盗むなかれ」、「殺すなかれ」、「親を愛せ」、「みだりに姦淫するな」、という教えは守ることができる。しかしどんなにがんばっても、結局隣人を自らのごとく愛するのは無理なのだ。P.50


 地上的人間にとっての隣人愛の困難さの認識は、空想的社会主義の博愛の理念に惹かれていた1840年代のロマンチックなドストエフスキーと、60年以降の宗教的ドストエフスキーを隔てるポイントの一つである。もちろんこれは、ナルビコワが下世話に展開しているテーマとも関連している。つまりこの作品によれば、隣人どころか同居人を愛することが大問題なのだ。

 しかしこの種の類似要素がオリジナルとパロディを近づけるわけではないし、かといって両者を対立させるわけでもない。両者の共通点も差異も、テキストの大部分を占めるグロテスクやナンセンスの雰囲気に飲み込まれてしまっている。総じてこの作品の構成原理は、一致・調和でも反対・対立でもなく、無関係なものの共存である。つまり意外なイメージ結合、語と語、文と文の間の論理的・心理的関係の不在、言葉と行為の裏腹さといった、アンバランスな関係性の生むエネルギーが、作品を支配しているのである。ドドストエフスキーやトエスチルストイという名前自体の中でも、オリジナル・イメージへの連想と単なる軽薄な音の遊び、意味と無意味が戦っているのであって、作者は主人公たちが確固たるイメージを獲得しようとするたびに、軽やかな言葉遊びでそれを突き崩していく。たとえばイッラがドドストエフスキーという名前を「先史時代みたい」というのは、おそらく単に「〜以前」を示すロシア語の接頭辞「ド」が二つも入っているからにすぎない。

 古典作家の名前遊びがここで果たしている役割の一つは、ある古い恋愛物語のパターンを現代風に再利用しようとする作家の姿勢を、シンボリックに表示することである。実際、第一の人物(恋人・夫)と第二の人物(その友人)が一人の女性をめぐって対立するという設定は、ヨーロッパ文芸(小説、演劇その他)の月並みテーマであり、『白痴』や『アンナ・カレーニナ』の作者たちも、このジャンルのロシアでの代表者に混じっている(この意味で二人のオリジナル作家の選択は、偶然とは思えない)。このいわば永遠の(=手垢にまみれた)題材を改めて作品に用いるには、ジャンルの伝統を意識したうえでの大いなる自己主張が必要とされるだろう(さもないと作品は安価なテレビドラマ風の反復になってしまう)。つまり現代版三角関係小説には、古典の思い切ったリメイクやパロディの意識が必要とされるのである。

 ナルビコワはいくつかの点でこれを行っている。彼女はまず女性自身の論理や欲望を、物語に大幅に導入した。女性は単なる愛情の対象ではなく、自ら選択し、恋愛ゲームを作っていく主人公である。作者はさらに物語を首都のアパートの一室に封じ込め、愛のテーマを食事や排泄の話題と等価の、ほとんど生理現象のようなものに変貌させた。そして同時に19世紀小説が内包していた倫理的・心理的テーマ設定――トルストイにおける愛と貞節、性愛と母性愛の対立といった問題設定、ドストエフスキーにおける嫉妬や他者の欲望の模倣、エゴイズムと自己犠牲の論理の対立といったテーマ群――を、きわめて希薄なものにしてしまった。マルキ・ド・サドの名前が作中で言及されるのも、恋愛をセンチメンタリズムから解放し、快楽と哲学の問題として扱おうという意志表示に見える。ジャンルの内部改造と言うべきこの一連の手続きの中に、ナンセンスな言葉遊びや名前の仮面の遊びも混じっている。つまりナスターシャ・フィリッポヴナやアンナ・カレーニナの軽薄な複製づくりに、それも一役買っているのだ。

 従って、冒頭にでてくるイッラの名前がイラショナル(=不合理・ナンセンス)な小説構成を暗示するのと同じことを、主人公たちの名前も行っているとみるのが当然かもしれない。つまりこれは「ドストエフスキー以前」の小説のようなプリミティヴな迫力を持って、トルストイ的テーマを「端的に要約してしまう(=ト・エスチ)」ような、身も蓋もない恋愛小説なのである。


b)ジャンキー・ノヴェル風ドストエフスキー:ヴィトゥフノフスカヤ『ロシア文学最後の金貸しの老婆』(1996)31


 ナルビコワ風の日常性の中のナンセンスを遙かに逸脱して、幻想もしくは妄想の世界に導入されたドストエフスキー――アリーナ・ヴィトゥフノフスカヤ(1973-)の小説『ロシア文学最後の金貸しの老婆』(1996)は、そのようなものを連想させる。
 舞台は「全世界中国」の毛沢東に支配された「分離モスクワ」。独裁政権のもとで堕胎が禁じられ、文学が死に、魚が絶滅させられている(魚は即物的に殺されるばかりか、イデオロギー的にも有害物と見なされ、魚という語の使用も犯罪である)。

 主な登場人物は、地下室人タイプの猫背の技師、彼が非合法に飼っているロシア文学に造詣の深い片目の小魚、それに技師の母親である。論理的に再話しにくいこの物語を、ドストエフスキー・イメージを手がかりにたどると、おおむね以下のようになる(ドストエフスキーを中心とした主な文学的連想を【】中に指摘する。なおこの作品のグラフィックな印字面についてテキストB−1を参照)。

 独裁体制下のモスクワに住む技師が、反国家的意志の象徴のような小魚を瓶に入れて飼育し、相手の好物である羊チーズ、毛髪、トルストイ全集第3巻を与えている。【地下室人的な孤独な思想営為の比喩か?】彼は魚を「ロシア文学の唯一の貯蔵庫」「わが秘密の花嫁」「ロシア・マゾヒズムの内縁の妻」などと名付けている。

 ある時彼の母親がトイレに隠された秘密の瓶を発見、自らの頭髪をそり落として餌として与える。するとひょうきんな片目の小魚が、「おまえはロシア文学最後の金貸しの老婆だ」と言う。【『罪と罰』風のテーマ設定への暗示】

 やがて息子の身を案じた母親が、瓶を壁に投げて魚を殺害しようとすると、息子が反発する。

 「あんたは俺の母親じゃない。独裁者の禿頭の走狗だ。あんたを殺してやる、殺してやる!そして金も奪ってやる。それが俺の罰だ。つまり心の浄さで身を立てることができないのだ。不自由で、しかも抵抗しようとしない俺は、汚れた、卑劣な人間だ(これは無意味な客観論だが、たとえ自分を正当化できたところで、下劣なことに変わりはない)。だから俺は実際の行動においても下劣な人間になってやる。一目瞭然、どんな哲学も不要なように」

 そして彼は母親を斧で惨殺した。P.14-15【ラスコーリニコフとは逆方向の、しかし同じく自尊心と劣等感の葛藤を含んだ犯罪。ラスコーリニコフの老婆殺しのイメージに重なる斧による惨殺】


 すると意外にも死にゆく母親の頭に、波打つ長い黒髪が生えてくる。瀕死の母親は、ロシア文学と、殺された魚たちと、いずれ息子を通じて実現されるべき反中国革命の名において、自分の髪を将来に備えて保存せよと命じる。

 その後彼女は変身する。

そう彼女は言った。
そして顔を変えた。
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー登場。
ただし体は女で、髪は長い巻き毛。P.16【ドストエフスキー本人の出現。『分身』のモチーフ応用?】


 息子は母の遺志を受け止め、罪意識に陥る代わりに革命への使命感をはぐくむ。
 一方、この技師の物語を離れて、アメリカの学者ジークムント・フォード【精神医学者フロイトを連想させる名前】の視点から、ロシアにおける「中国のくびき」のマゾヒスティックな心理構造が分析される。それによれば本物の中国人はすでに大半が死に絶えており、ドイツの精神病院で治療中の、わずか二名を残すのみである。従ってモスクワを支配している中国人とは、中国人の振りをするロシア人か、もしくは架空の存在にすぎない。つまり毛沢東の独裁政権下に苦しむモスクワというのは、ロシア人自身による自虐的な演出なのである。

 物語の最後の方で、この仮説に落ちが付く。実はドイツの精神病院でヒトラーとエヴァ・ブラウンを装っていた二人の中国人というのが、公的には死んだと思われていた毛沢東と主人公の技師自身の父親で、二人はモスクワを裏から操りながら、権力意識を満たしていたというのである。

 この荒唐無稽な筋を背景に、さらにいくつかドストエフスキー・イメージの展開がみられる。

 母親殺しの後、主人公は自らの子を宿した女ナスチャと結婚することになるが、彼には相手と交わった記憶がない。【ナスチャ=ナスターシャは、『白痴』のヒロインをと同名である。彼女にはドストエフスキーの聖痴愚(ユロージヴァヤ)に似た行動や感情表現の特異性が感じられる】主人公は妻に欲望を感じぬまま、かつて「わが秘密の花嫁」と名付けたペットの魚のことを思い浮かべつつ、彼女を抱く。やがて妻は口から魚の子供を生む。【この一連の経緯は、魚にたとえられることのあるイエス・キリストの誕生物語を連想させる】

 物語の少し先で、読者は主人公が殺した母の体に宿ったドストエフスキーが、実は生きていることを知らされる。このドストエフスキーは、身体損傷と他人に成り代わった罪、ホモセクシュアリズム宣伝の罪、魚を飼育した罪により、300年の刑期を得て入獄していたのである。自分の知らぬ間に身代わりとなって母親殺しや魚飼育の罪をかぶった形になっているこの存在に対して、主人公は深い劣等感を覚える。

 彼は天才なのに俺は悪人。

 彼は英雄なのに俺は自分のヒロイズムを実証するために革命を待っているような人間だ。(中略)彼にしてやられた後では、俺はもう自分の使命に値しない。俺は我が身一個の確立を考える人間に成り下がってしまった。つまり使命を通じて自分を確立しようとしたんだ。P.40


 しかしドストエフスキーを意識した内省の中で、賛美と劣等感が、批判や攻撃へと転換されていく。

 あいつは卑劣なやくざものだ。まれにみる人非人だ。

 第一あいつは性転換したいという動機から、俺のママの体を自分の体に変えてしまった(つまり一種のホモセクシュアリズムか、それに類した強迫的なものがそこにあったのだ)。

 第二にあいつは金がほしくて俺の所へ来た。117ルーブリが必要だったのだ。もちろん俺だって、ただでくれてやろうという気はなかった。だが人間の苦しみを黙ってみてはいられない。俺はほだされやすい人間で、そこを見抜かれたのだ。
 上告して死刑に変えてもらうという手だって、あいつは事前に計算済みだった。つまり高潔さのかけらもない、天才的にずるがしこい人間なのだ。(中略)
 金が必要だったのはカード賭博をやるためだ。どうしても直らない病気なのさ。【ドストエフスキーの賭博癖への言及】(中略)

 ところでロシア文学は救うに値するだろうか?P.41(テキストB−2参照)


 主人公とドストエフスキーの対決は、ドストエフスキー文学の遍在的テーマである子と父の葛藤を思い起こさせる。『未成年』に典型的に現れる父親コンプレクスの諸相――父親の偉大さへのあこがれと劣等感、父の崇高さの背後に隠れた卑俗さ、狡猾さや性的だらしなさへの反発、母親や異性をめぐるライバル意識など――が、ここに正確になぞられている。

 一方、もう一人の「父親」像、すなわちドイツの精神病院にいるモスクワ政治の黒幕は、同じドストエフスキーの「大審問官」を彷彿とさせる。主人公はこの人物の内に、人民の恐怖感を利用したヴァーチャルな独裁の論理を発見するのである。

 そして彼はすべてを理解した。狂気は去り、父の裏切りも、様々な幻覚も理解した。

この幻覚に自分は一生だまされてきたのだし、国民もその巨大な妄想の犠牲になったのだ。

 そうして主人のいない奴隷制、独裁者のいない独裁政治が成立していった。人々は幻を信じて苦しみながら死に絶えていき、すべてが嘘になったのだ。P.51


 アメリカ人のジークムント・フォードが最後の中国人を殺害するのと同時に、主人公は父たちによる虚の独裁幻想からさめるのだが、しかし同時に自分の認識を表現・伝達する言葉の不在を感じて、実存のアイロニーや孤立の感覚に陥っていく。彼は結局思想的な自殺を果たすことになる。

そこで技師は死を望んだ。なぜならすべては良きものだったのに、誰もそれを知らなかったから。そして皆が苦しんでいたから。P.52【『悪霊』のキリーロフ等に似た、先覚者としての自殺モチーフ】


 作品全体の結末も憂鬱なもので、支配者を突然失った人々は、自由の不安や空虚さを感じて、再び隷属の相手を求めるのである。

 そのとき彼らは自分のために作り出した。毛沢東と奴隷制を、国家と恐怖を、隷従の倒錯した魅力と抗議が弾圧されるときの微妙な喜びを。彼らはそのとき自分用に作り出した。マクロ・セックスとマクロ・ポリティクスを、ロシア文学の起源とその終焉を、魚のシンボルと魚の絶滅を、全世界の祈りと猫背の技師についての恐ろしいお話を。P.55


 自身麻薬所持や販売容疑で90年代に2度逮捕・投獄されたことがあるヴィトゥフノフスカヤの作品には、まるで麻薬常用者の夢のように説明しがたいところがある。魚・毛髪・文学全集といった意外な組み合わせ、殺された老婆がドストエフスキーに、若妻が母親に変身するような予測のつかない展開、随所にでてくる魚のイメージの多義性――これらはおそらく夢のシンボル学の類を媒介にして読みとられるべき謎であろう。

 ただしわれわれのテーマであるドストエフスキーも、決してこの種の不合理な世界と無縁ではない。夢見を信じ、また様々な幻覚、持病のてんかん時の離人感覚や法悦感覚、根拠のない罪障感といったものを味わっていた彼は、現実原則と違う夢の論理を認めて、『白痴』などの作品に応用している。従ってこの面でもこの作者とドストエフスキーの親和性のようなものを想定することができる。

接的な関係が想定される。とりわけここにみられるエディプス・コンプレクスのモチーフの多元的展開、すなわち個人・家族のレベルから国家レベルに至るまで、権威に対する反抗と隷属願望という背反的心理を人間行動の中に暴いていく視点は、まさにドストエフスキーのものである。

 すなわちこの奇妙な小説には、テーマの骨格の部分にも、イメージ選択や結合の原理にも、ドストエフスキー的なものが横溢している。ただしそれら個々の要素が有機的に結びついて一つの物語を作るのではなく、むしろあらゆる物語原則の虚構性、政治的作為性が強調される結果になっている。その意味で作品に遍在する「ロシア文学復活」のメッセージは、アイロニカルなものとして受け止めるべきだろう。

 技師は我に返って目を開き、その時が来たのを知った。どんな代価が支払われたのか考えもしなかったが、使命が成就したことを理解したのだ。

「毛をくれ!」無声映画の行進曲と機関車の汽笛のような音を通して、小魚が叫んだ。

 なぜなら、まるで死をひさぐ売春婦のような、不作法なロシア文学が復活したので、映画もその他の芸術も、すべて耳と口を失ってしまったからだ。P.48-49


 所々に(空虚/ナンセンスだ)という言葉を配したこの自己言及的な小説、文学的文学破壊作品は、片目の魚とロシア文学最後の金貸しの老婆が哄笑し合うシーンで終わっている。


 c)ヴァーチャル・リアリティ版ドストエフスキー:V.ペレーヴィン『チャパーエフとプストタ』(1996)32

 ヴィクトル・ペレーヴィン(1964-)は、サイエンス・フィクションの世界から出てきた作家で、複数の時空間や複数の主観の関係をアレンジしながら、哲学的ファンタジーと風刺や文明論が一緒になったような小説を書いてきた。

 彼の長編『チャパーエフとプストタ』も、同じく多重のテーマ構成をしている。そこで作者は、革命期と90年代のロシアに暮らす二つの別個の自我を持った精神分裂病患者という主人公像を設定し、ロシアが20世紀の始めと終わりに経験した破壊や混乱の諸相を、この人物の経験として並行的に描いた。そのような設定によって、人間主体の危うさや現実と夢の相対性に関する哲学的・宗教的思考実験と、ロシア・ソ連文明論とを、一つの物語の中で合体させたのである。なおこの作品の主人公名ピョートル・プストタも固有名詞遊びの例で、名のピョートルはペテルブルグの建設者でロシア西欧化改革の主導者である大帝からソ連版アネクドート(チャアパーエフ・アネクドート)の主人公まで、多重の連想を含む。姓のプストタは「空虚」「無」「ナンセンス」の意味で、仏教や実存哲学を含む作品のテーマ構成を暗示すると同時に、荒唐無稽なファンタジー小説としてのジャンル意識を宣言している。

 コピーライター的なセンスに長けたペレーヴィンは、両時代ロシアの同一性と差異を効果的に表出するために、様々な小道具や仕掛けを用いている。すなわちレーニンからアーノルド・シュワルツェネッガーにいたる人気者の名前、内戦から93年のロシア議会ビル砲撃にいたる歴史的事件、文学キャバレー、テレビドラマ、歌などの風俗、仏教思想、西洋哲学、精神分析学、アネクドートなど現象の説明原理、といったものである。作者はこれらを巧みに利用しながら、二つのロシアのいずれをも「本当の現実」として絶対化せず、すべてが書き割りであるかのような仮想現実感を生むことに成功している。おそらく作者によれば、実体がない故に何にでもなり得る空虚――それがロシアなのだ。

 ドストエフスキー・イメージは、1918年冬のモスクワのシーンに登場する。主人公の過去の半身であるペテルブルグの詩人プストタは、非常時委員会(Ch.K.)に追われてやってきたモスクワで旧友と再会するが、この友人もまた非常時委員会の手先だったとわかって、相手を殺害してしまう。この後主人公は殺した友人になりすまして文芸キャバレーに教宣活動に行き、さらにチャパーエフ(同じくアネクドートの主人公名を借りた遊び)と名乗る赤軍将校にスカウトされて、中央アジアに遠征することになるのだが、この経緯のいくつかのシーンに『罪と罰』のモチーフが応用されている。

 一つは友人殺しのシーン。アパートの一室で銃を持った相手をかろうじて絞殺した主人公は、ラスコーリニコフの殺人を追体験しているような錯覚に陥る。

 彼(主人公が殺す友人フォン・エルネン:訳者)が静かになっても、私は長い間その喉を放すのをためらっていた。両手はほとんど言うことを聞かない。きちんと息をするために、私は呼吸の練習をはじめた。これは変な効果を及ぼした。軽いヒステリーが起こったのだ。私は突然、この光景を脇から見始めた。つまり誰かさんが死んだばかりの友人の体にまたがって、ヨギのラマチャラカが『イシス』に紹介した呼吸法で一所懸命に呼吸している図だ。私は立ち上がった。するとすぐに、自分がたったいま殺人を犯したのだという認識が襲いかかってきた。

 もちろん権力を信用しきれない人間がすべてそうするように、私はいつもリボルバーを携帯していて、二日前にも平気で使用したばかりであったが、しかしこの現場は何かしら独特な感じで、いわば暗黒のドストエフスキー的雰囲気といったものが漂っていた。空っぽの部屋、英国の外套でくるまれた死体、敵のいる世界へのドア、そしてひょっとしたらすでに暇な連中が、そのドアめがけて歩いてくるところかもしれない・・・・・・。私は意志の力でそうした考えを追い払った。ドストエフスキー的な雰囲気なるものは、もちろんこの死体にも弾丸の貫通痕のついたドアにもあるわけではなく、私自身の内に、自分のものでないような後悔の念があれこれ形を変えていくのに驚いている私の意識の中にあるのだ。

 階段に面したドアを少し開けて、私は何秒間か耳を澄ませた。なにも聞こえなかった。なに、仮にピストルを何発かぶっ放したって、誰の注意も惹かないだろう――私はそう思った。4:33


 これはインテリによる殺人行為が自動的にラスコーリニコフの老婆殺しを想起させるという、おなじみの観念連想の応用である。人気の絶えたアパートの部屋、階段の足音に耳を澄ますといった細部のシンボリックな利用もなされている。だがもっと興味深いのは、出来事が文学的連想を呼び覚ますと同時に、文学の記憶が出来事の認識枠を作るというピエツフやマカーニン流の理解が、ここでも確認されていることである。さかのぼって付け加えれば、ラスコーリニコフの犯罪自体が、すでにシーザー、ナポレオン、バルザックの主人公などに関する文化的記憶をふまえた行為だったのである。

 なおこの後で主人公が友人の所持品を物色するシーン、また少し先でチャパーエフが唐突に主人公の部屋に出現するシーンも、ラスコーリニコフの物語へのアリュージョンを含んでいる。後者の場合には、犯人の正体を見抜いたポルフィーリー予審判事や地主スヴィドリガイロフの役を、赤軍将校チャパーエフが演じているのである。

 次のシーンでは、ドストエフスキー作品のイメージに、より手の込んだ細工が施されている。主人公が二人のバルチック艦隊の水兵を従えて教宣活動に赴いた<オルゴール式タバコ入れ>という退廃的な文芸キャバレーには、ワレリー・ブリューソフ、アレクセイ・トルストイ等当時の文人がいて、「エゴ・へそ派ポストリアリズム劇」といった、未来派をもじったような出し物が演じられている。ここでの会話から、主人公自身が『レビャートキン大尉の詩』『我の王国の歌』といった、ドストエフスキーを連想させる詩集の作者だということも明らかになる。そしてこのキャバレーの演目の一つが、同じく『罪と罰』をもじった小悲劇『ラスコーリニコフとマルメラードフ』というものである。

それはおおむね次のように描写されている。

 マルメラードフィ(ママ)という名札のそばに立ち止まった俳優が、ゆっくりと片手をあげて歌うような調子で語りだした。

 「私はマルメラードフ。ここだけのはなしだが/私にはもう行くべき所がない/この世を長いことさまよった/前途に灯は見えなかった/その目つきからすると/あなたにも虐げられた民衆は無縁ではないご様子/ひとつ乾杯といきますか。お注ぎしましょう」

 「いやいらない」

 斧をもった俳優が同じく歌うように、ただし低音で答える。話しながら彼は片手をあげて、それをマルメラードフの方に突き出す。相手は急いで自分に一杯注ぐと、酒をマスクの穴にこぼし、先を続けた。

 「お好きなように。あなたに乾杯。こうしてみると/あなたのお顔は謎めいた栄光に満ちている/美しい口は笑みをたたえて黙したまま/額は青白く、両手は血まみれ/でも私にはもうないのです/じっと動かぬ面の皮の背後に/傲慢な力で空虚の花を開かせ/神に似たものにならんとする理由が/おわかりですか?」

 「たぶん」

 「さて、そんな理由もないとすると、おわかりでしょうが/毎朝、雪に血を滴らせるような/斧でうなじを殴られるような、そんな気がするのですよ。わかりますか/それが、若いお方」

 「わかります」
 「心を見たいとは思いません/そこは靴の中のように真っ暗でしょうから/まるで狭くて寒い物置に/女たちの死体が入っているみたいに。怖いでしょう?」
 「はあ。何が言いたいんですか?話の主旨は」
 「いきなり主旨ですか」
 「すぐに言うんです」
 「でも、まずリキュールを一杯どうですか?」
 「あなたはまるで床屋みたいにうんざりさせる人だ。ぼくはいきますよ」
 「若い方、おこっちゃあいけません」
 「無意味な話をしているのがいやなんです/それとも説明する気になったんですか?/何が言いたいんですか?」
 「斧を売って下さい・・・・・・」(中略)
 「・・・・・・なんだって?なぜ?」
 「仕事用です/存在の一側面のシンボルというやつで/もしご自分も使うなら、別のを盗んだらいかがです/盗んだやつの方が都合がいいでしょう?」
 「ふーん・・・・・・なんのことかな?/ひょっとしてあなた、あそこにいたんですか?あの衝立の陰に、そうでしょう?」
 「それはちょっと軽率ですね/斧をもってはいらっしゃるが。でも若い人はいつも/本質も原因も有限のものの中に見ようとする/笑ったり愛したりと単純なことが好きで/肩に下げたわっかを優しくいじっている/いくら欲しいですか?」
 「ひとつ聞きますが/あなたにとってこれがなんになるのです?」
 「最初から言っているでしょう/力、希望、グラーリ、エグレゴール/永遠/輝き/月の満ち欠け/刃/若さ・・・・・・斧を下さい」
 「ぼくには分からない。でもどうぞ」
 「ほうほう・・・・・・光っていますな、まるで岩間の火のように/おいくらです?」
 「お好きに」
 「高いですか?」
 「10か・・・・・・15か・・・・・・えい、泥棒め/だがどうも問題はその/金じゃない。何かが変わってしまう・・・・・・もう/まるで倒れかかってくるようだ・・・・・・もうつかまってしまった・・・・・・そして風が/裂けた心に冷たく吹き付ける/あなたは誰だ?ぼくの神か、仮面をつけて!/あなたの目はふたつの黄色い星のようだ/なんて愚劣なんだ!仮面をとれ!」

 マルメラードフは長い恐ろしいポーズを決める。
 「仮面をとれ!」
 ・・・・・・マルメラードフはぱっと仮面をとる。それと同時に仮面にくっついていたキトーンが体から外れて、レースのパンタロンにブラジャーを着けた女性の姿が現れる。

 女性はネズミ編みのお下げがついた銀髪のカツラをかぶっている。
「ひゃあ・・・・・・婆さんだ・・・・・・しかも僕は素手だ」

 ほとんど聞き取れぬような声でそう言うと、ラスコーリニコフは底高の靴をはいた高さから床に崩れ落ちる。

 次に起こったことは私(主人公=訳注)を青ざめさせた。舞台には二人のバイオリン弾きが駆け上がって、狂ったようにジプシー音楽風のモチーフを演奏し始めた(またブロークか、と私は思った)。一方女マルメラードフは倒れたラスコーリニコフの体に自分のキトーンを投げかけ、その胸にひょいとまたがると、レースの服の尻をむやみにくねくね動かしながら、相手の首を絞めにかかったのだ。

 一瞬私はこの出来事がとんでもない陰謀の所産で、居合わせた全員が私の方を見ているような気がした。(中略)

 ラスコーリニコフを絞め殺すと、カツラの女は舞台の端に駆け寄り、二人のバイオリニストが奏でる狂ったような調べに合わせて、むき出しの足を天井に振り上げ、斧を振りながら踊り出した。この芝居の間じっと立ちつくしていた四人の黒マントが、キトーンにくるまれたラスコーリニコフの体を抱えると、舞台の外に運んでいく。『ハムレット』の剽窃だなという考えが、ふとひらめいた。あの芝居の最後にも、死んだ王子を運ぶ役の4人の隊長というのが出てくるのだ。おかしなことにそう考えると私はすぐに正気づいた。これは自分への陰謀ではないと理解したのだ。だいたいがこんなことを急に仕組むなんて誰にもできまい。これはありふれた、神秘的挑発というやつだ。4:38-40(テキストC参照)


 ある種の軽みと抑制を持ったペレーヴィンの文章は、状況を明晰に伝えていて、時間や空間の表現にも人間内面の描写にも、曖昧なところがない。その限りで彼はリアリストである。しかしこの単純でリアルな作中劇は、込み入った役割を果たしている。

 まずこの仮面劇は、文芸キャバレーの空間全体とともに、革命直後のロシアを覆っていた文化的混沌の一側面を表現している。退廃・爛熟と実験や文化革新が同居しているようなこの空間は、街路を横行する田舎出の兵士たちの世界と鋭く対立しており、その緊張が作品の奥行きを生んでいる。

 次にこのシーンは、主人公自身が感じ取るように、彼が直前に犯した殺人行為をシンボリックに再現している。主人公は劇中のラスコーリニコフである。ただし彼の立場は、ここでも夢の文法を思わせる置換、転倒、変身といった手法によって、変奏されている。意味作用の中心はマルメラードフの遂げる一連の変身で、この未来を失った行き場のない酔漢が、ラスコーリニコフを追いつめて武器を奪う脅迫者となり、最後に金貸しの老婆に変身して彼を殺す。弱者から強者へのこの変身は、社会論的に見ればルンペン・プロレタリアートが搾取者や権力者に成り代わる構図で、ブルガーコフの『犬の心臓』におけるプロレタリア革命の戯画とも共通したところがある。一方ラスコーリニコフ/プストタの立場に即していえば、これはナイーヴなインテリが、状況から裏切られる図といえるだろう。とりわけ最後の、殺人者と被害者の立場の逆転は、理論家の行為不能性を意味し、現実原則への挑戦が実は現実逃避にすぎないというメッセージとも受け取れるが、これはドストエフスキー作品の理解としても正当であろう。ドストエフスキー自身、ラスコーリニコフの夢の中に、殺しても死なない老婆の哄笑を描いているし、また前出のヴィトゥフノフスカヤも同じイメージを用いている。理想主義をうち砕く現実原則のシンボルとしての「死なない老婆」のイメージ、いわばロシア文学の悪夢が、主人公の出口なき状況のシンボルとしてここに導入されているのである。

 このような意味作用と同時に、この作中劇のシーンは、小説の構造モデルとしての機能も果たしている。この機能は二つのレベルで展開されている。第一のレベルでは、劇中の「変身」という現象自体が意味を持つ。マルメラードフの変身は、主人公と状況の関係変化を意味する以前に、主人公のアイデンティティの揺らぎ自体を模倣していると考えることができる。逃亡詩人から政治将校へと行き当たりばったりに変化する彼の社会的アイデンティティの怪しさが一方にあり、他方には20世紀の両端にまたがった彼の個人的アイデンティティの本質的な亀裂がある。彼の生活は余儀なき変身と新しい自己発見の連続である。そして主人公以外にも、チャパーエフをはじめとした登場人物の多くが、正体不明なのだ。変身するマルメラードフ像は、この先作品中で展開される特殊な「人格」概念へのイントロダクションなのである。

 また別のレベルで、このシーンにおける舞台と客席の関係が、小説の構造モデルを提供している。主人公はある意味で典型的な観劇をする。つまり最初は心理的距離と非常な違和感を持ってこの舞台を眺め、やがて舞台上に自分の行為への当てこすりを見いだして、現実のことのように戦慄し、後にそれが劇にすぎないと確信して安心する。いわばこの不安定な人物は、架空世界を相対化することで、かろうじて現実の現実性を納得することができた。しかしこの後の展開は、この認識自体が一時的なものでしかないことを証明してしまう。つまりやがて出現するチャパーエフは、ヨガの秘法や老荘的な空の論理を駆使して、現実世界を幻想的なものにしてしまうし、夢として現れる主人公のもう一つの自我が、さらにすべてを相対化してしまうからである。マルメラードフの劇は、寄る辺ない主人公に確かな現実を提供するとみせて、実はこの無限の現実否定プロセスの基本モデルを経験させているのである。

 人格の相対性と現実の相対性という二重の不確実性の表象として、『分身』の作者ドストエフスキーのイメージを利用することは、非常に適切な選択と思える。

 様々なジャンルの作品から必要なだけのイメージや情報を拾い上げて自作にちりばめることに長けたペレーヴィンは、ドストエフスキーに対しても同じことをしている。ラスコーリニコフの物語から殺人後の知覚のモデルパターン、および加害者と犠牲者、弱者と強者、現実と虚構の相対性に関する潜在的メッセージをくみ取る一方で、彼は罪意識をはじめとしてドストエフスキーの主人公の心中に生ずる様々な出来事を無視している。殺人は作品の第2章以降の主人公に、何のトラウマも残さないのである。しかしこのような割り切り方が、逆にオリジナルのある一面を自在に展開し、利用することを可能にしているといえるだろう。ドストエフスキーはこの作家にとって、いくらでも展開可能な矛盾、逆説、不安を豊かに備えた、魅力的な加工材料の一つなのである。

 ちなみにペレーヴィンの近作『ジェネレーションP』(1999)では、ロシア的理念の唱道者としてのドストエフスキー・イメージが、アネクドートのような形で利用されている。

ロシアのイメージ・コピーを作れという注文に窮したコピーライターが、こっくりさんの道具でドストエフスキーの霊を呼び出すのだが、自動筆記具はあたかも多方向に同一の力で引っ張られているかのように、ふるえる線を記すのみ。主人公はこれに失望しながら、しかしロシアの理念はきわめて先験的なものだから、これが唯一可能な表現法かもしれないと考えて納得するのである。33これもまた本人不在のまま一つの方向にデフォルメされた、秀逸なドストエフスキー・イメージと言えるだろう。


 d)文体模倣と自壊:V.ソローキン『ドストエフスキー・トリップ』(1997)34『青脂』(1999)35

 ウラジーミル・ソローキン(1955-)の場合、他者の作品に対する態度はさらに独特である。

他の作家の主題、人物像、事件、状況設定等々を借用して自分の構想に役立てるという作業は、彼には本質的なことではない。彼にとって大事なのは、そうした要素を盛る器としての、他者の文体を利用することである。いろいろな文章のリズム、スピード、質感、語彙といったものを、彼は絵画的にと言えるほど巧妙に模倣することができる。そればかりでなく、それぞれの文体が持つ潜在的な可能性をとらえたうえで、オリジナルとは別の方向に発展させたり、性質の異なった文体同士を隣接させて新しい効果を生み出したりといった加工作業も、彼の本領である。自前の文体を持たず、文化とも社会とも距離をおいた、外部の観察者のような関係を保とうとするコンセプチュアリストとしての意志が、この種の作業を支えている。いわばソローキンの文体とは、他者の文体を利用する手つきのことである。

 小説『ノルマ』(1994)において、彼は社会主義リアリズム小説風、ソ連のスローガン風、形容詞活用辞典風、イワン・ブーニン風、猥歌風・・・・・・といった多様な文体による小作品群をグラフィックな効果付きで配列し、20世紀ロシア文字文化の展示館のような空間を作ってみせた。一方『ロマン』(1994)では、19世紀長編小説風の流麗で息の長い文体で書きあげた恋愛物語を、ある種の経文やラップの歌詞のような単文の羅列によるスプラッタ小説に変貌させ、物語文学の終焉を表現した36。いずれの場合にも彼は、小説の物語的内容と形式の組み合わせを、自在に変化させている。このような作業の裏に推測される心理は、二律背反的なものである。すなわち文学作品を単なる「記号で覆われた紙」もしくは「死んだ世界」と呼ぶようなポストモダニスト的シニシズムと、文体の調合に美的快楽を覚える職人的な嗜好、いわば文学の権威剥奪や脱神話化のパトスと文学へのマニアックな愛情とが、彼の内に同居しているのである。

 文体模写をベースにしたソローキンの創作には明白な傾向があって、それが彼の作品を反社会的なものにしている。それはつまり、良識が文学の外に排除しようとするもの――暴力、差別、拷問、排泄趣味(スカトロジー)、加虐趣味(サディズム)、被虐趣味(マゾヒズム)、死体愛玩(ネクロフィリア)等々――を多様に表現しようとする志向である。正統的で上品な文学の下部に穴をうがって、卑猥語や差別表現に満ちた下品なポルノグラフィーを埋め込むような作業に、彼は大きな情熱を傾ける。もちろんここには正統派文学の規範的人間観を批判してマージナルなものを復権しようとする、アングラ文学の一般的意志が反映しているが、しかしそれがすべてではない。むしろそこには、精神と身体の下部構造にてらして、倫理の彼岸に生の充足感を得るような、作者自身の心理傾向が反映されている。これは彼の文学を、一方でマムレーエフ的な地下室人の世界に近づけ、他方でラブレー風の豊穣な無秩序世界に似せている。彼の創作はある意味で、そのような反社会的欲求に表現を与え、不安解消や快楽充足の役を引き受けてくれる、慰安装置でもある。

 作品への態度と同じく、読者への彼の態度も単純ではない。ソローキンにとって文学とは基本的に作家の創作行為に尽きるものであって、何らかの読者を想定して、彼らのために書かれるものではない。つまり作家にとって読者は存在しないし、従って文学行為に社会的な意味での倫理規範はいらない。しかし(一見詭弁的ではあるが)作者の創作行為とは別個に、作品と読者の関係が存在する。しかもそれはきわめて一方的な関係である。すなわち文学作品は、あたかも読む者の意識下の世界に働きかけながら、特定のリアリティ感覚や論理を強引に押しつけるような、「全体主義的暴力装置」だというのである。もちろん読者側のマゾヒズムを前提にすれば、文学は読者にとっても願望充足装置ということになる。いずれにせよ彼は(作者にとっての)文学行為の目的と(読者に対する)文学の作用とを、全く切り離して考えている。そしてここにもまた、19世紀以降のリアリズム文芸における作者=読者関係の単純さに対する一般的な反省と、この作家特有の願望充足装置としての文学観とが入り交じっているのである。

 従ってソローキンが文学を麻薬にたとえるとき、その麻薬の効果・作用として少なくとも3レベルの意味の可能性が含まれている。すなわち、

1)テキストの加工や調合作業が作家に与える美的快楽、
2)創作行為が提供する反社会的願望充足の快楽、
3)作品が読者を支配し操縦してしまう催眠術的作用、

である。

 戯曲『ドストエフスキー・トリップ』において、ソローキンは『白痴』を素材に文学の麻薬性というテーマに取り組んでいるが、その作業はまさに上記の複数のレベルにわたって展開されている。そこではまず小説の読者が文字通り文学世界に入り込み、主人公たちの心理的コンプレクスや潜在的願望を狂ったように演じてみせる。【上記1のテキスト加工の快楽、および3の催眠術的読者操縦作用の描出】そしてその恍惚夢(トリップ)の果てに彼らは自己制御力を失い、意識下に隠されていた自らの心理的外傷(トラウマ)を告白し始める。

【3の作用の強調】そしてこの文体とテーマ上の遊びの上に、古典をどたばた喜劇や下品なポルノグラフィーに変貌させる快楽【上記2の願望充足作用】に酔う作者の姿が二重写しになっているのである。

 この作品を読む(観る)者は、まず比喩の実体化という約束事を受入れなければならない。つまりこの作品世界では、文学作品が本として読まれるのではなく、クスリとして売られているのである。

 地味な作りの部屋の中、七人の薬物中毒の男女が苛立ちながらバイニンを待っている−−そんなシーンで舞台が始まる。だがすぐに明らかになるのは、彼らの必要としているのが通常の薬物ではなく、文学作品だということである。

 所在ないままに交わされる会話によると、この世界ではセリーヌ、クロソウスキ、ベケットといったのが強くてハイなクスリで、フロベール、モーパッサン、スタンダールなどが口直しに使われる弱いやつらしい。ジュネーヴにはカフカ、ジョイスで始めてトーマス・マンやトルストイで抜けるコースもあるらしいが、トルストイはどうもボーヴォワール顔負けのひどい代物のようだ・・・・・・。

 そこへようやく作家の名前のついた瓶をたくさん抱えたバイニンが到着、一連のやりとりの後、彼らに七人で集団トリップできるドストエフスキーを薦める。こうして一同が錠剤を含んで始まるのがドストエフスキー・トリップである。

 現れるのは『白痴』のナスターシャ・フィリッポヴナの家での夜会場面。男女の「演ずる」ナスターシャ、ムィシキン公爵、ガーニャ、その妹ワルワーラ、レーベジェフ、イッポリートが、原作のシーン割りを無視して集っている(トーツキー、エパンチン将軍などは省略されている)。ナスターシャが公爵の忠告でガーニャの求婚を断り、続いて十万ルーブリの現金を持ったラゴージンが登場。やがて貧乏公爵ムイシキンが大金持ちになることが明らかになり、ナスターシャをめぐる馴染みの三角関係が現出する。ナスターシャはラゴージンの女たることを選び、ことのついでに十万ルーブリを暖炉に捨ててガーニャに手でつかみ出せと命ずる・・・・・・。

ナスターシャ:じゃあ、お聞きなさい、ガーニャ。最後にもう一度お前さんの性根を見てみたいの。三カ月も私を苦しめてくれたんだから、今度はこちらの番よ。この包みが見える?十万ルーブリ入ってるわ。これを今この暖炉に、火の中に投げ込むの!

そうして全体に火が回ったら、すぐに暖炉に手を突っ込みなさい。ただし手袋はしないで、むき出しの手でね。そうして火の中から包みを引っぱり出してごらん!見事取り出せたらあんたのものよ!十万そっくりね!みんなが証人だわ、この包みはあんたのものだって。私はあんたの性根をとっくり見せてもらうわ。あんたが私の金を取ろうと火の中に手を突っ込むのを見物しながらね!もし手をつっこまなけりゃ、そのまま燃えてしまうのよ。他の人は手を出しちゃ駄目!私のお金なんだからね!私のお金だろう、ロゴージン?

 ロゴージン:ああ、お前さんのだ!お前さんのだぜ、女王様!

ナスターシャ:そう、じゃあみんなどいとくれ。邪魔はなし。レーベジェフ、火を
ちゃんと起こして!

 レーベジェフ:ナスターシャ・フィリッポヴナ、手が動きませんよ。
ナスターシャは暖炉の火掻き棒をつかみ、中のおきをかき立てたててから、包みを投げ込んだ。

 イッポリート:この女を縛るんだ!やめさせろ!
 ヴァーリャ:だめ、だめ、だめ!ガーリャ、はやく!
 レーベジェフ:(ナスターシャの前に跪く)ご主人様!女王様!全能の女神様!十万ですよ、十万!わたしに暖炉へ入れと命令して下さい。丸ごと入って見せましょう、この白髪頭をそっくり突っ込みましょう!足なえの病弱な妻がいて、子供は十三人――それもみんな孤児で、先週父親を葬ったばっかしで、腹を減らしているんですよ!
(暖炉に入ろうとする)

 ナスターシャ:(レーベジェフを足で蹴りつけて)おどき!ガーニャ、何を突っ立ってるの?恥ずかしがってる場合じゃないわ!手を突っ込みなさい!運をつかむのよ!
ガーニャは火のついた包みを呆然と見ている。(後略)p.25-26


 ソローキンの文体模写は5段階ほどに分かれているが、上に引用した部分までのところは、登場人物やシーンの多少の省略をのぞいて『白痴』の文体と内容をほとんど忠実になぞっており、ドストエフスキー特有の集合場面の雰囲気も再現されている。

 次の短い段階では、文体はそのままだが、発言者のメッセージがパターン化し、滑稽な要素が増幅される。この段階の最後には、すでに対話が独白の羅列へと変化している。

イッポリート:あの女を縛ってくれ、お願いだ、縛り付けてくれ!
ヴァーリャ:私もう死ぬわ!ああ、何で私たちがこんな目に!
レーベジェフ:手を出せ、手を突っ込むんだ、口ばっかりのろくでなし!燃えちまう、燃えちまう!
ガーニャ:ああ、いや、いや、いや!
ナスターシャ:燃えてる!燃えてる!燃えてる!
ロゴージン:好きだ!愛してるぜ、女王様!
イッポリート:死だ!死だ!
ヴァーリャ:兄さんを助けてあげて!助けてあげて!
レーベジェフ:この私なら歯でくわえてつかみだしましょう。跪いて、泥の中でも這いましょう。
ムイシキン公爵:ああ、なんて不幸な人たちなんだ!
レーベジェフ:跪いて!泥の中を!イモ虫のように這ってやる!
ナスターシャ:燃えてる!ぜんぶ燃えてる!ぜんぶ燃えてる!(中略)
イッポリート:みんな平気なんですね、ぼくがじきに死んでも!残酷な、冷たい人
たちだ!本当に死期が近いんですよ!2週間と言われたんです!
ナスターシャ:全部燃えるがいい!世界中の金が燃えてしまえばいい!ルーブリもドルもフランもマルクも円もシェリングも、みんな燃えるがいい!
ロゴージン:好きだ、お前が好きだ!お前の中には、世界中の女たちがいる!俺は彼女たちを感じる!俺は彼女たちを知っている!俺は彼女たちが欲しい!
 ヴァーリャ:妹の愛!純粋な、神聖な、妹の愛!それは無私の愛!売ることも買うこともできぬ愛!この世の何よりも貴重な愛!永遠の、果てしない愛!
 公爵:苦悩と痛み!世界の痛み!これこそわれわれを救ってくれるものだ!ほら、聞こえるでしょう、孤児や貧しき者の痛みが!虐げられ、辱められた者たちの痛みが!
p.27-28


各人物が物語の文脈を離れて夢を語り始める次の段階では、反復、列序、漸層といったレトリック効果が最大級に高まり、同時に卑猥語の類も混入する。各人の発言は、意味が単純化される一方で長くくどくなり、全体にヒステリックでグロテスクなイメージが誇張される。

 ガーニャ:俺は大変な金を稼いでやる!百万の百万倍、十億の十億倍稼いでやる!
 ナスターシャ:お金を全部焼いてやる!金庫も銀行も全部!世界中の造幣局も全部!
 ガーニャ:エヴェレストの頂上に城を建てるんだ!氷と雲しかないところに!世界中で一番高価な城だ!基礎はプラチナ!壁はダイヤモンドとエメラルド!屋根は金とルビー!毎朝俺は軟玉のテラスに出て、眼下の人々に宝石をばらまいてやるんだ!下の連中は宝石を拾いながら叫ぶだろう。「栄えあれ、ガーニャ・イヴォルギン、世界一の大金持ち!」

 ロゴージン:俺は世界中の女が欲しい!俺は女たちを感じる!一人一人を知って、愛している!俺はみんなをはらませなければならない!それが俺の人生の目的だ!俺の神々しいペニスが闇の中で光っている!俺の精液は、溶岩のように煮えたぎっている!世界中の女の分があるぞ!女を連れてこい!全員はらませてやる!全員だ!全員だ!

 ナスターシャ:私は素晴らしい完璧な自動車を作るわ!鋼鉄の巨人のように地球上を闊歩して、放火して回るの!走っていっては火をつけるの!自分で運転するのよ!町も村も燃やしてやる!森も野原も!川も山も!

 公爵:ぼくの肉体には3265150 本の神経がある!その1本1本にバイオリンの弦を結ばせるんだ!その3265150 本のバイオリンの弦がぼくの体から四方八方に伸びていく!そして3265150 本のバイオリンの弓を持った3265150 人の孤児たちが、ぼくの弦をこするんだ!ああ、それこそが世界の痛みだ!それが苦悩の音楽だ!ああ、子どもたちの痩せた腕!ああ、ぴんと張ったぼくの神経!すべての孤児と不遇な者たち、すべて虐げられ辱められた者たちよ、ぼくの体で演奏するがいい!そしてみんなの痛みを、ぼくの痛みとするがいい!

 ヴァーリャ:私は「妹の愛」という名の素敵な飛行船を空に浮かべるわ!銀色で透き通っていて、空気みたいに軽くてダイヤモンドみたいに硬いの!その飛行船に乗って、下劣で醜悪な地上から空へと飛んで、全世界に向かって叫ぶの。「愛すべき妹たち!汚れなき妹たち!無私の妹の愛を失わない妹たち!ここにおいでなさい!あなた達を悪の世から善と光の世に連れて行くから!」すると妹たちは船の下に集まる。私が銀の梯子を下ろしてあげると、みんな上ってくるの!

 レーベジェフ:私は巨大な鋼鉄の豚になる!前足はもぐらの足!もっぱら地面の下に住み、夜中だけ地上に這いあがっては、世の不浄なものをむさぼるのだ!地中に一大トンネル網を作る。夜にはゴミ箱のゴミを喰い、下水を飲む!すると私の鋼鉄の皮膚の下に、重たい鉛の脂身がたまるだろう!そしてただ舌だけが、人間の、優しい、ピンクの、湿った舌のまま残るだろう!昼間は、不浄物を消化しながら、舌べろだけを地上に突き出して、伯爵や公爵、侯爵や男爵の靴底を舐めるんだ!
 イッポリート:ぼくは死を出し抜いてやる!世界最良の医師たちを雇って、新しいぼくを作らせるんだ!新しい、永遠のイッポリートを!それは巨大なプロジェクトになるだろう!28 人のアカデミー会員・ノーベル賞受賞者が指導する165 の研究所がこれに従事するのだ!ぼくの朽ちゆく肉体に残された2週間という時間で、彼らは新たなる永遠のイッポリート・テレンチエフの身体を準備するんだ!素材はもっとも丈夫で耐久性のあるものだ!太陽のように輝く身体ができる!強くて若い身体ができる!

その身体からは四方八方に歓喜とオプチミズムの光が流れる!そしてぼくの古い肉体が死の苦しみにのたうっているとき、世界最高の神経外科医がぼくの掛け替えのない脳を古い体から抜き取って、新しい体にはめ込むのだ!するとぼくは立ち上がり、強い新しい腕でイッポリート・テレンチエフの古い肉体をつかみ、笑いながら死の婆さんの口に放り込んでやるのだ!そして死の黄色の歯がぼくの古い肉体を噛みはじめたら、若い、永遠のぼくは、笑いながら死の目のない顔に唾を吐きかけてやる!あはあは笑いながら唾を吐きかけてやるんだ!p.29-31(テキストD参照)


 各自が狂ったように演じてみせるこの願望夢は、やがてファルスから悪夢へと変わる。

宝石が底をついたガーニャは城のダイヤの壁を取り崩す羽目になり、ワルワーラの『妹の愛』号は世の妹たちの重みでタラップが壊れてしまう。レーベジェフは放射性廃棄物に悩まされ、イッポリートの人造の肉体からは筋肉が剥離していく。ナスターシャもナパームの不足と放射器の故障に見舞われ、ラゴージンはヨーロッパの女性の半数と関係したところでインポテンツになる。公爵は孤児たちがでたらめにかきむしる弦の音に苛まれる。

 この部分(引用略)では漸降(デグラデーション)の修辞が用いられ、再び文が単純化していく。

 の混乱のあげく、皆は役柄を捨てて自身の心的トラウマの記憶を語り始める。通学の電車で性的いたずらをされた少年、猟犬を死なせて父親に裸の尻を打たれた少年、隣人の男色シーンを目撃した少女、ポリオの後遺症の脚を笑われた少年、瀕死の祖父の体をもてあそび続けた少女、母親との近親相姦にふけった少年、ナチス包囲下の町で死人の尻の肉を集めてカツレツとして売っていた双子の兄弟・・・・・・。この部分はすでにドストエフスキーのテキストを完全に逸脱して、社会主義リアリズム風ポルノグラフィーとでもいうべき別の文体世界になっている。

 この回想の後、一同はすっかり虚脱状態に陥ってばたばたと倒れていく、という展開になるのだが、このような計算された枠組みの中で、ソローキンはドストエフスキーの文体が本質的に備えているある特異な機能を誇張的に再現している。それは一種の言葉の魔術的作用――感情、思想、欲望を表出する言葉が、いつしか話者のコントロールを逸脱してそれ自体の論理で発展していき、ついには話者のアイデンティティを狂わせてしまう作用――を描出する機能である。ドストエフスキー文学の呪縛力は、作者の思想とかリアリストとしての才能とかにあるのではなく、このような文体自体の麻薬的作用にある――そうソローキンは言っているようだ。そしてそのような手続きを介して、彼は自分とは別の次元にいるはずの読者(麻薬中毒者)の姿をも、作品の中に描き出したのである。


 ソローキンのもう一つの作品『青脂』では、荒唐無稽な動機付けによって作中に組み込まれたエピソードとして、ドストエフスキーのパロディが登場する。

 2068年のシベリア。核の冬を経た後らしい荒涼とした世界で、ロシア政府派遣の諸民族混成学術チームが、青脂(goluboe salo=水色の脂身)と呼ばれる<ゼロ・エントロピー物質>を開発している。青脂はこの世界のエネルギー開発に不可欠な物質らしいが、自然状態では存在せず、なぜかロシア有名作家たちのクローン(複製人間)が文学作品を執筆した後、その体内に蓄積されるのを採取するしかない。つまりチームの仕事は、何年かがかりで開発してきた7体のクローン作家たち(ドストエフスキー2号、アフマートワ2号、プラトーノフ3号、チェーホフ3号、ナボコフ7号、パステルナーク1号、トルストイ4号:号数は世代を示す)に、好適な環境で執筆を促し、青脂を蓄積させることなのである。

 この後ストーリーは、20世紀と21世紀の両方にまたがる青脂をめぐっての一大スペクタクルに発展するのだが、本論にとって大事なのは、上記のような設定によって、作者がロシア作家たちのパロディを存分に展開する動機付けがなされているということである。

ただしこのパロディ・ゲームには一つの制約がある。すなわちクローン作家の出来栄えは完璧ではなく、作家ごとに精度のムラがあるということである。たとえばトルストイ4号は73%、ナボコフ7号は89%という風に。従ってここに導入されるのは、完璧なパロディではなく、各個体の精度に応じた不完全なパロディということになる。

 このような前提で導入されるドストエフスキー2号の作品は以下のように始まる。


ドストエフスキー2著
『レシェートフスキー伯爵』

 七月も末のある日の真昼の二時過ぎ、とほうもなく雨模様が続き、夏らしくなく冷え冷えした頃合、道中の泥でさんざんに汚れた幌馬車が、一対の見てくれの悪い馬に曳かれてA橋を駆け抜け、G通りの三階建ての灰色の家の車寄せの脇にとまったが、その様子は全体がとほうもなくどうもあんまりで、そのニワトリのコトバときたらニワトリのコトバときたらもうまったく良からざるものだった。

 馬車からは二人のがっしりとした体躯の紳士が出てきたが、その服装はしかしもはや夏服でもなく、しかもペテルブルグ風でもなかった。一人はステパン・イリッチ・コストマーロフ、特殊任務を課された政府のさる局の参議官で、短い羊革の外套を着込み、もう死んではいるがとほうもなく長い黄色と黒のまだらヘビで腰のところを締めていたが、もう一人の、若死にした将軍の裕福な遺産相続人でそれゆえ定職をもたないセルゲイ・セルゲーヴィチ・ヴォスクレセンスキーの体には、広場で演技しているヴェネツィアのアルルカン風の細いまだら絹が巻き付けられていて、あの頃彼は自分のを見せつける光栄を得たのだが、彼女ときたらもうまったく下劣な売女であった。

 その姿を一目見ただけでこちらがなにやら突然に圧倒され感動させられてしまい、胸が締めつけられて訳もなく涙が流れ出してくるようなタイプの人がいるものだが、それはもし人間にある性向がある場合にはひどく残念なことになるが、それがどんな性向なのかはご自分で考えてみて欲しいわけで、まったくこの役立たずが。

 ちょうどその様な印象をコストマーロフとヴォスクレセンスキーはその出現によって数少ない通行人たちに与えた。二人の平民、つまり学生と初老の女性ははっと立ち止まったが、それはまるで地面に打ち込まれた柱、柱、柱、柱です、柱みたいで、そう一里塚みたいで、興奮を隠し切れぬ様でこの驚くべき二人連れが玄関につくところまでずっと目で追っていた。この三階建ての家はドミートリー・アレクサンドロヴィチ・レシェートフスキーの持ち物で、よく火曜日ごとにあるいは木曜日ごとに、まるでミツバチが巣に通うように、そうまさにすばしこい働き者のミツバチが、新しい巧みに加工された巣に通うように、といっても蜂の巣には様々な構造のものがあって、丸太くり貫き型、お家型、立木くり貫き型、さらに土ミツバチまでいるのでございますが、そんな風にペテルブルグの社交界人士はこの家に引き寄せられあそばすわけです。しかしこの日は水曜日であったため、この訪問者を出迎えたのは金モールの刺繍をしたお仕着せの玄関番ではなく、びっこのコサック、ミーシカで、これは伯爵の忠実な伝令兵としてともにトルコ遠征を経験し、伯爵のサンチョ・パンサまがいの存在となったのであるが、しかしこれは全くの破局であり、彼のおかれた立場は想像しがたいもので、その地位からいって腹蔵のない側近、あるいは単にいやらしい人間、つまりロシア語でいう卑劣漢となるべき必然性はまったくなかった。P.32-33(テキストE参照)


 ソローキンによるドストエフスキーの文体のもじり具合は、このテキストを『罪と罰』や『白痴』の冒頭と比較するとわかる。すなわちドストエフスキー特有の語彙や言い回し(3回使われる「とほうもなく」、

「A橋を駆け抜け、G通りの・・・・・・」、

「夏服でもなく、しかもペテルブルグ風でもなかった」)、

特徴的な構文(「七月も末のある日の真昼の二時過ぎ・・・・・・」「二人の紳士が・・・・・・、一人は・・・・・・、もう一人の・・・・・・」)が、ここで巧みに借用されている。また三段落の「その姿を一目見ただけで・・・・・・」の文における関係代名詞節の用法、最終段落の「この三階建ての家は・・・・・・」という文脈を逸脱する比喩の長たらしさも、ゴーゴリの影響下にあった初期ドストエフスキー風である。そしてその一方で、(クローンの不完全さに動機づけられた)無意味な繰り返し、舌足らず、意味不明の言葉、文の結構の乱れといったものが描き込まれている(「もう死んではいるがとほうもなく長い黄色と黒のまだらヘビ」、「柱、柱、柱、柱です」、「といっても蜂の巣には様々な構造のものがあって・・・・・・」等々)。

 もちろん文体のもじりと並行して大きな枠組みレベルでのパロディが進行しているわけで、二人の異なったタイプの男性が女性問題を抱えている貴族の屋敷を訪れるという設定は、『白痴』そのものである。『白痴』の模倣はこの後しばらく継続され、またもやナスターシャ・フィリッポヴナの夜会を連想させるような、衆人の中で高慢な女性にやりこめられる男たちの話が描かれるのだが、しかしエピソードの最後はきわめてユニークである。つまり結末の見えない口論を続ける男女の前に、突然二人のドイツ人技師が奇妙な機械を伴って現れ、さらにガリバー物語のリリパット族のような小さな人間が登場する。そして一同に向かって「さあ、体を縫い合わせて一緒になりましょう」と呼びかけるのである。

しばしのためらいの後、主人公の伯爵は二名の男女とともに「縫い合わされる」ことを選び、三人で暮らすためにスイスへと去っていく。

 これはむろんギリシャ悲劇の収束装置であるデウス・エクス・マキーナ(機械仕掛けの神)のソローキン版であるが、同時にドストエフスキーの葛藤処理・場面転換法をも戯画的に模倣している。すなわちこの機械は、ナスターシャ・フィリッポヴナのもとへ大金を持って駆けつけ、状況を一変してしまうラゴージンや、貧乏公爵から急に金持ちの遺産相続者に変身するムイシキンの代役でもあるのだ。さらに付け加えれば、世間を離れて三人で暮らす夢自体も、ドストエフスキーの模倣である。

 ソローキンもペレーヴィンと同じくドストエフスキーの内で自らに必要な側面を選択的に利用している。彼の場合その側面とは、われわれが文体という名前で呼んできたもの、すなわち言語表現の形式面に現れた作者の思想や世界感覚である。しかし文体模写やパロディという言葉の響き以上に、ソローキンの加工はドストエフスキーの登場人物の奇妙な情熱や、彼らの言葉と思想がはらむ生産的な矛盾や葛藤を、インパクトのある形で表現する結果になっている。そしてそこに、ソローキンという作家自身の文学に対するアンビヴァレントな感情も映し出されている。これはおそらく、メディアこそメッセージであり、文体こそ作家の思想の本質であるという、古い逆説の一つの証明であろう。


 以上この章で検討した文体模写の諸例は、いわゆるポストモダニズム的インター・テクスチュアリティの認識に裏付けられている。つまり、テキストはほかのテキストとの相互関係の中にのみ存在すること、独創的な文体が存在するのではなく、文体への独創的な態度が存在するのであること、すべてのテキストは作者の文学への態度を示すメタテキストでもあること、などについての認識である。こうした意味で、現代ロシア作家にとってのドストエフスキーのテキストも、無数の他者のテキストのひとつにすぎず、それに何らかの特権的な意味を与える根拠はない。
 しかし同時に彼の文学はいくつかの点で、現代的な文体模写にとって格別豊かな可能性を持つ素材となっているように観察される。まず注目すべきは、彼の創作様式が、その多面的で多義的な世界観を反映した、きわめてダイナミックなものだということである。これは彼の文学に矛盾をはらんだ多様な解釈の可能性を与え、ひいては様々な方向への応用や展開の意欲をそそる結果となっている。実際、ここに見た作家たちはそれぞれ、ドストエフスキーの文体(つまり世界把握と描写の論理)の異なった側面に注目している。たとえばペレーヴィンは何らかの破局の予感を含んだ世界の相対性の感覚――現実と幻想、舞台と客席、時間と空間等々の相対性――の表現に関心を寄せ、ソローキンはむしろドストエフスキーに独特な言葉の様態――種々な思想的・感情的要因をひとつの文学的時空に圧縮することにより、作中人物にも読者にも意想外な自己発現や自己発見を促してしまうような、彼の文体のメカニズム――に興味を示している。

 そしてその際以下の三つのことが観察される

a)作家たちは概してドストエフスキーの文体の、正反対の評価を許容するような矛盾を含む側面に関心を寄せている。いわばドストエフスキーの文学のうちもっとも問題の多い要素こそが、現代作家の文体加工にとってもっとも有意義で生産的素材なのである。


b)作家たちはドストエフスキーの文体を、単に彼個人に関わる現象としてではなく、ロシア的メンタリティの特性の表象と受け止めている。ドストエフスキーの文体模写は、いわばロシア人のロシア性(ルスコスチ)の端的な表現に利用されている。

c)多くの作家にとってドストエフスキーの文学は、ロシア社会における文学の特殊な地位を典型的に示すものである。「文学中心主義」の概念で表される諸現象――文芸が人々に現実の見方を教え、彼らの行為に影響を与え、自己表現の方法を提供し、ひいては現実に変わる疑似現実を提供する、といった作用――が、この章で見た作家たちだけではなく、ガルコフスキー、マカーニンといった多くの作家によって、ドストエフスキー文学との関連で問題にされている。彼の作品の文体模写は、いわばロシア的文学中心主義の非常に自意識的な実演行為である。


むすび


 以上、現代ロシアの文学作品におけるドストエフスキー・イメージのうち、有意味だと思われるケースを拾いあげてみた。古典作家やその作品が意味のある形で現代作品の中に登場するという現象が、あまり一般的なものとは言えない以上、ドストエフスキーが現代作家の自己表現に特殊な意味を持つという本論の仮説は、ある程度確かめられたと思う。

 本論の作業は、それぞれの作品や作家個人にとってのドストエフスキー・イメージの意味役割を検討することを中心とした。その際、各作家がドストエフスキーを全体としてどう評価しているかということよりも、どのような点に自らの創作にとっての応用可能性や生産性を見いだしているかに注目しようとした。結果として得られた図柄は、かなりの個別差を含んでいる。しかし差異を前提とした上での条件付きの一般化を行うならば、以下のことが言えそうである。

 a)ドストエフスキーと彼の作品に関しては、久しく紋切り型のイメージ群が定着している。従って現代作家がドストエフスキーを扱う場合、それが定型イメージの二次加工、三次加工であるという意識と、そのための方法論を持つことが前提となる。

 b)文学の二次的利用一般に言えることだが、しばしばオリジナルの整合的で積極的な側面よりも、矛盾や多義性をはらんだ側面の方が、利用者・加工者にとって生産的である。

そうした側面の代表例が、人格としての地下室人、現象としての人格分裂や幻想、思想としてのロシアの理念である。

 c)ドストエフスキーの文体は、今日でも魅力的な利用・加工素材である。なかでも優れた文体模写は、ガルコフスキー流のロシア論への積極的展開のケースも、ソローキン流のパロディ風デフォルメのケースも、必ず自己言及的な形式と内容の相応という側面を持つ。

 d)ドストエフスキーの創作は、ロシアにおける文学の呪縛、文学と現実の密な関係性のシンボルのように見なされている。ある者は文学による現実社会のシミュレーションや思想的実験の例として、またある者は文学の読者への感化力・影響力の例として、ドストエフスキー文学に言及している。

 e)上のすべてと関連して、ドストエフスキーへの言及は、言及する者たちのロシア作家(ロシア語作家)としての自意識と、密に関係している。マカーニン、ガルコフスキー、アイトマートフ、ピエツフ、ヴィトゥフノフスカヤ、ソローキンといったきわめて異なった作家たちが、ロシア文学やロシア語の問題、あるいはロシアの思想や文化の問題を、ドストエフスキーの人格や文学の問題と重ね合わせてイメージしている。そこには自己へのこだわりと同質の要素があり、ドストエフスキーへの言及は常に幾分か自己弁明、自己韜晦、自己嫌悪、自己賛美といった心理作用を伴っていると感じられる。

 もちろん、本論の作業は分析対象の数も分析手法も限られており、ここで得られた認識はさらに修正・補完されるべきである。またこのような認識を総合して、現代文化におけるドストエフスキーの意味、あるいはロシア社会における文学的伝統の役割といった、一般的な議論に展開していくことの必要性や意義は、論者の視野にも入っている。しかし創作が基本的に個人の作業であること、そして作家は社会的人間としての理念や生き方に沿ってではなく、作品の作者の立場から創作の題材を選択するものであることをふまえると、個々の作品から文芸一般論へ、さらに社会論へと展開するには慎重な方法論の検討が必要であろう。

 それらを今後の課題としたい。


 【付記:この文章を書いた後、筆者はここにあげたものと並べて検討すべきいくつかの文学作品に出会った。そこには1870年代の雰囲気再現にドストエフスキーのテキストを利用したボリス・アクーニンの歴史推理小説、フョードル・ミハイロフなる作者が現代モスクワを舞台に描いた『白痴』のリメイク37のほか、セルゲイ・ボルマット、ミハイル・イワノフ、エゴール・ラードフ、アレクセイ・スラポフスキー、ワレリー・ザロトゥーハ、ミハイル・シシキンなどの作品が含まれている。またトルストイやチェーホフら古典作品の続編やヴァリアントを書くブームについても、同じ枠組みの中で論じることができるだろう。従って、本稿はまだまだ大きな改訂の余地を残している。】

http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/literature/mochizuki-no76.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/334.html#c4

   前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 中川隆 koaQ7Jey > 100392  g検索 koaQ7Jey

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。